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歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。
早く食い切って逃げないと御三が来る。
小供の唱歌もやんだようだ、きっと台所へ馳け出して来るに相違ない。
煩悶の極尻尾をぐるぐる振って見たが何等の功能もない、耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。
考えて見ると耳と尻尾は餅と何等の関係もない。
要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。
ようやくの事これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。
まず右の方をあげて口の周囲を撫で廻す。
撫でたくらいで割り切れる訳のものではない。
今度は左りの方を伸して口を中心として急劇に円を劃して見る。
そんな呪いで魔は落ちない。
辛防が肝心だと思って左右交る交るに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。
ええ面倒だと両足を一度に使う。
すると不思議な事にこの時だけは後足二本で立つ事が出来た。
何だか猫でないような感じがする。
猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ掻き廻す。
前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。
倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。
我ながらよくこんなに器用に起っていられたものだと思う。
第三の真理が驀地に現前する。
「危きに臨めば平常なし能わざるところのものを為し能う。
之を天祐という」幸に天祐を享けたる吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来るような気合である。
ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ躍起となって台所をかけ廻る。
足音はだんだん近付いてくる。
ああ残念だが天祐が少し足りない。
とうとう小供に見付けられた。
「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と大きな声をする。
この声を第一に聞きつけたのが御三である。
羽根も羽子板も打ち遣って勝手から「あらまあ」と飛込んで来る。
細君は縮緬の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。
主人さえ書斎から出て来て「この馬鹿野郎」といった。
面白い面白いと云うのは小供ばかりである。
そうしてみんな申し合せたようにげらげら笑っている。
腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる訳にゆかぬ、弱った。
ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「御かあ様、猫も随分ね」といったので狂瀾を既倒に何とかするという勢でまた大変笑われた。
人間の同情に乏しい実行も大分見聞したが、この時ほど恨めしく感じた事はなかった。
ついに天祐もどっかへ消え失せて、在来の通り四つ這になって、眼を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。
さすが見殺しにするのも気の毒と見えて「まあ餅をとってやれ」と主人が御三に命ずる。
御三はもっと踊らせようじゃありませんかという眼付で細君を見る。
細君は踊は見たいが、殺してまで見る気はないのでだまっている。
「取ってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と主人は再び下女を顧みる。
御三は御馳走を半分食べかけて夢から起された時のように、気のない顔をして餅をつかんでぐいと引く。
寒月君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。
どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を情け容赦もなく引張るのだからたまらない。
吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」と云う第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見廻した時には、家人はすでに奥座敷へ這入ってしまっておった。
こんな失敗をした時には内にいて御三なんぞに顔を見られるのも何となくばつが悪い。
いっその事気を易えて新道の二絃琴の御師匠さんの所の三毛子でも訪問しようと台所から裏へ出た。
三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。
吾輩は猫には相違ないが物の情けは一通り心得ている。
うちで主人の苦い顔を見たり、御三の険突を食って気分が勝れん時は必ずこの異性の朋友の許を訪問していろいろな話をする。
すると、いつの間にか心が晴々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。
女性の影響というものは実に莫大なものだ。
杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく椽側に坐っている。
その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。
曲線の美を尽している。
尻尾の曲がり加減、足の折り具合、物憂げに耳をちょいちょい振る景色なども到底形容が出来ん。
ことによく日の当る所に暖かそうに、品よく控えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、天鵞毛を欺くほどの滑らかな満身の毛は春の光りを反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。
吾輩はしばらく恍惚として眺めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」といいながら前足で招いた。
三毛子は「あら先生」と椽を下りる。
赤い首輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。
おや正月になったら鈴までつけたな、どうもいい音だと感心している間に、吾輩の傍に来て「あら先生、おめでとう」と尾を左りへ振る。
吾等猫属間で御互に挨拶をするときには尾を棒のごとく立てて、それを左りへぐるりと廻すのである。
町内で吾輩を先生と呼んでくれるのはこの三毛子ばかりである。
吾輩は前回断わった通りまだ名はないのであるが、教師の家にいるものだから三毛子だけは尊敬して先生先生といってくれる。
吾輩も先生と云われて満更悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。
「やあおめでとう、大層立派に御化粧が出来ましたね」「ええ去年の暮御師匠さんに買って頂いたの、宜いでしょう」とちゃらちゃら鳴らして見せる。
「なるほど善い音ですな、吾輩などは生れてから、そんな立派なものは見た事がないですよ」「あらいやだ、みんなぶら下げるのよ」とまたちゃらちゃら鳴らす。
「いい音でしょう、あたし嬉しいわ」とちゃらちゃらちゃらちゃら続け様に鳴らす。
「あなたのうちの御師匠さんは大変あなたを可愛がっていると見えますね」と吾身に引きくらべて暗に欣羨の意を洩らす。
三毛子は無邪気なものである「ほんとよ、まるで自分の小供のようよ」とあどけなく笑う。
猫だって笑わないとは限らない。
人間は自分よりほかに笑えるものが無いように思っているのは間違いである。
吾輩が笑うのは鼻の孔を三角にして咽喉仏を震動させて笑うのだから人間にはわからぬはずである。
「一体あなたの所の御主人は何ですか」「あら御主人だって、妙なのね。
御師匠さんだわ。
二絃琴の御師匠さんよ」「それは吾輩も知っていますがね。
その御身分は何なんです。
いずれ昔しは立派な方なんでしょうな」「ええ」
君を待つ間の姫小松……………
障子の内で御師匠さんが二絃琴を弾き出す。
「宜い声でしょう」と三毛子は自慢する。
「宜いようだが、吾輩にはよくわからん。
全体何というものですか」「あれ?
あれは何とかってものよ。
御師匠さんはあれが大好きなの。
……御師匠さんはあれで六十二よ。
随分丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。
吾輩は「はあ」と返事をした。
少し間が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。
「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。
いつでもそうおっしゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」「何ですって?
」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「なるほど。
少し待って下さい。
天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。
妹の御嫁に入った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。
分ったでしょう」「いいえ。
何だか混雑して要領を得ないですよ。
詰るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。
だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分っているんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。
吾々は時とすると理詰の虚言を吐かねばならぬ事がある。