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らいてうさま、 ほんとうに私は嬉しう御ざいます。私はあなたの第二の感想集が出版されるのだと思ひますとまるで自分のものでも出すやうな心持ちがいたします。最近の私達の生活を知つてゐるものは私達自身きりですわね、私たちは私たちの周囲の極く少数の人をのぞく他の誰からも理解や同情など云ふものを得ることは出来ませんでしたね、まるで私だちの周囲は真暗でしたもの。疑惑と中傷と誤解と威圧とそして侮蔑と嘲笑と揶揄とが代る〴〵に私達を一番親しく見舞つてくれましたわね、けれどもその中からこのあなたの論文集が生れたのですわね、それに依つて如何にあなたがそれ等にお接しなすつたかと云ふ事がこの書に依つて明瞭になることが私にとつて一番うれしいのです。私はこの書が出来る丈け広く読まれる事をのぞんでゐます。私はこの書があなたの最上の著述だとは信じませんけれども少くともあなたの多少変化のあつた最近の生活の努力によつて生れた尊い思想の断片として私は私の能ふるかぎりの尊敬をこの書に捧げます。 (三、一一、八) 小石川にて 野枝 らいてうさま |
星 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するさうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いてゐることは出来ない。何時か一度は冷灰のやうに、美しい光を失つてしまふ。のみならず死は何処へ行つても常に生を孕んでゐる。光を失つたヘラクレス星群も無辺の天をさまよふ内に、都合の好い機会を得さへすれば、一団の星雲と変化するであらう。さうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない。況や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起つてゐることも、実はこの泥団の上に起つてゐることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環してゐるのである。 さう云ふことを考へると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表はしてゐるやうにも思はれるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたひ上げた。 真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり しかし星も我我のやうに流転を閲すると云ふことは――兎に角退屈でないことはあるまい。 鼻 クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、世界の歴史はその為に一変してゐたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云ふものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび恋愛に陥つたが最後、最も完全に行はれるのである。 アントニイもさう云ふ例に洩れず、クレオパトラの鼻が曲つてゐたとすれば、努めてそれを見まいとしたであらう。又見ずにはゐられない場合もその短所を補ふべき何か他の長所を探したであらう。何か他の長所と云へば、天下に我我の恋人位、無数の長所を具へた女性は一人もゐないのに相違ない。アントニイもきつと我我同様、クレオパトラの眼とか唇とかに、あり余る償ひを見出したであらう。その上又例の「彼女の心」! 実際我我の愛する女性は古往今来飽き飽きする程、素ばらしい心の持ち主である。のみならず彼女の服装とか、或は彼女の財産とか、或は又彼女の社会的地位とか、――それらも長所にならないことはない。更に甚しい場合を挙げれば、以前或名士に愛されたと云ふ事実乃至風評さへ、長所の一つに数へられるのである。しかもあのクレオパトラは豪奢と神秘とに充ち満ちたエヂプトの最後の女王ではないか? 香の煙の立ち昇る中に、冠の珠玉でも光らせながら、蓮の花か何か弄んでゐれば、多少の鼻の曲りなどは何人の眼にも触れなかつたであらう。況やアントニイの眼をやである。 かう云ふ我我の自己欺瞞はひとり恋愛に限つたことではない。我我は多少の相違さへ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ実相を塗り変へてゐる。たとえば歯科医の看板にしても、それが我我の眼にはひるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、――牽いては我我の歯痛ではないか? 勿論我我の歯痛などは世界の歴史には没交渉であらう。しかしかう云ふ自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵状を知りたがる軍人にも、或は又財況を知りたがる実業家にも同じやうにきつと起るのである。わたしはこれを修正すべき理智の存在を否みはしない。同時に又百般の人事を統べる「偶然」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云はば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。 つまり二千余年の歴史は眇たる一クレオパトラの鼻の如何に依つたのではない。寧ろ地上に遍満した我我の愚昧に依つたのである。哂ふべき、――しかし壮厳な我我の愚昧に依つたのである。 修身 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。 × 道徳の与へたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与へる損害は完全なる良心の麻痺である。 × 妄に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。 × 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴してゐない。 × 強者は道徳を蹂躙するであらう。弱者は又道徳に愛撫されるであらう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。 × 道徳は常に古着である。 × 良心は我我の口髭のやうに年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。 × 一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。 × 我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉へ得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。 我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やつと良心を捉へることである。 × 良心は厳粛なる趣味である。 × 良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造つたことはない。 × 良心もあらゆる趣味のやうに、病的なる愛好者を持つてゐる。さう云ふ愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪かである。 好悪 わたしは古い酒を愛するやうに、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我我の好悪である。或は我我の快不快である。さうとしかわたしには考へられない。 ではなぜ我我は極寒の天にも、将に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救ふことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救ふ快を取るのは何の尺度に依つたのであらう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈である。いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない。寧ろ鹹水と淡水とのように、一つに融け合つてゐるものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすつぽんの汁を啜つた後、鰻を菜に飯を食ふさへ、無上の快に数へてゐるではないか? 且又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。(なほこの間の消息を疑ふものはマソヒズムの場合を考へるが好い。あの呪ふべきマソヒズムはかう云ふ肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加はつたものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹つてゐたらしい。) 我我の行為を決するものは昔の希臘人の云つた通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲み取らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿れ。』耶蘇さへ既にさう云つたではないか。賢人とは畢竟荊蕀の路にも、薔薇の花を咲かせるもののことである。 侏儒の祈り |
細々した日々の感想を洩れなく書きつけて見たらばと思ふが、まだなか〳〵さうは行かないものである。 最近の私の感じた事と云へば、「エゴ」の中の「家出の前後」と題する千家元麿氏の脚本である。私は前からあのグループの人達の書くものには可なりな興味をもつて注意してゐた。そして彼の人たちに対する他の人たちの態度をぢつと見てゐた。併し何時迄たつても一人として彼の人たちに目を向けやうとする人はなかつた。今も矢張りない。そして私も黙つてゐた。私はけれどこの上黙つてゐやうとは思はない、私は世間に沢山ころがつてゐる具眼者とか批評家が何の為めに、存在するか分らなくなつてしまつた。私は寧ろ腹立たしい。併しそれ等の批評家が芸術的気分がどうだとか或は技巧だとか云つてゐるのを聞くと情なくなる。何がわかるものかと思ふ。私はそれらの技巧や気分など云ふものが真実とか力強い情熱の前に如何に小さく価値のないものに見えるかと云ふことを一層この脚本に依つてたしかめ得た。 私はその内容だとかそれから人物だとか云ふそんな批評は此処に試みたくはない。それよりも私は先づそれを読んで下さい、と皆にたのみたい。恐らくは、そんな雑誌の存在をさへ知らない人が多いだらうと思ふ。是非よんで頂きたい、屹度々々それを読んだ人たちはあの物ぐるほしい程に充実しきつた真実、力強い熱と呼吸の渦巻の中に巻き込まれないではゐないだらう。 ○ 九月号には婦人参政権運動について何か一寸かいて見たいと思つてゐる。それについてこの間「婦人評論」に掲げられた黒岩氏の「英国選挙婦人に同情す」と云ふ論文を読んで見た。一応の理屈は私たちも同感である。併しまだ〳〵黒岩氏は本当に衷心から婦人に理解や同情を持つてゐられるとは私にはどうしても信じられない。あの論文をとほしてさへ陋劣な態度がすかし眺められる。黒岩氏の婦人に対する態度はまだ本当のものではない。まだ腰のすはり処がちがつてゐる。私は今此処に生憎その雑誌がないので具体的な例を挙げて云ふことは一寸出来ないが黒岩氏はまだ頑として男尊女卑の信条にかぢりついてゐられるのがはつきりわかつてゐる。もしあの問題が外国といふ対岸の出来ごとでなく自国のことゝなつたら恐らく黒岩氏は私刑を絶叫されるであらうと思はれる。局外者だから根拠は単純でも貧弱でも兎に角婦人側に同情が出来たのだ。若しその渦中に投じたら屹度あの根本にひそんでゐるものが頭を出すにきまつてゐる。若しも同氏が腹のどん底から婦人側に対して充分な尊敬と同情とを寄せ得らるゝならば何故また私たち日本婦人としての一番手近かな痛切な問題に対して考へてゐる者に向つて理解を有せられないのだらう。私たちはまだそれを他人にまで強ひてやしない。たゞ自分の問題として考へつゝあるのだ。何等運動の形に於ても現はれてはゐない。それに対してさへも世間一般の有象無象の何の根拠もない「うわさばなし」に乗せられて妙な見当ちがいなことばかり云つてゐる人たちに何で本当の理解が出来やう。それは丁度意地の悪い姑が他家の姑の嫁いびりの話を聞いて其嫁に同情するものと何の違ひもない。私たちには寧ろ滑稽にしか見えない。英国婦人連はそんな人達に同情されるのを本当によろこぶかどうか。猶なほ同氏のその論文についてはもつと具体的に書いて見たいと思つてゐる。 |
わたしは聞いたことがない 悩みのないまことの愛というものを。 世にもかぐわしい春の書物バラの花びらにも似た愛の心を 毛虫のように悩みは蝕む。 ――ミドルトン たいていの人は、年をとって青春の感受性を失ってしまったり、あるいは真実の愛情のない放埒な遊蕩生活をしたりして育つと、恋物語をあざわらい、恋愛小説を小説家や詩人の単なる虚構にすぎないと考えるものである。わたしは人間についていろいろと観察してみた結果、その反対だと考えるようになった。わたしの信ずるところでは、たとえ人間性の表面が浮世の苦労のために冷たく凍ってしまい、あるいは社交術によってただ無意味に微笑んでいるばかりになろうとも、眠っている火が、どんなに冷たい胸でもその奥にひそんでおり、一旦燃えあがれば、はげしく燃えさかり、ときには人を滅ぼすほどにもなるのだ。じじつ、わたしはあの盲目の神キューピッドの真の信者で、その教えるところをすべて信奉している。打ちあけて言えば、わたしは、人が失恋して心が傷つき、命を絶つことさえあると信ずるのだ。しかし、わたしはそのような恋わずらいが男性にとっては致命的になることが稀れだと思う。ただ、多くの美しい女性が、若くして力が萎え、そのためにあの世に旅立たなければならなくなるとかたく信ずるのである。 男は利害と野心との動物である。男は生れつきこの世界の闘争と喧騒とのなかに飛びこんでゆくようにできている。恋愛はただ青春時代の装飾か、あるいは人生劇の幕間に歌われる歌にすぎない。男は名声をもとめ、財産をもとめ、世間の人に重んじられようとし、ほかの人間を支配しようとする。しかし、女性の全生涯は愛の歴史である。心こそ彼女の世界である。そこにこそ女性の野心が絶対の支配権を得ようとし、そこにこそ女性の貪欲が隠れた財宝を探しもとめるのだ。女は愛情を危険にさらす。心の全てをかけて愛の貿易をする。そしてもし難破したら、絶望だ。心が破産したことになるのだから。 男にとっても恋愛に破れたときは、するどい苦しみをおこすこともあろう。やさしい感情が傷つけられ、未来の幸福な夢が吹きとばされる。しかし男は活動的な動物だ。さまざまな仕事の渦巻くなかにその思いをまぎらすこともできよう。享楽の流れに身を投ずることもできる。あるいはまた、もし痛手をうけた場所にいて苦しい思い出に耐えられないならば、望みにまかせて住居をかえることもできるし、いわゆる、あけぼのの翼に乗って、「地の果てにとびさり、やすきをうる」こともできる。 しかし、女性の生活は比較的固定し、世間ときりはなされており、瞑想的である。女はむしろ自分の感情や思索を友とする。もしそれが悲しみに支配されるようになったら、彼女はどこに慰めをもとめたらよかろう。女の運命は男に言い寄られ、男のものになることだ。もし女の恋が不幸に終ったとすれば、彼女の心は、占領され、掠奪され、放棄され、そして荒れるにまかされた砦に似ている。 いかに多くの輝かしい眼がくもり、いかに多くの柔かい頬に血の気が失せ、いかに多くの美しい姿が墓の中に消えていったことか。だが、なにがその美しさをそこなったのか、だれにもわからないのだ。鳩は翼をからだにひきよせ、急所にささった矢をおおいかくすが、それと同様に、女性も世間の眼から傷ついた愛の痛手をかくそうとする。可憐な女の恋はいつも内気で無言である。恋が叶ったときでも、ひとりそれをささやくことさえできないのだから、叶わぬときには、その恋は胸の奥ふかくに秘められて、今は廃墟となった心のうちでちぢこまり、さびしい思いに沈むのである。彼女の心の希望は消えさり、人生の魅力はなくなる。快い運動は心をたのしませ、脈搏を早くし、生命の潮を健康な流れにして血管に送りこむのだが、彼女は一切そういうことをしなくなる。休息もこわされる。睡眠がもたらす楽しい安息には陰鬱な夢が毒を注ぐ。「渇いた悲しみが女の血をすする」そしてついにはからだが衰え、ほんのわずかな外的な病傷をうければ滅びてしまうのだ。しばらくしてから、彼女の行方をさがして見れば、友だちが、彼女の時ならぬ墓に涙をそそいでいるだろう。そして、つい近ごろまで輝くほど健康で美しかった人が、こんなに急に「暗闇と蛆虫」の墓に運び去られたのを、いぶかしく思っているだろう。冬の寒さか、なにかふとした病いが彼女をたおしたのだ、ときかされるだろう。だが、その前に心の病が彼女の力を吸いとって、やすやすと彼女を死の犠牲にすることができるようにしたことはだれも知らないのだ。 彼女は森の木立が誇りとする若い美しい木のようだ。姿は優美で、葉は輝いている。しかし、虫がその心を食っているのだ。その木はいちばん生き生きとして勢いが盛んでなければならないときに、突然枯れてゆく。枝は地面にたれさがり、葉はばらばらおち、ついには力つきて、森じゅうの木がそよりともしないのに、倒れてしまうのだ。そして、わたしたちがこの美しいなきがらを眺めて、それを朽ち枯らした嵐か落雷を思いおこそうとしても、無駄なのである。 わたしが見た多くの実例では、女性が衰弱して自暴自棄になり、そして地上から次第に消えさってゆくのは、あたかも天にむかって発散してゆくかのようだった。そして、なん度もわたしが考えたのは、その人たちが死に到ったみちを後もどりして、肺病、風邪、衰弱、疲労、気鬱と推移をたどってゆけば、ついには最初の、失恋という徴候にゆきつけるということである。ところが、最近こういう実例を一つわたしは耳にした。そのいきさつは、それがおこった国ではよく知られているが、わたしは聞いたままに話してみよう。 だれでも、アイルランドの若い愛国の志士E――の悲劇的な物語をおぼえているだろう。その話は人の心を強く感動させ、とうていすぐに忘れることはできない。アイルランドの動乱のとき、彼は謀反のかどで裁判をうけ、有罪を宣告され、そして死刑に処せられた。彼の運命は深くひとびとの同情心を動かした。彼は若々しく、聡明でしかも寛大で、勇気にあふれ、人が青年はかくあれかしと思うすべてをそなえていた。彼の態度は裁判をうけているあいだも崇高で大胆だった。彼が祖国に対する反逆の嫌疑を拒否したときの高潔ないきどおり、みずからの名誉を擁護したときの滔々たる弁説。そして、罪を言いわたされた絶望の時に当って彼が後の世の人に訴えた悲愴なことば。こういったものはすべて、心の寛大な人の胸にふかく刻まれ、彼の敵でさえも、彼に死刑を命じた厳しい政策を嘆いたのだ。 ところが、ここに一つの心が、とうてい名状することができないほど苦しみ悩んでいた。E――は幸福で順境にあったころ、一人の美しい魅力的な少女の愛情をかちえたのだった。彼女は、今は亡くなった、ある有名なアイルランドの弁護士の娘だったが、乙女の初恋に似つかわしく、自分の利害など考えず熱烈に彼を愛していた。世間がすべて彼に反対し、非運にやぶれ、不名誉と危険とが彼の名に暗くつきまとうようになったとき、彼女は、苦しんでいる彼をいっそうはげしく愛した。彼の運命に敵方でさえも同情を寄せたのだとすれば、魂をすべて彼の面影に捧げていた彼女の苦しみはどんなだったろう。その苦しみがわかるのは、この世でいちばん愛した人と自分とのあいだに突然墓の戸をしめられてしまったひとびとだけだ。愛情にみちた美しい人が去っていった冷たいさびしいこの世に、一人閉め出されて、その墓の入口に坐ったことのあるひとびとだけなのだ。 それにしても、このような恐ろしい最期をとげるとは! あまりにも凄惨だ。ひどい屈辱だ。亡き人を思いおこして、死別の苦痛をやわらげるよすがとするものは何もない。痛ましいなかにも和やかな情景は何もなく、別れの場面をなつかしいものにしてくれるものはない。清らかな涙は、天上から送られた露のように、別離に苦しむときにも心に生をよみがえらせてくれるのだが、ここには悲しみを溶かして、そういう涙にしてくれるものは何もないのだ。 未亡人となった彼女の生活をさらにさびしくしたのは、この不幸な恋のために父の不興を蒙って、親の家から勘当されたことだった。しかし、もし友だちの同情と親切な心づくしが、この、恐怖でたたきのめされた心にとどいていたならば、彼女はいくぶんなぐさめられたにちがいない。アイルランド人は、感受性がするどく、しかも寛大なのだから。彼女は、やさしく、いつくしみ深い世話を富豪や名望家から受けた。彼らは彼女を交際社会に招きいれ、さまざまな仕事や娯楽をあたえて、彼女の悲しみをまぎらそうとつとめ、悲劇に終った恋の物語から彼女を引きはなそうと手をつくした。しかし、それはすべて無駄であった。この世には、魂をそこない焼きつくしてしまう悲惨な打撃があるのだ。それは、幸福の根もとまでつきとおし、枯らしてしまい、ふたたび蕾をもち花を咲かすことはできないようにしてしまうのだ。彼女はさからいもせずに娯楽の場所によく出ていった。だが、そこでも彼女はぽつねんとして、孤独の淵に沈んでいるかのようだった。悲しい幻想にふけりながら、あちこち歩きまわり、まるで周囲の世界には気がつかないようだった。彼女の心の中には悲哀があり、それが友だちのやさしい言葉をも受けいれず、「彼女に言いよる人が、いかにたくみに笛を吹こうとも、耳をかたむけようともしなかった」のだ。 わたしに彼女の話をしてくれた人は、ある仮装舞踏会で彼女を見たことがあった。絶望的な惨めさは、こういう場所で見ると、もっともおそろしく痛々しく見えるものだ。幽霊のようにさまよい、まわりはみな陽気だというのに、さびしく、うれいに満ちている。装いははなやかだが、その物腰はいかにも力なく悲しげだった。みじめな心を欺いて、瞬時でも悲しみを忘れようとこころみたが、空しく終ったというようである。彼女はまったく茫然自失のありさまで、豪奢な部屋を通り、着飾った人々のあいだをぶらぶら歩いてゆき、とうとう奏楽席の階段に腰かけて、しばらくあたりを見まわしていたが、眼はうつろで、その場の華美な光景には無感覚であることがわかった。やがて彼女は病める心の気まぐれにものがなしい曲を歌いはじめた。彼女の声は精妙だった。だが、このときはほんとうに素朴で、いかにも心に迫るようだったし、痛んだ魂がにじみでていたので、彼女の周囲に引きつけられたひとびとは黙然として声をのみ、ひとりとして涙にかきくれないものはなかった。 こんなに清純で可憐な人の物語が、名に負う熱情的な国で、ひじょうな関心をかきたてないはずはなかった。この話に、ある勇敢な軍人が深く心を動かされ、彼女に結婚を申しこんだ。彼の考えでは、故人に対してこんなに真実な人ならば、もちろん生きている人には愛情がこまやかにちがいないということだった。彼女は彼の求婚を拒んだ。彼女の胸は、むかしの恋人の思い出でいっぱいになっていて、どうすることもできなかったのである。しかし、彼は熱心に求婚をつづけた。彼は相手の愛情をもとめず、尊敬を求めた。彼女が彼の立派な人格を信じていたことと、彼女が友人の親切によって生きている、つまり自分が不如意で、人に頼っているのだということを感じていたことは彼にとって好都合であった。ひとことでいえば、彼はついに彼女と結婚することができた。しかし、彼は、彼女の心が今も変りなく別の人のものだということを痛ましくも知っていた。 彼は彼女を連れてシシリーへ行き、場所がかわれば、むかしの悲しみも思い出さなくなるだろうと思った。彼女は愛らしい立派な妻となり、また、つとめて幸福な妻になろうとした。だが、黙々として心をむしばむ憂愁は彼女の魂のなかにはいりこんでしまっていて、何ものもそれを癒すことはできなかった。彼女は望みのない病に侵され次第にやつれ、ついに傷心の犠牲となって他界した。 有名なアイルランドの詩人モアが詠んだ次の詩は、彼女のことをうたったものである。 若い勇士が眠る国から彼女は遠くはなれている。 想いを寄せるものたちは彼女をかこみ、慕いよるが、 彼女は冷たく彼らの眼をさけて泣く。 その心は彼の墓の中にあるのだ。 彼女は懐しい故里の野の歌を口ずさむ、 ありし日の彼が愛した調べを。 ああ、その歌をきいて喜ぶものは 歌う人の心が千々にくだけるのを知らぬ。 彼は恋に生き、国のために死んだ。 恋と祖国が彼をこの世に結んでいたのだ。 国びとの涙はすぐには乾かず、 恋人はすぐに彼のあとを追うだろう。 おお、日の光が休むところに彼女の墓をつくれ、 夕日の光が輝くあすを約束するとき。 日は、西方から微笑みのように、彼女の眠りの上に輝くだろう。 |
一 年紀は少いのに、よっぽど好きだと見えて、さもおいしそうに煙草を喫みつつ、……しかし烈しい暑さに弱って、身も疲れた様子で、炎天の並木の下に憩んでいる学生がある。 まだ二十歳そこらであろう、久留米絣の、紺の濃く綺麗な処は初々しい。けれども、着がえのなさか、幾度も水を潜ったらしく、肘、背筋、折りかがみのあたりは、さらぬだに、あまり健康そうにはないのが、薄痩せて見えるまで、その処々色が褪せて禿げている。――茶の唐縮緬の帯、それよりも煙草に相応わないのは、東京のなにがし工業学校の金色の徽章のついた制帽で、巻莨ならまだしも、喫んでいるのが刻煙草である。 場所は、言った通り、城下から海岸の港へ通る二里余りの並木の途中、ちょうど真中処に、昔から伝説を持った大な一面の石がある――義経記に、…… 加賀国富樫と言う所も近くなり、富樫の介と申すは当国の大名なり、鎌倉殿より仰は蒙らねども、内々用心して判官殿を待奉るとぞ聞えける。武蔵坊申しけるは、君はこれより宮の越へ渡らせおわしませ―― とある……金石の港で、すなわち、旧の名宮の越である。 真偽のほどは知らないが、おなじ城下を東へ寄った隣国へ越る山の尾根の談義所村というのに、富樫があとを追って、つくり山伏の一行に杯を勧めた時、武蔵坊が鳴るは滝の水、日は照れども絶えずと、謡ったと伝うる(鳴は滝)小さな滝の名所があるのに対して、これを義経の人待石と称うるのである。行歩健かに先立って来たのが、あるき悩んだ久我どのの姫君――北の方を、乳母の十郎権の頭が扶け参らせ、後れて来るのを、判官がこの石に憩って待合わせたというのである。目覚しい石である。夏草の茂った中に、高さはただ草を抽いて二三尺ばかりだけれども、広さおよそ畳を数えて十五畳はあろう、深い割目が地の下に徹って、もう一つ八畳ばかりなのと二枚ある。以前はこれが一面の目を驚かすものだったが、何の年かの大地震に、坤軸を覆して、左右へ裂けたのだそうである。 またこの石を、城下のものは一口に呼んで巨石とも言う。 石の左右に、この松並木の中にも、形の丈の最も勝れた松が二株あって、海に寄ったのは亭々として雲を凌ぎ、町へ寄ったは拮蟠して、枝を低く、彼処に湧出づる清水に翳す。…… そこに、青き苔の滑かなる、石囲の掘抜を噴出づる水は、音に聞えて、氷のごとく冷やかに潔い。人の知った名水で、並木の清水と言うのであるが、これは路傍に自から湧いて流るるのでなく、人が囲った持主があって、清水茶屋と言う茶店が一軒、田畝の土手上に廂を構えた、本家は別の、出茶屋だけれども、ちょっと見霽の座敷もある。あの低い松の枝の地紙形に翳蔽える葉の裏に、葦簀を掛けて、掘抜に繞らした中を、美しい清水は、松影に揺れ動いて、日盛にも白銀の月影をこぼして溢るるのを、広い水槽でうけて、その中に、真桑瓜、西瓜、桃、李の実を冷して売る。…… 名代である。 二 畠一帯、真桑瓜が名産で、この水あるがためか、巨石の瓜は銀色だと言う……瓜畠がずッと続いて、やがて蓮池になる……それからは皆青田で。 畑のは知らない。実際、水槽に浸したのは、真蒼な西瓜も、黄なる瓜も、颯と銀色の蓑を浴びる。あくどい李の紅いのさえ、淡くくるくると浅葱に舞う。水に迸る勢に、水槽を装上って、そこから百条の簾を乱して、溝を走って、路傍の草を、さらさらと鳴して行く。 音が通い、雫を帯びて、人待石――巨石の割目に茂った、露草の花、蓼の紅も、ここに腰掛けたという判官のその山伏の姿よりは、爽かに鎧うたる、色よき縅毛を思わせて、黄金の太刀も草摺も鳴るよ、とばかり、松の梢は颯々と、清水の音に通って涼しい。 けれども、涼しいのは松の下、分けて清水の、玉を鳴して流るる処ばかりであろう。 三間幅――並木の道は、真白にキラキラと太陽に光って、ごろた石は炎を噴く……両側の松は梢から、枝から、おのが影をおのが幹にのみ這わせつつ、真黒な蛇の形を畝らす。 雲白く、秀でたる白根が岳の頂に、四時の雪はありながら、田は乾き、畠は割れつつ、瓜の畠の葉も赤い。来た処も、行く道も、露草は胡麻のように乾び、蓼の紅は蚯蚓が爛れたかと疑われる。 人の往来はバッタリない。 大空には、あたかもこの海の沖を通って、有磯海から親不知の浜を、五智の如来へ詣ずるという、泳ぐのに半身を波の上に顕して、列を造って行くとか聞く、海豚の群が、毒気を吐掛けたような入道雲の低いのが、むくむくと推並んで、動くともなしに、見ていると、地が揺れるように、ぬッと動く。 見すぼらしい、が、色の白い学生は、高い方の松の根に一人居た。 見ても、薄桃色に、また青く透明る、冷い、甘い露の垂りそうな瓜に対して、もの欲げに思われるのを恥じたのであろう。茶店にやや遠い人待石に―― で、その石には腰も掛けず、草に蹲って、そして妙な事をする。……煙草を喫むのに、燐寸を摺った。が、燃さしの軸を、消えるのを待って、もとの箱に入れて、袂に蔵った。 乏しい様子が、燐寸ばかりも、等閑になし得ない道理は解めるが、焚残りの軸を何にしよう…… 蓋し、この年配ごろの人数には漏れない、判官贔屓が、その古跡を、取散らすまい、犯すまいとしたのであった―― 「この松の事だろうか……」 ――金石の湊、宮の腰の浜へ上って、北海の鮹と烏賊と蛤が、開帳まいりに、ここへ出て来たという、滑稽な昔話がある―― 人待石に憩んだ時、道中の慰みに、おのおの一芸を仕ろうと申合す。と、鮹が真前にちょろちょろと松の木の天辺へ這って、脚をぶらりと、 「藤の花とはどうだの、下り藤、上り藤。」と縮んだり伸びたり。 烏賊が枝へ上って、鰭を張った。 「印半纏見てくんねえ。……鳶職のもの、鳶職のもの。」 そこで、蛤が貝を開いて、 「善光寺様、お開帳。」とこう言うのである。 鉈豆煙管を噛むように啣えながら、枝を透かして仰ぐと、雲の搦んだ暗い梢は、ちらちらと、今も紫の藤が咲くか、と見える。 三 「――あすこに鮹が居ます――」 とこの高松の梢に掛った藤の花を指して、連の職人が、いまのその話をした時は…… ちょうど藤つつじの盛な頃を、父と一所に、大勢で、金石の海へ……船で鰯網を曵かせに行く途中であった…… 楽しかった……もうそこの茶店で、大人たちは一度吸筒を開いた。早や七年も前になる……梅雨晴の青い空を、流るる雲に乗るように、松並木の梢を縫って、すうすうと尾長鳥が飛んでいる。 長閑に、静な景色であった。 と炎天に夢を見る様に、恍惚と松の梢に藤の紫を思ったのが、にわかに驚く! その次なる烏賊の芸当。 鳶職というのを思うにつけ、学生のその迫った眉はたちまち暗かった。 松野謹三、渠は去年の秋、故郷の家が焼けたにより、東京の学校を中途にして帰ったまま、学資の出途に窮するため、拳を握り、足を爪立てているのである。 |
素姓 中学時代の同窓にNという頭のいい男がいた。海軍少尉のとき、肺を病つて夭折したが、このNの妹のK子が私の妻となつた。 妻の父はトルストイにそつくりの老人で税務署長、村長などを勤め、晩年は晴耕雨読の境涯に入り、漢籍の素養が深かつた。 私の生れは四国のM市で、妻の生れは同じ市の郊外である。そして彼女の生家のある村は、同時に私の亡き母の実家のある村である。だから、私が始めて私の妻を見たのはずいぶんふるいことで、多分彼女が小学校の五年生くらいのときではなかつたかと思う。 健康その他 結婚以来、これという病気はしないが、娘時代肺門淋巴腺を冒されたことがあるので少し過労にわたると、よく「背中が熱くなる」ことを訴える。戦争中は激しい勤労奉仕が多く、ことに私の家では亭主が病んでいるため隣組のおつき合いは残らず妻が一手に引受けねばならず、見ていてはらはらするようなことが多かつた。家の中でどんなむりをしても外へのお義理を欠くまいとする妻は激しい勤労のあとでは決つて二、三日寝込んだ。こんなふうでは今にまいつてしまうぞと思つているうち、妻より先に日本のほうがまいつてしまつた。 身長は五尺二寸ばかり。女としては大がらなほうである。 きりようは――これは褒めても、くさしても私の利益にならない。といつて黙つているのも無責任である。だが――考えてみると妻もすでに四十四歳である。彼女の鬢に霜をおく日もあまり遠い先ではなさそうである。してみれば、私が次のようにいつても、もうだれもわらう人はあるまい。すなわち、「若いころの彼女は、今よりずつとずつと美しかつた」と。 主婦として まず経済。家計のことはいつさい任してあるが決してじようずなほうではない。といつてむだ費いもしない。ときに亭主に黙つて好きな陶器や家具を買うくらいが関の山である。家計簿はつけたことがない。私がどんなにやかましくいつても頑として受け付けない。そういうことはできない性分らしい。近ごろではこちらが根負けして好きにさせてある。結婚当時の私の定収入は月百円、シナリオを年に二、三本書いて、それが一本二百円くらいの相場だつたから、どうやらやつては行けたが、彼女の衣類が質屋に行つたことも一、二度あつた。昭和八、九年ごろから十三年ごろまでは一番楽な時代で、この間はずつと八百円くらいの月収があつたから、保険をかけ、貯金をし、家具を備え、衣類を買うことができた。 昭和十三年に私が発病してからは彼女の御難時代で、ことに現在では当時の半分しか収入がないうえに、物価が百倍にもなつたため貯金を費い果し、保険を解約して掛金を取りもどしたりしたが、それもほとんどなくなつた。昨年の秋からは、妻にも明らかに栄養失調の徴候が現われ始めた。要するに、現在は妻にとつて結婚以来もつとも苦難の激しい時である。 育児。確かに熱心ではある。しかし、女性の通有性として偏執的な傾向が強く、困ることも多い。勉強などではとかく子供をいじめすぎる。もつともこれはどこの母親も同じらしい。去年の春、子供が潁才教育の試験を受けたときなどは心痛のあまり病人のようになつてしまつたのには驚いた。どうも母親の愛情は父親の愛とは本質的に違うようだ。食糧事情が窮迫してからは、ほかからどんなに説教しても自分が食わないで子供に食わせる。そして結局からだを壊してしまう。理窟ではどうにもならない。 裁縫。きらいである。そのかわり編物は好きらしい。それにミシンがあるので子供のものだけは家で片づいてゆくが、大人のものはよそへ出す。それでいて裁縫がへたではない。一度妻の縫つたものを着ると、他で縫わせたものはとても着られないくらいだ。ただあまり丁寧な仕事をするため、時間がおびただしくかかり肩がこるらしい。 掃除と整理。これはもう極端に偏執的である。たとえば自分の好きな所はピカピカ光るほど磨き上げるが、興味のない所は何年もほこりが積み放しになつている。家の中のある部分は神経病的に整然と物が並び、だれかが彼女のるすにホンの一ミリほど品物を動かしてもすぐに気づいてしまう。そのかわり、いつも手のつけようもないほどむちやくちやにものが突つ込んである所が家の中に一、二カ所は必ずある。 妻のもののしまい方は普通の世間並とは大分違う。普通の人なら大概たんすにしまう品が食器棚にはいつていたり、流しの棚にあるはずのものが冷蔵庫にしまつてあつたりする。だから彼女の不在中にものを探しあてることはほとんど絶望である。探す以上は一応我々の常識と因襲を全部脱ぎ棄てて、白紙にかえつて探さねばならぬが、そんなことは容易にできることではない。次に、彼女の物の置き方、並べ方はことごとく彼女の抱いている美の法則によつて支配されているので、実用上の便宜というものは一切無視される。どんな不便を忍んでも彼女は自分の美を守り通そうとする。ときに私が抗議を申し込んでみてもとうていむだである。 料理。結婚当初の半年くらいは、晩飯の食卓に料理が十品くらい並んでいた。ほかに何もすることがないので、私の働いている間中、晩飯のこしらえばかりやつていたのである。しかし、いつのまにか、だんだん品数が減つて、子供の世話に追われるころには「今日は沢庵だけよ」などということになつてしまつた。その子供も今は手が抜けて、妻はふたたび豪華な食卓を飾りたくてたまらないのであろうが、いかにせん、何も材料がなく、あつても買えなくなつてしまつた。 妻の料理の中で最もうまいのは、何といつても郷土風のちらし寿司である。季節は春に止めを刺すので、材料はたい、にんじん、たけのこ、ふき、さやえんどう、しいたけ、玉子焼、紅しようが、木の芽などである。 洋風のものではフランス料理を二つ三つ聞きかじつて知つている。ただし、おでんと天ぷらだけは亭主のほうが造詣が深い。 趣味 まず衣服であるが、全部和装ばかりで数もごくわずかしかない。洋装は何か妻の空気と合わないような気がする。当人も「私が洋服を着たらモルガンお雪みたいになるでしよう」と言つている。このモルガンお雪というのはたしかに感じが出ている。着物はほとんど全部私が見立てて買つたものばかりだ。もちろんどれも十年も前に買つたものばかりであるが、いま取り出してもまだ渋いようなものが多い。帯は二本か三本しかない。そのうちの一本は私が描いてやつたものである。絵は梅の絵で、右肩に『唐詩選』の句が賛にはいつている。それがちようどお太鼓の所一ぱいに出る。地は黒じゆすで顔料は油絵具のホワイトを少しクリーム色に殺して使い、筆は細い日本筆を用いた。 妻はよほどこの帯が気にいつたとみえて、十年ほど、どこへ行くにもこれ一本で押し通したため、しまいには絵具が剥げて法隆寺の壁画のようになつてきた。それで五、六年前に新しく描き直してやつた。だから今のは二代目である。いつたい、妻は着物はねだらないほうである。着物はかまわないから家具を買つてくれという。好きな家具や調度を磨いたり眺めたりするのが唯一の道楽のようである。 今までに彼女をもつともひきつけたのは宮沢賢治で、今も宮沢賢治一点ばりである。別に芸術価値がどうというのではなく「こんな心の綺麗な人はいない」といつて崇拝しているのである。 その他で一番おもしろがつたのは『シートン動物記』で、これは六冊息もつがずに読んでしまつた。 映画。映画はあまり好きではない。たまに亭主の作品でも出ると見に行くこともあるが、行かないこともある。その他はほとんど見ないようだ。いつか原節子が見舞いに寄つたとき、玄関に出て「どなたですか」ときいたくらいだから、その映画遠いこと推して知るべしである。 行儀 行儀、ことにお作法はむちやである。ねている亭主のところに来て、立つたまま話をする。枕の覆いを洗濯するとき、黙つていきなり私の頭の下から枕を引き抜く。私の頭は不意に三寸ばかり落下する。朝掃除に部屋へはいつて来ると、まずそこらの畳の上にほうきをバタンと投げ出して、いきなりパタパタとはたきをかけ始める。これで娘時代相当にお茶をやつたというのだから、あきれる。そして、彼女の言葉はまたそのお作法に負けないくらいにものすごい。彼女の語彙の中には敬語というものがいたつて乏しい。しかし、来客に対しては何とかごまかして行くが、私と差し向かいになつたら全然もういけない。 私は何とかしてこれを直そうと思い、数年間執念に戦つてみたが、遂に何の効もなく、これも結局こちらが根負けしてしまつた。考えてみると、何とかして妻を自分の思うように変えてみたいという気持ちが私にある間、私の家ではあらそいの絶え間がなかつた。しかし、そのようなことは所詮人間の力でできることではないと悟つてからはむだな努力を抛棄したから、今ではほとんどけんかがなくなつてしまつた。 つまり、亭主というものは、妻をもらうことはできるが、妻を作ることはできないものらしい。 |
一 旅は此だから可い――陽氣も好と、私は熟として立つて視て居た。 五月十三日の午後である。志した飯坂の温泉へ行くのに、汽車で伊達驛で下りて、すぐに俥をたよると、三臺、四臺、さあ五臺まではなかつたかも知れない。例の梶棒を横に見せて並んだ中から、毛むくじやらの親仁が、しよたれた半纏に似ないで、威勢よくひよいと出て、手繰るやうにバスケツトを引取つてくれたは可いが、續いて乘掛けると、何處から繰出したか――まさか臍からではあるまい――蛙の胞衣のやうな管をづるりと伸ばして、護謨輪に附着けたと思ふと、握拳で操つて、ぶツ〳〵と風を入れる。ぶツ〳〵……しゆツ〳〵と、一寸手間が取れる。 蹴込へ片足を掛けて待つて居たのでは、大に、いや、少くとも湯治客の體面を損ふから、其處で、停車場の出口を柵の方へ開いて、悠然と待つたのである。 「ちよツ、馬鹿親仁。」と年紀の若い、娑婆氣らしい夥間の車夫が、後歩行をしながら、私の方へずつと寄つて來て、 「出番と見たら、ちやんと拵ツて置くが可いだ。お客を待たして、タイヤに空氣を入れるだあもの。……馬鹿親仁。」と散溢れた石炭屑を草鞋の腹でバラリと横に蹴つて、 「旦那、お待遠樣づらえ。」何處だと思ふ、伊達の建場だ。組合の面にかゝはる、と言つた意氣が顯れる。此方で其の意氣の顯れる時分には、親仁は車の輪を覗くやうに踞込んで、髯だらけの唇を尖らして、管と一所に、口でも、しゆツ〳〵息を吹くのだから面白い。 さて、若葉、青葉、雲いろ〳〵の山々、雪を被いだ吾妻嶽を見渡して、一路長く、然も凸凹、ぐら〳〵とする温泉の路を、此の親仁が挽くのだから、途中すがら面白い。 輕便鐵道の線路を蜿々と通した左右の田畑には、ほの白い日中の蛙が、こと〳〵、くつ〳〵、と忍笑ひをするやうに鳴いた。 まだ、おもしろい事は、――停車場を肱下りに、ぐる〳〵と挽出すと、間もなく、踏切を越さうとして梶棒を控へて、目當の旅宿は、と聞くから、心積りの、明山閣と言ふのだと答へると、然うかね、此だ、と半纏の襟に、其の明山閣と染めたのを片手で叩いて、飯坂ぢやあ、いゝ宿だよと、正直を言つたし。――後に、村一つ入口に樹の繁つた、白木の宮、――鎭守の社を通つた。路傍に、七八臺荷車が、がた〳〵と成つて下り居て、一つ一つ、眞白な俵詰の粉を堆く積んだのを見た時は…… 「磨砂だ、磨砂だ。」と氣競つて言つた。―― 「大層なものだね。」 實際、遠く是を望んだ時は――もう二三日、奧州の旅に馴れて山の雪の珍しくない身も、前途に偶と土手を築いて怪しい白氣の伏勢があるやうに目を欹てたのであつた。 二 荷車挽は、椿の下、石燈籠の陰に、ごろ〳〵休んで居る。 「飯坂の前途の山からの、どん〳〵と出ますだで。――いゝ磨砂だの、これ。」と、逞しい平手で、ドンと叩くと、俵から其の白い粉が、ふツと立つ。 ぱツと、乘つて居るものの、目にも眉にもかゝるから、ト帽子を傾けながら、 「名ぶつかい。」 「然うで、然うで、名ぶつで。」と振向いて、和笑としながら、平手で又敲いて、續けざまにドン〳〵と俵を打つと、言ふにや及ぶ、眞白なのが、ぱつ〳〵と立つ――東京の埃の中で、此の御振舞を一口啖つては堪まらない。書肆へ前借に行く途中ででもあつて見たが可い、氣の弱い嫁が、松葉で燻されるくらゐに涙ぐみもしかねまい。が、たとへば薄青い樹の蔭の清らかなる境内を、左に、右には村の小家に添つて、流れがさら〳〵と畔を走る。――杜若が、持ぬしの札も立たずに好きなまゝ路傍の其の細流に露を滴らして居るのである。 親仁の掌は陽炎を掴んで、客は霞を吸ふやうであつた。 雨も露も紫に、藍に、絞りに開く頃は、嘸ぞと思ふ。菖蒲、杜若は此處ばかりではない、前日――前々日一見した、平泉にも、松島にも、村里の小川、家々の、背戸、井戸端、野中の池、水ある處には、大方此のゆかりの姿のないのはなかつた。又申合はせたやうに牡丹を植てゐる。差覗く軒、行きずりの垣根越、藏の廂合まで、目に着けば皆花壇があつて、中には忘れたやうな、植棄てたかと思ふ、何の欲のないのさへ見えて、嚴しく靜かな葉は、派手に大樣なる紅白の輪を、臺を、白日に或は抱き或は捧げて居た。が、何となく、人よりも、空を行く雲が、いろ〳〵の影に成つて、其の花を覗めさうな、沈んだ寂しい趣の添つたのは、奧州の天地であらう。 此は……しかし、菖蒲、杜若は――翌日、湯の山の水を處々見た、其處にも、まだ一輪も咲かなかつた。蕾んだのさへない。――盛は丁ど一月おくれる。……六月の中旬だらうと言ふのである。たゞ、さきに、伊達の停車場を出て間もなく踏切を越して、しばらくして、一二軒、村の小家の前に、細い流に一際茂つて丈ののびたのがあつて、すつと露を上げて薄手ながら、ふつくりとした眞新しい蕾を一つ見た。白襟の女の、後姿を斜に、髷の紫の切を、ちらりと床しく見たやうな思ひがした。―― 其の、いま、鎭守の宮から――道を横ぎる、早や巖に水のせかるゝ、……音に聞く溪河の分を思はせる、流の上の小橋を渡ると、次第に兩側に家が續く。――小屋が藁屋、藁屋茅屋が板廂。軒の數、また窓の數、店の數、道も段々に上るやうで、家並は、がつくりと却つて低い。軒は俯向き、屋根は仰向く。土間はしめつて、鍛冶屋が驟雨、豆府屋が煤拂をするやうな、忙しく暗く、佗しいのも少くない。 猿が、蓑着て向ひの山へ花をりに行く童謠に、 一本折つては腰にさし、 二本折つては蓑にさし、 三枝、四枝に日が暮れて。 彼方の宿へ泊らうか。 此方の宿へ泊らうか。 彼方の宿は雨が漏る、 此方の宿は煤拂で…… と唄ふ……あはれさ、心細さの、謠の心を思ひ出す。 三 二階が、また二階が見える。黒い柱に、煤け行燈。木賃御泊宿――内湯あり――と、雨ざらしに成つたのを、恁う……見ると、今めかしき事ながら、芭蕉が奧の細道に…… 五月朔日の事也。其夜、飯坂に宿る。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土座に筵を敷いて、あやしき貧家なり。灯もなければ、ゐろりの火影に寢所を設けて云々。――雨しきりに降て臥る上よりもり、 と言ふのと、三百有餘年を經て、あまり變りは無ささうである。 と眗す顏を、突然、燕も蝙蝠も飛ばずに、柳のみどりがさらりと拂ふと、其の枝の中を掻潛るばかり、しかも一段づいと高く、目が覺めるやうな廣い河原を下に、眞蒼な流の上に、鋼鐵の欄干のついた釣橋へ、ゆら〳〵と成つて、スツと乘つた。 行燈部屋を密と忍んで、裏階子から、三階見霽の欄干へ駈上つたやうである。 ……しばらく、行燈部屋、裏階子、三階見霽の欄干と言ふのは、何の、何處の事だとお尋ねがあるかも知れない。 いや、實は私も知らん。――此は後で、飯坂の温泉で、おなじ浴槽に居た客同士が、こゝなる橋について話して居たのを、傍聞きしたのである。 唯見ると、渡過ぐる一方の岸は、目の下に深い溪河――即ち摺上川――の崖に臨んで、づらりと並んだ温泉の宿の幾軒々々、盡く皆其の裏ばかりが……三階どころでない、五階七階に、座敷を重ね、欄干を積んで、縁側が縱に繞り、階子段が横に走る。…… |
復啓、以前は夕方に燈火のつく頃と、夜が段々更けて十二時が過ぎ、一時となり一時半となる頃が此上なき樂しきものに候ひしが、近頃はさる事も無御座候。樂しき時刻といふもの何日よりか小生には無くなり候、拂曉に起き出でて散歩でもしたら氣が清々するかと存じ候へども、一度も實行したことはなし、何か知ら非常に急がしき事の起り來るを待設くる樣の氣持にて、其日々々を意氣地なく送り居候、然し、強ひて言へば、小生にも三つの樂しき時刻(?)あり、一つは毎日東京、地方を合せて五種の新聞を讀む時間に候、世の所謂不祥なる出來事、若くは平和ならざる事件の多ければ多き程、この世がまだ望みある樣にて何がなく心地よく、一つは尾籠なお話ながら、雪隱に入つてゐる時間にて誰も見る人なければ身心共に初めて自由を得たる如く心落付き候、これらも樂しみといはゞ樂しみなるべきか、殘る一つは日毎に電車にて往復する時間に候、男らしき顏、思切つた事をやりさうな顏、底の知れぬ顏、引しまりたる顏、腹の大きさうな顏、心から樂しさうな顏、乃至は誇らしげなる美人、男欲しさうな若き女などの澤山乘合せたる時は、おのづから心樂しく、若しその反對に擧措何となく落付きがなく、皮膚の色唯黄にて、如何にも日本人らしき人のみなる時は日本人と生れたる此身つくづくいやに成り候。早々 |
誰にあてるともなくこの私信を書き連らねて見る。 信州の山の上にあるK驛に暑さを避けに來てゐる人は澤山あつた。彼等は思ひ〳〵に豐な生活の餘裕を樂んでゐるやうに見えた。さはやかな北海道の夏を思はせるやうなそこの高原は、實際都會の苦熱に倦み疲れた人々を甦らせる力を十分に持つてゐた。私の三人の子供達――行夫、敏夫、登三――も生れ代つたやうな活溌な血色のいゝ子達になつてゐた。彼等は起きぬけに冷水浴をすまして朝飯を食ふと、三人顏を寄せて事々しく何か相談しながら家を出て行くのだ。暫らくして私がベランダの手欄から眼の下に四五町程離れて見える運動場を見下すと、そこに三人はパンの子のやうに自然の中にまぎれ込んで、何かゝにか人手も借らずに工夫した遊戲に夢中になつてゐる。三人が一塊になつて砂ほじりでもしてゐるかと思ふと、テニス・コートをてん〴〵ばら〳〵に駈け𢌞つて、腹を抱へて笑ひ合ふ姿も見える。その濁りけのない高い笑聲が乾燥した空氣を傳つて手に取るやうに私まで屆く。母のない子のさういふはしやいだ樣子を見てゐると、それは人を喜ばせるよりも悲しくさせる。彼等の一擧一動を慈愛をこめてまじろぎもせず見守る眼を運命の眼の外に彼等は持たないからだ。而して運命の眼は、何時出來心で殘忍な眼に變らないかを誰が知り得よう。 晝飯が終ると三人は又手に〳〵得物を持つて出かけて行く。夕餉の膳に對して彼等の口は際限もなく動く。而して夜が彼等を丸太のやうに次ぎの朝まで深い眠りに誘ひ込む。 こゝで私は彼等と共にその母の三周忌を迎へた。私達は格別の設けもしなかつた。子供達は終日を事もなげに遊び暮した。その夕方偶然な事で私達四人は揃つて寫眞を撮つて貰ふ機會が與へられた。そんな事が私には不思議に考へられる程その一日は事なく暮た。 かうして暮して行くのは惡くはなかつた。然し私は段々やきもきし出した。K驛に來てから私はもう二十日の餘を過ごしてゐた。氣分が纏らない爲めにこれと云つてする仕事もなく一日々々を無駄に肥りながら送つて行く事が如何しても堪へられなくなつた。私は東京の暑さを思つた。せめてその暑さに浸つて生活しよう。而してその暑さと戰ひながら少しでも仕事らしい仕事をしてのけよう。こんな事をして暮してゐては戸棚の中に仕舞ひこまれた果物のやうに腐つてしまふに違ひない。早く歸らう。さうだん〳〵思ひつめて來ると、私はもう我慢にもそこに居殘る氣がなくなつた。 で、私は母に手紙をやつて早く山の方に來て入れかはつてくれるやうに頼んだ。然し母は私を休ませてやらうと云ふ心持ちから、自分は暑さには少しも恐れないからと云つて、容易に動きさうな樣子を見せなかつた。その心持ちを推してはゐながら私は矢も盾もたまらなかつた。母は遂に我を折つて八月の十三日は行つてもいゝと書き送つて來た。 私はすぐその前夜の夜中の一時七分の汽車で東京に歸る決心をしてしまつた。母は十三日の夜か十四日の朝でなければK驛には着き得ない。その間子供達を女中の手ばかりに任せておくのは可哀さうでも、心配でもあつたが、私の逸る心はそんな事をかまつてゐられなかつた。それ程私は氣ぜはしくなつてゐた。 發つといふ朝、私は極氣輕にその事を子供達に云ひ知らせた。三人は別に氣に留る風もなくそれを聞いて、いつものやうに小躍りするやうにはしやいで戸外に出かけて行つた。私は二階に上つて、讀みかけてゐた書物を忙はしく讀み終らうとしたり、怠つてゐた手紙の返事を書いたり、身のまはりの物をまとめたりした。夕方になると思ふ存分散けておいた私の部屋も物淋しい程きちんと片付いてしまつてゐた。人手を借りずにそんな事をするのに私はもう慣れてゐたけれども、痩せ細つたやうにがらんとなつた部屋の中を見𢌞すと妙に私の心はしんみりした。 夕方になるとがや〳〵云ひながら子供達はベランダの階子段を上つて來た。私は急いで階下に行つた。非常に神經質で、如何かすると恐ろしく不機嫌になり勝ちな八歳の行夫は、私を見付けると「パパ」と大きな聲を出して、普段通りその日出遇つた珍談を聞かさうとするやうだつたが、私を見るといきなり少し詰るやうな顏付きをして、 「パパは今日東京に歸るの」 と云つた。敏夫は割合に平氣な顏で、今朝の私の言葉は忘れてしまつてゞもゐるやうに、 「何時で歸るの」 と云つた。行夫はすぐ嵩にかゝつて、 「敏ちやん何云つてるのよ、夜中の汽車だつて今朝パパが仰有つたのに、ねえパパ」 と少し意地惡く敏夫を見やつた。敏夫は眼を大きく見張つたまゝそつぽを向いて、子供が泣く前に見せるやうな表情をした。それは兄からやりこめられた時に敏夫がいつでもする癖だつた。いつでも一人で遊び慣れた登三は二人の兄には頓着なく、鼻唄か何か歌ひながら、臺の下に身を丸めて翫具を一生懸命に仕舞つてゐた。 夕餉を仕舞つてから行夫は段々不安さうな顏をしはじめた。四人で湯に這入る頃には、永い夏の日もとつぷりと暮てゐた。久し振で私と一緒に湯をつかつた彼等は、湯殿一杯水だらけにしてふざけ𢌞した。然しその中にもどこか三人の心には淋しさうな處が見えた。それは私の心が移るのかも知れないと思ふと私はわざと平氣を裝つて見せた。而して彼等と一緒に湯のぶつかけつこをしたり、湯の中に潛つたりした。それでも私達は妙にはづまなかつた。 町からは十町も離れた山懷ろに建てられた私の家は、夜が來ると共に蟲の聲ばかりになつてしまつてゐた。客間と居間と食堂とを兼ねたやうな大テーブルのある一間に私達は着物を着てから集まつた。子供達は伊太利ネルの白い寢衣を裾長に着てよろけ〳〵這入つて來た。 「パパ」 と鼻聲で云つて先づ行夫が私に凭れかゝつて來た。 「汽車が來る時までパパは寢るの……何處で寢るの」 「荷物はどうして持つて行くの」 「若しパパが眼が覺めなかつたら、汽車に乘りおくれるぢやないの」 などゝ子供によくある執念さで詰るやうに聞きたゞし始めた。敏夫も登三も默つてはゐなかつた。私は三人に頭をまかれたり、膝に登られたり、耳を引張られたりしながら、出來るだけ安心するやうに彼れ是れと云ひ聞かした。 見るともう就寢の時間は既に過ぎてゐた。私は少し嚴格に寢るやうに諭した。行夫は體の力が失くなつたやうにやうやく私から離れて、就寢の挨拶も碌々せずに二階の方に階子段を上つて行つた。何事にも几帳面で、怒らない時には柔順な敏夫は、私の父の塑像の前に行つて、 「おぢいちやま御機嫌よう、おばあちやま御機嫌よう、ママ御機嫌よう」 一々頭を下げて誰にともなく云つてから、私の所に來て、 「パパ御機嫌よう」 と挨拶した。而して階子段の途中で大きな聲で呼び立てゝゐる兄の後を追つた。時間が過ぎたので睡たさに眼も開かなくなつた五歳の登三は、「パパ御機嫌よう」と崩れさうな聲で云つて、乳母の首ツ玉にしつかりかじり付いて抱かれながら私から離れて行つた。 粗末な造作なので、私のゐる部屋の上に當る寢室では、三人の兄弟が半分怒つたり、半分ふざけてゐるらしく、どすん〳〵と痛い足音を響かせた。 暫らくは三人で何か云ひ罵る聲と、乳母が登三をかばひながら、劍を持たせた聲で仲裁をする聲とが手に取るやうに聞えた。いつもなら私が疳癪を起して靜かに寢ないかと云つて下から怒鳴るのだが、その晩はそんな氣にはなれなかつた。私は耳を澄まして三人の聲をなつかしいものゝやうに聞いてゐた。乳母がなだめあぐんでゐるのを齒痒くさへ思つてゐた。而して仕舞には哀れになつて、二階に上つて行つて三人の間に我が身を横へた。乳母は默つたまゝ降りて行つた。 電燈は消してあるので寢室の中は眞暗だつた。大きな硝子窓越しには遠くに雨雲のよどんだ夏の無月の空が、潤みを持つた紺碧の色に果てもなく擴がつてゐた。雨雲が時々、その奇怪な姿をまざ〳〵と見せて、遠くの方で稻妻が光つてゐた。その度毎に青白いほのかな光が眞暗な寢室の中にも通つて來た。 「明日はあれがこつちに來るかも知れないのよ」 行夫は枕から頭を上げて空を見やりながら、私の留守の間の不安を稻妻にかこつけてほのめかした。 その中に敏夫が一番先に寢入つてしまつた。登三はをかしな調子でねんねこ唄のやうな鼻唄を歌つてゐたが、がり〳〵と虻の刺したあとを掻きながら、これもやがて鼾になつてしまつた。寢付きが惡くつて眼敏い行夫だけは背中が痒いと云つていつまでも眠らなかつた。この子は生れ落ちるとから身體に何か故障のない事はないのだ。その頃も背中にイボのやうな堅い腫物が澤山出來て、掻くとつぶれ〳〵した。そのつぶれた跡が恐ろしく痒いらしい。私が急所を痒いてやるといゝ心持ちでたまらないらしく、背中を丸めてもつと掻け〳〵と云つた。而して段々氣分がおだやかになつて、半分寢言のやうに蚊をよける工夫を色々としながら、夜具を頭からすつぽり被つて寢入つてしまつた。 實際そこの夜は東京では想像も出來ない程涼しかつた。蚊もゐるといふ程はゐなかつた。私は暑過ぎない程度に三人に夜着を着せて靜かに下の座敷に降りた。まだ九時だつた。で、汽車を待つ間に讀みさしのメレヂコフスキーの「先驅者」でも讀まうとして包みを開くと、その中から「松蟲」が出て來た。「松蟲」といふのは私の妻の遺稿だつた。私は知らず〳〵それを手に取つた。而して知らず〳〵一頁々々と讀んで行つた。 ふとその中から妻が六歳位の時の寫眞が出て來た。それは彼女の忘れ形見の年頃の寫眞である。嘗てこんなとんきよな顏をして、頭をおかつぱにした童女がたしかに此世に生きてゐた事があるのだ。而してその童女は今は何處を探してもゐないのだ。何んの爲めに生きて來たのだ。何んの爲めに死んだのだ。少しも分らない。そんな事を思つてゐる私は一體何だ。私はその寫眞の顏をぢつと見詰めてゐる中に、ぞつとする程薄氣味惡く恐ろしくなつて來た。自分自身や自分を圍む世界がずつと私から離れて行くやうに思へた。 私はぼんやりしてしまつて電燈を見た。何かその光だけが頼みにでもなるやうにそれを見た。灯をつける前には屹度硝子戸を引いて羽蟲の來るのを防ぐにも係らず、二匹の蛾が二本の白い線のやうになつて、くり〳〵と電燈のまはりを飛び𢌞つてゐた。而して硝子戸の外には光を慕つて、雨のやうに硝子にぶつかつて來る蟲の音と、遙か下の方で噴水の落ちる水音とがさやかに聞えるばかりだつた。寂寞の中のかすかな物音ほど寂寞を高めるものはない。白紙のやうな淋しさの中のかすかな囘想ほど淋しさを強めるものはない。 私の眼はひとりでに涙に潤つた。私は部屋を出て幅の廣いベランダに行つた。頑丈な木造りの二三の椅子と卓子とが蹲る侏儒のやうにあるべからぬ所に散らばつてゐた。而して硝子戸を漏れる電燈の片明りが不思議な姿にそれを照してゐた。ベランダの板は露に濡て、夜冷えがしてゐた。木や草がうざ〳〵と茂つた眼下の廣い谿谷の向ふには地平線に近く狹霧がかゝつて、停車場附近の電燈が間をおいて螢を併べたやうに幽かに光つてゐた。而してその先には矢ヶ崎から甲信にかけての山脈が腰から上だけを見せて眞黒に立連なつてゐた。 稻妻もしなくなつた大空は、雲間に星を連ねて重々しく西に動きながら、地平線から私の頭の上まで擴がつてゐた。あすこの世界……こゝの世界。 私は椅子や卓子の間を拾ひながら、ベランダの上を往つたり來たりした。而して子供が遊び捨てた紙切れを庭になげたり、脱ぎ散らした小さな靴を揃へて下駄箱に入れてやつたりした。ある時は硝子戸に近よつて、その面に鈴なりになつて、細かく羽根を動かしながら、光を目がけて近寄らうとする羽蟲の類を飽く事なく眺めやつたりした。如何なる科學者もその時の私ほど親切にそれらの昆蟲を見つめはしなかつたらう。如何なる白痴も私ほど虚ろな心でその小さな生き物を眺めはしなかつたらう。 時間を殺す爲めに私は椅子の一つに腰を下した。而して頬杖をついて遠くの空を見やりながら、默然と寂寞の中に浸り込んだ。湧くやうな蟲の聲もゝう私の耳には入らなかつた。かうしてどの位の時間が過ぎたか知れない。 突然私の耳は憚るやうに「パパパパ……」と云ふ行夫の聲を捕へて、ぎよつと正氣に返つた。その聲は確に二階から響いて來た。それを聞くと私はふるひつくやうな執着を感じて、出來るだけやさしく「はいよ」といらへながら、硝子戸を急ぎながらそーつと開けて二階に上つて見た。女中達は假睡して行夫の聲や私の跫音を聞きつけたものは一人もゐないらしかつた。それで私は夜の可なり更けたのを氣付いた。寢室に這入ると、行夫が半ば身を起して「登ちやん、そつちに行つて頂戴よ」といつてゐた。寢相の惡い登三がごろ〳〵と行夫の床の上に轉りこんで來てゐたのだ。私は登三を抱き起して登三の寢床まで運んでやつた。星明りにすかして見ると行夫は大きく眼を開いて私を見ながら、 「パパもつと眞中に寢てもいゝの……」と譯の分らない事をいふかと思ふと、もうその儘すや〳〵と寢入つてしまつた。私はその側に横になつたまゝ默つてその寢姿を見守つてゐた。 暫らくすると、今度は敏夫が又ごろ〳〵と轉つて來て、兄の胸に巣喰ふやうにちゞこまつて、二人で抱き合ふやうな形になつた。行夫は敏夫を覗き込むやうに頭を曲げ、敏夫は兄の脇腹に手を置き添へすや〳〵と眠つてゐた。私はその兄弟に輕く夜着を被せて、登三の帶から下をはたげた寢衣を直してやつて、そこに胡坐をかいて、ぼんやり坐つてゐた。彼等を眠りから呼びさます物音だけが氣になつた。幸にそこは淋し過ぎる程靜かな山の中だつた。 やがて私はやをら身を起して階下に下つて靜かに着物を洋服に着かへ始めた。 十二時が柱の上の方できしみながら鳴つた。暫らくすると下の方の路でけたゝましい自動車のエンヂンの音が聞え出した。私ははつと思つて二階の方に耳を澄したが、子供の眼を覺したらしい樣子はなかつた。女中が物音に假寢から起き上つて睡さうな眼をしながら食堂に出て來た。私が一時に發つといふ事を知つた義弟が、急に思ひ立つて私と一緒に歸るといひ出し、而して自動車を頼んでおいてくれたのだつた。 私は急いで靴をはいた。而して口早に女中に留守の事を色々頼まうとしたが、結局どれ程綿密に注意をして置いても、出來るだけの事より出來ないと思つて、唯「留守をしつかり頼むよ」とだけいつてベランダに出た。そこには暗闇の中に自動車の運轉手が荷物を背負ひに來て待つてゐた。 私は默つて運轉手の後に續いた。細いだら〳〵道の兩側にたて込んで茂つた小松から小松に、蜘蛛のかけ渡した絲にうるさく顏を撫られながら、義弟の家のある所に行つた。義弟の妻なる私の妹も、その子達も眼を覺してゐた。暗い往來から見ると、家の内は光る飴でも解いたやうに美しく見えた。妹は用意しておいた食物の小包などをその良人に渡してゐた。子供達は子供達で銘々の力に叶ふだけの荷物をぶら下げて自動車に運んだ。人々の間からは睦じさうに笑ひ聲などが聞えた。私は默つてそれを見守つた。 汽車の中は中々人が込み合つてゐた。私達は僅に向ひ合つて坐るだけの場所を見つけてそれに腰を下した。夏の盛りであるにも係らず、レイン・コートでは涼し過ぎる位空氣が冷てゐた。義弟は暫らく私と話し合つてゐたがやがて窮屈さうに體を曲げたなりで、うつら〳〵と淺い眠りに落ちた。 私も寢なければならないと思つた。電燈の光を遮る爲に、ハンケチを出して細く疊んで、眼を隱した兩端を耳の所で押へた。而してしつかり腕組みをして心をしづめて見た。然し駄目だつた。カラーが顎をせめるのが氣になつてならなかつた。色々にして見るが如何しても氣になつた。據なく私はそれを外して、立上つて網の棚に仕舞ひ込んだ。頸の處はお蔭で樂になつた。然し今度は足の置場がぎごちなくつてならなかつた。平に延ばして見たり、互違ひに組んで見たりしたが、如何しやうもなかつた。足は離して捨てる事が出來ない。 |
レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドン・タイムス紙上に發表されたものである。その日即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功勞に對する勅語を東郷聯合艦隊司令長官に賜はつた翌日、滿洲に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であつた。當時極東の海陸に起つてゐた悲しむべき出來事の電報は、日一日とその日本軍の豫想以上なる成功を以て世界を駭かしてゐた。さうしてその時に當つて、この論文の大意を傳へた電報は、實にそれ等の恐るべき電報にも増して深い、且つ一種不可思議な感動を數知れぬ人々の心に惹起せしめたものであつた。日本では八月の初めに至つて東京朝日新聞、週刊平民新聞の二紙がその全文を譯載し、九月一日の雜誌時代思潮は英文の全文を轉載した。さうして色々の批評を喚起した。此處に寫した譯文は即ちその平民新聞第三十九號(八月七日)の殆ど全紙面を埋めたもので、同號はために再版となり、後また文明堂といふ一書肆から四六版の册子として發行されたが、今はもう絶版となつた。飜譯は平民社の諸氏、殊に幸徳、堺二氏の協力によつたものと認められる。 平民新聞はこの譯文を發表して置いて、更に次の號、即ち第四十號(八月十四日)の社説に於いてトルストイ翁の論旨に對する批評を試みた。蓋しそれは、社會主義の見地を持してゐたこの新聞にとつては正にその必要があつたのである。さうしてこれを試みるに當つて、かの記者の先づ發した聲は實はその抑へむとして抑へ難き歡喜の聲であつた。「吾人は之を讀んで、殆ど古代の聖賢若くは豫言者の聲を聽くの思ひありき。」かういふ讃嘆の言葉をも彼等は吝まなかつた。想ふに、當時彼等は國民を擧げて戰勝の恐ろしい喜びに心を奪はれ、狂人の如く叫び且つ奔つてゐる間に、ひとり非戰論の孤壘を守つて、嚴酷なる當局の壓迫の下に苦しい戰ひを續けてゐたのである。さればその時に於いて、日本人の間にも少なからざる思慕者を有するトルストイ翁がその大膽なる非戰意見を發表したといふことは、その論旨の如何に拘らず、實際彼等にとつては思ひがけざる有力の援軍を得たやうに感じられたに違ひない。さうして又、一言一句の末にまで容赦なき拘束を受けて、何事に限らず、その思ふ所をそのままに言ふことを許されない境遇にゐた彼等は、翁の大膽なる論文とその大膽を敢てし得る勢力とに對して、限りなき羨望の情を起さざるを得なかつたに違ひない。「而して吾人が特に本論に於て、感嘆崇敬措く能はざる所の者は、彼が戰時に於ける一般社會の心的及び物的情状を觀察評論して、露國一億三千萬人、日本四千五百萬人の、曾て言ふこと能はざる所を直言し、決して寫す能はざる所を直寫して寸毫の忌憚する所なきに在り。」これ實に彼等我が日本に於ける不幸なる人道擁護者の眞情であつた。 然しながら彼等は社會主義者であつた。さうして又明白に社會主義者たる意識をもつてゐた。故にかの記者は、翁の説く所の戰爭の起因及びその救治の方法の、あまりに單純に、あまりに正直に、さうしてあまりに無計畫なるを見ては、「單に如此きに過ぎずとせば、吾人豈失望せざるを得んや。何となれば、是れ恰も『如何にして富むべきや』てふ問題に對して、『金を得るに在り』と答ふるに均しければ也。是れ現時の問題を解決し得るの答辯にあらずして、唯だ問題を以て問題に答ふる者に非ずや。」と叫ばざるを得なかつた。(人は盡く夷齊に非ず。單に『悔改めよ』と叫ぶこと、幾千萬年なるも、若しその生活の状態を變じて衣食を足らしむるに非ずんば、其相喰み、相搏つ、依然として今日の如けんのみ)これは唯物史觀の流れを汲む人々の口から、當然出ねばならぬ言葉であつた。かくてかの記者は進んで彼等自身の戰爭觀を概説し、「要するにトルストイ翁は、戰爭の原因を以て個人の墮落に歸す、故に悔改めよと教へて之を救はんと欲す。吾人社會主義者は、戰爭の原因を以て經濟的競爭に歸す、故に經濟的競爭を廢して之を防遏せんと欲す。」とし、以て兩者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかつた。 この宣明は、然しながら、當時の世人から少しも眼中に置かれなかつた。この一事は、他の今日までに我々に示された幾多の事實と共に、日本人――文化の民を以て誇稱する日本人の事實を理解する力の如何に淺弱に、さうしてこの自負心強き民族の如何に偏狹なる、如何に獨斷的なる、如何に厭ふべき民族なるかを語るものである。即ち、彼等はこの宣明をなしたるに拘らず、單にトルストイ翁の非戰論を譯載し、且つ彼等も亦一個の非戰主義者であつたが故に、當時世人から一般にトルストイを祖述する者として取り扱はれ、甚だしきに至つては、日本の非戰論者が主戰論者に對して非人道と罵り、惡魔と呼んで罵詈するのは、トルストイの精神とは全く違ふのだといふやうな非難をさへ蒙つたのである。さうして此非難の發言者は、實に當時トルストイの崇拜者、飜譯者として名を知られてゐた宗教家加藤直士氏であつた。彼は、恰もかの法廷に於ける罪人が、自己に不利益なる證據物に對しては全然關知せざるものの如く裝ひ、或は虚構の言を以て自己の罪を否定せむと試むるが如く、その矛盾極まる主戰論を支持せむが爲には、トルストイ翁が如何に酷烈にその論敵を取り扱ふ人であるかの事實さへも曲庇して省りみなかつたのである。 若し夫れこの論文それ自身に加へられた他の日本人の批評に至つては、また實に畢竟「日本人」の批評であつた。日本第一流の記者、而して御用紙國民新聞社長たる徳富猪一郎氏は、翁が露國を攻撃した點に對しては、「これ恐らくは天がトルストイ伯の口を假りて、露國の罪惡を彈劾せしめたるの言なるべし。」と賞讚しながら、日本の行爲を攻撃した部分に對しては、「此に至りて伯も亦スラーヴ人の本色を脱する能はず候。」と評した。又かの高名なる宗教家海老名彈正氏も、翁が露西亞の宗教家、學者、識者を罵倒し、その政治に反對し、延いて戰爭そのものに反對するに至つた所以を力強く是認して、「彼が絶對的に非戰論者たらざるを得ないのは、實に尤も千萬である。」と言ひながら、やがて何等の説明もなく、「彼は露西亞帝國の豫言者である。然も彼をして日本帝國の豫言者となし、吾人をして其聲に傾聽せしめんと欲するは大なる謬見である。」といふ結論に達せねばならなかつた――然り、ねばならなかつた。又他の人々も、或は右同樣の筆法を以て、或は戰爭正當論を以て、各々、日本人にして翁の言に眞面目に耳を傾くる者の生ぜんことを防遏するに努めねばならなかつた。實際當時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑つた如く、何れも皆「非戰論は露西亞には適切だが、日本には宜しくない。」といふ事に歸着したのである。さうして彼等愛國家の中の一人が、「翁は我が日本を見て露國と同一となす。不幸にして我が國情の充分に彼の地に傳へられざりし爲、翁をして非難の言を放たしめたるは吾人の悲しむ所なり。」と言つた時、同じ記者の酬いた一矢はかうであつた。曰く、「否、翁にして日本の國情を知悉せば、更に日本攻撃の筆鋒鋭利を加へしことならん。」 ただその間に於て、ひとり異色を帶びて、翁の理想の直ちに實行する能はざるものなるを首肯しつつ、猶且つ非常の敬意を以て之を辯護したものは、雜誌時代思潮であつた。 予の始めてこの論文に接したのは、實にその時代思潮に轉載された英文によつてである。當時語學の力の淺い十九歳の予の頭腦には、無論ただ論旨の大體が朧氣に映じたに過ぎなかつた。さうして到る處に星の如く輝いてゐる直截、峻烈、大膽の言葉に對して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を圓くして驚いたに過ぎなかつた。「流石に偉い。然し行はれない。」これ當時の予のこの論文に與へた批評であつた。さうしてそれつきり忘れて了つた。予も亦無雜作に戰爭を是認し、且つ好む「日本人」の一人であつたのである。 その夜、予が茲に初めてこの論文を思ひ出し、さうして之を態々寫し取るやうな心を起すまでには八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行つた。八年! 今や日本の海軍は更に對米戰爭の爲に準備せられてゐる。さうしてかの偉大なる露西亞人はもう此世の人でない。 |
師走の或夜、父は五歳になる男の子を抱き、一しよに炬燵へはひつてゐる。 子 お父さん何かお話しをして! 父 何の話? 子 何でも。……うん、虎のお話が好いや。 父 虎の話? 虎の話は困つたな。 子 よう、虎の話をさあ。 父 虎の話と。……ぢや虎の話をして上げよう。昔、朝鮮のらつぱ卒がね、すつかりお酒に酔つ払らつて、山路にぐうぐう寝てゐたとさ。すると顔が濡れるもんだから、何かと思つて目をさますと、いつの間にか大きい虎が一匹、尻つ尾の先に水をつけてはらつぱ卒の顔を撫でてゐたとさ。 子 どうして? 父 そりやらつぱ卒が酔つぱらつてゐたから、お酒つ臭い臭ひをなくした上、食べることにしようと思つたのさ。 子 それから? 父 それかららつぱ卒は覚悟をきめて、力一ぱい持つてゐたらつぱを虎のお尻へ突き立てたとさ。虎は痛いのにびつくりして、どんどん町の方へ逃げ出したとさ。 子 死ななかつたの? 父 そのうちに町のまん中へ来ると、とうとうお尻の傷の為に倒れて死んでしまつたとさ。けれどもお尻に立つてゐたらつぱは虎の死んでしまふまで、ぶうぶう鳴りつづけに鳴つてゐたとさ。 子 (笑ふ)らつぱ卒は? 父 らつぱ卒は大へん褒められて虎退治の御褒美を貰つたつて……さあ、それでおしまひだよ。 子 いやだ。何かもう一つ。 父 今度は虎の話ぢやないよ。 子 ううん、今度も虎のお話をして。 父 そんなに虎の話ばかりありやしない。ええと、何かなかつたかな?……ああ、ぢやもう一つして上げよう。これも朝鮮の猟師がね、或山奥へ狩をしに行つたら、丁度目の下の谷底に虎が一匹歩いてゐたとさ。 子 大きい虎? 父 うん、大きい虎がね。猟師は好い獲物だと思つて早速鉄砲へ玉をこめたとさ。 子 打つたの? 父 ところが打たうとした時にね、虎はいきなり身をちぢめたと思ふと、向うの大岩に飛びあがつたとさ。けれども宙へ躍り上つたぎり、生憎大岩へとどかないうちに地びたへ落ちてしまつたとさ。 子 それから? 父 それから虎はもう一度もとの処へ帰つて来た上、又大岩へ飛びかかつたとさ。 子 今度はうまく飛びついた? 父 今度もまた落ちてしまつたとさ。すると如何にも羞しさうに長い尻つ尾を垂らしたなり、何処かへ行つてしまつたとさ。 子 ぢや虎は打たなかつたの? 父 うん、あんまりその容子が人間のやうに見えたもんだから、可哀さうになつてよしてしまつたつて。 子 つまらないなあ、そんなお話。何かもう一つ虎のお話をして。 父 もう一つ? 今度は猫の話をしよう。長靴をはいた猫の話を。 子 ううん、もう一つ虎のお話をして。 父 仕かたがないな。……ぢや昔大きい虎がね。子虎を三匹持つてゐたとさ。虎はいつも日暮になると三匹の子虎と遊んでゐたとさ。それから夜は洞穴へはひつて三匹の子虎と一しよに寝たとさ。……おい、寝ちまつちやいけないよ。 子 (眠むさうに)うん。 父 ところが或秋の日の暮、虎は猟師の矢を受けて、死なないばかりになつて帰つて来たとさ。何にも知らない三匹の子虎は直に虎にじやれついたとさ。すると虎はいつものやうに躍つたり跳たりして遊んだとさ。それから又夜もいつものやうに洞穴へはひつて一しよに寝たとさ。けれども夜明けになつて見ると、虎は、いつか三匹の子虎のまん中へはひつて死んでゐたとさ。子虎は皆驚いて、……おい、おきてゐるかい? 子 (寝入つて答へをしない)…… 父 おい、誰かゐないか? こいつはもう寝てしまつたよ。 遠くで「はい、唯今」といふ返事が聞える。 |
宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館 発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館 ゆふべ、つくと直ぐに手紙を書き出しましたけれど、腰が痛んで気持が悪いので止めました。つきますと直ぐに雨が降り出して、風がひどいので外には出られません。真暗な風の強いさびしい晩でした。停車場から此処まで歩いてくるうちに、泣きたくなつて仕舞ひました。停車場の直ぐ前ときいてゐましたけれども、少し離れてゐます。海の近くです。かなり広い家です。家のまはりはあんまり感じがよくありませんが、そんなに悪くもありません。 私の今ゐる室は一番奥の中二階みたいな室です。かけ離れてゐて、宿屋にゐるやうないやな気はしませんが、そして大変仕事をするにはいい室ですが、押入れがないので他に移りたいと思つてゐます。四畳半ですから本当にいいのですけれども。今朝は私の気持がすつかりおちついてゐます。汽車の中も随分さびしうございました。千葉からは二人きりになりました。 かうやつて手紙を書いてゐますと、本当に遠くに離れてゐるのだと云ふ気がします。あなたは昨日別れるときに、ふり返りもしないで行つてお仕舞ひになつたのですね。ひどいのね。私はひとりきりになつてすつかり悄気てゐます。早くゐらつしやれませんか。それだと私はどうしたらいいのでせう。こんなに遠くに離れてゐる事が、そんなに長く出来るでせうか。お仕事の邪魔はしませんから、早くゐらして下さいね。 こんな事を書いてゐますと、また頭が変になつて来ますから、もう止します。四時間汽車でがまんをすれば来られるのですもの、本当に来て下さいね。五日も六日も私にこんな気持を続けさせる方は――本当にひどいわ。私はひとりぽつちですからね。この手紙だつて今日のうちには着かないと思ひますと、いやになつて仕舞ひます。 |
第一のお話 鏡とそのかけらのこと さあ、きいていらっしゃい。はじめますよ。このお話をおしまいまできくと、だんだんなにかがはっきりしてきて、つまり、それがわるい魔法使のお話であったことがわかるのです。この魔法使というのは、なかまでもいちばんいけないやつで、それこそまがいなしの「悪魔」でした。 さて、ある日のこと、この悪魔は、たいそうなごきげんでした。というわけは、それは、鏡をいちめん作りあげたからでしたが、その鏡というのが、どんなけっこうなうつくしいものでも、それにうつると、ほとんどないもどうぜんに、ちぢこまってしまうかわり、くだらない、みっともないようすのものにかぎって、よけいはっきりと、いかにもにくにくしくうつるという、ふしぎなせいしつをもったものでした。どんなうつくしいけしきも、この鏡にうつすと、煮くたらしたほうれんそうのように見え、どんなにりっぱなひとたちも、いやなかっこうになるか、どうたいのない、あたまだけで、さかだちするかしました。顔は見ちがえるほどゆがんでしまい、たった、ひとつぼっちのそばかすでも、鼻や口いっぱいに大きくひろがって、うつりました。 「こりゃおもしろいな。」と、その悪魔はいいました。ここに、たれかが、やさしい、つつましい心をおこしますと、それが鏡には、しかめっつらにうつるので、この魔法使の悪魔は、じぶんながら、こいつはうまい発明だわいと、ついわらいださずには、いられませんでした。 この悪魔は、魔法学校をひらいていましたが、そこにかよっている魔生徒どもは、こんどふしぎなものがあらわれたと、ほうぼうふれまわりました。 さて、この鏡ができたので、はじめて世界や人間のほんとうのすがたがわかるのだと、このれんじゅうはふいちょうしてあるきました。で、ほうぼうへその鏡をもちまわったものですから、とうとうおしまいには、どこの国でも、どの人でも、その鏡にめいめいの、ゆがんだすがたをみないものは、なくなってしまいました。こうなると、図にのった悪魔のでしどもは、天までも昇っていって、天使たちや神さままで、わらいぐさにしようとおもいました。ところで、高く高くのぼって行けば、行くほど、その鏡はよけいひどく、しかめっつらをするので、さすがの悪魔も、おかしくて、もっていられなくなりました。でもかまわず、高く高くとのぼっていって、もう神さまや天使のお住居に近くなりました。すると、鏡はあいかわらず、しかめっつらしながら、はげしくぶるぶるふるえだしたものですから、ついに悪魔どもの手から、地の上へおちて、何千万、何億万、というのではたりない、たいへんな数に、こまかくくだけて、とんでしまいました。ところが、これがため、よけい下界のわざわいになったというわけは、鏡のかけらは、せいぜい砂つぶくらいの大きさしかないのが、世界じゅうにとびちってしまったからで、これが人の目にはいると、そのままそこにこびりついてしまいました。すると、その人たちは、なんでも物をまちがってみたり、ものごとのわるいほうだけをみるようになりました。それは、そのかけらが、どんなちいさなものでも、鏡がもっていたふしぎな力を、そのまま、まだのこしてもっていたからです。なかにはまた、人のしんぞうにはいったものがあって、そのしんぞうを、氷のかけらのように、つめたいものにしてしまいました。そのうちいくまいか大きなかけらもあって、窓ガラスに使われるほどでしたが、そんな窓ガラスのうちから、お友だちをのぞいてみようとしても、まるでだめでした。ほかのかけらで、めがねに用いられたものもありましたが、このめがねをかけて、物を正しく、まちがいのないように見ようとすると、とんださわぎがおこりました。悪魔はこんなことを、たいへんおもしろがって、おなかをゆすぶって、くすぐったがって、わらいました。ところで、ほかにもまだ、こまかいかけらは、空のなかにただよっていました。さあ、これからがお話なのですよ。 第二のお話 男の子と女の子 たくさんの家がたてこんで、おおぜい人がすんでいる大きな町では、たれでも、庭にするだけの、あき地をもつわけにはいきませんでした。ですから、たいてい、植木ばちの花をみて、まんぞくしなければなりませんでした。 そういう町に、ふたりのまずしいこどもがすんでいて、植木ばちよりもいくらか大きな花ぞのをもっていました。そのふたりのこどもは、にいさんでも妹でもありませんでしたが、まるでほんとうのきょうだいのように、仲よくしていました。そのこどもたちの両親は、おむこうどうしで、その住んでいる屋根うらべやは、二軒の家の屋根と屋根とがくっついた所に、むかいあっていました。そのしきりの所には、一本の雨どいがとおっていて、両方から、ひとつずつ、ちいさな窓が、のぞいていました。で、といをひとまたぎしさえすれば、こちらの窓からむこうの窓へいけました。 こどもの親たちは、それぞれ木の箱を窓の外にだして、台所でつかうお野菜をうえておきました。そのほかにちょっとしたばらをひと株うえておいたのが、みごとにそだって、いきおいよくのびていました。ところで親たちのおもいつきで、その箱を、といをまたいで、横にならべておいたので、箱は窓と窓とのあいだで、むこうからこちらへと、つづいて、そっくり、生きのいい花のかべを、ふたつならべたように見えました。えんどう豆のつるは、箱から下のほうにたれさがり、ばらの木は、いきおいよく長い枝をのばして、それがまた、両方の窓にからみついて、おたがいにおじぎをしあっていました。まあ花と青葉でこしらえた、アーチのようなものでした。その箱は、高い所にありましたし、こどもたちは、その上にはいあがってはいけないのをしっていました。そこで、窓から屋根へ出て、ばらの花の下にある、ちいさなこしかけに、こしをかけるおゆるしをいただいて、そこでおもしろそうに、あそびました。 冬になると、そういうあそびもだめになりました。窓はどうかすると、まるっきりこおりついてしまいました。そんなとき、こどもたちは、だんろの上で銅貨をあたためて、こおった窓ガラスに、この銅貨をおしつけました。すると、そこにまるい、まんまるい、きれいなのぞきあなができあがって、このあなのむこうに、両方の窓からひとつずつ、それはそれはうれしそうな、やさしい目がぴかぴか光ります、それがあの男の子と、女の子でした。男の子はカイ、女の子はゲルダといいました。夏のあいだは、ただひとまたぎで、いったりきたりしたものが、冬になると、ふたりのこどもは、いくつも、いくつも、はしごだんを、おりたりあがったりしなければ、なりませんでした。外には、雪がくるくる舞っていました。 「あれはね、白いみつばちがあつまって、とんでいるのだよ。」と、おばあさんがいいました。 「あのなかにも、女王ばちがいるの。」と、男の子はたずねました。この子は、ほんとうのみつばちに、そういうもののいることを、しっていたのです。 「ああ、いるともさ。」と、おばあさんはいいました。「その女王ばちは、いつもたくさんなかまのあつまっているところに、とんでいるのだよ。なかまのなかでも、いちばんからだが大きくて、けっして下にじっとしてはいない。すぐと黒い雲のなかへとんではいってしまう。ま夜中に、いく晩も、いく晩も、女王は町の通から通へとびまわって、窓のところをのぞくのさ。するとふしぎとそこでこおってしまって、窓は花をふきつけたように、見えるのだよ。」 「ああ、それ、みたことがありますよ。」と、こどもたちは、口をそろえて叫びました。そして、すると、これはほんとうの話なのだ、とおもいました。 「雪の女王さまは、うちのなかへもはいってこられるかしら。」と、女の子がたずねました。 「くるといいな。そうすれば、ぼく、それをあたたかいストーブの上にのせてやるよ。すると女王はとろけてしまうだろう。」と、男の子がいいました。 でも、おばあさんは、男の子のかみの毛をなでながら、ほかのお話をしてくれました。 その夕方、カイはうちにいて、着物を半分ぬぎかけながら、ふとおもいついて、窓のそばの、いすの上にあがって、れいのちいさなのぞきあなから、外をながめました。おもてには、ちらちら、こな雪が舞っていましたが、そのなかで大きなかたまりがひとひら、植木箱のはしにおちました。するとみるみるそれは大きくなって、とうとうそれが、まがいのない、わかい、ひとりの女の人になりました。もう何百万という数の、星のように光るこな雪で織った、うすい白い紗の着物を着ていました。やさしい女の姿はしていましたが、氷のからだをしていました。ぎらぎらひかる氷のからだをして、そのくせ生きているのです。その目は、あかるい星をふたつならべたようでしたが、おちつきも休みもない目でした。女は、カイのいる窓のほうに、うなずきながら、手まねぎしました。カイはびっくりして、いすからとびおりてしまいました。すぐそのあとで、大きな鳥が、窓の外をとんだような、けはいがしました。 そのあくる日は、からりとした、霜日よりでした。――それからは、日にまし、雪どけのようきになって、とうとう春が、やってきました。お日さまはあたたかに、照りかがやいて、緑がもえだし、つばめは巣をつくりはじめました。あのむかいあわせの屋根うらべやの窓も、また、あけひろげられて、カイとゲルダとは、アパートのてっぺんの屋根上の雨どいの、ちいさな花ぞので、ことしもあそびました。 この夏は、じつにみごとに、ばらの花がさきました。女の子のゲルダは、ばらのことのうたわれている、さんび歌をしっていました。そして、ばらの花というと、ゲルダはすぐ、じぶんの花ぞののばらのことをかんがえました。ゲルダは、そのさんび歌を、カイにうたってきかせますと、カイもいっしょにうたいました。 「ばらのはな さきてはちりぬ おさなごエス やがてあおがん」 ふたりのこどもは、手をとりあって、ばらの花にほおずりして、神さまの、みひかりのかがやく、お日さまをながめて、おさなごエスが、そこに、おいでになるかのように、うたいかけました。なんという、楽しい夏の日だったでしょう。いきいきと、いつまでもさくことをやめないようにみえる、ばらの花のにおいと、葉のみどりにつつまれた、この屋根の上は、なんていいところでしたろう。 カイとゲルダは、ならんで掛けて、けものや鳥のかいてある、絵本をみていました。ちょうどそのとき――お寺の、大きな塔の上で、とけいが、五つうちましたが――カイは、ふと、 「あッ、なにかちくりとむねにささったよ。それから、目にもなにかとびこんだようだ。」と、いいました。 あわてて、カイのくびを、ゲルダがかかえると、男の子は目をぱちぱちやりました。でも、目のなかにはなにもみえませんでした。 「じゃあ、とれてしまったのだろう。」と、カイはいいましたが、それは、とれたのではありませんでした。カイの目にはいったのは、れいの鏡から、とびちったかけらでした。そら、おぼえているでしょう。あのいやな、魔法の鏡のかけらで、その鏡にうつすと、大きくていいものも、ちいさく、いやなものに、みえるかわり、いけないわるいものほど、いっそうきわだってわるく見え、なんによらず、物事のあらが、すぐめだって見えるのです。かわいそうに、カイは、しんぞうに、かけらがひとつはいってしまいましたから、まもなく、それは氷のかたまりのように、なるでしょう。それなり、もういたみはしませんけれども、たしかに、しんぞうの中にのこりました。 「なんだってべそをかくんだ。」と、カイはいいました。「そんなみっともない顔をして、ぼくは、もうどうもなってやしないんだよ。」 「チェッ、なんだい。」こんなふうに、カイはふいに、いいだしました。「あのばらは虫がくっているよ。このばらも、ずいぶんへんてこなばらだ。みんなきたならしいばらだな。植わっている箱も箱なら、花も花だ。」 こういって、カイは、足で植木の箱をけとばして、ばらの花をひきちぎってしまいました。 「カイちゃん、あんた、なにをするの。」と、ゲルダはさけびました。 カイは、ゲルダのおどろいた顔をみると、またほかのばらの花を、もぎりだしました。それから、じぶんのうちの窓の中にとびこんで、やさしいゲルダとも、はなれてしまいました。 ゲルダがそのあとで、絵本をもってあそびにきたとき、カイは、そんなもの、かあさんにだっこされている、あかんぼのみるものだ、といいました。また、おばあさまがお話をしても、カイはのべつに「だって、だって。」とばかりいっていました。それどころか、すきをみて、おばあさまのうしろにまわって、目がねをかけて、おばあさまの口まねまで、してみせました。しかも、なかなかじょうずにやったので、みんなはおかしがってわらいました。まもなくカイは、町じゅうの人たちの、身ぶりや口まねでも、できるようになりました。なんでも、ひとくせかわったことや、みっともないことなら、カイはまねすることをおぼえました。 「あの子はきっと、いいあたまなのにちがいない。」と、みんないいましたが、それは、カイの目のなかにはいった鏡のかけらや、しんぞうの奥ふかくささった、鏡のかけらのさせることでした。そんなわけで、カイはまごころをささげて、じぶんをしたってくれるゲルダまでも、いじめだしました。 カイのあそびも、すっかりかわって、ひどくこましゃくれたものになりました。――ある冬の日、こな雪がさかんに舞いくるっているなかで、カイは大きな虫目がねをもって、そとにでました。そして青いうわぎのすそをひろげて、そのうえにふってくる雪をうけました。 |
○ これも正しく人間生活史の中に起った実際の出来事の一つである。 ○ また夢に襲われてクララは暗い中に眼をさました。妹のアグネスは同じ床の中で、姉の胸によりそってすやすやと静かに眠りつづけていた。千二百十二年の三月十八日、救世主のエルサレム入城を記念する棕櫚の安息日の朝の事。 数多い見知り越しの男たちの中で如何いう訳か三人だけがつぎつぎにクララの夢に現れた。その一人はやはりアッシジの貴族で、クララの家からは西北に当る、ヴィヤ・サン・パオロに住むモントルソリ家のパオロだった。夢の中にも、腰に置いた手の、指から肩に至るしなやかさが眼についた。クララの父親は期待をもった微笑を頬に浮べて、品よくひかえ目にしているこの青年を、もっと大胆に振舞えと、励ますように見えた。パオロは思い入ったようにクララに近づいて来た。そして仏蘭西から輸入されたと思われる精巧な頸飾りを、美しい金象眼のしてある青銅の箱から取出して、クララの頸に巻こうとした。上品で端麗な若い青年の肉体が近寄るに従って、クララは甘い苦痛を胸に感じた。青年が近寄るなと思うとクララはもう上気して軽い瞑眩に襲われた。胸の皮膚は擽られ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押出された。胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思う事にすら、消え入るばかりの羞恥を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いた唇は熱い息気のためにかさかさに乾いた。油汗の沁み出た両手は氷のように冷えて、青年を押もどそうにも、迎え抱こうにも、力を失って垂れ下った。肉体はややともすると後ろに引き倒されそうになりながら、心は遮二無二前の方に押し進もうとした。 クララは半分気を失いながらもこの恐ろしい魔術のような力に抵抗しようとした。破滅が眼の前に迫った。深淵が脚の下に開けた。そう思って彼女は何とかせねばならぬと悶えながらも何んにもしないでいた。慌て戦く心は潮のように荒れ狂いながら青年の方に押寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分の首に感じた。熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く失われてしまった。彼女は苦痛に等しい表情を顔に浮べながら、眼を閉じて前に倒れかかった。そこにはパオロの胸があるはずだ。その胸に抱き取られる時にクララは元のクララではなくなるべきはずだ。 もうパオロの胸に触れると思った瞬間は来て過ぎ去ったが、不思議にもその胸には触れないでクララの体は抵抗のない空間に傾き倒れて行った。はっと驚く暇もなく彼女は何所とも判らない深みへ驀地に陥って行くのだった。彼女は眼を開こうとした。しかしそれは堅く閉じられて盲目のようだった。真暗な闇の間を、颶風のような空気の抵抗を感じながら、彼女は落ち放題に落ちて行った。「地獄に落ちて行くのだ」胆を裂くような心咎めが突然クララを襲った。それは本統はクララが始めから考えていた事なのだ。十六の歳から神の子基督の婢女として生き通そうと誓った、その神聖な誓言を忘れた報いに地獄に落ちるのに何の不思議がある。それは覚悟しなければならぬ。それにしても聖処女によって世に降誕した神の子基督の御顔を、金輪際拝し得られぬ苦しみは忍びようがなかった。クララはとんぼがえりを打って落ちながら一心不乱に聖母を念じた。 ふと光ったものが眼の前を過ぎて通ったと思った。と、その両肱は棚のようなものに支えられて、膝がしらも堅い足場を得ていた。クララは改悛者のように啜泣きながら、棚らしいものの上に組み合せた腕の間に顔を埋めた。 泣いてる中にクララの心は忽ち軽くなって、やがては十ばかりの童女の時のような何事も華やかに珍らしい気分になって行った。突然華やいだ放胆な歌声が耳に入った。クララは首をあげて好奇の眼を見張った。両肱は自分の部屋の窓枠に、両膝は使いなれた樫の長椅子の上に乗っていた。彼女の髪は童女の習慣どおり、侍童のように、肩あたりまでの長さに切下にしてあった。窓からは、朧夜の月の光の下に、この町の堂母なるサン・ルフィノ寺院とその前の広場とが、滑かな陽春の空気に柔らめられて、夢のように見渡された。寺院の北側をロッカ・マジョーレの方に登る阪を、一つの集団となってよろけながら、十五、六人の華車な青年が、声をかぎりに青春を讃美する歌をうたって行くのだった。クララはこの光景を窓から見おろすと、夢の中にありながら、これは前に一度目撃した事があるのにと思っていた。 そう思うと、同時に窓の下の出来事はずんずんクララの思う通りにはかどって行った。 夏には夏の我れを待て。 春には春の我れを待て。 夏には隼を腕に据えよ。 春には花に口を触れよ。 春なり今は。春なり我れは。 春なり我れは。春なり今は。 我がめぐわしき少女。 春なる、ああ、この我れぞ春なる。 寝しずまった町並を、張りのある男声の合唱が鳴りひびくと、無頓着な無恥な高笑いがそれに続いた。あの青年たちはもう立止る頃だとクララが思うと、その通りに彼らは突然阪の中途で足をとめた。互に何か探し合っているようだったが、やがて彼らは広場の方に、「フランシス」「ベルナルドーネの若い騎士」「円卓子の盟主」などと声々に叫び立てながら、はぐれた伴侶を探しにもどって来た。彼らは広場の手前まで来た。そして彼らの方に二十二、三に見える一人の青年が夢遊病者のように足もともしどろに歩いて来るのを見つけた。クララも月影でその青年を見た。それはコルソの往還を一つへだてたすぐ向うに住むベルナルドーネ家のフランシスだった。華美を極めた晴着の上に定紋をうった蝦茶のマントを着て、飲み仲間の主権者たる事を現わす笏を右手に握った様子は、ほかの青年たちにまさった無頼の風俗だったが、その顔は痩せ衰えて物凄いほど青く、眼は足もとから二、三間さきの石畳を孔のあくほど見入ったまま瞬きもしなかった。そしてよろけるような足どりで、見えないものに引ずられながら、堂母の広場の方に近づいて来た。それを見つけると、引返して来た青年たちは一度にときをつくって駈けよりざまにフランシスを取かこんだ。「フランシス」「若い騎士」などとその肩まで揺って呼びかけても、フランシスは恐しげな夢からさめる様子はなかった。青年たちはそのていたらくにまたどっと高笑いをした。「新妻の事でも想像して魂がもぬけたな」一人がフランシスの耳に口をよせて叫んだ。フランシスはついた狐が落ちたようにきょとんとして、石畳から眼をはなして、自分を囲むいくつかの酒にほてった若い笑顔を苦々しげに見廻わした。クララは即興詩でも聞くように興味を催おして、窓から上体を乗出しながらそれに眺め入った。フランシスはやがて自分の纏ったマントや手に持つ笏に気がつくと、甫めて今まで耽っていた歓楽の想出の糸口が見つかったように苦笑いをした。 「よく飲んで騒いだもんだ。そうだ、私は新妻の事を考えている。しかし私が貰おうとする妻は君らには想像も出来ないほど美しい、富裕な、純潔な少女なんだ」 そういって彼れは笏を上げて青年たちに一足先きに行けと眼で合図した。青年たちが騒ぎ合いながら堂母の蔭に隠れるのを見届けると、フランシスはいまいましげに笏を地に投げつけ、マントと晴着とをずたずたに破りすてた。 次の瞬間にクララは錠のおりた堂母の入口に身を投げかけて、犬のようにまろびながら、悔恨の涙にむせび泣く若いフランシスを見た。彼女は奇異の思いをしながらそれを眺めていた。春の月は朧ろに霞んでこの光景を初めからしまいまで照している。 寺院の戸が開いた。寺院の内部は闇で、その闇は戸の外に溢れ出るかと思うほど濃かった。その闇の中から一人の男が現われた。十歳の童女から、いつの間にか、十八歳の今のクララになって、年に相当した長い髪を編下げにして寝衣を着たクララは、恐怖の予覚を持ちながらその男を見つめていた。男は入口にうずくまるフランシスに眼をつけると、きっとクララの方に鋭い眸を向けたが、フランシスの襟元を掴んで引きおこした。ぞろぞろと華やかな着物だけが宙につるし上って、肝腎のフランシスは溶けたのか消えたのか、影も形もなくなっていた。クララは恐ろしい衝動を感じてそれを見ていた。と、やがてその男の手に残った着物が二つに分れて一つはクララの父となり、一つは母となった。そして二人の間に立つその男は、クララの許婚のオッタヴィアナ・フォルテブラッチョだった。三人はクララの立っている美しい芝生より一段低い沼地がかった黒土の上に単調にずらっとならんで立っていた――父は脅かすように、母は歎くように、男は怨むように。戦の街を幾度もくぐったらしい、日に焼けて男性的なオッタヴィアナの顔は、飽く事なき功名心と、強い意志と、生一本な気象とで、固い輪郭を描いていた。そしてその上を貴族的な誇りが包んでいた。今まで誰れの前にも弱味を見せなかったらしいその顔が、恨みを含んでじっとクララを見入っていた。クララは許婚の仲であるくせに、そしてこの青年の男らしい強さを尊敬しているくせに、その愛をおとなしく受けようとはしなかったのだ。クララは夢の中にありながら生れ落ちるとから神に献げられていたような不思議な自分の運命を思いやった。晩かれ早かれ生みの親を離れて行くべき身の上も考えた。見ると三人は自分の方に手を延ばしている。そしてその足は黒土の中にじりじりと沈みこんで行く。脅かすような父の顔も、歎くような母の顔も、怨むようなオッタヴィアナの顔も見る見る変って、眼に逼る難儀を救ってくれと、恥も忘れて叫ばんばかりにゆがめた口を開いている。しかし三人とも声は立てずに死のように静かで陰鬱だった。クララは芝生の上からそれをただ眺めてはいられなかった。口まで泥の中に埋まって、涙を一ぱいためた眼でじっとクララに物をいおうとする三人の顔の外に、果てしのないその泥の沼には多くの男女の頭が静かに沈んで行きつつあるのだ。頭が沈みこむとぬるりと四方からその跡を埋めに流れ寄る泥の動揺は身の毛をよだてた。クララは何もかも忘れて三人を救うために泥の中に片足を入れようとした。 その瞬間に彼女は真黄に照り輝く光の中に投げ出された。芝生も泥の海ももうそこにはなかった。クララは眼がくらみながらも起き上がろうともがいた。クララの胸を掴んで起させないものがあった。クララはそれが天使ガブリエルである事を知った。「天国に嫁ぐためにお前は浄められるのだ」そういう声が聞こえたと思った。同時にガブリエルは爛々と燃える炎の剣をクララの乳房の間からずぶりとさし通した。燃えさかった尖頭は下腹部まで届いた。クララは苦悶の中に眼をあげてあたりを見た。まぶしい光に明滅して十字架にかかった基督の姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如くおののいた。喉も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。 クララはアグネスの眼をさまさないようにそっと起き上って窓から外を見た。眼の下には夢で見たとおりのルフィノ寺院が暁闇の中に厳かな姿を見せていた。クララは扉をあけて柔かい春の空気を快く吸い入れた。やがてポルタ・カプチイニの方にかすかな東明の光が漏れたと思うと、救世主のエルサレム入城を記念する寺の鐘が一時に鳴り出した。快活な同じ鐘の音は、麓の町からも聞こえて来た、牡鶏が村から村に時鳴を啼き交すように。 今日こそは出家して基督に嫁ぐべき日だ。その朝の浅い眠りを覚ました不思議な夢も、思い入った心には神の御告げに違いなかった。クララは涙ぐましい、しめやかな心になってアグネスを見た。十四の少女は神のように眠りつづけていた。 部屋は静かだった。 ○ クララは父母や妹たちより少しおくれて、朝の礼拝に聖ルフィノ寺院に出かけて行った。在家の生活の最後の日だと思うと、さすがに名残が惜しまれて、彼女は心を凝らして化粧をした。「クララの光りの髪」とアッシジで歌われたその髪を、真珠紐で編んで後ろに垂れ、ベネチヤの純白な絹を着た。家の者のいない隙に、手早く置手紙と形見の品物を取りまとめて机の引出しにしまった。クララの眼にはあとからあとから涙が湧き流れた。眼に触れるものは何から何までなつかしまれた。 一人の婢女を連れてクララは家を出た。コルソの通りには織るように人が群れていた。春の日は麗かに輝いて、祭日の人心を更らに浮き立たした。男も女も僧侶もクララを振りかえって見た。「光りの髪のクララが行く」そういう声があちらこちらで私語かれた。クララは心の中で主の祈を念仏のように繰返し繰返しひたすらに眼の前を見つめながら歩いて行った。この雑鬧な往来の中でも障碍になるものは一つもなかった。広い秋の野を行くように彼女は歩いた。 クララは寺の入口を這入るとまっすぐにシッフィ家の座席に行ってアグネスの側に坐を占めた。彼女はフォルテブラッチョ家の座席からオッタヴィアナが送る視線をすぐに左の頬に感じたけれども、もうそんな事に頓着はしていなかった。彼女は座席につくと面を伏せて眼を閉じた。ややともすると所も弁えずに熱い涙が眼がしらににじもうとした。それは悲しさの涙でもあり喜びの涙でもあったが、同時にどちらでもなかった。彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くし出すと、妙に胸がわくわくして来て、急に深淵のような深い静かさが心を襲った。クララは明かな意識の中にありながら、凡てのものが夢のように見る見る彼女から離れて行くのを感じた。無一物な清浄な世界にクララの魂だけが唯一つ感激に震えて燃えていた。死を宣告される前のような、奇怪な不安と沈静とが交る交る襲って来た。不安が沈静に代る度にクララの眼には涙が湧き上った。クララの処女らしい体は蘆の葉のように細かくおののいていた。光りのようなその髪もまた細かに震えた。クララの手は自らアグネスの手を覓めた。 「クララ、あなたの手の冷たく震える事」 「しっ、静かに」 クララは頼りないものを頼りにしたのを恥じて手を放した。そして咽せるほどな参詣人の人いきれの中でまた孤独に還った。 「ホザナ……ホザナ……」 内陣から合唱が聞こえ始めた。会衆の動揺は一時に鎮って座席を持たない平民たちは敷石の上に跪いた。開け放した窓からは、柔かい春の光と空気とが流れこんで、壁に垂れ下った旗や旒を静かになぶった。クララはふと眼をあげて祭壇を見た。花に埋められ香をたきこめられてビザンチン型の古い十字架聖像が奥深くすえられてあった。それを見るとクララは咽せ入りながら「アーメン」と心に称えて十字を切った。何んという貧しさ。そして何んという慈愛。 祭壇を見るとクララはいつでも十六歳の時の出来事を思い出さずにはいなかった。殊にこの朝はその回想が厳しく心に逼った。 今朝の夢で見た通り、十歳の時眼のあたり目撃した、ベルナルドーネのフランシスの面影はその後クララの心を離れなくなった。フランシスが狂気になったという噂さも、父から勘当を受けて乞食の群に加わったという風聞も、クララの乙女心を不思議に強く打って響いた。フランシスの事になるとシッフィ家の人々は父から下女の末に至るまで、いい笑い草にした。クララはそういう雑言を耳にする度に、自分でそんな事を口走ったように顔を赤らめた。 クララが十六歳の夏であった、フランシスが十二人の伴侶と羅馬に行って、イノセント三世から、基督を模範にして生活する事と、寺院で説教する事との印可を受けて帰ったのは。この事があってからアッシジの人々のフランシスに対する態度は急に変った。ある秋の末にクララが思い切ってその説教を聞きたいと父に歎願した時にも、父は物好きな奴だといったばかりで別にとめはしなかった。 クララの回想とはその時の事である。クララはやはりこの堂母のこの座席に坐っていた。着物を重ねても寒い秋寒に講壇には真裸なレオというフランシスの伴侶が立っていた。男も女もこの奇異な裸形に奇異な場所で出遇って笑いくずれぬものはなかった。卑しい身分の女などはあからさまに卑猥な言葉をその若い道士に投げつけた。道士は凡ての反感に打克つだけの熱意を以て語ろうとしたが、それには未だ少し信仰が足りないように見えた。クララは顔を上げ得なかった。 そこにフランシスがこれも裸形のままで這入って来てレオに代って講壇に登った。クララはなお顔を得上げなかった。 |
幼い頃の朧ろげな記憶の糸を辿って行くと、江戸の末期から明治の初年へかけて、物売や見世物の中には随分面白い異ったものがあった。私はそれらを順序なく話して見ようと思う。 一 まず第一に挙げたいのは、花見時の上野に好く見掛けたホニホロである。これは唐人の姿をした男が、腰に張子で作った馬の首だけを括り付け、それに跨ったような格好で鞭で尻を叩く真似をしながら、彼方此方と駆け廻る。それを少し離れた処で柄の付いた八角形の眼鏡の、凸レンズが七個に区画されたので覗くと、七人のそうした姿の男が縦横に馳せ廻るように見えて、子供心にもちょっと恐ろしいような感じがしたのを覚えている。 その頃の上野には御承知の黒門があって、そこから内へは一切物売を厳禁していたから、元の雁鍋の辺から、どんどんと称していた三枚橋まで、物売がずっと店を出していたものだったが、その中で残っているのは菜の花の上に作り物の蝶々を飛ばせるようにした蝶々売りと、一寸か二寸四方位な小さな凧へ、すが糸で糸目を長く付けた凧売りとだけだ。この凧はもと、木挽町の家主で兵三郎という男が拵らえ出したもので、そんな小さいものだけに、骨も竹も折れやすいところから、紙で巻くようにしていわゆる巻骨ということも、その男が工夫した事だという。 物売りではないが、紅勘というのはかなり有名なものだった。浅黄の石持で柿色の袖なしに裁布をはいて、腰に七輪のアミを提げて、それを叩いたり三味線を引いたりして、種々な音色を聞かせたが、これは芝居や所作事にまで取り入れられたほど名高いものである。 二 それから両国の広小路辺にも随分物売りがいたものだった。中で一番記憶に残っているのは細工飴の店で、大きな瓢箪や橋弁慶なぞを飴でこしらえて、買いに来たものは籤を引かせて、当ったものにそれを遣るというので、私などもよく買いに行ったものだが、いつも詰らない飴細工ばかり引き当てて、欲しいと思う橋弁慶なぞは、何時も取ったことがなく落胆したものだった。 物売りの部へ入れるのは妙だが、神田橋本町の願人坊主にも、いろいろ面白いのがいた。決してただ銭を貰うという事はなく、皆何か芸をしたものだけに、その時々には様々な異ったものが飛出したもので、丹波の荒熊だの、役者の紋当て謎解き、または袋の中からいろいろな一文人形を出して並べ立てて、一々言い立てをして銭を貰うのは普通だったが、中には親孝行で御座いといって、張子の人形を息子に見立てて、胸へ縛り付け、自分が負ぶさった格好をして銭を貰うもの――これは評判が好くて長続きした。半身肌脱ぎになって首から上へ真白に白粉を塗って、銭湯の柘榴口に見立てた板に、柄のついたのを前に立て、中でお湯を使ったり、子供の人形を洗ってやったりするところを見せたものなぞがあったものである。 三 私の生れた馬喰町の一丁目から四丁目までの道の両側は、夜になるといつも夜店が一杯に並んだものだった。その頃は幕府瓦解の頃だったから、八万騎をもって誇っていた旗本や、御家人が、一時に微禄して生活の資に困ったのが、道具なぞを持出して夜店商人になったり、従って芝居なぞも火の消えたようなので、役者の中にはこれも困って夜店を出す者がある位で、実に賑やかなものだったが、それらの夜店商人が使う蝋燭は、主に柳橋の薩摩蝋燭といって、今でも安いものを駄蝋という位、酷いものだが、それを売りに来る男で歌吉というのがあった。これがまた、天性の美音で「蝋燭で御座いかな」と踊るような身ぶりをして売って歩いたが、馬喰町の夜店が寂れると同時に、鳥羽絵の升落しの風をして、大きな拵らえ物の鼠を持って、好く往来で芸をして銭を貰っていたのを覚えている。美音で思い出したが、十軒店にも治郎公なぞと呼んでいた鮨屋が、これも美い声で淫猥な唄ばかり歌って、好く稲荷鮨を売りに来たものだった。 四 明治も十年頃になると物売りもまた変って来て、隊長の鳥売りなぞといって、金モールをつけた怪しげな大礼服を着て、一々言立てをするのや、近年まであったカチカチ団子と言う小さい杵で臼を搗いて、カチカチと拍子を取るものが現われた。また、それから少し下っては、落語家のへらへらの万橘が、一時盛んな人気だった頃に、神田台所町の井戸の傍だったかに、へらへら焼一名万橘焼というものを売り出したものがいて、これが大層好く売れたものであったそうだ。 昔のことをいえば限りがないが、物価も今より安かっただけ、いろいろ馬鹿げた事を考え出す者が多かった故か、物売りにまで随分変ったものがあった。とにかくその頃の女の髪結銭が、島田でも丸髷でも百文(今の一銭に当る)で、柳橋のおもとといえば女髪結の中でも一といわれた上手だったが、それですら髪結銭は二百文しか取らなかった。今から思えば殆んど夢のような気がする。忙しく余裕のない現代に生活している若い人たちが聞いたら、そこには昼と夜ほどの懸隔を見出す事であろうと思われる位だった。 (大正十二年四月『七星』第一号) 五 私の今住んでいる向島一帯の土地は、昔は石が少かったそうである。それと反対に向河岸の橋場から今戸辺には、石浜という名が残っている位に石が多かった。で、江戸もずっと以前の事であろうが、石浜に住んでいる人たちは、自分の腕の力を試すという意味も含ませて、向島の方へ石を投げてよこしたという伝説がある。その代りという訳でもあるまいが、この辺の土地は今でも一間も掘り下げると、粘土が層をなしていて、それが即ち今戸焼には好適の材料となるので、つまり暗黙のうちに物々交換をする訳なのである。 この石投げということは、俳諧の季題にある印地打ということなので、この風習は遠い昔に朝鮮から伝来したものらしく、今でも朝鮮では行われているそうだが、それが五月の行事となったのも、つまりは男子の節句という、勇ましいというよりもむしろ荒々しい気風にふさわしい遊戯であるからではなかろうか。既に近松門左衛門の『女殺油地獄』の中に――五月五日は女は家と昔から――という文句があるが、これも印地打のために女子供が怪我をするといけないから表へ出るなと、戒めたものであるらしい。 またそれほど烈しければこそ、多くの怪我人も出来て、後には禁止されたのである。 六 荒々しいといえば、五月人形の内、鍾馗にしろ金時にしろ、皆勇ましく荒々しいものだが、鍾馗は玄宗皇帝の笛を盗んだ鬼を捉えた人というし、金時は今も金時山に手玉石という大きな石が残っている位強かったというが、その子の金平も、きんぴら牛蒡やきんぴら糊に名を残したばかりか、江戸初期の芝居や浄瑠璃には、なくてはならない大立者だ。この浄瑠璃を語り初めた和泉太夫というのは、高座へ上るには二尺余りの鉄扇を持って出て、毎晩舞台を叩きこわしたそうだが、そんな殺伐なことがまだ戦国時代の血腥い風の脱け切らぬ江戸ッ子の嗜好に投じて、遂には市川流の荒事という独特な芸術をすら生んだのだ。 荒事といえば二代目の団十郎にこんな逸話がある。それは或る時座敷に招ばれて、その席上で荒事を所望されたので、立上って座敷の柱をゆさゆさと揺ぶり、「これが荒事でございます」といったら、一同喝采して悦んだという事が或る本に書いてあった。 七 印地打が朝鮮渡来の風習だという事は前に言ったが、同じ節句の柏餅も、やはり支那かもしくは印度あたりから伝えられたものであろう。というのは、今でも印度辺りでは客に出す食物は、大抵木の葉に盛って捧げられる風習がある。つまり木の葉は清浄なものとしてあるのだが、それらのことが柏餅を生み椿餅を生み、そして編笠餅や乃至桜餅を生んだと見ても差支えないように考える。 殊に昔、支那や朝鮮の種族が、日本へ移住した数は尠なからぬので、既に僧行基が奈良のある寺で説教を試みた時、髪に豚の脂の匂いのする女が来て聴聞したという話がある位、従ってそれらの部落で膳椀の代りに木の葉を用いたのが、伝播したとも考えられぬ事はない。唯幸いにして日本人は肉が嫌いであったがため、あの支那料理のシュウマイみたようなものを包む代りに、餡の這入った柏餅が製されて、今に至るも五月になれば姿が見られ得るのは、甘党の私などに取って悦ばしい事の一つかも知れない。呵々。 |
ねおんさいんハさつくすふおおんノ様ニ痩セテイル。 青イ静脈ヲ剪ツタラ紅イ動脈デアツタ。 ――ソレハ青イ動脈デアツタカラデアル―― ――否! 紅イ動脈ダツテアンナニ皮膚ニ埋レテイルト…… 見ヨ! ネオンサインダツテアンナニジーツトシテイル様ニ見ヘテモ 実ハ不断ニネオンガスガ流レテイルンダヨ。 ――肺病ミガサツクスフオーンヲ吹イタラ危イ血ガ検温計ノ様ニ |
佐藤一齋言志録凡一千三十四條。行于世。西郷南洲手抄其一百餘條。藏于家。余嘗遊鹿兒島而觀之。沙汰精確。旨義簡明。亦可以窺南洲之學識矣。嗚呼南洲夙抱勤王之志。致匪躬之節。間關崎嶇。死而復蘇。謀國而不謀身。身益困而人益信。言志録所謂。我執公情以行公事。天下無不服。南洲實行之矣。徳川氏之末造。怠惰成風。志氣衰弱。天厭幕府。將興維新之大業。南洲能率大軍夷叛亂。叱咜一聲。萬軍披靡。非得士心豈能如是乎。言志録所謂。因民義以激之。因民欲以趨之。則民忘其生而致其死。是可以一戰也。南洲實行之矣。夫南洲之得人心。立功業如彼。而晩節末路如此。可惜也。此編所載。毫無與道相背。後進之徒能讀之。可以進徳也。可以臨死而不畏也。余嘗聞。南洲之學術基於餘姚。及得此書。始信焉。近者余在日南。閑散無事。時出此書評之。夫今古史乘不能無謬。如頼氏外史。問諸史官。則曰有謬矣。夫名家據史傳。引用撰著。猶且然。況此評。事實往々取諸傳聞。未保其無謬也。今將刻之。香竹先生爲寫字。毎一版成。訂正及筆意。余悦曰。吾評不足讀。而其書可法矣。 |
宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館 発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館 今朝も、あなたからのおたよりを待つてゐましたのに来ないで、長い〳〵お八重さんからの手紙が来ました。そして、私の今度の事に就いて可なりはつきりと意見を述べてくれました。しかし私は、もう到底理解を望む事は出来ないと断念しかかつてゐます。ひよつとしたら、私の説明が丁寧に詳しかつたら、或は解るかも知れません。けれども、彼の人には、恋愛と云ふ事が何んであるか解つてゐないのです。あの人の恋愛観は、皆な書物の上のそれです。外のいろ〳〵の理屈は分るとしても、その心持が本当に解らない人には説明のしようはないと思ひます。しかし、私は出来るだけ説明してみるつもりではありますけれど。 私の一番親しい友達が、私をどのやうに見てゐたかを、少しお知らせしませうか。 『あなたの心霊がこの二三年、無意識にも有意識にもあこがれを感じ、渇きを覚えてゐる強い力――殊に異性の雄々しい圧力――これを提げてあなたに迫るものがあつたとしたら、それは必ず大杉氏であつた事を要しない。誰れでもよかつたのではありませんか。これは、あなたの無定見な恋――盲目的な憧憬を意味するのぢやありません。寧ろ、それほど必然的な危機があなたの周囲に生じてゐたと云ふ事を示すのです。それほど重大なワナがあなたに投げかけられてゐたのです。ですから、その強い魅力のある圧力の具体化として大杉氏が現はれたとき、どこまでも慎重にならなければならなかつたのです。これは逆説のやうですけれど、決してさうぢやありませんよ。それが本統に自分の要する力か、自分に適した力か、純粋のものかをぢつと〳〵凝視する時間を、多く長く持つ程がいいのだつたと思ひます。』 本当に、私はあなたでなくてもよかつたでせうか。私はさうは思ひません。私が、どんなに長くあなたを拒まうとして苦しんだかを、お八重さんは知らないのです。私は慎重でなかつたのでせうか。慎重ではなかつたかも知れませんね。けれども、私達は始めからそのやうな処を超えてゐたのではないでせうか。慎重と云ふやうな言葉の必要を感ずるよりも、もつとずつと近い所にゐたのだと云ふ気がします。ですから、お八重さんが『かう苦しまねばならない』と想像してゐるのと、私が苦しんだ事との間には、可なりの距離があるやうに思ひます。 そして又お八重さんは、私が第二の恋愛にはいつたのは、第一の牢から第二の牢にはいるのと同じだと云ひます。私が今日までの謂はゆる第一の牢で何にを苦しんだのでせう。同じ苦しみをした同じ処にはいつて行くほどの、私は馬鹿ではないと信じます。第二の牢と第一の牢とが同じものならば、第二とか第一とか呼ぶ必要はない。同じ処に帰つてゆくのだと云へばよろしい。私は同じ処に二度はいつて、違つた処にはいつてゐると云ふ程の盲ではないつもり。 同じ処に何時までもちぢこまつて、出たりはいつたりするものを嘲笑つてゐる不精者や利口者よりは、もう少し実際にはいろんなものを持つ事が出来るのではないでせうか。私は、出来るだけ躊躇なく出たり入つたりしたい。いろ〳〵な処でいろ〳〵な事を知りたい。どうせ現在の私達の生活は牢獄の生活ではないでせうか。何処に本当の自由な天地があるのでせう。 お八重さんは、自分を本当に自由な処にゐるのだと思つてゐるのでせうか。又、私が辻と別居してあなたとの恋愛に走つた事はミネルヴアの殿堂に行くつもりで又もとのヴイナスの像の前にひざまづくものだと云ひます。かうなると、私はもう何にを云ふのも厭やになります。ミエネルヴアとヴイナスと一緒に信仰する事は出来ないと云ふ事があるのでせうか。私達の恋愛がどのやうなものであるかと云ふ事が、少しも分らないのでせうね。勿論わかる筈もないのですけれど。矢張り、私はだまつて私達の道を歩いて行きさへすればいいのですね。他人が分らうと分るまいとそんな事にはもうこだはつてゐる気になりません。女の世界のを読んでお八重さんがサゼストされた事は、前途が決して明るくないと云ふ事ださうです。不安な不快な曇りが想覚されたのださうです。そして最後にお八重さんは云ひます。 『あなたはまだお若いから困りますね。もつと聡明に恋をして下さい。でないと、あなたのしようとしてゐる事が、何にも出来ないで駄目になりますよ。今までの苦心も水の泡になりますよ。しつかりなさい。モルモン宗に改宗したり、恋の勝利者なんて浮れてる時ぢやありませんよ。』 お分りになりました? ねえ、私のお友達は本当に聡明ですね。私の本当の事を知つてゐて下さるのは、あなただけね。どうせ、私はもうあのサアクル(青鞜社)におさまつてはゐられないのですもの。私は血のめぐりの悪い、殿堂におさまつた冷いミネルヴアはいやです。 私が、これからどのやうな道を歩かうとしてゐるか、それもあの人には分つてゐないのです。私は本当に勉強します。今どんなに説明しても分りはしないでせう。五年先きか十年先きになれば、屹度半分位は分るかも知れませんね。私が恋に眩惑されてゐるのかさうでないかが。眩惑されてゐるとしても、その恋がどんなものであるかが。 何んだか、私はまるであなたに怒りつけてゐるやうね。御免なさい。でも、なんだかあなたに話をして見たかつたんですもの。 |
滝田君はいつも肥っていた。のみならずいつも赤い顔をしていた。夏目先生の滝田君を金太郎と呼ばれたのも当らぬことはない。しかしあの目の細い所などは寧ろ菊慈童にそっくりだった。 僕は大学に在学中、滝田君に初対面の挨拶をしてから、ざっと十年ばかりの間可也親密につき合っていた。滝田君に鮭鮓の御馳走になり、烈しい胃痙攣を起したこともある。又雲坪を論じ合った後、蘭竹を一幅貰ったこともある。実際あらゆる編輯者中、僕の最も懇意にしたのは正に滝田君に違いなかった。しかし僕はどういう訳か、未だ嘗て滝田君とお茶屋へ行ったことは一度もなかった。滝田君は恐らくは僕などは話せぬ人間と思っていたのであろう。 滝田君は熱心な編輯者だった。殊に作家を煽動して小説や戯曲を書かせることには独特の妙を具えていた。僕なども始終滝田君に僕の作品を褒められたり、或は又苦心の余になった先輩の作品を見せられたり、いろいろ鞭撻を受けた為にいつの間にかざっと百ばかりの短篇小説を書いてしまった。これは僕の滝田君に何よりも感謝したいと思うことである。 僕は又中央公論社から原稿料を前借する為に時々滝田君を煩わした。何でも始めに前借したのは十円前後の金だったであろう。僕はその金にも困った揚句、確か夜の八時頃に滝田君の旧宅を尋ねて行った。滝田君の旧居は西片町から菊坂へ下りる横町にあった。僕はこの家を尋ねたことは前後にたった一度しかない。が、未だに門内か庭かに何か白い草花の沢山咲いていたのを覚えている。 滝田君は本職の文芸の外にも書画や骨董を愛していた。僕は今人の作品の外にも、椿岳や雲坪の出来の善いものを幾つか滝田君に見せて貰った。勿論僕の見なかったものにもまだ逸品は多いであろう。が、僕の見た限りでは滝田コレクションは何と言っても今人の作品に優れていた。尤も僕の鑑賞眼は頗る滝田君には不評判だった。「どうも芥川さんの美術論は文学論ほど信用出来ないからなあ。」――滝田君はいつもこう言って僕のあき盲を嗤っていた。 滝田君が日本の文芸に貢献する所の多かったことは僕の贅するのを待たないであろう。しかし当代の文士を挙げて滝田君の世話になったと言うならば、それは故人に佞するとも、故人に信なる言葉ではあるまい。成程僕等年少の徒は度たび滝田君に厄介をかけた。けれども滝田君自身も亦恐らくは徳田秋声氏の如き、或は田山花袋氏の如き、僕等の先輩に負う所の少しもない訳ではなかったであろう。 |
ある春の夕、Padre Organtino はたった一人、長いアビト(法衣)の裾を引きながら、南蛮寺の庭を歩いていた。 庭には松や檜の間に、薔薇だの、橄欖だの、月桂だの、西洋の植物が植えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽かにする夕明りの中に、薄甘い匂を漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本とは思われない、不可思議な魅力を添えるようだった。 オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径を歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬の大本山、リスポアの港、羅面琴の音、巴旦杏の味、「御主、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛の沙門の心へ、懐郷の悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須(神)の御名を唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。 「この国の風景は美しい――。」 オルガンティノは反省した。 「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの黄面の小人よりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院が聳えている。して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか? が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスポアの市へ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那でも、沙室でも、印度でも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」 オルガンティノは吐息をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔に落ちた、仄白い桜の花を捉えた。桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立ちの間を見つめた。そこには四五本の棕櫚の中に、枝を垂らした糸桜が一本、夢のように花を煙らせていた。 「御主守らせ給え!」 オルガンティノは一瞬間、降魔の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜が、それほど無気味に見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が、彼は刹那の後、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。 × × × 三十分の後、彼は南蛮寺の内陣に、泥烏須へ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸を争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、吼り立った悪魔さえも、今夜は朧げな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々しい薔薇や金雀花が、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後に、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。 「南無大慈大悲の泥烏須如来! 私はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能くする所ではございません。皆天地の御主、あなたの御恵でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難いかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜んで居ります。そうしてそれが冥々の中に、私の使命を妨げて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来! 邪宗に惑溺した日本人は波羅葦増(天界)の荘厳を拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩悶に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」 その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。 「私は使命を果すためには、この国の山川に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔紅海の底に、埃及の軍勢を御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及の軍勢に劣りますまい。どうか古の予言者のように、私もこの霊との戦に、………」 祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴が聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の真後には、白々と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨をつくっているではないか? オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇とこの鳥を逐い出そうとした。が、二足三足踏み出したと思うと、「御主」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣の中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠の海にしているのだった。 「御主、守らせ給え!」 彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、万力か何かに挟まれたように、一寸とは自由に動かなかった。その内にだんだん内陣の中には、榾火の明りに似た赤光が、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノは喘ぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。 人影は見る間に鮮かになった。それはいずれも見慣れない、素朴な男女の一群だった。彼等は皆頸のまわりに、緒にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も鬨をつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの画を描いた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、―― 日本の Bacchanalia は、呆気にとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼のように漂って来た。彼は赤い篝の火影に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交しながら、車座をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな桶を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろには小山のように、これもまた逞しい男が一人、根こぎにしたらしい榊の枝に、玉だの鏡だのが下ったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根や鶏冠をすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。 桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓は、ひらひらと空に翻った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露わにした胸! 赤い篝火の光の中に、艶々と浮び出た二つの乳房は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪の力か、身動きさえ楽には出来なかった。 その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度正気に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。 「私がここに隠っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」 その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。 「それはあなたにも立ち勝った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」 その新しい神と云うのは、泥烏須を指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとの間、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。 沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の群が、一斉に鬨をつくったと思うと、向うに夜霧を堰き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐ろに左右へ開き出した。そうしてその裂け目からは、言句に絶した万道の霞光が、洪水のように漲り出した。 オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈が起るのを感じた。そうしてその光の中に、大勢の男女の歓喜する声が、澎湃と天に昇るのを聞いた。 「大日孁貴! 大日孁貴! 大日孁貴!」 「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」 「あなたに逆うものは亡びます。」 「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」 「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」 「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」 「大日孁貴! 大日孁貴! 大日孁貴!」 そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。……… その夜も三更に近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻すと、人音も聞えない内陣には、円天井のランプの光が、さっきの通り朦朧と壁画を照らしているばかりだった。オルガンティノは呻き呻き、そろそろ祭壇の後を離れた。あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。しかしあの幻を見せたものが、泥烏須でない事だけは確かだった。 「この国の霊と戦うのは、……」 オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独り語を洩らした。 「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」 するとその時彼の耳に、こう云う囁きを送るものがあった。 「負けですよ!」 オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を透かして見た。が、そこには不相変、仄暗い薔薇や金雀花のほかに、人影らしいものも見えなかった。 × × × オルガンティノは翌日の夕も、南蛮寺の庭を歩いていた。しかし彼の碧眼には、どこか嬉しそうな色があった。それは今日一日の内に、日本の侍が三四人、奉教人の列にはいったからだった。 庭の橄欖や月桂は、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が擾されるのは、寺の鳩が軒へ帰るらしい、中空の羽音よりほかはなかった。薔薇の匂、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子の美しきを見て、」妻を求めに降って来た、古代の日の暮のように平和だった。 |
おくつきに跪き わが父の墳塋に とこしへの愛を われにちかひぬ。 汝もし操なくば 一日たてし誓に 願くば過る勿れ わが父の墳塋を。 * 天の星、 谷の花、 こゝにして子らは日をみむ、 こゝにしてわがおやゆきぬ。 うれたくも、 子らなくば なが胸ぞ子らの墳塋ならば よぎる勿れわが父の墳塋を。 * やまこえて あだ人來る 其眼くろし 其髮くろし くろからむ其子らの眼も |
(一) 二三日前の事である。途で渇を覺えてとあるビイヤホオルに入ると、窓側の小さい卓を圍んで語つてゐる三人連の紳士が有つた。私が入つて行くと三人は等しく口を噤んで顏を上げた。見知らぬ人達で有る。私は私の勝手な場所を見付けて、煙草に火を點け、口を濕し、そして新聞を取上げた。外に相客といふものは無かつた。 やがて彼等は復語り出した。それは「今度の事」に就いてゞ有つた。今度の事の何たるかは固り私の知らぬ所、又知らうとする氣も初めは無かつた。すると、不圖手にしてゐる夕刊の或一處に停まつた儘、私の眼は動かなくなつた。「今度の事は然し警察で早く探知したから可かつたさ。燒討とか赤旗位ならまだ可いが、彼樣な事を實行されちやそれこそ物騷極まるからねえ。」さう言ふ言葉が私の耳に入つて來た。「僕は變な事を聞いたよ。首無事件や五人殺しで警察が去年から散々味噌を付けてるもんだから、今度の事はそれ程でも無いのを態と彼樣に新聞で吹聽させたんだつて噂も有るぜ。」さう言ふ言葉も聞えた。「然し僕等は安心して可なりだね。今度のやうな事がいくら出て來たつて、殺される當人が僕等で無いだけは確かだよ。」さう言つて笑ふ聲も聞えた。私は身體中を耳にした。――今度の事有つて以來、私はそれに就いての批評を日本人の口から聞くことを、或特別の興味を有つて待つてゐた。今三人の紳士の取交してゐる會話は即ちそれで有る。――今度の事と言ふのは、實に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈彈事件の事だつたのである。 私の其時起した期待は然し何れだけも滿たされなかつた。何故なれば彼の三人は間もなく勘定を濟して出て行つたからで有る。――明治四十年八月の函館大火の際、私も函館に在つて親しく彼の悲壯なる光景を目撃した。火事の後、家を失つた三四萬の市民は、何れも皆多少の縁故を求めて、燒殘つた家々に同居した。如何に小さい家でも二家族若くは三家族の詰込まれない家は無かつた。其時私は平時に於て見ることの出來ない、不思議な、而も何かしら愉快なる現象を見た。それは、あらゆる制度と設備と階級と財産との攪亂された處に、人間の美しき性情の却つて最も赤裸々に發露せられたことで有つた。彼等の蒙つた強大なる刺戟は、彼等をして何の顧慮もなく平時の虚禮の一切を捨てさせた。彼等はたゞ彼等の飾氣なき相互扶助の感情と現在の必要とに據つて、孜々として彼等の新らしい家を建つることに急いだ。そして其時彼等が、其一切の虚禮を捨てる爲にした言譯は、「此際だから」といふ一語であつた。此一語はよく當時の函館の状態を何人にも理解させた。所謂言語活用の妙で有る。――そして今彼の三人の紳士が、日本開闢以來の新事實たる意味深き事件を、たゞ單に「今度の事」と言つた。これも亦等しく言語活用の妙で無ければならぬ。「何と巧い言方だらう!」私は快く冷々する玻璃盃を握つた儘、一人幽かに微笑んで見た。 間もなく私も其處を出た。さうして兩側の街燈の美しく輝き始めた街に靜かな歩みを運びながら、私はまた第二の興味に襲はれた。それは我々日本人の或性情、二千六百年の長き歴史に養はれて來た或特殊の性情に就いてゞ有つた。――此性情は蓋し我々が今日迄に考へたよりも、猶一層深く、且つ廣いもので有る。彼の偏へに此性情に固執してゐる保守的思想家自身の値踏みしてゐるよりも、もつともつと深く且つ廣いもので有る。――そして、千九百餘年前の猶太人が耶蘇基督の名を白地に言ふを避けて唯「ナザレ人」と言つた樣に、恰度それと同じ樣に、彼の三人の紳士をして、無政府主義といふ言葉を口にするを躊躇して唯「今度の事」と言はしめた、それも亦恐らくは此日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかつた。 (二) 蓋し無政府主義と言ふ語の我々日本人の耳に最も直接に響いた機會は、今日までの所、前後二囘しか無い。無政府主義といふ思想、無政府黨といふ結社の在る事、及び其黨員が時々兇暴なる行爲を敢てする事は、書籍に依り、新聞に依つて早くから我々も知つてゐた。中には特に其思想、運動の經過を研究して、邦文の著述を成した人すら有る。然しそれは洋を隔てた遙か遠くの歐米の事で有つた。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間に其主義を信じ、其黨を結んでゐる者の在る事を知つた機會は遂に二囘しかない。 其の一つは往年の赤旗事件である。帝都の中央に白晝不穩の文字を染めた紅色の旗を飜して、警吏の爲に捕はれた者の中には、數名の年若き婦人も有つた。其婦人等――日本人の理想に從へば、穩しく、しとやかに、萬に控へ目で有るべき筈の婦人等は、嚴かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言つた。それを傳へ聞いた國民の多數は、目を丸くして驚いた。 然し其驚きは、仔細に考へて見れば決して眞の驚きでは無かつた。例へば彼の事件は、藝題だけを日本字で書いた、そして其白の全く未知の國語で話される芝居の樣なもので有つた。國民の讀み得た藝題の文字は、何樣耳新らしい語では有つたが、耳新らしいだけそれだけ、聞き慣れた「油地獄」とか「吉原何人斬」とか言ふものよりも、猶一層上手な、殘酷な舞臺面を持つてゐるらしく思はれた。やがて板に掛けられた所を見ると、喜び、泣き、嬌態を作るべき筈の女形が、男の樣な聲で物を言ひ、男の樣に歩き、男も難しとする樣な事を平氣で爲た。觀客は全く呆氣に取られて了つた。言ひ換へれば、舞臺の上の人物が何の積りで、何の爲にそんな事をするのかは少しも解することが出來ずに、唯其科の荒々しく、自分等の習慣に戻つてゐるのを見て驚いたのである。隨つて其芝居――藝題だけしか飜譯されてゐなかつた芝居は、遂に當を取らずに樂になつた。又隨つて觀客の方でも間もなく其芝居を忘れて了つた。 尤もそれは國民の多數者に就いてゞ有る。中に少數の識者が有つて、多少其芝居の筋を理解して、翌る日の新聞に劇評を書いた。「社會主義者諸君、諸君が今にしてそんな輕率な擧動をするのは、決して諸君の爲では有るまい。そんな事をするのは、漸く出來かゝつた國民の同情を諸君自ら破るものではないか。」と。これは當時に有つては、確かに進歩した批評の爲方であつた。然し今日になつて見れば、其所謂識者の理解なるものも、決して徹底したもので有つたとは思へない。「我は無政府主義者なり。」と言ふ者を、「社會主義者諸君。」と呼んだ事が、取りも直さずそれを證明してゐるでは無いか。 (三) さうして第二は言ふまでもなく今度の事である。 今度の事とは言ふものゝ、實は我々は其事件の内容を何れだけも知つてるのでは無い。秋水幸徳傳次郎といふ一著述家を首領とする無政府主義者の一團が、信州の山中に於て密かに爆烈彈を製造してゐる事が發覺して、其一團及び彼等と機密を通じてゐた紀州新宮の同主義者が其筋の手に檢擧された。彼等が檢擧されて、そして其事を何人も知らぬ間に、檢事局は早くも各新聞社に對して記事差止の命令を發した。如何に機敏なる新聞も、唯敍上の事實と、及び彼等被檢擧者の平生に就いて多少の報道を爲す外に爲方が無かつた。――そして斯く言ふ私の此事件に關する智識も、遂に今日迄に都下の各新聞の傳へた所以上に何物をも有つてゐない。 若しも單に日本の警察機關の成績といふ點のみを論ずるならば、今度の事件の如きは蓋し空前の成功と言つても可からうと思ふ。啻に迅速に、且つ遺漏なく犯罪者を逮捕したといふ許りで無く、事を未然に防いだといふ意味に於て特に然うで有る。過去數年の間、當局は彼等所謂不穩の徒の爲に、啻に少なからざる機密費を使つた許りでなく、專任の巡査數十名を、たゞ彼等を監視させる爲に養つて置いた。斯くの如き心勞と犧牲とを拂つてゐて、それで萬一今度の樣な事を未然に防ぐことが出來なかつたなら、それこそ日本の警察が其存在の理由を問はれても爲方の無い處で有つた。幸ひに彼等の心勞と犧牲とは今日の功を收めた。 それに對しては、私も心から當局に感謝するものである。蓋し私は、あらゆる場合、あらゆる意味に於て、極端なる行動といふものは眞に眞理を愛する者、確實なる理解を有つた者の執るべき方法で無いと信じてゐるからで有る。正しい判斷を失つた、過激な、極端な行動は、例へば導火力の最も高い手擲彈の如きものである。未だ敵に向つて投げざるに、早く已に自己の手中に在つて爆發する。これは今度の事件の最もよく證明してゐる所で有る。さうして私は、たとひ其動機が善であるにしろ、惡であるにしろ、觀劇的興味を外にしては、我々の社會の安寧を亂さんとする何者に對しても、それを許す可き何等の理由を有つてゐない。若しも今後再び今度の樣な計畫をする者が有るとするならば、私は豫め當局に對して、今度以上の熱心を以てそれを警戒することを希望して置かねばならぬ。 然しながら、警察の成功は遂に警察の成功で有る。そして決してそれ以上では無い。日本の政府が其隸屬する所の警察機關のあらゆる可能力を利用して、過去數年の間、彼等を監視し、拘束し、啻に其主義の宣傳乃至實行を防遏したのみでなく、時には其生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加へたに拘はらず、彼等の一人と雖も其主義を捨てた者は無かつた。主義を捨てなかつた許りでなく、却つて其覺悟を堅めて、遂に今度の樣な兇暴なる計畫を企て、それを半ばまで遂行するに至つた。今度の事件は、一面警察の成功で有ると共に、又一面、警察乃至法律といふ樣なものゝ力は、如何に人間の思想的行爲に對つて無能なもので有るかを語つてゐるでは無いか。政府並に世の識者の先づ第一に考へねばならぬ問題は、蓋し此處に有るであらう。 (四) 歐羅巴に於ける無政府主義の發達及び其運動に多少の注意を拂ふ者の、先づ最初に氣の付く事が二つ有る。一つは無政府主義者と言はるゝ者の今日迄に爲した行爲は凡て過激、極端、兇暴で有るに拘はらず、其理論に於ては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると、共産的たるとを問はず、殆ど何等の危險な要素を含んでゐない事で有る。(唯彼等の説く所が、人間の今日に於ける生活状態とは非常に距離の有る生活状態の事で有るだけで有る)。も一つは、其等無政府主義者の言論、行爲の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の關係を保つてゐる事で有る。――これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの樣な有名な地理學者が有るからといふ洒落ではない。 前者に就いては、私は何も此處に言ふ可き必要を感じない。必要を感じない許りでなく、今の樣な物騷な世の中で、萬一無政府主義者の所説を紹介しただけで私自身亦無政府主義者で有るかの如き誤解を享ける樣な事が有つては、迷惑至極な話である。そして又、結局私は彼等の主張を誤りなく傳へる程に無政府主義の内容を研究した學者でもないのである。――が、若しも世に無政府主義といふ名を聞いただけで眉を顰める樣な人が有つて、其人が他日彼の無政府主義者等の所説を調べて見るとするならば、屹度、入口を間違へて別の家に入つて來た樣な驚きを經驗するだらうと私は思ふ。彼等の或者にあつては、無政府主義といふのは詰り、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで發達した状態に對する、熱烈なる憧憬に過ぎない。又或者にあつては、相互扶助の感情の圓滿なる發現を遂げる状態を呼んで無政府の状態と言つてるに過ぎない。私慾を絶滅した完全なる個人と言ひ、相互扶助の感情と言ふが如きは、如何に固陋なる保守的道徳家に取つても決して左迄耳遠い言葉で有る筈が無い。若し此等の點のみを彼等の所説から引離して見るならば、世にも憎むべき兇暴なる人間と見られてゐる無政府主義者と、一般教育家及び倫理學者との間に、何れだけの相違も無いので有る。人類の未來に關する我々の理想は蓋し一で有る――洋の東西、時の古今を問はず、畢竟一で有る。唯一般教育家及び倫理學者は、現在の生活状態の儘で其理想の幾分を各人の犧牲的精神の上に現はさうとする。個人主義者は他人の如何に拘はらず先づ自己一人の生涯に其理想を體現しようとする。社會主義者にあつては、人間の現在の生活が頗る其理想と遠きを見て、因を社會組織の缺陷に歸し、主として其改革を計らうとする。而して彼の無政府主義者に至つては、實に、社會組織の改革と人間各自の進歩とを一擧にして成し遂げようとする者で有る。――以上は餘り不謹愼な比較では有るが、然し若しも此樣な相違が有るとするならば、無政府主義者とは畢竟「最も性急なる理想家」の謂でなければならぬ。既に性急である、故に彼等に、其理論の堂々として而して何等危險なる要素を含んでゐないに拘らず、未だ調理されざる肉を喰ふが如き粗暴の態と、小兒をして成人の業に就かしめ、其能はざるを見て怒つて此れを蹴るが如き無謀の擧あるは敢て怪しむに足らぬので有る。 (五) 若夫れ後者――無政府主義の地理的分布の一事に至つては、此際特に多少の興味を惹起すべき問題でなければならぬ。地理的分布――言ふ意味は、無政府主義と歐羅巴に於ける各國民との關係といふ事で有る。 凡そ思想といふものは、其思想所有者の性格、經驗、教育、生理的特質及び境遇の總計で有る。而して個人の性格の奧底には、其個人の屬する民族乃至國民の性格の横たはつてゐるのは無論である。――端的に此處に必要なだけを言へば、或民族乃至國民と或個人の思想との交渉は、第一、其民族的、國民的性格に於てし、第二、其國民的境遇(政治的、社會的状態)に於てする。そして今此無政府主義に於ては、第一は主として其理論的方面に、第二は其實行的方面に關係した。 第一の關係は、我々がスチルネル、プルウドン、クロポトキン三者の無政府主義の相違を考へる時に、直ぐ氣の付く所で有る。蓋しスチルネルの所説の哲學的個人主義的なる、プルウドンの理論の頗る鋭敏な直感的傾向を有して、而して時に感情に趨らんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的な色彩を有する、それらは皆、彼等の各の屬する國民――獨逸人、佛蘭西人、露西亞人――といふ廣漠たる背景を考ふることなしには、我々の正しく理解する能はざる所で有る。 |
コノヨウナ題目ヲ掲ゲルト国語学者トマチガエラレルオソレガアルカラ一応断ツテオクガ、私ハ映画ノホウノ人間デ、数年臥床ヲ余儀ナクサレテイル病人デアル。ソノヨウナモノガナゼカタカナニツイテ論ジタリスルノカトイウ不審ガアルカモシレナイガ、コウイウフウニ自分ノ専門以外ノコトニ口出シヲシテ人ニ迷惑ヲカケルコトハ当今ノ流行デアツテ何モ私ノ創意ニヨルコトデハナイ。タトエバ我々ノ映画事業ニシテモ、何カ会ダノ組織ダノガデキルタビニ、ズラリト重要ナ椅子ヲ占メラレルノハ、必ズ、全部ガ全部映画ニハ何ノ関係モナイ人バカリデアル。コトニヨルト、我国ニハ「シロウトハクロウトヲ支配ス」トイウ法則ガアルノデハナイカト思ウガマダ調ベテモミナイ。 サテ、コウイウ国ガラデアツテミレバ、タマタマ私ガ少シクライ畠チガイノコトニ口出シヲシタトコロデメツタニ苦情ヲイワレル筋合イハナイハズデアル。シカモカタカナノ問題ハ現在ノ私ノ生活ニスコブル密接ナ関係ヲ持ツ。現ニ私ハ近ゴロ原稿ヲ書クニモ手紙ヲシタタメルニモヒラガナトイウモノヲ使ツタコトガナイ、ソレハナゼカトイウニ、我々仰臥シタママデモノヲ書クモノニトツテハ些細ナ力ノ消費モ大キナ問題トナル。シカルニカタカナトヒラガナトデハ、力ノ消費ガ非常ニ違ウノデアル。コノコトハ子規ノ書イタモノニカタカナ文ガ多イコトヤ、宮沢賢治ノ病中作デアル「雨ニモ負ケズ」ノ詩ガカタカナデアルコトナドデ間接ニ証明サレルガ、ナオソレニツイテイササカインチキナガラ力学的ニ考察シタ文章ヲ他ノ場所ニ発表シタカラココニハ書カナイ。 私ガココニ書イテオキタイコトハ、日本ノ活字カラヒラガナヲナクシタホウガヨイトイウ私見デアル。タイヘン突拍子モナイコトヲ言イ出シタヨウニ思ワレルカモシレナイガ、少シ落着イテ考エテミルナラ、別ニ奇抜ナコトデモ何デモナイコトガワカル。キワメテアタリマエノコトナノデアル。 サテ、コレカラソノ論証ヲシナケレバナラヌガ、アマリ十分ナ紙幅ガナイカラ箇条書ニシゴク簡単ニ書ク。 一、ヒラガナノ活字ハソレ自身ガ美シクナイ。文字トシテモ現今ノヒラガナヨリハ変態ガナノホウガ美シク、変態ガナヨリハ上代ガナノホウガ美シイ。コレハ少シ手習イシタモノナラダレデモ感ジルコトダ。現在ノ活字ハ、ソノ美シクナイヒラガナヲソノママ活字ニ移シタモノデ、活字ニ必要ナ様式化サエ行ワレテイナイ。ヒラガナノ活字ガイカニ醜イカトイウコトハ初号クライノ活字ヲ見タラダレニモワカルダロウ。 二、ヒラガナトイウモノハ、元来毛筆ナラビニ和紙トイウモノトトモニ育ツテキタモノデ、ソレラヲ離レテハホトンド生命ノナイモノト思ウ。ヒラガナトカタカナハ相前後シテ生レタラシイガ、前者ハ毛筆ト和紙ニ対シ適合性ヲ持ツテイタタメ今日マデ愛用サレタニ反シ後者ハ適合性ヲ持タナカツタタメ、一千年ノ間カエリミラレルコトガナカツタ。毛筆ニ乏シク、和紙ガ皆無ニチカイ今日ノ我々ノ実生活(趣味生活ハ問題外)ノドコヲ探シテモモハヤヒラガナニ未練ヲノコス理由ヲ発見スルコトガデキナイ。ヨロシク一千年ノ間シンボウ強ク今日ノ日ヲ待ツテイタカタカナヲ登用スベキ時期デアロウ。(コノ項ハ活字以外ノ領分ニ脱線シタ。) 三、ヒラガナトイウモノハソノ素性ヲ探ルト、イズレモ漢字ヲ極端ニ崩シタモノニスギナイ。スナワチ形カライエバ草書ト少シモカワリハナイノデアル。シカルニ草書ト楷書ハ、コレヲ混ゼコジヤニ布置シタ場合ケツシテ調和スルモノデハナイ。シタガツテ楷書トヒラガナモマタ同様ニ調和シナイ。ユエニ楷書ノ活字トヒラガナノ活字モマタ調和シナイノデアル。コレヲ調和シテイルト考エル人ガアレバ、ソレハ習慣ニヨツテ感覚ガ麻痺シテイルニスギナイ。 トコロガカタカナノ場合ハソノ成立ノ歴史カライツテモ楷書ノ漢字ノ一部分ヲチヨツト失敬シタマデデアルカラ、コレガ楷書ノ字ト一緒ニ並ンデイルトコロハアタカモ親ト子ガ並ンデイルクライヨク調和スル。シタガツテ楷書ノ活字トカタカナノ活字モマタキワメテ調和ガヨイ。モシモコレヲ不調和ト感ジル人ガアツタラオソラクソノ人ガカタカナヲ見ナレナイセイカ、ソウデナカツタラ数学ノ本デ十分ニ痛メツケラレタ記憶ヲ持ツ人ニチガイナイ。元来、ヒラガナノ構成単位ハ曲線デアリ、楷書トカタカナノ構成単位ハ直線デアル。コノ事実ガ右ノ調和ウンヌンニ深イ関係ヲ持ツコトハイウマデモナイ。 四、ヒラガナハ活字ニ適シナイ。コノ理由ハマダ自分デモハツキリワカラナイガ、オソラクヒラガナヲ構成スル線ガアマリニ不規則ナタメ、一定ノ法則ニ従ツテ様式化スルコトガ困難ナセイダロウト思ウ。ソレニイマ一ツ活字トイウモノハ歯ギレガヨクナクテハイケナイ。コレハ活字式ニ書カレタポスターノ大キナ字ニヒラガナガ混ツテイルトヨクワカル。何カ戦場ヘ長袖ノ人ガ出テキタヨウナマドロツコシイ感ジガスル。 五、カタカナハヒラガナニ比較シテヨリ確実ナル伝達能力ヲ持ツ。ソレハツマリ、構成ガ単純デ、劃ガ少ナク線ガ直線的デカツ規則的ナタメ、書クニモ読ムニモマチガウ機会ガ少ナイコトヲ意味スル。現在カタカナガ一般ニ使ワレテイルノハ数学書、法律書、官報、軍関係ノ書類ナドデアルト思ウガ、イズレモ最モ正確ヲ期セナケレバナラヌ種類ノモノバカリデアル。 六、カタカナハヒラガナヲ書ク場合ニ比シテ、オソラク半分ノ労力デスム。コノコトハチヨツト最初ニモ述ベタガ、要スルニ直線運動ト曲線運動トノ比較ニナル。クワシイコトハ物理学者ニ聞カナイトワカラナイガ、多分直線ノホウガヨリ少ナイエネルギーデヨリ多クノ距離ヲ行ケルノダロウト思ウ。コノ問題ハ活字ト関係ガナサソウデアルガ、原稿ヲ書ク場合ニ関係ガ生ジテクルノデアル。 七、活字ノヒラガナヲ廃止シテモ文化的ニ何ラノ損失モナイ。我々ハ今マデニオイテモ行書ノ活字ダノ草書ノ活字ダノトイウモノヲ持タナカツタガ、ソノタメニイササカノ不便モ感ジテハイナイ。漢字ノ活字ガ楷書一ツデタクサンデアルヨウニ、カナノ活字モカタカナ一種類デタクサンデアル。ヒラガナノ好キナ人、ヒラガナヲ捨テ切レヌ人ハ好キナダケヒラガナヲ書ケバヨイ。タダ、活字ダケヲカタカナニスレバヨイトイウノダ。シカシ、ソウナルト実際ニ使用スル文字ト活字ノ文字ガ違ツテ不都合ダトイウカモシレヌガ、西洋ノホウデハドコヲ見マワシテモ書ク文字ト同ジ活字ヲ持ツテイル国ハナイ。書ク文字ト活字ハチガツテアタリマエナノデアルカラ気ニスル必要ハナイ。 八、日本語ノ学修、普及ガ現在ヨリ容易ニナル。外国ノ人タチナドモカナヲ一種類オボエレバイイコトニナレバ非常ニ助カルダロウ。ソノ他日本文化ノ普及ニ役立ツコトハ非常ナモノデアロウ。 九、印刷文化ノウエニズイブン大キナ徳ガアル。鮮明度、速力ナドニ関シテハモチロン、資材ノウエカラ労力ノウエカラ大変ナ経済ダト思ウガコノ種ノコトハ私ニハヨクワカラナイ。 十、世ノ中ニハ、ソノ気ニナルノハワケハナイガ実行ガ面倒ダトイウ問題ト、実行ハ簡単ダガナカナカソノ気ニナレナイ問題トガアル。コノ問題ハオソラクソノアトノ場合デアロウ。永イ習慣ノ力トイウモノハバカバカシク強イモノデアル。シカシマズ最初ニ新聞ダケデモカタカナニナツテシマエバアトハ割合ラクデアロウ。少ナクトモカナヅカイノ問題ヨリハハルカニ単純デアル。 |
宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館 発信地 大阪市北区上福島 昨日はとうたうはがきを書く事も出来ませんで失礼して仕舞ひました。何卒あしからずおゆるし下さい。 停車場に和気(律次郎)さんが思ひがけなく見えてゐましたのにびつくりしました。あなたが電報を打つて下すつたのですつてね。午後から社に伺ふ約束をして直ぐこちらにまゐりました。叔父(代準介)は午後から旅行するのだと云つて、可なり混雑してゐる処でした。もう一と足で後れて仕舞ふ処でした。午後から社にゆきましたら、菊池氏は小説執筆中で休んでゐました。暫く和気さんとお話して心斎橋まで一緒に行きました。 叔父は三時にたつと云つてゐたのですけれども九時まで延ばしていろ〳〵お話をしました。何か云はうと思ひますけれども、何を云つても駄目なのでいやになつて仕舞ひました。叔父はアメリカに直ぐに行けと云ふのです。そして社会主義なんか止めて学者になれと云ふのです。とにかく二十日ばかり留守にするからそれ迄ゐろと云ひますから、ゐる事にはしましたが、叔母が何にも分らないくせに、のべつにぐず〳〵云ふのを黙つて聞いてゐるのがいやで仕方がありません。要するにあなたと関係をたてと云ふのですけれども、それをはつきり云はないのです。 もうあなたのそばを離れて今日で三日目ですね。何だか長いやうな気がします。東京駅では何んだかひどく急がされたのと、不意に多勢の中にまぎれたのとで、何だか気持が悪くてどき〳〵して、本当にいやになつて仕舞ひました。鶴見あたりを走つてゐる時分にやうやく落ちつきますと同時に、本当に、あなたのそばからだん〳〵に遠ざかつてゆくのだと云ふ意識がはつきりして来て、すつかり心細くなつて仕舞ひました。沼津までは随分込んでゐましたので体をまげる事も窮屈でしたけれど、沼津でボーイが席を代へてくれましたので少し眠りました。でも、天龍川を渡る時分はいい月で、ほんとにいい景色でした。いろんな事を考へながら眺めてゐました。労働運動の哲学を持つてゐた事は本当に嬉しうございました。よく読みました。いろ〳〵な事がはつきり分りました。だん〳〵にすべての点が、あなたに一歩づつでも半歩づつでも近づいてゆく事を見るのは、私にとつてどんなに嬉しい事でせう。 大垣のあたりで明けた朝は本当におどり上りたいやうにいい朝でした。関ヶ原辺には、いい色をした緑の草の中に可愛らしい河原なでしこが沢山咲いてゐました。私の好きなねむの花も。 かうして離れてゐると堪らなくあなたが恋しい。私のすべてはあなたと云ふ対象を離れては、何物をも何事についても考へ得られない。それでゐて非常に静かにしてゐられます。あなたが今何をしてゐらつしやるかしら、と考へる私の頭の中にどのやうな影像が出来ても、私の心はおちついてゐます。本当に平らに和いでゐます。私はこの静かな心持があなたと一緒にゐる時にどうして保つてゐられないのだらうと思ひます。 あなたに何時か話しましたね、私が何時でも私たちの交渉がうるさくなつて来ると関係を断ちたいと思ふつて。でも、それが断つても断てなくても同じだと云ふ事も云ひましたね。本当にかうしてゐればそれが出来るやうにも思ひます。けれども、私にはどんなに静かな平らかな気持であらうとも、これが単純なフレンドシツプだとは思へませんわ。肉の関係を断つ事だけで総べてのことを単純に考へられるやうに思ふのは間違ひだと云ふ気がします。自分の内に眠つてゐた思ひもよらぬ謬見を、一つ〳〵あなたの暗示を受けては探し出してゆくことの出来るのを見ては、私はあなたに何を感謝していいか知りません。いろ〳〵な点で私はただあなたの深い、そして強い力に向つて驚異の眼を見はつて居ります。どのやうな事であらうとも、私は今、あなたのそばを離れる事がどんなにいけない事だかが、本当によく分ります。 神近さんはどうしてゐらつしやいますか。本当に私はあの方にはお気の毒な気がします。私は毎日々々電話がかかつて来る度びに、辛らくて仕方がありませんでした。私がどんなに彼の方の自由を害してゐるかを考へると、本当にいやでした。そして又、あなたのいろ〳〵な心遣ひがどんなに私に苦しかつたでせう。私はかなしいやうな妙な気がして仕方がなかつたのです。今度も帰へりましたら、直ぐに家を探しておちつきたいと思つてゐます。 お仕事は進みますか、心配してゐます。本当によく邪魔をしましたね、おゆるし下さいまし。 |
五月 卯の花くだし新に霽れて、池の面の小濁り、尚ほ遲櫻の影を宿し、椿の紅を流す。日闌けて眠き合歡の花の、其の面影も澄み行けば、庭の石燈籠に苔やゝ青うして、野茨に白き宵の月、カタ〳〵と音信るゝ鼻唄の蛙もをかし。鄙はさて都はもとより、衣輕く戀は重く、褄淺く、袖輝き風薫つて、緑の中の涼傘の影、水にうつくしき翡翠の色かな。浮草、藻の花。雲の行方は山なりや、海なりや、曇るかとすれば又眩き太陽。 六月 遠近の山の影、森の色、軒に沈み、棟に浮きて、稚子の船小溝を飛ぶ時、海豚は群れて沖を渡る、凄きは鰻掻く灯ぞかし。降り暮す昨日今日、千騎の雨は襲ふが如く、伏屋も、館も、籠れる砦、圍まるゝ城に似たり。時鳥の矢信、さゝ蟹の緋縅こそ、血と紅の色には出づれ、世は只暗夜と侘しきに、烈日忽ち火の如く、窓を放ち襖を排ける夕、紫陽花の花の花片一枚づゝ、雲に星に映る折よ。うつくしき人の、葉柳の蓑着たる忍姿を、落人かと見れば、豈知らんや、熱き情思を隱顯と螢に涼む。君が影を迎ふるものは、たはれ男の獺か、あらず、大沼の鯉金鱗にして鰭の紫なる也。 七月 山に、浦に、かくれ家も、世の状の露呈なる、朝の戸を開くより、襖障子の遮るさへなく、包むは胸の羅のみ。消さじと圍ふ魂棚の可懷しき面影に、はら〳〵と小雨降添ふ袖のあはれも、やがて堪へ難き日盛や、人間は汗に成り、蒟蒻は砂に成り、蠅の音は礫と成る。二時さがりに松葉こぼれて、夢覺めて蜻蛉の羽の輝く時、心太賣る翁の聲は、市に名劍を鬻ぐに似て、打水に胡蝶驚く。行水の花の夕顏、納涼臺、縁臺の月見草。買はん哉、甘い〳〵甘酒の赤行燈、辻に消ゆれば、誰そ、青簾に氣勢あり。閨の紅麻艷にして、繪團扇の仲立に、蚊帳を厭ふ黒髮と、峻嶺の白雪と、人の思は孰ぞや。 八月 月のはじめに秋立てば、あさ朝顏の露はあれど、濡るゝともなき薄煙、軒を繞るも旱の影、炎の山黒く聳えて、頓て暑さに崩るゝにも、熱砂漲つて大路を走る。なやましき柳を吹く風さへ、赤き蟻の群る如し。あれ、聞け、雨乞の聲を消して、凄じく鳴く蝉の、油のみ汗に滴るや、ひとへに思ふ、河海と山岳と。峰と言ひ、水と呼ぶ、實に戀人の名なるかな。神ならず、仙ならずして、然も其の人、彼處に蝶鳥の遊ぶに似たり、岨がくれなる尾の姫百合、渚づたひの翼の常夏。 九月 宵々の稻妻は、火の雲の薄れ行く餘波にや、初汐の渡るなる、海の音は、夏の車の歸る波の、鼓の冴に秋は來て、松蟲鈴蟲の容も影も、刈萱に萩に歌を描く。野人に蟷螂あり、斧を上げて茄子の堅きを打つ、響は里の砧にこそ。朝夕の空澄み、水清く、霧は薄く胡粉を染め、露は濃く藍を溶く、白群青の絹の花野原に、小さき天女遊べり。纖きこと縷の如し玉蜻と言ふ。彼の女、幽に青き瓔珞を輝かして舞へば、山の端の薄を差覗きつゝ、やがて月明かに出づ。 十月 君知るや、夜寒の衾薄ければ、怨は深き後朝も、袖に包まば忍ぶべし。堪へやらぬまで身に沁むは、吹く風の荻、尾花、軒、廂を渡る其ならで、蘆の白き穗の、ちら〳〵と、あこがれ迷ふ夢に似て、枕に通ふ寢覺なり。よし其とても風情かな。折々の空の瑠璃色は、玲瓏たる影と成りて、玉章の手函の裡、櫛笥の奧、紅猪口の底にも宿る。龍膽の色爽ならん。黄菊、白菊咲出でぬ。可懷きは嫁菜の花の籬に細き姿ぞかし。山家、村里は薄紅の蕎麥の霧、粟の實の茂れる中に、鶉が鳴けば山鳩の谺する。掛稻の香暖かう、蕪に早き初霜溶けて、細流に又咲く杜若。晝の月を渡る雁は、また戀衣の縫目にこそ。 十一月 傳へ言ふ、昔越山の蜥蜴は水を吸つて雹を噴く。時、冬の初にして、槐の鵙は星に叫んで霰を召ぶ。雲暗し、雲暗し、曠野を徜徉ふ狩の公子が、獸を照す炬火は、末枯の尾花に落葉の紅の燃ゆるにこそ。行暮れて一夜の宿の嬉しさや、粟炊ぐ手さへ玉に似て、天井の煤は龍の如く、破衾も鳳凰の翼なるべし。夢覺めて絳欄碧軒なし。芭蕉の骨巖の如く、朝霜敷ける池の面に、鴛鴦の眠尚ほ濃なるのみ。戀々として、彽徊し、漸くにして里に下れば、屋根、廂、時雨の晴間を、ちら〳〵と晝灯す小き蟲あり、小橋の稚子等の唄ふを聞け。(おほわた)來い、來い、まゝ食はしよ。 十二月 それ、おほみそかは大薩摩の、もの凄くも又可恐しき、荒海の暗闇のあやかしより、山寺の額の魍魎に至るまで、霙を錬つて氷を鑄つゝ、年の瀬に楯を支くと雖も、巖間の水は囁きて、川端の辻占に、春衣の梅を告ぐるぞかし。水仙薫る浮世小路に、やけ酒の寸法は、鮟鱇の肝を解き、懷手の方寸は、輪柳の絲を結ぶ。結ぶも解くも女帶や、いつも鶯の初音に通ひて、春待月こそ面白けれ。 |
一 ……雨はまだ降りつづけていた。僕等は午飯をすませた後、敷島を何本も灰にしながら、東京の友だちの噂などした。 僕等のいるのは何もない庭へ葭簾の日除けを差しかけた六畳二間の離れだった。庭には何もないと言っても、この海辺に多い弘法麦だけは疎らに砂の上に穂を垂れていた。その穂は僕等の来た時にはまだすっかり出揃わなかった。出ているのもたいていはまっ青だった。が、今はいつのまにかどの穂も同じように狐色に変り、穂先ごとに滴をやどしていた。 「さあ、仕事でもするかな。」 Mは長ながと寝ころんだまま、糊の強い宿の湯帷子の袖に近眼鏡の玉を拭っていた。仕事と言うのは僕等の雑誌へ毎月何か書かなければならぬ、その創作のことを指すのだった。 Mの次の間へ引きとった後、僕は座蒲団を枕にしながら、里見八犬伝を読みはじめた。きのう僕の読みかけたのは信乃、現八、小文吾などの荘助を救いに出かけるところだった。「その時蜑崎照文は懐ろより用意の沙金を五包みとり出しつ。先ず三包みを扇にのせたるそがままに、……三犬士、この金は三十両をひと包みとせり。もっとも些少の東西なれども、こたびの路用を資くるのみ。わが私の餞別ならず、里見殿の賜ものなるに、辞わで納め給えと言う。」――僕はそこを読みながら、おととい届いた原稿料の一枚四十銭だったのを思い出した。僕等は二人ともこの七月に大学の英文科を卒業していた。従って衣食の計を立てることは僕等の目前に迫っていた。僕はだんだん八犬伝を忘れ、教師になることなどを考え出した。が、そのうちに眠ったと見え、いつかこう言う短い夢を見ていた。 ――それは何でも夜更けらしかった。僕はとにかく雨戸をしめた座敷にたった一人横になっていた。すると誰か戸を叩いて「もし、もし」と僕に声をかけた。僕はその雨戸の向うに池のあることを承知していた。しかし僕に声をかけたのは誰だか少しもわからなかった。 「もし、もし、お願いがあるのですが、……」 雨戸の外の声はこう言った。僕はその言葉を聞いた時、「ははあ、Kのやつだな」と思った。Kと言うのは僕等よりも一年後の哲学科にいた、箸にも棒にもかからぬ男だった。僕は横になったまま、かなり大声に返事をした。 「哀れっぽい声を出したって駄目だよ。また君、金のことだろう?」 「いいえ、金のことじゃありません。ただわたしの友だちに会わせたい女があるんですが、……」 その声はどうもKらしくなかった。のみならず誰か僕のことを心配してくれる人らしかった。僕は急にわくわくしながら、雨戸をあけに飛び起きて行った。実際庭は縁先からずっと広い池になっていた。けれどもそこにはKは勿論、誰も人かげは見えなかった。 僕はしばらく月の映った池の上を眺めていた。池は海草の流れているのを見ると、潮入りになっているらしかった。そのうちに僕はすぐ目の前にさざ波のきらきら立っているのを見つけた。さざ波は足もとへ寄って来るにつれ、だんだん一匹の鮒になった。鮒は水の澄んだ中に悠々と尾鰭を動かしていた。 「ああ、鮒が声をかけたんだ。」 僕はこう思って安心した。―― 僕の目を覚ました時にはもう軒先の葭簾の日除けは薄日の光を透かしていた。僕は洗面器を持って庭へ下り、裏の井戸ばたへ顔を洗いに行った。しかし顔を洗った後でも、今しがた見た夢の記憶は妙に僕にこびりついていた。「つまりあの夢の中の鮒は識域下の我と言うやつなんだ。」――そんな気も多少はしたのだった。 二 ……一時間ばかりたった後、手拭を頭に巻きつけた僕等は海水帽に貸下駄を突っかけ、半町ほどある海へ泳ぎに行った。道は庭先をだらだら下りると、すぐに浜へつづいていた。 「泳げるかな?」 「きょうは少し寒いかも知れない。」 僕等は弘法麦の茂みを避け避け、(滴をためた弘法麦の中へうっかり足を踏み入れると、ふくら脛の痒くなるのに閉口したから。)そんなことを話して歩いて行った。気候は海へはいるには涼し過ぎるのに違いなかった。けれども僕等は上総の海に、――と言うよりもむしろ暮れかかった夏に未練を持っていたのだった。 海には僕等の来た頃は勿論、きのうさえまだ七八人の男女は浪乗りなどを試みていた。しかしきょうは人かげもなければ、海水浴区域を指定する赤旗も立っていなかった。ただ広びろとつづいた渚に浪の倒れているばかりだった。葭簾囲いの着もの脱ぎ場にも、――そこには茶色の犬が一匹、細かい羽虫の群れを追いかけていた。が、それも僕等を見ると、すぐに向うへ逃げて行ってしまった。 僕は下駄だけは脱いだものの、とうてい泳ぐ気にはなれなかった。しかしMはいつのまにか湯帷子や眼鏡を着もの脱ぎ場へ置き、海水帽の上へ頬かぶりをしながら、ざぶざぶ浅瀬へはいって行った。 「おい、はいる気かい?」 「だってせっかく来たんじゃないか?」 Mは膝ほどある水の中に幾分か腰をかがめたなり、日に焼けた笑顔をふり向けて見せた。 「君もはいれよ。」 「僕は厭だ。」 「へん、『嫣然』がいりゃはいるだろう。」 「莫迦を言え。」 「嫣然」と言うのはここにいるうちに挨拶ぐらいはし合うようになったある十五六の中学生だった。彼は格別美少年ではなかった。しかしどこか若木に似た水々しさを具えた少年だった。ちょうど十日ばかり以前のある午後、僕等は海から上った体を熱い砂の上へ投げ出していた。そこへ彼も潮に濡れたなり、すたすた板子を引きずって来た。が、ふと彼の足もとに僕等の転がっているのを見ると、鮮かに歯を見せて一笑した。Mは彼の通り過ぎた後、ちょっと僕に微苦笑を送り、 「あいつ、嫣然として笑ったな。」と言った。それ以来彼は僕等の間に「嫣然」と言う名を得ていたのだった。 「どうしてもはいらないか?」 「どうしてもはいらない。」 「イゴイストめ!」 Mは体を濡らし濡らし、ずんずん沖へ進みはじめた。僕はMには頓着せず、着もの脱ぎ場から少し離れた、小高い砂山の上へ行った。それから貸下駄を臀の下に敷き、敷島でも一本吸おうとした。しかし僕のマツチの火は存外強い風のために容易に巻煙草に移らなかった。 「おうい。」 Mはいつ引っ返したのか、向うの浅瀬に佇んだまま、何か僕に声をかけていた。けれども生憎その声も絶え間のない浪の音のためにはっきり僕の耳へはいらなかった。 「どうしたんだ?」 僕のこう尋ねた時にはMはもう湯帷子を引っかけ、僕の隣に腰を下ろしていた。 「何、水母にやられたんだ。」 海にはこの数日来、俄に水母が殖えたらしかった。現に僕もおとといの朝、左の肩から上膊へかけてずっと針の痕をつけられていた。 「どこを?」 「頸のまわりを。やられたなと思ってまわりを見ると、何匹も水の中に浮いているんだ。」 「だから僕ははいらなかったんだ。」 「譃をつけ。――だがもう海水浴もおしまいだな。」 渚はどこも見渡す限り、打ち上げられた海草のほかは白じらと日の光に煙っていた。そこにはただ雲の影の時々大走りに通るだけだった。僕等は敷島を啣えながら、しばらくは黙ってこう言う渚に寄せて来る浪を眺めていた。 |
ウェストミンスター寺院 イギリスのロンドンのテームズ河の北側に著名なウェストミンスター寺院というのがあります。これが最初に建てられたのは七世紀頃のことだと云われていますが、現在の伽藍はその後十三世紀頃に改造されたので、更に礼拝堂や高塔などがなお後に建て増されたのでした。ところでこの寺院はイギリスの帝王の戴冠式がいつもそこで行われることや、代々の帝王皇后の墓処にもなっているので、イギリスでは第一に重んぜられているのですが、そればかりでなく国家に功労のあった人々の墓碑をもそこに置くことになっているので、ここに葬られると云うことはイギリス国民の最高の栄誉とせられているのです。今日までにこの栄誉にあずかった人々の中には、政治家や、軍人などの外に、たくさんの詩人、文学者などと、相並んで、科学者の名をもかなりに見出だすことができるので、この事はそこで学問がいかに尊重されているかを示すのでもあり、この点は大いに羨まれなくてはならない処でもあると思われるのです。 さて、この科学者のなかには、有名なニュートンを始めとしてロード・ケルヴィン、マクスウェル、ファラデイおよびその他の名だかい人々がそこに見出だされるのですが、最近には科学者として世界に普ねく知られていたロード・ラザフォードや、サー・ジョセフ・ジョン・タムソンが同じくここに葬られる栄誉をにないました。これは、もちろん当然のことと思われますが、それで見てもここにお話ししようとするロード・ラザフォードがどれほど偉大な仕事をしたかがわかるのでしょう。ラザフォードの亡くなったのは今から五年前、即ち一九三七年の十月十九日でありましたが、その月の二十五日にこのウェストミンスター寺院で葬儀が厳粛に行われました。その日はイギリスに特有な秋日和の美しい日であって、国王陛下の代表者や政府並びに学界の首脳者がこれに参列し、寺院の内陣の南側にその遺骸が葬られたのでした。そして葬儀は厳粛ではあったが、また簡素でもあり、「陸海将官の葬儀に見るようなものものしい盛観や美麗さもなく、彼の生涯や業績について何事も語られなかったが、しかし粛然たる静謐な空気が全堂宇に充ちわたり、これこそ彼が願望したすべてであったと云う印象を消し難く残した」と云われています。まことに高邁な学者の一生にふさわしいものであったように思われますし、ここに自然研究に終始した彼の真意をよく活かしているとも感ぜられるのです。 ラザフォードの生涯 ラザフォードは、その名をアーネストと云い、ニュージーランドのネルソンと云う町の近郊のブライトウォータで一八七一年の八月三十日に生まれました。後にロードの爵位を授けられたのは一九三二年のことでありますが、その称号をロード・オブ・ネルソンと云うのはこの生地に因んだものであるのでした。幼時から学業にすぐれていましたが、一八九四年には特に選ばれてイギリス本国へ留学を命ぜられることになったので、それでケンブリッジの大学へ赴いて、ジョセフ・ジョン・タムソン教授のもとで物理学の研究を始めたのでした。このときタムソン教授の指導を受けたということも、もちろん彼に多く幸いしたのに違いありませんが、もともと彼の才能のすぐれていたと云うことが後に彼の成功を持ち来したのは言うまでもないでしょう。タムソン教授自身がラザフォードの逝去に際して次の言葉を記しているのを見ても、それがよくわかります。 「一八九五年の十月に、他の大学の卒業生を研究生としてケンブリッジに入学させ、二年後にR・Aの学位を与えるという規則がちょうど実行され出したときに、私は始めて彼に遇った。ラザフォードはつまりその最初の研究生となったのである。‥‥ラザフォードはニュージーランドにあった時に無線電波の磁気検知器を発明していたから、キャヴェンディッシ実験所での彼の最初の仕事はその感度を改良することであった。彼はこの初期においてさえ非常に突進的な力をもち、組織者としての能力をもつことを示した。‥‥数週間足らずの間に私は彼が全く人並みはずれた才能をもつ学生であるのを認めるようになった。」 この言葉につづいてなおその後の仕事のことがいろいろ記されていますが、ともかくも最初からタムソン教授が彼に対してこのように感じたということで、すべてが推察されるとも考えられます。 ケンブリッジの大学で数年間の研究を続けている中に、すでにいろいろな科学上の仕事を行ったのでしたが、その才能がますます認められて、一八九八年にはまだ二十七歳の若さでカナダのモントリオールにあるマクギル大学の研究教授に任命されました。そしてそこに一九〇七年まで止まって多くの事を行いましたが、この年にイギリスのマンチェスター大学の物理学教室主任になり、再び本国に戻って来ました。この頃はラザフォードの名声がすでに高く学界にあまねく知れわたったので、たくさんのすぐれた若い弟子たちがその許に集まり、研究はますます盛んになりました。そして最後に一九一九年になって先師タムソン教授の後を承け継いでケンブリッジ大学に転じ、学界でも名誉ある地位としてのキャヴェンディッシ実験所長となったのでした。 彼の科学上の偉大な仕事に対しては、諸所の学会から表彰を受けましたが、特に一九〇八年にはその放射能に関する研究に対してノーベル化学賞が授けられ、学界最高の栄誉をにないました。そして一九三二年には、上にも述べたようにイギリス国王からロードの爵位をまで授与せられ、そしてその逝去に際しウェストミンスター寺院に葬られたということは、イギリス国民として何ものにも換え難い栄誉であると云ってよいのでしょう。 ラザフォードの研究の偉大であったことは、かくて今日誰も知らないものはない程なのですが、もう一つ特にここに記さなくてはならないことは、彼が実にその多くのすぐれた弟子たちに対して親切なよい指導者であったと云うことです。これが当時においてマンチェスター大学やケンブリッジ大学の物理学教室をして学問の中心としてますます光輝あらしめた所以でもあるのです。同じくラザフォードの逝去の際に彼の著名な弟子に属しているアンドレードやチャディックという人たちが記している文のなかに次のような追憶のあるのを見ても、この事がよくわかるでしょう。 「‥‥弟子たちを一組にして放射能の研究をやらせ、めいめいの能力に応じて仕事を割り当て、激励が必要だと見ると非常な熱意でこれを励ました。」 「ラザフォードは気の若い人で、我々と一緒に冗談を言ったりして、どうして困難に打ち勝てばよいかを教え示してくれた。みんなで『パパ』という綽名をつけたが、それは放射能に関することなら何事でも親のように指図してくれたからである。でも恐らく若い父親で、しかもまるで月並型ではなかった。」 「この時代に彼と共に仕事していたものは誰でも‥‥彼の権威と指導とのもとにこんな懐かしい学友として居られたことを、もう余処では見ることができないに違いない。」 これはアンドレードがマンチェスター時代のことを書いたものでありますが、もう一人のチャディックもケンブリッジ時代のことを同じように記しているのです。 「どの弟子にも眼を向けて彼等が最上の仕事の出来るように仕向け、また熱心にこれを励ました。」「彼と共に仕事をするのは絶えざる楽しみであり、また驚きでもあった。」「彼は弟子たちの最も若いものをも同じ仕事場での兄弟分として取扱った。――そして必要な際には彼等に対して『父親のように』話した。これらの恩徳は彼の大きな寛容な性質並びに彼の健全な常識と共にあらゆる弟子たちに親愛の情を抱かせた。‥‥全世界の研究者はラザフォードを絶大の権威者と認め、彼に高い尊敬を払っていた。しかし彼の弟子である我々はまた非常に深い愛情を彼に負うていた。世界は一人の偉大な科学者の死を哀悼する。だが、我々は我々の親友、我々の助言者、我々の杖、そして我々の指導者を失ったのであった。」 この文を読むと、誰でもこれほどに有難い『父親』を失った悲しみを痛切に感じないではいられないでしょう。そこにラザフォードの人格の尊さがあったのです。 科学上の仕事 ラザフォードの行った科学上の研究はたくさんにあって、それらをここではこまかくお話しするわけにもゆきませんが、その主な事がらだけをとり出して少しお話しして見ましょう。それは大体に次の三つの問題に帰着させられるのです。 第一は、放射性元素の変脱に関する問題であります。ウランやラジウムのように放射線を出す元素のあることが見つけ出されたのは、この前にキュリー夫人のことをお話ししたときに記しましたが、それは一八九六年から一八九八年にかけてのことでありました。ところでこのような元素が放射線を出した後にどうなるかと云うことについては、その当時はまだ何もわからなかったので、それに対していろいろな想像も行われましたけれども、どれも確かではなく少しく迷路に陥った有様でありました。ところでラザフォードはこの問題を何とか解決したいと考え、そこでその頃物化学の研究を行っていたソッディーと共力して、ウランとトリウムとに対して実験的に詳しく調べてみて、ついにこれらの元素の原子は放射線を出すと共に異なる原子に変ってゆくということを見つけ出しました。そしてこの事を原子変脱の仮説として云いあらわしたのでした。その後これは仮説ではなく、確かな事実であることが認められるようになりましたが、この事実はそれまで原子を不変なものであると考えていた物化学の根本観念に反するものでありますから、当時の学界に異常な驚きを与えたことは当然でもあったのでした。 しかしそれが確かな事実である上はやむを得ないのです。ラザフォードはそれに次いで、放射性元素から出る放射線に、アルファ線、ベーター線およびガンマ線の三種類があることを明らかにしましたが、これらの三つの中でアルファ線が最も大きなエネルギーをもっているので、それが特に彼の興味を惹きつけました。彼はそこで巧みな実験を工夫してアルファ線を示す粒子がベーター線の粒子に比べてはよほど大きな質量をもっていることを確かめ、ついにこの粒子はヘリウムという元素の原子が陽電気を帯びているのに相当すると考えました。この事は放射性をあらわす鉱石のなかにいつもヘリウムが含まれているという事実と関聯して、恐らく本当であると見なされましたが、その後間もなくラムゼーおよびソッディーの実験で確実であることが証せられました。 それに続いて放射性変脱には三種類の系列のあることがわかって来ましたが、ラザフォードはいつもアルファ線について特別な興味をもっていたので、これがやがて彼の第二の大きな仕事の端緒となったのですから、おもしろいではありませんか。それはこのアルファ線をごく薄い金属箔に当てて、アルファ線が四方に散乱する有様を研究したことなのでした。この実験はマンチェスターの大学で行われましたが、彼の弟子であったガイガーおよびマースデンが主にこの実験に従事しました。ところがその結果を見ると、アルファ線の中の或る粒子は殆ど後戻りをする程に著しく曲げられることのあるのがわかったのでした。そしてラザフォードはこの事から、物質の原子の本体とみなされる原子核が非常に微少であるということを悟ったのでした。この発見は、一九一一年のことでありましたが、それがやがてその後二年程経て、やはりラザフォードの許で研究を励んでいたデンマークのボーアが原子構造の模型を考え出したときの基礎になったのでした。それで普通にこの模型をラザフォード・ボーアの原子模型と呼んでいますが、これが更に後に今日の量子力学というものに発展する出発点となったので、その意味で物理学の上で非常に重要視されているのです。 ラザフォードがアルファ線に対し特別な興味を寄せていたことは、この第二の仕事と共に第三のすばらしい仕事にも成功した原因となったのでした。それは一九一九年のことでありますが、彼はこのアルファ線を窒素や弗素やアルミニゥムなどの軽い原子に当てていろいろな実験を試みました。以前の実験では単にアルファ線がどんな方向に曲げられるかを見たのでしたが、この時にはそれを原子核のなかにとび込ませて、この核を打ちこわすことに成功したのでした。もちろんアルファ線をつくる粒子の中で原子核へとび込むものはごく僅かなので、百万箇のうちで幾つと云うほどに少ないのです。それでもこれが核へとび込むと、その強いエネルギーによって原子核はこわされて、そのなかから陽電気をもった粒子、つまり陽子というものがとび出して来ます。これは結局、人工的に原子核を破壊した最初の実験であったので、その後今日まで原子核破壊の実験がすばらしく発展したところの出発点として非常に重大な意味をもっていたのでした。 実際にこれから六、七年を経てから、一方では量子力学の理論がずんずんと進んで来ましたし、他方では原子核の有様が事実の上でだんだんに明らかになり、今ではその構造もかなりによく知られて来ましたし、また人工放精性元素などがたくさんに見出だされて来たのも、すべてそれからの引き続いての研究のおかげであるのです。今日では原子核を構成している粒子は陽子と中性子とであるとみなされていますが、この中で陽子は陽電気をもっているのに、中性子は全く電気力を示さないのです。この中性子の存在は一九三二年に、上にその名を記したチャディックにより発見されたのでしたが、ラザフォードはそれより凡そ十年前に、かような粒子の存在を予言していたとのことで、それだけでも彼の思考のどれほどすぐれていたかを知ることができるでしょう。 |
整形外科はヲンナの目を引き裂いてとてつもなく老ひぼれた曲芸象の目にしてしまつたのである。ヲンナは飽きる程笑つても果又笑はなくても笑ふのである。 ヲンナの目は北極に邂逅した。北極は初冬である。ヲンナの目には白夜が現はれた。ヲンナの目は膃肭臍の背なかの様に氷の上に滑り落ちてしまつたのである。 世界の寒流を生む風がヲンナの目に吹いた。ヲンナの目は荒れたけれどもヲンナの目は恐ろしい氷山に包まれてゐて波濤を起すことは不可能である。 ヲンナは思ひ切つて NU になつた。汗孔は汗孔だけの荊莿になつた。ヲンナは歌ふつもりで金切声でないた。北極は鐘の音に慄へたのである。 ◇ ◇ 辻音楽師は温い春をばら撒いた乞食見たいな天使。天使は雀の様に痩せた天使を連れて歩く。 天使の蛇の様な鞭で天使を擲つ。 天使は笑ふ、天使は風船玉の様に膨れる。 天使の興行は人目を惹く。 人々は天使の貞操の面影を留めると云はれる原色写真版のエハガキを買ふ。 天使は履物を落して逃走する。 天使は一度に十以上のワナを投げ出す。 ◇ ◇ 日暦はチヨコレエトを増す。 ヲンナはチヨコレエトで化粧するのである。 ヲンナはトランクの中に泥にまみれたヅウヲヅと一緒になき伏す。ヲンナはトランクを持ち運ぶ。 ヲンナのトランクは蓄音機である。 蓄音機は喇叭の様に赤い鬼青い鬼を呼び集めた。 赤い鬼青い鬼はペンギンである。サルマタしかきていないペンギンは水腫である。 ヲンナは象の目と頭蓋骨大程の水晶の目とを縦横に繰つて秋波を濫発した。 ヲンナは満月を小刻みに刻んで饗宴を張る。人々はそれを食べて豚の様に肥満するチヨコレエトの香りを放散するのである。 |
騒擾と違警罪 明治三十八年九月五日の、国民大会より、「警察焼打」といふ意外の結果を来せしかば、市内は俄に無警察の状態に陥り、これ見よといふ風に、態々袒ぎて大道を濶歩するもの、自慢げに跣足にて横行するもの、無提灯にて車を曳くものなど、違警罪者街上に充ち、転た寒心すべきこと多かりし。 されば、人心恟々として、安き心も無く、後日、釣船の宿にて聴く所によれば、騒擾の三日間ばかりは、釣に出づる者とては絶えて無く、全く休業同様なりしといふ。左もあるべし。然るに、此の騒々しきどさくさ紛れを利用して、平日殺生禁断の池に釣垂れて、霊地を汚し、一時の快を貪りし賤民の多かりしは、嘆かはしきの至りなりし。当時、漁史の見聞せし一二事を摘録して、後日の記念とせんか。 釣竿、奇禍を買はんとす 六日の昼、来客の話に「僕は昨日、危く災難を蒙る所であッたが、想へば、ぞッとする」といふ。「国民大会見物にでも出掛けて……」と問へば、「否深川へおぼこ釣に出かけ、日暮方、例の如く釣竿を担ぎ魚籃を提げて、尾張町四丁目の角から、有楽町に入ると、只事ならぬ騒らしい。変だとは思ッたが、ぶら〴〵電車の路に従いて進むと、愈混雑を極めてたが、突然後方から、僕の背をつゝく者が有ッた。振り返ッて見ると、四十ばかりの商人体の男が、『彼方、其様な刀の様な物を担いで通ッたら、飛んだ目に逢ひませう』と注意された。『何か有るのですか』と聞いたら、『今しも、内務大臣官邸はこれ〳〵で、』と、官民斬りつ斬られつの修羅を話された。『では、袋を外し、竿剥き出しにして、往きませう』と言ふと、『それが好いでせう』と、賛成してくれるので、篤く礼を述べて別れ、それから、竿の袋を剥き、魚籃を通して担ぎ、百雷の様な吶喊の声、暗夜の磯の怒濤の様な闘錚の声を、遠く聞きながら無難に過ぎることが出来た。若し、奇特者の忠告無く、前の様で、うッかり通ッたもんなら、何様な奇禍を買ッたか知れなかッたが」と言へり。危かりしことかな。 浅草公園の公開? 釣堀 六日の夜は、流言の如く、又焼打の騒ぎあり、翌七日には、市内全く無警察の象を現はしけるが、浅草公園の池にては、咎むる者の無きを機とし、鯉釣大繁昌との報を得たり。釣道の記念に、一見せざるべからずとなし、昼飯後直ちに、入谷光月町を通り、十二階下より、公園第六区の池の端に、漫歩遊観を試みたり。 到り観れば、話しに勝る大繁昌にて、池の周囲には、立錐の余地だに無く、黒山の人垣を築けり。常には、見世物場の間に散在して営業する所の「引懸釣」、それさへ見物人は、店内に充溢するに、増して、昨日一昨日までは礫一つ打つことならざしり泉水の、尺余の鯉を、思ふまゝに釣り勝ち取り勝ちし得べき、公開? 釣堀と変りたることなれは、数百の釣手、数千の見物の、蟻集麕至せしも、素より無理ならぬことにて、たゞ、盛なりといふべき光景なるに呆れたり。 竿持てる人々 中島に橋、常に、焼麩商ふ人の居し辺は、全く往来止めの群衆にて、漁史は、一寸覗きかけしも足を進むべき由なく、其のまゝ廻りて、交番の焼け跡の方に到り、つま立てゝ望む。 東西南北より、池の心さして出でたる竿は、幾百といふ数を知らず、継竿、丸竿、蜻蛉釣りの竿其のまゝ、凧の糸付けしも少からず見えし。片手を岸なる松柳にかけたるもの、足を団石の上に進め、猿臂を伸ばせる者、蹲踞して煙草を吹く者、全く釣堀の光景其のまゝなり。 竿持てる者には、腹がけに切絆天、盲縞の股引したる連中多く、むさぐるしき白髪の老翁の、手細工に花漆をかけたという風の、竹帽子を被れるも見え、子供も三四分一は居たりしならん。獲物の獲物だけに、普通の小魚籃にては、役に立たざる為めか、或は、一時の酔興に過ぎざる為めか、魚籃の用意あるは少かりし。たヾ、二尺五六寸有らんかと思はれし、棕櫚縄つきの生担を、座右に備へし男も有りしが、これ等は、一時の出来心とも言ひ難く、罪深き部類の一人なりしなるべし。 万歳の声 平日、焼麩一つ投ずれば、折重りて群れを成し、噞喁の集団を波際に形作る程に飼ひ馴らせる鯉なれば、之を釣り挙ぐるに、術も手練も要すべき筈なく、岩丈の仕掛にて、力ッこに挙げさへすれば、寝子も赤子も釣り得べきなり。目の前なる、三十歳近くの、蕎麦屋の出前持らしき風体の男、水際にて引きつ引かれつ相闘ひし上、二尺許のを一本挙げたりしが、観衆忽ち百雷の轟く如き声して「万歳」を叫べり。 続きて、対ふ岸にて又一本挙げしが、又「万歳」の声起れり。一本を挙ぐる毎に、この歓声を放つ例なるべしと思ひき。 この衆き釣師、見物人の外に、一種異りたる者の奔走するを見る。長柄の玉網を手にし、釣り上ぐる者を見る毎に、即ち馳せて其の人に近寄り、抄ひて手伝ふを仕事とする、奇特者? なり。狂態も是に至りて極まれり。 釣師の偵察隊 彼方此方にて、一本を挙ぐる毎に「万歳」の叫びを聴きしが、此時、誰の口よりか「来た〳〵」といふ声響く。一同は、竿を挙げて故らに他方を向き、相知らざる様を粧ひたり。何事ぞと思ひしに、巡査の来れるなりし。偵察隊より「巡査見ゆ」との信号を受け、一時釣を休めしものと知られたり。さて其の過ぎ行くに及び、又忽ち池を取り囲みて鈎をおろせしは、前の如し。哨兵つきの釣とは、一生に再び見ること能はざるべし。 間も無く、「万歳」声裡に、又一本を挙げたる者ありしが、少しも喜べる色なく、「何だ緋鯉か。誰にかやらう」といふ声の下より、十歳許の小児、「伯父さん私に頂戴」と乞ふ。「なァに食べられないことは無いよ。肉が少し柔いが……。」と、之を外し与ふれば、小児は裾に包み、一走りに走り去れり。 此の男、又一本釣り挙げしが、「型が気に喰はぬ」とて、亦、傍に見物せる男に与へたり。普通の釣師は、三日四日の辛抱にて、「跳ッ返り」一本挙げてさへ、尺璧の喜びにて、幾たびか魚籃の内を覗き愛賞措かざるに、尺余の鯉を、吝気もなく与へて、だぼ沙魚一疋程にも思はざるは、西行法師の洒脱にも似たる贅沢無慾の釣師かなと感じき。聴けば、一人にて、七八本を貰ひたる者も少からずといふ。 鯉の当り年か 歩を移し、対ふ岸に立ちて観ける内、目の前なる老人、其の隣りなる釣り手に向ひ「随分の釣手だね。釣堀も、此位に繁昌すれば大中りだが」と言ひけるに、「此れだけの大中りを占められたら、開業二三日で破産しませうよ。其処な小僧奴なんざ、朝から十六七本挙げやがッたから、慥かに三四円の働きは為てますわ」とて、指させる小僧を見れば、膝きりのシャツ一枚着たる、十二三歳の少年なりし。想ふに、此の界隈の家々、此処二三日の総菜ものは鯉づくめの料理なりしなるべし。彼のお鯉御前は、大臣のお目に留り、氏無くして玉の馬車に乗り、此の公園の鯉は、罪無くして弥次馬の錆鈎に懸り、貧民窟のチャブ台を賑はす。真に今歳は、鯉の当り年なるかななど、詰らぬ空想を馳せて見物す。 放生池の小亀 たとひ自らは、竿を執らざるにせよ、快き気もせざれば、間もなく此処を去りしが、観音堂手前に到りて、亦一の狼籍たる様を目撃せり。即ち、淡島さま前なる小池は、田圃に於ける掻堀同様、泥まみれの老若入り乱れてこね廻し居けり。されば、常に、水の面、石の上に、群を成して遊べる放生の石亀は、絶えて其の影だに無く、今争ひ捜せる人々も、目的は石亀に在りしや明なりし。中には、「捕ても構えねいだが、捕りたくも亀は居ねいのだ」など高笑ひの声も聴ゆ。 |
六日―――― 雨だらうと思つたのに案外な上天気。和らかな日影が椽側の障子一ぱいに射してゐる。 書椽の方の障子一枚開くと真青な松の梢と高い晴れた空が覗かれる。波の音も聞こえぬ。サフランの小さい花がたつた一つ咲いてゐる。 穏やかな、静かな朝だ。何となく起きて見たい。枕の上に手をついてそつと上半身を起して見る。少し頭が重いばかりだ。暫く座つてた。朗らかな目白の囀りが何処からともなく聞こえて来る。 来さうにもない手紙を待つてたけれども駄目だつた。 午後お隣りのお婆さんの歌が始まつた。夷魔山のお三狐にもう、十年近くもとりつかれてゐるのだ。七十越したお婆さんが体もろくに動かせない位痛み疲れてゐながら食べるものは二人前だと聞いて驚く。時々機嫌のいゝ時には歌ふのだ。私たちの知らないやうな、古い歌ばかりだ。毎日々々たいして悪くもない体を床に横たへて無為に暮す私のさびしい今の心持ちでは、お婆さんの歌は非常に面白く聞かれる。 「わしが歌ふたら、大工さんが笑ふた。 歌にかんながかけられよか」 なんて、おもしろい調子で歌ふ。 「婆さんが沈み入るごとある声出して歌ひなさるけん、私どもうつかり、歌はれまつせんや」 若い、お婆さんの養子は高笑ひしながらお婆さんを冷やかしてゐる。お婆さんの細い声がクド〳〵何か云つてゐる。暫くして畑にゐた祖母が垣根越しに養子と口きいてゐた。 「へゑ、只今御愁嘆の場で御座います、もう、近々お逝くれになりますげなけん、そのお別れの口上で……」 ときさく者の養子はあたりかまはず笑つた。祖母の笑ひ声も聞こえた。 今日も、平穏無事な一日が静かに暮れて行つた。 八日――――― 午前に近藤さんが来た。昨日からの暗い悲しい気分がまだ去らないので折角来たのにろくにお話もしなかつた。何時もながらの、私の我儘は知つてゐるのだから別に何とも思つてやしないだらうけれども後で何だか気の毒な感がした。 我儘と云へば私の此の頃の激しいわがまゝは自分でもはつきり分つてゐながら制する事が出来ない。どうせ、永いこと、家にゐる体ぢやないのだもの、とついさう思つてしまふ。それでも私に欺かれた家の者はいくらか力づいたやうだ。そして私の我儘も割合に何かと云はないでゐる。うまく、欺きおほせた私は、人々のあさましい態度と浅果な考へを冷笑してやり度いやうな皮肉な考へと一緒にまた淡い悲しみと寂しさとを感ぜずにはゐられない。そしてまたそれ等は代る〳〵に私の苦しい頭をかきまはすのだ。懐かしく恋しく、何時までも去り度くなくてはならぬ筈の父母の家を私は、再び逃がれ出でやうとのみ隙をねらつてゐるのだ。何と云ふ不幸な私だらう。 然う一時の、間に合せの妥協によつての平和が何時まで続かう。一時の平和を求めて後々まで苦しむより、まだ、死によつて強く自己の道に生きる方がどの位、ましだか知れない。些の理解もない人々の中に立ちまじつて目を瞑つて物質的の、若しくは団体的の安逸に耽るよりは、少しでも多く、自分を理解して呉れる人々と共に苦しい、辛い生を、続ける方が、いくらいゝか…… 私は今日まで可なり、真面目に、熱心に、少しでも、私を愛して呉れる父や母に、周囲の人に、本当の私を理解して欲しいと思つて苦しい努力を試みた。然しそれはみんな、無駄な努力だと知れた。私と、両親との間は、あまりに遠すぎる。私が、真面目に私の本体を臆面なく、人々の前に、さらけ出さうとすれば、父も、母もみんな、目を覆つて、見やうとはしない。そして、私は、わざ〳〵、醜くい本体を人前にさらし、間違つた道を歩いて行く馬鹿者だ、世間知らずだと、ばかり罵られる。真面目な私の苦悶は、それにつれて動く感情のうつりかはりの激しさに、気狂ひと冷やかな笑を浴びせられるばかりだ。 十重廿重に縛められた因習の縄を切つて自由な自己の道を歩いて行かうとする私は、因習に生きてゐる、両親やその他の人々の目からは、常軌を逸した、危険極る、道を平気で行く気違ひとしか、見えないだらう。世間並みの道から外れた者は、矢張り、気違ひか、馬鹿の仲間だらう。到底私など世間からは容れてもらへない人間だ。だけど、今になつて、両親や周囲の者が狼狽して、もとの生地に直さうとする、注文が無理なのじやないだらうか? 私は一度開いた目を閉ぢて、大勢の、めくらと一緒に生命のない、卑怯な馬鹿な生き方はしたくない。 どうせ、私は父の子じやない。母に教育された子じやない。 安楽や幸福を願へばこそ、何かゞ恐くなつて来るのだ、はじめから、苦しむつもりで苦痛の底に潜んだ何物かをさがすつもりで、かゝれば何にも恐れるものはない。すべての迫害、圧迫、におぢて、おど〳〵した不安な、なまぬるい生を送るより、刹那も強く弾力ある、激しい生き方を私は望ましいと思ふ。 私は、両親を欺いた。すべての、私の周囲の人を偽つた。然しそれを私は、罪悪だとか何とか考へたくない。 私が激した時……父母に対して激しく何か憤つた時……私は父や母が何だらう、血と肉を受けたばかしだ。私の両親は、少しも、本当に私を愛してくれない、そして、私といふものを、認めてくれない。何時までも、赤ん坊のつもりで扱つてゐる。私にとつては、祖母や両親は、師より友より、更に〳〵遠い人だとしか思へない。そして、私は何の権威もない、割に合はない、子の親に対する道徳など考へたくない、実際私の親位、自分達の下らない、満足を願ふ為めに可愛いゝと、口癖のやうに云つてゐる、子を苦しめるといふ、矛盾した勝手なまねをする親は、ないだらう。 さう、思へば親なんか、何でもないと、いふ気も出るけれども、矢張り目に見えぬ、何かの絆は、しつかり、親と、子といふ間を、つないでゐてその絆はどうしたつて、断つ事は出来ないのだ。そして私は、たしかに父や母が私に対するよりも以上に、私は父や母を理解する事が出来ると思ふ。 一切を捨てゝ、傍見をせずたゞ一心に、忠実に、自己の道に進むといふ、さう云ふ、決心を絶えずゆるめないで引きしめてゐる、私の頭の中を幾度となく、私が両親を欺いて、家を出て後に父母が襲はれる苦痛と家の中の暗い、不安な、空気をもつて、抱く苦しい心持がうろつく。ああ、けれど恐らく私の両親は、私がさういふ心持を抱く事など夢にも思つては呉れないだらう……そして、たゞ不孝な子とばかし憤るだらう。 「不足なう教育も受けてゐながら、人並にしてゐれば幸福に暮せるものをどうして従順しくしてゐる事が出来ないのだらう」 と昨日も祖母が次の間でこぼしてゐた、私は黙つて目をつぶつてゐた。 午後たあちやんが来た。ザボンを持つて…… 私が五つになるまで守をして呉れた女だ。私の幼い記憶に残つてゐる、たあちやんは赤い、うすい髪の毛をひきつめた銀杏返しに結つた、色の黒い目の細い、両頬に靨のある忘れられないやうな、何処となくやさしみのある顔だつた。 十三の年にあつて、それつきり会はないでゐるうちに見違へるやうな奇麗な女になつてゐる。廿四とか云つてゐた。今まで直方に奉公してゐたが、お嫁入の仕度に帰つて来たら丁度私が久しぶりに帰省してゐると聞いて早速来たのださうだ。私も何とはなしになつかしくうれしい気がして日あたりのいゝ椽側に床を引つぱり出してその上に座つて話した。 私がナイフを出してもらつてザボンをむいてゐる間にも、祖母は、たあちやんをつかまへて、云はなくてもよささうな余計な事まで聞いたり、話したりしてゐた。矢張り、自分の経験をふりまはして、お嫁に行つてからの事をいろ〳〵注意を与へてゐるのだ。何処まで人の世話が焼き度いんだらう。ザボンはたあちやんの宅になるので奇麗な内紫だ。味はまだよくついてゐないけれども匂ひが馬鹿に高い。たあちやんは、私を時々見送りながら私の幼い時の話をはじめた。私はザボンをたべながら黙つて、話を聞き聞き、頻りにおぼろ気な記憶をたどり始めた。 この頃のやうな秋の暮れ方、燈ともし前の一時を私はきつと、たあちやんの背に負はれる。そして海岸に行つた。私は小さい時から海が好きだつた。松原ぬけて砂丘の上にたつて、たあちやんは背をゆすぶり乍ら、 椎ーのやーまゆーけばー 椎がボーロリボーロリとー と透きとほるやうな声で歌つて呉れた。 暮れ方のうるみを帯びた物しづかな低い波の音につれる子守歌がたまらなく悲しい。私はたあちやんの背に顔をうづめてシク〳〵泣いた。そしてじーつと耳をすましては、歌を聞き思ひ出したやうに、泣き止んだり、また泣いたりした。たあちやんは、歌ひ〳〵サク〳〵砂丘を降りてまつしろな、きれいな藻の根を、青い藻の中からさがし出しては私の手に握らして呉れた。私は冷たいその根を噛んでは甘酢つぱい汁を、チユウ〳〵音をさして吸ふた。さうしてたあちやんは椎の山を歌ひながら寒い海の風に吹かれて白い渚を行つたり来たりして背中をゆすつた。 五時近くたあちやんは私の髪を梳いて呉れたりして帰つた。後はまた寂しかつた。 九日―――― 今日も仰向になつたまゝ胸の上に指を組み合はして天井を見つめたまゝ何おもふともなしに一日は暮れてしまつた。 昼間シヤブが松原で殺された事が誰からともなく家の者の耳に入つて来た。皆浮かぬ顔してゐる。 やさしい、おつとりした親しみを持つた眼と、深いフサ〳〵した美しい毛をもつた、老ひてはゐたが利巧な犬、可愛いゝ犬だつた。可なり引き締つた気持ちでゐる私の目からもホロリ〳〵と涙が出る。 |
「ぼくのからだの中で、ミシミシ音がするぞ。まったく、すばらしく寒いや!」と、雪だるまが言いました。「風がピューピュー吹きつけて、まるで命を吹きこんでくれようとしているようだ。だが、あの光ってるやつは、いったい、どこへ行くんだろう? あんなにギラギラにらんでいるぞ!」雪だるまが、そう言っているのは、お日さまのことでした。お日さまは、いまちょうど、しずもうとするところだったのです。「あんなやつが、いくらまばたきさせようったってまばたきなんかするもんか。まだまだこのかけらが、しっかりと目にくっついているんだからな」 雪だるまの目になっているのは、大きな三角の形をした、二枚の屋根がわらのかけらだったのです。口は、古い、こわれた草かきでできていました。ですから、雪だるまには、歯もあったわけです。 この雪だるまは、男の子たちが、うれしそうに、ばんざい、とさけんだのといっしょに、生れてきたのでした。そしてそのとき、そりの鈴の音や、むちの音が、ちょうど挨拶でもするように、雪だるまをむかえてくれました。 お日さまがしずみました。すると、青い空に、まんまるい大きなお月さまが、明るく、美しくのぼりました。 「今度はまた、あんなちがったほうから出てきたぞ」と、雪だるまが言いました。雪だるまは、また出てきたのが、お日さまだと思ったのでした。「でも、いいや。あいつが、ぼくをギラギラにらむのだけは、やめさしてやったぞ。ああして、あんな高いとこにぶらさがって、光ってるんなら光っているがいい。おかげで、ぼくは、自分のからだがよく見えるというもんだ。 さてと、どうしたら、からだを動かすことができるんだろうなあ。それさえわかったらなあ! ああ、なんとかして動いてみたい! もし動くことができたら、ぼくもあの男の子たちのやってたみたいに、氷の上をすべって行くんだけどなあ! だけど、どうして走ったらいいのか、わかりゃしないや」 「ワン! ワン!」そのとき、くさりにつながれている、年とったイヌが、ほえました。このイヌは、いくらか声がしゃがれていました。もっとも、まだ部屋の中に飼われて、ストーブの下に寝ころんでいたときから、そんなふうにしゃがれ声だったのです。「どうしたら走れるか、今に、お日さまが教えてくれるよ。わしはな、去年、おまえの先祖が教わってたのを見たんだし、それから、そのまた前の先祖も、やっぱり、同じように教わってたのを見たんだよ。ワン! ワン! そうして、みんな行っちゃったのさ」 「きみの言うことは、ぼくにはちっともわからないよ」と、雪だるまが言いました。「じゃあ、あんな上のほうにいるものが、ぼくに走り方を教えてくれるのかい?」雪だるまが、そう言っているのは、お月さまのことだったのです。「ほんとうにね、さっき、ぼくがじっと見ていたときは、あいつ、どんどん走っていたよ。だけど、今度はね、またべつのほうから、そっと出てきたんだよ」 「おまえは、なんにも知らないんだね」と、くさりにつながれているイヌが言いました。「それもそうだな。おまえは、ついさっき、作ってもらったばっかりなんだからな。おまえが、いま見ているのは、お月さまというものだよ。さっき見えなくなったのが、お日さまさ。お日さまは、朝になると、また出てきて、堀の中へすべりこむやり方を、きっと、おまえに教えてくれるよ。おや、もうすぐ、天気がかわるぞ。わしは、左の後足でそれがわかるんだ。そこんとこが、ずきずきするもんだからね。きっと、天気ぐあいがかわるよ」 「あのイヌの言うことは、ちっともわからない」と、雪だるまは言いました。「だけど、なんだか、ぼくによくないことを言ってることだけは、わかる。さっき、ぼくをギラギラにらみつけて、しずんでいったのは、たしかお日さまと言ってたが、あれも、ぼくの友だちなんかじゃないようだ。どうも、そんな気がする」 「ワン! ワン!」くさりにつながれているイヌが、ほえました。それから、三べんまわって、自分の小屋にはいって、眠ってしまいました。 やがて、天気ぐあいが、ほんとうにかわってきました。明け方になると、こい、しめっぽい霧が、あたりいちめんに、おおいかかりました。お日さまののぼるすこし前に、風が吹きはじめました。風は氷のようにつめたくて、まるで、骨のずいまでしみとおるようでした。 ところが、お日さまがのぼると、なんというすばらしい景色があらわれたことでしょう! 木という木、やぶというやぶが、みんな霜でおおわれて、まるで、まっ白なサンゴの林のように見えました。どの枝にも、キラキラかがやくまっ白な花が、咲いているのではないかと思われました。数かぎりない、細い、小さな枝は、夏にはたくさんの葉が茂っていたために見えなかったのですが、いまは一つ一つが、はっきりとあらわれているのでした。そのありさまは、まるで、キラキラ光る白いレースもようのようでした。まっ白な光が、一つ一つの枝から流れ出ているようでした。シラカバは、ゆらゆらと風にゆれていました。それは、夏のころ、ほかの木がいきいきとしているように、いま、いきいきとしていました。ほんとうに、なんて美しいのでしょう! とても、ほかのどんなものにもくらべることができません。 やがて、お日さまが、かがやきはじめました。すると、あたりいちめんは、まるでダイヤモンドの粉をふりまかれたように、美しくきらめきました。地面に降りつもった雪の上には、大きなダイヤモンドが、キラキラとかがやいているのでした。でなければ、白い白い雪よりも、もっとまっ白な、数知れない小さな光が燃えているのだと、思うこともできたでしょう。 「まあ、なんてきれいなんでしょう!」若い男といっしょに庭へ出てきた、ひとりの若い娘が、雪だるまのすぐそばに立ちどまって、キラキラ光る木々のほうをながめながら、そう言いました。「夏には、こんな美しい景色はとても見られないわ!」と、娘は、目をかがやかせて、言いました。 「それから、ここにいるこんなやつだって、夏にはとても見られないね」と、若い男は言って、雪だるまを指さしました。「うまくできているじゃないの」 娘はほほえんで、雪だるまのほうにむかって、うなずいてみせました。それから、友だちといっしょに、雪の上を踊るようにして、むこうへ行ってしまいました。すると、まるで澱粉の上でも歩いているように、足の下で、雪がギシギシ鳴りました。 「あのふたりは、だれなの?」と、雪だるまは、くさりにつながれているイヌに、たずねました。「きみは、このお屋敷では、ぼくより古いんだから、あの人たちを知ってるだろう?」 「もちろん、知ってるさ」と、くさりにつながれているイヌが言いました。「あの娘さんは、わしをなでてくださるし、男のひとは骨をくださるんだよ。だから、あのふたりには、かみつかないことにしているのさ」 「だけど、あのふたりは、どういう人たちなんだい?」と、雪だるまはたずねました。 「いいい……いいなずけさ!」と、くさりにつながれているイヌが、言いました。「これから、イヌ小屋へ行って、いっしょに骨をかじろうってのさ。ワン! ワン!」 「あのふたりも、やっぱり、きみとぼくのようなものかい?」と、雪だるまはたずねました。 「ご主人の家のかたにきまってるじゃないか!」と、くさりにつながれているイヌが、言いました。「じっさい、きのう生れてきたばかりのものは、なんにも知らんものさ。おまえを見りゃあ、すぐわかるよ。わしは年をとっているし、いろいろなことを知っている。このお屋敷の人だって、みんな知ってるんだ。それに、今でこそ、こうやって寒いとこに、くさりでつながれているんだが、そんなことのなかった時のことだって、知ってるんだ。ワン! ワン!」 「寒いのは、すてきじゃないか!」と、雪だるまは言いました。「話してくれよ、話してくれよ。だけど、そんなに、くさりをガチャガチャさせないでくれたまえ。からだの中まで、びんびんひびいてくるからね」 「ワン! ワン!」と、くさりにつながれているイヌが、ほえました。「まだそのころは、わしも小イヌだった。ちっちゃくて、かわいかったそうだ。そのころは、お屋敷の中で、ビロードを張った椅子の上に寝かしてもらったり、ご主人のひざの上に抱いてもらったりしたものだよ。そればかりじゃない。口にキスをしていただいたり、ししゅうをしたハンカチで、足をふいていただいたりしたものさ。みんなはわしのことを、『きれいな子』だとか『かわいい、かわいい子』なんて、呼んでくれたんだ。 ところが、そのうちに、わしがあんまり大きくなりすぎたものだから、女中頭のところへやられてしまったんだ。それから、地下室で暮すようになったのさ。そら、おまえの立ってるところから、その中が見えるだろう。わしがご主人だった、その部屋がさ。そこでは、わしがご主人だったんだ。上にいた時より、部屋は小さかったけれど、かえって住みごこちはよかったよ。上にいた時のように、子供たちにこづきまわされたり、引っぱりまわされたりしないですんだんだからね。それに、食べ物だって、前と同じように、いいものがもらえたんだ。いや、かえって、前よりいいくらいだった。 それから、ふとんも、自分のがちゃんとあったし、おまけに、ストーブもあったんだ。このストーブってのは、ことに、いまみたいに寒いときは、世の中でいちばんすてきなものだからなあ! わしがそのストーブの下にはいこむと、すっかりからだがかくれてしまうんだ。ああ、いまでもわしは、そのストーブの夢を見るのさ。ワン! ワン!」 「ストーブって、そんなにきれいかい?」と、雪だるまがたずねました。「じゃあ、ぼくみたいかい?」 「おまえとは、まるで反対さ! それは、炭のようにまっ黒で、長い首と、しんちゅうの胴を持っているんだ! まきを食べるもんだから、口から火をはきだしているのさ。わしらは、そのそばにいなければいけないんだが、その上か、下にいてもいいんだ。そうすると、なんとも言えないほど、いい気持なんだ! おまえの立ってるところから、窓ごしに見えるだろう」 そう言われて、雪だるまがのぞいてみると、そこには、ほんとうにしんちゅうの胴を持った、ピカピカにみがきあげられた、まっ黒なものが立っていました。そして、赤いほのおが、下のほうからかがやいていました。それを見ているうちに、雪だるまは、まったくへんな気持になりました。自分でも、さっぱり、わけがわかりません。なにか、雪だるまの知らないものがやってきたのです。しかし、雪だるまでないほかの人たちには、それがなんだかわかっているのです。 「じゃあ、どうしてきみは、あの女のひとのそばから出て来てしまったんだい?」と、雪だるまは言いました。雪だるまは、ストーブが女のひとにちがいない、と感じたのです。「どうして、そんなにいいところから来たんだね?」 「そうさせられてしまったのさ」と、くさりにつながれているイヌが、言いました。「わしは、外へ追い出されて、こんなところにくさりでつながれてしまったんだよ。いちばん下の坊ちゃんが、わしのしゃぶってた骨をけとばしたもんだから、それで、その足にかみついてやったんだ。骨には骨で返せ、と、わしは思ったのさ! ところが、それを、みんなにわるくとられてしまって、その時から、こうして、ここで、くさりにつながれているんだ。わしのいい声も、ひどくなってしまった。どうだい、ずいぶんしゃがれた声だろう。ワン! ワン! これでおしまいだよ」 雪だるまは、もう、イヌの言うことなどを聞いてはいませんでした。ただじっと、地下室にある、女中頭の部屋の中を、のぞきこんでいたのです。そこには、ストーブが、鉄の四本足で立っていました。それは、ちょうど、雪だるまと同じくらいの大きさに見えました。 「ぼくのからだの中が、いやにミシミシいうぞ」と、雪だるまが言いました。「どうしても、あそこへは入っていけないんだろうか? こんなのは、罪のない願いなんだがなあ。罪のない願いというものは、きっとかなえてもらえるものなんだがな。これが、ぼくのいちばんのお願いで、おまけに、たった一つのお願いなんだ。もしこの願いがきいてもらえないとすれば、そりゃあ、まったく不公平というものだ。よし、どうしてもぼくは、窓ガラスをこわしてでも、入っていって、あのストーブによりかかってやろう」 「おまえは、あんなところへ、入っていけやしないよ」と、くさりにつながれているイヌが、言いました。「それに、もしおまえが、ストーブのそばになんか行けば、とけて消えちまうよ。ワン! ワン!」 「もう、とけているのもおんなじようなものだ」と、雪だるまは言いました。「ぼくは、まるで切りきざまれているような気持だ」 一日じゅう、雪だるまはそこに立って、窓ごしに部屋の中をのぞきこんでいました。あたりがうす暗くなると、部屋の中は、ますます楽しそうに見えてきて、雪だるまの心は、もっともっとそこにひきつけられました。ストーブからは、たいそうやわらかな光がさしていました。それは、お月さまの光ともちがいますし、お日さまの光ともちがっていました。ほんとうに、それは、ストーブの中に何かがはいっているとき、ストーブだけが出すことのできる光でした。ドアが開かれると、そのたびに、ほのおがさっと外に出てきました。それは、ストーブの持っている、いつものくせだったのです。するとそのほのおは、雪だるまの白い顔にまっかにうつりました。そして、胸の上をも、赤々と照らしだしました。 「ああ、もう、とてもたまらないや」と、雪だるまが言いました。「ああして、舌を出すようすは、ほんとうによく似合っている!」 たいそう長い夜でした。けれども、雪だるまには、そんなに長いとも思われませんでした。雪だるまは、自分の楽しい空想にふけっていたのです。そして、からだはつめたくこおりついて、ミシミシいっていました。 朝になると、地下室の窓には、いちめんに氷が張っていました。そして、雪だるまが心から望んでいる氷の花が、それはそれは美しく、いっぱい咲いていました。でも、そのために、ストーブはかくれてしまいました。窓ガラスの氷は、とけそうもありません。雪だるまは、あのストーブの姿を見ることができませんでした。あたりでは、ミシミシ、パチパチ、音がしています。まったく、雪だるまが心の底からよろこびそうな、霜の多い、きびしい寒さでした。それなのに、雪だるまはちっともよろこびません。ほんとうなら、きっと、しあわせに感じたでしょうし、また、しあわせに感じるはずだったのですが、じつは、すこしもしあわせには思いませんでした。それもそのはず、雪だるまは、ただもうストーブのことばかり考えて、恋しがっていたのですもの。 「雪だるまにとっちゃ、そりゃあ、わるい病気だよ」と、くさりにつながれているイヌが、言いました。「前にわしも、この病気にかかったことがあるが、もう今では、すっかりなおってしまった。ワン! ワン!――おや、天気ぐあいがかわるぞ!」 やがて、ほんとうに、空もようがかわってきました。だんだん、雪がとけるようすです。 ますます暖かくなってきて、雪だるまはとけはじめました。もう、何も言いません。不平もこぼしません。こうなると、いよいよほんものです。 ある朝、雪だるまは、とうとうくずれてしまいました。雪だるまの立っていたところには、ほうきのえのようなものが、つっ立っていました。それをしんにして、子供たちが、雪だるまをこしらえたのでした。 「なるほど、これでやっと、あいつがあんなに、ストーブを恋しがってたわけがわかった」と、くさりにつながれているイヌが、言いました。「雪だるまは、からだの中に、ストーブの火かきを持っていたんだな。それが、あいつのからだの中で、あんなに動いていたんだ。でも、もうおしまいさ。ワン! ワン!」 こうして、寒い冬も、やがてすぎてしまいました。 「ワン! ワン! おしまいだ、おしまいだ!」と、くさりにつながれているイヌが、ほえました。お屋敷では、小さな女の子たちがうたいはじめました。 クルマバソウよ! 青いきれいな芽をお出し! |
或秋の夜、僕は本郷の大学前の或古本屋を覗いて見た。すると店先の陳列台に古い菊判の本が一冊、「大久保湖州著、家康と直弼、引ナシ金五十銭」と云ふ貼り札の帯をかけたまま、雑書の上に抛り出してあつた。僕はこの本の挨を払ひ、ちよつと中をひろげて見た。中は本の名の示す通り、徳川家康と井伊直弼とに関する史論を集めたものらしかつた。が偶然開いた箇所は附録に添へてある雑文だつた。「人の一生」――僕はこの雑文の一つにかう云ふ名のあるのを発見した。 人の一生 徳川家康 急ぐべからず。 心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。 怒は敵と思へ。 勝つ事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身に至る。 及ばざるは過ぎたるより勝れり。 大久保余所五郎 後るべからず。 心に望失なはば得意なりし時を思ひ出すべし。 卑屈は敵と思へ。 負くる事に安んじて勝つ事を知らざれば損其身に至る。 成すは成さざるより勝れり。 僕は思はず微笑した。この湖州大久保余所五郎なるものは征夷大将軍徳川家康と処世訓の長短を比べてゐる。しかも彼の処世訓は不思議にも坊間に行はれる教科書の臭気を帯びてゐない。何処か彼自身の面接した人生の息吹きを漂はせてゐる。「心に望失はば得意なりし時を思ひ出すべし。」――情熱に富んだ才人の面かげはかう云ふ一行にも見えるやうである。僕は漫然とその次の「鎌倉漫筆」へ目を移した。漫然と――しかし僕の好奇心は忽ち近来にない刺戟を感じた。まづ僕を喜ばせたものは歴史家を評した数行である。 「若し徂徠にして白石の如く史を究めたらんには、其の史眼は必ず白石の上に出づべし。『南留別志』を一読して知るべし。頼山陽を歴史家と念ふは非なり。日本政記の論文にも、取るに足らざる浅薄の見多し。」 次に興味を感じたのは半頁にも足りない史論である。 「大日本史の主旨は勤王に在りといふ。水戸黄門この書を思ひ立ちしは、伯夷伝を読みて感ずる所ありてなりといふ。周の武王は時の強者なり。伯夷は時の強者を制し、名分を正さんとして用ゐられざりし男なり。黄門何とてさる支那の一不平党に同感して、勤王の精神を現せる国史を編まんとはしけるぞ。幕府は時の強者なり。之を制して名分を正さんとしけるにや。されど徳川は正に其の宗家なり。宗家の不利を顧みざりしにや。黄門は世に賢明の人なりと嘖々す。さる人にして、いかで朝廷重くなれば徳川軽くなるの理見えずやあるべき。是に於て黄門の真意は甚だ疑ふべし。不平党に同意せし胸中穿鑿を要する所なり。時の将軍綱吉と黄門の不快なりしは、亦世に伝ふる所なり。得意なりしならんには、大日本史を編みしや否や、我れ識らず。美はしき表口上より、裏の辺見まほしくこそ。 「家康の朝廷に対する精神は、敬して遠ざくるに在りしなり。信長秀吉等は皆朝廷を担ぎて事を図りしかど、家康にはさる事なし。関ヶ原大坂の軍にも、朝旨を受けて、王師皇軍などいふ体を装はず。武家と武家との戦と做して、朝廷の力を仮らず。是れ実に家康の深慮の存する所なり。徳川の末世に及びて、勤王を唱へし徒は、朝廷尊崇をもて東照宮の遺意なるが如く説きて、幕府を責めしかど、実を知らぬ者の迂説なりけり。朝廷に権力を持たせて、将軍政治の行はるると思ふは笑ふべし。流石に新井白石は此の間の消息を解せしが如し。家康また至て公卿風を嫌ひし男なりけり。」 しかし最も愉快だつたのは鮮かに著者自身の性格を示したやはり数行の感想である。 「人三十にして老人にも少年にも交はるを得べし。 「我れ酒を飲まざれど、人に酒を呑(原)せて語るは面白し。 「始めて人を訪へば、知らぬ顔して室内の模様を見届け置くべし。爾後訪ふ毎に室内の変化に注目せよ。やがて主人の口には掩ひける性癖のをかしきふしを看出すべし。 「人物を知らんには、其の人の金のつかひやうと、妻に対する振舞との二つこそ尤も見まほしけれ。若し世に細君の自ら筆を染めて、細かに良人が日常の振舞を書き取れる日記と、金銀出納帳とだにあらば、之れに優る伝記の材料はなかるべし。 「世評に善くいはるる人も、実際はそれ程の大人物に非ず、悪くいはるる人も、亦それ程の悪人にあらず、古今皆然り。個人の貫目を量らんには、世評の封袋を除くことを忘るべからず。 「智慧できて、気性の強くなりしものあり。弱りしものあり。 「成る可く労力を節約して成るべく多く成功するの工夫を運らすべし。さりとて相場師に為れと言ふには非ず。但し人事なべて多少投機の性質を帯ぶるものと念ふべし。 「愚人を相手に得々然たること能はざる政治家は、輿論政治の世に政治家たる資格なきものと知るべし。」 男女とも尻つ尾さへぶら下げてゐなければ、一人前の人間だと考へるのは三千年来の誤謬である。一人前の人間となる為には、まづ脳髄と称へられる灰白色の塊にも一人前の皺襞を具へなければならぬ。この大久保湖州と云ふ書生は確かに孔雀や猿を脱した一人前の脳髄を所有してゐる。いや、一人前所ではないかも知れない。彼の文章は冷然とした中に不思議にも情熱を漲らせてゐる。天下にかう云ふ文章ほど、一人前以上の脳髄の所在を歴々と教へる指道標はない。のみならず――実価は五十銭である。僕は皺くちやになつた五十銭札を出し、青黒いクロオスの表紙のついた「家康と直弼」を買ふことにした。 買つた後に開いて見ると、巻頭には近衛公の題字を始め、重野成斎、坪内逍遥、島田沼南、徳富蘇峰、田口鼎軒等の序文だの、水谷不倒の「大久保湖州君小伝」だの、明治趣味の顋髯を生やした著者の写真だのもはひつてゐる。無名の書生だと思つた湖州は思ひの外知己に富んでゐたらしい。が、現代に生れた我々の湖州を知らぬことも亦事実である。すると諸名士の金玉の序文も「家康と直弼」を伝へることには失敗したと云はなければならぬ。これは読者たる僕の勇気を沮喪せしめるに足る発見である。才人だと思つた大久保湖州も或は大学の教授に多い、荘厳なる阿呆の一人だつたかも知れない。僕は夜長の電燈の下にかう云ふ疑惑を抱きながら、まづ彼の大作たる家康篇を読みはじめた。…… これはもう一昨年、――念の為に書いて置けば、大正十一年の秋のことである。爾来僕は何かの機会にこの忘れられた歴史家を紹介したいと思ひながら、とうとう今日に及んでしまつた。紹介したいと云ふ以上、湖州大久保余所五郎の才人だつたことは云ふを待たない。いや、湖州は明治の生んだ、必しも多からざる才人中、最も特色のある一人である。諸君は勿論かう云ふ讃辞に懐疑的な微笑を浮べるであらう。諸君の確信する所によれば、古今の才人は一人残らず諸君の愛顧を辱うしてゐる。況や最も特色のある才人などと云ふものの等閑に附せられてゐる筈はない。それは諸君の云ふ通りである。第一古今の才人は何も才人だつた故に諸君の御意にかなつたのではない。諸君の御意にかなつた故に才人になることも出来たのである。つまり才人を才人にするのは才人自身といふよりも諸君であると云はなければならぬ。諸君はまことにその点だけは神よりも全智全能である。如何なる才人も諸君の為に門前払ひを食はされたが最後、露命さへ繋げぬのに違ひない。この故に尾形乾山は蕭条たる陋巷に窮死した。この故に亦大久保湖州も明治三十四年出版、正価一円二十銭の著書を、――しかも彼の唯一の著書を「引ナシ五十銭」に売られてゐるのである。 僕は湖州を才人だと云つた。が、諸君の微笑の前には少時この言葉を見合せても好い。その代りに僕は諸君の愛顧を辱うする光栄を得なかつた湖州の薄命を弔はなければならぬ。湖州もその後聞いた所によれば、少くとも識者の間には全然忘れられた次第ではない。しかし湖州の母校たる当年の早稲田専門学校――現在の早稲田大学は片上伸の如き、本間久雄の如き、或は又宮島新三郎の如き、有為の批評家を世に出してゐる。けれども大久保湖州の名は未だ彼等の椽大の筆に一度たりと雖も上つたことはない。彼等は皆彼等の職に甚だ忠なる批評家である。或は聊か彼等の職に忠過ぎる憾みさへあるかも知れない。しかも湖州を逸してゐるのは怠慢の罪と云ふよりも、やはり我々と同じやうに無知の罪と云はなければならぬ。彼等は万里の波濤を隔てた仏蘭西、英吉利、露西亜等の群小作家の名をも心得てゐる。が、彼等の先輩たる大才の名だけは心得てゐない。かう云ふ湖州を薄命と呼ぶのは必ずしも誇張とは咎め難いであらう。且又湖州は早稲田大学の前に銅像か何か建てられたとしても、依然たる薄命の歴史家である。成程「家康と直弼」は彼の面目を伝へるかも知れない。しかし彼の畢生の事業は「井伊直弼伝」の大成である。彼はこの事業の為に三十六年の心血を瀝いだ。が、死は彼の命と共に「井伊直弼伝」をも奪ひ去つてしまつた。「こころざしなかばもとげぬ我身だにつひに行くべき道にゆきにけり」――水谷不倒の湖州君小伝によれば、死に臨んだ彼は満腔の遺憾をかう云ふ一首に託したさうである。これをしも薄命と呼ばないとすれば、何ごとを薄命と呼ぶであらう? 僕は少くとも中道に仆れた先達の薄命を弔はなければならぬ。 大久保湖州の作品は第一に「徳川家康篇」である。第二に「井伊直弼篇」である。第三に「遺老の実歴談に就きて」である。第三の「遺老の実歴談に就きて」は「明治維新の前後に際会して国事に与りし遺老の実歴談多く世に出づる」に当り、その史料的価値を考へた三十頁ばかりの論文に過ぎない。第二の「井伊直弼篇」も「井伊大老は開国論者に非ずといふに就いて」、「岡本黄石」、「長野主膳」の三篇の論文を寄せ集めた、たとへば「井伊直弼伝」と云ふ計画中の都市の一部分である。しかし第一の「徳川家康篇」だけは幸ひにも未成品に畢つてゐない。いや僕の信ずる所によれば、寧ろ前人を曠うした、戞々たる独造底の完成品である。 一部の「徳川家康篇」は年少の家康を論じた「徳川家康」、中年の家康を論じた「鬼作左」、老年の家康を論じた「本多佐渡守」の三篇の論文から成り立つてゐる。(尤も湖州はかう云ふ順序に是等の論文を書いた訳ではない。「徳川家康」は明治三十一年、「鬼作左」は明治三十年、「本多佐渡守」は明治二十九年、――即ち作品の順序とは全然反対に筆を執つたのである。)是等の論文は必しも金玉の名文と云ふ訳ではない。同時に又格別新しい史料に立脚してゐると云ふ次第でもない。しかし是等の論文の中から我々の目の前に浮んで来る征夷大将軍徳川家康は所謂歴史上の家康よりも数等に家康らしい家康である。たとへば「徳川家康」の中に女人に対する家康を論じた下の一節を読んで見るがよい。 「家康の子、男女合はせて十六人、之れを生みし腹は十人、夫人の産みし二子を除きては、余は皆側妾の所出なり。(中略)其の最後にお勝が腹に末女を挙げさせしは、既に将軍職を伜に渡して、駿府に隠居せし身にて、老いても壮なる六十六歳の時なりとぞ識られける。其の他この豪傑が戯に手折られながら、子を結ばで空しく散りにし花は亦一二に止まらざるべし。実に家康も英雄色を好むの古則に漏るる能はじ。秀吉は北条征伐の陣中より淀君が許に一書を寄せて、『二十日ごろに、かならず参候て、わかぎみ(鶴松)だき可申候。そのよさに、そもじをも、そばにねさせ可申候。せつかく御まち候可候』とは言ひ越しき。天真爛漫といはばいへ、又痴情めきたる嫌なからずやは。家康には表面さる事見えざりしかど、所詮言ふと言はぬとの相違にて、実は両雄とも多情の男なりけん。深きは言はぬ方なるべし。 「さはれ流石に思慮深き家康は、秀吉の如く閨門の裡に一家滅亡の種を蒔かず、其が第一の禁物たる奢は女中にも厳に仮さで、奥向にも倹素の風行はれしは、彼の本多佐渡守が秀忠将軍の乳母なる大婆に一言咎められて、返す詞も無かりし一場の話に徴して知るべし。駿府にて女房等が大根の漬物の塩辛きに困じて、家康に歎きけるを、厨の事をば沙汰しける松下常慶を召して今少し塩加減よくすべしと諭ししかば、此の老人主が側に進み寄りて、何事をかささやきしに、主は言葉なくして唯笑ひけるを、彼れ其の儘退きしと云ふ。 「老人ささやきしは、『今の如く塩辛く漬けさせ候てさへ、朝夕の用夥しきものを女房達の好みの如く、塩加減いたし候はば、何ほどの費用に及ぶべきも計りがたし。女房達の申す詞など聞し召さぬ様にて、わたらせ給ふこそ然るべけれ』とは曰ひしなりけり。常慶も塩辛き男なれば、家康が笑ひし腹加減も大に塩辛かりけり。天下を取りし後だに此くの如し。三河の事想ふべし。(中略) 「『近年日課を六万遍唱へ候事、老人いらぬ過役にて候。遍数減らし候様に皆々申聞候。成程遍数をへらし候へば、楽に成り候得共、幼少より戦国に生れ、多くの人を殺し候得ば、せめて罪ほろぼしにもなり候半。且年若より一日も隙に暮したる事なき身故、何ぞの業を致度候得ども、それもいらぬ事故、念仏を日々の稽古事の様に致し候ゆへ、毎日朝起いたし、夜もはやくは休不申、おこたらぬやうにこころ懸候事。夫故食事の中りもなく健にて、念仏の影と存候。』と言へるを看ても、裏面の行跡に大に放縦の振舞なかりしは察すべし。但し彼の秀吉すら「女に心不可免」と戒めたれば、家康が清浄潔白の念仏談も、曾て一時に数人の侍妾を設け置きし覚えある男の言と識るべし。人を殺しし罪ほろぼしの外に言ひ難き懺悔の珠数をば繰らざりしにや。徒士の者奥の女中に文を送りしとて、徒士頭松平若狭守改易の罪に処せられきと伝ふれば、奥向の規律の厳正なりしを窺ふべし。亦窮屈なる規則の内にても、主人には之を潜りて融通の道ありしを忘るべからず。三河に在りし頃は特に何事も手軽なりしなるべし。家康年積みて処世の道に熟しては、(中略) 「おのれ常に老臣共の衆評を聴きて、一人に権を占めさせじと努めし跡は、歴々として史上にも残りけるが、表の政治に用ゐし此筆法は、奥の女中を制御するにも応用して、一人の女に寵を専にさせじと抑えしは疑あらず。十六人の子を挙げし十人の妻妾、二人より多くを産みし者なかりしは、深き仔細ありぬるにや。強ち偶然の事のみにあらざるべし。」(胡麻点は原文のを保存したのである。) この徳川家康は女色を愛する老爺たるばかりか、産児制限をも行ふ政治家である。これは明かに三百年来、我我の見慣れた家康ではない。我我の見慣れた家康よりもはるかに人間らしい家康である。はるかに人間らしい、――諸君は或は僕の言葉の平凡過ぎるのに微笑するであらう。「人間らしい」と云ふ言葉は勿論非凡でも何でもない。あらゆる新刊の小説や戯曲は必ずその広告の中に「人間らしい苦しみ」とか「人間らしい生活」とか、人間らしい万事を売りものにしてゐる。が、それらの小説や戯曲は果してどの位広告通り、人間らしい何ものかを捉へてゐるのであらうか? 殊に英雄の伝記の作者は無邪気なる英雄崇拝者でなければ、古色蒼然たるモオラリストである。成程彼等の或者は人間らしさを説いてゐるかも知れない。しかし彼等の人間らしさも実際彼等の吹聴するやうに人間らしいかどうかは疑問である。彼等はいつも厳然とかう諸君に云ふであらう。――「英雄も勿論凡人ではない。が、神には生れない以上、やはり凡人たる半面をも具へてゐたことは確かである。すると我我の目の前に何の某と云ふ人物を立たせ、その何の某の英雄たることを認めさせる為には、凡人たらざる半面を指摘すると同時に凡人たる半面をも指摘してなければならぬ。在来の伝記の英雄に人間らしさの欠けてゐるのはかう云ふ用意の足りぬ為である。……」 けれどもこれだけの用意さへすれば、果して彼等の云ふやうに、人間らしい英雄を示し得るであらうか? たとへば諸君の軽蔑する「漢楚軍談」を披いて見るが好い。「漢楚軍談」の漢の高祖は秦の始皇の夢に入つたり、白帝の子たる大蛇を斬つたり、凡人ならざる半面を大いに示してゐるかと思へば、女楽を好んだり、士に傲つたり、凡人に劣らぬ半面をもやはり大いに示してゐる。しかし「漢楚軍談」の漢の高祖に王者の真面目を発見するものは三尺の童子ばかりと云はなければならぬ。もう一つ次手に例を挙げれば、諸君の「漢楚軍談」よりも常に一層信用せぬ歴史、――新聞の記事を読んで見るが好い。新聞の記事の大臣も民意を体したり、憲政を擁護したり、凡人たらざる半面を大いに示してゐるかと思へば、譃をついたり、金を盗んだり、大凡下たる半面さへやはり大に示してゐる。が、新聞の記事の大臣に英雄の真面目は少時問はず、凡人の真面目さへ発見するものは三尺の童子――ではないにもしろ、六尺の童子ばかりと云はなければならぬ。すると彼等の云ふやうに、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘することは少しも英雄の英雄たる所以を明らかにしない道理である。彼等はこの道理にも頓着せず、神経衰弱に罹つたエホバのやうに彼等の所謂人間らしい英雄なるものを創造した。その結果はどうだつたか? 山積する彼等の伝記の中から我我の目の前に浮んで来るものは丁度両頭の蛇のやうに凡人たらざる半面と凡人たる半面とを左右へ出した、滑稽なる精神的怪物である。英雄崇拝者の英雄は英雄よりも寧ろ神であらう。モオラリストの英雄も余りに善玉でないとすれば、余りに悪玉であるかも知れない。しかし彼等の英雄は或統一を保つてゐる限り、人間らしいとは云ひ難いにもしろ、人形らしい可愛らしさを示してゐる。けれども一部の伝記の作者の所謂人間らしい英雄はかう云ふ可愛らしささへ示してゐない。就中彼等の創造した征夷大将軍徳川家康は最も不快なる怪物である。聖アントニウスを誘惑した、如何なる地獄の眷属よりも一層不快なる怪物である。 湖州の徳川家康は是等の怪物に比べずとも、おのづから人間らしい英雄である。この相違は何処から来たか? 湖州は家康を論ずるのに、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘したのではない。唯凡人たる半面と凡人たらざる半面との融合する一点を指摘した、――と云ふよりも寧ろ英雄の中に黙々と生を営んでゐる人間全体を指摘したのである。これは言葉の穿鑿だけすれば、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘するのと毫釐の相違に過ぎないかも知れない。が、事実は千里の山河を隔絶したにもひとしい相違である。凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘するのは凡庸なる作者にも成し得るであらう。しかし神采奕々たる人間全体を指摘するのは一代の才人を待たなければならぬ。湖州の前人を凌駕する所以はこの人間全体を指摘した烱眼に存してゐる。湖州自身も史上の人物に人間全体を発見することは絶えず工夫を凝らしたものらしい。たとへば明治二十七八年頃の「随感録」と題する随筆は次の一節を録してゐる。 「書を読て、心緒忽然として古人に触れ、静夜月を仰ぎて、感慨湧然として古人に及ぶ。同情の念沸々として起る。是等を観察し、彼を沈思す。大抵誤まらざるを得。」 更に略々同時代に成つた「伝記私言数則」は悉このことに及んでゐる。 「事実に依りて心術を悟り、心術を悟りて更に事実を解す。然れども其間往々矛盾するものあり。人は外界の事情に制せられて、己れの意志を枉げて心ならざる事を行ふ。此隠秘の関繋を説明するを至要とす。 「人は短所と長所との縫合物なり。一の長所あれば、必ず之れに短所伴ふ。短所を視れば、乃ち其長所を知るべし。君子は其過を見て其仁を知る、亦此の意なり。能と不能とを明識するもの、始めて人を談ずべし。 「人の世に立つ、各自皆一個の位地を占む。之を見るもの同等の地位に立ちて見るを要す。決して上より見るべからず。下より見るべからず。一郷の人は一郷の眼を以て見るべく、一国の人は一国の眼を以て見るべく、天下の人は天下の眼を以て見るべし。」 |
一 三日三晩のあいだ、謎のような死の手に身をゆだねていたラザルスが、墓から這い出して自分の家へ帰って来た時には、みんなも暫くは彼を幽霊だと思った。この死からよみがえったということが、やがてラザルスという名前を恐ろしいものにしてしまったのである。 この男が本当に再生した事がわかった時、非常に喜んで彼を取り巻いた連中は、引っ切りなしに接吻してもまだ足りないので、それ食事だ飲み物だ、それ着物だと、何から何までの世話をやいて、自分たちの燃えるような喜びを満足させた。そのお祭り騒ぎのうちに彼は花聟さまのように立派に着飾らせられ、みんなの間に祭り上げられて食事を始めると、一同は感きわまって泣き出した。それから主人公たちは近所の人々を呼び集めて、この奇蹟的な死からよみがえった彼を見せて、もう一度それらの人々とその喜びを倶にした。近所の町や近在からも見識らぬ人たちがたずねて来て、この奇蹟を礼讃して行った。ラザルスの姉妹のマリーとマルタの家は、蜜蜂の巣箱のように賑やかになった。 そういう人達に取っては、ラザルスの顔や態度に新しく現われた変化は、みな重病と最近に体験した種々の感動の跡だと思われていた。ところが、死に依るところの肉体の破壊作用が単に奇蹟的に停止されたというだけのことで、その作用の跡は今も明白に残っていて、その顔や体はまるで薄いガラス越しに見た未完成のスケッチのように醜くなっていた。その顳顬の上や、両眼の下や、両頬の窪みには、濃い紫の死びと色があらわれていた。又その色は彼の長い指にも爪ぎわにもあった。その紫色の斑点は、墓の中でだんだんに濃い紅色になり、やがて黒くなって崩れ出す筈のものであった。墓のなかで脹れあがった唇の皮はところどころに薄い赤い亀裂が出来て、透明な雲母のようにぎらぎらしていた。おまけに、生まれつき頑丈な体は墓の中から出て来ても依然として怪物のような格好をしていた上に、忌にぶくぶくと水ぶくれがして、その体のうちには腐った水がいっぱいに詰まっているように感じられた。墓衣ばかりでなく、彼の体にまでも滲み込んでいた死びとのような強い匂いはすぐに消えてしまい、とても一生涯癒りそうもなかった唇のひびも幸いに塞がったが、例の顔や手のむらさきの斑点はますますひどくなって来た。しかも、埋葬前に彼を棺桶のなかで見たことのある人達には、それも別に気にならなかった。 こういうような肉体の変化と共に、ラザルスの性格にも変化が起こって来たのであるが、そこまではまだ誰も気が付かなかった。墓に埋められる前までのラザルスは快活で、磊落で、いつも大きい声を出して笑ったり、洒落を言ったりするのが好きであった。したがって彼は、神様からもその悪意や暗いところの微塵もないからりとした性質を愛でられていた。ところが、墓から出て来た彼は、生まれ変わったように陰気で無口な人になってしまって、決して自分から冗談などを言わなくなったばかりではなく、相手が軽口を叩いてもにこりともせず、自分がたまに口をきいても、その言葉は極めて平凡普通であった。よんどころない必要に迫られて、心の奥底から無理に引き出すような言葉は、喜怒哀楽とか飢渇とかの本能だけしか現わすことの出来ない動物の声のようであった。無論、こうした言葉は誰でも一生のうちに口にする事もあろうが、人間がそれを口にしたところで、何が心を喜ばせるのか、苦しませるのか、相手に理解させることは出来ないものである。 顔や性格の変化に人々が注目し始めたのは後の事で、かれが燦爛たる黄金や貝類が光っている花聟の盛装を身につけて、友達や親戚の人たちに取り囲まれながら饗宴の席に着いていた時には、まだ誰もそんなことに気が付かなかった。歓喜の声の波は、あるいはさざなみのごとくに、あるいは怒濤のごとくに彼を取り巻き、墓の冷気で冷やかになっている彼の顔の上には温かい愛の眼がそそがれ、一人の友達はその熱情を籠めた手のひらで彼のむらさき色の大きな手を撫でていた。 やがて鼓や笛や、六絃琴や、竪琴で音楽が始まると、マリーとマルタの家はまるで蜂や、蟋蟀や、小鳥の鳴き声で掩われてしまったように賑やかになった。 二 客の一人がふとした粗相でラザルスの顔のベールをはずした途端に、あっと声を立てて、今まで彼に感じていた敬虔な魅力から醒めると、事実がすべての赤裸な醜さのうちに暴露された。その客はまだ本当に我にかえらないうちに、もうその唇には微笑が浮かんで来た。 「むこうで起こった事を、なぜあなたは私たちにお話しなさらないのです。」 この質問に一座の人々はびっくりして、俄かに森となった。かれらはラザルスが三日のあいだ墓のなかで死んでいたということ以外に、別に彼の心身に変わったことなぞはないと思っていたので、ラザルスの顔を見詰めたまま、どうなることかと心配しながらも彼の返事を待っていた。ラザルスはじっと黙っていた。 「あなたは私たちには話したくないのですね。あの世というところは恐ろしいでしょうね。」 こう言ってしまってから、その客は初めて自分にかえった。もしそうでなく、こういう前に我にかえっていたら、その客はこらえ切れない恐怖に息が止まりそうになった瞬間に、こんな質問を発する筈はなかったであろう。不安の念と待ち遠しさを感じながら、一同はラザルスの言葉を待っていたが、彼は依然として俯向いたままで、深い冷たい沈黙をつづけていた。そうして、一同は今更ながらラザルスの顔の不気味な紫色の斑点や、見苦しい水脹れに注目した。ラザルスは食卓ということを忘れてしまったように、その上に彼の紫の瑠璃色の拳を乗せていた。 一同は、待ち構えている彼の返事がそこからでも出てくるように、じーっとラザルスの拳に見入っていた。音楽師たちはそのまま音楽をつづけてはいたが、一座の静寂はかれらの心にまでも喰い入って来て、掻き散らされた焼木杭に水をかけたように、いつとはなしに愉快な音色はその静寂のうちに消えてしまった。笛や羯鼓や竪琴の音も絶えて、七絃琴は糸が切れたように顫えてきこえた。一座ただ沈黙あるのみであった。 「あなたは言いたくないのですか。」 その客は自分のおしゃべりを抑え切れずに、また同じ言葉を繰り返して言ったが、ラザルスの沈黙は依然として続いていた。不気味な紫の瑠璃色の拳も依然として動かなかった。やがて彼は微かに動き出したので、一同は救われたようにほっとした。彼は眼をあげて、疲労と恐怖とに満ちたどんよりとした眼でじっと部屋じゅうを見廻しながら、一同を見た。――死からよみがえったラザルスが―― 以上は、彼が墓から出て来てから三日目のことであった。もっともそれまでにも、絶えず人を害するような彼の眼の力を感じた人たちもたくさんあったが、しかもまだ彼の眼の力によって永遠に打ち砕かれた人や、あるいはその眼のうちに「死」と同じように「生」に対する神秘的の反抗力を見いだした者はなく、彼の黒いひとみの奥底にじーっと動かずに横たわっている恐怖の原因を説明することも出来なかった。そうして、この三日の間、ラザルスはいかにも穏かな、質朴な顔をして、何事も隠そうなどという考えは毛頭なかったようであったが、その代りに又、何ひとつ言おうというような意思もなかった。彼はまるで人間界とは没交渉な、ほかの生物かと思われるほどに冷やかな顔をしていた。 多くの迂闊な人たちは往来で彼に近づいても気が付かなかった。そうして、眼も眩むような立派な着物をきて、触れるばかりにのそりのそりと自分のそばを通って行く冷やかな頑丈な男はいったい誰であろうかと、思わずぞっとした。無論、ラザルスが見ている時でも、太陽はかがやき、噴水は静かな音を立てて湧き出で、頭の上の大空は青々と晴れ渡っているのであるが、こういう呪われた顔かたちの彼に取っては、噴水のささやきも耳には入らず、頭の上の青空も目には見えなかった。ある時は慟哭し、また或る時には我とわが髪を引きむしって気違いのように救いを求めたりしていたが、結局は静かに冷然として死のうという考えが、彼の胸に起こって来た。そこで彼はそれから先きの幾年を諸人の見る前に鬱々と暮らして、あたかも樹木が石だらけの乾枯びた土のなかで静かに枯死するように、生色なく、生気なく、しだいに自分のからだを衰弱させて行った。彼を注視している者のうちには、今度こそは本当に死ぬのではないかと気も狂わんばかりに泣くものもあったが、また一方には平気でいる人もあった。 話はまた前に戻って、かの客はまだ執拗く繰り返した。 「そんなにあなたは、あの世で見て来たことを私に話したくないのですか。」 しかしもうその客の声には熱がなく、ラザルスの眼に現われていた恐ろしいほどの灰色の疲れは、彼の顔全体を埃のように掩っていたので、一同はぼんやりとした驚愕を感じながら、この二人を互い違いに見詰めているうちに、かれらはそもそもなんの為にここへ集まって来て、美しい食卓に着いているのか判らなくなって来た。この問答はそのまま沙汰止みになって、お客たちはもう帰宅する時刻だとは思いながら、筋肉にこびりついた懶い疲労にがっかりして、暫くそこに腰を下ろしたままであったが、それでもやがて闇の野に飛ぶ鬼火のように一人一人に散って行った。 音楽師は金を貰ったので再び楽器を手に取ると、悲喜こもごも至るというべき音楽が始まった。音楽師らは俗謡を試みたのであるが、耳を傾けていたお客たちは皆なんとなく恐ろしい気がした。しかもかれらはなぜ音楽師に絃の調子を上げさせたり、頬をはち切れそうにして笛を吹かせたりして、無暗に賑やかな音楽を奏させなければならないのか、なぜそうさせたほうが好いのか、自分たちにもわからなかった。 「なんというくだらない音楽だ。」と、ある者が口を開いたので、音楽師たちはむっとして帰ってしまった。それに続いてお客たちも次々に帰って行った。その頃はもう夜になっていた。 静かな闇に出て、初めてほっと息をつくと、忽ちかれらの眼の前に盛装した墓衣を着て、死人のような紫色の顔をして、かつて見たこともないほどに恐怖の沈滞しているような冷やかな眼をしたラザルスの姿が、物凄い光りのなかに朦朧として浮き上がって来た。かれらは化石したようになって、たがいに遠く離れてたたずんでいると、闇はかれらを押し包んだ。その闇のなかにも三日のあいだ謎のように死んでいた彼の神秘的な幻影はますます明らかに輝き出した。三日間といえば、その間には太陽が三度出てまた沈み、子供らは遊びたわむれ、小川は礫の上をちょろちょろと流れ、旅びとは街道に砂ほこりを立てて往来していたのに、ラザルスは死んでいたのであった。そのラザルスが今や再びかれらのあいだに生きていて、かれらに触れ、かれらを見ているではないか。しかも彼の黒いひとみの奥からは、黒ガラスを通して見るように、未知のあの世が輝いているのであった。 三 今では友達も親戚もみなラザルスから離れてしまったので、誰ひとりとして彼の面倒を見てやる者もなく、彼の家はこの聖都を取り囲んでいる曠原のように荒れ果てて来た。彼の寝床は敷かれたままで、消えた火をつける者とても無くなってしまった。彼の姉妹、マリーもマルタも彼を見捨てて去ったからである。 マルタは自分のいないあかつきには、兄を養い、兄を憫れむ者も無いことを思うと、兄を捨てて去るに忍びなかったので、その後も長い間、兄のために或いは泣き、或いは祈っていたのであるが、ある夜、烈しい風がこの荒野を吹きまくって、屋根の上に掩いかかっているサイプレスの木がひらひらと鳴っている時、彼女は音せぬように着物を着がえて、ひそかに我が家をぬけ出してしまった。ラザルスは突風のために入口の扉が音を立てて開いたのに気が付いたが、起ち上がって出て見ようともせず、自分を棄てて行った妹を捜そうともしなかった。サイプレスの木は夜もすがら彼の頭の上でひゅうひゅうと唸り、扉は冷たい闇のなかで悲しげに煽っていた。 ラザルスは癩病患者のように人々から忌み嫌われたばかりではなく、実際癩病患者が自分たちの歩いていることを人々に警告するために頸に鈴を付けているように、彼の頸にも鈴を付けさせようと提議されたが、夜などに突然その鈴の音が、自分たちの窓の下にでも聞こえたとしたら、どんなに恐ろしいことであろうと、顔を真っ蒼にして言い出した者があったので、その案はまずおやめになった。 自分のからだをなおざりにし始めてから、ラザルスは殆んど餓死せんばかりになっていたが、近所の者は漠然たる一種の恐怖のために彼に食物を運んでやらなかったので、子供たちが代って彼のところへ食物を運んでやっていた。子供らはラザルスを怖がりもしなければ、また往々にして憐れな人たちに仕向けるような悪いたずらをして揶揄いもしなかった。かれらはまったくラザルスには無関心であり、彼もまたかれらに冷淡であったので、別にかれらの黒い巻髪を撫でてやろうともしなければ、無邪気な輝かしいかれらの眼を覗こうともしなかった。時と荒廃とに任せていた彼の住居は崩れかけて来たので、飢えたる山羊どもは彷徨い出て、近所の牧場へ行ってしまった。そうして、音楽師が来たあの楽しい日以来、彼は新しい物も古い物も見境いなく着つづけていたので、花聟の衣裳は磨り切れて艶々しい色も褪せ、荒野の悪い野良犬や尖った茨にその柔らかな布地は引き裂かれてしまった。 昼のあいだ、太陽が情け容赦もなくすべての生物を焼き殺すので、蠍が石の下にもぐり込んで気違いのようになって物を螫したがっている時にでも、ラザルスは太陽のひかりを浴びたまま坐って動かず、灌木のような異様な髯の生えている紫色の顔を仰向けて、熱湯のような日光の流れに身をひたしていた。 世間の人がまだ彼に言葉をかけていた頃、彼は一度こんな風に訊ねられた事があった。 「ラザルス君、気の毒だな。そんなことをしてお天道さまと睨みっくらをしていると、こころもちが好いかね。」 彼は答えた。 「むむ、そうだ。」 ラザルスに言葉をかけた人たちの心では、あの三日間の死の常闇が余りにも深刻であったので、この地上の熱や光りではとても温めることも出来ず、また彼の眼に沁み込んだ、その常闇を払い退けることが出来ないのだと思って、やれやれと溜め息をつきながら行ってしまうのであった。 爛々たる太陽が沈みかけると、ラザルスは荒野の方へ出かけて、まるで一生懸命になって太陽に達しようとでもしているように、夕日にむかって一直線に歩いて行った。彼は常に太陽にむかって真っ直ぐに歩いてゆくのである。そこで、夜になって荒野で何をするのであろうと、そのあとからそっと付いて来た人たちの心には、大きな落陽の真っ赤な夕映を背景にした、大男の黒い影法師がこびり付いて来る上に、暗い夜がだんだんに恐怖と共に迫って来るので、恐ろしさの余りに初めの意気組などはどこへやらで、這々のていで逃げ帰ってしまった。したがって、彼が荒野で何をしていたか判らなかったが、かれらはその黒や赤の幻影を死ぬまで頭のなかに焼き付けられて、あたかも眼に刺をさされた獣が足の先きで夢中に鼻面をこするように、ばかばかしいほど夢中になって眼をこすってみても、ラザルスの怖ろしい幻影はどうしても拭い去ることが出来なかった。 しかし遥かに遠いところに住んでいて、噂を聞くだけで本人を見たことのない人たちは、怖い物見たさの向う見ずの好奇心に駆られて、日光を浴びて坐っているラザルスの所へわざわざ尋ねて来て話しかけるのもあった。そういう時には、ラザルスの顔はいくらか柔和になって、割合いに物凄くなくなって来るのである。こうした第一印象を受けた人には、この聖都の人々はなんという馬鹿ばかり揃っているのであろうと軽蔑するが、さて少しばかり話をして家路につくと、すぐに聖都の人たちはかれらを見付けてこう言うのである。 「見ろよ。あすこへ行く連中は、ラザルスにお眼を止められたくらいだから、おれ達よりも上手の馬鹿者に違いないぜ。」 かれらは気の毒そうに首を振りながら、腕をあげて、帰る人々に挨拶した。 ラザルスの家へは、大胆不敵の勇士が物凄い武器を持ったり、苦労を知らない青年たちが笑ったり歌を唄ったりして来た。笏杖を持った僧侶や、金をじゃら付かせている忙がしそうな商人たちも来た。しかもみな帰る時にはまるで違った人のようになっていた。それらの人たちの心には一様に恐ろしい影が飛びかかって来て、見馴れた古い世界に一つの新しい現象をあたえた。 なおラザルスと話してみたいと思っていた人たちは、こう言って自己の感想を説明していた。 「すべて手に触れ、眼に見える物体は漸次に空虚な、軽い、透明なものに化するもので、謂わば夜の闇に光る影のようなものである。この全宇宙を支持する偉大なる暗黒は、太陽や、月や、星によって駆逐さるることなく、一つの永遠の墓衣のように地球を包み、一人の母のごとくに地球を抱き締めているのである。 その暗黒がすべての物体、鉄や石の中までも沁み込むと、すべての物体の分子は互いの連絡がゆるんで来て、遂には離れ離れになる。そうして又、その暗黒が更に分子の奥底へ沁み込むと、今度は原子が分離して行く。なんとなれば、この宇宙を取り巻いているところの偉大なる空間は、眼に見えるものによって満たされるものでもなく、また太陽や、月や、星に依っても満たされるものでもない。それは何物にも束縛されずに、あらゆるところに沁み込んで、物体から分子を、分子から原子を分裂させて行くのである。 |
一 「ちらちらちらちら雪の降る中へ、松明がぱっと燃えながら二本――誰も言うことでございますが、他にいたし方もありませんや。真白な手が二つ、悚然とするほどな婦が二人……もうやがてそこら一面に薄り白くなった上を、静に通って行くのでございます。正体は知れていても、何しろそれに、所が山奥でございましょう。どうもね、余り美しくって物凄うございました。」 と鋳掛屋が私たちに話した。 いきなり鋳掛屋が話したでは、ちと唐突に過ぎる。知己になってこの話を聞いた場所と、そのいきさつをちょっと申陳べる。けれども、肝心な雪女郎と山姫が長襦袢で顕れたようなお話で、少くとも御覧の方はさきをお急ぎ下さるであろうと思う、で、簡単にその次第を申上げる。 所は信州姨捨の薄暗い饂飩屋の二階であった。――饂飩屋さえ、のっけに薄暗いと申出るほどであるから、夜の山の暗い事思うべしで。……その癖、可笑いのは、私たちは月を見ると言って出掛けたのである。 別に迷惑を掛けるような筋ではないから、本名で言っても差支えはなかろう。その時の連は小村雪岱さんで、双方あちらこちらの都合上、日取が思う壺にはならないで、十一月の上旬、潤年の順におくれた十三夜の、それも四日ばかり過ぎた日の事であった。 ――居待月である。 一杯飲んでいる内には、木賊刈るという歌のまま、研かれ出づる秋の夜の月となるであろうと、その気で篠ノ井で汽車を乗替えた。が、日の短い頃であるから、五時そこそこというのにもうとっぷりと日が暮れて、間は稲荷山ただ一丁場だけれども、線路が上りで、進行が緩い処へ、乗客が急に少く、二人三人と数えるばかり、大な木の葉がぱらりと落ちたようであるから、掻合わす外套の袖も、妙にばさばさと音がする。外は霜であろう。山の深さも身に沁みる。夜さえそぞろに更け行くように思われた。 「来ましたよ。」 「二人きりですね。」 と私は言った。 名にし負う月の名所である。ここの停車場を、月の劇場の木戸口ぐらいな心得違いをしていた私たちは、幟や万燈には及ばずとも、屋号をかいた弓張提灯で、へい、茗荷屋でございます、旅店の案内者ぐらいは出ていようと思ったの大きな見当違。絵に描いた木曾の桟橋を想わせる、断崖の丸木橋のようなプラットフォームへ、しかも下りたのはただ二人で、改札口へ渡るべき橋もない。 一人がバスケットと、一人が一升壜を下げて、月はなけれど敷板の霜に寒い影を映しながら、あちらへ行き、こちらへ戻り、で、小村さんが唇をちょっと曲げて、 「汽車が出ないと向うへは渡られませんよ。」 「成程。線路を突切って行く仕掛けなんです。」 やがてむらむらと立昇る白い煙が、妙に透通って、颯と屋根へ掛る中を、汽車は音もしないように静に動き出す、と漆のごとき真暗な谷底へ、轟と谺する…… 「行っていらっしゃいまし……お静に――」 と私はつい、目の前をすれすれに行く、冷たそうに曇った汽車の窓の灯に挨拶した。ここへ二人きり置いて行かれるのが、山へ棄てられるような気がして心細かったからである。 壇はあるが、深いから、首ばかり並んで霧の裡なる線路を渡った。 「ちょっと、伺いますが。」 「はあ?」 手ランプを提げた、真黒な扮装の、年の少い改札掛わずかに一人。 待合所の腰掛の隅には、頭から毛布を被ったのが、それもただ一人居る。……これが伊勢だと、あすこを狙って吹矢を一本――と何も不平を言うのではない、旅の秋を覚えたので。――小村さんは一旦外へ出たが、出ると、すぐ、横の崖か巌を滴る、ひたひたと清水の音に、用心のため引返して、駅員に訊いたのであった。 「その辺に旅籠屋はありましょうか。」 「はあ、別に旅籠屋と言って、何ですな、これから下へ十四五町、……約半道ばかり行きますと、湯の立つ家があるですよ。外は大概一週間に一度ぐらいなものですでなあ。」 「あの風呂を沸かしますのが。」 「さよう。」 「難有う――少しどうも驚きました。とにかく、そこいらまで歩いてみましょう。」 と小村さんが暗がりの中を探りながら先へ立って、 「いきなり、風呂を沸かす宿屋が半道と来たんでは、一口飲ませる処とも聞きにくうございますよ。しかし何かしらありましょう……何しろ暗い。」 と構内の柵について……灯の百合が咲く、大な峰、広い谷に、はらはらとある灯をたよりに、ものの十間とは進まないで、口を開けて足を噛む狼のような巌の径に行悩んだ。 「どうです、いっそここへ蹲んで、壜詰の口を開けようじゃありませんか。」 「まさか。」 と小村さんは苦笑して、 「姨捨山、田毎の月ともあろうものが、こんな路で澄ましているって法はありません。きっと方角を取違えたんでしょう。お待ちなさいまし、逆に停車場の裏の方へ戻ってみましょう。いくらか燈が見えるようです。」 双方黒い外套が、こんがらかって引返すと、停車場には早や駅員の影も見えぬ。毛布かぶりの痩せた達磨の目ばかりが晃々と光って、今度はどうやら羅漢に見える。 と停車場の後は、突然荒寺の裏へ入った形で、芬と身に沁みる木の葉の匂、鳥の羽で撫でられるように、さらさらと――袖が鳴った。 落葉を透かして、山懐の小高い処に、まだ戸を鎖さない灯が見えた。 小村さんが、まばらな竹の木戸を、手を拡げつつ探り当てて、 「きっと飲ませますよ、この戸の工合が気に入りました」 と勢よく、一足先に上ったが、程もあらせず、ざわざわざわと、落葉を鳴らして落来るばかりに引返して、 「退却……」 「え、安達ヶ原ですか。」 と聞く方が慌てている。 「いいえ爺さんですがね、一人土間で草鞋を造っていましてね。何だ、誰じゃいッて喚くんです。」 「いや、それは恐縮々々。」 「まことに済みません。発起人がこの様子で。」 「飛んでもない。こういう時は花道を歌で引込むんです、柄にはありませんがね。何でしたっけ、…… |
予等は芸術の士なるが故に、如実に万象を観ざる可らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのづから独自の表現を成せり。ゴッホの向日葵の写真版の今日もなほ愛翫せらるる、豈偶然の結果ならんや。(幸ひに GOGH をゴッホと呼ぶ発音の誤りを咎むること勿れ。予は ANDERSEN をアナアセンと呼ばず、アンデルゼンと呼ぶを恥ぢざるものなり。) こは芸術を使命とするものには白日よりも明らかなる事実なり。然れども独自の眼を以てするは必しも容易の業にあらず。(否、絶対に独自の眼を以てするは不可能と云ふも妨げざる可し。)殊に万人の詩に入ること、屡なりし景物を見るに独自の眼光を以てするは予等の最も難しとする所なり。試みに「暮春」の句を成すを思へ。蕪村の「暮春」を詠ぜし後、誰か又独自の眼光を以て「暮春」を詠じ得るの確信あらんや。梅花の如きもその一のみ。否、正にその最たるものなり。 梅花は予に伊勢物語の歌より春信の画に至る柔媚の情を想起せしむることなきにあらず。然れども梅花を見る毎に、まづ予の心を捉ふるものは支那に生じたる文人趣味なり。こは啻に予のみにあらず、大方の君子も亦然るが如し。(是に於て乎、中央公論記者も「梅花の賦」なる語を用ゐるならん。)梅花を唯愛すべきジエヌス・プリヌスの花と做すは紅毛碧眼の詩人のことのみ。予等は梅花の一弁にも、鶴を想ひ、初月を想ひ、空山を想ひ、野水を想ひ、断角を想ひ、書燈を想ひ、脩竹を想ひ、清霜を想ひ、羅浮を想ひ、仙妃を想ひ、林処士の風流を想はざる能はず。既に斯くの如しとせば、予等独自の眼光を以て万象を観んとする芸術の士の、梅花に好意を感ぜざるは必しも怪しむを要せざるべし。(こは夙に永井荷風氏の「日本の庭」の一章たる「梅」の中に道破せる真理なり。文壇は詩人も心臓以外に脳髄を有するの事実を認めず。是予に今日この真理を盗用せしむる所以なり。) 予の梅花を見る毎に、文人趣味を喚び起さるるは既に述べし所の如し。然れども妄に予を以て所謂文人と做すこと勿れ。予を以て詐偽師と做すは可なり。謀殺犯人と做すは可なり。やむを得ずんば大学教授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と做すこと勿れ。十便十宜帖あるが故に、大雅と蕪村とを並称するは所謂文人の為す所なり。予はたとひ宮せらるると雖も、この種の狂人と伍することを願はず。 ひとり是のみに止らず、予は文人趣味を軽蔑するものなり。殊に化政度に風行せる文人趣味を軽蔑するものなり。文人趣味は道楽のみ。道楽に終始すと云はば則ち已まん。然れどももし道楽以上の貼札を貼らんとするものあらば、山陽の画を観せしむるに若かず。日本外史は兎も角も一部の歴史小説なり。画に至つては呉か越か、畢につくね芋の山水のみ。更に又竹田の百活矣は如何。これをしも芸術と云ふ可くんば、安来節も芸術たらざらんや。予は勿論彼等の道楽を排斥せんとするものにあらず。予をして当時に生まれしめば、戯れに河童晩帰の図を作り、山紫水明楼上の一粲を博せしやも亦知る可からず。且又彼等も聡明の人なり。豈彼等の道楽を彼等の芸術と混同せんや。予は常に確信す、大正の流俗、芸術を知らず、無邪気なる彼等の常談を大真面目に随喜し渇仰するの時、まづ噴飯に堪へざるものは彼等両人に外ならざるを。 梅花は予の軽蔑する文人趣味を強ひんとするものなり、下劣詩魔に魅せしめんとするものなり。予は孑然たる征旅の客の深山大沢を恐るるが如く、この梅花を恐れざる可からず。然れども思へ、征旅の客の踏破の快を想見するものも常に亦深山大沢なることを。予は梅花を見る毎に、峨眉の雪を望める徐霞客の如く、南極の星を仰げるシャツクルトンの如く、鬱勃たる雄心をも禁ずること能はず。 灰捨てて白梅うるむ垣根かな 加ふるに凡兆の予等の為に夙に津頭を教ふるものあり。予の渡江に急ならんとする、何ぞ少年の客気のみならんや。 |
夏場の市はからきし不景気で、申ツ半時分だと露天の日覆の影もそう長くは延びていない頃だのに、衢は人影もまばらで、熱い陽あしがはすかいに背中を焙るばかりだった。村のものたちはあらかた帰った後で、ただ売れはぐれの薪売りの組がはずれの路傍にうろうろしているばかりだが、石油の一と瓶か乾魚の二三尾も買えばこと足りるこの手合を目当にいつまでも頑張っている手はなかった。しつこくたかってくる蠅と餓鬼共もうるさい。いもがおで左利きの、太物の許生員は、とうとう相棒の趙先達に声をかけた。 ――たたもうじゃねえかよ。 ――その方が気が利いてるだ。蓬坪の市で思うようにはけたこたあ一度だってありゃしねえ。明日は大和の市じゃで、もりかえしてやるだよ。 ――今夜は夜通し道中じゃ。 ――月が出るぜ。 銭をじゃらじゃら鳴らせ、売上高の勘定を始めるのを見ると、許生員は𣏾から幅ったい日覆を外し、陳列してあった品物を手繰り寄せた。木綿類の畳物と綢類の巻物で、ぎっしり二た行李に詰った。筵の上には、屑物が雑然と残った。 市廻りの連中は、おおかたみせをあげていた。逸疾く出発して行くのもいた。塩魚売りも、冶師も、飴屋も、生姜売りも、姿は見えなかった。明日は珍富と大和に市が立つ。連中はそのどちらかへ、夜を徹し六七里の夜道をてくらなければならなかった。市場は祭りの跡のようにとり散らかされ、酒屋の前では喧嘩がおっ始まっていたりした。酔痴れている男たちの罵声にまじって、女の啖呵が鋭く裂かれた。市日の騒々しさは、きまって女の啖呵に終るのだった。 ――生員。俺に黙ってるだが、気持あ解るだよ。……忠州屋さ。 女の声で、思い出したらしく、趙先達は北叟笑みをもらした。 ――画の中の餅さ。役場の連中を、相手じゃ、勝負にならねえ。 ――そうばかりもゆくめえ。連中が血道を上げてるのも事実だが、ほら仲間のあの童伊さ、うまくやってるらしいで。 ――なに、あの若僧が。小間物ででも釣っただべえ、頼母しい奴だと思ってただに。 ――その道ばかりゃあ判んねえ。……思案しねえと、行ってみべえ。俺がおごるだよ。 すすまないのを、跟いて行った。許生員は女にはとんと自信がなかった。いもがおをずうずうしくおしてゆくほどの勇気もなかったが、女の方からもてたためしもなく、忙しいいじけた半生だった。忠州屋のことを、思って見ただけで、いい年して子供のようにぽっとなり、足もとが乱れ、てもなくおびえ竦んでしまう。忠州屋の門をくぐり酒の座席で本当に童伊に出会わした時にはどうしたはずみでか、かっと逆上せてしまった。飯台の上に赭い童顔を載せ、いっぱし女といちゃついているところを見せつけられたから、我慢がならなかった。しゃらくせえ野郎、そのだらしねえ様は何だ、乳臭え小僧のくせに、宵の口から酒喰らいやがって、女とじゃれるなあ、みっともねえ、市廻りの恥曝しだ、それでいておいらの仲間だと言えるかよ。いきなり若者の前に立ちふさがると、頭ごなしに呶鳴りつけた。大きにお世話だと云わぬばかりに、きょとんと見上げる赤い眼にぶっつかると、どうしても頬打を喰わしてやらずにはおれなかった。童伊はさすがにかっとなって立ち上ったが、許生員は構わず言いたいだけを言ってのけた。――どこの何者だかは知んねえが、貴様にもててはたまるべえ、そのはしたねえ恰好見せつけられたら何と思うかよ、商売は堅気に限る、女なんてもっての外だ、失せやがれ。さっさと失せやがれ。 しかし一言も歯向かわず悄らしく出てゆくのをみると、いじらしくなって来た。まだ顔覚えな仲間にすぎない、まめな若者だったのに、こっぴどすぎたかなあ、と何か身につまされて気にかかった。随分勝手だわ、同じ客同志なのに、若いからって息子同様の相手をとらえて意見したり乱暴したりするほうってないわよ。忠州屋は唇を可愛くひんまげ、酒を盛る手つきも荒々しかったが、若えものにゃあその方が薬になるだよと、その場は趙先達がうまくとりつくろってくれた。お前、あいつに首ったけだな、若えのをしゃぶるなあ罪だぜ。ひとしきり敦圉いた後とて度胆も坐ってきた上に、なぜかしらへべれけに酔ってみたい気持もあって、許生員は差される盃は大抵拒まなかった。酔が廻るにつれ、しかし女のことよりは若者のことが一途に気になってきた。儂風情が女を横取りしてどうなるというのだ、愚にもつかないはしたなさを、はげしくきめつけるこころも一方にはあった。だからどれほど経ったか、童伊が息をきらしながら慌てて呼びに来た時には、飲みかけの盃を抛り、われもなくよろめきながら、忠州屋をとび出したのだった。 ――生員の驢馬が、綱をきってあばれ出したんだ。 ――餓鬼共のいたずらに違いねえ。 驢馬もさることながら、童伊の心掛けが胸にしみて来た。すたこらすたこら衢をぬけて走っていると、とろんとした眼が熱くなりそうだった。 ――伝法な野郎共ときたら、全くしまつにおえねえ。 ――驢馬を嫐る奴あ、ただではおかねえぞ。 半生を共にしてきた驢馬だった。一つ宿に寝、同じ月を浴び、市から市をてくり廻っているうち、二十年の歳月がめっきり老を齎らしてしまった。すりきれたくしゃくしゃの鬣は、主のそそけた髪にも似て来、しょぼしょぼ濡れている眼は、主のそれと同じくいつも目脂をたたえていた。箒みたいに短くなった尻尾は、蠅をおっ払うため精一杯振ってももう腿には届かなかった。次の道中にそなえるため、すり減った蹄を削り削り何度新しい鉄を嵌め換えたか知れない。だがもう蹄は延びなくなり、すり切れた鉄のすきまからは痛々しく血がにじみ出ていた。匂で主人が判った。いつも訴えるような仰山な嘶き声で迎える。 よし、よし、と赤児でもあやす気持ちで頸筋を撫でてやると、驢馬は鼻をびくつかせながら口をもってきた。水っ洟が顔に散った。許生員は馬煩悩だった。よっぽど悪戯がきいたと見え、汗ばんだ躯がびくびく痙攣りなかなか昂奮のおさまらぬ面持だった。馬勒がとれ、鞍もどこかへ落ちてしまっている。やい、しょうちのならねえ餓鬼共、と許生員は我鳴り立ててもみたが、連中はおおかた散り失せたあとで、数少くとり残されたのが権幕に気圧されあたりから遠のいているだけだった。 ――いたずらじゃねえ。雌を見て、ひとりで暴れ出したんだ。 洟っ垂の一人が、不服そうに遠くから呶鳴り返してきた。 ――なにこきやがる、黙れ。 ――ちがう、ちがうだよ。あばたの許哥め。金僉知の驢馬が行っちまうと、土を蹴ったり、泡をふいたり、気違いみてえに狂い出したんだ。おいら面白がって見ていただけだい。お腹の下をのぞいてみい。 小僧はませた口吻で、躍気になってわめきながら、きゃっきゃっ笑い崩れた。許生員は我知らず、忸怩と顔を赧らめた。あけすけな無遠慮な部分は、まだ踊り狂っている残忍な視線からかばい匿すように、許生員はその前に立ちはだからねばならなかった。 ――おいぼれのくせに、いろ気違いだよ、あのけだものめ、 許生員は、はっとなったが、とうとう我慢がならず、みるみる眉をひきつらすと、鞭をふりあげ遮二無二小僧をおっかけた。 ――追っかけてみるがええ。左利きが殴れるかい。 韋駄天に走り去る小僧っ子には、おいつきようもなかった。左利きは全く子供にも叶わない。許生員は破れかぶれに鞭を抛ってしまうより外なかった。酔も手伝ってからだが無性に火照り出した。 ――ええ加減出発した方がましだよ。奴等を相手じゃきりがねえ。市場の餓鬼共ときたら怖ろしいやつらばかりで、大人よりもませてやがるだでな。 趙先達と童伊は、めいめいの驢馬に鞍をかけ、荷物を載せはじめていた。陽も大分傾いたようだった。 太物の行商を始めてから二十年にもなるが、許生員は滅多に蓬坪の市を逸らしたことはなかった。忠州や堤川あたりの隣郡をうろついたり、遠く嶺南地方にのびたりすることもあるにはあったが、江陵あたりへ仕入れに出掛ける外は、始終一貫郡内を廻り歩いた。五日毎の市の日には月よりも正確に面から面へ渡って来る。郷里が清州だと、誇らしげに言い言いしてはいたが、そこへおちついたためしはない。面から面への美しい山河が、そのまま彼にはなつこい郷里でもあった。小半日もてくって市場のある村にほぼ近づき、ほっとした驢馬が一と声景気よく嘶く時には――殊にそれが晩方で、村の灯がうす闇の中にちらちらでもする頃合だと、いつものことながら許生員はきまって胸を躍らせた。 若い時分には、あくせく稼いで一と身代拵えたこともあったが、邑内に品評会のあった年大尽遊びをしたり博打をうったりして、三日三晩ですっからかんになってしまった。驢馬まで売りとばすところだったが、なついて来るいじらしさにそれだけは歯を喰いしばって思い止った。結局元の木阿弥のまま行商をやり直す外はなかった。驢馬をつれて邑内を逃げ出した時には、お前を売りとばさんでよかった、と道々男泣きに泣きながら、伴侶の背中を敲いたものだった。借金が出来たりすると、もう身代を拵えようなんてことは思いもよらず、いつも一杯一杯で、市から市へ追いやられるばかりだった。 大尽遊びとはいえ、女一匹ものにしたことはない。そっけないつれなさに、わが身の情なさをしみじみ悟らされるばかりで、このからだじゃ生涯縁がないものと、観念しなければならなかった。近しい身内のものとては、前にも後にも一匹の驢馬があるきりだった。 それにしても、たった一つの最初の想出があった。あとにもさきにもない、一度きりの、奇しき縁ではあった。蓬坪に通い出して間もない、うら若い時分のことだったが、それを思い出す時ばかりは、彼も、生甲斐を感じた。 ――月夜だっただが、どうしてそねえなことになったか、今考えてもどだい解りゃしねえ。 許生員は今宵もまたそれをほぐし出そうとするのである。趙先達は相棒になって以来、耳にたこの出来るほど聞かされている。またか、またかとこぼすけれども、許生員はてんでとりあわずに繰返すだけは繰返した。 ――月の晩にゃ、そういう話に限るだよ。 さすがに趙先達の方を振り返ってはみたが、気の毒がってではない、月のよさに、しみじみ感動してであった。 虧けてはいたが、十五夜を過ぎたばかりの月は柔和な光をふんだんにふり濺いでいた。大和までは七里の道のりで、二つの峠を越え一つの川を渉り、後は原っぱや山路を通らなければならなかったが、道は丁度長いなだらかな山腹にかかっていた。真夜中をすぎた頃おいらしく、静謐けさのさなかで生きもののような月の息づかいが手にとるように聞え、大豆や玉蜀黍の葉っぱが、ひときわ青く透かされた。山腹は一面蕎麦の畑で、咲きはじめたばかりの白い花が、塩をふりかけたように月に噎せた。赤い茎の層が初々しく匂い、驢馬の足どりも軽い。狭い路は一人のほか通さないので、三人は驢馬に乗り、一列に歩いた。鈴の音が颯爽と蕎麦畑の方へ流れてゆく。先頭の許生員の話声は、殿の童伊にはっきりと聞きとれなかったが、彼は彼自身で爽やかな気持に浸ることも出来た。 ――市のあった、丁度こねえな晩だったが、宿の土間はむさ苦しゅうてなかなか寝つかれも出来ねえ、とうとう夜中に一人でぬけて川へ水を浴びに行っただ。蓬坪は今もその時分も変りはねえがどこもかしこも蕎麦の畑で、川べりは一面の白い花さ。川原の上で結構宜かっただに、月が明るすぎるだで着物を脱ぎに水車小屋へ這入ったさ。ふしぎなこともあればあるものじゃが、そこで図らずも成書房の娘に出会しただよ。村いっとうの縹緻よしで、評判の娘だっただ。 ――運てやつだべ。 そうには違いねえ、と相槌に応じながら、話の先を惜しむかのように、しばらく煙管を吸い続けた。紫の煙が香ばしく夜気に溶け込んだ。 ――儂を待ってたわけじゃねえが、外に待つ人があったわけでもねえ。娘は泣いてるだよ。うすうす気はついていただが、成書房はその時分くらしがえろうてほどほど弱ってるらしかっただ。一家のことだで娘にだって屈託のねえはずはねえ。ええとこがあればお嫁にもゆかすのだが、お嫁はてんでいやだときてる、……だが泣いてる女って格別きれいなものじゃ。はじめは驚きもした風だったが、滅入っている時にゃ気持もほぐれ易いもので、じき知合のように話し合っただ。……愉しい怖え夜じゃった。 ――堤川とかへずらかったなあ。あくる日だっただな。 ――次の市日に行った時にゃ、もう一家はどろんを極めていなくなっただよ。まちは大変な噂で、きっと酒屋へ売られるにきまってると、娘は皆から惜しまれてただ。幾度も堤川の市場をうろついてはみただが、女の姿はさらに見当らねえ、縁の結ばれた夜が、縁の切れ目だっただ。それからというもの蓬坪が好きんなって、半生の間通い続けさ。一生忘れっこはねえ。 ――果報者だよ。そねえにうめえ話って、ざらにあるものじゃねえ。大抵つまらねえ女と否応なし一緒んなって、餓鬼共ふやして、考えただけでうんざりする。……だがいつまでも市廻りでくらすのも豪うてな、俺あこの秋までで一先ずきりあげ、どこかへ落着こうかと思うだよ。家のもの共呼び寄せ、小さな店をもつだ。道中はもうこりごりだでな。 |
第一囘 鐵道の進歩は非常の速力を以て鐵軌を延長し道路の修繕は縣官の功名心の爲に山を削り谷を埋む今ま三四年せば卷烟草一本吸ひ盡さぬ間に蝦夷長崎へも到りヱヘンといふ響きのうちに奈良大和へも遊ぶべし况んや手近の温泉塲など樋をかけて東京へ引くは今の間なるべし昔の人が須磨明石の月も枴にかけてふり賣にやせんと冷評せしは實地となること日を待たじ故に地方漫遊のまた名所古跡一覽のと云ふ人は少し出立を我慢して居ながら伊勢の大神宮へ賽錢あぐる便利を待つたが宜さうなものといふ人もあれど篁村一種の癖ありて「容易に得る樂みは其の分量薄し」といふヘチ理屈を付け旅も少しは草臥て辛い事の有るのが興多しあまり徃來の便を極めぬうち日本中を漫遊し都府を懸隔だちたる地の風俗を交ぜ混ぜにならぬうちに見聞し山河も形を改ため勝手の違はぬうち觀て置きて歴史など讀む參考ともしまた古時旅行のたやすからざりし有樣の一斑をも窺ひ交通の不便はいかほどなりしかを知らんと願ふこと多時なりしが暇。金。連の三折合ずそれがため志しばかりで左のみ長旅はせず繪圖の上へ涎を垂して日を送りしが今度其の三ツ備はりたればいでや時を失ふべからず先づ木曾名所を探り西京大坂を囘り有馬の温泉より神戸へ出て須磨明石を眺め紀州へ入りて高野山へ上り和歌の浦にて一首詠み熊野本宮の湯に入りてもとの小栗と本復しと拍子にかゝれば機關の云立めけど少しは古物類も覗く爲に奈良へ𢌞りて古寺古社に詣で名張越をして伊勢地に入り大廟にぬかづき二見ヶ浦で日の出を拜み此所お目とまれば鐵道にて東海道を歸るの豫算なるたけ歩いてといふ注文三十日の日づもりで行くか歸るか分からねど太華山人。幸田露伴。梅花道人の三人が揃つて行かうといふを幸ひ四人男出立を定め維時明治廿三年四月の廿六日に本願の幾分を果すはじめの日と先づ木曾街道を西京さして上る間の記を平つたく木曾道中記とはなづけぬこれは此行四人とも別々に紀行を書き幸田露伴子は獨得の健筆を大阪朝日新聞社へ出して「乘興記」と名づけ梅花道人は「をかしき」といふを讀賣新聞へ掲げ太華山人は「四月の櫻」と題して沿道の風土人情を細に觀察して東京公論へ載するにつきまぎれぬ爲にしたるなり此の旅行の相談まとまるやあたかも娘の子が芝居見物の前の晩の如く何事も手につかず假初にも三十日のことなればやりかけたる博覽會の評も歸つてからまた見直すとした處で四五日分は書き溜てザツト片を付けねばならず彼是の取まぎれに何處へも暇乞ひには出ず廿五日出社の戻りに須藤南翠氏に出會ぬ偖羨やましき事よ我も來年は京阪漫遊と思ひ立ぬせめても心床しに汝の行を送らん特に木曾とありては玉味噌と蕎麥のみならん京味を忘れぬ爲め通り三丁目の嶋村にて汲まんと和田鷹城子と共に勸められ南翠氏が濱路もどきに馬琴そつくりの送りの詞に久しく飮まぬ醉を盡し歸りがけに幸堂氏にまた止められ泥の如くなりて家に戻り明日は朝の五時に總勢此に會合すれば其の用意せよと云ふだけが確にて夢は早くも名所繪圖の中に跳り入ぬ 第二囘 博覽會開設につき地方の人士雲の如くに東京に簇集きたる之に就て或人説をなして米價騰貴の原因として其の日々費す所の石數を擧げたるがよし夫までにあらずとも地方は輕く東京は重き不平均は生じたるならん我々四人反對に東京より地方へ出て釣合をよくせんと四月廿六日の朝上野の山を横ぎりて六時發横川行の滊車に乘らんと急ぎしに冗口といふ魔がさして停車塲へ着く此時おそく彼時迅く滊笛一聲上野の森に烟を殘して滊車はつれなく出にけり此が風流だ此の失策が妙だと自ら慰むるは朝寐せし一人にて風流ごかしに和められ滊車に乘おくれるが何が風流ぞと怒つたところで可笑くもなければ我も苦笑ひして此方を見れば雜踏の中を飄然として行く後ろつき菊五郎に似たる通仕立の翁あり誰ぞと見れば幸堂得知氏なり偖は我々の行を送らんとして此に來て逢はぬに本意なく歸るならん送る人を却つて我々が送るも新しからずやと詞はかけず後について幸堂氏の家まで到り此に新たに送別會を開きぬ我三人に萬の失策皆な酒より生ず旅中は特につゝしむべしと一句を示す 一徳利あとは蛙の聲に寐よ また新らしく瀧澤鎭彦幸堂得知の兩氏に送られ九時の滊車に乘り横川までは何事もなく午後一時三十分に着せしが是からが英雄競此碓氷嶺が歩く邪魔にならば小脇に抱へて何處ぞ空地へ置てやらうと下駄揃にて歩み出せしが始めのうちこそ小石を蹴散し洒落散したれ坂下驛を過るころより我輩はしばらく措て同行三人の鼻の穴次第に擴がり吐く息角立ち洒落も追々苦しくなり最うどの位來たらうとの弱音梅花道人序開きをなしぬ横川に滊車を下りて直に碓氷の馬車鐵道に乘れば一人前四十錢にて五時頃までには輕井澤へ着きまた直ちに信越の鐵道に乘れば追分より先の宿小田井(停車塲は御代田といふ)まで行くべきなれど其處が四天王とも云るゝ豪傑鐵道馬車より歩いて早く着いて見せんとしかも舊道の峠を上りかけしが梅花道人兎角に行なづむ樣子に力餅の茶店に風を入れ此にて下駄を捨てゝ道人と露伴子は草鞋となりしが我と太華山人は此の下駄は我々の池月摺墨なり木曾の山々を踏み凹ませて京三條の大橋を踏轟かせて見せんものと二人を見て麓より吹上る風より冷かに笑ひつゝ先んじて上る上りて頂上に近くなれば氣候は大に東京とは變りて山風寒し木の間がくれに山櫻の咲出たる千蔭翁が歌の「夏山のしげみがおくのしづけさに心の散らぬ花もありけり」とあるも思ひ出られて嬉しく頻りに景色を褒め行くうち山人汗を雫と流して大草臥となれば露伴子は此ぞと旅通を顯して飛ぶが如くに上る此に至つて不思議にも始め弱りし梅花道人ムク〳〵と強くなり山も震ふばかり力聲を出しサア僕が君の荷を持たうしつかりして上り玉へと矢庭に山人の荷物と自分の荷を合せて引かつぎエイ〳〵聲に上りしは目ざましきまで感心なり拙者は中弱りの氣味にて少し足は重けれど初日に江戸ツ子が泣を入れたりと云れんは殘念なればはづむ鼻息を念じこらへてナニサ左樣でもないのサと平氣をつくろひ輕井澤に下りて鶴屋といふに着き風呂の先陣へ名乘て勇ましく風呂へ行きしが直ちには跨ぎて湯に入れず少しく顏をしはめたり 第三囘 風流は寒いものとは三馬が下せし定義なり山一つ越えて輕井澤となれば國も上野が信濃となり管轄縣廳も群馬が長野と變るだけありて寒さは十度も強しといふ前は碓氷後は淺間の底冷に峠で流せし汗冷たく身輕を旨の旅出立わな〳〵震ふばかりなり宿の女子心得て二階座敷の居爐裡に火を澤山入れながら夏の凉しき事を誇る蚊が出ぬとて西洋人が避暑に來るとて夫れが今の寒さを凌ぐ足にはならず早く酒を持ち來たれ。畏まりぬと答へばかりよくして中々持ち來らず飢もし渇もしたるなり先づ冷にてよし酒だけをと頼めど持來らず徳利などに入るゝに及ばず有合す碗石五器にも汲み來れと急きてもいつかな持ち來らず四人爐を圍みて只風雅の骨髓に徹するを歎ずるのみ夜風いよ〳〵冷かなりトばかり有りて頓て膳部を繰り出し來りぬ續いて目方八百五十目といふ老鷄しかも雄にて齒に乘らざる豪傑鍋も現はれぬ是等の支度をせんには二時三時間經ちしも無理ならず斯く膳部取揃はぬに酒を出すは禮法に背くものと心得たる朴實これまた風雅の骨なり兎も角も有合せもので先づ御酒をと云ふは江戸臭くして却つて興味なし諸事旅は此事よと稱して箸を下すに味ひ頗ぶる佳し勞れを忘れて汲みかはせしが初日ゆゑか人々身体に異常をおぼえて一徳利と極めし數にも足らで盃を收めたり夜具も清くして取扱ひ丁寧なり寐衣とて袷を出したれど我はフラネルの單衣あればこれにて寐んと一枚を戻せしにいかに惡くは聞取りけん此袷汚しと退けしと思ひ忽ち持ち行きて換へ來りしを見れば今仕立しと見ゆる八丈絹の小袖なり返せしは左る心にてはなし是が寐心よければ別に寐衣に及ばずと云しなりと詫てまた戻せしが是にても客を大切と思ふ志しは知られたり然らば寐らんと蒲團に潛り今日道々の景色に 行く春を追ふて木曾路の櫻かな など考ふるに眼はさえて今宵は草臥に紀行も書ざりしが明日の泊りは早くして必らず二日分認むべし四人別々に書く紀行拙者も貴公も同案にては可笑からずハテ甘く書きたいもの何ぞ名案名趣向名句もせめて一二句は彼も斯して是もまたカウ〳〵グウ〳〵鼾の音偖よく人は睡らるゝよ障子を洩りて領に入る淺間の山の雪おろし弓なりに寐るつる屋の二階是等も何ぞの取合せと思ふ折しも下屋賑はしく馬士人足の醉ひたるならん祭文やら義太夫やら分らぬものを濁聲上げ其の合の手には飮ませじと云ふ酒を今ま一合注げ二合温めよと怒りつ狂ひつどしめくなり醉ての上の有樣は彼も此もかはりはなし耻べきかな醉狂愼むべきかな暴飮 泥まみれこれが櫻の葩か 降りつゞく雨明日の空までの事を思へば水の流れもまた雨と枕に傳へて詫し夜はおそく明けぬ今日は輕井澤より越後直江津まで通る信越鐵道とかいふ鐵道に乘り追分驛の先小田井といふまで至らんと朝立出れば此ほとりは淺間の麓の廣野にて停車塲まで行く間灰の如き土にて草も短かし四方の山々に雉子鶯の聲野には雲雀の所得顏なる耳も目も榮耀を極めぬしかし芭蕉翁に「雲雀啼く中の拍子や雉子の聲」と先に出られたれば一句もなし 第四囘 朝靄山の腰をめぐりて高くあがらず淺間が嶽に殘る雪旭の光にきらめきたり滊車の走るに兩側を眺むる目いそがはし丘を堀割し跡にわずかに生出し躑躅岩にしがみ付て花二つ三つ削落せし如き巖の上に小松四五本立り其下に流るゝ水雪の解けて落るにや流早く石に礙られてまた元の雪と散るを面白しと云もきらぬうち雜木茂る林に入る林を出ればまた曠野にて燒石昔し噴出せしまゝなり開墾せんにも二三尺までは灰の如き土にて何も作りがたしとぞ此所は輕井澤より沓掛追分小田井の三宿の間なり四里程なれば忽ち小田井に着きて滊車を下りしが下りてグルリと𢌞つて見ると方角さらに分らずいづれが行先歸る道と評議する顏を見て通りかゝりし學校教員らしき人御代田へは斯う參られよと深切なり御代田とは小田井が改名せしなり一禮して其の如くに行く此ほとりの林の中に櫻咲き野にはシドメの色を飾り畑道は菫蒲公英田には蓮花艸紅きものを敷きつめたるやうなり 足元を花に氣遣へば揚雲雀 宿は永くまばらに續きたり此を過て岩村田までまだ四方の山遠く氣も廣々と田地開けたり岩村田よりやゝ山近くなり坂道もあり此にていづれも足取重げなれば車を雇はんとせしが其の相談のうちに宿を出はなれたり梅花道人いかにしてか後れて到らず偖こそ弱りて跡へ殘りしならん足は長けれど役には立ず長足道怖し馬乘らぬとは此事だと無理を云ふうちオイ〳〵諸君の荷物を此方へ出したり宜しい諸事僕が心得た先の宿で待つよと跡より驅來りて梅花道人手輕く三人の荷を取りて一まとめにするゆゑ是はいかにと怪しむ跡より鹽灘への歸り車とて一挺來るこれ道人が一行に一足後れて密に一里半の丁塲をわずか六錢に掛合此の拔掛は企てしなり昨日碓氷の働きと云ひ今ま此の素早さに三人の旅通先を取られて後生畏るべしと舌を吐くうち下り方のよき道なれば失敬と振り𢌞す帽子は忽ち森の陰となりぬ畜生侮ツて一番やられたよし左らば車が早きか我々の脛が達者か競爭を試みんと口には云しが汗のみ流れて足は重し平塚村といふに小高き森ありてよき松の樹多し四方晴れて風冷しきに此の丘に上れば雌松雄松が一になりし相生あり珍しき事かなと馬を曳きて通る男に聞けば女夫松とて名高きものなりといふ丘の上に便々館湖鯉鮒の狂詠を彫りし碑あり業平も如何したとかいふヘボ歌ゆゑ記臆をすべり落ぬ辷る赤土に下駄を腰の臺としてしばらく景色を眺め此丘一つ我物ならば此に讀書の室を築き松風蘿月を侶として澄し込んものと又しても出來ぬ相談を始め勝地に到れば住んことを望み佳景にあへば一句してやらんと思ふ此等みな酒屋の前に涎を垂し鰻屋の臭に指を啣へる類なり慾で滿ちたる人間とて何につけても夫が出るには愛想が盡る人生居止を營む竟に何人の爲に卜するぞや眺望があつて清潔な所を拙者が家だと思へば宜いハテ百年住み遂げる人は無いわサト痩我慢の悟りを開き此所の新築見合せとし田へ引く流に口を漱ぎ冗語を勞れの忘れ草笑聲を伽の野は長く駒の形付たる石ありといふ駒形明神の坂も過ぎ鹽灘へこそ着にけれ 第五囘 鹽灘にて早けれど晝餉したゝむ空暗く雲重ければいさゝか雨を氣遣ふ虚に付け入り車に乘れと勸む八幡の先に瓜生峠とてあり其麓までと極めて四挺の車を走らす此邊の車には眞棒に金輪をつけ走るとき鳴り響きて人を避けさするやうにして有り四挺の車に八の金輪リン〳〵カチヤ〳〵硝子屋が夕立に急ぐやうなり鹽灘の宿を出はづれの阪道に瀧あり明神の杜心地も清しく茂りたり瀧の流に水車を仕掛流の末には杜若など咲き躑躅盛りなりわづかの處なれど風景よし笠翁の詩に山民習得て一身慵し間に茅龕に臥し倦て松に倚る却て辛勤を把て澗水に貽る曉夜を分たず人に代つて舂くとあるも此等のおもかげかしばしと立寄りたれど車なれば用捨なく駈け下る下れば即ち筑摩川にて水淺けれど勇ましく清く流れて川巾は隅田川ほどあり船橋掛る半渡りて四方を見れば山々雨を含みて雲暗く水の響き凄じ斯る折名乘りも出よ時鳥 驀地馬乘り入れん夏の川 筑摩川春ゆく水はすみにけり消て幾日の峯の白雪とは順徳院の御製とか大なる石の上にて女衣を濯ふ波に捲き取れずやと氣遣る向の岸の方に此川へ流れ入る流に水車を仕掛あり其下はよどみて水深げに青みたるに鵞鳥の四五羽遊ぶさながら繪なり八幡を過ぎ金山阪下にて車は止る瓜生峠を越ゆるに四歳ばかりの女子父に手を引かれて峠を下る身はならはしの者なるかな角摩川といふを渡りて望月の宿に入るよき家並にていづれも金持らし此は望月の駒と歌にも詠まるゝ牧の有し所にて宿の名も今は本牧と記しあり。宿を通して市の中に清き流れありてこれを飮用にも洗ひ物にも使ふごとし水切にて五六丁も遠き井戸に汲に出る者これを見ばいかに羨しからん是より雁とり峠といふを越ゆ峠らしくなく眺望よき阪なりいばら阪といふとか道々清き流を手に掬びては咽喉を濕す人々戯れて休まんとする時には「ドウダ一杯やらうか」といふ此の一杯やらうが一丁ごとぐらゐになると餘程勞れたるなり蘆田の宿より先に未だ峠あり石荒阪といふ名の如く石荒の急阪にて今までのうち第一等の難所なり阪の上へ到れば平なる所半丁ほどありて草がくれの水手に掬ぶほども流れず下りて一丁ほど行けば此の水山の滴りを合せて小流れとなる下るまた一二丁流は石に觸れて音あり又下る三四丁流れは岩に激して雪を散らす下ること又四五丁川となりて水聲雷の如し坂を下り終れば川巾廣く穩かに流れて左右の岸には山吹咲き亂れ鳥うたひ魚躍るはじめは道端のヒヨロ〳〵流れ末は四面の田地に灌ぐ河となる岩間洩る滴りも合する時は斯の如し小善とて嫌ふなかれ積めば則ち大善人小惡とて許なかれ積めば即ち大惡人富は屋を潤し徳は身を潤す富は少しき費を省き少しき利を集めたるなり集りて富となれば屋を潤すばかりでなく人を潤し業を興す流れの及ぶところ皆な潤す徳は少しの善行を重ねたるなり其功徳身を潤すに止まらず人をして知ず〳〵の間に善に導き逢ふ所觸るゝところ皆な徳に潤はざるなし學問もまた斯の如し今日一事を知り明日また一事を知る集りて大知識大學者とはなるなり現に今ま此の水を見る自ら省みて感深し草を藉いてしばらく川に對す 第六囘 石荒坂を過ぎ曲折して平地に出れば即ち長久保なり宿の家並よく車多し石荒坂にて下駄黨も草鞋派も閉口したれば此より車に乘る此邊平地とは云へ三方山にて圍ひ一方は和田峠に向ツて進むなれば岩大石ゴロタ石或ひは上り或は下る坂とまでならねど凸凹多く乘る者は難儀なれど挽夫は躍るもガタツクも物とはせず風の如くに飛び行けば心づもりより時は早く午後三時半和田へ着し緑川といへる高大なる寒げなる家へ泊りたり和田峠は中仙道第一の高山また絶所難塲なりと聞けば窓押し開けて雲深き方をグツト睨み置き偖風呂に入りて銘々一閑張の机を借り受け駄洒中止紀行に取りかゝる宿の人此体を見て不審がる二時間ほどにして露伴子先づ筆を收めたれば酒肴見立掛り膳部申付役となる火の熾んなる圍爐裏に足踏伸し鉛筆の後にて寶丹と烟草の吹壳をソクイに練り交ぜながら下物は有るやと問ふ宿の女なしと淡泊無味に答ふデモ此邊の川で取れる岩魚か何かあらうと押し返せば一遍聞合せて見ませうと立つ我々紀行並びに手紙等を書終り偖いかに酒は來りしや大膳太夫殿と云へば露伴子ヂレ込み先刻聞合せると云たばかりに沙汰なしとは酷い奴だと烈しく手を叩けば緩やかに出來る肴はといきまけばまだ聞に行た者が歸りませんと落付たり露伴堪へず其は何處まで聞にやりしぞ一時間も掛るにまだ戻らぬかと詞を荒くすれば川へ聞きにやりましたまだ戻りませんと答ふ我輩不思議に思ひ傍らより口を出し川へ聞にやるとは如何なる事ぢやと問へば川へ魚を捕りに出し者あるべければ河原へ行き其の漁者について魚は有るや否やを問ふにて魚屋とて別にそれを貯へて賣る處はなしとの事に一同アツト顏を見合し暮て河原に漁者を尋ね尋ね當て魚の有りや無しやを問ひそれを我等に報じて而して後に調理にかゝられては一日二日の滯留にては味ふこと難かるべし肴の儀は取消しとすべし急ぎ膳をと頼めば頓て持ち來る膳部の外に摺芋に鷄卵を掛けたるを下物として酒を持ち來り是は明日峠を目出度越え玉はんことを祝ぎたてまつるなり味なしとて許されて志しばかりを汲ませ玉へやといふ先に家の大なるに合せ奮發したる茶代の高此に至ツて光を放ちぬ併しながら此家は夫是の事に拘はらず山を祝ふて酒を勸むるが例なりと質朴にしてまた禮ありと稱へ皆な快く汲む終りて梅花道人は足の勞れ甚だしければ按摩を取らんとて呼いろ〳〵弄りて果は露伴子も揉ませながら按摩に年を探らするも可笑しく我はこれを聞つゝ先に枕に就く 雨を呼ぶ蛙よ明日は和田峠 降らぬやうに祈るぞと云しが山下しの風の音雨と聞なされて覺ること度々なり果して夜半に雨來る彼方に寐がへり此方に寐がへり明日此に滯留とならば我先づ河原へ出て漁者を尋ねんなど思ひ續くるうち夜は明けしが嬉しや雨も止みぬ馬二頭曳き來り二方荒神といふものに二人づゝ乘すといふ繪に見話には聞しが自ら乘るは珍しく勇み乘りて立ち出れば雨の名殘の樹々の露領に冷たく宿を離るれば直に山にて溪の流れも水嵩まして音高く昨夜の雲はまだ山と別れず朝嵐身にこたへて寒し 第七囘 身輕手輕と夫ばかりを專にしたる旅出立なれば二方荒神の中に縮まりてまだ雨を持つ雲の中に上る太華山人其の寒さを察し袷羽織を貸さる我が羽織の上へ重ね被ても大きければ向ふ山風に吹き孕みて恰かも母衣の如し後の馬の露伴梅花の兩子いろ〳〵に見立て嘲み笑ふ此は信濃の山中なり見惡しとて寒さにかへられんや左云ふ君等の顏の色を見よと詞戰かひ洒落も凍りて可笑しきは出ず峯には櫻溪には山吹唐松の芽出の緑鶯のをり〳〵ほのめかすなど取あつめたる景色旅の嬉しさ是なりと語りかはして 山響き谷こたへて後しづかなり雉子の聲 と無理を吐く羊膓たる阪路進むが如くまた退るが如し馬をしばしと止めて元來し方を顧みれば淺間の山はすでに下に見られて其身は白雲の上にあり昨日此山を見て一睨みして置きしが今日は昨日宿りし處を見んとして見えず何となく氣壯んになりて身に膓胃ある事を忘れたり此山路秋は左こそと青葉を紅に默想し雪はいかにと又萬山を枯し盡して忽ち突兀天際に聳ゆる銀の山を瞑思すつひに身ある事を忘れたり澤を傳ひ峯に上る隨分峻しき峠なれど馬にまかせて嶮しき事を知らず東もち屋村といふは峠の上にして人家四五軒あり名物の餡餅あり此にて馬を下り圍爐裏の火に龜みし手足を温めながら其名物を試む梅花道人物喰に於て豪傑の稱あり此にてもまた人々に推尊せられて二盆の外我分までを啖ひ盡すやがて此を出で是より下りなればとて例の鐵脚を踏み轟かす道人餡餅腹に入りて重量を増したるにや兎角に後に下る露伴子は昨年此道中をせしとて甚だ通なり甞て出立の時に曰く木曾海道美人に乏し和田峠西もちや村の餅屋に一人また洗馬に一人あり洗馬のは予未だ其比を見ざる眞に絶世の美人なり餅屋のはこれに亞ぐと物覺え惡き一行なれど是は皆々領裏にでも書留て置きしやよく覺えて夫となく此より荷物を包み直し領掻き合せ蝙蝠傘に薄日を厭ふ峠の上の平坦なるを過ぎて下り口に至りて西の方を一望すれば眼界新たに曠て昨日までの景色と異なり群山皆な雌伏此の峠の外に山と仰ぐべきなし何か自分が此山になつたやうな氣持にて傲然としてまた一睨みす下りは元は急にて上りより難儀なりしを御巡幸の節道を直し今は行人安樂なりといふ左れど尚ほ屈曲の險坂幾段なるや知らず古しへの險阻おもふべきなり下り終らんとする所即ち西もちや村なり此は人家十餘軒ありて宿屋の前に女ども出てお休みな〳〵と客を呼ぶスハヤ尤物は此中に在るぞと三人鵜の目鷹の目見つけなば其所に入らんとする樣子なり我は元より冷然として先に進み道のかたへの菫蕗の薹蒲公英茅花など此に殘の春あるを賞して騷しき方は見もかへらず三人跡より喘ぎ來りて無し〳〵影もなし大かたは此邊の貴家豪族が選び取て東京紳士の眞似をなし贋雪舟と共に床の間にあがめ置くなるべし憎むべし〳〵といふ 呼子鳥おぼつかないで尚床し 日も温かに鳥の聲も麗かなりぶらり〳〵と語りながら行くに足は勞れたり諏訪の湖水はまだ見えずや晝も近きにと云うち下の諏訪と記したる所に出たり旅宿もあり此ならんと思へばこれは出村にてまだ一里といふ 第八囘 旅にて聞くを厭ふ詞二つまだと餘なり初日碓氷にて勞れしとき舊道へ入るの道の標を見るに輕井澤まで二里餘とあり喘ぎ〳〵上りてやがて二里餘も來らんと思ふに輕井澤は見えず孤屋の婆に聞けば是からまだ二里なりといふ一行落膽し偖は是程に草臥て餘だけしか來らざりしかと泣かぬばかりに驚きたり是より道を問ひて餘の字を付加へらるゝ時はスハヤと足を擦りたり又まだと云は頓て其處ならんと思ふて問ふとき付加へられて力を落す詞なり和田峠の上りは馬に乘りたれば野々宮高砂なりしが下りは侮りて遊び〳〵歩きたる爲め三里に足らぬと聞くに捗取らぬこと不思議なるうへ下口はドカ〳〵と力も足に入る故か空腹甚しく餡餅二盆半の豪傑すら何ぞやらかす物はないかと四方を見𢌞す程なれば我は餘ほど北山やら西山やら知らぬ方角の山吹躑躅見るも目のまはる程となりしに曲り下りる坂下に町家ありし事なればしかも下諏訪とありし事なれば嬉しや此ぞと先へ驅けしが心あての龜屋なし立どまりて露伴子に聞けば何でも此を越して夫から諏訪の湖水が見えて夫から下諏訪だ此は云て見ればお前立といふやうなものとの答へまだ付の一里是からの長きこと限りなく山吹を折りて帽子に揷したり蓮華草を摘んだり道草は喰へど腹は脹れず何やら是だけが餘計の道のやうに思はれて小腹も立てば 飛ぶ蝴蝶羽をかはして我を乘せよ とダヽを捏ねるイヨ藤浪由縁之助と聲をかけらるゝにまた取敢ず 術なさに倒るゝまでも菫かな |
広告 この数篇の文章は何人かの人々を論じたものである。いや、それらの人々に対する僕の好悪を示したものである。 この数篇の文章の中に千古の鉄案を求めるのは勿論甚だ危険である。僕は少しも僕の批判の公平を誇らうとは思つてゐない。実際又公平なるものは生憎僕には恵まれてゐない、――と云ふよりも寧ろ恵まれることを潔しとしない美徳である。 この数篇の文章の中に謙譲の精神を求めるのはやはり甚だしい見当違ひである。あらゆる批判の芸術は謙譲の精神と両立しない。就中僕の文章は自負と虚栄心との吸ひ上げポンプである。 この数篇の文章の中に軽佻の態度を求めるのは最も無理解の甚だしいものである。僕は締切り日に間に合ふやうに、匆忙とペンを動かさなければならぬ。かう云ふ事情の下にありながら、しかも軽佻に振舞ひ得るものは大力量の人のあるばかりである。 この数篇の文章は僕の好悪を示す以外に、殆ど取り柄のないものである。唯僕は僕の好悪を出来るだけ正直に示さうとした。もし取り柄に近いものを挙げれば、この自ら偽るの陋を敢てしなかつたことばかりである。 晋書礼記は「正月元会、自獣樽を殿庭に設け、樽蓋上に白獣を施し、若し能く直言を献ずる者あらば、この樽を発して酒を」飲ましめたことを語つてゐる。僕はこの数篇の文章の中に直言即ち僻見を献じた。誰か僕の為に自獣樽を発し一杓の酒を賜ふものはないか? 少くとも僕の僻見に左袒し、僻見の権威を樹立する為に一臂の力を仮すものはないか? 斎藤茂吉 斎藤茂吉を論ずるのは手軽に出来る芸当ではない。少くとも僕には余人よりも手軽に出来る芸当ではない。なぜと云へば斎藤茂吉は僕の心の一角にいつか根を下してゐるからである。僕は高等学校の生徒だつた頃に偶然「赤光」の初版を読んだ。「赤光」は見る見る僕の前へ新らしい世界を顕出した。爾来僕は茂吉と共におたまじやくしの命を愛し、浅茅の原のそよぎを愛し、青山墓地を愛し、三宅坂を愛し、午後の電燈の光を愛し、女の手の甲の静脈を愛した。かう云ふ茂吉を冷静に見るのは僕自身を冷静に見ることである。僕自身を冷静に見ることは、――いや、僕は他見を許さぬ日記をつけてゐる時さへ、必ず第三者を予想した虚栄心を抱かずにはゐられぬものである。到底行路の人を見るやうに僕自身を見ることなどの出来る筈はない。 僕の詩歌に対する眼は誰のお世話になつたのでもない。斎藤茂吉にあけて貰つたのである。もう今では十数年以前、戸山の原に近い借家の二階に「赤光」の一巻を読まなかつたとすれば、僕は未だに耳木兎のやうに、大いなる詩歌の日の光をかい間見ることさへ出来なかつたであらう。ハイネ、ヴエルレエン、ホイツトマン、――さう云ふ紅毛の詩人の詩を手あたり次第読んだのもその頃である。が、僕の語学の素養は彼等の内陣へ踏み入るには勿論浅薄を免れなかつた。のみならず僕に上田敏と厨川白村とを一丸にした語学の素養を与へたとしても、果して彼等の血肉を啖ひ得たかどうかは疑問である。(僕は今もなほ彼等の詩の音楽的効果を理解出来ない。稀に理解したと思ふのさへ、指を折つて見れば十行位である。)この故に当時彼等の詩を全然読まずにゐたとしても、必しも後悔はしなかつたであらう。けれども万一何かの機会に「赤光」の一巻をも読まなかつたとすれば、――これも実は考へて見れば、案外後悔はしなかつたかも知れない。その代りに幸福なる批評家のやうに、彼自身の色盲には頓着せず、「歌は到底文壇の中心的勢力にはなり得ない」などと高を括つてゐたことは確かである。 且又茂吉は詩歌に対する眼をあけてくれたばかりではない。あらゆる文芸上の形式美に対する眼をあける手伝ひもしてくれたのである。眼を?――或は耳をとも云はれぬことはない。僕はこの耳を得なかつたとすれば、「無精さやかき起されし春の雨」の音にも無関心に通り過ぎたであらう。が、差当り恩になつたものは眼でも耳でも差支へない。兎に角僕は現在でもこの眼に万葉集を見てゐるのである。この眼に猿蓑を見てゐるのである。この眼に「赤光」や「あら玉」を、――もし正直に云ひ放せば、この眼に「赤光」や「あら玉」の中の幾首かの悪歌をも見てゐるのである。 斎藤茂吉を論ずるのは上に述べた理由により、少くとも僕には余人よりも手軽に出来る芸当ではない。且又茂吉の歌の価値を論じ、歌壇に対する功罪を論じ、短歌史上の位置を論ずるのはをのづから人のゐる筈である。(たとひ今はゐないにしろ、百年の後には一人位、必ず茂吉を賛美するか、或は茂吉を罵殺するか、どの道真剣に「赤光」の作者を相手どるものの出る筈である。)かたがた厳然たる客観の舞台に斎藤茂吉を眺めることは少時他日に譲らなければならぬ。僕の此処に論じたいのは何故に茂吉は後輩たる僕の精神的自叙伝を左右したか、何故に僕は歌人たる茂吉に芸術上の導者を発見したか、何故に僕等は知らず識らずのうちに一縷の血脈を相伝したか、――つまり何故に当時の僕は茂吉を好んだかと云ふことだけである。 けれどもこの「何故に?」も答へるのは問ふのよりも困難である。と云ふ意味は必ずしも答の見つからぬと云ふのではない。寧ろ答の多過ぎるのに茫然たらざるを得ないのである。たとへば天満の紙屋治兵衛に、何故に彼は曾根崎の白人小春を愛したかと尋ねて見るが好い。治兵衛は忽ち算盤を片手に、髪が好いとか眼が好いとか或は又手足の優しいのが好いとか、いろいろの特色を並べ立てるであらう。僕の茂吉に於けるのもやはりこの例と同じことである。茂吉の特色を説明し出せば、それだけでも数頁に及ぶかも知れない。茂吉は「おひろ」の連作に善男子の恋愛を歌つてゐる。「死にたまふ母」の連作に娑婆界の生滅を語つてゐる。「口ぶえ」の連作に何ものをも避けぬ取材の大胆を誇つてゐる。「乾草」の連作に未だ嘗なかつた感覚の雋鋭を弄んでゐる。「この里に大山大将住むゆゑにわれの心のうれしかりけり」におほどかなる可笑しみを伝へてゐる。「くろぐろと円らに熟るる豆柿に小鳥はゆきぬつゆじもはふり」に素朴なる画趣を想はせてゐる。「かうかう」「しんしん」の Onomatope に新しい息吹きを吹きこんでゐる。「父母所生」「海此岸」の仏語に生なましい紅血を通はせてゐる。…… かう云ふ特色は多少にもせよ、一一「何故に?」に答へるものである。が、その全部を数へ尽したにしろ、完全には「何故に?」に答へられぬものである。成程小春の眼や髪はそれぞれ特色を具へてゐるであらう。しかし治兵衛の愛するのは小春と云ふ一人の女人である。眼や髪の特色を具へてゐるのも実は小春と云ふ一人の女人を現してゐるからに外ならぬ。すると小春なるものを掴まへない以上、完全に「何故に?」と答へることは到底出来る筈のものではない。その又小春なるものを掴まへることは、――治兵衛自身も掴まへたかどうかは勿論千古の疑問である。少くとも格別掴まへた結果を文章に作りなどはしなかつたらしい。けれども僕は僕の好んだ茂吉なるものを掴まへた上、一篇の文章を作らなければならぬ。たとひはつきり掴まへることは人間業には及ばないにもしろ、兎に角義理にも一応は眼鼻だけを明らかにした上、寄稿の約束を果さなければならぬ。この故に僕はもう一度あり余る茂吉の特色の中へ、「何故に?」と同じ問を投げつけるのである。 「光は東方より来たる」さうである。しかし近代の日本には生憎この言葉は通用しない。少くとも芸術に関する限りは屡西方より来てゐるやうである。芸術――と大袈裟に云はないでも好い。文芸だけを考へて見ても、近代の日本は見渡す限り大抵近代の西洋の恩恵を蒙つてゐるやうである。或は近代の西洋の模倣を試みてゐるやうである。尤も模倣などと放言すると、忽ち非難を蒙るかも知れない。現に「模倣に長じた」と云ふ言葉は日本国民に冠らせる悪名の代りに使はれてゐる。しかし何ぴとも模倣する為には模倣する本ものを理解しなければならぬ。たとひ深浅の差はあるにしろ、兎に角本ものを理解しなければならぬ。その理解の浅い例は所謂猿の人真似である。(善良なる猿は人間の所業に深い理解を持つた日には二度と人真似などはしないかも知れない。)その理解の深い例は芸術の士のする模倣である。即ち模倣の善悪は模倣そのものにあるのではない。理解の深浅にある筈である。よし又浅い理解にもせよ、無理解には勝ると云はなければならぬ。猿の孔雀や大蛇よりも進化の梯子の上段に悠悠と腰を下してゐるのは明らかにこの事実を教へるものである。「模倣に長じた」と云ふ言葉は必しも我我日本人の面目に関はる形容ではない。 芸術上の模倣は上に述べた通り、深い理解に根ざしてゐる。況やこの理解の透徹した時は、模倣はもう殆ど模倣ではない。たとへば今は古典になつた国木田独歩の「正直者」はモオパスサンの模倣である。が、「正直者」を模倣と呼ぶのはナポレオンの事業をアレキサンダアの事業の模倣と呼ぶのと変りはない。成程独歩は人生をモオパスサンのやうに見たであらう。しかしそれは独歩自身もモオパスサンになつてゐた為である。或は独歩自身の中に微妙なる独歩モオパスサン組合の成立してゐた為である。更に又警句を弄すれば、人生も亦モオパスサンを模倣してゐた為と云はれぬことはない。「人生は芸術を模倣す」と云ふ、名高いワイルドのアフオリズムはこの間の消息を語るものである。人生?――自然でも勿論差支へない。ワイルドは印象派の生まれぬ前にはロンドンの市街に立ち罩める、美しい鳶色の霧などは存在しなかつたと云つてゐる。青あをと燃え輝いた糸杉もやはりゴツホの生まれぬ前には存在しなかつたのに違ひない。少くとも水水しい耳隠しのかげに薄赤い頬を光らせた少女の銀座通りを歩み出したのは確かにルノアルの生まれた後、――つひ近頃の出来事である。 便宜上もう一度繰り返せば、芸術上の理解の透徹した時には、模倣はもう殆ど模倣ではない。寧ろ自他の融合から自然と花の咲いた創造である。模倣の痕跡を尋ねれば、如何なる古今の作品と雖も、全然新しいと云ふものはない。が、又独自性の地盤を尋ねれば、如何なる古今の作品と雖も、全然古いと云ふものはない。「正直者」は上に述べた通り、独歩モオパスサン組合の製品である。と云ふのは何も署名だけは独歩であると云ふのではない。全篇に独歩の独自性をにじませてゐると云ふのである。すると独歩の見た人生は必しもモオパスサンを模倣することに終始してゐた訳ではない。これはワイルド自身にしても、人生の芸術を模倣する程度を厳密に規定はしなかつた筈である。実際又自然や人生はワイルドのアフオリズムを応用すれば、甚だ不正確に複製した三色版と云はなければならぬ。就中銀座街頭の少女などは最も拙劣なる三色版である。 近代の日本の文芸は横に西洋を模倣しながら、竪には日本の土に根ざした独自性の表現に志してゐる。苟くも日本に生を享けた限り、斎藤茂吉も亦この例に洩れない。いや、茂吉はこの両面を最高度に具へた歌人である。正岡子規の「竹の里歌」に発した「アララギ」の伝統を知つてゐるものは、「アララギ」同人の一人たる茂吉の日本人気質をも疑はないであらう。茂吉は「吾等の脈管の中には、祖先の血がリズムを打つて流れてゐる。祖先が想に堪へずして吐露した詞語が、祖先の分身たる吾等に親しくないとは吾等にとつて虚偽である。おもふに汝にとつても虚偽であるに相違ない」と天下に呼号する日本人である。しかしさう云ふ日本人の中にも、時には如何にありありと万里の海彼にゐる先達たちの面影に立つて来ることであらう。 あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり 野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも ゴツホの太陽は幾たびか日本の画家のカンヴアスを照らした。しかし「一本道」の連作ほど、沈痛なる風景を照らしたことは必しも度たびはなかつたであらう。 かぜむかふ欅太樹の日てり葉の青きうづだちしまし見て居り いちめんにふくらみ円き粟畑を潮ふきあげし疾風とほる あかあかと南瓜ころがりゐたりけりむかうの道を農夫はかへる これらの歌に対するのは宛然後期印象派の展覧会の何かを見てゐるやうである。さう云へば人物画もない訳ではない。 狂人のにほひただよふ長廊下まなこみひらき我はあゆめる すき透り低く燃えたる浜の火にはだか童子は潮にぬれて来 のみならずかう云ふ画を描いた画家自身の姿さへ写されてゐる。 ふゆ原に絵をかく男ひとり来て動くけむりをかきはじめたり 幸福なる何人かの詩人たちは或は薔薇を歌ふことに、或はダイナマイトを歌ふことに彼等の西洋を誇つてゐる。が、彼等の西洋を茂吉の西洋に比べて見るが好い。茂吉の西洋はをのづから深処に徹した美に充ちてゐる。これは彼等の西洋のやうに感受性ばかりの産物ではない。正直に自己をつきつめた、痛いたしい魂の産物である。僕は必ずしも上に挙げた歌を茂吉の生涯の絶唱とは云はぬ。しかしその中に磅礴する茂吉の心熱の凄じさを感ぜざるを得ないのは事実である。同時に又さう云ふ熔鉱炉の底に火花を放つた西洋を感ぜざるを得ないのも事実である。 僕は上にかう述べた。「近代の日本の文芸は横に西洋を模倣しながら、竪には日本の土に根ざした独自性の表現に志してゐる。」僕は又上にかう述べた。「茂吉はこの竪横の両面を最高度に具へた歌人である。」茂吉よりも秀歌の多い歌人も広い天下にはあることであらう。しかし「赤光」の作者のやうに、近代の日本の文芸に対する、――少くとも僕の命を托した同時代の日本の文芸に対する象徴的な地位に立つた歌人の一人もゐないことは確かである。歌人?――何も歌人に限つたことではない。二三の例外を除きさへすれば、あらゆる芸術の士の中にも、茂吉ほど時代を象徴したものは一人もゐなかつたと云はなければならぬ。これは単に大歌人たるよりも、もう少し壮大なる何ものかである。もう少し広い人生を震蕩するに足る何ものかである。僕の茂吉を好んだのも畢竟この故ではなかつたのであらうか? あが母の吾を生ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや 菲才なる僕も時々は僕を生んだ母の力を、――近代の日本の「うらわかきかなしき力」を感じてゐる。僕の歌人たる斎藤茂吉に芸術上の導者を発見したのは少しも僕自身には偶然ではない。 岩見重太郎 |
一 もう何年か前、ジェノアの少年で十三になる男の子が、ジェノアからアメリカまでただ一人で母をたずねて行きました。 母親は二年前にアルゼンチンの首府ブエーノスアイレスへ行ったのですが、それは一家がいろいろな不幸にあって、すっかり貧乏になり、たくさんなお金を払わねばならなかったので母は今一度お金持の家に奉公してお金をもうけ一家が暮せるようにしたいがためでありました。 このあわれな母親は十八歳になる子と十一歳になる子とをおいて出かけたのでした。 船は無事で海の上を走りました。 母親はブエーノスアイレスにつくとすぐに夫の兄弟にあたる人の世話でその土地の立派な人の家に働くことになりました。 母親は月に八十リラずつもうけましたが自分は少しも使わないで、三月ごとにたまったお金を故郷へ送りました。 父親も心の正しい人でしたから一生懸命に働いてよい評判をうけるようになりました。父親のただ一つのなぐさめは母親が早くかえってくるのをまつことでした。母親がいない家はまるでからっぽのようにさびしいものでした。ことに小さい方の子は母を慕って毎日泣いていました。 月日は早くもたって一年はすぎました。母親の方からは、身体の工合が少しよくないというみじかい手紙がきたきり、何のたよりもなくなってしまいました。 父親は大変心配して兄弟の所へ二度も手紙を出しましたが何の返事もありませんでした。 そこでイタリイの領事館からたずねてもらいましたが、三月ほどたってから「新聞にも広告してずいぶんたずねましたが見あたりません。」といってきました。 それから幾月かたちました。何のたよりもありません。父親と二人の子供は心配でなりませんでした。わけても小さい方の子は父親にだきついて「お母さんは、お母さんは、」といっていました。 父親は自分がアメリカへいって妻をさがしてこようかと考えました。けれども父親は働かねばなりませんでした。一番年上の子も今ではだんだん働いて手助をしてくれるので、一家にとっては、はなすわけにはゆきませんでした。 親子は毎日悲しい言葉をくりかえしていると、ある晩、小さい子のマルコが、 「お父さん僕をアメリカへやって下さい。おかあさんをたずねてきますから。」 と元気のよい声でいいました。 父親は悲しそうに、頭をふって何の返事もしませんでした、父親は心の中で、「どうして小さい子供を一人で一月もかかるアメリカへやることが出来よう。大人でさえなかなか行けないのに。」と思ったからでした。 けれどもマルコはどうしてもききませんでした。その日も、その次の日も、毎日毎日、父親にすがりついてたのみました。 「どうしてもやって下さい。外の人だって行ったじゃありませんか。一ぺんそこへゆきさえすればおじさんの家をさがします。もしも見つからなかったら領事館をたずねてゆきます。」 こういって父親にせがみました。父親はマルコの勇気にすっかり動かされてしまいました。 父親はこのことを自分の知っているある汽船の船長に話しすると船長はすっかり感心してアルゼンチンの国へ行く三等切符を一枚ただくれました。 そこでいよいよマルコは父親も承知してくれたので旅立つことになりました。父と兄とはふくろにマルコの着物を入れ、マルコのポケットにいくらかのお金を入れ、おじさんの所書をもわたしました。マルコは四月の晴れた晩、船にのりました。 父親は涙を流してマルコにいいました。 「マルコ、孝行の旅だから神様はきっと守って下さるでしょう。勇気を出して行きな、どんな辛いことがあっても。」 マルコは船の甲板に立って帽子をふりながら叫びました。 「お父さん、行ってきますよ。きっと、きっと、……」 青い美しい月の光りが海の上にひろがっていました。 船は美しい故郷の町をはなれました、大きな船の上にはたくさんな人たちが乗りあっていましたがだれ一人として知る人もなく、自分一人小さなふくろの前にうずくまっていました。 マルコの心の中にはいろいろな悲しい考えが浮んできました。そして一番悲しく浮んできたのは――おかあさんが死んでしまったという考えでした。マルコは夜もねむることが出来ませんでした。 でも、ジブラルタルの海峡がすぎた後で、はじめて大西洋を見た時には元気も出てきました。望も出てきました。けれどもそれはしばらくの間でした、自分が一人ぼっちで見知らぬ国へゆくと思うと急に心が苦しくなってきました。 船は白い波がしらをけって進んでゆきました。時々甲板の上へ美しい飛魚がはね上ることもありました。日が波のあちらへおちてゆくと海の面は火のように真赤になりました。 マルコはもはや力も抜けてしまって板の間に身体をのばして死んでいるもののように見えました。大ぜいの人たちも、たいくつそうにぼんやりとしていました。 海と空、空と海、昨日も今日も船は進んでゆきました。 こうして二十七日間つづきました。しかししまいには凉しいいい日がつづきました。マルコは一人のおじいさんと仲よしになりました。それはロムバルディの人で、ロサーリオの町の近くに農夫をしている息子をたずねてアメリカへゆく人でした。 マルコはこのおじいさんにすっかり自分の身の上を話しますと、おじいさんは大変同情して、 「大丈夫だよ。もうじきにおかあさんにあわれますよ。」 といいました。 マルコはこれをきいてたいそう心を丈夫にしました。 そしてマルコは首にかけていた十字のメダルにキスしながら「どうかおかあさんにあわせて下さい。」と祈りました。 出発してから二十七日目、それは美しい五月の朝、汽船はアルゼンチンの首府ブエーノスアイレスの都の岸にひろがっている大きなプラータ河に錨を下ろしました。マルコは気ちがいのようによろこびました。 「かあさんはもうわずかな所にいる。もうしばらくのうちにあえるのだ。ああ自分はアメリカへ来たのだ。」 マルコは小さいふくろを手に持ってボートから波止場に上陸して勇ましく都の方に向って歩きだしました。 一番はじめの街の入口にはいると、マルコは一人の男に、ロスアルテス街へ行くにはどう行けばよいか教えて下さいとたずねました、ちょうどその人はイタリイ人でありましたから、今自分が出てきた街を指しながらていねいに教えてくれました。 マルコはお礼をいって教えてもらった道を急ぎました。 それはせまい真すぐな街でした。道の両側にはひくい白い家がたちならんでいて、街にはたくさんな人や、馬車や、荷車がひっきりなしに通っていました。そしてそこにもここにも色々な色をした大きな旗がひるがえっていて、それには大きな字で汽船の出る広告が書いてありました。 マルコは新しい街にくるたびに、それが自分のさがしている街ではないのかと思いました、また女の人にあうたびにもしや自分の母親でないかしらと思いました。 マルコは一生懸命に歩きました。と、ある十文字になっている街へ出ました。マルコはそのかどをまがってみると、それが自分のたずねているロスアルテス街でありました。おじさんの店は一七五番でした。マルコは夢中になってかけ出しました。そして小さな組糸店にはいりました。これが一七五でした。見ると店には髪の毛の白い眼鏡をかけた女の人がいました。 「何か用でもあるの?」 女はスペイン語でたずねました。 「あの、これはフランセスコメレリの店ではありませんか。」 |
二日の眞夜中――せめて、たゞ夜の明くるばかりをと、一時千秋の思で待つ――三日の午前三時、半ばならんとする時であつた。…… 殆ど、五分置き六分置きに搖返す地震を恐れ、また火を避け、はかなく燒出された人々などが、おもひおもひに、急難、危厄を逃げのびた、四谷見附そと、新公園の内外、幾千萬の群集は、皆苦き睡眠に落ちた。……殘らず眠つたと言つても可い。荷と荷を合せ、ござ、筵を鄰して、外濠を隔てた空の凄じい炎の影に、目の及ぶあたりの人々は、老も若きも、算を亂して、ころ〳〵と成つて、そして萎たやうに皆倒れて居た。 ――言ふまでの事ではあるまい。昨日……大正十二年九月一日午前十一時五十八分に起つた大地震このかた、誰も一睡もしたものはないのであるから。 麹町、番町の火事は、私たち鄰家二三軒が、皆跣足で逃出して、此の片側の平家の屋根から瓦が土煙を揚げて崩るゝ向側を駈拔けて、いくらか危險の少なさうな、四角を曲つた、一方が廣庭を圍んだ黒板塀で、向側が平家の押潰れても、一二尺の距離はあらう、其の黒塀に眞俯向けに取り縋つた。……手のまだ離れない中に、さしわたし一町とは離れない中六番町から黒煙を揚げたのがはじまりである。――同時に、警鐘を亂打した。が、恁くまでの激震に、四谷見附の、高い、あの、火の見の頂邊に活きて人があらうとは思はれない。私たちは、雲の底で、天が摺半鐘を打つ、と思つて戰慄した。――「水が出ない、水道が留まつた」と言ふ聲が、其處に一團に成つて、足と地とともに震へる私たちの耳を貫いた。息つぎに水を求めたが、火の注意に水道の如何を試みた誰かが、早速に警告したのであらう。夢中で誰とも覺えて居ない。其の間近な火は樹に隱れ、棟に伏つて、却つて、斜の空はるかに、一柱の炎が火を捲いて眞直に立つた。續いて、地軸も碎くるかと思ふ凄じい爆音が聞えた。婦たちの、あつと言つて地に領伏したのも少くない。その時、横町を縱に見通しの眞空へ更に黒煙が舞起つて、北東の一天が一寸を餘さず眞暗に代ると、忽ち、どゞどゞどゞどゞどゞと言ふ、陰々たる律を帶びた重く凄い、殆ど形容の出來ない音が響いて、炎の筋を蜿らした可恐い黒雲が、更に煙の中を波がしらの立つ如く、烈風に駈𢌞る!……あゝ迦具土の神の鐵車を驅つて大都會を燒亡す車輪の轟くかと疑はれた。――「あれは何の音でせうか。」――「然やう何の音でせうな。」近鄰の人の分別だけでは足りない。其處に居合はせた禿頭白髯の、見も知らない老紳士に聞く私の聲も震へれば、老紳士の脣の色も、尾花の中に、たとへば、なめくぢの這ふ如く土氣色に變つて居た。 ――前のは砲兵工廠の焚けた時で、續いて、日本橋本町に軒を連ねた藥問屋の藥ぐらが破裂したと知つたのは、五六日も過ぎての事。……當時のもの可恐さは、われ等の乘漾ふ地の底から、火焔を噴くかと疑はれたほどである。 が、銀座、日本橋をはじめ、深川、本所、淺草などの、一時に八ヶ所、九ヶ所、十幾ヶ所から火の手の上つたのに較べれば、山の手は扨て何でもないもののやうである、が、それは後に言ふ事で、……地震とともに燒出した中六番町の火が……いま言つた、三日の眞夜中に及んで、約二十六時間。尚ほ熾に燃えたのであつた。 しかし、其の當時、風は荒かつたが、眞南から吹いたので、聊か身がつてのやうではあるけれども、町内は風上だ。差あたり、火に襲はるゝ懼はない。其處で各自が、かの親不知、子不知の浪を、巖穴へ逃げる状で、衝と入つては颯と出つゝ、勝手許、居室などの火を消して、用心して、それに第一たしなんだのは、足袋と穿もので、驚破、逃出すと言ふ時に、わが家への出入りにも、硝子、瀬戸ものの缺片、折釘で怪我をしない注意であつた。そのうち、隙を見て、縁臺に、薄べりなどを持出した。何が何うあらうとも、今夜は戸外にあかす覺悟して、まだ湯にも水にもありつけないが、吻と息をついた處へ―― 前日みそか、阿波の徳島から出京した、濱野英二さんが駈けつけた。英語の教鞭を取る、神田三崎町の第五中學へ開校式に臨んだが、小使が一人梁に挫がれたのと摺れ違ひに逃出したと言ふのである。 あはれ、此こそ今度の震災のために、人の死を聞いたはじめであつた。――たゞ此にさへ、一同は顏を見合はせた。 内の女中の情で。……敢て女中の情と言ふ。――此の際、臺所から葡萄酒を二罎持出すと言ふに到つては生命がけである。けちに貯へた正宗は臺所へ皆流れた。葡萄酒は安値いのだが、厚意は高價い。たゞし人目がある。大道へ持出して、一杯でもあるまいから、土間へ入つて、框に堆く崩れつんだ壁土の中に、あれを見よ、蕈の生えたやうな瓶から、逃腰で、茶碗で呷つた。言ふべき場合ではないけれども、まことに天の美祿である。家内も一口した。不斷一滴も嗜まない、一軒となりの齒科の白井さんも、白い仕事着のまゝで傾けた。 これを二碗と傾けた鄰家の辻井さんは向う顱卷膚脱ぎの元氣に成つて、「さあ、こい、もう一度搖つて見ろ。」と胸を叩いた。 婦たちは怨んだ。が、結句此がために勢づいて、茣蓙縁臺を引摺り〳〵、とにかく黒塀について、折曲つて、我家々々の向うまで取つて返す事が出來た。 襖障子が縱横に入亂れ、雜式家具の狼藉として、化性の如く、地の震ふたびに立ち跳る、誰も居ない、我が二階家を、狹い町の、正面に熟と見て、塀越のよその立樹を廂に、櫻のわくら葉のぱら〳〵と落ちかゝるにさへ、婦は聲を發て、男はひやりと肝を冷して居るのであつた。が、もの音、人聲さへ定かには聞取れず、たまに駈る自動車の響も、燃え熾る火の音に紛れつゝ、日も雲も次第々々に黄昏れた。地震も、小やみらしいので、風上とは言ひながら、模樣は何うかと、中六の廣通りの市ヶ谷近い十字街へ出て見ると、一度やゝ安心をしただけに、口も利けず、一驚を喫した。 半町ばかり目の前を、火の燃通る状は、眞赤な大川の流るゝやうで、然も凪ぎた風が北に變つて、一旦九段上へ燒け拔けたのが、燃返つて、然も低地から、高臺へ、家々の大巖に激して、逆流して居たのである。 もはや、……少々なりとも荷もつをと、きよと〳〵と引返した。が、僅にたのみなのは、火先が僅ばかり、斜にふれて、下、中、上の番町を、南はづれに、東へ……五番町の方へ燃進む事であつた。 火の雲をかくした櫻の樹立も、黒塀も暗く成つた。舊暦七月二十一日ばかりの宵闇に、覺束ない提灯の灯一つ二つ、婦たちは落人が夜鷹蕎麥の荷に踞んだ形で、溝端で、のどに支へる茶漬を流した。誰ひとり晝食を濟まして居なかつたのである。 火を見るな、火を見るな、で、私たちは、すぐ其の傍の四角に彳んで、突通しに天を浸す炎の波に、人心地もなく醉つて居た。 時々、魔の腕のやうな眞黒な煙が、偉なる拳をかためて、世を打ちひしぐ如くむく〳〵立つ。其處だけ、火が消えかゝり、下火に成るのだらうと、思つたのは空頼みで「あゝ、惡いな、あれが不可え。……火の中へふすぶつた煙の立つのは新しく燃えついたんで……」と通りかゝりの消防夫が言つて通つた―― (――小稿……まだ持出しの荷も解かず、框をすぐの小間で……こゝを草する時…… 「何うしました。」 と、はぎれのいゝ聲を掛けて、水上さんが、格子へ立つた。私は、家内と駈出して、ともに顏を見て手を握つた。――悉い事は預るが、水上さんは、先月三十一日に、鎌倉稻瀬川の別莊に遊んだのである。別莊は潰れた。家族の一人は下敷に成んなすつた。が、無事だつたのである。――途中で出あつたと言つて、吉井勇さんが一所に見えた。これは、四谷に居て無事だつた。が、家の裏の竹藪に蚊帳を釣つて難を避けたのださうである――) ――前のを續ける。…… 其處へ―― 「如何。」 と聲を掛けた一人があつた。……可懷い聲だ、と見ると、弴さんである。 「やあ、御無事で。」 弴さんは、手拭を喧嘩被り、白地の浴衣の尻端折で、いま逃出したと言ふ形だが、手を曳いて……は居なかつた。引添つて、手拭を吉原かぶりで、艷な蹴出しの褄端折をした、前髮のかゝり、鬢のおくれ毛、明眸皓齒の婦人がある。しつかりした、さかり場の女中らしいのが、もう一人後についてゐる。 執筆の都合上、赤坂の某旅館に滯在した、家は一堪りもなく潰れた。――不思議に窓の空所へ橋に掛つた襖を傳つて、上りざまに屋根へ出て、それから山王樣の山へ逃上つたが、其處も火に追はれて逃るゝ途中、おなじ難に逢つて燒出されたため、道傍に落ちて居た、此の美人を拾つて來たのださうである。 正面の二階の障子は紅である。 黒塀の、溝端の茣蓙へ、然も疲れたやうに、ほつと、くの字に膝をついて、婦連がいたはつて汲んで出した、ぬるま湯で、輕く胸をさすつた。その婦の風情は媚かしい。 やがて、合方もなしに、此の落人は、すぐ横町の有島家へ入つた。たゞで通す關所ではないけれど、下六同町内だから大目に見て置く。 次手だから話さう。此と對をなすのは淺草の万ちやんである。お京さんが、圓髷の姉さんかぶりで、三歳のあかちやんを十の字に背中に引背負ひ、たびはだし。万ちやんの方は振分の荷を肩に、わらぢ穿で、雨のやうな火の粉の中を上野をさして落ちて行くと、揉返す群集が、 「似合ひます。」 と湧いた。ひやかしたのではない、まつたく同情を表したので、 「いたはしいナ、畜生。」 と言つたと言ふ――眞個か知らん、いや、嘘でない。此は私の内へ來て(久保勘)と染めた印半纏で、脚絆の片あしを擧げながら、冷酒のいきづきで御當人の直話なのである。 「何うなすつて。」 少時すると、うしろへ悠然として立つた女性があつた。 「あゝ……いまも風説をして、案じて居ました。お住居は澁谷だが、あなたは下町へお出掛けがちだから。」 と私は息をついて言つた、八千代さんが來たのである、四谷坂町の小山内さん(阪地滯在中)の留守見舞に、澁谷から出て來なすつたと言ふ。……御主人の女の弟子が、提灯を持つて連立つた。八千代さんは、一寸薄化粧か何かで、鬢も亂さず、杖を片手に、しやんと、きちんとしたものであつた。 「御主人は?」 「……冷藏庫に、紅茶があるだらう……なんか言つて、呆れつ了ひますわ。」 是は偉い!……畫伯の自若たるにも我折つた。が、御當人の、すまして、これから又澁谷まで火を潛つて歸ると言ふには舌を卷いた。 「雨戸をおしめに成らんと不可ません。些と火の粉が見えて來ました。あれ、屋根の上を飛びます。……あれがお二階へ入りますと、まつたく危うございますで、ございますよ。」 と餘所で……經驗のある、近所の産婆さんが注意をされた。 實は、炎に飽いて、炎に背いて、此の火たとひ家を焚くとも、せめて清しき月出でよ、と祈れるかひに、天の水晶宮の棟は櫻の葉の中に顯はれて、朱を塗つたやうな二階の障子が、いま其の影にやゝ薄れて、凄くも優しい、威あつて、美しい、薄桃色に成ると同時に、中天に聳えた番町小學校の鐵柱の、火柱の如く見えたのさへ、ふと紫にかはつたので、消すに水のない劫火は、月の雫が冷すのであらう。火勢は衰へたやうに思つて、微に慰められて居た處であつたのに―― |
一 元治元年十一月二十六日、京都守護の任に当つてゐた、加州家の同勢は、折からの長州征伐に加はる為、国家老の長大隅守を大将にして、大阪の安治川口から、船を出した。 小頭は、佃久太夫、山岸三十郎の二人で、佃組の船には白幟、山岸組の船には赤幟が立つてゐる。五百石積の金毘羅船が、皆それぞれ、紅白の幟を風にひるがへして、川口を海へのり出した時の景色は、如何にも勇ましいものだつたさうである。 しかし、その船へ乗組んでゐる連中は、中々勇ましがつてゐる所の騒ぎではない。第一どの船にも、一艘に、主従三十四人、船頭四人、併せて三十八人づつ乗組んでゐる。だから、船の中は、皆、身動きも碌に出来ない程狭い。それから又、胴の間には、沢庵漬を鰌桶へつめたのが、足のふみ所もない位、ならべてある。慣れない内は、その臭気を嗅ぐと、誰でもすぐに、吐き気を催した。最後に旧暦の十一月下旬だから、海上を吹いて来る風が、まるで身を切るやうに冷い。殊に日が暮れてからは、摩耶颪なり水の上なり、流石に北国生れの若侍も、多くは歯の根が合はないと云ふ始末であつた。 その上、船の中には、虱が沢山ゐた。それも、着物の縫目にかくれてゐるなどと云ふ、生やさしい虱ではない。帆にもたかつてゐる。幟にもたかつてゐる。檣にもたかつてゐる。錨にもたかつてゐる。少し誇張して云へば、人間を乗せる為の船だか、虱を乗せる為の船だか、判然しない位である。勿論その位だから、着物には、何十匹となくたかつてゐる。さうして、それが人肌にさへさはれば、すぐに、いい気になつて、ちくちくやる。それも、五匹や十匹なら、どうにでも、せいとうのしやうがあるが、前にも云つた通り、白胡麻をふり撒いたやうに、沢山ゐるのだから、とても、とりつくすなどと云ふ事が出来る筈のものではない。だから、佃組と山岸組とを問はず、船中にゐる侍と云ふ侍の体は、悉く虱に食はれた痕で、まるで麻疹にでも罹つたやうに、胸と云はず腹と云はず、一面に赤く腫れ上がつてゐた。 しかし、いくら手のつけやうがないと云つても、そのまま打遣つて置くわけには、猶行かない。そこで、船中の連中は、暇さへあれば、虱狩をやつた。上は家老から下は草履取まで、悉く裸になつて、随所にゐる虱をてんでに茶呑茶碗の中へ、取つては入れ、取つては入れするのである。大きな帆に内海の冬の日をうけた金毘羅船の中で、三十何人かの侍が、湯もじ一つに茶呑茶碗を持つて、帆綱の下、錨の陰と、一生懸命に虱ばかり、さがして歩いた時の事を想像すると、今日では誰しも滑稽だと云ふ感じが先に立つが、「必要」の前に、一切の事が真面目になるのは、維新以前と雖も、今と別に変りはない。――そこで、一船の裸侍は、それ自身が大きな虱のやうに、寒いのを我慢して、毎日根気よく、そこここと歩きながら、丹念に板の間の虱ばかりつぶしてゐた。 二 所が佃組の船に、妙な男が一人ゐた。これは森権之進と云ふ中老のつむじ曲りで、身分は七十俵五人扶持の御徒士である。この男だけは不思議に、虱をとらない。とらないから、勿論、何処と云はず、たかつてゐる。髷ぶしへのぼつてゐる奴があるかと思ふと、袴腰のふちを渡つてゐる奴がある。それでも別段、気にかける容子がない。 ではこの男だけ、虱に食はれないのかと云ふと、又さうでもない。やはり外の連中のやうに、体中金銭斑々とでも形容したらよからうと思ふ程、所まだらに赤くなつてゐる。その上、当人がそれを掻いてゐる所を見ると、痒くない訳でもないらしい。が、痒くつても何でも、一向平気で、すましてゐる。 すましてゐるだけなら、まだいいが、外の連中が、せつせと虱狩をしてゐるのを見ると、必わきからこんな事を云ふ。―― 「とるなら、殺し召さるな。殺さずに茶碗へ入れて置けば、わしが貰うて進ぜよう。」 「貰うて、どうさつしやる?」同役の一人が、呆れた顔をして、かう尋ねた。 「貰うてか。貰へばわしが飼うておくまでぢや。」 森は、恬然として答へるのである。 「では殺さずにとつて進ぜよう。」 同役は、冗談だと思つたから、二三人の仲間と一しよに半日がかりで、虱を生きたまま、茶呑茶碗へ二三杯とりためた。この男の腹では、かうして置いて「さあ飼へ」と云つたら、いくら依怙地な森でも、閉口するだらうと思つたからである。 すると、こつちからはまだ何とも云はない内に、森が自分の方から声をかけた。 「とれたかな。とれたらわしが貰うて進ぜよう。」 同役の連中は、皆、驚いた。 「ではここへ入れてくれさつしやい。」 森は平然として、着物の襟をくつろげた。 「痩我慢をして、あとでお困りなさるな。」 同役がかう云つたが、当人は耳にもかけない。そこで一人づつ、持つてゐる茶碗を倒にして、米屋が一合枡で米をはかるやうに、ぞろぞろ虱をその襟元へあけてやると、森は、大事さうに外へこぼれた奴を拾ひながら、 「有難い。これで今夜から暖に眠られるて。」といふ独語を云ひながら、にやにや笑つてゐる。 「虱がゐると、暖うこざるかな。」 呆気にとられてゐた同役は、皆互に顔を見合せながら、誰に尋ねるともなく、かう云つた。すると、森は、虱を入れた後の襟を、丁寧に直しながら、一応、皆の顔を莫迦にしたやうに見まはして、それからこんな事を云ひ出した。 「各々は皆、この頃の寒さで、風をひかれるがな、この権之進はどうぢや。嚔もせぬ。洟もたらさぬ。まして、熱が出たの、手足が冷えるのと云うた覚は、嘗てあるまい。各々はこれを、誰のおかげぢやと思はつしやる。――みんな、この虱のおかげぢや。」 何でも森の説によれば、体に虱がゐると、必ちくちく刺す。刺すからどうしても掻きたくなる。そこで、体中万遍なく刺されると、やはり体中万遍なく掻きたくなる。所が人間と云ふものはよくしたもので、痒い痒いと思つて掻いてゐる中に、自然と掻いた所が、熱を持つたやうに温くなつてくる。そこで温くなつてくれば、睡くなつて来る。睡くなつて来れば、痒いのもわからない。――かう云ふ調子で、虱さへ体に沢山ゐれば、睡つきもいいし、風もひかない。だからどうしても、虱飼ふべし、狩るべからずと云ふのである。…… 「成程、そんなものでこざるかな。」同役の二三人は、森の虱論を聞いて、感心したやうに、かう云つた。 三 それから、その船の中では、森の真似をして、虱を飼ふ連中が出来て来た。この連中も、暇さへあれば、茶呑茶碗を持つて虱を追ひかけてゐる事は、外の仲間と別に変りがない。唯、ちがふのは、その取つた虱を、一々刻銘に懐に入れて、大事に飼つて置く事だけである。 しかし、何処の国、何時の世でも、Précurseur の説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論にの説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論に反対する、Pharisien が大勢ゐた。 中でも筆頭第一の Pharisien は井上典蔵と云ふ御徒士である。これも亦妙な男で、虱をとると必ず皆食つてしまふ。夕がた飯をすませると、茶呑茶碗を前に置いて、うまさうに何かぷつりぷつり噛んでんでゐるから、側へよつて茶碗の中を覗いて見ると、それが皆、とりためた虱である。「どんな味でござる?」と訊くと、「左様さ。油臭い、焼米のやうな味でござらう」と云ふ。虱を口でつぶす者は、何処にでもゐるが、この男はさうではない。全く点心を食ふ気で、毎日虱を食つてゐる。――これが先、第一に森に反対した。 井上のやうに、虱を食ふ人間は、外に一人もゐないが、井上の反対説に加担をする者は可成ゐる。この連中の云ひ分によると、虱がゐたからと云つて、人間の体は決して温まるものではない。それのみならず、孝経にも、身体髪膚之を父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なりとある。自、好んでその身体を、虱如きに食はせるのは、不孝も亦甚しい。だから、どうしても虱狩るべし。飼ふべからずと云ふのである。…… かう云ふ行きがかりで、森の仲間と井上の仲間との間には、時折口論が持上がる。それも、唯、口論位ですんでゐた内は、差支へない。が、とうとう、しまひには、それが素で、思ひもよらない刃傷沙汰さへ、始まるやうな事になつた。 それと云ふのは、或日、森が、又大事に飼はうと思つて、人から貰つた虱を茶碗へ入れてとつて置くと、油断を見すまして井上が、何時の間にかそれを食つてしまつた。森が来て見ると、もう一匹もない。そこで、この Précurseur の説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論にが腹を立てた。 「何故、人の虱を食はしつた。」 張肘をしながら、眼の色を変へて、かうつめよると、井上は、 「自体、虱を飼ふと云ふのが、たはけぢやての。」と、空嘯いて、まるで取合ふけしきがない。 「食ふ方がたはけぢや。」 森は、躍起となつて、板の間をたたきながら、 「これ、この船中に、一人として虱の恩を蒙らぬ者がござるか。その虱を取つて食ふなどとは、恩を仇でかへすのも同前ぢや。」 「身共は、虱の恩を着た覚えなどは、毛頭ござらぬ。」 「いや、たとひ恩を着ぬにもせよ、妄に生類の命を断つなどとは、言語道断でござらう。」 二言三言云ひつのつたと思ふと、森がいきなり眼の色を変へて、蝦鞘巻の柄に手をかけた。勿論、井上も負けてはゐない。すぐに、朱鞘の長物をひきよせて、立上る。――裸で虱をとつてゐた連中が、慌てて両人を取押へなかつたなら、或はどちらか一方の命にも関る所であつた。 |
一 臆病者といふのは、勇氣の無い奴に限るものと思つて居つたのは誤りであつた。人間は無事を希ふの念の強よければ、其の強いだけそれだけ臆病になるものである。人間は誰とて無事を希ふの念の無いものは無い筈であるが、身に多くの係累者を持つた者、殊に手足まとひの幼少者などある身には、更に痛切に無事を願ふの念が強いのである。 一朝禍を蹈むの塲合にあたつて、係累の多い者程、慘害は其慘の甚しいものがあるからであらう。 天災地變の禍害と云ふも、之れが單に財産居住を失ふに止まるか、若くは其身一身を處決して濟むものであるならば、其悲慘は必ずしも慘の極なるものでは無い。一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覺悟したとき、自から振作するの勇氣は、以て笑ひつゝ天災地變に臨むことが出來ると思ふものゝ、絶つに絶たれない係累が多くて見ると、どう考へても事に對する處決は單純を許さない。思慮分別の意識からさうなるのでは無く、自然的な極めて力強い餘儀ないやうな感情に壓せられて勇氣の振ひ作る餘地が無いのである。 宵から降出した大雨は、夜一夜を降通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、さうして有所方面に落ち激つ水の音、只管事なかれと祈る人の心を、有る限りの音聲を以て脅すかの如く、豪雨は夜を徹して鳴り通した。 少しも眠れなかつた如く思はれたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の音聲におびえて居たのだから、固より夢か現かの差別は判らないのである。外は明るくなつて夜は明けて來たけれど、雨は夜の明けたに何の關係も無い如く降り續いて居る。夜を降り通した雨は、又晝を降通すべき氣勢である。 さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅さる。庭一面に漲り込んだ水上に水煙を立てゝ、雨は篠を突いてるのである。庭の飛石は一箇も見えてるのが無いくらゐの水だ。いま五六寸で床に達する高さである。 もう疊を上げた方がよいでせう、と妻や大きい子供等は騷ぐ。牛舍へも水が入りましたと若衆も訴へて來た。 最も臆病に、最も内心に恐れて居つた自分も、側から騷がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風をして、何程増して來た處で溜り水だから高が知れてる。そんなにあわてゝ騷ぐに及ばないと一喝した。さうして其一喝した自分の聲にさへ、實際は恐怖心が搖いだのであつた。雨は益〻降る。一時間に四分五分位づゝ水は高まつて來る。 強烈な平和の希望者は、それでも、今にも雨が靜かになればと思ふ心から、雨聲の高低に注意を拂ふことを、秒時もゆるがせにしては居ない。 不安――恐怖――其の堪へ難い懊惱の苦みを、此の際幾分か紛らかさうには、體躯を運動する外はない。自分は横川天神川の増水如何を見て來ようと我知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供達にも、いざと云ふ時の準備を命じた。それも準備の必要を考へたよりは、彼等に手仕事を授けて、徒らに懊惱することを輕めようと思つた方が多かつた。 干潮の刻限である爲か、河の水は未だ意外に低かつた。水口からは水が隨分盛に落ちて居る。茲で雨さへ歇むなら、心配は無いがなアと、思はず嘆息せざるを得なかつた。 水の溜つてる面積は五六町内に跨つてる程廣いのに、排水の落口といふのは僅に三ヶ所、それが又、皆落口が小さくて、溝は七まがり八まがりと迂曲して居る。水の落ちるのは、干潮の間僅かの時間であるから、雨の強い時には、降つた水の半分も落ちきらぬ内に、上げ汐の刻限になつて終ふ。上げ潮で河水が多少水口から突上る處へ更に雨が強ければ、立ちしか間に此一區劃内に湛へて終ふ。自分は水の心配をする度に、此處の工事をやつた人の、馬鹿々々しきまで實務に不忠實な事を呆れるのである。 大洪水は別として、排水の裝置が實際に適して居るならば、一日や二日の雨の爲に、此町中へ水を湛ふる樣な事は無いのである。人事僅に至らぬ處あるが爲に、幾百千の人が、一通ならぬ苦みをすることを思ふと、斯の如き實務的の仕事に、只形許りの仕事をして平氣な人の不信切を嘆息せぬ譯にゆかないのである。 自分は三ヶ所の水口を檢して家に歸つた。水は三ヶ所へ落ちて居るに係らず、吾庭の水層は少し増して居つた。河の水はどうですかと、家の者から口々に問はるゝにつけても、茲で雨さへ小降りになるなら心配は無いのだがなアと、思はず又嘆息を繰返すのであつた。 一時間に五分位づゝ増してるから、これで見ると床へつくにはまだ十時間ある譯だ。何時でも疊を上げられる用意さへして置けば、住居の方は差當り心配はないとしても、もう捨てゝ置けないのは牛舍だ。尿板の後方へは水がついてるから、牛は一頭も殘らず起つてる。さうして其後足には皆一寸許りづゝ水がついてる。豪雨は牛舍の屋根に鳴音烈しく、一寸した會話が聞取れない。愈〻平和の希望は絶えさうになつた。 人が、自殺した人の苦痛を想像して見るにしても、大抵は自殺其のものゝ悲劇をのみ強く感ずるのであろう。併し自殺者其人の身になつたならば、我と我を殺す其實劇よりは、自殺を覺悟するに至る以前の懊惱が、遙かに自殺其のものよりも苦いので無からうか。自殺の凶器が、目前に横たはつた時は、最早身を殺す恐怖のふるへも靜まつて居るので無からうか。 豪雨の聲は、自分に自殺を強ひてる聲であるのだ。自分は猶自殺の覺悟も定め得ないので、藻掻きに藻掻いて居るのである。 死ぬと極つた病人でも、死ぬまでに猶幾日かの間があるとすれば、其間に處する道を考へねばならぬ。況や一縷の望を掛けて居るものならば、猶更其覺悟の中に用意が無ければならぬ。 何程恐怖絶望の念に懊惱しても、最後の覺悟は必ず相當の時機を待たねばならぬ。 豪雨は今日一日と降りとほして更に今夜も降りとほすものか、或は此の日暮頃にでも歇むものか、若くは今にも歇むものか、一切判らないが、其降止む時刻に依て恐水者の運命は決するのである。いづれにしても明日の事は判らない。判らぬ事には覺悟のしやうもなく策の立て樣も無い。厭でも宙につられて不安状態に居らねばならぬ。 乍併牛の後足に水がついてる。眼前の事實は、最早何を考へてる餘地を與へない。自分はそれに促されて、明日の事は明日になつてからとして、兎も角も今夜一夜を凌ぐ畫策を定めた。 自分は猛雨を冒して材木屋に走つた。同業者の幾人が同じ目的を以て多くの材料を求め走つたと聞いて、自分は更に恐怖心を高めた。 五寸角の土臺數十丁一寸厚の松板幾十枚は時を移さず、牛舍に運ばれた。勿論大工を呼ぶ暇は無い。三人の男共を指揮して、數時間豪雨の音も忘れるまで活動した結果、牛舍には床上更に五寸の假床を造り得た。かくて二十頭の牛は水上五寸の架床上に爭うて安臥するのであつた。燃材の始末、飼料品の片づけ、爲すべき仕事は無際限にあつた。 人間に對する用意は、まづ疊を上げて、襖障子諸財一切の始末を、先年大水の標準に依て、處理し終つた。並の席よりは尺餘床を高くして置いた一室と離屋の茶室の一間とに、家族十人の者は二分して寢に就く事になつた。幼ないもの共は茶室へ寢るのを非常に悦んだ。さうして間もなく無心に眠つて終つた。二人の姉共と彼等の母とは、此の氣味惡い雨の夜に別れ〳〵に寢るのは心細いと云うて、雨を冒し水を渡つて、茶室へやつて來た。 それでも、是れだけの事で濟んでくれゝば有難いが、明日はどうなる事か……取片づけに掛つてから幾度も幾度も云ひ合うた事を又も繰返すのであつた。跡に殘つた子供達に呼び立てられて、母娘は淋しい影を夜の雨に沒して去つた。 遂に其夜も豪雨は降りとほした。實に二夜と一日、三十六時間の豪雨は如何なる結果を來すべきか。翌日は晃々と日が照つた。水は少しづゝ増して居るけれど、牛の足へも未だ水はつかなかつた。避難の二席にも未だ五六寸の餘裕はあつた。新聞紙は諸方面の水害と今後の警戒すべきを特報したけれど、天氣になつたといふ事が、非常に我等を氣強く思はせる。よし河の水が増して來た處で、どうにか凌ぎのつかぬ事は無からうなどゝ考へつゝ、懊惱の頭も大いに輕くなつた。 平和に渇した頭は、到底安ずべからざる處にも、強ひて安居せんとするものである。 二 大雨が晴れてから二日目の午後五時頃であつた。世間は恐怖の色調をおびた騷ぎを以て滿たされた。平生聞ゆるところの都會的音響は殆ど耳に入らないで、浮かとして居れば聞取ることの出來ない、物の底深くに、力強い騷ぎを聞く樣な、人を不安に引入れねば止まない樣な、深酷な騷ぎがそこら一帶の空氣を振蕩して起つた。 天神川も溢れ、竪川も溢れ、横川も溢れ出したのである。平和は根柢から破れて、戰鬪は開始したのだ。最早恐怖も遲疑も無い。進むべき所に進む外、何を顧みる餘地も無くなつた。家族には近い知人の二階屋に避難すべきを命じ置き、自分は若い者三人を叱して乳牛の避難にかゝつた。豫て此所と見定めて置いた、高架鐵道の線路に添うた高地に向つて牛を引き出す手筈である。水深は猶ほ腰に達しない位であるから、敢て困難といふほどではない。 自分は先づ黒白斑の牛と赤牛との二頭を牽出す。彼等無心の毛族も何等か感ずる處あると見え、殘る牛も出る牛も一齊に聲を限りと叫び出した。其の騷々しさは又自から牽手の心を興奮させる。自分は二頭の牝牛を引いて門を出た。腹部まで水に浸されて引出された乳牛は、どうされると思ふのか、右往左往と狂ひ廻る。固より溝も道路も判らぬのである。忽ち一頭は溝に落ちて益〻狂ひ出す。一頭はひた走りに先に進む。自分は二頭の手繩を採つて、殆ど制馭の道を失つた。さうして自分も乳牛に引かるゝ勢に驅られて溝へはまつた。水を全身に浴みて終つた。若い者共も二頭三頭と次々引出して來る。 人畜を擧げて避難する場合に臨んでも、猶濡るゝを恐れて居つた卑怯者も、一度溝にはまつて全身水に漬つては戰士が傷ついて血を見たにも等しいものか、茲に始めて精神の興奮絶頂に達し、猛然たる勇氣は四肢の節々に振動した。二頭の乳牛を兩腕の下に引据ゑ、奔流を蹴破つて目的地に進んだ。斯の如く二回三回數時間の後全く乳牛の避難を終へ、翌日一日分の飼料をも用意し得た。 水層は愈高く、四ツ目より太平町に至る拾五間幅の道路は、深さ五尺に近く、濁流奔放舟を以て渡るも困難を感ずる位である。高架線の上に立つて、逃げ捨てた我が家を見れば、水上に屋根許りを見得るのであつた。 水を恐れて雨に懊惱した時は、未だ直接に水に觸れなかつたのだ。それで水が恐ろしかつたのだ。濁水を冒して乳牛を引出し、身も其濁水に沒入しては最早水との爭鬪である。奮鬪は目的を遂げて、牛は思ふまゝに避難し得た。第一戰に勝利を得た心地である。 洪水の襲撃を受けて、失ふところの大なるを悵恨するよりは、一方のかこみを打破つた奮鬪の勇氣に快味を覺ゆる時期である。化膿せる腫物を切解した後の痛快は、稍自分の今に近い。打撃は固より深酷であるが、きび〳〵と問題を解決して、總ての懊惱を一掃した快味である。我家の水上僅に屋根許り現はれ居る状を見て、聊も痛恨の念の湧かないのは、其快味が暫く我れを支配して居るからであるまいか。 日は暮れんとして空は又雨模樣である。四方に聞ゆる水の音は、今の自分には最早壯快に聞えて來た。自分は四方を眺めながら、何とはなしに天神川の鐵橋を渡つたのである。 うづ高に水を盛り上げてる天神川は、盛に濁水を兩岸に奔溢さして居る。薄暗く曇つた夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白泡が、夢かのやうにぼんやり見渡される。恐ろしいやうな、面白いやうな、云ふに云はれない一種の強い刺撃に打たれた。 遠く龜戸方面を見渡して見ると、黒い水が漫々として大湖の如くである。四方に浮いてる家棟は多くは軒以上を水に沒して居る。成程洪水ぢやなと嗟嘆せざるを得なかつた。 龜戸には同業者が多い。未だ避難し得ない牛も多いと見え、そちこちに牛の叫び聲がして居る。暗い水の上を傳つて、長く尻聲を引く。聞く耳のせゐか溜らなく厭な聲だ。稀に散在して見える三つ四つの燈火が、殆ど水にひツついて、水平線の上に浮いてるかの如く、淋い光を漏して居る。 何か人聲が遠くに聞えるよと耳を立てゝ聞くと、助け舟は無いかア………助け舟は無いかア………と叫ぶのである。それも三回許りで聲は止んだ。水量が盛んで人間の騷ぎも壓せられてるものか、割合に世間は靜かだ。未だ宵の口と思ふのに、水の音と牛の鳴く聲の外には、餘り人の騷ぎも聞こえない。寥々として寒さうな水が漲つて居る。助け舟を呼んだ人は助けられたか否かも判らぬ。鐵橋を引返してくると、牛の聲は幽になつた。壯快な水の音が殆ど夜を支配して鳴つてる。自分は眼前の問題にとらはれて我知らず時間を費した。來て見れば乳牛の近くに若者達も居ず、我が乳牛は多くは安臥して食み返しをやつて居つた。 何事をするも明日の事、今夜は是でと思ひながら、主なき家の有樣も一見したく、自分は再び猛然水に投じた。道路よりも少く低い我家の門内に入ると足が地につかない。自分は泳ぐ氣味にして臺所の軒へ進み寄つた。 幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、洋燈が點して釣り下げてあつた。天井高く釣下げた洋燈の尻に殆ど水がついて居つた。床の上に昇つて水は乳まであつた。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雜多な木屑等有ると有るものが浮いて居る。どろりとした汚ない惡水が、身動きもせず、ひし〳〵と家一ぱいに這入つて居る。自分は猶一渡り奧の方まで一見しようと、洋燈に手を掛けたら、どうかした拍子に火は消えて終つた。跡は闇々黒々、身を動せば雜多な浮流物が體に觸れる許りである。それでも自分は手探ぐり足探ぐりに奧まで進み入つた。浮いてる物は胸にあたる顏にさはる。疊が浮いてる箪笥が浮いてる、夜具類も浮いてる。それ〳〵の用意も想像以外の水で悉く無駄に歸したのである。 自分は此全滅的荒廢の跡を見て何等悔恨の念も無く不思議と平然たるものであつた。自分の家といふ感じがなく自分の物といふ感じも無い。寧ろ自然の暴力が、如何にもきび〳〵と殘酷に、物を破り人を苦しめた事を痛快に感じた。やがて自分は路傍の人と別れる樣に、其荒廢の跡を見捨てゝ去つた。水を恐れて連夜眠れなかつた自分と、今の平氣な自分と、何の爲に然るかを考へもしなかつた。 家族の逃げて行つた二階は七疊許の一室であつた。其家の人々の外に他よりも四五人逃げて來て居つた。七疊の室に二十餘人、其間に幼いもの三人許りを寢せて終へば、他の人々は只膝と膝を突合せて坐し居るのである。 罪に觸れた者が捕縛を恐れて逃げ隱れしてる内は、一刻も精神の休まる時が無く、夜も安くは眠られないが、愈〻捕へられて獄中の人となつて終へば、氣も安く心も暢びて、愉快に熟睡されると聞くが、自分の今夜の状態はそれに等しいのであるか、將來の事は未だ考へる餘裕も無い、煩悶苦惱決せんとして決し得なかつた問題が解決して終つた自分は、此數日來に無い、心安い熟睡を遂げた。頭を曲げ手足を縮め海老の如き状態に困臥しながら、猶氣安く心地爽かに眠り得た。數日來の苦惱は跡形も無く消え去つた。爲に體内新たな活動力を得た如くに思はれたのである。 實際の状況はと見れば、僅に人畜の生命を保ち得たのに過ぎないのであるが、敵の襲撃が飽くまで深酷を極めて居るから、自分の反抗心も極度に奮興せぬ譯にゆかないのであらう、何處までも奮鬪せねばならぬ決心が自然的に強固となつて、大災害を哀嘆してる暇がない爲であらう、人間も無事だ牛も無事だよしと云つた樣な、爽快な氣分で朝まで熟睡した。 |
わが裏庭の垣のほとりに一株の臘梅あり。ことしも亦筑波おろしの寒きに琥珀に似たる数朶の花をつづりぬ。こは本所なるわが家にありしを田端に移し植ゑつるなり。嘉永それの年に鐫られたる本所絵図をひらきたまはば、土屋佐渡守の屋敷の前に小さく「芥川」と記せるのを見たまふらむ。この「芥川」ぞわが家なりける。わが家も徳川家瓦解の後は多からぬ扶持さへ失ひければ、朝あさのけむりの立つべくもあらず、父ぎみ、叔父ぎみ道に立ちて家財のたぐひすら売りたまひけるとぞ。おほぢの脇差しもあとをとどめず。今はただひと株の臘梅のみぞ十六世の孫には伝はりたりける。 臘梅や雪うち透かす枝の丈 |
白馬、常念、蝶の真白い山々を背負った穂高村にも春が一ぱいにやってきた。あんずの花が目覚めるように咲いた百姓屋の背景に、白馬岳の姿が薄雲の中に、高くそびえて、雪が日に輝いて谷の陰影が胸のすくほど気持ちよく拝める。 乾いた田圃には、鶏の一群が餌をあさっている。水車の音と籾をひく臼の音が春の空気に閉ざされて、平和な気分がいたるところに漲っていた。 一歩を踏み出して烏川の谷に入ると、もう雪が出てくる。しかし岩はぜの花の香が鼻をつき、駒鳥の声を聞くと、この雪が今にもとけて行きそうに思う。しかしやがて常念の急な谷を登って乗越に出ると、もう春の気持ちは遠く去ってしまう。雪の上に頭だけ出したはい松の上を渡って行くと、小屋の屋根が、やっと雪の上に出ている。夕日は、槍の後に沈もうとして穂高の雪がちょっと光る。寒い風が吹いてきて焚木をきる手がこごえてくる。軒から小屋にはいこんで、雪の穴に火を焚きながら吹雪の一夜を明かすと、春はまったくかげをひそめた。槍沢の小屋の屋根に八尺の雪をはかり、槍沢の恐ろしい雪崩の跡を歩いて、槍のピークへロープとアックスとアイスクリーパーでかじりついた時には、春なのか夏なのか、さっぱり分らなくなった。けれども再び上高地に下りて行くと、柳が芽をふいて、鶯の声がのどかにひびいてきた。温泉に入って、雪から起き上った熊笹と流れに泳ぐイワナを見た時に再び春にあった心地がした。 春の山は、雪が頑張ってはいるけれど、下から命に溢れた力がうごめいているのがわかる。いたるところに力がみちている。空気は澄んで、山は見え過ぎるほど明らかに眺めることができる。夏の山より人くさくないのが何よりすきだ。これからあの辺の春の山歩きについて気のついたことを書いて見る。まず槍のピークについていわねばならない。 槍沢の雪崩は想像以上に恐ろしい。どうしても雪崩の前に行かねば危険でもあるし時間も損をする。 小屋から槍の肩まで、ただ一面の大きなスロープである。急なところとところどころになだらかなところは出てくるけれど、坊主小屋も殺生小屋も大体の見当はついてもはっきりとは判らない。ただ雪の坂なのだから。小屋から坊主とおぼしき辺まで、カンジキで一時間半とみればいい。スキーでもほぼ同じではあるが雪の様子でこの時間は違ってくる。時間を気にしないのならば肩までスキーで登ることができる。ただし一尺ばかり積った雪の下は氷なのだから、上の雪が雪崩れたら、アイスクリーパーの外は役にたたないが、それは恐らく四月末のことであろう。 坊主の辺から肩までは、ひどく急な雪の壁で三方をめぐらされている。眺めているととても登れそうにも思われない。しかし登りだすと、どうにか登れてくる。肩に上ると雪は急に硬くなる。そしていままで大丈夫楽に登れると思った槍の穂が氷でとじられていることが判ってくる。 試みにアックスでステップを切ると金のような氷が飛ぶ。もちろんその上に二寸ぐらいの新雪があった。どうしてもこれからは、ロ-プとアックスとクリーパーものである。これが氷ばかりなら大いに楽なのであるが、岩がところどころに頭を出しているので、ステップが切りにくい。岩と氷のコンクリートである。 五分おきぐらいに、頂上の辺から氷と岩が落ちてくる。これは温度によるのであろうから好天気の日は多いと思う。肩から非常に時間を要する。私は小槍の標高より少し上まで行ったが、それで考えると登り二時間は大丈夫かかると思う。 肩から上下五時間をとっておく必要がある。各自がアックスを持っていなくてはいけない。アイスクリーパーは外国製のものでなければ安心はできない。夏の雪渓に用いるものなら無い方がよかろう。金のような氷に、足駄をはいて歩くようなものだ。下るのに時間もかかるが、ロープを使用しなくてはならない。今年ももう肩に下りるところで一人滑ったが幸いに杖で止った。岩と氷と雪の好きな人は相当に面白いクライミングができるが、命は保証できない。肩から小舎までは、スキーなれば二十分をとっておけば大丈夫である。しかしこれはころぶ時間は入っていない。カンジキで一時間ぐらいであろう。 これから以下気づいたことを書いておく。 雪崩。一昨年は三月二十日ごろから入ったが、少しも雪崩れていなかった。今年は約二十日遅れて入って見たら、すべての谷が雪崩れた後であった。年によって違うであろうが三月中に入る方が安全である。 グルンドラヴィーネに会ったら一たまりもない。そして雪崩の季節に入ると荒れた翌日の好天気は危険であるし、雨降りの翌日の好天気もまた雪崩れる。 それにこの時は、カンジキがもぐって人夫を連れている時は歩けないことがある。だから、どうしても雪崩前に山へ行かなければ損である。 人夫。われらの背負う荷には限りがある。だから人の全くいない山の中を一週間も歩くには、人夫を頼むほかに仕方がない。ところが人夫はカンジキであるから、スキーとなかなか歩調が一致しない。確かに不便であるが、われらが弱くて荷が背負えないのだから、この不便を忍ばねばならない。人夫は必ず猟師でなければならない。夏山を歩いた男などはかえって迷惑である。 山によっては、カンジキの道とスキーのとるべき道とは一致しないが、信州の山のように谷のほか登れないところならば、どうも仕方がない。人夫を連れていれば夜営は、そんなに早く着かないでも間にあう。木をどんどんきってもらって、われらは寝床の用意と飯の用意をすればいい。だから山男ばかりでない時には、人夫が二人は入用である。仕事にかかる前にパンを一かじりしないと仕事が早く行かない。 いつでも余分のパンをもっていなければいけない。全く雪の中で宿る時には、人夫がいないと、なかなか一晩の焚火がとれない。 腹がへり、身体が参って、おまけに寒くなってくると、仕事ははかどらない。 だから人夫なしで、歩きたいのは理想であるが、今の日本の雪中登山の程度では、やはり必要なのであろう。 スキーとカンジキ。あの辺の山は、谷をまっすぐに登らねばならぬところが出てくるから、スキーのみでは困難である。一昨年は常念の谷をスキーで登って、一時間半かかったが、今年はカンジキにはきかえて一時間で登った。 大部分スキーが楽で速いけれど、この山では時々どうしてもカンジキの方が速いところは、ただちにはきかえるがいい。他の山でもカンジキは携帯せねばならぬと思う。スキーが破損した時、負傷者のある時に必要である。スキーの靴でカンジキをつけると、ぬけ易いが、大して困難もしなかった。私はスキーと共にカンジキを携帯することを絶対に必要とする。 夜営。油紙の厚いのと、シャベルと毛布(カモシカまたはトナカイ)の寝袋があればいいと思われる。何しろ一にも毛皮、二にも毛皮、三にも毛皮である。あとは身体を適応させるほか仕方がない。植物質のものを何枚着たって防寒にはならない。 夏見た小屋は必ずしもあてにならない。場所により小屋により雪のため使用できない。 常念の小屋は偶然に穴があったから入れたが、風の吹きまわしで入れないこともあろう。猟師の入る小屋なら大丈夫である。 四月なら吹雪さえしなければ、摂氏の零下六度ぐらいで、大して下りはしない。小屋なら零度か一度ぐらいで楽に寝られる。 雪があまり積った小屋で焚火すると、つぶれる恐れがある。 吹雪。三月四月でも吹雪はなかなか多い。一週間ぐらい続くこともある。吹雪にいたっては、冬と変りはない。雨でも混じようものなら、冬よりもなお悪い。今年は常念の乗越で一日やられた。この吹雪のために、槍の肩で小鳥の群が岩にぶっつけられて、雪の上にたくさんたおれていた。一昨年も一日やられてまゆげからつららを下げたり、ちょっとぬいだスキーの金具が凍って靴が入らなくなったり、だいぶいじめられた。 しかしその時の雪のよかったことは話にならない。話を聞くと二月の上高地は、素敵な粉雪らしい。黒部の上流は温泉のあるベト雪だと聞いたから、あっちへ行くならその覚悟がいる。吹雪の恐ろしさは遇って見ねば分らない。 大体気のついたところはこのくらいである。なおアルペンストックをスキーの杖とすることは、どうしても危険であるから金の部をとりはずせるようにするか、あるいは滑降には用いないようにせねばならない。 それから人夫の中に雪の山を歩かないものがくる時は、手袋その他の注意をせねばならぬ。色眼鏡も余分にもって行き、万事に注意しないと、一人の故障のために思わぬことができる。猟師なら大丈夫であるが、金カンジキなどをわざと持って行かずに危険なところをさけることもあるから、頂上を極めようとする際には、それも確かめる必要がある。 靴はネイルドされたものがいいようだ。 自分は大変幼稚な記事を書いた。早くあの辺の雪中の登山が進歩して、こんな記事がふみにじられるといい。 |
一 「参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。 飛騨から信州へ越える深山の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓が被さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。 道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌いで、こう図面を見た。」 旅僧はそういって、握拳を両方枕に乗せ、それで額を支えながら俯向いた。 道連になった上人は、名古屋からこの越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私が知ってる限り余り仰向けになったことのない、つまり傲然として物を見ない質の人物である。 一体東海道掛川の宿から同じ汽車に乗り組んだと覚えている、腰掛の隅に頭を垂れて、死灰のごとく控えたから別段目にも留まらなかった。 尾張の停車場で他の乗組員は言合せたように、残らず下りたので、函の中にはただ上人と私と二人になった。 この汽車は新橋を昨夜九時半に発って、今夕敦賀に入ろうという、名古屋では正午だったから、飯に一折の鮨を買った。旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、蓋を開けると、ばらばらと海苔が懸った、五目飯の下等なので。 (やあ、人参と干瓢ばかりだ。)と粗忽ッかしく絶叫した。私の顔を見て旅僧は耐え兼ねたものと見える、くっくっと笑い出した、もとより二人ばかりなり、知己にはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派は違うが永平寺に訪ねるものがある、但し敦賀に一泊とのこと。 若狭へ帰省する私もおなじ処で泊らねばならないのであるから、そこで同行の約束が出来た。 かれは高野山に籍を置くものだといった、年配四十五六、柔和ななんらの奇も見えぬ、懐しい、おとなしやかな風采で、羅紗の角袖の外套を着て、白のふらんねるの襟巻をしめ、土耳古形の帽を冠り、毛糸の手袋を嵌め、白足袋に日和下駄で、一見、僧侶よりは世の中の宗匠というものに、それよりもむしろ俗か。 (お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息した、第一盆を持って女中が坐睡をする、番頭が空世辞をいう、廊下を歩行くとじろじろ目をつける、何より最も耐え難いのは晩飯の支度が済むと、たちまち灯を行燈に換えて、薄暗い処でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更けるまで寐ることが出来ないから、その間の心持といったらない、殊にこの頃は夜は長し、東京を出る時から一晩の泊が気になってならないくらい、差支えがなくば御僧とご一所に。 快く頷いて、北陸地方を行脚の節はいつでも杖を休める香取屋というのがある、旧は一軒の旅店であったが、一人女の評判なのがなくなってからは看板を外した、けれども昔から懇意な者は断らず泊めて、老人夫婦が内端に世話をしてくれる、宜しくばそれへ、その代といいかけて、折を下に置いて、 (ご馳走は人参と干瓢ばかりじゃ。) とからからと笑った、慎み深そうな打見よりは気の軽い。 二 岐阜ではまだ蒼空が見えたけれども、後は名にし負う北国空、米原、長浜は薄曇、幽に日が射して、寒さが身に染みると思ったが、柳ヶ瀬では雨、汽車の窓が暗くなるに従うて、白いものがちらちら交って来た。 (雪ですよ。) (さようじゃな。)といったばかりで別に気に留めず、仰いで空を見ようともしない、この時に限らず、賤ヶ岳が、といって、古戦場を指した時も、琵琶湖の風景を語った時も、旅僧はただ頷いたばかりである。 敦賀で悚毛の立つほど煩わしいのは宿引の悪弊で、その日も期したるごとく、汽車を下ると停車場の出口から町端へかけて招きの提灯、印傘の堤を築き、潜抜ける隙もあらなく旅人を取囲んで、手ン手に喧しく己が家号を呼立てる、中にも烈しいのは、素早く手荷物を引手繰って、へい難有う様で、を喰わす、頭痛持は血が上るほど耐え切れないのが、例の下を向いて悠々と小取廻しに通抜ける旅僧は、誰も袖を曳かなかったから、幸いその後に跟いて町へ入って、ほっという息を吐いた。 雪は小止なく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさらさらと面を打ち、宵ながら門を鎖した敦賀の通はひっそりして一条二条縦横に、辻の角は広々と、白く積った中を、道の程八町ばかりで、とある軒下に辿り着いたのが名指の香取屋。 床にも座敷にも飾りといっては無いが、柱立の見事な、畳の堅い、炉の大いなる、自在鍵の鯉は鱗が黄金造であるかと思わるる艶を持った、素ばらしい竈を二ツ並べて一斗飯は焚けそうな目覚しい釜の懸った古家で。 亭主は法然天窓、木綿の筒袖の中へ両手の先を竦まして、火鉢の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁、女房の方は愛嬌のある、ちょっと世辞のいい婆さん、件の人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、にこにこ笑いながら、縮緬雑魚と、鰈の干物と、とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した、物の言振取成なんど、いかにも、上人とは別懇の間と見えて、連の私の居心のいいといったらない。 やがて二階に寝床を拵えてくれた、天井は低いが、梁は丸太で二抱もあろう、屋の棟から斜に渡って座敷の果の廂の処では天窓に支えそうになっている、巌乗な屋造、これなら裏の山から雪崩が来てもびくともせぬ。 特に炬燵が出来ていたから私はそのまま嬉しく入った。寝床はもう一組おなじ炬燵に敷いてあったが、旅僧はこれには来らず、横に枕を並べて、火の気のない臥床に寝た。 寝る時、上人は帯を解かぬ、もちろん衣服も脱がぬ、着たまま円くなって俯向形に腰からすっぽりと入って、肩に夜具の袖を掛けると手を突いて畏った、その様子は我々と反対で、顔に枕をするのである。 ほどなく寂然として寐に就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろい談をといって打解けて幼らしくねだった。 すると上人は頷いて、私は中年から仰向けに枕に就かぬのが癖で、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。出家のいうことでも、教だの、戒だの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。後で聞くと宗門名誉の説教師で、六明寺の宗朝という大和尚であったそうな。 三 「今にもう一人ここへ来て寝るそうじゃが、お前様と同国じゃの、若狭の者で塗物の旅商人。いやこの男なぞは若いが感心に実体な好い男。 私が今話の序開をしたその飛騨の山越をやった時の、麓の茶屋で一緒になった富山の売薬という奴あ、けたいの悪い、ねじねじした厭な壮佼で。 まずこれから峠に掛ろうという日の、朝早く、もっとも先の泊はものの三時ぐらいには発って来たので、涼しい内に六里ばかり、その茶屋までのしたのじゃが朝晴でじりじり暑いわ。 慾張抜いて大急ぎで歩いたから咽が渇いてしようがあるまい、早速茶を飲もうと思うたが、まだ湯が沸いておらぬという。 どうしてその時分じゃからというて、めったに人通のない山道、朝顔の咲いてる内に煙が立つ道理もなし。 床几の前には冷たそうな小流があったから手桶の水を汲もうとしてちょいと気がついた。 それというのが、時節柄暑さのため、恐しい悪い病が流行って、先に通った辻などという村は、から一面に石灰だらけじゃあるまいか。 (もし、姉さん。)といって茶店の女に、 (この水はこりゃ井戸のでござりますか。)と、きまりも悪し、もじもじ聞くとの。 (いんね、川のでございます。)という、はて面妖なと思った。 (山したの方には大分流行病がございますが、この水は何から、辻の方から流れて来るのではありませんか。) (そうでねえ。)と女は何気なく答えた、まず嬉しやと思うと、お聞きなさいよ。 ここに居て、さっきから休んでござったのが、右の売薬じゃ。このまた万金丹の下廻と来た日には、ご存じの通り、千筋の単衣に小倉の帯、当節は時計を挟んでいます、脚絆、股引、これはもちろん、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包の角ばったのを首に結えて、桐油合羽を小さく畳んでこいつを真田紐で右の包につけるか、小弁慶の木綿の蝙蝠傘を一本、おきまりだね。ちょいと見ると、いやどれもこれも克明で分別のありそうな顔をして。 これが泊に着くと、大形の浴衣に変って、帯広解で焼酎をちびりちびり遣りながら、旅籠屋の女のふとった膝へ脛を上げようという輩じゃ。 (これや、法界坊。) |
純小説と通俗小説の限界が、戦後いよいよ曖昧になつて来た。これは日本に限つた現象ではないらしい。この現象は、いろいろな意味にとられるが、根本的には、純小説をしつかり支へてゐた個人主義、ないしは個人性が、それだけ崩れてきたのだとみられる。そしてそれだけ、小説がジャーナリスチックになり、ジャーナリズムに征服されたのだとみられる。 昨年のことだが、わたしは妙な経験をした。一人の文学青年(実はもう青年ではないが)が原稿を見てくれと云つて玄関に置いていつた。しばらくしてその青年から手紙が来て、先日の原稿を友達にみせたら、まだこれは純小説で、通俗小説になつてゐないから駄目だと批評された、自分もさう思ふ、自分はこれから大いに勉強して、りつぱな通俗小説をかくつもりだ、といふ意味のことが、大真面目にかいてあつた。わたくしは唖然とした。 純小説は、文学青年の手習ひみたいなもので、通俗小説に到達する段階にすぎないと、この人達は合点してゐるらしい。驚くべきことである。戦前までは、どんな幼稚な文学青年にも、こんな錯誤はみられなかつた。これも戦後現象の一つで、純小説と通俗小説の限界が曖昧になつてきたことの影響とみていいであらう。 作家たちの仕事振りをみても、先づ純小説をかいて、文壇に認められることに努め、それがどうにか達せられると、予定の計画のやうな早さで、通俗小説へ転身する。さういふ打算的な作家が多くなつた。もうあんな小説をかき出したのかと、眼をこする場合も尠くない。実際の気持はともかく、形からみれば、純小説はあきらかに踏み台で、目標は通俗小説にあるわけである。幼稚な文学青年の錯誤も無理とはいへない。 純小説で仕事をして、後に通俗小説に転身した作家は、過去にも、菊池寛をはじめ、尠くなかつた。しかし彼等の場合、それが決して予定の行動なんかではなく、何等かの意味で純小説に行詰つたところから、その転身となつたのだ。純小説に賭けた自己がたうてい持ち切れなくなつたので、その重荷を下したまでだ。転身後のそんな空虚な自己に堪へられない作家は、たいてい沈黙してしまつたが、中には、自殺によつてその苦を脱れたものもある。芥川龍之介がその一人だ。――さういふ潔癖家には、通俗小説に転身して成功する才能がなかつたのも原因してゐると云はれる。しかしそれは俗論で、問題にならない。通俗小説に納まる俗物性に我慢のならない彼等の作家精神こそ重大なのだ。 純小説と通俗小説の区別など、いまさら説くのも馬鹿々々しいが、純小説は作家一人のための文学であり、通俗小説は読者のための文学である、と極説して差支へあるまい。云ひかへると、純小説は、作家がそれを自己の一切を賭けた、生きるか死ぬかの仕事である。通俗小説は即刻即座に一人でも数多くの読者に読まれようとする仕事である。その目的さへ実現されれば、作者はどうだつて構はない。生き死になど最初から問題ではない。極端な場合を想像すると、作者が無くつたつて差支へないのだ。 こんな言ひ方をすると、純小説はまるで読者といふものを無視してゐるのかと、反問されるに定つてゐる。およそ表現行為や、小説存在の根本動機を少しでも考へたら、そんな下らない反問が出る筈がない。読者のために描かないといふことは、読者を無視してゐることでは絶対にない。自分の内部にある、自分と分ちがたい読者のためにかき、それ以外の読者のためにはかかないといふことに他ならない。純小説とは、さういふ自分とさういふ形なき読者とのインチメートな対話として以外には考へられない。その読者は既に形がない以上、数量で測れるやうなものでなく、即刻即座の反響が聞かれる筈もない。しかし彼が、作家の内部に儼存することそのことで、形あるもの以上に形があり、時空を超えてひろがる可能性をもつたものだといふことができる。世界の傑れた純小説は、りつぱにその可能性を実現してみせてゐる。 通俗小説の作家の内部にも、彼と分ちがたい読者がゐないとは云はれない。彼が通俗小説で成功すればするほど、その形なき読者の、声なき声にひそかに悩まされてゐる作家を、その方面に交際のないわたくしでさへ、一人や二人知つてゐる。彼等はしかし、その読者のためにはかかない。絶対にかかないと云つていい。彼等はそれ以外の、形ある、数量で測れる読者のため、即刻即座の反響のため、そのためだけに書くのである。時空を超えてひろがる可能性をもつた形なき読者など、彼等にとつては、おそらく笑ひ話にもならないであらう。 「百万人の文学」と云はれる。通俗小説の目ざすものは、まさにそれである。そのためには、世の常識道徳に叛逆してはならず、それから一歩すすんだものでなければならないとか、イデオロギー的の片よりがあつてはならず、つねに中間的、中庸的でなければならないとか、大衆の実生活から孤立せず、つねにそれと共に生きなければならないとか、ヒューマニティと愛を基調にしたものでなければならないとか、現代の流行通俗作家によつて、いろいろ定義や規準が示されてゐる。おそらくそれに間ちがひあるまい。通俗小説とは、さうした常規があり、その常規をうまく使つて造られる文学である。いはゆる筋なんかにしても、菊池寛は通俗小説の成功する筋は、何十通りしかないと云つてゐたのを記憶するが、おそらくそんなものであらう。 しかし「百万人の文学」にとつて、さらに重要なのは、先にもちよつと云つたやうに、即刻即座の反響である。これがなければ、どんな通俗小説も市場価値においては、紙屑同然である。現に、今日楽しんで読まれさへすれば、明日は屑籠に投込まれても本望だと揚言して憚らない作家がある。いい覚悟だといふほかはない。この覚悟に徹底するのでなければ、通俗小説に安住自足することはできない。 その即効性を第一義とするのが、新聞小説である。いはゆる「百万人の文学」をいちばん問題とするのが新聞小説である所以だ。そして新聞小説に登場することこそ、世の通俗作家の本懐なのである。言ひかへると、新聞小説に登場することによつて、新聞といふメカニズムに乗つて、百万人の文学の実績をあげることが、彼等の本懐なのだ。百万人の文学としての通俗小説は、現代では、新聞のメカニズムに乗ることなしには考へられない。乃至は、それがもつとも確実で、早道なのだ。それなら現代の新聞小説のメカニズムがどういふものか、そしてそのメカニズムを運転させてゐる現代新聞の本質がどんなものか、それをちよつとでも考へてみると、多少とも批判力のある通俗小説家が、ぬくぬくとそれに乗つて安住自足してゐる図が、不思議な位である。新聞小説は、さういふものから制約されるにちがひないが、それだけで尽きるものではないと抗弁したところで無駄である。 古く、藤村の「家」も、秋声の「あらくれ」も、二葉亭の「其面影」も、漱石の諸長篇も、鴎外の史伝小説も、新聞に連載された。その意味で新聞小説であつた。しかし当時の新聞と現代の新聞との相違は、マニュファクチュアーと大企業工場との相違より大きい。戦後となると、その相違はいつそう大きくなつた。昔の新聞には、まだどこかに個人が生きてゐた。主筆とか編輯長とかの趣味見識が息づいてゐた。漱石は池辺三山の知遇に感じたのだ。ところが現代の新聞では、こと新聞小説にかんする限り、もはや主筆も編輯長も存在しない。営業部長によつて象徴される非個人的な計算があるばかりである。計算器の求めに応じた選択があるばかりだ。現代にもつてくれば、藤村、秋声、二葉亭、漱石、鴎外、枕をならべて落第である。即効百万人の文学を志さないやうな作家は、棚上げである。文化賞か何んかで別口の利用法が工夫される位のものだ。尤も極く稀れには、棚上げした純小説の作家を取り下して来ることはある。さきに荷風の「濹東綺譚」あり、秋声の「縮図」あり、近くは潤一郎の「少将滋幹の母」あり、しかしこの例は、何も計算器選択説を覆へすものではない。ちやんと大きな計算に合つた特別サービスで、却つて日常サービスの通俗小説の粗悪さを裏書きしてゐるやうなものだ。 マニュファクチュアー的な昔の新聞でも、藤村や、漱石や、鴎外の特別席だけでは、事足りなかつた。春葉、幽芳、霞亭などの通俗小説や、悟道軒円玉の講談のやうな追ひ込み席が必要であつた。現代の新聞小説の役目は、その追ひ込み席が果してゐたわけだ。その意味で、それらは「百万人の文学」を目ざした先駆ともいはれよう。現代の新聞からは、その特別席も消えた。同時に追ひ込み席も消えた。そしてあらはれたのが現代の通俗小説である。はつきり「百万人の文学」を追ひかけて来た新聞小説である。この通俗小説は、寛、有三、国士、鉄兵などを経て発展したもので、昔の新聞小説の特別席と追ひ込み席を統一し、乃至は、双方を吸収したもののやうに観られたりする。形の上ではさう云へるかも知れないが、実質的にはどうか。現代の通俗小説は、百万人の文学に近づく用意において、操作において、趣向において、たしかに進歩した。巧みになつた。生きてゐる現代風俗の広い地盤に立つたと云へないことはない。しかし彼等が好んで口にするヒューマニズムとか、大衆と共にとか、愛とかいふ立場から見て、本質的に、あの四分の一世紀以前の百万人の文学の先駆とどれだけちがふと云ふのか。 戦後に純小説と通俗小説との限界が曖昧になつて来たことは、冒頭に云つたやうに、それだけ個人性が崩れたとみられ、ジャーナリズムの勝利とみられるにしても、わたくしはその現象を必らずしも悲しむものではない。いい意味の通俗性の摂取はたしかに純小説のひとつの救ひであり、解放だからだ。これについてはしばしばかいたからここに繰返さない。しかし文学はいかなる意味でも、読者のためにだけあるものでなく、何よりもまづ作者のためにあるものである。通俗性の摂取もこの根本義を離れては、通俗小説の斜面を転げるばかりである。作者のため、作者ひとりのためにあることは、いかなる意味でも読者を無視するものでなく、却つて形のない百万人のための文学であり、その百万人に形を与へる文学であることは、さきに述べた。「ツアラトゥストラ」の詩人は、「万人のための、そして何人のためでもない」書と云つた。これをかりて云へば、純小説は、どのやうな通俗化を許すにしても、読者に関しては、常に「万人のために、そして何人のためでもない」文学でなければならない。さうあることによつて、通俗小説への転落をまぬがれ、反対に新しい純小説として自己を高めることができるのだ。――わたくしは、以上述べたやうなことを、いま改めて強調する必要があると信じて、敢てこの文を成したのだ。 |
1 再びこの人を見よ クリストは「万人の鏡」である。「万人の鏡」と云ふ意味は万人のクリストに傚へと云ふのではない。たつた一人のクリストの中に万人の彼等自身を発見するからである。わたしはわたしのクリストを描き、雑誌の締め切日の迫つた為にペンを抛たなければならなかつた。今は多少の閑のある為にもう一度わたしのクリストを描き加へたいと思つてゐる。誰もわたしの書いたものなどに、――殊にクリストを描いたものなどに興味を感ずるものはないであらう。しかしわたしは四福音書の中にまざまざとわたしに呼びかけてゐるクリストの姿を感じてゐる。わたしのクリストを描き加へるのもわたし自身にはやめることは出来ない。 2 彼の伝記作者 ヨハネはクリストの伝記作者中、最も彼自身に媚びてゐるものである。野蛮な美しさにかがやいたマタイやマコに比べれば、――いや、巧みにクリストの一生を話してくれるルカに比べてさへ、近代に生まれた我々には人工の甘露味を味はさずには措かない。しかしヨハネもクリストの一生の意味の多い事実を伝へてゐる。我々は、ヨハネのクリストの伝記に或苛立たしさを感じるであらう。けれども三人の伝記作者たちに或魅力も感じられるであらう。人生に失敗したクリストは独特の色彩を加へない限り、容易に「神の子」となることは出来ない。ヨハネはこの色彩を加へるのに少くとも最も当代には、up to date の手段をとつてゐる。ヨハネの伝へたクリストはマコやマタイの伝へたクリストのやうに天才的飛躍を具へてゐない。が、荘厳にも優しいことは確かである。クリストの一生を伝へるのに何よりも簡古を重んじたマコは恐らく彼の伝記作者中、最もクリストを知つてゐたであらう。マコの伝へたクリストは現実主義的に生き生きしてゐる。我々はそこにクリストと握手し、クリストを抱き、――更に多少の誇張さへすれば、クリストの髯の匂を感じるであらう。しかし荘厳にも劬りの深いヨハネのクリストも斥けることは出来ない。兎に角彼等の伝へたクリストに比べれば、後代の伝へたクリストは、――殊に彼をデカダンとした或ロシア人のクリストは徒らに彼を傷けるだけである。クリストは一時代の社会的約束を蹂躙することを顧みなかつた。(売笑婦や税吏や癩病人はいつも彼の話し相手である。)しかし天国を見なかつたのではない。クリストを l'enfant に描いた画家たちはおのづからかう云ふクリストに憐みに近いものを感じてゐたであらう。(それは母胎を離れた後、「唯我独尊」の獅子吼をした仏陀よりもはるかに手よりのないものである。)けれども幼児だつたクリストに対する彼等の憐みは多少にもしろ、デカダンだつたクリストに対する彼の同情よりも勝つてゐる。クリストは如何に葡萄酒に酔つても、何か彼自身の中にあるものは天国を見せずには措かなかつた。彼の悲劇はその為に、――単にその為に起つてゐる。或ロシア人は或時のクリストの如何に神に近かつたかを知つてゐない。が、四人の伝記作者たちはいづれもこの事実に注目してゐた。 3 共産主義者 クリストはあらゆるクリストたちのやうに共産主義的精神を持つてゐる。若し共産主義者の目から見るとすれば、クリストの言葉は悉く共産主義的宣言に変るであらう。彼に先立つたヨハネさへ「二つの衣服を持てる者は持たぬ者に分け与へよ」と叫んでゐる。しかしクリストは無政府主義者ではない。我々人間は彼の前におのづから本体を露してゐる。(尤も彼は我々人間を操縦することは出来なかつた、――或は我々人間に操縦されることは出来なかつた。それは彼のヨセフではない、聖霊の子供だつた所以である。)しかしクリストの中にあつた共産主義者を論ずることはスヰツルに遠い日本では少くとも不便を伴つてゐる。少くともクリスト教徒たちの為に。 4 無抵抗主義者 クリストは又無抵抗主義者だつた。それは彼の同志さへ信用しなかつた為である。近代では丁度トルストイの他人の真実を疑つたやうに。――しかしクリストの無抵抗主義は何か更に柔かである。静かに眠つてゐる雪のやうに冷かではあつても柔かである。…… 5 生活者 クリストは最速度の生活者である。仏陀は成道する為に何年かを雪山の中に暮らした。しかしクリストは洗礼を受けると、四十日の断食の後、忽ち古代のジヤアナリストになつた。彼はみづから燃え尽きようとする一本の蝋燭にそつくりである。彼の所業やジヤアナリズムは即ちこの蝋燭の蝋涙だつた。 6 ジヤアナリズム至上主義者 クリストの最も愛したのは目ざましい彼のジャアナリズムである。若し他のものを愛したとすれば、彼は大きい無花果のかげに年とつた予言者になつてゐたであらう。平和はその時にはクリストの上にも下つて来たのに相違ない。彼はもうその時には丁度古代の賢人のやうにあらゆる妥協のもとに微笑してゐたであらう。しかし運命は幸か不幸か彼にかう云ふ安らかな晩年を与へてくれなかつた。それは受難の名を与へられてゐても、正に彼の悲劇だつたであらう。けれどもクリストはこの悲劇の為に永久に若々しい顔をしてゐるのである。 7 クリストの財布 かう云ふクリストの収入は恐らくはジヤアナリズムによつてゐたのであらう。が、彼は「明日のことを考へるな」と云ふほどのボヘミアンだつた。ボヘミアン?――我々はここにもクリストの中の共産主義者を見ることは困難ではない。しかし彼は兎も角も彼の天才の飛躍するまま、明日のことを顧みなかつた。「ヨブ記」を書いたジヤアナリストは或は彼よりも雄大だつたかも知れない。しかし彼は「ヨブ記」にない優しさを忍びこます手腕を持つてゐた。この手腕は少からず彼の収入を扶けたことであらう。彼のジヤアナリズムは十字架にかかる前に正に最高の市価を占めてゐた。しかし彼の死後に比べれば、――現にアメリカ聖書会社は神聖にも年々に利益を占めてゐる。…… 8 或時のマリア クリストはもう十二歳の時に彼の天才を示してゐた。彼の伝記作者の一人、――ルカの語る所によれば、「其子イエルサレムに留りぬ。然るにヨセフと母これを知らず、三日の後殿にて遇ふ。彼教師の中に坐し、聴き且問ひゐたり。聞者其知慧と其応対とを奇しとせり。」それは論理学を学ばずに論理に長じた学生時代のスウイフトと同じことである。かう云ふ早熟の天才の例は勿論世界中に稀ではない。クリストの父母は彼を見つけ、「さんざんお前を探してゐた」と言つた。すると彼は存外平気に「どうしてわたしを尋ねるのです。わたしはわたしのお父さんのことを務めなければなりません」と答へた。「されど両親は其語れる事を暁らず」と云ふのも恐らくは事実に近かつたであらう。けれども我々を動かすのは「其母これらの凡の事を心に蔵めぬ」と云ふ一節である。美しいマリアはクリストの聖霊の子供であることを承知してゐた。この時のマリアの心もちはいぢらしいと共に哀れである。マリアはクリストの言葉の為にヨセフに恥ぢなければならなかつたであらう。それから彼女自身の過去も考へなければならなかつたであらう。最後に――或は人気のない夜中に突然彼女を驚かした聖霊の姿も思ひ出したかも知れない。「人の皆無、仕事は全部」と云ふフロオベルの気もちは幼いクリストの中にも漲つてゐる。しかし大工の妻だつたマリアはこの時も薄暗い「涙の谷」に向かひ合はなければならなかつたであらう。 9 クリストの確信 クリストは彼のジヤアナリズムのいつか大勢の読者の為に持て囃されることを確信してゐた。彼のジヤアナリズムに威力のあつたのはかう云ふ確信のあつた為である。従つて彼は又最期の審判の、――即ち彼のジヤアナリズムの勝ち誇ることも確信してゐた。尤もかう云ふ確信も時々は動かずにゐなかつたであらう。しかし大体はこの確信のもとに自由に彼のジヤアナリズムを公けにした。「一人の外に善者はなし、即ち神なり」――それは彼の心の中を正直に語つたものだつたであらう。しかしクリストは彼自身も「善き者」でないことを知りながら、詩的正義の為に戦ひつづけた。この確信は事実となつたものの、勿論彼の虚栄心である。クリストも亦あらゆるクリストたちのやうにいつも未来を夢みてゐた超阿呆の一人だつた。若し超人と云ふ言葉に対して超阿呆と云ふ言葉を造るとすれば。…… 10 ヨハネの言葉 「世の罪を負ふ神の仔羊を観よ。我に後れ来らん者は我よりも優れる者なり。」――バプテズマのヨハネはクリストを見、彼のまはりにゐた人々にかう話したと伝へられてゐる。壁の上にストリントベリイの肖像を掲げ、「ここにわたしよりも優れたものがゐる」と言つた、逞しいイブセンの心もちはヨハネの心もちに近かつたであらう。そこに茨に近い嫉妬よりも寧ろ薔薇の花に似た理解の美しさを感じるばかりである。かう云ふ年少のクリストのどの位天才的だつたかは言はずとも善い。しかしヨハネもこの時にはやはり最も天才的だつたであらう。丁度丈の高いヨルダンの蘆のゆららかに星を撫でてゐるやうに。…… 11 或時のクリスト クリストは十字架にかかる前に彼の弟子たちの足を洗つてやつた。「ソロモンよりも大いなるもの」を以てみづから任じてゐたクリストのかう云ふ謙遜を示したのは我々を動かさずには措かないのである。それは彼の弟子たちに教訓を与へる為ではない。彼も彼等と変らない「人の子」だつたことを感じた為におのづからかう云ふ所業をしたのであらう。それはヨハネのクリストを見て「神の仔羊を観よ」と言つたのよりも荘厳である。平和に至る道は何びともクリストよりもマリアに学ばなければならぬ。マリアは唯この現世を忍耐して歩いて行つた女人である。(カトリツク教はクリストに達する為にマリアを通じるのを常としてゐる。それは必しも偶然ではない。直ちにクリストに達しようとするのは人生ではいつも危険である。)或はクリストの母だつたと云ふ以外に所謂ニウス・ヴアリユウのない女人である。弟子たちの足さへ洗つてやつたクリストは勿論マリアの足もとにひれ伏したかつたことであらう。しかし彼の弟子たちはこの時も彼を理解しなかつた。 「お前たちはもう綺麗になつた。」 それは彼の謙遜の中に死後に勝ち誇る彼の希望(或は彼の虚栄心)の一つに溶け合つた言葉である。クリストは事実上逆説的にも正にこの瞬間には彼等に劣つてゐると同時に彼等に百倍するほどまさつてゐた。 12 最大の矛盾 クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解してゐたにも関らず彼自身を理解出来なかつたことである。彼は庭鳥の啼く前にペテロさへ三度クリストを知らないと云ふことを承知してゐた。彼の言葉はその外にも如何に我々人間の弱いかと云ふことを教へてゐる。しかも彼は彼自身もやはり弱いことを忘れてゐた。クリストの一生を背景にしたクリスト教を理解することはこの為に一々彼の所業を「予言者X・Y・Zの言葉に応はせん為なり」と云ふ詭弁を用ひなければならなかつた。のみならず畢にかう云ふ詭弁の古い貨幣になつた後はあらゆる哲学や自然科学の力を借りなければならなかつた。クリスト教は畢竟クリストの作つた教訓主義的な文芸に過ぎない。若し彼の(クリストの)ロマン主義的な色彩を除けば、トルストイの晩年の作品はこの古代の教訓主義的な作品に最も近い文芸であらう。 |
今も恁う云ふのがある。 安政の頃本所南割下水に住んで、祿高千石を領した大御番役、服部式部の邸へ、同じ本所林町家主惣兵衞店、傳平の請人で、中間に住込んだ、上州瓜井戸うまれの千助と云ふ、年二十二三の兄で、色の生白いのがあつた。 小利口にきび〳〵と立𢌞る、朝は六つ前から起きて、氣輕身輕は足輕相應、くる〳〵とよく働く上、早く江戸の水に染みて早速に情婦を一つと云ふ了簡から、些と高い鼻柱から手足の爪まで、磨くこと洗ふこと、一日十度に及んだと云ふ。心状のほどは知らず、中間風情には可惜男振の、少いものが、身綺麗で、勞力を惜まず働くから、これは然もありさうな事で、上下擧つて通りがよく、千助、千助と大した評判。 分けて最初、其のめがねで召抱へた服部家の用人、關戸團右衞門の贔屓と、目の掛けやうは一通りでなかつた。 其の頼母しいのと、當人自慢の生白い處へ、先づ足駄をひつくりかへしたのは、門内、團右衞門とは隣合はせの當家の家老、山田宇兵衞召使ひの、葛西の飯炊。 續いて引掛つたのが、同じ家の子守兒で二人、三人目は、部屋頭何とか云ふ爺の女房であつた。 いや、勇んだの候の、瓜井戸の姊は、べたりだが、江戸ものはころりと來るわ、で、葛西に、栗橋、北千住の鰌鯰を、白魚の氣に成つて、頤を撫でた。當人、女にかけては其のつもりで居る日の下開山、木の下藤吉、一番鎗、一番乘、一番首の功名をして遣つた了簡。 此の勢に乘じて、立所に一國一城の主と志して狙をつけたのは、あらう事か、用人團右衞門の御新姐、おくみと云ふ年は漸う二十と聞く、如何にも、一國一城に較へつべき至つて美しいのであつた。 が、此はさすがに、井戸端で名のり懸けるわけには行かない。さりとて用人の若御新姐、さして深窓のと云ふではないから、隨分臺所口、庭前では、朝に、夕に、其の下がひの褄の、媚かしいのさへ、ちら〳〵見られる。 「千助や」 と優しい聲も時々聞くのであるし、手から手へ直接に、つかひの用の、うけ渡もするほどなので、御馳走は目の前に唯お預けだと、肝膽を絞つて悶えて居た。 其の年押詰つて師走の幾日かは、當邸の御前、服部式部どの誕生日で、邸中とり〴〵其の支度に急がしく、何となく祭が近づいたやうにさゞめき立つ。 其の一日前の暮方に、千助は、團右衞門方の切戸口から、庭前へ𢌞つた。座敷に御新姐が居る事を、豫め知つての上。 落葉掃く樣子をして、箒を持つて技折戸から。一寸言添へる事がある、此の節、千助は柔かな下帶などを心掛け、淺葱の襦袢をたしなんで薄化粧などをする。尤も今でこそあれ、其の時分中間が、顏に仙女香を塗らうとは誰も思ひがけないから、然うと知つたものはない。其の上、ぞつこん思ひこがれる御新姐お組が、優しい風流のあるのを窺つて、居𢌞りの夜店で表紙の破れた御存じの歌の本を漁つて來て、何となく人に見せるやうに捻くつて居たのであつた。 時に御新姐は日が短い時分の事、縁の端近へ出て、御前の誕生日には夫が着換へて出ようと云ふ、紋服を、又然うでもない、しつけの絲一筋も間違はぬやう、箪笥から出して、目を通して、更めて疊直して居た處。 「えゝ、御新姐樣、續きまして結構なお天氣にござります。」 「おや、千助かい、お精が出ます。今度は又格別お忙しからう、御苦勞だね。」 「何う仕りまして、數なりませぬものも陰ながらお喜び申して居ります。」 「あゝ、おめでたいね、お客さまが濟むと、毎年ね、お前がたも夜あかしで遊ぶんだよ。まあ、其を樂みにしてお働きよ。」 ともの優しく、柔かな言に附入つて、 「もし、其につきまして、」 と沓脱の傍へ蹲つて、揉手をしながら、圖々しい男で、ずツと顏を突出した。 「何とも恐多い事ではござりますが、御新姐樣に一つお願があつて罷出ましてござります、へい。外の事でもござりませんが、手前は當年はじめての御奉公にござりますが、承りますれば、大殿樣御誕生のお祝儀の晩、お客樣が御立歸りに成りますると、手前ども一統にも、お部屋で御酒を下さりまするとか。」 「あゝ、無禮講と申すのだよ。たんとお遊び、そしてお前、屹と何かおありだらう、隱藝でもお出しだと可いね。」 と云つて莞爾した。千助、頸許からぞく〳〵しながら、 「滅相な、隱藝など、へゝゝ、就きましてでござります。其の無禮講と申す事で、從前にも向後も、他なりません此のお邸、決して、然やうな事はござりますまいが、羽目をはづして醉ひますると、得て間違の起りやすいものでござります。其處を以ちまして、手前の了簡で、何と、今年は一つ、趣をかへて、お酒を頂戴しながら、各々國々の話、土地所の物語と云ふのをしめやかにしようではあるまいか。と、申出ました處、部屋頭が第一番。いづれも當御邸の御家風で、おとなしい、實體なものばかり、一人も異存はござりません。 處で發頭人の手前、出來ませぬまでも、皮切をいたしませぬと相成りませんので。 國許にござります、其の話につきまして、其を饒舌りますのに、實にこまりますことには、事柄の續の中に、歌が一つござります。 部屋がしらは風流人で、かむりづけ、ものはづくしなどと云ふのを遣ります。川柳に、(歌一つあつて話にけつまづき)と云ふのがあると、何時かも笑つて居りました、成程其の通りと感心しましたのが、今度は身の上で、歌があつて蹴躓きまして、部屋がしらに笑はれますのが、手前口惜しいと存じまして、へい。」 と然も〳〵若氣に思込んだやうな顏色をして云つた。川柳を口吟んで、かむりづけを樂む其の結構な部屋がしらの女房を怪しからぬ。 「少々ばかり小遣の中から恁やうなものを、」 と懷中から半分ばかり紺土佐の表紙の薄汚れたのを出して見せる。 「おや、歌の、お見せな。」 と云ふ瞳が、疊みかけた夫の禮服の紋を離れて、千助が懷中の本に移つた。 「否、お恥かしい、お目を掛けるやうなのではござりません、それに夜店で買ひましたので、御新姐樣、お手に觸れましては汚うござります。」 と引込ませる、と水のでばなと云ふのでも、お組はさすがに武家の女房、中間の膚に着いたものを無理に見ようとはしなかつた。 「然うかい。でも、お前、優しいお心掛だね。」 と云ふ、宗桂が歩のあしらひより、番太郎の桂馬の方が、豪さうに見える習で、お組は感心したらしかつた。然もさうずと千助が益々附入る。 「えゝ、さぐり讀みに搜しましても、どれが何だか分りません。其に、あゝ、何とかの端本か、と部屋頭が本の名を存じて居りますから、中の歌も、此から引出しましたのでは、先刻承知とやらでござりませう。其では種あかしの手品同樣、慰みになりません。お願と申しましたは爰の事。お新姐樣、一つ何うぞ何でもお教へなさつて遣はさりまし。」 お組が、ついうつかりと乘せられて、 「私にもよくは分らないけれど、あの、何う云ふ事を申すのだえ、歌の心はえ。」 「へい、話の次第でござりまして、其が其の戀でござります。」 と初心らしく故と俯向いて赤く成つた。お組も、ほんのりと、色を染めた、が、庭の木の葉の夕榮である。 「戀の心はどんなのだえ。思うて逢ふとか、逢はないとか、忍ぶ、待つ、いろ〳〵あるわねえ。」 「えゝ、申兼ねましたが、其が其の、些と道なりませぬ、目上のお方に、身も心もうちこんで迷ひました、と云ふのは、對手が庄屋どのの、其の、」と口早に云ひたした。 お組は何の氣も附かない樣子で、 「お待ち、」 と少々俯向いて、考へるやうに、歌袖を膝へ置いた姿は、亦類なく美しい。 「恁ういたしたら何うであらうね、 |
誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。従つて僕は君を咎めない。…… 僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を与へずには措かないであらう。けれども若し非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。 僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。唯僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――大抵は僕の所作を書かうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣には行かないであらう。)――僕の第一に考へたことはどうすれば苦まずに死ぬかと云ふことだつた。縊死は勿論この目的に最も合する手段である。が、僕は僕自身の縊死してゐる姿を想像し、贅沢にも美的嫌悪を感じた。(僕は或女人を愛した時も彼女の文字の下手だつた為に急に愛を失つたのを覚えてゐる。)溺死も亦水泳の出来る僕には到底目的を達する筈はない。のみならず万一成就するとしても縊死よりも苦痛は多いわけである。轢死も僕には何よりも先に美的嫌悪を与へずにはゐなかつた。ピストルやナイフを用ふる死は僕の手の震へる為に失敗する可能性を持つてゐる。ビルデイングの上から飛び下りるのもやはり見苦しいのに相違ない。僕はこれ等の事情により、薬品を用ひて死ぬことにした。薬品を用ひて死ぬことは縊死することよりも苦しいであらう。しかし縊死することよりも美的嫌悪を与へない外に蘇生する危険のない利益を持つてゐる。唯この薬品を求めることは勿論僕には容易ではない。僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品を手に入れようとした。同時に又毒物学の知識を得ようとした。 それから僕の考へたのは僕の自殺する場所である。僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に手よらなければならぬ。僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。僕は僕の自殺した為に僕の家の売れないことを苦にした。従つて別荘の一つもあるブルヂヨアたちに羨ましさを感じた。君はかう云ふ僕の言葉に或可笑しさを感じるであらう。僕も亦今は僕自身の言葉に或可笑しさを感じてゐる。が、このことを考へた時には事実上しみじみ不便を感じた。この不便は到底避けるわけには行かない。僕は唯家族たちの外に出来るだけ死体を見られないやうに自殺したいと思つてゐる。 しかし僕は手段を定めた後も半ばは生に執着してゐた。従つて死に飛び入る為のスプリング・ボオドを必要とした。(僕は紅毛人たちの信ずるやうに自殺することを罪悪とは思つてゐない。仏陀は現に阿含経の中に彼の弟子の自殺を肯定してゐる。曲学阿世の徒はこの肯定にも「やむを得ない」場合の外はなどと言ふであらう。しかし第三者の目から見て「やむを得ない」場合と云ふのは見す見すより悲惨に死ななければならぬ非常の変の時にあるものではない。誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行ふのである。その前に敢然と自殺するものは寧ろ勇気に富んでゐなければならぬ。)このスプリング・ボオドの役に立つものは何と言つても女人である。クライストは彼の自殺する前に度たび彼の友だちに(男の)途づれになることを勧誘した。又ラシイヌもモリエエルやボアロオと一しよにセエヌ河に投身しようとしてゐる。しかし僕は不幸にもかう云ふ友だちを持つてゐない。唯僕の知つてゐる女人は僕と一しよに死なうとした。が、それは僕等の為には出来ない相談になつてしまつた。そのうちに僕はスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。それは誰も一しよに死ぬもののないことに絶望した為に起つた為ではない。寧ろ次第に感傷的になつた僕はたとひ死別するにもしろ、僕の妻を劬りたいと思つたからである。同時に又僕一人自殺することは二人一しよに自殺するよりも容易であることを知つたからである。そこには又僕の自殺する時を自由に選ぶことの出来ると云ふ便宜もあつたのに違ひない。 最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。(それ等の細部に亘ることは僕に好意を持つてゐる人々の為に書くわけには行かない。尤もここに書いたにしろ、法律上の自殺幇助罪⦅このくらゐ滑稽な罪名はない。若しこの法律を適用すれば、どの位犯罪人の数を殖やすことであらう。薬局や銃砲店や剃刀屋はたとひ「知らない」と言つたにもせよ、我々人間の言葉や表情に我々の意志の現れる限り、多少の嫌疑を受けなければならぬ。のみならず社会や法律はそれ等自身自殺幇助罪を構成してゐる。最後にこの犯罪人たちは大抵は如何にもの優しい心臓を持つてゐることであらう。⦆を構成しないことは確かである。)僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。 我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措いてくれ給へ。僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。 附記。僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。 |
私は自分で編輯するこの雑誌を、出来る丈け、立派なものにしたいと思ひます。けれども如何に、私が自惚れて見ましても本当に貧弱な内容しか持つことが出来ません。私一個の微力では勿論どうしても読者諸氏を満足させるやうな大家の執筆を乞ふことは出来ません。目次にならんだ人達はまだ世間の表に立つてゐない人の方が多数を占めて居ます。私は毎号々々かうして貧弱だとかつまらないとか云ふ非難を耳にしながらも何時もねうちのない雑誌ばかり編輯して居ります。けれども私の考へではそれにも相当の理屈はつくのです。私自らはこの雑誌自身に単なる苗床としてより以上の何の価値をも求めやうとはしません、私はこの雑誌を引きつぐ際に、一切の規則を取り去つて無規則無方針、無主義無主張と云ふことをお断はりしました。主義の欲しい方規則のなくてはならない方は各自におつくりなさるがいゝ。何の主義も主張もない雑誌を凡ての婦人達に提供いたしますから各々に自由勝手にお使ひ下さい。お用ひになる方の意のまゝに出来るやうに雑誌そのものには一切意味を持たせません。と云ふことも其の際に申ました。何卒この貧弱な雑誌を覗く丈けの方でもこの事を御承知下さいまし、この雑誌は苗床としての価値より他には何にもありません。此処に芽を出した苗がどんな処にうつされ、どの苗がどう育つてゆくか――未成品――と云ふことに興味をもつて下さる方に初めてこの雑誌は雑誌自らの存在の意義を明らかにするのです。私はかう云ふ負け惜しみな理屈を楯に何と非難されても相変らず貧弱な雑誌を倦きずにこしらへてゐるのです。――編輯者―― |
薄暗き硝子戸棚の中。絵画、陶器、唐皮、更緲、牙彫、鋳金等種々の異国関係史料、処狭きまでに置き並べたるを見る。初夏の午後。遙にちやるめらの音聞ゆ。 久しき沈黙の後、司馬江漢筆の蘭人、突然悲しげに歎息す。 古伊万里の茶碗に描かれたる甲比丹、(蘭人を顧みつつ)どうしたね? 顔の色も大へん悪いやうだが―― 蘭人、いえ、何でもありませんよ。唯ちつと頭痛がするものですから―― 甲比丹、今日は妙に蒸暑いからね。 唐皮の花の間に止まれる鸚鵡、(横あひより甲比丹に)譃ですよ。甲比丹! あの人のは頭痛ではないのです。 甲比丹、頭痛ではないと云ふと? 鸚鵡、恋愛ですよ。 蘭人、(鸚鵡を嚇しつつ)余計な事を云ふな! 甲比丹(蘭人に)まあ黙つてゐ給へ。(鸚鵡に)さうして誰に惚れてゐるのだい? 鸚鵡、あの女ですよ。ほら、あの阿蘭陀出来の皿の中にある。―― 甲比丹、何時も扇を持つてゐる女か? 鸚鵡、ええ、あれです。あの女は顔こそ綺麗ですが、中々気位が高いものですからね。 蘭人、(再び鸚鵡を嚇しつつ)こら、失礼な事を云ふな! 甲比丹、さうか? それは気の毒だな。(金象嵌の小柄の伴天連に)どうしたものでせう? パアドレ! 伴天連、さあ、婚礼はわたしがさせても好いが、――何しろ阿蘭陀生れだけに、あの女の横柄なのは評判だからね。 蘭人、どうかもう御心配なさらずに下さい。(やけ気味に)いざとなればあの種が島に、心臓を射抜いて貰ひますから。 種が島、(残念さうに)駄目だよ。僕は錆びついてゐるから、――サアベル式の日本刀にでも頼み給へ。 牙彫の基督、(紫壇の十字架上に腕をひろげつつ)無分別な事をしてはいけない。ふだん云つて聞かせる通り、自殺などをしたものは波群葦増の門にはひられないからね。(麻利耶観音に)お母様! どうかしてやる訳には参りませんか? 麻利耶観音、さうだね。ではわたしが頼んで見て上げようか? 伴天連、さう願へれば仕合せでございます。 甲比丹、どうか御尽力を願ひたいと存じますが、――(蘭人に)君からもおん母に御頼みし給へ。 蘭人、(恥しげに)何分よろしく御願ひ申します。 鸚鵡、御恵深い麻利耶様! わたしからもひとへに御願ひ致します。 麻利耶観音、(阿蘭陀の皿に描かれたる女に)あなた! 阿蘭陀の女、何か御用ですか? 麻利耶観音、はい、実はこの若い方があなたを御慕ひ申してゐるのださうですが、―― 阿蘭陀の女、まあ嫌です事。わたしはあの方は大嫌ひでございます。 麻利耶観音、それでも体さへ窶れる程、思ひ悩んでゐるやうですから、―― 阿蘭陀の女、それはあの方の御勝手ではありませんか? 一体わたしは日本出来や支那出来の方は虫が好かないのです。 麻利耶観音、そんな事を云ふものではありません。あの方もあなたと同じやうに、西洋文明の命の火を胸の中に宿してゐるのですもの。云はば兄弟のやうなものではありませんか? どうかわたしたち親子も願ひますから、少しは可哀さうだと思つてやつて下さい。 阿蘭陀の女、(腹立たしげに)余計な事は仰有らずに下さい。第一あなたさへ平戸あたりの田舎生れではありませんか? 硝子絵の窓だの噴水だの薔薇の花だの、壁にかける氈だの、――そんな物は見た事もありますまい。顔もあなたはわたしの国のおん母麻利耶とは大違ひです。ましてあの方を御覧なさい。成程あの方もこの国では、阿蘭陀人と云ふかも知れません。しかしほんたうは阿蘭陀人どころか、日本人とも西洋人ともつかない、つまりこの国の画描きの拵へた、黒ん坊よりも気味の悪い人です。 蘭人、ああ、何と云ふ情ない言葉だ!(涕泣す) 阿蘭陀の女、(なほ怒の静まらざる如く)それがわたしを慕つてゐる、――よくまあそんな事が云はれたものです。おまけにあの方の一家一族――長崎画に出て来る紅毛人も皆同じ事ではありませんか? あたしはあの人たちの顔を見てさへ胸が悪くなつて来る位です。 長崎画の英吉利人、法朗西人、露西亜人等、(驚きし如く)おお! おお! 麻利耶観音、ではどうしてもあの方とは仲好く出来ないと云ふのですか? 阿蘭陀の女、当り前です。わたしはもう今日限り、あなたとも御つきあひは御免蒙りませう。古伊万里の甲比丹、小柄の伴天連、亀山焼の南蛮女、――いえ、いえ、それどころではありません。刀の鍔にゐる天使でさへ、二度と口を利いて貰ひますまい。あの人たちとわたしとは生れも育ちも違ふのですから、―― 麻利耶観音、(蘭人に)聞いてゐたらうね? わたしの言葉さへ通らないのだから、所詮お前の願ひはかなはないよ。 蘭人、(涕泣しつつ)はい、もう仕方はございません。 甲比丹、男らしくあきらめるさ。(亀山焼の南蛮女に)しかし憎い女だね。 南蛮女、ほんたうに高慢な人です事。――ようございますよ。これからはわたしがあの女の代りにこの方の世話をして上げますから。 伴天連、お前さんは何時もやさしい人だ。 基督、静かに! 静かに! 誰か人間が来たやうだから、―― 鸚鵡、しつ! しつ! この家の主人、数人の客と共に戸棚の外に立つ。 主人、これがわたしのコレクションです。 客の一人、大分沢山ありますね。この江漢の蘭人は面白い。 主人、其処にあるのは亀山焼です。これはわたしの自慢の品ですが、―― 客の一人、南蛮女ですね。阿蘭陀出来の皿の女より、余程美人ではありませんか? 主人、これですか?(阿蘭陀の女のゐる皿を取り出す)おや、何か濡れてゐるが、―― |
篠蟹 檜木笠 銀貨入 手に手 露地の細路 柳に銀の舞扇 河童御殿 栄螺と蛤 おなじく妻 横槊賦詩 羆の筒袖 縁日がえり サの字千鳥 梅ヶ枝の手水鉢 口紅 一重桜 伐木丁々 空蝉 彩ある雲 鴛鴦 生理学教室 美挙 怨霊比羅 一口か一挺か 艸冠 河岸の浦島 頭を釘 露霜 彗星 綺麗な花 振向く処を あわせかがみ 振袖 篠蟹 一 「お客に舐めさせるんだとよ。」 「何を。」 「その飴をよ。」 腕白ものの十ウ九ツ、十一二なのを頭に七八人。春の日永に生欠伸で鼻の下を伸している、四辻の飴屋の前に、押競饅頭で集った。手に手に紅だの、萌黄だの、紫だの、彩った螺貝の独楽。日本橋に手の届く、通一つの裏町ながら、撒水の跡も夢のように白く乾いて、薄い陽炎の立つ長閑さに、彩色した貝は一枚々々、甘い蜂、香しき蝶になって舞いそうなのに、ブンブンと唸るは虻よ、口々に喧しい。 この声に、清らな耳許、果敢なげな胸のあたりを飛廻られて、日向に悩む花がある。 盛の牡丹の妙齢ながら、島田髷の縺れに影が映す……肩揚を除ったばかりらしい、姿も大柄に見えるほど、荒い絣の、いささか身幅も広いのに、黒繻子の襟の掛った縞御召の一枚着、友染の前垂、同一で青い帯。緋鹿子の背負上した、それしゃと見えるが仇気ない娘風俗、つい近所か、日傘も翳さず、可愛い素足に台所穿を引掛けたのが、紅と浅黄で羽を彩る飴の鳥と、打切飴の紙袋を両の手に、お馴染の親仁の店。有りはしないが暖簾を潜りそうにして出た処を、捌いた褄も淀むまで、むらむらとその腕白共に寄って集られたものである。 「煮てかい、焼いてかい。」 「何、口からよ。」 と、老成た事を云って、中でも矮小が、鼻まで届きそうな舌を上舐にべろんと行る、こいつが一芸。 「まあ、可笑しい。」 若い妓は、優しく伏目に莞爾して、 「お客様が飴なんか。大概御酒をあがるんですもの。」 で、ちょっと紙袋を袖で抱く。 「それだってよ、それでもよ、髯へ押着けやがるじゃねえか。」 「不見手様。」とまた矮小が、舌をべろんと飜す。 若い妓は柔しかった。むっともしそうな頬はなお細って見えて、 「あら、大な声をするもんじゃないことよ。」 「だって、看板に掛けてやがって。」と一人が前を遮るように、独楽の手繰をずるりと伸す。 「違ったか。雪や氷、冷い氷よ。そら水の上に丶なんだ。」 「不見手様。」と矮小が頤でしゃくる。 「矮小やい、舌を出せ。」 「出せよ、畜生。」 「ううん、ううん、そう号令を掛けちゃ出せやしませんさ。」 と焦って頭突きに首を振る。 「馬鹿、咽喉ぼとけを掴んでいやがる。」 「ほほほ。」と、罪の無い皓歯の莟。 「畜生、笑ったな、不見手。」 と矮小は、ぐいと腕を捲った。 「可厭、また……大な声をして。」 「大な声がどうしたんでえ。」 と、一人の兄哥さん、六代目の仮声さ。 二 その若い妓は、可愛い人形を抱くように、胸へ折った片袖で、面を蔽う姿して、 「堪忍して下さいな。」 と遣瀬なさそうに悄れて云う。 「やあ、謝罪るぜ、ぐうたらやい。」 |
上 それはこの宿の本陣に当る、中村と云ふ旧家の庭だつた。 庭は御維新後十年ばかりの間は、どうにか旧態を保つてゐた。瓢箪なりの池も澄んでゐれば、築山の松の枝もしだれてゐた。栖鶴軒、洗心亭、――さう云ふ四阿も残つてゐた。池の窮まる裏山の崖には、白々と滝も落ち続けてゐた。和の宮様御下向の時、名を賜はつたと云ふ石燈籠も、やはり年々に拡がり勝ちな山吹の中に立つてゐた。しかしその何処かにある荒廃の感じは隠せなかつた。殊に春さき、――庭の内外の木々の梢に、一度に若芽の萌え立つ頃には、この明媚な人工の景色の背後に、何か人間を不安にする、野蛮な力の迫つて来た事が、一層露骨に感ぜられるのだつた。 中村家の隠居、――伝法肌の老人は、その庭に面した母屋の炬燵に、頭瘡を病んだ老妻と、碁を打つたり花合せをしたり、屈託のない日を暮してゐた。それでも時々は立て続けに、五六番老妻に勝ち越されると、むきになつて怒り出す事もあつた。家督を継いだ長男は、従兄妹同志の新妻と、廊下続きになつてゐる、手狭い離れに住んでゐた。長男は表徳を文室と云ふ、癇癖の強い男だつた。病身な妻や弟たちは勿論、隠居さへ彼には憚かつてゐた。唯その頃この宿にゐた、乞食宗匠の井月ばかりは、度々彼の所へ遊びに来た。長男も不思議に井月にだけは、酒を飲ませたり字を書かせたり、機嫌の好い顔を見せてゐた。「山はまだ花の香もあり時鳥、井月。ところどころに滝のほのめく、文室」――そんな附合も残つてゐる。その外にまだ弟が二人、――次男は縁家の穀屋へ養子に行き、三男は五六里離れた町の、大きい造り酒屋に勤めてゐた。彼等は二人とも云ひ合せたやうに、滅多に本家には近づかなかつた。三男は居どころが遠い上に、もともと当主とは気が合はなかつたから。次男は放蕩に身を持ち崩した結果、養家にも殆帰らなかつたから。 庭は二年三年と、だんだん荒廃を加へて行つた。池には南京藻が浮び始め、植込みには枯木が交るやうになつた。その内に隠居の老人は、或旱りの烈しい夏、脳溢血の為に頓死した。頓死する四五日前、彼が焼酎を飲んでゐると、池の向うにある洗心亭へ、白い装束をした公卿が一人、何度も出たりはひつたりしてゐた。少くとも彼には昼日なか、そんな幻が見えたのだつた。翌年は次男が春の末に、養家の金をさらつたなり、酌婦と一しよに駈落ちをした。その又秋には長男の妻が、月足らずの男子を産み落した。 長男は父の死んだ後、母と母屋に住まつてゐた。その跡の離れを借りたのは、土地の小学校の校長だつた。校長は福沢諭吉翁の実利の説を奉じてゐたから、庭にも果樹を植ゑるやうに、何時か長男を説き伏せてゐた。爾来庭は春になると、見慣れた松や柳の間に、桃だの杏だの李だの、雑色の花を盛るやうになつた。校長は時々長男と、新しい果樹園を歩きながら、「この通り立派に花見も出来る。一挙両得ですね」と批評したりした。しかし築山や池や四阿は、それだけに又以前よりは、一層影が薄れ出した。云はば自然の荒廃の外に、人工の荒廃も加はつたのだつた。 その秋は又裏の山に、近年にない山火事があつた。それ以来池に落ちてゐた滝は、ぱつたり水が絶えてしまつた。と思ふと雪の降る頃から、今度は当主が煩ひ出した。医者の見立てでは昔の癆症、今の肺病とか云ふ事だつた。彼は寝たり起きたりしながら、だんだん癇ばかり昂らせて行つた。現に翌年の正月には、年始に来た三男と激論の末、手炙りを投げつけた事さへあつた。三男はその時帰つたぎり、兄の死に目にも会はずにしまつた。当主はそれから一年余り後、夜伽の妻に守られながら、蚊帳の中に息をひきとつた。「蛙が啼いてゐるな。井月はどうしつら?」――これが最期の言葉だつた。が、もう井月はとうの昔、この辺の風景にも飽きたのか、さつぱり乞食にも来なくなつてゐた。 三男は当主の一週忌をすますと、主人の末娘と結婚した。さうして離れを借りてゐた小学校長の転任を幸ひ、新妻と其処へ移つて来た。離れには黒塗の箪笥が来たり、紅白の綿が飾られたりした。しかし母屋ではその間に、当主の妻が煩ひ出した。病名は夫と同じだつた。父に別れた一粒種の子供、――廉一も母が血を吐いてからは、毎晩祖母と寝かせられた。祖母は床へはひる前に、必頭に手拭をかぶつた。それでも頭瘡の臭気をたよりに、夜更には鼠が近寄つて来た。勿論手拭を忘れでもすれば、鼠に頭を噛まれる事もあつた。同じ年の暮に当主の妻は、油火の消えるやうに死んで行つた。その又野辺送りの翌日には、築山の陰の栖鶴軒が、大雪の為につぶされてしまつた。 もう一度春がめぐつて来た時、庭は唯濁つた池のほとりに、洗心亭の茅屋根を残した、雑木原の木の芽に変つたのである。 中 或雪曇りの日の暮方、駈落ちをしてから十年目に、次男は父の家へ帰つて来た。父の家――と云つてもそれは事実上、三男の家と同様だつた。三男は格別嫌な顔もせず、しかし又格別喜びもせず、云はば何事もなかつたやうに、道楽者の兄を迎へ入れた。 爾来次男は母屋の仏間に、悪疾のある体を横たへたなり、ぢつと炬燵を守つてゐた。仏間には大きい仏壇に、父や兄の位牌が並んでゐた。彼はその位牌の見えないやうに、仏壇の障子をしめ切つて置いた。まして母や弟夫婦とは、三度の食事を共にする外は、殆顔も合せなかつた。唯みなし児の廉一だけは、時々彼の居間へ遊びに行つた。彼は廉一の紙石板へ、山や船を描いてやつた。「向島花ざかり、お茶屋の姐さんちよいとお出で。」――どうかするとそんな昔の唄が、覚束ない筆蹟を見せる事もあつた。 その内に又春になつた。庭には生ひ伸びた草木の中に、乏しい桃や杏が花咲き、どんより水光りをさせた池にも、洗心亭の影が映り出した。しかし次男は不相変、たつた一人仏間に閉ぢこもつたぎり、昼でも大抵はうとうとしてゐた。すると或日彼の耳には、かすかな三味線の音が伝はつて来た。と同時に唄の声も、とぎれとぎれに聞え始めた。「この度諏訪の戦ひに、松本身内の吉江様、大砲固めにおはします。……」次男は横になつた儘、心もち首を擡げて見た。と、唄も三味線も、茶の間にゐる母に違ひなかつた。「その日の出で立ち花やかに、勇み進みし働きは、天つ晴勇士と見えにける。……」母は孫にでも聞かせてゐるのか、大津絵の替へ唄を唄ひ続けた。しかしそれは伝法肌の隠居が、何処かの花魁に習つたと云ふ、二三十年以前の流行唄だつた。「敵の大玉身に受けて、是非もなや、惜しき命を豊橋に、草葉の露と消えぬとも、末世末代名は残る。……」次男は無精髭の伸びた顔に、何時か妙な眼を輝かせてゐた。 それから二三日たつた後、三男は蕗の多い築山の陰に、土を掘つてゐる兄を発見した。次男は息を切らせながら、不自由さうに鍬を揮つてゐた。その姿は何処か滑稽な中に、真剣な意気組みもあるものだつた。「あに様、何をしてゐるだ?」――三男は巻煙草を啣へたなり、後から兄へ声をかけた。「おれか?」――次男は眩しさうに弟を見上げた。「こけへ今せんげ(小流れ)を造らうと思ふ。」「せんげを造つて何しるだ?」「庭をもとのやうにしつと思ふだ。」――三男はにやにや笑つたぎり、何ともその先は尋ねなかつた。 次男は毎日鍬を持つては、熱心にせんげを造り続けた。が、病に弱つた彼には、それだけでも容易な仕事ではなかつた。彼は第一に疲れ易かつた。その上慣れない仕事だけに、豆を拵へたり、生爪を剥いだり、何かと不自由も起り勝ちだつた。彼は時々鍬を捨てると、死んだやうに其処へ横になつた。彼のまはりには何時になつても、庭をこめた陽炎の中に、花や若葉が煙つてゐた。しかし静かな何分かの後、彼は又蹌踉と立ち上ると、執拗に鍬を使ひ出すのだつた。 しかし庭は幾日たつても、捗々しい変化を示さなかつた。池には不相変草が茂り、植込みにも雑木が枝を張つてゐた。殊に果樹の花の散つた後は、前よりも荒れたかと思ふ位だつた。のみならず一家の老若も、次男の仕事には同情がなかつた。山気に富んだ三男は、米相場や蚕に没頭してゐた。三男の妻は次男の病に、女らしい嫌悪を感じてゐた。母も、――母は彼の体の為に、土いぢりの過ぎるのを惧れてゐた。次男はそれでも剛情に、人間と自然とへ背を向けながら、少しづつ庭を造り変へて行つた。 その内に或雨上りの朝、彼は庭へ出かけて見ると、蕗の垂れかかつたせんげの縁に、石を並べてゐる廉一を見つけた。「叔父さん。」――廉一は嬉しさうに彼を見上げた。「おれにも今日から手伝はせておくりや。」「うん、手伝つてくりや。」次男もこの時は久しぶりに、晴れ晴れした微笑を浮べてゐた。それ以来廉一は、外へも出ずにせつせと叔父の手伝ひをし出した。――次男は又甥を慰める為に、木かげに息を入れる時には、海とか東京とか鉄道とか、廉一の知らない話をして聞かせた。廉一は青梅を噛じりながら、まるで催眠術にでもかかつたやうに、ぢつとその話に聞き入つてゐた。 その年の梅雨は空梅雨だつた。彼等、――年とつた癈人と童子とは、烈しい日光や草いきれにもめげず、池を掘つたり木を伐つたり、だんだん仕事を拡げて行つた。が、外界の障害にはどうにかかうにか打ち克つて行つても、内面の障害だけは仕方がなかつた。次男は殆幻のやうに昔の庭を見る事が出来た。しかし庭木の配りとか、或は径のつけ方とか、細かい部分の記憶になると、はつきりした事はわからなかつた。彼は時々仕事の最中、突然鍬を杖にした儘、ぼんやりあたりを見廻す事があつた。「何しただい?」――廉一は必叔父の顔へ、不安らしい目付きを挙げるのだつた。「此処はもとどうなつてゐつらなあ?」――汗になつた叔父はうろうろしながら、何時も亦独り語しか云はなかつた。「この楓は此処になかつらと思ふがなあ。」廉一は唯泥まみれの手に、蟻でも殺すより外はなかつた。 内面の障害はそればかりではなかつた。次第に夏も深まつて来ると、次男は絶え間ない過労の為か頭も何時か混乱して来た。一度掘つた池を埋めたり、松を抜いた跡へ松を植ゑたり、――さう云ふ事も度々あつた。殊に廉一を怒らせたのは、池の杭を造る為めに、水際の柳を伐つた事だつた。「この柳はこの間植ゑたばつかだに。」――廉一は叔父を睨みつけた。「さうだつたかなあ。おれには何だかわからなくなつてしまつた。」――叔父は憂欝な目をしながら、日盛りの池を見つめてゐた。 それでも秋が来た時には、草や木の簇がつた中から、朧げに庭も浮き上つて来た。勿論昔に比べれば、栖鶴軒も見えなかつたし、滝の水も落ちてはゐなかつた。いや、名高い庭師の造つた、優美な昔の趣は、殆何処にも見えなかつた。しかし「庭」は其処にあつた。池はもう一度澄んだ水に、円い築山を映してゐた。松ももう一度洗心亭の前に、悠々と枝をさしのべてゐた。が、庭が出来ると同時に、次男は床につき切りになつた。熱も毎日下らなければ、体の節々も痛むのだつた。「あんまり無理ばつかしるせゐぢや。」――枕もとに坐つた母は、何時も同じ愚痴を繰り返した。しかし次男は幸福だつた。庭には勿論何箇所でも、直したい所が残つてゐた。が、それは仕方がなかつた。兎に角骨を折つた甲斐だけはある。――其処に彼は満足してゐた。十年の苦労は詮めを教へ、詮めは彼を救つたのだつた。 その秋の末、次男は誰も気づかない内に、何時か息を引きとつてゐた。それを見つけたのは廉一だつた。彼は大声を挙げながら、縁続きの離れへ走つて行つた。一家は直に死人のまはりへ、驚いた顔を集めてゐた。「見ましよ。兄様は笑つてゐるやうだに。」――三男は母をふり返つた。「おや、今日は仏様の障子が明いてゐる。」――三男の妻は死人を見ずに、大きい仏壇を気にしてゐた。 次男の野辺送りをすませた後、廉一はひとり洗心亭に、坐つてゐる事が多くなつた。何時も途方に暮れたやうに、晩秋の水や木を見ながら、…… 下 それはこの宿の本陣に当る、中村と云ふ旧家の庭だつた。それが旧に復した後、まだ十年とたたない内に、今度は家ぐるみ破壊された。破壊された跡には停車場が建ち、停車場の前には小料理屋が出来た。 中村の本家はもうその頃、誰も残つてゐなかつた。母は勿論とうの昔、亡い人の数にはひつてゐた。三男も事業に失敗した揚句、大阪へ行つたとか云ふ事だつた。 汽車は毎日停車場へ来ては、又停車場を去つて行つた。停車場には若い駅長が一人、大きい机に向つてゐた。彼は閑散な事務の合ひ間に、青い山々を眺めやつたり、土地ものの駅員と話したりした。しかしその話の中にも、中村家の噂は上らなかつた。況や彼等のゐる所に、築山や四阿のあつた事は、誰一人考へもしないのだつた。 が、その間に廉一は、東京赤坂の或洋画研究所に、油画の画架に向つてゐた。天窓の光、油絵の具の匂、桃割に結つたモデルの娘、――研究所の空気は故郷の家庭と、何の連絡もないものだつた。しかしブラツシユを動かしてゐると、時々彼の心に浮ぶ、寂しい老人の顔があつた。その顔は又微笑しながら、不断の制作に疲れた彼へ、きつとかう声をかけるのだつた。「お前はまだ子供の時に、おれの仕事を手伝つてくれた。今度はおれに手伝はせてくれ。」…… 廉一は今でも貧しい中に、毎日油画を描き続けてゐる。三男の噂は誰も聞かない。 |
私は老婦人たちが彼女らの少女だつた時分のことを話すのを聞くのが好きだ。 「私が十二の時でした、私は南佛蘭西の或る修道院に寄宿してをりました。(と記憶のいい老婦人の一人が私に物語るのであつた。)私たちは、その修道院に、世間から全く離れて、暮らしてをりました。私たちに會ひに來られたのは兩親きりで、それも一月に一遍宛といふことになつてゐました。 「私たちは休暇中も、その廣い庭園と牧場と葡萄畑にとりかこまれた修道院の中で過したのでした…… 「私はその幽居には八つの時から入つてゐましたが、やつと十九になつた時、結婚をするため、はじめて其處を出たやうなわけでした。私はいまだにその時のことを覺えてゐます。宇宙の上に開いてゐるその大きな門の閾を私が跨いだ刹那、人生の光景や、自分の呼吸してゐる何だかとても新しいやうな氣のする空氣や、いままでになかつたほど輝かしく見える太陽や、それから自由が、遂に、私の咽喉をしめつけたのでした。私は息がつまりさうになつて、もしその時腕を組んでゐた父が私を支へて其處にあつたベンチへ連れて行つてくれなかつたら、私はそのままぼうと氣を失つて倒れてしまつたでせう。私はしばらくそのベンチに坐つてゐるうち、やつと正氣を取戻したのでした。 ⁂ 「さて、その十二の時のことですが、私はいたつて惡戲好きな、無邪氣な少女でした。そして私の仲間もみんな私のやうでした。 「授業と遊戲と禮拜とが私たちの時間を分け合つてゐました。 「ところが、コケットリイの魔が私のゐた級のうちに侵入してきたのは、丁度その時分でありました。そして私は、それがどんな策略を用ひて、私たち少女がやがて若い娘になるのだといふことを、私たちに知らせたかを忘れたことはありません。 「その修道院の構内には誰もはひることが出來ませんでした。彌撒をお唱へになつたり、説教をなさつたり、私たちの微罪をお聽きになつたりする司祭樣を除いては。その他には、三人の年老いた園丁が居りました。が、私たちに男性といふ高尚な觀念を與へるためには殆ど何の役にも立たないのでした。それから私たちの父も私たちに會ひに來ました。そして兄弟のあるものは、彼等をまるで超自然的なもののやうに語るのでした。 「或る夕方、日の暮れようとする時分に、私たちは禮拜堂から引き上げながら、寄宿舍の方へ向つて、ぞろぞろと歩いてゐました。 「突然、遠くの方に、修道院の庭園をとりまいてゐる塀のずつと向うに、角笛の音が聞えました。私はそれをあたかも昨日のやうに覺えてゐます。雄々しい、そしてメランコリツクなその角笛の亂吹が、黄昏どきの深い沈默のなかに鳴りひびいてゐる間中、どの少女の心臟も、これまでになかつたくらゐ激しく打ちました。そして木魂となつて反響しながら、遠くの方に消えていつたその角笛の亂吹は、なにやら知らず、神話めいた行列を私たちに喚び起させるのでした…… 「私たちはその晩、それを夢にまで見ました…… ⁂ 翌日、教室からちよつと出てゐたクレマンス・ド・パムブレといふ名前の、小さなブロンドの娘が、眞青になつて歸つてきて、隣席のルイズ・ド・プレセツクに耳打ちしました。いま薄暗い廊下でばつたり青い眼に出會つたと。そしてそれから間もなく級中の者が、その青い眼の存在を知つてしまひました。 「歴史を私たちに教へてくれてゐる修道院長の言葉も、もう私たちの耳にははひりませんでした。生徒たちは今は突拍子もない返事をしました。そしてこの學科のあんまり得意ではなかつた私自身も、フランソア一世は誰の後繼者かと質問されたとき、それはシヤルマァニユです、と出まかせに、自信もなく、答へました。すると私の知らないことを教へてくれることになつてゐた私の隣席の者が、彼はルイ十四世の後を繼いだのだと密告してくれました。佛蘭西の王樣の年代を考へることなどより、もつと他にすべきことが私たちにはあつたのでした。私たちは青い眼のことを夢見てゐたのでした。 ⁂ 「そして一週間足らずのうちに、私たちは誰もかも、その青い眼に出會ふ機會をもちました。 「私たちはみんな眩暈をもつたのでした。それに違ひはありません。が、私たちはみんなそれを見たのでした。それはすばやく通り過ぎました、廊下の暗い蔭へ、美しい空色の斑點をつくりながら。私たちはぞつとしました、が、誰一人それを尼さんたちに話さうとはしませんでした。 「私たちはそんな恐しい眼をしてゐるのは一體誰なのか知らうとして隨分頭を惱ませました。私たちのうちの誰だつたか覺えてゐませんが、或る一人のものが、それはきつと、まだ私たちの記憶の中にその泣きたくなるまでに抒情的な響が尾を曳いてゐる、あの數日前の角笛の亂吹の眞中になつて通り過ぎた獵人らの中の一人の眼にちがひないといふ意見を述べました。そしてそれにちがひないといふ事に一決いたしました。 「私たちは皆、その獵人の一人がこの修道院の中にかくれてゐて、青い眼は彼の眼であることを認めました。私たちは、そのたつた一つの眼が片眼なのだとは思ひませんでしたし、それから古い修道院の廊下を眼が飛ぶのでもなければ、彼等の身體から拔け出してさまよふのでもないと考へました。 「そんなうちにも、私たちはその青い眼と、それが喚び起させる獵人のことばかり考へてをりました。 「とうとうしまひには、私たちはその青い眼を怖がらなくなりました。それが私たちを見つめるため、ぢつとしてゐればいいとさへ思ふやうになりました。そして私たちはときどき廊下の中へ唯一人で、いつのまにか私たちを魅するやうになつたその不思議な眼に出會ふために、出てゆくやうなことまでいたしました。 ⁂ 「やがてコケットリイの魔がさしました。私たちは誰一人として、インキだらけの手をしてゐる時など、その青い眼に見られたがらなかつたでしたらう。みんなは廊下を横ぎるときは、自分がなるたけ好く見えるやうにと出來るだけのことをしました。 「修道院には姿見も鏡もありませんでした。が、私たちの生れつきの機轉がすぐそれを補ひました。私たちの一人は、踊場に面してゐる硝子戸のそばを通る度毎に、硝子の向うに張られてゐる黒いカアテンの垂れを即製の鏡にして、そこにすばしつこく自分の姿を映し髮を直したり、自分が綺麗かどうかをちよいと試したりするのでした。 ⁂ 「青い眼の物語は約二ヶ月ばかり續きました。それからだんだんそれに出會はなくなりました。そしてとうとうごく稀にしか考へなくなりましたが、それでもときたまそれに就いて話すやうなことがありますと、やはり身顫ひしずにはゐられませんでした。 「が、その身顫ひの中には、恐怖と、それからまたあの快樂――禁斷の事物について語るあの祕やかな快樂に似た或る物がまざつてゐたのでした。」 |
一 郁雨君足下。 函館日々新聞及び君が予の一歌集に向つて與へられた深大の厚意は、予の今茲に改めて滿腔の感謝を捧ぐる所である。自分の受けた好意を自分で批評するも妙な譯ではあるが、實際あれ丈の好意を其著述に對して表された者は、誰しも先づ其の眞實の感謝を言ひ現はすに當つて、自己の有する語彙の貧しさを嘆かずにはゐられまい。函館は予の北海放浪の最初の記念の土地であつた。さうしてまた最後の記念の土地であつた。予は函館にゐる間、心ゆくばかり函館を愛しまた愛された。予と函館との關係が予と如何なる土地との關係よりも温かであつた事、今猶ある事は、君も承認してくれるに違ひない。予もまた常に一つの悲しみ……其温かい關係の續いてゐるのは、予が予自分の爲にでなく、火事といふ全く偶然の出來事の爲に去つたからだといふ悲しみを以て、その關係を了解し、追想し感謝してゐる。隨つて、予は予の一歌集を公にするに當つても、心ひそかに或好意をその懷しき土地に期待してゐたことは、此處に白状するを辭せざる所である。しかも其好意の愈々事實として現はるゝに及んで、予は遂に予の有する語彙の如何に感謝の辭に貧しいかを嘆かずにはゐられなかつた。予は彼の君の長い〳〵親切な批評と、それから彼の廣告の載つた新聞を友人に示した時の子供らしい誇りをも、單に子供らしいといふことに依つて思ひ捨てたくはなかつたのである。……然し此事に就いては既に君に、又大硯君にも書き送つた筈である。それに對する君の返事も受取つてゐる。予はもうこれ以上に予に取つて極めて不慣れなる御禮の言葉を繰返すことを止めよう。 さて予は今君に告ぐべき一つの喜びを持つてゐる。それは外ではない。予が現在かういふ長い手紙を君に書き送り得る境遇にゐるといふ事である。予は嘗て病氣……なるべく痛くも苦しくもない病氣をして、半月なり一月なり病院といふものに入つて見たいと眞面目に思つたことがあつた。蓋し病氣にでもなる外には、予は予の忙がしい生活の壓迫から一日の休息をも見出すことが出來なかつたのである。予は予のかういふ弱い心を殊更に人に告げたいとは思はない。 しかし兎も角も予のその悲しい願望が、遂に達せられる時機が來たのである。既に知らした如く、予は今月の四日を以てこの大學病院の客となつた。何年の間殆ど寧日なき戰ひを續けて來て、何時となく痩せ且つ疲れた予の身體と心とは、今安らかに眞白な寢臺の上に載つてゐる。 休息――しかし困つた事には、予の長く忙がしさに慣れて來た心は、何時の間にか心ゆくばかり休息といふことを味ふに適しないものになつてゐた。何かしなくては一日の生命を保ちがたい男の境遇よりもまだみじめである。予は予のみじめなる心を自ら慰める意味を以て……そのみじめなる心には、餘りに長過ぎる予の時間を潰す一つの方法としてこの手紙を書き出して見たのである。 二 郁雨君足下、 予は今病人である。しかしながら何うも病人らしくない病人である。予の現在の状態を仔細に考へて見るに、成程腹は膨れてゐる。膨れてはゐるけれども痛くはない。さうして腹の膨れるといふことは、中學時代に友人と競走で薯汁飯を食つた時にもあつたことである。たゞそれが長く續いてゐるといふに過ぎない。それから日に三度粥を食はされる。かゆを食ふといふと如何にも病人らしく聞えるが、實はその粥も與へられるだけの分量では始終不足を感ずる位の病人だから、自分ながら餘り同情する所がない。晝夜二囘の𢌞診の時は、醫者は定つて「變りはありませんか?」と言ふ。予も亦定つて「ありません」と答へる。 「氣分は?」 「平生の通りです。」 醫者はコツ〳〵と胸を叩き、ボコ〳〵と腹を叩いてみてさうして予の寢臺を見捨てゝ行く。彼は未だかつて予に對して眉毛の一本も動かしたことがない。予も亦彼に對して一度も哀憐を乞ふが如き言葉を出したことがない。予にも他の患者のやうに、色々の精巧な機械で病身の測量をしたり、治療をして貰ひたい好奇心がないではないが、不幸にして予の身體にはまださういふ事を必要とするやうな病状が一つもないのである。入院以來硝子の容器に取ることになつてゐる尿の量も、段々健康な人と相違がなくなつて來た。枕邊に懸けてある温度表を見ても、赤鉛筆や青鉛筆の線と星とが大抵赤線の下に少しづゝの曲折を示してゐるに過ぎない。 郁雨君足下。君も若し萬一不幸にして予と共に病院を休息所とするの、かなしき願望を起さねばならぬことが今後にあるとするならば、その時はよろしく予と共にあまり重くない慢性腹膜炎を病むことにすべしである。これほど暢氣な、さうして比較的長い間休息することの出來る病氣は恐らく外にないだらうと思ふ。 若し強いて予の現在の生活から動かすべからざる病人の證據を擧げるならば、それは予が他の多くの病人と同じやうに病院の寢臺の上にゐるといふことである。さうして一定の時間に藥をのまねばならぬといふことである。それから來る人も〳〵予に對して病人扱ひをするといふことである。日に二人か三人は缺かさずにやつて來る彼等は、決してそのすべてがお互ひに知つた同志ではないのに何れも何れも相談したやうに餘り長居をしない。さうして歸つて行く時は、恰度何かの合言葉ででもあるかのやうに色々の特有の聲を以て「お大事に」と云つて行く。彼等の中には、平生予が朝寢をしてゐる所へズン〳〵押込んで來て「もう起き給へ〳〵。」と言つた手合もある。それが此處へ來ると、寢臺の上に起き上らうとする予を手を以て制しながら、眞面目な顏をして「寢てゐ給へ〳〵。」と言ふ。予はさういふ來訪者に對しては、わざと元氣な聲を出して「病氣の福音」を説いてやることにしてゐる。――かうした一種のシニツクな心持は予自身に於ても決して餘り珍重してゐないに拘らず何時かしら殆ど予の第二の天性の如くなつて來てゐるのである。 などと御託をならべたものの、予は遂に矢つぱり病人に違ひない。これだけ書いてもう額が少し汗ばんで來た。 三 郁雨君足下 人間の悲しい横着……證據により、理窟によつて、その事のあり得るを知り、乃至はあるを認めながら、猶且つそれを苦痛その他の感じとして直接に經驗しないうちは、それを切實に信じ得ない、寧ろ信じようとしない人間の悲しい横着……に就いて、予は入院以來幾囘となく考へを費してみた。さうして自分自身に對して恥ぢた。 例へば、腹の異常に膨れた事、その腹の爲に内臟が晝となく夜となく壓迫を受けて、殆んど毎晩恐ろしい夢を見續けた事、寢汗の出た事、三時間も續けて仕事をするか話をすれば、つひぞ覺えたことの無い深い疲勞に襲はれて、何處か人のゐない處へ行つて横になりたいやうな氣分になつた事などによつて、予はよく自分の健康の著るしく均整を失してゐることを知つてゐたに拘らず、「然し痛くない」といふ極めて無力なる理由によつて、一人の友人が來てこれから大學病院に行かうと居催促するまでは、まだ眞に醫者にかゝらうとする心を起さずに居た。また同じ理由によつて、既に診察を受けた後も自分の病氣の一寸した服藥位では癒らぬ性質のものであるを知りながら、やつぱり自分で自分を病人と呼ぶことが出來なかつた。 かういふ事は、しかしながら、決して予の病氣についてのみではなかつたのである。考へれば考へる程、予の半生は殆んどこの悲しい横着の連續であつたかの如く見えた。予は嘗て誤つた生活をしてゐて、その爲に始終人と自分とを欺かねばならぬ苦しみを味はひながら、猶且つその生活をどん底まで推し詰めて、何うにも斯うにも動きのとれなくなるまでは、その苦しみの根源に向つて赤裸々なる批評を加へることを爲しかねてゐた。それは餘程以前の事であるが、この近い三年許りの間も、常に自分の思想と實生活との間の矛盾撞着に惱まされながら、猶且つその矛盾撞着が稍々大なる一つの悲劇として事實に現はれてくるまでは、その痛ましき二重生活に對する自分の根本意識を定めかねてゐたのである。さうしてその悲しむべき横着によつて知らず識らずの間に予の享けた損失は、殆んど測るべからざるものであつた。 更に最近の一つの例を引けば、予は予の腹に水がたまつたといふ事を、診察を受ける前から多分さうだらうと自分でも想像してゐたに拘らず、入院後第一囘の手術を受けて、トラカルの護謨の管から際限もなく流れ落つる濃黄色の液體を目撃するまでは、確かにさうと信じかねてゐた。 四 それは予が予の身體と重い腹とを青山内科第十八號室の眞白な寢臺の上に持ち運んでから四日目の事であつた。晝飯が濟むと看護婦とその二人の助手とはセツセと色々の器械を予の室に持ち込んだ。さうして看護婦は「今日は貴下のお腹の水を取るのよ。」と言つて、自分の仕事の一つ増えたのを喜ぶやうに悦々として立働いてゐる。檢温器と聽診器との外には、機械といふものを何一つ身體に當てられた事のない予も、それを聞くと何か知ら嬉しいやうな氣になつた。やがて𢌞診の時間になると受持の醫者がいつものやうに一わたり予の病氣の測量をやつた後で「今日は一ツ水を取つて見ませう。」と言出した。予は寢臺の縁に腰掛けさせられた。一人の年若い雜使婦が寢臺の上に上つて、予を後から抱くやうにしてよりかゝらせた。看護婦は鋭き揮發性の透明な液體をガアゼに浸して、頻りに予の膨れた腹の下の方を摩擦した。 「穴をあけるんですか?」と突然予はかういふ問を發した。「えゝ、然し穴といふほどの大きな穴ぢやありません。」と醫者は立ちながら眞面目に答へた。後から予を押へてゐた雜使婦は予の問と共にプツと吹き出してさうしてそれが却々止まなかつた。若い女の健康な腹に波打つ笑ひの波は、その儘予の身體にまで傳はつて來て、予も亦遂に笑つた。看護婦も笑ひ、醫者も笑つた。そのうちに醫者は、注射器のやうな物を持つて來て、予のずつと下腹の少し左に寄つた處へチクリと尖を刺した。さうして拔いて窓の光に翳した時は二寸ばかりの硝子の管が黄色になつてゐた。すると看護婦は滿々と水のやうなものを充たした中に、黒い護謨の管を幾重にも輪を卷いて浸してある容器を持つて來た。 「今度は見てゐちや駄目、」と後の女はさう言つて予の兩眼に手を以て蓋をした。「大丈夫、そんな事をしなくても……」さう云ひながら、予は思はず息を引いた。さうして「痛い。」と言つた。注射器のやうな物が刺されたと恰度同じ處に、下腹の軟かい肉をえぐるやうな、鈍くさうして力強い痛みをズブリと感じた。 五 予は首を振つて兩眼の手を拂ひのけた。醫者は予の腹に突き込んだトラカルに手を添へて推しつけてゐた。穴はその手に隱されて見えなかつたけれども、手の外によつて察する穴は直徑一分か一分五厘位のものに過ぎないらしかつた。予は其時思つた。 「これつぱかりの穴を明けてさへ今のやうに痛いのだから、兎ても俺には切腹なんぞ出來やしない。」 見ると看護婦は、トラカルの護謨の管を持つてその先を目を盛つた硝子の容器の中に垂らしてゐた。さうして其の眞黒な管からはウヰスキイのもつと濃い色の液體が音もなく靜かに流れ出てゐた。予はその時初めて予の腹に水がたまつてゐたといふ事を信じた。さうして成程腹にたまる水はかういふ色をしてゐねばならぬ筈だと思つた。 予は長い間ぢつとして、管の先から流れ落つる濃黄色の液體を見てゐた。予にはそれが、殆んど際限なく流れ落つるのかと思はれた。やがて容器に一杯になつた時、「これでいくらです。」と聞いた。「恰度一升です。」と醫師は靜かに答へた。 一人の雜使婦は手早くそれを別の容器に移した。濃黄色の液體はそれでもまだ流れ落ちた。さうして殆んどまた容器の半分位にまで達した時、予は予の腹がひとり手に極めて緩漫な運動をして縮んでゆくのを見た。同時に予の頭の中にある温度が大急ぎで下に下りて來るやうに感じた。何かかう非常に遠い處から旅をして來たやうな氣分であつた。頭の中には次第に寒い風が吹き出した。「どうも餘り急に腹が減つたんで、少しやりきれなくなりました。」と予は言つた。言つてさうして自分の聲のいかにも力ない、情ない聲であつたことに氣がついた。そこで直ぐまた成るたけ太い聲を出して、「何か食ひたいやうだなあ。」と言つた。しかしその聲は先の聲よりも更に情ない聲であつた。四邊は俄かに暗く淋しくなつて行つた。目の前にゐる看護婦の白服が三十間も遠くにあるものゝやうに思はれた。「目まひがしますか?」といふ醫者の聲が遠くから聞えた。 後で聞けばその時の予の顏は死人のそれの如く蒼かつたそうである。しかし予は遂に全く知覺を失ふことが出來なかつた。トラカルを拔かれたことも知つてゐるし、頭と足を二人の女に持たれて、寢臺の上に眞直に寢かされたことも知つてゐる。赤酒を入れた飮乳器の細い口が仰向いた予の口に近づいた時、「そんな物はいりません。」と自分で拒んだことも知つてゐる。 この手術の疲勞は、予が生れてから經驗した疲勞のうちで最も深く且つ長い疲勞であつた。予は二時間か二時間半の間、自分の腹そのものが全く快くなつたかの如く安樂を感じて、ぢつと仰向に寢てゐた。さうして靜かに世間の悲しむべき横着といふ事を考へてゐた。 さうしてそれは、遂に予一人のみの事ではなかつたのである。 六 郁雨君足下 神樣と議論して泣きし |
……わたしの子供たちは、機関車の真似をしてゐる。尤も動かずにゐる機関車ではない。手をふつたり、「しゆつしゆつ」といつたり、進行中の機関車の真似をしてゐる。これはわたしの子供たちに限つたことではないであらう。ではなぜ機関車の真似をするか? それはもちろん機関車に何か威力を感じるからである。或は彼等自身も機関車のやうに激しい生命を持ちたいからである。かういふ要求を持つてゐるのは子供たちばかりに限つてゐない。大人たちもやはり同じことである。 ただ大人たちの機関車は言葉通りの機関車ではない。しかしそれぞれ突進し、しかも軌道の上を走ることもやはり機関車と同じことである。この軌道は或は金銭であり、或は又名誉であり、最後に或は女人であらう。我々は子供と大人とを問はず、我々の自由に突進したい欲望を持ち、その欲望を持つ所におのづから自由を失つてゐる。それは少しも逆説ではない。逆説的な人生の事実である。が、我々自身の中にある無数の我々の祖先たちや一時代の一国の社会的約束は多少かういふ要求に歯どめをかけないことはない。しかしかういふ要求は太古以来我々の中に潜んでゐる。…… わたしは高い土手の上に立ち、子供たちと機関車の走るのを見ながら、こんなことを思はずにはゐられなかつた。土手の向うには土手が又一つあり、そこにはなかば枯れかかつた椎の木が一本斜になつてゐた。あの機関車――3271号はムツソリニである。ムツソリニの走る軌道は或は光に満ちてゐるであらう。しかしどの軌道もその最後に一度も機関車の通らない、さびた二三尺のあることを思へば、ムツソリニの一生も恐らくは我々の一生のやうに老いてはどうすることも出来ないかも知れない。のみならず―― のみならず我々はどこまでも突進したい欲望を持ち、同時に又軌道を走つてゐる。この矛盾は善い加減に見のがすことは出来ない。我々の悲劇と呼ぶものは正にそこに発生してゐる。マクベスはもちろん小春治兵衛もやはり畢に機関車である。小春治兵衛は、マクベスのやうに強い性格を持つてゐないかも知れない。しかし彼等の恋愛のためにやはりがむしやらに突進してゐる。(紅毛人たちの悲劇論はここでは不幸にも通用しない。悲劇を作るものは人生である。美学者の作るわけではない。)この悲劇を第三者の目に移せば、あらゆる動機のはつきりしないために(あらゆる動機のはつきりすることは悲劇中の人物にも望めないかも知れない。)ただいたづらに突進し、いたづらに停止、――或は顛覆するのを見るだけである。従つて喜劇になつてしまふ。即ち喜劇は第三者の同情を通過しない悲劇である。畢竟我々は大小を問はず、いづれも機関車に変りはない。わたしはその古風な機関車――煙突の高い3236号にわたし自身を感じてゐる。トランス・テエブルの上に乗つて徐に位置を換へてゐる3236号に。 しかし一時代の一国の社会や我々の祖先はそれ等の機関車にどの位歯どめをかけるであらう? わたしはそこに歯どめを感じると共にエンヂンを、――石炭を、――燃え上る火を感じないわけにも行かないのである。我々は我々自身ではない。実はやはり機関車のやうに長い歴史を重ねて来たものである。のみならず無数のピストンや歯車の集まつてゐるものである。しかも我々を走らせる軌道は、機関車にはわかつてゐないやうに我々自身にもわかつてゐない。この軌道も恐らくはトンネルや鉄橋に通じてゐることであらう。あらゆる解放はこの軌道のために絶対に我々には禁じられてゐる。こういふ事実は恐ろしいかも知れない。が、いかに考へて見ても、事実に相違ないことは確である。 もし機関車さへしつかりしてゐれば、――それさへ機関車の自由にはならない。或機関手を或機関車へ乗らせるのは気まぐれな神々の意志によるのである。ただ大抵の機関車は兎に角全然さびはてるまで走ることを断念しない。あらゆる機関車の外見上の荘厳はそこにかがやいてゐるであらう。丁度油を塗つた鉄のやうに。…… 我々はいづれも機関車である。我々の仕事は空の中に煙や火花を投げあげる外はない。土手の下を歩いてゐる人々もこの煙や火花により、機関車の走つてゐるのを知るであらう。或はとうに走つて行つてしまつた機関車のあるのを知るであらう。煙や火花は電気機関車にすれば、ただその響きに置き換へても善い。「人は皆無、仕事は全部」といふフロオベエルの言葉はこのためにわたしを動かすのである。宗教家、芸術家、社会運動家、――あらゆる機関車は彼等の軌道により、必然にどこかへ突進しなければならぬ。もつと早く、――その外に彼らのすることはない。 我々の機関車を見る度におのづから我々自身を感ずるのは必しもわたしに限つたことではない。斎藤緑雨は箱根の山を越える機関車の「ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山」と叫ぶことを記してゐる。しかし碓氷峠を下る機関車は更に歓びに満ちてゐるのであらう。彼はいつも軽快に「タカポコ高崎タカポコ高崎」と歌つてゐるのである。前者を悲劇的機関車とすれば後者は喜劇的機関車かも知れない。 |
三両のやせ馬 「馬がほしい、馬がほしい、武士が戦場で、功名するのはただ馬だ。馬ひとつにある。ああ馬がほしい」 川音清兵衛はねごとのように、馬がほしいといいつづけたが、身分は低く、年は若く、それに父の残した借金のために、ひどく貧乏だったので、馬を買うことは、思いもおよばなかった。清兵衛は、毛利輝元の重臣宍戸備前守の家来である。 かれはなぜそんなに馬をほしがったか。それというのは、豊臣秀吉がここ二、三年のうちに、朝鮮征伐を実行するらしかったので、もしそうなると、清兵衛もむろん毛利輝元について出陣せねばならぬ。そのとき、テクテク徒歩で戦場をかけめぐることは、武士たるものの名誉にかかわる、まことに不面目な話だからである。そこで、ひどい工面をして、やっと三両の金をこしらえた清兵衛は、いそいそと、領内の牧場へ馬を買いに出かけた。二、三日たって、かれがひいてかえったのは、まるで、生まれてから一度も物を食ったことがないのかと思うような、ひどいやせ馬だった。 清兵衛は、うれしくてたまらない様子で、これに朝月という名をつけ、もとより、うまやなどなかったので、かたむいた家の玄関に、屋根をさしかけて、そこをこの朝月の小屋にした。友人たちは、骨と皮ばかりの馬を、清兵衛が買ってきたのでおどろいた。 「これは、朝月でなくて、やせ月だ」 そして、 「清兵衛、この名馬はどこで手に入れた」と、からかい半分にきいたりしようものなら、 「ほう、おぬしにもこれが名馬だとわかるか」 清兵衛は得意になって、朝月を見つけた話をきかせたうえ、 「これが三両で手にはいったのだ、たった三両だよ」とつけくわえる。 その様子があまりまじめなので、あきれかえった友だちは、しまいには、ひやかすのをやめたが、いつしか三両でやせ馬を買ったというところから「三両清兵衛」のあだなをつけられてしまった。 清兵衛は、そんなことにはすこしもかまわず、自分は食うものも、食わないようにして、馬にだけ大豆や、大麦などのごちそうを食わせた。朝月は主人清兵衛の心がよくわかったとみえ、そのいうことをききわけた。そして、しだいに肥え太ってきた。このことが、宍戸備前守の耳に入ると、 「清兵衛のような貧乏な者が、馬をもとめたとは、あっぱれな心がけ、武士はそうありたいものだ」 と、さっそくおほめのことばとともに、金五十両をあたえられた。 清兵衛は、この金を頂戴すると、第一に新しいうまやを建てた。そして、自分のすむ家は、屋根がやぶれて雨もりがするので、新築のうまやのすみに、三畳敷きばかりの部屋を作らせて、 「朝月、今日から貴様のところへやっかいになるぞ、よろしくたのむて」 と、ふとんも机も、鎧びつまでもここへもちこんできて、馬糞の臭いのプンプンする中に、平気で毎日毎日寝起きしていた。 「三両清兵衛は、馬のいそうろうになったぞ」 友人たちは笑った。清兵衛はあいかわらず平気なもの。 「朝月。いまに貴様とふたりで、笑ったやつを笑いかえしてやる働きをしてやろうな。そのときにはたのむぞ」 「ウマクやりますとも、ひ、ひん!」 まさかそんなことはいわなかったが、清兵衛のことばがわかったと見えて、朝月は首をたれた。清兵衛は一生懸命になって、朝月を養ったので、その翌年には見ちがえるような駿馬になった。 「おや、おや、あのばけもの馬がりっぱな馬になったぞ」 「さすがに清兵衛は馬を見る目がある。あのやせ馬があんなすばらしいものになろうとは、思えなかった」 「いや、あれほど心を入れて飼えば、駄馬でも名馬にならずにはいまい」 昨日まで笑っていた友だちは、朝月の駿馬ぶりを見て、心からかんぷくしてしまったのであった。 夜うちを知っていななく朝月 このときである。 うわさの朝鮮征伐が、いよいよ事実となってあらわれた。加藤清正、小西行長、毛利輝元らが、朝鮮北方さして、進軍しているうちに冬となった。北朝鮮の寒さには、さすがの日本軍もなやまされ、春の雪どけまで、蔚山に城をきずいて籠城することになった。加藤清正、浅野幸長、それに毛利勢の部将宍戸備前守らがいっしょである。 清兵衛が、残念でたまらなかったのは、まだ一度も、よき敵の首をとらず籠城することであったが、こればかりはどうすることもできなかった。 「朝月、残念だなア」 馬の平首をたたいてなげきながら、毎日備前守受け持ちの工事場へ出て、人夫のさしずをしていた。 城がどうやらできあがったころ、明軍十四万の大兵が京城に到着し、この蔚山城をひともみに、もみ落とそうと軍議していることがわかった。 十二月二十二日の夜半である。蔚山城のうまやの中でも、あいかわらず、清兵衛は愛馬朝月といっしょに、わらの中にもぐってねむっていると、どうしたことか、にわかに朝月が一声いなないて、そこにおいてあった鞍をくわえた。 「どうしたのじゃ朝月、寒いのか」 清兵衛は、そのはなづらをなでていった。うまやの外の広場には、下弦の月が雪を銀に照らしていた。そこにあったむしろを背へかけてやろうとすると、朝月はそれをはね落として、鞍をぐいぐいとひいた。なにか事変の起こるのを感じたらしい様子である。 「おお、そうか、なにか貴様は感じたのだなア」 清兵衛が、朝月に鞍をつけると、静かになったので、 「ははあ、こりゃ、明兵が夜討ちをかけるのを、こいつ、さとったのだな、りこうなやつだ。よし、殿に申しあげよう」 と気がついて、清兵衛は、あたふたと、備前守の寝所の外の戸のところへ立って、 「川音清兵衛、殿にまで申しあげます。拙者の乗馬朝月が、こよい異様にさわぎまして、鞍をかみます。そこで、鞍をつけてやりますと、静かにあいなりました。察するに、なにか異変のあるしらせかとぞんじます」 と、どなった。 「よくぞ知らせた。たったいま軍奉行より、明軍は、すでに三里さきまでおし寄せてまいった、防戦のしたくせよ、と通知がまいったところであった。それを早くもさとったとは、さすがに三両で買った名馬、あっぱれ物の役に立つぞ。清兵衛、そちは急ぎ陣中に防戦のしたくいたせと、どなって歩け」 「はっ」 朝月をほめられて、清兵衛は、うれしくてたまらない。陣中を大声でどなり、眠っている者を起こして歩いて、うまやにかけもどるなり、朝月の平首へかじりつくようにして、 「おい、よく知らせてくれた。やっぱり明兵が、夜討ちをかけるらしいのだ。殿から貴様はほめられたぞ」 |
宛先 東京市麹町区平河町 発信地 東京市外上駒込染井三二九 辻方 御手紙拝見いたしました。そして私はあの御手紙の全面に溢れたあなたの力強い真実に強く接しました。同時に私は何とも形容の出来ない苦しい気持ちになりました。実は昨日お会ひしました時 私はもつとお話しなければならないいろいろなものを持つて居りました。それはあなたがあの手紙をお書きになる前に知つておいて頂かねばならない事なのでした。昨日あすこでお別れしまして後に 私はかへつたらすぐにそれ等の事を書いてあなたに御送りしやうと思つたので御座いました。然し昨夜は可なり労れてゐましたので 何にも書けませんでした。そして今朝御手紙を拝見して私は本当にどうしていゝか分らなくなりました。私はあなたに何とお詫びしたらよろしいので御座いませう。本当に私が気がよはかつた為めに申後れてしまひました。でも私は、自分を偽はるといふ事の出来ない者で御座います。そしてまた人を欺く事も嫌いで御座います。私は、おなじみの浅いあなたに対して申あげる事ではないので御座いますが あなたをまじめな方だと信じて御話いたし度いと存じます そして、それは、あなたに一層私といふものがはつきりと御わかりになるといふ事と信じます。 委しく御話すれば随分長いのですけれども くだらない事はぬきにして御話いたします。昨日御会ひしたあなたの眼にはどううつりましたか存じませんが 小さいうちからいろ〳〵な冷たい人の手から手にうつされて違つた土地の違つた風習と各々の人の違つた方針で教育された私は いろ〳〵な事から自我の強い子でした。そして無意識ながらも習俗に対する反抗の念は十二三才位からめぐんでゐたので御座います。私は生れた家にも、両親にも兄妹にも親しむ事の出来ない妙に偏つた感情を持つてゐるのです。十四五位から私は叔父に監督されて勉強するやうになりました。私の十七の夏、帰省しました時、意外にも、私は結婚の話を持ち出されました。本当に意外なのです。勿論私は断つてしまひました。然しその時には既にもうすべての約束はすんでゐたらしいのです。すべては叔父の専断でした。私は少しの猶予をも与へられずに結婚を強制されたのです のがるる事の出来ないと解つたときに私は周囲のすべての人を呪ひながら或る決心と共に式につらなりました。私は私の夫となるべき人が如何なる性格を持つた人か如何なる履歴を持つた人かも知りませんでした 姓名さへも私は知らなかつたのです。無論その人は私がすべてを捧げ得る人ではありませんでした。如何なる方面から云つても私とは反対の人らしく思はれました。私は意地をはりぬいて、ろくに口もきかずに直ぐに上京を口実にかへりました。そしてとう〳〵帰校いたしました。けれどもその時、私は五年でしたから卒業はすぐ目前にせまつてまゐりました。卒業して後は無論知らない嫌やな家庭に入らねばなりません。私はたゞ一日々々とその日の近くなるのを恨みながら苦しい心持ちを抱いて、学科の勉強さへも怠り勝ちでした。いよ〳〵三月になつたとき私は、国に帰るまいと決心したのですけれども 私の従姉が私と一緒に卒業して一緒に帰る事になつてゐるのです。勿論、公然と止まる事は出来ませんので どうしても一度は東京を従姉と一しよに出なければなりません。そして途中で従姉からはなれて、暫くかくれやうと思つたのです。そして緊張しきつて日を送りました。卒業試験もうやむやで終つて 二十六日が卒業式といふ事になりました。私はなるべくゆつくりして、いろ〳〵な準備をして置かうと思つてゐますと突然従姉の祖父がなくなつたりして廿七日に帰らねばならないやうになりました。私は、もう何にする間もありませんでした。廿六日の夜は、私の体が裂けてもしまひさうな、苦しい大擾乱の中に、泣く事も出来ない悲痛な気持ちでおそくまで学校に残りました。翌日は立たなければなりませんでした 丁度その時、上野の竹の台では洋画家の日本画の展覧会と青木繁氏の遺作展覧会がやつてゐました。私はそのたつ日二十七日に すべての事をすてゝそれを見に行きました。私の為めに一緒に行かうと云つて一緒に行つてくれたのは、学校の英語の先生でした。私は昨日一昨日あたりからの激動にわく〳〵してゐましたので 落ち附いて見てゐられませんでした。そしてそのかへりにはじめて、何の前置もなしに激しい男の抱擁に合つて、私は自身が何をかも忘れてしまひました。惑乱に惑乱をかさねた私は おちつく事も出来ずそのまゝ新橋にかけつけました。新橋には多勢のお友達や下級の人たちが来てゐました。従姉はさきに行つてゐましたが 私のおそかつた為めに汽車の時間に後れたのです。私は再び小石川までかへつてまゐりました。すべての事は私には夢中でした。何を考へる事も出来なかつたのです。再びその夜十一時にたつ事にして新橋に行きました。私共に厚意を絶えず持つて下すつた三人の先生がおそいのもかまはず送つて下さいました。汽車の中でだん〳〵おちついて来ますといろ〳〵な事、考へなければならない事が頭に一つ〳〵浮んで来ました。一番に浮んだ事は昼間自分に対した男の態度です 私はそれが何だか多分の遊戯衝動を含んでゐるやうにも思はれますのですがまた、何かのがれる事の出来ないものにとらへられたやうな力強さも感ぜられるのです。私はどうしていゝか迷つてゐるうちに汽車はずん〳〵進んで行つて、もうのがれる事が出来ないやうなはめになりました。そして仕方なしに帰りましたが、かへつてもぢつとしてゐられないのです、私はすべて私の全体が東京に残つてゐる何物かに絶えず引つぱられてゐるやうに思はれて、苦しみました。そして、直に、父の家を逐はれて知らないいやな家に行かねばならないといふ苦痛も伴つて、とう〳〵私は丁度帰つて九日目の日家を出てしまつたのです。暫くの間、十里ばかりはなれた友達の家にゐました私は、私の在校中に可なり私の為めに心をつかつて下すつた先生のお力によつて上京しました。それまで、私はその先生方にすらそれ等の事情をお話しなかつたのです。そして、私はさしあたり行く処がないので、英語の先生のお宅に御厄介になつて、そしていろ〳〵相談しました。 国の方のさはぎは予期以上に大きかつたのです。そしてさはぎは学校にまで及んで その為めに私を助けて下すつた二人の先生は可なりに御迷惑だつたのです。そして、私はその時はもうはつきりした意識の下に真実に、男を愛してゐました。男も私を愛してくれました。私共は、かう云ふ関係になつて、それを、だまつてゐるわけには行かないやうになりました。私共は出来る丈けまじめに卒直に、教頭まで打ち明けました。私は卒業するまでしばらくの間教頭の先生の御宅にゐて、起き伏ししてゐましたので かなりに話が分つてる人だとも信じましたので――処が私共のそのまじめな行為は、認められないで却つて一層誤解されて事は更らに面倒になりました。男は断然学校を止めてしまひました。もう一人の先生もおなじ行動をとるといふ事を云つてらしたのですが その先生は、とにかくいろ〳〵な事情でお止めにならなかつたのです その先生は私の在学中の担任の先生でした。男は家に対して責任の多い身体でした。母と妹を養はねばならない人でした。勿論財産といふものもないのです。直ぐに生活にさしつかへるのです、その苦しい中にゐて、私はたゞその事件の解決する日を待つてゐたのです、けれども六月になつても七月になつても駄目なのです。七月の末になつて、私は、仕方がありませんから自身かへつて、解決して来やうと思つてまたかへつたのです。 帰ると、私はその日から、いろ〳〵なものでひし〳〵と縛ばられ責められてのがれる道もないのです。私はただ「真」といふ事一つを味方にしていろ〳〵なこゝろみを目を瞑つてうけました。けれども後から〳〵といろんなものに逐はれて私は、極度に疲れて体さへ健康を害してしまつたので御座います。而も周囲の者は、なを惨酷に、肉親の恩愛や義理、人情などいふものでひし〳〵と責めるのです。私は幾度か絶望に絶望を重ねて死を決心しました。けれどもその度びにたつた一つの私の愛はなをその度びに深く〳〵心の奥に喰ひ入つて力強い執着となつて、私のすべてを支配するやうな事になつて来て、苦しみ悶えながら死ねないのです。私は、とうてい、たゞでは打ちかてないと思ひましたので、とうとう周囲を欺いて安神させて 油だんを見て再び上京しました。去年の十一月なのです。そして今度はしばらく国の方へはたよりをせずにゐました。然し事件は私が再度の家出後直ぐに解決したそうです。此の間父から知らせてよこしました。 それでやう〳〵国ともたよりをし合ふやうになつたので御座います、中央新聞に書いた事実は相違の点がまつたく御座いますが私がいまその男と同棲してゐる事は事実なので御座います。私共はずいぶん去年と今年ひどい目にあひました。いまでもまだ遇ひつゞけてゐます 然しそうした苦しい周囲の事情が一層、私共の結合をかたくして、私共は、いま離れる事の出来ないものなので御座います。(私はまじめにお話してゐるのですが もしあなたに御不快を与へるやうな失礼な書き方ではないかと気がつきました。もしさうでしたら御許し下さいまし、)それで実は私はあなたの最初の御手紙を拝見しました時に大変に困つたのです。それであなたに対してはどうかと存じましたがとにかく男に、あなたの御手紙を示して相談いたしました。そしますと、男は私より以上に、よくあなたを、存じて居りました。勿論あなたのお書きになるものを透してですけれども――そしてあなたが大変にまじめな方であるらしいと云ふ事やそれからいろ〳〵その他自分で知つてゐる丈けの事を並べて私に説明してくれて、すぐに御返事を出すやうにとすゝめてくれました。それでとにかく、お目にかゝつた上で、すべてお話しやうと存じましたのです。そして、私はあなたが私の思つたやうにまじめな方であつたら 私の話をさう気持ち悪くしてお聞きになる事はあるまいと思ふので御座いました。 私は今日のあなたの御手紙を拝見して何故お目にかゝつたらうといふ事をしみ〴〵と思ひました。でも、もしあなたが御許し下さるならば私は、このまゝ意味もなくお別れするよりも親しいお友達として御交はりして導いて頂き度いと思ひます。そうしてなをその上にも御許し下されば 私の半身である男にもお会ひになつて下さればどんなに幸でせう。 私は、今日のあなたのお手紙の一字一句をも深い理解と同情をもつて悉くうけ入れる事が出来ますと大きな声で申あげる事の出来る力強さを持つて居ります、自信が御座います。それだけにまた苦しう御座います。私は 何だか犯すべからざる他人のこゝろをみだりに犯したといふその罪が 私には背負ひきれぬ程の罪に思えてなりません。私はあなたがどんなにお怒りになつてもどうおわびしてよいか分りません。 それからエレン、ケイの翻訳のこと、勿論、私のまづしい語学で完成する筈はありません、たしかに男の力によるのです、私も出来得る丈け勉強して他人の力などによらずに自分で出来るやうにしたいと心懸けて勉強してゐます。私は、決して、それを、かくしたり偽つたりはしません。私の力の足りない間はそれも仕方が御座いません、私は、どなたかいけないとでも仰云れば自分一人で出来るまでは決していたしません。あゝいふ翻訳の、私に出来ないといふ事は たぶんどなたも御承知だらうと存じます。 生田先生はよくそんなやうな事には注意してゐらつしやる方で御座いますね、新年号の中央公論に出た平塚さんの新らしい女といふのも実は私が平塚さんに話してあげた事があるのだといふやうな事を仰云つたといふ事も 一寸他で聞きました。 矢張り、私が力以上に出すぎるのがいけないので御座いましよう。私も本当に、何事も分らない、何も知らないくせに青鞜に書いたりするのは僭越だとは知つてゐますが あゝして内部にゐて編輯の手伝ひなんかしてゐますと原稿がたりなかつたりなんかしますと、余儀なく幼稚な事も生意気な事でも書いて、笑はれなければならないのです。私も実はこの頃何事も書き度くないのです。自分でもそれをさほど苦しいとは存じません もう少し語学でも勉強して素養を深くして何か実のあるものをつかみ得るまでは これから頑固にだまつてゐやうと存じます。 つまらない事を永々かきました。何卒お許し下さい。私はすべて申あげる事だけは申あげてしまひました、私がこれだけの事を申あげ後れたといふ事をおわびいたしますと同時にすべては、あなたのまじめな判断をお待ちいたします。 六月二十四日 |
この無題の小説は、泉先生逝去後、机辺の篋底に、夫人の見出されしものにして、いつ頃書かれしものか、これにて完結のものか、はたまた未完結のものか、今はあきらかにする術なきものなり。昭和十四年七月号中央公論掲載の、「縷紅新草」は、先生の生前発表せられし最後のものにして、その完成に尽くされし努力は既に疾を内に潜めいたる先生の肉体をいたむる事深く、その後再び机に対われしこと無かりしという。果して然らばこの無題の小説は「縷紅新草」以前のものと見るを至当とすべし。原稿はやや古びたる半紙に筆と墨をもって書かれたり。紙の古きは大正六年はじめて万年筆を使用されし以前に購われしものを偶々引出して用いられしものと覚しく、墨色は未だ新しくしてこの作の近き頃のものたる事を証す。主人公の名の糸七は「縷紅新草」のそれとひとしく、点景に赤蜻蛉のあらわるる事もまた相似たり。「どうもこう怠けていてはしかたが無いから、春になったら少し稼ごうと思っています。」と先生の私に語られしは昨年の暮の事なりき。恐らくこの無題の小説は今年のはじめに起稿されしものにはあらざるか。 雑誌社としては無題を迷惑がる事察するにあまりあれど、さりとて他人がみだりに命題すべき筋合にあらざるを以て、強てそのまま掲出すべきことを希望せり。 (水上瀧太郎附記) 伊豆の修禅寺の奥の院は、いろは仮名四十七、道しるべの石碑を畷、山の根、村口に数えて、ざっと一里余りだと言う、第一のいの碑はたしかその御寺の正面、虎渓橋に向った石段の傍にあると思う……ろはと数えて道順ににのあたりが俗に釣橋釣橋と言って、渡ると小学校がある、が、それを渡らずに右へ廻るとほの碑に続く、何だか大根畠から首をもたげて指示しをするようだけれど、このお話に一寸要があるので、頬被をはずして申しておく。 もう温泉場からその釣橋へ行く道の半ばからは、一方が小山の裙、左が小流を間にして、田畑になる、橋向うへ廻ると、山の裙は山の裙、田畑は田畑それなりの道続きが、大畝りして向うに小さな土橋の見えるあたりから、自から静かな寂しい参拝道となって、次第に俗地を遠ざかる思いが起るのである。 土地では弘法様のお祭、お祭といっているが春秋二季の大式日、月々の命日は知らず、不断、この奥の院は、長々と螺線をゆるく田畝の上に繞らした、処々、萱薄、草々の茂みに立ったしるべの石碑を、杖笠を棄てて彳んだ順礼、道しゃの姿に見せる、それとても行くとも皈るともなく煢然として独り佇むばかりで、往来の人は殆どない。 またそれだけに、奥の院は幽邃森厳である。畷道を桂川の上流に辿ると、迫る処怪石巨巌の磊々たるはもとより古木大樹千年古き、楠槐の幹も根もそのまま大巌に化したようなのが纍々と立聳えて、忽ち石門砦高く、無斎式、不精進の、わけては、病身たりとも、がたくり、ふらふらと道わるを自動車にふんぞって来た奴等を、目さえ切塞いだかと驚かれる、が、慈救の橋は、易々と欄干づきで、静に平かな境内へ、通行を許さる。 下車は言うまでもなかろう。 御堂は颯と松風よりも杉の香檜の香の清々しい森々とした樹立の中に、青龍の背をさながらの石段の上に玉面の獅子頭の如く築かれて、背後の大碧巌より一筋水晶の滝が杖を鳴らして垂直に落ちて仰ぐも尊い。 境内わきの、左手の庵室、障子を閉して、……ただ、仮に差置いたような庵ながら構は縁が高い、端近に三宝を二つ置いて、一つには横綴の帳一冊、一つには奉納の米袋、ぱらぱらと少しこぼれて、おひねりというのが捧げてある、真中に硯箱が出て、朱書が添えてある。これは、俗名と戒名と、現当過去、未来、志す処の差によって、おもいおもいにその姓氏仏号を記すのであろう。 「お札を頂きます。」 ――お札は、それは米袋に添えて三宝に調えてある、そのままでもよかったろうが、もうやがて近い……年頭御慶の客に対する、近来流行の、式台は悪冷く外套を脱ぐと嚏が出そうなのに御内証は煖炉のぬくもりにエヘンとも言わず、……蒔絵の名札受が出ているのとは些と勝手が違うようだから――私ども夫婦と、もう一人の若い方、と云って三十を越えた娘……分か? 女房の義理の姪、娘が縁づいたさきの舅の叔母の従弟の子で面倒だけれど、姉妹分の娘だから義理の姪、どうも事実のありのままにいうとなると説明は止むを得ない。とに角、若いから紅気がある、長襦袢の褄がずれると、縁が高いから草履を釣られ気味に伸上って、 「ごめん下さいまし。」 すぐに返事のない処へ、小肥りだけれど気が早いから、三宝越に、眉で覗くように手を伸ばして障子腰を細目に開けた。 山気は翠に滴って、詣ずるものの袖は墨染のようだのに、向った背戸庭は、一杯の日あたりの、ほかほかとした裏縁の障子の開いた壁際は、留守居かと思う質素な老僧が、小机に対い、つぐなんで、うつしものか、かきものをしてござった。 「ごめん下さいまし、お札を頂きます。」 黒い前髪、白い顔が這うばかり低く出たのを、蛇体と眉も顰めたまわず、目金越の睫の皺が、日南にとろりと些と伸びて、 「ああ、お札はの、御随意にの預かっしゃってようござるよ。」 と膝も頭も声も円い。 「はい。」 と、立直って、襟の下へ一寸端を見せてお札を受けた、が、老僧と机ばかり円光の裡の日だまりで、あたりは森閑した、人気のないのに、何故か心を引かれたらしい。 「あの、あなた。」 こうした場所だ、対手は弘法様の化身かも知れないのに、馴々しいこという。 「お一人でございますか。」 「おお、留守番の隠居爺じゃ。」 「唯たお一人。」 「さればの。」 「お寂しいでしょうね、こんな処にお一人きり。」 「いや、お堂裏へは、近い頃まで猿どもが出て来ました、それはもう見えぬがの、日和さえよければ、この背戸へ山鳥が二羽ずつで遊びに来ますで、それも友になる、それ。」 目金がのんどりと、日に半面に庭の方へ傾いて、 「巌の根の木瓜の中に、今もの、来ていますわ。これじゃ寂しいとは思いませぬじゃ。」 「はア。」 と息とともに娘分は胸を引いた、で、何だか考えるような顔をしたが、「山鳥がお友だち、洒落てるわねえ。」と下向の橋を渡りながら言った、――「洒落てるわねえ」では困る、罪障の深い女性は、ここに至ってもこれを聞いても尼にもならない。 どころでない、宿へ皈ると、晩餉の卓子台もやい、一銚子の相伴、二つ三つで、赤くなって、ああ紅木瓜になった、と頬辺を圧えながら、山鳥の旦那様はいい男か知ら。いや、尼処か、このくらい悟り得ない事はない。「お日和で、坊さんはお友だちでよかったけれど、番傘はお茶を引きましたわ。」と言った。 出掛けに、実は春の末だが、そちこち梅雨入模様で、時々気まぐれに、白い雲が薄墨の影を流してばらばらと掛る。其処で自動車の中へ番傘を二本まで、奥の院御参詣結縁のため、「御縁日だとこの下で飴を売る奴だね、」「へへへ、お土産をどうぞ。」と世馴れた番頭が真新しい油もまだ白いのを、ばりばりと綴枠をはずして入れた。 贅沢を云っては悪いが、この暖さと、長閑さの真中には一降り来たらばと思った。路近い農家の背戸に牡丹の緋に咲いて蕋の香に黄色い雲の色を湛えたのに、舞う蝶の羽袖のびの影が、仏前に捧ぐる妙なる白い手に見える。遠方の小さい幽な茅屋を包んだ一むら竹の奥深く、山はその麓なりに咲込んだ映山紅に且つ半ば濃い陽炎のかかったのも里親しき護摩の燃ゆる姿であった。傘さしてこの牡丹に彳み、すぼめて、あの竹藪を分けたらばと詣ずる道すがら思ったのである。 土手には田芹、蕗が満ちて、蒲公英はまだ盛りに、目に幻のあの白い小さな車が自動車の輪に競って飛んだ。いま、その皈りがけを道草を、笊に洗って、縁に近く晩の卓子台を囲んでいたが、 ――番傘がお茶を引いた―― おもしろい。 悟って尼にならない事は、凡そ女人以上の糸七であるから、折しも欄干越の桂川の流をたたいて、ざっと降出した雨に気競って、 「おもしろい、その番傘にお茶をひかすな。」 宿つきの運転手の馴染なのも、ちょうど帳場に居わせた。 九時頃であった。 「さっきの番傘の新造を二人……どうぞ。」 「ははは、お楽みで……」 番頭の八方無碍の会釈をして、その真新しいのをまた運転手の傍へ立掛けた。 しばらくして、この傘を、さらさらと降る雨に薄白く暗夜にさして、女たちは袖を合せ糸七が一人立ちで一畝の水田を前にして彳んだ処は、今しがた大根畑から首を出して指しをした奥の院道の土橋を遥に見る――一方は例の釣橋から、一方は鳶の嘴のように上へ被さった山の端を潜って、奥在所へさながら谷のように深く入る――俗に三方、また信仰の道に因んで三宝ヶ辻と呼ぶ場所である。 |
すでにある芸術を政治が利用して有効に役立てるということはいくらも例のあることであるが、政治の必要から新たにある種の芸術を生み出し、しかも短期間にそれを完成するというようなことはほとんど不可能なことで、いまだかつてそのようなことが芸術の歴史に記されたためしはない。 太平洋戦争が開始されて以来、外地向け映画の問題がやかましく論議せられ、各人各様の説が横行しているが具体的には何の成果もあがらないのは芸術の生命が政治的要求だけで自由にならないことを証明しているようなものである。 ある種の芸術が昭和二十年代の政治に役立つためには、遅くともそれが昭和の初年には完成していなければならぬし、そのためにはすでに明治大正のころに十分なる基礎が与えられていなければならぬ。明治大正のころには我々は何をしていたか。そして君たちは? 今となつて外地へ持ち出す一本の映画もないと叫び、その原因をあげて映画芸術家の無能低劣のゆえに帰し、口を極めてこれをののしる人がある。 ああ、古来他の責任を説くほどやすいことはない。それで物事が解決するなら私もまたよくそれをすることができる。すなわち、かくも無能低劣なる我々に映画を任せきりにして今まで省みようともしなかつたのはだれの責任であるかと。しかし、かくして互にどろの投げ合いをすればお互がどろまみれになるばかりでついに得るところはない。 日本映画の進出に関する方策については今までにおびただしい議論がくり返されたが、私の見るところではだいたいにおいてそれを二つの傾向にわかつことができる。すなわち一つは特別にいわゆる外地向きの映画を企画製作すべしという意見。他の一つは、ことさらに外地向きなどということを顧慮せず、優秀なる映画さえ製作すれば、進出は期して待つべしとなす議論である。こまかく拾つて行けばなおこのほかにもいくばくかの意見があるであろうが、方針の根幹はおよそ右の二途に尽きるようである。 順によつてまず最初に外地向き映画特製論を検討してみるが、ここでまず問題になるのはいわゆる外地向きとはいかなる謂かということである。論者は簡単にいう。すなわち取材の範囲を拡張せよと。またいう。雄大なる構想を練れと。もちろんいずれも結構なる議論である。私にはこれらの意見に反対するいささかの理由もない。それらは当然なさねばならぬことであるし、またできるときがあると思う。しかしながら、それは今日いつて今日できることではないのである。私はここでもまた、いうことのあまりにやすきを嘆ぜざるを得ない。 試みに思え、国民学校の一年生でも、今日先生の教えを理解し得るのは過去六年間の家庭の薫陶が基礎をなしているからである。我々の過去に何の薫陶があつたか! 説くものはまたいう。せりふの多い映画は不向きであるから、極力せりふを少なくし、動きを多くし、あたうべくんば活劇風のものを作れと。 あるいはそれもよいだろう。しかし、それをなすためには複雑な内容を忌避しなければならず、したがつて我々は意識的に一応退化しなければならない。一歩でも半歩でも絶えず前へ進むところに芸術にたずさわるもののよろこびがある。うしろへ進めといわれて熱情を湧かし得るものがあるかどうか。 説をなすものはさらにいう。畳の上に坐臥する日本の風習は彼らのわらいを買うからおもしろくない。百姓の生活は見せないほうがよい。貧しい階級の生活は見せないほうがよい。あるいはいわく何。いわく何。 ここにいたつて私は彼らに反問せずにはいられない。そもそも君たちは映画を何と心得ているのかと。国民の生活を反映しないような映画はすでに映画ではないのだ。芸術とは民族の生活のうえに咲く花なのだ。 他国の人間のしり馬に乗つて、百姓の姿を醜く感じるようなものはないはずである。百姓の姿は醜く、背広を着た月給取りは美しいというのか。そして、貧しい勤労者の生活を描くことは恥辱で、富みてひま多き人種を描くことは光栄なのか。世界のどこに貧者のおらぬ国があろう。世界の経済は、そして国家の生活力はほとんど彼ら貧しいものの勤労によつて維持されているではないか。 かくのごとき重要なる国家の構成分子の生活を除外してどこに芸術があろう。日本には百姓もいない。貧者もいない。いるのは軍人と金持だけであり、それが立派な洋館に住み、洋服を着て椅子に腰掛け、動けば雄大なる構想をもつて大活躍を演ずるというのが彼らのいう外地向きの映画なのだ。このような映画の作れる人は作るがよい。私には不可能である。 ここで第二の意見の検討に移る。すなわち優秀なる映画さえ作れば、進出は期して待つべしという説である。なるほどこの説はある程度まで正しい。しかし要するにある程度までである。 なぜか。今それを明らかにする。芸術が民族の生活のうえに咲く花だということを私はすでにいつた。ここに大きな問題がある。もちろん芸術には国際性もある。すぐれた芸術にしてしかも国際性を持つものは、その属する民族の生活をうるおしたうえ、さらに流出し国境の外へひろがつて行く。しかしいかに優れた芸術でもあまりにも民族性が濃厚で国際性に乏しい場合は他邦で理解せられず、したがつて国境を越えない場合がある。 たとえば芭蕉の俳句である。万葉の歌である。これらは民族の芸術としては世界に誇つていいものであるが国際性はない。しかるに浮世絵の場合になると、あれほど民族性が濃厚でありながら、造型芸術なるゆえに案外理解せられて国境を越えて行つた。(あるいは浮世絵の持つエロチシズムが多分に働いているかもしれないが。) ここにはむろん芸術の範疇の問題もある。すなわち絵画は文学よりも国際性があり、散文は詩よりも国際性に富むという類である。 たとえばユゴーといえば我々はすぐに「レ・ミゼラブル」を想起するが、彼の本国において散文作家としてのユゴーよりも詩人としてのユゴーのほうがはるかに高く評価されているようである。しかし我々はユゴーに詩があることさえろくに知らない。この一例は芸術の範疇によつて国際性に径庭のある事実を端的に物語つているが、同時にまた、価値の高いものでさえあれば国際性を持つという意見が必ずしも正しくないことを証拠立ててもいるのである。 さらに次のような例もある。すなわち我々は過去において外国の探偵小説を読み、それらの作家の名前までおぼえてしまつた。しかし、それらとは比較にもならないほど高い作家である鴎外の名を知つている外国人が果して何人あるだろう。ここにもまた国際性が決して価値に比例しない実例を見る。 優れた作品を作りさえすれば、それらは易々と国外に進出するという楽観論は、芸術に国際性のみを認めて民族性のあることを見落したずさんな議論であつてまだ思考が浅いのである。 いま、日本の政治は何より映画の国際性を利用しようと焦つているのであるが、ここで特に為政者に深く考えてもらいたいことは芸術においては国際性というものはむしろ第二義の問題だということである。しからば芸術における第一義の問題は何か。他なし。芸術の第一義は実に民族性ということである。 諸君はハマモノという言葉を知つているであろう。いい換えれば横浜芸術である。民族に根ざし、民族に生れた芸術が、自己の民族に対する奉仕を忘れて国際性を第一義とし、輸出を目的とした場合、それはたちまちハマモノに転落し国籍不明の混血児ができあがるのである。「新しき土」はその悲惨なる一例である。この種のものは芸術国日本の真価を傷つけこそすれ、決して真の意味の政治に役立つはずはないと私は今にして確信する。 くり返していう。芸術は何よりもまずその民族のものである。したがつて自己の所属する民族に奉仕する以外には何ごとも考える必要はない。いな、むしろ考えてはならぬのである。自己の民族への奉仕をまつとうし、民族芸術としての責務をはたしたうえ、さらに余力をもつて国境を越えて行くなら、それはよろこばしいことであるが、最初から他の民族への迎合を考えて右顧左眄し始めたらそれはすでに芸術の自殺である。 およそ民族にはそれぞれ異なる事情がある。アメリカにはアメリカの事情があり、我々には我々の事情がある。彼の民族の垣は低く、我が民族の垣は高いのである。 垣とはすなわち風俗、習慣、言語の隔てを意味する。 我がたたみに坐し、彼が椅子に倚るのは風俗習慣の差であつて、それがただちに文化の高低を意味するものではない。 かつて安田靱彦は黄瀬川の陣に相会する頼朝義経の像を画いて三代美術の精粋をうたわれたが、殊に図中頼朝の坐像の美しさは比類がない。また、室町期以降の多くの武将の坐像、あるいは後醍醐天皇の坐像の安定した美しさなど、所詮椅子に腰掛けている人種のうかがい知るべきものではないが、私はこれらの美を解し得ない彼らにむしろ同情を禁じ得ない。 我々の感じる美、我々を刺戟する芸術的感興は、常にあるがままなる民族の生活、その風俗習慣の中にこそあるのである。 他民族がもしも我々の映画の中に畳の上の生活を見て醜いというならば見てもらわぬまでである。他民族の意を迎えるために我々の風俗習慣を歪曲した映画を作るがごときことは良心ある芸術家の堪え得べきことではない。 もちろん現在我々の映画はその表現において、技術において、残念ながら世界一流の域には遠くおよばないものがある。我々は一日たりともそのおよばざるところを追求する努力をおこたつてはならないが、しかしたとえ我々の映画が一流の域に達した暁においても、我々の特殊な風俗・習慣・言語の垣根は決して低くはならないことを銘記すべきである。そしてそのときにあたつて我々映画の進出をはばむ理由が一にかかつてこれらの垣根にあることが明らかにされたならば、もはやそれは天意である。我々はもつて瞑すべきであろう。 私はここで一時アメリカの映画が世界を風靡した事実を想起する。我々はそれをこの眼で見てきた。アメリカの映画業者にとつては、地球の全面積が市場であり、彼らの住む西半球は市場の一部にしかすぎなかつた。このような映画の歴史は人々の頭にあまりにも強烈な印象を焼きつけてしまつた。そのため、人々はともすれば映画に民族性のあることを忘れ、国境を無視して流行することが映画の第一義であるかのごとく錯覚してしまつたのである。 しかし、私をしていわしむれば、これらの事実は、世界がまだ芸術としての生育を遂げ得ない過渡期の変態的現象にすぎなかつたのである。もしも映画が真に芸術であるならば、それは何よりもまず民族固有のものとならなければならぬ。すなわち各々の民族は各々の映画を持たなければならぬ。そしてこのことは徐々にではあるが現に世界の隅々において現実化の方向をたどりつつある課題である。 近くは、我々に最も同化しやすいといわれる朝鮮の人々さえ我々の提供する映画だけではもの足らず、彼ら自身の映画を作り出すために苦悩をつづけているではないか。 かつて映画が言葉を得て自由にしやべり始めたとき、ある人が、映画は言葉を得たことによつてかえつて国際性を失い退化したと嘆じた。何ぞ知らん、国際性を失つたかわりに映画はそのとき始めて確実に民族のふところにかえつたのである。浮浪性を精算して深く民族の土に根を降し始めたのである。これを退歩と見るか進歩と見るかは各人の自由であるが、少なくとも私は映画が名実ともに芸術としての第一歩を踏み出したのは実にこのときからであると考えている。 今にして思えばアメリカ映画が最もその国際性を発揮したのはやはり無声映画の末期であり、ちよびひげをつけ、山高帽をかぶり、だぶだぶのズボンをはいた道化男が悲しい微笑を浮べて世界中を駆けまわつたときにとどめを刺すのである。アメリカ映画の黄金時代を象徴するものはこの悲しい道化であるが、同時にそれは芸術以前の映画の姿をも象徴しているのである。 私がこの小論で述べようと思つたことは、以上でほぼ尽きたわけであるが、この議論をさらに推し進めて行くと、結局映画工作はそれぞれの地理的関係のもとに映画を育成することに重点をおくべしということになりそうである。 しかし、現地の事情について何ら知るところのない私がそこまで筆を駛らせることは不謹慎であるから、ここではそのような具体策にまでは触れない。 |
宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館 発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館 ひどい嵐です。一寸も外には出られません。本当にさびしい日です。けれど今日は、さつきあなたに手紙を書いた後、大変幸福に暮しました。何故かあててごらんなさい。云ひませうか。それはね、なを一層深い愛の力を感じたからです。本当に。 こないだ、あなたに云ひましたね、あなたの御本だけは持つて出ましたつて。今日は朝から夢中になつて読みました。そして、これが丁度三四回目位です。それでゐて、何んだか始めて読んだらしい気がします。あなたには前から幾度も書物を頂く度びに、何にか書きますつてお約束ばかりして書きませんでしたわね。私は書きたくつてたまらない癖に、どうも不安で書けませんでしたの。それは本当に、あなたのお書きになつたものを、普通に読むと云ふ輪廓だけしか読んではゐなかつたのだと云ふ事が、今日はじめて分りました。何んと云ふ馬鹿な間抜けた奴と笑はないで下さい。 私が無意識の内にあなたに対する私の愛を不自然に押へてゐた事は、思ひがけなく、こんな処にまで影響してゐたのだと思ひましたら、私は急に息もつけないやうなあなたの力の圧迫を感じました。けれども、それが私にはどんなに大きな幸福であり喜びであるか分つて下さるでせう。あんなに、あなたのお書きになつたものは貪るやうに読んでゐたくせに、本当はちつとも解つてゐなかつたのだなんて思ひますと、何んだかあなたに合はせる顔もない気がします。けれども、それは本当の事なんですもの。それをとがめはなさらないでせうね。今は本当に分つたのですもの。そしてまた私には、あなたの愛を得て、本当に分つたと云ふ事はどんなに嬉しい事か分りません。これからの道程だつて真実たのしく待たれます。 今夜もまたこれから読みます。一つ一つ頭の中にとけて浸み込んでゆくのが分るやうな気がします。もう二三日位はかうやつてゐられさうです。一ぱいにその中に浸つてゐられさうです。でも、何んだか一層会ひたくもなつて来ます。本当に来て下さいな、後生ですから。 嵐はだん〳〵ひどくなつて来ます。あんな物凄いさびしい音を聞きながら、この広い二階にひとりつきりでゐるのは可哀さうでせう。でも、何にも邪魔をされないであなたのお書きになつたものを読むのは楽しみです。本当に静かに、おとなしくしてゐますよ。でも、一寸の間だつてあなたの事を考へないではゐられません。かうやつてゐますと、いろいろな場合のあなたの顔が一つ一つ浮んで来ます。 |
一 六の宮の姫君の父は、古い宮腹の生れだつた。が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質の人だつたから、官も兵部大輔より昇らなかつた。姫君はさう云ふ父母と一しよに、六の宮のほとりにある、木高い屋形に住まつてゐた。六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前に拠つたのだつた。 父母は姫君を寵愛した。しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」――姫君はさう思つてゐた。 古い池に枝垂れた桜は、年毎に乏しい花を開いた。その内に姫君も何時の間にか、大人寂びた美しさを具へ出した。が、頼みに思つた父は、年頃酒を過ごした為に、突然故人になつてしまつた。のみならず母も半年ほどの内に、返らない歎きを重ねた揚句、とうとう父の跡を追つて行つた。姫君は悲しいと云ふよりも、途方に暮れずにはゐられなかつた。実際ふところ子の姫君にはたつた一人の乳母の外に、たよるものは何もないのだつた。 乳母はけなげにも姫君の為に、骨身を惜まず働き続けた。が、家に持ち伝へた螺鈿の手筥や白がねの香炉は、何時か一つづつ失はれて行つた。と同時に召使ひの男女も、誰からか暇をとり始めた。姫君にも暮らしの辛い事は、だんだんはつきりわかるやうになつた。しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。姫君は寂しい屋形の対に、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌を詠んだり、単調な遊びを繰返してゐた。 すると或秋の夕ぐれ、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。 「甥の法師の頼みますには、丹波の前司なにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も受領とは申せ、近い上達部の子でもございますから、お会ひになつては如何でございませう? かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しは益しかと存じますが。……」 姫君は忍び音に泣き初めた。その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しを扶ける為に、体を売るのも同様だつた。勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。姫君は乳母と向き合つた儘、葛の葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。…… 二 しかし姫君は何時の間にか、夜毎に男と会ふやうになつた。男は乳母の言葉通りやさしい心の持ち主だつた。顔かたちもさすがにみやびてゐた。その上姫君の美しさに、何も彼も忘れてゐる事は、殆誰の目にも明らかだつた。姫君も勿論この男に、悪い心は持たなかつた。時には頼もしいと思ふ事もあつた。が、蝶鳥の几帳を立てた陰に、燈台の光を眩しがりながら、男と二人むつびあふ時にも、嬉しいとは一夜も思はなかつた。 その内に屋形は少しづつ、花やかな空気を加へ初めた。黒棚や簾も新たになり、召使ひの数も殖えたのだつた。乳母は勿論以前よりも、活き活きと暮しを取り賄つた。しかし姫君はさう云ふ変化も、寂しさうに見てゐるばかりだつた。 或時雨の渡つた夜、男は姫君と酒を酌みながら、丹波の国にあつたと云ふ、気味の悪い話をした。出雲路へ下る旅人が大江山の麓に宿を借りた。宿の妻は丁度その夜、無事に女の子を産み落した。すると旅人は生家の中から、何とも知れぬ大男が、急ぎ足に外へ出て来るのを見た。大男は唯「年は八歳、命は自害」と云ひ捨てたなり、忽ち何処かへ消えてしまつた。旅人はそれから九年目に、今度は京へ上る途中、同じ家に宿つて見た。所が実際女の子は、八つの年に変死してゐた。しかも木から落ちた拍子に、鎌を喉へ突き立ててゐた。――話は大体かう云ふのだつた。姫君はそれを聞いた時に、宿命のせんなさに脅された。その女の子に比べれば、この男を頼みに暮してゐるのは、まだしも仕合せに違ひなかつた。「なりゆきに任せる外はない。」――姫君はさう思ひながら、顔だけはあでやかにほほ笑んでゐた。 屋形の軒に当つた松は、何度も雪に枝を折られた。姫君は昼は昔のやうに、琴を引いたり双六を打つたりした。夜は男と一つ褥に、水鳥の池に下りる音を聞いた。それは悲しみも少いと同時に、喜びも少い朝夕だつた。が、姫君は不相変、この懶い安らかさの中に、はかない満足を見出してゐた。 しかしその安らかさも、思ひの外急に尽きる時が来た。やつと春の返つた或夜、男は姫君と二人になると、「そなたに会ふのも今宵ぎりぢや」と、云ひ悪くさうに口を切つた。男の父は今度の除目に、陸奥の守に任ぜられた。男もその為に雪の深い奥へ、一しよに下らねばならなかつた。勿論姫君と別れるのは、何よりも男には悲しかつた。が、姫君を妻にしたのは、父にも隠してゐたのだから、今更打ち明ける事は出来悪かつた。男はため息をつきながら、長々とさう云ふ事情を話した。 「しかし五年たてば任終ぢや。その時を楽しみに待つてたもれ。」 姫君はもう泣き伏してゐた。たとひ恋しいとは思はぬまでも、頼みにした男と別れるのは、言葉には尽せない悲しさだつた。男は姫君の背を撫でては、いろいろ慰めたり励ましたりした。が、これも二言目には、涙に声を曇らせるのだつた。 其処へ何も知らない乳母は、年の若い女房たちと、銚子や高坏を運んで来た。古い池に枝垂れた桜も、蕾を持つた事を話しながら。…… 三 六年目の春は返つて来た。が、奥へ下つた男は、遂に都へは帰らなかつた。その間に召使ひは一人も残らず、ちりぢりに何処かへ立ち退いてしまふし、姫君の住んでゐた東の対も或年の大風に倒れてしまつた。姫君はそれ以来乳母と一しよに侍の廊を住居にしてゐた。其処は住居と云ふものの、手狭でもあれば住み荒してもあり、僅に雨露の凌げるだけだつた。乳母はこの廊へ移つた当座、いたはしい姫君の姿を見ると、涙を落さずにはゐられなかつた。が、又或時は理由もないのに、腹ばかり立ててゐる事があつた。 暮しのつらいのは勿論だつた。棚の厨子はとうの昔、米や青菜に変つてゐた。今では姫君の袿や袴も身についてゐる外は残らなかつた。乳母は焚き物に事を欠けば、立ち腐れになつた寝殿へ、板を剥ぎに出かける位だつた。しかし姫君は昔の通り、琴や歌に気を晴らしながら、ぢつと男を待ち続けてゐた。 するとその年の秋の月夜、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。 「殿はもう御帰りにはなりますまい。あなた様も殿の事は、お忘れになつては如何でございませう。就てはこの頃或典薬之助が、あなた様にお会はせ申せと、責め立てて居るのでございますが、……」 姫君はその話を聞きながら、六年以前の事を思ひ出した。六年以前には、いくら泣いても、泣き足りない程悲しかつた。が、今は体も心も余りにそれには疲れてゐた。「唯静かに老い朽ちたい。」……その外は何も考へなかつた。姫君は話を聞き終ると、白い月を眺めたなり、懶げにやつれた顔を振つた。 「わたしはもう何も入らぬ。生きようとも死なうとも一つ事ぢや。……」 * * * 丁度これと同じ時刻、男は遠い常陸の国の屋形に、新しい妻と酒を斟んでゐた。妻は父の目がねにかなつた、この国の守の娘だつた。 「あの音は何ぢや?」 男はふと驚いたやうに、静かな月明りの軒を見上げた。その時なぜか男の胸には、はつきり姫君の姿が浮んでゐた。 「栗の実が落ちたのでございませう。」 常陸の妻はさう答へながら、ふつつかに銚子の酒をさした。 四 男が京へ帰つたのは、丁度九年目の晩秋だつた。男と常陸の妻の族と、――彼等は京へはひる途中、日がらの悪いのを避ける為に、三四日粟津に滞在した。それから京へはひる時も、昼の人目に立たないやうに、わざと日の暮を選ぶ事にした。男は鄙にゐる間も、二三度京の妻のもとへ、懇ろな消息をことづけてやつた。が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。それだけに京へはひつたとなると、恋しさも亦一層だつた。男は妻の父の屋形へ無事に妻を送りこむが早いか、旅仕度も解かずに六の宮へ行つた。 六の宮へ行つて見ると、昔あつた四足の門も、檜皮葺きの寝殿や対も、悉今はなくなつてゐた。その中に唯残つてゐるのは、崩れ残りの築土だけだつた。男は草の中に佇んだ儘、茫然と庭の跡を眺めまはした。其処には半ば埋もれた池に、水葱が少し作つてあつた。水葱はかすかな新月の光に、ひつそりと葉を簇らせてゐた。 男は政所と覚しいあたりに、傾いた板屋のあるのを見つけた。板屋の中には近寄つて見ると、誰か人影もあるらしかつた。男は闇を透かしながら、そつとその人影に声をかけた。すると月明りによろぼひ出たのは、何処か見覚えのある老尼だつた。 尼は男に名のられると、何も云はずに泣き続けた。その後やつと途切れ途切れに、姫君の身の上を話し出した。 「御見忘れでもございませうが、手前は御内に仕へて居つた、はした女の母でございます。殿がお下りになつてからも、娘はまだ五年ばかり、御奉公致して居りました。が、その内に夫と共々、但馬へ下る事になりましたから、手前もその節娘と一しよに、御暇を頂いたのでございます。所がこの頃姫君の事が、何かと心にかかりますので、手前一人京へ上つて見ますと、御覧の通り御屋形も何もなくなつて居るのでごさいませんか? 姫君も何処へいらつしやつた事やら、――実は手前もさき頃から、途方に暮れて居るのでございます。殿は御存知もございますまいが、娘が御奉公申して居つた間も、姫君のお暮しのおいたはしさは、申しやうもない位でございました。……」 男は一部始終を聞いた後、この腰の曲つた尼に、下の衣を一枚脱いで渡した。それから頭を垂れた儘、黙然と草の中を歩み去つた。 五 男は翌日から姫君を探しに、洛中を方々歩きまはつた。が、何処へどうしたのか、容易に行き方はわからなかつた。 すると何日か後の夕ぐれ、男はむら雨を避ける為に、朱雀門の前にある、西の曲殿の軒下に立つた。其処にはまだ男の外にも、物乞ひらしい法師が一人、やはり雨止みを待ちわびてゐた。雨は丹塗りの門の空に、寂しい音を立て続けた。男は法師を尻目にしながら、苛立たしい思ひを紛らせたさに、あちこち石畳みを歩いてゐた。その内にふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子の中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。男は殆何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。 窓の中には尼が一人、破れた筵をまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。女は夕ぐれの薄明りにも、無気味な程痩せ枯れてゐるらしかつた。しかしその姫君に違ひない事は、一目見ただけでも十分だつた。男は声をかけようとした。が、浅ましい姫君の姿を見ると、なぜかその声が出せなかつた。姫君は男のゐるのも知らず、破れ筵の上に寝反りを打つと、苦しさうにこんな歌を詠んだ。 |
媒酌結婚で結構です 媒酌結婚と自由結婚との得失といふことは、結局、この二種の結婚様式が結婚後の生活の上に、如何なる幸福を導き出し、如何なる不幸を齎すかといふことのやうに解せられる。併し結婚生活の幸福とは果して如何なることを意味するであらうか、それも考へなければならぬ。太く短く楽しむのか、細く長く楽しむのか、それとも又た夫婦間に衝突のある生活なのか、俄かに決定することの出来ない問題である。又た恋愛といふもの、昔の人達の考へたやうな清浄高潔な恋愛といふものが、世の中にあるだらうか否かといふことについても、私は疑ひを懐いてゐるものである。 実際に於て、さういふ生活があり得るか否かは別問題として、一般の人たちが考へるやうに、太く長く且つ平和に楽しめる夫婦生活といふものを、理想とし幸福として考へるならば、聡明な男女には自由結婚が適して居り、聡明でない男女には媒酌結婚が適してゐると私は言ひたい。併し聡明といふことと、青年といふことは、多くの場合一致しないものである。だから大抵の場合、媒酌結婚で結構だと思ふ。 ホリデイ・ラブ 右は大体について言うたのであるが、無知な大人が媒酌する結婚は、聡明でない青年男女が自由結婚をするのよりも遥かに危険である。ここに無知といふのは、理解といふ言葉の意味を広義に解釈したときの無理解といふことである。即ち現在二人が如何なる人生観を有つてゐるか、それが将来如何に変化してゆくだらうかといふ点まで考へないことである。結婚が人生の大きな時期を作るものであることは申すまでもない。結婚前の人物や思想といふものは、結婚によつて変ることが多く、結婚前の愛は結婚と同時になくなる、少くも変形するものである。 結婚後、湧いてくる新しい夫婦愛といふものは、人生の好伴侶として配偶者を見る愛であつて、結婚前の恋愛とは別箇のものである。私は愛の恒久性や純潔さを疑ふ。愛の変化消滅といふことについては厭世的である。恋愛の陶酔といふものが永続するとは考へられない。結婚して幻滅の悲哀を感ずるとは、よく聞くところであるが、結婚のみならず人生は総て幻滅の連続であらうと思ふ。結婚前の陶酔した恋愛とても、その過程の中には幾多の幻滅があるし、結婚後の永い生活の間にも屡々幻滅を感ずる。幻滅のない恒久性の愛といふものは考へられない。この点から私はホリデイラヴ、即ち一週間に一度の恋愛を主張する。 又、結婚後に幻滅を感じたら、その上、不愉快な生活を続けるよりも離婚したらよい。商事契約に於て、解約すれば権利も義務もなくなり全然無関係となるやうな具合に、結婚や離婚に対しても、もつとあつさり考へたい。離婚や再婚を罪悪視するのは余りにこだはつた考へ方であると思ふ。況んや見合ひなどした際、どちらか一方が幻滅を感じたにも拘らず、当座の義理や体裁から、これを有耶無耶に葬つて結婚するなどに至つては笑止の極であると思ふ。 媒酌と自由との調和 いかに自分は仁慈の君主であるか、いかに自分は天意を受けて君主の寵位に在るものであるかを、どうして国民に知らしめようかしらと苦心した帝王が東洋の昔にも西洋の昔にも沢山あるが、これと同じやうに親子、夫婦の間には虚偽の生活、瞞着し合ふ生活が少くない。子供たちが恋仲になり、続いて結婚しようとする所謂自由結婚と信じてゐるものゝ中に、あらゆる媒酌結婚の長所を取入れさせるだけの用意を持つてゐない親達は馬鹿であると共に、自分たちの恋愛結婚を、形式上媒酌人は立てゝもいゝから、父母を始として周囲の人たちの眼に、立派な結婚らしく映らせることの出来ない子供達、言葉を換へて云ふなら、親達が正式の結婚と信じてゐるものゝ中に、あらゆる自由結婚の長所を含ませるだけの働のない子供達は、これ亦た聡明を欠いてゐるといはなければならぬ。この点について、しつかりした考へを持つてゐる親子が揃ふと理想的の親子といへる。又かういふ親子ばかりだと、世の中は平和に面白く行くわけなんだが、事実かゝる怜悧な親達も子供達も少いものである。 英国のハンキングの戯曲中に次のやうなのがあつた。或る財産家の息子が、小間使だつたと記憶してゐるが。兎に角一人の田舎者の少女と恋に陥つたところ、母親は別に何とも言はないで、その少女と婚約さす、さうしておいて、花やかな社交界に二人をドシドシと出入させた。賑やかな交際社会へ入つてみると、今まで綺麗だと思つてゐた田舎者の少女も、美しい令嬢、夫人たちに伍すると非常に見劣りがして、その上、礼儀、作法、人品、言葉遣ひなど種々の点で、これでは結婚後不便だらうと思はれるやうなあらが沢山眼に見えてきたので、息子の方から破約を申出たといふのである。これを読んだときは、惨酷な手段を取つたものだなあと思つたが、よく考へてみると、その結果は息子のためにも少女のためにも、又周囲の人達の為にも、幸福――当座は不幸であつたかも知れないにしても――であつたに違ひない。ブルの婆々め非道いことやつたなとも考へられないではないが、兎に角、これだけの用意を心に持つた親といふものは滅多にないものである。 恋愛を余り高調するな 今の若い人達は余り恋愛といふものを高調し過ぎる。恋愛に関して非常に感傷的になつてゐると私には思はれる。婦人が殊に甚しいやうである。尤も男子のやうな社会的生活をすることが少いから、婦人に於ける性の意義は男子のそれよりも重く、それだけに婦人が当然の帰結として恋愛を高調するのかも知れないが、実に馬鹿げたことである。恋愛といふものはそんなに高潔であり恒久永続するものではなくて、互に『変るまいぞや』『変るまい』と契つた仲でも、常に幾多の紆余曲折があり幻滅が伴ふものである。だから私は先に言うたやうにホリデーラヴを主張するのである。よしんば其の恋愛が途中の支障がなく、順調に芽を育まれて行つたにしても、結婚によつて、それは消滅し又は全く形を変へてしまふのである。 |
一、ロマンスの中の女性は善悪共皆好み候。 |
序 傳ふる處の怪異の書、多くは徳育のために、訓戒のために、寓意を談じて、勸懲の資となすに過ぎず。蓋し教のために、彼の鬼神を煩らはすもの也。人意焉ぞ鬼神の好惡を察し得むや。察せずして是を謂ふ、いづれも世道に執着して、其の眞相を過つなり。聞く、爰に記すものは皆事實なりと。讀む人、其の走るもの汽車に似ず、飛ぶもの鳥に似ず、泳ぐもの魚に似ず、美なるもの世の廂髮に似ざる故を以て、ちくらが沖となす勿れ。 |
お住の倅に死別れたのは茶摘みのはじまる時候だつた。倅の仁太郎は足かけ八年、腰ぬけ同様に床に就いてゐた。かう云ふ倅の死んだことは「後生よし」と云はれるお住にも、悲しいとばかりは限らなかつた。お住は仁太郎の棺の前へ一本線香を手向けた時には、兎に角朝比奈の切通しか何かをやつと通り抜けたやうな気がしてゐた。 仁太郎の葬式をすました後、まづ問題になつたものは嫁のお民の身の上だつた。お民には男の子が一人あつた。その上寝てゐる仁太郎の代りに野良仕事も大抵は引受けてゐた。それを今出すとすれば、子供の世話に困るのは勿論、暮しさへ到底立ちさうにはなかつた。かたがたお住は四十九日でもすんだら、お民に壻を当がつた上、倅のゐた時と同じやうに働いて貰はうと思つてゐた。壻には仁太郎の従弟に当る与吉を貰へばとも思つてゐた。 それだけに丁度初七日の翌朝、お民の片づけものをし出した時には、お住の驚いたのも格別だつた。お住はその時孫の広次を奥部屋の縁側に遊ばせてゐた。遊ばせる玩具は学校のを盗んだ花盛りの桜の一枝だつた。 「のう、お民、おらあけふまで黙つてゐたのは悪いけんど、お前はよう、この子とおらとを置いたまんま、はえ、出て行つてしまふのかよう?」 お住は詰ると云ふよりは訴へるやうに声をかけた。が、お民は見向きもせずに、「何を云ふぢやあ、おばあさん」と笑ひ声を出したばかりだつた。それでもお住はどの位ほつとしたことだか知れなかつた。 「さうずらのう。まさかそんなことをしやあしめえのう。……」 お住はなほくどくどと愚痴まじりの歎願を繰り返した。同時に又彼女自身の言葉にだんだん感傷を催し出した。しまひには涙も幾すぢか皺だらけの頬を伝はりはじめた。 「はいさね。わしもお前さんさへ好けりや、いつまでもこの家にゐる気だわね。――かう云ふ子供もあるだものう、すき好んで外へ行くもんぢやよう。」 お民もいつか涙ぐみながら、広次を膝の上へ抱き上げたりした。広次は妙に羞しさうに、奥部屋の古畳へ投げ出された桜の枝ばかり気にしてゐた。…… ――――――――――――――――― お民は仁太郎の在世中と少しも変らずに働きつづけた。しかし壻をとる話は思つたよりも容易に片づかなかつた。お民は全然この話に何の興味もないらしかつた。お住は勿論機会さへあれば、そつとお民の気を引いて見たり、あらはに相談を持ちかけたりした。けれどもお民はその度ごとに、「はいさね、いづれ来年にでもなつたら」と好い加減な返事をするばかりだつた。これはお住には心配でもあれば、嬉しくもあるのに違ひなかつた。お住は世間に気を兼ねながら、兎に角嫁の云ふなり次第に年の変るのでも待つことにした。 けれどもお民は翌年になつても、やはり野良へ出かける外には何の考へもないらしかつた。お住はもう一度去年よりは一層願にかけたやうに壻をとる話を勧め出した。それは一つには親戚には叱られ、世間にはかげ口をきかれるのを苦に病んでゐたせゐもあるのだつた。 「だがのう、お民、お前今の若さでさ、男なしにやゐられるもんぢやなえよ。」 「ゐられなえたつて、仕かたがなえぢや。この中へ他人でも入れて見なせえ。広も可哀さうだし、お前さんも気兼だし、第一わしの気骨の折れることせつたら、ちつとやそつとぢやなからうわね。」 「だからよ、与吉を貰ふことにしなよ。あいつもお前この頃ぢや、ぱつたり博奕を打たなえと云ふぢやあ。」 「そりやおばあさんには身内でもよ、わしにはやつぱし他人だわね。何、わしさへ我慢すりや……」 「でもよ、その我慢がさあ、一年や二年ぢやなえからよう。」 「好いわね。広の為だものう。わしが今苦しんどきや、此処の家の田地は二つにならずに、そつくり広の手へ渡るだものう。」 「だがのう、お民、(お住はいつも此処へ来ると、真面目に声を低めるのだつた。)何しろはたの口がうるせえからのう。お前今おらの前で云つたことはそつくり他人にも聞かせてくんなよ。……」 かう云ふ問答は二人の間に何度出たことだかわからなかつた。しかしお民の決心はその為に強まることはあつても、弱まることはないらしかつた。実際又お民は男手も借りずに、芋を植ゑたり麦を刈つたり、以前よりも仕事に精を出してゐた。のみならず夏には牝牛を飼ひ、雨の日でも草刈りに出かけたりした。この烈しい働きぶりは今更他人を入れることに対する、それ自身力強い抗弁だつた。お住もとうとうしまひには壻を取る話を断念した。尤も断念することだけは必しも彼女には不愉快ではなかつた。 ――――――――――――――――― お民は女の手一つに一家の暮しを支へつづけた。それには勿論「広の為」といふ一念もあるのに違ひなかつた。しかし又一つには彼女の心に深い根ざしを下ろしてゐた遺伝の力もあるらしかつた。お民は不毛の山国からこの界隈へ移住して来た所謂「渡りもの」の娘だつた。「お前さんとこのお民さんは顔に似合はなえ力があるねえ。この間も陸稲の大束を四把づつも背負つて通つたぢやなえかね。」――お住は隣の婆さんなどからそんなことを聞かされるのも度たびだつた。 お住は又お民に対する感謝を彼女の仕事に表さうとした。孫を遊ばせたり、牛の世話をしたり、飯を焚いたり、洗濯をしたり、隣へ水を汲みに行つたり、――家の中の仕事も少くはなかつた。しかしお住は腰を曲げたまま、何かと楽しさうに働いてゐた。 或秋も暮れかかつた夜、お民は松葉束を抱へながら、やつと家へ帰つて来た。お住は広次をおぶつたなり、丁度狭苦しい土間の隅に据風呂の下を焚きつけてゐた。 「寒かつつらのう。晩かつたぢや?」 「けふはちつといつもよりや、余計な仕事してゐたぢやあ。」 お民は松葉束を流しもとへ投げ出し、それから泥だらけの草鞋も脱がずに、大きい炉側へ上りこんだ。炉の中には櫟の根つこが一つ、赤あかと炎を動かしてゐた。お住は直に立ち上らうとした。が、広次をおぶつた腰は風呂桶の縁につかまらない限り、容易に上げることも出来ないのだつた。 「直と風呂へはえんなよ。」 「風呂よりもわしは腹が減つてるよ。どら、さきに藷でも食ふべえ。――煮てあるらあねえ? おばあさん。」 お住はよちよち流し元へ行き、惣菜に煮た薩摩藷を鍋ごと炉側へぶら下げて来た。 「とうに煮て待つてたせえにの、はえ、冷たくなつてるよう。」 二人は藷を竹串へ突き刺し、一しよに炉の火へかざし出した。 「広はよく眠つてるぢや。床の中へ転がして置きや好いに。」 「なあん、けふは莫迦寒いから、下ぢやとても寝つかなえよう。」 お民はかう云ふ間にも煙の出る藷を頬張りはじめた。それは一日の労働に疲れた農夫だけの知つてゐる食ひかただつた。藷は竹串を抜かれる側から、一口にお民に頬張られて行つた。お住は小さい鼾を立てる広次の重みを感じながら、せつせと藷を炙りつづけた。 「何しろお前のやうに働くんぢや、人一倍腹も減るらなあ。」 お住は時々嫁の顔へ感歎に満ちた目を注いだ。しかしお民は無言のまま、煤けた榾火の光りの中にがつがつ薩摩藷を頬張つてゐた。 ――――――――――――――――― お民は愈骨身を惜しまず、男の仕事を奪ひつづけた。時には夜もカンテラの光りに菜などをうろ抜いて廻ることもあつた。お住はかう云ふ男まさりの嫁にいつも敬意を感じてゐた。いや、敬意と云ふよりも寧ろ畏怖を感じてゐた。お民は野や山の仕事の外は何でもお住に押しつけ切りだつた。この頃ではもう彼女自身の腰巻さへ滅多に洗つたことはなかつた。お住はそれでも苦情を云はずに、曲つた腰を伸ばし伸ばし、一生懸命に働いてゐた。のみならず隣の婆さんにでも遇へば、「何しろお民がああ云ふ風だからね、はえ、わたしはいつ死んでも、家に苦労は入らなえよう」と、真顔に嫁のことを褒めちぎつてゐた。 しかしお民の「稼ぎ病」は容易に満足しないらしかつた。お民は又一つ年を越すと、今度は川向うの桑畑へも手を拡げると云ひはじめた。何でもお民の言葉によれば、あの五段歩に近い畑を十円ばかりの小作に出してゐるのはどう考へても莫迦莫迦しい。それよりもあすこに桑を作り、養蚕を片手間にやるとすれば、繭相場に変動の起らない限り、きつと年に百五十円は手取りに出来るとか云ふことだつた。けれども金は欲しいにしろ、この上忙しい思ひをすることは到底お住には堪へられなかつた。殊に手間のかかる養蚕などは出来ない相談も度を越してゐた。お住はとうとう愚痴まじりにかうお民に反抗した。 「好いかの、お民。おらだつて逃げる訣ぢやなえ。逃げる訣ぢやなえけどもの、男手はなえし、泣きつ児はあるし、今のまんまでせえ荷が過ぎてらあの。それをお前飛んでもなえ、何で養蚕が出来るもんぢや? ちつとはお前おらのことも考へて見てくんなよう。」 お民も姑に泣かれて見ると、それでもとは云はれた義理ではなかつた。しかし養蚕は断念したものの、桑畑を作ることだけは強情に我意を張り通した。「好いわね。どうせ畑へはわし一人出りやすむんだから。」――お民は不服さうにお住を見ながら、こんな当つこすりも呟いたりした。 お住は又この時以来、壻を取る話を考へ出した。以前にも暮しを心配したり、世間を兼ねたりした為に、壻をと思つたことは度たびあつた。しかし今度は片時でも留守居役の苦しみを逃れたさに、壻をと思ひはじめたのだつた。それだけに以前に比べれば、今度の壻を取りたさはどの位痛切だか知れなかつた。 丁度裏の蜜柑畠の一ぱいに花をつける頃、ランプの前に陣取つたお住は大きい夜なべの眼鏡越しに、そろそろこの話を持ち出して見た。しかし炉側に胡坐をかいたお民は塩豌豆を噛みながら、「又壻話かね、わしは知らなえよう」と相手になる気色も見せなかつた。以前のお住ならばこれだけでも、大抵あきらめてしまふ所だつた。が、今度は今度だけに、お住もねちねち口説き出した。 「でもの、さうばかり云つちやゐられなえぢや。あしたの宮下の葬式にやの、丁度今度はおら等の家もお墓の穴掘り役に当つてるがの。かう云ふ時に男手のなえのは、……」 「好いわね。掘り役にはわしが出るわね。」 「まさか、お前、女の癖に、――」 お住はわざと笑はうとした。が、お民の顔を見ると、うつかり笑ふのも考へものだつた。 「おばあさん、お前さん隠居でもしたくなつたんぢやあるまえね?」 お民は胡坐の膝を抱いたなり、冷かにかう釘を刺した。突然急所を衝かれたお住は思はず大きい眼鏡を外した。しかし何の為に外したかは彼女自身にもわからなかつた。 |
広東に生れた孫逸仙等を除けば、目ぼしい支那の革命家は、――黄興、蔡鍔、宋教仁等はいずれも湖南に生れている。これは勿論曾国藩や張之洞の感化にもよったのであろう。しかしその感化を説明する為にはやはり湖南の民自身の負けぬ気の強いことも考えなければならぬ。僕は湖南へ旅行した時、偶然ちょっと小説じみた下の小事件に遭遇した。この小事件もことによると、情熱に富んだ湖南の民の面目を示すことになるのかも知れない。………… * * * * * 大正十年五月十六日の午後四時頃、僕の乗っていた沅江丸は長沙の桟橋へ横着けになった。 僕はその何分か前に甲板の欄干へ凭りかかったまま、だんだん左舷へ迫って来る湖南の府城を眺めていた。高い曇天の山の前に白壁や瓦屋根を積み上げた長沙は予想以上に見すぼらしかった。殊に狭苦しい埠頭のあたりは新しい赤煉瓦の西洋家屋や葉柳なども見えるだけに殆ど飯田河岸と変らなかった。僕は当時長江に沿うた大抵の都会に幻滅していたから、長沙にも勿論豚の外に見るもののないことを覚悟していた。しかしこう言う見すぼらしさはやはり僕には失望に近い感情を与えたのに違いなかった。 沅江丸は運命に従うようにじりじり桟橋へ近づいて行った。同時に又蒼い湘江の水もじりじり幅を縮めて行った。すると薄汚い支那人が一人、提籃か何かをぶら下げたなり、突然僕の目の下からひらりと桟橋へ飛び移った。それは実際人間よりも、蝗に近い早業だった。が、あっと思ううちに今度は天秤棒を横たえたのが見事に又水を跳り越えた。続いて二人、五人、八人、――見る見る僕の目の下はのべつに桟橋へ飛び移る無数の支那人に埋まってしまった。と思うと船はいつの間にかもう赤煉瓦の西洋家屋や葉柳などの並んだ前にどっしりと横着けに聳えていた。 僕はやっと欄干を離れ、同じ「社」のBさんを物色し出した。長沙に六年もいるBさんはきょうも特に沅江丸へ出迎いに来てくれる筈になっていた。が、Bさんらしい姿は容易に僕には見つからなかった。のみならず舷梯を上下するのは老若の支那人ばかりだった。彼等は互に押し合いへし合い、口々に何か騒いでいた。殊に一人の老紳士などは舷梯を下りざまにふり返りながら、後にいる苦力を擲ったりしていた。それは長江を遡って来た僕には決して珍しい見ものではなかった。けれども亦格別見慣れたことを長江に感謝したい見ものでもなかった。 僕はだんだん苛立たしさを感じ、もう一度欄干によりかかりながら、やはり人波の去来する埠頭の前後を眺めまわした。そこには肝腎のBさんは勿論、日本人は一人も見当らなかった。しかし僕は桟橋の向うに、――枝のつまった葉柳の下に一人の支那美人を発見した。彼女は水色の夏衣裳の胸にメダルか何かをぶら下げた、如何にも子供らしい女だった。僕の目は或はそれだけでも彼女に惹かれたかも知れなかった。が、彼女はその上に高い甲板を見上げたまま、紅の濃い口もとに微笑を浮かべ、誰かに合い図でもするように半開きの扇をかざしていた。……… 「おい、君。」 僕は驚いてふり返った。僕の後ろにはいつの間にか鼠色の大掛児を着た支那人が一人、顔中に愛嬌を漲らせていた。僕はちょっとこの支那人の誰であるかがわからなかった。けれども忽ち彼の顔に、――就中彼の薄い眉毛に旧友の一人を思い出した。 「やあ、君か。そうそう、君は湖南の産だったっけね。」 「うん、ここに開業している。」 譚永年は僕と同期に一高から東大の医科へはいった留学生中の才人だった。 「きょうは誰かの出迎いかい?」 「うん、誰かの、――誰だと思う?」 「僕の出迎いじゃないだろう?」 譚はちょっと口をすぼめ、ひょっとこに近い笑い顔をした。 「ところが君の出迎いなんだよ。Bさんは生憎五六日前からマラリア熱に罹っている。」 「じゃBさんに頼まれたんだね?」 「頼まれないでも来るつもりだった。」 僕は彼の昔から愛想の好いのを思い出した。譚は僕等の寄宿舎生活中、誰にも悪感を与えたことはなかった。若し又多少でも僕等の間に不評判になっていたとすれば、それはやはり同室だった菊池寛の言ったように余りに誰にもこれと言うほどの悪感を与えていないことだった。……… 「だが君の厄介になるのは気の毒だな。僕は実は宿のこともBさんに任かせっきりになっているんだが、………」 「宿は日本人倶楽部に話してある。半月でも一月でも差支えない。」 「一月でも? 常談言っちゃいけない。僕は三晩泊めて貰えりゃ好いんだ。」 譚は驚いたと言うよりも急に愛嬌のない顔になった。 「たった三晩しか泊らないのか?」 「さあ、土匪の斬罪か何か見物でも出来りゃ格別だが、………」 僕はこう答えながら、内心長沙の人譚永年の顔をしかめるのを予想していた。しかし彼はもう一度愛想の好い顔に返ったぎり、少しもこだわらずに返事をした。 「じゃもう一週間前に来りゃ好いのに。あすこに少し空き地が見えるね。――」 それは赤煉瓦の西洋家屋の前、――丁度あの枝のつまった葉柳のある処に当っていた。が、さっきの支那美人はいつかもうそこには見えなくなっていた。 「あすこでこの間五人ばかり一時に首を斬られたんだがね。そら、あの犬の歩いている処で、………」 「そりゃ惜しいことをしたな。」 「斬罪だけは日本じゃ見る訣に行かない。」 譚は大声に笑った後、ちょっと真面目になったと思うと、無造作に話頭を一転した。 「じゃそろそろ出かけようか? 車ももうあすこに待たせてあるんだ。」 * * * * * 僕は翌々十八日の午後、折角の譚の勧めに従い、湘江を隔てた嶽麓へ麓山寺や愛晩亭を見物に出かけた。 僕等を乗せたモオタア・ボオトは在留日本人の「中の島」と呼ぶ三角洲を左にしながら、二時前後の湘江を走って行った。からりと晴れ上った五月の天気は両岸の風景を鮮かにしていた。僕等の右に連った長沙も白壁や瓦屋根の光っているだけにきのうほど憂鬱には見えなかった。まして柑類の木の茂った、石垣の長い三角洲はところどころに小ぢんまりした西洋家屋を覗かせたり、その又西洋家屋の間に綱に吊った洗濯ものを閃かせたり、如何にも活き活きと横たわっていた。 譚は若い船頭に命令を与える必要上、ボオトの艫に陣どっていた。が、命令を与えるよりものべつに僕に話しかけていた。 「あれが日本領事館だ。………このオペラ・グラスを使い給え。………その右にあるのは日清汽船会社。」 僕は葉巻を銜えたまま、舟ばたの外へ片手を下ろし、時々僕の指先に当る湘江の水勢を楽しんでいた。譚の言葉は僕の耳に唯一つづりの騒音だった。しかし彼の指さす通り、両岸の風景へ目をやるのは勿論僕にも不快ではなかった。 「この三角洲は橘洲と言ってね。………」 「ああ、鳶が鳴いている。」 「鳶が?………うん、鳶も沢山いる。そら、いつか張継尭と譚延闓との戦争があった時だね、あの時にゃ張の部下の死骸がいくつもこの川へ流れて来たもんだ。すると又鳶が一人の死骸へ二羽も三羽も下りて来てね………」 丁度譚のこう言いかけた時、僕等の乗っていたモオタア・ボオトはやはり一艘のモオタア・ボオトと五六間隔ててすれ違った。それは支那服の青年の外にも見事に粧った支那美人を二三人乗せたボオトだった。僕はこれ等の支那美人よりも寧ろそのボオトの大辷りに浪を越えるのを見守っていた。けれども譚は話半ばに彼等の姿を見るが早いか、殆ど仇にでも遇ったように倉皇と僕にオペラ・グラスを渡した。 「あの女を見給え。あの艫に坐っている女を。」 僕は誰にでも急っつかれると、一層何かとこだわり易い親譲りの片意地を持合せていた。のみならずそのボオトの残した浪はこちらの舟ばたを洗いながら、僕の手をカフスまでずぶ濡れにしていた。 |
一 小野の小町、几帳の陰に草紙を読んでいる。そこへ突然黄泉の使が現れる。黄泉の使は色の黒い若者。しかも耳は兎の耳である。 小町 (驚きながら)誰です、あなたは? 使 黄泉の使です。 小町 黄泉の使! ではもうわたしは死ぬのですか? もうこの世にはいられないのですか? まあ、少し待って下さい。わたしはまだ二十一です。まだ美しい盛りなのです。どうか命は助けて下さい。 使 いけません。わたしは一天万乗の君でも容赦しない使なのです。 小町 あなたは情を知らないのですか? わたしが今死んで御覧なさい。深草の少将はどうするでしょう? わたしは少将と約束しました。天に在っては比翼の鳥、地に在っては連理の枝、――ああ、あの約束を思うだけでも、わたしの胸は張り裂けるようです。少将はわたしの死んだことを聞けば、きっと歎き死に死んでしまうでしょう。 使 (つまらなそうに)歎き死が出来れば仕合せです。とにかく一度は恋されたのですから、……しかしそんなことはどうでもよろしい。さあ地獄へお伴しましょう。 小町 いけません。いけません。あなたはまだ知らないのですか? わたしはただの体ではありません。もう少将の胤を宿しているのです。わたしが今死ぬとすれば、子供も、――可愛いわたしの子供も一しょに死ななければなりません。(泣きながら)あなたはそれでも好いと云うのですか? 闇から闇へ子供をやっても、かまわないと云うのですか? 使 (ひるみながら)それはお子さんにはお気の毒です。しかし閻魔王の命令ですから、どうか一しょに来て下さい。何、地獄も考えるほど、悪いところではありません。昔から名高い美人や才子はたいてい地獄へ行っています。 小町 あなたは鬼です。羅刹です。わたしが死ねば少将も死にます。少将の胤の子供も死にます。三人ともみんな死んでしまいます。いえ、そればかりではありません。年とったわたしの父や母もきっと一しょに死んでしまいます。(一層泣き声を立てながら)わたしは黄泉の使でも、もう少し優しいと思っていました。 使 (迷惑そうに)わたしはお助け申したいのですが、…… 小町 (生き返ったように顔を上げながら)ではどうか助けて下さい。五年でも十年でもかまいません。どうかわたしの寿命を延ばして下さい。たった五年、たった十年、――子供さえ成人すれば好いのです。それでもいけないと云うのですか? 使 さあ、年限はかまわないのですが、――しかしあなたをつれて行かなければ代りが一人入るのです。あなたと同じ年頃の、…… 小町 (興奮しながら)では誰でもつれて行って下さい。わたしの召使いの女の中にも、同じ年の女は二三人います。阿漕でも小松でもかまいません。あなたの気に入ったのをつれて行って下さい。 使 いや、名前もあなたのように小町と云わなければいけないのです。 小町 小町! 誰か小町と云う人はいなかったかしら。ああ、います。います。(発作的に笑い出しながら)玉造の小町と云う人がいます。あの人を代りにつれて行って下さい。 使 年もあなたと同じくらいですか? 小町 ええ、ちょうど同じくらいです。ただ綺麗ではありませんが、――器量などはどうでもかまわないのでしょう? 使 (愛想よく)悪い方が好いのです。同情しずにすみますから。 小町 (生き生きと)ではあの人に行って貰って下さい。あの人はこの世にいるよりも、地獄に住みたいと云っています。誰も逢う人がいないものですから。 使 よろしい。その人をつれて行きましょう。ではお子さんを大事にして下さい。(得々と)黄泉の使も情だけは心得ているつもりなのです。 使、突然また消え失せる。 小町 ああ、やっと助かった! これも日頃信心する神や仏のお計らいであろう。(手を合せる)八百万の神々、十方の諸菩薩、どうかこの嘘の剥げませぬように。 二 黄泉の使、玉造の小町を背負いながら、闇穴道を歩いて来る。 小町 (金切声を出しながら)どこへ行くのです? どこへ行くのです? 使 地獄へ行くのです。 小町 地獄へ! そんなはずはありません。現に昨日安倍の晴明も寿命は八十六と云っていました。 使 それは陰陽師の嘘でしょう。 小町 いいえ、嘘ではありません。安倍の晴明の云うことは何でもちゃんと当るのです。あなたこそ嘘をついているのでしょう。そら、返事に困っているではありませんか? 使 (独白)どうもおれは正直すぎるようだ。 小町 まだ強情を張るつもりなのですか? さあ、正直に白状しておしまいなさい。 使 実はあなたにはお気の毒ですが、…… 小町 そんなことだろうと思っていました。「お気の毒ですが、」どうしたのです? 使 あなたは小野の小町の代りに地獄へ堕ちることになったのです。 小町 小野の小町の代りに! それはまた一体どうしたんです? 使 あの人は今身持ちだそうです。深草の少将の胤とかを、…… 小町 (憤然と)それをほんとうだと思ったのですか? 嘘ですよ。あなた! 少将は今でもあの人のところへ百夜通いをしているくらいですもの。少将の胤を宿すのはおろか、逢ったことさえ一度もありはしません。嘘も、嘘も、真赤な嘘ですよ! 使 真赤な嘘? そんなことはまさかないでしょう。 小町 では誰にでも聞いて御覧なさい。深草の少将の百夜通いと云えば、下司の子供でも知っているはずです。それをあなたは嘘とも思わずに、……あの人の代りにわたしの命を、……ひどい。ひどい。ひどい。(泣き始める) 使 泣いてはいけません。泣くことは何もないのですよ。(背中から玉造の小町を下す)あなたは始終この世よりも、地獄に住みたがっていたでしょう。して見ればわたしの欺されたのは、反って仕合せではありませんか? 小町 (噛みつきそうに)誰がそんなことを云ったのです? 使 (怯ず怯ず)やっぱりさっき小野の小町が、…… 小町 まあ、何と云う図々しい人だ! 嘘つき! 九尾の狐! 男たらし! 騙り! 尼天狗! おひきずり! もうもうもう、今度顔を合せたが最後、きっと喉笛に噛みついてやるから。口惜しい。口惜しい。口惜しい。(黄泉の使をこづきまわす) 使 まあ、待って下さい。わたしは何も知らなかったのですから、――まあ、この手をゆるめて下さい。 小町 一体あなたが莫迦ではありませんか? そんな嘘を真に受けるとは、…… |
「それは意見の相違だ」と互に頑張りあつて、相下らない。こんな事は世間の政治家の間などには、珍らしくも無くなつて仕舞つたが、「趣味の相違」といふ捨科白を美術や文學などに心を寄せる人々との間にも折々聞かされるので、其度毎に私はいやな思ひをする。世の中がデモクラチックになつて行くに從つて、意見の相違も重大さを増して來るであらうし、文藝上の事も畢竟趣味の相違に、あらゆる議論が歸着するかもしれぬが、それは究竟地のことであつて、最初から「趣味の相違」を持ち出すのは不謹愼な、そして危險千萬な話である。 × × × 趣味には相違といふ事のほかに階級がある。即ち高い低いがある、淺い深いがある、精粗の別がある、あらゆる人のあらゆる趣味を同一の平面上に配列して、それをみんな互角だとするのは寧ろ突飛な、亂暴な仕業だ。或る人は高く、深く、練れた趣味を持ち、又或る人は淺く、低く、なまな趣味よりか持たぬといふ事は、實際目の前にいくらもある事だ。そんな場合にでも『それは趣味の相違です』と澄まし返つて居る譯には行くまい。 × × × 低い所から高い方へ登るのは、骨が折れるものだ。しかし骨を折ればこそ高くもなるのだ。高くなればこそ骨も折れるのだ。したがつて骨が折れたゞけの效能もなければならぬ。水は低きに赴く。趣味も、多くの人の信ずる如く、唯だ Easy going な樂みといふだけを能事とするならば、よし低下するとも、向上などはあり得ない。趣味を享樂そのものと誤解したり、「趣味の相違」を楯に取つて澄ましたりして居れば、低下、墮落は請合である。 × × × よく世間では、趣味の享樂に大騷ぎをして居る一群の人々がある――私自身もそんな連中の一人だと折々誤認されるのであるが――その種類の人達は趣味といふ物を人間の生活から引き離して(つまり人間生活の中から趣味的なエッセンスだけを蒸溜でもして)趣味そのものだけを樂しまうとするのであるが、これは私にとつては、甚だ感服せぬのである。ラティン語の諺に VITA SINE LITERIS MORS EST といふことがある。これは「文學の無い生活は死なり」といふ意味になるが、今では、これから更に一歩を進めて、吾々の生活の中から、文學とか美術とかいふ物だけを引き抽いて、其他は總て捨てゝ仕舞つて、唯だこれだけを樂んで行かうといふ風に、餘程文藝趣味の享樂に重きを置いて考へる傾向が生じて來た。なるほど其れ位の勢でなければ、進歩もなし得ないかもしれぬ。そして又其の人の熱心の程度によつては無理も無い事でもあらうが、ともかくも全的な生活から趣味だけを引き離すことがそも〳〵吾々を遠い謬見に導き去る第一歩だ。 × × × 文學といふ言葉もなく、美術といふ名もなく、只だ此の世の中で何か一つの仕事を見出して、それに從事し、沒頭して居るうちに、何となく己れに特有の樂みが湧く、それも半ば無意識的に。そして樂むといふのでもなく、其癖知らず識らずの間に樂しく日を送ることがあるならば、其時こそ眞に趣味生活の第一歩ではあるまいか。働くことが樂しく、日を送ることが樂しく、生きて居ることが樂しく、そして其より外に何らの樂みも無く、また何等の樂みを求めない。これがほんたうの生活の趣味であり、又趣味の生活である。だから私は、「文藝なき生活は死なり」といふよりも、「生活なき文藝は死なり」といひたい位に思つて居る。 × × × 私がこれまでに拜見した坪内逍遙先生の和歌の中に、かういふのがあつて、私は實に感服して居る。 人みなのすさびを吾はつとめとす此つとめ無くば吾生けらんや 何人も知る如く、先生は我が國文壇の最高權威であつて、ことに其半生を劇の研究に捧げてゐられる。劇といふものはいはゞ社會の娯樂機關であるから、一般の人は唯だこれを見て樂しむ。そして所謂見物氣分、物見遊山の氣分で、懷手か何かで、いかにも暢氣なものである。ところが其を畢生の研究の對象とせらるゝ先生などは、一生涯の重苦しい負擔のやうに考へて居られる。即ち、先生にとつては、御芝居そのものは最早單純な安易な快樂ではなく、絶えざる苦心と焦慮と、勞役と、憧憬と、向上との對象である。先生の歌は之を歌つて居られる。そして此辛勞と勞作とあればこそ、此一生が先生自身にとつて極めて生き甲斐あるものなりと歌つて居られるのである。私が感服するのは主として此點である。一體、無責任に、面白半分に芝居見物をして樂しむ人々が眞の意味に於て果して樂しいのであらうか。もし樂しいとしても、それが最も高尚な樂みであるのであらうか。それとも、芝居を一生涯手にかけながら、努力で一貫して居られる先生の方が、更により多く、より深く、樂しいのであらうか。 × × × 實際、詩人にしろ、小説家にしろ、畫家にしろ、(或は喜劇役者でも、漫畫家でも、落語家でも)他人に樂みを與へるために、自分では何程か苦まぬ人はない、さうして初めて他人にも趣味や快樂を感ぜしめるほどのものが生れ出るのである。……といつても文藝家は總て他人の趣味や感興に媚びるために全力を盡すべきだといふのではない。私のいふのは、自分だけの獨よがりの淺はかな、趣味的滿足では、到底ろくなものが出來やうわけがないと云ふのだ。そんな事で他人が承知せぬことは勿論であるが、よく落ち着いて考へたならば、自分自身をさへ眞に滿足させて居らぬことに氣づかねばならぬ。 × × × 若し吾々の生活そのものを樂み、その中に趣味を見出し、時としては他人の爲めに其樂みを作り出すとも、決して、他人の手によつて作り上げられた趣味の供給のみを期待せぬやうな態度を吾々が持ち得るならば、それこそ實に一種崇高な、嚴肅な、眞面目な、積極的な態度と云はねばならぬ。しかるに、若し抽き出されたる趣味そのものゝ享樂のみを要望するならば、それこそ立派な Pleasure hunter で、たゞ酒に狂ひ色に耽るに代ふるに文章や音樂や繪畫を以てするに過ぎない。其態度は極めて消極的。遂に吾等を危險に導かずには置かない。 × × × |
宇野浩二は聡明の人である。同時に又多感の人である。尤も本来の喜劇的精神は人を欺くことがあるかも知れない。が、己を欺くことは極めて稀にしかない人である。 のみならず、又宇野浩二は喜劇的精神を発揮しないにもしろ、あらゆる多感と聡明とを二つとも兼ね具えた人のように滅多にムキにはならない人である。喜劇的精神を発揮することそのことにもムキにはならない人である。これは時には宇野浩二に怪物の看を与えるかも知れない。しかし其処に独特のシャルム――たとえば精神的カメレオンに対するシャルムの存することも事実である。 宇野浩二は本名格二(或は次)郎である。あの色の浅黒い顔は正に格二郎に違いない。殊に三味線を弾いている宇野は浩さん離れのした格さんである。 次手に顔のことを少し書けば、わたしは宇野の顔を見る度に必ず多少の食慾を感じた。あの顔は頬から耳のあたりをコオルド・ビフのように料理するが好い。皿に載せた一片の肉はほんのりと赤い所どころに白い脂肪を交えている。が、ちょっと裏返して見ると、鳥膚になった頬の皮はもじゃもじゃした揉み上げを残している。――と云う空想をしたこともあった。尤も実際口へ入れて見たら、予期通り一杯やれるかどうか、その辺は頗る疑問である。多分はいくら香料をかけても、揉み上げにしみこんだ煙草の匂は羊肉の匂のようにぷんと来るであろう。 |
とうに『恋愛と道徳』が単行になつて出る筈であつたが、あれだけでは一冊とするにはあまりに貧弱(量の上に於て)だと云ふ書店の意見から、その後雑誌(青鞜)で発表したエンマ・ゴルドマンの『婦人解放の悲劇』と『少数と多数』になほ新に『結婚と恋愛』とゴルドマンの小伝を加へてやうやく出すことにした。なほ書店の要求を満足させる為めに自分は序の中に婦人問題変遷の歴史と云つたやうなものを書く筈になつてゐたのだけれど、そんなことは今の私には未だ〳〵荷が勝ち過ぎるし、それに書くと云つても、自分一個の(たとへ独断にせよ)見識でも確立しての上で、その動かない立場から批評的に書けるとでも云ふのならば兎に角、どうせえらい先生方の御本を参考にしてアチコチとぬき書きでもする位が落ちになりさうなので、それは止めることにした。それに未だ自分は実の処『問題の歴史』だとかなんとか云ふことに興味を持つてはゐない。自分に興味のないことはなるたけやりたくない。ただ私は現在直接にブツカツタ問題として『恋愛』は女子の唯一の道徳であり、所謂『結婚』は恋愛とはまつたくその性質を異にしたものだと云ふことをこれ等の論文に於て一層ハツキリ覚り得たのである。そして私のぶつかつた問題はまた現今わが国の社会に生存する幾多の若き姉妹たちの問題である。最も痛切な根本問題である。これは是非とも覚醒した自分達から実行し始めなければならない。然し自分達のすべてがほんとうに真実な深い相愛生活を送らうと思ふと、これは実に容易な問題ではなくなる。一歩―二歩―三歩―と次第に深く進むにつれて根底に横はる性の問題を始めとして経済問題、倫理問題その他さま〴〵の社会問題に自然と自分の眼を転じなければならなくなる。そして『最近の将来が解決しなければならない今日当面の問題は如何すれば人は自分自身であると同時に他の人々と一つになり、全人類と深く感ずると共に各自の個性を維持してゆけるかといふことである。』と云つたゴルドマンの言葉を今更繰返して考へなければならない。自分達(Tと私)は日常生活のモトウとして『出来るだけ自己に忠実に』と云ふことを心懸け、そしてその為めに努力してゐる。自分達は自分達の生活中からあらゆる虚偽を追ひ出し、自由にして自然な生き〳〵した生活を営まふと努めてゐる。自分達は今なるべく社会との交渉をさけてゐる。自分達は時々心弱くなつて無人島の生活を夢想する。自分達のやうにわがまゝでぢきムキになつて腹を立てたり、癪に障つたり苦しがつたり、落胆したり、するものにはとても今の社会に妥協してあきらめて easy-going な太平楽を云つて生きてはゆけない。全然没交渉な生活をするか、進んで血を流すまで戦つて行くかどつちかだ。然し自分達は軽はづみに飛び出して犬死はしたくない。で、イヤ〳〵ながら我慢して先づ今の処なるべく没交渉の方に近い生き方をしてゐる。然し自分達は自分達のやうに考へてゐるものが勿論自分達ばかりでないと考へる時、そこに非常な希望と慰藉とが与へられる。日本に於ける最初の真実の革命の曙光がもはや遠からず地平の上に現はれると信じてゐる――否既に現はれてゐる。微かではあるが確かに現はれてゐる。自分達は決して落胆や絶望をしてはならない。来るべき真実の生活の新生命は確かに自分達若き同胞の中に芽まれてゐる。やがて自分達はほんとうに立上つて戦ふべき日が来ることゝ思ふ。自分達は先づ知らず〳〵自分達にこびりついてゐる無智や因習と戦はなければならない。世間の気の毒な人等はたま〳〵自分達を『新しい』と呼んでくれたけれど、自分などはその言葉を心から受取るには未だ〳〵中々旧い。もつと〳〵新しくならなければならない。自分は近頃『サアニン』を読み、高村氏の訳された『未来派婦人の婦人論』等を読んでただ面白いと云つてすましてはゐられなかつた。自分達の Vital force の如何に貧弱に見えたことよ! そして自分達の周囲にゐるかの青白い顔付をして、猫背になつて『白魚のやうな』指先きでオチヨボ口をしながら、碌そつぽ大きな声も出し得ずに琴を掻き鳴らす姉妹等の如何にミゼラブルに見えたことよ! そしてさういふ姉妹等と生活すべき運命を有する若き男性の如何に御気の毒に考へられたことよ。自分の連想はまたかの短髪の露西亜少女等を考へさせた。 自分は今この一小冊子を若き兄弟姉妹の中に送るにあたつて、幾分なりとその人々の覚醒の糧にならんことを希望してやまない。『解放』と云ふのは髪の結ひ方をちがへるのではない、マントを着て歩くことでもない、まして『五色の酒』とかを飲むことではなほない。然し新しき服装を笑ひ、女が酒を飲むことを恐ろしき罪悪であるかの如く罵つて高尚がつたり、上品ぶつたりしてゐる人等には愈々解放など云ふことはわかりさうもない。服装は個性ある者には趣味の表現であり、俗衆には流行である。酒は各人の単なる嗜好に過ぎない。いづれも真の解放とはなんのかかはりもない。『解放は女子をして最も真なる意味に於て人たらしめなければならない。肯定と活動とを切に欲求する女性中のあらゆるものがその完全な発想を得なければならない。全ての人工的障碍が打破せられなければならない。偉なる自由に向ふ大道に数世紀の間横たはつてゐる服従と奴隷の足跡が払拭せられなければならない。』 エレン・ケイに就いては自分は彼女の思想の中に、自分達と同じ系統をもつた意見を発見し彼女の議論に共鳴する或者を見出すことが出来る。彼女の思想に興味を持つことは出来るけれども自分にはそれ以上に彼女に親しみを持つことは出来ない。思想の上には自分は彼女の為めに可なり得たものがあると思ふ。併し、より以上の興味をもつて彼女に注意をむけることの出来ないのは何故だらう。ゴルドマンに於けるが如き親しみを感じないのは何故だらう。自分は彼女に就いて云ふ何物をも持たない。唯だ自分は前にも云つたとほり彼女の主張が自分達のそれに共通であるといふ点に興味を持つて、それを紹介したに過ぎない。そしてこれ以上の言葉をエレン・ケイについて費やすことを好まない。彼女に就いては、下手な自分の言葉で云ふよりもより多く彼女を知つた人が沢山にあるから。近くこの書の出づるに先立つて本間久雄氏の手によつて彼女の多くの論文が訳されてゐる。エレン・ケイについて、なを多くを知りたい方々は、その『婦人と道徳』を御覧になるがよろしい。 ゴルドマンに就いて自分は沢山の言ひたいことを持つてゐる。自分は彼女の小伝を読むにあたつて自分のもつた大いなる興味と親しみと熱烈な或る同情と憧憬を集注させて、いろいろな深いところから来る感激にむせびつゝ読んだ。『何と云ふすばらしい、そして生甲斐のある彼女の生涯だらう!』自分はある感慨に打たれながら心の中でかう叫んだ。まことに彼女の受けたなみ〳〵ならぬ圧迫と苦闘を思ひその透徹せる主張と不屈なる自信とまた絶倫の勇気と精力に思ひ到るとき云ひしれぬ悲壮な痛烈な感に打たれる。そして自分達のそれに思ひくらべるとき其処に大いなる懸隔を見出す。そしてまだ〳〵自分達の苦悶はなまぬるくそして圧迫は軽い。自分達はまだ苦痛のどん底までは行き得ないでゐる。まだ本当につきつめた自分をば見出し得ないでゐる。あらゆる精神上のまた肉体上の苦痛を噛みしめて戦ふ所まで行き得ないでゐる。まだ殻の中でまご〳〵してゐるのだ。殻を噛み破つて飛び出さないではゐられないまでの凄い程真実な要求をもつまでに成長してはゐないのだと云ふやうな事柄がハツキリと解つて来る。自分のやうな意気地のないともすれば妥協を欲するやうな者はもつと酷い圧迫を受け制裁を加へられてあらゆる苦悶を舐めさせられる機会でも与へられなければとてもあのやうな立派な生活は出来ないだらう。自分は自分達のやつてゐるある小さな仕事を発展させる為めにも各自の内部生活を確立させなければならない。その前に先づ尊い自己の内部生命を生み出す苦痛を忍ばねばならない。まだ自分達はやつとこの頃意識が動き出したばかりだ。この時にあたつて自分はゴルドマンの如き婦人を先覚者として見出し得たことを限なく嬉しくなつかしく思ふ。そして自分はこの尊敬すべき婦人の熱誠をこめたこの書を凡ての若き姉妹達の机上に捧げたいと思ふ。 この書に収めたエレン・ケイの小伝は『恋愛と結婚』の序文でらいてう氏の手に訳されたものをそのまゝ拝借したのです。私のこの小さないとなみに心からの同情をもつていろいろ助力下すつたことを感謝いたします。またエレン・ケイの写真は宮田脩氏がお貸し下すつたものです。同氏にも深く感謝いたします。 私のこの仕事はまたTによつて完成されたものであることを私は忘れません。もし私の傍にTがゐなかつたら、とても私のまづしい語学の力では完成されなかつたでせう。この事は特にハツキリとお断りいたして置きます。 一千九百十四年三月 |
玲瓏、明透、その文、その質、名玉山海を照らせる君よ。溽暑蒸濁の夏を背きて、冷々然として獨り涼しく逝きたまひぬ。倏忽にして巨星天に在り。光を翰林に曳きて永久に消えず。然りとは雖も、生前手をとりて親しかりし時だに、その容を見るに飽かず、その聲を聞くをたらずとせし、われら、君なき今を奈何せむ。おもひ秋深く、露は涙の如し。月を見て、面影に代ゆべくは、誰かまた哀別離苦を言ふものぞ。高き靈よ、須臾の間も還れ、地に。君にあこがるゝもの、愛らしく賢き遺兒たちと、温優貞淑なる令夫人とのみにあらざるなり。 辭つたなきを羞ぢつゝ、謹で微衷をのぶ。 |
夢の樣な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り、それからそれと朧氣に續いて、今になつては、皆、仄かな哀感の霞を隔てゝ麗かな子供芝居でも見る樣に懷かしいのであるが、其中で、十五六年後の今日でも猶、鮮やかに私の目に殘つてゐる事が二つある。 何方が先で、何方が後だつたのか、明瞭とは思出し難い。が私は六歳で村の小學校に上つて、二年生から三年生に進む大試驗に、私の半生に唯一度の落第をした。其落第の時に藤野さんがゐたのだから、一つは慥か二度目の二年生の八歳の年、夏休み中の出來事と憶えてゐる。も一つも、暑い盛りの事であつたから、矢張其頃の事であつたらう。 今では文部省令が嚴しくて、學齡前の子供を入學させる樣な事は全く無いのであるが、私の幼かつた頃は、片田舍の事でもあり、左程面倒な手續も要らなかつた樣である。でも數へ年で僅か六歳の、然も私の樣に尫弱い者の入學るのは、餘り例のない事であつた。それは詰り、平生私の遊び仲間であつた一歳二歳年長の子供等が、五人も七人も一度に學校に上つて了つて、淋しくて〳〵耐らぬ所から、毎日の樣に好人物の父に強請つた爲なので、初めの間こそお前はまだ餘り小さいからと禁めてゐたが根が惡い事ぢや無し、父も内心には喜んだと見えて、到頭或日學校の高島先生に願つて呉れて、翌日からは私も、二枚折の紙石盤やら硯やら石筆やらを買つて貰つて、諸友と一緒に學校に行く事になつた。されば私の入學は、同じ級の者より一ヶ月も後の事であつた。父は珍らしい學問好で、用のない冬の晩などは、字が見えぬ程煤びきつて、表紙の襤褸になつた孝經やら十八史略の端本やらを持つて、茶話ながら高島先生に教はりに行く事などもあつたものだ。 其頃父は三十五六、田舍には稀な程晩婚であつた所爲でもあらうか、私には兄も姉も、妹もなく唯一粒種、剛い言葉一つも懸けるられずに育つた爲めか、背丈だけは普通であつたけれども、ひよろ〳〵と痩せ細つてゐて、隨分近所の子供等と一緒に、裸足で戸外の遊戯もやるにかゝはらず、怎したものか顏が蒼白く、駈競でも相撲でも私に敗ける者は一人も無かつた。隨つて、さうして遊んでゐながらも、時として密り一人で家に歸る事もあつたが、學校に上つてからも其性癖が變らず、樂書をしたり、木柵を潜り抜けたりして先生に叱られる事は人並であつたけれど、兎角卑屈で、寡言で黒板に書いた字を讀めなどと言はれると、直ぐ赤くなつて、俯いて、返事もせず石の如く堅くなつたものだ。自分から進んで學校に入れて貰つたに拘はらず、私は遂學科に興味を有てなかつた。加之時には晝休に家へ歸つた儘、人知れず裏の物置に隱れてゐて、午後の課業を休む事さへあつた。病身の母は、何時か私の頭を撫でながら、此兒も少し他の子供等と喧嘩でもして呉れる樣になれば可いと言つた事がある。私は何とも言はなかつたが、腹の中では、喧嘩すれば俺が敗けるもの、と考へてゐた。 私の家といふのは、村に唯一軒の桶屋であつたが、桶屋だけでは生計が立たぬので、近江屋といふ近郷一の大地主から、少し許り田を借りて小作をしてゐた。隨つて、年中變らぬ稗勝の飯に粘氣がなく、時偶夜話に來る人でもあれば、母が取あへず米を一掴み程十能で焦つて、茶代りに出すといふ有樣であつたから、私なども、年中つぎだらけの布の股引を穿いて、腰までしかない洗晒しの筒袖、同じ服裝の子供等と共に裸足で歩く事は慣れたもので、頭髮の延びた時は父が手づから剃つて呉れるのであつた。名は檜澤新太郎といふのだが、村の人は誰でも「桶屋の新太」と呼んだ。 學校では、前にも言つた如く、些とも學科に身を入れなかつたから、一年から二年に昇る時は、三十人許りの級のうち尻から二番で漸と及第した。惡い事には、私の家の兩隣の子供、一人は一級上の男で、一人は同じ級の女の兒であつたが、何方も其時半紙何帖かを水引で結んだ御褒賞を貰つたので、私は流石に子供心にも情ない樣な氣がして、其授與式の日は、學校から歸ると、例の樣に戸外に出もせず、日が暮れるまで大きい圍爐裏の隅に蹲つて、浮かぬ顏をして火箸許り弄つてゐたので、父は夕飯が濟んでから、黒い羊羹を二本買つて來て呉れて、お前は一番稚いのだからと言つて慰めて呉れた。 それも翌日になれば、もう忘れて了つて、私は相變らず時々午後の課業を休み〳〵してゐたが、七歳の年が暮れての正月、第三學期の初めになつて、學校には少し珍らしい事が起つた。それは、佐藤藤野といふ、村では儔べる者の無い程美しい女の兒が、突然一年生に入つて來た事なので。 百何人の生徒は皆目を聳てた。實際藤野さんは、今想うても餘り類のない程美しい兒だつたので、前髮を眉の邊まで下げた顏が圓く、黒味勝の眼がパッチリと明るくて、色は飽迄白く、笑ふ毎に笑窪が出來た。男生徒は言はずもの事、女生徒といつても、赤い布片か何かで無雜作に髮を束ねた頭を、垢染みた浅黄の手拭に包んで、雪でも降る日には、不恰好な雪沓を穿いて、半分に截つた赤毛布を頭からスッポリ被つて來る者の多い中に、大きく菊の花を染めた、派手な唐縮緬の衣服を着た藤野さんの姿の交つたのは、村端の泥田に蓮華の花の咲いたよりも猶鮮やかに、私共の眼に映つたのであつた。 藤野さんは、其以前、村から十里とも隔たらぬ盛岡の市の學校にゐたといふ事で、近江屋の分家の、呉服屋をしてゐる新家といふ家に、阿母さんといふ人と二人で來てゐた。 私共の耳にまで入つた村の噂では、藤野さんの阿母さんといふ人は、二三年も前から眼病を患つてゐた新家の御新造の妹なさうで、盛岡でも可也な金物屋だつたが、怎した破目かで破産して、夫といふ人が首を縊つて死んで了つた爲め、新家の家の家政を手傳ひ旁々、亡夫の忘れ形見の藤野さんを伴れて、世話になりに來たのだといふ事であつた。其阿母さんも亦、小柄な、色の白く美しい、姉なる新家の御新造にも似ず、いたつて快活な愛想の好い人であつた。 村の學校は、其頃まだ見窄らしい尋常科の單級で、外に補習科の生徒が六七人、先生も高島先生一人限りだつたので、教場も唯一つ。級は違つてゐても、鈴の樣な好い聲で藤野さんが讀本を讀む時は、百何人が皆石筆や筆を休ませて、其方許り見たものだ。殊に私は、習字と算術の時間が厭で〳〵耐らぬ所から、よく呆然して藤野さんの方を見てゐたもので、其度先生は竹の鞭で私の頭を輕く叩いたものである。 藤野さんは、何學科でも成績が可かつた。何日であつたか、二年生の女生徒共が、何か授業中に惡戲をしたといつて、先生は藤野さんを例に引いて誡められた事もあつた樣だ。上級の生徒は、少しそれに不服であつた。然し私は何も怪まなかつた。何故なれば、藤野さんは其頃、學校中で、村中で、否、當時の私にとつての全世界で、一番美しい、善い人であつたのだから。 其年の三月三十日は、例年の如く證書授與式、近江屋の旦那樣を初め、村長樣もお醫者樣も、其他村の人達が五六人學校に來られた。私も、祕藏の袖の長い衣服を着せられ、半幅の白木綿を兵子帶にして、皆と一緒に行つたが、黒い洋服を着た高島先生は、常よりも一層立派に見えた。教場も立派に飾られてゐて、正面には日の丸の旗が交叉してあつた。其前の白い覆布をかけた卓には、松の枝と竹を立てた、大きい花瓶が載せてあつた樣に憶えてゐる。勅語の捧讀やら「君が代」の合唱やらが濟んで、十何人かの卒業生が、交る交る呼出されて、皆嬉し相にして卒業證書を貰つて來る。其中の優等生は又、村長樣の前に呼ばれて御褒賞を貰つた。軈て、三年二年一年といふ順で、新たに進級した者の名が讀上げられたが、怎したものか私の名は其中に無かつた。「新太ア落第だ、落第だ。」と言つて周圍の子供等は皆私の顏を見た。私は其時甚麽氣持がしたつたか、今になつては思出せない。 式が濟んでから、近江屋樣から下さるといふ紅白の餅だけは私も貰つた。皆は打伴れて勇まし相に家に歸つて行つたが、私共落第した者六七人だけは、用があるからと言つて先生に殘された。其中には村端の堀立小屋の娘もあつて、潸々泣いてゐたが、私は、若しや先生は私にだけ證書を後で呉れるのではないかといふ樣な、理由もない事を心待ちに待つてゐた樣であつた。 軈て一人々々教員室に呼ばれて、それ〴〵に誡められたり勵まされたりしたが、私は一番後𢌞しになつた。そして、「お前はまだ年もいかないし、體も弱いから、もう一年二年生で勉強して見ろ。」と言はれて、私は聞えぬ位に「ハイ」と答へて叩頭をすると、先生は私の頭を撫でて、「お前は餘り穩し過ぎる。」と言つた、そして卓子の上のお盆から、麥煎餅を三枚取つて下すつたが、私は其時程先生のお慈悲を有難いと思つた事はなかつた。其室には、村長樣を初め二三の老人達がまだ殘つてゐた。 私は紙に包んだ紅白の餅と麥煎餅を、兩手で胸に抱いて、悄々と其處を出て來たが、昇降口まで來ると、唯もう無暗に悲しくなつて、泣きたくなつて了つた。喉まで出懸けた聲は辛うじて噛殺したが、先生の有難さ、友達に冷笑れる羞かしさ、家へ歸つて何と言つたものだらうといふ樣な事を、子供心に考へると、小さい胸は一圖に迫つて、涙が留度もなく溢れる。すると、怎して殘つてゐたものか、二三人の女生徒が小使室の方から出て來た樣子がしたので、私は何とも言へぬ羞かしさに急に動悸がして來て、ぴたりと柱に凭懸つた儘、顏を見せまいと俯いた。 すた〳〵と輕い草履の音が後ろに近づいたと思ふと、『何したの、新太郎さん?』と言つた聲は、藤野さんであつた。それまで一度も言葉を交した事のない人から、恁う言はれたので、私は思はず顏を上げると、藤野さんは、晴乎とした眼に柔かな光を湛へて、凝と私を瞶めてゐた。私は直ぐ又俯いて、下脣を噛締めたが、それでも歔欷が洩れる。 藤野さんは暫く默つてゐたが、『泣かないんだ、新太郎さん。私だつて今度は、一番下で漸と及第したもの。』と、弟にでも言ふ樣に言つて、『明日好い物持つてつて上げるから、泣かないんだ。皆が笑ふから。』と、私の顏を覗き込む樣にしたが、私は片頬を柱に擦りつけて、覗かれまいとしたので、又すたすたと行つて了つた。藤野さんは何學科も成績が可かつたのだけれど、三學期になつてから入つたので、一番尻で二年生に進級したのであつた。 其日の夕暮、父は店先でトン〳〵と桶の箍を篏れてゐたし、母は水汲に出て行つた後で私は悄然と圍爐裏の隅に蹲つて、もう人顏も見えぬ程薄暗くなつた中に、焚火の中へ竹屑を投げ入れては、チロチロと舌を出す樣に燃えて了ふのを餘念もなく眺めてゐたが、裏口から細い聲で、『新太郎さん、新太郎さん。』と呼ぶ人がある。私はハッと思ふと、突然土間へ飛び下りて、草履も穿かずに裏口へ駈けて行つた。 藤野さんは唯一人、戸の蔭に身を擦り寄せて立つてゐたが、私を見ると莞爾笑つて、『まあ、裸足で。』と、心持眉を顰めた。そして急がしく袂の中から、何か紙に包んだ物を出して私の手に渡した。 『これ上げるから、一生懸命勉強するッこ。私もするから。』と言ふなり、私は一言も言はずに茫然立つてゐたので、すた〳〵と夕暗の中を走つて行つたが、五六間行くと後ろを振返つて、手を顏の前で左右に動かした。誰にも言ふなといふ事だと氣が附いたので、私は頷いて見せると、其儘またすた〳〵と梨の樹の下を。 紙包の中には、洋紙の帳面が一册に半分程になつた古鉛筆、淡紅色メリンスの布片に捲いたのは、鉛で拵へた玩具の懷中時計であつた。 其夜私は、薄暗い手ランプの影で、鉛筆の心を甜めながら、贈物の帳面に、讀本を第一課から四五枚許り、丁寧に謄寫した。私が初めて文字を學ぶ喜びを知つたのは、實に其時であつた。 人の心といふものは奇妙なものである。二度目の二年生の授業が始まると、私は何といふ事もなく學校に行くのが愉くなつて、今迄では飽きて〳〵仕方のなかつた五十分宛の授業が、他愛もなく過ぎて了ふ樣になつた。竹の鞭で頭を叩かれる事もなくなつた。 廣い教場の、南と北の壁に黒板が二枚宛、高島先生は急がしさうに其四枚の黒板を𢌞つて歩いて教へるのであつたが、二年生は、北の壁の西寄りの黒板に向つて、粗末な机と腰掛を二列に並べてゐた。前方の机に一團になつてゐる女生徒には、無論藤野さんがゐた。 新學年が始まつて三日目かに、私は初めて先生に賞められた。默つて聞いてさへ居れば、先生の教へる事は屹度解る。記憶力の強い子供の頭は、一度理解したことは仲々忘れるものでない。知つた者は手を擧げろと言はれて、私の手を擧げぬ事は殆ど無かつた。 何の學科として嫌ひなものはなかつたが、殊に私は習字の時間が好であつた。先生は大抵私に水注の役を吩附けられる。私は、葉鐵で拵へた水差を持つて、机から机と𢌞つて歩く。机の兩端には一つ一つ硯が出てゐるのであつたが、大抵は虎斑か黒の石なのに、藤野さんだけは、何石なのか紫色であつた。そして私が水を注いでやつた時、些と叮頭をするのは藤野さん一人であつた。 氣の揉めるのは算術の時間であつた。私も藤野さんも其年八歳であつたのに、豐吉といふ兒が同じ級にあつて、それが私等よりも二歳か年長であつた。體も大きく、頭腦も發達してゐて、私が知つてゐる事は大抵藤野さんも知つてゐたが、又、二人が手を擧げる時は大抵豐吉も手を擧げた。何しろ子供の時の二歳違ひは、頭腦の活動の精不精に大した懸隔があるもので、それの最も顯著に現はれるのは算術である。豐吉は算術が得意であつた。 問題を出して置いて先生は別の黒板の方へ𢌞つて行かれる。そして又歸つて來て、『出來た人は手を擧げて。』と、竹の鞭を高く擧げられる。それが、少し難かしい問題であると、藤野さんは手を擧げながら、若くは手を擧げずに、屹度後ろを向いて私の方を見る。私は、其眼に滿干する微かな波をも見遁す事はなかつた。二人共手を擧げた時、殊にも豐吉の出來なかつた時は、藤野さんの眼は喜びに輝いた。豐吉も藤野さんも出來なくて、私だけ手を擧げた時は、邪氣ない羨望の波が寄つた。若しかして、豐吉も藤野さんも手を擧げて、私だけ出來ない事があると、氣の毒相な眼眸をする。そして、二人共出來ずに、豐吉だけ誇りかに手を擧げた時は、美しい藤野さんの顏が瞬く間暗い翳に掩はれるのであつた。 藤野さんの本を讀む聲は、隣席の人すら聞えぬ程讀む他の女生徒と違つて、凛として爽やかであつた。そして其讀方には、村の兒等にはない、一種の抑揚があつた。私は、一月二月と經つうちに、何日ともなく、自分でも心附かずに其抑揚を眞似る樣になつた。友達はそれと氣が附いて笑つた。笑はれて、私は改めようとするけれども、いざとなつて聲を立てゝ讀む時は、屹度其抑揚が出る。或時、小使室の前の井戸端で、六七人も集つて色々な事を言ひ合つてゐた時に、豐吉は不圖其事を言ひ出して、散々に笑つた末、『新太と藤野さんと夫婦になつたら可がんべえな。』と言つた。 藤野さんは五六歩離れた所に立つてゐたつたが、此時、『成るとも。成るとも。』と言つて皆を驚かした。私は顏を眞赤にして矢庭に駈出して了つた。 いくら子供でも、男と女は矢張男と女、學校で一緒に遊ぶ事などは殆ど無かつたが、夕方になると、家々の軒や破風に夕餉の煙の靉く街道に出て、よく私共は寶奪ひや鬼ごッこをやつた。時とすると、それが男組と女組と一緒になる事があつて、其麽時は誰しも周圍が暗くなつて了ふまで夢中になつて遊ぶのであるが、藤野さんが鬼になると、屹度私を目懸けて追つて來る。私はそれが嬉しかつた。奈何に尫弱い體質でも、私は流石に男の兒、藤野さんはキッと口を結んで敏く追つて來るけれど、容易に捉らない。終ひには息を切らして喘々するのであるが、私は態と捉まつてやつて可いのであるけれど、其處は子供心で、飽迄も〳〵身を飜して意地惡く遁げ𢌞る。それなのに、藤野さんは鬼ごッこの度、矢張私許り目懸けるのであつた。 新家の家には、藤野さんと從兄弟同志の男の兒が三人あつた。上の二人は四年と三年、末兒はまだ學校に上らなかつたが、何れも餘り成績が可くなく、同年輩の近江屋の兒等と極く仲が惡かつたが、私の朧氣に憶えてゐる所では、藤野さんもよく二人の上の兒に苛責られてゐた樣であつた。何時か何處かで叩かれてゐるのを見た事もある樣だが、それは明瞭しない。唯一度私が小さい桶を擔いで、新家の裏の井戸に水汲に行くと、恰度其處の裏門の柱に藤野さんが倚懸つてゐて、一人潸々と泣いてゐた。怎したのだと私は言葉をかけたが、返事はしないで長い袂の端を前齒で噛んでゐた。さうなると、私は性質としてもう何も言へなくなるので、自分まで妙に涙ぐまれる樣な氣がして來て、默つて大柄杓で水を汲んだが、桶を擔いで歩き出すと、『新太郎さん。』と呼止められた。 『何す?』 『好い物見せるから。』 『何だす?』 『これ。』と言つて、袂の中から丁寧に、美しい花簪を出して見せた。 『綺麗だなす。』 『…………。』 『買つたのすか?』 藤野さんは頭を振る。 『貰つたのすか?』 『阿母さんから。』と低く言つて、二度許り歔欷あげた。 『富太郎さん(新家の長男)に苛責められたのすか?』 『二人に。』 私は何とか言つて慰めたかつたが、何とも言ひ樣がなくて、默つて顏を瞶めてゐると、『これ上げようかな?』と言つて、花簪を弄つたが、『お前は男だから。』と後に隱す振をするなり、涙に濡れた顏に美しく笑つて、バタバタと門の中へ駈けて行つて了つた。私は稚い心で、藤野さんが二人の從兄弟に苛責られて泣いたので、阿母さんが簪を呉れて賺したのであらうと想像して、何といふ事もなく富太郎のノッペリした面相が憎らしく、妙な心地で家に歸つた事があつた。 何日しか四箇月が過ぎて、七月の末は一學期末の試驗。一番は豐吉、二番は私、藤野さんが三番といふ成績を知らせられて、夏休みが來た。藤野さんは、豐吉に敗けたのが口惜いと言つて泣いたと、富太郎が言囃して歩いた事を憶えてゐる。 休暇となれば、友達は皆、本や石盤の置所も忘れて、毎日々々山蔭の用水池に水泳に行くのであつた。私も一寸々々一緒に行かぬではなかつたが、怎してか大抵一人先に歸つて來るので、父の仕事場にしてある店先の板間に、竹屑やら鉋屑の中に腹匍になつては、汗を流しながら讀本を復習たり、手習をしたりしたものだ。そして又、目的もなく軒下の日陰に立つて、時々藤野さんの姿の見えるのを待つてゐたものだ。 すると大變な事が起つた。 |
一 最近数年間の文壇及び思想界の動乱は、それにたずさわった多くの人々の心を、著るしく性急にした。意地の悪い言い方をすれば、今日新聞や雑誌の上でよく見受ける「近代的」という言葉の意味は、「性急なる」という事に過ぎないとも言える。同じ見方から、「我々近代人は」というのを「我々性急な者共は」と解した方がその人の言わんとするところの内容を比較的正確にかつ容易に享入れ得る場合が少くない。 人は、自分が従来服従し来ったところのものに対して或る反抗を起さねばならぬような境地(と私は言いたい。理窟は凡て後から生れる者である)に立到り、そしてその反抗を起した場合に、その反抗が自分の反省(実際的には生活の改善)の第一歩であるという事を忘れている事が、往々にして有るものである。言い古した言い方に従えば、建設の為の破壊であるという事を忘れて、破壊の為に破壊している事があるものである。戦争をしている国民が、より多く自国の国力に適合する平和の為という目的を没却して、戦争その物に熱中する態度も、その一つである。そういう心持は、自分自身のその現在に全く没頭しているのであるから、世の中にこれ位性急な(同時に、石鹸玉のように張りつめた、そして、いきり立った老人の姿勢のように隙だらけな)心持はない。……そういう心持が、善いとも、又、悪いとも言うのではない。が、そういう心持になった際に、当然気が付かなければならないところの、今日の仕事は明日の仕事の土台であるという事――従来の定説なり習慣なりに対する反抗は取りも直さず新らしい定説、新らしい習慣を作るが為であるという事に気が付くことが、一日遅ければ一日だけの損だというのである。そしてその損は一人の人間に取っても、一つの時代に取っても、又それが一つの国民である際でも、決して小さい損ではないと言うのである。 妻を有ちながら、他の女に通ぜねばならなくなった、或はそういう事を考えねばならなくなった男があるとする。そして、有妻の男子が他の女と通ずる事を罪悪とし、背倫の行為とし、唾棄すべき事として秋毫寛すなき従来の道徳を、無理であり、苛酷であり、自然に背くものと感じ、本来男女の関係は全く自由なものであるという原始的事実に論拠して、従来の道徳に何処までも服従すべき理由とては無いのだと考えたとする。其処までは可い。もしもその際、問題の目的が「然らば男女関係の上に設くべき、無理でなく、苛酷でなく、自然に背くものでないところの制約はどんなものであらねばならぬか」という事であるのを忘れて了って、既に従来の道徳は必然服従せねばならぬものでない以上、凡ての夫が妻ならぬ女に通じ、凡ての妻が夫ならぬ男に通じても可いものとし、乃至は、そうしない夫と妻とを自覚のない状態にあるものとして愍れむに至っては、性急もまた甚だしいと言わねばならぬ。その結果は、啻に道徳上の破産であるのみならず、凡ての男女関係に対する自分自身の安心というものを全く失って了わねば止まない、乃ち、自己その物の破産である。問題が親子の関係である際も同である。 二 右の例は、一部の人々ならば「近代的」という事に縁が遠いと言われるかも知れぬ。そんなら、この処に一人の男(仮令ば詩を作る事を仕事にしている)があって、自分の神経作用が従来の人々よりも一層鋭敏になっている事に気が付き、そして又、それが近代の人間の一つの特質である事を知り、自分もそれらの人々と共に近代文明に醸されたところの不健康(には違いない)な状態にあるものだと認めたとする。それまでは可い。もしもその際に、近代人の資格は神経の鋭敏という事であると速了して、あたかも入学試験の及第者が喜び勇んで及第者の群に投ずるような気持で、(その実落第者でありながら。――及第者も落第者も共に受験者である如く、神経組織の健全な人間も不健全な人間も共に近代の人間には違いない)その不健全を恃み、かつ誇り、更に、その不健全な状態を昂進すべき色々の手段を採って得意になるとしたら、どうであろう。その結果は言うまでもない。もし又、そうしなければ所謂「新らしい詩」「新らしい文学」は生れぬものとすれば、そういう詩、そういう文学は、我々――少くとも私のように、健康と長寿とを欲し、自己及自己の生活(人間及人間の生活)を出来るだけ改善しようとしている者に取っては、無暗に強烈な酒、路上ででも交接を遂げたそうな顔をしている女、などと共に、全然不必要なものでなければならぬ。時代の弱点を共有しているという事は、如何なる場合の如何なる意味に於ても、かつ如何なる人に取っても決して名誉ではない。 性急な心! その性急な心は、或は特に日本人に於て著るしい性癖の一つではあるまいか、と私は考える事もある。古い事を言えば、あの武士道というものも、古来の迷信家の苦行と共に世界中で最も性急な道徳であるとも言えば言える。……日本はその国家組織の根底の堅く、かつ深い点に於て、何れの国にも優っている国である。従って、もしも此処に真に国家と個人との関係に就いて真面目に疑惑を懐いた人があるとするならば、その人の疑惑乃至反抗は、同じ疑惑を懐いた何れの国の人よりも深く、強く、痛切でなければならぬ筈である。そして、輓近一部の日本人によって起されたところの自然主義の運動なるものは、旧道徳、旧思想、旧習慣のすべてに対して反抗を試みたと全く同じ理由に於て、この国家という既定の権力に対しても、その懐疑の鉾尖を向けねばならぬ性質のものであった。然し我々は、何をその人達から聞き得たであろう。其処にもまた、呪うべく愍れむべき性急な心が頭を擡げて、深く、強く、痛切なるべき考察を回避し、早く既に、あたかも夫に忠実なる妻、妻に忠実なる夫を笑い、神経の過敏でないところの人を笑うと同じ態度を以て、国家というものに就いて真面目に考えている人を笑うような傾向が、或る種類の青年の間に風を成しているような事はないか。少くとも、そういう実際の社会生活上の問題を云々しない事を以て、忠実なる文芸家、溌溂たる近代人の面目であるというように見せている、或いは見ている人はないか。実際上の問題を軽蔑する事を近代の虚無的傾向であるというように速了している人はないか。有る――少くとも、我々をしてそういう風に疑わしめるような傾向が、現代の或る一隅に確に有ると私は思う。 三 性急な心は、目的を失った心である。この山の頂きからあの山の頂きに行かんとして、当然経ねばならぬところの路を踏まずに、一足飛びに、足を地から離した心である。危い事この上もない。目的を失った心は、その人の生活の意義を破産せしめるものである。人生の問題を考察するという人にして、もしも自分自身の生活の内容を成しているところの実際上の諸問題を軽蔑し、自己その物を軽蔑するものでなければならぬ。自己を軽蔑する人、地から足を離している人が、人生について考えるというそれ自体が既に矛盾であり、滑稽であり、かつ悲惨である。我々は何をそういう人々から聞き得るであろうか。安価なる告白とか、空想上の懐疑とかいう批評のある所以である。 田中喜一氏は、そういう現代人の性急なる心を見て、極めて恐るべき笑い方をした。曰く、「あらゆる行為の根底であり、あらゆる思索の方針である智識を有せざる彼等文芸家が、少しでも事を論じようとすると、観察の錯誤と、推理の矛盾と重畳百出するのであるが、これが原因を繹ねると、つまり二つに帰する。その一つは彼等が一時の状態を永久の傾向であると見ることであり、もう一つは局部の側相を全体の本質と考えることである」 自己を軽蔑する心、足を地から離した心、時代の弱所を共有することを誇りとする心、そういう性急な心をもしも「近代的」というものであったならば、否、所謂「近代人」はそういう心を持っているものならぱ、我々は寧ろ退いて、自分がそれ等の人々よりより多く「非近代的」である事を恃み、かつ誇るべきである。そうして、最も性急ならざる心を以て、出来るだけ早く自己の生活その物を改善し、統一し徹底すべきところの努力に従うべきである。 我々日本人が、最近四十年間の新らしい経験から惹き起されたところの反省は、あらゆる意味に於て、まだ浅い。 |
八月十七日私は自分の農場の小作人に集会所に集まってもらい、左の告別の言葉を述べた。これはいわば私の私事ではあるけれども、その当時の新聞紙が、それについて多少の報道を公けにしたのであるが、また聞きのことでもあるから全く誤謬がないとはいえない。こうなる以上は、私の所言を発表して、読者にお知らせしておくのが便利と考えられる。 農繁の時節にわざわざ集まってくださってありがたく思います。しかし今日はぜひ諸君に聞いていただかねばならぬ用事があったことですから悪しからず許してください。 私がこの農場を何とか処分するとのことは新聞にも出たから、諸君もどうすることかといろいろ考えておられたろうし、また先ごろは農場監督の吉川氏から、氏としての考えを述べられたはずだから、私の処分についての、だいたいの様子はわかっておられたかとも思います。けれどもこの事柄は私の口ずから申し出ないと落ち着かない種類のものと信じますから、私は東京から出て来ました。 第一、第二の農場を合して、約四百五十町歩の地積に、諸君は小作人として七十戸に近い戸数をもっています。今日になってみると、開墾しうべきところはたいてい開墾されて、立派に生産に役立つ土地になっていますが、開墾当初のことを考えると、一時代時代が隔たっているような感じがします。ここから見渡すことのできる一面の土地は、丈け高い熊笹と雑草の生い茂った密林でした。それが私の父がこの土地の貸し下げを北海道庁から受けた当時のこの辺のありさまだったのです。食料品はもとよりすべての物資は東倶知安から馬の背で運んで来ねばならぬ交通不便のところでした。それが明治三十三年ごろのことです。爾来諸君はこの農場を貫通する川の沿岸に堀立小屋を営み、あらゆる艱難と戦って、この土地を開拓し、ついに今日のような美しい農作地を見るに至りました。もとより開墾の初期に草分けとしてはいった数人の人は、今は一人も残ってはいませんが、その後毎年はいってくれた人々は、草分けの人々のあとを嗣いで、ついにこの土地の無料付与を道庁から許可されるまでの成績を挙げてくれられたのです。 この土地の開墾については資金を必要としたことに疑いはありません。父は道庁への交渉と資金の供給とに当たりました。そのほか父はその老躯をたびたびここに運んで、成墾に尽力しました。父は、私が農学を研究していたものだから、私の発展させていくべき仕事の緒口をここに定めておくつもりであり、また私たち兄弟の中に、不幸に遭遇して身動きのできなくなったものができたら、この農場にころがり込むことによって、とにかく餓死だけは免れることができようとの、親の慈悲心から、この農場の経営を決心したらしく見えます。親心としてこれはありがたい親心だと私は今でも考えています。けれども、私は親から譲られたこの農場を持ち続けていく気持ちがなくなってしまったのです。で、私は母や弟妹に私の心持ちを打ち明けた上、その了解を得て、この土地全部を無償で諸君の所有に移すことになったのです。 こう申し出たとて、誤解をしてもらいたくないのは、この土地を諸君の頭数に分割して、諸君の私有にするという意味ではないのです。諸君が合同してこの土地全体を共有するようにお願いするのです。誰でも少し物を考える力のある人ならすぐわかることだと思いますが、生産の大本となる自然物、すなわち空気、水、土のごとき類のものは、人間全体で使用すべきもので、あるいはその使用の結果が人間全体に役立つよう仕向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりのために、個人によって私有さるべきものではありません。しかるに今の世の中では、土地は役に立つようなところは大部分個人によって私有されているありさまです。そこから人類に大害をなすような事柄が数えきれないほど生まれています。それゆえこの農場も、諸君全体の共有にして、諸君全体がこの土地に責任を感じ、助け合って、その生産を計るよう仕向けていってもらいたいと願うのです。 単に利害勘定からいっても、私の父がこの土地に投入した資金と、その後の維持、改良、納税のために支払った金とを合算してみても、今日までの間毎年諸君から徴集していた小作料金に比べればまことにわずかなものです。私がこれ以上諸君から収めるのは、さすがに私としても忍び難いところです。それから開墾当時の地価と、今日の地価との大きな相違はどうして起こってきたかと考えてみると、それはもちろん私の父の勤労や投入資金の利子やが計上された結果として、価格の高まったことになったには違いありませんが、そればかりが唯一の原因と考えるのは大きな間違いであって、外界の事情が進むに従って、こちらでは手を束ねているうちに、いつか知らず地価が高まった結果を来たしているのです。かく高まった地価というものは、いわば社会が生み出してくれたもので、私の功績でないばかりでなく、諸君の功績だともいいかねる性質のものです。このことを考えてみれば、土地を私有する理窟はますます立たないわけになるのです。 しかしながら、もし私がほかに何の仕事もできない人間で、諸君に依頼しなければ、今日今日を食っていけないようでしたら、現在のような仕組みの世の中では、あるいは非を知りながらも諸君に依頼して、パンを食うような道に従って生きようとしたかもしれません。ところが私には一つの仕事があって、他の人はどういおうと、私としてはこの上なく楽しく思う仕事ですし、またその仕事から、とにかく親子四人が食っていくだけの収入は得られています。明日はどうなるか知らず、今日は得られています。かかる保証を有ちながら、私が所有地解放を断行しなかったのは、私としてはなはだ怠慢であったので、諸君に対しことさら面目ない次第です。 だいたい以上の理由のもとに、私はこの土地の全体を諸君全体に無償で譲り渡します。ただし正確にいうと、私の徴集した小作料のうち過剰の分をも諸君に返済せねば無償ということができぬのですが、それはこの際勘弁していただくことにしたいと思います。 なおこの土地に住んでいる人の中にも、永く住んでいる人、きわめて短い人、勤勉であった人、勤勉であることのできなかった人等の差別があるわけですが、それらを多少斟酌して、この際私からお礼をするつもりでいます。ただし、いったんこの土地を共有した以上は、かかる差別は消滅して、ともに平等の立場に立つのだということを覚悟してもらわねばなりません。 また私に対して負債をしておられる向きもあって、その高は相当の額に達しています。これは適当の方法をもって必ず皆済していただかねばなりません。私はそれを諸君全体に寄付して、向後の費途に充てるよう取り計らうつもりでいます。 つまり今後の諸君のこの土地における生活は、諸君が組織する自由な組合というような形になると思いますが、その運用には相当の習練が必要です。それには、従来永年この農場の差配を担任していた監督の吉川氏が、諸君の境遇も知悉し、周囲の事情にも明らかなことですから、幾年かの間氏をわずらわして(もとより一組合員の資格をもって)実務に当たってもらうのがいちばんいいかと私は思っています。永年の交際において、私は氏がその任務をはずかしめるような人ではないと信じますから一言します。 けれどもこれら巨細にわたった施設に関しては、札幌農科大学経済部に依頼し、具体案を作製してもらうことになっていますから、それができ上がった時、諸君がそれを研究して、適当だと思ったらそれを採用されたなら、少なからず実際の上に便利でしょう。 具体案ができ上がったら、私は全然この農場から手を引くことにします。私も今後は経済的には自分の力だけの範囲で生活する覚悟でいますが、従来親譲りの遺産によって衣食してきた関係上、思うようにいかない境遇に追いつめられるかもしれません。そんな時が来ても、私がこの農場を解放したのを悔いるようなことは断じてないつもりです。昔なつかしさに、たまに遊びにでもやって来た時、諸君が私に数日の宿を惜しまれなかったら、それは私にとって望外の喜びとするところです。 |
前書 ルネ・クレールに関する一文を求められたのであるが、由来クレールに関してはほとんどもう語り尽された観がある。しかし考えてみると私には別な見方がないでもない。それを書いて見ようというのであるが自分の仕事のことなどを考えると気恥ずかしくてクレール論などは書けないのがほんとうである。今日はひとつ批評家になつて書いてみようと思う。 ルネ・クレールと喜劇 ルネ・クレールについてまつたく何も知らない人から「ルネ・クレールとはどんな人だ」ときかれたならば、私は「非常に喜劇のうまい人だ」と答えるにちがいない。 少しいい方を変えるならば、ルネ・クレールは私に喜劇を見せてくれるただ一人の映画芸術家だともいえる。 正直な話、私のクレール観は以上でおしまいなのであるが、これでやめてしまつたのでは『キネマ旬報』の印刷所がひまで困るだろうから、もう少しルネ・クレールをもてあそんでみるが、それにつけても残念千万なのはルネ・クレールが日本の雑誌を読まないことである。 ルネ・クレールとチャップリン ルネ・クレールとチャップリンとの比較はいろんな意味で興味がある。 ルネ・クレールの喜劇の最も重大な意味は俳優の手から監督の手へ奪い取つたことにあるのだと私は考えている。 「ル・ミリオン」を見た時に私はそれを痛感した。こういう人に出てこられてはチャップリンももうおしまいだと。 最後の喜劇俳優、チャップリン。最初の喜劇監督、ルネ・クレール。 悲劇的要素で持つている喜劇俳優、チャップリン。喜劇だけで最高の椅子をかち得たクレール。 ゲテ物、チャップリン。本場物、クレール。 世界で一番頑迷なトーキー反対論者、(彼が明治維新に遭遇したら明治三十年ごろまでちよんまげをつけていたにちがいない)チャップリン。世界中で一番はやくトーキーを飼いならした人間、ルネ・クレール。 感傷派代表、チャップリン。理知派代表、クレール。 これでは勝負にならない。 しかし、と諸君はいうだろう。チャップリンはいまだに世界で一番高価な映画を作つているではないか、と。だからしにせほどありがたいものはないというのだ。 ルネ・クレールと諷刺 ルネ・クレールの作品にはパリ下町ものの系列と諷刺ものの系列との二種あることは万人のひとしく認めるところである。 そしてそれらの表現形式は下町ものの場合は比較的リアリズムの色彩を帯び、諷刺ものの場合は比較的象徴主義ないし様式主義的傾向を示すものと大体きまつているようである。 しかして二つの系列のうちでは、諷刺もののほうをクレール自身も得意とするらしく、世間もまた、より高位に取り扱い、より問題視しているようである。事実、彼の仕事がパリ下町ものの系列以外に出なかつたならば、彼は一種の郷土詩人に終つたかもしれない。すなわち公平なところ、彼が一流の地位を獲得したのは一にその諷刺ものの系列によつてであると見てさしつかえなかろう。つまり喜劇によつてである。 元来クレールの喜劇は諷刺あるがゆえに尊しとされているのである。 しかし、少し物事を考えてみたら、いまさらこういうことをいうのははなはだ腑に落ちぬ話である。なぜならば、いまの世の中で諷刺のない喜劇などというものを人が喜んで見てくれるものかどうかを考えてみるがいい。 つまり喜劇に諷刺があるのは、あるべきものがあるべきところにあるというだけの話で別にありがたがるにはおよばんではないかというのである。人を笑わせるだけのことならからだのどこかをくすぐつてもできるのである。芸術だの何だのという大仰な言葉を使つて人さわがせをするにはあたらないのである。問題は諷刺の有無ではない。問題は諷刺の質にある。諷刺の質を決定するものは何かといえば、それは思想にきまつている。ではクレールの思想は? クレールと思想 最も面にしてかつ倒なる問題に逢着してしまつた。白状すると私にはクレールの思想はわからない。少なくともいままで私の見た彼の作品(日本にきたものは全部見たが。)をつうじては彼の思想はつかめない。彼は何ごともいわないのかあるいは彼にははつきりした思想がないのか、どちらかである。彼は世間のできごとを観察する。そして判断する。こういうことは愚劣だ。あるいはこつけいである。たとえばそれはこういうふうなこつけいに似ている。見たまえ。これが彼らの姿だ。そういつて彼は私たちにこつけいな画面を示す。そこで我々はそれを見て笑う。 クレールのすることはそれだけである。 これも思想だといえば思想なのであろう。なぜならば思想なしには判断もできないから。 しかし、クレールの示したものよりもさらに愚劣なもの、さらにこつけいなものはいくらでもある。 しかしクレールはあえてそれらを指摘しようとはしない。また、彼の指摘するところの愚劣やこつけいは何に原因しているのか、そしてそれらを取り除くにはどうすればいいのか、等々の問題については彼はいつこうに関心を示そうとしない。 もしも思想というものが現われるものなら、それは彼の関心を示さない、これらの部分にこそその姿を現わすはずのものである。したがつて私は彼の思想をどう解釈していいかほとんど手がかりを発見することができないのである。 私がいつかある場所において、クレールの作に現われているのは思想ではなくて趣味だといつたのはこのゆえである。 あれだけ多量の諷刺を通じてなおかつその思想の一端に触れることができないような、そんな諷刺に人々はなぜあれほど大さわぎをするのであろうか。 クレールの本質 私たちがクレールにとてもかなわないと思うのは多くの場合その技巧と機知に対してである。 クレールほどあざやかな技巧を持つており、クレールほど泉のように機知を湧かす映画作家を私は知らない。 彼が最もすぐれた喜劇作者であるゆえんは一にこの技巧と機知にかかつている。 彼が持つ精鋭なる武器、斬新なる技巧と鋭角的な機知をさげて立ち現われると我々はそれだけでまず圧倒されてしまう。 技巧と機知を縦横に馳駆する絢爛たる知的遊戯、私はこれをルネ・クレールの本質と考える。 |
一昨年の冬、香取秀真氏が手賀沼の鴨を御馳走した時、其処に居合せた天岡均一氏が、初対面の小杉未醒氏に、「小杉君、君の画は君に比べると、如何にも優しすぎるじゃないか」と、いきなり一拶を与えた事がある。僕はその時天岡の翁も、やはり小杉氏の外貌に欺かれているなと云う気がした。 成程小杉氏は一見した所、如何にも天狗倶楽部らしい、勇壮な面目を具えている。僕も実際初対面の時には、突兀たる氏の風采の中に、未醒山人と名乗るよりも、寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の気を感じたものである。が、その後氏に接して見ると、――接したと云う程接しもしないが、兎に角まあ接して見ると、肚の底は見かけよりも、遥に細い神経のある、優しい人のような気がして来た。勿論今後猶接して見たら、又この意見も変るかも知れない。が、差当り僕の見た小杉未醒氏は、気の弱い、思いやりに富んだ、時には毛嫌いも強そうな、我々と存外縁の近い感情家肌の人物である。 だから僕に云わせると、氏の人物と氏の画とは、天岡の翁の考えるように、ちぐはぐな所がある訳ではない。氏の画はやはり竹のように、本来の氏の面目から、まっすぐに育って来たものである。 小杉氏の画は洋画も南画も、同じように物柔かである。が、決して軽快ではない。何時も妙に寂しそうな、薄ら寒い影が纏わっている。僕は其処に僕等同様、近代の風に神経を吹かれた小杉氏の姿を見るような気がする。気取った形容を用いれば、梅花書屋の窓を覗いて見ても、氏の唐人は気楽そうに、林処士の詩なぞは謡っていない。しみじみと独り炉に向って、Rêvons……le feu s'allume とか何とか考えていそうに見えるのである。 |
怪談の種類も色々あって、理由のある怪談と、理由のない怪談とに別けてみよう、理由のあるというのは、例えば、因縁談、怨霊などという方で。後のは、天狗、魔の仕業で、殆ど端睨すべからざるものを云う。これは北国辺に多くて、関東には少ない様に思われる。 私は思うに、これは多分、この現世以外に、一つの別世界というような物があって、其処には例の魔だの天狗などという奴が居る、が偶々その連中が、吾々人間の出入する道を通った時分に、人間の眼に映ずる。それは恰も、彗星が出るような具合に、往々にして、見える。が、彗星なら、天文学者が既に何年目に見えると悟っているが、御連中になると、そうはゆかない。何日何時か分らぬ。且つ天の星の如く定った軌道というべきものもないから、何処で会おうかもしれない、ただほんの一瞬間の出来事と云って可い。ですから何日の何時頃、此処で見たから、もう一度見たいといっても、そうは行かぬ。川の流は同じでも、今のは前刻の水ではない。勿論この内にも、狐狸とか他の動物の仕業もあろうが、昔から言伝えの、例の逢魔が時の、九時から十一時、それに丑満つというような嫌な時刻がある、この時刻になると、何だか、人間が居る世界へ、例の別世界の連中が、時々顔を出したがる。昔からこの刻限を利用して、魔の居るのを実験する、方法があると云ったようなことを過般仲の町で怪談会の夜中に沼田さんが話をされたのを、例の「膝摩り」とか「本叩き」といったもので。 「膝摩り」というのは、丑満頃、人が四人で、床の間なしの八畳座敷の四隅から、各一人ずつ同時に中央へ出て来て、中央で四人出会ったところで、皆がひったり座る、勿論室の内は燈をつけず暗黒にしておく、其処で先ず四人の内の一人が、次の人の名を呼んで、自分の手を、呼んだ人の膝へ置く、呼ばれた人は必ず、返事をして、また同じ方法で、次の人の膝へ手を置くという風にして、段々順を廻すと、恰度その内に一人返事をしないで座っている人が一人増えるそうで。 「本叩き」というのは、これも同じく八畳の床の間なしの座敷を暗がりにして、二人が各手に一冊宛本を持って向合いの隅々から一人宛出て来て、中央で会ったところで、その本を持って、下の畳をパタパタ叩く、すると唯二人で、叩く音が、当人は勿論、襖越に聞いている人にまで、何人で叩くのか、非常な多人数で叩いている音の様に聞えると言います。 これで思出したが、この魔のやることは、凡て、笑声にしても、唯一人で笑うのではなく、アハハハハハと恰も数百人の笑うかの如き響をするように思われる。 私が曾て、逗子に居た時分その魔がさしたと云う事について、こう云う事がある、丁度秋の中旬だった、当時田舎屋を借りて、家内と婢女と三人で居たが、家主はつい裏の農夫であった。或晩私は背戸の据風呂から上って、椽側を通って、直ぐ傍の茶の間に居ると、台所を片着けた女中が一寸家まで遣ってくれと云って、挨拶をして出て行く、と入違いに家内は湯殿に行ったが、やがて「手桶が無い」という、私の入っていた時には、現在水が入ってあったものが無い道理はない、とやったが、実際見えないという。私も起って行って見たが、全く何処にも見えない、奇妙な事もあるものだと思ったが、何だか、嫌な気持のするので、何処までも確めてやろうと段々考えてみると、元来この手桶というは、私共が転居して来た時、裏の家主で貸してくれたものだから、もしやと思って、私は早速裏の家へ行って訊ねてみると、案の条、婆さんが黙って持って行ったので。その婆さんが湯殿へ来たのは、恰度私が湯殿から、椽側を通って茶の間へ入った頃で、足に草履をはいていたから足音がしない、農夫婆さんだから力があるので、水の入っている手桶を、ざぶりとも言わせないで、その儘提げて、呑気だから、自分の貸したもの故、別に断らずして、黙って持って行ってしまったので、少しも不思議な事はないが、もしこれをよく確めずにおいたら、おかしな事に成ろうと思う。こんな事でもその機会がこんがらかると、非常な、不思議な現象が生ずる。がこれは決して前述べた魔の仕業でも何でもない、ただ或る機会から生じた一つ不思議な談。これから、談すのは例の理由のない方の不思議と云うやつ。 これも、私が逗子に居た時分に、つい近所の婦人から聞いた談、その婦人がまだ娘の時分に、自分の家にあったと云うのだ。静岡の何でも町端れが、その人の父が其処の屋敷に住んだところ、半年ばかりというものは不思議な出来事が続け様で、発端は五月頃、庭へ五六輪、菖蒲が咲ていたそうでその花を一朝奇麗にもぎって、戸棚の夜着の中に入れてあった。初めは何か子供の悪戯だろうくらいにして、別に気にもかけなかったが、段々と悪戯が嵩じて、来客の下駄や傘がなくなる、主人が役所へ出懸けに机の上へ紙入を置いて、後向に洋服を着ている間に、それが無くなる、或時は机の上に置いた英和辞典を縦横に絶切って、それにインキで、輪のようなものを、目茶苦茶に悪書をしてある。主人も、非常に閉口したので、警察署へも依頼した、警察署の連中は、多分その家に七歳になる男の児があったが、それの行為だろうと、或時その児を紐で、母親に附着けておいたそうだけれども、悪戯は依然止まぬ。就中、恐ろしかったというのは、或晩多勢の人が来て、雨落ちの傍の大きな水瓶へ種々な物品を入れて、その上に多勢かかって、大石を持って来て乗せておいて、最早これなら、奴も動かせまいと云っていると、その言葉の切れぬ内に、グワラリと、非常な響をして、その石を水瓶から、外へ落したので、皆が顔色を変えたと云う事。一時などは椽側に何だか解らぬが動物の足跡が付いているが、それなんぞしらべて丁度障子の一小間の間を出入するほどな動物だろうという事だけは推測出来たが、誰しも、遂にその姿を発見したものはない。終には洋燈を戸棚へ入れるというような、危険千万な事になったので、転居をするような仕末、一時は非常な評判になって、家の前は、見物の群集で雑沓して、売物店まで出たとの事。 これと似た談が房州にもある、何でも白浜の近方だったが、農夫以前の話とおなじような事がはじまった、家が、丁度、谷間のようなところにあるので、その両方の山の上に、猟夫を頼んで見張をしたが、何も見えないが、奇妙に夜に入るとただ猟夫がつれている、犬ばかりには見えるものか、非常に吠えて廻ったとの事、この家に一人、子守娘が居て、その娘は、何だか変な動物が時々来るよといっておったそうである。 同じ様に、越前国丹生郡天津村の風巻という処に善照寺という寺があって此処へある時村のものが、貉を生取って来て殺したそうだが、丁度その日から、寺の諸所へ、火が燃え上るので、住職も非常に困って檀家を狩集めて見張となると、見ている前で、障子がめらめらと、燃える、ひゃあ、と飛ついて消す間に、梁へ炎が絡む、ソレ、と云う内羽目板から火を吐出す、凡そ七日ばかりの間、昼夜詰切りで寐る事も出来ぬ。ところが、此寺の門前に一軒、婆さんと十四五の娘の親子二人暮しの駄菓子屋があった、その娘が境内の物置に入るのを誰かがちらりと見た、間もなく、その物置から、出火したので、早速馳付けたけれども、それだけはとうとう焼けた。この娘かと云うので、拷問めいた事までしたが、見たものの過失で、焼けはじめの頃自分の内に居た事が明に分って、未だに不思議な話になっているそうである。初めに話した静岡の家にも、矢張十三四の子守娘が居たと云う、房州にも矢張居る、今のにも、娘がついて居る、十三四の女の子とは何だかその間に関係があるらしくなる。これは如何いうものか、解らない。昔物語にはこんな家の事を「くだ」付き家と称して、恐わがっている。「くだ」というのは狐の様で狐にあらず、人が見たようで、見ないような一種の動物だそうだ。 |
例の珍らしいもの、変ったもの、何んでもに趣味を持つ僕の事ですから、この間三越の小児博覧会へ行った。見て行く中に、印度のコブラ(錦蛇あるいは眼鏡蛇)の玩具があったが、その構造が、上州の伊香保で売っている蛇の玩具と同じである。全く作り方が同じである処から見ると、この玩具は初め印度辺りから渡ったものらしい。もっとも今は伊香保だけしか売っていないようですが、昔は東京にでも花時などに売っているのを往々見かけた。昔東京で僕らが見たのは、胴と同じように、頭も木で出来てあったが、伊香保のは、頭が張子で、形は段々と巧みになっている。それからこの間、『耽奇漫録』から模したのですが、日向国高鍋の観音の市に売るという鶉車の玩具や、また筑後柳河で作る雉子車、この種の物は形が古雅で、無器用な処に面白味がある。この節では玩具一つでも、作方が巧みになって来たのは勿論であるが、面白味がなくなった。例えていえば昔の狐の面を見ると、眼の処に穴が空いていないが、近頃のはレースで冠って見えるようになっているなども、玩具の変遷の一例でしょう。面といえば昔は色々の形があった。僕の子供の時代であるから、安政度であるが、その時分の玩具には面が多くあって、おかめ、ひょっとこ、狐は勿論、今一向見かけない珍らしいのでは河童、蝙蝠などの面があったが、近頃は面の趣味は廃ったようだ。元来僕は面が大好きでしてね。その頃の僕の家ですから、僕が面が好きだというので、僕の室の欄間には五、六十の面を掛けて、僕のその頃の着物は、袂の端に面の散し模様が染めてあって、附紐は面継の模様であったのを覚えています位、僕が面好きであったと共に、玩具屋にも種々あったものです。清水晴風さんの『うなゐのとも』という玩具の事を書いた書の中にも、ベタン人形として挙げてあるのはこれで、肥後熊本日奈久で作られます。僕は上方風にベッタ人形といっているが、ベタン人形と同じものですよ。それからこの間仲見世で、長方形の木箱の蓋が、半ば引開になって、蓋の上には鼠がいて、開けると猫が追っかけて来るようになっている玩具を売ってますのを見たが、これは僕の子供の時分に随分流行って、その後廃たれていたのが、この頃またまた復活して来たのですな。今は到底売れないが昔亀戸の「ツルシ」といって、今張子の亀の子や兵隊さんがありますが、あの種類で、裸体の男が前を出して、その先きへ石を附けて、張子の虎の首の動くようなのや、おかめが松茸を背負っているという猥褻なのがありましたっけ。こんな子供の玩具にも、時節の変遷が映っているのですからな。僕の子供の頃の浅草の奥山の有様を考えると、暫くの間に変ったものです。奥山は僕の父椿岳さんが開いたのですが、こんな事がありましたっけ。確かチャリネの前かスリエという曲馬が――明治五年でしたか――興行された時に、何でもジョーワニという大砲を担いで、空砲を打つという曲芸がありまして、その時空鉄砲の音に驚かされて、奥山の鳩が一羽もいなくなった事がありました。奥山見世物の開山は椿岳で、明治四、五年の頃、伝法院の庭で、土州山内容堂公の持っていられた眼鏡で、普仏戦争の五十枚続きの油画を覗かしたのでした。看板は油絵で椿岳が描いたのでして、確かその内三枚ばかり、今でも下岡蓮杖さんが持っています。その覗眼鏡の中でナポレオン三世が、ローマのバチカンに行く行列があったのを覚えています。その外廓は、こう軍艦の形にして、船の側の穴の処に眼鏡を填めたので、容堂公のを模して足らないのを駒形の眼鏡屋が磨りました。而して軍艦の上に、西郷吉之助と署名して、南洲翁が横額に「万国一覧」と書いたのです。父はああいう奇人で、儲ける考えもなかったのですが、この興行が当時の事ですから、大評判で三千円という利益があった。 当時奥山の住人というと奇人ばかりで、今立派な共同便所のある処辺に、伊井蓉峰のお父さんの、例のヘベライといった北庭筑波がいました。ヘベライというのは、ヘンホーライを通り越したというのでヘベライと自ら号し、人はヘベさん〳〵といってました。それから水族館の辺に下岡蓮杖さん、その先に鏑木雪庵、広瀬さんに椿岳なんかがいました。古い池の辺は藪で、狐や狸が住んでいた位で、その藪を開いて例の「万国一覧」の覗眼鏡の興行があったのです。今の五区の処は田圃でしたから今の池を掘って、その土で今の第五区が出来たというわけで、これはその辺の百姓でした大橋門蔵という人がやったのです。 |
送り猫 話は別にある……色仕掛で、あはれな娘の身の皮を剥いだ元二と云ふ奴、其の袷に一枚づゝ帶を添へて質入れにして、手に握つた金子一歩としてある。 此の一歩に身のかはを剥がれたために可惜や、お春と云ふ其の娘は繼母のために手酷き折檻を受けて、身投げをしたが、其も後の事。件の元二はあとをも見ないで、村二つ松並木を一帳場で瓜井戸の原へ掛つたのが彼これ夜の八ツ過であつた。 若草ながら廣野一面渺茫として果しなく、霞を分けてしろ〴〵と天中の月はさし上つたが、葉末に吹かるゝ我ばかり、狐の提灯も見えないで、時々むら雲のはら〳〵と掛るやうに處々草の上を染めるのはこゝに野飼の駒の影。 元二は前途を見渡して、此から突張つて野を越して瓜井戸の宿へ入るか、九つを越したと成つては、旅籠屋を起しても泊めてはくれない、たしない路銀で江戸まで行くのに、女郎屋と云ふわけには行かず、まゝよとこんな事はさて馴れたもので、根笹を分けて、草を枕にころりと寢たが、如何にも良い月。 春の夜ながら冴えるまで、影は草葉の裏を透く。其の光が目へ射すので笠を取つて引被つて、足を踏伸ばして、眠りかけるとニヤゴー、直きそれが耳許で、小笹の根で鳴くのが聞えた。 「や、念入りな處まで持つて來て棄てやあがつた。野猫は居た事のない原場だが。」 ニヤゴと又啼く。耳についてうるさいから、しツ〳〵などと遣つて、寢ながら兩手でばた〳〵と追つたが、矢張聞える、ニヤゴ、ニヤゴーと續くやうで。 「いけ可煩え畜生ぢやねえか、畜生!」と、怒鳴つて、笠を拂つてむつくりと半身起上つて、透かして見ると何も居らぬ。其の癖四邊にかくれるほどな、葉の伸びた草の影もなかつた。月は皎々として眞晝かと疑ふばかり、原は一面蒼海で凪ぎたる景色。 ト錨が一具据つたやうに、間十間ばかり隔てて、薄黒い影を落して、草の中でくる〳〵と𢌞る車がある。はて、何時の間に、あんな處に水車を掛けたらう、と熟と透かすと、何うやら絲を繰る車らしい。 白鷺がすらりと首を伸ばしたやうに、車のまはるに從うて眞白な絲の積るのが、まざ〳〵と白い。 何處かで幽に、ヒイと泣き叫ぶ、うら少い女の聲。 晝間あのお春が納戸に絲を繰つて居る姿を猛然と思出すと、矢張り啼留まぬ猫の其の聲が、豫ての馴染でよく知つた、お春が撫擦つて可愛がつた黒と云ふ猫の聲に寸分違はぬ。 「夢だ。」 と思ひながら瓜井戸の野の眞中に、一人で頭から悚然すると、する〳〵と霞が伸びるやうに、形は見えないが、自分の居まはりに絡つて啼く猫の居る方へ、招いて手繰られたやうに絲卷から絲を曳いたが、幅も丈も颯と一條伸擴がつて、肩を一捲、胴で搦んで。 「わツ。」 と掻拂ふ手をぐる〳〵捲きに、二捲卷いてぎり〳〵と咽喉を絞める、其の絞らるゝ苦しさに、うむ、と呻いて、脚を空ざまに仰反る、と、膏汗は身體を絞つて、颯と吹く風に目が覺めた。 草を枕が其のまゝで、早やしら〴〵と夜が白む。駒の鬢がさら〳〵と朝のづらに搖いで見える。 恐ろしいより、夢と知れて、嬉しさが前に立つた。暫時茫然として居たが、膚脱ぎに成つて大汗をしつとり拭いた、其の手拭で向う顱卷をうんと緊めて、氣を確乎と持直して、すた〳〵と歩行出す。 野路の朝風、足輕く、さつ〳〵と過ぎて、瓜井戸の宿に入つたのが、まだしら〴〵あけで。 宿の入口に井戸川と云つて江戸川をなまつたやうな、些かもの欲しさうな稱の流があつた。古い木の橋が架つて居た。 固より身をやつす色氣十分の男であるから、道中笠の中ながら目やにのついた顏は、茶店の婆にも覗かせたくない。其處で、でこぼこと足場の惡い、蒼苔と夜露でつる〳〵と辷る、岸の石壇を踏んで下りて、笠を脱いで、岸の草へ、荷物を其の上。顱卷をはづして、こゝで、生白い素裸になつて、入つて泳がないばかりに、足の爪先まで綺麗に拭いた。 衣服を着て帶を〆めて、やがて尻を端折らうと云ふ頃、ふと橋の上を見ると、堅氣も多いが、賣女屋のある小さな宿、何となく自墮落の風が染まると見えて、宿中いづれも朝寢らしい。 馬のすゞ一つまだ聞こえず、鳥も居ない、其の橋の欄干の上に、黒猫が一疋。 前後の脚三本でのそりと留まつて、筑波の山を朝霞に、むつくりと構へながら、一本の前脚で、あの額際から鼻の先をちよい〳〵と、其の毎に口を箕のやうに開けて、ニタ〳〵笑ひで、下の流を向いて、恁う、顏を洗ふ、と云ふ所作で居た。 「畜生め。」 それかあらぬか、昨夜は耳許でニヤゴ〳〵啼いて、其のために可厭な夢を見た。其の憎さげな、高慢な、人を馬鹿にした形は何うだい、總別、氣に食はない畜生だ、と云ふ心から、石段の割れた欠を拾つて、俗にねこと言ふ、川楊の葉がくれに、熟と狙つて、ひしりと擲げる、と人に見せつけがましく此方を見い〳〵、右のちよつかいを遣つて居たが、畜生不意を打たれたらしい。 額を掠つて、礫は耳の先へトンと當つた。 爀と眞黄色な目を光らしたが、ギヤツと啼いて、ひたりと欄干を下へ刎返る、と橋を傳つて礫の走つた宿の中へ隱れたのである。 「態ア見やがれ。」 カアカア、アオウガアガアガア、と五六羽、水の上へ低く濡色の烏、嘴を黒く飛ぶ。ぐわた〳〵、かたり〳〵と橋の上を曳く荷車。 「お早う。」 「や、お早う。」と聲を掛けて、元二はすれ違ひに橋を渡つた。 それから、借りのある賣女屋の前は笠を傾けて、狐鼠々々と隱れるやうにして通つたが、まだ何處も起きては居ない、春濃かに門を鎖して、大根の夢濃厚。此の瓜井戸の宿はづれに、漸つと戸を一枚開けた一膳めし屋の軒へ入つた。 「何か出來ますかね。」 嬰兒も亭主もごみ〳〵と露出の一間に枕を並べて、晨起の爺樣一人で、釜の下を焚つけて居た處で。 「まだ、へい、何にもござりましねえね、いんま蕨のお汁がたけるだが、お飯は昨日の冷飯だ、それでよくば上げますがね。」 「結構だ、一膳出しておくんなさい、いや、どつこいしよ。」 と店前の縁側、壁に立掛けてあつた奴を、元二が自分で据直して、腰を掛ける。 其處へ古ちよツけた能代の膳。碗の塗も嬰兒が嘗め剥がしたか、と汚らしいが、さすがに味噌汁の香が、芬とすき腹をそゝつて香ふ。 「さあ、遣らつせえまし、蕨は自慢だよ。これでもへい家で食ふではねえ。お客樣に賣るだで、澤山沙魚の頭をだしに入れて炊くだアからね。」 「あゝ、あゝ、そりや飛だ御馳走だ。」 と箸の先で突いて見て、 「堪らねえ、去年の沙魚の乾からびた頭ばかり、此にも妄念があると見えて、北を向いて揃つて口を開けて居ら。蕨を胴につけてうよ〳〵と這出しさうだ、ぺつ〳〵。」 と、頭だけ膳の隅へはさみ出すと、味噌かすに青膨れで、ぶよ〳〵とかさなつて、芥溜の首塚を見るやう、目も當てられぬ。 其でも、げつそり空いた腹、汁かけ飯で五膳と云ふもの厚切の澤庵でばり〳〵と掻込んだ。生温い茶をがぶ〴〵と遣つて、爺がはさみ出してくれる焚落しで、立て續けに煙草を飮んで、大に人心地も着いた元二。 「あい、お代は置いたよ。」 「ゆつくらしてござらつせえ。」 「さて、出掛けよう。」 |
一 ………それは小ぢんまりと出来上った、奥床しい門構えの家だった。尤もこの界隈にはこう云う家も珍しくはなかった。が、「玄鶴山房」の額や塀越しに見える庭木などはどの家よりも数奇を凝らしていた。 この家の主人、堀越玄鶴は画家としても多少は知られていた。しかし資産を作ったのはゴム印の特許を受けた為だった。或はゴム印の特許を受けてから地所の売買をした為だった。現に彼が持っていた郊外の或地面などは生姜さえ碌に出来ないらしかった。けれども今はもう赤瓦の家や青瓦の家の立ち並んだ所謂「文化村」に変っていた。……… しかし「玄鶴山房」は兎に角小ぢんまりと出来上った、奥床しい門構えの家だった。殊に近頃は見越しの松に雪よけの縄がかかったり、玄関の前に敷いた枯れ松葉に藪柑子の実が赤らんだり、一層風流に見えるのだった。のみならずこの家のある横町も殆ど人通りと云うものはなかった。豆腐屋さえそこを通る時には荷を大通りへおろしたなり、喇叭を吹いて通るだけだった。 「玄鶴山房――玄鶴と云うのは何だろう?」 たまたまこの家の前を通りかかった、髪の毛の長い画学生は細長い絵の具箱を小脇にしたまま、同じ金鈕の制服を着たもう一人の画学生にこう言ったりした。 「何だかな、まさか厳格と云う洒落でもあるまい。」 彼等は二人とも笑いながら、気軽にこの家の前を通って行った。そのあとには唯凍て切った道に彼等のどちらかが捨てて行った「ゴルデン・バット」の吸い殻が一本、かすかに青い一すじの煙を細ぼそと立てているばかりだった。……… 二 重吉は玄鶴の婿になる前から或銀行へ勤めていた。従って家に帰って来るのはいつも電灯のともる頃だった。彼はこの数日以来、門の内へはいるが早いか、忽ち妙な臭気を感じた。それは老人には珍しい肺結核の床に就いている玄鶴の息の匂だった。が、勿論家の外にはそんな匂の出る筈はなかった。冬の外套の腋の下に折鞄を抱えた重吉は玄関前の踏み石を歩きながら、こういう彼の神経を怪まない訣には行かなかった。 玄鶴は「離れ」に床をとり、横になっていない時には夜着の山によりかかっていた。重吉は外套や帽子をとると、必ずこの「離れ」へ顔を出し、「唯今」とか「きょうは如何ですか」とか言葉をかけるのを常としていた。しかし「離れ」の閾の内へは滅多に足も入れたことはなかった。それは舅の肺結核に感染するのを怖れる為でもあり、又一つには息の匂を不快に思う為でもあった。玄鶴は彼の顔を見る度にいつも唯「ああ」とか「お帰り」とか答えた。その声は又力の無い、声よりも息に近いものだった。重吉は舅にこう言われると、時々彼の不人情に後ろめたい思いもしない訣ではなかった。けれども「離れ」へはいることはどうも彼には無気味だった。 それから重吉は茶の間の隣りにやはり床に就いている姑のお鳥を見舞うのだった。お鳥は玄鶴の寝こまない前から、――七八年前から腰抜けになり、便所へも通えない体になっていた。玄鶴が彼女を貰ったのは彼女が或大藩の家老の娘と云う外にも器量望みからだと云うことだった。彼女はそれだけに年をとっても、どこか目などは美しかった。しかしこれも床の上に坐り、丹念に白足袋などを繕っているのは余りミイラと変らなかった。重吉はやはり彼女にも「お母さん、きょうはどうですか?」と云う、手短な一語を残したまま、六畳の茶の間へはいるのだった。 妻のお鈴は茶の間にいなければ、信州生まれの女中のお松と狭い台所に働いていた。小綺麗に片づいた茶の間は勿論、文化竈を据えた台所さえ舅や姑の居間よりも遥かに重吉には親しかった。彼は一時は知事などにもなった或政治家の次男だった。が、豪傑肌の父親よりも昔の女流歌人だった母親に近い秀才だった。それは又彼の人懐こい目や細っそりした顋にも明らかだった。重吉はこの茶の間へはいると、洋服を和服に着換えた上、楽々と長火鉢の前に坐り、安い葉巻を吹かしたり、今年やっと小学校にはいった一人息子の武夫をからかったりした。 重吉はいつもお鈴や武夫とチャブ台を囲んで食事をした。彼等の食事は賑かだった。が、近頃は「賑か」と云っても、どこか又窮屈にも違いなかった。それは唯玄鶴につき添う甲野と云う看護婦の来ている為だった。尤も武夫は「甲野さん」がいても、ふざけるのに少しも変らなかった。いや、或は「甲野さん」がいる為に余計ふざける位だった。お鈴は時々眉をひそめ、こう云う武夫を睨んだりした。しかし武夫はきょとんとしたまま、わざと大仰に茶碗の飯を掻きこんで見せたりするだけだった。重吉は小説などを読んでいるだけに武夫のはしゃぐのにも「男」を感じ、不快になることもないではなかった。が、大抵は微笑したぎり、黙って飯を食っているのだった。 「玄鶴山房」の夜は静かだった。朝早く家を出る武夫は勿論、重吉夫婦も大抵は十時には床に就くことにしていた。その後でもまだ起きているのは九時前後から夜伽をする看護婦の甲野ばかりだった。甲野は玄鶴の枕もとに赤あかと火の起った火鉢を抱え、居睡りもせずに坐っていた。玄鶴は、――玄鶴も時々は目を醒ましていた。が、湯たんぽが冷えたとか、湿布が乾いたとか云う以外に殆ど口を利いたことはなかった。こう云う「離れ」にも聞えて来るものは植え込みの竹の戦ぎだけだった。甲野は薄ら寒い静かさの中にじっと玄鶴を見守ったまま、いろいろのことを考えていた。この一家の人々の心もちや彼女自身の行く末などを。……… 三 或雪の晴れ上った午後、二十四五の女が一人、か細い男の子の手を引いたまま、引き窓越しに青空の見える堀越家の台所へ顔を出した。重吉は勿論家にいなかった。丁度ミシンをかけていたお鈴は多少予期はしていたものの、ちょっと当惑に近いものを感じた。しかし兎に角この客を迎えに長火鉢の前を立って行った。客は台所へ上った後、彼女自身の履き物や男の子の靴を揃え直した。(男の子は白いスウェエタアを着ていた。)彼女がひけ目を感じていることはこう云う所作だけにも明らかだった。が、それも無理はなかった。彼女はこの五六年以来、東京の或近在に玄鶴が公然と囲って置いた女中上りのお芳だった。 お鈴はお芳の顔を見た時、存外彼女が老けたことを感じた。しかもそれは顔ばかりではなかった。お芳は四五年以前には円まると肥った手をしていた。が、年は彼女の手さえ静脈の見えるほど細らせていた。それから彼女が身につけたものも、――お鈴は彼女の安ものの指環に何か世帯じみた寂しさを感じた。 「これは兄が檀那様に差し上げてくれと申しましたから。」 お芳は愈気後れのしたように古い新聞紙の包みを一つ、茶の間へ膝を入れる前にそっと台所の隅へ出した。折から洗いものをしていたお松はせっせと手を動かしながら、水々しい銀杏返しに結ったお芳を時々尻目に窺ったりしていた。が、この新聞紙の包みを見ると、更に悪意のある表情をした。それは又実際文化竈や華奢な皿小鉢と調和しない悪臭を放っているのに違いなかった。お芳はお松を見なかったものの、少くともお鈴の顔色に妙なけはいを感じたと見え、「これは、あの、大蒜でございます」と説明した。それから指を噛んでいた子供に「さあ、坊ちゃん、お時宜なさい」と声をかけた。男の子は勿論玄鶴がお芳に生ませた文太郎だった。その子供をお芳が「坊ちゃん」と呼ぶのはお鈴には如何にも気の毒だった。けれども彼女の常識はすぐにそれもこう云う女には仕かたがないことと思い返した。お鈴はさりげない顔をしたまま、茶の間の隅に坐った親子に有り合せの菓子や茶などをすすめ、玄鶴の容態を話したり、文太郎の機嫌をとったりし出した。……… 玄鶴はお芳を囲い出した後、省線電車の乗り換えも苦にせず、一週間に一二度ずつは必ず妾宅へ通って行った。お鈴はこう云う父の気もちに始めのうちは嫌悪を感じていた。「ちっとはお母さんの手前も考えれば善いのに、」――そんなことも度たび考えたりした。尤もお鳥は何ごとも詮め切っているらしかった。しかしお鈴はそれだけ一層母を気の毒に思い、父が妾宅へ出かけた後でも母には「きょうは詩の会ですって」などと白々しい譃をついたりしていた。その譃が役に立たないことは彼女自身も知らないのではなかった。が、時々母の顔に冷笑に近い表情を見ると、譃をついたことを後悔する、――と云うよりも寧ろ彼女の心も汲み分けてくれない腰ぬけの母に何か情無さを感じ勝ちだった。 お鈴は父を送り出した後、一家のことを考える為にミシンの手をやめるのも度たびだった。玄鶴はお芳を囲い出さない前にも彼女には「立派なお父さん」ではなかった。しかし勿論そんなことは気の優しい彼女にはどちらでも善かった。唯彼女に気がかりだったのは父が書画骨董までもずんずん妾宅へ運ぶことだった。お鈴はお芳が女中だった時から、彼女を悪人と思ったことはなかった。いや、寧ろ人並みよりも内気な女と思っていた。が、東京の或る場末に肴屋をしているお芳の兄は何をたくらんでいるかわからなかった。実際又彼は彼女の目には妙に悪賢い男らしかった。お鈴は時々重吉をつかまえ、彼女の心配を打ち明けたりした。けれども彼は取り合わなかった。「僕からお父さんに言う訣には行かない。」――お鈴は彼にこう言われて見ると、黙ってしまうより外はなかった。 「まさかお父さんも羅両峯の画がお芳にわかるとも思っていないんでしょうが。」 重吉も時たまお鳥にはそれとなしにこんなことも話したりしていた。が、お鳥は重吉を見上げ、いつも唯苦笑してこう言うのだった。 「あれがお父さんの性分なのさ。何しろお父さんはあたしにさえ『この硯はどうだ?』などと言う人なんだからね。」 しかしそんなことも今になって見れば、誰にも莫迦莫迦しい心配だった。玄鶴は今年の冬以来、どっと病の重った為に妾宅通いも出来なくなると、重吉が持ち出した手切れ話に(尤もその話の条件などは事実上彼よりもお鳥やお鈴が拵えたと言うのに近いものだった。)存外素直に承諾した。それは又お鈴が恐れていたお芳の兄も同じことだった。お芳は千円の手切れ金を貰い、上総の或海岸にある両親の家へ帰った上、月々文太郎の養育料として若干の金を送って貰う、――彼はこういう条件に少しも異存を唱えなかった。のみならず妾宅に置いてあった玄鶴の秘蔵の煎茶道具なども催促されぬうちに運んで来た。お鈴は前に疑っていただけに一層彼に好意を感じた。 「就きましては妹のやつが若しお手でも足りませんようなら、御看病に上りたいと申しておりますんですが。」 お鈴はこの頼みに応じる前に腰ぬけの母に相談した。それは彼女の失策と云っても差し支えないものに違いなかった。お鳥は彼女の相談を受けると、あしたにもお芳に文太郎をつれて来て貰うように勧め出した。お鈴は母の気もちの外にも一家の空気の擾されるのを惧れ、何度も母に考え直させようとした。(その癖又一面には父の玄鶴とお芳の兄との中間に立っている関係上、いつか素気なく先方の頼みを断れない気もちにも落ちこんでいた。)が、お鳥は彼女の言葉をどうしても素直には取り上げなかった。 「これがまだあたしの耳へはいらない前ならば格別だけれども――お芳の手前も羞しいやね。」 お鈴はやむを得ずお芳の兄にお芳の来ることを承諾した。それも亦或は世間を知らない彼女の失策だったかも知れなかった。現に重吉は銀行から帰り、お鈴にこの話を聞いた時、女のように優しい眉の間にちょっと不快らしい表情を示した。「そりゃ人手が殖えることは難有いにも違いないがね。………お父さんにも一応話して見れば善いのに。お父さんから断るのならばお前にも責任のない訣なんだから。」――そんなことも口に出して言ったりした。お鈴はいつになく欝ぎこんだまま、「そうだったわね」などと返事をしていた。しかし玄鶴に相談することは、――お芳に勿論未練のある瀕死の父に相談することは彼女には今になって見ても出来ない相談に違いなかった。 ………お鈴はお芳親子を相手にしながら、こう云う曲折を思い出したりした。お芳は長火鉢に手もかざさず、途絶え勝ちに彼女の兄のことや文太郎のことを話していた。彼女の言葉は四五年前のように「それは」を S-rya と発音する田舎訛りを改めなかった。お鈴はこの田舎訛りにいつか彼女の心もちも或気安さを持ち出したのを感じた。同時に又襖一重向うに咳一つしずにいる母のお鳥に何か漠然とした不安も感じた。 「じゃ一週間位はいてくれられるの?」 「はい、こちら様さえお差支えございませんければ。」 「でも着換え位なくっちゃいけなかないの?」 「それは兄が夜分にでも届けると申しておりましたから。」 お芳はこう答えながら、退屈らしい文太郎に懐のキャラメルを出してやったりした。 「じゃお父さんにそう言って来ましょう。お父さんもすっかり弱ってしまってね。障子の方へ向っている耳だけ霜焼けが出来たりしているのよ。」 お鈴は長火鉢の前を離れる前に何となしに鉄瓶をかけ直した。 「お母さん。」 お鳥は何か返事をした。それはやっと彼女の声に目を醒ましたらしい粘り声だった。 「お母さん。お芳さんが見えましたよ。」 お鈴はほっとした気もちになり、お芳の顔を見ないように早速長火鉢の前を立ち上った。それから次の間を通りしなにもう一度「お芳さんが」と声をかけた。お鳥は横になったまま、夜着の襟に口もとを埋めていた。が、彼女を見上げると、目だけに微笑に近いものを浮かべ、「おや、まあ、よく早く」と返事をした。お鈴ははっきりと彼女の背中にお芳の来ることを感じながら、雪のある庭に向った廊下をそわそわ「離れ」へ急いで行った。 「離れ」は明るい廊下から突然はいって来たお鈴の目には実際以上に薄暗かった。玄鶴は丁度起き直ったまま、甲野に新聞を読ませていた。が、お鈴の顔を見ると、いきなり「お芳か?」と声をかけた。それは妙に切迫した、詰問に近い嗄れ声だった。お鈴は襖側に佇んだなり、反射的に「ええ」と返事をした。それから、――誰も口を利かなかった。 「すぐにここへよこしますから。」 「うん。………お芳一人かい?」 |
子規画「左千夫像」 (明治33年頃) 吾が正岡先生は、俳壇の偉人であって、そしてまた歌壇の偉人である。万葉集以降千有余年間に、ただ一人あるところの偉人であるのだ。 しかるに先生が俳壇の偉人であると云うことは、天下知らざるものなき程でありながら、歌壇の偉人であると云うことを知っているものは、天下幾人も無いと云うに至っては実に遺憾と云わねばならぬ。 先生の訃音が一度伝われば、東都の新紙は異口同音に哀悼の意を表し、一斉に先生が俳壇における偉業を讃した。これはもとより当然の事であえて間然すべきではないが、ただ一人として先生の歌壇における功績に片言も序し及ばなかったのはいかにも物足らぬ感に堪ぬのである。 先生の俳句における成功は、始め近親数人に及ぼし遂に天下に広充したので、北は北海道の果てより、南は九州の隅に至るまで、いやしくも文学に志す者で日本派の俳句、子規派の俳句を知らぬ者はないくらいであるから、俳句を知らぬ人でもその実績の上から、先生が俳壇の偉人であると云う事は知れる訳であるが、歌の方であると根岸派の歌と云うても、区域が極めて狭いので、真に歌を解せぬ素人の眼から、その偉大なることの分らぬのも、あながち無理ではない、しかしまた一歩進んで考えてみると、世人が、日本文学の精粋と歌わるる歌に対して解釈力の欠乏せるに驚かざるを得ないのである。たとい自ら作ると云うことは出来なくとも、その議論をみてその製作をみたならば、是非の判断くらいはつきそうなものじゃあるまいか。世上多くの文士が先生の俳人たる価値をのみ解して、歌人たるの価値を少しも解せぬと云うに至っては、吾々は多大なる不平が包みきれぬのである。 先生の俳句における成功と歌における成功と先生一個身の上よりせば、成功の価値に少しの相違もないのである。一は成功の余沢を広く他に及ぼし、一は未だ広く余沢を及ぼさぬと云うに過ぎぬ、俳句はその流れを酌む人が多いから偉大で歌はその流れを酌む人が少いから注意に価せぬとはあまりに浅薄なる批評眼と云わねばならぬ。 しからば、正岡が歌壇の偉人であるというはどう云うわけかと云う問が起るであろう。これに対する答は、俳壇の偉人を説明する様に簡単でない。実績に乏しき歌壇の偉人を説明しようには勢い歌そのものに依って判断せねばならぬ。すなわちその作歌及び歌論について価値を定めねばならぬ。しかしながらかくのごときことをなすは今その場合でないと思う。 先生が歌の研究を始めたのは、たしか明治二十九年の夏からである。年を経る僅かに七年一室に病臥して、自宅十歩の庭でさえ充分には見ることのできぬ身を以て、俳壇を支配するの余力を以て、今日の成功を見たる実に偉と云わねばならぬ。親しく教えを受けて研究に預れるは僅かに七八人に過ぎぬ。しかもこの七八人の根岸派同志が今日の歌壇にいかに重きをなすか、成功の確然たるものがなくて、どうしてしかることを得べきか。 国家とその起源を同じくしているところの歌は、また皇家とその隆替を同じくしている。皇威衰えて歌もまた衰えた、万葉以降歌の奮わぬと云うのも、考えてみると不思議と思う程である。思うに世道人心と深く関係するところに相違ないのであろう、帝皇の稜威が、全く上代に復して、歌壇に偉人の顕れたと云うも、偶然のようで決して偶然ではないのである。 先生には一人の愛子があった。当年二十四歳の男で歌詠みである。こういうとあまり出し抜けで人の驚くのも無理はない。十年病に臥して妻というものはもちろん妻らしいものも無かった先生に子のあろう筈がない。が、それも真面目すぎた話で我輩の子というのはそんな血統的の話ではない。その関係というものが、その交わりの親密さというのがどうしても親子としか思われない点から、予は理想的に先生の愛子じゃと云うた訳である。 それはだれだ、下総結城の人長塚節である。節はまた最も予とも親しいので、先生と節との関係は予が最もよく知っている様で、それはとにかくそんなことを書いて何が面白いかと思う人もあろうからちょっと前がきがいる。 どっちかと云うと、先生は理性的の人であった。いやそうでない、情的方面は尋常で理性の方面は非常であるから、誰の眼にもその理性の強い方面ばかりすぐ分るので、非常に理性の勝った人で全く智的の人の様に受け取られた様だ。明敏精察でそして沈着冷静という態度で、常に人に接するから逢う人は必ず畏敬の念を起すと同時に容易に近づく事の出来ぬという趣があった。かくいう吾輩も、この人は師として交わるべき人で友として交わることは容易に出来ぬ人であるなどと思うたことは幾度かあった。先生自らもその性質をちゃんと承知しておられ、或る時女郎買い話が出て大いに笑ったことがある。先生いう、僕も書生時分には月に一回位は往かねばならぬ様に往ったことがあるが、同じ奴の所へ二度往ったことは無かった。どうしてそうかと云うと僕はゆきなりその奴を観察してしまうので、すぐに愛情がつきてもう二度ゆく気になれぬ云々。 先生が理性の強かったことはこの一言で分る。そんな訳であるから、遠くに先生を敬慕した人はもちろん非常に多かったに相違ないが、近づいて親密にした人は割合にすくない。それには病気や何かでいろいろな事情もあったろうが、非常に理性に勝れたせいではあるまいか。しかし前にも云うた通り情的方面も尋常ではあったのである。決して無情酷薄な人ではなかった。もっとも人物評や作物評には、精察で峻励という常筆法でやられたゆえ、往々酷に過ぎるなきやと思われた事もないではなかったが、無情は有情の極ということもあるから、こういうことは酷と思う方が無理であろう。 世間の普通からいうと理性の著しくまさった人は情に薄いのが当り前であるのに、一人先生は普通以上であるという証拠として、長塚節が出てきた次第じゃ。赤の他人であって親の様に思われ子の様に愛するということは、無情な人の夢にも知ったことではない、先生と長塚との間柄は親子としてはあまりに理想的で、師弟としてはあまりに情的である、ゆえに予はこれを理想的愛子と名附けた。 節が始めて先生に逢うたのは明治三十二年の初夏、根岸庵の杉屏の若芽がふいた頃である。節はその以前から「日本」の愛読者で先生に対しては見ぬ恋にこがれておったとのことで、夢に見た先生と逢って見た先生とが同じであったというて当時節はしきりにそれを不思議にしていた。 長塚が始めて先生に逢った時、長塚は先生の俳句及び歌の、自分が面白く感じた数十首をことごとく記臆していてこれを暗誦したのには、先生も一驚を喫したそうで、一体長塚は記臆のよい男であるが、先生を慕うこと深くなければ、決してそんなことが出来るものでない。第一回の会見既に尋常でない。長塚が渾身情的無邪気に児供らしきに対しては、さすがの先生も理性をなげうち精察を捨てざるを得なかったらしい。長塚はしばらく滞京して毎日の様に先生の所へ往っている。吾輩の所へもやってきたので相携えてまた根岸庵へ往った。先生と長塚とはもう一朝一夕の交わりの様でない、先生に逢うてだれでも起るところの、その憚るべき畏るべき感じと云うものが、長塚には毫末もない様であった。 こんなことは先生には異例である様だが、無邪気な長塚に対したからと云うばかりでなく、やはり先生が決して冷性な人でないと云うところから出た結果であろう。 爾来長塚は東京に在ってはもちろん、郷里にある時でも一日も先生ということは脳中を離れぬ様であった。その郷里は汽車場までは七八里もあるという辺鄙でありながら、絶えず何かを贈っている。旅に出ればまた必ず旅先から土産を贈ってくる。であるから根岸庵では節の噂はたえぬのである。節が出京すると云うてくる先生はいかにもそれを待ち楽しんだ様であった。或る時など予が訪問すると、一昨日長塚がきて今日は君がくる日だからまた参ると云うて帰った、今に来るだろうというて、何か妹さんなど呼んで用意を命じた様であったが、どうしたか長塚がこの日ついにきなかった。この時の先生の長塚を待ったなどそれは非常であった。長塚がこないを十何遍繰返したろう。 先生が節に教ゆるは歌の上ばかりではない。人間と云うものの総ての上について噛んで含める様に教えた様であった。随分叱り飛ばすこともある。長塚が先生に物を乞うことがある書画など、こんな物を何すると叱る、しばらくして先生貰ってもえでしょうという、馬鹿と叱る、またしばらくすると先生貰ってもえでしょうという、その無邪気なるには先生も敵しかねてついに持ってゆけとやってしまうと云う塩梅である。もっともおかしかったのは、つい逝去以前三十日ばかりのこと、長塚からツク芋を贈ってきた、それに大和芋とさも珍しそうに書いてあったので、先生は驚いた様子で長塚もこれほど児供では仕方がない、ツク芋も知らない様ではというので大いに心配した。半枚の原稿も人にかかせる時に、自ら原稿紙三枚ほど書いて、叱ったり教えたりしたそうである。 しからば長塚は真の児供かと云うに決してそうでない。歌も同人間に一頭地を抜いている。処世の道においても、親父なる人の少しく失敗し家産の整理に任じて処理を誤らぬ様である。してみれば先生が長塚を愛したのも唯情一辺でないことも分る。去年の秋であった、長塚と予と折よく会合した時に先生から長塚にやった歌は、よく両者の情合を尽くしている。 喜節見訪竹の里人 下総のたかし来たれりこれの子は蜂屋大柿吾にくれし子 下ふさのたかしはよき子これの子は虫喰栗をあれにくれし子 春ことにたらの木の芽をおくりくる結城のたかし吾は忘れず 多くの場合に人に畏敬せられた先生にして、こんなことの有ったのは世人も少しく意外に感ずるのであろう。 (歌人・作家) |
緒言 明治三十一年のむかし、『妖怪百談』を著し、つぎにその「続編」を作りしが、望外にも世間より歓迎せられ、再三再四、版を重ぬるに至りたるも、数年前に残本全く尽き、久しく購読を謝絶しきたれり。その後さらに再版せんと思いしも、本書の内容が古人の書を引き、古代の話を伝えたるもの多ければ、そのまま再版するもおもしろからずと考え、絶版のまま今日に至れり。 しかるに、この最近二十年間、全国周遊中、各所において妖怪の実験談を直接に聞知せるもの、または研究会員より妖怪の新事実を報告せるもの、または地方の有志者より新聞雑報の切り抜きを寄送せるもの、および自ら実地につき探知せるもの等、数百項の多きに達したれば、これを収集選択し、また旧著中、明治維新後に起こりし妖怪事件十余項を抜粋し、合わせて百三十項を得、新たに『おばけの正体』の書名の下に上梓するに至る。その期するところは、家庭および小学にありて、妖怪に迷える児童に読ましめんとするにあれば、文章は言文一致を用い、事項は児童の了解し得る程度を計り、平易簡明を主とせり。つまり、家庭の御伽話に資せんとするの微意なり。読者、願わくはその意を了せられんことを。 妖怪と迷信とは密接の関係を有し、ほとんど妖怪の八、九分どおりは、迷信より起こると断定して可なるほどなり。ゆえに、本書中に迷信を併記せるも、そのほかになお迷信に関する事項はすこぶる多ければ、他日、さらに「迷信集」を編述する心算なり。 また、今日の学理をもって解説し難き、いわゆる真の不思議と称すべき事項も夥多あれば、他日、別にこれを集成して「真怪論」を発行する予定なり。そのこともあわせてここに予告す。 大正三年六月演述者自ら記す おばけの正体 第一項 妖怪はあるかないかについて 世間には妖怪があるともいい、ないとも申して、議論が一定しておらぬ。妖怪ありの論者は、なにもかもみな妖怪ときめて、毫も疑いを起こさぬ。これに反して妖怪なしの論者は、ただいちずに、神経である、妄覚である、誤伝である、詐偽である、迷信であると速断してしまう。余の考えにては、いずれも極端にして信ずるに足らぬ論と思う。どうしても実際上、十分に探検して後に、その有無を判定せなければならぬ。そこで余は、数十年前より妖怪研究会を設け、現在世間にある妖怪を実地について調査したのである。 すべてむかし話に伝わり、あるいは古き書物にかいてある怪談は、もとより信ずることができぬのみならず、今日調査する手掛かりがないから、それよりも、今日世間に起これる実例について研究する方が確実である。その中に原因の不明なるものも多いが、また明瞭になったのもたくさんある。今、ここに妖怪の有無を判定する前に、原因の分かりたる事実談を集めて、世の中へ紹介しようと思う。しかしてその事項は、なるべく明治維新後に起こった出来事に限りたい考えである。 第二項 余の実験せる障子の幽霊 他人のことを紹介する前に、余の自身に実験せし一例を挙ぐるに、およそ今より四十五、六年前、余の十歳前後のころと記憶しておる。ある夜眠りに就き、夜半すぎにフト目がさめたが、灯は消えて真っ暗である。そのとき枕をつけたまま眺むるに、隣室の障子の戸骨の間より、なにものか室内をのぞき込んでいる顔が見ゆる。いかにも不審にたえずして、起き直して見れども、やはり同様である。しかるに、少時の間にその顔を引っ込まして見えなくなるかと思うと、すぐにまたのぞき込む。そのときの考えでは世のいわゆる幽霊であろうと思い、急に怖くなり、続けて見ることもいやになり、布団を頭からかぶり、縮み上がって寝ていた。翌朝夜が明けてから、その幽霊が気にかかり、早速起きて隣の室に行き、この辺りなりと思った障子を探り見れば、あに計らんや、戸骨の間に紙の破れた所があって、その切れ口が風のために内の方へ吹き込まれたのを横より眺めて、人の顔と誤りたることが分かった。そこで、世の中の幽霊はみなこのようなものであろう、今後、幽霊を見ても紙切れと思えば、恐ろしくも怖くもないという決心を起こしたことがあった。 第三項 幽霊の足音 今一つ、余の幼少のときに実験したる話がある。年齢十五、六歳のころ、ある寺の座敷に寝たが、深夜になって目がさめ、四隣寂寥として草木も眠れるほどのうちに、本堂の方に当たりて、人の板敷きの場所を歩く音がハッキリ聞こえておる。その音はガタンガタンという響きだ。最初は盗賊が入り来たったのかと思ったけれども、盗賊ならばあのように足音を高くして歩くはずはない。その音が近くなるかと思えばまた遠くなり、いつまでもやまぬ。そこで、これは幽霊の寺参りであろうかとの想像を浮かべた。かつて檀家の者が死ぬときに、その亡者が寺へ参ると聞いていたが、これこそ亡者に相違ないと思った。しかし、翌朝になってみれば、半信半疑であるから、早々起きて本堂の方へ行ってたずねたれば、堂側に別室があって、その内に大なるボンボン時計がかかっていた。この時計のガタンガタンという音であったことがすぐ分かった。これは時計の幽霊と申すべきものであろう。 第四項 空き小屋の光り物 今一つの実験談を申さば、これは二十歳以後の話である。ある年、夏の休暇に勉強したいと思って、二カ月間、箱根山上の元箱根村と名づくる所に農家の座敷を借りていた。元箱根は箱根町をさること八丁、権現神社の下に三十戸ばかり並んでいる小村である。ある夜、晩食をすまし、町の方へ散歩に出かけ、あちらこちら歩き回りて、ハヤ時は十時過ぎになった。いよいよ帰ろうとすると、にわかに大夕立がかかってきた。あたかもそのときは暗夜であるのに、提灯も雨具も持たぬから、町の出口の茶屋に入って休息し、雨の晴るるのを待っていたが、十一時を過ぎてもなかなか晴れそうでない。そこで、茶屋から提灯と傘とを借りて、真っ暗の所を深林の中に向かい、ソロソロ歩いて来たが、二、三丁過ぐると、さきの方に薪の小屋がある。人はもとより住んでいる家ではない。その空き屋の片隅から火光が発している。たちまちピカリと光るかと思うと、すぐ消えてしまい、また光ってくる。かくのごとくすること三、四回に及んだ。余は歩きながらいかに考えてみても、その原因が知れぬ。よって、しばらく足をとどめておったが、そのとき光は全く発せぬようになり、ただ小屋の片隅に黒き物が動いているのを認めた。かつて狐火や天狗火や幽霊火のことは聞いておれども、今見たる火はそのようの怪火ではなかろうと知りつつ、なんとなく疑懼の念が起こり、ことに真っ黒の物の見ゆるのは、どうしても化け物であろうと思った。あるいは、高山のことなれば熊でもいるのではあるまいか、もし熊ならば一層恐ろしいと思い、かれこれしているうちに、その黒き怪物が余の方へ向かって歩き出して来たから、これはたまらぬ、四十八手逃げるにしかずと心得、駆け出そうとする途端、先方より余に向かって呼びかけた。そのときようやく正体が分かったが、分かってみれば、枯れ尾花にあらずして普通の人間である。その次第は、箱根町の電信局の脚夫が、電報を近在へ配達したるその帰途に、大雨風のために提灯を消され、空き小屋にたたずみてマッチをつけていたのであった。余が怪火と思ったのはその光であって、風のためにマッチをつければすぐに消え、またつければ消えるので、再三してもよくつかぬ。そこへ余の提灯が見えたから、彼はその火をもらおうと思って待っていた。しかるに、余の方では気味悪く思って足を進めぬから、彼は待ちかねて余の方へ向けて歩き出したので、そのとき、「ドウゾ提灯の火をいただきたい」と申したので、はじめて正体が分かって安心した。遇って見れば、彼は真っ黒の油紙を頭より全身へかけ着ていた。これが余の目に熊のように見えたわけである。よってそのとき、「化け物の正体見れば脚夫かな」とよみたるも滑稽であった。 第五項 夜中の大怪物 自分の実験談のほかに他人の話を紹介したいと思う。余が先年、ある学校に寄宿せしに、同窓の一人土肥某が、夜十二時過ぎ室を出でて便所に行く途中、廊下のそばに大怪物の無言にて立ちいるを見た。なにぶん暗黒にして、その状態をつまびらかに認むることできず怪しんで、これに向かい「汝、なにものか」と問いかけたるも、一言の答えがない。さりとて、逃げ去らんとする様子もない。よって大いに志を決し、これと勇ましく格闘する覚悟にて、あらん限りの腕力をふるい、大喝叱咤してその怪物に取り掛かり、一突きつき飛ばしたれば、ガサンと音がしてすぐたおれた。よく見れば鬼にもあらず賊にもあらずして、炭俵の二俵相重なり、廊下の一隅に高くなっていたことが分かり、図らずも自ら吹き出したという話がある。 第六項 亡者の泣き声 先年の『読売新聞』に、東京両国回向院の墓場の間に、亡者の泣き声を聞きたる話が出ておった。ここにその一節を読み上げてみよう。 近来、回向院卵塔場辺りへ、白衣をまといたる年若き女の亡霊姿を現出することありとて、近傍の居住者、尾に鰭をつけて風説するにぞ、夜更けには同院境内を通行するもの一人もなかりしが、境内居住者、掛け茶屋の主人某なるもの、一両日前の夜、二ツ目辺りよりの帰途、いまだようやく九時半ごろなりければ、かの幽霊の出ずる時刻にはよほど早し、表門へ迂回するも面倒なれば近道をとらんと、松坂町一丁目横町裏門を入り、今しも本堂側を横切らんとしたるとき、鼠小僧墓所石構えの裏手に当たり、女の泣く声聞こえけるに、不審を起こし恐る恐る星の光にすかしてうかがい見れば、このごろの人の噂にたがわぬ幽霊なりしかば、さては十万八千の焼死人中、今に成仏せぬやからありと見えたりなど考えつつ、身を縮めてその場を逃げ去り、観音堂際なる同業者某方へ駆け込みて、ありし次第を告げ、幽霊なれば別に子細もなきことながら、万一自殺者などにもあらんには、明日の厄介面倒なり、いかがはせんとためらうところへ、同院台所男、足音高く通り掛かるを呼び止め、今みてきたれることを語りたるに、寺男はなにげなくうなずきつつ提灯携え、本堂南方、鼠小僧の墓所辺りを見回り、ほどなく某方に立ち戻り、「みなさん御安心なさい、幽霊は幽霊なるが、生きた、しかも年若の男女二人にて、連れの女が酒に酔い過ぎて歩行もできぬ始末に、男が介抱しておったのだ。二人とも、ツイ近所で見かける顔です」と告げ、大笑いにて済みたりと。 いかに恐ろしき幽霊も、正体が分かれば笑い草となる。 第七項 幽霊の足跡 去るころ、奈良県の某新聞にも、「妖怪変化」と題して幽霊談が掲げてあった。その場所は同県磯城郡桜井町、某寺の境内である。この寺の墓地に毎夜十一過ぎになると、ハイカラ的丸髷の亡者が徘徊するとの噂が町内に広がり、物好きの男が第一番に正体を見あらわしてやらんと、しようもないところに力瘤を入れ、一夜、堂の裏に身をひそめて様子をうかがっていたそうだ。初秋の夜も沈々と更けた十二時すぎになると、アーラ不思議や、忽然として一人の女に化けた妖怪が現れ、累々と並んでいる石碑の間を歩いて行くのを見届けたから、翌朝再びその場へ行ってみると、大正の化け物は違ったもので、足跡が点々と墓の間に残っている。そこで、その足跡は狐狸か幽霊かと思ってだんだん取り調べたところが、その近辺に一人の好男子が住んでいる。そこへほかより毎夜、これを慕っている婦人が通ってくるのであったそうだ。 第八項 勝海舟先生の実験談 事柄は維新前の出来事なれども、勝海舟先生より直接に聞いた話がある。むかし先生の書生時代、夜半過ぎに東京牛込区市ヶ谷の谷町を通られたことがある。この場所は、近年は人家相並んで市街をなせども、むかしは真に深山幽谷の趣があった。ことに夜十二時後となっては、全く人影もない場所である。しかるに、深林の間に青白い婦人が、無提灯にて立ち止まっているのが見ゆる。これを認めたる勝先生は、血気最もさかんなる青年時代なれば、定めて狐狸か魔物の変化ならんと思い、一刀の下に打ち倒さんと決心し、刀に手をかけつつ近づきたれば、先方より声をかけ、「恐れ入りまするが、ドウゾ道を教えて下され」というから、よく事情をただしてみれば、その怪物は新宿遊郭の娼妓にして、楼主の虐待にたえかね、夜中ひそかに逃げ出したのであったとの話を聞いた。 第九項 怪物、火光を発す 夜中の光り物につき種々の怪談があるから、その二、三をここに紹介しましょう。福島県のある郡役所に奉職せるものの話に、友人とともに夜中旅行せしことがあった。そのとき野外に、数丁を隔ててはるかに火光を発している所がある。その中に、人の横臥しているがごとき姿が並んで見ゆる。その夜は真の暗夜で、しかも一時ごろの深夜であった。同行の友人は、これは全く怪物が人を驚かさんと欲し、かかる戯れをして見せるのに相違ない。不埒千万のやつであるとて、大声を発し、「汝知らずや、われは万物の長たる人間であるぞ。早く正体を現して逃げ去れよ」と呼ぶも、怪光は依然として滅せず。とにかく近づいて見ようと申し合わせ、両人恐れ恐れ徐行して現場に至り見れば、土橋の改修工事中にて、橋上の土を取り払いたるために、橋台の木が朽ちて光り木となり、その間に立ちたる橋杭の黒く見ゆるのを、人の横臥せるがごとく認めたることが判然と相分かり、世の妖怪はみなかくのごときものならんと、互いに笑ったことある由。 第一〇項 横浜の人魂騒ぎ すでに数年前のことなるが、横浜市内にて人魂の出ずるというについて大騒ぎをしたことがある。その顛末は、『時事新報』の記事を抜抄して掲げることにしよう。 横浜市常盤町に、紙商小駒支店松井某方の軒端より、毎夜人魂出ずとの評判高く、市内の者はもちろん、その近在近郷辺りより草鞋ばきにて見物に押し掛くる者、毎夜何百人より千人以上に達し、その筋の取り締まりも、なにぶん行き届きかぬるほどの雑踏なるよし。その事の起こりは、去る七月中、松井の女房がことのほかの難産にて、いまだ分娩をおえざるさきに死去したるに、この女房は生前、松井に内々にて愛国生命保険会社と千円の保険契約をなしおりしかば、松井は妻の死後、あたかも拾い物したる思いにて、早速これを受け取りながら、尋常はずれて葬儀を薄くしたるより、死者の遺恨はさこそならめと近所にての風評に続きて、たちまち同家より人魂の飛び出ずるよし言い出せる者あり。近隣の子供三、四人、および菓子屋の職人某、向かい側なる印版屋の主人、同町の生け花師匠某ら、いずれも夜を異にして見たりといい、それより大騒ぎとなりて、米吉の屋前には毎夜人の山を築き、雨戸を攀ずるもの、戸をたたくもの、石を投げ込む者さえあり。その極み、同家の本店の方にては、これも畢竟、松井が平素の仕打ちのよろしからざるためなりと、本支店の縁を絶ち、また市中のならずものは松井の弱味に付け入りて同家へ押し掛け、穏やかならぬ挙動に及ぶ者も多しとぞ。さて、人魂の正体はもとよりなんでもなきことにて、女房の死後、幼女が母の来たりたるを夢み、ある夜不意に泣き出したると、またある夜、同家表二階の座敷の格子に白地浴衣をかけ、その上の釘に黒き帽子をかけ置きたるを、外方より見たるものありて幽霊なりと吹聴したる間もなく、同家の欄間にはめあるガラスに、筋向こうの印版屋方照り返しランプの反射したるを認めて、人魂なりと迷信したるならんといえり。松井の迷惑はいうまでもなけれど、かかることに立ち騒ぎて、心あるものの笑いを招く人々こそ気の毒なれ。 世間の幽霊談は、大抵この一例によりて推測するを得べしと思う。 |
目次 序1 Ⅰ 宇宙の生成に関する自然民の伝説9 最低度の自然民には宇宙成立に関する伝説がない/原始物質は通例宇宙創造者より前からあると考えられた/多くの場合に水が原始物質と考えられた/インドの創造神話/渾沌/卵の神話/フィンランドの創造伝説/洪水伝説/創造期と破壊期/アメリカの創造伝説/オーストラリアの創造神話/科学の先駆者としての神話/伝説中の外国的分子 Ⅱ 古代文化的国民の宇宙創造に関する諸伝説27 カルデア人の創造伝説/その暦と占星術/ユダヤ人の創造説話、天と地に対する彼らの考え/エジプト人の観念/ヘシオドによるギリシア人の開闢論と、オヴィドのメタモルフォセスによるローマ人の開闢論 Ⅲ 最も美しきまた最も深き考察より成れる天地創造の諸伝説59 アメンホテプ王第四世/太陽礼拝/ツァラトゥストラの考え方/ペルシア宗派のいろいろな見方/宇宙進化の周期に関するインド人の考え/「虚無」からの創造/スカンジナビアの創造に関する詩 Ⅳ 最古の天文観測78 時間算定の実用価値/時の計測器としての太陰/時間計測の目的に他の天体使用/長い時間の諸周期/カルデア人の観測と測定/エジプト暦/エジプト天文学者の地位/ピラミッドの計量/支那人の宇宙観/道教/列子の見方/孔子の教え Ⅴ ギリシアの哲学者と中世におけるその後継者97 泰西の科学は特権僧侶階級の私有物/ギリシアの自然哲学者たち/タレース、アナキシメネス、アナキシマンドロス、ピタゴラス派/ヘラクリトス、エムペドクレス、アナキサゴラス、デモクリトス/自然科学に対するアテン人の嫌忌/プラトン、アリストテレス、ヒケタス、アルキメデス/アレキサンドリア学派/ユードキソス、エラトステネス、アリスタルコス、ヒッパルコス、ポセイドニオス/プトレマイオス/ローマ人/ルクレチウス/アラビア人の科学上の位置/科学に対する東洋人の冷淡/アルハーゼンの言明 Ⅵ 新時代の曙光。生物を宿す世界の多様性…118 ラバヌス・マウルス/ロージャー・ベーコン/ニコラウス・クサヌス/レオナルド・ダ・ヴィンチ/コペルニクス/ジョルダノ・ブルノ/ティコ・ブラーヘ/占星術/ケプラー/ガリレオ/天文学に望遠鏡の導入/教会の迫害/デカルトの宇宙開闢論/渦動説/遊星の形成/地球の進化に関するライブニッツとステノ/デカルト及びニュートンに対するスウェデンボルグの地位/銀河の問題/他の世界の可住性に関する諸説/ピタゴラス、ブルノ/スウェデンボルグとカントの空想 Ⅶ ニュートンからラプラスまで。太陽系の力学とその創造に関する学説158 ニュートンの重力の法則/彗星の行動/天体運動の起源に関するニュートンの意見に対しライブニッツの抗議/ビュッフォンの衝突説/冷却に関する彼の実験/ラプラスの批評/カントの宇宙開闢論/その弱点/土星環形成に関するカントの説/「地球環」の空想/銀河の問題についてカント及びライト/太陽の最期に関するカントの説/カントとラプラスとの宇宙開闢論の差異/ノルデンスキェルドとロッキャー並びにG・H・ダーウィンの微塵説/ラプラスの宇宙系/それに関する批評/星雲に関するハーシェルの研究/太陽系の安定度についてラプラス及びラグランジュ Ⅷ 天文学上におけるその後の重要なる諸発見。恒星の世界185 恒星の固有運動/ハレー、ブラドリー、ハーシェルの研究/カプタインの仕事/恒星の視差/ベッセル/分光器による恒星速度の測定/太陽と他の太陽または恒星星雲との衝突/星団及び星雲の銀河に対する関係/天体の成分と我々の太陽の成分との合致/マクスウェルの説/輻射圧の意義/隕石/彗星/スキアパレリの仕事/ステファン及びウィーンの輻射の法則/雰囲気の意義/地球並びに太陽系中諸体の比重/光の速度/小遊星/二重星/シーの仕事/恒星の大きさ/恒星の流れ/恒星光度に関するカプタインの推算/二重星の離心的軌道/その説明/恒星の温度/太陽系における潮汐の作用/G・H・ダーウィンの研究/遊星の回転方向/ピッケリングの説/天体に関する我々の観念の正しさの蓋然性 Ⅸ 宇宙開闢説におけるエネルギー観念の導入225 太陽並びに恒星の輻射の原因に関する古代の諸説/マイヤー及びヘルムホルツの考え/リッターの研究/ガス状天体の温度/雰囲気の高さ/太陽の温度/エネルギー源としての太陽の収縮/天体がその雰囲気中のガスを保留し得る能力/ストーネー及びブライアンの仕事/天体間の衝突の結果に関するリッターの説/銀河の問題/星雲/恒星の進化期/太陽の消燼とその輻射の復活に関するカントの考え/デュ・プレルの叙述 Ⅹ 開闢論における無限の観念252 |
* 色彩について繊細極まる感覚を持つた一人の青年が現はれた。彼れは普通の写真を見て、黒白の濃淡を凝視することによつて、写された物体の色彩が何んであつたかを易々と見分けるといふことである。この天賦の敏感によつて彼れは一つの大きな発明をしたが、私のこゝに彼れについて語らうとするのはそのことではない。彼れがいつたと称せられる言葉の中に、私に取つて暗示の深い一つの言葉があつた、それを語らうとするのである。 その言葉といふのは、彼れによれば、普通に云はれている意味に於て、自然の色は画家の色より遥かに美しくない、これである。 この言葉は逆説の如く、又誤謬の如く感ぜられるかも知れないと思ふ。何故ならば昔から今に至るまで、画家その人の殆ど凡てが、自然の美を驚嘆してやまなかつたから。而してその自然を端的に表現することの如何に難事であるかを力説してやまなかつたから。それ故私達は色彩の専門家なる人々の所説の一致をそのまゝ受け入れて、自然は凡ての人工の美の総和よりも更らに遥かに美しいとうなづいてゐた。而してそれがさう見えねばやまなかつた。如何に精巧なる絵具も、如何に精巧に配置されたその絵具によつての構図も、到底自然が専有する色彩の美を摩して聳ゆることは出来ない。さう私達は信じさせられると思つてそれを信じた。而して実際にさう見え始めた。 * 然しながら、暫らく私達の持つ先入主観から離れ、私達の持つかすかな実感をたよりにして、私はかの青年の直覚について考へて見たい。 巧妙な花の画を見せられたものは大抵自然の花の如く美しいと嘆美する。同時に、新鮮な自然の花を見せられたものは、思はず画の花の如く美しいと嘆美するではないか。 前の場合に於て、人は画家から授けられた先入主観によつて物をいつてゐるのだ。それは確かだ。後の場合に於て、彼れは明らかに自己の所信とするところのものを裏切つてゐる。彼れは平常の所信と相反した意見を発表して、そこに聊かの怪訝をも感じてはゐないやうに見える。これは果して何によるのだらう。単に一時の思索的錯誤に過ぎないのか。 それともその言葉の後ろには、或る気付かれなかつた意味が隠されてゐるのか。 * 人間とは誇大する動物である。器具を使用する動物であるといふよりも、笑ふといふことをなし得る動物であるといふよりも、自覚の機能を有する動物であるといふよりも、この私のドグマは更らに真相を穿つに近い。若し何々する動物であるといふ提言を以て人間を定義しようとすることが必要であるならば。 彼れの為すところは、凡て自然の生活からの誇大である。彼れが人間たり得た凡ての力とその作用とは、悉く自然が巧妙な均衡のもとに所有してゐたところのものではないか。人間が人間たり得た唯一の力は、自然が持つ均衡を打破つて、その或る点を無限に誇大するところに成立つ。人類の歴史とは、畢竟この誇大的傾向の発現の歴史である。或る時代にあつては、自然生活の或る特殊な点が誇大された。他の時代にあつては他の点が誇大された。或る地方にあつてはこの点が、而して他の地方にあつてはかの点が誇大された。このやうにして文化が成り立ち、個人の生活が成り立ち而してそれがいつの間にか、人間の他の生物に対する優越を結果した。 智慧とは誇大する力の外の何者であらう。 * 暫らく私のドグマを許せ。画家も亦画家としての道に於て誇大する。 画家をして自然の生活をそのまゝに受け入れしめよ。彼れは一個の描き能はざる蛮人に過ぎないであらう。彼れには描くべき自然は何所にもあり得ないだらう。自然はそれ自らにしてユニークだから。而して勿論ユニークなものは一つ以上あることが許されないから。 だから一個の蛮人が画家となるためには、自然を誇大することから始めねばならぬ。彼れは擅まに自然を切断する。自然を抄略する――抄略も亦誇大を成就する一つの手段だ――。自然を強調する。蛮人が画家となつて、一つの風景を色彩に於て表現しようとすると仮定しようか。彼れは先づ自然に存する色彩の無限の階段的配列を切断して、強い色彩のみを継ぎ合すだらう。又色彩を強く表はす為めに、その隣りにある似寄りの色彩を抄略するだらう。又自然に存する各の色を、それに類似した更らに強い色彩によつて強調するだらう。かくの如くして一つの風景画は始めて成立つのだ。それは明らかに自然の再現ではない。自然は再現され得ない。それは自然の誇大だ。その仲間の一人によつて製作された絵画を見た蛮人は、恐らくその一人が発狂したと思つたであらう。何故ならば、それは彼等が素朴に眺めてゐる自然とは余り遠くかけ隔つてゐるから。 然しながら、本然に人間が持つてゐる誇大性は、直ちに誇大せられた表現に親しみ慣れる。而してその表現が自然の再現であるかの如く感じ始められる。かくて巧妙なる画の花は自然の花の如く美しく鑑賞されるに至るのだ。 この時に当つて画家はいふ「自然の美は極まりない。その美を悉く現はすことは人間に取つて、天才に取つてさへ不可能である」と。いふ心は、私達が普通に考へてゐるそのやうにあるのではないのだ。その画家の言葉を聞いた私達は恐らくかう考へてはゐないか。自然の有する色彩は、如何に精緻に製造された絵具の中にも発見され得ない。又その絵具の如何なる配列の中にも発見され得ない。又如何なる天才の徹視の下にも端倪され得ない。それだから自然の持つ色彩は、常に絵画の持つ色彩よりも極りなく麗はしいと。 私は考へる。その言葉を吐いた画家自身はさう考へていつたのではないにしても、私はかう考へる。画家のその言葉は普通に考へられてゐる、前のやうな意味に於てゞはなくいはれたのだ。自然の美は極りないといつた時、画家は既に誇大して眺められた自然について云つてゐるのだ。彼れの言葉の以前に、画家の誇大された色感が既に自然に投入されてゐたのだ。誇大された絵具の色彩によつて義眼された彼れの眼は、知らず識らずその色彩を以て自然を上塗りしてゐたのだ。而して自然には――絵具の色の如く美しくないにしても――色の無限の階段的駢列がある。その駢列の凡てを誇大された絵具によつて表現しようとするのは、それは確かに不可能事を企てようとすることであらねばならぬ。それは謂はゞ一段調子を高くした自然を再現することである。誇大によつてのみ自己の存在自由を確保されてゐる人間に出来得べきことではない。天才たりとも為すなきの境地だ。それ故に画家のその嘆声。 * 然るにかの青年は、色彩に敏感ではあつたけれども画家ではなかつた。彼れは色彩に対する誇大性を所有してゐない。謂はゞ彼れは科学的精神の持主であつた。それ故彼れは画家の凡てが陥つてゐる色彩上の自己暗示に襲はれることなしに、自然の色と絵具の色とを比較することが出来た。而してその結果を彼れは平然として報告したのだ。 それをいふのは単に彼の青年ばかりでない。画家の無意識な偽瞞に煩はされないで、素朴に色彩を感ずる俗人は、新鮮な自然の花を見た場合に、嘆じていふ「おゝこの野の花は画の花の如く美しい」と。 * 「おゝこの野の花は絵の花の如く美しい」 画家は彼れを呼んで済度すべからざる俗物といふだらう。それが画家に取つての最上の Compliment であるのを忘れつゝ。 自然の一部だけを誇大したその結果を自然の全部に投げかけて、自然の前に己れの無力を痛感する画家に取つて、神の如き野の花が、一片の画の花に比較されるのを見るのは、許すべからざる冒涜と感じられよう。かゝる比較を敢てして、したり顔するその男が、人間たる資格を欠くものとさへ思はれよう。 然し、画家よ、暫らく待て。彼れは君の最上の批評家ではなかつたか。公平な、而して、公平の結果の賞讚をためらひなく君に捧げるところの。 その理由をいふのは容易だ。彼れは君が発見した色彩の美が自然の有する色彩の美よりも、更らに美しいと証明したに過ぎないのだから。而かも彼れはそれを阿諛なしにいつてゐるのだ。画家の仕事に対するこれ程な承認が何所にあらう。 * 私は既にいふべきものゝ全部をいつてしまつたのを感ずる。青年の言葉によつて与へられた暗示は私にこれだけのことを考へさせた。而しそれを携へて私は私自身の分野に帰つて行く。 芸術家は創造するといはれてゐる。全くの創造は芸術家にも許されてはゐない。芸術家は自然の或る断面を誇大するに過ぎない。偽りの芸術家は意識的にそれをする。本当の芸術家は知らずしてそれを為し遂げる。而してそれを彼れに個有な力と様式とをもつて為し遂げる。彼れは他の人が見なかつたやうに自然を見る。而してその見方を以て他の人々を義眼する。かくて自然は嘗てありしところの相を変へる。創造とはそれをいふのだ。自然が創造されたのではない。謂はゞ自然の幻覚が創造されたのだ。 然しながらこの幻覚創造が如何に人間生活の内容を豊富にすることよ。何故ならば人間は幻覚によつてのみ本当に生きることが出来るのだから。 * 自然をそのまゝに客観するものは科学者である。少くともさうしようと企てるものが科学者である。彼れは自然の或る面に対して敏感でなければならない。而して同時にそれを誇大する習癖から救はれてゐなければならない。 |
一 「……アレは、つまり、言ってみれば、コウいうわけあいがあるンで……」 戦地から来た忰の手紙に、思いきって、いままで忰へ話さずにいたことを余儀なく書き送ろうと、こたつ櫓の上に板片を載せ、忰が使い残して行った便箋に鉛筆ではじめたが、儀作は最初の意気込みにも拘らず、いよいよ本筋へかかろうとするところで、はたと行詰ってしまった。……あれをどんな風に説明したら、うまく、納得がゆくものであろうか。 人手がなくて困るとか、肥料が不足でどうとか、かれこれ言われながらも、事変がはじまっていつか足かけ三年、二度目の収穫が片づく頃になると、心配していたほど、それほど米がとれなくもなかったし、人手不足もどうやら馴れっこになってしまった。事実、野良仕事など、やりよう一つでどうにでもなったし、肥料などに至っては、幾キロ施したから、それで幾キロの米の収穫があると決まっているものではなく、いくら過不足なく施したにせよ、その年の天候いかんによってはなんらの甲斐もないことさえあったのだ。 それはなるほど思う存分に施して、これで安心というまでに手を尽して秋をまつにしくはない。しかしながらそれでも結局は例の運符天符……そこに落ちつくのが百姓の常道で、まず曲りなりにでも月日が過ごせれば、それで文句は言えなかった。 家のことを心配して、時々小為替券の入った封書などをよこすのは、かえって百姓に経験の浅い忰の正吾の方だった。……あの借は払ったかとか、どれくらい米がとれたかとか、たといどんなに手ッ張ったにせよ、俺のかえるまで、作り田は決して減らすなとか、あの畑へは何と何を播けとか、そんなことまで細かに、よく忘れないでいたと思われるほどあれこれと書いてくるのだ。黙っていると何回でも、返事をきくまでは繰返して書いてくるので、儀作の方で参ってしまい、前後の考えもなく、洗いざらい、そのやりくり算段を報告した。 ところでそこに問題が孕んでいたのだった。それと言うのは、事変二年目の決算についてだが、忰の思うとおりにはどうしても行きかねたのである。しかもそのことを正直に書いてしまったものだから、早速、忰から「なんでソノ古谷さんの方だけ出来なかったのか、やろうと思えばやれたのではなかったか。それに俺としては、そんな大口のやつがあるとは実は知らなかった……」と詰られる結果に陥ってしまった。儀作は、それを弁解かたがたふかい理由を書き送ろうと、鉛筆の芯をなめていたのである。実際、それは彼にとって深い、いや、それ以上に、解りにくい問題だった。 「アノ金は、ナルホドお前には、これまで、きかせずに置いたが……アレは、その、関東大震災のときだったから、コトシで……」 ようやくのことでそんな風にはじめたものの、再び彼は、鉛筆の尖を半白のいが粟頭へ突き差すように持って行ってごしごしやり出した。どうもやはり駄目だ。 それというのが、村のもの誰一人の例外もなく、それまで、田のあぜであり、畑のふちであると考えて、それ以上のことはてんで詮索しようとしなかった山腹や川沿いの荒地(それなしには傾斜地のことで田の用水は保たず、畑地にあっては、耕土の流亡を免れない場所)それが実は官有地であって、『荒蕪地』という名目のもとに大蔵省の所管に属していたとかで、そしてそれだけなら何も問題はなかったのであるが、そこが改めて民間に払下げられることになったという、……もう十七八年も前の話に遡らなければならぬいきさつなのだ。 当時、それと聞いて、誰一人、頭を横ざまに振らぬものはなかったが、儀作にとっても同様、どんなに拳骨で自分の素天辺をなぐってみても、そういう理窟は、いっかな、さらりとはいかなかった。例えば、五十度の傾斜のある地面に水田を拓くとして、もしそれを半畝歩ずつに区切らなければならぬ場合、どうしたって一枚々々の境界に相当の斜面を残さない限り、その半畝歩の平面は拓けないではないか。だからその斜面……拓き残しの部分は、どんなことがあろうと水田や畑の耕作に対して欠くべからざる条件というものであろう。だのに、そいつがいまさら改めて民間に払下げられる? 「もっとも、あすこは田や畑の畝歩へは入っていめえから」とやがて雀の小便のごとく考えをひねり出すものが出てきた。「もともと、官有、いや、昔、殿様か何かの所有だったところを、ぼつぼつ開墾して、その開墾面積だけ登記しておいたもンだろうから……」 そう聞けばどうやら理窟だけは解った。が、いぜんとして分らないのは、やはりそれらの残存面積を除いて田畑そのものが成立せず、ちょっとした雨降りにさえ耕土が押し流されてしまうだろうということ……その一事だった。それともう一つ、なんでそれが今頃、田畑が民間の私有になって六七十年も過ぎた今日、改めて民間に払下げられることになったのかということだった。 人の話では、このほど例の大震災で焼野原と化してしまった東京市を復興するについて、早速、臨時議会が召集され、そして六億近い巨大なる復興予算が議員たちによって可決されたばかりか、さらに大蔵省は市民に対して莫大な低利資金を貸出す準備を早急にしなければならぬことになって、そのため、この地方のような山間農村にいまなお多く散在して、不税のまま放置されている『荒蕪地』なるものを民間に払下げる案をたて、帝都復興院総裁後藤新平はそれによってお得意の大風呂敷を拡げ、「大東京計画」なるものをでっち上げて、向う七ヵ年間に諸君の東京を世界的な文化都市にして見せると豪語して、やんやの喝采を博したとのこと。 それはとにかく、税務署でさっそく議会の決議に応じたものと見え、この村の不毛地に対し、畦地は熟田の時価の半額見当に、畑ざかいの荒地は隣接の畑地の約半額と言ったふうに『査定』し、急遽払下げの通告を村役場へよこしたものである。 その頃、儀作はいまでもはっきり覚えているが、村ではちょうど秋の収納が大方終って、儀作自身のような小作階級のものは、例によって地主へ年貢米や利子払いを殆んど済ましていたし、その他、肥料屋の払いや、村の商い店――油屋からの半期間の細々した帳面買いも、とにかくどうにか片をつけて、旧正月も貧しいながら待っているというような時期で、村には余分の金など、地主たちを除いては一文もなかったのである。ところで儀作自身は三反歩の自作地を山の傾斜面に持っていたし、それに隣ってほぼ同じほどの面積の小作田も持っていた。そしてその一隅の耕地は役場からの通知によると三畝歩ほどの『荒蕪地』を含み、さらに彼は川沿いの畑地を二三ヵ所に飛び飛びに耕作していたが、そこには五畝歩ほどの不毛地――恐らく年々の洪水のために蚕食されて川床になっている部分でも勘定に入れない限り、誰が見てもそんなにあるとは思えなかったほどのものが存在していたのである。実測してもらわなくては……と抗議してみたが、いまはそんな暇はない。あとで繩を入れて見て、それだけなければ『買い上げ』てやると突っぱねられ、結局、田と畑の持つそれらの不毛地を、彼は五十円ほどに査定せられなければならなかった。 村人の中には百円以上の査定を突きつけられて不平をこぼすものもあった……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。……だが、よくよく考えてみると、それは他人ごとではなかった。もし他村の金持、いや自分の村の金持にしても同様だが、そういう訳の分らぬ連中に落札されてしまって、その畦や畑境へ無茶な植林でもされた日には……何となれば連中とて今度は租税が出るのだから、ただ放置するはずがない。しかしそれこそ取りかえしのつかぬことだった。それでなくてさえ日光に恵まれないこの地方である。半歳を雪の下に埋もれて過ごす耕地のことで、ただ一本のひょろひょろ松のかげでも、直ちにその秋の収穫に影響した。いきおい、借金しても落札しなければならぬ運命におかれていたのだ。小作地でさえそれは免れられぬ。もし地主に一任しておくなら、つまりは小作料の騰貴でなければならず、でなければ、それこそ杉や桑や、その他ここに適当と思われる樹木の恐れが……。 要するに永久に不毛地に対して小作料を支払うか、あるいは日光を遮られなければならぬか、それとも一時借金してもそこを自分のものにして収穫高を確保するか、この三つに一つである。借金なら何時か返しも出来るであろう。少くとも四五年前のような……あれほど農産物の値上りは望めないまでも、多少なりとも景気が回復すれば、年賦にしてもらって十ヵ年もすれば皆済しうるであろう。 儀作をはじめ、これが一般村民の、結局の到達点だった。…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………年一割から一割五分の利のつくやつをどうにか工面して、それらの全く思いがけない荒蕪地を払下げて貰わざるを得なかった。それにしても一面、儀作はまだその頃年も若く、ありあまるエネルギーが体内にこもっていた。で、まだ山仕事の出来るくらいだった亡父と話し合った。 「東京の方では、この寒さにまだ寝るところも出来なくて、バラックとかちうものへ入っているんだそうだからよ、それを思うと五十円やそこら寄付でもしたつもりになるさ。なアに、たった五十円だい、四五年みっちり働けば、それできれいに抜けっちまア……」 だが、抜けるどころか、一年ならずして親父には死なれ、待望の米価は、ことに浜口緊縮内閣の出現によって一俵七円に下り、繭のごときは一貫二円という大下落で、この地方の重要産物である木炭のごときも四貫俵三十銭、二十五銭になってしまい、かつて儀作の副業……農閑期の馬車挽など、賃銀は下るばかりでなく、どんなに探し廻っても仕事の得られない日さえあるようになった。 その上彼一家には不幸が連続した。前述のように、親父の中風、死に続いて、おふくろが気がおかしくなって前の谷川の淵に落ちて半死のまま引き上げられたり、次には女房が四番目の子を産んで以来、まるで青瓢箪のようにふくれてしまい、ずっとぶらぶらのしつづけである。それらの出来事のために唯一の自作地であった三反の水田も抵当に入ってしまい、たとえその後、米穀法の施行などによって十二三円がらみにまで米価が上ったとはいえ、諸物価……都市工業の製産品はそれにつれてあくまでも騰貴するので追いつく沙汰ではなかったのだ。 このようにして儀作は、ようやく一人前になった忰の岩夫を相手に、この数年間なんとかして世帯をきり廻してはきたものの、さて、かの『荒蕪地』……田んぼの畦や畑境いの不毛地、税金だけはかかってくるが、一文の利用価値もないように思えるその草ッ原を見れば見るほど、考えれば考えるほど、ことに家計の方の苦しみが増大するにつれて、こんどは借金そのものが馬鹿くさいものに思われてならず、つい利を入れようと思っても入れずにしまい、まして忰にそのことを話してきかせるのなど阿呆の限りと、そのまますっぽかしてしまう年が多かった。お蔭でいまでは随分の元利合計になっているであろう。が、いい具合に(?)当の古谷さんでは大してきつく催促しなかった。儀作はその昔からの酒造家……この地方きっての財産家である古谷傅兵衛へはは若い頃から馬車の挽子として出入りしていた関係もあって、言わば特別扱いを受けてきたのでもある。 さて、儀作には、いくら鉛筆の芯で半白の頭を掻いてみても突いて見ても、結局、以上のようなことは書けないと分った。で、彼は書きかけの部分を少し消して、あのホウは心配するな、こんど財政をやることになった古谷の若旦那どのは『東京もン』で大学教育を受けた人物であるから、物分りがいいに決まっている。というようなことを書いてそれで打ちきることにした。 二 時局の波は、この東北の山間の村々にも、ひたひたと押しよせつつあった。 幾つかの谷川がK川と名がついて、山あいの細長い耕地を流れ、それがさらにS川に合流しようという地点……M盆地の最も肥沃と称せられる一角に位置する約百二十戸ばかりの部落の、いわばこの地方の物資の小集散地であった中郷にもその波頭は用捨なくやって来て、ことにこの部落の、それこそ旧幕時代から経済の中心をなしていた古谷傅兵衛など、その大きな波濤を全身で浴びて立っている一つだった。 傅兵衛の店舗は、周囲五里余の山腹の村々から、海原にうかぶ一つの白い小さい島のように、不規則に散在する田んぼの中の村々の木立を越えて美しく眺められた。棟を並べた酒倉、白亜塗りの土蔵、石造のがっしりした穀倉、物置、その他雑多な建物の一方に、往還に向って構えられた大きな母家……槻や欅や、裏山に繁る杉の古木に囲まれて、このM盆地の開拓者の誇りを、それは今もって十分に示しているもののようであった。 当主傅介は東京方面で、親父とは少しく違った方面の建築材料商をはじめたとかで、これまであまり村へは姿を見せなかったのであるが、父傅兵衛の他界……と言ってもこの半年以前だが、それ以来、しばしば将来を約束された少壮実業家らしいかっぷくで、狭い往還に自家用自動車をとばすのが見られるようになった。人の噂によると、東京での商売があまりうまくいかず、先祖代々の家業の方も、先代の放漫政策のたたりやら、この事変のための生産制限やらで、洗ってみれば殆んど何も残らず、今のうちの建て直しという意図からか、何かの軍需工業を興すについて、まずその資金の調達、すなわち貸金の取立てに着手したとのことだった。 噂はやがて事実となって現れはじめた。祖父、曾祖父以来というような古い証文までどこからか探し出され、しかも一銭一厘の細かい計算の下に、一々しかつめらしい『××法律事務所、弁護士、法学博士、元東京地方裁判所判事、代理人、何某』と印刷された文書に、大きな、眼玉の飛び出しそうな朱印をきちんと捺した督促状が、付近の債務者のもとへ届けられるようになったのである。 もっともこれらは何千という大口らしく、百や十の単位の小口に対してではなかったのであるが、やがてそれが次第に百や十の、全く忘れられているような小口に対してさえ、同様に物々しい文書が届けられはじめた。それはまるで予期しない恐慌を雪ふかい村々に捲き起した。それに人々はかつてこのような借金の取立て法に遇ったことがなかったので何層倍もびっくりする反面、ただちに反発して『若造』のやり方を詈りはじめもした。古来の抜きがたい習慣を無視してその法律一点張りの、呪われたる督促……それが正月早々からなので、ことに彼らをいきり立たせたのでもあった。 いかにこの新式の方法に対抗したものであるか。無論、その対抗方法はにわかに解決がつかなかった。ある者は昔式に直接出かけて行って若旦那様に面会を申込んだ。が、肝心のその若旦那様は何時も『不在』。たとい広い邸宅の奥の方に姿が見えたにしても、決して店先へなど現れず、依然として『不在』なのである。先代時分には何憚るところなく、奥の方へまでのし込めたような人たちでさえ、事、借金に関する限り、「それは弁護士に一任してあるのだから、俺は知らない」の一言をきくに尽きていた。 ところで、栗林儀作も、とうとうその始末にいけない朱印の文書を受取らされた一人であった。彼は北支で鉄道の警備に任じている忰へ古谷からの借金についてのあの手紙を出して間もなく、その配達に接したのであった。先代同様に、いや、先代よりはとにかく東京という文化都市――…………………………………………………………………………後藤新平の言ったとおり、世界で何番目かの大都にこの十年間に見ンごと盛り上ったそこで、長い間教育され、そこの華やかな空気を吸って来ているだけ、当主傅介氏は、忰にも書いてやったように物分りがいいであろうと考えていた事実は、今になってあべこべのように思えてきた。だが、彼は人の多くとは違い、もと、挽子として出入りしていて、若旦那のことも子供の時分から知っていた。若旦那の方でも俺のことは知らぬはずがないと彼は考え直した。そこで、他の村人が何回足を運んでも弁護士云々の一語によって手もなく追っ払われるときいても、彼は自分だけはそんなことはないに決まっているという自信のもとに、わざと若旦那の暇そうな正午頃を見計らって出かけたのであったが、やはり見知り越しの手代が出て来て、「あ、そこのことなら……」との挨拶。しかし儀作は、あくまでも若旦那の好意を信じて疑わなかった。三度目に手代に突っぱねられた時、彼は邸宅の門前の雪堆の傍らに待ちかまえていて、若旦那が自動車に乗り出したところを「今日は――」と言ってつかまえた。 「わし、栗林ですが……」というと、 「あ、君か……」 若旦那は思ったとおり親切であった。すでに車の中にゆったりと座りこんで、匂いのいい煙草をふかしながら、先を急ぐ用事を控えているらしいにも拘らず、儀作の用件を、ふんふん……と一々うなずきながら聞いてくれたのである。「うむ、なるほど事情はよく分った。君もこの際、そんなことをされるのは困るだろうから、弁護士の方へ僕から話をするがな、しかしいっさい、僕はその方には手を出さんことにしてあるんだ。――僕はな、これから新規の事業をはじめるんで忙しいんだよ。君、どうかね、聞けば君も困っているようだが、僕の工場の方へ来て働かんかね、なアに、東京の方ではないよ。この近くへ、もう一つはじめるんだ。ほら、県ざかいのあの鹿取山さ、君らもあの辺はよく知ってるだろう。最近、あの山の向うに、君、調査して見るとアンチモンが何千万トンというほど埋蔵されているんだ。アンチモンと言ったって、君らにはナンチモンか分るまいが、とにかくこれから非常に国家的に有用な鉱物資源なんだ。そいつを大々的にやるんで、どしどし工場や住宅を建築するんだが、あんな君の部落のような山の中腹のつまらない所で一生涯ぴいぴいして土いじりをしているより、どうだい、俺の事業へやって来ねえか。――そして、うんと金をもうけてさ。な、そうしたまえ。なに、親、女房、子供? そりゃ君、それらなりに仕事があるよ。ぜひやって来たまえ。馬車を持っているんなら一日五円にはなるぜ。」 そして、儀作にはかまわず、運転手を促して、すうっと雪景色の中へ行ってしまった。 儀作は歯ざれのいいその弁舌――その快調にすっかり酔わされたように、しばし茫然として自動車を見送っていたが、やがて独語した。――あの分ならなんとかなる。 三 儀作は数日おいて再び古谷邸を訪ねた。若旦那と弁護士との間になんらかの話し合いがついている頃と考えたからである。それに毎週金曜日に東京から出張してくるはずだときいた当の弁護士、博士、何某なる人物とも、ぜひ一度は遇って、あの差し紙を撤回してもらわなければ物騒で、一日として安心してはいられないからでもあった。 ところで、几帳面に、雪空にも拘らず出張して来た弁護士が、二人の事務員を使って、せっせと書きものをしている一室へ通された。やがて此方へ向き直った博士に、ぼつぼつ事情を訴えたが、博士のいわく、若旦那からは何もきいていない。たとい聞いていたにせよ、この方のことはいっさい自分が責任を負っているので、若旦那には口を出す権利はない……。流暢な東京弁で一気にまくし立てられるばかりか、その隼のような、じっと見据えられる眼に出遇っては、儀作はもはや一言も口がきけなかった。そこには、何か眼に見えぬ、冷厳な重圧が渦をまいていて、人を慄然たらしめるもの以外、何物も存在しなかった。 燃えさかるストーブの火と博士の弁舌にすっかり汗をかいてしまった儀作は、阿呆のような恰好で古谷邸を辞去した。さて、あの博士に対抗して口のきけるのは、例の『荒蕪地』の払下げについての村人のすべての借金の奔走をした前村長ばかりではあるまいか。二三日して彼はふとそんなことを考えついた。で、いまは自分の部落の区長をしているその老人のところへ、のそりと出掛けて行ったのである。すると前村長は、 「うむ、それは何とか俺が談判してやりもしよう。博士だって、弁護士だって何が怖いことあるもんか。だが、まア、聞け。あれだぜ、若旦那のいう工場かせぎも満更でねえ案だで。これからの世の中は、何といってもその工業というやつさ。百姓ではいくら骨を折っても追いつく沙汰ではねえからな。俺もこれ、三期ぶっとおしに村長をしてみて、つくづくそう思ったよ。」 大きな松の根ぼっくのぷすぷす燃えている炉の正面にどっかと胡座をかいて、六十歳にしてなお若い妾を囲っておくという評判の前村長は、つるつるに剃った頬のあたりをしきりに撫で廻した。 続いて前村長は、農業衰退の必然性と、重工業、軍需工業隆昌についての世界的な見透しに関して高邁な意見を一くさり述べてから、少しく声を低めて、 |
或夏の夜、まだ文科大学の学生なりしが、友人山宮允君と、観潮楼へ参りし事あり。森先生は白きシャツに白き兵士の袴をつけられしと記憶す。膝の上に小さき令息をのせられつつ、仏蘭西の小説、支那の戯曲の話などせられたり。話の中、西廂記と琵琶記とを間違え居られし為、先生も時には間違わるる事あるを知り、反って親しみを増せし事あり。部屋は根津界隈を見晴らす二階、永井荷風氏の日和下駄に書かれたると同じ部屋にあらずやと思う。その頃の先生は面の色日に焼け、如何にも軍人らしき心地したれど、謹厳などと云う堅苦しさは覚えず。英雄崇拝の念に充ち満ちたる我等には、快活なる先生とのみ思われたり。 |
一 僕の二十六歳の時なりしと覚ゆ。大学院学生となりをりしが、当時東京に住せざりしため、退学届を出す期限に遅れ、期限後数日を経て事務所に退学届を出したりしに、事務の人は規則を厳守して受けつけず「既に期限に遅れし故、三十円の金を収めよ」といふ。大正五六年の三十円は大金なり。僕はこの大金を出し難き事情ありしが故に「然らばやむを得ず除名処分を受くべし」といへり。事務の人は僕の将来を気づかひ「君にして除名処分を受けん乎、今後の就職口を如何せん」といひしが、畢に除名処分を受くることとなれり。 僕の同級の哲学科の学生、僕の為に感激して曰、「君もシエリングの如く除名処分を受けしか」と! シエリングも亦僕の如く三十円の金を出し渋りしや否や、僕は未だ寡聞にしてこれを知らざるを遺憾とするものなり。 二 僕達のイギリス文学科の先生は、故ロオレンス先生なり、先生は一日僕を路上に捉へ、娓々数千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能はざりし故、唯雷に打たれたる唖の如く瞠目して先生の顔を見守り居たり。先生も亦僕の容子に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?”僕、答へて曰く、“No, Sir.”先生は――先生もまた雷に打たれたる唖の如く瞠目せらるること少時の後、僕を後にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは実にこの路上の数分間なるのみ。 三 僕等「新思潮社」同人の列したるは大正天皇の行幸し給へる最後の卒業式なりしなるべし。僕等は久米正雄と共に夏の制服を持たざりし為、裸の上に冬の制服を着、恐る恐る大勢の中にまじり居たり。 四 僕はケエベル先生を知れり。先生はいつもフランネルのシヤツを着られ、シヨオペンハウエルを講ぜられしが、そのシヨオペンハウエルの本の上等なりしことは今に至つて忘るること能はず。 五 僕は確か二年生の時独逸語の出来のよかりし為、独乙大使グラアフ・レツクスよりアルントの詩集を四冊貰へり。然れどもこは真に出来のよかりしにあらず、一つには喜多床に髪を刈りに行きし時、独乙語の先生に順を譲り、先に刈らせたる為なるべし。こは謙遜にあらず、今なほかく信じて疑はざる所なり。 僕はこのアルントを郁文堂に売り金六円にかへたるを記憶す、時来星霜を閲すること十余、僕のアルントを知らざることは少しも当時に異ることなし。知らず、天涯のグラアフ・レツクスは今果赭顔旧の如くなりや否や。 六 |
石敢当 今東光君は好学の美少年、「文芸春秋」二月号に桂川中良の桂林漫録を引き、大いに古琉球風物詩集の著者、佐藤惣之助君の無学を嗤ふ。瀟麗の文章風貌に遜らず、風前の玉樹も若かざるものあり。唯疑ふ、今君亦石敢当の起源を知るや否や。今君は桂川中良と共に姓源珠璣の説を信ずるものなり。されど石敢当に関する説は姓源珠璣に出づるのみにあらず、顔師古が急就章(史游)の註にも、「衛有石侔亦日用不察者也」と。然らばその起源を知らざるもの、豈佐藤惣之助君のみならんや。桂川中良も亦知らざるなり。今東光も亦知らざるなり。知らざるを以て知らざるを嗤ふ、山客亦何ぞ嗤はざるを得んや。按ずるに鍾馗大臣の如き、明皇夢中に見る所と做すは素より稗官の妄誕のみ。石敢当も亦実在の人物ならず、無何有郷裡の英雄なるべし。もし又更に大方の士人、石敢当の出処を知らんと欲せば、秋風禾黍を動かすの辺、孤影蕭然たる案山子に問へ。 猥談 聞説す、我鬼先生、佐佐木味津三君の文を称し、猥談と題するを勧めたりと。何ぞその無礼なるや。佐佐木君は温厚の君子、幸ひに先生の言を容れ、君が日星河岳の文字に自ら題して猥談と云ふ。君もし血気の壮士なりとせんか、当に匕首を懐にして、先生を刺さんと誓ひしなるべし。その文を猥談と称するもの明朝に枝山祝允明あり。允明、字は希哲、少きより文辞を攻め、奇気甚縦横なり。一たび筆を揮ふ時は千言立ちどころに就ると云ふ。又書名あり。筆法遒勁、風韻蕭散と称せらる。その内外の二祖、咸な当時の魁儒たるに因り、希哲の文、典訓を貫綜し、古今を茹涵す。大名ある所以なり。然りと雖も佐佐木君は東坡再び出世底の才人、枝山等の遠く及ぶ所にあらず。この人の文を猥談と呼ぶは明珠を魚目と呼ぶに似たり。山客、偶「文芸春秋」二月号を読み、我鬼先生の愚を嗤ふと共に佐佐木君の屈を歎かんと欲す。佐佐木君、請ふ、安心せよ。君を知るものに山客あり矣。 赤大根 江口君はプロレタリアの文豪なり。「文芸春秋」二月号に「切り捨御免」の一文を寄す。論旨は昆吾と鋭を争ひ、文辞は卞王と光を競ふ。真に当代の盛観なり。江口君論ずらく、「星霜を閲すること僅に一歳、プロレタリアの論客は容易に論壇を占領せり」と。何ぞその壮烈なる。江口君又論ずらく、「創作壇の一の木戸、二の木戸、本丸も何時かは落城の憂目を見ん」と。何ぞその悠悠たる。江口君三たび論ずらく、「プロレタリア文学勃興と共に、俄かに色を染め加へし赤大根の輩出山の如し」と。何ぞその痛快なる。唯山客の頑愚なる、もしプロレタリアに急変したる小説家、批評家、戯曲家を呼ぶに赤大根を以てせんか、その論壇を占領し、又かの創作壇の一の木戸、二の木戸、乃至本丸さへ占領せんとする諸先生も赤大根にあらざるや否や、多少の疑問なき能はず。且山客の所見によれば、赤大根の繁殖したるはプロレタリア文芸の勃興以前、隣邦露西亜の革命に端を発するものの如し。もし然りとせば江口君も、古色愛すべき赤大根のみ。もし又君の為に然らずとせんか、かの近来の赤大根は君の小説に感奮し、君の評論に蹶起したる新鋭気鋭の青年にあらずや。君自身これが染上げを扶け、君自身これを赤大根と罵る、無情なるも亦甚しいかな。君聴け、啾啾赤大根の哭、文壇の夜気を動かさんとするを。然れども古人言へることあり。「英雄豈児女の情なからんや」と。山客亦厳に江口君が有情の人たるを信ぜんと欲す。もし有情の人と做さんか、君と雖も遂に赤大根のみ。君と雖も遂に赤大根のみ。 瑯※(王+牙)山客 (大正十二年三月) × 田中純君は「文芸春秋」のゴシツプの卑俗に陥るを論難し、「古今の文人、誰か陽物の大小を云々せんや」と言へり。我等も亦田中君の義憤に声援するを辞するものにあらず。然れども卑俗なるゴシツプを喜べるは古人も亦今人に劣らざりしが如し。谷三山、森田節斎両家の筆談を録せる「二家筆談」と言ふ書ある由、(三山は聾なりし故なり。)我等は未だその書を見ねど、市島春城氏の「随筆頼山陽」に引けるを読めば、古人も亦田中君の信ずる如く陽物の大小に冷淡ならず。否、寧ろ今人よりも溌溂たる興味を有したるが如し。 「山陽しばしば画師竹洞の大陽物をなぶる。竹洞大いに怒り、自ら陽物を書き、『山陽先生、余の陽物を以て大なりと為す。拙者の陰茎、僅に此の如し』とかきて山陽に贈る。画工小田百合座に在り。曰く、『是は縮図であらう、原本必ず大なり焉。』一座大笑す。(是より文人、竹洞を名づけて縮図先生と号す。)」(原文に交へたる漢文は仮名まじりに書き改めたり。) 我等は今人は買冠らねど、古人を買ひ冠ることは稀なりと為さず。又同じ今人にしても、海の彼岸にゐる文人を買ひ冠ることは屡なり。然れども彼等も実際は我等と大差なき人間なるべし。或は我等の几側に侍せしめ、講釈を聞かせてやるに足るものも存外少からざらん乎。と言へば大言壮語するに似たれど、兎に角彼等を冷眼に見るは衛生上にも幾分か必要なるべし。 × 今人を罵るの危険なることは趙甌北の「簷曝雑記」にその好例ありと言ふべし。南昌の人に李太虚と言ふものあり。明の崇禎中に列卿と為る。国変に死せず。李自成に降り、清朝定鼎の後、脱し帰る。挙人徐巨源と言ふものあり。嘗之を非笑す。一日太虚の病を訪ふ。太虚自ら言ふ、「病んで将に起たざらんとす」と。巨源曰、「公の寿正に長し。必ず死せじ」と。之を詰れば則ち曰、「甲申乙酉に(明の亡びたる〔二字欠〕の末年なり。)死せず。則ち更に死期無し」と。太虚怒る。これは怒るのも尤もなり。更に又巨源、一劇を撰す。この劇は太虚及び龔芝麓賊に降り、後に清朝の兵入るを聞くや、急に逃れて杭州に至り、追兵の至るに驚いて、岳飛墓前、鉄鋳の秦檜夫人の跨下に匿る、偶この鉄像の月事に値ひ、兵過ぎて跨下を這ひ出せば、両人の頭皆血に汚れたるを描けるものなり。太虚この劇の流行を聞き、丁度南昌に来れる龔芝麓と共に、密かに歌伶を其の家に召し、夜半之を演ずるを観る。演じて夫人の跨下を出づるに至るや、両人覚えず大哭して曰、「名節地を掃ふこと此に至る。夫れ復何をか言はん。然れども孺子の為に辱めらるること此に至る。必ず殺して以て忿念を洩らさん」と。乃ち人をして才人巨源を何処かの逆旅に刺殺せしめたりと言ふ。按ずるに自殺に怯なるものは、他殺にも怯なりと言ふべからず。巨源のこの理を辨へず、妄りに今人を罵つて畢に刀下の怨鬼となる。常談も大概にするものなりと知るべし。 |
一 「や、矢野君だな、君、きょう来たのか、あそうか僕の手紙とどいて。」 主人はなつかしげに無造作にこういって玄関の上がりはなに立った。近眼の、すこぶる度の強そうな眼鏡で格子の外をのぞくように、君、はいらんかという。 矢野は細面手の色黒い顔に、こしゃこしゃした笑いようをしながら、くたびれたような安心したようなふうで、大儀そうに片手に毛布と鞄との一括を持ち、片手にはいいかげん大きいふろしき包みを二つ提げてる。ふろしき包みを持ったほうの手で格子戸を開けようとするがうまく開からない。主人はそれを見て土間に片足を落として格子戸を開けた。 「えらい風になった、君ほこりがひどかったろう。」 「えいたいへんな風でした。」 矢野はおっくうそうに物をいいながら、はかまの腰なる手ぬぐいをぬき、足袋のほこりをはたいて上へあがった。玄関の間のすみへ荷物をかた寄せ、鹿児島高等学校の記章ある帽子を投げるようにぬぎやって、狭い額の汗をふきながら、主人のあとについて次の間へはいる。 主人大木蓊は体格のよい四十以上の男で、年輩からいうと、矢野とは叔父甥くらいの差である。文学上の交際から、矢野は大木を先輩として尊敬するほかに、さらに親しい交わりをしている。矢野は元来才気質の男でないから、少しの事にも大木に相談せねば気が済まないというふうであった。ことに今度は東京にいるのだから、一散にやって来たのである。大木のほうでも矢野が頭脳のよいばかりでなく、性質が清くて情に富んでるのを愛している。 大木は待ち受けた人を迎えて、座につかぬうちから立ちながら話しかける。 「よく早く来られた、僕はどうかと思ってな。」 「少し迷ったんですが、お手紙を見て急に元気づいて出てきました。」 ふたりは賓主普通の礼儀などはそっちのけで、もうてんから打ちとけて対座した。 「君、ほこりを浴びたろう。ちょっと洗い場で汗を流しちゃどうか、ちょうど湯がわいてるよ。」 「えい風があんまり吹きますから。」 「そうか、そんな事はせんがいいかな。」 大木は心づいて見ると、この熱いのに矢野は、単衣の下に厚木綿のシャツを着ていた。大木はこころひそかに非常な寂しみを感じて、思わず矢野のようすを注視した。しかし大木はそんなふうを色にも見せやせぬ。すぐに快活な談話に移ってしまった。 「きょうは君にごちそうがあるぞ、この間台湾の友人からザボンを送ってくれてな。」 こういいながら大木は立って、そこの戸棚から大きなザボンを二つかかえ出した。 「どうだこんなに大きい。内紫というそうだ。昨日一つやってみたところ、なるほど皮の下は紫で美しい。味も夏蜜柑の比でないよ。」 矢野はにやにや笑いながら、 「僕はときどき鹿児島でくったんです。」 「ハハそれじゃ遼東の豕であったか、やっぱりこんなに大きくて。」 「えいこんなにゃ大きかない、こりゃでかいもんだ。」 矢野はザボンの一つを手にとって、こねまわして見る。大木は鉄瓶を呼んで、自分手ずから茶を入れる、障子に日がかぎって、風も少し静かになった。大木はなおひそかに矢野のようすに注意している。矢野は格子の前に立った時から見るとよほど血色がよくなった。ふたりでザボンを切ってしばらく笑い興ずる。 矢野は鹿児島高等学校を卒業して、帰郷して暑中休暇の間は意外元気であった。これでは肺の悪いのもそれほどではないのだろうと思われ、二里位のところへ平気で行って来られた。友人のところを遊びまわり四五日の旅行もしたが、何の事もなく愉快であった、親父も診察して心配するほどの事もないといった。それで始めはここ一か年休学して養生せねばと思っていたのを、この分ならば差しつかえもあるまいという気になり、取りあえず手紙で大木に相談すると、君がやって見ようという気になったのならば、むろんやるべしじゃ、あまり消極的に考えて、自分から病人ときめ込むのは、大いにおもしろくない。出て来い出て来い、遊ぶつもりで大学にいるのもしゃれてるだろうというような、大木の返事にいよいよ元気が出てやって来たのである。 矢野は親父が医師で、家計上どうしても医師にならねばならなく、やむを得ず医学をやるけれど、矢野は生来医師を好んでいないのだから、そこにすでに気の毒なところがあるのに、去年春ごろからとかく呼吸器が悪い。大木は矢野の境遇に同情して、内心非常に矢野の病気を悲しんでいる。矢野自身よりも、矢野の親族の人達よりも、かえって深く矢野の病気を悲しんでいる。矢野に対する大木の一言一行、それははがきに書く文字のはしにまで、矢野を思う心がこもっている。それで矢野もまた大木の手紙を見、大木の話を聞けば自ら元気づくのである。 矢野は家を出るときはすこぶる威勢よく出たけれど、汽車ちゅう退屈してよけいな事を考えたり、汽笛の声が妙に悲しく聞こえたり、いやにはかない人の話を聞いたり、あれもきっと肺病だなと思われるあおい顔の人などを見たりして、そぞろに心寂しく、家を出た時の元気は手を返すように消え失せた。一年休めばよかった、出て来ねばよかった。我にもあらず、そんな考えばかり浮かんでしかたがない。 自分で気を引き立てようと思いついて見てもだめだ。歌集を出して見る、一向におもしろくない。小説を出して見る、やはり興味がない。はては腹が立ってきて、妙に気があせって、 「なんだばかばかしい。」 こう口のうちで我を叱りながら、荒々しく、ガラス窓をおして外を眺めて見たが、薄黒く曇った空の下にどれもどれも同じように雑木の繁った山ばかり、これもなんとなく悲しく見えてしまった。 飯田町へ着いたらすぐ大木のところへ行って見ようと、矢野はただ船に疲れた人が陸を恋しがるような思いで大木が恋しくなった。飯田町へ降りては電車に乗るのもいやで、一時も早くというような心持ちに人車を命じて、大木の家まで走りついた。 今先輩大木の家に落ちついて、ゆったりとした大木の風彩に接し、情のこもった大木の話を聞けば、矢野は何時の間か、時雨の空が晴れたような心地にまったく苦悶がなくなる。きょうも、大いに大木にうったえて相談するつもりでやって来たのだが、話してるうちにうったえる必要もなくなり、相談しようと思ったのもなんであったかを忘れてしまった。 矢野はからだを横に、身を片ひじにささえながら、ザボンを片手にもてあそびつつ、大木の談論を聞いてる。にこにこ笑う顔に病人らしいところは少しもない。矢野は手紙ではよく自分の考えやときどきの精神状態や、周囲のでき事までほそぼそと書くのがつねであるが、会ってはあまり話のない男である。大木も矢野のようすが意外によろしいのに安心して、大いに文学論などをやった。 「医学は君の職業だ。文学は君の生命だ。しかし君人間に職業のだいじなことはいうまでもないことであるから、健康の許すかぎりやらねばならん。そうだろう君。」 矢野はからだを起こし居直って、 「なるほどそうだ、それに違いない。それで僕は腹がきまった、僕はやる……」 矢野は興奮した口調にいうのであった。わかりきったことでも、まじめに大木の口から聞かせられると、矢野はいつでも感奮するのである。 蚊遣りが出る。月がさしこんでくる。明りがつく。端近にいると空も見える。風はまったく凪げて静かな夜となった。熱くもあり蚊もいるが、夜はさすがにあらそわれない秋の色だ。なんとかいう虫も、人の気を静めるように鳴く。 「君なんの事でも、急いちゃいかんよ。学問はなおさらの事だ。蚕が桑を食うのを見たまえ、食うだけ食ってしまえば上がらなけりゃならんじゃないか。社会の人間を働かせようとするはよいが、人間も働くだけ働けば蚕のように上がらなければなるまい。だから人間はゆっくり働くくふうが肝要だよ。」 「けれども学問は働く準備ですからな、僕等は準備中に終えるのかも知れないですもの。」 「いや準備も働きのうちだ。だから働きを楽しむとともに準備を楽しむの心得がなくてはいかん。考えようでかえって準備のほうがおもしろい。花見を見たまえ、本幕の花見よりも出かけるまでの準備がおもしろいくらいのものだ。ここが君大事なところだ。準備を楽しむという考えがあると、準備ばかりでおしまいになってもはなはだしい失望がない。だから学問は楽しみつつやるべきものだ。また楽しいものにきまってる。人間は手足を動かしても一種の興味を感じ得らるるものだ、いわんや心を動かして興味のないということがあるものか、昔は修業に出ることを遊学というたよ。学問を楽しむの意味が現われてるでないか、だから君、楽しみつつゆっくり学問するんだよ。準備ばかりでおしまいになってもはなはだしい後悔のないように準備を楽しむのさ。」 「僕は非常に愉快だ、嗚呼愉快だ。僕はきっと、愉快にやります。僕はとかくに、人がうらやましく見えてしかたがなかった。人をうらやむ心が起こると自分が悲しくなるのです。もう僕は人をうらやまない、きっと楽しく学問をやる。」 こんな話が、ごったまぜにくり返され、矢野は愉快に、ここにとまった。 二 矢野は本郷台町に友人のいる下宿をたずねて、幸いに友人もおって取りあえず下宿の相談をすると、この家でどうにか都合ができるだろう、まあ話せという。友人は法科の学生で矢野より一年早く鹿児島高等を出た中島という男だ。どどいつが大好きだという元気のいい男だ。矢野はあまり中島を好かぬのだけれど、あてどもなく下宿をさがすもいやだから、ともかくもと思ってたずねたのだ。 茶が出る。宿の女房も出て来た。あき間が二間あるから見てくれという。矢野はなるべく中島の座敷と離れるを希望しておったが、仕合わせとここからもっとも離れた西端の隅座敷をえらぶことができた。日当たりもよく室もややきれいだ。さっそく荷物を運び入れて落ちついた。中島は学校へ出る。矢野は国もとやら、友人やらへ、当分ここにいるおもむきの信書を書いた。 矢野は女を呼んで下宿料の前払いを渡し、 |
数日前、船頭の許に、船を用意せしめおきしが、恰も天気好かりければ、大生担、餌入れ岡持など提げ、日暮里停車場より出て立つ。時は、八月の二十八日午后二時という、炎暑真中の時刻なりし。 前回の出遊には、天気思わしからず、餌も、糸女のみなりしに、尚二本を獲たりし。今日の空模様は、前遊に比べて、好くとも悪しき方には非ず。殊に袋餌の用意有り、好結果必ず疑い無し。料理界にてこそ、鯉は川魚中の王なれ、懸りて後ちの力は鱸の比に非ず。其の姿よりして軽快に、躍力強健に、綸に狂ひ、波を打ち、一進一退、牽けども痿えず、縦てども弛まず、釣客をして、危懼しながらも、ぞくぞく狂喜せしむるものは只鱸のみにて、釣界中、川魚の王は、これを除きてまた他に求むべからず、今日品川沖に赤目魚釣に往きし忘筌子、利根川(江戸川)に鯉釣に出でし江東子に、獲物を見せて愕かし呉るるも一興なり。など空想を描きつつ窓によりて進む。 田の面一般に白く、今を盛りと咲き競うは、中稲にて、己に薄黒く色つき、穂の形を成せるは早稲にやあらん、田家の垣には、萩の花の打ち乱れて、人まち顔なるも有り、青無花果の、枝も撓わわに生りたる、糸瓜の蔓の日も漏さぬまでに這い広がり、蔭涼しそうなるも有り、車行早きだけ、送迎に忙わし。 成田線なる木下駅にて下車す。船頭待ち居て、支度は既に整えりという。喜びて共に河辺に至る。洋々たる水は宛がら一大湖水を湛わし、前岸有れども無きが如くにして、遠く碧天に接し、上り下りの帆影、真艫に光を射りて、眩きまでに白し。其の闊大荘重の景象、自ら衆川の碌々に異れり。 乗り移るや否、船頭直に櫓を執り、熟地に向う、漁史膝を抱きて、四辺を眺めながら、昨日一昨日の漁況は如何なりしと問えば、『一昨夜は、例の浅草の旦那と出でたりしが、思わざる事件持ち上りたり』という。『事件とは何ぞ』と問えば、『近来の椿事なり』とて、語る。 『旦那がお出になって、例の処で始めますと、昼の雨が利いたのでしょう、打ち込むや否懸り始めて、三年四年以上の計り、二十一本挙げました。只の一本でも、無雑作に挙るのが有りませんでしたから、近くに繋ってた船にも、能く知れますのです。土地の漁師の船も、近くで行ってましたが、奴等は、赤っ腹位捕って喜んでる手合計しで、本物は、何時も江戸の方に抜いてかれてますので、内心縄張内を荒らされてる様な気が仕てます、矢先へ二十一本というものを、続けざまに拝見させられましたから、焼餅が焼けて堪らなかったと見え、何でも一時ごろでしたろう、十杯許の船が一緒になって、文句を言いに来たです。』 漁『それは、怖いこったね。』 船『全く怖かったです。此地の船を取り巻いて、「おい、お前は何処の漁師だ」と、斯ういう切っかけです。「何処の漁師でもない、素人だ」と言いますと、「其様なに隠さずとも好いだろう、相見互だもの、己等の付合も為てくれたって、好さそうなもんだ」など、嫌味を言って、強請がましいことを、愚図々々言ってますのです。私も顔を知らない中では無し、黙っても居られませんから、宥めてやりましたので、何事も無くて済みましたが、お客を預かってて、若しもの事でも有れば、此の松吉の顔が立ちませんから、ちと心配しましたよ。ただ、何の事は無い、「素人で左様釣っては、商売人の顔を踏み付けた仕打ちだ、大抵好い加減に釣ってれば好いに」という、強談なのです。』 漁『上手な釣師も険呑だね、僕等では、其様な談判を持ち込まるる心配も無いが。アハハ……。』 船『私も随分永く此川に、釣を商売にしてますが、ああいう大釣は、これまでに無いですよ。何だって、一本五貫ずつにしましても十二両、十貫にすりゃ二十一両の仕事ですもの。どうも、お茶屋さんは、えらいですよ。』 漁『そう当っては、素人釣とは言われないね。立派な本職だ。』 船『本職が何時も敵はないんですもの。』 お茶屋主人の好く釣ること、聴く毎に嘆賞すべきことのみにて、釣聖の名あるも空しからざるを知りぬ。 船『私どもを連れて来ましても、船を扱わせるだけで、場所の見立ては、何時も御自身なのです。も一尺岡によれとか、三尺前に進めろとか、鈎先はそりゃ喧ましいです。それだから又釣れますので、幾ら名人でも、地が分らなくては釣れっこ無しです。時によると、遙々お出になっても、水色が気に入りませんと、鈎をおろさずにふいとお帰りになります。こればかりでも並のお方の出来ないことですよ。』 『左様だて、来た以上は、少し位水色が悪かろうが、天気が悪かろうが、鈎おろさずに帰るということは出来ないさ。聴けば聴く程感心な、奇麗な釣だね。』 釣り場は、僅数町の上流なるにぞ、間も無く漕ぎ着きぬ。漁史は、錨綱を繰り放つ役、船頭は牁突く役にて、前々夜、夫のお茶屋釣聖のかかりという、切っぷの大巻きに鈎尖の漂う加減に舟を停めぬ。日光水面を射て、まぶしさ堪えがたかりしも、川風そよそよと衣袂を吹き、また汗を拭う要無し。 仕掛、座蒲団などを舳の間に持ち往きて、座を定め、水色を見ながら、錐打ち鈴刺す快心、得も言われず。 漁『ランプの油やマッチは、受合だろうね。』 船『出る前に、すっかり見て置きました。』 漁『それなら好いが……。松さんの前で、そう言っちゃ何だが、でも船頭に限って吃度忘れ物をするのでね。水を忘れた、餌入を忘れた、焚付を忘れたなんて、忘れ物をされると、折角楽みに来ても、却って腹立てる様になるからね。此の前、鱚の時に、僕の品匡を忘れられて、腹が立って立って堪らんから、そのまま漕ぎ戻らせて仕舞ったこと有ったが。』 船『何一つ不足でも、思う様な戦争出来ませんよ。釣だと思うからですが、生命のやり取りをする戦争だと思えば、淦取一つでも忘れられる筈無いですが。』 漁『ほんに、其の心がけでやってくれるから、嬉しいね。ア、餌入れ、日に当てない様にして下さい。』 船『半天かけておきましたから、大丈夫です』 漁『それなら好いが……。今日は、袋持って来たよ。』 船『袋は結構です。どうしても、えら物が来るようです。お茶屋さんも、袋でした。』 小桶の水に漬け置ける綸巻取り出し、そろそろ用意を始む。鈎は、四分なれば、其の太さ燐寸の軸木ほどにて、丈け一寸に近く、屈曲の度は並の型より、懐狭く、寧ろひょっとこに近く、怪異なり。漁史自ら「鈎政」に型を授けて、特に造らせしものに係る。これを結びたる天糸は、本磨き細手の八本撚りにて、玲瓏たる玉質、水晶の縄かとも見るを得べく、結び目の切り端の、処々に放射状を為すは、野蚕の背毛の一叢の如し。十五匁程の鉛錘は進退環によりて、菅絲に懸る。綸は太さ三匁其の黒き事漆の如く、手さわりは好くして柔かなるは、春風に靡く青柳の糸の如し。されども之を夫の鮒鱮を釣る織細の釣具に比する時は、都人士の夢想にも及ばざる粗大頑強のものたるは言うまでもなし。 さて、小出し桶に受取りし餌を摘み取り、糸女、沙蚕三十筋ばかりと、袋餌数筋を刺す。其の状、恰も緋色の房の如く、之を水に投ずれば、一層の艶を増して鮮かに活動し、如何なる魚類にても、一度び之を見れば、必ず嚥下せずには已むまじと思われ、愈必勝を期して疑わず。 二仕掛を左右舷に下し終り手を拭いて烟を吹く時。後の方には、船頭の鈴を弄する声す。亦投綸に取りかかりたるを知る。 彼是する間に、水光天色次第に金色に変じ、美しさ言うばかり無し。常の釣には暮色に促されて竿を収め、日の短きを恨みて、眷々の情に堪えざるを、今日のみは、これより夜を徹せん覚悟なれば、悠々として帰心の清興を乱す無く、殊に愈本時刻に入るを喜ぶは、夜行して暁天に近づくを喜ぶに同じく、得意の興趣、水上に投射せる己が影の長きより長し。 舷に倚り手を伸べて右の示指に綸を懸け、緩く進退しながら、 漁『松さん、鈴よりか、指の方が、脈を見るに確だね。』 船『左様です。始終、指だけで済みますなら、それに越したこと有りませんよ。鈴の方は、先ず不精釣ですもの……。』 船『どうも、そうの様だて。鈴では、合せる呼吸を取り損ねる気がして……。』 船『此間、根岸の旦那と、植木やの親方の来ました時、後で大笑いなのです。』 漁『お二人一緒に釣ってまして、植木やさんが水押に出てお小用してますと、「チリン」、と一つ来ましたので、旦那が、「おい、お前のに来てるよ」と、仰有る内に、綸をするするするする持ってきますが、植木やさんは、少し痲の気でお小用が永いですから、急に止める訳にもいかず、此方を振り反って見て、「おいおい、そう引くな、少し待って呉れ」と言ってたというのです。』 船『旦那は、余程、合せてやろうかと、一旦は手を伸べたそうですが、若しも逸らして、後で恨まれてはと、思いなすって、「おいおい引いてくよ、引いてくよ」と、仰有るだけなもんでしたから、植木屋さんは、猶々気が気で無く、やっとの事で降りて来ましたが、綸は、ずっと延びてますので、引いて好いのか、出さなければ悪いのか、一寸は迷って仕舞って、綸に手をかけて見たものの、仕様無かったと、言ってました。』 漁『水押の上では、随分、気を揉んだろう。見てやりたかったね。どうしたろ。挙ったか知ら。』 船『挙ったそうでした。三歳が……。』 漁『運の好い時には、そういうことも有るんだね。』 船『全く運ものですよ。此間、お茶屋の旦那の引懸けたのなどは、引いては縦ち、引いては縦ち、幾ら痿やそうとしても、痿えないでしよう。やや暫くかかって漸く抄い上げて見ると、大きな塩鮭程なのでしょう。私が急いで雑巾を取るか取らないに、(顎の骨にて手を傷つけらるるを恐れ、鱸をおさえるには、皆雑巾を被せておさえる習いなり)ずとんと、風を切って一つ跳ねるが最後、苫を突きぬいて、川中へ飛び込んで仕舞ったです。全で落語家の咄しっても無いです。が、綸はまだ着いてましたので、旦那は急いで綸を執る、私は苫を解すで、又二度めの戦争が始まりましたが、どうかこうか抄い上げました。其時私は、思はず鱸の上に四ん這いになって、「今度は逃がすものか、跳ねるなら跳ねて見ろ」って、威張りましたよ。旦那が、後で、「お前が腹這いになった時の様子っては無かった。鱸と心中する積りだったのだろう」って、お笑いでしたが、あれらは、能くよく運の尽きた鱸でしたろう、不思議に鈎が外れないでましたもの。』 漁『それは、珍らしい取組みだったね。三尺といっちゃ、聴いただけでも、ぞくぞくするね。其様な化物が出るから、此地で行りつけると、中川や新利根のは、鱸とは思われないのだね。』 斯ること相話しながら、神を二本の綸に注ぎ、来るか来るかと、待ちわびしが、僅に、当歳魚五六尾挙げしのみにて、終に一刻千金と当てにしたりし日も暮れぬ。 薄暗き小ランプを友として、夕飯を喫す。西天を彩れる夕映の名残も、全く消え果て、星の光は有りとは言へ、水面は、空闊にして、暗色四面を鎖し、いよいよ我が船の小なるを想うのみ。眼に入るものは、二三の漁火の星の如く、遠くちらつくと、稀に、銚子行汽船の過ぐるに当り、船燈長く波面に揺き、金蛇の隠現する如きを見るのみにして、樹林無く、屋舎無く、人語馬声無く、一刻一刻、人間界より遠ざかる。唯、蚊の襲来の多からざると、涼風衣袂に満ちて、日中の炎塵を忘るるとは、最も快適の至りにして、殊に、ここ暫くの勝負と思えば、神新に気更に張る。 されば、更るがわる鈎を挙げて、餌を更め、無心にして唯中りを待ちけるに、一時間許り経ける時、果して鈴に響く。直ちに、綸を指して試むれば、尚放れざるものの如く、むずむずと二つ三つ感じたり、即ちそと引きて合せたるに、正に手応えありて懸りたるを知る。 『来たよ。』と叫びながら、両手にて手繰り始むれば、船頭直ちに、他の一仕掛を挙げ尽し、鈴をも併せ去りて、搦まるを予防しつつ、 『大きがすか。』という。身を少し前に屈め、両手を、船の外に伸べて、綸を手繰れる漁史は、喜ぶ如く、悲む如く、 『幾ら大きいか知れないよ。船でも引き寄せるようだ』と答えれば、船頭已に玉網を手にして起ち、『急いではいけません、十分で弱りきるまで痿やして。』と言いつつ例の如く、直ちに水押の上に俯して、半身殆ど船外に出し、左手を伸べて、綸を拇指と示指の間に受け、船底にかき込まるるを防ぎ、右手に玉網の柄を執りて、介錯の用意全く成れり。 漁史は、手応の案外強きに呆れ、多少危懼せざるに非ざれども、手繰るに従いて、徐々相近づくにぞ、手を濡らしつつ、風強き日の、十枚紙鳶など手繰る如く、漸く引き寄す。 思の外、容易に近づくか知らと、喜ぶ時、船前五間許の処にて、がばがばと水を撥ねたるは、十貫目錨を投じたる程の水音にて、船は為めに揺られて上下せり。 これと同時に、敵は全力を振いて、延し始めたれば、素より覚悟のこととて、左右三指ずつにて、圧を加えながら繰り出す、その引力の強き、指さきの皮剥けんかと思うばかりなり。 |
人 ピイタア・ギレイン マイケル・ギレイン ピイタアの長男、近いうちに結婚しようとしている パトリック・ギレイン マイケルの弟、十二歳の少年 ブリヂット・ギレイン ピイタアの妻 デリヤ・ケエル マイケルと婚約の女 まずしい老女 近所の人たち 一七九八年、キララに近い農家の内部、ブリヂットは卓に近く立って包をほどきかけている。 ピイタアは炉のわきに腰かけ、パトリック向う側に腰かけている。 ピイタア あの声は何だろう? パトリック 俺にはなんにも聞えない。(聴く)ああ、きこえる。何か喝采しているようだ。(立って窓にゆき外を見る)何を喝采してるんだろう。だれも見えやしない。 ピイタア 投げっくらしているんじゃないか。 パトリック 今日は投げっくらなんかありゃしない。町の方で喝采しているらしい。 ブリヂット 若い衆たちが何かスポーツをやってるのだろう。ピイタア、こっちへ来てマイケルの婚礼の着物を見て下さい。 ピイタア (自分の椅子を卓の方にずらせて)どうも、たいした着物だ。 ブリヂット あなたがわたしと一着になった時にはこんな着物は持っていませんでしたね、日曜日だってほかの日と同じようにコートも着られなかった。 ピイタア それは本当だ。われわれの子供が婚礼する時こんな着物が着られようとは思いもしなかった。子供の女房をこんなちゃあんとした家に連れて来られようと思いもしなかった。 パトリック (まだ窓のところに立って)往来を年寄の女が歩いて来るよ。ここの家へ来るんだろうか? ブリヂット だれか近所の人がマイケルの婚礼のことを聞きに来たんだろう。だれだか、お前に分るかい? パトリック よその土地の人らしい、この家へ来るんじゃない。坂のところで曲がってムルチインと息子たちが羊の毛を切ってる方へ行った(ブリヂットの方へ向いて)こないだの晩四つ角のウイニイが言ってた事を覚えているかい。戦争か何かわるい事が起る前に不思議な女が国じゅう歩きまわるという話を? ブリヂット ウイニイの話なんぞどうでもいいよ、それより、兄さんに戸を開けておやり。いま帰って来たらしい。 ピイタア デリヤの持参金を無事に持って来たろうな、おれがせっかく取り極めた約束を、向うでまた変えられちゃ困るよ、ずいぶん骨を折って極めた約束だ。 (パトリック戸を開ける、マイケル入る) ブリヂット 何で手間がとれたのマイケル? さっきからみんなで待っていたんだよ。 マイケル 神父さんとこへ寄って明日結婚さして貰えるように頼んで来た。 ブリヂット 何とかおっしゃったかい? マイケル 神父さんは非常に良い縁だって言ってた、自分の教区のどの二人を結婚させるよりも俺とデリヤ・ケエルを結婚させるのを喜んでいた。 ピイタア 持参金は貰って来たか? マイケル ここにある。 |
ある時雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪に囲まれた、小さな西洋館の前に梶棒を下しました。もう鼠色のペンキの剥げかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の明りで見ると、印度人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の標札がかかっています。 マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。ミスラ君は永年印度の独立を計っているカルカッタ生れの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高い婆羅門の秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。私はちょうど一月ばかり以前から、ある友人の紹介でミスラ君と交際していましたが、政治経済の問題などはいろいろ議論したことがあっても、肝腎の魔術を使う時には、まだ一度も居合せたことがありません。そこで今夜は前以て、魔術を使って見せてくれるように、手紙で頼んで置いてから、当時ミスラ君の住んでいた、寂しい大森の町はずれまで、人力車を急がせて来たのです。 私は雨に濡れながら、覚束ない車夫の提灯の明りを便りにその標札の下にある呼鈴の釦を押しました。すると間もなく戸が開いて、玄関へ顔を出したのは、ミスラ君の世話をしている、背の低い日本人の御婆さんです。 「ミスラ君は御出でですか。」 「いらっしゃいます。先ほどからあなた様を御待ち兼ねでございました。」 御婆さんは愛想よくこう言いながら、すぐその玄関のつきあたりにある、ミスラ君の部屋へ私を案内しました。 「今晩は、雨の降るのによく御出ででした。」 色のまっ黒な、眼の大きい、柔な口髭のあるミスラ君は、テエブルの上にある石油ランプの心を撚りながら、元気よく私に挨拶しました。 「いや、あなたの魔術さえ拝見出来れば、雨くらいは何ともありません。」 私は椅子に腰かけてから、うす暗い石油ランプの光に照された、陰気な部屋の中を見廻しました。 ミスラ君の部屋は質素な西洋間で、まん中にテエブルが一つ、壁側に手ごろな書棚が一つ、それから窓の前に机が一つ――ほかにはただ我々の腰をかける、椅子が並んでいるだけです。しかもその椅子や机が、みんな古ぼけた物ばかりで、縁へ赤く花模様を織り出した、派手なテエブル掛でさえ、今にもずたずたに裂けるかと思うほど、糸目が露になっていました。 私たちは挨拶をすませてから、しばらくは外の竹藪に降る雨の音を聞くともなく聞いていましたが、やがてまたあの召使いの御婆さんが、紅茶の道具を持ってはいって来ると、ミスラ君は葉巻の箱の蓋を開けて、 「どうです。一本。」と勧めてくれました。 「難有う。」 私は遠慮なく葉巻を一本取って、燐寸の火をうつしながら、 「確かあなたの御使いになる精霊は、ジンとかいう名前でしたね。するとこれから私が拝見する魔術と言うのも、そのジンの力を借りてなさるのですか。」 ミスラ君は自分も葉巻へ火をつけると、にやにや笑いながら、匀の好い煙を吐いて、 「ジンなどという精霊があると思ったのは、もう何百年も昔のことです。アラビヤ夜話の時代のこととでも言いましょうか。私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。高が進歩した催眠術に過ぎないのですから。――御覧なさい。この手をただ、こうしさえすれば好いのです。」 ミスラ君は手を挙げて、二三度私の眼の前へ三角形のようなものを描きましたが、やがてその手をテエブルの上へやると、縁へ赤く織り出した模様の花をつまみ上げました。私はびっくりして、思わず椅子をずりよせながら、よくよくその花を眺めましたが、確かにそれは今の今まで、テエブル掛の中にあった花模様の一つに違いありません。が、ミスラ君がその花を私の鼻の先へ持って来ると、ちょうど麝香か何かのように重苦しい匀さえするのです。私はあまりの不思議さに、何度も感嘆の声を洩しますと、ミスラ君はやはり微笑したまま、また無造作にその花をテエブル掛の上へ落しました。勿論落すともとの通り花は織り出した模様になって、つまみ上げること所か、花びら一つ自由には動かせなくなってしまうのです。「どうです。訳はないでしょう。今度は、このランプを御覧なさい。」 ミスラ君はこう言いながら、ちょいとテエブルの上のランプを置き直しましたが、その拍子にどういう訳か、ランプはまるで独楽のように、ぐるぐる廻り始めました。それもちゃんと一所に止ったまま、ホヤを心棒のようにして、勢いよく廻り始めたのです。初の内は私も胆をつぶして、万一火事にでもなっては大変だと、何度もひやひやしましたが、ミスラ君は静に紅茶を飲みながら、一向騒ぐ容子もありません。そこで私もしまいには、すっかり度胸が据ってしまって、だんだん早くなるランプの運動を、眼も離さず眺めていました。 また実際ランプの蓋が風を起して廻る中に、黄いろい焔がたった一つ、瞬きもせずにともっているのは、何とも言えず美しい、不思議な見物だったのです。が、その内にランプの廻るのが、いよいよ速になって行って、とうとう廻っているとは見えないほど、澄み渡ったと思いますと、いつの間にか、前のようにホヤ一つ歪んだ気色もなく、テエブルの上に据っていました。 「驚きましたか。こんなことはほんの子供瞞しですよ。それともあなたが御望みなら、もう一つ何か御覧に入れましょう。」 ミスラ君は後を振返って、壁側の書棚を眺めましたが、やがてその方へ手をさし伸ばして、招くように指を動かすと、今度は書棚に並んでいた書物が一冊ずつ動き出して、自然にテエブルの上まで飛んで来ました。そのまた飛び方が両方へ表紙を開いて、夏の夕方に飛び交う蝙蝠のように、ひらひらと宙へ舞上るのです。私は葉巻を口へ啣えたまま、呆気にとられて見ていましたが、書物はうす暗いランプの光の中に何冊も自由に飛び廻って、一々行儀よくテエブルの上へピラミッド形に積み上りました。しかも残らずこちらへ移ってしまったと思うと、すぐに最初来たのから動き出して、もとの書棚へ順々に飛び還って行くじゃありませんか。 が、中でも一番面白かったのは、うすい仮綴じの書物が一冊、やはり翼のように表紙を開いて、ふわりと空へ上りましたが、しばらくテエブルの上で輪を描いてから、急に頁をざわつかせると、逆落しに私の膝へさっと下りて来たことです。どうしたのかと思って手にとって見ると、これは私が一週間ばかり前にミスラ君へ貸した覚えがある、仏蘭西の新しい小説でした。 「永々御本を難有う。」 ミスラ君はまだ微笑を含んだ声で、こう私に礼を言いました。勿論その時はもう多くの書物が、みんなテエブルの上から書棚の中へ舞い戻ってしまっていたのです。私は夢からさめたような心もちで、暫時は挨拶さえ出来ませんでしたが、その内にさっきミスラ君の言った、「私の魔術などというものは、あなたでも使おうと思えば使えるのです。」という言葉を思い出しましたから、 「いや、兼ね兼ね評判はうかがっていましたが、あなたのお使いなさる魔術が、これほど不思議なものだろうとは、実際、思いもよりませんでした。ところで私のような人間にも、使って使えないことのないと言うのは、御冗談ではないのですか。」 「使えますとも。誰にでも造作なく使えます。ただ――」と言いかけてミスラ君はじっと私の顔を眺めながら、いつになく真面目な口調になって、 「ただ、欲のある人間には使えません。ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか。」 「出来るつもりです。」 私はこう答えましたが、何となく不安な気もしたので、すぐにまた後から言葉を添えました。 「魔術さえ教えて頂ければ。」 それでもミスラ君は疑わしそうな眼つきを見せましたが、さすがにこの上念を押すのは無躾だとでも思ったのでしょう。やがて大様に頷きながら、 「では教えて上げましょう。が、いくら造作なく使えると言っても、習うのには暇もかかりますから、今夜は私の所へ御泊りなさい。」 「どうもいろいろ恐れ入ります。」 私は魔術を教えて貰う嬉しさに、何度もミスラ君へ御礼を言いました。が、ミスラ君はそんなことに頓着する気色もなく、静に椅子から立上ると、 「御婆サン。御婆サン。今夜ハ御客様ガ御泊リニナルカラ、寝床ノ仕度ヲシテ置イテオクレ。」 私は胸を躍らしながら、葉巻の灰をはたくのも忘れて、まともに石油ランプの光を浴びた、親切そうなミスラ君の顔を思わずじっと見上げました。 × × × 私がミスラ君に魔術を教わってから、一月ばかりたった後のことです。これもやはりざあざあ雨の降る晩でしたが、私は銀座のある倶楽部の一室で、五六人の友人と、暖炉の前へ陣取りながら、気軽な雑談に耽っていました。 何しろここは東京の中心ですから、窓の外に降る雨脚も、しっきりなく往来する自働車や馬車の屋根を濡らすせいか、あの、大森の竹藪にしぶくような、ものさびしい音は聞えません。 勿論窓の内の陽気なことも、明い電燈の光と言い、大きなモロッコ皮の椅子と言い、あるいはまた滑かに光っている寄木細工の床と言い、見るから精霊でも出て来そうな、ミスラ君の部屋などとは、まるで比べものにはならないのです。 私たちは葉巻の煙の中に、しばらくは猟の話だの競馬の話だのをしていましたが、その内に一人の友人が、吸いさしの葉巻を暖炉の中に抛りこんで、私の方へ振り向きながら、 「君は近頃魔術を使うという評判だが、どうだい。今夜は一つ僕たちの前で使って見せてくれないか。」 「好いとも。」 私は椅子の背に頭を靠せたまま、さも魔術の名人らしく、横柄にこう答えました。 「じゃ、何でも君に一任するから、世間の手品師などには出来そうもない、不思議な術を使って見せてくれ給え。」 友人たちは皆賛成だと見えて、てんでに椅子をすり寄せながら、促すように私の方を眺めました。そこで私は徐に立ち上って、 |
千駄木の森の夏ぞ晝も暗き。此處の森敢て深しといふにはあらねど、おしまはし、周圍を樹林にて取卷きたれば、不動坂、團子坂、巣鴨などに縱横に通ずる蜘蛛手の路は、恰も黄昏に樹深き山路を辿るが如し。尤も小石川白山の上、追分のあたりより、一圓の高臺なれども、射る日の光薄ければ小雨のあとも路は乾かず。此の奧に住める人の使へる婢、やつちや場に青物買ひに出づるに、いつも高足駄穿きて、なほ爪先を汚すぬかるみの、特に水溜には、蛭も泳ぐらんと氣味惡きに、唯一重森を出づれば、吹通しの風砂を捲きて、雪駄ちやら〳〵と人の通る、此方は裾端折の然も穿物の泥、二の字ならぬ奧山住の足痕を、白晝に印するが極惡しなど歎つ。 嘗て雨のふる夜、其の人の家より辭して我家に歸ることありしに、固より親いまさず、いろと提灯は持たぬ身の、藪の前、祠のうしろ、左右畑の中を拾ひて、蛇の目の傘脊筋さがりに引かつぎたるほどこそよけれ、たかひくの路の、ともすれば、ぬかるみの撥ひやりとして、然らぬだに我が心覺束なきを、やがて追分の方に出んとして、森の下に入るよとすれば呀、眞暗三寶黒白も分かず。今までは、春雨に、春雨にしよぼと濡れたもよいものを、夏はなほと、はら〳〵はらと降りかゝるを、我ながらサテ情知り顏の袖にうけて、綽々として餘裕ありし傘とともに肩をすぼめ、泳ぐやうなる姿して、右手を探れば、竹垣の濡れたるが、する〳〵と手に觸る。左手を傘の柄にて探りながら、顏ばかり前に出せば、此の折ぞ、風も遮られて激しくは當らぬ空に、蜘蛛の巣の頬にかゝるも侘しかりしが、然ばかり降るとも覺えざりしに、兎かうして樹立に出づれば、町の方は車軸を流す雨なりき。 蚊遣の煙古井戸のあたりを籠むる、友の家の縁端に罷來て、地切の強煙草を吹かす植木屋は、年久しく此の森に住めりとて、初冬にもなれば、汽車の音の轟く絶間、凩の吹きやむトタン、時雨來るをり〳〵ごとに、狐狸の今も鳴くとぞいふなる。然もあるべし、但狸の聲は、老夫が耳に蚯蚓に似たりや。 件の古井戸は、先住の家の妻ものに狂ふことありて其處に空しくなりぬとぞ。朽ちたる蓋犇々として大いなる石のおもしを置いたり。友は心強にして、小夜の螢の光明るく、梅の切株に滑かなる青苔の露を照して、衝と消えて、背戸の藪にさら〳〵とものの歩行く氣勢するをも恐れねど、我は彼の雨の夜を惱みし時、朽木の燃ゆる、はた板戸洩る遠灯、畦行く小提灯の影一つ認めざりしこそ幸なりけれ。思へば臆病の、目を塞いでや歩行きけん、降しきる音は徑を挾む梢にざツとかぶさる中に、取つて食はうと梟が鳴きぬ。 恁くは森のおどろ〳〵しき姿のみ、大方の風情はこれに越えて、朝夕の趣言ひ知らずめでたき由。 曙は知らず、黄昏に此の森の中辿ることありしが、幹に葉に茜さす夕日三筋四筋、梢には羅の靄を籠めて、茄子畑の根は暗く、其の花も小さき實となりつ。 棚して架るとにもあらず、夕顏のつる西家の廂を這ひ、烏瓜の花ほの〴〵と東家の垣に霧を吐きぬ。強ひて我句を求むるにはあらず、藪には鶯の音を入るゝ時ぞ。 日は茂れる中より暮れ初めて、小暗きわたり蚊柱は家なき處に立てり。袂すゞしき深みどりの樹蔭を行く身には、あはれ小さきものども打群れてもの言ひかはすわと、それも風情かな。分けて見詰むるばかり、現に見ゆるまで美しきは紫陽花なり。其の淺葱なる、淺みどりなる、薄き濃き紫なる、中には紅淡き紅つけたる、額といふとぞ。夏は然ることながら此の邊分けて多し。明きより暗きに入る處、暗きより明きに出づる處、石に添ひ、竹に添ひ、籬に立ち、戸に彳み、馬蘭の中の、古井の傍に、紫の俤なきはあらず。寂たる森の中深く、もう〳〵と牛の聲して、沼とも覺しき泥の中に、埒もこはれ〴〵牛養へる庭にさへ紫陽花の花盛なり。 此時、白襟の衣紋正しく、濃いお納戸の單衣着て、紺地の帶胸高う、高島田の品よきに、銀の平打の笄のみ、唯黒髮の中に淡くかざしたるが、手車と見えたり、小豆色の膝かけして、屈竟なる壯佼具したるが、車の輪も緩やかに、彼の蜘蛛手の森の下道を、訪ふ人の家を尋ね惱みつと覺しく、此處彼處、紫陽花咲けりと見る處、必ず、一時ばかりの間に六度七度出であひぬ。實に我も其日はじめて訪ひ到れる友の家を尋ねあぐみしなりけり。 玉簾の中もれ出でたらんばかりの女の俤、顏の色白きも衣の好みも、紫陽花の色に照榮えつ。蹴込の敷毛燃立つばかり、ひら〳〵と夕風に徜徉へる状よ、何處、いづこ、夕顏の宿やおとなふらん。 笛の音も聞えずや、あはれ此のあたりに若き詩人や住める、うつくしき學士やあると、折からの森の星のゆかしかりしを、今も忘れず。さればゆかしさに、敢て岡燒をせずして記をつくる。 |
童 やあ、あそこへ妙な法師が来た。みんな見ろ。みんな見ろ。 鮓売の女 ほんたうに妙な法師ぢやないか? あんなに金鼓をたたきながら、何だか大声に喚いてゐる。…… 薪売の翁 わしは耳が遠いせゐか、何を喚くのやら、さつぱりわからぬ。もしもし、あれは何と云うて居りますな? 箔打の男 あれは「阿弥陀仏よや。おおい。おおい」と云つてゐるのさ。 薪売の翁 ははあ、――では気違ひだな。 箔打の男 まあ、そんな事だらうよ。 菜売の媼 いやいや、難有い御上人かも知れぬ。私は今の間に拝んで置かう。 鮓売の女 それでも憎々しい顔ぢやないか? あんな顔をした御上人が何処の国にゐるものかね。 菜売の媼 勿体ない事を御云ひでない。罰でも当つたら、どうおしだえ? 童 気違ひやい。気違ひやい。 五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。 犬 わんわん。わんわん。 物詣の女房 御覧なさいまし。可笑しい法師が参りました。 その伴 ああ云ふ莫迦者は女と見ると、悪戯をせぬとも限りません。幸ひ近くならぬ内に、こちらの路へ切れてしまひませう。 鋳物師 おや、あれは多度の五位殿ぢやないか? 水銀を商ふ旅人 五位殿だか何だか知らないが、あの人が急に弓矢を捨てて、出家してしまつたものだから、多度では大変な騒ぎだつたよ。 青侍 成程五位殿に違ひない。北の方や御子様たちは、さぞかし御歎きなすつたらう。 水銀を商ふ旅人 何でも奥方や御子供衆は、泣いてばかり御出でだとか云ふ事でした。 鋳物師 しかし妻子を捨ててまでも、仏門に入らうとなすつたのは、近頃健気な御志だ。 干魚を売る女 何の健気な事がありますものか? 捨てられた妻子の身になれば、弥陀仏でも女でも、男を取つたものには怨みがありますわね。 青侍 いや、大きにこれも一理窟だ。ははははは。 犬 わんわん。わんわん。 五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。 馬上の武者 ええ、馬が驚くわ。どうどう。 櫃をおへる従者 気違ひには手がつけられませぬ。 老いたる尼 あの法師は御存知の通り、殺生好きな悪人でしたが、よく発心したものですね。 若き尼 ほんたうに恐しい人でございました。山狩や川狩をするばかりか、乞食なぞも遠矢にかけましたつけ。 手に足駄を穿ける乞食 好い時に遇つたものだ。もう二三日早かつたら、胴中に矢の穴が明いたかも知れぬ。 栗胡桃などを商ふ主 どうして又ああ云ふ殺伐な人が、頭を剃る気になつたのでせう? 老いたる尼 さあ、それは不思議ですが、やはり御仏の御計らひでせう。 油を商ふ主 私はきつと天狗か何かが、憑いてゐると思ふのだがね。 栗胡桃などを商ふ主 いや、私は狐だと思つてるのさ。 油を商ふ主 それでも天狗はどうかすると、仏に化けると云ふぢやないか? 栗胡桃などを商ふ主 何、仏に化けるものは、天狗ばかりに限つた事ぢやない。狐もやつぱり化けるさうだ。 手に足駄を穿ける乞食 どれ、この暇に頸の袋へ、栗でも一ぱい盗んで行かうか。 若き尼 あれあれ、あの金鼓の音に驚いたのか、鶏が皆屋根へ上りました。 五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。 釣をする下衆 これは騒々しい法師が来たものだ。 その伴 どうだ、あれは? 跛の乞食が駈けて行くぜ。 牟子をしたる旅の女 私はちと足が痛うなつた。あの乞食の足でも借りたいものぢや。 皮子を負へる下人 もうこの橋を越えさへすれば、すぐに町でございます。 釣をする下衆 牟子の中が一目見てやりたい。 その伴 おや、側見をしてゐる内に、何時か餌をとられてしまつた。 五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。 鴉 かあかあ。 田を植うる女 「時鳥よ。おれよ。かやつよ。おれ泣きてぞわれは田に立つ。」 その伴 御覧よ。可笑しい法師ぢやないか。 鴉 かあかあ。かあかあ。 五位の入道 阿弥陀仏よや。おおい。おおい。 |
私の家は代々お奥坊主だったのですが、父も母もはなはだ特徴のない平凡な人間です。父には一中節、囲碁、盆栽、俳句などの道楽がありますが、いずれもものになっていそうもありません。母は津藤の姪で、昔の話をたくさん知っています。そのほかに伯母が一人いて、それが特に私のめんどうをみてくれました。今でもみてくれています。家じゅうで顔がいちばん私に似ているのもこの伯母なら、心もちの上で共通点のいちばん多いのもこの伯母です。伯母がいなかったら、今日のような私ができたかどうかわかりません。 文学をやることは、誰も全然反対しませんでした。父母をはじめ伯母もかなり文学好きだからです。その代わり実業家になるとか、工学士になるとか言ったらかえって反対されたかもしれません。 |
革命前だったか、革命後だったか、――いや、あれは革命前ではない。なぜまた革命前ではないかと言えば、僕は当時小耳に挟んだダンチェンコの洒落を覚えているからである。 ある蒸し暑い雨もよいの夜、舞台監督のT君は、帝劇の露台に佇みながら、炭酸水のコップを片手に詩人のダンチェンコと話していた。あの亜麻色の髪の毛をした盲目詩人のダンチェンコとである。 「これもやっぱり時勢ですね。はるばる露西亜のグランド・オペラが日本の東京へやって来ると言うのは。」 「それはボルシェヴィッキはカゲキ派ですから。」 この問答のあったのは確か初日から五日目の晩、――カルメンが舞台へ登った晩である。僕はカルメンに扮するはずのイイナ・ブルスカアヤに夢中になっていた。イイナは目の大きい、小鼻の張った、肉感の強い女である。僕は勿論カルメンに扮するイイナを観ることを楽しみにしていた、が、第一幕が上ったのを見ると、カルメンに扮したのはイイナではない。水色の目をした、鼻の高い、何とか云う貧相な女優である。僕はT君と同じボックスにタキシイドの胸を並べながら、落胆しない訣には行かなかった。 「カルメンは僕等のイイナじゃないね。」 「イイナは今夜は休みだそうだ。その原因がまた頗るロマンティックでね。――」 「どうしたんだ?」 「何とか云う旧帝国の侯爵が一人、イイナのあとを追っかけて来てね、おととい東京へ着いたんだそうだ。ところがイイナはいつのまにか亜米利加人の商人の世話になっている。そいつを見た侯爵は絶望したんだね、ゆうべホテルの自分の部屋で首を縊って死んじまったんだそうだ。」 僕はこの話を聞いているうちに、ある場景を思い出した。それは夜の更けたホテルの一室に大勢の男女に囲まれたまま、トランプを弄んでいるイイナである。黒と赤との着物を着たイイナはジプシイ占いをしていると見え、T君にほほ笑みかけながら、「今度はあなたの運を見て上げましょう」と言った。(あるいは言ったのだと云うことである。ダア以外の露西亜語を知らない僕は勿論十二箇国の言葉に通じたT君に翻訳して貰うほかはない。)それからトランプをまくって見た後、「あなたはあの人よりも幸福ですよ。あなたの愛する人と結婚出来ます」と言った。あの人と云うのはイイナの側に誰かと話していた露西亜人である。僕は不幸にも「あの人」の顔だの服装だのを覚えていない。わずかに僕が覚えているのは胸に挿していた石竹だけである。イイナの愛を失ったために首を縊って死んだと云うのはあの晩の「あの人」ではなかったであろうか?…… 「それじゃ今夜は出ないはずだ。」 「好い加減に外へ出て一杯やるか?」 T君も勿論イイナ党である。 「まあ、もう一幕見て行こうじゃないか?」 僕等がダンチェンコと話したりしたのは恐らくはこの幕合いだったのであろう。 次の幕も僕等には退屈だった。しかし僕等が席についてまだ五分とたたないうちに外国人が五六人ちょうど僕等の正面に当る向う側のボックスへはいって来た。しかも彼等のまっ先に立ったのは紛れもないイイナ・ブルスカアヤである。イイナはボックスの一番前に坐り、孔雀の羽根の扇を使いながら、悠々と舞台を眺め出した。のみならず同伴の外国人の男女と(その中には必ず彼女の檀那の亜米利加人も交っていたのであろう。)愉快そうに笑ったり話したりし出した。 「イイナだね。」 「うん、イイナだ。」 僕等はとうとう最後の幕まで、――カルメンの死骸を擁したホセが、「カルメン! カルメン!」と慟哭するまで僕等のボックスを離れなかった。それは勿論舞台よりもイイナ・ブルスカアヤを見ていたためである。この男を殺したことを何とも思っていないらしい露西亜のカルメンを見ていたためである。 × × × それから二三日たったある晩、僕はあるレストランの隅にT君とテエブルを囲んでいた。 「君はイイナがあの晩以来、確か左の薬指に繃帯していたのに気がついているかい?」 「そう云えば繃帯していたようだね。」 「イイナはあの晩ホテルへ帰ると、……」 「駄目だよ、君、それを飲んじゃ。」 僕はT君に注意した。薄い光のさしたグラスの中にはまだ小さい黄金虫が一匹、仰向けになってもがいていた。T君は白葡萄酒を床へこぼし、妙な顔をしてつけ加えた。 「皿を壁へ叩きつけてね、そのまた欠片をカスタネットの代りにしてね、指から血の出るのもかまわずにね、……」 「カルメンのように踊ったのかい?」 そこへ僕等の興奮とは全然つり合わない顔をした、頭の白い給仕が一人、静に鮭の皿を運んで来た。…… |
これは日比谷公園のベンチの下に落ちていた西洋紙に何枚かの文放古である。わたしはこの文放古を拾った時、わたし自身のポケットから落ちたものとばかり思っていた。が、後に出して見ると、誰か若い女へよこした、やはり誰か若い女の手紙だったことを発見した。わたしのこう云う文放古に好奇心を感じたのは勿論である。のみならず偶然目についた箇所は余人は知らずわたし自身には見逃しのならぬ一行だった。―― 「芥川龍之介と来た日には大莫迦だわ。」! わたしはある批評家の云ったように、わたしの「作家的完成を棒にふるほど懐疑的」である。就中わたし自身の愚には誰よりも一層懐疑的である。「芥川龍之介と来た日には大莫迦だわ!」何と云うお転婆らしい放言であろう。わたしは心頭に発した怒火を一生懸命に抑えながら、とにかく一応は彼女の論拠に点検を加えようと決心した。下に掲げるのはこの文放古を一字も改めずに写したものである。 「……あたしの生活の退屈さ加減はお話にも何にもならないくらいよ。何しろ九州の片田舎でしょう。芝居はなし、展覧会はなし、(あなたは春陽会へいらしって? 入らしったら、今度知らせて頂戴。あたしは何だか去年よりもずっと好さそうな気がしているの)音楽会はなし、講演会はなし、どこへ行って見るってところもない始末なのよ。おまけにこの市の智識階級はやっと徳富蘆花程度なのね。きのうも女学校の時のお友達に会ったら、今時分やっと有島武郎を発見した話をするんじゃないの? そりゃあなた、情ないものよ。だからあたしも世間並みに、裁縫をしたり、割烹をやったり、妹の使うオルガンを弾いたり、一度読んだ本を読み返したり、家にばかりぼんやり暮らしているの。まああなたの言葉を借りればアンニュイそれ自身のような生活だわね。 「それだけならばまだ好いでしょう。そこへまた時々親戚などから結婚問題を持って来るのよ。やれ県会議員の長男だとか、やれ鉱山持ちの甥だとか、写真ばかりももう十枚ばかり見たわ。そうそう、その中には東京に出ている中川の息子の写真もあってよ。いつかあなたに教えて上げたでしょう。あのカフェの女給か何かと大学の中を歩いていた、――あいつも秀才で通っているのよ。好い加減人を莫迦にしているじゃないの? だからあたしはそう云ってやるのよ。『あたしも結婚しないとは云いません。けれども結婚する時には誰の評価を信頼するよりも先にあたし自身の評価を信頼します。その代りに将来の幸不幸はあたし一人責任を負いますから』って。 「けれどももう来年になれば、弟も商大を卒業するし、妹も女学校の四年になるでしょう。それやこれやを考えて見ると、あたし一人結婚しないってことはどうもちょっとむずかしいらしいの。東京じゃそんなことは何でもないのね。それをこの市じゃ理解もなしに、さも弟だの妹だのの結婚を邪魔でもするために片づかずにいるように考えるんでしょう。そう云う悪口を云われるのはずいぶんあなた、たまらないものよ。 「そりゃあたしはあなたのようにピアノを教えることも出来ないんだし、いずれは結婚するほかに仕かたのないことも知っているわ。けれどもどう云う男とでも結婚する訣には行かないじゃないの? それをこの市じゃ何かと云うと、『理想の高い』せいにしてしまうのよ。『理想の高い』! 理想って言葉にさえ気の毒だわね。この市じゃ夫の候補者のほかには理想って言葉を使わないんですもの。そのまた候補者の御立派なことったら! そりゃあなたに見せたいくらいよ。ちょっと一例を挙げて見ましょうか? 県会議員の長男は銀行か何かへ出ているのよ。それが大のピュリタンなの。ピュリタンなのは好いけれども、お屠蘇も碌に飲めない癖に、禁酒会の幹事をしているんですって。もともと下戸に生まれたんなら、禁酒会へはいるのも可笑しいじゃないの? それでも御当人は大真面目に禁酒演説なんぞをやっているんですって。 「もっとも候補者は一人残らず低能児ばかりって訣でもないのよ。両親の一番気に入っている電燈会社の技師なんぞはとにかく教育のある青年らしいの。顔もちょっと見た所はクライスラアに似ているわね。この山本って人は感心に社会問題の研究をしているんですって。けれど芸術だの哲学だのには全然興味のない人なのよ。おまけに道楽は大弓と浪花節とだって云うんじゃないの? それでもさすがに浪花節だけは好い趣味じゃないと思っていたんでしょう。あたしの前じゃ浪花節のなの字も云わずにすましていたの。ところがいつかあたしの蓄音機へガリ・クルチやカルソウをかけて聞かせたら、うっかり『虎丸はないんですか?』ってお里を露わしてしまったのよ。まだもっと可笑しいのはあたしの家の二階へ上ると、最勝寺の塔が見えるんでしょう。そのまた塔の霞の中に九輪だけ光らせているところは与謝野晶子でも歌いそうなのよ。それを山本って人の遊びに来た時に『山本さん。塔が見えるでしょう?』って教えてやったら、『ああ、見えます。何メエトルくらいありますかなあ』って真面目に首をひねっているの。低能児じゃないって云ったけれども、芸術的にはまあ低能児だわね。 「そう云う点のわかっているのは文雄ってあたしの従兄なのよ。これは永井荷風だの谷崎潤一郎だのを読んでいるの。けれども少し話し合って見ると、やっぱり田舎の文学通だけにどこか見当が違っているのね。たとえば「大菩薩峠」なんぞも一代の傑作だと思っているのよ。そりゃまだ好いにしても、評判の遊蕩児と来ているんでしょう。そのために何でも父の話じゃ、禁治産か何かになりそうなんですって。だから両親もあたしの従兄には候補者の資格を認めていないの。ただ従兄の父親だけは――つまりあたしの叔父だわね。叔父だけは嫁に貰いたいのよ。それも表向きには云われないものだから、内々あたしへ当って見るんでしょう。そのまた言い草が好いじゃないの?『お前さんにでも来て貰えりゃ、あいつの極道もやみそうだから』ですって。親ってみんなそう云うものか知ら? それにしてもずいぶん利己主義者だわね。つまり叔父の考えにすりゃ、あたしは主婦と云うよりも、従兄の遊蕩をやめさせる道具に使われるだけなんですもの。ほんとうに惘れ返ってものも云われないわ。 「こう云う結婚難の起るにつけても、しみじみあたしの考えることは日本の小説家の無力さ加減だわね。教育を受けた、向上した、そのために教養の乏しい男を夫に選ぶことは困難になった、――こう云う結婚難に遇っているのはきっとあたし一人ぎりじゃないわ。日本中どこにもいるはずだわ。けれども日本の小説家は誰もこう云う結婚難に悩んでいる女性を書かないじゃないの? ましてこう云う結婚難を解決する道を教えないじゃないの? そりゃ結婚したくなければ、しないのに越したことはない訣だわね。それでも結婚しないとすれば、たといこの市にいるように莫迦莫迦しい非難は浴びないにしろ、自活だけは必要になって来るでしょう。ところがあたしたちの受けているのは自活に縁のない教育じゃないの? あたしたちの習った外国語じゃ家庭教師も勤まらないし、あたしたちの習った編物じゃ下宿代も満足に払われはしないわ。するとやっぱり軽蔑する男と結婚するほかはないことになるわね。あたしはこれはありふれたようでも、ずいぶん大きい悲劇だと思うの。(実際またありふれているとすれば、それだけになおさら恐ろしいじゃないの?)名前は結婚って云うけれども、ほんとうは売笑婦に身を売るのと少しも変ってはいないと思うの。 「けれどもあなたはあたしと違って、立派に自活して行かれるんでしょう。そのくらい羨ましいことはありはしないわ。いいえ、実はあなたどころじゃないのよ。きのう母と買いものに行ったら、あたしよりも若い女が一人、邦文タイプライタアを叩いていたの。あの人さえあたしに比べれば、どのくらい仕合せだろうと思ったりしたわ。そうそう、あなたは何よりもセンティメンタリズムが嫌いだったわね。じゃもう詠歎はやめにして上げるわ。…… 「それでも日本の小説家の無力さ加減だけは攻撃させて頂戴。あたしはこう云う結婚難を解決する道を求めながら、一度読んだ本を読み返して見たの。けれどもあたしたちの代弁者は譃のように一人もいないじゃないの? 倉田百三、菊池寛、久米正雄、武者小路実篤、里見弴、佐藤春夫、吉田絃二郎、野上弥生、――一人残らず盲目なのよ。そう云う人たちはまだ好いとしても、芥川龍之介と来た日には大莫迦だわ。あなたは『六の宮の姫君』って短篇を読んではいらっしゃらなくって? (作者曰く、京伝三馬の伝統に忠実ならんと欲するわたしはこの機会に広告を加えなければならぬ。『六の宮の姫君』は短篇集『春服』に収められている。発行書肆は東京春陽堂である)作者はその短篇の中に意気地のないお姫様を罵っているの。まあ熱烈に意志しないものは罪人よりも卑しいと云うらしいのね。だって自活に縁のない教育を受けたあたしたちはどのくらい熱烈に意志したにしろ、実行する手段はないんでしょう。お姫様もきっとそうだったと思うわ。それを得意そうに罵ったりするのは作者の不見識を示すものじゃないの? あたしはその短篇を読んだ時ほど、芥川龍之介を軽蔑したことはないわ。……」 この手紙を書いたどこかの女は一知半解のセンティメンタリストである。こう云う述懐をしているよりも、タイピストの学校へはいるために駆落ちを試みるに越したことはない。わたしは大莫迦と云われた代りに、勿論彼女を軽蔑した。しかしまた何か同情に似た心もちを感じたのも事実である。彼女は不平を重ねながら、しまいにはやはり電燈会社の技師か何かと結婚するであろう。結婚した後はいつのまにか世間並みの細君に変るであろう。浪花節にも耳を傾けるであろう。最勝寺の塔も忘れるであろう。豚のように子供を産みつづけ――わたしは机の抽斗の奥へばたりとこの文放古を抛りこんだ。そこにはわたし自身の夢も、古い何本かの手紙と一しょにそろそろもう色を黄ばませている。…… |
一 「こう爺さん、おめえどこだ」と職人体の壮佼は、そのかたわらなる車夫の老人に向かいて問い懸けたり。車夫の老人は年紀すでに五十を越えて、六十にも間はあらじと思わる。餓えてや弱々しき声のしかも寒さにおののきつつ、 「どうぞまっぴら御免なすって、向後きっと気を着けまする。へいへい」 と、どぎまぎして慌ておれり。 「爺さん慌てなさんな。こう己ゃ巡査じゃねえぜ。え、おい、かわいそうによっぽど面食らったと見える、全体おめえ、気が小さすぎらあ。なんの縛ろうとは謂やしめえし、あんなにびくびくしねえでものことさ。おらあ片一方で聞いててせえ少癇癪に障って堪えられなかったよ。え、爺さん、聞きゃおめえの扮装が悪いとって咎めたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや、ほかにおめえなんぞ仕損いでもしなすったのか、ええ、爺さん」 問われて老車夫は吐息をつき、 「へい、まことにびっくりいたしました。巡査さんに咎められましたのは、親父今がはじめてで、はい、もうどうなりますることやらと、人心地もござりませなんだ。いやもうから意気地がござりません代わりにゃ、けっして後ろ暗いことはいたしません。ただいまとても別にぶちょうほうのあったわけではござりませんが、股引きが破れまして、膝から下が露出しでござりますので、見苦しいと、こんなにおっしゃります、へい、御規則も心得ないではござりませんが、つい届きませんもんで、へい、だしぬけにこら! って喚かれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」 壮佼はしきりに頷けり。 「むむ、そうだろう。気の小さい維新前の者は得て巡的をこわがるやつよ。なんだ、高がこれ股引きがねえからとって、ぎょうさんに咎め立てをするにゃあ当たらねえ。主の抱え車じゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿きてえや、そこがめいめいの内証で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかもお提灯より見っこのねえ闇夜だろうじゃねえか、風俗も糸瓜もあるもんか。うぬが商売で寒い思いをするからたって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。ん! 寒鴉め。あんなやつもめったにゃねえよ、往来の少ない処なら、昼だってひよぐるぐらいは大目に見てくれらあ、業腹な。おらあ別に人の褌襠で相撲を取るにもあたらねえが、これが若いものでもあることか、かわいそうによぼよぼの爺さんだ。こう、腹あ立てめえよ、ほんにさ、このざまで腕車を曳くなあ、よくよくのことだと思いねえ。チョッ、べら棒め、サーベルがなけりゃ袋叩きにしてやろうものを、威張るのもいいかげんにしておけえ。へん、お堀端あこちとらのお成り筋だぞ、まかり間違やあ胴上げして鴨のあしらいにしてやらあ」 口を極めてすでに立ち去りたる巡査を罵り、満腔の熱気を吐きつつ、思わず腕を擦りしが、四谷組合と記したる煤け提灯の蝋燭を今継ぎ足して、力なげに梶棒を取り上ぐる老車夫の風采を見て、壮佼は打ち悄るるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人はおめえばかりか、孫子はねえのかい」 優しく謂われて、老車夫は涙ぐみぬ。 「へい、ありがとう存じます、いやも幸いと孝行なせがれが一人おりまして、よう稼いでくれまして、おまえさん、こんな晩にゃ行火を抱いて寝ていられるもったいない身分でござりましたが、せがれはな、おまえさん、この秋兵隊に取られましたので、あとには嫁と孫が二人みんな快う世話をしてくれますが、なにぶん活計が立ちかねますので、蛙の子は蛙になる、親仁ももとはこの家業をいたしておりましたから、年紀は取ってもちっとは呼吸がわかりますので、せがれの腕車をこうやって曳きますが、何が、達者で、きれいで、安いという、三拍子も揃ったのが競争をいたしますのに、私のような腕車には、それこそお茶人か、よっぽど後生のよいお客でなければ、とても乗ってはくれませんで、稼ぐに追い着く貧乏なしとはいいまするが、どうしていくら稼いでもその日を越すことができにくうござりますから、自然装なんぞも構うことはできませんので、つい、巡査さんに、はい、お手数を懸けるようにもなりまする」 いと長々しき繰り言をまだるしとも思わで聞きたる壮佼は一方ならず心を動かし、 「爺さん、いやたあ謂われねえ、むむ、もっともだ。聞きゃ一人息子が兵隊になってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言い籠めて隙あ潰さした埋め合わせに、酒代でもふんだくってやればいいに」 「ええ、めっそうな、しかし申しわけのためばかりに、そのことも申しましたなれど、いっこうお肯き入れがござりませんので」 壮佼はますます憤りひとしお憐れみて、 「なんという木念人だろう、因業な寒鴉め、といったところで仕方もないかい。ときに爺さん、手間は取らさねえからそこいらまでいっしょに歩びねえ。股火鉢で五合とやらかそう。ナニ遠慮しなさんな、ちと相談もあるんだからよ。はて、いいわな。おめえ稼業にも似合わねえ。ばかめ、こんな爺さんを掴めえて、剣突もすさまじいや、なんだと思っていやがんでえ、こう指一本でも指してみろ、今じゃおいらが後見だ」 憤慨と、軽侮と、怨恨とを満たしたる、視線の赴くところ、麹町一番町英国公使館の土塀のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。その光は暗夜に怪獣の眼のごとし。 二 公使館のあたりを行くその怪獣は八田義延という巡査なり。渠は明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町の交番を発し、一時間交替の巡回の途に就けるなりき。 その歩行や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩からず、早からず、着々歩を進めて路を行くに、身体はきっとして立ちて左右に寸毫も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。 制帽の庇の下にものすごく潜める眼光は、機敏と、鋭利と厳酷とを混じたる、異様の光に輝けり。 渠は左右のものを見、上下のものを視むるとき、さらにその顔を動かし、首を掉ることをせざれども、瞳は自在に回転して、随意にその用を弁ずるなり。 されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端の芝生の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇の這えるがごとき人の踏みしだきたる痕を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射せること、その門前なる二柱のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋の片足の、霜に凍て附きて堅くなりたること、路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷の煙の立ち騰ること等、およそ這般のささいなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外に免るることを得ざりしなり。 しかも渠は交番を出でて、路に一個の老車夫を叱責し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後を振り返りしことあらず。 渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後には全く放心せるもののごとし。いかんとなれば背後はすでにいったんわが眼に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。 兇徒あり、白刃を揮いて背後より渠を刺さんか、巡査はその呼吸の根の留まらんまでは、背後に人あるということに、思いいたることはなかるべし。他なし、渠はおのが眼の観察の一度達したるところには、たとい藕糸の孔中といえども一点の懸念をだに遺しおかざるを信ずるによれり。 ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々としてただ前途のみを志すを得るなりけり。 その靴は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音を送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の下に踞まれる物体ありて、わが跫音に蠢けるを、例の眼にてきっと見たり。 八田巡査はきっと見るに、こはいと窶々しき婦人なりき。 一個の幼児を抱きたるが、夜深けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊め、着たる襤褸の綿入れを衾となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。よしやその母子に一銭の恵みを垂れずとも、たれか憐れと思わざらん。 しかるに巡査は二つ三つ婦人の枕頭に足踏みして、 「おいこら、起きんか、起きんか」 と沈みたる、しかも力を籠めたる声にて謂えり。 婦人はあわただしく蹶ね起きて、急に居住まいを繕いながら、 「はい」と答うる歯の音も合わず、そのまま土に頭を埋めぬ。 巡査は重々しき語気をもて、 「はいではない、こんな処に寝ていちゃあいかん、疾く行け、なんという醜態だ」 と鋭き音調。婦人は恥じて呼吸の下にて、 「はい、恐れ入りましてございます」 かく打ち謝罪るときしも、幼児は夢を破りて、睡眠のうちに忘れたる、饑えと寒さとを思い出し、あと泣き出だす声も疲労のために裏涸れたり。母は見るより人目も恥じず、慌てて乳房を含ませながら、 「夜分のことでございますから、なにとぞ旦那様お慈悲でございます。大眼に御覧あそばして」 巡査は冷然として、 「規則に夜昼はない。寝ちゃあいかん、軒下で」 おりからひとしきり荒ぶ風は冷を極めて、手足も露わなる婦人の膚を裂きて寸断せんとせり。渠はぶるぶると身を震わせ、鞠のごとくに竦みつつ、 「たまりません、もし旦那、どうぞ、後生でございます。しばらくここにお置きあそばしてくださいまし。この寒さにお堀端の吹き曝しへ出ましては、こ、この子がかわいそうでございます。いろいろ災難に逢いまして、にわかの物貰いで勝手は分りませず……」といいかけて婦人は咽びぬ。 これをこの軒の主人に請わば、その諾否いまだ計りがたし。しかるに巡査は肯き入れざりき。 |
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