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一 糟谷獣医は、去年の暮れ押しつまってから、この外手町へ越してきた。入り口は黒板べいの一部を切りあけ、形ばかりという門がまえだ。引きちがいに立てた格子戸二枚は、新しいけれど、いかにも、できの安物らしく立てつけがはなはだ悪い。むかって右手の門柱に看板がかけてある。板も手ごしらえであろう、字ももちろん自分で書いたものらしい、しろうとくさい幼稚な字だ。 「家畜診察所」 とある大字のわきに小さく「病畜入院の求めに応じ候」と書いてある。板の新しいだけ、なおさら安っぽく、尾羽打ち枯らした、糟谷の心のすさみがありありと読まれる。 あがり口の浅い土間にあるげた箱が、門外の往来から見えてる。家はずいぶん古いけれど、根継ぎをしたばかりであるから、ともかくも敷居鴨居の狂いはなさそうだ。 入り口の障子をあけると、二坪ほどな板の間がある。そこが病畜診察所兼薬局らしい。さらに入院家畜の病室でもあろう、犬の箱ねこの箱などが三つ四つ、すみにかさねあげてある。 ほかに六畳の間が二間と台所つき二畳が一間ある。これで家賃が十円とは、おどろくほど家賃も高くなったものだ。それでも他区にくらべると、まだたいへん安いといって、糟谷はよろこんで越してきたのである。 糟谷は次男芳輔三女礼の親子四人の家族であるが、その四人の生活が、いまの糟谷の働きでは、なかなかほねがおれるのであった。 平顔の目の小さいくちびるの厚い、見たとおりの好人物、人と話をするにかならず、にこにこと笑っている人だ。なにほど心配なことがあっても、心配ということを知っていそうなふうのない人である。 細君はそれと正反対に、色の青白い、細面なさびしい顔で、用談のほかはあまり口はきかぬ。声をたてて笑うようなことはめったにない。そうかといって、つんとすましているというでもない。 それは、前途におおくの希望を持った、若い時代には、ずいぶんいやにすました人だといわれたこともあった。実際気位高くふるまっていたこともあった。しかしながらいまのこの人には、そんな内心にいくぶん自負しているというような、気力は影もとどめてはいない。きどって黙っていた、むかしのおもかげがただその形ばかりに残ってるのだ。 天性陰気なこの人は、人の目にたつほど、愚痴も悔やみもいわなかったものの、内心にはじつに長いあいだの、苦悶と悔恨とをつづけてきたのである。いまは苦悶の力もつきはてて、目に気張りの色も消えてしまった。 生まれが生まれだけにどことなし、人柄なところがあって、さびしい面ざしがいっそうあわれに見える。もうもう我が世はだめだとふかくあきらめて、なるままに身をも心をもまかせてしまったというふうである。それでもさすがに、ここへ移ってきた夜は、だれにいうとはなく、 「引っ越すたびに家が小さくなる」 とひとりごとをくりかえしておった。 糟谷はあければ五十七才になる。細君はそれより十一の年下とかいった。糟谷は本所へ越してきて、生活の道が確立したかというに、まだそうはいかぬらしい。 糟谷が上京以来たえず同情を寄せて、ねんごろまじわってきた、当区の畜産家西田という人が、糟谷の現状を見るにしのびないで、ついに自分の手近に越さしたのであるが、糟谷が十年住んでおった、新小川町のとにかく中流の住宅をいでて、家賃十円といういまの家へ移ってきたについては、一場の悲劇があった結果である。 二 糟谷は明治十五年ごろから、足掛け十二年のあいだ、下総種畜場の技師であった。そのころ種畜場は農商務省の所管であった。糟谷は三十になったばかり、若手の高等官として、周囲から多大の希望を寄せられていた。 新しい学問をした獣医はまだすくない時代であるから、糟谷は獣医としても当時の秀才であった。快活で情愛があって、すこしも官吏ふうをせぬところから、場中の気受けも近郷の評判もすこぶるよろしかった。近郷の農民はひいきの欲目から、糟谷は遠からずきっと場長になると信じておった。 糟谷は西洋葉巻きを口から離さないのと、へたの横好きに碁を打つくらいが道楽であるから、老人側にも若い人の側にもほめられる。時間のゆるすかぎり、糟谷は近郷の人の依頼に応じて家蓄の疾病を見てやっていた。職務に忠実な考えからばかりではないのだ。無邪気な農民から、糟谷さん糟谷さんともてはやされるのが、単調子の人よしの糟谷にはうれしかったからである。 梅の花、菜の花ののどかな村むらを、粟毛に額白の馬をのりまわした糟谷は、当時若い男女の注視の焦点であった。糟谷は種畜場におって、公務をとるよりは、村落へでて農民を相手に働くのが、いつも愉快に思われてきた。そうしてこういうことが、自己の天職からみてもかえってとうといのじゃないかなど考えながら、ますます乗り気になって農民に親しむことをつとめた。 糟谷はでるたびにいく先ざきで、村の青年らを集め、農耕改良はかならず畜産の発達にともなうべき理由などを説き、文明の農業は耕牧兼行でなければならぬということなどをしきりに説き聞かせ、養鶏をやれ、養豚をやれ、牛はかならず洋牛を飼えとすすめた。人望のあった糟谷の話であるから、近郷の農民はきそうて家畜を飼うた。 糟谷はこのあいだに、三里塚の一富農の長女と結婚した。いまの細君がそれである。細君の里方では、糟谷をえらい人と思いこみ、なお出世する人と信じて、この結婚を名誉と感じてむすめをとつがし、糟谷のほうでもただ良家の女ということがありがたくて、むぞうさにこの結婚は成立した。それで男も女も恋愛に関する趣味にはなんらの自覚もなかった。 精神上からみると、まことに無意味な浅薄な結婚であったけれど、世間の目から羨望の中心となり、一時近郷の話題の花であった。そして糟谷夫婦もたわいもない夢に酔うておった。 三 過渡期の時代はあまり長くはなかった。糟谷が眼前咫尺の光景にうつつをぬかしているまに、背後の時代はようしゃなく推移しておった。 札幌農学校や駒場農学校あたりから、ぞくぞくとして農学上獣医学上の新秀才がでてくる。勝島獣医学博士が駒場農学校のまさに卒業せんとする数十名の生徒をひきいて種畜場参観にこられたときは、教師はもちろん生徒にいたるまで糟谷のごときほとんど眼中になかった。 糟谷が自分の周囲の寂寥に心づいたときはもはやおそかった。糟谷ははるかに時代の推移から取り残されておった。場長の位置を望むなどじつに思いもよらぬことと思われてきた。いまの現在の位置すらも、そろそろゆれだしたような気がする。ものに屈託するなどいうことはとんと知らなかった糟谷も、にわかに悔恨の念禁じがたく、しばしば寝られない夜もあった。糟谷はある夜また例のごとく、心細い思案にせめられて寝られない。 なるほど自分はうかつであった。国家のためということを考えて働いた。畜産界のためということも考えて働いた。人民のためということも考えて働いた。けれどもただ自分のためということは、ほとんど胸中になく働いておった。なんといううかつであったろう。もうまにあわない、なにもかもまにあわない。 糟谷はこう考えながら、自分には子どもがふたりあるということを強く感じて、心持ちよく眠っている妻子をかえりみた。長男義一はふとってつやつやしい赤い顔を、ふとんから落としてすやすや眠っている。妻は三つになる次男を、さもかわいらしそうに胸に抱きよせ子どものもじゃもじゃした髪の毛に、白くふっくらした髪をひつけてなんの苦もない面持ちに眠っている。糟谷はいよいよさびしくてたまらなくなった。 自分になんらの悪気はなかったものの、妻が自分にとつぐについては自分に多大な望みを属してきたことは承知していたのだ。そうことばの穂にでたときにも、自分は調子にのって気休めをいうたこともあったのだ。 結婚当時からのことをいろいろ回想してみると、妻に対しての気のどくな心持ち、しゅうとしゅうとめに対して面目ない心持ち、いちいち自分をくるしめるのである。かれらが失望落胆すべき必然の時期はもはや目のまえに迫っていると思うと、はらわたが煮えかえってちぎれる心持ちがする。自分はなんらおかした罪はないと考えても、それがために苦痛の事実が軽くなるとは思えないのだ。 糟谷はまた自分の結婚するについてもその当時あまりに思慮のなかったことをいまさらのごとく悔いた。家とか位置とかいうことを、たがいに目安にせず、いわば人と人との結婚であったならば、自分の位置に失望的な変遷があったにしろ、ともにあいあわれんで、夫婦というものの情合いによって、失望の苦も慰むところがあるにちがいないだろうが、それがいまの自分にはほとんど望みがないばかりでなく、かえって夫婦間におこるべきいやな、いうにいわれない苦痛のために、時代に捨てらるるさびしさがいっそう苦しいのである。それもこれも考えればみな自分のうかつから求めたことでまぬがれようのない、いわゆるみずから作れるわざわいだ……。 恋愛などということただただばかげてるとばかり思っていたが、恋愛のとぼしい結婚はじつにばかげておった。ばかげているというよりも、いまはそのあさはかな結婚のために、たまらないいやなくるしみをせねばならぬことになった。 こう思って糟谷はまた妻や子の寝姿を見やった。なにか重いものでしっかりおさえていられるように妻や子どもは寝入っている。 いよいよ自分も非職となり、出世の道がたえたときまったら、妻はどうするか、かれの両親はどういう態度をするか、こういうときに夫婦の関係はどうなるものかしら。いっそのこと別れてしまえばかえって気は安いが、やはり男の子ふたりのかすがいが不本意に夫婦をつないでおくのだろう。 「しようがないから」「どうすることもできないから」「よんどころないからあきらめている」というような心持ちで、いかにもつまらない冷やかな家庭を作っていねばならないのか、ああ考えるのもいやだ……。 うっかりして過渡期の時代におったというのが、つまり思慮がたらなかったのだ……。ここをやめたからとて、妻子をやしなってゆくくらいにこまりもせまいが、しかたがない、どうなるものか益のない考えはよそう。 考えにつかれた糟谷は、われしらずああ、ああと嘆声をもらした。下女がおきるなと思ってから、糟谷はわずかに眠った。 四 翌朝はようやく出勤時間にまにあうばかりにおきた。よほど顔色がわるかったか、 「どうかなさいましたか」 |
近ごろ近ごろ、おもしろき書を読みたり。柳田国男氏の著、遠野物語なり。再読三読、なお飽くことを知らず。この書は、陸中国上閉伊郡に遠野郷とて、山深き幽僻地の、伝説異聞怪談を、土地の人の談話したるを、氏が筆にて活かし描けるなり。あえて活かし描けるものと言う。しからざれば、妖怪変化豈得てかくのごとく活躍せんや。 この書、はじめをその地勢に起し、神の始、里の神、家の神等より、天狗、山男、山女、塚と森、魂の行方、まぼろし、雪女。河童、猿、狼、熊、狐の類より、昔々の歌謡に至るまで、話題すべて一百十九。附馬牛の山男、閉伊川の淵の河童、恐しき息を吐き、怪しき水掻の音を立てて、紙上を抜け出で、眼前に顕るる。近来の快心事、類少なき奇観なり。 昔より言い伝えて、随筆雑記に俤を留め、やがてこの昭代に形を消さんとしたる山男も、またために生命あるものとなりて、峰づたいに日光辺まで、のさのさと出で来らむとする概あり。 古来有名なる、岩代国会津の朱の盤、かの老媼茶話に、 奥州会津諏訪の宮に朱の盤という恐しき化物ありける。或暮年の頃廿五六なる若侍一人、諏訪の前を通りけるに常々化物あるよし聞及び、心すごく思いけるおり、又廿五六なる若侍来る。好き連と思い伴いて道すがら語りけるは、ここには朱の盤とて隠れなき化物あるよし、其方も聞及び給うかと尋ぬれば、後より来る若侍、その化物はかようの者かと、俄に面替り眼は皿のごとくにて額に角つき、顔は朱のごとく、頭の髪は針のごとく、口、耳の脇まで切れ歯たたきしける…… というもの、知己を当代に得たりと言うべし。 さて本文の九に記せる、 菊地弥之助と云う老人は若き頃駄賃を業とせり。笛の名人にて、夜通しに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜にあまたの仲間の者と共に浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取出して吹きすさみつつ、大谷地(ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり内地に多くある地名なりまたヤツともヤトともヤとも云うと註あり)と云う所の上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺の林しげく、其下は葦など生じ湿りたる沢なり。此時谷の底より何者か高き声にて面白いぞ――と呼わる者あり。一同悉く色を失い遁げ走りたりと云えり。 この声のみの変化は、大入道よりなお凄く、即ち形なくしてかえって形あるがごとき心地せらる。文章も三誦すべく、高き声にて、面白いぞ――は、遠野の声を東都に聞いて、転寝の夢を驚かさる。 白望の山続きに離森と云う所あり。その小字に長者屋敷と云うは、全く無人の境なり。茲に行きて炭を焼く者ありき。或夜その小屋の垂菰をかかげて、内を覗う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫声を聞くことは、珍しからず。 佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて女の走り行くを見たり。中空を走る様に思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばりたるを聞けりとぞ。 修羅の巷を行くものの、魔界の姿見るがごとし。この種の事は自分実地に出あいて、見も聞きもしたる人他国にも間々あらんと思う。われ等もしばしば伝え聞けり。これと事柄は違えども、神田の火事も十里を隔てて幻にその光景を想う時は、おどろおどろしき気勢の中に、ふと女の叫ぶ声す。両国橋の落ちたる話も、まず聞いて耳に響くはあわれなる女の声の――人雪頽を打って大川の橋杭を落ち行く状を思うより前に――何となく今も遥かに本所の方へ末を曳いて消え行く心地す。何等か隠約の中に脈を通じて、別の世界に相通ずるものあるがごとくならずや。夜半の寝覚に、あるいは現に、遠吠の犬の声もフト途絶ゆる時、都大路の空行くごとき、遥かなる女の、ものとも知らず叫ぶ声を聞く事あるように思うはいかに。 またこの物語を読みて感ずる処は、事の奇と、ものの妖なるのみにあらず。その土地の光景、風俗、草木の色などを不言の間に聞き得る事なり。白望に茸を採りに行きて宿りし夜とあるにつけて、中空の気勢も思われ、茸狩る人の姿も偲ばる。 大体につきてこれを思うに、人界に触れたる山魅人妖異類のあまた、形を変じ趣をこそ変たれ、あえて三国伝来して人を誑かしたる類とは言わず。我国に雲のごとく湧き出でたる、言いつたえ書きつたえられたる物語にほぼ同じきもの少からず。山男に石を食す。河童の手を奪える。それらなり。この二種の物語のごときは、川ありて、門小さく、山ありて、軒の寂しき辺には、到る処として聞かざるなき事、あたかも幽霊が飴を買いて墓の中に嬰児を哺みたる物語の、音羽にも四ツ谷にも芝にも深川にもあるがごとし。かく言うは、あえて氏が取材を難ずるにあらず。その出処に迷うなり。ひそかに思うに、著者のいわゆる近代の御伽百物語の徒輩にあらずや。果してしからば、我が可懐しき明神の山の木菟のごとく、その耳を光らし、その眼を丸くして、本朝の鬼のために、形を蔽う影の霧を払って鳴かざるべからず。 この類なおあまたあり。しかれども三三に、 ……(前略)……曾て茸を採りに入りし者、白望の山奥にて金の桶と金の杓とを見たり、持ち帰らんとするに極めて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず、また来んと思いて樹の皮を白くし栞としたりしが、次の日人々と共に行きてこれを求めたれど終にその木のありかをも見出し得ずしてやみたり。 というもの。三州奇談に、人あり、加賀の医王山に分入りて、黄金の山葵を拾いたりというに類す。類すといえども、かくのごときは何となく金玉の響あるものなり。あえて穿鑿をなすにはあらず、一部の妄誕のために異霊を傷けんことを恐るればなり。 また、事の疑うべきなしといえども、その怪の、ひとり風の冷き、人の暗き、遠野郷にのみ権威ありて、その威の都会に及び難きものあるもまた妙なり。山男に生捕られて、ついにその児を孕むものあり、昏迷して里に出でずと云う。かくのごときは根子立の姉のみ。その面赤しといえども、その力大なりといえども、山男にて手を加えんとせんか、女が江戸児なら撲倒す、……御一笑あれ、国男の君。 物語の著者も知らるるごとく、山男の話は諸国到る処にあり。雑書にも多く記したれど、この書に選まれたるもののごとく、まさしく動き出づらん趣あるはほとんどなし。大抵は萱を分けて、ざわざわざわと出で来り、樵夫が驚いて逃げ帰るくらいのものなり。中には握飯を貰いて、ニタニタと打喜び、材木を負うて麓近くまで運び出すなどいうがあり。だらしのなき脊高にあらずや。そのかわり、遠野の里の彼のごとく、婦にこだわるものは余り多からず。折角の巨人、いたずらに、だだあ、がんまの娘を狙うて、鼻の下の長きことその脚のごとくならんとす。早地峰の高仙人、願くは木の葉の褌を緊一番せよ。 さりながらかかる太平楽を並ぶるも、山の手ながら東京に棲むおかげなり。 奥州……花巻より十余里の路上には、立場三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚し。 と言われたる、遠野郷に、もし旅せんに、そこにありてなおこの言をなし得んか。この臆病もの覚束なきなり。北国にても加賀越中は怪談多く、山国ゆえ、中にも天狗の話は枚挙するに遑あらねど、何ゆえか山男につきて余り語らず、あるいは皆無にはあらずやと思う。ただ越前には間々あり。 近ごろある人に聞く、福井より三里山越にて、杉谷という村は、山もて囲まれたる湿地にて、菅の産地なり。この村の何某、秋の末つ方、夕暮の事なるが、落葉を拾いに裏山に上り、岨道を俯向いて掻込みいると、フト目の前に太く大なる脚、向脛のあたりスクスクと毛の生えたるが、ぬいとあり。我にもあらず崖を一なだれにころげ落ちて、我家の背戸に倒れ込む。そこにて吻と呼吸して、さるにても何にかあらんとわずかに頭を擡ぐれば、今見し処に偉大なる男の面赤きが、仁王立ちに立はだかりて、此方を瞰下ろし、はたと睨む。何某はそのまま気を失えりというものこれなり。 毛だらけの脚にて思出す。以前読みし何とかいう書なりし。一人の旅商人、中国辺の山道にさしかかりて、草刈りの女に逢う。その女、容目ことに美しかりければ、不作法に戯れよりて、手をとりてともに上る。途中にて、その女、草鞋解けたり。手をはなしたまえ、結ばんという。男おはむきに深切だてして、結びやるとて、居屈みしに、憚りさまやの、とて衝と裳を掲げたるを見れば、太脛はなお雪のごときに、向う脛、ずいと伸びて、針を植えたるごとき毛むくじゃらとなって、太き筋、蛇のごとくに蜿る。これに一堪りもなく気絶せり。猿の変化ならんとありしと覚ゆ。山男の類なりや。 またこれも何の書なりしや忘れたり。疾き流れの谿河を隔てて、大いなる巌洞あり。水の瀬激しければ、此方の岸より渡りゆくもの絶えてなし。一日里のもの通りがかりに、その巌穴の中に、色白く姿乱れたる女一人立てり。怪しと思いて立ち帰り人に語る。驚破とて、さそいつれ行きて見るに、女同じ処にあり。容易く渉るべきにあらざれば、ただ指して打騒ぐ。かかる事二日三日になりぬ。余り訝しければ、遥かに下流より遠廻りにその巌洞に到りて見れば、女、美しき褄も地につかず、宙に下る。黒髪を逆に取りて、巌の天井にひたとつけたり。扶け下ろすに、髪を解けば、ねばねばとして膠らしきが着きたりという。もっともその女昏迷して前後を知らずとあり。 何の怪のなす処なるやを知らず。可厭らしく凄く、不思議なる心持いまもするが、あるいは山男があま干にして貯えたるものならんも知れず、怪しからぬ事かな。いやいや、余り山男の風説をすると、天井から毛だらけなのをぶら下げずとも計り難し。この例本所の脚洗い屋敷にあり。東京なりとて油断はならず。また、恐しきは、 猿の経立、お犬の経立は恐しきものなり。お犬とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり、ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上にお犬うずくまりてあり。やがて首を下より押上ぐるようにしてかわるがわる吠えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ、後から見れば存外小さしと云えり。お犬のうなる声ほど物凄く恐しきものなし。 実にこそ恐しきはお犬の経立ちなるかな。われら、経立なる言葉の何の意なるやを解せずといえども、その音の響、言知らず、もの凄まじ。多分はここに言える、首を下より押上るようにして吠ゆる時の事ならん。雨の日とあり、岩山の岩の上とあり。学校がえりの子どもが見たりとあるにて、目のあたりお犬の経立ちに逢う心地す。荒涼たる僻村の風情も文字の外にあらわれたり。岩のとげとげしきも見ゆ。雨も降るごとし。小児もびしょびしょと寂しく通る。天地この時、ただ黒雲の下に経立つ幾多馬の子ほどのお犬あり。一つずつかわるがわる吠ゆる声、可怪しき鐘の音のごとく響きて、威霊いわん方なし。 近頃とも言わず、狼は、木曾街道にもその権威を失いぬ。われら幼き時さえ、隣のおばさん物語りて――片山里にひとり寂しく棲む媼あり。屋根傾き、柱朽ちたるに、細々と苧をうみいる。狼、のしのしと出でてうかがうに、老いさらぼいたるものなれば、金魚麩のようにて欲くもあらねど、吠えても嗅いでみても恐れぬが癪に障りて、毎夜のごとく小屋をまわりて怯かす。時雨しとしとと降りける夜、また出掛けて、ううと唸って牙を剥き、眼を光らす。媼しずかに顧みて、 やれ、虎狼より漏るが恐しや。 と呟きぬ。雨は柿の実の落つるがごとく、天井なき屋根を漏るなりけり。狼うなだれて去れり、となり。 世の中、米は高価にて、お犬も人の恐れざりしか。 |
余は、数年来研究せる四百余種の妖怪を八大部門に分かち、一昨年一年間を期して講述し、一時その筆記を印刷して有志諸氏に配布したりしが、その後、四方より続々購読を望まるるものありとて、書肆より切に再版を請求しきたれるをもって、ここに旧稿のまま再び印刷に付することとなす。再版は購読者の便をはかり、各部門につきてこれを合綴し、目録および付録を増加し、八大部門を合して六大冊となす。しかして、その印刷は余が哲学館拡張の件につき信州各郡巡回中に着手し、校合も多く他人に一任し、自ら修正を加うることあたわざりしは、余が遺憾とするところにして、かつ、そのことは読者に謝せざるを得ざるところなり。左に初版『妖怪学講義緒言』に題せし序文を掲ぐ。 この緒言中に述ぶるがごとく、余、独力をもって日業の余暇、妖怪研究に従事することここに十年、その間、自ら四百余種の書類をさぐり、人より四百余項の通知をかたじけのうし、これに加うるに、全国六十余州を漫遊して実地に見聞したるもの、またすこぶる多し。ゆえにその材料、決して乏しというべからず。しかるに、そのうち事実として取るべきものわずかに十分の一に過ぎざれば、これによりて好結果を得ることはなはだ難しとす。ことに、これらの事実を抽象概括して一学科を組織するがごときは難中の難事にして、余輩不肖、遠く及ぶところにあらず。ただその端緒を今日に開かんと欲して、拙劣を顧みず、『妖怪学講義』を世に公にするに至る。こいねがわくば、四方の博覧達識の士、余が微志を助けて好材料を寄送し、もしくは参考書を指示せられんことを。郵書は東京市本郷区蓬莱町二十八番地、哲学館へ向け投函あらんことを請う。まず一言を題して、懇請することかくのごとし。 また、左に初版『妖怪学講義』第一冊に題せしものを掲ぐ。 余の「妖怪学講義録」を発行せんとするや、世人あるいは、好奇のあまりに出でて無用の閑言語を弄すとなすものあり。それ奇を好み閑言語を弄するがごときは、余の不肖といえども、またあえてなさざるところなり。そもそも余のここに及ぶゆえんのもの、実にやむをえざるものありて存すればなり。余、常におもえらく、わが国明治の鴻業、一半すでに成りて一半いまだ成らず、政治上の革新すでに去りて、道徳上の革新いまだきたらずと。方今、天下法律いよいよ密にして道徳日に衰え、郷曲無頼の徒、名を壮士にかり、もって良民を虐するものあり。不学無術ほしいままに時事を議し、詭譎陰険至らざるなく、居然政事家をもって任ずるものあり。黄口少年、乳臭いまだ乾かず、わずかに数巻の西籍を読み、生呑活剥、儼然学者をもっておるものあり、利をむさぼりてあくなきものあり。節義の風、廉恥の俗、蕩然地をはらう。これ、あに一大革新なくして可ならんや。しかして、これを革新するの道、教育、宗教をおいて、はたいずれにか求めん。これ、余が生を宗教界にうけながら身を教育界に投じ、日夜孜々として国恩の万一に報ぜんとするゆえんなり。しかるに世人の教育、宗教をまつゆえんのもの、余うらみなきあたわず。けだし心中の迷雲、知日の光を隠すによらずんばあらず。余、近年日本全国を周遊して、ますますこのことに感ずるあり。おもうに、世に妖怪多しといえども、要するに一片の迷心にほかならず。その迷心を去れば、道徳革新の功、またおのずから期すべし。これ、余がさきに哲学館を設け、もって教育家、宗教家を養成し、今また『妖怪学講義』を発行し、有志諸君とともに講究せんと欲するゆえんなり。その種目は、もとより本館教授するところの学科による。もし館外員諸君にして、「講義録」に載するところのほか、さらに疑義の解し難きあらば、よろしく本館内に開設せる妖怪研究会に向かいて質問すべし。その説明は、あるいは「講義録」の余白に載せ、あるいは直接に回答せんとす。もし、なお不明に属するものは、先年大学内に開設したる不思議研究会員につき、各専門家の意見を付して回答することあるべし。 |
久し振で帰つて見ると、嘗ては『眠れる都会』などと時々土地の新聞に罵られた盛岡も、五年以前とは余程その趣を変へて居る。先づ驚かれたのは、昔自分の寄寓して居た姉の家の、今裕福らしい魚屋の店と変つて、恰度自分の机を置いた辺と思はれるところへ、吊された大章魚の足の、極めてダラシなく垂れて居る事である。昨日二度、今朝一度、都合三度此家の前を通つた自分は、三度共此大章魚の首縊を見た。若しこれが昔であつたなら、恁う何日も売れないで居ると、屹度、自分が平家物語か何かを開いて、『うれしや水、鳴るは滝の水日は照るとも絶えず、………フム面白いな。』などと唸つてるところへ、腐れた汁がポタリ〳〵と、襟首に落ちやうと云ふもんだ。願くは、今自分の見て居る間に、早く何処かの内儀さんが来て、全体では余計だらうが、アノ一番長い足一本だけでも買つて行つて呉れれば可に、と思つた。此家の隣屋敷の、時は五月の初め、朝な〳〵学堂へ通ふ自分に、目も覚むる浅緑の此上なく嬉しかつた枳殻垣も、いづれ主人は風流を解せぬ醜男か、さらずば道行く人に見せられぬ何等かの秘密を此屋敷に蔵して置く底の男であらう、今は見上げる許り高い黒塗の板塀になつて居る。それから少許行くと、大沢河原から稲田を横ぎつて一文字に、幅広い新道が出来て居て、これに隣り合つた見すぼらしい小路、――自分の極く親しくした藻外といふ友の下宿の前へ出る道は、今廃道同様の運命になつて、花崗石の截石や材木が処狭きまで積まれて、その石や木間から、尺もある雑草が離々として生ひ乱れて居る。自分は之を見て唯無性に心悲しくなつた。暫らく其材木の端に腰掛けて、昔の事を懐ふて見やうかとも思つたが、イヤ待て恁な昼日中に、宛然人生の横町と謂つた様な此処を彷徨いて何か明処で考へられぬ事を考へて居るのではないかと、通りがかりの巡査に怪まれでもしては、一代の不覚と思ひ返して止めた。然し若し此時、かの藻外と二人であつたなら、屹度外見を憚らずに何か詩的な立廻を始めたに違ひない。兎角人間は孤独の時に心弱いものである。此三の変遷は、自分には毫も難有くない変遷である。恁な変様をする位なら、寧ろ依然『眠れる都会』であつて呉れた方が、自分並びに『美しい追憶の都』のために祝すべきであるのだ。以前平屋造で、一寸見には妾の八人も置く富豪の御本宅かと思はれた県庁は、東京の某省に似せて建てたとかで、今は大層立派な二階立の洋館になつて居るし、盛岡の銀座通と誰かの冷評した肴町呉服町には、一度神田の小川町で見た事のある様な本屋や文房具店も出来た。就中破天荒な変化と云ふべきは、電燈会社の建つた事、女学生の靴を穿く様になつた事、中津川に臨んで洋食店の出来た事、荒れ果てた不来方城が、幾百年来の蔦衣を脱ぎ捨てて、岩手公園とハイカラ化した事である。禿頭に産毛が生えた様な此旧城の変方などは、自分がモ少し文学的な男であると、『噫、汝不来方の城よ※(感嘆符三つ) 汝は今これ、漸くに覚醒し来れる盛岡三万の市民を下瞰しつつ、……文明の儀表なり。昨の汝が松風明月の怨長なへに尽きず……なりしを知るものにして、今来つて此盛装せる汝に対するあらば、誰かまた我と共に跪づいて、汝を讚するの辞なきに苦しまざるものあらむ。疑ひもなく汝はこれ文明の仙境なり、新時代の楽園なり。……然れども思へ、――我と共に此一片の石に踞して深く〳〵思へ、昨日杖を此城頭に曳いて、鐘声を截せ来る千古一色の暮風に立ち、涙を萋々たる草裡に落したりし者、よくこの今日あるを予知せりしや否や。……然らば乃ち、春秋いく度か去来して世紀また新たなるの日、汝が再び昨の運命を繰返して、蔦蘿雑草の底に埋もるるなきを誰か今にして保し得んや。……噫已んぬる哉。』などとやつてのける種になるのだが、自分は毛頭恁な感じは起さなんだ。何故といふまでもない。漸々開園式が済んだ許りの、文明的な、整然とした、別に俗気のない、そして依然昔と同じ美しい遠景を備へた此新公園が、少からず自分の気に入つたからである。可愛い児供の生れた時、この児も或は年を老つてから悲惨な死様をしないとも限らないから、いつそ今斯うスヤ〳〵と眠つてる間に殺した方が可かも知れぬ、などと考へるのは、実に天下無類の不所存と云はねばならぬ。だから自分は、此公園に上つた時、不図次の様な考を起した。これは、人の前で、殊に盛岡人の前では、些憚つて然るべき筋の考であるのだが、茲は何も本気で云ふのでなくて、唯序に白状するのだから、別段差閊もあるまい。考といふは恁だ。此公園を公園でなくして、ツマリ自分のものにして、人の入られぬ様に厚い枳殻垣を繞らして、本丸の跡には、希臘か何処かの昔の城を真似た大理石の家を建てて、そして、自分は雪より白い髪をドツサリと肩に垂らして、露西亜の百姓の様な服を着て、唯一人其家に住む。終日読書をする。霽れた夜には大砲の様な望遠鏡で星の世界を研究する。曇天か或は雨の夜には、空中飛行船の発明に苦心する。空腹を感じた時は、電話で川岸の洋食店から上等の料理を取寄る。尤も此給仕人は普通の奴では面白くない。顔は奈何でも構はぬが、十八歳で姿の好い女、曙色か浅緑の簡単な洋服を着て、面紗をかけて、音のしない様に綿を厚く入れた足袋を穿いて、始終無言でなければならぬ。掃除をするのは面倒だから、可成散らかさない様に気を付ける。そして、一年に一度、昔羅馬皇帝が凱旋式に用ゐた輦――それに擬ねて『即興詩人』のアヌンチヤタが乗廻した輦、に擬ねた輦に乗つて、市中を隈なく廻る。若し途中で、或は蹇、或は盲目、或は癩を病む者、などに逢つたら、(その前に能く催眠術の奥義を究めて置いて、)其奴の頭に手が触つた丈で癒してやる。……考へた時は大変面白かつたが、恁書いて見ると、興味索然たりだ。饒舌は品格を傷ふ所以である。 立花浩一と呼ばるる自分は、今から二十幾年前に、此盛岡と十数哩を隔てた或る寒村に生れた。其処の村校の尋常科を最優等で卒業した十歳の春、感心にも唯一人笈をこの不来方城下に負ひ来つて、爾後八星霜といふもの、夏休暇毎の帰省を除いては、全く此土地で育つた。母がさる歴とした旧藩士の末娘であつたので、随つて此旧城下蒼古の市には、自分のために、伯父なる人、伯母なる人、また従兄弟なる人達が少なからずある。その上自分が十三四歳の時には、今は亡くなつた上の姉さへ此盛岡に縁付いたのであつた。自分は此等縁辺のものを代る〴〵喰ひ廻つて、そして、高等小学から中学と、漸々文の林の奥へと進んだのであつた。されば、自分の今猶生々とした少年時代の追想――何の造作もなく心と心がピタリ握手して共に泣いたり笑つたり喧嘩して別れたりした沢山の友人の事や、或る上級の友に、立花の顔は何処かナポレオンの肖像に似て居るネ、と云はれてから、不図軍人志願の心を起して毎日体操を一番真面目にやつた時代の事や、ビスマークの伝を読んでは、直小比公気取の態度を取つて、級友の間に反目の種を蒔いた事や、生来虚弱で歴史が好きで、作文が得意であつた処から、小ギボンを以て自任して、他日是非印度衰亡史を著はし、それを印度語に訳して、かの哀れなる亡国の民に愛国心を起さしめ、独立軍を挙げさせる、イヤ其前に日本は奈何かしてシヤムを手に入れて置く必要がある。……其時は、自分はバイロンの轍を踏んで、筆を剣に代へるのだ、などと論じた事や、その後、或るうら若き美しい人の、潤める星の様な双眸の底に、初めて人生の曙の光が動いて居ると気が付いてから、遽かに夜も昼も香はしい夢を見る人となつて旦暮『若菜集』や『暮笛集』を懐にしては、程近い田畔の中にある小さい寺の、巨きい栗樹の下の墓地へ行つて、青草に埋れた石塔に腰打掛けて一人泣いたり、学校へ行つても、倫理の講堂で竊と『乱れ髪』を出して読んだりした時代の事や、――すべて慕かしい過去の追想の多くは、皆この中津河畔の美しい市を舞台に取つて居る。盛岡は実に自分の第二の故郷なんだ。『美しい追憶の都』なんだ。 十八歳の春、一先づこの第二の故郷を退いて、第一の故郷に帰つた。そして十幾ヶ月の間閑雲野鶴を友として暮したが、五年以前の秋、思立つて都門の客となり、さる高名な歴史家の書生となつた。翌年は文部省の検定試験を受けて、歴史科中等教員の免状を貰ふた。唯茲に一つ残念なのは、東洋のギボンを以て自ら任じて居た自分であるのに、試験の成績の、怪しい哉、左程上の部でなかつた事である。今は茨城県第○中学の助教諭、両親と小妹とをば、昨年の暮任地に呼び寄せて、余裕もない代り、別に窮迫もせぬ家庭を作つた。 今年の夏は、校長から常陸郷土史の材料蒐集を嘱託せられて、一箇月半の楽しい休暇を全く其為めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の廻訪と、外に北上河畔に於ける厨川柵を中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく実地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には帰つて来たのである。新山堂と呼ばるる稲荷神社の直背後の、母とは二歳違ひの姉なる伯母の家に車の轅を下させて、出迎へた、五年前に比して別に老の見えぬ伯母に、『マア、浩さんの大きくなつた事!』と云はれて、新調の背広姿を見上げ見下しされたのは、実に一昨日の秋風すずろに蒼古の市に吹き渡る穏やかな黄昏時であつた。 遠く岩手、姫神、南昌、早池峰の四峯を繞らして、近くは、月に名のある鑢山、黄牛の背に似た岩山、杉の木立の色鮮かな愛宕山を控へ、河鹿鳴くなる中津川の浅瀬に跨り、水音緩き北上の流に臨み、貞任の昔忍ばるる夕顔瀬橋、青銅の擬宝珠の古色滴る許りなる上中の二橋、杉土堤の夕暮紅の如き明治橋の眺めもよく、若しそれ市の中央に巍然として立つ不来方城に登つて瞰下せば、高き低き茅葺柾葺の屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、実に誰が見ても美しい日本の都会の一つには洩れぬ。誰やらが初めて此市に遊んで、『杜陵は東北の京都なり。』と云つた事があるさうな。『東北の京都』と近代的な言葉で云へば余り感心しないが、自分は『みちのくの平安城』と風雅な呼方をするのを好む。 この美しい盛岡の、最も自分の気に入つて見える時は、一日の中では夜、天候では雨、四季の中では秋である。この三を綜合すると、雨の降る秋の夜が一番好い事になるが、然しそれでは完全に過ぎて、余り淋し過ぎる。一体自分は歴史家であるから、開闢以来此世界に現れた、人、物、事、に就いては、少くも文字に残されて居る限りは大方知つて居るつもりであるが、未嘗て、『完全なる』といふ形容詞を真正面から冠せることの出来る奴には、一人も、一個も、一度も、出会した事がない。随つて自分は、『完全』といふ事には極めて同情が薄いのである。完全でなくても構はぬ、ただ抜群であれば可い。世界には随処に『不完全』が転がつて居る。其故に『希望』といふものが絶えないのだ。此『希望』こそ世界の生命である、歴史の生命である、人間の生命である。或る学者は、『歴史とは進化の義なり。』と説いて居るが、自分は『歴史とは希望の義なり。』と生徒に教へて置いた。世界の歴史には、随分間違つた希望のために時間と労力とを尽して、そして『進化』と正反対な或る結果を来した例が少なくない。此『間違つた希望』と『間違はない希望』とを鑑別するのが、正当なる歴史の意義ではあるまいかと自分は思ふ。自分一個の私見では、六千載の世界史の中、ペリクリース時代の雅典以後、今日に到る部分は、間違つた希望に依る進化、換言すれば、堕落せる希望に依る堕落、の最も大なる例である。斯う考へると、誠に此世が情なく心細くなるが、然し此点が却つて面白い、頗る面白い。自分は『完全』といふものは、人間の数へ得る年限内には決して此世界に来らぬものと仮定して居る。(何故なれば、自分は『完全になる』とは、水が氷になる如く、希望と活動との死滅する事であると解釈して居るからだ。)だから、我等の過去は僅々六千載に過ぎぬが、未来には幾百千億万年あるか知れない。この無限の歴史が、乃ち我等人間の歴史であると思ふと、急に胸が豁いた様な感じがする。無限無際の生命ある『人間』に、三千年位の堕落は何でもないではないか。加之、較々完全に近かつた雅典の人間より、遙かに完全に遠かつた今の我々の方が、却つて〳〵大なる希望を持ち得るではないか。……斯く、真理よりも真理を希求する心、完全よりも完全に対する希望を尊しとする自分が、夜の盛岡の静けさ、雨の盛岡の淋しさ、秋の盛岡の静けさ寂しさは愛するけれども、奈何して此三が一緒になつて三足揃つた完全な鍋、重くて黒くて冷たくて堅い雨ふる秋の夜といふ大きい鍋を頭から被る辛さ切なさを忍ぶことが出来やう。雨と夜と秋との盛岡が、何故殊更に自分の気に入るかは、自分の知つた限りでない。多分、最近三十幾年間の此市の運命が、乃ち雨と夜と秋との運命であつた為めでがなあらう。 昨日は、朝まだきから降り初めた秋雨が、午後の三時頃まで降り続いた。長火鉢を中に相対して、『新山堂の伯母さん』と前夜の続きの長物語――雨の糸の如くはてしない物語をした。自分の父や母や光ちやん(妹)の事、伯母さんの四人の娘の事、八歳で死んだ源坊の事、それから自分の少年時代の事、と、これら凡百の話題を緯にして、話好の伯母さんは自身四十九年間の一切の記憶の糸を経に入れる。此はてしない、蕭やかな嬉しさの籠つた追憶談は、雨の盛岡の蕭やかな空気、蕭やかな物音と、全く相和して居た。午時近くなつて、隣町の方から、『豆腐ア』といふ、低い、呑気な、永く尾を引張る呼声が聞えた。嗚呼此『豆腐ア』! これこそは、自分が不幸にも全五年の間忘れ切つて居た『盛岡の声』ではないか。此低い、呑気な、尾を引張る処が乃ち、全く雨の盛岡式である。此声が蕭やかな雨の音に漂ふて、何十度か自分の耳に怪しくひびいた後、漸やく此家の門前まで来た。そして、遠くで聞くも近くで聞くも同じやうな一種の錆声で、矢張低く呑気に『豆腐ア』と、呟やく如く叫んで過ぎた。伯母さんは敢て気が付かなかつたらしい。軈て、十二時を報ずるステーシヨンの工場の汽笛が、シツポリ濡れた様な唸りをあげる。と、此市に天主教を少し許り響かせてゐる四家町の教会の鐘がガラン〳〵鳴り出した。直ぐに其の音を打消す他の響が伝はる。これは不来方城畔の鐘楼から、幾百年来同じ鯨音を陸奥の天に響かせて居る巨鐘の声である。それが精確に十二の数を撞き終ると、今迄あるかなきかに聞えて居た市民三万の活動の響が、礑と許り止んだ。『盛岡』が今今日の昼飯を喰ふところである。 『オヤマア私とした事が、……御飯の仕度まで忘れて了つて、……』 といつて、伯母さんはアタフタと立つた。そして自分に云つた、 『浩さん、豆腐屋が来なかつたやうだつたネ。』 此伯母さんの一挙一動が悉く雨の盛岡に調和して居る。 朝行つた時には未だ蓋が明かなかつたので食後改めて程近い銭湯へ行つた。大きい蛇目傘をさして、高い足駄を穿いて、街へ出ると、矢張自分と同じく、大きい蛇目傘、高い足駄の男女が歩いて居る。皆無言で、そして、泥汁を撥ね上げぬ様に、極めて静々と、一足毎に気を配つて歩いて居るのだ。両側の屋根の低い家には、時に十何年前の同窓であつた男の見える事がある。それは大抵大工か鍛冶屋か荒物屋かである。又、小娘の時に見覚えて置いた女の、今は髪の結ひ方に気をつける姉さんになつたのが、其処此処の門口に立つて、呆然往来を眺めて居る事もある。此等旧知の人は、決して先方から話かける事なく、目礼さへ為る事がない。これは、自分には一層雨の盛岡の趣味を発揮して居る如く感ぜられて、仲々奥床しいのである。総じて盛岡は、其人間、其言語、一切皆克く雨に適して居る。人あり、来つて盛岡の街々を彷徨ふこと半日ならば、必ず何街かの理髪床の前に、銀杏髷に結つた丸顔の十七八が立つて居て、そして、中なる剃手と次の如き会話を交ふるを聞くであらう。 女『アノナハーン、アェヅダケァガナハーン、昨日スアレー、彼ノ人アナーハン。』 男『フンフン、御前ハンモ行タケスカ。フン、真ニソダチナハン。アレガラナハン、家サ来ルヅギモ面白ガタンチエ。ホリヤ〳〵、大変ダタアンステァ。』 此奇怪なる二人の問答には、少くとも三幕物に書き下すに足る演劇的の事実が含まれて居る。若し一度も盛岡の土を踏んだことのない人で、此会話の深い〳〵意味と、其誠に優美な調子とを聞き分くる事が出来るならば、恐らく其人は、大小説家若くは大探偵の資格ある人、然らずば軒の雨滴の極めて蕭やかな、懶気な、気の長い響きを百日も聞き慣れた人であらう。 澄み切つた鋼鉄色の天蓋を被いて、寂然と静まりかへつた夜の盛岡の街を、唯一人犬の如く彷徨く楽みは、其昔、自分の夜毎に繰返すところであつた。然し、五年振で帰つて僅か二夜を過した許りの自分は、其二夜を遺憾乍ら屋根の下にのみ明かして了つたのである。尤も今は電燈の為めに、昔の楽みの半分は屹度失くなつたであらう。自分は茲で、古い記憶を呼び覚して、夜の街の感想を説くことを、極めて愉快に感ずるのであるが、或一事の蟠るありて、今往時を切実に忍ぶことを遮つて居る。或る一事とは、乃ち昔自分が夜の盛岡を彷徨いて居た際に起つた一奇談である。――或夜自分は例によつて散歩に出懸けた。仁王小路から三戸町、三戸町から赤川、此赤川から桜山の大鳥居へ一文字に、畷といふ十町の田圃路がある。自分は此十町の無人境を一往返するを敢て労としなかつた。のみならず、一寸路を逸れて、かの有名な田中の石地蔵の背を星明りに撫づるをさへ、決して躊躇せなんだ。そして、平生の癖の松前追分を口笛でやり乍ら、ブラリ〳〵と引返して来ると、途中で外套を着、頭巾を目深に被つた一人の男に逢つた。然し別段気にも留めなかつた。それから急に思出して、自分と藻外と三人鼎足的関係のあつた花郷を訪ねて見やうと、少しく足を早めた。四家町は寂然として、唯一軒理髪床の硝子戸に燈光が射し、中から話声が洩れたので、此処も人間の世界だなと気の付く程であつた。間もなく花屋町に入つた。断つて置く、此町の隣が密淫売町の大工町で、芸者町なる本町通も程近い。花郷が宿は一寸職業の知れ難い家である。それも其筈、主人は或る田舎の村長で、此本宅には留守居の祖母が唯一人、相応に暮して居る。此祖母なる人の弟の子なる花郷は、此家の二階に本城を構へて居るのだ。二階を見上げると、障子に燈火が射して居る。ヒヨウと口笛を吹くと、矢張ヒヨウと答へた。今度はホーホケキヨとやる、(これは自分の名の暗号であつた。)復ヒヨウと答へた。これだけで訪問の礼は既に終つたから、平生の如く入つて行かうと思つて、上框の戸に手をかけやうとすると、不意、不意、暗中に鉄の如き手あつて自分の手首をシタタカ握つた。愕然し乍ら星明で透して見たが、外套を着て頭巾を目深に被つた中脊の男、どうやら先刻畷で逢つた奴に似て居る。 『立花、俺に見付かつたが最後ぢやぞツ。』 驚いた、真に驚いた。この声は我が中学の体操教師、須山といふ予備曹長で、校外監督を兼ねた校中第一の意地悪男の声であつた。 『先刻田圃で吹いた口笛は、あら何ぢや? 俗歌ぢやらう。後を尾けて来て見ると、矢張口笛で密淫売と合図をしてけつかる。……』 自分は手を握られた儘、開いた口が塞がらぬ。 『此間職員会議で、貴様が毎晩一人で外出するが、行先がどうも解らん。大に怪しいちふ話が出た。貴様の居る仁王小路が俺の監督範囲ぢやから、俺は赤髯(校長)のお目玉を喰つたのぢや、けしからん、不埓ぢや。其処で俺は三晩つづけて貴様に尾行した。一昨夜は呉服町で綺麗な簪を買つたのを見たから、何気なく聞いて見ると、妹へ遣るのだと嘘吐いたな。昨晩は古河端のさいかちの樹の下で見はぐつた。今夜といふ今夜こそ現場を見届けたぞ。案の諚大工町ぢやつた。貴様は本町へ行く位の金銭は持つまいもんナ。……ハハア、軍隊なら営倉ぢや。』 自分の困憊の状察すべしである。恰も此時、洋燈片手に花郷が戸を明けた。彼は極めて怪訝に堪へぬといつた様な顔をして、盛岡弁で、 『何しあんした?』 と自分に問うた。自分は急に元気を得て、逐一事情を話し、更に須山に向いて、 『先生、此町は大工町ではごあんせん、花屋町でごあんす。小林君も淫売婦ではごあんせんぜ。』と云つた。 須山は答へなかつたが、花郷は手に持つ洋燈を危気に動かし乍ら、洒脱な声をあげて叫び出した。 『立花白蘋君の奇談々々!』 『立花、貴様余ツ程気を付けんぢや不可ぞ。よく覚えて居れツ。』 と怒鳴るや否や、須山教師の黒い姿は、忽ち暗中に没したのであつた。 自分は既に、五年振で此市に来て目前観察した種々の変遷と、それを見た自分の感想とを叙べ、又此市と自分との関係から、盛岡は美しい日本の都会の一つである事、此美しい都会が、雨と夜と秋との場合に最も自分の気に入るといふ事を叙べ、そして、雨と夜との盛岡の趣味に就いても多少の記述を試みた。そこで今自分は、一年中最も楽しい秋の盛岡――大穹窿が無辺際に澄み切つて、空中には一微塵の影もなく、田舎口から入つて来る炭売薪売の馬の、冴えた〳〵鈴の音が、市の中央まで明瞭響く程透徹であることや、雨滴式の此市の女性が、厳粛な、赤裸々な、明哲の心の様な秋の気に打たれて、『ああ、ああ、今年もハア秋でごあんすなッす――。』と口々に言ふ其微妙な心理のはたらきや、其処此処の井戸端に起る趣味ある会話や、乃至此女性的なる都会に起る一切の秋の表現、――に就いて、出来うる限り精細な記述をなすべき機会に逢着した。 が、自分は、其秋の盛岡に関する精細な記述に代ふるに、今、或る他の一記事を以てせねばならぬのである。 『或る他の一記事』といふのは、此場合に於て決して木に竹をつぐ底の突飛なる記事ではないと自分は信ずる。否、或は、此記事を撰む方が却つて一層秋の盛岡なるものを的切に表はす所以であるのかも知れない。何故なれば、此一記事といふのは、美しい盛岡の秋三ヶ月の中、最も美しい九月下旬の一日、乃ち今日ひと日の中に起つた一事件に外ならぬからである。 実際を白状すると、自分が先刻晩餐を済ましてから、少許調査物があるからと云つて話好の伯母さんを避け、此十畳の奥座敷に立籠つて、余り明からぬ五分心の洋燈の前に此筆を取上げたのは、実は、今日自分が偶然に路上で出会した一事件――自分と何等の関係もないに不拘、自分の全思想を根底から揺崩した一事件――乃ち以下に書き記す一記事を、永く〳〵忘れざらむためであつたのだ。然も自分が此稀有なる出来事に対する極度の熱心は、如何にして、何処で、此出来事に逢つたかといふ事を説明するために、実に如上数千言の不要なる記述を試むるをさへ、敢て労としなかつたのである。 断つて置く、以下に書き記す処は、或は此無限の生命ある世界に於て、殆んど一顧の値だに無き極々些末の一事件であるのかも知れない。されば若し此一文を読む人があつたなら、その人は、『何だ立花、君は這麽事を真面目腐つて書いたのか。』と頭から自分を嘲笑ふかも知れない。が然し、此一事件は、自分といふ小なる一人物の、小なる二十幾年の生涯に於て、親しく出会した事件の中では、最も大なる、最も深い意味の事件であると信ずる。自分は恁信じたからこそ、此市の名物の長沢屋の豆銀糖でお茶を飲み乍ら、稚ない時から好きであつた伯母さんと昔談をする楽みをさへ擲ち去つて、明からぬ五分心の洋燈の前に、筆の渋りに汗ばみ乍ら此苦業を続けるのだ。 又断つて置く、自分は既に此事件を以て親ら出会した事件中の最大事件と信じ、其為に二十幾年来養ひ来つた全思想を根底から揺崩された。そして、今新らしい心的生涯の原頭に立つた。――然だ、今自分の立つて居る処は、慥かに『原頭』である。自分はまだ、一分も、一厘も、此大問題の解決に歩を進めて居らぬのだ。或は今夜此筆を擱く迄には、何等か解決の端を発見するに到るかも知れぬが、……否々、それは望むべからざる事だ。此新たに掘り出された『ローゼツタ石』の、表に刻まれた神聖文字は、如何にトマス・ヨングでもシヤムボリヲンでも、レプシウスでも、とても十年二十年に読み了る事が出来ぬ様に思はれる。 自分が今朝新山祠畔の伯母の家を出たのは、大方八時半頃でがなあつたらう。昨日の雨の名残の潦が路の処々に行く人の姿々を映して居るが、空は手掌程の雲もなく美しく晴れ渡つて、透明な空気を岩山の上の秋陽がホカ〳〵と温めて居た。 加賀野新小路の親縁の家では、市役所の衛生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麦煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず湿々して居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大公孫樹の、まだ一片も落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると凹凸の劇しい藪路、それを東に一町許で、天神山に達する。しん〳〵と生ひ茂つた杉木立に囲まれて、苔蒸せる石甃の両側秋草の生ひ乱れた社前数十歩の庭には、ホカ〳〵と心地よい秋の日影が落ちて居た。遠くで鶏の声の聞えた許り、神寂びた宮居は寂然として居る。周匝にひびく駒下駄の音を石甃に刻み乍ら、拝殿の前近く進んで、自分は図らずも懐かしい旧知己の立つて居るのに気付いた。旧知己とは、社前に相対してぬかづいて居る一双の石の狛である。詣づる人又人の手に撫でられて、其不格好な頭は黒く膏光りがして居る。そして、其又顔といつたら、蓋し是れ天下の珍といふべきであらう、唯極めて無造作に凸凹を造へた丈けで醜くもあり、馬鹿気ても居るが、克く見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。全く世事を超脱した高士の俤、イヤ、それよりも一段俗に離れた、俺は生れてから未だ世の中といふものが西にあるか東にあるか知らないのだ、と云つた様な顔だ。自分は昔、よく友人と此処へ遊びに来ては、『石狛よ、汝も亦詩を解する奴だ。』とか、『石狛よ、汝も亦吾党の士だ。』とか云つて、幾度も幾度も杖で此不格好な頭を擲つたものだ。然し今日は、幸ひ杖を携へて居なかつたので、丁寧に手で撫でてやつた。目を転ずると、杉の木立の隙から見える限り、野も山も美しく薄紅葉して居る。宛然一幅の風景画の傑作だ。周匝には心地よい秋草の香が流れて居る。此香は又、自分を十幾年の昔に返した。郷校から程近い平田野といふ松原、晴れた日曜の茸狩に、この秋草の香と初茸の香とを嗅ぎ分けつつ、いとけなき自分は、其処の松蔭、此処の松蔭と探し歩いたものであつた。―― 昼餐をば神子田のお苑さんといふ従姉(新山堂の伯母さんの二番目娘で、自分より三歳の姉である。)の家で済ました。食後、お苑さんは、去年生れた可愛い赤坊の小さい頭を撫で乍ら、『ひとつお世話いたしませうか、浩さん。』と云つた。『何をですか。』『アラ云はなくつても解つてますよ。奇麗な奥様をサ。』と楽しげに笑ふのであつた。 帰路には、馬町の先生を訪ねて、近日中に厨川柵へ一緒に行つて貰ふ約束をした。馬町の先生といへば、説明するまでもない。此地方で一番有名な学者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んで居る、自分の旧師である。 幅広く美しい内丸の大逵、師範学校側の巨鐘が、澄み切つた秋の大空の、無辺際な胸から搾り出す様な大梵音をあげて午後の三時を報じた時、自分は恰度其鐘楼の下を西へ歩いて居た。立派な県庁、陰気な師範学校、石割桜で名高い裁判所の前を過ぎて、四辻へ出る。と、雪白の衣を着た一巨人が、地の底から抜け出でた様にヌツと立つて居る。―― これは此市で一番人の目に立つ雄大な二階立の白堊館、我が懐かしき母校である。盛岡中学校である。巨人? 然だ、慥かに巨人だ。啻に盛岡六千戸の建築中の巨人である許りでなく、また我が記憶の世界にあつて、総ての意味に於て巨人たるものは、実にこの堂々たる、巍然たる、秋天一碧の下に兀として聳え立つ雪白の大校舎である。昔、自分は此巨人の腹中にあつて、或時は小ナポレオンであつた、或時は小ビスマークであつた、或時は小ギボンであつた、或時は小クロムウエルであつた、又或時は、小ルーソーとなり、小バイロンとなり、学校時代のシルレルとなつた事もある。嘗て十三歳の春から十八歳の春まで全五年間の自分の生命といふものは、実に此巨人の永遠なる生命の一小部分であつたのだ。噫、然だ、然だつけ、と思ふと、此過去の幻の如き巨人が、怎やら揺ぎ出す様に見えた。が、矢張動かなんだ、地から生え抜いた様に微塵も動かなんだ、秋天一碧の下に雪白の衣を着て突立つたまま。 印度衰亡史は云はずもの事、まだ一冊の著述さへなく、茨城県の片田舎で月給四十円の歴史科中等教員たる不甲斐なきギボンは、此時、此歴史的一大巨人の前におのづから頭の低るるを覚えた。 白色の大校舎の正面には、矢張白色の大門柱が、厳めしく並び立つて居る。この門柱の両の袖には、又矢張白色の、幾百本と数知れぬ木柵の頭が並んで居る。白! 白! 白! 此白は乃ち、此白い門に入りつ出つする幾多うら若き学園の逍遙者の、世の塵に染まぬ潔白な心の色でがなあらう。柵の前には一列をなして老いた桜の樹が立つて居る。美しく紅葉した其葉は、今傾きかけた午後三時の秋の日に照されて、いと物静かに燃えて見える。五片六片、箒目見ゆる根方の土に散つて居るのもある。柵と桜樹の間には一条の浅い溝があつて、掬ばば凝つて掌上に晶ともなるべき程澄みに澄んだ秋の水が、白い柵と紅い桜の葉の影とを浮べて流れて居る。柵の頭の尖端々々には、殆んど一本毎に真赤な蜻蛉が止つて居る。 自分は、えも云はれぬ懐かしさと尊さに胸を一杯にし乍ら此白門に向つて歩を進めた。溝に架した花崗石の橋の上に、髪ふり乱して垢光りする襤褸を着た女乞食が、二歳許りの石塊の様な児に乳房を啣ませて坐つて居た。其周匝には五六人の男の児が立つて居て、何か秘々と囁き合つて居る。白玉殿前、此一点の醜悪! 此醜悪をも、然し、自分は敢て醜悪と感じなかつた。何故なれば、自分は決して此土地の盛岡であるといふことを忘れなかつたからである、市の中央の大逵で、然も白昼、穢ない〳〵女乞食が土下座して、垢だらけの胸を披けて人の見る前に乳房を投げ出して居る! この光景は、大都乃至は凡ての他の大都会に決して無い事、否、有るべからざる事であるが、然し此盛岡には常に有る事、否、之あるがために却つて盛岡の盛岡たる所以を発揮して見せる必要な条件であるのだ。されば自分は、之を見て敢て醜悪を感ぜなんだのみならず、却つて或る一種の興味を覚えた。そして静かに門内に足を入れた。 校内の案内は能く知つて居る。門から直ぐ左に折れて、ヅカ〳〵と小使室の入口に進んだ。 『鹿川先生は、モウお退出になりましたか?』 |
ドゥニパー湾の水は、照り続く八月の熱で煮え立って、総ての濁った複色の彩は影を潜め、モネーの画に見る様な、強烈な単色ばかりが、海と空と船と人とを、めまぐるしい迄にあざやかに染めて、其の総てを真夏の光が、押し包む様に射して居る。丁度昼弁当時で太陽は最頂、物の影が煎りつく様に小さく濃く、それを見てすらぎらぎらと眼が痛む程の暑さであった。 私は弁当を仕舞ってから、荷船オデッサ丸の舷にぴったりと繋ってある大運搬船の舷に、一人の仲間と竝んで、海に向って坐って居た。仲間と云おうか親分と云おうか、兎に角私が一週間前此処に来てからの知合いである。彼の名はヤコフ・イリイッチと云って、身体の出来が人竝外れて大きい、容貌は謂わばカザン寺院の縁日で売る火難盗賊除けのペテロの画像見た様で、太い眉の下に上睫の一直線になった大きな眼が二つ。それに挾まれて、不規則な小亜細亜特有な鋭からぬ鼻。大きな稍々しまりのない口の周囲には、小児の産毛の様な髯が生い茂って居る。下腭の大きな、顴骨の高い、耳と額との勝れて小さい、譬えて見れば、古道具屋の店頭の様な感じのする、調和の外ずれた面構えであるが、それが不思議にも一種の吸引力を持って居る。 丁度私が其の不調和なヤコフ・イリイッチの面構えから眼を外らして、手近な海を見下しながら、草の緑の水が徐ろに高くなり低くなり、黒ペンキの半分剥げた吃水を嘗めて、ちゃぶりちゃぶりとやるのが、何かエジプト人でも奏で相な、階律の単調な音楽を聞く様だと思って居ると、 睡いのか。 とヤコフ・イリイッチが呼びかけたので、顔を上げる調子に見交わした。彼に見られる度に、私は反抗心が刺戟される様な、それで居て如何にも抵抗の出来ない様な、一種の圧迫を感じて、厭な気になるが、其の眼には確かに強く人を牽きつける力を籠めて居る。「豹の眼だ」と此の時も思ったのである。 私が向き直ると、ヤコフ・イリイッチは一寸苦がい顔をして、汗ばんだだぶだぶな印度藍のズボンを摘まんで、膝頭を撥きながら、突然こう云い出した。 おい、船の胴腹にたかって、かんかんと敲くからかんかんよ、それは解せる、それは解せるがかんかん虫、虫たあ何んだ……出来損なったって人間様は人間様だろう、人面白くも無えけちをつけやがって。 而して又連絡もなく、 お前っちは字を読むだろう。 と云って私の返事には頓着なく、 ふむ読む、明盲の眼じゃ無えと思った。乙う小ましゃっくれてけっからあ。 何をして居た、旧来は。 と厳重な調子で開き直って来た。私は、ヴォルガ河で船乗りの生活をして、其の間に字を読む事を覚えた事や、カザンで麺麭焼の弟子になって、主人と喧嘩をして、其の細君にひどい復讐をして、とうとう此処まで落ち延びた次第を包まず物語った。ヤコフ・イリイッチの前では、彼に関した事でない限り、何もかも打明ける方が得策だと云う心持を起させられたからだ。彼は始めの中こそ一寸熱心に聴いて居たが、忽ちうるさ相な顔で、私の口の開いたり閉じたりするのを眺めて、仕舞には我慢がしきれな相に、私の言葉を奪ってこう云った。 探偵でせえ無けりゃそれで好いんだ、馬鹿正直。 而して暫くしてから、 だが虫かも知れ無え。こう見ねえ、斯うやって這いずって居る蠅を見て居ると、己れっちよりゃ些度計り甘めえ汁を嘗めているらしいや。暑さにもめげずにぴんぴんしたものだ。黒茶にレモン一片入れて飲め無えじゃ、人間って名は附けられ無えかも知れ無えや。 昨夕もよ、空腹を抱えて対岸のアレシキに行って見るとダビドカの野郎に遇った。懐をあたるとあるから貸せと云ったら渋ってけっかる。いまいましい、腕づくでもぎ取ってくれようとすると「オオ神様泥棒が」って、殉教者の様な真似をしやあがる。擦った揉んだの最中に巡的だ、四角四面な面あしやがって「貴様は何んだ」と放言くから「虫」だと言ってくれたのよ。 え、どうだ、すると貴様は虫で無えと云う御談義だ。あの手合はあんな事さえ云ってりゃ、飯が食えて行くんだと見えらあ。物の小半時も聞かされちゃ、噛み殺して居た欠伸の御葬いが鼻の孔から続け様に出やがらあな。業腹だから斯う云ってくれた――待てよ斯う云ったんだ。 「旦那、お前さん手合は余り虫が宜過ぎまさあ。日頃は虫あつかいに、碌々食うものも食わせ無えで置いて、そんならって虫の様に立廻れば矢張り人間だと仰しゃる。己れっちらの境涯では、四辻に突っ立って、警部が来ると手を挙げたり、娘が通ると尻を横目で睨んだりして、一日三界お目出度い顔をしてござる様な、そんな呑気な真似は出来ません。赤眼のシムソンの様に、がむしゃに働いて食う外は無え。偶にゃ少し位荒っぽく働いたって、そりゃ仕方が無えや、そうでしょう」てってやると、旦那の野郎が真赤になって怒り出しやがった。もう口じゃまどろっこしい、眼の廻る様な奴を鼻梁にがんとくれて逃んだのよ。何もさ、そう怒るがものは無えんだ。巡的だってあの大きな図体じゃ、飯もうんと食うだろうし、女もほしかろう。「お前もか。己れもやっぱりお前と同じ先祖はアダムだよ」とか何とか云って見ろ。己れだって粗忽な真似はし無えで、兄弟とか相棒とか云って、皮のひんむける位えにゃ手でも握って、祝福の一つ二つはやってやる所だったんだ。誓言そうして見せるんだった。それをお前帽子に喰着けた金ぴかの手前、芝居をしやがって……え、芝居をしやがったんた。己れにゃ芝居ってやつが妙に打て無え。 気心でかヤコフ・イリイッチの声がふと淋しくなったと思ったので、振向いて見ると彼は正面を向いて居た。波の反射が陽炎の様にてらてらと顔から半白の頭を嘗めるので、うるさ相に眼をかすめながら、向うの白く光った人造石の石垣に囲まれたセミオン会社の船渠を見やって居る。自分も彼の視線を辿った。近くでは、日の黄を交えて草緑なのが、遠く見透すと、印度藍を濃く一刷毛横になすった様な海の色で、それ丈けを引き放したら、寒い感じを起すにちがいないのが、堪え切れぬ程暑く思える。殊にケルソン市の岸に立ち竝んだ例のセミオン船渠や、其の外雑多な工場のこちたい赤青白等の色と、眩るしい対照を為して、突っ立った煙突から、白い細い煙が喘ぐ様に真青な空に昇るのを見て居ると、遠くが霞んで居るのか、眼が霞み始めたのかわからなくなる。 ヤコフ・イリイッチはそうしたままで暫く黙って居たが、内部からの或る力の圧迫にでも促された様に、急に「うん、そうだ」と独言を云って、又其の奇怪な流暢な口辞を振い始めた。 処が世の中は芝居で固めてあるんだ。右の手で金を出すてえと、屹度左の手は物を盗ねて居やあがる。両手で金を出すてえ奴は居無え、両手で物を盗ねる奴も居無えや。余っ程こんがらかって出来て居やあがる。神様って獣は――獣だろうじゃ無えか。人じゃ無えって云うんだから、まさか己れっち見てえな虫でもあるめえ、全くだ。 何、此の間スタニスラフの尼寺から二人尼っちょが来たんだ。野郎が有難い事を云ったってかんかん虫手合いは鼾をかくばかりで全然補足になら無えってんで、工場長開けた事を思いつきやがった、女ならよかろうてんだとよ。 二人来やがった。例の御説教だ集まれてんで、三号の倉庫に狼が羊の檻の中に逐い込まれた様だった。其の中に小羊が二匹来やがった。一人は金縁の眼鏡が鼻の上で光らあ。狼の野郎共は何んの事はねえ、舌なめずりをして喉をぐびつかせたのよ。其の一人が、神様は獣だ……何ね、獣だとは云わ無えさ、云わ無えが人じゃ無えと云ったんだ。 其の神様ってえのが人間を創って魂を入れたとある。魂があって見れば善と悪とは……何んとか云った、善と悪とは……何んとかだとよ。そうして見ると善はするがいいし、悪はしちゃなら無え。それが出来なけりゃ、此の娑婆に生れて来て居ても、人間じゃ無えと云うんだ。 お前っちは字を読むからには判るだろう。人間で善をして居る奴があるかい。馬鹿野郎、ばちあたり。旨い汁を嘗めっこをして居やがって、食い余しを取っとき物の様に、お次ぎへお次ぎへと廻して居りゃ、それで人間かい。畢竟芝居上手が人間で、己れっち見たいな不器用者は虫なんだ。 見ねえ、死って仕舞やがった。 何処からか枯れた小枝が漂って、自分等の足許に来たのをヤコフ・イリイッチは話しながら、私は聞きながら共に眺めて、其の上に居る一匹の甲虫に眼をつけて居たのであったが、舷に当る波が折れ返る調子に、くるりとさらったので、彼が云う様に憐れな甲虫は水に陥って、油をかけた緑玉の様な雙の翊を無上に振い動かしながら、絶大な海の力に対して、余り悲惨な抵抗を試みて居るのであった。 私は依然波の間に点を為して見ゆる其の甲虫を、悲惨な思いをして眺めている。ヤコフ・イリイッチは忘れた様に船渠の方を見遣って居る。 話柄が途切れて閑とすると、暑さが身に沁みて、かんかん日のあたる胴の間に、折り重なっていぎたなく寝そべった労働者の鼾が聞こえた。 ヤコフ・イリイッチは徐ろに後ろを向いて、眠れる一群に眼をやると、振り返って私を腭でしゃくった。 見ろい、イフヒムの奴を。知ってるか、「癇癪玉」ってんだ綽名が――知ってるか彼奴を。 さすがに声が小さくなる。 イフヒムと云うのはコンスタンチノープルから輸入する巻煙草の大箱を積み重ねた蔭に他の労働者から少し離れて、上向きに寝て居る小男であった。何しろケルソン市だけでも五百人から居る所謂かんかん虫の事であるから、縦令市の隅から隅へと漂泊して歩いた私でも、一週間では彼等の五分の一も親交にはなって居なかったが、独りイフヒムは妙に私の注意を聳やかした一人であった。唯一様の色彩と動作との中にうようよと甲板の掃除をして居る時でも、船艙の板囲いにずらっと列んで、尻をついて休んで居る時でも、イフヒムの姿だけは、一団の労働者から浮き上った様に、際立って見えた。ぎりっと私を見据えて居るものがあると思って振り向くと、屹度イフヒムの大きな夢でも見て居る様な眼にぶつかったものである。あの眼ならショパンの顔に着けても似合うだろうと、そう思った事もある。然しまだ一遍も言葉を交えた事がない。私は其の旨を答えようとするとヤコフ・イリイッチは例の頓着なく話頭を進めて居る。 かんかん虫手合いで恐がられが己れでよ、太腐れが彼奴だ。 彼奴も字は読ま無えがね。 あの野郎が二三年以来カチヤと訳があったのを知って居た。知っては居たがそれが何うなるものかお前、イフヒムは見た通りの裸一貫だろう。何一つ腕に覚えがあるじゃなし、人の隙を窺って、鈎の先で船室小盗でもするのが関の山だ。何うなるものか。女って獣は栄燿栄華で暮そうと云う外には、何一つ慾の無え獣だ。成程一とわたりは男選みもしようし、気前惚れもしようさ。だがそれも金があって飯が食えて、べらっとしたものでもひっかけられた上の話だ。真っ裸にして日干し上げて見ろ、女が一等先きに目を着けるのは、気前でもなけりゃ、男振りでも無え、金だ。何うも女ってものは老者の再生だぜ。若死したものが生れ代ると男になって、老耄が生れ代ると業で女になるんだ。あり相で居て、色気と決断は全然無しよ、あるものは慾気ばかりだ。私は思わずほほ笑ませられた。ヤコフ・イリイッチを見ると彼は大真面目である。 又親ってものがお前不思議だってえのは、娘を持つと矢っ張りそんな気にならあ。己れにした処がまあカチヤには何よりべらべらしたものを着せて、頬っぺたの肉が好い色になるものでも食わせて、通りすがりの奴等が何処の御新造だろう位の事を云って振り向く様にしてくれりゃ、宿六はちっとやそっとへし曲って居ても構わ無えと思う様になるんだ。 それでもイフヒムとカチヤが水入らずになれ合って居た間は、己れだって口を出すがものは無え、黙って居たのよ。すると不図娘の奴が妙に鬱ぎ出しやがった。鬱ぐもおかしい、そう仰山なんじゃ無えが、何かこう頭の中で円い玉でもぐるぐる廻して見て居る様な面付をして居やあがる。変だなと思ってる中に、一週間もすると、奴の身の周りが追々綺麗になるんだ。晩飯でも食って出懸ける所を見ると、お前、頭にお前、造花なんぞ揷して居やあがる。何処からか指輪が来ると云うあんばいで、仕事も休みがちで遊びまわるんだ。偶にゃ大層も無え。お袋に土産なんぞ持って来やあがる。イフヒムといがみ合った様な噂もちょくちょく聞くから、貢ぐのは野郎じゃ無くって、これはてっきり外に出来たなとそう思ったんだ。そんなあんばいで半年も経った頃、藪から棒に会計のグリゴリー・ペトニコフが人を入れて、カチヤを囲いたい、話に乗ってくれと斯うだ。 之れで読めた、読めは読めたが、思わく違いに当惑いた。全くまごつくじゃ無えか。 虫の娘を人間が欲しいと云って来やがったんだ。 じりじりと板挾みにする様に照り付けて居た暑さがひるみそめて、何処を逃れて来たのか、涼しい風がシャツの汗ばんだ処々を撫でて通った。 其の晩だ、寝ずに考えたってえのは。 己れが考えたなんちゃ可笑しかろう。 |
御降り 今日は御降りである。尤も歳事記を検べて見たら、二日は御降りと云はぬかも知れぬ。が蓬莱を飾つた二階にゐれば、やはり心もちは御降りである。下では赤ん坊が泣き続けてゐる。舌に腫物が出来たと云ふが、鵞口瘡にでもならねば好い。ぢつと炬燵に当りながら、「つづらふみ」を読んでゐても、心は何時かその泣き声にとられてゐる事が度々ある。私の家は鶉居ではない。娑婆界の苦労は御降りの今日も、遠慮なく私を悩ますのである。昔或御降りの座敷に、姉や姉の友達と、羽根をついて遊んだ事がある。その仲間には私の外にも、私より幾つか年上の、おとなしい少年が交つてゐた。彼は其処にゐた少女たちと、悉仲好しの間がらだつた。だから羽根をつき落したものは、羽子板を譲る規則があつたが、自然と誰でも私より、彼へ羽子板を渡し易かつた。所がその内にどう云ふ拍子か、彼のついた金羽根が、長押しの溝に落ちこんでしまつた。彼は早速勝手から、大きな踏み台を運んで来た。さうしてその上へ乗りながら、長押しの金羽根を取り出さうとした。その時私は背の低い彼が、踏み台の上に爪立つたのを見ると、いきなり彼の足の下から、踏み台を側へ外してしまつた。彼は長押しに手をかけた儘、ぶらりと宙へぶら下つた。姉や姉の友だちは、さう云ふ彼を救ふ為に、私を叱つたり賺したりした。が、私はどうしても、踏み台を人手に渡さなかつた。彼は少時下つてゐた後、両手の痛みに堪へ兼たのか、とうとう大声に泣き始めた。して見れば御降りの記憶の中にも、幼いながら嫉妬なぞと云ふ娑婆界の苦労はあつたのである。私に泣かされた少年は、その後学問の修業はせずに、或会社へ通ふ事になつた。今ではもう四人の子の父親になつてゐるさうである。私の家の御降りは、赤ん坊の泣き声に満たされてゐる。彼の家の御降りはどうであらう。(一月二日) 御降りや竹ふかぶかと町の空 夏雄の事 香取秀真氏の話によると、加納夏雄は生きてゐた時に、百円の月給を取つてゐた由。当時百円の月給取と云へば、勿論人に羨まれる身分だつたのに相違ない。その夏雄が晩年床に就くと、屡枕もとへ一面に小判や大判を並べさせては、しけじけと見入つてゐたさうである。さうしてそれを見た弟子たちは、先生は好い年になつても、まだ貪心が去らないと見える、浅間しい事だと評したさうである。しかし夏雄が黄金を愛したのは、千葉勝が紙幣を愛したやうに、黄金の力を愛したのではあるまい。床を離れるやうになつたら、今度はあの黄金の上に、何を刻んで見ようかなぞと、仕事の工夫をしてゐたのであらう。師匠に貪心があると思つたのは、思つた弟子の方が卑しさうである。香取氏はかう病牀にある夏雄の心理を解釈した。私も恐らくさうだらうと思ふ。所がその後或男に、この逸話を話して聞かせたら、それはさもあるべき事だと、即座に賛成の意を表した。彼の述べる所によると、彼が遊蕩を止めないのも、実は人生を観ずる為の手段に過ぎぬのださうである。さうしてその機微を知らぬ世俗が、すぐに兎や角非難をするのは、夏雄の場合と同じださうである。が、実際さうか知らん。(一月六日) 冥途 この頃内田百間氏の「冥途」(新小説新年号所載)と云ふ小品を読んだ。「冥途」「山東京伝」「花火」「件」「土手」「豹」等、悉夢を書いたものである。漱石先生の「夢十夜」のやうに、夢に仮託した話ではない。見た儘に書いた夢の話である。出来は六篇の小品中、「冥途」が最も見事である。たつた三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、気もちの好い Pathos が流れてゐる。しかし百間氏の小品が面白いのは、さう云ふ中味の為ばかりではない。あの六篇の小品を読むと、文壇離れのした心もちがする。作者が文壇の塵氛の中に、我々同様呼吸してゐたら、到底あんな夢の話は書かなかつたらうと云ふ気がする。書いてもあんな具合には出来なからうと云ふ気がする。つまり僕にはあの小品が、現在の文壇の流行なぞに、囚はれて居らぬ所が面白いのである。これは僕自身の話だが、何かの拍子に以前出した短篇集を開いて見ると、何処か流行に囚はれてゐる。実を云ふと僕にしても、他人の廡下には立たぬ位な、一人前の自惚れは持たぬではない。が、物の考へ方や感じ方の上で見れば、やはり何処か囚はれてゐる。(時代の影響と云ふ意味ではない。もつと膚浅な囚はれ方である。)僕はそれが不愉快でならぬ。だから百間氏の小品のやうに、自由な作物にぶつかると、余計僕には面白いのである。しかし人の話を聞けば、「冥途」の評判は好くないらしい。偶僕の目に触れた或新聞の批評家なぞにも、全然あれがわからぬらしかつた。これは一方現状では、尤ものやうな心もちがする。同時に又一方では、尤もでないやうな心もちもする。(一月十日) 長井代助 我々と前後した年齢の人々には、漱石先生の「それから」に動かされたものが多いらしい。その動かされたと云ふ中でも、自分が此処に書きたいのは、あの小説の主人公長井代助の性格に惚れこんだ人々の事である。その人々の中には惚れこんだ所か、自ら代助を気取つた人も、少くなかつた事と思ふ。しかしあの主人公は、我々の周囲を見廻しても、滅多にゐなさうな人間である。「それから」が発表された当時、世間にはやつてゐた自然派の小説には、我々の周囲にも大勢ゐさうな、その意味では人生に忠実な性格描写が多かつた筈である。しかし自然派の小説中、「それから」のやうに主人公の模倣者さへ生んだものは見えぬ。これは独り「それから」には限らず、ウエルテルでもルネでも同じ事である。彼等はいづれも一代を動揺させた性格である。が、如何に西洋でも、彼等のやうな人間は、滅多にゐぬのに相違ない。滅多にゐぬやうな人間が、反つて模倣者さへ生んだのは、滅多にゐぬからではあるまいか。無論滅多にゐぬと云ふ事は、何処にもゐぬと云ふ意味ではない。何処にもゐるとは云へぬかも知れぬ、が、何処かにゐさうだ位の心もちを含んだ言葉である。人々はその主人公が、手近に住んで居らぬ所に、惝怳の意味を見出すのであらう。さうして又その主人公が、何処かに住んでゐさうな所に、惝怳の可能性を見出すのであらう。だから小説が人生に、人間の意欲に働きかける為には、この手近に住んでゐない、しかも何処かに住んでゐさうな性格を創造せねばならぬ。これが通俗に云ふ意味では、理想主義的な小説家が負はねばならぬ大任である。カラマゾフを書いたドストエフスキイは、立派にこの大任を果してゐる。今後の日本では仰誰が、かう云ふ性格を造り出すであろう。(一月十三日) 嘲魔 一かどの英霊を持つた人々の中には、二つの自己が住む事がある。一つは常に活動的な、情熱のある自己である。他の一つは冷酷な、観察的な自己である。この二つの自己を有する人々は、ややもすると創作力の代りに、唯賢明な批評力を獲得するだけに止まり易い。M. de la Rochefoucauld はこれである。が、モリエエルはさうではない。彼はこの二つの自己の分裂を感じない人間であつた。不思議にもこの二つの自己を同時に生きる人間であつた。彼が古今に独歩する所以は、かう云ふ壮厳な矛盾の中にある。Sainte-Beuve のモリエエル論を読んでゐたら、こんな事を書いた一節があつた。私も私自身の中に、冷酷な自己の住む事を感ずる。この嘲魔を却ける事は、私の顔が変へられないやうに、私自身には如何とも出来ぬ。もし年をとると共に、嘲魔のみが力を加へれば、私も亦メリメエのやうに、「私の友人のなにがしがかう云ふ話をして聞かせた」なぞと、書き始める事にも倦みさうである。殊に虚無の遺伝がある東洋人の私には容易かも知れぬ。L'Avare や École des Femmes を書いたモリエエルは、比類の少い幸福者である。が、奸妻に悩まされ、病肺に苦しまされ、作者と俳優と劇場監督と三役の繁務に追はれながら、しかも猶この嘲魔の毒手に、陥らなかつたモリエエルは、愈羨望に価すべき比類の少い幸福者である。(一月十四日) 池西言水 「言ひ難きを言ふは老練の上の事なれど、そは多く俗事物を詠じて、雅ならしむる者のみ。其事物如何に雅致ある者なりとも、十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめん事は、殆ど為し得べからざる者なれば、古来の俳人も皆之を試みざりしに似たり。然れども一二此種の句なくして可ならんや。池西言水は実に其作者なり。」これは正岡子規の言葉である。(俳諧大要。一五六頁)子規はその後に実例として、言水の句二句を掲げてゐる。それは「姨捨てん湯婆に燗せ星月夜」と「黒塚や局女のわく火鉢」との二句である。自分は言水のこれらの句が、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」たとするには、何の苦情も持つて居らぬ。しかしこの意味では蕪村や召波も、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」てはゐないか。「御手打の夫婦なりしを衣更へ」や「いねかしの男うれたき砧かな」も、やはり複雑な内容を十七字の形式につづめてはゐないか。しかも「燗せ」や「わく」と云ふ言葉使ひが耳立たないだけに、一層成功してはゐないか。して見れば子規が評した言葉は、言水にも確に当て嵌まるが、言水の特色を云ひ尽すには、余りに広すぎる憾みはないか。かう自分は思ふのである。では言水の特色は何かと云へば、それは彼が十七字の内に、万人が知らぬ一種の鬼気を盛りこんだ手際にあると思ふ。子規が掲げた二句を見ても、すぐに自分を動かすのは、その中に漂ふ無気味さである。試に言水句集を開けば、この類の句は外にも多い。 御忌の鐘皿割る罪や暁の雲 つま猫の胸の火や行く潦 夜桜に怪しやひとり須磨の蜑 蚊柱の礎となる捨子かな 人魂は消えて梢の燈籠かな あさましや虫鳴く中に尼ひとり 火の影や人にて凄き網代守 句の佳否に関らず、これらの句が与へる感じは、蕪村にもなければ召波にもない。元禄でも言水唯一人である。自分は言水の作品中、必しもかう云ふ鬼趣を得た句が、最も神妙なものだとは云はぬ。が、言水が他の大家と特に趣を異にするのは、此処にあると云はざるを得ないのである。言水通称は八郎兵衛、紫藤軒と号した。享保四年歿。行年は七十三である。(一月十五日) 托氏宗教小説 今日本郷通りを歩いてゐたら、ふと托氏宗教小説と云う本を見つけた。価を尋ねれば十五銭だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間渦福の鉢を買はうと思つたら、十八円五十銭と云ふのに辟易した。が、十五銭の本位は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を曝してゐる。托氏宗教小説は、西暦千九百有七年、支那では光緒三十三年、香港の礼賢会(Rhenish Missionary Society)が、剞劂に付した本である。訳者は独逸の宣教師 Genähr と云ふ人である。但し翻訳に用ひた本は、Nisbet Bain の英訳だと云ふ、内容は名高い主奴論以下、十二篇の作品を集めてゐる。この本は勿論珍書ではあるまい。文求堂に頼みさへすれば、すぐに取つてくれるかも知れぬ。が、表紙を開けた所に、原著者托爾斯泰の写真があるのは、何となしに愉快である。好い加減に頁を繰つて見れば、牧色、加夫単、沽未士なぞと云ふ、西洋語の音訳が出て来るのも、僕にはやはり物珍しい。こんな翻訳が上梓された事は原著者托氏も知つてゐたであらうか。香港上海の支那人の中には、偶然この本を読んだ為めに、生涯托氏を師と仰いだ、若干の青年があつたかも知れぬ。托氏はさう云ふ南方の青年から、遙に敬愛を表すべき手紙を受け取りはしなかつたであらうか。私は托氏宗教小説を前に、この文章を書きながら、そんな空想を逞しくした。托氏とは伯爵トルストイである。(一月二十八日) 「西洋の民は自由を失つた。恢復の望みは殆ど見えない。東洋の民はこの自由を恢復すべき使命がある。」これは次手に孫引きにしたトルストイの書簡の一節である。(一月三十日) 印税 Jules Sandeau のいとこが Palais Royal のカツフエへ行つてゐると、出版書肆のシヤルパンテイエが、バルザツクと印税の相談をしてゐた。その後彼等が忘れて行つた紙を見たら、無暗に沢山の数字が書いてあつた。サンドオがバルザツクに会つた時、この数字の意味を問ひ訊すと、それは著者が十万部売切れた場合、著者の手に渡るべき印税の額だつたと云ふ。当時バルザツクが定めた印税は、オクタヴオ版三フラン半の本一冊につき、定価の一割を支払ふのだつた。して見ればまづ日本の作家が、現在取つてゐる印税と大差がなかつた訣である。が、これがバルザツクがユウジエニエ・グランデエを書いた時分だから、千八百三十二年か三年頃の話である。まあ印税も日本では、西洋よりざつと百年ばかり遅れてゐると思へば好い。原稿成金なぞと云つても、日本では当分小説家は、貧乏に堪へねばならぬやうである。(一月三十日) 日米関係 日米関係と云つた所が、外交問題を論ずるのではない。文壇のみに存在する日米関係を云ひたいのである。日本に学ばれる外国語の中では、英吉利語程範囲の広いものはない。だから日本の文士たちも、大抵は英吉利語に手依つてゐる。所が英吉利なり亜米利加なり、本来の英吉利語文学は、シヨオとかワイルドとか云ふ以外に、余り日本では流行しない。やはり読まれるのは大陸文学である。然るに英吉利語訳の大陸文学は、亜米利加向きのものが多い。何故と云へばホイツトマン以後、芸術的に荒蕪な亜米利加は、他国に天才を求めるからである。その関係上日本の文壇は、さ程著しくないにしても、近年は亜米利加の流行に、影響される形がないでもない。イバネスの名前が聞え出したのは、この実例の一つである。(僕が高等学校の生徒だつた頃は、あの「大寺院の影」の外に、英吉利語訳のイバネスは何処を探しても見当らなかつた。)向う河岸の火の手が静まつたら、今度はパピニなぞの伊太利文学が、日本にも紹介され出すかも知れぬ。これは大陸文学ではないが、以前文壇の一角に、愛蘭土文学が持て囃されたのも、火の元は亜米利加にあつたやうだ。かう云ふ日米関係は、英吉利語文学が流行しないだけに存外見落され勝ちのやうである。偶丸善へ行つて見たら、イバネス、ブレスト・ガナ、デ・アラルコン、バロハなぞの西班牙小説が沢山並べてあつた為め、こんな事を記して置く気になつた。(二月一日) Ambroso Bierce |
一 裏の松原でサラツサラツと砂の上の落松葉を掻きよせる音が高く晴れ渡つた大空に、如何にも気持のよいリズムをもつて響き渡つてゐます。私は久しぶりで騒々しい都会の轢音から逃れて神経にふれるやうな何の物音もない穏やかな田舎の静寂を歓びながら長々と椽側近くに体をのばして、甘つたるい洋紙の匂や、粗いその手ざはりさへ久しぶりな染々した心持で新刊書によみ耽つてゐました。 ふと頁を切るひまの僅かな心のすきに、如何にも爽快なリズムをもつたサラツサラツと松原の硬い砂地をかすめる松葉掻きの竹の箒の音が、遠い〳〵子供の時分に聞きなれた子守歌を歌はれる時のやうな、何となく涙ぐまれるやうなフアミリアルな調子で迫つて来ました。私は何時か頁を切る事も忘れて其のまゝボンヤリ庭のおもてに目をやりながら其の音に聞き惚れてゐました。先刻から書物の上を強く照らして、何んとなく目まひを覚えさせた日の光りは、秋にしては少し強すぎる位の同じ日ざしを、庭の白い砂の上にもまぶしく投げてゐました。おつとりと高くすんだ空には少しふつり合ひな位に、その細かに真白な砂はギラ〳〵とまぶしく輝いてゐました。私は何時までも何時までもぼんやり其処に眼をすえて遠くの方から聞えて来る其の松葉掻きの音に聞き入ってゐました。 丁度寝おきの時の気持に似たそれよりは少し快い物倦さを覚えるボーツとした其の時の私の頭の中に、ふと祖母と弟の話声がはいつて来ました。 『あたいはどうもしやしないよ』 『本当にかまはなかつたかい?』 『かまやしないつたら! あたいは見てゐた丈けだつてば』 『そんならいゝけれど、これからだつてお祖母さんが何時も云つて聞かすやうに、芳公に悪い事をするんぢやありませんよ。芳公だつて人間だからね、決して竹の先でついたりいたづらをするんぢやないよ。他の人がどんな事をしてもだまつて見てゐるんだよ、決して仲間になつて、悪い事をするんぢやないよ』 『あゝ、大丈夫だよ、しやしないよ、何時だつて見てゐるきりだよ』 弟は面倒臭そうに話をすると駈け出して来て椽側で独楽をまはし始めました。 『これ! またそんな処で。椽側でこまをまはすんぢやないと云つとくぢやないか』 祖母は直ぐ後から歩みよつて叱りつけました。弟はニヤリと笑つて、そのはづんでゐるのを掌にとつたが忽ちまはり止んだので仕方がなささうにまたその長い緒を巻きはじめました。 『また誰か芳公をいぢめたの?』 私はからかふやうに弟に聞きました。 『いぢめやしないよウ、あんな奴いぢめたつてつまらないや』 弟は口を尖らして、さも不服らしく私の顔を見上げました。 『どうしてつまらないのさ』 私はその小さなふくれつ面を面白がつてまた聞きました。 『だつて、何したつて黙つて行つちやうんだもの、つまらないよ』 『偶には追つかけて位来るでせう?』 『来ないよ』 『一度もかい?』 『あゝ』 芳公と云ふ白痴の男は、私の家とは低い垣根を一重隔てた隣の屋敷の隅にある小屋の中にその母親の老婆と二人で、私がまだ幼い時分から住んでゐました。芳公は首をまつ直にした事のない男でした。何時でも下を向いて大きな背を丸くして人の顔を上目で見てはニヤ〳〵笑つてゐる男でした。彼は滅多に口をきいた事はありませんし、偶にきいても細い〳〵声で一と言二た言云ふとそれから先きは何んと云つても聞きとれるやうな声では云ひませんでした。彼は私がまだ五つか六つ位の時にもう七十に手が届くと云はれたその母親に養はれてゐたのですが、力だけは驚く程持つてゐますので、よく米搗や山から薪を運ぶ仕事などに使はれてゐました。私もまた幼い時から弟が今祖母に云はれたのと同じ事を云はれながらよくからかつたものでした。けれど其の頃は少し私共がうるさくつきまとふと、彼は怒つて追つかけて来たり、手あたり次第に石を投げつけたりしました。彼は其の時分私達が――と云ふよりは私達を率ゐる子守共がよつてたかつてからかひながら年を聞きますと、きまつて『十九』と細い声でさも恥かしさうな身振りでやつと答へました。けれど其時分既に大人達はもうどうしても彼の年を四十以上だと勘定してゐました。それからもう十七八年の年月が移つてゐます。いくら年を取らない馬鹿だと云つても、矢張りもう十五六年前の気力を失つたのだらうと私は思ひました。 『芳公は一体もういくつ位なのでせうね。どうしても五十以上にはなつてゐますね』 『もうそんなもんだらうねえ』 何時の間にか私の前の方で小ぎれいななりをしてゐた祖母は私の問ひに格別考へる様子もなく顔をうつむけたまゝどうでもいゝやうな返事をしました。 『十九だよ、芳公の年なら――』 自分の年でも云ふような顔をして弟が傍から口を出しました。 『それや芳公が云ふんでせう?』 『ああ』 『そんなら姉さんがお前よりももつと幼い時から十九だつて云つてるよ。本当はうちのお父さんよりまだ年よりだよ』 『嘘! 嘘だい、ねえお祖母さん!』 『本当ですよ、ねえお祖母さん? 芳公はお馬鹿さんだから年をとらないだけなんですよ』 『ふうん』 弟は腑におちないやうな顔をしてぢつと私の顔を見てゐました。私は弟とそんな話をしてゐるのもつまらなくなつたので再び紙切ナイフを取り上げました。弟もつまらない顔をして遊びに出かけさうにしましたが忽ち頓狂な声をひそめて振り返りました。 『姉さん、芳公がまた打たれてるよ、ほら彼処で――』 私の座つてゐる処から斜めに見える隣りの境目の垣根に近い井戸端に、例のやうに背中をまるくして下を向いて立つてゐる芳公の姿が見えます。其の前に見るも汚らしい老婆が立つて、何か云つては芳公がだらりと下げた大きな手の甲をピシヤ〳〵なぐつてゐます。芳公はいくらなぐられても何んの感もないやうに打たれる手をひつこめもせずにぬつと突つ立つてゐるのです。私は穏やかな明るすぎる程の秋の日ざしの中での奇怪な姿をした親子の立ち姿を、不思議な程平らな無関心な気持でだまつて眺めてゐました。 『彼方の方がよく見えるよ』 垣根の方にすばやく走つて行く弟を叱つておいて祖母は立ち上りました。 『また婆さんはあんなものを叱るのだね、叱つたつて打つたつて解るものかね、いゝ加減にやめておけばいゝものを――』 独り言のやうにさう云ひながらそろ〳〵体を起して椽側を降りると庭の囲ひの外に出て行きました。 二 二三日前――此処に帰りついた次の朝早く――松原の中で、私は其のお化けのやうに影のうすい異様な姿をした、汚らしい芳公の母親に遇つたのでした。 其の朝は、特にうすら寒くて、セルに袷羽織を重ねてもまだ膚寒い程でした。私はまだ日の上らない前に珍らしく床をぬけ出して、海辺に出ました。海は些の微動もない位によく和いでゐました。何時もは直ぐ目の前に見える島も岬も立ちこめたもやの中に、ぼんやりと遠く見えて、海も松原も一面にしつとりとした水気を含んだ朝の空気につゝまれて静まり返つてゐました。私は足の下でかすかに音をたててゐる砂の音を聞くともなく聞きながら松原を出て渚に降りて行きました。小舟は静かに浮いて居ました。そして汀の水は申訳ばかりにピチヤ〳〵とあるかないか分らない程の音をたてゝゐます。私は出来るだけゆつくりその汀を歩いて東の方のはづれの砂浜がずつと広くなつた河尻まで行きました。私が引き返し初めた頃には長い〳〵その渚の彼方此方に黒い小さく見える人影がありました。私は本当に久しぶりで朝の海辺のすが〳〵しい気持を貪りながら高い砂浜を上つたり降りたりして家の方に帰つて来ました。 私が丁度家の直ぐ下の渚から松原へ上らうとした時に、ふと其処の松の木に背をもたせるやうにして立つた一人の老婆を見出しました。もぢや〳〵と頭を覆ふた白髪、生きた色つやを失つた黄色く濁つた其の皺深い顔の皮膚、放心したやうな光りを失つた眼、両端が深く垂れた大きく結んだ口、私はその老婆の顔を見た瞬間にゾツとして眉をよせた事を覚えてゐます。 『まア、まだ生きてゐるのだ!』 |
紅茶会 三両二分 通う神 紀の国屋 段階子 手鞠の友 湯帰り 描ける幻 朝参詣 言語道断 下かた 狂犬源兵衛 半札の円輔 犬張子 胸騒 鶯 白木の箱 灰神楽 星 紅茶会 一 「紅茶の御馳走だ、君、寄宿舎の中だから何にもない、砂糖は各々適宜に入れることにしよう。さあ、神月。」 三人の紅茶を一個々々硝子杯に煎じ出した時、柳沢時一郎はそのすっきりと脊の高い、緊った制服の姿を籐の椅子の大きなのに、無造作に落していった。 渠は腕袋の美しい片肱を椅子の縁に掛けて、悠然とぶら下げながら、 「篠塚、その砂糖をお客様に出して上げろ。」 「おい、」と心安げに答えたのは和尚天窓で、背広を着た柔和な仁体、篠塚某という哲学家。一脚の卓子を囲んで、柳沢と差向いに同じ椅子に掛けていたが、体を捻って、背後へ手を伸すと雑書を納れた本箱の上から、一瓶の角砂糖を取って、これを二人の間に居る一人の美少年の前に置いた。 「取って頂くよ。」と優しく会釈する、これが神月と呼ばれた客で、名を梓という同窓の文学士、いずれも歴々の人物である。 梓は柳沢が煎じてくれた紅茶の、薄紅色の透取る硝子杯の小さいのを取って前に引いたが、いま一人哲学者と肩を竝べて、手織の綿入に小倉の袴、紬の羽織を脱いだのを、紐長く椅子の背後に、裏を翻して引懸けて、片手を袴に入れて、粛然として読書する薄髯のあるのを見て、 「何を読んでるんです、」と少しく腰を浮かして、差覗いて聞いた。 「僕、」と応じはしたけれども、急に顔を上げたので誰に返事をするのであるか、自分にも分らないで迂路々々するのを柳沢は気軽に引取って、 「若狭が読んでるのは歴史だよ、国史専修の先生だもの、しばらくの間も研究を怠らない。」 「御勉強です、」といって神月が点首くと、和尚は、にやにやと笑いながら、その読んでる書を横目で見た。柳沢は吹出して、 「真面目な挨拶をする奴があるものか、歴史は歴史だが大変なもんです。無名氏著、岩見武勇伝だから可いじゃあないか。」 「酷く研究をしております、」と哲学者は仰いで飲む。これが聞えたものらしい。若狭は読みながら莞爾とした。 「また何ぞの材料にならないとも限らないだろう。」と梓はその硝子杯を手にした。 柳沢は斜に卓子に凭れて、小刀の柄で紅茶に和した角砂糖を突きながら、 「そりゃある、その材料のあることはちょうど何だ、篠塚が小まさの浄瑠璃の中から哲理を発見するようなもんだ。」 「馬鹿をいえ。」 梓は傍より、 「しかし君も鳥屋の女の言は、時に詩調を帯びると、そういった事があるよ。」 底意なき人達は三人一堂に笑った。 「賑かだね、柳沢、」と窓の下の園生から声を懸けたものがある。 二 一番窓に近い柳沢は、乱暴に胸を反して振向いたが、硝子越に下を覗いて見て、 「竜田か。」 「誰か来ているかい。」 「根岸の新華族だ、入れ。」と云って座に直る。 同時に、ひよいと窓の縁に手が懸った、飛附いて、その以前、器械体操で馴らしたか、身の軽さ、肩を揺り上げて室の中に、まずその瀟洒なる顔を出したのは、竜田、名を若吉というのである。 梓を見て笑を含み、 「堪忍してやれ、神月はもう子爵じゃあない。」といいながら腕組をして外壁に附着いたままで居る。柳沢は椅子をずらして、 |
これは孝子伝吉の父の仇を打った話である。 伝吉は信州水内郡笹山村の百姓の一人息子である。伝吉の父は伝三と云い、「酒を好み、博奕を好み、喧嘩口論を好」んだと云うから、まず一村の人々にはならずもの扱いをされていたらしい。(註一)母は伝吉を産んだ翌年、病死してしまったと云うものもある。あるいはまた情夫の出来たために出奔してしまったと云うものもある。(註二)しかし事実はどちらにしろ、この話の始まる頃にはいなくなっていたのに違いない。 この話の始まりは伝吉のやっと十二歳になった(一説によれば十五歳)天保七年の春である。伝吉はある日ふとしたことから、「越後浪人服部平四郎と云えるものの怒を買い、あわや斬りも捨てられん」とした。平四郎は当時文蔵と云う、柏原の博徒のもとに用心棒をしていた剣客である。もっともこの「ふとしたこと」には二つ三つ異説のない訣でもない。 まず田代玄甫の書いた「旅硯」の中の文によれば、伝吉は平四郎の髷ぶしへ凧をひっかけたと云うことである。 なおまた伝吉の墓のある笹山村の慈照寺(浄土宗)は「孝子伝吉物語」と云う木版の小冊子を頒っている。この「伝吉物語」によれば伝吉は何もした訣ではない。ただその釣をしている所へ偶然来かかった平四郎に釣道具を奪われようとしただけである。 最後に小泉孤松の書いた「農家義人伝」の中の一篇によれば、平四郎は伝吉の牽いていた馬に泥田へ蹴落されたと云うことである。(註三) とにかく平四郎は腹立ちまぎれに伝吉へ斬りかけたのに違いない。伝吉は平四郎に追われながら、父のいる山畠へ逃げのぼった。父の伝三はたった一人山畠の桑の手入れをしていた。が、子供の危急を知ると、芋の穴の中へ伝吉を隠した。芋の穴と云うのは芋を囲う一畳敷ばかりの土室である。伝吉はその穴の中に俵の藁をかぶったまま、じっと息をひそめていた。 「平四郎たちまち追い至り、『老爺、老爺、小僧はどちへ行ったぞ』と尋ねけるに、伝三もとよりしたたかものなりければ、『あの道を走り行き候』とぞ欺きける。平四郎その方へ追い行かんとせしが、ふと伝三の舌を吐きたるを見咎め、『土百姓めが、大胆にも□□□□□□□□□□□(虫食いのために読み難し)とて伝三を足蹴にかけければ、不敵の伝三腹を据え兼ね、あり合う鍬をとるより早く、いざさらば土百姓の腕を見せんとぞ息まきける。 「いずれ劣らぬ曲者ゆえ、しばく(シの誤か)は必死に打ち合いけるが、…… 「平四郎さすがに手だれなりければ、思うままに伝三を疲らせつつ、打ちかくる鍬を引きはずすよと見る間に、伝三の肩さきへ一太刀浴びせ、…… 「逃げんとするを逃がしもやらず、拝み打ちに打ち放し、…… 「伝吉のありかには気づかずありけん、悠々と刀など押し拭い、いずこともなく立ち去りけり。」(旅硯) 脳貧血を起した伝吉のやっと穴の外へ這い出した時には、もうただ芽をふいた桑の根がたに伝三の死骸のあるばかりだった。伝吉は死骸にとりすがったなり、いつまでも一人じっとしていたが、涙は不思議にも全然睫毛を沾さなかった。その代りにある感情の火のように心を焦がすのを感じた。それは父を見殺しにした彼自身に対する怒だった。理が非でも仇を返さなければ消えることを知らない怒だった。 その後の伝吉の一生はほとんどこの怒のために終始したと云ってもよい。伝吉は父を葬った後、長窪にいる叔父のもとに下男同様に住みこむことになった。叔父は枡屋善作(一説によれば善兵衛)と云う、才覚の利いた旅籠屋である。(註四)伝吉は下男部屋に起臥しながら仇打ちの工夫を凝らしつづけた。この仇打の工夫についても、諸説のいずれが正しいかはしばらく疑問に附するほかはない。 (一)「旅硯」、「農家義人伝」等によれば、伝吉は仇の誰であるかを知っていたことになっている。しかし「伝吉物語」によれば、服部平四郎の名を知るまでに「三星霜を閲し」たらしい。なおまた皆川蜩庵の書いた「木の葉」の中の「伝吉がこと」も「数年を経たり」と断っている。 (二)「農家義人伝」、「本朝姑妄聴」(著者不明)等によれば、伝吉の剣法を学んだ師匠は平井左門と云う浪人である。左門は長窪の子供たちに読書や習字を教えながら、請うものには北辰夢想流の剣法も教えていたらしい。けれども「伝吉物語」「旅硯」「木の葉」等によれば、伝吉は剣法を自得したのである。「あるいは立ち木を讐と呼び、あるいは岩を平四郎と名づけ」、一心に練磨を積んだのである。 すると天保十年頃意外にも服部平四郎は突然往くえを晦ましてしまった。もっともこれは伝吉につけ狙われていることを知ったからではない。ただあらゆる浮浪人のようにどこかへ姿を隠してしまったのである。伝吉は勿論落胆した。一時は「神ほとけも讐の上を守らせ給うか」とさえ歎息した。この上仇を返そうとすればまず旅に出なければならない。しかし当てもない旅に出るのは現在の伝吉には不可能である。伝吉は烈しい絶望の余り、だんだん遊蕩に染まり出した。「農家義人伝」はこの変化を「交を博徒に求む、蓋し讐の所在を知らんと欲する也」と説明している。これもまたあるいは一解釈かも知れない。 伝吉はたちまち枡屋を逐われ、唐丸の松と称された博徒松五郎の乾児になった。爾来ほとんど二十年ばかりは無頼の生活を送っていたらしい。(註五)「木の葉」はこの間に伝吉の枡屋の娘を誘拐したり、長窪の本陣何某へ強請に行ったりしたことを伝えている。これも他の諸書に載せてないのを見れば、軽々に真偽を決することは出来ない。現に「農家義人伝」は「伝吉、一郷の悪少と共に屡横逆を行えりと云う。妄誕弁ずるに足らざる也。伝吉は父讐を復せんとするの孝子、豈、這般の無状あらんや」と「木の葉」の記事を否定している。けれども伝吉はこの間も仇打ちの一念は忘れなかったのであろう。比較的伝吉に同情を持たない皆川蜩庵さえこう書いている。「伝吉は朋輩どもには仇あることを云わず、仇あることを知りしものには自らも仇の名など知らざるように装いしとなり。深志あるものの所作なるべし。」が、歳月は徒らに去り、平四郎の往くえは不相変誰の耳にもはいらなかった。 すると安政六年の秋、伝吉はふと平四郎の倉井村にいることを発見した。もっとも今度は昔のように両刀を手挟んでいたのではない。いつか髪を落した後、倉井村の地蔵堂の堂守になっていたのである。伝吉は「冥助のかたじけなさ」を感じた。倉井村と云えば長窪から五里に足りない山村である。その上笹山村に隣り合っているから、小径も知らないのは一つもない。(地図参照)伝吉は現在平四郎の浄観と云っているのも確かめた上、安政六年九月七日、菅笠をかぶり、旅合羽を着、相州無銘の長脇差をさし、たった一人仇打ちの途に上った。父の伝三の打たれた年からやっと二十三年目に本懐を遂げようとするのである。 伝吉の倉井村へはいったのは戌の刻を少し過ぎた頃だった。これは邪魔のはいらないためにわざと夜を選んだからである。伝吉は夜寒の田舎道を山のかげにある地蔵堂へ行った。窓障子の破れから覗いて見ると、榾明りに照された壁の上に大きい影が一つ映っていた。しかし影の持主は覗いている角度の関係上、どうしても見ることは出来なかった。ただその大きい目前の影は疑う余地のない坊主頭だった。のみならずしばらく聞き澄ましていても、この佗しい堂守のほかに人のいるけはいは聞えなかった。伝吉はまず雨落ちの石へそっと菅笠を仰向けに載せた。それから静かに旅合羽を脱ぎ、二つに畳んだのを笠の中に入れた。笠も合羽もいつの間にかしっとりと夜露にしめっていた。すると、――急に便通を感じた。伝吉はやむを得ず藪かげへはいり、漆の木の下へ用を足した。この一条を田代玄甫は「胆の太きこそ恐ろしけれ」と称え、小泉孤松は「伝吉の沈勇、極まれり矣」と嘆じている。 身仕度を整えた伝吉は長脇差を引き抜いた後、がらりと地蔵堂の門障子をあけた。囲炉裡の前には坊主が一人、楽々と足を投げ出していた。坊主はこちらへ背を見せたまま、「誰じゃい?」とただ声をかけた。伝吉はちょいと拍子抜けを感じた。第一にこう云う坊主の態度は仇を持つ人とも思われなかった。第二にその後ろ姿は伝吉の心に描いていたよりもずっと憔悴を極めていた。伝吉はほとんど一瞬間人違いではないかと云う疑いさえ抱いた。しかしもう今となってはためらっていられないのは勿論だった。 伝吉は後ろ手に障子をしめ、「服部平四郎」と声をかけた。坊主はそれでも驚きもせずに、不審そうに客を振り返った。が、白刃の光りを見ると、咄嵯に法衣の膝を起した。榾火に照らされた坊主の顔は骨と皮ばかりになった老人だった。しかし伝吉はその顔のどこかにはっきりと服部平四郎を感じた。 「誰じゃい、おぬしは?」 「伝三の倅の伝吉だ。怨みはおぬしの身に覚えがあるだろう。」 浄観は大きい目をしたまま、黙然とただ伝吉を見上げた。その顔に現れた感情は何とも云われない恐怖だった。伝吉は刀を構えながら、冷やかにこの恐怖を享楽した。 「さあ、その伝三の仇を返しに来たのだ。さっさと立ち上って勝負をしろ。」 「何、立ち上れじゃ?」 浄観は見る見る微笑を浮べた。伝吉はこの微笑の中に何か妙に凄いものを感じた。 「おぬしは己が昔のように立ち上れると思うているのか? 己は居ざりじゃ。腰抜けじゃ。」 伝吉は思わず一足すさった。いつか彼の構えた刀はぶるぶる切先を震わしていた。浄観はその容子を見やったなり、歯の抜けた口をあからさまにもう一度こうつけ加えた。 「立ち居さえ自由にはならぬ体じゃ。」 「嘘をつけ。嘘を……」 伝吉は必死に罵りかけた。が、浄観は反対に少しずつ冷静に返り出した。 「何が嘘じゃ? この村のものにも聞いて見るが好い。己は去年の大患いから腰ぬけになってしもうたのじゃ。じゃが、――」 浄観はちょいと言葉を切ると、まともに伝吉の目の中を見つめた。 「じゃが己は卑怯なことは云わぬ。いかにもおぬしの云う通り、おぬしの父親は己の手にかけた。この腰抜けでも打つと云うなら、立派に己は打たれてやる。」 伝吉は短い沈黙の間にいろいろの感情の群がるのを感じた。嫌悪、憐憫、侮蔑、恐怖、――そう云う感情の高低は徒に彼の太刀先を鈍らせる役に立つばかりだった。伝吉は浄観を睨んだぎり、打とうか打つまいかと逡巡していた。 「さあ、打て。」 浄観はほとんど傲然と斜に伝吉へ肩を示した。その拍子にふと伝吉は酒臭い浄観の息を感じた。と同時に昔の怒のむらむらと心に燃え上るのを感じた。それは父を見殺しにした彼自身に対する怒だった。理が非でも仇を打たなければ消えることを知らない怒だった。伝吉は武者震いをするが早いか、いきなり浄観を袈裟がけに斬った。…… 伝吉の見事に仇を打った話はたちまち一郷の評判になった。公儀も勿論この孝子には格別の咎めを加えなかったらしい。もっとも予め仇打ちの願書を奉ることを忘れていたから、褒美の沙汰だけはなかったようである。その後の伝吉を語ることは生憎この話の主題ではない。が、大体を明かにすれば、伝吉は維新後材木商を営み、失敗に失敗を重ねた揚句、とうとう精神に異状を来した。死んだのは明治十年の秋、行年はちょうど五十三である。(註六)しかしこう云う最期のことなどは全然諸書に伝わっていない。現に「孝子伝吉物語」は下のように話を結んでいる。―― 「伝吉はその後家富み栄え、楽しい晩年を送りました。積善の家に余慶ありとは誠にこの事でありましょう。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」 |
近来不良勝なる先生の病情片時も心にかからぬ事はない。日本新聞に墨汁一滴が出る様になってから猶一層である。或は喜び或は悲み日毎に心を労している いくらか文章に勢が見えて元気なことなどの出た日には。これ位ならばなどと心細い中にも少しく胸が休まるような感じがするものの実際は先生の病情少しも文章の上では推測が出来ないのが普通であるのだ。 歌の会俳句の会すべてを止めて余り人にこられては困ると云うようになってよりは。たずねてよいやら悪いやら殆どわからないけれども。愈ゆくまいと云う気にはどうしてもなられない。つまり余りゆくもわるい余りゆかぬも悪るいだろうと思うた。時々の先生の話振からでもたまには行く方がよいように感じたから。人は兎に角自分は時々は是非訪問することと極めたのである。余りま近くゆくこと余り長居することだけは固く謹もうと思うた 今月はきょう迄に三回たずねた 月始りは三日の日に一度たずね。それから七日の日にはわざわざでない上野辺に聊か用事があったので。きょうはと思い午後の四時じぶんに先生の門前迄往ったが。ふと考えてみるとまだ三日しか間がない 余りま近く重なるはよくあるまいかしらんと気がついたので。門前に躊躇しながら内をのぞいてみると。女の下駄が三足あるけれどちゃんと内へ向いて並んでいる よその人のらしくない 客もないなとは思うたがまずまず今日はよるまいと決心した。 決心はしたもののさればと云って未だなかなか帰ると云う方に足はむかない。暫くたたずんで内の様子を見ると云うでもなく考えて居ると云うでもなく只ぼんやりしていたのである。おっかさんの声もしない 妹さんの声もしない 先生のせきの声もきこえない。帰ろうと云う決心極めて薄弱であるので未だ吾からだを動して帰路に向わしむる程の力がないのだ。何とはなしに陸さんの門前の方へ廻り何とか云う人の門につきあたり左の方を注視したけれども先生の庭の方へ出でる道はない 仕方はないから又もとへ戻って先生の前へ来た。ふたたび内をのぞいた 下駄もさきに見た通りでかわらない 愈ほんとうの決心がでて門前を東へ過ぎて吾躰を運転した。例の通りつき当って右へまがり又右へまがりいつも先生の庭の方へゆく門の所までくると又ふらふらと気が動いて此門へはいった。直ちに例の杉屏の前までやった 裏からはいろうと云う心でもなくまあ……のぞき込みにきたのだ。枝折戸をあけるわけにもゆかないでしきりにそこ此所からのぞいたけれども屏の内はよくも見えない 無論どなたの声もきこえない。漸くあきらめがついて帰ってしまった 先生の許へ往くようになってからこんな事はきょうが始めてである 十三日の午後から急に訪問を思い立って出掛けた。二三日前に百花園からつるの手をつけてある目籠に長命菊つくし石竹の苗其他数種の青草を植込にしたやつを買って来て置いたのを持って往ったのである きょうは暖炉の掃除をやったとの事で先生は八畳の座敷に石油暖炉をたき東向になってねていられた。何か雑誌を見ていられ手の下には原稿紙に少し何か書掛けてある。 別にかわったことはないがだんだん躰が疲れてゆく 腰の痛背のいたみ少しでもさわるとたまらなく痛む。それだから此頃は殆ど寝がえりと云うことができぬ。従て夜もおちついてはねむれない 眠てもすぐさめる 疲れるから眠ることはねむるが一時間もたつともう目がさめる。などと話さるるうちにも枕に頭をつけて居り又は僅に右りの片ひじで躰をささげつつ一つ啖をださるるにもうめぎの声をもらすなど苦痛の様子は見るに忍びない。如斯ことはきょう始めてと云うではないが見る度に胸がふさがるべくおぼえ何と云うて慰さめんようもなく身も世もあらぬ思である。 八日に香取がきて十日に岡がきた。長塚へ梅の歌を詠めと云うてやったら三月上旬に出京して実際を見てから作ると云うてきた。岡田には梅がなかろうか……此草花は面白い 殊につくしがふるっている なかなか趣向もある 日本画家などにはこれほどの趣向あるものもないなどと笑われた。それから先生の次々話されたあらますはこうである。 君との交際は僕が最後の交際だ。此頃のようではよしあたらしい交際ができても交際らしい交際をすることができぬ。もう飲食会すら気がすすまぬ 勿論今でも飲食が一番のたのしみではあるけれども以前の様ではない。君が去年来はじめた時ぶんはまだ小用の時は唐紙の外へ出てしたのだが。まもなくそれができなくなって寝ているままで便器へやったけれど猶まさかに客の方へ向いていてはやらなかった。夫を此頃では寝返りができぬ故客の方へ向てでもなんでもやるより仕方がなくなった。 湯にはいらないことがちょうど五年になる 足を洗わぬのが半年顔を洗わぬのが二月になる。もう今日ではどうしても顔を洗うことができぬ 顔を洗うだけは迚ても手が動かせないのだ。手だけは毎日石鹸で洗っている こう云う調子に衰えてきた 此割合で推してゆけば結局の事もちゃんとわかる。(呼嗚如斯談話を聞ける吾苦さは迚ても云いあらわすことができぬ) 平賀元義の事を是から毎日かく。是れも実は堂々と書きたかったのだけれどそんなこと云うている間にかけなくなってしまうからできるだけかけるだけかこうと思う。元義のことは世間の歌よみなどが何とも云うていないから是非少しでも書いて置きたい。 猶いろいろの話があったけれどもしるして置くほどでもない。始のほどは只々苦しそうにのみ見えたが談稍興に入りては時々元気な笑ももらされた。承知しながらもとうとう長居になって夕飯をもてなされ七時頃にいとまもうした 附記是は赤木格堂が為に先生の病情を見のまま記して送れるなり明治参拾四年二月十五日 明治34年3月『俳星』 |
僕は今この温泉宿に滞在しています。避暑する気もちもないではありません。しかしまだそのほかにゆっくり読んだり書いたりしたい気もちもあることは確かです。ここは旅行案内の広告によれば、神経衰弱に善いとか云うことです。そのせいか狂人も二人ばかりいます。一人は二十七八の女です。この女は何も口を利かずに手風琴ばかり弾いています。が、身なりはちゃんとしていますから、どこか相当な家の奥さんでしょう。のみならず二三度見かけたところではどこかちょっと混血児じみた、輪廓の正しい顔をしています。もう一人の狂人は赤あかと額の禿げ上った四十前後の男です。この男は確か左の腕に松葉の入れ墨をしているところを見ると、まだ狂人にならない前には何か意気な商売でもしていたものかも知れません。僕は勿論この男とは度たび風呂の中でも一しょになります。K君は(これはここに滞在しているある大学の学生です。)この男の入れ墨を指さし、いきなり「君の細君の名はお松さんだね」と言ったものです。するとこの男は湯に浸ったまま、子供のように赤い顔をしました。…… K君は僕よりも十も若い人です。おまけに同じ宿のM子さん親子とかなり懇意にしている人です。M子さんは昔風に言えば、若衆顔をしているとでも言うのでしょう。僕はM子さんの女学校時代にお下げに白い後ろ鉢巻をした上、薙刀を習ったと云うことを聞き、定めしそれは牛若丸か何かに似ていたことだろうと思いました。もっともこのM子さん親子にはS君もやはり交際しています。S君はK君の友だちです。ただK君と違うのは、――僕はいつも小説などを読むと、二人の男性を差別するために一人を肥った男にすれば、一人を瘠せた男にするのをちょっと滑稽に思っています。それからまた一人を豪放な男にすれば、一人を繊弱な男にするのにもやはり微笑まずにはいられません。現にK君やS君は二人とも肥ってはいないのです。のみならず二人とも傷き易い神経を持って生まれているのです。が、K君はS君のように容易に弱みを見せません。実際また弱みを見せない修業を積もうともしているらしいのです。 K君、S君、M子さん親子、――僕のつき合っているのはこれだけです。もっともつき合いと言ったにしろ、ただ一しょに散歩したり話したりするほかはありません。何しろここには温泉宿のほかに(それもたった二軒だけです。)カッフェ一つないのです。僕はこう云う寂しさを少しも不足には思っていません。しかしK君やS君は時々「我等の都会に対する郷愁」と云うものを感じています。M子さん親子も、――M子さん親子の場合は複雑です。M子さん親子は貴族主義者です。従ってこう云う山の中に満足している訣はありません。しかしその不満の中に満足を感じているのです。少くともかれこれ一月だけの満足を感じているのです。 僕の部屋は二階の隅にあります。僕はこの部屋の隅の机に向かい、午前だけはちゃんと勉強します。午後はトタン屋根に日が当るものですから、その烈しい火照りだけでもとうてい本などは読めません。では何をするかと言えば、K君やS君に来て貰ってトランプや将棊に閑をつぶしたり、組み立て細工の木枕をして(これはここの名産です。)昼寝をしたりするだけです。五六日前の午後のことです。僕はやはり木枕をしたまま、厚い渋紙の表紙をかけた「大久保武蔵鐙」を読んでいました。するとそこへ襖をあけていきなり顔を出したのは下の部屋にいるM子さんです。僕はちょっと狼狽し、莫迦莫迦しいほどちゃんと坐り直しました。 「あら、皆さんはいらっしゃいませんの?」 「ええ。きょうは誰も、……まあ、どうかおはいりなさい。」 M子さんは襖をあけたまま、僕の部屋の縁先に佇みました。 「この部屋はお暑うございますわね。」 逆光線になったM子さんの姿は耳だけ真紅に透いて見えます。僕は何か義務に近いものを感じ、M子さんの隣に立つことにしました。 「あなたのお部屋は涼しいでしょう。」 「ええ、……でも手風琴の音ばかりして。」 「ああ、あの気違いの部屋の向うでしたね。」 僕等はこんな話をしながら、しばらく縁先に佇んでいました。西日を受けたトタン屋根は波がたにぎらぎらかがやいています。そこへ庭の葉桜の枝から毛虫が一匹転げ落ちました。毛虫は薄いトタン屋根の上にかすかな音を立てたと思うと、二三度体をうねらせたぎり、すぐにぐったり死んでしまいました。それは実に呆っ気ない死です。同時にまた実に世話の無い死です。―― 「フライ鍋の中へでも落ちたようですね。」 「あたしは毛虫は大嫌い。」 「僕は手でもつまめますがね。」 「Sさんもそんなことを言っていらっしゃいました。」 M子さんは真面目に僕の顔を見ました。 「S君もね。」 僕の返事はM子さんには気乗りのしないように聞えたのでしょう。(僕は実はM子さんに、――と云うよりもM子さんと云う少女の心理に興味を持っていたのですが。)M子さんは幾分か拗ねたようにこう言って手すりを離れました。 「じゃまた後ほど。」 M子さんの帰って行った後、僕はまた木枕をしながら、「大久保武蔵鐙」を読みつづけました。が、活字を追う間に時々あの毛虫のことを思い出しました。…… 僕の散歩に出かけるのはいつも大抵は夕飯前です。こう云う時にはM子さん親子をはじめ、K君やS君も一しょに出るのです。そのまた散歩する場所もこの村の前後二三町の松林よりほかにはありません。これは毛虫の落ちるのを見た時よりもあるいは前の出来事でしょう。僕等はやはりはしゃぎながら、松林の中を歩いていました。僕等は?――もっともM子さんのお母さんだけは例外です。この奥さんは年よりは少くとも十ぐらいはふけて見えるのでしょう。僕はM子さんの一家のことは何も知らないものの一人です。しかしいつか読んだ新聞記事によれば、この奥さんはM子さんやM子さんの兄さんを産んだ人ではないはずです。M子さんの兄さんはどこかの入学試験に落第したためにお父さんのピストルで自殺しました。僕の記憶を信ずるとすれば、新聞は皆兄さんの自殺したのもこの後妻に来た奥さんに責任のあるように書いていました。この奥さんの年をとっているのもあるいはそんなためではないでしょうか? 僕はまだ五十を越していないのに髪の白い奥さんを見る度にどうもそんなことを考えやすいのです。しかし僕等四人だけはとにかくしゃべりつづけにしゃべっていました。するとM子さんは何を見たのか、「あら、いや」と言ってK君の腕を抑えました。 「何です? 僕は蛇でも出たのかと思った。」 それは実際何でもない。ただ乾いた山砂の上に細かい蟻が何匹も半死半生の赤蜂を引きずって行こうとしていたのです。赤蜂は仰けになったなり、時々裂けかかった翅を鳴らし、蟻の群を逐い払っています。が、蟻の群は蹴散らされたと思うと、すぐにまた赤蜂の翅や脚にすがりついてしまうのです。僕等はそこに立ちどまり、しばらくこの赤蜂のあがいているのを眺めていました。現にM子さんも始めに似合わず、妙に真剣な顔をしたまま、やはりK君の側に立っていたのです。 「時々剣を出しますわね。」 「蜂の剣は鉤のように曲っているものですね。」 僕は誰も黙っているものですから、M子さんとこんな話をしていました。 「さあ、行きましょう。あたしはこんなものを見るのは大嫌い。」 M子さんのお母さんは誰よりも先きに歩き出しました。僕等も歩き出したのは勿論です。松林は路をあましたまま、ひっそりと高い草を伸ばしていました。僕等の話し声はこの松林の中に存外高い反響を起しました。殊にK君の笑い声は――K君はS君やM子さんにK君の妹さんのことを話していました。この田舎にいる妹さんは女学校を卒業したばかりらしいのです。が、何でも夫になる人は煙草ものまなければ酒ものまない、品行方正の紳士でなければならないと言っていると云うことです。 「僕等は皆落第ですね?」 S君は僕にこう言いました。が、僕の目にはいじらしいくらい、妙にてれ切った顔をしていました。 「煙草ものまなければ酒ものまないなんて、……つまり兄貴へ当てつけているんだね。」 K君も咄嗟につけ加えました。僕は善い加減な返事をしながら、だんだんこの散歩を苦にし出しました。従って突然M子さんの「もう帰りましょう」と言った時にはほっとひと息ついたものです。M子さんは晴れ晴れした顔をしたまま、僕等の何とも言わないうちにくるりと足を返しました。が、温泉宿へ帰る途中はM子さんのお母さんとばかり話していました。僕等は勿論前と同じ松林の中を歩いて行ったのです。けれどもあの赤蜂はもうどこかへ行っていました。 それから半月ばかりたった後です。僕はどんより曇っているせいか、何をする気もなかったものですから、池のある庭へおりて行きました。するとM子さんのお母さんが一人船底椅子に腰をおろし、東京の新聞を読んでいました。M子さんはきょうはK君やS君と温泉宿の後ろにあるY山へ登りに行ったはずです。この奥さんは僕を見ると、老眼鏡をはずして挨拶しました。 「こちらの椅子をさし上げましょうか?」 「いえ、これで結構です。」 僕はちょうどそこにあった、古い籐椅子にかけることにしました。 「昨晩はお休みになれなかったでしょう?」 「いいえ、……何かあったのですか?」 「あの気の違った男の方がいきなり廊下へ駈け出したりなすったものですから。」 「そんなことがあったんですか?」 「ええ、どこかの銀行の取りつけ騒ぎを新聞でお読みなすったのが始まりなんですって。」 僕はあの松葉の入れ墨をした気違いの一生を想像しました。それから、――笑われても仕かたはありません、僕の弟の持っている株券のことなどを思い出しました。 「Sさんなどはこぼしていらっしゃいましたよ。……」 M子さんのお母さんはいつか僕に婉曲にS君のことを尋ね出しました。が、僕はどう云う返事にも「でしょう」だの「と思います」だのとつけ加えました。(僕はいつも一人の人をその人としてだけしか考えられません。家族とか財産とか社会的地位とか云うことには自然と冷淡になっているのです。おまけに一番悪いことはその人としてだけ考える時でもいつか僕自身に似ている点だけその人の中から引き出した上、勝手に好悪を定めているのです。)のみならずこの奥さんの気もちに、――S君の身もとを調べる気もちにある可笑しさを感じました。 「Sさんは神経質でいらっしゃるでしょう?」 「ええ、まあ神経質と云うのでしょう。」 「人ずれはちっともしていらっしゃいませんね。」 「それは何しろ坊ちゃんですから、……しかしもう一通りのことは心得ていると思いますが。」 |
一 曇つた日だ。 立待岬から汐首の岬まで、諸手を擴げて海を抱いた七里の砂濱には、荒々しい磯の香りが、何憚らず北國の強い空氣に漲つて居る。空一面に澁い顏を開いて、遙かに遙かに地球の表面を壓して居る灰色の雲の下には、壓せれれてたまるものかと云はぬ許りに、劫初の儘の碧海が、底知れぬ胸の動搖の浪をあげて居る。右も左も見る限り、鹽を含んだ荒砂は、冷たい浪の洗ふに委せて、此處は拾ふべき貝殼のあるでもなければ、もとより貝拾ふ少女子が、素足に絡む赤の裳の艷立つ姿は見る由もない。夜半の滿潮に打上げられた海藻の、重く濕つた死骸が處々に散らばつて、さも力無げに逶迤つて居る許り。 時は今五月の半ば。五月といへば、此處北海の浦々でさへ、日は暖かに、風も柔らいで、降る雨は春の雨、濡れて喜ぶ燕の歌は聞えずとも、梅桃櫻ひと時に、花を被かぬ枝もなく、家に居る人も、晴衣して花の下行く子も、おしなべて老も若きも、花の香に醉ひ、醉心地おぼえぬは無いといふ、天が下の樂しい月と相場が定つて居るのに、さりとは恁うした日もあるものかと、怪まれる許りな此荒磯の寂寞を、寄せては寄する白浪の、魂の臺までも搖がしさうな響きのみが、絶間もなく破つて居る。函館に來て、林なす港の船の檣を見、店美しい街々の賑ひを見ただけの人は、いかに裏濱とはいひ乍ら、大森濱の人氣無さの恁許りであらうとは、よも想ふまい。ものの五町とも距たらぬのだが、齷齪と糧を爭ふ十萬の市民の、我を忘れた血聲の喧囂さへ、浪の響に消されてか、敢て此處までは傳はつて來ぬ。――これ然し、怪むべきでないかも知れぬ、自然の大なる聲に呑まれてゆく人の聲の果敢なさを思へば。 浪打際に三人の男が居る。男共の背後には、腐れた象の皮を被つた樣な、傾斜の緩い砂山が、恰も「俺が生きて居るか、死んで居るか、誰も知るまい、俺も知らぬ。」と云ふ樣に、唯無感覺に横はつて居る。無感覺に投げ出した砂山の足を、浪は白齒をむいて撓まず噛んで居る。幾何噛まれても、砂山は痛いとも云はぬ、動きもせぬ。痛いとも云はず、動きもせぬが、浪は矢張根氣よく撓まず噛んで懸る。太初から「生命」を知らぬ砂山と、無窮に醒めて眠らぬ潮騷の海との間に、三人の――生れたり死んだりする三人の男が居る。インバネスを着て、薄鼠色の中折を左の手に持つて、螽の如く蹲んで居る男と、大分埃を吸つた古洋服の鈕を皆脱して、蟇の如く胡坐をかいた男とは、少し間を隔てて、共に海に向つて居る。揉くちやになつた大島染の袷を着た、モ一人の男は、兩手を枕に、足は海の方へ投げ出して、不作法にも二人の中央に仰向になつて臥て居る。 千里萬里の沖から吹いて來て、この、扮裝も違へば姿態も違ふ三人を、皆一樣に吹きつける海の風には、色もなければ、心もない。風は風で、勝手に吹く。人間は人間で、勝手なことを考へる。同じ人間で、風に吹かれ乍ら、三人は又三人で、勝手な所を見て勝手なことを考へて居る。 仰向の男は、空一面彌漫つて動かぬ灰雲の眞中を、默つて瞶めて居る。螽の如く蹲んだ男は、平たい顏を俯向けて、右手の食指で砂の上に字を書いて居る。――「忠志」と書いて居る。書いては消し、消しては復同じ字を書いて居る。忠志といふのは此男の名である。何遍も消しては、何遍も書く。用の少い官吏とか會社員とかが、仕樣事なしの暇つぶしに、よく行る奴で、恁麽事をする男は、大抵彈力のない思想を有つて居るものだ。頭腦に彈機の無い者は、足に力の這入らぬ歩行方をする。そして、女といふ女には皆好かれたがる。女の前に出ると、處嫌はず氣取つた身振をする。心は忽ち蕩けるが、それで、煙草の煙の吹き方まで可成眞面目腐つてやる。何よりも美味い物が好きで、色澤がよいものだ。此忠志君も、美味い物を食ふと見えて平たい顏の血色がよい。 蟇の如く胡坐をかいた男は、紙莨の煙をゆるやかに吹いて、靜かに海を眺めて居る。凹んだ眼窩の底に陰翳のない眼が光つて、見るからに男らしい顏立の、年齡は二十六七でがなあらう。浮いたところの毫もない、さればと云つて心鬱した不安の状もなく、悠然として海の廣みに眼を放る體度は、雨に曝され雪に撃たれ、右から左から風に攻められて、磯馴の松の偏曲もせず、矗乎と生ひ立つた杉の樹の樣に思はれる。海の彼方には津輕の山が浮んで、山の左から汐首の岬まで、灰色の空を被いだ太平洋が、唯一色の強い色を湛へて居る。――其水天髣髴の邊にポッチリと黒く浮いてるのは、汽船であらう。無論駛つて居るには違ひないが、此處から見ては、唯ポッチリとした黒い星、動いてるのか動かぬのか、南へ駛るのか北へ向くのか、少しも解らぬ。此方へ來るなと思へば、此方へ來る樣に見える。先方へ行くなと思へば、先方へ行く樣に見える。何處の港を何日發つて、何處の港へ何日着くのか。發つて來る時には、必ず、アノ廣い胸の底の、大きい重い悲痛を、滯りなく出す樣な汽笛を誰憚らず鳴らした事であらう。其勇ましい唸き聲が、眞上の空を擘ざいて、落ちて四匝の山を動かし、反つて數知れぬ人の頭を低れさせて、響の濤の澎湃と、東に溢れ西に漲り、甍を壓し、樹々を震わせ…………………………弱り弱つた名殘の音が、見えざる光となつて、今猶、或は、世界の奈邊かにさまようて居るかも知れぬ。と考へて來た時、ポッチリとした沖の汽船が、怎やら少し動いた樣に思はれた。右へ動いたか左へ寄つたか、勿論それは解らぬが、海に浮んだ汽船だもの動かぬといふ筈はない。必ず動いて居る筈だと瞳を据ゑる。黒い星は依然として黒い星で、見ても見ても、矢張同じ所にポッチリとして居る。一體何處の港を何日發つて、何處の港へ行く船だらうと、再繰返して考へた。錨を拔いた港から、汽笛と共に搖ぎ出て、乘つてる人の目指す港へ、船首を向けて居る船には違ひない。 『昨日君の乘つて來た汽船は、』と、男は沖を見た儘で口を開く。『何といふ汽船だツたかね。』 『午前三時に青森を出て、六時間にして函館港の泥水に、錆びた錨を投げた船だ。』と仰向の男が答へる。 『名前がさ』 『知らん。』 『知らん?』 『呍。』 『自分の乘つた船の名前だぜ。』と、忠志君は平たい顏を上げて、たしなめる樣に仰向の男を見る。 『だからさ。』 『君は何時でも其調子だ。』と苦い顏をしたが、『あれア陸奧丸です。膸分汚い船ですよ。』と胡坐の男に向いて説明する。 『あ、陸奧ですか、あれには僕も一度乘つた事がある。餘程以前の事だが………………………』 『船員は、君、皆男許りな樣だが、あら怎したもんだらう。』と仰向の男が起き上る。 胡坐の男は沖の汽船から眼を離して、躯を少し捻つた。『……………さうさね。海上の生活には女なんか要らんぢやないか。海といふ大きい戀人の胞の上を、縱横自在に駛け𢌞るんだからね。』 『海といふ大きい戀人! さうか。』と復仰向になツた。灰色の雲は、動くでもない動かぬでもない。遙かに男の顏を壓して、照る日の光を洩さぬから、午前か午後かそれさへも知る由のない大氣の重々しさ。 胡坐の男は、砂の上に投げ出してある紙莨を一本とつて、チョと燐寸を擦つたが、見えざる風の舌がペロリと舐めて、直ぐ滅えた。復擦つたが復滅えた。三度目には十本許り一緒にして擦る。火が勢よく發した所を手早く紙莨に移して、息深く頬を凹ませて吸うた煙を、少しづつ少しづつ鼻から出す。出た煙は、出たと見るまもなく海風に散つて見えなくなる。 默つて此樣を見て居た忠志君の顏には、胸にある不愉快な思が、自づと現れて來るのか、何樣澁い翳が漲つて、眉間の肉が時々ピリ〳〵と動いた。何か言はうとする樣に、二三度口を蠢かしてチラリ仰向の男を見た目を砂に落す。『同じ事許り繰返していふ樣だが、實際怎も、肇さんの爲方にや困つて了ふね。無頓着といへば可のか、向不見といへば可のか、正々堂々とか赤裸々とか君は云ふけれど露骨に云へや後前見ずの亂暴だあね。それで通せる世の中なら、何處までも我儘通して行くも可さ。それも君一人ならだね。彼麽に年老つた伯母さんを、………………………今迄だつて一日も安心さした事つて無いんだ。君にや唯一人の御母さんぢやないか、此以後一體怎する積りなんだい。昨宵もね、母が僕に然云ふんだ。君が楠野さん所へ行つた後にだね、「肇さんももう廿三と云へや子供でもあるまいに姉さんが什麽に心配してるんだか、眞實に困つちまふ」つてね。實際困つちまふんだ。君自身ぢや痛快だつたつて云ふが、然し、免職になる樣な事を仕出かす者にや、まあ誰だつて同情せんよ。それで此方へ來るにしてもだ。何とか先に手紙でも來れや、職業の方だつて見付けるに都合が可んだ。昨日は實際僕喫驚したぜ。何にも知らずに會社から歸つて見ると後藤の肇さんが來てるといふ。何しにつて聞くと、何しに來たのか解らないが、奧で晝寢をしてるつて、妹が君、眼を丸くして居たぜ。』 『彼麽大きな眼を丸くしたら、顏一杯だつたらう。』 『君は何時も人の話を茶にする。』と忠志君は苦り切つた。『君は何時でも其調子だし、怎せ僕とは全然性が合はないんだ。幾何云つたつて無駄な事は解つてるんだが、伯母さんの……………………君の御母さんの事を思へばこそ、不要事も云へば、不要心配もするといふもんだ。母も云つたが、實際君と僕程性の違つたものは、マア滅多に無いね。』 『性が合はんでも、僕は君の從兄弟だよ。』 『だからさ、僕の從兄弟に君の樣な人があるとは、實に不思議だね。』 『僕は君よりズート以前からさう思つて居た。』 『實際不思議だよ。…………………』 『天下の奇蹟だね。』と嘴を容れて、古洋服の楠野君は横になつた。横になつて、砂についた片肱の、掌の上に頭を載せて、寄せくる浪の穗頭を、ズット斜に見渡すと、其起伏の樣が又一段と面白い。頭を出したり隱したり、活動寫眞で見る舞踏の歩調の樣に追ひ越されたり、追越したり、段々近づいて來て、今にも我が身を洗ふかと思へば、牛の背に似た碧の小山の頂が、ツイと一列の皺を作つて、眞白の雪の舌が出る。出たかと見ると、其舌がザザーッといふ響きと共に崩れ出して、磯を目がけて凄まじく、白銀の齒車を捲いて押寄せる。警破やと思ふ束の間に、逃足立てる暇もなく、敵は見ン事颯と退く。退いた跡には、砂の目から吹く潮の氣が、シーッと清しい音を立てゝ、えならぬ強い薫を撒く。 『一體肇さんと、僕とは小兒の時分から合はなかつたよ。』と忠志君は復不快な調子で口を切る。『君の亂暴は、或は生來なのかも知れないね。そら、まだお互に郷里に居て、尋常科の時分だ。僕が四年に君が三年だつたかな、學校の歸途に、そら、酒屋の林檎畑へ這入つた事があつたらう。何でも七八人も居たつた樣だ。………………。』 『呍、さうだ、僕も思出す。發起人が君で、實行委員が僕。夜になつてからにしようと皆が云ふのを構ふもんかといふ譯で、眞先に垣を破つたのが僕だ。續いて一同乘り込んだが、君だけは見張をするつて垣の外に殘つたつけね。眞紅な奴が枝も裂けさうになつてるのへ、眞先に僕が木登りして、漸々手が林檎に屆く所まで登つた時「誰だ」つてノソ〳〵出て來たのは、そら、あの畑番の六助爺だよ。樹下に居た奴等は一同逃げ出したが、僕は仕方が無いから默つて居た。爺奴嚇す氣になつて、「竿持つて來て叩き落すぞつ。」つて云ふから「そんな事するなら恁うして呉れるぞ。」つて、僕は手當り次第林檎を採つて打付けた。爺吃驚して「竿持つて來るのは止めるから、早く降りて呉れ、旦那でも來れあ俺が叱られるから。」と云ふ。「そんなら降りてやるが、降りてから竿なんぞ持つて來るなら、石打付けてやるぞ。」つて僕はズル〳〵辷り落ちた。そして、投げつけた林檎の大きいのを五つ六つ拾つて、出て來て見ると誰も居ないんだ。何處まで逃げたんだか、馬鹿な奴等だと思つて、僕は一人でそれを食つたよ。實に美味かつたね。』 『二十三で未だ其氣なんだから困つちまうよ。』 『其晩、窃と一人で大きい笊を持つて行つて、三十許り盜んで來て、僕に三つ呉れたのは、あれあ誰だつたらう、忠志君。』 忠志君は苦い顏をして横を向く。 『尤も、忠志君の遣方の方が理窟に合つてると僕は思ふ。窃盜と云ふものは、由來暗い所で隱密やるべきものなんだからね。アハヽヽヽ。』 『馬鹿な事を。』 『だから僕は思ふ。今の社會は鼠賊の寄合で道徳とかいふものは其鼠賊共が、暗中の隱密主義を保持してゆく爲めの規約だ。鼠賊をして鼠賊以上の行爲なからしめんが爲めには、法律という網がある。滑稽極まるさ、自分で自分を縛る繩を作つて。太陽の光が蝋燭の光の何百何倍あるから、それを仰ぐと人間の眼が痛くなるといふ眞理を發見して、成るべく狹い薄暗い所に許り居ようとする。それで、日進月歩の文明はこれで厶いと威張る。歴史とは進化の義なりと歴史家が説く。アハヽヽヽ。 學校といふ學校は、皆鼠賊の養成所で、教育家は、好な酒を飮むにも隱密と飮む。これは僕の實見した話だが、或る女教師は、「可笑しい事があつても人の前へ出た時は笑つちや不可ません。」と生徒に教へて居た。可笑しい時に笑はなけれあ、腹が減つた時便所へ行くんですかつて、僕は後で冷評してやつた。………………尤も、なんだね、宗教家だけは少し違ふ樣だ。佛教の方ぢや、髮なんぞ被らずに、凸凹の瘤頭を臆面もなく天日に曝して居るし、耶蘇の方ぢや、教會の人の澤山集つた所でなけれあ、大きい聲を出して祈祷なんぞしない。これあ然し尤もだよ。喧嘩するにしても、人の澤山居る所でなくちや張合がないからね。アハヽヽ。』 『アハヽヽヽ。』と楠野君は大聲を出して和した。 『處でだ。』と肇さんは起き上つて、右手を延して砂の上の紙莨を取つたが、直ぐまた投げる。『這麽社會だから、赤裸々な、堂々たる、小兒の心を持つた、聲の太い人間が出て來ると、鼠賊共、大騷ぎだい。そこで其種の聲の太い人間は、鼠賊と一緒になつて、大笊を抱へて夜中に林檎畑に忍ぶことが出來ぬから、勢ひ吾輩の如く、天が下に家の無い、否、天下を家とする浪人になる。浪人といふと、チョン髷頭やブッサキ羽織を連想して不可が、放浪の民だね。世界の平民だね。――名は幾何でもつく、地上の遊星といふ事も出來る。道なき道を歩む人とも云へる。コスモポリタンの徒と呼んで見るも可。ハヽヽヽ。』 『そこでだ、若し後藤肇の行動が、後前見ずの亂暴で、其亂暴が生來で、そして、果して眞に困つちまふものならばだね、忠志君の鼠賊根性は怎だ。矢張それも生來で、そして、ウー、そして、甚だ困つて了はぬものぢやないか。怎だい。從兄弟君、怒つたのかい。』 『怒つたつて仕樣が無い。』と稍霎時してから、忠志君が横向いて云つた。 『「仕樣が無い」とは仕樣が無い。それこそ仕樣が無いぢやないか。』 『だつて、實際。仕樣が無いから喃。』 『然し君は大分苦い顏をして居るぜ。一體その顏は不可よ。笑ふなら腸まで見える樣に口をあかなくちや不可。怒るなら男らしく眞赤になつて怒るさ。そんな顏付は側で見てるさへ氣の毒だ。そら、そら段々苦くなツて來る。宛然洋盃に一昨日注いだビールの樣だ。仕樣のない顏だよ。』 『馬鹿な。君は怎も、實際仕樣がない。』 『復「仕樣がない」か。アハヽヽヽ。仕樣が無い喃』 話が途斷れると、ザザーッといふ浪の音が、急に高くなる。楠野君は、二人の諍ひを聞くでもなく聞かぬでもなく、横になつた儘で、紙莨を吹かし乍ら、浪の穗頭を見渡して居る。鼻から出る煙は、一寸ばかりのところで、チョイと渦を卷いて、忽ち海風に散つてゆく、浪は相不變、活動寫眞の舞踊の歩調で、重り重り沖から寄せて來ては、雪の舌を銀の齒車の樣にグルグルと卷いて、ザザーッと怒鳴り散らして颯と退く、退いた跡には、シーッと音して、潮の氣がえならぬ強い薫を撒く。 |
一 「鸚鵡さん、しばらくね……」 と真紅へ、ほんのりと霞をかけて、新しい火の※(火+發)と移る、棟瓦が夕舂日を噛んだ状なる瓦斯暖炉の前へ、長椅子を斜に、ト裳を床。上草履の爪前細く※(「女+島」の「山」に代えて「衣」)娜に腰を掛けた、年若き夫人が、博多の伊達巻した平常着に、お召の紺の雨絣の羽織ばかり、繕はず、等閑に引被けた、其の姿は、敷詰めた絨氈の浮出でた綾もなく、袖を投げた椅子の手の、緑の深さにも押沈められて、消えもやせむと淡かつた。けれども、美しさは、夜の雲に暗く梢を蔽はれながら、もみぢの枝の裏透くばかり、友染の紅ちら〳〵と、櫛巻の黒髪の濡色の露も滴る、天井高き山の端に、電燈の影白うして、揺めく如き暖炉の焔は、世に隠れたる山姫の錦を照らす松明かと冴ゆ。 博士が旅行をした後に、交際ぎらひで、籠勝ちな、此の夫人が留守した家は、まだ宵の間も、実際蔦の中に所在の知るゝ山家の如き、窓明。 広い住居の近所も遠し。 久しぶりで、恁うして火を置かせたまゝ、気に入りの小間使さへ遠ざけて、ハタと扉を閉した音が、谺するまで響いたのであつた。 夫人は、さて唯一人、壁に寄せた塗棚に据置いた、籠の中なる、雪衣の鸚鵡と、差向ひに居るのである。 「御機嫌よう、ほゝゝ、」 と莟を含んだ趣して、鸚鵡の雪に照添ふ唇…… 籠は上に、棚の丈稍高ければ、打仰ぐやうにした、眉の優しさ。鬢の毛はひた〳〵と、羽織の襟に着きながら、肩も頸も細かつた。 「まあ、挨拶もしないで、……黙然さん。お澄ましですこと。……あゝ、此の間、鳩にばツかり構つて居たから、お前さん、一寸お冠が曲りましたね。」 此の五日六日、心持煩はしければとて、客にも逢はず、二階の一室に籠りツ切、で、寝起の隙には、裏庭の松の梢高き、城のもの見のやうな窓から、雲と水色の空とを観ながら、徒然にさしまねいて、蒼空を舞ふ遠方の伽藍の鳩を呼んだ。――真白なのは、掌へ、紫なるは、かへして、指環の紅玉の輝く甲へ、朱鷺色と黄の脚して、軽く来て留るまでに馴れたのであつた。 「それ〳〵、お冠の通り、嘴が曲つて来ました。目をくる〳〵……でも、矢張り可愛いねえ。」 と艶麗に打傾き、 「其の替り、今ね、寝ながら本を読んで居て、面白い事があつたから、お話をして上げようと思つて、故々遊びに来たんぢやないか。途中が寒かつたよ。」 と、犇と合はせた、両袖堅く緊つたが、溢るゝ蹴出し柔かに、褄が一靡き落着いて、胸を反らして、顔を引き、 「否、まだ出して上げません。……お話を聞かなくツちや……でないと袖を啣へたり、乗つたり、悪戯をして邪魔なんですもの。 お聞きなさいよ。 可いかい、お聞きなさいよ。 まあ、ねえ。 座敷は――こんな貸家建ぢやありません。壁も、床も、皆彩色した石を敷いた、明放した二階の大広間、客室なんです。 外面の、印度洋に向いた方の、大理石の廻り縁には、軒から掛けて、床へ敷く……水晶の簾に、星の数々鏤めたやうな、ぎやまんの燈籠が、十五、晃々点いて並んで居ます。草花の絵の蝋燭が、月の桂の透くやうに。」 と襟を圧へた、指の先。 二 引合はせ、又袖を当て、 「丁ど、まだ灯を入れたばかりの暮方でね、……其の高楼から瞰下ろされる港口の町通には、焼酎売だの、雑貨屋だの、油売だの、肉屋だのが、皆黒人に荷車を曳かせて、……商人は、各自に、ちやるめらを吹く、さゝらを摺る、鈴を鳴らしたり、小太鼓を打つたり、宛然お神楽のやうなんですがね、家が大いから、遠くに聞えて、夜中の、あの魔もののお囃子見たやうよ、……そして車に着いた商人の、一人々々、穂長の槍を支いたり、担いだりして行く形が、ぞろ〳〵影のやうに黒いのに、椰子の樹の茂つた上へ、どんよりと黄色に出た、月の明で、白刃ばかりが、閃々、と稲妻のやうに行交はす。 其の向うは、鰐の泳ぐ、可恐い大河よ。……水上は幾千里だか分らない、天竺のね、流沙河の末だとさ、河幅が三里の上、深さは何百尋か分りません。 船のある事……帆柱に巻着いた赤い雲は、夕日の余波で、鰐の口へ血の晩御飯を注込むんだわね。 時は十二月なんだけれど、五月のお節句の、此は鯉、其は金銀の糸の翼、輝く虹を手鞠にして投げたやうに、空を舞つて居た孔雀も、最う庭へ帰つて居るの……燻占めはせぬけれど、棚に飼つた麝香猫の強い薫が芬とする…… 同やうに吹通しの、裏は、川筋を一つ向うに、夜中は尾長猿が、キツキと鳴き、カラ〳〵カラと安達ヶ原の鳴子のやうな、黄金蛇の声がする。椰子、檳榔子の生え茂つた山に添つて、城のやうに築上げた、煉瓦造がづらりと並んで、矢間を切つた黒い窓から、弩の口がづん、と出て、幾つも幾つも仰向けに、星を呑まうとして居るのよ…… 和蘭人の館なんです。 其の一の、和蘭館の貴公子と、其の父親の二人が客で。卓子の青い鉢、青い皿を囲んで向合つた、唐人の夫婦が二人。別に、肩には更紗を投掛け、腰に長剣を捲いた、目の鋭い、裸の筋骨の引緊つた、威風の凜々とした男は、島の王様のやうなものなの…… 周囲に、可いほど間を置いて、黒人の召使が三人で、謹んで給仕に附いて居る所。」 と俯目に、睫毛濃く、黒棚の一ツの仕劃を見た。袖口白く手を伸べて、 「あゝ、一人此処に居たよ。」 と言ふ。天窓の大きな、頤のしやくれた、如法玩弄の焼ものの、ペロリと舌で、西瓜喰ふ黒人の人形が、ト赤い目で、額で睨んで、灰色の下唇を反らして突立つ。 「……余り謹んでは居ないわね……一寸、お話の中へ出ておいで。」 と手を掛けると、ぶるりとした、貧乏動ぎと云ふ胴揺りで、ふてくされにぐら〳〵と拗身に震ふ……はつと思ふと、左の足が股のつけもとから、ぽきりと折れて、ポンと尻持を支いた体に、踵の黒いのを真向きに見せて、一本ストンと投出した、……恰も可、他の人形など一所に並んだ、中に交つて、其処に、木彫にうまごやしを萌黄で描いた、舶来ものの靴が片隻。 で、肩を持たれたまゝ、右の跛の黒どのは、夫人の白魚の細い指に、ぶらりと掛つて、一ツ、ト前のめりに泳いだつけ、臀を揺つた珍な形で、けろりとしたもの、西瓜をがぶり。 熟と視て、 「まあ……」 離すと、可いことに、あたり近所の、我朝の姉様を仰向に抱込んで、引くりかへりさうで危いから、不気味らしくも手からは落さず…… 「島か、光か、払を掛けて――お待ちよ、否、然う〳〵……矢張これは、此の話の中で、鰐に片足食切られたと云ふ土人か。人殺しをして、山へ遁げて、大木の梢へ攀ぢて、枝から枝へ、千仭の谷を伝はる処を、捕吏の役人に鉄砲で射られた人だよ。 ねえ鸚鵡さん。」 と、足を継いで、籠の傍へ立掛けた。 鸚鵡の目こそ輝いた。 |
一 お末はその頃誰から習ひ覚えたともなく、不景気と云ふ言葉を云ひ〳〵した。 「何しろ不景気だから、兄さんも困つてるんだよ。おまけに四月から九月までにお葬式を四つも出したんだもの」 お末は朋輩にこんな物の云ひ方をした。十四の小娘の云ひ草としては、小ましやくれて居るけれども、仮面に似た平べつたい、而して少し中のしやくれた顔を見ると、側で聞いて居る人は思はずほゝゑませられてしまつた。 お末には不景気と云ふ言葉の意味は、固よりはつきりは判つて居なかつた。唯その界隈では、誰でも顔さへ合はせれば、さう挨拶しあふので、お末にもそんな事を云ふのが時宜にかなつた事のやうに思ひなされて居たのだつた。尤もこの頃は、あのこつ〳〵と丹念に働く兄の鶴吉の顔にも快からぬ黒ずんだ影が浮んだ。それが晩飯の後までも取れずにこびりついて居る事があるし、流元で働く母がてつくひ(魚の名)のあらを側にどけたのを、黒にやるんだなと思つて居ると又考へ直したらしく、それを一緒に鍋に入れて煮てしまふのを見た事もあつた。さう云ふ時にお末は何だか淋しいやうな、後から追ひ迫るものでもあるやうな気持にはなつた。なつたけれども、それと不景気としつかり結び附ける程の痛ましさは、まだ持つて居よう筈がない。 お末の家で四月から追つかけ〳〵死に続いた人達の真先きに立つたのは、長病ひをした父だつた。一年半も半身不随になつて、どつと臥つたなりであつたから、小さな床屋の世帯としては、手にあまる重荷だつた。長命をさせたいのは山々だけれども、齢も齢だし、あの体では所在もないし、手と云つてはねつから届かないんだから、あゝして生きてゐるのが却つて因業だと、兄は来る客ごとにお世辞の一つのやうに云ひ慣はして居た。極く一克な質で尊大で家一杯ひろがつて我儘を通して居た習慣が、病みついてからは更に募つて、家のものに一日三界あたり散らすので、末の弟の哲と云ふのなぞは、何時ぞや母の云つた悪口をそのまゝに、父の面前で「やい父つちやんの鼻つまみ」とからかつたりした。病人はそれを聞くと病気も忘れて床の上で跳り上つた。果てはその荒んだ気分が家中に伝はつて、互に睨み合ふやうな一日が過ごされたりした。それでも父が居なくなると、家の中は楔がゆるんだやうになつた。どうかして、思ひ切り引きちぎつてやりたいやうな、気をいら〳〵させる喘息の声も、無くなつて見るとお末には物足りなかつた。父の背中をもう一度さすつてやりたかつた。大地こそ雪解の悪路なれ、からつと晴れ渡つた青空は、気持よくぬくまつて、いくつかの凧が窓のやうにあちこちに嵌められて居る或る日の午後に、父の死骸は小さな店先から担ぎ出された。 その次に亡くなつたのは二番目の兄だつた。ひねくれる事さへ出来ない位、気も体も力のない十九になる若者で、お末にはこの兄の家に居る時と居ない時とが判らない位だつた。遊び過ごしたりして小言を待ち設けながら敷居を跨ぐ時なぞには殊に、誰と誰とが家に居て、どう云ふ風に坐つて居ると云ふ事すら眼に見えるやうに判つて居たけれども、この兄だけは居るやら居ないやら見当がつかなかつた。又この兄の居る事は何んの足しにも邪魔にもならなかつた。誰か一寸まづい顔でもすると、自分の事のやうにこの兄は座を外して、姿を隠してしまつた。それが脚気を煩つて、二週間程の間に眼もふさがる位の水腫れがして、心臓麻痺で誰も知らないうちに亡くなつて居た。この弱々しい兄がこんなに肥つて死ぬと云ふ事が、お末には可なり滑稽に思はれた。而してお末は平気でその翌日から例の不景気を云ひふらして歩いた。それは北海道にも珍らしく五月雨じみた長雨がじと〳〵と薄ら寒く降り続いた六月半ばの事だつた。 二 八月も半ば過ぎと云ふ頃になつて、急に暑気が北国を襲つて来た。お末の店もさすがにいくらか暑気づいて来た。朝早く隣りの風呂屋で風呂の栓を打ちこむ音も乾いた響きをたてゝ、人々の軟らかな夢をゆり動かした。晴天五日を打つと云ふ東京相撲の画びらの眼ざましさは、お末はじめ近所合壁の少年少女の小さな眼を驚かした。札幌座からは菊五郎一座のびらが来るし、活動写真の広告は壁も狭しと店先に張りならべられた。父が死んでから、兄は兄だけの才覚をして店の体裁を変へて見たりした。而してお末の非常な誇りとして、表戸が青いペンキで塗り代へられ、球ボヤに鶴床と赤く書いた軒ランプが看板の前に吊された。おまけに電灯がひかれたので、お末が嫌つたランプ掃除と云ふ役目は煙のやうに消えて無くなつた。その代り今年からは張物と云ふ新しい仕事が加へられるやうになつたが、お末は唯もう眼前の変化を喜んで、張物がどうあらうと構はなかつた。 「家では電灯をひいたんだよ、そりや明るいよ、掃除もいらないんだよ」 さう云つて小娘の間に鉄棒を引いて歩いた。 お末の眼には父が死んでから兄が急にえらくなつたやうに見えた。店をペンキで塗つたのも、電灯をひいたのも兄だと思ふと、お末は如何にも頼もしいものに思つた。近所に住む或る大工に片づいて、可愛いゝ二つになる赤坊をもつた一番の姉が作つてよこした毛繻子の襷をきりつとかけて、兄は実体な小柄な体をまめ〳〵しく動かして働いた。兄弟の誰にも似ず、まる〳〵と肥つた十二になるお末の弟の力三は、高い歯の足駄を器用に履いて、お客のふけを落したり頭を分けたりした。客足も夏に向くと段々繁くなつて来る。夜も晩くまで店は賑はつて、笑ひ声や将棋をうつ音が更けてまで聞こえた。兄は何処までも理髪師らしくない、おぼこな態度で客あしらひをした。それが却つて客をよろこばせた。 斯う華やか立つた一家の中で何時までもくすぶり返つてゐるのは母一人だつた。夫に先き立たれるまでは、口小言一つ云はず、はき〳〵と立ち働いて、病人が何か口やかましく註文事をした時でも、黙つたまゝでおいそれと手取早く用事を足してやつたが、夫はそれを余り喜ぶ風は見えなかつた。却つて病死した息子なぞから介抱を受けるのを楽しんで居る様子だつた。この女には何処か冷たい所があつたせゐか、暖かい気分を持つた人を、行火でも親しむやうに親しむらしく見えた。まる〳〵と肥つた力三が一番秘蔵で、お末はその次に大事にされて居た。二人の兄などは疎々しく取りあつかはれて居た。 父が亡くなつてからは、母の様子はお末にもはつきり見える程変つてしまつた。今まで何事につけても滅多に心の裏を見せた事のない気丈者が、急におせつかいな愚痴つぽい機嫌買ひになつて、好き嫌ひが段々はげしくなつた。総領の鶴吉に当り散らす具合などは、お末も見て居られない位だつた。お末は愛せられて居る割合に母を好まなかつたから、時々はこつちからもすねた事をしたり云つたりすると、母は火のやうに怒つて火箸などを取り上げて店先まで逐ひかけて来るやうな事があつた。お末は素早く逃げおほせて、他所に遊びに行つて他愛もなく日を暮して帰つて来ると、店の外に兄が出て待つて居たりした。茶の間では母がまた口惜し泣きをして居た。而してそれはもうお末に対してゞはなく、兄が家の事も碌々片づかない中に、かみさんを迎へる算段ばかりして居ると云ふやうな事を毒々しく云ひつのつて居るのだつた。かと思ふとけろつとして、お末が帰ると機嫌を取るやうな眼付をして、夕飯前なのも構はず、店に居る力三もその又下の跛足な哲も呼び入れて、何処にしまつてあつたのか美味しい煎餅の馳走をしてくれたりした。 それでもこの一家は近所からは羨まれる方の一家だつた。鶴さんは気がやさしいのに働き手だから、いまに裏店から表に羽根をのすと皆んなが云つた。鶴吉は実際人の蔭口にも讃め言葉にも耳を仮さずにまめ〳〵しく働きつゞけた。 三 八月の三十一日は二度目の天長節だが、初めての時は諒闇でお祝ひをしなかつたからと云つて、鶴吉は一日店を休んだ。而して絶えて久しく構はないであつた家中の大掃除をやつた。普段は鶴吉のする事とさへ云へば妙にひがんで出る母も今日は気を入れて働いた。お末や力三も面白半分朝の涼しい中にせつせと手助けをした。棚の上なぞを片付ける時には、まだ見た事もないものや、忘れ果てゝ居たものなどが、ひよつこり出て来るので、お末と力三とは塵だらけになつて隅々を尋ね廻つた。 「ほれ見ろやい、末ちやんこんな絵本が出て来たぞ」 「それや私んだよ、力三、何処へ行つたかと思つて居たよ、おくれよ」 「何、やつけえ」 と云つて力三は悪戯者らしくそれを見せびらかしながらひねくつて居る。お末はふと棚の隅から袂糞のやうな塵をかぶつたガラス壜を三本取出した。大きな壜の一つには透明な水が這入つて居て、残りの大壜と共口の小壜とには三盆白のやうな白い粉が這入つて居た。お末はいきなり白い粉の這入つた大壜の蓋を明けて、中のものをつまんで口に入れる仮為をしながら、 「力三是れ御覧よ。意地悪にはやらないよ」 と云つて居ると、突然後ろで兄の鶴吉が普段にない鋭い声を立てた。 「何をして居るんだお末、馬鹿野郎、そんなものを嘗めやがつて……嘗めたのか本当に」 あまりの権幕にお末は実を吐いて、嘗める仮為をしたんだと云つた。 「その小さい壜の方を耳の垢ほどでも嘗めて見ろ、見て居る中にくたばつて仕舞ふんだぞ、危ねえ」 「危ねえ」と云ふ時どもるやうになつて、兄は何か見えない恐ろしいものでも見つめるやうに怖い眼をして室の内を見廻した。お末も妙にぎよつとした。而してそこ〳〵に踏台から降りて、手伝ひに来てくれた姉の児を引きとつておんぶした。 昼過ぎに力三は裏の豊平川に神棚のものを洗ひに出された。暑さがつのるにつれて働くのに厭きて来たお末は、その後からついて行つた。広い小砂利の洲の中を紫紺の帯でも捨てたやうに流れて行く水の中には、真裸になつた子供達が遊び戯れて居た。力三はそれを見るとたまらなさうに眼を輝かして、洗物をお末に押しつけて置いたまゝ、友と呼びかはしながら水の中へ這入つて行つた。お末はお末で洗物をするでもなく、川柳の小蔭に腰を据ゑて、ぎら〳〵と光る河原を見やりながら、背の子に守り唄を歌つてやつて居たが、段々自分の歌に引き入れられて、ぎごちなささうに坐つたまゝ、二人とも他愛なく眠入つてしまつた。 ほつと何かに驚かされて眼をさますと、力三が体中水にぬれたまゝでてら〳〵光りながら、お末の前に立つて居た。手には三四本ほど、熟し切らない胡瓜を持つて居た。 「やらうか」 「毒だよそんなものを」 然し働いた挙句、ぐつすり睡入つたお末の喉は焼け付く程乾いて居た。札幌の貧民窟と云はれるその界隈で流行り出した赤痢と云ふ恐ろしい病気の事を薄々気味悪くは思ひながら、お末は力三の手から真青な胡瓜を受取つた。背の子も眼をさましてそれを見ると泣きわめいて欲しがつた。 「うるさい子だよてば、ほれツ喰へ」 と云つてお末はその一つをつきつけた。力三は呑むやうにして幾本も食つた。 四 その夕方は一家珍らしく打揃つて賑はしい晩食を食べた。今日は母もいつになくくつろいで、姉と面白げに世間話をしたりした。鶴吉は綺麗に片づいた茶の間を心地よげに見廻して、棚の上などに眼をやつて居たが、その上に載つて居る薬壜を見ると、朝の事を思ひ出して笑ひながら、 「危いの怖いのつて、子供にはうつかりして居られやしない。お末の奴、今朝あぶなく昇汞を飲む所さ……あれを飲んで居て見ろ、今頃はもうお陀仏様なんだ」 とさも可愛げにお末の顔をぢつと見てくれた。お末にはそれが何とも云はれない程嬉しかつた。兄であれ誰であれ、男から来る力を嗅ぎわける機能の段々と熟して来るのをお末はどうする事も出来なかつた。恐ろしいものだか、嬉しいものだか、兎に角強い刃向ひも出来ないやうな力が、不意に、ぶつかつて来るのだと思ふと、お末は心臓の血が急にどき〳〵と湧き上つて来て、かつとはち切れるほど顔のほてるのを覚えた。さう云ふ時のお末の眼つきは鶴床の隅から隅までを春のやうにした。若しその時お末が立つて居たら、いきなり坐りこんで、哲でも居るとそれを抱きかゝへて、うるさい程頬ずりをしたり、締め附けたりして、面白いお話をしてやつた。又若し坐つて居たら、思ひ出し事でもしたやうに立上つて、甲斐々々しく母の手伝ひをしたり、茶の間や店の掃除をしたりした。 お末は今も兄の愛撫に遇ふと、気もそは〳〵と立上つた。而して姉から赤坊を受取つて、思ひ存分頬ぺたを吸つてやりながら店を出た。北国の夏の夜は水をうつたやうに涼しくなつて居て、青い光をまき散らしながら夕月がぽつかりと川の向うに上りかゝつて居た。お末は何んとなく歌でも歌ひたい気分になつていそ〳〵と河原に出た。堤には月見草が処まだらに生えて居た。お末はそれを折り取つて燐のやうな蕾をながめながら、小さい声で「旅泊の歌」を口ずさみ出した。お末は顔に似合はぬいゝ声を持つた子だつた。 「あゝ我が父母いかにおはす」 と歌ひ終へると、花の一つがその声にゆり起されたやうに、眠むさうな花びらをじわりと開いた。お末はそれに興を催して歌ひつゞけた。花は歌声につれて音をたてんばかりにする〳〵と咲きまさつていつた。 「あゝ我がはらから誰と遊ぶ」 ふと薄寒い感じが体の中をすつと抜けて通るやうに思ふと、お末は腹の隅にちくりと針を刺すやうな痛みを覚えた。初めは何んとも思はなかつたが、それが二度三度と続けて来ると突然今日食べた胡瓜の事を思ひ出した。胡瓜の事を思ひ出すにつけて、赤痢の事や、今朝の昇汞の事がぐら〳〵と一緒くたになつて、頭の中をかき廻したので、今までの透きとほつた気分は滅茶苦茶にされて、力三も今時分はきつと腹痛を起して、皆んなに心配をかけて居はしないかと云ふ予感、さては力三が胡瓜を食べた事、お末も赤坊も食べた事を苦しまぎれに白状して居はしないかと云ふ不安にも襲はれながら、恐る〳〵家に帰つて来た。と、ありがたい事には力三は平気な顔で兄と居相撲か何か取つて、大きな声で笑つて居た。お末はほつと安心して敷居を跨いだ。 |
慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々自から伝記を記すの例あるを以て、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しく之を勧めたるものありしかども、先生の平生甚だ多忙にして執筆の閑を得ずその儘に経過したりしに、一昨年の秋、或る外国人の需に応じて維新前後の実歴談を述べたる折、風と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自から校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるまゝに語りしものなれば、恰も一場の談話にして、固より事の詳細を悉くしたるに非ず。左れば先生の考にては、新聞紙上に掲載を終りたる後、更らに自から筆を執てその遺漏を補い、又後人の参考の為めにとて、幕政の当時親しく見聞したる事実に拠り、我国開国の次第より幕末外交の始末を記述して別に一編と為し、自伝の後に付するの計画にして、既にその腹案も成りたりしに、昨年九月中、遽に大患に罹りてその事を果すを得ず。誠に遺憾なれども、今後先生の病いよ〳〵全癒の上は、兼ての腹案を筆記せしめて世に公にし、以て今日の遺憾を償うことあるべし。 明治三十二年六月 |
一 風に靡いたマツチの炎ほど無気味にも美しい青いろはない。 二 如何に都会を愛するか?――過去の多い女を愛するやうに。 三 雪の降つた公園の枯芝は何よりも砂糖漬にそつくりである。 四 僕に中世紀を思ひ出させるのは厳めしい赤煉瓦の監獄である。若し看守さへゐなければ、馬に乗つたジアン・ダアクの飛び出すのに遇つても驚かないかも知れない。 五 或女給の言葉。――いやだわ。今夜はナイホクなんですもの。 註。ナイホクはナイフだのフオオクだのを洗ふ番に当ることである。 六 並み木に多いのは篠懸である。橡も三角楓も極めて少ない。しかし勿論派出所の巡査はこの木の古典的趣味を知らずにゐる。 七 令嬢に近い芸者が一人、僕の五六歩前に立ち止まると、いきなり挙手の礼をした。僕はちよつと狼狽した。が、後ろを振り返つたら、同じ年頃の芸者が一人、やはりちやんと挙手の礼をしてゐた。 八 最も僕を憂鬱にするもの。――カアキイ色に塗つた煙突。電車の通らない線路の錆び。屋上庭園に飼はれてゐる猿。…… 九 僕は午前一時頃或町裏を通りかかつた。すると泥だらけの土工が二人、瓦斯か何かの工事をしてゐた。狭い路は泥の山だつた。のみならずその又泥の山の上にはカンテラの火が一つ靡いてゐた。僕はこのカンテラの為にそこを通ることも困難だつた。すると若い土工が一人、穴の中から半身を露したまま、カンテラを側へのけてくれた。僕は小声に「ありがたう」と言つた。が、何か僕自身を憐みたい気もちもない訣ではなかつた。 十 夜半の隅田川は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出来ない。――「羊羹のやうに流れてゐる。」 十一 「××さん、遊びませう」と云う子供の声、――あれは音の高低を示せば、×× San Asobi-ma show である。あの音はいつまで残つてゐるかしら。 十二 火事はどこか祭礼に似てゐる。 十三 |
十月号掲載の岩野清子氏の「個人主義と家庭」と云ふ論文を読んで私は或る点については全く私の考へ方と同一であるのを見出したけれど他の方面に於いて私の考へてゐるのとは可なりに違つてゐることにおどろいた。そうして私はらいてう氏の感想を読んだ。氏の云つてゐられることはまあ私の云はうとしてゐることである。私はだからそのことについては黙つてゐやうと思つたけれど矢張り満足が出来ないので書くことにした。然し私は岩野氏の思想について云々するよりも多く自分の考へについて云ひ度いと思ふ。また実際私は他人の思想に立ち入ることは好まないから。たゞそれに依りて考へさゝれた私の感想を述べやうとするのである。私の考へてゐることゝ岩野氏の思想の何の点に相違があるかは読む人の判断にまかせる。私はたゞ岩野氏の論文によつて考へさゝれた事で云ひたいこと丈けを云ふ。 私は如何なる場合ひにも自分の考へてゐる事に対象を置き度くない。それは今の私たちの生活ではむづかしいことではあるけれど。否むしろむづかしいと云ふよりも夢想であるかもしれない。考へてゐることが外面的に表はれたときにはどうしても何かの対象が現はれないでは済まないけれどもその発想に何の対象も有しないと云ふことはうれしい事である。 私は常に他人との接触に何時も幼い時から私についてまはつてゐる習俗的なあるものが殆んど絶えずつきまとつて私を苦しめる。私はこの頃それがだん〳〵深味へ入つて来たことを意識してゐる。それは重に家族との交渉である。私の所謂姑と小姑とその夫たちと私の或る間接な関係から必然に起つて来る接触である。明らさまに云へば私の今なやんでゐる問題はそれである。この家庭の問題では私は岩野氏以上に苦しんでゐることを断言し得る。私は常にその事で悩まされてゐる。私の日常生活を知つてゐる限りの人は皆その事を知つてゐる。私はその問題に対して自分の心弱さが腹立たしくて耐らない。私は私の当然とるべき道はすつかり知つてゐる。けれども私に最後までまつはつてゆく私の他人に対する弱いこゝろづかいがつい思ひあがつた私の決心をにぶくしてしまふ。それには或る程度にまで私の心の中に侵入して来てゐる夫の心持ちも多少は手伝つてゐることは勿論である。私は殆んど毎日その問題になやんでゐる。そして私の優しい友達は早く私がその境遇を捨てゝしまふことをすゝめてゐる。これも勿論はやく捨てたい。けれども私はこの頃になつて自分の問題がだん〳〵と生長して来たことを意識し出した。それは自分と云ふことが人間と云ふことに変つて来たことである。置かれた処によるのかもしれないし私は今迄たゞ自分かぎりの他のことについて考へなかつた。自分がどんなにも小さいものだかと云ふことがわからなかつた。自分と云ふものが本当にどの位広い大きなものに結びついてゐると云ふことに気がつかなかつた。前に云つた私のその問題について私は随分ばか〳〵しい努力やまたは犠牲を払つた。そして私は不満だつた。私はその不満な為めにいろ〳〵にその解決方法を考へた。併し一つも他人の気持はさし置いて自分の意に満つやうな気持のいゝ解決方法はなかつた。嘗つて私が私の両親や血族に向つてした方法より他はなかつた。私はその苦い経験をまた繰返さねばならない。それはまだまざ〳〵と私の記憶に残つてゐる。どんなに私の涙がその為に絞られたことだらう。私たちは何時までこんなに馬鹿々々しいことを繰り返さねばならないのだらう? しかもその為めに私は極度まで疲労しなければならない疑惑と怨嗟の渦が私を捲き込む。私はそれと戦はねばならない。そしてその努力が決して終局ではない。と考へたとき私は今迄私の考へてゐたいろ〳〵な細々した問題が不意に暗い大きなものに出会つたことを感じた。私の考へてゐたことが皆その暗に吸ひ込まれた。それは私一人が考へてゐる問題ではなかつた。否問題ではなくこの大きな暗が私の上に投げた不快な陰影に過ぎなかつた。私は今こそ本当に直接にヒタと本当の問題に出会はした。それは社会と云ふ大きなものに包まれたいろ〳〵なものについての疑問である。それは痛切な私の問題である。それは無論他人の問題をも含んでゐるに違ひない。一人の私が直接した問題であり数万数億の人の面前に迫つてゐる問題である。そうして私は真実に自分の孤独と云ふことが今迄考へてゐたやうに狭くも何ともないことを発見した。その孤独は自分一人丈けの孤独でなくあらゆる人をとり巻いてゐる孤独であつた。もつと広い深いものであつた。あらゆる事物を包含した偉大なる孤独であつた。私の今迄の考へ方はあまりに狭く小さかつた。私は今迄足元ばかりを見詰めてゐた。漸く私は人達の所謂社会問題を自分の問題として考へることが出来るやうになつた。小さな私の問題が拡がつた。そして深い根ざしを持つた。そして私の問題の解決は六ヶしくなつてしまつた。私はあの暗を焼きつくす火が欲しい。それですべては解決する。私は自分で燃す火力を充分に猛烈にする為めに蓄え得らるゝ限りの燃料を蓄へなければならない。私はもつと苦しまなければならない。私はあらゆる苦しみで自分を苛み自分に対するあわれみの心をもつと深刻にしなければならない。それは直ちに多くの人に対する同情がなくてはならない。私のやうな心弱いものでは到底その道より他はない。私はだからどんな小さな苦しみでも拾つてゆかうと思ふ。もつとこの社会問題の痛切に自分の問題として他を待つてゐられない程に迫つた気分になる日を私は待つてゐる。私のこの気持ちがどう云ふ風に育つて行くかわからないが私はいま本当にあらゆるものを肯定する丈けの広い心持ちになつてゐる。私のこの心持ちが何の努力もなしに私の日常生活に迄深く及ぼすことが出来たらどんなに幸福だらう。そしたら私は如何なる場合ひにも他人に何にも求めないで済む。併しそうなるには可なりな時と努力をまたねばならぬ。なほこれから後も私の日常生活は今迄とおなじ馬鹿々々しいこと、忌々しいこと、口惜しいこと、嫌やなこと、悲しいことで持ち切るかもしれない。併し私の考へが前の程度に迄進んで来たから私にわづかの考へる時間がありさへすれば私は別に苦しいことはない。私はそれらを唯一の燃料としてとり入れることをはげまされるだらう。私はいくらかの時丈け他人の行動や言葉に対して不快である事に度々出会ふだらう。けれども私はこれからそれを気にすると云ふことよりもそれ等を包んでしまふことに努力するだらう。今、私は私の心の動き方にぢつと目を注いでゐる。私には今自分と云ふものが限りなく広い偉大なものに思へる、――否自分と云ふ関門を通つて出た人間の世界と云ふものが――。それは今迄全然わからないでもなかつたけれど今私が感じてゐる程真実に、又近く、痛切には感ぜられなかつた。それは自分と云ふ足元を視点としたボンヤリした視野であつた。 (三、一〇、二五) |
一 明治元年五月十四日の午過ぎだつた。「官軍は明日夜の明け次第、東叡山彰義隊を攻撃する。上野界隈の町家のものは匇々何処へでも立ち退いてしまへ。」――さう云ふ達しのあつた午過ぎだつた。下谷町二丁目の小間物店、古河屋政兵衛の立ち退いた跡には、台所の隅の蚫貝の前に大きい牡の三毛猫が一匹静かに香箱をつくつてゐた。 戸をしめ切つた家の中は勿論午過ぎでもまつ暗だつた。人音も全然聞えなかつた。唯耳にはひるものは連日の雨の音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々急に降り注いでは、何時か又中空へ遠のいて行つた。猫はその音の高まる度に、琥珀色の眼をまん円にした。竈さへわからない台所にも、この時だけは無気味な燐光が見えた。が、ざあつと云ふ雨音以外に何も変化のない事を知ると、猫はやはり身動きもせずもう一度眼を糸のやうにした。 そんな事が何度か繰り返される内に、猫はとうとう眠つたのか、眼を明ける事もしなくなつた。しかし雨は不相変急になつたり静まつたりした。八つ、八つ半、――時はこの雨音の中にだんだん日の暮へ移つて行つた。 すると七つに迫つた時、猫は何かに驚いたやうに突然眼を大きくした。同時に耳も立てたらしかつた。が、雨は今までよりも遙かに小降りになつてゐた。往来を馳せ過ぎる駕籠舁きの声、――その外には何も聞えなかつた。しかし数秒の沈黙の後、まつ暗だつた台所は何時の間にかぼんやり明るみ始めた。狭い板の間を塞いだ竈、蓋のない水瓶の水光り、荒神の松、引き窓の綱、――そんな物も順々に見えるやうになつた。猫は愈不安さうに、戸の明いた水口を睨みながら、のそりと大きい体を起した。 この時この水口の戸を開いたのは、いや戸を開いたばかりではない、腰障子もしまひに明けたのは、濡れ鼠になつた乞食だつた。彼は古い手拭をかぶつた首だけ前へ伸ばしたなり、少時は静かな家のけはひにぢつと耳を澄ませてゐた。が、人音のないのを見定めると、これだけは真新しい酒筵に鮮かな濡れ色を見せた儘、そつと台所へ上つて来た。猫は耳を平めながら、二足三足跡ずさりをした。しかし乞食は驚きもせず後手に障子をしめてから、徐ろに顔の手拭をとつた。顔は髭に埋まつた上、膏薬も二三個所貼つてあつた。しかし垢にはまみれてゐても、眼鼻立ちは寧ろ尋常だつた。 「三毛。三毛。」 乞食は髪の水を切つたり、顔の滴を拭つたりしながら、小声に猫の名前を呼んだ。猫はその声に聞き覚えがあるのか、平めてゐた耳をもとに戻した。が、まだ其処に佇んだなり、時々はじろじろ彼の顔へ疑深い眼を注いでゐた。その間に酒筵を脱いだ乞食は脛の色も見えない泥足の儘、猫の前へどつかりあぐらをかいた。 「三毛公。どうした?――誰もゐない所を見ると、貴様だけ置き去りを食はされたな。」 乞食は独り笑ひながら、大きい手に猫の頭を撫でた。猫はちよいと逃げ腰になつた。が、それぎり飛び退きもせず、反つて其処へ坐つたなり、だんだん眼さへ細め出した。乞食は猫を撫でやめると、今度は古湯帷子の懐から、油光りのする短銃を出した。さうして覚束ない薄明りの中に、引き金の具合を検べ出した。「いくさ」の空気の漂つた、人気のない家の台所に短銃をいぢつてゐる一人の乞食――それは確に小説じみた、物珍らしい光景に違ひなかつた。しかし薄眼になつた猫はやはり背中を円くした儘、一切の秘密を知つてゐるやうに、冷然と坐つてゐるばかりだつた。 「明日になるとな、三毛公、この界隈へも雨のやうに鉄砲の玉が降つて来るぞ。そいつに中ると死んじまふから、明日はどんな騒ぎがあつても、一日縁の下に隠れてゐろよ。……」 乞食は短銃を検べながら、時々猫に話しかけた。 「お前とも永い御馴染だな。が、今日が御別れだぞ。明日はお前にも大厄日だ。おれも明日は死ぬかも知れない。よし又死なずにすんだ所が、この先二度とお前と一しよに掃溜めあさりはしないつもりだ。さうすればお前は大喜びだらう。」 その内に雨は又一しきり、騒がしい音を立て始めた。雲も棟瓦を煙らせる程、近々に屋根に押し迫つたのであらう。台所に漂つた薄明りは、前よりも一層かすかになつた。が、乞食は顔も挙げず、やつと検べ終つた短銃へ、丹念に弾薬を装填してゐた。 「それとも名残りだけは惜しんでくれるか? いや、猫と云ふやつは三年の恩も忘れると云ふから、お前も当てにはならなさうだな。――が、まあ、そんな事はどうでも好いや。唯おれもゐないとすると、――」 乞食は急に口を噤んだ。途端に誰か水口の外へ歩み寄つたらしいけはひがした。短銃をしまふのと振り返るのと、乞食にはそれが同時だつた。いや、その外に水口の障子ががらりと明けられたのも同時だつた。乞食は咄嗟に身構へながら、まともに闖入者と眼を合せた。 すると障子を明けた誰かは乞食の姿を見るが早いか、反つて不意を打たれたやうに、「あつ」とかすかな叫び声を洩らした。それは素裸足に大黒傘を下げた、まだ年の若い女だつた。彼女は殆ど衝動的に、もと来た雨の中へ飛び出さうとした。が、最初の驚きから、やつと勇気を恢復すると、台所の薄明りに透かしながら、ぢつと乞食の顔を覗きこんだ。 乞食は呆気にとられたのか、古湯帷子の片膝を立てた儘、まじまじ相手を見守つてゐた。もうその眼にもさつきのやうに、油断のない気色は見えなかつた。二人は黙然と少時の間、互に眼と眼を見合せてゐた。 「何だい、お前は新公ぢやないか?」 彼女は少し落ち着いたやうに、かう乞食へ声をかけた。乞食はにやにや笑ひながら、二三度彼女へ頭を下げた。 「どうも相済みません。あんまり降りが強いもんだから、つい御留守へはひこみましたがね――何、格別明き巣狙ひに宗旨を変へた訣でもないんです。」 「驚かせるよ、ほんたうに――いくら明き巣狙ひぢやないと云つたつて、図々しいにも程があるぢやないか?」 彼女は傘の滴を切り切り、腹立たしさうにつけ加へた。 「さあ、こつちへ出ておくれよ。わたしは家へはひるんだから。」 「へえ、出ます。出ろと仰有らないでも出ますがね。姐さんはまだ立ち退かなかつたんですかい?」 「立ち退いたのさ。立ち退いたんだけれども、――そんな事はどうでも好いぢやないか?」 「すると何か忘れ物でもしたんですね。――まあ、こつちへおはひんなさい。其処では雨がかかりますぜ。」 彼女はまだ業腹さうに、乞食の言葉には返事もせず、水口の板の間へ腰を下した。それから流しへ泥足を伸ばすと、ざあざあ水をかけ始めた。平然とあぐらをかいた乞食は髭だらけの顋をさすりながら、じろじろその姿を眺めてゐた。彼女は色の浅黒い、鼻のあたりに雀斑のある、田舎者らしい小女だつた。なりも召使ひに相応な手織木綿の一重物に、小倉の帯しかしてゐなかつた。が、活き活きした眼鼻立ちや、堅肥りの体つきには、何処か新しい桃や梨を聯想させる美しさがあつた。 「この騒ぎの中を取りに返るのぢや、何か大事の物を忘れたんですね。何です、その忘れ物は? え、姐さん。――お富さん。」 新公は又尋ね続けた。 「何だつて好いぢやないか? それよりさつさと出て行つておくれよ。」 お富の返事は突慳貪だつた。が、ふと何か思ひついたやうに、新公の顔を見上げると、真面目にこんな事を尋ね出した。 「新公、お前、家の三毛を知らないかい?」 「三毛? 三毛は今此処に、――おや、何処へ行きやがつたらう?」 乞食はあたりを見廻した。すると猫は何時の間にか、棚の擂鉢や鉄鍋の間に、ちやんと香箱をつくつてゐた。その姿は新公と同時に、忽ちお富にも見つかつたのであらう。彼女は柄杓を捨てるが早いか、乞食の存在も忘れたやうに、板の間の上に立ち上つた。さうして晴れ晴れと微笑しながら、棚の上の猫を呼ぶやうにした。 新公は薄暗い棚の上の猫から、不思議さうにお富へ眼を移した。 「猫ですかい、姐さん、忘れ物と云ふのは?」 「猫ぢや悪いのかい?――三毛、三毛、さあ、下りて御出で。」 新公は突然笑ひ出した。その声は雨音の鳴り渡る中に殆気味の悪い反響を起した。と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を火照らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。 「何が可笑しんだい? 家のお上さんは三毛を忘れて来たつて、気違ひの様になつてゐるんぢやないか? 三毛が殺されたらどうしようつて、泣き通しに泣いてゐるんぢやないか? わたしもそれが可哀さうだから、雨の中をわざわざ帰つて来たんぢやないか?――」 「ようござんすよ。もう笑ひはしませんよ。」 新公はそれでも笑ひ笑ひ、お富の言葉を遮つた。 「もう笑ひはしませんがね。まあ、考へて御覧なさい。明日にも『いくさ』が始まらうと云ふのに、高が猫の一匹や二匹――これはどう考へたつて、可笑しいのに違ひありませんや。お前さんの前だけれども、一体此処のお上さん位、わからずやのしみつたれはありませんぜ。第一あの三毛公を探しに、……」 「お黙りよ! お上さんの讒訴なぞは聞きたくないよ!」 お富は殆どぢだんだを踏んだ。が、乞食は思ひの外彼女の権幕には驚かなかつた。のみならずしげしげ彼女の姿に無遠慮な視線を注いでゐた。実際その時の彼女の姿は野蛮な美しさそのものだつた。雨に濡れた着物や湯巻、――それらは何処を眺めても、ぴつたり肌についてゐるだけ、露はに肉体を語つてゐた。しかも一目に処女を感ずる、若々しい肉体を語つてゐた。新公は彼女に目を据ゑたなり、やはり笑ひ声に話し続けた。 「第一あの三毛公を探しに、お前さんをよこすのでもわかつてゐまさあ。ねえ、さうぢやありませんか? 今ぢやもう上野界隈、立ち退かない家はありませんや。して見れば町家は並んでゐても、人のゐない野原と同じ事だ。まさか狼も出まいけれども、どんな危い目に遇ふかも知れない――と、まづ云つたものぢやありませんか?」 「そんな余計な心配をするより、さつさと猫をとつておくれよ。――これが『いくさ』でも始まりやしまいし、何が危い事があるものかね。」 「冗談云つちやいけません。若い女の一人歩きが、かう云ふ時に危くなけりや、危いと云ふ事はありませんや。早い話が此処にゐるのは、お前さんとわたしと二人つきりだ。万一わたしが妙な気でも出したら、姐さん、お前さんはどうしなさるね?」 新公はだんだん冗談だか、真面目だか、わからない口調になつた。しかし澄んだお富の目には、恐怖らしい影さへ見えなかつた。 |
一 沢なすこの世の楽しみの 楽しき極みは何なるぞ 北斗を支ふる富を得て 黄金を数へん其時か オー 否 否 否 楽しき極みはなほあらん。 二 剣はきらめき弾はとび かばねは山なし血は流る 戦のちまたのいさほしを 我身にあつめし其時か オー 否 否 否 楽しき極みはなほあらん。 三 黄金をちりばめ玉をしく 高どのうてなはまばゆきに のぼりて貴き位やま 世にうらやまれん其時か オー 否 否 否 楽しき極みはなほあらん。 四 楽しき極みはくれはどり あやめもたへなる衣手か やしほ味よきうま酒か 柱ふとしき家くらか オー 否 否 否 楽しき極みはなほあらん。 五 正義と善とに身をさゝげ 欲をば捨てて一すぢに 行くべき路を勇ましく 真心のまゝに進みなば アー 是れ 是れ 是れ 是れこそ楽しき極みなれ。 六 日毎の業にいそしみて 心にさそふる雲もなく 昔の聖 今の大人 |
「これは槙さん入らっしゃい。」 「今晩は――大した景気ですね。」 「お化に景気も妙ですが、おもいのほか人が集りましたよ。」 最近の事である。……今夜の怪談会の幹事の一人に、白尾と云うのが知己だから槙を別間に迎えながら、 「かねがね聞いております。何時も、この会を催しますのに、故とらしく、凄味、不気味の趣向をしますと、病人が出来たり、怪我があったりすると言います――また全くらしゅうございますからね。蒟蒻を廊下へ敷いたり、生大根の片腕を紅殻で落したり、芋莄で蛇を捩り下げたり、一切そんな悪戯はしない事にしたんですよ。ですが、婦人だけも随分の人数です。中には怪談を聞く人でなくて、見るつもりで来ているのも少からずと言った形ですから、唯ほんの景ぶつ、口上ばかりに、植込を向うへ引込んだ離座敷に、一寸看板を出しました――百もの語にはつきものですが、あとで、一人ずつ順に其処へ行って、記念の署名をと云った都合なんで、勿論、夜が更けましてから……」 ――この時もう十一時を過ぎていた。槙真三が、旅館兼料理屋の、この郊外の緑軒を志して、便宜で電車を下りた時は、真夏だと言うのに、もう四辺が寂寞していたのであった。 「……尤も、行儀よく一人ずつ行くのではありません。いずれ乱脈でしょうから、いまのうち凄い処――ははは、凄くもありますまいが、ひとつ御覧なすって、何うぞまた、何かと御注意、御助言を下さいまし。」 「御注意も何もありませんが、拝見をさして頂きましょう」 「さ、何うぞ此方へ。」 ――後で芳町のだと聞いた、若い芸妓が二人、馴染で給仕をして、いま頃夕飯を、……ちょうど茶をつがせて箸を置いた。何う見ても化ものには縁の遠そうな幹事の白尾が、ここで立つと、「あら、兄さん、私も。」「私も。」と取りつくのを、「お前さんたちはあとにおし。」で、袖を突いて、幹事室を出るのに、真三は続いた。 催はまだはじまっていない。客は会場の広室に溢れ、帳場にこぼれ、廊下に流れて、わやわやとざわめく中を、よけるようにして通って、一つ折曲る処で、家内総出で折詰の支度に料理場、台所を取乱したのを視ながら、また一つ細く成る廊下を縫うと、其処にも、此処にも、二三人、四五人ずつは男、女が往来う、彳む。何しろ暑いので、誰も吹ぬけの縁を慕うのであった。 「では、此処から庭へ――」 「あれですか。」 真三は、この料亭へは初めてだったし、夜である。何の樹とも知らないが、これが呼びものの、門口に森を控えて、庭の茂は暗いまで、星に濃く、燈に青く、白露に艶かである。その幹深く枝々を透して、ぼーッと煤色に浸んだ燈は、影のように障子を映して、其処に行燈の灯れたのが遠くから認められた。 二枚か、四枚か。……半ばは葉の陰にかくれたが、亭ごのみの茶座敷らしい。障子を一枚細目に開けてあるのが、縦に黒く見えて、薄か、蘆か揺ぐにつれて、この催とて、思いなしか、長く髪の毛の動くような色が添った。 「下駄があります、薄暗うございますから。」 「やあ、きみじゃったな、……先刻のは。――」 縁のすぐ傍に居て、ぐるりと毛脛を捲ったなりで、真三に声を掛けたものがある。言つきで、軍人の猛者か、田舎出の紳士かと思われるが、そうでない。赭ら顔で一分刈の大坊主、六十近いが、でっぷり膏肥がしたのに酒気をさえ帯びている。講中なんぞの揃らしい、目に立つ浴衣に、萌葱博多の幅狭な帯をちょっきり結びで、二つ提げ淀屋ごのみの煙草入をぶらつかせ、はだけにはだけた胸から襟へ、少々誇張だけれど、嬰児の拳ほどある、木の実だか、貝殻だか、赤く塗った大粒を、ごつごつごつと、素ばらしい珠数を掛けた。まくり手には、鉄の如意かと思う、……しかも握太にして、丈一尺ばかりの木棍を、異様に削りまわした――憚なく申すことを許さるるならば、髣髴として、陽形なるを構えている。 ――槙真三は、ここへ来る、停車場を下りた処で、実は一度、この大坊主に出会った。居処は違ったらしいが、おなじ電車から、一歩おくれて、のっしのっしと出たのである。――馴切った、土地の人らしいのが三四人、おりると直ぐに散ったほかは、おなじ向きに緑軒へ志すらしいものの影も見えなかった。思いのほかで。……夜あかしだと聞く怪談には、この時刻が出盛りで、村祭の畷ぐらいは人足が落合うだろう。俥も並んでいるだろう、……は大あて違い。ただの一台も見当らない。前の広場も暗かった。 改札口を出たまでで、人に聞かぬと、東西を心得ぬ、立淀んで猶予う処へ、顕われたのが大坊主で、 「やあ、君。」 と、陣笠なりの汚れくさったパナマを仰向けて、 「緑軒の連中じゃあないかな――俺も此処ははじめてだ。乗った電車から戻り気味に、逆に踏切を一つ越すッてこッたで、構わずその方角へ遣つけよう。……半分寝ている煙草屋なんぞで道を訊くのもごうはらだからな。」 真三は連立った。 「化ものの会じゃあねえか、気のきかねえ。人魂でも白張提灯でも、ふわりふわり出迎えに来れば可い。誰だと思う、べらぼうめ。はッはッはッ。」 最う微酔のいい機嫌で、 「――俺は浅草の棍元教と言う、新に教を立てた宗門の先達だよ。……あとで一説法刎ねかすが。――何せい、この一喝を啖わすから、出て来た処で人魂も白張も、ぽしゃぽしゃは、ぽしゃぽしゃだ。」 と、そいつが斑剥だが真赤に朱で塗ってある――件の木棍で掌をドカンと敲いた。 真三は、この膏濃い入道は、処も、浅草だと言う……むかしの志道軒とかの流を汲む、慢心した講釈家かなんぞであろうと思った。 会場へ着いて、帳場までは一所だったが、居合せたこの幹事に誘われて、そして彼は別室へ。 「ええ、先刻は……彼処に、一寸した、つくりものがあるんだそうです。」 「うむ、御趣向かい。見ものだろう。見ぶつするかな。……わい。」 どしんと縁へ尻餅を搗いた。 「苔が、辷る。庭下駄の端緒が切れていやあがる。危えじゃねえか。や、ほかに履きものはがあせんな。はてね。」 「お気をつけなさいまし。」 それなり行こうとした幹事の白尾を、脛を投出したまま呼留めた。 「気をつけねえじゃいられねえや――もし、徽章を着けていなさるからには世話人だね、肝煎だね。この百二三十も頭数のある処へ、庭へ上り下りをするなり、その拵えものを見に行くなりに、お前さんたちが穿いて二足、緒の切れた奴が一足、たった三足。……何、二足片足しかねえと云うのは何う云う理合のもんだね。」 「何うも相済みません。ですが、唯今は、ほんのこれは内々の下見なので。……後に御披露の上、皆さんにおいでを願う筈に成っています。しかし、それとても、五人十人御一所では……甚だ幼稚な考えかも知れませんが、何の凄味も、おもしろみもありません。……お一人、せいぜいお二人ぐらいずつと思いまして、はきものの数は用意をしません。庭を御散歩なさいますなら、下足をお取りに成って……御自由に。――」 「あら、一人ずつで行くの、可恐いわね。」 と、傍ぎきして、連らしいのに、そう云った頸の白い女がある。 「何が可恐いものか。へん、俺がついてる。」 その連でもないのに、坊主は腕まくりをして、陽木棍で膝を敲いて出しゃ張った。 「坊主、一言もありませんな。」 植込を低う抜けながら、真三が言った。その槙だが、いまの弁解を聞くまでは、おなじく、この人数に、はきもののその数は、と思ったのだそうである。 処が、 「いいえ、出たらめに遣ッつけましたがね、……ハッと思いましたよ。まったくの処不行届きだったんです。……あれではとても足りません。何てッたって、どうせ大勢でしょうから、大急ぎで草履でも買わせて間に合せる事にしなければなりますまい。」 ――で、後にその草履の用意は出来た。変化、妖怪、幽霊、怨念の夜だからと言って、そのために裾、足の事にこだわるのではないのだが、夜半に、はきものの数さえ多ければ、何事もなかったろう。……多人数が一所だから。処が、庭はじとじとしている。秋立って七日あまりも過ぎたから、夜露も深い。……人の出あしは留めなかったが、日暮方、町には薄い夕立があった、それがこの辺はどしゃ降りに降ったと言う。停車場からの窪地は道を拾うほど濡れていた。しかも植込の下である。草履は履く時からべっとりして、踏出すとぐっしょりに成る。納涼がてらの催だが、遠出をかけて、かえりは夜があけるのだから、いずれも相応めかしていて、羽織、足袋穿が多かった。またその足袋を脱ぐのが、怪しい仕掛のあると云う、寮構へ踏込むのに、人住まぬ空屋以上に不気味だから、無造作に草履ばきでは下立たないで、余程ものずきなのが、下駄のあくのを待って一人、二人ずつでないと、怪しい席へ入らなかった、――そのために事が起ったのである。 さて、濡縁なりで、じかに障子を、その細目にあけた処へ、裾がこぼれて、袖垣の糸薄にかかるばかり、四畳半一杯の古蚊帳である。 「……ゆきかえりに、潜らせようッてつもりですが、まあ、あとで中を御覧なさい。」 |
編輯者 支那へ旅行するそうですね。南ですか? 北ですか? 小説家 南から北へ周るつもりです。 編輯者 準備はもう出来たのですか? 小説家 大抵出来ました。ただ読む筈だった紀行や地誌なぞが、未だに読み切れないのに弱っています。 編輯者 (気がなさそうに)そんな本が何冊もあるのですか? 小説家 存外ありますよ。日本人が書いたのでは、七十八日遊記、支那文明記、支那漫遊記、支那仏教遺物、支那風俗、支那人気質、燕山楚水、蘇浙小観、北清見聞録、長江十年、観光紀游、征塵録、満洲、巴蜀、湖南、漢口、支那風韻記、支那―― 編輯者 それをみんな読んだのですか? 小説家 何、まだ一冊も読まないのです。それから支那人が書いた本では、大清一統志、燕都遊覧志、長安客話、帝京―― 編輯者 いや、もう本の名は沢山です。 小説家 まだ西洋人が書いた本は、一冊も云わなかったと思いますが、―― 編輯者 西洋人の書いた支那の本なぞには、どうせ碌な物はないでしょう。それより小説は出発前に、きっと書いて貰えるでしょうね。 小説家 (急に悄気る)さあ、とにかくその前には、書き上げるつもりでいるのですが、―― 編輯者 一体何時出発する予定ですか? 小説家 実は今日出発する予定なのです。 編輯者 (驚いたように)今日ですか? 小説家 ええ、五時の急行に乗る筈なのです。 編輯者 するともう出発前には、半時間しかないじゃありませんか? 小説家 まあそう云う勘定です。 編輯者 (腹を立てたように)では小説はどうなるのですか? 小説家 (いよいよ悄気る)僕もどうなるかと思っているのです。 編輯者 どうもそう無責任では困りますなあ。しかし何しろ半時間ばかりでは、急に書いても貰えないでしょうし、……… 小説家 そうですね。ウェデキンドの芝居だと、この半時間ばかりの間にも、不遇の音楽家が飛びこんで来たり、どこかの奥さんが自殺したり、いろいろな事件が起るのですが、――御待ちなさいよ。事によると机の抽斗に、まだ何か発表しない原稿があるかも知れません。 編輯者 そうすると非常に好都合ですが―― 小説家 (机の抽斗を探しながら)論文ではいけないでしょうね。 編輯者 何と云う論文ですか? 小説家 「文芸に及ぼすジャアナリズムの害毒」と云うのです。 編輯者 そんな論文はいけません。 小説家 これはどうですか? まあ、体裁の上では小品ですが、―― 編輯者 「奇遇」と云う題ですね。どんな事を書いたのですか? 小説家 ちょいと読んで見ましょうか? 二十分ばかりかかれば読めますから、―― × × × 至順年間の事である。長江に臨んだ古金陵の地に、王生と云う青年があった。生れつき才力が豊な上に、容貌もまた美しい。何でも奇俊王家郎と称されたと云うから、その風采想うべしである。しかも年は二十になったが、妻はまだ娶っていない。家は門地も正しいし、親譲りの資産も相当にある。詩酒の風流を恣にするには、こんな都合の好い身分はない。 実際また王生は、仲の好い友人の趙生と一しょに、自由な生活を送っていた。戯を聴きに行く事もある。博を打って暮らす事もある。あるいはまた一晩中、秦淮あたりの酒家の卓子に、酒を飲み明かすことなぞもある。そう云う時には落着いた王生が、花磁盞を前にうっとりと、どこかの歌の声に聞き入っていると、陽気な趙生は酢蟹を肴に、金華酒の満を引きながら、盛んに妓品なぞを論じ立てるのである。 その王生がどう云う訳か、去年の秋以来忘れたように、ばったり痛飲を試みなくなった。いや、痛飲ばかりではない。吃喝嫖賭の道楽にも、全然遠のいてしまったのである。趙生を始め大勢の友人たちは、勿論この変化を不思議に思った。王生ももう道楽には、飽きたのかも知れないと云うものがある。いや、どこかに可愛い女が、出来たのだろうと云うものもある。が、肝腎の王生自身は、何度その訳を尋ねられても、ただ微笑を洩らすばかりで、何がどうしたとも返事をしない。 そんな事が一年ほど続いた後、ある日趙生が久しぶりに、王生の家を訪れると、彼は昨夜作ったと云って、元稹体の会真詩三十韻を出して見せた。詩は花やかな対句の中に、絶えず嗟嘆の意が洩らしてある。恋をしている青年でもなければ、こう云う詩はたとい一行でも、書く事が出来ないに違いない。趙生は詩稿を王生に返すと、狡猾そうにちらりと相手を見ながら、 「君の鶯鶯はどこにいるのだ。」と云った。 「僕の鶯鶯? そんなものがあるものか。」 「嘘をつき給え。論より証拠はその指環じゃないか。」 なるほど趙生が指さした几の上には、紫金碧甸の指環が一つ、読みさした本の上に転がっている。指環の主は勿論男ではない。が、王生はそれを取り上げると、ちょいと顔を暗くしたが、しかし存外平然と、徐ろにこんな話をし出した。 「僕の鶯鶯なぞと云うものはない。が、僕の恋をしている女はある。僕が去年の秋以来、君たちと太白を挙げなくなったのは、確かにその女が出来たからだ。しかしその女と僕との関係は、君たちが想像しているような、ありふれた才子の情事ではない。こう云ったばかりでは何の事だか、勿論君にはのみこめないだろう。いや、のみこめないばかりなら好いが、あるいは万事が嘘のような疑いを抱きたくなるかも知れない。それでは僕も不本意だから、この際君に一切の事情をすっかり打ち明けてしまおうと思う。退屈でもどうか一通り、その女の話を聞いてくれ給え。 「僕は君が知っている通り、松江に田を持っている。そうして毎年秋になると、一年の年貢を取り立てるために、僕自身あそこへ下って行く。所がちょうど去年の秋、やはり松江へ下った帰りに、舟が渭塘のほとりまで来ると、柳や槐に囲まれながら、酒旗を出した家が一軒見える。朱塗りの欄干が画いたように、折れ曲っている容子なぞでは、中々大きな構えらしい。そのまた欄干の続いた外には、紅い芙蓉が何十株も、川の水に影を落している。僕は喉が渇いていたから、早速その酒旗の出ている家へ、舟をつけろと云いつけたものだ。 「さてそこへ上って見ると、案の定家も手広ければ、主の翁も卑しくない。その上酒は竹葉青、肴は鱸に蟹と云うのだから、僕の満足は察してくれ給え。実際僕は久しぶりに、旅愁も何も忘れながら、陶然と盃を口にしていた。その内にふと気がつくと、誰か一人幕の陰から、時々こちらを覗くものがある。が、僕はそちらを見るが早いか、すぐに幕の後へ隠れてしまう。そうして僕が眼を外らせば、じっとまたこちらを見つめている。何だか翡翠の簪や金の耳環が幕の間に、ちらめくような気がするが、確かにそうかどうか判然しない。現に一度なぞは玉のような顔が、ちらりとそこに見えたように思う。が、急にふり返ると、やはりただ幕ばかりが、懶そうにだらりと下っている。そんな事を繰り返している内に、僕はだんだん酒を飲むのが、妙につまらなくなって来たから、何枚かの銭を抛り出すと、匇々また舟へ帰って来た。 「ところがその晩舟の中に、独りうとうとと眠っていると、僕は夢にもう一度、あの酒旗の出ている家へ行った。昼来た時には知らなかったが、家には門が何重もある、その門を皆通り抜けた、一番奥まった家の後に、小さな綉閣が一軒見える。その前には見事な葡萄棚があり、葡萄棚の下には石を畳んだ、一丈ばかりの泉水がある。僕はその池のほとりへ来た時、水の中の金魚が月の光に、はっきり数えられたのも覚えている。池の左右に植わっているのは、二株とも垂糸檜に違いない。それからまた墻に寄せては、翠柏の屏が結んである。その下にあるのは天工のように、石を積んだ築山である。築山の草はことごとく金糸線綉墩の属ばかりだから、この頃のうそ寒にも凋れていない。窓の間には彫花の籠に、緑色の鸚鵡が飼ってある。その鸚鵡が僕を見ると、「今晩は」と云ったのも忘れられない。軒の下には宙に吊った、小さな木鶴の一双いが、煙の立つ線香を啣えている。窓の中を覗いて見ると、几の上の古銅瓶に、孔雀の尾が何本も挿してある。その側にある筆硯類は、いずれも清楚と云うほかはない。と思うとまた人を待つように、碧玉の簫などもかかっている。壁には四幅の金花箋を貼って、その上に詩が題してある。詩体はどうも蘇東坡の四時の詞に傚ったものらしい。書は確かに趙松雪を学んだと思う筆法である。その詩も一々覚えているが、今は披露する必要もあるまい。それより君に聞いて貰いたいのは、そう云う月明りの部屋の中に、たった一人坐っていた、玉人のような女の事だ。僕はその女を見た時ほど、女の美しさを感じた事はない。」 「有美閨房秀 天人謫降来かね。」 趙生は微笑しながら、さっき王生が見せた会真詩の冒頭の二句を口ずさんだ。 「まあ、そんなものだ。」 話したいと云った癖に、王生はそう答えたぎり、いつまでも口を噤んでいる。趙生はとうとう待兼ねたように、そっと王生の膝を突いた。 「それからどうしたのだ?」 |
昔トゥロンというフランスのある町に、二人のかたわ者がいました。一人はめくらで一人はちんばでした。この町はなかなか大きな町で、ずいぶんたくさんのかたわ者がいましたけれども、この二人のかたわ者だけは特別に人の目をひきました。なぜだというと、ほかのかたわ者は自分の不運をなげいてなんとかしてなおりたいなおりたいと思い、人に見られるのをはずかしがって、あまり人目に立つような所にはすがたを現わしませんでしたが、その二人のかたわ者だけは、ことさら人の集まるような所にはきっとでしゃばるので、かたわ者といえば、この二人だけがかたわ者であるように人々は思うのでした。 いったいをいうと、トゥロンという町にはかたわ者といっては一人もいないはずなのです。その理由は、この町の守り本尊に聖マルティンというえらい聖者の木像があって、それに願をかけると、どんな病気でもかたわでもすぐなおってしまうからでした。ところが私の今お話しするさわぎが起こった年から五十年ほど前に、町のおもだった人々が、その聖者の尊像をないしょで町から持ち出して、五、六里もはなれた所にある高い山の中にかくまってしまったのです。なぜそんなことをしたかというと、ヨーロッパの北の方からおびただしい海賊がやって来て、フランスのどここことなくあばれまわり、手あたりしだいに金銀財宝をうばって行ってしまうので、もし聖者の尊像でもぬすまれるようなことがあったら、もったいないばかりか、町の名折れになるというので、だれも登ることのできないような険しい山のてっぺんにお移ししてしまったのです。 それからというもの、このトゥロンの町もかたわ者ができるようになったのです。で、さっき私がお話しした二人のかたわ者、すなわち一人のめくらと一人のちんばとは、自分たちが不幸な人間だということを悲しんで、人間なみになりたいと遠くからでも聖者に願かけをしたらよさそうなものを、そうはしないで、自分がかたわ者に生まれついたのをいいことにして、人の情けで遊んで飯を食おうという心を起こしました。 めくらの名まえをかりにジャンといい、ちんばの名まえをピエールといっておきましょう。このジャンとピエールとは初めの間は市場などに行って、あわれな声を出して自分のかたわを売りものにして一銭二銭の合力を願っていましたが、人々があわれがって親切をするのをいい事にしてだんだん増長しました。そしてめくらのジャンのほうは卜占者になり、ちんばのピエールのほうは巡礼になりました。 ジャンは卜占者にふさわしいようなものものしい学者めいた服装をし、目明きには見えないものが見え、目明きには考えられないものが考えられるとふれて回って、聖マルティンのおるすをあずかる予言者だと自分からいいだしました。さらぬだに守り本尊が町にないので心細く思っていた人々は、始めのうちこそジャンの広言をばかにしていましたが、そのいう事が一つ二つあたったりしてみると、なんだかたよりにしたい気持になって、しだいしだいに信者がふえ、ジャンはしまいにはたいそうな金持ちになって、町じゅう第一とも見えるような御殿を建ててそれに住まい、ぜいたくざんまいなくらしをするようになりましたが、その御殿もその中のいろいろなたから物も、聖マルティンの尊像がお山からお下りになったら、一まとめにして献上するのだといっていたものですから、だれもジャンのぜいたくざんまいをとがめ立てする人はありませんでした。そしてジャンはいつのまにか金の力で町のおもだった人を自分の手下のようにしてしまい、おそろしくえらい人間だということになってしまいました。そうなるとお金はひとりでのようにジャンのふところを目がけて集まって来ました。 ピエールはピエールで、ちがったしかたで金をためにかかりました。ピエールはジャンのようにえらいものらしくいばることをしないで、どこまでも正直でかわいそうなかたわ者らしく見せかけました。「私にはジャンのような神様から授かった不思議な力などはありません。あたりまえなけちな人間で、しかもいろいろな罪を犯しているのだから、神様がかたわになさったのも無理はありません。だから私は自分の罪ほろぼしに、何か自分を苦しめるようなことをして神様のおいかりをなだめなければなりません。この心持ちをあわれと思ってください」などと口ぐせのようにいいました。そこでピエールの仕事というのは大きなふくろを作って、それに町の人々が奉納するお金や品物を入れて、ちんばを引き引き聖マルティンの尊像の安置してある険しい山に登ることでした。足の達者な人でも登れないような所に、このかたわ者が命がけで登るというのですから、中には変だと思う人もありましたが、そういう人にはピエールはいつでも悲しげな顔をしてこう答えました。 「お疑いはごもっともです。けれどもいつか私の一心がどれほど強かったかを皆様はごらんくださるでしょう。海賊がせめこんで来なくなるような時代が来て聖マルティン様が山からお下りになる時になったら、おむかいに行った人たちは、尊像がどこにあるか知れないほど、町のかたがたの奉納品が尊像のまわりに積み上げてあるのを見ておどろきになるのでしょうから」 そのことばつきがいかにもたくみなので、しまいにはそれを疑う人がなくなって、ピエールがお山に登る時が来たということになると、だれかれとなくいろいろめずらしいものや金めのかかるものをピエールのふくろの中に入れてやりました。 ピエールは山のふもとまでは行きましたが、ほんとうは一度も山に登ったことはありません。人々の奉納したものはみんな自分がぬすんでしまって、知れないように思うままなぜいたくをしてくらしていました。 トゥロンにはたくさんのかたわ者ができた中にも、二人のえらいかたわ者がいる。一人は神様の心を知る予言者、一人は神様の忠義なしもべ、さすがにトゥロンは聖マルティンを守り本尊とあおぐ町だけあると、他の町々までうわさされるようになりました。 そうやっているうちに、海賊どもは商売がうまくいかないためか、だんだんと人数が減っていって、めったにフランスまではせめ入って来なくなり、おかげでフランスの町々はまくらを高くして寝ることができるようになりました。 ここでトゥロンでも年寄った人々がよりより相談して、長い間山の中にかくまっておいた尊像を町におむかえしようという事に決まりました。それにしてもその事がうっかり海賊のほうにでも聞こえれば、どんなさまたげをしないものでもないし、また一つにはいきなり町におむかえして不幸な人々に不意な喜びをさせようというので、二十人ほどの人がそっと夜中に山に登ることになりました。 そうとは知らないジャンとピエールは、かたわを売りものにしたばかりで、しこたまたくわえこんだお金を、湯水のように使ってぜいたくざんまいをしていましたが、尊像が山からお下りになるその日も、朝からジャンの御殿のおくに陣取って、酒を飲んだり、おいしい物を食べたりして、思うままのことをしゃべり散らしていました。 ジャンがいうには、 「こうしていればかたわも重宝なものだ。世の中のやつらは知恵がないからかたわになるとしょげこんでしまって、丈夫な人間、あたりまえな人間になりたがっているが、おれたちはそんなばかはできないなあ」 ピエールのいうには、 「丈夫な人間、あたりまえの人間のしていることを見ろ。汗水たらして一日働いても、今日今日をやっと過ごしているだけだが、おれたちはかたわなばかりで、なんにもしないで遊びながら、町の人たちがつくり上げたお金をかたっぱしからまき上げることができる。どうか死ぬまでちんばでいたいものだ」 「おれも人なみに目が見えるようになっちゃ大変だ。人なみになったらおれにも何一つ仕事という仕事はできないのだから、その日から乞食になるよりほかはない。もう乞食のくらしはこりごりだ」 とジャンは相づちをうちました。 ところが戸外が急ににぎやかになって、町の中を狂気のように馳せちがう人馬の足音が聞こえだしたと思うと、寺々のかねが勢いよく鳴りはじめました。町の人々は大きな声で賛美の歌をうたいはじめました。ジャンとピエールは朝から何がはじまったのかと思って、まどをあけて往来を見ると、年寄りも子どもも男も女も皆戸外に飛び出して、町の門の方を見やりながら物待ち顔に、口々にさけんでいます。よく聞いてみると聖マルティンの尊像がやがて山から町におはいりになるといっているのです。 それを聞いた二人は胆がつぶれんばかりにおどろいてしまいました。 「奉納したものが山の上に積んであると、おれのいいふらしたうそはすっかり知れてしまった。おれはもう町の人たちに殺されるにきまっている」 とピエールが頭の毛をむしると、 「おれのこの御殿もたからも今日から聖マルティンのものになってしまうのだ。おれの財産は今日からなんにもなくなるのだ。聖マルティンのちくしょうめ」 とジャンはジャンで見えない目からくやし涙を流します。 「でもおれは命まで取られそうなのだ」 とピエールがいうと、 「命を取られるのは、まだ一思いでいい。おれは一文なしになって、皆にばかにされて、うえ死にをしなければならないんだ。五分切り、一寸だめしも同様だ。ああこまったなあ、おまけに聖マルティンが町にはいれば、おれのかたわはなおるかもしれないのだ。かたわがなおっちゃ大変だ。おいピエール、おれを早くほかの町に連れ出してくれ」 とジャンはせかせかとピエールの方に手さぐりで近づきました。 町の中はまるで祭日の晩のようににぎやかになり増さってゆくばかりです。 「といって、おれはちんばだからとても早くは歩けない……ああこまったなあ。どうかいつまでもかたわでいたいものだがなあ。じゃあジャン、おまえは私をおぶってくれ。おまえはおれの足になってくれ、おれはおまえの目になるから」 ピエールはこういいながらジャンにいきなりおぶさりました。そしてジャンにさしずをすると、ジャンはあぶない足どりながらピエールを背負っていっさんに駆け出しました。 「ハレルーヤ ハレルーヤ ハレルーヤ」 という声がどよめきわたって聞こえます。 ジャンとピエールとを除いた町じゅうの病人やかたわ者は人間なみになれるよろこびの日が来たので、有頂天になって、聖マルティンのお着きを待ちうけています。 その間をジャンとピエールは人波にゆられながらにげようとしました。 そのうちにどうでしょう。ジャンの目はすこしずつあかるくなって、綾目が見えるようになってきました。あれとおどろくまもなくその背中でさしずをしていたピエールはいきなりジャンの背中から飛びおりるなり、足早にすたこらと門の反対の方に歩きだしました。 ジャンはそれを見るとおどろいて、 「やいピエール、おまえの足はどうしたんだ」 といいますと、ピエールも始めて気がついたようにおどろいて、ジャンを見かえりながら、 「といえばおまえは目が見えるようになったのか」 と不思議がります。二人は思わずかたずをのんでたがいの顔を見かわしました。 「大変だ」 と二人はいっしょにさけびました。たくさんの人々にとりかこまれた古い聖マルティンの尊像がしずしずと近づいて来ていたのです。その御利益で二人の病気はもうなおり始めていたのです。 二人のかたわ者はかたわがなおりかけたと気がつくと、ぺたんと地びたに尻もちをついてしまいました。そして二人は、 「とんでもないことになったなあ」 「情けないことになったなあ」 |
(一)の一 小川静子は、兄の信吾が帰省するといふので、二人の小妹と下男の松蔵を伴れて、好摩の停車場まで迎ひに出た。もと〳〵、鋤一つ入れたことのない荒蕪地の中に建てられた、小さい三等駅だから、乗降の客と言つても日に二十人が関の山、それも大抵は近村の百姓や小商人許りなのだが、今日は姉妹の姿が人の目を牽いて、夏草の香に埋もれた駅内に、常になく艶いてゐる。 小川家といへば、郡でも相応な資産家として、また、当主の信之が郡会議員になつてゐる所から、主なる有志家の一人として名が通つてゐる。信吾は其家の総領で、今年大学の英文科を三年に進んだ。何と思つたか知らぬが、この暑中休暇は東京で暮す積だと言つて来たのを、故家では、村で唯一人の大学生なる吾子の夏毎の帰省を、何よりの誇見にて楽みにもしてゐる、世間不知の母が躍起になつて、自分の病気や静子の縁談を理由に、手酷く反対した。それで信吾は、格別の用があつたでもないのか、案外穏しく帰ることになつたのだ。 午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未だ着かない。姉妹を初め、三四人の乗客が皆もうプラツトフオームに出てゐて、逈か南の方の森の上に煙の見えるのを、今か今かと待つてゐる。二人の小妹は、裾短かな海老茶の袴、下髪に同じ朱鷺色のリボンを結んで、訳もない事に笑ひ興じて、追ひつ追はれつする。それを羨まし気に見ながら、同年輩の、見悄らしい装をした、洗晒しの白手拭を冠つた小娘が、大時計の下に腰掛けてゐる、目のシヨボ〳〵した婆様の膝に凭れてゐた。 駅員が二三人、駅夫室の入口に倚懸つたり、蹲んだりして、時々此方を見ながら、何か小声に語り合つては、無遠慮に哄と笑ふ。静子はそれを避ける様に、ズツと端の方の腰掛に腰を掛けた。銘仙矢絣の単衣に、白茶の繻珍の帯も配色がよく、生際の美しい髪を油気なしのエス巻に結つて、幅広の鼠のリボンを生温かい風が煽る。化粧つてはゐないが、さらでだに七難隠す色白に、長い睫毛と格好のよい鼻、よく整つた顔容で、二十二といふ齢よりは、誰が目にも二つか三つは若い。それでゐて、何処か恁う落着いた、と言ふよりは寧ろ、沈んだ処のある女だ。 六月下旬の日射が、もう正午に近い。山国の空は秋の如く澄んで、姫神山の右の肩に、綿の様な白雲が一団、彫出された様に浮んでゐる。燃ゆる様な好摩が原の夏草の中を、驀地に走つた二条の鉄軌は、車の軋つた痕に烈しく日光を反射して、それに疲れた眼が、逈か彼方に快い蔭をつくつた、白樺の木立の中に、蕩々と融けて行きさうだ。 静子は眼を細くして、恍然と兄の信吾の事を考へてゐた。去年の夏は、休暇がまだ二十日も余つてる時に、信吾は急に言出して東京に発つた。それは静子の学校仲間であつた平沢清子が、医師の加藤と結婚する前日であつた。清子と信吾が、余程以前から思ひ合つてゐた事は、静子だけがよく知つてゐる。 今度帰るまいとしたのも、或は其、己に背いた清子と再び逢ふまいとしたのではなからうかと、静子は女心に考へてゐた。それにしても帰つて来るといふのは嬉しい、恁う思返して呉れたのは、細々と訴へてやつた自分の手紙を読んだ為だ、兄は自分を援けに帰るのだと許り思つてゐる。静子は、目下持上つてゐる縁談が、種々の事情があつて両親始め祖父までが折角勧めるけれど、自分では奈何しても嫁く気になれない、此心をよく諒察つて、好く其間に斡旋してくれるのは、信吾の外にないと信じてゐるのだ。 『来た、来た。』と、背の低い駅夫が叫んだので、フオームは俄かに色めいた。も一人の髯面の駅夫は、中に人のゐない改札口へ行つて、『来ましたよウ。』と怒鳴つた。濃い煙が、眩しい野末の青葉の上に見える。 (一)の二 凄じい地響をさせて突進して来た列車が停ると、信吾は手づから二等室の扉を排けて、身軽に降り立つた。乗降の客や駅員が、慌しく四辺を駆ける。滊笛が澄んだ空気を振はして、滊車は直ぐ発つた。 荷札扱ひにして来た、重さうな旅行鞄を、信吾が手伝つて、頭の禿げた松蔵に背負してる間に、静子は熟々其容子を見てゐた。ネルの単衣に涼しさうな生絹の兵子帯、紺キヤラコの夏足袋から、細い柾目の下駄まで、去年の信吾とは大分違つてゐる。中肉の、背は亭乎として高く、帽子には態と記章も附けてないから、打見には誰にも学生と思へない。何処か厭味のある、ニヤケた顔ではあるが、母が妹の静子が聞いてさへ可笑い位自慢にしてるだけあつて、男には惜しい程肌理が濃く、色が白い。秀でた鼻の下には、短い髯を立てゝゐた。それが怎やら老けて見える。老けて見えると同時に、妹の目からは、今迄の馴々しさが顔から消え失せた様にも思はれる。軽い失望の影が静子の心を掠めた。 『何を其麽に見てるんだ、静さん?』 『ホホ、少し老けて見えるわね。』と静子は嫣乎する。 『あゝ之か?』と短い髭を態とらしく捻り上げて、『見落されるかと思つて心配して来たんだ。ハハハ。』 『ハハハ。』と松蔵も声を合せて、背の鞄を揺り上げた。 『怎だ、重いだらう?』 『何有、大丈夫でごあんす。年は老つても、』と復揺り上げて、『さあ、松蔵が先に立ちますべ。』 連立つて停車場を出た。静子は、際どくも清子の事を思浮べて、杖形の洋傘を突いた信吾の姿が、吾兄ながら立派に見える、高が田舎の開業医づれの妻となつた彼の女が、今度この兄に逢つたなら、甚麽気がするだらうなどと考へてゐた。 二町許りも構内の木柵に添うて行くと、信号柱の下で踏切になる。小川家へ行くには、此処から線路伝ひに南へ辿つて、松川の鉄橋を渡るのが一番の近道だ。二人の小妹は、早く帰つて阿母さんに知らせると言つて、足調揃へてズン〳〵先に行く。松蔵は大跨にその後に跟いた。 信吾と静子は、相並んで線路の両側を歩いた。梅雨後の勢のよい青草が熱蒸れて、真面に照りつける日射が、深張の女傘の投影を、鮮かに地に印した。静子は、逢つたら先づ話して置かうと思つてゐたことも忘れて、この夏は賑やかに楽く暮せると思ふと、もう怡々した心地になつた。 『皆が折角待つてることよ。』 『然うか。実は此夏少し勉強しようと思つたんだがね。』 『勉強は家でだつて出来ない事なくつてよ。其麽にお邪魔しないわ。』 『それも然うだが、小供が大勢ゐるからな。』 『だつて阿母さんが那麽に待つてますもの。』 『その阿母さんの病気ツてな甚麽だい? タント悪いんぢやないだらう?』 『えゝ、其麽に悪いといふ程ぢやないんですけど……。』 『臥てゐるか?』 『臥たり起きたり。例のリウマチに、胃が少し悪いんですつて。』 『胃の悪いのは喰過ぎだ。朝ツから煙草許り喫んでゐて、躰屈まぎれに種々な物を間食するから悪いんだよ。』 『でもないでせうが、一体阿母さんは丈夫ぢやないのね。』 『若い時の応報さ。』 『まあ!』と目を大きく睜つた。母のお柳は昔盛岡で名を売つた芸妓であつたのを、父信之が学生時代に買馴染んで、其為に退校にまでなり、家中反対するのも諾かずに無理に落籍さしたのだとは、まだ女学校にゐる頃叔母から聞かされて、訳もなく泣いた事があつたが、今迄遂ぞ恁麽言葉を兄の口から聞いた事がない。静子は、宛然自分の秘密でも言現された様な気がした。 (一)の三 信吾も少し言過ぎたと思つたかして直ぐに、 『だが何か? 服薬はしてるだらうね?』 『ええ。……加藤さんが毎日来て診て下さるのよ。』 『然うか。』と言つて、また態とらしく、『然うか、加藤といふ医師があつたんだな。』 静子はチラリと兄の顔を見た。 『医師が毎日来る様ぢや、余り軽いんでもないんだね?』 『然うぢやないのよ。加藤さんは交際家なんですもの。』 『フム、交際家か!』と短い髯を捻つて、 『其麽風ぢや相応に繁昌つてるんだらう?』 『ええ、宅の方へ廻診に来る時は、大抵自転車よ。でなけや馬に騎つて来るわ。』 |
成瀬君 君に別れてから、もう一月の余になる。早いものだ。この分では、存外容易に、君と僕らとを隔てる五、六年が、すぎ去ってしまうかもしれない。 君が横浜を出帆した日、銅鑼が鳴って、見送りに来た連中が、皆、梯子伝いに、船から波止場へおりると、僕はジョオンズといっしょになった。もっとも、さっき甲板ではちょいと姿を見かけたが、その後、君の船室へもサロンへも顔を出さなかったので、僕はもう帰ったのかと思っていた。ところが、先生、僕をつかまえると、大元気で、ここへ来るといつでも旅がしたくなるとか、己も来年かさ来年はアメリカへ行くとか、いろんなことを言う。僕はいいかげんな返事をしながら、はなはだ、煮切らない態度で、お相手をつとめていた。第一、ばかに暑い。それから、胃がしくしく、痛む。とうてい彼のしゃべる英語を、いちいち理解するほど、神経を緊張する気になれない。 そのうちに、船が動きだした。それも、はなはだ、緩慢な動き方で、船と波止場との間の水が少しずつ幅を広くしていくから、わかるようなものの、さもなければ、ほとんど、動いているとは受取れないくらいである。おまけに、この間の水なるものが、非常にきたない。わらくずやペンキ塗りの木の片が黄緑色に濁った水面を、一面におおっている。どうも、昔、森さんの「桟橋」とかいうもので読んだほど、小説らしくもなんともない。 麦わら帽子をかぶって、茶の背広を着た君は、扇を持って、こっちをながめていた。それも至極通俗なながめ方である。学校から帰りに、神田をいっしょに散歩して、須田町へ来ると、いつも君は三田行の電車へのり、僕は上野行の電車にのった。そうしてどっちか先へのったほうを、あとにのこされたほうが見送るという習慣があった。今日、船の上にいる君が、波止場をながめるのも、その時とたいした変わりはない。(あるいは僕のほうに、変わりがないせいだろうか)僕は、時々君の方を見ながら、ジョオンズとでたらめな会話をやっていた。彼はクロンプトン・マッケンジイがどうとか言ったかと思うと、ロシアの監獄へは、牢やぶりの器械を売りに来るとかなんとか言う。何をしゃべっているのだか、わからない。ただ、君を見送ってから彼が沼津へ写生にゆくということだけは、何度もきき返してやっとわかった。 そのうちに、気がついて見ると、船と波止場との距離が、だいぶん遠くなっている。この時、かなり痛切に、君が日本を離れるのだという気がした。皆が、成瀬君万歳と言う。君は扇を動かして、それに答えた。が、僕は中学時代から一度も、大きな声で万歳と言ったことがない。そこで、その時も、ただ、かぶっていた麦わら帽子をぬいで、それを高くさし上げて、パセティックな心もちに順応させた。万歳の声は、容易にやまない。僕は君に、いつか、「燃焼しない」(君のことばをそのまま、使えば)と言って非難されたことを思い出した。そうして微笑した。僕の前では君の弟が、ステッキの先へハンケチを結びつけて、それを勢いよくふりながら「兄さん万歳」をくり返している。…… 後甲板には、ロシアの役者が大ぜい乗っていた。それが男は、たいてい、うすぎたない日本の浴衣をひっかけている。いつか本郷座へ出た連中であるが、こうして日のかんかん照りつける甲板に、だらしのない浴衣がけで、集っているのを見ると、はなはだ、ふるわない。中には、赤い頭巾をかぶった女役者や半ズボンをはいた子供も、まじっていた。――すると、その連中が、突然声をそろえて、何か歌をうたいだした。やはり浴衣がけの背の高い男が、バトンを持っているような手つきで、拍子をとっているのが見える。ジョオンズは、歌の一節がきれるたびに、うなずいて「グッド」と言った。が何がグッドなのだが、僕にはわからない。 船のほうは、その通り陽気だが、波止場のほうはなかなかそうはいかない。どっちを見ても泣いている人が、大ぜいある。君のおかあさんも、泣いていられた。妹たちも泣いていたらしい。涙は見えなくとも、泣かないばかりの顔は、そこにもここにもある。ことに、フロックコオトに山高帽子をかぶった、年よりの異人が、手をあげて、船の方を招くようなまねをしていたのは、はなはだ小説らしい心もちがした。 「君は泣かないのかい」 僕は、君の弟の肩をたたいて、きいてみた。 「泣くものか。僕は男じゃないか」 さながら、この自明の理を知らない僕をあわれむような調子である。僕はまた、微笑した。 船はだんだん、遠くなった。もう君の顔も見えない。ただ、扇をあげて、時々こっちの万歳に答えるのだけがわかる。 「おい、みんなひなたへ出ようじゃないか。日かげにいると、向こうからこっちが見えない」 久米が、皆をふり返ってこう言った。そこで、皆ひなたへ出た。僕はやはり帽子をあげて立っている。僕のとなりには、ジョオンズが、怪しげなパナマをふっている。その前には、背の高い松岡と背の低い菊池とが、袂を風に翻しながら、並んで立っている。そうして、これも帽子をふっている。時々、久米が、大きな声を出して、「成瀬」と呼ぶ。ジョオンズが、口笛をふく。君の弟が、ステッキをふりまわして「兄さん万歳」を連叫する。――それが、いよいよ、君が全く見えなくなるまで、続いた。 帰りぎわに、ふりむいて見たら、例の年よりの異人は、まだ、ぼんやり船の出て行った方をながめている。すると、僕といっしょにふりむいたジョオンズは、指をぴんと鳴らしながら、その異人の方を顋でしゃくって He is a beggar とかなんとか言った。 「へえ、乞食かね」 「乞食さ。毎日、波止場をうろついているらしい。己はここへよく来るから、知っている」 それから、彼は、日本人のフロックコオトに対する尊敬の愚なるゆえんを、長々と弁じたてた。僕のセンティメンタリズムは、ここでもまたいよいよ「燃焼」せざるべく、新に破壊されたわけである。 そのうちに、久米と松岡とが、日本の文壇の状況を、活字にして、君に報ずるそうだ。僕もまた近々に、何か書くことがあるかもしれない。 |
夢の様な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り、それからそれと朧気に続いて、今になつては、皆、仄かな哀感の霞を隔てゝ麗かな子供芝居でも見る様に懐かしいのであるが、其中で、十五六年後の今日でも猶、鮮やかに私の目に残つてゐる事が二つある。 何方が先で、何方が後だつたのか、明瞭とは思出し難い。が私は六歳で村の小学校に上つて、二年生から三年生に進む大試験に、私の半生に唯一度の落第をした。其落第の時に藤野さんがゐたのだから、一つは慥か二度目の二年生の八歳の年、夏休み中の出来事と憶えてゐる。も一つも、暑い盛りの事であつたから、矢張其頃の事であつたらう。 今では文部省令が厳しくて、学齢前の子供を入学させる様な事は全く無いのであるが、私の幼かつた頃は、片田舎の事でもあり、左程面倒な手続も要らなかつた様である。でも数へ年で僅か六歳の、然も私の様に尫弱い者の入学るのは、余り例のない事であつた。それは詰り、平生私の遊び仲間であつた一歳二歳年長の子供等が、五人も七人も一度に学校に上つて了つて、淋しくて〳〵耐らぬ所から、毎日の様に好人物の父に強請つた為なので、初めの間こそお前はまだ余り小いからと禁めてゐたが、根が悪い事ぢや無し、父も内心には喜んだと見えて、到頭或日学校の高島先生に願つて呉れて、翌日からは私も、二枚折の紙石盤やら硯やら石筆やらを買つて貰つて、諸友と一緒に学校に行く事になつた。されば私の入学は、同じ級の者より一ヶ月も後の事であつた。父は珍らしい学問好で、用のない冬の晩などは、字が見えぬ程煤びきつて、表紙の襤褸になつた孝経やら十八史略の端本やらを持つて、茶話ながらに高島先生に教はりに行く事などもあつたものだ。 其頃父は三十五六、田舎には稀な程晩婚であつた所為でもあらうか、私には兄も姉も、妹もなくて唯一粒種、剛い言葉一つ懸けられずに育つた為めか背丈だけは普通であつたけれども、ひよろ〳〵と痩せ細つてゐて、随分近所の子供等と一緒に、裸足で戸外の遊戯もやるにかゝはらず、怎したものか顔が蒼白く、駆競でも相撲でも私に敗ける者は一人も無かつた。随つて、さうして遊んでゐながらも、時として密り一人で家に帰る事もあつたが、学校に上つてからも其性癖が変らず、楽書をしたり、木柵を潜り抜けたりして先生に叱られる事は人並であつたけれど、兎角卑屈で、寡言で、黒板に書いた字を読めなどと言はれると、直ぐ赤くなつて、俯いて、返事もせず石の如く堅くなつたものだ。自分から進んで学校に入れて貰つたに拘らず、私は遂学科に興味を有てなかつた。加之時には昼休に家へ帰つた儘、人知れず裏の物置に隠れてゐて、午後の課業を休む事さへあつた。病身の母は、何日か私の頭を撫でながら、此児も少し他の子供等と喧嘩でもして呉れる様になれば可いと言つた事がある。私は何とも言はなかつたが、腹の中では、喧嘩すれば俺が敗けるもの、と考へてゐた。 私の家といふのは、村に唯一軒の桶屋であつたが、桶屋だけでは生計が立たぬので、近江屋といふ近郷一の大地主から、少し許り田を借りて小作をしてゐた。随つて、年中変らぬ稗勝の飯に粘気がなく、時偶夜話に来る人でもあれば、母が取あへず米を一掴み程十能で焦つて、茶代りに出すといふ有様であつたから、私なども、年中つぎだらけな布の股引を穿いて、腰までしかない洗晒しの筒袖、同じ服装の子供等と共に裸足で歩く事は慣れたもので、頭髪の延びた時は父が手づから剃つて呉れるのであつた。名は檜沢新太郎といふのだが、村の人は誰でも「桶屋の新太」と呼んだ。 学校では、前にも言つた如く、些とも学科に身を入れなかつたから、一年から二年に昇る時は、三十人許りの級のうち尻から二番で漸と及第した。悪い事には、私の家の両隣の子供、一人は一級上の男で、一人は同じ級の女の児であつたが、何方も其時半紙何帖かを水引で結んだ御褒賞を貰つたので、私は流石に、子供心にも情ない様な気がして、其授与式の日は、学校から帰ると、例の様に戸外に出もせず、日が暮れるまで大きい囲炉裏の隅に蹲つて、浮かぬ顔をして火箸許り弄つてゐたので、父は夕飯が済んでから、黒い羊※(羔/((美-大)/人))を二本買つて来て呉れて、お前は一番稚いのだからと言つて慰めて呉れた。 それも翌日になれば、もう忘れて了つて、私は相変らず時々午後の課業を休み〳〵してゐたが、七歳の年が暮れての正月、第三学期の始めになつて、学校には少し珍らしい事が起つた。それは、佐藤藤野といふ、村では儔べる者の無い程美しい女の児が、突然一年生に入つて来た事なので。 百何人の生徒は皆目を聳てた。実際藤野さんは、今想うても余り類のない程美しい児だつたので、前髪を眉の辺まで下げた顔が円く、黒味勝の眼がパツチリと明るくて、色は飽迄白く、笑ふ毎に笑窪が出来た。男生徒は言はずもの事、女生徒といつても、赤い布片か何かで無雑作に髪を束ねた頭を、垢染みた浅黄の手拭に包んで、雪でも降る日には、不格好な雪沓を穿いて、半分に截つた赤毛布を頭からスツポリ被つて来る者の多い中に、大きく菊の花を染めた、派手な唐縮緬の衣服を着た藤野さんの姿の交つたのは、村端の泥田に蓮華の花の咲いたよりも猶鮮やかに、私共の眼に映つたのであつた。 藤野さんは、其以前、村から十里とも隔たらぬ盛岡の市の学校にゐたといふ事で、近江屋の分家の、呉服屋をしてゐる新家といふ家に、阿母さんといふ人と二人で来てゐた。 私共の耳にまで入つた村の噂では、藤野さんの阿母さんといふ人は、二三年も前から眼病を患つてゐた新家の御新造の妹なさうで、盛岡でも可也な金物屋だつたのが、怎した破目かで破産して、夫といふ人が首を縊つて死んで了つた為め、新家の家の家政を手伝ひ旁々、亡夫の忘れ形見の藤野さんを伴れて、世話になりに来たのだといふ事であつた。其阿母さんも亦、小柄な、色の白く美しい、姉なる新家の御新造にも似ず、いたつて快活な愛想の好い人であつた。 村の学校は、其頃まだ見窄らしい尋常科の単級で、外に補習科の生徒が六七人、先生も高島先生一人限りだつたので、教場も唯一つ。級は違つてゐても、鈴の様な好い声で藤野さんが読本を読む時は、百何人が皆石筆や筆を休ませて、其方許り見たものだ。殊に私は、習字と算術の時間が厭で〳〵耐らぬ所から、よく呆然して藤野さんの方を見てゐたもので、其度先生は竹の鞭で私の頭を軽く叩いたものである。 藤野さんは、何学科でも成績が可かつた。何日であつたか、二年生の女生徒共が、何か授業中に悪戯をしたといつて、先生は藤野さんを例に引いて誡められた事もあつた様だ。上級の生徒は、少しそれに不服であつた。然し私は何も怪まなかつた。何故なれば、藤野さんは其頃、学校中で、村中で、否、当時の私にとつての全世界で、一番美しい、善い人であつたのだから。 其年の三月三十日は、例年の如く証書授与式、近江屋の旦那様を初め、村長様もお医者様も、其他村の人達が五六人学校に来られた。私も、秘蔵の袖の長い衣服を着せられ、半幅の白木綿を兵児帯にして、皆と一緒に行つたが、黒い洋服を着た高島先生は、常よりも一層立派に見えた。教場も立派に飾られてゐて、正面には日の丸の旗が交叉してあつた。其前の、白い覆布をかけた卓には、松の枝と竹を立てた、大きい花瓶が載せてあつた様に憶えてゐる。勅語の捧読やら「君が代」の合唱やらが済んで、十何人かの卒業生が、交る〳〵呼出されて、皆嬉し相にして卒業証書を貰つて来る。其中の優等生は又、村長様の前に呼ばれて御褒賞を貰つた。軈て、三年二年一年といふ順で、新たに進級した者の名が読上げられたが、怎したものか私の名は其中に無かつた。「新太ア落第だ、落第だ。」と言つて周囲の子供等は皆私の顔を見た。私は其時甚麽気持がしたつたか、今になつては思出せない。 式が済んでから、近江屋様から下さるといふ紅白の餅だけは私も貰つた。皆は打伴れて勇まし相に家に帰つて行つたが、私共落第した者六七人だけは、用があるからと言つて先生に残された。其中には村端の掘立小屋の娘もあつて、潸々泣いてゐたが、私は、若しや先生は私にだけ証書を後で呉れるのではないかといふ様な、理由もない事を心待ちに待つてゐた様であつた。 軈て一人々々教員室に呼ばれて、それ〴〵に誡められたり励まされたりしたが、私は一番後廻しになつた。そして、「お前はまだ年もいかないし、体も弱いから、もう一年二年生で勉強して見ろ。」と言はれて、私は聞えぬ位に「ハイ」と答へて叩頭をすると、先生は私の頭を撫でて、「お前は余り穏し過ぎる。」と言つた、そして卓子の上のお盆から、麦煎餅を三枚取つて下すつたが、私は其時程先生のお慈悲を有難いと思つた事はなかつた。其室には、村長様を初め二三人の老人達がまだ残つてゐた。 私は紙に包んだ紅白の餅と麦煎餅を、両手で胸に抱いて、悄々と其処を出て来たが、昇降口まで来ると、唯もう無暗に悲しくなつて、泣きたくなつて了つた。喉まで出懸けた声は辛うじて噛殺したが、先生の有難さ、友達に冷笑れる羞かしさ、家へ帰つて何と言つたものだらうといふ様な事を、子供心に考へると、小さい胸は一図に迫つて、涙が留度もなく溢れる。すると、怎して残つてゐたものか、二三人の女生徒が小使室の方から出て来た様子がしたので、私は何とも言へぬ羞かしさに急に動悸がして来て、ぴたりと柱に凭懸つた儘、顔を見せまいと俯いた。 すた〳〵と軽い草履の音が後ろに近づいたと思ふと、『何したの、新太郎さん?』と言つた声は、藤野さんであつた。それまで一度も言葉を交した事のない人から、恁う言はれたので、私は思はず顔を上げると、藤野さんは、晴乎とした眼に柔かな光を湛へて、凝と私を瞶めてゐた。私は直ぐ又俯いて、下唇を噛締めたが、それでも歔欷が洩れる。 藤野さんは暫く黙つてゐたが、『泣かないんだ、新太郎さん。私だつて今度は、一番下で漸と及第したもの。』と、弟にでも言ふ様に言つて、『明日好い物持つてつて上げるから、泣かないんだ。皆が笑ふから。』と私の顔を覗き込む様にしたが、私は片頬を柱に擦りつけて、覗かれまいとしたので、又すた〳〵と行つて了つた。藤野さんは何学科も成績が可かつたのだけれど、三学期になつてから入つたので、一番尻で二年生に進級したのであつた。 其日の夕暮、父は店先でトン〳〵と桶の箍を篏れてゐたし、母は水汲に出て行つた後で私は悄然と囲炉裏の隅に蹲つて、もう人顔も見えぬ程薄暗くなつた中に、焚火の中へ竹屑を投げ入れては、チロ〳〵と舌を出す様に燃えて了ふのを余念もなく眺めてゐたが、裏口から細い声で、『新太郎さん、新太郎さん。』と、呼ぶ人がある、私はハツと思ふと、突然土間へ飛び下りて、草履も穿かずに裏口へ駈けて行つた。 藤野さんは唯一人、戸の蔭に身を擦り寄せて立つてゐたが、私を見ると莞爾笑つて、『まあ、裸足で。』と、心持眉を顰めた。そして急がしく袂の中から、何か紙に包んだ物を出して私の手に渡した。 『これ上げるから、一生懸命勉強するツこ。私もするから。』と言ふなり、私は一言も言はずに茫然立つてゐたので、すた〳〵と夕暗の中を走つて行つたが、五六間行くと後ろを振返つて、手を顔の前で左右に動かした。誰にも言ふなといふ事だと気が附いたので、私は頷いて見せると、其儘またすた〳〵と梨の樹の下を。 紙包の中には、洋紙の帳面が一冊に半分程になつた古鉛筆、淡紅色メリンスの布片に捲いたのは、鉛で拵へた玩具の懐中時計であつた。 其夜私は、薄暗い手ランプの影で、鉛筆の心を舐めながら、贈物の帳面に、読本を第一課から四五枚許り、丁寧に謄写した。私が初めて文字を学ぶ喜びを知つたのは、実に其時であつた。 人の心といふものは奇妙なものである。二度目の二年生の授業が始まると、私は何といふ事もなく学校に行くのが愉くなつて、今迄は飽きて〳〵仕方のなかつた五十分宛の授業が、他愛もなく過ぎて了ふ様になつた。竹の鞭で頭を叩かれる事もなくなつた。 広い教場の、南と北の壁に黒板が二枚宛、高島先生は急がしさうに其四枚の黒板を廻つて歩いて教へるのであつたが、二年生は、北の壁の西寄りの黒板に向つて、粗末な机と腰掛を二列に並べてゐた。前の方の机に一団になつてゐる女生徒には、無論藤野さんがゐた。 新学年が始まつて三日目かに、私は初めて先生に賞められた。黙つて聞いてさへ居れば、先生の教へる事は屹度解る。記憶力の強い子供の頭は、一度理解したことは仲々忘れるものでない。知つた者は手を挙げろと言はれて、私は手を挙げぬ事は殆んど無かつた。 何の学科として嫌ひなものはなかつたが、殊に私は習字の時間が好であつた。先生は大抵私に水注の役を吩咐けられる。私は、葉鉄で拵へた水差を持つて、机から机と廻つて歩く。机の両端には一つ〳〵硯が出てゐるのであつたが、大抵は虎斑か黒の石なのに、藤野さんだけは、何石なのか紫色であつた。そして、私が水を注いでやつた時、些と叩頭をするのは藤野さん一人であつた。 気の揉めるのは算術の時間であつた。私も藤野さんも其年八歳であつたのに、豊吉といふ児が同じ級にあつて、それが私等よりも二歳か年長であつた。体も大きく、頭脳も発達してゐて、私が知つてゐる事は大抵藤野さんも知つてゐたが、又、二人が手を挙げる時は大抵豊吉も手を挙げた。何しろ子供の時の二歳違ひは、頭脳の活動の精不精に大した懸隔があるもので、それの最も顕著に現はれるのは算術である。豊吉は算術が得意であつた。 問題を出して置いて、先生は別の黒板の方へ廻つて行かれる。そして又帰つて来て、『出来た人は手を挙げて。』と竹の鞭を高く挙げられる。それが、少し難かしい問題であると、藤野さんは手を挙げながら、若くは手を挙げずに、屹度後ろを向いて私の方を見る。私は、其眼に満干する微かな波をも見遁す事はなかつた。二人共手を挙げた時、殊に豊吉の出来なかつた時は、藤野さんの眼は喜びに輝いた。豊吉も藤野さんも出来なくて、私だけ手を挙げた時は、邪気ない羨望の波が寄つた。若しかして、豊吉も藤野さんも手を挙げて、私だけ出来ない事があると、気の毒相な眼眸をする。そして、二人共出来ずに、豊吉だけ誇りかに手を挙げた時は、美しい藤野さんの顔が瞬く間暗い翳に掩はれるのであつた。 藤野さんの本を読む声は、隣席の人にすら聞えぬ程に読む他の女生徒と違つて、凛として爽やかであつた。そして其読方には、村の児等にはない、一種の抑揚があつた。私は、一月二月と経つうちに、何日ともなく、自分でも心附かずに其抑揚を真似る様になつた。友達はそれと気が附いて笑つた。笑はれて、私は改めようとするけれども、いざとなつて声立てゝ読む時は、屹度其の抑揚が出る。或時、小使室の前の井戸端で、六七人も集つて色々な事を言ひ合つてゐた時に、豊吉は不図其事を言ひ出して、散々に笑つた末、『新太と藤野さんと夫婦になつたら可がんべえな。』と言つた。 藤野さんは五六歩離れた所に立つてゐたつたが、此時、『成るとも。成るとも。』と言つて皆を驚かした。私は顔を真赤にして矢庭に駈出して了つた。 いくら子供でも、男と女は矢張男と女、学校で一緒に遊ぶ事などは殆んど無かつたが、夕方になると、家々の軒や破風に夕餉の煙の靉く街道に出て、よく私共は宝奪ひや鬼ごツこをやつた。時とすると、それが男組と女組と一緒になる事があつて、其麽時は誰しも周囲が暗くなつて了ふまで夢中になつて遊ぶのであるが、藤野さんが鬼になると、屹度私を目懸けて追つて来る。私はそれが嬉しかつた。奈何に尫弱い体質でも、私は流石に男の児、藤野さんはキツと口を結んで敏く追つて来るけれど、容易に捉らない。終ひには息を切らして喘々するのであるが、私は態と捉まつてやつて可いのであるけれど、其処は子供心で、飽迄も〳〵身を翻して意地悪く遁げ廻る。それなのに、藤野さんは鬼ごツこの度、矢張私許り目懸けるのであつた。 新家の家には、藤野さんと従兄弟同志の男の児が三人あつた。上の二人は四年と三年、末児はまだ学校に上らなかつたが、何れも余り成績が可くなく、同年輩の近江屋の児等と極く仲が悪かつたが、私の朧気に憶えてゐる所では、藤野さんもよく二人の上の児に苛責られてゐた様であつた。何日か何処かで叩かれてゐるのを見た事もある様だが、それは明瞭しない。唯一度私が小さい桶を担いで、新家の裏の井戸に水汲に行くと、恰度其処の裏門の柱に藤野さんが倚懸つてゐて、一人潸々泣いてゐた。怎したのだと私は言葉をかけたが、返事はしないで長い袂の端を前歯で噛んでゐた。さうなると、私は性質としてもう何も言へなくなるので、自分まで妙に涙ぐまれる様な気がして来て、黙つて大柄杓で水を汲んだが、桶を担いで歩き出すと、『新太郎さん。』と呼止められた。 『何す?』 『好い物見せるから。』 『何だす?』 『これ。』と言つて、袂の中から丁寧に、美しい花簪を出して見せた。 『綺麗だなす。』 『……………。』 『買つたのすか?』 藤野さんは頭を振る。 『貰つたのすか?』 『阿母さんから。』と低く言つて、二度許り歔欷あげた。 『富太郎さん(新家の長男)に苛責られたのすか?』 『二人に。』 私は何とか言つて慰めたかつたが、何とも言ひ様がなくて、黙つて顔を瞶めてゐると、『これ上げようかな?』と言つて、花簪を弄つたが、『お前は男だから。』と後に隠す振をするなり、涙に濡れた顔に美しく笑つて、バタ〳〵と門の中へ駈けて行つて了つた。私は稚い心で、藤野さんが二人の従兄弟に苛責られて泣いたので、阿母さんが簪を呉れて賺したのであらうと想像して、何といふ事もなく富太郎のノツペリした面相が憎らしく、妙な心地で家に帰つた事があつた。 何日しか四箇月が過ぎて、七月の末は一学期末の試験。一番は豊吉、二番は私、藤野さんが三番といふ成績を知らせられて、夏休みが来た。藤野さんは、豊吉に敗けたのが口惜しいと言つて泣いたと、富太郎が言囃して歩いた事を憶えてゐる。 休暇となれば、友達は皆、本や石盤の置所も忘れて、毎日々々山蔭の用水池に水泳に行くものであつた。私も一寸々々一緒に行かぬではなかつたが、怎してか大抵一人先に帰つて来るので、父の仕事場にしてある店先の板間に、竹屑やら鉋屑の中に腹匍になつては、汗を流しながら読本を復習たり、手習をしたりしたものだ。そして又、目的もなく軒下の日陰に立つて、時々藤野さんの姿の見えるのを待つてゐたものだ。 |
一 レエン・コオト 僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた。上り列車に間に合ふかどうかは可也怪しいのに違ひなかつた。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せてゐた。彼は棗のやうにまるまると肥つた、短い顋髯の持ち主だつた。僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。 「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るつて云ふんですが。」 「昼間でもね。」 僕は冬の西日の当つた向うの松山を眺めながら、善い加減に調子を合せてゐた。 「尤も天気の善い日には出ないさうです。一番多いのは雨のふる日だつて云ふんですが。」 「雨のふる日に濡れに来るんぢやないか?」 「御常談で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だつて云ふんです。」 自動車はラツパを鳴らしながら、或停車場へ横着けになつた。僕は或理髪店の主人に別れ、停車場の中へはひつて行つた。すると果して上り列車は二三分前に出たばかりだつた。待合室のベンチにはレエン・コオトを着た男が一人ぼんやり外を眺めてゐた。僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思ひ出した。が、ちよつと苦笑したぎり、兎に角次の列車を待つ為に停車場前のカツフエへはひることにした。 それはカツフエと云ふ名を与へるのも考へものに近いカツフエだつた。僕は隅のテエブルに坐り、ココアを一杯註文した。テエブルにかけたオイル・クロオスは白地に細い青の線を荒い格子に引いたものだつた。しかしもう隅々には薄汚いカンヴアスを露してゐた。僕は膠臭いココアを飲みながら、人げのないカツフエの中を見まはした。埃じみたカツフエの壁には「親子丼」だの「カツレツ」だのと云ふ紙札が何枚も貼つてあつた。 「地玉子、オムレツ」 僕はかう云ふ紙札に東海道線に近い田舎を感じた。それは麦畠やキヤベツ畠の間に電気機関車の通る田舎だつた。…… 次の上り列車に乗つたのはもう日暮に近い頃だつた。僕はいつも二等に乗つてゐた。が、何かの都合上、その時は三等に乗ることにした。 汽車の中は可也こみ合つてゐた。しかも僕の前後にゐるのは大磯かどこかへ遠足に行つたらしい小学校の女生徒ばかりだつた。僕は巻煙草に火をつけながら、かう云ふ女生徒の群れを眺めてゐた。彼等はいづれも快活だつた。のみならず殆どしやべり続けだつた。 「写真屋さん、ラヴ・シインつて何?」 やはり遠足について来たらしい、僕の前にゐた「写真屋さん」は何とかお茶を濁してゐた。しかし十四五の女生徒の一人はまだいろいろのことを問ひかけてゐた。僕はふと彼女の鼻に蓄膿症のあることを感じ、何か頬笑まずにはゐられなかつた。それから又僕の隣りにゐた十二三の女生徒の一人は若い女教師の膝の上に坐り、片手に彼女の頸を抱きながら、片手に彼女の頬をさすつてゐた。しかも誰かと話す合ひ間に時々かう女教師に話しかけてゐた。 「可愛いわね、先生は。可愛い目をしていらつしやるわね。」 彼等は僕には女生徒よりも一人前の女と云ふ感じを与へた。林檎を皮ごと噛じつてゐたり、キヤラメルの紙を剥いてゐることを除けば。……しかし年かさらしい女生徒の一人は僕の側を通る時に誰かの足を踏んだと見え、「御免なさいまし」と声をかけた。彼女だけは彼等よりもませてゐるだけに反つて僕には女生徒らしかつた。僕は巻煙草を啣へたまま、この矛盾を感じた僕自身を冷笑しない訣には行かなかつた。 いつか電燈をともした汽車はやつと或郊外の停車場へ着いた。僕は風の寒いプラツトフオオムへ下り、一度橋を渡つた上、省線電車の来るのを待つことにした。すると偶然顔を合せたのは或会社にゐるT君だつた。僕等は電車を待つてゐる間に不景気のことなどを話し合つた。T君は勿論僕などよりもかう云ふ問題に通じてゐた。が、逞しい彼の指には余り不景気には縁のない土耳古石の指環も嵌まつてゐた。 「大したものを嵌めてゐるね」 「これか? これはハルピンへ商売に行つてゐた友だちの指環を買はされたんだよ。そいつも今は往生してゐる。コオペラテイヴと取引きが出来なくなつたものだから。」 僕等の乗つた省線電車は幸ひにも汽車ほどこんでゐなかつた。僕等は並んで腰をおろし、いろいろのことを話してゐた。T君はついこの春に巴里にある勤め先から東京へ帰つたばかりだつた。従つて僕等の間には巴里の話も出勝ちだつた。カイヨオ夫人の話、蟹料理の話、御外遊中の或殿下の話、…… 「仏蘭西は存外困つてはゐないよ。唯元来仏蘭西人と云ふやつは税を出したがらない国民だから、内閣はいつも倒れるがね。……」 「だつてフランは暴落するしさ。」 「それは新聞を読んでゐればね。しかし向うにゐて見給へ。新聞紙上の日本なるものはのべつに大地震や大洪水があるから。」 するとレエン・コオトを着た男が一人僕等の向うへ来て腰をおろした。僕はちよつと無気味になり、何か前に聞いた幽霊の話をT君に話したい心もちを感じた。が、T君はその前に杖の柄をくるりと左へ向け、顔は前を向いたまま、小声に僕に話しかけた。 「あすこに女が一人ゐるだらう? 鼠色の毛糸のシヨオルをした、……」 「あの西洋髪に結つた女か?」 「うん、風呂敷包みを抱へてゐる女さ。あいつはこの夏は軽井沢にゐたよ。ちよつと洒落れた洋装などをしてね。」 しかし彼女は誰の目にも見すぼらしいなりをしてゐるのに違ひなかつた。僕はT君と話しながら、そつと彼女を眺めてゐた。彼女はどこか眉の間に気違ひらしい感じのする顔をしてゐた。しかもその又風呂敷包みの中から豹に似た海綿をはみ出させてゐた。 「軽井沢にゐた時には若い亜米利加人と踊つたりしてゐたつけ。モダアン……何と云ふやつかね。」 レエン・コオトを着た男は僕のT君と別れる時にはいつかそこにゐなくなつてゐた。僕は省線電車の或停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、或ホテルへ歩いて行つた。往来の両側に立つてゐるのは大抵大きいビルデイングだつた。僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)の為に度々僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親まない二十前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかつた。しかし右の目の瞼の裏には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。 ホテルの玄関へはひつた時には歯車ももう消え失せてゐた。が、頭痛はまだ残つてゐた。僕は外套や帽子を預ける次手に部屋を一つとつて貰ふことにした。それから或雑誌社へ電話をかけて金のことを相談した。 結婚披露式の晩餐はとうに始まつてゐたらしかつた。僕はテエブルの隅に坐り、ナイフやフオオクを動かし出した。正面の新郎や新婦をはじめ、白い凹字形のテエブルに就いた五十人あまりの人びとは勿論いづれも陽気だつた。が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂欝になるばかりだつた。僕はこの心もちを遁れる為に隣にゐた客に話しかけた。彼は丁度獅子のやうに白い頬髯を伸ばした老人だつた。のみならず僕も名を知つてゐた或名高い漢学者だつた。従つて又僕等の話はいつか古典の上へ落ちて行つた。 「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフエニツクスと云ふ鳥の、……」 この名高い漢学者はかう云ふ僕の話にも興味を感じてゐるらしかつた。僕は機械的にしやべつてゐるうちにだんだん病的な破壊慾を感じ、堯舜を架空の人物にしたのは勿論、「春秋」の著者もずつと後の漢代の人だつたことを話し出した。するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るやうに僕の話を截り離した。 「もし堯舜もゐなかつたとすれば、孔子は譃をつかれたことになる。聖人の譃をつかれる筈はない。」 僕は勿論黙つてしまつた。それから又皿の上の肉へナイフやフオオクを加へようとした。すると小さい蛆が一匹静かに肉の縁に蠢いてゐた。蛆は僕の頭の中に Worm と云ふ英語を呼び起した。それは又麒麟や鳳凰のやうに或伝説的動物を意味してゐる言葉にも違ひなかつた。僕はナイフやフオオクを置き、いつか僕の杯にシヤンパアニユのつがれるのを眺めてゐた。 やつと晩餐のすんだ後、僕は前にとつて置いた僕の部屋へこもる為に人気のない廊下を歩いて行つた。廊下は僕にはホテルよりも監獄らしい感じを与へるものだつた。しかし幸ひにも頭痛だけはいつの間にか薄らいでゐた。 僕の部屋には鞄は勿論、帽子や外套も持つて来てあつた。僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣裳戸棚の中へ抛りこんだ。それから鏡台の前へ行き、ぢつと鏡に僕の顔を映した。鏡に映つた僕の顔は皮膚の下の骨組みを露はしてゐた。蛆はかう云ふ僕の記憶に忽ちはつきり浮かび出した。 僕は戸をあけて廊下へ出、どこと云ふことなしに歩いて行つた。するとロツビイへ出る隅に緑いろの笠をかけた、背の高いスタンドの電燈が一つ硝子戸に鮮かに映つてゐた。それは何か僕の心に平和な感じを与へるものだつた。僕はその前の椅子に坐り、いろいろのことを考へてゐた。が、そこにも五分とは坐つてゐる訣に行かなかつた。レエン・コオトは今度も亦僕の横にあつた長椅子の背中に如何にもだらりと脱ぎかけてあつた。 「しかも今は寒中だと云ふのに。」 僕はこんなことを考へながら、もう一度廊下を引き返して行つた。廊下の隅の給仕だまりには一人も給仕は見えなかつた。しかし彼等の話し声はちよつと僕の耳をかすめて行つた。それは何とか言はれたのに答へた All right と云ふ英語だつた。「オオル・ライト」?――僕はいつかこの対話の意味を正確に掴まうとあせつてゐた。「オオル・ライト」?「オオル・ライト」? 何が一体オオル・ライトなのであらう? 僕の部屋は勿論ひつそりしてゐた。が、戸をあけてはひることは妙に僕には無気味だつた。僕はちよつとためらつた後、思ひ切つて部屋の中へはひつて行つた。それから鏡を見ないやうにし、机の前の椅子に腰をおろした。椅子は蜥蜴の皮に近い、青いマロツク皮の安楽椅子だつた。僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、或短篇を続けようとした。けれどもインクをつけたペンはいつまでたつても動かなかつた。のみならずやつと動いたと思ふと、同じ言葉ばかり書きつづけてゐた。All right……All right…… All right, sir……All right…… そこへ突然鳴り出したのはベツドの側にある電話だつた。僕は驚いて立ち上り、受話器を耳へやつて返事をした。 「どなた?」 「あたしです。あたし……」 相手は僕の姉の娘だつた。 「何だい? どうかしたのかい?」 |
一 砂山を細く開いた、両方の裾が向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の踞ったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、路の傍に、崖に添うて、一軒漁師の小家がある。 崖はそもそも波というものの世を打ちはじめた昔から、がッきと鉄の楯を支いて、幾億尋とも限り知られぬ、潮の陣を防ぎ止めて、崩れかかる雪のごとく鎬を削る頼母しさ。砂山に生え交る、茅、芒はやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千代万代の末かけて、巌は松の緑にして、霜にも色は変えないのである。 さればこそ、松五郎。我が勇しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児を残して、日ごとに、件の門の前なる細路へ、衝とその後姿、相対える猛獣の間に突立つよと見れば、直ちに海原に潜るよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕ぎ分けて、飛ぶ鴎よりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。 留守はただ磯吹く風に藻屑の匂いの、襷かけたる腕に染むが、浜百合の薫より、空燻より、女房には一際床しく、小児を抱いたり、頬摺したり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾物をあぶりもして、寂しく今日を送る習い。 浪の音には馴れた身も、鶏の音に驚きて、児と添臥の夢を破り、門引きあけて隈なき月に虫の音の集くにつけ、夫恋しき夜半の頃、寝衣に露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥生の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪の声にのみ耳を澄ませば、生憎待たぬ時鳥。鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。 母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計。 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖に、北は寒く、一条路にも蔭日向で、房州も西向の、館山北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川、古川、白子、忽戸など、就中、船幽霊の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一重の遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる荒磯海。 この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石垣とも、岸を頼んだ若木の家造り、近ごろ別家をしたばかりで、葺いた茅さえ浅みどり、新藁かけた島田が似合おう、女房は子持ちながら、年紀はまだ二十二三。 去年ちょうど今時分、秋のはじめが初産で、お浜といえば砂さえ、敷妙の一粒種。日あたりの納戸に据えた枕蚊帳の蒼き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入っているが、可愛らしさは四辺にこぼれた、畳も、縁も、手遊、玩弄物。 犬張子が横に寝て、起上り小法師のころりと坐った、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳の衣紋も繕わず、姉さんかぶりを軽くして、襷がけの二の腕あたり、日ざしに惜気なけれども、都育ちの白やかに、紅絹の切をぴたぴたと、指を反らした手の捌き、波の音のしらべに連れて、琴の糸を辿るよう、世帯染みたがなお優しい。 秋日和の三時ごろ、人の影より、黍の影、一つ赤蜻蛉の飛ぶ向うの畝を、威勢の可い声。 「号外、号外。」 二 「三ちゃん、何の号外だね、」 と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁場の馴染の奴、張ものにうつむいたまま、徒然らしい声を懸ける。 片手を懐中へ突込んで、どう、してこました買喰やら、一番蛇を呑んだ袋を懐中。微塵棒を縦にして、前歯でへし折って噛りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻。少兀の紺の筒袖、どこの媽々衆に貰ったやら、浅黄の扱帯の裂けたのを、縄に捩った一重まわし、小生意気に尻下り。 これが親仁は念仏爺で、網の破れを繕ううちも、数珠を放さず手にかけながら、葎の中の小窓の穴から、隣の柿の木、裏の屋根、烏をじろりと横目に覗くと、いつも前はだけの胡坐の膝へ、台尻重く引つけ置く、三代相伝の火縄銃、のッそりと取上げて、フッと吹くと、ぱッと立つ、障子のほこりが目に入って、涙は出ても、狙は違えず、真黒な羽をばさりと落して、奴、おさえろ、と見向もせず、また南無阿弥陀で手内職。 晩のお菜に、煮たわ、喰ったわ、その数三万三千三百さるほどに爺の因果が孫に報って、渾名を小烏の三之助、数え年十三の大柄な童でござる。 掻垂れ眉を上と下、大きな口で莞爾した。 「姉様、己の号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。」 「それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。」と紅絹切の小耳を細かく、ちょいちょいちょいと伸していう。 「ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。」 「だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。」 「何をよ、そんな事ッて。なあ、姉様、」 「甘いものを食べてさ、がりがり噛って、乱暴じゃないかねえ。」 「うむ、これかい。」 と目を上ざまに細うして、下唇をぺろりと嘗めた。肩も脛も懐も、がさがさと袋を揺って、 「こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、己が嫁さんに遣ろうと思って、姥が店で買って来たんで、旨そうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。」 とくるりと、はり板に並んで向をかえ、縁側に手を支いて、納戸の方を覗きながら、 「やあ、寝てやがら、姉様、己が嫁さんは寝ねかな。」 「ああ、今しがた昼寝をしたの。」 「人情がないぜ、なあ、己が旨いものを持って来るのに。 ええ、おい、起きねえか、お浜ッ児。へ、」 とのめずるように頸を窘め、腰を引いて、 「何にもいわねえや、蠅ばかり、ぶんぶんいってまわってら。」 「ほんとに酷い蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、可哀そうなように集るんだよ。それにこうやって糊があるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの許なんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも幾干か少なかろうねえ。」 「やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ打捕えて、岡田螺とか何とかいって、お汁の実にしたいようだ。」 とけろりとして真顔にいう。 三 こんな年していうことの、世帯じみたも暮向き、塩焼く煙も一列に、おなじ霞の藁屋同士と、女房は打微笑み、 「どうも、三ちゃん、感心に所帯じみたことをおいいだねえ。」 奴は心づいて笑い出し、 「ははは、所帯じみねえでよ、姉さん。こんのお浜ッ子が出来てから、己なりたけ小遣はつかわねえ。吉や、七と、一銭こを遣ってもな、大事に気をつけてら。玩弄物だのな、飴だのな、いろんなものを買って来るんだ。」 女房は何となく、手拭の中に伏目になって、声の調子も沈みながら、 |
Ⅰ 虚偽告発と云ふ罪目が僕に死刑を言渡した。様姿を隠匿した蒸気の中に身を構へて僕はアスファルト釜を睥睨した。 ―直に関する典古一則― 其父攘羊 其子直之 僕は知ることを知りつつあつた故に知り得なかつた僕への執行の最中に僕は更に新いものを知らなければならなかつた。 僕は雪白に曝露された骨片を掻き拾ひ始めた。 「肌肉は以後からでも着くことであらう」 剥落された膏血に対して僕は断念しなければならなかつた。 Ⅱ 或る警察探偵の秘密訊問室に於ける 嫌疑者として挙げられた男子は地図の印刷された糞尿を排泄して更にそれを嚥下したことに就いて警察探偵は知る所の一つを有たない。発覚されることはない級数性消化作用 人々はこれをこそ正に妖術と呼ぶであらう。 「お前は鉱夫に違ひない」 因に男子の筋肉の断面は黒曜石の様に光つてゐたと云ふ。 Ⅲ 号外 磁石収縮し始む 原因頗る不明なれども対内経済破綻に依る脱獄事件に関聯する所多々有りと見ゆ。斯道の要人鳩首秘かに研究調査中なり。 開放された試験管の鍵は僕の掌皮に全等形の運河を掘鑿してゐる。軈て濾過された膏血の様な河水が汪洋として流れ込んで来た。 Ⅳ 落葉が窓戸を滲透して僕の正装の貝釦を掩護する。 暗殺 地形明細作業の未だに完了していないこの窮僻の地に不可思議な郵逓交通が既に施行されてゐる。僕は不安を絶望した。 日暦の反逆的に僕は方向を失つた。僕の眼睛は冷却された液体を幾切にも断ち剪つて落葉の奔忙を懸命に幇助していなければならなかつた。 |
麦搗も荒ましになったし、一番草も今日でお終いだから、おとッつぁん、熱いのに御苦労だけっと、鎌を二三丁買ってきてくるっだいな、此熱い盛りに山の夏刈もやりたいし、畔草も刈っねばなんねい……山刈りを一丁に草刈りを二丁許り、何処の鍛冶屋でもえいからって。 おやじがこういうもんだから、一と朝起きぬきに松尾へ往った、松尾の兼鍛冶が頼みつけで、懇意だから、出来合があったら取ってくる積りで、日が高くなると熱くてたまんねから、朝飯前に帰ってくる積りで出掛けた、おらア元から朝起きが好きだ、夏でも冬でも天気のえい時、朝っぱらの心持ったらそらアえいもんだからなア、年をとってからは冬の朝は寒くて億劫になったけど、其外ん時には朝早く起きるのが、未だにおれは楽しみさ。 それで其朝は何んだか知らねいが、別けて心持のえい朝であった、土用半ばに秋風が立って、もう三回目で土用も明けると云う頃だから、空は鏡のように澄んでる、田のものにも畑のものにも夜露がどっぶりと降りてる、其涼しい気持ったら話になんなっかった。 腰まで裾を端しょってな、素っ膚足に朝露のかかるのはえいもんさ、日中焼けるように熱いのも随分つれいがな、其熱い時でなけりゃ又朝っぱらのえい気持ということもねい訳だから、世間のことは何でもみんな心の持ちよう一つのもんだ。 それから家の門を出る時にゃ、まだ薄暗かったが、夏は夜明けの明るくなるのが早いから、村のはずれへ出たらもう畑一枚先の人顔が分るようになった、いつでも話すこったが、そん時おれが、つくづく感心したのは、そら今ではあんなに仕合せをしてる、佐兵エどんの家内よ、あの人がたしか十四五の頃だな、おれは只遠い村々の眺めや空合の景色に気をとられて、人の居るにも心づかず来ると、道端に草を刈ってた若い女が、手に持った鎌を措いて、 「お早ようございます」 と挨拶したのを見るとあの人さ、そんころ善吉はまるっきり小作つくりであったから、あの女も若い時から苦労が多かった。 村の内でも起きて居た家は半分しか無かった、そんなに早いのに、十四五の小娘が朝草刈りをしているのだもの、おれはもう胸が一ぱいになった位だ。 「おう誰かと思ったら、おちかどんかい、お前朝草刈をするのかい、感心なこったねい」 おれがこう云って立ち止まると、 「馴れないからよく刈れましね、荒場のおじいさんもたいそうお早くどこへいきますかい」 そう云って莞爾笑うのさ、器量がえいというではないけど、色が白くて顔がふっくりしてるのが朝明りにほんのりしてると、ほんとに可愛い娘であった。 お前とこのとッつぁんも、何か少し加減が悪いような話だがもうえいのかいて、聞くと、おやじが永らくぶらぶらしてますから困っていますと云う、それだからこうして朝草も刈るのかと思ったら、おれは可哀そうでならなかった、それでおれは今鎌を買いに松尾へ往くのだが、日中は熱いからと思ってこんなに早く出掛けてきたのさ、それではお前の分にも一丁買ってきてやるから、折角丹誠してくれやて、云ったら何んでも眼をうるましたようだった、其時のあの女の顔をおれは未だに覚えてる、其の後、家のおやじに話して小作米の残り三俵をまけてやった、心懸けがよかったからあの女も今はあんなに仕合せをしてる。 これでは話が横道へ這入った、それからおれが松尾へ往きついてもまだ日が出なかった、松尾は県道筋について町めいてる処へ樹木に富んだ岡を背負ってるから、屋敷構から人の気心も純粋の百姓村とは少し違ってる、涼しそうな背戸山では頻りに蜩が鳴いてる、おれは又あの蜩の鳴くのが好きさ、どこの家でも前の往来を綺麗に掃いて、掃木目の新しい庭へ縁台を出し、隣同志話しながら煙草など吹かしてる、おいらのような百姓と変らない手足をしている男等までが、詞つかいなんかが、どことなし品がえい、おれはそれを真似ようとは思わないけど、横芝や松尾やあんな町がかった所へいくと、住居の様子や男女の風俗などに気をつけて見るのが好きだ。 兼鍛冶のとこへ往ったら、此節は忙しいものと見えて、兼公はもう鞴場に這入って、こうこうと鞴の音をさして居た、見ると兼公の家も気持がよかった、軒の下は今掃いた許りに塵一つ見えない、家は柱も敷居も怪しくかしげては居るけれど、表手も裏も障子を明放して、畳の上を風が滑ってるように涼しい、表手の往来から、裏庭の茄子や南瓜の花も見え、鶏頭鳳仙花天竺牡丹の花などが背高く咲いてるのが見える、それで兼公は平生花を作ることを自慢するでもなく、花が好きだなどと人に話し為たこともない、よくこんなにいつも花を絶やさずに作ってますねと云うと、あアに家さ作って置かねいと時折仏様さ上げるのん困るからと云ってる、あとから直ぐこういう鎌が出来ましたが一つ見ておくんせいと腕自慢の話だ、そんな風だからおれは元から兼公が好きで、何でも農具はみんな兼公に頼むことにしていた。 其朝なんか、よっぽど可笑しかった、兼公おれの顔を見て何と思ったか、喫驚した眼をきょろきょろさせ物も云わないで軒口ヘ飛んで出た、おれが兼さんお早ようと詞を掛ける、それと同んなじ位に、 「旦那何んです」 とあの青白い尖口の其のたまげた顔をおれの鼻っさきへ持ってきていうのさ、兼さん何でもないよ鎌を買いに来たんだよ、日中は熱いから朝っぱらにやって来たのさ、こういうと、 「そらアよかった、まア旦那お早ようございます」と直ぐにけろりとした風で二つ三つ腰をまげた、ハハハアと笑ったかと思うと直ぐ跡から、旦那鎌なら豪せいなのが出来てます、いう内に女房が出て来て上がり鼻へ花蓙を敷いた、兼公はおれに許り其蓙へ腰をかけさせ、自分は一段低い縁に腰をかけた、兼公は職人だけれど感心に人に無作法なことはしなかった。 「旦那聞いてください、わし忌ま忌ましくなんねいことがあっですよ、あの八田の吉兵エですがね、先月中あなた、山刈と草刈と三丁宛、吟味して打ってくれちもんですから、こっちゃあなた充分に骨を折って仕上げた処、旦那まア聞いて下さい其の吉兵エが一昨日来やがって、村の鍛冶に打たせりゃ、一丁二十銭ずつだに、お前の鎌二十二銭は高いとぬかすんです、それから癪に障っちゃったんですから、お前さんの銭ゃお前さんの財布へしまっておけ、おれの鎌はおれの戸棚へ終って措くといって、いきなり鎌を戸棚へ終っちゃったんです、旦那えい処へ来て下さった」そういうて兼公は六丁の鎌をおれの前へ置いた、女房は、それではよくあんめい、吉兵エさんも帰りしなには、兼さんの一酷にも困る、あとで金を持たしてよこすから、おっかアおめいが鎌を取っといてくっだいよって、腹も立たないでそういっていったんだから、今荒場の旦那へ上げて終ってはと云った、兼公はあアにお前がそういうなら、八田の分はおれが今日にも打って措くべい、旦那どうぞ持っていって下さい、外の人と違う旦那がいるってんだから、こういうから四丁と思って往ったのだが、其六丁を持ってきた、家を出る時心持よく出ると其日はきっと何かの用が都合よくいくものだ。 思いの外に早く用が足りたし、日も昇りかけたが、蜩はまだ思い出したように鳴いてる、つくつくほうしなどがそろそろ鳴き出してくる、まだ熱くなるまでには、余程の間があると思って、急に思いついて姪子の処へ往った。 お町が家は、松尾の東はずれでな、往来から岡の方へ余程経上って、小高い所にあるから一寸見ても涼しそうな家さ、おれがいくとお町は二つの小牛を庭の柿の木の蔭へ繋いで、十になる惣領を相手に、腰巻一つになって小牛を洗ってる、刈立ての青草を籠に一ぱい小牛に当てがって、母子がさも楽しそうに黒白斑の方のやつを洗ってやってる、小牛は背中を洗って貰って平気に草を食ってる、惣領が長い柄の柄杓で水を牛の背にかける、母親が縄たわしで頻りに小摺ってやる、白い手拭を間深かに冠って、おれのいったのも気がつかずにやってる、表手の庭の方には、白らげ麦や金時大角豆などが庭一面に拡げて隙間もなく干してある、一目見てお町が家も此頃は都合がえいなと思うと、おれもおのずと気も引立って、ちっと手伝おうかと声をかけた。 あらア荒場の伯父さんだよって、母子が一所にそういって、小牛洗いはそこそこにさすが親身の挨拶は無造作なところに、云われないなつかしさが嬉しい、まア伯父さんこんな形では御挨拶も出来ない、どうぞまア足を洗って下さい、そういうより早く水を汲んでくれる、おれはそこまで来たから一寸寄ったのだ上ってる積りではねいと云っても、伯父さん一寸寄っていくってそら何のこったかい、そんなこと云ったって駄目だ、もうおれには口は聞かせない。 上って見ると鏡のように拭いた摺縁は歩りくと足の下がぎしぎし鳴る位だ、お町はやがて自分も着物を着替て改った挨拶などする、十になる児の母だけれど、町公町公と云ったのもまだつい此間の事のようで、其大人ぶった挨拶が可笑しい位だった、其内利助も朝草を山程刈って帰ってきた、さっぱりとした麻の葉の座蒲団を影の映るような、カラ縁に敷いて、えい心持ったらなかった、伯父さん鎌を六丁買ってきて、家でばっかそんなにいるかいちもんだから、おれがこれこれだと話すと、そんなら一丁家へもおくんなさいなという、改まって挨拶するかと思うと、あとから直ぐ甘えたことをいう、そうされると又妙に憎くないものだよ。 あの気転だから、話をしながら茶を拵える、用をやりながらも遠くから話しかける。 「ねい伯父さん何か上げたくもあり、そばに居て話したくもありで、何だか自分が自分でないようだ、蕎麦饂飩でもねいし、鰌の卵とじ位ではと思っても、ほんに伯父さん何にも上げるもんがねいです」 「何にもいらねいっち事よ、朝っぱら不意に来た客に何がいるかい」 そういう所へ利助もきて挨拶した、よくまア伯父さん寄てくれました、今年は雨都合もよくて大分作物もえいようでなど簡単な挨拶にも実意が見える、人間は本気になると、親身の者をなつかしがるものだ、此の調子なら利助もえい男だと思っておれも嬉しかった、お町は何か思いついたように夫に相談する、利助は黙々うなずいて、其のまま背戸山へ出て往った様だった、お町はにこにこしながら、伯父さん腹がすいたでしょうが、少し待って下さい、一寸思いついた御馳走をするからって、何か手早に竈に火を入れる、おれの近くへ石臼を持出し話しながら、白粉を挽き始める、手軽気軽で、億劫な風など毛程も見せない、おれも訳なしに話に釣り込まれた。 「利助どんも大分に評判がえいからおれもすっかり安心してるよ、もう狂れ出すような事あんめいね」 「そうですよ伯父さん、わたしも一頃は余程迷ったから、伯父さんに心配させましたが、去年の春頃から大へん真面目になりましてね、今年などは身上もちっとは残りそうですよ、金で残らなくてもあの、小牛二つ育てあげればって、此節は伯父さん、一朝に二かつぎ位草を刈りますよ、今の了簡でいってくれればえいと思いますがね」 「実の処おれは、それを聞きたさに今日も寄ったのだ、そういう話を聞くのがおれには何よりの御馳走だ、うんお前も仕合せになった」 こんな訳で話はそれからそれと続く、利助の馬鹿を尽した事から、二人が殺すの活すのと幾度も大喧嘩をやった話もあった、それでも終いには利助から、おれがあやまるから仲直りをしてくろて云い出し誰れの世話にもならず、二人で仲直りした話は可笑しかった。 おれも始めから利助の奴は、女房にやさしい処があるから見込みがあると思っていた、博打をぶっても酒を飲んでもだ、女房の可愛い事を知ってる奴なら、いつか納まりがつくものだ、世の中に女房のいらねい人間許りは駄目なもんさ、白粉は三升許りも挽けた、利助もいつの間にか帰ってる、お町は白粉を利助に渡して自分は手軽に酒の用意をした、見ると大きな巾着茄子を二つ三つ丸ごと焼いて、うまく皮を剥いたのへ、花鰹を振って醤油をかけたのさ、それが又なかなかうまいのだ、いつの間にそんな事をやったか其の小手廻しのえいことと云ったら、お町は一苦労しただけあって、話の筋も通って人のあしらいもそりゃ感心なもんよ。 すとんすとん音がすると思ってる内に、伯父さん百合餅ですが、一つ上って見て下さいと云うて持って来た。 何に話がうまいって、どうして話どころでなかった、積っても見ろ、姪子甥子の心意気を汲んでみろ、其餅のまずかろう筈があるめい、山百合は花のある時が一番味がえいのだそうだ、利助は、次手があるからって、百合餅の重箱と鎌とを持っておれを広福寺の裏まで送ってくれた。 おれは今六十五になるが、鯛平目の料理で御馳走になった事もあるけれど、松尾の百合餅程にうまいと思った事はない。 お町は云うまでもなく、お近でも兼公でも、未だにおれを大騒ぎしてくれる、人間はなんでも意気で以て思合った交りをする位楽しみなことはない、そういうとお前達は直ぐとやれ旧道徳だの現代的でないのと云うが、今の世にえらいと云われてる人達には、意気で人と交わるというような事はないようだね、身勝手な了簡より外ない奴は大き面をしていても、真に自分を慕って敬してくれる人を持てるものは恐らく少なかろう、自分の都合許り考えてる人間は、学問があっても才智があっても財産があっても、あんまり尊いものではない。 |
一、佐藤春夫は詩人なり、何よりも先に詩人なり。或は誰よりも先にと云えるかも知れず。 二、されば作品の特色もその詩的なる点にあり。詩を求めずして佐藤の作品を読むものは、猶南瓜を食わんとして蒟蒻を買うが如し。到底満足を得るの機会あるべからず。既に満足を得ず、而して後その南瓜ならざるを云々するは愚も亦甚し。去って天竺の外に南瓜を求むるに若かず。 三、佐藤の作品中、道徳を諷するものなきにあらず、哲学を寓するもの亦なきにあらざれど、その思想を彩るものは常に一脈の詩情なり。故に佐藤はその詩情を満足せしむる限り、乃木大将を崇拝する事を辞せざると同時に、大石内蔵助を撲殺するも顧る所にあらず。佐藤の一身、詩仏と詩魔とを併せ蔵すと云うも可なり。 |
人は自然を美しいといふ。然しそれよりも自然は美しい。人は自然を荘厳だといふ。然しそれよりも自然は荘厳だ。如何なる人が味到し色読したよりも以上に自然は美しく荘厳だ。議論としてそれを拒む人はあるかも知れないが、何等かの機会に於てそれを感じない人はない。 その時或人はかくばかり自然が美しく荘厳であるのにどうして人間はかくばかり醜く卑劣なのだと歎じ、そこに人類の救ひ得べからざる堕落を痛感するだらう。或人はかくばかり美しく荘厳な自然の伴侶となるために、人類には如何に希望多き悠久な未来が残されてゐるかを痛感するだらう。而してそこに深い喜悦と勇気とを湧き立たせるだらう。 老いるものは前の立場に立ち、若き者は後の立場に立つ。而して私は若き者であり、若き者の道伴れでありたい。 |
「あなた、冷えやしませんか。」 お柳は暗夜の中に悄然と立って、池に臨んで、その肩を並べたのである。工学士は、井桁に組んだ材木の下なる端へ、窮屈に腰を懸けたが、口元に近々と吸った巻煙草が燃えて、その若々しい横顔と帽子の鍔広な裏とを照らした。 お柳は男の背に手をのせて、弱いものいいながら遠慮気なく、 「あら、しっとりしてるわ、夜露が酷いんだよ。直にそんなものに腰を掛けて、あなた冷いでしょう。真とに養生深い方が、それに御病気挙句だというし、悪いわねえ。」 と言って、そっと圧えるようにして、 「何ともありはしませんか、又ぶり返すと不可ませんわ、金さん。」 それでも、ものをいわなかった。 「真とに毒ですよ、冷えると悪いから立っていらっしゃい、立っていらっしゃいよ。その方が増ですよ。」 といいかけて、あどけない声で幽に笑った。 「ほほほほ、遠い処を引張って来て、草臥れたでしょう。済みませんねえ。あなたも厭だというし、それに私も、そりゃ様子を知って居て、一所に苦労をして呉れたからッたっても、姉さんには極が悪くッて、内へお連れ申すわけには行かないしさ。我儘ばかり、お寝って在らっしゃったのを、こんな処まで連れて来て置いて、坐ってお休みなさることさえ出来ないんだよ。」 お柳はいいかけて涙ぐんだようだったが、しばらくすると、 「さあ、これでもお敷きなさい、些少はたしになりますよ。さあ、」 擦寄った気勢である。 「袖か、」 「お厭?」 「そんな事を、しなくッても可い。」 「可かあありませんよ、冷えるもの。」 「可いよ。」 「あれ、情が強いねえ、さあ、ええ、ま、痩せてる癖に。」と向うへ突いた、男の身が浮いた下へ、片袖を敷かせると、まくれた白い腕を、膝に縋って、お柳は吻と呼吸。 男はじっとして動かず、二人ともしばらく黙然。 やがてお柳の手がしなやかに曲って、男の手に触れると、胸のあたりに持って居た巻煙草は、心するともなく、放れて、婦人に渡った。 「もう私は死ぬ処だったの。又笑うでしょうけれども、七日ばかり何にも塩ッ気のものは頂かないんですもの、斯うやってお目に懸りたいと思って、煙草も断って居たんですよ。何だって一旦汚した身体ですから、そりゃおっしゃらないでも、私の方で気が怯けます。それにあなたも旧と違って、今のような御身分でしょう、所詮叶わないと断めても、断められないもんですから、あなた笑っちゃ厭ですよ。」 といい淀んで一寸男の顔。 「断めのつくように、断めさして下さいッて、お願い申した、あの、お返事を、夜の目も寝ないで待ッてますと、前刻下すったのが、あれ……ね。 深川のこの木場の材木に葉が繁ったら、夫婦になって遣るッておっしゃったのね。何うしたって出来そうもないことが出来たのは、私の念が届いたんですよ。あなた、こんなに思うもの、その位なことはありますよ。」 と猶しめやかに、 「ですから、最う大威張。それでなくッてはお声だって聞くことの出来ないのが、押懸けて行って、無理にその材木に葉の繁った処をお目に懸けようと思って連出して来たんです。 あなた分ったでしょう、今あの木挽小屋の前を通って見たでしょう。疑うもんじゃありませんよ。人の思ですわ、真暗だから分らないってお疑ンなさるのは、そりゃ、あなたが邪慳だから、邪慳な方にゃ分りません。」 又黙って俯向いた、しばらくすると顔を上げて斜めに巻煙草を差寄せて、 「あい。」 「…………」 「さあ、」 「…………」 「邪慳だねえ。」 「…………」 「ええ!、要らなきゃ止せ。」 というが疾いか、ケンドンに投り出した、巻煙草の火は、ツツツと楕円形に長く中空に流星の如き尾を引いたが、𤏋と火花が散って、蒼くして黒き水の上へ乱れて落ちた。 屹と見て、 「お柳、」 「え、」 「およそ世の中にお前位なことを、私にするものはない。」 と重々しく且つ沈んだ調子で、男は粛然としていった。 「女房ですから、」 と立派に言い放ち、お柳は忽ち震いつくように、岸破と男の膝に頬をつけたが、消入りそうな風采で、 「そして同年紀だもの。」 男はその頸を抱こうとしたが、フト目を反らす水の面、一点の火は未だ消えないで残って居たので。驚いて、じっと見れば、お柳が投げた巻煙草のそれではなく、靄か、霧か、朦朧とした、灰色の溜池に、色も稍濃く、筏が見えて、天窓の円い小な形が一個乗って蹲んで居たが、煙管を啣えたろうと思われる、火の光が、ぽッちり。 又水の上を歩行いて来たものがある。が船に居るでもなく、裾が水について居るでもない。脊高く、霧と同鼠の薄い法衣のようなものを絡って、向の岸からひらひらと。 見る間に水を離れて、すれ違って、背後なる木納屋に立てかけた数百本の材木の中に消えた、トタンに認めたのは、緑青で塗ったような面、目の光る、口の尖った、手足は枯木のような異人であった。 「お柳。」と呼ぼうとしたけれども、工学士は余りのことに声が出なくッて瞳を据えた。 爾時何事とも知れず仄かにあかりがさし、池を隔てた、堤防の上の、松と松との間に、すっと立ったのが婦人の形、ト思うと細長い手を出し、此方の岸を気だるげに指招く。 |
古い日記や手紙などを、みんな燒いてしまつたので、こまかに時日をいへないが、まだ若い中學教師であつた私が、牛込下戸塚町の素人下宿から、小石川豐川町へ引越して、その時越後から出て來たばかりの三人の書生と初めて所帶を持つたのは、たしか大正のはじめであつた。その時書生たちが机を並べた八疊の間の床の間の壁に、私がその人たちのために作つた四か條の學規といふものを自筆で書いて貼らせた。けれども受驗勉強で夢中になつてゐる書生たちは、誰一人としてそんな文句に目をくれるものもなく、どれほど窮屈な氣持で、これをうとましく思つたものもなかつた。けつきよくこの學規は、私自身のために私が作つて、書いて、そして自分を警しめるだけのものになつてしまつた。それから四十年にも近く、今の老境にはいつても、いつも親しくなつかしい氣持でこの四か條が思ひ出される。 私はもとから理想とか、主義とか、抱負とかいふやうなものがあるのか、ないのか、自分にもはつきりしないが、とにかくそんなことを大ツぴらに口を出していひ立てるのを好かない。そのせいか、私の學規も昔からあるものとはだいぶ樣子がちがふやうだ。これくらゐのところを目安にしてかかるなら、長い一生の末までには、いくらか實行が出來るのではあるまいか。 秋艸堂學規 一 ふかくこの生を愛すべし 一 かへりみて己を知るべし 一 學藝を以て性を養ふべし 一 日々新面目あるべし |
七月十五日は根岸庵の会日なり。十七日にいでたたんと長塚に約す。十六日夕より雨ふりいでて廿日に至りて猶やまず。 長雨のふらくやまねば二荒の瀧見の旅を行きがてにすも 根岸庵よりされ歌来る。 藁ずきの紙にもあるか君が身は瀧見に行かず雨づゝみする かえし 雨雲のおほひかくさば二荒山行きて見るとも多岐見えめやも 此夕長塚来りて、雨ふるとも明日は行かん、という。古袴など取り出でて十年昔の書生にいでたたんと支度ととのえなどす。廿一日朝まだきに起き出でて見るに有明の月東の空に残りて雨はなごりなく晴れたり。心地よき事いわん方なし。七時上野停車塲に行けば長塚既にありて吾を待つ。汽車の窓に青田のながめ心ゆくさまなり。利根の鉄橋を越えて行くに夏蕎麦をつくる畑干瓢をつくる畑などあれば 埼玉や古河のあたりの夏蕎麥のなつみこめやもおほに思はゞ 麥わらをしける廣畑瓜の畑葉かげに瓜のこゝたく見ゆる など口ずさむ。十二時日光に著く。町を過ぎて含満の淵に行き石仏を見る。大日堂の裏手より裏見の滝へとこころざす。道のほとりに咲く草花、あからむ覆盆子などさすがになつかしくて根岸庵のあるじがり端書をやる。 少女等がかざしの玉の赤玉に似たるいちごを採りつゝありく 奧山の道のへに咲く草花をうらめづらしみ見せまくもとな おぼつかなき歌なり。裏見の滝に著く。茶店に人無し。外国の婦人のまだうら若きと見ゆるが靴の上に草鞋をはき、一人は橋の上に立ち、一人は岩に腰うちかけて絵など写すめり。斯る深山に入りてみやびたるわざに心をこらす少女の心のうちを思うにいとなつかしく今迄は只いとわしき者にのみ思いし外国人の中にかかるやさしきもありけるよと心にくき事限りなし。屏風巌をめぐりて般若方等二つの滝の見ゆる処に出ず。谷を隔てて稍遠く見たるなかなかに趣深く覚ゆ。ここより五十ばかりの人道づれとなりて行く。草履をはき下駄を手に提げたり。広島の人という。三人声かけあいて登るに道けわしければ汗は滝なして降る。薄暗きに華厳の滝をのぞきつ七時過中禅寺湖畔の旅籠屋に入る。 翌朝つとめて起き出ず。快晴。山深き暁のながめ、しんしんとして物一つ動かぬ静かさは膚にしみわたりて単衣に寒さを覚えたり。日、湖の面を照す頃舟を雇うて出ず。二荒の裾山樹々の梢に鶯の今をさかりと鳴く声いとめずらし。風はそよとも吹かず、日熱からず、四方のけしきのどかに見わたさるるに 時じくに鶯鳴くも二荒のおくなる里は常春にして 舟、菖蒲が浜に着く。湯本道なり。舟を上れば竜頭の滝あり。しばらく遊びて後戦塲が原に出ず。いろいろの草花うつくしくおのがしし色に誇るが中に菖蒲の花なん殊に多かりける。 二荒の山の裾野にあかねさす紫匂ふ花あやめかも 櫻草の花によく似る紫の花めでつゝも名を知らずけり 花あやめしみ咲きにほふ紫の花野を來れば物思もなし 紫の雲ゐる野べに朝遊び夕遊びます二荒の神 湯の滝を見、湯本に遊びて帰る。中禅寺の湖をながめて 天雲のいはひもとほる湖の上に眞白片帆の舟歸る見ゆ 歌袋歌滿ちあふるなめ革のかはり袋のありこせぬかも 歌袋の歌は文して格堂にからかいやりしなり。此夜も山田屋に宿る。明日は華厳の滝壺に下りんとて長塚も我もいさみきおう。先ず歌幸を祈らばやとて詠む。 二荒の山にまします女神だち歌のわく子にさちあらせたまへ 翌日朝早く案内者一人召し具し二人きおいにきおいて滝壺に下る。岩崩れ足辷る。手に草をつかみてうしろ向きになりて少しずつ下り行く。危き橋をようように這いわたりて終に下り着くに滝のしぶき一面に雨の如く足もとより逆に吹きあぐるさますさまじく恐ろしく暫くも彳みかねつ。僅にかえり見れば小き円きうつくしき虹の我身をめぐりて目の下に低く輝けるあり。我動くところに虹も亦従いて動く。我は神となりたらん心地にてくすしくとうとくも覚ゆれど余りのすさまじさに得も留まらで復もと来し岩を攀じて登り来る。衣は雨に濡れたらんが如し。茶店にて裸なりて乾す。ここに得たる長歌短歌若干別にあり。 昼過日光町へ下り霧降の滝見に行く。途中 あかねさす西日は照れどひぐらしの鳴き蟲山に雨かゝる見ゆ ゆくゆく一人の少女のいと艶なるに逢う。長塚しきりに恋いかなしむ。我長塚に代りて 眞玉手にしぬ杖つきて霧降の山こえなづむ少女こひしも 滝を見て日光町の旅舎に帰る。宿の女又のうねもごろにもてなすに我も心なきにしもあらず。 汗衣かわかしたゝむ君しあればかりねの宿とわがおもはなくに 廿三日小山の停車塲にて長塚と袂を分つ。長塚は郷里岡田へ帰るなり。 二荒の神のたはりし歌玉の五百玉わけて君と別れん 上野停車塲に着く。直に根岸庵を訪いて華厳の滝壺にて採りたる葉広草、戦塲が原の菖蒲の花など贈る。夜深けて家に帰る。 明治33年10月『日本』 |
医学士ウラヂミル・イワノヰツチユ・ソロドフニコフは毎晩六時に、病用さへなければ、本町へ散歩に行くことにしてゐた。大抵本町で誰か知る人に逢つて、一しよに往つたり来たりして、それから倶楽部へ行つて、新聞を読んだり、玉を突いたりするのである。 然るに或日天気が悪かつた。早朝から濃い灰色の雲が空を蔽つてゐて、空気が湿つぽく、風が吹いてゐる。本町に出て見たが、巡査がぢつとして立つてゐる外に、人が一人もゐない。 ソロドフニコフは本町の詰まで行つて、踵を旋らして、これからすぐに倶楽部へ行かうと思つた。その時誰やら向うから来た。それを見ると、知つた人で、歩兵見習士官ゴロロボフといふ人であつた。此人の癖で、いつものわざとらしい早足で、肩に綿の入れてある服の肩を怒らせて、矢張胸に綿の入れてある服の胸を張つて、元気好く漆沓の足を踏み締めて、ぬかるみ道を歩いてゐる。 見習士官が丁度自分の前へ来たとき、ソロドフニコフが云つた。「いや。相変らずお元気ですな。」 ゴロロボフは丁寧に会釈をして、右の手の指を小さい帽の庇に当てた。 ソロドフニコフは只何か言はうといふ丈の心持で云つた。「どこへ行くのですか。」 見習士官は矢張丁寧に、「内へ帰ります」と答へた。 ソロドフニコフは「さうですか」と云つた。 見習士官は前に立ち留まつて待つてゐる。ソロドフニコフは何と云つて好いか分からなくなつた。一体此見習士官をば余り好く知つてゐるのではない。これ迄「どうですか」とか、「さやうなら」とかしか云ひ交はしたことはない。それだから、ソロドフニコフの為めには、先方の賢不肖なんぞは分かる筈がないのに、只なんとなく馬鹿で、時代後れな奴だらうと思つてゐる。それだから、これが外の時で、誰か知つた人が本町を通つてゐたら、此見習士官に彼此云つてゐるのではないのである。 ソロドフニコフは「さうですか、ゆつくり御休息なさい」と親切らしい、しかも目下に言ふやうな調子で云つた。言つて見れば、ずつと低いものではあるが、自分の立派な地位から、相当の軽い扱をせずに、親切にして遣るといふやうな風である。そして握手した。 ソロドフニコフは倶楽部に行つて、玉を三度突いて、麦酒を三本勝つて取つて、半分以上飲んだ。それから閲覧室に這入つて、保守党の新聞と自由党の新聞とを、同じやうに気を附けて見た。知合の女客に物を言つて、居合せた三人の官吏と一寸話をした。その官吏をソロドフニコフは馬鹿な、可笑しい、時代後れな男達だと思つてゐるのである。なぜさう思ふかといふに、只官吏だからと云ふに過ぎない。それから物売場へ行つて物を食つて、コニヤツクを四杯飲んだ。総てこんな事は皆退屈に思はれた。それで十時に倶楽部を出て帰り掛けた。 曲り角から三軒目の家を見ると、入口がパン屋の店になつてゐる奥の方の窓から、燈火の光が差して、その光が筋のやうになつてゐる処丈、雨垂がぴか〳〵光つてゐる。その時学士はふいと先きに出逢つた見習士官が此家に住まつてゐるといふことを思ひ出した。 ソロドフニコフは窓の前に立ち留まつて、中を見込むと、果して見習士官が見えた。丁度窓に向き合つた処にゴロロボフは顔を下に向けて、ぢつとして据わつてゐる。退屈まぎれに、一寸嚇して遣らうと思つて、杖の尖で窓をこつ〳〵敲いた。 見習士官はすぐに頭を挙げた。明るいランプの光が顔へまともに差した。ソロドフニコフはこの時始て此男の顔を精しく見た。此男はまだひどく若い。殆ど童子だと云つても好い位である。鼻の下にも頬にも鬚が少しもない。面皰だらけの太つた顔に、小さい水色の目が附いてゐる。睫も眉も黄色である。頭の髪は短く刈つてある。色の蒼い顔がちつともえらさうにない。 ゴロロボフは窓の外に立つてゐる医学士を見て、すぐに誰だといふことが分かつたといふ様子で、立ち上がつた。嚇かしたので、学士は満足して、一寸腮で会釈をして笑つて帰らうと思つた。ところが、ゴロロボフの方で先きへ会釈をして、愛想好く笑つて、その儘部屋の奥の方へ行つてしまつた。戸口の方へ行つたのらしい。 「はてな。己を呼び入れようとするのかな」と思ひながら、ソロドフニコフは立ち留まつた。その儘行つてしまふが好いか、それとも待つてゐるが好いかと、判断に困つた。 パン屋の店の処の入口の戸が開いた。そして真黒い長方形の戸の枠からゴロロボフの声がした。 「先生。あなたですか。」 ソロドフニコフはまだどうしようとも決心が附かずにゐた。そこでためらひながら戸口に歩み寄つた。闇の中に立つてゐるゴロロボフは学士と握手をして、そして自分は腋へ寄つて、学士を通さうとした。 「いやはや、飛んだ事になつた。とう〳〵なんの用事もないに、人の内へ案内せられることになつた」と、学士は腹の中で思つて、そこらに置いてある空き箱やなんぞにぶつ附かりながら、這入つて行く。 廊下は焼き立てのパンと、捏ねたパン粉との匂がしてゐて、空気は暖で、むつとしてゐる。 見習士官は先きに立つて行つて、燈火の明るくしてある部屋の戸を開けた。ソロドフニコフは随分妙な目に逢ふものだと思つて、微笑みながら閾を跨いだ。 見習士官は不恰好な古い道具を少しばかり据ゑ附けた小さい部屋に住まつてゐる。 ソロドフニコフは外套を脱いで、新聞紙を張つた壁に順序好く打つてある釘の一つに掛けて、ゲエトルをはづして、帽子を脱いで、杖を部屋の隅に立てて置いた。 「どうぞお掛けなさい」と云ひながら、ゴロロボフは学士に椅子を勧めた。ソロドフニコフはそれに腰を掛けて周囲を見廻した。部屋に附けてあるのはひどく悪いランプである。それで室内が割合に暗くて息が籠つたやうになつてゐる。学士の目に這入つたのは、卓が一つ、丁寧に片附けてある寝台が一つ、壁の前に不規則に置いてある椅子が六つの外に、入口と向き合つてゐる隅に、大小種々の聖者の画像の、銅の枠に嵌めたのが、古びて薄黒くなつてゐて、その前に緑色の火屋の小さいランプに明りが附けて供へてあつて、それから矢張その前に色々に染めたイイスタア祭の卵が供へてあるのであつた。 「大したお難有連だと見える」と、ソロドフニコフは腹の中で嘲つた。どうもこんな坊主臭い事をして、常燈明を上げたり、涙脆さうにイイスタアの卵を飾つたりするといふのは、全体見習士官といふものの官職や業務と、丸で不吊合だと感ぜられたのである。 卓の上には清潔な巾が掛けて、その上にサモワルといふ茶道具が火に掛けずに置いてある。その外、砂糖を挾む小さい鉗子が一つ、茶を飲む時に使ふ匙が二三本、果物の砂糖漬を入れた硝子壺が一つ置いてある。寝台の上には明るい色の巾が掛けてある。枕は白い巾に縫ひ入れのあるのである。何もかもひどく清潔で、きちんとしてある。その為めに却つて室内が寒さうに、不景気に見えてゐる。 「お茶を上げませうか」と、見習士官が云つた。 ソロドフニコフは茶が飲みたくもなんともないから、も少しで断るところであつた。併し茶でも出させなくては、為草も言草もあるまいと思ひ返して、「どうぞ」と云つた。 ゴロロボフは茶碗と茶托とを丁寧に洗つて拭いて、茶を注いだ。 「甚だ薄い茶で、お気の毒ですが」と云つて、学士に茶を出して、砂糖漬の果物の壺を押し遣つた。 「なに、構ふもんですか」と、ソロドフニコフは口で返事をしながら、腹の中では、「そんな事なら、なんだつて己をここへ連れ込んだのだ」と思つた。 見習士官は両足を椅子の脚の背後にからんで腰を掛けてゐて、器械的に匙で茶を掻き廻してゐる。ソロドフニコフも同じく茶を掻き廻してゐる。 二人共黙つてゐる。 此時になつて、ソロドフニコフは自分が主人に誤解せられたのだと云ふことに気が附いた。見習士官は杖で窓を叩かれて、これは用事があつて来たのだなと思つたに違ひない。そこで変な工合になつたらしい。かう思つて、ソロドフニコフは不愉快を感じて来た。今二人は随分馬鹿気た事をしてゐるのである。お負にそれがソロドフニコフ自身の罪なのである。体が達者で、身勝手な暮しをしてゐる人の常として、こんな事を長く我慢してゐることが出来なくなつた。 「ひどい天気ですな」と会話の口を切つたが、学士は我ながら詰まらない事を言つてゐると思つて、覚えず顔を赤くした。 「さやうです。天気は実に悪いですな」と、見習士官は早速返事をしてしまつて、跡は黙つてゐる。ソロドフニコフは腹の中で、「へんな奴だ、廻り遠い物の言ひやうをしやがる」と思つた。 併しこの有様を工合が悪いやうに思ふ感じは、学士の方では間もなく消え失せた。それは職業が医師なので、種々な変つた人、中にも初対面の人と応接する習慣があるからである。それに官吏といふものは皆馬鹿だと思つてゐる。軍人も皆馬鹿だと思つてゐる。そこでそんな人物の前では気の詰まるといふ心持がないからである。 「今君は何をさう念入りに考へてゐたのだね」と、医学士は云つて、腹の中では、こん度もきつと丁寧な、恭しい返辞をするだらうと予期してゐた。言つて見れば、「いゝえ、別になんにも考へてはゐませんでした」なんぞと云ふだらうと思つたのである。 ところが、見習士官はぢつと首をうな垂れた儘にしてゐて、「死の事ですよ」と云つた。 ソロドフニコフはも少しで吹き出す所であつた。此男の白つぽい顔や黄いろい髪と、死だのなんのと云ふ、深刻な、偉大な思想とは、奈何にも不吊合に感ぜられたからである。 意外だと云ふ風に笑つて、学士は問ひ返した。「妙ですねえ。どうしてそんな陰気な事を考へてゐるのです。」 「誰だつて死の事は考へて見なくてはならないわけです。」 「そして重い罪障を消滅する為めに、難行苦行をしなくてはならないわけですかね」と、ソロドフニコフは揶揄つた。 「いゝえ、単に死の事丈を考へなくてはならないのです」と、ゴロロボフは落ち着いて、慇懃な調子で繰り返した。 「例之ばわたしなんぞに、どうしてそんな事を考へなくてはならない義務があるのですか」と、ソロドフニコフは右の膝を左の膝の上に畳ねて、卓の上に肘を撞きながら、嘲弄する調子で云つた。そして見習士官の馬鹿気た返事をするのを期待してゐた。見習士官だから、馬鹿気た返事をしなくてはならないと思ふのである。 「それは誰だつて死ななくてはならないからです」と、ゴロロボフは前と同じ調子で云つた。 「それはさうさ。併しそれ丈では理由にならないね」と、学士は云つて、腹の中で、多分此男は本当のロシア人ではあるまい、ロシア人がこんなはつきりした、語格の調つた話をする筈がないからと思つた。 そしてこの色の蒼い、慇懃な見習士官と対坐してゐるのが、急に不愉快になつて、立つて帰らうかと思つた。 ゴロロボフは此時「わたくしの考へでは只今申した理由丈で十分だと思ふのです」と云つた。 |
一 理髮師の源助さんが四年振で來たといふ噂が、何か重大な事件でも起つた樣に、口から口に傳へられて、其午後のうちに村中に響き渡つた。 村といつても狹いもの。盛岡から青森へ、北上川に縺れて逶迤と北に走つた、坦々たる其一等道路(と村人が呼ぶ)の、五六町並木の松が斷絶えて、兩側から傾き合つた茅葺勝の家並の數が、唯九十何戸しか無いのである。村役場と駐在所が中央程に向合つてゐて、役場の隣が作右衞門店、萬荒物から酢醤油石油莨、罎詰の酒もあれば、前掛半襟にする布帛もある。箸で斷れぬ程堅い豆腐も賣る。其隣の郵便局には、此村に唯一つの軒燈がついてるけれども、毎晩點火る譯ではない。 お定がまだ少かつた頃は、此村に理髮店といふものが無かつた。村の人達が其頃、頭の始末を奈何してゐたものか、今になつて考へると、隨分不便な思をしたものであらう。それが、九歳か十歳の時、大地主の白井樣が盛岡から理髮師を一人お呼びなさるといふ噂が恰も今度源助さんが四年振で來たといふ噂の如く、異樣な驚愕を以て村中に傳つた。間もなく、とある空地に梨箱の樣な小さい家が一軒建てられて、其家が漸々壁塗を濟ませた許りの處へ、三十恰好の、背の低い、色の黒い理髮師が遣つて來た。頗るの淡白者で、上方辯の滑かな、話巧者の、何日見てもお愛想が好いところから、間もなく村中の人の氣に入つて了つた。それが即ち源助さんであつた。 源助さんには、お内儀さんもあれば息子もあるといふ事であつたが、來たのは自分一人。愈々開業となつてからは、其店の大きい姿見が、村中の子供等の好奇心を刺戟したもので、お定もよく同年輩の遊び仲間と一緒に行つて、見た事もない白い瀬戸の把手を上に捻り下に捻り、辛と少許入口の扉を開けては、種々な道具の整然と列べられた室の中を覗いたものだ。少し開けた扉が、誰の力ともなく、何時の間にか身體の通るだけ開くと、田舍の子供といふものは因循なもので、盜みでもする樣に怖な怯り、二寸三寸と物も言はず中に入つて行つて、交代に其姿見を覗く。訝な事には、少し離れて寫すと、顏が長くなつたり、扁くなつたり、目も鼻も歪んで見えるのであつたが、お定は幼心に、これは鏡が餘り大き過ぎるからだと考へてゐたものだ。 月に三度の一の日を除いては、(此日には源助さんが白井樣へ上つて、お家中の人の髮を刈つたり顔を剃つたりするので、)大抵村の人が三人四人、源助さんの許で莨を喫しながら世間話をしてゐぬ事はなかつた。一年程經つてから、白井樣の番頭を勤めてゐた人の息子で、薄野呂なところからノロ勘と綽名された、十六の勘之助といふのが、源助さんに弟子入をした。それからといふものは、今迄近づき兼ねてゐた子供等まで、理髮店の店を遊場にして、暇な時にはよく太閤記や、義經や蒸汽船や加藤清正の譚を聞かして貰つたものだ。源助さんが居ない時には、ノロ勘が錢函から銅貨を盜み出して、子供等に餡麺麭を振舞ふ事もあつた。振舞ふといつても、其實半分以上はノロ勘自身の口に入るので。 源助さんは村中での面白い人として、衆人に調法がられたものである。春秋の彼岸にはお寺よりも此人の家の方が、餅を澤山貰ふといふ事で、其代り又、何處の婚禮にも葬式にも、此人の招ばれて行かぬ事はなかつた。源助さんは、啻に話巧者で愛想が好い許りでなく、葬式に行けば青や赤や金の紙で花を拵へて呉れるし、婚禮の時は村の人の誰も知らぬ「高砂」の謠をやる、加之何事にも器用な人で、割烹の心得もあれば、植木弄りも好き、義太夫と接木が巧者で、或時は白井樣の子供衆のために大奉八枚張の大紙鳶を拵へた事もあつた。其處此處の夫婦喧嘩や親子喧嘩に仲裁を怠らなかつたは無論の事。 左う右うしてるうちに、お定は小学校も尋常科だけ卒へて、子守をしてる間に赤い袖口が好になり、髮の油に汚れた手拭を獨自に洗つて冠る樣になつた。土土用が過ぎて、肥料つけの馬の手綱を執る樣になると、もう自づと男羞しい少女心が萠して來て、盆の踊に夜を明すのが何より樂しい。隨つて、ノロ勘の朋輩の若衆が、無駄口を戰はしてゐる理髮師の店にも、おのづと見舞ふ事が稀になつたが、其頃の事、源助さんの息子さんだといふ親に似ぬ色白の、背のすらりとした若い男が、三月許りも來てゐた事があつた。 お定が十五(?)の年、も少しで盆が來るといふ暑氣盛りの、踊に着る浴衣やら何やらの心構へで、娘共にとつては一時も氣の落着く暇がない頃であつた。源助さんは、郷里(と言つても、唯上方と許りしか知らなかつたが、)にゐる父親が死んだとかで、俄かに荷造をして、それでも暇乞だけは家毎にして、家毎から御餞別を貰つて、飼馴した籠の鳥でも逃げるかの樣に村中から惜まれて、自分でも甚く殘惜しさうにして、二三日の中にフイと立つて了つた。立つ時は、お定も人々と共に、一里許りのステーションまで見送つたのであつたが、其歸途、とある路傍の田に、稻の穗が五六本出初めてゐたのを見て、せめて初米の餅でも搗くまで居れば可いのにと、誰やらが呟いた事を、今でも夢の樣に記憶えて居る。 何しろ極く狹い田舍なので、それに足下から鳥が飛立つ樣な別れ方であつたから、源助一人の立つた後は、祭禮の翌日か、男許りの田植の樣で、何としても物足らぬ。閑人の誰彼は、所在無げな顏をして呆然と門口に立つゐた。一月許りは、寄ると障ると行つた人の話で、立つ時は白井樣で二十圓呉れたさうだし、村中からの御餞別を合せると、五十圓位集つたらうと、羨ましさうに計算する者もあつた。それ許りぢやない、源助さんは此五六年に、百八十兩もおツ貯めたげなと、知つたか振をする爺もあつた。が、此源助が、白井樣の分家の、四六時中リユウマチで寢てゐる奧樣に、或る特別の慇懃を通じて居た事は、誰一人知る者がなかつた。 二十日許りも過ぎてからだつたらうか、源助の禮状の葉書が、三十枚も一度に此村に舞込んだ。それが又、それ相應に一々文句が違つてると云ふので、人々は今更の樣に事々しく、渠の萬事に才が𢌞つて、器用であつた事を語り合つた。其後も、月に一度、三月に二度と、一年半程の間は、誰へとも限らず、源助の音信があつたものだ。 理髮店の店は、其頃兎や角一人前になつたノロ勘が讓られたので、唯一軒しか無い僥倖には、其間が抜けた無駄口に華客を減らす事もなく、かの凸凹の大きな姿見が、今猶人の顏を長く見せたり、扁く見せたりしてゐる。 其源助さんが四年振で、突然遣つて來たといふのだから、もう殆ど忘れて了つてゐた村の人達が、男といはず女といはず、腰の曲つた老人や子供等まで、異樣に驚いて目を睜つたのも無理はない。 二 それは盆が過ぎて二十日と經たぬ頃の事であつた。午中三時間許りの間は、夏の最中にも劣らぬ暑氣で、澄みきつた空からは習との風も吹いて來ず、素足の娘共は、日に燒けた礫の熱いのを避けて、軒下の土の濕りを歩くのであるが、裏畑の梨の樹の下に落ちて死ぬ蝉の數と共に、秋の香が段々深くなつて行く。日出前の水汲に素袷の襟元寒く、夜は村を埋めて了ふ程の蟲の聲。田といふ田には稻の穗が、琥珀色に寄せつ返しつ波打つてゐたが、然し、今年は例年よりも作が遙と劣つてゐると人々が呟しあつてゐた。 春から、夏から、待ちに待つた陰暦の盂蘭盆が來ると、村は若い男と若い女の村になる。三晩續けて徹夜に踊つても、猶踊り足らなくて、雨でも降れば格別、大抵二十日盆が過ぎるまでは、太鼓の音に村中の老人達が寢つかれぬと口説く。それが濟めば、苟くも病人不具者でない限り、男といふ男は一同泊掛で東嶽に萩刈に行くので、娘共の心が譯もなくがつかりして、一年中の無聊を感ずるのは此時である。それも例年ならば、收穫後の嫁取婿取の噂に、嫉妬交りの話の種は盡きぬのであるけれども、今年の樣に作が惡くては、田畑が生命の百姓村の悲さに、これぞと氣の立つ話もない。其處へ源助さんが來た。 突然四年振で來たといふ噂に驚いた人達は、更に其源助さんの服裝の立派なのに二度驚かされて了つた。萬の知識の單純な人達には何色とも呼びかねる、茶がかつた灰色の中折帽は、此村では村長樣とお醫者樣と、白井の若旦那の外冠る人がない。繪甲斐絹の裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物で、角帶も立派、時計も立派、中にもお定の目を聳たしめたのは、づしりと重い總革の旅行鞄であつた。 宿にしたのは、以前一番懇意にした大工の兼さんの家であつたが、其夜は誰彼の區別なく其家を見舞つたので、奧の六疊間に三分心の洋燈は暗かつたが、入交り立交りるす人の數は少くなく、潮の樣な蟲の音も聞えぬ程、賑かな話聲が、十一時過ぐるまでも戸外に洩れた。娘共は流石に、中には入りかねて、三四人店先に腰掛けてゐたが、其家の總領娘のお八重といふのが、座敷から時々出て來て、源助さんの話を低聲に取次した。 源助さんは、もう四十位になつてゐるし、それに服裝の立派なのが一際品格を上げて、擧動から話振から、昔より遙かに容體づいてゐた。隨つて、其昔「お前」とか「其方」とか呼び慣してゐた村の人達も、期せずして皆「お前樣」と呼んだ。其夜の話では、源助は今度函館にゐる伯父が死んだのへ行つて來たので、汽車の歸途の路すがら、奈何しても通抜が出來なかつたから、突然ではあつたが、なつかしい此村を訪問したと云ふ事、今では東京に理髮店を開いてゐて、熟練な職人を四人も使つてるが、それでも手が足りぬ程忙がしいといふ事であつた。 此話が又、響を打つて直ぐに村中に傳はつた。 理髮師といへば、餘り上等な職業でない事は村の人達も知つてゐる。然し東京の理髮師と云へば、怎やら少し意味が別なので、銀座通の寫眞でも見た事のある人は、早速源助さんの家の立派な事を想像した。 翌日は、各々自分の家に訪ねて來るものと思つて、氣早の老人などは、花茣蓙を押入から出して爐邊に布いて、澁茶を一掴み隣家から貰つて來た。が、源助さんは其日朝から白井樣へ上つて、夕方まで出て來なかつた。 其晩から、かの立派な鞄から出した、手拭やら半襟やらを持つて、源助さんは殆ど家毎に訪ねて歩いた。 お定の家へ來たのは、三日目の晩で、晝には野良に出て皆留守だらうと思つたから、態々後𢌞しにして夜に訪ねたとの事であつた。そして、二時間許りも麥煎餅を噛りながら、東京の繁華な話を聞かせて行つた。銀座通りの賑ひ、淺草の水族館、日比谷の公園、西郷の銅像、電車、自動車、宮樣のお葬式、話は皆想像もつかぬ事許りなので、聞く人は唯もう目を睜つて、夜も晝もなく渦卷く火炎に包まれた樣な、凄じい程な華やかさを漠然と頭腦に描いて見るに過ぎなかつたが、淺草の觀音樣に鳩がゐると聞いた時、お定は其麽所にも鳥なぞがゐるか知らと、異樣に感じた。そして、其麽所から此人はまあ、怎して此處まで來たのだらうと、源助さんの得意氣な顏を打瞶つたのだ。それから源助さんは、東京は男にや職業が一寸見附り惡いけれど、女なら幾何でも口がある。女中奉公しても月に賄附で四圓貰へるから、お定さんも一二年行つて見ないかと言つたが、お定は唯俯いて微笑んだのみであつた。怎して私などが東京へ行かれよう、と胸の中で呟やいたのである。そして、今日隣家の松太郎といふ若者が、源助さんと一緒に東京に行きたいと言つた事を思出して、男ならばだけれども、と考へてゐた。 三 翌日は、例の樣に水を汲んで來てから、朝草刈に行かうとしてると、秋の雨がしと〳〵降り出して來た。厩には未だ二日分許り秣があつたので、隣家の松太郎の姉に誘はれたけれども、父爺が行かなくても可いと言つた。仕樣事なさに、一日門口へ立つて見たり、中へ入つて見たりしてゐたが、蛇の目傘をさした源助さんの姿が、時々彼方此方に見えた。禿頭の忠太爺と共に、お定の家の前を通つた事もあつた。其時、お定は何故といふ事もなく家の中へ隱れた。 一日降つた肅やかな雨が、夕方近くなつて霽つた。と穢らしい子供等が家々から出て來て、馬糞交りの泥濘を、素足で捏ね返して、學校で習つた唱歌やら流行歌やらを歌ひ乍ら、他愛もなく騷いでゐる。 お定は呆然と門口に立つて、見るともなく其を見てゐると、大工の家のお八重の小さな妹が驅けて來て、一寸來て呉れといふ姉の傳言を傳へた。 また曩日の樣に、今夜何處かに酒宴でもあるのかと考へて、お定は愼しやかに水潦を避けながら、大工の家へ行つた。お八重は欣々と迎へたが、何か四邊を憚る樣子で、密と裏口へ伴れて出た。 『何處さ行げや?』と大工の妻は爐邊から聲をかけたが、お八重は後も振向かずに、 『裏さ。』と答へた儘。戸を開けると、雞が三羽、こツこツといひながら入つた。 二人は、裏畑の中の材木小屋に入つて、積み重ねた角材に凭れ乍ら、雨に濕つた新しい木の香を嗅いで、小一時間許りも密々語つてゐた。 お八重の話は、お定にとつて少しも思設けぬ事であつた。 『お定さん。お前も聞いたべす、源助さんから昨晩、東京の話を。』 『聞いたす。』と穩かに言つて、お八重の顏を打瞶つたが、何故か「東京」の語一つだけで、胸が遽かに動悸がして來る樣な氣がした。 稍あつて、お八重は、源助さんと一緒に東京に行かぬかと言ひ出した。お定にとつては、無論思設けぬ相談ではあつたが、然し、盆過のがつかりした心に源助を見た娘には、必ずしも全然縁のない話でもない。切りなしに騷ぎ出す胸に、兩手を重ねながら、お定は大きい目を睜つて、言葉少なにお八重の言ふ所を聞いた。 お八重は、もう自分一人は確然と決心してる樣な口吻で、聲は低いが、眼が若々しくも輝く。親に言へば無論容易に許さるべき事でないから、默つて行くと言ふ事で、請賣の東京の話を長々とした後、怎せ生れたからには恁麽田舍に許り居た所で詰らぬから、一度東京も見ようぢやないか。「若い時ア二度無い」といふ流行唄の文句まで引いて、熱心にお定の決心を促すのであつた。 で、其方法も別に面倒な事は無い。立つ前に密り衣服などを取纒めて、幸ひ此村から盛岡の停車場に行つて驛夫をしてる千太郎といふ人があるから、馬車追の權作老爺に頼んで、豫じめ其千太郎の宅まで屆けて置く。そして、源助さんの立つ前日に、一晩泊で盛岡に行つて來ると言つて出て行つて、源助さんと盛岡から一緒に乘つて行く。汽車賃は三圓五十錢許りなさうだが、自分は郵便局へ十八圓許りも貯金してるから、それを引出せば何も心配がない。若し都合が惡いなら、お定の汽車賃も出すと言ふ。然しお定も、二三年前から田の畔に植ゑる豆を自分の私得に貰つてるので、それを賣つたのやら何やらで、矢張九圓近くも貯めてゐた。 東京に行けば、言ふまでもなく女中奉公をする考へなので、それが奈何に辛くとも野良稼ぎに比べたら、朝飯前の事ぢやないかとお八重が言つた。日本一の東京を見て、食はして貰つた上に月四圓。此村あたりの娘にはこれ程好い話はない。二人は、白粉やら油やら元結やら、月々の入費を勘定して見たが、それは奈何に諸式の高い所にしても、月に一圓とは要らなかつた。毎月三圓宛殘して年に三十六圓、三年辛抱すれば百圓の餘にもなる、歸りに半分だけ衣服や土産を買つて來ても、五十圓の正金が持つて歸られる。 『末藏が家でや、唯四十圓で家屋敷白井樣に取上げられでねえすか。』とお八重が言つた。 『雖然なす、お八重さん、源助さん眞に伴れてつて呉えべすか?』とお定は心配相に訊く。 『伴れて行くともす。今朝誰も居ねえ時聞いて見たば、伴れてつても可えつて居たもの。』 『雖然、あの人だつて、お前達の親達さ、申譯なくなるべす。』 『それでなす、先方ア着いてから、一緒に行つた樣でなく、後から追驅けて來たで、當分東京さ置ぐからつて手紙寄越す筈にしたものす。』 『あの人だばさ、眞に世話して呉える人にや人だども。』 |
其身動く能はずして其心早く一切の束縛より放たれたる著者の痛苦の聲は是也。 著者の歌は從来青年男女の間に限られたる明治新短歌の領域を擴張して廣く讀者を中年の人々に求む。 |
しん粉細工に就いては、今更説明の必要もあるまい。たゞ、しん粉をねつて、それに着色をほどこし、花だの鳥だのゝ形を造るといふまでゞある。 が、時には奇術師が、これを奇術に応用する場合がある。しかしその眼目とするところは、やはり、如何に手早く三味線に合せてしん粉でものゝ形を造り上げるかといふ点にある。だから、正しい意味では、しん粉細工応用の奇術ではなくて、奇術応用のしん粉細工といふべきであらう。 さてそのやり方であるが、まづ術者は、十枚あるひは十数枚(この数まつたく任意)の、細長く切つた紙片を一枚づゝ観客に渡し、それへ好みの花の名を一つづゝ書いて貰ふ。書いてしまつたら、受けとる時にそこの文字が見えないために、ぎゆつとしごいて貰ふ。 そこで術者は、客席へ出て花の名を書いた紙を集める。しかし、客が籤へ書いた全部の花を造るのは容易ではない、といふので、そのうちから一本だけを客に選んで貰ふ。が、もうその時には、全部に同一の花の名を書いた籤とすり替へられてある。 これで奇術の方の準備がとゝのつたので、術者はしん粉細工にとりかゝる。まづ術者は、白や赤や青や紫やの色々のしん粉を見物に見せ、 『持出しましたるしん粉は、お目の前におきましてこと〴〵く験めます。』 といふ。勿論、しん粉になんの仕掛があるわけではないが一応はかういつて験めて見せる。 『さて只今より、これなるしん粉をもちまして、正面そなへつけの植木鉢に花を咲かせるので御座います。もし造上げましたる鉢の花が、お客様お抜取りの籤の花と相応いたしてをりましたら、お手拍子御唱采の程をお願ひいたします。』 かういつて、しん粉細工をはじめるのである。普通、植木鉢に数本の枝を差しておき、それへ、楽屋の三味線に合せてしん粉で造つた花や葉をべた〳〵くつゝけて行くのである。が、これが又、非常な速さで、大概の花は五分以内で仕上げてしまふ。 かうして花が出来上ると、客の抜いた籤と照合せる。が、勿論前に記したやうな仕組になつてゐるのだから、籤に書かれた花の名と、造上げた舞台の花とが一致することはいふまでもない。これが、奇術応用の『曲芸しん粉細工』である。 稲荷魔術の発明者として有名な、神道斎狐光師は、このしん粉細工にも非常に妙を得てをり、各所で大唱采を博してゐた。狐光師の、このしん粉細工に就いて愉快な話がある。 話は、大分昔のことだが、一時狐光老が奇術師をやめて遊んでゐた時代があつた。勿論、何をしなければならないといふ身の上ではなかつたが、ねが働きものゝ彼としては、遊んで暮すといふことの方が辛かつた。その時、ふと思ひついたのはしん粉細工だつた。 『面白い、暇つぶしにひとつ、大道でしん粉細工をはじめてやれ。』 一度考へると、決断も早いがすぐ右から左へやつてしまふ気性である。で彼は、早速小さい車を註文した。そしてその車の上へ三段、段をつくつてその上へ梅だの桃だの水仙だのゝしん粉細工の花を、鉢植にして並べることにした。 道楽が半分暇つぶしが半分といふ、至極のんきな商売で、狐光老はぶら〳〵、雨さへ降らなければ、毎日その車をひいて家を出かけて行つた。 五月の、よく晴れたある日であつた。 横浜は野毛通りの、とある橋の袂へ車をおいて、狐光老はしん粉で花を造つてゐた。 麗かな春の光が、もの優しくしん粉の花壇にそゝいでゐた。 『こりやあきれいだ。』 『うまく出来るもんだねえ。』 ちよいちよい、通りすがりの人達が立止つては、花壇の花をほめて行つた。もと〳〵、算盤を弾いてかゝつた仕事でないのだから、かうした讚辞を耳にしただけでも、もう狐光老の気持は充分に報いられてゐた。そして、『何しろこりや、美術しん粉細工なんだから……。』と、ひとり悦に入つてゐたのであつた。 と、そこへ、学校からの戻りと見える女生徒が三人通りかゝつた。そしてしん粉の花を眺めると、 『まあきれいだ!』 と立止つた。そして三人共車のそばへ寄つて来た。女生徒達は、しばらくしん粉を造る狐光老の手先に見とれてゐたが、『ねえ小父さん、小父さんにはどんな花でも出来るの?』 ときいた。 『あゝ出来るとも、小父さんに出来ない花なんてものは、たゞの一つだつてありはしない。』 『さう、ぢやああたしチユウリツプがほしいの。小父さん拵へてくれない?』 と一人がいつた。 『あたしもチユウリツプよ。』 『あたしも……。』 と、他の二人もチユウリツプの註文をした。然し此時、俄然よわつたのは狐光老だつた。何を隠さう、彼はチユウリツプの花を知らなかつた。『チユウリツプ、チユウリツプ、きいたやうな名だが……。』と二三度口の中で繰返したが、てんで、どんな花だか見当さえつかなかつた。 といつて今更、なんでも出来ると豪語した手前、それは知らぬとは到底いへないところである。 『ようし、勇敢にやつちまへ。』 と決心がつくと、やをらしん粉に手をかけて、またゝく暇に植木鉢に三杯、チユウリツプ ? の花を造り上げた。が、それは、むろん狐光老とつさに創作したところのチユウリツプで、桃の花とも桜の花ともつかない、実にへんてこな花であつた。 『さあ出来上つた。どうみてもほんものゝのチユウリツプそつくりだらう。』 と、狐光老は、それを女生徒達の前にさし出した。女生徒達は、あつけにとられた顔つきでそれを受けとると、 『うふゝ。』 『うふゝ。』 と、顔見合せて笑ひながら、おとなしく鉢を手にして帰つて行つた。が、後に残った狐光老はどうにも落付けなかつた。『チユウリツプ……一体どんな花だらう?』と、そのことばかり考へてゐた。 そのうち夕方になつた。で、店をたゝんで狐光老は、ぶら〳〵車をひいて野毛通りを歩いて行つた。ふと気がつくと、すぐ目の前に大きな花屋があつた。彼は急いで車を止めると、つか〳〵店の中へはいつて行つた。そして、 『チユウリツプはあるかい?』 ときいた。 『ございます。』と、すぐ店の者がチユウリツプを持つて来た。見ると、さつき自分の造つたものとは、似ても似つかぬ花であつた。 『いけねえ、とんでもないものを拵へちまつた。』 と、狐光老は、その花を買つて家に帰つた。そしてその晩、彼はチユウリツプの花の造り方に就いておそくまで研究した。 さて翌日、狐光老は、また昨日の場所へ店を出した。そして十杯あまり、大鉢のチユウリツプを造つて、屋台の上段へ、ずらり、人目をひくやうに並べておいた。 三時頃、また昨日の女生徒が三人並んで通りかゝつた。と、彼女達は、早くも棚のチユウリツプに目をつけて、 『あら、チユウリツプがあるわ。』 と、急いで店の前へ寄つて来た。 『小父さん、これチユウリツプつていふのよ。』 |
これは上海滞在中、病間に訳したものである。シムボリズムからイマジズムに移つて行つた、英仏の詩の変遷は、この二人の女詩人の作にも、多少は窺ふ事が出来るかも知れない。名高いゴオテイエの娘さんは、カテユウル・マンデスと別れた後、Tin-tun-Ling と云ふ支那人に支那語を習つたさうである。が、李太白や杜少陵の訳詩を見ても、訳詩とはどうも受け取れない。まづ八分までは女史自身の創作と心得て然るべきであらう。ユニス・テイツチエンズはずつと新しい。これは実際支那の土を踏んだ、現存の亜米利加婦人である。日本ではエミイ・ロオウエル女史が有名だが、テイツチエンズ女史も庸才ではない。女史の本は二冊ある。これは一九一七年に出た、二冊目の PROFILES FROM CHINA から訳した。訳はいづれも自由訳である。 月光 ――Judith Gautier―― 満月は水より出で、 海は銀の板となりぬ。 小舟には、人々盞を干し、 月明りの雲、かそけきを見る。 山の上に漂ふ雲。 人々あるひは云ふ、―― 皇帝の白衣の后と、 あるひは云ふ、―― 天翔る鵠のむれと。 陶器の亭 ――同上―― 人工の湖のなか 緑と青と、陶器の亭一つ。 かよひぢは碧玉の橋なり。 橋の反り、虎の背に似つ。 亭中に、綵衣の人ら。 涼しき酒、盃に干し。 物語り又は詩つくる、 高々と袖かかげつつ、 のけ様に帽頂きつつ。 水のなか、 明かにうつれる橋は 碧玉の三日の月めき、 綵衣の人ら 逆様に酒のめる見ゆ、 陶器の亭のもなかに。 夕明り ――Eunice Tietjens―― 乾いた秋の木の葉の上に、雨がぱらぱら落ちるやうだ。美しい狐の娘さんたちが、小さな足音をさせて行くのは。 洒落者 ――同上―― 彼は緑の絹の服を着ながら、さもえらさうに歩いてゐる。彼の二枚の上着には、毛皮の縁がとつてある。彼の天鵞絨の靴の上には、褲子の裾を巻きつけた、意気な蹠が動いてゐる。ちらちらと愉快さうに。 |
1 嘉吉は山の温泉宿の主人だった。この土地では一番の物持で、山や畑の広い地所を持っていた。山には孟宗の竹林が茂り、きのこ畑にきのこが沢山とれた。季節になると筍や竹材を積んだトラックが、街道に砂埃をあげ乍ら、七里の道を三島の町へ通って行った。 嘉吉はまだ三十をちょっと越したばかりの若い男だった。親父が死んだので、東京の或る私立大学を止めて、この村へ帰って来た。 別段にする事もなく、老人を集めては、一日、碁を打っていた。余っ程閑暇の時は、東京で病みついたトルストイの本を読んでいた。それから時々は、ぶらぶらと、近くにある世古の滝の霊場に浸かり旁々山や畠を見まわった。 嘉吉は人が好くて、大まかで、いつもにこにことしていた。小作人が、時折、畠の山葵をとって、沼津あたりからやって来る行商人に、そっと売ったりしても、めったに怒ったりすることはなかった。だから、しまりやの先代よりはずっと下の気受けがよく、雇人達は皆んなよく働いた。その度に何かと賞めてやるので、皆んなどうかして、この主人に対して忠僕となろうと心掛けていた。 ただ、久助だけは、ちっとばかり、度が過ぎやしめえか、と心配していた。久助はもう五十に手がとどく、先代からの雇人だった。 2 先代の在世中には殆んど縁切り同様だった先代の弟、今の嘉吉には叔父に当る男が、この頃はちょくちょくと、沼津から顔を出した。その度に久助は苦い顔をした。 その男は、来るときまって、嘉吉さんや、と甘ったるい声を出しては、幾ばくの金を借りて行った。今度沼津へ草競馬を始めようかと思ってな、そりゃお前、ど偉い儲けだ。それでその少しばかり、運動の資金が要るんじゃが、どうだろう、え? と云われると、嘉吉はいつものように人の好い顔を崩して、そりゃ良さそうですな。そして三島の銀行の小切手を書いてやるのだった。 叔父は沼津の芸者を落籍いて、又三月程経った、乗合に乗ってぽかぽかと、この山の宿へやって来た。 ブリキの鑵へ印刷する工場を作りたいのじゃがどうだろう、え? 嘉吉さん、…… 主人と沼津の男の会話が、開け放たれた二階の窓から洩れて来る。と、久助は忌々しそうに舌打ちをしては、釣竿をかついで川へ出た。 この土地は低い山の懐に抱かれていた。その底を、石の多い谷の河原に、綺麗な水が瀬をなして流れていた。久助は片手にひっかけ鉤をつけた釣竿を持ち、片手に覗眼鏡を動かしては、急湍をすかせながら腰まで浸かして川を渉った。こうやって釣った鮎は毎日の客の膳に上るのだった。 久助は先代の時から、毎日この鮎だけを釣るのが仕事だった。この村で鮎を釣るのは一番だと云われていた。多い日には二十本もあげた。 久助は今、岩に腰をかけて、煙管でぷかぷかと一服休んでいる。紫色の煙が澄み切った秋の空気の中を静かに上っている。赤蜻蛉がすいすいと飛んでいる。 向う岸の竹藪に夕陽がわびしくさしているのを眺めながら、久助はぼんやりと考えていた。 あんなお人好しで、人を信じる事だけしか知らない若主人じゃ、今にあの竹藪もなあ、と深い溜息を吐いた。 その時、丁度頭の上で、ガタガタと音がした。久助はびっくりして空を見あげた。 川べりに生えた栗の大木の梢に、釣橋がガタガタと揺れている。青白い女の顔が、山と山で細長く区切られた夕暮の空の中で、晴れやかに笑っている。 久助は煙管をぽんと岩角にぶっつけて、おしまかと云った。 釣橋のたもとに一軒家があった。土地の曖昧宿で、久助は給金を皆んなそこで飲んでしまった。おしまはそこのお酌だった。久助は惚れていたが、おしまは何とも思っていなかった。 久助さんにゃ、鮎は釣れてもおしまは釣れめえ、と朋輩がからかった。久助は怒って、三日も口をきかなかった。 久助はどうしても今晩おしまに会い度いと思ったが、まだ給金を貰っていなかった。水を入れた木箱の中の鮎を数えると、彼は立上った。そして岩を飛び飛び、憂鬱な顔をして宿へ帰って来た。 開け放たれた二階の窓からは、ブリキの鑵へ印刷する工場の話がまだ続いていた。大分お酒がまわっているらしく、陽気な男の笑い声が聞えていた。久助はグビグビと咽喉を鳴らした。 流れを引いたいけすに鮎を放つと、板場の註文だけに網にいれて台所へ渡し、自分の部屋に帰って着物を着更え、冷えた身体をお湯に浸かした。釣橋の上から笑ったおしまの身体が、そこの湯気の中から白く浮んで彼を招いた。 ぼんやりと部屋に帰った久助はぼんやりと朋輩の行李を開けていた。そして、その底に入れてあった蟇口の中から、五円の札を一枚抜きとると、そのままぼんやりと夜道を歩いて行った。 夜中。――ぐでんぐでんに酔払って帰って来た久助は、宿の裏口で、いきなり朋輩の男に殴られた。何をするんでえ、と云うと又殴られた。そこへ主人が起きて来て朋輩の男を宥めた。その男は五円の札を主人から貰って、ぶつぶつ云いながら、寝て了った。久助も身体を曲げて、隅の方に酔い寝して了った。 3 翌朝、ケロリとした顔をして、久助は主人の前へ呼び出された。 主人は、人間の性が如何に善であるかを、諄々として説いてやった。皆んな一時の出来心で悪い事をするのだ、お前だってそうだろう、と云った。 その通りです、と久助がぴょこんと頭を下げた。眼の中に一杯涙を溜めていた。 そうだろう、そうだろう、私しゃお前を信じている。お前は私の信頼を決して裏切るような男じゃない。その証拠をお前はきっと見せてくれるだろう。――そして主人は日頃読んでいる、トルストイの「ポリクシュカ」と云う小説を思い出した。 彼は立上って、やがて帳場の金庫から財布を持って出て来た。中から十円札を三十枚数えると、それを久助に渡して、云った。それじゃわしは、お前に今日、大切な用件を頼むよ。昼から、孟宗の荷を三島へ出すから、お前が従いて行って、いつもの丸久へ売り渡し、その代金と、それからこの三百円を一緒に、三島の銀行へ預けて来ておくれ。良いかい? 主人は出来るだけ優しい言葉を使った。そうやって久助の良心の中に、しっかり監視をつけてやった。 久助は涙をぽろぽろと流し乍ら、かしこまりましたと云った。主人は、これで良い、と思った。これでこの男も真人間になれる。 4 竹材を一杯積んだトラックが、川に沿った街道をガタガタと走って行った。 代金を受取った久助は、丸久の店を出るとそのまま、銀行の前をさっさっと通り越して、真直ぐに駅の方へ歩いて行った。彼はそこで東京行の切符を買った。 箱根の山が、車窓の外でグルグル廻っていた。 俺が無事に今日の役目を果して帰れば、あの若主人の信念はますます固くなるばかりだ。これであの人も、人を信ずる事の愚かさを知る事が出来ただろう。そう思えばこんな三四百の金なんか安いもんだ。これであの竹林も、山葵畠も、皆んな無事に済むのだから。 |
これは異本「伊曾保の物語」の一章である。この本はまだ誰も知らない。 「或鴉おのれが人物を驕慢し、孔雀の羽根を見つけて此処かしこにまとひ、爾余の諸鳥をば大きに卑しめ、わが上はあるまじいと飛び廻れば、諸鳥安からず思ひ、『なんぢはまことの孔雀でもないに、なぜにわれらをおとしめるぞ』と、取りまはいてさんざんに打擲したれば、羽根は抜かれ脚は折られ、なよなよとなつて息が絶えた。 「その後またまことの孔雀が来たに、諸鳥はこれも鴉ぢやと思うたれば、やはり打ちつ蹴つして殺してしまうた。して諸鳥の云うたことは、『まことの孔雀にめぐり遇うたなら、如何やうな礼儀をも尽さうずるものを。さてもさても世の中には偽せ孔雀ばかり多いことぢや。』 |
1234567890 1●●●●●●●●●● 2●●●●●●●●●● 3●●●●●●●●●● 4●●●●●●●●●● 5●●●●●●●●●● 6●●●●●●●●●● 7●●●●●●●●●● 8●●●●●●●●●● 9●●●●●●●●●● 0●●●●●●●●●● (宇宙は羃に依る羃に依る) (人は数字を捨てよ) (静かにオレを電子の陽子にせよ) スペクトル 軸X 軸Y 軸Z 速度 etc の統制例へば光は秒毎三〇〇〇〇〇キロメートル逃げることが確かなら人の発明は秒毎六〇〇〇〇〇キロメートル逃げられないことはキツトない。それを何十倍何百倍何千倍何万倍何億倍何兆倍すれば人は数十年数百年数千年数万年数億年数兆年の太古の事実が見れるじやないか、それを又絶えず崩壊するものとするか、原子は原子であり原子であり原子である、生理作用は変移するものであるか、原子は原子でなく原子でなく原子でない、放射は崩壊であるか、人は永劫である永劫を生き得ることは生命は生でもなく命でもなく光であることであるである。 嗅覚の味覚と味覚の嗅覚 (立体への絶望に依る誕生) (運動への絶望に依る誕生) (地球は空巣である時封建時代は涙ぐむ程懐かしい) |
社会の各層に民主化の動きが活溌になつてくると同時に、映画界もようやく長夜の眠りから覚めて――というとまだ体裁がよいが、実はいやおうなしにたたき起された形で、まだ眠そうな眼をぼんやりと見開きながらあくびばかりくりかえしている状態である。 しかし、いつまでもそんなことではしようがない。早く顔でも洗つてはつきり眼を覚ましてもらいたいものだ。 さて、眼が覚めたら諸君の周囲にうずたかく積まれたままになつている無数の問題を手当り次第に一つ一つ片づけて行つてもらわねばならぬ。中でも早速取り上げてもらわねばならぬ重要な問題の一つに著作権に関する懸案がある。ここでは、この問題に対する私見を述べてみたいと思う。 従来の日本の法律がはなはだ非民主的であつたことは、我々の国体が支配階級の利益のみを唯一の目的として形成し、維持されてきたことの当然の結果であるが、その中でも、社会救済政策、および文化保護政策の貧困なることは、これを欧米の三、四流国に比較してもなおかつ全然けたちがいでお話しにならない程度である。 法律によつて著作権を保護し、文化人の生活を擁護することは文化政策の重要なる根幹をなすものであるが、我国の著作権法は極めて不完全なものであり、しかもその不完全なる保証さえ、実際においてはしばしば蹂躙されてきた。しかし、既成芸術の場合は不完全ながらも一応著作権法というものを持つているからまだしもであるが、映画芸術に関するかぎり日本には著作権法もなければ、したがつて著作権もないのである。もつとも役人や法律家にいわせれば、映画の場合も既存の著作権法に準じて判定すればいいというかもしれないが、それは映画というものの本質や形態を無視した空論にすぎない。なぜならば現存の著作権法は新しい文化部門としての映画が登場する以前に制定されたものであり、したがつて、立法者はその当時においてかかる新様式の芸術の出現を予想する能力もなく、したがつて、いかなる意味でも、この芸術の新品種は勘定にはいつていなかつたのである。 次に、既存の著作権法は主としてもつぱら在来の印刷、出版の機能を対象として立案されたことは明白であるが、このような基礎に立つ法令が、はたして映画のごとき異種の文化にまで適用ができるものかどうか、それは一々こまかい例をあげて説明するまでもなく、ただ漠然と出版事業と映画事業との差異を考えてみただけでもおよその見当はつくはずである。そればかりではない。映画が芸術らしい結構をそなえて以来今日に至るまで、我々映画芸術家の保有すべき当然の権利は毎日々々絶え間なく侵犯されつづけてきたし、現にきのうもきようも、(そしておそらくはあすもあさつても)、我々の享受すべき利益が奪われつづけているのは、我々の権利を認め、かつこれを保護してくれる法律もなく、また暫定的に適用すべき条文すらもないからにほかならないのである。 したがつて、我々映画芸術の創造にあずかるものが、真に自分たちの正当なる権利を擁護せんとするならば、何をおいてもまず映画関係の著作権法を一日もすみやかに制定しなければならぬ。しかして、映画芸術家の正当なる権利を擁護して、その生活を保護し、その生活内容を豊富にすることは映画芸術そのものを向上せしめるための、最も手近な、最も有効な方法であることを忘れてはならぬ。 さて、次にその実現方法であるが、これには二つの条件が必要である。すなわち、まず先決問題としては立法の基礎となるべき草案をあらかじめ我々の手によつて練り上げておくことであり、第二の段階としては、従業員組合の組織をつうじて、あらゆる機会に政府あるいは政党に働きかけて草案の立法化促進運動を果敢に展開することである。 右のうち、草案の内容については、私一個人としては相当具体的な腹案を持つているが、しかし、それを発表することは本稿の目的でもなく、また、それには別に適当な機会があると思うから、ここではくわしいことは一切省略しておく。 |
一 私の今から申し上げやうとすることは政談演説や労働運動の講演会といふ様なものではなくて、ごくじみな話であります。初に農民自治の理論を話して、次にその実際を話したいと思ひます。 理論としては第一に自治といふことの意義、第二に支配制度、政治制度の不条理なこと、第三に土地と人類との関係、即ち自治は結局は土着生活であること、土着のない自治制度はないこと、土民生活こそ農民自治の生活であることを述べたいと思つてをります。実際としてはこの理論の実行方法とそれへの歩みを述べるために、第一社会的方法、第二個人的方法に分けてお話いたします。 二 地上の全生物は自治してをります。単に動物だけではなく植物もみな自治生活を営んで居ります。 蟻は何万、何十万といふ程多数のものが自治協同の生活をしてをります。蟻の中には諸君も御存知のやうに戦争をするのもありますが、それでも自分たちの仲間の間では相互扶助的な美くしい生活をしてをります。春から夏へかけて一生懸命に働いて沢山の食糧を集め、冬越の用意をいたします。土の下に倉庫を造り、科学的方法で貯へて、必要に応じてそれを使ひます。お互の間には礼儀もあり規律もあり、その社会制度は立派なものであります。しかし他部落の者が襲撃して来た時などには勇敢に戦争をいたします。私はその戦争をみたことがあります。 丁度フランスにゐた時のことであります。 フランスの家はみな壁が厚くて二尺五寸位もあります。あの千尺も高い絶壁の様な上に私どもの村がありました。そこのある一軒の家に住つて百姓をしてをりました。その頃は忙しい時には朝から夜の十二時頃までも働いて居りました。ある夜、遅く室に帰つて来て床につきましたが、何だか気持がわるいので起きてランプをつけてみると大へん。十畳ばかりの室の半分は真黒になつて蟻が戦争をして居ります。盛んに噛み合つてゐる有様は身の毛がよだつばかりでした。蟻を追ひ出さうと思つてにんにくを刻んで撒いたがなか〳〵逃げない。翌日も戦ひ通してゐましたが、その噛み着いてゐる蟻の腹をつぶしてみても、決して離さないで、噛みつかれた方は其敵に噛みつかれた儘かけ廻つてゐた位であります。然しその翌朝になると戦がすんだと見えて、一匹残らず退いてしまひ、死骸もみんな奇麗に片づけてしまひました。蟻は支配のない社会生活を営み乍ら、協同一致して各自の社会の幸福と安寧をはかり、その危険に際しては実に勇敢に戦ひます。 蜂の社会に支配者はありません。暖い日には一里も二里も遠く飛び廻り、足の毛に花粉をつけては持つてかへつて冬越の為に貯へます。かうして皆がよく働いて遊人といふものがありません。但し生殖蜂といふものがありますが、これは目的を達した後には死んでしまつて、後には労働蜂と雌蜂とだけが残ります。「働かざる者食ふべからず」といふことは人間社会では新しい言葉のやうに言つてゐますが、動物社会には昔からあつたことであります。 進化論者は人間は最も進歩したものだといふが、蟻や蜂の方が遙に道徳的であつて、人間は悪い方へ進歩して居ります。殊に此頃では資本家だとか役人だとかいふ者が出来て、この人間社会を益々悪い方へ進歩させて居ります。蜂は巣の中においしい蜜を貯へて居りますが、他の群から襲はれる時には実に猛烈に戦つて、討死するも省みないのであります。マーテルリンクは『蜂の生活』といふ本を書きましたが、その中には蜂の愛国心、或は愛巣心といふべきものが如何に強いものであるかを詳に説いて居ります。これは我々にしてみれば愛郷心、愛村心ともいふべきものであります。然るにそれ程までに死力をつくして守つた巣も、自分たちの若い子孫にゆずる時には、蜜を満してをいて自分たちの雌蜂を擁護して、そつと他の新しい場所へ出ていきます。人間社会によくある様に「俺の目玉の黒い中は……」なんて親が子に相続させないで喧嘩する様なことはありません。 此外、鳥にしても他の動物にしてもみな同じことで、美くしい社会組織をもつて自治生活をつゞけてをります。 単に自分たちの種類の中だけではなく、他のいろ〳〵な種類とも共同生活をして居るのもあります。中央アメリカ旅行者の記録によると、人間に家の周囲は恰も動物園の如き有様ださうであります。主人と客とを見分け、自分の家と家族の人たちをよく覚えてをります。他人が来ると警戒して喧しく鳴き立てます。又、狼、豹等も住民に馴れてゐるし、小鳥は樹上で囀つてゐる、殊に若い娘はよく猛獣と親しみ、その耳や頭の動かし方、声の出し方などでその心理を理解するし、動物もよく娘の心理を理解します。かうして野蛮人の家が丁度動物園の如き奇観を呈し、動物と人との共同の村落生活を実現してゐるさうであります。 植物の自治生活については私の申し上げるまでもありません。春は花が咲き、秋には実り、自らの力で美くしい果実を実らせます。そしてだん〴〵自分の種族を繁殖させます。 七八十年来、進化論が唱へられ、生存競争が進化の道であると言はれて居ります。この進化論はワレスやダーウヰンが唱え出したものでありますが、之に対してクロポトキンは相互扶助こそ文明進歩の道であるといふことを唱へて居ります。生存競争論では強い者が勝つて、他を支配するといふのであります。しかし支配といふことは動物社会には事実存在しないことであります。他の団体に餌を求めていくことはあつても、その団体を支配することなどは事実としてはないことであります。 今、植物の例にうつります。桃の木を自然の生育に委せてをくと多くの花が咲きますが、その三分の一ばかりが小さな実を結びます。それから成熟して立派な実となるのは、又その三分の一ばかりであります。進化論者はこれも生存競争の為だといふかもしれませんが、それは一の既定概念による判断に過ぎないのであります。見方によつては生存競争といふよりも、むしろ相互扶助の精神の現はれと考へることも出来ます。林檎や梨の木も同様であります。 皆さんも御存知の通り木の皮の下には白い汁が流れて居ります。あの液汁が余りに盛んに下から上へ上ると花は咲きません。たゞ木が大きくなり葉が茂るばかりであります。今その枝を少し曲げて水平にすると花が咲き、又多く実ります。これは光線と液汁との調和が取れるからであります。この時に落ちていく花は競争に負けたのではなくして、太陽の光線との調和の為めに多く咲き、後には他を実らす為に犠牲になつたと考へたいと思ひます。多く咲くのは調節のためであります。戦争に於て第一線に立つて金鵄勲章をもらふ者のみが国防の任に当るのではなく、後方の電信隊、運搬者、農夫等も必要な任務をつくしてゐると同様に、実つたもののみが使命をつくしてゐるのではなく、落ちた花にも使命があると考へたいのであります。戦争の時に第一線の者だけが勇者で、人知れぬ所で弾丸に当つて斃れた者が勇者でないとするやうな考へ方には共鳴出来ません。しかるに今の社会組織が生存競争主義になつてゐるから、殊に其様に間違つた考へ方、間違つた事実が生ずるのであります。 日露戦争当時、私はある事件で入獄してをりましたが、その時にある看守はこんな事をいひました。「お前たちは幸福なものである。我々は毎日十六時間づゝ働いてゐる。而も二時間毎に二十分づゝ腰掛けることが出来るだけで、一寸でも居眠でもすると三日分の俸給を引かれる。然るにお前たちは毎日さうして読書してゐることが出来る。実に幸福なものである」といつて我々を羨むのでありました。そういひ乍ら我々を大切に世話してくれます。彼等からいふと我々は商品の様なものであります。司法大臣でも廻つてくる時に少しでも取扱方に落度があればすぐに罰俸を喰ふのであります。 さて或る時お上からお達しが監獄へ来て、「戦争の折であるから倹約をせよ」といつて来ました。そこで監獄の役人たちはいろ〳〵と相談を致しましたが、囚人の食物を減ずることも出来ないので、看守の人員を減ずるより仕方ないといふことになり、百五十人を百人に減じました。看守さんたちは眠いのを辛抱して以前にも増して働きましたが、その結果として典獄さん一人が表彰されたのみで他の看守さんたちは何一つも賞められなかつたのであります。その典獄さんは実際よい人でありました。私やその当時隣の室にゐた大杉などを側へ呼びよせて「お前たちは立派な者だ、社会のために先覚者として働いて貴い犠牲となつたのだ」とて、大そう親切にしてくれました。この典獄さんが表彰されたことはお目出たいことでしたが、「俺たちは太陽の光で新聞を読んだことがない」といつてゐる看守たちが少しの恩典にも浴することが出来なかつたのは何としたことでせうか。賞与をもらはなかつた看守も国家のためになつてゐることは明かですが、生存競争主義で組織された世の中であるから上の者だけが賞与にあづかるのも己むをえないのであります。こゝに来てゐらつしやる巡査さんもこのことはよく御承知の筈だと思ひます。 このごろ東京では泥棒がつかまらないので巡査を何千人か増員するといつてをりますが、下の巡査が能率をあげれば上の人が褒美をもらふまでゞあります。これは単に警察や監獄の中だけではなく、会社でも、学校でも、銀行でも、又農村でも到る所同様であります。だから皆が何でも偉い者にならうとしてあせつて、一つづつ上へ〳〵と出世をしたがります。平教員よりも校長に、巡査よりも部長にといふのが今の世の中の総ての人々の心理であります。 然し上の位の人だけが手柄があるのかといふとさうではありません。どんなに下の位の者でもみなそれ〴〵の働きをしなければ、いくら上の人が命令をしても何一つまとまつた仕事は出来ないのであります。然るに今日の生存競争の考へからすれば馬鹿と悧※(りっしんべん+巧)とが出来るのであるが、人といふ見地からすれば一人で総てを兼ねることは出来ません。どんなに馬鹿と見えても必ず誰にも代表されない特長を持つてゐるものであります。特別の体質と性質とを持つてゐて、そこに個人としての特別の価値を持つてをります。悧※(りっしんべん+巧)とか馬鹿とかいふが甲の国で悧※(りっしんべん+巧)な人、必ずしも乙の国で悧※(りっしんべん+巧)とは限らず、乙の時代に悧※(りっしんべん+巧)な人、必ずしも丙の時代に適するとは限らないものであります。この通り、総ての動物総ての植物に至るまで、みなそれ〴〵の使命を持つてゐることは人間におけると同様であります。 こゝで人間社会のことを考へてみませう。だが近代社会のことは言はぬことにいたします。それはあまり悪現象に充ち満ちてゐるからであります。太古、ヨーロツパ文明にふれない野蛮人の生活についてゞあります。 モルガンといふ社会学者はアメリカに渡り、土着人の社会生活を研究して『古代社会』といふ本を書いてをります。彼の研究によると、米国の一地方に住居したエロキユアス人種といふのは支配なく統治なく、四民平等の自治協同の生活をしてをつたといふことであります。この人たちはある事柄を決するのに皆が決議参与権を持つて居ります。日本では今頃になつて普通選挙などゝ騒いでゐるが、この人種は既に全部の人が参与権を持つて居りました。そして村は村として一つの独立の団体であつて、決して大きな全体の一機構ではなかつたのであります。 フランス革命の時には自由、平等、博愛を標語として叫びましたが、この土人たちはとつくの昔から其を実行してゐたのであります。人間が誤つた思想や学問に支配されない前には、みんな自由、自治の生活をしてをつたのであります。これはアメリカだけではなくしてヨーロツパでも、アジアでも太古の社会はみなさうでありました。支那の昔、唐の時代の詩人に白楽天といふ人がありました。彼の詩にはよくこれが現はれてゐます。「朱陳村」といふ詩などには軍隊も警察もなく、而もよく自治して生を楽しんでゐる村の有様が現はれてをります。フイリツピンのルソン島も今のように征服されない以前には自由、平等、博愛の社会を造つてをりました。巡査なども不必要であつたことは勿論であります。尊ばれるものは武器を携へてゐる人ではなくて長老であります。長老は知識があり経験があつて、村落生活を助け導いてくれることが多いからであります。しかし長老たちは権威をもつて支配するやうなことはありません。文明社会には元老院、枢密院などいつて老人が権威を振ふ場所がありますが、其昔にはありませんでした。然るに此社会はアメリカ人の為に滅されて了ひました。 次に日本自身について考へてみます。天照大神に関する神話の中、素盞嗚尊の行為についてはいろいろの解釈があり、社会学上でいへば一の社会革命であるが、神話のまゝで見れば暴行であります。兎に角その暴行のために天照大神が天の岩戸の中に隠れてしまはれたので世間が暗闇となりました。そこで八百万の神々は一大会議を開いて、素盞嗚尊を流刑にすることゝ天照大神に出ていたゞいて世間を明るくすることゝを決議しました。その神々の間には位の上下等もなく、皆平等であつて、皆が決議権を持ち、階級的差別はありませんでした。その時に八罪といつて八つの重な罪を決めましたが、不思議なことには盗みや詐欺等私有財産に関する罪といふものがありません。想ふにその頃は部落共産制であつて私有財産といふものが無かつた為に盗みなどといふこともなかつたのであらうと思ひます。日本の古典として最も貴重な『古事記』に現はれた日本の国体はこれであります。先刻述べましたエロキユアスと同様な社会生活であつて、統治なく支配なき社会でありました。八百万神とは今でいへば万民であります。万民が一所に集つて相談をしたのであります。人間本来の生活はみな之であります。総ての民族が太古にはこうした生活を続けて来たにも関はらず、何故に支配といふことが出来てきたか。これは重要な問題であります。 故に私は茲に支配制度の発生について考へてみたいと思ひます。 バビロンの歴史は今を去る四五千年前のものでありますが、その遺物に王様の像の彫刻があります。又、バビロン人の出る前にはアツカド人、スメリヤ人などといふ人種があつて、前者は高原に後者は平原に住んで居りましたが、彼等の遺物の中にも王様の像があります。但し王様の像といつても別に金の冠をいたゞいてゐるわけではなく、多くの人と共に土を運んでゐるのであります。たゞ他の人より大きな体に刻んであるのと、その側の文字によつてそれと想像出来るのであります。その頃の王様とは総代又は本家といふ様なものであつて、支配する人といふ意味はなかつたのであります。王様であると同時に労働者の頭であり、自らも労働する人であつたのであります。労働の中心人物が王様であつたのであります。その後二三百年乃至五六百年たつてからの王様の像をみますと、共に土を運ぶ様なことはなく、労働者の側にあつて測量器械の様なものを持つてをります。 〔以下五百二十字分原稿空白〕 その間の変化を考へてみると極めて興味ある事実が潜んでゐます。最初は天文も分らなければ暦も無かつたことは言ふまでもありません。だん〴〵日が短くなる、寒くなる、天気は毎日陰気になる。人々はどうなることかと心配してゐる。こんな時に経験に富んだ老人があつて「何も心配することはない。もう幾日位辛抱しろ。すると又暖い太陽がめぐつてくる」と教へて人々の不安を慰めたとする。又、作物の種子を播く時期や風の方向の変る時期、或は大風の吹く時期なども老人は知つたでせう。二百十日もかうして人々に知られるようになつたと思ひます。かゝる長老は村の生活になくてはならぬ人で村人に尊敬をされるのは自然であります。村人は或は彼を特別の才能ある者と思ひ、或は天と交通ある者と考へるかもしれません。そこで長老は喜んで自分の経験を多くの村人に伝へないで、自分の子孫、或は特別の関係ある者にのみ伝へて秘伝とするやうになります。村人はその秘伝の一族に贈物、或は捧物をして御利益を受けやうとする様になります。そこで彼等は労働しないでもその秘伝のお蔭によつて生活が出来る様になります。彼等は毎日遊んでゐて専ら自分の研究を続けることも出来れば、他のいろんな高等な学術の研究に没頭することも出来る様になります。徳川時代までは薬や剣術等にこの秘伝、或は一子相伝などが多かつたことは皆さんが御存知の通りであります。 こんな現象が永続すると自然に特別の階級が出来て、特権を持つと同時に、閑もあるし資力もあるから知識が進歩して益々自分達の生活に都合のよいことを考へる様になるでありましやう。初めは民衆の為であつた知識が後には自分のためとなり、初めは民衆のためになるから尊敬されたものが、後には単に之を所有するが故に尊敬される様になり、遂には偉くない者でも其秘伝を受けついだものは搾取が出来るやうになり、全く無意義なことになりました。 階級の確立、支配者の出現が社会生活に及ぼした影響をみるに、第一、経済や政治の組織の中に無益なことが生じて来ました。第二には道徳的には非常な不義が行はれる様になり、悪事が世を支配する様になりました。第三には人々が自然に対する美を感じなくなり、美的生活から離れて行きました。今その一つづゝについて詳しく話して見ましやう。 第一、経済的無益について。 あるものが他を支配する結果として、即ち生存競争の結果としてこんな事が生ずるのであります。国際的の例について考へてみるに、英国は紡績事業に於ては世界の産業を支配してをります。印度の綿をマンチエスターへ持つて帰つてそれを綿布に造ります。そして又これを印度へ持つていつて印度人に売りつけて搾取をしてをりますが、これは印度征服の結果であります。印度で産する綿は印度の土地で印度人の手によつて綿糸、綿布等として、印度人のために用ふればよいと思ひます。支那で出来る綿は支那人のために、日本で出来る綿は日本人のために用ひてこそ当然なのであります。然るに日本も支那で出来る綿花を内地へ持つて来て日本の女工を虐待し、多くの石炭や人間や機械力を費して更に之を輸出してをります。これは資本家の搾取、支配慾の発揮であります。然しこれが永続きをするとは思はれません。此頃は印度人が自ら工場を建て、自らの機械、自らの技術を用ひて経営する様になりました。英国人も亦、印度に英国人の工場を建てる様になりました。支那に日本の工場が出来だしたのも同じ理由からであります。これはよい一つの例ですが、之に類似したことで幾多の経済的無用事が行はれてゐることは数へることも出来ない位であります。それに目ざめて来てか英国の各属領は殆んど独立自治国となつてしまひました。 国内における小さな例をあげてみます。家を建てる為には、その土地に存在する材料を使つて、その土地の人が造れば経済でありますが、事実はさうではありません。東京の東の端に家を建てるのに西の端から大工さんが行き、南のはてから材料を運んで行きます。なぜそうなるか、其れはみな「俺が利益しやう」といふ野心があるからであります。この様な不経済は大したものであります。仮りに一人の大工さんが其為に一時間づゝ無駄に費すとすれば五十人では五十時間の無駄が出来るわけであります。もし人々が真に土着して自治するならば、こんな無駄も出来ない筈であります。 第二に美くしさの失はれたことを申します。昔はどんな村にでも組合制度があつて、冠婚葬祭等を協同でやつたものであります。然し支配制度が徹底するに従つて人心が荒んで来て無闇に隣人よりも偉くならうとする様になります。他人を蹴落しても自分が出世したいといふのが今の文明人の願ひであります。文明人はすきのない顔をしてゐるが、つまり人相がわるいのであります。儲けようとか出世しやうとか、勝たうとか、一生懸命に考へてゐるから自然に人相が悪くなるのであります。監獄へはいつてゐて外へ出してもらふと、世間の人がみなぼんやりに見えます。これは監獄の中では囚人と看守がお互にすきをねらつて寸分の余裕もなく、一寸ひまがあれば話をするとか、何か悪戯をしやうと考へてゐるので自然に険悪な顔になつてくるのです。都会人よりも田舎者の方が人相がおだやかで、善いのも自然であります。 又、織物などでは今の人は三越や松坂屋から買つたものが最上の物の様に考へてゐて、手織物の美しさなどを省みる者はない様であります。先年私は十年振りでヨーロツパから帰つて来て悪趣味の下劣な日本婦人の服装に驚いたのであります。昔は服装にも建築にも深い哲学があつたのでありますが、近代商業主義のためにすつかり壊されてしまひました。昔の哲学は近代の商人により学者により商店員により、ずん〴〵と破壊されて了ひました。そして東京は最悪の都会となつてしまひました。同じ都会でも上海などはまだ立派であります。それはヨーロツパ文明の伝統が残つてゐるからであります。そこには自ら哲学が潜んで居ります。然るに、東京はたゞ利益を支配のために出来た都会で、少しも美を発見することは出来ません。 フランスにパンテオンといふ立派なお寺がありますが、こゝには国家の功労者の死骸が沢山祭つてあります。先は亡くなつた社会党のジヤン・ジヨレスの死骸もこゝに祭られました。この寺が出来る時のことであります。技師が見事なひさしを考案してくつゝけた処、どうしたはずみか完成に近づいた時、突然落ち潰れて了いました。それを見た技師は驚き且嘆いてその結果死んでしまつたのであります。一つのひさしにもこれだけの真心をこめてゐた技師の心は何と羨しいではありませんか。更に私が感心することは、その後を受けついだ技師が、前任技師の設計をそのまゝ用ひて寸分違はずに前任者の計画通りに実現したといふことであります。もし後任技師が支配慾の強い人であつたならば、必ず前任者の案を葬り自分の設計を用ひたであらうと思ひます。実に美くしい名工の心であります。 昨夜も小山〔四三〕君に聞いたのですが、小山君の着物はお母様の手織ださうであります。その純な色と模様とは実に立派なものであります。どんな田舎にもこんな立派なものがあるのに、地方の人たちは何故これに気づかないで醜い反物を三越などから求めるのでありませうか。これ明かに資本主義から来た間違つた思想に支配されるからであります。然るに茲に面白いことは、貴族の奥様方なぞになると、あのケバ〳〵しい柄合ひの反物を憎んで態々大金をかけて、手織縞の様な反物を求め、そして自分の優越感を満足して居ります。之が真に審美観から来たものならば結構でありますが、そうでない。唯だ自分が一般人よりも渋いもので而も高価なものを身に着けてゐるといふ誇りを感じたい為に過ぎないのであります。然るに渋さを誇らんが為に計らずも田舎縞、手織縞に帰着する点が実に面白いと思ひます。田舎のお媼さんが何の技巧も用ゐずに唯丈夫にしやうと織り出した反物が、却て貴族方の美的模範となるのは不思議の様であるが、実は自然の勝利であります。自分が材料を作り、自分が意匠をこらして、自分の手で織り上げる、それはどんなに美しい価値のある仕事でありましやうか。 然るに前に言つた様な無益な非美的なことが到る所に無数に行はれてゐるのでありますが、真の自治生活はこんな間違つた美的生活を廃して、真実の人間的な美的生活を打ち立てることであります。 第三、真の自治は土民生活において徹底すること。 その順序としてまず土地と人類との関係を述べたいと思ひますが、人類は土地とは離すべからざる関係があります。アナトール・フランスはある本に「人類は地表に現はれた蛆虫の様なものである」と書いてあります。人間といふものは地に生れ、地に生きて、地に葬られていく生物であります。どうして地表に生命が生じたかといふことは略して、地表に人間が生れてゐる事実を考へてみませう。 人は地から離れられぬのみならず、地からいろ〳〵の感化を受けてをります。地から離れる時には真の美も道徳も経済も失はれてしまふのであります。 地理的に考へてみても人が環境から支配されることは著しいものであります。山地の人と平原の人とは体の組織から形まで違つてくるのであります。山地の人は空気が稀薄であるから胸廓も広く、坂道を歩くから自然に足が曲つてきますし背も低いのが普通であります。然し平原の人は足も伸び背も高くなります。身体上においてもさうでありますから、精神上にいろ〳〵な影響があることは当然であります。美くしい所に生れたら詩的になり、詩人や画家となるものが出来ることは人のよく知つてゐるところであります。昨夜もいつたのでした。この雄大な浅間山や烏帽子嶽の眺望に接してゐる御牧村に生れて詩人でないものは、よほど無能な人であるに相違ないと。但し所謂詩を作るに限つたことはありません。心持が詩的になり、詩を感ずるといふ状態になつてをればよいのであります。淋しい野中の一軒家に生活しながら何等の不平もなく、自分で働き自分で食ふといふ人たちは、詩人の心持に恵まれてゐるのだと思ひます。然し今の社会ではそれを望むことも無理であれば、見ることも困難であります。どんなに美くしい自然の中に生れても食うためには都会に出なければならず、工場にも通はなければなりません。又、そんな必要のない人でも金を儲けるために都会へ出たり、都会人と結托して仕事を始めます。みんな美に背いた生活であります。昔の詩人は田園を詩的な所だと歌つたが、今の田園には詩的な趣を見出さうとしてもなか〳〵困難であります。 然しこうした事情の中に於ても農民自治会の講習会が開かれるといふことは、誰か先覚者があつてこの美しい中に美しい生活を打ち立てやうではないかと唱へだした為であつて、それは立派な自然の感化であると思ひます。農民自治会の最初の講習会がこゝで出来るといふことは、この土地の感化といふものが知らず〳〵の間に働いてゐることゝ思ひます。 あらゆる虚偽と邪悪との都会の中で巨万の富を積んでも何にならう、たゞ五十年の幻にすぎない。真実に人間らしい生活にかへり、人間本来の面目を発揮しやうといふ様に考へてくるのには、やはり地理的感化が必要であります。暑い国の人も寒い国の人もみなこの地理的感化をうけてをります。 |
1 人と別れた瞳のように、水を含んだ灰色の空を、大きく環を描きながら、伝書鳩の群が新聞社の上空を散歩していた。煙が低く空を這って、生活の流れの上に溶けていた。 黄昏が街の灯火に光りを添えながら、露路の末まで浸みて行った。 雪解けの日の夕暮。――都会は靄の底に沈み、高い建物の輪郭が空の中に消えたころ、上層の窓にともされた灯が、霧の夜の灯台のように瞬いていた。 果物屋の店の中は一面に曇った硝子の壁にとり囲まれ、彼が毛糸の襟巻の端で、何んの気なしにSと大きく頭文字を拭きとったら、ひょっこり靄の中から蜜柑とポンカンが現われた。女の笑顔が蜜柑の後ろで拗ねていた。彼が硝子の戸を押してはいって行くと、女はつんとして、ナプキンの紙で拵えた人形に燐寸の火をつけていた。人形は燃えながら、灰皿の中に崩れ落ちて行った。燐寸の箱が粉々に卓子の上に散らかっていた。 ――遅かった。 ――…… ――どうかしたの? ――…… ――クリイムがついていますよ、口の廻りに。 ――そう? ――僕は窓を見ていると、あれが人間の感情を浪漫的にする麗しい象徴だと思うのです。 ――そう? ――今も人のうようよと吐きだされる会社の門を、僕もその一人となって吐きだされてきたのです。無数の後姿が、僕の前をどんどん追い越して、重なり合って、妙に淋しい背中の形を僕の瞳に残しながら、皆んなすいすいと消えて行くのです。街はひどい霧でね、その中にけたたましい電車の鈴です自動車の頭灯です。光りが廻ると、その輪の中にうようよと音もなく蠢く、ちょうど海の底の魚群のように、人、人、人、人、……僕が眼を上げると、ほら、あすこのデパアトメントストオアね、もう店を閉じて灯火は消えているのです。建物の輪廓が靄の中に溶けこんで、まるで空との境が解らないのです。すると、ぽつんと思いがけない高い所に、たった一つ、灯がはいっているのです。あすこの事務室で、きっと残務をとっている人々なのでしょう。僕は、…… ――まあ、お饒舌りね、あんたは。どうかしてるんじゃない、今日? ――どうしてです。 ――だって、だって眼にいっぱい涙をためて。 ――霧ですよ。霧が睫毛にたまったのです。 ――あなたは、もう私と会ってくださらないおつもりなの? ――だって君は、どうしても、橋の向うへ僕を連れていってくれないんですもの。だから、…… 女はきゅうに黙ってしまった。彼女の顔に青いメランコリヤが、湖の面を走る雲の影のように動いて行った。しばらくして、 ――いらっしてもいいのよ。だけど、……いらっしゃらない方がいいわ。 町の外れに橋があった。橋の向うはいつでも霧がかかっていた。女はその橋の袂へ来ると、きまって、さよなら、と言った。そうして振り返りもせずに、さっさと橋を渡って帰って行った。彼はぼんやりと橋の袂の街灯に凭りかかって、靄の中に消えて行く女の後姿を見送っている。女が口吟んで行く「マズルカ」の曲に耳を傾けている。それからくるりと踵を返して、あの曲りくねった露路の中を野犬のようにしょんぼりと帰ってくるのだった。 炭火のない暗い小部屋の中で、シャツをひっぱりながら、あの橋の向うの彼女を知ることが、最近の彼の憧憬になっていた。だけど、女が来いと言わないのに、彼がひとりで橋を渡って行くことは、彼にとって、負けた気がしてできなかった。女はいつも定った時間に、蜜柑の後ろで彼を待っていた。女はシイカと言っていた。それ以外の名も、またどう書くのかさえも、彼は知らなかった。どうして彼女と識り合ったのかさえ、もう彼には実感がなかった。 2 夜が都会を包んでいた。新聞社の屋上庭園には、夜風が葬式のように吹いていた。一つの黒い人影が、ぼんやりと欄干から下の街を見下していた。大通りに沿って、二条に続いた街灯の連りが、限りなく真直ぐに走って、自動車の頭灯が、魚の動きにつれて光る、夜の海の夜光虫のように交錯していた。 階下の工場で、一分間に数千枚の新聞紙を刷りだす、アルバート会社製の高速度輪転機が、附近二十余軒の住民を、不眠性神経衰弱に陥れながら、轟々と廻転をし続けていた。 油と紙と汗の臭いが、新大臣のお孫さんの笑顔だとか、花嫁の悲しげな眼差し、あるいはイブセン、蒋介石、心中、保険魔、寺尾文子、荒木又右衛門、モラトリアム、……等といっしょに、荒縄でくくられ、トラックに積みこまれて、この大都会を地方へつなぐいくつかの停車場へ向けて送りだされていた。だから彼が、まるで黒いゴム風船のように、飄然とこの屋上庭園に上ってきたとて、誰も咎める人などありはしない。彼はシイカの事を考えていた。モーニングを着たらきっとあなたはよくお似合になるわよ、と言ったシイカの笑顔を。 彼はそっとポケットから、クララ・ボウのプロマイドを取りだして眺めた。屋上に高く聳えた塔の廻りを、さっきから廻転している探海灯が、長い光りの尾の先で、都会の空を撫でながら一閃するたびに、クララ・ボウの顔がさっと明るく微笑んだが、暗くなるとまた、むっつりと暗闇の中で物を想いだした。彼女にはそういうところがあった。シイカには。 彼女はいつも、会えば陽気にはしゃいでいるのだったが、マズルカを口吟みながら、橋の向うへ消えて行く彼女の後姿は、――会っていない時の、彼の想い出の中に活きている彼女は、シイカは、墓場へ向う路のように淋しく憂鬱だった。 カリフォルニヤの明るい空の下で、溌溂と動いている少女の姿が、世界じゅうの無数のスクリンの上で、果物と太陽の香りを発散した。東洋人独特の淑やかさはあり、それに髪は断ってはいなかったが、シイカの面影にはどこかそのクララに似たところがあった。とりわけ彼女が、忘れものよ、と言って、心持首を傾げながら、彼の唇を求める時。シイカはどうしても写真をくれないので、――彼女は、人間が過去というものの中に存在していたという、たしかな証拠を残しておくことを、なぜかひどく嫌やがった。彼女はそれほど、瞬間の今の自分以外の存在を考えることを恐れていた。――だから、しかたなく彼はそのアメリカの女優のプロマイドを買ってきて、鼻のところを薄墨で少し低く直したのであった。 彼がシイカといつものように果物屋の店で話をしていた時、Sunkist という字が話題に上った。彼はきっと、それは太陽に接吻されたという意味だと主張した。カリフォルニヤはいつも明るい空の下に、果物がいっぱい実っている。あすこに君によく似たクララが、元気に、男の心の中に咲いた春の花片を散らしている。――貞操を置き忘れたカメレオンのように、陽気で憂鬱で、…… すると、シイカがきゅうに、ちょうど食べていたネーブルを指さして、どうしてこれネーブルって言うか知ってて? と訊いた。それは伊太利のナポリで、……と彼が言いかけると、いいえ違ってよ。これは英語の navel、お臍って字から訛ってきたのよ。ほら、ここんとこが、お臍のようでしょう。英語の先生がそう言ったわよ、とシイカが笑った。アリストテレスが言ったじゃないの、万物は臍を有す、って。そして彼女の真紅な着物の薊の模様が、ふっくらとした胸のところで、激しい匂いを撒き散らしながら、揺れて揺れて、……こんなことを想いだしていたとてしかたがなかった。彼は何をしにこんな夜更、新聞社の屋上に上ってきたのだったか。 彼はプロマイドを蔵うと、そっと歩きだした。鳩の家の扉を開けると、いきなり一羽の伝書鳩を捕えて、マントの下にかくした。 3 デパアトメントストオアには、あらゆる生活の断面が、ちょうど束になった葱の切口のように眼に沁みた。 十本では指の足りない貴婦人が、二人の令嬢の指を借りて、ありったけの所有のダイヤを光らせていた。若い会社員は妻の購買意識を散漫にするために、いろいろと食物の話を持ちだしていた。母親は、まるでお聟さんでも選ぶように、あちらこちらから娘の嫌やだと言う半襟ばかり選りだしていた。娘はじつをいうと、自分にひどく気に入ったのがあるのだが、母親に叱られそうなので、顔を赤くして困っていた。孫に好かれたい一心で、玩具の喇叭を万引しているお爺さんがいた。若いタイピストは眼鏡を買っていた。これでもう、接吻をしない時でも男の顔がはっきり見えると喜びながら。告示板を利用して女優が自分の名前を宣伝していた。妹が見合をするのに、もうお嫁に行った姉さんの方が、よけい胸を躍らせていた。主義者がパラソルの色合いの錯覚を利用して、尾行の刑事を撒いていた。同性愛に陥った二人の女学生は、手をつなぎ合せながら、可憐しそうに、お揃いの肩掛を買っていた。エレベーターがちょうど定員になったので、若夫婦にとり残された母親が、ふいと自分の年を想いだして、きゅうに淋しそうに次のを待っていた。独身者が外套のハネを落す刷毛を買っていた。ラジオがこの人混みの中で、静かな小夜曲を奏していた。若い女中が奥さんの眼をかすめて、そっと高砂の式台の定価札をひっくり返してみた。屋上庭園では失恋者が猿にからかっていた。喫煙室では地所の売買が行われていた。待ち呆けを喰わされた男が、時計売場の前で、しきりと時間を気にしていたが、気の毒なことに、そこに飾られた無数の時計は、世界じゅうのあらゆる都市の時間を示していた。………… 三階の洋服売場の前へひょっこりと彼が現れた。 ――モーニングが欲しいんだが。 ――はあ、お誂えで? ――今晩ぜひ要るのだが。 ――それは、…… |
江口は決して所謂快男児ではない。もっと複雑な、もっと陰影に富んだ性格の所有者だ。愛憎の動き方なぞも、一本気な所はあるが、その上にまだ殆病的な執拗さが潜んでいる。それは江口自身不快でなければ、近代的と云う語で形容しても好い。兎に角憎む時も愛する時も、何か酷薄に近い物が必江口の感情を火照らせている。鉄が焼けるのに黒熱と云う状態がある。見た所は黒いが、手を触れれば、忽その手を爛らせてしまう。江口の一本気の性格は、この黒熱した鉄だと云う気がする。繰返して云うが、決して唯の鉄のような所謂快男児などの類ではない。 それから江口の頭は批評家よりも、やはり創作家に出来上っている。議論をしても、論理よりは直観で押して行く方だ。だから江口の批評は、時によると脱線する事がないでもない。が、それは大抵受取った感銘へ論理の裏打ちをする時に、脱線するのだ。感銘そのものの誤は滅多にはない。「技巧などは修辞学者にも分る。作の力、生命を掴むものが本当の批評家である。」と云う説があるが、それはほんとうらしい嘘だ。作の力、生命などと云うものは素人にもわかる。だからトルストイやドストエフスキイの翻訳が売れるのだ。ほんとうの批評家にしか分らなければ、どこの新劇団でもストリンドベルクやイブセンをやりはしない。作の力、生命を掴むばかりでなく、技巧と内容との微妙な関係に一隻眼を有するものが、始めてほんとうの批評家になれるのだ。江口の批評家としての強味は、この微妙な関係を直覚出来る点に存していると思う。これは何でもない事のようだが、存外今の批評家に欠乏している強味なのだ。 最後に創作家としての江口は、大体として人間的興味を中心とした、心理よりも寧ろ事件を描く傾向があるようだ。「馬丁」や「赤い矢帆」には、この傾向が最も著しく現れていると思う。が、江口の人間的興味の後には、屡如何にしても健全とは呼び得ない異常性が富んでいる。これは菊池が先月の文章世界で指摘しているから、今更繰返す必要もないが、唯、自分にはこの異常性が、あの黒熱した鉄のような江口の性格から必然に湧いて来たような心もちがする。同じ病的な酷薄さに色づけられているような心もちがする。描写は殆谷崎潤一郎氏の大幅な所を思わせる程達者だ。何でも平押しにぐいぐい押しつけて行く所がある。尤もその押して行く力が、まだ十分江口に支配され切っていない憾もない事はない。あの力が盲目力でなくなる時が来れば、それこそ江口がほんとうの江口になり切った時だ。 |
ニュートン祭 イギリスのニュートンと云えば、科学の先祖のように尊ばれているのは、多分皆さんもご存じでしょう。毎年十二月の二十五日になると、大学の物理学の教室では、古い先輩の方々から学生までが集まって、ニュートン祭というものを行います。ニュートンの肖像を正面に飾って、赤い林檎の実をその前に盛って、それから先輩の思出話や、大学の先生方のおもしろい逸話を漫画に描いたのを写し出したり、賑やかにその夜を興じ過ごすのが例になっています。そしてニュートンへの思慕を通じて、みんな科学を知る喜びをしっかりと胸に抱くのです。 十二月の二十五日は、ニュートンの誕生日に当るので、その生まれたのは一六四二年のことですから、今からはもう三〇〇年前になります。そんなに古い昔のことですから、その頃にはもちろん今日のような科学はまるで無かったと云ってよいのです。ところがニュートンは小さい時から科学的な頭をもっていて、器械をいじることなどが好きで、それからだんだん学問を勉強して、ついに科学の先祖と云われる迄になったのでした。 イギリスでは国家に功労のあった偉い人達をロンドンのウエストミンスター寺院に葬ることになっているのですが、その光栄を荷なった人々の中には、政治家や軍人ばかりでなく、文学者や科学者などもたくさんにあります。これは学問に重きを置く上から当然のことでありますが、科学者のなかでニュートンの墓石がひと際目立って並んでいることは云うまでもありません。ニュートンは一七二七年の三月三十一日に八十四歳の高齢で逝くなったのでした。それから今日まで彼の名声は、ひとりイギリスばかりではなく、世界中のどこにもゆき亙っているのを見ても、その一生涯の仕事の大きさが想われるわけです。 林檎の伝説 ニュートン祭になぜ林檎を飾るかといえば、それはニュートンが林檎の実の落ちるのを見て万有引力を発見したという有名な話があるからです。この話の由来について少しばかり説明してみますと、次の通りです。 ニュートンの名はアイザックと言いますが、その生まれた故郷は、イギリスの中部にあるリンコルン伯爵領地のなかのウールスソープという小さな村でした。その村で小学校を卒業してから隣り町の中学校に入ったところが、家庭の事情で一年ばかり経って家に呼び戻され、農業に従事することになりました。それというのも父はアイザックの生まれる前に病気で死んでしまい、母親は一旦他家に再嫁したのに、そこでまた夫に死別してニュートンの生家に帰って来たからでした。しかしアイザックがいかにも学問好きなので、そのまま農業をさせておくのも惜しいと人々に忠告されて、ともかく中学校を続けさせることになったのですが、成績も非常によかったので、卒業後はもう少し学問を大成させようということになり、十八歳の折にケンブリッジの大学に入学しました。 大学では数学や物理学を修め、一六六五年に優等で卒業し、そのまま大学に留まってなお研究を続けていました。ところがその頃のヨーロッパにはペスト病が激しく流行し、諸処を襲っては恐ろしく多数の死者を出すという有様であったのです。ちょうど翌年の夏にはイギリスがその流行に襲われたので、ケンブリッジ大学も暫くの間閉鎖して、学生はみんな郷里へかえることになりました。それでニュートンも故郷に戻ったのですが、その間にも自分の好きな研究は少しも怠りませんでした。そのときの研究というのが、ちょうど星の運動であったのです。つまり星の運動はどんな力に支配されているのかという問題を深く考えていたのですが、ある日庭園を散歩してみると、ふと林檎の実が枝からぼたりと落ちたのを見て、それで万有引力ということに気がついたと云うのです。 この話は、ニュートンが死んでから十年程後に出版されたヴォルテールという人の著書のなかに、ニュートンの姪から聞いたものとして記されているので、その後伝えられて有名になったのですが、ニュートンが本当に林檎の実から引力を思いついたということは、甚だ疑わしいのです。ニュートンの家の庭園に林檎の樹が確かにあったという考証があったり、またその樹の幹の一部だと云われるものがある博物館に保存されてもいますけれども、それでも話の筋道がどうもこれだけでははっきりしないのです。 と云うのは、話をもう少し科学的に運ばせてゆかなくてはいけないからです。林檎の実が地面に落ちるくらいのことは、誰でも古い昔から知っているのですし、ニュートンがそれを見て、偶然に何か思いついたとしたところで、それはきっともっと別の事柄であったに違いないのです。ところでこの別の事柄というのが科学的には非常に大切なので、それがわからなくては、ニュートンの本当の偉さが知られないのですから、そこでニュートン自身の書いた書物のなかから、この問題をどんな風に解いて行ったかを、ここにお話ししたいと思います。 月も地球に落ちてくる ニュートンがどうして万有引力を発見したかと云うと、それにはいろいろな苦心が重ねられたので、林檎の実の落ちるのを見たぐらいで直ぐにそんなすばらしい発見が出来るものではありません。 林檎の実に限らず、どんなものでも地球上で支えるものがなければ落ちるということは誰でも知っています。これを自由落下といいますが、それに対する法則はニュートンよりも前に、イタリヤのガリレイという学者が既に発見しました。ところで皆さんは、何も支えるものが無いのに拘わらず、いつ迄経っても地面に落ちて来ないもののあるのを知っていますか。何だかそう云うと謎みたいに聞こえますが、それはつまり空に輝いている月です。月は地球の周りを廻っているのだということが、今でははっきりわかっていますけれども、それにしても月はどうして地面に落ちないのでしょうか。林檎は落ちるけれども、月は落ちない。これが多分ニュートンの最初の疑問ではなかったのでしょうか。つまり月を問題にしたところに、ニュートンの人並みすぐれた烱眼があったのです。 そこでニュートンは、はっきりとした論理を追究してゆきました。林檎が落ちるならば、月もまた落ちなくてはならない。それなら月は果してどんな速さで落ちているかを計算して見よう。これがニュートンの研究の出発点でありました。 これだけでは皆さんに月の落ちていることがまだよくわからないかも知れませんから、もう少し説明するとこういうことになるのです。野球の球を投げると、曲線を描いて遠方に落ちます。投げる力が強ければ、強い程遠くへゆくでしょう。大砲の弾丸でも同じことです。そこで仮に非常な強い力で弾丸を打ち出したならどこ迄ゆくかと考えて見ましょう。この力をますます強くしたと考えれば、落ちる場処はだんだん遠方になり、例えば日本から打ち出したものが支那迄とどき、もっと強ければ支那を超えてヨーロッパまでもゆき、ついにはそれも通り越してアメリカにも達するという理屈です。実際にそんなことは出来ないにしても、理窟の上では確かにそうなるのに違いないので、つまり月は非常な速さで投げ出されていると見れば、それは地球をぐるぐる廻るけれども、結局それでも地面に届かないということになるのです。 ともかくこのようにしてニュートンは月の運動を研究して、それを地球上で物の落ちるのと比較し、月が遠方にあるから、それに対する地球の引力は距離の遠いだけ減っているのを見出だし、その大きさが丁度距離の二乗に逆比例するということを計算で出したのでした。 万有引力の発見 さて地球と月との間に引力が働いているならば、その外の星や太陽の間にもやはり同じような引力が働くにちがいないと云うのが、ニュートンの次に考えた処でした。太陽のまわりの星の運動については、その頃ケプラーの法則というのが知られていました。これは星の軌道が太陽を焦点とした楕円だということを示したものでありますが、ニュートンは太陽と星との間にも同じような引力があると考えて、この軌道を説明することができはしまいかと、いろいろ苦心しました。この問題を解くのには、非常に長い年月を要したので、それは数学の上で微積分学と云われているものを考え出して、それを使わなければならなかったからです。この研究をすっかりまとめて書いた有名なプリンシピアという書物が出版されたのは一六八六年ですから、前の林檎の話からは二十年も後に当ります。ともかくもこれであらゆる物体の間に万有引力が働いているということが証拠立てられたのでした。ニュートンが非常な勉強家であったことはその当時の誰も驚いていたので、彼の親友であった天文学者のハリーがある時、 「それ程たくさんの大きな発見を君は自分でどうして仕遂げることができたと思うか」と尋ねましたら、ニュートンは、「僕はただ間断なくそれを考えただけだよ」と答えたということです。それから稀に見る謙遜家であったことは、彼の有名な次の言葉がそれを十分に示しています。 「私は世間が私をどう見るかを知りません。しかし私自身では、丁度限りない真理の大洋が横たわっている前で、浜辺に滑かな小石や美しい貝殻を拾って楽しげに遊んでいる一人の小児のようにしか思われないのです。」 それはなんと奥ゆかしい言葉ではありますまいか。 |
蓬平作墨蘭図一幀、司馬江漢作秋果図一幀、仙厓作鐘鬼図一幀、愛石の柳陰呼渡図一幀、巣兆、樗良、蜀山、素檗、乙二等の自詠を書せるもの各一幀、高泉、慧林、天祐等の書各一幀、――わが家の蔵幅はこの数幀のみなり。他にわが伯母の嫁げる狩野勝玉作小楠公図一幀、わが養母の父なる香以の父龍池作福禄寿図一幀等あれども、こはわが一族を想ふ為に稀に壁上に掲ぐるのみ。陶器をペルシア、ギリシア、ワコ、新羅、南京古赤画、白高麗等を蔵すれども、古織部の角鉢の外は言ふに足らず。古玩を愛する天下の士より見れば、恐らくは嗤笑を免れざるべし。わが吉利支丹の徒の事蹟を記せるを以て、所謂「南蛮もの」を蔵すること多からんと思ふ人々もなきにあらざれども、われは数冊の古書の外に一体のマリア観音を蔵するに過ぎず。若しわれをしも蒐集家と言はば、張三李四の徒も蒐集家たるべし。然れどもわが友に小穴一游亭あり。若し千古の佳什を得んと欲すれば、必しもかの書画家の如く叩頭百拝するを須ひず。当来の古玩の作家を有するは或は古玩を有するよりも多幸なる所以なり。 古玩は前人の作品なり。前人の作品を愛するは必しも容易の業にあらず。われは室生犀星の陶器を愛するを見、その愛を共にするに一年有半を要したり。書画、篆刻、等を愛するに至りしも小穴一游亭に負ふ所多かるべし。天下に易々として古玩を愛するものあるを見る、われは唯わが性の迂拙なるを歎ずるのみ。然れども文章を以て鳴るの士の蒐集品を一見すれば、いづれも皆古玩と称するに足らず。唯室生犀星の蒐集品はおのづから蒐集家の愛を感ぜしむるに足る。古玩にして佳什ならざるも、凡庸の徒の及ばざる所なるべし。 われは又子規居士の短尺の如き、夏目先生の書の如き、近人の作品も蔵せざるにあらず。然れどもそは未だ古玩たらず。(半ば古玩たるにもせよ。)唯近人の作品中、「越哉」及び「鳳鳴岐山」と刻せる浜村蔵六の石印のみは聊か他に示すに足る古玩たるに近からん乎。わが家の古玩に乏しきは正に上に記せるが如し。われを目して「骨董好き」と言ふ、誰か掌を拊つて大笑せざらん。唯われは古玩を愛し、古玩のわれをして恍惚たらしむるを知る。売り立ての古玩は価高うして落札すること能はずと雖も、古玩を愛するわが生の豪奢なるを誇るものなり。文章を作り、女人を慕ひ、更に古玩を弄ぶに至る、われ豈君王の楽しみを知らざらんや。旦暮に死するも亦瞑目すと言ふべし。雨後花落ちて啼鳥を聴く。神思殆ど無何有の郷にあるに似たり。即ちペンを走らせて「わが家の古玩」の一文を艸す。若し他日わが家の古玩の目録となるを得ば、幸甚なるべし。 (昭和二年) |
宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館 発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館 今日は朝ハガキを書いたつきりでしたね。あなたのお手紙を拝見して、私も大変いい気持になりました。本当に今私は幸福です。そして、あした電話をかける事を楽しみにして。 今日は午後からはじめてのいい天気でしたので、板場と女中を一人つれて山へ行きました。海が真つ青で、静かで、本当にいい景色でした。暫く山の上にゐて、それから又ゆつくり歩いて帰つて来ました。ですけれど、帰る途中からまた体の工合が変になつて、それつきり黙つて寝てしまひました。でも、あなたの事を考へるとおちつきを失つてしまひますので困ります。此処の女中たちはヒステリイ患者だと思つてゐるらしいのです。 今日はもう夕飯をすまして眠らうと思ひましたけれど、眠れないので三味線をいぢつて見ましたけれど、面白くも可笑しくもないのでやめて、あなたのお手紙を順々に読んで、何んだか物足りなくてこれを書き出したのです。ゆうべウヰスキイを飲んだ上にまた日本酒を一本あけましたので、急に体に変調が来たらしいのです。自分ながら気むづかしいのに驚いてゐます。 他に手紙やハガキを書かなければならない処が沢山あるんですけれど、筆をとりさへすればあなたにばつかり書きたくなります。父の処に一昨日から手紙を書きかけて、まだ書けないでゐるのです。かうやつて、あなたに何にか書いてゐる間だけです、ぢつとしてゐられますのは。それで、机の前に座りさへすれば書きたくなるのです。かうやつてあんまり書いてはあなたのお仕事の妨げになるとは知りつつも、書かずにはゐられないのです。どうぞ、自分に対してもあなたに対しても、あんまり節制のない事をお怒り下さいますな。 孤月氏が、此間私のことをパツシヨネエトだつて悪く云ひましたけれど、私は今度はそんなにパツシヨネエトではないと自分で思つてゐましたのに、矢張りさうなのですね。 かうしてぢつと目をつぶりますと、あなたの熱い息が吹きかかつてゐるやうに感じます。あしたはあなたのお声が聞けると思ひますと、本当にうれしくて胸がドキ〳〵します。女中たちは、毎日々々、旦那さまの事ばかり気にしてゐます。室がせまいだらうつて、頻りと心配してくれますの。私がこんなにもあなたを待ちこがれてゐる事が分るのでせうね。 静かな夜に潮の遠鳴りが聞えて来ます。さびしい夜です。あの音が聞えますと、何んだか泣きたくなつて来ます。丁度、何時かの夜、あなたが――さう〳〵芝居にゐらしたといふ夜、お訪ねしてお逢ひする事が出来ないで、青山(菊栄)さんの処で話をして、あの土手から向ふを見た時のやうな、あんな情けない悲しい気がします。考へて見ますと、私も本当に意久地がなかつたのですね。あんなにも無理な口実を構へてでもあなたに会はなければゐられない程に、あなたを忘れられない癖に、どうしてもハツキリした事が云へないでは、自分も苦しみあなたをも苦しめたのですね。何んと云ふ馬鹿な事だつたのでせう。それも、矢張り私の意地つぱりですね。自分の処置をきめてしまはないうちは、恐ろしくて、とてもはつきりした口はききかねたのです。でも私は、あの夜訪ねてお留守だつた時には、あすこの入口のところで泣きさうになりましたの。青山さんと土手で話しながら市ヶ谷見附まで歩きましたけれど、私は何を話したのか分りませんでしたの。今でも覚えてゐませんわ。 何しろ、顔を見せて下さるだけでいいのですから、何卒ゐらして下さい。今から電話をかけに行きます。かけてお留守だと、本当にいやになつて仕舞ひますね。何卒ゐて下さいますやうに。何にを話していいのか分りません。 |
こと容姿に關しては私は恐ろしく小心なのでとても壯麗な美容院に一人で入つて行く勇氣がありません。私の家のすぐ近くの小じんまりしたパーマネント屋さんは、何時行つても他のお客樣に行き合うことがなく決して待たされたことがありませんので、恥かしがりの私も氣輕に時々出掛けます。美顏術や爪をみがいてもらつたことは生れてこの方一度もありませんので希望も註文もありません。 |
沙羅木は植物園にもあるべし。わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへるもとには太湖石と呼べる石もありしを、今はた如何になりはてけむ、わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞えつつ。 また立ちかへる水無月の 歎きをたれにかたるべき。 沙羅のみづ枝に花さけば、 かなしき人の目ぞ見ゆる。 |
窓の前には広い畑が見えてゐる。赤み掛かつた褐色と、緑と、黒との筋が並んで走つてゐて、ずつと遠い所になると、それが入り乱れて、しほらしい、にほやかな摸様のやうになつてゐる。この景色には多くの光と、空気と、際限のない遠さとがある。それでこれを見てゐると誰でも自分の狭い、小さい、重くろしい体が窮屈に思はれて来るのである。 医学士は窓に立つて、畑を眺めてゐて、「あれを見るが好い」と思つた。早く、軽く、あちらへ飛んで行く鳥を見たのである。そして「飛んで行くな」と思つた。鳥を見る方が畑を見るより好きなのである。学士は青々とした遠い果で、鳥が段々小さくなつて消えてしまふのを、顔を蹙めて見てゐて、自ら慰めるやうに、かう思つた。「どうせ遁れつこはないよ。こゝで死なゝければ余所で死ぬるのだ。死なゝくてはならない。」 心好げに緑いろに萌えてゐる畑を見れば、心持がとうとう飽くまで哀れになつて来る。「これはいつまでもこんなでゐるのだ。古い古い昔からの事だ。冢穴の入口でも、自然は永遠に美しく輝いてゐるといふ詞があつたつけ。平凡な話だ。馬鹿な。こつちとらはもうそんな事を言ふやうな、幼稚な人間ではない。そんな事はどうでも好い。己が物を考へても、考へなくても、どうでも好い」と考へて、学士は痙攣状に顔をくしや〳〵させて、頭を右左にゆさぶつて、窓に顔を背けて、ぼんやりして部屋の白壁を見詰めてゐた。 頭の中には、丁度濁水から泡が水面に浮き出て、はじけて、八方へ散らばつてしまふやうに、考へが出て来る。近頃になつてかういふことが度々ある。殊に「今日で己は六十五になる、もう死ぬるのに間もあるまい」と思つた、あの誕生日の頃から、こんなことのあるのが度々になつて来た。どうせいつかは死ぬる刹那が来るとは、昔から動悸をさせながら、思つてゐたのだが、十四日前に病気をしてから、かう思ふのが一層切になつた。「虚脱になる一刹那がきつと来る。その刹那から手前の方が生活だ。己が存在してゐる。それから向うが無だ。真に絶待的の無だらうか。そんな筈はない。そんな物は決してない。何か誤算がある。若し果して絶待的の無があるとすれば、実に恐るべき事だ。」かうは思ふものゝ、内心では決して誤算のない事を承知してゐる。例の恐るべき、魂の消えるやうな或る物が丁度今始まり掛かつてゐるのだといふことを承知してゐる。そして頭や、胸や、胃が痛んだり、手や足がいつもより力がなかつたりするたびに、学士は今死ぬるのだなと思ふことを禁じ得ない。死ぬるといふことは非常に簡単なことだ。疑ふ余地のないことだ。そしてそれゆゑに恐るべき事である。 学士は平生書物を気を附けては読まない流儀なのに、或る時或る書物の中で、ふいとかういふ事を見出した。自然の事物は多様多趣ではあるが、早いか晩いか、一度はその事物と同一の Constellation が生じて来なくてはならない。そして同一の物体が現出しなくてはならない。それのみではない。その周囲の万般の状況も同一にならなくてはならないと云ふのである。それを読んで、一寸の間は気が楽になつたやうであつたが、間もなく恐ろしい苦痛を感じて来た。殆ど気も狂ふばかりであつた。 「へん。湊合がなんだ。天が下に新しい事は決してない。ふん。己の前にあるやうな永遠が己の背後にもあるといふことは、己も慥かに知つてゐる。言つて見れば、己といふものは或る事物の、昔あつた湊合の繰り返しに過ぎない。その癖その昔の湊合は、己は知らない。言つて見れば己といふことはなんにもならない。只湊合の奈何にあるのだ。併しどうしてさうなるのだらう。己の性命がどれだけ重要であるか、どれだけせつないか、どれだけ美しいかといふことを、己は感じてゐるではないか。己が視たり、聴いたり、嗅いだりするものは、皆己が視るから、聴くから、嗅ぐから、己の為めに存在してゐるのである。己が目、耳、鼻を持つてゐるから、己の為めに存在してゐるのである。さうして見れば、己は無窮である。絶大である。己の自我の中には万物が位を占めてゐる。その上に己は苦をも受けてゐるのだ。そこでその湊合がなんだ。馬鹿な。湊合なんといふ奴が己になんになるものか。只昔あつた事物の繰り返しに過ぎないといふことは、考へて見ても溜まらないわけだ。」 学士は未来世に出て来る筈の想像的人物、自分と全く同じである筈の想像的人物を思ひ浮べて見て、それをひどく憎んだ。 「そいつはきつと出て来るに違ひない。人間の思想でさへ繰り返されるではないか。人間そのものも繰り返されるに違ひない。それに己の思想、己の苦痛はどうでも好いのだ。なぜといふに己以外の物体の幾百万かがそれを同じやうに考へたり、感じたりするからである。難有いしあはせだ。勝手にしやがれ。」 学士の心理的状態は一日一日と悪くなつた。夜になると、それが幻視錯覚になつて、とうとうしまひには魘夢になつて身を苦しめる。死や、葬や、墓の下の夢ばかり見る。たまにはいつもと違つて、生きながら埋められた夢を見る。昼の間は只一つの写象に支配せられてゐる。それは「己は壊れる」といふ写象である。病院の梯子段を昇れば息が切れる。立ち上がつたり、しやがんだりする度に咳が出る。それを自分の壊れる兆だと思ふのである。そんなことをいつでも思つてゐるので、夜寐られなくなる。それを死の前兆だと思ふ。 丁度昨晩も少しも寐られなかつた。そこで頭のなかは、重くろしい、煙のやうな、酒の酔のやうな状態になつてゐる。一晩寐られもしないのに、温い、ねばねばした床の中に横はつてゐて、近所の癲狂患者の泣いたり、笑つたりする声の聞えるのを聞いてゐるうちに、頭の中に浮んで来た考へは実に気味が悪かつた。そこであちこち寝返りをして、自分から自分を逃げ出させようとした。自分が壊れるのなんのといふことを、ちつとも知つてはゐないと思つて見ようとしたが、それが出来なかつた。彼の思想が消えれば、此思想が出て来る。それが寝室の白壁の上にはつきり見えて来る。しまひにはどうしても、丁度自分の忘れようと思ふことを考へなくてはならないやうになつて来る。殆ど上手のかく絵のやうに、空想の中に、分壊作用がはつきりと画かれる。体を腐らせて汁の出るやうにする作用が画かれる。自分の体の膿を吸つて太つた蛆の白いのがうようよ動いてゐるのが見える。学士は平生から爬ふ虫が嫌ひである。あの蛆が己の口に、目に、鼻に這ひ込むだらうと思つて見る。学士はこの時部屋ぢゆう響き渡るやうな声で、「えゝ、その時は己には感じはないのだ」と叫ぶ。学士は大きい声を持つてゐる。 看病人が戸を開けて、覗いて見て、又戸を締めて行つた。 「浮世はかうしたものだ。先生、いろんな患者をいぢくり廻したあげくに、御自分が参つてしまつたのだな」と、看病人は思つたが、さう思つて見ると、自分も心持が悪いので、わざとさも愉快気な顔をして、看病人長の所へ告口をしに出掛けるのである。「先生、御自分が参つてしまつたやうですよ」などと云ふ積りである。 看病人の締めた戸がひどい音をさせた。学士は鼻目金越しに戸の方を見て、「なんだ、何事が出来たのだ」と、腹立たしげに問うた。戸は返事をしない。そこで頗る激した様子で、戸の所へ歩いて行つて、戸を開けて、廊下に出て、梯子を降りて、或る病室に這入つた。そこは昨晩新しく入院した患者のゐる所である。一体もつと早く見て遣らなくてはならないのだが、今まで打ち遣つて置いたのである。今行くのも義務心から行くのではない。自分の部屋に独りでゐるのがゐたたまらなくなつたからである。 患者は黄いろい病衣に、同じ色の患者用の鳥打帽を被つて、床の上に寝てゐて、矢張当り前の人間のやうに鼻をかんでゐた。入院患者は自分の持つて来た衣類を着てゐても好いことになつてゐるが、この患者は患者用の物に着換へたのである。学士は不確な足附きで、そつと這入つた。患者はその顔を面白げに、愛嬌好く眺めて、「今日は、あなたが医長さんですね」と云つた。 「今日は。己が医長だよ」と学士が云つた。 「初めてお目に掛かります。さあ、どうぞお掛け下さいまし。」 学士は椅子に腰を懸けて、何か考へる様子で、病室の飾りのない鼠壁を眺めて、それから患者の病衣を見て云つた。「好く寐られたかい。どうだね。」 「寐られましたとも。寐られない筈がございません。人間といふ奴は寐なくてはならないのでせう。わたくしなんぞはいつでも好く寐ますよ。」 学士は何か考へて見た。「ふん。でもゐどころが変ると寐られないこともある。それに昨晩は随分方々でどなつてゐたからな。」 「さうでしたか。わたくしにはちつとも聞えませんでした。為合せに耳が遠いものですから。耳の遠いなんぞも時々は為合せになることもありますよ」と云つて、声高く笑つた。 学士は機械的に答へた。「さうさ。時々はそんなこともあるだらう。」 患者は右の手の甲で鼻柱をこすつた。そして問うた。「先生、煙草を上がりますか。」 「飲まない。」 「それでは致し方がございません。実は若し紙巻を持つて入らつしやるなら、一本頂戴しようと思つたのです。」 「病室内では喫煙は禁じてあるのだ。言ひ聞かせてある筈だが。」 「さうでしたか。どうも忘れてなりません。まだ病院に慣れないものですから」と、患者は再び笑つた。 暫くは二人共黙つてゐた。 窓は随分細かい格子にしてある。それでも部屋へは一ぱいに日が差し込んでゐるので、外の病室のやうに陰気ではなくて、晴々として、気持が好い。 「この病室は好い病室だ」と、学士は親切げに云つた。 「えゝ。好い部屋ですね。こんな所へ入れて貰はうとは思ひませんでしたよ。わたくしはこれまで癲狂院といふものへ這入つたことがないものですから、もつとひどい所だらうと思つてゐました。ひどいと云つては悪いかも知れません。兎に角丸で別な想像をしてゐたのですね。これなら愉快でさあ。どの位置かれるのだか知りませんが、ちよつとやそつとの間なら結構です。わたくしだつて長くゐたくはありませんからね。」かう云つて、患者は仰向いて、学士の目を覗くやうに見た。併し色の濃い青色の鼻目金を懸けてゐるので、目の表情が見えなかつた。患者は急いで言ひ足した。 「こんなことをお尋ねするのは、先生方はお嫌ひでせう。先生、申したいことがありますが好いでせうか。」急に元気の出たやうな様子で問うたのである。 「なんだい。面白いことなら聞かう」と、学士は機械的に云つた。 「わたくしは退院させて貰つたら、わたくしを掴まへてこんな所へ入れた、御親切千万な友達を尋ねて行つて、片つ端から骨を打ち折つて遣らうと思ひますよ」と、患者は愉快げに、しかも怒を帯びて云つて、雀斑だらけの醜い顔を変に引き吊らせた。 「なぜ」と学士は大儀さうに云つた。 「馬鹿ものだからです。べらばうな。なんだつて余計な人の事に手を出しやあがるのでせう。どうせわたくしはどこにゐたつて平気なのですが、どつちかと云へば、やつぱり外にゐる方が好いのですよ。」 「さう思ふかね」と学士は不精不精に云つた。 「つまりわたくしは何も悪い事を致したのではありませんからね」と、患者は少し遠慮げに云つた。 「さうかい」と学士は云つて、何か跡を言ひさうにした。 「悪い事なんぞをする筈がないのですからね」と、患者は相手の詞を遮るやうに云ひ足した。 「考へて御覧なさい。なぜわたくしが人に悪い事なんぞをしますでせう。手も当てる筈がないのです。食人人種ではあるまいし。ヨハン・レエマン先生ではあるまいし。当り前の人間でさあ。先生にだつて分かるでせう。わたくし位に教育を受けてゐると、殺人とか、盗賊とかいふやうなことは思つたばかりで胸が悪くなりまさあ。」 「併しお前は病気だからな。」 患者は体をあちこちもぢもぢさせて、劇しく首を掉つた。「やれやれ。わたくしが病気ですつて。わたくしはあなたに対して、わたくしが健康だといふことを証明しようとは致しますまい。なんと云つた所で、御信用はなさるまいから。併しどこが病気だと仰やるのです。いやはや。」 「どうもお前は健康だとは云はれないて」と、学士は用心して、しかもきつぱりと云つた。 「なぜ健康でないのです」と、患者は詞短かに云つた。「どこも痛くも苦しくもありませんし、気分は人並より好いのですし、殊にこの頃になつてからさうなのですからね。ははは。先生。丁度わたくしが一件を発明すると、みんなでわたくしを掴まへて病院に押し込んだのですよ。途方もない事でさあ。」 「それは面白い」と、学士は云つて、眉を額の高い所へ吊るし上げた。その尖つた顔がどこやら注意して何事をか知らうとしてゐる犬の顔のやうであつた。 「可笑しいぢやありませんか。」患者は忽然笑つて、立ち上がつて、窓の所へ行つて、暫くの間日の照つてゐる外を見てゐた。学士はその背中を眺めてゐた。きたない黄いろをしてゐる病衣が日に照らされて、黄金色の縁を取つたやうに見えた。 「今すぐにお話し申しますよ」と患者は云つて、踵を旋らして、室内をあちこち歩き出した。顔は極真面目で、殆ど悲しげである。さうなつたので顔の様子が余程見好くなつた。 「お前の顔には笑ふのは似合はないな」と、学士はなぜだか云つた。 「えゝえゝ」と、元気好く患者は云つた。「それはわたくしも承知してゐますよ。これまでにもわたくしにさう云つて注意してくれた人がございました。わたくしだつて笑つてゐたくはないのです。」かう云ひながら、患者は又笑つた。その笑声はひからびて、木のやうであつた。「その癖わたくしは笑ひますよ。度々笑ひますよ。待てよ。こんな事をお話しする筈ではなかつたつけ。実はわたくしは思量する事の出来る人間と生れてから、始終死といふことに就いて考へてゐるのでございます。」 「ははあ」と、学士は声を出して云つて、鼻目金を外した。その時学士の大きい目が如何にも美しく見えたので、患者は覚えずそれを眺めて黙つてゐた。 |
松樹図 雲林を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝の御物、今古奇観と云ふ画帖の中にあつた。画帖の中の画は大部分、薫其昌の旧蔵に係るものらしい。 雲林筆と称へる物は、文華殿にも三四幅あつた。しかしその画帖の中の、雄剄な松の図に比べれば、遙かに画品の低いものである。 わたしは梅道人の墨竹を見、黄大癡の山水を見、王叔明の瀑布を見た。(文華殿の瀑布図ではない。陳宝琛氏蔵の瀑布図である)が、気稟の然らしむる所か頭の下つた事を云へば、雲林の松に及ぶものはない。 松は尖つた岩の中から、真直に空へ生え抜いてゐる。その梢には石英のやうに、角張つた雲煙が横はつてゐる。画中の景はそれだけである。しかしこの幽絶な世界には、雲林の外に行つたものはない。黄大癡の如き巨匠さへも此処へは足を踏み入れずにしまつた。況や明清の画人をやである。 南画は胸中の逸気を写せば、他は措いて問はないと云ふが、この墨しか着けない松にも、自然は髣髴と生きてゐはしないか? 油画は真を写すと云ふ。しかし自然の光と影とは、一刻も同一と云ふ事は出来ない。モネの薔薇を真と云ふか、雲林の松を仮と云ふか、所詮は言葉の意味次第ではないか? わたしはこの図を眺めながら、そんな事も考へた覚えがある。 蓮鷺図 志賀直哉氏の蔵する宋画に、蓮花と鷺とを描いたのがある。南蘋などの蓮の花は、この画よりも所謂写生に近い。花瓣の薄さや葉の光沢は、もつと如実に写してある。しかしこの画の蓮のやうに、空霊澹蕩たる趣はない。 この画の蓮は花でも葉でも、悉どつしり落ち着いてゐる。殊に蓮の実の如きは、古色を帯びた絹の上に、その実の重さを感ぜしめる程、金属めいた美しさを保つてゐる。鷺も亦唯の鷺ではない。背中の羽根を逆に撫でたら、手の平に羽先がこたへさうである。かう云ふ重々しい全体の感じは、近代の画にないばかりではない。大陸の風土に根を下した、隣邦の画にのみ見られるものである。 日本の画は勿論支那の画と、親類同士の間がらである。しかしこの粘り強さは、古画や南画にも見当らない。日本のはもつと軽みがある。同時に又もつと優しみがある。八大の魚や新羅の鳥さへ、大雅の巖下に游んだり、蕪村の樹上に棲んだりするには、余りに逞しい気がするではないか? 支那の画は実に思ひの外、日本の画には似てゐないらしい。 鬼趣図 天津の方若氏のコレクシヨンの中に、珍しい金冬心が一幅あつた。これは二尺に一尺程の紙へ、いろいろの化け物を描いたものである。 羅両峰の鬼趣図とか云ふのは、写真版になつたのを見た事があつた。両峯は冬心の御弟子だから、あの鬼趣図のプロトタイプも、こんな所にあるのかも知れない。両峯の化け物は写真版によると、妙に無気味な所があつた。冬心のはさう云ふ妖気はない、その代りどれも可愛げがある。こんな化け物がゐるとすれば、夜色も昼よりは明るいであらう。わたしは蕭々たる樹木の間に、彼等の群つたのを眺めながら、化け物も莫迦には出来ないと思つた。 何とか云ふ独逸出来の本に、化け物の画ばかり集めたのがある。その本の中の化け物などは、大抵見世物の看板に過ぎない。まづ上乗と思ふものでも何か妙に自然を欠いた、病的な感じを伴つてゐる。冬心の化け物にそれがないのは、立ち場の違つてゐる為のみではない。出家庵粥飯僧の眼はもう少し遠方を見てゐたのである。 |
僕は鼠になつて逃げるらあ。 ぢや、お父さんは猫になるから好い。 そうすりやこつちは熊になつちまふ。 熊になりや虎になつて追つかけるぞ。 何だ、虎なんぞ。ライオンになりや何でもないや。 ぢやお父さんは龍になつてライオンを食つてしまふ。 |
この一篇の文書は、幸徳秋水等二十六名の無政府主義者に關する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに對する自己の見解を辨明せむがために、明治四十三年十二月十八日、幸徳がその擔當辯護人たる磯部四郎、花井卓藏、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。 初めから終りまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に豫期の如き(豫期! 然り。帝國外務省さへ既に判決以前に於て、彼等の有罪を豫斷したる言辭を含む裁判手續説明書を、在外外交家及び國内外字新聞社に配布してゐたのである)判決を下されたかの事件――あらゆる意味に於て重大なる事件――の眞相を暗示するものは、今や實にただこの零細なる一篇の陳辯書あるのみである。 これの最初の寫しは、彼が寒氣骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとつて獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であつた明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに寫し取つて置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出來ない。ペンを走らせてゐると、遠く何處からか歌加留多の讀聲が聞えた。それを打消す若い女の笑聲も聞えた。さうしてそれは予がこれを寫し終つた後までもまだ聞えてゐた。予は遂に彼が嘗て――七年前――「歌牌の娯樂」と題する一文を週刊平民新聞の新年號に掲げてあつたことまでも思ひ出させられた。西川光二郎君――恰もその同じ新年號の而も同じ頁に入社の辭を書いた――から借りて來てゐた平民新聞の綴込を開くと、文章は次の言葉を以て結ばれてゐた。『歌がるたを樂しめる少女よ。我も亦幼時甚だ之を好みて、兄に侍し、姉に從ひて、食と眠りを忘れしこと屡々なりき。今や此樂しみなし。嗚呼、老いけるかな。顧みて憮然之を久しくす。』 しかし彼は老いなかつたのである。然り。彼は遂に老いなかつたのである。 文中の句讀は謄寫の際に予の勝手に施したもの、又或る數箇所に於て、一見明白なる書違ひ及び假名づかひの誤謬は之を正して置いた。 明治四十四年五月 H, I, ~~~~~~~~~~~~~~~~ 磯部先生、花井、今村兩君足下。私共の事件の爲めに、澤山な御用を抛ち、貴重な時間を潰し、連日御出廷下さる上に、世間からは定めて亂臣賊子の辯護をするとて種々の迫害も來ることでせう。諸君が内外に於ける總ての勞苦と損害と迷惑とを考へれば、實に御氣の毒に堪へません。夫れにつけても益々諸君の御侠情を感銘し、厚く御禮申上げます。 扨て頃來の公判の摸樣に依りますと、「幸徳が暴力革命を起し」云々の言葉が、此多數の被告を出した罪案の骨子の一となつてゐるにも拘らず、檢事調に於ても、豫審に於ても、我等無政府主義者が革命に對する見解も、又其運動の性質なども一向明白になつてゐないで、勝手に臆測され、解釋され、附會されて來た爲めに、餘程事件の眞相が誤られはせぬかと危むのです。就ては、一通り其等の點に關する私の考へ及び事實を御參考に供して置きたいと思ひます。 無政府主義と暗殺 無政府主義の革命といへば、直ぐ短銃や爆彈で主權者を狙撃する者の如くに解する者が多いのですが、夫は一般に無政府主義の何者たるかが分つてゐない爲めであります。辯護士諸君には既に承知になつてる如く、同主義の學説は殆ど東洋の老莊と同樣の一種の哲學で、今日の如き權力、武力で強制的に統治する制度がなくなつて、道徳、仁愛を以て結合せる、相互扶助、共同生活の社會を現出するのが、人類社會必然の大勢で、吾人の自由幸福を完くするのには、此大勢に從つて進歩しなければならないといふに在るのです。 隨つて無政府主義者が壓政を憎み、束縛を厭ひ、同時に暴力を排斥するのは必然の道理で、世に彼等程自由、平和を好むものはありません。彼等の泰斗と目せらるるクロポトキンの如きも、判官は單に無政府主義者かと御問ひになつたのみで、矢張亂暴者と思召して御出かも知れませんが、彼は露國の伯爵で、今年六十九歳の老人、初め軍人となり、後ち科學を研究し、世界第一流の地質學者で、是まで多くの有益な發見をなし、其他哲學、文學の諸學通ぜざるなしです。二十餘年前、佛國里昂の勞働者の爆彈騷ぎに關係せる嫌疑で入獄した際、歐州各國の第一流の學者、文士連署して佛國大統領に陳情し、世界の學術の爲めに彼を特赦せんことを乞ひ大統領は直ちに之を許しました。その連署者には大英百科全書に執筆せる諸學者も總て之に加はり、日本で熟知せらるるスペンサー、ユーゴーなども特に數行を書添へて署名しました。以て其の學者としての地位、名聲の如何に重きかを知るべしです。そして彼の人格は極めて高尚で、性質は極めて温和、親切で、決して暴力を喜ぶ人ではありません。 又クロポトキンと名を齊しくした佛蘭西の故エリゼー・ルクリユス(Ruclus)の如きも、地理學の大學者で、佛國は彼が如き大學者を有するを名譽とし、市會は彼を紀念せんが爲めに巴里の一道路に彼の名を命けた位です。彼は殺生を厭ふの甚だしき爲め、全然肉食を廢して菜食家となりました。歐米無政府主義者の多くは菜食者です。禽獸をすら殺すに忍びざる者、何ぞ人の解する如く殺人を喜ぶことがありませうか。 此等首領と目さるる學者のみならず、同主義を奉ずる勞働者は、私の見聞した處でも、他の一般勞働者に比すれば、讀書もし、品行もよし、酒も煙草も飮まぬものが多いのです。彼等は決して亂暴ではないのであります。 成程無政府主義者中から暗殺者を出したのは事實です。併し夫れは同主義者だから必ず暗殺者たるといふ譯ではありません。暗殺者の出るのは獨り無政府主義者のみでなく、國家社會黨からも、共和黨からも、自由民權論者からも、愛國者からも、勤王家からも澤山出て居ります。是まで暗殺者といへば大抵無政府主義者のやうに誣ひられて、其數も誇大に吹聽されてゐます。現に露國亞歴山二世帝を弑した如きも、無政府黨のやうに言はれますが、アレは今の政友會の人々と同じ民權自由論者であつたのです。實際歴史を調べると、他の諸黨派に比して無政府主義者の暗殺が一番僅少なので、過去五十年許りの間に全世界を通じて十指にも足るまいと思ひます。顧みて彼の勤王家、愛國家を見ますれば、同じ五十年間に、世界でなくて、我日本のみにして殆ど數十人或は數百人を算するではありませんか。單に暗殺者を出したからとて暗殺主義なりと言はば、勤王論、愛國思想ほど激烈な暗殺主義はない筈であります。 故に暗殺者の出るのは、其主義の如何に關する者でなくて、其時の特別の事情と、其人の特有の氣質とが相觸れて、此行爲に立至るのです。例へば、政府が非常な壓制をやり、其爲めに多數の同志が言論、集會、出版の權利自由を失へるは勿論、生活の方法すらも奪はるるとか、或は富豪が横暴を極めたる結果、哀民の飢凍悲慘の状見るに忍びざるとかいふが如きに際して、而も到底合法平和の手段を以て之に處するの途なきの時、若しくは途なきが如く感ずるの時に於て、感情熱烈なる青年が暗殺や暴擧に出るのです。是彼等にとつては殆ど正當防衞ともいふべきです。彼の勤王、愛國の志士が時の有司の國家を誤らんとするを見、又は自己等の運動に對する迫害急にして他に緩和の法なきの時、憤慨の極暗殺の手段に出ると同樣です。彼等元より初めから好んで暗殺を目的とも手段ともするものでなく、皆自己の氣質と時の事情とに驅られて茲に至るのです。そして其歴史を見れば、初めに多く暴力を用うるのは寧ろ時の政府、有司とか、富豪、貴族とかで、民間の志士や勞働者は常に彼等の暴力に挑發され、酷虐され、窘窮の餘已むなく亦暴力を以て之に對抗するに至るの形迹があるのです。米國大統領マツキンレーの暗殺でも、伊太利王ウンベルトのでも、又西班牙王アルフオンソに爆彈を投じたのでも、皆夫れ夫れ其時に特別な事情があつたのですが、餘り長くなるから申しません。 要するに、暗殺者は其時の事情と其人の氣質と相觸るる状況如何によりては、如何なる黨派からでも出るのです。無政府主義者とは限りません。否、同主義者は皆平和、自由を好むが故に、暗殺者を出すことは寧ろ極めて少なかつたのです。私は今回の事件を審理さるる諸公が、「無政府主義者は暗殺者なり」との妄見なからんことを希望に堪へませぬ。 革命の性質 爆彈で主權者を狙撃するのでなければ、無政府的革命はドウするのだといふ問題が生ずる。革命の熟語は支那の文字で、支那は甲姓の天子が天命を受けて乙姓の天子に代るを革命といふのだから、主に主權者とか、天子とかの更迭をいふのでせうが、私共の革命はレウオルーシヨンの譯語で、主權者の變更如何には頓着なく、政治組織、社會組織が根本に變革されねば革命とは申しません。足利が織田にならうが、豐臣が徳川にならうが、同じ武斷封建の世ならば革命とは申しません。王政維新は天子は依然たるも革命です。夫れも天子及び薩長氏が徳川氏に代つたが爲めに革命といふのではなく、舊來凡百の制度、組織が根底から一變せられたから革命といふのです。一千年前の大化の新政の如きも、矢張り天皇は依然たるも、又人民の手でなく天皇の手に依つて成されても、殆ど革命に近かつたと思ひます。即ち私共が革命といふのは、甲の主權者が乙の主權者に代るとか、丙の有力な個人若しくは黨派が丁の個人若しくは黨派に代つて政權を握るといふのでなく、舊來の制度、組織が朽廢衰弊の極崩壞し去つて、新たな社會組織が起り來るの作用を言ふので、社會進化の過程の大段落を表示する言葉です。故に嚴正な意味に於ては、革命は自然に起り來る者で、一個人や一黨派で起し得るものではありません。 維新の革命に致しても、木戸や西郷や大久保が起したのではなく、徳川氏初年に定めた封建の組織、階級の制度が三百年間の人文の進歩、社會の發達に伴はなくて、各方面に朽廢を見、破綻を生じ、自然に傾覆するに至つたのです。此舊制度、舊組織の傾覆の氣運が熟しなければ、百の木戸、大久保、西郷でもドウすることも出來ません。彼等をして今二十年早く生れしめたならば、矢張り吉田松陰などと一處に馘られるか、何事もなし得ずに埋木になつて了つたでせう。彼等幸ひに其時に生れて其事に與り、其勢ひに乘じたのみで、決して彼等が起したのではありません。革命の成るのは何時でも水到渠成るのです。 故に革命をドウして起すか、ドウして行ふかなどといふことは、到底豫め計畫し得べきことではありません。維新の革命でも形勢は時々刻々に變じて、何人も端睨、揣摩し得る者はありませんでした。大政返上の建白で平和に政權が引渡されたかと思ふと、伏見、鳥羽の戰爭が始まる。サア開戰だから江戸が大修羅場になるかと思へば、勝と西郷とで此危機をソツとコハして仕まつた。先づ無事に行つたかと思ふと、又彰義隊の反抗、奧羽の戰爭があるといふ風である。江戸の引渡しですらも、勝、西郷の如き人物が双方へ一時に出たから良かつたものの、此千載稀れな遇合が無かつたら、ドンな大亂に陷つてゐたかも知れぬ。是れ到底人間の豫知す可からざる所ではありますまいか。左すれば識者、先覺者の豫知し得るは、來るべき革命が平和か、戰爭か、如何にして成るかの問題ではなくして、唯だ現時の制度、組織が、社會、人文の進歩、發達に伴はなくなること、其傾覆と新組織の發生は不可抗の勢ひなること、封建の制がダメになれば、其次には之と反對の郡縣制にならねばならぬこと、專制の次には立憲自由制になるのが自然なること等で、此理を推して、私共は、個人競爭、財産私有の今日の制度が朽廢し去つた後は、共産制が之に代り、近代的國家の壓制は無政府的自由制を以て掃蕩せらるるものと信じ、此革命を期待するのです。 無政府主義者の革命成るの時、皇室をドウするかとの問題が先日も出ましたが、夫れも我々が指揮、命令すべきことでありません。皇室自ら決すべき問題です。前にも申す如く、無政府主義者は武力、權力に強制されない萬人自由の社會の實現を望むのです。其社會成るの時、何人が皇帝をドウするといふ權力を持ち、命令を下し得るものがありませう。他人の自由を害せざる限り、皇室は自由に、勝手に其尊榮、幸福を保つの途に出で得るので、何等の束縛を受くべき筈はありません。 斯くて我々は、此革命が如何なる事情の下に、如何なる風に成し遂げられるかは分りませんが、兎に角萬人の自由、平和の爲めに革命に參加する者は、出來得る限り暴力を伴はないやうに、多く犧牲を出さぬやうに努むべきだと考へます。古來の大變革の際に多少の暴力を伴ひ、多少の犧牲を出さぬはないやうですが、併し斯かる衝突は常に大勢に逆抗する保守、頑固の徒から企てられるのは事實です。今日ですら人民の自由、平和を願ふと稱せられてゐる皇室が、其時に於て斯かる保守、頑固の徒と共に大勢に抗し、暴力を用ゐらるるでせうか。今日に於て之を想像するのは、寛政頃に元治、慶應の事情を想像する如く、到底不可能のことです。唯だ私は、無政府主義の革命とは直ちに主權者の狙撃、暗殺を目的とする者なりとの誤解なからんことを望むのみです。 所謂革命運動 革命が水到渠成るやうに自然の勢ひなれば、革命運動の必要はあるまい、然るに現に革命運動がある。其革命運動は即ち革命を起して爆彈を投ぜんとするものではないか、といふ誤解があるやうです。 無政府主義者が一般に革命運動と稱してゐるのは、直ぐ革命を起すことでもなく、暗殺、暴動をやることでもありません。誰だ來らんとする革命に參加して應分の力を致すべき思想、智識を養成し、能力を訓練する總ての運動を稱するのです。新聞、雜誌の發行も、書籍、册子の著述、頒布も、演説も、集會も皆此時勢の推移し、社會の進化する所以の來由と歸趨とを説明し、之に關する智識を養成するのです。そして勞働組合を設けて諸種の協同の事業を營むが如きも、亦革命の新生活を爲し得べき能力を訓練し置くに利益があるのです。併し日本從來の勞働組合運動なるものは、單に眼前勞働者階級の利益増進といふのみで、遠き將來の革命に對する思想よりせる者はなかつたのです。無政府主義者も日本に於ては未だ勞働組合に手をつけたことはありません。 故に今一個の青年が、平生革命を主張したとか、革命運動をなしたといつても、直ちに天皇暗殺若しくは暴擧の目的を以て運動せりと解して之を責めるのは殘酷な難題です。私共の仲間では、無政府主義の學説を講ずるのでも、又此主義の新聞や引札を配布してゐるのでも、之を稱して革命運動をやつてるなどといふのは普通のことです。併し之は革命を起すといふこととは違ひます。 革命が自然に來るのなら、運動は無用の樣ですが、決してさうではありません。若し舊制度、舊組織が衰朽の極に達し、社會が自然に崩壞する時、如何なる新制度、新組織が之に代るのが自然の大勢であるかに關して、何等の思想も智識もなく、之に參加する能力の訓練もなかつた日には、其社會は革命の新しい芽を吹くことなくして、舊制度と共に枯死して了ふのです。之に反して智識と能力の準備があれば、元木の枯れた一方から新たなる芽が出るのです。羅馬帝國の社會は、其腐敗に任せて何等の新主義、新運動のなかつた爲めに滅亡しました。佛蘭西はブルボン王朝の末年の腐敗がアレ程になりながら、一面ルーソー、ヴォルテール、モンテスキュー等の思想が新生活の準備をした爲めに、滅亡とならずして革命となり、更に新しき佛蘭西が生れ出た。日本維新の革命に對しても其以前から準備があつた。即ち勤王思想の傳播です。水戸の大日本史でも、山陽の外史、政記でも、本居、平田の國學も、高山彦九郎の遊説もそれであります。彼等は徳川氏の政權掌握てふことが漸次日本國民の生活に適しなくなつたことを直覺し、寧ろ直感した。彼等は或は自覺せず、或は朧氣に自覺して革命の準備を爲したのです。徳川家瓦解の時は、王政復古に當つてマゴつかない丈けの思想、智識が既に養成せられてゐた。斯くて滅亡とならずして立派な革命は成就せられた。若し是等の革命運動が其準備をしてゐなかつたなら、當時外人渡來てふ境遇の大變に會つて、危い哉、日本は或は今日の朝鮮の運命を見たかも知れませぬ。朝鮮の社會が遂に獨立を失つたのは、永く其腐敗に任せ、衰朽に任せて、自ら振作し、刷新して、新社會、新生活に入る能力、思想のなかつた爲めであると思ひます。 人間が活物、社會が活物で、常に變動進歩して已まざる以上、萬古不易の制度、組織はあるべき筈がない。必ず時と共に進歩、改新せられねばならぬ。其進歩、改進の小段落が改良或は改革で、大段落が革命と名づけられるので、我々は此社會の枯死、衰亡を防ぐ爲めには、常に新主義、新思想を鼓吹すること、即ち革命運動の必要があると信ずるのです。 直接行動の意義 私はまた今回の檢事局及び豫審廷の調べに於て、直接行動てふことが、矢張暴力革命とか、爆彈を用うる暴擧とかいふことと殆ど同義に解せられてゐる觀があるのに驚きました。 直接行動は英語のヂレクト・アクシヨンを譯したので、歐米で一般に勞働運動に用うる言葉です。勞働組合の職工の中には無政府黨もあり、社會黨もあり、忠君愛國論者もあるので、別に無政府主義者の專有の言葉ではありません。そして其意味する所は、勞働組合全體の利益を増進するのには、議會に御頼み申しても埒が明かぬ、勞働者のことは勞働者自身に運動せねばならぬ。議員を介する間接運動でなくして勞働者自身が直接に運動しよう、即ち總代を出さないで自分等で押し出さうといふのに過ぎないのです。今少し具體的に言へば、工場の設備を完全にするにも、勞働時間を制限するにも、議會に頼んで工場法を拵へて貰ふ運動よりも、直接に工場主に談判する、聞かなければ同盟罷工をやるといふので、多くは同盟罷工のことに使はれてゐるやうです。或は非常の不景氣、恐慌で、餓孚途に横はるといふやうな時には、富豪の家に押入つて食品を收用するもよいと論ずる者もある。收用も亦直接行動の一ともいへぬではない。又革命の際に於て、議會の決議や法律の協定を待たなくても、勞働組合で總てをやつて行けばよいといふ論者もある。是も直接行動とも言へるのです。 併し、今日直接行動説を贊成したといつても、總ての直接行動、議會を經ざる何事でも贊成したといふことは言へませぬ。議會を經ないことなら、暴動でも、殺人でも、泥棒でも、詐僞でも皆直接行動ではないか、といふ筆法で論ぜられては間違ひます。議會は歐米到る處腐敗してゐる。中には善良な議員が無いでもないが、少數で其説は行はれぬ。故に議院をアテにしないで直接行動をやらうといふのが、今の勞働組合の説ですから、やるなら直接行動をやるといふので、直接行動なら何でもやるといふのではありません。同じく議會を見限つて直接行動を贊する人でも、甲は小作人同盟で小作料を値切ることのみやり、乙は職工の同盟罷工のみを賛するといふ樣に、其人と其場合とによりて目的、手段、方法を異にするのです。故に直接行動を直ちに暴力革命なりと解し、直接行動論者たりしといふことを今回の事件の有力な一原因に加へるのは、理由なきことです。 歐州と日本の政策 今回の事件の眞相と其動機とが何處に在るかは姑く措き、以上述ぶるが如く、無政府主義者は決して暴力を好む者でなく、無政府主義の傳道は暴力の傳道ではありません。歐米でも同主義に對しては甚だしき誤解を抱いてゐます。或は知つて故らに曲解し、讒誣、中傷してゐますが、併し日本や露國のやうに亂暴な迫害を加へ、同主義者の自由、權利を總て剥奪、蹂躝して、其生活の自由まで奪ふやうなことはまだありません。歐州の各文明國では無政府主義の新聞、雜誌は自由に發行され、其集會は自由に催されてゐます。佛國などには同主義の週刊新聞が七八種もあり、英國の如き君主國、日本の同盟國でも、英文や露文や猶太語のが發行されてゐます。そしてクロポトキンは倫敦にゐて自由に其著述を公にし、現に昨年出した「露國の慘状」の一書は、英國議會の「露國事件調査委員會」から出版いたしました。私の譯した「麺麭の略取」の如きも、佛語の原書で、英、獨、露、伊、西等の諸國語に飜譯され、世界的名著として重んぜられてゐるので、之を亂暴に禁止したのは、文明國中日本と露國のみなのです。 成程、無政府主義は危險だから、同盟して鎭壓しようといふことを申出した國もあり、日本にも其交渉があつたかのやうに聞きました。が、併し、此提議をするのは、大概獨逸とか、伊太利とか、西班牙とかで、先づ亂暴な迫害を無政府主義者に加へ、彼等の中に激昂の極多少の亂暴する者あるや、直ちに之を口實として鎭壓策を講ずるのです。そして此列國同盟の鎭壓條約は、屡々提議されましたが、曾て成立したことはありません。いくら腐敗した世の中でも、兎に角文明の皮を被つてる以上、さう人間の思想の自由を蹂躝することは出來ない筈です。特に申しますが、日本の同盟國たる英國は何時も此提議に反對するのです。 一揆暴動と革命 |
久米は官能の鋭敏な田舎者です。 書くものばかりじゃありません。実生活上の趣味でも田舎者らしい所は沢山あります。それでいて官能だけは、好い加減な都会人より遥に鋭敏に出来上っています。嘘だと思ったら、久米の作品を読んでごらんなさい。色彩とか空気とか云うものは、如何にも鮮明に如何にも清新に描けています。この点だけ切り離して云えば、現在の文壇で幾人も久米の右へ出るものはないでしょう。 勿論田舎者らしい所にも、善い点がないと云うのではありません。いや、寧ろ久米のフォルトたる一面は、そこにあるとさえ云われるでしょう。素朴な抒情味などは、完くこの田舎者から出ているのです。 序にもう一つ制限を加えましょうか。それは久米が田舎者でも唯の田舎者ではないと云う事です。尤もこれはじゃ何だと云われると少し困りますが、まあ久米の田舎者の中には、道楽者の素質が多分にあるとでも云って置きましょう。そこから久米の作品の中にあるヴォラプテュアスな所が生れて来るのです。そんな点で多少のクラデルなんぞを想起させる所もありますが、勿論全体としては別段似てもいません。 |
其日の朝であつた、自分は少し常より寢過して目を覺すと、子供達の寢床は皆殼になつてゐた。自分が嗽に立つて臺所へ出た時、奈々子は姉なるものゝ大人下駄を穿いて、外とへ出ようとする處であつた。凉爐の火に煙草を喫つてゐて、自分と等しく奈々子の後姿を見送つた妻は、 『奈々ちやんはねあなた、昨日から覺えてわたい、わたいつて云ひますよ。 『さうか、うむ。 答へた自分も妻も同じやうに、愛の笑が自から顏に動いた。 出口の腰障子につかまつて、敷居を足越さうとした奈々子も、振返りさまに兩親を見てにつこり笑つた。自分は其儘外へ出る。物置の前では十五になる梅子が、今雞箱から雛を出して追込に入れてゐる。雪子もお兒も如何にも面白さうに笑ひながら雞を見て居る。 奈々子もそれを見に降りて來たのだ。 井戸端の流し場に手水を濟した自分も、雞に興がる子供達の聲に引かされて、覺えず彼等の後ろに立つた。先に父を見つけたお兒は、 『おんちやんにおんぼしんだ、おんちやんにおんぼしんだ。 と叫んで父の膝に取りついた。奈々子もあとから、 『わたえもおんも、わたえもおんも。 と同じく父に取りつくのであつた。自分はいつもの如くに、おんぼといふ姉とおんもといふ妹とを一所に背負うて、暫く彼等を笑はせた。梅子が餌を持出してきて雛にやるので再び四人の子供は追込みの前に立つた。お兒が、 『おんちやんおやとり、おんちやんおやとり。 といふから、お兒ちやん、おやとりがどうしたかと聞くと、お兒ちやんは、おやとりつち詞を此頃覺えたからさういふのだと梅子が答へる。奈々子は大きい下駄に疲れたらしく、 『お兒ちやんのかんこ、お兒ちやんのかんこ。 と云ひ出した。お兒の下駄を借りたいと云ふのである。父は幼き姉を賺かして其下駄を借さした。お兒は一つ上の姉でも姉は姉らしいところがある。小さな姉妹は下駄を取替へる、奈々子は滿足の色を笑に湛はして、雪子とお兒の間に挾まりつゝ雛を見る。つぶ〳〵綛の單物に桃色の彦帶を後に垂れ、小さな膝を折つて其兩膝に罪のない手を乘せて蹲踞んで居る。雪子もお兒もながら、一番小さい奈々子の風が殊に親の目を引くのである。虱が湧いたとかで、頭をくり〳〵とバリガンで刈つて終うた、頭つきがいたづらさうに見えて一層親の目に可愛ゆい。妻も臺所から顏を出して、 『三人が能く並んで蹲踞んでること、奈々ちやんや雞が面白いかい奈々ちやんや。 三兒は一樣に振返つて母と笑ひあふのである。自分は胸に動悸するまで、此光景に深く感を引いた。 此日は自分は一日家に居つた。三兒は遊びに飽きると時々自分の書見の室に襲うてくる。 三人が菓子を貰ひに來る、お兒が一番無遠慮にやつてくる。 『おんちやん、おんちやん、かちあるかいかち、奈子ちやんがかちだつて。 續いて奈々子が走り込む。 『おつちやんあつこ、おつちやんあつこ、はんぶんはんぶん。 と云ひつゝいきなり父に取りつく 奈々子が菓子ほしいといふ時に、父は必ずだつこしろ、だつこすれば菓子やるといふ爲に、菓子のほしい時彼はあつこ〳〵と叫んで父の膝に乘るのである。一つでは餘り大きいといふので、半分づゝだよと云ひ聞せられる爲に、自分からはんぶんはんぶんといふのである。四才のお兒はがつこといひ、三才の奈々子はあつこと云ふ。年の違ひもあれど、いくらか性質の差も判るのである。六才の雪子は二人の跡から這入つてきて、只しれ〳〵と笑つて居る。菓子が三人に分配されると、直ぐに去つて終ふ。風の凪いだやうに跡は靜かになる。靜かさが少しく長くなると、どうして遊んでるかなと思ふ。さう思つて庭を見ると、いつの間にか三人は庭の明地に來て居つた。くり〳〵頭に桃色の彦帶が一人、角子頭に卵色の兵兒帶が二人、何が面白いか笑もせず聲も立てず、何かを摘んでる樣子だ。自分は只頭りの動くのと彦帶のふら〳〵するのを暫く見詰めて居つた。自分も聲を挂けなかつた、三人も菓子とも思はなかつたか、やがてはた〳〵足音がするから顏を出して見ると、奈々子が後になつて三人が手を振つて駈ける後姿が目にとまつた。 御飯が出來たからおんちやんを呼んでお出と彼等の母が云ふらしかつた。奈々ちやんお先にお出よ奈々ちやんと雪子が叫ぶ。幼き二人の傳令使は見る間に飛込んで來た。二人は同體に父の背に取りつく。 『おんちやん御はんおあがんなさいつて。 『おはんなさい、ハヽヽヽヽ 父は兩手を廻し、大きな背に又二人を負んぶして立つた。出口が狹いので少し體を横に漸く通る窮屈さを一層興がつて、二人は笑ひ叫ぶ。父の背を降りない内から、二人でおんちやんを呼んできたと母に云ふ騷ぎ、母は猶立働いてる。父と三兒は向合に食卓についた。お兒は四つでも、箸持つことは、まだ本當でない、少し見ないと左手に箸を持つ、又お箸の手が違つたよと云へば、直ぐ右に直すけれど、少しすると又左に持つ、屡注意して右に持たせる位であるから、飯も盛にこぼす。奈々子は一年十ヶ月なれど、箸持つ手は始めから正しい。食べ物に着物を汚すことも少ないのである。姉等が坐るに狹いと云へば、身を片寄せて席をゆづる、彼れの母は彼れを熟視して、奈々ちやんは顏構からしてしつかりして居ますねいといふ。 末子であるから埒もなく可愛といふ譯ではないのだ。此の子はと思ふのは彼れの母許りではなく、父の目にもさう見えた。 午後は奈々子が一晝寢してからであつた、雪子もお兒も鞦韆に飽き、寢覺めた奈々子を連れて、表の方に居る樣子であつたが、格子戸をからり明けて駈け上りざまに三兒は吾勝ちと父に何か告げんとするのである。 『お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が。 『おんちやん金魚がへんだ。金魚がへんだよおんちやん。 『へんだ、おつちやんへんだ。 奈々子は父の手を取つて頻りに來て見よとの意を示すのである。父は只氣が弱い、口で求めず手で引立てる奈々子の要求に少しも逆ふことは出來ない。父は引かるゝまゝに三兒の後から表にある水鉢の金魚を見に往つた。五六匹死んだ金魚は外に取捨てられ、殘つた金魚はなまこの水鉢の中にくる〳〵輪をかいて廻つて居た、水は青黒く濁つてる。自分は早速新しい水をバケツに二はい汲み入れてやつた。奈々子は水鉢の縁に小さな手を掛け、 『きんごおつちやんきんご、おつちやんきんご。 『もう金魚へにやしないねいねいおんちやん、へにやしないねい。 三兒は一時金魚の死んだのに驚いたらしかつた。父は更に金魚を買ひ足してやることを約束して座に返つた。三人は猶頻りに金魚をながめて年相當な會話をやつてるらしい。 後から考へた此時の状態を何と云つたらよいか。無邪氣な可憐な、殆ど神に等しき幼きものゝ上に、悲慘なる運命は已に近く迫りつゝありしことを、どうして知り得られよう。 くり〳〵と毛を刈つたつむり、つや〳〵と肥つた其手や足や、撫でゝさすつて、はては舐りまはしても飽きたらぬ悲しい奈々子の姿は、それきり父の目を離れて終つた。おんもと云ひ、あつこと云ひ、おつちやんと云つた其悲しい聲は永遠に父の耳を離れて終つた。 此日の薄暮頃に奈々子の身には不測の禍があつた。さうして父は奈々子が此世を去る數時間以前奈々子に別れて終つた、然かも奈々子も父も家に居つて………。いつもならば、家に居れば僅かの間見えなくとも、必ず子供はどうしたと尋ねるのが常であるのに、其日の午後は、どいふものか數時間の間子供をたづねなかつた。跡から思ふと、闇の夜に顏も見得ず別れて終つたやうな氣がしてならない。 一つの乳牛に消化不良なのがあつて、今井獸醫の來たのは、井戸端に夕日の影の薄い頃であつた。自分は今井と共に牛を見て、牧夫に投藥の方法など示した後、今井獸醫が、何か見せたい物があるからと云はるゝまゝに、今井の宅に打連れて往くことにした。自分が牛舍の流しを出て臺所へあがり、奧へ通つた内に梅子と女中は夕食の仕度に忙しく、雪子もお兒もうろ〳〵遊んでゐた、民子も秋子も鞦韆に遊んでゐた。只奈々の姿が見えなかつた。それでも自分は敢て怪みもせず、今井と共に門を出た、今井の宅は十二三分間で往かれる所である。 今井の宅には洋燈もついて外に知人も一人居つた。上がつてから凡そ十五六分も過ぎたと思ふ時分に、あわたゞしき迎へのものは、長女と女中であつた。 『お父さん大へんです、奈々ちやんが池へ落ちて………。 それやつと口から出たか出ないかも覺えがなく、人を押しのけて飛出した。飛び出でる間際にも、 『奈々子は泣いたかツ と問うたら、長女の聲で未だ泣かないと聞えた。自分は其不安な一語を耳に挾さんで、走りに走つた。走れば十分とはかゝらぬ間なれど肥つた自分には息切れがして殆どのめりさうである。漸く家近く來ると梅子が走つてきた。自分は又 『奈々子は泣いたか。 『まだ泣かない、お父さん未だ醫者も來ない。 自分は周章てながらも六つかしいなと腹に思ひつゝ猶一息と走つた。 |
一 猫 彼等は田舎に住んでゐるうちに、猫を一匹飼ふことにした。猫は尾の長い黒猫だつた。彼等はこの猫を飼ひ出してから、やつと鼠の災難だけは免れたことを喜んでゐた。 半年ばかりたつた後、彼等は東京へ移ることになつた。勿論猫も一しよだつた。しかし彼等は東京へ移ると、いつか猫が前のやうに鼠をとらないのに気づき出した。「どうしたんだらう? 肉や刺身を食はせるからかしら?」「この間Rさんがさう言つてゐましたよ。猫は塩の味を覚えると、だんだん鼠をとらないやうになるつて。」――彼等はそんなことを話し合つた末、試みに猫を餓ゑさせることにした。 しかし、猫はいつまで待つても、鼠をとつたことは一度もなかつた。そのくせ鼠は毎晩のやうに天井裏を走りまはつてゐた。彼等は、――殊に彼の妻は猫の横着を憎み出した。が、それは横着ではなかつた。猫は目に見えて痩せて行きながら、掃き溜めの魚の骨などをあさつてゐた。「つまり都会的になつたんだよ。」――彼はこんなことを言つて笑つたりした。 そのうちに彼等はもう一度田舎住ひをすることになつた。けれども猫は不相変少しも鼠をとらなかつた。彼等はとうとう愛想をつかし、気の強い女中に言ひつけて猫を山の中へ捨てさせてしまつた。 すると或晩秋の朝、彼は雑木林の中を歩いてゐるうちに偶然この猫を発見した。猫は丁度雀を食つてゐた。彼は腰をかがめるやうにし、何度も猫の名を呼んで見たりした。が、猫は鋭い目にぢつと彼を見つめたまま、寄りつかうとする気色も見せなかつた。しかもパリパリ音を立てて雀の骨を噛み砕いてゐた。 二 河鹿 或温泉にゐる母から息子へ人伝てに届けたもの、――桜の実、笹餅、土瓶へ入れた河鹿が十六匹、それから土瓶の蔓に結びつけた走り書きの手紙が一本。 その手紙の一節はかうである。――「この河鹿は皆雄に候。雌はあとより届け候。尤も雌雄とも一つ籠に入れぬやうに。雌は皆雄を食ひ殺し候。」 三 或女の話 わたしは丁度十二の時に修学旅行に直江津へ行きました。(わたしの小学校は信州の×と云ふ町にあるのです。)その時始めて海と云ふものを見ました。それから又汽船と云ふものを見ました。汽船へ乗るには棧橋からはしけに乗らなければなりません。私達のゐた棧橋にはやはり修学旅行に来たらしい、どこか外の小学校の生徒も大勢わいわい言つてゐました。その外の小学校の生徒がはしけへ乗らうとした時です。黒い詰襟の洋服を着た二十四五の先生が一人、(いえ、わたしの学校の先生ではありません。)いきなりわたしを抱き上げてはしけへ乗せてしまひました。それは勿論間違ひだつたのです。その先生は暫くたつてから、わたしの学校の先生がわたしを受けとりにやつて来た時、何度もかう言つてあやまつてゐました。――「どうもうちの生徒にそつくりだもんですから。」 その先生がわたしを抱き上げてはしけへ乗せた時の心もちですか? わたしはずゐぶん驚きましたし、怖いやうにも思ひましたけれども、その外にまだ何となく嬉しい気もしたやうに覚えてゐます。 四 或運転手 銀座四丁目。或電車の運転手が一人、赤旗を青旗に見ちがへたと見え、いきなり電車を動かしてしまつた。が、間違ひに気づくが早いか、途方もないおほ声に「アヤマリ」と言つた。僕はその声を聞いた時、忽ち兵営や練兵場を感じた。僕の直覚は当たつてゐたかしら。 五 失敗 あの男は何をしても失敗してゐた。最後にも――あの男は最後には壮士役者になり白瀬中尉を当てこんだ「南極探険」と云ふ芝居へ出ることになつた。勿論それは夏芝居だつた。あの男は唯のペングイン鳥になり、氷山の間を歩いてゐた。そのうちに烈しい暑さの為にとうとう悶絶して死んでしまつた。 六 東京人 或待合のお上さんが一人、懇意な或芸者の為に或出入りの呉服屋へ帯を一本頼んでやつた。扨その帯が出来上つて見ると、それは註文主のお上さんには勿論、若い呉服屋の主人にも派手過ぎると思はずにはゐられぬものだつた。そこでこの呉服屋の主人は何も言はずに二百円の帯を百五十円にをさめることにした。しかしこちらの心もちは相手のお上さんには通じてゐた。 お上さんは金を払つた後、格別その帯を芸者にも見せずに箪笥の中にしまつて置いた。が、芸者は暫くたつてから、「お上さん、あの帯はまだ?」と言つた。お上さんはやむを得ずその帯を見せ、実際は百五十円払つたのに芸者には値段を百二十円に話した。それは芸者の顔色でも、やはり派手過ぎると思つてゐることは、はつきりお上さんにわかつた為だつた。が、芸者も亦何も言はずにその帯を貰つて帰つた後、百二十円の金を届けることにした。 芸者は百二十円と聞いたものの、その帯がもつと高いことは勿論ちやんと承知してゐた。それから彼女自身はしめずに妹にその帯をしめさせることにした。何、莫迦莫迦しい遠慮ばかりしてゐる?――東京人と云ふものは由来かう云ふ莫迦莫迦しい遠慮ばかりしてゐる人種なのだよ。 七 幸福な悲劇 彼女は彼を愛してゐた。彼も亦彼女を愛してゐた。が、どちらも彼等の気もちを相手に打ち明けるのに臆病だつた。 彼はその後彼女以外の――仮に3と呼ぶとすれば、3と云ふ女と馴染み出した。彼女は彼に反感を生じ、彼以外の――仮に4と呼ぶとすれば、4と云ふ男に馴染み出した。彼は又急に嫉妬を感じ、彼女を4から奪はうとした。彼女も彼と馴染むことは本望だつたのに違ひなかつた。しかしもうその時には幸福にも――或は不幸にもいつか4に愛を感じてゐた。のみならず更に幸福だつたことには――或はこれも不幸だつたことには彼もいざとなつて見ると、冷かに3と別れることは出来ない心もちに陥つてゐた。 彼は3と逢ひながら、時々彼女のことを思ひ出してゐる。彼女も亦4と遠出をする度に耳慣れない谷川の音などを聞き、時々彼のことを思ひ出してゐる。…… 八 実感 或殺人犯人の言葉。――「わたしはあいつを殺しました。あいつが幽霊に出て来るのは尤も過ぎる位尤もです。唯わたしが殺した通りの死骸になつて出て来るならば、恐ろしいことも何もありません。けれどもあいつが生きてゐる時と少しも変らない姿をして立つてゐたり何かするのが恐しいのです。ほんたうにどうせ幽霊に出るならば、死骸になつて出て来やがれば好いのに。」 九 車力 僕は十一か十二の時、空き箱を積んだ荷車が一台、坂を登らうとしてゐるを見、後ろから押してやらうとした。するとその車を引いてゐた男は車越しに僕を見返るが早いか、「こら」とおほ声に叱りつけた。僕は勿論この男の誤解を不快に思はずにはゐられなかつた。 それから五六日たつた後、この男は又荷車を引き、前と同じ坂を登らうとしてゐた。今度は積んであるのは炭俵だつた。が、僕は「勝手にしろ」と思ひ、唯道ばたに佇んでゐた。すると車の揺れる拍子に炭俵が一つ転げ落ちた。この男はやつと楫棒を下ろし、元のやうに炭俵を積み直した。それは僕には何ともなかつた。が、この男は前こごみになり、炭俵を肩へ上げながら、誰か人間にでも話しかけるやうに「こん畜生、いやに気を利かしやがつて。車から下りるのはまだ早いや」と言つた。僕はそれ以来この男に、――この黒ぐろと日に焼けた車力に或親しみを感ずるやうになつた。 十 或農夫の論理 或山村の農夫が一人、隣家の牝牛を盗んだ為に三箇月の懲役に服することになつた。獄中の彼は別人のやうに神妙に一々獄則を守り、模範的囚人と呼ばれさへした。が、免役になつて帰つて来ると、もう一度同じ牝牛を盗み出した。隣家の主人は立腹し、今度も亦警察権を借りることにした。彼等の村の駐在所の巡査は早速彼を拘引した上、威丈高に彼を叱りつけた。 |
佐藤春夫は不幸にも常に僕を誤解してゐる。僕の「有島生馬君に与ふ」を書いた時、佐藤は僕にかう云つた。「君はいつもああ云ふ風にもの云へば好いのだ。あれは旗幟鮮明で好い。」僕はいつも旗幟鮮明である。まだ一度も莫迦だと思ふ君子に、聡なるかな、明なるかななどと云つたことはない。唯莫迦だと云はないだけである。それを旗幟不鮮明のやうに思ふのは佐藤の誤解と云はなければならぬ。 又僕の「保吉の手帳」を書いた時、佐藤は僕にかう云つた、「うん、あれは好いよ。唯僕に云はせれば、未完成の美を認めないのは君の為に遺憾だと思ふね。」これも佐藤の誤解である。僕は未完成の美に冷淡ではない。さもなければ何も僕のやうに、恬然と未完成の作品ばかり発表する気にはなれぬ訳である。 又僕の何かの拍子に「喜劇を書きたい」と云つた時、佐藤は僕にかう云つた。「喜劇ならば君にはすぐ書けるだらう。」僕のテムペラメントは厳粛である。全精神を振ひ起さなければ滅多に常談も云ふことは出来ない。それを佐藤は世間と共に容易の業のやうに誤解してゐる。 又或新進の豪傑の佐藤を褒め、僕を貶した時、佐藤は僕にかう云ふ手紙をよこした。「僕は君と比較されるのを甚だ迷惑に思つてゐる。」これも亦誤解と云はなければならぬ。僕はまだ一篇の琴唄の作者を新進の豪傑と同程度の頭脳の持ち主と思つたことはない。尤もさう云ふ佐藤の厚意に感謝したことは勿論である。 |
弾丸が一円壔を走つた(弾丸が一直線に走つたにおける誤謬らの修正) 正六砂糖(角砂糖のこと) |
一 宮重大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり…… と口誦むように独言の、膝栗毛五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。中空は冴切って、星が水垢離取りそうな月明に、踏切の桟橋を渡る影高く、灯ちらちらと目の下に、遠近の樹立の骨ばかりなのを視めながら、桑名の停車場へ下りた旅客がある。 月の影には相応しい、真黒な外套の、痩せた身体にちと広過ぎるを緩く着て、焦茶色の中折帽、真新しいはさて可いが、馴れない天窓に山を立てて、鍔をしっくりと耳へ被さるばかり深く嵌めた、あまつさえ、風に取られまいための留紐を、ぶらりと皺びた頬へ下げた工合が、時世なれば、道中、笠も載せられず、と断念めた風に見える。年配六十二三の、気ばかり若い弥次郎兵衛。 さまで重荷ではないそうで、唐草模様の天鵝絨の革鞄に信玄袋を引搦めて、こいつを片手。片手に蝙蝠傘を支きながら、 「さて……悦びのあまり名物の焼蛤に酒汲みかわして、……と本文にある処さ、旅籠屋へ着の前に、停車場前の茶店か何かで、一本傾けて参ろうかな。(どうだ、喜多八。)と行きたいが、其許は年上で、ちとそりが合わぬ。だがね、家元の弥次郎兵衛どの事も、伊勢路では、これ、同伴の喜多八にはぐれて、一人旅のとぼとぼと、棚からぶら下った宿屋を尋ねあぐんで、泣きそうになったとあるです。ところで其許は、道中松並木で出来た道づれの格だ。その道づれと、何んと一口遣ろうではないか、ええ、捻平さん。」 「また、言うわ。」 と苦い顔を渋くした、同伴の老人は、まだ、その上を四つ五つで、やがて七十なるべし。臘虎皮の鍔なし古帽子を、白い眉尖深々と被って、鼠の羅紗の道行着た、股引を太く白足袋の雪駄穿。色褪せた鬱金の風呂敷、真中を紐で結えた包を、西行背負に胸で結んで、これも信玄袋を手に一つ。片手に杖は支いたけれども、足腰はしゃんとした、人柄の可いお爺様。 「その捻平は止しにさっしゃい、人聞きが悪うてならん。道づれは可けれども、道中松並木で出来たと言うで、何とやら、その、私が護摩の灰ででもあるように聞えるじゃ。」と杖を一つとんと支くと、後の雁が前になって、改札口を早々と出る。 わざと一足後へ開いて、隠居が意見に急ぐような、連の後姿をじろりと見ながら、 「それ、そこがそれ捻平さね。松並木で出来たと云って、何もごまのはいには限るまい。もっとも若い内は遣ったかも知れんてな。ははは、」 人も無げに笑う手から、引手繰るように切符を取られて、はっと駅夫の顔を見て、きょとんと生真面目。 成程、この小父者が改札口を出た殿で、何をふらふら道草したか、汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、真蒼な野路を光って通る。…… 「やがてここを立出で辿り行くほどに、旅人の唄うを聞けば、」 と小父者、出た処で、けろりとしてまた口誦んで、 「捻平さん、可い文句だ、これさ。…… 時雨蛤みやげにさんせ 宮のおかめが、……ヤレコリャ、よオしよし。」 「旦那、お供はどうで、」 と停車場前の夜の隈に、四五台朦朧と寂しく並んだ車の中から、車夫が一人、腕組みをして、のっそり出る。 これを聞くと弥次郎兵衛、口を捻じて片頬笑み、 「有難え、図星という処へ出て来たぜ。が、同じ事を、これ、(旦那衆戻り馬乗らんせんか、)となぜ言わぬ。」 「へい、」と言ったが、車夫は変哲もない顔色で、そのまま棒立。 二 小父者は外套の袖をふらふらと、酔ったような風附で、 「遣れよ、さあ、(戻馬乗らんせんか、)と、後生だから一つ気取ってくれ。」 「へい、(戻馬乗らせんか、)と言うでございますかね、戻馬乗らんせんか。」 と早口で車夫は実体。 「はははは、法性寺入道前の関白太政大臣と言ったら腹を立ちやった、法性寺入道前の関白太政大臣様と来ている。」とまたアハハと笑う。 「さあ、もし召して下さい。」 と話は極った筈にして、委細構わず、車夫は取着いて梶棒を差向ける。 小父者、目を据えてわざと見て、 「ヤレコリャ車なんぞ、よオしよし。」 「いや、よしではない。」 とそこに一人つくねんと、添竹に、その枯菊の縋った、霜の翁は、旅のあわれを、月空に知った姿で、 「早く車を雇わっしゃれ。手荷物はあり、勝手知れぬ町の中を、何を当にぶらつこうで。」と口叱言で半ば呟く。 「いや、まず一つ、(よヲしよし、)と切出さんと、本文に合わぬてさ。処へ喜多八が口を出して、(しょうろく四銭で乗るべいか。)馬士が、(そんなら、ようせよせ。)と言いやす、馬がヒインヒインと嘶う。」 「若いもの、その人に構うまい。車を早く。川口の湊屋と言う旅籠屋へ行くのじゃ。」 「ええ、二台でござりますね。」 「何んでも構わぬ、私は急ぐに……」と後向きに掴まって、乗った雪駄を爪立てながら、蹴込みへ入れた革鞄を跨ぎ、首に掛けた風呂敷包みを外ずしもしないで揺っておく。 「一蓮託生、死なば諸共、捻平待ちやれ。」と、くすくす笑って、小父者も車にしゃんと乗る。…… 「湊屋だえ、」 「おいよ。」 で、二台、月に提灯の灯黄色に、広場の端へ駈込むと……石高路をがたがたしながら、板塀の小路、土塀の辻、径路を縫うと見えて、寂しい処幾曲り。やがて二階屋が建続き、町幅が糸のよう、月の光を廂で覆うて、両側の暗い軒に、掛行燈が疎に白く、枯柳に星が乱れて、壁の蒼いのが処々。長い通りの突当りには、火の見の階子が、遠山の霧を破って、半鐘の形活けるがごとし。……火の用心さっさりやしょう、金棒の音に夜更けの景色。霜枯時の事ながら、月は格子にあるものを、桑名の妓達は宵寝と見える、寂しい新地へ差掛った。 輻の下に流るる道は、細き水銀の川のごとく、柱の黒い家の状、あたかも獺が祭礼をして、白張の地口行燈を掛連ねた、鉄橋を渡るようである。 |
ヴオルテエルが子供の時は神童だつた。 処が、或る人が、 「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば並の人、といふこともあるから、子供の時に悧巧でも大人になつて馬鹿にならないとは限らない。だから神童と云はれるのも考へものだ」と云つた。 すると、それを聞いたヴオルテエルが、その人の顔を眺めながら、 「おじさんは子供の時に、さぞ悧巧だつたでせうね」と云つたといふことがある。 これと全然同じ話が支那にもある。 北海の孔融が矢張り神童だつた。 処が、大中大夫陳煒といふものが矢張り、 「子供の時悧巧でも大人になつて馬鹿になるものがある」 と云つたのを孔融が聞いて、 「あなたも定めて子供の時は神童だつたでせう」と云つた。 孔融は三国時代の人であるが、この話が十八世紀のフランスに伝はつて、ヴオルテエルの逸話になつたとは考へられない。すると、神童といふものは、期せずして東西同じやうに、相手の武器を奪つて相手をへこませることを心得てゐるものとみえる。 |
………僕は何でも雑木の生えた、寂しい崖の上を歩いて行った。崖の下はすぐに沼になっていた。その又沼の岸寄りには水鳥が二羽泳いでいた。どちらも薄い苔の生えた石の色に近い水鳥だった。僕は格別その水鳥に珍しい感じは持たなかった。が、余り翼などの鮮かに見えるのは無気味だった。―― ――僕はこう言う夢の中からがたがた言う音に目をさました。それは書斎と鍵の手になった座敷の硝子戸の音らしかった。僕は新年号の仕事中、書斎に寝床をとらせていた。三軒の雑誌社に約束した仕事は三篇とも僕には不満足だった。しかし兎に角最後の仕事はきょうの夜明け前に片づいていた。 寝床の裾の障子には竹の影もちらちら映っていた。僕は思い切って起き上り、一まず後架へ小便をしに行った。近頃この位小便から水蒸気の盛んに立ったことはなかった。僕は便器に向いながら、今日はふだんよりも寒いぞと思った。 伯母や妻は座敷の縁側にせっせと硝子戸を磨いていた。がたがた言うのはこの音だった。袖無しの上へ襷をかけた伯母はバケツの雑巾を絞りながら、多少僕にからかうように「お前、もう十二時ですよ」と言った。成程十二時に違いなかった。廊下を抜けた茶の間にはいつか古い長火鉢の前に昼飯の支度も出来上っていた。のみならず母は次男の多加志に牛乳やトオストを養っていた。しかし僕は習慣上朝らしい気もちを持ったまま、人気のない台所へ顔を洗いに行った。 朝飯兼昼飯をすませた後、僕は書斎の置き炬燵へはいり、二三種の新聞を読みはじめた。新聞の記事は諸会社のボオナスや羽子板の売れ行きで持ち切っていた。けれども僕の心もちは少しも陽気にはならなかった。僕は仕事をすませる度に妙に弱るのを常としていた。それは房後の疲労のようにどうすることも出来ないものだった。……… K君の来たのは二時前だった。僕はK君を置き炬燵に請じ、差し当りの用談をすませることにした。縞の背広を着たK君はもとは奉天の特派員、――今は本社詰めの新聞記者だった。 「どうです? 暇ならば出ませんか?」 僕は用談をすませた頃、じっと家にとじこもっているのはやり切れない気もちになっていた。 「ええ、四時頃までならば。………どこかお出かけになる先はおきまりになっているんですか?」 K君は遠慮勝ちに問い返した。 「いいえ、どこでも好いんです。」 「お墓はきょうは駄目でしょうか?」 K君のお墓と言ったのは夏目先生のお墓だった。僕はもう半年ほど前に先生の愛読者のK君にお墓を教える約束をしていた。年の暮にお墓参りをする、――それは僕の心もちに必ずしもぴったりしないものではなかった。 「じゃお墓へ行きましょう。」 僕は早速外套をひっかけ、K君と一しょに家を出ることにした。 天気は寒いなりに晴れ上っていた。狭苦しい動坂の往来もふだんよりは人あしが多いらしかった。門に立てる松や竹も田端青年団詰め所とか言う板葺きの小屋の側に寄せかけてあった。僕はこう言う町を見た時、幾分か僕の少年時代に抱いた師走の心もちのよみ返るのを感じた。 僕等は少時待った後、護国寺前行の電車に乗った。電車は割り合いにこまなかった。K君は外套の襟を立てたまま、この頃先生の短尺を一枚やっと手に入れた話などをしていた。 すると富士前を通り越した頃、電車の中ほどの電球が一つ、偶然抜け落ちてこなごなになった。そこには顔も身なりも悪い二十四五の女が一人、片手に大きい包を持ち、片手に吊り革につかまっていた。電球は床へ落ちる途端に彼女の前髪をかすめたらしかった。彼女は妙な顔をしたなり、電車中の人々を眺めまわした。それは人々の同情を、――少くとも人々の注意だけは惹こうとする顔に違いなかった。が、誰も言い合せたように全然彼女には冷淡だった。僕はK君と話しながら、何か拍子抜けのした彼女の顔に可笑しさよりも寧ろはかなさを感じた。 僕等は終点で電車を下り、注連飾りの店など出来た町を雑司ヶ谷の墓地へ歩いて行った。 大銀杏の葉の落ち尽した墓地は不相変きょうもひっそりしていた。幅の広い中央の砂利道にも墓参りの人さえ見えなかった。僕はK君の先に立ったまま、右側の小みちへ曲って行った。小みちは要冬青の生け垣や赤鏽のふいた鉄柵の中に大小の墓を並べていた。が、いくら先へ行っても、先生のお墓は見当らなかった。 「もう一つ先の道じゃありませんか?」 「そうだったかも知れませんね。」 僕はその小みちを引き返しながら、毎年十二月九日には新年号の仕事に追われる為、滅多に先生のお墓参りをしなかったことを思い出した。しかし何度か来ないにしても、お墓の所在のわからないことは僕自身にも信じられなかった。 その次の稍広い小みちもお墓のないことは同じだった。僕等は今度は引き返す代りに生け垣の間を左へ曲った。けれどもお墓は見当らなかった。のみならず僕の見覚えていた幾つかの空き地さえ見当らなかった。 「聞いて見る人もなし、………困りましたね。」 僕はこう言うK君の言葉にはっきり冷笑に近いものを感じた。しかし教えると言った手前、腹を立てる訣にも行かなかった。 僕等はやむを得ず大銀杏を目当てにもう一度横みちへはいって行った。が、そこにもお墓はなかった。僕は勿論苛ら苛らして来た。しかしその底に潜んでいるのは妙に侘しい心もちだった。僕はいつか外套の下に僕自身の体温を感じながら、前にもこう言う心もちを知っていたことを思い出した。それは僕の少年時代に或餓鬼大将にいじめられ、しかも泣かずに我慢して家へ帰った時の心もちだった。 何度も同じ小みちに出入した後、僕は古樒を焚いていた墓地掃除の女に途を教わり、大きい先生のお墓の前へやっとK君をつれて行った。 お墓はこの前に見た時よりもずっと古びを加えていた。おまけにお墓のまわりの土もずっと霜に荒されていた。それは九日に手向けたらしい寒菊や南天の束の外に何か親しみの持てないものだった。K君はわざわざ外套を脱ぎ、丁寧にお墓へお時宜をした。しかし僕はどう考えても、今更恬然とK君と一しょにお時宜をする勇気は出悪かった。 「もう何年になりますかね?」 「丁度九年になる訣です。」 僕等はそんな話をしながら、護国寺前の終点へ引き返して行った。 僕はK君と一しょに電車に乗り、僕だけ一人富士前で下りた。それから東洋文庫にいる或友だちを尋ねた後、日の暮に動坂へ帰り着いた。 動坂の往来は時刻がらだけに前よりも一層混雑していた。が、庚申堂を通り過ぎると、人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきったまま、爪先ばかり見るように風立った路を歩いて行った。 すると墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人、楫棒に手をかけて休んでいた。箱車はちょっと眺めた所、肉屋の車に近いものだった。が、側へ寄って見ると、横に広いあと口に東京胞衣会社と書いたものだった。僕は後から声をかけた後、ぐんぐんその車を押してやった。それは多少押してやるのに穢い気もしたのに違いなかった。しかし力を出すだけでも助かる気もしたのに違いなかった。 |
一 貸したる二階は二間にして六畳と四畳半、別に五畳余りの物置ありて、月一円の極なり。家主は下の中の間の六畳と、奥の五畳との二間に住居いて、店は八畳ばかり板の間になりおれども、商売家にあらざれば、昼も一枚蔀をおろして、ここは使わずに打捨てあり。 往来より突抜けて物置の後の園生まで、土間の通庭になりおりて、その半ばに飲井戸あり。井戸に推並びて勝手あり、横に二個の竈を並べつ。背後に三段ばかり棚を釣りて、ここに鍋、釜、擂鉢など、勝手道具を載せ置けり。廁は井戸に列してそのあわい遠からず、しかも太く濁りたれば、漉して飲用に供しおれり。建てて数十年を経たる古家なれば、掃除は手綺麗に行届きおれども、そこら煤ぼりて余りあかるからず、すべて少しく陰気にして、加賀金沢の市中にてもこのわたりは浅野川の河畔一帯の湿地なり。 園生は、一重の垣を隔てて、畑造りたる裏町の明地に接し、李の木、ぐみの木、柿の木など、五六本の樹立あり。沓脱は大戸を明けて、直ぐその通庭なる土間の一端にありて、上り口は拭き込みたる板敷なり。これに続ける六畳は、店と奥との中の間にて、土地の方言茶の室と呼べり。その茶の間の一方に長火鉢を据えて、背に竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸子など、体裁よく置きならべつ。うつむけにしたる二個の湯呑は、夫婦別々の好みにて、対にあらず。 細君は名をお貞と謂う、年紀は二十一なれど、二つばかり若やぎたるが、この長火鉢のむこうに坐れり。細面にして鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生際少しあがりて、髪はやや薄けれども、色白くして口許緊り、上気性と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼の重げに見ゆるが、泣はらしたるとは風情異り、たとえば炬燵に居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼しき眼の中曇を帯びて、見るに俤晴やかならず、暗雲一帯眉宇をかすめて、渠は何をか物思える。 根上りに結いたる円髷の鬢頬に乱れて、下〆ばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺縮の浴衣を纏いつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。 教育のある婦人にあらねど、ものの本など好みて読めば、文書く術も拙からで、はた裁縫の業に長けたり。 他の遊芸は知らずと謂う、三味線はその好きの道にて、時ありては爪弾の、忍ぶ恋路の音を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹の塵を払いて、慎ましげに音〆をなすのみ。 お貞は今思出したらむがごとく煙管を取りて、覚束無げに一服吸いつ。 渠は煙草を嗜むにあらねど、憂を忘れ草というに頼りて、飲習わんとぞ務むるなる、深く吸いたれば思わず咽せて、落すがごとく煙管を棄て、湯呑に煎茶をうつしけるが、余り沸れるままその冷むるを待てり。 時に履物の音高く家に入来るものあるにぞ、お貞は少し慌だしく、急に其方を見向ける時、表の戸をがたりとあけて、濡手拭をぶら提げつつ、衝と入りたる少年あり。 お貞は見るより、 「芳さんかえ。」 「奥様、ただいま。」 と下駄を脱ぐ。 「大層、おめかしだね。」 「ふむ。」 と笑い捨てて少年は乱暴に二階に上るを、お貞は秋波もて追懸けつつ、 「芳ちゃん!」 「何?」 と顧みたり。 「まあ、ここへ来て、ちっとお話しなね。お祖母様はいま昼寝をしていらっしゃるよ。騒々しいねえ。」 「そうかい。」 と下りて来て、長火鉢の前に突立ち、 「ああ、喉が渇く。」 と呟きながら、湯呑に冷したりし茶を見るより、無遠慮に手に取りて、 「頂戴。」 とばかりぐっと飲みぬ。 「あら! 酷いのね、この人は。折角冷しておいたものを。」 わざと怨ずれば少年は微笑みて、 「余ってるよ、奥様はけちだねえ。」 と湯呑を返せり。お貞は手に取りて中を覗き、 「何だ、けも残しゃアしない。」 と底の方に残りたるを、薬のように仰ぎ飲みつ。 「まあ、芳さんお坐ンな、そうしてなぜ人を、奥様々々ッて呼ぶの、嫌なこッた。」 「だって、円髷に結ってるもの、銀杏返の時は姉様だけれど、円髷の時ゃ奥様だ。」 二 お貞はハッとせし風情にて、少年の顔を瞻りしが、腫ぼったき眼に思いを籠め、 「堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不可ッて言うから仕様がないのよ。」 「だからやっぱり奥様じゃあないか。」 と少年は平気なり。お貞はしおれて怨めしげに、 「だって、他の者なら可いけれど、芳さんにばかりは奥様ッて謂われると、何だか他人がましいので、頼母しくなくなるわ。せめて「お貞さん」とでも謂っておくれだと嬉しいけれど。」 とためいきして、力なげなるものいいなり。少年は無雑作に、 「じゃあ、お貞さんか。」 と言懸けて、 「何だか友達のように聞えるねえ。」 「だからやっぱり、姉さんが可いじゃあないかえ。」 |
私たちが、子供のころから、親しみなれてきた一休さんは、紫野大徳寺、四十七代目の住職として、天下にその智識高徳をうたわれた人でした。 一休さんは、応永元年一月一日、将軍義満が、その子義持に職をゆずった年、南朝の後小松天皇を父とし、伊予局を母として生れました。 しかし、一休さんを生んだ伊予局は、后宮の嫉妬のため、身に危険がせまったので、自分から皇居をのがれることになりました。つまり、一休さんは、日かげの身となったわけで、そんなことから、大徳寺の華叟禅師のもとに弟子入りし、仏門の人となったわけです。 乳母の玉江は、これも、高橋三位満実卿の妹で、りっぱな婦人でした。 一休さんは、幼時から、目から鼻に抜けるような、りこうな子供でしたが、そのりこうさが、仏門に入ってみがきをかけられ、後世にのこるような英僧にとなったわけでしょう。一休さんの頓智というものは、まるで、とぎすました刄のような、鋭さで、もし、一休さんが、仏門に入って徳をみがいたのでなければ、大分危険なようにさえおもわれるところもあるくらいです。 しかし、ここでは、一休さんの頓智を、こどもたちにもおもしろくて、ためになる、ということにおきかえて書きました。 一休さんの「とんち」は、すてきにおもしろいばかりでなく、その一つ一つが、ためになるように、できています。 よく「おもしろくて、ためになる本」と、いうことが、いわれますが、一休さんの話などは、その代表的なものの一つだろうと思います。 ことに、こどもの道徳教育が、真剣に考えられている今日、こういう、道徳的教訓のふくんだ物語は、お子さんのために、ぜひおすすめしたいものと思います。 |
或る患者の容態に関する問題。 1234567890・ 123456789・0 12345678・90 1234567・890 123456・7890 12345・67890 1234・567890 123・4567890 12・34567890 1・234567890 ・1234567890 診断 0:1 26・10・1931 |
最近佛法僧の事が流行の状態となり、その正體が明らかにされて來た爲か、昔「佛法僧」といふ名を聞いただけで一種の神祕的な幻影を心に投げた時代は過ぎたといふ感がある。 私が佛法僧といふ鳥の事を初めて讀んだのは今から二十幾年の以前、上田秋成の「雨月物語」の中で讀んだ卷之三「佛法僧」の一文の中であつた。拜志氏の人夢然といふ老人が季の子作之治といふを連れて高野山に詣で、その靈廟の片隅に宿り夜を明した御廟の後林にと覺えて「佛法々々」と鳴く鳥の聲が山彦に答へて近く聞えるのを夢然が 「目さむる心ちして、あなめづらし。あの啼鳥こそ佛法僧といふならめ。かねてこの山に栖みつるとは聞きしかど、まさにその音を聞きしといふ人もなきにこよひのやどり、まことに滅罪生善の祥なるや。」 と感嘆し、佛法僧は清淨の地を選んで棲める由なるを書いてある。秋成の清澄の文章と内容とが合致して、得も云はれぬ神祕感に打たれた。その時を初めに戀ひ浸つてゐた鳥であつた。その文に引いてある僧の空海著「性靈集」にあると云ふ 寒林獨座草堂曉 三寳之聲聞一鳥 一鳥有聲人有心 性心雲水倶了々 といふ詩偈もさすがに大師の凡人ならぬ心境を傳へ、清淨の氣自ら迫る心地を覺えたのであつた。夢然は聞いたその鳥の聲を寫して唯「佛法佛法」と鳴くと書いてあつたので、私は一人その時想像して何か仄かなぽーつとした聲で、例へば梟の聲の樣な、それをもつと神祕的に幽玄味を帶びた聲にしたものであらうと何時となく信じて了つてゐた。「彿法」といふ語音も決してシユリルな響きを持つてゐず、何處かぽーとした音に思はせられたのである。そして私はどうか一度さういふ尊い鳥の聲を聞いて見度い願ひを持ちつゞけた。 すると大正十四年八月アララギの安居會(雜誌アララギにて十年以上毎夏催す歌の精進勉強會)その年は高野山において開かれ、それに出席された齋藤茂吉氏がその時高野山で聞いた佛法僧の事を、昭和三年一月四日と五日の時事新報の文藝欄に載せてゐる。それを讀んでゆくと佛法僧の鳴き聲が寫してある。 「それから小一時間も過ぎてまた小用を足しに來た。小用を足し乍ら聽くともなし聽くと、向つて右手の山奧に當つて、實に幽かな物聲がする。私は、「はてな」と思つた。聲は cha-cha といふやうに、二聲詰つて聞えるかと思ふと、cha-cha-cha と三聲のこともある。それが、遙かで幽かであるけれども、聽いてゐるうちにだん〳〵近寄るやうにも思へる。」 然し私はこの cha-cha がどうしても腑に落ちないのである。一つ〳〵音についていつてみるけれど、それがどういふ樣に鳴くのか皆目解らない。ただ茂吉氏の聲を寫してゆくくだりは夢然よりもづつと具象的現實的で 「どうも澄んで明らかである。私は心中ひそかに少し美し過ぎるやうに思つて聽いてゐたが、その時すでに心中に疑惑が根ざしてゐた。」 とも書かれてあり、又 「何か生物の聲帶の所を絞る樣な肉聲を交へてゐる。」 とも寫してある。そしてこの聲が美しすぎるために、また絞る樣な肉聲を交へてゐるために、同行のT氏はこれは人工假鳥の聲であらうといふ説を出してゐるのである。 「あれくらゐの聲は練習さへすれば人工でも出來る。それに高い月給を拂ひ、一家相傳の技術として稽古させてゐるのかも知れないなどといふ説をも建てた。」 私は此隨筆を讀んでこゝに至つた時、何か心の昂奮を覺え腹立たしい氣持になつて行つた。如何に末世に聽いた三寳鳥の聲だとてここ迄疑ふのは……といふ氣持であつた。 昭和十年六月七日と八日に渡つて放送局では三河國蓬莱寺山からの中繼によつて佛法僧の聲を全國に放送するといふ、この靈鳥の聲を私の樣な病者までが自分の家にゐて疊に坐し乍らきく事が出來るのもラジオの徳と感謝せざるを得なかつた。當日は一月ちがひの陰暦五月七日に當る夜とて、清らかな七日月が深山をも都をもあまねく照してゐた。この中繼は實にうまく行つた。潺々たる谷川の音にまじつて今そこに鳥が來たかと思ふ許りに近く明瞭にあやしく鋭い夜鳥の聲は、待つてゐた樣に聞えて來たのである。その聲は決して太く仄かなものではなかつた。私の凡俗な聽覺に受けるその聲は非常に珍らしくはあるが、どうしてもブツ・ポー・ソーなどとは聞えない。強ひていへばキヨツ・キヨツ・キヨウといふ樣に、むしろかん高に澄んで鋭く現實的に耳をうつてくるのである。その聲は近く、又遠く自在に山を飛びうつるかの如くであるが、たとへば遠く響いて來る場合も決して仄かなものではなく、飽くまで強く澄んでするどいカン音である。ラジオがすんだ、處で私は新聞を讀んだだけではどうしてもわからなかつた絞る樣な肉聲といふ事がはつきり解釋出來たと同時に、成程と頷づくものがあつた。それは鳥の聲が餘りにはつきりとしてゐて、島木赤彦の言を借りていへば、滿足感の生む不足感の如きものを心に感じてゐたことであつた。此處で私は人工鳥聲一家相傳の説に傾いて行つた成り行が初めて頷づけたのである。誠に百見一聞にしかなかつたわけである。世に實物を見たり聞いたりすることの尊い價値をはつきりと思つた。 |
文章 僕に「文章に凝りすぎる。さう凝るな」といふ友だちがある。僕は別段必要以上に文章に凝つた覚えはない。文章は何よりもはつきり書きたい。頭の中にあるものをはつきり文章に現したい。僕は只それだけを心がけてゐる。それだけでもペンを持つて見ると、滅多にすらすら行つたことはない。必ずごたごたした文章を書いてゐる。僕の文章上の苦心といふのは(もし苦心といひ得るとすれば)そこをはつきりさせるだけである。他人の文章に対する注文も僕自身に対するのと同じことである。はつきりしない文章にはどうしても感心することは出来ない。少くとも好きになることは出来ない。つまり僕は文章上のアポロ主義を奉ずるものである。 僕は誰に何といはれても、方解石のやうにはつきりした、曖昧を許さぬ文章を書きたい。 言葉 五十年前の日本人は「神」といふ言葉を聞いた時、大抵髪をみづらに結ひ、首のまはりに勾玉をかけた男女の姿を感じたものである。しかし今日の日本人は――少くとも今日の青年は大抵長ながと顋髯をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに変遷してゐる。 なほ見たし花に明け行く神の顔(葛城山) |
昨日四石ひいたら 奴今日五石ふんづけやがった 今日正直に五石ひいたら 奴 明日は六石積むに違いねい おら坂へ行ったら 死んだって生きたってかまわねい すべったふりして ねころんでやるベイ そしたら橇がてんぷくして 橇にとっぴしゃがれて ふんぐたばるべ おれが口きかないともって 畜生 明日はきっとやってやる |
空気構造の速度―音波に依る―速度らしく三百三十メートルを模倣する(何んと光に比しての甚だしき劣り方だらう) 光を楽めよ、光を悲しめよ、光を笑へよ、光を泣けよ。 光が人であると人は鏡である。 光を持てよ。 ―― 視覚のナマエを持つことは計画の嚆矢である。視覚のナマエを発表せよ。 □ オレノのナマエ。 △ オレの妻のナマエ(既に古い過去においてオレの AMOUREUSE は斯くの如く聡明である) 視覚のナマエの通路は設けよ、そしてそれに最大の速度を与へよ。 ―― ソラは視覚のナマエについてのみ存在を明かにする(代表のオレは代表の一例を挙げること) 蒼空、秋天、蒼天、青天、長天、一天、蒼穹(非常に窮屈な地方色ではなからうか)ソラは視覚のナマエを発表した。 視覚のナマエは人と共に永遠に生きるべき数字的である或る一点である、視覚のナマエは運動しないで運動のコヲスを持つばかりである。 ―― 視覚のナマエは光を持つ光を持たない、人は視覚のナマエのために光よりも迅く逃げる必要はない。 視覚のナマエらを健忘せよ。 視覚のナマエを節約せよ。 |
おれは沼のほとりを歩いてゐる。 昼か、夜か、それもおれにはわからない。唯、どこかで蒼鷺の啼く声がしたと思つたら、蔦葛に掩はれた木々の梢に、薄明りの仄めく空が見えた。 沼にはおれの丈よりも高い芦が、ひつそりと水面をとざしてゐる。水も動かない。藻も動かない。水の底に棲んでゐる魚も――魚がこの沼に棲んでゐるであらうか。 昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、この沼のほとりばかり歩いてゐた。寒い朝日の光と一しよに、水の匀や芦の匀ひがおれの体を包んだ事もある。と思ふと又枝蛙の声が、蔦葛に蔽はれた木々の梢から、一つ一つかすかな星を呼びさました覚えもあつた。 おれは沼のほとりを歩いてゐる。 沼にはおれの丈よりも高い芦が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その芦の茂つた向うに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、Invitation au Voyage の曲が、絶え絶えに其処から漂つて来る。さう云へば水の匀や芦の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな艸の花」も、蜜のやうな甘い匀を送つて来はしないであらうか。 昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、その不思議な世界に憧がれて、蔦葛に掩はれた木々の間を、夢現のやうに歩いてゐた。が、此処に待つてゐても、唯芦と水とばかりがひつそりと拡がつてゐる以上、おれは進んで沼の中へ、あの「スマトラの忘れな艸の花」を探しに行かなければならぬ。見れば幸、芦の中から半ば沼へさし出てゐる、年経た柳が一株ある。あすこから沼へ飛びこみさへすれば、造作なく水の底にある世界へ行かれるのに違ひない。 おれはとうとうその柳の上から、思ひ切つて沼へ身を投げた。 おれの丈より高い芦が、その拍子に何かしやべり立てた。水が呟く。藻が身ぶるひをする。あの蔦葛に掩はれた、枝蛙の鳴くあたりの木々さへ、一時はさも心配さうに吐息を洩らし合つたらしい。おれは石のやうに水底へ沈みながら、数限りもない青い焔が、目まぐるしくおれの身のまはりに飛びちがふやうな心もちがした。 昼か、夜か、それもおれにはわからない。 おれの死骸は沼の底の滑な泥に横はつてゐる。死骸の周囲にはどこを見ても、まつ青な水があるばかりであつた。この水の下にこそ不思議な世界があると思つたのは、やはりおれの迷だつたのであらうか。事によると Invitation au Voyage の曲も、この沼の精が悪戯に、おれの耳を欺してゐたのかも知れない。が、さう思つてゐる内に、何やら細い茎が一すぢ、おれの死骸の口の中から、すらすらと長く伸び始めた。さうしてそれが頭の上の水面へやつと届いたと思ふと、忽ち白い睡蓮の花が、丈の高い芦に囲まれた、藻の匀のする沼の中に、的皪と鮮な莟を破つた。 これがおれの憧れてゐた、不思議な世界だつたのだな。――おれの死骸はかう思ひながら、その玉のやうな睡蓮の花を何時までもぢつと仰ぎ見てゐた。 |
一 三間竿の重い方の鋤簾を持って行かなければならぬ破目になって、勝は担いでみたが、よろよろとよろめいた。小さい右肩いっぱいに太い竿がどっしりと喰いこんで来て、肩胛骨のあたりがぽきぽきと鳴るような気がする。ばかりでなく二足三足とあるき出すと、鋤簾の先端が左右にかぶりを振って、それにつれて竹竿もこりこりと錐をもむように肩の皮膚をこするのだ。勝は顔中をしかめながら亀の子のように首をすくめて、腰で歩いた。 「愚図々々しているから、そんなのに当るんだで。」 あとから軒先を出た母親のおせきが見かねるように言って、そのよたよたした勝の恰好に思わず微笑した。 軽い方の鋤簾は、股引を穿いたり手甲をつけたり、それからまた小魚を入れるぼて笊を探しあぐねているうち、兄の由次に逸早く持って行かれてしまったのである。勝からいえば自分にあてがわれたその股引と手甲が、ことに股引が――それは昨秋東京の工場へ行った長兄がそれまで使用していたもので、全くだぶだぶで脚に合わず、上へ引っ張ってみたり下の方で折り曲げてみたり、ようやくのことで穿いたというような理由で、それで由次に遅れを取ってしまったので、 「由兄の野郎ずるいや、あとで見るッちだから。」勝はそんなことを三度も由次の後姿に向って浴びせかけたのだったが、こんどは母親に突っかかった。 「俺に股引こしらえてくれねえからだ。こんなひとのものなんど……」 「ひとのものでも自分のものでも、この野郎、それ本当の木綿ものなんだど。きょう日、スフの股引なんど、汝らに穿かせたら半日で裂らしちまァわ。」 おせきは籠の中へ大きな弁当の包みや、万一の用意に四人分の蓑をつめこんで、これまたよろめくように背負い、そして足ばやに勝に追いついて一言の下にたしなめると、やがてすたすたと追い抜き、道の先の方に見える由次や夫に遅れまいと足を早めた。 勝は歯ぎしりして腰を落し、両の手で竹竿を支え上げるようにして母に抜かれまいとするが、そうすると鋤簾の奴よけいにぶらぶらとかぶりを振って、ともすれば、小さい勝の身体を道傍へ投げとばしそうにする。 天秤籠にどさんと堆肥を盛り上げ、その上へ万能や泥掻きなどを突き差して担いだ親父の浩平は、そのときすでに部落を横へ出抜けて、田圃へ下りる坂道にかかっていた。雨上りの、ともすればつるりこんと滑りがちなじめついた土の上を、爪先で全身の勢いを停めながら、彼はそろそろと降りてゆく。そのあとから由次が身がるに小さい方の鋤簾をかついで、口笛を吹き吹きつづいた。由次は十六だが、昨年の稲刈り時分から眼に見えて背丈が伸び、いまでは親父の肩の辺まで届きそうになっていた。 「由、その泥掻き、お前持て。駄目だ。邪魔になって、歩きづらくて。」 親父が息を止めて言うと、彼はひょいと横あいからそれを引ったくるなり、左の肩へ鉄砲のようにかついで、そしてとっとと坂を駈け下りた。 一日も早く植えてしまわなければならぬ八反歩ばかりの田を控えて、赤ん坊の手さえ借りたい今明日、尋常六年生のおさよは無論のこと、今年入学したばかりのおちえまで学校を休ませ、そして留守居させての、文字どおり一家総動員の田植作業であった。旱魃を懸念された梅雨期の終りの、二日間打つづけの豪雨のおかげで、完全に干上ろうとしていた沼岸の掘割沿いの田が、どくどくと雨水を吸い、軟かく溶けて来ていたのだ。 明け放れの早い六月の空には何時か太陽が昇って、沼向うの平野はひときわ明るく黄金色に輝き出していた。風もなく、紺碧の沼は崇厳なほど静かだった。やがて浩平一家のものは、よちよちと蟻が長い昆虫を運ぶような恰好をして、勝が、むしろ鋤簾そのものに曳きずられるようにしてやってくるのを殿に、丘を下りて掘割に沿い、自分の作り田へ着いた。そのとき黄金の光りは此方――丘の裾の長く伸びた耕地にまで輝き渡って来た。畑地の方の薄い靄を含んだ水のような空には、もう雲雀が高く揚って、今日一日の歓喜を前奏しつつあった。 荷を下ろすより早く彼らは各自仕事にとりかかった。おせきは万能を手にして代田の切りかえしであった。由次は掘割へ自分の持って来た長柄の鋤簾を投げ込んで、そして泥上げである。上流の広い耕地から何時とはなしに押し流されて来て沈澱するここの泥土は、自然に多くの肥料分を含み、これさえ上げれば大してその部分だけは施肥する必要がなかったばかりか、その上、水田そのものが年一年と高くなって、いくらか秋の水害を脱れるたしになったのである。 「勝、早く持って来う、この野郎」と浩平は待ちきれなくなってどなった。「なにを、それ位のもの、愚図ったれていやがるんだ。」 勝はひどく汗をたらし息を弾ませながら、やっと父親の立っている足許に鋤簾の先端を突き出すと、ばたりとそこへ竹竿を投げ出した。 「由兄の野郎、ずるいや」と彼は泣きそうに言った。 「何だ、俺がどうした。この野郎」遠くから由次が応酬した。「俺ら、自分で自分のを持って来たんだねえか。」 「だって、ひでえやい。いいから、あとで見るッちだから……」 「そんなことで喧嘩するんでねえ、この野郎ら。――勝は早く泥を掻け。」 浩平は一喝して、大きな鋤簾を水音高く掘割へ投げこんだ。 勝は帽子を被り直し、それから畦に投げ出されていた泥掻きを取って、母親が切りかえしている田の一方へ父と兄貴が浚い上げる例の泥土を、その中ほどまで掻いて来るという単純ではあるが子供の身にはやや骨の折れる仕事にとりかかった。田へ入るや否や、気持の納まらぬ彼は、丁字形の泥掻きで反対にいきなり由次の方へ泥をひっかけた。 「あれ、この野郎」由次も片脚を上げて足許の泥を跳ねとばしたが、それは勝の方へは行かず、遠く母親の方へ飛んだ。 「こら、由、何すんだ、馬鹿。」 叱られた兄貴を横眼で見て、勝は口をひん曲げ、眼玉を引っくり返してにゅっとやった。いくらかそれでこじれた気分が直って、せっせとこんどは、本気に泥をかきはじめた。 それにしても次から次へと上げられる泥土を一人で掻くのは容易のことでなかった。勝は一時間もしないうちに大汗になってしまった。 「あ、メソん畜生――こら、こん畜生。」 淡緑色の小鰻が泥の中を逃げまどっている。叫びを上げた彼は泥かきを放り出し、両手をもって押えようと駈け寄った。 「おっ母さん、早く、容れもの――俺のぼて笊――ぼて笊、早く。」 「どこだか、ぼて笊。――馬鹿野郎、そんなもの捕ったって、旨くもありもしねえ。」 おせきは言ったまま、しかし万能を振りつづけていた。 「捕えたよ、おっ母さん、早く……」 「馬鹿だな。そんなことしていねえで、この野郎、早くかかねえと泥たまってしようがあっか、こらっ、勝。」 父親にどなられても勝は、片手にしっかと小鰻をぶら下げたまま畦へ上って、そして自分が携えて来て、その辺へ置いたはずのぼて笊を探しにかかった。 陽がかんかんと照り出して来た。もう子供の勝手な行動などに構っていられなかった。浩平は満身の力を鋤簾にこめて泥をすくい上げ、おせきは男のように大きく脚を踏ん張って代田を切返した。そして由次も――彼はもう三年も前から百姓仕事に引っ張り出されていたので、半人分以上、いや大人に近いまでの仕事をやってのけたのである。 二 次の日も次の日も一家のものは同じように泥上げ、代田の切返し、そして一目散に田植の準備を進めたが、肝心の肥料がまだ手に入っていなかった。自家製の堆肥だけはどうやら真似事位には入れたが、それだけでは泥の廻らない一段と高い方の田など全くどうにもならなかった。そこへは毎年きまって化成を三叺ほど叩きこんだ。ところでその肥料だが――化成のみならず魚糟配合のようなものでも、今年は品不足で(日支事変のための原料不足に加えて製造能力の低下のためだという)価額が倍にも騰貴してしまった。そんなことから、一方では増産ということが国家の至上命令となった関係上、お上の配給制度になり、浩平たちのような、買置きの出来なかった者は村の産業組合からの配給を待たなくてはならなかったのだ。そしてこの配給肥料なら、とにかく成分もたしかだし、価額も一般の肥料商から今まで買ったのよりは安く、「公定」されていた。 甚だ「うまい具合に」――村人の表現を借りると――出来ていたが、しかし実際なかなかそう行かないものとみえて、「今日来る」、「明日は必ず来る」と組合で確言するにも拘らず、まだほんの少し――桑畑への割当分しかやって来ず、「重点」と称せられる水田の分は一向姿を見せなかった。 「仕方がねえから素田を植えたさ」という者も出て来た。全く気の早い連中にとっては、甘んじて素田を植えるか、三倍もの値で商人からひそかに手に入れるかしかなかったのである。 「俺も素田でも植えっか――」と浩平は代田の準備が進むにつれてやきもきしていたが、とうとうその日の昼休みに、 「これが最後だ。組合へ行って見て、今日中に来ねえとすれば、俺も素田植えだ。畜生、こんな思いするのは生涯になかったことだ」とぷりぷり言っているとこへ、おさよが丘の坂を下りてこっちへ駈けて来る。今日も学校を休んで留守居かたがたおさよは末子のヨシを守していたのであった。 「なんだ、さア子――」といち早く見つけたおせきが声をかけた。 「肥料でも来たかな」と浩平も起ち上った。 だが、おさよの持って来た報告は、そんな耳寄りのことではなかった。 「おっ母、ヨチ子、腹痛えって泣いていっと」とおさよは、はあはあ息をきらしながら、遠くから叫んだ。 |
あなたがたはゼライイドの話を知つてゐますか? ゼライイドは美しい王女です。何でも文献に徴すれば、足は蝋石の如く、腿は象牙の如く、臍は真珠貝の孕める真珠の如く、腹は雪花石膏の甕の如く、乳房は百合の花束の如く、頸は白鳩の如く、髪は香草の如く、目は宮殿の池の如く、鼻は城門の櫓の如くだつたと言ふのですから、万人に一人もない美人だつたのでせう。このゼライイドも年ごろになるにつけ、誰か然るべき相手を定めて結婚することになりました。これは若し日本だつたとすれば、親戚とか知人とか乃至女学校の校長とか、甚だ当てにならぬ人物に媒介を頼む所だつたでせう。又西洋だつたとすれば、母親とか姉とかを参謀にし、未来の夫をつかまへる策戦計画を立てたかも知れません。しかしゼライイドは王女だつた上に大へん賢い生れつきでしたから、彼女自身の目がねにかなつた王子か宰相の子を選ぶことにしました。次に掲げる候補者表はゼライイドの結婚に志した後、三年七ケ月十六日の間に出来上つたものだと言ふことです。原文は「東洋文庫」の「アラビア」の部のZの百三十八号文書にありますから、篤学のかたは読んで御覧なさい。ここには唯人名などを除いた大略だけを写すことにしませう。 第一号。印度の王子。体格は頗る堂々としてゐる。が、余り聡明ではない。一度などは象を山と間違へ、もう少しで踏み殺されやうとしたと言ふことである。 第二号。ペルシアの王子。女のやうに美しい代りに荒淫も亦甚しいさうである。現在でも妃六百人、姫嬪二千三百人、女奴隷――女奴隷は何万人あるか、誰一人見当さへつかないらしい。 第三号。ゼライイド自身の国の宰相の子。年のまだ若い癖に学問と才智とに富んでゐる。しかし背むしに生まれついたのは如何にも残念と言はなければならぬ。 第四号。バビロニア王。金銀珠玉を貯へてゐることは或は世界第一であらう。唯憾むらくは残虐を好み、屡侍女の耳などを削いでは玉葱と一しよに食ふさうである。 第五号。支那の王子。ペルシアの王子に勝るとも劣らぬほどの好男子らしい。けれども大の無精ものと見え、鼻涕をかむのさへ宦官たちにかんで貰ふと言ふことである。 第六号。リディア王の宰相の子。別にこれと言ふ欠点はない。が、先妻や側室の子が二十五人あり、その中の一人は両脚とも鶏になつてゐると言ふ怪物である。 第七号。メディア王の宰相の子。武勇に富んでゐると言ふ評判である。しかし今は借金の為に父親の首も売り兼ねないらしい。 第八号。ユダヤ王の宰相の子。詩や音楽に巧みださうである。けれども男色を好んでゐるから、到底結婚などはしないであらう。 第九号。エヂプトの王子。容貌も美しいし、学問にも富んでゐるし、その上弓を引かせては誰も並ぶもののないと言ふことである。この王子と結婚するのならば、沙漠の長旅も楽しいかも知れない。あしたにも早速両陛下に、――今しがた聞いた所によれば、王子は生憎水浴中に鰐に食はれてしまつたさうである。 第十号。魔神の王ヂアン・ベン・ヂアン。居所不明。 勿論候補者は必しもこれだけと言ふ訳ではありません。現に「東洋文庫」のアラビアの部の「Z」の百三十八号文書は実に二百八十人の候補者の名を挙げてゐます。が、畢竟どの候補者もゼライイドの希望に副はなかつたのでせう。ゼライイドは毎日侍女を相手に、柘榴やサフランの花の咲いた王宮の中に暮らしてゐました。しかし我々を支配する恋愛はこの美しいアラビアの王女をも捉へない筈はありません。或月の澄み渡つた晩、ゼライイドは彼女の恋人と一しよにそつと王宮を抜け出しました。アラビアの恋愛至上主義の詩人、「大いなる」デヂアアルはかう彼女のことを歌つてゐます。―― ゼライイドよ! 沙漠の薔薇よ! 君の恋人は幸ひなるかな! 君は君の恋人の杖、 君は君の恋人の歯、 君の恋人は恵まれたるかな! おう、ゼライイドよ! 沙漠の泉よ! |
場所。 信州松本、村越の家 人物。 村越欣弥(新任検事) 滝の白糸(水芸の太夫) 撫子(南京出刃打の娘) 高原七左衛門(旧藩士) おその、おりく(ともに近所の娘) 撫子。円髷、前垂がけ、床の間の花籠に、黄の小菊と白菊の大輪なるを莟まじり投入れにしたるを視め、手に三本ばかり常夏の花を持つ。 傍におりく。車屋の娘。 撫子 今日は――お客様がいらっしゃるッて事だから、籠も貸して頂けば、お庭の花まで御無心して、ほんとうに済みませんのね。 りく 内の背戸にありますと、ただの草ッ葉なんですけれど、奥さんがそうしてお活けなさいますと、お祭礼の時の余所行のお曠衣のように綺麗ですわ。 撫子 この細りした、(一輪を指す)絹糸のような白いのは、これは、何と云う名の菊なんですえ。 りく 何ですか、あの……糸咲々々ってお父さんがそう云いますよ。 撫子 ああ、糸咲……の白菊……そうですか。 りく そして、あのその撫子はお活けなさいませんの。 撫子 おお、この花は撫子ですか。(手なる常夏を見る。) りく ええ、返り咲の花なんですよ。枯れた薄の根に咲いて、珍しいから、と内でそう申しましてね。 撫子 その返り咲が嬉いから、どうせお流儀があるんじゃなし、綺麗でさえあれば可い、去嫌い構わずに、根〆にしましょうと思ったけれど、白菊が糸咲で、私、常夏と覚えた花が、撫子と云うのでしたら、あの……ちょっと、台所の隅へでも、瓶に挿しましょう。 りく そう、見つけて来ましょう。(起つ。) 撫子 (熟と籠なると手の撫子とを見較ぶ。) りく これじゃいかが。 撫子 ああ結構よ。(瓶にさす時水なし)あら水がない。 りく 汲んで来ましょう。 撫子 いいえ、撫子なんか、水がなくって沢山なの。 りく まあ、どうして? 撫子 それはね、南京流の秘伝なの。ほほほ。(寂しく笑う。) おその、蓮葉に裏口より入る。駄菓子屋の娘。 その 奥様。 撫子 おや、おそのさん。 その あの、奥様。お客様の御馳走だって、先刻、お台所で、魚のお料理をなさるのに、小刀でこしらえていらしった事を、私、帰ってお饒舌をしましたら、お母さんが、まあ、何というお嬢様なんだろう。どんな御身分の方が、お慰みに、お飯事をなさるんでも、それでは御不自由、これを持って行って差上げな、とそう言いましてね。(言いつつ、古手拭を解く)いま研いだのを持って来ました。よく切れます……お使いなさいまし、お間に合せに。……(無遠慮に庖丁を目前に突出す。) 撫子 (ゾッと肩をすくめ、瞳を見据え、顔色かわる)おそのさん、その庖丁は借ません。 その ええ。 撫子 出刃は私に祟るんです。早く、しまって下さいな。 その 何でございますか、田舎もので、飛んだことをしましたわ。御免なさい、おりくさん、お詫をして頂戴な。 りく お気に障りましたら、御勘弁下さいまし。 撫子 飛んでもない。お辞儀なんかしちゃあ不可ません。おそのさん、おりくさん。 りく いいえ、奥様、私たちを、そんな、様づけになんかなさらないで、奉公人同様に、りくや。 その その、と呼棄てに、お目を掛けて下さいまし。 撫子 勿体ないわね、あなたがたはれっきとした町内の娘さんじゃありませんか。 |
一 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき 二 四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳 浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり 流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり 三 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ 細きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり 四 尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床 木曽の棧かけし世も 心してゆけ久米路橋 くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ姨捨山 しるき名所と風雅士が 詩歌に詠みてぞ伝えたる 五 旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず 六 吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山 穿つ隧道二十六 夢にも越る汽車の道 みち一筋に学びなば |
一 二つの道がある。一つは赤く、一つは青い。すべての人がいろいろの仕方でその上を歩いている。ある者は赤い方をまっしぐらに走っているし、ある者は青い方をおもむろに進んで行くし、またある者は二つの道に両股をかけて欲張った歩き方をしているし、さらにある者は一つの道の分かれ目に立って、凝然として行く手を見守っている。揺籃の前で道は二つに分かれ、それが松葉つなぎのように入れ違って、しまいに墓場で絶えている。 二 人の世のすべての迷いはこの二つの道がさせる業である、人は一生のうちにいつかこのことに気がついて、驚いてその道を一つにすべき術を考えた。哲学者と言うな、すべての人がそのことを考えたのだ。みずから得たとして他を笑った喜劇も、己れの非を見いでて人の危きに泣く悲劇も、思えば世のあらゆる顕われは、人がこの一事を考えつめた結果にすぎまい。 三 松葉つなぎの松葉は、一つなぎずつに大きなものになっていく。最初の分岐点から最初の交叉点までの二つの道は離れ合いかたも近く、程も短い。その次のはやや長い。それがだんだんと先に行くに従って道と道とは相失うほどの間隔となり、分岐点に立って見渡すとも、交叉点のありやなしやが危まれる遠さとなる。初めのうちは青い道を行ってもすぐ赤い道に衝当たるし、赤い道を辿っても青い道に出遇うし、欲張って踏み跨がって二つの道を行くこともできる。しかしながら行けども行けども他の道に出遇いかねる淋しさや、己れの道のいずれであるべきかを定めあぐむ悲しさが、おいおいと増してきて、軌道の発見せられていない彗星の行方のような己れの行路に慟哭する迷いの深みに落ちていくのである。 四 二つの道は人の歩むに任せてある。右を行くも左を行くもともに人の心のままである。ままであるならば人は右のみを歩いて満足してはいない。また左のみを辿って平然としていることはできない。この二つの道を行き尽くしてこそ充実した人生は味わわれるのではないか。ところがこの二つの道に踏み跨がって、その終わるところまで行き尽くした人がはたしてあるだろうか。 五 人は相対界に彷徨する動物である。絶対の境界は失われた楽園である。 人が一事を思うその瞬時にアンチセシスが起こる。 それでどうして二つの道を一条に歩んで行くことができようぞ。 ある者は中庸ということを言った。多くの人はこれをもって二つの道を一つの道になしえた努力だと思っている。おめでたいことであるが、誠はそうではない。中庸というものは二つの道以下のものであるかもしれないが、少なくとも二つの道以上のものではない。詭弁である、虚偽である、夢想である。世を済う術数である。 人を救う道ではない。 中庸の徳が説かれる所には、その背後に必ず一つの低級な目的が隠されている。それは群集の平和ということである。二つの道をいかにすべきかを究めあぐんだ時、人はたまりかねて解決以外の解決に走る。なんでもいいから気の落ち付く方法を作りたい。人と人とが互いに不安の眼を張って顔を合わせたくない。長閑な日和だと祝し合いたい。そこで一つの迷信に満足せねばならなくなる。それは、人生には確かに二つの道はあるが、しようによってはその二つをこね合わせて一つにすることができるという迷信である。 すべての迷信は信仰以上に執着性を有するものであるとおり、この迷信も群集心理の機微に触れている。すべての時代を通じて、人はこの迷信によってわずかに二つの道というディレンマを忘れることができた。そして人の世は無事泰平で今日までも続き来たった。 しかし迷信はどこまでも迷信の暗黒面を腰にさげている。中庸というものが群集の全部に行き渡るやいなや、人の努力は影を潜めて、行く手に輝く希望の光は鈍ってくる。そして鉛色の野の果てからは、腐肥をあさる卑しい鳥の羽音が聞こえてくる。この時人が精力を搾って忘れようと勉めた二つの道は、まざまざと眼前に現われて、救いの道はただこの二つぞと、悪夢のごとく強く重く人の胸を圧するのである。 六 人はいろいろな名によってこの二つの道を呼んでいる。アポロ、ディオニソスと呼んだ人もある。ヘレニズム、ヘブライズムと呼んだ人もある。Hard-headed, Tender-hearted と呼んだ人もある。霊、肉と呼んだ人もある。趣味、主義と呼んだ人もある。理想、現実と呼んだ人もある。空、色と呼んだ人もある。このごときを数え上げることの愚かさは、針頭の立ちうる天使の数を数えんとした愚かさにも勝った愚かさであろう。いかなるよき名を用いるとも、この二つの道の内容を言い尽くすことはできまい。二つの道は二つの道である。人が思考する瞬間、行為する瞬間に、立ち現われた明確な現象で、人力をもってしてはとうてい無視することのできない、深奥な残酷な実在である。 七 我らはしばしば悲壮な努力に眼を張って驚嘆する。それは二つの道のうち一つだけを選み取って、傍目もふらず進み行く人の努力である。かの赤き道を胸張りひろげて走る人、またかの青き道をたじろぎもせず歩む人。それをながめている人の心は、勇ましい者に障られた時のごとく、堅く厳しく引きしめられて、感激の涙が涙堂に溢れてくる。 いわゆる中庸という迷信に付随しているような沈滞は、このごとき人の行く手にはさらに起こらない。その人が死んで倒れるまで、その前には炎々として焔が燃えている。心の奥底には一つの声が歌となるまでに漲り流れている。すべての疲れたる者はその人を見て再びその弱い足の上に立ち上がる。 八 さりながらその人がちょっとでも他の道を顧みる時、その人はロトの妻のごとく塩の柱となってしまう。 九 さりながらまたその人がどこまでも一つの道を進む時、その人は人でなくなる。釈迦は如来になられた。清姫は蛇になった。 一〇 一つの道を行く人が他の道に出遇うことがある。無数にある交叉点の一つにぶつかることがある。その時そこに安住の地を求めて、前にも後ろにも動くまいと身構える向きもあるようだ。その向きの人は自分の努力に何の価値をも認めていぬ人と言わねばならぬ。余力があってそれを用いぬのは努力ではないからである。その人の過去はその人が足を停めた時に消えてなくなる。 一一 |
その日も、明けがたまでは雨になるらしく見えた空が、爽やかな秋の朝の光となっていた。 咳の出ない時は仰向けに寝ているのがよかった。そうしたままで清逸は首だけを腰高窓の方に少しふり向けてみた。夜のひきあけに、いつものとおり咳がたてこんで出たので、眠られぬままに厠に立った。その帰りに空模様を見ようとして、一枚繰った戸がそのままになっているので、三尺ほどの幅だけ障子が黄色く光っていた。それが部屋をよけい小暗く感じさせた。 隣りの部屋は戸を開け放って戸外のように明るいのだろう。そうでなければ柿江も西山もあんな騒々しい声を立てるはずがない。早起きの西山は朝寝の柿江をとうとう起してしまったらしい。二人は慌てて学校に出る支度をしているらしいのに、口だけは悠々とゆうべの議論の続きらしいことを饒舌っている。やがて、 「おい、そのばか馬をこっちに投げてくれ」 という西山の声がことさら際立って聞こえてきた。清逸の心はかすかに微笑んだ。 ゆうべ、柿江のはいているぼろ袴に眼をつけて、袴ほど今の世に無意味なものはない。袴をはいていると白痴の馬に乗っているのと同じで、腰から下は自分のものではないような気がする。袴ではないばか馬だと西山がいったのを、清逸は思いだしたのだ。 隣のドアがけたたましく開いたと思うと清逸のドアがノックされた。 「星野、今日はどうだ。まだ起きられんのか」 そう廊下から不必要に大きな声を立てたのは西山だった。清逸は聞こえる聞こえないもかまわずに、障子を見守ったまま「うん」と答えただけだった。朝から熱があるらしい、気分はどうしても引き立たなかった。その上清逸にはよく考えてみねばならぬことが多かった。 けれども西山たちの足音が玄関の方に遠ざかろうとすると、清逸は浅い物足らなさを覚えた。それは清逸には奇怪にさえ思われることだった。で、自分を強いるようにその物足らない気分を打ち消すために、先ほどから明るい障子に羽根を休めている蝿に強く視線を集めようとした。その瞬間にしかし清逸は西山を呼びとめなければならない用事を思いついた。それは西山を呼びとめなければならないほどの用事であったのだろうか。とにかく清逸は大きな声で西山を呼んでしまった。彼は自分の喉から老人のようにしわがれた虚ろな声の放たれるのを苦々しく聞いた。 「さあ園の奴まだいたかな」 そう西山は大きな声で独語しながら、けたたましい音をたてて階子段を昇るけはいがしたが、またころがり落ちるように二階から降りてきた。 「星野、園はいたからそういっておいたぞ」 その声は玄関の方から叫ばれた。傍若無人に何か柿江と笑い合う声がしたと思うと、野心家西山と空想家柿江とはもつれあってもう往来に出ているらしかった。 清逸の心はこのささやかな攪拌の後に元どおり沈んでいった。一度聞耳を立てるために天井に向けた顔をまた障子の方に向けなおした。 十月の始めだ。けれども札幌では十分朝寒といっていい時節になった。清逸は綿の重い掛蒲団を頸の所にたくし上げて、軽い咳を二つ三つした。冷えきった空気が障子の所で少し暖まるのだろう、かの一匹の蝿はそこで静かに動いていた。黄色く光る障子を背景にして、黒子のように黒く点ぜられたその蝿は、六本の脚の微細な動きかたまでも清逸の眼に射しこんだ。一番前の両脚と、一番後ろの両脚とをかたみがわりに拝むようにすり合せて、それで頭を撫でたり、羽根をつくろったりする動作を根気よく続けては、何んの必要があってか、素早くその位置を二三寸ずつ上の方に移した。乾いたかすかな音が、そのたびごとに清逸の耳をかすめて、蝿の元いた位置に真白く光る像が残った。それが不思議にも清逸の注意を牽きつけたのだ。戸外では生活の営みがいろいろな物音を立てているのに、清逸の部屋の中は秋らしくもの静かだった。清逸は自分の心の澄むのを部屋の空気に感ずるように思った。 やはりおぬいさんは園に頼むが一番いい。柿江はだめだ。西山でも悪くはないが、あのがさつさはおぬいさんにはふさわしくない。そればかりでなく西山は剽軽なようで油断のならないところがある。あの男はこうと思いこむと事情も顧みないで実行に移る質だ。人からは放漫と思われながら、いざとなると大掴みながらに急所を押えることを知っている。おぬいさんにどんな心を動かしていくかもしれない。…… 蝿が素早く居所をかえた。 俺はおぬいさんを要するわけではない。おぬいさんはたびたび俺に眼を与えた。おぬいさんは異性に眼を与えることなどは知らない。それだから平気でたびたび俺に眼を与えたのだ。おぬいさんの眼は、俺を見る時、少し上気した皮膚の中から大きくつやつやしく輝いて、ある羞みを感じながらも俺から離れようとはしない。心の底からの信頼を信じてくださいとその眼は言っている。眼はおぬいさんを裏切っている。おぬいさんは何にも知らないのだ。 蝿がまた動いた。軽い音…… おぬいさんのその眼のいうところを心に気づかせるのは俺にとっては何んでもないことだ。それは今までも俺にはかなりの誘惑だった。…… 清逸はそこまで考えてくると眼の前には障子も蝿もなくなっていた。彼の空想の魔杖の一振りに、真白な百合のような大きな花がみるみる蕾の弱々しさから日輪のようにかがやかしく開いた。清逸は香りの高い蕊の中に顔を埋めてみた。蒸すような、焼くような、擽るような、悲しくさせるようなその香り、……その花から、まだ誰も嗅がなかった高い香り……清逸はしばらく自分をその空想に溺れさせていたが、心臓の鼓動の高まるのを感ずるやいなや、振り捨てるように空想の花からその眼を遠ざけた。 その時蝿は右の方に位置を移した。 清逸の心にある未練を残しつつその万花鏡のような花は跡形もなく消え失せた。 園ならばいい。あの純粋な園にならおぬいさんが与えられても俺には不服はない。あの二人が恋し合うのは見ていても美しいだろう。二人の心が両方から自然に開けていって、ついに驚きながら喜びながら互に抱き合うのはありそうなことであって、そしていいことだ。俺はとにかく誘惑を避けよう。俺はどれほど蠱惑的でもそんなところにまごついてはいられない。しかも今のところおぬいさんは処女の美しい純潔さで俺の心を牽きつけるだけで、これはいつかは破れなければならないものだ。しかしそれは誘惑には違いないが、それだけの好奇心でおぬいさんの心を俺の方に眼ざめさすのは残酷だ。…… 清逸はくだらないことをくよくよ考えたと思った。そして前どおりに障子にとまっている一匹の蝿にすべての注意を向けようとした。 しかも園が……清逸が十二分の自信をもって掴みうべき機会を……今までの無興味な学校の課業と、暗い淋しい心の苦悶の中に、ただ一つ清浄無垢な光を投げていた処女を根こそぎ取って園に与えるということは……清逸は何んといっても微かな未練を感じた。そして未練というものは微かであっても堪えがたいほどに苦い……。清逸はふとこの間読み終ったレ・ミゼラブルを思いだしていた。老いたジャン・ヷルジャンが、コーセットをマリヤスに与えた時の心持を。 階子段を規律正しく静かに降りてくる足音がして、やがてドアが軽くたたかれた。 その瞬間清逸は深く自分を恥じた。それまで彼を困らしていた未練は影を隠していた。 顔は十七八にしか見えないほど若く、それほど規則正しい若さの整いを持っているが、二十二になったばかりだと思えないくらい落ちつきの備わった園の小さな姿が、清逸の寝床近くきちんと坐ったらしかった。 清逸は園が側近く来たのを知ると、なぜともなく心の中が暖まるのを覚えて、今までの物臭さに似ず、急いで窓から戸口の方に寝返った。が、それまで眩ゆい日の光に慣れていた眼は、そこに瞳を痛くする暗闇を見出だすばかりだった。その暗闇のある一点に、見つづけていた蝿が小さく金剛石のように光っていた。 「学校は休んだの」 眼をつぶりながら、それと思わしい方に顔を向けて清逸はいってみた。 「一時間目は吉田さんだから……僕に用というのは何?」 低いけれど澄んだ声、それは園のものだ。 「そうか。吉田のペンタゴンか。カルキュラスもあんないい加減ですまされては困るな。高等数学はしっかり解っておく必要があるんだが……」 清逸は当面の用事をそっちのけにしてこんなことをいった。そんなことを言いながら、吉田教授をぺンタゴンという異名で呼んだのが園に対して気がひけた。吉田というのは、まだ若くって頭のいい人だったが、北海道というような処に赴任させられたのが不満であるらしく、ややともすると肝心な授業を捨てておいて、旧藩主の奥御殿に起ったという怪談めいた話などをして、学生を笑わせている人だった。そうした人に対しても、園は異名を用いて噂することなどは絶えてしなかった。 「ほんとに困る。しかしどうせ何んでも自分でやらないじゃならない学校だからかまわないといえばかまわないことだが……今日は少しはいいの」 澄んで底力のある声が、清逸の眼にだんだん明瞭な姿を取ってゆく園の方から静かに響いた。健康を尋ねられると清逸はいつでも不思議にいらだった。それに答える代りに、何んとなくいい渋っていた肝心の用事を切りだすほかはなくなった。清逸は首をもたげ加減にして、机の方に眼をやった。そしてその引き出しの中にある手紙を出してくれと頼んでしまった。 園はすぐ机の方に手を延ばして、引き出しを開けにかかった。その時清逸は、自分の瞳が光って、園の方にある鋭い注意を投げているのを気づかずにはいられなかった。園が手紙を取りだした時、星野とだけ書いてある封筒の裏が上になっていたので、名宛人が誰であるかはもとより判りようはずがないのに、園の顔にはふとある混乱が浮んだようにも思え、少しもそんなことがないようにも清逸には思えた。清逸はまたかかることに注意する自分を腑甲斐なく思った。そして思わずいらいらした。 「僕はたぶん明日親父に会いに千歳まで帰ってくる。都合ではむこうの滞在が少し長びくかもしれない。できるなら僕は秋のうちに……冬にならないうちに東京に出たいと思っているんだがね。そんなことは貧乏な親父に相談してみたところで埒は明くまいけれども、順序だから話だけはしてみるつもりなのだ。……でその手紙をおぬいさんにとどけてくれないか。僕は熱があるようだから行かれないと思うから……おぬいさんが聞いたら千歳の番地を知らせてやってくれたまえ、……聞かなかったらこっちからいうには及ばないぜ……それからね、手紙にも書いておいたが、僕の留守の間、おぬいさんの英語を君に見てもらうわけにはいかないかね」 いらいらしさにまかせて、清逸はこれだけのことを畳みかけるようにいって退けた。すべてを清逸は今まで園にさえ打ち明けないでいたのだった。清逸にとってはこれだけの言葉の中に自分を苦しめたり鞭ったりする多くのものが潜んでいるのだ。 清逸は何んということなく園から眼を放して仰向けに天井を見た。白い安西洋紙で張りつめた天井には鼠の尿ででもあるのか、雲形の汚染がところどころにできている。象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り小法師の喰いついた形、醜い女の顔の形……見なれきったそれらの奇怪な形を清逸は順々に眺めはじめた。 さすがの園もいろいろな意味で少し驚いたらしかった。最後の瞬間までどんなことでも胸一つに納めておいて、切りだしたら最後貫徹しないではおかない清逸の平生を知らない園ではないはずだ。だがあの健康で明日突然千歳に帰るということも、おぬいさんに英語を教えろということも、すべてがあまりに突然に思えたらしかった。清逸が、象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り小法師の喰いついた形から醜い女の顔の形へ視線を移したころ、 「では君もいよいよ東京に行くの」 と園が言った。そしておぬいさんの手紙を素直に洋服の内衣嚢にしまいこんだ。 園はおぬいさんに牽きつけられている、おぬいさんについては一言もいわないではないか。……清逸はすぐそう思った。それともおぬいさんにはまったく無頓着なのか。とにかくその人の名を園の口から聞かなかったのは……それはやはり物足らなかった。園の感情がいくらかでも動くのを清逸は感じたかったのだ。 「西山君も行くようなことをいっていたが……」 園は間をおいてむりにつけ足すようにこれだけのことをいった。 西山がそんなたくらみをしているとは清逸の知らないことだった。清逸は心の奥底ではっと思った。自分の思い立ったことを西山づれに魁けされるのは、清逸の気性として出抜かれたというかすかな不愉快を感じさせられた。 |
この無題の小説は、泉先生逝去後、机邊の篋底に、夫人の見出されしものにして、いつ頃書かれしものか、これにて完結のものか、はたまた未完結のものか、今はあきらかにする術なきものなり。昭和十四年七月號中央公論掲載の、「縷紅新草」は、先生の生前發表せられし最後のものにして、その完成に盡されし努力は既に疾を内に潜めゐたる先生の肉體をいたむる事深く、其後再び机に對はれしこと無かりしといふ。果して然らばこの無題の小説は「縷紅新草」以前のものと見るを至當とすべし。原稿は稍古びたる半紙に筆と墨をもつて書かれたり。紙の古きは大正六年はじめて萬年筆を使用されし以前に購はれしものを偶々引出して用ひられしものと覺しく、墨色は未だ新しくして此の作の近き頃のものたる事を證す。主人公の名の糸七は「縷紅新草」のそれとひとしく、點景に赤蜻蛉のあらはるゝ事も亦相似たり。「どうもかう怠けてゐてはしかたが無いから、春になつたら少し稼がうと思つてゐます。」と先生の私に語られしは昨年の暮の事なりき。恐らく此の無題の小説は今年のはじめに起稿されしものにはあらざるか。 雜誌社としては無題を迷惑がる事察するにあまりあれど、さりとて他人がみだりに命題すべき筋合にあらざるを以て、強て其のまゝ掲出すべきことを希望せり。(水上瀧太郎附記) 伊豆の修禪寺の奧の院は、いろは假名四十七、道しるべの石碑を畷、山の根、村口に數へて、ざつと一里餘りだと言ふ、第一のいの碑はたしか其の御寺の正面、虎溪橋に向つた石段の傍にあると思ふ……ろはと數へて道順ににのあたりが俗に釣橋釣橋と言つて、渡ると小學校がある、が、それを渡らずに右へ𢌞るとほの碑に續く、何だか大根畠から首をもたげて指示しをするやうだけれど、此のお話に一寸要があるので、頬被をはづして申して置く。 もう温泉場からその釣橋へ行く道の半ばからは、一方が小山の裙、左が小流を間にして、田畑に成る、橋向ふへ𢌞ると、山の裙は山の裙、田畑は田畑それなりの道續きが、大畝りして向ふに小さな土橋の見えるあたりから、自から靜かな寂しい參拜道となつて、次第に俗地を遠ざかる思ひが起るのである。 土地では弘法樣のお祭、お祭といつて居るが春秋二季の大式日、月々の命日は知らず、不斷、この奧の院は、長々と螺線をゆるく田畝の上に繞らした、處々、萱薄、草草の茂みに立つたしるべの石碑を、杖笠を棄てゝ彳んだ順禮、道しやの姿に見せる、それとても行くとも皈るともなく㷀然として獨り佇むばかりで、往來の人は殆どない。 またそれだけに、奧の院は幽邃森嚴である。畷道を桂川の上流に辿ると、迫る處怪石巨巖の磊々たるはもとより古木大樹千年古き、楠槐の幹も根も其のまゝ大巖に化したやうなのが纍々と立聳えて、忽ち石門砦高く、無齋式、不精進の、わけては、病身たりとも、がたくり、ふら〳〵と道わるを自動車にふんぞつて來た奴等を、目さへ切塞いだかと驚かれる、が、慈救の橋は、易々と欄干づきで、靜に平かな境内へ、通行を許さる。 下車は言ふまでもなからう。 御堂は颯と松風よりも杉の香檜の香の清々しい森森とした樹立の中に、青龍の背をさながらの石段の上に玉面の獅子頭の如く築かれて、背後の大碧巖より一筋水晶の瀧が杖を鳴らして垂直に落ちて仰ぐも尊い。 境内わきの、左手の庵室、障子を閉して、……たゞ、假に差置いたやうな庵ながら構は縁が高い、端近に三寶を二つ置いて、一つには横綴の帳一册、一つには奉納の米袋、ぱら〳〵と少しこぼれて、おひねりといふのが捧げてある、眞中に硯箱が出て、朱書が添へてある。これは、俗名と戒名と、現當過去、未來、志す處の差によつて、おもひ〳〵に其の姓氏佛號を記すのであらう。 「お札を頂きます。」 ――お札は、それは米袋に添へて三寶に調へてある、其のまゝでもよかつたらうが、もうやがて近い……年頭御慶の客に對する、近來流行の、式臺は惡冷く外套を脱ぐと嚔が出さうなのに御内證は煖爐のぬくもりにエヘンとも言はず、……蒔繪の名札受が出て居るのとは些と勝手が違ふやうだから――私ども夫婦と、もう一人の若い方、と云つて三十を越えた娘……分か?女房の義理の姪、娘が縁づいたさきの舅の叔母の從弟の子で面倒だけれど、姉妹分の娘だから義理の姪、どうも事實のありのまゝにいふとなると説明は止むを得ない。とに角、若いから紅氣がある、長襦袢の褄がずれると、縁が高いから草履を釣られ氣味に伸上つて、 「ごめん下さいまし。」 すぐに返事のない處へ、小肥りだけれど氣が早いから、三寶越に、眉で覗くやうに手を伸ばして障子腰を細目に開けた。 山氣は翠に滴つて、詣づるものゝ袖は墨染のやうだのに、向つた背戸庭は、一杯の日あたりの、ほか〳〵とした裏縁の障子の開いた壁際は、留守居かと思ふ質素な老僧が、小机に對ひ、つぐなんで、うつしものか、かきものをしてござつた。 「ごめん下さいまし、お札を頂きます。」 黒い前髮、白い顏が這ふばかり低く出たのを、蛇體と眉も顰めたまはず、目金越の睫の皺が、日南にとろりと些と伸びて、 「あゝ、お札はの、御隨意にの頂かつしやつてようござるよ。」 と膝も頭も聲も圓い。 「はい。」 と、立直つて、襟の下へ一寸端を見せてお札を受けた、が、老僧と机ばかり圓光の裡の日だまりで、あたりは森閑した、人氣のないのに、何故か心を引かれたらしい。 「あの、あなた。」 かうした場所だ、對手は弘法樣の化身かも知れないのに、馴々しいことをいふ。 「お一人でございますか。」 「おゝ、留守番の隱居爺ぢや。」 「唯たお一人。」 「さればの。」 「お寂しいでせうね、こんな處にお一人きり。」 「いや、お堂裏へは、近い頃まで猿どもが出て來ました、それはもう見えぬがの、日和さへよければ、此の背戸へ山鳥が二羽づゝで遊びに來ますで、それも友になる、それ。」 目金がのんどりと、日に半面に庭の方へ傾いて、 「巖の根の木瓜の中に、今もの、來て居ますわ。これぢや寂しいとは思ひませぬぢや。」 「はア。」 と息とゝもに娘分は胸を引いた、で、何だか考へるやうな顏をしたが、「山鳥がお友だち、洒落てるわねえ。」と下向の橋を渡りながら言つた、――「洒落てるわねえ」では困る、罪障の深い女性は、こゝに至つてもこれを聞いても尼にもならない。 どころでない、宿へ皈ると、晩餉の卓子臺もやひ、一銚子の相伴、二つ三つで、赤くなつて、あゝ紅木瓜になつた、と頬邊を壓へながら、山鳥の旦那樣はいゝ男か知ら。いや、尼處か、このくらゐ悟り得ない事はない。「お日和で、坊さんはお友だちでよかつたけれど、番傘はお茶を引きましたわ。」と言つた。 出掛けに、實は春の末だが、そちこち梅雨入模樣で、時時氣まぐれに、白い雲が薄墨の影を流してばら〳〵と掛る。其處で自動車の中へ番傘を二本まで、奧の院御參詣結縁のため、「御縁日だと此の下で飴を賣る奴だね、」「へへへ、お土産をどうぞ。」と世馴れた番頭が眞新しい油もまだ白いのを、ばり〳〵と綴枠をはづして入れた。 贅澤を云つては惡いが、此の暖さと、長閑さの眞中には一降り來たらばと思つた。路近い農家の背戸に牡丹の緋に咲いて蕋の香に黄色い雲の色を湛へたのに、舞ふ蝶の羽袖のびの影が、佛前に捧ぐる妙なる白い手に見える。遠方の小さい幽な茅屋を包んだ一むら竹の奧深く、山はその麓なりに咲込んだ映山紅に且つ半ば濃い陽炎のかゝつたのも里親しき護摩の燃ゆる姿であつた。傘さして此の牡丹に彳み、すぼめて、あの竹藪を分けたらばと詣づる道すがら思つたのである。 土手には田芹、蕗が滿ちて、蒲公英はまだ盛りに、目に幻のあの白い小さな車が自動車の輪に競つて飛んだ。いま、その皈りがけを道草を、笊に洗つて、縁に近く晩の卓子臺を圍んで居たが、 ――番傘がお茶を引いた―― おもしろい。 悟つて尼に成らない事は、凡そ女人以上の糸七であるから、折しも欄干越の桂川の流をたゝいて、ざつと降出した雨に氣競つて、 「おもしろい、其の番傘にお茶をひかすな。」 宿つきの運轉手の馴染なのも、ちやうど帳場に居はせた。 九時頃であつた。 「さつきの番傘の新造を二人……どうぞ。」 「はゝゝ、お樂みで……」 番頭の八方無碍の會釋をして、其の眞新しいのを又運轉手の傍へ立掛けた。 しばらくして、此の傘を、さら〳〵と降る雨に薄白く暗夜にさして、女たちは袖を合せ糸七が一人立ちで一畝の水田を前にして彳んだ處は、今しがた大根畑から首を出して指しをした奧の院道の土橋を遙に見る――一方は例の釣橋から、一方は鳶の嘴のやうに上へ被さつた山の端を潜つて、奧在所へさながら谷のやうに深く入る――俗に三方、また信仰の道に因んで三寶ヶ辻と呼ぶ場所である。 ――衝き進むエンジンの音に鳴留んだけれども、眞上に突出た山の端に、ふアツふアツと、山臥がうつむけに息を吹掛けるやうな梟の聲を聞くと、女連は眞暗な奧在所へ入るのを可厭がつた。元來宿を出る時この二人は温泉街の夜店飾りの濡灯色と、一寸野道で途絶えても殆ど町續きに齊しい停車場あたりの靄の燈を望んだのを、番傘を敲かぬばかり糸七が反對に、もの寂しいいろはの碑を、辿つたのであつたから。 |
或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平が頻に蛇笏を褒めはじめた。当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。勿論蛇笏の名も知らなかった。が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だったから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思わなかった。正直に又「つまらんね」とも云った。すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。 丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。句もいくつか抜いてあった。僕の蛇笏に対する評価はこの時も亦ネガティイフだった。殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかった。こう云う事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思った。爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。 その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。 当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透かさず「君と雖も畢に蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。僕は「常談云っちゃいけない。僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。 しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。それでも蛇笏には注意していた。或時句作をする青年に会ったら、その青年は何処かの句会に蛇笏を見かけたと云う話をした。同時に「蛇笏と云うやつはいやに傲慢な男です」とも云った。僕は悪口を云われた蛇笏に甚だ頼もしい感じを抱いた。それは一つには僕自身も傲慢に安んじている所から、同類の思いをなしたのかも知れない。けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云うものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。それだけに悪口を云われた蛇笏は悪口を云われない連中よりも高等に違いないと思ったのである。 爾来更に何年かを閲した今日、僕は卒然飯田蛇笏と、――いや、もう昔の蛇笏ではない。今は飯田蛇笏君である。――手紙の往復をするようになった。蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を帯びている。成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です」と悪口を云われることもあるかも知れない。僕は蛇笏君の手紙を前に頼もしい感じを新たにした。 春雨の中や雪おく甲斐の山 これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にいる蛇笏君に献上したい。僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。が、一度句作に遠ざかった祟りには忽ち苦吟に陥ってしまう。どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住する所はないと見える。 おらが家の花も咲いたる番茶かな |
中村さん。 問題が大きいので、ちよいと手軽に考をまとめられませんが、ざつと思ふ所を云へばかうです。 元来芸術の内容となるものは、人としての我々の生活全容に外ならないのだから、二重生活と云ふ事は、第一義的にはある筈がないと考へます。 が、それが第二義的な意味になると、いろいろむづかしい問題が起つて来る。生活を芸術化するとか、或は逆に芸術を生活化するとか云ふ事も、そこから起つて来るのでせう。 あなたの手紙にあつた芸術家の職業問題などは、それを更に一歩皮相な方面へ移して来ての問題だと思ひます。 だから「物心両面に於ける人としての生活と、芸術家としての生活の関係交渉」と云つても、それぞれの意義に相当な立場をきめてかからないと、折角の議論は混乱するより外にありますまい。 所で私は前にも云つたやうに、今さう云ふ問題を辯じてゐる暇がない。 が、強ひて何か云はなければならないとなると、職業として私は英語を教へてゐるから、そこに起る二重生活が不愉快で、しかもその不愉快を超越するのは全然物質的の問題だが、生憎それが現代の日本では当分解決されさうもない以上、永久に我々はこの不愉快な生存を続けて行く外はないと云ふ位な、甚平凡な事になつてしまひます。 これでよかつたら、どうか諸家の解答の中へ加へて下さい。以上。 |
一 或春の日暮です。 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。 若者は名を杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を費い尽して、その日の暮しにも困る位、憐な身分になっているのです。 何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾った色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のような美しさです。 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭せて、ぼんやり空ばかり眺めていました。空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。 「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」 杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。 するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、 「お前は何を考えているのだ」と、横柄に声をかけました。 「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」 老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。 「そうか。それは可哀そうだな」 老人は暫く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、 「ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」 「ほんとうですか」 杜子春は驚いて、伏せていた眼を挙げました。ところが更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりも猶白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠が二三匹ひらひら舞っていました。 二 杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。 大金持になった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮しをし始めました。蘭陵の酒を買わせるやら、桂州の竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂えるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。 するとこういう噂を聞いて、今までは路で行き合っても、挨拶さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。極かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏しているという景色なのです。 しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。そうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。 そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇の老人が、どこからか姿を現して、 「お前は何を考えているのだ」と、声をかけるではありませんか。 杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、暫くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、 「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」と、恐る恐る返事をしました。 「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」 老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、掻き消すように隠れてしまいました。 杜子春はその翌日から、忽ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、仕放題な贅沢をし始めました。庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。 ですから車に一ぱいにあった、あの夥しい黄金も、又三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。 三 「お前は何を考えているのだ」 片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。勿論彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇んでいたのです。 「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」 「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの――」 老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮りました。 「いや、お金はもういらないのです」 「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな」 老人は審しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。 「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです」 杜子春は不平そうな顔をしながら、突慳貪にこう言いました。 「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」 「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。 「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」 |
「僕の帽子はおとうさんが東京から買って来て下さったのです。ねだんは二円八十銭で、かっこうもいいし、らしゃも上等です。おとうさんが大切にしなければいけないと仰有いました。僕もその帽子が好きだから大切にしています。夜は寝る時にも手に持って寝ます」 綴り方の時にこういう作文を出したら、先生が皆んなにそれを読んで聞かせて、「寝る時にも手に持って寝ます。寝る時にも手に持って寝ます」と二度そのところを繰返してわはははとお笑いになりました。皆んなも、先生が大きな口を開いてお笑いになるのを見ると、一緒になって笑いました。僕もおかしくなって笑いました。そうしたら皆んながなおのこと笑いました。 その大切な帽子がなくなってしまったのですから僕は本当に困りました。いつもの通り「御機嫌よう」をして、本の包みを枕もとにおいて、帽子のぴかぴか光る庇をつまんで寝たことだけはちゃんと覚えているのですが、それがどこへか見えなくなったのです。 眼をさましたら本の包はちゃんと枕もとにありましたけれども、帽子はありませんでした。僕は驚いて、半分寝床から起き上って、あっちこっちを見廻わしました。おとうさんもおかあさんも、何にも知らないように、僕のそばでよく寝ていらっしゃいます。僕はおかあさんを起そうかとちょっと思いましたが、おかあさんが「お前さんお寝ぼけね、ここにちゃあんとあるじゃありませんか」といいながら、わけなく見付けだしでもなさると、少し耻しいと思って、起すのをやめて、かいまきの袖をまくり上げたり、枕の近所を探して見たりしたけれども、やっぱりありません。よく探して見たら直ぐ出て来るだろうと初めの中は思って、それほど心配はしなかったけれども、いくらそこいらを探しても、どうしても出て来ようとはしないので、だんだん心配になって来て、しまいには喉が干からびるほど心配になってしまいました。寝床の裾の方もまくって見ました。もしや手に持ったままで帽子のありかを探しているのではないかと思って、両手を眼の前につき出して、手の平と手の甲と、指の間とをよく調べても見ました。ありません。僕は胸がどきどきして来ました。 昨日買っていただいた読本の字引きが一番大切で、その次ぎに大切なのは帽子なんだから、僕は悲しくなり出しました。涙が眼に一杯たまって来ました。僕は「泣いたって駄目だよ」と涙を叱りつけながら、そっと寝床を抜け出して本棚の所に行って上から下までよく見ましたけれども、帽子らしいものは見えません。僕は本当に困ってしまいました。 「帽子を持って寝たのは一昨日の晩で、昨夜はひょっとするとそうするのを忘れたのかも知れない」とふとその時思いました。そう思うと、持って寝たようでもあり、持つのを忘れて寝たようでもあります。「きっと忘れたんだ。そんなら中の口におき忘れてあるんだ。そうだ」僕は飛び上がるほど嬉しくなりました。中の口の帽子かけに庇のぴかぴか光った帽子が、知らん顔をしてぶら下がっているんだ。なんのこったと思うと、僕はひとりでに面白くなって、襖をがらっと勢よく開けましたが、その音におとうさんやおかあさんが眼をおさましになると大変だと思って、後ろをふり返って見ました。物音にすぐ眼のさめるおかあさんも、その時にはよく寝ていらっしゃいました。僕はそうっと襖をしめて、中の口の方に行きました。いつでもそこの電燈は消してあるはずなのに、その晩ばかりは昼のように明るくなっていました。なんでもよく見えました。中の口の帽子かけには、おとうさんの帽子の隣りに、僕の帽子が威張りくさってかかっているに違いないとは思いましたが、なんだかやはり心配で、僕はそこに行くまで、なるべくそっちの方を向きませんでした。そしてしっかりその前に来てから、「ばあ」をするように、急に上を向いて見ました。おとうさんの茶色の帽子だけが知らん顔をしてかかっていました。あるに違いないと思っていた僕の帽子はやはりそこにもありませんでした。僕はせかせかした気持ちになって、あっちこちを見廻わしました。 そうしたら中の口の格子戸に黒いものが挟まっているのを見つけ出しました。電燈の光でよく見ると、驚いたことにはそれが僕の帽子らしいのです。僕は夢中になって、そこにあった草履をひっかけて飛び出しました。そして格子戸を開けて、ひしゃげた帽子を拾おうとしたら、不思議にも格子戸がひとりでに音もなく開いて、帽子がひょいと往来の方へ転がり出ました。格子戸のむこうには雨戸が締まっているはずなのに、今夜に限ってそれも開いていました。けれども僕はそんなことを考えてはいられませんでした。帽子がどこかに見えなくならない中にと思って、慌てて僕も格子戸のあきまから駈け出しました。見ると帽子は投げられた円盤のように二、三間先きをくるくるとまわって行きます。風も吹いていないのに不思議なことでした。僕は何しろ一生懸命に駈け出して帽子に追いつきました。まあよかったと安心しながら、それを拾おうとすると、帽子は上手に僕の手からぬけ出して、ころころと二、三間先に転がって行くではありませんか。僕は大急ぎで立ち上がってまたあとを追いかけました。そんな風にして、帽子は僕につかまりそうになると、二間転がり、三間転がりして、どこまでも僕から逃げのびました。 四つ角の学校の、道具を売っているおばさんの所まで来ると帽子のやつ、そこに立ち止まって、独楽のように三、四遍横まわりをしたかと思うと、調子をつけるつもりかちょっと飛び上がって、地面に落ちるや否や学校の方を向いて驚くほど早く走りはじめました。見る見る歯医者の家の前を通り過ぎて、始終僕たちをからかう小僧のいる酒屋の天水桶に飛び乗って、そこでまたきりきり舞いをして桶のむこうに落ちたと思うと、今度は斜むこうの三軒長屋の格子窓の中ほどの所を、風に吹きつけられたようにかすめて通って、それからまた往来の上を人通りがないのでいい気になって走ります。僕も帽子の走るとおりを、右に行ったり左に行ったりしながら追いかけました。夜のことだからそこいらは気味の悪いほど暗いのだけれども、帽子だけははっきりとしていて、徽章までちゃんと見えていました。それだのに帽子はどうしてもつかまりません。始めの中は面白くも思いましたが、その中に口惜しくなり、腹が立ち、しまいには情けなくなって、泣き出しそうになりました。それでも僕は我慢していました。そして、 「おおい、待ってくれえ」 と声を出してしまいました。人間の言葉が帽子にわかるはずはないとおもいながらも、声を出さずにはいられなくなってしまったのです。そうしたら、どうでしょう、帽子が――その時はもう学校の正門の所まで来ていましたが――急に立ちどまって、こっちを振り向いて、 「やあい、追いつかれるものなら、追いついて見ろ」 といいました。確かに帽子がそういったのです。それを聞くと、僕は「何糞」と敗けない気が出て、いきなりその帽子に飛びつこうとしましたら、帽子も僕も一緒になって学校の正門の鉄の扉を何の苦もなくつき抜けていました。 あっと思うと僕は梅組の教室の中にいました。僕の組は松組なのに、どうして梅組にはいりこんだか分りません。飯本先生が一銭銅貨を一枚皆に見せていらっしゃいました。 「これを何枚呑むとお腹の痛みがなおりますか」 とお聞きになりました。 「一枚呑むとなおります」 とすぐ答えたのはあばれ坊主の栗原です。先生が頭を振られました。 「二枚です」と今度はおとなしい伊藤が手を挙げながらいいました。 「よろしい、その通り」 僕は伊藤はやはりよく出来るのだなと感心しました。 おや、僕の帽子はどうしたろうと、今まで先生の手にある銅貨にばかり気を取られていた僕は、不意に気がつくと、大急ぎでそこらを見廻わしました。どこで見失ったか、そこいらに帽子はいませんでした。 僕は慌てて教室を飛び出しました。広い野原に来ていました。どっちを見ても短い草ばかり生えた広い野です。真暗に曇った空に僕の帽子が黒い月のように高くぶら下がっています。とても手も何も届きはしません。飛行機に乗って追いかけてもそこまでは行けそうにありません。僕は声も出なくなって恨めしくそれを見つめながら地だんだを踏むばかりでした。けれどもいくら地だんだを踏んで睨みつけても、帽子の方は平気な顔をして、そっぽを向いているばかりです。こっちから何かいいかけても返事もしてやらないぞというような意地悪な顔をしています。おとうさんに、帽子が逃げ出して天に登って真黒なお月様になりましたといったところが、とても信じて下さりそうはありませんし、明日からは、帽子なしで学校にも通わなければならないのです。こんな馬鹿げたことがあるものでしょうか。あれほど大事に可愛がってやっていたのに、帽子はどうして僕をこんなに困らせなければいられないのでしょう。僕はなおなお口惜しくなりました。そうしたら、また涙という厄介ものが両方の眼からぽたぽたと流れ出して来ました。 野原はだんだん暗くなって行きます。どちらを見ても人っ子一人いませんし、人の家らしい灯の光も見えません。どういう風にして家に帰れるのか、それさえ分らなくなってしまいました。今までそれは考えてはいないことでした。ひょっとしたら狸が帽子に化けて僕をいじめるのではないかしら。狸が化けるなんて、大うそだと思っていたのですが、その時ばかりはどうもそうらしい気がしてしかたがなくなりはじめました。帽子を売っていた東京の店が狸の巣で、おとうさんがばかされていたんだ。狸が僕を山の中に連れこんで行くために第一におとうさんをばかしたんだ。そういえばあの帽子はあんまり僕の気にいるように出来ていました。僕はだんだん気味が悪くなってそっと帽子を見上げて見ました。そうしたら真黒なお月様のような帽子が小さく丸まった狸のようにも見えました。そうかと思うとやはり僕の大事な帽子でした。 その時遠くの方で僕の名前を呼ぶ声が聞こえはじめました。泣くような声もしました。いよいよ狸の親方が来たのかなと思うと、僕は恐ろしさに脊骨がぎゅっと縮み上がりました。 ふと僕の眼の前に僕のおとうさんとおかあさんとが寝衣のままで、眼を泣きはらしながら、大騒ぎをして僕の名を呼びながら探しものをしていらっしゃいます。それを見ると僕は悲しさと嬉しさとが一緒になって、いきなり飛びつこうとしましたが、やはりおとうさんもおかあさんも狸の化けたのではないかと、ふと気が付くと、何んだか薄気味が悪くなって飛びつくのをやめました。そしてよく二人を見ていました。 おとうさんもおかあさんも僕がついそばにいるのに少しも気がつかないらしく、おかあさんは僕の名を呼びつづけながら、箪笥の引出しを一生懸命に尋ねていらっしゃるし、おとうさんは涙で曇る眼鏡を拭きながら、本棚の本を片端から取り出して見ていらっしゃいます。そうです、そこには家にある通りの本棚と箪笥とが来ていたのです。僕はいくらそんな所を探したって僕はいるものかと思いながら、暫くは見つけられないのをいい事にして黙って見ていました。 「どうもあれがこの本の中にいないはずはないのだがな」 とやがておとうさんがおかあさんに仰有います。 「いいえそんな所にはいません。またこの箪笥の引出しに隠れたなりで、いつの間にか寝込んだに違いありません。月の光が暗いのでちっとも見つかりはしない」 とおかあさんはいらいらするように泣きながらおとうさんに返事をしていられます。 やはりそれは本当のおとうさんとおかあさんでした。それに違いありませんでした。あんなに僕のことを思ってくれるおとうさんやおかあさんが外にあるはずはないのですもの。僕は急に勇気が出て来て顔中がにこにこ笑いになりかけて来ました。「わっ」といって二人を驚かして上げようと思って、いきなり大きな声を出して二人の方に走り寄りました。ところがどうしたことでしょう。僕の体は学校の鉄の扉を何の苦もなく通りぬけたように、おとうさんとおかあさんとを空気のように通りぬけてしまいました。僕は驚いて振り返って見ました。おとうさんとおかあさんとは、そんなことがあったのは少しも知らないように相変らず本棚と箪笥とをいじくっていらっしゃいました。僕はもう一度二人の方に進み寄って、二人に手をかけて見ました。そうしたら、二人ばかりではなく、本棚までも箪笥まで空気と同じように触ることが出来ません。それを知ってか知らないでか、二人は前の通り一生懸命に、泣きながら、しきりと僕の名を呼んで僕を探していらっしゃいます。僕も声を立てました。だんだん大きく声を立てました。 「おとうさん、おかあさん、僕ここにいるんですよ。おとうさん、おかあさん」 けれども駄目でした。おとうさんもおかあさんも、僕のそこにいることは少しも気付かないで、夢中になって僕のいもしない所を探していらっしゃるんです。僕は情けなくなって本当においおい声を出して泣いてやろうかと思う位でした。 そうしたら、僕の心にえらい智慧が湧いて来ました。あの狸帽子が天の所でいたずらをしているので、おとうさんやおかあさんは僕のいるのがお分かりにならないんだ。そうだ、あの帽子に化けている狸おやじを征伐するより外はない。そう思いました。で、僕は空中にぶら下がっている帽子を眼がけて飛びついて、それをいじめて白状させてやろうと思いました。僕は高飛びの身構えをしました。 「レデー・オン・ゼ・マーク……ゲッセット……ゴー」 力一杯跳ね上がったと思うと、僕の体はどこまでもどこまでも上の方へと登って行きます。面白いように登って行きます。とうとう帽子の所に来ました。僕は力みかえって帽子をうんと掴みました。帽子が「痛い」といいました。その拍子に帽子が天の釘から外れでもしたのか僕は帽子を掴んだまま、まっさかさまに下の方へと落ちはじめました。どこまでもどこまでも。もう草原に足がつきそうだと思うのに、そんなこともなく、際限もなく落ちて行きました。だんだんそこいらが明るくなり、神鳴りが鳴り、しまいには眼も明けていられないほど、まぶしい火の海の中にはいりこんで行こうとするのです。そこまで落ちたら焼け死ぬ外はありません。帽子が大きな声を立てて、 「助けてくれえ」 と呶鳴りました。僕は恐ろしくて唯うなりました。 僕は誰れかに身をゆすぶられました。びっくらして眼を開いたら夢でした。 雨戸を半分開けかけたおかあさんが、僕のそばに来ていらっしゃいました。 「あなたどうかおしかえ、大変にうなされて……お寝ぼけさんね、もう学校に行く時間が来ますよ」 と仰有いました。そんなことはどうでもいい。僕はいきなり枕もとを見ました。そうしたら僕はやはり後生大事に庇のぴかぴか光る二円八十銭の帽子を右手で握っていました。 |
『何か面白い事はないか?』 『俺は昨夜火星に行って来た』 『そうかえ』 『真個に行って来たよ』 『面白いものでもあったか?』 『芝居を見たんだ』 『そうか。日本なら「冥途の飛脚」だが、火星じゃ「天上の飛脚」でも演るんだろう?』 『そんなケチなもんじゃない。第一劇場からして違うよ』 『一里四方もあるのか?』 『莫迦な事を言え。先ず青空を十里四方位の大さに截って、それを圧搾して石にするんだ。石よりも堅くて青くて透徹るよ』 『それが何だい?』 『それを積み重ねて、高い、高い、無際限に高い壁を築き上げたもんだ、然も二列にだ、壁と壁との間が唯五間位しかないが、無際限に高いので、仰ぐと空が一本の銀の糸の様に見える』 『五間の舞台で芝居がやれるのか?』 『マア聞き給え。その青い壁が何処まで続いているのか解らない。万里の長城を二重にして、青く塗った様なもんだね』 『何処で芝居を演るんだ?』 『芝居はまだだよ。その壁がつまり花道なんだ』 『もう沢山だ。止せよ』 『その花道を、俳優が先ず看客を引率して行くのだ。火星じゃ君、俳優が国王よりも権力があって、芝居が初まると国民が一人残らず見物しなけやならん憲法があるのだから、それはそれは非常な大入だよ、そんな大仕掛な芝居だから、準備にばかりも十カ月かかるそうだ』 『お産をすると同じだね』 『その俳優というのが又素的だ。火星の人間は、一体僕等より足が小くて胸が高くて、そして頭が無暗に大きいんだが、その中でも最も足が小くて最も胸が高くて、最も頭の大きい奴が第一流の俳優になる。だから君、火星のアアビングや団十郎は、ニコライの会堂の円天蓋よりも大きい位な烏帽子を冠ってるよ』 『驚いた』 『驚くだろう?』 『君の法螺にさ』 『法螺じゃない、真実の事だ。少くとも夢の中の事実だ。それで君、ニコライの会堂の屋根を冠った俳優が、何十億の看客を導いて花道から案内して行くんだ』 『花道から看客を案内するのか?』 『そうだ。其処が地球と違ってるね』 『其処ばかりじゃない』 『どうせ違ってるさ。それでね、僕も看客の一人になってその花道を行ったとし給え。そして、並んで歩いてる人から望遠鏡を借りて前の方を見たんだがね、二十里も前の方にニコライの屋根の尖端が三つばかり見えたよ』 『アッハハハ』 『行っても、行っても、青い壁だ。行っても、行っても、青い壁だ。何処まで行っても青い壁だ。君、何処まで行ったって矢張青い壁だよ』 『舞台を見ないうちに夜が明けるだろう?』 『それどころじゃない、花道ばかりで何年とか費るそうだ』 『好い加減にして幕をあけ給え』 『だって君、何処まで行っても矢張青い壁なんだ』 『戯言じゃないぜ』 『戯言じゃないさ。そのうちに目が覚めたから夢も覚めて了ったんだ。ハッハハ』 『酷い男だ、君は』 |
私の家は代々薩摩の国に住んでいたので、父は他の血を混えない純粋の薩摩人と言ってよい。私の眼から見ると、父の性格は非常に真正直な、また細心なある意味の執拗な性質をもっていた。そして外面的にはずいぶん冷淡に見える場合がないではなかったが、内部には恐ろしい熱情をもった男であった。この点は純粋の九州人に独得な所である。一時にある事に自分の注意を集中した場合に、ほとんど寝食を忘れてしまう。国事にでもあるいは自分の仕事にでも熱中すると、人と話をしていながら、相手の言うことが聞き取れないほど他を顧みないので、狂人のような状態に陥ったことは、私の知っているだけでも、少なくとも三度はあった。 父の教育からいえば、父の若い時代としては新しい教育を受けた方だが、その根柢をなしているものはやはり朱子学派の儒学であって、その影響からは終生脱することができなかった。しかしどこか独自なところがあって、平生の話の中にも、その着想の独創的なのに、我々は手を拍って驚くことがよくあった。晩年にはよく父は「自分が哲学を、自分の進むべき路として選んでおったなら、きっと纏まった仕事をしていたろう」と言っていた。健康は小さい時分にはたいへん弱い子で、これで育つだろうかと心配されたそうだが、私が知ってからは強壮で、身体こそ小さかったが、精力の強い、仕事の能く続けてできる体格であった。仕事に表わす精力は、我々子供たちを驚かすことがしばしばあったくらいである。芸術に対しては特に没頭したものがなかったので、鑑識力も発達してはいなかったが、見当違いの批評などをする時でも、父その人でなければ言われないような表現や言葉使いをした。父は私たちが芸術に携わることは極端に嫌って、ことに軽文学は極端に排斥した。私たちは父の目を掠めてそれを味わわなければならなかったのを記憶する。 父の生い立ちは非常に不幸であった。父の父、すなわち私たちの祖父に当たる人は、薩摩の中の小藩の士で、島津家から見れば陪臣であったが、その小藩に起こったお家騒動に捲き込まれて、琉球のあるところへ遠島された。それが父の七歳の時ぐらいで、それから十五か十六ぐらいまでは祖父の薫育に人となった。したがって小さい時から孤独で(父はその上一人子であった)ひとりで立っていかなければならなかったのと、父その人があまり正直であるため、しばしば人の欺くところとなった苦い経験があるのとで、人に欺かれないために、人に対して寛容でない偏狭な所があった。これは境遇と性質とから来ているので、晩年にはおいおい練れて、広い襟懐を示すようになった。ことにおもしろがったり喜んだりする時には、私たちが「父の笑い」と言っている、非常に無邪気な善良な笑い方をした。性質の純な所が、外面的の修養などが剥がれて現われたものである。 母の父は南部すなわち盛岡藩の江戸留守居役で、母は九州の血を持った人であった。その間に生まれた母であるから、国籍は北にあっても、南方の血が多かった。維新の際南部藩が朝敵にまわったため、母は十二、三から流離の苦を嘗めて、結婚前には東京でお針の賃仕事をしていたということである。こうして若い時から世の辛酸を嘗めつくしたためか、母の気性には濶達な方面とともに、人を呑んでかかるような鋭い所がある。人の妻となってからは、当時の女庭訓的な思想のために、在来の家庭的な、いわゆるハウスワイフというような型に入ろうと努め、また入りおおせた。しかし性質の根柢にある烈しいものが、間々現われた。若い時には極度に苦しんだり悲しんだりすると、往々卒倒して感覚を失うことがあった。その発作は劇しいもので、男が二、三人も懸られなければ取り扱われないほどであった。私たちはよく母がこのまま死んでしまうのではないかと思ったものである。しかし生来の烈しい気性のためか、この発作がヒステリーに変わって、泣き崩れて理性を失うというような所はなかった。父が自分の仕事や家のことなどで心配したり当惑したりするような場合に、母がそれを励まし助けたことがしばしばあった。後に母の母が同棲するようになってからは、その感化によって浄土真宗に入って信仰が定まると、外貌が一変して我意のない思い切りのいい、平静な生活を始めるようになった。そして癲癇のような烈しい発作は現われなくなった。もし母が昔の女の道徳に囚れないで、真の性質のままで進んでいったならば、必ず特異な性格となって世の中に現われたろうと思う。 母の芸術上の趣味は、自分でも短歌を作るくらいのことはするほどで、かなり豊かにもっている。今でも時々やっているが、若い時にはことに好んで腰折れを詠んでみずから娯んでいた。読書も好きであるが、これはハウスワイフということに制せられて、思うままにやらなかったようであるが、しかし暇があれば喜んで書物を手にする。私ども兄弟がそろってこういう方面に向かったことを考えると、母が文芸に一つの愛好心をもっていたことが影響しているだろうと思う。 母についても一つ言うべきは、想像力とも思われるものが非常に豊かで、奇体にないことをあるように考える癖がある。たとえば人の噂などをする場合にも、実際はないことを、自分では全くあるとの確信をもって、見るがごとく精細に話して、時々は驚くような嘘を吐くことが母によくある。もっとも母自身は嘘を吐いているとは思わず、たしかに見たり聞いたりしたと確信しているのである。 要するに、根柢において父は感情的であり、母は理性的であるように想う。私たちの性格は両親から承け継いだ冷静な北方の血と、わりに濃い南方の血とが混り合ってできている。その混り具合によって、兄弟の性格が各自異なっているのだと思う。私自身の性格から言えば、もとより南方の血を認めないわけにはいかないが、わりに北方の血を濃く承けていると思う。どっちかといえば、内気な、鈍重な、感情を表面に表わすことをあまりしない、思想の上でも飛躍的な思想を表わさない性質で、色彩にすれば暗い色彩であると考えている。したがって境遇に反応してとっさに動くことができない。時々私は思いもよらないようなことをするが、それはとっさの出来事ではない。私なりに永く考えた後にすることだ。ただそれをあらかじめ相談しないだけのことだ。こういう性質をもって、私の家のような家に長男に生まれた私だから、自分の志す道にも飛躍的に入れず、こう遅れたのであろうと思う。 父は長男たる私に対しては、ことに峻酷な教育をした。小さい時から父の前で膝をくずすことは許されなかった。朝は冬でも日の明け明けに起こされて、庭に出て立木打ちをやらされたり、馬に乗せられたりした。母からは学校から帰ると論語とか孝経とかを読ませられたのである。一意意味もわからず、素読するのであるが、よく母から鋭く叱られてめそめそ泣いたことを記憶している。父はしかしこれからの人間は外国人を相手にするのであるから外国語の必要があるというので、私は六つ七つの時から外国人といっしょにいて、学校も外国人の学校に入った。それがために小学校に入った時には、日本の方が遅れているので、速成の学校に通った。 小さい時には芝居そのほかの諸興行物に出入りすることはほとんどなかったと言っていいくらいで、今の普通の家庭では想像もできないほど頑固であった。男がみだりに笑ったり、口を利くものではないということが、父の教えた処世道徳の一つだった。もっとも父は私の弟以下にはあまり烈しい、スパルタ風の教育はしなかった。 父も若い時はその社交界の習慣に従ってずいぶん大酒家であった。しかしいつごろからか禁酒同様になって、わずかに薬代わりの晩酌をするくらいに止まった。酒に酔った時の父は非常におもしろく、無邪気になって、まるで年寄った子供のようであった。その無邪気さかげんには誰でも噴き出さずにはいられなかった。 |
一 新橋を渡る時、発車を知らせる二番目の鈴が、霧とまではいえない九月の朝の、煙った空気に包まれて聞こえて来た。葉子は平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。そして車が、鶴屋という町のかどの宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入り口の大戸をしめようとする駅夫と争いながら、八分がたしまりかかった戸の所に突っ立ってこっちを見まもっている青年の姿を見た。 「まあおそくなってすみませんでした事……まだ間に合いますかしら」 と葉子がいいながら階段をのぼると、青年は粗末な麦稈帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符を渡した。 「おやなぜ一等になさらなかったの。そうしないといけないわけがあるからかえてくださいましな」 といおうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけあいている改札口へと急いだ。改札はこの二人の乗客を苦々しげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。二人がてんでんに切符を出そうとする時、 「若奥様、これをお忘れになりました」 といいながら、羽被の紺の香いの高くするさっきの車夫が、薄い大柄なセルの膝掛けを肩にかけたままあわてたように追いかけて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。 「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声をふり立てた。 青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみがみどなり立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃくにした。葉子は今まで急ぎ気味であった歩みをぴったり止めてしまって、落ち付いた顔で、車夫のほうに向きなおった。 「そう御苦労よ。家に帰ったらね、きょうは帰りがおそくなるかもしれませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそういっておくれ。それから横浜の近江屋――西洋小間物屋の近江屋が来たら、きょうこっちから出かけたからっていうようにってね」 車夫はきょときょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるようにあわてていた。改札の顔はだんだん険しくなって、あわや通路をしめてしまおうとした時、葉子はするするとそのほうに近よって、 「どうもすみませんでした事」 といって切符をさし出しながら、改札の目の先で花が咲いたようにほほえんで見せた。改札はばかになったような顔つきをしながら、それでもおめおめと切符に孔を入れた。 プラットフォームでは、駅員も見送り人も、立っている限りの人々は二人のほうに目を向けていた。それを全く気づきもしないような物腰で、葉子は親しげに青年と肩を並べて、しずしずと歩きながら、車夫の届けた包み物の中には何があるかあててみろとか、横浜のように自分の心をひく町はないとか、切符を一緒にしまっておいてくれろとかいって、音楽者のようにデリケートなその指先で、わざとらしく幾度か青年の手に触れる機会を求めた。列車の中からはある限りの顔が二人を見迎え見送るので、青年が物慣れない処女のようにはにかんで、しかも自分ながら自分を怒っているのが葉子にはおもしろくながめやられた。 いちばん近い二等車の昇降口の所に立っていた車掌は右の手をポッケットに突っ込んで、靴の爪先で待ちどおしそうに敷き石をたたいていたが、葉子がデッキに足を踏み入れると、いきなり耳をつんざくばかりに呼び子を鳴らした。そして青年(青年は名を古藤といった)が葉子に続いて飛び乗った時には、機関車の応笛が前方で朝の町のにぎやかなさざめきを破って響き渡った。 葉子は四角なガラスをはめた入り口の繰り戸を古藤が勢いよくあけるのを待って、中にはいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻のように鋭く目を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、やせた中年の男に視線がとまると、はっと立ちすくむほど驚いた。しかしその驚きはまたたく暇もないうちに、顔からも足からも消えうせて、葉子は悪びれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右の頬だけに浮かべながら、古藤に続いて入り口に近い右側の空席に腰をおろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指をなんともいえないよい形に折り曲げた左手で、鬢の後れ毛をかきなでるついでに、地味に装って来た黒のリボンにさわってみた。青年の前に座を取っていた四十三四の脂ぎった商人体の男は、あたふたと立ち上がって自分の後ろのシェードをおろして、おりふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。 紺の飛白に書生下駄をつっかけた青年に対して、素性が知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情をたたえたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすらひかずにはおかなかった。乗客一同の視線は綾をなして二人の上に乱れ飛んだ。葉子は自分が青年の不思議な対照になっているという感じを快く迎えてでもいるように、青年に対してことさら親しげな態度を見せた。 品川を過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見すえる目を眉のあたりに感じておもむろにそのほうを見かえった。それは葉子が思ったとおり、新聞に見入っているかのやせた男だった。男の名は木部孤笻といった。葉子が車内に足を踏み入れた時、だれよりも先に葉子に目をつけたのはこの男であったが、だれよりも先に目をそらしたのもこの男で、すぐ新聞を目八分にさし上げて、それに読み入って素知らぬふりをしたのに葉子は気がついていた。そして葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めたころになって、彼は本気に葉子を見つめ始めたのだ。葉子はあらかじめこの刹那に対する態度を決めていたからあわても騒ぎもしなかった。目を鈴のように大きく張って、親しい媚びの色を浮かべながら、黙ったままで軽くうなずこうと、少し肩と顔とをそっちにひねって、心持ち上向きかげんになった時、稲妻のように彼女の心に響いたのは、男がその好意に応じてほほえみかわす様子のないという事だった。実際男の一文字眉は深くひそんで、その両眼はひときわ鋭さを増して見えた。それを見て取ると葉子の心の中はかっとなったが、笑みかまけたひとみはそのままで、するすると男の顔を通り越して、左側の古藤の血気のいい頬のあたりに落ちた。古藤は繰り戸のガラス越しに、切り割りの崕をながめてつくねんとしていた。 「また何か考えていらっしゃるのね」 葉子はやせた木部にこれ見よがしという物腰ではなやかにいった。 古藤はあまりはずんだ葉子の声にひかされて、まんじりとその顔を見守った。その青年の単純な明らさまな心に、自分の笑顔の奥の苦い渋い色が見抜かれはしないかと、葉子は思わずたじろいだほどだった。 「なんにも考えていやしないが、陰になった崕の色が、あまりきれいだもんで……紫に見えるでしょう。もう秋がかって来たんですよ。」 青年は何も思っていはしなかったのだ。 「ほんとうにね」 葉子は単純に応じて、もう一度ちらっと木部を見た。やせた木部の目は前と同じに鋭く輝いていた。葉子は正面に向き直るとともに、その男のひとみの下で、悒鬱な険しい色を引きしめた口のあたりにみなぎらした。木部はそれを見て自分の態度を後悔すべきはずである。 二 葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋の的だった。それはちょうど日清戦争が終局を告げて、国民一般はだれかれの差別なく、この戦争に関係のあった事柄や人物やに事実以上の好奇心をそそられていたころであったが、木部は二十五という若い齢で、ある大新聞社の従軍記者になってシナに渡り、月並みな通信文の多い中に、きわだって観察の飛び離れた心力のゆらいだ文章を発表して、天才記者という名を博してめでたく凱旋したのであった。そのころ女流キリスト教徒の先覚者として、キリスト教婦人同盟の副会長をしていた葉子の母は、木部の属していた新聞社の社長と親しい交際のあった関係から、ある日その社の従軍記者を自宅に招いて慰労の会食を催した。その席で、小柄で白皙で、詩吟の声の悲壮な、感情の熱烈なこの少壮従軍記者は始めて葉子を見たのだった。 葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手ぎわよく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは充分に持っていた。十五の時に、袴をひもで締める代わりに尾錠で締めるくふうをして、一時女学生界の流行を風靡したのも彼女である。その紅い口びるを吸わして首席を占めたんだと、厳格で通っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮き名を負わせたのも彼女である。上野の音楽学校にはいってヴァイオリンのけいこを始めてから二か月ほどの間にめきめき上達して、教師や生徒の舌を巻かした時、ケーべル博士一人は渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想にいってのけた。それを聞くと「そうでございますか」と無造作にいいながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。キリスト教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男まさりのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人を全く無視して振る舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指と食指との間にちゃんと押えて、一歩もひけを取らなかったのも彼女である。葉子の目にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男をかなり近くまで潜り込ませて置いて、もう一歩という所で突っ放した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂がどこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情け容赦もなくその男を振り捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼らは等しく葉子を見誤っていた事を悔いるように見えた。なぜというと、彼らは一人として葉子に対して怨恨をいだいたり、憤怒をもらしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者たちは自分の愚を認めるよりも葉子を年不相当にませた女と見るほうが勝手だったから。 それは恋によろしい若葉の六月のある夕方だった。日本橋の釘店にある葉子の家には七八人の若い従軍記者がまだ戦塵の抜けきらないようなふうをして集まって来た。十九でいながら十七にも十六にも見れば見られるような華奢な可憐な姿をした葉子が、慎みの中にも才走った面影を見せて、二人の妹と共に給仕に立った。そしてしいられるままに、ケーベル博士からののしられたヴァイオリンの一手も奏でたりした。木部の全霊はただ一目でこの美しい才気のみなぎりあふれた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。そして運命は不思議ないたずらをするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌――骨細な、顔の造作の整った、天才風に蒼白いなめらかな皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗な割合に下顎骨の発達した――までどこか葉子のそれに似ていたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見つけ出したように思って、一種の好奇心を挑発せられずにはいなかった。木部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかきいだいて、葉子はまた才走った頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴はさりげなく終わりを告げた。 木部の記者としての評判は破天荒といってもよかった。いやしくも文学を解するものは木部を知らないものはなかった。人々は木部が成熟した思想をひっさげて世の中に出て来る時の華々しさをうわさし合った。ことに日清戦役という、その当時の日本にしては絶大な背景を背負っているので、この年少記者はある人々からは英雄の一人とさえして崇拝された。この木部がたびたび葉子の家を訪れるようになった。その感傷的な、同時にどこか大望に燃え立ったようなこの青年の活気は、家じゅうの人々の心を捕えないでは置かなかった。ことに葉子の母が前から木部を知っていて、非常に有為多望な青年だとほめそやしたり、公衆の前で自分の子とも弟ともつかぬ態度で木部をもてあつかったりするのを見ると、葉子は胸の中でせせら笑った。そして心を許して木部に好意を見せ始めた。木部の熱意が見る見る抑えがたく募り出したのはもちろんの事である。 かの六月の夜が過ぎてからほどもなく木部と葉子とは恋という言葉で見られねばならぬような間柄になっていた。こういう場合葉子がどれほど恋の場面を技巧化し芸術化するに巧みであったかはいうに及ばない。木部は寝ても起きても夢の中にあるように見えた。二十五というそのころまで、熱心な信者で、清教徒風の誇りを唯一の立場としていた木部がこの初恋においてどれほど真剣になっていたかは想像する事ができる。葉子は思いもかけず木部の火のような情熱に焼かれようとする自分を見いだす事がしばしばだった。 そのうちに二人の間柄はすぐ葉子の母に感づかれた。葉子に対してかねてからある事では一種の敵意を持ってさえいるように見えるその母が、この事件に対して嫉妬とも思われるほど厳重な故障を持ち出したのは、不思議でないというべき境を通り越していた。世故に慣れきって、落ち付き払った中年の婦人が、心の底の動揺に刺激されてたくらみ出すと見える残虐な譎計は、年若い二人の急所をそろそろとうかがいよって、腸も通れと突き刺してくる。それを払いかねて木部が命限りにもがくのを見ると、葉子の心に純粋な同情と、男に対する無条件的な捨て身な態度が生まれ始めた。葉子は自分で造り出した自分の穽にたわいもなく酔い始めた。葉子はこんな目もくらむような晴れ晴れしいものを見た事がなかった。女の本能が生まれて始めて芽をふき始めた。そして解剖刀のような日ごろの批判力は鉛のように鈍ってしまった。葉子の母が暴力では及ばないのを悟って、すかしつなだめつ、良人までを道具につかったり、木部の尊信する牧師を方便にしたりして、あらん限りの知力をしぼった懐柔策も、なんのかいもなく、冷静な思慮深い作戦計画を根気よく続ければ続けるほど、葉子は木部を後ろにかばいながら、健気にもか弱い女の手一つで戦った。そして木部の全身全霊を爪の先想いの果てまで自分のものにしなければ、死んでも死ねない様子が見えたので、母もとうとう我を折った。そして五か月の恐ろしい試練の後に、両親の立ち会わない小さな結婚の式が、秋のある午後、木部の下宿の一間で執り行なわれた。そして母に対する勝利の分捕り品として、木部は葉子一人のものとなった。 木部はすぐ葉山に小さな隠れ家のような家を見つけ出して、二人はむつまじくそこに移り住む事になった。葉子の恋はしかしながらそろそろと冷え始めるのに二週間以上を要しなかった。彼女は競争すべからぬ関係の競争者に対してみごとに勝利を得てしまった。日清戦争というものの光も太陽が西に沈むたびごとに減じて行った。それらはそれとしていちばん葉子を失望させたのは同棲後始めて男というものの裏を返して見た事だった。葉子を確実に占領したという意識に裏書きされた木部は、今までおくびにも葉子に見せなかった女々しい弱点を露骨に現わし始めた。後ろから見た木部は葉子には取り所のない平凡な気の弱い精力の足りない男に過ぎなかった。筆一本握る事もせずに朝から晩まで葉子に膠着し、感傷的なくせに恐ろしくわがままで、今日今日の生活にさえ事欠きながら、万事を葉子の肩になげかけてそれが当然な事でもあるような鈍感なお坊ちゃんじみた生活のしかたが葉子の鋭い神経をいらいらさせ出した。始めのうちは葉子もそれを木部の詩人らしい無邪気さからだと思ってみた。そしてせっせせっせと世話女房らしく切り回す事に興味をつないでみた。しかし心の底の恐ろしく物質的な葉子にどうしてこんな辛抱がいつまでも続こうぞ。結婚前までは葉子のほうから迫ってみたにも係わらず、崇高と見えるまでに極端な潔癖屋だった彼であったのに、思いもかけぬ貪婪な陋劣な情欲の持ち主で、しかもその欲求を貧弱な体質で表わそうとするのに出っくわすと、葉子は今まで自分でも気がつかずにいた自分を鏡で見せつけられたような不快を感ぜずにはいられなかった。夕食を済ますと葉子はいつでも不満と失望とでいらいらしながら夜を迎えねばならなかった。木部の葉子に対する愛着が募れば募るほど、葉子は一生が暗くなりまさるように思った。こうして死ぬために生まれて来たのではないはずだ。そう葉子はくさくさしながら思い始めた。その心持ちがまた木部に響いた。木部はだんだん監視の目をもって葉子の一挙一動を注意するようになって来た。同棲してから半か月もたたないうちに、木部はややもすると高圧的に葉子の自由を束縛するような態度を取るようになった。木部の愛情は骨にしみるほど知り抜きながら、鈍っていた葉子の批判力はまた磨きをかけられた。その鋭くなった批判力で見ると、自分と似よった姿なり性格なりを木部に見いだすという事は、自然が巧妙な皮肉をやっているようなものだった。自分もあんな事を想い、あんな事をいうのかと思うと、葉子の自尊心は思う存分に傷つけられた。 ほかの原因もある。しかしこれだけで充分だった。二人が一緒になってから二か月目に、葉子は突然失踪して、父の親友で、いわゆる物事のよくわかる高山という医者の病室に閉じこもらしてもらって、三日ばかりは食う物も食わずに、浅ましくも男のために目のくらんだ自分の不覚を泣き悔やんだ。木部が狂気のようになって、ようやく葉子の隠れ場所を見つけて会いに来た時は、葉子は冷静な態度でしらじらしく面会した。そして「あなたの将来のおためにきっとなりませんから」と何げなげにいってのけた。木部がその言葉に骨を刺すような諷刺を見いだしかねているのを見ると、葉子は白くそろった美しい歯を見せて声を出して笑った。 葉子と木部との間柄はこんなたわいもない場面を区切りにしてはかなくも破れてしまった。木部はあらんかぎりの手段を用いて、なだめたり、すかしたり、強迫までしてみたが、すべては全く無益だった。いったん木部から離れた葉子の心は、何者も触れた事のない処女のそれのようにさえ見えた。 それから普通の期間を過ぎて葉子は木部の子を分娩したが、もとよりその事を木部に知らせなかったばかりでなく、母にさえある他の男によって生んだ子だと告白した。実際葉子はその後、母にその告白を信じさすほどの生活をあえてしていたのだった。しかし母は目ざとくもその赤ん坊に木部の面影を探り出して、キリスト信徒にあるまじき悪意をこのあわれな赤ん坊に加えようとした。赤ん坊は女中部屋に運ばれたまま、祖母の膝には一度も乗らなかった。意地の弱い葉子の父だけは孫のかわいさからそっと赤ん坊を葉子の乳母の家に引き取るようにしてやった。そしてそのみじめな赤ん坊は乳母の手一つに育てられて定子という六歳の童女になった。 その後葉子の父は死んだ。母も死んだ。木部は葉子と別れてから、狂瀾のような生活に身を任せた。衆議院議員の候補に立ってもみたり、純文学に指を染めてもみたり、旅僧のような放浪生活も送ったり、妻を持ち子を成し、酒にふけり、雑誌の発行も企てた。そしてそのすべてに一々不満を感ずるばかりだった。そして葉子が久しぶりで汽車の中で出あった今は、妻子を里に返してしまって、ある由緒ある堂上華族の寄食者となって、これといってする仕事もなく、胸の中だけにはいろいろな空想を浮かべたり消したりして、とかく回想にふけりやすい日送りをしている時だった。 三 その木部の目は執念くもつきまつわった。しかし葉子はそっちを見向こうともしなかった。そして二等の切符でもかまわないからなぜ一等に乗らなかったのだろう。こういう事がきっとあると思ったからこそ、乗り込む時もそういおうとしたのだのに、気がきかないっちゃないと思うと、近ごろになく起きぬけからさえざえしていた気分が、沈みかけた秋の日のように陰ったりめいったりし出して、冷たい血がポンプにでもかけられたように脳のすきまというすきまをかたく閉ざした。たまらなくなって向かいの窓から景色でも見ようとすると、そこにはシェードがおろしてあって、例の四十三四の男が厚い口びるをゆるくあけたままで、ばかな顔をしながらまじまじと葉子を見やっていた。葉子はむっとしてその男の額から鼻にかけたあたりを、遠慮もなく発矢と目でむちうった。商人は、ほんとうにむちうたれた人が泣き出す前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議な顔のゆがめかたをして、さすがに顔をそむけてしまった。その意気地のない様子がまた葉子の心をいらいらさせた。右に目を移せば三四人先に木部がいた。その鋭い小さな目は依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかりに激昂した神経を両手に集めて、その両手を握り合わせて膝の上のハンケチの包みを押えながら、下駄の先をじっと見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が隣座にいるのさえ、一種の苦痛だった。その瞑想的な無邪気な態度が、葉子の内部的経験や苦悶と少しも縁が続いていないで、二人の間には金輸際理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特別に毛色の変わった自分の境界に、そっとうかがい寄ろうとする探偵をこの青年に見いだすように思って、その五分刈りにした地蔵頭までが顧みるにも足りない木のくずかなんぞのように見えた。 やせた木部の小さな輝いた目は、依然として葉子を見つめていた。 なぜ木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今でも自分を女とあなどっている。ちっぽけな才力を今でも頼んでいる。女よりも浅ましい熱情を鼻にかけて、今でも自分の運命に差し出がましく立ち入ろうとしている。あの自信のない臆病な男に自分はさっき媚びを見せようとしたのだ。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意を眦を反して退けたのだ。 やせた木部の小さな目は依然として葉子を見つめていた。 この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人の中年の紳士の口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もない事は葉子にもわかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなくなった。そして右の手を深々と帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、 「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」 |
一月 うまし、かるた會に急ぐ若き胸は、駒下駄も撒水に辷る。戀の歌を想ふにつけ、夕暮の線路さへ丸木橋の心地やすらむ。松を鳴らす電車の風に、春着の袖を引合す急き心も風情なり。やがてぞ、内賑に門のひそめく輪飾の大玄關より、絹足袋を輕く高廊下を行く。館の奧なる夫人の、常さへ白鼈甲に眞珠を鏤めたる毛留して、鶴の膚に、孔雀の裝にのみ馴れたるが、この玉の春を、分けて、と思ふに、いかに、端近の茶の室に居迎ふる姿を見れば、櫛卷の薄化粧、縞銘仙の半襟つきに、引掛帶して、入らつしやい。眞鍮の茶釜の白鳥、出居の柱に行燈掛けて、燈紅く、おでん燗酒、甘酒もあり。 ――どツちが好いと言ふんですか―― ――知らない―― 二月 都なる父母は歸り給ひぬ。舅姑、知らぬ客許多あり。附添ふ侍女を羞らひに辭しつゝ、新婦の衣を解くにつれ、浴室颯と白妙なす、麗しき身とともに、山に、町に、廂に、積れる雪の影も映すなり。此時、われに返る心、しかも湯氣の裡に恍惚として、彼處に鼈甲の櫛笄の行方も覺えず、此處に亂箱の緋縮緬、我が手にさへ袖をこぼれて亂れたり。面、色染んぬ。姿見の俤は一重の花瓣薄紅に、乳を押へたる手は白くかさなり咲く、蘭湯に開きたる此の冬牡丹。蕊に刻めるは誰が名ぞ。其の文字金色に輝くまゝに、口渇き又耳熱す。高島田の前髮に冷き刃あり、窓を貫くは簾なす氷柱にこそ。カチリと音して折つて透かしぬ。人のもし窺はば、いと切めて血を迸らす匕首とや驚かん。新婦は唇に含みて微笑みぬ。思へ君……式九獻の盞よりして以來、初めて胸に通りたる甘く清き露なりしを。――見たのかい――いや、われ聞く。 三月 淺蜊やア淺蜊の剥身――高臺の屋敷町に春寒き午後、園生に一人庭下駄を爪立つまで、手を空ざまなる美き女あり。樹々の枝に殘ンの雪も、ちら〳〵と指の影して、大なる紅日に、雪は薄く紫の袂を曳く。何に憧憬るゝ人ぞ。歌をよみて其の枝の紅梅の莟を解かんとするにあらず。手鍋提ぐる意氣に激して、所帶の稽古に白魚の魥造る也。然も目を刺すがいぢらしとて、ぬきとむるは尾なるを見よ。絲の色も、こぼれかゝる袖口も、繪の篝火に似たるかな。希くは針に傷つくことなかれ。お孃樣これめせと、乳母ならむ走り來て捧ぐるを、曰く、ヱプロン掛けて白魚の料理が出來ますかと。魚も活くべし。手首の白さ更に可三寸。 四月 舳に肌ぬぎの亂れ姿、歌妓がさす手ひく手に、おくりの絃の流れつゝ、花見船漕ぎつるゝ。土手の霞暮れんとして、櫻あかるき三めぐりあたり、新しき五大力の舷の高くすぐれたるに、衣紋も帶も差向へる、二人の婦ありけり、一人は高尚に圓髷ゆひ、一人は島田艷也。眉白き船頭の漕ぐにまかせ、蒔繪の調度に、待乳山の影を籠めて、三日月を載せたる風情、敷波の花の色、龍の都に行く如し。人も酒も狂へる折から、ふと打ちすましたる鼓ぞ冴ゆる。いざ、金銀の扇、立つて舞ふよと見れば、圓髷の婦、なよやかにすらりと浮きて、年下の島田の鬢のほつれを、透彫の櫛に、掻撫でつ。心憎し。鐘の音の傳ふらく、此の船、深川の木場に歸る。 五月 五月雨の茅屋雫して、じと〳〵と沙汰するは、山の上の古社、杉の森の下闇に、夜な〳〵黒髮の影あり。呪詛の女と言ふ。かたの如き惡少年、化鳥を狙ふ犬となりて、野茨亂れし岨道を要して待つ。夢か、青葉の衣、つゝじの帶の若き姿。雲暗き山の端より月かすかに近づくを、獲ものよ、虐げんとすれば、其の首の長きよ、口は耳まで裂けて、白き蛇の紅さしたる面ぞ。キヤツと叫びて倒るゝを、見向きもやらず通りしは、優にやさしき人の、黄楊の櫛を唇に銜へしなり。うらぶれし良家の女の、父の病氣なるに、夜半に醫を乞へる道なりけり。此の護身の術や、魔法つかひの教にあらず、なき母の記念なりきとぞ。卯の花の里の温泉の夜語。 六月 裾野の煙長く靡き、小松原の靄廣く流れて、夕暮の幕更に富士山に開く時、其の白妙を仰ぐなる前髮清き夫人あり。肘を輕く窓に凭る。螢一つ、すらりと反對の窓より入りて、細き影を捲くと見る間に、汗埃の中にして、忽ち水に玉敷ける、淺葱、藍、白群の涼しき草の影、床かけてクシヨンに描かれしは、螢の衝と其の裳に忍び褄に入りて、上の薄衣と、長襦袢の間を照して、模樣の花に、葉に、莖に、裏透きてすら〳〵と移るにこそあれ。あゝ、下じめよ、帶よ、消えて又光る影、乳に沁むなり。此の君、其の肌、確に雪。ソロモンと榮華を競へりとか、白百合の花も恥づべき哉。否、恥らへるは夫人なり。衣絞明るく心着きけむ、銀に青海波の扇子を半、螢より先づハツと面を蔽へるに、風さら〳〵と戰ぎつゝ、光は袖口よりはらりとこぼれて、窓外の森に尚美しき影をぞ曳きたる。もし魂の拔出でたらんか、これ一顆の碧眞珠に、露草を鐫れるなるべし。此の人もし仇あらば、皆刃を取つて敵を討たん。靈山の氣、汽車に迫れり。――山北――山北―― 七月 其の邊の公園に廣き池あり。時よし、風よしとて、町々より納涼の人出で集ふ。童たち酸漿提灯かざしもしつ。水の灯美しき夜ありき。汀に小き船を浮べて、水茶屋の小奴莞爾やかに竹棹を構へたり。うら若き母に伴はれし幼兒の、他の乘るに、われもとて肯かざりしに、私は身弱くて、恁ばかりの船にも眩暈するに、荒波の海としならばとにかくも、池の水に伏さんこと、人目恥かしければ得乘らじとよ。強ひてとならば一人行け、心は船を守るべし。舳にな立ちそ、舷にな片寄りそ。頼むは少き船頭衆とて、さみしく手をはなち給ひしが、早や其の姿へだたりて、殘の杜若裳に白く、蘆のそよぎ羅の胸に通ふと、星の影に見るまゝに、兒は池のたゞ中に、母を呼びて、わツと泣きぬ。――盂蘭盆の墓詣に、其のなき母を偲びつゝ、涙ぐみたる娘あり。あかの水の雫ならで、桔梗に露を置添へつ、うき世の波を思ふならずや。 八月 若きものの、山深く暑を避けたるが、雲の峰高き巖の根に、嘉魚釣りて一人居たりけり。碧潭の氣一脈、蘭の香を吹きて、床しき羅の影の身に沁むと覺えしは、年經る庄屋の森を出でて、背後なる岨道を通る人の、ふと彳みて見越したんなる。無地かと思ふ紺の透綾に、緋縮緬の長襦袢、小柳繻子の帶しめて、褄の堅きまで愼ましきにも、姿のなよやかさ立ちまさり、打微笑みたる口紅さへ、常夏の花の化身に似たるかな。斷崖の清水に龍女の廟あり。われは浦島の子か、姫の靈ぞと見しが、やがて知んぬ。なか〳〵に時のはやりに染まぬ服裝の、却つて鶯帶蝉羅にして、霓裳羽衣の風情をなせる、そこの農家の姉娘の、里の伯母前を訪ふなりしを。 九月 洪水は急なりけり。背戸續きの寮屋に、茅屋に侘ぶる風情とて、家の娘一人居たる午すぎよ。驚破と、母屋より許嫁の兄ぶんの駈けつくるに、讀みさしたる書伏せもあへず抱きて立てる、栞の萩も濡縁に枝を浪打ちて、早や徒渉すべからず、あり合はす盥の中に扶けのせつゝ、盪して逃るゝ。庭はさながら花野也。桔梗、刈萱、女郎花、我亦紅、瑠璃に咲ける朝顏も、弱竹のまゝ漕惱めば、紫と、黄と、薄藍と、浮きまどひ、沈み靡く。濁れる水も色を添へて極彩色の金屏風を渡るが如く、秋草模樣に露敷く袖は、丈高き紫苑の梢を乘りて、驚き飛ぶ蝶とともに漾へり。山影ながら颯と野分して、芙蓉に咽ぶ浪の繁吹に、小き輪の虹が立つ――あら、綺麗だこと――それどころかい、馬鹿を言へ――男の胸は盥に引添ひて泳ぐにこそ。おゝい、おゝい、母屋に集へる人數の目には、其の盥たゞ一枚大なる睡蓮の白き花に、うつくしき瞳ありて、すら〳〵と流れ寄りきとか。 十月 藍あさき宵の空、薄月の夜に入りて、雲は胡粉を流し、一むら雨廂を斜に、野路の刈萱に靡きつゝ、背戸の女郎花は露まさる色に出で、茂れる萩は月影を抱けり。此の時、草の家の窓に立ちて、秋深くものを思ふ女。世にやくねれる、戀にや惱める、避暑の頃よりして未だ都に歸らざる、あこがれの瞳をなぶりて、風の音信るともあらず、はら〳〵と、櫨の葉、柿の葉、銀杏の葉、見つゝ指の撓へるは、待人の日を算ふるや。爪紅を其のまゝに、其の木の葉一枚づゝ、君來よ、と染むるにや。豈ひとり居に堪ふべけんや。袖笠かつぎもやらず、杖折戸を立出づる。山の根の野菊、水に似て、渡る褄さき亂れたり。曼珠沙華ひら〳〵と、其の左右に燃えたるを、あれは狐か、と見し夜戻りの山法師。稻束を盾に、や、御寮、いづくへぞ、とそゞろに問へば、莞爾して、さみしいから、田圃の案山子に、杯をさしに行くんですよ。 十一月 朝の雲吹散りたり。風凪ぎぬ。藪垣なる藤豆の、莢も實も、午の影紫にして、谷を繞る流あり。穗たで露草みだれ伏す。此の水やがて里の廓の白粉に淀むと雖も、此のあたり、寺々の松の音にせゝらぎて、殘菊の雫潔し。十七ばかりのもの洗ふ女、帶細く腰弱く、盥を抱へて來つ。汀に裂けし芭蕉の葉、日ざしに翳す扇と成らずや。頬も腕も汗ばみたる、袖引き結へる古襷は、枯野の草に褪せたれども、うら若き血は燃えんとす。折から櫨の眞紅なるが、其のまゝの肌着に映りて、竹堰の脛は霜を敷く、あゝ、冷たからん。筧の水を受くるとて、嫁菜の莖一つ摘みつゝ、優しき人の心かな、何のすさみにもあらで、其の盥にさしけるが、引とき衣の藍に榮えて、嫁菜の淺葱色冴えしを、菜畠の日南に憩ひて、恍惚と見たる旅の男。うかと聲を掛けて、棟あちこち、伽藍の中に、鬼子母神の御寺はと聞けば、えゝ、紅い石榴の御堂でせうと、瞼に色を染めながら。 |
序言 本書は余が欧米漫遊の途中、目に触れ心に感じたることをそのまま記して、哲学館出身者および生徒諸子に報道したるものにして、これを別冊に刻して世間に公にすることは、最初より期せしところにあらず。しかるに、このごろ哲学館同窓会諸氏、強いてこれを印刷せんことをもとめらる。余、ついにその請いをいれて、これを同窓会に寄贈することとなす。書中記するところの詩歌のごときは、抱腹に堪えざるもの多きも、笑うもまた肺の薬なりと聞けば、読者の肺を強くするの一助ともならんと思い、これを削除せずしてそのまま印刷に付することとなせり。一言もって巻首に冠す。 明治三十六年十一月二十日井上円了 しるす 西航日録 一、再び西航の途へ 明治三十五年十一月十五日、余再び航西の途に上らんとし、午前八時半、新橋を発す。ときに千百の知友、学生の余が行を送るありて、汽笛の声は万歳の声にうずめられ、秋雨蕭々のうちに横浜に着す。ときに拙作二首あり。 留別 力学多年在帝都、始知碌碌読書愚、欲扶後進開文運、再上航西万里途。 (学問の修得につとめて多くの歳月を東京ですごし、はじめて役にもたたぬ読書の愚かさを知った。わが国を後進より救い学問・文化の気運をさかんにしようと願い、ふたたび西方への航路万里の途についたのであった。) 新橋発車 決意一朝辞帝京、学生千百送吾行、鉄車将動煙先発、万歳声埋汽笛声。 (意を決してこの日東京に別れを告げる。ときに学生千余人がわが旅立ちを送ってくれた。汽車の動かんとするに煙がまず噴き上がり、万歳を叫ぶ声が発車の汽笛をかき消すのであった。) 正午十二時、天ようやく晴る。知友と袂をわかちて港内より発錨す。汽船は若狭丸と号し、六千二百六十トンの大船なり。晩来風浪少しく起こり、船体ために微動せるも、かえって催眠の媒介となり、遠灘七十三里は一夢のうちに過ぎ去り、暁窓近く紀南の諸山に接見す。午後、神戸入津。哲学館得業生潮田玄乗氏来訪あり。翌十七日午前上陸、県知事服部一三君および特別館賓伊藤長次郎氏を訪問す。午後伊藤氏、余を送りて本船に至る。当夜四面雲晴れ、明月天に懸かり、波間の清数点の船灯と相映じ、湾内の風光筆紙のよく尽くすところにあらず。余、船中にありて「阜頭明月情如満、不照江山照我心」(埠頭の明月は満月のごとく、江山を照らさずしてわが心を照らす)とうそぶけり。十八日滞泊、十九日正午出帆、二十日朝門司着。哲学館出身者泉含章氏、小艇をもって出でて迎うるあり。余これに移りて馬関に上陸し、泉氏の宅にて丘道徹氏および山名、西尾等の諸氏に会す。 二、シャンハイ上陸 二十一日未明、門司解纜。海上風波あり。西航五百里、シャンハイ河口なる呉淞に達せしは二十二日夜半なり。翌朝八時小汽船に駕し、黄浦をさかのぼりてシャンハイに上陸し、城内城外を一巡し、湖心亭茶園・愚園等を遊覧す。城外の市街はその広大なる、神戸、横浜の比にあらず。東洋のニューヨークと称するも可ならん。されど城内の不潔にいたりては、実に言語道断なり。余、先年ここに遊び、彼我両国を比較して、「シナ人の心は黄河とともに濁り、日本人の心は富峰とともにきよし」といいたるが、十五年前と今日とさらに異なるところなし。しかるにその国を大清国と称するは、名実不相応といわざるべからず。自今、よろしく日本を大清国と名づけ、シナを大濁国と呼ぶべし。 三、日本人とシナ人 日本人の特質はすべて富峰をもって表し得るがごとく、シナ人の特色は黄河または楊子江をもって示し得るなり。シナ人の体貌面相の日本人に異なるは、男女貧富を問わず、一般に緩慢なる相貌を有する点にあり。しかして、その性質もまた緩慢なり、その事業もまた緩慢なり。緩慢は実にシナ人の特色にして、地勢も河流も同じく緩慢なり。余がシャンハイに上陸するごとに、楊子江の緩慢なるを見て、シナ人の気風のよくこれに似たるところあるを想起せざるはなし。ゆえに、シナは大濁国なるとともに大緩慢国なり。日本人はこれに反し、大清国なるとともに大急激国なり。その性質急激にして諸事に敏速なる利あるも、また度量の狭隘に過ぐるの失あり。もし、日本人の気質七匁にシナ人の気質三匁を調合しきたらば、必ず東洋の人物のやや完全なるものを得べし。 シナ市街に茶店食店すこぶる多し。しかれども飲酒店あるを見ず。要するに、シナ人は飲酒をたしなまざるもののごとし。ただ飲酒の代わりに、阿片を喫するをもって無上の楽しみとするのみ。日本人は阿片の代わりに飲酒をたしなむ。阿片もとより害あり、飲酒また害なしというべからず。本邦人中、一代にして祖先以来の家産を蕩尽するもの多きは、飲酒その主因ならざるはなし。ゆえに、シナ人に阿片の害を説くと同時に、日本人に飲酒の害を説きて戒慎を加えしめざるべからず。 四、シャンハイ所感 シナの市街中、最も余輩の目に触れたるものは、卜筮、人相、方位の看板を掲ぐる店のすこぶる多き一事なり。シナ人は上下を論ぜず、吉凶禍福みなこれを卜筮に問うを常とし、病人あるも医師によらずして卜者にたずね、不幸にして不帰の客となれば、これ天命なりとしてあきらむるなり。けだし、その国に医術の発達せざるはこれがためなり。宗教の振るわざるもこれに起因す。よって余は、シナは大濁国、大緩慢国なると同時に大迷信国なりといわんとす。余、シャンハイにありて四面を一望するに、山影の眼光に触るるなく、平原百里に連なり、河水縦横に通じ、いわゆる沃野千里なるもの、清国の富源また実にこの間にあり。しかして楊子江その脊髄となり、シャンハイその脳髄に当たるもののごとし。それ楊子江は世界無二の大河にして、舟楫の通ずる所、本流にありて三千里余、本支を合すれば四千里なりという。これをわが国の大河たる利根川、信濃川等の、本支合して二百里内外なるに比すれば、その差、同日の論にあらず。もってシナ国の一斑を知るに足る。かかる天然の地利と富源とを有するにもかかわらず、その国の形勢累卵もただならざるは、その罪天にあらずして人にあり。しかして、シナ国民が泰西の文物を収容して面目を一新するは、いずれの日にありや知るべからず。大廈のまさに覆らんとするや、もとより一柱一木のよく支うるところにあらざるなり。老大国の前途、絶望の観なきあたわず。ああ中原の鹿、またなにびとの手にか帰せん。東洋の多事、今よりますますはなはだしからん。ただ、わが同胞は鞠躬尽瘁よく、唇ほろびて歯寒きの間に立ち、風雲を一掃して、東洋の天地に青天白日をめぐらすことを期せざるべからず。願わくは、教育に従事するもの終始一貫、この心をもって心とし、学生たるもの造次顛沛の間も、この心を失わざらんことを。左にシャンハイ所感の一首を録す。 城頭一望感無窮、英艦露兵西又東、大陸風雲日将急、黄竜何歳見晴空。 (上海の市街を一望して往時を思い感慨きわまりなく、英国の軍艦や露国の兵が西より来たり、東より来たる。中国大陸の風雲は日々に急を告げようとし、楊子江はいつになったら晴れやかな空を見せるのであろうか。) 五、ホンコン上陸、旧知に会う 十一月二十五日天明、呉淞抜錨。シナ大陸に沿って南進し、二十六日台湾海峡に入る。終日曇晴、風波やや高し。二十七日快晴、暑気にわかに加わる。一昨日まで毎室暖炉を待ちしも、今日より食後、アイスクリームを呼ぶに至る。霜風凍雨の時節このことあるは、本邦人の怪しむところならん。二十八日未明、ホンコンに着す。また快晴なり。暑気、わが九月彼岸ごろに似たり。 ホンコンは東洋第一の開港場にして、家屋の広壮、市街の繁盛、ほとんどサンフランシスコに譲らず。ただその地、山に踞し海に臨み、極めて狭隘なるを遺憾とす。午前上陸、桐野領事および『華字日報』主筆潘飛声に面会す。ともに余が旧知なり。なかんずく潘氏は、十五年前ドイツ・ベルリン東洋学校の聘に応じて、シナ学教授の職にあり。余、ときに再四相会して文林の交をなせり。爾来久しく消息を絶し、図らずもこの地において再会せるは、実に奇縁というべし。氏、余に送るに写影および著書をもってす。その中に『羅浮紀游』一帙あり。その詩中に「焚香対幽竹、猿鶴共一席、月来百花醒、雲睡万壑寂」(香を焚いて静かな竹林にむかえば、風流を解する猿と鶴とがともにこの席にあり、月のぼればもろもろの花がめざめるがごとくほのかに浮かび、雲はねむるがごとくしてすべての谷は静まりかえっている)等の句、もって誦すべし。夜に入りて月まさにくらし。満天星近く懸かり、港内の灯光上下点々、あたかも蛍火を見るがごとき観あり。今夕、福島将軍入港の報あれども、帰船後にして相会するを得ず。二十九日暁天解纜、西南に向かいて進行す。船客みな夏装をなし、食時扇風を用う。 六、シンガポールに着す 三十日(日曜)午後、驟雨一過。その翌日はすなわち十二月一日なり。早朝、雲際に山影を認む。これアンナンの南端なり。ホンコン以来、日一日より炎威相加わり、宛然三伏を迎うるがごとし。ときどき惰気眠りを促しきたり、筆を執るにものうし。ただ終日、甲板上に横臥するのみ。余よっておもうに、人の脳漿はバターに似たるか、暑気の加わるに従い、融解して水のごとくなるを覚ゆ。二日雷雨起こり、三日清風来たる。四日未明、シンガポールに着す。シャンハイよりホンコンまで海路八百海里余にして、ホンコンよりシンガポールまで、およそ一千四百五十海里なり。 シンガポールはマラッカ海峡咽喉の地にありて、実に枢要の港口なり。万国の船これに出入し、万国の人ここに輻湊し、その盛況これを十四年前に比するに、ほとんど別天地の観あり。その地赤道に接すといえども、常に濃陰日光をとざし、ときに驟雨暑気を洗い、やや清涼を覚ゆ。シャンハイ以西ここに至るまでの間、沿海の諸山、みな赤土を現出し、往々石骨を露出し、一つとして樹木の鬱蒼たるものなく、満目荒涼、殺風景を極む。あたかも東洋諸邦の形勢を写出せるがごとし。しかるにシンガポールに至り、はじめて本邦の山水に接するの思いをなす。ただ清流に乏しきを遺憾とするのみ。ときにまた一作あり。 船泊南溟第一関、連檣林立幾湾湾、晩雷送雨天如洗、涼月高懸赤道山。 (船は南の果てにある枢要の港シンガポールに碇泊すれば、帆柱は連なって林のごとく立ち、いりえをみたしている。日暮れて雷は雨をともない、天は洗われるかのようであった。やがて涼しげな月が高く赤道の山にかかったのである。) 本邦よりシンガポールまで日本人中船室を同じくするもの、河合操氏(陸軍少佐)および甲賀卯吉氏(造船技師)なり。毎夕、三人相会して船中の内閣を組織し、鼎座一卓をかこみ、河合少佐は兵事を論じ、甲賀技師は工業を説き、余は教学を談じ、一言として本邦の前途、国家の大計に関せざるはなし。その論極めて大にして、その心最も切なり。ときどき船中の主治医岡村氏および事務長小野氏これに加わりて、五人内閣を団成し、中央のテーブルと相合して梅花状をなし、悲憤のあまり口角泡を飛ばし、切歯腕を扼し、日本男児の真相を演ずることあるも、局勢たちまち一変して、棋戦となり、雑談となり、滑稽となる。これ船中の余興なり。もって「船中無新聞寒尽不知年」(船中では新しい情報もなく、寒さもなく新年のことも知ることなし)の境界を見るべし。午前十時、三人相携えて上陸。余は領事館および三井物産会社支店を訪い、馬場氏に面し、日新館にて河合、甲賀両氏と手を分かち、印度支那汽船会社の便船瑞生号(Suisang)に転乗し、午後五時、ペナン(Penang)に向かって発す。 七、ペナン遊覧 五日、炎晴。終日マレー半島の西岸に沿って北走し、六日払暁、ペナン港に入る。シナ人のここに上陸するものおよそ五百名あり、みな下等の労働者なり。人評して曰く、シナ人の東洋諸港におけるは、なお蟻の砂糖におけるがごとしと。誠にしかり。金銭はすなわちシナ人の砂糖なり。船中において彼らの検疫を行うに、上衣を脱して、半身裸体ならしむ。これを一見するもまた一興なり。余もここに上陸し人車に駕して、市街および公園を遊覧するに、市街はシナ人および土人群れを成し、その間に欧米人あり、インドおよび諸島の人民ありて、黄赤黒白の雑種を一場に見ることを得たるは、その最も奇観とするところなり。シンガポールおよびペナンのごときは、人種の博覧会と称して可なり。公園は市街を去ることおよそ里ばかりの山麓にあり。山の形状はやや、わが京都の東山に接する趣あり。緑葉の森々たる、紅花の爛々たるは、あたかもわが春夏の交に似たり。ときに拙作をもってこれを叙す。 去国西航已二旬、洋中風色日加新、今朝船入彼南港、緑葉紅花冬似春。 (国を出て西に航行すること二十日、海洋のけしきは日々新しく、今朝、船は彼南港に入れば、緑の葉と紅の花がさきみだれて、暦の上の十二月はあたかも春のようである。) また瀑布あり、神戸布引に類す。午後雷雨あり。七日(日曜)碇泊、八日正午抜錨。これよりマラッカ海峡を一過して、インド洋の東端に出でて、アンダマン群島に沿ってベンガル湾に入る。その間、毎日快晴。涼風船上を払い、暑気大いに減ずるを覚ゆ。ことに毎夕、明月中天に懸かり、四面雲影を見ず。蒼海渺茫としてただ流光の波間に躍るを見るは、また無限の趣あり。船中にはインド人の乗客多し。その習俗として、鬚髭を刈るにかみそりを用いず、毎日毛抜きをもって抜きおるを見る。これを見るすら、なお痛癢を感ずるなり。 八、カルカッタで大宮孝潤・河口慧海に会す 十三日、はじめてインド・フーグリ河口に達す。前日より海水ようやく泥土を含み、陸地に接するを覚えしが、今朝に至り、海面一色黄濁に変じ、はるかに陸端を認むるを得たり。シンガポールよりここに至るまで、千八百海里余ありという。フーグリ河は恒河の分流なり。海湾よりさかのぼることおよそ百マイルにして、カルカッタ府に通ず。この運河の間は、船行はなはだ困難にして、夜間はみな停船す。岸上に兵営あり、砲門ありて、河上を警戒するもののごとし。 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ヲンナでああるS子様には本当に気の毒です。そしてB君 君に感謝しなければならないだらう。われわれはS子様の前途に再びと光明のあらんことを祈らう。 蒼白いヲンナ 顔はヲンナ履歴書である。ヲンナの口は小さいからヲンナは溺死しなければならぬがヲンナは水の様に時々荒れ狂ふことがある。あらゆる明るさの太陽等の下にヲンナはげにも澄んだ水の様に流れを漂はせていたがげにも静かであり滑らかな表面は礫を食べたか食べなかつたか常に渦を持つてゐる剥げた純白色である。 カツパラハウトスルカラアタシノハウカラヤツチマツタワ。 猿の様に笑ふヲンナの顔には一夜の中にげにも美しくつやつやした岱赭色のチヨコレエトが無数に実つてしまつたからヲンナは遮二無二チヨコレエトを放射した。チヨコレエトは黒檀のサアベルを引摺りながら照明の合間合間に撃剣を試みても笑ふ。笑ふ。何物も皆笑ふ。笑ひが遂に飴の様にとろとろと粘つてチヨコレエトを食べてしまつて弾力剛気に富んだあらゆる標的は皆無用となり笑ひは粉々に砕かれても笑ふ。笑ふ。青く笑ふ、針の鉄橋の様に笑ふ。ヲンナは羅漢を孕んだのだと皆は知りヲンナも知る。羅漢は肥大してヲンナの子宮は雲母の様に膨れヲンナは石の様に固いチヨコレエトが食べたかつたのである。ヲンナの登る階段は一段一段が更に新しい焦熱氷地獄であつたからヲンナは楽しいチヨコレエトが食べたいと思はないことは困難であるけれども慈善家としてのヲンナは一と肌脱いだ積りでしかもヲンナは堪らない程息苦しいのを覚へたがこんなに迄新鮮でない慈善事業が又とあるでしようかとヲンナは一と晩中悶へ続けたけれどもヲンナは全身の持つ若干個の湿気を帯びた穿孔(例へば目其他)の附近の芥は払へないのであつた。 ヲンナは勿論あらゆるものを棄てた。ヲンナの名前も、ヲンナの皮膚に附いてゐる長い年月の間やつと出来た垢の薄膜も甚だしくはヲンナの唾腺を迄も、ヲンナの頭は塩で浄められた様なものである。そして温度を持たないゆるやかな風がげにも康衢煙月の様に吹いてゐる。ヲンナは独り望遠鏡でSOSをきく、そしてデツキを走る。ヲンナは青い火花の弾が真裸のまゝ走つてゐるのを見る。ヲンナはヲロウラを見る。デツキの勾欄は北極星の甘味しさを見る。巨大な膃肭臍の背なかを無事に駆けることがヲンナとして果して可能であり得るか、ヲンナは発光する波濤を見る。発光する波濤はヲンナに白紙の花ビラをくれる。ヲンナの皮膚は剥がれ剥がれた皮膚は羽衣の様に風に舞ふているげにも涼しい景色であることに気附いて皆はゴムの様な両手を挙げて口を拍手させるのである。 アタシタビガヘリ、ネルニトコナシヨ。 ヲンナは遂に堕胎したのである。トランクの中には千裂れ千裂れに砕かれた POUDRE VERTUEUSE が複製されたのとも一緒に一杯つめてある。死胎もある。ヲンナは古風な地図の上を毒毛をばら撒きながら蛾の様に翔ぶ。をんなは今は最早五百羅漢の可哀相な男寡達には欠ぐに欠ぐべからざる一人妻なのである。ヲンナは鼻歌の様な ADIEU を地図のエレベエシヨンに告げ NO. 1-500の何れかの寺刹へと歩みを急ぐのである。 |
あるいなかに、古いお屋敷がありました。そのお屋敷には、年をとった地主が住んでいました。地主にはふたりの息子がありましたが、ふたりとも、ものすごくおりこうで、その半分でもたくさんなくらいでした。ふたりは、王さまのお姫さまに結婚を申しこもうと思いました。どうしてそんなことを考えたかというと、じつは、こうなのです。お姫さまは、だれよりもじょうずにお話のできる人をお婿さんにする、と、国じゅうにふれまわらせていたからです。 そこで、ふたりは、一週間のあいだ、いろいろと準備をしました。つまり、それだけしか、ひまがなかったのです。でも、それだけあればたくさんでした。なぜって、ふたりには予備知識というものがあったからです。しかも、この予備知識というものは、いつでも役に立つものなのです。ひとりは、ラテン語の辞書を全部と、町の新聞を三年分、すっかり、そらでおぼえていました。おまけにそれが、前からでも後からでも、自由じざいだったのです。もうひとりは、組合の規則を残らずおぼえていて、組合長ならだれでも知っていなければならないことを、ちゃんと心得ていました。ですから、政治のことなら、だれとでも話すことができるつもりでいました。それに、じょうひんで、手先も器用でしたから、ウマのひきがわにししゅうをすることもできました。 「お姫さまは、わたしがもらう!」と、ふたりとも言いました。おとうさんは、めいめいに、りっぱなウマを一頭ずつやりました。辞書と新聞とをそらでおぼえているほうの息子は、炭のように黒いウマをもらい、組合長のようにりこうで、ししゅうのできる息子は、乳色の白いウマをもらいました。それから、ふたりは口ばたに肝油をぬって、よくすべるようにしました。召使の者はみんな中庭へ出て、ふたりがウマに乗るのを見ていました。 そのとき、三番めの息子が出てきました。じつをいうと、兄弟は三人だったのです。しかし、この三番めの息子を兄弟の中にかぞえる者は、ひとりもありませんでした。というのは、ふたりのにいさんたちのように、いろいろな知識というものを、持っていませんでしたから。そして、この息子は、みんなから、のろまのハンスと呼ばれていました。 「そんないい着物なんか着て、どこへ行くんだ?」と、ハンスがたずねました。 「王さまの御殿へ行って、お姫さまと話をするのさ。たいこを鳴らして、国じゅうにふれまわっていたのを、おまえ、聞かなかったのか?」そう言って、ふたりはハンスにそのことを話してやりました。 「こいつぁあ、たまげた! じゃあ、おれもいっしょに行くべえ」と、のろまのハンスは言いました。にいさんたちは、ハンスを笑って、そのままウマに乗って行ってしまいました。 「とっちゃん、おれにもウマをくだせえ」と、のろまのハンスは大きな声で言いました。「おれも嫁さんをもらいてえ。お姫さまがおれをもらうんなら、おれをもらやあいい。お姫さまがおれをもらわなくったって、おれのほうでお姫さまをもらってやらあ!」 「何をつまらんことを言ってるんだ!」と、おとうさんが言いました。「ウマはやれん。おまえにゃ、話なんぞできっこない! だがな、にいさんたちはりっぱな若者だ!」 「ウマがもらえねえんなら」と、のろまのハンスは言いました。「じゃあ、ヤギに乗ってくよ。あいつはおれのもんだし、それに、あいつだって、おれを乗せて行くぐらいできるさ!」こう言って、ヤギの背中にまたがると、その横っ腹をかかとでけとばして、大通りをいっさんにかけだしました。うわあ! その速いこと、速いこと! 「ここだよお!」と、のろまのハンスはどなりました。それから、あたりに鳴りひびくような大声で、歌をうたいました。 しかし、にいさんたちは黙って、ウマを先に進ませて行きました。ふたりはひとことも言いませんでした。いまはそれどころではありません。お姫さまの前へ出たときに、話そうと思っているうまい思いつきを、はじめから念には念をいれて、考えなおさなければならなかったのです。 「オーイ、オーイ!」と、のろまのハンスがどなりました。「ここだよお! おれが大通りで見つけたものを見てくれ」そう言いながら、途中で見つけてきた、死んだカラスを見せました。 「のろま!」と、ふたりは言いました。「それで、どうしようっていうんだ?」 「お姫さまにあげようと思うだ」 「うん、そうしな」ふたりはそう言って、笑いながら、なおもウマを進めていきました。 「オーイ、オーイ! ここだよお! いま見つけたものを見てくれ。まいんち、大通りで見つかるようなもんじゃあねえ」 そこで、にいさんたちは、またうしろを振り返って、こんどは何だろうと、ながめてみました。「のろま!」と、ふたりは言いました。「古い木靴だな。おまけに、上のほうが取れちゃってるじゃないか! それも、お姫さまにあげるってのかい?」 「そうだよ」と、のろまのハンスが言いました。にいさんたちは笑いながら、どんどんウマを進めていきました。こうして、だいぶ先へ行きました。 「オーイ、オーイ! ここだあ!」と、のろまのハンスがどなりました。「いやどうも、今度は、だんだんひどくなったぞ。オーイ、オーイ! こいつぁあ、すげえ!」 「今度は、何を見つけたんだ?」と、ふたりの兄弟がたずねました。 「ああ!」と、のろまのハンスが言いました。「言うほどのこたあねえ! お姫さま、どんなにうれしがるかしれねえ!」 「チェッ!」と、ふたりの兄弟は言いました。「そりゃあ、どぶから掘り出してきた、どろんこじゃないか」 「うん、そうさ」と、のろまのハンスは言いました。「それに、こりゃあ、いちばんじょうひんなもんよ。手に持ってるわけにもいかねえ」こう言って、ポケットに、ぎゅうぎゅうつめこみました。 しかし、にいさんたちは、できるだけ早くウマを走らせて、たっぷり一時間も先に、町の門のところへ着きました。見れば、そこには、お姫さまに結婚を申しこむ人たちが、着いた順に番号をもらって、ならんでいました。一列に六人ずつ、それこそ腕も動かせないくらい、ぎっしりとならんでいるのでした。けれども、かえって、それでよかったのです。でないと、だれもかれも先になろうとして、おたがいに着物の背中を引きさきっこしていたかもしれませんからね。 その国のほかの人たちは、みんな御殿のまわりに集まって、窓のほうを見上げていました。お姫さまが、結婚を申しこみにやってきた人たちをどんなふうに迎えるか、それを見物していたのです。ところが、どうしたというのでしょう。結婚を申しこむ人たちは、お部屋の中へはいったとたん、きゅうに、なんにも話すことができなくなってしまうのです。 「なんの役にも立たないわ」と、お姫さまは言いました。「おさがり!」 いよいよ、辞書をそらでおぼえている、にいさんの番になりました。ところが、長いあいだ列の中に並んでいたものですから、なにもかもきれいさっぱり、忘れてしまいました。それに、床はぎしぎし鳴りますし、天井は鏡のガラスでつくられているので、自分の姿が、さかさまにうつって見えるしまつです。それから、どの窓のところにも、三人の書記と、ひとりの書記長がいて、ここで話すことを、一つのこらず書き取っていました。そして、すぐにそれが新聞にのって、町かどで二シリングで売られるのです。まったく、恐ろしいことではありませんか。しかも、ストーブの中では、火がかんかんに燃えていて、胴のところがまっかになっているのです! 「このお部屋は、じつに暑うございますね」と、このにいさんは言いました。 「それはね、おとうさまが、きょう、ひな鳥をお焼きになるからよ」と、お姫さまが言いました。 「ヒェー!」この男は、ぼんやり立ちつくしてしまいました。こんな返事をされようとは、思いもしなかったのです。もう、ひとことも言うことができません。だって、そうでしょう。自分では、なにか面白いことを言おうと思っていたのですもの。おや、おや! 「なんの役にも立たないわ」と、お姫さまが言いました。「おさがり!」こうして、この男は、引きさがらなければなりませんでした。今度は、もうひとりのにいさんが、はいってきました。 「ここは、ひどく暑うございますね」と、その男は言いました。 「ええ、きょうはひな鳥を焼くのよ」と、お姫さまが言いました。 「な、な、なんですって?」と、その男が言いましたので、書記たちはみんな、な、な、なんですって、と、書きました。 「なんの役にも立たないわ」と、お姫さまは言いました。「おさがり!」 とうとう、のろまのハンスの番がやってきました。ハンスはヤギの背中にまたがったまま、お部屋の中へはいってきました。「こりゃあまあ、ひでえ暑さですね」と、ハンスが言いました。 「それはね、あたしがひな鳥を焼くからよ」と、お姫さまが言いました。 「そいつぁ、うめえこった!」と、のろまのハンスが言いました。「じゃあ、このカラスも焼いてくれますかね?」 「ああ、いいわよ」と、お姫さまが言いました。「だけど、焼くのに、なにか入れ物を持っておいでかい? あたしには、おなべも、フライパンもないのよ」 「なあに、ちゃんと持ってますだ」と、のろまのハンスが言いました。「すずの手のついた、料理道具があるんでさ」こう言いながら、古い木靴を取り出して、カラスをそのまんなかに入れました。 「まあ、すばらしいお食事だわね!」と、お姫さまが言いました。「でも、ソースはどうしたらいいの?」 「そいつなら、ポケットにありますよ」と、のろまのハンスが言いました。「うんとあるから、ちったあ、むだにしたってかまいませんさ」そう言って、ポケットから、どろをすこしこぼしてみせました。 「いいわよ」と、お姫さまが言いました。「あなたは返事ができるわ! それに、お話もできるから、あたし、あなたを夫にするわ! でもね、あなた、ごぞんじ? あたしたちが今までに言ったり、これから言う言葉は、ぜんぶ書き取られて、あしたの新聞にのるのよ。ごらんなさい、どの窓のところにも、書記が三人と、年とった書記長がひとりいるでしょう。ことに、あの書記長ったら、いちばんいやな人よ。だって、ひとの言うことなんか、なんにもわからないんだから!」こう言って、お姫さまはハンスをこわがらせようとしました。すると、書記たちはへんな声で笑って、床の上にインキのしみをつけてしまいました。 「みんな、りっぱな人たちだ」と、のろまのハンスが言いました。「じゃあ、おれも、書記長さんに、いちばんいいものをあげにゃあなるめえ!」こう言うと、ポケットをひっくりかえして、いきなり、書記長の顔にどろを投げつけました。 「まあ、すてき!」と、お姫さまが言いました。「とてもそんなこと、あたしにはできないわ! でも、そのうちに習いましょう」―― |
燕という鳥は所をさだめず飛びまわる鳥で、暖かい所を見つけておひっこしをいたします。今は日本が暖かいからおもてに出てごらんなさい。羽根がむらさきのような黒でお腹が白で、のどの所に赤い首巻きをしておとう様のおめしになる燕尾服の後部みたような、尾のある雀よりよほど大きな鳥が目まぐるしいほど活発に飛び回っています。このお話はその燕のお話です。 燕のたくさん住んでいるのはエジプトのナイルという世界中でいちばん大きな川の岸です――おかあ様に地図を見せておもらいなさい――そこはしじゅう暖かでよいのですけれども、燕も時々はあきるとみえて群れを作ってひっこしをします。ある時その群れの一つがヨーロッパに出かけて、ドイツという国を流れているライン川のほとりまで参りました。この川はたいそうきれいな川で西岸には古いお城があったり葡萄の畑があったりして、川ぞいにはおりしも夏ですから葦が青々とすずしくしげっていました。 燕はおもしろくってたまりません。まるでみなで鬼ごっこをするようにかけちがったりすりぬけたり葦の間を水に近く日がな三界遊びくらしましたが、その中一つの燕はおいしげった葦原の中の一本のやさしい形の葦とたいへんなかがよくって羽根がつかれると、そのなよなよとした茎先にとまってうれしそうにブランコをしたり、葦とお話をしたりして日を過ごしていました。 そのうちに長い夏もやがて末になって、葡萄の果も紫水晶のようになり、落ちて地にくさったのが、あまいかおりを風に送るようになりますと、村のむすめたちがたくさん出て来てかごにそれを摘み集めます。摘み集めながらうたう歌がおもしろいので、燕たちもうたいつれながら葡萄摘みの袖の下だの頭巾の上だのを飛びかけって遊びました。しかしやがて葡萄の収穫も済みますと、もう冬ごもりのしたくです。朝ごとに河面は霧が濃くなってうす寒くさえ思われる時節となりましたので、気の早い一人の燕がもう帰ろうと言いだすと、他のもそうだと言うのでそろそろ南に向かって旅立ちを始めました。 ただやさしい形の葦となかのよくなった燕は帰ろうとはいたしません。朋輩がさそってもいさめても、まだ帰らないのだとだだをこねてとうとうひとりぽっちになってしまいました。そうなるとたよりにするものは形のいい一本の葦ばかりであります。ある時その燕は二人っきりでお話をしようと葦の所に行って穂の出た茎先にとまりますと、かわいそうに枯れかけていた葦はぽっきり折れて穂先が垂れてしまいました。燕はおどろいていたわりながら、 「葦さん、ぼくは大変な事をしたねえ、いたいだろう」 と申しますと葦は悲しそうに、 「それはすこしはいたうございます」 と答えます。燕は葦がかわいそうですからなぐさめて、 「だっていいや、ぼくは葦さんといっしょに冬までいるから」 すると葦が風の助けで首をふりながら、 「それはいけません、あなたはまだ霜というやつを見ないんですか。それはおそろしいしらがの爺で、あなたのようなやさしいきれいな鳥は手もなく取って殺します。早く暖かい国に帰ってください、それでないと私はなお悲しい思いをしますから。私は今年はこのままで黄色く枯れてしまいますけれども、来年あなたの来る時分にはまたわかくなってきれいになってあなたとお友だちになりましょう。あなたが今年死ぬと来年は私一人っきりでさびしゅうございますから」 ともっともな事を親切に言ってくれたので、燕もとうとう納得して残りおしさはやまやまですけれども見かえり見かえり南を向いて心細いひとり旅をする事になりました。 秋の空は高く晴れて西からふく風がひやひやと膚身にこたえます。今日はある百姓の軒下、明日は木陰にくち果てた水車の上というようにどこという事もなく宿を定めて南へ南へとかけりましたけれども、容易に暖かい所には出ず、気候は一日一日と寒くなって、大すきな葦の言った事がいまさらに身にしみました。葦と別れてから幾日めでしたろう。ある寒い夕方野こえ山こえようやく一つの古い町にたどり着いて、さてどこを一夜のやどりとしたものかと考えましたが思わしい所もありませんので、日はくれるししかたがないから夕日を受けて金色に光った高い王子の立像の肩先に羽を休める事にしました。 王子の像は石だたみのしかれた往来の四つかどに立っています。さわやかにもたげた頭からは黄金の髪が肩まで垂れて左の手を帯刀のつかに置いて屹としたすがたで町を見下しています。たいへんやさしい王子であったのが、まだ年のわかいうちに病気でなくなられたので、王様と皇后がたいそう悲しまれて青銅の上に金の延べ板をかぶせてその立像を造り記念のために町の目ぬきの所にそれをお立てになったのでした。 燕はこのわかいりりしい王子の肩に羽をすくめてうす寒い一夜を過ごし、翌日町中をつつむ霧がやや晴れて朝日がうらうらと東に登ろうとするころ旅立ちの用意をしていますと、どこかで「燕、燕」と自分をよぶ声がします。はてなと思って見回しましたがだれも近くにいる様子はないから羽をのばそうとしますと、また同じように「燕、燕」とよぶものがあります。燕は不思議でたまりません。ふと王子のお顔をあおいで見ますと王子はやさしいにこやかな笑みを浮かべてオパールというとうとい石のひとみで燕をながめておいでになりました。燕はふと身をすりよせて、 「今私をおよびになったのはあなたでございますか」 と聞いてみますと王子はうなずかれて、 「いかにも私だ。実はおまえにすこしたのみたい事があるのでよんだのだが、それをかなえてくれるだろうか」 とおっしゃいます。燕はまだこんなりっぱなかたからまのあたりお声をかけられた事がないのでほくほく喜びながら、 「それはお安い御用です。なんでもいたしますからごえんりょなくおおせつけてくださいまし」と申し上げました。 王子はしばらく考えておられましたがやがて決心のおももちで、 「それではきのどくだが一つたのもう、あすこを見ろ」 と町の西の方をさしながら、 「あすこにきたない一軒立ちの家があって、たった一つの窓がこっちを向いて開いている。あの窓の中をよく見てごらん。一人の年老った寡婦がせっせと針仕事をしているだろう、あの人はたよりのない身で毎日ほねをおって賃仕事をしているのだがたのむ人が少いので時々は御飯も食べないでいるのがここから見える。私はそれがかわいそうでならないから何かやって助けてやろうと思うけれども、第一私はここに立ったっきり歩く事ができない。おまえどうぞ私のからだの中から金をはぎとってそれをくわえて行って知れないようにあの窓から投げこんでくれまいか」 とこういうたのみでした。燕は王子のありがたいお志に感じ入りはしましたが、このりっぱな王子から金をはぎ取る事はいかにも進みません。いろいろと躊躇しています。王子はしきりとおせきになります。しかたなく胸のあたりの一枚をめくり起こしてそれを首尾よく寡婦の窓から投げこみました。寡婦は仕事に身を入れているのでそれには気がつかず、やがて御飯時にしたくをしようと立ち上がった時、ぴかぴか光る金の延べ板を見つけ出した時の喜びはどんなでしたろう、神様のおめぐみをありがたくおしいただいてその晩は身になる御飯をいたしたのみでなく、長くとどこおっていたお寺のお布施も済ます事ができまして、涙を流して喜んだのであります。燕も何かたいへんよい事をしたように思っていそいそと王子のお肩にもどって来て今日の始末をちくいち言上におよびました。 次の朝燕は、今日こそはしたわしいナイル川に一日も早く帰ろうと思って羽毛をつくろって羽ばたきをいたしますとまた王子がおよびになります。昨日の事があったので燕は王子をこの上もないよいかたとしたっておりましたから、さっそく御返事をしますと王子のおっしゃるには、 「今日はあの東の方にある道のつきあたりに白い馬が荷車を引いて行く、あすこをごらん。そこに二人の小さな乞食の子が寒むそうに立っているだろう。ああ、二人はもとは家の家来の子で、おとうさんもおかあさんもたいへんよいかたであったが、友だちの讒言で扶持にはなれて、二、三年病気をすると二人とも死んでしまったのだ、それであとに残された二人の小児はあんな乞食になってだれもかまう人がないけれども、もしここに金の延べ金があったら二人はそれを御殿に持って行くともとのとおり御家来にしてくださる約束がある。おまえきのどくだけれども私のからだからなるべく大きな金をはがしてそれを持って行ってくれまいか」 燕はこの二人の乞食を見ますときのどくでたまらなくなりましたから、自分の事はわすれてしまって王子の肩のあたりからできるだけ大きな金の板をはがして重そうにくわえて飛び出しました。二人の乞食は手をつなぎあって今日はどうして食おうと困じ果てています。燕は快活に二人のまわりを二、三度なぐさめるように飛びまわって、やがて二人の前に金の板を落としますと、二人はびっくりしてそれを拾い上げてしばらくながめていましたが、兄なる少年は思い出したようにそれを取上げて、これさえあれば御殿の勘当も許されるからと喜んで妹と手をひきつれて御殿の方に走って行くのを、しっかり見届けた上で、燕はいい事をしたと思って王子の肩に飛び帰って来て一部始終の物語をしてあげますと、王子もたいそうお喜びになってひとかたならず燕の心の親切なのをおほめになりました。 次の日も王子は燕の旅立ちをきのどくだがとお引き留めになっておっしゃるには、 「今日は北の方に行ってもらいたい。あの烏の風見のある屋根の高い家の中に一人の画家がいるはずだ。その人はたいそう腕のある人だけれどもだんだんに目が悪くなって、早く療治をしないとめくらになって画家を廃さねばならなくなるから、どうか金を送って医者に行けるようにしてやりたい。おまえ今日も一つほねをおってくれまいか」 そこで燕はまた自分の事はわすれてしまって、今度は王子の背のあたりから金をめくってその方に飛んで行きましたが、画家は室内には火がなくてうす寒いので窓をしめ切って仕事をしていました。金の投げ入れようがありません。しかたなしに風見の烏に相談しますと、画家は燕が大すきで燕の顔さえ見ると何もかもわすれてしまって、そればかり見ているからおまえも目につくように窓の回りを飛び回ったらよかろうと教えてくれました。そこで燕は得たりとできるだけしなやかな飛びぶりをしてその窓の前を二、三べんあちらこちらに飛びますと、画家はやにわに面をあげて、 「この寒いのに燕が来た」 と言うや否や窓を開いて首をつき出しながら燕の飛び方に見ほれています。燕は得たりかしこしとすきを窺って例の金の板を部屋の中に投げこんでしまいました。画家の喜びは何にたとえましょう。天の助けがあるから自分は眼病をなおした上で無類の名画をかいて見せると勇み立って医師の所にかけつけて行きました。 王子も燕もはるかにこれを見て、今日も一ついい事をしたと清い心をもって夜のねむりにつきました。 そうこうするうちに気候はだんだんと寒くなってきました。青銅の王子の肩ではなかなかしのぎがたいほどになりました。しかし王子は次の日も次の日も今まで長い間見て知っている貧しい正直な人や苦しんでいるえらい人やに自分のからだの金を送りますので、燕はなかなか南に帰るひまがありません。日中は秋とは申しながらさすがに日がぽかぽかとうららかで黄金色の光が赤いかわらや黄になった木の葉を照らしてあたたかなものですから、燕は王子のおおせのままにあちこちと飛び回って御用をたしていました。そのうちに王子のからだの金はだんだんにすくなくなってかわいそうにこの間までまばゆいほどに美しかったおすがたが見る影もないものになってしまいました。ある日の夕方王子は静かに燕をかえり見て、 「燕、おまえは親切ものでよくこの寒いのもいとわず働いてくれたが、私にはもう人にやるものがなくなってしまってこんなみにくいからだになったからさぞおまえも私といっしょにいるのがいやになったろう。もうお帰り、寒くなったし、ナイル川には美しい夏がおまえを待っているから。この町はもうやがて冬になるとさびしいし、おまえのようなしなやかなきれいな鳥はいたたまれまい。それにしてもおまえのようなよい友だちと別れるのは悲しい」とおっしゃいました。燕はこれを聞いてなんとも言えないここちになりまして、いっそ王子の肩で寒さにこごえて死んでしまおうかとも思いながらしおしおとして御返事もしないでいますと、だれか二人王子の像の下にある露台に腰かけてひそひそ話をしているものがあります。 王子も燕も気がついて見ますとそこには一人のわかい武士と見目美しいおとめとが腰をかけていました。二人はもとよりお話を聞くものがあろうとは思いませんので、しきりとたがいに心のありたけを打ち明かしていました。やがて武士が申しますのには、 「二人は早く結婚したいのだけれどもたいせつなものがないのでできないのは残念だ。それは私の家では結婚する時にきっと先祖から伝えてきた名玉を結婚の指輪に入れなければできない事になっています、ところがだれかがそれをぬすんでしまいましたからどうしても結婚の式をあげることはできません」 おとめはもとよりこの武士がわかいけれども勇気があって強くってたびたびの戦いで功名てがらをしたのをしたってどうかその奥さんになりたいと思っていたのですから、涙をはらはらと流しながら嘆息をして、なんのことばの出しようもありません。しまいには二人手を取りあって泣いていました。 燕は世の中にはあわれな話もあるものだと思いながらふと王子をあおいで見ますと、王子の目からも涙がしきりと流れていました。燕はおどろいてちかぢかとすりよりながら「どうなさいました」と申しますと王子は、 「きのどくな二人だ。かのわかい武士の言う名玉というのは今は私のひとみになっている、二つのオパールの事であるが、王が私の立像を造られようとなされた時、私のひとみに使うほどりっぱな玉がどこにもなかったので、たいそう心をいためておいでなさると悪いへつらいずきな家来が、それはおやすい御用でございますと言ってあのわかい武士の父上をおとずれてよもやまの話のまぎれにそっとあの大事な玉をぬすんでしまったのだ。私はもう目が見えなくなってもいいからどうか私の目からひとみをぬき出してあの二人にやってくれ」 とおっしゃりながらなお涙をはらはらと流されました。およそ世の中でめくらほどきのどくなものはありません。毎日きれいに照らす日の目も、毎晩美しくかがやく月の光も、青いわか葉も紅い紅葉も、水の色も空のいろどりも、みんな見えなくなってしまうのです。試みに目をふさいで一日だけがまんができますか、できますまい。それを年が年じゅう死ぬまでしていなければならないのだから、ほんとうに思いやるのもあわれなほどでしょう。 王子はありったけの身のまわりをあわれな人におやりなすったのみか、今はまた何よりもたいせつな目までつぶそうとなさるのですもの。燕はほとほとなんとお返事をしていいのかわからないでうつぶいたままでこれもしくしく泣きだしました。 王子はやがて涙をはらって、 「ああこれは私が弱かった。泣くほど自分のものをおしんでそれを人にほどこしたとてなんの役にたつものぞ。心から喜んでほどこしをしてこそ神様のお心にもかなうのだ。昔キリストというおかたは人間のためには十字架の上で身を殺してさえ喜んでいらっしたのではないか。もう私は泣かぬ。さあ早くこの玉を取ってあのわかい武士にやってくれ、さ、早く」 とおせきになります。燕はなおも心を定めかねて思いわずらっていますうちに、わかい武士とおとめとは立ち上がって悲しそうに下を向きながらとぼとぼとお城の方に帰って行きます。もう日がとっぷりとくれて、巣に帰る鳥が飛び連れてかあかあと夕焼けのした空のあなたに見えています。王子はそれをごらんになるとおしかりになるばかり、燕をせいて早くひとみをぬけとおっしゃいます。燕はひくにひかれぬ立場になって、 「それではしかたがございません、御免こうむります」 と申しますと、観念して王子の目からひとみをぬいてしまいました。おくれてはなるまいとその二つをくちばしにくわえるが早いか、力をこめて羽ばたきしながら二人のあとを追いかけました。王子はもとのとおり町を見下ろした形で立っていられますが、もうなんにも見えるのではありませんかった。 燕がものの四、五町も走って行って二人の前にオパールを落としますとまずおとめがそれに目をつけて取り上げました。わかい武士は一目見るとおどろいてそれを受け取ってしばらくは無言で見つめていましたが、 |
一 婦人は、座の傍に人気のまるでない時、ひとりでは按摩を取らないが可いと、昔気質の誰でもそう云う。上はそうまでもない。あの下の事を言うのである。閨では別段に注意を要するだろう。以前は影絵、うつし絵などでは、巫山戯たその光景を見せたそうで。――御新姐さん、……奥さま。……さ、お横に、とこれから腰を揉むのだが、横にもすれば、俯向にもする、一つくるりと返して、ふわりと柔くまた横にもしよう。水々しい魚は、真綿、羽二重の俎に寝て、術者はまな箸を持たない料理人である。衣を透して、肉を揉み、筋を萎すのであるから恍惚と身うちが溶ける。ついたしなみも粗末になって、下じめも解けかかれば、帯も緩くなる。きちんとしていてさえざっとこの趣。……遊山旅籠、温泉宿などで寝衣、浴衣に、扱帯、伊達巻一つの時の様子は、ほぼ……お互に、しなくっても可いが想像が出来る。膚を左右に揉む拍子に、いわゆる青練も溢れようし、緋縮緬も友染も敷いて落ちよう。按摩をされる方は、対手を盲にしている。そこに姿の油断がある。足くびの時なぞは、一応は職業行儀に心得て、太脛から曲げて引上げるのに、すんなりと衣服の褄を巻いて包むが、療治をするうちには双方の気のたるみから、踵を摺下って褄が波のようにはらりと落ちると、包ましい膝のあたりから、白い踵が、空にふらふらとなり、しなしなとして、按摩の手の裡に糸の乱るるがごとく縺れて、艶に媚かしい上掻、下掻、ただ卍巴に降る雪の中を倒に歩行く風情になる。バッタリ真暗になって、……影絵は消えたものだそうである。 ――聞くにつけても、たしなむべきであろうと思う。―― が、これから話す、わが下町娘のお桂ちゃん――いまは嫁して、河崎夫人であるのに、この行為、この状があったと言うのでは決してない。 問題に触れるのは、お桂ちゃんの母親で、もう一昨年頃故人の数に入ったが、照降町の背負商いから、やがて宗右衛門町の角地面に問屋となるまで、その大島屋の身代八分は、その人の働きだったと言う。体量も二十一貫ずッしりとした太腹で、女長兵衛と称えられた。――末娘で可愛いお桂ちゃんに、小遣の出振りが面白い……小買ものや、芝居へ出かけに、お母さんが店頭に、多人数立働く小僧中僧若衆たちに、気は配っても見ないふりで、くくり頤の福々しいのに、円々とした両肱の頬杖で、薄眠りをしている、一段高い帳場の前へ、わざと澄ました顔して、(お母さん、少しばかり。)黙って金箱から、ずらりと掴出して渡すのが、掌が大きく、慈愛が余るから、……痩ぎすで華奢なお桂ちゃんの片手では受切れない、両の掌に積んで、銀貨の小粒なのは指からざらざらと溢れたと言う。……亡きあとでも、その常用だった粗末な手ぶんこの中に、なおざりにちょっと半紙に包んで、(桂坊へ、)といけぞんざいに書いたものを開けると、水晶の浄土珠数一聯、とって十九のまだ嫁入前の娘に、と傍で思ったのは大違い、粒の揃った百幾顆の、皆真珠であった。 姉娘に養子が出来て、養子の魂を見取ってからは、いきぬきに、時々伊豆の湯治に出掛けた。――この温泉旅館の井菊屋と云うのが定宿で、十幾年来、馴染も深く、ほとんど親類づき合いになっている。その都度秘蔵娘のお桂さんの結綿島田に、緋鹿子、匹田、絞の切、色の白い細面、目に張のある、眉の優しい、純下町風俗のを、山が育てた白百合の精のように、袖に包んでいたのは言うまでもない。…… 「……その大島屋の先の大きいおかみさんが、ごふびんに思召しましてな。……はい、ええ、右の小僧按摩を――小一と申したでござりますが、本名で、まだ市名でも、斎号でもござりません、……見た処が余り小こいので、お客様方には十六と申す事に、師匠も言いきけてはありますし、当人も、左様に人様には申しておりましたが、この川の下流の釜ヶ淵――いえ、もし、渡月橋で見えます白糸の滝の下の……あれではござりません。もっとずッと下流になります。――その釜ヶ淵へ身を投げました時、――小一は二十で、従って色気があったでござりますよ。」 「二十にならなくったって、色気の方は大丈夫あるよ。――私が手本だ。」 と言って、肩を揉ませながら、快活に笑ったのは、川崎欣七郎、お桂ちゃんの夫で、高等商業出の秀才で、銀行員のいい処、年は四十だが若々しい、年齢にちと相違はあるが、この縁組に申分はない。次の室つき井菊屋の奥、香都良川添の十畳に、もう床は並べて、膝まで沈むばかりの羽根毛蒲団に、ふっくりと、たんぜんで寛いだ。…… 寝床を辷って、窓下の紫檀の机に、うしろ向きで、紺地に茶の縞お召の袷羽織を、撫肩にぞろりと掛けて、道中の髪を解放し、あすあたりは髪結が来ようという櫛巻が、房りしながら、清らかな耳許に簪の珊瑚が薄色に透通る。……男を知って二十四の、きじの雪が一層あくが抜けて色が白い。眉が意気で、口許に情が籠って、きりりとしながら、ちょっとお転婆に片褄の緋の紋縮緬の崩れた媚かしさは、田舎源氏の――名も通う――桂樹という風がある。 お桂夫人は知らぬ顔して、間違って、愛読する……泉の作で「山吹」と云う、まがいものの戯曲を、軽い頬杖で読んでいた。 「御意で、へ、へ、へ、」 と唯今の御前のおおせに、恐入った体して、肩からずり下って、背中でお叩頭をして、ポンと浮上ったように顔を擡げて、鼻をひこひこと行った。この謙斎坊さんは、座敷は暖かだし、精を張って、つかまったから、十月の末だと云うのに、むき身絞の襦袢、大肌脱になっていて、綿八丈の襟の左右へ開けた毛だらけの胸の下から、紐のついた大蝦蟇口を溢出させて、揉んでいる。 「で、旦那、身投げがござりましてから、その釜ヶ淵……これはただ底が深いというだけの事でありましょうで、以来そこを、提灯ヶ淵――これは死にます時に、小一が冥途を照しますつもりか、持っておりましたので、それに、夕顔ヶ淵……またこれは、その小按摩に様子が似ました処から。」 「いや、それは大したものだな。」 くわっ、とただ口を開けて、横向きに、声は出さずに按摩が笑って、 「ところが、もし、顔が黄色膨れの頭でっかち、えらい出額で。」 「それじゃあ、夕顔の方で迷惑だろう。」 「御意で。」 とまた一つ、ずり下りざまに叩頭をして、 「でござりますから瓢箪淵とでもいたした方が可かろうかとも申します。小一の顔色が青瓢箪を俯向けにして、底を一つ叩いたような塩梅と、わしども家内なども申しますので、はい、背が低くって小児同然、それで、時々相修業に肩につかまらせた事もござりますが、手足は大人なみに出来ております。大な日和下駄の傾いだのを引摺って、――まだ内弟子の小僧ゆえ、身分ではござりませんから羽織も着ませず……唯今頃はな、つんつるてんの、裾のまき上った手織縞か何かで陰気な顔を、がっくりがっくりと、振り振り、(ぴい、ぷう。)と笛を吹いて、杖を突張って流して歩行きますと、御存じのお客様は、あの小按摩の通る時は、どうやら毛の薄い頭の上を、不具の烏が一羽、お寺の山から出て附いて行くと申されましたもので。――心掛の可い、勉強家で、まあ、この湯治場は、お庇様とお出入さきで稼ぎがつきます。流さずともでござりますが、何も修業と申して、朝も早くから、その、(ぴい、ぷう。)と、橋を渡りましたり、路地を抜けましたり。……それが死にましてからはな、川向うの芸妓屋道に、どんな三味線が聞えましても、お客様がたは、按摩の笛というものをお聞きになりますまいでござります。何のまた聞えずともではござりますがな。――へい、いえ、いえそのままでお宜しゅう……はい。 そうした貴方様、勉強家でござりました癖に、さて、これが療治に掛りますと、希代にのべつ、坐睡をするでござります。古来、姑の目ざといのと、按摩の坐睡は、遠島ものだといたしたくらいなもので。」 とぱちぱちぱちと指を弾いて、 「わしども覚えがござります。修業中小僧のうちは、またその睡い事が、大蛇を枕でござりますて。けれども小一のははげしいので……お客様の肩へつかまりますと、――すぐに、そのこくりこくり。……まず、そのために生命を果しましたような次第でござりますが。」 「何かい、歩きながら、川へ落こちでもしたのかい。」 「いえ、それは、身投で。」 「ああ、そうだ、――こっちが坐睡をしやしないか。じゃ、客から叱言が出て、親方……その師匠にでも叱られたためなんだな。」 「……不断の事で……師匠も更めて叱言を云うがものはござりません。それに、晩も夜中も、坐睡ってばかりいると申すでもござりませんでな。」 「そりゃそうだろう――朝から坐睡っているんでは、半分死んでいるのも同じだ。」 と欣七郎は笑って言った。 「春秋の潮時でもござりましょうか。――大島屋の大きいお上が、半月と、一月、ずッと御逗留の事も毎度ありましたが、その御逗留中というと、小一の、持病の坐睡がまた激しく起ります。」 「ふ――」 と云って、欣七郎はお桂ちゃんの雪の頸許に、擽ったそうな目を遣った。が、夫人は振向きもしなかった。 「ために、主な出入場の、御当家では、方々のお客さんから、叱言が出ます。かれこれ、大島屋さんのお耳にも入りますな、おかみさんが、可哀相な盲小僧だ。……それ、十六七とばかり御承知で……肥満って身体が大いから、小按摩一人肩の上で寝た処で、蟷螂が留まったほどにも思わない。冥利として、ただで、お銭は遣れないから、肩で船を漕いでいなと、毎晩のように、お慈悲で療治をおさせになりました。……ところが旦那。」 と暗い方へ、黒い口を開けて、一息して、 「どうも意固地な……いえ、不思議なもので、その時だけは小按摩が決して坐睡をいたさないでござります。」 「その、おかみさんには電気でもあったのかな。」 「へ、へ、飛んでもない。おかみさんのお傍には、いつも、それはそれは綺麗な、お美しいお嬢さんが、大好きな、小説本を読んでいるのでござります。」 「娘ッ子が読むんじゃあ、どうせ碌な小説じゃあるまいし、碌な娘ではないのだろう。」 「勿体ない。――香都良川には月がある、天城山には雪が降る、井菊の霞に花が咲く、と土地ではやしましたほどのお嬢さんでござりますよ。」 「按摩さん、按摩さん。」 と欣七郎が声を刻んだ。 「は、」 「きみも土地じゃ古顔だと云うが。じゃあ、その座敷へも呼ばれただろうし、療治もしただろうと思うが、どうだね。」 「は、それが、つい、おうわさばかり伺いまして、お療治はいたしません、と申すが、此屋様なり、そのお座敷は、手前同業の正斎と申す……河豚のようではござりますが、腹に一向の毒のない男が持分に承っておりましたので、この正斎が、右の小一の師匠なのでござりまして。」 「成程、しかし狭い土地だ。そんなに逗留をしているうちには、きみなんか、その娘ッ子なり、おかみさんを、途中で見掛けた――いや、これは失礼した、見えなかったね。」 「旦那、口幅っとうはござりますが、目で見ますより聞く方が確でござります。それに、それお通りだなどと、途中で皆がひそひそ遣ります処へ出会いますと、芬とな、何とも申されません匂が。……温泉から上りまして、梅の花をその……嗅ぎますようで、はい。」 座には今、その白梅よりやや淡青い、春の李の薫がしたろう。 うっかり、ぷんと嗅いで、 |
鏡 自分は無暗に書物ばかり積んである書斎の中に蹲つて、寂しい春の松の内を甚だらしなく消光してゐた。本をひろげて見たり、好い加減な文章を書いて見たり、それにも飽きると出たらめな俳句を作つて見たり――要するにまあ太平の逸民らしく、のんべんだらりと日を暮してゐたのである。すると或日久しぶりに、よその奥さんが子供をつれて、年始旁々遊びに来た。この奥さんは昔から若くつてゐたいと云ふ事を、口癖のやうにしてゐる人だつた。だからつれてゐる女の子がもう五つになると云ふにも関らず、まだ娘の時分の美しさを昨日のやうに保存してゐた。 その日自分の書斎には、梅の花が活けてあつた。そこで我々は梅の話をした。が、千枝ちやんと云ふその女の子は、この間中書斎の額や掛物を上眼でぢろぢろ眺めながら、退屈さうに側に坐つてゐた。 暫くして自分は千枝ちやんが可哀さうになつたから、奥さんに「もうあつちへ行つて、母とでも話してお出でなさい」と云つた。母なら奥さんと話しながら、しかも子供を退屈させない丈の手腕があると思つたからである。すると奥さんは懐から鏡を出して、それを千枝ちやんに渡しながら「この子はかうやつて置きさへすれば、決して退屈しないんです」と云つた。 何故だらうと思つて聞いて見ると、この奥さんの良人が逗子の別荘に病を養つてゐた時分、奥さんは千枝ちやんをつれて、一週間に二三度宛東京逗子間を往復したが、千枝ちやんは汽車の中でその度に退屈し切つてしまふ。のみならず、その退屈を紛らしたい一心で、勝手な悪戯をして仕方がない。現に或時はよその御隠居様をつかまへて「あなた、仏蘭西語を知つていらつしやる」などととんでもない事を尋ねたりした。そこで奥さんも絵本を渡したり、ハモニカをあてがつたり、いろいろ退屈させない心配をしたが、とうとうしまひに懐鏡を持たせて置くと、意外にも道中おとなしく坐つてゐる事実を発見した。千枝ちやんはその鏡を覗きこんで、白粉を直したり、髪を掻いたり、或は又わざと顔をしかめて見り、鏡の中の自分を相手にして、何時までも遊んでゐるからである。 奥さんはかう鏡を渡した因縁を説明して、「やつぱり子供ですわね。鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんですから。」とつけ加へた。 自分は刹那の間、この奥さんに軽い悪意を働かせた。さうして思はず笑ひながら、こんな事を云つて冷評した。 「あなただつて鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんぢやありませんか。千枝ちやんと違ふのは、退屈なのが汽車の中と世の中だけの差別ですよ。」 下足札 これも或松の内の事である。Hと云ふ若い亜米利加人が自分の家へ遊びに来て、いきなりポケツトから下足札を一枚出すと、「何だかわかるか」と自分に問ひかけた。下足札はまだ木の匀がする程新しい板の面に、俗悪な太い字で「雪の十七番」と書いてある。自分はその書体を見ると、何故か両国の橋の袂へ店を出してゐる甘酒屋の赤い荷を思ひ出した。が、元より「雪の十七番」の因縁なぞは心得てゐる筈がなかつた。だからこの蒟蒻問答の雲水めいた相手の顔を眺めながら、「わからないよ」と簡単な返事をした。するとHは鼻眼鏡の後から妙な瞬きを一つ送りながら、急ににやにや笑ひ出して、 「これはね。或芸者の記念品なんだ。」 「へへえ、記念品にしちや又、妙なものを貰つたもんだな。」 自分たちの間には、正月の膳が並んでゐた。Hはちよいと顔をしかめながら、屠蘇の盃へ口をあてて、それから吸物の椀を持つた儘、娓々としてその下足札の因縁を辯じ出した。―― 何でもそれによると、Hの教師をしてゐる学校が昨日赤坂の或御茶屋で新年会を催したのださうである。日本に来て間もないHは、まだ芸者に愛嬌を売るだけの修業も積んでゐなかつたから、唯出て来る料理を片つぱしから平げて、差される猪口を片つぱしから飲み干してゐた。するとそこにゐた十人ばかりの芸者の中に、始終彼の方へ秋波を送る女が一人あつた。日本の女は踝から下を除いて悉く美しいと云ふHの事だから、勿論この芸者も彼の眼には美人として映じたのに相違ない。そこで彼も牛飲馬食する傍には時々そつとその女の方を眺めてゐた。 しかし日本語の通じないHにも、日本酒は遠慮なく作用する。彼は一時間ばかりたつ中に、文字通り泥酔した。その結果、殆ど座に堪へられなくなつたから、ふらふらする足を踏みしめてそつと障子の外へ出た。外には閑静な中庭が石燈籠に火を入れて、ひつそりと竹の暗をつくつてゐる。Hは朦朧たる酔眼にこの景色を眺めると、如何にも日本らしい好い心もちに浸る事が出来た。が、この日本情調が彼のエキゾテイシズムを満足させたのは、ほんの一瞬間の事だつたらしい。何故と云ふと彼が廊下へ出るか出ないのに、後を追つてするすると裾を引いて来た芸者の一人が突然彼の頸へ抱きついたからである。さうして彼の酒臭い脣へ潔い接吻をした。勿論それはさつきから、彼に秋波を送つてゐる芸者だつた。彼は大に嬉しかつたから、両手でしつかりその芸者を抱いた。 ここまでは万事が頗る理想的に発展したが、遺憾ながら抱くと同時に、急に胸がむかついて来て、Hはその儘その廊下へ甚だ尾籠ながら嘔吐を吐いてしまつた。しかしその瞬間に彼の鼓膜は「私はX子と云ふのよ。今度御独りでいらしつた時、呼んで頂戴」と云ふ宛転たる嬌声を捕へる事が出来た。さうしてそれを耳にすると共に、彼は恰も天使の楽声を聞いた聖徒のやうに昏々として意識を失つてしまつたのである。 Hは翌日の午前十時頃になつて、やつと正気に返る事が出来た。彼はその御茶屋の一室で厚い絹布の夜具に包まれて、横になつてゐる彼自身を見出した時、すべてが恰も一世紀以前の出来事の如く感ぜられた。が、その中でも自分に接吻した芸者の姿ばかりは歴々として眼底に浮んで来た。今夜にもここへ来て、あの芸者に口をかけたら、きつと何を措いても飛んで来るのに違ひない。彼はさう思つて、勢ひよく床の中から躍り出た。が、酒に洗はれた彼の頭脳には、どうしてもその芸者の名が浮んで来ない。名前もわからない芸者に口がかけられないのは、まだ日本の土を踏んで間もない彼と雖も明白である。彼は床の上に坐つた儘、着換をする元気も失つて、悵然と徒らに長い手足を見廻した。―― 「だから、その晩の下足札を一枚貰つて来たんだ。これだつてあの芸者の記念品にや違ひない。」 Hはかう云つて、吸物椀を下に置くと、松の内にも似合はしくない、寂しさうな顔をしながら、仔細らしく鼻眼鏡をかけ直した。 漱石山房の秋 夜寒の細い往来を爪先上りに上つて行くと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電燈がともつてゐるが、柱に掲げた標札の如きは、殆ど有無さへも判然しない。門をくぐると砂利が敷いてあつて、その又砂利の上には庭樹の落葉が紛々として乱れてゐる。 砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると、これも亦古ぼけた格子戸の外は、壁と云はず壁板と云はず、悉く蔦に蔽はれてゐる。だから案内を請はうと思つたら、まづその蔦の枯葉をがさつかせて、呼鈴の鈕を探さねばならぬ。それでもやつと呼鈴を押すと、明りのさしてゐる障子が開いて、束髪に結つた女中が一人、すぐに格子戸の掛け金を外してくれる。玄関の東側には廊下があり、その廊下の欄干の外には、冬を知らない木賊の色が一面に庭を埋めてゐるが、客間の硝子戸を洩れる電燈の光も、今は其処までは照らしてゐない。いや、その光がさしてゐるだけに、向うの軒先に吊した風鐸の影も、反つて濃くなつた宵闇の中に隠されてゐる位である。 硝子戸から客間を覗いて見ると、雨漏りの痕と鼠の食つた穴とが、白い紙張りの天井に斑々とまだ残つてゐる。が、十畳の座敷には、赤い五羽鶴の毯が敷いてあるから、畳の古びだけは分明でない。この客間の西側(玄関寄り)には、更紗の唐紙が二枚あつて、その一枚の上に古色を帯びた壁懸けが一つ下つてゐる。麻の地に黄色に百合のやうな花を繍つたのは、津田青楓氏か何かの図案らしい。この唐紙の左右の壁際には、余り上等でない硝子戸の本箱があつて、その何段かの棚の上にはぎつしり洋書が詰まつてゐる。それから廊下に接した南側には、殺風景な鉄格子の西洋窓の前に大きな紫檀の机を据ゑて、その上に硯や筆立てが、紙絹の類や法帖と一しよに、存外行儀よく並べてある。その窓を剰した南側の壁と向うの北側の壁とには、殆ど軸の挂かつてゐなかつた事がない。蔵沢の墨竹が黄興の「文章千古事」と挨拶をしてゐる事もある。木庵の「花開万国春」が呉昌蹟の木蓮と鉢合せをしてゐる事もある。が、客間を飾つてゐる書画は独りこれらの軸ばかりではない。西側の壁には安井曾太郎氏の油絵の風景画が、東側の壁には斎藤与里氏の油絵の艸花が、さうして又北側の壁には明月禅師の無絃琴と云ふ艸書の横物が、いづれも額になつて挂かつてゐる。その額の下や軸の前に、或は銅瓶に梅もどきが、或は青磁に菊の花がその時々で投げこんであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。 もし先客がなかつたなら、この客間を覗いた眼を更に次の間へ転じなければならぬ。次の間と云つても客間の東側には、唐紙も何もないのだから、実は一つ座敷も同じ事である。唯此処は板敷で、中央に拡げた方一間あまりの古絨毯の外には、一枚の畳も敷いてはない。さうして東と北と二方の壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでゐる。書物はそれでも詰まり切らないのか、ぢかに下の床の上へ積んである数も少くない。その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸だの法帖だの画集だのが雑然と堆く盛り上つてゐる。だから中央に敷いた古絨毯も、四方に並べてある書物のおかげで、派手なるべき赤い色が僅ばかりしか見えてゐない。しかもそのまん中には小さい紫檀の机があつて、その又机の向うには座蒲団が二枚重ねてある。銅印が一つ、石印が二つ三つ、ペン皿に代へた竹の茶箕、その中の万年筆、それから玉の文鎮を置いた一綴りの原稿用紙――机の上にはこの外に老眼鏡が載せてある事も珍しくない。その真上には電燈が煌々と光を放つてゐる。傍には瀬戸火鉢の鉄瓶が虫の啼くやうに沸つてゐる。もし夜寒が甚しければ、少し離れた瓦斯煖炉にも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机の後、二枚重ねた座蒲団の上には、何処か獅子を想はせる、背の低い半白の老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐本の詩集を飜したりしながら、端然と独り坐つてゐる。…… |
一 「旦那さん、旦那さん。」 目と鼻の前に居ながら、大きな声で女中が呼ぶのに、つい箸の手をとめた痩形の、年配で――浴衣に貸広袖を重ねたが――人品のいい客が、 「ああ、何だい。」 「どうだね、おいしいかね。」 と額で顔を見て、その女中はきょろりとしている。 客は余り唐突なのに驚いたようだった。――少い経験にしろ、数の場合にしろ、旅籠でも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに猪突な質問を受けた事はかつてない。 ところで決して不味くはないから、 「ああ、おいしいよ。」 と言ってまた箸を付けた。 「そりゃ可い、北国一だろ。」 と洒落でもないようで、納まった真顔である。 「むむ、……まあ、そうでもないがね。」 と今度は客の方で顔を見た。目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも壮健そうで、口許のしまったは可いが、その唇の少し尖った処が、化損った狐のようで、しかし不気味でなくて愛嬌がある。手織縞のごつごつした布子に、よれよれの半襟で、唐縮緬の帯を不状に鳩胸に高くしめて、髪はつい通りの束髪に結っている。 これを更めて見て客は気がついた。先刻も一度その(北国一)を大声で称えて、裾短な脛を太く、臀を振って、ひょいと踊るように次の室の入口を隔てた古い金屏風の陰へ飛出して行ったのがこの女中らしい。 ところでその金屏風の絵が、極彩色の狩野の何某在銘で、玄宗皇帝が同じ榻子に、楊貴妃ともたれ合って、笛を吹いている処だから余程可笑しい。 それは次のような場合であった。 客が、加賀国山代温泉のこの近江屋へ着いたのは、当日午少し下る頃だった。玄関へ立つと、面長で、柔和かなちっとも気取っけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手をしながら、御逗留か、それともちょっと御入浴で、と訊いた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を屈めつつ畏って、どうぞこれへと、自分で荷物を捌いて、案内をしたのがこの奥の上段の間で。次の室が二つまで着いている。あいにく宅は普請中でございますので、何かと不行届の儀は御容赦下さいまして、まず御緩りと……と丁寧に挨拶をして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、いま思うとこの女中らしい。 実は小春日の明い街道から、衝と入ったのでは、人顔も容子も何も分らない。縁を広く、張出しを深く取った、古風で落着いただけに、十畳へ敷詰めた絨毯の模様も、谷へ落葉を積んだように見えて薄暗い。大きな床の間の三幅対も、濃い霧の中に、山が遥に、船もあり、朦朧として小さな仙人の影が映すばかりで、何の景色だか、これは燈が点いても判然分らなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石燈籠に、苔の真蒼なさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、颯と渡る風に静寂な水の響を流す。庭の正面がすぐに切立の崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅なる山笹の中を、細く蜿り蜿り自然の大巌を削った径が通じて、高く梢を上った処に、建出しの二階、三階。はなれ家の座敷があって、廊下が桟のように覗かれる。そのあたりからもみじ葉越しに、駒鳥の囀るような、芸妓らしい女の声がしたのであったが―― 入交って、歯を染めた、陰気な大年増が襖際へ来て、瓶掛に炭を継いで、茶道具を揃えて銀瓶を掛けた。そこが水屋のように出来ていて、それから大廊下へ出入口に立てたのが件の金屏風。すなわち玄宗と楊貴妃で、銀瓶は可いけれども。……次にまた浴衣に広袖をかさねて持って出た婦は、と見ると、赭ら顔で、太々とした乳母どんで、大縞のねんね子半纏で四つぐらいな男の児を負ったのが、どしりと絨毯に坊主枕ほどの膝をつくと、半纏の肩から小児の顔を客の方へ揉出して、それ、小父さんに(今日は)をなさいと、顔と一所に引傾げた。 学士が驚いた――客は京の某大学の仏語の教授で、榊三吉と云う学者なのだが、無心の小児に向っては、盗賊もあやすと言う……教授でも学者でも同じ事で、これには莞爾々々として、はい、今日は、と言った。この調子で、薄暗い広間へ、思いのほかのものが顕れるから女中も一々どれが何だか、一向にまとまりが着かなかったのである。 昼飯の支度は、この乳母どのに誂えて、それから浴室へ下りて一浴した。……成程、屋の内は大普請らしい。大工左官がそちこちを、真昼間の夜討のように働く。……ちょうな、鋸、鉄鎚の賑かな音。――また遠く離れて、トントントントンと俎を打つのが、ひっそりと聞えて谺する……と御馳走に鶫をたたくな、とさもしい話だが、四高(金沢)にしばらく居たことがあって、土地の時のものに予備知識のある学者だから、内々御馳走を期待しながら、門から敷石を細長く引込んだもとの大玄関を横に抜けて、広廊下を渡ると、一段ぐっと高く上る。座敷の入口に、いかにも(上段の間)と札に記してある。で、金屏風の背後から謹んで座敷へ帰ったが、上段の室の客にはちと不釣合な形に、脇息を横倒しに枕して、ごろんとながくなると、瓶掛の火が、もみじを焚いたように赫と赤く、銀瓶の湯気が、すらすらと楊貴妃を霞ませる。枕もとに松籟をきいて、しばらく理窟も学問もなくなった。が、ふと、昼飯の膳に、一銚子添えさせるのを言忘れたのに心づいて、そこで起上った。 どこを探しても呼鈴が見当らない。 二三度手を敲いてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が大分に遠い。座敷の口へ出て、敲いて、敲きながら廊下をまた一段下りた。 「これは驚いた。」 更に応ずるものがなかったのである。 一体、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、もの事おっとりして、いま式に余り商売にあせらない旅館だと聞いて、甚だ嬉しくて来たのであるが、これでは余り大まか過ぎる。 何か、茸に酔った坊さんが、山奥から里へ迷出たといった形で、手をたたき、たたき、例の玄関の処へ出て、これなら聞えようと、また手を敲こうとする足許へ、衝立の陰から、ちょろりと出たのは、今しがた乳母どのにおぶわれていた男の児で、人なつッこく顔を見て莞爾々々する。 どうも、この鼻尖で、ポンポンは穏でない。 仕方なしに、笑って見せて、悄々と座敷へ戻って、 「あきらめろ。」 で、所在なさに、金屏風の前へ畏って、吸子に銀瓶の湯を注いで、茶でも一杯と思った時、あの小児にしてはと思う、大な跫足が響いたので、顔を出して、むこうを見ると、小児と一所に、玄関前で、ひょいひょい跳ねている女があった。 「おおい、姉さん、姉さん。」 どかどかどかと来て、 「旦那さんか、呼んだか。」 「ああ、呼んだよ。」 と息を吐いて、 「どうにかしてくれ。――どこを探しても呼鈴はなし、手をたたいても聞えないし、――弱ったよ。」 「あれ。」 と首も肩も、客を圧して、突込むように入って来て、 「こんな大い内で、手を敲いたって何が聞えるかね。電話があるでねえか、それでお帳場を呼びなさいよ。」 「どこにある。」 「そら、そこにあるがね、見えねえかね。」 と客の前から、いきなり座敷へ飛込んで、突立状に指したのは、床の間傍の、欞子に据えた黒檀の机の上の立派な卓上電話であった。 「ああ、それかい。」 「これだあね。」 「私はまたほんとうの電話かと思っていた。」 「おお。」 と目を円くして、きょろりと視て、 |
僕は籐の長椅子にぼんやり横になっている。目の前に欄干のあるところをみると、どうも船の甲板らしい。欄干の向うには灰色の浪に飛び魚か何か閃いている。が、何のために船へ乗ったか、不思議にもそれは覚えていない。つれがあるのか、一人なのか、その辺も同じように曖昧である。 曖昧と云えば浪の向うも靄のおりているせいか、甚だ曖昧を極めている。僕は長椅子に寝ころんだまま、その朦朧と煙った奥に何があるのか見たいと思った。すると念力の通じたように、見る見る島の影が浮び出した。中央に一座の山の聳えた、円錐に近い島の影である。しかし大体の輪郭のほかは生憎何もはっきりとは見えない。僕は前に味をしめていたから、もう一度見たいと念じて見た。けれども薄い島の影は依然として薄いばかりである。念力も今度は無効だったらしい。 この時僕は右隣にたちまち誰かの笑うのを聞いた。 「はははははは、駄目ですね。今度は念力もきかないようですね。はははははは。」 右隣の籐椅子に坐っているのは英吉利人らしい老人である。顔は皺こそ多いものの、まず好男子と評しても好い。しかし服装はホオガスの画にみた十八世紀の流行である。Cocked hat と云うのであろう。銀の縁のある帽子をかぶり、刺繍のある胴衣を着、膝ぎりしかないズボンをはいている。おまけに肩へ垂れているのは天然自然の髪の毛ではない。何か妙な粉をふりかけた麻色の縮れ毛の鬘である。僕は呆気にとられながら、返事をすることも忘れていた。 「わたしの望遠鏡をお使いなさい。これを覗けばはっきり見えます。」 老人は人の悪い笑い顔をしたまま、僕の手に古い望遠鏡を渡した。いつかどこかの博物館に並んでいたような望遠鏡である。 「オオ、サンクス。」 僕は思わず英吉利語を使った。しかし老人は無頓着に島の影を指さしながら、巧みに日本語をしゃべりつづけた。その指さした袖の先にも泡のようにレエスがはみ出している。 「あの島はサッサンラップと云うのですがね。綴りですか? 綴りはSUSSANRAPです。一見の価値のある島ですよ。この船も五六日は碇泊しますから、ぜひ見物にお出かけなさい。大学もあれば伽藍もあります。殊に市の立つ日は壮観ですよ。何しろ近海の島々から無数の人々が集まりますからね。……」 僕は老人のしゃべっている間に望遠鏡を覗いて見た。ちょうど鏡面に映っているのはこの島の海岸の市街であろう。小綺麗な家々の並んだのが見える。並木の梢に風のあるのが見える。伽藍の塔の聳えたのが見える。靄などは少しもかかっていない。何もかもことごとくはっきりと見える。僕は大いに感心しながら、市街の上へ望遠鏡を移した。と同時に僕の口はあっと云う声を洩らしそうになった。 鏡面には雲一つ見えない空に不二に似た山が聳えている。それは不思議でも何でもない。けれどもその山は見上げる限り、一面に野菜に蔽われている。玉菜、赤茄子、葱、玉葱、大根、蕪、人参、牛蒡、南瓜、冬瓜、胡瓜、馬鈴薯、蓮根、慈姑、生姜、三つ葉――あらゆる野菜に蔽われている。蔽われている? 蔽わ――そうではない。これは野菜を積み上げたのである。驚くべき野菜のピラミッドである。 「あれは――あれはどうしたのです?」 僕は望遠鏡を手にしたまま、右隣の老人をふり返った。が、老人はもうそこにいない。ただ籐の長椅子の上に新聞が一枚抛り出してある。僕はあっと思った拍子に脳貧血か何か起したのであろう。いつかまた妙に息苦しい無意識の中に沈んでしまった。 × × × 「どうです、見物はすみましたか?」 老人は気味の悪い微笑をしながら、僕の側へ腰をおろした。 ここはホテルのサロンであろう。セセッション式の家具を並べた、妙にだだっ広い西洋室である。が、人影はどこにも見えない。ずっと奥に見えるリフトも昇ったり降ったりしている癖に、一人も客は出て来ないようである。よくよくはやらないホテルらしい。 僕はこのサロンの隅の長椅子に上等のハヴァナを啣えている。頭の上に蔓を垂らしているのは鉢植えの南瓜に違いない。広い葉の鉢を隠したかげに黄いろい花の開いたのも見える。 「ええ、ざっと見物しました。――どうです、葉巻は?」 しかし老人は子供のようにちょいと首を振ったなり、古風な象牙の嗅煙草入れを出した。これもどこかの博物館に並んでいたのを見た通りである。こう云う老人は日本は勿論、西洋にも今は一人もあるまい。佐藤春夫にでも紹介してやったら、さぞ珍重することであろう。僕は老人に話しかけた。 「町のそとへ一足出ると、見渡す限りの野菜畑ですね。」 「サッサンラップ島の住民は大部分野菜を作るのです。男でも女でも野菜を作るのです。」 「そんなに需要があるものでしょうか?」 「近海の島々へ売れるのです。が、勿論売れ残らずにはいません。売れ残ったのはやむを得ず積み上げて置くのです。船の上から見えたでしょう、ざっと二万呎も積み上っているのが?」 「あれがみんな売れ残ったのですか? あの野菜のピラミッドが?」 僕は老人の顔を見たり、目ばかりぱちぱちやるほかはなかった。が、老人は不相変面白そうにひとり微笑している。 「ええ、みんな売れ残ったのです。しかもたった三年の間にあれだけの嵩になるのですからね。古来の売れ残りを集めたとしたら、太平洋も野菜に埋まるくらいですよ。しかしサッサンラップ島の住民は未だに野菜を作っているのです。昼も夜も作っているのです。はははははは、我々のこうして話している間も一生懸命に作っているのです。はははははは、はははははは。」 老人は苦しそうに笑い笑い、茉莉花の匂のするハンカチイフを出した。これはただの笑いではない。人間の愚を嘲弄する悪魔の笑いに似たものである。僕は顔をしかめながら、新しい話題を持ち出すことにした。 僕「市はいつ立つのですか?」 老人「毎月必ず月はじめに立ちます。しかしそれは普通の市ですね。臨時の大市は一年に三度、――一月と四月と九月とに立ちます。殊に一月は書入れの市ですよ。」 僕「じゃ大市の前は大騒ぎですね?」 老人「大騒ぎですとも。誰でも大市に間に合うように思い思いの野菜を育てるのですからね。燐酸肥料をやる、油滓をやる、温室へ入れる、電流を通じる、――とてもお話にはなりません。中にはまた一刻も早く育てようとあせった挙句、せっかく大事にしている野菜を枯らしてしまうものもあるくらいです。」 僕「ああ、そう云えば野菜畑にきょうも痩せた男が一人、気違いのような顔をしたまま、『間に合わない、間に合わない』と駈けまわっていました。」 老人「それはさもありそうですね。新年の大市も直ですから。――町にいる商人も一人残らず血眼になっているでしょう。」 僕「町にいる商人と云うと?」 老人「野菜の売買をする商人です。商人は田舎の男女の育てた野菜畑の野菜を買う、近海の島々から来た男女はそのまた商人の野菜を買う、――と云う順序になっているのです。」 僕「なるほど、その商人でしょう、これは肥った男が一人、黒い鞄をかかえながら、『困る、困る』と云っているのを見ました。――じゃ一番売れるのはどう云う種類の野菜ですか?」 老人「それは神の意志ですね。どう云うものとも云われません。年々少しずつ違うようですし、またその違う訣もわからないようです。」 僕「しかし善いものならば売れるでしょう?」 老人「さあ、それもどうですかね。一体野菜の善悪は片輪のきめることになっているのですが、……」 僕「どうしてまた片輪などがきめるのです?」 老人「片輪は野菜畑へ出られないでしょう。従ってまた野菜も作れない、それだけに野菜の善悪を見る目は自他の別を超越する、公平の態度をとることが出来る、――つまり日本の諺を使えば岡目八目になる訣ですね。」 僕「ああ、その片輪の一人ですね。さっき髯の生えた盲が一人、泥だらけの八つ頭を撫でまわしながら、『この野菜の色は何とも云われない。薔薇の花の色と大空の色とを一つにしたようだ』と云っていましたよ。」 老人「そうでしょう。盲などは勿論立派なものです。が、最も理想的なのはこの上もない片輪ですね。目の見えない、耳の聞えない、鼻の利かない、手足のない、歯や舌のない片輪ですね。そう云う片輪さえ出現すれば、一代の Arbiter elegantiarum になります。現在人気物の片輪などはたいていの資格を具えていますがね、ただ鼻だけきいているのです。何でもこの間はその鼻の穴へゴムを溶かしたのをつぎこんだそうですが、やはり少しは匂がするそうですよ。」 僕「ところでその片輪のきめた野菜の善悪はどうなるのです?」 老人「それがどうにもならないのです。いくら片輪に悪いと云われても、売れる野菜はずんずん売れてしまうのです。」 僕「じゃ商人の好みによるのでしょう?」 |
一月十日 午前運動の為め亀井戸までゆき。やや十二時すぐる頃帰て来ると。妻はあわてて予を迎え。今少し前に巡査がきまして牛舎を見廻りました。虎毛が少し涎をたらしていました故鵞口瘡かも知れぬと申して。男共に鼻をとらして口中をよおく見ました。どうも判然はわからぬけれど念のため獣医を呼んで一応見せるがよかろうと申して。今帰ったばかりです どうしましょうと云う。予はすぐ其の足で牛舎へはいって虎毛を見た。異状は少しもない。老牛で歯が稍鈍くなっているから。はみかえしをやる度自然涎を出すのである。此牛はきょうにかぎらずいつでもはみかえしをやる度に涎を出すのはきまって居るのだ。それと角へかけて結びつけたなわの節が。ちょうど右の眼にさわるようになっていたので涙を流していた。巡査先生之を見て怪んだのである。獣医を呼ぶまでもなしと予が云うたので。家内安心した 十一日 午後二時頃深谷きたる。当区内の鵞口瘡は此六日を以て悉皆主治したとの話をした 十二日 午前警視庁の巡回獣医来る 健康診断のためである。例の如く消毒衣に服を着かえて。くつを下駄にはきかえて牛舎を見廻った。予は獣医に府下鵞口瘡の模様を問うた。本月二日以来新患の届出でがないから。もう心配なことはなかろうとの獣医の答であった 十三日 午前二時朝乳を搾るべき時間であるから。妻は男共をおこしに往った。牛舎で常と変った叫ごえがする。どれか子をうみやがったなと思うていると。果して妻は糟毛がお産をしました。親の乳も余りはりません 犢も小さい。月が少し早いようですと報告した。予も起きて往て見ると母牛のうしろ一間許はなれて。ばり板の上に犢はすわっていて耳をふっていた。背のあたりに白斑二つ三つある赤毛のめす子である。母牛はしきりにふりかえって犢の方を見ては鳴ている。八ヶ月位であろう どうか育ちそうでもあるから。急に男共に手当をさして。まず例に依って暖かい味噌湯を母牛に飲ませ。寝わらを充分に敷せ犢を母牛の前へ持来らしめた。とりあえず母牛の乳を搾りとって。フラソコ瓶で犢に乳を飲せようとしたけれど。どうしても犢は乳を飲まない。よくよく見ると余程衰弱して居る。月たらずであるのに生れて二三時間手当なしであった故。寒気のためによわったのであろうと思われた。それから一時間半ばかりたって遂に絶命した。予は猶母牛の注意を男共に示して置て寝てしまった 夜明けて後男共は今暁の死犢を食料にせんことを請求してきた。全く或る故障より起った早産で母牛も壮健であるのだから食うても少しも差支はない。空しく埋めてしまうのは惜しいと云う理由であった。女達はしきりに気もちわるがってよせよせと云う。予は勿論有毒なものではあるまいから喰いたいならそちらへ持て往て喰えと命じた。やがて男共は料理して盛にやったらしかった。なかなかうまいです少々如何ですかと云って。一椀を予の所へ持て来たけれども。予は遂に一口を試むるの勇気もなかった 十四日 暖かであるから出産牛のあと消毒を行わせた。きょうは午后から鵞口瘡疫の事に就て。組合本部の役員会がある筈なれど差支える事があって往をやめた 十五日 朝根室分娩牡犢である。例に依て母牛に視せずして犢を遠く移した 母牛は壮健である。杉山発情午後交尾さした。アンヤ陰部より出血 十三日頃発情したのであるを見損じたのである。次回のさかりの時をあやまるなと男共及び妻に注意した 十六日 前夜より寺島の犢がしきりに鳴く。午后の乳搾る頃になりてますます鳴く。どうしたのじゃ飼の足らぬのじゃないかと云えば。飼は充分やってあるのです 又よく喰うのです。なんでもあいつは。十五日朝はなれて母牛の乳を一廻残らず飲みましてそれから鳴のです。ですからあれは母牛の乳をまだ飲たがって鳴のでしょうと男等は云った。日くれになってもまだ鳴いている。気になるから徃って見たが。どうでもない 矢張男等が云う通りにちがいないようであった 明治34年2月『ほとゝぎす』 |
家の中は、ふかい悲しみで、いっぱいでした。心の中も、悲しみで、いっぱいでした。四つになる、いちばん下の男の子が、死んだのです。この子は、ひとり息子でした。おとうさんと、おかあさんにとっては、大きなよろこびであり、また、これから先の希望でもあったのです。 この子には、ねえさんがふたり、ありました。上のねえさんは、ちょうどこの年、堅信礼を、受けることになっていました。ふたりとも、おとなしくて、かわいらしい娘たちでした。けれども、死んだ子供というものは、だれにとっても、いちばんかわいいものです。それに、この子は末っ子で、ひとり息子だったのです。ほんとうに、悲しい、つらいことでした。 ねえさんたちは、若い心をいためて、悲しみました。おとうさんとおかあさんが、なげき悲しんでいるのを見ると、いっそう悲しくなりました。おとうさんは、深くうなだれていました。おかあさんは、大きな悲しみにうちまかされていました。 おかあさんは、夜も昼も、病気の坊やにつききりで、看病したり、だいてやったりしたものでした。おかあさんは、この子が、自分の一部だということを、はっきりと感じました。坊やが死んで、お棺に入れられ、お墓の中にうめられるなどということは、おかあさんにとっては、どうしても考えることができませんでした。神さまだって、まさか、この子をお取りあげになるようなことはなさるまい、と、おかあさんは思ったのです。それなのに、その坊やが、とうとう、死んでしまったのです。おかあさんは、あまりの悲しさに、われを忘れてこう言いました。 「神さまは、ごぞんじないのですね。神さまは、なさけを知らないしもべを、この世におつかわしになったのです。なさけしらずのしもべたちは、自分かってなふるまいをして母親の祈りを、聞いてはくれないのです」 おかあさんは、悲しみのあまり、神さまを見うしなってしまいました。すると、暗い考えが、死の考えが、しのびよってきました。人間は、土の中で土にかえり、それとともに、すべてはおわってしまう、という、永遠の死の考えです。こういう考えにつきまとわれては、もう、なに一つ、たよるべきものもありません。おかあさんは、底しれない絶望のふちへ、深く深くしずんでいきました。 いちばん苦しいときには、おかあさんは、泣くことさえできませんでした。もう、娘たちのことも、考えませんでした。おとうさんの涙が、自分のひたいの上に落ちてきても、目をあげて、おとうさんを見ようともしませんでした。おかあさんは、死んだ坊やのことばかり思いつづけていたのです。いまのおかあさんは、ただひとえに、坊やの思い出を、坊やの言ったむじゃきな言葉を、一つ一つ、呼びもどそうとするために生きているようなものでした。 いよいよ、お葬式の日がきました。それまでというもの、おかあさんは、一晩も眠ったことがありませんでした。その日の明けがた、おかあさんは、くたびれすぎて、つい、うとうとしました。そのあいだに、みんなは、坊やのお棺を、離れの部屋に運んでいって、そこで、ふたを打ちつけました。もちろん、それは、くぎを打つ音が、おかあさんに聞えないように、というためだったのです。 おかあさんは、目をさますといっしょに、起きあがって、坊やを見ようとしました。すると、おとうさんが、涙を浮べて、言いました。 「もう、ふたをしてしまったよ。一度は、そうしなければならないのだ」 「神さまが、わたしに、こんなにつらくなさるのなら」と、おかあさんはさけびました。「人間が、よくなるはずはありません」 おかあさんは、わっと、涙にかきくれました。 坊やのお棺は、お墓に運ばれました。希望をうしなったおかあさんは、娘のそばにすわって、ただぼんやりと、娘のほうを見ていました。でも、ほんとうに見ているのではありません。心の中で考えていることは、もう、のこった家族のことではありませんでした。おかあさんは、ただ、悲しみに身をまかせきっていました。ちょうど、かいとかじとをうしなった小船が、荒海にもてあそばれるように、おかあさんは、悲しみにもてあそばれていました。 こうして、お葬式の日はすぎました。それからは、おも苦しく悲しい日が、幾日も幾日もつづきました。家の人たちは、みんな、悲しみにしずんで、うるんだ目と、くもったまなざしとで、おかあさんを見つめるばかりでした。おかあさんをなぐさめようとしても、そんな言葉には、耳をもかたむけようとしないのです。それに、家の人たちにしても、いったい、どんななぐさめの言葉を言うことができたでしょう。みんなの心は、あまりにも悲しすぎて、なぐさめの言葉を口にすることもできなかったのです。 おかあさんは、まるで、眠りというものを、忘れてしまったようでした。しかも、その眠りだけが、おかあさんのからだを強くし、おかあさんの心の中に、平和を呼びもどすことのできる、いちばんいいお友だちでしたのに。 おかあさんは、みんなにすすめられて、ようやく、寝床に横になりました。そして、まるで眠っている人のように、じっと横になっていました。 ある晩のことです。おとうさんは、おかあさんのね息を、しばらく、うかがっていました。今夜は、おかあさんは、気持よく、ぐっすりと眠っているようです。そこで、おとうさんは、両手を合せて、お祈りをすますと、自分も横になって、すぐに、ぐっすりと寝こんでしまいました。ですから、そのあとで、おかあさんが寝床から起き出して、着物を着、そっと、家をぬけ出していったのには、すこしも気がつきませんでした。 いま、おかあさんが、行こうとしているところは、おかあさんが、夜となく昼となく、思いつづけているところ、つまり、かわいい坊やのはいっているお墓だったのです。おかあさんは、家の庭を通りぬけて、畑へ出ました。畑からは、町の外側を通っている、細い道が、墓地まで通じています。おかあさんは、だれにも見られませんでした。おかあさんのほうでも、だれの姿をも見かけませんでした。 その晩は、お星さまのキラキラかがやいている、美しい夜でした。やっと、九月になったばかりで、空気はまだおだやかでした。 おかあさんは、墓地にはいって、小さなお墓のそばへ行きました。そのお墓は、かおりのよい、一つの大きな花たばのように見えました。おかあさんは、そこにすわって、顔をお墓に近づけました。まるで、あつい地面の中に、かわいらしい坊やの姿が見えるはずだとでもいうようです。すると、坊やのほほえみが、ありありと思い出されてきました。病気の床に寝ていたときでさえも、坊やが見せた、あのかわいらしい目つき。あの目つきは、とうてい忘れられるものでありません。それから、おかあさんが、寝ている坊やの上に、からだをかがめて、自分では動かすことのできなくなった、小さな手をとってやると、坊やの目は、あんなにも、ものを言いたそうに、かがやいたではありませんか。 いま、おかあさんは、坊やの寝床のそばにすわっていたときと、同じような気持で、お墓のそばにすわっていました。でも、あのときとはちがって、いまは、涙がとめどもなくあふれ出て、お墓の上に流れおちました。 「おまえは、子供のところへおりていきたいのだね」という声が、すぐそばでしました。その声は、はっきりと、低くひびいて、おかあさんの心の中までも、しみ入りました。 目をあげて見ると、そばに、大きな喪服を着た人が立っています。ずきんを、まぶかにかぶっていますが、その下から顔も見えました。きびしい顔つきですが、いかにも、たよりになりそうです。その目は、若者の目のように、かがやいていました。 「坊やのところへ!」と、おかあさんは答えました。その声には、絶望しきって、お願いするひびきが、こもっていました。 「わしについてくる勇気があるかな」と、その人は、たずねました。「わしは、死神だが」 そこで、おかあさんは、はいというように、うなずいてみせました。 と、とつぜん、空の星という星が、満月のようにかがやきはじめました。お墓の上の花も、色とりどりの美しさにかがやきました。地面が風にゆれるうすぎぬのように、静かに、静かにしずんでいきました。おかあさんもしずんでいきました。そのとき、死神は、黒いマントを、おかあさんのまわりにひろげました。あたりは、まっ暗な夜になりました。それは、死のやみ夜でした。おかあさんは、墓ほりのシャベルでも、とどかないくらい、深いところまでしずんでいきました。墓地は、頭の上のほうに、ちょうど天井みたいに横たわっていました。 マントのはしが、わきへのけられました。見ると、おかあさんは、いつのまにか、気持のよい広々とした、りっぱな広間の中にきています。まわりにはぼんやりと、うす明りがさしています。 気がついてみると、目の前に、死んだ坊やがいるではありませんか。その瞬間、おかあさんは、坊やをしっかりと胸にだきしめました。坊やはおかあさんに、かわいらしくほほえみかけました。見れば、前よりも、ずっと大きくなっています。おかあさんは、思わず大きな声を出しました。でも、その声は、すこしもひびきませんでした。なぜなら、美しいふくよかな音楽が、おかあさんのすぐそばで鳴ったかと思うと、今度は、ずっと遠くで、それからまた近くで、というふうに、たえず鳴りひびいていたからです。おかあさんは、いままでに、こんなにも楽しい音楽を聞いたことがありませんでした。その音楽は、この広間を大きな永遠の国からへだてている、まっ黒な、あついとばりのむこうから、ひびいてくるのでした。 「大好きなおかあさん! ぼくのおかあさん!」と、いう坊やの声がしました。それこそ、かたときも忘れたことのない、かわいい坊やの声です。 おかあさんは、かぎりない幸福を感じて、坊やにキスの雨をふらせました。すると、坊やは、まっ黒なとばりのほうを指さして、言いました。 「地の上は、こんなにきれいじゃないねえ。ごらんよ、おかあさん。みんな見えるでしょ。あれは、幸福というものだよ」 けれども、おかあさんには、なんにも見えません。坊やが、指さしたところにも、まっ暗な暗やみのほかは、なんにも見えないのです。おかあさんは、この世の目でもって、ものを見ていたのでした。神さまが、おそばへお召しになった、坊やのようには、ものを見ることができなかったのです。それでも、音楽だけは聞えました。でも、信じなければならない言葉は、ひとことも聞えなかったのです。 「おかあさん。ぼくは、いまは、とぶこともできるんだよ」と、坊やは言いました。「元気のいい子たちといっしょに、みんなで、神さまのところへとんでいくの。ぼく、とっても行きたいんだけど、でも、おかあさんが、いまみたいに泣くと、おかあさんのところから、離れることができなくなっちゃうんだよ。 でも、ぼく、神さまのところへ、とっても、とっても行きたいの。行ってもいいでしょ。おかあさんだって、もうじき、ぼくのところへ来るんだものね」 「いいえ、いいえ、ここにいておくれ。ここにいておくれ!」と、おかあさんは言いました。「ほんの、もうすこしのあいだだけでも。もう一度だけでいいから、おまえの顔を見せておくれ。キスをさせておくれ。おかあさんの腕に、しっかりとだかれておくれ」 おかあさんは、坊やにキスをして、しっかりとだきしめました。 そのとき、上のほうから、おかあさんの名前を呼ぶ声が、聞えてきました。その声には、悲しいひびきがこもっていました。いったい、それは、なんだったのでしょうか? 「ほら、おかあさん」と、坊やは言いました。「おとうさんが、ああして、おかあさんを呼んでるじゃないの」 それから、すこしすると、今度は、深いため息が聞えてきました。なんだか、すすり泣いている、子供の口からもれてくるようです。 「ああ、ねえさんたちだ」と、坊やが言いました。「おかあさん。ねえさんたちのこと、忘れちゃいないね」 言われて、おかあさんは、この世にのこしてきた人たちのことを、思い出しました。と、きゅうに、心配になってきました。前のほうを見ると、人のかげが、ひっきりなしに、ふわふわと通りすぎていきます。なかには、たしかに見おぼえのある、かげも、いくつかあります。そういうかげは、死の広間を、ふわふわと通りすぎて、黒いとばりのほうへ行き、そこで姿を消しました。 「もしかしたら、おとうさんと、娘たちが来たのかしら。いいえ、そんなことはないわ。だって、みんなの呼び声や、ため息は、まだ上のほうから聞えるもの」 おかあさんは、死んだ坊やのために、もうすこしで、みんなのことを忘れてしまうところでした。 「おかあさん、いま、天国の鐘が鳴っているよ」と、坊やは言いました。「おかあさん、いま、お日さまが、のぼってくるよ」 そのとき、一すじの強い光が、おかあさんのほうに流れてきました。――坊やはいなくなりました。おかあさんのからだは、だんだん、上へ上へと、ひきあげられていきました。―― と、きゅうに、寒くなりました。頭をあげてみると、おかあさんは、墓地の中の坊やのお墓の上に、たおれているではありませんか。神さまは、夢の中で、おかあさんの足のささえとなり、おかあさんの考えの光となってくださったのです。おかあさんは、すぐに、ひざまずいて、お祈りをしました。 「ああ、神さま! 永遠の魂を、かってに、わたくしのそばに、引きとめようとしましたことを、どうか、おゆるしくださいませ。そしてまた、わたくしには、生きている人たちへの、義務がありましたのに、それを忘れましたことも、どうか、おゆるしくださいませ」 こう、お祈りをしますと、おかあさんの心は、すっかり軽くなったような気がしました。 そのとき、お日さまがあらわれました。一羽の小鳥が、頭の上で、さえずりはじめました。 |
一月 山嶺の雪なほ深けれども、其の白妙に紅の日や、美しきかな玉の春。松籟時として波に吟ずるのみ、撞いて驚かす鐘もなし。萬歳の鼓遙かに、鞠唄は近く梅ヶ香と相聞こえ、突羽根の袂は松に友染を飜す。をかし、此のあたりに住ふなる橙の長者、吉例よろ昆布の狩衣に、小殿原の太刀を佩反らし、七草の里に若菜摘むとて、讓葉に乘つたるが、郎等勝栗を呼んで曰く、あれに袖形の浦の渚に、紫の女性は誰そ。……蜆御前にて候。 二月 西日に乾く井戸端の目笊に、殘ンの寒さよ。鐘いまだ氷る夜の、北の辻の鍋燒饂飩、幽に池の石に響きて、南の枝に月凄し。一つ半鉦の遠あかり、其も夢に消えて、曉の霜に置きかさぬる灰色の雲、新しき障子を壓す。ひとり南天の實に色鳥の音信を、窓晴るゝよ、と見れば、ちら〳〵と薄雪、淡雪。降るも積るも風情かな、未開紅の梅の姿。其の莟の雪を拂はむと、置炬燵より素足にして、化粧たる柴垣に、庭下駄の褄を捌く。 三月 いたいけなる幼兒に、優しき姉の言ひけるは、緋の氈の奧深く、雪洞の影幽なれば、雛の瞬き給ふとよ。いかで見むとて寢もやらず、美しき懷より、かしこくも密と見參らすれば、其の上に尚ほ女夫雛の微笑み給へる。それも夢か、胡蝶の翼を櫂にして、桃と花菜の乘合船。うつゝに漕げば、うつゝに聞こえて、柳の土手に、とんと當るや鼓の調、鼓草の、鼓の調。 四月 春の粧の濃き淡き、朝夕の霞の色は、消ゆるにあらず、晴るゝにあらず、桃の露、花の香に、且つ解け且つ結びて、水にも地にも靡くにこそ、或は海棠の雨となり、或は松の朧となる。山吹の背戸、柳の軒、白鵝遊び、鸚鵡唄ふや、瀬を行く筏は燕の如く、燕は筏にも似たるかな。銀鞍の少年、玉駕の佳姫、ともに恍惚として陽の闌なる時、陽炎の帳靜なる裡に、木蓮の花一つ一つ皆乳房の如き戀を含む。 五月 藤の花の紫は、眞晝の色香朧にして、白日、夢に見ゆる麗人の面影あり。憧憬れつゝも仰ぐものに、其の君の通ふらむ、高樓を渡す廻廊は、燃立つ躑躅の空に架りて、宛然虹の醉へるが如し。海も緑の酒なるかな。且つ見る後苑の牡丹花、赫耀として然も靜なるに、唯一つ繞り飛ぶ蜂の羽音よ、一杵二杵ブン〳〵と、小さき黄金の鐘が鳴る。疑ふらくは、これ、龍宮の正に午の時か。 六月 照り曇り雨もものかは。辻々の祭の太鼓、わつしよい〳〵の諸勢、山車は宛然藥玉の纒を振る。棧敷の欄干連るや、咲掛る凌霄の紅は、瀧夜叉姫の襦袢を欺き、紫陽花の淺葱は光圀の襟に擬ふ。人の往來も躍るが如し。酒はさざんざ松の風。緑いよ〳〵濃かにして、夏木立深き處、山幽に里靜に、然も今を盛の女、白百合の花、其の膚の蜜を洗へば、清水に髮の丈長く、眞珠の流雫して、小鮎の簪、宵月の影を走る。 七月 灼熱の天、塵紅し、巷に印度更紗の影を敷く。赫耀たる草や木や、孔雀の尾を宇宙に翳し、羅に尚ほ玉蟲の光を鏤むれば、松葉牡丹に青蜥蜴の潛むも、刺繍の帶にして、驕れる貴女の裝を見る。盛なる哉、炎暑の色。蜘蛛の圍の幻は、却て鄙下る蚊帳を凌ぎ、青簾の裡なる黒猫も、兒女が掌中のものならず、髯に蚊柱を號令して、夕立の雲を呼ばむとす。さもあらばあれ、夕顏の薄化粧、筧の水に玉を含むで、露臺の星に、雪の面を映す、姿また爰にあり、姿また爰にあり。 八月 向日葵、向日葵、百日紅の昨日も今日も、暑さは蟻の數を算へて、麻野、萱原、青薄、刈萱の芽に秋の近きにも、草いきれ尚ほ曇るまで、立蔽ふ旱雲恐しく、一里塚に鬼はあらずや、並木の小笠如何ならむ。否、炎天、情あり。常夏、花咲けり。優しさよ、松蔭の清水、柳の井、音に雫に聲ありて、旅人に露を分てば、細瀧の心太、忽ち酢に浮かれて、饂飩、蒟蒻を嘲ける時、冷奴豆腐の蓼はじめて涼しく、爪紅なる蟹の群、納涼の水を打つて出づ。やがてさら〳〵と渡る山風や、月の影に瓜が踊る。踊子は何々ぞ。南瓜、冬瓜、青瓢、白瓜、淺瓜、眞桑瓜。 九月 殘の暑さ幾日ぞ、又幾日ぞ。然も刈萱の蓑いつしかに露繁く、芭蕉に灌ぐ夜半の雨、やがて晴れて雲白く、芙蓉に晝の蛬鳴く時、散るとしもあらず柳の葉、斜に簾を驚かせば、夏痩せに尚ほ美しきが、轉寢の夢より覺めて、裳を曳く濡縁に、瑠璃の空か、二三輪、朝顏の小く淡く、其の色白き人の脇明を覗きて、帶に新涼の藍を描く。ゆるき扱帶も身に入むや、遠き山、近き水。待人來れ、初雁の渡るなり。 十月 雲往き雲來り、やがて水の如く晴れぬ。白雲の行衞に紛ふ、蘆間に船あり。粟、蕎麥の色紙畠、小田、棚田、案山子も遠く夕越えて、宵暗きに舷白し。白銀の柄もて汲めりてふ、月の光を湛ふるかと見れば、冷き露の流るゝ也。凝つては薄き霜とならむ。見よ、朝凪の浦の渚、潔き素絹を敷きて、山姫の來り描くを待つ處――枝すきたる柳の中より、松の蔦の梢より、染め出す秀嶽の第一峯。其の山颪里に來れば、色鳥群れて瀧を渡る。うつくしきかな、羽、翼、霧を拂つて錦葉に似たり。 十一月 青碧澄明の天、雲端に古城あり、天守聳立てり。濠の水、菱黒く、石垣に蔦、紅を流す。木の葉落ち落ちて森寂に、風留むで肅殺の氣の充つる處、枝は朱槍を横へ、薄は白劍を伏せ、徑は漆弓を潛め、霜は鏃を研ぐ。峻峰皆將軍、磊嚴盡く貔貅たり。然りとは雖も、雁金の可懷を射ず、牡鹿の可哀を刺さず。兜は愛憐を籠め、鎧は情懷を抱く。明星と、太白星と、すなはち其の意氣を照らす時、何事ぞ、徒に銃聲あり。拙き哉、驕奢の獵、一鳥高く逸して、谺笑ふこと三度。 十二月 大根の時雨、干菜の風、鳶も烏も忙しき空を、行く雲のまゝに見つゝ行けば、霜林一寺を抱きて峯靜に立てるあり。鐘あれども撞かず、經あれども僧なく、柴あれども人を見ず、師走の市へ走りけむ。聲あるはひとり筧にして、巖を刻み、石を削りて、冷き枝の影に光る。誰がための白き珊瑚ぞ。あの山越えて、谷越えて、春の來る階なるべし。されば水筋の緩むあたり、水仙の葉寒く、花暖に薫りしか。刈あとの粟畑に山鳥の姿あらはに、引棄てし豆の殼さら〳〵と鳴るを見れば、一抹の紅塵、手鞠に似て、輕く巷の上に飛べり。 |
ある人が私の作品のあるカメラ・ポジションを批評して、必然性がないから正しくないといつた。 私の考えではカメラ・ポジションに必然性がないということはあたりまえのことで、もしも必然性などというものを認めなければならぬとしたら非常に不都合なことになるのである。 なぜならば一つのカットの撮り方は無数にあるわけで、その多くの可能性の中から一つを選ぶことが芸術家に与えられた自由なのである。したがつて必然性を認めるということは芸術家の自由を認めないというのと同じことで、それならば映画製作に芸術家などは要らないことになつてしまう。 カメラ・ポジション選定の過程においてもしも必然性を認めるとしたら、それは芸術家がその主観において、「よし」と判断する悟性以外にはあり得ない。そしてその意味においてならば私は自分の作品のカメラ・ポジションには残らず必然性があると主張することもできるし(実際においては必ずしもそうは行かないが)、何人も外部からそれを否定する材料を持たないはずである。 これを要するに、カメラ・ポジションを決定する客観的必然性などというものは存在しないし、主観的必然性というものはあつても、それは第三者によつては存在が規定されない性質のものであるとすれば、結局カメラ・ポジションの必然性というものは決して批評の対象とはなり得ないものだということがわかる。 カメラ・ポジションの選択はだれの仕事だろう。私は多くの場合、それを監督の仕事にすることが一等便宜だと考えるものである。 もしもカメラマンがあらゆるカットの目的と存在を正しく理解し、常に必要にしてかつ十分なら画面の切り方と、内容の規定する条件の範囲において最も美しい画面構成をやつてくれることが絶対に確実であるならば、私は好んで椅子から立ち上りはしない。 どんなに優秀なカメラマンでも人間である以上、絶対に誤解がないとは保し難い。これは決して不思議なことではない。一般に一つのカットの含むあらゆる意味を監督以上に理解している人はない。 長年の私の経験が、カメラ・ポジションの誤謬を最少限度にとどめる方法は、結局監督自身がルーペをのぞくこと以外にはないということを私に教えた。 ただし、右は主として内容に即したカメラ・ポジションについてであつて、必ずしも美的要求からくる画面の切り方にまでは言及していない。 内容の目的に沿うにはすでに十分であるが、同時に美的要求を満すためには、さらにポジションの修正を要する場合がある。 あるいはカットの性質上、内容とポジションがあまり密接な関係を持たない場合がある。 たとえば描写的なカットなどにおいては往々にして美的要求だけがポジションを決定する場合がある。このような部分、あるいは場合に関しては監督は一応手を引くべきであろう。 なぜならば、それらは純粋にカメラ的な仕事だから。 カメラ・ポジションの選択を監督に任せると、カメラマンの仕事がなくなりはしないかと心配する人がある。 ところが実際において、決してそんな心配は要らないのである。試みにいま私が思いつくままに並べてみてもカメラマンの仕事は、まだこのほかに、配光の指定(これだけでも大変な仕事だ。)、ロケーションの場合は自然光線に関する場所および時間の考慮、絞りと露出の判断、レンズおよびフィルターの選択、ピントに関する考慮と測定、それに付随するあらゆる細心の注意、画面の調子に関するくふう、セット・小道具・衣裳・俳優の肉体などあらゆる色調ならびに線の調和などに対する関心、およびそれらの質・量あるいは運動による画面的効果の計算、カメラの運動に関する一切の操作、およびそれらを円滑ならしめるためのあらゆる注意、撮影機械に関する保存上および能率上の諸注意、現像場との諸交渉・打合せ、および特殊技術に関する協同作業、トーキー部との機械的連繋、および右の諸項を通じて監督との頭脳的協力、とちよつと数えてみてもこんなにある。しかも右のうち、どの一項をとつて考えてみても作品の効果に重大な関係を持たないものはないのだからなかなか大変な仕事だと思わなければならない。 しかも右にあげたのは撮影現場における仕事だけであるが、カメラマンの仕事は撮影現場を離れると同時に解消するという性質のものではない。 平素から芸術的理解力においては常に普通社会人の水準から一歩踏み出しているだけの修養が必要なことはもちろん、専門知識においてはまた常に世界の最前線から一歩も遅れない用意が肝腎である。しかも絶えず撮影に関するあらゆる機械的改善を、念頭から離さないだけの熱意を持つことが望ましい。 これだけの仕事の幅と深さを謙虚な気持で正視している人ならば、おそらく無反省に自分の仕事の分野の拡大を喜ぶということはあり得ないはずである。 |
一 霹靂一声 一九二六年四月二十日水曜日の朝端しなくも東京に発表せられしロイテル電報は政治社会及商業社会に少なからぬ畏懼と激動とを与へぬ 報は火曜日の夜日本領瓜哇発にて其文左の如し 今午後の事也昨朝当港に碇泊せる仏国東洋艦隊に属せる一水兵は我太平洋艦隊なる香取の一水兵と珈琲店に於て争論を引き起し其場に居合せたる日仏両国の水兵は各々其味方をなし果は双方打擲に及び剰へ其処に掲げられし御神影は微塵にうち毀たれ簷頭に樹立せられし日本国旗は散々に寸断されぬ 仏国の水兵は遂に街路に押出され後には端艇迄追ひやられたり 聞くところによれば仏兵は小銃を発射せし由にて仏国方には二三名の死者さへ出せし趣なりされど当地の人心の激昂せると警官の非常なる沈黙を守れると四辺に厳重なる非常線の張られたるとによりて毫も信ずべき確報に接せず 我香取艦長は直に仏国の旗艦ジヤンヌ号を訪へり 其の目的は事の説明を求めん為なるべく或は説明を与ふる為なりとも云ふ 其再び上陸したる後も一の公報を発せざれば精確なる事情は更に知れず 事の形勢は重大と云ふ程には非るも何時重大に変ずるや知る可からず 仏国東洋艦隊司令官は今やサイゴンと電信の往復頻繁なり(四月十九日瓜哇ホノルヽ港発電) 此の驚くべき飛電に次で更に更に驚くべき事件は吾人の最信頼せる時事日報に依て伝へられたり 曰く ホノルヽ発 昨朝五時を過る頃戦闘艦三隻装甲巡洋艦十一隻及其他若干の水雷艇並に水雷駆逐艇よりなる仏国東洋艦隊は急に当港を抜錨せり之と同時に我太平洋艦隊も又港外に進めり 是等の運動の目的は更に知れざるを以て驚くべき流言百出し当地は今混乱を極めをれり ホノルヽ騒擾の報伝ると共に東京又騒擾の巷となれり 号外電信は乱雲の如く東西南北に飛び市民は都下各所の新聞社前に群集して数分毎に張出さるべき掲示を見んとひしめきあへり 一日過ぎ二日過ぎぬ 新聞紙上の声は益〻高まりて果は此為に発行停止の災を蒙りしものさへ出来ぬ 市民は比較的穏にして只二三の暴漢の仏国公使館外に暴言放ち瓦礫を飛して其玻璃窓を破りしのみ然れども政談演説会は殆絶間なく開かれ愛国的演説の大道に行はるゝもの亦多数を極めたり 突如にして中央新報号外を放て曰く ○仏国装甲巡洋艦モンカルム号上海に入り台湾附近を測量しつゝあり(上海電報) ○仏国地中海艦隊亜丁附近にあり(同上) ○仏国陸兵三万サイゴンに輸送さる(同上) ○サイゴン。アンピン。間の海底電線は全く切断せられたり(サイゴン特派員発) 此三四日来飛電の驚くべきもの続々として来れり其重大なるものを上れば 水曜日午後オステンド発 仏国駐箚日本公使は急に当地に着したり 彼は昨夜睡眠中二時間内に巴里を引払ふべき訓令に接し守兵に擁せられてベルギーの国境をこへそれより特派の汽船にて英国に向て発したり 風説によれば仏国東洋艦隊は昨日争闘中日本水兵の為に殺傷せられし被害に対し十分の要償を得る迄は日本太平洋艦隊の出発を防圧すべき訓令を受けて日本艦隊の解纜と共に港外に出でたりと云ふ 危機正に迫れり 日本公使の引払は明に平和の破れしを証するもの也 キールン発 今朝旅客船太平号は例の如くサイゴン向けて出発せしに仏領海岸を去る四浬の所にて仏艦スチツクス号に捕へられ船長につぐるに日仏間平和の破れたるを以てす依て不得止太平号は当地に引還せり其他二三の汽船も同じ取扱をうけたり アントワープ発 仏国政府は昨日ホノルヽなる東洋艦隊司令に訓令を与へたり この訓令は昨日の争闘に関し必日本艦隊の出港を防圧せよと云ふにあり仏国にては既に非常の戦争熱を生ぜりと云ふ ブラツセル発 仏国北海艦隊は緊急出港の命をうけて其根拠地を出発せり 目的地点は知るを得ず 同上発 仏国にては同国製造の新造巡洋艦五隻及八隻の潜航水雷艇を今月下旬迄に進水せしむべき由猶其他建造中の巡洋艦六隻あり ボルドー発 仏国大西洋艦隊入港せり 潜航艇五隻附随 アントワープ発 ベルギーは仕義によりて兵を出し仏国との国境を守るべし ブラツセル発 一大変報は東より来れり 曰く日仏艦隊ホノルヽ港外に於て衝突を始めたり其詳報は接する由なし 開戦の宣告は疑なく東京に向て発せられたる也 そは午後なるものゝ如し仏京に於ける人心の激昂は非常也 一九二六年四月二十三日宣戦の大詔下り(日本は)自由行動をとる旨を各国に発表せり 太平洋艦隊本国政府の命をうけて正に帰航せんとす仏国東洋艦隊亦本国政府の訓令をうけて其出港を防圧しこゝに於て日仏両国の海戦は開かれたる也 情報屡至れども確報未不至 東京の市民ひとしく疑念を以て之を待ちしが程なく疑念は変じて悲痛となりしこそ口惜しけれ 二 一九二六年四月二十四日東京に達せし日本太平洋艦隊司令官の報告に曰く 一 午前五時四十分我艦隊は当港を抜錨す 我は二列縦陣をとり三時間程は十八節の速力を持続せり此日朝来霧深く波荒し 九時五十分遙か右方の海上に仏国東洋艦隊をのぞむその追尾の目的なるや疑なし 二 十時二十分彼我の距離漸に近く両艦隊相並行して進めり十時三十分敵艦隊は突然進路を左に転じ我中腹をさして進むと共に俄然猛撃を開始せり 敵艦隊の右舷速射砲は悉々発砲せられ我は多大の損害を被りたり 三 我艦隊は進路を右に転じ敵の後に向て進み彼相反対の方向に向て進みぬ 此時我艦隊は一斉に右舷砲を以て砲撃せしもさしたる損害を能ふる事不能 此間敵は終始砲撃を加へしかば我「夕張」は吃水線下に一弾を蒙りて遂に轟沈せり 続て桜山も敵の潜航艇の襲ふところとなり「夕張」と運命を同じくせり 四 砲撃正に酣にして「石狩」大破をうけて沈む 両艦隊は転じて同方向に向て走り彼我相並行して進みつゝ互に砲丸を交ゆ 此時「淡水」の放ちし巨丸ジヤンバールに命中し火災を起し遂に沈めり 砲撃は五時(午後)二十分を以て漸くに完り我艦隊は全力を挙げて敵の重囲を破り西北に向て逃走せり 敵艦隊の追撃頗急なりしも殿艦「天草」よく戦ひ之を撃退せり右不敢取報告す 一九二六年四月二十二日 日本太平洋艦隊司令官報告 悲むべき哉 開戦劈頭の一戦見事我大敗に期せり如何に仏国艦隊の優勢なりしにせよ我は正しく彼の為に一大汚辱を蒙りしもの也 此一大汚辱は何を以てか之を晴すべき 他なし只戦捷の二字あるのみ 今や我海軍は彼の為に一大打撃を加へられたり此一大打撃何を以てか之にかへん他なし只「復讐」の二字あるのみ 時事日報に掲載せられし海戦の実験談てふもの比較的明細にして海戦の詳説とも見るべければ茲に下に掲ぐ 『自分は今米国の郵船バダゴニヤ号に救れて今このバンクーバーに上陸した之は深く同船長に謝するところである 自分は今日の早朝 我太平洋艦隊の奮闘を貴社に打電しようと思ふ 之は自分の深く悲むところである |
私ほど名実の副はない蒐集家は無い。何か余程いゝものでも沢山持つて居るやうに云ひ囃やされながら、実は是れと云ふほどのものは何も持たない。 小石川に住んで居る頃に――これは十数年も前のことだが――諸国の郷土玩具を集めたことがあつた。六百種もあつたかと思ふ。しかしこれは世間の玩具通などのするやうに、いろいろの変つた物を集めて自慢をするといふのでは無く、其頃しきりに私の考へて居た原始的信仰の研究資料にと思つたのであつた。不幸にして此の玩具の大半は出版部の倉庫の中で洪水を喫つて全滅してしまつた。 次に私が今現に持つて居ていくらか話の種にしてもいゝと思ふのは支那の明器、即ち古墳から発掘される土製の人形や器物の類で、私の持つて居るのは百三四十点にも及んで居る。支那では三代の昔から人の死んだ時に墓の中へ人形を入れて御伴をさせる。所謂「俑」である。人形のほかに鶏や犬や豚や馬や牛などの動物或は器物、時としては建物まで御伴させることが漢時代以後だんだん盛に行はれ、唐に至つて流行を極めた。木で造つて着物を着せたものなどもあつた筈だが、木は長い間に皆な腐つて跡方も無く消え失せるので今日に残つて居るのは極く稀に玉製のものなどもあるが、たいていは土製ばかりである。土製と云つても瓦のやうに焼いて、上から胡粉を塗つて、其上へ墨や絵の具で彩色したものもあるし、唐時代などになると三彩と云つて黄、褐、緑、或は藍色の釉薬をかけた陶製のものもある。此の明器が支那でかれこれ云はれるやうになつたのはあまり古いことではなく、何でも京漢鉄道の敷設の時に古墳を発掘した欧人の技師が初めて見つけ出して、それからだんだん北京の骨董店などに現はれることになつた。最初は殆んど市価のないものであつた。それを有名な考古学者の羅振玉氏が買ひ蒐めて後に『古明器図録』といふ図録を作つた。其頃から世界の学者や鑑賞家の注意を惹いて、今では世界の何処の博物館にも沢山に蔵されて居り、欧米人の手で編輯された図録も沢山に出て居り、従つて研究も広く行はれて居る。日本でも東京帝室博物館や、東西両京の帝国大学、東京美術学校、個人では細川侯爵、校友の反町茂作氏などがいづれも優秀なものを沢山に持つて居られる。横川博士の蒐集は近年宮内省へ献納された。美術的によく出来て居て、色彩が製作当時のまゝで、おまけに形が珍らしいものなどになると数百円から千円以上のものも稀ではない。しかし上海あたりの場末の道具屋の店さきに曝されて居るいかものには一円で二つも三つも呉れてよこすやうなものもある。つまり明器の価格はピンからキリまである。 そこで、なぜ世界の隅々まで、急に此の明器をそれほど珍重するやうになつたかと云ふに、それは少しも無理も無いことで、支那の骨董品として大昔から古銅器即ち鐘鼎の類が非常に尊重されたものであるし、唐宋以後になれば支那特有の絵画も次第に発達して其遺品も今日に於ては豊富に伝へて居る。しかし唐時代以前の美術彫刻はと云へば、これまでは漢時代の画像石か六朝時代の仏像或はその附属物として沙門の像や獅子位のものであつた。ところが一度此の明器の類が続々と出土するに及んで、漢時代ではこれまでの画像石のやうに線彫りでなく、丸彫りの人形や動物、ことに嬉しいのは六朝以後唐時代に至る間の将軍、文官、美人、奴婢、家畜などの風俗的生活が吾々の眼前に見せられることになつた。即ち天地を祀る祭器としての銅器や、装身具としての玉器や、仏教の偶像だけしか無かつた支那美術の畠に、それこそ本統に人間らしい、柔らかい感じの、気のおけない人間生活の彫刻が現はれたわけである。そこで美術上からも考古学上からも、或は唯の物好きからも、欧米人などが、ことに大騒ぎするのは決して無理も無いことである。人によると墓から出たといふ事を、いつまでも気にしてゐる人があるが、千年から二千年も経つた今日に及んでまだそんな事を気にしてゐるやうでは、よくよく学問にも芸術にも因縁の無い連中と云ふよりほかは無い。又無暗に贋物を恐がる人もある。たかゞ土製の人形が、何十円何百円に売れるといふことになれば、墓を掘るまでもなく、偽物を作つて金儲けをすることを知らぬ支那人ではないから、事実贋物は随分沢山ある。支那の或る地方では一村挙つて此の贋物製造を商売にしてゐる所さへあつて、念の入つたことには一旦造り上げて彩色までしたものをわざと土中に埋め、其上から汚い水などを引懸けて、二三年目に掘り出して、いゝ加減に土を落して市へ出すといふやり方もある。また真物から型を抜き取つて、其型で偽物を作つたり、真物は真物でも素焼の所へ後から釉薬をかけるといふやゝこしい法もある。だから支那の市場には夥しい、しかも紛らはしい贋物があるのは事実である。そこであちらを旅行して、そんな現場を見せられて帰つて来た人の土産噺などを聞いて無暗に恐れをなす人のあるのも無理もないことであるが、贋物の多いのは何も明器に限つたわけでは無いし、又支那に限つたわけでも無い。何処の国でも古いものは贋物の方が多い。そこで明器買ひも頗る眉唾であるが、眉に唾ばかりつけても、わからない人には矢張りわからない。北京や上海や何処に行つたことがあつてもそれだけではわからない。支那人でもわからない人は矢張りわからない。しかしわかる人が見れば何でもなく直ぐ見分けがつく。贋物が恐いと尻込みする人は、私は美術がわかりませんと自白して居るのと同じことだから、さういふ人は手を出さぬ方がいゝであらう。 贋物は支那製ばかりでは無く、独逸風の応用化学で巧に三彩の真似をしたものや、また日本製の物もある。或は遥々東京まで来てから、白粉の塗り直し黛の描き直し、着物の染め直しなどをやるのもある。又全く贋物と云ふ意識は無く、一種の尚古趣味から京都あたりの相当な陶工が自分の手腕を見せるつもりで真剣に作つたものもある。それ等も目のある人が見れば何の苦もなく見分けが附くものである。 ところが私は誰も知る貧乏人であるのに今日までに、可なりの数まで集めるには随分骨が折れた。私の手まへとして一個百円前後もする物をいくつも買ふことは出来るわけがない。そこで私は月給のあまりで足りない時は窮余の一策として自分の書いた書画に値段を附けて展覧会を開いて、其収入でやうやく商人の支払を済ませたこともある。さういふ展覧会を私はこれまでに東京の銀座で一度、郷里で三度も開いた。こんな手もとで私があつめたものだから蒐集として人に誇るほどのものは何一つ無い。従つて安物づくめである。それこそゲテモノ展の観がある。しかし私は苟しくも早稲田大学で東洋美術史といふ少し私には荷物の勝つた講義を御引き受けして居る関係から、何も持たぬ、何も知らぬでは済まされないと思つて、とにかく微力の限り、むしろそれ以上を尽したものである。だから何処の役人に対しても、富豪に対しても、蒐集の貧弱を愧ぢる必要は少しも無いつもりである。明器の話は、私としては教場ですべき仕事の一つだから、ここでは先づこれ位のことで止めにする。 |
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