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「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。
「ええ実はある所で椎茸を食いましてね」「何を食ったって?
」「その、少し椎茸を食ったんで。
椎茸の傘を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭いね。
俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽く叩く。
「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大に吾輩を賞める。
「近頃大分大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。
賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。
「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と寒月君はまた話しをもとへ戻す。
「どこで」「どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう。
ヴァイオリンが三挺とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。
ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。
二人は女で私がその中へまじりましたが、自分でも善く弾けたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と主人は羨ましそうに問いかける。
元来主人は平常枯木寒巌のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚れる。
勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱には恋着するという事が諷刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。
そんな浮気な男が何故牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底分らない。
或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な性質だからだとも云う。
どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わない。
しかし寒月君の女連れを羨まし気に尋ねた事だけは事実である。
寒月君は面白そうに口取の蒲鉾を箸で挟んで半分前歯で食い切った。
吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。
「なに二人とも去る所の令嬢ですよ、御存じの方じゃありません」と余所余所しい返事をする。
「ナール」と主人は引張ったが「ほど」を略して考えている。
寒月君はもう善い加減な時分だと思ったものか「どうも好い天気ですな、御閑ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と促がして見る。
主人は旅順の陥落より女連の身元を聞きたいと云う顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものと見えて「それじゃ出るとしよう」と思い切って立つ。
やはり黒木綿の紋付羽織に、兄の紀念とかいう二十年来着古るした結城紬の綿入を着たままである。
いくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。
所々が薄くなって日に透かして見ると裏からつぎを当てた針の目が見える。
主人の服装には師走も正月もない。
ふだん着も余所ゆきもない。
出るときは懐手をしてぶらりと出る。
ほかに着る物がないからか、有っても面倒だから着換えないのか、吾輩には分らぬ。
ただしこれだけは失恋のためとも思われない。
両人が出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切った蒲鉾の残りを頂戴した。
吾輩もこの頃では普通一般の猫ではない。
まず桃川如燕以後の猫か、グレーの金魚を偸んだ猫くらいの資格は充分あると思う。
車屋の黒などは固より眼中にない。
蒲鉾の一切くらい頂戴したって人からかれこれ云われる事もなかろう。
それにこの人目を忍んで間食をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。
うちの御三などはよく細君の留守中に餅菓子などを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬している。
御三ばかりじゃない現に上品な仕付を受けつつあると細君から吹聴せられている小児ですらこの傾向がある。
四五日前のことであったが、二人の小供が馬鹿に早くから眼を覚まして、まだ主人夫婦の寝ている間に対い合うて食卓に着いた。
彼等は毎朝主人の食う麺麭の幾分に、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうど砂糖壺が卓の上に置かれて匙さえ添えてあった。
いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺の中から一匙の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけた。
すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。
少らく両人は睨み合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。
小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。
すると姉がまた一杯すくった。
妹も負けずに一杯を附加した。
姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる。
見ている間に一杯一杯一杯と重なって、ついには両人の皿には山盛の砂糖が堆くなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、主人が寝ぼけ眼を擦りながら寝室を出て来てせっかくしゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。
こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優っているかも知れぬが、智慧はかえって猫より劣っているようだ。
そんなに山盛にしないうちに早く甞めてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言う事などは通じないのだから、気の毒ながら御櫃の上から黙って見物していた。
寒月君と出掛けた主人はどこをどう歩行いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に就いたのは九時頃であった。
例の御櫃の上から拝見していると、主人はだまって雑煮を食っている。
代えては食い、代えては食う。
餅の切れは小さいが、何でも六切か七切食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸を置いた。
他人がそんな我儘をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に焦げ爛れた餅の死骸を見て平気ですましている。
妻君が袋戸の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それは利かないから飲まん」という。
「でもあなた澱粉質のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる。
「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と頑固に出る。
「あなたはほんとに厭きっぽい」と細君が独言のようにいう。
「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と対句のような返事をする。
「そんなに飲んだり止めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く気遣いはありません、もう少し辛防がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた御三を顧みる。
「それは本当のところでございます。
もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善い薬か悪い薬かわかりますまい」と御三は一も二もなく細君の肩を持つ。
「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突き付けて是非詰腹を切らせようとする。
主人は何にも云わず立って書斎へ這入る。
細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。
こんなときに後からくっ付いて行って膝の上へ乗ると、大変な目に逢わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ上って障子の隙から覗いて見ると、主人はエピクテタスとか云う人の本を披いて見ておった。
もしそれが平常の通りわかるならちょっとえらいところがある。
五六分するとその本を叩き付けるように机の上へ抛り出す。
大方そんな事だろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出して下のような事を書きつけた。
寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。
池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。
衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。
何となくうちの猫に似ていた。
何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。
吾輩だって喜多床へ行って顔さえ剃って貰やあ、そんなに人間と異ったところはありゃしない。
人間はこう自惚れているから困る。
宝丹の角を曲るとまた一人芸者が来た。
これは背のすらりとした撫肩の恰好よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服も素直に着こなされて上品に見えた。
白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕は——つい忙がしかったもんだから」と云った。
ただしその声は旅鴉のごとく皺枯れておったので、せっかくの風采も大に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手のまま御成道へ出た。
寒月は何となくそわそわしているごとく見えた。
人間の心理ほど解し難いものはない。
この主人の今の心は怒っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。
世の中を冷笑しているのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起しているのか、物外に超然としているのだかさっぱり見当が付かぬ。
猫などはそこへ行くと単純なものだ。
食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。
第一日記などという無用のものは決してつけない。
つける必要がないからである。
主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己れの真面目を保存するには及ばぬと思う。
日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。
神田の某亭で晩餐を食う。
久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい。
胃弱には晩酌が一番だと思う。
タカジヤスターゼは無論いかん。
誰が何と云っても駄目だ。
どうしたって利かないものは利かないのだ。