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現在の映画はまるで植物のようだ。それは歩かない。こちらが出かけて行かねばならぬ。したがつて我々病人にはまつたく無関係のものだ。 何年かまえ松竹座を除いてはまだ京都中の映画館にも映画会社にもトーキーの再生装置がなかつたとき、本願寺の大谷さんのおやしきの一隅にはちやんとトーキーの映写室がありウェスタンの再生機がすわつていた。 本願寺は寺であるが、いわゆる寺ではない。試みにその事務所をのぞいてみよ。規模からいつて大都会の市役所くらいはある。なぜこんなことを知つているかというと、私は映写室を探して迷宮のような本願寺中をさまよい歩いたのである。 こんな所にトーキーの映写室くらいあつても我々の家に犬小舎が置いてあるほどの感じしかない。しかし本願寺さんほどのクラスは日本の中に何パーセントもありはしないからトーキーというものは家庭を単位とする場合その普及率はゼロにちかい。 しかし映画は元来館を単位として成長を遂げてきたものであるから、何もわざわざ家庭の中にまで侵入して行かなくても、毎日館を掃除して待つてさえいれば老若男女がどこからともなく賽銭を持つて集まつてくる仕組みになつている。 ところが館を単位としての映画企業があまりにも高度の発達を遂げてしまつた現在ではもはや館以外で映画を見ることはまつたく不可能(といつてよかろう)となつてしまつた。 かくて我々病人は朝は新聞に目を通し、昼は新刊書を読み、夜はラジオのスウィッチをひねり、興いたれば蓄音機のちりを払つて古今の名曲をたのしむこともできるが、映画だけはまだそのにおいすらもかぐことができないのである。してみると他のものと比較して映画の普及力とはいつたい何を意味するのかと今さらその言葉の空虚さにあきれてしまうのである。 特定の場所へ行かなければ見られないという苛酷な制限が映画の本質であるかどうかはまだ疑問としておきたいが、残念ながら現在のところでは映画の普及率は新聞雑誌やラジオの浸透性には及びもつかないのだという簡単な事実に今さら私は眼を見張つているのである。 もつとも将来においてはこの問題はたぶん解消するはずである。というのはテレビと映画の結合を予想することは現在においてはもはや単なる空想とはいいきれないからである。そして、そうなつたあかつき一般の家庭においていながら映画を観賞する風景を想像することは楽しいというよりもむしろ少々そらおそろしい感じをさえ伴う。我々日本人の大部分は家庭という文字の内容に静寂の観念を要求しているようだ。ラジオでその観念はかなり破壊せられたが、このうえさらに映画のような濃厚な娯楽が家庭の静かな時間を攪拌しはじめたら、そのときこそは我々が従来の家庭という言葉の概念を改めなければならぬときかもしれない。しかし特殊の場所において見せるものと家庭の内部において見せるものとでは選択や検閲の標準が違つてくることは当然であるから、その意味では日本の家庭は昔ながらの清浄を保つであろう。何よりも嬉しいことはその時代の病人たちの生活がずつと楽しくなることだ。どうも私は少し早く病気をしすぎたようだ。 そんな時代がきたら映画館は不要になりはしないかという心配は一応もつともだが、しかしその心配はいらない。第一に映画は館で見るのが一番おもしろいものだ。私はあるとき試写室でフェデの「女だけの都」をただ一人で孤影悄然として観賞した経験があるがおもしろくもおかしくもなかつた。第二に前述のごとく検閲の関係から、館へ行けば家庭で見られない映画が見られる。第三に画面の大きさや鮮明度など我々の観賞欲を満足せしめる諸条件において館と家庭では著しい径庭があることが予想される。だから映画館の経営者は決してびくびくすることなく安心して現在の業務に精励するがよろしい。 要するに映画はテレビと結びついたとき初めて十分なる普及力を獲得するのであつて、現在はまだ半分しか可能性を発揮していないものと考えられる。 |
一瀬を低い瀧に颯と碎いて、爽かに落ちて流るゝ、桂川の溪流を、石疊で堰いた水の上を堰の其の半ばまで、足駄穿で渡つて出て、貸浴衣の尻からげ。梢は三階の高樓の屋根を抽き、枝は川の半ばへ差蔽うた槻の下に、片手に番傘を、トンと肩に持たせながら、片手釣で輕く岩魚を釣つて居る浴客の姿が見える。 片足は、水の落口に瀬を搦めて、蘆のそよぐが如く、片足は鷺の眠つたやうに見える。……堰の上の水は一際青く澄んで靜である。其處には山椿の花片が、此のあたり水中の岩を飛び岩を飛び、胸毛の黄色な鶺鴒の雌鳥が含みこぼした口紅のやうに浮く。 雨はしと〳〵と降るのである。上流の雨は、うつくしき雫を描き、下流は繁吹に成つて散る。しと〳〵と雨が降つて居る。 このくらゐの雨は、竹の子笠に及ぶものかと、半纏ばかりの頬被で、釣棹を、刺いて見しよ、と腰にきめた村男が、山笹に七八尾、銀色の岩魚を徹したのを、得意顏にぶら下げつゝ、若葉の陰を岸づたひに、上流の一本橋の方からすた〳〵と跣足で來た。が、折からのたそがれに、瀬は白し、氣を籠めて、くる〳〵くる、カカカと音を調ぶる、瀧の下なる河鹿の聲に、歩を留めると、其處の釣人を、じろりと見遣つて、空しい渠の腰つきと、我が獲ものとを見較べながら、かたまけると云ふ笑方の、半面大ニヤリにニヤリとして、岩魚を一振、ひらめかして、また、すた〳〵。……で、すこし岸をさがつた處で、中流へ掛渡した歩板を渡ると、其處に木小屋の柱ばかり、圍の疎い「獨鈷の湯。」がある。――屋根を葺いても、板を打つても、一雨強くかゝつて、水嵩が増すと、一堪りもなく押流すさうで、いつも然うしたあからさまな體だと云ふ。―― 半纏着は、水の淺い石を起して、山笹をひつたり挾んで、細流に岩魚を預けた。溌剌と言ふのは此であらう。水は尾鰭を泳がせて岩に走る。そのまゝ、すぼりと裸體に成つた。半纏を脱いだあとで、頬かぶりを取つて、ぶらりと提げると、すぐに湯氣とともに白い肩、圓い腰の間を分けて、一個、忽ち、ぶくりと浮いた茶色の頭と成つて、そしてばちや〳〵と湯を溌ねた。 時に、其の一名、弘法の湯の露呈なことは、白膏の群像とまでは行かないが、順禮、道者、村の娘、嬰兒を抱いた乳も浮く……在の女房も入交りで、下積の西洋畫を川で洗濯する風情がある。 この共同湯の向う傍は、淵のやうにまた水が青い。對岸の湯宿の石垣に咲いた、枝も撓な山吹が、ほのかに影を淀まして、雨は細く降つて居る。湯氣が霞の凝つたやうにたなびいて、人々の裸像は時ならぬ朧月夜の影を描いた。 肝心な事を言忘れた。――木戸錢はおろか、遠方から故々汽車賃を出して、お運びに成つて、これを御覽なさらうとする道徳家、信心者があれば、遮つてお留め申す。――如何となれば、座敷の肱掛窓や、欄干から、かゝる光景の見られるのは、年に唯一兩度ださうである。時候と、時と、光線の、微妙な配合によつて、しかも、品行の方正なるものにのみあらはるゝ幻影だと、宿の風呂番の(信さん)が言つた。――案ずるに、此は修善寺の温泉に於ける、河鹿が吐く蜃氣樓であるらしい。かた〴〵、そんな事はあるまいけれども、獨鈷の湯の恁る状態をあてにして、お出かけに成つては不可い。…… ゴウーンと雨に籠つて、修禪寺の暮六つの鐘が、かしらを打つと、それ、ふツと皆消えた。……むく〳〵と湯氣ばかり。堰に釣をする、番傘の客も、槻に暗くなつて、もう見えぬ。 葉末の電燈が雫する。 女中が廊下を、ばた〳〵と膳を運んで來た。有難い、一銚子。床の櫻もしつとりと盛である。 が、取立てて春雨のこの夕景色を話さうとするのが趣意ではない。今度の修善寺ゆきには、お土産話が一つある。 何事も、しかし、其の的に打撞るまでには、弓と云へども道中がある。醉つて言ふのではないけれども、ひよろ〳〵矢の夜汽車の状から、御一覽を願ふとしよう。 先以て、修善寺へ行くのに夜汽車は可笑い。其處に仔細がある。たま〳〵の旅行だし、靜岡まで行程を伸して、都合で、あれから久能へ𢌞つて、龍華寺――一方ならず、私のつたない作を思つてくれた齋藤信策(野の人)さんの墓がある――其處へ參詣して、蘇鐵の中の富士も見よう。それから清水港を通つて、江尻へ出ると、もう大分以前に成るが、神田の叔父と一所の時、わざとハイカラの旅館を逃げて、道中繪のやうな海道筋、町屋の中に、これが昔の本陣だと叔父が言つただゞつ廣い中土間を奧へ拔けた小座敷で、お平についた長芋の厚切も、大鮪の刺身の新しさも覺えて居る。「いま通つて來た。あの土間の處に腰を掛けてな、草鞋で一飯をしたものよ。爐端で挨拶をした、面長な媼さんを見たか。……其の時分は、島田髷で惱ませたぜ。」と、手酌で引かけながら叔父が言つた――古い旅籠も可懷い。…… それとも、靜岡から、すぐに江尻へ引返して、三保の松原へ飛込んで、天人に見參し、きものを欲しがる連の女に、羽衣、瓔珞を拜ませて、小濱や金紗のだらしなさを思知らさう、ついでに萬葉の印を結んで、山邊の赤人を、桃の花の霞に顯はし、それ百人一首の三枚めだ……田子の浦に打出でて見れば白妙の――ぢやあない、……田子の浦ゆ、さ、打出でて見れば眞白にぞ、だと、ふだん亭主を彌次喜多に扱ふ女に、學問のある處を見せてやらう。たゞしどつち道資本が掛る。 湯治を幾日、往復の旅錢と、切詰めた懷中だし、あひ成りませう事ならば、其の日のうちに修善寺まで引返して、一旅籠かすりたい。名案はないかな、と字の如く案ずると……あゝ、今にして思當つた。人間朝起をしなけりや不可い。東京驛を一番で立てば、無理にも右樣の計略の行はれない事もなささうだが、籠城難儀に及んだ處で、夜討は眞似ても、朝がけの出來ない愚將である。碎いて言へば、夜逃は得手でも、朝旅の出來ない野郎である。あけ方の三時に起きて、たきたての御飯を掻込んで、四時に東京驛などとは思ひも寄らない。――名案はないかな――こゝへ、下町の姉さんで、つい此間まで、震災のために逃げて居た……元來、靜岡には親戚があつて、地の理に明かな、粹な軍師が顯はれた。 「……九時五十分かの終汽車で、東京を出るんです。……靜岡へ、丁ど、夜あけに着きますから。其だと、どつちを見ぶつしても、其の日のうちに修善寺へ參られますよ。」 妙。 奇なる哉、更に一時間いくらと言ふ……三保の天女の羽衣ならねど、身にお寶のかゝる其の姉さんが、世話になつた禮かた〴〵、親類へ用たしもしたいから、お差支へなくば御一所に、――お差支へ?……おつしやるもんだ! 至極結構。で、たゞ匁で連出す算段。あゝ、紳士、客人には、あるまじき不料簡を、うまれながらにして喜多八の性をうけたしがなさに、忝えと、安敵のやうな笑を漏らした。 處で、その、お差支のなさを裏がきするため、豫て知合ではあるし、綴蓋の喜多の家内が、折からきれめの鰹節を亻へ買出しに行くついでに、その姉さんの家へ立寄つて、同行三人の日取をきめた。 ――一寸、ふでを休めて、階子段へ起つて、したの長火鉢を呼んで曰く、 「……それ、何――あの、みやげに持つて行つた勘茂の半ぺんは幾つだつけ。」 「だしぬけに何です。……五つ。」 「五つか――私はまた二つかと思つた。」 「唯た二つ……」 「だつて彼家は二人きりだからさ。」 「見つともないことをお言ひなさいな。」 「よし、あひ分つた。」 五つださうで。……其を持參で、取極めた。たつたのは、日曜に當つたと思ふ。念のため、新聞の欄外を横に覗くと、その終列車は糸崎行としてある。――糸崎行――お恥かしいが、私に其の方角が分らない。棚の埃を拂ひながら、地名辭典の索引を繰ると、糸崎と言ふのが越前國と備前國とに二ヶ所ある。私は東西、いや西北に迷つた。――敢て子供衆に告げる。學校で地理を勉強なさい。忘れては不可ません。さて、どつち道、靜岡を通るには間違のない汽車だから、人に教を受けないで濟ましたが、米原で𢌞るのか、岡山へ眞直か、自分たちの乘つた汽車の行方を知らない、心細さと言つてはない。しかも眞夜中の道中である。箱根、足柄を越す時は、内證で道組神を拜んだのである。 處で雨だ。當日は朝のうちから降出して、出掛ける頃は横しぶきに、どつと風さへ加はつた。天の時は雨ながら、地の理は案内の美人を得たぞと、もう山葵漬を箸の尖で、鯛飯を茶漬にした勢で、つい此頃筋向の弴さんに教をうけた、市ヶ谷見附の鳩じるしと言ふ、やすくて深切なタクシイを飛ばして、硝子窓に吹つける雨模樣も、おもしろく、馬に成つたり駕籠に成つたり、松並木に成つたり、山に成つたり、嘘のないところ、溪河に流れたりで、東京驛に着いたのは、まだ三十分ばかり發車に間のある頃であつた。 水を打つたとは此の事、停車場は割に靜で、しつとりと構内一面に濡れて居る。赤帽君に荷物を頼んで、廣い處をずらりと見渡したが、約束の同伴はまだ來て居ない。――大𢌞りには成るけれど、呉服橋を越した近い處に、バラツクに住んで居る人だから、不斷の落着家さんだし、悠然として、やがて來よう。 「靜岡まで。」 と切符を三枚頼むと、つれを搜してきよろついた樣子を案じて、赤帽君は深切であつた。 「三枚?」 「つれが來ます。」 「あゝ、成程。」 突立つて居ては出入りの邪魔にもなりさうだし、とば口は吹降りの雨が吹込むから、奧へ入つて、一度覗いた待合へ憩んだが、人を待つのに、停車場で時の針の進むほど、胸のあわたゞしいものはない。「こんな時は電話があるとな。」「もう見えませう。――こゝにいらつしやい。……私が行つて見張つて居ます。」家内はまた外へ出て行つた。少々寒し、不景氣な薄外套の袖を貧乏ゆすりにゆすつて居ると、算木を四角に並べたやうに、クツシヨンに席を取つて居た客が、そちこちばら〳〵と立掛る。……「やあ」と洋杖をついて留まつて、中折帽を脱つた人がある。すぐに私と口早に震災の見舞を言交した。花月の平岡權八郎さんであつた。「どちらへ。」「私は人を一寸送りますので。」「終汽車ではありますまいね。それだと靜としては居られない。」「神戸行のです。」「私はそのあとので、靜岡まで行くんですが、糸崎と言ふのは何處でせう。」「さあ……」と言つた、洋行がへりの新橋のちやき〳〵も、同じく糸崎を知らなかつた。 此の一たてが、ぞろ〳〵と出て行くと、些と大袈裟のやうだが待合室には、あとに私一人と成つた。それにしても靜としては居られない。……行――行と、呼ぶのが、何うやら神戸行を飛越して、糸崎行――と言ふやうに寂しく聞える。急いで出ると、停車場の入口に、こゝにも唯一人、コートの裾を風に颯と吹まどはされながら、袖をしめて、しよぼ濡れたやうに立つて、雨に流るゝ燈の影も見はぐるまいと立つて居る。 「來ませんねえ。」 「來ないなあ。」 しかし、十時四十八分發には、まだ十分間ある、と見較べると、改札口には、知らん顏で、糸崎行の札が掛つて、改札のお係は、剪で二つばかり制服の胸を叩いて、閑也と濟まして居らるゝ。此を見ると、私は富札がカチンと極つて、一分で千兩とりはぐしたやうに氣拔けがした。が、ぐつたりとしては居られない。改札口の閑也は、もう皆乘込だあとらしい。「確に十分おくれましたわね、然ういへば、十時五十分とか言つて居なすつたやうでした。――時間が變つたのかも知れません。」恁う言ふ時は、七三や、耳かくしだと時間に間違ひはなからう。――わがまゝのやうだけれど、銀杏返や圓髷は不可い。「だらしはないぜ、馬鹿にして居る。」が、憤つたのでは決してない。一寸の旅でも婦人である。髮も結つたらうし衣服も着換へたらうし、何かと支度をしたらうし、手荷もつを積んで、車でこゝへ駈けつけて、のりおくれて、雨の中を歸るのを思ふとあはれである。「五分あれば間にあひませう。」其處で、別の赤帽君の手透で居るのを一人頼んで、その分の切符を託けた。こゝへ駈けつけるのに人數は恐らくなからう、「あなた氣をつけてね、脊のすらりとした容子のいゝ、人柄な方が見えたら大急ぎで渡して下さい。」畜生、驕らせてやれ――女の口で赤帽君に、恁う言つた。 「お氣の毒樣です。――おつれはもう間に合ひません。……切符はチツキを入れませんから、代價の割戻しが出來ます。」 もう動き出した汽車の窓に、する〳〵と縋りながら、 「お歸途に、二十四――と呼んで下さい。その時お渡し申しますから。」 糸崎行の此の列車は、不思議に絲のやうに細長い。いまにも遙な石壇へ、面長な、白い顏、褄の細いのが駈上らうかと且つ危み、且つ苛ち、且つ焦れて、窓から半身を乘り出して居た私たちに、慇懃に然う言つてくれた。 ――後日、東京驛へ歸つた時、居合はせた赤帽君に、その二十四――のを聞くと、丁ど非番で休みだと云ふ。用をきいて、ところを尋ねるから、麹町を知らして歸ると、すぐその翌日、二十四――の赤帽君が、わざ〳〵山の手の番町まで、「御免下さいまし。」と丁寧に門をおとづれて、切符代を返してくれた。――此の人ばかりには限らない。靜岡でも、三島でも、赤帽君のそれぞれは、皆もの優しく深切であつた。――お禮を申す。 淺葱の暗い、クツシヨンも又細長い。室は悠々とすいて居た。が、何となく落着かない。「呼んだら聞えさうですね。」「呉服橋の上あたりで、此のゴーと言ふ奴を聞いてるかも知れない。」「驛前のタクシイなら、品川で間に合ふかも知れませんよ。」「そんな事はたゞ話だよ。」唯、バスケツトの上に、小取𢌞しに買つたらしい小形の汽車案内が一册ある。此が私たちの近所にはまだなかつた。震災後は發行が後れるのださうである。 |
時代の移り変わりは妙なものである。そのころは新しく奇異の思いにも感じられなかったことが、後にふり返ると滑稽にも思われる。 私は明治二十年、十三歳の頃京都の画学校に入ったが、その時分の学校は今の京都ホテルの処にあって、鈴木松年先生が北宗画の教授をされていた。半季ほどたってこの学校に改革が起こって松年先生は学校をやめられた。そんなことでその儘私も松年先生の画塾へ通うことになった。その当時に斎藤松洲さんという人が塾頭をしていたことを記憶する。私はちょうど六ヶ年間松年画塾にいて、十九歳の年に明治二十六年、楳嶺先生の塾へも通ってその後に竹内栖鳳先生の御訓導を受けた。新機軸への開拓に深く印象づけられて、幸いにも今日あるに到ったことは勿論、日本画の骨子に松年先生の賜物もあるが、栖鳳先生の偉大なる御指導の程にも敬慕と感謝の念は忘れることは出来得ない。 真に現時の絵画を、過去のそれに比較するに及んでは、格段の趣きで感慨殊に深きを覚ゆる。ずっと以前に如雲社という会が京都であって、確か毎月裏寺町で開かれていたが、ここには京中の各派の社中の方々が思い思いの出品もされ、私もそのいいのをよく見取りもさせて貰った。ほんとうに楽しんで面白く、和気靄々裡に一日を過ごすといった風の会だった。時代の変化でそうした親睦さは今ではちょっと出来にくかろうけれど、こういう風の会はこれ迄この会以外には見られない位に考えられる。のんびりとしたいい会であったと思うと懐かしい。 せめてこの様な会が当節でも一つ位あったらよかろうにと折ふしに思われる事でもある。そのころの美術雑誌で『煥美』というのがあって、いつかその雑誌で松年先生と久保田米僊さんとが、画論に争論の花を咲かせたことも覚えているが、世の中の向上とか進展などというものには、様々の議闘もまた争論も生れる、しかしよくも悪くもこれは過去をふりかえった時には、微笑ましい愉悦さを覚えしめるものと私は思えてならない。 |
一 誠に差出がましく恐入りますが、しばらく御清聴を煩わしまする。 八宗の中にも真言宗には、秘密の法だの、九字を切るだのと申しまして、不思議なことをするのでありますが、もっともこの宗門の出家方は、始めから寒垢離、断食など種々な方法で法を修するのでございまして、向うに目指す品物を置いて、これに向って呪文を唱え、印を結んで、錬磨の功を積むのだそうでありまする。 修錬の極致に至りますると、隠身避水火遁の術などはいうまでもございませぬ、如意自在な法を施すことが出来るのだと申すことで。 ある真言寺の小僧が、夜分墓原を通りますと、樹と樹との間に白いものがかかって、ふらふらと動いていた。暗さは暗し、場所柄は場所柄なり、可恐さの余り歯の根も合わず顫え顫え呪文を唱えながら遁げ帰りましたそうでありますが、翌日見まするとそこに乾かしてございました浴衣が、ずたずたに裂けていたと申しますよ、修行もその位になりましたこの小僧さんなぞのは、向って九字を切ります目当に立てておく、竹切、棒などが折れるといいます。 しかし可加減な話だ、今時そんなことがある訳のものではないと、ある人が一人の坊さんに申しますと、その坊さんは黙って微笑みながら、拇指を出して見せました、ちと落語家の申します蒟蒻問答のようでありますけれども、その拇指を見せたのであります。 そして坊さんが言うのに、まず見た処この拇指に、どの位な働きがあると思わっしゃる、たとえば店頭で小僧どもが、がやがや騒いでいる処へ、来たよといって拇指を出して御覧なさい、ぴったりと静りましょう、また若い人にちょっと小指を見せたらどうであろう、銀座の通で手を挙げれば、鉄道馬車が停るではなかろうか、も一つその上に笛を添えて、片手をあげて吹鳴らす事になりますと、停車場を汽車が出ますよ、使い処、用い処に因っては、これが人命にも関われば、喜怒哀楽の情も動かします。これをでかばちに申したら、国家の安危に係わるような、機会がないとも限らぬ、その拇指、その小指、その片手の働きで。 しかるをいわんや臨兵闘者皆陣列在前といい、令百由旬内無諸哀艱と唱えて、四縦五行の九字を切るにおいては、いかばかり不思議の働をするかも計られまい、と申したということを聞いたのであります。 いや、余事を申上げまして恐入りますが、唯今私が不束に演じまするお話の中頃に、山中孤家の怪しい婦人が、ちちんぷいぷい御代の御宝と唱えて蝙蝠の印を結ぶ処がありますから、ちょっと申上げておくのであります。 さてこれは小宮山良介という学生が、一夏北陸道を漫遊しました時、越中の国の小川という温泉から湯女の魂を託って、遥々東京まで持って参ったというお話。 越中に泊と云って、家数千軒ばかり、ちょっと繁昌な町があります。伏木から汽船に乗りますと、富山の岩瀬、四日市、魚津、泊となって、それから糸魚川、関、親不知、五智を通って、直江津へ出るのであります。 小宮山はその日、富山を朝立、この泊の町に着いたのは、午後三時半頃。繁昌な処と申しながら、街道が一条海に添っておりますばかり、裏町、横町などと、謂ってもないのであります、その町の半頃のと有る茶店へ、草臥れた足を休めました。 二 渋茶を喫しながら、四辺を見る。街道の景色、また格別でございまして、今は駅路の鈴の音こそ聞えませぬが、馬、車、処の人々、本願寺詣の行者の類、これに豆腐屋、魚屋、郵便配達などが交って往来引きも切らず、「早稲の香や別け入る右は有磯海」という芭蕉の句も、この辺という名代の荒海、ここを三十噸、乃至五十噸の越後丸、観音丸などと云うのが、入れ違いまする煙の色も荒海を乗越すためか一際濃く、且つ勇ましい。 茶店の裏手は遠近の山また山の山続きで、その日の静かなる海面よりも、一層かえって高波を蜿らしているようでありました。 小宮山は、快く草臥を休めましたが、何か思う処あるらしく、この茶屋の亭主を呼んで、 「御亭主、少し聞きたい事があるんだが。」 「へい、お客様、何でござりますな。 氷見鯖の塩味、放生津鱈の善悪、糸魚川の流れ塩梅、五智の如来へ海豚が参詣を致しまする様子、その鳴声、もそっと遠くは、越後の八百八後家の因縁でも、信濃川の橋の間数でも、何でも存じておりますから、はははは。」 と片肌脱、身も軽いが、口も軽い。小宮山も莞爾して、 「折角だがね、まずそれを聞くのじゃなかったよ。」 「それはお生憎様でござりまするな。」 何が生憎。 「私の聞きたいのは、ここに小川の温泉と云うのがあるッて、その事なんだがどうだね。」 「ええ、ござりますとも、人足も通いませぬ山の中で、雪の降る時白鷺が一羽、疵所を浸しておりましたのを、狩人の見附けましたのが始りで、ついこの八九年前から開けました。一体、この泊のある財産家の持地でござりますので、仮の小屋掛で近在の者へ施し半分に遣っておりました処、さあ、盲目が開く、躄が立つ、子供が産れる、乳が出る、大した効能。いやもう、神のごとしとござりまして、所々方々から、彼岸詣のように、ぞろぞろと入湯に参りまする。 ところで、二階家を四五軒建てましたのを今では譲受けた者がござりまして、座敷も綺麗、お肴も新らしい、立派な本場の温泉となりまして、私はかような田舎者で存じませぬが、何しろ江戸の日本橋ではお医者様でも有馬の湯でもと云うた処を、芸者が、小川の湯でもと唄うそうでござりますが、その辺は旦那御存じでござりましょうな。いかが様で。」 反対に鉄砲を向けられて、小宮山は開いた口が塞がらず。 「土地繁昌の基で、それはお目出度い。時に、その小川の温泉までは、どのくらいの道だろう。」 「ははあ、これからいらっしゃるのでござりますか。それならば、山道三里半、車夫などにお尋ねになりますれば、五里半、六里などと申しますが、それは丁場の代価で、本当に訳はないのでござりまする。」 「ふむ、三里半だな可し。そして何かい柏屋と云う温泉宿は在るかね。」 「柏屋! ええもう小川で一等の旅籠屋、畳もこのごろ入換えて、障子もこのごろ張換えて、お湯もどんどん沸いております。」 と年甲斐もない事を言いながら、亭主は小宮山の顔を見て、いやに声を密めたのでありますな、怪からん。 「へへへ、好い婦人が居りますぜ。」 「何を言っているんだ。」 「へへへ、お湯をさして参りましょうか。」 「お茶もたんと頂いたよ。」 と小宮山は傍を向いて、飲さしの茶を床几の外へざぶり明けて身支度に及びまする。 三 小宮山は亭主の前で、女の話を冷然として刎ね附けましたが、密に思う処がないのではありませぬ。一体この男には、篠田と云う同窓の友がありまして、いつでもその口から、足下もし折があって北陸道を漫遊したら、泊から訳はない、小川の温泉へ行って、柏屋と云うのに泊ってみろ、於雪と云って、根津や、鶯谷では見られない、田舎には珍らしい、佳い女が居るからと、度々聞かされたのでありますが、ただ、佳い女が居るとばかりではない、それが篠田とは浅からぬ関係があるように思われまする、小宮山はどの道一泊するものを、乾燥無味な旅籠屋に寝るよりは、多少色艶っぽいその柏屋へと極めたので。 さて、亭主の口と盆の上へ、若干かお鳥目をはずんで、小宮山は紺飛白の単衣、白縮緬の兵児帯、麦藁帽子、脚絆、草鞋という扮装、荷物を振分にして肩に掛け、既に片影が出来ておりますから、蝙蝠傘は畳んで提げながら、茶店を発つて、従是小川温泉道と書いた、傍示杭に沿いて参りまする。 行くことおよそ二里ばかり、それから爪先上りのだらだら坂になった、それを一里半、泊を急ぐ旅人の心には、かれこれ三里余も来たらうと思うと、ようやく小川の温泉に着きましてございまする。 志す旅籠屋は、尋ねると直ぐに知れた、有名なもので、柏屋金蔵。 そのまま、ずっと小宮山は門口に懸りまする。 「いらっしゃいまし。」 「お早いお着。」 |
今日でも「銀座」といえば何に限らず目新らしいもののある所とされていますが、以前「煉瓦」と呼ばれた時代にもあの辺は他の場所よりも一歩進んでいて、その時分の珍らしいものや、珍らしい事の多くはこの「煉瓦」にありました。いわば昔からハイカラな所だったのです。 伊太利風景の見世物 明治七、八年の頃だったと思いますが、尾張町の東側に伊太利風景の見世物がありました。これは伊太利人が持って来たもので、長いカンバスへパノラマ風に伊太利のベニスの風景だとか、ナポリの景だとかあるいはヴェスビアス火山だとかいったものが描いてあって、それを機械で一方から一方へ巻いて行くに連れてそれらの景色が順次正面へ現れて来ます。そうするとその前の方へ少し離れた所に燈火の仕掛があってこれがその絵に依って種々な色の光を投げかけるようになっています。例えばベニスの景の時には月夜の有様を見せて青い光を浴せ、ヴェスビアス火山噴火の絵には赤い光線に変るといった具合です。今から考えれば実に単純なつまらないものですが、その時分にはパノラマ風の画風と外国の風景と光線の応用とが珍らしくって、評判だったものです。これを私の父が模倣して浅草公園で興行しようと計画したことがありましたが都合でやめました。 西洋蝋燭 明治五年初めて横浜と新橋との間に汽車が開通した時、それを祝って新橋停車場の前には沢山の紅提灯が吊るされましたが、その時その提灯には皆舶来蝋燭を使用して灯をつけたものです。その蝋燭の入っていた箱が新橋の傍に山のように積んで捨ててあったのを覚えています。これが恐らく西洋蝋燭を沢山に使った初めでしたろう。その頃は西洋蝋燭を使うなどということは珍らしかった時代ですから大分世間の評判に上りました。 舶来屋 その頃から西洋臭いものを売る店が比較的多くありました。こういう店では大抵舶来の物を種々雑多取り交ぜて、また新古とも売っておりました。例えばランプもあれば食器類もあり、帽子もあればステッキのようなものもあるといった具合で、今日のように専門的に売っているのではなかったのです。それでこういう店を俗に舶来屋と呼んでいました。私の今覚えていますのは、当時の読売新聞社と大倉組との間あたりにこの舶来屋がありました。尤もこの店は器物食器を主に売っていました。それから大倉組の処からもう少し先き、つまり尾張町寄りの処にもありました。現に私がこの店で帽子を見てそれが非常に気に入り、父をせびって買いに行った事がありましたが、値をきいて見ると余り高価だったのでとうとう買わずに帰って口惜しかった事を覚えています。とにかくこういうように舶来の物を売る店があったということは、横浜から新橋へ汽車の便のあったことと、築地に居留地のあったためと、もう一つは家屋の構造が例の煉瓦で舶来品を売るのに相当していたためでしょう。 オムニバス 明治七年頃でしたが、「煉瓦」の通りを「オムニバス」というものが通りました。これは即ち二階馬車のことですが、当時は原語そのままにオムニバスと呼んだものです。このオムニバスは紀州の由良という、後に陛下の馭者になった人と私の親戚に当る伊藤八兵衛という二人が始めたもので、雷門に千里軒というのがあって此処がいわば車庫で、雷門と芝口との間を往復していたのです。この車台は英国の物を輸入してそのまま使用したので即ち舶来品でした。ですから数はたった二台しかありませんでした。馬は四頭立で車台は黒塗り、二階は背中合せに腰掛けるようになっていて梯子は後部の車掌のいる所に附いていました。馭者はビロードの服にナポレオン帽を戴いているという始末で、とにかく珍らしくもあり、また立派なものでした。乗車賃は下が高く二階は安うございました。多分下の方の乗車賃は芝口から浅草まで一分だったかと思います。ところがなにしろその時分の狭い往来をこんな大きな、しかも四頭立の馬車が走ったものですから、度々方々で人を轢いたり怪我をさせたので大分評判が悪く、随って乗るのも危ながってだんだん乗客が減ったので、とうとうほんの僅かの間でやめてしまいました。その後このオムニバスの残骸は、暫く本所の緑町に横わっていたのですが、その後どうなりましたかさっぱり分らなくなってしまいました。これから後に鉄道馬車が通るようになったのです。 釆女ヶ原で風船 これは銀座通りとは少し離れていますが、今の精養軒の前は釆女ヶ原でした。俗にこれを海軍原と呼んで海軍省所属の原でしたが、ここで海軍省が初めて風船というものを揚げました。なにしろ日本で初めてなのですから珍らしくって大した評判で、私などもわざわざ見に行きました。 |
一月十一日、この日曜日に天気であればきっと浅草へ連れて行くべく、四ッたりの児供等と約束がしてあるので、朝六時の時計が鳴ったと思うと、半窓の障子に薄ら白く縦に筋が見えてきた、窓の下で母人の南手に寝て居った、次の児がひょっと頭をあげ、おとッさん夜があけたよ、そとがあかるくなってきました、今日は浅草へゆくのネイ、そうだ今日はつれてゆくよ、今まで半ねぶりで母の乳房をくちゃくちゃしゃぶって居た末のやつが、ちょっと乳房を放して、おとッちゃん、あたいもいくんだ、あたいも連れていってよ、そうそうおまえもつれてゆくみんなつれてゆく、アタイおもちゃ買って、雪がふったら観音様にとまるよ、幼きもののこの一言は内中の眼をさました。 台所の婆やまでが笑いだし、隣の六畳に祖母と寝て居った、長女と仲なとが一度におっかさん天気はえイの、おッかさんてば、あイ天気はえイよ。 あアうれしいうれしいなア明かるくなった、もう起きよう、おばアさん起きよよう、こんなに明るくなったじゃないか。 祖母は寒いからもう少し寝ていよという、姉も次なも仲なも乳房にとッついているのも、起きるだという、起ようという起してという、大騒ぎになッてきた、婆や、早く着物をあぶってという、まだ火が起りませんから、と少しまってという、早く早くと四人の児供らはかわりがわり呼立てる。 もうこうなっては寝ていようとて寝ていらるるものでない、母なるものが起きる、予も起きる、着物もあぶれたというので、上なが起る次なが起る、仲なのも起る、足袋がないとさわぐ、前掛がないと泣きだす、ウンコーというオシッコーという、さわがしいのせわしいの、それは名状すべからずと云う有様。 手水つかうというが一騒、御膳たべるというが一混難、ようやく八時過ぐる頃に全く朝の事が済んだのである。同勢六人が繰出そうというには支度が容易の事ではない、しかも女の児四人というのであるからなおさら大へんだ、午前中に支度をととのえ、早昼で出かけようというのである。 まず第一に長女の髪をゆう、何がよかろうという事、髪はできぬという、祖母に相談する、何とかいう事に極って出来あがった、それから次なはお下げにゆう、仲なは何、末なは何にて各注文がある、これもまた一騒ぎである、予は奥に新聞を視ている、仲なと末なが、かわるがわる、ひききりなしにやってくる。 おとっさん歩いてゆくの、車で、長崎橋まであるいてそれから車にのるの、浅草には何があるの、観音様の御堂は赤いの、水族館、肴が沢山いる、花やしきちゅうは、象はこわくないの、熊もこわくないの、早くゆきたいなア、おとっさん、おっかさんはまだ髪をゆってくれないよ、いま髪いさんがきておっかさんの髪をゆっているよ、おとっちゃんおとっちゃんおかさんまだアタイに髪ゆってくれないよ、アタイ浅草へいっておもちゃ買って、お汁粉たべる、アタイおっかさんと車にのっていくよ、雪がふれば観音様へとまるよ、イヤおっかさんとねるの、おとっちゃんとねない、アタイおっかさんとねる。 おとっさん早くしないかア、早く着物おきかえよ、お妙ちゃんもめいちゃんも髪ゆうてよ、早くゆこうよう、新聞なんかおよしよ。 髪ができればお白ろいをつけ、着物を着換えるという順序であるが、四人の支度を一人でやる次第じゃで大抵の事ではない、予は着物を着換えたついでに年頭に廻残した一、二軒を済すべく出掛けた、空は曇りなく晴て風もなし誠に長閑な日である、まずよい塩梅だ、同じゆくにも、こういう日にゆけば児供等にも一層面白い事であろうなど考えながら、急ぎ足でかけ廻った、近い所であるから一時間半許で帰ってきた。 定めて児供等が大騒をやって、待かねているだろうと思って、家にはいると意外静かである、日のさし込でる窓の下に祖母が仲なを抱いていた、三人の児等はあんかによってしょげた風をしている、予が帰ったのを見て三人口を揃て、たアちゃんおなかが痛いて。 祖母は浅草へゆくは見合せろという、いま熊胆を飲ませたけれどまア今日はよした方がよかろうという、民児は泣顔あげていまになおるからゆくんだという、流しにいた母もあがってきた、どうしようかという、さすがに三人の児供等も今は強いてゆきたいともいわない、格別の事でもない様だから今によくなるかも知れぬ、まア少し様子を見ようということにした。 予は何心なく裏口の前の障子をあけて見ると、四人の雪駄が四足ちゃんと並べてある、うえ二人のが海老茶の鼻緒で、した二人のが濃紅の鼻緒である、予はこれを見て一種云うべからざる感を禁じ得なかった。 どれおとっさんに少し抱さってみい。 予は祖母の抱いている民児を引取て抱きながら、その額に手を当てて見たのであるが、慥に少し熱がある様子だ、もう仕方がない今日は見合せだ、こう予がいうたので児供等は一斉に予を注視して溜息をついた様であった、それじゃ今度は何日にする、この次の日曜いや土曜日がよい、雨がふったらその次の日ということに極って、末なが、お妙ちゃん羽根つこうようと云いだしたをしおにみなみな立って南手の庭へおりた、たみ児は祖母の膝によりかかって眠った様である。 やがて昼飯も済んだが、予は俄にひまがあいてむしろ手持ぶさだという様な塩梅である、奥へ引込で炉の傍らに机を据ボンヤリ坐を占めて見たが、何にやら物を見る気にもならぬ、妻は火を採てきて炉にいれ、釜にも水を張ってきてくれた。 予は庭に置いた梅の盆栽を炉辺に運んで、位置の見計らいなど倔托しながらながめているうち、いつか釜も煮えだしシーチーという音が立ってきた、通口の一枚唐紙を細くあけておとっちゃんと呼んだのは民児であった、オーたア児、もうなおったか、予がこういうと彼はうなずいてホックリをした、蜜柑を一つやろうか、イヤ、ビスケットをやろか、イヤ、そうかそれじゃも少し寝ておいでまた悪くなるといけないから。 少さく愛らしき笑顔は引込んでしまった、まア安心じゃと思うと表手の方で羽根うつ音が頻にきこえる。 |
この一文は私の友人の著書の広告であるから、広告のきらいな方はなにとぞ読まないでいただきたい。 このたび私の中学時代からの友人中村草田男の句集が出た。署名を『長子』という。 一部を贈られたから早速通読して自分の最も好む一句を捨つた。すなわち、 冬の水一枝の影も欺かず 草田男に会つたときこの一句を挙げて賞したところ、彼もまた己が意を得たような微笑をもらしたからおそらく自分でも気に入つているのであろう。 彼は早くから文芸方面の素質を示し、いかなる場合にも真摯な研究態度と柔軟にして強靭なる生活意欲(芸術家としての)を失わなかつたから、いつか大成するだろうと楽しみにしていたのであるが、この著書を手にして私は自分の期待の満される日があまりにも間近に迫つて来ていることを知つて驚きもし、歓びもした。 私は中村の著書の中に、子規以来始めて「俳句」を見た。 もつと遠慮なくいえば芭蕉以後、芭蕉に肉迫せんとする気魄を見た。 私には詩はわからない。なぜなら私は散文的な人間であるから。 しかし私のいだいている概念からいえば、詩というものはひたすら写実の奥底にもぐり込んで、その奥の奥をきわめた時、あたかも蚕が蛾になるように、無意識のうちに写実のまゆを突き破つて象徴の世界に飛び出すものでなければならぬ。そしてそれはいかなる場合においてもリズムの文学でなければならぬ、少なくとも決してリズムを忘れ得ない文学でなければならぬと考えている。 そして、私のこの概念にあてはまるものは残念ながら現代にはきわめて乏しい。 そこへ中村の『長子』が出た。 私は驚喜せずにはいられない。 これこそ私の考えている詩である。彼こそは私の描いた詩人である。 しかも、それが自分に最も近い友人の中から出ようとは。しかも、現代においては危く忘れられかけている「俳句」という、この素朴な、古めかしい、単純な形式の中に詩の精神がかくまでも燦然たる光を放つて蘇生しようとは。 最初、中村から「俳句」をやるという決心を聞かされたとき、私はこのセチがらい時勢に生産の報酬を大衆層に要求し得ないような、そんな暇仕事を選ぶことについて漠然たる不満と同時に不安を感じた。 しかし、いま彼の句を見て、その到達している高さを感じ、彼の全生活、全霊が十七字の中にいかに生き切つているかを知つて、私は自分の考えをいくぶん訂正する必要を感じる。しかし、その残りのいくぶんは依然として訂正の必要がないということは遣憾の極みである。 彼ほどの句をものしてもなおかつ俳句では食えないのである。したがつて彼はいま学校の教師を職業としている。 そしてこのりつぱな本も売れゆきはあまりよくないということを彼から聞かされた。 私は私の雑文に興味を持つて下さるほどの人々にお願いする。なにとぞ彼の本を買つてください。 彼の本はおそらく私のこの雑文集に何十倍するだけの心の糧を諸君に提供するに違いない。 彼の本は沙羅書店から出ている。 おわりに『長子』の中から私によくわかる句を、もう少し捨い出して紹介しておく。 土手の木の根元に遠き春の雲 松風や日々濃くなる松の影 あらましを閉せしのみの夕牡丹 夏草や野島ヶ崎は波ばかり 眼の前を江の奥へ行く秋の波 |
……新しき時代の浪曼主義者は三汀久米正雄である。「涙は理智の薄明り、感情の灯し火」とうたえる久米、真白草花の涼しげなるにも、よき人の面影を忘れ得ぬ久米、鮮かに化粧の匂える妓の愛想よく酒を勧むる暇さえ、「招かれざる客」の歎きをする久米、――そう云う多感多情の久米の愛すべきことは誰でも云う。が、私は殊に、如何なる悲しみをもおのずから堪える、あわれにも勇ましい久米正雄をば、こよなく嬉しく思うものである。 この久米はもう弱気ではない。そしてその輝かしい微苦笑には、本来の素質に鍛錬を加えた、大いなる才人の強気しか見えない。更に又杯盤狼藉の間に、従容迫らない態度などは何とはなしに心憎いものがある。いつも人生を薔薇色の光りに仄めかそうとする浪曼主義。その誘惑を意識しつつ、しかもその誘惑に抵抗しない、たとえば中途まで送って来た妓と、「何事かひそひそ囁き交したる後」莫迦莫迦しさをも承知した上、「わざと取ってつけたように高く左様なら」と云い合いて、別れ別れに一方は大路へ、一方は小路へ、姿を下駄音と共に消すのも、満更厭な気ばかり起させる訳でもない。 私も嘗て、本郷なる何某と云うレストランに、久米とマンハッタン・カクテルに酔いて、その生活の放漫なるを非難したる事ありしが、何時か久米の倨然たる一家の風格を感じたのを見ては、鶏は陸に米を啄み家鴨は水に泥鰌を追うを悟り、寝静まりたる家家の向う「低き夢夢の畳める間に、晩くほの黄色き月の出を見出でて」去り得ない趣さえ感じたことがある。愛すべき三汀、今は蜜月の旅に上りて東京にあらず。………… |
一 新婦が、床杯をなさんとて、座敷より休息の室に開きける時、介添の婦人はふとその顔を見て驚きぬ。 面貌ほとんど生色なく、今にも僵れんずばかりなるが、ものに激したる状なるにぞ、介添は心許なげに、つい居て着換を捧げながら、 「もし、御気分でもお悪いのじゃございませんか。」 と声を密めてそと問いぬ。 新婦は凄冷なる瞳を転じて、介添を顧みつ。 「何。」 とばかり簡単に言捨てたるまま、身さえ眼をさえ動かさで、一心ただ思うことあるその一方を見詰めつつ、衣を換うるも、帯を緊むるも、衣紋を直すも、褄を揃うるも、皆他の手に打任せつ。 尋常ならぬ新婦の気色を危みたる介添の、何かは知らずおどおどしながら、 「こちらへ。」 と謂うに任せ、渠は少しも躊躇わで、静々と歩を廊下に運びて、やがて寝室に伴われぬ。 床にはハヤ良人ありて、新婦の来るを待ちおれり。渠は名を近藤重隆と謂う陸軍の尉官なり。式は別に謂わざるべし、媒妁の妻退き、介添の婦人皆罷出つ。 ただ二人、閨の上に相対し、新婦は屹と身体を固めて、端然として坐したるまま、まおもてに良人の面を瞻りて、打解けたる状毫もなく、はた恥らえる風情も無かりき。 尉官は腕を拱きて、こもまた和ぎたる体あらず、ほとんど五分時ばかりの間、互に眼と眼を見合せしが、遂に良人まず粛びたる声にて、 「お通。」 とばかり呼懸けつ。 新婦の名はお通ならむ。 呼ばるるに応えて、 「はい。」 とのみ。渠は判然とものいえり。 尉官は太く苛立つ胸を、強いて落着けたらんごとき、沈める、力ある音調もて、 「汝、よく娶たな。」 お通は少しも口籠らで、 「どうも仕方がございません。」 尉官はしばらく黙しけるが、ややその声を高うせり。 「おい、謙三郎はどうした。」 「息災で居ります。」 「よく、汝、別れることが出来たな。」 「詮方がないからです。」 「なぜ、詮方がない。うむ。」 お通はこれが答をせで、懐中に手を差入れて一通の書を取出し、良人の前に繰広げて、両手を膝に正してき。尉官は右手を差伸し、身近に行燈を引寄せつつ、眼を定めて読みおろしぬ。 文字は蓋し左のごときものにてありし。 お通に申残し参らせ候、御身と近藤重隆殿とは許婚に有之候 然るに御身は殊の外彼の人を忌嫌い候様子、拙者の眼に相見え候えば、女ながらも其由のいい聞け難くて、臨終の際まで黙し候 さ候えども、一旦親戚の儀を約束いたし候えば、義理堅かりし重隆殿の先人に対し面目なく、今さら変替相成らず候あわれ犠牲となりて拙者の名のために彼の人に身を任せ申さるべく、斯の遺言を認め候時の拙者が心中の苦痛を以て、御身に謝罪いたし候 月 日清川通知 お通殿 二度三度繰返して、尉官は容を更めたり。 「通、吾は良人だぞ。」 お通は聞きて両手を支えぬ。 「はい、貴下の妻でございます。」 その時尉官は傲然として俯向けるお通を瞰下しつつ、 「吾のいうことには、汝、きっと従うであろうな。」 此方は頭を低れたるまま、 「いえ、お従わせなさらなければ不可ません。」 尉官は眉を動かしぬ。 「ふむ。しかし通、吾を良人とした以上は、汝、妻たる節操は守ろうな。」 |
彼の人の夕餉の支度はととのった、 今宵は冷たく横たわるやもしれぬ彼の人の。 昨夜はわたしが寝間に招じいれたが、 今宵は剣の床が待っている。 ――イーガー卿、グレーム卿、グレイスティール卿 マイン河とライン河の合流しているところからそう遠くない、上ドイツの荒れはてた幻想的な地方、オーデンヴァルトの高地のいただきに、ずっとむかしのこと、フォン・ランドショート男爵の城が立っていた。それは今ではすっかり朽ちはてて、ほとんど山毛欅やうっそうとした樅の木のなかに埋もれてしまっている。しかし、その木々のうえには、古い物見櫓がいまもなお見え、前述のかつての城主と同様、なんとか頭を高くもたげようとし、近隣の地方を見おろしているのである。 その男爵はカッツェンエレンボーゲン(原註2)という大家の分家で、今は衰えているが、祖先の財産の残りと往年の誇りとを受けついでいた。祖先たちは戦争好きだったために、ひどく家産を蕩尽してしまったが、男爵はなおも昔の威容をいくらかでも保とうと懸命になっていた。その当時は平和だったので、ドイツの貴族たちは、たいてい、鷲の巣のように山のなかにつくられた不便な古い城をすてて、もっと便利な住居を谷間に建てていた。それでも男爵はあいかわらず誇らしげにその小さな砦にひきこもって、親ゆずりの頑固さから、家代々の宿敵に対する恨みを胸に抱いていた。だから彼は、先祖のあいだにおこった争いのために、いく人かのごく近くに住んでいる人たちとも折りあいが悪かった。 男爵には一人の娘があるだけだった。しかし、自然は一人の子供しかさずけない場合には、きっとその償いにその子を非凡なものにするのだが、この男爵の娘もその通りだった。乳母たちも、噂好きな人たちも、田舎の親戚たちも、みんなが彼女の父親に断言して、美しさにかけてはドイツじゅうで彼女にならぶものはない、と言ったのである。いったいこの人たちより、ものをよく知っている人がほかにいるだろうか。そのうえ、彼女は二人の独身の叔母の監督のもとに、たいへん気をつけて育てられた。その叔母たちは若いころ数年間ドイツのある小さな宮廷にすごし、立派な貴婦人を教育するためになくてはならないあらゆる方面の知識に通じていた。この叔母たちの薫陶をうけて、彼女の才芸はおどろくばかりのものになった。十八歳になるころには見事に刺繍することができた。彼女は壁掛けに聖徒たちの一代記を刺繍したことがあるが、その顔の表情があまり力づよかったので、まるで煉獄で苦しんでいる人間さながらに見えた。彼女はたいして苦労もせずに本を読むことができ、教会の伝説をいくつか判読し、中世の英雄詩に出てくるふしぎな騎士物語はほとんど全部読み解くことができた。彼女は書くことにもかなりの上達ぶりを見せ、自分の名前を一字もぬかさずに、たいへんわかりやすく署名することができたので、叔母たちは眼鏡をかけないでも読むことができた。彼女は手すさびに見事な腕前で婦人好みの装飾品をなんでもつくったし、当時のもっとも玄妙な舞踊にも長け、さまざまな歌曲をハープやギターでひくこともでき、恋愛詩人がうたうあまい民謡をすべて暗誦していた。 叔母たちはまた、若いころ、たいした浮気もので、蓮葉女だったから、姪の操行を油断なく見張り、厳しく取りしまるには全く見事に適当だと思われていた。年とった蓮葉女ほど、がっちりして用心ぶかく、無情なほど礼儀正しい付きそい役はまたとないのである。彼女は叔母たちの眼をはなれることはめったに許されなかった。城の領地のそとに出るときにはかならず、しっかりとした付きそいがついた。というよりはむしろ、十分な見張りがつけられたのである。また絶えず厳格な行儀作法や文句をいわずに服従することについて講釈を聞かされていた。そして、男については、いやはや、絶対に近づかないように教えこまれ、また断じて信用しないように言われていたから、彼女は正当な許しがなければ、世界じゅうでもっとも眉目秀麗な伊達男にさえ、いちべつもくれはしなかっただろう。いや、たとえその男が彼女の足もとで死にかけていたにせよ、見むきもしなかっただろう。 このしつけかたのすばらしい効果は、見事にあらわれてきた。この若い婦人は従順と品行方正のかがみであった。ほかの娘たちは世間ではなやかに評判になって、愛らしさをなくし、だれの手にも手折られ、やがては投げすてられがちであった。ところが、彼女はあの汚れのない老嬢たちの保護のもとに、はずかしげにほころびて、みずみずしく美しい婦人になろうとして、あたかも刺に守られて色づく薔薇の蕾のようだった。叔母たちは誇らしく満足げに彼女をながめ、たとえ世のなかのすべての若い女たちが道をふみあやまろうとも、カッツェンエレンボーゲンの跡取り娘には、ありがたいことに、そのようなことは決しておこるはずがない、と吹聴した。 しかし、フォン・ランドショート男爵が、どれほど子供にめぐまれることが少かったにせよ、彼の家族は決して小人数ではなかった。神の御心は彼にたくさんの貧しい縁者をめぐみたもうていたのである。彼らはだれもかれも、およそ貧乏な親類にはつきものの親愛の情をもっていて、おどろくほど男爵を慕い、あらゆる機会を見つけては大ぜいでやってきて、城をにぎわした。一門の祝祭にはこういう善良なひとびとがあつまって祝ったが、費用は男爵がもった。そして彼らは山海の珍味に満腹すると、このような家族の会合、このような心からの歓楽ほどたのしいものは決してあるものではない、とよく言ったものである。 男爵は小男だったけれども、大きな心をもち、自分をとりまく小さな世界のなかでは自分がいちばん偉い人物なのだという思いに満足して得意であった。周囲の壁から、気味の悪いむかしの武士たちの肖像画が恐ろしい顔をして見おろしていたが、彼は好んでその武士たちのことを長々と話したものだ。そして、彼は自分の費用でごちそうしてやった人たちほどよい聞き手はまたとないことに気がついた。彼はふしぎなことが大好きで、ドイツじゅうの山や谷にみちみちている超自然的な物語はどれも固く信じているのだった。ところが、この客たちの信仰ぶりは、男爵自身をしのぐほどだった。彼らはふしぎな話にはどれにも目をまるくし、口をあけて聞きいり、たとえその話が百ぺん繰りかえされても、かならずびっくり仰天するのだった。こうしてフォン・ランドショート男爵は、自分の食卓での予言者となり、小さな領土の絶対君主として、わけても自分が当代随一の賢者であると信じて、幸福に日をおくった。 ちょうどこの話のころ、きわめて重大な事柄についてこの城に一族の大集会があった。それはかねて決められていた男爵の娘の花婿をむかえることについてだった。父親とあるバヴァリアの老貴族とのあいだにすでに話しあいがすすめられており、権威ある両家を、子供たちの結婚によって取りむすぶことになっていた。その下準備はもはや作法通りすまされていた。当の若者たちはたがいに見も知らぬままで婚約させられ、婚礼の日どりがさだめられた。フォン・アルテンブルク若伯爵はそのためにすでに軍隊から呼びもどされ、現に男爵の城へ花嫁をむかえにゆく途上にあった。伯爵からの手紙が、たまたまその滞在先のヴルツブルクからとどき、到着予定の日時をしらせてきてあった。 城は大わらわで彼をむかえるにふさわしい歓迎の準備をしていた。美しい花嫁はなみなみならず念入りに飾りたてられた。例の二人の叔母が彼女の化粧を受けもち、朝のうちいっぱい、彼女の装身具のひとつひとつについて言いあらそいをしていた。当の花嫁は、二人のいさかいを巧みに利用して、自分の好みどおりにしたが、幸いにしてそれは申し分のないものだった。彼女の美しさといったら、世の若い花婿がこれ以上を望むことはとうていできないほどだったし、期待にときめく心で彼女の魅力はいっそう輝きを増していた。 顔や襟もとにさす赤み、静かな胸の高まり、ときおり幻想にふける眼ざし、すべてが彼女の小さな胸におこっているかすかな動揺をあらわしていた。叔母たちは絶えず彼女のまわりをうろうろしていた。未婚の叔母というものは、とかくこういうことにたいへん興味をもつものなのだ。叔母たちは彼女に、どう振舞ったらよいか、どんなことを言えばよいか、また、どういうふうに心まちの愛人を迎えればよいか、ということについて、何くれとなく真面目な助言をあたえていた。 男爵もそれに劣らぬほど準備にいそがしかった。彼には、実のところ、これといってしなければならないことは全くなかった。しかし、彼は生れつきせっかちな気ぜわしい男だったから、まわりの人たちがみなせかせかしているのに、平気で落ちついていられるはずはなかった。彼は心配でたまらないといった様子で、城の上から下までやきもきしながら歩きまわった。仕事をしている召使たちを絶えず呼びたてて、怠けずに働くようにいましめたり、また、広間という広間、部屋という部屋を、何もしないでせかせかとうるさくどなりまわり、まるで暑い夏の日に大きな青蠅がぶんぶんとびまわるようだった。 そのあいだにも、犢の肥ったのが殺され、森には猟師たちの喚声がひびき、厨は山海の珍味でいっぱいになり、酒蔵からはライン酒やフェルネ酒がしこたま運びだされた。そしてハイデルベルクの大酒樽さえ徴発されてきた。用意万端ととのって、ドイツ風の真心こめた歓待の精神で、にぎやかにその賓客を迎えるばかりになった。ところが、その客はなかなか現われなかった。時間は刻々とすぎていった。太陽は先刻までオーデンヴァルトのこんもりした森にさんさんたる光を頭上からそそいでいたが、今は山の嶺にそってかすかに光っていた。男爵はいちばん高い櫓にのぼり、遠くに伯爵とその従者たちが見えないものかと思って瞳をこらした。一度は彼らを見たと思った。角笛の音が谷間から流れてきて、山のこだまとなって長く尾をひいた。馬に乗った一群のひとびとがはるか下のほうに見え、ゆっくりと道を進んできた。ところが、彼らはもう少しで山のふもとにつくというとき、急に違う方向にそれてしまった。太陽の最後の光が消えうせ、蝙蝠が夕闇のなかをひらひら舞いはじめた。路は次第にぼんやりしてきて、もうそこには何ひとつ動くものは見当らなくなった。ただ、ときおり農夫が野良仕事からとぼとぼ家路にむかってゆくだけだった。 ランドショートの古城がこうした混乱状態におかれていたとき、オーデンヴァルトのほかの方面では、ひじょうに興味ある光景が展開していた。 フォン・アルテンブルク若伯爵は、落ちついたゆっくりした足どりで、のどかに結婚式への旅をつづけていた。どんな男でも、友人たちが求婚のわずらわしさや不安をいっさい自分の手から取り除いてくれて、しかも花嫁が目的地で待っているのは、晩餐が自分を待ちうけているのと同様たしかなことだとなれば、だれしもそんな足どりで旅をするものだ。彼はヴルツブルクで若い戦友に出あった。相手は国境で勤務を共にしたことのある男で、ヘルマン・フォン・シュタルケンファウストといい、ドイツ騎士団のなかでもっとも勇猛で立派な勇士の一人で、ちょうど軍隊から還るところだった。彼の父の城は、ランドショートの古城砦から遠くはなかったが、代々の反目から、両家は敵意をいだき、たがいによそよそしくしていた。 なつかしい再会の機会にめぐまれて、若い友人たちは、自分たちの過去の冒険や武運のことを残らず語りあった。そして伯爵は、ある若い婦人とこれから婚礼をあげることになったいきさつを、いちぶしじゅう物語った。自分はまだその婦人に一度も会ったことはないのだが、その人の美しさといったら、実にうっとりするほどだと聞いている、と伯爵は言った。 この友人たちの行く道はおなじ方向だったから、これから先の旅をいっしょにしようということになった。そして、のんきに旅をすることができるように、彼らは朝早くヴルツブルクを発った。伯爵は自分の従者たちに命じて、あとからきて追いつくように言った。 彼らは軍隊生活や冒険を思い出しては道中のつれづれをまぎらした。しかし、伯爵は、ときとしていくらかくどくなるほど、その花嫁の音にきこえた美しさや、彼を待っている幸福について話した。 このようにして彼らはオーデンヴァルトの山中にはいり、そのなかでも一番ものさびしい、うっそうと樹木の生いしげった山路を越えかかっていた。周知のように、ドイツの森林にはいつも盗賊がはびこっていたが、それはドイツの城に幽霊がよく出没するのとおなじことである。それに当時は解散した兵士の群が国じゅうを流れあるいていたので、こんな盗賊がことに多かった。それだから、この騎士たちが、こうした無頼漢の一味に森の真中で襲われたといっても、別におどろくべきことではあるまい。彼らは勇ましく防いだものの、危くうち負かされそうになった。だが、ちょうどそのとき伯爵の従者が到着し、助太刀しようとした。盗賊たちは彼らを見て逃げだしたが、そのときすでに伯爵は致命傷を負っていた。彼はそろそろと傷を悪くしないように用心しながらヴルツブルクの町へ運びかえされ、それから一人の修道僧が近くの修道院から招かれた。この僧は魂を救うのもうまかったが、身体の治療にかけても有名だった。だが彼の手練も、医術のほうはもはや役に立たなかった。不幸な伯爵の余命は数刻のうちに迫っていたのだ。 いまわの息も絶えだえに、彼は切にその友にねがって、ただちにランドショートの城へ行き、彼が花嫁との約束をはたすことができなくなったやむをえない理由を説明してくれるように言った。彼は恋人としてもっとも熱烈なものというのではなかったが、きわめて几帳面な男で、この使命がいちはやく丁重にはたされることをしきりに望んでいるように見えた。「もしこれが果されないならば」と彼は言った。「ぼくは墓のなかで安らかに眠れないだろう」彼はこの最後の言葉をことさらおごそかに繰りかえした。このような感動的な一瞬にものを頼まれたらためらっているわけにはいかなかった。シュタルケンファウストは伯爵をなだめて気を落ちつかせようとつとめ、誠意をこめてその望みをはたすことを約束し、おごそかな誓いのしるしの手を彼に差しのべた。瀕死の男は感謝してその手をにぎりしめたが、間もなく夢うつつの状態におちいり、花嫁のこと、婚約のこと、誓いの言葉を口走り、馬を命じて、自分でランドショートの城へ乗ってゆくとうわごとを言った。そして、ついに息をひきとったが、鞍へとびのるような恰好をしていた。 シュタルケンファウストは嘆息して、武士の涙を注いで友人の時ならぬ非運を悼んだ。それから自分が引きうけた厄介な使命のことをしみじみと考えた。彼の心は重く、頭は混乱した。招かれぬ客として敵意のあるひとびとのなかにあらわれ、そしてその人たちの希望をふみにじるようなことを知らせて、祝宴をしめっぽくしなければならないのだ。それにもかかわらず、彼の心には、ある好奇心がささやいて、カッツェンエレンボーゲンの名高い美人で、それほどまでに用心ぶかく世間からへだてられていた人をひとめ見たいと思っていた。彼は女性の熱烈な崇拝者であり、また、その性格には、奇癖と山気とがいくらかあり、そのために変った冒険ならどんなことでも好きだった。 出発に先立って、彼は友の葬儀について修道院の僧たちとしかるべき手筈をととのえた。友はヴルツブルクの寺院に埋葬されることになったが、その近くには彼の名高い親戚がいた。服喪中の伯爵の従者たちがその遺骸をあずかった。 ところで今こそカッツェンエレンボーゲンの旧家に話をもどすべきときだ。この人たちは来客を待ちわび、そしてまたそれ以上に御馳走を待ちこがれているのだ。また、尊敬すべき小男の男爵に話をもどさなければならない。彼は物見櫓の上で吹きさらしになっている。 夜は迫っていたが、やはり客は来なかった。男爵はがっかりして櫓からおりた。宴会は今まで一時間一時間とおくらされてきたが、もうこれ以上のばすわけにはいかなかった。肉はとっくに焼けすぎて、料理人は困りはてていた。家のもの全部の顔つきがまるで飢餓のために参ってしまった守備兵のようだった。男爵はしぶしぶながら命令をくだして、賓客がいないままで祝宴をはじめようとした。皆が食卓につき、ちょうど食べはじめるばかりになった折りも折り、角笛の音が城のそとからひびいてきて、見知らぬ人が近づいてくるのを知らせた。ふたたび吹きならす長い音のこだまが、古びた城の中庭にひびきわたると、城壁から見張りがそれに答えた。男爵はいそいで未来の花婿を迎えに出ていった。 跳ね橋がもはや下ろされていて、その見知らぬ人は城門の前に進んでいた。彼は背の高い立派な騎士で、黒い馬にまたがっていた。顔色は青ざめていたが、輝かしい神秘的な眼をしていて、堂々としたうちにもうち沈んだところがあった。男爵は彼がこのように簡単なひとりぼっちの旅姿でやってきたことに、いささか気分を悪くした。男爵の威厳をしめそうとする気もちが一瞬きずつけられた。この客の有様はこの重大な場合に正式の礼を欠くものではないか、縁をむすぼうとしている相手の大切な家柄に対しても、敬意が足りないではないか、と彼は考えたくなった。とはいえ、男爵は、相手が若さのためにはやる心をおさえきれず、供のものたちよりも先に着いたに違いないときめて自分をなぐさめた。 「かように時刻もわきまえずにお邪魔してまことに申しわけございません」とその見知らぬ人は言った。 ここで男爵は彼をさえぎって、おびただしい世辞や挨拶を述べたてた。実をいうと、彼は自分が礼儀正しく雄弁であることを鼻にかけていたのである。その見知らぬ人は一、二度その言葉の奔流をせきとめようとしてみたが無駄だった。そこで彼は頭を下げて、その奔流の流れるままにしておいた。男爵がひと句切りするまでには、彼らは城の中庭にきていた。そしてその見知らぬ人はふたたび話しだそうとしたが、またもやさえぎられてしまった。このとき、この家の婦人たちがあらわれて、尻ごみしながら顔をあからめている花嫁を連れてきたのだ。彼は一瞬心をうばわれた人のようにじっと彼女を見つめた。あたかも彼の魂がそっくりその凝視にそそぎこまれ、その美しい姿の上にとどまったかのように思われた。未婚の叔母の一人がなにごとか彼女の耳にささやいた。彼女はなんとか口をひらこうとして、そのうるおいのある青い眼をおそるおそる上げ、この見知らぬ人に問いかけるように、ちらっと恥ずかしそうな視線を向け、やがてまたうつむいてしまった。言葉は消えてしまったが、彼女の唇には愛らしい微笑がただよい、やわらかなえくぼが頬にうかんで、今の一瞥が意に満たないものではなかったことを語っていた。情にもろい十八という年頃の娘は、ただでさえ恋愛や結婚にかたむきやすいのだから、こんなに立派な騎士が気に入らないわけがなかった。 客の到着がおそかったので、詳しい話をする暇はなかった。男爵は自分の一存で、こみいった話を全部朝までもちこすことにし、まだ手のつけられていない宴席へ案内した。 宴席は城の大広間に用意されていた。まわりの壁には、カッツェンエレンボーゲン家の英雄たちのきびしい顔をした肖像画や、彼らが戦場や狩猟で得た記念品がかかっていた。切傷のついた胴鎧、そげた馬上試合用の槍、ぼろぼろになった旗が、狩の獲物にまじっていた。狼の顎や猪の牙が、石弓や戦斧のあいだにおそろしく歯をむきだし、巨大な一対の鹿の角が、その若い花婿の頭のすぐ上におおいかぶさっていた。 騎士はその席上のひとびとやもてなしにはほとんど見むきもしなかった。彼は御馳走もほとんど口にせず、何もかも忘れて花嫁を讃嘆しているようだった。彼は他人に聞かれないような低い声で話した。愛の言葉というものは、決して大きな声で話すものではない。恋人のごくかすかなささやきを聞きのがしてしまうほど鈍い女性の耳がどこにあろうか。彼の態度には優しさと真面目さとがかねそなわり、それが令嬢に力づよい印象をあたえたようだった。彼女がじっと注意ぶかく耳をかたむけるとき、その顔には赤みがさしたり消えたりした。ときおり彼女ははにかみながら返事をした。そして、彼の視線がわきへそれると、幻想的な彼の顔をちらっと横目でぬすみ見て、こころよい幸福感のためにほのかなため息をもらすのだった。この若い二人がすっかり愛し合っているのは明らかだった。叔母たちは、心の機微によく通じていたので、二人がひと目で恋におちたとはっきり言った。 祝宴は陽気に、少くとも騒々しく進んでいった。客たちはみな、軽い財布と山の空気につきものの旺盛な食欲にめぐまれていたからである。男爵はいちばん面白くて長い話をしたが、その話をこれほど巧みに、これほど感銘ふかく話したことは今までになかった。その話のなかに、何かふしぎなことがあれば、聞き手たちはわれを忘れておどろきいり、何か滑稽なことがあれば、笑うべきところですかさず笑うのだった。実をいえば、男爵は、たいていの偉い人たちと同じように、あまりに勿体ぶっていたので、退屈な冗談だけしか言えなかった。とはいえ、その冗談は、大盃になみなみと注いだすばらしいホックハイム葡萄酒でいつも威勢をつけられた。それに、退屈な冗談でも、その当人の食卓できかされ、しかも年のたったうまい葡萄酒をふるまわれれば、笑わないわけにはいかないものだ。いろいろとうがったことを男爵よりもっと貧乏だが、もっと気の利いた才子たちが語ったが、それはこのような場合でもなければ二度とくりかえすに堪えないものだった。あれこれとなく滑稽な話が婦人たちの耳もとでささやかれたが、彼女たちはそれを聞くと身もだえして笑いをこらえた。貧乏ながらも陽気な、顔の大きい男爵のいとこが、一つ二つ歌をうなりだしたが、そのおかしさに未婚の叔母たちはすっかり扇で顔をかくしたほどだった。 この飲めや歌えの大騒ぎの真最中に、見知らぬ客は、その場にそぐわないはなはだ妙な重々しい態度をとりつづけていた。彼の顔色は夜がふけるにつれて、ますます深い憂鬱な色をおびていった。そして、ふしぎに思われるかも知れないが、男爵の冗談さえますます彼をふさぎこませてしまうばかりだった。ときおり思案にふけっていたかと思うと、また時には、不安そうな落ちつかない眼ざしであたりを見まわしたりして、心がそわそわしていることを物語っていた。彼は花嫁と話しあっていたが、その話はますます真剣に、ますます奇怪になっていった。あやしい雲が彼女の晴れやかなおだやかな額をそっとおおいはじめ、彼女のかよわい五体にふるえが走りはじめた。 こういうことが一座のひとびとの注意をひかないはずはなかった。彼らの歓楽は、花婿の不可解な陰気さのために興をそがれた。彼らの気もちも花婿のおかげで滅入ってしまい、肩をすくめたり半信半疑に頭をふって、ささやきあい、目くばせしあった。歌声も笑い声も次第に少くなった。話はものさびしくとぎれ、ついには怪談や、ふしぎな伝説がもちだされるようになった。不気味な物語は次から次へとさらにもっと不気味な物語を生んでゆき、ついに男爵は、美しいレオノーラ姫をさらっていった妖怪騎士の話をして、婦人たちの胆をつぶし、いく人かはヒステリーをおこさんばかりだった。それは恐ろしいがほんとうの話で、その後すばらしい詩にうたわれ、世界じゅうの人に読まれ、そして信じられているのである。 花婿はふかく心にとめながら、この話に聞きいった。彼は男爵にじっと眼をすえていたが、話が終りに近づくと、おもむろに席から立ちあがり、だんだん背がのびていって、ついに男爵の茫然とした眼には、彼が巨人になったように思われた。話が終るやいなや、彼は深いため息をつき、その一座のひとびとにうやうやしく別れを告げた。彼らはおどろきあきれた。男爵はすっかりたまげてしまった。 「なんと。真夜中に城を発つおつもりか。はて、婿殿を迎える用意は何もかもととのうておるのに。もし休みたいのなら、もう部屋の支度もできておる」 見知らぬ人は悲しげに、意味ありげに首をふった。 「今夜は別の部屋でやすまなければなりません」 この返事の内容と、その声音には、なにか男爵の心をぎくりとさせるものがあった。しかし、彼は気をはげまして、いんぎんに懇願をくりかえした。見知らぬ人は、言われるたびに、黙ったまま、しかしきっぱりと首をふった。そしてその一座のひとびとに別れの手をふりながら、広間からゆっくりと出ていった。未婚の叔母たちは仰天して棒立ちになってしまった。花嫁はうなだれ、目には涙がうかんできた。 男爵はその見知らぬ人について、城の大きな中庭に出ていったが、そこには黒い軍馬が地をかきたてながら、待ちくたびれて鼻を鳴らしていた。城門の深いアーチ型の通路が篝火でおぼろげに照らされているところまできたとき、その見知らぬ人は足をとめて、うつろな声で男爵に話しかけた。その声は円屋根にひびいて、いっそう陰気に聞えた。「わたくしたちだけになりましたから」と彼は言った。「わたくしが去ってゆくわけを申しあげましょう。わたくしにはどうしても果さなければならない約束があるのです」 「それならば」と男爵は言った。「だれかあなたのかわりにやるわけにはゆきませんか」 「代理はまったく許されないのです。自分で行かなければなりません。わたくしはヴルツブルク寺院へ行かなければならないのです」 「そうか」と言って、男爵は勇気をふるいおこした。「明日まで待ちなさい。明日花嫁をつれてそこへ行きなさい」 「いや、いや」とその見知らぬ人は十倍のいかめしさをこめて答えた。「わたくしの約束は花嫁との約束ではなく、蛆虫となんです。蛆がわたくしを待っているのです。わたくしは死人です。盗賊どもに殺されて、死体はヴルツブルクに横たわっているのです。真夜中にわたくしは埋められることになっています。墓がわたくしを待っているのです。わたくしは自分の約束を果さなければなりません」 |
竹田 竹田は善き人なり。ロオランなどの評価を学べば、善き画描き以上の人なり。世にあらば知りたき画描き、大雅を除けばこの人だと思ふ。友だち同志なれど、山陽の才子ぶりたるは、竹田より遙に品下れり。山陽が長崎に遊びし時、狭斜の遊あるを疑はれしとて、「家有縞衣待吾返、孤衾如水已三年」など云へる詩を作りしは、聊眉に唾すべきものなれど、竹田が同じく長崎より、「不上酒閣 不買歌鬟償 周文画 筆頭水 墨余山」の詞を寄せたるは、恐らく真情を吐露せしなるべし。竹田は詩書画三絶を称せられしも、和歌などは巧ならず。画道にて悟入せし所も、三十一文字の上には一向利き目がないやうなり。その外香や茶にも通ぜし由なれど、その道の事は知らざれば、何ともわれは定め難し。面白きは竹田が茸の画を作りし時、頼みし男仏頂面をなしたるに、竹田「わが苦心を見給へ」とて、水に浸せし椎茸を大籠に一杯見せたれば、その男感歎してやみしと云ふ逸話なり。竹田が刻意励精はさる事ながら、俗人を感心させるには、かう云ふ事にまさるものなし。大家の苦心談などと云はるる中、人の悪き名人が、凡下の徒を翻弄する為に仮作したものも少くあるまい。山陽などはどうもやりさうなり。竹田になるとそんな悪戯気は、嘘にもあつたとは思はれず。返す返すも竹田は善き人なり。「田能村竹田」と云ふ書を見たら、前より此の人が好きになつた。この書は著者大島支郎氏、売る所は豊後国大分の本屋忠文堂(七月二十日) 奇聞 大阪の或る工場へ出入する辨当屋の小娘あり。職工の一人、その小娘の頬を舐めたるに、忽ち発狂したる由。 亜米利加の何処かの海岸なり。海水浴の仕度をしてゐる女、着物を泥棒に盗まれ、一日近くも脱衣場から出る事出来ず。その後泥棒はつかまりしが、罪名は女の羞恥心を利用したる不法檻禁罪なりし由。 電車の中で老婦人に足を踏まれし男、忌々しければ向うの足を踏み返したるに、その老婦人忽ち演説を始めて曰、「皆さん。この人は唯今私が誤まつて足を踏んだのに、今度はわざと私の足を踏みました。云々」と。踏み返した男、とうとう閉口してあやまりし由。その老婦人は矢島楫子女史か何かの子分ならん。 世の中には嘘のやうな話、存外あるものなり。皆小穴一遊亭に聞いた。(七月二十三日) 芭蕉 又猿簔を読む。芭蕉と去来と凡兆との連句の中には、波瀾老成の所多し。就中こんな所は、何とも云へぬ心もちにさせる。 ゆかみて蓋のあはぬ半櫃 兆 草庵に暫く居ては打やふり 蕉 いのち嬉しき撰集のさた 来 芭蕉が「草庵に暫く居ては打やふり」と付けたる付け方、徳山の棒が空に閃くやうにして、息もつまるばかりなり。どこからこんな句を拈して来るか、恐しと云ふ外なし。この鋭さの前には凡兆と雖も頭が上るかどうか。 凡兆と云へば下の如き所あり。 昼ねふる青鷺の身のたふとさよ 蕉 しよろしよろ水に藺のそよくらん 兆 これは凡兆の付け方、未しきやうなり。されどこの芭蕉の句は、なかなか世間並の才人が筋斗百回した所が、付けられさうもないには違ひなし。 たつた十七字の活殺なれど、芭蕉の自由自在には恐れ入つてしまふ。西洋の詩人の詩などは、日本人故わからぬせゐか、これ程えらいと思つた事なし。まづ「成程」と云ふ位な感心に過ぎず。されば芭蕉のえらさなども、いくら説明してやつた所が、西洋人にはわかるかどうか、疑問の中の疑問なり。(七月十一日) 蜻蛉 蜻蛉が木の枝にとまつて居るのを見る。羽根が四枚平に並んでゐない。前の二枚が三十度位あがつてゐる。風が吹いて来たら、その羽根で調子を取つてゐた。木の枝は動けども、蜻蛉は去らず。その儘悠々と動いて居る。猶よく見ると、風の吹く強弱につれて、前の羽根の角度が可成いろいろ変る。色の薄い赤蜻蛉。木の枝は枯枝。見たのは崖の上なり。(八月十八日青根温泉にて) 子供 子供の時分の事を書きたる小説はいろいろあり。されど子供が感じた通りに書いたものは少し。大抵は大人が子供の時を回顧して書いたと云ふ調子なり。その点では James Joyce が新機軸を出したと云ふべし。 ジヨイスの A Portrait of the Aritist as a Young Man は、如何にも子供が感じた通りに書いたと云ふ風なり。或は少し感じた通りに書き候と云ふ気味があるかも知れず。されど珍品は珍品なり。こんな文章を書く人は外に一人もあるまい。読んで好い事をしたりと思ふ。(八月二十日) 十千万堂日録 十千万堂日録一月二十五日の記に、紅葉が諸弟子と芝蘭簿の記入を試む条あり。風葉は「身長今一寸」を希望とし、春葉は「四十迄生きん事」を希望とし、紅葉は「欧洲大陸にマアブルの句碑を立つ」を希望とす。更に又春葉は書籍に西遊記を挙げ、風葉は「あらゆる字引類」を挙げ、紅葉はエンサイクロピデイアを挙ぐ。紅葉の好み、諸弟子に比ぶれば、頗西洋かぶれの気味あり。されどその嫌味なる所に、返つて紅葉の器量の大が窺ひ知られるやうな心もちがする。 それから又二十三日の記に、「此夜(八)の八を草して黎明に至る。終に脱稿せず。たうときものは寒夜の炭。」とあり。何となく嬉しきくだりなり。(八)は金色夜叉の(八)。(八月二十一日) 隣室 「姉さん。これ何?」 「ゼンマイ。」 「ゼンマイ珈琲つてこれから拵へるんでせう。」 「お前さん莫迦ね。ちつと黙つていらつしやいよ。そんな事を云つちや、私がきまり悪くなるぢやないの。あれは玄米珈琲よ。」 姉は十四五歳。妹は十二歳の由。この姉妹二人ともスケツチ・ブツクを持つて写生に行く。雨降りの日は互に相手の顔を写生するなり。父親は品のある五十恰好の人。この人も画の嗜みありげに見ゆ。(八月二十二日青根温泉にて) |
大学生の中村は薄い春のオヴァ・コオトの下に彼自身の体温を感じながら、仄暗い石の階段を博物館の二階へ登っていった。階段を登りつめた左にあるのは爬虫類の標本室である。中村はそこへはいる前に、ちょっと金の腕時計を眺めた。腕時計の針は幸いにもまだ二時になっていない。存外遅れずにすんだものだ、――中村はこう思ううちにも、ほっとすると言うよりは損をした気もちに近いものを感じた。 爬虫類の標本室はひっそりしている。看守さえ今日は歩いていない。その中にただ薄ら寒い防虫剤の臭いばかり漂っている。中村は室内を見渡した後、深呼吸をするように体を伸ばした。それから大きい硝子戸棚の中に太い枯れ木をまいている南洋の大蛇の前に立った。この爬虫類の標本室はちょうど去年の夏以来、三重子と出合う場所に定められている。これは何も彼等の好みの病的だったためではない。ただ人目を避けるためにやむを得ずここを選んだのである。公園、カフェ、ステエション――それ等はいずれも気の弱い彼等に当惑を与えるばかりだった。殊に肩上げをおろしたばかりの三重子は当惑以上に思ったかも知れない。彼等は無数の人々の視線の彼等の背中に集まるのを感じた。いや、彼等の心臓さえはっきりと人目に映ずるのを感じた。しかしこの標本室へ来れば、剥製の蛇や蜥蝪のほかに誰一人彼等を見るものはない。たまに看守や観覧人に遇っても、じろじろ顔を見られるのはほんの数秒の間だけである。…… 落ち合う時間は二時である。腕時計の針もいつのまにかちょうど二時を示していた。きょうも十分と待たせるはずはない。――中村はこう考えながら、爬虫類の標本を眺めて行った。しかし生憎彼の心は少しも喜びに躍っていない。むしろ何か義務に対する諦らめに似たものに充たされている。彼もあらゆる男性のように三重子に倦怠を感じ出したのであろうか? けれども捲怠を生ずるためには同一のものに面しなければならぬ。今日の三重子は幸か不幸か全然昨日の三重子ではない。昨日の三重子は、――山手線の電車の中に彼と目礼だけ交換した三重子はいかにもしとやかな女学生だった。いや、最初に彼と一しょに井の頭公園へ出かけた三重子もまだどこかもの優しい寂しさを帯びていたものである。…… 中村はもう一度腕時計を眺めた。腕時計は二時五分過ぎである。彼はちょっとためらった後、隣り合った鳥類の標本室へはいった。カナリヤ、錦鶏鳥、蜂雀、――美しい大小の剥製の鳥は硝子越しに彼を眺めている。三重子もこう言う鳥のように形骸だけを残したまま、魂の美しさを失ってしまった。彼ははっきり覚えている。三重子はこの前会った時にはチュウイン・ガムばかりしゃぶっていた。そのまた前に会った時にもオペラの唄ばかり歌っていた。殊に彼を驚かせたのは一月ほど前に会った三重子である。三重子はさんざんにふざけた揚句、フット・ボオルと称しながら、枕を天井へ蹴上げたりした。…… 腕時計は二時十五分である。中村はため息を洩らしながら、爬虫類の標本室へ引返した。が、三重子はどこにも見えない。彼は何か気軽になり、目の前の大蜥蜴に「失敬」をした。大蜥蜴は明治何年か以来、永久に小蛇を啣えている。永久に――しかし彼は永久にではない。腕時計の二時半になったが最後、さっさと博物館を出るつもりである。桜はまださいていない。が、両大師前にある木などは曇天を透かせた枝々に赤い蕾を綴っている。こういう公園を散歩するのは三重子とどこかへ出かけるよりも数等幸福といわなければならぬ。…… 二時二十分! もう十分待ちさえすれば好い。彼は帰りたさをこらえたまま、標本室の中を歩きまわった。熱帯の森林を失った蜥蜴や蛇の標本は妙にはかなさを漂わせている。これはあるいは象徴かも知れない。いつか情熱を失った彼の恋愛の象徴かも知れない。彼は三重子に忠実だった。が、三重子は半年の間に少しも見知らぬ不良少女になった。彼の熱情を失ったのは全然三重子の責任である。少くとも幻滅の結果である。決して倦怠の結果などではない。…… 中村は二時半になるが早いか、爬虫類の標本室を出ようとした。しかし戸口へ来ないうちにくるりと靴の踵を返した。三重子はあるいはひと足違いにこの都屋へはいって来るかも知れない。それでは三重子に気の毒である。気の毒?――いや気の毒ではない。彼は三重子に同情するよりも彼自身の義務感に悩まされている。この義務感を安んずるためにはもう十分ばかり待たなければならぬ。なに、三重子は必ず来ない。待っても待たなくてもきょうの午後は愉快に独り暮らせるはずである。…… 爬虫類の標本室は今も不相変ひっそりしている。看守さえ未だにまわって来ない。その中にただ薄ら寒い防虫剤の臭いばかり漂っている。中村はだんだん彼自身にある苛立たしさを感じ出した。三重子は畢竟不良少女である。が、彼の恋愛は全然冷え切っていないのかも知れない。さもなければ彼はとうの昔に博物館の外を歩いていたのであろう。もっとも情熱は失ったにもせよ、欲望は残っているはずである。欲望?――しかし欲望ではない。彼は今になって見ると、確かに三重子を愛している。三重子は枕を蹴上げたりした。けれどもその足は色の白いばかりか、しなやかに指を反らせている。殊にあの時の笑い声は――彼は小首を傾けた三重子の笑い声を思い出した。 二時四十分。 二時四十五分。 三時。 三時五分。 三時十分になった時である。中村は春のオヴァ・コオトの下にしみじみと寒さを感じながら、人気のない爬虫類の標本室を後ろに石の階段を下りて行った。いつもちょうど日の暮のように仄暗い石の階段を。 × × × その日も電燈のともり出した時分、中村はあるカフェの隅に彼の友だちと話していた。彼の友だちは堀川という小説家志望の大学生である。彼等は一杯の紅茶を前に自動車の美的価値を論じたり、セザンヌの経済的価値を論じたりした。が、それ等にも疲れた後、中村は金口に火をつけながら、ほとんど他人の身の上のようにきょうの出来事を話し出した。 「莫迦だね、俺は。」 話しを終った中村はつまらなそうにこうつけ加えた。 「ふん、莫迦がるのが一番莫迦だね。」 堀川は無造作に冷笑した。それからまたたちまち朗読するようにこんなことをしゃべり出した。 「君はもう帰ってしまう。爬虫類の標本室はがらんとしている。そこへ、――時間はいくらもたたない。やっと三時十五分くらいだね、そこへ顔の青白い女学生が一人はいって来る。勿論看守も誰もいない。女学生は蛇や蜥蜴の中にいつまでもじっと佇んでいる。あすこは存外暮れ易いだろう。そのうちに光は薄れて来る。閉館の時刻もせまって来る。けれども女学生は同じようにいつまでもじっと佇んでいる。――と考えれば小説だがね。もっとも気の利いた小説じゃない。三重子なるものは好いとしても、君を主人公にしていた日には……」 中村はにやにや笑い出した。 「三重子も生憎肥っているのだよ。」 「君よりもか?」 「莫迦を言え。俺は二十三貫五百目さ。三重子は確か十七貫くらいだろう。」 十年はいつか流れ去った。中村は今ベルリンの三井か何かに勤めている。三重子もとうに結婚したらしい。小説家堀川保吉はある婦人雑誌の新年号の口絵に偶然三重子を発見した。三重子はその写真の中に大きいピアノを後ろにしながら、男女三人の子供と一しょにいずれも幸福そうに頬笑んでいる。容色はまだ十年前と大した変りも見えないのであろう。目かたも、――保吉はひそかに惧れている、目かただけはことによると、二十貫を少し越えたかも知れない。…… |
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を――といったところが、唯トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。 トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。 或夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、――トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。 その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好いと思ったから、年下の二人に合図をした。 「さあ、乗ろう!」 彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平は殆ど有頂天になった。 しかしトロッコは二三分の後、もうもとの終点に止まっていた。 「さあ、もう一度押すじゃあ」 良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。 「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」 其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。――それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、――しかしその記憶さえも、年毎に色彩は薄れるらしい。 その後十日余りたってから、良平は又たった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」――彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて行った。 「おじさん。押してやろうか?」 その中の一人、――縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。 「おお、押してくよう」 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。 「われは中中力があるな」 他の一人、――耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。 「何時までも押していて好い?」 「好いとも」 二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。 五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。 「登り路の方が好い、何時までも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。 蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匀を煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。 竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。 三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。 その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。 少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匀がしみついていた。 三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。 その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。 ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。 「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」 「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」 良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。 良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。 竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。 蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。 やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。 彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。 彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、………… |
こんな夢を見た。 何でも料理屋か何からしい。広い座敷に一ぱいに大ぜい人が坐つてゐる。それが皆思ひ思ひに洋服や和服を着用してゐる。 着用してゐるばかりぢやない。互に他人の着物を眺めては、勝手な品評を試みてゐる。 「君のフロックは旧式だね。自然主義時代の遺物ぢやないか。」 「その結城は傑作だよ。何とも云へない人間味がある。」 「何だい。君の御召しの羽織は、全然心の動きが見えないぢやないか。」 「あの紺サアヂの背広を見給へ。宛然たるペッティイ・ブルジョアだから。」 「おや、君が落語家のやうな帯をしめるのには驚いた。」 「やつぱり君が大島を着てゐると、山の手の坊ちやんと云ふ格だね。」 こんな事を盛に云ひ合つてゐる。 すると一番末席に、妙な痩せ男のゐるのが見えた。その男は古風な漆紋のついた、如何はしい黄びらを着用してゐる。この着物がどうもさつきから、散々槍玉に挙げられてゐるらしい。現に今も年の若い、髪を長くした先生が、 「君の着物は相不変遊んでゐるぢやないか」と喝破した。 その先生はどう云ふ気か、ドミニク派の僧侶じみた白い法服を着用してゐる。何でもこんな着物はバルザックが、仕事をする時に着てゐたやうだ。尤も着手はバルザック程、背も幅もないものだから、裾が大分余つてゐる。 が、痩せ男は苦笑したぎり、やはり黙然と坐つてゐる。 「君は始終同じ着物を着てゐるから話せないよ。」 これは銘仙だか大島だか判然しない着物を着た、やはり年少の豪傑が抛りつけた評語である。が、豪傑自身の着物も、余程長い間着てゐると見えて、襟垢がべつとり食附いてゐる。 それでも黄びらを着た男は、何とも言葉を返さずにゐる。どうもその容子を見ると、よくよく意久地のない代物らしい。 所が三度目には肩幅の広い、縞の粗い背広を着た男が、にやりにやり笑ひながら、半ば同情のある評語を下した。 「君は何故この前の着物を着ないのだい。それぢや又逆戻りをした訳ぢやないか。しかし黄びらも似合はなくはないよ。――諸君この男も一度は着換へをして出て来た事を思ひ出してやり給へ。さうして今後も着換へをするやうに、鞭撻の労を執つてくれ給へ。」 大ぜいの中には「ヒイア、ヒイア」と声援を与へた向きもある、「もつと手厳しくやれ、仲間褒めをしてはいかん」と怒号する向きもある。 痩せ男は頭を掻きながら、匆々この座敷を退却した。さうして風通しの悪るさうな、場末の二階家へ帰つて来た。 家の中は虫干のやうに階上にも階下にも、いろいろな着物が吊り下げてある。何か蛇の鱗のやうに光る物があると思つたら、それは戦争の時に使ふ鎖帷子や鎧だつた。 痩せ男はこの着物の中に、傲慢不遜なあぐらを掻くと、恬然と煙草をふかし始めた。 |
人間が石にたよるやうになつて、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやつてゐる。石にたより、石に縋り、石を崇め、石を拝む。この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。いつまでもこの世に留めたいと思ふ物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるひは何処の極でも、昔から人間が努めてゐる姿は目ざましい。人は死ぬ。そのまま地びたに棄てておいても、膿血や腐肉が流れつくした後に、骨だけは石に似て永く遺るべき素質であるのに、遺族友人と称へるものが集つて、火を点けて焼く。せつかくの骨までが粉々に砕けてしまふ。それを拾ひ集めて、底深く地中に埋めて、その上にいかつい四角な石を立てる。御参りをするといへば、まるでそれが故人であるやうに、その石を拝む。そして、その石が大きいほど貞女孝子と褒められる。貧乏ものは、こんな点でも孝行がむづかしい。 なるほど、像なり、建物なり、または墓なり何なり、凡そ人間の手わざで、遠い時代から遺つてゐるものはある。しかし遺つてゐるといつても、時代にもよるが、少し古いところは、作られた数に較べると、千に一つにも当らない。つまり、石といへども、千年の風霜に曝露されて、平気でゐるものではない。それに野火や山火事が崩壊を早めることもある。いかに立派な墓や石碑でも、その人の名を、まだ世間が忘れきらぬうちから、もう押し倒されて、倉の土台や石垣の下積みになることもある。追慕だ研究だといつて跡を絶たない人たちの、搨拓の手のために、磨滅を促すこともある。そこで漢の時代には、いづれの村里にも、あり余るほどあつた石碑が、今では支那全土で百基ほどしか遺つてゐない。国破れて山河ありといふが、国も山河もまだそのままであるのに、さしもに人間の思ひを籠めた記念物が、もう無くなつてゐることは、いくらもある。まことに寂しいことである。 むかし晋の世に、羊祜といふ人があつた。学識もあり、手腕もあり、情味の深い、立派な大官で、晋の政府のために、呉国の懐柔につくして功があつた。この人は平素山水の眺めが好きで、襄陽に在任の頃はいつもすぐ近い峴山といふのに登つて、酒を飲みながら、友人と詩などを作つて楽しんだものであるが、ある時、ふと同行の友人に向つて、一体この山は、宇宙開闢の初めからあるのだから、昔からずゐぶん偉い人たちも遊びにやつて来てゐるわけだ。それがみんな湮滅して何の云ひ伝へも無い。こんなことを考へると、ほんとに悲しくなる。もし百年の後にここへ来て、今の我々を思ひ出してくれる人があるなら、私の魂魄は必ずここへ登つて来る、と嘆いたものだ。そこでその友人が、いやあなたのやうに功績の大きな、感化の深い方は、その令聞は永くこの山とともに、いつまでも世間に伝はるにちがひありませんと、やうやくこのさびしい気持を慰めたといふことである。それから間もなくこの人が亡くなると、果して土地の人民どもは金を出し合つてこの山の上に碑を立てた。すると通りかかりにこの碑を見るものは、遺徳を想ひ出しては涙に暮れたものであつた。そのうちに堕涙の碑といふ名もついてしまつた。 同じ頃、晋の貴族に杜預といふ人があつた。年は羊祜よりも一つ下であつたが、これも多識な通人で、人の気受けもよろしかつた。襄陽へ出かけて来て、やはり呉の国を平げることに手柄があつた。堕涙の碑といふ名なども、実はこの人がつけたものらしい。羊祜とは少し考へ方が違つてゐたが、この人も、やはりひどく身後の名声を気にしてゐた。そこで自分の一生の業績を石碑に刻んで、二基同じものを作らせて、一つを同じ峴山の上に立て、今一つをば漢江の深い淵に沈めさせた。万世の後に、如何なる天変地異が起つて、よしんば山上の一碑が蒼海の底に隠れるやうになつても、その時には、たぶん谷底の方が現はれて来る。こんな期待をかけてゐたものと見える。 ところが後に唐の時代になつて、同じ襄陽から孟浩然といふ優れた詩人が出た。この人もある時弟子たちを連れて峴山の頂に登つた。そして先づ羊祜のことなどを思ひ出して、こんな詩を作つた。 人事代謝あり、 往来して古今を成す。 江山は勝迹を留め、 我輩また登臨す。 水落ちて魚梁浅く、 天寒うして夢沢深し。 羊公碑尚ほあり。 読み罷めて涙襟を沾す。 この一篇は、この人の集中でも傑作とされてゐるが、その気持は全く羊祜と同じものに打たれてゐるらしかつた。 この人よりも十二年遅れて生れた李白は、かつて若い頃この襄陽の地に来て作つた歌曲には、 峴山は漢江に臨み、 水は緑に、沙は雪のごとし。 上に堕涙の碑のあり、 青苔して久しく磨滅せり。 とか、また 君見ずや、晋朝の羊公一片の石、 亀頭剥落して莓苔を生ず。 涙またこれがために堕つ能はず、 心またこれがために哀しむ能はず。 とか、あるひはまた後に追懐の詩の中に 空しく思ふ羊叔子、 涙を堕す峴山のいただき。 と感慨を詠じたりしてゐる。 なるほど、さすがの羊公も、今は一片の石で、しかも剥落して青苔を蒙つてゐる。だから人生はやはり酒でも飲めと李白はいふのであらうが、ここに一つ大切なことがある。孟浩然や李白が涙を流して眺め入つた石碑は、羊公歿後に立てられたままでは無かつたらしい。といふのは、歿後わづか二百七十二年にして、破損が甚しかつたために、梁の大同十年といふ年に、原碑の残石を用ゐて文字を彫り直すことになつた。そして別にその裏面に、劉之※(二点しんにょう+隣のつくり)の属文を劉霊正が書いて彫らせた。二人が見たのは、まさしくそれであつたにちがひない。こんなわけで碑を背負つてゐる台石の亀も、一度修繕を経てゐる筈であるのに、それを李白などがまだ見ないうちに、もうまた剥落して一面にあをあをと苔蒸してゐたといふのである。そこのところが私にはほんとに面白い。 この堕涙の碑は、つひに有名になつたために、李商隠とか白居易とか、詩人たちの作で、これに触れてゐるものはもとより多い。しかし大中九年に李景遜といふものが、別にまた一基の堕涙の碑を営んで、羊祜のために峴山に立てたといはれてゐる。が、明の于奕正の編んだ碑目には、もはやその名が見えないところを見ると、もつと早く失はれたのであらう。そしてその碑目には、やはり梁の重修のものだけを挙げてゐるから、こちらはその頃にはまだあつたものと見えるが、今はそれも無くなつた。 |
樹の多い山の手の初夏の景色ほど美しいものはない。始めは樹々の若芽が、黒々とした枝の上に緑の点を打って、遠く見ると匂いやかに煙って居るが、その細かい点が日ごとに大きくなって、やがて一刷毛、黄の勝った一団の緑となるまで、日々微妙な変化を示しながら、色の深さを増して行くのは、朝晩眺め尽しても飽きない景色である。 五月の日に光るかなめの若葉、柿の若葉。読我書屋の狭い庭から、段々遠い林に眼をやって、更にあたりの景色に憧れ、ふら〳〵家を出るのもこの頃である。明るい日は照りながら、どこか大気の中にしっとりとした物があって、梅雨近い空を思わせる。どこかで頓狂に畳を叩く音のするのは、近く来る大掃除の心構えをして居るのであろう。荒物屋、煎餅屋、煙草屋、建具屋、そういう店に交って、出窓に万年青を置いたしもた屋の、古風な潜りのある格子戸には、「焼きつぎ」という古い看板を掛けた家がある。そんな町の中に、珍しい商売の樒問屋があったりして、この山の手の高台の背を走る、狭い町筋の左右に、寺の多いことを語って居る。その町にある狭い横丁、それは急な下り坂になって、小家がちの谷の向うが、又上り坂で、その先は若葉で隠れて居るようなところもある。 そういう低みにはきっと小さな寺があって、その門前には御府内八十八箇所第何番という小さな石が立って居るのである。その又寺の裏には更に細い横丁があって、それを曲って見ると、すぐ後ろは高台で、その下が些かの藪畳になって居る。垣根とも樹だちともつかぬ若葉の樹の隙から、庵室めいた荒れた建物が見え、墓地らしい処も有るので、覗き込んで見ると其の小家の中には、鈍い金色を放つ仏像の見えることもある。そうかと思うと、古い門だけが上の町に立って居て、そこから直ぐ狭い石段が谷深く続き、その底に小さな本堂の立って居るような寺もある。初夏の頃は、その本堂が半ば若葉に埋もれて、更に奥深く静かな趣を見せて居る。 そういう町を、五月の晴れた朝ぶら〳〵歩いて居ると、その低い谷底の本堂の前に、粗末な一挺の葬い駕籠が着いて居る。門前に足を止めて見下ろすと、勿論会葬者などの群れは無くて、ただその駕籠を舁いで来たらしい二三の人足の影が見えるばかりである。東京では、このごろ駕籠の葬式というものは殆ど見掛けなくなって居る。駕籠の中の棺の上に、白無垢や浅黄無垢を懸け、ほんの僅かの人々に送られて、静かに山の手の寺町を行く葬式を見るばかり寂しいものはないが、これこそ真に死というものの、寂しさ静けさを見る気持がして、色々の意味から余りに華やかになり過ぎた今の葬儀を見るよりは、はるかに気もちの良いものである。私は暫くこの門前に散歩の足を止めて、この景色を眺めて居た。 昔東京では提灯引けといって、言わば狐鼠々々と取片附けるというような葬いは、夜の引明けに出したものだそうであるが、それ程ではなくともこうした朝早くの葬式は、やはり見送る人々の仕事の都合や何かを顧慮した、便宜的な質素な葬式なのであろう。然しお祭騒ぎをされずに、瑞々しい若葉の朝を、きわめて小人数の人に護られて来た仏は、貧しいながら何か幸福のようにも思われ、悲しい人事ではあるが、微笑まれもしたのである。この時私はふと何年か昔に、紅葉山人が自分の葬儀の折にこの駕籠を用いさせたことを思い出した。然しそれは万事に質素な其の時分でも、ちと破格過ぎることであった。その折の写真を見ると、流石に当年文壇の第一人者だけあって、銘旗を立てた葬列は長々と続いて居るが、柩はその上に高くかつがれた寝棺ではなくて、文豪と謳われた人の亡きがらを載せた一挺の駕籠が、その葬列の中に、有りとも見えず護られて居るのである。潔癖、意地、凝り、渋み、そういう江戸の伝統を伝えたといわれる此の人の、これが最後の註文の一つであったかと思ったのは、私もまだ年の行かない頃のことであったが、今はからずもそれを思い出したのである。 |
○ 伊勢の白子浜に鼓が浦という漁村があって、去年からそこに一軒の家を借りまして、夏じゅうだけ避暑といってもよし、海気に親しむといってもよし、家族づれで出かけていって、新鮮な空気と、清涼な海水に触れてくることにしています。 ことしも松篁夫婦に子供づれで出かけましたが、この漁村にも近年ぼつぼつ避暑客が押しかけてきて賑やかになるにつれて、洋風の家なども眼につくようになりましたが、今、私どもの借りている家は、むしろ茶がかりのやや広い隠居所といった風の家でして、うしろには浅い汐入りの川が流れてい、前には砂原を隔ててすぐ海に面しているところです。 うしろの川には小魚が沢山泳いでいて、子どもたちは毎日そこで、雑魚掬いや、蟹つりに懸命になっているのですが、水はごく浅くて、入ってみてもやっと膝っこぞうまでくらいのものですから、幼い子供たちにも、ごく安全なのです。 松篁は方々写生をしてあるいていました。かなりノートも豊富になったらしい様子で、当人は満足しているらしいのです。 日中でも、そう暑苦しいと感じたことがないのですから京都や大阪あたりからみると非常に涼しいに違いありません、この点は十分恵まれた土地です。もっとも僻村なのですから格別に美味しいものとか、贅沢なものとては一つもありませんが、普通一と通りの魚類は売りに来ますし、ここの海でとれとれの新鮮なものも気安く得られますので、その日その日のことには、決して不自由などは感じません。しかし美味しいものが食べたくなれば、ちょいちょい京都へ帰ってくることです。私どもも時々京都へ帰っては、また出かけました。 ○ 鼓が浦には地蔵さんが祀ってあります。伝説によりますと、この地蔵尊は昔ここの海中から上がったとのことで、堂に祀ってあるそうですが、私はとうとういって見ませんでした。 このことは謡曲の中にもありますが、むかし、なんでもこの漁村の岸に打ちよせる波の音が、鼓の音のようにきこえたので、それで鼓が浦という名がついたのだということをきいています。 こんな伝説などは、むろん事実としては何の根拠もないことなのでしょうけれど、しかし、その土地に史話だとか、伝説などが絡んでいるということは、なんとなく物ゆかしくて、いいものです。 私はことに謡曲が好きなものですから、この鼓が浦にこうした伝説のあるということを、何よりも嬉しいと思っているのです。 ○ 去年の春の帝展には、あの不出品騒ぎで、私も制作半ばで筆を擱いてしまっていますが、すでに四分通りは出来ているのですから、今度の文展にはぜひこれを完成して出品したいと思っています。図は文金高髷の現代風のお嬢さんが、長い袖の衣裳で仕舞をしているところを描写したものです。私の考えでは、その仕舞というものの、しっとりと落ちついた態勢を十分に出したいと期して筆を執ったもので、舞踊とか西洋風のダンスなどの、あの華やかな姿勢に傾かぬように注意したものです。 仕舞というものは、とても沈着なものでして、些しの騒がしさなど混じっていないところに、その真価も特色もあるのですが、それでいて、その底には、張りきった生き生きとした活気が蔵されているものです。私はそこを描写したいと苦心しています。 私は最初、これを丸髷の若奥さまとして描写してみたのですが、若夫人では、すでに袖の丈がつまっていますからあの袖を、腕の上に巻き返した格好、あれが出来ませんから、あらためて、袖の長い令嬢にしたのでした。仕舞で、袖を上に巻き返したあの格好、あれはとてもいい姿だと思います。 この図を思いついたのは、私がときどき仕舞拝見に出向いたおりに、よく令嬢や若夫人たちが舞っているのを見かけることがありますので、そこにふかい興味をもったからでした。 ○ 先年、ある作家の描いた仕舞図がありましたが、その図を見ますと、その扇の持ち方に不審な点がありましたので、私はそれを金剛巌氏にきいてみたのでしたが、金剛氏は「それはいけませんな、そんな持ち方などしたら、叱られますよ」といっていられました。 しかし、それは他事ではありません。今度は私自身がその仕舞図を描くことになったのですから、そんな前車の轍をふまないように注意しなくてはいけないと思って緊張しているのです。 |
丈艸、去来を召し、昨夜目のあはざるまま、ふと案じ入りて、呑舟に書かせたり、おのおの咏じたまへ 旅に病むで夢は枯野をかけめぐる ――花屋日記―― 元禄七年十月十二日の午後である。一しきり赤々と朝焼けた空は、又昨日のやうに時雨れるかと、大阪商人の寝起の眼を、遠い瓦屋根の向うに誘つたが、幸葉をふるつた柳の梢を、煙らせる程の雨もなく、やがて曇りながらもうす明い、もの静な冬の昼になつた。立ちならんだ町家の間を、流れるともなく流れる川の水さへ、今日はぼんやりと光沢を消して、その水に浮く葱の屑も、気のせゐか青い色が冷たくない。まして岸を行く往来の人々は、丸頭巾をかぶつたのも、革足袋をはいたのも、皆凩の吹く世の中を忘れたやうに、うつそりとして歩いて行く。暖簾の色、車の行きかひ、人形芝居の遠い三味線の音――すべてがうす明い、もの静な冬の昼を、橋の擬宝珠に置く町の埃も、動かさない位、ひつそりと守つてゐる…… この時、御堂前南久太郎町、花屋仁左衛門の裏座敷では、当時俳諧の大宗匠と仰がれた芭蕉庵松尾桃青が、四方から集つて来た門下の人人に介抱されながら、五十一歳を一期として、「埋火のあたたまりの冷むるが如く、」静に息を引きとらうとしてゐた。時刻は凡そ、申の中刻にも近からうか。――隔ての襖をとり払つた、だだつ広い座敷の中には、枕頭に炷きさした香の煙が、一すぢ昇つて、天下の冬を庭さきに堰いた、新しい障子の色も、ここばかりは暗くかげりながら、身にしみるやうに冷々する。その障子の方を枕にして、寂然と横はつた芭蕉のまはりには、先、医者の木節が、夜具の下から手を入れて、間遠い脈を守りながら、浮かない眉をひそめてゐた。その後に居すくまつて、さつきから小声の称名を絶たないのは、今度伊賀から伴に立つて来た、老僕の治郎兵衛に違ひない。と思ふと又、木節の隣には、誰の眼にもそれと知れる、大兵肥満の晋子其角が、紬の角通しの懐を鷹揚にふくらませて、憲法小紋の肩をそば立てた、ものごしの凛々しい去来と一しよに、ぢつと師匠の容態を窺つてゐる。それから其角の後には、法師じみた丈艸が、手くびに菩提樹の珠数をかけて、端然と控へてゐたが、隣に座を占めた乙州の、絶えず鼻を啜つてゐるのは、もうこみ上げて来る悲しさに、堪へられなくなつたからであらう。その容子をぢろぢろ眺めながら、古法衣の袖をかきつくろつて、無愛想な頤をそらせてゐる、背の低い僧形は惟然坊で、これは色の浅黒い、剛愎さうな支考と肩をならべて、木節の向うに坐つてゐた。あとは唯、何人かの弟子たちが皆息もしないやうに静まり返つて、或は右、或は左と、師匠の床を囲みながら、限りない死別の名ごりを惜しんでゐる。が、その中でもたつた一人、座敷の隅に蹲つて、ぴつたり畳にひれ伏した儘、慟哭の声を洩してゐたのは、正秀ではないかと思はれる。しかしこれさへ、座敷の中のうすら寒い沈黙に抑へられて、枕頭の香のかすかな匂を、擾す程の声も立てない。 芭蕉はさつき、痰喘にかすれた声で、覚束ない遺言をした後は、半ば眼を見開いた儘、昏睡の状態にはいつたらしい。うす痘痕のある顔は、顴骨ばかり露に痩せ細つて、皺に囲まれた唇にも、とうに血の気はなくなつてしまつた。殊に傷しいのはその眼の色で、これはぼんやりした光を浮べながら、まるで屋根の向うにある、際限ない寒空でも望むやうに、徒に遠い所を見やつてゐる。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。」――事によるとこの時、このとりとめのない視線の中には、三四日前に彼自身が、その辞世の句に詠じた通り、茫々とした枯野の暮色が、一痕の月の光もなく、夢のやうに漂つてでもゐたのかも知れない。 「水を。」 木節はやがてかう云つて、静に後にゐる治郎兵衛を顧みた。一椀の水と一本の羽根楊子とは、既にこの老僕が、用意して置いた所である。彼は二品をおづおづ主人の枕元へ押し並べると、思ひ出したやうに又、口を早めて、専念に称名を唱へ始めた。治郎兵衛の素朴な、山家育ちの心には、芭蕉にせよ、誰にせよ、ひとしく彼岸に往生するのなら、ひとしく又、弥陀の慈悲にすがるべき筈だと云ふ、堅い信念が根を張つてゐたからであらう。 一方又木節は、「水を」と云つた刹那の間、果して自分は医師として、万方を尽したらうかと云ふ、何時もの疑惑に遭遇したが、すぐに又自ら励ますやうな心もちになつて、隣にゐた其角の方をふりむきながら、無言の儘、ちよいと相図をした。芭蕉の床を囲んでゐた一同の心に、愈と云ふ緊張した感じが咄嗟に閃いたのはこの時である。が、その緊張した感じと前後して、一種の弛緩した感じが――云はば、来る可きものが遂に来たと云ふ、安心に似た心もちが、通りすぎた事も亦争はれない。唯、この安心に似た心もちは、誰もその意識の存在を肯定しようとはしなかつた程、微妙な性質のものであつたからか、現にここにゐる一同の中では、最も現実的な其角でさへ、折から顔を見合せた木節と、際どく相手の眼の中に、同じ心もちを読み合つた時は、流石にぎよつとせずにはゐられなかつたのであらう。彼は慌しく視線を側へ外らせると、さり気なく羽根楊子をとりあげて、 「では、御先へ」と、隣の去来に挨拶した。さうしてその羽根楊子へ湯呑の水をひたしながら、厚い膝をにじらせて、そつと今はの師匠の顔をのぞきこんだ。実を云ふと彼は、かうなるまでに、師匠と今生の別をつげると云ふ事は、さぞ悲しいものであらう位な、予測めいた考もなかつた訳ではない。が、かうして愈末期の水をとつて見ると、自分の実際の心もちは全然その芝居めいた予測を裏切つて、如何にも冷淡に澄みわたつてゐる。のみならず、更に其角が意外だつた事には、文字通り骨と皮ばかりに痩せ衰へた、致死期の師匠の不気味な姿は、殆面を背けずにはゐられなかつた程、烈しい嫌悪の情を彼に起させた。いや、単に烈しいと云つたのでは、まだ十分な表現ではない。それは恰も目に見えない毒物のやうに、生理的な作用さへも及ぼして来る、最も堪へ難い種類の嫌悪であつた。彼はこの時、偶然な契機によつて、醜き一切に対する反感を師匠の病躯の上に洩らしたのであらうか。或は又「生」の享楽家たる彼にとつて、そこに象徴された「死」の事実が、この上もなく呪ふ可き自然の威嚇だつたのであらうか。――兎に角、垂死の芭蕉の顔に、云ひやうのない不快を感じた其角は、殆何の悲しみもなく、その紫がかつたうすい唇に、一刷毛の水を塗るや否や、顔をしかめて引き下つた。尤もその引き下る時に、自責に似た一種の心もちが、刹那に彼の心をかすめもしたが、彼のさきに感じてゐた嫌悪の情は、さう云ふ道徳感に顧慮すべく、余り強烈だつたものらしい。 其角に次いで羽根楊子をとり上げたのは、さつき木節が相図をした時から、既に心の落着きを失つてゐたらしい去来である。日頃から恭謙の名を得てゐた彼は、一同に軽く会釈をして、芭蕉の枕もとへすりよつたが、そこに横はつてゐた老俳諧師の病みほうけた顔を眺めると、或満足と悔恨との不思議に錯雑した心もちを、嫌でも味はなければならなかつた。しかもその満足と悔恨とは、まるで陰と日向のやうに、離れられない因縁を背負つて、実はこの四五日以前から、絶えず小心な彼の気分を掻乱してゐたのである。と云ふのは、師匠の重病だと云ふ知らせを聞くや否や、すぐに伏見から船に乗つて、深夜にもかまはず、この花屋の門を叩いて以来、彼は師匠の看病を一日も怠つたと云ふ事はない。その上之道に頼みこんで手伝ひの周旋を引き受けさせるやら、住吉大明神へ人を立てて病気本復を祈らせるやら、或は又花屋仁左衛門に相談して調度類の買入れをして貰ふやら、殆彼一人が車輪になつて、万事万端の世話を焼いた。それは勿論去来自身進んで事に当つたので、誰に恩を着せようと云ふ気も、皆無だつた事は事実であるが、一身を挙げて師匠の介抱に没頭したと云ふ自覚は、勢、彼の心の底に大きな満足の種を蒔いた。それが唯、意識せられざる満足として、彼の活動の背景に暖い心もちをひろげてゐた中は、元より彼も行住坐臥に、何等のこだはりを感じなかつたらしい。さもなければ夜伽の行燈の光の下で、支考と浮世話に耽つてゐる際にも、故に孝道の義を釈いて、自分が師匠に仕へるのは親に仕へる心算だなどと、長々しい述懐はしなかつたであらう。しかしその時、得意な彼は、人の悪い支考の顔に、ちらりと閃いた苦笑を見ると、急に今までの心の調和に狂ひの出来た事を意識した。さうしてその狂ひの原因は、始めて気のついた自分の満足と、その満足に対する自己批評とに存してゐる事を発見した。明日にもわからない大病の師匠を看護しながら、その容態をでも心配する事か、徒に自分の骨折ぶりを満足の眼で眺めてゐる。――これは確に、彼の如き正直者の身にとつて、自ら疚しい心もちだつたのに違ひない。それ以来去来は何をするのにも、この満足と悔恨との扞挌から、自然と或程度の掣肘を感じ出した。将に支考の眼の中に、偶然でも微笑の顔が見える時は、反つてその満足の自覚なるものが、一層明白に意識されて、その結果愈自分の卑しさを情なく思つた事も度々ある。それが何日か続いた今日、かうして師匠の枕もとで、末期の水を供する段になると、道徳的に潔癖な、しかも存外神経の繊弱な彼が、かう云ふ内心の矛盾の前に、全然落着きを失つたのは、気の毒ではあるが無理もない。だから去来は羽根楊子をとり上げると、妙に体中が固くなつて、その水を含んだ白い先も、芭蕉の唇を撫でながら、頻にふるへてゐた位、異常な興奮に襲はれた。が、幸、それと共に、彼の睫毛に溢れようとしてゐた、涙の珠もあつたので、彼を見てゐた門弟たちは、恐くあの辛辣な支考まで、全くこの興奮も彼の悲しみの結果だと解釈してゐた事であらう。 やがて去来が又憲法小紋の肩をそば立てて、おづおづ席に復すると、羽根楊子はその後にゐた丈艸の手へわたされた。日頃から老実な彼が、つつましく伏眼になつて、何やらかすかに口の中で誦しながら、静に師匠の唇を沾してゐる姿は、恐らく誰の見た眼にも厳だつたのに相違ない。が、この厳な瞬間に突然座敷の片すみからは、不気味な笑ひ声が聞え出した。いや、少くともその時は、聞え出したと思はれたのである。それはまるで腹の底からこみ上げて来る哄笑が、喉と唇とに堰かれながら、しかも猶可笑しさに堪へ兼ねて、ちぎれちぎれに鼻の孔から、迸つて来るやうな声であつた。が、云ふまでもなく、誰もこの場合、笑を失したものがあつた訳ではない。声は実にさつきから、涙にくれてゐた正秀の抑へに抑へてゐた慟哭が、この時胸を裂いて溢れたのである。その慟哭は勿論、悲愴を極めてゐたのに相違なかつた。或はそこにゐた門弟の中には、「塚も動けわが泣く声は秋の風」と云ふ、師匠の名句を思ひ出したものも、少くはなかつた事であらう。が、その凄絶なる可き慟哭にも、同じく涙に咽ばうとしてゐた乙州は、その中にある一種の誇張に対して、――と云ふのが穏でないならば、慟哭を抑制すべき意志力の欠乏に対して、多少不快を感じずにはゐられなかつた。唯、さう云ふ不快の性質は、どこまでも智的なものに過ぎなかつたのであらう。彼の頭が否と云つてゐるにも関らず、彼の心臓は忽ち正秀の哀慟の声に動かされて、何時か眼の中は涙で一ぱいになつた。が、彼が正秀の慟哭を不快に思ひ、延いては彼自身の涙をも潔しとしない事は、さつきと少しも変りはない。しかも涙は益眼に溢れて来る――乙州は遂に両手を膝の上についた儘、思はず嗚咽の声を発してしまつた。が、この時歔欷するらしいけはひを洩らしたのは、独り乙州ばかりではない。芭蕉の床の裾の方に控へてゐた、何人かの弟子の中からは、それと殆同時に洟をすする声が、しめやかに冴えた座敷の空気をふるはせて、断続しながら聞え始めた。 その惻々として悲しい声の中に、菩提樹の念珠を手頸にかけた丈艸は、元の如く静に席へ返つて、あとには其角や去来と向ひあつてゐる、支考が枕もとへ進みよつた。が、この皮肉屋を以て知られた東花坊には周囲の感情に誘ひこまれて、徒に涙を落すやうな繊弱な神経はなかつたらしい。彼は何時もの通り浅黒い顔に、何時もの通り人を莫迦にしたやうな容子を浮べて、更に又何時もの通り妙に横風に構へながら、無造作に師匠の唇へ水を塗つた。しかし彼と雖もこの場合、勿論多少の感慨があつた事は争はれない。「野ざらしを心に風のしむ身かな」――師匠は四五日前に、「かねては草を敷き、土を枕にして死ぬ自分と思つたが、かう云ふ美しい蒲団の上で、往生の素懐を遂げる事が出来るのは、何よりも悦ばしい」と繰返して自分たちに、礼を云はれた事がある。が、実は枯野のただ中も、この花屋の裏座敷も、大した相違がある訳ではない。現にかうして口をしめしてゐる自分にしても、三四日前までは、師匠に辞世の句がないのを気にかけてゐた。それから昨日は、師匠の発句を滅後に一集する計画を立ててゐた。最後に今日は、たつた今まで、刻々臨終に近づいて行く師匠を、どこかその経過に興味でもあるやうな、観察的な眼で眺めてゐた。もう一歩進めて皮肉に考へれば、事によるとその眺め方の背後には、他日自分の筆によつて書かるべき終焉記の一節さへ、予想されてゐなかつたとは云へない。して見れば師匠の命終に侍しながら、自分の頭を支配してゐるものは、他門への名聞、門弟たちの利害、或は又自分一身の興味打算――皆直接垂死の師匠とは、関係のない事ばかりである。だから師匠はやはり発句の中で、屡予想を逞くした通り、限りない人生の枯野の中で、野ざらしになつたと云つて差支へない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失つた自分たち自身を悼んでゐる。枯野に窮死した先達を歎かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を歎いてゐる。が、それを道徳的に非難して見た所で、本来薄情に出来上つた自分たち人間をどうしよう。――かう云ふ厭世的な感慨に沈みながら、しかもそれに沈み得る事を得意にしてゐた支考は、師匠の唇をしめし終つて、羽根楊子を元の湯呑へ返すと、涙に咽んでゐる門弟たちを、嘲るやうにじろりと見廻して、徐に又自分の席へ立ち戻つた。人の好い去来の如きは、始からその冷然とした態度に中てられて、さつきの不安を今更のやうに又新にしたが、独り其角が妙に擽つたい顔をしてゐたのは、どこまでも白眼で押し通さうとする東花坊のこの性行上の習気を、小うるさく感じてゐたらしい。 支考に続いて惟然坊が、墨染の法衣の裾をもそりと畳へひきながら、小さく這ひ出した時分には、芭蕉の断末魔も既にもう、弾指の間に迫つたのであらう。顔の色は前よりも更に血の気を失つて、水に濡れた唇の間からも、時々忘れたやうに息が洩れなくなる。と思ふと又、思ひ出したやうにぎくりと喉が大きく動いて、力のない空気が通ひ始める。しかもその喉の奥の方で、かすかに二三度痰が鳴つた。呼吸も次第に静になるらしい。その時羽根楊子の白い先を、将にその唇へ当てようとしてゐた惟然坊は、急に死別の悲しさとは縁のない、或る恐怖に襲はれ始めた。それは師匠の次に死ぬものは、この自分ではあるまいかと云ふ、殆無理由に近い恐怖である。が、無理由であればあるだけに、一度この恐怖に襲はれ出すと、我慢にも抵抗のしやうがない。元来彼は死と云ふと、病的に驚悸する種類の人間で、昔からよく自分の死ぬ事を考へると、風流の行脚をしてゐる時でも、総身に汗の流れるやうな不気味な恐しさを経験した。従つて又、自分以外の人間が、死んだと云ふ事を耳にすると、まあ自分が死ぬのではなくつてよかつたと、安心したやうな心もちになる。と同時に又、もし自分が死ぬのだつたらどうだらうと、反対の不安をも感じる事がある。これはやはり芭蕉の場合も例外には洩れないで、始まだ彼の臨終がこれ程切迫してゐない中は、――障子に冬晴の日がさして、園女の贈つた水仙が、清らかな匂を流すやうになると、一同師匠の枕もとに集つて、病間を慰める句作などをした時分は、さう云ふ明暗二通りの心もちの間を、その時次第で徘徊してゐた。が、次第にその終焉が近づいて来ると――忘れもしない初時雨の日に、自ら好んだ梨の実さへ、師匠の食べられない容子を見て、心配さうに木節が首を傾けた、あの頃から安心は追々不安にまきこまれて、最後にはその不安さへ、今度死ぬのは自分かも知れないと云ふ険悪な恐怖の影を、うすら寒く心の上にひろげるやうになつたのである。だから彼は枕もとへ坐つて、刻銘に師匠の唇をしめしてゐる間中、この恐怖に祟られて、殆末期の芭蕉の顔を正視する事が出来なかつたらしい。いや、一度は正視したかとも思はれるが、丁度その時芭蕉の喉の中では、痰のつまる音がかすかに聞えたので、折角の彼の勇気も、途中で挫折してしまつたのであらう。「師匠の次に死ぬものは、事によると自分かも知れない」――絶えずかう云ふ予感めいた声を、耳の底に聞いてゐた惟然坊は、小さな体をすくませながら、自分の席へ返つた後も、無愛想な顔を一層無愛想にして、なる可く誰の顔も見ないやうに、上眼ばかり使つてゐた。 続いて乙州、正秀、之道、木節と、病床を囲んでゐた門人たちは、順々に師匠の唇を沾した。が、その間に芭蕉の呼吸は、一息毎に細くなつて、数さへ次第に減じて行く。喉も、もう今では動かない。うす痘痕の浮んでゐる、どこか蝋のやうな小さい顔、遥な空間を見据ゑてゐる、光の褪せた瞳の色、さうして頤にのびてゐる、銀のやうな白い鬚――それが皆人情の冷さに凍てついて、やがて赴くべき寂光土を、ぢつと夢みてゐるやうに思はれる。するとこの時、去来の後の席に、黙然と頭を垂れてゐた丈艸は、あの老実な禅客の丈艸は、芭蕉の呼吸のかすかになるのに従つて、限りない悲しみと、さうして又限りない安らかな心もちとが、徐に心の中へ流れこんで来るのを感じ出した。悲しみは元より説明を費すまでもない。が、その安らかな心もちは、恰も明方の寒い光が次第に暗の中にひろがるやうな、不思議に朗な心もちである。しかもそれは刻々に、あらゆる雑念を溺らし去つて、果ては涙そのものさへも、毫も心を刺す痛みのない、清らかな悲しみに化してしまふ。彼は師匠の魂が虚夢の生死を超越して、常住涅槃の宝土に還つたのを喜んででもゐるのであらうか。いや、これは彼自身にも、肯定の出来ない理由であつた。それならば――ああ、誰か徒に䠖跙逡巡して、己を欺くの愚を敢てしよう。丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩提樹の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払つて去つた如く、唇頭にかすかな笑を浮べて、恭々しく、臨終の芭蕉に礼拝した。―― かうして、古今に倫を絶した俳諧の大宗匠、芭蕉庵松尾桃青は、「悲歎かぎりなき」門弟たちに囲まれた儘、溘然として属纊に就いたのである。 |
おれは締切日を明日に控えた今夜、一気呵成にこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。 ――――――――――――――――――――――――― 神田神保町辺のあるカッフェに、お君さんと云う女給仕がいる。年は十五とか十六とか云うが、見た所はもっと大人らしい。何しろ色が白くって、眼が涼しいから、鼻の先が少し上を向いていても、とにかく一通りの美人である。それが髪をまん中から割って、忘れな草の簪をさして、白いエプロンをかけて、自働ピアノの前に立っている所は、とんと竹久夢二君の画中の人物が抜け出したようだ。――とか何とか云う理由から、このカッフェの定連の間には、夙に通俗小説と云う渾名が出来ているらしい。もっとも渾名にはまだいろいろある。簪の花が花だから、わすれな草。活動写真に出る亜米利加の女優に似ているから、ミス・メリイ・ピックフォオド。このカッフェに欠くべからざるものだから、角砂糖。ETC. ETC. この店にはお君さんのほかにも、もう一人年上の女給仕がある。これはお松さんと云って、器量は到底お君さんの敵ではない。まず白麺麭と黒麺麭ほどの相違がある。だから一つカッフェに勤めていても、お君さんとお松さんとでは、祝儀の収入が非常に違う。お松さんは勿論、この収入の差に平かなるを得ない。その不平が高じた所から、邪推もこの頃廻すようになっている。 ある夏の午後、お松さんの持ち場の卓子にいた外国語学校の生徒らしいのが、巻煙草を一本啣えながら、燐寸の火をその先へ移そうとした。所が生憎その隣の卓子では、煽風機が勢いよく廻っているものだから、燐寸の火はそこまで届かない内に、いつも風に消されてしまう。そこでその卓子の側を通りかかったお君さんは、しばらくの間風をふせぐために、客と煽風機との間へ足を止めた。その暇に巻煙草へ火を移した学生が、日に焼けた頬へ微笑を浮べながら、「難有う」と云った所を見ると、お君さんのこの親切が先方にも通じたのは勿論である。すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、「あなた持っていらっしゃいよ。」と、嬌嗔を発したらしい声を出した。―― こんな葛藤が一週間に何度もある。従ってお君さんは、滅多にお松さんとは口をきかない。いつも自働ピアノの前に立っては、場所がらだけに多い学生の客に、無言の愛嬌を売っている。あるいは業腹らしいお松さんに無言ののろけを買わせている。 が、お君さんとお松さんとの仲が悪いのは、何もお松さんが嫉妬をするせいばかりではない。お君さんも内心、お松さんの趣味の低いのを軽蔑している。あれは全く尋常小学を出てから、浪花節を聴いたり、蜜豆を食べたり、男を追っかけたりばかりしていた、そのせいに違いない。こうお君さんは確信している。ではそのお君さんの趣味というのが、どんな種類のものかと思ったら、しばらくこの賑かなカッフェを去って、近所の露路の奥にある、ある女髪結の二階を覗いて見るが好い。何故と云えばお君さんは、その女髪結の二階に間借をして、カッフェへ勤めている間のほかは、始終そこに起臥しているからである。 二階は天井の低い六畳で、西日のさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。その窓際の壁へよせて、更紗の布をかけた机がある。もっともこれは便宜上、仮に机と呼んで置くが、実は古色を帯びた茶ぶ台に過ぎない。その茶ぶ――机の上には、これも余り新しくない西洋綴の書物が並んでいる。「不如帰」「藤村詩集」「松井須磨子の一生」「新朝顔日記」「カルメン」「高い山から谷底見れば」――あとは婦人雑誌が七八冊あるばかりで、残念ながらおれの小説集などは、唯一の一冊も見当らない。それからその机の側にある、とうにニスの剥げた茶箪笥の上には、頸の細い硝子の花立てがあって、花びらの一つとれた造花の百合が、手際よくその中にさしてある。察する所この百合は、花びらさえまだ無事でいたら、今でもあのカッフェの卓子に飾られていたのに相違あるまい。最後にその茶箪笥の上の壁には、いずれも雑誌の口絵らしいのが、ピンで三四枚とめてある。一番まん中なのは、鏑木清方君の元禄女で、その下に小さくなっているのは、ラファエルのマドンナか何からしい。と思うとその元禄女の上には、北村四海君の彫刻の女が御隣に控えたベエトオフェンへ滴るごとき秋波を送っている。但しこのベエトオフェンは、ただお君さんがベエトオフェンだと思っているだけで、実は亜米利加の大統領ウッドロオ・ウイルソンなのだから、北村四海君に対しても、何とも御気の毒の至に堪えない。―― こう云えばお君さんの趣味生活が、いかに芸術的色彩に富んでいるか、問わずしてすでに明かであろうと思う。また実際お君さんは、毎晩遅くカッフェから帰って来ると、必ずこのベエトオフェン alias ウイルソンの肖像の下に、「不如帰」を読んだり、造花の百合を眺めたりしながら、新派悲劇の活動写真の月夜の場面よりもサンティマンタアルな、芸術的感激に耽るのである。 桜頃のある夜、お君さんはひとり机に向って、ほとんど一番鶏が啼く頃まで、桃色をしたレタア・ペエパアにせっせとペンを走らせ続けた。が、その書き上げた手紙の一枚が、机の下に落ちていた事は、朝になってカッフェへ出て行った後も、ついにお君さんには気がつかなかったらしい。すると窓から流れこんだ春風が、その一枚のレタア・ペエパアを飜して、鬱金木綿の蔽いをかけた鏡が二つ並んでいる梯子段の下まで吹き落してしまった。下にいる女髪結は、頻々としてお君さんの手に落ちる艶書のある事を心得ている。だからこの桃色をした紙も、恐らくはその一枚だろうと思って、好奇心からわざわざ眼を通して見た。すると意外にもこれは、お君さんの手蹟らしい。ではお君さんが誰かの艶書に返事を認めたのかと思うと、「武男さんに御別れなすった時の事を考えると、私は涙で胸が張り裂けるようでございます」と書いてある。果然お君さんはほとんど徹夜をして、浪子夫人に与うべき慰問の手紙を作ったのであった。―― おれはこの挿話を書きながら、お君さんのサンティマンタリスムに微笑を禁じ得ないのは事実である。が、おれの微笑の中には、寸毫も悪意は含まれていない。お君さんのいる二階には、造花の百合や、「藤村詩集」や、ラファエルのマドンナの写真のほかにも、自炊生活に必要な、台所道具が並んでいる。その台所道具の象徴する、世智辛い東京の実生活は、何度今日までにお君さんへ迫害を加えたか知れなかった。が、落莫たる人生も、涙の靄を透して見る時は、美しい世界を展開する。お君さんはその実生活の迫害を逃れるために、この芸術的感激の涙の中へ身を隠した。そこには一月六円の間代もなければ、一升七十銭の米代もない。カルメンは電燈代の心配もなく、気楽にカスタネットを鳴らしている。浪子夫人も苦労はするが、薬代の工面が出来ない次第ではない。一言にして云えばこの涙は、人間苦の黄昏のおぼろめく中に、人間愛の燈火をつつましやかにともしてくれる。ああ、東京の町の音も全くどこかへ消えてしまう真夜中、涙に濡れた眼を挙げながら、うす暗い十燭の電燈の下に、たった一人逗子の海風とコルドヴァの杏竹桃とを夢みている、お君さんの姿を想像――畜生、悪意がない所か、うっかりしているとおれまでも、サンティマンタアルになり兼ねないぞ。元来世間の批評家には情味がないと言われている、すこぶる理智的なおれなのだが。 そのお君さんがある冬の夜、遅くなってカッフェから帰って来ると、始は例のごとく机に向って、「松井須磨子の一生」か何か読んでいたが、まだ一頁と行かない内に、どう云う訳かその書物にたちまち愛想をつかしたごとく、邪慳に畳の上へ抛り出してしまった。と思うと今度は横坐りに坐ったまま、机の上に頬杖をついて、壁の上のウイル――べエトオフェンの肖像を冷淡にぼんやり眺め出した。これは勿論唯事ではない。お君さんはあのカッフェを解傭される事になったのであろうか。さもなければお松さんのいじめ方が一層悪辣になったのであろうか。あるいはまたさもなければ齲歯でも痛み出して来たのであろうか。いや、お君さんの心を支配しているのは、そう云う俗臭を帯びた事件ではない。お君さんは浪子夫人のごとく、あるいはまた松井須磨子のごとく、恋愛に苦しんでいるのである。ではお君さんは誰に心を寄せているかと云うと――幸お君さんは壁の上のベエトオフェンを眺めたまま、しばらくは身動きもしそうはないから、その間におれは大急ぎで、ちょいとこの光栄ある恋愛の相手を紹介しよう。 お君さんの相手は田中君と云って、無名の――まあ芸術家である。何故かと云うと田中君は、詩も作る、ヴァイオリンも弾く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌も巧い、薩摩琵琶も出来ると云う才人だから、どれが本職でどれが道楽だか、鑑定の出来るものは一人もいない。従ってまた人物も、顔は役者のごとくのっぺりしていて、髪は油絵の具のごとくてらてらしていて、声はヴァイオリンのごとく優しくって、言葉は詩のごとく気が利いていて、女を口説く事は歌骨牌をとるごとく敏捷で、金を借り倒す事は薩摩琵琶をうたうごとく勇壮活溌を極めている。それが黒い鍔広の帽子をかぶって、安物らしい猟服を着用して、葡萄色のボヘミアン・ネクタイを結んで――と云えば大抵わかりそうなものだ。思うにこの田中君のごときはすでに一種のタイプなのだから、神田本郷辺のバアやカッフェ、青年会館や音楽学校の音楽会(但し一番の安い切符の席に限るが)兜屋や三会堂の展覧会などへ行くと、必ず二三人はこの連中が、傲然と俗衆を睥睨している。だからこの上明瞭な田中君の肖像が欲しければ、そう云う場所へ行って見るが好い。おれが書くのはもう真平御免だ。第一おれが田中君の紹介の労を執っている間に、お君さんはいつか立上って、障子を開けた窓の外の寒い月夜を眺めているのだから。 瓦屋根の上の月の光は、頸の細い硝子の花立てにさした造花の百合を照らしている。壁に貼ったラファエルの小さなマドンナを照らしている。そうしてまたお君さんの上を向いた鼻を照らしている。が、お君さんの涼しい眼には、月の光も映っていない。霜の下りたらしい瓦屋根も、存在しないのと同じ事である。田中君は今夜カッフェから、お君さんをここまで送って来た。そうして明日の晩は二人で、楽しく暮そうと云う約束までした。明日はちょうど一月に一度あるお君さんの休日だから、午後六時に小川町の電車停留場で落合って、それから芝浦にかかっている伊太利人のサアカスを見に行こうと云うのである。お君さんは今日までに、未嘗男と二人で遊びに出かけた覚えなどはない。だから明日の晩田中君と、世間の恋人同士のように、つれ立って夜の曲馬を見に行く事を考えると、今更のように心臓の鼓動が高くなって来る。お君さんにとって田中君は、宝窟の扉を開くべき秘密の呪文を心得ているアリ・ババとさらに違いはない。その呪文が唱えられた時、いかなる未知の歓楽境がお君さんの前に出現するか。――さっきから月を眺めて月を眺めないお君さんが、風に煽られた海のごとく、あるいはまた将に走らんとする乗合自動車のモオタアのごとく、轟く胸の中に描いているのは、実にこの来るべき不可思議の世界の幻であった。そこには薔薇の花の咲き乱れた路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが、数限りもなく散乱している。夜鶯の優しい声も、すでに三越の旗の上から、蜜を滴すように聞え始めた。橄欖の花の匀いの中に大理石を畳んだ宮殿では、今やミスタア・ダグラス・フェアバンクスと森律子嬢との舞踏が、いよいよ佳境に入ろうとしているらしい。…… が、おれはお君さんの名誉のためにつけ加える。その時お君さんの描いた幻の中には、時々暗い雲の影が、一切の幸福を脅すように、底気味悪く去来していた。成程お君さんは田中君を恋しているのに違いない。しかしその田中君は、実はお君さんの芸術的感激が円光を頂かせた田中君である。詩も作る、ヴァイオリンも弾く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌も巧い、薩摩琵琶も出来るサア・ランスロットである。だからお君さんの中にある処女の新鮮な直観性は、どうかするとこのランスロットのすこぶる怪しげな正体を感ずる事がないでもない。暗い不安の雲の影は、こう云う時にお君さんの幻の中を通りすぎる。が、遺憾ながらその雲の影は、現れるが早いか消えてしまう。お君さんはいくら大人じみていても、十六とか十七とか云う少女である。しかも芸術的感激に充ち満ちている少女である。着物を雨で濡らす心配があるか、ライン河の入日の画端書に感嘆の声を洩らす時のほかは、滅多に雲の影などへ心を止めないのも不思議ではない。いわんや今は薔薇の花の咲き乱れている路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが――以下は前に書いた通りだから、そこを読み返して頂きたい。 お君さんは長い間、シャヴァンヌの聖・ジュヌヴィエヴのごとく、月の光に照らされた瓦屋根を眺めて立っていたが、やがて嚏を一つすると、窓の障子をばたりとしめて、また元の机の際へ横坐りに坐ってしまった。それから翌日の午後六時までお君さんが何をしていたか、その間の詳しい消息は、残念ながらおれも知っていない。何故作者たるおれが知っていないのかと云うと――正直に云ってしまえ。おれは今夜中にこの小説を書き上げなければならないからである。 翌日の午後六時、お君さんは怪しげな紫紺の御召のコオトの上にクリイム色の肩掛をして、いつもよりはそわそわと、もう夕暗に包まれた小川町の電車停留場へ行った。行くとすでに田中君は、例のごとく鍔広の黒い帽子を目深くかぶって、洋銀の握りのついた細い杖をかいこみながら、縞の荒い半オオヴァの襟を立てて、赤い電燈のともった下に、ちゃんと佇んで待っている。色の白い顔がいつもより一層また磨きがかかって、かすかに香水の匀までさせている容子では、今夜は格別身じまいに注意を払っているらしい。 「御待たせして?」 お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。 「なあに。」 田中君は大様な返事をしながら、何とも判然しない微笑を含んだ眼で、じっとお君さんの顔を眺めた。それから急に身ぶるいを一つして、 「歩こう、少し。」 とつけ加えた。いや、つけ加えたばかりではない。田中君はもうその時には、アアク燈に照らされた人通りの多い往来を、須田町の方へ向って歩き出した。サアカスがあるのは芝浦である。歩くにしてもここからは、神田橋の方へ向って行かなければならない。お君さんはまだ立止ったまま、埃風に飜るクリイム色の肩掛へ手をやって、 「そっち?」 と不思議そうに声をかけた。が、田中君は肩越しに、 「ああ。」 と軽く答えたぎり、依然として須田町の方へ歩いて行く。そこでお君さんもほかに仕方がないから、すぐに田中君へ追いつくと、葉を振った柳の並樹の下を一しょにいそいそと歩き出した。するとまた田中君は、あの何とも判然しない微笑を眼の中に漂わせて、お君さんの横顔を窺いながら、 「お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨夜でおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家へ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。」 「そう、私どっちでも好いわ。」 お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕えたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。と同時にまたお君さんの眼にはまるで「不如帰」を読んだ時のような、感動の涙が浮んできた。この感動の涙を透して見た、小川町、淡路町、須田町の往来が、いかに美しかったかは問うを待たない。歳暮大売出しの楽隊の音、目まぐるしい仁丹の広告電燈、クリスマスを祝う杉の葉の飾、蜘蛛手に張った万国国旗、飾窓の中のサンタ・クロス、露店に並んだ絵葉書や日暦――すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、世界のはてまでも燦びやかに続いているかと思われる。今夜に限って天上の星の光も冷たくない。時々吹きつける埃風も、コオトの裾を巻くかと思うと、たちまち春が返ったような暖い空気に変ってしまう。幸福、幸福、幸福…… その内にふとお君さんが気がつくと、二人はいつか横町を曲ったと見えて、路幅の狭い町を歩いている。そうしてその町の右側に、一軒の小さな八百屋があって、明く瓦斯の燃えた下に、大根、人参、漬け菜、葱、小蕪、慈姑、牛蒡、八つ頭、小松菜、独活、蓮根、里芋、林檎、蜜柑の類が堆く店に積み上げてある。その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍子に、葱の山の中に立っている、竹に燭奴を挟んだ札の上へ落ちた。札には墨黒々と下手な字で、「一束四銭」と書いてある。あらゆる物価が暴騰した今日、一束四銭と云う葱は滅多にない。この至廉な札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如としてその惰眠から覚めた。間髪を入れずとは正にこの謂である。薔薇と指環と夜鶯と三越の旗とは、刹那に眼底を払って消えてしまった。その代り間代、米代、電燈代、炭代、肴代、醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰も火取虫の火に集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群って来る。お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆気にとられている田中君を一人後に残して、鮮な瓦斯の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指さすと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、 「あれを二束下さいな。」と云った。 埃風の吹く往来には、黒い鍔広の帽子をかぶって、縞の荒い半オオヴァの襟を立てた田中君が、洋銀の握りのある細い杖をかいこみながら、孤影悄然として立っている。田中君の想像には、さっきからこの町のはずれにある、格子戸造の家が浮んでいた。軒に松の家と云う電燈の出た、沓脱ぎの石が濡れている、安普請らしい二階家である、が、こうした往来に立っていると、その小ぢんまりした二階家の影が、妙にだんだん薄くなってしまう。そうしてその後には徐に一束四銭の札を打った葱の山が浮んで来る。と思うとたちまち想像が破れて、一陣の埃風が過ぎると共に、実生活のごとく辛辣な、眼に滲むごとき葱の匀が実際田中君の鼻を打った。 「御待ち遠さま。」 憐むべき田中君は、世にも情無い眼つきをして、まるで別人でも見るように、じろじろお君さんの顔を眺めた。髪を綺麗にまん中から割って、忘れな草の簪をさした、鼻の少し上を向いているお君さんは、クリイム色の肩掛をちょいと顋でおさえたまま、片手に二束八銭の葱を下げて立っている。あの涼しい眼の中に嬉しそうな微笑を躍らせながら。 ――――――――――――――――――――――――― とうとうどうにか書き上げたぞ。もう夜が明けるのも間はあるまい。外では寒そうな鶏の声がしているが、折角これを書き上げても、いやに気のふさぐのはどうしたものだ。お君さんはその晩何事もなく、またあの女髪結の二階へ帰って来たが、カッフェの女給仕をやめない限り、その後も田中君と二人で遊びに出る事がないとは云えまい。その時の事を考えると、――いや、その時はまたその時の事だ。おれが今いくら心配した所で、どうにもなる訳のものではない。まあこのままでペンを擱こう。左様なら。お君さん。では今夜もあの晩のように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退治されて来給え。 |
明治十年前後の小説界について、思い出すままをお話してみるが、震災のため蔵書も何も焼き払ってしまったので、詳しいことや特に年代の如きは、あまり自信をもって言うことが出来ない。このことは特にお断りして置きたい。 一体に小説という言葉は、すでに新しい言葉なので、はじめは読本とか草双紙とか呼ばれていたものである。が、それが改ったのは戊辰の革命以後のことである。 その頃はすべてが改った。言い換えれば、悉く旧物を捨てて新らしきを求め出した時代である。『膝栗毛』や『金の草鞋』よりも、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』や『安愚楽鍋』などが持て囃されたのである。草双紙の挿絵を例にとって言えば、『金花七変化』の鍋島猫騒動の小森半之丞に、トンビ合羽を着せたり、靴をはかせたりしている。そういうふうにしなければ、読者に投ずることが出来なかったのである。そうしてさまざまに新しさを追ったものの、時流には抗し難く、『釈迦八相記』(倭文庫)『室町源氏』なども、ついにはかえり見られなくなってしまった。 戯作者の殿りとしては、仮名垣魯文と、後に新聞記者になった山々亭有人(条野採菊)に指を屈しなければならない。魯文は、『仮名読新聞』によって目醒ましい活躍をした人で、また猫々道人とも言ったりした。芸妓を猫といい出したのも、魯文がはじめである。魯文は後に『仮名読新聞』というものを創設した。それは非常に時流に投じたものであった。つづいて前田夏繁が、香雪という雅号で、つづきものを、『やまと新聞』のはじめに盛んに書き出した。 その頃は作者の外に投書家というものがあって、各新聞に原稿を投じていた。彼らのなかからも、注目すべき人が出た。『読売』では中坂まときの時分に、若菜貞爾(胡蝶園)という人が出て小説を書いたが、この人は第十二小区(いまの日本橋馬喰町)の書記をしていた人であった。その他、投書家でもよいものは作者と同じように、原稿料をとっていたように記憶する。(斎藤緑雨なども、この若菜貞爾にひきたてられて、『報知』に入ったものである。) これらの人々によって、その当時演芸道の復活を見たことは、また忘れることの出来ない事実である。旧物に対する蔑視と、新らしき物に対する憧憬とが、前述のように烈しかったその当時は、役者は勿論のこと、三味線を手にしてさえも、科人のように人々から蔑しめられたものであった。それ故、演芸に関した事柄などは、新聞にはちょっぴりとも書かれなかった。そうした時代に、浮川福平は都々逸の新作を矢継早に発表し、また仮名垣魯文の如きは、その新聞の殆んど半頁を、大胆にも芝居の記事で埋めて、演芸を復活させようとつとめた。 そのうち、かの『雪中梅』の作者末広鉄腸が、『朝日新聞』に書いた。また服部誠一翁がいろいろなものを書いた。寛(総生)は寛でさまざまなもの、例えば秘伝の類、芸妓になる心得だとか地獄を買う田地だとかいうようなものを書いて一しきりは流行ったものである。 読物はこの頃になっては、ずっと新しくなっていて、丁髷の人物にも洋傘やはやり合羽を着せなければ、人々がかえり見ないというふうだった。二代目左団次が舞台でモヘルの着物をつけたり、洋傘をさしたりなどしたのもこの頃のことである。が、作は随分沢山出たが、傑作は殆んどなかった。その折に出たのが、坪内逍遥氏の『書生気質』であった。この書物はいままでの書物とはくらべものにならぬ優れたもので、さかんに売れたものである。 版にしないものはいろいろあったが、出たものには山田美妙斎が編輯していた『都の花』があった。その他硯友社一派の『文庫』が出ていた。 劇評では六二連の富田砂燕という人がいた。この人の前には梅素玄魚という人がいた。後にこの人は楽屋白粉というものをつくって売り出すような事をしたものである。 話が前後したが、成島柳北の『柳橋新誌』の第二篇は、明治七年に出た。これは柳暗のことを書いたものである。その他に『東京新繁昌記』も出た。新しい西欧文明をとり入れ出した東京の姿を書いたもので、馬車だとか煉瓦だとかが現われ出した頃のことが書かれてある。これはかの寺門静軒の『江戸繁昌記』にならって書かれたものである。 一体にこの頃のものは、話は面白かったが、読んで味いがなかった。 ◇ 明治十三、四年の頃、西鶴の古本を得てから、私は湯島に転居し、『都の花』が出ていた頃紅葉君、露伴君に私は西鶴の古本を見せた。 西鶴は俳諧師で、三十八の歳延宝八年の頃、一日に四千句詠じたことがある。貞享元年に二万三千五百句を一日一夜のうちによんだ。これは才麿という人が、一日一万句を江戸でよんだことに対抗したものであった。散文を書いたのは、天和二年四十二歳の時で、『一代男』がそれである。 幸い私は西鶴の著書があったので、それを紅葉、露伴、中西梅花(この人は新体詩なるものを最初に創り、『梅花詩集』という本をあらわした記念さるべき人である。後、不幸にも狂人になった)、内田魯庵(その頃は花の屋)、石橋忍月、依田百川などの諸君に、それを見せることが出来たのである。 西鶴は私の四大恩人の一人であるが、私が西鶴を発見したことに関聯してお話ししたいのは、福沢先生の本のことである。福沢先生の本によって、十二、三歳の頃、私ははじめて新らしい西欧の文明を知った。私の家は商家だったが、旧家だったため、草双紙、読本その他寛政、天明の通人たちの作ったもの、一九、京伝、三馬、馬琴、種彦、烏亭焉馬などの本が沢山にあった。特に京伝の『骨董集』は、立派な考証学で、決して孫引きのないもので、専ら『一代男』『一代女』古俳諧等の書から直接に材料をとって来たものであった。この『骨董集』を読んでいるうちに、福沢先生の『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『かたわ娘』によって西洋の文明を示されたのである。(この『かたわ娘』は古い従来の風俗を嘲ったもので、それに対抗して万亭応賀は『当世利口女』を書いた。が私には『当世利口女』はつまらなく『かたわ娘』が面白かったものである。) 新らしい文明をかくして福沢先生によって学んだが、『骨董集』を読んだために、西鶴が読んでみたくなり出した。が、その頃でも古本が少なかったもので、なかなか手には入らなかった。私の知っていた酒井藤兵衛という古本屋には、山のようにつぶす古本があったものである。何せ明治十五、六年の頃は、古本をつぶしてしまう頃だった。私はその本屋をはじめ、小川町の「三久」、浜町の「京常」、池の端の「バイブル」、駒形の「小林文七」「鳥吉」などから頻りに西鶴の古本を漁り集めた。(この「鳥吉」は、芝居の本を多く扱っていたが、関根只誠氏がどういう都合かで売払った本を沢山私のところにもって来てくれたものである。)中川徳基が、昔の研究はまず地理から始めなければならぬ、といって『紫の一本』『江戸咄』『江戸雀』『江戸真砂六十帖』などいう書物や、古絵図類を集めていたのもこの頃であった。 西鶴の本は沢山集った。それらを私は幸田、中西、尾崎の諸君に手柄顔をして見せたものであった。 そうして西鶴を研究し出した諸君によって、西鶴調なるものが復活したのである。これは、山田美妙斎などによって提唱された言文一致体の文章に対する反抗となったものであって、特に露伴君の文章なぞは、大いに世を動かしたものであった。 内田魯庵君の著『きのふけふ』(博文館発行)の中に、この頃の私のことは書いてあるから、私の口から申すのはこれくらいで差控えて置きたいと思う。 私も愛鶴軒と言って『読売新聞』に投書していたが、あまり続けて書かなかった。(私は世の中がめんどうになって、愛鶴軒という雅号なども捨ててしまった。そして幸田君にわけを話すと、幸田君は――愛鶴軒は歿したり――と新聞に書いてくれた。)その後、中西君も『読売』に入社し、西鶴の口調で盛んに小説を書いた。その前、饗庭篁村氏がさかんに八文字屋で書かれ、また幸堂得知氏などが洒落文を書かれたものである。純粋に西鶴風なものは誰も書かなかったが、誰からともなく西鶴が世の中に芽をふいたのである。 ◇ 私は元来小説よりも、新らしい事実が好きだった。ここに言う新らしいとは、珍らしいということである。西鶴の本は、かつて聞いたことのない珍らしいもので満ちていた。赤裸々に自然を書いたからである。人間そのものを書いたからである。ただ人間そのものを書いたきりで、何とも決めていないところに西鶴の妙味がある。これは俳諧の力から来たものである。 私は福沢先生によって新らしい文明を知り、京伝から骨董のテエストを得、西鶴によって人間を知ることが出来た。いま一つは一休禅師の『一休骸骨』『一休草紙』などによって、宗教を知り始めたことである。そして無宗教を知り――無というよりも空、即ち昨日は無、明日は空、ただ現在に生き、趣味に生きる者である――故にバラモン教からも、マホメット教からも、何からも同一の感じをもつことが出来るようになった。 私は江戸の追憶者として見られているが、私は江戸の改革を経て来た時代に生きて来た者である。新しくなって行きつつあった日本文明の中で生きて来た者であって、西欧の文明に対して、打ち克ち難い憧憬をもっていた者である。私は実に、漢文よりはさきに横文字を習った。実はごく若い頃は、あちらの文明に憧れたあまり、アメリカへ帰化したいと願っていたことがある。アメリカへ行くと、日本のことを皆から聞かれるだろうと思ったものだ。そこで、実は日本のことを研究し出したのである。私の日本文学の研究の動機の一つは、まったくそこにあったのである。 二十二、三歳の頃――明治十三、四年頃――湯島へ移り、図書館で読書している間に、草双紙を読み、『燕石十種』(六十冊)――これは達磨屋吾一が江戸橋の古本屋で写生して、東紫(後で聞けば関根只誠氏)に贈ったものであった。――を読み、毎日々々通って写本した。その頃石橋思案、幸田成行の諸君と知己になったのである。私は明治二十二年頃、一切の書物から離れてしまったが、それまでには、私の口からこんなことを申すのは口幅広いことのようであるが、浮世草紙の類は、一万巻は読んでいると思う。この頃『一代男』を一円で買ったものであるが、今日でも千円はしている。思えば私は安く学問をしたものである。 黒髪をあだには白くなしはせじ、わがたらちねの撫でたまひしを、という愚詠をしたが、今白髪となって何の功もないことを恥じている。 |
あら玉の春着きつれて醉ひつれて 少年行と前がきがあつたと思ふ……こゝに拜借をしたのは、紅葉先生の俳句である。處が、その着つれてとある春着がおなじく先生の通帳を拜借によつて出來たのだから妙で、そこが話である。さきに秋冷相催し、次第に朝夕の寒さと成り、やがて暮が近づくと、横寺町の二階に日が當つて、座敷の明い、大火鉢の暖い、鐵瓶の湯の沸つた時を見計らつて、お弟子たちが順々、かく言ふそれがしも、もとよりで、襟垢、膝ぬけと言ふ布子連が畏まる。「先生、小清潔とまゐりませんでも、せめて縞柄のわかりますのを、新年は一枚と存じます……恐れ入りますが、お帳面を。」「また濱野屋か。」神樂坂には、他に布袋屋と言ふ――今もあらう――呉服屋があつたが、此の濱野屋の方の主人が、でつぷりと肥つて、莞爾々々して居て、布袋と言ふ呼稱があつた。 が、太鼓腹を突出して、でれりとして、團扇で雛妓に煽がせて居るやうなのではない。片膚脱ぎで日置流の弓を引く。獅子寺の大弓場で先生と懇意だから、從つて弟子たちに帳面が利いた。たゞし信用がないから直接では不可いのである。「去年の暮のやつが盆を越して居るぢやないか。だらしなく飮みたがつてばかり居るからだ。」「は、今度と言ふ今度は……」「お株を言つてら。――此の暮には屹と入れなよ。」――その癖、ふいと立つて、「一所に來な。」で、通へ出て、右の濱野屋で、御自分、めい〳〵に似合ふやうにお見立て下すつたものであつた。 此の春着で、元日あたり、大して醉ひもしないのだけれど、目つきと足もとだけは、ふら〳〵と四五人揃つて、神樂坂の通りをはしやいで歩行く。……若いのが威勢がいゝから、誰も(帳面)を着て居るとは知らない。いや、知つて居たかも知れない。道理で、そこらの地内や横町へ入つても、つきとほしの笄で、褄を取つて、羽子を突いて居るのが、聲も掛けはしなかつた。割前勘定。乃ち蕎麥屋だ。と言つても、松の内だ。もりにかけとは限らない。たとへば、小栗があたり芋をすゝり、柳川がはしらを撮み、徳田があんかけを食べる。お酌なきが故に、敢て世間は怨まない。が、各々その懷中に對して、憤懣不平勃々たるものがある。從つて氣焔が夥しい。 此のありさまを、高い二階から先生が、 あら玉の春着きつれて醉ひつれて 涙ぐましいまで、可懷い。 牛込の方へは、隨分しばらく不沙汰をして居た。しばらくと言ふが幾年かに成る。このあひだ、水上さんに誘はれて、神樂坂の川鐵(鳥屋)へ、晩御飯を食べに出向いた。もう一人お連は、南榎町へ淺草から引越した万ちやんで、二人番町から歩行いて、その榎町へ寄つて連立つた。が、あの、田圃の大金と仲店のかねだを橋がかりで歩行いた人が、しかも當日の發起人だと言ふからをかしい。 途中お納戸町邊の狹い道で、七八十尺切立ての白煉瓦に、崖を落ちる瀑のやうな龜裂が、枝を打つて、三條ばかり頂邊から走りかゝつて居るのには肝を冷した。その眞下に、魚屋の店があつて、親方が威勢のいゝ向顱卷で、黄肌鮪にさしみ庖丁を閃かして居たのは偉い。……見た處は千丈の峰から崩れかゝる雪雪頽の下で薪を樵るより危かしいのに――此の度胸でないと復興は覺束ない。――ぐら〳〵と來るか、おツと叫んで、銅貨の財布と食麺麭と魔法壜を入れたバスケツトを追取刀で、一々框まで飛び出すやうな卑怯を何うする。……私は大に勇氣を得た。 が、吃驚するやうな大景氣の川鐵へ入つて、たゝきの側の小座敷へ陣取ると、細露地の隅から覗いて、臆病神が顯はれて、逃路を探せや探せやと、電燈の瞬くばかり、暗い指さしをするには弱つた。まだ積んだまゝの雜具を繪屏風で劃つてある、さあお一杯は女中さんで、羅綾の袂なんぞは素よりない。たゞしその六尺の屏風も、飛ばばなどか飛ばざらんだが、屏風を飛んでも、駈出せさうな空地と言つては何處を向いても無かつたのであるから。……其の癖、醉つた。醉ふといゝ心持に陶然とした。第一この家は、むかし蕎麥屋で、夏は三階のもの干でビールを飮ませた時分から引續いた馴染なのである。――座敷も、趣は變つたが、そのまゝ以前の俤が偲ばれる。……名ぶつの額がある筈だ。横額に二字、たしか(勤儉)とかあつて(彦左衞門)として、圓の中に、朱で(大久保)と云ふ印がある。「いかものも、あのくらゐに成ると珍物だよ。」と、言つて、紅葉先生はその額が御贔屓だつた。――屏風にかくれて居たかも知れない。 まだ思ひ出す事がある。先生がこゝで獨酌……はつけたりで、五勺でうたゝねをする方だから御飯をあがつて居ると、隣座敷で盛んに艷談のメートルを揚げる聲がする。紛ふべくもない後藤宙外さんであつた。そこで女中をして近所で燒芋を買はせ、堆く盆に載せて、傍へあの名筆を以て、曰く「御浮氣どめ」プンと香つて、三筋ばかり蒸氣の立つ處を、あちら樣から、おつかひもの、と持つて出た。本草には出て居まいが、案ずるに燒芋と饀パンは浮氣をとめるものと見える……が浮氣がとまつたか何うかは沙汰なし。たゞ坦懷なる宙外君は、此盆を讓りうけて、其のままに彫刻させて掛額にしたのであつた。 さて其夜こゝへ來るのにも通つたが、矢來の郵便局の前で、ひとりで吹き出した覺えがある。最も當時は青くなつて怯えたので、おびえたのが、尚ほ可笑い。まだ横寺町の玄關に居た時である。「この電報を打つて來た。巖谷の許だ、局待にして、返辭を持つて歸るんだよ。急ぐんだよ。」で、局で、局待と言ふと、局員が字數を算へて、局待には二字分の符號がいる。此のまゝだと、もう一音信の料金を、と言ふのであつた。たしか、市内は一音信金五錢で、局待の分ともで、私は十錢より預つて出なかつた。そこで先生の草がきを見ると「ヰルナラタヅネル」一字のことだ。私は考一考して而して辭句を改めた。「ヰルナラサガス」此れなら、局待の二字分がきちんと入る、うまいでせう。――巖谷氏の住所は其の頃麹町元園町であつた。が麹町にも、高輪にも、千住にも、待つこと多時にして、以上返電がこない。今時とは時代が違ふ。山の手の局閑にして、赤城の下で鷄が鳴くのをぽかんと聞いて、うつとりとしてゐると、なゝめ下りの坂の下、あまざけやの町の角へ、何と、先生の姿が猛然としてあらはれたらうではないか。 唯見て飛出すのと、殆ど同時で「馬鹿野郎、何をして居る。まるで文句が分らないから、巖谷が俥で駈けつけて、もう内へ來てゐるんだ。うつそりめ、何をして居る。皆が、車に轢かれやしないか、馬に蹴飛ばされやしないかと案じて居るんだ。」私は青くなつた――(居るなら訪ねる。)を――(要るなら搜す。)――巖谷氏のわけの分らなかつたのは無理はない。紅葉先生の辭句を修正したものは、恐らく文壇に於て私一人であらう。そのかはり目の出るほどに叱られた。――何、五錢ぐらゐ、自分の小遣ひがあつたらうと、串戲をおつしやい。それだけあれば、もう早くに煙草と燒芋と、大福餅になつて居た。煙草五匁一錢五厘。燒芋が一錢で大六切、大福餅は一枚五厘であつた。――其處で原稿料は?……飛んでもない、私はまだ一枚も稼ぎはしない。先生のは――内々知つてゐるが内證にして置く。…… まだ可笑しい事がある、ずツと後で……此の番町の湯へ行くと、かへりがけに、錢湯の亭主が「先生々々」丁ど午ごろだから他に一人も居なかつた。「一寸お教へを願ひたいのでございますが。」先生で、お教へを、で、私はぎよつとした。亭主極めて慇懃に「えゝ(おかゆ)とは何う書きますでせうか。」「あゝ、其れはね、弓、弓やつて、眞中へ米と書くんです。弱しと間違つては不可いのです。」何と、先生の得意想ふべし。實は、弱を、米の兩方へ配つた粥を書いて、以前、紅葉先生に叱られたものがある。「手前勝手に字を拵へやがつて――先人に對して失禮だ。」その叱られたのは私かも知れない。が、其の時の覺えがあるから、あたりを拂つて悠然として教へた。――今はもう代は替つた――亭主は感心もしないかはりに、病身らしい、お粥を食べたさうな顏をして居た。女房が評判の別嬪で。――此のくらゐの間違ひのない事を、人に教へた事はないと思つた。思つたなりで年を經た。實際年を經た。つい近い頃である。三馬の浮世風呂を讀むうちに、だしぬけに目白の方から、釣鐘が鳴つて來たやうに氣がついた。湯屋の聞いたのは(岡湯)なのである。 少々話が通りすぎた、あとへ戻らう。 其の日、万ちやんを誘つた家は、以前、私の住んだ南榎町と同町内で、奧へ辨天町の方へ寄つて居る事はすぐに知れた。が、家々も立て込んで、從つて道も狹く成つたやうな氣がする。殊に夜であつた。むかし住んだ家は一寸見富が着かない。さうだらう兩側とも生垣つゞきで、私の家などは、木戸内の空地に井戸を取りまいて李の樹が幾本も茂つて居た。李は庭から背戸へ續いて、小さな林といつていゝくらゐ。あの、底に甘みを帶びた、美人の白い膚のやうな花盛りを忘れない。雨には惱み、風には傷み、月影には微笑んで、淨濯明粧の面影を匂はせた。…… 唯一間よりなかつた、二階の四疊半で、先生の一句がある。 紛胸の乳房かくすや花李 ひとへに白い。乳くびの桃色をさへ、蔽ひかくした美女にくらべられたものらしい。……此の白い花の、散つて葉に成る頃の、その毛蟲の夥多しさと言つては、それは又ない。よくも、あの水を飮んだと思ふ。一釣瓶ごとに榎の實のこぼれたやうな赤い毛蟲を充滿に汲上げた。しばらくすると、此の毛蟲が、盡く眞白な蝶になつて、枝にも、葉にも、再び花片を散らして舞つて亂るゝ。幾千とも數を知らない。三日つゞき、五日、七日つゞいて、飜り且つ飛んで、窓にも欄干にも、暖かな雪の降りかゝる風情を見せたのである。 やがて實る頃よ。――就中、南の納戸の濡縁の籬際には、見事な巴旦杏があつて、大きな實と言ひ、色といひ、艷なる波斯の女の爛熟した裸身の如くに薫つて生つた。いまだと早速千匹屋へでも卸しさうなものを、彼の川柳が言ふ、(地女は振りもかへらぬ一盛り)それ、意氣の壯なるや、縁日の唐黍は買つて噛つても、内で生つた李なんか食ひはしない。一人として他樣の娘などに、こだはるものはなかつたのである。 が、いまは開けた。その頃、友だちが來て、酒屋から麥酒を取ると、泡が立たない、泡が、麥酒は決して泡をくふものはない。が、泡の立たない麥酒は稀有である。酒屋にたゞすと、「拔く時倒にして、ぐん〳〵お振りなさい、然うすると泡が立ちますよ、へい。」と言つたものである。十日、腹を瀉さなかつたのは僥倖と言ひたい――今はひらけた。 たゞ、惜しい哉。中の丸の大樹の枝垂櫻がもう見えぬ。新館の新潮社の下に、吉田屋と云ふ料理店がある。丁度あの前あたり――其後、晝間通つた時、切株ばかり、根が殘つたやうに見た。盛の時は梢が中空に、花は町を蔽うて、そして地摺に枝を曳いた。夜もほんのりと紅であつた。昔よりして界隈では、通寺町保善寺に一樹、藁店の光照寺に一樹、とともに、三枚振袖、絲櫻の名木と、稱へられたさうである。 向う側の湯屋に柳がある。此間を、男も女も、一頃揃つて、縮緬、七子、羽二重の、黒の五紋を着て往き來した。湯へ行くにも、蕎麥屋へ入るにも紋着だつた事がある、こゝだけでも春の雨、また朧夜の一時代の面影が思はれる。 つい、その一時代前には、そこは一面の大竹藪で、氣の弱い旗本は、いまの交番の處まで晝も駈け拔けたと言ふのである。酒井家に出入の大工の大棟梁が授けられて開拓した。藪を切ると、蛇の棄て場所にこまつたと言ふ。小さな堂に籠めて祭つたのが、のちに倶樂部の築山の蔭に谷のやうな崖に臨んであつたのを覺えて居る。池、亭、小座敷、寮ごのみで、その棟梁が一度料理店を其處に開いた時のなごりだと聞いた。 棧の亭で、遙にポン〳〵とお掌が鳴る。へーい、と母家から女中が行くと、……誰も居ない。池の梅の小座敷で、トーンと灰吹を敲く音がする、娘が行くと、……影も見えない。――その料理屋を、狸がだましたのださうである。眉唾。眉唾。 尤もいま神樂坂上の割烹(魚徳)の先代が(威張り)と呼ばれて、「おう、うめえ魚を食はねえか」と、醉ぱらつて居るから盤臺は何處かへ忘れて、天秤棒ばかりを振りまはして歩行いた頃で。…… 矢來邊の夜は、たゞ遠くまで、榎町の牛乳屋の納屋に、トーン〳〵と牛の跫音のするのが響いて、今にも――いわしこう――酒井家の裏門あたりで――眞夜中には――鰯こう――と三聲呼んで、形も影も見えないと云ふ。……怪しい聲が聞えさうな寂しさであつた。 春の夜の鐘うなりけり九人力 それは、その李の花、花の李の頃、二階の一室、四疊半だから、狹い縁にも、段子の上の段にまで居餘つて、わたしたち八人、先生と合はせて九人、一夕、俳句の會のあつた時、興に乘じて、先生が、すゝ色の古壁にぶつつけがきをされたものである。句の傍に、おの〳〵の名がしるしてあつた。……神樂坂うらへ、私が引越す時、そのまゝ殘すのは惜かつたが、壁だから何うにも成らない。――いゝ鹽梅に、一人知り合があとへ入つた。――埃は掛けないと言つて、大切にして居た。 ――五月雨の陰氣な一夜、坂の上から飛蒐るやうなけたゝましい跫音がして、格子をがらりと突開けたと思ふと、神樂坂下の其の新宅の二階へ、いきなり飛上つて、一驚を吃した私の机の前でハタと顏を合はせたのは、知合のその男で……眞青に成つて居る。「大變です。」「……」「化ものが出ます。」「……」「先生の壁のわきの、あの小窓の處へ机を置いて、勉強をして居りますと……恁う、じり〳〵と燈が暗く成りますから、ふいと見ますと、障子の硝子一杯ほどの猫の顏が、」と、身ぶるひして、「顏ばかりの猫が、李の葉の眞暗な中から――其の大きさと言つたらありません。そ、それが五分と間がない、目も鼻も口も一所に、僕の顏とぴつたりと附着きました、――あなたのお住居の時分から怪猫が居たんでせうか……一體猫が大嫌ひで、いえ可恐いので。」それならば爲方がない。が、怪猫は大袈裟だ。五月闇に、猫が屋根をつたはらないとは誰が言ひ得よう。……窓の燈を覗かないとは限らない。しかし、可恐い猫の顏と、不意に顱合せをしたのでは、驚くも無理はない。……「それで、矢來から此處まで。」「えゝ。」と息を引いて、「夢中でした……何しろ、正體を、あなたに伺はうと思つたものですから。」今は昔、山城介三善春家は、前の世の蝦蟆にてや有けむ、蛇なん極く恐ける。――夏の比、染殿の辰巳の山の木隱れに、君達、二三人ばかり涼んだ中に、春家も交つたが、此の人の居たりける傍よりしも、三尺許りなる烏蛇の這出たりければ、春家はまだ氣がつかなかつた。處を、君達、それ見よ春家。と、袖を去る事一尺ばかり。春家顏の色は朽し藍のやうに成つて、一聲あつと叫びもあへず、立たんとするほどに二度倒れた。すはだしで、その染殿の東の門より走り出で、北ざまに走つて、一條より西へ、西の洞院、それから南へ、洞院下に走つた。家は土御門西の洞院にありければで、駈け込むと齊しく倒れた、と言ふのが、今昔物語りに見える。遠きその昔は知らず、いまの男は、牛込南榎町を東状に走つて、矢來中の丸より、通寺町、肴町、毘沙門前を走つて、南に神樂坂上を走りおりて、その下にありける露地の家へ飛込んで……打倒れけるかはりに、二階へ駈上つたものである。餘り眞面目だから笑ひもならない。「まあ、落着きたまへ。――景氣づけに一杯。」「いゝえ、歸ります。――成程、猫は屋根づたひをして、窓を覗かないものとは限りません。――分りました。――いえ然うしては居られません。僕がキヤツと言つて、いきなり飛出したもんですから、彼が。」と言ふのが情婦で、「一所にキヤツと言つて、跣足で露地の暗がりを飛出しました。それつ切音信が分りませんから。」慌てて歸つた。――此の知合を誰とかする。やがて報知新聞の記者、いまは代議士である、田中萬逸君その人である。反對黨は、ひやかしてやるがいゝ。が、その夜、もう一度怯かされた。眞夜中である。その頃階下に居た學生さんが、みし〳〵と二階へ來ると、寢床だつた私の枕もとで大息をついて、「變です。……どうも變なんです――縁側の手拭掛が、ふはりと手拭を掛けたまゝで歩行んです。……トン〳〵トン、たゝらを踏むやうに動きましたつけ。おやと思ふと斜かひに、兩方へ開いて、ギクリ、シヤクリ、ギクリ、シヤクリとしながら、後退りをするやうにして、あ、あ、と思ふうちに、スーと、あの縁の突あたりの、戸袋の隅へ消えるんです。變だと思ふと、また目の前へ手拭掛がふはりと出て……出ると、トントントンと踏んで、ギクリ、シヤクリ、とやつて、スー、何うにも氣味の惡さつたらないのです。――一度見てみて下さい。……矢來の猫が、田中君について來たんぢやあないんでせうか知ら。」五月雨はじと〳〵と降る、外は暗夜だ。私も一寸悚然とした。 はゝあ、此の怪談を遣りたさに、前刻狸を持出したな。――いや、敢て然うではない。 何う言ふものか、此のごろ私のおともだちは、おばけと言ふと眉を顰める。 口惜いから、紅葉先生の怪談を一つ聞かせよう。先生も怪談は嫌ひであつた。「泉が、又はじめたぜ。」その唯一つの怪談は、先生が十四五の時、うらゝかな春の日中に、一人で留守をして、茶の室にゐらるゝと、臺所のお竈が見える。……竈の角に、らくがきの蟹のやうな、小さなかけめがあつた。それが左の角にあつた。が、陽炎に乘るやうに、すつと右の角へ動いてかはつた。「唯それだけだよ。しかし今でも不思議だよ。」との事である。――猫が窓を覗いたり、手拭掛が踊つたり、竈の蟹が這つたり、ひよいと賽を振つて出たやうである。春だからお子供衆――に一寸……化もの雙六。…… なき柳川春葉は、よく罪のない嘘を言つて、うれしがつて、けろりとして居た。――「按摩あ……鍼ツ」と忽ち噛みつきさうに、霜夜の横寺の通りで喚く。「あ、あれはね(吼え按摩)と云つてね、矢來ぢや(鰯こ)とおんなじに不思議の中へ入るんだよ」「ふう」などと玄關で燒芋だつたものである。花袋、玉茗兩君の名が、そちこち雜誌類に見えた頃、よそから歸つて來るとだしぬけに「きみ、聞いて來たよ。――花袋と言ふのは上州の或大寺の和尚なんだ、花袋和尚。僧正ともあるべきが、女のために詩人に成つたんだとね。玉茗と言ふのは日本橋室町の葉茶屋の若旦那だとさ。」この人のいふのだからあてには成らないが、いま座敷うけの新講談で評判の鳥逕子のお父さんは、千石取の旗下で、攝津守、有鎭とかいて有鎭とよむ。村山攝津守有鎭――邸は矢來の郵便局の近所にあつて、鳥逕とは私たち懇意だつた。渾名を鳶の鳥逕と言つたが、厚眉隆鼻ハイカラのクリスチヤンで、そのころ拂方町の教會を背負つて立つた色男で……お父さんの立派な藏書があつて、私たちはよく借りた。――そのお父さんを知つて居るが、攝津守だか、有鎭だか、こゝが柳川の説だから當には成らない。その攝津守が、私の知つてる頃は、五十七八の年配、人品なものであつた。つい、その頃、門へ出て――秋の夕暮である……何心もなく町通りを視めて立つと、箒目の立つた町に、ふと前後に人足が途絶えた。その時、矢來の方から武士が二人來て、二人で話しながら、通寺町の方へ、すつと通つた……四十ぐらゐのと二十ぐらゐの若侍とで。――唯見るうちに、郵便局の坂を下りに見えなくなつた。あゝ不思議な事がと思ひ出すと、三十幾年の、維新前後に、おなじ時、おなじ節、おなじ門で、おなじ景色に、おなじ二人の侍を見た事がある、と思ふと、悚然としたと言ふのである。 此は少しくもの凄い。…… 初春の事だ。おばけでもあるまい。 春着につけても、一つ艷つぽい處をお目に掛けよう。 時に、川鐵の向うあたりに、(水何)とか言つた天麩羅屋があつた。くどいやうだが、一人前、なみで五錢。……横寺町で、お孃さんの初のお節句の時、私たちは此を御馳走に成つた。その時分、先生は御質素なものであつた。二十幾年、尤も私なぞは、今もつて質素である。此の段は、勤儉と題して、(大久保)の印を捺しても可い。 その天麩羅屋の、しかも蛤鍋三錢と云ふのを狙つて、小栗、柳川、徳田、私……宙外君が加はつて、大擧して押上つた、春寒の午後である。お銚子は入が惡くつて、しかも高値いと言ふので、式だけ誂へたほかには、町の酒屋から、かけにして番を口説いた一升入の貧乏徳利を誰かが外套(註。おなじく月賦……這個まつくろなのを一着して、のそ〳〵と歩行く奴を、先生が嘲つて――月府玄蝉。)の下へ忍ばした勢だから、氣焔と、殺風景推して知るべしだ。……酒氣が天井を衝くのではない、陰に籠つて疊の燒けこげを轉げ𢌞る。あつ燗で火の如く惡醉闌なる最中。お連樣つ――と下階から素頓興な聲が掛ると、「皆居るかい。」と言ふ紅葉先生の聲がした。まさか、壺皿はなかつたが、驚破事だと、貧乏徳利を羽織の下へ隱すのがある、誂子を股へ引挾んで膝小僧をおさへるのがある、鍋へ盃洗の水を打込むのがある。私が手をついて畏まると、先生にはお客分で仔細ないのに、宙外さんも煙に卷かれて、肩を四角に坐り直つて、酒のいきを、はあはあと、專らピンと撥ねた髯を揉んだ。 ――處へ……せり上つておいでなすつた先生は、舞臺にしても見せたかつた。すつきり男ぶりのいゝ處へ、よそゆきから歸宅のまゝの、りうとした着つけである。勿論留守を狙つて泳ぎ出したのであつたが――揃つて紫星堂(塾)を出たと聞いて、その時々の弟子の懷中は見透しによく分る。明進軒か島金、飛上つて常磐(はこが入る)と云ふ處を、奴等の近頃の景氣では――蛉鍋と……當りがついた。「いや、盛だな。」と、缺け火鉢を、鐵火にお召の股へ挾んで、手をかざしながら莞爾して、「後藤君、お樂に――皆も飮みなよ、俺も割で一杯やらう。」殿樣が中間部屋の趣がある。恐れながら、此時、先生の風采想ふべしで、「懷中はいゝぜ。」と手を敲かるゝ。手に應じて、へいと、どしん〳〵と上つた女中が、次手に薄暗いからランプをつけた、釣ランプ(……あゝ久しいが今だつてランプなしには居られますか。)それが丁ど先生の肩の上の見當に掛つて居た。面疱だらけの女中さんが燐寸を摺つて點けて、插ぼやをさすと、フツと消したばかり、まだ火のついたまゝの燃さしを、ポンと斜つかひに投げた――(まつたく、お互が、所帶を持つて、女中の此には惱まされた、火の用心が惡いから、それだけはよしなよ。はい、と言ふ口の下から、つけさしのマツチをポンがお定まり……)唯、先生の膝にプスツと落ちた。「女中や、お手柔かに頼むぜ。」と先生の言葉の下に、ゑみわれたやうな顏をして、「惚れた證據だわよ。」やや、と皆が顏を見る。……「惚れたに遠慮があるものかツてねえ、……てね、……ねえ。」と甘つたれる。――あ、あ、あ危ない、棚の破鍋が落ちかゝる如く、剩へべた〳〵と崩れて、薄汚れた紀州ネルを膝から溢出させたまゝ、……あゝ……あゝ行つた!……男振は音羽屋(特註、五代目)の意氣に、團十郎の澁味が加つたと、下町の女だちが評判した、御病氣で面痩せては、あだにさへも見えなすつた先生の肩へ、……あゝ噛りついた。 よゝつツと、宙外君が堪まらず奇聲と云ふのを上げるに連れて、一同が、……おめでたうと稱へた。 それよりして以來――癇癪でなく、憤りでなく、先生がいゝ機嫌で、しかも警句雲の如く、弟子をならべて罵倒して、勢當るべからざる時と言ふと、つゝき合つて、目くばせして、一人が少しく座を罷り出る。「先生……(水)……」「何。」「蛤鍋へおともは如何で。」「馬鹿を言へ。」「いゝえ、大分、女中さんがこがれて居りますさうでございまして。」傍から、「えゝ煩つて居るほどだと申します事ですから。」……かねて、おれを思ふ女ならば、目つかちでも鼻つかけでもと言ふ、御主義?であつた。―― 紅葉先生、その時の態度は…… 采菊東籬下、 悠然見南山。 |
凹凸の石高路 その往還を左右から挾んだ低い茅葺屋根が、凡そ六七十もあらう。何の家も、何の家も、古びて、穢なくて、壁が落ちて、柱が歪んで、隣々に倒り合つて辛々支へてる樣に見える。家の中には生木の薪を焚く煙が、物の置所も分明ならぬ程に燻つて、それが、日一日破風と誘ひ合つては、腐れた屋根に這つてゐる。兩側の狹い淺い溝には、襤褸片や葫蘿蔔の切端などがユラユラした涅泥に沈んで、黝黒い水に毒茸の樣な濁つた泡が、ブク〳〵浮んで流れた。 駐在所の髯面の巡査、隣村から應援に來た今一人の背のヒョロ高い巡査、三里許りの停車場所在地に開業してゐる古洋服の醫師、赤焦けた黒繻子の袋袴を穿いた役場の助役、消毒具を携へた二人の使丁、この人數は、今日も亦家毎に強行診斷を行つて歩いた。空は、仰げば目も眩む程無際限に澄み切つて、塵一片飛ばぬ日和であるが、稀に室外を歩いてるものは、何れも何れも申合せた樣に、心配氣な、浮ばない顏色をして、跫音を偸んでる樣だ。其家にも、此家にも、怖し氣な面構をした農夫や、アイヌ系統によくある、鼻の低い、眼の濁つた、青脹れた女などが門口に出で、落着の無い不恰好な腰附をして、往還の上下を眺めてゐるが、一人として長く立つてるものは無い。子供等さへ高い聲も立てない。時偶胸に錐でも刺された樣な赤兒の悲鳴でも聞えると、隣近所では妙に顏を顰める。素知らぬ態をしてるのは、干からびた鹽鱒の頭を引擦つて行く地種の痩犬、百年も千年も眠つてゐた樣な張合のない顏をして、日向で欠伸をしてゐる眞黒な猫、往還の中央で媾んでゐる雞くらゐなもの。村中濕りかへつて巡査の靴音と佩劍の響が、日一日、人々の心に言ひ難き不安を傳へた。 鼻を刺す石炭酸の臭氣が、何處となく底冷えのする空氣に混じて、家々の軒下には夥しく石灰が撒きかけてある。――赤痢病の襲來を被つた山間の荒村の、重い恐怖と心痛に充ち滿ちた、目もあてられぬ、そして、不愉快な状態は、一度その境を實見したんで無ければ、迚も想像も及ぶまい。平常から、住民の衣、食、住――その生活全體を根本から改めさせるか、でなくば、初發患者の出た時、時を移さず全村を燒いて了ふかするで無ければ、如何に力を盡したとて豫防も糞も有つたものでない。三四年前、この村から十里許り隔つた或村に同じ疫が猖獗を極めた時、所轄警察署の當時の署長が、大英斷を以て全村の交通遮斷を行つた事がある。お蔭で他村には傳播しなかつたが、住民の約四分の一が一秋の中に死んだ。尤も、年々何の村でも一人や二人、五人六人の患者の無い年はないが、巧に隱蔽して置いて牻牛兒の煎藥でも服ませると、何時しか癒つて、格別傳染もしない。それが、萬一醫師にかゝつて隔離病舍に收容され、巡査が家毎に呶鳴つて歩くとなると、噂の擴がると共に疫が忽ち村中に流行して來る――と、實際村の人は思つてるので、疫其者より巡査の方が嫌はれる。初發患者が見附かつてから、二月足らずの間に、隔離病舍は狹隘を告げて、更に一軒山蔭の孤家を借り上げ、それも滿員といふ形勢で、總人口四百内外の中、初發以來の患者百二名、死亡者二十五名、全癒者四十一名、現患者三十六名、それに今日の診斷の結果で又二名増えた。戸數の七割五分は何の家も患者を出し、或家では一家を擧げて隔離病舍に入つた。 秋も既う末――十月下旬の短かい日が、何時しかトップリと暮れて了つて、霜も降るべく鋼鐵色に冴えた空には白々と天の河が横はつた。さらでだに蟲の音も絶え果てた冬近い夜の寥しさに、まだ宵ながら、戸がピッタリと閉つて、通る人もなく、話聲さへ洩れぬ。重い〳〵不安と心痛が、火光を蔽ひ、門を鎖し、人の喉を締めて、村は宛然幾十年前に人間の住み棄てた、廢郷かの樣に闃乎としてゐる。今日は誰々が顏色が惡かつたと、何れ其麽事のみが住民の心に徂徠してるのであらう。 其重苦しい沈默の中に、何か怖しい思慮が不意に閃く樣に、此のトッ端の倒りかゝつた家から、時時パッと火花が往還に散る。それは鍛冶屋で、トンカン、トンカンと鐵砧を撃つ鏗い響が、地の底まで徹る樣に、村の中程まで聞えた。 其隣がお由と呼ばれた寡婦の家、入口の戸は鎖されたが、店の煤び果てた二枚の障子――その處々に、朱筆で直した痕の見える平假名の清書が横に逆樣に貼られた――に、火花が映つてゐる。凡そ、村で人氣のあるらしく見えるのは、此家と鍛冶屋と、南端れ近い役場と、雜貨やら酒石油などを商ふ村長の家の四軒に過ぎない。 ガタリ、ガタリと重い輛の音が石高路に鳴つて、今しも停車場通ひの空荷馬車が一臺、北の方から此村に入つた。荷馬車の上には、スッポリと赤毛布を被つた馬子が胡坐をかいてゐる。と、お由の家の障子に影法師が映つて、張のない聲に高く低く節附けた歌が聞える。 『あしきをはらうて救けたまへ、天理王のみこと。……この世の地と、天とをかたどりて、夫婦をこしらへきたるでな。これはこの世のはじめだし。……一列すまして甘露臺。』 歌に伴れて障子の影法師が踊る。妙な手附をして、腰を振り、足を動かす。或は大きく朦乎と映り、或は小く分明と映る。 『チヨッ。』と馬子は舌鼓した。『フム、また狐の眞似演てらア!』 『オイ お申婆でねえか?』と、直ぐ又大きい聲を出した。丁度その時、一人の人影が草履の音を忍ばせて、此家に入らうとしたので。『アイサ。』と、人影は暗い軒下に立留つて、四邊を憚る樣に答へた。『隣の兄哥か? 早かつたなす。』 『早く歸つて寢る事た。恁麽時何處ウ徘徊くだべえ。天理樣拜んで赤痢神が取附かねえだら、ハア、何で醫者藥が要るものかよ。』 『何さ、ただ、お由嬶に一寸用があるだで。』と、聲を低めて對手を宥める樣に言ふ。 『フム。』と言つた限で荷馬車は行き過ぎた。 お申婆は、軈て物靜かに戸を開けて、お由の家に姿を隱して了つた。障子の影法師はまだ踊つてゐる。歌もまだ聞えてゐる。 『よろづよの、せかい一れつみはらせど、むねのはかりたものはない。 『そのはずや、といてきかしたものはない。しらぬが無理ではないわいな。 『このたびは、神がおもてへあらはれて、なにか委細をとききかす。』 横川松太郎は、同じ縣下でも遙と南の方の、田の多い、養蠶の盛んな、或村に生れた。生家はその村でも五本の指に數へられる田地持で、父作松と母お安の間の一粒種、甘やかされて育つた故か、體も脾弱く、氣も因循で學校に入つても、勵むでもなく、怠るでもなく、十五の春になつて高等科を卒へたが、別段自ら進んで上の學校に行かうともしなかつた。それなりに十八の歳になつて、村の役場に見習の格で雇書記に入つたが、丁度その頃、暴風の樣な勢で以て、天理教が附近一帶の村々に入り込んで來た。 或晩、氣弱者のお安が平生になく眞劒になつて、天理教の有難い事を父作松に説いたことを、松太郎は今でも記憶してゐる。新しいと名の附くものは何でも嫌ひな舊弊家の、剩に名高い吝嗇家だつた作松は、仲々それに應じなかつたが、一月許り經つと、打つて變つた熱心な信者になつて、朝夕佛壇の前で誦げた修證義が、「あしきを攘うて救けたまへ。」の御神樂歌と代り、大和の國の總本部に参詣して來てからは、自ら思立つてか、唆かされてか、家屋敷所有地全體賣拂つて、工事總額二千九百何十圓といふ、巍然たる大會堂を、村の中央の小高い丘陵の上に建てた。神道天理教會××支部といふのがそれで。 その爲に、松太郎は兩親と共に着のみ着の儘になつて、其會堂の中に布教師と共に住む事になつた。(役場の方は四ヶ月許りで罷めて了つた。)最初、朝晩の禮拜に皆と一緒になつて御神樂を踊らねばならなかつたのには、少からず弱つたもので、氣羞しくて厭だと言つては甚麽に作松に叱られたか知れない。その父は、半歳程經つて近所に火事のあつた時、人先に水桶を携つて會堂の屋根に上つて、足を辷らして落ちて死んだ。天晴な殉教者だと口を極めて布教師は作松の徳を讃へた。母のお安もそれから又半歳經つて、腦貧血を起して死んだ。 兩親の死んだ時、松太郎は無論涙を流したが、それは然し、悲しいよりも驚いたから泣いたのだ。他から鄭重に悼辭を言はれると、奈何して俺は左程悲しくないだらうと、それが却つて悲しかつた事もある。其後も矢張その會堂に起臥して、天理教の教理、祭式作法、傳道の心得などを學んだが、根が臆病者で、これといふ役にも立たない代り、惡い事はカラ出來ない性なのだから、家を潰させ、父を殺し、母を死なしめた、その支部長が、平常可愛がつて使つたものだ。また渠は、一體其麽人を見ても羨むといふことのない。――羨むには羨んでも、自分も然う成らうといふ奮發心の出ない性で、從つて、食ふに困るではなし、自分が無財産だといふことも左程苦に病まなかつた。時偶、雜誌の口繪で縹緻の好い藝妓の寫眞を見たり、地方新聞で金持の若旦那の艶聞などを讀んだりした時だけは、妙に恁う危險な――實際危險な、例へば、密々とこの會堂や地面を自分の名儀に書き變へて、裁判になつても敗けぬ樣にして置いて、突然賣飛ばして了はうとか、平常心から敬つてゐる支部長を殺さうとかいふ、全然理由の無い反抗心を抱いたものだが、それも獨寢の床に人間並の出來心を起した時だけの話、夜が明けると何時しか忘れた。 兎角する間に今年の春になると、支部長は、同じ會堂で育て上げた、松太郎初め六人の青年を大和の本部に送つた。其處で三ヶ月修業して、「教師」の資格を得て歸ると、今度は、縣下に各々區域を定めて、それ〴〵布教に派遣されたのだ。 さらでだに元氣の無い、色澤の惡い顏を、土埃と汗に汚なくして、小い竹行李二箇を前後に肩に掛け、紺絣の單衣の裾を高々と端折り、重い物でも曳擦る樣な足取で、松太郎が初めて南の方から此村に入つたのは、雲一つ無い暑さ盛りの、丁度八月の十日、赤い〳〵日が徐々西の山に辷りかけた頃であつた。松太郎は、二十四といふ齡こそ人並に喰つてはゐるが、生來の氣弱者、經驗のない一人旅に、今朝から七里餘の知らない路を辿つたので、心の膸までも疲れ切つてゐた。三日、四日と少しは慣れたものゝ、腹に一物も無くなつては、「考へて見れば目的の無い旅だ!」と言つたやうな、朦乎した悲哀が、粘々した唾と共に湧いた。それで、村の入口に入るや否や、吠えかゝる痩犬を半分無意識に怕い顏をして睨み乍ら、脹けた樣な頭を搾り、あらん限りの智慧と勇氣を集めて、「兎も角も、宿を見附る事た。」と決心した。そして、口が自からポカンと開いたも心附かず、臆病らしい眼を怯々然と兩側の家に配つて、到頭、村も端れ近くなつた邊で、三國屋といふ木賃宿の招牌を見附けた時は、渠には既う、現世に何の希望も無かつた。 翌朝目を覺ました時は、合宿を頼まれた二人――六十位の、頭の禿げた、鼻の赤い、不安な眼附をした老爺と其娘だといふ二十四五の、旅疲勞の故か張合のない淋しい顏の、其癖何處か小意氣に見える女。(何處から來て何處へ行くのか知らないが、路銀の補助に賣つて歩くといふ安筆を、松太郎も勸められて一本買つた。)――その二人は既う發つて了つて穢ない室の、補布だらけな五六の蚊帳の隅つこに、脚を一本蚊帳の外に投出して、仰けに臥てゐた。と、渠は、前夜同じ蚊帳に寢た女の寢息や寢返りの氣勢に酷く弱い頭を惱まされて、夜更まで寢附かれなかつた事も忘れて、慌てゝ枕の下の財布を取出して見た。變りが無い。すると又、突然褌一つで蚊帳の外に跳び出したが、自分の荷物は寢る時の儘で壁側にある。ホッと安心したが、猶念の爲に内部を調べて見ると、矢張變りが無い。「フフヽヽ」と笑つて見た。 「さて、何う爲ようかな?」恁う渠は、額に八の字を寄せ、夥しく蚊に喰はれた脚や、蚤に攻められて一面に紅らんだ横腹を自暴に掻き乍ら、考へ出した。昨日着いた時から、火傷か何かで左手の指が皆内側に曲つた宿の嬶の待遇振が、案外親切だつたもんだから、松太郎は理由もなく此村が氣に入つて、一つ此地で傳道して見ようかと思つてゐたのだ。 「さて、何う爲ようかな?」恁う何回も何回も自分に問うて見て、仲々決心が附かない。「奈何爲よう。奈何爲よう。」と、終ひには少し懊つたくなつて來て、愈々以て決心が附かなくなつた。と、言つて、發たうといふ氣は微塵もないのだ。「兎も角も。」この男の考へ事は何時でも此處に落つる。「兎も角も、村の樣子を見て來る事に爲よう。」と決めて、朝飯が濟むと、宿の下駄を借りて戸外に出た。 前日通つた時は百二三十戸も有らうと思つたのが數へて見ると、六十九戸しか無かつた。それが又穢ない家許りだ。松太郎は心に喜んだ、何がなしに氣強くなつて來た。渠には自信といふものが無い。自信は無くとも傳道は爲なければならぬ。それには、成るべく狹い土地で、そして成るべく教育のある人の居ない方が可いのだ。宿に歸つて、早速亭主を呼んで訊いて見ると、案の如く天理教はまだ入り込んでゐないと言ふ。そこで松太郎は、出來るだけ勿體を附けて自分の計畫を打ち明けて見た。 三國屋の亭主といふのは、長らく役場の小使をした男で、身長が五尺に一寸も足らぬ不具者で、齡は四十を越してゐるが、髯一本あるでなし、額の小皺を見なければ、まだホンの小若者としか見えない。小鼻が兩方から吸込まれて、物言ふ聲が際立つて鼻にかゝる。それが、『然うだなツす……』と、小苦面に首を傾げて聞いてゐたが、松太郎の話が終ると、『何しろハア。今年ア作が良くねえだハンテな。奈何だべなア! 神樣さア喜捨る錢金が有つたら石油でも買ふべえドラ。』 『それがな。』と、松太郎は臆病な眼附をして、『何もその錢金の費る事で無えのだ。私は其麽者で無え。自分で宿料を拂つてゐて、一週間なり十日なり、無料で近所の人達に聞かして上げるのだツさ。今のその、有難いお話な。』 氣乘りのしなかつた亭主も、一週間分の前金を出されて初めて納得して、それからは多少言葉遣ひも改めた。兎も角も今夜から近所の人を集めて呉れるといふ事に相談が纏つた。日の暮れるのが待遠でもあり、心配でもあつた。集つたのは女子供合せて十二三人、それに大工の弟子の三太といふ若者、鍛冶屋の重兵衞。松太郎は暑いに拘らず木綿の紋附羽織を着て、杉の葉の蚊遣の煙を澁團扇で追ひ乍ら、教祖島村美支子の一代記から、一通りの教理まで、重々しい力の無い聲に出來るだけ抑揚をつけ諄々と説いたものだ。 『ハハア、そのお人も矢張りお嫁樣に行つたのだなツす?』と、乳兒を抱いて來た嬶が訊いた。 『左樣さ。』と松太郎は額の汗を手拭で拭いて、『お美支樣が丁度十四歳に成られた時にな、庄屋敷村のお生家から、三眛田村の中山家へ御入輿に成つた。有難いお話でな。その時お持になつた色々の調度、箪笥、長持、總てで以て十四荷――一荷は擔ぎで、畢竟平たく言へば十四擔ぎあつたと申す事ぢや。』『ハハア、有り難い事だなツす。』と、飛んだところに感心して、『ナントお前樣、此地方ではハア、今の村長樣の嬶樣でせえ、箪笥が唯三竿――、否全體で三竿でその中の一竿はハア、古い長持だつけがなッす。』 二日目の晩は嬶共は一人も見えず、前夜話半ばに居眠をして行つた子供連と、鍛冶屋の重兵衞、三太が二三人朋輩を伴れて來た。その若者が何彼と冷評しかけるのを、眇目の重兵衞が大きい眼玉を剥いて叱り附けた。そして、自分一人夜更まで殘つた。 三日目は、午頃來の雨、蚊が皆家の中に籠つた點燈頃に、重兵衞一人、麥煎餅を五錢代許り買つて遣つて來た。大體の話は爲て了つたので、此夜は主に重兵衞の方から、種々の問を發した。それが、人間は死ねば奈何なるとか、天理教を信ずるとお寺詣りが出來ないとか、天理王の命も魚籃觀音の樣に、假に人間の形に現れて蒼生を濟度する事があるとか、概して教理に關する問題を、鹿爪らしい顏をして訊くのであつたが、松太郎の煮え切らぬ答辯にも多少得る所があつたかして、 『然うするとな、先生、(と、此時から松太郎を恁う呼ぶ事にした、)俺にも餘程天理教の有難え事が解つて來た樣だな。耶蘇は西洋、佛樣は天竺、皆渡來物だが、天理樣は日本で出來た神樣だなッす?』 『左樣さ。兎角自國のもんでないと惡いでな。加之何なのぢや、それ、國常立尊、國狹槌尊、豐斟渟尊、大苫邊尊、面足尊惺根尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、それから大日靈尊、月夜見尊、この十柱の神樣はな、何れも皆立派な美徳を具へた神樣達ぢやが、わが天理王の命と申すは、何と有難い事でな、この十柱の神樣の美徳を悉皆具へて御座る。』 『成程。それで何かな、先生、お前樣は一人でも此村に信者が出來ると、何處へも行かねえつて言つたけが、眞箇かな? それ聞かねえと飛んだブマ見るだ。』 『眞箇ともさ。』 『眞箇かな?』 『眞箇ともさ。』 『愈々眞箇かな?』 『ハテ、奈何して嘘なもんかなア。』と言ひは言つたが、松太郎は餘り冗く訊かれるので何がなしに二の足を踏みたくなつた。 『先生、そンだらハア。』と、重兵衞は、突然膝を乘出した。『俺が成つてやるだ。今夜から。』 『信者にか?』と、鈍い眼が俄かに輝く。 『然うせえ。外に何になるだア!』 |
第一部 最終戦争論 昭和十五年五月二十九日京都義方会に於ける講演速記で同年八月若干追補した。 第一章 戦争史の大観 第一節 決戦戦争と持久戦争 戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、海軍力を盛んに使っているのでありますが、間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。 戦争の特徴は、わかり切ったことでありますが、武力戦にあるのです。しかしその武力の価値が、それ以外の戦争の手段に対してどれだけの位置を占めるかということによって、戦争に二つの傾向が起きて来るのであります。武力の価値が他の手段にくらべて高いほど戦争は男性的で力強く、太く、短くなるのであります。言い換えれば陽性の戦争――これを私は決戦戦争と命名しております。ところが色々の事情によって、武力の価値がそれ以外の手段、即ち政治的手段に対して絶対的でなくなる――比較的価値が低くなるに従って戦争は細く長く、女性的に、即ち陰性の戦争になるのであります。これを持久戦争と言います。 戦争本来の真面目は決戦戦争であるべきですが、持久戦争となる事情については、単一でありません。これがために同じ時代でも、ある場合には決戦戦争が行なわれ、ある場合には持久戦争が行なわれることがあります。しかし両戦争に分かれる最大原因は時代的影響でありまして、軍事上から見た世界歴史は、決戦戦争の時代と持久戦争の時代を交互に現出して参りました。 戦争のこととなりますと、あの喧嘩好きの西洋の方が本場らしいのでございます。殊に西洋では似た力を持つ強国が多数、隣接しており、且つ戦場の広さも手頃でありますから、決戦・持久両戦争の時代的変遷がよく現われております。日本の戦いは「遠からん者は音にも聞け……」とか何とか言って始める。戦争やらスポーツやら分からぬ。それで私は戦争の歴史を、特に戦争の本場の西洋の歴史で考えて見ようと思います(六四頁の付表第一参照)。 第二節 古代および中世 古代――ギリシャ、ローマの時代は国民皆兵であります。これは必ずしも西洋だけではありません。日本でも支那でも、原始時代は社会事情が大体に於て人間の理想的形態を取っていることが多いらしいのでありまして、戦争も同じことであります。ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります。国民皆兵であり整然たる戦術によって、この時代の戦争は決戦的色彩を帯びておりました。アレキサンダーの戦争、シイザーの戦争などは割合に政治の掣肘を受けないで決戦戦争が行なわれました。 ところがローマ帝国の全盛時代になりますと、国民皆兵の制度が次第に破れて来て傭兵になった。これが原因で決戦戦争的色彩が持久戦争的なものに変化しつつあったのであります。これは歴史的に考えれば、東洋でも同じことであります。お隣りの支那では漢民族の最も盛んであった唐朝の中頃から、国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する。その時から漢民族の国家生活としての力が弛緩しております。今日まで、その状況がずっと継続しましたが、今次日支事変の中華民国は非常に奮発をして勇敢に戦っております。それでも、まだどうも真の国民皆兵にはなり得ない状況であります。長年文を尊び武を卑しんで来た漢民族の悩みは非常に深刻なものでありますが、この事変を契機としまして何とか昔の漢民族にかえることを私は希望しています。 前にかえりますが、こうして兵制が乱れ政治力が弛緩して参りますと、折角ローマが統一した天下をヤソの坊さんに実質的に征服されたのであります。それが中世であります。中世にはギリシャ、ローマ時代に発達した軍事的組織が全部崩壊して、騎士の個人的戦闘になってしまいました。一般文化も中世は見方によって暗黒時代でありますが、軍事的にも同じことであります。 第三節 文芸復興 それが文芸復興の時代に入って来る。文芸復興期には軍事的にも大きな革命がありました。それは鉄砲が使われ始めたことです。先祖代々武勇を誇っていた、いわゆる名門の騎士も、町人の鉄砲一発でやられてしまう。それでお侍の一騎打ちの時代は必然的に崩壊してしまい、再び昔の戦術が生まれ、これが社会的に大きな変化を招来して来るのであります。 当時は特に十字軍の影響を受けて地中海方面やライン方面に商業が非常に発達して、いわゆる重商主義の時代でありましたから、金が何より大事で兵制は昔の国民皆兵にかえらないで、ローマ末期の傭兵にかえったのであります。ところが新しく発展して来た国家は皆小さいものですから、常に沢山の兵隊を養ってはいられない。それでスイスなどで兵隊商売、即ち戦争の請負業ができて、国家が戦争をしようとしますと、その請負業者から兵隊を傭って来るようになりました。そんな商売の兵隊では戦争の深刻な本性が発揮できるはずがありません。必然的に持久戦争に堕落したのであります。しかし戦争がありそうだから、あそこから三百人傭って来い、あっちからも百人傭って来い、なるたけ値切って傭って来いというような方式では頼りないのでありますから、国家の力が増大するにつれ、だんだん常備傭兵の時代になりました。軍閥時代の支那の軍隊のようなものであります。常備傭兵になりますと戦術が高度に技術化するのです。くろうとの戦いになると巧妙な駆引の戦術が発達して来ます。けれども、やはり金で傭って来るのでありますから、当時の社会統制の原理であった専制が戦術にもそのまま利用されたのです。 その形式が今でも日本の軍隊にも残っております。日本の軍隊は西洋流を学んだのですから自然の結果であります。たとえば号令をかけるときに剣を抜いて「気を付け」とやります。「言うことを聞かないと切るぞ」と、おどしをかける。もちろん誰もそんな考えで剣を抜いているのではありませんが、この指揮の形式は西洋の傭兵時代に生まれたものと考えます。刀を抜いて親愛なる部下に号令をかけるというのは日本流ではない。日本では、まあ必要があれば采配を振るのです。敬礼の際「頭右」と号令をかけ指揮官は刀を前に投げ出します。それは武器を投ずる動作です。刀を投げ捨てて「貴方にはかないません」という意味を示した遺風であろうと思われます。また歩調を取って歩くのは専制時代の傭兵に、弾雨の下を臆病心を押えつけて敵に向って前進させるための訓練方法だったのです。 金で傭われて来る兵士に対しては、どうしても専制的にやって行かねばならぬ。兵の自由を許すことはできない。そういう関係から、鉄砲が発達して来ますと、射撃をし易くするためにも、味方の損害を減ずるためにも、隊形がだんだん横広くなって深さを減ずるようになりましたが、まだ専制時代であったので、横隊戦術から散兵戦術に飛躍することが困難だったのであります。 横隊戦術は高度の専門化であり、従って非常に熟練を要するものです。何万という兵隊を横隊に並べる。われわれも若いときに歩兵中隊の横隊分列をやるのに苦心したものです。何百個中隊、何十個大隊が横隊に並んで、それが敵前で動くことは非常な熟練を要することであります。戦術が煩瑣なものになって専門化したことは恐るべき堕落であります。それで戦闘が思う通りにできないのです。ちょっとした地形の障害でもあれば、それを克服することができない。 そんな関係で戦場に於ける決戦は容易に行なわれない。また長年養って商売化した兵隊は非常に高価なものであります。それを濫費することは、君主としては惜しいので、なるべく斬り合いはやりたくない。そういうような考えから持久戦争の傾向が次第に徹底して来るのです。 三十年戦争や、この時代の末期に出て来た持久戦争の最大名手であるフリードリヒ大王の七年戦争などは、その代表的なものであります。持久戦争では会戦、つまり斬り合いで勝負をつけるか、あるいは会戦をなるべくやらないで機動によって敵の背後に迫り、犠牲を少なくしつつ敵の領土を蚕食する。この二つの手段が主として採用されるのであります。 フリードリヒ大王は、最初は当時の風潮に反して会戦を相当に使ったのでありますが、さすがのフリードリヒ大王も、多く血を見る会戦では戦争の運命を決定しかね、遂に機動主義に傾いて来たのであります。 フリードリヒ大王を尊敬し、大王の機動演習の見学を許されたこともあったフランスのある有名な軍事学者は、一七八九年、次の如く言っております。「大戦争は今後起らないだろうし、もはや会戦を見ることはないだろう」。将来は大きな戦争は起きまい。また戦争が起きても会戦などという血なまぐさいことはやらないで主として機動によりなるべく兵の血を流さないで戦争をやるようになるだろうという意味であります。 即ち女性的陰性の持久戦争の思想に徹底したのであります.しかし世の中は、あることに徹底したときが革命の時なんです。皮肉にも、この軍事学者がそういう発表をしている一七八九年はフランス革命勃発の年であります。そういうふうに持久戦争の徹底したときにフランス革命が起りました。 第四節 フランス革命 フランス革命当時はフランスでも戦争には傭い兵を使うのがよいと思われていた。ところが多数の兵を傭うには非常に金がかかる。しかるに残念ながら当時、世界を敵とした貧乏国フランスには、とてもそんな金がありません。何とも仕様がない。国の滅亡に直面して、革命の意気に燃えたフランスは、とうとう民衆の反対があったのを押し切り、徴兵制度を強行したのであります。そのために暴動まで起きたのでありますが、活気あるフランスは、それを弾圧して、とにかく百万と称する大軍――実質はそれだけなかったと言われておりますが――を集めて、四方からフランスに殺到して来る熟練した職業軍人の連合軍に対抗したのであります。その頃の戦術は先に申しました横隊です。横隊が余り窮屈なものですから、横隊より縦隊がよいとの意見も出ていたのでありますが、軍事界では横隊論者が依然として絶対優勢な位置を占めておりました。 ところが横隊戦術は熟練の上にも熟練を要するので、急に狩り集めて来た百姓に、そんな高級な戦術が、できっこはないのです。善いも悪いもない。いけないと思いながら縦隊戦術を採ったのです。散兵戦術を採用したのです。縦隊では射撃はできませんから、前に散兵を出して射撃をさせ、その後方に運動の容易な縦隊を運用しました。横隊戦術から散兵戦術へ変化したのであります。決してよいと思ってやったのではありません。やむを得ずやったのです。ところがそれが時代の性格に最も良く合っていたのです。革命の時代は大体そういうものだと思われます。 古くからの横隊戦術が、非常に価値あるもの高級なものと常識で信じられていたときに、新しい時代が来ていたのです。それに移るのがよいと思って移ったのではない。これは低級なものだと思いながら、やむを得ず、やらざるを得なくなって、やったのです。それが、地形の束縛に原因する決戦強制の困難を克服しまして、用兵上の非常な自由を獲得したのみならず、散兵戦術は自由にあこがれたフランス国民の性格によく適合しました。 これに加えて、傭兵の時代とちがい、ただで兵隊を狩り集めて来るのですから、大将は国王の財政的顧慮などにしばられず、思い切った作戦をなし得ることとなったのであります。こういう関係から、十八世紀の持久戦争でなければならなかった理由は、自然に解消してしまいました。 ところが、そういうように変っても、敵の大将はむろんのこと新しい軍隊を指揮したフランスの大将も、依然として十八世紀の古い戦略をそのまま使っていたのであります。土地を攻防の目標とし、広い正面に兵力を分散し、極めて慎重に戦いをやって行く方式をとっていたのです。このとき、フランス革命によって生じた軍制上、戦術上の変化を達観して、その直感力により新しい戦略を発見し、果敢に運用したのが不世出の軍略家ナポレオンであります。即ちナポレオンは当時の用兵術を無視して、要点に兵力を集めて敵線を突破し、突破が成功すれば逃げる敵をどこまでも追っかけて行って徹底的にやっつける。敵の軍隊を撃滅すれば戦争の目的は達成され、土地を作戦目標とする必要などは、なくなります。 敵の大将は、ナポレオンが一点に兵を集めて、しゃにむに突進して来ると、そんなことは無理じゃないか、乱暴な話だ、彼は兵法を知らぬなどと言っている間に、自分はやられてしまった。だからナポレオンの戦争の勝利は対等のことをやっていたのではありません。在来と全く変った戦略を巧みに活用したのであります。ナポレオンは敵の意表に出て敵軍の精神に一大電撃を加え、遂に戦争の神様になってしまったのです。白い馬に乗って戦場に出て来る。それだけで敵は精神的にやられてしまった。猫ににらまれた鼠のように、立ちすくんでしまいました。 それまでは三十年戦争、七年戦争など長い戦争が当り前であったのに、数週間か数カ月で大きな戦争の運命を一挙に決定する決戦戦争の時代になったのであります。でありますから、フランス革命がナポレオンを生み、ナポレオンがフランス革命を完成したと言うべきです。 特に皆さんに注意していただきたいのは、フランス革命に於ける軍事上の変化の直接原因は兵器の進歩ではなかったことであります。中世暗黒時代から文芸復興へ移るときに軍事上の革命が起ったのは、鉄砲の発明という兵器の関係でありました。けれどもフランス革命で横隊戦術から散兵戦術に、持久戦争から決戦戦争に移った直接の動機は兵器の進歩ではありません。フリードリヒ大王の使った鉄砲とナポレオンの使ったものとは大差がないのです。社会制度の変化が軍事上の革命を来たした直接の原因であります。このあいだ、帝大の教授がたが、このことについて「何か新兵器があったでしょう」と言われますから「新兵器はなかったのです」と言って頑張りますと、「そんなら兵器の製造能力に革命があったのでしょうか」と申されます。「しかし、そんなこともありませんでした」と答えぎるを得ないのです。兵器の進歩によってフランス革命を来たしたことにしなければ、学者には都合が悪いらしいのですが、都合が悪くても現実は致し方ないのであります。ただし兵器の進歩は既に散兵の時代となりつつあったのに、社会制度がフランス革命まで、これを阻止していたと見ることができます。 プロイセン軍はフリードリヒ大王の偉業にうぬぼれていたのでしたが、一八〇六年、イエーナでナポレオンに徹底的にやられてから、はじめて夢からさめ、科学的性格を活かしてナポレオンの用兵を研究し、ナポレオンの戦術をまねし出しました。さあそうなると、殊にモスコー敗戦後は、遺憾ながらナポレオンはドイツの兵隊に容易には勝てなくなってしまいました。世の中では末期のナポレオンは淋病で活動が鈍ったとか、用兵の能力が低下したとか、いい加減なことを言いますけれども、ナポレオンの軍事的才能は年とともに発達したのです。しかし相手もナポレオンのやることを覚えてしまったのです。人間はそんなに違うものではありません。皆さんの中にも、秀才と秀才でない人がありましょう。けれども大した違いではありません。ナポレオンの大成功は、大革命の時代に世に率先して新しい時代の用兵術の根本義をとらえた結果であります。天才ナポレオンも、もう二十年後に生まれたなら、コルシカの砲兵隊長ぐらいで死んでしまっただろうと思います。諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりません。ヒットラーやナポレオン以上になれる特別な機会に生まれたのです。 フリードリヒ大王とナポレオンの用兵術を徹底的に研究したクラウゼウィッツというドイツの軍人が、近代用兵学を組織化しました。それから以後、ドイツが西洋軍事学の主流になります。そうしてモルトケのオーストリアとの戦争(一八六六年)、フランスとの戦争(一八七〇―七一年)など、すばらしい決戦戦争が行なわれました。その後シュリーフェンという参謀総長が長年、ドイツの参謀本部を牛耳っておりまして、ハンニバルのカンネ会戦を模範とし、敵の両翼を包囲し騎兵をその背後に進め敵の主力を包囲殲滅すべきことを強調し、決戦戦争の思想に徹底して、欧州戦争に向ったのであります。 第五節 第一次欧州大戦 シュリーフェンは一九一三年、欧州戦争の前に死んでおります。つまり第一次欧州大戦は決戦戦争発達の頂点に於て勃発したのです。誰も彼も戦争は至短期間に解決するのだと思って欧州戦争を迎えたのであります。ぼんくらまで、そう思ったときには、もう世の中は変っているのです。あらゆる人間の予想に反して四年半の持久戦争になりました。 しかし今日、静かに研究して見ると、第一次欧州大戦前に、持久戦争に対する予感が潜在し始めていたことがわかります。ドイツでは戦前すでに「経済動員の必要」が論ぜられておりました。またシュリーフェンが参謀総長として立案した最後の対仏作戦計画である一九〇五年十二月案には、アルザス・ロートリンゲン地方の兵力を極端に減少してベルダン以西に主力を用い、パリを大兵力をもって攻囲した上、更に七軍団(十四師団)の強大な兵団をもってパリ西南方から遠く迂回し、敵主力の背後を攻撃するという真に雄大なものでありました(二五頁の図参照)。ところが一九〇六年に参謀総長に就任したモルトケ大将の第一次欧州大戦初頭に於ける対仏作戦は、御承知の通り開戦初期は破竹の勢いを以てベルギー、北フランスを席捲して長駆マルヌ河畔に進出し、一時はドイツの大勝利を思わせたのでありましたが、ドイツ軍配置の重点はシュリーフェン案に比して甚だしく東方に移り、その右翼はパリにも達せず、敵のパリ方面よりする反撃に遇うともろくも敗れて後退のやむなきに至り、遂に持久戦争となりました。この点についてモルトケ大将は、大いに批難されているのであります。たしかにモルトケ大将の案は、決戦戦争を企図したドイツの作戦計画としては、甚だ不徹底なものと言わねはなりません。シュリーフェン案を決行する鉄石の意志と、これに対する十分な準備があったならば、第一次欧州大戦も決戦戦争となって、ドイツの勝利となる公算が、必ずしも絶無でなかったと思われます。 しかし私は、この計画変更にも持久戦争に対する予感が無意識のうちに力強く作用していたことを認めます。即ちシュリーフェン時代にはフランス軍は守勢をとると判断されたのに、その後、フランス軍はドイツの重要産業地帯であるザール地方への攻勢をとるものと判断されるに至ったことが、この方面への兵力増加の原因であります。また大規模な迂回作戦を不徹底ならしめたのは、モルトケ大将が、シュリーフェン元帥の計画では重大条件であったオランダの中立侵犯を断念したことが、最も有力な原因となっているものと私は確信いたします。ザール鉱工業地帯の掩護、特にオランダの中立尊重は、戦争持久のための経済的考慮によったのであります。即ち決戦を絶叫しっつあったドイツ参謀本部首脳部の胸の中に、彼らがはっきり自覚しない間に持久戦争的考慮が加わりつつあったことは甚だ興味深いものと思います。 |
――一切の世界進行を、「自己運動」に於て、自発的発展に於て、生ける実在に於てあるものとして把握する認識の条件は、それらの対立の認識これである。……発展は対立の闘争である ――レーニン かつて世が苦悩を塗り罩めた時 偉大なる殿堂は輝いてゐた。 勝利の山に燦然と 晴朗の日月を飾帯し 円満具足の己れを持した 青い時から、青い時まで 最上善の指標をつとめた。 所謂衆生は秘かに汗ばみ 所謂庶民は僅かに息吐き 所謂人類は爪尖たてゝ 苦悩の大地の垣根の辺りに 是を仰いで浩歎した。 袖の下から歎美した。 その栄光をうべなふに―― だが其の栄光を支へてゐたのは 汚い泥土の湿地を匍匐ふ 歎く葦原の類のみでない 勝利の偉勲の刃でもない。 地が明かに許容したのだ 在るべきものゝ斯くては在るのを。 そこでは錯覚が支配した―― 偉大なる殿堂は輝いてゐた。 恍々として玄義の如く 燦々として白毫のやうに 厳として聚ゆる権利の如く あらゆる慧智の王府のやうに 偉大なる殿堂は輝いてゐた 勝利の山に輝いてゐた。 偉大なる殿堂の存在を仰げよ 偉大なる殿堂の旗幟を仰げよ 偉大なる殿堂の紋章を読めよ 偉大なる殿堂の齢を数へよ 偉大なる殿堂の広※(「衣」の「亠」に代えて「立」)を撫せよ 偉大なる殿堂の向後を問へよ 偉大なる殿堂の内陣を覗けよ。 誰が初めて建てたのか 誰が太初に発見けたか 知られない強権の略取の上に 恐らくは人類の競争が |
一 「いつまで足腰のたたねえ達磨様みてえに、そうしてぷかりぷかり煙草ばかりふかしているんだか。」早口に、一気にまくしたてる女房のお島であった。「何とかしなけりゃ、はアすぐにお昼になっちまア、招ばれたもの行かねえ訳にいくかよ、いくら何だって……」 向う隣の家に「おびとき」祝があって――もっとも時局がら「うち祝」だということだが、さきほどおよばれを受けたのであった。 「ほんの真似事ですがね、おっ母さんと子供らだけ、どうか来ておくんなせえよ。」「そうですけえ、まア、おめでとうござんすよ……じゃア、招ばれて行きますべよ。」 とは答えざるを得なかったものの、さて招ばれてゆくには、村の習慣として、ただでは行けなかった。三十銭や五十銭は「襟祝い」として包まなければならぬ。そしてその三十銭が――子供らは連れてゆかず、彼女ひとりゆくことにして――いま、問題だったのである。 鶏は寒さに向ってからとんと卵は生まなかった。春先から夏へかけての二回の洪水と、絶えざる降雨のために、田も畑も殆んど無収穫で、三人の子供らの学用品にさえ事欠くこの頃では、お義理のためにただ捨てる(実際、そう思われた)金など、一文も彼女は持たなかったのである。 ところで「何とかうまく口実をつけて行かなけりゃそれまでだ。」 と夫の作造はのんきに構えこんだのだが、女房は――家付娘としてこの村の習慣に骨の髄まで囚われてしまっているお島としては、隣同士で招んでも来なかった、とあとでかげぐちをきかれるのが、死ぬほど辛かったのである。 炉辺に投げ出してある夫の財布を倒まにして見たが、出て来たのは紙屑のもみくしゃになったものばかりだった。「お前ら、三十銭ばかりも持っていねえのか、よく、それで煙草ばかりは切らさねえな。」 「煙草がなくちゃア頭がぼんやりして仕事も出来っかい。」 「どうせぼんやりした頭だねえのか、はア招ばれるのは分っていたんだから、一日二日煙草やめてでも用意して置かねえっちう法あっか。早く何とかしてこしらえて来てくろ。」 そして、陽が照り出したので、おんぶしていた二歳になる子供を下ろして蓆の上で遊ばせ、自分では、学校へ行っている長男が夜警のとき寒くて風邪をひくからというので、ぼろ綿人の俄か繕いをはじめたのであるが、夫ほいっかな炉辺をはなれようとしない。 「どうするんだかよ」と再び彼女は突慳貪にどなった。「隣り近所の義理欠けっちう肚なのかよ。いつまでいつまで、ぷかりぷかり煙草ばかり喫んでけつかって……」 「いま考えていっとこだ。」 「いい加減はア考えついてもよさそうだねえか。あれから何ぷく煙草すったと思うんだ。」 「この煙草は安ものだから、いくら喫んでも頭がすっきりしてこねえ。」 「でれ助親爺め、仕事は半人前も出来ねえくせに、口ばかりは二人前も達者だ。五十銭三十銭の村の交際も出来ねえような能なし畜生ならはア、出て行け! さっさとこの家から出て失せろ……」 女房の権幕に作造はやおら起ち上った。村の下に展がっている沼を見ると、女房とは反対に、いい按配風もないようである。鯰でも捕って売れば五十銭一円は訳のない腕を彼は持っていたのだ。百姓仕事は若い時分から嫌いだったが、魚捕りでは名人格と謳われていた彼だった。が、さて、取っかかるのがまた容易でない。しかし女房から頭ごなしにされると、何としても御輿を上げずにはいられなかった。 「米糠三升持ったら何とかって昔の人はよくいったもんだ」と呟きながら彼は沼へ下りて行った。 二 沼の深みへはまり込んでしまって腰から下が氷に張りつめられ、脚を動かして泥から出ようとするがどうしても出られない……そういう夢を見て、はっと眼がさめると、いつの間にか子供らのために掛蒲団を引っ張り取られて下半身が本当に凍らんばかりになっていたのであった。隣家へ招ばれて行った女房はまだ帰っていなかった。ぴゅうぴゅうと北極からでもやってくるような寒風が、雨戸の隙間から遠慮もなく吹き込んで、子供らは眠りながらもしだいに毬のようにちぢかんでいる。 作造はそういう子供らから掛蒲団を奪うよりは、炉辺の方がまだましだと考えて褞袍のまま起き出し、土間から一束の粗朶を持って来て火を起した。思ったほど魚は捕れなかったが、それでも女房へ三十銭やって、あと「なでしこ」を一つ買うだけは残ったのであった。彼は脚から腰のあたりがややぽかぽかしてくると、新しく煙草へ火をつけた。 「おや、まだ起きていたのかい」裏戸をがらりと引あけて、まるで寒風に追いまくられるように土間へ入って来た女房の顔は、しかし嬉しそうにかがやいていた。 「まさか隣の家なんか違ったもんだ。内祝だなんていっても、折詰ひいたり、正宗一本つけたり……俺ら三十銭じゃ気がひけちまって、早々に帰って来た。」 言いながら彼女は炉辺へ寄って、新聞紙に包んだものを夫の前へ拡げて見せた。 「これ、よっぽどしたっぺよ、かながしらにきんとん、かまぼこ、切ずるめ、羊羹、ひと通り揃ってるもんな。それに二合瓶……やっぱり地所持は違ったもんだ。俺らもはア、孫のおびときの時や、いくらなんでもこれ位のことはしてえもんだ。」 「寒かっぺから、これ飲んだらどうだや」と彼女は二合瓶を傍の土瓶へあけて火の上にかけ、 「戦地からお艶らお父の写真来てたっけよ。一枚はこう毛のもじゃもじゃした頭巾みてえなもの冠って、剣付鉄砲かかえて警備についていっとこだっけが、一枚は上等兵の肩章つけた平常の服のだっけよ。眼がばかにキツかっけが、まさか戦地だものな……でも、おっかねえほど豊さんに似てたっけ……」 「そりゃ豊さんの写真だもの……」と作造は酒の温るのを待ちきれず茶碗へ一ぱい注いでぐっと飲み干しながら笑った。 「それからお艶ら写真もお父へ送ってやったなんて、一枚残っていたっけ。人絹ものだが、でも立派なお祝の支度をして、ちゃんと帯を立矢にしめて、そりゃ可愛かったわ。豊さんもあれ見たらうれしかっぺで……女の子って可愛もんだな、ほんとに俺も一人ほしかっけ……野郎らばかりで、ぞろぞろ飯ばかりかっ食らいやがって……」 「出来ねえ限りもあんめえで……まアだ。」 「あら、この親爺め、はア、酔っ払って……駄目だよ、折詰へ手つけては……あしたの朝、餓鬼奴らに見せて喜ばせんだから……こんな旨いものめったに見られねえんだから……一口ずつでもいいから食わなけりゃ、餓鬼奴らも可哀そうだわ。お父は酒せえありゃ何も要るめえ。」 お島は折詰を再び新聞紙へ包んで戸棚の中へしまいこんでしまった。そして、 「ああ、寒む……どら、俺げも一杯くんな。自分でばかりいい気になって飲んでいねえで。」 「ああ、五十日ぶりの酒だ。腹の虫奴ん畜生がびっくりしてぐうぐう哮えてしようねえ。」 「俺の腹も一人前の顔してぐうなんて、鳴ったよ。ああ、じりじりと浸みて、頬ぺたまでぽかぽかした。俺らはア、この勢いで寝べ。」 お島は帯をといた。寒さが来てからごろ寝ばかりしていて、ついぞ解いたことのなかった腰紐まで。 「俺家でもおびときだな、これは……」 |
宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館 発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館 停車場を出ると、前の支店でしばらく休んで、それから宿に帰へりました。帰つてからも室にゆくのが何んだかいやなので、帳場で話をして、それから室にはいると直ぐあの新聞を読んで、中央公論を読んで仕舞ひました。思つたほど何んでもなかつたので、すつかりつまらなくなつて室中を見まはしました。何も彼も出かけた時のままになつてゐます。座蒲団が二つ、それからたつた今まであなたが着てゐらしつた浴衣。それを見てゐると急にさびしくなりました。 枕を引きよせてもう何にも考へまいと思つて横になると、五時頃まで眠りました。それから起されてお湯にはいつて、子供を寝かして、御飯をすませて、今煙草を一本のんだところです。それから菊池(幽芳)さんに手紙を書かうと思つてペンをとりますと、先づやつぱりあなたに書きたいので書き初めたのです。今時分は四谷(堀保子)のお宅にでもゐらつしやるのでせうね。 あなたが行つてお仕舞ひになると、私の気持もさびしく閉ぢ、天気も曇つて風が出てまゐりました。潮の遠鳴りが一層聞えます。でも、大変静かな、落ちついた気持でゐられます。この分では仕事もずん〳〵進むでせう。 |
表紙の画の撫子に取添えたる清書草紙、まだ手習児の作なりとて拙きをすてたまわずこのぬしとある処に、御名を記させたまえとこそ。 明治三十五年壬寅正月鏡花 一 「どうも相済みません、昨日もおいで下さいましたそうで毎度恐入ります。」 と慇懃にいいながら、ばりかんを持って椅子なる客の後へ廻ったのは、日本橋人形町通の、茂った葉柳の下に、おかめ煎餅と見事な看板を出した小さな角店を曲って、突当の煉瓦の私立学校と背合せになっている紋床の親方、名を紋三郎といって大の怠惰者、若い女房があり、嬰児も出来たし、母親もあるのに、東西南北、その日その日、風の吹く方にぶらぶらと遊びに出て、思い出すまでは家に帰らず、大切な客を断るのに母親は愚痴になり、女房は泣声になる始末。 またかい、と苦笑をして、客の方がかえって気の毒になる位、別段腹も立てなければ愛想も尽かさず、ただ前町の呉服屋の若旦那が、婚礼というので、いでやかねての男振、玉も洗ってますます麗かに、雫の垂る処で一番綿帽子と向合おうという註文で、三日前からの申込を心得ておきながら、その間際に人の悪い紋床、畜生め、か何かで新道へ引外したために、とうとう髭だらけで杯をしたとあって、恋の敵のように今も憤っているそればかり。町内の若い者、頭分、芸妓家待合、料理屋の亭主連、伊勢屋の隠居が法然頭に至るまで、この床の持分となると傍へは行かない。目下文明の世の中にも、特にその姿見において、その香水において、椅子において、ばりかんにおいて、最も文明の代表者たる床屋の中に、この床ッ附ばかりはその汚さといったらないから、振の客は一人も入らぬのであるが、昨日は一日仕事をしたから、御覧なさいこの界隈にちょっと気の利いた野郎達は残らず綺麗になりましたぜ、お庇様を持ちまして、女の子は撫切だと、呵々と笑う大気焔。 もっとも小僧の時から庄司が店で叩込んで、腕は利く、手は早し、それで仕事は丁寧なり、殊に剃刀は稀代の名人、撫でるようにそっと当ってしかも布を裂くような刃鳴がする、と誉め称えて、いずれも紋床々々と我儘を承知で贔屓にする親方、渾名を稲荷というが、これは化かすという意味ではない、油揚にも関係しない、芸妓が拝むというでもないが、つい近所の明治座最寄に、同一名の紋三郎というお稲荷様があるからである。 「お前どこかでまた酒かい。」と客は笑いながら、 「珍しくはないがよく怠惰けるなあ。」 「何、今度ばかしゃ仲間の寄でさ、少々その苦情事なんでして、」 「喧嘩か。」 「いいえ、組合の外に新床が出来たんで、どうのこうのって、何でも可いじゃあがあせんか、お客様は御勝手な処へいらっしゃるんだ。一軒殖えりゃそいつが食って行くだけ、皆が一杯ずつお飯の食分が減るように周章てやあがって、時々なんです、いさくさは絶えやせん。」 「それじゃあ口でも利かされたのかね。」 「ならび大名の方なんでさ。」 「それに何も二日かかることはないじゃないか。」 「すっかり御存じだ。」と莞爾する。 「だっておい四度素帰をしたぜ、串戯じゃあない。ほんとうに中洲からお運び遊ばすんじゃあ、間に橋一個、お大抵ではございませんよ。」 「おや、母親がいった通り。」 「貴客、全くそう申すんでございますよ。」と長火鉢の端が見えて、母親の声がする。 二 「ははははは、旨くやりましたね、(ほんとうに中洲からお運び遊ばすんじゃあ間に橋一個、お大抵ではございません。)ッさ、え、旦那、先刻親方が帰りました時に内のお婆さんがその通りいいました。ねえ、親方、どうですお婆さん、寸分違わねえ、同一こッたい、こいつあ面白えや。」と少しかすれた声、顔をしかめながら嬉しそうに笑ったのは、愛吉といって、頬に角のある、鼻の隆い、目の鋭い、眉の迫った、額の狭い、色の浅黒い、さながら悪党の面だけれども、口許ばかりはその仇気なさ、乳首を含ましたら今でもすやすやと寐そうに見えて、これがために不思議に愛々しい、年の頃二十三四の小造で瘠ぎすなのが、中形の浴衣の汗になった、垢染みた、左の腕あたりに大きな焼穴のあるのを一枚引掛けて、三尺の帯を尻下りに結び、前のめりの下駄の、板のようになったのに拇指で蝮を拵えたが、三下という風なり。実は渡り者の下職人、左の手を懐に、右を頤にあてて傾きながら、ばりかんを使う紋床の手をその鋭い眼で睨むようにして見ているのであった。 客は向うへ足を伸して、 「そうだろう、人情は誰も同一だから言うことも違わないんだよ。」 「じゃあ何だ、内の母親もやっぱり同一ようなことを言ってましょう、ふふん、」と頤を支えたまま、頷くがごとくに言って笑を洩らす。 紋床は顔を斜に、ばりかんに頬をつけて、ちょいと撓めて、 「馬鹿をいいねえ、お前と同一にされて耐るもんか、人情は異らないでも遣り方が違ってらあな、おい、こう見えても母親にゃまだ米の値を知らせねえんだが、どうだ。」 「あれ、あんなことをいうよ、のうお槙。」と母親は傍なる女房に言葉を渡したらしい。 「ほほほほほ。」と、気の無さそうに若い女が笑った、と思うと嬰児がおぎゃあと泣く。 紋床はばりかんの歯を透して、フッと吹き、 「おっとまず黙ってあとを聞くことさ。さよう米の値は知らせねえが、そのかわり〆高で言訳をさせますか。」 「違えねえね。」 「黙れ! 手前が何だ、まあお聞きなさいまし、先生。」 客はこの近辺の場所には余り似合わぬ学生風、何でも中洲に住んでるとより外悉しくは知らないが、久しい間の花主で紋床はただ背後の私立学校で一科目預っている人物と心得て、先生、先生と謂うが、さにあらず、府下銀座通なる某新聞の記者で、遠山金之助というのである。 「どうでございます、この私に意見をしてくれろッて、涙を流して頼みましたぜ、この愛的の母親が、およそ江戸市中広しといえども、私が口から小可愧くもなく意見が出来ようというなあ、その役介者ばかりでさ、昔だと賭場の上へ裸でひッくり返ろうという奴なんで、」 「何を、詰らねえ、」 「いいえ賭博は遣りません、賭博は感心に遣りませんが、それも何幾干かありゃきっとはじめるんでさ。それに女にかからずね、もっともまあ、かかり合をつけようたッて、先様が取合わねえんですからその方も心配はありませんが、飲むんです。この年紀で何と三升酒を被りますぜ、可恐しい。そうしちゃあ管を巻いて往来でひッくり返りまさ、病だね。愛、手前その病気だけは治さないと不可えぜと、私あこれでも偶にゃあ親身になっていうんです、すると何と、殺されても恨まないから五合買っとくんなさい、とこうでしょう、言種が癪に障るじゃありませんか。」 三 愛吉は何にもいわず、腕を拱いて目を外して、苦言一針するごとに、内々恐縮の頸を窘める。 紋床は構わず棚下、 |
宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館 発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館 今朝あなたへの手紙を出して仕舞ふと直ぐに仕事にかかるつもりで居りましたが、何んだかグルーミーな気持になつて仕舞つて、机の前に座るのがいやで仕方がありませんので、障子を開けてあすこから麦の穂を眺めながら、あなたの事ばかり考へて、五六本煙草を吸つて仕舞ふまで立つてゐました。ひどい風で、海岸から砂が煙のやうに飛んで来るのが見えるやうなのです。 こちらでも、あなたの評判がまた馬鹿にいいんですよ。そんないやな処にゐないで、早くいらつしやい、こちらに。お迎へにゆきませうね。あなたが私と直ぐにゐらつしやるおつもりなら、土曜日の昼頃そちらに着くようにゆきませう。そして日曜の、あなたのフランス語がすんだら直ぐに五時のでこちらに来るようにしては如何です。それまでには、私の方でも少しはお金の都合は出来ると思ひます。さうしませうね。大阪の新聞の方、神近さんの名をそのままに書きましたよ。社の方で差支へがあれば頭字にでも直すようにしませう。 保子さんには、もう少し理解が出来るようにはお話しになれませんか。私は何を云はれてもかまひませんが、もう少しあなたと云ふ事をお考へになれないでせうか。私には、何んだかもつとあなたがよくお話しになれば、お分りにならない方ではないやうな気がします。けれど、あなたは保子さんによくお話しをなさる事を、面倒がつてゐらつしやるのではありませんか、もしさうなら、私は出来るだけもつと丁寧にあなたがお話しになるようにお願ひします。どうでもいいと云ふやうな態度はお止しになつた方がよくはありませんか。勿論、私はまだ何にもあなたにそんな事はお聞きしませんから分りませんけれど。さうでなければそれ以上仕方はありませんが、あなたが神近さんに対して、また私に対して、さしのべて下さつたと同じ手を、保子さんにもおのばしになる事を望みます。 私は神近さんに対しては、相当の尊敬も愛も持ち得ると信じます。同じ親しみを保子さんにも持ちたいと思ひます。保子さんは私に会つて下さらないでせうか。私は何んだか頻りに会ひたい気がします。あなたの一昨日のお話しのやうに、触れる処まで触れて見たい気がします。私も保子さんを知りませんし、保子さんも多分よく私と云ふものを御存じではないだらうと思ひます。触れるところまで触れて、それでも私の真実が分らなければ仕方がありませんけれど、知らないでゐるのは少し不満足な気がします。尤も、保子さんが私に持つてゐらつしやるプレジユデイスは可なり根深いものであるかも知れませんけれども、この私のシンセリテイとそれとが、どちらが力強いものであるかを見たい気も致します。若し保子さんがお許し下さるなら、私は今度お目に懸りたいと思ひます。 けれどもまた、若しその結果が保子さんに大変な傷を与へるやうな事になるとすれば、これは考へなければならない事であるかも知れません。けれども、私達の関係は、知らない人同士で認め合ふと云ふやうな、いい加減な事は許されないだらうと思はれます。今会ふことは出来ないとしても、一度は是非お目に懸らなければなるまいと思ひます。あなたのお考へは如何でございますか。 それからもう一つ気がついた事ですが、経済上の事は、私は、保子さんにとつては一番不安な事ではないかと思ひます。私は私だけでどうにかなりますから、あなたの御助力はなるべく受けたくないと思ひます。で、その事も出来るだけ本当の事をお話しになつて下さい。私は多分一人きりになれば、その方はどうやらやつて行ける事と思ひます。ああ云ふ風に思はれてゐる事は、私には大変不快ですから。これも小さな私の意地であるかも知れませんが。私は、どこまでも自分だけの事は自分で処理してゆきます。あんな事を云はれて、笑つてすますほどインデイフアレントな気持ではゐられないのです。あなたはお笑ひになるかも知れませんが。 その事は、私がお八重(野上彌生)さんに話をした時に一番に注意された事でもありました。お八重さんはその問題に就いては絶対に何の交渉も持つてはいけないと思ふとさへ云ひました。お八重さんが私に持つた不快の第一は、萬朝にあつたあの記事によつて、直ぐにもう私があなたにその助力を受けたと云ふ事を知つたからだと思ひます。殊に、保子さんの私に対する侮蔑はすべてが其処にあるやうにさへ私には思はれます。国民の記事にしても、萬朝のにしても。今のところ、私にはそれが一番大きな苦痛です。何卒、私がそんな下らない事にこだはつてゐる事を笑はないで下さいまし。私は自分で自分を支へる事が出来ない程の弱い者でもないつもりです。愈々する事に窮すれば、私は女工になつて働く位は何んでもない事です。体も丈夫ですし、育ちだつて大して上品でもありませんからねえ。まあこれ位の気持でゐれば大丈夫喰ひつぱぐれはなささうです。何卒さう云つて説明して上げて下さいね。 何んだかいやな事ばかり書きましたね。御免なさい。もう一週間すれば会へますね。 肩がはつたなんて云ひながら、あなたへの手紙は夢中になつて書けるんですね。勝手なのに呆れます。今少し嵐が静かになつて来ました。いくらでも書けさうですけれども、もうおそいやうですから止めませう。今頃あなたは何をしてゐらつしやるのでせうね。 |
小泉八雲といへば、日本人の名であるし、日本人として東京の宅で死んでその全集は日本語で出版されてゐるが、父は英國のアイルランドの軍醫、母はギリシャのリウカヂアの娘、子供の時はフランスの叔母の手で育てられ、青年時代にアメリカへ渡つて文學者となり、日本へ來て出雲松江の中學教師となり、小泉といふ士族の家へ婿入りして、日本人になり、熊本の高校、東京帝大に轉任して英文學の講義をし、おしまひは早稻田へ來て亡くなつた。經歴からが世界的で、作物も世界的にひろく讀まれ、文豪の名が高い。 私もその最後の講義を聞いた一人だが、亡くなられてから、その三人の男の子たちの教育から家事のことまで、いつも夫人の相談を受けてゐた。ある日、夫人が宅へ見えられて、家計上の必要もあるから、八雲ののこした藏書を始末したいから、なるべく早稻田で買つてほしいといふことであつた。その藏書といふのは、日本造りの西大久保の宅で、フランス語の本が一室、英語と日本語の本が一室、純日本風の書物箱に納めて、ぎつしりと並べられてゐた。夫人の言葉では、官立の帝大から早稻田へ移つてから、ほんとに故郷へ歸つたやうに氣樂になつたと喜んでゐたから、書物も早稻田へ納めたい。法政大學では八千圓で頂戴したいといふけれども、早稻田ならその半分でもかまはないといふことであつた。 けれども、その話のまだまとまらぬうちに、夫人がまたやつて來られて、富山の高等學校から校長の南日さんが見えて、一萬圓でもいいから、是非こつちへ戴きたいといふから、どうしたものであらうかといふので、私もそちらに同意して、富山へ送つてしまつた。 その時、南日さんは、日本郵船の株券を額面で一萬圓だけ夫人に渡して、書物を買ふ金は、學校の方で政府から豫算を貰つてゐるのではないが、富山のやうな所に高等學校などを始めても設備が不充分で、ことにいい書物でも無いことには、有爲な青年教授は誰も來てくれるものでない。それでは學生にいい教育が出來ないから、とりあへず私の手持の株券をたんぽに差上げておくのだといふことであつた。南日さんはかういふ風に背水の陣をしいて、富山へ歸つて、縣内の有志の間に熱心に説き囘つて、やうやく一萬圓の耳を揃へて株券を取り戻しに上京されたのであつた。 南日さんといへば、英語の教科書や字書などで大に當てたので、印税の檢印に、家族總がかりで、幾日もかかるといふほどで、學者としては稀な金持であつたかもしれないが、それにしても、その頃の一萬圓は今日の何百萬圓だ。それを自分の勤めてゐる學校のために、一人でぽんと投げ出したところは、ほんとに偉いものだと、私はいつも敬服してゐる。 新潟に、これから出來るのは高等學校ではなく、綜合大學といふもので、いかに「新制」だからといつて、大學は大學である。小泉八雲がいかに偉大な世界的文豪でも、藏書は誰にしても自分の好みに片よる。その程度の藏書を、われわれが今どこかほかで一口や二口見つけて來ても、ただそれだけで、大學の「人文科」とか「文學科」とかいふものの參考書としては、もちろん不足である。アメリカ合衆國は立國が一七七六年で、徳川十代將軍の時だ。その新しいのを羨ましいくらゐであるが、日本は古い國で、佛教が渡つて來てからでも千四百年になるし、支那や印度はもつともつと古いから、日本人が、曲りなりにも東洋の文化を研究をして、世界的の水準に進み出るには、そのために必要な書物は山の如くにある。それを一度に備へつけなければ少しも仕事が出來ないといふのではないが、何もなしに椅子とテーブルだけで、夏季講習會のやうなことをいつまでもやつてゐられるものでない。どうせ建てるなら外よりいい大學が建てたい。南日さんのやうな人が、この場合、新潟にも何百人も出なければならない。 |
五百二十一 外は海老色の模造革、パチンと開けば、内には溝状に橄欖色の天鵞絨の貼つてある、葉卷形のサツクの中の檢温器! 37 といふ字だけを赤く、三十五度から四十二度までの度をこまかに刻んだ、白々と光る薄い錫の板と、透せば仄かに縁に見える、細い眞空管との入つた、丈四寸にも足らぬ小さな獨逸製の檢温器! 私はこの小さな檢温器がいとしくて仕方がない。美しいでもなく、歌をうたふでもないが、何だか斯う、寒い時にはそつと懷に入れてまでやつて、籠の戸を開けても逃げない程に飼ひならした金絲雀か何ぞのやうに、いとしくて仕方がない。 全一年の間――さうだ、私の病氣ももう全一年になる!――毎日々々時間をきめて、恰度それ一つを仕事のやうに、自分の肌のぬくもりに暖めて來た小さな檢温器! 左の腋に挾めば冷りとする。その硝子の冷さも何となくなつかしい。枕邊の時計の針を見つめながら、ぢつと體を動かさずにゐる十五分の時間は、その日〳〵の氣紛れな心に、或時は長く、また或時は短かくも思はれる。やがて取り出して眼の前にかざす時、針よりも細く光る水銀の上り方は、何時でも同じやうに私を失望させる、『あゝ、今日もまた熱が出た!』 さうして三分も、五分も、硝子に殘つた肌のぬくもりのすつかり冷えてしまふまでも、私はその小さな檢温器を悲しい眼をして見つめてゐることがある。さういふ時には、たゞ體温の高低ばかりでなく、自分にもはつきりとは分らない、複雜な氣分の變化までが、その細かに刻まれた度の上に表はれてゐるやうにも思はれる。また時とすると、一年の間も毎日々々肌につけてゐながら、管の中の水銀の色が自分の體の血と同じ色に變らないのを、不思議に思ふこともある。 さうして裏を返せば、薄い錫の板には Uebes Minuten と栗色に記されて、521 と番號が打つてある。 五百二十一! この數がまた私には、なつかしい人の番地のナムバーのやうに、何時しか忘られぬものとなつた。 金貨 初めて日本が金貨本位の國であるといふ事を知つてから、もう何年になるだらうか。私はそれを學校の何の教師から教へられたのだつたか、今は全く記憶してゐない。が、兎も角も私は長い間自分等の國の貨幣制度が金貨本位である事と、それに伴ふ理論や利益に就いて多少の知識をもつてゐた。それからまた近頃になつては、現在殆ど世界中の人を苦しめてゐる物價騰貴の共通の原因が、近年の世界金産額の著るしく増加した事にあるといふ説明を、もう何種の論文で讀まされたか知れない。 しかし私は、多くの日本人と同じやうに、まだ金貨といふものを自分の眼で見たことがない。また見たいと思つたこともなかつた。實際平生紙幣や銀貨ばかり使ひ慣れてゐる我々には同じ金額を受取るにしても、やつぱり使ひ慣れたもので受取つた方が、安心でもあり、便利でもあるやうな氣がする。 ところが、或る日私は朝から熱が高くて、ろく〳〵新聞も讀まずに薄團の中に潜り込まねばならなかつた。ぢつと身動きもしないで仰向に寢てゐると、背中や兩方の眼の底に熱のあるのが絶えず意識に上つて、それにまた隣家の白痴兒の嘻戲する不思議な鋭い叫聲までが手傳つて、私の心は次第々々に不愉快に、險惡になつた。何時間も、何時間も、私は人の顏さへ見れば噛みつくやうに邪慳な事を言つてやりたいやうな氣持を抱きながら、死人のやうに穩しく寢てゐた。 そのうちに躯が少し汗ばんで來て、白痴兒の聲もいつしか聞えなくなつてゐるのに氣が付いた。私はそつと手だけを薄團の下から出して、何となく底の方へ〳〵と絲か何ぞで引かれるやうな感じのする眼を、輕く指端で押さへてみた。眼瞼が燃えるやうに熱かつた。 すると、不圖、私は生れて初めて金貨といふものを欲しくなつた。一度欲しいと思ふといつもの癖で、明日とは言はずに今直ぐ手に入れる工夫はないものかと、その出來ない工夫までしてみた。 しかしそれは、あの丸善の帳場の前や、舶來の煙草を賣る店先で、ザク〳〵とポケツトから攫み出してみたい爲めではなかつた。私はたゞ、恰度眼窩ぐらゐの大きさの、精巧な彫刻を施した、如何にも落着いた美しい光を放つてゐる、冷たい金貨を、交る〳〵指端に摘み上げて、熱のある眼瞼にぴたりと宛てがつたならば、どんなに氣持が可いだらうと思つたのだつた。 唯一つの言葉 “I am young”斯うイプセンの戲曲の中のあのボルクマンの息子が母親の前に繰返して言つてゐる所を讀んだ時には、私には、何故といふ事もなく、その青年が私の平生好まない顏――薄つぺらな感じのする顏をしてゐるやうに思はれて、それからその青年の戀人とを乘せて新しい旅にかしまだつ橇の銀の鈴の音が、雪の夜の林の奧から爽かに響いて來るのを、取殘された三人の老人が思ひ〳〵の心で耳を傾けて聞くといふ暗示的な幕になつても、その幻が私の心から去らなかつた。 しかしそれは眞の一時の好惡に過ぎなかつた。少くとも、その青年の繰返した言葉そのものの爲めにさう思はれたのではなかつた“I am young”年若い者と年老つた者との間に、思想の上にも、感情の上にも越え難い溝渠の出來てしまつた時代に於いては、その年若い者の年老つた者に對して言ふべき言葉は、昔も今も、唯この簡單な宣言の外に無い。簡單に相手と自分との相違を宣言して、さうして委細構はず大跨に自分の行きたい方角へ歩み出す外は無い。よしや千萬言を費しても自分等の心持ちなり、行ひなりを親切に説明して見たところで、その結果は却つて頑固な對手の心に反感と恐怖とを深くするばかりである。 年老つた者は先に死ぬ。老人と青年の戰ひは、何時でも青年の勝になる。さうして新しい時代が來る。 私は今、恰度喉が喝いて一杯の茶を飮みたい時に、大分熱くなりかけた鐵瓶の湯の沸り出すのを、今か〳〵と待つてゐるやうな心持で、おとなしい日本の青年の口から、その男らしい宣言の語られる日を待つてゐるのである。 破壞 或る朝、半ば眼を覺ましかけて、うつら〳〵としてゐると、突然、凄じい物音が聞えた。私はハツとして眼を開いた。 その瞬間、私は自分の心にも、躯にも、殘る處なく或る力の充實してゐる事を感じた。それはもう長い間の病氣に疲れて、起つて障子を開ける事さへ臆劫にしてゐる私にとつては、絶えて久しく忘れてゐた感じであつた。さうして、少くともその瞬間、私は病人ではなかつた。眼の前にどんな非常な事が起つても、健康な時と同じやうな機敏と勇氣とを以てそれに處するだけの準備があつた。 しかしその凄じい物音――半醒半眠の私の耳には、爆裂彈の破裂したのか、宏大な建物の一時に倒れたかと思はれた物音は、ただ犬に逐はれて逃げ歸つた猫がいきなり臺所の棚に飛び上つた爲めに、瀬戸物の皿や鉢が轉げ落ちて壞れた音に過ぎなかつた。『なんだ、詰らない!』その事が分ると私は直ぐ斯う失望した。さうして一旦擡げた頭をそのまゝ枕に着けた。 けれども、私の心は、たつた今經驗した身心の緊張によつて、自分の生存し得るだけの力を備へてゐる事を一層明確にしたといふやうな喜びの爲めに、いつになく明るかつた。毎日々々繰返してゐる張合のない朝の代りに、兎も角も常規から離れた目の覺まし方をしたといふ事も、またその明るさを幾分か助けた。さうしてその不時の出來事も、まだ何の考へも浮んでゐない、目覺ましたばかりの無雜な心には、自分の家計にとつての一つの災難として認められてる前に、先ず一つの喜劇として受取られてゐた。臺所から聞えて來る、母や妻の何を言はれたとて分る筈のない猫を叱る言葉が、眞面目であればあるだけ、理窟に合つてゐればゐるだけ、それを聞く私の可笑味は深かつた。私は二度も三度も聲を立てて笑ひたくなつた。 すると、不圖、先刻のやうな音をもう一度聞きたいといふ願ひが私の心に湧いて來た。物を壞す音の快さ、物を壞す心持の快さといふ事が、何日も〳〵降りつゞいた後の日光のやうな新鮮を以て頭腦の中に沁み渡つた。三つも四つもの例が直ぐと思ひ合された。その中でも、殊にもう七八年も前に、まだ栓を拔かない麥酒の罎を縁側から庭石に叩きつけた時の事が、はつきりと思ひ出された。麥酒は不意に加へられた強大な壓力の爲めに爆發して、ドンともダンとも聞き分け難い、強く短い音響と共に、庭一面をサツト白く見せて散つた。さうしてその後からシユウといふ泡の消える爽かな音が立つた。その時ほどの爽快を私はその後感じた事があるだらうか? 破壞! 破壞! かう私は、これから雪合戰でも始めやうといふ少年のやうな氣持になつて、心の中で叫んだ。 しかし、何分かの後には、私は起しに來る妻や子にもろく〳〵返事さへせずに、仰向に寢たまま、唇を結び、眼球の痛くなるほど強く上眼をつかつて、いつもの苦しい鬪ひを頭腦の中で鬪はせてゐなければならなかつた。破壞! 自分の周圍の一切の因襲と習慣との破壞! 私がこれを企てゝからもう何年になるだらう。全く何も彼も破壞して、自分自身の新しい生活を始めよう! この決心を私はもう何度繰返したゞらうか。しかし、藻掻けば藻掻くほど、足掻けば足掻くほど、私の足は次第々々に深く泥の中に入つたのだつた。さうして今では、もう兎ても浮み上る事が出來ないと自分でも思ふほど、深く〳〵その中に沈んでしまつたのだつた。それでゐて、私はまだ自分の爽快な企てを全く思ひ切る事も出來ずにゐるのだつた。 |
一 今夜も必らず來るからと、今度はよく念を押して置いた。然し、餘り自分ばかりで行くのもかの女並びにその家へきまりが惡い樣だから、義雄は今一文なしで困つてゐる氷峰をつれて行つてやらうといふ氣になり、薄野からの歸り足をまた渠の下宿へ向けた。 いつもの通り、案内なしであがつて行き、氷峰の二階の室のふすまを明けると、渠とお鈴とがびツくりして、ひらき直つた。お鈴はまた裁縫に行く時間をごまかし、氷峰のもとへ押しかけて來て、何かあまえてゐたところであつたらしい。 「こりやア失敬した、ね」と云つて、義雄が這入つて行き、早速飯を云ひつける樣に頼んだ。 「また、ゆうべも御出馬か」と、氷峰が冷かす。 「今夜は一緒に行かう。」 「よからう。」氷峰も義雄と同じ樣にねむさうな樣子だ。お鈴は、今まで赤らめてゐたその顏へ急に不平らしい色を加へて、渠をちらと見た。 「お鈴さん、さう燒かなくツてもいいぢやアないか、ね?」 「わたしやそんなこと知らない、わ。」かの女は恥かしさうに笑ひながら云ふ。 「それでも、君」と、氷峰はにこつきながら、「とう〳〵結婚することだけは僕も承諾したよ。」 「あら、そんなこと云はないでも――」 「云つたツてかまはないぢやアないか?」義雄はからかひ半分に、「僕があなたの邪魔をするぢやアなし、さ。お鈴さん、とう〳〵成功した、ね。」 お鈴は再び顏を赤くした。そして、座に堪へられなくなつたかの樣に、あわただしく歸つてしまつた。 「きのふ、實は承諾を與へたのぢやが、あいつ、おほ喜び、さ。」かう云つて、氷峰は、きのふ、お鈴の兄龜一郎が泣き附くやうに頻りに懇願したので決つたこと。その兄弟等は妹の棄て場を得て、喜んでゐるだらうと云ふこと。然し自分の樣なづぼらのものには、器量や學問より、經濟向きの天才あるものを妻とする必要があること。その點はかの女の兄弟も確かに誇りとして保證してゐること。その話の進行の爲め、あす、山に行つて、自分の兄と相談して來るつもりであること。などを、語つた。且、この長い間解決のつかなかつた問題が解決した喜びに、お鈴の兄の龜一郎が不斷の謹直にも似ず、薄野行きを發議したので、ついて行つたことを加へた。義雄はそれで氷峰のねむさうな原因が分つた。 それから、有馬の家に歸つて見ると、東京からまた原稿料と、樺太廳の知人で、第○部長をしてゐる者に個條書きにして照會した木材拂ひ下げに關する返事とが來てゐた。返事は、即ち、左の通りだ―― 御問合に就き返事 一、木材輸出見本として、樺太島森林より立木を賣拂ひ出願するには、その數量に制限なし。但し、立木代金四百圓以上に亙るものは、本島森林賣拂ひに關する法律勅令未だ發布前なるを以つて、一願件として處分すること能はざるに依り、分割するを要す。 二、本島に於て枕木を伐出したるものは、元露國時代に於て、西海岸エストル川にて、落葉松の枕木を製作し、義勇艦隊の船に積み込み、大連方面へ輸送したる形跡ある外、他に之を認めず。 三、占領後、枕木を製作し、輸出せるもの未だこれなし。 但し、本島に於て主なる木材トドマツ、エゾマツ、落葉松の三種にして、就中落葉松は材質強く、土中又は濕地にも腐朽せざる點よりして、枕木には、適當するも、伐木工賃及び運搬費の關係と利益少きとの爲め、北海道の栓、タモ等の枕木に及ばず。また、餘り大材少き爲め、一挺取りなり。日本鐵道にては、未だ一挺取りの枕木は使用せざる筈なり。 四、トドマツ、エゾマツはマオカ附近にても之を拂下ぐることを得るも、マオカ附近には落葉松なし。その最も多きところは、大泊より豐原に至る間と、大泊よりトンナイチヤに至る間なり。 五、伐木税、即ち、立木賣拂代金は、最低價立木一尺〆(尺〆とは長さ十二尺の一尺角、十二立方尺を云ふ)に附き、金拾五錢なるも、事業上の性質、即ち輸出材の如きは、奬勵の趣旨に依り、割引の特典あり。 六、七、一尺角、二尺角等と拂下代價に區別なし。立木尺〆にて計算せらるるものなり。 八、枕木に適する徑一尺以上の立木のみ撰伐する事も、今日の處何等制限なし。 九、伐木税とは立木賣拂代金を意味するものにて、他に營業税などある事なし。 十、賣拂ひを受けんとするには、本島に寄留するに及ばす。 以上、不慣れなる事業家のくどい伺ひに對する返事としては、なか〳〵親切に書いて呉れてある。且、大泊や卜ンナイチヤの名に接すると、義雄は行つて見ようとしてつひに行けなかつたところだから、今一度樺太へ舞ひ戻つて、亞庭灣内及び東海岸をまはつて見たくもなる。また、エストル川の名を聽くと、その川が廣がつた樺太一等の好風景なるライチシカ湖(アイノが死んで泣くと稱した水海だ)を遠く海上から樺太廳の巡邏船に乘つてながめたことを思ひ出す。 然し、義雄はこの返事を受け取る前、既に、樺太木材が枕木としては、一挺取りになるから、不適當だといふことを承知してゐた。で、普通の建築材並びに板などとして出すのに、樺太の方の事情は、この返事に自分の實際の見聞と調査とを加へて大抵の標準が附いた。 それに、運賃の多くかからない法も考へてあるし、北海道のこの種の木材の事情は、お鈴の弟、原口鶴次郎から調べて貰つてある。鶴次郎は年が若いにも拘はらず某木材會社の手腕家であつたが、餘り放蕩をするので、近頃、剩員淘汰と共にやめられた男だ。實業雜誌の初號にも北海道木材のことを書いたくらゐで、その方の智識は先づ信用出來ると、義雄は思つてゐるのだ。 義雄には、また、古くからの知人、寧ろ先輩で、石炭に關係してゐるものが一人東京にある。渠は、その人とは、曾て西貢米輸入――失敗であつたが――を計畫した時にもあひ棒であつた。そこから資金を調達させて、木材屋をやらうといふのである。 それへ詳しく書いた計畫を送つたが、その手紙の意味は勇夫婦に何とも話さなかつた。と云ふのは、渠等に對して義雄が隔意を持つて來たばかりではない。云つて置いて、また駄目であつたら、渠等の笑ひの種を増してやるばかりであるからだ。 かう思つて、義雄は長くゐればゐるほど冷やかになつて行く自分と勇との友情のたよりないのをおぼえた。氷峰、その他は近頃になつて知り合つた人々だから、若し冷淡になつても、當り前だとも思はれる。然し二十年來、たとへ淡くあつたとは云へ、同窓であり、同信仰であり、同背信者であり、同僚であり、離れてゐても、音信を絶やさなかつた友人同志が、却つて實際に接近した爲めにその友情の冷やかになつて行くのは、自分に關係が薄いからである。 そして、自分に關係の薄いものは、義雄の主張する哲理上、やがて自分の宇宙その物からも消えてしまふのだと思ふ。 然し冷やかになつて行くのは、この友情ばかりではない。 札幌に着いた當座は、羽織を脱いでも暑くツて仕やうがなかつた盛夏が、早や、いつのまにか過ぎ去つて、秋の風らしいのが吹き出してゐる。 義雄は放浪の爲めに心を奪はれ、また、この數日間は、女に熱くなつてゐるので、そんなことには無頓着であつたが、けふ、初めて單物では如何にも寒いのに氣がついた。 そして、義雄が銘仙の單へを袷せにすることを頼みに、近處の仕立物をする婆アさんの家へ行く時、お綱が門そとで百姓馬子から青物を買つてゐるのに注意すると、馬の背の荷には、もう、茄子、胡瓜などは全くなくなつて、おびただしかつた䑛瓜、唐もろこし、林檎なども――高くなつたのであらう――甚だ少い。その代り、北海道の栗とも云ふべき胡桃やココア(ココのなまりだ)が這入つてゐる。「ココア、ココア」と、細い優しい聲をして、一人の婆アさんがココの實を籠に入れて賣りに來たので、札幌の秋にはいい聯想だと思つて、義雄はそれを買つて見た。 渠がまだ故郷にゐた時、姉や友達につれられて、山へ椎の實を拾ひに行つたことが度々あるが、その椎の實の味を思ひ出す樣な味がする。そして、有馬の子供にも與へたのを、渠等がちひさい手でその皮を彈じき取り、その中身をうまさうに喰つてゐる樣子を見て、義雄も自分の子供であつた無邪氣の時代のことを思ひ浮べた。 その時代と今とは丸で考へが違つてゐる。考へが違ふばかりでなく、人間その物も丸で違つてゐる。かう思ふと、その間に出沒現滅した種々複雜な事件と經驗とが一時に目の前に集つて來る樣だ。 椎とココア――故郷と札幌――秋と云ふ引き締つた感じが一刹那に強烈になつて來ると、然し、自分は、どうしても、生々複雜な自然界、東京といふ酒色と奮鬪との都に育つた人間であつて、呑氣な、消極的天然の廣がる世界にぐづ〳〵放浪してゐるべきではないと思はれる。そして、かのストリンドベルヒが考へてゐる「成り行きが運命」といふ樣な消極的、死滅的放浪の程度では滿足出來ない自分であるを感ずる。「冷やか味を感じて來たのは、これが第一の原因だらう。」かう思ふと、種々苦心して考へ出す大小の計畫もまことに空疎なものになつて、自分で自分をあざむいてゐる樣な氣がする。そして、あの敷島と一緒にゐる時だけが、まだしも、自分の最も活氣がある時だと考へられる。 「早くかの女に行くに限る!」心でかう叫んで、家を出ようとすると、 「また行くのだらうが――」勇は心配さうにして、「さう使つてしまつては、あとで困りはしないか?」 「そのかはせだけは」と、お綱さんも口を出し、「わたしが預つて置きませう。」 「その方が君の爲めにいいよ」と、勇がすすめるにまかせ、 「ぢやア、これは」と、義雄は原稿料のかはせをお綱に渡し、「どうせ、あなたの方にも食料を出さなければならないのだから、そツくりあげることにして置きます。」 |
一月一日の時事新報に瘠我慢の説を公にするや、同十三日の国民新聞にこれに対する評論を掲げたり。先生その大意を人より聞き余に謂て曰く、兼てより幕末外交の顛末を記載せんとして志を果さず、今評論の誤謬を正す為めその一端を語る可しとて、当時の事情を説くこと頗る詳なり。余すなわちその事実に拠り一文を草し、碩果生の名を以てこれを同二十五日の時事新報に掲載せり。実に先生発病の当日なり。本文と関係あるを以て茲に附記す。 石河幹明記 瘠我慢の説に対する評論について 碩果生 去る十三日の国民新聞に「瘠我慢の説を読む」と題する一篇の評論を掲げたり。これを一読するに惜むべし論者は幕末外交の真相を詳にせざるがために、折角の評論も全く事実に適せずして徒に一篇の空文字を成したるに過ぎず。 「勝伯が徳川方の大将となり官軍を迎え戦いたりとせよ、その結果はいかなるべきぞ。人を殺し財を散ずるがごときは眼前の禍に過ぎず。もしそれ真の禍は外国の干渉にあり。これ勝伯の当時においてもっとも憂慮したる点にして、吾人はこれを当時の記録に徴して実にその憂慮の然るべき道理を見るなり云々。当時幕府の進歩派小栗上野介の輩のごときは仏蘭西に結びその力を仮りて以て幕府統一の政をなさんと欲し、薩長は英国に倚りてこれに抗し互に掎角の勢をなせり。而して露国またその虚に乗ぜんとす。その危機実に一髪と謂わざるべからず。若し幕府にして戦端を開かば、その底止するところ何の辺に在るべき。これ勝伯が一身を以て万死の途に馳駆し、その危局を拾収し、維新の大業を完成せしむるに余力を剰さざりし所以にあらずや云々」とは評論全篇の骨子にして、論者がかかる推定より当時もっとも恐るべきの禍は外国の干渉に在りとなし、東西開戦せば日本国の存亡も図るべからざるごとくに認め、以て勝氏の行為を弁護したるは、畢竟するに全く事実を知らざるに坐するものなり。 今当時における外交の事情を述べんとするに当り、先ず小栗上野介の人と為りより説かんに、小栗は家康公以来有名なる家柄に生れ旗下中の鏘々たる武士にして幕末の事、すでに為すべからざるを知るといえども、我が事うるところの存せん限りは一日も政府の任を尽くさざるべからずとて極力計画したるところ少なからず、そのもっとも力を致したるは勘定奉行在職中にして一身を以て各方面に当り、彼の横須賀造船所の設立のごとき、この人の発意に出でたるものなり。 小栗はかくのごとく自から内外の局に当りて時の幕吏中にては割合に外国の事情にも通じたる人なれども、平生の言に西洋の技術はすべて日本に優るといえども医術だけは漢方に及ばず、ただ洋法に取るべきものは熱病の治療法のみなりとて、彼の浅田宗伯を信ずること深かりしという。すなわちその思想は純然たる古流にして、三河武士一片の精神、ただ徳川累世の恩義に報ゆるの外他志あることなし。 小栗の人物は右のごとしとして、さて当時の外国人は日本国をいかに見たるやというに、そもそも彼の米国の使節ペルリが渡来して開国を促したる最初の目的は、単に薪水食料を求むるの便宜を得んとするに過ぎざりしは、その要求の個条を見るも明白にして、その後タオンセント・ハリスが全権を帯びて来るに及び、始めて通商条約を結び、次で英露仏等の諸国も来りて新条約の仲間入したれども、その目的は他に非ず、日本との交際は恰も当時の流行にして、ただその流行に連れて条約を結びたるのみ。 通商貿易の利益など最初より期するところに非ざりしに、おいおい日本の様子を見れば案外開けたる国にして生糸その他の物産に乏しからず、随て案外にも外国品を需用するの力あるにぞ、外国人も貿易の一点に注意することと為りたれども、彼等の見るところはただこれ一個の貿易国として単にその利益を利せんとしたるに過ぎず。素より今日のごとき国交際の関係あるに非ざれば、大抵のことは出先きの公使に一任し、本国政府においてはただ報告を聞くに止まりたるその趣は、彼の国々が従来未開国に対するの筆法に徴して想像するに足るべし。 されば各国公使等の挙動を窺えば、国際の礼儀法式のごとき固より眼中に置かず、動もすれば脅嚇手段を用い些細のことにも声を大にして兵力を訴えて目的を達すべしと公言するなど、その乱暴狼籍驚くべきものあり。外国の事情に通ぜざる日本人はこれを見て、本国政府の意向も云々ならんと漫に推測して恐怖を懐きたるものありしかども、その挙動は公使一個の考にして政府の意志を代表したるものと見るべからず。すなわち彼等の目的は時機に投じて恩威並び施し、飽くまでも自国の利益を張らんとしたるその中には、公使始めこれに附随する一類の輩にも種々の人物ありて、この機会に乗じて自から利し自家の懐を肥やさんと謀りたるものも少なからず。 その事実を記さんに、外国公使中にて最初日本人に親しかりしは米公使タオンセント・ハリスにして、ハリスは真実好意を以て我国に対したりしも、後任のブライン氏は前任者に引換え甚だ不親切の人なりとて評判宜しからず。小栗上野介が全盛の当時、常に政府に近づきたるは仏国公使レオン・ロセツにして、小栗及び栗本鋤雲等とも親しく交際し政府のために種々の策を建てたる中にも、ロセツが彼の横須賀造船所設立の計画に関係したるがごとき、その謀計頗る奇なる者あり。 当時外国公使はいずれも横浜に駐剳せしに、ロセツは各国人環視の中にては事を謀るに不便なるを認めたることならん、病と称し飄然熱海に去りて容易に帰らず、使を以て小栗に申出ずるよう江戸に浅田宗伯という名医ありと聞く、ぜひその診察を乞いたしとの請求に、此方にては仏公使が浅田の診察を乞うは日本の名誉なりとの考にて、早速これを許し宗伯を熱海に遣わすこととなり、爾来浅田はしばしば熱海に往復して公使を診察せり。浅田が大医の名を博して大に流行したるはこの評判高かりしが為なりという。 さてロセツが何故に浅田を指名して診察を求めたるやというに、診察とは口実のみ、公使はかねて浅田が小栗に信用あるを探知し、治療に託してこれに親しみ、浅田を介して小栗との間に、交通を開き事を謀りたる者にて、流石は外交家の手腕を見るべし。かくて事の漸く進むや外国奉行等は近海巡視など称し幕府の小軍艦に乗じて頻々公使の許に往復し、他の外国人の知ぬ間に約束成立して発表したるは、すなわち横須賀造船所の設立にして、日本政府は二百四十万弗を支出し、四年間継続の工事としてこれを経営し、技師職工は仏人を雇い、随て器械材料の買入までも仏人に任せたり。 小栗等の目的は一意軍備の基を固うするがために幕末財政窮迫の最中にもかかわらず奮てこの計画を企てたるに外ならずといえども、日本人がかかる事には全く不案内なる時に際し、これを引受けたる仏人の利益は想い見るべし。ロセツはこれがために非常に利したりという。 かくて一方には造船所の計画成ると同時に、一方において更にロセツより申出でたるその言に曰く、日本国中には将軍殿下の御領地も少からざることならん、その土地の内に産する生糸は一切他に出さずして政府の手より仏国人に売渡さるるよう致し度し、御承知にてもあらんが仏国は世界第一の織物国にして生糸の需用甚だ盛なれば、他国の相場より幾割の高価にて引受け申すべしとの事なり。一見他に意味なきがごとくなれども、ロセツの真意は政府が造船所の経営を企てしその費用の出処に苦しみつつある内情を洞見し、かくして日本政府に一種の財源を与うるときは、生糸専売の利益を占むるの目的を達し得べしと考えたることならん。 すなわち実際には造船所の計画と聯関したるものなれども、これを別問題としてさり気なく申出したるは、たといこの事が行われざるも造船所計画の進行に故障を及ぼさしむべからずとの用意に外ならず。掛引の妙を得たるものなれども、政府にてはかかる企みと知るや知らずや、財政窮迫の折柄、この申出に逢うて恰も渡りに舟の思をなし、直にこれを承諾したるに、かかる事柄は固より行わるべきに非ず。その事の知れ渡るや各国公使は異口同音に異議を申込みたるその中にも、和蘭公使のごときもっとも強硬にして、現に瓜哇には蘭王の料地ありて物産を出せども、これを政府の手にて売捌くことなし、外国と通商条約を取結びながら、或る産物を或る一国に専売するがごとき万国公法に違反したる挙動ならずやとの口調を以て厳しく談じ込まれたるが故に、政府においては一言もなく、ロセツの申出はついに行われざりしかども、彼が日本人に信ぜられたるその信用を利用して利を謀るに抜目なかりしは凡そこの類なり。 単に公使のみならず仏国の訳官にメルメデ・カションという者あり。本来宣教師にして久しく函館に在り、ほぼ日本語にも通じたるを以て仏公使館の訳官となりたるが、これまた政府に近づきて利したること尠なからず。その一例を申せば、幕府にて下ノ関償金の一部分を払うに際し、かねて貯うるところの文銭(一文銅銭)二十何万円を売り金に換えんとするに、文銭は銅質善良なるを以てその実価の高きにかかわらず、政府より売出すにはやはり法定の価格に由るの外なくしてみすみす大損を招かざるを得ざるより、その処置につき勘考中、カションこれを聞き込み、その銭を一手に引受け海外の市場に輸出し大に儲けんとして香港に送りしに、陸揚の際に銭を積みたる端船覆没してかえって大に損したることあり。その後カションはいかなる病気に罹りけん、盲目となりたりしを見てこれ等の内情を知れる人々は、因果覿面、好き気味なりと竊に語り合いしという。 またその反対の例を記せば、彼の生麦事件につき英人の挙動は如何というに、損害要求のためとて軍艦を品川に乗入れ、時間を限りて幕府に決答を促したるその時の意気込みは非常のものにして、彼等の言を聞けば、政府にて決答を躊躇するときは軍艦より先ず高輪の薩州邸を砲撃し、更らに浜御殿を占領して此処より大城に向て砲火を開き、江戸市街を焼打にすべし云々とて、その戦略さえ公言して憚からざるは、以て虚喝に外ならざるを知るべし。 されば米国人などは、一個人の殺害せられたるために三十五万弗の金額を要求するごとき不法の沙汰は未だかつて聞かざるところなり、砲撃云々は全く虚喝に過ぎざれば断じてその要求を拒絶すべし、たといこれを拒絶するも真実国と国との開戦に至らざるは請合いなりとて頻りに拒絶論を唱えたれども、幕府の当局者は彼の権幕に恐怖して直に償金を払い渡したり。 この時、更らに奇怪なりしは仏国公使の挙動にして本来その事件には全く関係なきにかかわらず、公然書面を政府に差出し、政府もし英国の要求を聞入れざるにおいては仏国は英と同盟して直に開戦に及ぶべしと迫りたるがごとき、孰も公使一個の考にして決して本国政府の命令に出でたるものと見るべからず。 彼の下ノ関砲撃事件のごときも、各公使が臨機の計いにして、深き考ありしに非ず。現に後日、彼の砲撃に与りたる或る米国士官の実話に、彼の時は他国の軍艦が行かんとするゆえ強いて同行したるまでにて、恰も銃猟にても誘われたる積りなりしと語りたることあり。以てその事情を知るべし。 右のごとき始末にして、外国政府が日本の内乱に乗じ兵力を用いて大に干渉を試みんとするの意志を懐きたるなど到底思いも寄らざるところなれども、当時外国人にも自から種々の説を唱えたるものなきにあらずというその次第は、たとえば幕府にて始めに使節を米国に遣わしたるとき、彼の軍艦咸臨丸に便乗したるが、米国のカピテン・ブルックは帰国の後、たまたま南北戦争の起るに遇うて南軍に属し、一種の弾丸を発明しこれを使用してしばしば戦功を現わせしが、戦後その身の閑なるがために所謂脾肉の嘆に堪えず、折柄渡来したる日本人に対し、もしも日本政府にて余を雇入れ彼の若年寄の屋敷のごとき邸宅に居るを得せしめなば別に金は望まず、日本に行て政府のために尽力したしと真面目に語りたることあり。 また維新の際にも或る米人のごとき、もしも政府において五十万弗を支出せんには三隻の船を造りこれに水雷を装置して敵に当るべし、西国大名のごときこれを粉韲する容易のみとて頻りに勧説したるものあり。蓋し当時南北戦争漸く止み、その戦争に従事したる壮年血気の輩は無聊に苦しみたる折柄なれば、米人には自からこの種の輩多かりしといえども、或はその他の外国人にも同様の者ありしならん。この輩のごときは、かかる多事紛雑の際に何か一と仕事して恰も一杯の酒を贏ち得れば自からこれを愉快とするものにして、ただ当人銘々の好事心より出でたるに過ぎず。五十万円を以て三隻の水雷船を造り、以て敵を鏖にすべしなど真に一場の戯言に似たれども、何れの時代にもかくのごとき奇談は珍らしからず。 現に日清戦争の時にも、種々の計を献じて支那政府の採用を求めたる外国人ありしは、その頃の新聞紙に見えて世人の記憶するところならん。当時或る洋学者の家などにはこの種の外国人が頻りに来訪して、前記のごとき計画を説き政府に取次を求めたるもの一にして足らざりしかども、ただこれを聞流して取合わざりしという。もしもかかる事実を以て外国人に云々の企ありなど認むるものもあらんには大なる間違にして、干渉の危険のごとき、いやしくも時の事情を知るものの何人も認めざりしところなり。 されば王政維新の後、新政府にては各国公使を大阪に召集し政府革命の事を告げて各国の承認を求めたるに、素より異議あるべきにあらず、いずれも同意を表したる中に、仏国公使の答は徳川政府に対しては陸軍の編制その他の事に関し少なからざる債権あり、新政府にてこれを引受けらるることなれば、毛頭差支なしとてその挨拶甚だ淡泊なりしという。仏国が殊に幕府を庇護するの意なかりし一証として見るべし。 ついでながら仏公使の云々したる陸軍の事を記さんに、徳川の海軍は蘭人より伝習したれども、陸軍は仏人に依頼し一切仏式を用いていわゆる三兵なるものを組織したり。これも小栗上野介等の尽力に出でたるものにて、例の財政困難の場合とて費用の支出については当局者の苦心尋常ならざりしにもかかわらず、陸軍の隊長等は仏国教師の言を聞き、これも必要なり彼れも入用なりとて兵器は勿論、被服帽子の類に至るまで仏国品を取寄するの約束を結びながら、その都度小栗には謀らずして直に老中の調印を求めたるに、老中等は事の要不要を問わず、乞わるるまま一々調印したるにぞ、小栗もほとんど当惑せりという。仏公使が幕府に対するの債権とはこれ等の代価を指したる者なり。 かかる次第にして小栗等が仏人を延いて種々計画したるは事実なれども、その計画は造船所の設立、陸軍編制等の事にして、専ら軍備を整うるの目的に外ならず。すなわち明治政府において外国の金を借り、またその人を雇うて鉄道海軍の事を計画したると毫も異なるところなし。小栗は幕末に生れたりといえども、その精神気魄純然たる当年の三河武士なり。徳川の存する限りは一日にてもその事うるところに忠ならんことを勉め、鞠躬尽瘁、終に身を以てこれに殉じたるものなり。外国の力を仮りて政府を保存せんと謀りたりとの評の如きは、決して甘受せざるところならん。 今仮りに一歩を譲り、幕末に際して外国干渉の憂ありしとせんか、その機会は官軍東下、徳川顛覆の場合にあらずして、むしろ長州征伐の時にありしならん。長州征伐は幕府創立以来の大騒動にして、前後数年の久しきにわたり目的を達するを得ず、徳川三百年の積威はこれがために失墜し、大名中にもこれより幕命を聞かざるものあるに至りし始末なれば、果して外国人に干渉の意あらんにはこの機会こそ逸すべからざるはずなるに、然るに当時外人の挙動を見れば、別に異なりたる様子もなく、長州騒動の沙汰のごとき、一般にこれを馬耳東風に付し去るの有様なりき。 すなわち彼等は長州が勝つも徳川が負くるも毫も心に関せず、心に関するところはただ利益の一点にして、或は商人のごときは兵乱のために兵器を売付くるの道を得てひそかに喜びたるものありしならんといえども、その隙に乗じて政治的干渉を試みるなど企てたるものはあるべからず。右のごとく長州の騒動に対して痛痒相関せざりしに反し、官軍の東下に引続き奥羽の戦争に付き横浜外人中に一方ならぬ恐惶を起したるその次第は、中国辺にいかなる騒乱あるも、ただ農作を妨ぐるのみにして、米の収穫如何は貿易上に関係なしといえども、東北地方は我国の養蚕地にして、もしもその地方が戦争のために荒らされて生糸の輸出断絶する時は、横浜の貿易に非常の影響を蒙らざるを得ず、すなわち外人の恐惶を催したる所以にして、彼等の利害上、内乱に干渉してますますその騒動を大ならしむるがごとき思いも寄らず、ただ一日も平和回復の早からんことを望みたるならんのみ。 また更らに一歩を進めて考うれば、日本の内乱に際し外国干渉の憂ありとせんには、王政維新の後に至りてもまた機会なきにあらず。その機会はすなわち明治十年の西南戦争なり。当時薩兵の勢、猛烈なりしは幕末における長州の比にあらず。政府はほとんど全国の兵を挙げ、加うるに文明精巧の兵器を以てして尚お容易にこれを鎮圧するを得ず、攻城野戦凡そ八箇月、わずかに平定の功を奏したれども、戦争中国内の有様を察すれば所在の不平士族は日夜、剣を撫して官軍の勢、利ならずと見るときは蹶起直に政府に抗せんとし、すでにその用意に着手したるものもあり。 また百姓の輩は地租改正のために竹槍席旗の暴動を醸したるその余炎未だ収まらず、況んや現に政府の顕官中にも竊に不平士族と気脈を通じて、蕭牆の辺に乱を企てたる者さえなきに非ず。形勢の急なるは、幕末の時に比して更らに急なるその内乱危急の場合に際し、外国人の挙動は如何というに、甚だ平気にして干渉などの様子なきのみならず、日本人においても敵味方共に実際干渉を掛念したるものはあるべからず。 或は西南の騒動は、一個の臣民たる西郷が正統の政府に対して叛乱を企てたるものに過ぎざれども、戊辰の変は京都の政府と江戸の政府と対立して恰も両政府の争なれば、外国人はおのおのその認むるところの政府に左袒して干渉の端を開くの恐れありしといわんか。外人の眼を以て見るときは、戊辰における薩長人の挙動と十年における西郷の挙動と何の選むところあらんや。等しく時の政府に反抗したるものにして、若しも西郷が志を得て実際に新政府を組織したらんには、これを認むることなお維新政府を認めたると同様なりしならんのみ。内乱の性質如何は以て干渉の有無を判断するの標準とするに足らざるなり。 そもそも幕末の時に当りて上方の辺に出没したるいわゆる勤王有志家の挙動を見れば、家を焼くものあり人を殺すものあり、或は足利三代の木像の首を斬りこれを梟するなど、乱暴狼籍名状すべからず。その中には多少時勢に通じたるものもあらんなれども、多数に無勢、一般の挙動はかくのごとくにして、局外より眺むるときは、ただこれ攘夷一偏の壮士輩と認めざるを得ず。然らば幕府の内情は如何というに攘夷論の盛なるは当時の諸藩に譲らず、否な徳川を一藩として見れば諸藩中のもっとも強硬なる攘夷藩というも可なる程なれども、ただ責任の局に在るが故に、止むを得ず外国人に接して表面に和親を表したるのみ。内実は飽くまでも鎖攘主義にして、ひたすら外人を遠ざけんとしたるその一例をいえば、品川に無益の砲台など築きたるその上に、更らに兵庫の和田岬に新砲台の建築を命じたるその命を受けて築造に従事せしはすなわち勝氏にして、その目的は固より攘夷に外ならず。勝氏は真実の攘夷論者に非ざるべしといえども、当時の勢、止むを得ずして攘夷論を装いたるものならん。その事情以て知るべし。 されば鳥羽伏見の戦争、次で官軍の東下のごとき、あたかも攘夷藩と攘夷藩との衝突にして、たとい徳川が倒れて薩長がこれに代わるも、更らに第二の徳川政府を見るに過ぎざるべしと一般に予想したるも無理なき次第にして、維新後の変化は或は当局者においては自から意外に思うところならんに、然るに勝氏は一身の働を以て強いて幕府を解散し、薩長の徒に天下を引渡したるはいかなる考より出でたるか、今日に至りこれを弁護するものは、勝氏は当時外国干渉すなわち国家の危機に際して、対世界の見地より経綸を定めたりなど云々するも、果して当人の心事を穿ち得たるや否や。 もしも勝氏が当時において、真実外国干渉の患あるを恐れてかかる処置に及びたりとすれば、独り自から架空の想像を逞うしてこれがために無益の挙動を演じたるものというの外なけれども、勝氏は決してかかる迂濶の人物にあらず。思うに当時人心激昂の際、敵軍を城下に引受けながら一戦にも及ばず、徳川三百年の政府を穏に解散せんとするは武士道の変則古今の珍事にして、これを断行するには非常の勇気を要すると共に、人心を籠絡してその激昂を鎮撫するに足るの口実なかるべからず。これすなわち勝氏が特に外交の危機云々を絶叫して、その声を大にし以て人の視聴を聳動せんと勉めたる所以に非ざるか、竊に測量するところなれども、人々の所見は自から異にして漫に他より断定するを得ず。 当人の心事如何は知るに由なしとするも、左るにても惜しむべきは勝氏の晩節なり。江戸の開城その事甚だ奇にして当局者の心事は解すべからずといえども、兎に角その出来上りたる結果を見れば大成功と認めざるを得ず。およそ古今の革命には必ず非常の惨毒を流すの常にして、豊臣氏の末路のごとき人をして酸鼻に堪えざらしむるものあり。然るに幕府の始末はこれに反し、穏に政府を解散して流血の禍を避け、無辜の人を殺さず、無用の財を散ぜず、一方には徳川家の祀を存し、一方には維新政府の成立を容易ならしめたるは、時勢の然らしむるところとは申しながら、そもそも勝氏が一身を以て東西の間に奔走周旋し、内外の困難に当り円滑に事を纒めたるがためにして、その苦心の尋常ならざると、その功徳の大なるとは、これを争う者あるべからず、明に認むるところなれども、日本の武士道を以てすれば如何にしても忍ぶべからざるの場合を忍んで、あえてその奇功を収めたる以上は、我事すでに了れりとし主家の結末と共に進退を決し、たとい身に墨染の衣を纒わざるも心は全く浮世の栄辱を外にして片山里に引籠り静に余生を送るの決断に出でたらば、世間においても真実、天下の為めに一身を犠牲にしたるその苦衷苦節を諒して、一点の非難を挟むものなかるべし。 すなわち徳川家が七十万石の新封を得て纔にその祀を存したるの日は勝氏が断然処決すべきの時機なりしに、然るにその決断ここに出でず、あたかも主家を解散したるその功を持参金にして、新政府に嫁し、維新功臣の末班に列して爵位の高きに居り、俸禄の豊なるに安んじ、得々として貴顕栄華の新地位を占めたるは、独り三河武士の末流として徳川累世の恩義に対し相済まざるのみならず、苟も一個の士人たる徳義操行において天下後世に申訳あるべからず。瘠我慢一篇の精神も専らここに疑を存しあえてこれを後世の輿論に質さんとしたるものにして、この一点については論者輩がいかに千言万語を重ぬるも到底弁護の効はなかるべし。返す返すも勝氏のために惜しまざるを得ざるなり。 |
一 「そんな事があるものですか。」 「いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、詰らないと思う後から声がします。」 「声がします。」 「確かに聞えるんです。」 と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一大構の旅館の奥の、母屋から板廊下を遠く隔てた離座敷らしい十畳の広間に泊った。 はじめ、停車場から俥を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、 「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」 で、上靴を穿かせて、つるつるする広い取着の二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階子段を上って行くので、連の男は一段踏掛けながら慌しく云った。 「三階か。」 「へい、四階でございます。」と横に開いて揉手をする。 「そいつは堪らんな、下座敷は無いか。――貴方はいかがです。」 途中で見た上阪の中途に、ばりばりと月に凍てた廻縁の総硝子。紅色の屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透しに高い四階は落着かない。 「私も下が可い。」 「しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。他には唯今どうも、へい、へい。」 「古くっても構わん。」 とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。 人の事は云われないが、連の男も、身体つきから様子、言語、肩の瘠せた処、色沢の悪いのなど、第一、屋財、家財、身上ありたけを詰込んだ、と自ら称える古革鞄の、象を胴切りにしたような格外の大さで、しかもぼやけた工合が、どう見ても神経衰弱というのに違いない。 何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。 私は枕を擡げずにはいられなかった。 時に、当人は、もう蒲団から摺出して、茶縞に浴衣を襲ねた寝着の扮装で、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真四角。 で、二間の――これには掛ものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこに件の大革鞄があるのである。 白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりと膨だみを揺った形が、元来、仔細の無い事はなかった。 今朝、上野を出て、田端、赤羽――蕨を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。 私は妙な事を思出したのである。 やがて、十八九年も経ったろう。小児がちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真昼間。両側に小屋を並べた見世ものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。 血だらけ、白粉だらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥多の看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。 続き、上下におよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、襖に黄金箔、引手に朱の総を提げるまで手を籠めた……芝居がかりの五十三次。 岡崎の化猫が、白髪の牙に血を滴らして、破簾よりも顔の青い、女を宙に啣えた絵の、無慙さが眼を射る。 二 「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」 と嗾る。…… が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉上げ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒散らすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。 この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴が一人、真中に、白襟、空色紋着の、廂髪で痩せこけた女が一人交って、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も言わず。 ただ、時々…… 「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」 とばかりで、上目でじろりとお立合を見て、黙然として澄まし返る。 容体がさも、ものありげで、鶴の一声という趣。掙き騒いで呼立てない、非凡の見識おのずから顕れて、裡の面白さが思遣られる。 うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。表飾りの景気から推せば、場内の広さも、一軒隣のアラビヤ式と銘打った競馬ぐらいはあろうと思うのに、筵囲いの廂合の路地へ入ったように狭くるしく薄暗い。 正面を逆に、背後向きに見物を立たせる寸法、舞台、というのが、新筵二三枚。 前に青竹の埒を結廻して、その筵の上に、大形の古革鞄ただ一個……眗しても視めても、雨上りの湿気た地へ、藁の散ばった他に何にも無い。 中へ何を入れたか、だふりとして、ずしりと重量を溢まして、筵の上に仇光りの陰気な光沢を持った鼠色のその革鞄には、以来、大海鼠に手が生えて胸へ乗かかる夢を見て魘された。 梅雨期のせいか、その時はしとしとと皮に潤湿を帯びていたのに、年数も経ったり、今は皺目がえみ割れて乾燥いで、さながら乾物にして保存されたと思うまで、色合、恰好、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色の褪せた鼠の半外套の袖に引着けた、その一人の旅客を認めたのである。 私は熟と視て、――長野泊りで、明日は木曾へ廻ろうと思う、たまさかのこの旅行に、不思議な暗示を与えられたような気がして、なぜか、変な、擽ったい心地がした。 しかも、その中から、怪しげな、不気味な、凄いような、恥かしいような、また謎のようなものを取出して見せられそうな気がしてならぬ。 少くとも、あの、絵看板を畳込んで持っていて、汽車が隧道へ入った、真暗な煙の裡で、颯と化猫が女を噛む血だらけな緋の袴の、真赤な色を投出しそうに考えられた。 で、どこまで一所になるか、……稀有な、妙な事がはじまりそうで、危っかしい中にも、内々少からぬ期待を持たせられたのである。 |
その夜彼はかなり酔っていた。佐渡という友人が個展を開いたその初日で、お祝いのウィスキーの瓶が何本も出た。酩酊して新宿駅に着いたのは、もう十時を過ぎていた。 つかまえたのは、専門の構内タクシーである。駅を出て客が指定したところで降ろし、またまっしぐらに駅に戻って来る式のもので、それが一番安全そうに見えたからだ。酔うと彼は必要以上に用心深くなる癖がある。戦後しばらくして、その時彼はまだ若かったが、酔ってプラットホームから落ちて怪我して以来、その癖がついた。年とともにその癖は、ますます頑固になって行く傾向がある。 「この人はね、酔って来ると、すぐに判るよ」 その夜も佐渡が笑いながら皆に説明した。 「道でも廊下でも、曲り角に来ると、壁にへばりつくようにして、直角に曲るんだよ。さっきから見ていると、もう直角になって来たようじゃないか。そろそろ帰ったらどうだい?」 「へばりつくなんて、ヤモリじゃあるまいし」 彼は答えた。いくらか舌たるくなっているのが、自分でも判った。そしてふらふらと立ち上った。 「でも、そう言うんなら、先に帰らせてもらうよ。さよなら」 「矢木君。君、送って行け」 佐渡が追い打ちをかけるように言った。 「見ているとあぶなっかしくて仕様がない。同じ方向なんだろ」 「そうですか。送ります」 矢木は答えた。矢木は彼や佐渡よりは、ずっと若い。絵描きの卵だ。飲めないたちで、酔っていなかったようだ。顔色が蒼白い。 外に出ると、夜風が顔につめたかった。矢木が手を貸そうとするのを断って、自分で歩いた。直角になんて歩いてたまるかという気持があって、ずんずん歩いたつもりだが、やはり時々足がもつれた。矢木は服の襟を立て、二三歩あとからついて来た。 新宿駅まで十分ぐらいかかり、表口で調子よくタクシーが彼の前にとまった。車の形を見て、彼は安心して、自分の体を荷物のようにどさりと座席に放り込んだ。矢木が続いて乗り込んだ。自動扉がすっと動き、がちゃりとしまった。彼は言った。 「N方面にやって呉れ」 かんたんに道順を説明したが、運転手は返事をしなかった。車は動き出した。かすかな不快が彼の中で揺れ動いている。近頃の運転手は、行先を告げても、ろくに返事をしない。でも、人間はなまじ口をきき合うから、話がもつれたりするので、判っていさえすれば返事はない方がいい。経験でそう彼は思っている。その点一番いいのは、靴磨きだ。戦後の一時期、彼は食うに困って、靴磨きをやったことがある。占領兵相手の売り屋をやったが、これは言葉のやりとりがうまく行かなくて、失敗した。靴磨きはよかった。場所を確保するのに一苦労はしたが、定着してしまえば、あとは簡単だ。客が来て、靴台に足を乗せる。それを磨く。磨き終ったしるしに、厚布でチョンチョンと靴先の色をととのえる。客も承知して、靴を引っ込め、金を渡す。受取ってゼニ箱に投入する。ただそれだけだ。客も黙っているし、こちらも口をきかない。主客とも口をきかないで成立する商売は、おそらく靴磨きだけじゃあるまいか。――彼が面白くない気分になっていたのは、だからそのせいではなかった。 「この自動扉なんだな」 窓外に動く街筋を眺めながら、彼はぼんやりと矢木に話しかけた。 「おれはどうもこの自動扉というやつが、好きでないんだ」 「何故です?」 「自分が乗ったんだろ。だから自分の手でしめるのがあたりまえじゃないか。他の力でしめられると、何だか変だ。うっとうしくて、かなわない」 「そうですかね。僕は便利だと思うけれども――」 「便利? そりゃ便利だよ」 彼は忙しく頭を働かせ、別の例を捜した。 「しかし、たとえば、留置場か、棺桶の蓋のような気がする。いや、待てよ。留置場や棺桶は、自分で這入るものではないが」 「そうですよ。あれは這入るものじゃなく、他人から入れられるもんです」 矢木は落着いた声で言った。 「あなたはデパートのエレベーターに乗っても、うっとうしいですか?」 エレベーターと自動車とでは違う。その理由を見つけようとして考えかけたが、途中で面倒くさくてやめた。調子を合わせろとは言わないが、そっけなく落着いているのが気に食わない。話をするのが億劫になったので、彼は座席に深く背をもたせ、窓の外ばかりを見ていた。街並が急に明るくなって、八百屋だの薬屋だのが群れている一郭に出た。矢木が言った。 「とめて下さい。僕はここで降ります」 車がとまり、間髪を入れず自動扉がギイと開いた。矢木がここらに住んでいることは、いつか同車したことがあって、彼も知っている。別に意外ではなかった。 「降りるのかね」 「ええ。では」 また車が動き出した時、彼は頭を後方の窓ガラスにねじ向けた。矢木はこちらを見ずに、歩道を横切り、明るい果物屋の中に入って行く。…… こういう言い争いを、いつか確かにしたことがある。何年前のことか、場所はどこだったか、思い出せない。思い出せないけれども、同じ条件で、同じ調子で、同じような人物を相手に、言い争った。気分もその時と同一だった。その意識が彼の語調を弱くさせていた。彼は言った。 「どうしても這入れないと言うんだね」 「うん。這入れないね」 運転手は前を見据えたまま言った。料金表示器は三百円をさしていた。 「こんな狭い道はムリですよ」 「しかしだね、ちょっと狭そうに見えるけれど、昼間にはトラック、大型は入りにくいが、とにかくトラックや乗用車が、すいすいと入ったり出たりしてるんだぜ」 矢木を降してから十五分ほど走り、車は彼の家の近くまで来た。道路に囲まれた三角地帯がある。どんな具合に区切っているのか知らないが、四軒の家がそこに建っている。車が停ったのは、その一軒の前で、彼の家はそれから反対側に折れたところにあるのだ。この一軒はまだ起きていて、窓から燈が漏れている。鉄線で編んだ塀には、バラがからんでいて、白や赤の花をいくつもつけているのが見える。この家は以前は歯科医が住んでいたが、はやらなかったらしく一年くらいで引越し、今はアメリカ人が住んでいる。民間のバイヤーらしい。昼間には日本人のメイドが派手な下着を乾していたりする。 「そりゃ昼間は這入れるでしょう。でも、こう暗くちゃね」 なるほどその道は暗い。ずらずらと生籬のたぐいが続いていて、光はどこにも見えない。そう狭い道ではないが、近くに請負師の家があって、道の入口に古材がたくさん積み重ねてある。反対側の垣から大きな柿の木が、道におおいかぶさるように枝を伸ばしている。昼間なら見通しがきくが、夜だと実際よりもずっと狭く感じられるのだ。それに悪いことには、道の入口に細い下水路があり、コンクリートの四角な渡し板が六枚かかっている。道いっぱいの幅にかければいいのに、両端の方は省略して、中央の部分、つまり道幅の半分しかかかっていないのである。 「暗いとか明るいとかは、問題じゃないだろう」 彼は気持を押えながら言った。 「今まで乗ったタクシーは、皆這入ったよ」 「他のタクシーのことは知らないが、おれはイヤだね」 前を向いたまま、運転手の言葉は少しぞんざいになった。彼はまだこの運転手の顔を見ていない。乗り込む時、見そびれた。見えるのは帽子と首筋と肩だけである。帽子はあみだ冠りにしている。首筋は赤黒く、粒々が出ている。齢の頃はよく判らない。 |
今年の三月上旬頃、井伏鱒二の『青ヶ島大概記』を読みながら(この小説は佳作である)、私は青ヶ島という言葉を何時かずっと前、何かで読んだことがあると思って、絶えずそれが気になった。その時は直ぐ思い出せなかったが、それから一月程後、ふと、そうだ、志賀重昂(矧川)の『日本風景論』書出の文句の中にあった、と思い出した。 ――「江山洵美是吾郷」〔大槻盤渓〕と、身世誰か吾郷の洵美を謂はざる者ある、青ヶ島や、南洋浩渺の間なる一頃の噴火島、爆然轟裂、火光煽々、天日を焼き、石を降らし、灰を散じ、島中の人畜殆ど斃れ尽く、僅に十数人の船を艤して災を八丈島に逃れたるのみ、而も此の十数人竟に其の噴火島たる古郷を遺却せず、火の熄むを待つこと十三年、乃ち八丈を出て欣々乎として其の多災なる古郷に帰りき、占守や、窮北不毛の絶島(千島の内)、層氷累雪の処のみ、後、開拓使有使の其の土人を南方色丹島に遷徒せしむや、色丹の地、棋楠樹青蒼、落葉松濃かに、黒狐、三毛狐其蔭に躍り、流水涓々として処々に駛り、玉蜀黍穫べく馬鈴薯植うべく、田園を開拓するものは賞与の典あり、而も遷徒の土人、新楽土を喜ばずして、帰心督促、三々五々時に其の窮北不毛の故島に返り去る、(後略)―― 『日本風景論』は明治二十七年十月二十九日に初版が発売され、私の持っている十一版は明治三十三年八月六日発行であるから、約六年の間に十一版を重ねている。これは当時の出版界では可なり読まれた証拠になる。尤も、私がこの本を買ったのは、今から十三四年前、本郷の古本屋である。 買った当時、私は嬉しくて、二三度この本を通読したものである。 一昨年の秋(?)のことである。私がその『日本風景論』を手に入れた頃、これも三度も四度も(それ以上)通読した『日本アルプス』の著者小島烏水に思いがけない所で知る栄を得たばかりでなく、その崇拝していた先輩から『氷河と万年雪の山』という本を贈られた。私は贈られたその日にその本を通読した。尤も、その本の中には既に新聞雑誌で読んだものが十数篇入っていたが。 (前記『日本アルプス』四巻は、四五年前、友人に貸し無くしたので、残念ながら、その初版出版年月を記憶しない。) その『氷河と万年雪の山』の中の「槍ヶ岳の昔話」と題する一篇の中に、 「近ごろの古本漁りは、江戸時代は珍本どころか、大抵の安本までが、払底のため、明治時代に下って、初期の『文明開化』物から、硯友社あたりの、初版本にまで及ばしているようだ。(中略)殊に私の興味をひいているところの山岳図書において、そうである。夏向きになると『日本アルプス』の名が、聞こえない日とては、無いようだが、ウェストンの『日本アルプス』を、幾人の日本人が所蔵しているだろうか。(中略)尤も孰れも英文であるから、日本人が所持していないとならば、志賀重昂氏の『日本風景論』はどうであろう。志賀氏の主張として、名ばかりの第何版でなく、実際改版毎に、新しい材料や挿絵を増加してゆかれたが、此本こそは、自然、殊に山水美を見別ける眼を、あけさせた点において、ラスキンの『近代画家論』に匹敵するとさえ思われる名篇で、(中略)チャムバレインの『日本案内記』から、ウェストンの『日本アルプス』へ引く一線と、志賀重昂氏の『日本風景論』から、私の『日本山水論』あたりへ引く一線とは、槍ヶ岳を中心にして結ばれているし、(中略)父なる日本の自然から、ウェストンは異母の兄として、志賀氏は同胞の兄として、私たちに送られたとも見られよう、但し重ねていうが、『私に関する限りにおいて』である。信濃路の旅行で、槍ヶ岳を遠望したことはあったが、私が登る気になったのは、志賀氏の『日本風景論』である。(後略)」という一節がある。 序に小島烏水の『日本山水論』(明治三十八年初版)の中で、槍ヶ岳を書いた一節を紹介しよう。 「三 木曽山脈と相対して、高峻を競い、之を圧倒して、北の方越後海辺まで半天に跳躍犇放するものを飛騨山脈となす、(中略) 中央大山脈は鋸歯状に聳えて、四壑のために鉄より堅牢なる箍を匝ぐらしたるもの、曰く鍋冠山、曰く霞沢山、曰く焼嶽、或ものは緑の莢を破りて長く、或ものは、紫の穂に出て高きが中に、殊に焼嶽(中略)は、常春藤の繞纒せる三角塔の如く、黄昏は、はや寂滅を伴いて、見る影薄き中に屹立し、照り添う夕日に鮮やかに、その破断口の鋭角を成せるところを琥珀色に染め、(中略)初めは焼嶽を指して、乗鞍と誤認したるほどなりき、乗鞍に至りては、久しく離別の後に、会合したる山なり、今日大野川に見て、今ここに仰ぐ、帽を振りて久闊を叫びしが、峰飛びて谿蹙まる今も、山の峻峭依然として『余の往くところ巨人有り焉』(My giant goes wherever I go)と、そぞろ人意を強うせしめぬ、(下略)(拙著『鎗ヶ嶽紀行』) この一群中に卓絶せるを、鎗ヶ嶽となす、その矗々として、鋭く尖れるところ、一穂の寒剣、晃々天を削る如く、千山万岳鉄桶を囲繞せる中に、一肩を高く抽き、頭に危石あり、脚に迅湍あり、天柱屹として揺がず、洵に唐人の山水画、威武遠く富士に迫れども、大霊の鍾まるところ、謙りて之を凌がず、万山富士にはその徳を敬し、鎗ヶ嶽には其威を畏る。(後略)」 『日本風景論』、『日本山水論』、『日本アルプス』その他の山岳書を読み耽った頃、私は『山恋ひ』という三分真実七分空想の中篇小説を書いた。その表題の脇に 北に遠ざかりて 雪白き山あり。 ――小島烏水著「日本アルプス」の中の言葉 と題註のようなものを添えた。これは前記『日本アルプス』の中の何の辺に出ている言葉であるか、何分今から十二三年前の作であるから、引用した私にも分らない、覚えていない。 ところが、最近、ふと『平家物語』を繙いた時、巻十の「海道下り」の終の方に、一谷で生捕された平重衡が、梶原景時に護送されて鎌倉に下向する途中、小夜の中山を通り過ぎるところで、 「……宇津の山辺の蔦の道、心ぼそくも打越えて、手越を過ぎ行けば、北に遠ざかりて、雪白き山あり、問へば甲斐の白根という。その時、三位中将落つる涙を抑へつつ、 惜しからぬ命なれども今日までにつれなき甲斐の白根をも見つ」 という一節を読み、十二三年前に作った小説の題の脇に添えた文句の出所を初めて知った訳である。―― 小夜中山というと、 甲斐が根をさやにも見しがけけれなく横ほりふせるさやの中山(古今集の内、東国歌) 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(新古今集の内、西行) の二首を私は思い出した。 小夜中山は、今の東海道線金谷駅から西方半里程の旧東海道にあるということである。私は小夜中山に行ったことはないが、沼津の牛臥でか、東海道線の沼津を過ぎた辺か、御殿場辺だったか忘れたが、汽車の窓から、富士の西に引く裾野の空に、雪を被った赤石山脈(或いは甲斐ヶ根或いは白峯、白根)の山々を眺めたことを覚えている。沼津と金谷(佐夜中山)とは可なり離れているが、赤石山脈ほどの高山であれば、東海道中の随所から望めるかも知れない。高山の遠望は今でも私の心を引く。 高山の遠望――といっても、私などの乏しい思出など述べて恥を曝すことは凡そ大人気ない事であるから、遠慮して、唯一つ、これも大人気ない話であるが幾らか愛嬌がある話であるから、書いてみる。―― 或る年(大正末年頃)の二月頃、亡友直木三十五と日本アルプスを眺望するだけの目的で飯田町駅を夜の十一時の汽車で出発した。今考えると、どうしてそのような行先を選んだか見当がつかないが、木曽福島行の切符を買った。私たちはまだ三十歳を越したばかりの時だったから、「木曽福島」という名に憧れたのだったかも知れない。近松秋江が或る夏この木曽福島に何日か滞在した時の思出話に、大変涼しい、(それを秋江一流の美文調で聞かされた、)窓を開けると木曽の御岳山が月明の中に聳えているのが見える、――これは何と間違った話であろう。何故なら木曽福島のいかなる高楼に登っても御岳山のオの字も見えないからである。併しこれは恐らく私に劣らぬ机上山嶽家(当時は二人ともこの名にも値しない)であった秋江の空想談か、私が秋江の別の話をそんな風に取ったのか、――という話を私が思出して、先ず木曽福島に行こうと私が云い出したものか、或いは当時は直木も『木曽福島―御岳山―木曽節』などという甘い空想を抱くことが好きだったから、彼が木曽福島行を主張したのか、私は覚えていない。 唯、その時の記憶で最も私の印象に(今でも)はっきり残っているのは、乗換の為に塩尻駅で下りた時、満目悉く枯れ尽くした桑畑が日の下に曝されている野の果に、北アルプスの山々が、全山雪に蔽われているかと思われる程、余り白くて、じっと目を据えて正視できない程、二月の晴れた空の下、輝いていたパノラマ風の眺望である。直木も私も「あッ!」と云ったまま道の真ん中に突立った。今にして残念に思うのは、そんな事はあり得べきことではないが、十数年後に面識を得た、小島烏水か深田久彌が、突然私たちの傍に現れて、例えば、あれが乗鞍、あれが穂高、あれが槍、あれが何、等であります、と説明してくれたら、直木か私か、何方かがそれ等の雪白き連山の見取図を描き、教えられるままに山々の名を書いて、永遠に保存することが出来たろう、という事である、直木はそんな見取図を描くことが好きであり、私もそんな「千載の一遇」の場合になれば山の見取図ぐらい描くことを辞さないつもりであるから。 因に、その時の木曽福島の収穫は、その晩、私が、頭痛を起し、ミグレニンという薬を飲んだところ、ミグレニンの中に私の体質に合わないアンチピリンが入っていたので、却って発熱して寝てしまった代りに、直木は色町に出かけて木曽節と伊那節を習ってきたことと、御岳山登山口という石標を見たことだけであった。 その翌朝、私たちは木曽福島を立って大町に向かった。生憎、その日は朝から曇り日で、松本から大町行の汽車に乗った頃は、折角楽しみにしていた穂高、槍、大天井、燕などの名山は雲に隠れて見えなかった。唯、有明山が殆ど全く見えたのが一つの慰めだった。有明山は別名信濃富士と呼ばれる通り美しい優しい姿をしている。 信濃なる有明山を西に見て心ほそのの道をいくめり これは西行の歌であるが、この山が見えた時、直木にこういう歌があるよ、と云うと、「西行らしい歌だな、」と彼が云ったことを思い出す。 私たちが大町に着いた時は小雨が降っていた。その晩、土地の妓を呼ぶと、(宿屋の番頭が二人か三人かと云うと、直木は見本のつもりだから一人でいいと云ったことを思出す、)妓の大きな島田髷に白い粉のようなものがかかっているので、私が「君の髷に白い粉のようなものがついているよ、」と云うと、妓は「雪ですよ」と答えた。 「粉雪か」と云って直木は微笑した。これは直木を知っている人だけにしか分らないが、直木の微笑は実に可愛い嫌味のない善良な純な無類の微笑であった。俳優(例えば中村鴈治郎の目)が際立って彼の芸を生かす場合、『目千両』という言葉がある。その言葉を捩って云うと、直木は『微笑千両』であった。直木を思出すと、私はいつもこの『微笑千両』の直木の顔を思出す。―― この時、私たちは一週間近く晴れる日を待ったが、(大町が曇っているのに松本の方の空が晴れていることがしばしばあったので、)とうとう、晴れて、鹿島槍岳、爺ヶ岳、蓮華岳等の所謂北アルプスの諸山を見ることが出来ずに、大町を引上げた。 その後、眺望でなく、私たち(直木と私)は本当に登山しようと思立ち、三年程の間、今年の夏は、来年の夏は、などと云いながら、結局、計画倒れになってしまった。 これから、書斎山嶽家(?)振りを述べるつもりだったのであるが、締切日の最後の時間になったので擱筆する。 |
久しぶりに漱石先生の所へ行つたら、先生は書斎のまん中に坐つて、腕組みをしながら、何か考へてゐた。「先生、どうしました」と云ふと「今、護国寺の三門で、運慶が仁王を刻んでゐるのを見て来た所だよ」と云ふ返事があつた。この忙しい世の中に、運慶なんぞどうでも好いと思つたから、浮かない先生をつかまへて、トルストイとか、ドストエフスキイとか云ふ名前のはいる、六づかしい議論を少しやつた。それから先生の所を出て、元の江戸川の終点から、電車に乗つた。 電車はひどくこんでゐた。が、やつと隅の吊革につかまつて、懐に入れて来た英訳の露西亜小説を読み出した。何でも革命の事が書いてある。労働者がどうとかしたら、気が違つて、ダイナマイトを抛りつけて、しまひにその女までどうとかしたとあつた。兎に角万事が切迫してゐて、暗澹たる力があつて、とても日本の作家なんぞには、一行も書けないやうな代物だつた。勿論自分は大に感心して、立ちながら、行の間へ何本も色鉛筆の線を引いた。 所が飯田橋の乗換でふと気がついて見ると、窓の外の往来に、妙な男が二人歩いてゐた。その男は二人とも、同じやうな襤縷々々の着物を着てゐた。しかも髪も髭ものび放題で、如何にも古怪な顔つきをしてゐた。自分はこの二人の男に何処かで遇つたやうな気がしたが、どうしても思ひ出せなかつた。すると隣の吊革にゐた道具屋じみた男が、 「やあ、又寒山拾得が歩いてゐるな」と云つた。 さう云はれて見ると、成程その二人の男は、箒をかついで、巻物を持つて、大雅の画からでも脱け出したやうに、のつそりかんと歩いてゐた。が、いくら売立てが流行るにしても、正物の寒山拾得が揃つて飯田橋を歩いてゐるのも不思議だから、隣の道具屋らしい男の袖を引張つて、 「ありや本当に昔の寒山拾得ですか」と、念を押すやうに尋ねて見た。けれどもその男は至極家常茶飯な顔をして、 「さうです。私はこの間も、商業会議所の外で遇ひました」と答へた。 「へええ、僕はもう二人とも、とうに死んだのかと思つてゐました。」 「何、死にやしません。ああ見えたつて、ありや普賢文殊です。あの友だちの豊干禅師つて大将も、よく虎に騎つちや、銀座通りを歩いてますぜ。」 それから五分の後、電車が動き出すと同時に、自分は又さつき読みかけた露西亜小説へとりかかつた。すると一頁と読まない内に、ダイナマイトの臭ひよりも、今見た寒山拾得の怪しげな姿が懐しくなつた。そこで窓から後を透して見ると、彼等はもう豆のやうに小さくなりながら、それでもまだはつきりと、朗な晩秋の日の光の中に、箒をかついで歩いてゐた。 |
一階の上の二階の上の三階の上の屋上庭園に上つて南を見ても何もないし北を見ても何もないから屋上庭園の下の三階の下の二階の下の一階へ下りて行つたら東から昇つた太陽が西へ沈んで東から昇つて西へ沈んで東から昇つて西へ沈んで東から昇つて空の真中に来ているから時計を出して見たらとまつてはいるが時間は合つているけれども時計はおれよりも若いじやないかと云ふよりはおれは時計よりも老つているじやないとどうしても思はれるのはきつとさうであるに違ひないからおれは時計をすてゝしまつた。 |
申すまでもなく、食物をうまく食うには、腹をすかして食うのが一番である。満腹時には何を食べてもうまくない。 今私の記憶のなかで、あんなにうまい弁当を食ったことがない、という弁当の話を書こうと思う。弁当と言っても、重箱入りの上等弁当でなく、ごくお粗末な田舎駅の汽車弁当である。 中学校二年の夏休み、私は台湾に遊びに行った。花蓮港に私の伯父がいて、私を招いてくれたのである。うまい汽車弁当とは、その帰路の話だ。 花蓮港というのは東海岸にあり、東海岸は切り立った断崖になっている関係上、その頃まだ道路が通じてなく、蘇澳から船便による他はなかった。その船も二、三百屯級の小さな汽船で、花蓮港に碇泊してハシケで上陸するのである。 で、八月末のある日の夕方、私はハシケで花蓮港岸を離れ、汽船に乗り込んだ。この汽船がひどく揺れることは、往路においてわかったから、夕飯は抜きにした。私は今でも船には弱い。 そして案の定、船は大揺れに揺れ、私は吐くものがないから胃液などを吐き、翌朝蘇澳に着いた。船酔いというものは、陸地に上がったとたんにけろりとなおるという説もあるが、実際はそうでもない。上陸しても、まだ陸地がゆらゆら揺れているような感じで、三十分や一時間は気分の悪いものである。だから少し時間はあったが、何も食べないで、汽車に乗り込んだ。そのことが私のその日の大空腹の原因となったのである。 蘇澳から台北まで、その頃、やはり十二時間近くかかったのではないかと思う。ローカル線だから、車も小さいし、速度も遅い。第一に困ったのは、弁当を売っているような駅がほとんどないのだ。 汽車に乗り込んで一時間も経った頃から、私はだんだん空腹に悩まされ始めてきた。それはそうだろう。前の日の昼飯(それも船酔いをおもんぱかって少量)を食っただけで、あとは何も食べていないし、それに中学二年というと食い盛りの頃だ。その上汽車の振動という腹へらしに絶好の条件がそなわっている。おなかがすかないわけがない。蘇澳で弁当を買って乗ればよかったと、気がついてももう遅い。 昼頃になって、私は眼がくらくらし始めた。停車するたびに、車窓から首を出すのだが、弁当売りの姿はどこにも見当らぬ。もう何を見ても、それが食い物に見えて、食いつきたくなってきた。海岸沿いを通る時、沖に亀山島という亀にそっくりの形の島があって、私はその島に対しても食慾を感じた。あの首をちょんとちょん切って、甲羅をはぎ、中の肉を食べたらうまかろうという具合にだ。 艱難の数時間が過ぎ、やっと汽車弁当にありついたのは、午後の四時頃で、何と言う駅だったかもう忘れた。どんなおかずだったかも覚えていない。べらぼうにうまかったということだけ(いや、うまいという程度を通り越していた)が残っているだけだ。一箇の汽車弁当を、私はまたたく間に、ぺらぺらと平らげてしまったと思う。 そんなに腹がへっていたなら、二箇三箇と買って食えばいいだろうと、あるいは人は思うだろう。そこはそれ中学二年という年頃は、たいへん自意識の多い年頃で、あいつは大食いだと周囲から思われるのが辛さに、一箇で我慢したのである。一箇だったからこそ、なおのことうまく感じられたのだろう。あの頃のような旺盛な食慾を、私はいま一度でいいから持ちたいと思うが、もうそれはムリであろう。 |
一 僕の胃袋は鯨です。コロムブスの見かけたと云ふ鯨です。時々潮も吐きかねません。吼える声を聞くのには飽き飽きしました。 二 僕の舌や口腔は時々熱の出る度に羊歯類を一ぱいに生やすのです。 三 一体下痢をする度に大きい蘇鉄を思ひ出すのは僕一人に限つてゐるのかしら? 四 僕は腹鳴りを聞いてゐると、僕自身いつか鮫の卵を産み落してゐるやうに感じるのです。 五 僕は憂鬱になり出すと、僕の脳髄の襞ごとに虱がたかつてゐるやうな気がして来るのです。 |
カフエ 僕は或カフエの隅に半熟の卵を食べてゐた。するとぼんやりした人が一人、僕のテエブルに腰をおろした。僕は驚いてその人をながめた。その人は妙にどろりとした、薄い生海苔の洋服を着てゐた。 虹 僕はいつも煤の降る工廠の裏を歩いてゐた。どんより曇つた工廠の空には虹が一すぢ消えかかつてゐた。僕は踵を擡げるやうにし、ちよつとその虹へ鼻をやつて見た。すると――かすかに石油の匂がした。 五分間写真 僕は或晩春の午後、或若い海軍中尉と五分間写真を映しに行つた。写真はすぐに出来上つた。しかし印画に映つたのは大きいⅥといふ羅馬数字だつた。 小さい泥 僕は或十二三のお嬢さんの後ろを歩いて行つた。お嬢さんは空色のフロツクの下に裸の脚を露してゐた。その又脚には小さい泥がたつた一つかすかに乾いてゐた。 僕はこのお嬢さんの脚の上の泥を眺めて行つた。すると泥はいつの間にかアメリカ大陸に変つてゐた。山脈や湖や鉄道も一々はつきり盛り上つてゐた。 僕はおやと思つてお嬢さんを探した。が、お嬢さんは見えなかつた。僕の前には横須賀軍港がひろがり、唯一面に三角の波が立つたり倒れたりしてゐるだけだつた。 |
一 加賀の国黒壁は、金沢市の郊外一里程の処にあり、魔境を以て国中に鳴る。蓋し野田山の奥、深林幽暗の地たるに因れり。 ここに摩利支天を安置し、これに冊く山伏の住える寺院を中心とせる、一落の山廓あり。戸数は三十有余にて、住民殆ど四五十なるが、いずれも俗塵を厭いて遯世したるが集りて、悠々閑日月を送るなり。 されば夜となく、昼となく、笛、太鼓、鼓などの、舞囃子の音に和して、謡の声起り、深更時ならぬに琴、琵琶など響微に、金沢の寝耳に達する事あり。 一歳初夏の頃より、このあたりを徘徊せる、世にも忌わしき乞食僧あり、その何処より来りしやを知らず、忽然黒壁に住める人の眼界に顕れしが、殆ど湿地に蛆を生ずる如く、自然に湧き出でたるやの観ありき。乞食僧はその年紀三十四五なるべし。寸々に裂けたる鼠の法衣を結び合せ、繋ぎ懸けて、辛うじてこれを絡えり。 容貌甚だ憔悴し、全身黒み痩せて、爪長く髯短し、ただこれのみならむには、一般乞食と変わらざれども、一度その鼻を見る時は、誰人といえども、造化の奇を弄するも、また甚だしきに、驚かざるを得ざるなり。鼻は大にして高く、しかも幅広に膨れたり。その尖は少しく曲み、赤く色着きて艶あり。鼻の筋通りたれば、額より口の辺まで、顔は一面の鼻にして、痩せたる頬は無きが如く、もし掌を以て鼻を蔽えば、乞食僧の顔は隠れ去るなり。人ありて遠くより渠を望む時は、鼻が杖を突きて歩むが如し。 乞食僧は一条の杖を手にして、しばらくもこれを放つことなし。 杖は※(「かぎかっこ、「、の左右反転」)状の自然木なるが、その曲りたる処に鼻を凭たせつ、手は後様に骨盤の辺に組み合せて、所作なき時は立ちながら憩いぬ。要するに吾人が腰掛けて憩うが如く、乞食僧にありては、杖が鼻の椅子なりけり。 奇絶なる鼻の持主は、乞丐の徒には相違なきも、強ち人の憐愍を乞わず、かつて米銭の恵与を強いしことなし。喜捨する者あれば鷹揚に請取ること、あたかも上人が檀越の布施を納むるが如き勿体振りなり。 人もしその倨傲なるを憎みて、些の米銭を与えざらむか、乞食僧は敢て意となさず、決してまた餓えむともせず。 この黒壁には、夏候一疋の蚊もなしと誇るまでに、蝦蟇の多き処なるが、乞食僧は巧にこれを漁りて引裂き啖うに、約ね一夕十数疋を以て足れりとせり。 されば乞食僧は、昼間何処にか潜伏して、絶えて人に見えず、黄昏蝦蟇の這出づる頃を期して、飄然と出現し、ここの軒下、かしこの塀際、垣根あたりの薄暗闇に隠見しつつ、腹に充たして後はまた何処へか消え去るなり。 二 ここに醜怪なる蝦蟇法師と正反対して、玲瓏玉を欺く妙齢の美人ありて、黒壁に住居せり。渠は清川お通とて、親も兄弟もあらぬ独身なるが、家を同じくする者とては、わずかに一人の老媼あるのみ、これその婢なり。 お通は清川何某とて、五百石を領せし旧藩士の娘なるが、幼にして父を失い、去々年また母を失い、全く孤独の身とはなり果てつ、知れる人の嫁入れ、婿娶れと要らざる世話を懊悩く思いて、母の一周忌の終るとともに金沢の家を引払い、去年よりここに移りたるなり。もとより巨額の公債を有し、衣食に事欠かざれば、花車風流に日を送りて、何の不足もあらざる身なるに、月の如くその顔は一片の雲に蔽われて晴るることなし。これ母親の死を悲み別離に泣きし涙の今なお双頬に懸れるを光陰の手も拭い去るあたわざるなりけり。 読書、弾琴、月雪花、それらのものは一つとして憂愁を癒すに足らず、転た懐旧の媒となりぬ。ただ野田山の墳墓を掃いて、母上と呼びながら土に縋りて泣き伏すをば、此上無き娯楽として、お通は日課の如く参詣せり。 七月の十五日は殊に魂祭の当日なれば、夕涼より家を出でて独り彼処に赴きけり。 野田山に墓は多けれど詣来る者いと少なく墓守る法師もあらざれば、雑草生茂りて卒塔婆倒れ断塚壊墳算を乱して、満目転た荒涼たり。 いつも変らぬことながら、お通は追懐の涙を灌ぎ、花を手向けて香を燻じ、いますが如く斉眉きて一時余も物語りて、帰宅の道は暗うなりぬ。 急足に黒壁さして立戻る、十間ばかり間を置きて、背後よりぬき足さし足、密に歩を運ぶはかの乞食僧なり。渠がお通のあとを追うは殆ど旬日前よりにして、美人が外出をなすに逢うては、影の形に添う如く絶えずそこここ附絡うを、お通は知らねど見たる者あり。この夕もまた美人をその家まで送り届けし後、杉の根の外に佇みて、例の如く鼻に杖をつきて休らいたり。 時に一縷の暗香ありて、垣の内より洩れけるにぞ法師は鼻を蠢めかして、密に裡を差覗けば、美人は行水を使いしやらむ、浴衣涼しく引絡い、人目のあらぬ処なれば、巻帯姿繕わで端居したる、胸のあたりの真白きに腰の紅照添いて、眩きばかり美わしきを、蝦蟇法師は左瞻右視、或は手を掉り、足を爪立て、操人形が動くが如き奇異なる身振をしたりとせよ、何思いけむ踵を返し、更に迂回して柴折戸のある方に行き、言葉より先に笑懸けて、「暖き飯一膳与えたまえ、」と巨なる鼻を庭前へ差出しぬ。 未だ乞食僧を知らざる者の、かかる時不意にこの鼻に出会いなば少なくとも絶叫すべし、美人はすでに渠を知れり。且つその狂か、痴か、いずれ常識無き阿房なるを聞きたれば、驚ける気色も無くて、行水に乱鬢の毛を鏡に対して撫附けいたりけり。 蝦蟇法師はためつすがめつ、さも審かしげに鼻を傾けお通が為せる業を視めたるが、おかしげなる声を発し、「それは」と美人の手にしたる鏡を指して尋ねたり。妙なることを聞く者よとお通はわずかに見返りて、「鏡」とばかり答えたり。阿房はなおも推返して、「何の用にするぞ」と問いぬ。「姿を映して見るものなり、御僧も鼻を映して見たまえかし。」といいさま鏡を差向けつ。蝦蟇法師は飛退りて、さも恐れたる風情にて鼻を飛ばして遁去りける。 これを語り次ぎ伝え聞きて黒壁の人々は明かに蝦蟇法師の価値を解したり。なお且つ、渠等は乞食僧のお通に対して馬鹿々々しき思いを運ぶを知りたれば、いよいよその阿房なることを確めぬ。 さりながら鏡を示されし時乞食僧は逃げ去りつつ人知れず左記の数言を呟きたり。 「予は自ら誓えり、世を終るまで鏡を見じと、然り断じて鏡を見まじ。否これを見ざるのみならず、今思出したる鏡という品の名さえ、務めて忘れねばならぬなり。」 三 蝦蟇法師がお通に意あるが如き素振を認めたる連中は、これをお通が召使の老媼に語りて、且つ戯れ、且つ戒めぬ。 毎夕納涼台に集る輩は、喋々しく蝦蟇法師の噂をなして、何者にまれ乞食僧の昼間の住家を探り出だして、その来歴を発出さむ者には、賭物として金一円を抛たむと言いあえりき、一夕お通は例の如く野田山に墓参して、家に帰れば日は暮れつ。火を点じて後、窓を展きて屋外の蓮池を背にし、涼を取りつつ机に向いて、亡き母の供養のために法華経ぞ写したる。その傍に老媼ありて、頻に針を運ばせつ。時にかの蝦蟇法師は、どこを徘徊したりけむ、ふと今ここに来れるが、早くもお通の姿を見て、眼を細め舌なめずりし、恍惚たるもの久しかりし、乞食僧は美人臭しとでも思えるやらむ、むくむく鼻を蠢かし漸次に顔を近附けたる、面が格子を覗くとともに、鼻は遠慮なく内へ入りて、お通の頬を掠めむとせり。 珍客に驚きて、お通はあれと身を退きしが、事の余りに滑稽なるにぞ、老婆も叱言いう遑なく、同時に吻々と吹き出しける。 蝦蟇法師は悞りて、歓心を購えりとや思いけむ、悦気満面に満ち溢れて、うな、うな、と笑いつつ、頻りにものを言い懸けたり。 お通はかねて忌嫌える鼻がものいうことなれば、冷然として見も返らず。老媼は更に取合ねど、鼻はなおもずうずうしく、役にも立たぬことばかり句切もなさで饒舌散らす。その懊悩さに堪えざれば、手を以て去れと命ずれど、いっかな鼻は引込まさぬより、老媼はじれてやっきとなり、手にしたる針の尖を鼻の天窓に突立てぬ。 あわれ乞食僧は留を刺されて、「痛し。」と身体を反返り、涎をなすりて逸物を撫廻し撫廻し、ほうほうの体にて遁出しつ。走り去ること一町ばかり、俄然留り振返り、蓮池を一つ隔てたる、燈火の影を屹と見し、眼の色はただならで、怨毒を以て満たされたり。その時乞食僧は杖を掉上げ、「手段のいかんをさえ問わざれば何の望か達せざらむ。」 かくは断乎として言放ち、大地をひしと打敲きつ、首を縮め、杖をつき、徐ろに歩を回らしける。 その背後より抜足差足、密に後をつけて行く一人の老媼あり。これかのお通の召使が、未だ何人も知り得ざる蝦蟇法師の居所を探りて、納涼台が賭物したる、若干の金子を得むと、お通の制むるをも肯かずして、そこに追及したりしなり。呼吸を殺して従い行くに、阿房はさりとも知らざる状にて、殆ど足を曳摺る如く杖に縋りて歩行み行けり。 人里を出離れつ。北の方角に進むことおよそ二町ばかりにて、山尽きて、谷となる。ここ嶮峻なる絶壁にて、勾配の急なることあたかも一帯の壁に似たり、松杉を以て点綴せる山間の谷なれば、緑樹長に陰をなして、草木が漆黒の色を呈するより、黒壁とは名附くるにて、この半腹の洞穴にこそかの摩利支天は祀られたれ。 遥かに瞰下す幽谷は、白日闇の別境にて、夜昼なしに靄を籠め、脚下に雨のそぼ降る如く、渓流暗に魔言を説きて、啾々たる鬼気人を襲う、その物凄さ謂わむ方なし。 まさかこことは想わざりし、老媼は恐怖の念に堪えず、魑魅魍魎隊をなして、前途に塞るとも覚しきに、慾にも一歩を移し得で、あわれ立竦になりける時、二点の蛍光此方を見向き、一喝して、「何者ぞ。」掉冠れる蝦蟇法師の杖の下に老媼は阿呀と蹲踞りぬ。 蝦蟇法師は流眄に懸け、「へ、へ、へ、うむ正に此奴なり、予が顔を傷附けたる、大胆者、讐返ということのあるを知らずして」傲然としてせせら笑う。 これを聞くより老媼はぞっと心臓まで寒くなりて、全体氷柱に化したる如く、いと哀れなる声を発して、「命ばかりはお助けあれ。」とがたがた震えていたりける。 四 さるほどに蝦蟇法師はあくまで老媼の胆を奪いて、「コヤ老媼、汝の主婦を媒妁して我執念を晴らさせよ。もし犠牲を捧げざれば、お通はもとより汝もあまり好きことはなかるべきなり、忘れてもとりもつべし。それまで命を預け置かむ、命冥加な老耆めが。」と荒らかに言棄てて、疾風土を捲いて起ると覚しく、恐る恐る首を擡げあぐれば、蝦蟇法師は身を以て隕すが如く下り行き、靄に隠れて失せたりけり。 やれやれ生命を拾いたりと、真蒼になりて遁帰れば、冷たくなれる納台にまだ二三人居残りたるが、老媼の姿を見るよりも、「探検し来りしよな、蝦蟇法師の住居は何処。」と右左より争い問われて、答うる声も震えながら、「何がなし一件じゃ、これなりこれなり。」と、握拳を鼻の上にぞ重たる、乞食僧の人物や、これを痴と言むよりはたまた狂と言むより、もっとも魔たるに適するなり。もししからずば少なくとも魔法使に適するなり。 |
野呂松人形を使うから、見に来ないかと云う招待が突然来た。招待してくれたのは、知らない人である。が、文面で、その人が、僕の友人の知人だと云う事がわかった。「K氏も御出の事と存じ候えば」とか何とか、書いてある。Kが、僕の友人である事は云うまでもない。――僕は、ともかくも、招待に応ずる事にした。 野呂松人形と云うものが、どんなものかと云う事は、その日になって、Kの説明を聞くまでは、僕もよく知らなかった。その後、世事談を見ると、のろまは「江戸和泉太夫、芝居に野呂松勘兵衛と云うもの、頭ひらたく色青黒きいやしげなる人形を使う。これをのろま人形と云う。野呂松の略語なり」とある。昔は蔵前の札差とか諸大名の御金御用とかあるいはまたは長袖とかが、楽しみに使ったものだそうだが、今では、これを使う人も数えるほどしかないらしい。 当日、僕は車で、その催しがある日暮里のある人の別荘へ行った。二月の末のある曇った日の夕方である。日の暮には、まだ間があるので、光とも影ともつかない明るさが、往来に漂っている。木の芽を誘うには早すぎるが、空気は、湿気を含んで、どことなく暖い。二三ヶ所で問うて、漸く、見つけた家は、人通りの少ない横町にあった。が、想像したほど、閑静な住居でもないらしい。昔通りのくぐり門をはいって、幅の狭い御影石の石だたみを、玄関の前へ来ると、ここには、式台の柱に、銅鑼が一つ下っている。そばに、手ごろな朱塗の棒まで添えてあるから、これで叩くのかなと思っていると、まだ、それを手にしない中に、玄関の障子のかげにいた人が、「どうぞこちらへ」と声をかけた。 受附のような所で、罫紙の帳面に名前を書いて、奥へ通ると、玄関の次の八畳と六畳と、二間一しょにした、うす暗い座敷には、もう大分、客の数が見えていた。僕は、人中へ出る時は、大抵、洋服を着てゆく。袴だと、拘泥しなければならない。繁雑な日本の étiquette も、ズボンだと、しばしば、大目に見られやすい。僕のような、礼節になれない人間には、至極便利である。その日も、こう云う訳で、僕は、大学の制服を着て行った。が、ここへ来ている連中の中には、一人も洋服を着ているものがない。驚いた事には、僕の知っている英吉利人さえ、紋附にセルの袴で、扇を前に控えている。Kの如き町家の子弟が結城紬の二枚襲か何かで、納まっていたのは云うまでもない。僕は、この二人の友人に挨拶をして、座につく時に、いささか、étranger の感があった。 「これだけ、お客があっては、――さんも大よろこびだろう。」Kが僕に云った。――さんと云うのは、僕に招待状をくれた人の名である。 「あの人も、やはり人形を使うのかい。」 「うん、一番か二番は、習っているそうだ。」 「今日も使うかしら。」 「いや、使わないだろう。今日は、これでもこの道のお歴々が使うのだから。」 Kは、それから、いろいろ、野呂松人形の話をした。何でも、番組の数は、皆で七十何番とかあって、それに使う人形が二十幾つとかあると云うような事である。自分は、時々、六畳の座敷の正面に出来ている舞台の方を眺めながら、ぼんやりKの説明を聞いていた。 舞台と云うのは、高さ三尺ばかり、幅二間ばかりの金箔を押した歩衝である。Kの説によると、これを「手摺り」と称するので、いつでも取壊せるように出来ていると云う。その左右へは、新しい三色緞子の几帳が下っている。後は、金屏風をたてまわしたものらしい。うす暗い中に、その歩衝と屏風との金が一重、燻しをかけたように、重々しく夕闇を破っている。――僕は、この簡素な舞台を見て非常にいい心もちがした。 「人形には、男と女とあってね、男には、青頭とか、文字兵衛とか、十内とか、老僧とか云うのがある。」Kは弁じて倦まない。 「女にもいろいろありますか。」と英吉利人が云った。 「女には、朝日とか、照日とかね、それからおきね、悪婆なんぞと云うのもあるそうだ。もっとも中で有名なのは、青頭でね。これは、元祖から、今の宗家へ伝来したのだと云うが……」 生憎、その内に、僕は小用に行きたくなった。 ――厠から帰って見ると、もう電燈がついている。そうして、いつの間にか「手摺り」の後には、黒い紗の覆面をした人が一人、人形を持って立っている。 いよいよ、狂言が始まったのであろう。僕は、会釈をしながら、ほかの客の間を通って、前に坐っていた所へ来て坐った。Kと日本服を来た英吉利人との間である。 舞台の人形は、藍色の素袍に、立烏帽子をかけた大名である。「それがし、いまだ、誇る宝がござらぬによって、世に稀なる宝を都へ求めにやろうと存ずる。」人形を使っている人が、こんな事を云った。語と云い、口調と云い、間狂言を見るのと、大した変りはない。 やがて、大名が、「まず、与六を呼び出して申しつけよう。やいやい与六あるか。」とか何とか云うと、「へえ」と答えながらもう一人、黒い紗で顔を隠した人が、太郎冠者のような人形を持って、左の三色緞子の中から、出て来た。これは、茶色の半上下に、無腰と云う着附けである。 すると、大名の人形が、左手を小さ刀の柄にかけながら、右手の中啓で、与六をさしまねいで、こう云う事を云いつける。――「天下治まり、目出度い御代なれば、かなたこなたにて宝合せをせらるるところ、なんじの知る通り、それがし方には、いまだ誇るべき宝がないによって、汝都へ上り、世に稀なるところの宝が有らば求めて参れ。」与六「へえ」大名「急げ」「へえ」「ええ」「へえ」「ええ」「へえさてさて殿様には……」――それから与六の長い Soliloque が始まった。 人形の出来は、はなはだ、簡単である。第一、着附の下に、足と云うものがない。口が開いたり、目が動いたりする後世の人形に比べれば、格段な相違である。手の指を動かす事はあるが、それも滅多にやらない。するのは、ただ身ぶりである。体を前後にまげたり、手を左右に動かしたりする――それよりほかには、何もしない。はなはだ、間ののびた、同時に、どこか鷹揚な、品のいいものである。僕は、人形に対して、再び、étranger の感を深くした。 アナトオル・フランスの書いたものに、こう云う一節がある、――時代と場所との制限を離れた美は、どこにもない。自分が、ある芸術の作品を悦ぶのは、その作品の生活に対する関係を、自分が発見した時に限るのである。Hissarlik の素焼の陶器は自分をして、よりイリアッドを愛せしめる。十三世紀におけるフィレンツェの生活を知らなかったとしたら、自分は神曲を、今日の如く鑑賞する事は出来なかったのに相違ない。自分は云う、あらゆる芸術の作品は、その製作の場所と時代とを知って、始めて、正当に愛し、かつ、理解し得られるのである。…… 僕は、金色の背景の前に、悠長な動作を繰返している、藍の素袍と茶の半上下とを見て、図らず、この一節を思い出した。僕たちの書いている小説も、いつかこの野呂松人形のようになる時が来はしないだろうか。僕たちは、時代と場所との制限をうけない美があると信じたがっている。僕たちのためにも、僕たちの尊敬する芸術家のためにも、そう信じて疑いたくないと思っている。しかし、それが、果して、そうありたいばかりでなく、そうある事であろうか。…… 野呂松人形は、そうある事を否定する如く、木彫の白い顔を、金の歩衝の上で、動かしているのである。 狂言は、それから、すっぱが出て、与六を欺し、与六が帰って、大名の不興を蒙る所で完った。鳴物は、三味線のない芝居の囃しと能の囃しとを、一つにしたようなものである。 僕は、次の狂言を待つ間を、Kとも話さずに、ぼんやり、独り「朝日」をのんですごした。 |
大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下らうとしてゐた。あの通りは甚だ街燈の少い、いつも真暗な往来である。そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走つてゐた。僕は巻煙草を啣へながら、勿論その車に気もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見ると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。 大正十三年の夏、僕は室生犀星と軽井沢の小みちを歩いてゐた。山砂もしつとりと湿気を含んだ、如何にももの静かな夕暮だつた。僕は室生と話しながら、ふと僕等の頭の上を眺めた。頭の上には澄み渡つた空に黒ぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。のみならずその又枝の間に人の脚が二本ぶら下つてゐた。僕は「あつ」と言つて走り出した。室生も亦僕のあとから「どうした? どうした?」と言つて追ひかけて来た。僕はちよつと羞しかつたから、何とか言つて護摩化してしまつた。 大正十四年の夏、僕は菊池寛、久米正雄、植村宋一、中山太陽堂社長などと築地の待合に食事をしてゐた。僕は床柱の前に坐り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、――と云ふ順序に坐つてゐたのである。そのうちに僕は何かの拍子に餉台の上の麦酒罎を眺めた。するとその麦酒罎には人の顔が一つ映つてゐた。それは僕の顔にそつくりだつた。しかし何も麦酒罎は僕の顔を映してゐた訣ではない。その証拠には実在の僕は目を開いてゐたのにも関らず、幻の僕は目をつぶつた上、稍仰向いてゐたのである。僕は傍らにゐた芸者を顧み、「妙な顔が映つてゐる」と言つた。芸者は始は常談にしてゐた。けれども僕の座に坐るが早いか、「あら、ほんたうに見えるわ」と言つた。菊池や久米も替る替る僕の座に来て坐つて見ては、「うん、見えるね」などと言ひ合つていた。それは久米の発見によれば、麦酒罎の向うに置いてある杯洗や何かの反射だつた。しかし僕は何となしに凶を感ぜずにはゐられなかつた。 大正十五年の正月十日、僕はやはりタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下らうとしてゐた。するとあの唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりと後ろを現し出した。僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、――そんなことをはつきり感じたのだつた。 |
たうとう勃凸は四年を終へない中に中学を退学した。退学させられた。学校といふものが彼にはさつぱり理解出来なかつたのだ。教室の中では飛行機を操縦するまねや、活動写真の人殺しのまねばかりしてゐた。勃凸にはそんなことが、興味といへば唯一の興味だつたのだ。 どこにも行かずに家の中でごろ〳〵してゐる中におやぢとの不和が無性に嵩じて、碌でもない口喧嘩から、おやぢにしたゝか打ちのめされた揚句、みぞれの降りしきる往来に塵のやうに掃き出されてしまつた。勃凸は退屈を持てあますやうな風付で、濡れたまゝぞべ〳〵とその友達の下宿にころがり込んだ。 安菓子を滅茶々々に腹の中につめ込んだり、飲めもしない酒をやけらしくあふつて、水のしたゝるやうに研ぎすましたジヤック・ナイフをあてもなく振り廻したりして、することもなく夜更しをするのが、彼に取つてはせめてもの自由だつた。 その中に勃凸は妙なことに興味を持ち出した。廊下一つ隔てた向ひの部屋に、これもくすぶり込んでゐるらしい一人の客が、十二時近くなると毎晩下から沢庵漬を取りよせて酒を飲むのだつたが、いかにも歯切れのよささうなばり〳〵といふ音と、生ぬるいらしい酒をずるつと啜り込む音とが堪らなく気持がよかつたのだ。胡坐をかいたまゝ、勃凸は鼠の眼のやうな可愛らしい眼で、強度の近眼鏡越しに友達の顔を見詰めながら、向ひの部屋の物音に聞き耳を立てた。 「あれ、今沢庵を喰つたあ。をつかしい奴だなあ……ほれ、今酒を飲んだべ」 その沢庵漬で酒を飲むのが、あとで勃凸と腐れ縁を結ぶやうになつた「おんつぁん」だつた。 いつとはなく二人は帳場で顔を見合すやうになつた。勃凸はおんつぁんを流動体のやうに感じた。勃凸には三十そこ〳〵のおんつぁんが生れる前からの父親のやうに思はれたのだつた。而してどつちから引き寄せるともなく勃凸はおんつぁんの部屋に入りびたるやうになつた。 「まるで馬鹿だなあお前は……俺にはそんなこといふ資格は無いどもな」 勃凸が酔つたまぎれに乱暴狼藉を働くと、おんつぁんは部屋の隅にいざり曲つて難を避けながら、頭をかゝへてかう笑つた。勃凸はさういふ時舐めまはしたい程おんつぁんが慕はしくなつてしまふのだつた。 さうかと思ふとおんつぁんは毛嫌ひする老いた牝犬のやうに、勃凸をすげなく蹴りつけることもあつた。手前のやうな生れそこなひは、おやぢのところに帰つて、小さくなつてぶつたゝかれながら、馬鹿様で暮すのが一番安全で幸福なことだ。おやぢが汗水たらして稼ぎためた大きな身代に倚りかゝつて愚図々々してゐる中には、ひとりでにその身代が手前のものになるから、それで飯を食つて死んでしまへば、この上なしの極楽だ。うつかり俺なんぞにかゝはり合つてゐると、鯱鉾立ちをして後悔しても取り返しのつかないことになるぞ。自分だけで俺は沢山だ。この上もてあましものが俺のまはりに囓りつくには及ばないことだ。俺一人だけ腐つて行けばそれでいゝんだから……おんつぁんはそんなことをいひながら、二本の指で盃をつまんで、甘さうに眼を寄せて、燗のぬるい酒を口もとに持つて行つた。勃凸はおんつぁんにそんな風に物をいはれると妙にすくみあがつた。而して無上に腹が立つた。 おんつぁんはやがて何処から金を工面したか、小細工物や、古着売の店の立ち列んだやうな町に出て小さな貸本屋を開いた。初めの中こそ多少の遠慮はしてゐたが、いつといふことなく勃凸はおんつぁんの店の仕事まで手伝ふやうになつてゐた。 おんつぁんも勃凸も仕事に興味が乗ると普通の人間の三倍も四倍も働いた。互に口もきゝあはない程働いた。従つて売上げも決して馬鹿にはならない位あつた。おんつぁんはそれで自分の好きな書物を買ひ入れた。けれどもおんつぁんの好きな書物は、あながち一般の読者の好きな書物ではない。おまけに真先に貸本に楽書をするのがお客でなくておんつぁん自身だつた。それがおんつぁんを黒表に載る人間にしようとは誰もが思はなかつたらう。 どうかしたはずみを喰ふと、おんつぁんも勃凸も他愛がなくなつて、店に出入りする若者達と一緒にどこかに出かけて、売溜めを綺麗にはたいて、商売道具を手あたり次第に質草にするのが鳧だつた。 或る時勃凸が、店先でいきなり一冊の書物を土間にたゝきつけた。 「何をしやがるんだ馬鹿。お前気ちがひにでもなる気か」 とおんつぁんが吹き出しさうな顔をして、声だけはがなり立てた。勃凸は真青に震へて怒つてゐた。 「おんつぁん……こんなちやくいことしてゐて、これでいゝのかい」 相当に名のあるその書物の作者が公けにしたもう一冊の書物を勃凸が書棚から引きぬいて来て、それをおんつぁんの前においた。今土間にたゝきつけられた書物と比べて見ると、表題こそは全く違つてゐるけれども、内容は殆ど同じだつた。 二人はそれだけで興奮してしまつた。持つて行き場のないやうな憤怒で、二人は定連と一緒に酒のあるところに転がり込んだ。而して滅茶苦茶に酔つぱらつて、勃凸の例の研ぎすましたジヤック・ナイフを自分の脚に突き刺して、その血を顔中に塗りこくつて、得意の死の踊りといふのを気違ひのやうに踊つた。 そのおかげで二人は二三日の間青つしよびれてしまつてゐた。 おんつぁんがたうとう出て行けといつた。勃凸にはおんつぁんの気持がすつかり判つてゐた。それだからふて腐れて赤いスエターを頭からすつぽりと被つて、戸棚の中で泣いてゐた。 それでも勃凸は素直に野幌に行つて小学校の代用教員になつた。少し金が溜るとそれを持つて、おんつぁんに会ひに札幌まで出かけて来た。身銭を切る嬉しさ、おんつぁんと、六つになるおんつぁんの娘とをおごつてやる嬉しさで夢中だつた。カフエーのテーブルの上に一寸眼に立つ灰皿を見つけると、頬の筋肉がにや〳〵し出した。 カフエーを出てドアを締めるが早いか、懐からその灰皿を取り出しておんつぁんの眼の前にふり廻して見せた。 「馬鹿! またやつたなお前。お前にやり〳〵してゐたからまたやるなと思つて、俺眼を放さないでゐたから、今日は駄目だと思つたら、矢張りだアめだよお前は。ぺつちやんこだよ」 といつておんつぁんが途方に暮れたやうに高々と笑つた。勃凸も大笑ひをした。而してその灰皿を新川の水の中に思ひきり力をこめてたゝきこんだ。 はじめの間こそ、おんつぁんに怒鳴りつけられるまゝに、すご〳〵と野幌に帰つたが、段々図々しくなつて、いつ学校の方をやめるともなく又おんつぁんの店に入りびたるやうになつた。 その中にあの大乱痴気が起つた。刑事は隣りの家の二階から一同の集まるのを見張つてゐて、もう集まり切つたといふところで、署長を先頭に踏みこんだのだ。平服だつたがおんつぁんはすぐそれだと見て取つた。ところが勃凸は一切お構ひなしに、又仲間が集まつて来たとでも思つたらしく、羽織つたマントの端をくるつと首のまはりに巻きつけて、伊太利どころの映画の色男をまねた業々しい身振りで、右手で左の肩から膝頭へかけてぐるつと大きな輪をかいて恭しい挨拶をした。而してひしやげるほど横面をなぐり飛ばされた。 おんつぁんも勃凸もほかの仲間三人も留置場に四日ゐた。勃凸は珍らしく悒鬱になつてゐた。それは恐ろしい徴候だつた。爆弾なり、短銃なり、ドスなりは、謂はゞ勃凸の肉体の一部分のやうなものだつたのだから。青白い華車な顔にはめこまれた、鼠の眼のやうな可愛らしい眼がすわつて来ると、勃凸の全身は鞘を払つた懐剣のやうに見えた。 兎に角証拠不十分といふことで放免になる朝、写真機の前に立たされた勃凸は、シャッターを切られるはずみに、そつぽを向いて、滅茶苦茶に顔をしかめてしまつた。さういふのが彼の悒鬱の一面だつた。 留守中におんつぁんの店は根太板まで引きはがされる程の綿密な捜索を受けてゐた。札幌で営業を停止されたばかりでなく、心あたりの就職の道は悉く杜絶してしまつた。 おんつぁんは細君も子供も仲間も皆んな振り切つて、たつた一人の人間にならうと思ひ定めた。それを勃凸が逸早く感づいた。 「おんつぁん俺らこと連れて行つてくれ、なあ」 と甘えかゝつた。 「だアめだ」 おんつぁんはほろりとかう答へた。 「よし、行くなら行つて見ろ、おんつぁん。俺屹度停車場でとつちめて見せるから」 けれどもおんつぁんはたうとう勃凸をまいて東京に出て来てしまつたのだ。而して私に今までのやうな話をして聞かせた。而して、 「とても本物だよあいつは。俺らあいつが憎めて〳〵仕方がないべ。けれどあいつに『おんつぁん』と来られると俺らぺつちやんこさ。まるでよれ〳〵になつてるんだから駄目なもんだてば」と言葉を結んだが…… そんな噂話を聞いて程もなく、勃凸がおんつぁんを追ひかけて、着のみ着のまゝで札幌から飛び出して来たといふことを知つた。 或る日、おんつぁんが来たと取り次がれたので、私は例の書斎に通すやうに云つておいて、暫くしてから行つて見ると、おんつぁんではない生若い青年だつた。背丈は尋常だが肩幅の狭い、骨細な体に何所か締りのぬけた着物の着かたをして、椅子にもかけかねる程気兼ねをしながら、おんつぁんからの用事をいひ終ると、 「ぢや帰るから」 といつて、止めるのも聴かずにどん〳〵帰つて行つてしまつた。私はすぐその男だなと思つたが、互に名乗り合ふこともしなかつた。 二三日するとおんつぁんが来て、何か紛失物はなかつたかと聞くのだつた。あすこに行つたら記念に屹度何かくすねて来る積りだつたが、何んだか気がさして、その気になれなかつたと云つてはゐたが、あいつのことだから何が何んだか分らないといふのだ。然し勿論何にも無くなつてはゐなかつた。 「めんこいとっつあんだ。額と手とがまるっでめんこくて俺らもう少しで舐めるところだつた。ありやとっつぁんぼっちやんだなあ」 ともいつたさうだ。私は笑つた。而して私がとっつぁんぼっちやんなら、あの男はぼっちやんとっちやんだといつた。而してそれから私達の間でその男のことを勃凸、私のことを凸勃といふやうになつたのだ。だから勃凸とは札幌時代からの彼の異名ではない。 その後勃凸と私との交渉はさして濃くなつて行くやうなこともなく、唯おんつぁんを通じて、彼が如何に女に愛着されるか、如何に放漫であるか、いざとなれば如何に抜け目のない強烈さを発揮するかといふことなどを聞かされるだけだつたが、今年になつて、突然勃凸と接近する機会が持ち上つた。 それは急におんつぁんが九州に旅立ち、その旅先きから又世界のどのはづれに行くかも知れないやうな事件が起つたからだ。勃凸の買つて来た赤皮の靴が法外に大き過ぎると冗談めいた口小言をいひながらも、おんつぁんはさすがに何処か緊張してゐた。私達は身にしみ通る夜風に顔をしかめながら、八時の夜行に間に合ふやうにと東京駅に急いだ。そこには先着の勃凸が、ハンティングの庇を眉深かにおろし、トンビの襟を高く立てゝ私達を待ち受けてゐた。おんつぁんは始終あたりに眼を配らなければならないやうな境涯にゐたのだ。 三等車は込み合つてゐたけれども、先に乗りこんで座席を占めてゐた勃凸の機転で、おんつぁんはやうやく窓に近いところに坐ることが出来た。おんつぁんはいつものやうに笑つて勃凸と話した。私は少し遠ざかつてゐた。勃凸が涕を拇指の根のところで拭き取つてゐるのがあやにくに見えた。おんつぁんの顔には油汗のやうなものが浮いて、見るも痛ましい程青白くなつてゐた。飽きも飽かれもしない妻と子とを残して、何んといつても住心地のいゝ日本から、どんな窮乏と危険とが待ち受けてゐるかも知れないいづこかに、盲者のやうに自分を投げ出して行かうとする。行かねばならないおんつぁんを、親身に送るものは、不良青年の極印を押された勃凸が一人ゐるばかりなのだ。こんな旅人とこんな見送り人とは、東京駅の長い歩廊にも恐らく又とはゐまい。私は思はずも感傷的になつてしまつた。而してその下らない感情を追ひ払ふためにセメントの床の上をこつ〳〵と寒さに首を縮めながら歩きまはつた。 勃凸との話が途切れるとおんつぁんはぐつたりして客車の天井を眺めてゐた。勃凸はハンティングとトンビの襟との間にすつかり顔を隠して石のやうに突つ立つてゐた。 長い事々しい警鈴の音、それは勃凸の胸をゑぐつたらう。列車は旅客を満載して闇の中へと動き出した。私達は他人同士のやうに知らん顔をし合つて別れた。 |
川に張り出した道頓堀の盛り場は、仇女の寝くたれ姿のように、たくましい家裏をまざまざと水鏡に照し出している。 太左衛門橋の袂。 舟料理の葭すだれは、まき上げられたままゆうべの歓楽の名残をとどめている。 宗右衛門町の脂粉の色を溶かしたのであろうか、水の上に臙脂を流す美しい朝焼けの空。 だが、宵っ張りの町々は目ぶた重く、まだ眼ざめてはいない。 「朝は宮、昼は料理屋、夜は茶屋……」という大阪の理想である生活与件。そのイの一番に大切な信心の木履の音もしない享楽の街の東雲。 瓦灯が淡くまたたいている。 私は、安井道頓の掘ったこの掘割に目をおとして、なんとなく、 ――どおとん。 と、つぶやく。そしてフッと ――秋 というフランスの言葉を連想する。 左様、巴里の空の下をセーヌが流れるように、わが大阪の生活の中を道頓堀川が流れているのだ。 |
函館なる郁雨宮崎大四郎君 同国の友文学士花明金田一京助君 この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。 また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。 著者 明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。集中五章、感興の来由するところ相邇きをたづねて仮にわかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり。 我を愛する歌 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず 大海にむかひて一人 七八日 泣きなむとすと家を出でにき いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて掘りてありしに ひと夜さに嵐来りて築きたる この砂山は 何の墓ぞも 砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日 砂山の裾によこたはる流木に あたり見まはし 物言ひてみる いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ しっとりと なみだを吸へる砂の玉 なみだは重きものにしあるかな |
春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。向うから来るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背広に中折帽をかぶり、ゴムか何かの長靴をはいてゐる。それにしても大きい長靴だなあ。膝――どころではない。腿も半分がたは隠れてゐる。ああ云ふ長靴をはいた時には、長靴をはいたと云ふよりも、何かの拍子に長靴の中へ落つこつたやうな気がするだらうなあ。 顔馴染の道具屋を覗いて見る。正面の紅木の棚の上に虫明けらしい徳利が一本。あの徳利の口などは妙に猥褻に出来上つてゐる。さうさう、いつか見た古備前の徳利の口もちよいと接吻位したかつたつけ。鼻の先に染めつけの皿が一枚。藍色の柳の枝垂れた下にやはり藍色の人が一人、莫迦に長い釣竿を伸ばしてゐる。誰かと思つて覗きこんで見たら、金沢にゐる室生犀星! 又ぶらぶら歩きはじめる。八百屋の店に慈姑がすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥七宝の青に似てゐる。あの慈姑を買はうかしら。譃をつけ。買ふ気のないことは知つてゐる癖に。だが一体どう云ふものだらう、自分にも譃をつきたい気のするのは。今度は小鳥屋。どこもかしこも鳥籠だらけだなあ。おや、御亭主も気楽さうに山雀の籠の中に坐つてゐる! 「つまり馬に乗つた時と同じなのさ。」 「カントの論文に崇られたんだね。」 後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大学生が二人。ちよいと聞いた他人の会話と云ふものは気違ひの会話に似てゐるなあ。この辺そろそろ上り坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に変つてゐる。尤も崖側の竹藪は不相変黄ばんだままなのだが………おつと向うから馬が来たぞ。馬の目玉は大きいなあ。竹藪も椿も己の顔もみんな目玉の中に映つてゐる。馬のあとからはモンジロ蝶。 「生ミタテ玉子アリマス。」 |
苗賣の聲は、なつかしい。 ……垣の卯の花、さみだれの、ふる屋の軒におとづれて、朝顏の苗や、夕顏の苗…… またうたに、 ……田舍づくりの、かご花活に、づツぷりぬれし水色の、たつたを活けし樂しさは、心の憂さもどこへやら…… 小うたの寄せ本で讀んだだけでも一寸意氣だ、どうして惡くない。が、四疊半でも六疊でも、琵琶棚つきの廣間でも、そこは仁體相應として、これに調子がついて、別嬪の聲で聞かうとすると、三味線の損料だけでもお安くない。白い手の指環の税がかゝる。それに、われら式が、一念發起に及んだほどお小遣を拂いて、羅の褄に、すツと長じゆばんの模樣が透く、……水色の、色氣は(たつた)で……斜に座らせたとした所で、歌澤が何とかで、あのはにあるの、このはにないのと、淺間の灰でも降つたやうに、その取引たるや、なか〳〵むづかしいさうである。 先哲いはく……君子はあやふきに近よらず、いや頬杖で讀むに限る。……垣の卯の花、さみだれの、ふる屋の軒におとづれて……か。 惡いことは申さぬ。これに御同感の方々は、三味線でお聞きになるより、字でお讀みになる方が無事である。―― 下町の方は知らない。江戸のむかしよりして、これを東京の晝の時鳥ともいひたい、その苗賣の聲は、近頃聞くことが少くなつた。偶にはくるが、もう以前のやうに山の手の邸町、土べい、黒べい、幾曲りを一聲にめぐつて、透つて、山王樣の森に響くやうなのは聞かれない。 久しい以前だけれども、今も覺えて居る。一度は本郷龍岡町の、あの入組んだ、深い小路の眞中であつた。一度は芝の、あれは三田四國町か、慶應大學の裏と思ふ高臺であつた。いづれも小笠のひさしをすゑ、脚半を輕く、しつとりと、拍子をふむやうにしつゝ聲にあやを打つてうたつたが……うたつたといひたい。私は上手の名曲を聞いたと同じに、十年、十五年の今も忘れないからである。 この朝顏、夕顏に續いて、藤豆、隱元、なす、さゝげ、唐もろこしの苗、また胡瓜、糸瓜――令孃方へ愛相に(お)の字をつけて――お南瓜の苗、……と、砂村で勢ぞろひに及んだ、一騎當千、前栽の強物の、花を頂き、蔓手綱、威毛をさばき、裝ひに濃い紫を染などしたのが、夏の陽炎に幻影を顯はすばかり、聲で活かして、大路小路を縫つたのも中頃で、やがて月見草、待よひ草、くじやく草などから、ヒヤシンス、アネモネ、チウリツプ、シクラメン、スヰートピイ。笛を吹いたら踊れ、何でも舶來ものの苗を並べること、尖端新語辭典のやうになつたのは最近で、いつか雜曲に亂れて來た。 決して惡くいふのではない、聲はどうでも、商賣は道によつて賢くなつたので、この初夏も、二人づれ、苗賣の一組が、下六番町を通つて、角の有馬家の黒塀に、雁が歸るやうに小笠を浮かして顯はれた。 ――紅花の苗や、おしろいの苗――特に註するに及ぶまい、苗賣の聲だけは、草、花の名がそのまゝでうたになること、波の鼓、松の調べに相ひとしい。床の間ものの、ぼたん、ばらよりして、缺摺鉢、たどんの空箱の割長屋、松葉ぼたん、唐辛子に至るまで聲を出せば節になる。むかし、下の句に(それにつけても金の欲しさよ)と吟ずれば、前句はどんなでもぴつたりつく。(ほとゝぎすなきつるかたをながむれば)――(それにつけてもかねのほしさよ、)――一寸見本がこんなところ。古池や、でも何でも構はぬ、といつた話がある。もつともだ。うら盆で餘計身にしみて聞こえるのと、卑しいけれども、同じであらう。 その…… ――紅花の苗や、おしろいの苗―― 小うたなるかな。ふる屋の軒におとづれた。何、座つて居ても、苗屋の笠は見えるのだが、そこは凡夫だ、おしろいと聞いたばかりで、破すだれ越に乘だして見たのであるが、續いて、 ――紅鷄頭、黄鷄頭、雁來紅の苗。……とさか鷄頭、やり鷄頭の苗―― と呼んだ。繪で見せないと、手つきや口の説明では、なか〳〵形が見せられないのに、この、とさか鷄頭、やり鷄頭は、いひ得てうまい。……學者の術語ばなれがして、商賣によつて賢しである、と思つたばかりは二人組かけ合の呼聲も、實は玄米パンと、ちんどん屋、また一所になつた……どぢやう、どぢやう、どぢやう――に紛れたのであつた。 こちらで氣をつけて、聞迎へるのでなくつては、苗賣は、雜音のために、どなたも、一寸氣がつかないかも知れぬと思ふ。 まして深夜の鳥の聲。 俳諧には、冬の季になつて居たはずだが、みゝづくは、春の末から、眞夏、秋も鳴く。……ともすると梅雨うちの今頃が、あの、忍術つかひ得意の時であらうも知れぬ。魔法、妖術、五月暗にふさはしい。……よひの間のホウ、ホウは、あれは、夜鷹だと思はれよ。のツホウホー、人魂が息吹をするとかいふ聲に、藍暗、紫色を帶して、のりすれ、のりほせのないのは木菟で。……大抵眞夜中の二時過ぎから、一時ほどの間を遠く、近く、一羽だか、二羽だか、毎夜のやうに鳴くのを聞く。寢ねがての夜の慰みにならないでもない。 陽氣の加減か、よひまどひをして、直き町内の大銀杏、ポプラの古樹などで鳴く事があると、梟だよ、あゝ可恐い。……私の身邊には、生にくそんな新造は居ないが、とに角、ふくろにして不氣味がる。がふくろの聲は、そんな生優しいものではない。――相州逗子に住つた時、秋もややたけた頃、雨はなかつたが、あれじみた風の夜中に、破屋の二階のすぐその欄干と思ふ所で、化けた禪坊主のやうに、哃喝をくはしたが、思はず、引き息で身震ひした。唐突に犬がほえたやうな凄まじいものであつた。 だから、ふくろの聲は、話に聞く狼がうなるのに紛れよう。……みゝづくの方は、木精が戀をする調子だと思へば可い。が、いづれ魔ものに近いのであるから、又ばける、といはれるのを慮つて、内々遠慮がちに話したけれども、實は、みゝづくは好きである。第一形が意氣だ。――閨、いや、寢床の友の、――源語でも、勢語でもない、道中膝栗毛を枕に伏せて、どたりとなつて、もう鳴きさうなものだと思ふのに、どこかの樹の茂りへ顯はれない時は、出來るものなら、内懷に隻手の印を結んで、屋の棟に呼びたい、と思ふくらゐである。 旅行をしても、この里、この森、この祠――どうも、みゝづくがゐさうだ、と直感すると、果して深更に及んで、ぽツと、顯はれ出づるから則ち話せる。――のツほーほう、ほツほウ。 「おいでなさい、今晩は。……」 つい先月の中旬である。はじめて外房州の方へ、まことに緊縮な旅行をした、その時―― 待て、旅といへば、内にゐて、哲理と岡ぼれの事にばかり凝つてゐないで、偶には外へ出て見たがよい。よしきり(よし原すゞめ、行々子)は、麥の蒼空の雲雀より、野趣横溢して親しみがある。前にいつたその逗子の時分は、裏の農家のやぶを出ると、すぐ田越川の流れの續きで、一本橋を渡る所は、たゞ一面の蘆原。滿潮の時は、さつと潮してくる浪がしらに、虎斑の海月が乘つて、あしの葉の上を泳いだほどの水場だつたが、三年あまり一度もよしきりを聞いた事……無論見た事もない。 後に、奧州の平泉中尊寺へ詣でたかへりに、松島へ行く途中、海の底を見るやうな岩の根を拔ける道々、傍の小沼の蘆に、くわらくわいち、くわらくわいち、ぎやう、ぎやう、ぎやう、ちよツ、ちよツ、ちよツ……を初音に聞いた。 まあ、そんなに念いりにいはないでも、凡烏の勘左衞門、雀の忠三郎などより、鳥でこのくらゐ、名と聲の合致したものは少からう、一度もまだ見聞きした覺えのないものも、聲を聞けば、すぐ分る…… ぎやうぎやうし、ぎやうぎやうし、ぎやうぎやうし、ぎやうぎやうし。 もし〳〵、久保田さん、と呼んで、こゝで傘雨さんにお目にかゝりたい。これでは句になりますまいか。 ぎやうぎやうし、ぎやうぎやうし、ぎやうぎやうし。 顏と腹を横に搖つて、万ちやんの「折合へません」が目に見える。 加賀の大野、根生の濱を歩行いた時は、川口の洲の至る所、蘆一むらさへあれば、行々子の聲が渦を立てた、蜷の居る渚に寄れば、さら〳〵と袖ずれの、あしのもとに、幾十羽ともない、くわらくわいち、くわらくわいち、ちよツ、ちよツで。ぬれ色の、うす紅らんだ莖を傳ひ、水をはねて、羽の生えた鮒で飛囘る。はら〳〵と立つて、うしろの藁屋の梅に五六羽、椿に四五羽、ちよツちよツと、旅人を珍しさうに、くちばしを向けて共音にさへづつたのである。――なじみに成ると、町中の小川を前にした、旅宿の背戸、その水のめぐる柳の下にも來て、朝はやくから音信れた。 ……次手に、おなじ金澤の町の旅宿の、料理人に聞いたのであるが、河蝉は黐を恐れない。寧ろ知らないといつても可い。庭の池の鯉を、大小計つてねらひにくるが、仕かけさへすれば、すぐにかゝる。また、同國で、特産として諸國に貨する、鮎釣の、あの蚊針は、すごいほど彩色を巧に昆蟲を模して造る。針の稱に、青柳、女郎花、松風、羽衣、夕顏、日中、日暮、螢は光る。(太公望)は諷する如くで、殺生道具に阿彌陀は奇なり。……黒海老、むかで、暗がらす、と不氣味になり、黒虎、青蜘蛛とすごくなる。就中、ねうちものは、毛卷におしどりの羽毛を加工するが、河蝉の羽は、職人のもつとも欲するところ、特に、あの胸毛の火の燃ゆる緋は、魔の如く魚を寄せる、といつて價を選ばないさうである。たゞ斷つて置くが、その搖る篝火の如き、大紅玉を抱いた彼のをんなは、四時ともに殺生禁斷のはずである。 さて、よしきりだが、あのおしやべりの中に、得もいはれない、さびしい情の籠つたのがうれしい。いふまでもなく番町邊では、あこがれる蛙さへ聞かれない。どこか近郊へ出たら、と近まはりで尋ねても、湯屋も床屋も、釣の話で、行々子などは對手にしない。ひばり、こま鳥、うぐひすを飼ふ町内名代の小鳥ずきも、一向他人あつかひで對手にせぬ。まさか自動車で、ドライブして、搜して囘るほどの金はなし……縁の切れめか、よし原すゞめ、當分せかれたと斷念めて居ると、當年五月――房州へ行つた以前である。 馬鹿の一覺え、といふのだらう。あやめは五月と心得た。一度行つて見よう見ようで、まだ出かけた事のない堀切へ……急ぎ候ほどに、やがて着くと、引きぞ煩らはぬいづれあやめが、憚りながら葉ばかりで伸びて居た。半出來の藝妓――淺草のなにがしと札を建てた――活人形をのぞくところを、唐突に、くわら〳〵、くわら、と蛙に高笑ひをされたのである。よしよしそれも面白い。あれから柴又へお詣りしたが、河甚の鰻……などと、贅は言はない。名物と聞く切干大根の甘いにほひをなつかしんで、手製ののり卷、然も稚氣愛すべきことは、あの渦卷を頬張つたところは、飮友達は笑はば笑へ、なくなつた親どもには褒美に預からうといふ、しをらしさのおかげかして、鴻の臺を向うに見る、土手へ上ると、鳴く、鳴く、鳴くぞ、そこに、よしきり。 巣立ちの頃か、羽音が立つて、ひら〳〵と飛交はす。 |
あつい国ぐにでは、お日さまが、やきつくように強く照りつけます。そこではたれでも、マホガニ色に、赤黒くやけます。どうして、そのなかでも、ごくあつい国では、ほんものの黒んぼ色にやけてしまうのです。 ところが、こんど、寒い北の国から、ひとりの学者が、そういうあつい国へ、そんなつもりではなく出てきました。この人は国にいるじぶんの気で、こちらにきても、ついそこらをぶらつくことができるつもりでいました。でもさっそく、その考えはかえて、この人も、この国のせけんなみに、やはりじっとしていなければなりませんでした。どこの家も、それは、窓も戸も、まる一日しめきりで、中にいる人は、ねているのか、どこかよそへ出ているとしかおもえないようでした。この人の下宿している高いたてもののつづきのせまい通りは、おまけに朝から晩まで、日がかんかんてりつけるようなぐあいにできていて、これはまったくたまらないことでした。 さて、さむい国からきた学者は、年は若いし、りこうな人でしたが、でもまる一日、にえたぎっているおかまの中にすわっているようで、これにはまったくよわりきって、げっそりやせてしまいました。その影までが、ちぢこまって、国にいたじぶんから見ると、ずっと小さくなりましたが、お日さまには、影までいじめつけられたのです。――で、やっと晩になって、お日さまが沈むと、人も影もはじめていきをふき返すようでした。さて、あかりがへやのなかにはいってくると、さっそく影はずんずんのびて、天井までつきぬけるほどたかくなります。それはまったく見ているとおもしろいようでした。影は元気をとりかえすつもりか、のびられるだけたかく、せいのびするように見えました。学者は、露台へ出ると、のびをひとつしました。きれいな大空の上に、星が出てきて、やっと生きかえったようにおもいました。町じゅうのバルコニにも――あつい国ぐにでは、窓ごとにバルコニがついているのですが、――みんなが新しい空気をすいに出てきました。 いくらマホガニ色にやけることにはなれても、すずむだけはすずまずにはいられません。すると上も下もにぎやかになってきました。まずくつやと仕立屋が、それから町じゅうの人が、下の往来に出てきました。それから、いすとテーブルがもち出されて、ろうそくが、それは千本という数ものろうそくがともされます。話をするものもあれば、うたうものもあり、ぶらぶらあるくものもあります。馬車が通ります。ろばがきます。チリンチリン、鈴をつけているのです。死人が讃美歌に送られておはかにはいります。不良どもは往来でとんぼをきります。お寺のかねがなりわたります。いやはや、どこもここも、大にぎやかなことでした。ただ、れいの外国から来た学者のすまいの、ちょうどまん前のたてものだけは、いたってしずかでしたが、やはり住んでいる人はあるようで、バルコニには花がおいてありました。それがやきつくような日の下で、美しく咲いているところを見ると、水をやるものがなければ、そうはいかないはずですから、たれか人がいるにはちがいありません。晩方になるとその戸は半びらきにあきました。けれど、うちの中はとにかく、おもてにむいたへやだけはまっくらで、そのくせずっと奥のへやからは、おんがくがきこえました。外国の学者は、このおんがくを、じつにいいものだとおもっていました。でも、それはこの人だけの想像でそうおもっていたのかも知れません。だってこの学者は、日さえぎらぎら照らなければ、そのほかはこのあつい国のものを、なにによらず、すばらしいとおもっていたからです。下宿の主人にきいてみても、前の家をたれが借りているのか知りませんでした。なにしろ、にんげんの姿をみたことがないというのです。さて音楽についていえば、この下宿の主人には、それはとても、たいくつせんばんなものにおもわれていました。 主人がいうには、「どうもだれかあの家に人がいて、どうやってもひきこなせないひとつの曲を、始終いじくりまわしているのですね、――それはいつもおなじ曲なのです。『どうでも弾きこなす』といういきごみらしいが、いつまでひいていても、ものにはならないのですよ。」 ある晩夜中に、この外国の学者は、ふと目をさましました。バルコニの戸をあけはなしたまま、ついそこにねむってしまったのです。すると風がきて、はなの先のカーテンを吹き上げました。そのとたん、ふしぎな光が、すぐ前の家のバルコニから、さしこんできたようにおもわれました。そこにあるのこらずの花が、じつにきれいな色をしたほのおのように、かがやいて見え、その花のまん中に、美しいすらりとした姿の少女が立っていましたが、この人のからだから、ふしぎな光がさしてくるようにおもわれました。学者はひどく目がくらくらするようでしたが、むりやり大きい目をあけると、それでやっと目がさめました。あわててベッドからとびおりて、そうっと、カーテンのうしろへはいっていきました。けれど少女の姿はなく、光も消えていて、花もべつだんかがやいてもいず、ただいつものようにきれいに咲いているだけでした。戸は半開きになっていて、なかから音楽が、いかにもやさしく、いかにもあまくうつくしく、ほれぼれと引きこまれるような音にきこえていました。これこそまったく魔法のようなわざでした。たれがそこに住まっているのでしょう。いったい、どこが入口なのでしょう。なぜといって、下の往来にむかったほうは、店つづきで、どうもそこを通って、中へはいけないようになっていました。 ある晩、外国の学者は、バルコニに出ていました。すぐうしろのへやには、あかりがかんかんしていました。ですから、この人の影が、むこうがわの家のかべにうつるのは、まず、あたりまえの話でした。そう、そこで影は、ちょうどむこうのバルコニの花と花のあいだに、すわっていることになりました。そして、この学者がからだを動かすといっしょに、影も動きました。 そのとき、この学者はいいました。 「どうもこうしていると、わたしの影だけが、むこうの家にひとり生きて住んでいるような気がする。ほらあの通り、ぎょうぎよく、花のあいだにじっとこしをおろしている。戸は半分あいているだけだが、影はなかなかりこうものだから、ずんずん、中へはいっていって、そこらをよく見てまわって、帰ってきて、見たとおりを話してくれるにちがいない。そうだ、ぼくの影法師、おまえはそんなふうにして、一働きしてきてもらいたいものだ。」と、学者は、じょうだんにいいました。「どうかうまくするりとはいって見てもらいたい。さあどうだ、いってくれるかい。」こういって、学者は影に、あごでうなずきますと、影もうなずきかえしました。「さあ、いっておいで。だが鉄砲玉のお使はごめんだよ。」 そこで、学者は立ちあがりました。すると、影も、むこうの家のバルコニで立ちあがりました。それから、学者がうしろをむくと、影がそれといっしょに、うしろむきになってむこうの家の半開きにした戸の中へ、すっとはいっていったところを、たれかみていたら、そこまでみとどけたはずでした。しかし学者は、そのままずっとへやへはいって、長いカーテンをおろしてしまいました。 そのあくる朝、学者は喫茶店へ、新聞をよみに出かけました。 それでひなたへ出ますと、「おや、どうした。」と、この人はいいました。「はて、おれには影がないぞ。するとほんとうに、ゆうべ影のやつ、出かけていって、あれなりかえってこないのだな。いまいましいことになった。」 さあ、学者はむしゃくしゃしてきました。でも、それは影がなくなったためというよりは、影*をなくした男のお話のあるのを知っているからです。寒い国ぐにの人たちは、たれもその話を知っていました。ですから学者が国へかえって、じぶんのじっさい出あった話をしても、きっとそれは人まねだといってしまわれるでしょう。そんなことをいわれるわけはない。だから、この話はまるでしないでおこうと、おもいました。これはいかにももっともな考えでした。 *ドイツのシャミソー作小説「影をなくした男」のこと。 その晩、学者は、またバルコニに出ていました。まうしろにあかりをつけておきました。それは影というものは、いつも主人を光の前に立てて、そのかげにいたがるものだということを知っていたからですが、どうも、やはりさそいだせませんでした。ちぢんでみたり、せいのびしてみたりしましたが、やはりかげはありません。まるであらわれてこないのです。 「えへん、えへん。」知らせてみてもいっこうだめでした。どうもごうはらなことでした。 けれど、さすがに熱い国です。どんなものでも、じつに成長がはやいので、一週間ばかり間をおいてひなたへ出てみますと、あたらしい影が、足の先から生えて大きくなりかけているので、すっかりうれしくなりました。してみる、と影の根が残っていたものとみえます。それで三週間もたつと、もうかなりな影になり、いよいよ北の国にかえるじぶんには、とちゅう旅の間にも、ずんずん成長して、しまいには、あんまり長すぎもし、大きすぎもして、もう半分でたくさんだとおもうくらいになりました。 こうして学者は国へかえると、この世の中にある真実なこと、善いこと、美しいことについて本を書きました。さてその後、日が立って、月がたって、いくねんかすぎました。 ある晩、へやの中にいますと、そっと、こつこつ、戸をたたくものがありました。 「おはいりなさい。」と、学者はいいましたが、たれもはいってくるものはありません。そこで戸をあけますと、すぐ目の前に、それはじつに、とほうもなくやせた男が、ひょろりと立っていたので、すっかりおどろいてしまいました。そのくせ男は、みたところ、なかなかりっぱな、品のいい身なりで、いかさま身分のある人にちがいありません。 「しつれいながら、どなたでございましょうか。」と、学者はたずねました。 「いや、ごもっともで。」と、そのりっぱな客人はいいました。「たぶんごしょうちでしょう。なにしろこのとおり、からだができましてね。おいおい肉がつき、衣服も身にそったというわけです。あなたはおそらく、ゆめにもわたしが、このような安らかなきょうぐうにいようと、お考えになったことはありますまいな。あなた、ごじぶんのむかしの影法師をお見忘れですか。そう、あなたはわたしがまたかえってこようなどとは、むろんお考えにならなかったでしょう。あなたにおわかれしてから、ばんじひじょうにこうつごうに運びましてね。わたしはどの点より見ても、しごく有福になったのです。お給金を払いもどして、一本だちの人間にしていただこうとおもえば、いつでもそのくらいのことはできるのですよ。」 こういって、その男は、とけいにつけた高価なかぎたばを、がちゃがちゃと鳴らし、首のまわりにかけた、どっしりおもい金ぐさりのあいだに、手をつっこみました。その指には、一ぽんのこらず、ダイヤモンドの指輪がきらきら光っていました。しかも、それはみんなほんものです。 「いやはや、これはいったい、どうしたということだ。」と、学者はいいました。 「さようさ、まず世間並のことではありませんな。」と、影はいいました。「でもあなただって世間並のほうじゃありませんよ。ごぞんじの通り、わたしはこどもの時から、ずっとあなたの足あとについてあるいてきました。そしてあなたが、わたしが十分大きくなって、もうひとりで世間あるきができるとお考えになったとき、さっそくわたしはじぶんの道をいくことにしました。わたしはおよそかがやかしいきょうぐうに身をおくようになりましたが、でもやはり、あなたがおなくなりにならないまえにぜひもういちどお目にかかりたい、いわば、あこがれのようなものをいだいていました。あなたも、いずれお死ににならなければならないでしょうし、わたしも故郷忘じがたしで、このへんをもういちど見ておきたいとおもったのです。――あなたがもうひとつ、ほかの影法師をおやといになったことも、わたしは知っています。その影法師になり、またあなたになり、なにがしか借があれば、お支払いしましょうか。どうぞごえんりょなくおっしゃってください。」 「でもきみ、それはほんとうなのかい。」と、学者はいいました。「どうもまったくふしぎだよ。じぶんのむかしの影法師が、にんげんになって、またかえってくるなんて、おもいもつかんことだ。」 「なにほどお支払したらいいか、おっしゃっていただきたい。」と、影はいいました。「なにしろ、わたしは人に借をのこしておくのが、きらいな性分でして。」 「なんだってそんなことをいうんだ。」と、学者はいいました。「このばあい、貸借なんて問題のありようはずがないさ。ほかのにんげんどうよう、きみは自由だよ。きみの幸運にたいして、わたしはひじょうに、よろこんでいる。きゅう友、まあ、かけたまえ。そしてそのご、どういうことがあったか、あちらのあつい国ぐにで、ことに、あのむこうがわの家で、君の見たことはなにか、そんなことをすこし話してくれたまえ。」 「はあ、お話し申しましょう。」と、影はいって、こしをおろしました。「ところで、あなたにもお約束ねがいたいのですが、この町のどこぞで、わたしに出あったばあい、だれにも、わたしがむかしあなたの影法師であったということは、けっして話さないことにしてください。わたしは結婚しようと考えているのです。一家をやしなうぐらい、今ではなんでもないのですから。」 「それは安心したまえ。」と、学者はいいました。「きみの素性がなんであるか、だれにもいうものではない。このとおり手をさしのべて約束する。ひとりの男にひとつのことば。男子に二言なし。」 「ひとつの影にひとつのことば。影に二言なし。」と、影もいいました。影としては、こういわなければなりますまい。 さて、影がいかにもにんげんになりきっていたのは、まったく、おどろくべきことでした。上も下もすっかり黒ずくめで、それがとてもじょうとうのきれで、その上にエナメルのくつをはき、押しつぶすと、てんじょうと縁鍔だけになるぼうしをかぶっていました。そのほかとけいの飾金具、首にかけた金鎖や、ダイヤモンドのゆびわなど、すでにごしょうちのとおりですから申しません。じっさい、影は、すばらしくいい身なりをしていました。どうやら影が人間らしくとりつくろっていられたのも、まったくその身なりのおかげでした。 「ではお話し申しましょう。」と、影はいって、エナメルのくつをはいた足をのばすと、学者の足もとに、むく犬のようにうずくまっているしんまいの影の腕に、力いっぱいふんづけるように、それをのせました。これはわざと尊大ぶってしたことか、たぶん、しんまいの影を、永劫じぶんに頭のあがらぬものにしておくつもりか、どちらかなのでしょう。でも横になった影は、そばでよく話が聞きたいので、ごくおとなしく、じっとしていました。この影も、いつかこんなふうに自由になって、主人風が吹かされようか、それを知りたいとおもっていました。 「れいのむこうがわの家には、だれが住んでいたかご存じですか。」と、影はいいました。「そこに住んでいたのは、すべてのものの中で一ばん美しいものでした。あれは詩でしたよ。わたしはあの家に三週間もとまっていましたが、その間にまるで三千年もそこでくらして、昔の人の書いたものつくったもののこらず読みつくしたかとおもうほど、急になにかがしっかりしてきました。なにしろそれはお話するとおり、まちがいのないことなんでして、わたしはなんでも見て、なんでも知っていますよ。」 「詩だったか。」と、学者はさけびました。「そうだろう、そうだろう。――詩はどうかすると隠者のように大都会に住んでいる。うん、詩だったか。そうだ、わたしも、ほんのちらりとその姿を見たには見たが、眠りが目ぶたをふさいでしまったのさ、詩はバルコニに立っていて、まるで極光のように光っていた。話しておくれ。話しておくれ。おまえは、バルコニの上に立っていた、戸をぬけて中へはいっていった、そしてそれから――。」 「入口のへやに入りました。」と、影はいいました。「あなたはいつもじっとこしをかけてそこのへやのほうを見ていましたね。あそこには、あかりというものがなく、まあうすあかりといった感じでした。でもそのうしろの戸はあいていて、それから順じゅんにへやと広間のならんだずっと奥まで見とおせたのですが、そこはまひるのようにあかるくて、かりにわたしがいきなりその女のひとのすぐそばまでいったとしたら、そこのおびただしい光にうたれて、死んでしまったことでしょう。ところがわたしは考え深く、ゆっくりかまえていたのです。人はだれでもこうありたいものですよ。」 「すると、おまえはなにを見たのだね。」と、学者はたずねました。 「なにもかも見てしまったのです。それをあなたにお話しましょう。ところで――これはなにもわたしがこうまんにかまえるわけではないのですが、しかし――自由人として、またわたしの所有する知識にたいしても――まあ、そうとうたかい今の身分やきょうぐうのことは申しますまいが――どうかおまえよばわりだけは、やめていただきたいものですな。」 「やあ、これは失策でした。」と、学者はいいました。「昔の習慣は、あらためにくいものでしてね。――いや、おっしゃるとおりだ。よろしい、よく気をつけましょう。ところで、あなたのごらんになったことを、のこらずお話しねがいたいのだが。」 「話しますとも。」と、影はいいました。「なにしろ、なにもかも見て知っているのですから。」 「ではいちばんおくの広間はどんなようすでしたか。」と、学者はいいました。「若葉の森の中にでもいるようでしたか。神聖な教会の中にでもはいったようでしたか。高い山の上に立って、星あかりの空を見るようでしたか。」 「なにもかも、そこにはありましたよ。」と、影はいいました。「もっとも、すっかりその中にはいって見たわけではないのです。わたしはいちばんてまえの、うすあかるいへやに、じっとしていたのですが、それがこの上もないよいぐあいで、なにもかも見、なにもかも知ったのです。わたしは入口のへやで、いわば、詩の大庭にいたわけです。」 「だが、なにをそこで見ましたか。太古の神がみのこらずが、その大きな広間をとおっていきましたか。古代の英雄が、そこで戦っていましたか。かわいらしいこどもたちが、そこであそびたわむれていて、その見た夢の話でもしていましたか。」 「わたしは申しますが、わたしはそのへやにいたのですよ。ですから、そこで見るべきものは、すべてわたしが見たということはおわかりでしょう。かりにあなたがそこにやってこられたとすれば、もうそれなり人間ではいられないところでしたろう。だが、わたしは人間になったのですよ。それと同時に、わたしはじぶんのおくのおくにかくれた本性もわかり、じぶんの天分もわかり、じぶんが詩と近親の関係にあることも知りました。まだあなたのおそばにいたころ、わたしはそんなことは考えませんでした。ですが、あなたもごしょうちでしょう、太陽があがるとき、また太陽が沈むとき、いつもきまって、わたしはすばらしく大きくなりましたね。月の光のなかでは、わたしはあなた自身よりも、かえってはっきりとみえたくらいでした。そのころは、じぶんの本性がよくわかってはいなかったのです。けれど詩の入口で、それがはじめてあきらかになったのです。――わたしは人間になりました。――一人前になって、わたしはまたかえっていったのですが、もうその時は、あなたはあつい国のどこにもおいでがなかった。さて、人間になってみると、わたしは前のようなかっこうであるくのが恥かしくなりました。くつもないし、着物もないし、すべて人間を人間らしくみせる装飾品がたりないのです。わたしはかくれました。まったく、あなただから打ちあけていうのですよ。けっして本に書いていただきたくないが、わたしは菓子売女の前掛の下にかくれたのです。その女は、どんなに大きなものがかけこんだか、まるで気もつきませんでした。晩になってはじめて、わたしは外へ出ました。月の光の中を、わたしは往来じゅうかけまわりました。わたしは長ながとかべにからだをのばしますと、とても気持よく背中をくすぐられるようでした。わたしは高くなったり低くなったり、かけずりまわって、一ばん高い窓から広間の中をのぞき込んだり、また屋根の上からだれものぞけないところをのぞきこんで、だれも見たこともないこと、見てはいけないことまで見ました。つまりそれはつまらない世界でした。もしも人間であるということが、なにかいいことのようにおもわれていなかったなら、わたしは人間なんかにはならなかったでしょう。わたしは妻や夫や両親や、かわいらしい天使のようなこどもたちの間にも、まさかとおもわれるようなことが、行われているのを見ました。――またわたしは、」と、影はいいました。「人間が知ってならぬことで、そのくせ知れれば知りたいだろうと思うことを、たとえば、近所の人たちのしている悪事なども見ました。そのとおりしんぶんに書いたら、どんなにか読者にうけることでしょうが、わたしはじかにかんけいのある当のその人だけに手紙をやりました。だから、わたしがいく先ざきの町では、大恐慌をおこしていました。教授たちは、わたしを教授にしてくれましたし、仕立屋はわたしに新しい着物をくれました。それで、わたしはりっぱな身なりをしているのでさ。造幣所長はわたしのために、金貨を鋳てくれました それから婦人たちは、わたしの男ぶりをほめてくれました。まあ、そういうわけで、わたしはごらんのとおりのにんげんになったのです。しかし、もうおいとましましょう。名刺をおいていきます。ひなたがわに住んでいます。雨ふりの日はいつも在宅です。」 こういって、影は出ていきました。 「なにしろこれはめずらしいことだ。」と、学者はいいました。 年月がたちました。すると、影はまたやってきました。 「やあ、その後いかがです。」と、影はたずねました。 |
舎衛城は人口の多い都である。が、城の面積は人口の多い割に広くはない。従ってまた厠溷も多くはない。城中の人々はそのためにたいていはわざわざ城外へ出、大小便をすることに定めている。ただ波羅門や刹帝利だけは便器の中に用を足し、特に足を労することをしない。しかしこの便器の中の糞尿もどうにか始末をつけなければならぬ。その始末をつけるのが除糞人と呼ばれる人々である。 もう髪の黄ばみかけた尼提はこう言う除糞人の一人である。舎衛城の中でも最も貧しい、同時に最も心身の清浄に縁の遠い人々の一人である。 ある日の午後、尼提はいつものように諸家の糞尿を大きい瓦器の中に集め、そのまた瓦器を背に負ったまま、いろいろの店の軒を並べた、狭苦しい路を歩いていた。すると向うから歩いて来たのは鉢を持った一人の沙門である。尼提はこの沙門を見るが早いか、これは大変な人に出会ったと思った。沙門はちょっと見たところでは当り前の人と変りはない。が、その眉間の白毫や青紺色の目を知っているものには確かに祇園精舎にいる釈迦如来に違いなかったからである。 釈迦如来は勿論三界六道の教主、十方最勝、光明無礙、億々衆生平等引導の能化である。けれどもその何ものたるかは尼提の知っているところではない。ただ彼の知っているのはこの舎衛国の波斯匿王さえ如来の前には臣下のように礼拝すると言うことだけである。あるいはまた名高い給孤独長者も祇園精舎を造るために祇陀童子の園苑を買った時には黄金を地に布いたと言うことだけである。尼提はこう言う如来の前に糞器を背負った彼自身を羞じ、万が一にも無礼のないように倉皇と他の路へ曲ってしまった。 しかし如来はその前に尼提の姿を見つけていた。のみならず彼が他の路へ曲って行った動機をも見つけていた。その動機が思わず如来の頬に微笑を漂わさせたのは勿論である。微笑を?――いや、必ずしも「微笑を」ではない。無智愚昧の衆生に対する、海よりも深い憐憫の情はその青紺色の目の中にも一滴の涙さえ浮べさせたのである。こう言う大慈悲心を動かした如来はたちまち平生の神通力により、この年をとった除糞人をも弟子の数に加えようと決心した。 尼提の今度曲ったのもやはり前のように狭い路である。彼は後を振り返って如来の来ないのを確かめた上、始めてほっと一息した。如来は摩迦陀国の王子であり、如来の弟子たちもたいていは身分の高い人々である。罪業の深い彼などは妄りに咫尺することを避けなければならぬ。しかし今は幸いにも無事に如来の目を晦ませ、――尼提ははっとして立ちどまった。如来はいつか彼の向うに威厳のある微笑を浮べたまま、安庠とこちらへ歩いている。 尼提は糞器の重いのを厭わず、もう一度他の路へ曲って行った。如来が彼の面前へ姿を現したのは不可思議である。が、あるいは一刻も早く祇園精舎へ帰るためにぬけ道か何かしたのかも知れない。彼は今度も咄嗟の間に如来の金身に近づかずにすんだ。それだけはせめてもの仕合せである。けれども尼提はこう思った時、また如来の向うから歩いて来るのに喫驚した。 三度目に尼提の曲った路にも如来は悠々と歩いている。 四たび目に尼提の曲った道にも如来は獅子王のように歩いている。 五たび目に尼提の曲った路にも、――尼提は狭い路を七たび曲り、七たびとも如来の歩いて来るのに出会った。殊に七たび目に曲ったのはもう逃げ道のない袋路である。如来は彼の狼狽するのを見ると、路のまん中に佇んだなり、徐ろに彼をさし招いた。「その指繊長にして、爪は赤銅のごとく、掌は蓮華に似たる」手を挙げて「恐れるな」と言う意味を示したのである。が、尼提はいよいよ驚き、とうとう瓦器をとり落した。 「まことに恐れ入りますが、どうかここをお通し下さいまし。」 進退共に窮まった尼提は糞汁の中に跪いたまま、こう如来に歎願した。しかし如来は不相変威厳のある微笑を湛えながら、静かに彼の顔を見下している。 「尼提よ、お前もわたしのように出家せぬか!」 如来が雷音に呼びかけた時、尼提は途方に暮れた余り、合掌して如来を見上げていた。 「わたくしは賤しいものでございまする。とうていあなた様のお弟子たちなどと御一しょにおることは出来ませぬ。」 「いやいや、仏法の貴賤を分たぬのはたとえば猛火の大小好悪を焼き尽してしまうのと変りはない。……」 それから、――それから如来の偈を説いたことは経文に書いてある通りである。 半月ばかりたった後、祇園精舎に参った給孤独長者は竹や芭蕉の中の路を尼提が一人歩いて来るのに出会った。彼の姿は仏弟子になっても、余り除糞人だった時と変っていない。が、彼の頭だけはとうに髪の毛を落している。尼提は長者の来るのを見ると、路ばたに立ちどまって合掌した。 「尼提よ。お前は仕合せものだ。一たび如来のお弟子となれば、永久に生死を躍り越えて常寂光土に遊ぶことが出来るぞ。」 尼提はこう言う長者の言葉にいよいよ慇懃に返事をした。 「長者よ。それはわたくしが悪かった訣ではございませぬ。ただどの路へ曲っても、必ずその路へお出になった如来がお悪かったのでございまする。」 しかし尼提は経文によれば、一心に聴法をつづけた後、ついに初果を得たと言うことである。 |
一 日光掩蔽 地上清涼 靉靆垂布 如可承攬 其雨普等 四方倶下 流樹無量 率土充洽 山川険谷 幽邃所生 卉木薬艸 大小諸樹 「もし憚ながらお布施申しましょう。」 背後から呼ぶ優しい声に、医王山の半腹、樹木の鬱葱たる中を出でて、ふと夜の明けたように、空澄み、気清く、時しも夏の初を、秋見る昼の月の如く、前途遥なる高峰の上に日輪を仰いだ高坂は、愕然として振返った。 人の声を聞き、姿を見ようとは、夢にも思わぬまで、遠く里を離れて、はや山深く入っていたのに、呼懸けたのは女であった。けれども、高坂は一見して、直に何ら害心のない者であることを認め得た。 女は片手拝みに、白い指尖を唇にあてて、俯向いて経を聞きつつ、布施をしようというのであるから、 「否、私は出家じゃありません。」 と事もなげに辞退しながら、立停って、女のその雪のような耳許から、下膨れの頬に掛けて、柔に、濃い浅葱の紐を結んだのが、露の朝顔の色を宿して、加賀笠という、縁の深いので眉を隠した、背には花籠、脚に脚絆、身軽に扮装ったが、艶麗な姿を眺めた。 かなたは笠の下から見透すが如くにして、 「これは失礼なことを申しました。お姿は些ともそうらしくはございませんが、結構な御経をお読みなさいますから、私は、あの、御出家ではございませんでも、御修行者でいらっしゃいましょうと存じまして。」 背広の服で、足拵えして、帽を真深に、風呂敷包を小さく西行背負というのにしている。彼は名を光行とて、医科大学の学生である。 時に、妙法蓮華経薬草諭品、第五偈の半を開いたのを左の掌に捧げていたが、右手に支いた力杖を小脇に掻上げ、 「そりゃまあ、修行者は修行者だが、まだ全然素人で、どうして御布施を戴くようなものじゃない。 読方だって、何だ、大概、大学朱熹章句で行くんだから、尊い御経を勿体ないが、この山には薬の草が多いから、気の所為か知らん。麓からこうやって一里ばかりも来たかと思うと、風も清々しい薬の香がして、何となく身に染むから、心願があって近頃から読み覚えたのを、誦えながら歩行いているんだ。」 かく打明けるのが、この際自他のためと思ったから、高坂は親しく先ず語って、さて、 「姉さん、お前さんは麓の村にでも住んでいる人なんか。」 「はい、二俣村でございます。」 「あああの、越中の蛎波へ通う街道で、此処に来る道の岐れる、目まぐるしいほど馬の通る、彼処だね。」 「さようでございます。もう路が悪うございまして、車が通りませんものですから、炭でも薪でも、残らず馬に附けて出しますのでございます。 それに丁どこの御山の石の門のようになっております、戸室口から石を切出しますのを、皆馬で運びますから、一人で五疋も曳きますのでございますよ。」 「それではその麓から来たんだね、唯一人。……」 静に歩を移していた高坂は、更にまた女の顔を見た。 「はい、一人でございます、そしてこちらへ参りますまで、お姿を見ましたのは、貴方ばかりでございますよ。」 いかにもという面色して、 「私もやっぱり、そうさ、半里ばかりも後だった、途中で年寄った樵夫に逢って、路を聞いた外にはお前さんきり。 どうして往って還るまで、人ッ子一人いようとは思わなかった。」 この辺唯なだらかな蒼海原、沖へ出たような一面の草を眗しながら、 「や、ものを言っても一つ一つ谺に響くぞ、寂しい処へ、能くお前さん一人で来たね。」 女は乳の上へ右左、幅広く引掛けた桃色の紐に両手を挟んで、花籃を揺直し、 「貴方、その樵夫の衆にお尋ねなすって可うございました。そんなに嶮しい坂ではございませんが、些とも人が通いませんから、誠に知れにくいのでございます。」 「この奥の知れない山の中へ入るのに、目標があの石ばかりじゃ分らんではないかね。 それも、南北、何方か医王山道とでも鑿りつけてあればまだしもだけれど、唯河原に転っている、ごろた石の大きいような、その背後から草の下に細い道があるんだもの、ちょいと間違えようものなら、半年経歴っても頂には行かれないと、樵夫も言ったんだが、全体何だって、そんなに秘して置く山だろう。全くあの石の裏より外に、何処も路はないのだろうか。」 「ございませんとも、この路筋さえ御存じで在らっしゃれば、世を離れました寂しさばかりで、獣も可恐のはおりませんが、一足でも間違えて御覧なさいまし、何千丈とも知れぬ谷で、行留りになりますやら、断崖に突当りますやら、流に岩が飛びましたり、大木の倒れたので行く前が塞ったり、その間には草樹の多いほど、毒虫もむらむらして、どんなに難儀でございましょう。 旧へ帰るか、倶利伽羅峠へ出抜けますれば、無事に何方か国へ帰られます。それでなくって、無理に先へ参りますと、終局には草一条も生えません焼山になって、餓死をするそうでございます。 本当に貴方がおっしゃいます通り、樵夫がお教え申しました石は、飛騨までも末広がりの、医王の要石と申しまして、一度踏外しますと、それこそ路がばらばらになってしまいますよ。」 名だたる北国秘密の山、さもこそと思ったけれども、 「しかし一体、医王というほど、此処で薬草が採れるのに、何故世間とは隔って、行通がないのだろう。」 「それは、あの承りますと、昔から御領主の御禁山で、滅多に人をお入れなさらなかった所為なんでございますって。御領主ばかりでもござんせん。結構な御薬の採れます場所は、また御守護の神々仏様も、出入をお止め遊ばすのでございましょうと存じます。」 譬えば仙境に異霊あって、恣に人の薬草を採る事を許さずというが如く聞えたので、これが少からず心に懸った。 「それでは何か、私なんぞが入って行って、欲い草を取って帰っては悪いのか。」 と高坂はやや気色ばんだが、悚然と肌寒くなって、思わず口の裡で、 慧雲含潤 電光晃耀 雷声遠震 令衆悦予 日光掩蔽 地上清涼 靉靆垂布 如可承攬 |
一 此のもの語の起つた土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、真中央に城の天守尚ほ高く聳え、森黒く、濠蒼く、国境の山岳は重畳として、湖を包み、海に沿ひ、橋と、坂と、辻の柳、甍の浪の町を抱いた、北陸の都である。 一年、激しい旱魃のあつた真夏の事。 ……と言ふと忽ち、天に可恐しき入道雲湧き、地に水論の修羅の巷の流れたやうに聞えるけれど、決して、そんな、物騒な沙汰ではない。 恁る折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、此の土地に七日間の興行して、全市の湧くが如き人気を博した。 極暑の、旱と言ふのに、たとひ如何なる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、――諺に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大盥に満々と水を湛へ、蝋燭に灯を点じたのを其の中に立てて目塗をすると、壁を透して煙が裡へ漲つても、火気を呼ばないで安全だと言ふ。……火を以て火を制するのださうである。 こゝに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるが如き演劇は、恰も此の轍だ、と称へて可い。雲は焚け、草は萎み、水は涸れ、人は喘ぐ時、一座の劇は宛然褥熱に対する氷の如く、十万の市民に、一剤、清涼の気を齎らして剰余あつた。 膚の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、挙つて座中の明星と称へられた村井紫玉が、 「まあ……前刻の、あの、小さな児は?」 公園の茶店に、一人静に憩ひながら、緋塩瀬の煙管筒の結目を解掛けつゝ、偶と思つた。…… 髷も女優巻でなく、故とつい通りの束髪で、薄化粧の淡洒した意気造。形容に合せて、煙草入も、好みで持つた気組の婀娜。 で、見た処は芸妓の内証歩行と云ふ風だから、まして女優の、忍びの出、と言つても可い風采。 また実際、紫玉は此の日は忍びであつた。演劇は昨日楽に成つて、座の中には、直ぐに次興行の隣国へ、早く先乗をしたのが多い。が、地方としては、此まで経歴つた其処彼処より、観光に価値する名所が夥い、と聞いて、中二日ばかりの休暇を、紫玉は此の土地に居残つた。そして、旅宿に二人附添つた、玉野、玉江と云ふ女弟子も連れないで、一人で密と、……日盛も恁うした身には苦にならず、町中を見つゝ漫に来た。 惟ふに、太平の世の国の守が、隠れて民間に微行するのは、政を聞く時より、どんなにか得意であらう。落人の其ならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさへ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、其の都度、ハツと隠れ忍んで、微笑み〳〵通ると思へ。 深張の涼傘の影ながら、尚ほ面影は透き、色香は仄めく……心地すれば、誰憚るともなく自然から俯目に俯向く。謙譲の褄はづれは、倨傲の襟より品を備へて、尋常な姿容は調つて、焼地に焦りつく影も、水で描いたやうに涼しくも清爽であつた。 僅少に畳の縁ばかりの、日影を選んで辿るのも、人は目を睜つて、鯨に乗つて人魚が通ると見たであらう。……素足の白いのが、すら〳〵と黒繻子の上を辷れば、溝の流も清水の音信。 で、真先に志したのは、城の櫓と境を接した、三つ二つ、全国に指を屈すると云ふ、景勝の公園であつた。 二 公園の入口に、樹林を背戸に、蓮池を庭に、柳、藤、桜、山吹など、飛々に名を呼ばれた茶店がある。 紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋と言ふのであつた。が、紅い襷で、色白な娘が運んだ、煎茶と煙草盆を袖に控へて、然まで嗜むともない、其の、伊達に持つた煙草入を手にした時、―― 「……あれは女の児だつたか知ら、其とも男の児だつたらうかね。」 ――と思ひ出したのは其である。―― で、華奢造りの黄金煙管で、余り馴れない、些と覚束ない手つきして、青磁色の手つきの瀬戸火鉢を探りながら、 「……帽子を……被つて居たとすれば、男の児だらうが、青い鉢巻だつけ。……麦藁に巻いた切だつたらうか、其ともリボンか知ら。色は判然覚えて居るけど、……お待ちよ、――と恁うだから。……」 取つて着けたやうな喫み方だから、見ると、もの〳〵しいまでに、打傾いて一口吸つて、 「……年紀は、然うさね、七歳か六歳ぐらゐな、色の白い上品な、……男の児にしては些と綺麗過ぎるから女の児――だとリボンだね。――青いリボン。……幼稚くたつて緋と限りもしないわね。では、矢張り女の児か知ら。それにしては麦藁帽子……尤もおさげに結つてれば……だけど、其処までは気が付かない。……」 大通りは一筋だが、道に迷ふのも一興で、其処ともなく、裏小路へ紛れ込んで、低い土塀から瓜、茄子の畠の覗かれる、荒れ寂れた邸町を一人で通つて、まるつ切人に行合はず。白熱した日盛に、よくも羽が焦げないと思ふ、白い蝶々の、不意にスツと来て、飜々と擦違ふのを、吃驚した顔をして見送つて、そして莞爾……したり……然うした時は象牙骨の扇で一寸招いて見たり。……土塀の崩屋根を仰いで血のやうな百日紅の咲満ちた枝を、涼傘の尖で擽ぐる、と堪らない。とぶる〳〵ゆさ〳〵と行るのに、「御免なさい。」と言つて見たり。石垣の草蒸に、棄ててある瓜の皮が、化けて脚が生えて、むく〳〵と動出しさうなのに、「あれ。」と飛退いたり。取留めのないすさびも、此の女の人気なれば、話せば逸話に伝へられよう。 低い山かと見た、樹立の繁つた高い公園の下へ出ると、坂の上り口に社があつた。 宮も大きく、境内も広かつた。が、砂浜に鳥居を立てたやうで、拝殿の裏崕には鬱々たる其の公園の森を負ひながら、広前は一面、真空なる太陽に、礫の影一つなく、唯白紙を敷詰めた光景なのが、日射に、やゝ黄んで、渺として、何処から散つたか、百日紅の二三点。 ……覗くと、静まり返つた正面の階の傍に、紅の手綱、朱の鞍置いた、つくりものの自の神馬が寂寞として一頭立つ。横に公園へ上る坂は、見透しに成つて居たから、涼傘のまゝスツと鳥居から抜けると、紫玉の姿は色のまゝ鳥居の柱に映つて通る。……其処に屋根囲した、大なる石の御手洗があつて、青き竜頭から湛へた水は、且つすら〳〵と玉を乱して、颯と簾に噴溢れる。其手水鉢の周囲に、唯一人……其の稚児が居たのであつた。 が、炎天、人影も絶えた折から、父母の昼寝の夢を抜出した、神官の児であらうと紫玉は視た。ちら〳〵廻りつゝ、廻りつゝ、彼方此方する。…… 唯、御手洗は高く、稚児は小さいので、下を伝うてまはりを廻るのが、宛然、石に刻んだ形が、噴溢れる水の影に誘はれて、すら〳〵と動くやうな。……と視るうちに、稚児は伸上り、伸上つては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上つては、又空に手を伸ばす。―― 紫玉はズツと寄つた。稚児は最う涼傘の陰に入つたのである。 「一寸……何をして居るの。」 「水が欲しいの。」 と、あどけなく言つた。 あゝ、其がため足場を取つては、取替へては、手を伸ばす、が爪立つても、青い巾を巻いた、其の振分髪、まろが丈は……筒井筒其の半にも届くまい。 三 其の御手洗の高い縁に乗つて居る柄杓を、取りたい、と又稚児が然う言つた。 紫玉は思はず微笑んで、 「あら、恁うすれば仔細はないよ。」 と、半身を斜めにして、溢れかゝる水の一筋を、玉の雫に、颯と散らして、赤く燃ゆるやうな唇に請けた。ちやうど渇いても居たし、水の潔い事を見たのは言ふまでもない。 「ねえ、お前。」 稚児が仰いで、熟と紫玉を視て、 「手を浄める水だもの。」 |
私がどんなに質屋の世話になつたかといふ事は、これまで、小説に、随筆に、既にしばしば書いたことである。だが、私だとても、あの暖簾を単独でくぐるやうになる迄には、余程の決心を要した。私が友人を介して質屋の世話になり始めてから、友人なしに私一人でそこの敷居をまたぐやうになつた迄には、少なくとも二年の月日がかかつた。 それは私が二十四歳の秋の末のことであつた。その秋の初の頃、私の出世を待ち兼ねて、私の母が長い間居候をしてゐた大和の知合の家に別れを告げて私を便つて上京して来たのであるが、当時私はただ一文の収入の方法も知らなかつたのであるが、仕様がないので、取敢ず本郷区西片町に小さな借家を見つけて、母と二人で暮しはじめた。さうして私は中学校の国語、漢文、英語等の教科書の註釈本の仕事をしてゐる人に頼んで、その下仕事をさしてもらふやうになつた事まではよかつたのであるが、幾ら私が精出しても、その人が報酬をくれないのである。いや、あの原稿は大分誤謬が多いので、私が今訂正中だとか、いや、本屋の主人が今旅行中で留守だとか、いや、昨日までの本屋は失敗して夜逃げしたとか、――それで、私は三ヶ月の間に、一度金十円もらつたことがある切りだつた。当時私の母は五十歳であつたが、五十年の間に彼女はその時私たちが陥つたやうな貧乏な境涯の経験は初めてであつたに違ひない。彼女は月末の言訳に困る時、少女の泣顔のやうな表情をした。が、私にして見ると、全然あてがない訳ではなかつたから、もう三日、もう五日と彼女に約束するのであるが、註釈本の親方が一向その約束を守らないので、しぜん母が勘定取に対する約束も間違つて来るのである。彼女は、「もう国の方から為替を出したといつて来たんですが、まだ参りませんので、もう今日にも届くだらうと思ひますから、」などといふ、私が教へた口実にも、直ぐに窮してしまつて、茶の間の隅で小鳥のやうに震へてゐた。実際、あの頃の、玄関の明くベルの音に対する恐怖は、その後長い間私の記憶に止まつて、どんなベルの音にも、私は聞く度にはツとしたものである。恐らく彼女もさうであつたに違ひない。 その頃には、私も彼女に、彼女が私の長い学校生活の間に送つてくれたもので、質屋に入れて失つてしまつたものがあることは、すつかり打明けてゐた。が、それ等はみな私自身の手ではなく友人を通じて質屋の世話になつたものであつた。――或る日、私は彼女と火鉢に差向ひに坐つてゐた。その頃は、私には彼女と二人で差向ひになることが非常な苦痛であり恐怖であつた。私たちはなるべく二人切りにならないやうに、二人になつてもなるべく口をきかないやうに、出来るだけ張り合つて、顔を見合したら睥み合ふやうにして暮してゐた。心の中で、私は彼女に、あなたがこんなに突然出て来るものだから、こんな貧乏な目を見なければならないのだ、然し、私だつて遊んでる訳ではない、あなたの見てゐる通りあんなに仕事をしたのに不都合なのは先方で金をくれないことなんです、私が悪いせゐぢやアない、と云ひたかつた。また彼女は私に、自分はこんなに長年の間苦労して待つてゐた甲斐もなく、お前は私に楽みを与へてくれるどころか、毎日の食べることにさへ、年とつてからこんなに苦労をかけられるとは! と云ひたかつた。――こんな風に、互に相手をなるべく悪く思つて、さう思つて気を張りつめることに依つて暮してゐた。私の方で、自分が不甲斐ない為めに、年取つたこの人に苦労をさせるとか、母の方で、この子も随分苦労をしてゐるらしいんだが、それがうまく行かないのだから、無理もない、まだ世間馴れないんだからとか、そんな風に同情し合つたら最後、私たちはわツと泣いてしまはねばならなかつたからだ。 が、或る日、どちらから云ひ出したともなく、母の着物を、例の註釈本の親方が金をくれる迄、一時質屋に入れて都合しようといふことになつた。年とつても、女が着物に愛着を感じる心持には変りはないと見える。それを現すまいと努めながら、彼女が押入を明けて、貧弱な柳行李の中からひろげた縞の風呂敷の上に、着物や羽織を一枚一枚と重ねてのせて行く姿を、私は見るに堪へられなかつた。が、最後にそれを調べる時、私は遠慮して「これは残しておきませう、これは入るでせう、」などと云ふと、「いえ、もうこんなものは入りやへん。その代り、この方は今度お金が出来たとき出してくれたらええ、」などと母らしい優しさでいふ。さうして、「お前、お前のやうな男が、そんなところへ行くのは何やから、私、私がそのお友達に連れて行つてもらつて、持つて行つて来ます、」と云つたところで、「いえ、かまひません、僕の方が矢張り都合がいいでせう、友達の手前も。それに、あなた、あなたはお耳も遠いんですから……」と云つて、私は手早く、風呂敷包を抱へて、大急ぎで玄関の方へ歩いて行きながら、泣けて困つた。 質屋が林町で、友人が千駄木町にゐた。私は、その朝の、縞の風呂敷包を抱へて、これで一時を逃れられるといふ安心と、たうとう母の着物を質屋に持つて行くといふ悲しさとで胸を一ぱいにふくらませながら、第一高等学校の横手を、今の電車通の裏町の筋を、とぼとぼと歩いて行つた私自身の姿を、第三者として見たやうに、今も尚思ひ出すことが出来るのである。その時、友人に連れられて林町の高山といふ質屋の暖簾をくぐつたのが、これから私がしようとする因縁話の始まりなのである。 私を紹介した友人の布施が、その質屋の番頭たちと、そんな風に交際し馴れてゐたためであらうか、私も行つた日から、その店に坐つてゐる三四人の、いづれも私と同年輩位の中番頭たちと、友達のやうな言葉づかひで応対した、「これや、これ以上奮発出来ないよ、」「駄目かね、もう一円位出せないかね、」「それや無理だよ、」などと。かと思ふと、私がその後一人でしばしばその店の暖簾をくぐるやうになつてからのこと、それ等の中番頭たちが「布施さんはどうしてる、この頃少し景気がいいのか、ちつとも顔を見せないよ、」などと云つた。「岩崎君は来ない、」と私が聞くと、「昨日来たよ。傘と下駄を持つて来たよ。岩崎さんもあの細君と一緒のうちは駄目だね、うだつが上らないね、」などと、彼等自身の友達の噂でもするやうに彼等は云つた。 考へて見ると、さういふ質屋の番頭などといふ、私自身とは境遇の違つた者たちのことであつたから、年ふけて見えたのであらうが、彼等は当時の私たちより四五歳も若く、二十歳前後に違ひなかつた。仕舞には、宗吉といふ十三四歳の小僧までが「やあ、大分来なかつたな、」などと、私に向つて対等に物云ひかけた。この宗吉は、又、毎月の二十五日頃になると、鼠色の封筒に、私の名を宛てた書状を配達して来た。いふまでもなく、それは質物の流れの期日を警告したもので、いやなら、来月三日までに利息を入れてくれ、と断り書きした書状である。私はしばしば彼を止めて、「君、これから布施君のところへも廻るだらう、」と私は云つた、「もし布施君のところへ行つて、会つたら、今夜暇なら遊びに来いと云つてくれないか、」と、彼は、「布施さんのとこには今度はないよ、」などと答へた。―― どういふ訳か、私はそれ等の番頭小僧たちに贔屓にされた。それは多分その中の誰かがそんなことを云ひ出して、みんながそれに雷同したものであらうか。というのは、彼等は、私にはどこか見どころがあると異口同音に云ふのである、今に私は出世するだらうといふのである。だから、主人が店にゐない時で、僅な値段が折合はない時など、「ぢやア、ね、斯うし給へ。これはこれで二円五十銭、それより駄目だよ。二円五十銭でも、きつと高いと親爺からお目玉を喰ふに極つてゐるんだから。それで、別に一円だけ僕が貸さう。その代り、一円の方はこの月末までに僕に内所で返してくれ給へ、利息は入らんから、」などといふやうな恩典に私はしばしば浴した。 だが、それ等の話は既に十年から四五年前にかけてのことである。四五年前には、私が初めてその家の暖簾をくぐつた頃にゐた中の何人かは、或る者は放蕩の為めにお払箱になつたり、また或る者は店を分けてもらつて余所で質屋を始めてゐたり、或ひは徴兵検査と共に国に帰つて、国で質屋を始めたりといふやうな次第で、大分馴染の顔が少なくなつてゐたが、どんな新来のものでも、その店では私にはみんな昔からの顔馴染の如く応対した。今でも、私は全然足を絶つた訳ではないが、此頃はほんの三ヶ月に一度か、半年に一度位その店に顔を出す事がある。今はすつかり昔の顔触れが見えなくなつて、その昔の小僧の宗吉が、その家の一番番頭にまで昇進してゐるのである。 私がここで語らうと思ふのは、その宗吉のことで、彼は此頃めつきり大人になつて、たまに私が行つても、昔の面影はなくなつて、「やア、どうも暫くでございました、」とか、「益々お盛んのやうでございますな、」などと、四角張つた挨拶をするのである。私は、それに対して、昔の調子を取戻すつもりで、わざと、「やア、宗どん、いつの間に毛を延ばしたんだい、こてこて光らしてるな。なる程、蜻蛉とはよくいつたものだな、」と云つても、「ヘヽヽヽ、恐れ入ります、」と答へ、「こいつはちよつと家に知らせられない物だから、利息の期日が来ても、例の鼠色の封筒で知らしてくれちやア困るよ。いい時分に僕が払ひに来るから、」などと云つても、「へえ、かしこまりました。先生、なかなかお安くありませんな、」といつたやうな調子で、少しも寛がないのである。 その宗吉が、最近突然私の家の玄関に現れて、取次に出た女中に一通の手紙を渡して行つたのである。それは鼠色の代りに、女学生の使ふやうな、水色の西洋封筒で、開いて見ると、「尊敬する宇野先生」と書き出してある。私は人違ひではないかと思つて、改めて封筒の差出人を調べて見たが、間違ひなく「高山内、金井宗吉」と認めてある。いふには、彼は、子供の頃から文学が好きで、自然、昔から私が好きであつた、自分はどうかして一生文学と別れたくないと思つてゐる、就いては一度先生にああいふ店先でなく、お目にかかつてお話を伺ひたいと思ふ、で、何度も何度も躊躇した末でやつと思ひ切つてこの手紙を書いたが、書いてからも、店の用で使に出る度に、これを私の家に届ける段になつて、これで三度目の決心の末であるといふのである。さうして最後に自分が近頃書いたものが少しばかりある。今度一度お目にかけるから、批評していただけないだらうか、と結んであつた。その用紙は、近頃よく町の文房具屋の店頭で見かける、草花などをその片隅に印刷した書簡筆で、丁寧な書体で書かれてあつた。多分、私が筆者宗吉の身分を知らなければ、世間一般の幼稚な文学青年の手紙の一つと見過ごしたであらう。が、それの出し手が宗吉であるだけに、私は甚だくすぐつたい思ひと共に、一種の感慨に打たれない訳に行かなかつた。 が、私はそれについ返事を出し後れたのであるが、それから一週間ほど後の或る日、突然宗吉の訪問を受けた。彼は店頭で見るよりも一層堅くなつてゐた。 「そんなに堅くなるなよ、」と私はわざと昔馴染の言ひ方でいつた、「いつ頃から文学をやつてるんだい!」 「ええ、いつつてこともありませんが、」と宗吉は恥かしさうに子供のやうな恰好をして云つた。まつたく一枚の質物の古着を前に置いて首を傾けてゐる時の彼と何といふ相違であらう。 「で、原稿持つて来たのかい?」 「ええ、」と宗吉は、今度はわりに躊躇しないで、懐中から大切さうに二三種の原稿らしいものを取り出した。そのうちの二つは謄写版刷りの同人雑誌に出てゐるものであつた。署名には「金井宗」とあつて「吉」の字を省いてあつた。三つとも短いものだつたから、私は彼の目の前で、多少の興味を以つて、読んで見た。が、それは私の予期の反対のものであつた。 いふのは、文章は有島武郎を下手に真似たやうな、四角張つたもので、その代り悪く整つてはゐるのだが、内容は或る大学生がその下宿してゐる娘との恋を書いたものとか或ひは新思想の女学生が駈落をしようと決心する心理を書いたものとか、等、甚だ無味な空虚なものであつた。 「これは、君、いかんよ、」と、私はつい大真面目になつて云つた。「こんな事を書く暇に、もつと正直に自分の見たものを、」と私は火鉢の中の煙草の吹殻を取上げて、「たとへば材料はどんなつまらないもの、――こんな煙草の吹殻でもいいんだ。それを自分が見て、自分が感じた通りに書くんだ。」 「はア、はア、」と宗吉は膝の上に手を置いて、かしこまつて聞いてゐた。彼のてかてか光らして分けた頭の具合や、然しどう見ても矢張り質屋の番頭らしい着物や体の様子が、変に堅くなつて学生のやうに坐つてゐるのが、私に何ともいへぬ気の毒さが感じられた。恐らく彼は今私に見せた彼の小説に書いてあるやうな生活に、却ち質屋の番頭などに甚だ縁の遠い生活に、憬れてゐるのに違ひなかつた。現に、彼のもう一つの小説には、中学生が毎日学校へ行く途で見る女学生に恋をして成功する筋が書いてあつた。 「たとへば、わざわざこんな君自身の暮しとは縁の遠いものを書かないで、」と私は妙にむきになつてつづけた。 「現に、君が毎日あの店の格子の中に坐つてゐる間に見たこととか、遭つたこととかを、そのまま飾らずに書いて見給へ。文章なども、こんな変な、滅多に使はないやうな言葉でなしに、なるべく君の不断使つてゐる言葉を工夫して書く方がいいんだよ。」 すると、その時宗吉は、忽ち彼が帳場格子の中に坐つてゐる時の態度を思ひ出させるやうな恰好で頭の後に片手を上げながら、「その、さういふ事を書いてあるのもあるにはあるんですが、」と云ひにくさうに、「そんなのはいけないと思ひまして……」 「どうしてそんなのがいけないと思つたんだ。今度ついでがあつたら、その方を見せ給へ。」 「ええ、」と彼は益々いひにくさうにして、「ですけど、先生、その方だと、先生や、広津先生やが出て来ますので……」 |
私は新潟の生れで小學校は西堀小學校(今はないが、廣小路の消防の詰署のある附近)へ通つたものだ。そこを出て大畑の高等小學校へ進んだが、成績はけつして優等どころでなく、やうやく眞中へとどくかとどかないかといふ程度だつた。 卒業する時、學校へ自分の目的を紙に書いて出すこととなつた。その時私の同級生は總理大臣になりたいとか、陸軍大臣けん海軍大臣になるとか、さういふことをはなばなしく書いて出した人が多かつた。私は今でもわすれないが、小學校を出たなら百姓になる、ただの百姓で一生くらしたいといふことを書いて出した記憶がある。 當時そんなことを書いたのは私だけだつたと思ふ。當時の私は年齡的にも希望に輝いてをらず成績もあまりよくなかつたために、そんなことを書いたのだらうと思ふ。 けつして今いふところの平民思想とかを當時もつてゐたのではない。ただ私が、ふるはない、平凡な、そして學問もあまりはなばなしくないただの子供だつたことを示すものだ。 しかしそれから中學へやつてもらひ、進んで大學も出ることができ、今日まで學問をつづけることができた。最初體がよわかつたので、希望も消極的だつたと思ふが、今日七十二歳の高齡に達しても、わりあひ丈夫でゐる。人間の一生といふものはけつして二年や三年で勝負のつく、いはば短距離競走ではなく、六十年、七十年、時として百年にもわたる長距離競走だから、なんといつても體が一番大切だ。 しかしその體も、もちやうによつてはもつものだ。私の知人で八十何歳になる人で、子供の時體が弱かつたといふ人が二人も三人もゐる。 |
俺は仕方ナク泣イタ 電燈ガ煙草ヲフカシタ ▽ハデアル × ▽ヨ! 俺ハ苦シイ 俺ハ遊ブ ▽ノすりつぱーハ菓子ト同ジデナイ 如何ニ俺ハ泣ケバヨイノカ × 淋シイ野原ヲ懐ヒ 淋シイ雪ノ日ヲ懐ヒ 俺ノ皮膚ヲ思ハナイ 記憶ニ対シテ俺ハ剛体デアル ホントウニ 「一緒に歌ひなさいませ」 ト云ツテ俺ノ膝ヲ叩イタ筈ノコトニ対シテ ▽ハ俺ノ夢デアル すてつき! 君ハ淋シク有名デアル ドウシヤゥ × 遂ニ▽ヲ埋葬シタ雪景デアツタ。 |
宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館 発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館 雑誌ありがたう御座いました。今皆よんで見ました。昨日からの不快が少し減じました。この位方々でやつつけられゝばいゝ気持になります。まけをしみでなく、あんまり皆がいい気になつてゐる馬鹿さ加減がをかしくなつて来ますもの、よくも〳〵口をそろへて下らないことを云つたものですね、すつかり痛快になつてしまひます。随分私は憎まれ者ですね。恋をすれば何時も石を投げられるにはきまつてゐますがね、少し烈しすぎますね、あなたに余程可愛がつて頂かないぢやこのうめ合せはつきませんよ、本当にあんまり可愛相ぢやありませんか、でも、私黙つてゐればよかつたと思ひます。あんなものなんか書かずにゐて、これから先に、ほんたうのことが分つた時に、皆を片つぱしから言ひまくつてやればよかつたと思ひますよ。 今頃は原稿が届いたでせうね、孤月には少し遠慮してやりましたが、あんなことを言つてゐる人だと知つたら、あのくだらなさ加減をもつとありのまゝにさらしてやればよかつたと思ひます。本当に馬鹿ですね。 もう何かゞすつかりきまつてしまひましたから、一日も早く東京に帰りたいと思ひます。どうかして十日位までにはたちたいと思ひます。何処にもゆくところもないし、することもなく一人で退屈してしまひます。昨日からまた本をよみました。女の世界の原稿も半分は書けましたけれど、まだ皆迄書き終りません。それから大阪の方の原稿を、お送り下さるに菊池氏の宛名にして下さい。今朝電話をかけにゆかうと思ひましたけれど、お金がないからよしました。お留守だとつまらないから。 よつちやんが、昨夜身うけされて行つてしまひましたよ。あさえさんも行くさうです。こそちやん一人になりました。大阪からは早く来るやうにと幾度もさいそくがきます。でも今度ゆけばまた暫くあなたに会へないのですね、それを考へると、いやになつてしまひます。 今度東京にかへりましたら、米峰のところへと、西川夫人の処へ二人でゆきませんか、山田先生のところへも一寸からかひに行きたい気がします。お八重さんのところへも。とき〴〵かう云ふふざけたことを考へてはひとりでよろこんでゐるのですよ、罪がないでせう。 今度かへつたら本当にまた長く別れてゐなければならないのですから、恩にきせたりなんかしないで私のおつき合ひをして下さいね。お仕事にさしつかへがあれば、此処に迎ひに来て下さる日までお仕事をなすつてもいゝでせう。どうせ直き、お目に懸れるのですから、一日や二日位はがまんします。この四五日少し私は馬鹿になつてゐるやうです。頭がぼんやりしてフラ〳〵してゐます。私がかへるまでに、あなたのお仕事が沢山進みますやうに、お願ひいたします。書いても書かなくともいゝやうなことばかり書きますね、いやになつてしまふでせう。それでも、ね、こんな事でも書かずにはゐられない気持を買つて下さいな、あなたにはそんな馬鹿げたことは出来ませんか、出来なければ仕方がありませんけれど。 だらしのない手紙ばかりね、もう止しますわ、 はいちやい のえ 六月六日 大杉さま |
一 天保二年九月の或午前である。神田同朋町の銭湯松の湯では、朝から不相変客が多かつた。式亭三馬が何年か前に出版した滑稽本の中で、「神祇、釈教、恋、無常、みないりごみの浮世風呂」と云つた光景は、今もその頃と変りはない。風呂の中で歌祭文を唄つてゐる嚊たばね、上り場で手拭をしぼつてゐるちよん髷本多、文身の背中を流させてゐる丸額の大銀杏、さつきから顔ばかり洗つてゐる由兵衛奴、水槽の前に腰を据ゑて、しきりに水をかぶつてゐる坊主頭、竹の手桶と焼物の金魚とで、余念なく遊んでゐる虻蜂蜻蛉、――狭い流しにはさう云ふ種々雑多な人間がいづれも濡れた体を滑らかに光らせながら、濛々と立上る湯煙と窓からさす朝日の光との中に、糢糊として動いてゐる。その又騒ぎが、一通りではない。第一に湯を使ふ音や桶を動かす音がする。それから話し声や唄の声がする。最後に時々番台で鳴らす拍子木の音がする。だから柘榴口の内外は、すべてがまるで戦場のやうに騒々しい。そこへ暖簾をくぐつて、商人が来る。物貰ひが来る。客の出入りは勿論あつた。その混雑の中に―― つつましく隅へ寄つて、その混雑の中に、静に垢を落してゐる、六十あまりの老人が一人あつた。年の頃は六十を越してゐよう。鬢の毛が見苦しく黄ばんだ上に、眼も少し悪いらしい。が、痩せてはゐるものの骨組みのしつかりした、寧いかついと云ふ体格で、皮のたるんだ手や足にも、どこかまだ老年に抵抗する底力が残つてゐる。これは顔でも同じ事で、下顎骨の張つた頬のあたりや、稍大きい口の周囲に、旺盛な動物的精力が、恐ろしい閃きを見せてゐる事は、殆壮年の昔と変りがない。 老人は丁寧に上半身の垢を落してしまふと、止め桶の湯も浴びずに、今度は下半身を洗ひはじめた。が、黒い垢すりの甲斐絹が何度となく上をこすつても、脂気の抜けた、小皺の多い皮膚からは、垢と云ふ程の垢も出て来ない。それがふと秋らしい寂しい気を起させたのであらう。老人は片々の足を洗つたばかりで、急に力がぬけたやうに手拭の手を止めてしまつた。さうして、濁つた止め桶の湯に、鮮かに映つてゐる窓の外の空へ眼を落した。そこには又赤い柿の実が、瓦屋根の一角を下に見ながら、疎に透いた枝を綴つてゐる。 老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、嘗て彼を脅したそれのやうに、忌はしい何物をも蔵してゐない。云はばこの桶の中の空のやうに、静ながら慕はしい、安らかな寂滅の意識であつた。一切の塵労を脱して、その「死」の中に眠る事が出来たならば――無心の子供のやうに夢もなく眠る事が出来たならば、どんなに悦ばしい事であらう。自分は生活に疲れてゐるばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れてゐる。…… 老人は憮然として、眼を挙げた。あたりではやはり賑な談笑の声につれて、大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いてゐる。柘榴口の中の歌祭文にも、めりやすやよしこのの声が加はつた。ここには勿論、今彼の心に影を落した悠久なものの姿は、微塵もない。 「いや、先生、こりやとんだ所で御眼にかかりますな。どうも曲亭先生が朝湯にお出でにならうなんぞとは手前夢にも思ひませんでした。」 老人は、突然かう呼びかける声に驚ろかされた。見ると彼の傍には、血色のいい、中背の細銀杏が、止め桶を前に控へながら、濡れ手拭を肩へかけて、元気よく笑つてゐる。これは風呂から出て、丁度上り湯を使はうとした所らしい。 「不相変御機嫌で結構だね。」 馬琴滝沢瑣吉は、微笑しながら、稍皮肉にかう答へた。 二 「どう致しまして、一向結構ぢやございません。結構と云や、先生、八犬伝は愈出でて、愈奇なり、結構なお出来でございますな。」 細銀杏は肩の手拭を桶の中へ入れながら、一調子張上げて弁じ出した。 「船虫が瞽婦に身をやつして、小文吾を殺さうとする。それが一旦つかまつて拷問された揚句に、荘介に助けられる。あの段どりが実に何とも申されません。さうしてそれが又、荘介小文吾再会の機縁になるのでございますからな。不肖ぢやございますが、この近江屋平吉も、小間物屋こそ致して居りますが、読本にかけちや一かど通のつもりでございます。その手前でさへ、先生の八犬伝には、何とも批の打ちやうがございません。いや全く恐れ入りました。」 馬琴は黙つて又、足を洗ひ出した。彼は勿論彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持つてゐる。しかしその好意の為に、相手の人物に対する評価が、変化するなどと云ふ事は少しもない。これは聡明な彼にとつて、当然すぎる程当然な事である、が、不思議な事には逆にその評価が彼の好意に影響すると云ふ事も亦殆どない。だから彼は場合によつて、軽蔑と好意とを、完く同一人に対して同時に感ずる事が出来た。この近江屋平吉の如きは、正にさう云ふ愛読者の一人である。 「何しろあれだけのものをお書きになるんぢや、並大抵なお骨折ぢやございますまい。先づ当今では、先生がさしづめ日本の羅貫中と云ふ所でございますな――いや、これはとんだ失礼を申上げました。」 平吉は又大きな声をあげて笑つた。その声に驚かされたのであらう。側で湯を浴びてゐた小柄な、色の黒い、眇の小銀杏が、振返つて平吉と馬琴とを見比べると、妙な顔をして流しへ痰を吐いた。 「貴公は不相変発句にお凝りかね。」 馬琴は巧に話頭を転換した。がこれは何も眇の表情を気にした訳ではない。彼の視力は幸福な事に(?)もうそれがはつきりとは見えない程、衰弱してゐたのである。 「これはお尋ねに預つて恐縮至極でございますな。手前のはほんの下手の横好きで今日も運座、明日も運座、と、所々方々へ臆面もなくしやしやり出ますが、どう云ふものか、句の方は一向頭を出してくれません。時に先生は、如何でございますな、歌とか発句とか申すものは、格別お好みになりませんか。」 「いや私は、どうもああ云ふものにかけると、とんと無器用でね。尤も一時はやつた事もあるが。」 「そりや御冗談で。」 「いや、完く性に合はないとみえて、未だにとんと眼くらの垣覗きさ。」 馬琴は、「性に合はない」と云ふ語に、殊に力を入れてかう云つた。彼は歌や発句が作れないとは思つてゐない。だから勿論その方面の理解にも、乏しくないと云ふ自信がある。が、彼はさう云ふ種類の芸術には、昔から一種の軽蔑を持つてゐた。何故かと云ふと、歌にしても、発句にしても、彼の全部をその中に注ぎこむ為には、余りに形式が小さすぎる。だから如何に巧に詠みこなしてあつても、一句一首の中に表現されたものは、抒情なり叙景なり、僅に彼の作品の何行かを充す丈の資格しかない。さう云ふ芸術は、彼にとつて、第二流の芸術である。 三 彼が「性に合はない」と云ふ語に力を入れた後には、かう云ふ軽蔑が潜んでゐた。が、不幸にして近江屋平吉には、全然さう云ふ意味が通じなかつたものらしい。 「ははあ、やつぱりさう云ふものでございますかな。手前などの量見では、先生のやうな大家なら、何でも自由にお作りになれるだらうと存じて居りましたが――いや、天二物を与へずとは、よく申したものでございます。」 平吉はしぼつた手拭で、皮膚が赤くなる程、ごしごし体をこすりながら、稍遠慮するやうな調子で、かう云つた。が、自尊心の強い馬琴には、彼の謙辞をその儘語通り受取られたと云ふ事が、先づ何よりも不満である。その上平吉の遠慮するやうな調子が愈又気に入らない。そこで彼は手拭と垢すりとを流しへ抛り出すと半ば身を起しながら、苦い顔をして、こんな気焔をあげた。 「尤も、当節の歌よみや宗匠位には行くつもりだがね。」 しかし、かう云ふと共に、彼は急に自分の子供らしい自尊心が恥づかしく感ぜられた。自分はさつき平吉が、最上級の語を使つて八犬伝を褒めた時にも、格別嬉しかつたとは思つてゐない。さうして見れば、今その反対に、自分が歌や発句を作る事の出来ない人間と見られたにしても、それを不満に思ふのは、明に矛盾である。咄嗟にかう云ふ自省を動かした彼は、恰も内心の赤面を隠さうとするやうに、慌しく止め桶の湯を肩から浴びた。 「でございませう。さうなくつちや、とてもああ云ふ傑作は、お出来になりますまい。して見ますと、先生は歌も発句もお作りになると、かう睨んだ手前の眼光は、やつぱり大したものでございますな。これはとんだ手前味噌になりました。」 平吉は又大きな声を立てて、笑つた。さつきの眇はもう側にゐない。痰も馬琴の浴びた湯に、流されてしまつた。が、馬琴がさつきにも増して恐縮したのは勿論の事である。 「いや、うつかり話しこんでしまつた。どれ私も一風呂、浴びて来ようか。」 妙に間の悪くなつた彼は、かう云ふ挨拶と共に、自分に対する一種の腹立しさを感じながら、とうとうこの好人物の愛読者の前を退却すべく、徐に立上つた。が、平吉は彼の気焔によつて寧ろ愛読者たる彼自身まで、肩身が広くなつたやうに、感じたらしい。 「では先生その中に一つ歌か発句かを書いて頂きたいものでございますな。よろしうございますか。お忘れになつちやいけませんぜ。ぢや手前も、これで失礼致しませう。お忙しうもございませうが、お通りすがりの節は、ちと御立ち寄りを。手前も亦、お邪魔に上ります。」 平吉は追ひかけるやうに、かう云つた。さうして、もう一度手拭を洗ひ出しながら、柘榴口の方へ歩いて行く馬琴の後姿を見送つて、これから家へ帰つた時に、曲亭先生に遇つたと云ふ事を、どんな調子で女房に話して聞かせようかと考へた。 四 柘榴口の中は、夕方のやうにうす暗い。それに湯気が、霧よりも深くこめてゐる。眼の悪い馬琴は、その中にゐる人々の間を、あぶなさうに押しわけながら、どうにか風呂の隅をさぐり当てると、やつとそこへ皺だらけな体を浸した。 湯加減は少し熱い位である。彼はその熱い湯が爪の先にしみこむのを感じながら、長い呼吸をして、徐に風呂の中を見廻はした。うす暗い中に浮んでゐる頭の数は、七つ八つもあらうか。それが皆話しをしたり、唄をうたつたりしてゐるまはりには、人間の脂を溶した、滑な湯の面が、柘榴口からさす濁つた光に反射して、退屈さうにたぶたぶと動いてゐる。そこへ胸の悪い「銭湯の匂」がむんと人の鼻を衝いた。 馬琴の空想には、昔から羅曼的な傾向がある。彼はこの風呂の湯気の中に、彼が描かうとする小説の場景の一つを、思ひ浮べるともなく思ひ浮べた。そこには重い舟日覆がある。日覆の外の海は、日の暮と共に風が出たらしい。舷をうつ浪の音が、まるで油を揺るやうに、重苦しく聞えて来る。その音と共に、日覆をはためかすのは大方蝙蝠の羽音であらう。舟子の一人は、それを気にするやうに、そつと舷から外を覗いて見た。霧の下りた海の上には、赤い三日月が陰々と空に懸つてゐる。すると…… 彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の読本の批評をしてゐるのが、ふと彼の耳へはいつたからである。しかも、それは声と云ひ、話様と云ひ、殊更彼に聞かせようとして、しやべり立ててゐるらしい。馬琴は一旦風呂を出ようとしたが、やめて、ぢつとその批評を聞き澄ました。 「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きな事を云つたつて、馬琴なんぞの書くものは、みんなありや焼直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく水滸伝の引写しぢやげえせんか。が、そりやまあ大目に見ても、いい筋がありやす。何しろ先が唐の物でげせう。そこで、まづそれを読んだと云ふ丈でも、一手柄さ。所がそこへ又づぶ京伝の二番煎じと来ちや、呆れ返つて腹も立ちやせん。」 馬琴はかすむ眼で、この悪口を云つてゐる男の方を透して見た。湯気に遮られて、はつきりと見えないが、どうもさつき側にゐた眇の小銀杏ででもあるらしい。さうとすればこの男は、さつき平吉が八犬伝を褒めたのに業を煮やして、わざと馬琴に当りちらしてゐるのであらう。 |
中川の鱸に誘き出され、八月二十日の早天に、独り出で、小舟を浮べて終日釣りけるが、思はしき獲物も無く、潮加減さへ面白からざりければ、残り惜しくは思へども、早く見切りをつけ、蒸し暑き斜陽に照り付けられながら、悄々として帰り途に就けり。 農家の前なる、田一面に抽き出でたる白蓮の花幾点、かなめの樹の生垣を隔てゝ見え隠れに見ゆ。恰も行雲々裡に輝く、太白星の如し。見る人の無き、花の為めに恨むべきまでに婉麗なり。ジニアの花、雁来紅の葉の匂ひ亦、疲れたる漁史を慰むるやに思はれし。 小村井に入りし時、兼て見知れる老人の、これも竿の袋を肩にし、疲れし脚曳きて帰るに、追ひ及びぬ。この老人は、本所横網に棲む、ある売薬店の隠居なるが、曾て二三の釣師の、此老人の釣狂を噂するを聴きたることありし。 甲者は言へり。『彼の老人は、横網にて、釣好きの隠居とさへ言へば、巡査まで承知にて、年中殆んど釣にて暮らし、毎月三十五日づゝ、竿を担ぎ出づ』といふ『五日といふ端数は』と難ずれば、『それは、夜釣を足したる勘定なり』と言ひき。 又乙者は言へり。『彼の老人の家に蓄ふる竿の数は四百四本、薬味箪笥の抽斗数に同じく、天糸は、人参を仕入るゝ序に、広東よりの直輸入、庭に薬研状の泉水ありて、釣りたるは皆之に放ち置く。若し来客あれば、一々この魚を指し示して、そを釣り挙げし来歴を述べ立つるにぞ、客にして慢性欠伸症に罹らざるは稀なり。』と言ふ。 兎も角、釣道の一名家に相違無ければ、道連れになりしを、一身の誉れと心得、四方山の話しゝて、緩かに歩を境橋の方に移したりしに、老人は、いと歎息しながら一条の物語りを続けたり。 『この梅園の前を通る毎に、必ず思ひ起すことこそあれ。君にだけ話すことなれば、必ず他人には語り伝へ給ふべからず。 『想へば早数年前となりぬ。始めて釣道に踏み入りし次の年の、三月初旬なりしが、中川の鮒釣らんとて出でたりし。尺二寸、十二本継の竿を弄して、処々あさりたりしも、型も見ざりければ、釣り疲れしこと、一方ならず、帰らんか、尚一息試むべきかと、躊躇する折柄、岸近く縄舟を漕ぎ過ぐるを見たり。「今捕るものは何ぞ」と尋ねしに、「鯉なり」と答ふ。「有らば売らずや」と言へば、「三四本有り」とて、舟を寄せたり。魚槽の内を見しに、四百目許りなるを頭とし、都合四本見えたりし。「これにて可し」とて、其の内最も大なるを一本買ひ取りしが、魚籃は少さくして、素より入るべきやうも無かりければ、鰓通して露はに之を提げ、直に帰り途に就けり。 『さて田圃道を独り帰るに、道すがら、之を見る者は、皆目送して、「鯉なり鯉なり、好き猟なり」と、口々に賞讃するにぞ、却つて得意に之を振り廻したれば、哀れ罪なき鯉は、予の名誉心の犠牲に供せられて、嘸眩暈したらんと思ひたりし。 『やがて、今過ぎ来りし、江東梅園前にさし掛りしに、観梅の客の、往く者還る者、織る如く雑沓したりしが、中に、年若き夫婦連れの者あり。予の鯉提げ来りしを見て追ひかけ来り、顔を擦るまで近づきて打ち眺め、互に之を評する声聞こゆ。婦人の声にて、「貴方の、常にから魚籃にて帰らるゝとは、違ひ候」など言ひしは、夫の釣技の拙きを、罵るものと知られたり。此方は愈大得意にて、故に徐に歩めば、二人は遂に堪へ兼ねて、言葉をかけ、予の成功を祝せし後、「何処にて釣り候ぞ」と問へり。初めより、人を欺くべき念慮は、露無かりしなれども、こゝに至りて、勢ひ、買ひたるものとも言ひ兼ねたれば、「平井橋の下手にて」と、短く答へたり。当時は、予未だ、鯉釣を試みしこと無かりしかば、更に細かに質問せらるゝ時は、返答に差支ふべきを慮り、得意の中にも、何となく心安からざりし。 『後にして之を想へば、よし真に自ら釣りしとするも、彼の時携へし骨無し竿にて、しかも玉網も無く、之を挙げんことは易きに非ず。先方は案外かけ出しの釣師にて、それに気づかざりしか、或は黒人なりしかば、却て不釣合の獲物に驚歎せしか、何れにしても、物に怖ぢざる盲蛇、危かりしことかなと思ひき。 『これより宅に還るまで、揚々之を見せびらかして、提げ歩きしが、予の釣を始めて以来、凡そ此時ほど、大得意のことなく、今之を想ふも全身肉躍り血湧く思ひあり。 『この時よりして、予は出遊毎に、獲物を買ひて帰り、家人を驚かすことゝはなれり。秋の沙魚釣に、沙魚船を呼ぶはまだしも、突船けた船の、鰈、鯒、蟹も択ぶ処なく、鯉釣に出でゝ鰻を買ひ、小鱸釣に手長蝦を買ひて帰るをも、敢てしたりし。されども、小鮒釣の帰りに、鯉を提げ来りしをも、怪まざりし家の者共なれば、真に釣り得し物とのみ信じて露疑はず、「近来、めツきり上手になり候」とて喜び、予も愈図に乗りて、気焔を大ならしめき。 『一昨年の夏、小鱸釣に出でゝ、全く溢れ、例の如く、大鯰二つ買ひて帰りしが、山妻之を料理するに及び、其口中より、水蛭の付きし「ひよつとこ鈎」を発見せり。前夜近処より、糸女餌を取らせ、又小鱸鈎に※(虫+糸)を巻かせなどしたりしかば、常に無頓着なりしに似ず、今斯る物の出でしを怪み、之を予に示して、「水蛭にて釣らせらるゝにや」と詰れり。 『こは、一番しくじつたりとは思へども、「否々、慥に糸女にて釣りしなり、今日は水濁り過たれば、小鱸は少しも懸らず、鯰のみ懸れるなり。其の如きものを呑み居しは、想ふに、その鯰は、一旦置縄の鈎を頓服し、更に、吐剤か、養生ぐひの心にて、予の鈎を呑みしものたるべし」と胡麻かせしに、「斯く衛生に注意する鯰は、水中の医者にや、髭もあれば」と言ひたりし。 『同年の秋、沙魚釣より還りて、三束余の獲物を出し、その釣れ盛りし時の、頻りに忙がしかりしことを、言ひ誇りたりしが、翌朝に至り、山妻突然言ひけるは、「昨日の沙魚は、一束にて五十銭もすべきや」となり。実際予は、前日、沖なる沙魚船より、その価にて買ひ来れるなれば、「問屋直にてその位なるべし、三束釣れば、先づ日当に当らん」と言ひしに、予の顔を見つめて、くつ〳〵笑ひ出す。「何を笑ふ」と問へば、「おとぼけは御無用なり、悉く知りて候」といふにぞ、「少しもとぼけなどせじ、何を知り居て」と問へば、「此の節は、旦那の出らるゝ前に、密かに蟇口の内を診察いたしおき候。買ひし物を、釣りたりと粧はるゝは上手なれども、蟇口の下痢にお気つかず、私の置鈎に見事引懸り候。私の釣技は、旦那よりもえらく候はずや」と数回の試験を証とし、年来の秘策を訐かれたりし。その時ばかりは、穴にも入りたき心地し、予の釣を始めて以来、これ程きまり悪しかりしことなし。斯る重大のことを惹き起せしも、遠因は、「ひよつとこ鈎」に在りと想へば早く歯科医に見せざりし、鯰の口中こそ重ね重ねの恨みなれ。 『これよりは、必ず、蟇口検定を受けて後ち、出遊することに定められたれば、釣は俄かに下手になり、大手振りて、見せびらかす機会も無くて』と、呵々と大笑す。 |
御馳走には季春がまだ早いが、たゞ見るだけなら何時でも構はない。食料に成る成らないは別として、今頃の梅雨には種々の茸がによき〳〵と野山に生える。 野山に、によき〳〵、と言つて、あの形を想ふと、何となく滑稽けてきこえて、大分安直に扱ふやうだけれども、飛んでもない事、あれでなか〳〵凄味がある。 先年、麹町の土手三番町の堀端寄に住んだ借家は、太い濕氣で、遁出すやうに引越した事がある。一體三間ばかりの棟割長屋に、八疊も、京間で廣々として、柱に唐草彫の釘かくしなどがあらうと言ふ、書院づくりの一座敷を、無理に附着けて、屋賃をお邸なみにしたのであるから、天井は高いが、床は低い。――大掃除の時に、床板を剥すと、下は水溜に成つて居て、溢れたのがちよろ〳〵と蜘蛛手に走つたのだから可恐い。此の邸……いや此の座敷へ茸が出た。 生えた……などと尋常な事は言ふまい。「出た」とおばけらしく話したい。五月雨のしと〳〵とする時分、家内が朝の間、掃除をする時、縁のあかりで氣が着くと、疊のへりを横縱にすツと一列に並んで、小さい雨垂に足の生えたやうなものの群り出たのを、黴にしては寸法が長し、と横に透すと、まあ、怪しからない、悉く茸であつた。細い針ほどな侏儒が、一つ〳〵、と、歩行き出しさうな氣勢がある。吃驚して、煮湯で雜巾を絞つて、よく拭つて、先づ退治た。が、暮方の掃除に視ると、同じやうに、ずらりと並んで揃つて出て居た。此が茸なればこそ、目もまはさずに、じつと堪へて私には話さずに祕して居た。私が臆病だからである。 何しろ梅雨あけ早々に其家は引越した。が、……私はあとで聞いて身ぶるひした。むかしは加州山中の温泉宿に、住居の大圍爐裡に、灰の中から、笠のかこみ一尺ばかりの眞黒な茸が三本づゝ、續けて五日も生えた、と言ふのが、手近な三州奇談に出て居る。家族は一統、加持よ祈祷よ、と青くなつて騷いだが、私に似ない其主人、膽が据つて聊かも騷がない。茸だから生えると言つて、むしつては捨て、むしつては捨てたので、やがて妖は留んで、一家に何事の觸りもなかつた――鐵心銷怪。偉い!……と其の編者は賞めて居る。私は笑はれても仕方がない。成程、其の八疊に轉寢をすると、とろりとすると下腹がチクリと疼んだ。針のやうな茸が洒落に突いたのであらうと思つて、もう一度身ぶるひすると同時に、何うやら其の茸が、一づゝ芥子ほどの目を剥いて、ぺろりと舌を出して、店賃の安値いのを嘲笑つて居たやうで、少々癪だが、しかし可笑い。可笑いが、氣味が惡い。 能の狂言に「茸」がある。――山家あたりに住むものが、邸中、座敷まで大な茸が幾つともなく出て祟るのに困じて、大峰葛城を渡つた知音の山伏を頼んで來ると、「それ、山伏と言つぱ山伏なり、何と殊勝なか。」と先づ威張つて、兜巾を傾け、いらたかの數珠を揉みに揉んで、祈るほどに、祈るほどに、祈れば祈るほど、大な茸の、あれ〳〵思ひなしか、目鼻手足のやうなものの見えるのが、おびたゞしく出て、したゝか仇をなし、引着いて惱ませる。「いで、此上は、茄子の印を結んで掛け、いろはにほへとと祈るならば、などか奇特のなかるべき、などか、ちりぬるをわかンなれ。」と祈る時、傘を半びらきにした、中にも毒々しい魔形なのが、二の松へ這つて出る。此にぎよつとしながら、いま一祈り祈りかけると、その茸、傘を開いてスツクと立ち、躍りかゝつて、「ゆるせ、」と逃げ𢌞る山伏を、「取つて噛まう、取つて噛まう。」と脅すのである。――彼等を輕んずる人間に對して、茸のために氣を吐いたものである。臆病な癖に私はすきだ。 そこで茸の扮裝は、縞の着附、括袴、腰帶、脚絆で、見徳、嘯吹、上髯の面を被る。その傘の逸もつが、鬼頭巾で武惡の面ださうである。岩茸、灰茸、鳶茸、坊主茸の類であらう。いづれも、塗笠、檜笠、菅笠、坊主笠を被つて出ると言ふ。……此の狂言はまだ見ないが、古寺の廣室の雨、孤屋の霧のたそがれを舞臺にして、ずらりと此の形で並んだら、並んだだけで、おもしろからう。……中に、紅絹の切に、白い顏の目ばかり出して褄折笠の姿がある。紅茸らしい。あの露を帶びた色は、幽に光をさへ放つて、たとへば、妖女の艷がある。庭に植ゑたいくらゐに思ふ。食べるのぢやあないから――茸よ、取つて噛むなよ、取つて噛むなよ。…… |
自分の今寝ころんでゐる側に、古い池があつて、そこに蛙が沢山ゐる。 池のまはりには、一面に芦や蒲が茂つてゐる。その芦や蒲の向うには、背の高い白楊の並木が、品よく風に戦いでゐる。その又向うには、静な夏の空があつて、そこには何時も細い、硝子のかけのやうな雲が光つてゐる。さうしてそれらが皆、実際よりも遙に美しく、池の水に映つてゐる。 蛙はその池の中で、永い一日を飽きず、ころろ、かららと鳴きくらしてゐる。ちよいと聞くと、それが唯ころろ、かららとしか聞えない。が、実は盛に議論を闘してゐるのである。蛙が口をきくのは、何もイソツプの時代ばかりと限つてゐる訳ではない。 中でも芦の葉の上にゐる蛙は、大学教授のやうな態度でこんなことを云つた。 「水は何の為にあるか。我々蛙の泳ぐ為にあるのである。虫は何の為にゐるか。我々蛙の食ふ為にゐるのである。」 「ヒヤア、ヒヤア」と、池中の蛙が声をかけた。空と艸木との映つた池の水面が、殆埋る位な蛙だから、賛成の声も勿論大したものである。丁度その時、白楊の根元に眠つてゐた蛇は、このやかましいころろ、かららの声で眼をさました。さうして、鎌首をもたげながら、池の方へ眼をやつて、まだ眠むさうに舌なめづりをした。 「土は何の為にあるか。艸木を生やす為にあるのである。では、艸木は何の為にあるか。我々蛙に影を与へる為にあるのである。従つて、全大地は我々蛙の為にあるのではないか。」 「ヒヤア、ヒヤア。」 蛇は、二度目の賛成の声を聞くと、急に体を鞭のやうにぴんとさせた。それから、そろそろ芦の中へ這ひこみながら、黒い眼をかがやかせて、注意深く池の中の様子を窺つた。 芦の葉の上の蛙は、依然として、大きな口をあけながら、辯じてゐる。 「空は何の為にあるか。太陽を懸ける為にあるのである。太陽は何の為にあるか。我々蛙の背中を乾かす為にあるのである。従つて、全大空は我々蛙の為にあるのではないか。既に水も艸木も、虫も土も空も太陽も、皆我々蛙の為にある。森羅万象が悉く我々の為にあると云ふ事実は、最早何等の疑をも容れる余地がない。自分はこの事実を諸君の前に闡明すると共に、併せて全宇宙を我々の為に創造した神に、心からな感謝を捧げたいと思ふ。神の御名は讃むべきかなである。」 蛙は、空を仰いで、眼玉を一つぐるりとまはして、それから又、大きな口をあいて云つた。 「神の御名は讃むべきかな……」 さう云ふ語がまだ完らない中に、蛇の頭がぶつけるやうにのびたかと思ふと、この雄辯なる蛙は、見る間にその口に啣へられた。 「からら、大変だ。」 「ころろ、大変だ。」 「大変だ、からら、ころろ。」 池中の蛙が驚いてわめいてる中に、蛇は蛙を啣へた儘、芦の中へかくれてしまつた。後の騒ぎは、恐らくこの池の開闢以来未嘗なかつた事であらう。自分にはその中で、年の若い蛙が、泣き声を出しながら、かう云つてゐるのが聞えた。 「水も艸木も、虫も土も、空も太陽も、みんな我々蛙の為にある。では、蛇はどうしたのだ。蛇も我々の為にあるのか。」 「さうだ。蛇も我々蛙の為にある。蛇が食はなかつたら、蛙はふえるのに相違ない。ふえれば、池が、――世界が必狭くなる。だから、蛇が我々蛙を食ひに来るのである。食はれた蛙は、多数の幸福の為に捧げられた犠牲だと思ふがいい。さうだ。蛇も我々蛙の為にある。世界にありとあらゆる物は、悉蛙の為にあるのだ。神の御名は讃む可きかな。」 これが、自分の聞いた、年よりらしい蛙の答である。 |
我が田に水を引くといふことがある。當人は至極眞面目なのだらうが、傍から見ると、隨分片腹痛い場合がある。氣の毒でもあり、笑止でもある。新聞の論説や政治家の談話などといふものは、毎日のやうにそれを繰返してゐる。然しそれらには恕してやつて可い理由がいくらもある。學者とか教育家とか謂はれる連中の沒分曉な我田引水論となると、私は其奴等の面を引叩いてやりたく思ふことが度々ある。 何時ぞやも、自分等の所謂先哲の遺訓なるものの内容が、どれだけ空虚になつてるかも稽へず「べからず」十五箇條を作つて天下の女學生を救はうと企てた殊勝な老人達があつた。私はその事を新聞で見て、取敢ず笑つた。笑ふより外に仕方が無かつたのだ。笑つて了つてから、斯ういふ人達が早く死んで了つたら、嘸さつぱりするだらうと思つた。彼等は、彼等の定めた道徳生活の形式に背反するやうな出來事を凡て墮落だと思つてゐる。そしてその墮落の原因を惡文藝の跳梁に歸してゐる。果然、在來の倫理思想の根本に恐るべき斧を下してゐるのが、彼等の學校で、其授業時數の大多數を擧げて教へてゐる科學教育そのものであることを知らなんだのである。斯ういふ連中は、恰度、喫煙者がニコチン中毒に罹り、オピユムイーターが阿片中毒に罹るやうに、慢性の倫理中毒といふ奴に侵されてゐる。 |
一 画の作家が、画をつくることについて、ある作家は、これを苦しみだと言います、それからある作家は、楽しみだと言います。 作家が画を作ることが、果たして苦しみでしょうか、また楽しみでしょうか。 これは考えようによって、どちらも本とうだと言えましょう。私は画を作ることは、私ども作家にとって、苦しみでもあり、また楽しみでもあると言いたいと思います。 それはどうして苦しみであり、楽しみであると言えるでしょうか。これはいずれにしても、作家でないと分らない心持ちだと思います。作家であって、初めてこの真実味が分るのだと考えます。 二 画を作ることは、実際苦しいことです。苦しみなくしては、価値の善悪上下は別として、これでどうにか満足しえられるというだけの作品は生まれて来ないだろうと思います。 だが、しかし、苦しみだけでは、画は出来ないと思います。少なくとも、自分に納得しえられるような作品は、生まれて来ないだろうと考えます。 画は、楽しみを要求します。楽しんで作らないでは、その画は畢竟、その作家の期待を裏切るに相違ありません。 と言って画は、楽しみのみでは決して出来ないでしょう。制作は、苦しみの中に強く楽しみを捜しています。 三 画を作ることは、実際苦しいことです。ですけれど、作家としては、その苦しみを楽しむのでなくしては、いけないと思います。苦しみを楽しむというのは、甚だ矛盾しているようですが、決してそうではありません。 この制作の苦しみは、作家には決して単なる苦しみではない筈です。その苦しみは、やがてその作家にとって、無上の楽しみである筈です。この意味において、畢竟作家がある作品を制作するのには、心境に無上の楽土を現顕し得るようでないといけないと思います。 作家が制作に没頭している時、そこには無我の楽土が広がっていて、神澄み、心和やかにして、一片の俗情さえも、断じて自分を遮りえないという、こういう境地に辿りつかないでは、うそだと思います。 四 苦しみを苦しみと感じ、楽しみを楽しみと思うことは、当然すぎるほど当然なことです。けれども、芸術の作家が、その作品を生み出す苦しみを、単なる苦しみと考えることは、あまりにも作家として、芸術的余裕がないものだと思います。私ども作家は、少なくともその苦しみを楽しむだけの、余裕があって欲しいと考えます。 これは画のことではありませんが、私は日頃、謡曲を少しばかり習い覚えて、よく金剛巌氏の会などへ出かけます。 私はこの謡曲は、まだ初心同様のもので、申すまでもなく如何がわしいものですけれど、しかし、これもやはり画と同じ意味において、楽しむということを第一の目標にしております。 謡の会の席上などで、私が謡わねばならぬことになった時、席上には、えらい先生方や先輩の上手な方がずらりと並んでおり、ちょっと最初は謡いにくく思っていますが、少し経つと何もかも忘れて、案外大きな声をはりあげて、自分ながら楽しく謡い終わるという次第です。 私の謡い方が、まるで無我夢中で、少々節回しなどはどうあろうと、一向構わず、堂々とやっているには呆れる、と松篁なども言っているそうです。 しかし、私はそれでいいと自分だけできめています。金剛先生なども、あなたが謡っている態度をみていると実に心の底から愉快でたまらぬといったように思える、それが何よりいいのですと言っておられます。 五 この気持も、画の制作の場合と同じだと私は思っています。 画を制作する、謡の修業をする、決して苦しくないことはないものです。しかし、作家はその苦しみを楽しむ――そういう気持ちが制作の上の、第一の条件ではないかと思うのです。 |
二十年来の画債整理と、皇后陛下よりの御用命に依り、双幅藤原時代美人数名の揮亳完成を期するために、今度は是非に謹製致したいと思いながら、遂に三年許りの歳月が過ぎて了いました。今年は是非共献上致さねばなりませぬので、只今下絵浄書中でございます。何分いろいろの画債が積って居りますので、たとえ半分なりとも片付けられたら又出品画という様なものにも手を付けて見たいと思います。何分少少は落付いた気分で描かなければ公開すべき大作などは出来ません。 今の若い者のやっている事は、勝手気儘に任してあるので、一所に描いていても絵具かニカワ位を借りに来る位で殆ど何をやっているのか分らない程です。以前と違い水墨の妙味とか雅趣があるとかいうような事は顧みられないで細密描写だとか言って細い線で描き倒してその上を塗り潰して行くというやり方で、今度の出品の椿でも、大きな絹のまん中に“トボン”と描いてあるのだなぁとからかうと、反対に一寸見ると面白いとか、趣があるなどというような詰まらぬ絵は描かんと申します。 今と以前とはその行方が変って居ります。 |
信濃の國は十州に 境つらぬる國にして 山は聳えて峯高く 川は流れて末遠し 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さはに 萬たらわぬことそなき 四方に聳ゆる山々は 御岳乘鞍駒か岳 淺間は殊に活火山 いつれも國の鎭めなり 流れ淀ます行く水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天龍川 これまた國の固めなり 木曽の谷には眞木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせぎは紙麻綿 五穀みのらむ里やある しかのみならす桑取て 蠶養の業の打ひらけ 細きよすかも輕からぬ 國の命をつなくなり 尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寐覺の床 木曽の棧かけし世も 心してゆけ久米路橋 くる人多き束摩の湯 月の名にたつ姨捨山 しるき名所とみやびをが 詩歌によみてぞ傳へたる 旭將軍義仲も 仁科五郎信盛も 春臺太宰先生も 象山佐久間先生も 皆この國の人にして 文武のほまれたくひなく 山と聳へて世に仰き 川と流れて名は盡きす 吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山 うがつとんねる二十六 夢にも超ゆる滊車の道 道ひとすちに學ひなば |
聖フランシス様、聖ベネディクト様。 この家を悪しきものからお守り下さい。 悪い夢や、ロビンという名の人のいいお化けから すべての悪霊、 妖精、鼬、鼠、白鼬からお守り下さい。 晩鐘の時から、 暁の勤行まで。 ――カートライト 皎々と月のさえた夜だったが、寒さははげしかった。わたしたちの駅伝馬車は、凍てついた大地を矢のように走った。馭者はたえず鞭を打ちならし、馬はしばらく疾駆した。「馭者は自分の行くところをよく知っているんです」とわたしの友は言って、笑った。「それで、一生懸命になって、召使部屋の催しとご馳走に間にあうように着こうとしているんですよ。じつを申しますと、父は、古風な凝り屋で、昔のイギリス流の客のもてなしぶりを今もやっては得意になっているんです。父は昔気質のイギリスの田舎紳士の標本としては相当なものですが、このごろでは、純粋にそうしている人はほとんど見うけられなくなってしまいました。財産のある人は大部分ロンドンで暮らしますし、流行はどしどし田舎に流れこんできますので、むかしの田園生活の、強い、ゆたかな特色はほとんどぬぐいさられてしまいました。ところが、わたしの父は、若いころから、実直なピーチャム(原註1)を手本と仰いで、チェスターフィールドには眼もくれなかったんです。田舎の紳士が父祖伝来の土地に住むこと以上に、真に立派で羨むべきことはないと父は心に決め、年じゅう自分の領地で暮らしています。そして、むかしの田舎の遊びごとや、祝日の催しごとなどを復活させることを熱心に唱えていますし、そのことについて書いてある著書には、昔のものであろうと、現代のものであろうと、深く精通しているんです。じっさい、父が好んで読むのは、少くとも二世紀も前に盛んだった著述家のもので、父に言わせますと、この人たちがほんとうのイギリス人に似つかわしいことを書いたり考えたりしたので、後の世の著述家の及ぶところではないということです。父は、ときには残念がって、もう二、三世紀前に生まれればよかったなどとさえ言います。そのころにはイギリスがまだイギリスらしくて、独特の風俗習慣があったというわけです。父が住んでいるところは、本街道からちょっと離れて、さびしいところですし、近くには肩をならべる名門もありませんので、イギリス人にとってもっとも羨むべき祝福を与えられています。つまり、自分の気質にあったことを勝手にやって、だれにも妨げられないのです。近隣でいちばん古い家門を代表する人でもあり、また、農夫たちはほとんどみな父の小作人になっていますので、父はたいへん崇められていて、みんな父のことをただ『地主様』と呼んでいます。この家の家長は、大むかしから、この称号で呼ばれていたんです。うちの父についてこんなことを申し上げておくのは、ちょっと風変りなところがありますので、あらかじめ心構えをしていていただきたいからです。そうでないと、とんだ荒唐無稽に見えるかもしれませんので」 しばらくのあいだ馬車は庭園の塀に沿ってゆき、ついに門のところで止まった。この門は、重々しい、壮大な、古風なもので、鉄の柵でできていて、その上のほうは面白い唐草や花の形になっていた。門を支えている大きな四角の柱の上には家の紋章がつけてあった。すぐそばに門番の小屋が、黒々とした樅の木かげにおおわれ、灌木のしげみにほとんど埋まっていた。 馭者が門番の大きな鐘を鳴らすと、その音は凍った静かな空気に鳴りひびき、遠くのほうで犬の吠える声がこれに答えた。邸は犬が守っているらしかった。年とった女がすぐに門口に出てきた。月の光が明るく彼女を照らしだしていたので、わたしは、小柄で純朴な女の姿をよく見ることができた。着ているものはたいへん古風な趣味で、きれいな頭巾と胸当てをつけており、銀色のかみの毛が、雪のように白い帽子の下にのぞいていた。彼女は若主人が帰ってきたのを見て、お辞儀をしながら、喜びを言葉にも素振りにもあらわして出てきた。彼女の夫は邸の召使部屋にいて、クリスマス・イーヴを祝っているらしかった。彼は家じゅうでいちばん歌が上手だし、物語をするのもうまかったので、なくてはならない人だったのだ。 友人の提案で、わたしたちは馬車を降り、庭園のなかを歩いて、さほど遠くない邸まで行き、馬車にはあとからついてこさせることにした。道は、すばらしい並木のあいだを曲りくねって行った。その並木の裸になった枝のあいだに、月が光りながら、一点の雲もない深い大空を動いていた。彼方の芝生には雪がかるく一面におおっていて、ところどころきらきら光るのは、月の光が凍った水晶を照らすからだ。そして遠くには、うすい、すきとおるような靄が低地から忍びやかに舞いあがり、次第にあたりを包みかくしてしまいそうな気配だった。 わたしの友は恍惚としてあたりを見まわした。「ほんとうに何度」と彼は言った。「わたしは学校の休暇で帰るとき、この並木路を駈けていったか知れません。子供のころ、この木の下でよく遊んだものです。わたしはこの木々を見ると、幼いころに自分をかわいがってくれた人に対するような尊敬の念さえおこってくるのです。父はいつでもわたしたちにやかましく言って、祭日はちゃんと祝わせ、家の祝いの日には、わたしたちをまわりに呼びあつめたものでした。父はわたしたちの遊戯を指図し監督もしましたが、その厳格さといったら、ほかの親たちが子供の勉強を見るときのようなものでした。たいへん几帳面で、わたしたちが昔のイギリスの遊戯をその本来の形式通りにやらなければならないと言って、古い書物を調べて、どのような『遊びごと』にも先例や典拠をもとめたものです。ですが、学者ぶるといっても、これほど愉快なものはありません。あの善良な老紳士の政策は、子供たちに、家が世界じゅうでもっとも楽しいところだと思わせるようにしたことです。そして、じっさい、わたしはこの快い家庭的な感情こそ親があたえうる贈り物のうちでいちばん立派なものだと思っているんです」 わたしたちの話は、犬の一隊の騒ぎ声でさえぎられた。いろいろな種類や大きさの犬がいた。「雑種、小犬、幼犬、猟犬、それから、つまらぬ駄犬」みな門番の鐘の音と、馬車のがたがた鳴る音におどろかされ、口を開けて、芝生を跳んできた。 「――小犬どもまでいっしょになって、 トレイも、ブランチも、スウィートハートも、どうだ、みんなわしにほえかかって来るわい」 と、ブレースブリッジは大声で言って、笑った。彼の声をきくと、吠え声が変って、喜びの叫びになり、忽ちにして、彼は忠実な動物たちに取りまかれ、どうすることもできないほどだった。 わたしたちはもう古めかしい邸全体が見えるところに来ていた。邸は半ばは深い影につつまれていたが、半ばは冷たい月光に照らし出されていた。ずいぶんと宏壮な、まとまりのない建物で、さまざまな時代に建てられたらしかった。一棟はあきらかにきわめて古く、どっしりした石の柱のある張出し窓が突きだして、蔦が生いしげり、その葉かげから、小さな菱形の窓ガラスが月光にきらめいていた。邸のほかのところはチャールズ二世の時代のフランス好みの建て方で、友の言うところによれば、それを修理し模様変えをしたのは、彼の祖先で、王政復古のときに、チャールズ二世にしたがって帰国した人だそうだ。建物をとりまく庭園は昔の形式ばった様式にしたがって造園され、人工の花壇、刈りこんだ灌木林、一段高い段、壺を飾った大きな石の欄干があり、鉛製の像が一つ二つ建ち、噴水もあった。友の老父君は細心の注意をはらって、この古風な飾りをすべて原型のままに保とうとしているということだった。彼はこの造園法を賞でて、この庭には宏壮な趣があり、上品で高雅であり、旧家の家風に似つかわしいと考えていた。最近の庭園術で自然を得々として模倣する風潮は、現代の共和主義的な思想とともにおこってきたのだが、君主政体にはそぐわない、それには平等主義の臭味がある、というのだった。わたしは、このように政治を庭園術にみちびきいれるのを聞いて微笑まざるをえなかった。だが、わたしは、この老紳士があまりに頑迷に自分の信条を守りすぎるのではないかという懸念の意を表した。しかし、フランクが受けあって言うには、彼の父が政治をとやかく言うのを聞いたのはほとんどこの時だけで、この意見は、あるとき数週間ほど泊っていった国会議員から借りてきたものにちがいないということだった。主人公は、自分の刈りこんだ水松や、形式ばった高い壇を弁護してくれる議論はなんでも喜んで聞いた。しかし、ときどき現代の自然庭園家に攻撃されることもあるのだった。 わたしたちが家に近づくと、その一隅から音楽のひびきが聞え、ときおりどっとばかり笑う声がした。ブレースブリッジの言では、これは召使部屋から聞えてくるのにちがいなく、クリスマスの十二日間は、主人が大騒ぎを許し、むしろ奨励さえもしているのだ。ただし、すべてが昔のしきたりによって行われなければならない、ということだ。ここには、いまだに、鬼ごっこや、罰金遊び、目隠し当てもの、白パン盗み、林檎受け、乾し葡萄つかみなど、昔の遊戯が行われている。クリスマスの大薪や、クリスマスの蝋燭がきちんと燃され、寄生木の白い実がついているのが吊られ、かわいい女中たちには今にも危険がふりかかりそうになるのだった(原註2)。 召使たちはあまり遊戯に熱中していたので、わたしたちがなんど鐘を鳴らしても、なかなか気がつかなかった。やっとわたしたちの到着が伝えられると、主人がほかの二人の息子といっしょに、出迎えに出てきた。一人は賜暇で帰っていた若い陸軍将校で、もう一人はオクスフォード大学の学生で、ちょうど大学から帰ってきたばかりだった。主人は健康そうな立派な老紳士で、銀色のかみの毛はかるく縮れ、快活な赤ら顔をしていた。人相見が、わたしのように、前もって一つ二つ話を聞いていれば、風変りと情ぶかい心とが奇妙にまじりあっているのを見出したであろう。 家族の再会はあたたかで愛情がこもっていた。夜も大分遅くなっていたので、主人はわたしたちに旅の衣裳を着かえさせようとせず、ただちに案内して、大きな古風な広間にあつまっている人たちのところへ連れていった。一座の人たちは大家族の親類縁者で、例によって、年とった叔父や叔母たち、気楽に暮らしている奥さんたち、老衰した独身の女たち、若々しい従弟たち、羽の生えかけた少年たち、それから、寄宿舎住いの眼のぱっちりしたやんちゃ娘たちがいりまじっていた。彼らはさまざまなことをしていた。順番廻りのカルタ遊びをしているものもあり、煖炉のまわりで話をしているものもあった。広間の一隅には若い人たちがあつまっていたが、なかにはもうほとんど大人になりかかったものや、まだうら若い蕾のような年頃のものもいて、たのしい遊戯に夢中になっていた。また、木馬や、玩具のラッパや、壊れた人形が床の上にいっぱい散らかっているのは、かわいらしい子供たちが大ぜいいたあとらしく、楽しい一日を遊びすごして、今は寝床へおいやられて、平和な夜を眠っているのであろう。 若いブレースブリッジと親戚の人たちが互いに挨拶をかわしているあいだに、わたしはこの部屋をしさいに見ることができた。わたしがこれを広間と言ったのは、昔はたしかにこの部屋が広間だったからであり、また、主人はあきらかにもとの形に近いものにもどそうとしていたからである。突きでているがっしりした煖炉の上に、鎧を着て、白い馬のかたわらに立った武士の肖像がかかっており、反対側の壁には兜や楯や槍が掛けてあった。部屋の一端には巨大な一対の鹿の角が壁にはめこんであり、その枝は懸釘の役をして、帽子や、鞭や、拍車を吊すようになっていた。そして部屋の隅々には、猟銃や、釣竿や、そのほかの猟の道具がおいてあった。家具はむかしの重くて荷厄介になりそうなものだったが、現代の便利なものもいくつか加えられていて、樫の木の床には絨毯が敷いてあった。だから、全体としては応接室と広間との奇妙な混ぜあわせといった有様だった。 広いものものしい煖炉の火格子は取りはずしてあり、薪がよく燃えるようにしてあった。その真中に大きな丸太が赤々と焔をあげ、光と熱とをどんどん発散していた。これがクリスマスの大薪だとわたしは思った。主人はやかましく言って、むかしのしきたり通りにそれを運びこませ、燃させたのだった(原註3)。 老主人が先祖伝来の肱かけ椅子に腰かけ、代々客を歓待してきた炉ばたにいて、太陽が周囲の星を照らすように、まわりを見まわして、みんなの心にあたたかみと喜びとを注いでいるのを見るのは、ほんとうにたのしかった。犬さえも彼の足もとに寝そべって、大儀そうに姿勢をかえたり欠伸をしたりして、親しげに主人の顔を見あげ、尾を床の上で振りうごかし、また、からだをのばして眠りこんでしまい、親切に守ってくれることを信じきっていた。ほんとうの歓待には心の奥から輝き出るものがあり、それはなんとも言い表わすことができないが、そくざに感じとれるもので、初対面の人もたちまち安楽な気持ちになるのである。わたしも、この立派な老紳士の快い炉ばたに坐って数分たたないうちに、あたかも自分が家族の一員であるかのように寛いだ気分になった。 わたしたちが着いてしばらくすると、晩餐の用意のできたことがしらされた。晩餐は広い樫の木造りの部屋にしつらえられたが、この部屋の鏡板は蝋が引いてあってぴかぴか光り、周囲には家族の肖像画がいくつか柊と蔦で飾られていた。ふだん使うあかりのほかに、クリスマスの蝋燭と呼ばれる大きな蝋燭が二本、常緑木を巻きつけて、よく磨きあげた食器棚の上に、家に伝わった銀の食器といっしょに置いてあった。食卓には充実した料理が豊富にのべひろげられていた。だが、主人はフルーメンティを食べて夕食をすませた。これは麦の菓子を牛乳で煮て、ゆたかな香料を加えたものであり、むかしはクリスマス・イーヴの決まりの料理だった。わたしは、なつかしの肉パイがご馳走の行列のなかに見つかったので喜んだ。そして、それが全く正式に料理されていることがわかり、また、自分の好みを恥じる必要のないことがわかったので、わたしたちがいつも、たいへん上品な昔なじみに挨拶するときの、あのあたたかな気持ちをこめて、その肉パイに挨拶した。 一座の陽気な騒ぎは、ある奇矯な人の滑稽によって大いに度を加えた。この人物をブレースブリッジ氏はいつもマスター・サイモンという風変りな称号で呼んでいたが、彼はこぢんまりした、快活な男で、徹頭徹尾独りものの老人らしい風貌をしていた。鼻は鸚鵡の嘴のような形で、顔は天然痘のために少々穴があいていて、そこに消えることのない乾からびた花が咲いているさまは、霜にうたれた秋の葉のようだった。眼はすばしこくて生き生きしており、滑稽なところがあり、おどけた表情がひそんでいるので、見る人はついおかしくなってしまうのだった。彼はあきらかに家族のなかの頓智家で、婦人たちを相手に茶目な冗談や当てこすりをさかんに飛ばしたり、昔の話題をくりかえしたりして、この上なく賑かにしていた。ただ残念なことに、わたしはこの家の歴史を知らないために、面白がることができなかった。晩餐のあいだの彼の大きな楽しみは、隣りに腰かけた少女に笑いをこらえさせて、しょっちゅう苦しませておくことらしかった。少女は母親が正面に坐ってときどき叱るような眼つきをするのがこわいのだが、おかしくてたまらなかったのだ。じっさい、彼は一座のうちの若い人たちの人気者であり、彼らは、この人が言うこと、することに、いちいち笑いこけ、彼が顔つきをかえるたびに笑った。わたしはそれももっともだと思った。彼は、若い連中の眼には百芸百能の驚異的な人間に見えたにちがいないのである。彼は、パンチとジュディの人形芝居の真似もできたし、焼けたコルクとハンカチを使えば、片手でお婆さんの人形をつくってみせることもできた。そしてまた、オレンジを面白い恰好に切って、若い人たちを息がとまるほど笑わせることもしたのである。 フランク・ブレースブリッジが簡単に彼の経歴を話してくれた。彼は独身で、もう年とっており、働かずに資産から入ってくる収入は僅かだったが、なんとかうまくやりくりして、必要なものはそれで間に合わせていた。彼が親類縁者を歩きまわるのは、気まぐれな彗星が軌道をぐるぐるあちこちにまわるようなもので、ある親戚を訪れたかと思うと、次には遠くはなれた別の親戚のところに行くのだった。イギリスの紳士は、厖大な親族をもっていて、しかも財産は少ししかないとなると、よくこういうことをするのだ。彼の気質は賑かで、浮き浮きしており、いつもそのときそのときを楽しんでいた。それに、住む場所も交際の仲間も頻繁にかわるので、ふつうの独りものの老人に無慈悲にも取りつく、例の意地悪で偏屈な癖をつけずにすんでいた。彼は一門の完璧な年代記のようなものであり、ブレースブリッジ家全体の系図、来歴、縁組に精通していたから、年とった連中にはたいへん好かれていた。彼は老貴婦人や、老いこんだ独身女たちの相手役となっていたが、そういう婦人たちのあいだでは、彼はいつもまだまだ若い男だと考えられていた。それに、彼は子供たちのなかでは、遊戯の先生だった。そのようなわけで、彼が行くところ、サイモン・ブレースブリッジ氏よりも人気のある男はなかった。近年は、彼はほとんどこの主人のところに住みきりになっていて、老人のために何でも屋になっていたが、とりわけ主人を喜ばしたのは、昔のことについて主人の気まぐれと調子をあわせたり、古い歌を一くさりもちだしたりして、どんな場合にも必要に応じたことだった。わたしたちは間もなく、この最後に述べた彼の才能の見本に接することができた。夕食が片づけられ、クリスマスに特有な、香料入りの葡萄酒や、ほかの飲みものが出されると、ただちに、マスター・サイモンに頼んで、昔なつかしいクリスマスの歌を歌ってもらうことになったのである。彼は一瞬考えて、それから、眼をきらきらさせ、まんざら悪くない声で、といっても、ときに裏声になって、裂けた葦笛の音のようになったが、面白い昔の唄をうたいだした。 さあさ、クリスマスだ。 太鼓をならし、 近所の人を呼びあつめよう。 みんなが来たら、 ご馳走食べて、 風も嵐も追い出そう……云々。 晩餐のおかげで、みな陽気になった。竪琴ひきの老人が召使部屋から呼ばれてきた。彼は今までそこで一晩じゅうかきならしていて、あきらかに主人の自家製の酒を呑んでいたらしかった。聞くところによると、彼はこの邸の居候のようなもので、表むきは、村の住人だが、自分の家にいるときよりも、地主の邸の台所にいるほうが多かった。それというのも老紳士が「広間の竪琴」の音が好きだったからである。 舞踊は、晩餐後のたいていの舞踊のように、愉快なものだった。老人たちのなかにもダンスに加わる人がおり、主人自身もある相手と組んで、幾組か下手まで踊って行った。彼の言うには、この相手と毎年クリスマスに踊り、もうおよそ五十年ばかりつづけているということだった。マスター・サイモンは、昔と今とをつなぐ一種の環のようには見えたが、やはりその才芸の趣味は多少古めかしいようで、あきらかに自分の舞踊が自慢であり、古風なヒール・アンド・トウやリガドゥーンや、そのほかの優雅な技をしめして信用を博そうと懸命になっていた。しかし、彼は不幸にして、寄宿舎から帰ってきたお転婆娘と組んでしまった。彼女はたいへん元気で、彼をいつも精一杯にひっぱりまわし、せっかく彼が真面目くさって優美な踊りを見せようとしたのに、すっかり駄目になってしまった。古風な紳士というものは不幸にしてとかくそういう釣合いの悪い組をつくるものである。 これに反して、若いオクスフォードの学生は未婚の叔母を連れて出た。この悪戯学生は、叱られぬのをよいことにして、ちょっとしたわるさをさんざんやった。彼は悪戯気たっぷりで、叔母や従姉妹たちをいじめては喜んでいた。しかし、無鉄砲な若者の例にもれず、彼は婦人たちにはたいへん好かれたようだった。舞踊している人のなかで、いちばん興味をひいた組は、例の青年将校と、老主人の保護をうけている、美しい、はにかみやの十七歳の少女だった。ときどき彼らはちらりちらりと恥ずかしそうに眼をかわしているのをわたしはその宵のうちに見ていたので、二人のあいだには、やさしい心が育くまれつつあるのだと思った。それに、じっさい、この青年士官は、夢見る乙女心をとらえるにはまったくぴたりとあてはまった人物だった。彼は背が高く、すらりとして、美男子だった。そして、最近のイギリスの若い軍人によくあるように、彼はヨーロッパでいろいろなたしなみを身につけてきていた。フランス語やイタリア語を話せるし、風景画を描けるし、相当達者に歌も歌えるし、すばらしくダンスは上手だった。しかも、とりわけ、彼はウォータールーの戦で負傷しているのだ。十七歳の乙女で、詩や物語をよく読んでいるものだったら、どうして、このような武勇と完璧との鑑をしりぞけることができようか。 舞踊が終ると、彼はギターを手にとり、古い大理石の煖炉にもたれかかり、わたしにはどうも、わざとつくったと思われるような姿勢で、フランスの抒情詩人が歌った小曲をひきはじめた。ところが、主人は大声で、クリスマス・イーヴには昔のイギリスの歌以外は止めるように言った。そこで、この若い吟遊詩人はしばらく上を仰いで、思いだそうとするかのようだったが、やがて別の曲をかきならしはじめ、ほれぼれするようなやさしい様子で、ヘリックの「ジュリアに捧げる小夜曲」を歌った。 |
柏崎海軍少尉の夫人に、民子といつて、一昨年故郷なる、福井で結婚の式をあげて、佐世保に移住んだのが、今度少尉が出征に就き、親里の福井に歸り、神佛を祈り、影膳据ゑつつ座にある如く、家を守つて居るのがあつた。 旅順の吉報傳はるとともに幾干の猛將勇士、或は士卒――或は傷つき骨も皮も散々に、影も留めぬさへある中に夫は天晴の功名して、唯纔に左の手に微傷を受けたばかりと聞いた時、且つ其の乘組んだ艦の帆柱に、夕陽の光を浴びて、一羽雪の如き鷹の來り留つた報を受け取つた時、連添ふ身の民子は如何に感じたらう。あはれ新婚の式を擧げて、一年の衾暖かならず、戰地に向つて出立つた折には、忍んで泣かなかつたのも、嬉涙に暮れたのであつた。 あゝ、其のよろこびの涙も、夜は片敷いて帶も解かぬ留守の袖に乾きもあへず、飛報は鎭守府の病院より、一家の魂を消しに來た。 少尉が病んで、豫後不良とのことである。 此の急信は××年××月××日、午後三時に屆いたので、民子は蒼くなつて衝と立つと、不斷着に繻子の帶引緊めて、つか〳〵と玄關へ。父親が佛壇に御明を點ずる間に、母親は、財布の紐を結へながら、駈けて出て之を懷中に入れさせる、女中がシヨオルをきせかける、隣の女房が、急いで腕車を仕立に行く、とかうする内、お供に立つべき與曾平といふ親仁、身支度をするといふ始末。さて、取るものも取りあへず福井の市を出發した。これが鎭守府の病院に、夫を見舞ふ首途であつた。 冬の日の、山國の、名にしおふ越路なり、其日は空も曇りたれば、漸く町をはづれると、九頭龍川の川面に、早や夕暮の色を籠めて、暗くなりゆく水蒼く、早瀬亂れて鳴る音も、千々に碎けて立つ波も、雪や!其の雪の思ひ遣らるゝ空模樣。近江の國へ山越に、出づるまでには、中の河内、木の芽峠が、尤も近きは目の前に、春日野峠を控へたれば、頂の雲眉を蔽うて、道のほど五里あまり、武生の宿に着いた頃、日はとつぷりと暮れ果てた。 長旅は抱へたり、前に峠を望んだれば、夜を籠めてなど思ひも寄らず、柳屋といふに宿を取る。 路すがら手も足も冷え凍り、火鉢の上へ突伏しても、身ぶるひやまぬ寒さであつたが、 枕に就いて初夜過ぐる頃ほひより、少し氣候がゆるんだと思ふと、凡そ手掌ほどあらうといふ、俗に牡丹となづくる雪が、しと〳〵と果しもあらず降出して、夜中頃には武生の町を笠のやうに押被せた、御嶽といふ一座の峰、根こそぎ一搖れ、搖れたかと思ふ氣勢がして、風さへ颯と吹き添つた。 一の谷、二の谷、三の谷、四の谷かけて、山々峰々縱横に、荒れに荒るゝが手に取るやう、大波の寄せては返すに齊しく、此の一夜に北國空にあらゆる雪を、震ひ落すこと、凄まじい。 民子は一炊の夢も結ばず。あけ方に風は凪いだ。 昨夜雇つた腕車が二臺、雪の門を叩いたので、主從は、朝餉の支度も匇々に、身ごしらへして、戸外に出ると、東雲の色とも分かず黄昏の空とも見えず、溟々濛々として、天地唯一白。 不意に積つた雪なれば、雪車と申しても間に合ず、ともかくもお車を。帳場から此處へ參る内も、此の通りの大汗と、四人の車夫は口を揃へ、精一杯、後押で、お供はいたして見まするけれども、前途のお請合はいたされず。何はしかれ車の齒の埋まりますまで、遣るとしませう。其上は、三人がかり五人がかり、三井寺の鐘をかつぐ力づくでは、とても一寸も動きはしませぬ。お約束なれば當柳屋の顏立に參つたまで、と、しり込すること一方ならず。唯急ぎに急がれて、こゝに心なき主從よりも、御機嫌ようと門に立つて、一曳ひけば降る雪に、母衣の形も早や隱れて、殷々として沈み行く客を見送る宿のものが、却つて心細い限りであつた。 酒代は惜まぬ客人なり、然も美人を載せたれば、屈竟の壯佼勇をなし、曳々聲を懸け合はせ、畷、畦道、村の徑、揉みに揉んで、三里の路に八九時間、正午といふのに、峠の麓、春日野村に着いたので、先づ一軒の茶店に休んで、一行は吻と呼吸。 茶店のものも爐を圍んで、ぼんやりとして居るばかり。いふまでもなく極月かけて三月彼岸の雪どけまでは、毎年こんな中に起伏するから、雪を驚くやうな者は忘れても無い土地柄ながら、今年は意外に早い上に、今時恁くまで積るべしとは、七八十になつた老人も思ひ懸けないのであつたと謂ふから。 來る道でも、村を拔けて、藪の前など通る折は、兩側から倒れ伏して、竹も三尺の雪を被いで、或は五間、或は十間、恰も眞綿の隧道のやうであつたを、手で拂ひ笠で拂ひ、辛うじて腕車を潛らしたれば、網の目にかゝつたやうに、彼方此方を、雀がばら〳〵、洞に蝙蝠の居るやうだつた、と車夫同士語りなどして、しばらく澁茶に市が榮える。 聲の中に噫と一聲、床几から轉げ落ちさう、脾腹を抱へて呻いたのは、民子が供の與曾平親仁。 這は便なし、心を冷した老の癪、其の惱輕からず。 一體誰彼といふ中に、さし急いだ旅なれば、註文は間に合ず、殊に少い婦人なり。うつかりしたものも連れられねば、供さして遣られもせぬ。與曾平は、三十年餘りも律儀に事へて、飼殺のやうにして置く者の氣質は知れたり、今の世の道中に、雲助、白波の恐れなんど、あるべくも思はれねば、力はなくても怪しうはあらず、最も便よきは年こそ取つたれ、大根も引く、屋根も葺く、水も汲めば米も搗く、達者なればと、この老僕を擇んだのが、大なる過失になつた。 いかに息災でも既に五十九、あけて六十にならうといふのが、内でこそはくる〳〵𢌞れ、近頃は遠路の要もなく、父親が本を見る、炬燵の端を拜借し、母親が看經するうしろから、如來樣を拜む身分、血の氣の少ないのか、とやかくと、心遣ひに胸を騷がせ、寒さに骨を冷したれば、忘れて居た持病がこゝで、生憎此時。 雪は小止もなく降るのである、見る〳〵内に積るのである。 大勢が寄つて集り、民子は取縋るやうにして、介抱するにも、藥にも、ありあはせの熊膽位、其でも心は通じたか、少しは落着いたから一刻も疾くと、再び腕車を立てようとすれば、泥除に噛りつくまでもなく、與曾平は腰を折つて、礑と倒れて、顏の色も次第に變り、之では却つて足手絡ひ、一式の御恩報じ、此のお供をと想ひましたに、最う叶はぬ、皆で首を縊めてくれ、奧樣私を刺殺して、お心懸のないやうに願ひまする。おのれやれ、死んで鬼となり、無事に道中はさせませう、魂が附添つて、と血狂ふばかりに急るほど、弱るは老の身體にこそ。 口々に押宥め、民子も切に慰めて、お前の病氣を看護ると謂つて此處に足は留められぬ。棄てゝ行くには忍びぬけれども、鎭守府の旦那樣が、呼吸のある内一目逢ひたい、私の心は察しておくれ、とかういふ間も心は急く、峠は前に控へて居るし、爺や! もし奧樣。 と土間の端までゐざり出でて、膝をついて、手を合すのを、振返つて、母衣は下りた。 一臺の腕車二人の車夫は、此の茶店に留まつて、人々とともに手當をし、些とでもあがきが着いたら、早速武生までも其日の内に引返すことにしたのである。 民子の腕車も二人がかり、それから三里半だら〳〵のぼりに、中空に聳えたる、春日野峠にさしかゝる。 ものの半道とは上らないのに、車の齒の軋り強く、平地でさへ、分けて坂、一分間に一寸づゝ、次第に雪が嵩増すので、呼吸を切つても、もがいても、腕車は一歩も進まずなりぬ。 前なるは梶棒を下して坐り、後なるは尻餅ついて、御新造さん、とてもと謂ふ。 大方は恁くあらむと、期したることとて、民子も豫め覺悟したから、茶店で草鞋を穿いて來たので、此處で母衣から姿を顯し、山路の雪に下立つと、早や其の爪先は白うなる。 下坂は、動が取れると、一名の車夫は空車を曳いて、直ぐに引返す事になり、梶棒を取つて居たのが、旅鞄を一個背負つて、之が路案内で峠まで供をすることになつた。 其の鐵の如き健脚も、雪を踏んではとぼ〳〵しながら、前へ立つて足あとを印して上る、民子はあとから傍目も觸らず、攀ぢ上る心細さ。 千山萬岳疊々と、北に走り、西に分れ、南より迫り、東より襲ふ四圍たゞ高き白妙なり。 さるほどに、山又山、上れば峰は益累り、頂は愈々聳えて、見渡せば、見渡せば、此處ばかり日の本を、雪が封ずる光景かな。 幸に風が無く、雪路に譬ひ山中でも、然までには寒くない、踏みしめるに力の入るだけ、却つて汗するばかりであつたが、裾も袂も硬ばるやうに、ぞつと寒さが身に迫ると、山々の影がさして、忽ち暮なむとする景色。あはよく峠に戸を鎖した一軒の山家の軒に辿り着いた。 さて奧樣、目當にいたして參つたは此の小家、忰は武生に勞働に行つて居り、留守は山の主のやうな、爺と婆二人ぐらし、此處にお泊りとなさいまし、戸を叩いてあけさせませう。また彼方此方五六軒立場茶屋もござりますが、美しい貴女さま、唯お一人、預けまして、安心なは、此の外にござりませぬ。武生の富藏が受合ひました、何にしろお泊んなすつて、今夜の樣子を御覽じまし。此の雪の止むか止まぬかが勝負でござります。もし留みませぬと、迚も路は通じません、降やんでくれさへすれば、雪車の出ます便宜もあります、御存じでもありませうが、此の邊では、雪籠といつて、山の中で一夜の内に、不意に雪に會ひますると、時節の來るまで何方へも出られぬことになりますから、私は稼人、家に四五人も抱へて居ります、萬に一つも、もし、然やうな目に逢ひますると、媽々や小兒が腭を釣らねばなりませぬで、此の上お供は出來かねまする。お別れといたしまして、其處らの茶店をあけさせて、茶碗酒をぎうとあふり、其の勢で、暗雲に、とんぼを切つて轉げるまでも、今日の内に麓まで歸ります、とこれから雪の伏家を叩くと、老人夫婦が出迎へて、富藏に仔細を聞くと、お可哀相のいひつゞけ。 行先が案じられて、我にもあらずしよんぼりと、門に彳んで入りもやらぬ、媚しい最明寺殿を、手を採つて招じ入れて、舁据ゑるやうに圍爐裏の前。 お前まあ些と休んでと、深切にほだされて、懷しさうに民子がいふのを、いゝえ、さうしては居られませぬ、お荷物は此處へ、もし御遠慮はござりませぬ、足を投出して、裾の方からお温りなされませ、忘れても無理な路はなされますな。それぢやとつさん頼んだぜ、婆さん、いたはつて上げてくんなせい。 富藏さんとやら、といつて、民子は思はず涙ぐむ。 へい、奧さま御機嫌よう、へい、又通りがかりにも、お供の御病人に氣をつけます。あゝ、いかい難儀をして、おいでなさるさきの旦那樣も御大病さうな、唯の時なら橋の上も、欄干の方は避けてお通りなさらうのに、おいたはしい。お天道樣、何分お頼み申しますぜ、やあお天道樣といや降ることは〳〵。 あとに頼むは老人夫婦、之が又、補陀落山から假にこゝへ、庵を結んで、南無大悲民子のために觀世音。 其の情で、饑ゑず、凍えず、然も安心して寢床に入ることが出來た。 佗しさは、食べるものも、着るものも、こゝに斷るまでもない、薄い蒲團も、眞心には暖く、殊に些は便りにならうと、故と佛間の佛壇の前に、枕を置いてくれたのである。 心靜に枕には就いたが、民子は何うして眠られよう、晝の疲勞を覺ゆるにつけても、思ひ遣らるゝ後の旅。 更け行く閨に聲もなく、凉しい目ばかりぱち〳〵させて、鐘の音も聞えぬのを、徒に指を折る、寂々とした板戸の外に、ばさりと物音。 民子は樹を辷つた雪のかたまりであらうと思つた。 しばらくして又ばさりと障つた、恁る時、恁る山家に雪の夜半、此の音に恐氣だつた、婦人氣はどんなであらう。 富藏は疑はないでも、老夫婦の心は分つて居ても、孤家である、この孤家なる言は、昔語にも、お伽話にも、淨瑠璃にも、ものの本にも、年紀今年二十になるまで、民子の耳に入つた響きに、一ツとして、悲慘悽愴の趣を今爰に囁き告ぐる、材料でないのはない。 呼吸を詰めて、なほ鈴のやうな瞳を凝せば、薄暗い行燈の灯の外、壁も襖も天井も暗りでないものはなく、雪に眩めいた目には一しほで、ほのかに白いは我とわが、俤に立つ頬の邊を、確乎とおさへて枕ながら幽にわなゝく小指であつた。 あなわびし、うたてくもかゝる際に、小用がたしたくなつたのである。 |
此頃は実に不快な天候が続く。重苦しく蒸熱くいやに湿り気をおんだ、強い南風だ。そうして又、俄の出来事に無数の悪魔が駈出して来た様な、にくにくしい土色した雲が、空低く散らかり飛び駈けって、引切りなしに北の方へ走り行く。時々空が暗くなって雲が濃くなると一頻りずつ必ず雨を降らせる。 こんな天気が今日で三日目だ。意地悪く息の長い風だ。人間は嘆息する、呼吸が為に息苦しいこと夥しい。此夜明けには止むだろう、此日の入りには止むだろうも皆空だのみであった。予は今朝になって、著しく神経の疲労を覚えた。深刻に出水の苦痛を恐れて居る予は、八月という月の此天候に恐怖を感ぜずには居られなかったのである。 早く新聞を手にした児供達はいずれも天気予報を気にして見たらしく、十四と十二と七つとの三人が揃って新聞を持って来た。三人は予の左右に屈み加減に両手を突いて等しく父の前に顔を出すのであった。予も新聞を取るや否、自然に気象台員の談話という項目に眼は走った。直ちに眼に入るのは、低気圧、颶風等の文字である。予は寧ろこれを読むのが厭わしかった。児供等は父がそれを読んで、何とか云うのを待つものらしく三人共未だ何とも云わずに居る。予は殊に児供等の前で其気象台員の談話を読むのが何となく苦痛でならない。それで予は眼を転じて別項を読み始めた。十四の児はもどかしくなってか、 「お父さん『あらし』になるの……」 いうと等しく、 「あらしになりゃしないねいお父さん」 と、十二のが口出した。 「お父さん水が出るかい……」 こういうのは七つの児であった。 「大丈夫ねえお父さん」 十二のが二人の詞を打消す様にそういった。 「うん大丈夫だよ、新聞にあることは当てになりゃしないよ」 父はこう云わない訳に行かなかった。 「ほんとに大丈夫お父さん……」 十四のは不安そうに父の顔を見上げる。 「うん雨は少し降るだろうけれどね大風は吹きゃしないだろうよ。そっだから大丈夫だよ」 「新聞にそう書いてあるの……」 「うん」 「そらえいこった」 七つのはさすがに安心してこう叫んだ。 「わたい大水が出れば大島へ逃げていくだ……」 初めから大丈夫だねい大丈夫だねと云ってた、十二のが、矢張安心し切れないと見え、そう云うのであった。予はしょうことなしに、新聞の記事をよい加減に読み聞かして、これだからそんなに心配しなくともえい、と賺した。併し予の不安は児供等を安心させるのに寧ろ苦痛を感ずるのである。 「水が出るにしたって、直ぐではないねいお父さん」 十四のは、どうしても安心し切れないで、そういうのであった。予は少しく叱る様に押えつけて、 「今夜にも此風さえ止めば大丈夫だから、そんなに心配することはないよ」 予はこう云って、児供等には次へ出て遊べと命じた。児供に安心させようとする許りではない、自分も内心には、気象台の報告とて必ずしも信ずるに足らない、よし大雨が一日一夜降ったにせよ、逃出さねばならぬ様な事は有るまいと、強いて自分の不安をなだめる、自然的心理の働きが動いたのである。乍併自分が心から安心の出来ないのにどうして児供等を安心させることが出来よう。次へ起った三児の後影は如何にも寂しかった。予は坐して居られない程胸に苦痛を覚えた。予は起って庭から空模様を眺めた。風は昨日に増すとも静まる様子は更に無い。土色雲の悪魔は益数を加えて飛び駈って居る。どう見ても一荒れ荒れねば天気は直りそうもなく思われる。予は又其空模様を永く見て居るに堪えないで家に入った。妻も入って来た。三人の児の姉等二人も入って来た。又々互に不安心な事を云い合って、我れと我が不安の思いを増す様な話を暫く喃々した。果ては予はどういう事があろうと仕方がない、益の無いくよくよ話はよせと一喝した。 風の音許り外に騒々しくて、家の内には元気よく騒ぐものもない。 平生は鉄工所でどんがんする鎚の音、紡績会社の器械のうなり、汽笛の響、有らゆる諸工場の雑多な物鳴り等、大都会の騒々しさも、今日は一切に耳に入らない。只ごうっと吹く風の音、ばらばらっと板屋を打つ雨の音に許り神経は昂進るのである。新聞も読掛けてよした。雑誌も読掛けた儘投げてやった。 予はつくづくと、こんな土地に住まねばならぬ我が運命を悲しまない訳にゆかなかった。同時に我れながらさもしい卑屈な感想の湧き起るのを禁じ得なかった。 平生財を作るにも最も拙な癖に、財力の威徳を尊敬することを知らなかった報いだ。貧はこれほど苦しくないにせよ、災害から受くる損傷は苦痛でなければならぬ。現に苦しみつつある我が愚を憐まない訳に行かない。我に千四五百円の余財があらば、こんな所に一日も居やしないが、千四五百の金は予の今日では望外の事である。予は財なきが故に、時々云うに云われない苦悶をせねばならぬ、厭うべき此土地に囚れて居ねばならないのである。 今少し貨殖の道に心掛ければよかった。思えば自分はどう考えても迂愚であった。 予はこんな風に、今更考えても何の役にも立たない愚な事を考えずに居られなかった。 つまらない。実につまらない。何だ馬鹿馬鹿しい。実にくだらないなァ。 俄に気づいてうんと自分を嘲り叱って見ても、不安は依然として不安で、今の苦悶の中から、心を不安境外へ抜け出ることはどうしても出来ない。 今茲へ来て何を考えたって役には立たない。未だ雨も降らないのに、出水を心配するなどは猶更無駄な話だ。こう思いつつ何も考えない事にして、仰向に踏んぞりかえった。そうして両足を伸し腹部も十分に張って見たけれど、心のくもって居る様な胸の苦みは少しも減じなかった。予はほとほと自分の体と自分の心との取扱に窮して終った。そういう内に、何と云っても児供は児供でどんな面白い事があったか、苦の無い笑声を立てて騒ぎ出した。予も亦不思議と其声に揺られて、心の凝りが聊か柔かになった。 |
1 奇怪な噂 もはや「火星兵団」の噂をお聞きになったであろうか! ふむ、けさ地下鉄電車の中で、乗客が話をしているのを、横からちょっと小耳にはさんだとおっしゃるのか。 ――いや全く、こいつは冗談じゃないですぞ。これはなにも、わしたち科学者が、おもしろ半分におどかしたがって言うのではないのですわい。今われわれ地球人類は、本気になって、そうして大いそぎで戦闘準備をしなくちゃならんのだ。しかるに、わしのいうことを小ばかにして、だれも信じようとはしない。これでは、やがてたいへんなことになる。わしは今から予言をする! 地球人類は、一人残らず死んでしまうだろう。第一「火星兵団」という名前を考えても、その恐るべき相手が、どういうことをしでかすつもりだか、たいがい想像がつくはずじゃと思うが――。 と、そういう話を、地下鉄電車の中で聞いたと、おっしゃるのか。 ふむ、なるほど。 そのことばづかいから察すると、そう言って自分一人で赤くなって興奮していた人というのは、からだの小柄の、頭の髪の毛も、顎のさきにのばした学者鬚も、みんな真白な老紳士だったであろう。 それに、ちがいないと言われるか。 ふむ、そうであろう。やっぱり、そうであった。その老紳士こそは有名な天文学者で、さきごろまで某大学の名誉教授だった蟻田博士なんだ。 さきごろまで名誉教授であったと言ったが、つまり蟻田老博士は、今では名誉教授ではないのだ。博士は、さきごろ名誉教授をやめたいと願い出て、ゆるされたのだ。 そういうことにはなっているが、その実蟻田老博士は、奇怪にも大学当局から、辞表を出すように命令され、むりやりに名誉教授の肩書をうばわれてしまったのだ。そんなことになったわけは、ほら例の「火星兵団」にある! あのように「火星兵団」のことを、世間に言いふらさねば、大学当局は、なにもあの老齢の蟻田博士から、名誉教授の肩書をうばうようなことは、しなかったであろう。 まあそれほど、大学当局では、老博士が言いふらしている「火星兵団」が、ありもしないでたらめであるとして、眉をひそめていたのである。 「火星兵団」に関する老博士の第一声は、今から一カ月ほど前、事もあろうに、放送局のマイクロホンから、日本全国に放送されたのであった。その夜の放送局内の騒ぎについては、すぐ記事さしとめの命令がその筋から発せられたので、世間には洩れなかったが、実は局内ではたいへんな騒ぎで、局長以下、みんな真青になってしまい、その下にいる局員たちは、仕事もなにも、手につかなくなってしまったほどだった。 その夜の蟻田博士の講演放送というのは、なにも「火星兵団」のことが題目になっていたわけではない。そんなものとはまるで関係のない「わが少年時代の思出」という立志伝の放送だった。 ところが、その途中で、老博士は急に話をそらせ、講演の原稿にも書いてないところの「火星兵団」について、ぺらぺらしゃべりだしたのであった。 つまり、こんな風であった。 ――ええー、ところでわしは、最近重大な発見をした。それはわれわれ地球人類にとって、実に由々しき問題なのである。事のおこりは一昨日の午前四時、わしはまだ明けやらぬ夜空に愛用の天体望遠鏡をむけ、きらきらときらめく星の光をあつめていたが、その時驚くべし、遂に「火星兵団」という意味の光をつかまえたのである。おお「火星兵団」! このことばは短いが、この短いことばの中には、いよいよわれわれ地球人類に対し、あの謎の火星の生物が、今夜のうちにも――。 その時放送は、とつぜん聞えなくなった。 「火星兵団」について、一生けんめいしゃべっていた蟻田博士の放送が、なぜその時、ぷつんと聞えなくなったのであろうか。 それは、放送局が停電したわけでもなく、また機械が故障になったわけでもない。放送の監督をしている逓信局が、博士の放送がおだやかでないのに驚いて、がちゃんとスイッチを切ったのである。逓信局では、いつでもこうして、おだやかでない放送はすぐさま止める。 放送室の蟻田博士は、マイクのスイッチが切られたこととは知らない。だから、日本全国の人々が自分の話を聞いているものと思い、気の毒にも、額からはぽたぽた汗をたらして、一生けんめいに、その後をしゃべり続けたのであった。 博士が、その後、どんなことをしゃべったか、それは放送が止ってしまったのであるから、外に洩れなかった。だから、ここにはなんにも書くまい。 博士が、放送を終えて室を出ると、そこには、その筋の掛官が待っていた。おだやかでない博士の放送を聞いて、すぐさま自動車で駈附けたらしい。 博士は、その場からその筋へ伴なわれていった。そうして大江山課長という掛官で一ばんえらい人から、「しゃべってはならない」と命令された。 「なぜしゃべっては悪いのですかな。わしは苦心の末『火星兵団』という意味の光を空中に発見した。そうして、それはまさに人類にとって一大事だ。それをしゃべって悪いと言われる貴官の考えがわしにはわからん」 と、蟻田老博士は不満をうったえた。 「いや、その――『火星兵団』という意味の光を空中に発見した――というのが、困るのです。そんなばかばかしいことが、出来るとは思われない。火星を警戒しろというのはかまわないが、あなたが観測中に何を知ったか、その内容については、後で解除命令のあるまで、誰にもしゃべってはなりませんぞ」 大江山課長は、きつい顔で申し渡した。 ふしぎな謎の言葉「火星兵団」! 蟻田博士の放送によって「火星兵団」のことは、日本全国津々浦々にまでつたわった。そうして、その時ラジオを聞いていた人々を、驚かしたものである。 ここに一人、蟻田博士の放送に、誰よりも熱心に、そうして大きなおどろきをもって、耳を傾けていた少年があった。この少年は、友永千二といって、今年十三歳になる。彼は、千葉県のある大きな湖のそばに住んでいて、父親千蔵の手伝をしている。彼の父親の手伝というのは、この湖に舟を浮かべて、魚を取ることだった。しかしどっちかというと、彼は魚をとることよりも、機械をいじる方がすきだった。 「ねえ、お父さん。今ラジオで、蟻田博士がたいへんなことを放送したよ。『火星兵団』というものがあるんだって」 千二は、自分でこしらえた受信機の、前に坐っていたが、そう言って、夜業に網の手入をしている父親に呼びかけた。 「なんじゃ、カセイヘイダン? カセイヘイダンというと、それは何にきく薬かのう」 「薬? いやだねえ、お父さんは。カセイヘイダンって、薬の名前じゃないよ」 「なんじゃ、薬ではないのか。じゃあ、うんうんわかった。お前が一度は食べたいと言っていた、西洋菓子のことじゃな」 「ちがうよ、お父さん。火星と言うと、あの地球の仲間の星の火星さ。兵団と言うと、日中戦争の時によく言ったじゃないか、柳川兵団だとか、徳川兵団だとか言うあの兵団、つまり兵隊さんの集っている大きな部隊のことだよ」 「ああ、そうかそうか」 「お父さん、『火星兵団』の意味がわかった?」 「文字だけは、やっとわかったけれど、それはどういうものを指していうのか、意味はさっぱりわからぬ」 千蔵は大きく首を振るのだった。 「おい千二、その『火星兵団』という薬の名前みたいなものは、一体どんなものじゃ」 父親は網のほころびを繕う手を少しも休めないで、一人息子の千二の話相手になる。 「さあ『火星兵団』ってどんなものだか、僕にもわからないんだ」 「なんじゃ、おとうさんのことを叱りつけときながら、お前が知らないのかい。ふん、あきれかえった奴じゃ。はははは」 「だって、だって」 と、千二は口ごもりながら、 |
蟹の握り飯を奪った猿はとうとう蟹に仇を取られた。蟹は臼、蜂、卵と共に、怨敵の猿を殺したのである。――その話はいまさらしないでも好い。ただ猿を仕止めた後、蟹を始め同志のものはどう云う運命に逢着したか、それを話すことは必要である。なぜと云えばお伽噺は全然このことは話していない。 いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の土間の隅に、蜂は軒先の蜂の巣に、卵は籾殻の箱の中に、太平無事な生涯でも送ったかのように装っている。 しかしそれは偽である。彼等は仇を取った後、警官の捕縛するところとなり、ことごとく監獄に投ぜられた。しかも裁判を重ねた結果、主犯蟹は死刑になり、臼、蜂、卵等の共犯は無期徒刑の宣告を受けたのである。お伽噺のみしか知らない読者はこう云う彼等の運命に、怪訝の念を持つかも知れない。が、これは事実である。寸毫も疑いのない事実である。 蟹は蟹自身の言によれば、握り飯と柿と交換した。が、猿は熟柿を与えず、青柿ばかり与えたのみか、蟹に傷害を加えるように、さんざんその柿を投げつけたと云う。しかし蟹は猿との間に、一通の証書も取り換わしていない。よしまたそれは不問に附しても、握り飯と柿と交換したと云い、熟柿とは特に断っていない。最後に青柿を投げつけられたと云うのも、猿に悪意があったかどうか、その辺の証拠は不十分である。だから蟹の弁護に立った、雄弁の名の高い某弁護士も、裁判官の同情を乞うよりほかに、策の出づるところを知らなかったらしい。その弁護士は気の毒そうに、蟹の泡を拭ってやりながら、「あきらめ給え」と云ったそうである。もっともこの「あきらめ給え」は、死刑の宣告を下されたことをあきらめ給えと云ったのだか、弁護士に大金をとられたことをあきらめ給えと云ったのだか、それは誰にも決定出来ない。 その上新聞雑誌の輿論も、蟹に同情を寄せたものはほとんど一つもなかったようである。蟹の猿を殺したのは私憤の結果にほかならない。しかもその私憤たるや、己の無知と軽卒とから猿に利益を占められたのを忌々しがっただけではないか? 優勝劣敗の世の中にこう云う私憤を洩らすとすれば、愚者にあらずんば狂者である。――と云う非難が多かったらしい。現に商業会議所会頭某男爵のごときは大体上のような意見と共に、蟹の猿を殺したのも多少は流行の危険思想にかぶれたのであろうと論断した。そのせいか蟹の仇打ち以来、某男爵は壮士のほかにも、ブルドッグを十頭飼ったそうである。 かつまた蟹の仇打ちはいわゆる識者の間にも、一向好評を博さなかった。大学教授某博士は倫理学上の見地から、蟹の猿を殺したのは復讐の意志に出たものである、復讐は善と称し難いと云った。それから社会主義の某首領は蟹は柿とか握り飯とか云う私有財産を難有がっていたから、臼や蜂や卵なども反動的思想を持っていたのであろう、事によると尻押しをしたのは国粋会かも知れないと云った。それから某宗の管長某師は蟹は仏慈悲を知らなかったらしい、たとい青柿を投げつけられたとしても、仏慈悲を知っていさえすれば、猿の所業を憎む代りに、反ってそれを憐んだであろう。ああ、思えば一度でも好いから、わたしの説教を聴かせたかったと云った。それから――また各方面にいろいろ批評する名士はあったが、いずれも蟹の仇打ちには不賛成の声ばかりだった。そう云う中にたった一人、蟹のために気を吐いたのは酒豪兼詩人の某代議士である。代議士は蟹の仇打ちは武士道の精神と一致すると云った。しかしこんな時代遅れの議論は誰の耳にも止るはずはない。のみならず新聞のゴシップによると、その代議士は数年以前、動物園を見物中、猿に尿をかけられたことを遺恨に思っていたそうである。 お伽噺しか知らない読者は、悲しい蟹の運命に同情の涙を落すかも知れない。しかし蟹の死は当然である。それを気の毒に思いなどするのは、婦女童幼のセンティメンタリズムに過ぎない。天下は蟹の死を是なりとした。現に死刑の行われた夜、判事、検事、弁護士、看守、死刑執行人、教誨師等は四十八時間熟睡したそうである。その上皆夢の中に、天国の門を見たそうである。天国は彼等の話によると、封建時代の城に似たデパアトメント・ストアらしい。 ついでに蟹の死んだ後、蟹の家庭はどうしたか、それも少し書いて置きたい。蟹の妻は売笑婦になった。なった動機は貧困のためか、彼女自身の性情のためか、どちらか未に判然しない。蟹の長男は父の没後、新聞雑誌の用語を使うと、「飜然と心を改めた。」今は何でもある株屋の番頭か何かしていると云う。この蟹はある時自分の穴へ、同類の肉を食うために、怪我をした仲間を引きずりこんだ。クロポトキンが相互扶助論の中に、蟹も同類を劬ると云う実例を引いたのはこの蟹である。次男の蟹は小説家になった。勿論小説家のことだから、女に惚れるほかは何もしない。ただ父蟹の一生を例に、善は悪の異名であるなどと、好い加減な皮肉を並べている。三男の蟹は愚物だったから、蟹よりほかのものになれなかった。それが横這いに歩いていると、握り飯が一つ落ちていた。握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏の先にこの獲物を拾い上げた。すると高い柿の木の梢に虱を取っていた猿が一匹、――その先は話す必要はあるまい。 とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。語を天下の読者に寄す。君たちもたいてい蟹なんですよ。 |
紅葉先生在世のころ、名古屋に金色夜叉夫人といふ、若い奇麗な夫人があつた。申すまでもなく、最大なる愛讀者で、宮さん、貫一でなければ夜も明けない。 ――鬘ならではと見ゆるまでに結做したる圓髷の漆の如きに、珊瑚の六分玉の後插を點じたれば、更に白襟の冷豔、物の類ふべき無く―― とあれば、鬘ならではと見ゆるまで、圓髷を結なして、六分玉の珊瑚に、冷豔なる白襟の好み。 ――貴族鼠の縐高縮緬の五紋なる單衣を曳きて、帶は海松地に裝束切模の色紙散の七絲……淡紅色紋絽の長襦袢―― とあれば、かくの如く、お出入の松坂屋へあつらへる。金色夜叉中編のお宮は、この姿で、雪見燈籠を小楯に、寒ざきつゝじの茂みに裾を隱して立つのだから――庭に、築山がかりの景色はあるが、燈籠がないからと、故らに据ゑさせて、右の裝ひでスリツパで芝生を踏んで、秋空を高く睫毛に澄して、やがて雪見燈籠の笠の上にくづほれた。 「お前たち、名古屋へ行くなら、紹介をして遣らうよ。」 今、兜町に山一商會の杉野喜精氏は、先生の舊知で、その時分は名古屋の愛知銀行の――何うも私は餘り銀行にはゆかりがないから、役づきは何といふのか知らないが、追つてこの金色夜叉夫人が電話口でその人を呼だすのを聞くと、「あゝ、もし〳〵御支配人、……」だから御支配人であつた。――一年先生は名古屋へ遊んで、夫人とは、この杉野氏を通じて、知り合に成んなすつたので。……お前たち。……故柳川春葉と、私とが編輯に携はつて居た、春陽堂の新小説、社會欄の記事として、中京の觀察を書くために、名古屋へ派遣といふのを、主幹だつた宙外さんから承つた時であつた。何しろ、杉野の家で、早午飯に二人で牛肉なべをつゝいて居ると、ふすま越に(お相伴)といふ聲がしたと思ひな。紋着、白えりで盛裝した、艷なのが、茶わんとはしを兩手に持つて、目の覺めるやうに顯れて、すぐに一切れはさんだのが、その人さ。和出來の猪八戒と沙悟淨のやうな、變なのが二人、鯱の城下へ轉げ落ちて、門前へ齋に立つたつて、右の度胸だから然までおびえまいよ。紹介をしよう。……(角はま)にも。」角はまは、名古屋通で胸をそらした杉野氏を可笑しがつて、當時、先生が御支配人を戲れにあざけつた渾名である。御存じの通り(樣)を彼地では(はま)といふ。…… 私は、先生が名古屋あそびの時の、心得の手帳を持つてゐる。餘白が澤山あるからといつて、一册下すつたものだが、用意の深い方だから、他見然るべからざるペイヂには剪刀が入つてゐる。覺の殘つてゐるのに――後で私たちも聞いた唄が記してある。 味は川文、眺め前津の香雪軒よ、 席の廣いは金城館、愉快、おなやの奧座敷、一寸二次會、 河喜樓。 また魚半の中二階。 近頃は、得月などといふのが評判が高いと聞く、が、今もこの唄の趣はあるのであらう。その何家だか知らないが、御支配人がズツと先生を導くと、一つゑぐらうといふ數寄屋がかりの座敷へ、折目だかな女中が、何事ぞ、コーヒー入の角砂糖を捧げて出た。――シユウとあわが立つて、黒いしるの溢れ出るのを匙でかきまはす代ものである。以來、ひこつの名古屋通を、(角はま)と言ふのである。 おなじ手帳に、その時のお料理が記してあるから、一寸御馳走をしたいと思ふ。 (わん。)津島ぶ、隱元、きす、鳥肉。(鉢。)たひさしみ、新菊の葉。甘だい二切れ。(鉢。)えびしんじよ、銀なん、かぶ、つゆ澤山。土瓶むし松だけ。つけもの、かぶ、奈良づけ。かごにて、ぶだう、梨。 手帳のけいの中ほどに、二の膳出づ、と朱がきがしてある。 その角はま、と夫人とに、紹介状を頂戴して、春葉と二人で出かけた。あゝ、この紹介状なかりせば……思ひだしても、げつそりと腹が空く。…… 何しろ、中京の殖産工業から、名所、名物、花柳界一般、芝居、寄席、興行ものの状態視察。あひなるべくは多治見へのして、陶器製造の模樣までで、滯在少くとも一週間の旅費として、一人前二十五兩、注におよばず、切もちたつた一切づゝ。――むかしから、落人は七騎と相場は極つたが、これは大國へ討手である。五十萬石と戰ふに、切もち一つは情ない。が、討死の覺悟もせずに、血氣に任せて馳向つた。 日露戰爭のすぐ以前とは言ひながら、一圓づゝに算へても、紙幣の人數五十枚で、金の鯱に拮抗する、勇氣のほどはすさまじい。時は二月なりけるが、剩さへ出陣に際して、陣羽織も、よろひもない。有るには有るが預けてある。勢ひ兵を分たねば成らない。暮から人質に入つてゐる外套と羽織を救ひだすのに、手もなく八九枚討取られた。黄がかつた紬の羽織に、銘仙の茶じまを着たのと、石持の黒羽織に、まがひ琉球のかすりを着たのが、しよぼ〳〵雨の降る中を、夜汽車で立つた。 日の短い頃だから、翌日旅館へ着いて、支度をすると、もうそちこち薄暗い。東京で言へば淺草のやうな所だと、豫て聞いて居た大須の觀音へ詣でて、表門から歸れば可いのを、風俗を視察のためだ、と裏へまはつたのが過失で。……大福餅の、燒いたのを頬張つて、婆さんに澁茶をくんでもらひながら「やあ、この大きな鐸をがらん〳〵と驅けて行くのは、號外ではなささうだが、何だい。」婆さんが「あれは、ナアモ、藝妓衆の線香の知らせでナアモ。」そろ〳〵風俗を視察におよんで、何も任務だからと、何樓かの前で、かけ合つて、値切つて、引つけへ通つて酒に成ると、階子の中くらゐのお上り二人、さつぱり持てない。第一女どもが寄着かない。おてうしが一二本、遠見の傍示ぐひの如く押立つて、廣間はガランとして野の如し。まつ赤になつた柳川が、黄なるお羽織……これが可笑い。京傳の志羅川夜船に、素見山の手の(きふう)と稱へて、息子も何ぞうたはつせえ、と犬のくそをまたいで先へ立つ男がゐる。――(きふう)は名だ。けだし色の象徴ではないのだが、春葉の羽織は何ういふものか、不斷から、件の素見山の手の風があつた。――そいつをパツと脱いで、角力を取らうと言ふ。僕は角力は嫌ひだ、といふと、……小さな聲で、「示威運動だから、式ばかりで行くんだ。」よし來た、と立つと、「成りたけ向うからはずみをつけて驅けて來てポンと打つかりたまへ、可いか。」すとんと、呼吸で、手もなく投られる。可いか。よし來た。どん、すとん、と身上も身も輕い。けれども家鳴震動する。遣手も、仲居も、女どもも驅けつけたが、あきれて廊下に立つばかり、話に聞いた芝天狗と、河太郎が、紫川から化けて來たやうに見えたらう。恐怖をなして遠卷に卷いてゐる。投る方も、投られる方も、へと〳〵になつてすわつたが、醉つた上の騷劇で、目がくらんで、もう別嬪の顏も見えない。財産家の角力は引つけで取るものだ。又來るよ、とふられさうな先を見越して、勘定をすまして、潔く退いた。が、旅宿へ歸つて、雙方顏を見合せて、ためいきをホツと吐いた。――今夜一夜の籠城にも、剩すところの兵糧では覺束ない。角力など取らねば可かつた。夜半に腹の空いた事。大福もちより、きしめんにすれば可かつたものを、と木賃でしらみをひねるやうに、二人とも財布の底をもんで歎じた。 この時、神通を顯して、討死を窮地に救つたのが、先生の紹介状の威徳で、從つて金色夜叉夫人の情であつた。 翌日は晩とも言はず、午からの御馳走。杉野氏の方も、通勤があるから留主で、同夫人と、夫人同士の御招待で、即ち(二の膳出づ。)である。「あゝ、旨い、が、驚いた、この、鯛の腸は化けて居る。」「よして頂戴、見つともない。それはね、ほら、鯛のけんちんむしといふものよ。」何を隱さう、私はうまれて初めて食べた。春葉はこれより先、ぐぢ、と甘鯛の區別を知つて、葉門中の食通だから、弱つた顏をしながら、白い差味にわさびを利かして苦笑をして居た。 その時だつけか、あとだつたか、春葉と相ひとしく、まぐろの中脂を、おろしで和へて、醤油を注いで、令夫人のお給仕つきの御飯へのつけて、熱い茶を打つかけて、さくさく〳〵、おかはり、と又退治るのを、「頼もしいわ、私たちの主人にはそれが出來ないの。」と感状に預つた得意さに、頭にのつて、「僕はね、お彼岸のぼたもちでさへお茶づけにするんですぜ。」「まあ、うれしい。……」何うもあきれたものだ。 おきれいなのが三人ばかりと、私たち、揃つて、前津の田畝あたりを、冬霧の薄紫にそゞろ歩きして、一寸した茶屋へ憩んだ時だ。「ちらしを。」と、夫人が五もくずしをあつらへた。 つい今しがた牡丹亭とかいふ、廣庭の枯草に霜を敷いた、人氣のない離れ座敷で。――鬘ならではと見ゆるまでに結なしたる圓髷に、珊瑚の六分玉のうしろざしを點じた、冷艷類ふべきなきと、こゝの名物だと聞く、小さなとこぶしを、青く、銀色の貝のまゝ重ねた鹽蒸を肴に、相對して、その時は、雛の瞬くか、と顏を見て醉つた。――「今しがた御馳走に成つたばかりです、もう、そんなには。」「いゝから姉さんに任せてお置き。」紅葉先生の、實は媛友なんだから、といつて、女の先生は可笑しい。……たゞ奧さんでは氣にいらず、姉ごは失禮だ。小母さんも變だ、第一「嬌瞋」を發しようし……そこンところが何となく、いつのまにか、むかうが、姉が、姉が、といふから、年紀は私が上なんだが、姉さんも、うちつけがましいから、そこで、「お姉上。」――いや、二十幾年ぶりかで、近頃も逢つたが、夫人は矢張り、年上のやうな心持がするとか言ふ。「第一、二人とも割前が怪しいんです。」とその時いふと、お姉上も若かつた。箱せこかと思ふ、錦の紙入から、定期だか何だか小さく疊んだ愛知の銀行券を絹ハンケチのやうにひら〳〵とふつて、金一千圓也、といふ楷書のところを見せて、「心配しないで、めしあがれ。」ちらしの金主が一千圓。この意氣に感じては、こちらも、くわつと氣競はざるを得ない。「ありがたい、お茶づけだ。」と、いま思ふと汗が出る。……鮪茶漬を嬉しがられた禮心に、このどんぶりへ番茶をかけて掻つ込んだ。味は何うだ、とおつしやるか? いや、話に成らない。人參も、干瓢も、もさ〳〵して咽喉へつかへて酸いところへ、上置の鰺の、ぷんと生臭くしがらむ工合は、何とも言へない。漸と一どんぶり、それでも我慢に平げて、「うれしい、お見事。」と賞められたが、歸途に路が暗く成つて、溝端へ出るが否や、げツといつて、現實立所に暴露におよんだ。 愛想も盡かさず、こいつを病人あつかひに、邸へ引取つて、柔かい布團に寢かして、寒くはないの、と袖をたゝいて、清心丹の錫を白い指でパチリ……に至つては、分に過ぎたお厚情。私はその都度、「先生の威徳廣大、先生の威徳廣大。」と唱へて、金色夜叉の愛讀者に感銘した。 翌年一月、親類見舞に、夫人が上京する。ついでに、茅屋に立寄るといふ音信をうけた。ところで、いま更狼狽したのは、その時の厚意の萬分の一に報ゆるのに手段がなかつたためである。手段がなかつたのではない、花を迎ふるに蝶々がなかつたのである。……何を何う考へたか、いづれ周章てた紛れであらうが、神田の從姉――松本の長の姉を口説いて、實は名古屋ゆきに着てゐた琉球だつて、月賦の約束で、その從姉の顏で、糶呉服を借りたのさへ返さない……にも拘らず、鯱に對して、錢なしでは、初松魚……とまでも行かないでも、夕河岸の小鰺の顏が立たない、とかうさへ言へば「あいよ。」と言ふ。……少しばかり巾着から引だして、夫人にすゝむべく座布團を一枚こしらへた。……お待遠樣。――これから一寸薄どろに成るのである。 おごつた、黄じまの郡内である。通例私たちが用ゐるのは、四角で薄くて、ちよぼりとして居て、腰を載せるとその重量で、少し溢んで、膝でぺたんと成るのだが、そんなのではない。疊半疊ばかりなのを、大きく、ふはりとこしらへた。私はその頃牛込の南榎町に住んで居たが、水道町の丸屋から仕立上りを持込んで、御あつらへの疊紙の結び目を解いた時は、四疊半唯一間の二階半分に盛上つて、女中が細い目を圓くした。私などの夜具は、むやみと引張つたり、被つたりだから、胴中の綿が透切れがして寒い、裾を膝へ引包めて、袖へ頭を突込むで、こと〳〵蟲の形に成るのに、この女中は、また妙な道樂で、給金をのこらず夜具にかける、敷くのが二枚、上へかけるのが三枚といふ贅澤で、下階の六疊一杯に成つて、はゞかりへ行きかへり足の踏所がない。おまけに、もえ黄の夜具ぶろしきを上被りにかけて、包んで寢た。一つはそれに對する敵愾心も加はつたので。……先づ奮發した。 ――所で、夫人を迎へたあとを、そのまゝ押入へ藏つて置いたのが、思ひがけず、遠からず、紅葉先生の料に用立つた。 憶起す。……先生は、讀賣新聞に、寒牡丹を執筆中であつた。横寺町の梅と柳のお宅から三町ばかり隔たつたらう。私の小家は餘寒未だ相去り申さずだつたが――お宅は來客がくびすを接しておびたゞしい。玄關で、私たち友達が留守を使ふばかりにも氣が散るからと、お氣にいりの煎茶茶碗一つ。……これはそのまゝ、いま頂戴に成つて居る。……ふろ敷包を御持參で、「机を貸しな。」とお見えに成つた。それ、と二つ三つほこりをたゝいたが、まだ干しも何うもしない、美しい夫人の移り香をそのまゝ、右の座布團をすゝめたのである。敢てうつり香といふ。留南木のかをり、香水の香である。私はうまれて、親どもからも、先生からも、女の肉の臭氣といふことを教へられた覺えがない。從つて未だに知らない。汗と、わきがと、湯無精を除いては、女は――化粧の香料のほか、身だしなみのいゝ女は、臭くはないものと思つて居る。憚りながら鼻はきく。空腹へ、秋刀魚、燒いもの如きは、第一にきくのである。折角、結構なる體臭をお持合せの御婦人方には、相すまぬ。が……從つて、拂ひもしないで、敷かせ申した。壁と障子の穴だらけな中で、先生は一驚をきつして、「何だい、これは。――田舍から、内證で嫁でもくるのかい。」「へい。」「馬のくらに敷くやうだな。」「えへゝ。」私も弱つて、だらしなく頭をかいた。「茶がなかつたら、内へ行つて取つて來な。鐵瓶をおかけ。」と小造な瀬戸火鉢を引寄せて、ぐい、と小机に向ひなすつた。それでも、せんべい布團よりは、居心がよかつたらしい。……五日ばかりおいでが續いた。 暮合の土間に下駄が見えぬ。 「先生は?……」 通りへ買物から、歸つて聞くと、女中が、今しがたお歸りに成つたといふ。矢來の辻で行違つた。……然うか、と何うも冴え返つて恐ろしく寒かつたので、いきなり茶の間の六疊へ入つて、祖母が寢て居た行火の裾へ入つて、尻まで潛ると、祖母さんが、むく〳〵と起きて、火をかき立ててくれたので、ほか〳〵いゝ心持になつて、ぐつすり寢込むだ。「柳川さんが、柳川さんがお見えになりました。」うつとりと目を覺すと、「雪だよ、雪だよ、大雪に成つた。この雪に寢て居る奴があるものか。」と、もう枕元に長い顏が立つて居る。上れ、二階へと、マツチを手探りでランプを點けるのに馴れて居るから、いきなり先へ立つて、すぐの階子段を上つて、ふすまを開けると、むツと打つ煙に目のくらむより先に、机の前に、眞紅な毛氈敷いたかと、戸袋に、雛の幻があるやうに、夢心地に成つたのは、一はゞ一面の火であつた。地獄へ飛ぶやうに辷り込むと、青い火鉢が金色に光つて、座布團一枚、ありのまゝに、萌黄を細く覆輪に取つて、朱とも、血とも、るつぼのたゞれた如くにとろけて、燃拔けた中心が、藥研に窪んで、天井へ崩れて、底の眞黒な板には、ちら〳〵と火の粉がからんで、ぱち〳〵と煤を燒く、炎で舐める、と一目見た。「大變だ。」私は夢中で、鐵瓶を噴火口へ打覆けた。心利いて、すばやい春葉だから、「水だ、水だ。」と、もう臺所で呼ぶのが聞えて、私が驅おりるのと、入違ひに、狹い階子段一杯の大丸まげの肥滿つたのと、どうすれ合つたか、まげの上を飛おりたか知らない。下りざまに、おゝ、一手桶持つて女中が、と思ふ鼻のさきを、丸々とした脚が二本、吹きおろす煙の中を宙へ上つた。すぐに柳川が馳違つた。手にバケツを提げながら、「あとは、たらひでも、どんぶりでも、……水瓶にまだある。」と、この手が二階へ屆いた、と思ふと、下の座敷の六疊へ、ざあーと疎に、すだれを亂して、天井から水が落ちた。さいはひに、火の粉でない。私は柳川を恩人だと思ふ――思つて居る。もう一歩來やうが遲いと、最早言を費すにおよぶまい。 敷合せ疊三疊、丁度座布團とともに、その形だけ、ばさ〳〵の煤になつて、うづたかく重なつた。下も煤だらけ、水びたしの中に畏つて、吹きつける雪風の不安さに、外へ出る勇氣はない。勞を謝するに酒もない。柳川は卷煙草の火もつけずに、ひとりで蕎麥を食べるとて歸つた。 女中が、づぶぬれの疊へ手をついて、「申譯がございません。お寒いので、炭をどつさりお繼ぎ申しあげたものですから、先生樣はお歸りがけに、もう一度よく埋けなよ、と確に御注意遊ばしたのでございますものを、つい私が疎雜で。……炭が刎ねまして、あのお布團へ。……申譯がございません。」祖母が佛壇の輪を打つて座つた。私も同じやうに座つた。「……兄、これからも氣をつけさつしやい、内では昔から年越しの今夜がの。……」忘れて居た、如何にもその夜は節分であつた。私が六つから九つぐらゐの頃だつたと思ふ。遠い山の、田舍の雪の中で、おなじ節分の夜に、三年續けて火の過失をした、心さびしい、もの恐ろしい覺えがある。いつも表二階の炬燵から。……一度は職人の家の節分の忙しさに、私が一人で寢て居て、下がけを踏込んだ。一度は雪國でする習慣、濡れた足袋を、やぐらに干した紐の結びめが解けて火に落ちたためである。もう一度は覺えて居ない。いづれも大事に至らなかつたのは勿論である。が、家中水を打つて、燈も氷つた。三年目の時の如きは、翌朝の飯も汁も凍てて、軒の氷柱が痛かつた。 番町へ越して十二三年になる。あの大地震の前の年の二月四日の夜は大雪であつた。二百十日もおなじこと、日記を誌す方々は、一寸日づけを御覽を願ふ、雨も晴も、毎年そんなに日をかへないであらうと思ふ。現に今年、この四月は、九日、十日、二日續けて大風であつた。いつか、吉原の大火もおなじ日であつた。然もまだ誰も忘れない、朝からすさまじい大風で、花は盛りだし、私は見付から四谷の裏通りをぶらついたが、土がうづを卷いて目も開けられない。瓦を粉にしたやうな眞赤な砂煙に、咽喉を詰らせて歸りがけ、見付の火の見櫓の頂邊で、かう、薄赤い、おぼろ月夜のうちに、人影の入亂れるやうな光景を見たが。――淺草邊へ病人の見舞に、朝のうち出かけた家内が、四時頃、うすぼんやりして、唯今と歸つた、見舞に持つて出た、病人の好きさうな重詰ものと、いけ花が、そのまゝすわつた前かけの傍にある。「おや。」「どうも、何だつて大變な人で、とても内へは入れません。」「はてな、へい?……」いかに見舞客が立込んだつて、まはりまはつて、家へ入れないとは變だ、と思ふと、戸外を吹すさぶ風のまぎれに、かすれ聲を咳して、いく度か話が行違つて漸と分つた。大火事だ! そこへ號外が駈まはる。……それにしても、重詰を中味のまゝ持つて來る事はない、と思つたが、成程、私の家内だつて、面はどうでも、髮を結つた婦が、「めしあがれ。」とその火事場の眞ん中に、重詰に花を添へて突だしたのでは狂人にされるより外はない……といつた同じ日の大風に――あゝ、今年は無事でよかつた。…… 所で地震前のその大雪の夜である。晩食に一合で、いゝ心持にこたつで寢込んだ。ふすま一重茶の室で、濱野さんの聲がするので、よく、この雪に、と思ひながら、ひよいと起きて、ふらりと出た。話をするうちに、さく〳〵と雪を分ける音がして、おん厄拂ひましよな、厄落し。……妹背山の言立てなんぞ、芝居のは嫌ひだから、青ものか、魚の見立てで西の海へさらり、などを聞くと、又さつ〳〵と行く。おん厄拂ひましよな、厄落し。……遙に聲が消えると、戸外が宵の口だのに、もう寂寞として、時々びゆうと風が騷ぐ。何だか、どうも、さつきから部屋へ氣がこもる。玄關境のふすまを開けたが、矢張り息がこもる。そのうち、香しいやうな、遠くで……海藻をあぶるやうな香が傳はる。香は可厭ではないが、少しうつたうしい。出窓を開けた。おゝ、降る〳〵、壯に白い。まむかうの黒べいも櫻がかぶさつて眞白だ。さつと風で消したけれども、しめた後は又こもつて咽せつぽい。濱野さんも咳して居た。寒餅でも出す氣だつたか、家内が立つて、この時、はじめて、座敷の方のふすまを開けた、……と思ふと、ひし〳〵と疊にくひ込んで、そのくせ飛ぶやうな音を立てて、「水、水……」何と、立つと、もう〳〵として、八疊は黒い吹雪。 煙の波だ。荒磯の巖の炬燵が眞赤だ。が此時燃拔けては居なかつた。後で見ると、櫓の兩脚からこたつの縁、すき間をふさいだ小布團を二枚黒焦に、下がけの裾を燒いて、上へ拔けて、上がけの三布布團の綿を火にして、表が一面に黄色にいぶつた。もう一呼吸で、燃え上るところであつた。臺所から、座敷へ、水も夜具も布團も一所に打ちまけて、こたつは忽ち流れとなつた。が屈強な客が居合せた。女中も働いた。家内も落ついた。私は一人、おれぢやあない、おれぢやあない、と、戸惑ひをして居たが、出しなに、踏込んだに相違ない。この時も、さいはひ何處の窓も戸も閉込んで居たから、きなつ臭いのを通り越して、少々小火の臭のするのが屋根々々の雪を這つて遁げて、近所へも知れないで、申譯をしないで濟んだ。が、寒さは寒し、こたつの穴の水たまりを見て、胴震ひをして、小くなつて畏まつた。夜具を背負はして町内をまはらせられないばかりであつた。あいにく風が強くなつて、家の周圍を吹きまはる雪が、こたつの下へ吹たまつて、パツと赤く成りさうで、一晩おびえて寢られなかつた。――下宿へ歸つた濱野さんも、どうも、おち〳〵寢られない。深夜の雪を分けて、幾度か見舞はう、と思つたほどだつたさうである。 これが節分の晩である。大都會の喧騷と雜音に、その日、その日の紛るゝものは、いつか、魔界の消息を無視し、鬼神の隱約を忘却する。…… 五年とは經たぬのに――浮りした。 今年、二月三日、點燈頃、やゝ前に、文藝春秋の事について、……齋藤さんと、菅さんの時々見えるのが、その日は菅さんであつた。小稿の事である。――その夜九時頃濱野さんが來て、茶の聞で話しながら、ふと「いつかのこたつ騷ぎは、丁度節分の今夜でしたね。」といふのを半聞くうちに、私はドキリとした。總毛立つてぞつとした。――前刻、菅さんに逢つた時、私は折しも紅インキで校正をして居たが、組版の一面何行かに、ヴエスビヤス、噴火山の文宇があつた。手近な即興詩人には、明かにヱズヰオと出て居るが、これをそのまゝには用ゐられぬ。いさゝか不確かな所を、丁度可い。教へをうけようと、電氣を點けて、火鉢の上へ、あり合せた白紙をかざして、その紅いインキで、ヴヱスビヤス、ブエスビイヤス、ヴエスヴイヤス、ヴエスビイヤス、どれが正しいのでせう、と聞き〳〵――彩り記した。 あゝ、火のやうに、ちら〳〵する。 |
妙な医学生 医学生吹矢隆二は、その日も朝から、腸のことばかり考えていた。 午後三時の時計がうつと、彼は外出した。 彼の住んでいる家というのは高架線のアーチの下を、家らしい恰好にしただけの、すこぶる風変りな住宅だった。 そういう風変りな家に住んでいる彼吹矢隆二という人物が、またすこぶる風変りな医学生であって、助手でもないくせに、大学医科にもう七年も在学しているという日本に一人とあって二人とない長期医学生であった。 そういうことになるのも、元来彼が課目制の学科試験を、気に入った分だけ受けることにし、決して欲ばらないということをモットーにしているのによる。されば入学以来七年もかかっているのに、まだ不合格の課目が五つほど残っていた。 彼は、学校に出かけることは殆どなく、たいがい例の喧騒の真只中にある風変りな自宅でしめやかに暮していた。 いまだかつて彼の家をのぞいた者は、まず三人となかろう。一人は大家であり、他の一人は、彼がこれから腸のことについて電話をかけようと思っている先の人物――つまり熊本博士ぐらいのものであった。 彼は青い顔の上に、ライオンのように房づいた長髪をのせ、世にもかぼそい身体を、てかてかに擦れた金ボタンつきの黒い制服に包んで駅前にある公衆電話の函に歩みよった。 彼が電話をかけるところは、男囚二千七百名を収容している○○刑務所の附属病院であった。ここでは、看護婦はいけないとあってすべて同性の看護夫でやっている。男囚に婦人を見せてはよくないことは、すでに公知の事実である。 「はあ、こちらは○○刑務病院でございます」 「ああ、○○刑務病院かね。――ふん、熊本博士をよんでくれたまえ。僕か、僕は猪俣とでもいっておいてくれ」 と、彼はなぜか偽名をつかい、横柄な口をきいて、交換嬢を銅線の延長の上においておびえさせた。 「ああ熊本君か。僕は――いわんでも分っているだろう。今日は大丈夫かね。まちがいなしかね。本当に腸を用意しておいてくれたんだね。――南から三つ目の窓だったね。もしまちがっていると、僕は考えていることがあるんだぜ。そいつはおそらく君に職を失わせ、そしてつづいて食を与えないことになろう。――いやおどかすわけではない。君は常に、はいはいといって僕のいいつけをきいてりゃいいんだ。――行くぜ。きっとさ。夜の十一時だったな」 そこで彼は、誰が聞いてもけしからん電話を切った。 熊本博士といえば、世間からその美しい人格をたたえられている○○刑務病院の外科長であった。彼は家庭に、マネキン人形のように美しい妻君をもってい、またすくなからぬ貯金をつくったという幸福そのもののような医学者であった。 しかしなぜか吹矢は、博士のことを頭ごなしにやっつけてしまう悪い習慣があった。もっとも彼にいわせると、熊本博士なんか風上におけないインチキ人物であって、天に代って大いにいじめてやる必要のあるインテリ策士であるという。 そういって、けなしている一方、医学生吹矢は、学歴においては数十歩先輩の熊本博士を百パーセントに利用し、すくなからぬその恩恵に浴しているくせに、熊本博士をつねに奴隷のごとく使役した。 「腸を用意しておいてくれたろうね」 さっき吹矢はそういう電話をかけていたが、これで見ると彼は、熊本博士に対しまた威嚇手段を弄しているものらしい。しかし「腸を用意」とはいったいなにごとであるか。彼はいま、なにを企て、そしてなにを考えているのであろうか。 今夜の十一時にならないと、その答は出ないのであった。 三番目の窓 すでに午後十時五十八分であった。 ○○刑務病院の小さな鉄門に、一人の大学生の身体がどしんとぶつかった。 「やに早く締めるじゃないか」 と、一言文句をいって鉄門を押した。 鉄門は、わけなく開いた。錠をかけてあるわけではなく、鉄門の下にコンクリの固まりを錘りとして、ちょっとおさえてあるばかりなのであったから。 「やあ、――」 守衛は、吹矢に挨拶されてペコンとお辞儀をした。どういうわけかしらんが、この病院の大権威熊本先生を呼び捨てにしているくらいの医学生であるから、風采はむくつけであるが熊本博士の旧藩主の血なんか引いているのであろうと善意に解し、したがってこの衛門では、常に第一公式の敬礼をしていた。 ふふんと鼻を鳴らして、弊服獅子頭の医学生吹矢隆二は、守衛の前を通りぬけると、暗い病院の植込みに歩を運んだ。 彼はすたすたと足をはやめ、暗い庭を、梟のように達者に縫って歩いた。やがて目の前に第四病舎が現われた。 (南から三番目の窓だったな) 彼はおそれげもなく、窓下に近づいた。そこには蜜柑函らしいものが転がっていた。これも熊本博士のサーヴィスであろう――とおもって、それを踏み台に使ってやった。そして重い窓をうんと上につき上げたのである。 窓ガラスは、するすると上にあがった。うべなるかな、熊本博士は、窓を支える滑車のシャフトにも油をさしておいたから、こう楽に上るのだ。 よって医学生吹矢は、すぐ目の前なるテーブルの上から、やけに太い、長さ一メートルばかりもあるガラス管を鷲づかみにすることができた。 「ほほう、入っているぞ」 医学生吹矢は、そのずっしりと重いガラス管を塀の上に光る街路燈の方にすかしてみた。ガラス管の中に、清澄な液を口のところまで充たしており、その中に灰色とも薄紫色ともつかない妙な色の、どろっとしたものが漬かっていた。 「うん、欲しいとおもっていたものが、やっと手に入ったぞ、こいつはほんとうに素晴らしいや」 吹矢は、にやりと快心の笑みをたたえて、窓ガラスをもとのようにおろした。そして盗みだした太いガラス管を右手にステッキのようにつかんで、地面に下りた。 「やあ、夜の庭園散歩はいいですなあ」 衛門の前をとおりぬけるときに、およそ彼には似つかわしからぬ挨拶をした。が、彼はその夜の臓品が、よほど嬉しかったのにちがいない。 「うえっ、恐れいりました」 守衛は、全身を硬直させ、本当に恐れいって挨拶をかえした。 門を出ると、彼は太いガラス管を肩にかつぎ下駄ばきのまま、どんどん歩きだした。そして三時間もかかって、やっと自宅へかえってきた。街はもう騒ぎつかれて倒れてしまったようにひっそり閑としていた。 彼は誰にも見られないで、家の中に入ることができた。彼は電燈をつけた。 「うん、実に素晴らしい。実に見事な腸だ」 彼は、ガラス管をもちあげ電燈の光に透かしてみて三嘆した。 |
その夜、テレビジョン研究室の鍵をかけて外に出たのが、もう十二時近かった。裏門にいたる砂利道の上を、ザクザクと寒そうな音をたてて歩きながら、私はおもわず胴震いをした。 (今夜は一つ早く帰って、祝い酒でもやりたまえ。なにしろ教授になったんじゃないか。これで亡くなられた渋谷先生の霊も、もって瞑すべしだ。……) と、昼間同僚たちがそういってくれた言葉が思い出された。祝い酒はともかくも、早く帰ったほうがよかったようなきがする。どうもさっきから、背中がゾクゾク寒いうえに、なんだか知らぬが、心が重い。暗闇のなかから、恐ろしい魔物がイキナリ飛びだしてきそうな気がして妙に不安でならない。運動不足から起きる狭心症の前徴ではないだろうか。いや、これはやっぱり、今日の教授昇格が自分の心を苦しめるのだ。渋谷先生が三年前に亡くなられて、テレビジョン講座に空席が出来たればこそ、自分のような若い者が教授になれたのである。それが変に心苦しいのであろう。 それというのも、恩師渋谷博士が当り前の亡くなりかたをされたのであったら、そうも思わないのだけれど、博士の最後ほど奇々怪々なるものはなかったのである。じつに博士は、一塊の宇宙塵として天空にその姿を消されたのであった。地球が生れて八十億年、その間にどのくらいおびただしい人間が生れたか数えられないほど多いが、宇宙塵に化した人間はただひとり、渋谷博士が数えられるだけである。 「やあ、いまお帰りでありますか」 不意に声をかけたのは、裏門を守る宿直の守衛だった。私は黙礼をして、門をくぐった。 「そうだ、先生が地球を飛びだされたのも、こんな寒い夜ふけだった……」 私はその当時のことを、まざまざと思いださずにはおられない。 渋谷博士は当時、優秀な航空テレビジョン機の発明を完成されていた。当時二組の機械が作られたが、入念に実験されたうえで、 (きみ、素晴らしい性能だ。これならば十億キロぐらい離れても受影ができるよ) といってにっこりとされた。そうだ、その十億キロの意味がそのときハッキリ私に判っていたとしたら、あんなカタストロフィーは起らなかったかもしれない。鈍感な私はそういわれても、何ごとも連想しなかった。 当時ドイツからシュミット会社のロケット機「赤鬼号」が東京に着いて、研究所に安置されてあった。これは次の年の八月に、火星の近日点が来るので、そのときにシュミット博士は地勢上、いちばん都合のよい東京から火星旅行に出発しようというので持ってきたものであった。研究所の屋上に仮建物を作り、組立ても完成し、試験もだいたいすんだので、あとはクリスマスをすませて、次の年を迎えてからのこととしようというわけで、外国人の技師たちがすこし気をゆるめたとき、たいへんな事件が起ったのだった。それはちょうどこんな寒い十二月の夜ふけ、突如として研究所の屋上に一大閃光がサッと輝くとみるまに、轟々たる怪音をたてて、ロケットが空中に飛び上ったのであった。附近の人々が顔色をかえて、研究所の前に集まってきたときにはすでに遅く、はるばるドイツから持ってきたロケットはすでに成層圏のあたりに、かすかな白光の尾を残して、暗澹たる宇宙に飛び去るところであった。 この椿事は、まもなく私の下宿にもきこえたので、私はとるものもとりあえず、研究所に駆けつけたが、もちろんなんの手のくだしようもなかった。ロケットが飛びだした原因はまったく不明であったが、あるいは、ガスの自然爆発によるものではないかともいわれた。渋谷先生でもこられたならば、なにか適切な善後手段を訊くことができるであろうと思ったが、先生はその夜ついに姿を現わさなかった。 私が先生の姿を発見したのは、じつにその翌朝のことだった。 なんにもまだ気のつかない私はいつものように、八時半ごろ研究室の鍵をあけた。すぐコートを脱いで白い実験衣に着かえながら、私は壁にかかっている小さい黒板の上の字を読んだ。それはいつも渋谷先生が翌日の仕事を、早く出てくる私に命令されるために書きつけてゆかれるのが例になっていたものである。 出勤次第、第二号「テレビジョン」機ヲ「スタート」ノコト。受影機ノ同調周波数ヲ七万付近ニ選ビ、調整ノコト。陰極管ノ水冷ニ特ニ注意ヲ要ス。 この命令は私にちょっと不審を起させた。相手もないのに、受影をしてみるというのは意味のないことではないか。博士の心を推しはかりかねた私は、機械のところに来てみて、はじめてそれが意味のあることだとわかった。なぜなら、前日までそこに並べておいたはずの第一号テレビジョン機がなくなって、そのあとが歯の抜けたようにポッカリあいていたから。 (先生はどっかへ持ってゆかれて、送影を始められているのだ。しかし時間を書いてゆかれないのは、先生らしくないことだ) あくまで鈍感な私は、昨夜のできごとをこの黒板の字に結びあわすことをしないで、ただ先生の命令どおり受影機の前に坐って、スイッチをいれた。陰極管が光りだした。ダイヤルを握って七万kcのあたりを探してみると、はたして強い応答があった。それを精密に調整してゆくと、像の縞が流れだした。同期がだんだん合ってくると、スクリーンの上にひとつの映像が静止してくるのであった。そこに現われたのは一個の不思議な人間の姿だった。その顔には、防毒マスクのようなものをかぶり、マスク中央からは象の鼻のような三本のゴム管が垂れさがり、その先は高圧タンクの口につながっていた。その背後には、たくさんの丸いメーターがベタベタ並んでいて、黒い目盛盤の上に白い指針がピクピク動いていた。不思議の部屋! 奇怪なる人間! 「宇留木君。いま時間はどうだネ」 受影機のラッパから響いたそういう声は、意外にもまぎれもない恩師の声だった。 「ただいまは八時五十二分三十一秒です」 「そうか、七秒の遅れだ。するとスピードは充分五万キロは出ている」 五万キロ……という声に私はようやく駭くべき事件に気がついてハッとした。恩師は今、ロケットのなかにおられるのだ。そうだ。なぜそれがいままで判らなかったのだろう、ああ! 「なんだ、いまごろになって気がつくなんて」と渋谷博士の眼と声は笑った。「シュミット会社には気の毒だが、こうするよりほかなかったのだよ。さあ、この機会をはずさずに、火星探検のテレビジョン放送をやるから、すぐに世界各国へアナウンスをしてくれたまえ。この分なら、火星に着くまで七、八カ月はかかるだろう。みんなに見てもらうんだ。この機会を逸せずに。どうかぼくのはらった犠牲を無駄にしないように考えてくれたまえ」 私には先生のこの暴挙を非難する余裕などなかった。先生はこのことあるを予想して、二組の軽便なセットを作られてあったのだ。そしてシュミット博士をだしぬいて、宇宙旅行に飛びだされたのだ。もちろんめでたい生還などはまったく考えておられないことだろう。すべては学者的熱情が、この暴挙にとびこませたのだ。 これをアナウンスされた全世界は震駭した。各国の優秀なる新聞記者は、いずれも言いあわせたように、自国のテレビジョン学者をともなって、旅客機をかってはせつけた。それは一時間でも早く、私の手許にのこっている第二号機からロケット内の渋谷博士にインタービュウし、空前の探検譚と処女航路の風景とを手にいれんがためであった。そしてその次には一刻も早く、同型のテレビジョン機をつくって自国の放送局から放送したいためでもあった。なにしろ計算によると、火星到着まで、七、八カ月も間があるので、これから至急につくれば大丈夫間にあうものと思われた。 はたして四カ月めには、各国各地いずれにも受影装置が働きだした。全世界の目は、渋谷博士の運転するロケットの上に集まっていた。 しかし宇宙は銀座通りのように華やかではなく人々はようやくロケット「赤鬼号」からの報道が毎日あまり単調なのに倦きはじめた。 ちょうど満五カ月めになって、世界の人々のあくびを一瞬にしてとまらせるような一大椿事が出現した。それはロケット「赤鬼号」が故障を起して宇宙に宙ぶらりんになってしまったことであった。しかも奇妙なことに、渋谷博士からの応答によれば、ロケットの機械を検査してみたがいっこうに故障がみあたらないというのであった。要するに、宙ぶらりんになってしまったのはなぜだか判らないのであった。世界の天文学者と物理学者はその謎をとくことに夢中になった。やがてオランダの物理学者サール博士が衆に先んじて飛躍的な解決をつけた。 「わが赤鬼号の空間停止の謎がついに解けた」と博士は放送機の前でいう。「それは赤鬼号が万有引力との中点にとびこんでしまったからである。赤鬼号がそのいちじるしき質量を変じないかぎり、この停止状態は永遠につづくことであろう」 世界は大きく震駭した。万有引力の中点……なるほどそんなものが考えられる。それは無人境の大地にあいている深い陥穽のようなものだ。一度墜ちてしまえば、救われることはまず不可能だ。――それから数日にわたって、私はスクリーンの上に苦悩の色の濃くなってゆく恩師の顔を、どんなに痛々しく眺めなければならなかったろう。 「宇留木君」と博士はある朝ふと私に呼びかけた。「わしはいよいよ最後の努力をするつもりだ。私はじつにいい手段を考えたのだ。しかし私は永遠にこの送影機の前から去らねばならないだろう」 先生はどうされるのであろうか? 私にはまったく見当がつかなかった。先生の歪んだ顔は、やがてスクリーンの上から消えた。はじめは軽いことに考えていたが、そのときには一大異変が起っていたのだ。 「号外放送! ただいま『赤鬼号』は徐々に動きだしました。万歳、万歳。しかしどうしたものか渋谷博士の姿は見えません。しきりに信号を送っておりますが、まったく応答がありません。……」 と、JOAKは全世界中継のラインにこの駭くべき発見を送りこんだ。 そうだ、ロケットは徐々に動いてゆく。しかし懐かしき操縦者の姿はいつまでもスクリーンの前に現われなかった。 「サール博士は語る」と外国電話が入ってきた。「渋谷博士の最大の犠牲がロケットをふたたび推進させた。博士はおそらく機内にいないであろう。彼はロケットより身を捨てたのにちがいない。ロケットから離れ去ることによって、ロケットに働く万有引力はその平衡が破れ、ふたたび動き出したのだ。博士はついに生命を犠牲にしてロケットとテレビジョンとをいかし、世界人類のために貢献しようと決心したのだ。これから先、吾人が見るところの映像は、博士の生命によって買われた無上の尊いものである」 操縦者の乗っていないロケットは、ジャイロコンパスの力をたよりに、だんだんと火星に近づいていった。それは古い物語のなかに現われてくる幽霊船のようであった。しかし現代の幽霊船は生きていた。いよいよ渋谷博士愛機の視野には火星の姿が映ってきた。有名な運河帯がアリアリと現われてきた。世界じゅうの人類は寝ることも食べることも忘れて、渋谷式の受影機の前に並び、この前代未聞の見世物にながめいった。まもなく、待望の火星人が姿を現わすことだろう。 だが意外なことが、次の瞬間に起った。映写中のフィルムがパサリと切断してしまったように、受影機のうえの映像はにわかに掻き消されてしまった。それとともに、音響を伝える電波もとまってしまった。おそらく火星の地表まであと数百キロメートルという近くまで行ったのに、いったいこれはどうしたことか。それは、いまもって、かの宇宙塵と化し終った渋谷博士の行方とともに、解きえない謎である。…… 私は寒星きらめく晴夜の天空をあおいで、深いといきをついたことだった。 私にはいまひとつの想像がある。それは火星人が早くもあの「赤鬼号」を見つけて、火星上に落ちぬ先にぶんどってしまったということだ。火星人は地球の人類よりやや劣っているらしいことは地球のほうがロケットを先に飛ばしたことでも判ると思うが、しかし数百キロの高空でロケットをぶんどる力のあるところからみると、おそらく西暦一千九百五十年ごろの人類と同等の知識を持っているようにも思われる。 私はいま研究ちゅうのテレビジョン機を一日も早く完成したいと思う。それは目下のところでは、火星人の手の届かない一万キロの上空から火星地上一センチのものを発見できるという驚異的性能を持ったものである。それができたならば、人類は火星人にぶんどられることもなく至極安全に火星を偵察ができるはずである。 わが地球と火星との争闘は、「赤鬼号」の訪問をキッカケとしてすでに始まっているのだ。このうえは一刻もはやく、火星人の好戦性を偵察して、宇宙戦争にそなえる必要があるが、私としては何をおいても宇宙塵となっているはずの恩師のありかをぜひとも自分の力で発見したいと思うのである。そのうえで、私の苦しい気持は、はじめてほがらかになることだろう。 |
十年振りの会飲に、友人と僕とは気持ちよく酔った。戦争の時も出征して負傷したとは聴いていたが、会う機会を得なかったので、ようよう僕の方から、今度旅行の途次に、訪ねて行ったのだ。話がはずんで出征当時のことになった。 「今の僕なら、君」と少し多言になって来た。友人は、酒のなみなみつげてる猪口を右の手に持ったがまた、そのままおろしてしまった。「今の僕なら、どうせ、役場の書記ぐらいで満足しとるのやもの、徴兵の徴の字を見ても、ぞッとする程の意気地なしやけど、あの時のことを思うたら、不思議に勇気が出たもんや。それも大勢のお立て合う熱に浮されたと云うたら云えんこともなかろう。もう、死んだんが本統であったんやも知れんけど、兎角、勇気のないもんがこない目に会うて」と、左の肩を振って見せたが、腕がないので、袖がただぶらりと垂れていた。「帰って来ても、廃兵とか、厄介者とか云われるのやろう。もう、僕などはあかん」と、猪口を口へ持って行った。 「そんなことはないさ、」と、僕はなぐさめながら、「君は、もう、名誉の歴史を終えたのだから、これから別な人間のつもりで、からだ相応な働きをすればいいじゃアないか?」「それでも、君、戦争でやった真剣勝負を思うたら、世の中でやっとることが不真面目で、まどろこしうて、下らん様に見えて、われながら働く気にもなれん。きのうもゆう方、君が来て呉れるというハガキを見てから、それをほところに入れたまま、ぶらぶら営所の近所まで散歩して見たんやけど、琵琶湖のふちを歩いとる方がどれほど愉快か知れん。あの狭い練兵場で、毎日、毎日、朝から晩まで、立てとか、すわれとか、百メートルとか、千メートルとか、云うて、戦争の真似をしとるんかと思うと、おかしうもなるし、あほらしうもなるし、丸で子供のままごとや。えらそうにして聨隊の門を出て来る士官はんを見ると、『お前らは何をしておるぞ』と云うてやりとうなる。されば云うて、自分も兵隊はんの抜けがら――世間に借金の申し訳でないことさえ保証がつくなら、今、直ぐにでも、首くくって死んでしまいたい。」 「君は、元から、厭世家であったが、なかなか直らないと見える。然し、君、戦争は厭世の極致だよ。世の中が楽しいなぞという未練が残ってる間は、決して出来るものじゃアない。軍紀とか、命令とかいうもので圧迫に圧迫を加えられたあげく、これじゃアたまらないと気がつく個人が、夢中になって、盲進するのだ。その盲進が戦争の滋養物である様に、君の現在では、家族の饑餲が君の食物ではないか。人間は皆苦しみに追われて活動しているのだ。」 「そう云われると、そうに違いないのやろけど」と、友人は微笑しながら、「まア、もッとお飲み。」傾けた徳利の酒が不足であったので、「おい、お銚子」と、奥へ注意してから、「女房は弱いし、餓鬼は毎日泣きおる、これも困るさかいなア。」 「それはお互いのことだア。ね」と、僕が答えるとたん、から紙が開いて、細君が熱そうなお燗を持って出て来たが、大津生れの愛嬌者だけに、 「えろうお気の毒さまどすこと」と、自分は亭主に角のない皮肉をあびせかけ、銚子を僕に向けて、 「まア、一杯どうどす?――うちの人は、いつも、あないなことばかり云うとります。どうぞ、しかってやってお呉れやす。」 「まア、こういう人間は云いたいだけ云わして置きゃア済むんですよ。」 「そうどすか?」と、細君は亭主の方へ顔を向けた。 「まだ女房にしかられる様な阿房やない。」 「そやさかい、岩田はんに頼んどるのやおまへんか?」 「女郎どもは、まア、あッちゃへ行とれ。」 「はい、はい。」 細君は笑いながら、からの徳利を取って立った。 友人は手をちゃぶ台の隅にかけながら、顔は大分赤みの帯び来たのが、そばに立ってるランプの光に見えた。 「岩田君、君、今、盲進は戦争の食い物やて云うたけど、もう一歩進めて云うたら、死が戦争の喰い物や。人間は死ぬ時にならんと真面目になれんのや。それで死んでしもたら、もう、何もないのや。つまらん命やないか? ただくたばりそこねた者が帰って来て、その味が甘かったとか、辛かったとか云うて、えらそうに吹聴するのや、僕等は丸で耻さらしに帰って来たんも同然やないか?」 「そう云やア、僕等は一言も口嘴をさしはさむ権利はない、さ」 「まァ、死にそこねた身になって見給え。それも、大将とか、大佐とかいうものなら、立派な金鵄勲章をひけらかして、威張って澄ましてもおられよけど、ただの岡見伍長ではないか? こないな意気地なしになって、世の中に生きながらえとるくらいなら、いッそ、あの時、六カ月間も生死不明にしられた仲間に這入って、支那犬の腹わたになっとる方がましであった。それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でもない、速射砲の音でもない、実に、僕の隊附きの軍曹大石という人が、戦線の間を平気で往来した姿や。これが、今でも、幽霊の様に、また神さまの様に、僕の心に見えとるんや。」 「何か意味のありそうな話じゃないか?」 「詳しうすれば長なろけれど、大石という人はもとから忠実で、柔順で、少し内気な質であったと思い給え。現役であったにも拘らず、第○聨隊最初の出征に加わらなかったんに落胆しとったんやけど、おとなしいものやさかい、何も云わんで、留守番役をつとめとった。それが予備軍のくり出される時にも居残りになったんで、自分は上官に信用がないもんやさかいこうなんのやて、急にやけになり、常は大して飲まん酒を無茶苦茶に飲んだやろ、赤うなって僕のうちへやって来たことがある。僕などは、『召集されないかて心配もなく、また召集されるような様子になったら、その前からアメリカへでも飛んで行きたいんを、わが身から進んでそないに力んだかて阿房らしいやないか? て』冷かしてやったんけど大した意気込みで不平を云うとって、取り合わん。『こないなことなら、いッそ、割腹して見せてやる』とか、『鉄砲腹をやってやる』とか、なかなか当るべからざる勢いであったんや。然し、いよいよ僕等までが召集されることになって、高須大佐のもとに後備歩兵聨隊が組織され、それが出征する時、待ちかまえとった大石軍曹も、ようよう附いてくことが出来る様になったんで、その喜びと云うたら、並み大抵ではなかった。どうせ、無事に帰るつもりは無いて、細君を離縁する云い出し、自分の云うことを承知せんなら、露助と見て血祭りにする云うて、剣を抜いて追いまわしたんや。」 こう云って、友人は鳥渡僕から目を離して、猪口に手をかけた。僕も一杯かさねてから、 「実際離縁したのか?」 「いや」と、友人は少し笑いを含みながら、「その手つづきは後でしてやると親類の人達がなだめて、万歳の見送りをしたんやそうや。もう、その時から、少し気が触れとったらしい。」 「気違いになったのだ、な?」 「気違い云うたら、戦争しとる時は皆気違いや。君の云い方に拠れば、戦争というものは気違いが死を喰うのか、死が気違いを喰うのか分らん。ずどん云う大砲の音を初めて聴いた時は、こおうてこおうて堪らんのやけど、度重なれば、神経が鈍になると云うか、過敏となるて云うか、それが聴えんと、寂しうて、寂しうてならん。敵は五六千メートルも隔ってるのに、目の前へでも来とる様に見えて、大砲の弾丸があたまの上で破裂しても、よそごとの様に思われ、向うの手にかかって死ぬくらいなら、こッちゃから死ぬまで戦ってやる云う一念に、皆血まなこになっとるんや。かすり傷ぐらい受けたて、その血が流れとるのを自分は知らんのやし、他人も亦それが見えんのも尤もや。強い弾丸が当って、初めて気が付くんや。それに就いて面白い話がある。僕のではない、他の中隊の一卒で、からだは、大けかったけど、智慧がまわりかねた奴であったさかい、いつも人に馬鹿にされとったんが『伏せ』の命令で発砲した時、急に飛び起きて片足立ちになり、『あ、やられた! もう、死ぬ! 死ぬ!』て泣き出し、またばッたり倒れたさかい、どないにやられたかて、同隊の軍曹が調べてやると、足の上を鳥渡敵弾にかすられたんであった。軍曹はその卒の背中をたたいて、『しっかりせい! こんな傷ならしばっとけばええ。』――」 「随分滑稽な奴じゃないか?」 「それが、さ、岩田君、跡になれば滑稽やが、その場にのぞんでは、極真面目なもんや。戦争の火は人間の心を焼き清めて、一生懸命の塊りにして呉れる。然し、こおうなればどこまでもこわいものやさかい、その方でまた気違いになるんもある。どッちゃにせい、気違いや。大石軍曹などは一番ええ、一番えらい方の気違いや。」 「うちの人もどっちかの気違いどす」と、細君は再び銚子を変えに出て来て、直ぐ行ってしまった。 友人はその跡を見送って、 「あいつの云う通り、僕は厭世気違いやも知れんけど、僕のは女房の器量がようて(奥でくすッと笑う声がした)、子供がかしこうて、金がたんとあって、寝ておられさえすれば直る気違いや。弾丸の雨にさらされとる気違いは、たとえ一時の状態とは云うても、そうは行かん。」 「それで、君の負傷するまでには、たびたび戦ったのか、ね?」 「いや、僕の隊は最初の戦争に全滅してしもたんや。――さて、これからが話の本文に這入るのやて――」 「まア、一息つき給え」と、僕は友人と盃の交換をした。酔いもまわったのであろう、友人は、気質に似合わず、非常にいい気持ちの様子で、にこにこ笑うている。然し、その笑いが何となく寂しいのは、友人の周囲を僕に思い当らしめた。 「久し振りで君が尋ねて来て、今夜はとまって呉れるのやさかい、僕はこないに嬉しいことはない。充分飲んで呉れ給え」と、酌をしてくれた。 「僕も随分やってるよ。――それよりか、話の続きを聴こうじゃないか?」 「それで、僕等の後備歩兵第○聨隊が、高須大佐に導かれて金州半島に上陸すると、直ぐ鳳凰山を目がけて急行した。その第五中隊第一小隊に、僕は伍長として、大石軍曹と共に、属しておったんや。進行中に、大石軍曹は何とのうそわそわして、ただ、まえの方へ、まえの方へと浮き足になるんで、或時、上官から、大石、しッかりせい。貴様は今からそんなざまじゃア、大砲の音を聴いて直ぐくたばッてしまうやろ云われた時、赤うなって腹を立て、そないに弱いものなら、初めから出征は望みません、これでも武士の片端やさかい、その場にのぞんで見て貰いましょ。――それからと云うものずうッと腹が立っとったんやろ、無言で鳳凰山まで行進した。もう、何でも早う戦場にのぞみとうてのぞみとうて堪えられなんだやろ。心では、おうかた、大砲の音を聴いとったんやろ。僕は、あの時成る程離縁問題が出た筈やと思た。」 「成る程、これからがいよいよ人の気が狂い出すという幕だ、な。」 「それが、さ、君忘れもせぬ明治三十七年八月の二十日、僕等は鳳凰山下を出発し、旅順要塞背面攻撃の一隊として、盤龍山、東鷄冠山の中間にあるピー砲台攻撃に向た。二十日の夜行軍、翌二十一日の朝、敵陣に近い或地点に達したのやけど、危うて前進が出来ん。朝飯の際、敵砲弾の為めに十八名の死者を出した。飯を喰てたうえへ砲弾の砂ほこりを浴びたんやさかい、口へ這入るものが砂か米か分らん様であった。僕などは、もう、ぶるぶる顫て、喰う気にもなれなんだんやけど、大石軍曹は、僕等のあたまの上をひゅうひゅう飛んで行く砲弾を仰ぎながら、にこにこして喰っておった。「腹が出来んといくさも出来ん。」僕等の怖なった時に、却って平気なもんであった。軍曹が上官にしかられた時のうわつき方とは丸で違てた。気狂いは違たもんやて、はたから僕は思た。僕は、まだ、戦場におる気がせなんだんや。それが、敵に見られん様に、敵の刈り残した高黍畑の中を這う様にして前進し、一方に小山を楯にした川筋へ出た。川は水がなかったんで、その川床にずらりと並んで敵の眼を暗ました。鳥渡でも頸を突き出すと直ぐ敵弾の的になってしまう。昼間はとても出ることが出来なかった、日が暮れるのを待ったんやけど、敵は始終光弾を発射して味方の挙動を探るんで、矢ッ張り出られんのは同じこと。」 「鳥渡聴くが、光弾の破裂した時はどんなものだ?」 「三四尺の火尾を曳いて弓形に登り、わが散兵線上に数個破裂した時などは、青白い光が広がって昼の様であった。それに照らされては、隠れる陰がない。おまけに、そこから敵の砲塁までは小川もなく、樹木もなく、あった畑の黍は、敵が旅順要塞に退却の際、みな刈り取ってしもたんや。一歩踏み出せば、もう、直ぐ敵弾の餌食は覚悟せにゃならん。聨隊長はこの進軍に反対であったんやけど、止むを得ん上官の意志であったんやさかい、まア、半分焼けを起して進んで来たんや。全滅は覚悟であった。目的はピー砲台じゃ、その他の命令は出さんから、この川を出るが最後、個々の行動を取って進めという命令が、敵に悟られん様に、聨隊長からひそかに、口渡しで、僕等に伝えられ、僕等は今更電気に打たれた様に顫たんやが、その日の午後七時頃、いざと一同川を飛び出すと、生憎諸方から赤い尾を曳いて光弾があがり、花火の様にぱッと弾けたかと思う間ものう、ぱらぱらと速射砲の弾雨を浴びせかけられた。それからていうもの、君、敵塁の方から速射砲発射の音がぽとぽと、ぽとぽとと聴える様になる。頭上では、また砲弾が破裂する。何のことはない、野砲、速射砲の破裂と光弾の光とがつづけざまにやって来るんやもの、かみ鳴りと稲妻とが一時に落ちる様や、僕等は、もう、夢中やった。午後九時頃には、わが聨隊の兵は全く乱れてしもて、各々その中隊にはおらなかった。心易いものと心易いものが、お互いに死出の友を求めて組みし合い、抱き合うばかりにして突進した。今から思て見ると、よく、まア、あないな勇気が出たことや。後について来ると思たものが足音を絶つ、並んどったものが見えん様になる、前に進むものが倒れてしまう。自分は自分で、楯とするものがない。」 「そこになると、もう、僕等の到底想像出来ないことだ。」 「実際、君、そうや。」 「わたしは何度も聴かされたんで、よく知っとります」と、細君がまた銚子を持って出て来て、僕等のそばに座り込んだ。 「奥さんがその楯になるつもりです、ね?」 「そうやも知れまへん」と笑っている。 友人は真面目だ。 「僕はなんでこないに勇気が出るか知らん思たんが気のゆるみで、急に寂しい様な気がした。僕独りで、――聨絡がなかった。こないな時の寂しさは乃ち恐怖や、おそれや。それに、発砲を禁じられとったんで、ただ土くれや唐黍の焼け残りをたよりに、弾丸を避けながら進んで行たんやが、僕が黍の根を引き起し、それを堤としてからだを横たえた時、まア、安心と思たんが悪かったんであろ、速射砲弾の破裂に何ともかとも云えん恐ろしさを感じた。仲間どもはどうなったか思て、後方を見ると、光弾の光にずらりと黒う見えるんは石か株か、死体か生きとるんか、見分けがつかなんだ。また敵の砲塁までまだどれほどあるかて、音響測量をやって見たら、たッた二百五十メートルほかなかった。大小の敵弾は矢ッ張り雨の如く降っとった。その間を平気で進んで来たものがあるやないか? たッた独りやに「沈着にせい、沈着にせい」と云うて命令しとる様な様子が何やらおかしい思われた。演習に行てもあないに落ち付いておられん。人並みとは違た様子や。して、倒れとるものが皆自分の命令に従ごて来るつもりらしかった。それが大石軍曹や。」 友人は不思議ではないかと云わぬばかりに、僕と妻君との顔を順ぐりに見た。 「戦場では」と僕が受けて、「大胆に出て行くものにゃア却って弾が当らないものだそうだ。」 |
かなしき契となりてけり さめてうれたき夢のあと きはみて落つるいてふ葉の あしたの霜にうづむごと あゝわが戀はきゆべしや 月はしづみてほしかげの きらめくよひの浴歸りに 霜夜の下駄のおとかぞへ 別れしひとのおもかげを おもひきたればときの鐘 鐘にうらみはむかしより こひするひとの情なれど かねをうらむも世の中に ひとめの關のあればなり げにつれなきは義理の道 さはいへ空の高みくら 此世の末のさばきにて 善惡さだめたまふとき をとこをんなが一生の 切なる戀はいづれぞや 戀よなさけよひとの世に かばかり猛きものあらず かばかり續くものあらず 靜はのこる星月夜 鎌倉山は春のくさ 心はみづの姿なき 涸れ乾きたる物識よ われも學びの宮に入り その高欄のゑをあふぎ 其きざはしの花をつみ 昔のうたの意をひろひ いまはた絶えぬ藝術の 光をめには見たれども 戀はくせ者いつのまに 情けの征矢を放ちけむ 別れのうさは物がたり こひのくるしき樂みは 歌の言葉のあやとこそ 思ひしわれもこの秋の 傾くなべにかつしりぬ 學びは荒みたならしの 琴の聲さへものうきに |
この図を描くに至つた動機と云ふやうな事もありませんが曾て妾は一茶の句であつたか蕪村の句であつたか、それはよく覚えませんが、蚊帳の句を読んで面白いと思つて居りました。併しそれを別に画にして見たいと云ふ程の考へもなく過ぎました。 夏の頃フト蚊帳の記憶を喚び起して、蚊帳に螢を配したならば面白かろうと思ひ付いたのが此画を製作するに至りました径路でした。 併し唯螢では甚だ引立ちませんから、美人を主にしたので云ふまでもなくこの図は美人が蚊帳を吊りかけて居る処へ夕風に吹き込まれてフイと螢が飛び込んだのを、フト見つけた処です。 蚊帳に美人と云ふと聞くからに艶かしい感じを起させるものですが、それを高尚にすらりと描いて見たいと思つたのが此図を企てた主眼でした。良家の婦人を表したのです。時代は天明の少し古い処で、その頃の浴衣を着て、是から寝まうとする処ですから、細い帯を横に結んで居ます。 時が夕景のものであるから成るべく涼しげな感じを起させることに努めました。水のやうな青い蚊帳と服装の配合も凡て此涼しげと云ふのが元になつて居ります。この涼味を表すと同時に下品に陥らぬ様に注意したので模様なども成るべく上品なものを選びました。 服装の模様などは別に拠り所も何もありません。唯多く其時代に使はれて居さうなものを描いて見たまでです。要するにこの図はともすれば、廓の情調でも思ひ出させさうな題材を捉へて却つて反対に楚々たる清い感じをそそる様に、さらさらと描いたものです。 |
一 きのふは仲秋十五夜で、無事平安な例年にもめづらしい、一天澄渡つた明月であつた。その前夜のあの暴風雨をわすれたやうに、朝から晴れ〴〵とした、お天氣模樣で、辻へ立つて日を禮したほどである。おそろしき大地震、大火の爲に、大都は半、阿鼻焦土となんぬ。お月見でもあるまいが、背戸の露草は青く冴えて露にさく。……廂破れ、軒漏るにつけても、光りは身に沁む月影のなつかしさは、せめて薄ばかりも供へようと、大通りの花屋へ買ひに出すのに、こんな時節がら、用意をして賣つてゐるだらうか。……覺束ながると、つかひに行く女中が元氣な顏して、花屋になければ向う土手へ行つて、葉ばかりでも折つぺしよつて來ませうよ、といつた。いふことが、天變によつてきたへられて徹底してゐる。 女でさへその意氣だ。男子は働かなければならない。――こゝで少々小聲になるが、お互に稼がなければ追つ付かない。…… 既に、大地震の當夜から、野宿の夢のまださめぬ、四日の早朝、眞黒な顏をして見舞に來た。……前に内にゐて手まはりを働いてくれた淺草ツ娘の婿の裁縫屋などは、土地の淺草で丸燒けに燒け出されて、女房には風呂敷を水びたしにして髮にかぶせ、おんぶした嬰兒には、ねんねこを濡らしてきせて、火の雨、火の風の中を上野へ遁がし、あとで持ち出した片手さげの一荷さへ、生命の危ふさに打つちやつた。……何とかや――いと呼んでさがして、漸く竹の臺でめぐり合ひ、そこも火に追はれて、三河島へ遁げのびてゐるのだといふ。いつも來る時は、縞もののそろひで、おとなしづくりの若い男で、女の方が年下の癖に、薄手の圓髷でじみづくりの下町好みでをさまつてゐるから、姉女房に見えるほどなのだが、「嬰兒が乳を呑みますから、私は何うでも、彼女には實に成るものの一口も食はせたうござんすから。」――で、さしあたり仕立ものなどの誂はないから、忽ち荷車を借りて曳きはじめた――これがまた手取り早い事には、どこかそこらに空車を見つけて、賃貸しをしてくれませんかと聞くと、燒け原に突き立つた親仁が、「かまはねえ、あいてるもんだ、持つてきねえ。」と云つたさうである。人ごみの避難所へすぐ出向いて、荷物の持ち運びをがたり〳〵やつたが、いゝ立て前になる。……そのうち場所の事だから、別に知り合でもないが、柳橋のらしい藝妓が、青山の知邊へ遁げるのだけれど、途中不案内だし、一人ぢや可恐いから、兄さん送つて下さいな、といつたので、おい、合點と、乘せるのでないから、そのまゝ荷車を道端にうつちやつて、手をひくやうにしておくり屆けた。「別嬪でござんした。」たゞでもこの役はつとまる所をしみ〴〵禮をいはれた上に、「たんまり御祝儀を。」とよごれくさつた半纏だが、威勢よく丼をたゝいて見せて、「何、何をしたつて身體さへ働かせりや、彼女に食はせて、乳はのまされます。」と、仕立屋さんは、いそ〳〵と歸つていつた。――年季を入れた一ぱしの居職がこれである。 それを思ふと、机に向つたなりで、白米を炊いてたべられるのは勿體ないと云つてもいゝ。非常の場合だ。……稼がずには居られない。 社にお約束の期限はせまるし、……實は十五夜の前の晩あたり、仕事にかゝらうと思つたのである。所が、朝からの吹き降りで、日が暮れると警報の出た暴風雨である。電燈は消えるし、どしや降りだし、風はさわぐ、ねずみは荒れる。……急ごしらへの油の足りない白ちやけた提灯一具に、小さくなつて、家中が目ばかりぱち〳〵として、陰氣に滅入つたのでは、何にも出來ず、口もきけない。拂底な蝋燭の、それも細くて、穴が大きく、心は暗し、數でもあればだけれども、祕藏の箱から……出して見た覺えはないけれど、寶石でも取出すやうな大切な、その蝋燭の、時よりも早くぢり〳〵と立つて行くのを、氣を萎して、見詰めるばかりで、かきもの所の沙汰ではなかつた。 二 戸をなぐりつける雨の中に、風に吹きまはされる野分聲して、「今晩――十時から十一時までの間に、颶風の中心が東京を通過するから、皆さん、お氣を付けなさるやうにといふ、たゞ今、警官から御注意がありました。――御注意を申します。」と、夜警當番がすぐ窓の前を觸れて通つた。 さらぬだに、地震で引傾いでゐる借屋である。颶風の中心は魔の通るより氣味が惡い。――胸を引緊め、袖を合せて、ゐすくむと、や、や、次第に大風は暴れせまる。……一しきり、一しきり、たゞ、辛き息をつかせては、ウヽヽヽ、ヒユーとうなりを立てる。浮き袋に取付いた難破船の沖のやうに、提灯一つをたよりにして、暗闇にたゞよふうち、さあ、時かれこれ、やがて十二時を過ぎたと思ふと、氣の所爲か、その中心が通り過ぎたやうに、がう〳〵と戸障子をゆする風がざツと屋の棟を拂つて、やゝ輕くなるやうに思はれて、突つ伏したものも、僅に顏を上げると……何うだらう、忽ち幽怪なる夜陰の汽笛が耳をゑぐつて間ぢかに聞えた。「あゝ、(ウウ)が出ますよ。」と家内があをい顏をする。――この風に――私は返事も出來なかつた。 カチ、カチ、カヽチ カチ、カチ、カヽチ 雨にしづくの拍子木が、雲の底なる十四日の月にうつるやうに、袖の黒さも目に浮かんで、四五軒北なる大銀杏の下に響いた。――私は、霜に睡をさました劍士のやうに、付け燒き刃に落ちついて聞きすまして、「大丈夫だ。火が近ければ、あの音が屹とみだれる。」……カチカチカヽチ。「靜かに打つてゐるのでは火事は遠いよ。」「まあ、さうね。」といふ言葉も、果てないのに、「中六」「中六」と、ひしめきかはす人々の聲が、その、銀杏の下から車輪の如く軋つて來た。 續いて、「中六が火事ですよ。」と呼んだのは、再び夜警の聲である。やあ、不可い。中六と言へば、長い梯子なら屆くほどだ。然も風下、眞下である。私たちは默つて立つた。青ざめた女の瞼も決意に紅に潮しつゝ、「戸を開けないで支度をしませう。」地震以來、解いた事のない帶だから、ぐいと引しめるだけで事は足りる。「度々で濟みません。――御免なさいましよ。」と、やつと佛壇へ納めたばかりの位牌を、内中で、此ばかりは金色に、キラリと風呂敷に包む時、毛布を撥ねてむつくり起上つた――下宿を燒かれた避難者の濱野君が、「逃げると極めたら落着きませう。いま火の樣子を。」とがらりと門口の雨戸を開けた。可恐いもの見たさで、私もふツと立つて、框から顏を出すと、雨と風とが横なぐりに吹つける。處へ――靴音をチヤ〳〵と刻んで、銀杏の方から來なすつたのは、町内の白井氏で、おなじく夜警の當番で、「あゝもう可うございます。漏電ですが消えました。――軍隊の方も、大勢見えてゐますから安心です。」「何とも、ありがたう存じます――分けて今晩は御苦勞樣です……後に御加勢にまゐります。」おなじく南どなりへ知らせにおいでの、白井氏のレインコートの裾の、身にからんで、煽るのを、濛々たる雲の月影に見おくつた。 この時も、戸外はまだ散々であつた。木はたゞ水底の海松の如くうねを打ち、梢が窪んで、波のやうに吹亂れる。屋根をはがれたトタン板と、屋根板が、がたん、ばり〳〵と、競を追つたり、入りみだれたり、ぐる〳〵と、踊り燥ぐと、石瓦こそ飛ばないが、狼藉とした罐詰のあき殼が、カラカランと、水鷄が鐵棒をひくやうに、雨戸もたゝけば、溝端を突駛る。溝に浸つた麥藁帽子が、竹の皮と一所に、プンと臭つて、眞つ黒になつて撥上がる。……もう、やけになつて、鳴きしきる蟲の音を合方に、夜行の百鬼が跳梁跋扈の光景で。――この中を、折れて飛んだ青い銀杏の一枝が、ざぶり〳〵と雨を灌いで、波状に宙を舞ふ形は、流言の鬼の憑ものがしたやうに、「騷ぐな、おのれ等――鎭まれ、鎭まれ。」と告つて壓すやうであつた。 「私も薪雜棒を持つて出て、亞鉛と一番、鎬を削つて戰はうかな。」と喧嘩過ぎての棒ちぎりで擬勢を示すと、「まあ、可かつたわね、ありがたい。」と嬉しいより、ありがたいのが、斯うした時の眞實で。 「消して下すつた兵隊さんを、こゝでも拜みませう。」と、女中と一所に折り重なつて門を覗いた家内に、「怪我をしますよ。」と叱られて引込んだ。 三 誠にありがたがるくらゐでは足りないのである。火は、亞鉛板が吹つ飛んで、送電線に引掛つてるのが、風ですれて、線の外被を切つたために發したので。警備隊から、驚破と駈つけた兵員達は、外套も被なかつたのが多いさうである。危險を冒して、あの暴風雨の中を、電柱を攀ぢて、消しとめたのであると聞いた。――颶風の過ぎる警告のために、一人駈けまはつた警官も、外套なしに骨までぐしよ濡れに濡れ通つて――夜警の小屋で、餘りの事に、「おやすみになるのに、お着替がありますか。」といつて聞くと、「住居は燒けました。何もありません。――休息に、同僚のでも借りられればですが、大抵はこのまゝ寢ます。」との事だつたさうである。辛勞が察しらるゝ。 雨になやんで、葉うらにすくむ私たちは、果報といつても然るべきであらう。 曉方、僅にとろりとしつゝ目がさめた。寢苦い思ひの息つぎに朝戸を出ると、あの通り暴れまはつたトタン板も屋根板も、大地に、ひしとなつてへたばつて、魍魎を跳らした、ブリキ罐、瀬戸のかけらも影を散らした。風は冷く爽に、町一面に吹きしいた眞蒼な銀杏の葉が、そよ〳〵と葉のへりを優しくそよがせつゝ、芬と、樹の秋の薫を立てる。…… 早起きの女中がざぶ〳〵、さら〳〵と、早、その木の葉をはく。……化けさうな古箒も、唯見ると銀杏の簪をさした細腰の風情がある。――しばらく、雨ながら戸に敷いたこの青い葉は、そのまゝにながめたし。「晩まで掃かないで。」と、留めたかつた。が、時節がらである。落ち葉を掃かないのさへ我儘らしいから、腕を組んでだまつて視た。 裏の小庭で、雀と一所に、嬉しさうな聲がする。……昨夜、戸外を舞靜めた、それらしい、銀杏の折れ枝が、大屋根を越したが、一坪ばかりの庭に、瑠璃淡く咲いて、もう小さくなつた朝顏の色に縋るやうに、たわゝに掛つた葉の中に、一粒、銀杏の實のついたのを見つけたのである。「たべられるものか、下卑なさんな。」「なぜ、何うして?」「いちじくとはちがふ。いくら食ひしん坊でも、その實は黄色くならなくつては。」「へい。」と目を丸くして、かざした所は、もち手は借家の山の神だ、が、露もこぼるゝ。枝に、大慈の楊柳の俤があつた。 ――ところで、前段にいつた通り、この日はめづらしく快晴した。 ……通りの花屋、花政では、きかない氣の爺さんが、捻鉢卷で、お月見のすゝき、紫苑、女郎花も取添へて、おいでなせえと、やつて居た。葉に打つ水もいさぎよい。 可し、この樣子では、歳時記どほり、十五夜の月はかゞやくであらう。打ちつゞく惡鬼ばらひ、屋を壓する黒雲をぬぐつて、景氣なほしに「明月」も、しかし沙汰過ぎるから、せめて「良夜」とでも題して、小篇を、と思ふうちに……四五人のお客があつた。いづれも厚情、懇切のお見舞である。 打ち寄れば言ふ事よ。今度の大災害につけては、先んじて見舞はねばならない、燒け殘りの家の無事な方が後になつて――類燒をされた、何とも申しやうのない方たちから、先手を打つて見舞はれる。壁の破れも、防がねばならず、雨漏りも留めたし、……その何よりも、火をまもるのが、町内の義理としても、大切で、煙草盆一つにも、一人はついて居なければならないやうな次第であるため、ひつ込みじあんに居すくまつて、小さくなつてゐるからである。 四 早く、この十日ごろにも、連日の臆病づかれで、寢るともなしにころがつてゐると、「鏡さんはゐるかい。――何は……ゐなさるかい。」と取次ぎ……といふほどの奧はない。出合はせた女中に、聞きなれない、かう少し掠れたが、よく通る底力のある、そして親しい聲で音づれた人がある。「あ、長さん。」私は心づいて飛び出した。はたして松本長であつた。 この能役者は、木曾の中津川に避暑中だつたが、猿樂町の住居はもとより、寶生の舞臺をはじめ、芝の琴平町に、意氣な稽古所の二階屋があつたが、それもこれも皆灰燼して、留守の細君――(評判の賢婦人だから厚禮して)――御新造が子供たちを連れて辛うじて火の中をのがれたばかり、何にもない。歴乎とした役者が、ゴム底の足袋に卷きゲートル、ゆかたの尻ばしよりで、手拭を首にまいてやつて來た。「いや、えらい事だつたね。――今日も燒けあとを通つたがね、學校と病院に火がかゝつたのに包まれて、駿河臺の、あの崖を攀ぢ上つて逃げたさうだが、よく、あの崖が上られたものだと思ふよ。ぞつとしながら、つく〴〵見たがね、上がらうたつて上がれさうな所ぢやない。女の腕に大勢の小兒をつれてゐるんだから――いづれ人さ、誰かが手を取り、肩をひいてくれたんだらうが、私は神佛のおかげだと思つて難有がつてゐるんだよ。――あゝ、裝束かい、皆な灰さ――面だけは近所のお弟子が駈けつけて、殘らずたすけた。百幾つといふんだが、これで寶生流の面目は立ちます。裝束は、いづれ年がたてば新しくなるんだから。」と蜀江の錦、呉漢の綾、足利絹もものともしないで、「よそぢや、この時節、一本お燗でもないからね、ビールさ。久しぶりでいゝ心持だ。」と熱燗を手酌で傾けて、「親類うちで一軒でも燒けなかつたのがお手柄だ。」といつて、うれしさうな顏をした。うらやましいと言はないまでも、結構だとでもいふことか、手柄だといつて讚めてくれた。私は胸がせまつた。と同時に、一藝に達した、いや――從兄弟だからグツと割びく――たづさはるものの意氣を感じた。神田兒だ。彼は生拔きの江戸兒である。 その日、はじめて店をあけた通りの地久庵の蒸籠をつる〳〵と平げて、「やつと蕎麥にありついた。」と、うまさうに、大胡坐を掻いて、また飮んだ。 印半纏一枚に燒け出されて、いさゝかもめげないで、自若として胸をたゝいて居るのに、なほ万ちやんがある。久保田さんは、まる燒けのしかも二度目だ。さすがに淺草の兄さんである。 つい、この間も、水上さんの元祿長屋、いや邸(註、建つて三百年といふ古家の一つがこれで、もう一つが三光社前の一棟で、いづれも地震にびくともしなかつた下六番町の名物である。)へ泊りに來てゐて、寢ころんで、誰かの本を讀んでゐた雅量は、推服に値する。 ついて話しがある。(猿どのの夜寒訪ひゆく兎かな)で、水上さんも、私も、場所はちがふが、兩方とも交代夜番のせこに出てゐる。町の角一つへだてつゝ、「いや、御同役いかゞでござるな。」と互に訪ひつ訪はれつする。私があけ番の時、宵のうたゝねから覺めて辻へ出ると、こゝにつめてゐた當夜の御番が「先刻、あなたのとこへお客がありましてね、門をのぞきなさるから、あゝ泉をおたづねですかと、番所から聲を掛けますと、いや用ではありません――番だといふから、ちよつと見に來ました、といつてお歸りになりました。戸をあけたまゝで、お宅ぢやあ皆さん、お寢みのやうでした。」との事である。 「どんな人です。」と聞くと、「さあ、はつきりは分りませんが、大きな眼鏡を掛けておいででした。」あゝ、水上さんのとこへ、今夜も泊りに來た人だらう、万ちやんだな、と私はさう思つた。久保田さんは、大きな眼鏡を掛けてゐる。――所がさうでない。來たのは瀧君であつた。評判のあの目が光つたと見える。これも讚稱にあたひする。 五 ――さてこの日、十五夜の當日も、前後してお客が歸ると、もうそちこち晩方であつた。 例年だと、その薄を、高樓――もちとをかしいが、この家で二階だから高いにはちがひない。その月の出の正面にかざつて、もと手のかゝらぬお團子だけは堆く、さあ、成金、小判を積んで較べて見ろと、飾るのだけれど、ふすまは外れる。障子の小間はびり〳〵と皆破れる。雜と掃き出したばかりで、煤もほこりも其のまゝで、まだ雨戸を開けないで置くくらゐだから、下階の出窓下、すゝけた簾ごしに供へよう。お月樣、おさびしうございませうがと、飾る。……その小さな臺を取りに、砂で氣味の惡い階子段を上がると、……プンとにほつた。焦げるやうなにほひである。ハツと思ふと、かう氣のせゐか、立てこめた中に煙が立つ。私はバタ〳〵と飛びおりた。「ちよつと來て見ておくれ、焦げくさいよ。」家内が血相して駈けあがつた。「漏電ぢやないか知ら。」――一日の地震以來、たばこ一服、火の氣のない二階である。「疊をあげませう。濱野さん……御近所の方、おとなりさん。」「騷ぐなよ。」とはいつたけれども、私も胸がドキ〳〵して、壁に頬を押しつけたり、疊を撫でたり、だらしはないが、火の氣を考へ、考へつゝ、雨戸を繰つて、衝と裏窓をあけると、裏手の某邸の廣い地尻から、ドス黒いけむりが渦を卷いて、もう〳〵と立ちのぼる。「湯どのだ、正體は見屆けた、あの煙だ。」といふと、濱野さんが鼻を出して、嗅いで見て、「いえ、あのにほひは石炭です。一つ嗅いで來ませう。」と、いふことも慌てながら戸外へ飛び出す。――近所の人たちも、二三人、念のため、スヰツチを切つて置いて、疊を上げた、が何事もない。「御安心なさいまし、大丈夫でせう。」といふ所へ、濱野さんが、下駄を鳴して飛んで戻つて、「づか〳〵庭から入りますとね、それ、あの爺さん。」といふ、某邸の代理に夜番に出て、ゐねむりをしい〳〵、むかし道中をしたといふ東海道の里程を、大津からはじめて、幾里何町と五十三次、徒歩で饒舌る。……安政の地震の時は、おふくろの腹にゐたといふ爺さんが、「風呂を焚いてゐましてね、何か、嗅ぐと矢つ張り石炭でしたが、何か、よくきくと、たきつけに古新聞と塵埃を燃したさうです。そのにほひが籠つたんですよ。大丈夫です。――爺さんにいひますとね、(氣の毒でがんしたなう。)といつてゐました。」箱根で煙草をのんだらうと、笑ひですんだから好いものの、薄に月は澄ながら、胸の動悸は靜まらない。あいにくとまた停電で、蝋燭のあかりを借りつゝ、燈と共に手がふるふ。……なか〳〵に稼ぐ所ではないから、いきつぎに表へ出て、近所の方に、たゞ今の禮を立話しでして居ると、人どよみを哄とつくつて、ばら〳〵往來がなだれを打つ。小兒はさけぶ。犬はほえる。何だ。何だ。地震か火事か、と騷ぐと、馬だ、馬だ。何だ、馬だ。主のない馬だ。はなれ馬か、そりや大變と、屈竟なのまで、軒下へパツと退いた。放れ馬には相違ない。引手も馬方もない畜生が、あの大地震にも縮まない、長い面して、のそり〳〵と、大八車のしたゝかな奴を、たそがれの塀の片暗夜に、人もなげに曳いて伸して來る。重荷に小づけとはこの事だ。その癖、車は空である。 が、嘘か眞か、本所の、あの被服廠では、つむじ風の火の裡に、荷車を曳いた馬が、車ながら炎となつて、空をきり〳〵と𢌞つたと聞けば、あゝ、その馬の幽靈が、車の亡魂とともに、フト迷つて顯はれたかと、見るにもの凄いまで、この騷ぎに持ち出した、軒々の提灯の影に映つたのであつた。 |
上 実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某の日東京府下の一病院において、渠が刀を下すべき、貴船伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。 その日午前九時過ぐるころ家を出でて病院に腕車を飛ばしつ。直ちに外科室の方に赴くとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目よき婦人二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。 見れば渠らの間には、被布着たる一個七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。予は今門前において見たる数台の馬車に思い合わせて、ひそかに心に頷けり。渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。 予はしばらくして外科室に入りぬ。 ときに予と相目して、脣辺に微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子に凭れり。今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任を荷える身の、あたかも晩餐の筵に望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。他に女性とてはあらざりし。なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種形容すべからざる面色にて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。 室内のこの人々に瞻られ、室外のあのかたがたに憂慮われて、塵をも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣を絡いて、死骸のごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、頤細りて手足は綾羅にだも堪えざるべし。脣の色少しく褪せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼は固く閉ざしたるが、眉は思いなしか顰みて見られつ。わずかに束ねたる頭髪は、ふさふさと枕に乱れて、台の上にこぼれたり。 そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴く、うるわしき病者の俤を一目見るより、予は慄然として寒さを感じぬ。 医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たる状露われて、椅子に坐りたるは室内にただ渠のみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂わば謂え、伯爵夫人の爾き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。 おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻に廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人なり。 そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、 「御前、姫様はようようお泣き止みあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」 伯はものいわで頷けり。 看護婦はわが医学士の前に進みて、 「それでは、あなた」 「よろしい」 と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。 さてはいかなる医学士も、驚破という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表したりき。 看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、 「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」 腰元はその意を得て、手術台に擦り寄りつ、優に膝のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、 「夫人、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算えあそばしますように」 伯爵夫人は答なし。 腰元は恐る恐る繰り返して、 「お聞き済みでございましょうか」 「ああ」とばかり答えたまう。 念を推して、 「それではよろしゅうございますね」 「何かい、痲酔剤をかい」 「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝なりませんと、いけませんそうです」 夫人は黙して考えたるが、 「いや、よそうよ」と謂える声は判然として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ。 腰元は、諭すがごとく、 「それでは夫人、御療治ができません」 「はあ、できなくってもいいよ」 腰元は言葉はなくて、顧みて伯爵の色を伺えり。伯爵は前に進み、 「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」 侯爵はまたかたわらより口を挟めり。 「あまり、無理をお謂やったら、姫を連れて来て見せるがいいの。疾くよくならんでどうするものか」 「はい」 「それでは御得心でございますか」 腰元はその間に周旋せり。夫人は重げなる頭を掉りぬ。看護婦の一人は優しき声にて、 「なぜ、そんなにおきらいあそばすの、ちっともいやなもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」 このとき夫人の眉は動き、口は曲みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。半ば目を睜きて、 「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤は譫言を謂うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快らんでもいい、よしてください」 聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現の間に人に呟かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎として謂い出だせる、夫人の胸中を推すれば。 伯爵は温乎として、 「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」 「はい。だれにも聞かすことはなりません」 |
一 ある晴れた日の夕方、夕焼雲の色が褪せかけた頃、私は郊外の道を歩いていた。季節は晩秋か、初冬だったと思う。地上や中空にかなり強い風が吹いていて、樹々の梢を動かし、乾いた砂埃を立てていた。 それはある私鉄と別の私鉄の駅間を結ぶ道路で、中央部が簡易舗装になっている。そこをバスや自動車やオート三輪が通る。舗装してない両側の砂利の部分を、人は歩くのだ。 あたりはまだ開けてなく、ところどころに樹に囲まれた農家や、小規模な団地や、高圧線の塔があるだけで、おおむねは畠に占められていた。しかしあちこちの丘や崖を切りくずして、平坦地を造成しているところを見ると、やがてここらも急速に発展して、家やアパートだらけになってしまうに違いない。 人通りは少かった。 その女は、私よりも三十メートルほど先を、私と同方向に歩いていた。女が歩いていたのは、道の端の歩道ではなく、道からさらに凹んだ畠中の道であった。黄昏時なので交通事故を心配したのではなく、風が吹きつけるので、それを嫌って畠中に降りて入ったのだろう。 その時私の背後から、相当なスピードで、一台のトラックが走って来た。傍を通り過ぎる時、私はちょっと立ち止り、車道に背を向けていた。トラックは通り過ぎ、やがて舗装路の穴ぼこをさけようとして、ハンドルを切りそこねたらしい。バス停留所の標識柱に、車体の端が触れた。鈍い音がした。 標識柱は基底にコンクリートの台があり、金属のパイプがそこからまっすぐ伸びて、停留所名を記した円盤が一番上にくっついている。標識柱は土台が重いから、普通ならなぎ倒されるだけの筈なのにその時は妙な現象が起った。 支柱のパイプが折れたのである。支柱は文字盤もろとも、まっすぐには飛ばず、そのまま風に乗って中空に舞い上った。 その一部始終を、私は見ていたわけではない。音がしたから眼をやったら、それが舞い上っていたのだ。ふわふわと呑気そうに十二、三メートルも上ったと思うと、一瞬静止して、今度はきりきり舞いしながら、斜めに畠へ落ちて行った。 「…………」 声にならない悲鳴のようなものを立てて、女は足から膝、膝から胴に力を抜いて、黒い土の上にくず折れた。その落下地点に、丁度その女が歩いていたのだ。 さっき私は、三十メートル先に女が歩いていたと言ったが、トラックが通り過ぎる時には、私は気がついていなかった。と言うより、意識に入れていなかった。もっぱら空や景色を眺めて歩いていたのである。 だからその女の存在に気付いたのは、折れた標識がそこに落下した瞬間からだ。私はすぐに斜面を降りて、その方に急ぎ足に近づいた。私がそこに着く前に、若い男と女が走り寄り(それまで彼等はどこにいたのか、どこを歩いていたのか、私は知らない)男はうつぶせに倒れた女をあおむけにしようと、しきりに手を働かしていた。アベックの若い女の方は、昂奮した眼色と声で、 「ナンバー、見た?」 「あんた。ナンバー、見た?」 私は黙っていた。私は標識が宙に飛ぶのに心をとられて、ナンバーを見る暇がなかったのだ。男もやはり昂奮していたのだろう。どもりながら、むしろ喜悦に満ちた声で、 「そ、それよりも、救急車を早く呼んで来い。早く。早く!」 事件が起きてまだ一分も経たぬのに、もう十人ばかりの人があつまり、また遠くからばらばらとかけて来る人影も見えた。その中の誰かが走って行って、電話に取りついたのだろう。やがて救急車がサイレンを鳴らしながら、舗装路をまっしぐらに近づいて来た。 女は失神したまま、救急車に運び込まれた。救急車の男がするどい声で、運転手に救急指定病院の名を告げる。救急車はUターンして、速力を上げて走り去った。あとには弥次馬たちと、兇器(?)の標識柱だけが残った。 女はショックで失神しただけで、病院に着くとすぐ意識を取り戻した。頭には傷はなく、肩と手に打撲傷、胸椎の一箇所に圧迫骨折があった。しかし十五日足らずで、彼女は退院した。 矢木栄介が階段から落ちて怪我をしたという噂を聞いて、私は見舞いに出かけた。彼は自宅の八畳間のベッドの上に、ふんぞり返って寝ていた。枕もとにはベッドテーブルがあり、傍に来客用の椅子が置いてある。矢木は私の顔を見ると、まぶしそうなまた忌々しそうな表情をつくった。 「腰を痛めたんだってね。災難なことだ」 私は椅子に腰をおろしながら言った。 「バーの階段から落ちたんだって?」 「バー? バーじゃなく、バスだよ」 矢木は顔をしかめた。 「バーだなんて、人聞きが悪い。誰がそんなことを言ったんだね。学校あたりに聞えると、具合が良くないじゃないか」 矢木は私といっしょに学校を卒業して、今はある大学の講師を勤めている。講師だから収入は少いが、夫人が美容院を経営しているので、生活には困っていない。もっともふんぞり返っているのは、そのせいでなく、背の痛みのためだとのことであった。 「こうしている方が、ラクなんでね」 矢木は背中をずり起し、パンヤの枕によりかかる姿勢になった。光線の変化で、矢木の表情はかなり病み老けて見えた。それはある感じがあった。彼は私と同じ齢だったから。 「すまないが、お茶をいれて呉れないか。テーブルの下の扉に、茶器が入っている」 「酔っていたのかね、その時」 電熱器に薬罐を乗せながら訊ねた。 「バスの階段から落ちるなんて、だらしない話だね」 「酔ってはいなかった。酔うとかえって体が無抵抗になって、怪我などしないものだ。しらふだと、どうしてもじたばたとする」 枕もとの葡萄の実を一粒つまんだ。 「大型のバスで、三つ階段がある。その一番上から足をすべらせ、つまりずっこけてしまったんだ。鞄を持っていたし、ずっこけになる以外はなかった。背中には手がないだろう。つかまるすべがなくて、がくんがくんがくんと三度ずっこけ、歩道と車道の角にしたたか腰を打ちつけた。腰がぎくっとなるのが判ったよ」 ていねいに葡萄の皮を剥いて、彼は口に放り込んだ。 「どうして人間の背中なんて、あんなに無防備につくってあるんだろうな。手は前に突く。叩く。足は前方に蹴上げる。眼や口や耳などの感覚器も、おおむね前方の敵を対象としてついているね。背中だけは、皆から見離されて、置きざりにされている。どういうわけかな」 「ヒジ鉄というのがあるよ」 「うん。それはある。でもそれは消極的なものだ。敵にはそれほど響かない」 葡萄を含んだまま、しばらく矢木は考えていた。こういう時、早く呑み込んでしまえばいいのにと、私はいつもいらいらする。そうさせるようなものが、昔から矢木という男にはあった。 「昔子供の頃、おやじから恐い話を聞かせられると、おれたち兄弟はひしひしと、背中をおやじにすりつけて行ったものだ。抱きついたりは決してしなかった。背中の方がぞくぞくと恐くなるからだ。今の子供もそうかね?」 「今でもそうだろう」 「すると人間という動物は、もともと攻撃的に出来ているのかな。背中をさらして歩く動物、しかも守勢的な動物は、たいてい甲羅だのトゲだのを持っていらあね。たとえば亀だとか――」 茶が入ったので、会話は途切れた。半分ほど飲んで、私は訊ねた。 |
議論は相合はぬ節多けれども、 常に小弟を勵ます益友、 木村鷹太郎君にこの著を献ず。 はしがき 僕、一席の演説を依囑せられ、その原稿を書いて居ると、この樣に長くなつてしまつたので、雜誌に掲載することも出來ず、止むを得ず一册として出版さすことにした。 曾て、博士三宅雄二郎氏、『我觀小景』を公にせられて以來、わが國に於て、同氏の如く哲學上の荒蕪を開拓して、自説を發表し、且之を持續體現せられたのは、愛己説の加藤博士、現象即實在論の井上博士、並に無神無靈魂説の故中江兆民居士だけであつたかと記憶して居る。その諸説の由來と可否とはさて置いて、かういふ篤學諸氏の驥尾に附して、僕が一種の哲理を發表するのは、少し大膽過ぎるかも知れないが、僕には僕の思想が發達して來た歴史もあるので、別に憚るまでもなからうと思ふ。僕がこの十餘年來、友人の間に、はじめは自然哲學と稱し、なか頃空靈哲學と唱へ、終に表象哲學と名づけるに至つた思想が、この書中に現はれて居るのである。 附録の諸篇は、僕が折にふれて種々の雜誌に出した演説、論文等の中から、本論の不備を補ふに足る分だけを寄せ集めたのである。 明治三十九年四月二十日 東京にて 岩野美衞識 (一) 緒 言 僕は議論を好まぬ、拾數年以前、詩を作り初めてから、議論は成るべく爲ない方針である,然し、世間の人は詩を了解する力が乏しいので、詩には遠から現はれて居る思想でも、單純な理窟に成つて見なければ目が覺めないのは、如何にも殘念なのだ。近頃、身づから救世主であるとか、あらざる神を見たとか、大眞理を發見したとかいふものが出て來て、宗教と哲學とに深い經驗のない青年輩は、如何にもえらい樣に之を云ひ噺して居る。――僕は前以つて斷つて置くが、そんなえらい人々と競爭するつもりではない、ふとしたことから智識慾が燃えて來たを幸ひ、たゞ僕の立ち塲を知人と讀者とに明かにするばかりである。 或友人があつて、僕の詩に段々神秘的趣味が加はつて表象的になるのを見て、メーテルリンクに氣觸れて來たと云つた。實は、僕には自分に發達させて來た思想があるので、そう云はれるまではメーテルリンクを讀んだことはなかつたのである。早速、他から借りて讀んで見ると、なか〳〵面白い,十數年前から、自分の頭腦に染み込んで居る思想がずん〳〵引き出されて來た。自分の思想と情念とは、エメルソンの賜物が多いので――一しきりは、英文を作ると、エメルソンの眞似だと、外國教師から笑はれた時もある位である。今日の考へは、その當時から見れば、變遷して居るにせよ、エメルソンから刺撃を受けて進歩して來たのである。エメルソンは僕の恩人である。 ところが、メーテルリンクの論文を讀んで行くと、一篇の構造振りから、思想の振動して居る工合までが、大變このコンコルドの哲人に似て居る。僕は十年前の知己に再會した樣な氣持ちがした。不思議だと思つて讀んで行くと、エメルソンの語までが引用に出て來たのである。――僕は愉快になつたので、その書の持ち主へ手紙を書いて、歐洲近時の文壇にも、自分と同意見者のあるを好みすと云つて遣つた。尤も同意見と云ふよりは、同趣味と云つた方が善い。 その時は他に旅行をして居たので、歸京してから、友人に會つて見ると、その友の話に、僕は知らなかつたが、メーテルリンクは三人の感化を特に受けて居る――それはノワ゛リスとエメルソンとスヰデンボルグとであることが分つた。僕は第一者の作を知らない、第二第三のは知つて居る。エメルソンは、隨分、スヰデンボルグといふ神秘的宗教家の感化をその作から受けた,して、メーテルリンクはまたエメルソンからの感化を受けたのである。メーテルリンクと僕とは、思想上の兄弟分であるのが分つた。それから、また、メーテルリンクの劇『アグラベーンとセリセツト』の英譯を見ると、その序文にマツケールといふ人が云つてある,『モーリスメーテルリンクは、「賤者の寶」(その論文)で見ると、公然たる新プラトーン學派の思索家、神秘家であつて、飽くまでエメルソンに浸つて、且、プロチノスとスヰデンボルグとから靈感を得て來た者らしい』と。プロチノスとは、乃ち、新プラトーン學派の人であつて、エメルソン並にスヰデンボルグも好んで引用した神秘家である。 そこで、先づ、僕の意見を述べて掛るのが本統であらうが、僕は至つて議論が下手である――友人は明確な論理を以て居ないからだと云ふ。自分もそうだらうと思つて居る。然し、これは耻づべきではない。ヘーゲルの哲學の樣に、論理その物が殆ど宇宙の生命であるかの域に達して居ても、尚傳へ難いところがあるので、シヨーペンハウエルは別な方向を取り、ハルトマンの如きもヘーゲルを利用したに過ぎない。 論理といふものは、最も明確であつても、繪で云つて見れば、寫眞以上の事は出來ない。寫眞は小いながら景色を間違ひのない樣に見せるが、それ以上の範圍又は内容を示すべきものではない,繪畫となれば、然し、その出來上つた幅面に、或捕捉し難い意味を活躍たらしむることがある。論理では、到底、神秘は説けない。その説き難いところは、乃ち、藝術の威嚴が生じて來る範圍である。然し、議論をする以上は、それが下手だと云つても申し譯にはならない――先づ、他の三家を論じて行くうちに、神秘の紫を溶かして置いて、それから僕の半獸主義即刹那主義の色を染めて行かうと思ふ。僕に取つては、これは久し振りの議論であるので、云ひたいことは序に何でも云つてしまうかも知れない。 今一つ云つて置きたいのは、太陽に出た長谷川天溪氏の『表象主義の文學』――これは、帝國文學に出た片山正雄氏の『心經質の文學』並に早稻田文學に出た島村抱月氏の『囚はれたる文藝』と共に、心血を注がれたと思はれる近來有益な論文であるが、創作の上から表象派の文學系統を辿られたので、且、メーテルリンクに至つて、あまり論じて居られないから、僕が、この論文の前半部で、渠の思想に最も密切な感化を與へた哲理家の系統を述べるのは、衝突でもなく又重複でもあるまい。それに又、メーテルリンクをその論文『近世戯曲』で見ても、イブセンの影響が隨分ある筈だし、また英國エリザベス時代の感化が非常にあるのは、マツケールも頻りに云つて居るが、それは渠の創作の方面であるので、僕の論文の性質から、そう云ふ問題はあまり云はないつもりである。 (二) メーテルリンクの神秘説 今、近世神秘家の系統を、第一、スヰデンボルグ,第二、エメルソン,第三、メーテルリンクと定めることは、差支へあるまい。もつとも、スヰデンボルグが神秘派の開祖でもないし、エメルソンは神秘家と稱したものでもないが、最近のメーテルリンクから神秘説の道筋を辿つて行くと、大體はそうなるのだ。この本流には、種々大小の流れが這入り込んで來て居る――シエリングの無差別哲學、ヤコブベーメの未生神分裂説、プロチノスの發出論、プラトーンのイデヤ説などで、それに東洋へ來れば、ペルシヤ、印度などの哲學はすべて神秘の色を帶びて居るのである。――僕が云はうとする神秘は丁度瓢箪の樣なものであつて、その上部のふくれはスヰデンボルグ、下部のふくれはメーテルリンク、この兩部の眞中を締めて居るのはエメルソンである。 先づ、メーテルリンクから初めよう――エメルソンの方は、近頃の青年はあまり知らないので、メーテルリンクを紹介されると、直ぐ驚いてしまう樣だが、エメルソンの哲理を知つて居るものには、メーテルリンクの價値は半※(「※」は「減」の「さんずい」の部分が「にすい」、読みは「げん」)する譯である。然し、前者の詩となれば、全く散文的でお話にならない。近頃少し氣がきいた批評家は、新體詩を見て、この行は詩的だが、かの節は散文的だなどと云つて、その詩全體の發想振りが見えない。これはまだ詩その物に打撃を加へたのでないが――そう云ふのと違つて、エメルソンの詩は全く散文的と云つても善い,一口に云へば『何を歎くぞ、馬鹿者よ、この世は樂く送るべきものだ』と、かう云ふ調子である。之に比べると、メーテルリンクの戯曲はさすが神秘的であつて、論文に云つてあることがその曲中にも活きて居るが、論文その物の思想は大底エメルソンとスヰデンボルグとから出て居るのである。 さて、メーテルリンクは、一種の生命を説いて居るのが、その論文の生命である。これに形容詞を加へて見れば、最高生命、絶對生命、神聖生命、超絶生命など云へるが、――エメルソンの哲學はまた超絶哲學である――これは外存的事實ではない、超官能的内存の眞理であつて,朦朧たる境界線、乃ち、僕等の意識と無意識との境界線上に起る情緒に包まれて居て、心靈はそこを隱れ家として居る。 神秘的作用はこの眞理から生ずる。夢に要素があるとして見れば、人間は乃ちそれと同じ要素で出來上つて居るので、自分と自分の周圍とには、神秘が充滿して居るのであるから、人間の知力では、その實體を時々瞥見することが出來るまでゞある。知力の根源となつて居る官能が粗雜であるので、知力では到底、滿足なところまで、神秘の世界に入り込むことは出來ない。意志に就いて云つて見ても、自分がかう爲ようと思つたのは、そう思ふ樣に必然的動機が祖先から傳つて來て居たからで、自分はたゞ分らないところへ分らないながら這入つて行くのである。神秘界は、畢竟、情を以て闇の中に感じる外はないので、そこに美もあるし、面白味もあるし、生命もあることになる。 僕がたとへば一愛人を得たとする。その得たのは、自分が自分の自由意志を以て撰定した樣だが、その實、之に施す接吻は、幾多の靈が、自分の知らないうちに、行はうとして待つて居た接吻である。この遺傳はたゞ現世の祖先からばかりではない、數千世紀の以前から、無形の間に傳つて來る。遺傳と意志と運命と、これがメーテルリンクの神秘説を一貫して居る要目であつて――過去は遺傳で以つて僕等に傳はるし、僕等の未來は運命が既に定めてある,この間にあつて、意志が現世を抱いて深い海の底に沈むとすれば、たとへば一つの小い島の樣で、前後二つの和合しない大海が、その岸邊に寄せ合つて、互ひに噛み合ひをする。僕等の靈魂内はまことに騷々しいものだが、無言――神秘の星――があつて、その上に住つて居るので、之が甘く統御して行く。これは純粹無垢の情緒を以つて感じられる世界である。無言の星が神秘の夜空に輝くと、遺傳も運命もそれから出た光線の一部に過ぎない。 僕等を制限するものは運命であるので、僕等が獸的であれば、運命も獸的となる,僕等が靈的となれば、運命も靈的である。これが神秘的自我の發現する工合である。自我が無言のうちに最も發揮せらるゝところから、メーテルリンクは悲劇にスタチツクトラジエデイ、乃ち、靜的悲劇を發案した。芝居を少しも動作を爲ないで、心持ちばかりで見せるので、――つまり、有形の動作がなく、無形の事件のうちに、一種の靈果を感じられる樣に爲やうと云ふのである。これは畢竟空想に過ぎないとしても、渠の戯曲には、この表象的作法が至るところにあらはれて居る。メーテルリンクに據ると、人の日々の生活上に見える悲劇的要素が、眞の自我に對して、頗る自然的で而も切實である度合は、臨時の大事件に包まれて居る悲素よりも、遙かに多いので、渠の詩材は平凡な事件に取つてあつても、悲莊なところがある。『インテリオル』の樣に、一家團欒の間へ、外部から娘の死の知らせが這入つて行く樣子や,『イントリユーダー』の樣に、盲目の老爺の心中へ、二階の下から、段々死者の靈報が響いて行く工合や,長篇では、また『プリンシスマレーン』の如き、前二篇と同じ樣に構成上の缺點はあるが、すべて運命劇の特色を帶びて居る。劇に就ては、あとでまた自説を述べる時に云ふこともあらう。 以上は、僕が讀んで、自分の考へて居た事※(「※」は「てへん+丙」、読みは「がら」)を胸中に呼び起したので、甚だ面白く思つたのだが、メーテルリンクはそれ以上の事は分らないと云つてしまう――然し、これはノスチツク學派や不可知論者の云ふのと違つて、知力的ながらも熱烈な想像を以つて這入り込むので、哲學者等が、確實だといふ論理を以つて、わざ〳〵天地を狹く限つてしまう樣なものではない。耶蘇がその弟子に向つて、眞理は今はおぼろげであるが、あとでは、顏と顏とを合せて相見るやうな日が來ようと云つた通り、神秘はいつも生命となつて世に殘つて居るのである。 メーテルリンクは法律家であつて、その業務の傍ら、論文と作劇とに從事して居たが、『モンナワンナ』を作つてから、その作劇上の資才が見とめられる樣になつたのである。渠の所論には、僕も亦云ひたかつた點が多いのであるが、それではエメルソンは僕等とどう云ふ關係になつて居るか。メーテルリンクのエメルソン論が、去年の『ポエトローア』に出たが、まだ見ないのは殘念だ。 (三) エメルソンの『自然論』 (上) メーテルリンクが、情を以つて入る外には、現在の人間が理解することは出來ないと棄てたところを、エメルソンは一個のコンベンシヨン、形式を以つて解釋が出來ると云つて居る――その形式は唯心論である。 唯心論と云へば、哲學者等は古いと笑ふだらうが、エメルソンのは少し違つて居る。渠は唯心論その物を證據立てようとして齷齪するのではない。たゞそれを發足點として、それ以外又はそれ以上のことを云つて居るのである。若し唯心論が成り立たないとすれば、エメルソンの思想は論理上の根據は無くなるだらうが、渠自身の價値は變はらない――エメルソンの唯心的論理は形式であつて、その生命とするところは別にあるのだ。 その文體を見ても分る、短刀直入、アービングの樣な形容詞を避けて、實質のある名詞を使ひ、ピリオドだらけの兀々した文で、句々節々の關係が、そう甘く三段論法には行つて居ない,文章はあまり分る樣に書くと、讀者は却つて要點を見のがしてしまうから、その要點に止つて暫く考へさすのが必要だと云つてある。エメルソンは暗示的であつて、以心傳心的に僕等を刺撃するところがある。渠の暗示と刺撃とを受け取れば、もう、その形式と方便とは弊履と同樣棄てゝしまつても善いのである。 『自然論』八章――序論を合せて九章――は、僕、以前から飜譯して持つて居る位だが、自然を我に非らざるもの凡てと見て、始つて居る。非我なる自然は、その個々別々の状態に於ては粗雜なものであるので、詩人の立脚地から、全體を一つに見なければいけない。そこで、エメルソンは純全觀念といふことを主張した。たとへば、僕等が郊外に出る、そしてあの山は太郎作のだ、この森は權兵衞のだ、向ふの畑は丑松のだと見るばかりでは、何の美もない,美は野山全體の景色に浮ぶので、これは誰れの持ち物でもない、たゞ詩人の胸中に所有されて居るのだ――これが乃ち純全觀念である。 この純全觀念に映つて來る自然が、宇宙の大原因に進むには階段がある。エメルソンは之をユース、方便と名づけた――第一、物品,第二、美,第三、言語,第四、教練。 第一の物品とは、自然から授かつて、すべて僕等の官能上に役に立つて呉れるもの。これは、人間を養ふものだが、之に養はれるのが目的でない――養はれて、それから向上的活動をするのが目的である。 第二は、美を愛すること。希臘人は世界をコスモス(Κο´σμοσ)と呼んだが、これは同國語で格好、秩序、又は美といふ意味から來て居る。エメルソンは耳から這入る音樂の美を忘却して居るので、僕もこゝでは略すが、目は最高の建築家であれば、光は第一等の畫工であると云つて居る。 それで、美の状態を三つに分けた――單に自然の格好を見るのも樂みだが、一段進めば、男子的美、乃ち、人間の意志と結合して來た時の美がある。たとへば、レオニダスとその三百の兵士が、國家の犧牲となつて、サーモピレーの山間に倒れて居るところを、太陽と月とがそれ〴〵照らした時,また、コロムバスの船が、萬難を冐して、西印度の一島に近くと、岸には、之を見た土人等が、甘蔗葺きの小屋から、ばら〳〵と逃げて行くのが見える、うしろには洋々たる大海を控へ、前には紫色の連山が横はる,すべて斯ういふ時には、この活畫から人間を離して見ることは出來ない。意志を以て立つ天才の周圍には、人物でも、學説でも、時勢でも、自然でも、すべてその天才と融和してしまうのである、美の今一つの状態は、知力の目的となつた時で――知力は好き嫌ひの感情をまじへないで、事物の絶對秩序、絶對の理法を求めて行く。意志に伴ふ美は求めずして來たる實行美、善である,知力がわざ〳〵求めて行く美は、乃ち眞理である。エメルソンも亦例の眞善美合一論者で、――成る程、この三者を別々に考へれば、つまりはそう云はねばなるまい。 それで、思考上の美と實行上の美とは、同じくないところがあると同時に、また相補つて行くので――丁度、動物が食ふ時と働く時とがあるに似て居る。心靈には美を求むる慾があつて、僕等はそれを滿足させなければならない。自然の美は人の心中に這入つてから改良せられ、たゞ乾燥無味な思考の爲めではない、一段新しい創造となるのである――美は乃ち再現せられて、藝術となるのだ。この藝術があつて、心靈の美慾は滿足するのである。かうなつて來ると、自然――乃ち、非我――の美だけでは最終のものとは云へない、更らに内部的、内存的の美に入らなければ、最大原因に達することは出來ない。 そこで、方便の第三、言語を説いてある。人間の話す言語ばかりではない、エメルソンの唯心論から云へば、自然その物は思想を表はして居る言語である。それに神秘的個條が三つある, (一) 言語は自然の事實の表象である事。 (二) 特殊の自然的事實は、特殊の心靈的事實の表象である事。 (三) 自然その物は心靈その物の表象である事。 かういふところはスヰデンボルグに似て居る。たとへば、心の正しいとか、曲つて居るとかは、竹などの眞直ぐであつたり、くねつて居たりするのと同じで,また、胸と云つて情緒を表し、あたまと云つて思想を現はす。人間が單純な生活状態にある間は、すべて物質的、外形的の物を借りて來て、心靈的、内在的の表現をするのである。外界に見える状態は、必らず内心にもある状態で――怒つて居る人は獅子で、狡猾な人は狐で、泰然自若として居る人は岩の樣である。小羊は無邪氣、蛇は惡意、花は微妙な愛情を示すし、また、光と闇とは智と無智とを、熱は戀を、僕等が前後の風景一幅は、僕等の記憶と希望とを反映して居る。その自然の諸事物を別々に見ないで、前にも云つた純全觀念に統一してしまうと、乃ち、それが一大心靈の表象である。之を思考的に云へば、理性その物であるが、自然に對照しては、心靈といふ方が善い。この心靈を世俗は神と名づけて來た。 |
童話時代のうす明りの中に、一人の老人と一頭の兎とは、舌切雀のかすかな羽音を聞きながら、しづかに老人の妻の死をなげいてゐる。とほくに懶い響を立ててゐるのは、鬼ヶ島へ通ふ夢の海の、永久にくづれる事のない波であらう。 老人の妻の屍骸を埋めた土の上には、花のない桜の木が、ほそい青銅の枝を、細く空にのばしてゐる。その木の上の空には、あけ方の半透明な光が漂つて、吐息ほどの風さへない。 やがて、兎は老人をいたわりながら、前足をあげて、海辺につないである二艘の舟を指さした。舟の一つは白く、一つは墨をなすつたやうに黒い。 老人は、涙にぬれた顔をあげて、頷いた。 童話時代のうす明りの中に、一人の老人と一頭の兎とは、花のない桜の木の下に、互に互をなぐさめながら、力なく別れをつげた。老人は、蹲つたまま泣いてゐる。兎は何度も後をふりむきながら、舟の方へ歩いてゆく。その空には、舌切雀のかすかな羽音がして、あけ方の半透明な光も、何時か少しづつひろがつて来た。 黒い舟の上には、さつきから、一頭の狸が、ぢつと波の音を聞いてゐる。これは龍宮の燈火の油をぬすむつもりであらうか。或は又、水の中に住む赤魚の恋を妬んででもゐるのであらうか。 兎は、狸の傍に近づいた。さうして、彼等は徐に遠い昔の話をし始めた。彼等が、火の燃える山と砂の流れる河との間にゐて、おごそかに獣の命をまもつてゐた「むかしむかし」の話である。 童話時代のうす明りの中に、一頭の兎と一頭の狸とは、それぞれ白い舟と黒い舟とに乗つて、静に夢の海へ漕いで出た。永久にくづれる事のない波は、善悪の舟をめぐつて、懶い子守唄をうたつてゐる。 花のない桜の木の下にゐた老人は、この時漸頭をあげて、海の上へ眼をやつた。 くもりながら、白く光つてゐる海の上には、二頭の獣が、最後の争ひをつづけてゐる。除に沈んで行く黒い舟には、狸が乗つてゐるのではなからうか。さうして、その近くに浮いてゐる、白い舟には、兎が乗つてゐるのではなからうか。 老人は、涙にぬれた眼をかがやかせて、海の上の兎を扶けるやうに、高く両の手をさしあげた。 見よ。それと共に、花のない桜の木には、貝殻のやうな花がさいた。あけ方の半透明な光にあふれた空にも、青ざめた金いろの日輪が、さし昇つた。 |
大谷川 馬返しをすぎて少し行くと大谷川の見える所へ出た。落葉に埋もれた石の上に腰をおろして川を見る。川はずうっと下の谷底を流れているので幅がやっと五、六尺に見える。川をはさんだ山は紅葉と黄葉とにすきまなくおおわれて、その間をほとんど純粋に近い藍色の水が白い泡を噴いて流れてゆく。 そうしてその紅葉と黄葉との間をもれてくる光がなんとも言えない暖かさをもらして、見上げると山は私の頭の上にもそびえて、青空の画室のスカイライトのように狭く限られているのが、ちょうど岩の間から深い淵をのぞいたような気を起させる。 対岸の山は半ばは同じ紅葉につつまれて、その上はさすがに冬枯れた草山だが、そのゆったりした肩には紅い光のある靄がかかって、かっ色の毛きらずビロードをたたんだような山の肌がいかにも優しい感じを起させる。その上に白い炭焼の煙が低く山腹をはっていたのはさらに私をゆかしい思いにふけらせた。 石をはなれてふたたび山道にかかった時、私は「谷水のつきてこがるる紅葉かな」という蕪村の句を思い出した。 戦場が原 枯草の間を沼のほとりへ出る。 黄泥の岸には、薄氷が残っている。枯蘆の根にはすすけた泡がかたまって、家鴨の死んだのがその中にぶっくり浮んでいた。どんよりと濁った沼の水には青空がさびついたように映って、ほの白い雲の影が静かに動いてゆくのが見える。 対岸には接骨木めいた樹がすがれかかった黄葉を低れて力なさそうに水にうつむいた。それをめぐって黄ばんだ葭がかなしそうに戦いて、その間からさびしい高原のけしきがながめられる。 ほおけた尾花のつづいた大野には、北国めいた、黄葉した落葉松が所々に腕だるそうにそびえて、その間をさまよう放牧の馬の群れはそぞろに我々の祖先の水草を追うて漂浪した昔をおもい出させる。原をめぐった山々はいずれもわびしい灰色の霧につつまれて、薄い夕日の光がわずかにその頂をぬらしている。 私は荒涼とした思いをいだきながら、この水のじくじくした沼の岸にたたずんでひとりでツルゲーネフの森の旅を考えた。そうして枯草の間に竜胆の青い花が夢見顔に咲いているのを見た時に、しみじみあの I have nothing to do with thee という悲しい言が思い出された。 巫女 年をとった巫女が白い衣に緋の袴をはいて御簾の陰にさびしそうにひとりですわっているのを見た。そうして私もなんとなくさびしくなった。 時雨もよいの夕に春日の森で若い二人の巫女にあったことがある。二人とも十二、三でやはり緋の袴に白い衣をきて白粉をつけていた。小暗い杉の下かげには落葉をたく煙がほの白く上って、しっとりと湿った森の大気は木精のささやきも聞えそうな言いがたいしずけさを漂せた。そのもの静かな森の路をもの静かにゆきちがった、若い、いや幼い巫女の後ろ姿はどんなにか私にめずらしく覚えたろう。私はほほえみながら何度も後ろをふりかえった。けれども今、冷やかな山懐の気が肌寒く迫ってくる社の片かげに寂然とすわっている老年の巫女を見ては、そぞろにかなしさを覚えずにはいられない。 私は、一生を神にささげた巫女の生涯のさびしさが、なんとなく私の心をひきつけるような気がした。 高原 裏見が滝へ行った帰りに、ひとりで、高原を貫いた、日光街道に出る小さな路をたどって行った。 武蔵野ではまだ百舌鳥がなき、鵯がなき、畑の玉蜀黍の穂が出て、薄紫の豆の花が葉のかげにほのめいているが、ここはもうさながらの冬のけしきで、薄い黄色の丸葉がひらひらついている白樺の霜柱の草の中にたたずんだのが、静かというよりは寂しい感じを起させる。この日は風のない暖かなひよりで、樺林の間からは、菫色の光を帯びた野州の山々の姿が何か来るのを待っているように、冷え冷えする高原の大気を透してなごりなく望まれた。 いつだったかこんな話をきいたことがある。雪国の野には冬の夜なぞによくものの声がするという。その声が遠い国に多くの人がいて口々に哀歌をうたうともきければ、森かげの梟の十羽二十羽が夜霧のほのかな中から心細そうになきあわすとも聞える。ただ、野の末から野の末へ風にのって響くそうだ。なにものの声かはしらない。ただ、この原も日がくれから、そんな声が起りそうに思われる。 こんなことを考えながら半里もある野路を飽かずにあるいた。なんのかわったところもないこの原のながめが、どうして私の感興を引いたかはしらないが、私にはこの高原の、ことに薄曇りのした静寂がなんとなくうれしかった。 工場(以下足尾所見) 黄色い硫化水素の煙が霧のようにもやもやしている。その中に職工の姿が黒く見える。すすびたシャツの胸のはだけたのや、しみだらけの手ぐいで頬かぶりをしたのや、中には裸体で濡菰を袈裟のように肩からかけたのが、反射炉のまっかな光をたたえたかたわらに動いている。機械の運転する響き、職工の大きな掛声、薄暗い工場の中に雑然として聞えるこれらの音が、気のよわい私には一つ一つ強く胸を圧するように思われる――裸体の一人が炉のかたわらに近づいた。汗でぬれた肌が露を置いたように光って見える。細長い鉄の棒で小さな炉の口をがたりとあける。紅に輝いた空の日を溶かしたような、火の流れがずーうっとまっすぐに流れ出す。流れ出すと、炉の下の大きなバケツのようなものの中へぼとぼとと重い響きをさせて落ちて行く。バケツの中がいっぱいになるに従って、火の流れがはいるたびにはらはらと火の粉がちる。火の粉は職工のぬれ菰にもかかる。それでも平気で何か歌をうたっている。 和田さんの「煒燻」を見たことがある。けれども時代の陰影とでもいうような、鋭い感興は浮かばなかった。その後にマロニックの「不漁」を見た時もやはり暗い切実な感じを覚えなかった。が今、この工場の中に立って、あの煙を見、あの火を見、そうしてあの響きをきくと、労働者の真生活というような悲壮な思いがおさえがたいまでに起ってくる。彼らの銅のような筋肉を見給え。彼らの勇ましい歌をきき給え。私たちの生活は彼らを思うたびにイラショナルなような気がしてくる。あるいは真に空虚な生活なのかもしれない。 寺と墓 路ばたに寺があった。 丹も見るかげがなくはげて、抜けかかった屋根がわらの上に擬宝珠の金がさみしそうに光っていた。縁には烏の糞が白く見えて、鰐口のほつれた紅白のひものもう色がさめたのにぶらりと長くさがったのがなんとなくうらがなしい。寺の内はしんとして人がいそうにも思われぬ。その右に墓場がある。墓場は石ばかりの山の腹にそうて開いたので、灰色をした石の間に灰色をした石塔が何本となく立っているのが、わびしい感じを起させる。草の青いのもない。立花さえもほとんど見えぬ。ただ灰色の石と灰色の墓である。その中に線香の紙がきわだって赤い。これでも人を埋めるのだ。私はこの石ばかりの墓場が何かのシンボルのような気がした。今でもあの荒涼とした石山とその上の曇った濁色の空とがまざまざと目にのこっている。 温かき心 中禅寺から足尾の町へ行く路がまだ古河橋の所へ来ない所に、川に沿うた、あばら家の一ならびがある。石をのせた屋根、こまいのあらわな壁、たおれかかったかき根とかき根には竿を渡しておしめやらよごれた青い毛布やらが、薄い日の光に干してある。そのかき根について、ここらには珍しいコスモスが紅や白の花をつけたのに、片目のつぶれた黒犬がものうそうにその下に寝ころんでいた。その中で一軒門口の往来へむいた家があった。外の光になれた私の眼には家の中は暗くて何も見えなかったが、その明るい縁さきには、猫背のおばあさんが、古びたちゃんちゃんを着てすわっていた。おばあさんのいる所の前がすぐ往来で、往来には髪ののびた、手も足も塵と垢がうす黒くたまったはだしの男の児が三人で土いじりをしていたが、私たちの通るのを見て「やア」と言いながら手をあげた。そうしてただ笑った。小供たちの声に驚かされたとみえておばあさんも私たちの方を見た。けれどもおばあさんは盲だった。 私はこのよごれた小供の顔と盲のおばあさんを見ると、急にピーター・クロポトキンの「青年よ、温かき心をもって現実を見よ」という言が思い出された。なぜ思い出されたかはしらない。ただ、漂浪の晩年をロンドンの孤客となって送っている、迫害と圧迫とを絶えずこうむったあのクロポトキンが温かき心をもってせよと教える心もちを思うと我知らず胸が迫ってきた。そうだ温かき心をもってするのは私たちの務めだ。 私たちはあくまで態度をヒューマナイズして人生を見なければならぬ。それが私たちの努力である。真を描くという、それもけっこうだ。しかし、「形ばかりの世界」を破ってその中の真を捕えようとする時にも必ず私たちは温かき心をもってしなければならない。「形ばかりの世界」にとらわれた人々はこのあばら家に楽しそうに遊んでいる小児のような、それでなければ盲目の顔を私たちの方にむけて私たちを見ようとするおばあさんのような人ばかりではあるまいか。 この「形ばかりの世界」を破るのに、あくまでも温かき心をもってするのは当然私たちのつとめである。文壇の人々が排技巧と言い無結構と言う、ただ真を描くと言う。冷やかな眼ですべてを描いたいわゆる公平無私にいくばくの価値があるかは私の久しい前からの疑問である。単に著者の個人性が明らかに印象せられたというに止まりはしないだろうか。 私は年長の人と語るごとにその人のなつかしい世なれた風に少からず酔わされる。文芸の上ばかりでなく温かき心をもってすべてを見るのはやがて人格の上の試錬であろう。世なれた人の態度はまさしくこれだ。私は世なれた人のやさしさを慕う。 私はこんなことを考えながら古河橋のほとりへ来た。そうして皆といっしょに笑いながら足尾の町を歩いた。 雑誌の編輯に急がれて思うようにかけません。宿屋のランプの下で書いた日記の抄録に止めます。 |
「花がたみ」は第九回文展出品作で、大正四年の制作である。 この絵は、わたくしの数多くの作品中でも、いろんな意味において大作の部にはいるべきもので、制作に当たっては、数々の思い出が残っているが、なかでも、狂人の研究には、今おもい出しても妙な気持ちに誘われるものがある。 この絵も、「草紙洗小町」や、「砧」などと同じく謡曲の中から取材したもので、なかなか美しい舞台面をみせる狂言なのである。 謡曲「花筐」は、世阿弥の作であると伝えられているが、たしかなことは判っていないのであるとか―― 筋は、継体天皇の御代のことで――越前の国味真野の里に居給う大跡部の皇子が、御位を継がせ給うて継体天皇となり給うについて、俄かに御上洛を遊ばされる時、御寵愛の照日前に玉章と形見の花籠を賜わったが――照日前に、花筐を持って君の御跡を追うて玉穂の都に上ったときが、あたかも君が紅葉の行幸に出御あらせられ、このところをお通りなさるときいて道の辺にお待ち申し上げた。 その姿を君もあわれに思し召されて、越前国を思いいだされ、その姿にて面白う狂うて見せよと宣旨あそばされたので、照日前は君の御前で狂人の舞いを御覧に入れた。その舞いによって照日前は再び召し使われることになった。 と、いうのが、謡曲「花筐」の筋で、照日前の能衣裳の美しさにともない、狂人の表情を示す能面の凄美さは、何にたとえんものがないほど、息づまる雰囲気をそこに拡げるのである。 わたくしは、この照日前の舞姿――狂人の狂う姿を描こうと思い立ったのであるが、ここに困ったことには、わたくしに狂人に関する知識のないことであった。 「お夏狂乱」などで、女人の狂い姿を観てはいるが、お夏の狂乱は「情炎」の狂い姿であって、この花筐の中の狂い姿のように、「優雅典雅の狂い」というものは感じない。 同じ狂いの舞台姿でも、お夏と照日前の狂いにはかなりのへだたりがある。 もっとも、芝居の舞台と能狂言の舞台という、異なった性質の舞台――という相違から来ているのであるが、能狂言の照日前の狂い姿は、お夏のそれよりも、描く者にとってははるかにむつかしさを感じるのである。 お夏のは、全くの狂乱であり、照日前のは、君の宣旨によって「狂人を装う」狂乱の姿なのである。そこに、お夏の狂態と照日前の狂態にへだたりが見えるのでもあろう。 狂人を見るのでしたら岩倉村へゆけばよいでしょう。と、ある人がわたくしに教えてくれた。 京都の北の山奥岩倉村にある狂人病院は、関西のこの種の病院では一流である。狂人病院の一流というのは妙な言い方であるが、とにかく、岩倉の病院といえば有名なもので、東京では松沢病院、京都では岩倉病院とならび称される病院なのである。 岩倉へゆけば、狂人が見られるには違いないが、照日前のモデルになるようなお誂えむきの美狂人がいるかどうか――と案じていると、 「某家の令嬢で、あすこに静養している美しい方がモデルにふさわしいと思うが」 と、教えてくれる人もあったので、わたくしは幾日かを狂人相手に暮すべく、ある日岩倉村へ出かけて行った。 狂人というものは、静かに坐っていたり、何かこつこつやっている姿をみていると、 (これが狂人か?) と思うくらい、常人と変ったところを感じない。 外観上――五体のどこにも、常人と変ったところがないのであるから、ちょっと見には狂人であるのか常人であるのか区別がつきにくいのであるが、近よって、よく見ると、そのやっている手先が普通と異うので、 (やはり変なのかな?) と、思うのである。 碁の好きな狂人同志、将棋の好きな狂人同志が、それを戦っている。その姿を離れたところで眺めていると、実に堂々たるものである。天晴れの棋士ぶりだが、そばに寄って覗き込んでみると、王将が斜めに飛んで敵の飛車を奪ったり、桂馬が敵駒を三つも四つも越えて敵地深く飛び入って、敵の王将を殺して平気である。 王将が殺されても、彼らの将棋は終らないのである。見ていると、実に無軌道な約束を破った将棋なのであるが、彼らには、その将棋に泉の如き感興があとからあとからと湧くのを覚えるらしい。朝から晩――いや、そのあくる日もまたあくる日も、何やらわけのわからない駒を入り乱れさして、それでいて飽くところを知らないのである。 如何にも面白そうであった。最初、 (無茶苦茶にやっているのであろう) と、思ったが、毎日そのようなことをくり返しているのを観ているうちに、 (事によると、彼らだけに通じる将棋の約束があるのではなかろうか?) とさえ思われるのであった。どうも、そのような気がしてならない。 とすると、狂人の棋法のほうがすぐれているのではなかろうか? と思えるのであった。定まった約束の下に駒を進めるよりも、自由奔放に、自分の思ったところへ駒を飛ばし、王が取られようが、味方の軍が全滅しようが、何ら頓着なしに駒を戦わし、一局に朝から晩まで費やし、自由の作戦で敵の駒を取ったり取り返されたりする……彼らにとっては、これほど面白い競技はないのに違いない。 もし、将棋に「駒の道」という約束がなかったら、彼らは決して狂人ではなく、普通の人間である訳である。 彼らは駒をパチパチあらぬ処へ打ちながら、他の狂人を眺めて、次のようなことを話しあっている。 「あいつらは気違いだ、あんな奴らを相手にしてはいかん」 狂人は、決して自分を狂人だとは思わないそうである。そうして、自分以外の者はすべて狂人に見えるということである。 狂人の顔は能面に近い。 狂人は表情にとぼしい故ででもあろうか、その顔は能面を見ている感じである。 嬉しい時も、かなしい時も、怒ったときも大して表情は変らないようである。 想うに、「感情」の自由を失った彼らの身内に、嬉しい、哀しい、憤ろしい――ということもあまりないのではなかろうか。 怒った時には動作でそれを示しても、表情でそれを示すのは稀である。そういうところが狂人の特徴であることに気づいたわたくしは、「花がたみ」における照日前の顔を能面から持って来たのである。 このことは「草紙洗小町」にも用いたのであるが、狂人の顔を描くのと能面を写すのとあまり変らないようであった。 もともと「花がたみ」の能には小面、孫次郎を使うので、観世流では若女、宝生流では増という面を使うのであるが、わたくしは、以上の考えから「増阿弥」の十寸神という面を写生し、その写生面を生きた人間――つまり照日前の顔に描いてみた。 能面と狂者の顔の類似点がうまく合致して、この方法は、わたくしの意図どおりの狂人の顔が出来たのである。 狂人の眸には不思議な光があって、その視点がいつも空虚に向けられているということが特徴であるようだが、その視線は、やはり、普通の人と同様に、物を言う相手に向けられている――すくなくとも、狂人自身には対者に向けている視線なのであるが、相手方から見れば、その視線は横へ外れていて空虚に向けられている如く感じるのである。 |
この度は田端の人々を書かん。こは必ずしも交友ならず。寧ろ僕の師友なりと言ふべし。 下島勲 下島先生はお医者なり。僕の一家は常に先生の御厄介になる。又空谷山人と号し、乞食俳人井月の句を集めたる井月句集の編者なり。僕とは親子ほど違ふ年なれども、老来トルストイでも何でも読み、論戦に勇なるは敬服すべし。僕の書画を愛する心は先生に負ふ所少からず。なほ次手に吹聴すれば、先生は時々夢の中に化けものなどに追ひかけられても、逃げたことは一度もなきよし。先生の胆、恐らくは駝鳥の卵よりも大ならん乎。 香取秀真 香取先生は通称「お隣の先生」なり。先生の鋳金家にして、根岸派の歌よみたることは断る必要もあらざるべし。僕は先生と隣り住みたる為、形の美しさを学びたり。勿論学んで悉したりとは言はず。且又先生に学ぶ所はまだ沢山あるやうなれば、何ごとも僕に盗めるだけは盗み置かん心がまへなり。その為にも「お隣の先生」の御寿命のいや長に長からんことを祈り奉る。香取先生にも何かと御厄介になること多し。時には叔父を一人持ちたる気になり、甘つたれることもなきにあらず。 小杉未醒 これも勿論年長者なり。本職の油画や南画以外にも詩を作り、句を作り、歌を作る。呆れはてたる器用人と言ふべし。和漢の武芸に興味を持つたり、テニスや野球をやつたりする所は豪傑肌のやうなれども、荒木又右衛門や何かのやうに精悍一点張りの野蛮人にはあらず。僕などは何か災難に出合ひ、誰かに同情して貰ひたき時には、まづ未醒老人に綿々と愚痴を述べるつもりなり。尤も実際述べたことは幸ひにもまだ一度もなし。 鹿島龍蔵 これも親子ほど年の違ふ実業家なり。少年西洋に在りし為、三味線や御神燈を見ても遊蕩を想はず、その代りに艶きたるランプ・シエエドなどを見れば、忽ち遊蕩を想ふよし。書、篆刻、謡、舞、長唄、常盤津、歌沢、狂言、テニス、氷辷り等通ぜざるものなしと言ふに至つては、誰か唖然として驚かざらんや。然れども鹿島さんの多芸なるは僕の尊敬するところにあらず。僕の尊敬する所は鹿島さんの「人となり」なり。鹿島さんの如く、熟して敗れざる底の東京人は今日既に見るべからず。明日は更に稀なるべし。僕は東京と田舎とを兼ねたる文明的混血児なれども、東京人たる鹿島さんには聖賢相親しむの情――或は狐狸相親しむの情を懐抱せざる能はざるものなり。鹿島さんの再び西洋に遊ばんとするに当り、活字を以て一言を餞す。あんまりランプ・シエエドなどに感心して来てはいけません。 室生犀星 これは何度も書いたことあれば、今更言を加へずともよし。只僕を僕とも思はずして、「ほら、芥川龍之介、もう好い加減に猿股をはきかへなさい」とか、「そのステッキはよしなさい」とか、入らざる世話を焼く男は余り外にはあらざらん乎。但し僕をその小言の前に降参するものと思ふべからず。僕には室生の苦手なる議論を吹つかける妙計あり。 久保田万太郎 これも多言を加ふるを待たず。やはり僕が議論を吹つかければ、忽ち敬して遠ざくる所は室生と同工異曲なり。なほ次手に吹聴すれば、久保田君は酒客なれども、(室生を呼ぶ時は呼び捨てにすれども、久保田君は未だに呼び捨てに出来ず。)海鼠腸を食はず。からすみを食はず、況や烏賊の黒作り(これは僕も四五日前に始めて食ひしものなれども)を食はず。酒客たらざる僕よりも味覚の進歩せざるは気の毒なり。 北原大輔 これは僕よりも二三歳の年長者なれども、如何にも小面の憎い人物なり。幸にも僕と同業ならず。若し僕と同業ならん乎、僕はこの人の模倣ばかりするか、或はこの人を殺したくなるべし。本職は美術学校出の画家なれども、なほ僕の苦手たるを失はず。只僕は捉へ次第、北原君の蔵家庭を盗み得るに反し、北原君は僕より盗むものなければ、畢竟得をするは僕なるが如し。これだけは聊か快とするに足る。なほ又次手につけ加へれば、北原君は底抜けの酒客なれども、座さへ酔うて崩したるを見ず。纔に平生の北原君よりも手軽に正体を露すだけなり。かかる時の北原君の眼はその俊爽の色あること、画中の人も及ばざるが如し。北原君の作品は後代恐らくは論ずるものあらん。然れども眼は必ずしも論ずるものありと言ふべからず、即ち北原君の小面憎さを説いて酔眼に至る所以なり。 |
宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館 発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館 会ひたくない人に無理に会はなくてもよろしうございます。何卒御随意になさいまし。一生会はなくつたつて、まさか死にもしないでせうからねえ。そんな人に来て頂かなくても、私一人で結構です。何故あなたはそんな意地悪なのでせう。 今ここまで書いて、あなたの第二のお手紙が来ました。宮島(資夫)さんのハガキと一緒に。会ひたい会ひたい、と云ふ私の気持がなぜそんなにあなたに響かないでせう。今日は、朝から私は気が狂ひさうです。昨日も一日、焦れて焦れて暮しました。蓄音機をかけて見ても、三味線をひいて見ても、歌つて見ても、何の感興もおこつては来ません。だん〳〵にさびしくなつて来るばかりです。煩くなつて来るばかりです。あなたの事ばつかりしか考へられません。他の事はとても頭の中にぢつとしてはゐないのですもの。私だつて、あなたがたやすくゐらつしやれない事だつて知つてゐるんですけれども、それだからつて、だまつてはゐられないんですもの。それにあなたは、あんな意地悪を云つては私を泣かして、それでいいんですか。 さつき郵便局までゆきましたら、東京と通話が出来るんです。うれしいと思つてかけようと思ひましたら、他の人が今かけて出るのを待つてゐるんだと云ひますので、なか〳〵駄目らしいのでよしました。明後日の朝かけますからお宅にゐらして頂だいな。五分でも十分でも、こんなに離れてゐてお話が出来るんだと思ふとうれしいわ。それをたのしみにして、今日とあしたを待ちますわ。 神近さんは何んだかお気の毒な気がしますね。でも、それが彼の方の為めにいいと云ふのならお気の毒と云ふのは失礼かもしれませんのね。でも、本当にえらいのね。其処まで進んでゐらつしやれば、でも、もう大丈夫でせうね。あなたと神近さんの為めにお喜びを申しあげます。 さつき、あんまりいやな気持ですから、ウヰスキイを買はせて飲んでゐるんです。だん〳〵に変な気持になつて来ます。あさつてはあなたの声がきけるのね。何を話しませうね。でも、つまらないわね、声だけでは。ああ、かうやつてゐる時に、あなたがフイと来て下さつたらどんなに嬉しいだらうと思ひますと、ぢつとしてはゐられません。本当にはやくゐらしつて下さいね。 婆やは目が少しわるいので困りますが、他には申分ありません。子供(辻流二)を大事にしてくれますから。でも、あなたは子供の事を気にして下さるのね。いいおぢさんですこと。 書いてゐるのが大ぎになつて来ましたからやめます。さよなら。 あなたの手紙は二度とも六銭づつとられましたよ。でも、うれしいわ、沢山書いて頂けて。 |
故郷の山に眠れる母の靈に 岩波文庫本のはしに 阿古屋の珠は年古りて其うるみいよいよ深くその色ますます美はしといへり。わがうた詞拙く節おどろおどろしく、十年經て光失せ、二十年すぎて香去り、今はたその姿大方散りぼひたり。昔上田秋成は年頃いたづきける書深き井の底に沈めてかへり見ず、われはそれだに得せず。ことし六十あまり二つの老を重ねて白髮かき垂り齒脱けおち見るかげなし。ただ若き日の思出のみぞ花やげる。あはれ、うつろなる此ふみ、いまの世に見給はん人ありやなしや。 ひるの月み空にかゝり 淡々し白き紙片 うつろなる影のかなしき おぼつかなわが古きうた あらた代の光にけたれ かげろふのうせなんとする 昭和十三年三月 清白しるす 小序 この廢墟にはもう祈祷も呪咀もない、感激も怨嗟もない、雰圍氣を失つた死滅世界にどうして生命の草が生え得よう、若し敗壁斷礎の間、奇しくも何等かの發見があるとしたならば、それは固より發見者の創造であつて、廢滅そのものゝ再生ではない。 昭和四年三月 志摩にて 清白 漂泊 蓆戸に 秋風吹いて 河添の旅籠屋さびし 哀れなる旅の男は 夕暮の空を眺めて いと低く歌ひはじめぬ 亡母は 處女と成りて 白き額月に現はれ 亡父は 童子と成りて 圓き肩銀河を渡る 柳洩る 夜の河白く |
一 中地村長が胃癌という余りありがたくもない病気で亡くなったあと、二年間村長は置かぬという理由で、同村長の生前の功労に報いる意味の金一千円也の香料を村から贈った直後――まだやっとそれから一ヵ月たつかたたないというのに、札つきものの前村長の津本が、再びのこのこと村長の椅子に納まったというのであるから、全くもって、「ひとを馬鹿にするにもほどがある」と村民がいきり立つのも無理はなかった。 中地はとにかく村長として毒にも薬にもならぬと言った風の、しごく平凡なお人好しで、二期八年間の任期中碌な仕事もしなかった代りに、これぞといって村民に痛い目を見せたこともなかったのである。千円という莫大な香料を貰ったとはいうものの、遺族にとってはおやじが八年間遊んで使った金に比すれば、それは十分の一にも相当しないと零した位で、かなりあった土地もおおかた抵当に入ってしまい、あまつさえ医師への払いなどはそのままの状態で。…… しかるに「瘤」ときては――津本の左の頬には茶碗大のぐりぐりした瘤があるところから、村民は彼を「瘤」「瘤」と呼び、その面前へ出たときでもなければ決して津本という本名では呼ばなかった――実際、中地とは反対に、たった一期間の前の任期中、数千円の大穴をあけたばかりか、特別税戸数割など殆んど倍もかけるようにしてしまったし、それから、農会や信用組合まで喰いかじって半身不随にした揚句、程もあろうに八百円の「慰労金」まで、取って辞めたという存在――いわゆる「札つき者。」 「まったく奴は村のこぶだったよ。いつまでもあんな奴にぶら下られていたんでは、村が痩せてしまうばかりだ。」 そんなことで、中地が代ったときは、村民はひとまずほっとしたばかりか、 「早くくたばらねえかな、いっそのこと、あいつ。生きていると、村長やらないにせよ、どんなことでまた村がかじられるか知れねえからよ」などと残念がる者もあった位。 事実、村長はやめても、村農会長、消防組頭、いや、村会へまで出しゃばって、隠然たる存在ではあったのである。 そういう津本新平は今年六十五歳、家柄ではあるが別に財産はなかった。若い頃、剣が自慢で、竹刀の先に面、胴、小手をくくりつけ、近県を「武者修業」して歩いたり、やがて自分の屋敷へ道場を建てて付近の青年に教えたり、自称三段のこの先生は五尺八寸という雄偉なる体躯にものを言わせて、三十歳頃から政治に興味を覚え、そして運動員として乗り出し、この地のいわゆる「猛者」として通るようになったのであった。 村会から郡会、郡が廃されてからは県会と、彼はのし上った。他を威嚇せずにおかない持前の発声とその魁奇なる容貌――その頃から左の頬へぶら下りはじめた瘤のためにますますそれはグロテスクに見え出した――政×会に属していた彼は、一方県警察部の剣道教師という地位からか、この地方の官憲と気脈を通じているという噂のために一層「貫禄」が加わった。 したがって彼が県議をやめて村長になった当時は、「名村長」と新聞などでは書いたほどだった。ただ彼をよく知る村民のみが、「とんだ名村長よ、あんまり人物がでか過ぎて、こんな貧乏村では持ちきれめえ」などと笑い合ったが。「だが――」と真面目くさって説をなす者もあるにはあった。「顔がきくから政府から交付金ひったくるにはもってこいだっぺで。」 事実、小学校を改築したり、荒蕪地の開墾を村民にすすめて助成金を申請してやったり、どんな些細なお上の金でも呉れようというものは貰ったが、その代り村内の出費もこの瘤が村長になるや否や前述のように倍加した。それというのは、村の有志や村会議員が七分通り彼の道場の門下生で、「先生、先生……」と下から持ち上げ、一週間に一回は必ず町へ自動車を吹っ飛ばすといったようなことをやらかしたからでもある。 ところで、改築したばかりの小学校舎の壁が剥落して彼の辞職の主因をつくってしまった。その壁たるや、実に沼の葭を刈って来て簀の子編みにしたものを貼りつけ、その上へ土を塗ったのであった。いかに村民が馬鹿の頓馬で、木像のように黙っている存在にもせよ、それだけは許さなかった。もっとも表面は「任期満了、病気にて再任に堪え得ず」ということではあったのだが。 辞職後はF町裏に囲ってあった第二号も「解職」したということであったし、第一、ご自身が酒からの動脈硬化で全く「再任には堪え得なかった」であろうが、しかしそれも大したこともなくやがて回復し、旺盛な彼の生活は依然として、それからもつづけられたのだ。ところが、何をいうにももはや金の流入する道が、小さいのはとにかくとして、めぼしいのは一つ一つ塞がれた形で……。消防組頭、郡農会長、村農会長……それだけでは三人の子供ら――長男は賭博の常習犯、次男は軟派の不良、三男は肺結核――の小遣銭まではとても廻らない。かと言ってこの村農会長様は会費の徴集には特殊の手腕を発揮するが、苗一株植えるすべは知らないのである。まさかとは思われるが、「食えないから、いよいよ、村長にでもならなけりゃ」と子分の村議の前で放言したのがきっかけで、中地村長の香料を浮かすために、二年間村長を置かぬという村の方針にも拘らず、再選の問題が否応なしに持上ったのだとのこと、表沙汰は、「この非常時に際して、いかになんでも村長がいなくては……」という事だったが。 おりから二・二六事件で、世は騒然たるものがあり、また村から大量の賭博犯人があがる、村議のうち中地派だった一人の長老が引退し、津本派が五名……といったようなことで、かくしてここに再度、村へは瘤がくっついた次第なのだ…… 二 蔭ではいきり立ったが、さて、正面きって堂々と、それでは、これをどうしようと言うものも村民の中からは出て来なかった。それには深いいわれがなくもない。と言うのは、まず八名の村議のうち例の五名までが瘤の門下生であり、吏員の半数以上がかつて瘤のお伴でF町の料亭で濃厚な情調――多分――を味わった経験の持主と来ている上に、村の長老株もまた同穴の狢ならざるはなく、学校長、各部落の区長にいたるまで何らかの意味で瘤の息がかかるか、あるいはその弱点を握られているかしないものは無かったのだ。弱点云々といえば、一見、瘤に対抗して、優に彼を一蹴し得るだろうような村内のいわゆる長老有志たち――主として地主連にしてもやはり「さわらぬ神に……」式に黙過しているのは、そういう奴が伏在していたからである。たとえば俄か分限者の二三の小地主たちなどは、いずれもコソ泥の現場――夜の白々明けに田圃の刈稲を失敬しているところや、山林の立木を無断伐採しているところなどを、沼へ鴨打ちに出かける瘤のために発見されて「金一封」で事なきを得ていたし、村内殆んど全部の地主たちは、かつて左翼華やかなりし頃、この瘤の献身的な強圧のお蔭を被って滞りなく小作米を取り立てていた。 自小作農にいたっては遺憾ながら烏合の衆というよりほかなかった。「同じ喰われるにしたところが、有志たちが十喰われるとすれば俺たちは一か、せいぜい二ぐらいのところで済むんだ。下手に出て頭でも打割られるよりは黙って喰われていた方が安全さ。なアに、そのうちまた中風がぶり返して、今度こそはお陀仏と来べえから。」 ところが瘤自身は中風の再発どころか、再就任以来すっかり若さを取りかえしたもののように、今日も出張、明日も出張、どこへ行って、どんな用事を足してくるのか分らなかったが、お蔭でまた村では村税付加がじりじり大きくなって来た。他村では本税の二三割で済む自転車税の付加が、この村では九割。家屋税にせよ、宅地税にせよ、いずれもそれ位の付加額がくっついてくる。自転車や牛車などは親類縁者をたよって他村の鑑札でごまかしたが、家屋税付加などにいたってはそんなからくりも出来ない。農会費、水利組合費、これまた前年度の倍もかかるようになってしまう。少々は喰われたって……と温良ぶった村民も、内心では次第に悲鳴をあげ出した。 「名村長ちうから村がよくなるのかと思ったら、どうしてどうして貧乏するばかりだ。全くあれは生命取りの瘤だっぺよ。」 「誰か奴をやっつけてくれるものが出ないことには、俺たちはいまにすっからかんに搾られてしまう……」 ところで、それまでになっても、では、俺が出て、ひとつ……というほどの覇気のある者も、まだ、ついにいなかったのである。 そういう村民の無力、意気地なさを嘲笑するもののように、さらに彼らの無けなしの金を捲き上げる計画は次から次へと実施されはじめた。村社の修復、屋根がえ、学校長への大礼服の寄贈(しかもこれは貧富に拘らず、校長氏が準訓以来教えた全部の卒業生各自への二十銭の割当寄付によったもので、一家四五名の卒業生も珍らしくなく、現在通学中の児童へ一本の鉛筆を買い与えることすら容易でないものも既定額を出さねばならなかったのだ。そして六百何十円――約七百円近く集まった金は一銭の剰余も不足もなく金ピカの大礼服及び付属品一切代として決算せられたのである。柳原ものではあるまいかと思われるような上下色沢の不揃いな金モール服が何と六百何円――貧乏村の校長氏の高等官七等の栄誉を飾るためにこの瘤村長は通学児童の筆墨代をせしめたのである。)これにつづいて学校新築の問題が表面化した。増築案は前村長時代から持ち越されていたものだが、それさえ行き悩みつつあったのに、今度はさらに何万かを加算しての新築案。 「また葭簀の壁の学校こしらえて一と儲けする気か知れねえが、もうみんな、黙っちゃいめえで……」 村民は依然として蔭では言うものの、公然とこの案に対して無謀を叫ぶものもなかったのである。いや、大いにやってもらって、教育上、ないし児童の保健上、現在のような雨漏り吹き通しの校舎はよろしくない――立派な鉄筋コンクリート二階建の校舎を近村に誇ろうではないかというようなのが、村当局一般の意向でさえあるらしかった。 さて、田辺定雄が鮮満地方の放浪生活を切り上げて村へ帰ったのは、村の事態が以上のような進行をしている最中だったのである。くわしく言えば、津本村長再選後間もない頃のことであったのだ。この青年は、さる私立大学を中途でやめて軍務に服し、少尉に任官して家へかえり結婚したが、当時、親父がまだ身代を切り廻していて、作男達と共に百姓でもしない限り、全く居候的存在にすぎない自分を不甲斐ないものに思い、服役中過ごした南満の地に再び舞い戻って、満鉄の業務員、大連の某会社の事務員、転じて朝鮮総督府の雇員……と数年間を転々したのであった。しかるに今度、親父の死、それに学閥なき者の出世の困難さにつくづく業を煮やしていた矢さきという条件も手伝って、祖先の地とその業務にかえる決意をしたので…… 半年間は家産の再検討に過ごした。親父がかなり放慢政策をとっていたと見えて、五町歩の水田と三町歩の畑、二十町歩の山林のうち、半分は手放さなければ村の信用組合、F町の油屋――米穀肥料商――農工銀行、土地無尽会社、その他からの借財は返せなかった。三円五円という村内の小作人への貸金、年貢の滞り――それらは催促してみたがてんで埓があかず、いや、それらの小農民たちの生活内情を薄々ながら知るに及んで、むしろ何も深く知らず催促などした自分の不明が恥かしくさえ感じたほどだった。 所有地管理の傍ら、一人の作男と下働きの女中を置いて、一町八反の自作――それが親父のやって来た家業であったが、覚束ない老母の計算を基盤に収支を出してみると、明らかに年二百円の損失であった。そこへもってきて、正確な小作米、畑年貢などが予期されないとすれば、信用組合、銀行、無尽会社への利払いでさえ容易のことではない。まして油屋の方など身代を倒まにふったとて追っつくものではなかった。そこへもってきて、一方からは神社修復の割当寄付だ、特別税戸数割だ、村農会費の追徴だとはてしがなく、しかもそれらは親父の代と比較すると倍に近い数字をもって現れてくるのである。 「瘤に喰われるからだ」という例の村人の噂、いや、鬱勃たる不平――表面化することの不可能なその哀れむべき暗い不満の感情が、次第に彼にも伝えられるようになった。「改選も間近かなんだから、ひとつ旦那さんにこんどは村会へ出て瘤を退治てもらわなくては……」というようなことをそれとなく持ちこんでくる知り合いの者もあるようになった。 前村長中地の時代には、彼の親父も村議の一員として村政にあずかっていたのである。しかもどちらかといえば親父は中地派で、内々では津本反対の一人でもあったのだ。津本が数千円の穴をあけっぱなしで村長を辞めたあとの尻ぬぐいを中地がおめおめとやるのについて強く反対し、瘤に赤い着物をきせろ、とまでいったのも彼であった位で……が、本来弱気のこの長老はそれ以上表立って津本をどうすることも出来なくてしまったのである。 それにしても村人にとってこれは一つの「伝統」であった。反津本派で通った親父の忰も、同様に反津本派でなければならぬ。そして全村内で反津本派と目されているのは、現助役の杉谷と他の三人の村議――それから有志と称せられる連中からすぐって見たら十数名はいることであろう。これらすべてが一心同体になれば津本を蹴落すことは決して不可能ではないにも拘らず、そこには表立って行動するだけの気概のある人間がいなかったのだ。 「若いものの元気でやってもらわなければ、村はますます貧乏するばかりだ。ひとつ、村のためだと思って、どうでしょう……」 改選期も迫るや、田辺定雄は、二三の有志からついに正式交渉を受けるまでになったのであった。彼は躊躇しないではなかった。が、半面には「名村長」と一戦を交えるのも退屈しのぎかも知れないという持前の茶気さえ出て来たし、それに何よりもまず瘤式の無謀な村政をつづけられたのでは、数年ならずして自分の家など潰滅してしまわなければならないであろう。 「皆さんの期待に添うことが出来るかどうかは分らないですが、とにかく、それでは出るだけでも出て見ますかね。」 田辺青年は腕を拱いてそう答えたのであった。 三 予期以上の票数を集めて彼は村会の椅子を獲得することが出来た。殆んど全部が再選で、依然として瘤派が五名、反対派と目されるもの――実際は甚だしく頼りない連中だったが……二名、そして彼自身、という分野になった。吏員のうちでは助役以外、老収入役がアンチ瘤派と思われていたが、これもなんらの力にはならず、杉谷助役でさえどれだけの肚をもっているのか――恐らく二年間の村長の空席には、自然と自分がのし上るべきものと取らぬ狸の……をきめ込んでいた矢先へ、のこのこと瘤の野郎に乗りこまれたのが癪で……位のところかも分らなかったのである。事実この中老助役は、葭簀張りの小学校舎をつくった時代にあっては瘤から頭ごなしにやられていた一戸籍係にすぎなかったのだ。他の二名の村議――一人は新顔で、年齢も若く田辺と共に三十五六歳、気骨もあるらしかったが、――これとて未だ海のものか山のものか分りはしない。 結局、「孤軍奮闘」は覚悟しなければならない状態だった。田辺定雄とて、それは最初から――出ると決意した以上――免れ得ぬ事実と考えていたので、あえて驚きはしなかったが。 「なアに、無言の、村民の正義感が百万の味方さ。俺は彼らのために、一人でやるよ、やるとも……」 それにしても今や容易ならぬ事情に村それ自身が、および彼自身がまた、乗り上げてしまっていることがようやく解ってきた。それは部落のお祭の日であったが、少し酔いが廻ったところで、人々の口は新村議の前でかたい堰をこんなふうに破ったのである。 「とにかくここで一洗いざあッと洗われて見ろ、村全体根こそぎ持ってゆかれたって足りやしねえから。」 ふと、大仰に言っている声に振り向くと、それは造化の神が頭部を逆に――眼鼻口は除いて間違えて付けたのではないかと思われるほど頬から頣へかけて漆黒の剛毛が生え、額からあたまの素天辺はつるつるに禿げている森平という一小作農であった。彼が最近、村の産業組合からたった一枚残っていた一反五畝歩の畑を「執行かけられ」取り上げられてしまったことは誰一人知らぬものはなく、そしていま、その彼が大仰な身振りではじめた話も、実は組合の内幕についてなのであった。 「何しろお前、看板はかけて置くけど事業というものは何ひとつしねえで、それで役員らは毎月缺かさず給料取っているんだから……」 すると、 |
初版例言 一、即興詩人は璉馬の HANS CHRISTIAN ANDERSEN(1805―1875)の作にして、原本の初板は千八百三十四年に世に公にせられぬ。 二、此譯は明治二十五年九月十日稿を起し、三十四年一月十五日完成す。殆ど九星霜を經たり。然れども軍職の身に在るを以て、稿を屬するは、大抵夜間、若くは大祭日日曜日にして家に在り客に接せざる際に於いてす。予は既に、歳月の久しき、嗜好の屡〻變じ、文致の畫一なり難きを憾み、又筆を擱くことの頻にして、興に乘じて揮瀉すること能はざるを惜みたりき。世或は予其職を曠しくして、縱に述作に耽ると謂ふ。寃も亦甚しきかな。 三、文中加特力教の語多し。印刷成れる後、我國公教會の定譯あるを知りぬ。而れども遂に改刪すること能はず。 四、此書は印するに四號活字を以てせり。予の母の、年老い目力衰へて、毎に予の著作を讀むことを嗜めるは、此書に字形の大なるを選みし所以の一なり。夫れ字形は大なり。然れども紙面殆ど餘白を留めず、段落猶且連續して書し、以て紙數をして太だ加はらざらしむることを得たり。 明治三十五年七月七日下志津陣營に於いて 譯者識す 第十三版題言 是れ予が壯時の筆に成れる IMPROVISATOREN の譯本なり。國語と漢文とを調和し、雅言と俚辭とを融合せむと欲せし、放膽にして無謀なる嘗試は、今新に其得失を論ずることを須ゐざるべし。初めこれを縮刷に付するに臨み、予は大いに字句を削正せむことを期せしに、會〻歐洲大戰の起るありて、我國も亦其旋渦中に投ずるに至りぬ。羽檄旁午の間、予は僅に假刷紙を一閲することを得しのみ。 大正三年八月三十一日觀潮樓に於いて 譯者又識す わが最初の境界 羅馬に往きしことある人はピアツツア、バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井ある、大なる廣こうぢの名なり。貝殼よりは水湧き出でゝその高さ數尺に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの廣こうぢのさまをば銅板畫にて見つることあらむ。かゝる畫にはヰア、フエリチエの角なる家の見えぬこそ恨なれ。わがいふ家の石垣よりのぞきたる三條の樋の口は水を吐きて石盤に入らしむ。この家はわがためには尋常ならぬおもしろ味あり。そをいかにといふにわれはこの家にて生れぬ。首を囘してわが穉かりける程の事をおもへば、目もくるめくばかりいろ〳〵なる記念の多きことよ。我はいづこより語り始めむかと心迷ひて爲むすべを知らず。又我世の傳奇の全局を見わたせば、われはいよ〳〵これを寫す手段に苦めり。いかなる事をか緊要ならずとして棄て置くべき。いかなる事をか全畫圖をおもひ浮べしめむために殊更に數へ擧ぐべき。わがためには面白きことも外人のためには何の興もなきものあらむ。われは我世のおほいなる穉物語をありのまゝに僞り飾ることなくして語らむとす。されどわれは人の意を迎へて自ら喜ぶ性のこゝにもまぎれ入らむことを恐る。この性は早くもわが穉き時に、畠の中なる雜草の如く萌え出でゝ、やうやく聖經に見えたる芥子の如く高く空に向ひて長じ、つひには一株の大木となりて、そが枝の間にわが七情は巣食ひたり。わが最初の記念の一つは既にその芽生を見せたり。おもふにわれは最早六つになりし時の事ならむ。われはおのれより穉き子供二三人と向ひなる尖帽僧の寺の前にて遊びき。寺の扉には小き眞鍮の十字架を打ち付けたりき。その處はおほよそ扉の中程にてわれは僅に手をさし伸べてこれに達することを得き。母上は我を伴ひてかの扉の前を過ぐるごとに、必ずわれを掻き抱きてかの十字架に接吻せしめ給ひき。あるときわれ又子供と遊びたりしに、甚だ穉き一人がいふやう。いかなれば耶蘇の穉子は一たびもこの群に來て、われ等と共に遊ばざるといひき。われさかしく答ふるやう。むべなり、耶蘇の穉子は十字架にかゝりたればといひき。さてわれ等は十字架の下にゆきぬ。かしこには何物も見えざりしかど、われ等は猶母に教へられし如く耶蘇に接吻せむとおもひき。さるを我等が口はかしこに屆くべきならねば、我等はかはる〴〵抱き上げて接吻せしめき。一人の子のさし上げられて僅に唇を尖らせたるを、抱いたる子力足らねば落しつ。この時母上通りかゝり給へり。この遊のさまを見て立ち住まり、指組みあはせて宣ふやう。汝等はまことの天使なり。さて汝はといひさして、母上はわれに接吻し給ひ、汝はわが天使なりといひ給ひき。 母上は隣家の女子の前にて、わがいかに罪なき子なるかを繰り返して語り給ひぬ。われはこれを聞きしが、この物語はいたくわが心に協ひたり。わが罪なきことは固よりこれがために前には及ばずなりぬ。人の意を迎へて自ら喜ぶ性の種は、この時始めて日光を吸ひ込みたりしなり。造化は我におとなしく軟なる心を授けたりき。さるを母上はつねに我がこゝろのおとなしきを我に告げ、わがまことに持てる長處と母上のわが持てりと思ひ給へる長處とを我にさし示して、小兒の罪なさはかの醜き「バジリスコ」の獸におなじきをおもひ給はざりき。かれもこれもおのが姿を見るときは死なでかなはぬ者なるを。 彼尖帽宗の寺の僧にフラア・マルチノといへるあり。こは母上の懺悔を聞く人なりき。かの僧に母上はわがおとなしさを告げ給ひき。祈のこゝろをばわれ知らざりしかど、祈の詞をばわれ善く諳じて洩らすことなかりき。僧は我をかはゆきものにおもひて、あるとき我に一枚の圖をおくりしことあり。圖の中なる聖母のこぼし給ふおほいなる涙の露は地獄の燄の上におちかかれり。亡者は爭ひてかの露の滴りおつるを承けむとせり。僧は又一たびわれを伴ひてその僧舍にかへりぬ。當時わが目にとまりしは、方なる形に作りたる圓柱の廊なりき。廊に圍まれたるは小き馬鈴藷圃にて、そこにはいとすぎ(チプレツソオ)の木二株、檸檬の木一株立てりき。開け放ちたる廊には世を逝りし僧どもの像をならべ懸けたり。部屋といふ部屋の戸には獻身者の傳記より撰び出したる畫圖を貼り付けたり。當時わがこの圖を觀し心は、後になりてラフアエロ、アンドレア・デル・サルトオが作を觀る心におなじかりき。 僧はそちは心猛き童なり、いで死人を見せむといひて、小き戸を開きつ。こゝは廊より二三級低きところなりき。われは延かれて級を降りて見しに、こゝも小き廊にて、四圍悉く髑髏なりき。髑髏は髑髏と接して壁を成し、壁はその並びざまにて許多の小龕に分れたり。おほいなる龕には頭のみならで、胴をも手足をも具へたる骨あり。こは高位の僧のみまかりたるなり。かゝる骨には褐色の尖帽を被せて、腹に繩を結び、手には一卷の經文若くは枯れたる花束を持たせたり。贄卓、花形の燭臺、そのほかの飾をば肩胛、脊椎などにて細工したり。人骨の浮彫あり。これのみならず忌まはしくも、又趣なきはこゝの拵へざまの全體なるべし。僧は祈の詞を唱へつゝ行くに、われはひたと寄り添ひて從へり。僧は唱へ畢りていふやう。われも早晩こゝに眠らむ。その時汝はわれを見舞ふべきかといふ。われは一語をも出すこと能はずして、僧と僧のめぐりなる氣味わるきものとを驚き眙たり。まことに我が如き穉子をかゝるところに伴ひ入りしは、いとおろかなる業なりき。われはかしこにて見しものに心を動かさるゝこと甚しかりければ、歸りて僧の小房に入りしとき纔に生き返りたるやうなりき。この小房の窓には黄金色なる柑子のいと美しきありて、殆ど一間の中に垂れむとす。又聖母の畫あり。その姿は天使に擔ひ上げられて日光明なるところに浮び出でたり。下には聖母の息ひたまひし墓穴ありて、もゝいろちいろの花これを掩ひたり。われはかの柑子を見、この畫を見るに及びて、わづかに我にかへりしなり。 この始めて僧房をたづねし時の事は、久しき間わが空想に好き材料を與へき。今もかの時の事をおもへば、めづらしくあざやかに目の前に浮び出でむとす。わが當時の心にては、僧といふ者は全く我等の知りたる常の人とは殊なるやうなりき。かの僧が褐色の衣を着たる死人の殆どおのれとおなじさまなると共に棲めること、かの僧があまたの尊き人の上を語り、あまたの不思議の蹟を話すこと、かの僧の尊さをば我母のいたく敬ひ給ふことなどを思ひ合する程に、われも人と生れたる甲斐にかゝる人にならばやと折々おもふことありき。 母上は未亡人なりき。活計を立つるには、鍼仕事して得給ふ錢と、むかし我等が住みたりしおほいなる部屋を人に借して得給ふ價とあるのみなりき。われ等は屋根裏の小部屋に住めり。かのおほいなる部屋に引き移りたるはフエデリゴといふ年少き畫工なりき。フエデリゴは心敏く世をおもしろく暮らす少年なりき。かれはいとも〳〵遠きところより來ぬといふ。母上の物語り給ふを聞けば、かれが故郷にては聖母をも耶蘇の穉子をも知らずとぞ。その國の名をば璉馬といへり。當時われは世の中にいろ〳〵の國語ありといふことを解せねば、畫工が我が言ふことを曉らぬを耳とほきがためならむとおもひ、おなじ詞を繰り返して聲の限り高くいふに、かれはわれを可笑しきものにおもひて、をり〳〵果をわれに取らせ、又わがために兵卒、馬、家などの形をゑがきあたへしことあり。われと畫工とは幾時も立たぬに中善くなりぬ。われは畫工を愛しき。母上もをり〳〵かれは善き人なりと宣ひき。さるほどにわれはとある夕母上とフラア・マルチノとの話を聞きしが、これを聞きてよりわがかの技藝家の少年の上をおもふ心あやしく動かされぬ。かの異國人は地獄に墜ちて永く浮ぶ瀬あらざるべきかと母上問ひ給ひぬ。そはひとりかの男の上のみにはあらじ。異國人のうちにはかの男の如く惡しき事をば一たびもせざるもの多し。かの輩は貧き人に逢ふときは物取らせて吝むことなし。かの輩は債あるときは期を愆たず額をたがへずして拂ふなり。然のみならず、かの輩は吾邦人のうちなる多人數の作る如き罪をば作らざるやうにおもはる。母上の問はおほよそ此の如くなりき。 フラア・マルチノの答へけるやう。さなり。まことにいはるゝ如き事あり。かの輩のうちには善き人少からず。されどおん身は何故に然るかを知り給ふか。見給へ。世中をめぐりありく惡魔は、邪宗の人の所詮おのが手に落つべきを知りたるゆゑ、強ひてこれを誘はむとすることなし。このゆゑに彼輩は何の苦もなく善行をなし、罪惡をのがる。善き加特力教徒はこれと殊にて神の愛子なり、これを陷れむには惡魔はさま〴〵の手立を用ゐざること能はず。惡魔はわれ等を誘ふなり。われ等は弱きものなればその手の中に落つること多し。されど邪宗の人は肉體にも惡魔にも誘はるゝことなしと答へき。 母上はこれを聞きて復た言ふべきこともあらねば、便なき少年の上をおもひて大息つき給ひぬ。かたへ聞せしわれは泣き出しつ。こはかの人の永く地獄にありて燄に苦められむつらさをおもひければなり。かの人は善き人なるに、わがために美しき畫をかく人なるに。 わが穉きころ、わがためにおほいなる意味ありと覺えし第三の人はペツポのをぢなりき。惡人ペツポといふも西班牙磴の王といふも皆その人の綽號なりき。此王は日ごとに西班牙磴の上に出御ましましき。(西班牙廣こうぢよりモンテ、ピンチヨオの上なる街に登るには高く廣き石級あり。この石級は羅馬の乞兒の集まるところなり。西班牙廣こうぢより登るところなればかく名づけられしなり。)ペツポのをぢは生れつき兩の足痿えたる人なり。當時そを十字に組みて折り敷き居たり。されど穉きときよりの熟錬にて、をぢは兩手もて歩くこといと巧なり。其手には革紐を結びて、これに板を掛けたるが、をぢがこの道具にて歩む速さは健かなる脚もて行く人に劣らず。をぢは日ごとに上にもいへるが如く西班牙磴の上に坐したり。さりとて外の乞兒の如く憐を乞ふにもあらず。唯だおのが前を過ぐる人あるごとに、詐ありげに面をしかめて「ボン、ジヨオルノオ」(我俗の今日はといふ如し)と呼べり。日は既に入りたる後もその呼ぶ詞はかはらざりき。母上はこのをぢを敬ひ給ふことさまでならざりき。あらず。親族にかゝる人あるをば心のうちに恥ぢ給へり。されど母上はしば〳〵我に向ひて、そなたのためならば、彼につきあひおくとのたまひき。餘所の人の此世にありて求むるものをば、かの人筐の底に藏めて持ちたり。若し臨終に、寺に納めだにせずば、そを讓り受くべき人、わが外にはあらぬを、母上は恃みたまひき。をぢも我に親むやうなるところありしが、我は其側にあるごとに、まことに喜ばしくおもふこと絶てなかりき。或る時、我はをぢの振舞を見て、心に怖を懷きはじめき。こは、をぢの本性をも見るに足りぬべき事なりき。例の石級の下に老いたる盲の乞兒ありて、往きかふ人の「バヨツコ」(我二錢許に當る銅貨)一つ投げ入れむを願ひて、薄葉鐵の小筒をさら〳〵と鳴らし居たり。我がをぢは、面にやさしげなる色を見せて、帽を揮り動しなどすれど、人々その前をばいたづらに過ぎゆきて、かの盲人の何の會釋もせざるに、錢を與へき。三人かく過ぐるまでは、をぢ傍より見居たりしが、四人めの客かの盲人に小貨幣二つ三つ與へしとき、をぢは毒蛇の身をひねりて行く如く、石級を下りて、盲の乞兒の面を打ちしに、盲の乞兒は錢をも杖をも取りおとしつ。ペツポの叫びけるやう。うぬは盜人なり。我錢を竊む奴なり。立派に廢人といはるべき身にもあらで、たゞ目の見えぬを手柄顏に、わが口に入らむとする「パン」を奪ふこそ心得られねといひき。われはこゝまでは聞きつれど、こゝまでは見てありつれど、この時買ひに出でたる、一「フオリエツタ」(一勺)の酒をひさげて、急ぎて家にかへりぬ。 大祭日には、母につきてをぢがり祝にゆきぬ。その折には苞苴もてゆくことなるが、そはをぢが嗜めるおほ房の葡萄二つ三つか、さらずば砂糖につけたる林檎なんどなりき。われはをぢ御と呼びかけて、その手に接吻しき。をぢはあやしげに笑ひて、われに半「バヨツコ」を與へ、果子をな買ひそ、果子は食ひ畢りたるとき、迹かたもなくなるものなれど、この錢はいつまでも貯へらるゝものぞと教へき。 をぢが住めるところは、暗くして見苦しかりき。一間には窓といふものなく、また一間には壁の上の端に、破硝子を紙もて補ひたる小窓ありき。臥床の用をもなしたる大箱と、衣を藏むる小桶二つとの外には、家具といふものなし。をぢがり往け、といはるゝときは、われ必ず泣きぬ。これも無理ならず。母上はをぢにやさしくせよ、と我にをしへながら、我を嚇さむとおもふときは、必ずをぢを案山子に使ひ給ひき。母上の宣たまひけるやう。かく惡劇せば、好きをぢ御の許にやるべし。さらば汝も磴の上に坐して、をぢと共に袖乞するならむ、歌をうたひて「バヨツコ」をめぐまるゝを待つならむとのたまふ。われはこの詞を聞きても、あながち恐るゝことなかりき。母上は我をいつくしみ給ふこと、目の球にも優れるを知りたれば。 向ひの家の壁には、小龕をしつらひて、それに聖母の像を据ゑ、その前にはいつも燈を燃やしたり。「アヱ、マリア」の鐘鳴るころ、われは近隣の子供と像の前に跪きて歌ひき。燈の光ゆらめくときは、聖母も、いろ〳〵の紐、珠、銀色したる心の臟などにて飾りたる耶蘇のをさな子も、共に動きて、我等が面を見て笑み給ふ如くなりき。われは高く朗なる聲して歌ひしに、人々聞きて善き聲なりといひき。或る時英吉利人の一家族、我歌を聞きて立ちとまり、歌ひ畢るを待ちて、長らしき人われに銀貨一つ與へき。母に語りしに、そなたが聲のめでたさ故、とのたまひき。されどこの詞は、その後我祈を妨ぐること、いかばかりなりしを知らず。それよりは、聖母の前にて歌ふごとに、聖母の上をのみ思ふこと能はずして、必ず我聲の美しきを聞く人やあると思ひ、かく思ひつゝも、聖母のわがあだし心を懷けるを嫉み給はむかとあやぶみ、聖母に向ひて罪を謝し、あはれなる子に慈悲の眸を垂れ給へと願ひき。 わが餘所の子供に出で逢ふは、この夕の祈の時のみなりき。わが世は靜けかりき。わが自ら作りたる夢の世に心を潜め、仰ぎ臥して開きたる窓に向ひ、伊太利の美しき青空を眺め、日の西に傾くとき、紫の光ある雲の黄金色したる地の上に垂れかゝりたるをめで、時の遷るを知らざることしば〳〵なりき。ある時は、遠くクヰリナアル(丘の名にて、其上に法皇の宮居あり)と家々の棟とを越えて、紅に染まりたる地平線のわたりに、眞黒に浮き出でゝ見ゆる「ピニヨロ」の木々の方へ、飛び行かばや、と願ひき。我部屋には、この眺ある窓の外、中庭に向へる窓ありき。我家の中庭は、隣の家の中庭に並びて、いづれもいと狹く、上の方は木の「アルタナ」(物見のやうにしたる屋根)にて鎖されたり。庭ごとに石にて甃みたる井ありしが、家々の壁と井との間をば、人ひとり僅かに通らるゝほどなれば、我は上より覗きて、二つの井の内を見るのみなりき。緑なるほうらいしだ(アヂアンツム)生ひ茂りて、深きところは唯だ黒くのみぞ見えたる。俯してこれを見るたびに、われは地の底を見おろすやうに覺えて、ここにも怪しき境ありとおもひき。かゝるとき、母上は杖の尖にて窓硝子を淨め、なんぢ井に墜ちて溺れだにせずば、この窓に當りたる木々の枝には、汝が食ふべき果おほく熟すべしとのたまひき。 隧道、ちご 我家に宿りたる畫工は、廓外に出づるをり、我を伴ひゆくことありき。畫を作る間は、われかれを妨ぐることなかりき。さて作り畢りたるとき、われ穉き物語して慰むるに、かれも今はわが國の詞を解して、面白がりたり。われは既に一たび畫工に隨ひて、「クリア、ホスチリア」にゆき、昔游戲の日まで猛獸を押し込めおきて、つねに無辜の俘囚を獅子、「イヱナ」獸なんどの餌としたりと聞く、かの暗き洞の深き處まで入りしことあり。洞の裡なる暗き道に、我等を導きてくゞり入り、燃ゆる松火を、絶えず石壁に振り當てたる僧、深き池の水の、鏡の如く明にて、目の前には何もなきやうなれば、その足もとまで湛へ寄せたるを知らむには、松火もて觸れ探らではかなはざるほどなる、いづれもわが空想を激したりき。われは怖をば懷かざりき。そは危しといふことを知らねばなりけり。 街のはつる處に、「コリゼエオ」(大觀棚)の頂見えたるとき、われ等はかの洞の方へゆくにや、と畫工に問ひしに、否、あれよりは逈に大なる洞にゆきて、面白きものを見せ、そなたをも景色と倶に寫すべし、と答へき。葡萄圃の間を過ぎ、古の混堂の址を圍みたる白き石垣に沿ひて、ひたすら進みゆく程に羅馬の府の外に出でぬ。日はいと烈しかりき。緑の枝を手折りて、車の上に揷し、農夫はその下に眠りたるに、馬は車の片側に弔り下げたる一束の秣を食ひつゝ、ひとり徐に歩みゆけり。やう〳〵女神エジエリアの洞にたどり着きて、われ等は朝餐を食べ、岩間より湧き出づる泉の水に、葡萄酒混ぜて飮みき。洞の裏には、天井にも四方の壁にも、すべて絹、天鵝絨なんどにて張りたらむやうに、緑こまやかなる苔生ひたり。露けく茂りたる蔦の、おほいなる洞門にかゝりたるさまは、カラブリア州の谿間なる葡萄架を見る心地す。洞の前數歩には、その頃いと寂しき一軒の家ありて、「カタコンバ」のうちの一つに造りかけたりき。この家今は潰えて斷礎をのみぞ留めたる。「カタコンバ」は人も知りたる如く、羅馬城とこれに接したる村々とを通ずる隧道なりしが、半はおのづから壞れ、半は盜人、ぬけうりする人なんどの隱家となるを厭ひて、石もて塞がれたるなり。當時猶存じたるは、聖セバスチヤノ寺の内なる穹窿の墓穴よりの入口と、わが言へる一軒家よりの入口とのみなりき。さてわれ等はかの一軒家のうちなる入口より進み入りしが、おもふに最後に此道を通りたるはわれ等二人なりしなるべし。いかにといふに此入口はわれ等が危き目に逢ひたる後、いまだ幾もあらぬに塞がれて、後には寺の内なる入口のみ殘りぬ。かしこには今も僧一人居りて、旅人を導きて穴に入らしむ。 深きところには、軟なる土に掘りこみたる道の行き違ひたるあり。その枝の多き、その樣の相似たる、おもなる筋を知りたる人も踏み迷ふべきほどなり。われは穉心に何ともおもはず。畫工はまた豫め其心して、我を伴ひ入りぬ。先づ蝋燭一つ點し、一をば猶衣のかくしの中に貯へおき、一卷の絲の端を入口に結びつけ、さて我手を引きて進み入りぬ。忽ち天井低くなりて、われのみ立ちて歩まるゝところあり、忽ち又岐路の出づるところ廣がりて方形をなし、見上ぐるばかりなる穹窿をなしたるあり。われ等は中央に小き石卓を据ゑたる圓堂を過りぬ。こゝは始て基督教に歸依したる人々の、異教の民に逐はるゝごとに、ひそかに集りて神に仕へまつりしところなりとぞ。フエデリゴはこゝにて、この壁中に葬られたる法皇十四人、その外數千の獻身者の事を物語りぬ。われ等は石龕のわれ目に燭火さしつけて、中なる白骨を見き。(こゝの墓には何の飾もなし。拿破里に近き聖ヤヌアリウスの「カタコンバ」には聖像をも文字をも彫りつけたるあれど、これも技術上の價あるにあらず。基督教徒の墓には、魚を彫りたり。希臘文の魚といふ字は「イヒトユス」なれば、暗に「イエソウス、クリストス、テオウ ウイオス、ソオテエル」の文の首字を集めて語をなしたるなり。此希臘文はこゝに耶蘇基督神子救世者と云ふ。)われ等はこれより入ること二三歩にして立ち留りぬ。ほぐし來たる絲はこゝにて盡きたればなり。畫工は絲の端を控鈕の孔に結びて、蝋燭を拾ひ集めたる小石の間に立て、さてそこに蹲りて、隧道の摸樣を寫し始めき。われは傍なる石に踞けて合掌し、上の方を仰ぎ視ゐたり。燭は半ば流れたり。されどさきに貯へおきたる新なる蝋燭をば、今取り出してその側におきたる上、火打道具さへ帶びたれば、消えなむ折に火を點すべき用意ありしなり。 われはおそろしき暗黒天地に通ずる幾條の道を望みて、心の中にさま〴〵の奇怪なる事をおもひ居たり。この時われ等が周圍には寂として何の聲も聞えず、唯だ忽ち斷え忽ち續く、物寂しき岩間の雫の音を聞くのみなりき。われはかく由なき妄想を懷きてしばしあたりを忘れ居たるに、ふと心づきて畫工の方を見やれば、あな訝かし、畫工は大息つきて一つところを馳せめぐりたり。その間かれは頻に俯して、地上のものを搜し索むる如し。かれは又火を新なる蝋燭に點じて再びあたりをたづねたり。その氣色ただならず覺えければ、われも立ちあがりて泣き出しつ。 この時畫工は聲を勵まして、こは何事ぞ、善き子なれば、そこに坐りゐよ、と云ひしが、又眉を顰めて地を見たり。われは畫工の手に取りすがりて、最早登りゆくべし、こゝには居りたくなし、とむつかりたり。畫工は、そちは善き子なり、畫かきてや遣らむ、果子をや與へむ、こゝに錢もあり、といひつゝ、衣のかくしを探して、財布を取り出し、中なる錢をば、ことごとく我に與へき。我はこれを受くるとき、畫工の手の氷の如く冷になりて、いたく震ひたるに心づきぬ。我はいよ〳〵騷ぎ出し、母を呼びてます〳〵泣きぬ。畫工はこの時我肩を掴みて、劇しくゆすり搖かし、靜にせずば打擲せむ、といひしが、急に手巾を引き出して、我腕を縛りて、しかと其端を取り、さて俯してあまたゝび我に接吻し、かはゆき子なり、そちも聖母に願へ、といひき。絲をや失ひ給ひし、と我は叫びぬ。今こそ見出さめ、といひ〳〵、畫工は又地上をかいさぐりぬ。 さる程に、地上なりし蝋燭は流れ畢りぬ。手に持ちたる蝋燭も、かなたこなたを搜し索むる忙しさに、流るゝこといよ〳〵早く、今は手の際まで燃え來りぬ。畫工の周章は大方ならざりき。そも無理ならず。若し絲なくして歩を運ばば、われ等は次第に深きところに入りて、遂に活路なきに至らむも計られざればなり。畫工は再び氣を勵まして探りしが、こたびも絲を得ざりしかば、力拔けて地上に坐し、我頸を抱きて大息つき、あはれなる子よ、とつぶやきぬ。われはこの詞を聞きて、最早家に還られざることぞ、とおもひければ、いたく泣きぬ。畫工にあまりに緊しく抱き寄せられて、我が縛られたる手はいざり落ちて地に達したり。我は覺えず埃の間に指さし入れしに、例の絲を撮み得たり。こゝにこそ、と我呼びしに、畫工は我手を※(てへん+參)りて、物狂ほしきまでよろこびぬ。あはれ、われ等二人の命はこの絲にぞ繋ぎ留められける。 われ等の再び外に歩み出でたるときは、日の暖に照りたる、天の蒼く晴れたる、木々の梢のうるはしく緑なる、皆常にも増してよろこばしかりき。フエデリゴは又我に接吻して、衣のかくしより美しき銀の※(金+表)を取り出し、これをば汝に取らせむ、といひて與へき。われはあまりの嬉しさに、けふの恐ろしかりし事共、はや悉く忘れ果てたり。されど此事を得忘れ給はざるは、始終の事を聞き給ひし母上なりき。フエデリゴはこれより後、我を伴ひて出づることを許されざりき。フラア・マルチノもいふやう。かの時二人の命の助かりしは、全く聖母のおほん惠にて、邪宗のフエデリゴが手には授け給はざる絲を、善く神に仕ふる、やさしき子の手には與へ給ひしなり。されば聖母の恩をば、身を終ふるまで、ゆめ忘るゝこと勿れといひき。 フラア・マルチノがこの詞と、或る知人の戲に、アントニオはあやしき子なるかな、うみの母をば愛するやうなれど、外の女をばことごとく嫌ふと見ゆれば、あれをば、人となりて後僧にこそすべきなれ、といひしことあるとによりて、母上はわれに出家せしめむとおもひ給ひき。まことに我は奈何なる故とも知らねど、女といふ女は側に來らるゝだに厭はしう覺えき。母上のところに來る婦人は、人の妻ともいはず、處女ともいはず、我が穉き詞にて、このあやしき好憎の心を語るを聞きて、いとおもしろき事におもひ做し、強ひて我に接吻せむとしたり。就中マリウチアといふ娘は、この戲にて我を泣かすること屡なりき。マリウチアは活溌なる少女なりき。農家の子なれど、裁縫店にて雛形娘をつとむるゆゑ、華靡やかなる色の衣をよそひて、幅廣き白き麻布もて髮を卷けり。この少女フエデリゴが畫の雛形をもつとめ、又母上のところにも遊びに來て、その度ごとに自らわがいひなづけの妻なりといひ、我を小き夫なりといひて、迫りて接吻せむとしたり。われ諾はねば、この少女しば〳〵武を用ゐき。或る日われまた脅されて泣き出しゝに、さては猶穉兒なりけり、乳房啣ませずては、啼き止むまじ、とて我を掻き抱かむとす。われ慌てゝ迯ぐるを、少女はすかさず追ひすがりて、兩膝にて我身をしかと挾み、いやがりて振り向かむとする頭を、やう〳〵胸の方へ引き寄せたり。われは少女が揷したる銀の矢を拔きたるに、豐なる髮は波打ちて、我身をも、露れたる少女が肩をも掩はむとす。母上は室の隅に立ちて、笑みつゝマリウチアがなすわざを勸め勵まし給へり。この時フエデリゴは戸の片蔭にかくれて、竊に此群をゑがきぬ。われは母上にいふやう。われは生涯妻といふものをば持たざるべし。われはフラア・マルチノの君のやうなる僧とこそならめといひき。 夕ごとにわが怪しく何の詞もなく坐したるを、母上は出家せしむるにたよりよき性なりとおもひ給ひき。われはかゝる時、いつも人となりたる後、金あまた得たらむには、いかなる寺、いかなる城をか建つべき、寺の主、城の主となりなん日には、「カルヂナアレ」の僧の如く、赤き衷甸に乘りて、金色に裝ひたる僕あまた隨へ、そこより出入せんとおもひき。或るときは又フラア・マルチノに聞きたる、種々なる獻身者の話によそへて、おのれ獻身者とならむをりの事をおもひ、世の人いかにおのれを責むとも、おのれは聖母のめぐみにて、つゆばかりも苦痛を覺えざるべしとおもひき。殊に願はしく覺えしは、フエデリゴが故郷にたづねゆきて、かしこなる邪宗の人々をまことの道に歸依せしむる事なりき。 母上のいかにフラア・マルチノと謀り給ひて、その日とはなりけむ。そはわれ知らでありしに、或る朝母上は、我に小き衣を着せ、其上に白衣を打掛け給ひぬ。此白衣は膝のあたりまで屆きて、寺に仕ふる兒の着るものに同じかりき。母上はかく爲立てゝ、我を鏡に向はせ給ひき。我は此日より尖帽宗の寺にゆきてちごとなり、火伴の童達と共に、おほいなる弔香爐を提げて儀にあづかり、また贄卓の前に出でゝ讚美歌をうたひき。總ての指圖をばフラア・マルチノなしつ。われは幾程もあらぬに、小き寺のうちに住み馴れて、贄卓に畫きたる神の使の童の顏を悉く記え、柱の上なるうねりたる摸樣を識り、瞑目したるときも、醜き龍と戰ひたる、美しき聖ミケルを面前に見ることを得るやうになり、鋪床に刻みたる髑髏の、緑なる蔦かづらにて編みたる環を戴けるを見てはさま〴〵の怪しき思をなしき。(聖ミケルが大なる翼ある美少年の姿にて、惡鬼の頭を踏みつけ、鎗をその上に加へたるは、名高き畫なり。) 美小鬟、即興詩人 |
物化学の起り 自然には非常にたくさんの種類の物質があって、それぞれ性質を異にしているのは、誰でも知っている事がらでありますが、それらの物質はいろいろなはたらきによって互に変ってゆくので、それで我々人間は都合のよいものをつくって、さまざまの目的に利用することができるのです。ここに実に奥深い自然の妙味があるので、それですから我々はまずそのような自然のはたらきがどう起るかを研究し、それを知らなければなりません。自然のはたらきの中で、物質の変化を研究する学問を物化学(又は化学)と名づけていますが、ごく古い時代には、それもはっきりした意味では考えられていなかったので、とかく人間は自分勝手な虫のいいことばかり望んでいたのでした。例えばいろいろな金属のうちで黄金がいちばんすぐれたものとして尊ばれていたので、そこでほかの金属、すなわち鉄や鉛や銅などに何かのはたらきを加えて、それを黄金に変えようとして、大いに苦心を重ねたのでした。これはその頃錬金術と呼ばれていたので、その起りは古く紀元前三、四世紀頃にエジプトで始まったとも云われていますが、その後アラビヤを通じてヨーロッパに入り、十七世紀頃まで千数百年も続いたのでした。それでも実際にその頃やっていたような方法で黄金のできる筈はなかったので、それには何かの魔法が必要だと云われるようになったり、また後の時代になっては黄金をつくることはあきらめて、むしろ不老長生の薬を探し出そうということにも変って来たのでした。今から考えると、いかにもそれらはばかげているように見えますけれども、しかし古い時代にはそれも止むを得なかったのでありましょう。 ところで、そういうまちがった考えかたを改めさせて、現在のような正しい意味での自然科学をおこすのには、すぐれた科学者が出なくてはならなかったので、この前にお話ししたイタリヤのガリレオ・ガリレイなどは実にその最初の人だと云ってもよいのですし、それに続いていろいろな国にたくさんの科学者が現れて来たのでした。そのうちで物質変化に関する学問、すなわち物化学の基礎を据えたと云ってよいのが、ここでお話ししようとするロバート・ボイルなのです。 ボイルの生涯 ロバート・ボイルはアイルランドのコルク伯爵家の所領リズモア城に於て領主リチャード・ボイルの第七男として一六二七年一月二十五日に生まれました。家柄がよいので、何も不自由なく育ったわけで、イートンの学校を卒業してから後にフランスや、スイスや、イタリヤに旅行して見聞を広めたのでしたが、その間に父親が亡くなって、その財産所領の一部を譲られました。一六四四年にイギリスに帰って、イングランドの所領に住み、科学の研究に従いましたが、一六五四年になってオックスフォードに移り、その後一六六八年にはロンドンに出て、その長姉のもとに寄寓しました。それというのも一生を独身で過ごしたからで、ロンドンでは当時の著名な学者ニュートンやフークなどと親しく交りました。その間非常に多忙でもあったので、一六八九年頃によほど健康をそこなうようになり、それからは静養に努めましたが、一六九一年の十二月三十日に遂にこの世を去りました。ちょうど二十余年間生活を共にしていた長姉が亡くなって数日後のことであったそうです。 ボイルの科学上の仕事については、次に述べますが、その頃の諸学者と相談して、ロンドンに始めて王立協会を組織したことは、当時の学界に対する大きな貢献の一つです。この王立協会というのは、大体は我が国に現在設けられている帝国学士院と似ているものですが、その学界に於ける活動は非常に盛んであったので、有力な会員たちが集まって科学の問題について討論をなし、また機関紙を発行して学問の進歩を大いに促進させたのでした。 ボイルはこのように科学のために非常に力を尽したほかに、神学の研究をしたり、また東洋の言語をも学んで、自ら東インド協会の会長ともなりました。これ等の事実を見ても、ボイルが単に科学者としてのみでなく、種々の方面に教養の深かったことがわかるので、その事がまた科学者としても最も正しい道を踏み歩ましめたのだとも考えられるのです。 物化学上の仕事 前に述べたように、ボイルは本当に正しい意味での物化学の基礎を据えた人であったといってよいのでした。それはつまり物質の変化について、人間が勝手にこれを考えてはいけないので、何よりもまず実際の事実をつきとめなくてはいけないということを、はっきりと自覚したところにあったのです。これは科学にとって最も根本的な大切な考えなのであります。彼の書き記したなかに、こういう言葉が述べられています。 「物化学者はこれまでは、高い見地を欠いていたところの、ごく狭い原理で、自分たちを導いていました。彼等は単に医療に役立たせるために、そしてまた金属を変質させるためにのみ、彼等の問題を眺めていたのでした。私は物化学をまるでそれとは違った見地で取扱おうと試みました。それは医者としてでもなく、錬金術者としてでもなく、むしろ純粋に自然科学者として取扱おうとするのであります。」 そして本当に謙虚な一人の自然科学者として、ボイルはまず実験や観察を試み、そこにいろいろな事実を見つけ出そうとしたのでした。 「人間には、科学の進歩は彼等の狭い興味であるよりは、寧ろ心の奥に深く横たわるものでなくてはならない。我々が実験を行い、観察を集め、予め考察に入り込む現象をよく確めないうちには理論をつくらないという心がけを以てすれば、世界に対して最大の貢献がなされるに違いない。」 とも述べています。これこそまことの自然科学者の道であるのに相違ありません。そして物化学はここに初めてその正しい道を歩み出したのでした。 ボイルの時代には、なお昔のギリシャの頃の哲学者アリストテレスの説に従って、物質の根源をなす元素は火、土、空気及び水の四つであるとする考えや、その後の錬金術者の説く処に従って、塩、硫黄、及び水銀を元素であるとする考えが一般に広がっていました。 ボイルはしかしそういう古い考え方に囚われないで、実際事実の上でいろいろな物質を分解してみて、もうこれ以上分解されないと見られるものを元素と見做そうとしたのでした。つまり元素は、人間の考えの上で定められるものではなく、自然の事実を調べて見つけ出してゆかなくてはならないということを、はっきりと言い現したのでした。もちろんボイルの時代にはたくさんの元素が知られているわけではなかったのですが、それでも錬金術者がいかに苦心して変えようとしても変えられなかったいろいろな金属、すなわち金、銀、銅、鉄、鉛などはどれもボイルの言った意味での元素であることが、だんだんにわかって来たのでした。 ボイルのもう一つの大切な仕事としては、混合物と化合物との差別を初めてはっきりさせたことです。物質がいろいろ変化してゆく際に、お互に混り合っても、もとの性質がそのまま失われずに残っている場合と、そうでなくてまるで性質の変ってしまう場合とがあります。 例えば水に砂糖や塩を溶かすと甘い水や、からい水が出来るのは誰でも知っているでしょうが、その際には砂糖の甘味や塩の辛味は水に溶けてもそのまま残っているのです。これはそれが単に混合しているだけであるからで、ところがそれとは違って、例えば酸素と水素とから水がつくられるというような場合には、水には酸素や水素の性質はまるで見られません。これは水が酸素と水素との混合物でなくて、化合物であるからです。 もちろんボイルの頃には、酸素や水素などの気体もまだ見つけ出されてはいなかったので、今では普通に知られているこれ等の事がらにしても一向にわかってはいなかったのですが、それでいてボイルが混合物と化合物との差別をはっきりさせたことは、実にその考え方のすぐれていたのを示しているのです。 このほかにボイルは、金属を空中で熱して、それに錆がつくようになると、この金属の重さがいくらか重くなることを見つけ出しました。ボイルはこれに対しては、金属を熱するときの火焔のなかから何かしらある物質が出て、それが金属にくっつくのではないかと考えたのでした。これはその頃としては無理もない考え方であるわけで、今では錆のつくのは空中の酸素が金属と化合してこれを酸化させるのだということがわかっているのですが、ともかくその際に金属の重さが増すということのわかったのは、大切な発見であったのでした。 そのほかの研究 ボイルは上にお話しした仕事のほかになおたくさんの研究を行ったのでありますが、そのうち特別に骨折ったのは真空についての実験でありました。 真空をつくることは昔は非常にむずかしかったので、ちょうどその頃にドイツのゲーリッケという人が苦心して始めて空気ポンプをつくり、真空での実験を行ったので、それが大評判となって各国に伝わったのでした。殊にその当時の人々を驚かしたのは、一六五四年にレーゲンスブルグで開かれた国民会議の席上で行ったマグデブルグ半球の実験でありました。これは大きな銅の半球を二つ合わせて、その中の空気を抜いて真空にすると、二つの半球は外部の空気に押されて離れなくなってしまうので、この半球の左右にそれぞれ八頭ずつの馬をつないで両方へ引張らせてみても、それでも引離すことができなかったというのでした。このゲーリッケの実験にボイルは非常に興味をよせて、そこで自分でもいろいろ工夫して、一層よい空気ポンプをつくり、それでさまざまな実験を行ったのでした。 これらの実験のうちでおもしろいのは、水を暖めて真空のなかに入れると、それがにわかに沸騰し始めるということです。水は普通には摂氏の百度にならなければ沸騰しないのですが、それは水の表面を押している気圧が一気圧、すなわち水銀の高さで七六〇ミリメートルになっているからです。ところが真空のなかではこの圧力が殆んど無くなってしまうのですから、それで水は低い温度で沸騰することになるのです。高い山の上に登ると、水は百度にならないうちに沸騰するというのも、そこでは気圧が低いからで、つまりボイルのこの実験は、水の沸騰する温度が空気の圧力に関係することを示した最初のものであったのでした。 ボイルはまた真空のなかでは音の伝わらないことをも実験して見ました。つまり音のする懐中時計などを空気ポンプのなかに入れて空気を抜くと、音が聞こえなくなってしまうのを確かめました。これも音が空気で伝えられることを示した大切な実験であります。 ボイルの時代には、気体といえば空気だけしか知られていなかったのですが、この空気がいろいろ大切な役目をもっていることをもボイルは明らかにしたのでした。空気が音を伝えることもその一つですが、また空気がなければ火の燃えないことをも実験で確かめました。そのほかに人間や動物などは空気を呼吸して生きていることをもはっきりと知っていたので、魚が水のなかで生きているのは、水のなかに溶けて含まれている空気を魚が呼吸しているからだということをも述べています。これも今では誰でも知っている事がらなのですが、その当時としてはやはりすぐれた考え方であったので、すべて生物には空気を呼吸することが必要であるとしたのは、生物学の上でも重要な意味をもつ事柄であったのでした。 空気の性質については、ボイルはもう一つの大切な関係を見つけ出しました。これは空気ばかりでなく、一般の気体にも当てはまるものとして、今ではボイルの法則という名称で知られて居り、普通の物理学の教科書にも載っていますから、皆さんもよく知っているでしょう。それは、つまり気体の体積と圧力とは互いに逆比例して変るということで、ですから圧力を増せば体積は小さくなり、反対に圧力が減れば、それだけ体積がひろがります。古い昔には、ある場所から空気をとり除けようとしても、直ぐによそから空気がそこへ入り込んで来て、真空にはならなかったので、その事から自然は真空を嫌うのだということが一般に信ぜられていたのでした。しかしこの事実は、空気が圧力の小さい方へひろがってゆくという関係が分れば、それで説明ができるのですから、ボイルの法則の発見で、もはやそれは不思議でも何でもなくなったわけです。科学はこのようにして自然の不思議をだんだんに解いてゆくことができるのです。 ボイルはこのほかにもなおいろいろな研究を行いました。氷に塩を交ぜると非常に冷たくなることを皆さんは知っているでしょうが、そういうものを一般に寒剤と名づけています。ボイルはこの寒剤についてもたくさんの実験を行いましたし、またいろいろの物質の比重をも測りました。そのほかの一々こまかい事がらは、ここでは省きますが、ともかくもすべて実験に重点を置いて科学を進めたというところに、ボイルのすぐれた考え方があったのでした。これが本当の科学的精神というものであって、そのおかげで科学がだんだんと進んで来たのであります。 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我日本の政治に關して至大至重のものは帝室の外にある可らずと雖ども、世の政談家にして之を論ずる者甚だ稀なり。蓋し帝室の性質を知らざるが故ならん。過般諸新聞紙に主權論なるものあり。稍や帝室に關するが如しと雖ども、其論者の一方は百千年來陳腐なる儒流皇學流の筆法を反覆開陳するのみにして、恰も一宗旨の私論に似たり。固より開明の耳に徹するに足らず。又一方は直に之を攻撃せんとして何か憚る所ある歟、又は心に解せざる所ある歟、其立論常に分明ならずして文字の外に疑を遺し、人をして迷惑せしむる者少なからず。畢竟論者の怯懦不明と云ふ可きのみ。福澤先生茲に感ありて帝室論を述らる。中上川先生之を筆記して通計十二篇を成し、過日來之を時事新報社説欄内に登録したるが、大方の君子高評を賜はらんとて、近日に至る迄續々第一篇以來の所望ありと雖ども、新報既に缺號して折角の需に應ずること能はず。今依て全十二篇を一册に再刊し、同好の士に頒つと云。 |
1 チャーチルが、その特使の出発に際して念を押していった。 「ええかね。なるたけ凄いやつを買取るんじゃ。世界一のやつでなけりゃいかんぞ」 そしてそっぽを向いて(これからは、何でも世界一主義で行って一釜起すんだ)と呟いた。 ルーズベルトが、その特使の出発に際して竹法螺声で命をふくめた。 「あの手におえないダブル・ヴイの三号に、博士を附けて買ってしまえ。第一手段に失敗したら第二手段、第二手段に失敗したら第三手段……。第十手段まで行くうちには、必ず成功するように検算はしてあるからねえ」 二人のいうことも、この節では前とは大分違って来た。 そこで特使と特使が、中国大陸の○○でぱったり行き逢ったわけだが、初めのうちはどっちもそれと気がつかない。それというのがチャーチルの特使は、不潔なモルフィネ中毒患者を装って、よろよろ歩いていたし、一方ルーズベルトの特使の方は、男使と女使の二人組で街頭一品料理は如何でございと屋台を引張って触れて歩いていたのである。 チャーチルの特使チーア卿は機甲中佐であった。ルーズベルトの女特使ルス嬢は、この間まで南太平洋の輸送機隊長をしていた航空大佐であり、その相棒たる男特使ベラントはリード商会の若番頭の一人で、ちゃきちゃきの手腕を謳われている人物だった。 「よう。料理は何が出来るのかね」 チーア卿は、ろれつの廻らない舌で、ベラントとルス嬢の屋台に呼びかけた。 「お好みの料理を作りますぜ。殊に燻製料理にかけては、世界一でさあ」 ベラントはぬかりなく宣伝にかかる。 「世界一かね。じゃあ、それを作って貰おうか。早いところ頼むぜ。それからウィスキーにミルクだ。コーヒーはジャワのを。シェリー酒も出してくれ。いや心配するな、金はもっているぜ」 チーア卿は、ポケットから、何枚かの法幣をつかみだして、皺をのばす。 「へいへい。有難うございます。おっしゃったものは皆そろって居ります」 「へえ、皆そろって居るって、本当かね」 「嘘じゃありません。まあ、ごゆっくり召上って頂きましょう」 うすきたない屋台から、途方もない絶品佳肴がとりだされたのには、チーア卿も目をぱちくりであった。 「燻製も、一番うまいのはカンガルーの燻製ですな。第二番が璧州の鼠の子の燻製。三番目が、大きな声ではいえませんが、プリンス・オヴ・ウェールス号から流れ出した英国士官の○○の燻製……皆ここに並べてございまさあ」 「ええっ、何という……」 チーア卿は顔をしかめた。 「旦那。おどろくのは後にして、一番から順番に召上ってごらんになすったら。おいしくなかったら、燻製屋の看板は叩き割られても文句を申しませんわよ」 と、ルス嬢も口を出す。 「いや、わしは……おれは、一番と二番とで沢山だ。ううい、いい酒だ」 チーア卿は酒に酔ったふりをして、その場のおどろきを胡魔化す。 「勘定をしてくれ。いくらだい」 チーア卿は、几帳面に精算をし、小銭の釣銭までちゃんと取って、街を向うへふらふらと歩いていった。 「うまく行ったわね。これであの人は、うちの名代燻製料理を吹聴してくれるわね」 と、ルス嬢は涼しい顔。 「とんでもない。彼奴は油断のならない喰わせ者だよ」 「へえ、喰わせ者」 「そうよ。器用な早業で、カンガルーの股燻製を一挺、上衣の下へ隠しやがった。あいつは掏摸か、さもなければ手品師だ」 「まあ、そんな早業をやったのかね、あの半病人のふらふら先生が……」 「まあいい。それよりは商売だ。金博士の耳に一刻も早く届くように、世界一の燻製料理の宣伝にかかることだ。さあいらっしゃい。世界一屋の燻製料理。種類の多いこと世界一。味のよいこと世界一。しかも値段のやすいこと世界一。さあいらっしゃい。早くいらっしゃってお験しなさい」 気の軽い碧眼夫婦の呼び声に、この陋巷のあちこちから腹の減った連中が駆けよって来た。屋台の前は、たちまち栄養不良患者の展覧会のようになった。 燻製料理世界一屋の商売は大繁昌だ。 しかしベラントの顔にもルス嬢の顔にも、一抹の不満の色が低迷している。 「だめじゃないか」 「どうしたんでしょうね、あの人は……」 あの人は……。あの人とは二人の期待している人物が現れないことである。あの人は世界一の燻製好きだ。そして世界一の科学兵器発明家だ。その名前を金博士という。その人こそ二人が、いやチーア卿も亦、はるばるこの地へやって来て、何とか取り縋ろうという目的の大人物だった。金博士は、この陋巷のどこかに住んでいる筈だった。 2 「ふむ、ふむ、ふむ」 生返事をするばかりで、すこしもはっきりしたことを言わない金博士だった。それも道理、今、博士は燻製のカンガルーを喰べることに夢中になっている。 |
村夫子は謂ふ、美の女性に貴ぶべきは、其面の美なるにはあらずして、単に其意の美なるにありと。何ぞあやまれるの甚しき。夫子が強ちに爾き道義的誤謬の見解を下したるは、大早計にも婦人を以て直ちに内政に参し家計を調ずる細君と臆断したるに因るなり。婦人と細君と同じからむや、蓋し其間に大差あらむ。勿論人の妻なるものも、吾人が商となり工となり、はた農となるが如く、女性が此世に処せむと欲して、択ぶ処の、身過の方便には相違なきも、そはたゞ芸妓といひ、娼妓といひ、矢場女といふと斉しく、一個任意の職業たるに過ぎずして、人の妻たるが故に婦人が其本分を尽したりとはいふを得ず。渠等が天命の職分たるや、花の如く、雪の如く、唯、美、これを以て吾人男性に対すべきのみ。 男子の、花を美とし、雪を美とし、月を美とし、杖を携へて、瓢を荷ひて、赤壁に賦し、松島に吟ずるは、畢竟するに未だ美人を得ざるものか、或は恋に失望したるものの万止むを得ずしてなす、負惜の好事に過ぎず。 玉の腕は真の玉よりもよく、雪の膚は雨の結晶せるものよりもよく、太液の芙蓉の顔は、不忍の蓮よりも更に好し、これを然らずと人に語るは、俳優に似たがる若旦那と、宗教界の偽善者のみなり。 されば婦人は宇宙間に最も美なるものにあらずや、猶且美ならざるべからざるものにあらずや。 心の美といふ、心の美、貞操か、淑徳か、試みに描きて見よ。色黒く眉薄く、鼻は恰もあるが如く、唇厚く、眦垂れ、頬ふくらみ、面に無数の痘痕あるもの、豕の如く肥えたるが、女装して絹地に立たば、誰かこれを見て節婦とし、烈女とし、賢女とし、慈母とせむ。譬ひこれが閨秀たるの説明をなしたる後も、吾人一片の情を動かすを得ざるなり。婦人といへども亦然らむ。卿等は描きたる醜悪の姉妹に対して、よく同情を表し得るか。恐らくは得ざるべし。 薔薇には恐るべき刺あり。然れども吾人は其美を愛し、其香を喜ぶ。婦人もし艶にして美、美にして艶ならむか、薄情なるも、残忍なるも、殺意あるも亦害なきなり。 試に思へ、彼の糞汁はいかむ、其心美なるにせよ、一見すれば嘔吐を催す、よしや妻とするの実用に適するも、誰か忍びてこれを手にせむ。またそれ蠅は厭ふべし、然れどもこれを花片の場合と仮定せよ「木の下は汁も鱠も桜かな」食物を犯すは同一きも美なるが故に春興たり。なほ天堂に於ける天女にして、もしその面貌醜ならむか、濁世の悪魔が花顔雪膚に化したるものに、嗜好の及ばざるや、甚だ遠し。 希くば、満天下の妙齢女子、卿等務めて美人たれ。其意の美をいふにあらず、肉と皮との美ならむことを、熱心に、忠実に、汲々として勤めて時のなほ足らざるを憾とせよ。読書、習字、算術等、一切の科学何かある、唯紅粉粧飾の余暇に於て学ばむのみ。琴や、歌や、吾はた虫と、鳥と、水の音と、風の声とにこれを聞く、強て卿等を労せざるなり。 裁縫は知らざるも、庖丁を学ばざるも、卿等が其美を以てすれば、天下にまた無き無上権を有して、抜山蓋世の英雄をすら、掌中に籠するならずや、百万の敵も恐るゝに足らず、恐るべきは一婦人といふならずや、そも〳〵何を苦しんでか、紅粉を措いてあくせくするぞ。 あはれ願くは巧言、令色、媚びて吾人に対せよ、貞操淑気を備へざるも、得てよく吾人を魅せしむ。然る時は吾人其恩に感じて、是を新しき床の間に置き、三尺すさつて拝せんなり。もしそれやけに紅粉を廃して、読書し、裁縫し、音楽し、学術、手芸をのみこれこととせむか。女教師となれ、産婆となれ、針妙となれ、寧ろ慶庵の婆々となれ、美にあらずして何ぞ。貴夫人、令嬢、奥様、姫様となるを得むや。ああ、淑女の面の醜なるは、芸妓、娼妓、矢場女、白首にだも如かざるなり。如何となれば渠等は紅粉を職務として、婦人の分を守ればなり。但、醜婦の醜を恥ぢて美ならむことを欲する者は、其衷情憐むべし。然れども彼の面の醜なるを恥ぢずして、却つてこれを誇る者、渠等は男性を蔑視するなり、呵す、常に芸娼妓矢場女等教育なき美人を罵る処の、教育ある醜面の淑女を呵す。――如斯説ふものあり。稚気笑ふべきかな。 |
古い頃の日本の数学 数学と云えば、今ではすべて西洋から輸入した算法が用いられ、それが一般に行われているのですが、日本にも昔の江戸時代には和算と称えられている数学がかなりに発達して、たくさんの和算学者が出たのでした。この和算がなぜ西洋の数学に変えられたかと云うことについては、いろいろの理由もあるのですが、大体には運算の方法がめんどうであったり、またごく特別な問題だけを主にしていましたので、それよりも広い西洋の数学で置き換えられることになったのでした。しかしそれにしても、かなりに古い頃にこのような和算が我が国で発達したということは、大いに注目されなくてはならない事がらでもあり、それについて誰しもが幾らかは知っておかなくてはならないのであるとも思われるのです。 和算の初まりは、もちろん支那の数学が我が国に伝えられたことにあるのですが、支那ではごく古い時からかなりにすぐれた数学者が出ているので、唐や宋の頃にはよほど進んで来て居り、その後の元の郭守敬という人の創めた天元術というのは、殊に名だかいものです。そういう支那の算法が我が国に伝わって来たのは、江戸時代の初期の頃でありますが、それから漸くこれを研究する学者が我が国にも出て来たので、万治、寛文年間に世に出た磯村吉徳の算法闕疑抄とか、佐藤正興の算法根源記とか、澤口一之の古今算法記とかは、その当時の算学書としていずれも名だかいものでありました。ところでその後に和算を大いに進めたのが、ここでお話ししようとする關孝和でありまして、その並々ならぬ努力によって關流の算法というものが出来あがり、この伝統が近く明治の初年までも続いて、その間にたくさんの名だかい数学者を輩出させたのでありました。明治以後になって、さきに述べましたように、これは西洋の数学に変えられることになったのですが、しかし和算がこれだけに進んだというのも、それは最初にその発展に努めた關孝和の大きな仕事のおかげであり、またそのなかには実際に同じ時代に西洋で見出だされたものに比べられるすばらしい発見などもあったことを想いますと、和算家としての關孝和の名は、我が国での大きな誇りの一つと見なくてはならないのでしょう。そこで關孝和がどんな仕事をのこしたかと云うことについて、ここでごく大略のお話をしてみることにします。 關孝和の生涯 關孝和は、通称を新助と云い、字は子豹で、自由亭と号しました。本姓は内山と云うので、内山七兵衞永明の二男であるということです。内山家の祖先は信州に住んでいたので、それから蘆田氏に属して上野国藤岡に移り、孝和は寛永十九年の三月にこの藤岡で生まれたと伝えられていますが、これは確かでないとも云われて居り、今ではそれがはっきりして居りません。父は蘆田氏の沒落後に幕府に仕え、駿河大納言附となったと云うことです。孝和は長じてから甲府の徳川綱重並びにその子綱豐に仕えたので、寳永元年に綱豐が将軍の世子となり、名も家宣と改めたときに、孝和もまたこの世子附として幕府の御家人となり、勘定吟味役から続いて御納戸組頭となりました。そして寳永三年に勤を辞してから、同五年の十月二十四日に歿しました。 寛永十九年に生まれたとすれば、この時六十七歳に当るわけですが、それは確かとは云われないのでしょう。江戸牛込七軒寺町の日蓮宗浄輪寺に葬られました。關氏と名のったのは、關五郎左衞門に養われたからだと云われていますが、それにもいくらかの疑いはあるとのことです。 さて孝和はこのような公けの勤めの間に、自分では数学を一生懸命に勉強し、遂に和算を大成させたと云うのですから、それをよく考えると、むしろ驚くべき事がらだと思われるのです。それももちろん数学が生来好きであったからには違いないのですが、彼の頭脳がいかにすぐれていたかと云うことを想わせるのであります。 数学を最初には高原吉種という人に学んだとも伝えられていますが、また一説にはすべて自分で勉強したのだとも云われているので、これもどちらが本当かわかりません。それにしても彼のその後の独創的な考え方がその頃として他に比べるものがなかったので、これはまことにすばらしいと云わなくてはならないのでしょう。 そのたくさんの仕事について、こまかい事までをここでお話しするわけにはゆきませんが、大体どんな成果を挙げたかということを、次にお話ししてみることにします。 關孝和の業績 關孝和が和算の上で成し遂げた仕事は非常にたくさんにあるのですが、なかでも最も目立っているのは、始めて筆算式の演算を考え出したということでありましょう。それまでの和算では、すべて支那からの伝統に従って算木というものを使って演算を行っていたのでしたが、それに代って筆算をはじめたということは、出来上った上では何でもないように思われても、最初にそれを考え出すということの苦心を想像すれば、やはり孝和のようなすぐれた考えをもっていなければなし得なかったことであると見られます。 孝和はまずそういう演算法をつかって、さきに記しました澤口一之の古今算法記や、磯村吉徳の算法闕疑抄に載せられてあって、まだ完全に解かれていなかった多くの問題をすっかり解決し、延寳二年に『発微算法』と題する一書にまとめて、それを公けにしました。この算法は演段術と名づけられて、その頃大いに評判となり、孝和の名声が一時に高まったということです。 これは今日の代数学に相当するものですが、後には更にこれから点竄術と称するものが出ました。なお門人建部賢弘の名で「発微算法演段諺解」並びに「研幾算法」と題する書物が出ていますが、これらも実は孝和の考えに出たものであろうと云われています。ともかくも、このようにして代数学の上に大きな進歩を来したことは、孝和の大きな功績の一つであります。 次に孝和の行った仕事として方程式に関するいろいろな事がらがあります。 まず方程式を解くのに巧みな省略計算をなしたり、また理論の上からその解法を整えて、適尽方級法と名づけるものを考え出し、これが方程式の吟味に大いに役立ったのでした。また支那の招差法や剰一術というのを取り入れてそれらを活用し、垜積即ち有限級数の総和を求めることができるようにしましたし、それを更に拡張して無限級数に対する公式をもつくり、そのほかに算木による二次方程式の解法を原則として、それから根を無限級数に展開する方法を考え出しました。この方法をだんだんに適用してゆくと、そこにいろいろの級数の比較ができ、その極限を求めることによって遂に円弧の公式をつくることができたのでした。これは円理の算法と云われ、和算の上では甚だ名だかいものなのですが、円弧の公式を実際につくり上げたのは、門人の建部賢弘であったと云うことです。 また円に関するいろいろの級数や、極大極小の問題や、整数論、三角法に関する事がらの研究もあります。その頃では螺線のことを円背と云っていましたが、その螺線や十字環に関する算法もいろいろしらべましたし、円弧の回転体の立積に関して中心周の問題というものをも取扱っています。また角術というのは正多角形の算法で、それをいろいろの場合に明らかにしたり、そのほかに行列式の論などもあります。 これらはいずれも数学の上でかなりにむずかしい事がらでありますから、このように名目をならべただけではまだ皆さんにはよくわかりかねるかも知れませんが、ここでは一々その内容を説明しているわけにもゆきませんので、それでも關孝和がいろいろの仕事を和算の上でなし遂げたということを明らかにするために記したのでした。 關孝和の時代は、今から顧みれば三百年近くも前の時代なので、西洋で云えばあの名だかいイギリスのニュートンなどとちょうど同じ頃なのですから、ずいぶん古い昔のことであり、その頃にこれだけのすばらしい仕事をなしたと云うことは、我国にとっても大きな誇りであると言わなければならないのでしょう。 ただ遺憾なことには、そういう古い時代のことなので、我が国のなかでは学問といえばむしろ聖賢の道を学ぶということが主にせられていて、数学などは一種の道楽のようにも見られていたのですから、もちろん關孝和の名声は和算家のなかには大いに聞こえてはいましたものの、一般の世のなかからはさほど重んぜられなかったのも止むを得ないことなのでした。それにつれて、和算にしてもそれ以後は弟子たちに秘伝として伝えられる有様となったので、この事も広く世間にひろがるのにはある妨げとなったのでした。それでも關流の算法というのはその後門弟に伝えられて、その間にはたくさんの名だかい和算家を出してはいたのでした。 前にも名をしるしました建部賢弘とか、またその外に荒木村英とか、それからその後の時代になって久留島義太、松永良弼、山路主住、安島直圓とか、藤田定資、會田安明、和田寧など、いずれも名だかい人々であります。しかし和算がただ秘伝として伝えられたことから、初めにも記しましたように、とかく問題もある方向に偏ったのは止むを得ないことでもあったのでした。 それと共に、もう一つには西洋でなされたように数学が実際上のいろいろの科学的な問題と密接に結びつかないで、単に一種の道楽のような形に残されていたことは、やはりそれの健全な発達を妨げたことにもなったのでした。もっともこの事は、江戸時代の我が国の有様から見て止むを得ないことにはちがいなかったのですが、それにしても既に古い時代に關孝和のようなすぐれた数学者を出したことから見て、それを大いに遺憾に感じないわけにはゆかないのです。 |
子供の頃「坊やん」と謂はれて居た小悧好な男があつた。彼の家はさして生計が豊かといふわけではなかつたが、さうかといつて苦しいといふわけではなく、田畑も少しは人にも貸して尚自分の家でも充分な耕作をして居たやうなところから、女ばかり引きつゞいて生れた後にひよつこり男の子として彼が生れた家庭は、ひた愛でに愛でつくして、某といふりつぱな名前があるにも拘らず「坊や、坊や」と呼び呼びした。隣家のものが先づ「坊やん」と呼び出した。何時の間にか村中誰彼となく「坊やん、坊やん」と呼ぶやうになつてしまつた。 坊やんは頭が少しくおでこで、ひきしまつた口元から、頬のあたりがほんのりと薄くれなゐの色をおび、すゞしげな眼をもつた容子が如何様紅顔の美少年であつた。どんな他愛ない事柄でも必ず面白さうに話すおぢいさんの肩車に乗つて、時には大きな蟇を赤裸にしたのをぶら下げたり鰻を棒の先きにくゝりつけて田圃路を帰つて来ることなどもあつた。坊やんはこのおぢいさんのみならず家族のすべてに可愛がられ山間の僻村は僻村だけに珍といふ珍、甘いといふ甘いものを喰はせられた。鰻の如きは焼き方から蒸しの具合に好味があらうけれども蟇の如きに至つては、焼いて醤油をたらすや即ち彼のぜいたくな大谷光瑞伯をして舌鼓を打たしむる底の妙味を有するといへば坊やんさぞ満足して舌鼓を打ちつゝ大きくなつたことであらうと思ふ。 坊やんが青年期に入らんとするとき、坊やんの父は病を得て死んだ。養蚕に熱心なあまり、夜半の天候を気づかひつゝ毎夜々々庭前に筵を敷いて、わざと熟睡の境に入ることが出来ないやうに木枕をして寝て居た。空が僅かにかき曇つて雨がぽつりと仰向いた顔へ落ちたかと見ると忽ち坊やんの父は跳ね起きて桑の用意にかゝつた。そんな事からからだを弱くして死んでしまつたと近隣のものが言ひ伝へた。 坊やんは蟇や鰻でそだてられたお蔭にめき〳〵大きく丈夫な体格になつていつて、多くの青年の間へ交つても天晴かゞやかしい風丰を見せるやうになつた。 又、おぢいさんがころりと死んだ。其のおぢいさんが鳩や雉子を打つ為めに、打つて坊やんに与ふる為めに、あやまつて自分の掌を打ち貫いた為めに、瓢軽な童謡にのこされたおぢいさんは他愛もなく病死してしまつたのである。と又翌くる年の夏、大出水の為めに谷川ばたの畑へ水防に出て居た坊やんの母が、どんぶり濁流へ落ちるとそのまゝ川下へ流れて行つて溺死してしまつた。山間僻村の最低地域をたゞ一筋流れて居る谷川ばたに其処に一つ此処に一つ僅かにくつ付いて居る畑の水防などに出るものは、坊やんの母とその時一緒に行つて居た坊やんの家の傭人との外には絶えてなかつた。坊やんの母といはるゝ人も平常はさほど慾深な――少しの荒畑の畔がかけるのを惜むものゝやうに思はれても居なかつたのであるが――。 昔、坊やんの家の菩提寺の所有であつた古墓地を、坊やんのおぢいさんが手に入れてだん〳〵それを開墾し今は上等な桑畑になつて居る。髑髏の大きな眼窩や梭のやうな肋骨の間へ根を張つた桑は附近の桑畑より余分に青々と茂つて居た。そんな無縁仏に罪をつくつて居るが為めに凶事がつゞくのだといふやうに口さがない山賤が茶を飲みあふにつけ煙草を吸ひあふにつけ話しあつた。 それから二三年過ぎると「坊やん」が一度神がくしにあつた。村人がさがしに行くと坊やんは青ざめた顔をして渓流を隔てた向ふの山の中腹に立ちつくして居た。軈て坊やんは妻をめとる幸運に向つて、その花妻がまた村人のほめものであつた。美しいかほかたちをそなへた上に人並すぐれた働きもので、坊やんと坊やんのおばあさんと坊やんの妹たち二三人の家庭の中に女王のやうに振舞つた。坊やんは身も世もなく妻を可愛がつた。 二三年可も不可もなく坊やんの家庭が平穏につゞけられていつた。其の中に坊やんが時々病気が起つて卒倒するといふやうな噂がたつた。事実病気の為めに苦しめられた坊やんはさんざん田舎医師へ通ひつめた末、人のすゝめるまゝに灸をすえてみたり滝にうたれてみたり、神詣でをしたりした。其の間に、美しいかほかたちの大きな体格をもつた妻のところへ、坊やんの甥が時々遊びに来た。甥とは言ひながら坊やんの長姉である人の子は坊やんと年齢の差が僅かに二ツ三ツであつた。村人の風評に上るやうになつてから間もなく坊やんの妻は、坊やんの甥に手を引かれて隣国の信濃へしばらく身をかくした。坊やんはそれからといふもの次第に精神が錯乱していつて、鉈をもつてわけもなく家族を逐ひ廻してみたり、日傭取りの男女をつかまへて擲ぐりつけたりした。気狂ひとして村人から取扱はれてから三四年の月日が過ぎた。坊やんの妻であつた女と、坊やんの甥である男も今は人の噂を踏みにぢつて、大ぴらに村へ帰つてから空家を借りて睦まじく生活をつゞけて居た。坊やんは火をつける事を好んで、毎日家族の油断をねらひすましては燧火をすつて藁屋敷の廂などへつけ〳〵したが、いつも家族の誰かに発見せられては消されてしまつた。 丁度、立秋の気がみなぎつて来た或る日の正午頃、山村の中所に吊られた鐘が慌しく鳴らされた。 私も庭前へ出て見た。 坊やんの家のあたりから天へ高く沖する煙が見えた。矢庭に馳せていつて見ると、坊やんの大きな藁家は天井一杯火になつて、東の窓口から濛々と黒煙が焔を交へて吐き出されて居た。桑摘みに出かけた家族の留守をねらつて坊やんは麦藁の束に火をかけ、その火の束を振りかざして屋内どこと定めず天井へまでかけ上つて焔を移して歩いた。而うして見る見る焼けつくさんとする我が家を仰いで、倒れんばかり身を傾けつゝ満面よろこびの色を呈して踊り歩いた。身内の男がかけつけて来て力まかせに坊やんの頭といはず背といはず叩きつけて居る下に坊やんは酔どれのやうに身をぐた〳〵させて手をたゝきながらつきせず踊つた。 |
一 ここに面白い本がある。本の名は「ジヤパン」で、発行されたのは一八五二年である。著者はチヤアレス・マツクフアレエンといひ、日本に来たことはないが、頗る日本に興味をもつた人である。少くとも、興味をもつたと称する人である。「ジヤパン」は、この人が、ラテン、ポルトガル、スペイン、イタリイ、フランス、オランダ、ドイツ、イギリス等の文献から、日本に関する記事をあつめ、それを集大成したものである。それ等の文献は、一五六〇年から一八五〇年の間のものをあつめたものであるが、著者がかういふ題目、即ち、日本に興味をもち出したのは、兵站総監ジエエムス・ドラマンドといふ人のおかげだつたらしい。なんでも、このドラマンドなるものは、若い時に実業に従事して、イギリス人であるにも拘らず、オランダ人といふ名前の下に日本にも数年住んでゐた。著者マツクフアレエンは、ブライトンで、このドラマンドに会ひ、その、日本に関する書物の蒐集を見せて貰つた。ドラマンドは、著者にそれ等を貸したばかりでなく、いろいろ、日本の事情などを話して聞かした。著者はそれ等の談話をも参照して、この「ジヤパン」といふ本を書きあげたのである。猶、ついでにつけ加へれば、このドラマンドといふ人は、名高い小説家スモレツトの曾姪を細君にしてゐて、そのまた細君は、甚だ文学好きだつたといふことである。 この本はかういふ因縁の下に出来あがつたものであるから到底実際日本の土を踏んだ旅行家の紀行ほど正確ではない。現に銅板の揷絵なども朝鮮の風俗を日本の風俗として、すまして入れてゐるくらゐである。しかしそれだけに今日のわれわれから見ると一種の興味のない訣ではない。例へば日本の皇帝は煙管を沢山もつてゐて、毎日違つた煙管で煙草をのむなどといふことを真面目に記載してゐるのは頗る御愛嬌といはなければならぬ。この本の中に日本の女を紹介し且つ論じた一章がある。それを今ざつと紹介して見ようと思ふ。 女が社会的にどういふ地位を占めてゐるかといふことは、著者マツクフアレエンによれば、文明の高低をはかる真の尺度であるが、日本の女の社会的地位は、如何なる他の東洋諸国よりも、数等高い。日本の女は、他の東洋諸国の女のやうに、幽閉同様の憂き目を見てゐない。相当の社会的待遇を受けてゐるのみならず、その父や夫の遊楽にあづかることも出来るものである。 妻の貞操や処女の童貞の如きは、全然、彼等の名誉の観念に一任されてゐるが、不貞の妻などといふものは、殆んど一人もゐないといつてもいい。尤もこれは、貞操を破つたが最後、直ちに死を受けるといふ事実のために、一層厳守されてゐることは事実である。 日本では、一番身分の高いものから、一番身分の低いものに至るまで、誰でも必ず学校教育を受ける。伝ふるところによれば、日本国中の学校の数は、世界中のどの国の学校の数よりも多いといふことである。且つまた、農夫並びに貧民さへ、少くとも読むことは出来るといふことである。従つて、女の教育も男の教育と同じやうに完備してゐる。現に、日本で非常に有名な詩人、歴史家、その他の著述家等のうちには、女も非常に多いくらゐである。 金持ちや貴族の間では、男は概して、女ほど貞操を守らない。しかし、母や妻である女が、純潔に生涯を送ることは最も確実である。それは、日本に伝へられる種々の物語に徴しても、また、大勢の旅行家の見聞した事実に徴しても、疑ふ余地はないといはなければならぬ。 日本の女は、何よりも、不名誉を恥ぢるものである。屈辱を被つたために自殺した女の話は、枚挙し難いといつてもよい。下の物語は、かういふ事実を立証するに足るものである。―― 或る身分のある男が、旅行に出た。その留守にまた、或貴族が、彼の(即ち、身分のある男の)妻に横恋慕をした。が、彼れの妻は、その貴族の誘惑に陥らなかつたばかりでなく、さんざん侮辱を加へさへした。しかし、その貴族は暴力を用ひたか、或ひはまた、謀略を用ひたかして、とにかく、その女の貞操を破つてしまつた。そこへ夫が帰つて来た。彼れの妻はいつものやうに、愛情をもつて夫を迎へた。しかし、その態度の中には、何か、厳として犯すべからざるところがあつた。夫はその態度を不思議に思つて、いろいろ問ひただして見たけれども、彼れの妻は、どういふ訣か、かう答へるばかりだつた、――「どうか明日まで、何事もおたづね下さいますな。明日になれば私は私の親戚やこの町の重な方々に来て頂いて、その前で、一切の事情を申し上げます。」 さて翌日になると、客は続々として、夫の家へ集まつて来た。その客の中には、彼れの妻をはづかしめた貴族もまた、混つてゐた。客は皆、その家の屋根にある露台で、饗応を受けた。そのうちに御馳走がすむと、彼れの妻は立ちあがつて、彼女の被つた屈辱を公にした。のみならず、熱烈に、夫にかう云つた。――「私はあなたの妻となる資格を失つたものでございます。どうか私を殺して下さいまし。」 夫をはじめ、そこにゐた客は皆、彼れの妻をなだめ、彼女には何も罪はない、彼女はただその貴族の犠牲になつたばかりである、といつた。彼れの妻は、彼等一同に深い感謝の意を示した。それから、夫の肩にすがつて、胸もさけるほど慟哭した。しかし、突然夫に接吻したと思ふと、その次の瞬間には、夫の手を振りはらひながら露台の端へ駆けて行くが早いか、遙か下へ身を投げてしまつた。 けれども、彼の妻は凌辱を被つたことは公にしても、誰が凌辱を加へたかといふことは、公にしなかつた。そのために、凌辱を加へた貴族は、夫や客の騒いでゐる間にそつと露台の階段を下つた。そして自殺した彼女の死骸のそばで、武士らしく、立派に切腹した。この切腹といふのは、日本の国民的自殺法であつて、腹の上を、彼れ自身十文字に切つて往生するのである。 「ジヤパン」の著者マツクフアレエンによれば、これは、ランドオルの追憶記といふものにある話だといふことである。実際、日本にかういふ話があるかどうかは、私にはわからない。ちよつと考へて見たところは、徳川時代の小説や戯曲の中にも、同じ話は見当らないやうである。或ひは、九州かどこかの田舎に、ほんたうにあつた話かも知れない。けれども、屋根の上の露台で宴会を開いたり、日本の武士の女房が、御亭主に接吻したりするのは、いかにも西洋人らしくて面白い。尤も、面白いといつて笑つてしまへば簡単であるが、昔の日本人の西洋を伝へたのも、やはり同じくらゐ間違つてゐることを思へばあまりいい気になつて、西洋人ばかり笑つてゐられぬことは事実である。いや、西洋どころではない。隣国の支那のことを伝へたのでも、このくらゐの間違ひは家常茶飯である。早い話が、近松門左衛門の「国姓爺」の中に描かれてゐる人物や風景を読んで見れば、やはり、日本とも支那ともつかぬ、甚だ奇妙な代物である。 マツクフアレエンは、この外にもう一つ、如何に日本の女が偉いかを示す話を挙げてゐる。――「チユウヤといふ偉い武士が、彼れの友達のジオシツといふものと共に、皇帝に対する陰謀を企てたことがある、このチユウヤの妻は、才色兼備の女だつた。チユウヤの陰謀は五十年間秘密に計画された後、とうとう、チユウヤの失策のために、露顕することになつた。そして政府は、チユウヤ並びにジオシツを逮捕せよといふ命令を出した。当時の事情に従へば、少くとも、チユヤを生捕にすることは、絶対に、政府には必要だつた。そのためには、どうしても、不意打ちを喰はせなければならなかつた。そこで、捕手はチユウヤの門の前で『火事だ、火事だ』といふ声をあげた。チユウヤは火事を見届けるために、門の外へ走り出した。捕手はそれを襲撃した。しかしチユウヤは、勇敢に戦つて、捕手を二人斬り殺した。けれども、とうとう多勢に無勢で、捕手のために逮捕されてしまつた。チユウヤの妻は、その間に、格闘の音を聞いて、早くも捕手の向つたことをさとり、夫の重要書類を火の中に投げ込んだ。その書類には、陰謀の一味たる貴族などの名前も載つてゐたのである。チユウヤの妻のおちついてゐたことは、今日でも、日本中の驚嘆の的になつてゐる。そのために女の判断力並びに決断力をほめる場合には、チユウヤの妻のやうだといふくらゐである。」 このチユウヤは、勿論、丸橋忠弥であり、ジオシツは由井正雪である。これもマツクフアレエンに従へば、やはり、ランドオルの追憶記に出てゐる話らしい。 「ジヤパン」の著者マツクフアレエンの伝へた日本の女は、殆んどユウトピアの女である。如何に一八六〇年代の日本の女でも、処女や妻の貞操がそれほど立派に保たれたといふことは、信用出来ないのに違ひない。これも、マツクフアレエンの馬鹿正直を笑つてしまへばそれだけであるが、外国の風俗人情を伝へる場合には、今日でも多少かういふ喜劇の行はれやすいのは事実である。この間も何かの新聞に何んとか女史が、アメリカの女学生の生活を天使の生活のやうに吹聴してゐたが、あの記事なども、半世紀後のアメリカ人の目に触れたらば、やはり、マツクフアレエンの「ジヤパン」と同じやうに、一笑に附せられるに相違ない。 二 サア・ラザフオオド・オルコツクの「日本における三年間」は、マツクフアレエンの本とくらべると、余程、日本の真相を正確に伝へるものである。 これは上下二巻で、千八百六十三年、ニユウヨオクのハアバア書肆から出てゐる。揷絵も沢山あり、その中にはまた、蕙斎の漫画などを複製したものも沢山ある。 第一に著者サア・ラザフオオド・オルコツクは、マツクフアレエンのやうに、机の上で日本を想像したのではない。この本の標題の示すとほり、三年間日本に住んでゐる。 第二は、サア・オルコツクは、マツクフアレエンのやうに無学ではない。相当に学問もあり、殊に、当時流行のミルの哲学などにも通じてゐる。そのために、日本で見聞した種々の事件に対しても、それぞれ、彼れ自身の見解を下してゐる。その見解の中には、今日はわれわれを微笑せしめるものもあるけれども、傾聴すべきものもないわけではない。これがまた、マツクフアレエンの本などには、全然見られぬ特色である。 サア・オルコツクは、徳川幕府の末年に日本に駐剳した、イギリスの特命全権公使である。その日本駐剳中には、井伊大老も桜田門外で刺客の手に斃れてゐる。西洋人も何人か浪人のために殺されてゐる。 といふと人事のやうに聞えるが、サア・オルコツクの住んでゐた品川の東禅寺にも浪士が斬り込んで、何人かの死傷を生じた事件もある。その上、サア・オルコツクは、富士山へ登つたり、熱海の温泉へはひつたり、可なり旅行も試みてゐる。かういふ風に、内外共多事の幕末の日本に住み、且つまた、江戸にばかりゐずに方々歩き廻つたのであるから、サア・オルコツクの日本紀行の興味の多いのは偶然ではない。 尤も、サア・オルコツクの日本紀行は、ロテイやキプリングのそれのやうに、芸術的色彩には富んでゐない。例へば浅草を描くにしても、ロテイの「日本の秋」の中の浅草のやうに、目のあたりに、黄ばんだ銀杏だの、赤い伽藍だのが浮んで来ないことは事実である。しかし前にもいつたやうに、その見聞した事件に対する見解は、なかなかおもしろい。 例へば、サア・オルコツクは、或る田舎家の縁先で、ばあさんが子供に灸をすゑてゐるのを見て、「われわれ人間は、古今を問はず、東西を問はず、架空の幸福を得るために、自ら肉体を苦しめることを好むものである」と嘆息してゐる。また、或る山を越える時に、ふと鶯の声を聴いて、「鶯の声はナイチンゲエルの声に似てゐる。日本の伝説によれば、日本人は鶯に音楽を教へたといふことである。これはもし事実とすれば驚くべきことに違ひない。なぜと云へば、日本人は自ら音楽を解しないのだから。」と嘲つてゐる。 これ等は微笑せずにはゐられぬ見解であるが、桜田門外の変に際して日本人の復讐崇拝を論じ、忠臣蔵の芝居などの民衆に与へる影響を論じたあたりは、なかなかおもしろい議論である。が、あまり横道にはいると、本題にはいるに手間取るから、その紹介は後の機会に譲ることにしたい。 しかし、その前に「日本における三年間」の大体を紹介するために、サア・オルコツクのはじめて長崎へはいつた時の印象を披露すれば、ざつと下のとほりである。―― 「雨の降つてゐる中に長崎の港へ船のはいつたのは、六月の四日(千八百五十九年)である。この港は、もう何度も、日本へ来た旅行家の筆に残つてゐる。しかし、曇つた空の下に見ても、全然美しさのないわけではない。港へはいるのに従つて、いくつもの島が目の前に浮んで来る。その島にはまた、絵のやうに美しいのも多い。 「船がずつと湾の中へはいると、長崎の街がむかうに横たはつてゐるのが見える。長崎の街は、幾つも連つた小山の裾にある。そして、木の茂つた小山の原へ、可なり高く匐ひあがつてゐる。右に見えるのは出島である。出島は扇の形をした、低い土地である。それが陸の方へ扇の柄を向けて、海の中へ突き出してゐる。出島には長い、広い一条の街路が通り、両側には、ヨオロツパ風の二階家がならんでゐる。見たところは、いかにも小じんまりしてゐる。(中略) 「湾そのものの、第一印象は、頗る、ノオルウエイの峡湾に似てゐる。殊に、ノオルウエイの首府クリスチヤニアにはいるところに似てゐる。尤も峡湾は、長崎の湾より美しい。長崎の湾も小山は水際からすぐに聳え立つて、そのまた小山には、鬱々と松が茂つてゐる、しかし上陸して見ると、植物はノオルウエイよりも遙かに熱帯的である。柘榴だの、柿だの、椰子だの、竹だのもある。がまた、くちなしだの、椿だのも茂つてゐる。あたりまへの歯朶も到る所にある。木蔦も壁にからんでゐる。道ばたには薊も沢山ある。」 まあかういふ調子である。さて、その日本の女を論ずるのを見ると、サア・オルコツクによれば、日本の女の社会的地位とか、男子との関係とかいふものは、古来常に賞讃されてゐる。しかし、実際、その賞讃に値するかどうか、疑はしいといはなければならぬ。私は(サア・オルコツク)ここで、日本人が国民として、他の国民よりも不道徳かどうかといふ問題にはいるつもりはない。けれども日本では、父が、売淫のために娘を売つたり、或ひは雇はせたりしても、法律はこれを罰しないのである。のみならず、それを認可するのである。且つまた、彼等の隣人さへも、全然、彼等を批難しない。かういふ国に健全なる道徳的感情が存在するといふことは、私の信じられぬところである。 なるほど、日本には奴隷の制度はない。農奴や奴隷や家畜のやうに売買される事はない。(尤も、ないといふのは半面の真理にとどまつてゐる。なぜといへば、日本の娘は一定の年限内といふものの、とにかく法律の定めるところにより、人身売買を行ふからである。して見ると男や少年も多分売買されるのに相違ない。)しかし、妾を蓄へる制度が存在する以上、家庭の神聖が保たれぬことは、何人にも見易い道理である。 かういふ国民的罪悪の害毒は、何によつて緩和されるか、それは差当り発見出来ない。しかしその緩和剤の一部は、たしかに支那におけるやうに、子に対する母の権威が非常に強いことにあるやうである。 日本の女は商品同様に扱はれ、彼等の意志も顧みられず、彼等の女としての権利も顧みられず、夫に売られるものである。且つまた夫の在世中は、家畜或は奴隷のやうに扱はれるものである。 しかし子供に対する絶対の権威は、いやしくも子供に関する限り、母としての日本の女を、男よりも高い位地に据ゑるために、幾分この害毒が緩和されるのである。恐らくはミカドの位にさへ、女が上ることの出来るといふのは、かういふ例の一つであらう。 実際また、女のミカドといふものは、古今に少くはないのである。たしかに日本の女の位置は、家畜や奴隷のやうに売買されるにも拘らず、存外辛抱の出来る点もないではないらしい。しかしこの点に関しては、まだいろいろ調べて見なければ、はつきりした判断を下すことは出来ない。また、親子の間の情愛も相当にあるやうである。とにかく日本人には、愛児的器官も発達してゐるのに違ひない。 サア・オルコツクの日本婦人は、とにかく、マツクフアレエンのそれよりも、正鵠を得てゐる。日本の女の社会的地位は、サア・オルコツクの日本に駐剳した時代、即ち嘉永万延以来あまり進歩してはゐないらしい。 しかし、サア・オツコツク以前の西洋人が、日本の女を讃美したのは、客観的に日本の女の社会的地位や何かを観察した上讃美したのかどうか、疑問である。それよりはむしろ、日本の女を実際ラシヤメンにして見た結果、正直だつたり、忠実だつたりしたために、大いに感謝の意を生じたのかも知れない。 これは徳川幕府の初年の話であるが、肥前平戸をイギリス人の引揚げる時にも、彼れ等は日本人の女房に、大いに依々恋々としたといふことである。すると、サア・オルコツクもラシヤメンを一人もつてゐたらば、必ずしも、日本の女を軽蔑すること、かくの如きには至らなかつたかも知れない。けれどもそのために、日本の女に対する正当に近い見解を得ることの出来たのは、少くとも後代の読書子には幸福であるといはなければならぬ。 私は先年支那へ遊んだ時、揚子江を溯る船の中で、或るノオルウエイ人と一緒になつた。彼れは、支那の女の社会的地位の低いのに憤慨してゐた。 何んでも彼れの話によれば、直隷河南の大饑饉の際には、支那人は牛を売るよりも先に女房を売りに来たといふことである。それにも拘らず、このノオルウエイ人は、妻としての支那人乃至日本人を雲の上までほめ上げてゐた。現に彼れは、同船のアメリカ人の夫婦と、そのためにはげしい論戦を開いたくらゐである。すると男といふものは、理窟の如何に拘らず、とにかく、内心では妻として――サア・オルコツクの言葉を用ゐれば、家畜或ひは奴隷としての女に、讃嘆の情を禁じ得ないものらしい。即ち、婦人運動が婦人自身の手を俟つほかに、成功する見込みがない所以である。 |
縮図の帳面 もう大分と前の話ですが、裏ン町で火事があって火の子がパッパッと飛んで来て、どうにも手のつけようがないと思ったことがありました。火の手があまり急に強くなりましたので、家財道具を取り出すという余裕もありませず、イザ身一つで避難しようとします時、何ぞ手に提げて行けるほどの物でもと、そこらを見廻しながら、咄嗟のうちにこれをと思って大急ぎで風呂敷に包んだのは、長年の間に集まっている縮図と写生の帳面でした。 その時は、幸いにも大事になりませず、別に避難もしないで済んだわけですが、そうした急場で咄嗟の間に思い当らせられるほどに、縮図と写生の帳面は強い深い思い出を持たされて居ります。いろんな紙を自分で綴じて作った帳面ですから、形も不整いで大小があり厚薄がありますが、何十年かの間に積もり積って重ねましたら、二、三尺ぐらいの高さにもなるほどの嵩になって居ます。 今時とは違いまして、私の若い頃の女の絵の修業には、随分辛いことが沢山ありました。世間の目も同僚の仕打ちも、思わず涙の出ることが何度となくありました。そんな時は唯、今に思い知らしてやると、独り歯噛みして勉強々々と自分で自分に鞭打つより外に道はありませぬでした。そうしては博物館に通い、時折の売立会を見に行きして、これはと思うものを縮図して居りました。それが集まったこの帳面なのです。立派に装釘された金目な参考資料などは、一、二度翻えして見ては居ましても記憶にも止まっていないものもあります。ですが私の縮図帳には其の時その時の涙が織り込まれ感奮が描き込まれているわけでございますから、忘れようとしても忘れられぬ思い出があるのです。 売立の会 その頃は売立の会などにしましても、今日ほど繁々あるわけでもありませず、時折祇園の栂の尾辺で小規模に催されるくらいでした。したがってそんな会は私にとっては大切な修業場でした。私は矢立を持っては絵の前に坐り込んで写しました。若さと熱心さがさせることではありますが、朝から坐り込んで晩までお昼の御飯を抜いて描きつづけたことも度々あります。 売立の会のことですから、都合によっては掛け換えられないでもありませぬし、もし昼飯に立ったりしていて掛け換わりでもしては写し損ねますので、坐り込んでしまったわけなのでしたが、その頃は今のようにそうした場所で縮図などしているような人もありませず、それに何処のなんという女子やら、誰も知った人もない名もない頃の私なのですから「アッ又来やはった」などと小僧さんや丁稚さん達が、わざと私に聞こえよがしの蔭口を利くことなども度々でした。 一度はこんなこともありました。前後も忘れて一生懸命に縮図をして居りますと「あ、もしもし、そこにそんなにべったり坐り込んで居られますと、お客さんが見に来られるのに邪魔になりますがなア」というようなことをむきつけに番頭さんに言われました。その時には思わず涙が落ちました。私にしましても、最初から商売の邪魔になってはならぬと思いますから、遠慮しいしい小さくなって写しているのです。それをそう意地悪く面と向って言われては口惜し涙も落ちます。私はその日良則の生菓子を持たせて使の者に手紙を添えて先方へやりまして、女子の身で絵の修業の熱心なあまりとは申しながら、端無い出過ぎたお邪魔をしまして済みませぬでした、と謝まってやりますと、改まって挨拶されて見ますと、先方も気づつなくなりましたものか、葉書を寄こしたりしまして、その次からは「おいでやす。さアどうぞ」などとお愛想を言ってくれられたりするほどにもなりまして、それがまた、かえって気の毒になったこともありました。 博物館 博物館は私にとりまして何より大切な勉強場でございました。 一年の計は元日にあり、ということですから今年は一つ元日から勉強してやりましょう、というような感激に満ちた気持ちで、お屠蘇を祝うと朝から博物館に通ったこともありました。近い頃ですと、お正月五日間ぐらい博物館もお休みでございますが、その頃は正月もお休みなしで、よくその年の干支の絵を並べられたりしてありました。私は今でも忘れませぬが、ある年の元日のこと、大元気で起きて見ますと、一夜のうちに大雪になっていまして、これはこれはと吃驚りさせられまして、とてもこれではと思いましたが、何をこれしきのことにと、雪の中をつっきって博物館に行ったことでした。 いつの頃からか私は女の絵ばかり描くようになってしまいましたが、修業を始めました頃は申すまでもなく、何も彼も写しました。もっとも自然好きで人物の絵の方が多くはありますし、その内でも女の絵が一番沢山になりましたようですが、花鳥でも山水でもこれはと思う目ぼしいものはみな写しました。いま出して見ますと、呉道子の人物もありますし、雪舟の観音もあります。文正の鳴鶴がありましたり元信の山水に応挙の花鳥、狙仙の猿……恐らく博物館に陳列されましたお寺方の絵ですと、大抵一通りは写してあります。 確か六曲屏風だったと思いますが、応挙の老松に雪の積もった絵を写しにかかった時のことです。上の方から写し出してだんだん下の方に描き下ろして行きますと、美濃紙で綴じた私の帳面に、その図がはまり切れなくなりました。あと二寸も余地があれば、縮図が纒まるのに残念なことやと思いますと、そのままでやめてしまうのが大変心残りに思われ出しまして、その晩帰宅して紙を継ぎ足して又その翌日その続きを写しにいったりしたことがあります。 祭の夜 祇園祭の夜、中京の大きなお店で屏風を飾られるのを写して歩くのも、私にはなかなかの勉強でした。お断りして半日も同じ絵の前に坐り込んで縮図したことはたびたびのことでした。福田浅次郎さんのお宅の由良之助お軽、丸平人形店の蕭白の美人、鳩居堂にも蕭白の美人があります。二枚折の又兵衛の美人観桜図は山田長左衛門さんと山田嘉三郎さんとに同じ図がありまして、私は嘉三郎さんの方のを縮図させて貰ったのを覚えて居りますが、先度、長左衛門さんの方のが売立に出たことがありましたので、久し振りに拝見に出ましたが、どうも同じ図同じ彩色ですが筆味が違うように思いました。一方が密で一方が荒ッぽい所があります。随って絵の全体の味に違いがあります。としますと一方の荒ッぽい方が模写したものなのかしらというような気もされました。 写生 私の帳面は縮図も写生も一緒くたでございます。素より他人に見せる積りの物ではなく、唯自分一人の心覚えのためですし勉強のためでありますから、辺文進の花鳥の側に二歳か三歳の松篁が這い廻っていましたり、仇英の楼閣山水の隣りに、馬上の橋本関雪さんが居られたりします。 この関雪さんの姿は明治三十六年頃と思いますが、栖鳳先生の羅馬の古城の屏風が出来ました年に、西山さんや五雲さんや塾の人が揃って上加茂あたりに写生に行った時の写生でございます。百姓の女や畑の牛やを写していますとき、今度は馬を写そうということになりましたら、橋本さんがそんなら私が乗って見せようと言われて、上手に乗って見せられたのを写したのでした。 こうして一枚々々繰って行って見ますと、栖鳳先生の元禄美人も出て来ます。橋本菱華という人の竹籔に烏の図もあります。春挙さんの瀧山水、五雲さんの猫など、その時これはと思ったものがこうして描きとめられてあるわけです。 |
一 机 僕は学校を出た年の秋「芋粥」といふ短篇を新小説に発表した。原稿料は一枚四十銭だつた。が、いかに当時にしても、それだけに衣食を求めるのは心細いことに違ひなかつた。僕はそのために口を探し、同じ年の十二月に海軍機関学校の教官になつた。夏目先生の死なれたのはこの十二月の九日だつた。僕は一月六十円の月俸を貰ひ、昼は英文和訳を教へ、夜はせつせと仕事をした。それから一年ばかりたつた後、僕の月俸は百円になり、原稿料も一枚二円前後になつた。僕はこれらを合せればどうにか家計を営めると思ひ、前から結婚する筈だつた友だちの姪と結婚した。僕の紫檀の古机はその時夏目先生の奥さんに祝つて頂いたものである。机の寸法は竪三尺、横四尺、高さ一尺五寸位であらう。木の枯れてゐなかつたせゐか、今では板の合せ目などに多少の狂ひを生じてゐる。しかしもう、かれこれ十年近く、いつもこの机に向つてゐることを思ふと、さすがに愛惜のない訣でもない。 二 硯屏 僕の青磁の硯屏は団子坂の骨董屋で買つたものである。尤も進んで買つた訣ではない。僕はいつかこの硯屏のことを「野人生計事」といふ随筆の中に書いて置いた。それをちよつと摘録すれば―― 或日又遊びに来た室生は、僕の顔を見るが早いか、団子坂の或骨董屋に青磁の硯屏の出てゐることを話した。 「売らずに置けといつて置いたからね、二三日中にとつて来なさい。もし出かける暇がなけりや、使でも何でもやりなさい。」 宛然僕にその硯屏を買ふ義務でもありさうな口吻である。しかし御意通りに買つたことを未だに後悔してゐないのは室生のためにも僕のためにも兎に角欣懐といふ外はない。 この文中に室生といふのはもちろん室生犀星君である。硯屏はたしか十五円だつた。 三 ペン皿 夏目先生はペン皿の代りに煎茶の茶箕を使つてゐられた。僕は早速その智慧を学んで、僕の家に伝はつた紫檀の茶箕をペン皿にした。(先生のペン皿は竹だつた。)これは香以の妹婿に当たる細木伊兵衛のつくつたものである。僕は鎌倉に住んでゐた頃、菅虎雄先生に字を書いて頂きこの茶箕の窪んだ中へ「本是山中人 愛説山中話」と刻ませることにした。茶箕の外には伊兵衛自身がいかにも素人の手に成つたらしい岩や水を刻んでゐる。といふと風流に聞えるかも知れない。が、生来の無精のために埃やインクにまみれたまま、時には「本是山中人」さへ逆さまになつてゐるのである。 四 火鉢 小さい長火鉢を買つたのもやはり僕の結婚した時である。これはたつた五円だつた。しかし抽斗の具合などは値段よりも上等に出来上つてゐる。僕は当時鎌倉の辻といふ処に住んでゐた。借家は或実業家の別荘の中に建つてゐたから、芭蕉が軒を遮つたり、広い池が見渡せたり、存外居心地のよい住居だつた。が、八畳二間、六畳一間、四畳半二間、それに湯殿や台所があつても、家賃は十八円を越えたことはなかつた。僕らはかういふ四畳半の一間にこの小さい長火鉢を据ゑ、太平無事に暮らしてゐた。あの借家も今では震災のために跡かたちもなくなつてゐることであらう。 |
潤いのある歌と、味いのある歌と、そこにどういう差があるかと考えて見た。単に詞の上で見るならば、潤いのあるということは、客観的な云い方で味いのあるということは、主観的な云い方であるとも云える。しかし細微に両者の意味を推考して見ると、両者に幾分の相違があるようにも思われる。 味いのある歌であるが、つまらぬ歌であるというような歌があるであろうか。またそれに反して、味いは少しも無いが、歌は面白いというような歌があるであろうか。そういうことが歌の上に疑問として成立つものかどうか。こうも考えて見た。 それで味いはあるがつまらぬ歌だというような歌は有り得ない事であろうと思うことに多くの疑いは起らぬけれど、味いというような感じはないが、何処か面白いというような歌はあるいはあるだろうと思われる。然らばどんな歌が、味いは無くても面白い歌という例歌があるかと云われると、その例歌を上げることは余程六つかしい。その味いのあると云うこと即歌の味いなるものが、具体的には説明の出来ない事柄であるから、甲は味いを感じて味いがあると云っても、乙は味いを感じないから味いが無いと云うことも出来る。こうなると、甲は味いがあるから佳作だと云い、乙は味いは無いが面白いから佳作だと云える訳である。それをまた一面から云うと、甲の味いを感ずるのは何等かの錯覚に基きやしないかと疑うことも出来る。乙の味を感じ得ないのは、あるいは感覚の鈍い為めにその味いを感ずることが出来ないのであろうとも云える。 これが飲食物であるならば、味いがなくてうまいというものは絶対に無いと云えるが、食味の鑑賞と芸術の鑑賞とを全然同感覚に訴える事は出来ないようにも考えられるから、歌の上には味いは無いが面白いことは面白いというような歌があるであろうとも考えられる。芸術が人に与うる興味は、飲食物のそれよりも、更に数層複雑なものであること勿論である以上、味いは無くても面白い歌という歌は有得べく思われる。 こう押詰めて来て見ると、その面白いということ(味いが無くても面白いという面白さ)は正しき芸術的感能に訴えた面白さであるか否か、と云うことだけが疑問として残る訳である。がそれは到底説明し能うべき問題でないような気がするから、結局面白く感ずるのは、その人が何等かの味いに触れるからという、概念的結論に帰着する外無いかも知れない。 極めて漠然とした概念から差別して考えて見ると、味いをもって勝ってる佳作と、要素をもって勝ってる佳歌との差別は考えられる。ここに云う味いは、芸術組成上の諸種の要素の、調合融合上から起る味いを云い、要素とは芸術組成上に必要なる、思想材料言語句法の各要素を云うのである。勿論その要素それ自身に、各その味いがあるのであるから以上の如き差別は、仮定の上に概括して云うことであるけれども、大別して云うならば、味いをもって勝ってる佳作と、要素をもって勝ってる佳作と、概括した差別は云うことが出来る訳である。 これを食物に譬えて云えば、諸種の材料を混和した調味と、刺身の如き焼肉の如き、材料その物の味いとの如きものである。人為の勝った味い、自然の勝った味いとの差である。 でこれを云い換えて見ると、情調的の歌は味いをもって勝り、思想的材料的の歌は要素をもって勝ると云えるのである。結局味いという詞の解釈上に起れる仮定の差別に過ぎないので、味いは無くても面白い歌という事は、味いということを、ある意味に極限した上から出た批評に過ぎないのであろう。 こう考えてくると味いのあるという事と潤いのあるという事とは、その意味の内容に殆ど相違は無いように思われる。一寸考えると、潤いのあるという事は味があるというよりは稍狭義に思考せられるが、潤いがあっても味いは無いという事は、想像が出来ない。そうして味いのある歌に潤いが無いということも考えられない。ただ味いの無い佳作という事は容易に想定が出来ないに反し潤いの感じは無くても、佳作はあり得ると無雑作に考えられる。味いと潤いとはこれだけの相違はあるように考えられる。 けれども如何なる塲合に於ても、歌に潤いが無いということをもって、創作上の進歩と認め得るような事は断じて有得ないと考えられる。そうして予は最も潤いのある歌を好むのである。潤いのある歌が何となく嘻しくなづかしい。味いを感じない歌に至っては最う嫌いである。少しその意を進めて云うならば、情調的味いの無い歌には殆ど興味を感ずることが出来ない。ここで断っておくがこの情調という語は、勿論人情の意味ではない。しかし予も自ら潤いの乏しい歌と思うような歌を詠んだ経験は少くない。前号『曼珠沙華』などはそれである。鬱情を散ずるに急なる、情調を湛うるの余裕がなくて出来た歌である。自分の慰安の心よりは、余義ない気持の勝った歌である。そういう心的状態で歌の出来ることは、何人にもあることであろうと思う。されば自分の歌としてその存在を欲して居ても、自分の好きな歌ではない。ある意味に於て、予の最も強く主張する叫びの意味の多い歌であるが、予の好みはその叫びの声が今少し潤いを帯びてありたいのである。 表現の具象が余りに鮮明な歌には、必ず潤いを欠くの弊が伴うのを常とする。自分の好まない歌をなぜ作るかと云う者があるかも知れないが、自分の感想は自分の好きなように許り有得ないから、これは余義ないのである。 刺身と焼肉、それを予は決して嫌ではない。けれども刺身と焼肉が何より美味いという人には、到底真の料理を語ることは出来ない如く、芸術の潤いを感取し得ないような人に詩趣を語ることは出来ないと思ってる。 それに就ても、近頃の『アラヽギ』で予の最も嘻しいのは石原純君の歌である。一月号の『思ひ出』の作も極めて平淡な抒情の内に深い味いのある歌であったが、二月号の『独都より』の作はまた一層面白い歌である。 そういうては失敬であるが、今度の歌は従来の石原君の歌とは頗る趣を異にして居る。従来石原君の歌の多くは、意味の複雑な具象の鮮明な歌であった。従て潤いがあるというような歌は少なかった。 それが今度の歌は、全く面目を異にして居るのである。予の最も好きな淡雅な味いと情調の潤いとが、無雑作な自然な語句の上に現われて居るのである。『思ひ出』の十首は殊に単純で平淡である。何等の巧みもなく、少しも六つかしい意味もなく、ただすらすらと旅情の追懐を歌って居る。こういう歌を大抵の人は、平凡である、稀薄である、素湯を飲むようであると云うのであるが、その淡然たる声調の上に何処ともなく、情緒のにじみが潤い出て居る。少しもこねかえしがないから一読純粋な清浄な感情が味われる。 あらっぽい刺撃の強い趣味の歌とは全くその味いを異にしてるのであるから、読者の方でもこういう歌を味おうとするには、気を静め心を平かにして、最も微細な感能の働きに待たねばならない。 十首の内取立ててどの歌が良いとも云えない。十首の連作を通しての上に、物になずむ親しみの情の淡い気持が、油然として湛うてる。思うに作者も想の動くままに詠み去って、その表現にそういう自覚があった訳ではなかろう。そこが最も尊い処で、その味いも潤いも極めて自然な所以である。 しかしこういう歌は、こういうのが面白いから作って見ようと云って作り得らるる歌ではない。歌の生死の境が真に一分一厘の処にあるのであるから、ほんの一厘の差で乾燥無味に陥って終うのである。 すもゝ実るみなみ独逸のたかき国の中にありといふミユンヘンの町 その語句に於て着想に於て、その題目に於て、何等の巧みも新しみもあるのではない。唯能く統一した一首の声調に、物に親しみなつかしむ気持が現われて居るのである。 人もあらぬ実験室の夜の更けにしづかにひびく装置を聞きぬ この歌は題目が殊に新しく、着想も面白いが、その題目や着想が淡い情調に融合されて、少しも目立たないで能く単純化が行われて居る。それから『独都より』の「リンデン」の作は、作者も云うてる如く、前の歌の淋しい内にも嬉しい親しみのある情調とは異なり、旅情の淋しさと自然のさびれた淋しみとを独りしみじみと味わってる情調が、一句一句の端にも湛うてる。 リンデンの嫩芽の萌えを見て過ぎしこゝに又来ぬ枯葉落つる日 静かな声、物うげな調子、それを味うて見るべきである。例の如く題目も思想も取立てていう程の事ではなくていて、しかも無限の味いを持ってるのは、一首の声調に作者の淋しい内的情態が、さながらに表現されて居るからである。結句の『枯葉落つる日』この一句これを取離して見れば、ただそれだけのことで、何等作者の独創があるのでなく、唯一句の記号に過ぎない詞であるが、この歌の結句にこの一句を置いて見ると、この平凡な一句が一首全体の上に、非常に淋しい影響と共鳴とを起すのである。この平凡な一句がここに置かれて生きて来るのみでなく、一首全体に統一を促し生命を起すの働きが出て来たのである。作歌に従うものは、この不可説なる、融合統一力の依て起る神意を考うべきである。こういう歌を見て「なんだただそれだけの事じゃないか」などと軽く読過して終うような人には、到底共に詩の生命を語ることは出来ない。 葉の落ちて只黒き幹のぬくぬくとあまた立ちならぶ様のさびしも 初句『葉の落ちて』の極めて自然な詞つきに、はや淋しい声を感ぜられる。第四句第五句なども「あまた立ちたり見るにさびしも」と明晰に云って終えば口調は強くなるけれども、淋しい沈んだ気持は現われない。僅かの相違であるが『あまた立ちならぶ様のさびしも』と詞に淀みのある云い方が自然に作者の心持を現わして居る。是等の歌から受ける興味の程量は読者の嗜好に依て相違のあるべきは勿論であるが、兎に角生命の脈々たる歌であるのだ。 リンデンの枯葉の落つる秋もまたけおもき空は曇りてあるなり これは前の歌のような感じを得られない歌である。結句『曇りてあるなり』の口調はこの塲合聊か軽快に過ぎると思う。 そぼぬれてせまき歩道のしきいしを一つ一つに踏みて行きけり 以下一連の歌は悉く金玉である。平淡な叙述の内に一道の寂しい情調が漲って居る。 夜眼さめて指針の光れる時計をば枕辺に見る二時にしありき 結句「二時にしありけり」と云わないで『ありき』と留めた処に深い感じがある。この一連の歌は、題目も新しく感じ方も新しい。そうして言外に寂しい情調が、しみ出て居る。そうして作者の心理状態が寂しい内にも漸く落ちついた処に僅かな余裕も窺れる。その自然の動きの現われてるのが、溜らなく嘻しい。 以上四連の歌を通読して見ると、作者の心理状態が時処に従って動揺し変化した自然の跡が歴々として読者の胸に響いてくる。一首一首を詠んでそれぞれ生きた感情に触れ、更に全体を読去って、また全体から受ける共鳴の響きが、暫くの間読者の胸に揺らぐを禁じ得ないのである。 予は是等の歌を、潤いのある歌、味いをもって勝った歌として推奨したい。そうしてまた理想的に成功した連作の歌として称揚したい。 十年以前より連作論を唱えた予は、近日更に連作に就て一論を試みたく思うて居る際に、以上の四連作を得たことは、予に取って非常に嬉しいのである。 大正2年3月『アララギ』 |
舌代 本物語は謂わば家庭的に行われたる霊界通信の一にして、そこには些の誇張も夾雑物もないものである。が、其の性質上記の如きところより、之を発表せんとするに当りては、亡弟も可なり慎重な態度を採り。霊告による祠の所在地、並に其の修行場などを実地に踏査する等、いよいよ其の架空的にあらざる事を確かめたる後、始めて之を雑誌に掲載せるものである。 霊界通信なるものは、純真なる媒者の犠牲的行為によってのみ信を措くに足るものが得らるるのであって、媒者が家庭的であるか否かには、大なる関係がなさそうである。否、家庭的なものの方が寧ろ不純物の夾雑する憂なく、却って委曲を尽し得べしとさえ考えらるるのである。 それは兎に角として、また内容価値の如何も之を別として、亡弟が心を籠めて遣せる一産物たるには相違ないのである。今や製本成り、紀念として之を座右に謹呈するに当たり、この由来の一端を記すこと爾り。 昭和十二年三月淺野正恭 序 霊界通信――即ち霊媒の口を通じ或は手を通じて霊界居住者が現界の我々に寄せる通信、例を挙ぐれば Gerldine Cummins の Beyond Human Personality は所謂「自動書記」の所産である。此書中に含まるる論文は故フレデリク・マイヤーズ――詩人として令名があるが、特に心霊科学に多大の努力貢献をした人――が霊界よりカムミンスの手を仮りて書いたものと信ずる旨をオリバ・ロッヂ卿、ローレンス・ヂョンス卿が証言した。(昨年十二月十八日の〟The Two Words〝所掲) カムミンスの他の自動書記は是迄四五種ある。其文体は各々相違して居る。又彼の自著小説があるが、是は全く右数種の自動書記と相違している。心霊科学に何等の実験がなく、潜在意識の所産などなどと説く懐疑者の迷を醒ますに足ると思う。 小櫻姫物語は解説によれば鎌倉時代の一女性がT夫人の口を借り数年に亘って話たるものを淺野和三郎先生が筆記したのである。但し『T夫人の意識は奥の方に微かに残っている』から私の愚見に因れば多少の Fiction は或はあり得ぬとは保障し難い。 しかしこれらを斟酌しても本書は日本に於いては破天荒の著書である。是を完成し終った後、先生は二月一日突然発病し僅々三十五時間で逝いた。二十余年に亘り、斯学の為めに心血を灑ぎ、あまりの奮闘に精力を竭尽して斃れた先生は斯学における最大の偉勲者であることは曰う迄もない。 私は昨年三月二十二日、先生と先生の令兄淺野正恭中将と岡田熊次郎氏とにお伴して駿河台の主婦の友社来賓室に於て九條武子夫人と語る霊界の座談会に列した。主婦の友五月号に其の筆記が載せられた。 日本でこの方面の研究は日がまだ浅い、この研究に従事した福来友吉博士が無知の東京帝大理学部の排斥により同大学を追われたのは二十余年前である。英国理学の大家、エレクトロン首先研究者、クルクス管の発明者、ローヤル・ソサィティ会長の故クルックス、ソルボン大学教授リシエ博士(ノーベル勲章受領者)、同じくローヤル・ソサィティ会長オリバ・ロッヂ卿……これら諸大家の足許にも及ばぬ者が掛かる偉大な先進の努力と研究とのあるを全く知らず、先入が主となるので、井底の蛙の如き陋見から心霊現象を或は無視し或は冷笑するのは気の毒千万である。淺野先生が二十余年に亘る研究の結果の数種の著述心霊講座、神霊主義と共に本書は日本に於ける斯学にとりて重大な貢献である。 仙台に於いて土井晩翠 解説 ――本書を繙かるる人達の為に―― 淺野和三郎 本篇を集成したるものは私でありますが、私自身をその著者というのは当らない。私はただ入神中のT女の口から発せらるる言葉を側で筆録し、そして後で整理したというに過ぎません。 それなら本篇は寧ろT女の創作かというに、これも亦事実に当てはまっていない。入神中のT女の意識は奥の方に微かに残ってはいるが、それは全然受身の状態に置かれ、そして彼女とは全然別個の存在――小櫻姫と名告る他の人格が彼女の体躯を司配して、任意に口を動かし、又任意に物を視せるのであります。従ってこの物語の第一の責任者はむしろ右の小櫻姫かも知れないのであります。 つまるところ、本書は小櫻姫が通信者、T女が受信者、そして私が筆録者、総計三人がかりで出来上った、一種特異の作品、所謂霊界通信なのであります。現在欧米の出版界には、斯う言った作品が無数に現われて居りますが、本邦では、翻訳書以外にはあまり類例がありません。 T女に斯うした能力が初めて起ったのは、実に大正五年の春の事で、数えて見ればモー二十年の昔になります。最初彼女に起った現象は主として霊視で、それは殆んど申分なきまでに的確明瞭、よく顕幽を突破し、又遠近を突破しました。越えて昭和四年の春に至り、彼女は或る一つの動機から霊視の他に更に霊言現象を起すことになり、本人とは異った他の人格がその口頭機関を占領して自由自在に言語を発するようになりました。『これで漸くトーキーができ上がった……』私達はそんな事を言って歓んだものであります。『小櫻姫の通信』はそれから以後の産物であります。 それにしても右の所謂『小櫻姫』とは何人か? 本文をお読みになれば判る通り、この女性こそは相州三浦新井城主の嫡男荒次郎義光の奥方として相当世に知られている人なのであります。その頃三浦一族は小田原の北條氏と確執をつづけていましたが、武運拙く、籠城三年の後、荒次郎をはじめ一族の殆んど全部が城を枕に打死を遂げたことはあまりにも名高き史的事蹟であります。その際小櫻姫がいかなる行動に出たかは、歴史や口碑の上ではあまり明らかでないが、彼女自身の通信によれば、落城後間もなく病にかかり、油壺の南岸、浜磯の仮寓でさびしく帰幽したらしいのであります。それかあらぬか、同地の神明社内には現に小桜神社(通称若宮様)という小社が遺って居り、今尚お里人の尊崇の標的になって居ります。 次に当然問題になるのは小櫻姫とT女との関係でありますが、小櫻姫の告ぐる所によれば彼女はT女の守護霊、言わばその霊的指導者で、両者の間柄は切っても切れぬ、堅き因縁の羈絆で縛られているというのであります。それに就きては本邦並に欧米の名ある霊媒によりて調査をすすめた結果、ドーも事実として之を肯定しなければならないようであります。 尚お面白いのは、T女の父が、海軍将校であった為めに、はしなくも彼女の出生地がその守護霊と関係深き三浦半島の一角、横須賀であったことであります。更に彼女はその生涯の最も重要なる時期、十七歳から三十三歳までを三浦半島で暮らし、四百年前彼女の守護霊が親める山河に自分も親しんだのでありました。これは単なる偶然か、それとも幽冥の世界からのとりなしか、神ならぬ身には容易に判断し得る限りではありません。 最後に一言して置きたいのは筆録の責任者としての私の態度であります。小櫻姫の通信は昭和四年春から現在に至るまで足掛八年に跨がりて現われ、その分量は相当沢山で、すでに数冊のノートを埋めて居ります。又その内容も古今に亘り、顕幽に跨り、又或る部分は一般的、又或る部分は個人的と言った具合に、随分まちまちに入り乱れて居ります。従ってその全部を公開することは到底不可能で、私としては、ただその中から、心霊的に観て参考になりそうな個所だけを、成るべく秩序を立てて拾い出して見たに過ぎません。で、材料の取捨選択の責は当然私が引受けなければなりませんが、しかし通信の内容は全然原文のままで、私意を加へて歪曲せしめたような個所はただの一箇所もありません。その点は特に御留意を願いたいと存じます。 (十一、十、五) 一、その生立 修行も未熟、思慮も足りない一人の昔の女性がおこがましくもここにまかり出る幕でないことはよく存じて居りまするが、斯うも再々お呼び出しに預かり、是非くわしい通信をと、つづけざまにお催促を受けましては、ツイその熱心にほだされて、無下におことわりもできなくなって了ったのでございます。それに又神さまからも『折角であるから通信したがよい』との思召でございますので、今回いよいよ思い切ってお言葉に従うことにいたしました。私としてはせいぜい古い記憶を辿り、自分の知っていること、又自分の感じたままを、作らず、飾らず、素直に申述べることにいたします。それがいささかなりとも、現世の方々の研究の資料ともなればと念じて居ります。何卒あまり過分の期待をかけず、お心安くおきき取りくださいますように……。 ただ私として、前以てここに一つお断りして置きたいことがございます。それは私の現世生活の模様をあまり根掘り葉掘りお訊ねになられぬことでございます。私にはそれが何よりつらく、今更何の取得もなき、昔の身上などを露ほども物語りたくはございませぬ。こちらの世界へ引移ってからの私どもの第一の修行は、成るべく早く醜い地上の執着から離れ、成るべく速かに役にも立たぬ現世の記憶から遠ざかることでございます。私どもはこれでもいろいろと工夫の結果、やっとそれができて参ったのでございます。で、私どもに向って身上噺をせいと仰ッしゃるのは、言わば辛うじて治りかけた心の古疵を再び抉り出すような、随分惨たらしい仕打なのでございます。幽明の交通を試みらるる人達は常にこの事を念頭に置いて戴きとう存じます。そんな訳で、私の通信は、主に私がこちらの世界へ引移ってからの経験……つまり幽界の生活、修行、見聞、感想と言ったような事柄に力を入れて見たいのでございます。又それがこの道にたずさわる方々の私に期待されるところかと存じます。むろん精神を統一して凝乎と深く考え込めば、どんな昔の事柄でもはっきり想い出すことができないではありませぬ。しかもその当時の光景までがそっくりそのまま形態を造ってありありと眼の前に浮び出てまいります。つまり私どもの境涯には殆んど過去、現在、未来の差別はないのでございまして。……でも無理にそんな真似をして、足利時代の絵巻物をくりひろげてお目にかけて見たところで、大した価値はございますまい。現在の私としては到底そんな気分にはなりかねるのでございます。 と申しまして、私が今いきなり死んでからの物語を始めたのでは、何やらあまり唐突……現世と来世との連絡が少しも判らないので、取りつくしまがないように思われる方があろうかと感ぜられますので、甚だ不本意ながら、私の現世の経歴のホンの荒筋丈をかいつまんで申上げることに致しましょう。乗りかけた船とやら、これも現世と通信を試みる者の免れ難き運命――業かも知れませぬ……。 私は――実は相州荒井の城主三浦道寸の息、荒次郎義光と申す者の妻だったものにございます。現世の呼名は小櫻姫――時代は足利時代の末期――今から約四百余年の昔でございます。もちろんこちらの世界には昼夜の区別も、歳月のけじめもありませぬから、私はただ神さまから伺って、成るほどそうかと思う丈のことに過ぎませぬ。四百年といえば現世では相当長い星霜でございますが、不思議なものでこちらではさほどにも感じませぬ。多分それは凝乎と精神を鎮めて、無我の状態をつづけて居る期間が多い故でございましょう。 私の生家でございますか――生家は鎌倉にありました。父の名は大江廣信――代々鎌倉の幕府に仕へた家柄で、父も矢張りそこにつとめて居りました。母の名は袈裟代、これは加納家から嫁いでまいりました。両親の間には男の児はなく、たった一粒種の女の児があったのみで、それが私なのでございます。従って私は小供の時から随分大切に育てられました。別に美しい程でもありませぬが、体躯は先ず大柄な方で、それに至って健康でございましたから、私の処女時代は、全く苦労知らずの、丁度春の小禽そのまま、楽しいのんびりした空気に浸っていたのでございます。私の幼い時分には祖父も祖母もまだ存命で、それはそれは眼にも入れたいほど私を寵愛してくれました。好い日和の折などには私はよく二三の腰元どもに傅れて、長谷の大仏、江の島の弁天などにお詣りしたものでございます。寄せてはかえす七里ヶ浜の浪打際の貝拾いも私の何より好きな遊びの一つでございました。その時分の鎌倉は武家の住居の建ち並んだ、物静かな、そして何やら無骨な市街で、商家と言っても、品物は皆奥深く仕舞い込んでありました。そうそう私はツイ近頃不図した機会に、こちらの世界から一度鎌倉を覗いて見ましたが、赤瓦や青瓦で葺いた小さな家屋のぎっしり建て込んだ、あのけばけばしさには、つくづく呆れて了いました。 『あれが私の生れた同じ鎌倉かしら……。』私はひとりそうつぶやいたような次第で……。 その頃の生活状態をもっと詳しく物語れと仰っしゃいますか――致方がございませぬ、お喋りの序でに、少しばかり想い出して見ることにいたしましょう。もちろん、順序などは少しも立って居りませぬから何卒そのおつもりで……。 二、その頃の生活 先ずその頃の私達の受けた教育につきて申上げてみましょうか――時代が時代ゆえ、教育はもう至って簡単なもので、学問は読書、習字、又歌道一と通り、すべて家庭で修めました。武芸は主に薙刀の稽古、母がよく薙刀を使いましたので、私も小供の時分からそれを仕込まれました。その頃は女でも武芸一と通りは稽古したものでございます。処女時代に受けた私の教育というのは大体そんなもので、馬術は後に三浦家へ嫁入りしてから習いました。最初私は馬に乗るのが厭でございましたが、良人から『女子でもそれ位の事は要る』と言われ、それから教えてもらいました。実地に行って見ると馬は至って穏和しいもので、私は大へん乗馬が好きになりました。乗馬袴を穿いて、すっかり服装がかわり、白鉢巻をするのです。主に城内の馬場で稽古したのですが、後には乗馬で鎌倉へ実家帰りをしたこともございます。従者も男子のみでは困りますので、一人の腰元にも乗馬の稽古を致させました。その頃ちょっと外出するにも、少くとも四五人の従者は必らずついたもので……。 今度はその時分の物見遊山のお話なりといたしましょうか。物見遊山と申してもそれは至って単純なもので、普通はお花見、汐干狩、神社仏閣詣で……そんな事は只今と大した相違もないでしょうが、ただ当時の男子にとりて何よりの娯楽は猪狩り兎狩り等の遊びでございました。何れも手に手に弓矢を携え、馬に跨って、大へんな騒ぎで出掛けたものでございます。父は武人ではないのですが、それでも山狩りが何よりの道楽なのでした。まして筋骨の逞ましい、武家育ちの私の良人などは、三度の食事を一度にしてもよい位の熱心さでございました。『明日は大楠山の巻狩りじゃ』などと布達が出ると、乗馬の手入れ、兵糧の準備、狩子の勢揃い、まるで戦争のような大騒ぎでございました。 そうそう風流な、優さしい遊びも少しはありました。それは主として能狂言、猿楽などで、家来達の中にそれぞれその道の巧者なのが居りまして、私達も時々見物したものでございます。けれども自分でそれをやった覚えはございませぬ。京とは異って東国は大体武張った遊び事が流行ったものでございますから……。 |
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