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汽車がとまる。瓦斯燈に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。三四人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、只歩いて通る。靴の音トツトツと只歩いて通る。乗客は各自に車扉を開いて降りる。 日和下駄カラカラと予の先きに三人の女客が歩き出した。男らしい客が四五人又後から出た。一寸時計を見ると九時二十分になる。改札口を出るまでは躊躇せず急いで出たが、夜は意外に暗い。パッタリと闇夜に突当って予は直ぐには行くべき道に践み出しかねた。 今一緒に改札口を出た男女の客は、見る間に影の如く闇に消えて終った。軒燈の光り鈍く薄暗い停車場に一人残った予は、暫く茫然たらざるを得なかった。どこから出たかと思う様に、一人の車屋がいつの間にか予の前にきている。 「旦那さんどちらで御座います。お安く参りましょう、どうかお乗りなして」という。力のない細い声で、如何にも淋しい風をした車屋である。予はいやな気持がしたので、耳も貸さずに待合室へ廻った。明日帰る時の用意に発車時間を見て置くのと、直江津なる友人へ急用の端書を出すためである。 キロキロと笛が鳴る。ピューと汽笛が応じて、車は闇中に動き出した。音ばかり長い響きを曳いて、汽車は長岡方面へ夜のそくえに馳せ走った。 予は此の停車場へ降りたは、今夜で三回であるが、こう真暗では殆んど東西の見当も判らない。僅かな所だが、仕方がないから車に乗ろうと決心して、帰りかけた車屋を急に呼留める。風が強く吹き出し雨を含んだ空模様は、今にも降りそうである。提灯を車の上に差出して、予を載せようとする車屋を見ると、如何にも元気のない顔をして居る。下ふくれの青白い顔、年は二十五六か、健康なものとはどうしても見えない。予は深く憐れを催した。家には妻も子もあって生活に苦しんで居るものであることが、ありありと顔に見える。予も又胸に一種の淋しみを包みつつある此際、転た旅情の心細さを彼が為に増すを覚えた。 予も無言、車屋も無言。田か畑か判らぬところ五六丁を過ぎ、薄暗い町を三十分程走って、車屋は車を緩めた。 「此の辺が四ッ谷町でござりますが」 「そうか、おれも実は二度ばかり来た家だがな、こう夜深に暗くては、一寸も判らん。なんでも板塀の高い家で、岡村という瓦斯燈が門先きに出てる筈だ」 暫くして漸く判った。降りて見ればさすがに見覚えのある門構、あたり一軒も表をあけてる家もない。車屋には彼が云う通りの外に、少し許り心づけをやる。車屋は有難うござりますと、詞に力を入れて繰返した。 もう寝たのかしらんと危ぶみながら、潜戸に手を掛けると無造作に明く。戸は無造作にあいたが、這入る足は重い。当り前ならば、尋ねる友人の家に著いたのであるから、やれ嬉しやと安心すべき筈だに、おかしく胸に不安の波が騒いで、此家に来たことを今更悔いる心持がするは、自分ながら訳が解らなかった。しかし此の際咄嗟に起った此の不安の感情を解釈する余裕は固よりない。予の手足と予の体躯は、訳の解らぬ意志に支配されて、格子戸の内に這入った。 一間の燈りが動く。上り端の障子が赤くなる。同時に其障子が開いて、洋燈を片手にして岡村の顔があらわれた。 「やア馬鹿に遅かったな、僕は七時の汽車に来る事と思っていた」 「そうでしょう、僕もこんなに遅くなるつもりではなかったがな、いやどうも深更に驚かして済まないなア……」 「まアあがり給え」 そういって岡村は洋燈を手に持ったなり、あがりはなの座敷から、直ぐ隣の茶の間と云ったような狭い座敷へ予を案内した。予は意外な所へ引張り込まれて、落つきかねた心の不安が一層強く募る。尻の据りが頗る悪い。見れば食器を入れた棚など手近にある。長火鉢に鉄瓶が掛かってある。台所の隣り間で家人の平常飲み食いする所なのだ。是は又余りに失敬なと腹の中に熱いうねりが立つものから、予は平気を装うのに余程骨が折れる。 「君夕飯はどうかな。用意して置いたんだが、君があまりに遅いから……」 「ウン僕はやってきた。汽車弁当で夕飯は済してきた」 「そうか、それじゃ君一寸風呂に這入り給え。後でゆっくり茶でも入れよう、オイ其粽を出しておくれ」 岡村は自分で何かと茶の用意をする。予は急いで一風呂這入ってくる。岡村は四角な茶ぶだいを火鉢の側に据え、そうして茶を入れて待って居た。東京ならば牛鍋屋か鰻屋ででもなければ見られない茶ぶだいなるものの前に座を設けられた予は、岡村は暢気だから、未だ気が若いから、遠来の客の感情を傷うた事も心づかずにこんな事をするのだ、悪気があっての事ではないと、吾れ自ら頻りに解釈して居るものの、心の底のどこかに抑え切れない不平の虫が荒れて居る。 予は座について一通り久𤄃の挨拶をするつもりで居たのだけれど、岡村は遂に其機会を与えない。予も少しくぼんやりして居ると、 「君茶がさめるからやってくれ給え。オイ早く持ってこないか」 家中静かで返辞の声もない。岡村は便所へでもゆくのか、立って奥へ這入って行った。挨拶などは固よりお流れである。考えて見ると成程一昨年来た時も、其前に来た時も改まった挨拶などはしなかった様に覚えてるが、しかしながら今は岡村も慥か三十以上だ。予は四十に近い。然も互いに妻子を持てる一ぱしの人間であるのに、磊落と云えば磊落とも云えるが、岡村は決して磊落な質の男ではない。それにしても岡村の家は立派な士族で、此地にあっても上流の地位に居ると聞いてる。こんな調子で土地の者とも交際して居るのかしらなど考える。百里遠来同好の友を訪ねて、早く退屈を感じたる予は、余りの手持無沙汰に、袂を探って好きもせぬ巻煙草に火をつけた。菓子か何か持って出てきた岡村は、 「近頃君も煙草をやるのか、君は煙草をやらぬ様に思っていた」 「ウンやるんじゃない板面なのさ。そりゃそうと君も次が又出来たそうね、然も男子じゃ目出たいじゃないか」 「や有難う。あの時は又念入りの御手紙ありがとう」 「人間の変化は早いものなア。人の生涯も或階段へ踏みかけると、躊躇なく進行するから驚くよ。しかし其時々の現状を楽しんで進んで行くんだな。順当な進行を遂げる人は幸福だ」 「進行を遂げるならよいけれど、児が殖えたばかりでは進行とも云えんからつまらんさ。しかし子供は慥に可愛いな。子供が出来ると成程心持も変る。今度のは男だから親父が一人で悦んでるよ」 「一昨年来た時には、君も新婚当時で、夢現という時代であったが、子供二人持っての夫婦は又別種の趣があろう」 「オイ未だか」 岡村が吐鳴る。答える声もないが、台所の土間に下駄の音がする。火鉢の側な障子があく。おしろい真白な婦人が、二皿の粽を及び腰に手を延べて茶ぶ台の上に出した。予は細君と合点してるが、初めてであるから岡村の引合せを待ってるけれど、岡村は暢気に済してる。細君は腰を半ば上りはなに掛けたなり、予に対して鄭嚀に挨拶を始めた、詞は判らないが改まった挨拶ぶりに、予もあわてて初対面の挨拶お定まりにやる。子供二人ある奥さんとはどうしても見えない。 「矢代君やり給え。余り美味くはないけれど、長岡特製の粽だと云って貰ったのだ」 「拵えようが違うのか、僕はこういうもの大好きだ。大いに頂戴しよう」 「余所のは米の粉を練ってそれを程よく笹に包むのだけれど、是は米を直ぐに笹に包んで蒸すのだから、笹をとるとこんな風に、東京のお萩と云ったようだよ」 「ウム面白いな、こりゃうまい。粽という名からして僕は好きなのだ、食って美味いと云うより、見たばかりでもう何となくなつかしい。第一言い伝えの話が非常に詩的だし、期節はすがすがしい若葉の時だし、拵えようと云い、見た風と云い、素朴の人の心其のままじゃないか。淡泊な味に湯だった笹の香を嗅ぐ心持は何とも云えない愉快だ」 「そりゃ東京者の云うことだろう。田舎に生活してる者には珍らしくはないよ」 「そうでないさ、東京者にこの趣味なんぞが解るもんか」 「田舎者にだって、君が感じてる様な趣味は解らしない。何にしろ君そんなによくば沢山やってくれ給え」 「野趣というがえいか、仙味とでも云うか。何んだかこう世俗を離れて極めて自然な感じがするじゃないか。菖蒲湯に這入って粽を食った時は、僕はいつでも此日本と云う国が嬉しくて堪らなくなるな」 岡村は笑って、 「君の様にそう頭から嬉しがって終えば何んでも面白くなるもんだが、矢代君粽の趣味など嬉しがるのは、要するに時代おくれじゃないか」 「ハハハハこりゃ少し恐れ入るな。意外な所で、然も意外な小言を聞いたもんだ。岡村君、時代におくれるとか先んずるとか云って騒いでるのは、自覚も定見もない青臭い手合の云うことだよ」 「青臭いか知らんが、新しい本少しなり読んでると、粽の趣味なんか解らないぜ」 「そうだ、智識じゃ趣味は解らんのだから、新しい本を読んだとて粽の趣味が解らんのは当り前さ」 岡村は厭な冷かな笑いをして予を正面に見たが、鈍い彼が目は再び茶ぶだいの上に落ちてる。 「いや御馳走になって悪口いうなどは、ちと乱暴過ぎるかな。アハハハ」 「折角でもないが、君に取って置いたんだから、褒めて食ってくれれば満足だ。沢山あるからそうよろしけば、盛にやってくれ給え」 少し力を入れて話をすると、今の岡村は在京当時の岡村ではない。話に熱がなく力がない。予も思わず岡村の顔を見て、其気張りのないのに同情した。岡村は又出し抜けに、 「君達の様に文芸に遊ぶの人が、時代おくれな考えを持っていてはいけないじゃないか」 鸚鵡が人のいうことを真似るように、こんな事をいうようでは、岡村も愈駄目だなと、予は腹の中で考えながら、 |
麗姫 惟ふに、描ける美人は、活ける醜女よりも可也。傳へ聞く、漢の武帝の宮人麗娟、年はじめて十四。玉の膚艷やかにして皓く、且つ澤ふ。たきもしめざる蘭麝おのづから薫りて、其の行くや蛺蝶相飛べり。蒲柳纖弱、羅綺にだも勝へ難し。麗娟常に身の何處にも瓔珞を挂くるを好まず。これ袂を拂ふに當りて、其の柔かなる膚に珠の觸れて、痕を留めむことを恐れてなり。知るべし、今の世に徒に指環の多きを欲すると、聊か其の抱負を異にするものあることを。 麗娟宮中に歌ふ時は、當代の才人李延年ありて是に和す。かの長生殿裡日月のおそき處、ともに𢌞風の曲を唱するに當りてや、庭前颯と風興り、花ひら〳〵と飜ること、恰も霏々として雪の散るが如くなりしとぞ。 此の姫また毎に琥珀を以て佩として、襲衣の裡に人知れず包みて緊む。立居其の度になよやかなる玉の骨、一つ〳〵琴の絲の如く微妙の響を作して、聞くものの血を刺し、肉を碎かしめき。 女子粧はば寧ろ恁の如きを以て會心の事とせん。美顏術に到りては抑々末也。 勇將 同じ時、賈雍將軍は蒼梧の人、豫章の太守として國の境を出で、夷賊の寇するを討じて戰に勝たず。遂に蠻軍のために殺され頭を奪はる。 見よ、頭なき其の骸、金鎧一縮して戟を横へ、片手を擧げつゝ馬に跨り、砂煙を拂つてトツ〳〵と陣に還る。陣中豈驚かざらんや。頭あるもの腰を拔かして、ぺた〳〵と成つて瞪目して之を見れば、頭なき將軍の胴、屹然として馬上にあり。胸の中より聲を放つて、叫んで曰く、無念なり、戰利あらず、敵のために傷はれぬ。やあ、方々、吾が頭あると頭なきと何れが佳きや。時に賈雍が從卒、おい〳〵と泣いて告して曰く、頭あるこそ佳く候へ。言ふに從うて、將軍の屍血を噴いて馬より墜つ。 勇將も傑僧も亦同じ。むかし行簡禪師は天台智大師の徒弟たり。或時、群盜に遇うて首を斬らる。禪師、斬られたる其の首を我手に張子の面の如く捧げて、チヨンと、わけもなしに項のよき處に乘せて、大手を擴げ、逃ぐる數十の賊を追うて健なること鷲の如し。尋で瘡癒えて死せずと云ふ。壯なる哉、人々。 愁粧 むかし宋の武帝の女、壽陽麗姫、庭園を歩する時梅の花散りて一片其の顏に懸る。其の俤また較ふべきものなかりしより、當時の宮女皆爭つて輕粉を以て顏に白梅の花を描く、稱して梅花粧と云ふ。 隋の文帝の宮中には、桃花の粧あり。其の趣相似たるもの也。皆色を衒ひ寵を售りて、君が意を傾けんとする所以、敢て歎美すべきにあらずと雖も、然れども其の志や可憐也。 司馬相如が妻、卓文君は、眉を畫きて翠なること恰も遠山の霞める如し、名づけて遠山の眉と云ふ。魏の武帝の宮人は眉を調ふるに青黛を以つてす、いづれも粧ふに不可とせず。然るに南方の文帝、元嘉の年中、京洛の婦女子、皆悉く愁眉、泣粧、墮馬髻、折要歩、齲齒笑をなし、貴賤、尊卑、互に其の及ばざるを恥とせり。愁眉は即ち眉を作ること町内の若旦那の如く、細く剃りつけて、曲り且つ竦むを云ふ。泣粧は目の下にのみ薄く白粉を塗り一刷して、ぐいと拭ひ置く。其の状涙にうるむが如し。墮馬髻のものたるや、がつくり島田と云ふに同じ。案ずるに、潰と云ひ、藝子と云ひ投と云ひ、奴はた文金、我が島田髷のがつくりと成るは、非常の時のみ。然るを、元嘉、京洛の貴婦人、才媛は、平時に件の墮馬髻を結ふ。たとへば髷を片潰して靡け作りて馬より墮ちて髻の横状に崩れたる也。折要歩は、密と拔足するが如く、歩行に故と惱むを云ふ、雜と癪持の姿なり。齲齒笑は思はせぶりにて、微笑む時毎に齲齒の痛みに弱々と打顰む色を交へたるを云ふ。これなん當時の國色、大將軍梁冀が妻、孫壽夫人一流の媚態より出でて、天下に洽く、狹土邊鄙に及びたる也。未だ幾ほどもあらざりき、天下大に亂れて、敵軍京師に殺倒し、先づ婦女子を捕へて縱に凌辱を加ふ。其の時恥辱と恐怖とに弱きものの聲をも得立てず、傷み、悲み、泣ける容、粧はざるに愁眉、泣粧。柳腰鞭に折けては折要歩を苦しみ、金釵地に委しては墮馬髻を顯實す。聊も其の平常の化粧と違ふことなかりしとぞ。今の世の庇髮、あの夥しく顏に亂れたる鬢のほつれは如何、果してこれ何の兆をなすものぞ。 捷術 隋の沈光字は總持、煬帝に事へて天下第一驍捷の達人たり。帝はじめ禪定寺を建立する時、幡を立つるに竿の高さ十餘丈。然るに大風忽ち起りて幡の曳綱頂より斷れて落ちぬ。これを繋がんとするに其の大なる旗竿を倒さずしては如何ともなし難し。これを倒さんは不祥なりとて、仰いで評議區々なり。沈光これを見て笑つて曰く、仔細なしと。太綱の一端を前齒に銜へてする〳〵と竿を上りて直に龍頭に至る。蒼空に人の點あり、飄々として風に吹かる。これ尚ほ奇とするに足らず。其の綱を透し果つるや、筋斗を打ち、飜然と飛んで、土に掌をつくと齊しく、眞倒にひよい〳〵と行くこと十餘歩にして、けろりと留まる。觀るもの驚歎せざるはなし。寺僧と時人と、ともに、沈光を呼んで、肉飛仙と云ふ。 後に煬帝遼東を攻むる時、梯子を造りて敵の城中を瞰下す。高さ正に十五丈。沈光其の尖端に攀ぢて賊と戰うて十數人を斬る。城兵這奴憎きものの振舞かなとて、競懸りて半ばより、梯子を折く。沈光頂よりひつくりかへりざまに梯子を控へたる綱を握り、中空より一たび跳返りて劍を揮ふと云へり。それ飛燕は細身にしてよく掌中に舞ふ、絶代の佳人たり。沈光は男兒のために氣を吐くものか。 驕奢 洛陽伽藍記に云ふ。魏の帝業を承くるや、四海こゝに靜謐にして、王侯、公主、外戚、其の富既に山河を竭して互に華奢驕榮を爭ひ、園を脩め宅を造る。豐室、洞門、連房、飛閣。金銀珠玉巧を極め、喬木高樓は家々に築き、花林曲池は戸々に穿つ。さるほどに桃李夏緑にして竹柏冬青く、霧芳しく風薫る。 就中、河間王深の居邸、結構華麗、其の首たるものにして、然も高陽王と華を競ひ、文柏堂を造營す、莊なること帝居徽音殿と相齊し、清水の井に玉轆轤を置き、黄金の瓶を釣るに、練絹の五色の絲を綆とす。曰く、晉の石崇を見ずや、渠は庶子にして尚ほ狐腋雉頭の裘あり。況や我は太魏の王家と。又迎風館を起す。 室に、玉鳳は鈴を啣み、金龍は香を吐けり。窓に挂くるもの列錢の青瑣なり。素柰、朱李、枝撓にして簷に入り、妓妾白碧、花を飾つて樓上に坐す。其の宗室を會して、長夜の宴を張るに當りては、金瓶、銀榼百餘を陳ね、瑪瑙の酒盞、水晶の鉢、瑠璃の椀、琥珀の皿、いづれも工の奇なる中國未だ嘗てこれあらず、皆西域より齎す處。府庫の内には蜀江の錦、呉均の綾、氷羅、罽氈、雪穀、越絹擧て計ふべからず。王、こゝに於て傲語して曰く、我恨らくは石崇を見ざることを、石崇も亦然らんと。 晉の石崇は字を季倫と云ふ。季倫の父石苞、位已に司徒にして、其の死せんとする時、遺産を頒ちて諸子に與ふ。たゞ石崇には一物をのこさずして云ふ。此の兒、最少なしと雖も、後に自から設得んと。果せる哉、長なりて荊州の刺史となるや、潛に海船を操り、海を行く商賈の財寶を追剥して、富を致すこと算なし。後に衞尉に拜す。室宇宏麗、後房數百人の舞妓、皆綺紈を飾り、金翠を珥む。 嘗て河陽の金谷に別莊を營むや、花果、草樹、異類の禽獸一としてあらざるものなし。時に武帝の舅に王鎧と云へるものあり。驕奢を石崇と相競ふ。鎧飴を以て釜を塗れば、崇は蝋を以て薪とす。鎧、紫の紗を伸べて四十里の歩障を造れば、崇は錦に代へて是を五十里に張る。武帝其の舅に力を添へて、まけるなとて、珊瑚樹の高さ二尺なるを賜ふ。王鎧どんなものだと云つて、是を石崇に示すや、石崇一笑して鐵如意を以て撃つて碎く。王鎧大に怒る。石崇曰く、恨むることなかれと即ち侍僮に命じて、おなじほどの珊瑚六七株を出して償ひ遷しき。 然れども後遂に其の妓、緑珠が事によりて、中書令孫秀がために害せらる。 河間王が宮殿も、河陰の亂逆に遇うて寺院となりぬ。唯、堂觀廊廡、壯麗なるが故に、蓬莱の仙室として呼ばれたるのみ。歎ずべきかな。朱荷曲池のあと、緑萍蒼苔深く封して、寒蛩喞々たり、螢流二三點。 空蝉 唐の開元年中、呉楚齊魯の間、劫賊あり。近頃は不景氣だ、と徒黨十餘輩を語らうて盛唐縣の塚原に至り、數十の塚を發きて金銀寶玉を掠取る。塚の中に、時の人の白茅冢と呼ぶものあり。賊等競うてこれを發く。方一丈ばかり掘るに、地中深き處四個の房閣ありけり。唯見る東の房には、弓繒槍戟を持ちたる人形あり。南の房には、繒綵錦綺堆し。牌ありて曰く周夷王所賜錦三百端と。下に又棚ありて金銀珠玉を裝れり。西の房には漆器あり。蒔繪新なるものの如し。さて其北の房にこそ、珠以て飾りたる棺ありけれ。内に一人の玉女あり。生けるが如し。緑の髮、桂の眉、皓齒恰も河貝を含んで、優美端正畫と雖も及ぶべからず。紫の帔、繍ある※(「韈」の「罘-不」に代えて「囚」)、珠の履をはきて坐しぬ。香氣一脈、芳霞靉靆く。いやな奴あり。手を以て密と肌に觸るゝに、滑かに白く膩づきて、猶暖なるものに似たり。 棺の前に銀樽一個。兇賊等爭つてこれを飮むに、甘く芳しきこと人界を絶す。錦綵寶珠、賊等やがて意のまゝに取出だしぬ。さて見るに、玉女が左の手のくすり指に小さき玉の鐶を嵌めたり。其の彫の巧なること、世の人の得て造るべきものにあらず。いざや、と此を拔かんとするに、弛く柔かに、細く白くして、然も拔くこと能はず。頭領陽知春制して曰く、わい等、其は止せと。小賊肯かずして、則ち刀を執つて其の指を切つて珠を盜むや、指より紅の血衝と絲の如く迸りぬ。頭領面を背けて曰く、於戲痛哉。 冢を出でんとするに、矢あり、蝗の如く飛ぶ。南房の人形氏、矢繼早に射る處、小賊皆倒る。陽知春一人のみ命を全うすることを得て、取り得たる寶貝は盡くこれを冢に返す。官も亦後、渠を許しつ。軍士を遣はし冢を修む。其時銘誌を尋ぬるに得ることなく、誰が冢たるを知らずと云ふ。 人妖 晉の少主の時、婦人あり。容色艷麗、一代の佳。而して帶の下空しく兩の足ともに腿よりなし。餘は常人に異なるなかりき。其の父、此の無足婦人を膝行軌に乘せ、自ら推しめぐらして京都の南の方より長安の都に來り、市の中にて、何うぞやを遣る。聚り見るもの、日に數千人を下らず。此の婦、聲よくして唱ふ、哀婉聞くに堪へたり。こゝに於て、はじめは曲巷の其處此處より、やがては華屋、朱門に召されて、其の奧に入らざる處殆ど尠く、彼を召すもの、皆な其の不具にして艷なるを惜みて、金銀衣裳を施す。然るに後年、京城の諸士にして、かの北狄の囘文を受けたるもの少からず、事顯はるゝに及びて、官司、其の密使を案討するに、無足の婦人即ち然り、然も奸黨の張本たりき。後遂に誅戮せらる、恁の如きもの人妖也。 少年僧 明州の人、柳氏、女あり。優艷にして閑麗なり。其の女、年はじめて十六。フト病を患ひ、關帝の祠に祷りて日あらずして癒ゆることを得たり。よつて錦繍の幡を造り、更に詣でて願ほどきをなす。祠に近き處少年の僧あり。豫て聰明をもつて聞ゆ。含春が姿を見て、愛戀の情に堪へず、柳氏の姓を呪願して、密に帝祠に奉る。其の句に曰く、 江南柳嫩緑。 未成陰攀折。 |
「サクソンの畏き神に縁みてぞ、けふをば『ヱンスデイ』といふ。その神見ませ、よるよりも暗くさびしき墳墓に、降りゆくまで我が守る宝といふは誠のみ。」 カアトライト ホトソンに沿うて登つて行つたことのある旅人は、屹度ケエツキルの山を覚えて居ませう。これはアパラツチエン山の幹から出た小枝で、遙に西に向つて、仰いで見れば、麓は河の畔に垂れて、巓は空に聳え、自づと近隣の地を支配して居ます。四季の変、天気の更は勿論、一日の中でも、一刻一刻に不思議にも色と形とを改めるは此山です。それだからこの山の見える処に住む女房は、皆なこれを晴雨計にします。好い天気の続くときは、青か紫かの衣を着て、その大胆らしい界の線を翳のない夕空に画き、時としては、近き傍の森には、雲も烟も見えぬに、その巓は、鼠色の霧の環を掛けられ、西山に這入り掛つた夕日の、最後の光に触れて、凱旋の人の戴く冠の様に光り輝きます。 此奇怪な山の麓で、旅人はある村から立ち騰る、弱々しい烟を見ましたらう。丁度あの晴れた空の青「インキ」が、近い林の緑色に移り行く所で、木の間からちら〳〵と屋根の見える村です。この村は小い、古風な村です。それも尤も、むかし和蘭陀の移住民が、当時善政の聞えのあつたペエテル、ストユイヱサント(渠は無窮の平和に息め)の時代に建てたのだから。四五年前までは、まだ和蘭陀から持て来た、小い黄いろな煉化石で積み上げた、格子窓の附いた、屋根の正面に破風を造つた、その上に風の嚮きを知らする鶏が立つて居る家が、沢山残つて居ました。 丁度この村に、この家の一つに、本たうを言へば、随分雨風に打たれた破れ家に、まだ此辺が英領であつた頃、愚直な、気の好いリツプ、フアン、ヰンクルといふ人が住んで居ました。先祖を問へば、ペエテルのまだ軍の功名を世にとゞろかした時、屈竟の武士で、フオオト、クリスチナを打囲いた一人のフアン、ヰンクル氏です。然し先祖の勇気は遺伝しないことか、私が見た処では、此人は愚直で、好い気で、隣には親切で、女房には始終馬鹿にせられて居ました。渠が喧嘩を好まず、兎角柔和で、世間の人にすかれたのは、全く右の最後に挙げた遭遇の結果でせう。大抵内で喧嘩の好きな女房に支配せられて居る男は、世間で平和を好み、誰にでも従つて、好い人だと言はるゝものです。人の性質は家内の不和といふ火力の強い炉で柔に、撓み易くせられるもので、善人になるには、世界中の高僧の説教を聴くより、女房の窓帷の下の説経を聴くに限ります。この説経の外に、まあ何が柔和と忍辱とを教へませう。して見ると矢釜しい女房を持つた人は、仕合せです。嗚呼、リツプ、フアン、ヰンクルの仕合せもの。 また此人が近隣の女房共の憐を受けたことは非常です。総て婦人は他家の内訌に就て、評議を凝らすときは、亭主の党派に加はるものですが、フアン、ヰンクルの家の事では、殊に亭主を賛成し、晩の会議で、罪の全体を負ふのは、フアン、ヰンクル夫人に極つて居ました。その外、村中の小供の仲間で、此人の景気は盛なもので、この人の姿が近寄る度に、村童の群が、凱歌を挙げて迎へました。かれ等の為めに玩具を作つて遣り、紙鳶を飛ばして遣り、独楽を廻して遣り、また幽霊や、魔女や、銅色人種の面白い語をして遣るのは、此人の外にはないからです。村童は乍ちにこの人を囲繞いて上衣の裾に縋り、脊中に攀ぢ登り、思ひの儘な悪劇をしても此人は腹を立てません。小供が馴染む許りではない、此人に吠えた犬は、近村に一疋もありませなんだ。 唯だリツプが性質の中で、一番悪いのは、利潤になる様な業を、一切嫌ふのです。それはかれが耐忍力に乏しい為めでせうか。韃靼人の槍よりも長い釣竿を握つて、息を屏めて湿り勝な岩の上に坐り、一尾の魚も取らずに、平気で一日も居るのは、耐忍力ではありませんか。鳥銃を肩に掛けて、沼を渡り、森を穿ち、登りつ、降りつ、幾時となく彷徨うて、山鳩一羽、栗鼠二三頭を捕つて、喜んで還るのは、耐忍力ではありませんか。隣の人の業になら、どんな六つかしいことにでも、手を借すのは、此人です。祭の時に蜀黍の莢を剥ぎ、石垣を築くとき、第一に力を出すのは、此人です。村中の女房が、亭主の辞退する用は、皆な此人に頼み、走り使は皆なこの人にさせます。このとほりにリツプは世にありとあらゆる人の仕事をします。そのしないのは、自分の仕事計りです。自分の家を治め、自分の畑を耕すことは、かれには所詮出来ませなんだ。 実に妙な性分です。然し其訳を問ふと、何時でも立派に言ひ解きます。私の田を耕す程、世に損なことはない。これは国中で悪いのです。いくら骨を折つても、穀物が実つたことはない。垣は誰も破らぬに独りでに破れて仕舞ふ。牛は逃げて仕舞つたり、菜の中へ這入つたりします。無益な艸は外よりも早く延びます。此畑へ仕業に出ると、何時でも意地悪く雨が降る。斯う言つて、打ち棄てゝ置く程に、先祖から譲り受けた田は、年々に減つて仕舞ひ、今は唯だ些し計りの、蜀黍と馬鈴藷を種付ける畑ばかりが残りました。 またリツプの子供は、汚れた膚、破れた衣、誰をも親に持たない子の様です。父にそつくりなリツプといふ息子は、唯だ貌計でなく、心まで父に似やうといふ、頼もしい望のある小僧です。何時も馬の子の様に、母の跡に附き、親父の穿き古した、ぼろ〳〵の袴の、垂れて地を払ふのを、片手で撮んで歩くのは、丸で天気の悪い時に、善い衣を着た女が、裾を蹇げるやうです。 リツプ、フアン、ヰンクルは例の仕合せものゝ、例の愚直な、放任な、世間を易く見て、白麺包でも黒麺包でも、心にせよ体にせよ、成る丈少し労して得られるものを食ひ、一弗贏けようと骨を折らうよりは、一銭贏けて餓ゑてもよいと云ふ人物の一人でした。かれの安を妨ぐるものがなかつたなら、かれは口笛を吹き乍ら、さぞ面白く世を渡つた事でせう。然し煩聒しい女房は、かれの懶惰無頓着抔が、一家の破滅だといつて断えずかれを責めます。朝も昼も晩も女房の舌は止むときなく運転して、何かこの男が言つたり、為たりすると、直に長演説が始まります。こんな演説に出逢つた時のリツプが答辨は、唯だ一つで、この一つはかれの癖になりました。かれは肩を聳かし、頭を掉り、上目を使つて一言も云ひません。この答辨に次で、何時でも女房が最う一遍新に丸を籠めて発砲し、リツプは僅に身を以て免かるといふ様な勢で、兵を引上げ、外へ出て行きます。これは何処でもしりにしかれて居る亭主のたつた一つの逃道です。 家内でリツプに服従して居るものと云つては、ヲルフと名の付いた犬計りで、この犬も矢張しりにしかれて居る仲間です。何故といふに女房の目から見れば、此犬は亭主の懶惰の友で、亭主が頻に失策をするのはかれの為めのやうに見えます。だから女房の目は憎気にこの犬を見ます。全体、犬の徳といふべきものは、皆な備へたこの犬、昔よりこの辺の蓊鬱たる林を穿つた中で、最も大胆なこの犬ですが、一女子の舌のいつまでも猛烈なのには、何等の胆力か挫折せずに居られませう。ヲルフは家に這入るや否や、頭を低れ、尾は地まで下げて、股の間に插み、間の悪るさうな顔で歩き廻り、折々横目で主婦を見て居ますが、箒の柄、杓子の音が少しでもすると、一目散に戸口を駈け出します。 夫婦になつて居る歳が移るに従つて、リツプの地位は段々に悪くなつて来ます。原来酷い性は決して年を経て寛にはならず、鋭利な舌は断えず用ゐるに連れて尖つて来る刃物です。既に久しい間、リツプは家から逐出される度に、村中の学者、儒者、その外の懶けものが開いて居る一種の常置会に臨むことにして居ました。会場は戸口にジヨルジ第三世陛下の赤い様な像が掛つて居る小い酒屋の前の長椅子です。永い眠むさうな夏の日に、かれ等はこの日蔭に腰を掛けて、村中の噂や、訳もない怠屈な永譚をします。然し稀に旅人の手から古新聞を一枚貰つたとき、この仲間でする細な議論を聞く事が出来たなら、或る政治家は随分金を払つたかも知れません。学校教師デリツク、フアン、ブムメルがぽつ〳〵と読む文句を、かれ等はまあどんなにか真面目に聞いて居ましたらう。読むものは字書の中のどんな難字に遭つても駭かない、すばしこい、賢い小男です。聴く人は紙上の政治問題に就いて、まあどんなに賢く議論をしましたらう。この既に二三月前に済んだ問題に就いて。 この会議の首座で、その意見を支配して居たのは、村の故老で、宿屋の主人ニコラス、ベツタアです。この人は家の前の大木の蔭に何時も座つて居て、毎日丁度、日光を避けられる丈体を動かします。ですから近所の人はこの人の座を見て、時刻を知ることは、丁度沙漏刻と同じことです。この人は多く議論を致しませんが、煙草はその代りに絶えず喫みます。かれの党(世の英雄には屹度その党があります)は、それでも善くかれの意を解します、かれの向背を探ります。人の読むこと、言ふことなどが気に入らぬときには、渠は劇しく煙草を吸ひ込み、また頻に短い怒つた様な烟の吹き方をします。若し又気に入る時は、烟草を閑に緩くり吸ひ込み、軽い穏な雲を吹き出し、時としては烟管を口から引き出し、匂ひの善い烟に鼻のあたりで環を書かせ、物体らしく頷いて、その腹からの大賛成を表します。不便なリツプは、此砦からも、彼喧嘩好きの女房に逐はれました。彼女房はこの平和な集会に突然駈け込んで、誰彼の嫌なく、会員一同を益に立たずと罵り、例の尊厳なるニコラス、ベツタアの身さへ、この恐ろしい変生男子の大胆な舌で傷られました。女房は覿面にかれに向つて、自分の夫を懶惰にする人だと責めました。 遂には不便なリツプも偪迫に堪ぬ様になりました。農家の力作と女房の喧嘩とを逃れる最後の策は、鳥銃を手に把つて、山深く這入ることです。さて山の中では、折々木の根に腰を掛けて、嚢の中の物をヲルフに頒けてやります、この同じ危難に遭つて居る同病相憐む猟犬のヲルフに。こんな時にはリツプは犬に向つて言ひます。「不便なヲルフ、そなたの主婦は犬同様に汝を扱て居るぞ。然し苦労にするな。吾児よ。おれが生きて居る間は汝の力になる友達が一人はあるといふものだ。」ヲルフは大抵尾を掉つて、もの思はし気に主人の顔を見ます。嗚呼犬が不便といふことを知るものなら、ヲルフがこんな時に心の底から主人をふびんがるのは疑ひもないことでせう。 ある秋の晴れ渡つた日に、リツプ、フアン、ヰンクルは例の通りケエツキルの山に這入つて、われ知らず、この山の絶頂に近い処まで来ました。かれは栗鼠狩といふ道楽に引かれて来たので、かれの放つた鳥銃の音を反射する谺響は、また一たびこの無人境の寂しさを破りました。渠が疲れ果てゝ喘ぎつゝ、崖の縁を冠の様に飾つて居る、山苔で裹まれた緑の丘の上に倒れたのは、昼過ぎ遅くでした。木々の隙間から見渡せば、丘の下の数哩に亘つた森が見えます。少し隔つた処を遙に、ずつと遙に見下せば、美しい、静な、然し荘厳なホトソンの流が帯の様に見えて、紫の雲、又は(此処彼処にその水晶の胸の上で仮寐をして居る様な)徐々とすべつて行く小舟の帆が、影を写し、その末は青う見える高原で、そのはては恍惚と知れなくなつて居ます。 外の側を見下せば、淋しく荒れた深い谿で、その底の岩には、許多の罅隙が這入つて居て、所々には崖から飛出した石もあり、夕陽の光線の屈折反射した末が僅にこれを照らして居ます。リツプはこの景色に対して暫くは思ひ沈んで居ました。蒼然たる暮色は段々に迫つて来て、山々は長い青色の影を谷に落し初めました。かれはこの様子では村に帰り付くより、余つ程早く日が暮れて仕舞はうと考へ、還り付いた時に女房の怒は何程だらうかと、覚えず太い息を吐きました。 リツプが奮発して帰らうとし掛つた折に、遠くから「リツプ、リツプ」と呼ぶ声がします。四辺を見廻はすに、頭の上を飛んで行く一羽の鴉の外に、目に遮るものもない。渠は心の迷であつたかと、又た行かうとすると、同じ声で「リツプ、リツプ」と呼ぶ。この声が静な日暮の空気に響き渡る時に、連れて居る猟犬ヲルフの毛が立つて来て、犬は静に鼻を鳴らし乍ら、リツプに擦り倚つて、物に畏れる様な風で、谷の底を覗きます。リツプも何となく薄気味が悪くなつて、ふと犬の見詰めて居る方角を見ると、岩を踏んで登つて来る怪しい人の姿が見えます。かれは脊に負うて居る重荷の為めか、腰を曲めて歩く様子です。この浮世を離れた場所で邂逅うた人の姿には、リツプも少し驚きましたが、また近村のものでもあるかと思つたから、かれの重さうな荷を負ふのを、少し扶けて遣らうと急いで崖を下りました。 近くなればなる程、不思議なのは異人の模様です。丈は低く、力のありさうな老人、髪は濃くて箒の様になり、髯は灰いろです。打扮は和蘭陀の古代の風俗(帯で腰を約した木綿衣)袴は幾重も穿き、外の分は濶くて、両側は各一列の鈕で留めてあります。膝の処には紐が附いて居ります。肩に載せて居るのは重い桶で、その中にあるものは薬酒と見えます。異人は手真似でリツプを呼んで、少しすけて呉れと頼む様子です。リツプは少しはこの新知己に対して嫌疑の心を懐きもしたが、例の気の好い所から、手を借してやりました。異人とリツプとは代る〳〵に荷を負つて、谷間を登つて行きました。此谷間は古代に山川の流れた痕と見えます。攀ぢ登つて行く中に、折々遠い雷の様な音が耳に達します。この音は登つて行く道の窮まる所に見える岩の裂け目から出る様です。リツプは初めこの音を聞いた時、立ち留つて耳を澄ましたが、深山で折々逢ふ一時の、通り過ぎの雷かと思つたから、又た疑はずに進で行きました。扨て例の岩の裂け目を通り越して見ると、こゝは一つの岩窟です。窟の形は劇場の桟敷に似て居て、その周匝は急な崖です。この崖の上には老樹が枝を交へて、唯だその隙間に、藍の様に青い空と、光のある夕の雲が見えるばかりです。リツプはこの異人と一所に登つて往く間始終無言でした。何故この山奥へ、薬酒を一桶負うて這入るか。その訳は解りませんが、この異人の姿には何となく馴れ難い、敬はねばならない所があつて、何うも話を仕掛けられませなんだ。 岩窟に這入ると、また驚くべきものが目に触れました。窟の中央の窪んだ処に諧譃けた人物が寄つて、尖柱戯(向うに立てゝある尖つた木の柱を、こちらから木の丸を転し掛けて倒す戯)をして居る。その人物の衣は可笑しい外国風の仕立です。一人は短い袍を衣て、外の連れは半臂に長い剣を佩き、大抵皆な(彼の荷を負うて来た人の穿いて居る通りな)無暗に寛い袴の中に嵌まり込んで居ます。それにその人々の顔は皆な妙です。一人は頭が大きく、額が広くつて、目は豕の様に狭く、外の一人の顔は丸で鼻計りで出来て居る様で、その上から赤い鳥の羽で飾つた、白い棒砂糖形の帽子が被ぶさり掛つて居ます。どれも色々な形の、様々な色の髯を生やして居ます。中で一人は頭と見えます。此人は日にやけた顔で、力の強さうな老人です。渠は紐で飾つた袍を着て、広い帯に剣を懸け、羽附きの高く尖つた帽を戴き、赤い襪に踵の高い、花飾りの附いた靴を穿いて居ます。リツプは此仲間を見て、村の牧師シエエクさんの部屋にある、和蘭人の移住の時に来たフランドルスの古い画を思ひ出しました。殊にリツプの目に可笑しく見えたのは、此人々が真から楽んで居るに違ないのに、皆な真面目な顔をして、さも秘密らしく黙つて居ることです。ですからリツプが今迄見た内でこれが一番沈んだ会でした。この場所の静かなのを時々破るものは、丸の音計りです、抛げ出される度に、山伝ひに谺響を喚起す、鳴渡る雷の様な丸の音計りです。 桶を担うた人に連れられて、リツプがこの異人の群に近寄つた時に、渠等は俄に遊を廃めて、此方を見ました。その気抜のした、そして譬へて云つて見ると、石や金でこしらへた彫像の目の様な目と、粗相な沢のない顔附を見たリツプは、心の臓が胸の中で顛倒つて、膝は緊がなくなりました。一所に来た男は桶の薬酒を大きな瓶に分けて入れましたが、入れ仕舞ふとリツプを喚んで、異人達のお酌をさせました。かれは怖がつて慄ひ乍ら酒を注いで出すと、異人は黙つて飲み乾し、また遊の方へ顔を向けて、辺には構ひませなんだ。リツプは段々に怖いと羞かしいとを忘れて、渠等の見ないを僥倖に薬酒を試めして見ると、上等の杜松子酒の様な味がしました。此男は元来咽の乾く性ですから、一度この味を占めると、また一口飲みたく成る、つい二度三度と瓶へのお見舞を重ねる中に、段々に気が遠くなつて、目がちらつき、頭は何時ともなく項垂れて来ました。かれは眠つて仕舞ひました。 目が覚めて視れば、また原の緑の岡の上に居ました、丁度あの異しい桶を担うた男を始めて見た所に。目を摩つて見れば、夜は明け離れて、旭が麗かに照つて居ます。木の間には枝から枝に渡つて鳴く小鳥、清い山風に抗つて高く舞ふ青空の鷲ばかり。「はてな、一晩是処であかして仕舞つたか知らん」といふのが、リツプの最初の考でした。渠は寐附いた迄の事を繰り返して思ふに、桶を負うた異人との邂逅、岩窟、物凄しい岩陰、陰気な尖柱戯の遊仲間、瓶。「嗚呼、その瓶だ。その因果な瓶だ。まあ、何と女房に言訳をしやう。扨々困つた。」 かれは鳥銃が四辺にあるかと見廻しました。何うしたことか傍にあるのは、持ち慣れた、磨き立つた、好く油を引いた鳥銃ではなくつて、古い銃身には一面に鏽の附いた、撥条の落ちた、柄を虫の喰つた鳥銃です。かれの考では、あの真面目腐つた、生酔の山男が、おれに一杯喰はせて、酔ひ倒れたのを幸に、鳥銃を盗んだことかと思ひました。ヲルフも見えないが、これは栗鼠か、鳥かを追掛けて往つたかも知れません。かれは口笛を吹いて見たり、名を呼んで見たりしても、口笛と犬の名とを呼び戻す谺響は聞えて、犬の姿は見えませなんだ。 かれは昨日の怪い目に逢つた処へ往つて見やうと思ひ定めました、若し尖柱戯仲間の一人に出逢つたら、鳥銃と犬とも、取り戻されるかも知れぬから。扨て斯う思つて立ちあがるとき、何となく節々のあがきが不如意なのに気が附きました。「何うも石の上なんぞに寝ると、体をだいなしにして仕舞ふ。若しこれがこうじて僂麻質斯にでもなつたら、さぞ女房に矢釜しく云はれることだらう。」と独言を言ひ乍ら、漸うの思で渓間に降りて、昨日異人と連立つて歩いた道の処に来ました。然し不思議なは、この渓間は山河になつて、岩から岩へと跳る水は、聒ましい小言で、此無人の境を賑はして居ます。骨を折つて、河の岸に生茂つた樺や榛や「サツサフラス」の小枝を押し分け乍ら、岸に沿うて登つて行くに、樹々の枝に蔓を渡して、往方の途に網を張つた、野生の葡萄が、折々足に搦んで、その困難、実に昨日の比ではありませなんだ。 漸う岩窟の入口まで来て見れば、今日は穴も何もありません。削立つた岩は罅隙のない壁の様で、しかもその上から瀑布が泡を飛ばして墜ちて来て、直ぐ下にある、周囲の森の影に裹まれて、真黒な淵にはいります。可哀さうにリツプはこれから先へ一足も行かれません。かれは又た口笛を吹いたり、ヲルフの名を喚んだりして見ても、応へるものは遙に高い枯木の周匝を飛んで居る惰鴉の一群ばかりです。かれ等は高い処から、この気を揉んで居る人間を見卸して、馬鹿にする様に見えます。はて何うしませう。日景は段々移る。朝飯を食はないリツプは追々飢を覚えて来ました。犬と鳥銃とはなくして仕舞つて、腹は立ちます。家へ帰らうには、女房が何んなにか叱るだらうと気に成る。然し山の中で饑死をする訳にも行きません。かれは首を掉つて、古鳥銃を肩に掛け、心配を胸に帰途に掛りました。 村に近くなつて来ると、一群の人が行き交ひましたが、一人も知つた顔でありません。かれは村中に知らない顔はなかつたものを。それに邂逅うた人の衣が、皆んな見慣れない仕立です。かれ等は皆なリツプを見て驚く様子で、また言ひ合はせた様に、頤を摩ります。リツプは覚えず自分の頤を摩つてびつくりしました、髯が一尺も長く伸びて居たから。 リツプが村境に這入ると、識らない小供の一群が、跡から跟いて来て、白い鬚に指をさして笑ひ、また声を立てゝ叫びます。犬の居る前を通過ぎる度毎に吠えられるから、気を付けて見れば、皆な識らない顔の犬仲間です。村も変つて、大きくなり、また人も殖えて居ます。見馴れた家は痕もなくなつたかと思へば、昨日まで家のなかつた所に、檐を連ねた街が出来て、家々の入口には、知らない名が書いてあり、窓からは知らない人が顔を出して、何も彼も知らないもの計りです。かれの胸には心配が起つて来て、つひにかれは自分も周囲の世界も一しよに化かされて仕舞つたのではないかと思ひました。これが我村に違はないものを、昨日出て行つた我村に。ケエツキル山は彼処に聳えて、ホトソンの清い流は此処に流れて、丘も谷も何時もの通です。リツプの心は千々に迷うて、何となく悲しく成つて来ました。「あゝ、きのふの瓶の酒だに飲まなかつたら、こんな気違ひにはならなかつたらうに、」と渠は歎息しました。 漸うの思で、渠は我家を探し当てゝ、怖々に近寄りました、女房の耳に立つ声が、今するか〳〵と思ふから。見れば哀れな家の有様です。屋根は落ち込み、窓は破れ、戸は蝶番からはづれて居ます。何処かヲルフに似たやうな、饑死をし掛つた犬が一匹、家の周囲を彷徨いて居るから、名を呼んで見ると、厮奴は歯を露出して、噢咻つて逃げて仕舞ひました。随分これは面白くない待受けといふものでせう。「おれの飼狗まで、おれを見忘れて仕舞つたか、」とリツプは大息を吐き乍ら云ひました。 かれは家の閾を跨ぎました。原とリツプの女房は矢釜しい丈、家の掃除はよくして居たが、今見れば荒れ果てゝ、人影もない様です。この有様を見て、女房の怖さも忘れて仕舞つたリツプは、女房と子供との名を高く呼びました。この声は虚になつて居る部屋々々へ響いたが、それつきりに、又た静かになりました。 落胆して家を出て、急足で何時もの酒屋に来て見れば、これも何うしたか消えて仕舞つて、その代に大きな、古びた、木造りの家がありました。破れ掛つた処を、襤褸や古帽子で埋めた窓が、広く開けてあつて、戸の上には、「ジヨナタン、ヅウリツトルの聯邦客舎」と塗字で書いてあります。昔し酒店の簷端を掩うて居た古木はなくなつて、その代に太い裸な棒が一本立つて居て、その尖には寐る時に被ぶる赤帽子の様なものが附いて居る、その処から旗が一流れ懸つて居るのを、善く見れば、星と条とが妙な工合に組合はせてある、渾て見るものが皆な不思議です。「然しジヨルジ王の赤顔の招牌は、まだ彼処に掛けてある。いや〳〵赤い袍の色が、青と黄とに変つて居る。杖の代に、手に持つて居るのは剣だ。頭には縁の飜へつた帽を被ぶつて居る。何んだ。下には将軍華聖頓と書いてある。」何時もの通り、戸口には大勢の人が寄集つて居るが、皆な知らない顔です。全体人の風儀が変つて、見慣れた、眠むさうな、静かな性は迹もなく、誰も彼も忙しさうに、喧ましく、争を好むといふやうに見えます。リツプはあの広い顔の、頤の二重になつた、綺麗な、長い烟管から、空論の代りに烟りを吹く、賢いニコラス、ベツタアか、又は古びた新聞の話を聞かする、教員のブムメルは居らぬかと、見廻はしても、遂に見当りませなんだ。是等の人物の代には、痩せこけた苦々しい顔の男が、外套の隠しへ一杯紙片を入れて、民権、撰挙、議員、自由、バンカアスヒル、七十六年の英雄抔と、訳の解らない、彼のバビロン城の工人の言葉のやうな事を、無暗に饒舌つて居りました。 リツプが長い髯を垂れ、異風な装束を附け、鏽で真赤になつた鳥銃を肩に引掛け、跡には許多の婦女子を随へて、この場に現れたを見て、酒店に集つた政治家連は、一同喫驚しました。渠等は立つて来て、リツプを取巻き、さも珍らし気に、頭の頂から足の蹠まで見ました。中にも如才のない演説家は、群集を押分けて側に寄り、リツプを引張つて、「君は何党の人を撰挙しますか、」と問ひました。リツプは呆れた顔をして、かの男を瞠視めた計り、一言も出しませなんだ。その内に又た人を押分けて来て、リツプの腕を握つたのは、忙し気な丈の低い男で、足を爪立てゝ耳に口を寄せ、「君は聯合党員ですか、または民政党員ですか、」と問ひました。リツプは矢張り呆れた顔をして、一言も出しませなんだ。この時に又た群衆を肘で撞き退け〳〵、リツプの面前へ出て来たのは、仔細らしい、物識り顔な老人で、隻腕を腰に突張り、隻腕を杖の上に置いて、尖つた帽の下から、鋭い眼を光らせ、リツプの顔を、魂まで見抜きさうに睨んで、「君はこの撰挙場に、武器を携帯して来るさへあるに、許多の人民を従へて居らるゝのは、暴動でも起さうといふ所存ですか」と云つた。これを聞いたリツプは、少し慌てた声で。「何うして私が暴動抔を致しませう。私は此土地の根生ひのもので、王さまの大の信仰者です」と云ひました。 王さまの信仰者と名乗つたリツプが一声は、尚囲繞いて居た撰挙人の群に、劇しい混雑を惹起しました。「それ王党だ。それ間牒だ。落人だ。捕へて仕舞へ。いや逐出して仕舞へ。」このさま〴〵の声を鎮めた、例の縁の飜へつた帽を被つて居る老先生の骨折は、大抵ではありませなんだ。さて十倍真面目な顔付をして、リツプに向つて、(かれが為めにはこの怪しい犯罪人に向つて)何の仔細があつて、誰を捜しに此処へは来たかと問ひました。ふびんなリツプは、何んにも悪意は挾まず、唯だ何時も此処に来る、近処の知己を捜しに来たと答へました。 「宜しい、それは誰れか、名をお言ひなさい。」リツプは少し考へて、「ニコラス、ベツタアは何処に居ますか、御存の方はありませんか。」 群衆は暫く静まつて居たが、中で老人が一人、薄い悲し気な声で答へました。「なに、ニコラス、ベツタア。あの男が死んだのは、もう十八年前の事だ。墓の上に建てた木に、行状が書いてあつたが、その木も何時か腐れて仕舞つて、今は痕もない。」 「そんならブロム、ダツチヤアは。」 「あれは軍の始まつた時に隊に這入つた。ストニイ、ポイントの進撃の時に死んだといふ人もあるし、又たアントニイス、ノオスの颶風に逢うて溺れたといふ人もある。何しろ帰つては来ない。」 「そして教師のフアン、ブムメルは。」 「あれも矢張軍に出て、仕舞ひには土兵の大した将官になつて、今では議員だ。」 この恐ろしい世間の更り様、又た友達の栄枯得失を聞いて、自分の唯だ此処に取残されたことを顧みたリツプの落胆は思ひ遣られます。それに人の答が一々心を迷はす種になる、幾歳月を経た間の歴史上の出来事を、遠慮会釈もなく、並べて話されるから。戦争、国会、ストニイ、ポイントの進撃。かれは最う外の友達の事を問ふ気力がないから、さも困つた様に、「そして誰も此内でリツプ、フアン、ヰンクルを知つたものはありませんか。」 「なにリツプ、フアン、ヰンクル」と二人か三人が一度に応へました。「知らなくつて。それ、其所に木に倚つ掛つて居るのがリツプさ。」と云はれて、リツプは驚き乍ら、人の指ざす方を見れば、成程自分に酷肖た、同じ様に貧乏らしい、屹度また同じ様に無性な男が、木に倚掛つて、四辺構はずといふ姿で居ます。此時リツプが呆れ加減は、極端に達しました。かれは自分が果して自分だか、将た他人だかと疑ひ始めました。この精神の錯乱して居る最中に、例の飜へつた縁の帽を被つた先生は、又たリツプに向つて、其方は誰だと問ひました。 「それをまあ誰れが知つて居ませう、」とかれは答へました、かれは丸で判断力を失つて仕舞つたから。「私は矢つ張私ではありません。私は外の人です。彼処に居るのが私です。然し、いゝえ。彼処に居る人は、矢つ張私の蛻に這入つた外の人です。昨晩までは、まだ私は私でした。一晩山の中に明かして、鳥銃は取換へられ、世間は丸で別物にせられ、その上私まで更りましたから、私の名は何と申しますか、私は誰ですか、迚も申すことは出来ません。」これを聴いて居た群衆は、互に顔を見あはせて頷きあひ、又た意味あり気に手真似をして、額を指ざしました。中にはこの危ない老人の持つて居る飛道具を取上げねば、何か事を起さうも知れぬと、咡ぐものもありましたが、かの飜へつた縁の帽を被つた先生は、これを聞くや否や、直ぐにこそ〳〵と逃げて仕舞ひました。この時に若い愛らしい婦人が、群衆を押し分けて、リツプの側へ近寄りました。この白髯の翁の貌に驚いてか、抱いて居た頬の※(月+亨)れた子は、声を放つて泣出しました。「おや可笑な子だねえ。この老爺さんは何うもしはしないよ。リツプ坊は善い子だ。静にお仕よ。」小児の名、その母の顔と声音と、これ等は僉なリツプ、フアン、ヰンクルの心に夥多の記念を喚起しました。かれは「おかみさん、あなたのお名前は、」と問ひました。 「ジユヂス、ガアドニイア」 「そして貴君の乃翁の名は。」 「えゝ、気の毒なのは私の阿爺、名はリツプ、フアン、ヰンクルと云ひました。鳥銃を肩に掛けて、家を出て往つてから、最う二十年立ちましたが、それつ切り音沙汰なしです。伴れて往つた犬は独で還りましたが、主人は自殺でもしましたか、銅色人種にでも引張つて行かれましたか、誰も様子を知りません。私はまだその時に小さい娘で御座りました。」 これでリツプの問は、只だ一条を余したが、かれは吃り乍ら、漸う言葉を出しました。 「そしてお前の老萱は何処に居ます。」 「嬢々はたつた此間無くなりました。ニユウ、イングランドから来た旅商人と喧嘩をして、余り怒つたので、卒中とかいふ病を発したのだといふことです。」 リツプが為めに、少し心を慰める媒になつたのは、此れ一つです。かれは怺へず、娘と孫とを抱いて。「おれがお前の親父だ、祖父だ、家を出た日には、まだ若かつた、今日は年寄つたリツプ、フアン、ヰンクルだ。まあ此多人数の中に、誰もおれを見覚えた人はないか、」と云ひました。一同呆れて立つて居る中から、踉蹌け乍ら出た老媼は、手を翳して一分時程リツプの顔を見て居たが。「やあ、お前はリツプさんに違ない。善う帰つて来ました。この永の歳月、まあ、何処に居ました。」と云うたが、その時のリツプの嬉しさは、実に思遣られます。リツプが二十年間の話は、すぐに済みました、かれがためには、二十年が一夜ですから。聞いたものは又た互に目を見あはせました。中には舌を頬へ推込んだ人もあります。危くないと見極めて戻つて居た、飜へり帽子の先生は、口の角を引下げて、頭を掉ると、一同が同じ様に頭を掉りました。 この時街を徐々と歩いて来たのは、ペエテル、フアンデルドンクと云つて、此府の古記録を編輯した、同名の人の後裔です。今ではこの村の一番古い人で、昔しこの村にあつた珍らしい事といへば、この人の知らないことはない位です。この人は一同にリツプが話に就ての意見を尋ねられて、何か思ひ当ることでもあるやうな身振をしましたが、その言ひ出すのを聞くに。先祖の歴史家の著書の内に、ケエツキル山に異形な人が居るといふことは、分明に書いてある。これはこの洲と河とを発見したヘンドリツク、ホトソンの仲間で、二十年に一遍づゝこゝへ来て見るのが常になつて居る、かれの父は一度この仲間が山の洞の中で、和蘭風な打扮で、尖柱戯をして居るのに邂逅つたことがある、かれもある夏の昼過に、丸を転ばすやうな音を聞いたことがあるといひます。 群衆はこの話を聞いて安心して、また重大な選挙事件の方に心を寄せました。リツプが娘は父を勧めて同居させようと、連れて帰りました。その家は倒々美しく、諸道具も備つて居ます。その亭主といふものは、壮健な農夫で、熟々見れば昔しリツプが脊中に攀ぢ登つた悪劇児の一人です。親にそつくりな二代のリツプ、あの木に倚掛つて居た男も、この家に喚ばれて、庭で仕事をすることになりましたが、矢張り自分の業よりは、人の業に力を入れる珍らしい性でした。 リツプはまた元の通りに、散歩、其外の慣れた生活を始めました。昔しの友達をも一二人は見出したが、何れも〳〵衰へ果てゝ、言葉敵にもならないから、それよりは寧ろ若いものをと、段々に少年の友達をこしらへ、この少年等も、また程なくリツプを二なきものに思ひました。 |
上 去にし年秋のはじめ、汽船加能丸の百餘の乘客を搭載して、加州金石に向ひて、越前敦賀港を發するや、一天麗朗に微風船首を撫でて、海路の平穩を極めたるにも關はらず、乘客の面上に一片暗愁の雲は懸れり。 蓋し薄弱なる人間は、如何なる場合にも多くは己を恃む能はざるものなるが、其の最も不安心と感ずるは海上ならむ。 然れば平日然までに臆病ならざる輩も、船出の際は兎や角と縁起を祝ひ、御幣を擔ぐも多かり。「一人女」「一人坊主」は、暴風か、火災か、難破か、いづれにもせよ危險ありて、船を襲ふの兆なりと言傳へて、船頭は太く之を忌めり。其日の加能丸は偶然一人の旅僧を乘せたり。乘客の暗愁とは他なし、此の不祥を氣遣ふにぞありける。 旅僧は年紀四十二三、全身黒く痩せて、鼻隆く、眉濃く、耳許より頤、頤より鼻の下まで、短き髭は斑に生ひたり。懸けたる袈裟の色は褪せて、法衣の袖も破れたるが、服裝を見れば法華宗なり。甲板の片隅に寂寞として、死灰の如く趺坐せり。 加越地方は殊に門徒眞宗、歸依者多ければ、船中の客も又門徒七八分を占めたるにぞ、然らぬだに忌はしき此の「一人坊主」の、別けて氷炭相容れざる宗敵なりと思ふより、乞食の如き法華僧は、恰も加能丸の滅亡を宣告せむとて、惡魔の遣はしたる使者としも見えたりけむ、乘客等は二人三人、彼方此方に額を鳩めて呶々しつゝ、時々法華僧を流眄に懸けたり。 旅僧は冷々然として、聞えよがしに風説して惡樣に罵る聲を耳にも入れざりき。 せめては四邊に心を置きて、肩身を狹くすくみ居たらば、聊か恕する方もあらむ、遠慮もなく席を占めて、落着き澄したるが憎しとて、乘客の一人は衝と其の前に進みて、 「御出家、今日の御天氣は如何でせうな。」 旅僧は半眼に閉ぎたる眼を開きて、 「さればさ、先刻から降らぬから、お天氣でござらう。」と言ひつゝ空を打仰ぎて、 「はゝあ、是はまた結構なお天氣で、日本晴と謂ふのでござる。」 此の暢氣なる答を聞きて、渠は呆れながら、 「そりや、誰だつて知つてまさ、私は唯急に天氣模樣が變つて、風でも吹きやしまいかと、其をお聞き申すんでさあ。」 「那樣事は知らぬな。私は目下の空模樣さへお前さんに聞かれたので、やつと氣が着いたくらゐぢやもの。いや又雨が降らうが、風が吹かうが、そりや何もお天氣次第ぢや、此方の構ふこツちや無いてな。」 「飛んだ事を。風が吹いて耐るもんか。船だ、もし、私等御同樣に船に乘つて居るんですぜ。」 と渠は良怒を帶びて聲高になりぬ。旅僧は少しも騷がず、 「成程、船に居て暴風雨に逢へば、船が覆るとでも謂ふ事かの。」 「知れたこツたわ。馬鹿々々しい。」 渠の次第に急込むほど、旅僧は益す落着きぬ。 「して又、船が覆れば生命を落さうかと云ふ、其の心配かな。いや詰らぬ心配ぢや。お前さんは何か(人相見)に、水難の相があるとでも言はれたことがありますかい。まづ〳〵聞きなさい。さも無ければ那樣ことを恐がると云ふ理窟がないて。一體お前さんに限らず、乘合の方々も又然うぢや、初手から然ほど生命が危險だと思ツたら、船なんぞに乘らぬが可いて。また生命を介はずに乘ツた衆なら、風が吹かうが、船が覆らうが、那樣事に頓着は無い筈ぢやが、恁う見渡した處では、誰方も怯氣々々もので居らるゝ樣子ぢやが、さて〳〵笑止千萬な、水に溺れやせぬかと、心配する樣な者は、何の道はや平生から、後生の善い人ではあるまい。 先づ人に天氣を問はうより、自分の胸に聞いて見るぢやて。 (己は難船に會ふやうなものか、何うぢや。)と、其處で胸が、(お前は隨分罪を造つて居るから何うだか知れぬ。)と恁う答へられた日にや、覺悟もせずばなるまい。もし(否、惡い事をした覺もないから、那樣氣遣は些とも無い。)と恁うありや、何の雨風ござらばござれぢや。喃、那樣ものではあるまいか。 して見るとお前さん方のおど〳〵するのは、心に覺束ない處があるからで、罪を造つた者と見える。懺悔さつしやい、發心して坊主にでもならつしやい。(一人坊主)だと言うて騷いでござるから丁度可い、誰か私の弟子になりなさらんか、而して二三人坊主が出來りや、もう(一人坊主)ではなくなるから、頓と氣が濟んで可くござらう。」 斯く言ひつゝ法華僧は哄然と大笑して、其まゝ其處に肱枕して、乘客等がいかに怒りしか、いかに罵りしかを、渠は眠りて知らざりしなり。 下 恁て、數時間を經たりし後、身邊の人聲の騷がしきに、旅僧は夢破られて、唯見れば變り易き秋の空の、何時しか一面掻曇りて、暗澹たる雲の形の、凄じき飛天夜叉の如きが縱横無盡に馳せ𢌞るは、暴風雨の軍を催すならむ、其一團は早く既に沿岸の山の頂に屯せり。 風一陣吹き出でて、船の動搖良激しくなりぬ。恁の如き風雲は、加能丸既往の航海史上珍しからぬ現象なれども、(一人坊主)の前兆に因りて臆測せる乘客は、恁る現象を以て推すべき、風雨の程度よりも、寧ろ幾十倍の恐を抱きて、渠さへあらずば無事なるべきにと、各々我命を惜む餘に、其死を欲するに至るまで、怨恨骨髓に徹して、此の法華僧を憎み合へり。 不幸の僧はつく〴〵此状を眗し、慨然として、 「あゝ、末世だ、情ない。皆が皆で、恁う又信仰の弱いといふは何うしたものぢやな。此處で死ぬものか、死なないものか、自分で判斷をして、活きると思へば平氣で可し、死ぬと思や靜に未來を考へて、念佛の一つも唱へたら何うぢや、何方にした處が、わい〳〵騷ぐことはない。はて、見苦しいわい。 然し私も出家の身で、人に心配を懸けては濟むまい。可し、可し。」 と渠は獨り頷きつゝ、從容として立上り、甲板の欄干に凭りて、犇き合へる乘客等を顧みて、 「いや、誰方もお騷ぎなさるな。もう斯うなつちや神佛の信心では皆の衆に埒があきさうもないに依つて、唯私が居なければ大丈夫だと、一生懸命に信仰なさい、然うすれば屹度助かる。宜しいか〳〵。南無、」 と一聲、高らかに題目を唱へも敢へず、法華僧は身を躍らして海に投ぜり。 「身投だ、助けろ。」 船長の命の下に、水夫は一躍して難に赴き、辛うじて法華僧を救ひ得たり。 然りし後、此の(一人坊主)は、前とは正反對の位置に立ちて、乘合をして却りて我あるがために船の安全なるを確めしめぬ。 如何となれば、乘客等は爾く身を殺して仁を爲さむとせし、此大聖人の徳の宏大なる、天は其の報酬として渠に水難を與ふべき理由のあらざるを斷じ、恁る聖僧と與にある者は、此結縁に因りて、必ず安全なる航行をなし得べしと信じたればなり。良時を經て乘客は、活佛――今新たに然か思へる――の周圍に集りて、一條の法話を聞かむことを希へり。漸く健康を囘復したる法華僧は、喜んで之を諾し、打咳きつゝ語出しぬ。 「私は一體京都の者で、毎度此の金澤から越中の方へ出懸けるが、一度ある事は二度とやら、船で(一人坊主)になつて、乘合の衆に嫌はれるのは今度がこれで二度目でござる。今から二三年前のこと、其時は、船の出懸けから暴風雨模樣でな、風も吹く、雨も降る。敦賀の宿で逡巡して、逗留した者が七分あつて、乘つたのはまあ三分ぢやつた。私も其時分は果敢ない者で、然云ふ天氣に船に乘るのは、實は二の足の方であつたが。出家の身で生命を惜むかと、人の思はくも恥かしくて、怯氣々々もので乘込みましたぢや。さて段々船の進むほど、風は荒くなる、波は荒れる、船は搖れる。其又搖れ方と謂うたら一通でなかつたので、吐くやら、呻くやら、大苦みで正體ない者が却つて可羨しいくらゐ、と云ふのは、氣の確なものほど、生命が案じられるでな、船が恁うぐつと傾く度に、はツ〳〵と冷い汗が出る。さてはや、念佛、題目、大聲に鯨波の聲を揚げて唸つて居たが、やがて其も蚊の鳴くやうに弱つてしまふ。取亂さぬ者は一人もない。 恁云ふ私が矢張その、おい〳〵泣いた連中でな、面目もないこと。 昔彼の文覺と云ふ荒法師は、佐渡へ流される船路で、暴風雨に會つたが、船頭水夫共が目の色を變へて騷ぐにも頓着なく、大の字なりに寢そべつて、雷の如き高鼾ぢや。 すると船頭共が、「恁麽惡僧が乘つて居るから龍神が祟るのに違ひない、疾く海の中へ投込んで、此方人等は助からう。」と寄つて集つて文覺を手籠にしようとする。其時荒坊主岸破と起上り、舳に突立ツて、はつたと睨め付け、「いかに龍神不禮をすな、此船には文覺と云ふ法華の行者が乘つて居るぞ!」と大音に叱り付けたと謂ふ。 何と難有い信仰ではないか。強い信仰を持つて居る法師であつたから、到底龍神如きがこの俺を沈めることは出來ない、波浪不能沒だ、と信じて疑はぬぢやから、其處でそれ自若として居られる。 又死んでも極樂へ確に行かれる身ぢやと固く信じて居る者は、恁云ふ時には驚かぬ。 まあ那樣事は措いて、其時船の中で、些とも騷がぬ、いやも頓と平氣な人が二人あつた。美しい娘と可愛らしい男の兒ぢや。姊弟と見えてな、似て居ました。 最初から二人對坐で、人交もせぬで何か睦まじさうに話をして居たが、皆がわい〳〵言つて立騷ぐのを見ようともせず、まるで別世界に居るといふ顏色での。但金石間近になつた時、甲板の方に何か知らん恐しい音がして、皆が、きやツ!と叫んだ時ばかり、少し顏色を變へたぢや。別に仔細もなかつたと見えて、其内靜まつたが、姊弟は立ちさうにもせず、まことに常の通りに、澄して居たに因つて、餘り不思議に思うたから、其日難なく港に着いて、姊弟が建場の茶屋に腕車を雇ひながら休んで居る處へ行つて、言葉を懸けて見ようとしたが、其子達の氣高さ!貴さ! 思はず此の天窓が下つたぢや。 そこで土間へ手を支へて、「何ういふ御修行が積んで、あのやうに生死の場合に平氣でお在なされた」と、恐入つて尋ねました。 |
土田麦僊さんが御在世の折、よく私の筆胼胝が笑い話になりましたものです。 無理もないことで、私が絵筆を執り始めてから、今日まで丁度丸々五十年になります。今年六十七歳になりまするが、この五十年間を、私は絵と取組んで参った訳になります。 明治八年四月二十三日が私の生まれました日で、父は二ヶ月前の二月に亡くなりましたので、その時分の事ゆえ、写真など滅多になく、私は全然父の顔を知りません。「お父さんはどんな人」と言って尋ねますと、「あんたによう似た人や」と、親類のおばさん達が、笑いながら教えて呉れたものです。姉妹ただ二人きりで、私は母と姉を、父とも母とも思って成長致しました。 明治十四年、七つの時、仏光寺の開智校と申す小学校に入学致しましたが、この時分から私は絵が好きで、四条に野村という儒者が居られましてこの方から絵を習いました。これが私の絵の習い始めで、その時開智校で教えて戴いた中島真義先生が、私の描きます絵をいつも褒めて下さりまして、ある時京都中の小学校の連合展覧会に私の絵をお選び下さいまして、その時御褒美に硯を頂戴致しました。この硯は永年座右に愛用致しまして蓋の金文字がすっかり消えてしまいましたが、幼い私の中に画家を見付け出していろいろ励まして下さいました中島先生の御恩は一生忘れることが出来ません。 その時分、家の商売は葉茶屋でございまして、二人の子供を抱えた若い後家の母は女手一つで私達を育てて呉れました。 明治二十年、十三歳で私は小学校を終えますと、どうしても絵が描きたく、母にせがみまして、その頃京都画壇再興の為に出来ました画学校に入れて貰いました。河原町御池、今の京都ホテルの処に建物がありまして、土手町の府立女学校校長を兼ねました吉田秀穀という先生が校長で、生徒は百人余り、組織は東西南北の四宗に別れていまして、東宗は柔らかい四条派で望月玉泉先生、西宗は西洋画で田村宗立先生、南宗は巨勢小石先生、北宗は力のある四条派で鈴木松年先生がそれぞれ主任でした。私はこの北宗の松年先生に師事致しました。女学生は私の他にも各宗に二人位ずつ居られましたが、何れも途中から姿を消してしまい、ただ前田玉英さんだけが残りまして、その後玉英さんは女学校の絵の先生になられたようにうかがって居ります。 これを見ましても、当時女の身で、絵の道を立て通す事が如何に困難であったかがわかると思います。 それについて、私はいまでも時々思いだしまするが、私の姉に縁談のありました時、母はかような事はあまり信じない方でしたが、親類達がやかましく言いますので、その当時建仁寺の両足院にお名前は忘れましたが、易の名人がいやはりまして、姉の縁談を占ったついでに、私の四柱(生まれた年、月、日、時刻の四つから判断する)を見まして、「えらいええ四柱や、この子は名をあげますぞ」と言われました。私は七つか八つの時分の事で、はっきり記憶に残ってる訳でもございませんが、母がよく笑いながらこの事を話して呉れましたのが、未だに時々思いださせるのでございましょう。母が自分の身を犠牲にして一心に私に絵の勉強をさしてくださいましたのも、この易者の言葉が陰で相当力を与えていたかも知れません。 話が横道に外れましたが、先に申しました画学校も一年程しまして改革になり、松年先生は学校を退かれる事になり、その時、私も御一緒に学校を辞めて、それからは専ら松年先生の塾で勉強する事になりました。松園という号も、その時先生からつけて戴いたものです。 私はその時分から人物画が好きで、その為、一枝ものや、山水、花鳥画はともすると怠り勝ちで、「あんたの描きたいものは、京都には参考がなくて気の毒だ」とよく松年先生が同情して下さいました。しかし、先輩もなく参考画も思うようにないだけに、無性に人物画が描きたくて堪らなく、その時分諸家の入札とか、或はまた祇園の屏風祭りなどには、血眼になって、昔の古画のうちから、私の人物画の参考を漁ったもので、そして夢中で縮図をしたものでございます。考えてみますると私の母も、絵は好きだったものらしく、それが私に伝わっているのかも知れません。私がまだ子供の時分、私はよく母にねだりまして絵草子を買って貰いましたが、私がねだらなくとも、よく自分から買ってきまして、私に与えて下さいました。また、その頃四条の通りに夜店の古本屋が出て居りましたが、その中から絵の手本のようなものを時々見受けてきて、私に与えて下さいました。そして、たまたま、雨の降っている静かな晩など、私と姉が外から帰ってきますと、母が一人で机に向かって、一心にその手本を写している事が時々ございました。 大体、母の父、私の祖父という人が、美術が好きであったらしく、私が六つの時亡くなりましたが、商用で長崎などに行きますと、よく皿とか壺とかそういう美術品を買い求めてきた事を子供心に覚えて居ります。 私は、絵の勉強の傍ら、先に申しました絵の手ほどきの野村先生が儒者であった為か、漢学が何となく好きで、私が二十位の頃、松年先生の御了解を得まして、幸野楳嶺先生の塾で勉強致して居りましたが、楳嶺先生の御紹介で、衣の棚の市村水香先生の漢学塾に通いまして、『左伝』とか、『十八史略』とかの輪講を受けました。『左伝』は特に好きで、その時分、都路華香さん、澤田撫松さんなど御一緒でした。その後先生が亡くなり、長尾雨山先生に就いて矢張漢学を勉強致しましたが、この漢学から受けた知識は、唐美人など描く場合に大変役立ちました。絵の道に役立ったばかりでなく、私の精神修養の上に、目に見えない力をつけていると思います。市村先生の『左伝』の御講義の日など、非常に楽しみでございました。 松年先生の渋い、筆力雄渾の画風から、楳嶺先生の柔らかい派手な濃麗華麗な画風に移りまして、その間に挟まって、自分を見失いかけ、悩みに悩み、傍ら今申しました漢学の勉強など致し、その頃は、それこそ血みどろの戦いでございました。楳嶺先生とは師縁が薄く、足掛二年、明治二十八年私が二十一の時先生が亡くなられましたので、それから栖鳳先生に師事致しまして、今日に及んで居りまするが、十六の時、第三回内国勧業博覧会に松年先生の御勧めで〈四季美人図〉を初出品致しまして、思いがけなく一等褒状を得、剰え、その時御来朝の英国のコンノート殿下の御目にとまり御買上の光栄に浴しました時から始まり、その後幾多の展覧会に次々と出品致して参りましたが、矢張今もってこれで宜しいという気持ちが致しません。もっともっと良い絵を描かなければという気持ちでございます。御褒美もその間に度々戴きましたが、〈四季美人図〉では十二円戴き、大変使い出があった事を覚えて居りまするが、飛び立つ程嬉しかったような記憶はなく、ただ、明治三十六年に〈姉妹三人〉を描きました時は、何となく嬉しゅうございました。 私は、あまりモデル等は使わない方で、大抵鏡を三枚仕立てまして、娘なら娘の着付を致し、色々の姿勢を自分で致しまして写しとり、ある時は左手で写すなど色々苦心致しまするが、自分自身でございまするから、誰に遠慮気兼ねもなく、得心の行くまでやれます。〈姉妹三人〉もこうして描いたものの一つで、出来上がった時、何となく嬉しゅうございました。 私が初めて東京へ行きましたのは、三十二か三の時分で、平和博覧会に、鏑木清方さんが〈嫁ぐ日〉を描かれたのを拝見する為に上京したのが初めてでございます。近頃でも、静かな夜など、ふっと思いますが、その時分の気持ちと、今も、ちっとも変わってないなと思う事があります。もっと前、私が五つか六つの頃、お祭りで親類の家へよばれて遊びに行きました。その町内に絵草子屋があって、欲しくてなりませんが、親類の家なので子供心に買って呉れとも言えず、もじもじしてたところへ丁度家から丁稚が使いに来ましたので、私はその丁稚に、半紙に波の模様のある文久銭を六つならべて描き、「これだけもろうてきて」と母にことづけてやりました。これを見て母が大笑いをしたということですが、口で言えない事を絵にしたものでございましょう。今もってこの話を思い出すとひとりで笑います。 |
一 「おい、大将」と呼びかけられて、猫八は今まで熱心に読み耽ってた講談倶楽部から目をその方に転じた。その声ですぐその人だとは分ってたので、心易い気になって、 「いよう、先生!」わざと惚けた顔つきをしてみせながら、「よくこの電車でお目にかかるじゃアございませんか――さては、何かいい巣でもこッちの方にできました、な?」 「なアに、巣鴨の巣、さ!」 「………」それには彼もさっそく一本まいった。が、この時あたりの乗客どもがすべて聴き耳を立ててきたので、彼は今手が明いて引き上げてきた高座のうえの気分をまた自分の心に引きだしていた。そして乗客どもが皆自分のお客のように見えてきたので、ここはやッぱり何とかやり返してやらねばならぬような気になった。「そうでげしょう、な」と、にわかにもっともらしい顔になって、ちょうどこの時顛狂病院の前を自分らの電車が通ってるのをじろりと見て取って材料に入れた、 「巣鴨なんかにゃア、どうせ気違いか猫八のような化け物しか住んでおりませんから、な」 「は、は、はア」と笑った物があるので、彼はこんな場所ででもいつもの手応えを得るには得たが、場所柄を思ってそのうえの軽口をさし控えようとすると、何だかこの口が承知してくれないようにも思えた。 「まア、おとなしくしていなよ」ひそかに自分で自分を制しながら、相手の顔を見ていた。この人は高見といって、一二度ある催しに自分を招いてくれた人で、人のよさそうな黙笑をその少し酔いの出た、そして睡そうなあの顔に続けている。「おい、小奈良の小大仏」と喉まで出たが、朋輩の者でもない人にと思って、ぐッと呑みこんでしまった。それから、さし障りのないと思えた言葉がべらべらと飛びだした。「もう、一杯すみました、な――この不景気に先生はなかなか景気がよさそうじゃアございませんか? 少しあやかりてい、な、――えい? わたくしなぞはこれから自宅へ帰って、やッと――その、な――熱いのにありつけるかと思ってますのでげすが、な、かかアがその用意をしてあるかどうかも分りません」 「は、は、はア!」筋向うに座を占めてこちらを見詰めていた男がまた笑った。 人の笑いさえ聞えれば、自分には気持ちよく響くのであるが、自分自身には少しもおもしろくないのが不思議であった。芸人としての理窟を言えば、それはたくさんあることはある。人を笑わせるには自分から笑っていては利き目がないということもその一つだ。けれども、自分は人の好む酒をもさし控えて、この商売に使う自分の声を保護しているくせに、人に向ってはやッぱり酒を呑むかのごとく見せかけなければならぬ。こんな苦しいことが他の仕事にもあろうか? 人は芸人なんてしゃアしゃアして、世に苦労もないように思ってるが、その本人にもなってみるがいい。人の知らない苦労をこてこてとしている。自分なんかはまるで苦労の固まりでもってできたような人間である。 それでも、一つ楽みなことには、自分の長屋住いのうら垣根をぶん抜いて、そこから出たところの明き地を前々から安く借りて、野菜を作っている。そして多くできた時は、自分の家族がそれを喰うばかりでなく、隣り近所のものにも分配してやる。近所のものが喜ぶのを見るだけでもまた一つの楽みである。 小かぶや大根の葉につく青虫や黒虫は、畝並みに溝を掘っておいて、そこへ向って葉を振うと、皆ころころと落ちてしまう。それを一どきに踏みつけたり、子供なぞ棒の先で突ッついたりして、殺すのである。 昨今は胡瓜や茄子の苗をも植えつけたので、根切り虫に注意してやらねばならぬ。この虫は泥棒や自分たちと同様、夜業ばかりする奴だから、昼間探しても少しだッて姿を見せぬ。今夜はひとつ、晩飯をすませるとすぐ、自分はふんどし一つになり、子供に提灯を持たせて畑に行き、十分に根切り虫の退治をやってやろうと考えられた。 すると、この時、小大仏の先生が目を見ひらいて、 「今夜は、もう、用がなかろう」と尋ねた。 「へい、高座は二個所すましてまいりましたが――」これでは自分の返事が足りないようにも思えたので、彼は向うの意味を汲み取って、「どこかうまいところへお伴できますか、な?」 「なアに、どうせうちへ帰って寝るだけのことなら、どうだ、おれについてこないか?」 「まいりましょう――あなたのお指図なら、どこへでも」どこ、華厳の滝までもという歌を――思わず――口もとまで思い浮べた。 「ある文士たちの研究会だが、ね、聞いていてためにならないことでもない。これから行けば、もう、たッた二時間の辛抱だ。そのあとはお前の世界にしてやるから」 「そりゃアおもしろいでしょう、な、わたくしも後学のためにお伴いたしましょう」そうは軽い気持ちで答えたけれども、今しがたやッと下してきた重荷を今夜また今一度背負わされはしないかということを案じられた。自分には、毎晩組合の義務を果して帰るさの電車の中ほど軽い身心になってる時はほかにないのである。聴いたところでは、今からなお少くとも二三時間は家に帰れない。してみると、その間にも畑の植えつけ苗の根を二本でも三本でもあの根切り虫に切られているかも分らないのだ。 一方にそれを気にしながらも、やがて電車が終点に着いたので、彼も講談倶楽部を懐中にねじこんで、高見さんの後から立ちあがり、ひょこりひょこりと、不自由なからだを出口の方へ運んだ。彼はこの十数年来リョウマチのために半身不随のようになってるのである。人並みならぬこんな身体をしていても、芸が身を助けるの諺で、妻子をまず人並に養って行けるのがありがたかった。 黙って歩いてると、こんなきまじめな考えに沈みがちであるのを、ふと、知り合のでぶでぶ女に出会ってまたうち破られた。 「猫八さん!」かの女はその太った図体を自慢そうに前の方へ運ばせながら、行き違いに、止せばいいのに、こちらへ、その図体にも似合わぬ優しい声をかけた、「今、お帰り?」 「いよう、大山大将!」彼はついまた冷かしてみたくなって、いつもどおり冷かした。横にその方へ向いてぎょうぎょうしく立ち停ったのだが、女が笑いながら行ってしまうので、自分の目を放して言葉でだけ追いかけさせた、「今一つお座敷があるので、な」 「そう」という返事は後ろに聴えていた。「ほんとにあなたは稼ぎ手よ!」 「………」なアに、金になるのかどうかは分らないのであるが、向うがいかにも自慢げに見えるようにあのからだを運んでるので、こちらもただ何か自慢してやりたくなって、今からさして行く所をお座敷と言ってみたのだ。 「でッぷりした女だ、な」と、高見さんは言った。 「どうして――あれでなかなか亭主にゃア可愛がられておりますからたまりませんや!」 「へい――?」 高見さんはまじめに聴いていたが、自分にはじつはそんなことは分ってないのであった。ただ冗談でありさえしたらよかったのだ。この人も案外話せないと思いながら、話題を転じた。 「なかなか暑いじゃアございませんか? この分じゃア、この梅雨は乾梅雨でげしょうか、な? 困ります、な」 「そりゃア、雨が降れば寄席の客あしも減じようから、な」 「お客の足なら、摺り小木にもなれでさア。わたくしはちッとばかり人の地面を借りて野菜を作っております。困るのアそれが、雨が降るべき時に降らないとうまく行きませんから、な」 二 こんなことを語ってるうちに、ある家の門をはいった。ここにもわずかばかりだが胡瓜の畑を作ってあるのが彼には奥床しかった。 その家の二階へ上るにも、彼は変てこに尻をひょこひょこ曲げてでなければ上れなかった。けれども、自分の事を、 「今夜は珍らしいお客さんを一人連れてきた」と言って、高見さんが六七名の一座へ紹介してくれた時には、自分もいつもどおりお客に嬌えこんだ時のような誇りを感じた。「あとでひとつやってもらってもいいと思って――例の猫八です」 「こりゃアおもしろかろう」と叫ぶものもあった。 「例のは気に入りました、な、わたくしも多少は知られた芸人ですから。あなたがたのような偉い文士方の前へ出ましても、な、その、そうおじ気が出ないのは仕合せです」こう言ってじろりと一座を見わたすと、無邪気に笑ったものもあるし、別に感触を害しているようなものもないらしいので、こちらの洒落を皆寛大に理解してくれる人々だと分った。が、なお念のためにもッと分らせておくつもりで、「ただし前もってお断わりしておきますが、わたくしはリョウマチのために人様のようにはからだが利きません。したがって、こうわざと畏まってますように見えるのもそのためでげして、あながち諸君を怖がってるわけではございません」 「は、は、は」と来たので、彼はまず安心して、もう、こちらの物だとしばらく口をつぐんでしまった。 誰かの書いた小説の研究が初まってるのであったが、題目は俳優の事であるから、彼も縁の近い芸人として聞き耳を立てた。 当家の主人らしいのは、二三年前にはよく銭湯でいっしょになり、近ごろでも時々途中で出会うことがある人だが、これが高見さんに向って、 「今、『虎』が問題になってるところです」と言った。 「誰れのです?」 「久米氏の虎です、五月の文章世界に出た」 「僕は読んでませんが」と、高見さんは答えた。 「ここにも読んでる人は少いのだが――これをわざわざ六月の会に持ちだしておいたその人が今夜出席していないので、何も言わないで通過してしまおうかと思ってるのです」 |
俳画展覧会へ行つて見たら、先づ下村為山さんの半折が、皆うまいので驚いた。が、実を云ふと、うまい以上に高いのでも驚いた。尤もこれは為山さんばかりぢやない。諸先生の俳画に対して、皆多少は驚いたのである。かう云ふと、諸先生の画を軽蔑するやうに聞えるかも知れないが、決してさう云ふつもりぢやない。それより寧ろ、頭のどこかに俳画と云ふものと、値段の安いと云ふ事とを結びつけるものが、予め存在したと云つた方が適当である。 但し中には画そのものがくだらなくつて、しかも頗る高価なものも全くなかつた訣じやない。が、あれは余りまづすぎるので、人に買はれると、醜を後世に残すから、わざと誰も買はないやうな、高い値段づけをつけたんだらうと推察した。唯、さう云ふ画が二三点既に売約済になつてゐたのは、誰よりも先づ描いた人自身が遺憾だつたのに違ひない。 それから句仏上人が、画を描かせてもやはり器用なのに敬服した。上人は「勿体なや祖師は紙衣の五十年」と云ふ句を作つた人である。が、上人の俳画は勿論祖師でも何でもないから、更に紙衣なんぞは着てゐない。皆この頃の寒空を知らないやうに、立派な表装を着用してゐる。 その次に参考品の所で、浅井黙語先生の画を拝見した。これは非売品だから、値段に脅されない丈でも、甚だ安全なものである。が、そんなことを眼中に置かないでも、鳳凰や羅漢なんぞは、至極結構な出来だと思ふ。あの位達者で、しかもあの位気品のある所は、それこそ本式に敬服の外はない。 最後に夏目漱石先生の南山松竹を見て、同じく又敬意を表した。先生は生前、「己は画でも津田に頭を下げさせるやうなものを描いてやる」と力んでゐられたさうである。そこで津田青楓さんに御相談申し上げるが、技巧は兎も角も、気品の点へ行くと、先生の画の中には、あなたが頭を御下げになつても、恥しくないものがありやしませんか。これは私自身が頭を下げるから、さうして平生あなたがかう云ふ問題には公明正大な事をよく承知してゐるから、それで伺つて見たいと思ふ。 前に書き忘れたが、鳴雪翁の画も面白く拝見した。昔、初午に稲荷へ行くと、よく鳥居をくぐる途に地口の行燈がならんでゐた。あれはその行燈の絵を髣髴させる所が甚だ風流である。 まだいろいろ思ひついた事があるが、目下多忙の際だから、これだけで御免を蒙りたい。 |
正岡君については、僕などあまりに親しかッたものですから、かえって簡単にちょっと批評するということ難かしいのです、そりゃ彼の人の偉いところやまた欠点も認めて居ないこともないのですが、どうも第三者の位置にあるよう、冷静な評論は出来ませんよ。 僕も初めから正岡君とは手を握って居た訳ではないのです、むしろ反対の側にあったもので時には歌論などもやったものです、それが漸々とその議論を聴き、技倆を認め、ついに崇敬することとなりこちらから降服したという姿です、それであるから始めから友人交際であった人達よりはその偉らさを感じたことが強かったようです、従て崇敬の度が普通以上でしたろう、であるから僕の子規論などは往々人の意表に出でて、世間からは故人に佞しもしくは故人を舁いだものかのように受取られたことが多いのです。しかしながら棺を蓋うて名すなわち定まるで、いわゆる明治文壇における子規子の価値は、吾々の云々をまって知るを要せぬことになりました。 今日新派といわるる人々と正岡君の和歌との関係ですか、僕の考えでは与謝野一派、竹柏園の一流、その他尾上、金子などの一流とすなわち今日のいわゆる新派とはほとんど関係がないと思います、第一趣味の根底が違ってますからね。 どう違う? それは趣味上の問題ですから一言にして尽しがたいが、今日の新派の人々のなすところを見ると、歌を作くるの前にその作り出づべき題に対してまず注文を建てて居るように見えます、たとえば歌その物の価値ということを主なる目的とせないで、新しくなければいかんとか珍らしくなければつまらんとか、従来の物と是非変っていねばいかんとか、また新思想ことに西洋思想などを加味せねばならぬかのように初から考を立てておいて作って居らるるようです、むしろ詩というものの価値を、ただちにその新しい珍らしい従来に変った詩材もしくは新思想のそれに存するかのごとく考えて居らるるように見えます、かの人々の作物その物について観察するとたしかにそう見えます。 ここがはなはだ六つかしい誤解しやすいところですから、よく注意を願います、吾々とてその新しい珍らしい変化とか新思想を毫末も嫌うのではない、ただ詩その物の価値は思想や材料やのそれに存するのではなく、ある種の思想材料に作者の技能が加った作物の成功それに存するものと信じて居るのです、いかに珍らしき新しき詩的材料を捕え得ても、その成功のいかんは必ず作者その人の霊能に待たねばならないのです。 ただ新しく珍らしく変ってさえ居ればただちに詩として面白いもののごとく思うは、詩というものの価値を根本に誤解して居るところから起る誤りでしょう、新を好む人はただ新しければよいものと思い、古いを好む人は古ければすぐによく感ずる、これらは両方とも間違って居ます、新しいにもよいのも悪いのもあるごとく古いにもよいのも悪いのもあるでしょう、要するに詩作の価値は、新旧のいかん思想材料のいかん以外に多くの部分があるのである、着想がいくらよくとも図とりが何ほどよくともただそれだけにてはただちに良画とはいえないと同じである。 今のいわゆる新派の人達と吾々とは以上の意味において根本的に相違して居るのです、今申上げたことはただちに正岡の言ではありませんが、僕の頭にある正岡はたしかにそう考えていたと信ずるのです。でこういうことをなおよく具体的に説明するとなると容易でないですから次にうつりますが、そういう風で正岡君のやり方は、何でもかまわないただ出来た歌が面白ければよい、いくら理屈は進歩的でも新思想でも変化して居っても面白くない歌は仕方がないさ、そんなものは文学でも詩でもないさ、というような調子で、有振れたことであってもなくても西洋趣味など加味しようとせまいと一向頓着せられなかった、『古事記』などの詞が非常に面白いという間にも「ガラス」も「ランプ」も「ブリキ」も平気に歌に詠んで居られた。 話が外れますが、この頃ろ『万葉集』が大変持て囃されますね、『万葉』は佐々木君も面白いという、鉄幹君も面白いという、しかし両君の面白いというのと吾々の面白いとするのとは、ほとんどその趣きを異にして居ると思うのです、どんなに違うか、さアこれもちょっと説明が六つかしい、『万葉』が好いとして取る点は、詞は蒼古だとか、思想が自然だとか調子が雄渾だとか、中にはただ何となく上代の国ぶりを悦ぶ類であるが、恁なことでは真に『万葉』の趣味を解して居るものとは元とより言われない、吾人の『万葉』の豪いとするところは要するにその歌が生き生きして居る点にあるが、第一に作者の詩的感懐が高い、材料の観取が非常に広い、言語の駆使が自在である、使用の言語が非常に饒多である、今日の歌人の作物など感興の幼稚なる言語材料の狭隘なるとても比較になるものではない、これらの諸点に一々実例を挙げていえば面白いがそれはここには出来ません、『万葉』の歌は死物でなくして活物だ、活物であればこそ今日我々が見ても陳腐と感じない訳ではないでしょうか、この点から見て僕は今日の新派諸子の作歌をはなはだハガユク思う一人です、どうもその歌が真でない、拵えものの感じがしてならぬ、人工的であッて、天然流露の趣がない。 尾上、金子、佐々木等の諸君の作物には今日のところ接近の見込みがありません、与謝野君ですか……与謝野君の玉と珍重する材料を僕はつまらぬ土塊をひねくって居るように見えてならないです、要するに新詩社一派は根本の一個所に誤解があるように僕には見えるです、晶子君なども少ッと考えればすぐ解りそうな間違を平気で、遣ッて居られるようだ、もしこの根本の誤解を反省せらるるの機会あらば、この派の人々とは吾々もある点まで歩調を一にする日があろうと思われます、これは例の鴎外宅歌会の折直接に与謝野君ほか出席の前で直言したことがあるです。 これからまた正岡君に返ります、世間では歌における正岡君は未だ成功しないようにいうようですが、実際そうもいえるでしょう、何にしろ正岡君の歌を遣り出したのは、明治三十二年で、もっともその以前にもちょいちょい手を出したこともありますが、竹の里人と名乗を揚げ正式に歌壇の城門に馬を進めたのは三十二年の春であります、三十五年にはもう故人となったのですから、その研究も自から足れりと許すの域に入ってなかったのは明らかです。しかしながら歌の正岡君を未だ成功せぬと見る眼をもって他の歌人を見たらどうでしょう、『万葉集』以後恐らく一人の成功した歌人はないでしょう。 その頃ろ正岡君が歌に関する議論の変化は劇いもので走馬灯のようでした、昨と今とは全然違うという調子で、議論主張は変るのが当然である、終始一貫などと詰らぬことだというて居られた。「歌よみに与ふる書」を発表した時代には俳句も短歌も要するに形式上の差であって内容に到たっては同一のものと論じて居る、それでその頃の歌には、俳句趣味を和歌にも宿そうとした、否な宿したのもあるようです、それがすぐ形式の差は内容の差を伴うべきものだと呼び俳調俳歌厭うべしと罵倒して仕舞われたのです、吾々もそう思うですなあ、同じく詩であっても、俳句は概括的に遣って退ける、和歌は局部局部を唄おうとする、それで俳句では一句で足るのが和歌では五首も費さなければならぬこともある、だが五首を一句に尽すから俳句が豪いでもなければ、一句を五首にしたから和歌が劣ってるのでもない、詩の価値なるものは全然かかる数学的関係を絶して居るのは元よりです。 こんな風に正岡君は常に批評的立脚地を離れないで、どの方面に向っても必ず議論と終始して、その態度はいつも研究的に周到な用意をもって歩一歩と進んだ人 歌を遣るにも、始めはなるらん、けるらん、とかの領分から発足して、次第に一家の風調を成したようです、俳句方面にもこういう話があります、正岡君が虚子君や碧梧桐君に向って、 「お前方は月並月並というて大変恐怖がって居るが己れなどは月並からやって来たのだから、もう月並になろうとしてもなれんので恐怖くも何んともない、月並を恐れるのは要するに月並がほんとうに解らんからだ」と一喝を与えたという話も聴いて居ります。 |
これは近頃Nさんと云う看護婦に聞いた話である。Nさんは中々利かぬ気らしい。いつも乾いた唇のかげに鋭い犬歯の見える人である。 僕は当時僕の弟の転地先の宿屋の二階に大腸加答児を起して横になっていた。下痢は一週間たってもとまる気色は無い。そこで元来は弟のためにそこに来ていたNさんに厄介をかけることになったのである。 ある五月雨のふり続いた午後、Nさんは雪平に粥を煮ながら、いかにも無造作にその話をした。 × × × ある年の春、Nさんはある看護婦会から牛込の野田と云う家へ行くことになった。野田と云う家には男主人はいない。切り髪にした女隠居が一人、嫁入り前の娘が一人、そのまた娘の弟が一人、――あとは女中のいるばかりである。Nさんはこの家へ行った時、何か妙に気の滅入るのを感じた。それは一つには姉も弟も肺結核に罹っていたためであろう。けれどもまた一つには四畳半の離れの抱えこんだ、飛び石一つ打ってない庭に木賊ばかり茂っていたためである。実際その夥しい木賊はNさんの言葉に従えば、「胡麻竹を打った濡れ縁さえ突き上げるように」茂っていた。 女隠居は娘を雪さんと呼び、息子だけは清太郎と呼び捨てにしていた。雪さんは気の勝った女だったと見え、熱の高低を計るのにさえ、Nさんの見たのでは承知せずに一々検温器を透かして見たそうである。清太郎は雪さんとは反対にNさんに世話を焼かせたことはない。何でも言うなりになるばかりか、Nさんにものを言う時には顔を赤めたりするくらいである。女隠居はこう云う清太郎よりも雪さんを大事にしていたらしい。その癖病気の重いのは雪さんよりもむしろ清太郎だった。 「あたしはそんな意気地なしに育てた覚えはないんだがね。」 女隠居は離れへ来る度に(清太郎は離れに床に就いていた。)いつもつけつけと口小言を言った。が、二十一になる清太郎は滅多に口答えもしたこともない。ただ仰向けになったまま、たいていはじっと目を閉じている。そのまた顔も透きとおるように白い。Nさんは氷嚢を取り換えながら、時々その頬のあたりに庭一ぱいの木賊の影が映るように感じたと云うことである。 ある晩の十時前に、Nさんはこの家から二三町離れた、灯の多い町へ氷を買いに行った。その帰りに人通りの少ない屋敷続きの登り坂へかかると、誰か一人ぶらさがるように後ろからNさんに抱きついたものがある。Nさんは勿論びっくりした。が、その上にも驚いたことには思わずたじたじとなりながら、肩越しに相手をふり返ると、闇の中にもちらりと見えた顔が清太郎と少しも変らないことである。いや、変らないのは顔ばかりではない。五分刈りに刈った頭でも、紺飛白らしい着物でも、ほとんど清太郎とそっくりである。しかしおとといも喀血した患者の清太郎が出て来るはずはない。況やそんな真似をしたりするはずはない。 「姐さん、お金をおくれよう。」 その少年はやはり抱きついたまま、甘えるようにこう声をかけた。その声もまた不思議にも清太郎の声ではないかと思うくらいである。気丈なNさんは左の手にしっかり相手の手を抑えながら、「何です、失礼な。あたしはこの屋敷のものですから、そんなことをおしなさると、門番の爺やさんを呼びますよ」と言った。 けれども相手は不相変「お金をおくれよう」を繰り返している。Nさんはじりじり引き戻されながら、もう一度この少年をふり返った。今度もまた相手の目鼻立ちは確かに「はにかみや」の清太郎である。Nさんは急に無気味になり、抑えていた手を緩めずに出来るだけ大きい声を出した。 「爺やさん、来て下さい!」 相手はNさんの声と一しょに、抑えられていた手を振りもぎろうとした。同時にまたNさんも左の手を離した。それから相手がよろよろする間に一生懸命に走り出した。 Nさんは息を切らせながら、(後になって気がついて見ると、風呂敷に包んだ何斤かの氷をしっかり胸に当てていたそうである。)野田の家の玄関へ走りこんだ。家の中は勿論ひっそりしている。Nさんは茶の間へ顔を出しながら、夕刊をひろげていた女隠居にちょっと間の悪い思いをした。 「Nさん、あなた、どうなすった?」 女隠居はNさんを見ると、ほとんど詰るようにこう言った。それは何もけたたましい足音に驚いたためばかりではない。実際またNさんは笑ってはいても、体の震えるのは止まらなかったからである。 「いえ、今そこの坂へ来ると、いたずらをした人があったものですから、……」 「あなたに?」 「ええ、後からかじりついて、『姐さん、お金をおくれよう』って言って、……」 「ああ、そう言えばこの界隈には小堀とか云う不良少年があってね、……」 すると次の間から声をかけたのはやはり床についている雪さんである。しかもそれはNさんには勿論、女隠居にも意外だったらしい、妙に険のある言葉だった。 「お母様、少し静かにして頂戴。」 Nさんはこう云う雪さんの言葉に軽い反感――と云うよりもむしろ侮蔑を感じながら、その機会に茶の間を立って行った。が、清太郎に似た不良少年の顔は未だに目の前に残っている。いや、不良少年の顔ではない。ただどこか輪郭のぼやけた清太郎自身の顔である。 五分ばかりたった後、Nさんはまた濡れ縁をまわり、離れへ氷嚢を運んで行った。清太郎はそこにいないかも知れない、少くとも死んでいるのではないか?――そんな気もNさんにはしないではなかった。が、離れへ行って見ると、清太郎は薄暗い電燈の下に静かにひとり眠っている。顔もまた不相変透きとおるように白い。ちょうど庭に一ぱいに伸びた木賊の影の映っているように。 「氷嚢をお取り換え致しましょう。」 Nさんはこう言いかけながら、後ろが気になってならなかった。 × × × 僕はこの話の終った時、Nさんの顔を眺めたまま多少悪意のある言葉を出した。 「清太郎?――ですね。あなたはその人が好きだったんでしょう?」 「ええ、好きでございました。」 Nさんは僕の予想したよりも遥かにさっぱりと返事をした。 |
(一しょに大学を出た親しい友だちの一人に、ある夏の午後京浜電車の中で遇ったら、こんな話を聞かせられた。) この間、社の用でYへ行った時の話だ。向うで宴会を開いて、僕を招待してくれた事がある。何しろYの事だから、床の間には石版摺りの乃木大将の掛物がかかっていて、その前に造花の牡丹が生けてあると云う体裁だがね。夕方から雨がふったのと、人数も割に少かったのとで、思ったよりや感じがよかった。その上二階にも一組宴会があるらしかったが、これも幸いと土地がらに似ず騒がない。所が君、お酌人の中に―― 君も知っているだろう。僕らが昔よく飲みに行ったUの女中に、お徳って女がいた。鼻の低い、額のつまった、あすこ中での茶目だった奴さ。あいつが君、はいっているんだ。お座敷着で、お銚子を持って、ほかの朋輩なみに乙につんとすましてさ。始は僕も人ちがいかと思ったが、側へ来たのを見ると、お徳にちがいない。もの云う度に、顋をしゃくる癖も、昔の通りだ。――僕は実際無常を感じてしまったね。あれでも君、元は志村の岡惚れだったんじゃないか。 志村の大将、その時分は大真面目で、青木堂へ行っちゃペパミントの小さな罎を買って来て、「甘いから飲んでごらん。」などと、やったものさ。酒も甘かったろうが、志村も甘かったよ。 そのお徳が、今じゃこんな所で商売をしているんだ。シカゴにいる志村が聞いたら、どんな心もちがするだろう。そう思って、声をかけようとしたが、遠慮した。――お徳の事だ。前には日本橋に居りましたくらいな事は、云っていないものじゃない。 すると、向うから声をかけた。「ずいぶんしばらくだわねえ。私がUにいる時分にお眼にかかった切りなんだから。あなたはちっともお変りにならない。」なんて云う。――お徳の奴め、もう来た時から酔っていたんだ。 が、いくら酔っていても、久しぶりじゃあるし、志村の一件があるもんだから、大に話がもてたろう。すると君、ほかの連中が気を廻わすのを義理だと心得た顔色で、わいわい騒ぎ立てたんだ。何しろ主人役が音頭をとって、逐一白状に及ばない中は、席を立たせないと云うんだから、始末が悪い。そこで、僕は志村のペパミントの話をして、「これは私の親友に臂を食わせた女です。」――莫迦莫迦しいが、そう云った。主人役がもう年配でね。僕は始から、叔父さんにつれられて、お茶屋へ上ったと云う格だったんだ。 すると、その臂と云うんで、またどっと来たじゃないか。ほかの芸者まで一しょになって、お徳のやつをひやかしたんだ。 ところが、お徳こと福竜のやつが、承知しない。――福竜がよかったろう。八犬伝の竜の講釈の中に、「優楽自在なるを福竜と名づけたり」と云う所がある。それがこの福竜は、大に優楽不自在なんだから可笑しい。もっともこれは余計な話だがね。――その承知しない云い草が、また大に論理的なんだ。「志村さんが私にお惚れになったって、私の方でも惚れなければならないと云う義務はござんすまい。」さ。 それから、まだあるんだ。「それがそうでなかったら、私だって、とうの昔にもっと好い月日があったんです。」 それが、所謂片恋の悲しみなんだそうだ。そうしてその揚句に例でも挙げる気だったんだろう。お徳のやつめ、妙なのろけを始めたんだ。君に聞いて貰おうと思うのはそののろけ話さ。どうせのろけだから、面白い事はない。 あれは不思議だね。夢の話と色恋の話くらい、聞いていてつまらないものはない。 (そこで自分は、「それは当人以外に、面白さが通じないからだよ。」と云った。「じゃ小説に書くのにも、夢と色恋とはむずかしい訳だね。」「少くとも夢なんぞは感覚的なだけに、なおそうらしいね。小説の中に出て来る夢で、ほんとうの夢らしいのはほとんど一つもないくらいだ。」「だが、恋愛小説の傑作は沢山あるじゃないか。」「それだけまた、後世にのこらなかった愚作の数も、思いやられると云うものさ。」) そう話がわかっていれば、大に心づよい。どうせこれもその愚作中の愚作だよ。何しろお徳の口吻を真似ると、「まあ私の片恋って云うようなもの」なんだからね。精々そのつもりで、聞いてくれ給え。 お徳の惚れた男と云うのは、役者でね。あいつがまだ浅草田原町の親の家にいた時分に、公園で見初めたんだそうだ。こう云うと、君は宮戸座か常盤座の馬の足だと思うだろう。ところがそうじゃない。そもそも、日本人だと思うのが間違いなんだ。毛唐の役者でね。何でも半道だと云うんだから、笑わせる。 その癖、お徳はその男の名前も知らなければ、居所も知らない。それ所か、国籍さえわからないんだ。女房持か、独り者か――そんな事は勿論、尋くだけ、野暮さ。可笑しいだろう。いくら片恋だって、あんまり莫迦げている。僕たちが若竹へ通った時分だって、よしんば語り物は知らなかろうが、先方は日本人で、芸名昇菊くらいな事は心得ていたもんだ。――そう云って、僕がからかったら、お徳の奴、むきになって、「そりゃ私だって、知りたかったんです。だけど、わからないんだから、仕方がないじゃありませんか。何しろ幕の上で遇うだけなんですもの。」と云う。 幕の上では、妙だよ。幕の中でと云うなら、わかっているがね。そこでいろいろ聞いて見ると、その恋人なるものは、活動写真に映る西洋の曾我の家なんだそうだ。これには、僕も驚いたよ。成程幕の上でには、ちがいない。 ほかの連中は、悪い落だと思ったらしい。中には、「へん、いやにおひゃらかしやがる。」なんて云った人もある。船着だから、人気が荒いんだ。が、見たところ、どうもお徳が嘘をついているとも思われない。もっとも眼は大分とろんこだったがね。 「毎日行きたくっても、そうはお小遣いがつづかないでしょう。だから私、やっと一週に一ぺんずつ行って見たんです。」――これはいいが、その後が振っている。「一度なんか、阿母さんにねだってやっとやって貰うと、満員で横の隅の所にしか、はいれないんでしょう。そうすると、折角その人の顔が映っても、妙に平べったくしか見えないんでしょう。私、かなしくって、かなしくって。」――前掛を顔へあてて、泣いたって云うんだがね。そりゃ恋人の顔が、幕なりにぺちゃんこに見えちゃ、かなしかろうさ。これには、僕も同情したよ。 「何でも、十二三度その人がちがった役をするのを見たんです。顔の長い、痩せた、髯のある人でした。大抵黒い、あなたの着ていらっしゃるような服を着ていましたっけ。」――僕は、モオニングだったんだ。さっきで懲りているから、機先を制して、「似ていやしないか。」って云うと、すまして、「もっといい男」さ。「もっといい男」はきびしいじゃないか。 「何しろあなた、幕の上で遇うだけなんでしょう。向うが生身の人なら、語をかけるとか、眼で心意気を知らせるとか出来るんですが、そんな事をしたって、写真じゃね。」おまけに活動写真なんだ。肌身はなさずとも、行かなかった訳さ。「思い思われるって云いますがね。思われない人だって、思われるようにはしむけられるんでしょう。志村さんにしたって、私によく青いお酒を持って来ちゃくだすった。それが私のは、思われるようにしむける事も出来ないんです。ずいぶん因果じゃありませんか。」一々御尤もだ。こいつには、可笑しい中でも、つまされたよ。 「それから芸者になってからも、お客様をつれ出しちゃよく活動を見に行ったんですが、どうした訳か、ぱったりその人が写真に出てこなくなってしまったんです。いつ行って見ても、「名金」だの「ジゴマ」だのって、見たくも無いものばかりやっているじゃありませんか。しまいには私も、これはもう縁がないもんだとさっぱりあきらめてしまったんです。それがあなた……」 ほかの連中が相手にならないもんだから、お徳は僕一人をつかまえて、しゃべっているんだ。それも半分泣き声でさ。 「それがあなた、この土地へ来て始めて活動へ行った晩に、何年ぶりかでその人が写真に出て来たじゃありませんか。――どこか西洋の町なんでしょう。こう敷石があって、まん中に何だか梧桐みたいな木が立っているんです。両側はずっと西洋館でしてね。ただ、写真が古いせいか、一体に夕方みたいにうすぼんやり黄いろくって、その家や木がみんな妙にぶるぶるふるえていて――そりゃさびしい景色なんです。そこへ、小さな犬を一匹つれて、その人があなた煙草をふかしながら、出て来ました。やっぱり黒い服を着て、杖をついて、ちっとも私が子供だった時と変っちゃいません……」 ざっと十年ぶりで、恋人にめぐり遇ったんだ。向うは写真だから、変らなかろうが、こっちはお徳が福竜になっている。そう思えば、可哀そうだよ。 「そうして、その木の所で、ちょいと立止って、こっちを向いて、帽子をとりながら、笑うんです。それが私に挨拶をするように見えるじゃありませんか。名前を知ってりゃ呼びたかった……」 呼んで見給え。気ちがいだと思われる。いくらYだって、まだ活動写真に惚れた芸者はいなかろう。 「そうすると、向うから、小さな女異人が一人歩いて来て、その人にかじりつくんです。弁士の話じゃ、これがその人の情婦なんですとさ。年をとっている癖に、大きな鳥の羽根なんぞを帽子につけて、いやらしいったらないんでしょう。」 お徳は妬けたんだ。それも写真にじゃないか。 (ここまで話すと、電車が品川へ来た。自分は新橋で下りる体である。それを知っている友だちは、語り完らない事を虞れるように、時々眼を窓の外へ投げながら、やや慌しい口調で、話しつづけた。) それから、写真はいろいろな事があって、結局その男が巡査につかまる所でおしまいになるんだそうだ。何をしてつかまるんだか、お徳は詳しく話してくれたんだが、生憎今じゃ覚えていない。 「大ぜいよってたかって、その人を縛ってしまったんです。いいえ、その時はもうさっきの往来じゃありません。西洋の居酒屋か何かなんでしょう。お酒の罎がずうっとならんでいて、すみの方には大きな鸚鵡の籠が一つ吊下げてあるんです。それが夜の所だと見えて、どこもかしこも一面に青くなっていました。その青い中で――私はその人の泣きそうな顔をその青い中で見たんです。あなただって見れば、きっとかなしくなったわ。眼に涙をためて、口を半分ばかりあいて……」 そうしたら、呼笛が鳴って、写真が消えてしまったんだ。あとは白い幕ばかりさ。お徳の奴の文句が好い、――「みんな消えてしまったんです。消えて儚くなりにけりか。どうせ何でもそうしたもんね。」 これだけ聞くと、大に悟っているらしいが、お徳は泣き笑いをしながら、僕にいや味でも云うような調子で、こう云うんだ。あいつは悪くすると君、ヒステリイだぜ。 だが、ヒステリイにしても、いやに真剣な所があったっけ。事によると、写真に惚れたと云うのは作り話で、ほんとうは誰か我々の連中に片恋をした事があるのかも知れない。 (二人の乗っていた電車は、この時、薄暮の新橋停車場へ着いた。) |
秋風死ぬる夕べの 入日の映のひと時、 ものみな息をひそめて、 さびしさ深く流るる。 心のうるみ切なき ひと時、あはれ、仰ぐは 黄金の秋の雲をし まとへる丘の公孫樹。 光栄の色よ、など、さは 深くも黙し立てるや。 さながら、遠き昔の 聖の墓とばかりに。 ま白き鴿のひと群、 天の羽々矢と降りきて、 黄金の雲にいりぬる。―― あはれ何にかたぐへむ。 樹の下馬を曳く子は たはれに小さき足もて 幹をし踏みぬ。――あゝこれ はた、また、何ににるらむ。 ましろき鴿のひと群 羽ばたき飛びぬ。黄金の 雲の葉、あはれ、法恵の 雨とし散りぞこぼるる。 今、日ぞ落つれ、夜ぞ来れ。―― 真夜中時雨また来め。―― 公孫樹よ、明日の裸身、 我、はた、何に儔へむ。 |
◎本年四月十四日、北海道小樽で逢つたのが、野口君と予との最後の会合となつた。其時野口君は、明日小樽を引払つて札幌に行き、月の末頃には必ず帰京の途に就くとの事で、大分元気がよかつた。恰度予も同じ決心をしてゐた時だから、成るべくは函館で待合して、相携へて津軽海峡を渡らうと約束して別れた。不幸にして其約束は約束だけに止まり、予は同月の二十五日、一人函館を去つて海路から上京したのである。 ◎其野口君が札幌で客死したと、九月十九日の読売新聞で読んだ時、予の心は奈何であつたらう。知る人の訃音に接して悲まぬ人はない。辺土の秋に客死したとあつては猶更の事。若し夫野口君に至つては、予の最近の閲歴と密接な関係のあつた人だけに、予の悲みも亦深からざるを得ない。其日は、古日記などを繙いて色々と故人の上を忍びながら、黯然として黄昏に及んだ。 ◎野口君と予との交情は、敢て深かつたとは言へないかも知れぬ。初めて逢つたのが昨年の九月二十三日。今日(二十二日)で恰度満一ヶ年に過ぎぬのだ。然し又、文壇の中央から離れ、幾多の親しい人達と別れて、北海の山河に漂泊した一年有半のうちの、或一時期に於ける野口君の動静を、最もよく知つてゐるのは、予の外に無いかとも思ふ。されば、故人を知つてゐた人々にそれを伝へるのは、今日となつては強ち無用の事でもない。故人の口から最も親しき人の一人として聞いてゐた人見氏の言に応じて、予一個の追悼の情を尽す旁々、此悲しき思出を書綴ることにしたのは其為だ。 ◎予は昨年五月の初め、故山の花を後にして飄然北海の客となつた。同じ頃野口君が札幌の北鳴新聞に行かれた事を、函館で或雑誌を読んで知つたが、其頃は唯同君の二三の作物と名を記してゐただけの事。八月二十五日の夜が例の大火、予の仮寓は危いところで類焼の厄を免がれたものの、結果は同じ事で、其為に函館では喰へぬ事になつて、九月十三日に焼跡を見捨てて翌日札幌に着いた。 ◎札幌には新聞が三つ。第一は北海タイムス、第二は北門新報、第三は野口君の居られた北鳴新聞。発行部数は、タイムスは一万以上、北門は六千、北鳴は八九百(?)といふ噂であつたが、予は北門の校正子として住込んだのだ。当時野口君の新聞は休刊中であつた。(此新聞は其儘休刊が続いて、十二月になつて北海道新聞と改題して出たが、間もなく復休刊。今は出てるか怎うか知らぬ。) ◎予を北門に世話してくれたのは、同社の硬派記者小国露堂といふ予と同県の人、今は釧路新聞の編輯長をしてゐる。此人が予の入社した五日目に来て、「今度小樽に新らしい新聞が出来る。其方へ行く気は無いか。」と言ふ。よし行かうといふ事になつて、色々秘密相談が成立つた。其新聞には野口雨情君も行くのだと小国君が言ふ。「甚麽人だい。」と訊くと、「一二度逢つたが、至極穏和い丁寧な人だ。」と言ふ。予は然し、実のところ其言を信じなかつた。何故といふ事もないが、予は、新体詩を作る人と聞くと、怎やら屹度自分の虫の好かぬ人に違ひないといふ様な気がする。但し逢つてみると、大抵の場合予の予想が見ン事はづれる。野口君の際もそれで、同月二十三日の晩、北一条西十丁目幸栄館なる小国君の室で初めて会した時は、生来礼にならはぬ疎狂の予は少なからず狼狽した程であつた。気障も厭味もない、言語から挙動から、穏和いづくめ、丁寧づくめ、謙遜づくめ。デスと言はずにゴアンスと言つて、其度些と頭を下げるといつた風。風采は余り揚つてゐなかつた。イをエと発音し、ガ行の濁音を鼻にかけて言ふ訛が耳についた。小樽行の話が確定して、鮪の刺身をつつき乍ら俗謡の話などが出た。酒は猪口で二つ許り飲まれた様であつた。予は三つ飲んで赤くなる。小国君も下戸。モ一人野口君と同伴して来た某君、(此人は後日まで故人と或る密接な関係のあつた人だ。)病後だとか言つて矢張あまり飲まなかつた。此某君は野口君と総ての点に於て正反対な性格の人であるが、初め二人が室に入つて来た時、予は人違ひをして、「これが野口か。」と腹の中で失望して肩を聳かした事を記憶してゐる。十二時頃に伴立つて帰つたが、予は早速野口君を好い人だと思つて了つた。其後一度同君の宅を訪問した時は、小樽の新聞の主筆になるといふ某氏の事に就いて、或不平があつて非常に憤慨してゐた。「事によつたら断然小樽行を罷めるかも知れぬ。」と言ふ。予は腹の中で「其麽事はない。」と信じ乍ら、これは面白い人だと思つた。予は年が若いから、憤慨したり激語したりする人を好きなのだ。 ◎予と札幌との関係は僅か二週間で終を告げた。二十七日に予先づ小樽に入り、三十日に野口君も来て、十月一日は小樽日報の第一回編輯会議。此新聞は、企業家としては随分名の知れてゐる山県勇三郎氏が社主、其令弟で小樽にゐる、これも敏腕の聞え高き中村定三郎氏が社主を代表して、社長は時の道会議員なる老巧なる政客白石義郎氏(今年根室郡部から出て代議士となつた。)、編輯は主筆以下八名。初号は十五日に出す事、主筆が当分総編輯をやる事、其他巨細議決して、三面の受持は野口君と予と、モ一人外交専門の西村君と決つた。 ◎此会議が済んで、社主の招待で或洋食店に行く途中、時は夕方、名高い小樽の悪路を肩を並べて歩き乍ら、野口君と予とは主筆排斥の隠謀を企てたのだ。編輯の連中が初対面の挨拶をした許りの日、誰が甚麽人やらも知らぬのに、随分乱暴な話で、主筆氏の事も、野口君は以前から知つて居られたが、予に至つては初めて逢つて会議の際に多少議論しただけの事。若し何等かの不満があるとすれば、其主筆の眉が濃くて、予の大嫌ひな毛虫によく似てゐた位のもの。 ◎此隠謀は、野口君の北海道時代の唯一の波瀾であり、且つは予の同君に関する思出の最も重要な部分であるのだが、何分事が余り新らしく、関係者が皆東京小樽札幌の間に現存してゐるので、遺憾ながら詳しく書く事が出来ない。最初「彼奴何とかしようぢやありませんか。」といふ様な話で起つた此隠謀は、二三日の中に立派(?)な理由が三つも四つも出来た。其理由も書く事が出来ない。兎角して二人の密議が着々進んで、四日目あたりになると、編輯局に多数を制するだけの味方も得た。サテ其目的はといふと、我々二人の外にモ一人硬派の○田君と都合三頭政治で、一種の共和組織を編輯局に布かうといふ、頗る小供染みた考へなのであつたが、自白すると予自身は、それが我々の為、また社の為、好い事か悪い事かも別段考へなかつた。言はば、此隠謀は予の趣味で、意志でやつたのではない。野口君は少し違つてゐた様だ。 ◎小樽は、さらでだに人口増加率の莫迦に高い所へ持つて来て、函館災後の所謂「焼出され」が沢山入込んだ際だから、貸家などは皆無といふ有様。これには二人共少なからず困つたもので、野口君は其頃色内橋(?)の近所の或運送屋(?)に泊つてゐた。予は函館から予よりも先に来てゐた家族と共に、姉の家にゐたが、幸ひと花園町に二階二室貸すといふ家が見付つたので、一先其処に移つた。此を隠謀の参謀本部として、豚汁をつついては密議を凝らし、夜更けて雨でも降れば、よく二人で同じ蒲団に雑魚寝をしたもの。或夜も然うして寝てゐて、暁近くまで同君の経歴談を聞いた事があつた。そのうちには男爵事件といふ奇抜な話もあつたが、これは他の親友諸君が詳しく御存知の事と思ふから書かぬ。 ◎野口君は予より年長でもあり、世故にも長けてゐた。例の隠謀でも、予は間がな隙がな向不見の痛快な事許りやりたがる。野口君は何時でもそれを穏かに制した。また、予の現在有つてゐる新聞編輯に関する多少の知識も、野口君より得た事が土台になつてゐる。これは長く故人に徳としなければならぬ事だ。 ◎それかと云つて、野口君は決して |
一 沖縄の歴史をしらべた事のある人は、浦添という名称の沖縄の上古史から離す事の出来ない名称である事に気が付くであろう。むかし舜天や英祖や察度のような王者を出した浦添は果して如何なる所であったろう。 浦添の事をしらべるに参考となるべき史料は至って少い。しかし、たとい文献となって遺っていないでも、神の名とか地の名とかいうような固有名詞が伝わってさえいれば、その解釈によって研究の端緒は開けるのである。さて浦添という名称にどんな意味があるかとしらべてみたら、浦添という漢字はアテ字であって、もとはうらおそいとカナで書いたという事がわかった。浦添のようどれの碑文に、 うらおそいよりしよりにてりあがりめしよわちやことうらおそいのようどれは…… という文句がある。明の天啓年間に編纂した『オモロ双紙』にもうらおそいと書いてある。うらおそいは後に縮まってうらそいとなり、遂に浦添の二字であらわされるようになった。うらおそいはうら(浦)おそう(襲)という言葉の名詞形で、浦々を支配する所という意をもっている。(金石文には、浦襲とも見えている。これから推して熊襲も、くま即ち山地を襲う人民の意に解したら面白いと思う。)この言葉の活用している例をオモロに求めると、 きこゑきみがなしうらのかすおそう…… 尊い王がどの浦も支配するの意である。オモロにはこれに似た例が多い。 天ぎやしたおそてしよりもりふさよわせ…… 天下を支配して首里に君臨せよの意である。また、 きこゑきみがなし しまおそてちよわれ ゑぞこかよわぎやめ あぢおそいしよ世しりよわれ 尊き王よこの国を治めよ船の通わんかぎりわが王これを支配せよという意である。また「だしまおそうあぢおそい」(この島を治むる君)、「だきよりおそうあぢおそい」(この国を領する君)というようなこともある。うらおそう、しまおそう、くにおそう、天ぎや下おそう、国しる、島しる、世しる、いずれも国を治めるという意である、オモロには形容詞になって、「くにおそいぎみ」というように用いられた例もある。国を治むる人という意で、くにおそい、くにもり、くにしり、のように名詞法になった例も多い。按司添の添はおそいで、治むる人という意味をもっている。ヤラザモリ城の碑文に、しまおそい大さと、しもしましり、という地名のあるのも注意すべきである。これらの例によって浦添の語原は明らかになったが、今一つ他の例を挙げて、一層これを確めよう。百九十三年前旧琉球王国政府で編纂した『混効験集』(内裏言葉を集めたもの)に、 もんだすい 百浦添御本殿 ということがある。「もんだすい」は俗にいわゆる唐破風で、旧琉球王国の内閣である。「もんだすい」が「もゝうらおそい」の転訛したものであることは、「みおやだいりのおもろお双紙」にある昔神代に百浦添御普請御祝いの時の頌歌を見てもわかる。 しより(首里に)おわる(在す)てだこが(王が) もゝうらおそい(百浦添御本殿を)げらいて(修築して) たまばしり(玉の戸)たまやりど(玉の戸)みもん(美しいかな) ぐすく(城に)おわる(在す)てだこが(王が) 〔十三―一〇〕 ももうらおそいは三十一年毎に建てなおす例になっていたが(?)、その落成式の時にはいつもこのオモロを歌ったのである。また、 しよりおわるてだこ みかなしのてだこ もゝうらおそいちよわちへ 世そうもり〔正しくは世そわりに〕ちよわちへ 〔五―三九〕 というオモロもある。吾らが敬慕する首里の王が百浦襲(正殿)に在してというほどの意である。「世そうもり」は国を襲う所で、「もゝうらおそい」の対語である。「もゝうらおそい」は百浦即ち数知れぬ浦々を支配する局の意で、政令の出づる所という事になる。おもろには、くにつぼ(国局)ともいってある。これで浦添の意味は一入明白になったが、なお浦添が果してその名称の意味にふさわしい所であったかどうかを吟味して、いよいよこの解釈の誤っていない事を証明してみよう。(神歌には無為にして治める所の義に「あだおそい」と「からおそい」という語もある。) 二 浦添の名は文治三年、為朝の子といわれる、尊敦が浦添から起って琉球の王位に登った時に著しくなった。この尊敦(舜天と尊敦とは音の似た所がある)は十五歳にして浦添按司に推された位であったから、当時浦添に於てよほど人望があったものと思われる。而して三代七十三年の間その朝廷で勢力のあったものは浦添の人であった。中に就いて名高いのは、 ゑぞのいくさもい 月のかずあすびたち ともゝとわかてだはやせ いぢへきいくさもい 夏はしげちもる 冬は御酒もる 〔十五―一八〕 と歌われた(このオモロの新解釈については『沖縄考』五三頁―五四頁を見よ)英祖のイクサモイであった。彼れはヱゾの城主の嫡子で七年の間、舜天の孫義本王の摂政をつとめて、遂にその譲を受けたというように伝えられている。彼れがいたという城は伊祖城といって、今もなお残っているが、浦添城を距ること十町ばかりの山脈つづきで、而も彼と此とがその両端をなしている。規模は狭隘ではあるが、要害の点に於ては浦添城に勝っていたのであろう。「うらおそいのおもろ双紙」にいわゆるヱゾの石城ヱゾの金城とはこの城のことである。 ゑぞゑぞのいしぐすく あまみきよがたくだるぐすく ゑぞゑぞのかなぐすく 〔十五―一五〕 |
一 『本当にどうかして貰はないぢや困るよ、明日は是非神田の方に出掛けなきやならないんだからね』 母親はさう云つて谷の生返事に、頻りに念を押してゐた。と云つて、彼女は決して、谷をあてにして念を押してゐるのではないと云ふ事は、次の間で聞いてゐる逸子にはよく解つてゐた。そして、また苦しい金策をしなければならないのだなと思ふと何んとも云へない嫌やな気持に圧し伏せられるのだつた。けれど、嫌やだと云つて素知らぬ顔に済ませる訳けにはどうしてもゆかなかつた。どうにか当てをさがさなければならないのであつた。けれど、逸子にしても、此の毎月々々の極まつた入用だけの金にもこと欠いて苦しみ通してゐる際に、たとへ僅か五円ばかりの金と云つても、屹度出来ると云ふあては、何時も馳け込む龍一の処をおいて他にはまるでなかつた。そして本当の処は、始終の事なので龍一の処にも、さう〳〵は行きかねるのだつたけれど、是非にと云ふ事になれば、どうと云つて、他に仕方はないので、矢張り其処にでも行くより他はなかつた。 『何にも明日に限つた事ぢやないんだらう? 神田なら――』 谷は何時ものやうに気のりのしない調子で相手になつてゐた。 『そんな呑気な事云つちや困りますよ。もう此の間から行かなきやならない筈のが、のび〳〵になつてるんぢやないか。明日はどうしても行く筈にしてあるんですよ。』 『行く筈にしてゐたつて、お母さんだけ其のつもりでも、俺の方ぢやそんな筈は知らないんだからなあ。金がないと行けないのかい。』 『あたり前ですよ、そんな事。』 『俺だつて別にあてがある訳ぢやないんだから、屹度出来るかどうか分らないよ。』 『それぢや困るぢやないか。偶にたのむんだもの、何んとかしてくれたつてよささうなもんだね、先刻からあんなに頼んでるぢやないか?』 『出来ればどうかするよ。だけど何もさう神田に行くのに大騒ぎする事はないぢやないか、大した用があるんぢやなし、遊びに行くのに――』 『お前はそんな事を考へてるから、いゝ加減な返事ばかりしてゐるんだね。誰がわざ〳〵肩身のせまい思ひをして遊びになんか出かけるものか。お母さんはいくらおちぶれても、長いつき合ひの人達に義理を欠くやうなことをするのは御免ですよ、第一お前の恥になるぢやないか。』 『俺は恥にならうと何しやうとちつともかまはないよ。お母さんももういゝ加減にあんな下だらない交際は止めて仕舞つちやどうだい?』 『余計なお世話だよ、そんな事までお前の指図を受けてたまるもんかね。それよりは少し自分の事でも考へて見るがいゝや。何だい本当に、親に散々苦労をさして、一人前になりながら、たつた一人の親を楽にさす事も知らないで、大きな顔をおしでないよ。親を苦しめる事ばかりが能ぢやないよ、何時までも〳〵ブラ〳〵してゐて、世間の手前も恥かしい。私しやお前のお蔭で何処に行つても、肩身を狭めなきやあならない。全体どんな了見でゐるのか知らないが、親の事なんかどうなつてもいゝのかい。お母さんが行く先々でお前の事を何んつて云つてるか知つてるかい。その内にやあ少しはどうにかなる事と思ふから口惜しい思ひをしながらも耐へてゐるものゝ――何時までも呑気にしてゐられたんぢやあ、私の立つ瀬はありやしない。よく考へて御覧、下だらない奴から何んとか彼とか云はれて、お前だつてそれで済ましちやゐられまい。私しやそんな意気地なしには生みつけやしないよ。』 『お母さんは生みつけない気でも、俺はかう云ふ人間なんだよ、下だらない奴の云ふ事なら、何も一々気にする必要はないぢやないか』 『下だらない奴に、云はれないでも済む事を、いろ〳〵云はれるから口惜しいんぢやないか。お前はかまはないだらうけれど、お母さんは嫌やだよ』 『お母さんも随分わからないなあ、下だらない、何にも知らない奴に云はれなくてもいゝ事を云はれるのだから、何云はれたつて構はないぢやないか。何が口惜しいんだい? 相手にならなきあいゝぢやないか、済ましてお出よ。だから下だらない奴とのつき合ひなんかよせつてんだよ』 『お前さんと私とは違ふつて云つてるぢやないか。お前さんはいくらでも済ましてお出よ、私しやいやだよ』 『ぢや勝手にするさ』 『あゝするとも。だからどうとももつと私の肩身の広いやうにしてお呉れ。』 『俺がそんな事知るもんか』 『知らないとは云はさないよ。どうしてそんな口がきけるんだい! お母さんの肩身を狭くしたのはお前ぢやないか』 『冗談云つちや困るよ。お母さんさへ馬鹿な真似をしなきやあ、何一つ不自由しないでも済むんぢやないか。俺があたり前なら勉強ざかりを十年も棒にふつたんだつてお母さんが無茶をやつたせいぢやないか! お母さんはもう若い時から散々勝手なまねをして来たんぢやないか。俺だつて偶にや自由な体にでもならなくつちややり切れるもんか。世間の奴等が何を云やがつたつて、俺は嫌やな奴に頭を下げて少しばかりの金を貰ふよりは、少々食ふに困つたつて、かうやつてる方がいゝんだからそのつもりでゐてくれ。楽をしやうと思ふなら俺の事なんかあてにしないでゐて貰ひたい』 『まあ本当に呆れた了見だね、お前はそれで済ます気でも、世間がそれぢや通しませんよ。俺をあてにするなつて、それぢや誰をあてにすればいゝんだい? 私ばかりぢやないよ。お前には子供もゐるんですよ、子供はどうして育つんですよ、親や子供の面倒も見られないでどうするつもりなんだい。金もないくせに一生懐手で通すなんて事が出来ると思ふのかねえ、そんな了見ぢや、これから先きだつてどんなひどい目に遇はされるか知れたもんぢやない。本当に、何んて云ひ草だい! 年老つた私がこれから先き幾年生延びると思ふの。明日にもどうか分らないものを捕へて、俺をあてにするななんてよく云へた。それぢやまるで死んで仕舞へつて云ふやうなもんぢやないか。死ねなら私しや何時でも死んで見せるけれど、今まで何んの為めに苦労して来たと思ふのだい! まあそんな事を云つていゝものかどうかようく考へて見るがいゝ。』 もう相手にはならないと云ふやうに谷は黙つて返事をしなかつた。勢こんだ母親の言葉もだん〳〵に愚痴つぽい調子におちて行つて、何時か涙をもつた震え声になつて聞えなくなつた。 逸子は黙つて聞いてゐた。母親の愚痴は、直ぐ前に座つてゐる谷よりは、間に隔てゝ聞いてゐる逸子の胸へ却つてピシ〳〵と当つた。かうした機会の度毎に繰り返される愚痴は、何時でも極つてゐた。けれど、同じ事だけに逸子はそれを聞くのが耐らなく嫌やだつた。それに、家中の者が冷たい気持で睨み合ふのも、大抵いつもそれがもとになるので、逸子はどうかして、母親の気持に、さう云ふ愚痴を持たさないやうにしたいと何時も努めてゐた。それには、なるべく母親に何かにつけて不満を感じさせないやうにしなければならなかつた。その不満も大抵は僅かばかりの小遣で償ふことが出来るのであつた。けれどそんな容易な事でも現在の逸子にとつては、なか〳〵苦しい事だつた。 『あゝ、またどうしても行かなければならないのか』 逸子は母親の愚痴を聞く辛らさも随分たまらない事だつたけれど、行きさへすれば此方で黙つてゐても、それと察して出してくれる金をあてに、始終龍一の処に行くのも苦しくてたまらないのであつた。 二 谷が失職してからもう二年になる。その間だん〳〵に苦しくなつて来る家の中の重荷は皆んな、自然に逸子にかゝつて来たのだつた。 始めの内は、それでも、他の家の老人にくらべてはずつと物わかりのいゝ母親は、別に大してそれを気にするでもなかつたけれど、窮し方がひどくなつて来ると、流石に耐へかねては、折々苦がい事を云ひ出すやうになつて来た。逸子はそれを聞く度びに、何とも云へない辛らさを感じながらも、それが無理とは決して思はなかつた。けれどもまた、人並以上にエゴイステイツクな谷が廿歳にも、なるかならないか位の時から、彼是十年もの間虐げられ続けて来た職業から離れて新らしく、何か自分の思ふ道に進んでゆかうとしてゐるのを見ると、逸子は一概にたゞ自分達が困るからと云つて就職を乞ひかねては、何とかして彼の仕事の方向が、彼自身で極まるまでと思つては、無理を続けて来たのだつた。 と云つて、逸子にも一家の経済を持ちこたへる程のいゝ仕事がある訳では決してなかつた。彼女は、殆んど誰にも明かされぬ家の内情を明かして、龍一から、困るたびに可なりな補助を受けてゐた。けれど逸子にしても、何時までもいゝ気になつて、彼の補助を仰ぐのも、あまりに面目ない話だつた。彼女は、どうかして龍一の補助を受けないやうにしたいと思つた。しかも龍一の親切な心遣りも逸子の、逝つた旧師の恩恵が手伝つてゐる事を思ふと、つまらない、その場のがれの埋め合はせに利用する事が、一層苦しいのだつた。 けれど、たまに少しばかり彼女の書くものゝ稿料と云つた処で何のたしにもならなかつた。それでも、例へわづかでも、金になると知つては、家の者は一切無頓着に、そればかりをあてにしてゐた。逸子にとつては、それがまた、どの位恐ろしい事だか分らなかつた。自分の書いた、未熟な、幼稚なもの――それを金に代へると云ふ事は、考へる程空おそろしい気がした。どんな事があつても、そんな事はしたくない。さう思ひながら家の者がそれを当てにしてゐる、そして、自分も、自分で金を得やうとすれば、それしか仕方がないのだと思ふと、逸子は、どうする事も出来ないやうな悲しみを感ずるのだつた。そしては、何とかの方法で金のとれるやうな事をしたい、タイプライタアでも教はらうか、雑誌記者にでもならうか、等と思つて見る。けれどそれはまた、それ〴〵に今の逸子には見のがしのならない不都合が伴つてゐるのだつた。 時々は、逸子も困り切つて、どうする事も出来ないやうな事があつた。 『もう、此度ばかりは私にもどうも出来ませんから、あなたが何とかして下さいな、何とか都合して貰へないと、本当に困るんですよ』 『うむ』 さう云つた限り、彼は何時でも落ちつき払つてゐた。 『どうするつもりなんです。』 だん〳〵苦しくなつて催促すると 『どうつて仕様がないんだもの。』 彼はさう云つてすましてゐた。此度こそ此度こそと思ひながら、彼の呑気さには負けて、何時でも、母親と逸子として、何とか彼とか無理を続けるのだつた。 それでも、逸子は、むきになつて彼に就職を強ひる事は出来なかつた。彼は二度ともとの仕事に返る気はなかつたし、逸子もその仕事が彼を一番苦しめるいろ〳〵な束縛や情実の多い事を考へると、すゝめる気にはなれなかつた。と云つて、彼にはいくらかの語学の素養があるだけで、他に役立つやうな能はまるでなかつた。その上、他人と一緒に仕事をする等と云ふ事も出来ないやうな多くの素質を持つてゐた。偶々どうかして手にはいつた翻訳の仕事さへ、興味のない内容のものだと、直ぐに苦痛を訴へるのだつた。と云つて、彼の面白がつてやるやうなものはまるで金にはならない。大抵の事には同情して出来る丈け無理な働き方はさせないで済ましたいと思つてゐる逸子にも、どうかすると、彼の態度が横着に見える事さへあつた。殊に逸子の、苦しい無理を察しては、慰さめ顔に染々と話しかけたりする時のやさしい、悄れた母親を見ると逸子は、谷がさうしてゐる為めに、母親としては、自分にも、また他人へも、しないでも済む気がねも多かつたりするだらうと思ふと、谷に対する自分の同情や、かばひ立てが、浅薄な自身に対する、また二人の愛に対するみえだけで、却つてそれが、他の者でも、また、自身をも苦しめる間違つた態度ではないかとさへ疑ぐり度くなるのだつた。それには、もう二年間も、さうして彼の様子を見てゐても、彼自身で別に、どうと云つて深く将来のことを考へてゐる様子も見えないし、現在の皆んなの苦しみにも左程動かされてもゐないらしい様子で、逸子にさへも彼がどう云ふ気でゐるのだらうと怪しまれて来るのだつた。けれどまた彼が、自分から斯うと極めるまでは、他からいくら強ひた処で無駄だと云ふ事もよく解つてゐた、結局、 『自分がどんなに黙つてゐたからとて、どの位の無理をしてゐるか位は、彼にだつて解らない筈はないのだから、何時まで、彼のやうでもゐまい。彼の気持が、ひとりでに動くまでは仕方がない。』 さう思ひ返しては黙つてゐた。しかし、此の頃では何んだか、自分の体さへもてあつかつてゐるやうに見え始めた彼が、果してどの程度まで、自分の事を支へてゐるかは矢張り、出来る丈け立ち入るまいとしてゐる彼女も気になつた。とう〳〵機会を捉へて聞いた。 『ねえ、あなたはこの先き、何を一体やつて行く気なのです。何かしやうと思ふ事は極まつてゐるのですか。』 『さあ、その何をしやうかと云ふ事が、本当にまだ極まらないんだ。為やうとすれば何だつて新しく始めから出直すんだからなあ、何がいゝんだか解らないんだよ。俺にや、とても文学は望みがないし、音楽をやるかな、それにしても、なか〳〵飯にはならないからな。本当を云へば俺は尺八でも吹いて、ひとりで、放浪したいんだよ。何しろ俺はそんな事を考へる大切な時代には、食の為めに、一生懸命だつたんだからなあ、今になつて考へると馬鹿々々しくて仕方がない。まあ、もう少し考へさしてくれ』 さう云はれると逸子は取りつき端もない心細さを感じるのだつた。彼も、自分もまだ一人前の人間ぢやない、自分達の歩く道さへ極まつてはゐないのだ。満足にたべて行くことさへ出来ないのだ。それだのに、子供を連れて、年老つた母親にすがられて、どう彷徨しなければならないのだらう? これから先きまだ、どんなに母親を苦しめ、自分達も苦しまなければならない事か? 考へつめてゆくと逸子の眼にはその将来の惨めさに対する涙がしみ出すのだつた。 |
この手紙は印度のダアジリンのラアマ・チャブズン氏へ出す手紙の中に封入し、氏から日本へ送って貰うはずである。無事に君の手へ渡るかどうか、多少の心配もない訣ではない。しかし万一渡らなかったにしろ、君は格別僕の手紙を予想しているとも思われないからその点だけは甚だ安心している。が、もしこの手紙を受け取ったとすれば、君は必ず僕の運命に一驚を喫せずにはいられないであろう。第一に僕はチベットに住んでいる。第二に僕は支那人になっている。第三に僕は三人の夫と一人の妻を共有している。 この前君へ手紙を出したのはダアジリンに住んでいた頃である。僕はもうあの頃から支那人にだけはなりすましていた。元来天下に国籍くらい、面倒臭いお荷物はない。ただ支那と云う国籍だけはほとんど有無を問われないだけに、頗る好都合に出来上っている。君はまだ高等学校にいた時、僕に「さまよえる猶太人」と云う渾名をつけたのを覚えているであろう。実際僕は君のいった通り、「さまよえる猶太人」に生れついたらしい。が、このチベットのラッサだけは甚だ僕の気に入っている。というのは何も風景だの、気候だのに愛着のある訣ではない。実は怠惰を悪徳としない美風を徳としているのである。 博学なる君はパンデン・アアジシャのラッサに与えた名を知っているであろう。しかしラッサは必ずしも食糞餓鬼の都ではない。町はむしろ東京よりも住み心の好いくらいである。ただラッサの市民の怠惰は天国の壮観といわなければならぬ。きょうも妻は不相変麦藁の散らばった門口にじっと膝をかかえたまま静かに午睡を貪っている。これは僕の家ばかりではない。どの家の門口にも二三人ずつは必ずまた誰か居睡りをしている。こういう平和に満ちた景色は世界のどこにも見られないであろう。しかも彼等の頭の上には、――ラマ教の寺院の塔の上にはかすかに蒼ざめた太陽が一つ、ラッサを取り巻いた峯々の雪をぼんやりかがやかせているのである。 僕は少くとも数年はラッサに住もうと思っている。それには怠惰の美風のほかにも、多少は妻の容色に心を惹かれているのかも知れない。妻は名はダアワといい、近隣でも美人と評されている。背は人並みよりは高いくらいであろう。顔はダアワという名前の通り、(ダアワは月の意味である。)垢の下にも色の白い、始終糸のように目を細めた、妙にもの優しい女である。夫の僕とも四人あることは前にもちょっと書いて置いた。第一の夫は行商人、第二の夫は歩兵の伍長、第三の夫はラマ教の仏画師、第四の夫は僕である。僕もまたこの頃は無職業ではない。とにかく器用を看板とした一かどの理髪師になり了せている。 謹厳なる君は僕のように、一妻多夫に甘んずるものを軽蔑せずにはいられないであろう。が、僕にいわせれば、あらゆる結婚の形式はただ便宜に拠ったものである。一夫一妻の基督教徒は必ずしも異教徒たる僕等よりも道徳の高い人間ではない。のみならず事実上の一妻多夫は事実上の一夫多妻と共に、いかなる国にもあるはずである。実際また一夫一妻はチベットにも全然ない訣ではない。ただルクソオ・ミンズの名のもとに(ルクソオ・ミンズは破格の意味である。)軽蔑されているだけである。ちょうど僕等の一妻多夫も文明国の軽蔑を買っているように。 僕は三人の夫と共に、一人の妻を共有することに少しも不便を感じていない。他の三人もまた同様であろう。妻はこの四人の夫をいずれも過不足なしに愛している。僕はまだ日本にいた時、やはり三人の檀那と共に、一人の芸者を共有したことがあった。その芸者に比べれば、ダアワは何という女菩薩であろう。現に仏画師はダアワのことを蓮華夫人と渾名している。実際川ばたの枝垂れ柳の下に乳のみ児を抱いている妻の姿は円光を負っているといわなければならぬ。子供はもう六歳をかしらに、乳のみ児とも三人出来ている。勿論誰はどの夫を父にするなどということはない。第一の夫はお父さんと呼ばれ、僕等三人は同じように皆叔父さんと呼ばれている。 しかしダアワも女である。まだ一度も過ちを犯さなかったという訣ではない。もう今では二年ばかり前、珊瑚珠などを売る商人の手代と僕等を欺いていたこともある。それを発見した第一の夫はダアワの耳へはいらないように僕等に善後策を相談した。すると一番憤ったのは第二の夫の伍長である。彼は直ちに二人の鼻を削ぎ落してしまえと主張し出した。温厚なる君はこの言葉の残酷を咎めるのに違いない。が、鼻を削ぎ落すのはチベットの私刑の一つである。(たとえば文明国の新聞攻撃のように。)第三の夫の仏画師は、ただいかにも当惑したように涙を流しているばかりだった。僕はその時三人の夫に手代の鼻を削ぎ落した後、ダアワの処置は悔恨の情のいかんに任せるという提議をした。勿論誰もダアワの鼻を削ぎ落してしまいたいと思うものはない。第一の夫の行商人はたちまち僕の説に賛成した。仏画師は不幸なる手代の鼻にも多少の憐憫を感じていたらしい。しかし伍長を怒らせないためにやはり僕に同意を表した。伍長も――伍長はしばらく考えた揚げ句、太い息を一つすると「子供のためもあるものだから」と、しぶしぶ僕等に従うことにした。 僕等四人はその翌日、容易に手代を縛り上げた。それから伍長は僕等の代理に、僕の剃刀を受け取るなり、無造作に彼の鼻を削ぎ落した。手代は勿論悪態をついたり、伍長の手へ噛みついたり、悲鳴を挙げたりしたのに違いない。しかし鼻を削ぎ落した後、血止めの薬をつけてやった行商人や僕などには泣いて感謝したことも事実である。 賢明なる君はその後のこともおのずから推察出来るであろう。ダアワは爾来貞淑に僕等四人を愛している。僕等も、――それは言わないでも好い。現にきのうは伍長さえしみじみと僕にこう言っていた。――「今になって考えて見ると、ダアワの鼻を削ぎ落さなかったのは実際不幸中の幸福だったね。」 ちょうど今午睡から覚めたダアワは僕を散歩につれ出そうとしている。では万里の海彼にいる君の幸福を祈ると共に、一まずこの手紙も終ることにしよう。ラッサは今家々の庭に桃の花のまっ盛りである。きょうは幸い埃風も吹かない。僕等はこれから監獄の前へ、従兄妹同志結婚した不倫の男女の曝しものを見物に出かけるつもりである。…… |
人聲の耳にし入らば、このゆふべ、 涙あふれむ、―― もの言ふなかれ。(哀果) 「妻よ、子よ、また我が老いたる母よ、どうか物を言はないで呉れ、成るべく俺の方を見ないやうにして呉れ、俺はお前達に對して怒つてるのぢやない、いや、誰に對しても怒つてなぞゐない。だが今は、何とか言葉でもかけられると、直ぐもうそれを切掛けに泣き出しさうな氣持なのだ。さうでなければ、また何日かのやうに、何の事もないのに酷く邪慳な事を爲出して、お前達を泣かせなくてはならんやうになりさうなのだ。どうか默つて俺には構はずにゐて呉れ、一寸の間――この食事を濟まして俺が書齋に逃げ込んでしまふまでの間で可いから。」 かう言つたやうな心を抱きながら、無言で夕の食事をしたゝめてゐる男がある。年は二十七八であらう。濃い眉を集め、さらでだに血色のよくない顏を痛々しい許り暗くして、人の顏を見る事を何よりも恐れてゐるやうな容子を見ると、神經が研ぎすました西洋剃刀の刄のやうに鋭くなつてゐて、皿と皿のカチリと觸れる音でさへ、電光のやうに全身に響くらしい。 書を閉ぢて 秋の風を聽く、 カアテンの埃汚れのひどくなれるかな。 |
自分も作家の一人である場合、他人の作を讀んで滿足の出來ないことが、却つて一種の滿足である事がある。又時として、人が一生懸命やつた仕事にその人と同じ位の興味を打込むことの出來ないのを、その人の爲とも自分の爲ともなく淋しく思ふ事もある――人と人との間の超え難き隔たりに就いての悲しみと言はうか、或は又人間の努力の空しさに對する豫感とでも言はうか。 吉井勇君の歌集『酒ほがひ』を贈られて私は第二の場合の感じを經驗した。著者と私とは一時隨分接近した交際をしてゐた。それが何の事もなく疎くなり、往來をしなくなつて既に一年半になる。今此集を讀んで見て、其間に二人が、彼は彼の路を、我は我の路を別々に歩いてゐた事の餘りに明瞭なのに驚く。 然し夫は私一個の一時の感じである。吉井君の歌には既に廣く認められてゐる如く、吉井勇といふ一人の人間に依つてのみ歌はるべきであつた歌といふ風の歌が多い。他の追隨を許さない。而して歌の能事は其處に盡きる。此意味に於て『酒ほがひ』一卷は明治の歌壇に於ける他の何人の作にも劣る事のない貢獻であると思ふ。フリツ・ルンプに寄せた歌の中から氣に合つた二三首を拔く。 露臺の欄にもたれてもの思ふうたびとの眼のやわらかさかな あはれにも宴あらけてめづらしき異國の酒の香のみ殘れる ゆふぐれの河岸にただずみ水を見る背廣の人よ何を思へる 諸聲の流行の小唄身にぞ染む船の汽笛の玻璃に鳴る時 いまも汝は廣重の繪をながめつゝ隅田川をば戀しとおもふや |
『樹木と果實』は赤色の表紙に黒き文字を以て題號を印刷する雜誌にして主に土岐哀果、石川啄木の二人之を編輯す。雜誌は其種類より言へば正に瀟洒たる一文學雜誌なれども、二人の興味は寧ろ所謂文壇の事に關らずして汎く日常社會現象に向ひ澎湃たる國民の内部的活動に注げり。雜誌の立つ處自ら現時の諸文學的流派の外にあらざる可らず。雜誌の將來に主張する所亦自ら然らむ。二人は自ら文學者を以て任ぜざるの誇を以て此雜誌を世の文學者及び文學者ならざる人々に提供す。 歌の投稿を募る。初號分締切二月十日限り。用紙は半紙判二つ折大とし歌數制限なし。選拔は哀果啄木二人の合議に據る。 編輯所は便宜上東京芝區濱松町一の十五土岐方及び發行所内の二箇所に置き投稿、書籍雜誌の寄贈を受く。 定價一部金十八錢郵税二錢△半年分前金税共一圓十錢△一年分同二圓十錢 廣告料 菊判一頁金十五圓 半頁金八圓 (明44・2・1「創作」第二卷第二號) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 前金購讀及び廣告申込は必ず左記發行所宛の事又爲替劵に豫め受取人を指定する時は發行所同番地石川一とせられたし。郵劵代用は堅く謝絶す。 |
緒言 今般文部省にて編纂せられたる『国定小学修身書』を一読するに、その中に迷信の課題ありて、懇切に迷信に関する注意を与えられしも、その文簡短にして、小学児童の了解し難きところなきにあらず。よって余は『修身書』にもとづき、その中に指示せられたる各項を敷衍詳解して、小学および家庭における児童をして、一読たちまち各種の妖怪を解し、迷信を悟らしむるの目的をもって、本書を講述したり。もしその参考には、『妖怪早わかり』『妖怪百談』『妖怪学講義』『妖怪学雑誌』『妖怪叢書』等を見るべし。 明治三十七年七月講述者誌 迷信解 第一段 緒論 『国定小学修身書』を案ずるに、尋常小学第四年級用第十五課に「迷信を避けよ」との一課あり、また、高等小学第二年級用第六課に「迷信」の一課ありて、その課の目的は迷信の避くべきことを知らしむるにありと書いてある。されば、学校における児童はいうに及ばず、家庭においてもよくこの心得を守りて、児童に迷信の信ずるに足らぬことをよく教え込んでおかねばならぬ。よって、余は多年このことを研究したりし廉をもって、『修身書』に示されたる迷信の箇条を詳細に解釈し、多くの人に分かりやすきように説き明かしておきたいと思う。 尋常の『修身書』に出ておる、武士が瓢箪を切りたる話は、『珍奇物語』と題する書中に出ておる。また、祈祷者が神酒徳利に鰍をいれたる話は、『閑際筆記』に見えておる。多分その当時、民間にて評判されし出来事であろう。また、高等の『修身書』に出でたる徳川家康が西方に向かって出陣せし話は、『草茅危言』に書いてある。藤井懶斎が凶宅に住せし話は『先哲叢談』にあるも、その源は『閑際筆記』より引用したるものである。いずれも迷信を人に諭すに、最も分かりやすく、かつ興味ある話である。 尋常の『修身書』の注意のもとに、「迷信は地方によりて種々雑多にて、四国地方の犬神のごとき、出雲地方の人狐のごとき、信濃地方のオサキのごときは、特にその著しきものなり」とあるが、実にそのとおり、地方の異なるに従い、おのおの特殊の妖怪を持っておる。しかして、その弊害は最もはなはだしい。まず、四国の名物ともいうべきは犬神にして、出雲の名物は人狐であるが、その名は異なれども、その実は同じようなものじゃ。この人狐のことを、あるいは狐持ちとも申す。また、芸州辺りにてトウビョウというものがある。あるいはこれは蛇持ちともいう。石見にては土瓶とも申すということじゃ。備前、備後にては、猫神、猿神と名づくるものがあるそうだ。これらはみな類似のものに違いない。民間に伝われる書物に『人狐弁惑談』と申すものがある。その中には、「雲州にて人狐のことを、あるいは山ミサキ、藪イタチまたは小イタチと呼ぶものあり。九州には河太郎というものあり。四国には猿神というものあり。備前には犬神というものあり。また備前、備中には日御崎というものあり。備中、備後にトウビョウというものあり。いずれも人について人を悩ますことをいえり。その人をなやますというところを考うるに、その名異なりといえども、その実は一なり。人を悩ますといえども、いずれもその形見えざれば、人狐といえば人狐なり、河太郎といえば河太郎なり、猿神といえば猿神なり。犬神、日御崎、トウビョウもみなしかり」と説いてあるが、これみな、ある一種の精神病に与えたる名称に相違ない。信州、上州辺りの管狐、オサキもこれと同じことじゃ。『夜譚随録』と申す書物には、「管狐は駿州、遠州、三州の北部に多く、関東にては上野、下野に最も多し。上野の尾崎村のごときは、一村中この狐をかわざる家なし。ゆえに尾崎狐ともいう。また武州にては大崎という」と記してある。そのくわしきことは後に述べようと思う。 また、尋常の『修身書』の注意のもとに、左の八項を掲げてこれを諭すべしと書いてある。 (一)狐狸などの人をたぶらかし、または人につくということのなきこと。 (二)天狗というもののなきこと。 (三)祟ということのなきこと。 (四)怪しげなる加持祈祷をなすものを信ぜぬこと。 (五)まじない、神水等の効の信頼すべからざること。 (六)卜筮、御鬮、人相、家相、鬼門、方位、九星、墨色等を信ぜぬこと。 (七)縁起、日がら等にかかわることのあしきこと。 (八)その他、すべてこれらに類するものを信ぜぬこと。 つぎに高等の方には、本文中に、 世には種々の迷信あり、幽霊ありといい、天狗ありといい、狐狸の人をたぶらかし、または人につくことありというがごとき、いずれも信ずるに足らず。また、怪しげなる加持祈祷をなし、卜筮、御鬮の判断をなすものあれども、たのむに足らず。およそ人は知識をみがき、道理を究め、これによりて事をなすべく、決して迷信に陥るべからず。疾病にかかりしとき、医薬によらずして加持祈祷、神水等に依頼するがごとき、難儀の起こりしとき、道理をわきまえずしてみだりに卜筮、御鬮等によるがごときは、いずれも極めて愚かなることというべし。 と説いてある。この道理を諭すにつきては、これらの迷信の由来、およびその原因、事情を説明することが必要であろうと思う。よって余は左の項目を設けて、学校および家庭における児童に、分かりやすく知れやすいように説明するつもりである。 第一、狐狸のこと 付人狐、犬神のこと。 第二、狐惑、狐憑きのこと。 第三、天狗のこと。 第四、幽霊および祟のこと 付死霊、生霊のこと。 第五、加持祈祷のこと。 第六、マジナイ、神水および守り札のこと。 第七、卜筮、御鬮のこと。 第八、人相、家相および墨色のこと。 第九、鬼門、方位のこと。 第十、日柄、縁起のこと。 第十一、怪火、怪音および異物のこと。等 右の説明を試むる前に、妖怪の種類に四とおりあることを述べねばならぬ。その第一は、人為的妖怪すなわち偽怪にして、人の偽造したるものをいい、第二は、偶然的妖怪すなわち誤怪にして、偶然誤りて、妖怪にあらざるものを妖怪と認めたるものをいうのである。この二者は古今の妖怪談中に最も多く加わりおるに相違なきも、その実、妖怪にあらざるものなれば、これを合して虚怪と名づく。つぎに第三は、自然的妖怪すなわち仮怪にして、妖怪はすなわち妖怪なるも、天地自然の道理によりて起こりたるものなれば、物理学あるいは心理学の道理に照らして説明し得るものである。すでに説明しおわれば、妖怪にあらざることが分かる。ゆえに、これを仮怪と名づく。これに物理的妖怪、心理的妖怪の二種がある。狐火のごときは物理的妖怪にして、幽霊のごときは心理的妖怪というべきものである。第四の妖怪は、天地自然の道理をもって説明し得べからざるものにして、真の不思議と称すべきものなれば、これを超理的妖怪すなわち真怪と名づく。この真怪は世間の人の妖怪とせざるものにして、学術上の研究によりてはじめて妖怪なることを知るものなれば、ここに迷信の一種として説明する必要はない。それはともあれ、この仮怪と真怪とは真実の妖怪とすることができるから、これを合して実怪と名づくる次第である。これらの名目が後にたびたび出でてくるゆえに、あらかじめその意味を弁解しておくは無用ではない。 この四とおりの種類のうちにて偽怪、誤怪が最も多いから、この二種につきて今少しく述べておきたいと思う。偽怪には人の談話の癖として、虚言、大言を吐きて人の耳目を引かんとする風ありて、ために針よりも小なることが、相伝えて棒のごとく大きくなり、あるいは一犬虚を吠えて万犬実を伝うるに至る場合は、決して珍しからぬことである。あるいは政略、方便より妖怪を作ることも起こる。例えば、英雄もしくは高僧の出生には、必ず霊夢の感応等ありと伝うるがごときはその一例である。また、利欲心より愚民を瞞着して、金銭を得んとて偽造せることもたくさんある。またはなんらの利益なきも、一種の好奇心もしくは悪戯より妖怪を製造する人もある。これらはみな偽怪の原因と見てよろしい。誤怪に至りては偶然の出来事より起こりて、明らかにその原因、事情を究めたださざるために妖怪となるのであるが、この方は仮怪と判然分かつことの難い場合もある。ただ、大体の上につきて二者の区別を立てておく。世間にて卜筮、人相等の事実と合する場合のあるがごときは、もとより偶然の暗合というべきものなれば、余はこれを誤怪の一種に加うるつもりである。その他は、これより述ぶるところの各段のもとにおいて弁明しようと思う。 第二段 狐狸のこと 付人狐、犬神のこと わが国の怪談中、最も民間に普及しておるものは狐狸の怪談である。全国いたるところにおいて、ただにその怪談を聞くばかりでなく、実際に狐狸の怪事の起こるを見ることができる。ゆえに、狐狸は妖怪中の巨魁とみてよろしい。されどその妖怪は、日本固有のものにあらずして、シナより輸入したるものである。ただし、シナの正しき書物の中に見当たらずして、小説風の雑書中に出ずる怪談なれば、いずれの年代に起こりたりしやは明らかならぬ。今『抱朴子』と題する書によるに、「狐の寿命は八百歳にして、三百歳に達すれば変じて人の形に化し、夜中、尾をうちて火を出だし、髑髏をいただきて北斗を拝す。その髑髏、頭より落ちざれば人となる」と説いてある。この話をわが国の書に和解せるものがあるが、その説に、「狐が妖怪をなすには、まず草深き野原にて髑髏を拾い、これを己が頂に載せてあおのき、北斗の星を拝す。しかるに、あおのかんとすれば頂の髑髏たちまち落つるに、また拾いあげて頂に載せ、右のごとく幾回となく繰り返し、数年を経る間には、北斗を拝しても頂の髑髏の落ちざるようになる。そのとき、北斗を百遍礼拝してはじめて人の形に変化するなり」といってある。かかる小説談がもととなりて、これにいろいろ敷衍し増飾して、狐の怪談ができたに相違なかろう。 日本にては、いずれの時代に狐狸談が起こりしかはつまびらかならねど、ずいぶん古き書物に見えておるからは、千年以前より伝わりておるように思う。その源はたとえシナ伝来にもせよ、わが国にていろいろつけ加えたことが多い。その上に、妖怪も国々の人情、風俗、習慣等に応じて相違の起こるものなれば、自然にシナの狐狸談より異なるところあるように見ゆ。しかして今、余はシナのではなく日本の狐狸談を述ぶるつもりである。 わが国にて狐狸を談ずるに、土地によりて不同がある。通常一般には狐にだまされ狐に憑かれると申すけれども、四国にては古来狐が住まぬと称し、狐の代わりに、狸にだまされまた憑かれるといい、佐渡にては狐狸の代わりに、貉にだまされまた憑かれるといい、隠岐にてはもっぱら猫につきてかく申すとのことである。また、狐の中にも種類がありて、白狐、オサキ、管狐と称するものは、狐中にて最も神変不思議の作用をなすように信ぜられておる。管狐の名称の起こりたるは、これを使う人ありて、竹筒を持ちながら呪文を唱うれば、狐たちまちその管の中に入り、問いに応じて答えをなすということに伝えられておる。その狐の尾のさきの方さけておるというところより、オサキとも名づけられておる。また白狐という所もある。この狐は群馬県、埼玉県、栃木県地方に最も多く、長野県、静岡県等にも一般に信ぜられておる。これに類したるものは、出雲地方の人狐、四国地方の犬神である。以上の三者は狐狸中の最も奇怪なるものなれば、左にその大略を述べなければならぬ。 管狐すなわちオサキは、その形いたって小さく、二十日鼠くらいのものである。愚俗の信ずるところによれば、この狐をつかうものは京都の伏見稲荷より受けきたりて、その家に飼い養うものとのこと。かくして養いおけば、よく人の既往を説き未来を告ぐるに、不思議にも当たらぬことはない。常に巧みにその体を隠し、飼い主の目に触るるのみにて、少しも他人の目に見えぬと申すことじゃ。また近年、信州および上州地方にて蚕児の失せることがある。それは、オサキの飼い主がオサキをつかって盗ましむるのであると申しておる。つぎに出雲の人狐は、その形鼬に似て鼬より小さく、その尾は鼠より短くして毛あり、その色、鼠色にして黄色を帯ぶと申すが、つまりオサキの同類に相違ない。その地方に精神病に似たる病者あるときは、みな人狐の所為であると信じておる。また、人狐の住める家は子々孫々相伝わり、一般にその家と結婚することを嫌う風がある。この風は四国の犬神に似ておる。犬神は人狐と同じく、代々相伝わりて血統をつぐものとして、社交上、人に避け嫌わるることはなはだしい。その家の者が、だれにてもにくしと思わば、犬神たちまちその人を悩まし病を起こさしむ。また、その家の者が、人の美食を見てこれを好むの念を生ずれば、犬神たちまちその人に取りつき、あるいはその食物の腐敗することありと申しておる。元来、犬神の名の起こりしは、昔一つの犬を柱につなぎ、その縄をすこしゆるめて器に食物をもり、その犬の口さきにまさにとどかんとする所に置き、うえ殺しにしてその霊を祭るものであるとのことじゃ。また、猫神、猿神、トウビョウ等は、地方によりて名称の異なるのみにて、その人に憑きてこれを悩ますありさまは、人狐、犬神と同様である。されば、管狐、人狐、犬神、トウビョウ等は、これを説明するに総括して同一種と見て差し支えない。つまり、世のいわゆる狐惑、狐憑きと同じ道理をもって説明ができるわけである。 |
序文 昨年の末感ずるところあり、京都で御世話になった方々及び部下の希望者に「戦争史大観」を説明したい気持になり、年末年始の休みに要旨を書くつもりであったが果さなかった。正月に入って主として出張先の宿屋で書きつづけ二月十二日辛うじて脱稿した。 二月末高木清寿氏来訪、原稿をお貸ししたところ、執拗に出版を強要せられ遂に屈伏してしまった。そこで読み直して見ると前後重複するところもあり、補修すべき点も少なくないが、現役最後の思い出として取敢えずこのまま世に出すこととした。 昭和十六年四月八日 於東京 石原莞爾 第一篇 戦争史大観 昭和四年七月長春に於ける講話要領 昭和十三年五月新京に於て訂正 昭和十五年一月京都に於て修正 第一 緒論 一 戦争の進化は人類一般文化の発達と歩調を一にす。即ち、一般文化の進歩を研究して、戦争発達の状態を推断し得べきとともに、戦争進化の大勢を知るときは、人類文化発達の方向を判定するために有力なる根拠を得べし。 二 戦争の絶滅は人類共通の理想なり。しかれども道義的立場のみよりこれを実現するの至難たることは、数千年の歴史の証明するところなり。 戦争術の徹底せる進歩は、絶対平和を余儀なからしむるに最も有力なる原因となるべく、その時期は既に切迫しつつあるを思わしむ。 三 戦争の指導、会戦の指揮等は、その有する二傾向の間を交互に動きつつあるに対し、戦闘法及び軍の編成等は整然たる進歩をなす。 即ち、戦闘法等が最後の発達を遂げ、戦争指導等が戦争本来の目的に最もよく合する傾向に徹底するときは、人類争闘力の最大限を発揮するときにして、やがてこれ絶対平和の第一歩たるべし。 第二 戦争指導要領の変化 一 戦争本来の目的は武力を以て徹底的に敵を圧倒するにあり。しかれども種々の事情により武力は、みずからすべてを解決し得ざること多し。前老を決戦戦争とせば後者は持久戦争と称すべし。 二 決戦戦争に在りては武力第一にして、外交・財政は第二義的価値を有するに過ぎざるも、持久戦争に於ては武力の絶対的位置を低下するに従い、財政・外交等はその地位を高む。即ち、前者に在りては戦略は政略を超越するも後者に在りては逐次政略の地位を高め、遂に将帥は政治の方針によりその作戦を指導するに至ることあり。 三 持久戦争は長期にわたるを通常とし、武力価値の如何により戦争の状態に種々の変化を生ず。即ち、武力行使に於ても、会戦を主とするか小戦を主とするか、あるいは機動を主とするか等各種の場合を生ず。しかして持久戦争となる主なる原因次の如し。 Ⅰ 軍隊の価値低きこと。 十七、八世紀の傭兵、近時支那の軍閥戦争等。 Ⅱ 軍隊の運動力に比し戦場の広きこと。 ナポレオンの露国役、日露戦争、支那事変等。 Ⅲ 攻撃威力が当時の防禦線を突破し得ざること。 欧州大戦等。 四 両戦争の消長を観察するに、古代は国民皆兵にして決戦戦争行なわれたり。用兵術もまた暗黒時代となれる中世を経て、ルネッサンスとともに新用兵術生まれしが、重金思想は傭兵を生み、その結果、持久戦争の時代となれり。フリードリヒ大王は、この時代の用兵術発展の頂点をなす。 大王歿後三年にして起れるフランス革命は、傭兵より国民皆兵に変化せしめて戦術上に大変化を来たし、ナポレオンにより殲滅戦略の運用開始せられ、決戦戦争の時代となれり。モルトケ、シュリーフェン等により、ますますその発展を見たるも、防禦威力の増加は、南阿戦争、日露戦争に於て既に殲滅戦略運用の困難なるを示し、欧州大戦は遂に持久戦争に陥り、タンク、毒ガス等の使用により、各交戦国は極力この苦境より脱出せんと努力せるも、目的を達せずして戦争を終れり。 五 長期戦争は現今、戦争の常態なりと一般に信ぜられあるも、歴史は再び決戦戦争の時代を招来すべきを暗示しつつあり。しかして将来戦争は恐らくその作戦目標を敵国民となすべく、敵国の中心に一挙致命的打撃を加うることにより、真に決戦戦争の徹底を来たすべし。 第三 会戦指揮方針の変化 |
序文 人及び詩人としての薄田泣菫氏を論じたものは予の著述を以て嚆矢とするであらう。只不幸にも「サンデイ毎日」の紙面の制限を受ける為に多少の省略を加へたのは頗る遺――序文以下省略。 第一部 人としての薄田泣菫氏 一 薄田泣菫氏の伝記 「泣菫詩集」の巻末の「詩集の後に」の示してゐる通り、薄田泣菫氏は備中の国の人である。試みに備中の国の地図を開いて見れば――一以下省略。 二 薄田泣菫氏の性行 薄田泣菫氏の「茶話」は如何に薄田氏の諧謔に富み、皮肉に長じてゐるかを語つてゐる。この天成の諷刺家に一篇の諷刺詩もなかつたのは殆ど奇蹟と言は――二以下省略。 三 薄田泣菫氏の風采 薄田泣菫氏は希臘の神々のやうに常に若い顔をしてゐる。けれども若い顔をして一代の詩人になつてゐることは勿論不似合と言はなければならぬ。「泣菫詩集」の巻頭に著者の肖像の掲げてないのは明らかに薄田氏自身も亦この欠点を知つてゐるからであらう。しかしその薄田氏の罪でないことは苟くも――三以下省略。 第二部 詩人としての薄田泣菫氏 一 叙事詩人としての薄田泣菫氏 叙事詩人としての薄田泣菫氏は処女詩集たる「暮笛集」に既にその鋒芒を露はしてゐる。しかしその完成したのは「二十五絃」以後と云はなければならぬ。予は今度「葛城の神」「天馳使の歌」「雷神の賦」等を読み往年の感歎を新にした。試みに誰でもそれ等の中の一篇――たとへば「天馳使の歌」を読んで見るが好い。天地開闢の昔に遡つたミルトン風の幻想は如何にも雄大に描かれてゐる。日本の詩壇は薄田氏以来一篇の叙事詩をも生んでゐない。少くとも薄田氏に比するに足るほど、芸術的に完成した一篇の叙事詩をも生んでゐない。この一事を以てしても、詩人としての薄田氏の大は何ぴとにも容易に首肯出来るであらう。予は少時「葛城の神」を読み、予も亦いつかかう言ふ叙事詩の詩人になることを夢みてゐた。のみならずいつか「葛城の神」の詩人に教へを受けることを夢みてゐた。第二の夢は幸にも今日では既に事実になつてゐる。しかし第一の夢だけは――一以下省略。 二 抒情詩人としての薄田泣菫氏 昨年の或夜、予の或友人、――実は久保田万太郎氏は何人かの友人と話してゐる時に「ああ大和にしあらましかば」を暗誦し、数行の後に胴忘れをした。すると或年下の友人は恰もそれを待つてゐたかのやうに、忽ちその先を暗誦したさうである。抒情詩人としての薄田泣菫氏の如何に一代を風靡したかはかう言ふ逸話にも明かであらう。しかし薄田氏の抒情詩は「ああ大和にしあらましかば」「望郷の歌」に至る前に夙に詩壇を動かしてゐる。予は「ゆく春」の世に出た時――二以下省略。 三 先覚者としての薄田泣菫氏 薄田泣菫氏を古典主義者としたのは勿論詩壇の喜劇である。成程薄田氏は余人よりも古語を用ひたのに違ひない。しかし古語を用ひた為に薄田氏を古典主義者と呼ぶならば、「海潮音」の訳者上田敏をもやはり古典主義者と呼ばなければならぬ。薄田氏の古語を用ひたのは必ずしも柿本人麿以来の古典的情緒を歌つたからではない。それよりも寧ろ予等の祖国に珍しい情緒を歌つたからである。詩壇はかう言ふ薄田氏に古典主義者の名を与へながら、しかも恬然と薄田氏の拓いた一条の大道に従つて行つた。この大道はまつ直にラフアエル前派の峰を登り、象徴主義の原野へ通じてゐる。薄田氏は予言者モオゼのやうにその原野の土を踏まなかつたかも知れない。けれども確に眼底には「夕くれなゐの明らみに黄金の岸」を見てゐたのである。予は今度「白羊宮」を読み、更にこの感を――三以下省略。 附録一 著作年表 (イ)人――薄田泣菫氏の明治三十年以来詩人、小説家、戯曲家等を作れるは枚挙すべからず。その主なるものは下の如し。(但しアイウエオ順)芥川龍之介。――(イ)以下省略。 (ロ)詩並びに散文。――明治二十九年或は三十年に雑誌「新著月刊」に「花密蔵難見」を発表す。明治三――(ロ)以下省略。 附録二 著者年譜 |
横浜。 日華洋行の主人陳彩は、机に背広の両肘を凭せて、火の消えた葉巻を啣えたまま、今日も堆い商用書類に、繁忙な眼を曝していた。 更紗の窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変残暑の寂寞が、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスの匀のする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。 書類が一山片づいた後、陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。 「私の家へかけてくれ給え。」 陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。 「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間に合うまい。――じゃ頼むよ。――何? 医者に来て貰った?――それは神経衰弱に違いないさ。よろしい。さようなら。」 陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸を摺って、啣えていた葉巻を吸い始めた。 ……煙草の煙、草花の匀、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上る調子外れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒を前にしながら、たった一人茫然と、卓に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、煽風機も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。 女はまだ見た所、二十を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、忙しそうにビルを書いている。額の捲き毛、かすかな頬紅、それから地味な青磁色の半襟。―― 陳は麦酒を飲み干すと、徐に大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。 「陳さん。いつ私に指環を買って下すって?」 女はこう云う間にも、依然として鉛筆を動かしている。 「その指環がなくなったら。」 陳は小銭を探りながら、女の指へ顋を向けた。そこにはすでに二年前から、延べの金の両端を抱かせた、約婚の指環が嵌っている。 「じゃ今夜買って頂戴。」 女は咄嗟に指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。 「これは護身用の指環なのよ。」 カッフェの外のアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。陳は人通りに交りながら、何度も町の空の星を仰いで見た。その星も皆今夜だけは、…… 誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ陳彩の心を喚び返した。 「おはいり。」 その声がまだ消えない内に、ニスの匀のする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の今西が、無気味なほど静にはいって来た。 「手紙が参りました。」 黙って頷いた陳の顔には、その上今西に一言も、口を開かせない不機嫌さがあった。今西は冷かに目礼すると、一通の封書を残したまま、また前のように音もなく、戸の向うの部屋へ帰って行った。 戸が今西の後にしまった後、陳は灰皿に葉巻を捨てて、机の上の封書を取上げた。それは白い西洋封筒に、タイプライタアで宛名を打った、格別普通の商用書簡と、変る所のない手紙であった。しかしその手紙を手にすると同時に、陳の顔には云いようのない嫌悪の情が浮んで来た。 「またか。」 陳は太い眉を顰めながら、忌々しそうに舌打ちをした。が、それにも関らず、靴の踵を机の縁へ当てると、ほとんど輪転椅子の上に仰向けになって、紙切小刀も使わずに封を切った。 「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三御忠告……貴下が今日に至るまで、何等断乎たる処置に出でられざるは……されば夫人は旧日の情夫と共に、日夜……日本人にして且珈琲店の給仕女たりし房子夫人が、……支那人たる貴下のために、万斛の同情無き能わず候。……今後もし夫人を離婚せられずんば、……貴下は万人の嗤笑する所となるも……微衷不悪御推察……敬白。貴下の忠実なる友より。」 手紙は力なく陳の手から落ちた。 ……陳は卓子に倚りかかりながら、レエスの窓掛けを洩れる夕明りに、女持ちの金時計を眺めている。が、蓋の裏に彫った文字は、房子のイニシアルではないらしい。 「これは?」 新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋箪笥の前に佇んだまま、卓子越しに夫へ笑顔を送った。 「田中さんが下すったの。御存知じゃなくって? 倉庫会社の――」 卓子の上にはその次に、指環の箱が二つ出て来た。白天鵞絨の蓋を明けると、一つには真珠の、他の一つには土耳古玉の指環がはいっている。 「久米さんに野村さん。」 今度は珊瑚珠の根懸けが出た。 「古風だわね。久保田さんに頂いたのよ。」 その後から――何が出て来ても知らないように、陳はただじっと妻の顔を見ながら、考え深そうにこんな事を云った。 「これは皆お前の戦利品だね。大事にしなくちゃ済まないよ。」 すると房子は夕明りの中に、もう一度あでやかに笑って見せた。 「ですからあなたの戦利品もね。」 その時は彼も嬉しかった。しかし今は…… 陳は身ぶるいを一つすると、机にかけていた両足を下した。それは卓上電話のベルが、突然彼の耳を驚かしたからであった。 「私。――よろしい。――繋いでくれ給え。」 彼は電話に向いながら、苛立たしそうに額の汗を拭った。 「誰?――里見探偵事務所はわかっている。事務所の誰?――吉井君?――よろしい。報告は?――何が来ていた?――医者?――それから?――そうかも知れない。――じゃ停車場へ来ていてくれ給え。――いや、終列車にはきっと帰るから。――間違わないように。さようなら。」 受話器を置いた陳彩は、まるで放心したように、しばらくは黙然と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕を押した。 書記の今西はその響に応じて、心もち明けた戸の後から、痩せた半身をさし延ばした。 「今西君。鄭君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ御出でを願いますと。」 陳の声はいつの間にか、力のある調子を失っていた。今西はしかし例の通り、冷然と目礼を送ったまま、すぐに戸の向うへ隠れてしまった。 |
一 私が永井荷風君を知つたのは卅七八年も以前のこと、私が廿二歳、永井君は十九歳の美青年であつた。永井君の家は麹町の一番町で以前は文部省の書記官だつた父君は當時、郵船會社の横濱支店長をして居て宏壯なものだつた。永井君は中二階のやうになつた離れの八疊を書齋に當てゝ、座る机もあつたが、卓机もあつて籐椅子が二脚、縁側の欄干に沿うて置かれてあつた。その籐椅子を私はどんなに懷かしがつたものか。訪問れて往くと先づ籐椅子に腰を降して、對向つた永井と語るのは、世間へ出ようとお互に焦慮つて居る文學青年の文學談であつた。 その頃荷風君は能く尺八を吹いた。時折それを聞かして貰つた。荷風君の幼年時からの友人である井上唖々君が高等學校の帽子を冠つて同じやうに絶えず訪問れて來た。それから早死した清國公使館の參讃官の息子の羅蘇山人も時々やつて來た。私等は話に倦むと連立つて招魂社の境内を散歩した。私がトオスト麺麭の味を知つたのは荷風君のその中二階で、私が行く頃やつと眼覺めた荷風君へ、女中が運んで來る朝飯のトオストを、私が横合から手を出して無作法にムシヤ〳〵やるのも常例であつた。 談文學になると仲々雄辯になる永井君であつたが、現在の永井君のやうに私生活に就ては何にも私達に洩らさなかつた。井上唖々君が代辯していろ〳〵と私達に話した。附屬の中學に往つて居たが、體操を嫌ひその時間を拔けるので、教師に怒られ、同級生の腕節の強いのから酷められたりして、その爲に上の學校へ上るのを放棄したと云ふやうなことであつた。成程體操嫌ひらしい永井君は腺病質で、色の青白い、長身の弱々しい體格であつた。唖々君が猶も洩らしたのは此の上の學校へ上らぬのと、文學を志して居るのが、父君の氣に入らず、母君の心配の種になつて居ると云つて居た。 貧乏人の私などは遊廓の味をまだ知らなかつたが、永井君は既に知つて居るやうだつた。永井君自身も私に自分は早熟だとは語つて居た。麹町の英國公使館裏に快樂亭と云ふ瀟洒な西洋料理店があつて、其處にお富と云ふ美しい可憐な娘があつた。當時四谷見附け外にあつた學習院の若い公達が非常に快樂亭を贔負にして、晝も夜も食事に來て居た。料理も相應なものであつたが、それよりもお富ちやんのサアビイスを悦んだのである。永井君も此快樂亭へは能く出懸けて往つた。此のお富ちやんは私の知人の畫家の妻となり、今も健在だが、永井君へ烈しい思慕の情を寄せるやうになつた。今一人永井君へ想ひを寄せる女があつた。招魂社横の通りに江戸前の散髮屋があつて、兄息子の散髮師が上海歸りで外人の刈り方の通を云ふところから仲々繁昌し、私達仲間も行きつけであつたが、其處の看板娘が荷風君を戀ひ慕つたのである。近所が富士見町の藝者屋町なので、その娘にしても華美な花柳界の態に染まり、いつも髮を島田髷に結ひ、黒繻子の衿の懸つた黄八丈の着物を着て、白粉も濃く塗つて居た。私達金がないので風采も揚らない止むを得ざる謹直組は、荷風君のかうした艷聞をどんなに羨ましく思つたことか。此の看板娘は今も日比谷公園近くに盛大に或種の店舖を構へ、いつも店頭にすつかり皺くちや婆になつた顏で坐つて居るので、私が時折今の荷風君に、 『君を戀した女、君も嫌ひでなく芝居へ連れていつてやつたりした女を見に往かうぢやないか。』 銀座の茶房で逢つたりする折に云ふと、流石に嫌がつて言葉を外らして了ふのである。 荷風君や私達は巖谷小波先生の宅で開かれる木曜會へ毎木曜日に出席して、各自に創作したものを朗讀して、お互に讀んで批評して研鑚し合つて居た。木曜會は小波先生を中心にして久留島武彦君、今の名古屋新聞副社長になつて居る森一眞君、木戸孝允公と深い縁故のある前滿鐵鑛山課長の木戸忠太郎君。夫に黒田湖山君、西村渚山君、井上唖々君やゝ遲れて押川春浪君も加はつて來て總人數は廿人餘り集つて居た。荷風君は前に廣津柳浪子の許へ教へを乞ひに往つて居たのが、木曜會の方へ移つて來たのである。時代は硯友社全盛で、尾崎紅葉先生がまだ金色夜叉を書かず、多情多恨で滿都の人氣を集めて居た。荷風君は文章體でなく、書く小説は柳浪張りの會話を主體としたものであつた。その木曜會員は紅葉先生が中心になつて出來て居た俳句會の紫吟社へ出席し得られたので、荷風君にしても其處で私同樣硯友社の多くの先輩を知り、鏡花、風葉、秋聲、春葉氏等と、知り合ふやうになつたのである。 私は京都から東京へ出て來た當時、小波先生の家でお厄介になつて居たのを、小石川原町の一行院と云ふ寺に寄宿するやうになつたが、麹町戀しく、殆ど隔日位ゐに麹町へ出て行き、出て行く度毎に一番町の荷風氏を訪れ、能く夕飯のお馳走に預かつた。然うして時折母堂の居室へ往つて話を伺ひ、現在は農學博士となつて居る末弟の伊三郎君、母方の鷲尾家へ養子に行つて早世した次の弟の人も知合つた。小波先生の引きで博文館の少年世界や其他の雜文で漸く衣食の資を得て居た私から見ると、生活の苦勞が少しもなくて悠々小説に精進して居られる荷風君は羨望に堪えない地位で、私がいつもそれを口にすると、 『それは淺見だよ、之で僕には僕丈けの悲みや苦勞があるんだよ。』 之は文學者となるのを好まぬ父君との間の隔離を仄めかしたものである。それでも私は羨ましかつた。其中に私は衣食の爲に神戸新聞へ務めるやうになり、荷風君初め木曜會員に送られて往つたが、社會部長の江見水蔭氏と仲合が善くなく僅に一ヶ月にして歸京して來て、又一行院へ這入つたが、直に麹町の五番町の下宿屋へ移轉した。其處は荷風君の家と相距る四丁程であつた。それから三番町の一心館と云ふのに轉宿したが、其處はより多く永井君の家と近かつた。此の下宿で私は新小説に文壇の初陣した團扇太鼓を書いたのであるが、永井君は既にその前年に、中村春雨、田村松魚君と一緒に、新小説の懸賞小説に當選して掲載され、文壇人として認められて居た。 文壇の天下は紅葉先生が金色夜叉を書出して一世を風靡して居たが同時に鏡花、風葉、秋聲、春葉、宙外、天外、花袋と新進作家が轡を並べて居て華やかなものであつた。私は依然一心館に居て大學館と云ふ書肆から發行する活文壇と云ふ文學雜誌を、井上唖々君の助力で編輯して居たが、荷風君は私に取つて善い編輯の助言者であつた。小栗風葉君が時々此一心館へ、私を訪れて來た。併しそれは風葉君が態々私を訪問してくれたのでなく、富士見町に狎妓があつて、待合で遊び疲勞れた姿を見せるのであつた。その待合は一心館の直ぐ横町なので、時には私を呼出すのである。或日私を呼出し、同時に謹直な蒲原有明君と永井荷風君を呼んだ。文壇花形の風葉君からの使なので、兩君もやつて來たが、惡戯好きの風葉君は兩君へ女を取持たうとした。然う云ふ場面に馴れない蒲原君は愕いて、自分が酒を飮んだ丈けの金を拂ふと云つて持合せの金を差出して這々の體で遁げたが、荷風君は悠々と落附き、女が來たにかゝはらず厠へ行くやうな顏をして、するりと歸つて了つた。風葉君の口惜しがるまいことか。その夜を泊つた風葉君は翌日又も私等三人を呼び、眞晝間大勢の藝者を連れて、天河天神の向側のいろは牛肉店へ歩いて飯を食ひに行くのに同行を強ひられ、蒲原君も私も知人の多い麹町なので遲れて歩き、流石の風葉君も通行人に見らるゝにてれて私達の側へ來たのに、荷風君一人平然として藝者に取捲れ、談笑して歩く大膽さに一同は舌を捲いて了つた。 側から見て此頃が荷風君の經歴で暗黒時代でないかしらと思はるゝのは、當時の文士の登龍門である文藝倶樂部や新小説へ時々作品を發表して居るにかゝはらず、他の方向へ身を轉換しようとしたのである。文壇に思ふやうに作品を公にせられないのに焦慮した失望か、それとも家庭が面白くないのでそんな決心をしたのか、福地櫻痴居士を訪問れて、歌舞伎座の作者部屋へ這入つて黒衣を着て見たり、かと思ふと落語家の大家を訪問して門下生にならうとしたり、私は後で唖々君から聞いたのであるが、何うやら家を出て生活しようとしたのである。或る事件――それは戀愛問題であつたかもしれない、父君と衝突して家に居るのが面白くなかつたらしい。併し此の兩方の務口も永井君の豫想と反して居たので中止して、やはり家へ落着くやうになつた。家に落附くと小説道へ一層精進の心を燃し、ゾラのルウゴン・マツカアル叢書を英文で讀み出したのである。 私はツルゲネフを崇拜して、手當り次第にツルゲネフの飜譯を集めて熟讀した。永井君もツルゲネフは嗜好であつた。蒲原君もツルゲネフやドウデ黨であつた。私達は顏を合すとツルゲネフの作品を論じ合つたが、或日私と荷風君と黒田湖山、西村渚山、紅葉門下の藤井紫溟それから平尾不孤その他二人程で芝公園へ遊びに出懸け、其處の山上で文壇を論じ、硯友社の傾向を罵倒し、假令現在は容られずとも歐洲大家の作品に倣つて勉強し未來の文壇に覇を稱へようと熟議したのであつたが、その望みを達したのは永井君一人であるのを思ふと、私は忸怩とせざるを得ない。此の芝公園の議論は誰かゞ雜誌で素破拔いたので、硯友社の先輩から睨まれて、當座擽つたい思ひをしたものであつた。 木曜會の黒田湖山君は何うしたものか、硯友社の先輩に作品價を認められず、紅葉門下の勢力圈の新小説へ作品を送つても掲載されないのに業を煮やし、川上眉山氏の許に居て時折木曜會へ顏出して居た赤木巴山君を説附け、赤木君の資本で美育社と名づける出版社を設け、先づ自身の作品から初めて、知人の作品を單行本として出版してくれた。第二に選ばれたのは永井君の地獄の花であつた。永井君が暫時友人とも離れてゾラを讀んだ後の創作である。それを讀んだ時私は全く驚かされたし、恐れもした。それ迄永井君の作品は云つては惡いが内容も外形も柳浪式であつて私はそんなに重きを置いて居なかつたが、地獄の花は文章にしても、内容にしても、今迄永井君が書いたものと、全然異なつて居て、戀愛物語の小説から一歩も二歩も踏出したものであつた。批評家は擧て賞讃したし、從來の朋友は違つた眼で荷風君を見るやうになつた。ゾラを讀んだ影響が永井君の心境を一變さしたのである。永井君がモウパツサンを推賞するやうになつたのは、此の時期である。不思議な因縁は此の美育社の資本主の赤木巴山君は、永井君に戀した散髮屋の看板娘を當時愛人として居たことである。 二 永井君の創作態度の變化に驚かされた私達は、永井君の性質が外は極めて柔でありながら内は正反對の剛で粘靱性に富んで居るのに眼を瞠り出した。例はいろいろとあるが、如何に父君に反對されても文學者たらんとする意を曲げようとしないのもその一つである。知人に對して怒つた顏を見せたことはなく、他人からいくら説かれても意に滿たなければ、微笑の中に行はうとしない。と云つて少しも隱險な心地はなく、友人には明るく情誼を盡しはするが、私のやうな單純で、くわつと熱して物事を裁いたり、行ふたりする者には喰足りなく思はれた行状が屡々あつた。つまり青年らしく一所に躍つてくれないのである。話は少し以前に溯るが小波先生が獨身時代、惡性な藝者に附纏はれ、紅葉先生の諫めも聞入れず同棲したことがあつた。 先生思ひの木曜會員はそれを非とし、小波先生の側近からその女を退けようとして種々智惠を絞つても甲斐がなかつた。その時分我武者羅の私が我慢しかねてその女と爭論し、それからその女の惡徳を算へて先生に追放を迫つた。久留島武彦君と私が紅葉先生の許に走せて事情を述べて應援を乞ふと、 『諾矣、善くやつた。直ぐ巖谷に逢つて女を退治してやらう。』 かうした紅葉先生の言葉を聞いて、小波先生の家に集つて居た木曜會員に報告して悦こばしたのであつたが、ひとり荷風君は私が訪問して示威だから來てくれと頼んでも、 『小波先生が好きで然うして居るんだから、放擲つて置けばいゝぢやないか。』 然う云つて何としても顏出してくれなかつた。事件は紅葉先生の盡力で、女は出て行くやうになつて解決したが、永井君の此の態度は可なり私を失望せしめたが、後になつて性格の相違でもあり、自由主義者である永井の心地も解つたが、兎に角青年時代から永井君は今と同じく他人に干渉するのが嫌ひで、自分が動かうとしない以上、他人の言葉で動かなつた。 私にしても小説家として何うかこうか生活出來るやうになつたので麹町の下宿を引拂ひ、千駄ヶ谷に傭婆を使つて一軒些やかな住居を構へた。先住者として黒田湖山が千駄ヶ谷に居た。小波先生も結婚して麹町から青山北町三丁目へ移轉されたし、永井君の家も麹町を去つて大久保余丁町へ引越して往つた。永井君の家は樹木が欝蒼として居て廣く玄關は大名の敷臺のやうに廣かつた。父君の室とは放れた裏側の庭に面した室が荷風君の書齋であつた。私達は相變らず繁く往來して居た。押川春浪君が木曜會へ這入つて來てからは、荷風君は春浪君と仲善しになり、遊びの行動を共にして居た。それと云ふのが春浪君も親懸りで、人氣のあつた冒險小説の單行本を出版して得た金は總て小遣として使用し得られたし、永井君にしても得た原稿料は總て小遣ひなので自然と二人は近くならざるを得なかつた。その餘慶を蒙るやうに私と井上唖々君が、自分の財布では行けない場所へ誘はれた。然うして、日と月が經つて行く中に、永井君は父君の命令で、亞米利加へ留學するやうになつたのである。 之より先き小波先生は獨逸へ旅立たれて、滿二年在獨して歸つて來られ、久留島武彦君も歐米漫遊の旅に上り永井君は木曜會からは三人目の洋行でありはしたが、どんなに私達は羨んだものか。考えると私はその頃も今も此後とても生涯永井君を羨み通して死んで行くことであらうと思ふ。私達は心ばかりの別宴を張つて永井君を送つたのであつた。 旅立つて行つた先から永井君は度々手紙を寄せてくれた。筆不精な人であるのに海外の寂しい生活の行爲か、長い手紙であつた。私も絶えず返辭を書いた。日本の文壇の動きに就ては絶えず注意の眼を瞠つて居るらしく、いろ〳〵と日本の文壇人の作の批評を寄越した。私が文藝倶樂部に川波と題する小説を掲戴したのに、譽め言葉をくれたのは飛上る程悦しかつた。然うして思掛けなかつたことは永井君がキリスト教を信仰するやうになり、毎日曜には寺參りをして説教を聽聞して居るとの報知せであつた。從つて來る手紙の中には若し神許宥し給ふならばと云ふやうな嚴肅な言葉が書かれて居た。如何に米國が宗教國であるにしても永井君が神の教えを信ずるとはと、私ばかりでなく木曜會同人一同の愕きであつた。 『永井君は變つた。歸朝したら純潔な處女と交際したり、處女の戀愛を求めるやうになるだらう。』 唖々君の言葉であつた。日本に居た時荷風君は境遇が然うさしたのかも知れないが素人女をば女性でないやうに思つて交際しやうとせず、專ら柳暗花明の巷の女にのみ接して青春を過したからである。 亞米利加から能く作品を小波先生の許へ送つて來た。それを私か唖々君が木曜會の席上で朗讀し、一同批判した後、小波先生の手で文藝倶樂部や新小説へ送つて掲戴せられる手續きを取つた。亞米利加物語も然うした順序を經て、之は博文館から出版された。 荷風君の洋行中に木曜會員は大抵結婚したが、私は依然として獨身で、荷風君が亞米利加から佛蘭西へ渡り、在留合せて三ヶ年の日を過して、日露戰爭が終り、日本の民衆がポウツマウス條約に不服で日比谷公園の暴動を起した日に歸朝したのを迎へた。歸朝後の永井君は眞に素晴らしく、態度に重味を加え、然うして朝日新聞に紅茶の後を連戴して、外遊中に蘊蓄醗酵した清新な情操を日本の文壇へ齎らした。其の後の永井君は總てが順風滿帆で慶應大學が新に文科を設けた際、森鴎外先生の推薦で教授になり、生活樣式もそれに連れて規則正しく、洋行前の永井君と別人の觀があつた。永井君に取つて何よりも嬉ばしいことは、父君との和解で、父君は自己の交遊社會や親戚の前で、初めて自分の息子を文學者として認める言を發するやうになつたのである。 引換へて其頃の私は不幸であつた。私の作品は風俗壞亂と當局から睨まれて、單行本も短篇も發賣禁止となり、書肆は私の原稿を危んで買つてくれないやうになつた。そんな中で私は結婚したのであつたが、結婚後四ヶ月目に中耳炎に罹り、膿が頭腦を犯した爲め、知覺も認識力も不足し、醫師からは今後恐らく執筆は難かしからうと宣告を受けたばかりでなく、病中二度迄も裁判所へ召喚されて發賣禁止となつた私の作品に就て公判を受けねばならなかつた。それは罰金刑で濟みはしたが、爾後病は一進一退し極端な神經衰弱症となり、文壇と離れて四年間湘南の地に蟄居せねばならぬやうになつた。從つて荷風君との交際も絶たれて居たが此間に荷風君は、父母の撰んだ妻君を迎へて盛大な結婚式を擧げたのである。 一度病中の私が上京して新婚後間もない荷風君を訪問れ、高島田に結つた美貌の新夫人を見はしたが、一年と經ない中にその破婚が湘南に居る私の耳に傳つて來た。何うして破婚になつたか、唖々君さへも知らなかつた。ずつと後に荷風君に逢つて訊くと、その問題に觸るゝを厭ひ、かへりみて他を云ふ態なので、家庭の祕事として私は重ねて問はず今以て、委しい事情を知らない。只しかし荷風君はその以後深窓に育つた處女を再び厭ふやうになり、昔に返つて商賣人の女を相手にし、商賣人の女でなくては話相手とするに足りないと云ふやうになつたのは事實である。何かしら烈しい失望を感じたのであらうとは私に察せられるのである。 私の結婚にしても破局に終り、明治四十三年の年の暮に東京へ歸つて來た時は獨身者であつた。泉岳寺側に住居を構へ、破婚の寂しさを紛らはさん爲に知人や朋友を集めて文學談話會をこしらへると、永井君は二度ばかり出席してくれた。永井君は妻に別れた影響など微塵なく、慶應大學で教へる傍ら三田文學を主宰して、文壇の輝かしい存在であつた。私達は以前の交際を取返して日夕往來したが私がその頃の新劇運動の中心舞臺であつた有樂座と關係が生じたので、劇壇に深い興味を持つ永井君は絶えず有樂座へ姿を見せ、劇場が閉場た後は、銀座裏のプランタンへ集つて無駄話に時を過した。小山内薫君や吉井勇君も同じグループだつた。 此のプランタンで永井君に取つても私に取つても新聞の三面欄を賑はす餘り芳しからぬ事件が生じた。或晩永井君が有樂座に或る新劇團の興行があつて見物にやつて來て居ると後に永井君の正夫人になつた新橋藝者の巴屋の八重次が見物に來て居た。永井君が妻と別れて以來、八重次と關係を生じて居るのは私も知つて居た。八重次は永井君の側へ寄つて往つて閉場後プランタン行きを勸めた。私も八重次とは永い間の知己なので連立つこととなり、それから田中榮三君達がやつて居る劇壇に屬する女優の小泉紫影が側に居たので誘つて同行するやうになつた。 プランタンへ行くと押川春浪君が阿武天風君外二人の青年を連れて盃を擧げて居た。荷風君も私も酒は飮まないし女連れなので押川君に眼で會釋した丈けで二階の席へ上つて往つた。それが押川君の氣に障つた。荷風君と押川君とは舊く仲善しであつたのに、押川が深酒をするのを厭つて荷風君と少し疎遠になつて居たし、それに悲憤慷慨家の押川君は荷風君が慶應大學の教職にあるのに、藝者と馴染を重ね、世間から兎や角と云はれながらも何等省るところがないと指摘して、遭遇つたら忠告すると平生から意氣込んで居たのに顏を合したのが否けなかつた。私達が食事しかけて居る處へ押川君一人やつて來たが、單に氣色ばんで居る限りで何事もなかつたのに押川君を追つてやつて來た醉つて居た青年二人は、押川君の意中を勝手に推量して粗暴な擧動を見せ、特に八重次に向つて狼藉を働いたのである。醉つて居ない阿武天風君が上つて來てくれたので後事を托し、各自にプランタンを遁れ出たのであつたが、醉つた青年二人は八重次を苛め足らなかつたらしく、八重次の屋號の巴屋を目當てに家を探し、街燈を壞し、看板を割つたりなどしたんだが、その巴屋は八重次の家の巴屋でなく、全く關係のない待合だつたので、警官が出張して青年二人は拘引せられたのを、誇張して二つの新聞に大きく書かれたのである。 私の見るところでは此事あつて以來、荷風君の心は八重次へ一層寄つて往つたやうであつた。押川君の非難に對する抗辯として、何故に藝者がそんなに賤しいか、彼女達は家族を養ひ一家を支えて居る生活の鬪士ではないか、日本の現在の結婚制度の妻にしたつても、何れ丈け藝者と光榮を爭ふ價値があるか、或意味で娼婦と遠からざる存在ではないか――之は私が永井君の意中を忖度した丈けの言葉で、永井君から聽いたのではないから間違つて居るかもしれない。もう一つ私が永井君で感じて居るのは、自分が強いて結婚を求めようとしない心地から、接する女を單に快樂の目標物とのみしようとする殘酷さである。此の事に就てはもつと後に述べやう。 三 プランタンの事があつた數ヶ月後、私は外遊の途に上るやうになつたので、又も荷風君との交遊は斷たれた。私は外遊中に荷風君の父君の卒然の逝去を聞いた。それから八重次に藝者を止さして、靜枝の本名を名乘らして四谷區に圍つて居ると唖々君が伯林に居る私へ報知して來た。軈て又荷風君は遂に靜枝と結婚するやうになり、媒酌者は左團次君夫妻であつて、今は宏壯なあの家に靜枝は新夫人となつて納つて居るとやはり唖々君から便りがあつた。私は何故かしら畏友荷風君に温良貞淑な良家の處女を娶らしたいと願つて居たので、此結婚を左程目出度いものに思はれなかつた。すると半年程した後に、永井君は靜枝と別れたと、之は黒田湖山君からの手紙であつた。私が歸朝後、荷風君からも聽いたし、唖々君初め荷風君の知人達の話を綜合して靜枝さんとの結婚が荷風君に取つては非常に高價なものであるのを知つた。 高價な第一は未亡人の母堂が家を去つたことである。第二は弟の農學博士伊三郎君初め名門揃ひの親戚と仲違ひしたことである。母堂は荷風君と靜枝さんとの結婚を無論初めは反對であつたが、或人が仲に這入つて説いた爲め、結婚式に列席せぬのを條件にして諾意を見せた。荷風君は在來通り母堂と新夫婦は一所に住むものとのみ思つて居たのに、結婚式から歸つて來ると母堂は伊三郎君の家に去つて了つて居た。弟の伊三郎君なりその夫人は共に堅い基督教信者であつて、靜枝さんの經歴を賤しみ姉と呼ぶに堪難いと云つて籍さへ脱いて別戸主となつたのである。親戚達は母堂の意嚮や伊三郎君に追從して往來を絶つやうになつたので、永井君は總ての血縁者に背かれて了つたのである。 かうしようと思ふと必ず遂行する強い永井君ではあるが、果して平心であつたらうか。他人の意を損ずるのが嫌ひであつた性質だし殊に母堂思ひなので相當苦痛であつたに違無からう。結婚半年にして靜枝さんと別れたのは、靜枝さんも強い性格で我意を張つたのであらうが永井君のかうした苦痛の反射が働き懸けないとは思はれない。然うして後日永井君が偏倚館なぞと自宅に名稱を附して門戸を閉ぢたのも、母堂とは直ぐに和解したが、他の血縁者とは今以て和解が出來ず、孤立し續けた心の影響がさしたことと、私は思つて居る。 私が外遊三年の旅を終へて歸つて來て、永井君を大久保余丁町に訪問すると、在來の家と棟續きに瀟洒な數奇屋好みの小家が建築されてある中に、唯一人座して居た。全く唯一人座して居たので、女中さへ居ないのである。何うした理由かと問ふと、女中は今朝歸つて往き、今一人居た女も昨日から歸つて來ないとの答へであつた。廣い母家の方の雨戸は總て閉されたまゝで、樹木の多い庭は荒れ果て、永井君は其の日は仕出し屋から食事を取寄せて自分を賄つて居る容子が其邊に顯はれて居た。昨日から歸つて來ない今一人居た女と云ふのは神樂坂から請出した藝者であるのを、私は唖々君から聞いて知つて居た。 『今一人の女つて請出した藝者なんだらう。』 『然うだよ。』 『君は藝者を請出して之で三人目と云ふぢやないか。みんな直ぐ嫌になつて別れて了ふんだつてね。』 『然うぢやない。女の方から去つて往つて了ふんだよ。』 悉しい話を聞くと、寂しさについ遊びに出懸けて一人の藝者を知る。身上を打明けられて身受けを強請されるので、憐を覺えて借金を拂つてやつて、親元へ預けるなり何處かへ圍つて置いたりする。と次に必ず無法な要求を持出して來たり、惡が附いて居るので、遠退いて了ふんだと、そんな女に對して未練も執着もなく、當座々々の悠々たる遊びであるのが解つた。それにまして費用が勿體ないではないかと云ふと、勿體ないからもう止めようと思ふとの返辭であつた。別れた靜枝さんの話に觸れたが、言葉の裏に自身は夫婦と云ふものを持續して行く資格がないかの樣にすつかり結婚を思諦めて居る心地が讀まれた。その時此の邸宅が餘りに廣く、掃除にも困るし、女中は夜など寂しがつたり怖がつたりして、その爲め居附かないと云ふ話だつた。 |
一 真中に一棟、小さき屋根の、恰も朝凪の海に難破船の俤のやう、且つ破れ且つ傾いて見ゆるのは、此の広野を、久しい以前汽車が横切つた、其の時分の停車場の名残である。 路も纔に通ずるばかり、枯れても未だ葎の結ぼれた上へ、煙の如く降りかゝる小雨を透かして、遠く其の寂しい状を視めながら、 「もし、お媼さん、彼処までは何のくらゐあります。」 と尋ねたのは効々しい猟装束。顔容勝れて清らかな少年で、土間へ草鞋穿の脚を投げて、英国政府が王冠章の刻印打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、銃孔は星の如きを、斜に古畳の上に差置いたが、恁う聞く中に、其の鳥打帽を掻取ると、雫するほど額髪の黒く軟かに濡れたのを、幾度も払ひつゝ、太く野路の雨に悩んだ風情。 縁側もない破屋の、横に長いのを二室にした、古び曲んだ柱の根に、齢七十路に余る一人の媼、糸を繰つて車をぶう〳〵、静にぶう〳〵。 「然うぢやの、もの十七八町もござらうぞ、さし渡しにしては沢山もござるまいが、人の歩行く路は廻り廻り蜒つて居るで、半里の余もござりましよ。」と首を引込め、又揺出すやうにして、旧停車場の方を見ながら言つた、媼がしよぼ〳〵した目は、恁うやつて遠方のものに摺りつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。 それから顔を上げ下しをする度に、恒は何処にか蔵して置くらしい、がツくり窪んだ胸を、伸し且つ竦めるのであつた。 素直に伸びたのを其のまゝ撫でつけた白髪の其よりも、尚多いのは膚の皺で、就中最も深く刻まれたのが、脊を低く、丁ど糸車を前に、枯野の末に、埴生の小屋など引くるめた置物同然に媼を畳み込んで置くのらしい。一度胸を伸して後へ反るやうにした今の様子で見れば、瘠せさらぼうた脊丈、此の齢にしては些と高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本細いのがある背戸の榛の樹立の他に、珍しい枯木に見えよう。肉は干び、皮萎びて見るかげもないが、手、胸などの巌乗さ、渋色に亀裂が入つて下塗の漆で固めたやう、未だ〳〵目立つのは鼻筋の判然と通つて居る顔備と。 黒ずんだが鬱金の裏の附いた、はぎ〳〵の、之はまた美しい、褪せては居るが色々、浅葱の麻の葉、鹿子の緋、国の習で百軒から切一ツづゝ集めて継ぎ合す処がある、其のちやん〳〵を着て、前帯で坐つた形で。 彼の古戦場を過つて、矢叫の音を風に聞き、浅茅が原の月影に、古の都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此の媼が六十年の昔を推して、世にも希なる、容色よき上﨟としても差支はないと思ふ、何となく犯し難き品位があつた。其の尖つた顋のあたりを、すら〳〵と靡いて通る、綿の筋の幽に白きさへ、やがて霜になりさうな冷い雨。 少年は炉の上へ両手を真直に翳し、斜に媼の胸のあたりを窺うて、 「はあ其では、何か、他に通るものがあるんですか。」 媼は見返りもしないで、真向正面に渺々たる荒野を控へ、 「他に通るかとは、何がでござるの。」 「否、今謂つたぢやないか、人の通る路は廻り〳〵蜒つて居るつて。だから聞くんですが、他に何か歩行きますか。」 「やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、狐も犬も通りませいで。霧がかゝりや、歩かうず、雲が下りや、走らうず、蜈蚣も潜れば蝗も飛ぶわいの、」と孫にものいふやう、顧みて打微笑む。 二 此の口からなら、譬ひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふ処もなし、又然う信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓桂木氏、東京なる某学校の秀才で、今年夏のはじめから一種憂鬱な病にかゝり、日を経るに従うて、色も、心も死灰の如く、やがて石碑の下に形なき祭を享けるばかりになつたが、其の病の原因はと、渠を能く知る友だちが密に言ふ、仔細あつて世を早うした恋なりし人の、其の姉君なる貴夫人より、一挺最新式の猟銃を賜はつた。が、爰に差置いた即是。 武器を参らす、郊外に猟などして、自ら励まし給へ、聞くが如き其の容体は、薬も看護も効あらずと医師のいへば。但御身に恙なきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心を籠めた手紙を添へて、両三日以前に御使者到来。 凭りかゝつた胸の離れなかつた、机の傍にこれを受取ると、額に手を加ふること頃刻にして、桂木は猛然として立つたのである。 扨今朝、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新停車場で唯一人下り立つて、朝霧の濃やかな野中を歩して、雨になつた午の時過ぎ、媼の住居に駈け込んだまで、未だ嘗て一度も煙を銃身に絡めなかつた。 桂木は其の病まざる前の性質に復したれば、貴夫人が情ある贈物に酬いるため――函嶺を越ゆる時汽車の中で逢つた同窓の学友に、何処へ、と問はれて、修善寺の方へ蜜月の旅と答へた――最愛なる新婚の婦、ポネヒル姫の第一発は、仇に田鴫山鳩如きを打たず、願はくは目覚しき獲物を提げて、土産にしようと思つたので。 時ならぬ洪水、不思議の風雨に、隙なく線路を損はれて、官線ならぬ鉄道は其の停車場を更へた位、殊に桂木の一家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡々易からぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒野を跋渉して、目に見ゆるもの、手に立つもの、対手が人類の形でさへなかつたら、覚えの狙撃で射て取らうと言ふのであるから。 霧も雲も歩行くと語つた、仔細ありげな媼の言を物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草鞋の紐を解きかける。 油断はしないが俯向いたまゝ、 「私は又不思議な物でも通るかと思つて悚然とした、お媼さん、此様な処に一人で居て、昼間だつて怖しくはないのですか。」 桂木は疾く媼の口の、炎でも吐けよかしと、然り気なく誘ひかける。 媼は額の上に綿を引いて、 「何が恐しからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、狼より雨漏が恐しいと言ふわいの。」 と又背を屈め、胸を張り、手でこするが如くにし、外の方を覗いたが、 「むかうへむく〳〵と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此方の方から雲が出て、そろ〳〵両方から歩行びよつて、一所になる時が此の雨ぢや。びしよ〳〵降ると寒うござるで、老寄には何より恐しうござるわいの。」 「あゝ、私も雨には弱りました、じと〳〵其処等中へ染込んで、この気味の悪さと云つたらない、お媼さん。」 「はい、御難儀でござつたろ。」 「お邪魔ですが此処を借ります。」 桂木は足袋を脱ぎ、足の爪尖を取つて見たが、泥にも塗れず、綺麗だから、其のまゝ筵の上へ、ずいと腰を。 たとひ洗足を求めた処で、媼は水を汲んで呉れたか何うだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、小笹を風が渡るかと……音につれて積る白糸。 三 桂木は濡れた上衣を脱ぎ棄てた、カラアも外したが、炉のふちに尚油断なく、 「あゝ、腹が空いた。最う〳〵降るのと溜つたので濡れ徹つて、帽子から雫が垂れた時は、色も慾も無くなつて、筵が一枚ありや極楽、其処で寝たいと思つたけれど、恁うしてお世話になつて雨露が凌げると、今度は虫が合点しない、何ぞ食べるものはありませんか。」 「然ればなう、恐し気な音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時分には、客も少々はござつたで、瓜なと剥いて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。私が食る分ばかり、其も黍を焚いたのぢやほどに、迚もお口には合ふまいぞ。」 「否、飯は持つてます、何うせ、人里のないを承知だつたから、竹包にして兵糧は持参ですが、お菜にするものがないんです、何か些と分けて貰ひたいと思ふんだがね。」 媼は胸を折つてゆるやかに打頷き、 「それならば待たしやませ、塩ツぱいが味噌漬の香の物がござるわいなう。」 「待ちたまへ、味噌漬なら敢てお手数に及ぶまいと思ひます。」 |
君の手紙と東京から帰った会社の人の報告で東京の惨状はほぼ想像がつく。要するに「空襲恐るるに足らず」といった粗大な指導方針が事をここに至らしめたのだろう。敵が頭の上に来たら日本の場合防空はあり得ない、防空とは敵を洋上に迎え撃つこと以外にはないとぼくは以前から信じていたがまちがっていなかった。しかるにいまだ空襲の被害を過少評価しようとする傾向があるのは嘆かわしいことだ。この認識が是正せられないかぎり日本は危しといわねばならぬ。幾百万の精兵を擁していても戦力源が焼かれ破壊されてしまったら兵力が兵力にならぬ。空襲でほろびた国はないというのは前大戦時代の古い戦争学だと思う。ことに日本のような木造家屋の場合この定理は通用せぬ。 敵は近来白昼ゆうゆうと南方洋上に集結し編隊を組み、一時間も経過して侵入してくるが、ずいぶんみくびったやり方だと思う。どうせ都市上空で迎え撃つものなら、なぜ事前に一機でも墜してくれないのだろう。たとえ一トンの爆弾でも無効になるではないか。都市を守る飛行機が一機でもあるなら、なぜそれを侵入径路へふり向けないのだろう。どうもわからぬことが歯がゆい。 ぼくは近ごろ世界の動きというものが少しわかってきたような気がする。 日本がこの戦争で勝っても負けても世界の動きはほとんど変らないと思う。それはおそかれ早かれ共産国と民主国との戦争になるからだ。そのとき日本がもし健在ならば、いやでもおうでもどちらかにつかねばならぬようにされるだろう。自分はどちらでもないということは許されない。もしそんなことをいっていたら両方から攻められて分断されなければならない。それを避けようと思えば国論をいずれか一方に統一して態度をきめなければならぬ。そのためにはあるいは国内戦争がもちあがるかもわからぬ。要するにこの戦争で飛行機の性能と破壊力が頂点に達したため、地球の距離が百分の一に短縮され、短日月に大作戦が可能になった。それで地球上の統一ということがずっと容易になったのだ。そのかわり、現在の日本くらいの程度の生産力では真の意味の独立が困難になってきたのだ。 現在すでに真の独立国は英・米・ソ三国にすぎなくなっている。他の独立国は実は名のみで三つのうちいずれかの国にすがらないかぎり生きて行けなくなっている。 これは大資本の会社がどしどし小資本の会社を吸収するようなもので、現在の戦争はよほどの大生産力がなければやって行けない。したがって小資本の国は独力で戦争ができなくなり、自然大資本国に吸収されるわけだ。 さて民主国と共産国といずれが勝つかはなかなかわからないが、ぼくの想像では結局いつかは共産国が勝つのではないかと思う。そのわけは同じ戦力とすれば一方は思想戦で勝ち味があるだけ強いわけだ。 こうして一つの勢力に統一されればそれでとにかく一応戦争のない世界が実現するわけだ。しかし永久にというのではない。別の大勢力が生れてふたたびこれをひっくりかえすときにはまた戦争がある。しかし次にひっくりかえすやつはさらに新しい思想を持っていなければならぬから、それまでには非常に長い経過が必要になるわけだ。現在までのところ共産主義に対抗するだけの力を持った思想は生れていないし、これから生れるとしてもそれが成長し熟するまでにはすくなくとも百年くらいかかるだろうから、一度統一された世界ではそうちょいちょい戦争は起らないものと考えてよい。 まあこの夢物語りはここでおしまいだがこれが何十年先で当るか、案外近く実現するか、おなぐさみというところだ。 |
夜寒の細い往来を爪先上りに上つて行くと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電灯がともつてゐるが、柱に掲げた標札の如きは、殆ど有無さへも判然しない。門をくぐると砂利が敷いてあつて、その又砂利の上には庭樹の落葉が紛々として乱れてゐる。 砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると、これも亦古ぼけた格子戸の外は、壁と云はず壁板と云はず、悉く蔦に蔽はれてゐる。だから案内を請はうと思つたら、まづその蔦の枯葉をがさつかせて、呼鈴の鈕を探さねばならぬ。それでもやつと呼鈴を押すと、明りのさしてゐる障子が開いて、束髪に結つた女中が一人、すぐに格子戸の掛け金を外してくれる。玄関の東側には廊下があり、その廊下の欄干の外には、冬を知らない木賊の色が一面に庭を埋めてゐるが、客間の硝子戸を洩れる電灯の光も、今は其処までは照らしてゐない。いや、その光がさしてゐるだけに、向うの軒先に吊した風鐸の影も、反つて濃くなつた宵闇の中に隠されてゐる位である。 硝子戸から客間を覗いて見ると、雨漏りの痕と鼠の食つた穴とが、白い紙張りの天井に斑々とまだ残つてゐる。が、十畳の座敷には、赤い五羽鶴の毯が敷いてあるから、畳の古びだけは分明ではない。この客間の西側(玄関寄り)には、更紗の唐紙が二枚あつて、その一枚の上に古色を帯びた壁懸けが一つ下つてゐる。麻の地に黄色に百合のやうな花を繍つたのは、津田青楓氏か何かの図案らしい。この唐紙の左右の壁際には、余り上等でない硝子戸の本箱があつて、その何段かの棚の上にはぎつしり洋書が詰まつてゐる。それから廊下に接した南側には、殺風景な鉄格子の西洋窓の前に大きな紫檀の机を据ゑて、その上に硯や筆立てが、紙絹の類や法帖と一しよに、存外行儀よく並べてある。その窓を剰した南側の壁と向うの北側の壁とには、殆ど軸の挂かつてゐなかつた事がない。蔵沢の墨竹が黄興の「文章千古事」と挨拶をしてゐる事もある。木庵の「花開万国春」が呉昌蹟の木蓮と鉢合せをしてゐる事もある。が、客間を飾つてゐる書画は独りこれらの軸ばかりではない。西側の壁には安井曽太郎の油絵の風景画が、東側の壁には斎藤与里氏の油絵の艸花が、さうして又北側の壁には明月禅師の無絃琴と云ふ艸書の横物が、いづれも額になつて挂かつてゐる。その額の下や軸の前に、或は銅瓶に梅もどきが、或は青磁に菊の花がその時々で投げこんであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。 もし先客がなかつたなら、この客間を覗いた眼を更に次の間へ転じなければならぬ。次の間と云つても客間の東側には、唐紙も何もないのだから、実は一つ座敷も同じ事である。唯此処は板敷で、中央に拡げた方一間あまりの古絨毯の外には、一枚の畳も敷いてはない。さうして東と北の二方の壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでゐる。書物はそれでも詰まり切らないのか、ぢかに下の床の上へ積んである数も少くない。その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸だの法帖だの画集だのが雑然と堆く盛り上つてゐる。だから中央に敷いた古絨毯も、四方に並べてある書物のおかげで、派手なるべき赤い色が僅ばかりしか見えてゐない。しかもそのまん中には小さい紫檀の机があつて、その又机の向うには座蒲団が二枚重ねてある。銅印が一つ、石印が二つ三つ、ペン皿に代へた竹の茶箕、その中の万年筆、それから玉の文鎮を置いた一綴りの原稿用紙――机の上にはこの外に老眼鏡が載せてある事も珍しくない。その真上には電灯が煌々と光を放つてゐる。傍には瀬戸火鉢の鉄瓶が虫の啼くやうに沸つてゐる。もし夜寒が甚しければ、少し離れた瓦斯煖炉にも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机の後、二枚重ねた座蒲団の上には、何処か獅子を想はせる、脊の低い半白の老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐本の詩集を飜したりしながら、端然と独り坐つてゐる。…… |
一 「死者生者」 「文章倶楽部」が大正時代の作品中、諸家の記憶に残つたものを尋ねた時、僕も返事をしようと思つてゐるうちについその機会を失つてしまつた。僕の記憶に残つてゐるものはまづ正宗白鳥氏の「死者生者」である。これは僕の「芋粥」と同じ月に発表された為、特に深い印象を残した。「芋粥」は「死者生者」ほど完成してゐない。唯幾分か新しかつただけである。が、「死者生者」は不評判だつた。「芋粥」は――「芋粥」の不評判だつたのは吹聴せずとも善い。「読後感とでも云ふのかな。さう云ふものの深い短篇だね。」――僕は当時久米正雄君の「死者生者」を読んだ後、かう言つたことを覚えてゐる。が、「文章倶楽部」の問に応じた諸家は誰も「死者生者」を挙げてゐなかつたらしい。しかも「芋粥」は幸か不幸か諸家の答への中にはいつてゐる。 この事実の証明する通り、世人は新らしいものに注目し易い。従つて新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれるのである。しかしそれは必ずしも一爪痕を残すことではない、僕は未だに「死者生者」は「芋粥」などの比ではないと思つてゐる、のみならず又正宗氏自身も短篇作家としては、「死者生者」を書いた前後に最も芸術的ではなかつたかと思つてゐる。が、当時の正宗氏は必ずしも人気はなかつたらしい。 二 時代 僕は時々かう考へてゐる。――僕の書いた文章はたとひ僕が生まれなかつたにしても、誰かきつと書いたに違ひない。従つて僕自身の作品よりも寧ろ一時代の土の上に生えた何本かの艸の一本である。すると僕自身の自慢にはならない。(現に彼等は彼等を待たなければ、書かれなかつた作品を書いてゐる。勿論そこに一時代は影を落してゐるにしても。)僕はかう考へる度に必ず妙にがつかりしてしまふ。 三 日本の文芸の特色 日本の文芸の特色、――何よりも読者に親密(intime)であること。この特色の善悪は特に今は問題にしない。 四 アナトオル・フランス Nicolas Ségur の「アナトオル・フランスとの対話」によれば、この微笑した懐疑主義者は実に徹底した厭世主義者である。かう云ふ一面は Paul Gsell の「アナトオル・フランスとの対話」(?)にも現はれてゐない。彼は「あなたの作中人物は皆微笑してゐるではないか?」といふ問に対し、野蛮にもかう返事をしてゐる。――「彼等は憐憫の為に微笑してゐる。それは文芸上の技巧に過ぎない。」 このアナトオル・フランスの説によれば人生は唯意志する力と行為する力との上に安定してゐる。しかし我々は意志する為には一点に目を注がなければならぬ。それは何びとにも出来ることではない。殊に理智と感受性との呪ひを受けた我々には。 「エピキユウルの園」の思想家、ドレフイイユ事件のチヤンピオン、「ペングインの島」の作家だつた彼もここでは面目を新たにしてゐる。尤も唯物主義的に解釈すれば、彼の頽齢や病なども或は彼の人生観を暗いものにしてゐたかも知れない。しかしこれは彼の作品中、比較的等閑に附せられたものを、――或は事実上出来の悪いものを(たとへば「赤い卵」の如き)彼の一生の文芸的体系に結びつける綱を与へてゐる。病的な「赤い卵」なども彼には必然な作品だつたのであらう。僕はこの対話や書簡集から更に新らしい「アナトオル・フランス論」の書かれることを信じてゐる。 このアナトオル・フランスは十字架を背負つた牧羊神である。尤も新時代は彼の中に唯前世紀から今世紀に渡る橋を見出すばかりかも知れない。が、世紀末に人となつた僕はやはりかう云ふ彼の中に有史以来の僕等を見出してゐる。 五 自然主義 自然は僕等が一定の年齢に達した時、僕等に「春の目ざめ」を与へてゐる。それから僕等が餓ゑた時、烈しい食慾を与へてゐる。それから僕等が戦場に立つた時、弾丸を避ける本能を与へてゐる。それから何年か(或は何箇月か)同棲生活の後、その女人と交ることに対する嫌悪の情を与へてゐる。それから、…… しかし社会の命令は自然の命令と一致してゐない。のみならず屡反対してゐる。そればかりならば差支へない(?)。しかし僕等は僕等自身の中に自然の命令を否定する何か不思議なるものを持ち合せてゐる。従つてあらゆる自然主義者は理論上最左翼に立たなければならぬ。或は最左翼の向うにある暗黒の中に立たなければならぬ。 「地球の外へ!」と云ふボオドレエルの散文詩は決して机の上の産物ではない。 六 ハムズン 性慾の中に詩のあることは前人もとうに発見してゐた。が、食慾の中にも詩のあることはハムズンを待たなければならなかつたのである。何と云ふ僕等の間抜けさ加減! 七 語彙 「夜明け」と云ふ意味の「平明」はいつか「手のこまない」と云ふ意味に変り、「死んだ父」と云ふ意味の「先人」はいつか「古人」と云ふ意味に変つてゐる。僕自身も「姿」とか「形」とか云ふ意味に「ものごし」と云ふ言葉を使ひ、凄まじい火災の形容に「大紅蓮」と云ふ言葉を使つた。僕等の語彙はこの通り可也混乱を生じてゐる。「随一人」と云ふ言葉などは誰も「第一人」と云ふ意味に使はないものはない。が、誰も皆間違つてしまへば、勿論間違ひは消滅するのである。従つてこの混乱を救ふ為には、――一人残らず間違つてしまへ。 八 コクトオの言葉 「芸術は科学の肉化したものである」と云ふコクトオの言葉は中つてゐる。尤も僕の解釈によれば「科学の肉化したもの」と云ふ意味は「科学に肉をつけた」と云ふ意味ではない。科学に肉をつけることなどは職人でも容易に出来るであらう。芸術はおのづから血肉の中に科学を具へてゐる筈である。いろいろの科学者は芸術の中から彼等の科学を見つけるのに過ぎない。芸術の――或は直観の尊さはそこに存してゐるのである。 僕はこのコクトオの言葉の新時代の芸術家たちに方向を錯らせることを惧れてゐる。あらゆる芸術上の傑作は「二二が四」に終つてゐるかも知れない。しかし決して「二二が四」から始まつてゐるとは限らないのである。僕は必ずしも科学的精神を抛つてしまへと云ふのではない。が、科学的精神は詩的精神を重んずる所に逆説的にも潜んでゐると云ふ事実だけを指摘したいのである。 九 「若し王者たりせば」 「我若し王者たりせば」と云ふ映画によれば、あらゆる犯罪に通じてゐた抒情詩人フランソア・ヴイヨンは立派な愛国者に変じてゐる。それから又シヤロツト姫に対する純一無雑の恋人に変じてゐる。最後に市民の人気を集めた所謂「民衆の味かた」になつてゐる。が、若しチヤプリンさへ非難してやまない今日のアメリカにヴイヨンを生じたとすれば、――そんなことは今更のやうに言はずとも善い。歴史上の人物はこの映画の中のヴイヨンのやうに何度も転身を重ねるのであらう。「我若し王者たりせば」は実にアメリカの生んだ映画だつた。 僕はこの映画を見ながら、ヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜を数へ、「蓋棺の後」などと云ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獣化(?)かの外にある筈はない。しかし何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香を焚かれるのは唯「幸福なる少数」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には愛国者兼「民衆の味かた」兼模範的恋人として香を焚かれてゐるではないか? しかし僕の感情は僕のかう考へるうちにもやはりはつきりと口を利いてゐる。――「ヴイヨンは兎に角大詩人だつた。」 十 二人の紅毛画家 ピカソはいつも城を攻めてゐる。ジアン・ダアクでなければ破れない城を。彼は或はこの城の破れないことを知つてゐるかも知れない。が、ひとり石火矢の下に剛情にもひとり城を攻めてゐる。かう云ふピカソを去つてマテイスを見る時、何か気易さを感じるのは必しも僕一人ではあるまい。マテイスは海にヨツトを走らせてゐる。武器の音や煙硝の匂はそこからは少しも起つて来ない。唯桃色の白の縞のある三角の帆だけ風を孕んである。僕は偶然この二人の画を見、ピカソに同情を感ずると同時にマテイスには親しみや羨ましさを感じた。マテイスは僕等素人の目にもリアリズムに叩きこんだ腕を持つてゐる。その又リアリズムに叩きこんだ腕はマテイスの画に精彩を与へてゐるものの、時々画面の装飾的効果に多少の破綻を生じてゐるかも知れない。若しどちらをとるかと言へば、僕のとりたいのはピカソである。兜の毛は炎に焼け、槍の柄は折れたピカソである。…… |
宛先 大坂市西区松島十返町 武部種吉様方 発信地 東京市外巣鴨村宮仲二五八三 お手紙拝見。大坂に来てゐると云ふことはやつと半月ばかり前にききました。東京に来たのだつたら尋ねて来ればよかつたのに。本郷の菊富士ホテルと云ふことは今宿のうちでも代のうちでも知つてゐる筈、一寸きいてから来ればよかつた。うちからは四五日前たよりがあつた。突然に、盆前に金を送つてくれるやうにとの事だつたけれど、もう日数がないから、とりあえず手許にあつた拾円だけ送つて置きました。私も毎月でも送りたいと思ふが、流二を他所に預けて、その方に毎月十円近くとられるので、三十円や四十円とつた所でどうすることも出来ないのに、この二三ヶ月は体の具合がわるくて少しも仕事をしないで遊んでゐるので一層困ります。出来さえすればどうにでもするつもり。今宿へは今年一杯はかへれないと思ふ。来年になつたら早々にかへります。大阪には、もうよほどお馴れか、少しは知つた人が出来ましたか。私も時々はたよりをするから、そちらでも時々はハガキ位は書いて欲しい。こちらに用があつたら、面倒な事でなかつたら足してあげる。入用なものでもあつたら、とゝのへて送つてあげる。大阪では、国とも大分遠いから、体を大切にして病気になんかならぬやうになさい。私のことは心配しなくても大丈夫だから。そのうち大阪にでも行つたら会ひませう。大坂は特にあついから本当に体を大事におしなさい。 野枝 |
上 何小二は軍刀を抛り出すと、夢中で馬の頸にしがみついた。確かに頸を斬られたと思う――いや、これはしがみついた後で、そう思ったのかも知れない。ただ、何か頸へずんと音を立てて、はいったと思う――それと同時に、しがみついたのである。すると馬も創を受けたのであろう。何小二が鞍の前輪へつっぷすが早いか、一声高く嘶いて、鼻づらを急に空へ向けると、忽ち敵味方のごったになった中をつきぬけて、満目の高粱畑をまっしぐらに走り出した。二三発、銃声が後から響いたように思われるが、それも彼の耳には、夢のようにしか聞えない。 人の身の丈よりも高い高粱は、無二無三に駈けてゆく馬に踏みしだかれて、波のように起伏する。それが右からも左からも、あるいは彼の辮髪を掃ったり、あるいは彼の軍服を叩いたり、あるいはまた彼の頸から流れている、どす黒い血を拭ったりした。が、彼の頭には、それを一々意識するだけの余裕がない。ただ、斬られたと云う簡単な事実だけが、苦しいほどはっきり、脳味噌に焦げついている。斬られた。斬られた。――こう心の中に繰返しながら、彼は全く機械的に、汗みずくになった馬の腹を何度も靴の踵で蹴った。 ――――――――――――――――――――――――― 十分ほど前、何小二は仲間の騎兵と一しょに、味方の陣地から川一つ隔てた、小さな村の方へ偵察に行く途中、黄いろくなりかけた高粱の畑の中で、突然一隊の日本騎兵と遭遇した。それが余り突然すぎたので、敵も味方も小銃を発射する暇がない。少くとも味方は、赤い筋のはいった軍帽と、やはり赤い肋骨のある軍服とが見えると同時に、誰からともなく一度に軍刀をひき抜いて、咄嗟に馬の頭をその方へ立て直した。勿論その時は、万一自分が殺されるかも知れないなどと云うことは、誰の頭にもはいって来ない。そこにあるのは、ただ敵である。あるいは敵を殺す事である。だから彼等は馬の頭を立て直すと、いずれも犬のように歯をむき出しながら、猛然として日本騎兵のいる方へ殺到した。すると敵も彼等と同じ衝動に支配されていたのであろう。一瞬の後には、やはり歯をむき出した、彼等の顔を鏡に映したような顔が、幾つも彼等の左右に出没し始めた。そうしてその顔と共に、何本かの軍刀が、忙しく彼等の周囲に、風を切る音を起し始めた。 それから後の事は、どうも時間の観念が明瞭でない。丈の高い高粱が、まるで暴風雨にでも遇ったようにゆすぶれたり、そのゆすぶれている穂の先に、銅のような太陽が懸っていたりした事は、不思議なくらいはっきり覚えている。が、その騒ぎがどのくらいつづいたか、その間にどんな事件がどんな順序で起ったか、こう云う点になると、ほとんど、何一つはっきりしない。とにかくその間中何小二は自分にまるで意味を成さない事を、気違いのような大声で喚きながら、無暗に軍刀をふりまわしていた。一度その軍刀が赤くなった事もあるように思うがどうも手答えはしなかったらしい。その中に、ふりまわしている軍刀の欛が、だんだん脂汗でぬめって来る。そうしてそれにつれて、妙に口の中が渇いて来る。そこへほとんど、眼球がとび出しそうに眼を見開いた、血相の変っている日本騎兵の顔が、大きな口を開きながら、突然彼の馬の前に跳り出した。赤い筋のある軍帽が、半ば裂けた間からは、いが栗坊主の頭が覗いている。何小二はそれを見ると、いきなり軍刀をふり上げて、力一ぱいその帽子の上へ斬り下した。が、こっちの軍刀に触れたのは、相手の軍帽でもなければ、その下にある頭でもない。それを下から刎ね上げた、向うの軍刀の鋼である。その音が煮えくり返るような周囲の騒ぎの中に、恐しくかんと冴え渡って、磨いた鉄の冷かな臭を、一度に鋭く鼻の孔の中へ送りこんだ。そうしてそれと共に、眩く日を反射した、幅の広い向うの軍刀が、頭の真上へ来て、くるりと大きな輪を描いた。――と思った時、何小二の頸のつけ根へは、何とも云えない、つめたい物が、ずんと音をたてて、はいったのである。 ――――――――――――――――――――――――― 馬は、創の痛みで唸っている何小二を乗せたまま、高粱畑の中を無二無三に駈けて行った。どこまで駈けても、高粱は尽きる容子もなく茂っている。人馬の声や軍刀の斬り合う音は、もういつの間にか消えてしまった。日の光も秋は、遼東と日本と変りがない。 繰返して云うが、何小二は馬の背に揺られながら、創の痛みで唸っていた。が、彼の食いしばった歯の間を洩れる声には、ただ唸り声と云う以上に、もう少し複雑な意味がある。と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、呻吟していたのではない。精神的な苦痛のために――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、泣き喚いていたのである。 彼は永久にこの世界に別れるのが、たまらなく悲しかった。それから彼をこの世界と別れさせるようにした、あらゆる人間や事件が恨めしかった。それからどうしてもこの世界と別れなければならない彼自身が腹立しかった。それから――こんな種々雑多の感情は、それからそれへと縁を引いて際限なく彼を虐みに来る。だから彼はこれらの感情が往来するのに従って、「死ぬ。死ぬ。」と叫んで見たり、父や母の名を呼んで見たり、あるいはまた日本騎兵の悪口を云って見たりした。が、不幸にしてそれが一度彼の口を出ると、何の意味も持っていない、嗄れた唸り声に変ってしまう。それほどもう彼は弱ってでもいたのであろう。 「私ほどの不幸な人間はない。この若さにこんな所まで戦に来て、しかも犬のように訳もなく殺されてしまう。それには第一に、私を斬った日本人が憎い。その次には私たちを偵察に出した、私の隊の上官が憎い。最後にこんな戦争を始めた、日本国と清国とが憎い。いや憎いものはまだほかにもある。私を兵卒にした事情に幾分でも関係のある人間が、皆私には敵と変りがない。私はそう云ういろいろの人間のおかげで、したい事の沢山あるこの世の中と、今の今別れてしまう。ああ、そう云う人間や事情のするなりにさせて置いた私は、何と云う莫迦だろう。」 何小二はその唸り声の中にこんな意味を含めながら、馬の平首にかじりついて、どこまでも高粱の中を走って行った。その勢に驚いて、時々鶉の群が慌しくそこここから飛び立ったが、馬は元よりそんな事には頓着しない。背中に乗せている主人が、時々ずり落ちそうになるのにもかまわずに、泡を吐き吐き駈けつづけている。 だからもし運命が許したら、何小二はこの不断の呻吟の中に、自分の不幸を上天に訴えながら、あの銅のような太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通したのに相違ない。が、この平地が次第に緩い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、幅の狭い濁り川が、行方に明く開けた時、運命は二三本の川楊の木になって、もう落ちかかった葉を低い梢に集めながら、厳しく川のふちに立っていた。そうして、何小二の馬がその間を通りぬけるが早いか、いきなりその茂った枝の中に、彼の体を抱き上げて、水際の柔らかな泥の上へまっさかさまに抛り出した。 その途端に何小二は、どうか云う聯想の関係で、空に燃えている鮮やかな黄いろい炎が眼に見えた。子供の時に彼の家の廚房で、大きな竈の下に燃えているのを見た、鮮やかな黄いろい炎である。「ああ火が燃えている」と思う――その次の瞬間には彼はもういつか正気を失っていた。……… 中 馬の上から転げ落ちた何小二は、全然正気を失ったのであろうか。成程創の疼みは、いつかほとんど、しなくなった。が、彼は土と血とにまみれて、人気のない川のふちに横わりながら、川楊の葉が撫でている、高い蒼空を見上げた覚えがある。その空は、彼が今まで見たどの空よりも、奥深く蒼く見えた。丁度大きな藍の瓶をさかさまにして、それを下から覗いたような心もちである。しかもその瓶の底には、泡の集ったような雲がどこからか生れて来て、またどこかへ翛然と消えてしまう。これが丁度絶えず動いている川楊の葉に、かき消されて行くようにも思われる。 では、何小二は全然正気を失わずにいたのであろうか。しかし彼の眼と蒼空との間には実際そこになかった色々な物が、影のように幾つとなく去来した。第一に現れたのは、彼の母親のうすよごれた裙子である。子供の時の彼は、嬉しい時でも、悲しい時でも、何度この裙子にすがったかわからない。が、これは思わず彼が手を伸ばして、捉えようとする間もなく、眼界から消えてしまった。消える時に見ると、裙子は紗のように薄くなって、その向うにある雲の塊を、雲母のように透かせている。 その後からは、彼の生まれた家の後にある、だだっ広い胡麻畑が、辷るように流れて来た。さびしい花が日の暮を待つように咲いている、真夏の胡麻畑である。何小二はその胡麻の中に立っている、自分や兄弟たちの姿を探して見た。が、そこに人らしいものの影は一つもない。ただ色の薄い花と葉とが、ひっそりと一つになって、薄い日の光に浴している。これは空間を斜に横ぎって、吊り上げられたようにすっと消えた。 するとその次には妙なものが空をのたくって来た。よく見ると、燈夜に街をかついで歩く、あの大きな竜燈である。長さはおよそ四五間もあろうか。竹で造った骨組みの上へ紙を張って、それに青と赤との画の具で、華やかな彩色が施してある。形は画で見る竜と、少しも変りがない。それが昼間だのに、中へ蝋燭らしい火をともして、彷彿と蒼空へ現れた。その上不思議な事には、その竜燈が、どうも生きているような心もちがする、現に長い鬚などは、ひとりでに左右へ動くらしい。――と思う中にそれもだんだん視野の外へ泳いで行って、そこから急に消えてしまった。 それが見えなくなると、今度は華奢な女の足が突然空へ現れた。纏足をした足だから、細さは漸く三寸あまりしかない。しなやかにまがった指の先には、うす白い爪が柔らかく肉の色を隔てている。小二の心にはその足を見た時の記憶が夢の中で食われた蚤のように、ぼんやり遠い悲しさを運んで来た。もう一度あの足にさわる事が出来たなら、――しかしそれは勿論もう出来ないのに相違ない。こことあの足を見た所との間は、何百里と云う道程がある。そう思っている中に、足は見る見る透明になって、自然と雲の影に吸われてしまった。 その足が消えた時である。何小二は心の底から、今までに一度も感じた事のない、不思議な寂しさに襲われた。彼の頭の上には、大きな蒼空が音もなく蔽いかかっている。人間はいやでもこの空の下で、そこから落ちて来る風に吹かれながら、みじめな生存を続けて行かなければならない。これは何と云う寂しさであろう。そうしてその寂しさを今まで自分が知らなかったと云う事は、何と云うまた不思議な事であろう。何小二は思わず長いため息をついた。 この時、彼の眼と空との中には、赤い筋のある軍帽をかぶった日本騎兵の一隊が、今までのどれよりも早い速力で、慌しく進んで来た。そうしてまた同じような速力で、慌しくどこかへ消えてしまった。ああ、あの騎兵たちも、寂しさはやはり自分と変らないのであろう。もし彼等が幻でなかったなら、自分は彼等と互に慰め合って、せめて一時でもこの寂しさを忘れたい。しかしそれはもう、今になっては遅かった。 何小二の眼には、とめどもなく涙があふれて来た。その涙に濡れた眼でふり返った時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに満ちていたか、それは今更云う必要はない。彼は誰にでも謝りたかった。そうしてまた、誰をでも赦したかった。 「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を償うのだが。」 彼は泣きながら、心の底でこう呟いた。が、限りなく深い、限りなく蒼い空は、まるでそれが耳へはいらないように、一尺ずつあるいは一寸ずつ、徐々として彼の胸の上へ下って来る。その蒼い灝気の中に、点々としてかすかにきらめくものは、大方昼見える星であろう。もう今はあの影のようなものも、二度と眸底は横ぎらない。何小二はもう一度歎息して、それから急に唇をふるわせて、最後にだんだん眼をつぶって行った。 下 日清両国の間の和が媾ぜられてから、一年ばかりたった、ある早春の午前である。北京にある日本公使館内の一室では、公使館附武官の木村陸軍少佐と、折から官命で内地から視察に来た農商務省技師の山川理学士とが、一つテエブルを囲みながら、一碗の珈琲と一本の葉巻とに忙しさを忘れて、のどかな雑談に耽っていた。早春とは云いながら、大きなカミンに火が焚いてあるので、室の中はどうかすると汗がにじむほど暖い。そこへテエブルの上へのせた鉢植えの紅梅が時々支那めいた匂を送って来る。 二人の間の話題は、しばらく西太后で持ち切っていたが、やがてそれが一転して日清戦争当時の追憶になると、木村少佐は何を思ったか急に立ち上って、室の隅に置いてあった神州日報の綴じこみを、こっちのテエブルへ持って来た。そうして、その中の一枚を山川技師の眼の前へひろげると、指である箇所をさしながら、読み給えと云う眼つきをした。それがあまり唐突だったので、技師はちょいと驚いたが、相手の少佐が軍人に似合わない、洒脱な人間だと云う事は日頃からよく心得ている。そこで咄嗟に、戦争に関係した奇抜な逸話を予想しながら、その紙面へ眼をやると、果してそこには、日本の新聞口調に直すとこんな記事が、四角な字ばかりで物々しく掲げてあった。 ――街の剃頭店主人、何小二なる者は、日清戦争に出征して、屡々勲功を顕したる勇士なれど、凱旋後とかく素行修らず、酒と女とに身を持崩していたが、去る――日、某酒楼にて飲み仲間の誰彼と口論し、遂に掴み合いの喧嘩となりたる末、頸部に重傷を負い即刻絶命したり。ことに不思議なるは同人の頸部なる創にして、こはその際兇器にて傷けられたるものにあらず、全く日清戦争中戦場にて負いたる創口が、再、破れたるものにして、実見者の談によれば、格闘中同人が卓子と共に顛倒するや否や、首は俄然喉の皮一枚を残して、鮮血と共に床上に転び落ちたりと云う。但、当局はその真相を疑い、目下犯人厳探中の由なれども、諸城の某甲が首の落ちたる事は、載せて聊斎志異にもあれば、該何小二の如きも、その事なしとは云う可らざるか。云々。 山川技師は読み了ると共に、呆れた顔をして、「何だい、これは」と云った。すると木村少佐は、ゆっくり葉巻の煙を吐きながら、鷹揚に微笑して、 「面白いだろう。こんな事は支那でなくっては、ありはしない。」 「そうどこにでもあって、たまるものか。」 山川技師もにやにやしながら、長くなった葉巻の灰を灰皿の中へはたき落した。 「しかも更に面白い事は――」 少佐は妙に真面目な顔をして、ちょいと語を切った。 「僕はその何小二と云うやつを知っているのだ。」 「知っている? これは驚いた。まさかアッタッシェの癖に、新聞記者と一しょになって、いい加減な嘘を捏造するのではあるまいね。」 「誰がそんなくだらない事をするものか。僕はあの頃――屯の戦で負傷した時に、その何小二と云うやつも、やはり我軍の野戦病院へ収容されていたので、支那語の稽古かたがた二三度話しをした事があるのだ。頸に創があると云うのだから、十中八九あの男に違いない。何でも偵察か何かに出た所が我軍の騎兵と衝突して頸へ一つ日本刀をお見舞申されたと云っていた。」 「へえ、妙な縁だね。だがそいつはこの新聞で見ると、無頼漢だと書いてあるではないか。そんなやつは一層その時に死んでしまった方が、どのくらい世間でも助かったか知れないだろう。」 「それがあの頃は、極正直な、人の好い人間で、捕虜の中にも、あんな柔順なやつは珍らしいくらいだったのだ。だから軍医官でも何でも、妙にあいつが可愛いかったと見えて、特別によく療治をしてやったらしい。あいつはまた身の上話をしても、なかなか面白い事を云っていた。殊にあいつが頸に重傷を負って、馬から落ちた時の心もちを僕に話して聞かせたのは、今でもちゃんと覚えている。ある川のふちの泥の中にころがりながら、川楊の木の空を見ていると、母親の裙子だの、女の素足だの、花の咲いた胡麻畑だのが、はっきりその空へ見えたと云うのだが。」 木村少佐は葉巻を捨てて、珈琲茶碗を唇へあてながら、テエブルの上の紅梅へ眼をやって、独り語のように語を次いだ。 |
昨年の五月のこと所用のため上京して私は帝国ホテルにしばらく滞在した。上京する日まで私は不眠不休で仕事に没頭していたので、ホテルに落着いてからでも絵のことが頭の中に残っていて、自分では気づかなかったが、その時はかなりの疲労を来たしていたらしいのであった。らしい……と他人の体みたいに言うほど、元来私は自分のからだについては無関心で今まで来たのである。病気を病気と思わざれば即ち病気にあらず……とでも言いますか、とにかく私は仕事のためには病気にかまってはいられなかったのである。病気のお相手をするにはあまりに忙しすぎたのであった。 そのような訳で自分の体でありながら極度の疲労を来たしている自分の体を劬ってやる暇もなく私は上京するとホテルに一夜をあかした。 朝、眠りから醒めて床を出て洗面器のねじを開こうとしたがその日はどういう加減かねじがひどく硬かった。 はてすこし硬いなと思いながら手先に力をいれてそれをひねろうとした拍子に、頭の中をつめたい風がすう……と吹きすぎた。はっと思った瞬間に背中の筋がギクッと鳴った。 「失敗った」 と私は思わず口の中で呟いたが、体はそのままふんわりと浮き上り体中から冷たい汗が滲み出るのを感じ……それっきり私の体はその場へ倒れてしまったらしいのである。 用事もそこそこにホテルを引き揚げて私は京都の家へ帰って来たが、それ以来腰が痛くてどうにもたまらなかった。朝夕薬のシップやら種々手をつくし六十日ほどしてやっと直ったが、もともと仕事に無理をして来て自分の体を劬ってやらなかった報いだと諦めたが、それからというものは体の調子がちょっとでもいけなかったり疲れたりすると、腰や背のいたみが出て来て画室の掃除や書籍の持ち運びにも大へん苦しみを感じるようになってしまった。 三月頃から展覧会の出品画制作などで無理をつづけて来て体が疲労していたことはたしかであったが、ちょっとしたはずみから体の張りがゆるみ出すということは、よほど気をつけなくてはいけないと自戒すると同時に、これしきの頑張りでこのようになるのは、やはり年のせいとでもいうのであろうかと、そのときは少々淋しい気がしないでもなかった。 親しい医者に戻るなり看て貰うと、医者はそれごらんなさいといった顔をして、 「あなたほどの年配になると、そう若い人と同じように無理は通りませんよ。三十歳には三十歳に応じた無理でなければ通りません。六十歳の人が二十代の人の無理をしようとしてもそれは無理というものですよ」 と戒められた。私はそれ以来夜分はいっさい筆を執らないことにしている。 ふりかえってみれば、私という人間はずいぶんと若い頃から体に無理をしつづけて来たものである。よくこの年まで体が保ったものだと自分で自分の体に感心することがある。 若いころ春季の出品に明皇花を賞す図で、玄宗と楊貴妃が宮苑で牡丹を見る図を描いたときは、四日三晩のあいだ全くの一睡もしなかった。若い盛りのことでもあり、絵の方にも油がのりかかっていたころであったが、今考えれば驚くほどの無茶をしたものである。 展覧会の搬入締切日がだんだん近づいて来るし、決定的な構図が頭に浮かんで来ない。あせればあせるほど、いい考案も出て来ないという有様で、あれこれと迷っているうちにあと一週間という時になって始めて不動の構図に想い到った。 それからは不眠不休すべてをこの絵に注ぎこんでそれと格闘したのであった。別に眠るまいと決心して頑張った次第ではないが、締切日が迫って来たのと、描き出すとこちらが筆をやめようとしても手はいつの間にか絵筆をにぎって画布のところへ行っているという、いわば絵霊にとり憑かれた形で、とうとう四日三晩ぶっ通しに描きつづけてしまったのである。 「唐美人」で憶い出すのは梅花粧の故事漢の武帝の女寿陽公主の髪の形である。あれにはずいぶん思案をしたものである。 支那の当時の風俗画を調べるやら博物館や図書館などへ行って参考をもとめたが寿陽公主にぴったりした髪が見つからなかった。 髪の形で公主という品位を生かしもし殺しもするのでずいぶんと思い悩んだが、構図がすっかり纒まってから三日目にやっとそれを掴むことができたのである。博物館や図書館へ運んだ疲れた体で、画室をかき廻して参考書を調べ、それらの中にも見つからずうとうとと眠り、さて目ざめてから用を達しに後架へ行って手水鉢の水を一すくいし、それを庭のたたきへ何気なくぱっと撒いた瞬間、たたきの上に飛び散った水の形が髪になっていた。 「ほんにあれは面白い形やな」 私はそう呟いたがその時はからずあの公主の髪の形を見出したのであった。それにヒントを得て一気呵成にあの梅花粧の故事が出来上った訳であるが、これも美の神のご示現であろうと今でもそう思っている。 夜、家の者が寝静まってしまうと私も疲れを覚えて来て体をちょっと横たえようとし、そのあたりに散乱している絵具皿を片つけにかかる。ふと絵具皿の色に眼がつく。それが疲れ切った眼に不思議なくらい鮮明に映る。めずらしい色などその中にあると、 「おや、いつの間にこのような色を……ちょっと面白い色合いやなア」 と思わず眺め入ってしまう。それをここへ塗ったらとり合わせがいいなあ――とつい思ったりすると、いつの間にか右手は筆をもっている。識らず識らずのうちに仕事のつづきが続いている。 同じように、寝ようとしてふと眺め直した絵の線に一本でも気になるのがあると、 「すこしぐあいが悪いな……この線は」 とそれを見入っているうちに修正の手がのびているのである。そして識らず識らず夢中になって仕事をつづけている。興がのり出す。とうとう夜を徹してしまう。知らぬ間に朝が障子の外へ来ているということは、しばしばというよりは毎日のようなこともあった。 「はて、いつ一番鶏二番鶏が啼いたのであろう」 私は画室の障子がだんだん白みを加えてゆくのを眺めながら昨夜の夢中な仕事を振り返るのであった。 気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くためにだけ生きつづけて来たようにも思える。 それがまた自分にとってこの上もない満足感をあたえてくれるのである。 昭和十六年の秋に展覧会出品の仕事を前に控え、胃をこわして一週間ばかり寝込んでしまった。これも無理がたたったのであろう。 胃のぐあいが少しよくなった頃には、締切日があと十余日くらいになってしまった。 「夕暮」の絵の下図も出来ていたことだし自分としても気分のいい構図だったので何とかして招待日までに間に合わせたかったので、無理だと思ったが一年一度の制作を年のせいで間に合わせなかったなどと思われるのが残念さから、負けん気を起こして、これもまる一週間徹夜をつづけた。恐らくこれが私の強引制作の最後のものであろうと思う。 一週間徹夜――と言っても、少々は寝るのであるからこの時はさほどに疲労は来なかった。 夜中二時頃お薄を一服のむと精神が鎮まって目がさえる。それから明日の夕飯時ごろまで徹夜の延長をし、夕方お風呂を浴びてぐっすり寝る。すると十二時前に決まって目がさめる。それから絵筆をとって翌日の午後五、六時ごろまで書きつづけるのである。 一週間頑張って招待日にはどうにか運送のほうが間にあったので嬉しかった。 「夕暮」という作品が夜通しの一週間のほとんど夜分に出来上ったということも何かの暗示のように思えるのである。 医者が来てこんどは怒ったような顔をして言った。 「あなたは倒れるぎりぎりまで、やるさかいに失敗するのです。今にひどい目にあいますよ」 無理のむくいを恐れながらも私はいまだに興がのり出すと夜中にまで仕事が延長しそうになるのである。 警戒々々……そんな時には医者の言葉を守ってすぐに筆を擱く。そのかわりあくる朝は誰よりも早く起きて仕事にかかるのである。 |
プチロフ工場の兄弟と 蹶起した罷工の勇壮を讃えよ。 伝統と鉄鎖を打ち摧き 狂気したツアーの暴逆の中に 反逆の矢を射たのは彼等だ。 巨大なる世界の基礎を置き 不滅なる労働の旗の下に殉死したのも彼等だ。 彼等は全世界の曙光で有り宇宙廓清の最初の猛火だ。 彼等ではないか銃火と剣に突き刺され乍ら防砦を築いたのは。 身を持って戦術を教えたのは。 彼等は最後の敗戦で有り全世界最初の勝利だ。 彼等が銃弾の前に斃れた時 宇宙空前の太陽は孕まれていたではないか。 十月の紫の日の勝鬨は敗惨の中に兆していたではないか。 |
近頃時々我輩に建築の本義は何であるかなどゝ云ふ六ヶ敷い質問を提出して我輩を困らせる人がある。これは近時建築に對する世人の態度が極めて眞面目になり、徹底的に建築の根本義を解決し、夫れから出發して建築を起さうと云ふ考へから出たことで、この點に向つては我輩は衷心歡喜を禁じ得ぬのである。 去りながらこの問題は實は哲學の領分に屬するもので、容易に解決されぬ性質のものである。古來幾多の建築家や、思想家や、學者や、藝術家や、各方面の人がこの問題に就て考へた樣であるが、未だ曾て具體的徹底的な定説が確立されたことを聞かぬ。恐らくは今後も、永久に、定論が成立し得ぬと思ふ。若しも、建築の根本義が解決されなければ、眞正の建築が出來ないならば、世間の殆んど總ての建築は悉く眞正の建築でないことになるが、實際に於ては必しも爾く苛酷なるものではない。勿論この問題は專門家に由て飽迄も研究されねばならぬのであるが。我輩は、茲には深い哲學的議論には立ち入らないで、極めて通俗的に之に關する感想の一端を述べて見よう。 我輩は先づ建築の最も重要なる一例即ち住家を取て之を考へて見るに「住は猶食の如し」と云ふ感がある。食の本義に就て、生理衞生の學理を講釋した處で、夫れ丈けでは決して要領は得られない、何となれば、食の使命は人身の營養にあることは勿論であるが、誰でも實際に當つて一々營養の如何を吟味して食ふ者はない、第一に先づ味の美を目的として食ふのである。併し味の美なるものは多くは又同時に營養にも宜しいので、人は不知不識營養を得る處に天の配劑の妙機がある。然らば如何なる種類の食物が適當であるかと云ふ具體的の實際問題になると、その解決は甚だ面倒になる。熱國と寒國では食の適否が違ふ。同じ風土でも、人の年齡によつて適否が違ふ、同じ年齡でも體質職業等に從て選擇が違ふ。その上個人には特殊の性癖があつて、所謂好き嫌ひがあり、甲の好む處は乙が嫌ふ處であり、所謂蓼喰ふ蟲も好き好きである。その上個人の經濟状態に由て是非なく粗惡な食で我慢せねばならぬ人もあり、是非なく過量の美味を食はねばならぬ人もある。畢竟十人十色で、決して一律には行かぬもので食の本義とか理想とかを説いて見た處で實際問題としては餘り役に立たぬ。夫れよりは「精々うまい物を適度に食へ」と云ふのが最も簡單で要領を得た標語である。建築殊に住家でも、正にこの通りで、「精々善美なる建築を造れ」と云ふのが最後の結論である。然らば善美とは何であるかと反問するであらう。夫は食に關して述べた所と同工異曲で、建築に當てはめて云へば、善とは科學的條件の具足で美とは藝術的條件の具足である。さて、夫れが實際問題になると、土地の状態風土の關係、住者の身分、境遇、趣味、性癖、資産、家族、職業その他種々雜多の素因が混亂して互に相交渉するので、到底單純な理屈一遍で律することが出來ない。善と知りつゝも夫を行ふことが出來ない、美を欲しても夫を現はすことが出來ない、已を得ず缺點だらけの家を造つて、その中に不愉快を忍んで生活して居るのが大多數であらうと思ふ。 建築の本義は「善美」にあると云ふのは、我輩の現今の考へである。併し或る人は建築の本義は「安價で丈夫」にあると云ふかも知れぬ、又他の人は建築の本義は「美」であると云ふかも知れぬ。又他の人は建築の本義は「實」であると云ふかも知れぬ。孰れが正で孰れが邪であるかは容易に分らない。人の心理状態は個々に異なる、その心理は境遇に從て移動すべき性質を有て居る。自分の一時の心理を標準とし、之を正しいものと獨斷して、他の一時の心理を否認することは兎角誤妄に陷るの虞れがある。これは大に考慮しなければならぬ事である。 莫遮現今建築の本義とか理想とかに就て種々なる異論のあることは洵に結構なことである。建築界には絶へず何等かの學術的風波がなければならぬ、然らざれば沈滯の結果腐敗するのである。偶には激浪怒濤もあつて欲しい、惡風暴雨もあつて欲しい、と云つて我輩は決して亂を好むのではない、只だ空氣が五日の風に由て掃除され、十日の雨に由て淨められんことを希ふのである。世の建築家は勿論、一般人士が絶へず建築界に問題を提出して論議を鬪はすことは極めて必要なことである。假令その論議が多少常軌を逸しても夫は問題でない。これと同時にその論議を具體化した建築物の實現が更に望ましいことである。假令その成績に多少の缺點が認められても夫は問題でない。問題は各自その懷抱する所を遠慮なく披瀝した處のものが、所謂建築の根本義の解決に對して如何なる暗示を與へるか、如何なる貢献を致すかである。 建築の本義、夫は永久の懸案である。我輩は今俄かに之が解決を望まない、ただいつまでも研究をつゞけて行き度い、世に建築てふ物の存在する限り、いつまでも論議をつゞけて行き度い。今日建築の根本義が決定されなくとも深く憂ふるに及ばない。安んじて汝の好む所を食へ、然らば汝は養はれん。安んじて汝の好む家に住へ、然らば汝は幸福ならん。(了) |
中村さん。 私は目下例の通り断り切れなくなつて、引き受けた原稿を、うんうん云ひながら書いてゐるので、あなたの出された問題に応じる丈、頭を整理してゐる余裕がありません。そこへあなたのよこした手紙をよみかけた本の間へ挾んだきり、ついどこかへなくなしてしまひました。だから、私には答ふべき問題の性質そのものも、甚だ漠然としてゐる訣です。 が、大体あなたの問題は「どんな要求によつて小説を書くか」と云ふ様な事だつたと記憶してゐます。その要求を今便宜上、直接の要求と云ふ事にして下さい。さうすれば、私は至極月並に、「書きたいから書く」と云ふ答をします。之は決して謙遜でも、駄法螺でもありません。現に今私が書いてゐる小説でも、正に判然と書きたいから書いてゐます。原稿料の為に書いてゐない如く、天下の蒼生の為にも書いてゐません。 ではその書きたいと云ふのは、どうして書きたいのだ――あなたはかう質問するでせう。が、夫は私にもよくわかりません。唯私にわかつてゐる範囲で答へれば、私の頭の中に何か混沌たるものがあつて、それがはつきりした形をとりたがるのです。さうしてそれは又、はつきりた形をとる事それ自身の中に目的を持つてゐるのです。だからその何か混沌たるものが一度頭の中に発生したら、勢いやでも書かざるを得ません。さうするとまあ、体のいい恐迫観念に襲はれたやうなものです。 あなたがもう一歩進めて、その渾沌たるものとは何だと質問するなら、又私は窮さなければなりません。思想とも情緒ともつかない。――やつぱりまあ渾沌たるものだからです。唯その特色は、それがはつきりした形をとる迄は、それ自身になり切らないと云ふ点でせう。でせうではない。正にさうです。この点だけは外の精神活動に見られません。だから(少し横道にはいれば)私は、芸術が表現だと云ふ事はほんたうだと思つてゐます。 まづ大体こんな事が、私に小説を書かせる直接な要求です。勿論間接にはまだ色々な要求があるでせう。或はその中に、人道的と云ふ形容詞を冠らせられるやうなものも交つてゐるかも知れません。が、それはどこまでも間接な要求です。私は始終、平凡に、通俗に唯書きたいから書いて来ました。今後も又さうするでせう。又さうするより外に、仕方がありません。 まだこの外、あなたの手紙には、態度とか何とか云ふ語があつたやうです。或はなかつたかも知れませんが、もしあつたとすれば、その答は、私が直接の要求を「書きたいから書く」事に置いたので、略わかるでせう。それから又、問題が私にはつきりしてゐない為に私の答へた所でも、あなたの要求された所と一致しなかつたかも知れません。それも不悪大目に見て置いて下さい。以上 |
「蟹です、あのすくすくと刺のある。……あれは、東京では、まだ珍らしいのですが、魚市をあるいていて、鮒、鰡など、潟魚をぴちゃぴちゃ刎ねさせながら売っているのと、おし合って……その茨蟹が薄暮方の焚火のように目についたものですから、つれの婦ども、家内と、もう一人、親類の娘をつれております。――ご挨拶をさせますのですが。」 画工、穂坂一車氏は、軽く膝の上に手をおいた。巻莨を火鉢にさして、 「帰りがけの些細な土産ものやなにか、一寸用達しに出掛けておりますので、失礼を。その娘の如きは、景色より、見物より、蟹を啖わんがために、遠路くッついて参りましたようなもので。」 「仕合せな蟹でありますな。」 五十六七にもなろう、人品のいい、もの柔かな、出家容の一客が、火鉢に手を重ねながら、髯のない口許に、ニコリとした。 「食われて蟹が嬉しがりそうな別嬪ではありませんが、何しろ、毎日のように、昼ばたごから――この旅宿の料理番に直接談判で蟹を食ります。いつも脚のすっとした、ご存じの楚蟹の方ですから、何でも茨を買って帰って――時々話して聞かせます――一寸幅の、ブツ切で、雪間の紅梅という身どころを噛ろうと、家内と徒党をして買ったのですが、年長者に対する礼だか、離すまいという喰心坊だか、分りません。自分で、赤鬼の面という……甲羅を引からげたのを、コオトですか、羽織ですか、とに角紫色の袖にぶら下げた形は――三日月、いや、あれは寒い時雨の降ったり留んだりの日暮方だから、蛇の目とか、宵闇の……とか、渾名のつきそうな容子で。しかし、もみじや、山茶花の枝を故と持って、悪く気取って歩行くよりはましだ、と私が思うより、売ってくれた阿媽の……栄螺を拳で割りそうなのが見兼ねましてね、(笊一枚散財さっせい、二銭か、三銭だ、目の粗いのでよかんべい。)……いきなり、人混みと、ぬかるみを、こね分けて、草鞋で飛出して、(さあさあ山媽々が抱いて来てやったぞ)と、其処らの荒物屋からでしょう、目笊を一つ。おどけて頭へも被らず、汚れた襟のはだかった、胸へ、両手で抱いて来ましたのは、形はどうでも、女ごころは優しいものだと思った事です。」 客僧は、言うも、聞くも、奇特と思ったように頷いた。 「値をききました始めから、山媽々が、品は受合うぞの、山媽々が、今朝しらしらあけに、背戸の大釜でうで上げたの、山媽々が、たった今、お前さんたちのような、東京ものだろう、旅の男に、土産にするで三疋売ったなどと、猛烈に饒舌るのです。――背戸で、蟹をうでるなら、浜の媽々でありそうな処を、おかしい、と婦どもも話したのですが。――山だの――浜だの、あれは市の場所割の称えだそうで、従って、浜の娘が松茸、占地茸を売る事になりますのですね。」 「さようで。」 と云って、客僧は、丁寧にまたうなずいた。 「すぐ電車で帰りましょうと、大通……辻へ出ますと、電車は十文字に往来する。自動車、自転車。――人の往来は織るようで、申しては如何ですが、唯表側だけでしょうけれど、以前は遠く視められました、城の森の、石垣のかわりに、目の前に大百貨店の電燈が、紅い羽、翠の鏃の千の矢のように晃々と雨道を射ています。魚市の鯛、蝶、烏賊蛸を眼下に見て、薄暗い雫に――人の影を泳がせた処は、喜見城出現と云った趣もありますが。 また雨になりました。 電燈のついたばかりの、町店が、一軒、檐下のごく端近で、大蜃の吹出したような、湯気をむらむらと立てると、蒸籠から簀の子へぶちまけました、うまそうな、饅頭と、真黄色な?……」 「いが餅じゃ、ほうと、……暖い、大福を糯米でまぶしたあんばい、黄色う染めた形ゆえ、菊見餅とも申しますが。」 「ああ、いが餅……菊見餅……」 「黒餡の安菓子……子供だまし。……詩歌にお客分の、黄菊白菊に対しては、聊か僭上かも知れぬのでありますな。」 と骨ばった、しかし細い指を、口にあてて、客僧は軽く咳いた。 「――一別以来、さて余りにもお久しい。やがて四十年ぶり、初めてのあなたに、……ただ心ばかり、手づくりの手遊品を、七つ八つごろのお友だち、子供にかえった心持で持参しました。これをば、菊細工、菊人形と、今しがた差出て名告りはしましたものの、……お話につけてもお恥かしい。中味は安餡の駄菓子、まぶしものの、いが細工、餅人形とも称えますのが適当なのでありましたよ。」 寛いだ状に袖を開いて、胸を斜に見返った。卓子台の上に、一尺四五寸まわり白木の箱を、清らかな奉書包、水引を装って、一羽、紫の裏白蝶を折った形の、珍らしい熨斗を添えたのが、塵も置かず、据えてある。 穂坂は一度取って量を知った、両手にすっと軽く、しかし恭しく、また押戴いて据直した。 「飛でもないお言葉です。――何よりの品と申して、まだ拝見をいたしません。――頂戴をしますと、そのまた、玉手箱以上、あけて見たいのは山々でございました。が、この熨斗、この水引、余りお見事に遊ばした。どうにか絵の具は扱いますが、障子もはれない不器用な手で、しかもせっかちのせき心、引き毮りでもしましては余りに惜い。蟹を噛るのは難ですが、優しい娘ですから、今にも帰りますと、せめて若いものの手で扱わせようと存じまして、やっとがまんをしましたほどです。」 ――話に機かけをつけるのではない。ごめん遊ばせと、年増の女中が、ここへ朱塗の吸物膳に、胡桃と、鶇、蒲鉾のつまみもので。……何の好みだか、金いりの青九谷の銚子と、おなじ部厚な猪口を伏せて出た。飲みてによって、器に説はあろうけれども、水引に並べては、絵の秋草もふさわしい。卓子台の上は冬の花野で、欄間越の小春日も、朗かに青く明るい。――客僧の墨染よ。 「一献頂戴の口ではいかがですか、そこで、件の、いが餅は?」 一車は急しく一つ手酌して、 「子供のうち大好きで、……いやお話がどうも、子供になります。胎毒ですか、また案じられた種痘の頃でしたか、卯辰山の下、あの鶯谷の、中でも奥の寺へ、祖母に手を引れては参詣をしました処、山門前の坂道が、両方森々とした樹立でしょう。昼間も、あの枝、こっちの枝にも、頭の上で梟が鳴くんです。……可恐い。それに歩行かせられるのに弱って、駄々をこねますのを(七日まいり、いが餅七つ。)と、すかされるので、(七日まいり、いが餅七つ。)と、唄に唄って、道草に、椎や、団栗で数とりをした覚えがあります。それなんですから。…… ほかほかと時雨の中へ――餅よりは黄菊の香で、兎が粟を搗いたようにおもしろい。あれはうまい、と言いますと、電車を待って雨宿りをしていたのが、傘をざらりと開けて、あの四辻を饅頭屋へ突切ったんです。――家内という奴が、食意地にかけては、娘にまけない難物で、ラジオででも覚えたんでしょう。球も鞠も分らない癖に、ご馳走を取込むせつは相競って、両選手、両選手というんですから。いが餅、饅頭の大づつみを、山媽々の籠の如くに抱いて戻ると、来合わせた電車――これが人の瀬の汐時で、波を揉合っていますのに、晩飯前で腹はすく、寒し……大急ぎで乗ったのです。処が、並んで真中へ立ちました。近くに居ると、頬辺がほてるくらい、つれの持った、いが、饅頭が、ほかりと暖い。暖いどころか、あつつ、と息を吹く次第で。……一方が切符を買うのに、傘は私が預り、娘が餅の手がわりとなる、とどうでしょう。薄ゴオトで澄ましたはいいが、裙をからげて、長襦袢の紅入を、何と、引さばいたように、赤うでの大蟹が、籠の目を睨んで、爪を突張る……襟もとからは、湯上りの乳ほどに、ふかしたての餅の湯気が、むくむくと立昇る。……いやアたなびく、天津風、雲の通路、といったのがある。蟹に乗ってら、曲馬の人魚だ、といううちに、その喜見城を離れて行く筈の電車が、もう一度、真下の雨に漾って、出て来た魚市の方へ馳るのです。方角が、方角が違ったぞ、と慌てる処へ、おっぱいが飲みたい、とあびせたのがあります。耳まで真赤になる処を、娘の顔が白澄んで青味が出て来た。狐につままれたか知ら、車掌さん済みませんが乗りかえを、と家内のやつが。人のいい車掌でした。……黙って切ってくれて、ふふふんと笑うと、それまで堪えていたらしい乗客が一斉に哄と吹出したじゃありませんか。次の停車場へ着くが早いか、真暗三宝です。飛降同然。――処が肝心の道案内の私に、何処だか町が分りません。どうやら東西だけは分っているようですけれども、急に暗くなった処へ、ひどい道です。息休めの煙草の火と、暗い町の燈が、うろつく湯気に、ふわふわ消えかかる狐火で、心細く、何処か、自動車、俥宿はあるまいかと、また降出した中を、沼を拾う鷺の次第――古外套は鷭ですか。――ええ電車、電車飛でもない、いまのふかし立ての饅頭の一件ですもの。やっと、自動車で宿へ帰って――この、あなた、隣の室で、いきなり、いが餅にくいつくと、あ熱、……舌をやけどしたほどですよ。で、その自動車が、町の角家で見つかりました時、夜目に横町をすかしますと、真向うに石の鳥居が見えるんです。呆れもしない、何の事です。……あなたと、ご一所、私ども、氏神様の社なんじゃありませんか。三羽、羽掻をすくめてまごついた処は、うまれた家の表通りだったのですから……笑事じゃありません。些と変です。変に、気味が悪い。尤も、当地へ着きますと、直ぐ翌日、さいわい、誂えたような好天気で、歩行くのに、ぼっと汗ばみますくらい、雛が巣に返りました、お鳥居さきから、帽も外套も脱いでお参りをしたのです。が、拝殿の、階の、あの擬宝珠の裂けた穴も昔のままで、この欄干を抱いて、四五尺、辷ったり、攀登ったか、と思うと、同じ七つ八つでも、四谷あたりの高い石段に渡した八九間の丸太を辷って、上り下りをする東京は、広いものです。それだけ世渡りに骨が折れます訳だと思います。いや、……その時参詣をしていましたから、気安めにはなりましたものの、実は、ふかし立ての餅菓子と茨蟹で電車などは、些と不謹慎だったのですから。」 「それも旅の一興。」 と、客僧は、忍辱の手をさしのべて、年下の画工を、撫でるように言ったのである。 「が、しかし、故郷に対して、礼を失したかも知れません。ですから、氏神、本殿の、名剣宮は、氏子の、こんな小僧など、何を刎ねようと、蜻蛉が飛んでるともお心にはお掛けなさいますまい。けれども、境内のお末社には、皆が存じた、大分、悪戯ずきなのがおいでになります。……奥の院の、横手を、川端へ抜けます、あのくらがり坂へ曲る処……」 「はあ、稲荷堂。――」 「すぐ裏が、あいもかわらず、崩れ壁の古い土塀――今度見ました時も、落葉が堆く、樹の茂りに日も暗し、冷い風が吹きました。幅なら二尺、潜り抜け二間ばかりの処ですが、御堂裏と、あの塀の間は、いかなるわんぱくと雖も、もぐる事は措き、抜けも、くぐりも絶対に出来なかった。……思出しても気味の悪い処ですから、耳は、尖り、目は、たてに裂けたり、というのが、じろりと視て、穂坂の矮小僧、些と怯かして遣ろう、でもって、魚市の辻から、ぐるりと引戻されたろうと、……ですね、ひどく怯えなければならない処でした。何しろ、昔から有名な、お化稲荷。……」 と、言いかけると、清く頬のやせた客僧が、掌を上げて、またニコリとしながら、頭を一つ、つるりと撫でた。 「われは化けたと思えども、でござろうかな。……彼処を、礼さん。」―― 急に親しく、画工を、幼名に呼びかけて、 「はて、彼処をさように魔所あつかい、おばけあつかいにされましてはじゃ、この似非坊主、白蔵主ではなけれども、尻尾が出そうで、擽っとうてならんですわ。……口上で申通じたばかり、世外のものゆえ、名刺の用意もしませず――住所もまだ申さなんだが、実は、あの稲荷の裏店にな、堂裏の崩塀の中に住居をします。」 という、顔の色が、思いなしでも何でもない、白樺の皮に似て、由緒深げに、うそ寂しい。 が、いよいよ柔和に、温容で、 「じゃが、ご心配ないようにな、暗い冷い処ではありません――ほんの掘立の草の屋根、秋の虫の庵ではありますが、日向に小菊も盛です。」 と云って、墨染の袖を、ゆったりと合わせた。――さて聞けば、堂裏のそのくずれ塀の穴から、前日、穂坂が、くらがり坂を抜けたのを見たのだという。時に、日あたりの障子の白さが、その客僧の頬に影を積んで、むくむくと白い髯さえ生えたように見える。官吏もした、銀行に勤めもした――海外の貿易に富を積んだ覚えもある。派手にも暮らし、寂しくも住み、有為転変の世をすごすこと四十余年、兄弟とも、子とも申さず、唯血族一統の中に、一人、海軍の中将を出したのを、一生の思出に、出離隠遁の身となんぬ。世には隠れたれども、土地、故郷の旧顔ゆえ、いずれ旅店にも懇意がある。それぞれへ聞合わせて、あまりの懐しさに、魚市の人ごみにも、電車通りの雑沓にも、すぎこしかたの思出や、おのが姿を、化けた尻尾の如く、うしろ姿に顧み、顧み、この宿を訪ねたというのである。 一車は七日逗留した。――今夜立って帰京する……既に寝台車も調えた。荷造りも昨夜かたづけた。ゆっくりと朝餉を済まして、もう一度、水の姿、山の容を見に出よう。さかり場を抜けながら。で、婦は、もう座敷を出かかった時であった。 女中が来て、お目にかかりたいお人がある……香山の宗参――と伝えて、と申されました、という。……宗さん――余りの思掛けなさに、一車は真昼に碧い星を見る思がしたそうである。いや、若じにをされて、はやくわかれた、母親の声を、うつくしく、かすかな、雲間から聞く思いがした、と言うのである。玉の緒の糸絶えておよそ幾十年の声であろう。香山の宗さん――自分で宗さんと名のるのも、おかしいといえばおかしい……あとで知れた、僧名、宗参との事であるが、この名は、しかも、幼い時の記憶のほか、それ以来の環境、生活、と共に、他人に呼び、自分に語る機会と云っては実に一度もなかった。だから、なき母からすぐに呼続がれたと同じに思った。香山の宗さん。宗さんと、母親の慈愛の手から、学校にも、あそびにも、すぐにその年上の友だちの手にゆだねられるのがならいだったからである。念のために容子を聞くと、年紀は六十近い、被布を着ておらるるが、出家のようで、すらりと痩せた、人品の好い法体だという。騎馬の将軍というより、毛皮の外套の紳士というより、遠く消息の断えた人には、その僧形が尚お可懐い。「ああ、これは――小学校へ通いはじめに、私の手を曳いてつれてってくれた、町内の兄哥だ。」と、じとじとと声がしめると、立がけの廊下から振返って、「おばさんと手をひかれるのとどっち?」「……」と呆れた顔して、「おばさんに聞いてごらん。」「じゃあ、私と、どっち。」どうも、そういう外道は、速かに疎遠して、僧形の餓鬼大将を迎えるに限る。……。 女どもを出掛けさせ、慌しく一枚ありあわせの紋のついた羽織を引掛け、胸の紐を結びもあえず、恰も空いていたので、隣の上段へ招じたのであった。 「――特に、あの御堂は、昔から神体がわかりません。……第一何と申すか、神名がおありなさらないのでありましてな、唯至って古い、一面の額に、稲荷明神――これは誰が見ても名書であります。惜い事に、雨露、霜雪に曝され、蝕もあり、その額の裏に、彩色した一叢の野菊の絵がほのかに見えて、その一本の根に(きく)という仮名があります。これが願主でありますか――或は……いや実は仔細あって、右の額は、私が小庵に預ってありましてな、内々で、因縁いわれを、朧気ながら存ぜぬでもありませぬじゃが、日短と申し、今夕はおたちと言う、かく慌しい折には、なかなか申尽されますまい。……と申す下から……これはまた種々お心づかいで、第一、鯛ひらめの白いにもいたせ、刺身を頬張った口からは、些と如何かと存じますので――また折もありましょうと存じますが、ともかく、祭られましたは、端麗な女体じゃ、と申します。秘密の儀で。…… さて、随縁と申すは、妙なもので、あなたはその頃、鬼ごっこ、かくれん坊――勿論、堂裏へだけはお入りなさらなかったであろうが、軍ごっこ。棕櫚箒の朽ちたのに、溝泥を掻廻して……また下水の悪い町内でしたからな……そいつを振廻わすのが、お流儀でしたな。」 「いや、どうも……」 「ははは、いやどうも、あの車がかりの一術には、織田、武田。……子供どころか、町中が大辟易。いつも取鎮め役が、五つ、たしか五つと思います、年上の私でしてな。かれこれ、お覚えはあるまいけれども、町内の娘たちが、よく朝晩、あのお堂へ参詣をしたものです。その女体にあやかったのと、また、直接に申すのも如何じゃけれど、あなたのお母さんが、ご所有だった――参勤交代の屋敷方は格別、町屋には珍らしい、豊国、国貞の浮世絵――美人画。それを間さえあれば見に集る……と、時に、その頃は、世なみがよく、町も穏で、家々が皆相応にくらしていましたから、縞、小紋、友染、錦絵の風俗を、そのまま誂えて、着もし、着せたのでもありました。 江戸絵といった、江戸絵の小路と、他町までも申しましたよ。またよく、いい娘さんが揃っていました。(高松のお藤さん)(長江のお園さん、お光さん)医師の娘が三人揃って、(百合さん)(婦美さん)(皐月さん)歯を染めたのでは、(お妾のお妻さん)(割鹿の子のお京さん)――極彩色の中の一人、(薄墨の絵のお銀さん)――小銀のむかし話を思わせます――継子ではないが、預り娘の掛人居候。あ、あ、根雪の上を、その雪よりも白い素足で、草履ばきで、追立て使いに、使いあるき。それで、なよなよとして、しかも上品でありました。その春の雪のような膚へ――邪慳な叔父叔母に孝行な真心が、うっすりと、薄紅梅の影になって透通る。いや、お話し申すうちにも涙が出ますが、間もなくあわれに消えられました。遠国へな。――お覚えはありませんか、よく、礼さん、あなたを抱いた娘ですよ。」 「済まない事です――墓も知りません。」 一車が、聞くうちに、ふと涙ぐんだのを見ると、宗参は、急に陽気に、 |
八っちゃんが黒い石も白い石もみんなひとりで両手でとって、股の下に入れてしまおうとするから、僕は怒ってやったんだ。 「八っちゃんそれは僕んだよ」 といっても、八っちゃんは眼ばかりくりくりさせて、僕の石までひったくりつづけるから、僕は構わずに取りかえしてやった。そうしたら八っちゃんが生意気に僕の頬ぺたをひっかいた。お母さんがいくら八っちゃんは弟だから可愛がるんだと仰有ったって、八っちゃんが頬ぺたをひっかけば僕だって口惜しいから僕も力まかせに八っちゃんの小っぽけな鼻の所をひっかいてやった。指の先きが眼にさわった時には、ひっかきながらもちょっと心配だった。ひっかいたらすぐ泣くだろうと思った。そうしたらいい気持ちだろうと思ってひっかいてやった。八っちゃんは泣かないで僕にかかって来た。投げ出していた足を折りまげて尻を浮かして、両手をひっかく形にして、黙ったままでかかって来たから、僕はすきをねらってもう一度八っちゃんの団子鼻の所をひっかいてやった。そうしたら八っちゃんは暫く顔中を変ちくりんにしていたが、いきなり尻をどんとついて僕の胸の所がどきんとするような大きな声で泣き出した。 僕はいい気味で、もう一つ八っちゃんの頬ぺたをなぐりつけておいて、八っちゃんの足許にころげている碁石を大急ぎでひったくってやった。そうしたら部屋のむこうに日なたぼっこしながら衣物を縫っていた婆やが、眼鏡をかけた顔をこちらに向けて、上眼で睨みつけながら、 「また泣かせて、兄さん悪いじゃありませんか年かさのくせに」 といったが、八っちゃんが足をばたばたやって死にそうに泣くものだから、いきなり立って来て八っちゃんを抱き上げた。婆やは八っちゃんにお乳を飲ませているものだから、いつでも八っちゃんの加勢をするんだ。そして、 「おおおお可哀そうに何処を。本当に悪い兄さんですね。あらこんなに眼の下を蚯蚓ばれにして兄さん、御免なさいと仰有いまし。仰有らないとお母さんにいいつけますよ。さ」 誰が八っちゃんなんかに御免なさいするもんか。始めっていえば八っちゃんが悪いんだ。僕は黙ったままで婆やを睨みつけてやった。 婆やはわあわあ泣く八っちゃんの脊中を、抱いたまま平手でそっとたたきながら、八っちゃんをなだめたり、僕に何んだか小言をいい続けていたが僕がどうしても詫ってやらなかったら、とうとう 「それじゃよう御座んす。八っちゃんあとで婆やがお母さんに皆んないいつけてあげますからね、もう泣くんじゃありませんよ、いい子ね。八っちゃんは婆やの御秘蔵っ子。兄さんと遊ばずに婆やのそばにいらっしゃい。いやな兄さんだこと」 といって僕が大急ぎで一かたまりに集めた碁石の所に手を出して一掴み掴もうとした。僕は大急ぎで両手で蓋をしたけれども、婆やはかまわずに少しばかり石を拾って婆やの坐っている所に持っていってしまった。 普段なら僕は婆やを追いかけて行って、婆やが何んといっても、それを取りかえして来るんだけれども、八っちゃんの顔に蚯蚓ばれが出来ていると婆やのいったのが気がかりで、もしかするとお母さんにも叱られるだろうと思うと少し位碁石は取られても我慢する気になった。何しろ八っちゃんよりはずっと沢山こっちに碁石があるんだから、僕は威張っていいと思った。そして部屋の真中に陣どって、その石を黒と白とに分けて畳の上に綺麗にならべ始めた。 八っちゃんは婆やの膝に抱かれながら、まだ口惜しそうに泣きつづけていた。婆やが乳をあてがっても呑もうとしなかった。時々思い出しては大きな声を出した。しまいにはその泣声が少し気になり出して、僕は八っちゃんと喧嘩しなければよかったなあと思い始めた。さっき八っちゃんがにこにこ笑いながら小さな手に碁石を一杯握って、僕が入用ないといったのも僕は思い出した。その小さな握拳が僕の眼の前でひょこりひょこりと動いた。 その中に婆やが畳の上に握っていた碁石をばらりと撒くと、泣きじゃくりをしていた八っちゃんは急に泣きやんで、婆やの膝からすべり下りてそれをおもちゃにし始めた。婆やはそれを見ると、 「そうそうそうやっておとなにお遊びなさいよ。婆やは八っちゃんのおちゃんちゃんを急いで縫い上ますからね」 といいながら、せっせと縫物をはじめた。 僕はその時、白い石で兎を、黒い石で亀を作ろうとした。亀の方は出来たけれども、兎の方はあんまり大きく作ったので、片方の耳の先きが足りなかった。もう十ほどあればうまく出来上るんだけれども、八っちゃんが持っていってしまったんだから仕方がない。 「八っちゃん十だけ白い石くれない?」 といおうとしてふっと八っちゃんの方に顔を向けたが、縁側の方を向て碁石をおもちゃにしている八っちゃんを見たら、口をきくのが変になった。今喧嘩したばかりだから、僕から何かいい出してはいけなかった。だから仕方なしに僕は兎をくずしてしまって、もう少し小さく作りなおそうとした。でもそうすると亀の方が大きくなり過て、兎が居眠りしないでも亀の方が駈っこに勝そうだった。だから困っちゃった。 僕はどうしても八っちゃんに足らない碁石をくれろといいたくなった。八っちゃんはまだ三つですぐ忘れるから、そういったら先刻のように丸い握拳だけうんと手を延ばしてくれるかもしれないと思った。 「八っちゃん」 といおうとして僕はその方を見た。 そうしたら八っちゃんは婆やのお尻の所で遊んでいたが真赤な顔になって、眼に一杯涙をためて、口を大きく開いて、手と足とを一生懸命にばたばたと動かしていた。僕は始め清正公様にいるかったいの乞食がお金をねだる真似をしているのかと思った。それでもあのおしゃべりの八っちゃんが口をきかないのが変だった。おまけに見ていると、両手を口のところにもって行って、無理に口の中に入れようとしたりした。何んだかふざけているのではなく、本気の本気らしくなって来た。しまいには眼を白くしたり黒くしたりして、げえげえと吐きはじめた。 僕は気味が悪くなって来た。八っちゃんが急に怖わい病気になったんだと思い出した。僕は大きな声で、 「婆や……婆や……八っちゃんが病気になったよう」 と怒鳴ってしまった。そうしたら婆やはすぐ自分のお尻の方をふり向いたが、八っちゃんの肩に手をかけて自分の方に向けて、急に慌てて後から八っちゃんを抱いて、 「あら八っちゃんどうしたんです。口をあけて御覧なさい。口をですよ。こっちを、明い方を向いて……ああ碁石を呑んだじゃないの」 というと、握り拳をかためて、八っちゃんの脊中を続けさまにたたきつけた。 「さあ、かーっといってお吐きなさい……それもう一度……どうしようねえ……八っちゃん、吐くんですよう」 婆やは八っちゃんをかっきり膝の上に抱き上げてまた脊中をたたいた。僕はいつ来たとも知らぬ中に婆やの側に来て立ったままで八っちゃんの顔を見下していた。八っちゃんの顔は血が出るほど紅くなっていた。婆やはどもりながら、 「兄さんあなた、早くいって水を一杯……」 僕は皆まで聞かずに縁側に飛び出して台所の方に駈けて行った。水を飲ませさえすれば八っちゃんの病気はなおるにちがいないと思った。そうしたら婆やが後からまた呼びかけた。 「兄さん水は……早くお母さんの所にいって、早く来て下さいと……」 僕は台所の方に行くのをやめて、今度は一生懸命でお茶の間の方に走った。 お母さんも障子を明けはなして日なたぼっこをしながら静かに縫物をしていらしった。その側で鉄瓶のお湯がいい音をたてて煮えていた。 僕にはそこがそんなに静かなのが変に思えた。八っちゃんの病気はもうなおっているのかも知れないと思った。けれども心の中は駈けっこをしている時見たいにどきんどきんしていて、うまく口がきけなかった。 「お母さん……お母さん……八っちゃんがね……こうやっているんですよ……婆やが早く来てって」 といって八っちゃんのしたとおりの真似を立ちながらして見せた。お母さんは少しだるそうな眼をして、にこにこしながら僕を見たが、僕を見ると急に二つに折っていた背中を真直になさった。 「八っちゃんがどうかしたの」 僕は一生懸命真面目になって、 「うん」 と思い切り頭を前の方にこくりとやった。 「うん……八っちゃんがこうやって……病気になったの」 僕はもう一度前と同じ真似をした。お母さんは僕を見ていて思わず笑おうとなさったが、すぐ心配そうな顔になって、大急ぎで頭にさしていた針を抜いて針さしにさして、慌てて立ち上って、前かけの糸くずを両手ではたきながら、僕のあとから婆やのいる方に駈けていらしった。 「婆や……どうしたの」 お母さんは僕を押しのけて、婆やの側に来てこう仰有った。 「八っちゃんがあなた……碁石でもお呑みになったんでしょうか……」 「お呑みになったんでしょうかもないもんじゃないか」 お母さんの声は怒った時の声だった。そしていきなり婆やからひったくるように八っちゃんを抱き取って、自分が苦しくってたまらないような顔をしながら、ばたばた手足を動かしている八っちゃんをよく見ていらしった。 「象牙のお箸を持って参りましょうか……それで喉を撫でますと……」婆やがそういうかいわぬに、 |
会場にはぎっしり聴衆がつめていた。 群集は二時間も前から押しよせた。 子供もいた女もいた老人もいた 青年達が警備した。 場外にはなお聴衆が溢れていた 「帰れ」顎紐が号令する―― だが顎紐糞喰えだ―― 組合の弁士の演説をきかないで誰がおめおめ帰れるか 今日の演題を見ろ 僧侶やブルジョアの学校のような俺達に縁遠い事ではない―― 俺達の生活についての話だ ――食えない俺達のそのままの声だ―― ――立入禁止をはね飛ばせ―― ――資本家が如何に俺達をしぼったか ……農民の生活について―― 場外も場内もよくよく怒気が唸っていた。 何千年来搾られた精神の爆発だ。 青年も壮年も老年も……あどけない 子供の顔もひん曲っていた。 コブシはサザエのように握られていた。 いきづまるような瞬間――にじみ出る汗場外の大衆も耳をすませてきいていた――声だけでもきこえるのだ 押し殺したように黙って待っている みんなは心で叫んでいた。 ――早く俺達の苦しみを貧乏を搾取を 壇上で爆発させてくれ―― ――地主の不正をあばいて呉れ―― 弁士が立った――われるような拍手――どよめく会場―― だがたった一分間……言葉で十語にもみたぬ。 我々小作人が……そこで中止だ。―― 一千の目が矢のように署長に敵視を送る。 怯む署長――が奴は直ぐ番犬性をとり返す。 つづいて立つ――そこでまた中止―― ――お上は絶対中立だ――信じていた自作やプチブルの聴衆迄が中立なんてあるものかお上は奴等と一体だ。―― たつ奴も立つ奴も中止――中止――口に猿轡をかませるのだ ――俺達の歯はギシギシなった――こぶしはいたい迄かたまった。 署長の言葉が反抗と憎悪をたぎらせて行った。 最後の一人が立った。憤激に上気した同志の顔――火のような言葉――中止――検束 圧縮された聴衆の反抗が爆発した。 真赤な火をふく活火山のように 会場の内外に溢つる怒罵、ふんぬの声―― 署長横暴だ――署長を殺せ―― 弁士を渡すな――俺達貧乏人の闘士を…… 会場の内外が鳴動した。 解散――解散――忠勤をぬきんでるのはここぞと許り署長が連呼した――聴衆の憤怒 解散解散――それは燃ゆる火熱に油をかけた―― 署長を殺せ署長を殺せ――パイとポリ公をふみ殺せ―― |
場所 越前国大野郡鹿見村琴弾谷 時 現代。――盛夏 人名 萩原晃(鐘楼守) 百合(娘) 山沢学円(文学士) 白雪姫(夜叉ヶ池の主) 湯尾峠の万年姥(眷属) 白男の鯉七 大蟹五郎 木の芽峠の山椿 鯖江太郎 鯖波次郎 虎杖の入道 十三塚の骨 夥多の影法師 黒和尚鯰入(剣ヶ峰の使者) 与十(鹿見村百姓) その他大勢 鹿見宅膳(神官) 権藤管八(村会議員) 斎田初雄(小学教師) 畑上嘉伝次(村長) 伝吉(博徒) 小烏風呂助(小相撲) 穴隈鉱蔵(県の代議士) 劇中名をいうもの。――(白山剣ヶ峰、千蛇ヶ池の公達) 三国岳の麓の里に、暮六つの鐘きこゆ。――幕を開く。 萩原晃この時白髪のつくり、鐘楼の上に立ちて夕陽を望みつつあり。鐘楼は柱に蔦からまり、高き石段に苔蒸し、棟には草生ゆ。晃やがて徐に段を下りて、清水に米を磨ぐお百合の背後に行く。 晃 水は、美しい。いつ見ても……美しいな。 百合 ええ。 その水の岸に菖蒲あり二三輪小さき花咲く。 晃 綺麗な水だよ。(微笑む。) 百合 (白髪の鬢に手を当てて)でも、白いのでございますもの。 晃 そりゃ、米を磨いでいるからさ。……(框の縁に腰を掛く)お勝手働き御苦労、せっかくのお手を水仕事で台なしは恐多い、ちとお手伝いと行こうかな。 百合 可うございますよ。 晃 いや……お手伝いという処だが、お百合さんのそうした処は、咲残った菖蒲を透いて、水に影が映したようでなお綺麗だ。 百合 存じません。 晃 賞めるのに怒る奴がありますか。 百合 おなぶり遊ばすんでございますものを。――そして旦那様は、こんな台所へ出ていらっしゃるものではありません。早くお机の所へおいでなさいまし。 晃 鐘を撞く旦那はおかしい。実は権助と名を替えて、早速お飯にありつきたい。何とも可恐く腹が空いて、今、鐘を撞いた撞木が、杖になれば可いと思った。ところで居催促という形もある。 百合 ほほほ、またお極り。……すぐお夕飯にいたしましょうねえ。 |
或雨のふる秋の日、わたしは或人を訪ねる為に横浜の山手を歩いて行つた。この辺の荒廃は震災当時と殆ど変つてゐなかつた。若し少しでも変つてゐるとすれば、それは一面にスレヱトの屋根や煉瓦の壁の落ち重なつた中に藜の伸びてゐるだけだつた。現に或家の崩れた跡には蓋をあけた弓なりのピアノさへ、半ば壁にひしがれたまゝ、つややかに鍵盤を濡らしてゐた。のみならず大小さまざまの譜本もかすかに色づいた藜の中に桃色、水色、薄黄色などの横文字の表紙を濡らしてゐた。 わたしはわたしの訪ねた人と或こみ入つた用件を話した。話は容易に片づかなかつた。わたしはとうとう夜に入つた後、やつとその人の家を辞することにした。それも近近にもう一度面談を約した上のことだつた。 雨は幸ひにも上つてゐた。おまけに月も風立つた空に時々光を洩らしてゐた。わたしは汽車に乗り遅れぬ為に(煙草の吸はれぬ省線電車は勿論わたしには禁もつだつた。)出来るだけ足を早めて行つた。 すると突然聞えたのは誰かのピアノを打つた音だつた。いや、「打つた」と言ふよりも寧ろ触つた音だつた。わたしは思はず足をゆるめ、荒涼としたあたりを眺めまはした。ピアノは丁度月の光に細長い鍵盤を仄めかせてゐた、あの藜の中にあるピアノは。――しかし人かげはどこにもなかつた。 それはたつた一音だつた。が、ピアノには違ひなかつた。わたしは多少無気味になり、もう一度足を早めようとした。その時わたしの後ろにしたピアノは確かに又かすかに音を出した。わたしは勿論振りかへらずにさつさと足を早めつゞけた、湿気を孕んだ一陣の風のわたしを送るのを感じながら。…… わたしはこのピアノの音に超自然の解釈を加へるには余りにリアリストに違ひなかつた。成程人かげは見えなかつたにしろ、あの崩れた壁のあたりに猫でも潜んでゐたかも知れない。若し猫ではなかつたとすれば、――わたしはまだその外にも鼬だの蟇がへるだのを数へてゐた。けれども兎に角人手を借らずにピアノの鳴つたのは不思議だつた。 五日ばかりたつた後、わたしは同じ用件の為に同じ山手を通りかゝつた。ピアノは不相変ひつそりと藜の中に蹲つてゐた。桃色、水色、薄黄色などの譜本の散乱してゐることもやはりこの前に変らなかつた。只けふはそれ等は勿論、崩れ落ちた煉瓦やスレヱトも秋晴れの日の光にかがやいてゐた。 わたしは譜本を踏まぬやうにピアノの前へ歩み寄つた。ピアノは今目のあたりに見れば、鍵盤の象牙も光沢を失ひ、蓋の漆も剥落してゐた。殊に脚には海老かづらに似た一すぢの蔓草もからみついてゐた。わたしはこのピアノを前に何か失望に近いものを感じた。 「第一これでも鳴るのかしら。」 わたしはかう独り語を言つた。するとピアノはその拍子に忽ちかすかに音を発した。それは殆どわたしの疑惑を叱つたかと思ふ位だつた。しかしわたしは驚かなかつた。のみならず微笑の浮んだのを感じた。ピアノは今も日の光に白じらと鍵盤をひろげてゐた。が、そこにはいつの間にか落ち栗が一つ転がつてゐた。 |
彼は勇敢な反帝同盟の闘士! 奴はもぐって地球の外にでもいるようだが 時々姿を見せては叫ぶ! 「帝国主義戦争絶対反対だ! ソヴェート同盟を守れ! 支那革命を守れ!」と 一太郎やーい親子がおれたちの村にやって来た時や 桜井肉弾大佐の講演会があった時 奴はみんなの前でおっぴらに云った 電柱や壁に貼られた伝単も、時々ばらまかれるアンチのビラも奴の仕事だ カーキ服の憲兵もサーベルも奴を血眼に探しているが…… おお 勇敢な反帝の闘士! 野郎は誉ある? 軍門の生れだ 野郎の老父は日露役の勇士! 旅順港の攻撃で片足をなくした―― 戦地に片足を残して帰って来ると、松葉杖をつき風琴を鳴らして征露丸を売った。 片足をなくしては小作百姓もできないので―― 小供は餓じさを訴え乍らもふとっていった 五人の子供は入営した 次男は青島の役で戦死した。 其時野郎は老父と共に悲しみはしなかった 名誉の戦死だ! 功七級が輝いてら! 奴も兵営で功七級を夢みたが 胸を突かれ胸膜炎になって除隊になった。 おお不幸なアンチの闘士! 野郎は藁蒲団の上で考えた 軍隊に祟られ通しで貧乏つづきの家庭の事を老父は征露丸を売って腹を干させた――名誉の勇士になった許りに 三人の兄貴は軍曹までこぎつけたが肩章だけでは飯は食えぬ 肋膜をやられては働けぬ そして兄貴は白骨になって帰って来た 何のために? 誰のために おおみじめなアンチの闘士! そのうち戦争が始った 村の若者達はおくられた。零下二十五度の嵐が荒ぶ戦場に 村人はみんな見送った。――村長や小学校長を先頭に 若者達も元気で出て行った バンザーイ バンザーイ 小作料も払えない家のことなどふり捨てて――国家の為―― 八千万国民のためだと ああだが間もなく故郷には入った情報は 戦死! 負傷! おお 片腕や松葉杖や白骨の大量生産 品物は払底するし物価は上った 村長は戦死者を表彰したが村には乞食が増加した 「えい 何時まで誑されておれるかい」 野郎は藁蒲団の上から起ち上った。 「これで闘わずにおれるかい。銃は逆に! 俺達の敵は資本家だ!」 そうだ! 我等のアンチの闘士! 叫べ! 勇敢なアンチの闘士! |
一 木曾街道、奈良井の駅は、中央線起点、飯田町より一五八哩二、海抜三二〇〇尺、と言い出すより、膝栗毛を思う方が手っ取り早く行旅の情を催させる。 ここは弥次郎兵衛、喜多八が、とぼとぼと鳥居峠を越すと、日も西の山の端に傾きければ、両側の旅籠屋より、女ども立ち出でて、もしもしお泊まりじゃござんしないか、お風呂も湧いていずに、お泊まりなお泊まりな――喜多八が、まだ少し早いけれど……弥次郎、もう泊まってもよかろう、のう姐さん――女、お泊まりなさんし、お夜食はお飯でも、蕎麦でも、お蕎麦でよかあ、おはたご安くして上げませず。弥次郎、いかさま、安い方がいい、蕎麦でいくらだ。女、はい、お蕎麦なら百十六銭でござんさあ。二人は旅銀の乏しさに、そんならそうときめて泊まって、湯から上がると、その約束の蕎麦が出る。さっそくにくいかかって、喜多八、こっちの方では蕎麦はいいが、したじが悪いにはあやまる。弥次郎、そのかわりにお給仕がうつくしいからいい、のう姐さん、と洒落かかって、もう一杯くんねえ。女、もうお蕎麦はそれぎりでござんさあ。弥次郎、なに、もうねえのか、たった二ぜんずつ食ったものを、つまらねえ、これじゃあ食いたりねえ。喜多八、はたごが安いも凄まじい。二はいばかり食っていられるものか。弥次郎……馬鹿なつらな、銭は出すから飯をくんねえ。……無慙や、なけなしの懐中を、けっく蕎麦だけ余計につかわされて悄気返る。その夜、故郷の江戸お箪笥町引出し横町、取手屋の鐶兵衛とて、工面のいい馴染に逢って、ふもとの山寺に詣でて鹿の鳴き声を聞いた処…… ……と思うと、ふとここで泊まりたくなった。停車場を、もう汽車が出ようとする間際だったと言うのである。 この、筆者の友、境賛吉は、実は蔦かずら木曾の桟橋、寝覚の床などを見物のつもりで、上松までの切符を持っていた。霜月の半ばであった。 「……しかも、その(蕎麦二膳)には不思議な縁がありましたよ……」 と、境が話した。 昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、この線の汽車は塩尻から分岐点で、東京から上松へ行くものが松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりが緩んでちと辻褄が合わない。何も穿鑿をするのではないけれど、実は日数の少ないのに、汽車の遊びを貪った旅行で、行途は上野から高崎、妙義山を見つつ、横川、熊の平、浅間を眺め、軽井沢、追分をすぎ、篠の井線に乗り替えて、姨捨田毎を窓から覗いて、泊りはそこで松本が予定であった。その松本には「いい娘の居る旅館があります。懇意ですから御紹介をしましょう」と、名のきこえた画家が添え手紙をしてくれた。……よせばいいのに、昨夜その旅館につくと、なるほど、帳場にはそれらしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのは無論女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄っても着かない、……ばかりでない。この霜夜に、出しがらの生温い渋茶一杯汲んだきりで、お夜食ともお飯とも言い出さぬ。座敷は立派で卓は紫檀だ。火鉢は大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお銚子をと云うと、板前で火を引いてしまいました、なんにも出来ませんと、女中の素気なさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家中寂寞とはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと、おあいにく。酒はないのか、ござりません。――じゃ、麦酒でも。それもお気の毒様だと言う。姐さん……、境は少々居直って、どこか近所から取り寄せてもらえまいか。へいもう遅うござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やあがる。はてな、停車場から、震えながら俥でくる途中、ついこの近まわりに、冷たい音して、川が流れて、橋がかかって、両側に遊廓らしい家が並んで、茶めしの赤い行燈もふわりと目の前にちらつくのに――ああ、こうと知ったら軽井沢で買った二合罎を、次郎どのの狗ではないが、皆なめてしまうのではなかったものを。大歎息とともに空き腹をぐうと鳴らして可哀な声で、姐さん、そうすると、酒もなし、麦酒もなし、肴もなし……お飯は。いえさ、今晩の旅籠の飯は。へい、それが間に合いませんので……火を引いたあとなもんでなあ――何の怨みか知らないが、こうなると冷遇を通り越して奇怪である。なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面で、宿を替えるとも言われない。前世の業と断念めて、せめて近所で、蕎麦か饂飩の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁げ腰のもったて尻で、敷居へ半分だけ突き込んでいた膝を、ぬいと引っこ抜いて不精に出て行く。 待つことしばらくして、盆で突き出したやつを見ると、丼がたった一つ。腹の空いた悲しさに、姐さん二ぜんと頼んだのだが。と詰るように言うと、へい、二ぜん分、装り込んでございますで。いや、相わかりました。どうぞおかまいなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、継児のような目つきで見ながら、抱き込むばかりに蓋を取ると、なるほど、二ぜんもり込みだけに汁がぽっちり、饂飩は白く乾いていた。 この旅館が、秋葉山三尺坊が、飯綱権現へ、客を、たちものにしたところへ打撞ったのであろう、泣くより笑いだ。 その……饂飩二ぜんの昨夜を、むかし弥次郎、喜多八が、夕旅籠の蕎麦二ぜんに思い較べた。いささか仰山だが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。 日あしも木曾の山の端に傾いた。宿には一時雨さっとかかった。 雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便らないで、洋傘で寂しく凌いで、鴨居の暗い檐づたいに、石ころ路を辿りながら、度胸は据えたぞ。――持って来い、蕎麦二膳。で、昨夜の饂飩は暗討ちだ――今宵の蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと、硝子張りの旅館一二軒を、わざと避けて、軒に山駕籠と干菜を釣るし、土間の竈で、割木の火を焚く、侘しそうな旅籠屋を烏のように覗き込み、黒き外套で、御免と、入ると、頬冠りをした親父がその竈の下を焚いている。框がだだ広く、炉が大きく、煤けた天井に八間行燈の掛かったのは、山駕籠と対の註文通り。階子下の暗い帳場に、坊主頭の番頭は面白い。 「いらっせえ。」 蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、慇懃に会釈をされたのは、焼麸だと思う(しっぽく)の加料が蒲鉾だったような気がした。 「お客様だよ――鶴の三番。」 女中も、服装は木綿だが、前垂がけのさっぱりした、年紀の少い色白なのが、窓、欄干を覗く、松の中を、攀じ上るように三階へ案内した。――十畳敷。……柱も天井も丈夫造りで、床の間の誂えにもいささかの厭味がない、玄関つきとは似もつかない、しっかりした屋台である。 敷蒲団の綿も暖かに、熊の皮の見事なのが敷いてあるは。ははあ、膝栗毛時代に、峠路で売っていた、猿の腹ごもり、大蛇の肝、獣の皮というのはこれだ、と滑稽た殿様になって件の熊の皮に着座に及ぶと、すぐに台十能へ火を入れて女中さんが上がって来て、惜し気もなく銅の大火鉢へ打ちまけたが、またおびただしい。青い火さきが、堅炭を搦んで、真赤に烘って、窓に沁み入る山颪はさっと冴える。三階にこの火の勢いは、大地震のあとでは、ちと申すのも憚りあるばかりである。 湯にも入った。 さて膳だが、――蝶脚の上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。わらさの照焼はとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼の玉子に、椀が真白な半ぺんの葛かけ。皿についたのは、このあたりで佳品と聞く、鶫を、何と、頭を猪口に、股をふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にして芳しくつけてあった。 「ありがたい、……実にありがたい。」 境は、その女中に馴れない手つきの、それも嬉しい……酌をしてもらいながら、熊に乗って、仙人の御馳走になるように、慇懃に礼を言った。 「これは大した御馳走ですな。……実にありがたい……全く礼を言いたいなあ。」 心底のことである。はぐらかすとは様子にも見えないから、若い女中もかけ引きなしに、 「旦那さん、お気に入りまして嬉しゅうございますわ。さあ、もうお一つ。」 「頂戴しよう。なお重ねて頂戴しよう。――時に姐さん、この上のお願いだがね、……どうだろう、この鶫を別に貰って、ここへ鍋に掛けて、煮ながら食べるというわけには行くまいか。――鶫はまだいくらもあるかい。」 「ええ、笊に三杯もございます。まだ台所の柱にも束にしてかかっております。」 「そいつは豪気だ。――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。」 「はい、そう申します。」 「ついでにお銚子を。火がいいから傍へ置くだけでも冷めはしない。……通いが遠くって気の毒だ。三本ばかり一時に持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が註文をするようだろう。」 「おほほ。」 今朝、松本で、顔を洗った水瓶の水とともに、胸が氷に鎖されたから、何の考えもつかなかった。ここで暖かに心が解けると、……分かった、饂飩で虐待した理由というのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信州路を経歴って、その旅館には五月あまりも閉じ籠もった。滞る旅籠代の催促もせず、帰途には草鞋銭まで心着けた深切な家だと言った。が、ああ、それだ。……おなじ人の紹介だから旅籠代を滞らして、草鞋銭を貰うのだと思ったに違いない。…… 「ええ、これは、お客様、お麁末なことでして。」 と紺の鯉口に、おなじ幅広の前掛けした、痩せた、色のやや青黒い、陰気だが律儀らしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に襖際に畏まった。 「どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。」 「いえ、当家の料理人にございますが、至って不束でございまして。……それに、かような山家辺鄙で、一向お口に合いますものもございませんで。」 「とんでもないこと。」 「つきまして、……ただいま、女どもまでおっしゃりつけでございましたが、鶫を、貴方様、何か鍋でめしあがりたいというお言で、いかようにいたして差し上げましょうやら、右、女どももやっぱり田舎もののことでございますで、よくお言がのみ込めかねます。ゆえに失礼ではございますが、ちょいとお伺いに出ましてございますが。」 境は少なからず面くらった。 「そいつはどうも恐縮です。――遠方のところを。」 とうっかり言った。…… 「串戯のようですが、全く三階まで。」 「どう仕りまして。」 「まあ、こちらへ――お忙しいんですか。」 「いえ、お膳は、もう差し上げました。それが、お客様も、貴方様のほか、お二組ぐらいよりございません。」 「では、まあこちらへ。――さあ、ずっと。」 「はッ、どうも。」 「失礼をするかも知れないが、まあ、一杯。ああ、――ちょうどお銚子が来た。女中さん、お酌をしてあげて下さい。」 「は、いえ、手前不調法で。」 |
一 今から廿年ばかり前に、北九州の或村はづれに一人の年老つた乞食が、行き倒れてゐました。風雨に曝され垢にまみれたその皮膚は無気味な、ひからびた色をして、肉が落ちてとがり切つた骨を覆ふてゐました。砂ぼこりにまみれたその白髪の蓬々としたひたいの下の奥の方に気味の悪い眼がギヨロリと光つてゐました。 行き倒れの傍を取り巻いた子供達はその気味の悪い眼光に出遭ふと皆んな散り〳〵に逃げてしまひました。が、子供達が、その日暮方の暫くの明るさの中を外で遊んでゐますと、其処にさつきの乞食が、長い竹杖にすがつてよろ〳〵しながら歩いて来たのでした。子供等は、また気味悪さうに一と処によりそつて乞食を通しましたが、やがてそのよぼよぼした後姿を見ると、ぞろ〳〵後へついてゆきました。 乞食は、村にはいつて街道を少し行くと左側にある森の中にはいつてゆきました。其処は此の村の鎮守なのです。子供等は其処までついてゆきますと、木立の暗いのと乞食が再び後をふり向いた恐ろしさに、一目散に逃げてかへりました。 次ぎの日、子供達は昨日の乞食の事などは忘れて、お宮の前の広場で遊ばうとしていつものように、その森の中にはいつてゆきました。すると昨日の乞食がお宮の石段に腰を下ろしてそのやせた膝を抱いて白髪の下から例の気味の悪い眼を光らして子供達を睨み据えました。子供等は思ひがけない邪魔にびつくりして外の遊び場所をさがすために、お宮から逃げ出しました。 しかし、夕方になると、彼れ等はあの乞食の事を忘れられませんでした。其処で皆んなは、若しも恐い事があつて、逃げるときに、逃げ後れるものがないように、めい〳〵の帯をしつかりつかみあつて、お宮の森をのぞきに出かけました。 今度子供達の眼にまつさきに見えたのは、お宮の森で一番大きな楠の古木の根本に盛んに燃えてゐる火でした。そしてその次ぎに見えたのは、その真赤な火の色がうつつて何んとも云へない物凄い顔をしたあの乞食でした。 『ワツ!』 子供達は今日は何うしたのか悲鳴をあげてめい〳〵につかまへられてゐる帯際の友達の手を振りもぎつて、馳け出して来ました。 丁度、其処を通り合はせたのは、村の巡査でした。子供達が真青になつて、逃げ後れたのは泣きながらお宮を飛び出して来たので、巡査はいそいで、お宮にはいつて行つたのです。子供達は巡査がはいつて行くと、しばらく通りに一とかたまりになつて立つてゐましたが、やがて巡査が、お宮の傍の家の裏で働いてゐる男に声をかけるのを聞きました。 『おうい、為さん! 水を持つて来てくれ、桶に一杯!』 巡査はさうどなりながら、為さんの家の方へ近づいてゆきました。為さんが水桶をさげてお宮にゆくのを見ると子供等はまたゾロ〳〵暗くなつたお宮の境内にはいつてゆきました。 『体もろくにきかん癖にかう火を燃いて、あぶなくつて仕様がない、』 などゝ、二人は話しながらシユウ〳〵と音をさせて、火に水を注いで消しました。 『斯んな乞食は何をするか知れたもんぢやありませんよ、追つぱらつてしまひませう。』 為さんは口を尖らして巡査を煽動します。 『何に、俺もさう思つたが、まるでグタ〳〵で、動かないんだ、今からおつぱらつてもどうせ何処までも行きやしないから、今夜は勘弁しておいて、明日の朝追立てる事にしよう。』 巡査は仕方がなささうに笑ひながら、為さんと一緒に引きかへしました。子供等もゾロ〳〵家へかへりました。 其の晩、此の辺には滅多にあつた事もない火事がありました。老人達は二十年目だとか二十五年目だとか云つてさわぎました。火を出したのは、村の真中頃にある荒物屋で、台所から火が出たらしいのです。大きな藁屋根ですから一とたまりもなく焼け落ち、その並びに隣り合つて建つてゐる三軒がまたゝく間に焼けてしまつたのです。そして四軒目に火がうつつたときに、やつと消防手の手で消されたのでした。 しかし、珍らしい火事沙汰で、その夜から翌日まで、村中がひつくり返るやうな騒ぎだつたのです。そして翌晩はさはぎつかれて皆んな寝てしまひました。 すると、続いて又、昨晩の火事の場所から一町半ばかり東よりの村で、一番賑かな通りにある居酒屋と隣りの床屋とが、同時に焼け出しました。 『火事だつ!』 バタ〳〵騒ぐので、起き出した方々の家ではびつくりしてしまつたのです。火事が大変だと云ふ事よりも昨夜と今夜が、まづ皆を驚かしたのです。今度は二軒とあと両方にわかれて一軒づゝ焼けました。そして、その火が消えかけた時に、その火事場の向ふ裏にある百姓屋の納屋がどん〳〵燃えてゐたのです。 明かに放火だと云ふ事は分りました。しかし、あまり思ひがけない火事に、村の老人等は色を失つてしまつたのもあります。 翌朝、町の警察から五六人も巡査が来るやら、何かえらさうな人達が火事跡に来てウロ〳〵見まはつたりして、村中が何となく殺気だつて来ました。 『つけ火だ、つけ火だ、』 と皆んな云ひながら、犯人の見当はまるでつかないのでした。巡査や刑事達は村人の誰彼を捉へてはいろんな事を尋ねました。しかしさうなると、皆んな自分の云つた言葉の結果がどんな事になるかしれないと云ふ、不安と恐怖で、だれも、巡査達とはか〴〵しい口をきく事はなかつたのでした。 二晩つゞけての火事におびえた村では、冬だけにする火の番をはじめました。そして二時間位に一度づゝ村中を見まはる事にしました。 二 三晩は何事もなくすぎました。村人達は、時はづれの火の番が馬鹿々々しくなつて来ました。 『二た晩つゞけて火事があつたからつて急に火の番をしたつて、さう幾度もつけ火をする奴もないだらうから、何だかつけた奴が見ると馬鹿気てるに違ひないと俺は思ふよ。』 『さうさ、さうまたつゞけて焼かれてたまるものかい。』 四晩目にはそんな不平がましい口をきゝながらほんのお役目に通りを一とまはりして来たのだ。 処がどうでせう! 彼等が、西の端の番小屋に帰つて一服してゐますと、急に騒々しくなつて来ました。番の人達がびつくりして外に出て見ますと、たつた今、自分達の見て来たばかりの、東の方に火の手が高くあがつて盛んに火の子を降らしてゐるのです。 『アーツ』 と云ふなり一人の老人は腰をぬかしてしまひました。 他の人々が、騒ぎ出して大勢で馳けつけた時には、焼けた床屋の丁度向ふにある小さな駄菓子屋が焼けてゐるのでした。 しかし、此度は夜明前に、此の村を騒がせた放火の犯人はつかまつたのです。丁度其の夜、隣り村から或る家の不幸を知らせに村へ来た二人連れの人達が、村にはいらぬうちに火の手が見えるので、急いで来かゝる途中、村はづれの共同墓地の辺に来ると、影のような人間が、向ふから来かゝつたが、自分等の姿を見ると、急いで墓場の中へはいつた、と云ふ話をしたのです。集まつた消防手連中が早速墓場へ馳けつけて、さがして見たのですが一向分りませんでした。 東が白んで来る時分に、さがしあぐねた連中が、ボツ〳〵帰りかけて、フト気がついたのは、墓場のそばの共同の葬式道具を入れておく小屋でした。 二三人で其の戸を引きあけて見ますと、案の定其処に痩せさらばつた一人の男がうづくまつてゐたのです。彼等はそれを見つけるとカツとなつて、ろくに腰もたゝないまゝの老爺を往来まで引きずり出して来ました。そして皆んなで顔を覗いて見ましたが、それは見知らない、汚い乞食でした。 彼れ等は、一度はガツカリしましたものゝ思ひ起して此の乞食を引き立てゝ来ました。そしてその乞食の姿を見た巡査はヅカ〳〵傍によつて行きました。もううすら明るくなつてゐるのでしたが、さしつけられた提灯のあかりにその乞食の顔がハツキリ照らし出されました。彼れは三四日前に村にはいつて来た乞食でありました。 昼頃になつて、その乞食が、三回に渉る放火犯人だと云ふ事と同時に、此の村や、其他近在を充分に驚かし得るような事の内容が、村の人達の間に伝はりました。 此の乞食は、其村の片隅にある特殊部落の××原と云ふ処に生れた彦七と云ふ男でした。彼は、其の生れた処からは何十年と云ふ間行衛不明になつてゐたのでした。それで、其の村でも彦七の家と関係のあるものか、年老連中でなければ彦七を記憶してゐる者はない位なのでした。 彼れの生れた部落でも、或時は、彼れがすばらしい金持になつて或る処に豪奢な暮らしをしてゐるのだ、と伝はり、或時は彼れは博徒の中にはいつて、すばらしい喧嘩をして監獄に行つてゐると伝はりました。しかし実際どうなつてゐるか確かな事は分らなかつたのです。 |
予は過去二年間、海軍機関学校で英語を教へた。この二年間は、予にとつて、決して不快な二年間ではない。何故と云へば予は従来、公務の余暇を以て創作に従事し得る――或は創作の余暇を以て公務に従事し得る恩典に浴してゐたからである。 予の寡聞を以てしても、甲教師は超人哲学の紹介を試みたが為に、文部当局の忌諱に触れたとか聞いた。乙教師は恋愛問題の創作に耽つたが為に、陸軍当局の譴責を蒙つたさうである。それらの諸先生に比べれば、従来予が官立学校教師として小説家を兼業する事が出来たのは、確に比類稀なる御上の御待遇として、難有く感銘すべきものであらう。尤もこれは甲先生や乙先生が堂々たる本官教授だつたのに反して、予は一介の嘱託教授に過ぎなかつたから、予の呼吸し得た自由の空気の如きも、実は海軍当局が予に厚かつた結果と云ふよりも、或は単に予の存在があれどもなきが如くだつた為かも知れない。が、さう解釈する事は独り礼を昨日の上官に失するばかりでなく、予に教師の口を世話してくれた諸先生に対しても甚だ御気の毒の至だと思ふ。だから予は外に差支へのない限り、正に海軍当局の海の如き大度量に感泣して、あの横須賀工廠の恐る可き煤煙を肺の底まで吸ひこみながら、永久に「それは犬である」の講釈を繰返して行つてもよかつたのである。 が、不幸にして二年間の経験によれば、予は教育家として、殊に未来の海軍将校を陶鋳すべき教育家として、いくら己惚れて見た所が、到底然るべき人物ではない。少くとも現代日本の官許教育方針を丸薬の如く服膺出来ない点だけでも、明に即刻放逐さるべき不良教師である。勿論これだけの自覚があつたにしても、一家眷属の口が乾上る惧がある以上、予は怪しげな語学の資本を運転させて、どこまでも教育家らしい店構へを張りつづける覚悟でゐた。いや、たとへ米塩の資に窮さないにしても、下手は下手なりに創作で押して行かうと云ふ気が出なかつたなら、予は何時までも名誉ある海軍教授の看板を謹んでぶら下げてゐたかも知れない。しかし現在の予は、既に過去の予と違つて、全精力を創作に費さない限り人生に対しても又予自身に対しても、済まないやうな気がしてゐるのである。それには単に時間の上から云つても、一週五日間、午前八時から午後三時まで機械の如く学校に出頭してゐる訣に行くものではない。そこで予は遺憾ながら、当局並びに同僚たる文武教官各位の愛顧に反いて、とうとう大阪毎日新聞へ入社する事になつた。 新聞は予に人並の給料をくれる。のみならず毎日出社すべき義務さへも強ひようとはしない。これは官等の高下をも明かにしない予にとつて、白頭と共に勅任官を賜るよりは遙に居心の好い位置である。この意味に於て、予は予自身の為に心から予の入社を祝したいと思ふ。と同時に又我帝国海軍の為にも、予の如き不良教師が部内に跡を絶つた事を同じく心から祝したいと思ふ。 昔の支那人は「帰らなんいざ、田園将に蕪せんとす」とか謡つた。予はまだそれほど道情を得た人間だとは思はない。が、昨の非を悔い今の是を悟つてゐる上から云へば、予も亦同じ帰去来の人である。春風は既に予が草堂の簷を吹いた。これから予も軽燕と共に、そろそろ征途へ上らうと思つてゐる。 |
私達の友人は既に、彼の本性にかなはない総ての物を脱ぎ棄て、すべての物を斥けた。そして彼自らの手で紡ぎ、織り、裁ち、縫ひ上げたところの、彼の肉体以上にさへ彼らしい軽羅をのみ纏ふて今、彼一人の爽かな径を行つてゐる。 他の何人に対してよりも、自分自身に対して最善の批評家であるところの彼は、つねにただ、彼の子供として恥しくない子供だけを生み、より恥しくない子供だけを育て上げてゐる。彼のと異つた芸術を要求することは固より許されよう。彼のにまさつて完全なる(或は完全に近い)芸術といふものは、たやすく現代の世界に見出されないであらう。 彼の芸術は、詩に於て最も彼らしきところを、最も完全なるところを示してゐる。 今の詩壇に対する彼の詩は、余りにも渾然たるが故に古典的時代錯誤であり、余りにも溌溂たるが故に未来派的時代錯誤であることを免れない。 嗚呼、この心憎き、羨望すべき時代錯誤よ。時代錯誤の麟鳳よ。永久に詩人的なるものよ。 『永久に詩人的なるもの』私達の友人よ、ねがはくは彼によりて、彼を取りまける総ての者が、詩の天上にまで引きあげられて行くことを。 一九二三年一月十四日 生田長江 月をわび身を佗びつたなきをわびてわぶとこたへんとすれど問ふ人もなし。 |
「あたしのお花がね、かわいそうに、すっかりしぼんでしまったのよ」と、イーダちゃんが言いました。「ゆうべは、とってもきれいだったのに、今は、どの花びらも、みんなしおれているの。どうしてかしら?」 イーダちゃんは、ソファに腰かけている学生さんに、こうたずねました。イーダちゃんは、この学生さんが大好きでした。だって、学生さんは、それはそれはおもしろいお話を、たくさんしてくれますからね。それに、おもしろい絵も、いろいろ、切りぬいてくれるのです。たとえば、ハート形の中で、かわいらしい女の人たちがダンスをしているところだの、いろいろなお花だの、それから、戸のあいたりしまったりする大きなお城だのを。ほんとうに、ゆかいな学生さんでした! 「きょうは、お花たち、どうしてこんなに元気がないの?」と、イーダちゃんは、もう一度聞きながら、すっかりしおれている花たばを見せました。 「うん、お花たちはね、気持がわるいんだよ」と、学生さんは言いました。「みんな、ゆうべ、舞踏会へ行っていたんで、きょうは、くたびれて、頭をぐったりたれているのさ」 「でも、お花は、ダンスなんかできやしないわ」と、イーダちゃんは言いました。 「ところが、できるんだよ」と、学生さんは言いました。「あたりが暗くなってね、ぼくたちみんなが寝てしまうと、おもしろそうにとびまわるんだよ。毎晩のように、舞踏会を開いているんだから」 「その舞踏会へは、子供は行けないの?」 「行けるとも」と、学生さんは言いました。「ちっちゃなヒナギクや、スズランだってね」 「いちばんきれいなお花たちは、どこでダンスをするの?」と、イーダちゃんがたずねました。 「イーダちゃんは、町の門の外にある、大きなお城へ行ったことがあるだろう。ほら、夏になると、王さまがおすまいになるところ。お花がたくさん咲いているお庭もあったじゃないの。あそこのお池には、ハクチョウもいたね。イーダちゃんがパンくずをやると、みんな、イーダちゃんのほうへおよいできたっけね。あそこで舞踏会があるんだよ。ほんとうだよ」 「あたし、きのう、おかあさんといっしょに、あのお庭へ行ったのよ」と、イーダちゃんは言いました。「でも、木の葉は、すっかり落ちてしまって、お花なんか一つもなかったわ。みんな、どこへ行っちゃったのかしら。夏、行ったときには、あんなにたくさんあったのに」 「みんな、お城の中にいるんだよ」と、学生さんは言いました。「王さまやお役人たちが町へ帰ってしまうとね、お花たちは、すぐにお庭からお城の中へかけこんで、ゆかいにあそぶんだよ。イーダちゃんに、そういうところを一度見せてあげたいねえ。いちばんきれいなバラの花が二つ、玉座について、王さまとお妃さまになるの。すると、まっかなケイトウが、両側にずらりと並んで、おじぎをするよ。これが、おつきのものというわけさ。 それから、すごくきれいなお花たちが、あとからあとからはいってくる。さて、そこで、いよいよ大舞踏会のはじまりはじまり。青いスミレの花は、かわいらしい海軍士官の候補生で、ヒヤシンスやサフランに、『お嬢さん』と呼びかけては、ダンスにさそうんだよ。チューリップや大きな黄色いユリの花は、お年よりの奥さまがたで、みんなじょうずに踊って、舞踏会がうまくいくようにと、気をつけているんだよ」 「でもね、お花たちは、王さまのお城でダンスなんかして、だれにもしかられないの?」と、イーダちゃんはたずねました。 「ちゃあんと、それを見た人がないからねえ」と、学生さんは言いました。「夜になると、ときどき、年とった番人が、見まわりにやってくるよ。大きなかぎたばを持ってね。だけど、そのかぎたばのガチャガチャいう音が聞えると、お花たちはすぐにひっそりとなって、長いカーテンのうしろにかくれてしまうんだよ。そして、カーテンのすきまから顔だけそっと出して、のぞいているの。そうすると、年よりの番人は、『おやおや、ここには花があるんだな。ぷんぷんにおうぞ』と言うけれども、なんにも見えやしないのさ」 「まあ、おもしろい!」と、イーダちゃんは手をたたいて、言いました。「じゃ、あたしにもお花は見えないかしら?」 「見えるさ」と、学生さんは言いました。「今度行ったら、忘れないで、窓からのぞいてごらん。そうすれば、きっと見えるからね。ぼくが、きょう、のぞいてみたら、長い黄色いスイセンが、ソファに長々と横になっていたよ。あれは、女官なんだねえ」 「植物園のお花たちも行けるの? 遠い道を歩いていける?」 「もちろん、行けるよ」と、学生さんは言いました。「行きたいと思えば、飛んでいけるんだからね。イーダちゃんは、赤いのや、黄色いのや、白いのや、いろんな色の、きれいなチョウチョウを見たことがあるだろう。まるで、お花のようだね。ところが、ほんとうは、あれもお花だったんだよ。だって、お花たちが、くきからはなれて、空に飛びあがり、ちょうど小さな羽を動かすように、花びらをひらひらさせると、舞えるようになるんだもの。そうして、じょうずに飛べるようになると、今度は、昼間でも、飛んでいいというおゆるしがもらえるんだよ。そうなれば、うちへもどって、くきの上にじっとすわっていなくてもいいの。こうして、花びらは、やがては、ほんものの羽になってしまうんだよ。イーダちゃんが見ているのは、それなのさ。 だけどね、ひょっとしたら、植物園のお花たちは、まだ王さまのお城へ行ったことがないかもしれないよ。いや、もしかしたら、毎晩、そんなおもしろいことがあるのを知らないかもしれないよ。 そうだ、イーダちゃんにいいこと教えてあげよう。きっと、あの人、びっくりするよ。ほら、おとなりに住んでる植物の先生さ。イーダちゃんも知ってるね。今度、先生のお庭へ行ったら、お花の中のどれか一つに、『お城で、大きな舞踏会があるわよ』って言ってごらん。そうすれば、そのお花がほかのお花たちにおしゃべりして、みんなで飛んでいってしまうよ。だから、先生がお庭へ出てきても、お花は一つもないってわけさ。でも、先生には、お花たちがどこへ行ってしまったのか、さっぱりわからないんだよ」 「でも、お花たちは、どうしてお話ができるの? 口がきけないのに」 「うん、たしかに、口はきけないね」と、学生さんは答えました。「だけど、お花たちは身ぶりで話せるんだよ。イーダちゃん、知ってるだろう。ほら、風がそよそよと吹いてくると、お花たちがうなずいたり、青い葉っぱがゆれたりするじゃないの。あれが、お花たちの言葉なんだよ。ぼくたちがおしゃべりするのとおんなじなんだよ」 「植物の先生には、お花たちの身ぶりの言葉がわかる?」と、イーダちゃんはたずねました。 「むろん、わかるさ。ある朝のこと、先生がお庭に出ると、大きなイラクサがきれいな赤いカーネーションにむかって、葉っぱで身ぶりのお話をしていたんだって。イラクサは、こんなことを言ってたんだよ。 『きみは、とってもかわいらしいね。ぼくは、きみが大好きだよ』 ところが、先生はそんなことは大きらい。それで、すぐにイラクサの葉をぶったのさ。なぜって、葉は、ぼくたちの指みたいなものだからね。そしたら、ぶった先生の手が、ひりひりと痛くなってきたんだよ。だから、先生は、それっきり、イラクサにはさわらないことにしているんだってさ」 「まあ、おかしい!」と、イーダちゃんは笑いました。すると、そのときです。 「そんなでたらめを、子供に教えちゃいかん」と、ソファに腰をおろしていた、お客さまの、こうるさいお役人が言いだしました。この人は、学生さんが大きらいで、学生さんがふざけた、おもしろおかしい絵を切りぬいているのを見ると、いつもぶつぶつ言うのでした。もっとも、その絵というのは、たいへんなもの。たとえば、心のどろぼうというわけで、ひとりの男が首つり台にぶらさがって、手に心臓を持っているところとか、年とった魔女がほうきの上にまたがって、だんなさんを鼻の上に乗っけているところ、といったようなものでした。 お役人は、こういうものが大きらいでした。それで、さっきのように言うのでした。 「そんなでたらめを教えちゃいかん。そんなばかばかしい、ありもしないことを!」 けれども、イーダちゃんには、学生さんのしてくれたお花の話が、とってもおもしろく思われました。それで、お花のことばかり考えていました。お花たちは、頭をぐったりたれています。それというのも、ゆうべ一晩じゅう、ダンスをして、つかれきっているからです。きっと、病気なのでしょう。 そこで、イーダちゃんはお花を持って、ほかのおもちゃのところへ行きました。おもちゃたちは、きれいな、かわいいテーブルの上にならんでいましたが、引出しの中にも、きれいなものがいっぱいつまっていました。お人形のベッドには、お人形のソフィーが眠っていました。でも、イーダちゃんはソフィーにむかって、こう言いました。 「ソフィーちゃん、起っきしてちょうだい。あなた、お気の毒だけど、今夜は、引出しの中で、がまんしてねんねしてちょうだいね。かわいそうに、お花たちが病気なのよ。だから、あなたのベッドに寝かせてあげてね。そしたら、きっとまた、よくなってよ」 こう言って、イーダちゃんはお人形を取り出しました。けれども、お人形はすねたようすをして、ひとことも言いません。なぜって、お人形とすれば、自分のベッドを取りあげられてしまったものですから、すっかりおこっていたのです。それから、イーダちゃんはお花たちをお人形のベッドに寝かせて、小さな掛けぶとんを、かけてやりました。そして、 「おとなしくねんねするのよ。いまに、お茶をこさえてあげましょうね。そしたら、すぐによくなって、あしたは起っきできてよ」と、言いきかせました。 それから、朝になっても、お日さまの光が目にあたらないように、かわいいベッドのまわりに、カーテンを引いてやりました。 その晩は、学生さんのしてくれたお話のことが、イーダちゃんの頭から、一晩じゅうはなれませんでした。そのうちに、イーダちゃんの寝る時間になりました。イーダちゃんは、寝るまえに、窓のまえにたれているカーテンのうしろをのぞいてみました。そこには、おかあさまのきれいなお花がありました。ヒヤシンスやチューリップです。イーダちゃんは、お花たちにむかって、そっとささやきました。 「あなたたち、今夜、舞踏会へ行くんでしょう。あたし、ちゃんと知ってるわよ」 ところが、お花たちのほうは、なんにもわからないようなふりをして、葉っぱ一まい動かしません。でもイーダちゃんは、自分の言ったとおりにちがいないと思いました。 イーダちゃんは、ベッドにはいってからも、しばらくのあいだは、寝たまま、きれいなお花たちが、王さまのお城でダンスをしているところが見られたら、どんなにすてきだろう、と、そんなことばかり考えていました。 「あたしのお花たちも、ほんとに、あそこへ行ったのかしら?」 けれども、イーダちゃんは、いつのまにか眠ってしまいました。夜中に、目がさめました。ちょうど、お花たちのことや、でたらめなことを教えるといって、お役人からしかられた学生さんのことを、夢にみていました。イーダちゃんの寝ている部屋は、しーんと静まりかえっていました。テーブルの上に、ランプがついていました。おとうさまとおかあさまは、よく眠っていました。 「あたしのお花たちは、ソフィーちゃんのベッドに寝ているかしら?」と、イーダちゃんは、ひとりごとを言いました。「どうしているかしら?」 そこで、イーダちゃんは、ちょっとからだを起して、ドアのほうをながめました。ドアは、すこしあいていました。そのむこうに、お花だの、おもちゃだのが、置いてありました。耳をすますと、その部屋の中から、ピアノの音が聞えてくるようです。たいそう低い音でしたが、今までに聞いたことがないくらい、美しいひびきでした。 「きっと今、お花たちがみんなで、ダンスをしているのね。ああ、ちょっとでいいから、見たいわ」と、イーダちゃんは言いました。でも、起きあがるわけにはいきません。だって、そんなことをすれば、おとうさまとおかあさまが、目をさますかもしれませんもの。 「みんな、こっちへはいってきてくれればいいのに」と、イーダちゃんは言いました。しかし、お花たちは、はいってきませんし、音楽はあいかわらず美しく鳴りつづけています。あんまりすばらしいので、とうとう、イーダちゃんはがまんができなくなりました。小さなベッドからすべりおりると、音をたてないように、そっとドアのほうへしのんでいきました。むこうの部屋をのぞいてみました。と、まあ、なんというおもしろい光景でしょう! その部屋には、ランプは一つもついていませんでした。けれども、お月さまの光が窓からさしこんで、部屋のまんなかまで照らしていましたので、部屋の中はたいへん明るくて、まるでま昼のようでした。 ヒヤシンスとチューリップが、一つのこらず、ずらりと二列にならんでいました。窓のところには、お花はもう、一つもありません。はちが、からっぽになって、のこっているだけです。床の上では、お花たちが、みんなでぐるぐるまわりながら、いかにもかわいらしげにダンスをしています。そして、くさりの形を作ったり、くるりとまわって、長いみどりの葉っぱをからみあわせたりしていました。 ピアノにむかって腰かけているのは、大きな、黄色いユリの花です。このお花は、まちがいなく、イーダちゃんがこの夏見たお花にちがいありません。なぜって、あのとき、学生さんが、「ねえ、あのお花は、リーネさんによく似ているじゃないの」といった言葉まで、はっきりと思い出したのですから。あのときは、学生さんはみんなに笑われましたが、今、こうして見ますと、この長い、黄色いお花は、ほんとうに、どこから見てもリーネさんにそっくりです。おまけに、ピアノのひきかたまで、よく似ているではありませんか。長めの黄色い顔を一方へかしげるかと思うと、今度は、反対側へかしげたりして、美しい音楽に拍子を合せているのです。 |
一 姓名の由來と順位 わが輩はかつて『國語尊重』と題して、わが國固有の言語殊に固有名の尊重せらるべきゆゑんをのべた。今またこれに關聯して、わが國民の姓名の書き方について一言したいと思ふ。 わが國の姓名の發生發達の歴史はこゝに述べないが、要するに今日吾人の姓と稱するものは實は苗字といふべきもので、苗字と姓と氏とはその出處を異にするものである。 姓は元來身分の分類で、例へば臣、連、宿禰、朝臣などの類であり、氏は家系の分類で、例へば藤原、源、平、菅原、紀などの類である。 苗字は個人の家の名で、多くは土地の名を取つたものである。例へば那須の與一、熊谷の直實、秩父の重忠、鎌倉の權五郎、三浦の大介、佐野の源左衛門といふの類である。 昔は苗字は武士階級以上に限られたが、維新以來百姓町人總て苗字を許されたので、種々雜多な苗字が出現し、苗字を氏とも姓とも呼ぶ事になつて今日にいたつたのである。 わが國固有の風俗として家名を尊重する關係上、當然苗字を先にし名を後にし、苗字と名とを連合して一つの固有名を形づくり、これを以て個人の名稱としたので、苗字を先にするといふことに、歴史的意味の深長なるものがあることを考へねばならぬ。 東洋民族は概して苗字を先にし名を後にするの風習である。支那人はその適例である。 ヨーロツパでもハンガリーなどでは即ちマギアール族で東洋民族であるから、苗字を先にし、名を後にする。 西洋では家よりも個人を尊重するの風習から出たのか否かよく知らぬが、概して姓を後にし名を先にする。 ジヨージ・ワシントン。ジヨン・ラスキン。ジエームス・ワツト。ペーテル・ペーレンス。バウル・ゴーガンなどの類で、前名は即ち個人のキリスト教名後名は即ち家族名である。 印度は地理上東洋に屬するが、民族がアールヤ系であるから、矢張り名を先にし姓を後にする。ラビンドラナート・タゴールといへば、前名は即ち個人名で、後名のタゴールは家名である。 二 歐風模倣の惡例 現今日本では、歐文で通信や著作や、その他各種の文を書く場合に、その署名に歐米風にローマ字で名を先に姓を後に書くことにしてゐるが、これは由々しい誤謬である。小さい問題のやうで實は重大なる問題である。 わが輩の名は伊東忠太であつて、忠太伊東ではない。苗字と名とを連接した伊東忠太といふ一つの固有名を二つに切斷して、これを逆列するといふ無法なことはない筈である。 個人の固有名は神聖なもので、それ〴〵深い因縁を有する。みだりにこれをいぢくり廻すべきものでない。 然るに今日一般にこの轉倒逆列を用ゐて怪しまぬのは、畢竟歐米文明渡來の際、何事も歐米の風習に模倣することを理想とした時代に、何人かゞ斯かる惡例を作つたのが遂に一つの慣例となつたのであらう。 今更これを改めて苗字を先にし名を後にするにも及ばない。餘計な事であるといふ人もあるが、わが輩はさうは思はない。過ちて改むるに憚るなかれとは先哲の名訓である。 况んや若しも歐米流に姓名を轉倒するときは、こゝに覿面に起る難問がある。それは過去の歴史的人物を呼ぶ時に如何にするかといふ事である。 徳川家康と書かずして家康徳川といい、楠正成と書かずして正成楠といひ、紀貫之と書かずして貫之紀といふべきか。これは餘程變なものであらう。 過去の人は姓名を順位にならべ、現在の人は逆轉してならべるといふが如きは勿論不合理であるばかりでなく、實際においてその取扱ひ方に窮することになる。 この點において支那はさすがに徹底してゐる。如何なる場合にも姓名を轉倒するやうな愚を演じない。 張作霖は如何なる場合にも作霖張とは名乘るまい。李鴻章は世界の何國の人にも鴻章李と呼ばれ、または書かれたことがない。 世界の何國の人も支那では姓を先にし、名を後にすることを知つてをり、支那の風習に從つてゐる。世界の何國の人も日本では姓を先にし、名を後にすることを知つてゐる筈であるが、日本人が率先して自ら姓名を轉倒するから、外人もこれに從ふのである。 三 彼我互に慣習を尊重せよ 或人は、日本人が自ら姓名を轉倒して書く事は國際的に有意義であり、歐米人のために便宜多きのみならず、吾人日本人に取つても都合がよいといふが、自分はさう思はぬ。 結局無識の歐米人をして、日本でも姓を後に名を前に呼ぶ風習であると誤解せしめ、有識の歐米人をして、日本人が固有の風習を捨てゝ外國の慣習にならうは如何にも外國に對して柔順過ぎるといふ怪訝の感を起さしむるに過ぎぬと思ふ。 それよりも、吾人は必ず常に姓前名後を徹底的に勵行し、世界に日本の國風を了解させたならば各國の人も日本の慣例を尊重してこれに從ふに相違ない。 餘談に亘るが總じて歐米の慣習と日本の慣習とが全く正反對である實例が甚だ多い。 例へば年紀を記すのに、日本では年、月、日と大より小に入り、歐米では、日、月、年と逆に小より大に入る。 所在を記すのに、日本では、國、府縣、市、町、番地と大より小に入るに、歐米では、番地、町、市、府縣、國と、逆に小より大に入る。 日本人が歐文を書く場合、この慣例を尊重して、小より大に入るのは差支ないが、その内の固有名は斷然いぢくられてはならぬ。 例へば地名の中にも姓名を具ふるらしいのがあるが、この場合姓名を轉倒するのは絶對に不可である。 東京市の「櫻田本郷町」を「本郷町、櫻田」としてはいけない。鐵道の驛名の「羽前向町」を「向町、羽前」としてはいけない。同じ理由で「伊東忠太」を「忠太伊東」としてはいけないのである。 日本人が歐文を飜譯するとき、年紀や所在地の書き方は、これを日本流に大より小への筆法に直すが、固有名は矢張り尊重して彼の筆法に從ふのである。 例へばジヨージ・ワシントンと名を先に姓を後にして、日本流にワシントン・ジヨージとは書かない。 然らば歐米人も日本の固有名は日本流に書くのが當然であり、日本人自らは、なほ更徹底的に日本固有の慣習に從ふのが、當然過ぎる程當然ではないか。 四 斷じて姓名を逆列するな わが輩のこの所見に對して、或人はこれを學究の過敏なる迂論であると評し、齒牙にかくるに足らぬ些細な問題だといつたが、自分にはさう考へられぬ。 これは曾つてわが輩が「國語尊重」の題下でわが國の國號は日本であるのに、外人の訛傳に追從して自らジヤパンと名乘るのは國辱であると論じたのと同じ筆法で、姓名轉倒は矢張り一つの國辱であると思ふのである。 或人は又いつた、汝の所論は一理窟あるが實際的でない。汝は歐文に年紀を記すとき西暦を用ゐて神武紀元を用ゐないのは何故か、いはゆる自家撞着ではないかと。 わが輩はこれについて一言辯じて置きたい。年紀は時間を測る基準の問題である。これは國號、姓名などの固有名の問題とは全然意味が違ふ。 歐文で日本歴史を書くとき、便宜上日本年紀と共に西歴を註して彼我對照の便に資するは最適當な方法であり、歐文で歐洲歴史を書くとき、西歴に從ふは勿論である。 要するに世間は未だ固有名なるものゝ意味を了解してをらぬのであらう。固有名を普通名と同一程度に見てゐるのであらう。 普通名は至る所で稱呼を異にするが、固有名は絶對性のものであり、一あつて二なきものである。 即ち日本人の姓名は唯一不二である。姓と名と連續して一つの固有名を形づくる。 外人がこれを如何に取扱はうとも、それは外人の勝手である。たゞ吾人は斷じて外人の取扱ひに模倣し、姓と名とを切り離しこれを逆列してはならぬ。 それは丁度日本の國號を外人が何と呼び何と書かうとも、吾人は必ず常に日本と呼び日本と書かねばならぬのと同じ理窟である。(完) |
一 「おばば、猪熊のおばば。」 朱雀綾小路の辻で、じみな紺の水干に揉烏帽子をかけた、二十ばかりの、醜い、片目の侍が、平骨の扇を上げて、通りかかりの老婆を呼びとめた。―― むし暑く夏霞のたなびいた空が、息をひそめたように、家々の上をおおいかぶさった、七月のある日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳が一本、このごろはやる疫病にでもかかったかと思う姿で、形ばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車のわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつか脂ぎった腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。 「おばば。」 「……」 老婆は、あわただしくふり返った。見ると、年は六十ばかりであろう。垢じみた檜皮色の帷子に、黄ばんだ髪の毛をたらして、尻の切れた藁草履をひきずりながら、長い蛙股の杖をついた、目の丸い、口の大きな、どこか蟇の顔を思わせる、卑しげな女である。 「おや、太郎さんか。」 日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に、上くちびるをべろりとなめて見せた。 「何か用でもおありか。」 「いや、別に用じゃない。」 片目は、うすいあばたのある顔に、しいて作ったらしい微笑をうかべながら、どこか無理のある声で、快活にこう言った。 「ただ、沙金がこのごろは、どこにいるかと思ってな。」 「用のあるは、いつも娘ばかりさね。鳶が鷹を生んだおかげには。」 猪熊のばばは、いやみらしく、くちびるをそらせながら、にやついた。 「用と言うほどの用じゃないが、今夜の手はずも、まだ聞かないからな。」 「なに、手はずに変わりがあるものかね。集まるのは羅生門、刻限は亥の上刻――みんな昔から、きまっているとおりさ。」 老婆は、こう言って、わるがしこそうに、じろじろ、左右をみまわしたが、人通りのないのに安心したのかまた、厚いくちびるをちょいとなめて、 「家内の様子は、たいてい娘が探って来たそうだよ。それも、侍たちの中には、手のきくやつがいるまいという事さ。詳しい話は、今夜娘がするだろうがね。」 これを聞くと、太郎と言われた男は、日をよけた黄紙の扇の下で、あざけるように、口をゆがめた。 「じゃ沙金はまた、たれかあすこの侍とでも、懇意になったのだな。」 「なに、やっぱり販婦か何かになって、行ったらしいよ。」 「なんになって行ったって、あいつの事だ。当てになるものか。」 「お前さんは、相変わらずうたぐり深いね。だから、娘にきらわれるのさ。やきもちにも、ほどがあるよ。」 老婆は、鼻の先で笑いながら、杖を上げて、道ばたの蛇の死骸を突っついた。いつのまにかたかっていた青蝿が、むらむらと立ったかと思うと、また元のように止まってしまう。 「そんな事じゃ、しっかりしないと、次郎さんに取られてしまうよ。取られてもいいが、どうせそうなれば、ただじゃすまないからね。おじいさんでさえ、それじゃ時々、目の色を変えるんだから、お前さんならなおさらだろうじゃないか。」 「わかっているわな。」 相手は、顔をしかめながら、いまいましそうに、柳の根へつばを吐いた。 「それがなかなか、わからないんだよ。今でこそお前さんだって、そうやって、すましているが、娘とおじいさんとの仲をかぎつけた時には、まるで、気がふれたようだったじゃないか。おじいさんだって、そうさ、あれで、もう少し気が強かろうものなら、すぐにお前さんと刃物三昧だわね。」 「そりゃもう一年前の事だ。」 「何年前でも、同じ事だよ。一度した事は、三度するって言うじゃないか。三度だけなら、まだいいほうさ。わたしなんぞは、この年まで、同じばかを、何度したか、わかりゃしないよ。」 こう言って、老婆は、まばらな齒を出して、笑った。 「冗談じゃない。――それより、今夜の相手は、曲がりなりにも、藤判官だ、手くばりはもうついたのか。」 太郎は、日にやけた顔に、いらだたしい色を浮かべながら、話頭を転じた。おりから、雲の峰が一つ、太陽の道に当たったのであろう。あたりが翛然と、暗くなった。その中に、ただ、蛇の死骸だけが、前よりもいっそう腹の脂を、ぎらつかせているのが見える。 「なんの、藤判官だといって、高が青侍の四人や五人、わたしだって、昔とったきねづかさ。」 「ふん、おばばは、えらい勢いだな。そうして、こっちの人数は?」 「いつものとおり、男が二十三人。それにわたしと娘だけさ。阿濃は、あのからだだから、朱雀門に待っていて、もらう事にしようよ。」 「そう言えば、阿濃も、かれこれ臨月だったな。」 太郎はまた、あざけるように口をゆがめた。それとほとんど同時に、雲の影が消えて、往来はたちまち、元のように、目が痛むほど、明るくなる。――猪熊のばばも、腰をそらせて、ひとしきり東鴉のような笑い声を立てた。 「あの阿呆をね。たれがまあ手をつけたんだか――もっとも、阿濃は次郎さんに、執心だったが、まさかあの人でもなかろうよ。」 「親のせんぎはともかく、あのからだじゃ何かにつけて不便だろう。」 「そりゃ、どうにでもしかたはあるのだけれど、あれが不承知なのだから、困るわね。おかげで、仲間の者へ沙汰をするのも、わたし一人という始末さ。真木島の十郎、関山の平六、高市の多襄丸と、まだこれから、三軒まわらなくっちゃ――おや、そう言えば、油を売っているうちに、もうかれこれ未になる。お前さんも、もうわたしのおしゃべりには、聞き飽きたろう。」 蛙股の杖は、こういうことばと共に動いた。 「が、沙金は?」 この時、太郎のくちびるは、目に見えぬほど、かすかにひきつった。が、老婆は、これに気がつかなかったらしい。 「おおかた、きょうあたりは、猪熊のわたしの家で、昼寝でもしているだろうよ。きのうまでは、家にいなかったがね。」 片目は、じっと老婆を見た。そうして、それから、静かな声で、 「じゃ、いずれまた、日が暮れてから、会おう。」 「あいさ。それまでは、お前さんも、ゆっくり昼寝でもする事だよ。」 |
大正八年三月二十一日。信濃鉄道にゆられながら、重いリュックサックを背負ったまま腰をかけて、顎の下にアルペンストックをかって、反対側の窓の中に刻々に移って行く真白な雪の山々を眺めていると、雪の山の不可抗な吸引力は、ジットしていられないほど強くなった。しかし夜行できた寝不足の身体は、今日山に入ることを拒んでいる。はやる心を抑えつつ穂高駅に下車した。迎えにきてくれた寺島寅吉老人と春にしては暖かすぎる田圃道を牧に向かった。常念、蝶ガ岳が雪を浴びた下に、平たくこんもり茂った浅川山を背後に、牧の愛らしい村が点々と見える。スキーを肩に、リュックサックの重みを感じながら汗の流れる身体を寺島方に着いた。水車がめぐっている。昼飯をすましてから、案内の永田小十郎がきたので、万事相談の上明朝出発と定め、小十の外に寺島政太郎、渡辺虎十の二人がきてくれることになった。 三月二十二日。今日もまた暖か過ぎる好天気である。午前七時半に出発した。寅吉老人は「雪の山を見に行けるところまでついて行く」といって、六十二歳の老体を運んできた。総勢七人となった。荷物は大部分人夫に背負って貰って、今はわずか二貫余平均となった。松林をぬけると本沢、二ノ沢、一ノ沢を集めた大きな谷をへだてて、鍋冠山が雪をかぶって、層をなした雪は実に綺麗に積っていた。沢を伝って目を上に上げて行くと、蝶ガ岳の崩れが白い中に見える。道は一ノ沢の左岸の中腹をかなり急に登って行く。汗はダラダラと流れる。真白い雪の常念が雪の中から出たり入ったりしていた。道が谷川の岸を通るようになる時分には、雪がまだらに河原に出てきた。太陽の光線を強く反射する斑の雪の中を、谷川の水は光の中を躍り流れた。雪はだんだんまして、案内は小屋の跡に入って金樏をつけた。スキーはまだ使えない。滝沢付近にきた時、雪のとぎれが無くなった。スキーはやっと雪をなめることができた。谷川はだんだん水が減じて、雪は益々谷を埋めて行った。ハシタ沢で昼食をした。これから白樺も樅もますます太くなって、雪の静けさが林の中に満ちている。谷川の岸の雪は谷の上をかぶって、夏なれば岩のゴツゴツしたところも、今はなだらかなスロープである。四時頃案内を休ませて、谷川の岸を登った。ザラメ雪にしてはなかなかいい。四時すぎに烏帽子沢が右手から雪の坂をなして落ちあうところを夜営地とした。小十は勇ましく崖を登って木をきりだした。行手には明日越えるはずの常念乗越が見える。谷川の両岸は雪がうねりをなして、水は雪に段をつけて下におりねば見えない。危ない足取りで雪に段をつけて水を汲みに行くと、どの岩もどの岩も雪がもくもくと積って、岩の肌さえ見えているのは少ない。雪の中から、チョロチョロと、水が流れ出てくる。水を汲んで見上げると、乗越には雪が波の崩れのようにかぶさっていた。この静けさの中に俗なものは皆洗われて行くような気持ちになった。天幕は持参の油紙で雪を平にした上に張った。雪の上には青葉をしき、その上に毛皮をならべた。日はようやく落ちて、雪がコチコチに固くなって行くと、一時にあたりは淋しくなった。大きな焚火が天幕の傍で、ボーボーと雪の谷に音をたてて燃えた。赤い火は雪に穴をあけながら案内の顔を照らし、天幕を暗にうす赤く浮かし出した。自分らはすっかり防寒の用意をして、毛皮の上に寝た。手の下には、青葉の下に石のように凍った雪が白く見えた。静かだなあと思いながら手袋を二枚もはめた。どのくらい寝たのか膝が馬鹿に冷いので目が覚めた。天幕にスキーの影がうつっていた。雪の上につきさしたスキーに吊したアザラシの皮が微風にゆれて、凍った毛が油紙をサラサラと撫でていた。月だと半分身体を起して、油紙を少しはずした。星が見えた。次に月が見えた、谷川の雪のうねりが月に照らされて、雪の坂の上の林が影をうすく投げていた。自分は白い息を吹いて見ながら懐炉に火をつけて、真綿と一緒に膝に巻いた。再び寝ようとすると、閉じたまぶたに月の光を感じて、ちょっと寝られない。それにアザラシの皮がサラサラ油紙を撫でて、静まりかえった鼓膜をいじ悪く動かす。アルコールランプを少しの間燃して暖をとって無理に寝た。 三月二十三日。四時に起きて、焚火して夜の白むのを待った。乗越は星の下に白く見えた。淋しい谷に、チッチロという鳥の声を聞いたと思うと、次第に空が白んで、飯が炊ける時分には、日がパッとあたってきた。午前八時に夜営地を出発した。谷は全く雪に埋められて、白樺さえ背が大変低い。水はちょっと目につかない。夏のような暑さを感じてきた。目を焼く恐れがある。常念の乗越を間近に見るひろいひろいスロープで、夏シャツ一枚で滑って遊んだ。実にいい雪だ、と風をきりながら叫んだ。まるで滑ってくれ、と今までスキーのくるのを待っていたようだ。これから上はだんだん急に谷が狭くなって、分れて行くと谷がそってくるように思われる。上窪下から乗越を仰いで、夏の針ノ木を思い浮べだ。はじめはウエンデンをしながら、電光形に登ったが、ついにはそれもできなくなった。雪は波形をして、固くなってきた。急な所を横登行をやりながらしばしば休んだ。途中で菓子を食いながら、一本の支える木もない急な斜面を見渡すと自らつつしみ深い心になる。雪巡礼の一歩一歩は、乗越に近づいて行った。常念の頂上への斜面は、雪が飛ばされてしまって、岩が露れていた。十一時の予定が遅れて十二時に乗越に着いた。上窪下から一時間以上かかっている。スキーをはい松の上に置いて岩に腰を下ろした。赤岩岳から穂高まで真白だ。ただ槍ガ岳のみ、その中にポッリと黒い。音もない。風もない。いうことも無ければ考えることもない。案内が「美しい」というのが聞えた。はい松を焚いて、パンを噛った。いま登ってきた方には浅間、小浅間や、真白な戸隠が見えた。静かに話をしながらパンを火にあぶっては食った。スキーから雪がとけて岩の上に流れている。尾根はすべて雪がない。スキーで中房へ越えるのは駄目だと思った。再びスキーをつけて、槍ガ岳を右に見て一ノ俣に降る。大きなボーゲンを画いて木の間を縫いながら十分ばかりで降りた。雪は一丈余もあろう。河はほとんど埋っている。針葉樹の下を通って行くとハラハラと雪が木から落ちてくる。中山の登りは、スキーをぬいで樏の跡を登った。上に着いて休むと、一時に汗が引込んで、風が木々を渡って行った。中山の下りは急で、雪は実に好い。プルツファシュネーに近い。スキーから雪煙が立って、音のない谷にシューという快い音をたてて風をきって下りた。初めはステムボーゲンを猛烈にやらねばならなかったが、途中から直滑降にうつって、木が後ろに飛んで行くように見えた。二ノ俣の池で焚火をして飯を食った。水を探すに骨を折るくらい一面の雪の原である。これからはスキーは雪の小山を上ったり下ったり、ほとんど黙っていても滑って行く。夏のことを思うとその道といい骨折りといい、馬鹿気たものだと思う。案内は上の方に見える棧道をさして笑った。二ノ俣のドーの小屋の中には、池のように水が溜っていた。さすがにここは谷川が流れている。いよいよ赤沢も近い。川の両岸には雪の大だんご、小だんごが一面に並んでいる。ちょっとスキーは困難を感じた。やがて、赤沢の岩小屋が右手に見えた。もちろんスキーは谷の上を歩いている。夏きてはこれが雪で埋まろうとは想像もつかない。驚くほど平坦な坂である。谷の両側はだんだん高くなって、ボーゲンを画いたらさぞいいだろうと思うスロープが谷を埋めている。しかしいまの雪では固すぎる。日はようやく暮れて、たちまち雪は氷のようにかたくなった。六時に全く雪に埋ったアルプス旅館を掘ってはい込んだ。幸いに雪は入っていない。蝋燭をともして焚火をした。これだけ雪に埋っていれば、中で焚火をしても、大丈夫だと安心した。煙の出口がないのでボロボロ涙をながしながら、雪をとかして湯をつくった。米もあった。ふとんもあった。今晩は天国へ行ったようだと、思いきり足をのばして寝た。 三月二十四日。目を覚すと曇っているという声がする。小十が天候を見に出たが、危いという。がっかりしながら雪の上にはいだした。槍沢は曇った空の下に静まりかえっている。早い雲の往来を見でこれは駄目だと思った。無理をしてはいけないと第一に考えた。案内の樏をはいて、槍沢を登っていった。樏の歯はザクリザクリと雪に音をたてて食いこんだ。なんだか自分が蟻のように小さいように思いながら、急いで登った。一ヵ所熊の足跡が谷を横ぎっていた。槍がちょっと見えた。なるほど雪がない。天気さえ好ければ、一日かければ槍は楽に登れそうだ。虚栄心でくる連中でなく、心から槍の眺めを拝しにくる人なら、きっと荘厳な景色が見られる。僕らはまたくるとしようと口惜しがりながら、顔だけは平気を装って、すたすたと大股に引返した。遠くに小屋の頭がちょっと雪の上に見えた。小屋に帰ると皆待っていてくれた。飯をすまして午前九時に出発した。スキーをはいてたちまち小屋を後に滑った。谷を降りながらヤーホーと声をかけると上の方からヤーホーと応じて、スキーが雪をする音が聞えてくる。休んで木を見あげると、木鼠がガサガサと木を登って遊んでいた。二ノ俣のドーへきて、顔を洗っているうちに案内がやってきた。横尾の屏風岩を見るころ雨が降ってきた。雪がザラメのためにスキーに少しも付着しない。だんだん広い原に出てきた。今は広い雪の原の上を、遥か彼方に目標をえらんで、一歩に一間ぐらいずつ滑走して行く。右手には凄いように綺麗な穂高を眺め、行手に霞沢、六百、徳本の山々が、上の方は雪と見えて白く霞んでいる。柳はもう赤い芽を吹いていた。宮川の池のかなり手前の木陰で昼食をつかった。雨などは眼中に無くなって、焚火にあたりながらゆっくり飯を食った。宮川の池を訪問して牛番小屋のところへ出ると、スキーの跡があった。かねて知合いのウインクレル氏だとすぐ思って、会えるかも知れないと道を急いだ。雪は非常な滅じ方で、ここだけならスキーは無用の長物だと思った。スキーをする雪ではない。樏の雪だ。温泉は雨の中に固く戸を閉ざしていた。傍の小屋では犬が吠える。入って見ると常さんがいた。「これは珍しい人がきた」と心よく迎えてくれた。ウ氏は今朝平湯へ行ったそうだ。乗鞍へ行ったのだ。時刻はまだ午後四時前だ。炉を囲んで盛んに話がはずんだ。犬がおびえている。 三月二十五日。今日はここで遊ぶことにした。湯の元へ行って岩の中の温泉に浴すると、ぬるくて出ることができない。晴れ渡った朝の空気を吸いながら、河の流れを聞きながら、岩の浴槽で一時間もつかっていた。十時頃から焼岳へ散歩に行った。焼の方から見た霞沢や六百山はなかなか綺麗だ。殊に木の間から見た大正池と雪の霞沢の谷は美しい。昼めしにビスケットを噛っていると雨になった。焼のラバーの跡には、雪が層をなして見える。小屋に帰って常さんと小十の猟の話を聞いていると、ちっともあきない。夜に入って雨は吹雪に変った。戸を打つ吹雪の音がサラサラと聞える。炉には大きな木がもえさかって、話はそれからそれへと絶えようともしなかった。 三月二十六日。吹雪は大分強い。十分用意をして午前七時半に出発した。いい雪だ。本当に粒の細かい水気のない雪だ。理想的のブルツファシュネーだと感じながら、吹雪の中を徳本に向かった。すっかり用意をして吹雪の中を歩くのは、気持ちのいいものでかつ痛快なものだ。徳本の下で焚火をした。時々パッと日があたると、木の影が雪の上にさす。何という美しさであろう。スキーは例の通り谷を一直線に登って行く。夏の道は左にある。頂上近くでいよいよ風が烈しくなる。温度は大したものでなく、摂氏の零下四度を示していた。まつ毛は凍って白い。徳本の頂上の道よりちょっと南に出た。東側には雪が二間もかぶっていた。下りは非常に滑りにくかった。古い雪の上に新しい雪が乗っているので、みななだれてしまう。途中吹雪の中で焚火をしたが少しも、暖かくなかった。手袋をちょっとぬぐともう凍ってかたくなる。岩魚留に近くなったら大変暖かくなった。岩魚留で昼をつかってすっかり休んだ。もうスキーは用いられない。午後三時に岩魚留を出発して清水屋に着いた。 |
雨霽の梅雨空、曇つてはゐるが大分蒸し暑い。――日和癖で、何時ぱら〳〵と來ようも知れないから、案内者の同伴も、私も、各自蝙蝠傘……いはゆる洋傘とは名のれないのを――色の黒いのに、日もさゝないし、誰に憚るともなく、すぼめて杖につき、足駄で泥濘をこねてゐる。…… いで、戰場に臨む時は、雜兵と雖も陣笠をいたゞく。峰入の山伏は貝を吹く。時節がら、槍、白馬といへば、モダンとかいふ女でも金剛杖がひと通り。……人生苟くも永代を渡つて、辰巳の風に吹かれようといふのに、足駄に蝙蝠傘は何事だ。 何うした事か、今年は夏帽子が格安だつたから、麥稈だけは新しいのをとゝのへたが、さつと降つたら、さそくにふところへねぢ込まうし、風に取られては事だと……ちよつと意氣にはかぶれない。「吹きますよ。ご用心。」「心得た。」で、耳へがつしりとはめた、シテ、ワキ兩人。 藍なり、紺なり、萬筋どころの單衣に、少々綿入の絽の羽織。紺と白たびで、ばしや〳〵とはねを上げながら、「それ又水たまりでござる。」「如何にも沼にて候。」と、鷺歩行に腰を捻つて行く。……といふのでは、深川見物も落着く處は大概知れてゐる。はま鍋、あをやぎの時節でなし、鰌汁は可恐しい、せい〴〵門前あたりの蕎麥屋か、境内の團子屋で、雜煮のぬきで罎ごと正宗の燗であらう。從つて、洲崎だの、仲町だの、諸入費の懸かる場所へは、強ひて御案内申さないから、讀者は安心をなすつてよい。 さて色氣拔きとなれば、何うだらう。(そばに置いてきぬことわりや夏羽織)と古俳句にもある。羽織をたゝんでふところへ突つ込んで、空ずねの尻端折が、一層薩張でよからうと思つたが、女房が産氣づいて産婆のとこへかけ出すのではない。今日は日日新聞社の社用で出て來た。お勤めがらに對しても、聊か取つくろはずばあるべからずと、胸のひもだけはきちんとしてゐて……暑いから時々だらける。…… 「――旦那、どこへおいでなさるんで? は、ちよつとこたへたよ。」 と私がいふと、同伴は蝙蝠傘のさきで爪皮を突きながら、 「――そこを眞直が福島橋で、そのさきが、お不動樣ですよ、と圓タクのがいひましたね。」 今しがた、永代橋を渡つた處で、よしと扉を開けて、あの、人と車と梭を投げて織違ふ、さながら繁昌記の眞中へこぼれて出て、餘りその邊のかはりやうに、ぽかんとして立つた時であつた。「鯒や黒鯛のぴち〳〵はねる、夜店の立つ、……魚市の處は?」「あの、火の見の下、黒江町……」と同伴が指さしをする、その火の見が、下へ往來を泳がせて、すつと開いて、遠くなるやうに見えるまで、人あしは流れて、橋袂が廣い。 私は、實は震災のあと、永代橋を渡つたのは、その日がはじめてだつたのである。二人の風恰好亦如件……で、運轉手が前途を案じてくれたのに無理はない。「いや、たゞ、ぶらつくので。」とばかり申し合はせた如く、麥稈をゆり直して、そこで、左へ佐賀町の方へ入つたのであるが。 さて、かうたゝずむうちにも、ぐわら〳〵、ぐわらとすさまじい音を立てて、貨物車が道を打ちひしいで驅け通る。それあぶない、とよけるあとから、又ぐわら〳〵と鳴つて來る。どしん、づん〳〵づづんと響く。 燒け土がまだそれなりのもあるらしい、道惡を縫つて入ると、その癖、人通も少く、バラツク建は軒まばらに、隅を取つて、妙にさみしい。 休業のはり札して、ぴたりと扉をとざした、何とか銀行の窓々が、觀念の眼をふさいだやうに、灰色にねむつてゐるのを、近所の女房らしいのが、白いエプロンの薄よごれた服裝で、まだ二時半前だのに、青くあせた門柱に寄り添つて、然も夕暮らしく、曇り空を仰ぐも、ものあはれ。……鴎のかはりに烏が飛ばう。町筋を通して透いて見える、流れの水は皆黒い。…… 銀行を横にして、片側は燒け原の正面に、野中の一軒家の如く、長方形に立つた假普請の洋館が一棟、軒へぶつつけがきの(川)の字が大きく見えた。 夜は(川)の字に並んだその屋號に、電燈がきら〳〵とかゞやくのであらうも知れない。あからさまにはいはないが、これは私の知つた𢌞米問屋である。――(大きく出たな。)――當今三等米、一升につき約四十三錢の値を論ずるものに、𢌞米問屋の知己があらう筈はない。……こゝの御新姐の、人形町の娘時代を預かつた、女學校の先生を通して、ほのかに樣子を知つてゐるので……以前、私が小さな作の中に、少し家造りだけ借用した事がある。 御存じの通り、佐賀町一廓は、殆ど軒ならび問屋といつてもよかつた。構へも略同じやうだと聞くから、昔をしのぶよすがに、その時分の家のさまを少しいはう。いま此のバラツク建の洋館に對して――こゝに見取圖がある。――斷るまでもないが、地續きだからといつて、吉良邸のでは決してない。米價はその頃も高値だつたが、敢て夜討ちを掛ける繪圖面ではないのであるが、町に向つて檜の木戸、右に忍返しの塀、向つて本磨きの千本格子が奧深く靜まつて、間の植込の緑の中に石燈籠に影が青い。藏庫は河岸に揃つて、荷の揚下しは船で直ぐに取引きが濟むから、店口はしもた屋も同じ事、煙草盆にほこりも置かぬ。……その玄關が六疊の、右へ𢌞り縁の庭に、物數寄を見せて六疊と十疊、次が八疊、續いて八疊が川へ張出しの欄干下を、茶船は浩々と漕ぎ、傳馬船は洋々として浮ぶ。中二階の六疊を中にはさんで、梯子段が分れて二階が二間、八疊と十疊――ざつとこの間取りで、なかんづくその中二階の青すだれに、紫の總のしつとりした岐阜提灯が淺葱にすくのに、湯上りの浴衣がうつる。姿は婀娜でもお妾ではないから、團扇で小間使を指圖するやうな行儀でない。「少し風過ぎる事」と、自分でらふそくに灯を入れる。この面影が、ぬれ色の圓髷の艷、櫛の照とともに、柳をすべつて、紫陽花の露とともに、流にしたゝらうといふ寸法であつたらしい。…… 私は町のさまを見るために、この木戸を通過ぎた事がある。前庭の植込には、きり島がほんのりと咲き殘つて、折から人通りもなしに、眞日中の忍返しの下に、金魚賣が荷を下して、煙草を吹かして休んでゐた。 「それ、來ましたぜ。」 風鈴屋でも通る事か。――振返つた洋館をぐわさ〳〵とゆするが如く、貨物車が、然も二臺。私をかばはうとした同伴の方が水溜に踏みこんだ。 「あ、ばしやりとやツつけた。」 萬筋の裾を見て、苦りながら、 「しかし文句はいひますもののね、震災の時は、このくらゐな泥水を、かぶりついて飮みましたよ。」 特に震災の事はいふまい、と約束をしたものの、つい愚痴も出るのである。 このあたり裏道を掛けて、松村、小松、松賀町――松賀を何も、鶴賀と横なまるには及ばないが、町々の名もふさはしい、小揚連中の住居も揃ひ、それ、問屋向の番頭、手代、もうそれ不心得なのが、松村に小松を圍つて、松賀町で淨瑠璃をうならうといふ、藏と藏とは並んだり、中を白鼠黒鼠の俵を背負つてちよろ〳〵したのが、皆灰になつたか。御神燈の影一つ、松葉の紋も見當らないで、箱のやうな店頭に、煙草を賣るのもよぼ〳〵のおばあさん。 「變りましたなあ。」 「變りましたは尤もだが……この道は行留りぢやあないのかね。」 「案内者がついてゐます。御串戲ばかり。……洲崎の土手へ突き當つたつて、一つ船を押せば上總澪で、長崎、函館へ渡り放題。どんな拔け裏でも汐が通つてゐますから、深川に行留りといふのはありませんや。」 「えらいよ!」 どろ〳〵とした河岸へ出た。 「仙臺堀だ。」 「だから、それだから、行留りかなぞと外聞の惡い事をいふんです。――そも〳〵、大川からここへ流れ口が、下之橋で、こゝが即ち油堀……」 「あゝ、然うか。」 「間に中之橋があつて、一つ上に、上之橋を流れるのが仙臺堀川ぢやあありませんか。……斷つて置きますが、その川筋に松永橋、相生橋、海邊橋と段々に架つてゐます。……あゝ、家らしい家が皆取拂はれましたから、見通しに仙臺堀も見えさうです。すぐ向うに、煙だか、雲だか、灰汁のやうな空にたゞ一ヶ處、樹がこんもりと、青々して見えませう――岩崎公園。大川の方へその出つ端に、お湯屋の煙突が見えませう、何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は、人をおびえさせたセメント會社の大煙突だから驚きますな。中洲と、箱崎を向うに見て、隅田川も漫々渺々たる處だから、あなた驚いてはいけません。」 「驚きません。わかつたよ。」 「いや念のために――はゝゝ。も一つ上が萬年橋、即ち小名木川、千筋萬筋の鰻が勢揃をしたやうに流れてゐます。あの利根川圖志の中に、……えゝと――安政二年乙卯十月、江戸には地震の騷ぎありて心靜かならず、訪來る人も稀なれば、なか〳〵に暇ある心地して云々と……吾が本所の崩れたる家を後に見て、深川高橋の東、海邊大工町なるサイカチといふ處より小名木川に舟うけて……」 「また、地震かい。」 「あゝ、默り默り。――あの高橋を出る汽船は大變な混雜ですとさ。――この四五年浦安の釣がさかつて、沙魚がわいた、鰈が入つたと、乘出すのが、押合、へし合。朝の一番なんぞは、汽船の屋根まで、眞黒に人で埋まつて、川筋を次第に下ると、下の大富橋、新高橋には、欄干外から、足を宙に、水の上へぶら下つて待つてゐて、それ、尋常ぢや乘切れないもんですから、そのまんま……そツとでせうと思ひますがね、――それとも下敷は潰れても構はない、どかりとだか何うですか、汽船の屋根へ、頭をまたいで、肩を踏んで落ちて來ますツて。……こ奴が踏みはづして川へはまると、(浦安へ行かう、浦安へ行かう)と鳴きます。」 「串戲ぢやあない。」 「お船藏がつい近くつて、安宅丸の古跡ですからな。いや、然ういへば、遠目鏡を持つた氣で……あれ、ご覽じろ――と、河童の兒が囘向院の墓原で惡戲をしてゐます。」 「これ、芥川さんに聞こえるよ。」 私は眞面目にたしなめた。 「口ぢやあ兩國まで飛んだやうだが、向うへ何うして渡るのさ、橋といふものがないぢやあないか。」 「ありません。」 と、きつぱりとしたもので、蝙蝠傘で、踞込んで、 「確にこゝにあつたんですが、町内持の分だから、まだ、架からないでゐるんでせうな。尤もかうどろ〳〵に埋まつては、油堀とはいへませんや、鬢付堀も、黒鬢つけです。」 「塗りたくはありませんかな。」 「私はもう歸ります。」 と、麥稈をぬいで風を入れた、頭の禿を憤る。 「いま見棄てられて成るものか、待ちたまへ、あやまるよ。しかしね、仙臺堀にしろ、こゝにしろ、殘らず、川といふ名がついてゐるのに、何しろひどくなつたね。大分以前には以前だが……やつぱり今頃の時候に此の川筋をぶらついた事がある。八幡樣の裏の渡し場へ出ようと思つて、見當を取違へて、あちらこちら拔け裏を通るうちに、ざんざ降りに降つて來た、ところがね、格子さきへ立つて、雨宿りをして、出窓から、紫ぎれのてんじんに聲をかけられようといふ柄ぢやあなし……」 |
私が、遠洋航海をすませて、やつと半玉(軍艦では、候補生の事をかう云ふのです)の年期も終らうと云ふ時でした。私の乗つてゐたAが、横須賀へ入港してから、三日目の午後、彼是三時頃でしたらう。勢よく例の上陸員整列の喇叭が鳴つたのです。確、右舷が上陸する順番になつてゐたと思ひますが、それが皆、上甲板へ整列したと思ふと、今度は、突然、総員集合の喇叭が鳴りました。勿論、唯事ではありません。何にも事情を知らない私たちは、艙口を上りながら、互に「どうしたのだらう」と云ひ交はしました。 さて、総員が集合して見ると、副長がかう云ふのです。「……本艦内で、近来、盗難に罹つた者が、二三ある。殊に、昨日、町の時計屋が来た際にも、銀側の懐中時計が二個、紛失したと云ふ事であるから、今日はこれから、総員の身体検査を行ひ、同時に所持品の検査も行ふ事にする。……」大体、こんな意味だつたと思ひます。時計屋の一件は、初耳ですが、盗難に罹つた者があるのは、僕たちも知つてゐました。何でも、兵曹が一人に水兵が二人で、皆、金をとられたと云ふ事です。 身体検査ですから、勿論、皆、裸にさせられるのですが、幸、十月の始で、港内に浮んでゐる赤い浮標に日がかんかん照りつけるのを見ると、まだ、夏らしい気がする時分なので、これはさう大して苦にもならなかつたやうです。が、弱つたのは、上陸早々、遊びに行く気でゐた連中で、検査をされると、ポツケツトから春画が出る、サツクが出ると云ふ騒ぎでせう。顔を赤くして、もぢもぢしたつて、追付きません。何でも、二三人は、士官に擲られたやうでした。 何しろ、総員六百人もあるのですから、一通り検査をするにしても、手間がとれます。奇観と云へば、まああの位、奇観はありますまい。六百人の人間が皆、裸で、上甲板一杯に、並んでゐるのですから。その中でも、顔や手首のまつ黒なのが、機関兵で、この連中は今度の盗難に、一時嫌疑をかけられた事があるものですから、猿股までぬいで、検べるのならどこでも検べてくれと云ふ恐しいやうな権幕です。 上甲板で、かう云ふ騒ぎが、始まつてゐる間に、中甲板や下甲板では、所持品の検査をやり出しました。艙口にはのこらず、候補生が配置してありますから、上甲板の連中は勿論下へは一足でもはいれません。私は、丁度、その中下甲板の検査をする役に当つたので、外の仲間と一しよに、兵員の衣嚢やら手箱やらを検査して歩きました。こんな事をするのは軍艦に乗つてから、まだ始めてでしたが、ビイムの裏を探すとか衣嚢をのせてある棚の奥をかきまはすとか、思つたより、面倒な仕事です。その中に、やつと、私と同じ候補生の牧田と云ふ男が、贓品を見つけました。時計も金も一つになつて、奈良島と云ふ信号兵の帽子の箱の中に、あつたのです。その外にまだ給仕がなくなしたと云ふ、青貝の柄のナイフも、はいつてゐたと云ふ事でした。 そこで、「解散」から、すぐに「信号兵集れ」と云ふ事になりました。外の連中は悦んだの、悦ばないのではありません。殊に、機関兵などは、前に疑はれたと云ふ廉があるものですから、大へんな嬉しがりやうでした。――所が集つた信号兵を見ると、奈良島がゐません。 僕は、まだ無経験だつたので、さう云ふ事は、まるで知りませんでしたが、軍艦では贓品が出ても、犯人の出ないと云ふ事が、時々あるのださうです。勿論、自殺をするのですが、十中八九は、石炭庫の中で首を縊るので、投身するのは、殆、ありません。最も一度、私の軍艦では、ナイフで腹を切つたのがゐたさうですが、これは死に切れない中に、発見されて命だけはとりとめたと云ふ事でした。 さう云ふ事があるものですから、奈良島が見えないと云ふと、将校連も皆流石に、ぎよつとしたやうでした。殊に、今でも眼についてゐるのは、副長の慌て方で、この前の戦争の時には、随分、驍名を馳せた人ださうですが、その顔色を変へて、心配した事と云つたら、はた眼にも笑止な位です。私たちは皆、それを見ては、互に、軽蔑の眼を交してゐました。ふだん精神修養の何のと云ふ癖に、あの狼狽のしかたはどうだと云ふ、腹があつたのです。 そこで、すぐに、副長の命令で、艦内の捜索が始まりました。さうなると、一種の愉快な興奮に駆られるのは、私一人に限つた事ではないでせう。火事を見にゆく弥次馬の心もち――丁度、あんなものです。巡査が犯人を逮捕に行くとなると、向うが抵抗するかも知れないと云ふ不安があるでせうが、軍艦の中ではそんな事は、万々ありません。殊に、私たちと水兵との間には、上下の区別と云ふものが、厳として、――軍人になつて見なければ、わからない程、厳としてありますから、それが、非常な強みです。私は、殆、踴躍して、艙口を駈け下りました。 丁度、その時、私と一しよに、下へ来た連中の中に、牧田がゐましたが、これも、面白くつてたまらないと云ふ風で、後から、私の肩をたたきながら、 「おい、猿をつかまへた時の事を思出すな。」 と云ふのです。 「うん、今日の猿は、あいつ程敏捷でないから、大丈夫だ。」 「そんなに高を括つてゐると、逃げられるぞ。」 「なに、逃げたつて、猿は猿だ。」 こんな冗談を云ひながら、下へ下りました。 この猿と云ふのは、遠洋航海で、オオストラリアへ行つた時に、ブリスベインで、砲術長が、誰かから貰つて来た猿の事です。それが、航海中、ウイルヘルムス、ハフエンへ入港する二日前に、艦長の時計を持つたなり、どこかへ行つてしまつたので、軍艦中大騒ぎになりました。一つは、永の航海で、無聊に苦んでゐたと云ふ事もあるのですが、当の砲術長はもとより、私たち総出で、事業服のまま、下は機関室から上は砲塔まで、さがして歩く――一通りの混雑ではありません。それに、外の連中の貰つたり、買つたりした動物が沢山あるので、私たちが駈けて歩くと、犬が足にからまるやら、ペリカンが啼き出すやら、ロオプに吊つてある籠の中で、鸚哥が、気のちがつたやうに、羽搏きをするやら、まるで、曲馬小屋で、火事でも始まつたやうな体裁です。その中に、猿の奴め、どこをどうしたか、急に上甲板へ出て来て、時計を持つたまま、いきなりマストへ、駈け上らうとしました。丁度そこには、水兵が二三人仕事をしてゐたので勿論、逃がしつこはありません。すぐに、一人が、頸すぢをつかまへて、難なく、手捕りにしてしまひました。時計も、硝子がこはれた丈で、大した損害もなくてすんだのです。あとで猿は、砲術長の発案で、満二日、絶食の懲罰をうけたのですが、滑稽ではありませんか、その期限が切れない中に、砲術長自身、罰則を破つて、猿に、人参や芋を、やつてしまひました。さうして、「しよげてゐるのを見ると、猿にしても、可哀さうだからな」と、かう云ふのです。――これは、余事ですが、実際奈良島をさがして歩く私たちの心もちは、この猿を追ひかけた時の心もちと、可成よく似てゐました。 私は、その時、一番先に、下甲板へ下りました。御承知でせうが、下甲板は、何時もいやにうす暗いものです。その中で、磨いた金具や、ペンキを塗つた鉄板が、あちらこちらに、ぼんやりと、光つてゐる。――何だか妙に息がつまるやうな気がして、仕方がありません。そのうす暗い中を、石炭庫の方へ二足三足、歩いたと思ふと、私は、もう少しで、声を出して、叫びさうになりました。――石炭庫の積入口に、人間の上半身が出てゐたからです。今、その狭い口から、石炭庫の中へ、はいらうと云ふので、足を先へ、入れて見た所なのでせう。こつちからは、紺の水兵服の肩と、帽子とに遮られて、顔は誰ともわかりません、それに、光が足りないので、唯その上半身の黒くうき出してゐるのが、見えるだけです。が、直覚的に、私は、それを、奈良島だと思ひました。さうだとすれば、勿論、自殺をするつもりで、石炭庫へはいらうと云ふのです。 私は、異常な興奮を感じました。体中の血が躍るやうな、何とも云ひやうのない、愉快な昂奮です。銃を手にして、待つてゐた猟師が、獲物の来るのを見た時のやうな心もちとでも、云ひませうか。私は、殆、夢中で、その男にとびかかりました。さうして、猟犬よりもすばやく、両手で、その男の肩をしつかり、上からおさへました。 「奈良島。」 叱るとも、罵るともつかずに、かう云つた私の声は、妙に上ずつて、顫へてゐました。それが、実際、犯人の奈良島だつた事は云ふまでもありません。 「………」 奈良島は私の手をふり離すでもなく、上半身を積入口から出したまま、静に、私の顔を見上げました。「静に」と云つたのでは、云ひ足りません。ある丈の力を出しきつて、しかも静でなければならない「静に」です。余裕のない、せつぱつまつた、云はば半吹き折られた帆桁が、風のすぎた後で、僅に残つてゐる力をたよりに、元の位置に返らうとする、あの止むを得ない「静に」です。私は、無意識ながら予期してゐた抵抗がなかつたので、或不満に似た感情を抱きながら、しかもその為に、一層、いらいらした腹立たしさを感じながら、黙つて、その「静に」もたげた顔を見下しました。 私は、あんな顔を、二度と見た事はありません。悪魔でも、一目見たら、泣くかと思ふやうな顔なのです。かう云つても、実際、それを見ないあなたには、とても、想像がつきますまい。私は、あなたに、あの涙ぐんでゐる眼を、お話しする事は、出来るつもりです。あの急に不随意筋に変つたやうな口角の筋肉の痙攣も、或は、察して頂く事が出来るかも知れません。それから、あの汗ばんだ、色の悪い顔も、それだけなら、容易に、説明が出来ませう。が、それらのすべてから来る、恐しい表情は、どんな小説家も、書く事は出来ません。私は、小説をお書きになるあなたの前でも、安心して、これだけの事は、云ひきれます。私はその表情が、私の心にある何物かを、稲妻のやうに、たゝき壊したのを感じました。それ程、この信号兵の顔が、私に、強いシヨツクを与へたのです。 「貴様は何をしようとしてゐるのだ。」 私は、機械的にかう云ひました。すると、その「貴様」が、気のせいか、私自身を指してゐる様に、聞えるのです。「貴様は何をしようとしてゐるのだ。」――かう訊ねられたら、私は何と答へる事が出来るのでせう。「己は、この男を罪人にしようとしてゐるのだ。」誰が安んじて、さう答へられます。誰が、この顔を見てそんな真似が出来ます。かう書くと、長い間の事のやうですが、実際は、殆、一刹那の中に、こんな自責が、私の心に閃きました。丁度、その時です。「面目ございません」――かう云ふ語が、かすかながら鋭く、私の耳にはいつたのは。 あなたなら、私自身の心が、私に云つたやうに聞えたとでも、形容なさるのでせう。私は、唯、その語が、針を打つたやうに、私の神経へひゞくのを感じました。まつたく、その時の私の心もちは、奈良島と一しよに「面目ございません」と云ひながら、私たちより大きい、何物かの前に首がさげたかつたのです。私は、いつか、奈良島の肩をおさへてゐた手をはなして、私自身が捕へられた犯人のやうに、ぼんやり石炭庫の前に立つてゐました。 後は、お話しせずとも、大概お察しがつきませう。奈良島は、その日一日、禁錮室に監禁されて、翌日、浦賀の海軍監獄へ送られました。これは、あんまりお話したくない事ですが、あすこでは、囚人に、よく「弾丸運び」と云ふ事をやらせるのです。八尺程の距離を置いた台から台へ、五貫目ばかりの鉄の丸を、繰返へし繰返へし、置き換へさせるのですが、何が苦しいと云つて、あの位、囚人に苦しいものはありますまい。いつか、拝借したドストエフスキイの「死人の家」の中にも、「甲のバケツから、乙のバケツへ水をあけて、その水を又、甲のバケツへあけると云ふやうに、無用な仕事を何度となく反覆させると、その囚人は必自殺する。」――こんな事が、書いてあつたかと思ひます。それを、実際、あすこの囚人はやつてゐるのですから、自殺をするものゝないのが、寧、不思議な位でせう。そこへ行つたのです、私の取押さへた、あの信号兵は。雀斑のある、背の低い、気の弱さうな、おとなしい男でしたが……。 その日、私は、外の候補生仲間と、欄干によりかゝつて、日の暮れかゝる港を見てゐますと、例の牧田が私の隣へ来て、「猿を生捕つたのは、大手柄だな」と、ひやかすやうに、云ひました。大方、私が、内心得意でゞもあると思つたのでせう。 「奈良島は人間だ。猿ぢやあない。」 私は、つゝけんどんに、かう云つて、ふいとハンドレエルを離れてしまひました。外の連中は、不思議がつたのに違ありません。牧田と私とは、兵学校以来の親友で、喧嘩一つした事がないのですから。 私は、独りで、上甲板を、艦尾から艦首へ歩きながら、奈良島の生死を気づかつた副長の狼狽した容子を、なつかしく思ひ返しました。私たちがあの信号兵を、猿扱ひにしてゐた時でも、副長だけは、同じ人間らしい同情を持つてゐたのです。それを、軽蔑した私たちの莫迦さかげんは、完くお話しにも何にもなりません。私は、妙にきまりが悪くなつて、頭を下げました。さうして、出来るだけ、靴の音がしないやうに、暗くなりかけた甲板を、又艦首から艦尾へ、ひき返しました。禁錮室にゐる奈良島に、私たちの勢のいゝ靴の音を聞かせるのが、すまないやうな気がしたからです。 奈良島が盗みをしたのは、やはり女からだと云ふ事でした。刑期は、どの位だか、知りません。兎に角、少くとも、何ヶ月かは、暗い所へはいつてゐたのでせう。猿は懲罰をゆるされても、人間はゆるされませんから。 |
この話を自分は母から聞いた。母はそれを自分の大叔父から聞いたと云つてゐる。話の真偽は知らない。唯大叔父自身の性行から推して、かう云ふ事も随分ありさうだと思ふだけである。 大叔父は所謂大通の一人で、幕末の芸人や文人の間に知己の数が多かつた。河竹黙阿弥、柳下亭種員、善哉庵永機、同冬映、九代目団十郎、宇治紫文、都千中、乾坤坊良斎などの人々である。中でも黙阿弥は、「江戸桜清水清玄」で紀国屋文左衛門を書くのに、この大叔父を粉本にした。物故してから、もう彼是五十年になるが、生前一時は今紀文と綽号された事があるから、今でも名だけは聞いてゐる人があるかも知れない。――姓は細木、名は藤次郎、俳名は香以、俗称は山城河岸の津藤と云つた男である。 その津藤が或時吉原の玉屋で、一人の僧侶と近づきになつた。本郷界隈の或禅寺の住職で、名は禅超と云つたさうである。それがやはり嫖客となつて、玉屋の錦木と云ふ華魁に馴染んでゐた。勿論、肉食妻帯が僧侶に禁ぜられてゐた時分の事であるから、表向きはどこまでも出家ではない。黄八丈の着物に黒羽二重の紋付と云ふ拵へで人には医者だと号してゐる。――それと偶然近づきになつた。 偶然と云ふのは燈籠時分の或夜、玉屋の二階で、津藤が厠へ行つた帰りしなに何気なく廊下を通ると、欄干にもたれながら、月を見てゐる男があつた。坊主頭の、どちらかと云へば背の低い、痩ぎすな男である。津藤は、月あかりで、これを出入の太鼓医者竹内だと思つた。そこで、通りすぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふり向く所を、笑つてやらうと思つたからである。 所がふり向いた顔を見ると、反つて此方が驚いた。坊主頭と云ふ事を除いたら、竹内と似てゐる所などは一つもない。――相手は額の広い割に、眉と眉との間が険しく狭つてゐる。眼の大きく見えるのは、肉の落ちてゐるからであらう。左の頬にある大きな黒子は、その時でもはつきり見えた。その上顴骨が高い。――これだけの顔かたちが、とぎれとぎれに、慌しく津藤の眼にはいつた。 「何か御用かな。」その坊主は腹を立てたやうな声でかう云つた。いくらか酒気も帯びてゐるらしい。 前に書くのを忘れたが、その時津藤には芸者が一人に幇間が一人ついてゐた。この手合は津藤にあやまらせて、それを黙つて見てゐるわけには行かない。そこで幇間が、津藤に代つて、その客に疎忽の詑をした。さうしてその間に、津藤は芸者をつれて、匇々自分の座敷へ帰つて来た。いくら大通でも間が悪かつたものと見える。坊主の方では、幇間から間違の仔細をきくと、すぐに機嫌を直して大笑ひをしたさうである。その坊主が禅超だつた事は云ふまでもない。 その後で、津藤が菓子の台を持たせて、向うへ詑びにやる。向うでも気の毒がつて、わざわざ礼に来る。それから二人の交情が結ばれた。尤も結ばれたと云つても、玉屋の二階で遇ふだけで、互に往来はしなかつたらしい。津藤は酒を一滴も飲まないが、禅超は寧、大酒家である。それからどちらかと云ふと、禅超の方が持物に贅をつくしてゐる。最後に女色に沈湎するのも、やはり禅超の方が甚しい。津藤自身が、これをどちらが出家だか解らないと批評した。――大兵肥満で、容貌の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖の懸守と云ふ姿で、平素は好んでめくら縞の着物に白木の三尺をしめてゐたと云ふ男である。 或日津藤が禅超に遇ふと、禅超は錦木のしかけを羽織つて、三味線をひいてゐた。日頃から血色の悪い男であるが、今日は殊によくない。眼も充血してゐる。弾力のない皮膚が時々口許で痙攣する。津藤はすぐに何か心配があるのではないかと思つた。自分のやうなものでも相談相手になれるなら是非させて頂きたい――さう云ふ口吻を洩らして見たが、別にこれと云つて打明ける事もないらしい。唯、何時もよりも口数が少くなつて、ややもすると談柄を失しがちである。そこで津藤は、これを嫖客のかかりやすい倦怠だと解釈した。酒色を恣にしてゐる人間がかかつた倦怠は、酒色で癒る筈がない。かう云ふはめから、二人は何時になくしんみりした話をした。すると禅超は急に何か思ひ出したやうな容子で、こんな事を云つたさうである。 仏説によると、地獄にもさまざまあるが、凡先づ、根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分つ事が出来るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄と云ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯、その中で孤独地獄だけは、山間曠野樹下空中、何処へでも忽然として現れる。云はば目前の境界が、すぐそのまま、地獄の苦艱を現前するのである。自分は二三年前から、この地獄へ堕ちた。一切の事が少しも永続した興味を与へない。だから何時でも一つの境界から一つの境界を追つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃れられない。さうかと云つて境界を変へずにゐれば猶、苦しい思をする。そこでやはり転々としてその日その日の苦しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりも外はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌だつた。今では…… 最後の句は、津藤の耳にはいらなかつた。禅超が又三味線の調子を合せながら、低い声で云つたからである。――それ以来、禅超は玉屋へ来なくなつた。誰も、この放蕩三昧の禅僧がそれからどうなつたか、知つてゐる者はない。唯その日禅超は、錦木の許へ金剛経の疏抄を一冊忘れて行つた。津藤が後年零落して、下総の寒川へ閑居した時に常に机上にあつた書籍の一つはこの疏抄である。津藤はその表紙の裏へ「菫野や露に気のつく年四十」と、自作の句を書き加へた。その本は今では残つてゐない。句ももう覚えてゐる人は一人もなからう。 安政四年頃の話である。母は地獄と云ふ語の興味で、この話を覚えてゐたものらしい。 一日の大部分を書斎で暮してゐる自分は、生活の上から云つて、自分の大叔父やこの禅僧とは、全然没交渉な世界に住んでゐる人間である。又興味の上から云つても、自分は徳川時代の戯作や浮世絵に、特殊な興味を持つてゐる者ではない。しかも自分の中にある或心もちは、動もすれば孤独地獄と云ふ語を介して、自分の同情を彼等の生活に注がうとする。が、自分はそれを否まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦、孤独地獄に苦しめられてゐる一人だからである。 |
かわいそうに、ヨハンネスは、たいそう悲しんでいました。むりもありません。おとうさんが重い病気で、もう、たすかるのぞみがなかったのですからね。この小さな部屋には、ヨハンネスとおとうさんのほかには、だれもいませんでした。テーブルの上のランプは、いまにも、燃えきってしまいそうでした。もう、夜もすっかりふけていました。 「おまえはいい子だったね、ヨハンネス」と、病気のおとうさんは言いました。「世の中へ出ても、きっと、神さまがたすけてくださるよ」 こう言って、おとうさんは思いつめた目つきで、やさしくヨハンネスを見つめました。それから、深い息をつくと、それなり死んでしまいました。見たところでは、まるで、眠っているとしか見えません。 ヨハンネスは、わっと泣き出しました。いまは、この世の中に、おとうさん・おかあさんもいなければ、ねえさんや妹も、にいさんや、弟も、だれひとりいないのです。ああ、かわいそうなヨハンネス! ベッドの前にひざをついて、死んだおとうさんの手にキスをしました。そして、さめざめと泣いて、あつい涙をたくさん流しました。けれども、そうしているうちに、いつのまにか、両方の目がふさがって、とうとう、ベッドのかたい足に、頭をもたせかけたまま、眠りこんでしまいました。 すると、ヨハンネスは、ふしぎな夢を見ました。夢の中では、お日さまとお月さまとが、自分におじぎをするのです。それから、おとうさんが、またもとのように、元気になっているのです。そして、何かうれしいときによく笑う、あの、いつもの、おとうさんの笑い声が聞えるのです。長い、きれいな髪の毛に、金のかんむりをかぶった、美しい少女が、ヨハンネスに手をさしのべました。すると、おとうさんが、 「すばらしいお嫁さんをもらったもんだな。世界一きれいだよ」と言いました。 そのとたんに、目がさめて、楽しかった夢は、消えうせてしまいました。おとうさんは、やっぱり死んでいて、ベッドの中につめたく、横たわっています。あたりを見まわしても、ほかには、だれひとりいません。ああ、かわいそうなヨハンネス! つぎの週に、お葬式をしました。ヨハンネスは、お棺のすぐうしろについていきました。あんなに自分をかわいがってくれた、大好きなおとうさんの顔を見るのも、いよいよ、きょうかぎりです。やがて、人々がお棺の上に、土を投げかける音がしました。でも、まだ、お棺のいちばんはしは見えています。けれども、シャベルで、土をもう一すくいして投げかけると、それも見えなくなりました。ヨハンネスは、悲しくて悲しくてたまりません。あんまり悲しいので、いまにも、胸がはりさけそうでした。 お墓のまわりで、みんなが讃美歌をうたいはじめました。その歌が、心の中までしみとおるようにひびきましたので、ヨハンネスの目には、涙がうかんできました。ヨハンネスは泣きました。でも、泣いたために、かえって、悲しみが、いくらかまぎれました。 お日さまが、緑の木々を、明るく照らしていました。まるで、こんなふうに、言っているようでした。 「そんなに悲しんではいけないよ、ヨハンネス。まあ、ごらん。お空があんなにきれいに、青々としているだろう。あの上に、いま、おまえのおとうさんはいるのだよ。そうして、おまえがいつもしあわせでいられるようにと、神さまにお願いをしているのだよ」 「ぼくは、いつまでも、よい人でいます」と、ヨハンネスは言いました。 「そうして、いつかは、天国のおとうさんのところへ行きます。ああ、おとうさんに、また会えたら、どんなにうれしいでしょう。ぼくには、おとうさんにお話ししてあげることが、いっぱいあるんです。おとうさんも、きっとまた、この世の中に生きていたときと同じように、ぼくにいろんなものを見せてくださったり、天国のすばらしいことを、たくさんお話ししてくださるでしょう。ああ、そうなったら、どんなにうれしいかしれません」 ヨハンネスは、そのときのありさまを、心の中に思いうかべてみました。すると、涙がまだ、頬をつたわり落ちているというのに、思わず知らず、にっこりとほほえみました。小鳥たちは、トチノキのこずえにとまって、ピーチク、ピーチク、さえずっていました。お葬式にきているのに、小鳥たちがこんなにうれしそうにしていたのには、ちゃんと、わけがあったのです。というのも、小鳥たちは、死んだおとうさんが、いまは天国で、自分たちの羽よりも、ずっと大きなつばさを持っているということや、また、おとうさんはこの世の中でよいことをした人でしたから、いまではしあわせになっているということを、すっかり知っていたからです。 ヨハンネスは、小鳥たちが、緑の木々を離れて、遠い世界へとんでいくのを見ると、自分もいっしょにとんでいきたくなりました。でも、それよりさきに、おとうさんのお墓の上に立てるように、大きな木の十字架をつくりました。ヨハンネスは、夕方、それを持って、お墓へ行きました。ところが、どうでしょう。お墓には、きれいに砂がもってあって、そのうえ、花まで飾ってあるではありませんか。これは、よその人たちが、しておいてくれたのです。というのは、死んだおとうさんは、みんなにたいそう好かれていたからでした。 あくる朝早く、ヨハンネスは、小さなつつみをこしらえました。そして、おとうさんの、のこしてくれた五十ターレルと、いくつかのシリング銀貨を、みんな、帯の中へしまいこみました。いよいよ、これから、広い世の中へ出ていこうというのです。でも、出かけるまえに、まず、おとうさんのお墓におまいりして、「主の祈り」をとなえました。そして、こう言いました。 「おとうさん、さようなら。ぼくは、いつまでもよい人間でいますよ。だから、ぼくがしあわせになれるように、神さまにお願いしてくださいね」 ヨハンネスが野原を歩いていくと、どの花もどの花も、暖かなお日さまの光をあびて、それはそれは美しく、いきいきとしていました。風にゆられながら、みんなは、うなずいてみせました。そのようすは、まるで、「よく来ましたね。ここは青々としていて、きれいでしょう」と言っているようでした。 ヨハンネスは、もう一度、うしろをふりむいて、古い教会にお別れをつげました。この教会で、ヨハンネスは、赤んぼうのとき、洗礼をうけたのです。日曜日ごとに、いつも、おとうさんといっしょに、この教会へ行っては、讃美歌をうたったものでした。 そのとき、ふと見ると、塔のてっぺんの小窓のところに、赤いとんがり帽子をかぶった、小さな教会の妖精が立っていました。妖精は、お日さまの光が目にあたらないように、手をひたいにかざしています。ヨハンネスは、さようなら、というつもりで、妖精にむかって頭をさげました。すると、ちっぽけな妖精のほうでも、赤い帽子をふったり、手を胸にあてて、幾度も幾度も、キスを投げたりしてくれました。こうして、ヨハンネスがしあわせでいるように、そしてまた、楽しい旅をすることができるように、願っていることを、見せようとしたのです。 大きな、すばらしい世の中へ出ていったら、さぞかし、たくさんの、美しいものが見られるだろうなあ、と、ヨハンネスは思いました。そこで、さきへさきへと、ずんずん歩いていきました。とうとう、今までに一度も来たことのない、遠いところまで来てしまいました。通りすぎる町も、見たことがありませんし、出会う人たちも、だれひとり見知った人はいません。もう、ヨハンネスは、遠い、よその国へ来てしまったのです。 さいしょの晩は、野原のまん中の、かれ草の山の上で、眠りました。それよりほかには、寝床がなかったのです。けれども、この寝床は、とってもすてきでした。どんな王さまだって、こんなすてきな、寝床はもっていらっしゃらないだろう、と、ヨハンネスは思いました。 小川の流れている、広い広い野原、かれ草の山、見わたすかぎり広がっている青い空。なんとすばらしい寝室ではありませんか。赤だの白だの、小さな花の咲いている、緑の草原は、しきものです。ニワトコの茂みと、野バラの生垣は、花たばです。顔をあらうのには、きれいな、つめたい水の流れている小川がありました。そこでは、アシがおじぎをして、「おやすみ」とか、「おはよう」と言っていました。お月さまは、青い天井に高くかかっている、大きな大きなランプです。このランプなら、カーテンを燃やす心配はありません。ですから、ヨハンネスは、安心して、眠ることができました。そして、ほんとうにぐっすりと眠ったので、あくる朝、目がさめたときには、もうお日さまが高くのぼって、小鳥たちがまわりで歌をうたっていました。 「おはよう、おはよう。まだ起きないの?」 鐘の音が、教会からひびいてきました。きょうは、ちょうど、日曜日だったのです。人々はお説教を聞きに、教会へ行きました。ヨハンネスも、みんなのあとからついていって、いっしょに讃美歌をうたい、神さまのお言葉を聞きました。そうしていると、小さいときに洗礼をうけて、それからもたびたび、おとうさんといっしょに讃美歌をうたった、あのなつかしい教会にいるような気がしてなりませんでした。 教会のうらの墓地には、ずいぶんたくさんのお墓がありました。中には、草がぼうぼうに生えているお墓も、いくつかありました。それを見ると、ヨハンネスは、おとうさんのお墓を思い出しました。おとうさんのお墓も、いつかは、こんなふうになってしまうかもしれません。だって、いまは、自分で草をとったり、おそうじをしてあげることができないのですから。 そこで、ヨハンネスは、地べたにすわりこんで、草をぬいたり、たおれている木の十字架を立てなおしたり、風のためにお墓から吹きとばされた花輪を、もとのところへおいたりしました。心の中では、「もしかしたら、だれかが、おとうさんのお墓を、こういうようにしてくれるかもしれない。ぼくには、いま、自分でしてあげることができないんだもの」と思っていました。 墓地の門の前に、ひとりの年とったこじきが、松葉杖にすがって、立っていました。ヨハンネスは、持っていたシリング銀貨を、のこらずやりました。それから、気もはればれとして、元気よく、また広い世の中へと歩いていきました。 夕方から、おそろしくひどい天気になりました。ヨハンネスは、どこかにとまるところはないかと思って、いそいで歩いていきました。ところが、まもなく、まっ暗になってしまいました。それでも、やっとのことで、丘の上にたった一つ、ぽつんと立っているお堂に、たどりつきました。ありがたいことに、とびらが、すこしあいていました。ヨハンネスは、そこから中にはいって、あらしがやむまで、ここで待つことにしました。 「このすみっこに、腰かけるとしよう」と、ヨハンネスは言いました。「すっかりくたびれちゃった。すこし、休まなくちゃいけない」 こう言いながら、ヨハンネスは、そこにひざまずき、手を合せて、夜のお祈りをとなえました。それから、いつのまにか、眠りこんで、夢を見ていました。外では、そのあいだも、いなずまがピカピカ光り、かみなりがゴロゴロ鳴っていました。 ヨハンネスが、目をさましたときは、もう、ま夜中でした。あらしは、とっくにすぎさっていて、お月さまが、窓から、ヨハンネスのところまで、明るくさしこんでいました。お堂のまん中に、ふたのしてない、お棺がおいてあって、その中に、死んだ人がはいっていました。この人は、まだお葬式をしてもらっていなかったのです。 ヨハンネスは、それを見ても、心の正しい子供でしたから、ちっともこわくはありませんでした。それに、死んだ人は、なんにもわるいことはしないということも、よく知っていました。わたしたちにめいわくをかけたりするのは、生きている、わるい人たちだけなのですからね。ところが、そういうよくない、生きている人間がふたり、死んだ人のお棺のそばに立っていました。このふたりは、ほんとうによくないことをしようとしていました。死んだ、このかわいそうな人を、お棺の中に、そっと寝かしておかないで、お堂の外へほうり出してしまおうとしていたのです。 「どうして、そんなことをするんですか?」と、ヨハンネスはたずねました。「わるいことじゃありませんか。その人を、どうかそこに、休ませておいてあげてください」 「ばかやろう」と、ふたりのひどい男は、言いました。「こいつは、おれたちをだましたんだぞ。おれたちから、金をかりておきゃあがって、返しもしねえうちに、死んじまやがったんだ。おれたちにゃ、一円だってはいりゃしねえ。だから、そのかたきをとってやろうってのよ。こいつを、イヌみたいに、お堂の外へおっぽり出しちまうんだ」 「ぼくには、五十ターレルしかありませんが」と、ヨハンネスは言いました。「でもこれは、おとうさんがのこしてくれた、お金のぜんぶなんです。もしおじさんたちが、そのかわいそうな死んだ人を、そっとしておいてあげると、約束してくださるんなら、このお金をあげましょう。ぼくは、お金がなくったって、平気です。ぼくには、こんなにじょうぶで、強い手足があるんですもの。それに、神さまは、いつだって、ぼくをたすけてくださるんです」 「ふん、そうか。おめえが、こいつの借りをはらおうってんなら、おれたちゃ、なんにもしねえよ。約束すらあ」と、そのひどい男たちは言って、ヨハンネスの出したお金をうけとると、こいつは、なんて人のいいこぞうだ、と、笑いながら、行ってしまいました。 ヨハンネスは、死んだ人を、お棺の中にもう一度ちゃんと寝かせて、手をくみあわせてやりました。それから、さようならをいって、心も楽しく、大きな森の中を、ずんずん歩いていきました。 あたりを見ると、木の枝のあいだからもれてくる、お月さまの光の中で、かわいらしい、小さな妖精たちが、いかにも楽しそうに、あそんでいます。妖精たちは、ヨハンネスがやさしい、よい子供だということを知っていましたので、さわいだり、逃げたりしないで、そのままあそんでいました。妖精の姿を見ることができないのは、わるい人たちだけなんですよ。 妖精たちの中には、指の大きさくらいしかないのもいました。みんな、長い金色の髪の毛を、金のくしでかきあげていました。見れば、小人たちは、ふたりずつに別れて、木の葉や、高い草の上にたまっている、大きな露のしずくの上で、玉乗りあそびをしていました。ときどき、しずくがころがり落ちると、その上に乗っている小人たちも、長い草のくきのあいだに、ころがり落ちました。すると、ほかの小人たちは、きゃっきゃっと笑って、大さわぎをしました。なんて、おもしろおかしいんでしょう! 妖精たちは、歌もうたいました。それは、ヨハンネスが小さいころにおぼえた、美しい歌でした。 銀のかんむりをかぶった、きれいな大きいクモが、生垣から生垣へとわたり歩いて、長いつり橋をかけたり、御殿をつくったりしていました。その上にきれいな露がおりて、それが、明るいお月さまの光をうけると、まるで、光りかがやく水晶のように見えました。こうして、お日さまがのぼるまで、みんなは、楽しくあそびつづけました。けれども、お日さまがのぼるといっしょに、小さな妖精たちは、花のつぼみの中にはいってしまいました。橋だの、御殿だのは、風に吹かれて、大きなクモの巣のように、空にとび散りました。 ヨハンネスが、ちょうど森から出たときです。うしろのほうから、大きな声で、 「おーい、旅の人。どこへ行くのかね?」とさけぶ、男の声が聞えました。 「広い世の中へ!」と、ヨハンネスは答えました。「ぼくは、おとうさんもおかあさんもない、あわれなものなんです。でも、神さまが、きっと、たすけてくださるんです」 「わたしも、広い世の中へ出たいんだよ」と、その知らない男は言いました。「どうだね、ふたりで仲間になって、行かないかね?」 「ええ、いいですよ」と、ヨハンネスは言いました。それから、ふたりは、いっしょに歩いていきました。ふたりとも、よい人たちでしたから、すぐに、仲よしになりました。けれども、ヨハンネスは、旅の仲間が、自分よりもずっとりこうなのに、すぐ気がつきました。この人は、いままでに、ほとんど世界じゅうを歩きまわっていて、なんでも知っているのです。 お日さまは、もう、高くのぼっていました。そこで、ふたりは、とある大きな木の下に、腰をおろして、朝御飯を食べようとしました。 すると、そこへ、ひとりのおばあさんがやってきました。見れば、まあ、なんという年よりでしょう! それこそ、もうよぼよぼで、腰もすっかりまがっているのです。それでも、おばあさんは、杖にすがって、背中には、森の中で集めてきた、まきを一たば、しょっていました。前にからげた前かけの中からは、シダとヤナギの枝でつくった、大きなむちが三本、のぞいていました。 おばあさんは、ふたりのそばまで来たとき、つるりと足をすべらせて、ころびました。いたいっ、と、おばあさんは、大きな声をあげました。むりもありません。ころんだ拍子に、片方の足をくじいてしまったのですもの。ほんとうに、気の毒なおばあさんです。 「ふたりで、このおばあさんを、うちまで連れていってあげましょうよ」と、すぐに、ヨハンネスが言い出しました。ところが、旅の仲間は、はいのうを開いて、小さな箱をとり出しました。そして、こう言うのです。 |
突然、すこしおそろしい音がした。それから、どたんばたんといろ〳〵の物音が矢つぎ早にしたかと思ふと、しいんとなつた。 はじめにした声は、俊一がその弟を叱りつけたのである。何か気に障つたことがあつたのだらう。弟と向ひ合つてゐて、俊一は突然怒鳴つた。そして、ちよつと仁王様に似たやうな顔付になつたが、その自分の怒つた顔に自信がないために、どこか抜けたところがありはしないかといふ怖れに駆られた、といつた様子でつと立上り、ばり〳〵と襖を押し開けて奥の間の自分の室へ行かうとした。何か重大な国際会議の席上から脱退する悲壮な日本代表のやうな調子であつた。ばりつと風を巻いて室から出ようとする時、壁に吊してあつた瓢箪が落ちた。勿論、俊一は、あつといふ間にその瓢箪を片足あげてふんづけた。気が立つてゐる時は、かういふ品物を一気に粉みぢんにするのは気持のいいものだ。が、あれほど俊一が力を籠めたにも拘らず、瓢箪は潰れなかつた。のみならずつるりと外れて俊一の足をすくつたから、彼はよろよろとして、危くひつくりかへるところであつた。怒り心頭に発した彼は、勿論電光石火の敏速さを以て瓢箪を潰さんともう一度試みるべきであつたし、又試みようとしたのだが、具合の悪いことに瓢箪は彼の足からすこし離れたところに在つた。それで、不覚にも彼は躊躇してしまつたのである。ちよつとの間、彼は足を出したものかやめたものかとぴく〳〵させてゐた。彼は、はたから見てゐて、それがどのくらゐ哀れな可笑しさを唆るものであるかといふことに忽ち気がついた。その上、尚悪いことには、すこしも騒がず坐つたまゝであつた弟の方をちらりと見てしまつたのである。弟は、意地悪さうな目付をしてにやりと笑ひかけてゐた。 俊一は、それからどしん〳〵と足音をさせて暴君のやうに廊下を通過して自分の室に入ると、机の前に出来るだけ力をつけてどかりと坐つた。同時に両手で頭を抱へた。今のみつともない手ちがひが、彼の頭の中をあつさり一と掻き掻き廻したのである。時々、ウウと低い唸り声を発した。自分が怒つたそも〳〵の原因は、もう忘れてしまつた。それより自分の惨めさと滑稽さが自分に分つたといふことが重大であつた。今、それが嵐のやうに草木を薙いでゐる。彼は閻魔大王の前にでも居るやうに平伏し、やたらに頭を下げ、夢中になり、なんだかボーフラや蚤の子や蜘蛛の子なぞがうじや〳〵してゐるんぢやないかと思はれるやうな暗くてべた〳〵したところを手足をめちやくちやに振り廻し、前後左右も知らず駈け廻つてゐた。これは、精神錯乱といふものかも知れない。しかし彼は、昨晩のうちに胃の腑へ収めた莫大な量の落花生と、同じく莫大な量の煙にした煙草と、これらが往々にして人間の頭に重大な影響を及ぼすといふことはもう、忘れた。 窓から、平凡な景色が見えた。瓦があつて、青い木が生えてゐる。それから瓦、青い木、瓦、青い木、遠くに昔風の火見櫓がある。今日は、雲が低くて、みんな、雀まで息苦しくつて耐らないといふ風にだまつてゐた。こんな日は、平凡である。 俊一は、すこししてから急に顔を上げた。そして、しばらく、ぼんやりと何かを見つめてゐた。自分の眼球の表面を見てゐるやうだつた。それから、顔は動かさずに、あまり大きくない眼の玉を精一ぱい下に向けて机の上の置時計を見た。止つてゐた。そして、今度はぐるり〳〵とその眼玉を二、三回廻して見た。ついでに壁にかゝつてゐるセザンヌの絵を見た。どうやら彼は、この運動に興味を持つたやうである。今度はゆつくりと、ぐるうり、ぐるうりと廻し始めた。視線の軌跡の中に、汚れた壁に走つた罅と、黒い小さい虫と、帽子掛と、舶来煙草の箱と、買溜めして積上げた原稿用紙と、罪と罰第一巻と、「独文法講義」と、模型の小さなされかうべと、風邪薬「一効散」があつた。眼の廻転を止めると、はじめて頸の筋肉を軟かにして手を伸ばし、本棚から本を一冊とり、ふわつと開いて机の上へ置いた。それから巻煙草を一本出して、火をつけて、口にくはへた。忽ち機関車の如く夥しい煙が吐き出された。蜘蛛が驚いて逃げた。それから本を、眉を寄せて読み始めた。書名は、ラ・ロシュフウコオ箴言集。いつまで経つても、頁は繰られなかつた。同じところを読んでゐるのである。 そのうちに、俊一は、又突然頭を抱へた。ウウといふ唸り声が又洩れた。それから、決然とした様子で顔を上げて、「馬鹿!」と言つた。すると、悲しさうなだらしのない表情がその顔を掩つた。その実に見つともない顔付がかなり長くつゞいた。かういふちよつと形容出来ぬ顔付を時々するのがこの男の癖である。やがてもう一度、「馬鹿な」と呟くと、矢庭にぶるぶるぶるんと顔を左右に猛烈に振つた。そのためにあの表情は振り落されてしまつたらしく、今度は哲学者のやうな、詩人のやうな、ちよつと気取つて眉をしかめて、さつき開いた本の活字を睨み出した。が、すぐぱちんと閉ぢて、そろりとその本をもとあつたところへ収めた。そして渋い顔をしながら、「ええと、要するに……」と独り言を言つた。要するに、今見た本はおれにはちつとも分らなかつたのだ、と云はうとしたらしい。 さて、それから独り言は続く。独り言の趣味である。自分で自分の言葉を無意識に飴の如くしやぶりながら独り言を云つてゐる。 「ふうん…………ふうん…………いや、愚劣なことだ…………愚劣!…………まあ騒ぐなよ、騒いでもしやうがないぢやないか…………ああ…………ためいき出るね…………ほう?…………ためいき出るね…………ためいきの分類か、冗談ぢやないよ…………いまは分類がはやるからなあ…………」 ここまで来ると、彼は急に突拍子もない声を出した。 「おや、お、ぼうぼう火が燃える…………カチカチ山か、ちよつと懐しいな…………いや、懐かしくもない…………それで思ひ出したんだけれど…………何を…………忘れてしまつた…………おれはよつぽど馬鹿な男と見える…………そりやさうだらう…………何がさうなのだ…………あああ、と云はざるを得ないね…………デカダンスの秋…………気取つたことを云ふなよ…………僕はそんなことがあるなんて信じられません、か…………名せりふ…………何云つてやがる…………月を見るのだ、月を…………われら忽ち寒さの闇に陥らん…………やがて冬…………冬はさむいな、いやだな…………狐も冬ごもり…………」 俊一は突然その独り言をやめた。しめた、といふ顔付で机の引出しを開けた。奥の方にノートがある。それを出して机の上に開いた。あり来りのノートで、ヴァリエテと表紙に書いてある。これは、彼の感想録である。何やら文句が、二、三行づつあけて、あまり上手でない字で書かれてある。みな、つまらぬ。彼自身もそれを自認してゐる。が、棄てる気になれない。何か勿体ないやうな気がするのである。けれどそのつまらない文句を保存しておく理由を発見するため、彼は日夜何か素晴らしい文句はないかと頭を悩ましてゐる。それを見つけられなかつたらこのノートを後生大事に保存しておく理由はなくなる。存在理由のないものは、無駄だ。それは棄てられねばならぬ。が、このノートは棄てられぬ。矛盾。おお駄目だと時々考へるけれど、このノートは棄てられない。そこで彼は殆んど必死にうまい文句を考へつかうと努力する。時々、ちよつと気が利いてゐると思へる文句を見つけるけれど、二、三日するといかにも平凡なつまらない文句と化する。そこで彼は永遠に常にうまい文句を探求せねばならない羽目に陥つた。すこし、馬鹿といつた感じがする。阿呆である、と彼自身も思つてゐる。 さて、彼は、しめたといふ顔付で、そのノオトを開いた。そしてぱら〳〵と頁を繰つて、ペンをインキに浸し、「狡猾にして悪辣、だが、狐ほどのスマアトさはない。」と書いた。書いたと思ふと、さつと吸取紙で紙の上を掠め去り、さつと勢よく閉ぢてさつと引出しの中へ滑り込ませた。そして、すこし笑つた。けれど、ぢきにそは〳〵し出して、ものの一分と経たない内に我慢が出来なくなつたやうに引出しを開けてノートを引つぱり出して今書いたところを開き、じつと自分の字を見つめた。そして急に思ひ当つたやうに、なんだ、これはおれのことぢやないか、と独り言を云つた。 このあたりで、彼は少し朗らかになつてもいい筈であつた。実際、だん〳〵気が晴れて来たやうであつた。 と思つたのは間違ひであつた。なるほど、太陽は朝からの雲を突き破つて、てらてらと輝き、そこら一面ふわあつと蒸発するやうに明るくなつて、俊一のみじめな暗い顔は、その光の反射を受けてすこし違つた風になつたけれど、ほんとはやはり元のまゝだつた。そして両手で頭を抱へ込んで、いはゆる、穴あらば入りたしといつたやうな格構になつた。若しそこに何か穴があつたら、そのまゝもぞ〳〵と潜り込んでしまふであらうと思はれた。 ところで、話は別だが、俊一は、弟と女中と三人で暮してゐる。主に、兄貴の方が働く。職場は、新聞社、雑誌社、自宅。このごろは、自宅が多い。ものを、書くのである。それから、親父から相当の援助をしてもらふ。この方が重大である。まあ、大体そんな生活。これ以上書くのは不必要だ。今度の事件のそもそもの原因は、弟の不行跡にある。ありきたりの不行跡である。だから、そんな、金をすこしたくさん使つてしまつたなどといふ平凡な過失に対して腹を立てるのは大人げないな、と俊一はすこしの間考へてゐた。けれど、もう怒つてしまつた。怒つた以上はこちらの権威を示さねばならぬ。権威を示さうとして、瓢箪をふんづけて、ひよろ〳〵した。瓢箪は健在であつた。だから甚だ不充分である。その上、まづいことをして後を振り向いたら、弟の奴、笑ひやがつた。……かういふことをくど〳〵と不本意にも思ひ出してゐる内に、動きのとれなくなつた自嘲の波の中で、彼はウオーと叫んで、手足をやたらに振り廻したくなつた。やつて見よう。ウオー。それから勢をつけて立上つて、ちよつと悲壮な気持になつたけれど、手足を振り廻すことは止めた。自分で自分の馬鹿さ加減に気がついたのである。 怒は、そのうちにだん〳〵と増して行つて、どうしても弟に対してもうすこし兄貴の権威を示さねばならぬと考へた。弟め、今ごろはおれの阿呆さを笑つてゐるだらう。いや、恐らく……おれなんか無視してゐるのかも知れない。平気で、おれのことなんか気に留めずに、好きな本でも読んでゐるのだ。……無視! この言葉を口にすると、俊一は、頭が傘のやうにつぼまつて、天辺から細い粉になつて空中へ四散して行くやうな感じのする程の憤怒をどうしやうもなかつた。 その時、彼は、ふと荻軒の菓子のことを思ひ出した。近所の荻軒といふ菓子屋兼喫茶店の菓子はなか〳〵うまい。週に二、三回、いまごろ売出される。今日はその日だ。しめた。彼は、非常に得をしたと思つた。 菓子のことを思ひついたからと云つて、怒ることは忘れなかつた。それほど正直ではないのである。――先づ、怒る。襖を荒々しく開けて、弟と向き合つて、怒る。おまへは何て男なのだ。それでいいと思ふのか。考へたら分るだらう。もういくつになるのだ。おまへの親は……とにかくうんときめつけてやらなければ。なるたけ長くかけて、十分以上、云ふ必要がある。ぎゆつと押へつけて、それから、すこし優しい調子で、かう云へばいい。おれはちよつと外出して来るから、その間に、自分のしたことをじつくり考へて、悪かつたところを捉へるのだ。家のなかに一人で静かに考へてごらん。自分の悪かつたところをしつかり捉へるのだよ。さうして、いつも、それと格闘する気でゐたら、いいのだ。いままでのおまへは、すこし反省といふことが足りなかつた気がする。静かに、真剣に考へたら、いままで逃してゐたものが、ぢきに分るだらう。さうだよ、きつとぢきに分るよ。……ぢや、ちよつと外へ出るから。…… ばりつと襖が鳴つた。壊れかゝつてゐるのだからしやうがない。開けるときはばりつといつて、閉めるときはぎゆうといふ。速く閉めるときひいつ、とおそろしい音を上げる。俊一は、襖を押し開けて、廊下を歩いて行き、その間に顔の筋肉を適当に動かして厳めしい顔を作り、ちよつと心構へして、茶の間の襖を力一ぱい押し開けた。誰も居なかつた。ちよつと拍子抜けがした。厳しく作つた顔が卑屈な用心深さでだん〳〵とほぐれて行つた。それから、他の二、三の室を、そのたびに顔を作つて、のぞいて廻つた。便所の前にも立止つて見た。どこにも居なかつた。もう、おそろしい顔付をする必要はなくなつた。女中は、今日遊びにやらしてある。俊一は、弟が外出したと思はざるを得なかつた。そして、一人で怒り出した。何か感歎詞を発したくらゐである。おれには一言も断らないで外出した。けしからん。俊一は、弟が自分を無視したといふことに腹を立てゝゐたのだが、それ以上の無視である。と彼は思つた。けしからん。どろぼうに入られたらどうする。どろぼうが、開放した玄関から忍び込んで、金や、机や、釜や、時計や、そんなものを盗んだらどうする。おれは、莫大な損害を受けるのだ。金と引換ならまだしも、無償で、おれが金をかけて買つたものを取られてしまふのだ。彼は、息が塞りかけたと感じた。そして、すこし、あわてたと思つた。それから急にはたと手を拍つて、門のところへ飛出した。鍵がかかつてゐた。彼は、今度はほんたうに息が塞つたと思つた。そして、戸の格子につかまつて、オランウータンの如く二、三度がた〳〵と揺つて見た。自分でも何故だか分らなかつた。何か、絶海の孤島へ一人だけおいてきぼりを食つたことを想像するときの、死ぬやうな、頭の皮が四散するやうな、食道が裏がへるやうな絶望感を感じた。それから一度冷たくなると、改めて、ウームと云つた。きつと萩軒の菓子を目的に出て行つたに違ひない。なんと、兄貴を家の中へ閉ぢ込めて行つた。…… 俊一は茶の間へふらりと入つて、どかりと腰を下した。そして、壁の割目を見てゐた。時々、溜息をした。やゝ情ない表情であつた。さつきの厳然たる態度は消えてしまつた。さうして、すこしぼんやりしてゐた。 日の光が窓から射し込んで、ふわん〳〵鳴つてゐた。近頃にないいい天気らしい。日光と空気は実に適当で、あらゆる生物が満足し切つて一言の不平もなくだまりこんでこの陽気を楽しんでゐるやうだつた。それを見ながらすこしぼんやりしてゐるうちに、やがて俊一は、気を取り直した。立上つてのこ〳〵と庭へ出て行つた。前からやつて見たいと思つて居たことを試す気になつたのである。狭い庭の端の方へ行つて、手をのばして垣根につかまつた。ちよつと、丈夫かどうか試して見た。そして、用心深く足に力を入れて、伸び上つた。首だけ、垣根の上ににゆつと出た。往来には誰も居なかつた。すこし様子を見てゐたが、誰も来さうになかつたので、そうつと垣根の上によぢ登つた。そのとき、誰かが向ふの横丁からやつて来る気配がすると思つたので、急いで往来へ飛び降りた。足を、すりむいた。誰も来なかつた。あわてた、と小さな後悔を感じた。それから、やゝ得意になつて、大通りの方へ歩いて行つた。風が、この三十近い男の髪の毛をもてあそんだ。 雲がいつの間にか吹き払はれて、実にいい天気だつた。やつぱり、春はいいな。俊一はさう思つた。しばらく、他のことは何も考へなかつた。この男が、珍らしいことである。それほど、いい天気だつたのだ。気持のいいこと。鉄道線路づたひの草ばうばうの道へ出ると、木がたくさんあるために、若葉の匂ひがずゐぶんした。アスファルト以外のところは、草がぎつしり生えてゐた。アスファルトがぼろぼろに綻びてゐるから、道は田舎道のやうに草に埋もれてゐる。日光が、きれいだつた。木の葉を通して、大きくなつたり小さくなつたりするいろんな斑紋を地面や草むらに描くと、日光は一そう美しかつた。空は、板のやうにつる〳〵してゐるやうでもあり、逆に限りなく深いもののやうでもあつた。けれど、その蒼さが、素晴らしかつた。その青と木々の緑とは、双生児のやうに同じなのぢやないかと思はれた。東京にこんな気分のところがあるのは、ちよつと信じられなかつた。他の人はともかく、俊一は、ここでこんな気分に浸ることはめつたになかつた。それで、嬉しくなつて、どん〳〵歩いて行つた。 やがて道は下り坂になつて、大通りへ出た。ガアドをくぐり、淡々荘アパアトの前を通り、誰とか邸の門前を過ぎると、少々くたびれて来た。例の萩軒はもうぢきである。 萩軒のことを考へたので、俊一は弟との喧嘩のことを思ひ出してしまつた。けれど、ごくあつさりとであつた。ざつと概略が頭の中を通過し、すこし憂鬱と憤りを流してすうつと消え去つた。俊一はそんなに気に留めなかつた。さつき彼を朗らかにした日光が、その功徳を顕はして、忌はしい影を追ひ払つたか、又は、彼の頭をやゝ痴呆状態に陥れたのだ。ともかく彼はそんなことにはあまり患はされずに歩いて行つた。 やがて十字路がある。人が雑踏してゐて、彼はすこし不快になつた。第一、電線がこのあたりでめちや〳〵に空間を断つてゐるので、こんなきれいな空のときはよけいにいやであつた。店も、このへんは下品である。なんとなく下品である。このへんは、感じが悪いのだ。俊一はいつも避けて通ることにしてゐるが、今日はどうしたのか来てしまつた。下品か。それは問題だな。と彼は考へた。この人々から見ると、おれなんか上品過ぎるのか。第一この人々は、そんな品のことなぞ考へてやしないんだ。考へてゐないといふことは、別の規準から云つて品がない、といふことになるかな。又はそんなものを超えてるつてことになるかしら。 あまりいい天気過ぎるので、俊一はすこしぼうつとなつたに違ひない。彼は、面倒くさい、と云つて考へることを止めてしまつた。けれど、不快だけは残つた。 十字路をちよつと過ぎると、どうしたわけか、彼は向ふからやつて来る弟とばたりと顔を合はせた。あつ、と彼は驚いた。弟の方でも大分驚いたらしい。ほんのちよつとの間、二人は大きな目をして見つめ合つてゐた。それから突然、弟は兄の方へ進んで来た。と思ふと、すつと横をすり抜けて十字路の方へ行かうとした。すり抜ける時、俊一は思はず弟の腕をつかんだ。弟は構はず歩いて行つた。俊一は格別強く握つてゐたわけではないので、手は引き放されてぶらんと下つた。弟はどん〳〵人混みの中を縫つて、消えてしまつた。俊一はぼんやり見てゐた。こんなところでは、喧嘩も出来ないではないか。彼はそのまゝ萩軒へ入つた。 中へ入つても、ぼうつとしてゐた。何が何だか分らなくなりさうだつた。といふのは、そんなに深刻な意味でない。何だか、考へるのが面倒くさくなつたのだ。おれは家を出るとき、ひどく怒つてゐたな。それから、歩いてゐるうちに、少しへんになつた。頭の中から何か一部分を持つて行かれた見たいだ。或は、阿呆になつたのかも知れん。数々の事件をつなぎ合はすことが出来なくなつてしまつたのかな。さうしたら、へんなことになるぞ。今大喧嘩したやつのことを忽ち忘れて、そいつに普通の調子で話し出す。相手は、こいつ狂つたなと思ふ。おれは、狂つたのかな。いや、そんなことはない。たゞ日の光にあんまり照されたから、すこしいい気持になつただけなんだ。だが、弟のやつを、うんとやつつけてやらなければ。兄貴に対して、実にひどいことをしたものだ。(さうでもないのかな。そんなに、腹に一物あつてやつたわけぢやないんだ。ふざけ半分てとこだらうな。あいつは、そんなに悪……)いや、何しろけしからん。うんと云つてやらなければ駄目だ。家へ帰つたら……。 しかし、おれが垣根を越えたつてことに、さつきばつたり会つた時、気が付いた筈だ。そのことで、おれを軽蔑するかも知れん。あんなに深刻に「ちやんとした人」ぶつた兄貴が……とか何とか考へてるだらう。だが、いいや。口実はいくらでもある。例へば、おまへが急に居なくなつて心配だつたから、探しに出たのだ、とか。ところがあいつ、のんびりと菓子を食ひに出たんだ。……畜生。おれはたしかに抜けてゐるな。……何しろもう一度あいつをこらしめてやらなくちや。 俊一は、考へるのを止めてしまつた。完全に面倒くさくなつたのである。けれど、弟を是非こらしめることを忘れないやうにしよう、と思つた。 彼は菓子とのみものを註文して、ぐるりと室内を見廻した。あまりきれいな室でない。古ぼけた額が三枚ある。風景画二つに肖像画。約十五のテーブルの半分くらゐ塞つてゐる。その人々を一通り見廻して行くと、同様に周囲を見廻してゐた一人の男と眼が合つた。これは、友人の坂谷明であつた。 やあ、と両方で云つて、坂谷の方が立つて、こつちへやつて来た。彼は小さな雑誌社へ勤めてゐる。そして大体俊一と同じやうなことをやつてゐる。この前から四、五日旅行に行つてゐたのだ。 「憂鬱さうだね。」と坂谷。 「うん。」 「元気がないね。」 「うん。」 「いつもそんなに黙つてゐるのか。」 「うん。」 「何とか云へよ。」 俊一は突然奇妙な調子で云ひ出した。 「この萩軒は古くからある店である。この室では、絵が壁と共に古びてゐる。テーブルは落ちついた光沢を持ち、数世紀以来の人の世の変転が、実にこの光沢の中に知らない間に捉へられてゐる。見よ。まなこを大にして。その光沢を見つめよ。そして数世紀来の人間歴史の苦悶の叫びを感ぜよ。卒然として来り我等を茫莫のうちに残すもの、ああ……咏歎の星河、燦々の星河、極みなき……。」 「それから?」 「それから……何だ。」 「知らんよ、そんなこと。」 「どうかしてやしないか。」 「誰が。」 「ぼくが。」 「してるかも知れん。今の様子だと。」 「今日はすこしへんなのだ。」 「気候に対する順応性に欠けてるのだよ、君は。天気が変るとへんになる。」 |
燕雀生といふ人、「文芸春秋」三月号に泥古残念帖と言ふものを寄せたり。この帖を見るに我等の首肯し難き事二三あれば、左にその二三を記し、燕雀生の下問を仰がん。 (一)春台の語、老子に出でたりとは聞えたり。老子に「衆人熙々。如享太牢。如登春台」とあるは疑ひなし。然れども春台を「天子が侍姫に戯るる処」とするは何の出典に依るか。愚考によれば春台は礼部の異名なり。礼部は春台の外にも容台とも言ひ、南省とも言ひ、礼闈とも言ふ。春の字がついたとて、いつも女に関係ありとは限らず。宋の画苑に春宮秘戯図ある故、枕草紙を春宮とも言へど、春宮は元来東宮のことなり。 (二)才人を女官の名とするも聞えたり。才人の官、晉の武帝に創り、宋時に至つて尚之を沿用す。然れども才子を才人と称しても差支へなきは勿論なり。辞源にも「有才之人曰才人。猶言才子」とあるを見て知るべし。燕雀生は必しも才人と言つてはならぬと言はず、しかしならぬと言はぬうちにもならぬらしき口吻あれば、下問を仰ぐこと上の如し。 (三)佐藤春夫、「キイツの艶書の競売に附せらるる日」と題する詩を賦したりとは聞えず。賦すとは其事を陳ずるなり。転じて只詩を作るに用ふ。然れども、キイツ云々の詩はオスカア・ワイルドの作なれば、佐藤春夫の賦す筈なし。それを賦したと言はれては、佐藤春夫も迷惑ならん。賦すに訳すの意ありや否や、あらば叩頭百拝すべし。 (四)門下を食客の意とは聞えたり。平原君に食客門下多かりし事、史記にあるは言ふを待たず。然れども後漢書承宮伝に「過徐盛慮聴経遂請留門下」とあり。門弟子の意なるは勿論なり。然らば誰それの門下を以て居るも差支へなき筈にあらずや。「青雲の志ある者の軽々しく口にすべき語にあらず」とは燕雀生の独り合点なり。 文芸春秋の読者には少年の人も多かるべし。斯る読者は泥古残念帖にも誤られ易きものなれば、斯て念には念を入れて「念仁波念遠入礼帖」を艸すること然り。 大鵬生 |
一 深い悩みが、其の夜も、とし子を強く捉へてゐた。予定のレツスンに入つてからも、Y氏の読みにつれて、眼は行を逐ふては行くけれど、頭の中の黒い影が、行と行の間を、字句の間を覆ふて、まるで頭には入つて来なかつた。払い退けやうと努める程いろ〳〵不快なシインやイメエジが、頭の中一杯に広がる。思ひ出し度くない言葉の数々が後から後からと意識のおもてに、滲み出して来る。其処に注意を集めやうとしてゐるにもかゝはらず、Y氏が丁寧につけてくれる訳も、とかくに字句の上つ面を辷つてゆくにすぎなかつた。 レツスンが済むと、何時ものやうに熱いお茶が机の上に運ばれた。子供はとし子の膝の上に他愛なく眠つてゐた。快活なY氏夫妻の笑顔も其の夜のとし子には、何の明るさも感じさせなかつた。小さなストーヴにチラ〳〵燃えてゐる石炭の焔をみつめながら、かたばかりの微笑を続けてゐる彼女は、其のとき惨めな自分に対する深い憐憫の心が、熱い涙となつて、今にも溢れ出さうなのをぢつと押へてゐたのだつた。 外は何時か雪になつてゐた。通りの家々はもう何処も戸を閉めて何処からも家の中の燈は洩れて来なかつた。街燈だけがボンヤリと、降りしきる雪の中に夜更けらしい静かな光りを投げてゐた。無理々々に停留所まで送つてくれたY氏と、言葉少なに話しながら電車を待つてゐる間も、とし子の眼には涙が一杯たまつてゐた。矢張りあの家に帰つてゆかなければならないと思ふと情なかつた。もう此のまゝに帰るまいかとさへ思つて来た家に、どうしてもトボ〳〵この夜更けに帰つてゆかなければならない。 『こんな時に、親の家でも近かつたら――』親の家――それもとし子には思ひ出せば苦しい事ばつかりだつた。三百里も西の方にゐる親達とは、もう永い間音沙汰なしに過して来た。それも彼女自らが叛いて、離れて来たのであつた。真つ直ぐに、自分を立て通したいばかりに、親達の困惑も怒りも歎きも、悉てを知りつくしてゐながら、強情にそれを押し退けて再度の家出をして後は、お互ひに一片の書信も交はさなかつた。そして全くの他人の中での生活に、とし子は迫害され艱難に取りまかれた。けれど、すべては最初から覚悟してゐた事であつた。彼女は本当に血が滲むほど唇を噛みしめても、その艱難には耐へなければならないと思つた。その苦しい生活がもう二年続いた。そして、此の頃とし子は自分の生活を省みる度びに、其処に余りに多くの不覚な違算を発見しなければならなかつた。その上に猶思ひがけない他人の、何の容赦もない利己心の餌である事を忍ばねばならぬ奇怪な、種々な他人との『関係』が、此の頃よく肉親と云ふ無遠慮な『関係』の人々を思ひ起さすのであつた。けれども、そうした境界におしつけられて思ひ出すことも、とし子には辛らい事の一つであつた。それでも、今かうして、本当に嫌やでたまらない彼の他人の冷たい家の中に、頑な心冷たい気持で帰つて行かねばならぬ情なさに迫まらるれば、矢張り深夜であらうと何であらうと遠慮なく叩き起せる家の一軒位は欲しかつた。 漸くに深夜の静かな眠りを脅かす程の音をたてゝ、まつしぐらに電車が走つて来た。運転手の黒い外套にも頭巾にも、電車の車体にも一様に、真向から雪が吹きつけて、真白になつてゐた。電車の内は隙いてゐた。皆んな其処に腰掛けてゐるのは疲れたやうな顔をしてゐる男ばかりであつた。なかにはいびきをかきながら眠つてゐる者もあつた。とし子はその片隅に、そつと腰を下ろした。電車は直ぐ急な速度で、僅かばかりな乗客を弾ねとばしてもしまひさうな勢で馳け出した。とし子は思はず自分の背中の方に首をねぢむけた。背中ではねんねこやシヨオルや帽子の奥の方から子供の温かさうな、規則正しい寝息がハツキリ聞きとれた。とし子は安心してまた向き直つた。そして気附かずに持つてゐた傘の畳み目に、未だ雪が一杯たまつてゐたのを払ひおとして、顔を上げた時にはもう四ツ谷見附に近く来てゐた。 四ツ谷見附で乗りかへると、とし子は再び不快な考へから遠ざからうとして、手提げの中から読みさしの書物を取り出した。けれど水道橋まで来て、其処で一層はげしくなつた吹雪の中に立つてゐる間に、また取りとめもなく拡がつてゆく考への中に引きづり込まれてゐた。刺すやうな風と一緒に、前からも横からも雪は容赦なく吹きつける。足元には、音もなく、後から後からと見る間に降り積んで行く。 『何処かへこのまゝ行つてしまひたい!』 白い柔かな地面に射すうつすらとした光りをぢつと見つめながら、焦れてゐるのか、落ちついてゐるのか、自分ながら解らない気持で考へてゐるのだつた。 『何処へでも、何処でもいゝ。』 此処にかうして夜中たつてゐても、今夜出がけに苦しめられたやうな家には、帰つて行きたくない。腹の底からとし子はさう思ふのだつた。けれど、背中に何も知らずに眠つてゐる子供を思ひ出すと、とし子の眼にはひとりでに、熱い涙が滲んで来た。 『自分だけなら、他人の軒の下に震へたつていゝ。けれど――』 何にも知らない子供には、たゞ温かい寝床がなくてはならない。窮屈な背中からおろして、早くのびのびと温かな床にねかしてやりたい。そして可愛想な母親が子供に与へるたつた一つの寝床は、矢張りあの家の中にしかない。とし子の眼からは熱い涙が溢れ出した。 漸くに待つてゐた電車が来た。ふりしきる雪の中を、傘を畳んで悄々と足駄の雪をおとして電車の中にはいつた。涙ぐんだ面をふせて、はいつて来た唯だ一人の、子を背負つたとし子の姿に皆の眼が一時にそゝがれた。けれど座席は半ば以上すいてゐて、矢張り深夜の電車らしくひつそりしてゐた。 春日町でまた吹雪の中に取り残された。長い砲兵工廠の塀の一角にそふておよそ二十分も立つてゐる間には、体のしんそこから冷えてしまつた。 二 因習的な家庭の主婦たるべく強ひられる多くの試練に対する辛らい忍耐、一人の子供に強奪される終日の勤労、それはとし子にとつては全く思ひがけない違算であつた。 たゞひたすらに、忠実な自己捧持者でのみあるべき彼女は何時の間にか、不用意のうちに、他人の家に深く閉ぢ込められてしまつてゐた。その家のあらゆる習慣と、情実を、肯定しなければならなかつた。そうしてまたその上に不用意な愛によつて子供と云ふ重荷を負はねばならなかつた。若い、無智な、これから延びてゆかなければならない、とし子にとつて、この二つの重荷は、彼女の持つ、凡ての個性の芽を、圧しつぶして仕舞ふ性質のものであつた。彼女自身もそれは可なりはつきり意識してゐた。けれど、もし彼女が本当に強くその意識を何時も把持し、それに悩まされてゐれば、彼女はどうしても、その重荷から逃れなければならなかつた。しかし、彼女はその意識と共に、また、その重荷から逃がれる事は出来ないものだと云ふ、あきらめをも持つてゐた。その重荷から逃げる事は、卑怯な一つの罪悪だとさへ思つてゐた。『あきらめ』と云ふ事は忠実な自己捧持者にとつては一つの罪悪だと不断主張してゐるとし子も、自分の実生活の上に来た矛盾の前には『あきらめ』で片附けるより他はなかつた。悉てを、『運命』と云ふ最高意志にまかせるより他はなかつた。 併し、とし子は自分のその『あきらめ』を決して『あきらめ』だとは思つてゐなかつた。それには、彼女自身では、それ相応な理屈をつけてゐた。彼女は、どんな難儀な重荷を負はされようとも、その為めに決して自己を粗末に扱ふと云ふやうな事はしないと云ふ自信、それから、その重荷も決して、他から強ひられた重荷ではなく、どうしても自分の意志から云つても背負はなければならないものであると云ふことがその理由であつた。殊に、子供に対する重荷は殆んど重荷とは感じない程だつた。 唯だわづかに呼吸をし、食物を要求する事等の生きてゐると云ふのみの状態から、人間らしい智能がだん〳〵に目覚めてくるのや、一日一日とめざましく育つてゆく体を注意してゐると、何とも云へない無限な愛が湧き上つて来るのであつた。この小さい者の為めには何物も惜しまないと云ふ感激が不断に繰り返されるのであつた。彼女の子供に対して与へるものは無制限に拡げられて行つた。 しかし、それでも猶、彼女は決して彼女自身の生活を忘れはしなかつた。彼女はどんな重荷を背負はされても、自己を忘却したり、見棄てたりするやうな事はしなかつた。それはまた、彼女自身を省みる都度、その云ひ訳けに役立つ所の、唯一のプライドでもあつた。 他人に強ひられる重荷を背負つて他人の満足を買ひ、そして忠実な自己捧持者たらうとする欲ばつた考へが、もし他人の事であつたら、とし子は真つ先に立つてゞも、嘲笑しかねなかつた。しかし、今は彼女自身がその欲ばつた考へに夢中だつた。 彼女の第一の重荷は、男の家族への奉仕であつた。その母親、弟妹、その連れ合ひ、さう云ふ人との毎日の交渉に、身も心も細つて行つた。それに彼女は普通の場合より更にその人達に対して引け目を感ずるいろいろな事情を持つてゐた。 とし子は、家族の人達の考へによれば、かれ等の生活の支持者である男を失職せしめた。さうして彼等から生活の安定を奪つた。かれ等は、口に出して責めるやうな事は、為なかつたけれど、それ丈けにとし子は、もつと意地の悪い、いやみのあてこすりでいぢめられた。 実際に、男の失職は、とし子の事がもとになつてゐないではなかつた。しかし、そんな事よりも彼はもうとうから、その仕事に倦きてゐたのだつた。彼は機会を見て、教職などは退いて、他の仕事に転じたかつたのであつた。それは家族のものたちも知つてゐた。しかし、思つた程、仕事は直ぐに見附からなかつた。そして必然に窮迫が襲ふた。とし子にとつては辛らい事の数々が日々にせまつて来た。 若い時から家族の為めに働きつゞけて来た男は、体の自由だけでも、どんなにか呑気だつた。少々の窮迫位は何んでもなかつた。彼は一切の事を、何とかしなくては済まぬ位置におかれたとし子にまかして、いゝ加減に怠惰な日を送つてゐた。家族の者にとつては、それは大変な損失だつたことは云ふまでもない。彼等はしきりに彼に就職を迫つた。とし子はさうした場合何時でも辛らい板ばさみになつた。彼女は男をかばふ代りに、家族のものに対しては、彼の代りになつて重荷を負はねばならなかつた。 一つの遠慮が、とし子の悉ての考へを内輪に内輪にと押へた。家の中の情実や習慣を何処までも通さうとする母親、気の強い妹、それ等の人達と、出来るだけ不快ないさかひをせずにすまさうとするとし子の努力は、大抵なものではなかつた。母親は、年老つた人としては、まだ物わかりのいゝ穏やかな人であつた。しかしそれでも家の中の情実に対しては多くの無駄を固持してゐた。窮迫がはげしくなるといろ〳〵な愚痴がとし子の前に、一つ一つならべられた。妹は本当に勝気な無遠慮な女であつた。彼女に会つてはとし子は、とても勝身はなかつた。理屈などはまるで通らなかつた。どうかすると、母親さへも彼女には極めつけられて困ることがあつた。とし子はそれ等の人々の機嫌を気にしながら、どんな侮辱をも無理な皮肉をも黙つて忍ぶやうに、何時の間にか馴らされかけて来た。 しかし、彼女は決して自身から他へ目をそらすやうな事はなかつた。彼女はその自身の忍従に対して染々とひとりで涙ぐみながら、その気持をいとほしんでゐることもあり、また或る時は、自分のその意久地なしに焦れてゐることもあつた。しかし、大抵の場合は、反抗心にみち〳〵た、我意の強い自分が、さうした家族人達の中にあつて、よく忍んでゐる事に対して、淡い誇りを持つてゐた。それにはまた彼女が家の外の仕事としてやつてゐる雑誌の同人を中心として集まる女達に対する世間の批難が其頃随分激しかつた。そして、その批難の大部分は下らない、外部に現れた行為による事が多かつた。しかもその批難の的となる、多くの突飛な行為は、大抵彼女等の与り知らぬ事のみであつた。とし子は、それ等の種々な批難を聞くたびに、傍の人達に笑はれる程、むきになつて憤慨した。そしてさう云ふ世間に対する憤慨が、此処にも及ぼして、彼女は強ひられた忍従を、自ら進んで努めるのだと考へて、それに誇りをもつてゐた。 けれど、それを折にふれては馬鹿らしく、くだらない事に考へる事が、度々あつた。殊に、一歩後へ引けばその一歩がすぐに、対手のつけ目になつて、ずん〳〵無遠慮にふみ込んで来られるのには、どうにも我慢のならない事があつた。さう云ふ時に、彼女の苦痛を知らないではない男の、何とか一言の口出しで、どうにか喰ひとめる事が出来るものを、彼はあくまでさう云ふ事には素知らぬ顔をしつゞけた。とし子には、彼の気持はわかつてゐた。どつちに口添へをしても煩い、黙つてなるまゝにまかすがいゝと云ふ風に、彼は何時でも考へてゐるらしかつた。けれど、それにしても、これから、たゞ一生懸命に勉強して、自分の持つてゐるものゝ芽をのばさうと心がけてゐるとし子に理解を持つてゐる彼なら、とし子の悉てをうち砕いても仕舞ひさうな、重荷の上に、更に多くの譲歩を強ひられる場合、もう少し位は、かばつてもくれさうなものと云ふ不平は、よくとし子の心に起つた。でも彼女はすぐとその気持を引つこめた。彼女はたつた一度だけ、その不平を彼の前に出した事があつた。そのとき、彼は一言のもとにはねつけた。『自分の事は自分で何とでも始末するがいゝ。』そして、とし子には、それで充分だつた。さうだ、どんな事があつても、他人をたよりにするものぢやない。自分で困る事は自分で始末するより他はない。とし子は、反射的にさう思ひ、またそれが何処までも真実な事だと信じた。それでも、一方ではまた、さう云ふ理屈を楯に、矢張り煩さい事から成るべく遠ざからうとする、男の利己的な心が何かしら不快な影を、とし子の心に投げるのであつた。とし子にはその影が何であるかは、ハツキリとは解らなかつた。しかし、彼女は他人を頼つてはならぬといふ男の言葉が本当だと思ひ乍ら、真に快よくそれを受け容れる事は出来なかつた。何処かにそれをそのまゝ受け容れることを渋る気持があつた。そしてその気持を納得させる努力が、彼女に何となく、淡いたよりない悲しみを抱かせた。そしてその気持の下から二度と再び彼にそんな事は云ふまいと云ふ反抗心が起つた。 三 『こんな生活を何時までもしてゐるのは馬鹿々々しい。』 彼女はだん〳〵さう思ふ日が多くなつた。重り合つて迫つて来るいろんな家庭内の迫害を、甘受してゐる事の恐ろしい不利益を考へては、何うかして立ち直つて、自分を救ひ出したいと思つて努力した。けれど、それが、どうしても、少々の努力では追い付くことが出来ないと気がついてからは、彼女はもうその家庭から逃げ出すより他はないと思つた。 けれど、そんな気持が根ざしかけた頃には、彼女は母親になつた。一人の子供の出生によつて其処に小康が保たれた。子供は母親の限りない愛の対象となつた。そしてまた、とし子の愛の対象でもあつた。暗い家の中はその小さいものゝ出現によつて、急に賑やかに、明るくなつた。皆んなが、その一人の子供にのみ注意と興味を持つて行つた。不快な雲が一と先づ晴れた。 みんなは歓びのうちに日を暮らした。殊にとし子は、この小さな者によつて家の中が明るくなつた事に、どの位感謝をしたかしれなかつた。けれど、それはとし子を更らに大きな苦悶に導く前提だとは彼女自身すら、まるで気がつかなかつた。子供は、とし子と男との関係を束縛した上に、他の家族の人達との間を一層面倒にした。 日を経るまゝに子供は育つて行つた。そして子供に就いてまるで無経験なとし子は、凡てを母親の指図どほりにするより他はなかつた。たまに、いくらか彼女が、多少育児に関して知つてゐることを持ち出しても、『経験』を楯てに、一々おし退けられてしまつた。多くの無駄や不自由を少しでも除かうとして、母親の流義とは違つたことをしやうものなら、母親はむきになつて怒つた。母親は、とし子が、子供の為めにかける手数や時間の無駄を、少しでも除かうとするのを、子供に対する不親切な面倒くさがりだと解釈した。さうして、反抗的に、子供を大切にかけてかばひたてた。その結果は、みんな容易ならぬとし子の骨折りになるのだつた。子供は終日、大人達の手から手、膝から膝と渡された。家中の者が子供にかゝり切りになつてゐなければならなかつた。殊にとし子は、一時間も子供を離れてゐる訳にはゆかなかつた。 更にまた、その上のとし子の苦しみは、子供が育つに連れて、その一枚のきものにも、出来る丈けの派手を見せたい母親の止みがたい見栄から、一層経済上の窮迫に対する不平が昂じて来た事であつた。しかも男はもう此の頃は、自ら職業に就かうとする意志は、まるでないのだとしか、とし子には思へなかつた。 『何んとか、せめて自分だけでも積極的に働く方法を講じなければならない。』 とし子はさう思つては、あれか、これかと働けさうな仕事を物色した。けれど、母親は子供を抱へたものが、外で仕事をする事には一切不賛成であつた。とし子がさうした覚悟を見せる程母親は息子を責めたてた。そして子供の世話については、八ヶましく指図するだけで、手を貸すのはほんの、お守りの役に過ぎなかつた。とし子が止むを得ない用事ででも、外へ出たときの半日の留守は、母親にとつては大変な重荷であつた。 だん〳〵に、とし子は、子供の為めに、自分を束縛されて来たのに気がついて来た。子供は可愛くて堪らなかつた。けれど、一日中、また一晩中、子供にばかり煩はされて、時間の余裕と云ふものが少しもないのには、苦痛を感じない訳にゆかなかつた。どうかして、せめて読書の時間だけでも出したいと焦つた。このまゝにゆけば、やがて子供を一人育てる為めに、自分と云ふものを、殺しつくして仕舞はなければならないやうなはめになるかもしれない。そんな事があつては大変だ。すべての苦しみが、みんな自分を活かしたい為めなのだもの、それを殺してどうならう。さう思つては彼女は、しきりに始めから志した読書や、語学の素養を心がけた。けれど彼女が子供を寝かしつける間や、授乳の間を見ては、また折々は台所で煮物の片手間にまで、書物を開いてゐるのを見ると、母親はきまつて、彼女が何か道楽なまねでもしてゐるやうに苦い顔をした。 『私なんか子供を育てる時分には、御飯をたべる間だつて落ちついてゐたことはない。』 などゝ口ぐせのやうに云つた。母親は、彼女がたゞ間断なく、子供の為に働き、家の事で働いて、疲れゝば機嫌がよかつた。実際また、読書をするひまに、他の仕事をする気があれば、する事は、母親の云ふとほりに山ほどあつた。 けれど、とし子には家の中の事を調へて子供の世話でもしてゐれば、それで女の役目は済むと云ふ母親達とは、違つた外の世界を持つてゐた。その役目を果すことを決して厭やだとは思はなかつたけれど、そしてまたそれにも相応の興味をもつて果すことは出来たけれど、そればかりでお仕舞ひにしてしまふ事は出来なかつた。 一歩家の外に踏み出すと、彼女は、自分のみすぼらしさ、意久地なさを心から痛感した。うかうかしてはゐられないと云ふ気が頻りにするのであつた。友達のHもNもSもそれからYも、皆んなが熱心に勉強してゐる。そして、一番若い、一番無智無能な自分が何にも出来ずに家の中でぐず〳〵してゐるのだ、と思ふと、何とも云へない情なさ腑甲斐なさを感ずるのであつた。何の煩ひもなく自由に勉強してゐる人の上が羨ましかつた。束縛の多い自分の生活が呪はしかつた。と云つて、今更逃れる事も出来ないのを何うすればいゝか? 彼女は本当に、それを考へると、たまらなかつた。 けれど、兎に角彼女は、家族の人達からは批難されやうと、少々位な厭や味を聞かされやうと、自分の勉強だけは止めまいと決心した。たとへ、まとまつた勉強らしい勉強は出来なくとも、せめて、普通の文章位いは読みこなせる丈けの語学の力だけでも養つておきたいと思つた。 |
市電は、三筋町で二三人おろすと、相變らず單調な音をきしらせ、東に向つてのろのろと進んだ。なまぬるい風、灼けつくやうな舗道のてりかえし。――その時である。まだ停留所までだいぶあるのに、車體が左右に大きく横搖れして、急に停つた。 乘客は、いつせいに窓の外をみた、いちめんの土煙だ。兩側の家が、屋根瓦をとばし、壁をくづし、柱をねぢまげ、前につんのめつた。黒塗の土藏が、一ト搖れしたかと思ふとみるまに赭土色の殘骸となつた。ほんの一刹那の異變だつた。 と、隣にかけてゐた老婆が、急に大きな聲でお題目を唱へだした。それが、三人、五人と車内の人々に感染して、つひに南無妙法蓮華經の大コーラスになつた。みんな眞劍な顏だ。――これも、まつたく一瞬の出來事だつた。 その九月一日の午まへのひとゝきが、まためぐつて來る、三十三年囘目の。あのとき小倉の袴に朴齒の畫學生はいま、去年も今年も、三圍祠畔の句碑の苔を掃ふことのできない身を嘆いてゐる。病床で迎へる二度目の秋である。 どこをどう歩いたのか覺えてゐない。とにかく、橋場のわが家にたどりついた時には、もう千束町と、泪橋との兩方から、火の手が迫つてゐた。福壽院の卵塔場、小松宮別邸、眞崎稻荷と逃げまはつて、十時頃に白髯をわたつた。 川下の言問の夜景のすさまじさ。その、水に映える紅蓮の焔を眺めながら、ひたすら案じられたのは、足のわるい師のことだつた。けれども近くには、新松葉の姉さん、そこから藝者にでてゐる妹の靜ちやん、幼友達や俳友もたくさんゐる。きつと誰かにおぶさつて玉ノ井の方へでも逃げただらう。さう思つてゐたのに、その頃すでに木歩は、むごたらしい屍となつてゐたのだ。 「大正十二年九月一日、向島枕橋八百松畔の堤上に死す。震外木歩居士。俗名富田一。享年二十七。三圍に碑あり」 私の歳時記の震災忌のところには、木歩忌の三字と共に、かう書込んである。(三一・九) □ 一年ぶりで三圍神社へ行つてみたら、木歩の冬木風の碑が位置をかへてゐた。 以前は七福神の祠のそばにあつたのが、いつのまにか社務所の横、なにがしといふ一中節の師匠の、とてつもなく大きい古琴塚のうしろに移され、それがいかにも片隅の幸福を愉んでゐるやうな樣子なのに、私は思はず微笑した。句碑ばやりの昨今、誰の眼にもすぐとまるやうな目拔の所でなかつたのが、何よりも仕合せである。偶然とはいひながら、故人の人柄が偲ばれてゆかしい。 去年は關東大震災から三十年といふので、いろいろの行事が企てられた。世が世なら木歩の年忌も盛大に行はれ、彼を敬愛する人々が集り、追善句會の一つもあつた筈である。けれど、富田一族は震災と戰災の二度の劫火で全滅した。木歩は俳人としてすぐれた作品を遺したが、顯彰すべき何らの結社をもたなかつた。友人も休俳、斷俳で俳壇を去つたものが多い。それが今日、法要の行はれない最大の理由である。 考へてみると、木歩の不遇の生涯はその死後の一時期において、多小は報いられた感がないでもない。一周忌に建てられたこの句碑も、既知未知、流派主張を問はない全國俳人有志六十餘人の純粹な據金で出來あがつた。碑面の句は舊師臼田亞浪が揮毫した。生前もつとも親しかつた新井聲風、原田種芽兩子の努力で遺稿や句集が編まれ、渡邊水巴が進んで追悼の文を寄せた。石川啄木と同じく名は一、享年二十七才、肺疾で短命を約束されてゐた彼は、俳壇の啄木といはれて惜しまれた。 |
□先月は大変発行が後れましたから今月はと思つてゐましたけれど矢張り原稿の集め方がおそかつたのと手廻しよくゆかないためにまた後れました。来月は新年号のことでもありますからずつとはやく切り上げてしまはうと思つてゐます、何卒あしからずお許るし下さいまし。 □平塚氏は十四日から廿日迄上京してゐられましたが、また御宿へ帰られました。氏の宿所は千葉県御宿村須賀、長尾浅吉方です。なほ上駒込の宅はたゝまれましたので社はかりに私の宅においてゐます。私の処は小石川区竹早町八二です。 □廿七日の読売新聞に社の内部で何かゴタ〳〵でもあつて私が青鞜をやることになつたとか何とか妙な事が書いてありましたが決してそんなことはありません。委しいことは来月号に書きます。 □らいてう氏の「現代と婦人の生活」が先月廿四日日月社から出版されました。なほ同氏の「恋愛と結婚」の訳書も今年一杯には玄黄社から出る筈です。 □哥津ちやんもこないだ一寸上京しました。相変らずのおかつちやんです、来月には是非何かお書き下さる筈。 □野上八重子さんも来年迄は辛抱が出来ずお正月は東京でお迎へになる筈だとかまだ併し御帰京はない。お母様のお乳でお肥りになつたさうです。 □皐月さんのお店も繁昌いたして居ます。此度また店で直ぐと好きな果物を撰んで勝手に食べられるやうになりました。セイロンのおいしい紅茶ものめます。けれどそれよりも皐月さんが羽織りをぬいで筒袖のはんてんを着て前掛をしめて櫛巻きにして全くお神さんになりすまされた様子はまた一段ちがひます。それを見にいつては皐月さんに失礼ですが、まあ見にゐらつしやる丈けでもゐらつしやいまし、白山坂の中途で直ぐにわかりやすい処です。 □新刊を寄贈して下さるのに御紹介しなければすみませんがどうもこのいそがしさでは目を通すことも出来ませんからお正月によんで二月号ですつかりまとめて紹介いたしますつもりです。何卒あしからず。 □小石川雑司ヶ谷町百、天弦堂から近代思想叢書が刊行される。生田長江氏の「ニイチエの超人の哲学」岩野泡鳴氏の「悪魔主義の思想と文芸」相馬御風氏の「個人主義の哲学」吉江孤雁氏の「神秘主義者の思想及び生活」高村光太郎氏の「印象主義の思想と芸術」等である。 |
一 阿古屋の珠を 溶きたる酒は のこさで酌まむ。 ほせよさかづき ほせよ、ほせよ、觴。 のめや、うたへや、 うたへや、のめや。 あゝ、おもしろ あゝ、おもしろの さかほがひ。 二 薫はたかき さゆりの花は かざしにさゝむ。 たをれ、かざしに、 たをれ、たをれ、揷頭に のめやうたへや、 うたへや、のめや。 あゝ、おもしろ、 あゝおもしろの さかほがひ。 三 色さへ香さへ 妙なるひとを あかずもこよひ みるが樂しさ、 みるが、みるが樂しさ。 のめや、うたへや、 うたへや、のめや。 あゝおもしろ。 あゝおもしろの |
一 機會がおのづから來ました。 今度の旅は、一體はじめは、仲仙道線で故郷へ着いて、其處で、一事を濟したあとを、姫路行の汽車で東京へ歸らうとしたのでありました。――此列車は、米原で一體分身して、分れて東西へ馳ります。 其が大雪のために進行が續けられなくなつて、晩方武生驛(越前)へ留つたのです。強ひて一町場ぐらゐは前進出來ない事はない。が、然うすると、深山の小驛ですから、旅舍にも食料にも、乘客に對する設備が不足で、危險であるからとの事でありました。 元來――歸途に此の線をたよつて東海道へ大𢌞りをしようとしたのは、……實は途中で決心が出來たら、武生へ降りて許されない事ながら、そこから虎杖の里に、もとの蔦屋(旅館)のお米さんを訪ねようと言ふ……見る〳〵積る雪の中に、淡雪の消えるやうな、あだなのぞみがあつたのです。で其の望を煽るために、最う福井あたりから酒さへ飮んだのでありますが、醉ひもしなければ、心も定らないのでありました。 唯一夜、徒らに、思出の武生の町に宿つても構はない。が、宿りつゝ、其處に虎杖の里を彼方に視て、心も足も運べない時の儚さには尚ほ堪へられまい、と思ひなやんで居ますうちに―― 汽車は着きました。 目をつむつて、耳を壓へて、發車を待つのが、三分、五分、十分十五分――やゝ三十分過ぎて、やがて、驛員に其の不通の通達を聞いた時は! 雪が其まゝの待女郎に成つて、手を取つて導くやうで、まんじ巴の中空を渡る橋は、宛然に玉の棧橋かと思はれました。 人間は増長します。――積雪のために汽車が留つて難儀をすると言へば――旅籠は取らないで、すぐにお米さんの許へ、然うだ、行つて行けなさうな事はない、が、しかし……と、そんな事を思つて、早や壁も天井も雪の空のやうに成つた停車場に、しばらく考へて居ましたが、餘り不躾だと己を制して、矢張り一旦は宿に着く事にしましたのです。ですから、同列車の乘客の中で、停車場を離れましたのは、多分私が一番あとだつたらうと思ひます。 大雪です。 「雪やこんこ、 霰やこんこ。」 大雪です――が、停車場前の茶店では、まだ小兒たちの、そんな聲が聞えて居ました。其の時分は、山の根笹を吹くやうに、風もさら〳〵と鳴りましたつけ。町へ入るまでに日もとつぷりと暮果てますと、 「爺さイのウ婆さイのウ、 綿雪小雪が降るわいのウ、 雨戸も小窓もしめさつし。」 と寂しい侘しい唄の聲――雪も、小兒が爺婆に化けました。――風も次第に、ぐわう〳〵と樹ながら山を搖りました。 店屋さへ最う戸が閉る。……旅籠屋も門を閉しました。 家名も何も構はず、いま其家も閉めようとする一軒の旅籠屋へ駈込みましたのですから、場所は町の目貫の向へは遠いけれど、鎭守の方へは近かつたのです。 座敷は二階で、だゞつ廣い、人氣の少ないさみしい家で、夕餉もさびしうございました。 若狹鰈――大すきですが、其が附木のやうに凍つて居ます――白子魚乾、切干大根の酢、椀はまた白子魚乾に、とろゝ昆布の吸もの――しかし、何となく可懷くつて涙ぐまるゝやうでした、何故ですか。…… 酒も呼んだが醉ひません。むかしの事を考へると、病苦を救はれたお米さんに對して、生意氣らしく恥かしい。 兩手を炬燵にさして、俯向いて居ました、濡れるやうに涙が出ます。 さつと言ふ吹雪であります。さつと吹くあとを、ぐわうーと鳴る。……次第に家ごと搖るほどに成りましたのに、何と言ふ寂寞だか、あの、ひつそりと障子の鳴る音。カタ〳〵カタ、白い魔が忍んで來る、雪入道が透見する。カタ〳〵〳〵カタ、さーツ、さーツ、ぐわう〳〵と吹くなかに――見る〳〵うちに障子の棧がパツ〳〵と白く成ります、雨戸の隙へ鳥の嘴程吹込む雪です。 「大雪の降る夜など、町の路が絶えますと、三日も四日も私一人――」 三年以前に逢つた時、……お米さんが言つたのです。 …………………… 「路の絶える。大雪の夜。」 お米さんが、あの虎杖の里の、此の吹雪に…… 「……唯一人。」―― 私は決然として、身ごしらへをしたのであります。 「電報を――」 と言つて、旅宿を出ました。 實はなくなりました父が、其の危篤の時、東京から歸りますのに、(タダイマココマデキマシタ)と此の町から發信した……偶とそれを口實に――時間は遲くはありませんが、目口もあかない、此の吹雪に、何と言つて外へ出ようと、放火か強盜、人殺に疑はれはしまいかと危むまでに、さんざん思ひ惑つたあとです。 ころ柿のやうな髮を結つた霜げた女中が、雜炊でもするのでせう――土間で大釜の下を焚いて居ました。番頭は帳場に青い顏をして居ました。が、無論、自分たちが其の使に出ようとは怪我にも言はないのでありました。 二 「何う成るのだらう……とにかくこれは尋常事ぢやない。」 私は幾度となく雪に轉び、風に倒れながら思つたのであります。 「天狗の爲す業だ、――魔の業だ。」 何しろ可恐い大な手が、白い指紋の大渦を卷いて居るのだと思ひました。 いのちとりの吹雪の中に―― 最後に倒れたのは一つの雪の丘です。――然うは言つても、小高い場所に雪が積つたのではありません、粉雪の吹溜りがこんもりと積つたのを、哄と吹く風が根こそぎに其の吹く方へ吹飛ばして運ぶのであります。一つ二つの數ではない。波の重るやうな、幾つも幾つも、颯と吹いて、むら〳〵と位置を亂して、八方へ高く成ります。 |
一 「渡れ圭太!」 「早く渡るんだ、臆病奴!」 K川に架けられた長い橋――半ば朽ちてぐらぐらするその欄干を、圭太は渡らせられようとしていた。―― 橋は百メートルは優にあった。荷馬車やトラックや、乗合自動車などの往来のはげしいために、ところどころ穴さえ開き、洪水でもやって来れば、ひとたまりもなく流失しそうだった。 学校通いの腕白どもは、しかしかえってそれを面白がった。張られた板金が取れて、今にも外れそうになっている欄干へ、猿のように飛び乗り、ぐらぐらとわざと揺すぶったり、ちびた下駄ばきで、端から端までその上を駈けて渡ったりした。 たいがいの腕白ども――否、一人残らず彼らは手放しなんかで巧みに渡った。渡れないのは圭太一人くらいのものだった。 三年四年の鼻たれでさえ渡るのに! しかも高等二年生の、もう若衆になりかかった圭太に渡れない! これは悲惨な滑稽事でなければならなかった。 第一、餓鬼大将の三郎(通称さぶちゃん)の気に入らなかった。彼は権威をけがされたようにさえ思った。 もっとも、圭太はさぶちゃんの配下ではなかった。誰の配下にも属せず、一人、仲間はずれの位置に立っている彼だった。 というのは、さぶちゃんの腕力が怖いばかりに、誰も彼もさぶちゃんの好きそうなもの――メダルだとか、小形の活動本だとか、等々を彼に与えて、彼の機嫌を取り、その庇護の下に小さい自負心を満足させようとあせったのに、圭太には、それが出来なかった。長らく父が病みついている上に、貧しい彼の家は、碌々彼を学校へよこすことも出来ないのだった。 さぶちゃんの家は村の素封家だった。K川に添った田や畑の大部分を一人占めにしているほどの物持ちで、さぶちゃんはその村田家の次男だった。三年ほど、脳の病とかで遅く入学して、ようやく高等二年生になるはなったが、算術などは尋常程度のものでさえ碌に出来なかった。 彼の得意とするところは、自分より弱いものを苛めることにあった。すでに「声がわり」のした、腕力といい、体格といい、すっかり若衆の彼に敵対するものは生徒中には一人もなかった。師範を出て来たばかりの若い先生でさえ、さぶちゃんに対しては一目おかなければならなかった。 勿論、それは彼の家柄が物をいう故でもあったが、海軍ナイフを振り廻すくらい何とも思っていないさぶちゃんへの気おくれもあったのだ。 さぶちゃんは村の子供達の総大将となって学校への往復を独裁していた。ある時は隣村の生徒達を橋上に要撃し、ある時は女生徒の一群を襲って、その中の、娘になりかかった何人かの袴の裾をまくった。 彼は年中誰かをいじめていなければ気がおさまらぬらしかった。圭太は、姿を見せさえすれば苛められた。ことに橋の欄干を渡れと何回か言われて、決して渡ったことのなかったのが、さぶちゃんへ当面の問題を提供していたのだった。 二 圭太はすでに欄干の上へ追い上げられていた。彼は振り切ろうとしたが、それが不可能だったのだ。さぶちゃんは握り太の茨のステッキを持っていた。彼の一味の子分達が、またそれぞれの獲物をもって、圭太を取りかこんでしまっていたのだ。 「早く渡らんか!」 さぶちゃんはステッキで圭太の尻を小づいた。 「渡らなけりゃ、みんなして川の中へ突き落としてやるから。」 傍から二三のものが口を出す。 「下駄で渡れ!」 「裸足で渡ったんでは、渡った分だないぞ!」 「さあ、早く!」 さぶちゃんは眼に角を立てた。 仕方なしに圭太は下駄を脱ごうとした。渡って見ないで渡れない圭太だった。それだけにもう身体がふるえてきた。 「下駄で渡るんだ!」 とさぶちゃんは命令した。圭太は反抗するだけの勇気がなかった。否、あったとしても今の場合どう出来るであろうか。 彼は片手でしっかと鞄をかかえ、脚に力を入れて立ち上ろうとした。が、駄目だった。下を見ると遙か底の方で、青い水がくるくる、くるくると渦を巻いて流れている。ちょっとでも手を離そうものなら、ふらふらと、そのままその中へ落ちてしまいそうである。――実際、いつの間にか、自分の登っている欄干が、橋もろとも傾いて、すうっと上流の方へ走っているような気さえしてきた。 「何びくびくしているんだ。早く! 早く渡るんだ!」 さぶちゃんはぴしり圭太の尻をなぐりつけた。 「これくらい渡れないで日本男子だアねえぞ! やあい、貴様はチャンコロか露助か、この臆病奴!」 「渡れなけりゃ、今日一日そこに突っ立っているんだ、いいか。俺がついて番しててやる!」 さぶちゃんが言った。 もう学校は遅れようとしていた。誰一人通るものがなかった。隣村に下宿している一人の先生――それさえもう通ってしまったに相違ない。真っ直ぐな道を見渡しても、誰もやって来るものがなかった。 圭太は死んでもいいと思った。 「そら、こん畜生!」と言ってさぶちゃんに再びステッキを食わせられた瞬間、彼は腰に力を入れ、両脚を踏みしめ、しっかりと胸に鞄を抱き、右手だけをやや水平に差し伸べて、そして一歩踏み出した。 ――みんなが渡るんだ。俺にだけ渡れないということはあるまい! だが、二歩、三歩――もう駄目だった。眼の前には、長い長い糸のような欄干が、思いなしか蛇のようにうねうねして伸びている。その前後左右、また上下は、渦巻く青い流れであり、無限の空間である。糸――どこまでつづくか分らぬそのたった一本の糸のみが、自分を支えてくれる、そして自分の行かなくてはならぬ道である。 彼はふらふらとして、そのままぺしゃんこと、欄干へ蟹のようにへばりついてしまった。 「こら、臆病奴!」 「野郎、突き落せ!」 「突き落せ!」 実際、圭太の片足へ腕白どもの手が何本か、かかった。へばりついた手をひっぺがそうとするものもあった。 だが、圭太はその時立ち上っていた。さぶちゃんやその手下のものを払い退けるようにして再び渡り出した。 |
遺伝学のおこり ダーウィンの生物進化の説と相並んで、生物学の上で非常に大切な意味をもっているのは、メンデルの遺伝の法則で、今ではこの遺伝に関する学問が大いに進んで、生物をほんとうに研究するには、もちろんそれのいろいろな事がらを知らなくてはなりませんが、そのなかでも殊に遺伝学の重要であることが認められています。 遺伝というのはごく簡単にいえば、親の性質が子に伝わるということで、これは普通に誰でも知っている事がらです。親と子とは、その顔かたちにしても、どこか似通ったところがあり、気質の上でも大体はそうであるのです。なかには例外もないわけではありませんが、その例外と見られるものも、すぐの親ではなく、それより前の先祖の性質を受け継いでいることも多いのです。それで遺伝ということは、ともかくも確かな事実ですが、しかしどうしてそういう事実が現れるかということについては、科学の上でいろいろ研究を要することにちがいないのです。まず遺伝の場合には、どのような性質が最も多く子孫に伝わるのかということや、そしてそれの伝わり方について、実際にしらべて見なければなりません。これらについて古くからいろいろな考えを持ち出した人々もあったのですが、それよりも大切なのは、実験を行ってそれを事実の上で明らかにすることです。ところで、このような実験を始めて実際に行ったのが、ここでお話ししようとするメンデルなので、それで今日ではこのメンデルの仕事を記念する意味で、遺伝学のことをメンデリズムとも呼んでいるのです。いずれにせよメンデルの遺伝に関する研究は、生物学の上で非常に大きな意味をもっているものにちがいないのです。 メンデルの生涯 メンデルの名はグレゴール・ヨハンと云うのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリーのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でありましたが、中学に当るギムナジウムを卒業してから、ブリュンという処にある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感ぜられました。それで何か学問を修めたいという心が頻りに起って来たので、遂に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに赴き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メンデルは、この時もはや三十歳にもなっているので、普通の学生とは年齢の上でもちがうわけですが、ひたすら学問を修めたいという心から、一生懸命に勉強したのでした。そして三年の後に、大学を卒業してから、一八五四年にもとのブリュンの町に帰り、そこで或る実科学校の教師となりました。 ブリュンの町に戻るとなると、僧侶の職の方も勤めないわけにはゆかないので、それは以前のように行っていましたが、大学で修めた博物学に大いに興味を感じていたので、それからは僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。 僧院の庭はさほど広くもなかったのですが、それでも六十坪ほどの土地を利用して、豌豆を栽培して見ました。そして豌豆のいろいろな種類の間に交配を行うと、どんな雑種ができるかを、一々しらべて見ました。メンデルはこの実験を八年間もつづけて行ったということです。そしてその結果が一通りわかって来たので、一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で、これを発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を公けにしました。これが遺伝の法則を始めて明らかにした大切な論文なのです。この外に、メンデルは柳やたんぽぽのような植物についても、また蜜蜂や鼠などの動物についてもそれぞれ交配を行わせて遺伝の研究をつづけて居ました。 このようにしてブリュンの僧院には一八六八年まで十五年間を過ごしましたがこの年に僧正の職についたので、その後は自分の研究を進めるだけの暇がなくなってしまったのは、メンデルにとっては遺憾のことであったのでしょう。それにメンデルのそれ迄の研究についても、今日でこそそれの重大な意味を誰しもが認めているのですが、その頃の人々には一向に顧みられず、そのままに見過ごされていたのでした。これは謂わばメンデルだけが時代に先んじてもいたので、やむを得ないことでもあったのでしょうが、やはり彼にとっては残念な次第でもあったわけです。ところが、そればかりではなく、僧正の職についてその仕事を忠実に行って来たのはよかったにしても、その頃政府が特別の税金をこの僧院に課したので、これを不当であるとしてメンデルは政府と争い、いかにしてもこれに屈しなかったということです。これは一八七二年頃のことでありましたが、その後いろいろと好ましからぬ出来事にであい、もともと快活でもあり友情も並みはずれて深かった性格にまでも影響して、だんだんに世人を嫌うようになったとも云われています。そして一八八四年の一月六日に腎臓炎をわずらって歿くなりました。 メンデルの研究は、かくて世間からは全く知られずに、その後も久しく埋もれていましたが、それがようやく見つけ出されたのは一九〇〇年のことで、メンデルがブリュンの学界でこれを発表してから、実に三十五年も経ってからのことでした。 どうしてメンデルの研究がこのとき発見されたかと云いますと、それにはおもしろい話があるのです。ちょうどその頃同じく遺伝について研究していた三人の学者がありました。それは、ドイツのコレンス、オーストリーのツェルマック、およびオランダのド・フリースであります。この人たちの研究の結果がそれぞれ学会で発表されてみると、ふしぎにもそれらが互いに一致しているので、これは確かな事がらであるとして認められるようになったのでしたが、そうなると、同じ事がらを研究した学者が以前にもありはしなかったかと云うことが、学界の話題となりました。そして古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、且それを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則と称えるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、歿くなったのでしたが、学問の上の仕事は、それが正しければ、立派に残っていて、いつかは見つけ出されて、その偉大な栄誉をになうことのできるものであるということが、この一事によってもみごとに証拠立てられるのです。かくてメンデルは、たとえ不遇のうちに歿したとしても、その名は、科学の歴史の上に限りなく燦然と輝くことでもありましょう。 メンデルの法則 メンデルが僧院の庭で長い年月をかけていろいろと苦心した上にようやく見つけ出したメンデルの法則というのは、どういうものかと云うことを、ここでなるべくわかり易く説明して見ましょう。 それはまず親から子に遺伝する性質のなかには、優性と劣性として区別される二種類の性質があって、優性をもっているものと、劣性をもっているものと交配させると、それから生まれてくるものは大体において優性を具えていると云うのです。しかしこのようにして出来た雑種をもう一度おたがいに交配させると、今度は優性と劣性とが分離して現れ、優性のもの3に対して劣牲のもの1という割合で第二代目の雑種が生ずるのです。これはメンデルの分離の法則と云われていますが、更にこの第二代目の雑種のうち優性を示している三つの中の一つは純粋の優性でありますけれども、その他の二つには優性と同時に劣性が幾らか含まれているということも明らかにされました。勿論、この場合にも何が優性であり、何が劣性であるかと云うことについては、めいめいの動物や植物についてよく観察してそれを定めてゆかなくてはならないのですが、いつもこのような一般的な法則が成立つということを見つけ出したのは、実にメンデルの偉大な業績であります。 この外に、メンデルは再結合の法則というのを見つけ出しました。メンデルの実験を行った豌豆のなかには、種子が円くて黄いろい色をしたのと、皺があって、緑色をしたのとがありましたが、これ等を交配させてみると、それから生じた第一代雑種の結んだ実はすべて円くて黄いろいものでありました。この事で、円くて黄いろいのは優性で、皺があって緑いろなのは劣性であることがわかったのです。ところがこの第一代雑種の種子を蒔いて、今度はそれについて自花授精をさせてみると、それで出来た第二代雑種のなかには、四種類のちがったものが現れました。この四種類というのは、つまり次の四つで、それらの数の割合は下の数字で示した通りです。 黄いろくて円いもの 9 緑いろで円いもの 3 黄いろくて皺のあるもの 3 緑いろで皺のあるもの 1 この結果を見ると、優性と劣性との割合はやはり3と1とになっていますが、最初には黄いろいことと円いこととが伴なって結びついて居り、緑いろと皺のあるのともそうであったのに、ここではこれ等の性質が離れてしまって、却って他の性質と結びついて現れることのあるのが、明らかにわかるのです。つまり個々の性質はそれぞれ独立のものであって、それらが分離して再び他のものと結合するということが、これで示されたので、その意味でこれを再結合の法則、または独立結合の法則というのです。 メンデルは遺伝に対してこのような法則のあることを見つけ出した後に、なお進んで、このような法則がいつも成り立つとするなら、それは何によるのかということを考えてみました。そして生物には何かしら遺伝因子というようなものがあって、それが親から子に伝わってゆくのであろうと想像しました。それはうまい考え方で、この事を仮定した上で、それから上に述べた法則を導き出すことはできるのです。しかし実際に遺伝因子というようなものがあるとするなら、それは生殖細胞のなかに含まれていなければならないので、これをはっきりと事実の上でしらべるためには細胞のくわしい研究が必要となるのです。 しかし細胞についての知識は、この頃いくらかずつは進んで来てはいましたが、まだそれらのこまかい事がらは一向にわからなかったのでした。細胞の学問の進んで来たのは、それより後のことで、今ではいろいろの事がらが明らかになって来たばかりでなく、生殖細胞における遺伝因子のことについても、よほどよく知られるようになりました。細胞にはそれを包んでいる膜のなかに原形質と名づけるものがあって、それが細胞の本体を形づくっているということだけは、すでに一八六一年にマクス・シュルツェという人が見出したのでしたが、この原形質がつまり細胞の生命をになっているもので、そのなかに含まれている核が分裂して原形質に境ができると、それで細胞が分れてその数を増し、そのおかげで生物が生長してゆくのであるということも、だんだんにわかって来ました。また細胞にはいろいろの種類があって、遺伝に関係しているのはその中の生殖細胞と名づけるものなのですが、この細胞の核のなかには染色体というものがあって、それが遺伝因子をになっているのだと、今では考えられています。染色体というのは、塩基性の色素で特別に濃く染まるので、そう云われているのですが、生物の種類によってその数や形や大いさなどが異なり、それぞれの種類ではこれらが一定しているのです。 生殖細胞やそのなかの染色体のことについては、今ではさまざまのこまかい研究が行われて、いろいろのおもしろい事実も知られるようになりましたが、遺伝に関するこれらの学問がそれほど進むようになったというのも、その最初はメンデルの研究にあったということを考えるならば、メンデルの仕事の大きな意味が誰にもわかるにちがいありません。またこの遺伝に関する事がらは、実はこの前にお話ししたダーウィンの生物進化説とも密接に関係しているのです。なぜと云えば、生物がだんだんに進化してゆくということも、実際には親から子に性質が遺伝してゆく間にいろいろな変化があらわれてくるからであって、それですから進化の問題を根本的に解くのには、どうしてもまず遺伝に関するすべての事がらを明らかにしておく必要があるのです。 生物に関するこのような問題は、ほんとうはなかなか複雑であって、今でもそれがすっかりわかっていないばかりでなく、まだ私たちに知られていない巧妙な事がらが自然にはたくさんにあるにちがいないのです。ですから、生命や遺伝に関する問題をすっかり解決することは、いつになって出来るかわかりませんけれども、しかしそれらを研究してゆくことは、実に自然の神秘に触れることにもなるという点で、限りなく興味のある事がらでありますから、たくさんの生物学者はこれがために多くの苦心を重ねてもいるのであります。すべて科学の上の問題は、最初にはまるでどのように手をつけてよいかわからないように見えても、やがてそれが解決される日のあることは、これまでの多くの経験から見て恐らく確かなので、ですから生命や遺伝の問題にしても、いつかはその極めて奥ぶかい謎を解くことができるようにならないとは云われないのでしょう。 |
序 越中の国立山なる、石滝の奥深く、黒百合となんいうものありと、語るもおどろおどろしや。姫百合、白百合こそなつかしけれ、鬼と呼ぶさえ、分けてこの凄じきを、雄々しきは打笑い、さらぬは袖几帳したまうらむ。富山の町の花売は、山賤の類にあらず、あわれに美しき女なり。その名の雪の白きに愛でて、百合の名の黒きをも、濃い紫と見たまえかし。 明治三十五年寅壬三月 一 「島野か。」 午少し過ぐる頃、富山県知事なにがしの君が、四十物町の邸の門で、活溌に若い声で呼んだ。 呼ばれたのは、知事の君が遠縁の法学生、この邸に奇寓する食客であるが、立寄れば大樹の蔭で、涼しい服装、身軽な夏服を着けて、帽を目深に、洋杖も細いので、猟犬ジャム、のほうずに耳の大いのを後に従え、得々として出懸ける処、澄ましていたのが唐突に、しかも呼棄てにされたので。 およそ市中において、自分を呼棄てにするは、何等の者であろうと、且つ怪み、且つ憤って、目を尖らして顔を上げる。 「島野。」 「へい、」と思わず恐入って、紳士は止むことを得ず頭を下げた。 「勇美さんは居るかい。」と言いさま摺れ違い、門を入ろうとして振向いて言ったのは、十八九の美少年である。絹セルの単衣、水色縮緬の帯を背後に結んだ、中背の、見るから蒲柳の姿に似ないで、眉も眦もきりりとした、その癖口許の愛くるしいのが、パナマの帽子を無造作に頂いて、絹の手巾の雪のような白いのを、泥に染めて、何か包んだものを提げている。 成程これならば、この食客的紳士が、因ってもって身の金箔とする処の知事の君をも呼棄てにしかねはせぬ。一国の門閥、先代があまねく徳を布いた上に、経済の道宜しきを得たので、今も内福の聞えの高い、子爵千破矢家の当主、すなわち若君滝太郎である。 「お宅でございます、」と島野紳士は渋々ながら恭しい。 「学校は休かしら。」 「いえ、土曜日なんで、」 「そうか、」と謂い棄てて少年はずッと入った。 「ちょッ。」 その後を見送って、島野はつくづく舌打をした。この紳士の不平たるや、単に呼棄てにされて、その威厳の幾分を殺がれたばかりではない。誰も誰も一見して直ちに館の飼犬だということを知って、これを従えた者は、知事の君と別懇の者であるということを示す、活きた手形のようなジャムの奴が、連れて出た己を棄てて、滝太郎の後から尾を振りながら、ちょろちょろと入ったのであった。 「恐れるな。小天狗め、」とさも悔しげに口の内に呟いて、洋杖をちょいとついて、小刻に二ツ三ツ地の上をつついたが、懶げに帽の前を俯向けて、射る日を遮り、淋しそうに、一人で歩き出した。 「ジャム、」 真先に駈けて入った猟犬をまず見着けたのは、当館の姫様で勇美子という。襟は藤色で、白地にお納戸で薩摩縞の単衣、目のぱッちりと大きい、色のくッきりした、油気の無い、さらさらした癖の無い髪を背へ下げて、蝦茶のリボン飾、簪は挿さず、花畠の日向に出ている。 二 この花畠は――門を入ると一面の芝生、植込のない押開いた突当が玄関、その左の方が西洋造で、右の方が廻廊下で、そこが前栽になっている。一体昔の大名の別邸を取払った幾分の造作が残ったのに、件の洋風の室数を建て増したもので、桃色の窓懸を半ば絞った玄関傍の応接所から、金々として綺羅びやかな飾附の、呼鈴、巻莨入、灰皿、額縁などが洩れて見える――あたかもその前にわざと鄙めいた誂で。 日車は莟を持っていまだ咲かず、牡丹は既に散果てたが、姫芥子の真紅の花は、ちらちらと咲いて、姫がものを言う唇のように、芝生から畠を劃って一面に咲いていた三色菫の、紫と、白と、紅が、勇美子のその衣紋と、その衣との姿に似て綺麗である。 「どうして、」 体は大いが、小児のように飛着いて纏わる猟犬のあたまを抑えた時、傍目も触らないで玄関の方へ一文字に行こうとする滝太郎を見着けた。 「おや、」 同時に少年も振返って、それと見ると、芝生を横截って、つかつかと間近に寄って、 「ちょいとちょいと、今日はね、うんと礼を言わすんだ、拝んで可いな。」と莞爾々々しながら、勢よく、棒を突出したようなものいいで、係構なしに、何か嬉しそう。 言葉つきなら、仕打なら、人の息女とも思わぬを、これがまた気に懸けるような娘でないから、そのまま重たげに猟犬の頭を後に押遣り、顔を見て笑って、 「何?」 「何だって、大変だ、活きてるんだからね。お姫様なんざあ学者の先生だけれども、こいつあ分らない。」と件の手巾の包を目の前へ撮んでぶら下げた。その泥が染んでいる純白なのを見て、傾いて、 「何です。」 「見ると驚くぜ、吃驚すらあ、草だね、こりゃ草なんだけれど活きてるよ。」 「は、それは活きていましょうとも。草でも樹でも花でも、皆活きてるではありませんか。」という時、姫芥子の花は心ありげに袂に触れて閃いた。が、滝太郎は拗ねたような顔色で、 「また始めたい、理窟をいったってはじまらねえ。可いからまあ難有うと、そういってみねえな、よ、厭なら止せ。」 「乱暴ねえ、」 「そっちアまた強情だな、可いじゃあないか難有う……と。」 「じゃアまああっちへ参りましょう。」 と言いかけて勇美子は身を返した。塀の外をちらほらと人の通るのが、小さな節穴を透して遙に昼の影燈籠のように見えるのを、熟と瞻って、忘れたように跪居る犬を、勇美子は掌ではたと打って、 「ほら、」 ジャムは二三尺飛退って、こちらを向いて、けろりとしたが、衝と駈出して見えなくなった。 「活きてるんだな。やっぱり。」といって滝太郎一笑す。 振向いて見たばかり、さすがこれには答えないで、勇美子は先に立って鷹揚である。 |
一 機会がおのずから来ました。 今度の旅は、一体はじめは、仲仙道線で故郷へ着いて、そこで、一事を済したあとを、姫路行の汽車で東京へ帰ろうとしたのでありました。――この列車は、米原で一体分身して、分れて東西へ馳ります。 それが大雪のために進行が続けられなくなって、晩方武生駅(越前)へ留ったのです。強いて一町場ぐらいは前進出来ない事はない。が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客に対する設備が不足で、危険であるからとの事でありました。 元来――帰途にこの線をたよって東海道へ大廻りをしようとしたのは、……実は途中で決心が出来たら、武生へ降りて許されない事ながら、そこから虎杖の里に、もとの蔦屋(旅館)のお米さんを訪ねようという……見る見る積る雪の中に、淡雪の消えるような、あだなのぞみがあったのです。でその望を煽るために、もう福井あたりから酒さえ飲んだのでありますが、酔いもしなければ、心も定らないのでありました。 ただ一夜、徒らに、思出の武生の町に宿っても構わない。が、宿りつつ、そこに虎杖の里を彼方に視て、心も足も運べない時の儚さにはなお堪えられまい、と思いなやんでいますうちに―― 汽車は着きました。 目をつむって、耳を圧えて、発車を待つのが、三分、五分、十分十五分――やや三十分過ぎて、やがて、駅員にその不通の通達を聞いた時は! 雪がそのままの待女郎になって、手を取って導くようで、まんじ巴の中空を渡る橋は、さながらに玉の桟橋かと思われました。 人間は増長します。――積雪のために汽車が留って難儀をすると言えば――旅籠は取らないで、すぐにお米さんの許へ、そうだ、行って行けなそうな事はない、が、しかし……と、そんな事を思って、早や壁も天井も雪の空のようになった停車場に、しばらく考えていましたが、余り不躾だと己を制して、やっぱり一旦は宿に着く事にしましたのです。ですから、同列車の乗客の中で、停車場を離れましたのは、多分私が一番あとだったろうと思います。 大雪です。 「雪やこんこ、 霰やこんこ。」 大雪です――が、停車場前の茶店では、まだ小児たちの、そんな声が聞えていました。その時分は、山の根笹を吹くように、風もさらさらと鳴りましたっけ。町へ入るまでに日もとっぷりと暮果てますと、 「爺さイのウ婆さイのウ、 綿雪小雪が降るわいのウ、 雨炉も小窓もしめさっし。」 と寂しい侘しい唄の声――雪も、小児が爺婆に化けました。――風も次第に、ごうごうと樹ながら山を揺りました。 店屋さえもう戸が閉る。……旅籠屋も門を閉しました。 家名も何も構わず、いまそこも閉めようとする一軒の旅籠屋へ駈込みましたのですから、場所は町の目貫の向へは遠いけれど、鎮守の方へは近かったのです。 座敷は二階で、だだっ広い、人気の少ないさみしい家で、夕餉もさびしゅうございました。 若狭鰈――大すきですが、それが附木のように凍っています――白子魚乾、切干大根の酢、椀はまた白子魚乾に、とろろ昆布の吸もの――しかし、何となく可懐くって涙ぐまるるようでした、なぜですか。…… 酒も呼んだが酔いません。むかしの事を考えると、病苦を救われたお米さんに対して、生意気らしく恥かしい。 両手を炬燵にさして、俯向いていました、濡れるように涙が出ます。 さっという吹雪であります。さっと吹くあとを、ごうーと鳴る。……次第に家ごと揺るほどになりましたのに、何という寂寞だか、あの、ひっそりと障子の鳴る音。カタカタカタ、白い魔が忍んで来る、雪入道が透見する。カタカタカタカタ、さーッ、さーッ、ごうごうと吹くなかに――見る見るうちに障子の桟がパッパッと白くなります、雨戸の隙へ鳥の嘴程吹込む雪です。 「大雪の降る夜など、町の路が絶えますと、三日も四日も私一人――」 三年以前に逢った時、……お米さんが言ったのです。 …………………… 「路の絶える。大雪の夜。」 お米さんが、あの虎杖の里の、この吹雪に…… 「……ただ一人。」―― 私は決然として、身ごしらえをしたのであります。 「電報を――」 と言って、旅宿を出ました。 実はなくなりました父が、その危篤の時、東京から帰りますのに、(タダイマココマデキマシタ)とこの町から発信した……偶とそれを口実に――時間は遅くはありませんが、目口もあかない、この吹雪に、何と言って外へ出ようと、放火か強盗、人殺に疑われはしまいかと危むまでに、さんざん思い惑ったあとです。 ころ柿のような髪を結った霜げた女中が、雑炊でもするのでしょう――土間で大釜の下を焚いていました。番頭は帳場に青い顔をしていました。が、無論、自分たちがその使に出ようとは怪我にも言わないのでありました。 二 「どうなるのだろう……とにかくこれは尋常事じゃない。」 私は幾度となく雪に転び、風に倒れながら思ったのであります。 「天狗の為す業だ、――魔の業だ。」 何しろ可恐い大な手が、白い指紋の大渦を巻いているのだと思いました。 いのちとりの吹雪の中に―― 最後に倒れたのは一つの雪の丘です。――そうは言っても、小高い場所に雪が積ったのではありません、粉雪の吹溜りがこんもりと積ったのを、哄と吹く風が根こそぎにその吹く方へ吹飛ばして運ぶのであります。一つ二つの数ではない。波の重るような、幾つも幾つも、颯と吹いて、むらむらと位置を乱して、八方へ高くなります。 |
中央美術社の展覧会へ行つた。 行つて見ると三つの室に、七十何点かの画が並んでゐる。それが皆日本画である。しかし唯の日本画ぢやない。いづれも経営惨憺の余になつた、西洋画のやうな日本画である。まづ第一に絹や紙へ、日本絵具をなすりつけて、よくこれ程油絵じみた効果を与へる事が出来たものだと、その点に聊敬意を表した。 そこで素人考へに考へて見ると、かう云ふ画を描く以上、かう云ふ画の作者には、自然がかう云ふ風に見えるのに違ひない。逆に云へばかう云ふ風に自然が見えればこそ、かう云ふ画が此処に出来上つたのだから、一応は至極御尤もである。が、素人はかう云ふ画を見ると、何故これらの画の作家は、絵具皿の代りにパレツトを、紙や絹の代りにカンヴアスを用ひないかと尋ねたくなる。その方が作者にも便利なら、僕等素人の見物にも難有くはないかと尋ねたくなる。 しかしこれらの画の作者は、「我々には自然がかう見えるのだ。かう見えると云ふ意味は、西洋画風にと云ふ意味ぢやない。我々の日本画風にと云ふ意味だ」と、立派な返答をするかも知れない。よろしい。それも心得た。が、これらの画の中には、どう考へても西洋画と選ぶ所のない画が沢山ある。たとへば吉田白流氏の「奥州路」の如き、遠藤教三氏の「嫩葉の森」の如き、乃至穴山義平氏の「盛夏」の如きは、皆この類の作品である。もし「我々の日本画風」が、かう云ふものであるとすれば、それは遺憾ながら僕なぞには、余り結構なものとは思はれない。まづ冷酷に批評すると、本来剃刀で剃るべき髭を、薙刀で剃つて見せたと云ふ御手柄に感服するだけである。さうして一応感服した後では、或は剃刀を使つた方が、もつとよく剃れはしなかつたらうかと尋ねたくなるだけである。 |
その日の朝であった、自分は少し常より寝過ごして目を覚ますと、子供たちの寝床は皆からになっていた。自分が嗽に立って台所へ出た時、奈々子は姉なるものの大人下駄をはいて、外へ出ようとするところであった。焜炉の火に煙草をすっていて、自分と等しく奈々子の後ろ姿を見送った妻は、 「奈々ちゃんはね、あなた、きのうから覚えてわたい、わたいっていいますよ」 「そうか、うむ」 答えた自分も妻も同じように、愛の笑いがおのずから顔に動いた。 出口の腰障子につかまって、敷居を足越そうとした奈々子も、ふり返りさまに両親を見てにっこり笑った。自分はそのまま外へ出る。物置の前では十五になる梅子が、今鶏箱から雛を出して追い込みに入れている。雪子もお児もいかにもおもしろそうに笑いながら雛を見ている。 奈々子もそれを見に降りてきたのだ。 井戸ばたの流し場に手水をすました自分も、鶏に興がる子どもたちの声に引かされて、覚えず彼らの後ろに立った。先に父を見つけたお児は、 「おんちゃんにおんぼしんだ、おんちゃんにおんぼしんだ」 と叫んで父の膝に取りついた。奈々子もあとから、 「わたえもおんも、わたえもおんも」 と同じく父に取りつくのであった。自分はいつものごとくに、おんぼという姉とおんもという妹とをいっしょに背負うて、しばらく彼らを笑わせた。梅子が餌を持ち出してきて鶏にやるので再び四人の子どもは追い込みの前に立った。お児が、 「おんちゃんおやとり、おんちゃんおやとり」 というから、お児ちゃん、おやとりがどうしたかと聞くと、お児ちゃんはおやとりっち言葉をこのごろ覚えたからそういうのだと梅子が答える。奈々子は大きい下駄に疲れたらしく、 「お児ちゃんのかんこ、お児ちゃんのかんこ」 といい出した。お児の下駄を借りたいというのである。父は幼き姉をすかしてその下駄を貸さした。お児は一つ上の姉でも姉は姉らしいところがある。小さな姉妹は下駄を取り替える。奈々子は満足の色を笑いにたたわして、雪子とお児の間にはさまりつつ雛を見る。つぶつぶ絣の単物に桃色のへこ帯を後ろにたれ、小さな膝を折ってその両膝に罪のない手を乗せてしゃがんでいる。雪子もお児もながら、いちばん小さい奈々子のふうがことに親の目を引くのである。虱がわいたとかで、つむりをくりくりとバリカンで刈ってしもうた頭つきが、いたずらそうに見えていっそう親の目にかわゆい。妻も台所から顔を出して、 「三人がよくならんでしゃがんでること、奈々ちゃんや、鶏がおもしろいかい、奈々ちゃんや」 三児はいちように振り返って母と笑いあうのである。自分は胸に動悸するまで、この光景に深く感を引いた。 この日は自分は一日家におった。三児は遊びに飽きると時々自分の書見の室に襲うてくる。 三人が菓子をもらいに来る、お児がいちばん無遠慮にやってくる。 「おんちゃん、おんちゃん、かちあるかい、かち、奈子ちゃんがかちだって」 続いて奈々子が走り込む。 「おっちゃんあっこ、おっちゃんあっこ、はんぶんはんぶん」 といいつついきなり父に取りつく。奈々子が菓子ほしい時に、父は必ずだっこしろ、だっこすれば菓子やるというために、菓子のほしい時彼はあっこあっこと叫んで父の膝に乗るのである。一つではあまり大きいというので、半分ずつだよといい聞かせられるために、自分からはんぶんはんぶんというのである。四歳のお児はがっこといい、三歳の奈々子はあっこという。年の違いもあれど、いくらか性質の差もわかるのである。六歳の雪子はふたりのあとからはいってきて、ただしれしれと笑っている。菓子が三人に分配される、とすぐに去ってしまう、風の凪いだようにあとは静かになる。静かさが少しく長くなると、どうして遊んでるかなと思う。そう思って庭を見ると、いつの間にか三人は庭の空地に来ておった。くりくり頭に桃色のへこ帯がひとり、角子頭に卵色のへこ帯がふたり、何がおもしろいか笑いもせず声も立てず、何かを摘んでるようすだ。自分はただかぶりの動くのとへこ帯のふらふらするのをしばらく見つめておった。自分も声を掛けなかった、三人も菓子とも思わなかったか、やがてばたばた足音がするから顔を出してみると、奈々子があとになって三人が手を振ってかける後ろ姿が目にとまった。 ご飯ができたからおんちゃんを呼んでおいでと彼らの母がいうらしかった。奈々ちゃんお先においでよ奈々ちゃんと雪子が叫ぶ。幼きふたりの伝令使は見る間に飛び込んできた。ふたりは同体に父の背に取りつく。 「おんちゃんごはんおあがんなさいって」 「おはんなさいははははは」 父は両手を回し、大きな背にまたふたりをおんぶして立った。出口がせまいので少しからだを横にようやく通る窮屈さをいっそう興がって、ふたりは笑い叫ぶ。父の背を降りないうちから、ふたりでおんちゃんを呼んできたと母にいう騒ぎ、母はなお立ち働いてる。父と三児は向かい合わせに食卓についた。お児は四つでも箸持つことは、まだほんとうでない。少し見ないと左手に箸を持つ。またお箸の手が違ったよといえば、すぐ右に直すけれど、少しするとまた左に持つ。しばしば注意して右に持たせるくらいであるから、飯も盛んにこぼす。奈々子は一年十か月なれど、箸持つ手は始めから正しい。食べ物に着物をよごすことも少ないのである。姉たちがすわるにせまいといえば、身を片寄せてゆずる、彼の母は彼を熟視して、奈々ちゃんは顔構えからしっかりしていますねいという。 末子であるから埒もなくかわいいというわけではないのだ。この子はと思うのは彼の母ばかりではなく、父の目にもそう見えた。 午後は奈々子が一昼寝してからであった、雪子もお児もぶらんこに飽き、寝覚めた奈々子を連れて、表のほうにいるようすであったが、格子戸をからりあけてかけ上がりざまに三児はわれ勝ちと父に何か告げんとするのである。 「お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が」 「おんちゃん金魚がへんだ。金魚がへんだよおんちゃん」 「へんだ、おっちゃんへんだ」 奈々子は父の手を取ってしきりに来て見よとの意を示すのである。父はただ気が弱い。口で求めず手で引き立てる奈々子の要求に少しもさからうことはできない。父は引かるるままに三児のあとから表にある水鉢の金魚を見にいった。五、六匹死んだ金魚は外に取り捨てられ、残った金魚はなまこの水鉢の中にくるくる輪をかいてまわっていた。水は青黒く濁ってる。自分はさっそく新しい水をバケツに二はいくみ入れてやった。奈々子は水鉢の縁に小さな手を掛け、 「きんご、おっちゃんきんご、おっちゃんきんご」 「もう金魚へにゃしないねい。ねいおんちゃん、へにゃしないねい」 三児は一時金魚の死んだのに驚いたらしかった。父はさらに金魚を買い足してやることを約束して座に返った。三人はなおしきりに金魚をながめて年相当な会話をやってるらしい。 あとから考えたこの時の状態を何といったらよいか。無邪気な可憐な、ほとんど神に等しき幼きものの上に悲惨なる運命はすでに近く迫りつつありしことを、どうして知り得られよう。 くりくりと毛を刈ったつむり、つやつやと肥ったその手や足や、なでてさすって、はてはねぶりまわしても飽きたらぬ悲しい奈々子の姿は、それきり父の目を離れてしまった。おんもといい、あっこといい、おっちゃんといったその悲しい声は永遠に父の耳を離れてしまった。 この日の薄暮ごろに奈々子の身には不測の禍があった。そうして父は奈々子がこの世を去る数時間以前奈々子に別れてしまった。しかも奈々子も父も家におって……。いつもならば、家におればわずかの間見えなくとも、必ず子どもはどうしたと尋ねるのが常であるのに、その日の午後は、どういうものか数時間の間子どもをたずねなかった。あとから思うと闇の夜に顔も見得ず別れてしまったような気がしてならない。 一つの乳牛に消化不良なのがあって、今井獣医の来たのは井戸ばたに夕日の影の薄いころであった。自分は今井とともに牛を見て、牧夫に投薬の方法など示した後、今井獣医が何か見せたい物があるからといわるるままに、今井の宅にうち連れてゆくことにした。自分が牛舎の流しを出て台所へあがり奥へ通ったうちに梅子とお手伝いは夕食のしたくにせわしく、雪子もお児もうろうろ遊んでいた、民子も秋子もぶらんこに遊んでいた。ただ奈々子の姿が見えなかった。それでも自分はあえて怪しみもせず、今井とともに門を出た。今井の宅は十二、三分間でゆかれる所である。 今井の宅には洋燈もついてほかに知人もひとりおった。上がってからおよそ十五、六分も過ぎたと思う時分に、あわただしき迎えのものは、長女とお手伝いであった。 「お父さん大へんです、奈々ちゃんが池へ落ちて……」 それやっと口から出たか出ないかも覚えがなく、人を押しのけて飛び出した。飛び出る間際にも、 「奈々子は泣いたかッ」 と問うたら、長女の声でまだ泣かないと聞こえた。自分はその不安な一語を耳にはさんで、走りに走った。走れば十分とはかからぬ間なれど肥った自分には息切れがしてほとんどのめりそうである。ようやく家近く来ると梅子が走ってきた。自分はまた、 「奈々子は泣いたか」 「まだ泣かない、お父さんまだ医者も来ない」 自分はあわてながらもむつかしいなと腹に思いつつなお一息と走った。 |
学生時代の僕は第三次並びに第四次「新思潮」の同人と最も親密に往来してゐた。元来作家志望でもなかつた僕のとうとう作家になつてしまつたのは全然彼等の悪影響である。全然?――尤も全然かどうかは疑問かも知れない。当時の僕は彼等以外にも早稲田の連中と交際してゐた。その連中もやはり清浄なる僕に悪影響を及ぼしたことは確かである。 その連中と云ふのは外でもない。同人雑誌「仮面」を出してゐた日夏耿之介、西条八十、森口多里の諸君である。僕は一二度山宮允君と一しよに、赤い笠の電燈をともした西条君の客間へ遊びに行つた。日夏君や森口君は勿論、先生格の吉江弧雁氏に紹介されたのもその客間である。当時どう云ふ話をしたか、それはもう殆ど覚えてゐない。唯いつか怪談の出た晩、人つ子一人通らない雨降りの大久保を帰つて来るのに辟易したことを覚えてゐる。 しかしその後は吉江氏を始め、西条君や森口君とはずつと御無沙汰をつづけてゐる。唯鎌倉の大町にゐた頃、日夏君も長谷に居を移してゐたから、君とは時々往来した。当時の日夏君の八畳の座敷は御同様借家に住んでゐた為、すつかり障子をしめ切つた後でも、床の間の壁から陣々の風の吹きこんで来たのは滑稽である。けれども鎌倉を去つた後は日夏君ともいつか疎遠になつた。諸君は皆健在らし。日夏君は時々中央公論に詩に関する長論文を発表してゐる。あの原稿を書いてゐる部屋へはもう床の間の風なども吹きこんで来ないことであらう。 |
むかしむかし、ひとりのおじいさんの詩人がいました。とてもやさしいおじいさんの詩人でした。 ある晩、おじいさんが、家の中にすわっていたときのことでした。表は、すさまじいあらしになりました。雨が、たきのように降ってきましたが、おじいさんの詩人は、部屋の中のだんろのそばで、気持よく暖まっていました。だんろでは、火が赤々と、燃えていました。リンゴが、ジュージュー、おいしそうに焼けていました。 「こんなあらしのとき、外にいるものはかわいそうだなあ。着物も、びしょぬれになってしまうだろうに」と、おじいさんの詩人は言いました。こんなに、心のやさしい人だったのです。 すると、そのときです。戸の外から、 「あけてください。ぼく、びしょぬれで、寒くてたまんないの!」とさけぶ、小さな子供の声が聞えました。子供は、泣きながら、戸をドンドンたたいています。そのあいだも、雨はザーザー降り、窓という窓は、風のためにガタガタ鳴っています。 「おお、かわいそうに!」と、おじいさんの詩人は言って、戸をあけに行きました。 表には、小さな男の子が立っています。見れば、まっぱだかで、雨水が長い金髪から、ぽたぽたと、したたり落ちているではありませんか。おまけに、寒くて、ぶるぶるふるえているのです。もしも家の中へ入れてやらなければ、こんなひどいあらしの中では、死んでしまうにちがいありません。 「おお、かわいそうに!」と、おじいさんの詩人は言って、男の子の手をとりました。「さあ、さあ、中へおいで。暖かくしてあげるよ。ブドウ酒と焼きリンゴもあげような。おまえは、かわいい子だからねえ」 男の子は、ほんとうに、かわいい子でした。目は、明るい、二つのお星さまのように、キラキラしていました。金色の髪の毛からは、まだ雨水がたれてはいましたが、でも、それはそれはきれいにうねっていました。まるで、小さな天使のようでした。ただ、寒さのために、まっさおな顔をして、からだじゅう、ぶるぶるふるえていました。手には、りっぱな弓を持っていましたが、それも、雨のために、びしょびしょになって、だめになっていました。矢にぬってあるきれいな色も、すっかりにじんでしまっていました。 おじいさんの詩人は、だんろの前に腰をおろして、ひざの上に男の子をだきあげました。そして、髪の毛の水をしぼってやったり、ひえきった男の子の手を、自分の手の中で、暖めてやったりしました。それから、あまいブドウ酒も作ってやりました。やがて、男の子は元気をとりもどしました。頬に、赤みがさしてきました。すると、さっそく、床にとびおりて、おじいさんの詩人のまわりを、ぐるぐる踊りはじめました。 「元気な子だねえ」と、おじいさんは言いました。「おまえは、なんという名前だい?」 「ぼく、キューピッドっていうの」と、男の子は答えました。「おじいさん、ぼくを知らない? ほら、そこにあるのが、ぼくの弓。その弓で、ぼく、矢を射るんだよ。あっ、天気がよくなったよ。お月さまも出た」 「だが、おまえの弓は、ぬれて、だめになっているじゃないか」と、おじいさんの詩人は言いました。 「弱っちゃったなあ!」と、男の子は言うと、弓をとりあげて、しらべました。「だいじょうぶ、もう、すっかりかわいてる。どこも、わるくなってないよ。つるだって、ぴいんとしてるよ。ぼく、ためしてみる」 男の子は、弓を引きしぼって、矢をつがえました。そして、やさしいおじいさんの詩人の心臓をねらって、ピューッと、射ました。 「ほうら。ね、おじいさん。ぼくの弓は、だめになっていないよ、ね」 こう言ったかと思うと、男の子は、大声に笑って、どこかへとび出していきました。なんてひどい、いたずらっ子でしょう! こんなやさしいおじいさんの詩人を、弓で射るなんて。暖かい部屋に入れてくれたり、上等のブドウ酒や、すてきな焼きリンゴまで、ごちそうしてくれたおじいさんを、射るなんて! やさしい詩人は、床の上にたおれて、涙を流しました。ほんとうに、心臓を射ぬかれてしまったのです。おじいさんは、言いました。 「チッ! あのキューピッドというのは、なんといういたずらっ子だ! どれ、よい子供たちに話しておいてやろう。ひどいめに会わされんように、あいつには気をつけて、いっしょにあそばんように、とな」 よい子供たちは、この話を聞くと、女の子も男の子も、みんな、いたずらもののキューピッドに気をつけました。それでも、キューピッドは、たいへんずるくて、りこうでしたから、やっぱり、みんなをだましていました。 学生さんたちが、学校の講義がおわって、出てきますと、キューピッドが、いつのまにか、本を腕にかかえて、いっしょにならんで歩いているのです。おまけに、黒い制服を着こんでいますので、だれにも見わけがつきません。ですから、自分たちの仲間だと思いこんで、腕をくんで歩きます。ところが、そうすると、胸を矢で射られてしまうのです。それから、娘さんたちが、教会のお説教からもどってくるときも、教会の中にいるときも、キューピッドは、いつも、そのうしろにつきまとっているのです。いや、それどころか、いつどんなときにも、人々のあとを追っているのです。 劇場の大きなシャンデリアの中にすわりこんで、明るく燃えあがっていることもあります。そういうときには、人々は、あたりまえのランプだと思っています。ところが、あとになって、そうではなかったことに気がつくのです。そうかと思うと、お城の遊園地の、散歩道を歩きまわっていることもあるのです。いやいや、それどころか、あなたのおとうさんやおかあさんも、胸のまん中を、射られたことだってあるんですよ。おとうさんやおかあさんに、きいてごらんなさい。きっと、おもしろい話を聞かせてもらえますよ。 まったく、このキューピッドというのは、いたずらっ子です。こんな子にかまってはいけませんよ。この子ときたら、だれのあとをも追っているんですからね。なにしろ、年とったおばあさんでさえ、矢を射られたことがあるんですよ。もっとも、それは、ずっとむかしの話で、もう、すんでしまったことですがね。でもおばあさんは、そのことを、けっして忘れはしませんよ。 |
一 太古の家と地震 昔、歐米の旅客が日本へ來て、地震のおほいのにおどろくと同時に、日本の家屋が、こと〴〵く軟弱なる木造であつて、しかも高層建築のないのを見て、これ畢竟地震に對する災害を輕減するがためであると解してくれた。 何事も外國人の説を妄信する日本人は、これを聞いて大いに感服したもので、識見高邁と稱せられた故岡倉覺三氏の如きも、この説を敷衍して日本美術史の劈頭にこれを高唱したものであるが今日においても、なほこの説を信ずる人が少くないかと思ふ。 少くとも日本建築は古來地震を考慮の中へ加へ、材料構造に工風を凝らし、遂に特殊の耐震的樣式手法を大成したと推測する人は少くないやうである。 予はこれに對して全く反對の意見をもつてゐる。今試みにこれを述べて世の批評を乞ひたいと思ふ * * * * * 外人の地震説は一見甚だ適切であるが如くであるが、要するにそは、今日の世態をもつて、いにしへの世態を律せんとするもので、いはゆる自家の力を以て自家を強壓するものであると思ふ。 換言すれば、一種の自家中毒であると思ふ。 そも〳〵日本には天地開闢以來、殆ど連續的に地震が起こつてゐたに相違ない。その程度も安政、大正の大震と同等若しくはそれ以上のものも少くなかつたらう。 しかし太古における日本の世態は決してこれが爲に大なる慘害を被らなかつたことは明瞭である。 太古の日本家屋は、匠家のいはゆる天地根元宮造と稱するもので無造作に手ごろの木を合掌に縛つたのを地上に立てならべ棟木を以てその頂に架け渡し、草を以て測面を蔽うたものであつた。 つまり木造草葺の三角形の屋根ばかりのバラツクであつた。 いつしかこれが發達して、柱を建てゝその上に三角のバラツクを載せたのが今日の普通民家の原型である。 斯くの如き材料構造の矮小軟弱なる家屋は殆ど如何なる激震もこれを潰倒することが出來ない。 たとひ潰倒しても人の生命に危害を與ることは先ないといつてもよい。 即ち太古の國民は、頻々たる地震に對して、案外平氣であつたらうと思ふ。 二 何故太古に地震の傳説がないか 頻々たる地震に對しても、古代の國民は案外平氣であつた。いはんや太古にあつては都市といふものがない。 こゝかしこに三々五々のバラツクが散在してゐたに過ぎない。巨大なる建築物もない。 たとひ或一二の家が潰倒しても、引つゞいて火災を起こしても、それは殆ど問題でない。 罹災者は直にまた自ら自然林から樹を伐つて來て咄嗟の間にバラツクを造るので、毫も生活上に苦痛を感じない。 いはんやまた家を潰すほどの大震は、一生に一度あるかなしである。太古の民が何で地震を恐れることがあらう。また何で家を耐震的にするなどといふ考へが起こり得やう。 それよりは少しでも美しい立派な、快適な家を作りたいといふ考へが先立つて來たらねばならぬ。 若しも太古において國民が、地震をそれほどに恐れたとすれば、當然地震に關する傳説が太古から發生してゐる筈であるが、それは頓と見當たらぬ。 第一日本の神話に地震に關する件がないやうである。 有史時代に入つてはじめて地震の傳説の見えるのは、孝靈天皇の五年に近江國が裂けて琵琶湖が出來、同時に富士山が噴出して駿、甲、豆、相の地がおびたゞしく震動したといふのであるが、その無稽であることはいふまでもない。 つぎに允恭天皇の五年丙辰七月廿四日地震、宮殿舍屋を破るとある。 次ぎに推古天皇の七年乙未四月廿七日に大地震があつた。 日本書紀に七年夏四月乙未朔辛酉、地動、舍屋悉破、則令四方俾祭地震神とあるが、地震神といふ特殊の神は知られてゐない。 要するに、このごろに至つて地震の恐ろしさが漸く分かつたので、神を祭つてその怒りを解かんとしたのであらう。 爾來地震の記事は、かなり詳細に文献に現れてをり、その慘害の状も想像されるが、これを建築發達史から見て、地震のために如何なる程度において、構造上に考慮が加へられたかは疑問である。 三 なぜ古來木造の家ばかり建てたか 論者は曰く、『日本太古の原始的家屋はともかくも、既に三韓支那と交通して、彼の土の建築が輸入されるに當つて、日本人は何ゆゑに彼の土において賞用せられた石や甎の構造を避けて、飽くまで木造一點張りで進んだか、これは畢竟地震を考慮したゝめではなからうか』と。 なるほど、一應理屈はあるやうであるが、予の見る所は全然これに異なる。 問題は決してしかく單純なものではなくして、別に深い精神的理由があると思ふ。 * * * * * 日本の建築が古來木造を以て一貫して來た原因は、第一に、わが國に木材が豊富であつたからである。 今日ですら日本全土の七十パーセントは樹木を以て蔽はれてをり、約四十五パーセントは森林と名づくべきものである。 いはんや太古にありては、恐らく九十パーセントは樹林であつたらうと思はれる。 この樹林は、檜、杉、松等の優良なる建築材であるから、國民は必然これを伐つて家をつくつたのである。 そしてそれが朽敗または燒失すれば、また直にこれを再造した。が、伐れども盡きぬ自然の富は、終に國民をし、木材以外の材料を用ふるの機會を得ざらしめた。 かくて國民は一時的のバラツクに住まひ慣れて、一時的主義の思想が養成された。 家屋は一代かぎりのもので、子孫繼承して住まふものでないといふ思想が深い根柢をなした。 否、一代のうちでも、家に死者が出來れば、その家は汚れたものと考へ、屍を放棄して、別に新しい家を作つたのである。 奧津棄戸といふ語は即ちこれである。 しかし國民は生活の一時的なるを知ると同時に、死の恒久的なるを知つてゐた。 ゆゑにその屍をいるゝ所の棺槨には恒久的材料なる石材を用ひた。もつとも棺槨も最初は木材で作つたが、發達して石材となつたのである。 即ち太古の國民は必ずしも石を工作して家屋をつくることを知らなかつたのではない。たゞその心理から、これを必要としなかつたまでゞある。 若しも太古の民が地震を恐れて、石造の家屋を作らなかつたと解釋するならば、その前に、何ゆゑにかれ等は火災を恐れて石造の家を作らなかつたかを説明せねばならぬ。 火災は震災よりも、より頻繁に起こり、より悲慘なる結果を生ずるではないか。 |
私は明治八年四月二十三日四条通り御幸町西へ行った所に生まれました。父はこの年の二月既に歿して、私は二十六歳の母の胎内で父の弔いを見送りました。 明治十五年四月、八つで小学校六級に入学しました。草履袋をさげ石盤と石筆を風呂敷に包んで通学したものでした。 その頃習ったものは修礼(お作法)手芸が主なものでした。私は絵が好きで、いつも石盤に美人画を描きましたので、誰も彼も私にもと言って描くのを頼まれました。 受持は中島眞義先生で、なかなか子供の信頼がありました。先生に習うというと皆が手を打って喜んだものでした。ある年先生から、煙草盆を描きなさいと言いつけられ、それを祇園有楽館の展覧会に出品して賞に硯を頂いた事を覚えています。その硯は永年使用していましたが、もう金文字入の賞の字も磨滅して分らなくなってしまいました。 母はなかなか読書が好きでいつも貸本屋から借りた本が置いてありましたので、自然私もそれを読みました。 又綴り本を積んで家をこしらえ、作ったおやまさんを立てかけてお飾りをするのが唯一の遊びごとでした。 ところが父の始めました葉茶屋の商売を引きつづき背負って立とうとした母に、親類から種々の忠言がありました。然し母は父の始めた商売ではあり、石にかじりついても親子三人でやってゆきますと言って八つになる姉と三人で敢然と立ち上りました。 小さい時分から絵を描くのが一番の楽しみでした。四条御幸町の角に吉勘と言って錦絵の木版画や白描を売っている店がありましたが、使い走りをした時などここで絵を買うて貰うのが一番好きなお駄賃でした。 また四条通りに出る夜店をひやかして、古絵本を見つけると、母の腕にぶら下ってせがみ財布の紐をほどいて貰ったこともありました。私は子供の時分から人の髪を結う事が好きで近所の子供を呼んできては、お煙草盆や、ひっつけ髪や、ひっくくりの雀びんやらを結うて、つまり子供達をモデルに髪形の研究をしていました。 私が絵を習い始めた頃は、女が絵を習うと言うのは一般に不思議がる頃でした。十四の年に親類の承知しない画学校へ入学さして貰ったのです。 私の師匠は鈴木松年先生が最初で、人物を習い、次に幸野楳嶺先生に花鳥を習い、次に竹内栖鳳先生に師事しました。また十九の頃漢学も習い始めました。その時分の京都では狩野派や四条派の花鳥山水が全盛で、人物画の参考が全然ありませんでした。そこで参考品を探すのに非常に苦心をしました。博物館に行ったり、神社仏閣に風俗の絵巻物があると聞いては紹介状を貰って、のこのこ出掛けて行きました。殊に祇園祭には京都中の家々が競うて秘蔵の屏風、絵巻や掛軸などを、陳列しますからこの機会を逃さず、写生帖を持って美しく着飾って歩いている人達の間を小走りに通りぬけて、次から次へ写してゆきました。塾生の間に松園の写生帖と言って評判が立ったのは、この時です。 京都では、美人画をやり始めたのは私が最初でしょう。然し今日に至るまでには種々の苦労がありました。私が展覧会で優秀賞を貰うと、塾の仲間の人達が、嫉妬で私の絵具や絵具皿や大事な縮図本を隠したりしました。 明治三十七年の事です、〈遊女亀遊の図〉を、京都の展覧会に出した事がありました。ある日会場で、何者とも知れず亀遊の顔を鉛筆のようなもので、めちゃくちゃによごしてしまったという事もありました。 この様に口惜しいことやら、悲しい事やら幾つあったか知れません。幾つも幾つも、そういう難関を突破して来て、今すべてが、打って一丸となって、それが悉く芸術に浄化せられて筆を持てば、真に念頭に塵一つとどめず絵三昧の境地に入れます。 人間の一代は、実に舟に乗って旅をするようで、航程には雨もあれば風もあります。その難関を突き抜けて行くうちに次第に強く生きる力を与えられます。他人を頼りにしては駄目です。自分の救い手は矢張自分です。立派な人間でないと芸術は生まれません。人格がその人の芸術を定めるのです。筆の上に自分の心を描いているので、人前の良い、派手な事ばかり目掛けでも、心に真実がなければ駄目です。又人間は絶えず反省する事が大事で、そこに進歩があります。 私の母は昭和九年の二月、八十六歳の高齢で歿しました。今では、門人が写してくれた大きな写真を仏間にかけて、旅に出るときなど、「行って参ります」と言って、帰って来ると「お母さん只今」と真先に挨拶をします。 門閥も背景もない私が真の独立独歩で芸術に精進することが出来ましたのは、全く母が葉茶の商売を盛り立てて収入の範囲で、不自由なく暮せるようにしてくれたからでありました。私はこの母の慈愛を忘れることは出来ません。私が〈税所篤子孝養の図〉や〈母子〉など美人画にあまり類例の無いと言われる母性愛を扱いましたのも、この母の愛が心に沁みていたからであります。 |
遙に此書を滿州なる森鴎外氏に獻ず 大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりてあまぐもとなる、あまぐもとなる 獅子舞歌 海潮音序 卷中收むる所の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亞に三人、英吉利に四人、獨逸に七人、プロヷンスに一人、而して佛蘭西には十四人の多きに達し、曩の高踏派と今の象徴派とに屬する者其大部を占む。 高踏派の莊麗體を譯すに當りて、多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉體を飜するに多少の變格を敢てしたるは、其各の原調に適合せしめむが爲なり。 詩に象徴を用ゐること、必らずしも近代の創意に非らず、これ或は山嶽と共に舊るきものならむ。然れども之を作詩の中心とし本義として故らに標榜する所あるは、蓋し二十年來の佛蘭西新詩を以て嚆矢とす。近代の佛詩は高踏派の名篇に於て發展の極に達し、彫心鏤骨の技巧實に燦爛の美を恣にす、今茲に一轉機を生ぜずむばあらざるなり。マラルメ、ヹルレエヌの名家之に觀る所ありて、清新の機運を促成し、終に象徴を唱へ、自由詩形を説けり。譯者は今の日本詩壇に對て、專ら之に則れと云ふ者にあらず、素性の然らしむる所か、譯者の同情は寧ろ高踏派の上に在り、はたまたダンヌンチオ、オオバネルの詩に注げり。然れども又徒らに晦澁と奇怪とを以て象徴派を攻むる者に同ぜず。幽婉奇聳の新聲、今人胸奧の絃に觸るゝにあらずや。坦々たる古道の盡くるあたり、荊棘路を塞ぎたる原野に對て、之が開拓を勤むる勇猛の徒を貶す者は怯に非らずむば惰なり。 譯者甞て十年の昔、白耳義文學を紹介し、稍後れて、佛蘭西詩壇の新聲、特にヹルレエヌ、ヹルハアレン、ロオデンバッハ、マラルメの事を説きし時、如上文人の作なほ未だ西歐の評壇に於ても今日の聲譽を博する事能はざりしが、爾來世運の轉移と共に清新の詩文を解する者、漸く數を増し勢を加へ、マアテルリンクの如きは、全歐思想界の一方に覇を稱するに至れり。人心觀想の默移實に驚くべき哉。近體新聲の耳目に嫺はざるを以て、倉皇視聽を掩はむとする人々よ、詩天の星の宿は徙りぬ、心せよ。 日本詩壇に於ける象徴詩の傳來、日なほ淺く、作未だ多からざるに當て、既に早く評壇の一隅に囁々の語を爲す者ありと聞く。象徴派の詩人を目して徒らに神經の鋭きに傲る者なりと非議する評家よ、卿等の神經こそ寧ろ過敏の徴候を呈したらずや。未だ新聲の美を味ひ功を收めざるに先ちて、早く其弊竇に戰慄するものは誰ぞ。 歐洲の評壇亦今に保守の論を唱ふる者無きにあらず。佛蘭西のブリュンチエル等の如きこれなり。譯者は藝術に對する態度と趣味とに於て、此偏想家と頗る説を異にしたれば、其云ふ所に一々首肯する能はざれど、佛蘭西詩壇一部の極端派を制馭する消極の評論としては、稍耳を傾く可きもの無しとせざるなり。而してヤスナヤ・ポリヤナの老伯が近代文明呪詛の聲として、其一端をかの「藝術論」に露はしたるに至りては、全く贊同の意を呈する能はざるなり。トルストイ伯の人格は譯者の欽仰措かざる者なりと雖、其人生觀に就ては、根本に於て既に譯者と見を異にす。抑も伯が藝術論はかの世界觀の一片に過ぎず。近代新聲の評隲に就て、非常なる見解の相違ある素より怪む可きにあらず。日本の評家等が僅に「藝術論」の一部を抽讀して、象徴派の貶斥に一大聲援を得たる如き心地あるは、毫も清新體の詩人に打撃を與ふる能はざるのみか、却て老伯の議論を誤解したる者なりと謂ふ可し。人生觀の根本問題に於て、伯と説を異にしながら、其論理上必須の結果たる藝術觀のみに就て贊意を表さむと試むるも難い哉。 象徴の用は、之が助を藉りて詩人の觀想に類似したる一の心状を讀者に與ふるに在りて、必らずしも同一の概念を傳へむと勉むるに非ず。されば靜に象徴詩を味ふ者は、自己の感興に應じて、詩人も未だ説き及ぼさゞる言語道斷の妙趣を翫賞し得可し。故に一篇の詩に對する解釋は人各或は見を異にすべく、要は只類似の心状を喚起するに在りとす。例へば本書九〇頁「鷺の歌」を誦するに當て讀者は種々の解釋を試むべき自由を有す。此詩を廣く人生に擬して解せむか、曰く、凡俗の大衆は眼低し。法利賽の徒と共に虚僞の生を營みて、醜辱汚穢の沼に網うつ、名や財や、はた樂欲を漁らむとすなり。唯、縹緲たる理想の白鷺は羽風徐に羽撃きて、久方の天に飛び、影は落ちて、骨蓬の白く清らにも漂ふ水の面に映りぬ。之を捉へむとしてえせず、此世のものならざればなりと。されどこれ只一の解釋たるに過ぎず、或は意を狹くして詩に一身の運を寄するも可ならむ。肉體の欲に饜きて、とこしへに精神の愛に飢ゑたる放縱生活の悲愁こゝに湛へられ、或は空想の泡沫に歸するを哀みて、眞理の捉へ難きに憧がるゝ哲人の愁思もほのめかさる。而して此詩の喚起する心状に至りては皆相似たり。一〇七頁「花冠」は詩人が黄昏の途上に佇みて、「活動」、「樂欲」、「驕慢」の邦に漂遊して、今や歸り來れる幾多の「想」と相語るに擬したり。彼等默然として頭俛れ、齎らす所只幻惑の悲音のみ。孤り此等の姉妹と道を異にしたるか、終に歸り來らざる「理想」は法苑林の樹間に「愛」と相睦み語らふならむといふに在りて、冷艶素香の美、今の佛詩壇に冠たる詩なり。 譯述の法に就ては譯者自ら語るを好まず。只譯詩の覺悟に關して、ロセッティが伊太利古詩飜譯の序に述べたると同一の見を持したりと告白す。異邦の詩文の美を移植せむとする者は、既に成語に富みたる自國詩文の技巧の爲め、清新の趣味を犧牲にする事あるべからず。而も彼所謂逐語譯は必らずしも忠實譯にあらず。されば「東行西行雲眇々。二月三月日遲々」を「とざまにゆき、かうざまに、くもはるばる。きさらぎ、やよひ、ひうらうら」と訓み給ひけむ神託もさることながら、大江朝綱が二條の家に物張の尼が「月によつて長安百尺の樓に上る」と詠じたる例に從ひたる所多し。 明治三十八年初秋 上田敏 ガブリエレ・ダンヌンチオ 燕の歌 彌生ついたち、はつ燕、 海のあなたの靜けき國の 便もてきぬ、うれしき文を。 春のはつ花、にほひを尋むる あゝ、よろこびのつばくらめ。 黒と白との染分縞は 春の心の舞姿。 彌生來にけり、如月は 風もろともに、けふ去りぬ。 栗鼠の毛衣脱ぎすてて、 綾子羽ぶたへ今樣に、 春の川瀬をかちわたり、 しなだるゝ枝の森わけて、 |
一 鐘の聲も響いて來ぬ、風のひつそりした夜ながら、時刻も丁ど丑滿と云ふのである。……此の月から、桂の葉がこぼれ〳〵、石を伐るやうな斧が入つて、もつと虧け、もつと虧けると、やがて二十六夜の月に成らう、……二十日ばかりの月を、暑さに一枚しめ殘した表二階の雨戸の隙間から覗くと、大空ばかりは雲が走つて、白々と、音のない波かと寄せて、通りを一ツ隔てた、向うの邸の板塀越に、裏葉の飜つて早や秋の見ゆる、櫻の樹の梢を、ぱつと照らして、薄明るく掛るか、と思へば、颯と墨のやうに曇つて、月の面を遮るや否や、むら〳〵と亂れて走る…… ト火入れに燻べた、一把三錢がお定りの、あの、萌黄色の蚊遣香の細い煙は、脈々として、そして、空行く雲とは反對の方へ靡く。 其の小机に、茫乎と頬杖を支いて、待人の當もなし、爲う事ござなく、と煙草をふかりと吹かすと、 「おらは呑氣だ。」と煙が輪に成る。 「此方は忙がしい。」 と蚊遣香は、小刻を打つて畝つて、せつせと燻る。 が、前なる縁の障子に掛けた、十燭と云ふ電燈の明の屆かない、昔の行燈だと裏通りに當る、背中のあたり暗い所で、蚊がブーンと鳴く……其の、陰氣に、沈んで、殺氣を帶びた樣子は、煙にかいふいて遁ぐるにあらず、落着き澄まして、人を刺さむと、鋭き嘴を鳴らすのである。 で、立騰り、煽り亂れる蚊遣の勢を、ものの數ともしない工合は、自若として火山の燒石を獨り歩行く、脚の赤い蟻のやう、と譬喩を思ふも、あゝ、蒸熱くて夜が寢られぬ。 些との風もがなで、明放した背後の肱掛窓を振向いて、袖で其のブーンと鳴くのを拂ひながら、此の二階住の主人唯吉が、六疊やがて半ばに蔓る、自分の影法師越しに透かして視る、雲ゆきの忙しい下に、樹立も屋根も靜まりかへつて、町の夜更けは山家の景色。建續く家は、なぞへに向うへ遠山の尾を曳いて、其方此方の、庭、背戸、空地は、飛々の谷とも思はれるのに、涼しさは氣勢もなし。 「暑い。」 と自棄に突立つて、胴體ドタンと投出すばかり、四枚を兩方へ引ずり開けた、肱かけ窓へ、拗ねるやうに突掛つて、 「やツ、」と一ツ、棄鉢な掛聲に及んで、其の敷居へ馬乘りに打跨がつて、太息をほツと吐く…… 風入れの此の窓も、正西を受けて、夕日のほとぼりは激しくとも、波にも氷にも成れとて觸ると、爪下の廂屋根は、さすがに夜露に冷いのであつた。 爾時、唯吉がひやりとしたのは―― 此の廂はづれに、階下の住居の八疊の縁前、二坪に足らぬ明取りの小庭の竹垣を一ツ隔てたばかり、裏に附着いた一軒、二階家の二階の同じ肱掛窓が、南を受けて、此方とは向を異へて、つい目と鼻の間にある……其處に居て、人が一人、燈も置かず、暗い中から、此方の二階を、恁う、窓越しに透かすやうにして涼むらしい姿が見えた事である。―― 「や、」 たしかに、其家は空屋の筈。 二 唯さへ、思ひ掛けない人影であるのに、又其の影が、星のない外面の、雨氣を帶びた、雲に染んで、屋根づたひに茫と來て、此方を引包むやうに思はれる。 が、激しい、強い、鋭いほどの氣勢はなかつた。 闇に咲く花の、たとへば面影はほのかに白く、あはれに優しくありながら、葉の姿の、寂しく、陰氣に、黒いのが、ありとしも見えぬ雲がくれの淀んだ月に、朦朧と取留めなく影を投げた風情に見える。 雨夜の橘の其には似ないが、弱い、細りした、花か、空燻か、何やら薫が、たよりなげに屋根に漾うて、何うやら其の人は女性らしい。 「婦人だと尚ほ變だ。」 唯吉は、襟許から、手足、身體中、柳の葉で、さら〳〵と擽られたやうに、他愛なく、むず〳〵したので、ぶる〳〵と肩を搖つて、 「此は暑い。」 と呟くのを機會に、跨いだ敷居の腰を外すと、窓に肱を、横ざまに、胸を投掛けて居直つた。 爾時だつたが、 「え、え、」と、小さな咳を、彼方の其の二階でしたのが、何故か耳許へ朗らかに高く響いた。 其が、言を番へた、豫て約束の暗號ででもあつた如く、唯吉は思はず顏を上げて、其の姿を見た。 肩を細く、片袖をなよ〳〵と胸につけた、風通しの南へ背を向けた背後姿の、腰のあたりまで仄に見える、敷居に掛けた半身で帶と髮のみ艷やかに黒い。浴衣は白地の中形で、模樣は、薄月の空を行交ふ、――又少し明るく成つたが――雲に紛るゝやうであつたが、つい傍の戸袋に風流に絡まり掛つた蔦かづらが其のまゝに染まつたらしい。……そして、肩越しに此方を見向いた、薄手の、中だかに、すつと鼻筋の通つた横顏。……唯吉を見越した端に、心持、會釋に下げた頸の色が、鬢を透かして白い事!……美しさは其のみ成らず、片袖に手まさぐつた團扇が、恰も月を招いた如く、弱く光つて薄りと、腋明をこぼれた膚に透る。 褄はづれさへ偲ばるゝ、姿は小造りらしいのが、腰掛けた背はすらりと高い。 髮は、ふさ〳〵とあるのを櫛卷なんどに束ねたらしい……でないと、肱かけ窓の、然うした處は、高い髷なら鴨居にも支へよう、其が、やがて二三寸、灯のない暗がりに、水際立つまで、同じ黒さが、くツきりと間をおいて、柳は露に濡れつゝ濃かつた。 恁う、唯吉が、見るも思ふも瞬く間で、 「暑うござんす事……」 と其の人の聲。 此方は喫驚して默つて視める。 「貴方でもお涼みでいらつしやいますか。」 と直ぐに續けて、落着いた優しい聲なり。 何を疑つて見た處で、其のものの言ひぶりが、別に人があつて、婦と對向ひで居る樣子には思はれないので、 「えゝん。」 とつけたらしい咳を、唯吉も一つして、 「何うです……此のお暑さは。」と思切つて、言受けする。 「酷うござんすのね。」 と大分心易い言ひ方である。 「お話に成りません。……彼岸も近い、殘暑もドン詰りと云ふ處へ來て、まあ、何うしたつて云ふんでせうな。」 言ひ交はすのも窓と窓の、屋根越なれば、唯吉は上の空で、 |
野依秀一氏 この人は、思つたよりも底の浅い人です。正直で小胆な処があります。子供らしい可愛さがあります。此人は何時でも予想外な突飛さで人をおどかして、その隙に飛び込んで来やうとする人のやうに思はれます。殊にその突飛さが非常に不自然なと云ふ範囲を何処までも出ないので、少し落ちついてあしらつてゐますと、馬鹿気きつた空々しい処があります。 思つたことを遠慮なく云ふことは気持のいゝ事です。野依さんは真実さう云ふ気持のいゝ処がありますが、ともするともう一歩進んでそれを殊更に衒ふやうな傾きがあつて馬鹿々々しくなつて来る事があります。併し野依さんが自分ひとりいゝ気になつて、とんでもないことを、喋舌つてお出になつても少しも反感が起つて来ないのは不思議です。けれどもそれは或は反感を起す程度にも相手を引き立てゝ考へないからかもしれません。非常に可愛らしい処のある気持のいゝ人ですが気の毒な事には、その唯一のおどかしは凡ての人に役立つ丈けの深味も強みも持つてゐません。随分世間には氏を悪党のやうに云つてゐる人もあるけれども決して悪党でも何でもないと思ひます。悪党処か善人なのだと思ひます。善人が頻りに虚勢を張つてゐると云つた格です。 氏の顔から受ける印象から云つても決してすれつからした悪人じみた処はないやうです。氏の眼は何時でも笑つてゐます。そのひたいは陽気に光つてゐます。陰影と云ふやうなものは殆んど見ることが出来ません。たゞ大変に快活な可愛らしい処のある顔です。態度から云つても悪人と呼ぶだけの落ち付きもしぶとさもありません。何時でもやんちやな小僧のやうに浮ついてゐます。私には何処から云つても悪人らしい印象は少しも受ける事が出来ませんでした。野依さんの頭はまた、決して立派なものではなささうです。話してゐる相手と云ふものに就いて非常に考へなければならないやうな場合にもさう云ふことには全く無頓着のやうに見受けます。相手がどの程度に自分の話を受け取つてゐるかと云ふやうな事を少しでも考へると云ふことは殆んどない事と考へられます。それが野依さんの貴い所でまた抜けてゐる処だと思ひます。そのくせ話すときに、何処までも相手を釣つて行かうとしたり、あてこみがあつたり、絶えずしてゐます。処がその技巧が非常に下手で何処までも相手に見透されるやうな拙劣さです。併し御当人は一向平気のやうです。私が会つた時にも初めから終りまで何かしら私の困るやうな突飛な質問を発してその答へを種々に待ちかまへてからかふつもりだと云ふことは明かによめました。さう云ふ気持で一つ〳〵の問を聞きますと実に馬鹿々々しくなつて来て仕舞ひました。私は再び会つてその空々しさを耐へる気にはとてもなり得ません。もう少し本当に悪人であることを私は望みます。その方が会ふにも話をするにもずつと気持よく取り処があると思ひます。野依さんに、もつとしぶとい腹があつたらと思ひます。また深味と強みが態度の上に出て来るといゝと思ひます。さうしますとあのふわ〳〵した何の手ごたへもない大言が、もうすこしはしつかりした力のあるものになるでせうと思ひます。私は善人の虚勢はいやです。いつそ、それよりも、本当の悪人が好きです。野依さんは、どうしても善人です。子供らしい無邪気と向不見な勇気をもつてゐる人です。人から好かれると云ふのはその点より以外にはないやうです。 私は野依さんに一度きりしか会ひません、一度あつた位の印象はあてには決してなりません。私の迂濶からどんな大事な処を見おとしてゐるかもしれませんがまづこの位の処です。私自身で感じた事だけはそのまゝに書いたつもりです。 中村孤月氏 私が竹早町に居ました時分此の指ヶ谷町の家を見つけて明日にも引越さうとして混雑してゐる夕方私の名を云つて玄関に立つた人がありました。紡績飛白の着物を裾短かに着て同じ地の羽織で胸方に細い小い紐を結んだのがそのぬうと高い異様な眼の光りを持つた人には非常に不釣合に見えました。その人は鳥打帽をぬいで私が「どなたです」と云ふのに答へて早口に「中村孤月と云ふものです」と低く答へてそれから話をしたいと云ふのでした。私は孤月と云ふ名をきくとその玄関の格子を一尺ばかり開けて無作法にその柱と格子に曲げた両腕を突つかつて其処に体の重味をもたして気味の悪い眼付きで私を見てゐる人をぢつと見返しながら急に反感がこみ上げて来ました。併し何か物に臆したやうな何処かおど〳〵したやうな物馴れないやうな調子にいくらか心をひかれながら、いま取り込んでゐるから引越しをした後に尋ねて欲しいと云ふことを云ひました。そうして引越しをしたら直ぐに通知をしやうと云ふことを云つてその人の宿所を聞くと矢張り早口に云つてしまふと体を格子からはなしてガタンと閉めて門を出て行つて仕舞ひました。 一二年前に始終物を評する度びに他人の悪口を必ず云つた人、それから早稲田文学に、「さうすることを思つた」「何々を思つた」と云ふやうな妙な創作を出した人としてもよく私は覚えてゐました。そして私はずつと前の青鞜でその人のことを反感のあまりにこつぴどく批難したことも確かに覚えてゐた。それが幾度も、その人の不法な批評が私達のグループで話題になつたりしたこともありました。私はこの寒中に足袋もはかないで、ぬつと私の前に立つた孤月氏の気味の悪い眼付きと格子戸にもたれて無作法に口をきかれた様子にすつかりその人が、何だか恐くなつたのでした。それから此処に引越してから私は約束どほりに、はがきを出しました。すると、朝早くまだ私が食事の支度の最中に来ました。私は大変当惑して仕舞ひましたが、それでも断はれずに会ひました。私の反感はなをと強くなりました。何かこちらで云ふのをジロリとあの気味の悪い本当に気違ひじみた眼――で見られるのに一々ゾツとして私は体がふるえる程いやでした。この人は口をハキ〳〵きかないのも嫌でたまらない私の神経を焦立たせました。頑丈なやうなかぼそいやうなちつとも落ちついてゐない長い体がまた私の気になりました。体を変にひねつて物を云ふ癖が非常に目立ちました。語尾を消すのもそれから何か云ひかけて途中で切つてしまつたりするのも一つ〳〵私は気にしないではゐられませんでした。初めての時に、私はこの人を非常に神経の鋭い同時にまた思ひ切つて鈍な半面があるのを見のがせませんでした。頭の透明な処があるかと思ひますとまた何か少しも解らないやうな処があるやうな気がしました。幾度も〳〵会う内にそう云ふ点がだん〳〵に私にはつきり会得が出来て来ました。併し非常に人のいゝ処もだん〳〵出て来ました。けれどまた其処が私にはなをのこといやになりました。何時も人の顔色を見て話すと云ふことは私の大変きらいな事の一つであります。孤月氏に、よくそんな態度が見えること、それから執拗らしい処もいやでした。私は自分の性質として、すべてに淡泊な黒白のハツキリした云ひたい事でもずば〳〵云へる人が好きです。孤月氏は私の最も厭やな部類に属する人でした。この人のすることは一つ〳〵私の気に障らないことはありませんでした。孤月氏はまたそれをよく知つてゐられました、で其後用があつても何時でも大抵格子の外から用をたしてゆきました。けれどそれがまた私の気に入りませんでした。これは要するにどう云ふことをしても私の気には入らないことになるのでした。けれど私はそんなに孤月氏を厭つてはゐましたけれども何時でも後になると向ふの人の真実をふみつけにしたやうな不快な自分の態度を責めました。私はたゞ孤月その人から受ける直接の印象が徹頭徹尾いやなのでその人から離れてゐれば別に何でもないのでした。ですから私の眼の前に孤月氏が姿を現はさなければ、私は何時でもその人にさう不快なものを持たなくても済むのでした。あの無気味に光る気狂ひを連想させる眼と、色の黒い痩せた顔と、細長い体単にそれ丈けでも充分私の神経をおびやかすに足るものです。その上にその動作が一つ一つ私とは全で反対でした。好きな人と厭ひな人をハツキリと区別をたてることの出来る程好悪のはげしい私には孤月と云ふ人は実に耐らない人でした。併しこの頃では馴れが少しは私の神経を和げました。それと、以前はこの人の云ふことに依つて何時でもこの一番私の嫌やな人とつながつて他人の口に上つたり聯想されることはなほ一層堪えがたい腹立たしさでありました。それが猶更私の神経を一層焦立たせました。けれどもこの頃は漸くいろ〳〵私のいやがるやうな処が少しづゝ失くなつて来たやうに思ひます。あんな気味の悪い眼付をすることがなくなり、それから、体をゆするくせも、また、妙にはにかんだやうに固くなつたりせずに、ゆつくりおちついて話が出来るやうになつた丈けでも私の張り切つた神経をゆるますことが出来たのです。併し孤月氏の足は非常に遠くなりました。そしてその方がずつと、不快なものがこだはらずにいゝのです。 甲州の女の方との交渉がどうなつた事ですか、私は終りに孤月氏がはやくその方の承諾を得て幸福な、健全な家庭生活をなさることを祈ります。それが、今一番彼の方を幸福にする事であるやうな気がします。 |
目次 晴れた日に 曠野の歌 私は強ひられる―― 氷れる谷間 新世界のキィノー 田舎道にて 真昼の休息 帰郷者 同反歌 冷めたい場所で 海水浴 わがひとに与ふる哀歌 静かなクセニエ 咏唱 四月の風 即興 秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る 咏唱 有明海の思ひ出 (読人不知) かの微笑のひとを呼ばむ 病院の患者の歌 行つて お前のその憂愁の深さのほどに 河辺の歌 漂泊 寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ 鶯 (読人不知) 古き師と少なき友に献ず 晴れた日に とき偶に晴れ渡つた日に 老いた私の母が 強ひられて故郷に帰つて行つたと 私の放浪する半身 愛される人 私はお前に告げやらねばならぬ 誰もがその願ふところに 住むことが許されるのでない 遠いお前の書簡は しばらくお前は千曲川の上流に 行きついて 四月の終るとき |
Ⅰ 昔々、バグダツドのマホメツト教のお寺の前に、一人の乞食が寝て居りました。丁度その時、説教がすんだので、人々はお寺からぞろぞろと出て来ましたが、誰一人としてこの乞食に、一銭もやる者はありませんでした。最後に一人の商人風の人が出て来ましたが、その乞食を見ると、ポケツトから金を出してやりました。すると乞食は急に起き上つて、「難有う御座います、陛下、アラアはあなたをお守り下さるでせう。」と云ひました。しかしその商人は気にも止めずに行き過ぎようとしますので、乞食は云ひました。「陛下、お止り下さい。お話したい事があります。」すると商人風の人は振り返つて、「私は陛下ではない。」と云ひますと、乞食は「いや、今度の陛下は駱駝追ひになつたり、水汲みになつたりして、下情を御覧になるさうです。私は朝からかうして憐みを乞うて居りますが、誰一人として私にお金を恵んで下さいません。私は陛下にお礼として、一つの指環を差し上げたいと思ひます。この指環は、アラビヤの魔神の作つたものでして、若し誰か陛下を毒害しようとすると、この指環についてゐる、赤い石が青くなります。」と云つて、驚いて見てゐる商人風の人の手に指環をのせると、そのまま掻き消す様に見えなくなりました。 次の日の夕暮れ、バグダツドの一つの井戸は、町の女達の水汲みで一頻り賑つてゐました。その井戸の前で、前の日お寺の前で乞食に陛下と云はれた商人が、一人の娘と話してゐました。その女は大層見窄らしいなりをしてゐましたが、非常に美しい、涼しい眼を持つた女でした。その時商人が娘に云ひますには、「私は随分長い間、毎日あなたとここで話して居りますが、いつでもあなたは、私の掛ける謎を即座に解いてしまひます。私はあなたの頭の良いのと、その上美しいのに感心しました。どうか私の妻になつて下さいませんか。」娘「私の良人となる人は、本当に私を愛してくれる人でなくてはなりません。顔が美しいとか、醜いとか云ふのみで妻にしたいと云ふ様な人には到底私は身を任す事は出来ません。」と云ひますと、商人は「それでは、私の家へ来て私と同じ生活をして、私が本当にあなたを愛してゐるかどうかを見て、そして私の心が分つたならどうか私の妻になつて下さい。その間私は、あなたを妹として取扱ふでせう。」と云ひます。娘「私は、あなたと長い間お話してゐますが、未だあなたのお名前もお所も存じません。」商人「私は、父の後を継いで位についた、この国の王アブタルである。」と云つて口笛を吹きますと、何処からともなく大勢の奴隷が、象牙で拵へた美しい輿を持つて来て、その娘を乗せて宮城へと帰つて行きました。 さて、娘が王宮へ伴れて行かれた翌朝、王様はその娘と話をしようとして、娘の室に来ますと、驚いた事には、その娘の顔は一夜の中に腫物だらけとなつて、二目と見られない女となつてゐました。これを見た王様は、一瞬間これは厄介なものを背負つたと思ひましたが、その声、その態度、その頭の良さは前と決して変りはありませんので、王様は漸く安心しました。 或日、話のついでに王様は、「私は国を治めて、随分長くなるが、未だ信頼するに足る、大臣を得られないが、お前は誰か大臣にする様な人を知らないか。」と云はれました。すると娘は、「私が未だ落魄れて町に居りました時、ギラルリイと云ふ老人が市場に居りましたが、その老人をお用ゐになつては如何ですか。」と云ひました。そこで王様は家来をやつて、市場で壺造りをしてゐたギラルリイ老人を迎へにやりました。 翌日、大臣の就任式を済ませた王様は、非常に不愉快な様子をして、娘の処へ来て云ひますには、「あの老人は決して信頼するに足る人ではない。彼は私を毒殺しようとしてゐた。」娘は驚いてその理由を聞きますと、王様は「私の指環に嵌めてある石が青くなつたので、怪んで老人を調べると、毒薬を持つてゐました。」と云はれました。娘「あの老人はそんな恐ろしい人ではありません。きつと何か間違でせう。どうか老人をここへ呼んで下さい。私が尋ねてみませう。王様は、どうか次の室に居て、老人がどんな返答をするか聞いてゐて下さい。」そこで娘は老人にその毒薬について聞きますと、老人が云ひますには、「私が今日宮城へ来ます途中で、一人の乞食が私に、一つの鉄の指環を呉れました。その指環を嵌めてゐると、人の秘密は残らず分ると云ひましたが、私の長い経験から、何も人の秘密を知る必要はありませんから、その指環は嵌めずに、帯の間に入れて置きました。しかし私が思ひますに、何処の王様でも、王様は我儘者ですから、もしも私が恥しめられる様な事がありましたら毒を呑んで死んでしまはうと思つて、かうして毒を持つてゐるのです。」と云ふのを次の室で聞いてゐた王様は、自分の誤りから老人を疑つた事を深く詫びて、そこで食卓を共にする事となりました。その時着物を着換へに出て行つた娘が入つてくるのを見ると、驚いた事には、膏薬だらけだつた娘は、非常に美しい、以前の美しさにも比べられない美しさになつてゐました。驚いて見てゐた王様に娘は「王様、私は決して悪い病気にかかつたのではありません。私はあなたの心を試さうとして、顔に膏薬をはつてゐたのです。」と云ひながら、卓子の抽出しから一つの指環を出して、「私が未だ町に居りました時、一人の乞食からこの銀の指環を貰ひました。この指環を嵌めてゐると、如何なる男の心をも捉へる事が出来ると云ふのでしたが、私はさう云ふ手段による事は正しくないと悟りましたので、決してこの指環は嵌めませんでしたが、指環によらないで自分を本当に愛して下さる人を見付けたのは本当にうれしい事です。」と云ひました。王様は「三人共指環を貰つてゐるのに実際指にそれを嵌めたのは、私一人であつて、しかもそれによつて誤まらされたのは自分一人である。こんな指環は私には必要なものではない。」と云つて床に投げ付けると、その指環は割れて、内から焔が立つて、アラアがその焔の中から出て三人に祝福を与へて消えてしまひました。 そこで王様は、この娘を妃にし、又この老人を大臣として政治を行つてゐました。然るに晩年に至つて乱が起つて、王様は大臣と妃を伴れて、国を逃れてチフリス河のほとりに止り、そこで、自ら食を求めると云ふ様な境遇になりました。が、しかしそこには、どこか楽しい所がありました。(談話) Ⅱ 一 バグダツドの或モスク(寺院)の前です。年をとつた乞食が一人、敷石の上にひれ伏してゐました。丁度礼拝の終つた時ですから、老若さまざまのアラビア人は薄暗いモスクの玄関から、朝日の光のさした町へ何人もぞろぞろ出て来るのです。が、誰一人この乞食に銭を投げてやるものはありません。その内に若い商人が一人、静かに石段を下りて来ました。商人は乞食の姿を見ると、ふとあはれに思つたのでせう、小銭を一枚投げてやりました。 乞食 難有うございます。陛下! 商人は妙な顔をしました。陛下と云ふのはアラビアではカリフ(王)だけにつける尊称ですから。しかし商人は何も云はずに、乞食の前 乞食 アラア(神)は陛下をお守り下さいませ Ⅲ を通りすぎようとしました。すると乞食は追ひかけるやうに、もう一度かう繰返すのです。 乞食 難有うございます。陛下! アラアは陛下をお守り下さいませう。 商人は足を止めました。 商人 お前は勿体ないことを云ふぢやないか? わたしは唯の商人だよ。椰子の実を商ふハアヂと云ふものだよ。陛下などと呼ぶのはやめておくれ。 乞食 いえ 陛下は商人ではございません。陛下はカリフ・アブダル陛下でございます。 商人 わたしがあのアブダル陛下! ははあ、お前は気違ひだな。気違ひならば仕かたはない。が、愚図愚図してゐると、今度はアラアと間違へられさうだ。 商人は苦い顔をしたなり、さつさと又行きすぎさうにしました。しかし乞食は骨張つた手に商人の裾を捉へながら、剛情になほ云ひ続けました。 乞食 陛下! お隠しになつてはいけません。陛下は聡明のおん名の高いアブダル陛下でございます。或時は商人におなりになり、又或時は駱駝追ひにおなりになり、政治の善悪を御覧になると云ふアブダル陛下でございます。どうか御本名をお明し下さい。いや、お明し下さらないでも、どうかこの指環をお受けとり下さい。 乞食は茫然とした商人に指環を一つ渡しました。それは大きいダイアモンドを嵌めた、美しい金の指環なのです。 乞食 陛下は聡明のおん名の高いアブダル陛下でございます。しかし悪人の毒害だけはお見破りになることは出来ますまい。ところがその指環のダイアモンドは毒薬の気を感じさへすれば、忽ちまつ黒に変つてしまひます。ですからどうかこの後は始終その指環をお嵌め下さい。さうすればたとひ御家来に悪人が大勢居りましても、毒害におあひになることはございません。 呆気にとられた商人は唯乞食と指環とを見比べてゐるばかりです。 乞食 その指環は唯の指環ではございません。或ヂン(魔神)の宝にしてゐた魔法の指環でございます。陛下は唯今わたくしにお金を恵んで下さいました。わたくしも亦お礼のしるしにその指環を陛下にさし上げます。 商人 誰だ、お前は? 乞食 わたくしでございますか? わたくしの名は誰も知りません。知つてゐるのは唯空の上のアラアだけでございます。 乞食はかう云つたと思ふと、見る見る香の煙のやうに、何処かへ姿を隠してしまひました。あとには朝日の光のさした町の敷き石があるだけです。ハアヂと名乗つた商人は何時までも指環を手にのせた儘 不思議さうにあたりを眺めてゐました。 二 バグダツドの市場の噴き井の上には大きい無花果が葉を拡げてゐます。その噴き井の右ゐるのはハアヂと名乗つた先刻の商人、左にゐるのは水瓶をさげた、美しい一人の娘です。娘は貧しい身なりをしてゐますが、実際広いアラビアの中にも、この位美しい娘はありますまい。殊に今は日の暮のせゐか、薄明りに浮んだ眼の涼しさは宵の明星にも負けない位です。 商人 「マルシナアさん。わたしはあなたを妻にしたいのです。あなたは指環さへ嵌めてゐません。しかしわたしはあなたの指に、あらゆる宝石を飾ることが出来ます。又あなたは薄ものや絹を肌につけたことはありますまい。しかしわたしは支那の絹や……」 娘はうるささうに手を振りました。 娘 「わたくしの夫になる人はわたくしさへ愛せば好いのでございます。わたくしは貧しいみなし児でございすが、贅沢などをしたいとは存じません。」 商人 「それならばわたしの妻になつて下さい。わたしはあなたを愛してゐるのですから。」 娘 「それはまだわたくしにはわかりません。たとひあなたはさう仰有つても、嘘ではないかとも思ふのでございます。」 商人は何か云はうとしました。が、娘は遮るやうに、口早に言葉を続けました。 娘 「それはわたくしの顔かたちは愛して下さるかもわかりません。しかしわたくしの魂も愛して下さるでございませうか? もし愛して下さらなければ、ほんたうにわたくしを愛して下さるとは申せない筈でございます。」 商人 「マルシナアさん。わたしはあなたの魂も顔かたちと同じやうに愛してゐます。もし嘘だと思ふならば、わたしの家へ来て下さい。一月でも 二月でも、或は又一年でも、わたしと一しよに住んで下さい。わたしはアラアのおん名に誓ひ、妹のやうにつき合ふことにします。その間にもし不足があれば、何時出て行つてもかまひません。」 娘はちよいとためらひました。 商人 「その代りわたしの心がわかれば、わたしの妻になつて下さい。わたしはこの三年ばかり、妻にする女を探してゐました。が、あなた一人を除けば、誰もわたしの気に入らないのです。どうかわたしの願をかなへて下さい。」 娘は顔を赤らめながら、やつとかすかに返事をしました。 娘 「わたくしは此処へ水を汲みに来る度に、何度もあなたにお目にかかりました。しかしあなたは何と仰有るかたか、それさへまだ存じません。ましてお住居は何処にあるか……」 今度言葉を遮つたのはハアヂと名乗つた商人です。商人は微笑を浮べながら、叮嚀に娘へ会釈をしました。 商人 「バグダツドの町に住んでゐるものは誰でもわたしの家を知つてゐます。わたしはカリフ・アブダルです。父の位を継いだアラビアの王です。どうか王宮へ来て下さい。」 |
一 米と塩とは尼君が市に出で行きたまうとて、庵に残したまいたれば、摩耶も予も餓うることなかるべし。もとより山中の孤家なり。甘きものも酢きものも摩耶は欲しからずという、予もまた同じきなり。 柄長く椎の葉ばかりなる、小き鎌を腰にしつ。籠をば糸つけて肩に懸け、袷短に草履穿きたり。かくてわれ庵を出でしは、午の時過ぐる比なりき。 麓に遠き市人は東雲よりするもあり。まだ夜明けざるに来るあり。芝茸、松茸、しめじ、松露など、小笹の蔭、芝の中、雑木の奥、谷間に、いと多き山なれど、狩る人の数もまた多し。 昨日一昨日雨降りて、山の地湿りたれば、茸の獲物さこそとて、朝霧の晴れもあえぬに、人影山に入乱れつ。いまはハヤ朽葉の下をもあさりたらむ。五七人、三五人、出盛りたるが断続して、群れては坂を帰りゆくに、いかにわれ山の庵に馴れて、あたりの地味にくわしとて、何ほどのものか獲らるべき。 米と塩とは貯えたり。筧の水はいと清ければ、たとい木の実一個獲ずもあれ、摩耶も予も餓うることなかるべく、甘きものも酢きものも渠はたえて欲しからずという。 されば予が茸狩らむとして来りしも、毒なき味の甘きを獲て、煮て食わむとするにはあらず。姿のおもしろき、色のうつくしきを取りて帰りて、見せて楽ませむと思いしのみ。 「爺や、この茸は毒なんか。」 「え、お前様、そいつあ、うっかりしようもんなら殺られますぜ。紅茸といってね、見ると綺麗でさ。それ、表は紅を流したようで、裏はハア真白で、茸の中じゃあ一番うつくしいんだけんど、食べられましねえ。あぶれた手合が欲しそうに見ちゃあ指をくわえるやつでね、そいつばッかりゃ塩を浴びせたって埒明きませぬじゃ、おッぽり出してしまわっせえよ。はい、」 といいかけて、行かむとしたる、山番の爺はわれらが庵を五六町隔てたる山寺の下に、小屋かけてただ一人住みたるなり。 風吹けば倒れ、雨露に朽ちて、卒堵婆は絶えてあらざれど、傾きたるまま苔蒸すままに、共有地の墓いまなお残りて、松の蔭の処々に数多く、春夏冬は人もこそ訪わね、盂蘭盆にはさすがに詣で来る縁者もあるを、いやが上に荒れ果てさして、霊地の跡を空しゅうせじとて、心ある市の者より、田畑少し附属して養いおく、山番の爺は顔丸く、色煤びて、眼は窪み、鼻円く、眉は白くなりて針金のごときが五六本短く生いたり。継はぎの股引膝までして、毛脛細く瘠せたれども、健かに。谷を攀じ、峰にのぼり、森の中をくぐりなどして、杖をもつかで、見めぐるにぞ、盗人の来て林に潜むことなく、わが庵も安らかに、摩耶も頼母しく思うにこそ、われも懐ししと思いたり。 「食べやしないんだよ。爺や、ただ玩弄にするんだから。」 「それならば可うごすが。」 爺は手桶を提げいたり。 「何でもこうその水ン中へうつして見るとの、はっきりと影の映るやつは食べられますで、茸の影がぼんやりするのは毒がありますじゃ。覚えておかっしゃい。」 まめだちていう。頷きながら、 「一杯呑ましておくれな。咽喉が渇いて、しようがないんだから。」 「さあさあ、いまお寺から汲んで来たお初穂だ、あがんなさい。」 掬ばむとして猶予らいぬ。 「柄杓がないな、爺や、お前ン処まで一所に行こう。」 「何が、仏様へお茶を煮てあげるんだけんど、お前様のきれいなお手だ、ようごす、つッこんで呑まっしゃいさ。」 俯向きざま掌に掬いてのみぬ。清涼掬すべし、この水の味はわれ心得たり。遊山の折々かの山寺の井戸の水試みたるに、わが家のそれと異らずよく似たり。実によき水ぞ、市中にはまた類あらじと亡き母のたまいき。いまこれをはじめならず、われもまたしばしばくらべ見つ。摩耶と二人いま住まえる尼君の庵なる筧の水もその味これと異るなし。悪熱のあらむ時三ツの水のいずれをか掬ばんに、わが心地いかならむ。忘るるばかりのみはてたり。 「うんや遠慮さっしゃるな、水だ。ほい、強いるにも当らぬかの。おお、それからいまのさき、私が田圃から帰りがけに、うつくしい女衆が、二人づれ、丁稚が一人、若い衆が三人で、駕籠を舁いてぞろぞろとやって来おった。や、それが空駕籠じゃったわ。もしもし、清心様とおっしゃる尼様のお寺はどちらへ、と問いくさる。はあ、それならと手を取るように教えてやっけが、お前様用でもないかの。いい加減に遊ばっしゃったら、迷児にならずに帰らっしゃいよ、奥様が待ってござろうに。」 と語りもあえず歩み去りぬ。摩耶が身に事なきか。 二 まい茸はその形細き珊瑚の枝に似たり。軸白くして薄紅の色さしたると、樺色なると、また黄なると、三ツ五ツはあらむ、芝茸はわれ取って捨てぬ。最も数多く獲たるは紅茸なり。 こは山蔭の土の色鼠に、朽葉黒かりし小暗きなかに、まわり一抱もありたらむ榎の株を取巻きて濡色の紅したたるばかり塵も留めず地に敷きて生いたるなりき。一ツずつそのなかばを取りしに思いがけず真黒なる蛇の小さきが紫の蜘蛛追い駈けて、縦横に走りたれば、見るからに毒々しく、あまれるは残して留みぬ。 松の根に踞いて、籠のなかさしのぞく。この茸の数も、誰がためにか獲たる、あわれ摩耶は市に帰るべし。 山番の爺がいいたるごとく駕籠は来て、われよりさきに庵の枝折戸にひたと立てられたり。壮佼居て一人は棒に頤つき、他は下に居て煙草のみつ。内にはうらわかきと、冴えたると、しめやかなる女の声して、摩耶のものいうは聞えざりしが、いかでわれ入らるべき。人に顔見するがもの憂ければこそ、摩耶も予もこの庵には籠りたれ。面合すに憚りたれば、ソと物の蔭になりつ。ことさらに隔りたれば窃み聴かむよしもあらざれど、渠等空駕籠は持て来たり、大方は家よりして迎に来りしものならむを、手を空しゅうして帰るべしや。 一同が庵を去らむ時、摩耶もまた去らでやある、もの食わでもわれは餓えまじきを、かかるもの何かせむ。 打こぼし投げ払いし籠の底に残りたる、ただ一ツありし初茸の、手の触れしあとの錆つきて斑らに緑晶の色染みしさえあじきなく、手に取りて見つつわれ俯向きぬ。 顔の色も沈みけむ、日もハヤたそがれたり。濃かりし蒼空も淡くなりぬ。山の端に白き雲起りて、練衣のごとき艶かなる月の影さし初めしが、刷いたるよう広がりて、墨の色せる巓と連りたり。山はいまだ暮ならず。夕日の余波あるあたり、薄紫の雲も見ゆ。そよとばかり風立つままに、むら薄の穂打靡きて、肩のあたりに秋ぞ染むなる。さきには汗出でて咽喉渇くに、爺にもとめて山の井の水飲みたりし、その冷かさおもい出でつ。さる時の我といまの我と、月を隔つる思いあり。青き袷に黒き帯して瘠せたるわが姿つくづくと眗しながら寂しき山に腰掛けたる、何人もかかる状は、やがて皆孤児になるべき兆なり。 小笹ざわざわと音したれば、ふと頭を擡げて見ぬ。 やや光の増し来れる半輪の月を背に、黒き姿して薪をば小脇にかかえ、崖よりぬッくと出でて、薄原に顕れしは、まためぐりあいたるよ、かの山番の爺なりき。 「まだ帰らっしゃらねえの。おお、薄ら寒くなりおった。」 と呟くがごとくにいいて、かかる時、かかる出会の度々なれば、わざとには近寄らで離れたるままに横ぎりて爺は去りたり。 「千ちゃん。」 「え。」 予は驚きて顧りぬ。振返れば女居たり。 「こんな処に一人で居るの。」 といいかけてまず微笑みぬ。年紀は三十に近かるべし、色白く妍き女の、目の働き活々して風采の侠なるが、扱帯きりりと裳を深く、凜々しげなる扮装しつ。中ざしキラキラとさし込みつつ、円髷の艶かなる、旧わが居たる町に住みて、亡き母上とも往来しき。年紀少くて孀になりしが、摩耶の家に奉公するよし、予もかねて見知りたり。 目を見合せてさしむかいつ。予は何事もなく頷きぬ。 女はじっと予を瞻りしが、急にまた打笑えり。 「どうもこれじゃあ密通をしようという顔じゃあないね。」 「何をいうんだ。」 「何をもないもんですよ。千ちゃん! お前様は。」 いいかけて渠はやや真顔になりぬ。 |
一 麻布の我善坊にある田村と云ふ下宿屋で、二十年來物堅いので近所の信用を得てゐた主人が近頃病死して、その息子義雄の代になつた。 義雄は繼母の爲めに眞の父とも折合が惡いので、元から別に一家を構へてゐた。且、實行刹那主義の哲理を主張して段々文學界に名を知られて來たのであるから、面倒臭い下宿屋などの主人になるのはいやであつた。 が、渠が嫌つてゐたのは、父の家ばかりではない。自分の妻子――殆ど十六年間に六人の子を産ませた妻と生き殘つてゐる三人の子――をも嫌つてゐた。その妻子と繼母との處分を付ける爲め、渠は喜んで父の稼業を繼續することに決めたのである。然し妻にそれを專らやらせて置けば、さう後顧の憂ひはないから、自分は肩が輕くなつた氣がして、これから充分勝手次第なことが出來ると思つた。 「あの家は息子さんでは持つて行けますまいよ」と云う風評を耳にした妻は、ます〳〵躍起となつて、所天の名譽を恥かしめまいといふ働きをやつてゐた。が、義雄は別にそれをあり難いとも思ふのではなく、ただ自分自身の新らしい發展が自由に出來るのを幸ひにした。 繼母は勿論、妻子をも眼中に置かない渠が第一に着手しかけたのは一女優の養成である。琴の師匠をしてゐる友人から、その弟子のうちに一名の美人があつて、それが女優になりたいと云つてるが、どうかして呉れないかと云ふ相談を持ち込んで來た。 渠は既に女優志願者で失敗した經驗を一度甞めてゐるが、兼て脚本を作つたらそれをしツかりやつて呉れるものが欲しいと考へてゐるところだから、わけも無く承諾した。 で、自分の家から芝公園を通り拔けたところにあつた音樂倶樂部の演劇研究部に、自分も會員であるの故を以つて申し込み、志願者をそこの講習生に取りあげて貰ふ相談が成り立つた。そして、いよ〳〵志願者を渠の家に呼び寄せた――と云ふのは、自分の家から毎日通はせるつもりであつたのである。 家族の反對はいろ〳〵あつたのはあつたが、渠はそんなことには少しも頓着しなかつた。 「來たものを少しでも冷遇すれば、おれのやる事業を邪魔するも同前だぞ!」 女が赤いメリンスの風呂敷に不斷着の單衣か何かの用意をしてやつて來た時は、その姿や顏付きのいいので、下女までも目をそば立てた。 「いい女だらう」と云はないばかりにして、義雄はそれを引き連れ、その夜、倶樂部へ引き合はせに行つた。が、その最初の引き合せに、氣の變はり易い本人は女優を斷念してしまつた。 紹介者としては、倶樂部の諸會員に對して不面目を感じたよりも、自分の家族が女を連れて歸らない自分を見て冷笑する顏の方が、寧ろ自分に取つて殘念のやうに思はれた。 渠は自分の書齋兼寢室に殘して行つた女の赤い包みを見ながら、その夜も、次ぎの夜も、にがい寂しい顏をしてゐた。 その少し以前のことであるが、義雄の繼母に當てて紀州からハガキが來た。 「おばさん、お變りはありませんか。わたし、また賑やかな都へ出て、勉強したいと思ひます。いづれ御厄介になりますから、よろしく。」 繼母はそれを義雄の妻に見せたのだ。 「お千代さん、どうしましよう、ね、こんなハガキが來ましたよ。」 「下手な字、ね。どんな女?」 「わたしはあんまり好かないの。」 「いくつ位?」 「前にうちにゐた時が十七八だから、もう、二十一二でしようよ。」 「どこへ行つてたの?」 「矢板學校へ裁縫を習ひに。」 「まア、いいぢやアありませんか、來させたツて?」 「お千代さんがさう受け合へば構はないやうなものの――でも、ねえ、お父アんの代が變つてゐるし、わたしがそんなことに口を出して、もしどんなことがあるまいものでもないから――。」 「おツ母さんはお父アんが亡くなられてから急に心配家になつたの、ね、何も商賣だから、かまはないぢやアありませんか?」 「でも、ね――片づいたものがまた出て來るのは、どうせいいことではないだらうし、若し義雄さんにでも引ツかかりができたら――」 「まさか、そんなことが――」 二人は笑ひに破れてしまつたが、一方はつつましやかに取り澄ました聲であるに反し、一方はまた甲高な神經質に聽こえた。 義雄の家族がこの家へもどつて來てから、臺どころの方は千代子の母が下女どもを監督して働らくことになつたので、隱居同樣な繼母の居間は、離れの二た間のうち、手前の一と間に定まつた。その奧の一間には義雄の弟がゐる。隣りの寺の庭に面した方にかけて縁がはが取りまはしてあつて、軒した一間ばかり隔てたところに板壁があり、そこには、父の手を入れた盆栽の棚が出來てゐる。蘭、おもと、松、棕櫚、こんな物へ弟の馨は亡き人を忍ぶつもりで毎日水をやつてゐる。 離れとおも屋の長い裏廊下の一部との間に、背の高い手洗鉢の根元まで廣がつた小さいたたき造りの池があつて、金魚が泳いでゐる。その水を取り更へる人も他にないから、弟がその役を引き受け、同時に、裏廊下に添ふた庭のまはりにある草木へ夕がたになると凉しく水を撒くのである。 二人の談笑があつたのはその水が撒かれて、馨が奧の間へ引ツ込んだ時のことで、その時、丁度、義雄は小用に行つてゐたので、二人の話が聽こえた。便所と池との間に離れへ渡る廊下が付いてゐる。そこから手洗鉢の手杓を取り、手を洗ひながら、半ば冗談に、 「何を云つてやがるんだい、馬鹿!」 「おほ、ほ、ほ」と、妻は笑つて、「聽いてたのですか?――あなたの信用はどこへ行つてもありません。」 「何だ!」かう急に聲が變つて、腦天から出たやうな叫びをあげながら、廊下を渡つて行つて、まだ水も切れない手で妻の横ツつらを平手打ちにした。 「‥‥」不意を喰らつた妻は、片手を疊に突いて、倒れるのをさゝへた。 「何です、ね、義雄さん。」繼母もびツくりした顏を向けて、「可哀さうぢやアありませんか?」 「可哀さうも何も」と、つツ立つたまま、わざと唇を噛んで見せ、「あつたものか? 所天に對して教訓的なことを云ふのア無禮の極だ!」 「いいえ、教訓は必要です――子供に對しても、必要です!」 「まだ分らないか?」手をふりあげたのを、繼母に押さへられて、「いつも云ふ通り、おれは子供ぢやアない!」 妻は、その少し出ツ張つてゐる前齒の齒ぐきに所天の最初の手が當つて、そこから血が出たのをふいてゐる。 「まア、靜かにお坐わりなさいよ。」繼母は義雄の兩手を押さへて、無理にそこへ腰をおろさせた。「お客さんが見てゐるじやアありませんか?」 「‥‥」客どもは、また始まつたと云はないばかりに、二階のあちらこちらから顏を出してゐる。その方にはすだれが下りてゐるので直接には見えなかつた。繼母はそれを氣にして、 「見ツともないから、大きな聲を出すのはおよしなさいよ。」 「構ふものか?」あぐらをかいて、わざと二階へ聽こえるやうに、「おれは何も下宿屋に關係はない。」 「でも、主人だから、主人のやうに、ね――」 |
私の短歌 私の歌はいつも論説の二三句を並べた様にゴツゴツしたもの許りである。叙景的なものは至って少ない。一体どうした訳だろう。 公平無私とかありのまゝにとかを常に主張する自分だのに、歌に現われた所は全くアイヌの宣伝と弁明とに他ならない。それには幾多の情実もあるが、結局現代社会の欠陥が然らしめるのだ。そして住み心地よい北海道、争闘のない世界たらしめたい念願が迸り出るからである。殊更に作る心算で個性を無視した虚偽なものは歌いたくないのだ。 はしたないアイヌだけれど日の本に 生れ合せた幸福を知る 滅び行くアイヌの為に起つアイヌ 違星北斗の瞳輝く 我はたゞアイヌであると自覚して 正しき道を踏めばよいのだ 新聞でアイヌの記事を読む毎に 切に苦しき我が思かな 今時のアイヌは純でなくなった 憧憬のコタンに悔ゆる此の頃 アイヌとして生きて死にたい願もて アイヌ絵を描く淋しい心 天地に伸びよ 栄えよ 誠もて アイヌの為めに気を挙げんかな 深々と更け行く夜半は我はしも ウタリー思いて泣いてありけり ウタリーは同胞 ほろ〳〵と鳴く虫の音はウタリーを 思いて泣ける我にしあらぬか ガッチャキの薬を売ったその金で 十一州を視察する俺 ガッチャキは痔 昼飯も食わずに夜も尚歩く 売れない薬で旅する辛さ 世の中に薬は多くあるものを などガッチャキの薬売るらん ガッチャキの薬をつける術なりと 北斗の指は右に左に 売る俺も買う人も亦ガッチャキの 薬の色の赤き顔かな 売薬の行商人に化けて居る 俺の人相つく〴〵と見る |
緒言 自然をふかく研究して、そのなかから新しい法則を見つけ出すということは、人間にとっての最も大きなよろこびであり、之によって自然の限りなく巧妙なはたらきを味わい知るということは、わたしたちの心を何よりもけだかく、美しくすることのできる真実の道でもあります。昔から偉大な科学者たちは世のなかの一切の栄誉などにかかわることなく、ひたすらに自然のなかにつき入ってその秘密をさぐることに熱中しました。そこにはいろいろな苦心が重ねられたのでありましたが、それでも世界のなかで誰も知らない事がらを、自分だけがつきとめたというすばらしい喜びは、それまでの並々ならぬ困難をつぐなって余りあるものに違いなかったのでした。そして、このようにして科学は時代とともに絶えず進んで来たのでしたが、それが今日どれほど多く世のなかの人の役に立っているかは、誰も知っている通りであります。この事をよく考えて見るならば、わたしたちがふだんの生活において科学を利用して非常な便利を得ているにつけても、今までの科学者たちの多大の苦心に対して心からの感謝をささげないではすまないのでありましょう。 ところで、そのなかでも特に深く想い起されるのは、このような科学の進むべき正しい道をはっきりとわたしたちに示してくれた最初の科学者のことであります。科学は自然におけるいろいろなはたらきを研究してゆく学問であることは、上にも述べた通りであり、またそういう意味での自然の研究はごく古い時代からあったには違いないのですが、実際にその研究をどのような方法で進めてゆくべきかと云うことを明らかにしたのは、十六世紀から十七世紀の前半にわたってイタリヤで名だかかったガリレオ・ガリレイであったということは、今日一般に認められている処であって、その意味でこのガリレイは自然科学の先祖とあがめられているのです。それで私はここで幾らかのすぐれた科学者の事蹟について皆さんにお話しして見ようとするのに当って、まずガリレイのことから始めるのが、当然の順序であると考えるのです。 ピザにおけるガリレイ ピザというのは、イタリヤの中部からやや北方にある都会で、そこにはヅオモ大寺と呼ばれる大きな寺院があり、そのなかに名だかい斜塔が立っています。十六七世紀頃にはかなりに盛んな町であったのですが、ガリレイはこの町で一五六四年の二月十五日に生まれました。父はヴィンセンツォ・ガリレイという人で、その家は以前にはイタリヤの貴族であってフィレンツェという都市に住んでいたのでしたが、この頃には零落してピザに移住していたのだと云われています。それで生活にも余裕がなかったので、父はその息子のガリレオが育つにつれて、将来は商人にでもして家を興してゆこうと考えたのでしたが、どうも息子が学問を好むので、ピザの大学で医学を学ばせることにしたのでした。ところがガリレオは医者になるのも好まなかったらしく、幼年の頃から好きな数学の講義を廊下で熱心に立ち聞きしているという有様なので、或る公爵家の家庭教師がそれを知って数学と物理学とを学ばせるように父親をも説得したということです。これで見てもガリレオが生来純粋の学問をどれほど望んでいたかがわかるわけです。それでともかくもガリレオは喜んで学業に励みましたが、一五八九年になって、或る侯爵の推薦でこのピザの大学の数学教授に任命されました。それが僅かに二十五歳のことでありますから、彼の学才のいかにすぐれていたかが想察されるのです。 さてガリレイはその後一五九一年まで二年間この大学の教職に就いていましたが、その間に既にいろいろの研究にとりかかり、特に有名な自由落下の法則をまず最初に見つけ出しました。之はいろいろの物体が地球の上で自由に落ちる場合に、その速さがどう変ってゆくかを示す法則なのです。この問題について、その頃まではなお一般に昔のギリシャ時代の哲学者であったアリストテレスの説が信ぜられていたので、それによると比重の大きいものほど速く落ちるというので、例えば鉄片と木片とを同時に落すと、鉄片の方が遥かに速く落ちるということになりますが、ガリレイはそれを疑って、ともかく事実をたしかに突きとめなくてはならないと考えて、いろいろ実験を行って見たのでした。この実験をピザの斜塔で行ったということが話には伝わっていますが、それにはどうも確かな証拠はないようです。しかし、何れにしても、そのような実験からガリレイが自由落下の法則を見つけ出したのには違いないのでしょう。つまりガリレイは最初から科学では自然の事実に基づかなくてはいけないという信念を強く持っていたのでした。 もう一つ有名な伝説として、ガリレイがピザの大寺院のなかでその天井からつり下げられている吊灯の揺れるのを見て、その往復する時間が揺れ方の大小に係わらないことを見つけ出したということが話されて居り、之は彼の学生時代のことだと云われていますが、之もよほど疑わしいので、現在この寺院にある青銅の吊灯にある銘を見ると、それより数年後の日附がしるされているのです。ですからこの伝説そのままはやはり信ぜられないのですが、同じく実験の上からガリレイが振子の揺れ方に関する法則を見つけ出したということだけは確かだと考えられています。ここでも彼は事実をいろいろ調べてその法則に到達したのに違いないのです。 この頃には時計といってもごく粗雑なものしかなかったので、その後は医者が病人の脈搏の速さを測るのに、かような振子をつかった脈搏計というものをつくって、それを使ったそうで、これはなかなかおもしろい事がらだと思われます。 壮年時代 ピザの大学でガリレイは教授ではありましたが、その俸給はごく少くて、ようやく自分一人が生活するにも足りない程度でした。ところが一五九一年に父が歿くなったので、その家族を扶養しなくてはならなくなり、その儘では過ごすことができなくなったので、そこで以前にピザにゆく時に世話になった侯爵がまた彼のために奔走し、そのおかげで翌年バドーヴァの大学に転任することになりました。 パドーヴァの大学にはその後十八年間在職しましたが、この時期こそガリレイの生涯において最も幸福な、また最も精根を尽して研究に専心することのできた時代であったのでした。その頃彼の学識の高いことはヨーロッパの諸国に広く伝えられたので、その名声を慕って諸国からたくさんの学徒が集まって来て、その講義は千人を容れるだけの大講堂で行っても、なお狭くて収容しきれない程であったということでした。ところがそうなると、授業に費す時間がどうしても多くなって、それだけ自分の研究が妨げられるので、彼はようやくもっと自由の時間をもつことのできるような地位を望むようになり、一六一〇年になって再びピザに戻り、今度はそこで最も名誉のある「大公国の第一哲学者」として迎えられました。 パドーヴァ時代にガリレイは、コペルニクスの書物を読んで、その学説の正しいことを感じ、自分でも之を研究してみたいと望んだのでした。コペルニクスという人はポーランドの国の僧侶であったのですが、イタリヤへ来て学問を修め、その後帰国してから、有名な地動説を称え、その書物は一五四三年に彼の没する直前に出版されて、それから世に広まったのでしたが、その頃の宗教家のはげしい非難に遇って、殆んど禁止の運命に置かれていたのでした。宗教家の反対というのはキリスト教の聖書に、我々人間は神にかたどってつくられたものであり、そしてこの人間の住んでいる地球は宇宙の中心にあって、あらゆる天体はそれをめぐっているということが記されているのに、コペルニクスの地動説では、太陽のまわりを地球が廻っていると説くので、これは神聖な聖書にそむく虚偽異端の説であるというのでした。ガリレイは併し、この宇宙の正しい事実を言いあらわす科学こそ神の栄光と偉大さとをいとも驚くべくもの語るものであって、之を禁圧するのは、それこそかえって神の意志に背くものであるという強固な信条のもとに、寧ろコペルニクスの説を肯定しようとしたのでした。併しその頃の宗教家たちには、そのようなすぐれた思想のわかる筈はありません。かえって自分たちの狭い考えに捉われて、依然として之に反対していました。 ところが、その当時ドイツにヨハンネス・ケプラーというすぐれた若い学者があって、オーストリーのグラーツ大学で数学の講師をしていましたが、この人が惑星の軌道について研究した結果をガリレイの許に送って来ました。このケプラーは有名な惑星運動の法則を立てた人ですが、その仕事はずっと後に完成したので、この時の研究というのはそれ以前のものに過ぎなかったのですが、それでもガリレイは之に非常な興味を感じ、彼に親愛に充ちた返書を送りました。そのなかには、「私はコペルニクスの運命を恐れています。彼は少数の人たちからは不朽の栄誉を得たとしても、愚者に充ちた大多数の民衆にとっては軽蔑と汚辱との対象にしか過ぎないでしょう」と云う言葉が記されています。 その後ガリレイは天体観測を自分で行おうと考え、オランダで発明された望遠鏡の話を聞いて、それと同様のものを製作し、望遠鏡でいろいろな星を観測しました。之は一六〇九年のことで、その結果として月に高い山のあることや、銀河がたくさんの星の集まりであること、木星には四つの月が附随していること、金星、水星が月と同じように盈ち虧けを示すこと、太陽に黒点のあることなどを見つけ出し、それらの事がらからコペルニクスの説の真であることをますます確信するようになりました。 宗教裁判とその晩年 ところが一六一〇年に、ガリレイがピザに帰ってからは、その地がローマ法王の直接の管下に属するだけに、ますます宗教家たちの反対が強くなり、異端説を主張するのをひどく責めるようになりました。その間にガリレイは、その誤解を説き、また科学と宗教との異なることを示そうとしてあらゆる努力を費しましたが、それは到底当時の人々の耳には入らなかったので、また中にはガリレイの名声の高いのを嫉む人々の策謀などもそれに混って来て、遂には大僧正の命令で地動説を称えてはならないということを警告されました。之は一六一六年のことでしたが、その後も併しガリレイは自分の信念だけは変えませんでした。併しただ当分のうちはできるだけ事を荒立てないように黙って過ごしましたが、数年経てからは事情もいくらか違って来たので、一六二九年になって問答の形式で普通に「天文対話」と呼ばれている書物を著し一六三二年に之を出版しました。 ところがこの書物についてある僧侶がローマ法王に讒言したので、法王は宗教裁判所に審査させることになり、その結果この讒言は通らなかったのでしたが、ガリレイは之によって大僧正の以前の警告を無視しているという判決が下されて、ローマに出頭を命ぜられました。ガリレイはこの時既に七十歳に近い老年で、おまけに病身で衰弱していましたが、その冬の寒い季節に止むなく旅に出かけ、翌年の二月にようやくローマに到着しました。併し疲労が甚だしいので暫くの間静養が許され、四月になって裁判所で審問が始まりました。 この審判の結果は、ガリレイの書物の領布を禁じ、地動説を放棄することを条件として閑居を命ぜられたので、その宣告の日には自分でその判決文を読んで宣誓のために署名をさせられたのでした。それからガリレイはフィレンツェの自分の家に帰って、そこに閉じこもって晩年を送りましたが、この間の彼の生活は実に寂しい有様ですごされました。その一人娘のバージニアが彼の病苦をやさしく慰めはしたものの、その後まもなく彼に先き立って没くなりました。でも、ガリレイの唯一つの慰めはその科学上の研究にあったので、これ迄に行ったいろいろな研究をまとめて、それを一六三八年に出版しました。之は普通に「力学対話」と呼ばれていますが、以前の「天文対話」と同じように問答の形式に書かれているので、そこに始めて科学研究の正しい道が示されている点で非常に重要な書物なのであります。 |
歳晩のある暮方、自分は友人の批評家と二人で、所謂腰弁街道の、裸になった並樹の柳の下を、神田橋の方へ歩いていた。自分たちの左右には、昔、島崎藤村が「もっと頭をあげて歩け」と慷慨した、下級官吏らしい人々が、まだ漂っている黄昏の光の中に、蹌踉たる歩みを運んで行く。期せずして、同じく憂鬱な心もちを、払いのけようとしても払いのけられなかったからであろう。自分たちは外套の肩をすり合せるようにして、心もち足を早めながら、大手町の停留場を通りこすまでは、ほとんど一言もきかずにいた。すると友人の批評家が、あすこの赤い柱の下に、電車を待っている人々の寒むそうな姿を一瞥すると、急に身ぶるいを一つして、 「毛利先生の事を思い出す。」と、独り語のように呟いた。 「毛利先生と云うのは誰だい。」 「僕の中学の先生さ。まだ君には話した事がなかったかな。」 自分は否と云う代りに、黙って帽子の庇を下げた。これから下に掲げるのはその時その友人が、歩きながら自分に話してくれた、その毛利先生の追憶である。―― ――――――――――――――――――――――――― もうかれこれ十年ばかり以前、自分がまだある府立中学の三年級にいた時の事である。自分の級に英語を教えていた、安達先生と云う若い教師が、インフルエンザから来た急性肺炎で冬期休業の間に物故してしまった。それが余り突然だったので、適当な後任を物色する余裕がなかったからの窮策であろう。自分の中学は、当時ある私立中学で英語の教師を勤めていた、毛利先生と云う老人に、今まで安達先生の受持っていた授業を一時嘱託した。 自分が始めて毛利先生を見たのは、その就任当日の午後である。自分たち三年級の生徒たちは、新しい教師を迎えると云う好奇心に圧迫されて、廊下に先生の靴音が響いた時から、いつになくひっそりと授業の始まるのを待ちうけていた。所がその靴音が、日かげの絶えた、寒い教室の外に止まって、やがて扉が開かれると、――ああ、自分はこう云う中にも、歴々とその時の光景が眼に浮んでいる。扉を開いてはいって来た毛利先生は、何より先その背の低いのがよく縁日の見世物に出る蜘蛛男と云うものを聯想させた。が、その感じから暗澹たる色彩を奪ったのは、ほとんど美しいとでも形容したい、光滑々たる先生の禿げ頭で、これまた後頭部のあたりに、種々たる胡麻塩の髪の毛が、わずかに残喘を保っていたが、大部分は博物の教科書に画が出ている駝鳥の卵なるものと相違はない。最後に先生の風采を凡人以上に超越させたものは、その怪しげなモオニング・コオトで、これは過去において黒かったと云う事実を危く忘却させるくらい、文字通り蒼然たる古色を帯びたものであった。しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾が、まるで翼をひろげた蛾のように、ものものしく結ばれていたと云う、驚くべき記憶さえ残っている。だから先生が教室へはいると同時に、期せずして笑を堪える声が、そこここの隅から起ったのは、元より不思議でも何でもない。 が、読本と出席簿とを抱えた毛利先生は、あたかも眼中に生徒のないような、悠然とした態度を示しながら、一段高い教壇に登って、自分たちの敬礼に答えると、いかにも人の好さそうな、血色の悪い丸顔に愛嬌のある微笑を漂わせて、 「諸君」と、金切声で呼びかけた。 自分たちは過去三年間、未嘗てこの中学の先生から諸君を以て遇せられた事は、一度もない。そこで毛利先生のこの「諸君」は、勢い自分たち一同に、思わず驚嘆の眼を見開かせた。と同時に自分たちは、すでに「諸君」と口を切った以上、その後はさしずめ授業方針か何かの大演説があるだろうと、息をひそめて待ちかまえていたのである。 しかし毛利先生は、「諸君」と云ったまま、教室の中を見廻して、しばらくは何とも口を開かない。肉のたるんだ先生の顔には、悠然たる微笑の影が浮んでいるのに関らず、口角の筋肉は神経的にびくびく動いている。と思うと、どこか家畜のような所のある晴々した眼の中にも、絶えず落ち着かない光が去来した。それがどうも口にこそ出さないが、何か自分たち一同に哀願したいものを抱いていて、しかもその何ものかと云う事が、先生自身にも遺憾ながら判然と見きわめがつかないらしい。 「諸君」 やがて毛利先生は、こう同じ調子で繰返した。それから今度はその後へ、丁度その諸君と云う声の反響を捕えようとする如く、 「これから私が、諸君にチョイス・リイダアを教える事になりました」と、いかにも慌しくつけ加えた。自分たちはますます好奇心の緊張を感じて、ひっそりと鳴りを静めながら、熱心に先生の顔を見守っていた。が、毛利先生はそう云うと同時に、また哀願するような眼つきをして、ぐるりと教室の中を見廻すと、それぎりで急に椅子の上へ弾機がはずれたように腰を下した。そうして、すでに開かれていたチョイス・リイダアの傍へ、出席簿をひろげて眺め出した。この唐突たる挨拶の終り方が、いかに自分たちを失望させたか、と云うよりもむしろ、失望を通り越して、いかに自分たちを滑稽に感じさせたか、それは恐らく云う必要もない事であろう。 しかし幸いにして先生は、自分たちが笑を洩すのに先立って、あの家畜のような眼を出席簿から挙げたと思うと、たちまち自分たちの級の一人を「さん」づけにして指名した。勿論すぐに席を離れて、訳読して見ろと云う相図である。そこでその生徒は立ち上って、ロビンソン・クルウソオか何かの一節を、東京の中学生に特有な、気の利いた調子で訳読した。それをまた毛利先生は、時々紫の襟飾へ手をやりながら、誤訳は元より些細な発音の相違まで、一々丁寧に直して行く。発音は妙に気取った所があるが、大体正確で、明瞭で、先生自身もこの方面が特に内心得意らしい。 が、その生徒が席に復して、先生がそこを訳読し始めると、再び自分たちの間には、そこここから失笑の声が起り始めた。と云うのは、あれほど発音の妙を極めた先生も、いざ翻訳をするとなると、ほとんど日本人とは思われないくらい、日本語の数を知っていない。あるいは知っていても、その場に臨んでは急には思い出せないのであろう。たとえばたった一行を訳するにしても、「そこでロビンソン・クルウソオは、とうとう飼う事にしました。何を飼う事にしたかと云えば、それ、あの妙な獣で――動物園に沢山いる――何と云いましたかね、――ええとよく芝居をやる――ね、諸君も知っているでしょう。それ、顔の赤い――何、猿? そうそう、その猿です。その猿を飼う事にしました。」 勿論猿でさえこのくらいだから、少し面倒な語になると、何度もその周囲を低徊した揚句でなければ、容易に然るべき訳語にはぶつからない。しかも毛利先生はその度にひどく狼狽して、ほとんどあの紫の襟飾を引きちぎりはしないかと思うほど、頻に喉元へ手をやりながら、当惑そうな顔をあげて、慌しく自分たちの方へ眼を飛ばせる。と思うとまた、両手で禿げ頭を抑えながら、机の上へ顔を伏せて、いかにも面目なさそうに行きづまってしまう。そう云う時は、ただでさえ小さな先生の体が、まるで空気の抜けた護謨風船のように、意気地なく縮み上って、椅子から垂れている両足さえ、ぶらりと宙に浮びそうな心もちがした。それをまた生徒の方では、面白い事にして、くすくす笑う。そうして二三度先生が訳読を繰返す間には、その笑い声も次第に大胆になって、とうとうしまいには一番前の机からさえ、公然と湧き返るようになった。こう云う自分たちの笑い声がどれほど善良な毛利先生につらかったか、――現に自分ですら今日その刻薄な響を想起すると、思わず耳を蔽いたくなる事は一再でない。 それでもなお毛利先生は、休憩時間の喇叭が鳴り渡るまで、勇敢に訳読を続けて行った。そうして、ようやく最後の一節を読み終ると、再び元のような悠然たる態度で、自分たちの敬礼に答えながら、今までの惨澹たる悪闘も全然忘れてしまったように、落ち着き払って出て行ってしまった。その後を追いかけてどっと自分たちの間から上った、嵐のような笑い声、わざと騒々しく机の蓋を明けたり閉めたりさせる音、それから教壇へとび上って、毛利先生の身ぶりや声色を早速使って見せる生徒――ああ、自分はまだその上に組長の章をつけた自分までが、五六人の生徒にとり囲まれて、先生の誤訳を得々と指摘していたと云う事実すら、思い出さなければならないのであろうか。そうしてその誤訳は? 自分は実際その時でさえ、果してそれがほんとうの誤訳かどうか、確かな事は何一つわからずに威張っていたのである。 ――――――――――――――――――――――――― それから三四日経たある午の休憩時間である。自分たち五六人は、機械体操場の砂だまりに集まって、ヘルの制服の背を暖い冬の日向に曝しながら、遠からず来るべき学年試験の噂などを、口まめにしゃべり交していた。すると今まで生徒と一しょに鉄棒へぶら下っていた、体量十八貫と云う丹波先生が、「一二、」と大きな声をかけながら、砂の上へ飛び下りると、チョッキばかりに運動帽をかぶった姿を、自分たちの中に現して、 「どうだね、今度来た毛利先生は。」と云う。丹波先生はやはり自分たちの級に英語を教えていたが、有名な運動好きで、兼ねて詩吟が上手だと云う所から、英語そのものは嫌っていた柔剣道の選手などと云う豪傑連の間にも、大分評判がよかったらしい。そこで先生がこう云うと、その豪傑連の一人がミットを弄びながら、 「ええ、あんまり――何です。皆あんまり、よく出来ないようだって云っています。」と、柄にもなくはにかんだ返事をした。すると丹波先生はズボンの砂を手巾ではたきながら、得意そうに笑って見せて、 「お前よりも出来ないか。」 「そりゃ僕より出来ます。」 「じゃ、文句を云う事はないじゃないか。」 豪傑はミットをはめた手で頭を掻きながら、意気地なくひっこんでしまった。が、今度は自分の級の英語の秀才が、度の強い近眼鏡をかけ直すと、年に似合わずませた調子で、 「でも先生、僕たちは大抵専門学校の入学試験を受ける心算なんですから、出来る上にも出来る先生に教えて頂きたいと思っているんです。」と、抗弁した。が、丹波先生は不相変勇壮に笑いながら、 「何、たった一学期やそこいら、誰に教わったって同じ事さ。」 「じゃ毛利先生は一学期だけしか御教えにならないんですか。」 この質問には丹波先生も、いささか急所をつかれた感があったらしい。世故に長けた先生はそれにはわざと答えずに、運動帽を脱ぎながら、五分刈の頭の埃を勢よく払い落すと、急に自分たち一同を見渡して、 「そりゃ毛利先生は、随分古い人だから、我々とは少し違っているさ。今朝も僕が電車へ乗ったら、先生は一番まん中にかけていたっけが、乗換えの近所になると、『車掌、車掌』って声をかけるんだ。僕は可笑しくって、弱ったがね。とにかく一風変った人には違いないさ。」と、巧に話頭を一転させてしまった。が、毛利先生のそう云う方面に関してなら、何も丹波先生を待たなくとも、自分たちの眼を駭かせた事は、あり余るほど沢山ある。 「それから毛利先生は、雨が降ると、洋服へ下駄をはいて来られるそうです。」 「あのいつも腰に下っている、白い手巾へ包んだものは、毛利先生の御弁当じゃないんですか。」 「毛利先生が電車の吊皮につかまっていられるのを見たら、毛糸の手袋が穴だらけだったって云う話です。」 自分たちは丹波先生を囲んで、こんな愚にもつかない事を、四方からやかましく饒舌り立てた。ところがそれに釣りこまれたのか、自分たちの声が一しきり高くなると、丹波先生もいつか浮き浮きした声を出して、運動帽を指の先でまわしながら、 「それよりかさ、あの帽子が古物だぜ――」と、思わず口へ出して云いかけた、丁度その時である。機械体操場と向い合って、わずかに十歩ばかり隔っている二階建の校舎の入口へ、どう思ったか毛利先生が、その古物の山高帽を頂いて、例の紫の襟飾へ仔細らしく手をやったまま、悠然として小さな体を現した。入口の前には一年生であろう、子供のような生徒が六七人、人馬か何かして遊んでいたが、先生の姿を見ると、これは皆先を争って、丁寧に敬礼する。毛利先生もまた、入口の石段の上にさした日の光の中に佇んで、山高帽をあげながら笑って礼を返しているらしい。この景色を見た自分たちは、さすがに皆一種の羞恥を感じて、しばらくの間はひっそりと、賑な笑い声を絶ってしまった。が、その中で丹波先生だけは、ただ、口を噤むべく余りに恐縮と狼狽とを重ねたからでもあったろう。「あの帽子が古物だぜ」と、云いかけた舌をちょいと出して、素早く運動帽をかぶったと思うと、突然くるりと向きを変えて、「一――」と大きく喚きながら、チョッキ一つの肥った体を、やにわに鉄棒へ抛りつけた。そうして「海老上り」の両足を遠く空ざまに伸しながら、「二――」と再び喚いた時には、もう冬の青空を鮮に切りぬいて、楽々とその上に上っていた。この丹波先生の滑稽なてれ隠しが、自分たち一同を失笑させたのは無理もない。一瞬間声を呑んだ機械体操場の生徒たちは、鉄棒の上の丹波先生を仰ぎながら、まるで野球の応援でもする時のように、わっと囃し立てながら、拍手をした。 こう云う自分も皆と一しょに、喝采をしたのは勿論である。が、喝采している内に、自分は鉄棒の上の丹波先生を、半ば本能的に憎み出した。と云ってもそれだけまた、毛利先生に同情を注いだと云う訳でもない。その証拠にはその時自分が、丹波先生へ浴びせた拍手は、同時に毛利先生へ、自分たちの悪意を示そうと云う、間接目的を含んでいたからである。今自分の頭で解剖すれば、その時の自分の心もちは、道徳の上で丹波先生を侮蔑すると共に、学力の上では毛利先生も併せて侮蔑していたとでも説明する事が出来るかも知れない。あるいはその毛利先生に対する侮蔑は、丹波先生の「あの帽子が古物だぜ」によって、一層然るべき裏書きを施されたような、ずうずうしさを加えていたとも考える事が出来るであろう。だから自分は喝采しながら、聳かした肩越しに、昂然として校舎の入口を眺めやった。するとそこには依然として、我毛利先生が、まるで日の光を貪っている冬蠅か何かのように、じっと石段の上に佇みながら、一年生の無邪気な遊戯を、余念もなく独り見守っている。その山高帽子とその紫の襟飾と――自分は当時、むしろ、哂うべき対象として、一瞥の中に収めたこの光景が、なぜか今になって見ると、どうしてもまた忘れる事が出来ない。…… ――――――――――――――――――――――――― 就任の当日毛利先生が、その服装と学力とによって、自分たちに起させた侮蔑の情は、丹波先生のあの失策(?)があって以来、いよいよ級全体に盛んになった。すると、また、それから一週間とたたないある朝の事である。その日は前夜から雪が降りつづけて、窓の外にさし出ている雨天体操場の屋根などは、一面にもう瓦の色が見えなくなってしまったが、それでも教室の中にはストオヴが、赤々と石炭の火を燃え立たせて、窓硝子につもる雪さえ、うす青い反射の光を漂わす暇もなく、溶けて行った。そのストオヴの前に椅子を据えながら、毛利先生は例の通り、金切声をふりしぼって、熱心にチョイス・リイダアの中にあるサアム・オヴ・ライフを教えていたが、勿論誰も真面目になって、耳を傾けている生徒はない。ない所か、自分の隣にいる、ある柔道の選手の如きは、読本の下へ武侠世界をひろげて、さっきから押川春浪の冒険小説を読んでいる。 それがかれこれ二三十分も続いたであろう。その中に毛利先生は、急に椅子から身を起すと、丁度今教えているロングフェロオの詩にちなんで、人生と云う問題を弁じ出した。趣旨はどんな事だったか、さらに記憶に残っていないが、恐らくは議論と云うよりも、先生の生活を中心とした感想めいたものだったと思う。と云うのは先生が、まるで羽根を抜かれた鳥のように、絶えず両手を上げ下げしながら、慌しい調子で饒舌った中に、 「諸君にはまだ人生はわからない。ね。わかりたいったって、わかりはしません。それだけ諸君は幸福なんでしょう。我々になると、ちゃんと人生がわかる。わかるが苦しい事が多いです。ね。苦しい事が多い。これで私にしても、子供が二人ある。そら、そこで学校へ上げなければならない。上げれば――ええと――上げれば――学資? そうだ。その学資が入るでしょう。ね。だから中々苦しい事が多い……」と云うような文句のあった事を、かすかに覚えているからである。が、何も知らない中学生に向ってさえ、生活難を訴える――あるいは訴えない心算でも訴えている、先生の心もちなぞと云うものは、元より自分たちに理解されよう筈がない。それより訴えると云うその事実の、滑稽な側面ばかり見た自分たちは、こう先生が述べ立てている中に、誰からともなくくすくす笑い出した。ただ、それがいつもの哄然たる笑声に変らなかったのは、先生の見すぼらしい服装と金切声をあげて饒舌っている顔つきとが、いかにも生活難それ自身の如く思われて、幾分の同情を起させたからであろう。しかし自分たちの笑い声が、それ以上大きくならなかった代りに、しばらくすると、自分の隣にいた柔道の選手が、突然武侠世界をさし置いて、虎のような勢を示しながら、立ち上った。そうして何を云うかと思うと、 「先生、僕たちは英語を教えて頂くために、出席しています。ですからそれが教えて頂けなければ、教室へはいっている必要はありません。もしもっと御話が続くのなら、僕は今から体操場へ行きます。」 こう云って、その生徒は、一生懸命に苦い顔をしながら、恐しい勢でまた席に復した。自分はその時の毛利先生くらい、不思議な顔をした人を見た事はない。先生はまるで雷に撃たれたように、口を半ば開けたまま、ストオヴの側へ棒立ちになって、一二分の間はただ、その慓悍な生徒の顔ばかり眺めていた。が、やがて家畜のような眼の中に、あの何かを哀願するような表情が、際どくちくりと閃いたと思うと、急に例の紫の襟飾へ手をやって、二三度禿げ頭を下げながら、 |
聖フランシス樣、聖ベネディクト樣、 この家を惡しき者共からお守り下さい。 夢魔と、あのロビン殿と呼ばれる 物の怪からお守り下さい。 惡靈共が襲ひ入りませぬやぅぅ、 妖精や鼬鼠、鼠、狸などの入りませぬやぅぅ、 夕の鐘の鳴る時から 翌朝までお守り下さい。 カートライト 皓々と月照る夜であつた、けれど寒さは嚴しかつた。わたし達の馬車は凍てついた大地をりんりんと疾驅した。馭者は絶え間なく鞭を打鳴し、馬は暫く勢よく疾走を續けた。「馭者は行先を心得てゐるのです」わたしの道連れは笑ひながら云つた。「それに召使部屋がまだ賑かに笑ひさざめいてゐるうちに行き着かうと思つて一所懸命なのです。わたしの父と云ふのは、よろしいですか、頑固な昔者でしてね、古風なイギリスぶりの饗應が自慢なのです。父ほど純粹にイギリス田舍紳士の型を保つてゐる人間は今時珍しいでせう。今日財産でもある人達はロンドンで過すことが多く、流行は盛に田舍に流れ込んで來るのですから、昔の田園生活のあのぐんと特色のあるところはもうあらまし研ぎ減らされて了つてゐますよ。ところが父は若い頃からチェスタフィールドの代りに地道なピーカムを金科玉條としてゐたのです。腹の底で思つてゐることはですね、眞に誇るに足り羨むべき境遇は祖先傳來の土地に住む田舍紳士のそれに過ぎたるはないといふ考だものだから、年がら年中自分の領地で暮してゐます。父は熱心に昔の田舍の遊び事や休日の慣例などを復活させることを主張して、凡そこの問題を論じた古今の書物に廣く通じてゐます。實際、父の愛讀書と云へば、少くとも二世紀以前に名を賣つた人たちのものですね。そして父に云はせると、その頃の人の方が、その後に出て來た人達よりも眞にイギリス人らしく物を書いたり考へたりしたのださうです。で、時には愚痴のやうに、もう二三世紀早く生れなかつたのが殘念だと云ふこともある位です。イギリスもその頃はほんたうにイギリスらしく獨特の風俗習慣と云ふものを持つてゐたと云ふわけです。邸は街道筋から可成り離れてゐて淋しい處ですし、近郷には向うを張る名家とてもないので、イギリス人として何よりも羨むべき幸福、つまり自分の氣儘に振舞つて誰からも邪魔をされないといふ境涯にあるのです。あたりで一番の舊家を代表する人ではあり、また百姓たちの大部分は父の小作人なので、非常な尊敬を受けて、普通にはただ『地主樣』の名前で通つてゐます。これはもう大昔から當家の家長につけられてゐる稱號です。わたしの老父についてこれだけのことを申しておけば、これであなたも、父の變哲ぶりに喫驚なさらないで濟むでせう、でないと莫迦莫迦しく見えないとも限りませんからね。」 わたし達はやや暫くの間莊園の垣に沿うて進んで行つたが、つひに馬車は門口の所に來て停つた。それは重々しく、宏壯古風な樣式で、鐡の閂を備へ、上部は奇想を凝した華やかな唐草と花模樣で飾られてゐた。門扉を支へる巨大な角柱は頂上に一家の紋章をめぐらしてあつた。門に接しては番人の家があつたが、鬱蒼たる樅の樹蔭に隱れ、殆ど植込の中に埋つてゐた。 馭者は門番の大きな鐘を鳴した、鐘の音は靜かな凍てついた空氣の中でりんりんと響き渡り、之に應じて遠くで犬の吠えたてる聲がした。犬たちがこの邸宅を護つてゐるのと見える。一人の老媼が直に門口に現れた。月の光がけざやかに老女の上に降りそそいだので、わたしは一人の小造りで素朴な婦人の姿を隈なく見ることが出來た、身なりはいかにも古風な趣味で、小ざつぱりとした髮被ひと胸飾を着け、銀のやうな髮毛が雪白の帽子の下から覗いてゐた。彼女は膝を屈めて敬禮しながら、若主人を迎へる歡びを顏にも言葉にも現すのであつた。夫は恐らく、お邸へ行つてクリスマス・イーヴを召使部屋で祝つてゐるのであらう。この男がゐないと座が持てなかつた、お邸では一番の唄上手、話上手であつたのだ。友人の申出に從つて、わたしたちは馬車を降り、莊園の中を歩いて邸館まで行くことにした。遠い距離ではなし、馬車は後からついて來るのであつた。行く手はうねうねと續く立派な並樹道で、裸の枝の間に光をこぼしながら月は澄み渡つた大空の深い穹窿を渡つてゐた。彼方の芝生は一面に雪に薄く蔽はれ、それが彼處此處煌いてゐるのは、月光が凍つた結晶體に反射してゐたのである。そして離れたところから見れば、薄い透明な水蒸氣が忍び足して低地から這ひ騰り、次第にこの風景を蔽ひ包まうとするのであつた。わたしの同伴者は恍惚とあたりを見𢌞した――「ほんたうに幾度」と友人は云つた、「わたしはこの並樹路を駈けぬけたことか知れませんよ、學校の休暇で家へ戻つた時にね。いつもいつも、子供の時わたしはこの樹の下で遊んだことでせう。これらの樹々に對して何か親のやうな一種尊敬の念をわたしは感じるのです、恰度子供の時わたし達をいつくしんでくれた人々を仰ぎ見るやうなものですね。わたしの父はいつも細かに神經を働かせて、わたし達の休暇は定つてきちんと取らせ、家族と守る祝祭日にはわたし達を自分の傍に集めたものです。父はいつもわたし達の遊び事の指圖をしたり監督をしたりしましたが、それは嚴しいもので、どこかの親たちが子供の勉強を見てやるのと同じでしたよ。父は非常にやかましく云つて、わたし達に昔のイギリスの遊びを昔の儘の方法でやらせたものです。そして古い書物を調べては、どんな『樂しい遊び』にも先例典據を得ようとしました。それでもですね、衒學といつてもあんな愉快なのはありませんでした。あのいい老紳士の綱領として、自分の子供達に家庭が此の世で最も樂しいところだと感じさせようとしたのです。そしてわたしは、この味ひ盡きぬ美しい家庭的情緒を、親の與へ得る贈物のうちで最も貴いものと高く買つてゐます。」と、わたし達の話を遮つて喧しく喚きたてる犬の一軍があつた、いろいろな種類、いろいろな大きさの犬で、「雜種、兒狗、大小の獵犬、劣等種の犬」が門番の鐘の音とがらがら通る馬車の音に驚かされて、口をくわつと開き、芝生の向うの方から飛んで來るのであつた。 「兒狗のやつまで一緒になつて、 トレイも、ブランチも、スウィーハートも、 こんなに、わたしに吠えつくのだ。」 かう大聲で云つてブレイスブリッジは笑つた。彼の聲が聞えると吼哮は歡びの叫びに變つて忽ちにして彼はこの忠實な動物どもに四方から飛びつかれ、じやれつかれて、殆ど手の下しやうがなかつた。わたし達はもうこの古い館の全貌が見えるところに來てゐた。建物は半ばは深い蔭の中にあり、半ばは寒い月光に照されてゐた、その形状は不規則的でずゐぶん宏壯な構へであるが、次々に異る時代に建てられたもののやうに思はれた。その一翼は明かに極めて古い時代のもので、どつしりした石の圓柱を持つた弓形張出窓には常春藤が這ひ纏はり、葉の茂みの間で小さな菱形の窓硝子が月影に煌めいた。建物の他の部分はチャールズ二世時代のフランス趣味に從つて造られてゐて、この改修を加へたのは、わたしの友人の語るところによると、彼の祖先の一人で王政復古時代にチャールズ二世に隨つてイギリスへ歸國した人であつた。家の周圍の敷地の設計は、昔の一定の形式に則つたもので、人工的な花壇や刈込んだ植込、一段高くなつてゐる平場、どつしりした石造の手摺、(その上に裝飾の壺が置いてある)、銅像が一つ二つ、それに噴水などがあつた。當主の老紳士は細心の注意を拂つて、この時代遲れの裝飾をすべて原型のままに保存しようと苦心してゐるとのことであつた。この樣式の造園法を愛賞して、それが宏壯の氣に滿ち、典雅高貴の風格を備へ、由緒ある舊家の樣式として良く適合してゐると考へてゐたのである。自然の模倣に終始する近代の造園法はもともと現代の共和思想と共に端を發したのであつて、これは君主政體には適合しない。そこにはあの社會的な水準化の傾向の匂がすると云ふのであつた。わたしは、政治を造園の問題に結びつけるのを聞いて微笑を禁じ得なかつたので、この老紳士が自己の信條に幾分こだはりすぎはしないかと懸念する旨を述べた。するとフランクは、この他には父が政治に觸れたのを耳にした例が殆どないと云ひ、父がこんな考へを懷いたのは或る國會議員が曾て數週間滯在してゐた間のことであると信じてゐた。この地主殿は刈込んだ水松や型に嵌つた平場を辯護するためにはどんな理窟でも喜んで受入れた、さうしたものはそれまでにも屡々近代的な造園家たちから攻撃されたのだつたから。 館に近づくにつれて音樂の音が聞えて來た、そして時々どつと笑ふ聲もした。それは建物の一方の端からであつたが、ブレイスブリッジの言葉によると、確に召使部屋から聞えてくるのであつて、この部屋では思ふ存分に歡を盡すことが許される、いな御主人から獎勵される位で、クリスマスの十二日間ぶつ續けだつたが、ただ何事も昔の慣例に從はねばならなかつた。ここでは昔の遊び事がそのまま保存されて、鬼ごつこ、罰金遊び、目隱物當、白菓子盜、林檎受、葡萄取などが行はれた。ユール・クロッグ〔クリスマス・イーヴに焚く木〕やクリスマスの蝋燭は絶やさぬやうに燃され、寄生樹は白い實をつけて掲げられ、綺麗な女中たちに今にも危險をふりかけさうであつた。 召使たちは遊びに夢中になつてゐたので、わたし達は幾度も幾度も呼鈴を鳴してやつと通じることが出來た。わたし達の到着が傳へられると、直に家長自身が他の二人の子息と一緒に出迎へに出て來た。子息の一人は陸軍青年士官で、賜暇を得て歸省してゐたのであつた。いま一人はオックスフォードから戻つた大學生であつた。主人は人柄で、健康さうな顏附の老紳士、銀髮がかるく縮れて、隈のない赭顏を包んでゐた。觀相家はこの赭顏の中に、わたしのやうに前以て二三の暗示を聞く便宜があれば、氣紛れと慈悲心が不思議に混り合つてゐるのを見るのである。 父子再會の有樣はいかにも愛情に滿ち溢れてゐた。夜は更けてゐたので、老主人はわたし達に旅裳束を着替へることも許さず、すぐさま大勢集つてゐるところへ案内したが、團樂の場所は古風な大廣間であつた。集つた顏は、あれやこれやの關係の親類縁者達で、よくあるやうに老衰の境に入つた獨身の婦人、若々しい花の盛りのいとこ達、一人前になるかならぬかの若者たち、そして朗かな眸をした寄宿舍學校のおきやんのお孃さん方が寄つてゐた。みんなは思ひ思ひのことをしてゐた、幾人かのものは銘々に札をもつて骨牌とりをする、他の幾人かは爐を圍んで話合ひ、廣間の一隅に陣取つた若い一群は、もうすこしで大人に成ると云ふ年頃やまだうら若い蕾の年頃のがまざつて賑かな遊びに我を忘れてゐた。それからまた、木馬や、玩具の喇叭、こはれかけた人形などが床の上に狼藉の跡をとどめてゐるのは、多勢の小さい妖精たちのゐる證據であるが、その妖精たちは樂しい一日を跳ね𢌞つて、今はもう眠の國に運び去られ、すやすやと平和な夜をすごしてゐるのであつた。 お互の挨拶が若いブレイスブリッジと親戚の間に交されてゐる間に、わたしには室をひとわたり眺め渡す暇が出來た。わたしは今まで廣間と呼んで置いたが、實際たしかに昔は廣間であつたもので、老主人も明かにそれを昔の儘の姿に修復しようと心掛けたものと見えた。どつしりと突き出てゐる煖爐の上には、甲冑をつけて白馬の側に立つた武士の肖像が掛つて居り、それと向ひ合つた側の壁には兜と楯と槍が掛つてゐた。室の一端には非常に大きな鹿の角が壁の中に嵌め込んであつて、その鹿叉は帽子や鞭や拍車を懸ける用をなしてゐた。室の隅々には鳥銃や釣竿、その他遊獵の道具が置いてあつた。家具は前代の物々しく手數のかかつた造り方であつた、とは云つても當時の便利な品々も幾らか加へられてゐる、樫材の床には絨毯を敷いてあるので、全體の感じは應接間と廣間の奇妙な寄せ集めであつた。 鐡床は大きな、のしかかるやうな煖爐から取り外されて、薪火を燃すやうにしつらへ、その眞中にはすばらしく大きい丸太が赫々と燃えさかつて、大量の光と熱とを發散してゐた。これがユール・クロッグと云ふものだとのこと、老主人が特別に心を用ひてクリスマス・イーヴに運び込んで燃やし、昔の慣例を守つたのであつた。 まことに目に喜ばしく映つたのは老主人の姿であつた。親讓りの肱掛椅子に腰をかけ、客人をもてなす先祖代々の爐を傍にして、あたりを見𢌞す樣子は列星の中心の太陽が、一人一人の心に温みと歡びとを放射するのにも似てゐた。躯を伸してその足元にねころがつてゐる犬でさへ、もの憂げに寢がへりをして欠伸をする時には、懷しげに主人の顏を見上げ、尾を床にばたばたさせて、また伸々と眠につくのであつて、その温情と庇護に頼り切つてゐるのであつた。この純眞な款待の中には何か心の底から流れ來るものがあつて、それを言葉では描き出せないが、直に精神に感應して、新來の客人をも打寛がせるのであつた。幾分も經たぬうちに、この尊敬すべき老騎士の心地よい爐邊に座を占めてゐたわたしは、家族の一員であるかのやうに打ち融けた氣持になつてしまつてゐた。晩餐が報ぜられて間もなくわたし達の着いた饗應の室は樫材で造られてゐて、鏡板は蝋で光澤をだし、周圍の壁には家族の肖像が掛けてあつて、柊と常春藤で飾られゐた。きまつて取附けてある燈火の他に二本の大きな蝋燭が立てられ、これはクリスマスの蝋燭と呼ばれるものであるが、常盤木に包まれて、美しく磨かれた食器棚の上に一家傳來の磁器皿と並べて置いてあつた。食卓には身になるたべ物が山と盛りあがつてゐた。尤も老主人はフルーメンティで晩食を濟せた。この料理は小麥を牛乳で煮て藥味で味をつけたもので、昔クリスマス・イーヴにはお定まりの一皿であつた。 わたしにとつて嬉しかつたのは舊知のミンスト・パイをづらりと並んだ御馳走の隨員の中に見つけたことであつた。そしてこのパイが完全に格式通りのものと分り、またこれがわたしの大好物であることを恥ぢるに及ばぬと分つたので、いつもわたし達が昔馴染の大變上品な知友に挨拶する時のあの温い友情を籠めて、わたしはこのパイに挨拶したのであつた。 一座の興を引立たせた面白い變り者があつて、彼をブレイスブリッジ君はマースター・サイモンと云ふ變つた呼び名で呼びかけてゐた。彼はきちんとした服裝をつけてきびきびした小男で、その物腰は正眞正銘の獨身老人であつた。鼻の形は鸚鵡の嘴のやうで、顏には微かに天然痘の痕があり、秋の霜にあつた木の葉のやうに、いつも乾いて赭みを帶びてゐた。その眼は敏捷で活々として居り、その底から覗いてゐる茶目つ氣は何人の頬をもほころばせずにおかない底のものであつた。彼は明かに一族中の曾呂利で、婦人たちに向つて人のわるい冗談や擦を盛に投げつけ昔からの話の種をむしかへして、いつまでも皆のものを可笑しがらせた。尤も不幸にしてこの古い話の種は、わたしが一族の年代記を知らないため、面白く聞くわけにはいかなかつた。見てゐると此の人物が得意になつて喜んだことは自分の隣席にゐた若いお孃さんをひつきりなく笑はせ、笑ひをこらへるのがせつないほどにさせたことであつたらしい。お孃さんは自分のお母樣が怖い顏をして向ひ側でたしなめてゐるのを知つてゐても笑ひがとまらなかつたのである。實際、彼は一座のうちの若い人たちにとつて人氣の的で、彼等は此の人の云ふこと爲すこと、その一つ一つの顏附にもどつと笑ひ轉けるのであつた。それもその筈で、彼等の目にはこれが奇蹟とも云へるほど百藝に長じた人と映つたに違ひないのである。彼はパンチとジューデイの人形芝居の眞似が出來た。自分の片手でお婆さんを拵へることができた、これには燒けたコルク栓とポケット用ハンケチとを利用した。オレンヂをおどけた恰好に切つて、若い連中を抱腹絶倒させることが出來た。 わたしはざつとではあるが此の人物の身の上話をフランク・ブレイスブリッジから聞かされた。彼はいつまでも獨身でゐて、僅かながらも自活できるほどの收入があり、それを心がけて遣へば不自由なしに暮してゆけるのだつた。彼は血縁つづきの間を、まるで氣まぐれな彗星の軌道を運行するのと同じやうに、あちらの引つかかりから今度はそつぽの遠いつながりの處とわたり歩いてゐた。之は親戚の澤山ある併し財産の少ししかない紳士がイギリスではよくやることであつた。彼は口の輕い陽氣な性質で、いつも現在の瞬間を享樂した。そして始終居所を變へ附合ふ相手が變るので、獨身の老人には無慈悲に取りつくあの錆ついた融通の利かない習癖に煩はされずに濟んでゐた。彼に訊けば一族の年代記はすべて判明し、ブレイスブリッジ一家全族の系譜、歴史、婚姻關係に精通してゐるので、彼は老人の間で非常に氣に入られた。彼はまた老夫人や老い朽ちた老孃達の間では伊達者で通り、普通寧ろ若い人と見做される例であつた、そして子供仲間ではクリスマス祝祭の取持役であつた。かうしたわけで、これ以上人氣のある人物はサイモン・ブレイスブリッジ氏の出沒する圈内には他にゐなかつた。近年は殆ど全く老主人の邸に寄寓して執事のやうな役を勤め、わけて家長とは昔語りで馬を合せて氣に入られ、また時時に應じて昔の唄の一くさりを吹いて喜ばれた。わたし達は間もなく、この最後に述べた藝の見本に接することが出來た、と云ふのは、食事が片附けられて、香をつけた葡萄酒とかその他季節向きの飮料が運ばれて來ると早速、マースター・サイモンに昔のクリスマスの歌を一つと所望されたのである。一寸の間考へてから、目を輝かせ、惡くない聲で――ただ時々裏聲になつて、裂けた蘆笛のやうな音をだした――古風な小唄を一曲聞かせた。 「クリスマスが來たよ、 太鼓鳴らせうよ、 隣近所を呼び集め、 顏がそろたら、 御馳走祝うて、 風もあらしも寄せつけまいぞ……云々」 晩食のお蔭で誰も彼も陽氣になつてゐた、で、老竪琴師が召使部屋から呼びだされて來た、彼は一晩中そこで絃をぶるんぶるん鳴し續けてゐたのであつた。この男はどう見ても、地主家手製のビールをきこしめして愉快になつてゐた。彼は此の邸の謂はば居候で、世間體だけは村の住民だが、地主樣の臺所にゐる方が多いと云ふことである。それと云ふのも老主人が「廣間に響く竪琴」の音を喜んだからであつた。 舞踏は晩餐後の例として、浮き浮きした氣分が漲つてゐた。年寄連中のうちからも加つたりして、老主人までが或相手と組んで幾組かの踊手たちを顏色なからしめた。老主人自らの言葉によれば、その相手とは殆ど半世紀近くもの間、クリスマスの度ごとに踊つたのだと云ふ。マースター・サイモンは前の時代と今の時代を繋ぐ連鎖と思はれ、それと共に身についた藝ごとの味ひに少し古臭いところがあつたが、したたかに踊が自慢で、ヒール・アンド・トウやリガドゥーンやその他昔風の足の踏み方で信用をえようと努めてゐた。ところが運惡く組んだ相手が寄宿學校の小さなお轉婆娘で、彼女の元氣がよすぎるため彼は絶えず油斷ができないで、優美に踊らうと云ふ彼の眞面目な試みも挫かれてしまつた。かうした不似合な相手と結びつくことは老年紳士が不幸にしてよく見る例である。 若いオックスフォードの大學生は、未婚の叔母の一人を舞踏に誘ひ出したが此のやんちや者は彼女にあれやこれやありつたけの小さな惡戲をしながら、平氣な顏ですましてゐた。彼は實に冗談が上手で、叔母や從姉妹たちを揶揄つて苛めては面白がつてゐた。でも、凡て向う見ずな若者同樣、異性の間ではみんなに好かれた。尚また一番興味を惹いた一組は若い士官と、老主人に後見されてゐる、花も恥ぢらふ十七の少女であつた。その宵のうちにわたしの氣づいたことであるが、幾度となく羞ぢらひ勝ちに見交はした瞳からして、二人の間に優しい思ひが芽ぐみつつあるのではないかと思はれた。たしかにまたその若い軍人はロマンティックな少女を擒にする勇士に相應はしかつた。彼は背が高く、すらりとした好男子で、また近年多くのイギリス士官の例に洩れず、色々と細かな身嗜みを〔ヨーロッパ〕大陸で見習つてゐて、フランス語とイタリ語が話せる、風景畫が描ける、歌も相當に歌へる、舞踏となると神技に達してゐると云ふわけであつた。併し何よりも彼はウォータルーで名譽の負傷をしたのである。十七歳の少女で、詩や傳奇小説を愛讀してゐるものが、なんでう以て此の武勇と練達の鑑に楯をつくことができようか。 舞踏が終るや否や士官はギターを手にとつて、昔ながらの大理石づくりの爐に凭れながら、それと意識してやつてゐるのではないかと疑はせるやうな身構へで、フランス語でトルバドゥアの小曲を歌ひ始めた。すると老主人は之に故障を申出でて、クリスマス・イーヴにはわが榮あるイギリスのものの外はいけないといましめた。それを聞くと此の若い吟詠詩人は、しばし瞳を上げて記憶を辿るやうな樣子をしてゐたが別の曲を奏で始めた、そして慇懃な魅惑を含んだ姿態で、ヘリックの『ジューリアに贈る小夜曲』を歌ひ出たのであつた。 螢の眼 君もちて、 流るる星の從はば、 小人のむれも 小さき目ひからし 火花と照りて、君をまもらん。 |
◇ 私は前かたから謡曲を何よりの楽しみにして居りまして、唯今では家内中一統で稽古して居ります。松篁夫婦、それから孫も仕舞を習っているという工合で、一週に一度ずつは先生に来て頂いているという、まあ熱心さです。 家の内の楽しみもいろいろあります。私や松篁など、絵のことはそれは別としまして、茶もあれば花もあり、また唄いもの弾きもの、その他の遊芸などもありますが、その中で謡曲、能楽の道はなんといっても一とう物深く精神的でもあり、芸術的でもあって飽きがきませんのみか、習えば習うほど、稽古を積めば積むほど娯しみが深くなってゆきまして、大業に申せば、私どもの生活のすぐれた糧となって居ります。 ◇ 能楽に用いる面ですが、あれは佳いものになると、よく見れば見るほど微妙なもので感心させられます。名人達人の作になるものなど、まるで生きている人間の魂が、そこに潜んでいるのかと想われるほどのものです。 そのすぐれた面を着けて、最もすぐれた名人があの舞台に立つと、顔上面なく、面裡人なしとでも申しましょうか、その面と人とが精神も肉身も合致合体、全く一つのものに化してしまって、さながらに厳然たる人格と心格を築き出します。この境涯は筆紙言舌の限りではありません。 この境涯では、人が面を着けているなどいう、そんな浅間な感情などは毛筋ほども働いていません。 よく能面の表情は固定していて、死んだ表情であり、無表情というにひとしいなどと素人の人たちがいうのですが、それは能楽にも仕舞にも何等の徹底した鑑賞心をもって居らないからの言葉でありまして、名人の場合など、なかなかそんな批点の打ちどころなどあるものではありません。 無表情と言いますが、名人がその面をつけて舞台に立ちますと、その無表情な面に無限な表情を発します。悲しみ、ほほえみ、喜び、憂い、その場その場により、その時その時に従って、無限の表情が流露して尽くるところがありません。 ◇ 能楽からくる感銘はいろいろです。単なる動作や進退の妙というだけのものではなく、衣裳の古雅荘厳さや、肉声、器声の音律や、歴史、伝説、追憶、回想、そういうものが舞う人の妙技と合致して成立つものですが、殊にこの能楽というものは、泣く、笑う、歓喜する、憂い、歎ずる、すべてのことが決して露骨でなく、典雅なうちに沈んだ光沢があり、それが溢れずに緊張するというところに、思い深い、奥床しい感激があるのです。 感ずれば激し、思うだけのことを発露するという西洋風な表現のしかたも、芸術の一面ではあろうと思いますが、能楽の沈潜した感激は哲学的だと言いましょうか、そこに何物も達しがたい高い芸術的な匂いが含蓄されてあると思います。こういう点で能楽こそは、真の国粋を誇りうる芸術だといえましょう。 ◇ 私は、その名人芸を見る度毎に、精神的な感動を受けます。どうしてこうも神秘なのであろう、こういう姿をした、こういう別な世界は、果たしてあるのであろうか、無いようでありながら、たしかに此処に現われている、といったような微妙な幻想にさえ引きこまれて、息もつけずにその夢幻的な世界に魂を打ちこんでしまうのです。 私はこの能楽の至妙境は、移して私どもの絵の心の上にも置くことができましょうし、従って大きな益を受けることができると思いますので、ますます稽古に励むつもりでいますし、また人にも説くこともあります。 |
お孝が買物に出掛ける道だ。中里町から寺町へ行かうとする突當の交番に人だかりがして居るので通過ぎてから小戻をして、立停つて、少し離れた處で振返つて見た。 ちやうど今雨が晴れたんだけれど、蛇の目の傘を半開にして、うつくしい顏をかくして立つて居る。足駄の緒が少し弛んで居るので、足許を氣にして、踏揃へて、袖の下へ風呂敷を入れて、胸をおさへて、顏だけ振向けて見て居るので。大方女の身でそんなもの見るのが氣恥かしいのであらう。 ことの起原といふのは、醉漢でも、喧嘩でもない、意趣斬でも、竊盜でも、掏賊でもない。六ツばかりの可愛いのが迷兒になつた。 「母樣は何うした、うむ、母樣は、母樣は。」と、見張員が口早に尋ね出した。なきじやくりをしいしい、 「内に居るよ。」 巡査は交番の戸に凭懸つて、 「お前一人で來たのか、うむ、一人なんか。」 頷いた。仰向いて頷いた。其膝切しかないものが、突立つてる大の男の顏を見上げるのだもの。仰向いて見ざるを得ないので、然も、一寸位では眼が屆かない。頤をすくつて、身を反して、ふッさりとある髮が帶の結目に觸るまで、いたいけな顏を仰向けた。色の白い、うつくしい兒だけれど、左右とも眼を煩つて居る。細くあいた、瞳が赤くなつて、泣いたので睫毛が濡れてて、まばゆさうな、その容子ッたらない、可憐なんで、お孝は近づいた。 「一體何處の兒でございませう。方角も何も分らなくなつたんだよ。仕樣がないことね、ねえ、お前さん。」 と長屋ものがいひ出すと、すぐ應じて、 「ちつとも此邊ぢやあ見掛けない兒ですからね、だつて、さう遠方から來るわけはなしさ、誰方か御存じぢやありませんか。」 誰も知つたものは居ないらしい。 「え、お前、巾着でも着けてありやしないのかね。」 と一人が踞つて、小さいのが腰を探つたがない。ぼろを着て居る、汚い衣服で、眼垢を、アノせつせと拭くらしい、兩方の袖がひかつてゐた。 「仕樣がないのね、何にもありやしないんですよ。」 傍に居た肥つたかみさんが大きな聲で、 「馬鹿にしてるよ、こんな兒にお前さん、札をつけとかないつて奴があるもんか。うつかりだよ、眞個にさ。」 とがむしやらなものいひで、叱りつけたから吃驚して、わツといつて泣き出した。何も叱りつけなくツたつてよささうなもんだけれど、蓋し敢てこの兒を叱つたのではない。可愛さの餘り其不注意なこの兒の親が、恐しくかみさんの癪にさはつたのだ。 「泣くなよ、困つたもんだ。泣くなつたら、可いか、泣いたつて仕樣がない。」 また一層聲をあげて泣き出した。 中に居た休息員は帳簿を閉ぢて、筆を片手に持つたまゝで、戸をあけて、 「何處か其處等へ連れて行つて見たらば何うだね。」 「まあ、もうちつと斯うやつとかう、いまに尋ねに來ようと思ふから。」 「それも左樣か。おい、泣かんでも可い、泣かないで、大人しくして居るとな、直ぐ母樣が連れに來るんぢや。」 またアノ可愛いふりをして、頷いて、其まゝ泣きやんで、ベソを掻いて居る。 風が吹くたびに、糖雨を吹きつけて、ぞつとするほど寒いので、がた〳〵ふるへるのを見ると、お孝は堪らなかつた。 彌次馬なんざ、こんな不景氣な、張合のない處には寄着はしないので、むらがつてるものの多くは皆このあたりの廣場でもつて、びしよ〳〵雨だから凧を引摺つてた小兒等で。泣くのがおもしろいから「やい、泣いてらい!」なんて、景氣のいゝことをいつて見物して居る。 子守がまた澤山寄つて居た。其中に年嵩な、上品なのがお守をして六つばかりの女の兒が着附萬端姫樣といはれる格で一人居た。その飼犬ではないらしいが、毛色の好い、耳の垂れた、すらつとしたのが、のつそり、うしろについてたが、皆で、がや〳〵いつて、迷兒にかゝりあつて、うつかりしてる隙に、房さりと結んでさげた其姫樣の帶を銜へたり、八ツ口をなめたりして、落着いた風でじやれてゐるのを、附添が、つと見つけて、びツくりして、叱! といつて追ひやつた。其は可い、其は可いけれど、犬だ。 悠々と迷兒のうしろへいつて、震へて居るものを、肩の處ぺろりとなめた。のはうづに大きな犬なので、前足を突張つて立つたから、脊は小ぽけな、いぢけた、寒がりの、ぼろツ兒より高いので、いゝ氣になつて、垢染みた襟の處を赤い舌の長いので、ぺろりとなめて、分つたやうな、心得てゐるやうな顏で、澄した風で、も一つやつた。 迷兒は悲さが充滿なので、そんなことには氣がつきやしないんだらう、巡査にすかされて、泣いちやあ母樣が來てくれないのとばかり思ひ込んだので、無理に堪へてうしろを振返つて見ようといふ元氣もないが、むず〳〵するので考へるやうに、小首をふつて、促す處ある如く、はれぼつたい眼で、巡査を見上げた。 犬はまたなめた。其舌の鹽梅といつたらない、いやにべろ〳〵して頗るをかしいので、見物が一齊に笑つた。巡査も苦笑をして、 「おい。」とさういつた。 お孝は堪らなかつた。かはいさうで〳〵かはいさうでならないのを、他に多勢見て居るものを、女の身で、とさう思つて、うつちやつては行きたくなし、さればツて見ても居られず、ほんとに何うしようかと思つて、はツ〳〵したんだから、此時もう堪らなくなつたんだ。 いきなり前へ出て、顏を赤くして、 「私が、あの、さがしますから。」 と、口の中でいふとすぐ抱いた。下駄の泥が帶にべつたりとついたのも構はないで、抱きあげて、引占めると、肩の處へかじりついた。 ぐるツと取卷かれて恥しいので、アタフタし、駈け出したい位急足で踏出すと、おもいもの抱いた上に、落着かないからなりふりを失つた。 穿物の緒が弛んで居たので踏返してばつたり横に轉ぶと姿が亂れる。 皆で哄と笑つた。お孝は泣き出した。 |
一 大震雑記 一 大正十二年八月、僕は一游亭と鎌倉へ行き、平野屋別荘の客となつた。僕等の座敷の軒先はずつと藤棚になつてゐる。その又藤棚の葉の間にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架の窓から裏庭を見ると、八重の山吹も花をつけてゐる。 山吹を指すや日向の撞木杖 一游亭 (註に曰、一游亭は撞木杖をついてゐる。) その上又珍らしいことは小町園の庭の池に菖蒲も蓮と咲き競つてゐる。 葉を枯れて蓮と咲ける花あやめ 一游亭 藤、山吹、菖蒲と数へてくると、どうもこれは唯事ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も真に受けない。久米正雄の如きはにやにやしながら、「菊池寛が弱気になつてね」などと大いに僕を嘲弄したものである。 僕等の東京に帰つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。 「あの時は義理にも反対したかつたけれど、実際君の予言は中つたね。」 久米も今は僕の予言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白状しても好い。――実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ。 二 「浜町河岸の舟の中に居ります。桜川三孝。」 これは吉原の焼け跡にあつた無数の貼り紙の一つである。「舟の中に居ります」と云ふのは真面目に書いた文句かも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行の中に秋風の舟を家と頼んだ幇間の姿を髣髴した。江戸作者の写した吉原は永久に還つては来ないであらう。が、兎に角今日と雖も、かう云ふ貼り紙に洒脱の気を示した幇間のゐたことは確かである。 三 大地震のやつと静まつた後、屋外に避難した人人は急に人懐しさを感じ出したらしい。向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、渡辺町、田端、神明町、――殆ど至る処に見受けられたものである。殊に田端のポプラア倶楽部の芝生に難を避けてゐた人人などは、背景にポプラアの戦いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何にも楽しさうに打ち解けてゐた。 これは夙にクライストが「地震」の中に描いた現象である。いや、クライストはその上に地震後の興奮が静まるが早いか、もう一度平生の恩怨が徐ろに目ざめて来る恐しささへ描いた。するとポプラア倶楽部の芝生に難を避けてゐた人人もいつ何時隣の肺病患者を駆逐しようと試みたり、或は又向うの奥さんの私行を吹聴して歩かうとするかも知れない。それは僕でも心得てゐる。しかし大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。 四 僕も今度は御多分に洩れず、焼死した死骸を沢山見た。その沢山の死骸のうち最も記憶に残つてゐるのは、浅草仲店の収容所にあつた病人らしい死骸である。この死骸も炎に焼かれた顔は目鼻もわからぬほどまつ黒だつた。が、湯帷子を着た体や痩せ細つた手足などには少しも焼け爛れた痕はなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ為ばかりではない。焼死した死骸は誰も云ふやうに大抵手足を縮めてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふ訣か、焼け残つたメリンスの布団の上にちやんと足を伸ばしてゐた。手も亦覚悟を極めたやうに湯帷子の胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみ悶えた死骸ではない。静かに宿命を迎へた死骸である。もし顔さへ焦げずにゐたら、きつと蒼ざめた脣には微笑に似たものが浮んでゐたであらう。 僕はこの死骸をもの哀れに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」と云つた。成程さう云はれて見れば、案外そんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである。 五 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。 戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を啣へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「譃だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや譃だらう」と云ふ外はなかつた。しかし次手にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「譃さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも譃か」と忽ち自説(?)を撤回した。 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。 尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。 六 僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処を通るのは二度目である。この前来た時には馬場先の濠に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覚えのある濠の向うを眺めた。堀の向うには薬研なりに石垣の崩れた処がある。崩れた土は丹のやうに赤い。崩れぬ土手は青芝の上に不相変松をうねらせてゐる。其処にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興に泳いでゐる訣ではあるまい。しかし行人たる僕の目にはこの前も丁度西洋人の描いた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層平和に見えた位である。 僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。 芸術は生活の過剰ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。 僕は丸の内の焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦焼き難い何ものかだつた。 二 大震日録 八月二十五日。 一游亭と鎌倉より帰る。久米、田中、菅、成瀬、武川など停車場へ見送りに来る。一時ごろ新橋着。直ちに一游亭とタクシイを駆り、聖路加病院に入院中の遠藤古原草を見舞ふ。古原草は病殆ど癒え、油画具など弄び居たり。風間直得と落ち合ふ。聖路加病院は病室の設備、看護婦の服装等、清楚甚だ愛すべきものあり。一時間の後、再びタクシイを駆りて一游亭を送り、三時ごろやつと田端へ帰る。 八月二十九日 暑気甚し。再び鎌倉に遊ばんかなどとも思ふ。薄暮より悪寒。検温器を用ふれば八度六分の熱あり。下島先生の来診を乞ふ。流行性感冒のよし。母、伯母、妻、児等、皆多少風邪の気味あり。 八月三十一日。 |
第一囘 三月二十日、今日は郡司大尉が短艇遠征の行を送るに、兼ねて此壮図に随行して其景況並びに千島の模様を委しく探りて、世間に報道せんとて自ら進みて、雪浪萬重の北洋を職務の為にものともせぬ、我が朝日新聞社員横川勇次氏を送らんと、朝未明に起出て、顔洗ふ間も心せはしく車を急せて向島へと向ふ、常にはあらぬ市中の賑はひ、三々五々勇ましげに語り合ふて、其方さして歩む人は皆大尉の行を送るの人なるべし、両国橋にさしかゝりしは午前七時三十分、早や橋の北側は人垣と立つどひ、川上はるかに見やりて、翠かすむ筑波の山も、大尉が高き誉にはけおされてなど口々いふ、百本杭より石原の河岸、車の輪も廻らぬほど雑沓たり、大尉は予が友露伴氏の実兄なり、また此行中に我社員あれば、此勇ましき人の出を見ては、他人の事と思はれず、我身の誉と打忘れられて嬉しく独笑する心の中には、此群集の人々にイヤ御苦労さま抔と一々挨拶もしたかりし、これによりて推想ふも大尉が一族近親の方々はいかに、感歓極まりて涙に咽ばれしもあるべし、人を押分くるやうにして辛く車を向島までやりしが、長命寺より四五間の此方にて早や進も引もならず、他の時なればうるさき混雑やと人を厭ふ気も発るべきに、只嬉しくて堪へられず、車を下りて人の推すまゝに押されて、言問団子の前までは行きしが、待合す社員友人の何処にあるや知られず、恙がなく産れ出しといふやうに言問の前の人の山を潜り出て見れば、嬉しや、此に福岡楼といふに朝日新聞社員休息所の札あり、極楽で御先祖方に御目に掛つたほど悦びて楼に上れば、社員充満ていづれも豪傑然たり、機会にあたれば気は引立ものなり、元亀天正の頃なれば一国一城の主となる手柄も難からぬが、岸に堤に真黒に立続けし人も皆な豪傑然たり、予はいよ〳〵嬉しくて堪らず、川面は水も見えぬまで、端艇其他の船並びて其が漕開き、漕ぎ廻る有様、屏風の絵に見たる屋島壇の浦の合戦にも似て勇ましゝ、大尉が大拍手大喝采の間に、舟より船と飛び渡りて、其祝意をうけらるゝは、当時の源廷尉宛然なり、予も肉動きて横川氏と共に千島に行かばやとまで狂たり、舟は大尉萬歳の歓呼のうちに錨を上げて、此帝都を去りて絶海無人の島をさして去りぬ、此の壮んなる様を目撃したる数萬の人、各々が思ふ事々につき、いかに興奮感起したる、ことに少壮の人の頭脳には、此日此地此有様永く描写し止まりて、後年いかなる大業を作す種子とやならん、予は集へる人を見て一種頼もしき心地も発りたり、此一行が此後の消息、社員横川氏が通信に委しければ、読みて大尉の壮行と予も共にするの感あり、其は此日より後の事にして、予は此日只一人嬉しくて、ボンヤリとなり、社員にも辞せず、ブラ〳〵と面白き空想を伴にして堤を北頭に膝栗毛を歩ませながら、見送り果てドヤ〳〵と帰る人々が大尉の年は幾つならんの、何処の出生ならんの、或は短艇の事、千島の事抔噂しあへるを耳にしては、夫は斯く彼は此と話して聞せたく鼻はうごめきぬ、予は洋杖にて足を突かれし其人にまで、此方より笑を作りて会釈したり、予は何処とさして歩みたるにあらず、足のとまる処にて不図心付けば其処、依田学海先生が別荘なり、此にてまた別の妄想湧きおこりぬ。 第二囘 おもへば四年の昔なりけり、南翠氏と共に学海先生の此の別荘をおとづれ、朝より夕まで何くれと語らひたる事ありけり、其時先生左の詩を示さる。 庚寅一月二十二日、喜篁村南翠二君見過墨水弊荘、篁村君文思敏澹、世称為西鶴再生、而余素愛曲亭才学、故前聯及之、 巨細相兼不並侵、審論始識適幽襟、鶴翁才気元天性、琴叟文章見苦心、戯譃諷人豈云浅、悲歌寓意一何深、梅花香底伝佳話、只少黄昏春月臨 まことに此時、日も麗らかに風和らかく梅の花、軒に匂しく鶯の声いと楽しげなるに、室を隔てゝ掻きならす爪音、いにしへの物語ぶみ、そのまゝの趣ありて身も心も清く覚えたり、此の帰るさ、またもとの俗骨にかへり、我も詩を作る事を知りたるならば、拙ながらも和韻と出かけて、先生を驚かしたらんものをと負じ魂、人羨み、出来ぬ事をコヂつけたがる持前の道楽発りて、其夜は詩集など出して読みしは、我ながら止所のなき移気や、夫も其夜の夢だけにて、翌朝はまた他事に心移りて、忘れて年月を経たりしが、梅の花の咲くを見ては毎年、此日の会の雅なりしを思ひ出して、詩を作らう、詩を作らう、和韻に人を驚かしたいものと悶へしが、一心凝つては不思議の感応もあるものにて、近日突然として左の一詩を得たり、 往年同須藤南翠、訪依田学海君濹上村荘、酒間、君賦一律見贈、今巳四年矣、昨雨窓無聊偶念及之、即和韻一律、録以供一笑之資云、 村荘不見一塵侵、最好清談披素襟、游戯文章猶寓意、吟嘲花月豈無心、新声北部才情婉、往事南朝感慨深、我亦多年同臭味、待君載筆屡相臨、 ナント異に出来したでは厶らぬか、此詩を懐中したれば、門を叩いて驚かし申さんかとは思ひしが、夢中感得の詩なれば、何時何処にても、またやらかすと云ふ訳には行かず、コレハ〳〵よく作られたと賞揚一番、その後で新詩を一律また贈られては、再び胸に山を築く、こゝは大に考へもの、面り捧げずに遠く紙上で吹聴せば、先生髯を握りながら、フムと感心のコナシありて、此子なか〳〵話せるワエと、忽ち詩箋に龍蛇はしり、郵便箱に金玉の響ある事になるとも、我また其夜の思寝に和韻の一詩をすら〳〵と感得して、先生のみか世人を驚かすも安かるべしと、門外に躊躇してつひに入らず、道引かへて百花園へと赴きぬ、新梅屋敷百花園は梅の盛りなり、御大祭日なれば群集も其筈の事ながら、是はまた格別の賑はひ、郡司大尉の壮行をまのあたり見て、子や孫に語りて教草にせんと、送別の外の遊人も多くして、帰さは筇を此に曳きしも少からで、また一倍の賑はひはありしならん、一人志しを立て国家の為に其身をいたせば、満都の人皆な動かされて梅の花さへ余栄を得たり、人は世に響き渡るほどの善事を為したきものなり、人は世に効益を与ふる大人君子に向ひては、直接の関係はなくとも、斯く間接の感化をうくるものなれば、尊敬の意をうしなふまじきものなりなど、花は見ずして俯向ながら庭を巡るに、斯く花園を開きて、人の心を楽ます園主の功徳、わづかの茶代に換へ得らるゝものならず、此園はそもいかにして誰が開きしぞ。 第三囘 |
一、語学の英露独など出来る事。但どの位よく出来るか知らず。 二、几帳面なる事。手紙を出せば必ず返事をくれるが如き。 三、家庭を愛する事。殊に母堂に篤きが如し。 四、論争に勇なる事。 五、作品の雕琢に熱心なる事。遅筆なるは推敲の屡なるに依るなり。 六、おのれの作品の評価に謙遜なる事。大抵の作品は「ありゃ駄目だよ」と云う。 七、月評に忠実なる事。 八、半可な通人ぶりや利いた風の贅沢をせざる事。 九、容貌風采共卑しからざる事。 十、精進の志に乏しからざる事。大作をやる気になったり、読み切りそうもない本を買ったりする如き。 十一、妄に遊蕩せざる事。 十二、視力の好き事。一しょに往来を歩いていると、遠い所の物は代りに見てくれる故、甚便利なり。 十三、絵や音楽にも趣味ある事。但しどちらも大してはわからざる如し。 十四、どこか若々しき所ある事。 十五、皮肉や揚足取りを云わぬ事。 十六、手紙原稿すべて字のわかり好き事。 十七、陸海軍の術語に明き事。少年時代軍人になる志望ありし由。 |
一 茶の湯の趣味を、真に共に楽むべき友人が、只の一人でもよいからほしい、絵を楽む人歌を楽む人俳句を楽む人、其他種々なことを楽む人、世間にいくらでもあるが、真に茶を楽む人は実に少ない。絵や歌や俳句やで友を得るは何でもないが、茶の同趣味者に至っては遂に一人を得るに六つかしい。 勿論世間に茶の湯の宗匠というものはいくらもある。女子供や隠居老人などが、らちもなき手真似をやって居るものは、固より数限りなくある、乍併之れらが到底、真の茶趣味を談ずるに足らぬは云うまでもない、それで世間一般から、茶の湯というものが、どういうことに思われて居るかと察するに、一は茶の湯というものは、貴族的のもので到底一般社会の遊事にはならぬというのと、一は茶事などというものは、頗る変哲なもの、殊更に形式的なもので、要するに非常識的のものであるとなせる等である、固より茶の湯の真趣味を寸分だも知らざる社会の臆断である、そうかと思えば世界大博覧会などのある時には、日本の古代美術品と云えば真先に茶器が持出される、巴理博覧会シカゴ博覧会にも皆茶室まで出品されて居る、其外内地で何か美術に関する展覧会などがあれば、某公某伯の蔵品必ず茶器が其一部を占めている位で、東洋の美術国という日本の古美術品も其実三分の一は茶器である、 然るにも係らず、徒に茶器を骨董的に弄ぶものはあっても、真に茶を楽む人の少ないは実に残念でならぬ、上流社会腐敗の声は、何時になったらば消えるであろうか、金銭を弄び下等の淫楽に耽るの外、被服頭髪の流行等極めて浅薄なる娯楽に目も又足らざるの観あるは、誠に嘆しき次第である、それに換うるにこれを以てせば、いかばかり家庭の品位を高め趣味的の娯楽が深からんに、躁狂卑俗蕩々として風を為せる、徒に華族と称し大臣と称す、彼等の趣味程度を見よ、焉ぞ華族たり大臣たる品位あらむだ。 従令文学などの嗜みなしとするも、茶の湯の如きは深くも浅くも楽むことが出来るのである、最も生活と近接して居って最も家族的であって、然も清閑高雅、所有方面の精神的修養に資せられるべきは言うを待たない、西洋などから頻りと新らしき家庭遊技などを輸入するものは、国民品性の特色を備えた、在来の此茶の湯の遊技を閑却して居るは如何なる訳であろうか、余りに複雑で余りに理想が高過ぎるにも依るであろうけれど、今日上流社会の最も通弊とする所は、才智の欠乏にあらず学問の欠乏にあらず、人にも家にも品位というものが乏しく、金の力を以て何人にも買い得らるる最も浅薄に最も下品なる娯楽に満足しつつあるにあるのであろう、 今は種々な問題に対して、口の先筆の先の研究は盛に行われつつあるが、実行如何と顧ると殆ど空である、今日の上流社会に茶の湯の真趣味を教ゆるが如きは、彼等の腐敗を防除するには最もよき方便であろうと思うに、例の実行そっちのけの研究者は更にお気がつかぬらしい。 彼の徳川時代の初期に於て、戦乱漸く跡を絶ち、武人一斉に太平に酔えるの時に当り、彼等が割合に内部の腐敗を伝えなかったのは、思うに将軍家を始めとして大名小名は勿論苟も相当の身分あるもの挙げて、茶事に遊ぶの風を奨励されたのが、大なる原因をなしたに相違ない、勿論それに伴う弊害もあったろうけれど、所謂侍なるものが品位を平時に保つを得た、有力な方便たりしは疑を要せぬ、 今の社会問題攻究者等が、外国人に誇るべき日本の美術品と云えば、直ぐ茶器を持出すの事実あるを知りながら、茶の湯なるものが、如何に社会の風教問題に関係深きかを考えても見ないは甚だ解し難き次第じゃないか、乍併多くは無趣味の家庭に生長せる彼等は、大抵真個の茶趣味の如何などは固より知らないのであろう、従て社会問題の研究材料として茶の湯を見ることが出来なかったに違いない。 多くは一向其趣味を解せぬ所から、能くも考えずに頭から茶の湯などいうことは、堂々たる男子のすることでないかの如くに考えているらしい、歴史上の話や、茶器の類などを見せられても、今日の社会問題と関係なきものの如くに思って居る、欧米あたりから持ってきたものであれば、頗る下等な理窟臭い事でも、直ぐにどうのこうのと騒ぐのである、修養を待ず直ぐ出来るような事は何によらず浅薄なものに極って居る、吾邦唯一の美習として世界に誇るべき(恐くは世界中何れの国民にも吾邦の茶の湯の如き立派な遊技は有まい)立派な遊技社交的にも家庭的にも随意に応用の出来る此茶の湯というものが、世の識者間に閑却されて居るというは抑も如何なる訳か、 今世の有識社会は、学問智識に乏しからず、何でも能く解って居るので、口巧者に趣味とか詩とか、或は理想といい美術的といい、美術生活などと、それは見事に物を言うけれど、其平生の趣味好尚如何と見ると、実に浅薄下劣寧ろ気の毒な位である、純詩的な純趣味的な、茶の湯が今日行われないは、穴勝無理でない、当世人士の趣味と、茶の湯の趣味とは、其程度の相違が余りに甚しいからである。 今日の上流社会の邸宅を見よ、何処にも茶室の一つ位は拵らえてある、茶の湯は今日に行われて居ると人は云うであろう、それが大きな間違である、それが茶の湯というものが、世に閑却される所以であろう、いくら茶室があろうが、茶器があろうが、抹茶を立てようが、そんなことで茶趣味の一分たりとも解るものでない、精神的に茶の湯の趣味というものを解していない族に、茶の端くれなりと出来るものじゃない、客観的にも主観的にも、一に曰く清潔二に曰く整理三に曰く調和四に曰く趣味此四つを経とし食事を緯とせる詩的動作、即茶の湯である、一家の斉整家庭の調和など殆ど眼中になく、さアと云えば待合曰く何館何ホテル曰く妾宅別荘、さもなければ徒に名利の念に耽って居る輩金さえあれば誰にも出来る下劣な娯楽、これを事とする連中に茶の湯の一分たりと解るべき筈がない、茶の湯などの面白味が少しでも解る位ならば、そんな下等な馬鹿らしい遊びが出来るものでない、 故福沢翁は金銭本能主義の人であったそうだが、福翁百話の中には、人間は何か一つ位道楽がなくてはいけない、碁でも将棋でもよい、なんにも芸も道楽もない人間位始末におえないものはないというような事を云うて居る、さすがは福沢翁である、一面の観察は徹底して居る、堕落的下劣な淫楽を事とするは、趣味のない奴に極って居るのだ。 社会問題攻究論者などは、口を開けば官吏の腐敗、上流の腐敗、紳士紳商の下劣、男女学生の堕落を痛罵するも、是が救済策に就ては未だ嘗って要領を得た提案がない、彼等一般が腐敗しつつあるは事実である、併しそれらを救済せんとならば、彼等がどうして相率て堕落に赴くかということを考えねばならぬ、 人間は如何な程度のものと雖も、娯楽を要求するのである、乳房にすがる赤児から死に瀕せる老人に至るまで、それぞれ相当の娯楽を要求する、殆ど肉体が養分を要求するのと同じである、只資格ある社会の人は其娯楽に理想を持って居らねばならぬ、乍併其理想的娯楽即品位ある娯楽は、修養を持って始めて得るべきものであって、単に金銭の力のみでは到底得ることは出来ぬ、 予を以て見れば、現時上流社会堕落の原因は、 幸福娯楽、人間総ての要求は、力殊に金銭の力を以て満足せらるるものと、浅薄な誤信普及の結果である。澄むの難く濁るの易き、水の如き人間の思潮は、忽ちの内に、濁流の支配する処となった、所謂現時の上流社会なるものが、精神的趣味の修養を欠ける結果、品位ある娯楽を解するの頭脳がないのである、彼等が蕩々相率ひて、浅薄下劣な娯楽に耽るに至れるは勢の自然である、堕落するが当然であると云わねばならぬ、憐むべし彼等と雖も、生れながらの下劣性あるにあらず、彼等の誤信と怠慢とは、今日の不幸を招いだので時に自ら恥ずる感あるべきも、始め神の恵みを疎にして、下劣界に迷入せる彼等は、品性ある趣味に対すれば、却て苦痛を感ずる迄に堕落し、今に於て悔ゆるも如何とも致し難き感あるに相違ない、さりとて娯楽なしには生存し難き人間である以上、それを知りつつもお手の物なる金銭の力により、下劣浅薄な情欲を満たして居るのであろう、仏者の所謂地獄に落ちたとは彼等の如き境涯を指すものであろう、真に憐むべし、彼等は趣味的形式品格的形式を具備しながら其娯楽を味うの資格がないのである、されば今彼等を救済せようとならば、趣味の光明と修養の価値とを教ゆるのが唯一の方便である、品位ある娯楽を茶の湯に限ると云うのではない、音楽美術勿論よい、盆栽園芸大によい、歌俳文章大によい、碁でも将棋でもよい、修養を持って始めて味い得べき芸術ならば何でもよい、只其名目を弄んで精神を味ねば駄目と云う迄である、予が殊に茶の湯を挙たのは、茶の湯が善美な歴史を持って居るのと、生活に直接で家庭的で、人間に尤も普遍的な食事を基礎として居る点が、最も社会と調和し易いからである、他の品位ある多くの芸術は天才的個人的に偏して、衆と共にするということが頗る困難であるから何人にも楽むということが出来ない処がある、茶の湯は奥に高遠の理想を持って居れど、初期に常識的の部分が多く、一の統率者あれば何人も其娯楽を共にすることが出来るからである。 二 欧洲人の風俗習慣に就て、段々話を聞いて見ると、必ずしも敬服に価すべき良風許りでもない様なるが、さすがに優等民族じゃと羨しく思わるる点も多い、中にも吾々の殊に感嘆に堪えないのは、彼等が多大の興味を以て日常の食事を楽む点である、それが単に個人の嗜好と云うでなく、殆ど社会一般の風習であって、其習慣が又実に偉大なる勢力を以て、殆ど神の命令かの如くに行われつつある点である。予は未だ欧洲人に知人もなく、従て彼等の食卓に列した経験もないので其真相を知り居らぬが、種々な方面より知り得たる処では、吾国の茶の湯と其精神酷だ相似たるを発見するのである、それはさもあるべき事であろう、何ぜなれば同じ食事のことであるから其興味的研究の進歩が、遂に或方向に類似の成績を見るに至るは当然の理であるからである、日本の茶の湯はどこまでも賓主的であるが、欧州人のは賓主的にも家庭的にも行はれて甚だ自然である、日本の茶の湯は特別的であるが欧洲人のは日常の風習である、吾々の特に敬服感嘆に堪えないのは其日常の点と家庭的な点にあるのである、 人間の嗜好多端限りなき中にも、食事の趣味程普遍的なものはない、大人も小児も賢者も智者も苟も病気ならざる限り如何なる人と雖も、其興味を頒つことが出来る、此最も普遍的な食事を経とし、それに附加せる各趣味を緯とし、依て以て家庭を統一し社会に和合の道を計るは、真に神の命令と云ってもよいのであろう。殊に欧風の晩食を重ずることは深き意味を有するらしい、日中は男女老幼各其為すべき事を為し、一日の終結として用意ある晩食が行われる、それぞれ身分相当なる用意があるであろう、日常のことだけに仰山に失するような事もなかろう、一家必ず服を整え心を改め、神に感謝の礼を捧げて食事に就くは、如何に趣味深き事であろう、礼儀と興味と相和して乱れないとせば、聖人の教と雖も是には過ぎない、それが一般の風習と聞いては予は其美風に感嘆せざるを得ない、始めて此の如き美風を起せる人は如何なる大聖なりしか、勿論民族の良質に基くもの多からんも、又必ずや先覚の人あって此美風の養成普及に勉めたに相違あるまい、 栽培宜しきを得れば必ず菓園に美菓を得る如く、以上の如き美風に依て養われたる民族が、遂に世界に優越せるも決して偶然でないように思われる、欧洲の今日あるはと云わば、人は必ず政体を云々し宗教を云々し学問を云々す、然れども思うに是根本問題にはあらず、家庭的美風は、人というものの肉体上精神上、実に根本問題を解決するの力がある、其美風を有せる歌人にあっては、此研究や自覚は遠き昔に於て結了せられたであろう、多くの人は晩食に臨で必ず容儀を整え女子の如きは服装を替えて化粧をなす等形式六つかしきを見て、単に面倒なる風習事々しき形式と考え、是を軽視するの趣あれど、そは思わざるも甚しと云わねばならぬ、斯く式広を確立したればこそ、力ある美風も成立って、家庭を統一し進んで社会を支配することも出来たのである、娯楽本能主義で礼儀の精神がなければ必ず散漫に流れて日常の作法とはならぬ、是に反し礼儀を本能とした娯楽の趣味が少ければ、必ず人を飽かしめて永続せぬ、礼儀と娯楽と調和宜しきを得る処に美風の性命が存するのである、此精神が茶の湯と殆ど一致して居るのであるが、彼欧人等がそれを日常事として居るは何とも羨しい次第である、彼等が自ら優等民族と称するも決して誇言ではない、 兎角精神偏重の風ある東洋人は、古来食事の問題などは甚だ軽視して居った、食事と家庭問題食事と社会問題等に就て何等の研究もない、寧ろ食事を談ずるなどは、士君子の恥ずる処であった、(勿論茶の湯の事は別であれど)恐らくは今日でも大問題になって居るまい、世人は食事の問題と云えば衛生上の事にあらざれば、美食の娯楽を満足せしむる目的に過ぎないように思うて居る、近頃は食事の問題も頗る旺であって、家庭料理と云い食道楽と云い、随分流行を極めているらしいが、予は決してそれを悪いとは云わねど、此の如き事に熱心なる人々に、今一歩考を進められたき希望に堪えないのである、 単に美食の娯楽を満足せしむることに傾いては、家庭問題社会問題との交渉がない訳になる、勿論弦斎などの食道楽というふうには衛生問題もあり経済問題もあるらしいが、予の希望は、今少しく高き精神を以て研究せられたく思うのである、美食は美食其物に趣味も利益もあるは勿議であれど、食事の問題が只美食の娯楽を本能とするならば、到底浅薄な問題で士君子の議すべき問題ではない。 予の屡繰返す如く、欧人の晩食の風習や日本の茶の湯は美食が唯一の目的ではないは誰れも承知して居よう、人間動作の趣味や案内の装飾器物の配列や、応対話談の興味や、薫香の趣味声音の趣味相俟って、品格ある娯楽の間自然的に偉大な感化を得るのであろう加うるに信仰の力と習慣の力と之を助けて居るから、益々人を養成するの機関となるのである、 欧風の晩食と日本の茶の湯と、全然同じでないは云うまでもないが、頗る類似の点が多いと聞いて、仮りに対照して云うたまでなれど、彼の特美は家庭的日常時な点にある、茶の湯の特長は純詩的な点にある、趣味の点より見れば茶の湯は実に高いものである、家庭問題社会問題より見れば欧人の晩食人事は実に美風である、今日の茶の湯というもの固より其弊に堪えないは勿論なれど何事にも必ず弊はあるもの、暫く其弊を言わずして可。一面には純詩的な茶の湯も勿論可なれど、又一面には欧風晩食の如く、日常の人事に茶の湯の精神を加味し、如何なる階級の人にも如何なる程度の人にも其興味と感化とを頒ちたいものである、 古への茶の湯は今日の如く、人事の特別なものではない、世人の思う如く苦度々々しきものではない、変手古なものではない、又軽薄極まる形式を主としたものではない、形の通りの道具がなければ出来ないというものでもない、利休は法あるも茶にあらず法なきも茶にあらずと云ってある位である、されば聊かの用意だにあれば、日常の食事を茶の湯式にすることは雑作もないことである、只今日の日本家庭の如く食室がなくては困る、台所以外食堂というも仰山なれど、特に会食の為に作れる食堂だけは、どうしても各戸に設ける風習を起したい、それさえ出来れば跡は訳もないことである、其装飾や設備やは各分に応じて作れば却て面白いのであろう、それは四畳半の真似などをしてはいかぬ、只何時他人を迎えても礼儀と趣味とを保ち得るだけでよい、此の如き風習一度立たば、些末の形式などは自然に出来てくる一貫せる理想に依て家庭を整へ家庭を楽むは所有人事の根柢であるというに何人も異存はあるまい、食事という天則的な人事を利用してそれに礼儀と興味との調和を得せしむるという事が家庭を整へ家庭を楽むに最も適切なる良法であることは是又何人も異存はあるまい、人或はそんなことをせなくとも、家庭を整え家庭を楽むことが出来ると云はば、予はそれに反対せぬ別に良法があればそれもよろしいからである、併し予は決して他に良法のあるべきを信じない。 三 予はこう思ったことがある、茶人は愚人だ、其証拠には素人にロクな著述がない、茶人の作った書物に殆ど見るべきものがない、殊に名のある茶人には著書というもの一冊もない、であるから茶人というものは愚人である、茶は面白いが茶人は駄目である、利休や宗旦は別であるが、外の茶人に物の解った人はない様じゃ、こう一筋に考えたものであったが、今思うとそれは予の考違であった、茶の湯は趣味の綜合から成立つ、活た詩的技芸であるから、其人を待って始めて、現わるるもので、記述も議論も出来ないのが当前である、茶の湯に用ゆる建築露路木石器具態度等総てそれ自身の総てが趣味である、配合調和変化等悉く趣味の活動である、趣味というものの解釈説明が出来ない様に茶の湯は決して説明の出来ぬものである、香をたくというても香のかおりが文字の上に顕われない様な訳である、若し記述して面白い様な茶であったら、それはつまらぬこじつけ理窟か、駄洒落に極って居る、天候の変化や朝夕の人の心にふさわしき器物の取なしや配合調和の間に新意をまじえ、古書を賞し古墨跡を味い、主客の対話起座の態度等一に快適を旨とするのである、目に偏せず、口に偏せず、耳に偏せず、濃淡宜しきを計り、集散度に適す、極めて複雑の趣味を綜合して、極めて淡泊な雅会に遊ぶが茶の湯の精神である、茶の湯は人に見せるの人に聴せるのという技芸ではなく、主人それ自身客それ自身が趣味の一部分となるのである、 |
一 先刻は、小さな女中の案内で、雨の晴間を宿の畑へ、家内と葱を抜きに行った。……料理番に頼んで、晩にはこれで味噌汁を拵えて貰うつもりである。生玉子を割って、且つは吸ものにし、且つはおじやと言う、上等のライスカレエを手鍋で拵える。……腹ぐあいの悪い時だし、秋雨もこう毎日降続いて、そぞろ寒い晩にはこれが何より甘味い。 畑の次手に、目の覚めるような真紅な蓼の花と、かやつり草と、豆粒ほどな青い桔梗とを摘んで帰って、硝子杯を借りて卓子台に活けた。 ……いま、また女中が、表二階の演技場で、万歳がはじまるから、と云って誘いに来た。――毎日雨ばかり続くから、宿でも浴客、就中、逗留客にたいくつさせまい心づかいであろう。 私はちょうど寝ころんで、メリメエの、(チュルジス夫人)を読んでいた処だ。真個はこの作家のものなどは、机に向って拝見をすべきであろうが、温泉宿の昼間、掻巻を掛けて、じだらくで失礼をしていても、誰も叱言をいわない処がありがたい。 が、この名作家に対しても、田舎まわりの万歳芝居は少々憚る。……で、家内だけ、いくらかお義理を持参で。――ただし煙草をのませない都会の劇の義理見ぶつに切符を押つけられたような気味の悪いものではない。出来秋の村芝居とおなじ野趣に対して、私も少からず興味を感ずる。――家内はいそいそと出て行った。 どれ、寝てばかりもおられまい。もう二十日過だし少し稼ごう。――そのシャルル九世年代記を、わが文化の版、三馬の浮世風呂にかさねて袋棚にさしおいた。――この度胸でないと仕事は出来ない。――さて新しい知己(その人は昨日この宿を立ったが)秋庭俊之君の話を記そう。…… 中へ出る人物は、芸妓が二人、それと湘南の盛場を片わきへ離れた、蘆の浦辺の料理茶屋の娘……と云うと、どうも十七八、二十ぐらいまでの若々しいのに聞えるので、一寸工合が悪い。二十四五の中年増で、内証は知らず、表立った男がないのである。京阪地には、こんな婦人を呼ぶのに可いのがある。(とうはん)とか言う。……これだと料理屋、待合などの娘で、円髷に結った三十そこらのでも、差支えぬ。むかしは江戸にも相応しいのがあった、娘分と云うのである。で、また仮に娘分として、名はお由紀と云うのと、秋庭君とである。 それから、――影のような、幻のような、絵にも、彫刻にも似て、神のような、魔のような、幽霊かとも思われる。……歌の、ははき木のような二人の婦がある。 時は今年の真夏だ。―― これから秋庭君の直話を殆どそのままであると云って可い。 二 「――さあ、あれは明治何年頃でありましょうか。……新橋の芸妓で、人気と言えば、いつもおなじ事のようでございますが、絵端書や三面記事で評判でありました。一対の名妓が、罪障消滅のためだと言います。芸妓の罪障は、女郎の堅気も、女はおなじものと見えまして、一念発起、で、廻国の巡礼に出る。板橋から中仙道、わざと木曾の山路の寂しい中を辿って伊勢大和めぐり、四国まで遍路をする。……笈も笠も、用意をしたと、毎日のように発心から、支度、見送人のそれぞれまで、続けて新聞が報道して、えらい騒ぎがありました。笈摺菅笠と言えば、極った巡礼の扮装で、絵本のも、芝居で見るのも、実際と同じ姿でございます。……もしこれが間違って、たとい不図した記事、また風説のあやまりにもせよ、高尚なり、意気なり、婀娜なり、帯、小袖をそのままで、東京をふッと木曾へ行く。……と言う事であったとしますと、私の身体はその時、どうなっていたか分りません。 尚おその上、四国遍路に出る、その一人が円髷で、一人が銀杏返だったのでありますと、私は立処に杓を振って飛出したかも知れません。ただし途中で、桟道を踏辷るやら、御嶽おろしに吹飛されるやら、それは分らなかったのです。 御存じとは思いますが、川越喜多院には、擂粉木を立掛けて置かないと云う仕来りがあります。縦にして置くと変事がある。むかし、あの寺の大僧正が、信州の戸隠まで空中を飛んだ時に、屋の棟を、宙へ離れて行く。その師の坊の姿を見ると、ちょうど台所で味噌を摺っていた小坊主が、擂粉木を縦に持ったまま、破風から飛出して雲に続いた。これは行力が足りないで、二荒山へ落こちたと言うのです。 私にしても、おなじ運命かも知れません。別嬪が二人、木曾街道を、ふだらくや岸打つ浪と、流れて行く。岨道の森の上から、杓を持った金釦が団栗ころげに落ちてのめったら、余程……妙なものが出来たろうと思います。 些と荒唐無稽に過ぎるようですが、真実で、母可懐く、妹恋しく、唯心も空に憧憬れて、ゆかりある女と言えば、日とも月とも思う年頃では、全く遣りかねなかったのでございます。――幼いうちから、孤だった私は、その頃は、本郷の叔父のうちに世話になって、――大学へ通っていました。……文科です。 幸ですか、如何だか、単に巡礼とばかりで、その芸妓たちの風俗から、円髷と銀杏返と云う事を見出さなかったばかりに、胸を削るような思ばかりで済みました。 もとより、円髷と銀杏返と、一人ずつ、別々に離れた場合は、私に取って何事もないのです。――申すまでもない事で、円髷と銀杏返を見るたびに、杓を持って追掛けるのでは、色情狂を通り越して、人間離れがします、大道中で尻尾を振る犬と隔りはありません。 それに、私が言う不思議な婦は、いつも、円髷に結った方は、品がよく、高尚で、面長で、そして背がすらりと高い。色は澄んで、滑らかに白いのです。銀杏返の方は、そんなでもなく、少し桃色がさして、顔もふっくりと、中肉……が小肥りして、些と肩幅もあり、較べて背が低い。この方が、三つ四つ、さよう、……どうかすると五つぐらい年紀下で。縞のきものを着ている。円髷のは、小紋か、無地かと思う薄色の小袖です。 思いもかけない時、――何処と言って、場所、時を定めず、私の身に取って、彗星のように、スッとこの二人の並んだ姿の、顕れるのを見ます時の、その心持と云ってはありません。凄いとも、美しいとも、床しいとも、寂しいとも、心細いとも、可恐いとも、また貴いとも、何とも形容が出来ないのです。 唯今も申した通り、一人ずつ別に――二人を離して見れば何でもありません。並んで、すっと来るのを、ふと居る処を、或は送るのを見ます時にばかり、その心持がしますのです。」 著者はこれを聞きながら、思わず相対っていて、杯を控えた。 ――こう聞くと、唯その二人立並んだ折のみでない。二人を別々に離しても、円髷の女には円髷の女、銀杏返の女には銀杏返の女が、他に一体ずつ影のように――色あり縞ある――影のように、一人ずつ附いて並んで、……いや、二人、三人、五人、七人、おなじようなのが、ふらふらと並んで見えるように聞き取られて、何となく悚然した。 三 「はじめて、その二人の婦を見ましたのは、私が八つ九つぐらいの時、故郷の生家で。……母親の若くてなくなりました一周忌の頃、山からも、川からも、空からも、町に霙の降りくれる、暗い、寂しい、寒い真夜中、小学校の友だちと二人で見ました。――なまけものの節季ばたらきとか言って、試験の支度に、徹夜で勉強をして、ある地誌略を読んでいました。――白山は北陸道第一の高山にして、郡の東南隅に秀で、越前、美濃、飛騨に跨る。三峰あり、南を別山とし、北を大汝嶽とし、中央を御前峰とす。……後に剣峰あり、その状、五剣を植るが如し、皆四時雪を戴く。山中に千仞瀑あり。御前峰の絶壁に懸る。美女坂より遥に看るべし。しかれども唯飛流の白雲の中より落るを見るのみ、真に奇観なり。この他美登利池、千歳谷――と、びしょびしょと冷く読んでいると、しばらく降止んで、ひっそりしていたのが急にぱらぱらと霰になった。霰……横の古襖の破目で真暗な天井から、ぽっと燈明が映ります。寒さにすくんで鼠も鳴かない、人ッ子の居ない二階の、階子段の上へ、すっとその二人の婦が立ちました。縞の銀杏返の方のが硝子台の煤けた洋燈を持っています。ここで、聊でも作意があれば、青い蝋燭と言いたいのですが、洋燈です。洋燈のその燈です、その燈で、円髷の婦の薄色の衣紋も帯も判然と見えました。あッと思うと、トントン、トントンと静な跫音とともに階子段を下りて来る。キャッと云って飛上った友だちと一所に、すぐ納戸の、父の寝ている所へ二人で転り込みました。これが第一時の出現で、小児で邪気のない時の事ですから、これは時々、人に話した事がありますが。 翌年でしたか、また秋のくれ方に、母のない子は、蛙がなくから帰ろ、で、一度別れた友だちを、尚おさみしさに誘いたくって、町を左隣家の格子戸の前まで行くと、このしもた屋は、前町の大商人の控屋で、凡そ十人ぐらいは一側に並んで通ることの出来る、広い土間が、おも屋まで突抜けていると言うのですが、その土間と、いま申した我家の階子段とは、暗い壁一重になっていました。 稚い時は、だから、よく階子の中段に腰を掛けて、壁越に、その土間を歩行く跫音や、ものいう人声を聞いて、それをあの何年何月の間か、何処までも何処までもほり抜くと、土一皮下に人声がして、遠くで鶏の鳴くのが聞えたと言う、別の世界の話声が髣髴として土間から漏れる。……小児ごころに、内の階子段は、お伽話の怪い山の、そのまま薄暗い坂でした。――そこが、いまの隣家の格子戸から、間を一つ框に置いて、大な穴のように偶と見えました。――その口へ、円髷の婦がふっと立つ。同時に並んでいた銀杏返のが、腰を消して、一寸足もとの土間へ俯向きました。これは、畳を通るのに、駒下駄を脱いで、手に持つのだ、と見る、と……そのしもた家へ、入るのではなくて、人の居ない間を通抜けに、この格子戸へ出ようとするのだ、何故か、そう思うと、急に可恐くなって、一度、むこうへ駈出して、また夢中で、我家へ遁込んで了いました。 二年ばかり経ってからです。父のために、頻に後妻を勧めるものがあって、城下から六七里離れた、合歓の浜――と言う、……いい名ですが、土地では、眠そうな目をしたり、坐睡をひやかす時に(それ、ねむの浜からお迎が。)と言います。ために夢見る里のような気がします。が、村に桃の林があって、浜の白砂へ影がさす、いつも合歓の花が咲いたようだと言うのだそうです。その浜の、一向寺の坊さんの姪が相談の後妻になるので、父に連れられて行きました。生れてから三里以上歩行いたのは、またその時がはじめてです。母さんが出来ると云うので、いくら留められても、大きな草鞋で、松並木を駈けました。庵のような小寺で、方丈の濡縁の下へ、すぐに静な浪が来ました。尤もその間に拾うほどの浜はあります。――途中建場茶屋で夕飯は済みました――寺へ着いたのは、もう夜分、初夏の宵なのです。行燈を中にして、父と坊さんと何か話している。とんびずわりの足を、チクチク蚊がくいます、行儀よくじっとしてはいられないから、そこは小児で、はきものとも言わないで縁からすぐに浜へ出ました。……雪国の癖に、もう暑い。まるッ切風がありません。池か、湖かと思う渚を、小児ばかり歩行いていました。が、月は裏山に照りながら海には一面に茫と靄が掛って、粗い貝も見つからないので、所在なくて、背丈に倍ぐらいな磯馴松に凭懸って、入海の空、遠く遥々と果しも知れない浪を見て、何だか心細さに涙ぐんだ目に、高く浮いて小船が一艘――渚から、さまで遠くない処に、その靄の中に、影のような婦が二人――船はすらすらと寄りました。 舷に手首を少し片肱をもたせて、じっと私を視たのが円髷の婦です、横に並んで銀杏返のが、手で浪を掻いていました。その時船は銀の色して、浜は颯と桃色に見えた。合歓の花の月夜です。――(やあ父さん――彼処に母さんと、よその姉さんが。……)――後々私は、何故、あの時、その船へ飛込まなかったろうと思う事が度々あります。世を儚む時、病に困んだ時、恋に離れた時です。……無論、船に入ろうとすれば、海に溺れたに相違ない。――彼処に母さんと、よその姉さんが、――そう言って濡縁に飛びついたのは、まだ死なない運命だったろう、と思います。 言うまでもありませんが、後妻のことは、其処でやめになりました。 可厭な、邪慳らしい、小母さんが行燈の影に来て坐っていましたもの。……」 俊之君は、話しかけて、少時思にふけったようであった。 「……その後、時を定めず、場所を択ばず、ともするとその二人の姿を見た事があるのです。何となく、これは前世から、私に附纏っている、女体の星のように思われます。――いえ、それも、世俗になずみ、所帯に煩わしく、家内もあるようになってからは、つい、忘れ勝……と言うよりも、思出さない事さえ稀で、偶に夢に視て、ああ、また(あの夢か。)と、思うようになりました。 ――処が、この八月の事です―― 寺と海とが離れたように、間を抜いてお話しましょう。が、桃のうつる白妙の合歓の浜のようでなく、途中は渺茫たる沙漠のようで。……」 四 「東京駅で、少し早めに待合わして。……つれはまだかと、待合室からプラットホオムを出口の方へ掛った処で、私はハッと思いました。……まだ朝のうちだが、実に暑い。息苦しいほどで、この日中が思遣られる。――海岸へ行くにしても、途中がどんなだろう。見合せた方がよかった、と逡巡をしたくらいですから、頭脳がどうかしていはしないかと、危みました。 あの、いきれを挙げる……むッとした人混雑の中へ――円髷のと、銀杏返のと、二人の婦が夢のように、しかも羅で、水際立って、寄って来ました。(あら。)と莞爾して、(お早う。)と若い方が言うと、年上の上品なのは、一寸俯目に頷くようにして、挨拶しました。」 ――先刻は、唯、芸妓が二人、と著者は記した。――俊之君は、「年増と若いの。」と云って話したのである。が、ここに記しつつ思うのに、どうも、どっちも――これから後も――それだと、少なくとも、著者がこの話についてうけた印象に相当しない。更めて仮に姉と、妹としようと思う。…… 「私は目が覚めたように、いや、龍宮から東京駅へ浮いて出た気がしました。同時に、どやどや往来する人脚に乱れて二人は、もう並んではいません。私と軽い巴になって、立停りましたので。……何の秘密も、不思議もない。――これが約束をした当日の同伴なので。……実は昨夜、或場所で、余りの暑さだから、何処かいき抜きに、そんなに遠くない処へ一晩どまりで、と姉の方から話が出たので、可かろう、翌日にも、と酒の勢で云ったものの、用もたたまっていますし、さあ、どうしようか、と受けた杯を淀まして、――四五日経ってからの方が都合は可いのだがと、煮切らない。……姉さんは温和だから、ええええ御都合のいい時で結構。で、杯洗へ、それなり流れようとした処へ、(何の話?……)と、おくれて来た妹が、いきなり、(明日が可い、明日になさい、明日になさい、ああこう云ってると、またお流れになる。)そこで約束が極って、出掛ける事になったのです。――昨夜の今朝ですもの、その二人を、不思議に思うのが却って不思議なくらいで。いや自然の好は妙なものだ、すらりとした姉の方が、細長い信玄袋を提げて、肩幅の広い、背の低い方が、ポコンと四角張って、胴の膨れた鞄を持っている、と、ふとおかしく思うほど、幻は現実に、お伽の坊やは、芸妓づれのいやな小父さんになりましたよ。 乗込んでから、またどうか云う工合で、女たちが二人並ぶか、それを此方から見る、と云った風になると、髪の形ばかりでも、菩提樹か、石榴の花に、女の顔した鳥が、腰掛けた如くに見えて、再び夢心に引入れられもしたのでありましょうけれど、なかなか、そんな事を云っていられる混雑方ではなかったのです。 折からの日曜で、海岸へ一日がえりが、群り掛る勢だから、汽車の中は、さながら野天の蒸風呂へ、衣服を着て浸ったようなありさまで。……それでも、当初乗った時は、一つ二つ、席の空いたのがありました。クションは、あの二人ずつ腰を掛ける誂ので、私は肥満した大柄の、洋服着た紳士の傍、内側へ、どうやら腰が掛けられました。ちょうど、椅子を開いて向合に一つ空席がありましたので、推されながら、この真中ほどへ来た女たちが、 |
現時の画界は未だ根本の方針が定まっているということは出来ません。あたかも混沌の時代の感があります。何々式とか何々型とか随分雑多な流派が生まれては消え消えては生まれております。作家がこうも猫の眼玉のように筆法を変えていては、とても自己本来の内心に深く滲透した芸術を創り出すということは出来ません。誰かが片暈の手法を創めれば、即刻にこれを模倣して新しい絵を気取ろうとするは甚だ狭量なことであります。またこんな雷同的な作家を煽動している批評家もそうであります。新しい形式のみを讃めるということが強ち自己の鑑識を高めるものではありません。唯に新しき批評家を以て、自称せんがために、純然たる自分の要求を裏切って、片暈やじじこましのようなものを讃めているのは自己を侮辱しているわけであります。 殊に女流作家の中には、自分で真剣に絵を描いているのか他から強いられて絵を描いているのか、さっぱり見当もつかない怪しげなものが沢山におります。銘々の婦人に幾何の共通な方向があって、制作を規定したり、撰択したりするのかは知りませんが、こうも現代の女流画家のように誰も彼も同じような美人画が出来ようとは思われません。それが本当に自己の内奥に潜む力の発現として作家を容型しているものならばたとえ似交った多くの美人画の中にも厳然と相容れざる特異な相が現われていなければなりません。いったい現代では「女絵かき」が一種の流行になっているのではないかと思われます。みんなで成り上ってしまって、自分勝手に躍り狂っているのでありますから、自ら開拓して芸術の殿堂を建立しようなんてことはとても覚つかないことであります。 我が国では昔から女が絵を習うということは極く稀なことでありましたが、近頃は頓にその数を増しております。私は思いますに、これは新聞や雑誌が無頓着にも誰れ彼れとなしに持ち上げて、その貧しい作品を載せたり写真を掲げたりするものでありますから、地方の若い人々の心がそそり立っているのであります。現代の若い作家がそんな浮いた心で絵かきになったものか、とんと独創に閃く作品は見ることは出来ません。文展に第二回第三回と美人画が出れば、その後の婦人の絵かきは誰れも彼れも美人画でなければ夜も日も明けないように思っているのであります。皆が皆女は美人画が好きだということはありません。それぞれの有ち前の個性から花鳥とか山水とかを描くべきであります。 私もよく美人画を描きますが、元来美人画が好きでありまして、ただもうこう出て来なければならないという道を選んだわけであります。私は今の美術学校の前身である画学校で絵を習いましたが、その時分の先生が鈴木松年さんで、なかなか筆の固い人で、虎とか羅漢とか松とかと、そんなものばかり描いておられました。私は初めから美人画が好きでありましたが、こういう先生のもとにいたものでありますから、てんで美人画の手本などというようなものはありませんでした。絵を習う順序としては梅の枝とか鳥とかを卒えてでないと人物は習えないものとしてあったのであります。私はこんな順序に拘泥せずしかも手本もなしに美人画を腕に摂め込むまでには、じかに写生などをして種々に苦心しました。 |
僕が講演旅行へ出かけたのは今度里見弴君と北海道へ行つたのが始めてだ。入場料をとらない聴衆は自然雑駁になりがちだから、それだけでも可也しやべり悪い。そこへ何箇所もしやべつてまはるのだから、少からず疲れてしまつた。然し講演後の御馳走だけは里見君が勇敢に断つてくれたから、おかげ様で大助かりだつた。 改造社の山本実彦君は僕等の小樽にゐた時に電報を打つてよこした。こちらはその返電に「クルシイクルシイヘトヘトダ」と打つた。すると市庁の逓信課から僕等に電話がかかつてきた。僕は里見君のラジオ・ドラマのことかと思つたから、早速電話器を里見君に渡した。里見君は「ああ、さうです。ええ、さうです」とか何とか云ひながら、くすくすひとり笑つてゐた。それから僕に「莫迦莫迦しいよ、クルシイクルシイですか、ヘトヘトだですかときいて来たんだ。」と云つた。こんな電報を打つたものは小樽市始まつて以来なかつたのかも知れない。 講演にはもう食傷した。当分はもうやる気はない。北海道の風景は不思議にも感傷的に美しかつた。食ひものはどこへたどり着いてもホツキ貝ばかり出されるのに往生した。里見君は旭川でオムレツを食ひ、「オムレツと云ふものはうまいもんだなあ」としみじみ感心してゐただけでも大抵想像できるだらう。 雪どけの中にしだるる柳かな |
二十五年という歳月は一世紀の四分の一である。決して短かいとは云われぬ。此の間に何十人何百人の事業家、致富家、名士、学者が起ったり仆れたりしたか解らぬ。二十五年前には大外交家小村侯爵はタシカ私立法律学校の貧乏講師であった。英雄広瀬中佐はまだ兵学校の寄宿生であった。 二十五年前には日清、日露の二大戦役が続いて二十年間に有ろうと想像したものは一人も無かった。戦争を予期しても日本が大勝利を得て一躍世界の列強に伍すようになると想像したものは一人も無かった。それを反対にいつかは列強の餌食となって日本全国が焦土となると想像したものは頗る多かった。内地雑居となった暁は向う三軒両隣が尽く欧米人となって土地を奪われ商工業を壟断せられ、総ての日本人は欧米人の被傭者、借地人、借家人、小作人、下男、下女となって惴々焉憔々乎として哀みを乞うようになると予言したものもあった。又雑婚が盛んになって総ての犬が尽く合の子のカメ犬となって了ったように、純粋日本人の血が亡びて了うと悲観した豪い学者さえあった。国会とか内地雑居とかいうものが極楽のように喜ばれたり地獄のように恐れられたりしていた。 二十五年前には東京市内には新橋と上野浅草間に鉄道馬車が通じていたゞけで、ノロノロした痩馬のガタクリして行く馬車が非常なる危険として見られて「お婆アさん危いよ」という俗謡が流行った。電灯が試験的に点火されても一時間に十度も二十度も消えて実地の役に立つものとは誰も思わなかった。電話というものは唯実験室内にのみ研究されていた。東海道の鉄道さえが未だ出来上らないで、鉄道反対の気焔が到る処の地方に盛んであった。 二十五年前には思想の中心は政治であった。文学が閑余の遊戯として見られていたばかりでなく、倫理も哲学も学者という小団体の書斎に於ける遊戯であった。科学の如きは学校教育の一課目とのみ見られていた。真に少数なる読書階級の一角が政治論に触るゝ外は一般社会は総ての思想と全く没交渉であって、学術文芸の如きは遊戯としての外は所謂聡明なる識者にすら顧みられなかった。 二十五年前には文学士春の屋朧の名が重きをなしていても、世間は驚異の目を睜って怪しんだゝけで少しも文学を解していなかった。議会の開けるまで惰眠を貪るべく余儀なくされた末広鉄腸、矢野竜渓、尾崎咢堂等諸氏の浪花節然たる所謂政治小説が最高文学として尊敬され、ジュール・ベルネの科学小説が所謂新文芸として当時の最もハイカラなる読者に款待やされていた。 二十五年前には外山博士が大批評家であって、博士の漢字破りの大演説が樗牛のニーチェ論よりは全国に鳴響いた。博士は又大詩人であって『死地に乗入る六百騎』というような韻文が当時の青年の血を湧かした。 二十五年前には琴や三味線の外には音楽というものが無かった。オルガンやヴヮイオリンは学校の道具であって、音楽学校の養成する音楽者というは『蛍の光』をオルガンで弾く事を知ってる人であった。音楽会を開いて招待しても嘆願しても聞きに来る人は一人も無かった。 二十五年前には日本の島田や丸髷の目方が何十匁とか何百匁とかあって衛生上害があるという理由で束髪が行われ初め、前髪も鬢も髦も引詰めて小さく結んで南京玉の網を被せたのが一番のハイカラであった。 二十五年前には「国民之友」が漸く生れたばかりで、徳富蘇峰氏が志賀、三宅両氏と共に並称せられた青年文人であった。硯友社は未だ高等学校内の少年の団体であって世間に顔出ししてなかった。依然として国文及び漢文が文学の中堅として見られていた。 二十五年前には今の日比谷の公園の片隅に、昔の大名の長屋の海鼠壁や二の字窓が未だ残っていた。今の学者町たる本郷西片町は開けたばかりで広い〳〵原の彼地此地にポツポツ家が建ち初めた。西片町の下の植物園の近所には田があった。東京の到る処に昔の江戸の残り物があった。 二十五年は顧みると早いようだが、中々長い歳月である。大抵な大事業は計劃せられ、実行せられ、終結せられて十分余りある。昔の悠長な時代さえ前九年後三年、十二年で東北征伐の大遠征を終ってる。平家が亡びたのは其の勃興したる平治から初めて檀の浦の最後までが二十七年、頼政の旗上げから数えるとたった六七年である。南朝五十七年も其前後の準備や終結を除いた正味は二十五年ぐらいなものであろう。世界を震撼した仏国革命も正味は六七年間である。千七百八十九年の抑々の初めから革命終って拿破烈翁に統一せられた果が、竟にウワータールーの敗北(千八百十五年)に到るまでを数えても二十六年である。米国の独立戦争もレキシントンから巴黎条約までが七年間である。如何なる時代の歴史の頁を繙いて見ても二十五年間には非常なる大事件が何度も繰返されている。如何なる大破壊も如何なる大建設も二十五年間には優に楽々と仕遂げ得られる。一国一都市の勃興も滅亡も一人一家の功名も破滅も二十五年間には何事か成らざる事は無い。 博文館は此の二十五年間を経過した。当時本郷の富坂の上に住っていた一青年たる小生は、壱岐殿坂を九分通り登った左側の「いろは」という小さな汁粉屋の横町を曲ったダラダラ坂を登り切った左側の小さな無商売屋造りの格子戸に博文館の看板が掛っていたのを記憶している。小生は朝に晩に其家の前を何度も通行した。此の小さな格子戸の中で日本の出版界の革命が計劃されていたとは誰しも想像しなかったろう。 「日本大家論集」という博文館の最初の試みの雑誌が物議を生じた。其結果、出版法だか新聞雑誌条例だかの一部が修正された。博文館は少くも世間を騒がし驚かした一事に於て成功した。小生は此の「大家論集」の愛読者であった。小生ばかりでなく、当時の貧乏なる読書生は皆此の「大家論集」の恩恵を感謝したであろう。 博文館が此の揺籃地たる本郷弓町を離れて日本橋の本町――今の場所では無い、日本銀行の筋向うである――に転じたのは、之より二年を経たる明治二十二年であったと記憶する。博文館の活動は之から以後一層目鮮しかったので、事毎に出版界のレコードを破った。茲で小生は博文館の頌徳表を書くのでないから、一々繰返して讃美する必要は無いが、博文館が日本の雑誌界に大飛躍を試みて、従来半ば道楽仕事であった雑誌をビジネスとして立派に確立するを得せしめ、且雑誌の編纂及び寄書に対する報酬をも厚うして、夫までは殆んど道楽だった操觚をしてプロフェッショナルとしても亦存在し得るような便宜を与えたのは日本の文芸の進歩を助くるに大に力があったのを何人も認めずにはおられぬだろう。 今日では新聞紙の発行が一つのビジネスであるのを何人も怪まないであろう。成島柳北や沼間守一が言論の機関としていた時代と比べて之を堕落と云うものあらば時代を解せざる没分暁の言として見らるゝであろう。其通りに雑誌も亦一つのビジネスであるが、二十五年前には僅に「経済雑誌」、「団々珍聞」等二三の重なる雑誌でさえが其執筆者又は寄書家に相当の報酬を支払うだけの経済的余裕は無かったので、当時の雑誌の存在は実は操觚者の道楽であって、ビジネスとして立派に成立していたのでは無かった。従って操觚者が報酬を受くる場合は一冊の著述をする外なく衣食を助くる道は頗る狭くして完全に生活する事が極めて難かしかった。雑誌がビジネスとして立派に成立し、操觚者がプロフェッショナルとして完全に存在するを得るに到ったは畢竟時代の進歩であるが、博文館が此の趨勢に乗じて率先してビジネスとしての雑誌を創め各方面の操觚者を集めてプロフェッショナルとしても存在し得る便宜を与えたる功績は決して争われないであろう。 凡そ何に由らず社会に存在して文明に寄与するの成績を挙げ得るは経済的に独立するを得てからである。誰やらが『我は小説家たるを栄とす』と声言したのは小説家として立派に生活するを得る場合に於て意味もあり権威もあるので、若し小説家がいつまでも十八世紀のグラッブ・ストリートの生活を離るゝ能わずして一生慈善家の糧を仰ぐべく余儀なくさるゝならば、『我は小説家たるを栄とす』という声言は寧ろ滑稽であろう。 『我は米塩の為めに書かず』というは文人としての覚悟として斯うなくてはならぬ。又文人に限らず、如何なる職業にしろ、単に米塩の為め働くというのは生活上非合理であって、米塩は其職業に労力した結果として自ずから齎らさるゝものでなければならぬ。然るに文学上の労力がイツマデも過去に於ける同様の事情でイクラ骨を折っても米塩を齎らす事が無かったなら、『我は米塩の為め書かず』という覚悟が無意味となって、或は一生涯文学に志ざしながら到頭文学の為め尽す事が出来ずに終るかも知れぬ。 過去に於ける文学は多くは片商売であって、今日依然光輝を垂れてる大傑作は大抵米塩の為め書いたものでないのは明かであるが、此の過去の事実を永遠に文人に強いて文学の労力に対しては相当の報賞を与うるを拒み、文人自らが『我は米塩の為め書かず』というは猶お可なれども、社会が往々『大文学はパンの為めに作られず』と称して文人の待遇を等閑視するは頗る不当の言である。 今日の社会は経済的関係なるが故に、士農工商如何なる職業のものも生活を談じ米塩を説いて少しも憚からず。然るに独り文人が之を口にする時は卑俗視せられて、恰も文人に限りては労力の報酬を求むる権利が無いように看做されてる。文人自身も亦此の当然の権利を主張するを陋なりとする風があって、較やもすれば昔の志士や隠遁家の生活をお手本としておる。 世界の歴史に特筆されべき二大戦役を通過した日本の最近二十五ヵ年間は総てのものを全く一変して、恰も東京市内に於ける旧江戸の面影を尽く亡ぼして了ったと同様に、有らゆる思想にも亦大変革を来したが、生活に対する文人の自覚は其の重なる事象の一つであろう。 二十五年前には文学は一つの遊戯と見られていた。しかも漢詩漢文や和歌国文は士太夫の慰みであるが、小説戯曲の如きは町人遊冶郎の道楽であって、士人の風上にも置くまじきものと思われていた故、小説戯曲の作者は幇間遊芸人と同列に見られていた。勧善懲悪の旧旗幟を撞砕した坪内氏の大斧は小説其物の内容に対する世人の見解を多少新たにしたが、文人其者を見る眼を少しも変える事が出来なかった。夫故、国会開設が約束せられて政治休息期に入っていた当時、文学に対する世間の興味は俄に沸湧して、矢野とか末広とか柴とかいう政治界の名士が続々文学に投じて来たが、丁度仮装会の興に浮れて躍り狂っていたようなもので、文人其者の社会的価値を認めたからではなかった。であるから政治家の変装たるヂレスリーの亜流を随喜しておっても、真の文人たるヂッケンスやサッカレーに対しては何等の注意を払わなかった。当時の文学革新は恰も等外官史の羽織袴を脱がして洋服に着更えさせたようなもので、外観だけは高等官吏に似寄って来たが、依然として月給は上らずに社会から矢張り小使同様に見られていたのである。 坪内氏が相当に尊敬せられていたのは文学士であったからで、紅葉や露伴は如何に人気があっても矢張り芸人以上の待遇は得られなかったのである。団十郎が人に褒められても「役者にしては意外な人物だよ、」と云われた通りに、紅葉や露伴の感服されたのも「小説家にしては――」という条件付きであったのである。 三文文学とか「チープ・リテレチュア」とかいう言葉は今でも折々繰返されてるが、斯ういう軽侮語を口にするものは、今の文学を研究して而して後鑑賞するに足らざるが故に軽侮するのではなくて、多くは伝来の習俗に俘われて小説戯曲其物を頭から軽く見ているからで、今の文学なり作家なりを理解しているのでは無い。イブセンやトルストイが現われて来ても渠等は矢張り三文文学、チープ・リテレチュアを口にするであろう。 然るに不思議なるは二十何年前には文人自身すら此の如き社会的軽侮を受くるを余り苦にしないで、文人の生活は別世界なりとし、此の別世界中の理想たる通とか粋とかを衒って社会と交渉しないのを恰も文人としての当然の生活なるかのように思っていた。 渠等の多くは京伝や馬琴や三馬の生活を知っていた。売薬や袋物を売ったり、下駄屋や差配人をして生活を営んでる傍ら小遣取りに小説を書いていたのを知っていた、今日でこそ渠等の名は幕府の御老中より高く聞えてるが其生存中は袋物屋の旦那であった、下駄屋さんであった、差配の凸凹爺であった。社会の公民としては何等の位置も権力も無かったのである。渠等が幅を利かすは本屋や遊里や一つ仲間の遊民に対する場合だけであって、社会的には袋物屋さん下駄屋さん差配さんたるより外仕方が無かったのである。 斯ういう生活に能く熟している渠等文人は、小説や院本は戯作というような下らぬもので無いという事が坪内君や何かのお庇で解って来ても、社会的には職業として完全に独立出来ず、位置も資格も権力も無い遊民と見られていても当然の事として少しも怪まなかった。加うるに持って生れた通人病や粋人癖から求めて社会から遠ざかって、浮世を茶にしてシャレに送るのを高しとする風があった。当時の硯友社や根岸党の連中の態度は皆是であった。 尤も伝来の遺習が脱け切れなかった為めでもあるが、一つには職業としての文学の存立が依然として難かしいのが有力なる大原因となっておる。今より二十何年前にはイクラ文人が努力しても、文人としての収入は智力上遥に劣ってる労働階級にすら及ばないゆえ、他の生活の道を求めて文学を片商売とするか、或は初めから社会上の位置を度外して浮世を茶にして自ら慰めるより外仕方が無かったのである。 勿論、今日と雖も文人の生活は猶お頗る困難であるが二十何年前には新聞社内に於ける文人の位置すら極めて軽いもので、紅葉の如き既に相当の名を成してから読売新聞社に入社したのであるが、猶お決して重く待遇されたのでは無かった。シカモ文人として生活するには薄い待遇を忍んで新聞記者となるより外に道が無かった。今日の如く雑誌の寄書家となって原稿料にて生活する事は全く不可能であった。偶々二三の人が著述に成功して相当の産を作った例外の例があっても、斯ういう文壇の当り屋でも今日の如く零細なる断片的文章を以てパンに換える事は決して出来なかった。 夫故、当時に在っては文人自身も文学を以て生活出来ると思わなかった。文人が公民権が無くとも、代議士は愚か区会議員の選挙権が無くとも、社会的には公人と看做されないで親族の寄合いに一人前の待遇を受けなくとも文人自身からして不思議と思わなかった。寧ろ文人としては社会から無能者扱いを受けるのを当然の事として、残念とも思わず、憤慨するものも無かった。 今より十七八年前、誰やらが『我は小説家たるを栄とす』と放言した時、頻りに其の意気の壮んなるに感嘆されたが、此の放言が壮語として聞かれ、異様に響きて感嘆さるゝ間は小説家の生活は憐むべきものであろう。が、当時は此の壮語を吐いて憤悶を洩らすものは一人も無かったのである。 博文館の雑誌経営が成功して、雑誌も亦ビジネスとして立派に存立し得る事が証拠立てられてから、有らゆる出版業者は皆奮って雑誌を発行した。文人が活動し得る舞台が著るしく多くなった。文人は最早非常なる精力を捧ぐる著述に頼らなくても習作的原稿、断片的文章に由て生活し得るようになった。文人は最早新聞社の薄い待遇にヒシ〳〵と縛られずとも自由に楽んでパンを得る事が出来るようになった。 斯うなると文人は袋物屋さんや下駄屋さんや差配人さんを理想とせずとも済む。文人は文人として相当に生活できる。仮令猶お立派に門戸を張る事が出来なくとも、他の腰弁生活を羨むほどの事は無い。公民権もある、選挙権もある。市の廓清も議院の改造も出来る。浮世を茶にせずとも自分の気に入るように革新出来ぬ事は無い。文人の生活は昔とは大に違っている。今日では何も昔のように社会の落伍者、敗北者、日蔭者と肩身を狭く謙り下らずとも、公々然として濶歩し得る。今日の文人は最早社会の寄生虫では無い、食客では無い、幇間では無い。文人は文人として堂々社会に対する事が出来る。 今日の若い新らしい作家の中には二十五六年前には未だ生れない人もある。其大部分は幼稚園若くは尋常一二年の童児であったろう。此の時代、文人の収入を得る道が乏しく、文人が職業として一本立ちする能わず、如何に世間から軽侮せられ、歯いされなかったかは今の若い作家たちには十分レハイズする事が出来ぬであろう。今日でも文学は他の職業と比べて余り喜ばれないのは事実である。が、然し乍ら今日では不利益なる職業と見らるゝだけであるが、二十五六年前には無頼者の仕事と目されていた。最も善意に解釈して呉れる人さえが打つ飲む買うの三道楽と同列に見て、我々文学に親む青年は、『文学も好いが先ず一本立ちに飯が喰えるようになってからの道楽だ』と意見されたものだ。夫が今日では大学でも純粋文学を教授し、文部省には文芸審査委員が出来て一年中の傑作が国家の名を以て選奨せらるゝようになった。文部省の文芸審査に就て兎角の議論をする人があるが政府は万能で無いから政府の行う処必ずしも正鵠では無い。且文芸上の作品の価値は区々の秤尺に由て討議し、又選票の多寡に由て決すべきもので無いから、文芸審査の結果が意料外なるべきは初めから予察せられる。之を重視するのが誤まっておるのだが、二十五六年前には全然社会から無視せられていた文芸の存在を政府が認めて文芸審査に着手したのは左も右くも時代の大進歩である。 文学も亦一つの職業である。世間には往々職業というと賤視して顰蹙するものもあるが、職業は神聖である。賤視すべきものでは無い。斯ういう職業を賤視する人たちの祖先たる武士というものも亦一つの職業であって封建の家禄世襲制度の恩沢を蒙むって此の武士という職業が維持せられたればこそ日本の大道楽なるかの如く一部の人たちに尊奉せらるゝ武士道が大成したので、若し武士が家禄を得る道なく生活の安全を保証されなかったなら武士道如きは既くに亡びて了ったであろう。文学を職業たらしむるだけの報償を文人に与えずして三文文学だのチープ・リテレチュアだのと冷罵するのみを能事としていて如何して大文学の発現が望まれよう。文学として立派に職業たらしむるだけの報酬を文人に与え衣食に安心して其道に専らなるを得せしめ、文人をして社会の継子たるヒガミ根性を抱かしめず、堂々として其思想を忌憚なく発露するを得せしめて後初めて文学の発達を計る事が出来る。文人が社会を茶にしたり呪ったりするは文学の為めにもならなければ国家の為めにも亦不祥である。 そこで、左も右くも今日、文学が職業として成立し、多くの文人中には大臣の園遊会に招かれて絹帽を被って出掛けるものも一人や二人あるようになったのは、文人の社会的位置が昔から比べて重くなった証拠であるが、我々は猶お進んで職業上の権利を主張し、社会上の勢力を張らねばならぬ。社会をして文人の存在を認めしめたゞけでは足りない。更に進んで文人の権威を認めしめるように一大努力をしなければならぬ。 小生は今は文学論をするツモリでないから、現在の文学其ものに就ては余り多くを云わない。唯、文学論としてよりは小生一個の希望――文学に対する註文を有体に云うと、今日の享楽主義又は耽美主義の底には、沈痛なる人生の叫びを蔵しているのを認めないではないが、何処かに浮気な態度があって昔の硯友社や根岸党と同一気脈を伝うるのを慊らず思ってる。咏嘆したり長嘻したり冷罵したり苦笑したりするも宜かろう。が、人生の説明者たり群集の木鐸たる文人はヨリ以上冷静なる態度を持してヨリ以上深酷に直ちに人間の肺腑に蝕い入って、其のドン底に潜むの悲痛を描いて以て教えなければならぬ。今日以後の文人は山林に隠棲して風月に吟誦するような超世間的態度で芝居やカフェーにのみ立籠っていて人生の見物左衛門となり見巧者訳知りとなったゞけでは足りない。日本の文人は東京の中央で電灯の光を浴びて白粉の女と差向いになっていても、矢張り鴨の長明が有為転変を儚なみて浮世を観ずるような身構えをしておる。同じデカダンでも何処かサッパリした思い切りのいゝ精進潔斎的、忠君愛国的デカダンである。国民的の長所は爰であろうが短所も亦爰である。最っと油濃く執拗く腸の底までアルコールに爛らして腹の中から火が燃え立つまでになり得ない。モウパスサンは狂人になった。ニーチェも狂人になった。日本の文人は好い加減な処で忽ち人生の見巧者となり通人となって了って、底力の無い声で咏嘆したり冷罵したり苦笑したりする。 小生は文学論をするツモリで無いから文学其物に就ては余り多くを云うを好まぬが、二十五年前には道楽であった文学が今日では職業となり、最早袋物屋さん下駄屋さん差配人さんを理想としないでも済むようになった事実を見て、職業としての文学が最う少し重くなければならぬ。文人の社会的地位が今一層高くなければならぬ事を痛切に感ずる。 有体に言うと今の文人の多くは各々蝸牛の殻を守るに汲々として互いに相褒め合ったり罵り合ったりして聊かの小問題を一大事として鎬を削ってる。毎日の新聞、毎月の雑誌に論難攻撃は絶えた事は無いが、尽く皆文人対文人の問題――主張対主張の問題では無い――であって、未だ嘗て文人対社会のコントラバーシーを、一回たりとも見た事が無い。恐らく之は欧洲大陸に類例なき日本の文壇の特有の現象であろう。文人としての今日の欲望は文人同志の本家争いや功名争いでなくて、今猶お文学を理解せざる世間の群集をして文人の権威を認めしむるのが一大事であろう。 二十五年前と比べたら今日の文人は職業として存立し得るだけ社会に認められて来た。が、人生及び社会を対象とする今日以後の文人は、昔の詩人のように山林に韜晦する事は出来ない。都会に生活して群集と伍し、直接時代に触れなければならぬ。然るに文人に強うるに依然清貧なる隠者生活を以てし文人をして死したる思想の木乃伊たらしめんとする如き世間の圧迫に対しては余り感知せざる如く、蝸牛の殻に安んじて小ニヒリズムや小ヘドニズムを歌って而して独り自ら高しとしておる。一部の人士は今の文人を危険視しているが、日本の文人の多くは、ニヒリスト然たる壁訴訟をしているに関わらず、意外なる楽天家である。 新旧思想の衝突という事を文人の多くは常に口にしておるが、新思想の本家本元たる文人自身は余り衝突しておらぬ。いつでも旧思想の圧迫に温和しく抑えられて服従しておる。文人は文人同志で新思想の蒟蒻屋問答や点頭き合いをしているだけで、社会に対して新思想を鼓吹した事も挑戦した事も無い。今日のような思想上の戦国時代に在っては文人は常に社会に対する戦闘者でなければならぬが、内輪同士では年寄の愚痴のような繰言を陳べてるが、外に対しては頭から戦意が無く沈黙しておる。 二十五年の歳月が聊かなりとも文人の社会的位置を進めたのは時代の進歩として喜ぶべきであるが、世界の二大戦役を終って一躍して一等国の仲間入りした日本としては文人の位置は猶お余りに憐れで無かろう乎。例えば左にも右くにも文部省が功労者と認めて選奨した坪内博士、如何なる偏見を抱いて見るも穏健老実なる紳士と認めらるべき思想界の長老たる坪内氏が、経営する文芸協会の興行たる『故郷』の上場を何等の内論も質問もなく一令を下して直ちに禁止する如き、恰も封建時代の地頭が水呑百姓に対する待遇である。是れ併し乍ら政府が無鉄砲なのでも属僚が没分暁なのでも何でもなくして、社会が文人の権威を認めないからである。坪内君が世間から尊敬せらるゝのは早稲田大学の元老、文学博士であるからで、舞踊劇の作者たり文芸協会の会長たるは何等の重きをなしていないからである。 社会をして文人の権威を認めしめよ。文人は社会に対して宣戦せよ。“Murmur”するよりは“Strike”せよ、“Complain”するよりは“Curse”せよ。新らしき思想の世界を拓かんとする羊の如く山の奥に逃げ込まずに獅子の如く山の奥から飛出して咆哮せよ。 二十五ヵ年の歳月が文学をして職業として存立するを得せしめ、国家をして文学の存在を認めしむるに到ったのは無論進歩したには違いないが、世界の英雄東郷を生じた日本としては猶お余りにもどかしき感がある。今後の二十五ヵ年間、願くは更に一大飛躍あれ。文学の忠僕たる小生は切に諸君の健闘を祈る。 |
或曇つた冬の日暮である。私は横須賀發上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり發車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乘客はゐなかつた。外を覗くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍らしく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時時悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。私の頭の中には云ひやうのない疲勞と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。私は外套のポケットへぢつと兩手をつつこんだ儘、そこにはひつてゐる夕刊を出して見ようと云ふ元氣さへ起らなかつた。 が、やがて發車の笛が鳴つた。私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。所がそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云ひ罵る聲と共に、私の乘つてゐる二等室の戸ががらりと開いて十三四の小娘が一人、慌しく中へはひつて來た。と同時に一つづしりと搖れて、徐に汽車は動き出した。一本づつ眼をくぎつて行くプラットフォオムの柱、置き忘れたやうな運水車、それから車内の誰かに祝儀の禮を云つてゐる赤帽――さう云ふすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。私は漸くほつとした心もちになつて、卷煙草に火をつけながら、始て懶い睚をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顏を一瞥した。 それは油氣のない髮をひつつめの銀杏返しに結つて、横なでの痕のある皸だらけの兩頬を氣持の惡い程赤く火照らせた、如何にも田舍者らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄色の毛絲の襟卷がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜燒けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顏だちを好まなかつた。それから彼女の服裝が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との區別さへも辨へない愚鈍な心が腹立たしかつた。だから卷煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云ふ心もちもあつて、今度はポケットの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光が、突然電燈の光に變つて、刷の惡い何欄かの活字が意外な位鮮に私の眼の前へ浮んで來た。云ふ迄もなく汽車は今、横須賀線に多い隧道の最初のそれへはひつたのである。 しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂鬱を慰むべく世間は餘りに平凡な出來事ばかりで持ち切つてゐた。講和問題、新婦、新郎、涜職事件、死亡廣告――私は隧道へはひつた一瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆になつたやうな錯覺を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆、機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、恰も卑俗な現實を人間にしたやうな面もちで、私の前に坐つてゐる事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道の中の汽車と、この田舍者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、讀みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。 それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けようとしてゐる。が、重い硝子戸は中中思ふやうにあがらないらしい。あの皸だらけの頬は愈、赤くなつて、時時鼻洟をすすりこむ音が、小さな息の切れる聲と一しよに、せはしなく耳へはひつて來る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものには相違なかつた。しかし汽車が今將に隧道の口へさしかからうとしてゐる事は、暮色の中に枯草ばかり明い兩側の山腹が、間近く窓側に迫つて來たのでも、すぐに合點の行く事であつた。にも關らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下さうとする、――その理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、單にこの小娘の氣まぐれだとしか考へられなかつた。だから私は腹の底に依然として險しい感情を蓄へながら、あの霜燒けの手が硝子戸を擡げようとして惡戰苦鬪する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。さうしてその四角な穴の中から、煤を溶したやうなどす黒い空氣が、俄に息苦しい煙になつて濛濛と車内へ漲り出した。元來咽喉を害してゐた私は、手巾を顏に當てる暇さへなく、この煙を滿面に浴びせられたおかげで、殆、息もつけない程咳きこまなければならなかつた。が、小娘は私に頓著する氣色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢の毛を戰がせながら、ぢつと汽車の進む方向を見やつてゐる。その姿を煤煙と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなつて、そこから土の匀や枯草の匀や水の匀が冷かに流れこんで來なかつたなら、漸く咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかつたのである。 しかし汽車はその時分には、もう安安と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狹苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶げに暮色を搖つてゐた。やつと隧道を出たと思ふ――その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに竝んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて脊が低かつた。さうして又この町はづれの陰慘たる風物と同じやうな色の著物を著てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一齊に手を擧げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊聲を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乘り出してゐた例の娘が、あの霜燒けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて來た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懷に藏してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに來た弟たちの勞に報いたのである。 暮色を帶びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに聲を擧げた三人の子供たちと、さうしてその上に亂落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が燒きつけられた。さうしてそこから、或得體の知れない朗な心もちが湧き上つて來るのを意識した。私は昂然と頭を擧げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、不相變皸だらけの頬を萌黄色の毛絲の襟卷に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。…… 私はこの時始めて、云ひやうのない疲勞と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出來たのである。 |
アアルカアボネの貨幣は迚も光沢がよくメダルにしていゝ位だがキリストの貨幣は見られぬ程貧弱で何しろカネと云ふ資格からは一歩も出ていない。 カアボネがプレツサンとして送つたフロツクコオトをキリストは最後迄突返して已んだと云ふことは有名ながら尤もな話ではないか。 |
十月廿七日、晴。急行で午後四時三十分頃に西那須驛に着した。實は、初めてのことで、而も急行は宇都宮より先きは黒磯でなければとまらぬやうに旅行案内には出てゐたので、正直に黒磯までの切符を買つたのだが、車上で人に教へられて西那須へ下りたのだ。 そこから自動車(乘り合ひ、一人前四圓)で五里半の道を四十五六分で鹽原の福渡りと云ふ温泉場へ來た。その途々のいい風景は、日が暮れてゐたので、見られなかつた。どこへとまると云ふ當てもなかつたのだが、乘り合はせた老人夫婦も當てて行くと云ふので、一緒にいづみ屋別館へとまることにして、そこで自動車を下りた。團體が來てゐてやかましいが、あすは歸るからと云はれて、僕は老人夫婦のと前以つてきまつてたおもて向き坐敷の隣室へ這入つた。宿帳へは、どこへ行つても、僕は職業を著述家と書くのだが、どう云ふことをするのかと問ひ返されることがあるので、今囘はそのうるささの豫想を避けるため、職業の一部分なる小説家を以てしたところ、それを一と目見てから番頭は俄かにほほゑんでじろりと僕の方を見返した。名を知つてたのか、それとも小説家と云ふのが珍らしかつたのか、そこはちよッと分らなかつた。やがて再び番頭がやつて來て、 「書き物をなさるなら、ここはごた〳〵してゐまして、お困りでしようから、あすから本館の離れの二階へ御案内致しましようか」と云つた。その代り、寂しくて不便だがとのことであつたが、それはかまはないから、その方が結構だと僕は頼んだ。 湯はすみとほつて修善寺温泉のそれのやうに綺麗だ。手ぬぐひも染まらないで、ます〳〵白くなると云ふ。僕が修善寺を好きなのもその爲めである。その夜は一杯飮んで直ぐ休むつもりであつたが、食後、隣室の老人に呼ばれて暫らく話をしに行つた。日本橋の藥り問屋の隱居であつた。孫だと云ふ五歳の女の子をもつれてた。 「あなたなどはまだお若くて結構です、わたしなどは、もう、この通り、あたまも」などと云つたが藥り屋のせいか、なかなか達者さうなおぢいさん、おばアさんであつた。二十年來、いづみ屋のお客ださうだ。向ふとこちらと同じやうに酒は一本と飮めないのであつた。達者なのは、一つには、さう飮まないせいだとおぢいさんは云つてた。西那須驛の自動車立て場の人があまり横暴で面白くなかつた話も繰り返された。それは僕も不愉快には思つたが、ただ仕かたがなかつたこととして來たのであつたから、今、同感しないではゐられなかつた。貸し切りで十二圓だから、三人が四圓づつはいいとしても、いよ〳〵出發の時に一人ふえたにも拘らず、矢張り、その人からも四圓取つたのだ。そして「それが當り前です」と、立て場のものらは僕らを乘せてからも怒鳴つてゐた。 十月廿八日、曇。別館は、そのうら廊下から川向ふを見ると前山並びにその左右の青い樹木やこうえふが見える代りに、ごた〳〵と人の往き來がやかましい。で、朝めしをすませると直ぐ、道の向ふがはなる本館の離れへ移つた。そして本館としても、段々高くなつてるその一番奧の建て物の二階を僕が占領することになつた。そこへ行くには長い内廊下や、いくつもの階段や、大きな部屋々々があるけれども、大抵は別館の方で客を受けてしまうかして、殆どがらんどうのやうだ。そのがらんどうの一番奧二階だが、この夏は皇太子殿下附き侍從や武官がゐたさうで、ずッと前にはまた閑院の宮樣もゐられた。また、三島彌吉さんが新婚の宴をひらいた時の室もここであつたとのこと。 あたりの家々の家根をよそに見おろして、青い山や赤い山に向つてゐる。青いのは前山で、澤山の杉がお槍のやうに並んでその絶頂までのしあがつてる。これにはこうえふが比較的に少い。が、それと一つ淺い谷をへだてた山には、その代り、赤や黄や青みがかかつた黄やの色で以つて一面の錦が織り出されてゐる。そのうちで、赤いのはもみぢやつつじ、櫻の葉の色で、黄いろいのはカツラ、ナラ、栗などの葉だ。それらを押しなべてこうえふと云つてるのだが、その光りあるけしきは、本年はまだ霜や風がひどくないので、これからまだ暫らく盛りだと云ふ。 ここに三島子爵の別莊があると云へば、妻よ、お前も十日會の會員だから、來月の幹事に當つてる同氏を思ひ出して親しみを持つだらうが、それは赤い山の方のはづれ(無論、川のこなたであるが、川は音ばかりでこの室からは見えない)に在る。こちらへかぎの手に反つて向ふへひらいてるその方に、そこの庭前のではないかも知れぬが、高い松が一つあつて、左右のこうえふを拔いてゐる。その松や別莊は丁度、恰も赤い山の樹木とつらなつてそのふもとにあるやうに見える。その少しさき(來た道の方)に鳥居戸山のこれも赤、黄こきまぜのこうえふが見えて、その裾に陛下の御用邸がある。(今上陛下は鹽原をおきらひだとか云ふことで、日光へばかりお行きだけれども、皇太子殿下はよくここへ來られる。)兎に角、この室から四方をながめると、靜かなもので、火鉢の湯のたぎつてる音がしてゐるあひだに、川の音が始終遠く、そして時々自動車や馬車の發着の響きが松や檜葉や赤い實ばかりになつてる柿の木やの樹かげから、聞えるばかりだ。 「僕のやうな商賣のものがこの宿へ來たことがありますか」 と、主人に聽いて見ると、 「大町さんと云ふお方が暫らく御滯在のことがございました」との答へであつた。同伴者――と言へば、田中君や松本君だらうが――二三名と來て、大分に酒の飮めるのを見せたらしい。餘ほど驚いてたやうすであつたので、僕は、 「今ぢやア、もう、あの人も全くの禁酒をしてゐます」と知らせてやつたら、これにも主人は不思議な顏つきをした。はた折り温泉場の清琴樓と云へば、故尾崎紅葉の爲めに有名になつたも同樣で、もとは小さい宿屋であつたが、他がふさがつてたので斷わられて渠はそこへとまつた。そしてそこの場面をかの『金色夜叉』に書き入れたので、今では評判になつて、多くの人々がきそつてそこへ行くが、そしてその場所では一等の家に廣がつたが、土地の人はいまだに清琴樓(紅葉がつけたも同樣の名)など云はれても氣が付かないで、何とか屋と元の名でなければ分らないとのことも話にのぼつた。紅葉や大町氏の書いた物が鹽原にも殘つてると云つて、番頭までが僕にも何か書いて欲しいやうすであつたが、僕は例の通り字がへたなので、遠慮して置いた。 午後一時、これから雜誌人間十二月號の爲めの小説を書き初めるのだ。英枝よ、これは日記の一節だから、手もとへ行つても、このまま保存して置いて貰ひたい。鹽原は交通が不便な爲め今のところ二度と來るつもりはないから、來た以上、暫らく滯在する。そして『人間』の小説と中央公論へ渡した物の續き四五十枚を書いてしまうあひだに、一度もッと奧の方へ遊びに行つて來るかも知れない。兎に角、轉宿等の知らせが行くまではここへ東京日々だけを毎日送つて貰ひたい。大抵の手紙も保留して置いて、誰れから何が來たと云ひさへすればよし。 * 湯は並んで大小三室にも別れてゐるが、客としては僕ひとりが自由に占領してゐられるやうなものだ。本館には誰れもゐないやうすだ。 十月廿九日。曇。今曉二時まで起きてて、今一度湯にあッたまつてからとこに就いた。けふ、晩食後、別館の老人夫婦を訪問して見たら、 「孫がむづかるので、もう、あす歸らうと思ひますが、自動車は癪にさわりましたから、馬車にしようと思つてます」と云つた。馬車で新鹽原まで行き、それから輕便鐵道の便があるのだ。 「僕も歸る時にはさうするかも知れません」と答へた。然し、旅へ出てゐても腰を据ゑてるあひだは、二度と來るか來ないは考へるが、まだ左ほど歸りのことが苦にならぬものだ。 十月三十日。晴。けさの二時に『子無しの堤』と云ふ、實際に人間らしい小説を五十三枚書き終はつたので、十時に起きて食事をすませると、一と息入れて來るつもりで車上を奧の方へ行つた。福渡りの宿屋が並んでる道を三四丁も行くと、その突き當りに白倉山のふもとなる天狗岩と云ふ大きな石が山にべッたりと廣がつて屹立して、その周圍もみなこうえふだ。 そのけはしいやま裾を左りへ曲つたところに、直ぐ退馬橋がかかつて、川添ひ道が走つてゐる。然し、橋からまた直ぐのところに横へ左りに渡る橋があつて、そのさきは植竹氏私有の公園だと車夫は説明した。そこにも樹の葉の色に照つてるのが望める。植竹氏の第四子に當る人は東京に出版屋をやつてたこともあつて、僕も直接知らないでもないのだから、この公園の名も多少の親しみがあつた。それをながめながら、川のこなたを進んだ。 「植竹さんだッて、縣下一等の金滿家としても百萬圓はありますまい。それに、内田信也と云ふ人はただ栃木縣に生まれたと云ふばかりで高等學校建設の爲めに百萬圓を寄附したと云ふのですから、土地のものは皆呆れたほど驚いてをります」と云つた宿の主人の言葉を思ひ出しながら。 退馬橋から三四丁來たところに、鹽釜と云ふ宿場があつて、そこの鹽原郵便局で人間社宛ての原稿の書き留め郵便を出した。また二三丁で(この邊はさう人の目に見えないでのぼり道になつてるが)福渡りの宿々の内湯へ引いた湯の出もとのあるところへ來た。この邊の川ぶちから見返ると、白倉山の後ろ手が、そこも岩だらけのあひだにこうえふしてゐるのが見える。そこから眞ッ直ぐに、また、自動車みちを三丁ばかりで有名な清琴樓もある温泉場を、廣い河原を隔てて、高みの路傍から見た。が、はた折りの位置は周圍の山々が少し遠くひらけてゐて、そのながめは廣い河原を渡つてこちらがはの山々のはにかみ笑ひを見るに在るばかりらしい。そこへ立寄つて一泊しようかとも考へたのを、それが爲めに直ぐ引ッ返した。 「そりやア、鹽の湯よりもここのけしきの方がいいでしよう――鹽の湯は山と山とのあひだですから、ながめが窮屈です」と、車夫に云はれたけれども、一方では、いづみ屋の番頭から、 「何と云つても鹽原のけしきは鹽の湯が一等ですから」とも聽いてゐた。そして僕もこの方が一泊するに足りさうだと云ふ豫想にうち勝たれた。 その當時は壓制家と云はれて縣下のひらけない人民と死を以つて爭つたやうなものだが、もとの三島知事の思ひ切つた道路開拓は今となつてはなか〳〵爲めになつてる。この鹽原の奧をもッと奧までも自動車がとほるのだ。が、内湯の出もとにかかつてる橋を渡ると、川の支流をさかのぼることになるのだが、ここの道は三島道路ではなく、お兼みちと云つて、鹽の湯のお兼と云ふ婆アさんが自分一個で切りひらいた道だ。狹くなつて、而も隨分ひどい坂があるので、自動車は通じない。慣れた車夫は、然し、どうやら斯うやら十丁の道をのぼりつめた。僕よりも一と足さきであつた中年の夫婦づれは、ずるい車夫の爲めに、車をおろされたけれども。 「鹽原は一體に坂みちですから、のぼりの時はからだが延びさうになるし、下だりにはまた腕が拔けさうで――」先般、東京から稼ぎに來た車夫は三名とも一週間とこたへられないで引き上げてしまつたさうだ。 お兼みちの初まりは兩がはに植ゑ付けたやうな杉と檜の木とで大抵のながめはふさがれてるが、坂の中腹からながめがまた下の方へひらけて、坂の上へ來ると、天狗岩の横手までが高みからずッと見渡された。そこに鹽の湯の大きな宿屋がたッた三軒だけあるのだ。茗荷屋と云ふのが客でふさがつてたので、玉屋と云ふのにあがつた。車は七十錢取つた。宿は一泊貳圓で中等のところだ。 僕に當つた三階の一室の正面には、川を隔てて一とかたまりの杉の森がその腰から以上を見せてゐる。が、その後ろうわ手も青と赤相ひ半ばの景だ。そして縁がはへ出ると、目の下にうづもれたこうえふのあひだを右から左りへと十間はばばかりの川水が白く音を立てて流れてゐる。その上流と下流とからうへへそり返つて黄、赤、べに等のいろづき葉が、松その他の針葉樹の青葉と入りまじつて、横へ四つに重なつた山山の絶頂まで一面につらなり渡つてる。隨分大きいと云へば大きい景だ。そしてその全景を引き締める爲めのやうに、例の杉の森が一番こちらへ近く、僕の目の前に立つてゐる。無論、その眞ッ下の崖にもこうえふはいち面だ。つまり、ながめのそらからも、またその目の下からも。赤い照らしが滿ちて來て、それを眞ン中に針葉樹の青さが一層に引き立ててゐる。 福渡りのは――僕の占領してゐる場所からは別だが――かの川添ひの部屋々々から見ると、こう葉をこう葉の中から見るやうな景だ。が、ここのはそれを近く見おろし、遠く見渡すのである。近く迫つた方だけで云へば、北海道のこうえふの一名所神居古潭の景に似てゐて、ただ面白い釣り橋がないばかりだ。が、また、かの釣り橋の代りに、僕らの倚る高どのの欄干がある。そして下を見おろすと目がくらむほどだ。 晩食にはまだ二時間ばかりあるので、以上けふの日記をお前へ出しかたがた、そとへ出て、もッとさきの方の道へと狹い芝ばしを渡つて進むと、行く手の川ぶちに少し平らかな廣ろ場が見えて、植ゑ付けたやうに紅葉樹の幹が立ち並んで、多くの幹と幹とのあひだがこれも赤さうな太陽のよこ照らしに向ふのそらを透かし彫りにしてゐる。來たついでにそこまで行き付くと、入り口に梅ヶ岡と云ふ立て札がしてあつた。その中で僕の丁度一と部屋置いて隣りにゐ合はせた中年者夫婦が一緒に寫眞を取らせてゐたのを少し隔ててながめながら行くと、向ふの方から何だか見たやうな人がにこ〳〵してやつて來るのではないか? お前は誰れだッたと思ふ? 婦人作家の○○さんなら、近ごろここへ來てゐるとか新聞にあつたから、ひよッとすると出會ふかも知れないとは思つてたが、小寺健吉氏とは僕も思ひも寄らなかつた。繪に適する位置を方々探してゐたらしい。而も同じ旅館の四階に來てゐるのであつた。渠は毎年來るのだが、 「去年の今ごろは、もう、こうえふが半ば以上過ぎてゐたが」とのことだ。暫らく一緒に崖のそばの腰かけに休んだが、僕らの目の前に紅葉して崖の中腹からかしらを出してる二本の特別な樹は、二本とも、葉の大きい、きざみの淺いイタヤもみぢのやうであつた。 |
小説を作る上では――如何しても天然を用ゐぬ譯には行かないやうですね。譬へば惚れ合つた男女二人が話をしながら横町を通る時でも、晴天の時と、雨天の時とは、話の調子が餘程違ひますからね。天然と言つても、海とか、山とかに限つたことはありません。室内でも、障子とか、襖とか、言ふものは、天然の部に這入つてもよからうと思ひます。だから其の室内の事を書く時でも、天然を見逃がす事は出來ません。また夜更けに話すのと、白晝に話すのとは、自から人の氣分も違ふ譯ですから、勢ひ周圍にある天然を外にする譯に行かないでせう。假に場所を東京市内に選んで、神田とすれば、又其處に特有の天然があります。何方かと言へば、私の作などの中には、景色を見てから、人物を考へ出した場合が多い。『三尺角』や、『葛飾砂子』などは深川の景色を見て、自然に人物を思ひ浮べたのです。然し天然を主にして、作意を害するやうな事は面白くありません。程よく用ゐたいものです。 |
心忙しい気もちから脱れて、ゆっくり制作もし、また研究もしたいと年中そればかりを考えていながら、やはり心忙しく過ごしています。そんならそれで、その心忙しい程度に何か出来るかと申しますと、一向何もかもハカどらないのには、自分ながら愛想がつきます。世間の作家たちのことは、あまり知らない私のことですから、どんなものかわかりませんが、私としては、年から年中、あれも描かんならん、これもこうと考えに追い廻されていながら、その割に筆の方は一向ラチの明かないのには、歯痒くて堪りません。 唯今は、またぞろ、ある宮家に納まるべきものに筆を着けています。これも疾くに完成しておるべきはずのものですが、未だに延びのびになっています。 ○ 作家が、年中作品の制作に没頭していると申すことは、その作家にとって仕合せのようでもあって、実は苦しみでもあります。描くべきものをすっくり描き上げてしまい、これで何もかもさっぱりという爽やかな軽い気分に一どなって、さて、改めて研究なり、自分の好きな方へなり、一念を入れてみたら、こんな幸福なことはなかろうと思うのですが、仕事がゆるしてくれません。しかし物は考えようで、制作すべきものが、きれいに一段落ついてこれでオシマイとなったら、何やら心淋しく、また制作が恋しくなるのかも知れません。人の心は得手勝手、まアこんな状態で悩まされてゆくのが、すなわち人生の好方便なのでしょう。 ○ 私は、私の好みからして、今までのような古い婦人風俗画を描いてきましたが、世間では、私があまりに古い風俗や心持に支配され過ぎているかのように、いう人もあるでしょう。私は古い方を振り返ってみることが、特に好きだというわけではありませんですが、そうすることが、表現に深みがあると思うからです。今、今のことは誰でも見て知っています。今を今のままに描くということは、画としての深みに於て、どうかと思われるような気持ちがします。 それを、今から振り返って、徳川期を眺めてみると、全く感じがちがいます。明治期でさえも、もう今とは感じがちがいます。それは時代という空気がいい加減にぼかしをかけてくれるからです。今、今のことは万事裸にあらわに見え透きますが、もう五十年七十年と時代が隔たるにつれまして、そこに一と刷毛の美しい靄がかかります。私はこの美しい靄を隔てた、過去の時代を眺めたいのです。 現在ありのまま、物は写実に、はっきりとゆくのが現代でしょう。裸は裸、あらわなものはあらわに、そのままに出すのは、今の世の習わしなんですが、私には、どうもそれが、浅まに見えてなりません。 私は、今の心持に一段落がついたら、現代風俗を描いてみたいという念願があるのです。 私は、何も過去の時代のみを礼讃して、現代を詛うというような、気の強いものではありません。現代は現代で、やはりいい処はいいと見ていますし、随分美しいものは美しいという、作家並な感受は致しているものです。この気持ちを生かした、モダンな現代風俗を描いてみることも、決して楽しみでないとはいえないと思います。 ですが、私がもし現代風俗に筆を執るとしたら、私はどんな風にこれを取り扱い、どんな風の表現によるのでしょうか、それはいざという場合になってみませんと、今からなんともいえないのですけれど、しかし、自分であらまし想像のつかないこともありません。それは、私はモダンをモダンとして、そのまま生まな形では表わすまいと思うのです。そのモダンを、多少の古典的な空気の中に引きこんできて、それをコナしたものを引き出してくるのではないかと思われます。 ○ 若い人たち――殊に若い閨秀作家たちの作品には、よく教えられることがあります。みな器用になって、表現が巧みになっていることは争えません。けれども、教えられることと、共鳴することとは違うと思います。共鳴する作品というものは、なかなかないものです。共鳴する作品と申しますと、その作品の何も彼もが、こちらの心持ちへ入ってきて、同じ音律に響くということになるのですから、つまりこちらの個性を動かすだけのものでなくてはならないわけです。 ところが、てんでの個性を、他の個性が動かす――というような作品は、容易にあるものではなかろうと思います。 |
「――黄大癡といえば、大癡の秋山図をご覧になったことがありますか?」 ある秋の夜、甌香閣を訪ねた王石谷は、主人の惲南田と茶を啜りながら、話のついでにこんな問を発した。 「いや、見たことはありません。あなたはご覧になったのですか?」 大癡老人黄公望は、梅道人や黄鶴山樵とともに、元朝の画の神手である。惲南田はこう言いながら、かつて見た沙磧図や富春巻が、髣髴と眼底に浮ぶような気がした。 「さあ、それが見たと言って好いか、見ないと言って好いか、不思議なことになっているのですが、――」 「見たと言って好いか、見ないと言って好いか、――」 惲南田は訝しそうに、王石谷の顔へ眼をやった。 「模本でもご覧になったのですか?」 「いや、模本を見たのでもないのです。とにかく真蹟は見たのですが、――それも私ばかりではありません。この秋山図のことについては、煙客先生(王時敏)や廉州先生(王鑑)も、それぞれ因縁がおありなのです」 王石谷はまた茶を啜った後、考深そうに微笑した。 「ご退屈でなければ話しましょうか?」 「どうぞ」 惲南田は銅檠の火を掻き立ててから、慇懃に客を促した。 * * * 元宰先生(董其昌)が在世中のことです。ある年の秋先生は、煙客翁と画論をしている内に、ふと翁に、黄一峯の秋山図を見たかと尋ねました。翁はご承知のとおり画事の上では、大癡を宗としていた人です。ですから大癡の画という画はいやしくも人間にある限り、看尽したと言ってもかまいません。が、その秋山図という画ばかりは、ついに見たことがないのです。 「いや、見るどころか、名を聞いたこともないくらいです」 煙客翁はそう答えながら、妙に恥しいような気がしたそうです。 「では機会のあり次第、ぜひ一度は見ておおきなさい。夏山図や浮嵐図に比べると、また一段と出色の作です。おそらくは大癡老人の諸本の中でも、白眉ではないかと思いますよ」 「そんな傑作ですか? それはぜひ見たいものですが、いったい誰が持っているのです?」 「潤州の張氏の家にあるのです。金山寺へでも行った時に、門を叩いてご覧なさい。私が紹介状を書いて上げます」 煙客翁は先生の手簡を貰うと、すぐに潤州へ出かけて行きました。何しろそういう妙画を蔵している家ですから、そこへ行けば黄一峯の外にも、まだいろいろ歴代の墨妙を見ることができるに違いない。――こう思った煙客翁は、もう一刻も西園の書房に、じっとしていることはできないような、落着かない気もちになっていたのです。 ところが潤州へ来て観ると、楽みにしていた張氏の家というのは、なるほど構えは広そうですが、いかにも荒れ果てているのです。墻には蔦が絡んでいるし、庭には草が茂っている。その中に鶏や家鴨などが、客の来たのを珍しそうに眺めているという始末ですから、さすがの翁もこんな家に、大癡の名画があるのだろうかと、一時は元宰先生の言葉が疑いたくなったくらいでした。しかしわざわざ尋ねて来ながら、刺も通ぜずに帰るのは、もちろん本望ではありません。そこで取次ぎに出て来た小厮に、ともかくも黄一峯の秋山図を拝見したいという、遠来の意を伝えた後、思白先生が書いてくれた紹介状を渡しました。 すると間もなく煙客翁は、庁堂へ案内されました。ここも紫檀の椅子机が、清らかに並べてありながら、冷たい埃の臭いがする、――やはり荒廃の気が鋪甎の上に、漂っているとでも言いそうなのです。しかし幸い出て来た主人は、病弱らしい顔はしていても、人がらの悪い人ではありません。いや、むしろその蒼白い顔や華奢な手の恰好なぞに、貴族らしい品格が見えるような人物なのです。翁はこの主人とひととおり、初対面の挨拶をすませると、早速名高い黄一峯を見せていただきたいと言いだしました。何でも翁の話では、その名画がどういう訳か、今の内に急いで見ておかないと、霧のように消えてでもしまいそうな、迷信じみた気もちがしたのだそうです。 主人はすぐに快諾しました。そうしてその庁堂の素壁へ、一幀の画幅を懸けさせました。 「これがお望みの秋山図です」 煙客翁はその画を一目見ると、思わず驚嘆の声を洩らしました。 画は青緑の設色です。渓の水が委蛇と流れたところに、村落や小橋が散在している、――その上に起した主峯の腹には、ゆうゆうとした秋の雲が、蛤粉の濃淡を重ねています。山は高房山の横点を重ねた、新雨を経たような翠黛ですが、それがまた硃を点じた、所々の叢林の紅葉と映発している美しさは、ほとんど何と形容して好いか、言葉の着けようさえありません。こういうとただ華麗な画のようですが、布置も雄大を尽していれば、筆墨も渾厚を極めている、――いわば爛然とした色彩の中に、空霊澹蕩の古趣が自ら漲っているような画なのです。 煙客翁はまるで放心したように、いつまでもこの画を見入っていました。が、画は見ていれば見ているほど、ますます神妙を加えて行きます。 「いかがです? お気に入りましたか?」 主人は微笑を含みながら、斜に翁の顔を眺めました。 「神品です。元宰先生の絶賞は、たとい及ばないことがあっても、過ぎているとは言われません。実際この図に比べれば、私が今までに見た諸名本は、ことごとく下風にあるくらいです」 煙客翁はこういう間でも、秋山図から眼を放しませんでした。 「そうですか? ほんとうにそんな傑作ですか?」 翁は思わず主人のほうへ、驚いた眼を転じました。 「なぜまたそれがご不審なのです?」 「いや、別に不審という訳ではないのですが、実は、――」 主人はほとんど処子のように、当惑そうな顔を赤めました。が、やっと寂しい微笑を洩すと、おずおず壁上の名画を見ながら、こう言葉を続けるのです。 「実はあの画を眺めるたびに、私は何だか眼を明いたまま、夢でも見ているような気がするのです。なるほど秋山は美しい。しかしその美しさは、私だけに見える美しさではないか? 私以外の人間には、平凡な画図に過ぎないのではないか?――なぜかそういう疑いが、始終私を悩ませるのです。これは私の気の迷いか、あるいはあの画が世の中にあるには、あまり美し過ぎるからか、どちらが原因だかわかりません。が、とにかく妙な気がしますから、ついあなたのご賞讃にも、念を押すようなことになったのです」 しかしその時の煙客翁は、こういう主人の弁解にも、格別心は止めなかったそうです。それは何も秋山図に、見惚れていたばかりではありません。翁には主人が徹頭徹尾、鑑識に疎いのを隠したさに、胡乱の言を並べるとしか、受け取れなかったからなのです。 翁はそれからしばらくの後、この廃宅同様な張氏の家を辞しました。 が、どうしても忘れられないのは、あの眼も覚めるような秋山図です。実際大癡の法燈を継いだ煙客翁の身になって見れば、何を捨ててもあれだけは、手に入れたいと思ったでしょう。のみならず翁は蒐集家です。しかし家蔵の墨妙の中でも、黄金二十鎰に換えたという、李営丘の山陰泛雪図でさえ、秋山図の神趣に比べると、遜色のあるのを免れません。ですから翁は蒐集家としても、この稀代の黄一峯が欲しくてたまらなくなったのです。 そこで潤州にいる間に、翁は人を張氏に遣わして、秋山図を譲ってもらいたいと、何度も交渉してみました。が、張氏はどうしても、翁の相談に応じません。あの顔色の蒼白い主人は、使に立ったものの話によると、「それほどこの画がお気に入ったのなら、喜んで先生にお貸し申そう。しかし手離すことだけは、ごめん蒙りたい」と言ったそうです。それがまた気を負った煙客翁には、多少癇にも障りました。何、今貸してもらわなくても、いつかはきっと手に入れてみせる。――翁はそう心に期しながら、とうとう秋山図を残したなり、潤州を去ることになりました。 それからまた一年ばかりの後、煙客翁は潤州へ来たついでに、張氏の家を訪れてみました。すると墻に絡んだ蔦や庭に茂った草の色は、以前とさらに変りません。が、取次ぎの小厮に聞けば、主人は不在だということです。翁は主人に会わないにしろ、もう一度あの秋山図を見せてもらうように頼みました。しかし何度頼んでみても、小厮は主人の留守を楯に、頑として奥へ通しません。いや、しまいには門を鎖したまま、返事さえろくにしないのです。そこで翁はやむを得ず、この荒れ果てた家のどこかに、蔵している名画を想いながら、惆悵と独り帰って来ました。 ところがその後元宰先生に会うと、先生は翁に張氏の家には、大癡の秋山図があるばかりか、沈石田の雨夜止宿図や自寿図のような傑作も、残っているということを告げました。 「前にお話するのを忘れたが、この二つは秋山図同様、※(糸+貴)苑の奇観とも言うべき作です。もう一度私が手紙を書くから、ぜひこれも見ておおきなさい」 煙客翁はすぐに張氏の家へ、急の使を立てました。使は元宰先生の手札の外にも、それらの名画を購うべき槖金を授けられていたのです。しかし張氏は前のとおり、どうしても黄一峯だけは、手離すことを肯じません。翁はついに秋山図には意を絶つより外はなくなりました。 * * * |
菱形の凧。サント・モンタニの空に揚つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。 路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照るけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕。 丸山の廓の見返り柳。 運河には石の眼鏡橋。橋には往来の麦稈帽子。――忽ち泳いで来る家鴨の一むれ。白白と日に照つた家鴨の一むれ。 南京寺の石段の蜥蜴。 中華民国の旗。煙を揚げる英吉利の船。『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂の禿げそめた斎藤茂吉。ロティ。沈南蘋。永井荷風。 最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。穂麦に交じつた矢車の花。光のない真昼の蝋燭の火。窓の外には遠いサント・モンタニ。 |
禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。 五十歳を越えた内供は、沙弥の昔から、内道場供奉の職に陞った今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に当来の浄土を渇仰すべき僧侶の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧れていた。 内供が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先が鋺の中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳の向うへ坐らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰う事にした。しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げている弟子にとっても、持上げられている内供にとっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代りをした中童子が、嚏をした拍子に手がふるえて、鼻を粥の中へ落した話は、当時京都まで喧伝された。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだ重な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。 池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に煩される事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損を恢復しようと試みた。 第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖をついたり頤の先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。内供は、こう云う時には、鏡を箱へしまいながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の経机へ、観音経をよみに帰るのである。 それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説などのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧坊が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。従ってここへ出入する僧俗の類も甚だ多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干も白の帷子もはいらない。まして柑子色の帽子や、椎鈍の法衣なぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年甲斐もなく顔を赤らめたのは、全くこの不快に動かされての所為である。 最後に、内供は、内典外典の中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連や、舎利弗の鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない。勿論竜樹や馬鳴も、人並の鼻を備えた菩薩である。内供は、震旦の話の序に蜀漢の劉玄徳の耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。 内供がこう云う消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここに云うまでもない。内供はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。鼠の尿を鼻へなすって見た事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。 所がある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。その医者と云うのは、もと震旦から渡って来た男で、当時は長楽寺の供僧になっていたのである。 内供は、いつものように、鼻などは気にかけないと云う風をして、わざとその法もすぐにやって見ようとは云わずにいた。そうして一方では、気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいと云うような事を云った。内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそう云う策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極めて、この法を試みる事を勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従する事になった。 その法と云うのは、ただ、湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。 湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提に入れて、湯屋から汲んで来た。しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷する惧がある。そこで折敷へ穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。 ――もう茹った時分でござろう。 内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸されて、蚤の食ったようにむず痒い。 弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下に動くのを眼の前に見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿げ頭を見下しながら、こんな事を云った。 ――痛うはござらぬかな。医師は責めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。 内供は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。所が鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上眼を使って、弟子の僧の足に皹のきれているのを眺めながら、腹を立てたような声で、 ――痛うはないて。 と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。 しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来はじめた。云わば毛をむしった小鳥をそっくり丸炙にしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。 ――これを鑷子でぬけと申す事でござった。 内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子で脂をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎のような形をして、四分ばかりの長さにぬけるのである。 やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、 ――もう一度、これを茹でればようござる。 と云った。 内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の云うなりになっていた。 さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻と大した変りはない。内供はその短くなった鼻を撫でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、極りが悪るそうにおずおず覗いて見た。 鼻は――あの顋の下まで下っていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、今は僅に上唇の上で意気地なく残喘を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕であろう。こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。――鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。 しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかと云う不安があった。そこで内供は誦経する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見た。が、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って来る景色もない。それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。 所が二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、かつて、内供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。用を云いつかった下法師たちが、面と向っている間だけは、慎んで聞いていても、内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。 内供ははじめ、これを自分の顔がわりがしたせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。――勿論、中童子や下法師が哂う原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ哂うにしても、鼻の長かった昔とは、哂うのにどことなく容子がちがう。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えると云えば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。 ――前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。 内供は、誦しかけた経文をやめて、禿げ頭を傾けながら、時々こう呟く事があった。愛すべき内供は、そう云う時になると、必ずぼんやり、傍にかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事を憶い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺憾ながらこの問に答を与える明が欠けていた。 ――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。 そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。しまいには鼻の療治をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。殊に内供を怒らせたのは、例の悪戯な中童子である。ある日、けたたましく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片をふりまわして、毛の長い、痩せた尨犬を逐いまわしている。それもただ、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃しながら、逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上げの木だったのである。 内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めしくなった。 するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸の鳴る音が、うるさいほど枕に通って来た。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。 ――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。 内供は、仏前に香花を供えるような恭しい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。 翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。 ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。 内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顋の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。 |
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