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自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分はほとんど毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂洲と、水の上に生まれて水の上に暮しているあわただしい人々の生活とを見た。真夏の日の午すぎ、やけた砂を踏みながら、水泳を習いに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにおいも、今では年とともに、親しく思い出されるような気がする。 自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと言えば、泥濁りのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落したいような、言いがたい慰安と寂寥とを感じた。まったく、自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もちがした。この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛するのである。 銀灰色の靄と青い油のような川の水と、吐息のような、おぼつかない汽笛の音と、石炭船の鳶色の三角帆と、――すべてやみがたい哀愁をよび起すこれらの川のながめは、いかに自分の幼い心を、その岸に立つ楊柳の葉のごとく、おののかせたことであろう。 この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、平静な読書三昧にふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった。動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟と緊張とに、せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、なつかしさに、とかしてくれる。大川の水があって、はじめて自分はふたたび、純なる本来の感情に生きることができるのである。 自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落すのを見た。自分は幾度となく、霧の多い十一月の夜に、暗い水の空を寒むそうに鳴く、千鳥の声を聞いた。自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、大川に対する自分の愛を新たにする。ちょうど、夏川の水から生まれる黒蜻蛉の羽のような、おののきやすい少年の心は、そのたびに新たな驚異の眸を見はらずにはいられないのである。ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりのないさびしさに迫られたことであろう。 大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧院の鐘の音と、鵠の声とに暮れて行くイタリアの水の都――バルコンにさく薔薇も百合も、水底に沈んだような月の光に青ざめて、黒い柩に似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢のように漕いでゆく、ヴェネチアの風物に、あふるるばかりの熱情を注いだダンヌンチョの心もちを、いまさらのように慕わしく、思い出さずにはいられないのである。 この大川の水に撫愛される沿岸の町々は、皆自分にとって、忘れがたい、なつかしい町である。吾妻橋から川下ならば、駒形、並木、蔵前、代地、柳橋、あるいは多田の薬師前、うめ堀、横網の川岸――どこでもよい。これらの町々を通る人の耳には、日をうけた土蔵の白壁と白壁との間から、格子戸づくりの薄暗い家と家との間から、あるいは銀茶色の芽をふいた、柳とアカシアとの並樹の間から、磨いたガラス板のように、青く光る大川の水は、その、冷やかな潮のにおいとともに、昔ながら南へ流れる、なつかしいひびきをつたえてくれるだろう。ああ、その水の声のなつかしさ、つぶやくように、すねるように、舌うつように、草の汁をしぼった青い水は、日も夜も同じように、両岸の石崖を洗ってゆく。班女といい、業平という、武蔵野の昔は知らず、遠くは多くの江戸浄瑠璃作者、近くは河竹黙阿弥翁が、浅草寺の鐘の音とともに、その殺し場のシュチンムングを、最も力強く表わすために、しばしば、その世話物の中に用いたものは、実にこの大川のさびしい水の響きであった。十六夜清心が身をなげた時にも、源之丞が鳥追姿のおこよを見そめた時にも、あるいはまた、鋳掛屋松五郎が蝙蝠の飛びかう夏の夕ぐれに、天秤をにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今のごとく、船宿の桟橋に、岸の青蘆に、猪牙船の船腹にものういささやきをくり返していたのである。 ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう。自分の記憶に誤りがないならば、吾妻橋から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあった。その中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋から須賀町へ渡る渡しとの二つが、昔のままに残っている。自分が子供の時に比べれば、河の流れも変わり、芦荻の茂った所々の砂洲も、跡かたなく埋められてしまったが、この二つの渡しだけは、同じような底の浅い舟に、同じような老人の船頭をのせて、岸の柳の葉のように青い河の水を、今も変わりなく日に幾度か横ぎっているのである。自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った。水の動くのにつれて、揺籃のように軽く体をゆすられるここちよさ。ことに時刻がおそければおそいほど、渡し船のさびしさとうれしさとがしみじみと身にしみる。――低い舷の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍い光のある、幅の広い川面は、遠い新大橋にさえぎられるまで、ただ一目に見渡される。両岸の家々はもう、たそがれの鼠色に統一されて、その所々には障子にうつるともしびの光さえ黄色く靄の中に浮んでいる。上げ潮につれて灰色の帆を半ば張った伝馬船が一艘、二艘とまれに川を上って来るが、どの船もひっそりと静まって、舵を執る人の有無さえもわからない。自分はいつもこの静かな船の帆と、青く平らに流れる潮のにおいとに対して、なんということもなく、ホフマンスタアルのエアレエプニスという詩をよんだ時のような、言いようのないさびしさを感ずるとともに、自分の心の中にもまた、情緒の水のささやきが、靄の底を流れる大川の水と同じ旋律をうたっているような気がせずにはいられないのである。 けれども、自分を魅するものはひとり大川の水の響きばかりではない。自分にとっては、この川の水の光がほとんど、どこにも見いだしがたい、なめらかさと暖かさとを持っているように思われるのである。 海の水は、たとえば碧玉の色のようにあまりに重く緑を凝らしている。といって潮の満干を全く感じない上流の川の水は、言わばエメラルドの色のように、あまりに軽く、余りに薄っぺらに光りすぎる。ただ淡水と潮水とが交錯する平原の大河の水は、冷やかな青に、濁った黄の暖かみを交えて、どことなく人間化された親しさと、人間らしい意味において、ライフライクな、なつかしさがあるように思われる。ことに大川は、赭ちゃけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺をよせて、気むずかしいユダヤの老爺のように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。そうして、同じく市の中を流れるにしても、なお「海」という大きな神秘と、絶えず直接の交通を続けているためか、川と川とをつなぐ掘割の水のように暗くない。眠っていない。どことなく、生きて動いているという気がする。しかもその動いてゆく先は、無始無終にわたる「永遠」の不可思議だという気がする。吾妻橋、厩橋、両国橋の間、香油のような青い水が、大きな橋台の花崗石とれんがとをひたしてゆくうれしさは言うまでもない。岸に近く、船宿の白い行灯をうつし、銀の葉うらを翻す柳をうつし、また水門にせかれては三味線の音のぬるむ昼すぎを、紅芙蓉の花になげきながら、気のよわい家鴨の羽にみだされて、人けのない廚の下を静かに光りながら流れるのも、その重々しい水の色に言うべからざる温情を蔵していた。たとえ、両国橋、新大橋、永代橋と、河口に近づくに従って、川の水は、著しく暖潮の深藍色を交えながら、騒音と煙塵とにみちた空気の下に、白くただれた目をぎらぎらとブリキのように反射して、石炭を積んだ達磨船や白ペンキのはげた古風な汽船をものうげにゆすぶっているにしても、自然の呼吸と人間の呼吸とが落ち合って、いつの間にか融合した都会の水の色の暖かさは、容易に消えてしまうものではない。 ことに日暮れ、川の上に立ちこめる水蒸気と、しだいに暗くなる夕空の薄明りとは、この大川の水をして、ほとんど、比喩を絶した、微妙な色調を帯ばしめる。自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。 「すべての市は、その市に固有なにおいを持っている。フロレンスのにおいは、イリスの白い花とほこりと靄と古の絵画のニスとのにおいである」(メレジュコウフスキイ)もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。 (一九一二・一) |
明治十二三年頃の出版だと思ふ――澤村田之助曙双紙と云ふ合卷ものの、淡彩の口繪に、黒縮緬の羽織を撫肩に引つ掛けて、出の衣裝の褄を取つた、座敷がへりらしい、微醉の婀娜なのが、俥の傍に彳ずんで、春たけなはに、夕景色。瓦斯燈がほんのり點れて、あしらつた一本の青柳が、裾を曳いて、姿を競つて居て、唄が題してあつたのを覺えて居る。曰く、(金子も男も何にも入らぬ微醉機嫌の人力車)――少々間違つて居るかも知れないが、間違つて居れば、其の藝妓の心掛で、私の知つた事ではない。何しろ然うした意氣が唄つてあつた。或は俥のはやりはじめの頃かも知れない。微醉を春の風にそよ〳〵吹かせて、身體がスツと柳の枝で宙に靡く心持は、餘程嬉しかつたものと見える。 今時バアで醉拂つて、タクシイに蹌踉け込んで、いや、どツこいと腰を入れると、がた、がたんと搖れるから、脚を蟇の如く踏張つて――上等のは知らない――屋根が低いから屈み腰に眼を据ゑて、首を虎に振るのとは圖が違ふ。第一色氣があつて世を憚らず、親不孝を顧みざる輩は、男女で相乘をしたものである。敢て註するに及ばないが、俥の上で露呈に丸髷なり島田なりと、散切の……惡くすると、揉上の長い奴が、肩を組んで、でれりとして行く。些と極端にたとへれば、天鵞絨の寢臺を縱にして、男女が處を、廣告に持歩行いたと大差はない。 自動車に相乘して、堂々と、淺草、上野、銀座を飛ばす、當今の貴婦人紳士と雖も、これを見たら一驚を吃するであらう。誰も口癖に言ふ事だが、實に時代の推移である。だが其のいづれの相乘にも、齊しく私の關せざる事は言ふまでもない。とにかく、色氣も聊か自棄で、穩かならぬものであつた。 ――(すきなお方と相乘人力車、暗いとこ曳いてくれ、車夫さん十錢はずむ、見かはす顏に、その手が、おつだね)――恁う云ふ流行唄さへあつた。おつだね節と名題をあげたほどである。何にしろ人力車はすくなからず情事に交渉を持つたに相違ない。 金澤の人、和田尚軒氏著。郷土史談に採録する、石川縣の開化新開、明治五年二月、其の第六號の記事に、 先頃大阪より歸りし人の話に、彼地にては人力車日を追ひ盛に行はれ、西京は近頃までこれなき所、追々盛にて、四百六輌。伏見には五十一輌なりと云ふ。尚ほ追々増加するよし……其處で、東京府下は總數四萬餘に及ぶ。 と記して、一車の税銀、一ヶ月八匁宛なりと載せてある。勿論、金澤、福井などでは、俵藤太も、頼光、瀧夜叉姫も、まだ見た事もなかつたらう。此の東京の四萬の數は多いやうだけれども、其の頃にしろ府下一帶の人口に較べては、辻駕籠ほどにも行渡るまい、然も一ヶ月税銀八匁の人力車である。なか〳〵以て平民には乘れさうに思はれぬ。時の流行といへば、別して婦人が見得と憧憬の的にする……的となれば、金銀相輝く。弓を學ぶものの、三年凝視の瞳には的の虱も其の大きさ車輪である。從つて、其の頃の巷談には、車夫の色男が澤山あつた。一寸岡惚をされることは、やがて田舍まはりの賣藥行商、後に自動車の運轉手に讓らない。立志美談車夫の何とかがざらにあつた。 しばらくの間に、俥のふえた事は夥しい。 人力車――腕車が、此の亻に車と成つた、字は紅葉先生の創意であると思ふ。見附を入つて、牛込から、飯田町へ曲るあたりの帳場に、(人力)を附着けて、一寸(分)の字の形にしたのに、車をつくりに添へて、大きく一字にした横看板を、通りがかりに見て、それを先生に、私が話した事がある。「そいつは可笑しい。一寸使へるな。」と火鉢に頬杖をつかれたのを覺えて居る。 ……更めて言ふまでもないが、車賃なしの兵兒帶でも、辻、巷の盛り場は申すまでもない事、待俥の、旦那御都合で、を切拔けるのが、てくの身に取り大苦勞で。どやどやどや、がら〳〵と……大袈裟ではない、廣小路なんぞでは一時に十四五臺も取卷いた。三橋、鴈鍋、達磨汁粉、行くさき眞黒に目に餘る。「こいつを樂に切拔けないぢや東京に住めないよ。」と、よく下宿の先輩が然う言つた。 十四五年前、いまの下六番町へ越した頃も、すぐ有島家の黒塀外に、辻車、いまの文藝春秋社の前の石垣と、通を隔つた上六の角とに向ひ合ひ、番町學校の角にも、づらりと出て居て、ものの一二町とはない處に、其のほかに尚ほ宿車が三四軒。 ――春は櫻の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、續いて、秋の新仁和賀には、十分間に車の飛ぶこと、此の通りのみにて七十五輌。 と、大音寺前の姉さん、一葉女史が、乃ち袖を卷いて拍子を取つた所以である。 ――十分間に七十五輌、敢て大音寺前ばかりとは云はない。馬道は俥で填まつた。淺草の方の悉い事は、久保田さん(万ちやん)に聞くが可い。……山の手、本郷臺。……切通しは堰を切つて俥の瀧を流した。勿論、相乘も渦を卷いて、人とともに舞つて落ちる、江智勝、豐國あたりで、したゝかな勢に成つたのが、ありや〳〵、と俥の上で、蛸の手で踊つて行く。でつかんしよに、愉快ぶし、妓夫臺談判破裂して――進めツ――いよう、御壯、どうだい隊長と、喚き合ふ。――どうも隊長。……まことに御壯。が、はずんで下りて一淀みして𢌞る處から、少し勢が鈍くなる。知らずや、仲町で車夫が、小當りに當るのである。「澄まねえがね、旦那。」甚しきは楫を留める。彼處を拔けると、廣小路の角の大時計と、松源の屋根飾を派手に見せて、又はじめる。「ほんの蝋燭だ、旦那。」さて、最も難場としたのは、山下の踏切の處が、一坂辷らうとする勢を、故と線路で沮めて、ゆつくりと強請りかゝる。處を、辛うじて切拔けると、三島樣の曲角で、又はじめて、入谷の大池を右に、ぐつと暗くなるあたりから、次第に凄く成つたものだ――と聞く。 ……實は聞いただけで。私の覺えたのは……そんな、そ、そんな怪しからん場所ではない。國へ往復の野路山道と、市中も、山まはりの神社佛閣ばかり。だが一寸こゝに自讚したい事がある。酒は熱燗のぐい呷り、雲助の風に似て、茶は番茶のがぶ飮み。料理の食べ方を心得ず。お茶碗の三葉は生煮えらしいから、そつと片寄せて、山葵を活きもののやうに可恐がるのだから、われながらお座がさめる。さゝ身の煮くたらしを、ほう〳〵と吹いてうまがつて、燒豆府ばかりを手元へ取込み、割前の時は、鍋の中の領分を、片隅へ、群雄割據の地圖の如く劃つて、眞中へ埋た臟もつを、箸の尖で穴をあけて、火はよく通つたでござらうかと、遠目金を覗くやうな形をしたのでは大概岡惚も引退る。……友だちは、反感と輕侮を持つ。精々同情のあるのが苦笑する。と云つた次第だが……たゞ俥に掛けては乘り方がうまい、と――最も御容子ではない――曳いてる車夫に讚められた。拾ひ乘だと、樹の下、塀續きなぞで、わざ〳〵振向いて然う言つた事さへある。 乘るのがうまいと言ふ下から、落ちることもよく落ちた。本郷の菊坂の途中で徐々と横に落ちたが寺の生垣に引掛つた、怪我なし。神田猿樂町で、幌のまゝ打倒れた、ヌツと這出る事は出たが、氣つけの賓丹を買ふつもりで藥屋と間違へて汁粉屋へ入つた、大分茫としたに違ひない、が怪我なし。眞夏、三宅坂をぐん〳〵上らうとして、車夫が膝をトンと支くと蹴込みを辷つて、ハツと思ふ拍子に、車夫の背中を跨いで馬乘りに留まつて「怪我をしないかね。」は出來が可い。師走の算段に驅け𢌞つて五味坂で投出された、此の時は、懷中げつそりと寒うして、心、虚なるが故に、路端の石に打撞かつて足の指に怪我をした。最近は……尤も震災前だが……土橋のガード下を護謨輪で颯と言ふうちに、アツと思ふと私はポンと俥の外へ眞直に立つて、車夫は諸膝で、のめつて居た。蓋し、期せずして、一つ宙返りをして車夫の頭を乘越したのである。拂ふほど砂もつかない、が、此れは後で悚然とした。……實の處今でもまだ吃驚してゐる。 要するに――俥は落ちるものと心得て乘るのである。而して、惡道路と、坂の上下は、必ず下りて歩行く事―― これ、當流の奧儀である、と何も矢場七、土場六が、茄子のトントンを密造する時のやうに祕傳がるには及ばない。――實は、故郷への往復に、其の頃は交通の必要上止むを得ず幾度も長途を俥にたよつたため、何時となく乘るのに馴れたものであらうと思ふ。…… 汽車は、米原を接續線にして、それが敦賀までしか通じては居なかつた。「むき蟹。」「殼附。」などと銀座のはち卷で旨がる處か、ヤタ一でも越前蟹(大蟹)を誂へる……わづか十年ばかり前までは、曾席の膳に恭しく袴つきで罷出たのを、今から見れば、嘘のやうだ。けれども、北陸線の通じなかつた時分、舊道は平家物語、太平記、太閤記に至るまで、名だたる荒地山、歸、虎杖坂、中河内、燧ヶ嶽。――新道は春日野峠、大良、大日枝の絶所で、其の敦賀金ヶ崎まで、これを金澤から辿つて三十八里である。蟹が歩行けば三年かゝる。 最も、加州金石から――蓮如上人縁起のうち、嫁おどしの道場、吉崎の港、小女郎の三國へ寄つて、金ヶ崎へ通ふ百噸以下の汽船はあつた。が、事もおろかや如法の荒海、剩へ北國日和と、諺にさへ言ふのだから、浪はいつも穩かでない。敦賀は良津ゆゑ苦勞はないが、金石の方は船が沖がかりして、波の立つ時は、端舟で二三里も揉まれなければ成らぬ。此だけでも命がけだ。冬分は往々敦賀から來た船が、其處に金石を見ながら、端舟の便がないために、五日、七日も漾ひつゝ、果は佐渡ヶ島へ吹放たれたり、思切つて、もとの敦賀へ逆戻りする事さへあつた。 上京するのに、もう一つの方法は、金澤から十三里、越中伏木港まで陸路、但し倶利伽羅の嶮を越す――其の伏木港から直江津まで汽船があつて、すぐに鐵道へ續いたが、申すまでもない、親不知、子不知の沖を渡る。……此の航路も、おなじやうに難儀であつた。もしこれを陸にしようか。約六十里に餘つて遠い。肝心な事は、路銀が高値い。 其處で、暑中休暇の學生たちは、むしろ飛騨越で松本へ嶮を冒したり、白山を裏づたひに、夜叉ヶ池の奧を美濃路へ渡つたり、中には佐々成政のさら〳〵越を尋ねた偉いのさへある。……現に、廣島師範の閣下穗科信良は――こゝに校長たる其の威嚴を傷つけず禮を失しない程度で、祝意に少し揶揄を含めた一句がある。本來なら、別行に認めて、大に俳面を保つべきだが、惡口の意地の惡いのがぢき近所に居るから、謙遜して、二十字づめの中へ、十七字を割込ませる。曰く、千兩の大禮服や土用干。――或は曰く――禮服や一千兩を土用干――此の大禮服は東京で出來た。が、帽を頂き、劍を帶び、手套を絞ると、坐るのが變だ。床几――といふ處だが、(――親類の家で――)其の用意がないから、踏臺に嵬然として腰を掛けた……んぢや、と笑つて、當人が私に話した。夫人、及び學生さん方には内證らしい。――その學生の頃から、閣下は學問も腹も出來て居て、私のやうに卑怯でないから、泳ぎに達しては居ないけれども、北海の荒浪の百噸以下を恐れない。恐れはしないが、不思議に船暈が人より激しい。一度は、餘りの苦しさに、三國沿岸で……身を投げて……いや、此だと女性に近い、いきなり飛込んで死なうと思つた、と言ふほどであるから、一夏は一人旅で、山神を驚かし、蛇を蹈んで、今も人の恐るゝ、名代の天生峠を越して、あゝ降つたる雪かな、と山蛭を袖で拂つて、美人の孤家に宿つた事がある。首尾よく岐阜へ越したのであつた。 道は違ふが――話の次でだ。私も下街道を、唯一度だけ、伏木から直江津まで汽船で渡つた事がある。――後にも言ふが――いつもは件の得意の俥で、上街道越前を敦賀へ出たのに――爾時は、旅費の都合で。……聞いて、眞實にはなさるまい、伏木の汽船が、兩會社で激しく競爭して、乘客爭奪の手段のあまり、無賃銀、たゞでのせて、甲會社は手拭を一筋、乙會社は繪端書三枚を景物に出すと言ふ。……船中にて然やうな事は申さぬものだが、龍宮場末の活動寫眞が宣傳をするやうな風説を聞いて、乘らざるべけんやと、旅費の苦しいのが二人づれで驅出した。 此の侶伴は、後の校長閣下の事ではない。おなじく大學の學生で暑中休暇に歸省して、糠鰊……易くて、量があつて、舌をピリヽと刺戟する、糠に漬込んだ鰊……に親んで居たのと一所に、金澤を立つて、徒歩で、森下、津幡、石動。……それよりして、倶利伽羅に掛る、新道天田越の峠で、力餅を……食べたかつたが澁茶ばかり。はツ〳〵と漸と越して、漫々たる大きな川の――それは庄川であらうと思ふ――橋で、がつかりして弱つて居た處を、船頭に半好意で乘せられて、流れくだりに伏木へ渡つた。樣子を聞くと、汽船會社の無錢で景物は、裏切られた。何うも眞個ではないらしいのに、がつかりしたが、此の時の景色は忘れない。船が下流に落ちると、暮雲岸を籠めて水天一色、江波渺茫、遠く蘆が靡けば、戀々として鷺が佇み、近く波が動けば、アヽ鱸か? 鵜が躍つた。船頭が辨當を使ふ間、しばらくは船は漂蕩と其の流るゝに任せて、やがて、餉を澄まして、ざぶりと舷に洗ひ状に、割籠に掬むとて掻く水が、船脚よりは長く尾を曳いて、動くもののない江の面に、其船頭は悠然として、片手で艫を繰りはじめながら、片手で其の水を飮む時、白鷺の一羽が舞ひながら下りて、舳に留まつたのである。 いや、そんな事より、力餅さへ食はぬ二人が、辨當のうまさうなのに、ごくりと一所に唾をのんでお腹が空いて堪らない。……船頭の菜も糠鰊で。…… これには鰯もある――糠鰯、且つ恐るべきものに河豚さへある。這個糠漬の大河豚。 何と、此の糠河豚を、紅葉先生に土産に呈した男がある。たべものに掛けては、中華亭の娘が運ぶ新栗のきんとんから、町内の車夫が内職の駄菓子店の鐵砲玉まで、趣を解しないでは置かない方だから、遲い朝御飯に茶漬けで、さら〳〵。しばらくすると、玄關の襖が、いつになく、妙に靜に開いて、懷手で少し鬱した先生が、 「泉。」 「は。」 「あの、河豚は、お前も食つたか。」 「故郷では、惣菜にしますんです。」 「おいら、少し腹が疼むんだがな。」 「先生、河豚に中害つて、疼む事はないんださうです。」 「あゝ、然うか。」 すつと、其のまゝ二階へ、―― いま、我が瀧太郎さんは、目まじろがず、一段と目玉を大きくして、然も糠にぶく〳〵と熟れて甘い河豚を食ふから驚く。 新婚當時、四五年故郷を省みなかつた時分、穗科閣下は、あゝ糠鰊が食ひたいな、と暫々言つて繰返した。 「食はれるものかね。」 「いや、然うでない、あれは珍味ぢやぞ。」 その後歸省して、新保村から歸つて、 「食つたよ。――食つたがね、……何うも何ぢや、思つたほどでなかつたよ。」 然うだらう。日本橋の砂糖問屋の令孃が、圓髷に結つて、あなたや……鰺の新ぎれと、夜行の鮭を教へたのである。糠鰊がうまいものか。 |
一、櫻島の地理 【湧出年代に關する舊記】 櫻島は鹿兒島縣鹿兒島郡に屬し、鹿兒島市の東約一里錦江灣頭に蹲踞せる一火山島にして、風光明媚を以て名あり、其海中より湧出したる年代に關しては史上傳ふる所によれば靈龜四年と云ひ、或は養老二年と云ひ、或は和銅元年と云ひ、或は天平寳字八年と云ひ諸説紛々として一定せず、顧ふに斯くの如き火山島は决して單に一回の噴出によりて成りたるものには非ずして、前記數回の大噴火によりて大成したるものなるべし。 【櫻島の各部落】 島は略々圓形を爲し、周回九里三十一町、東西櫻島の兩村あり、西櫻島村には赤水、横山、小池、赤生原、武、藤野、松浦、西道、二俣、白濱の十大字あり、東櫻島村には野尻、湯之、古里、有、脇、瀬戸、黒神、高免の八大字あり、大正二年度に於て戸數三千百三十五戸、人口二萬一千九百六十六人を有せり。 【櫻島の地形】 櫻島の地形は大體に於て整然たる截頭圓錐状を呈し、遠く裾野を引き、緩斜面を以て錦江灣に臨み、村落は何れも海岸に發達せり、山頂は略島の中央に位し三峯より成り、何れも圓形又は橢圓形の火口を有せり、北にあるを北嶽(海拔千百三十三米突)南にあるを南嶽(海拔千〇六十九米突)中央なるを兩中(海拔千百〇五米突)と云ふ、平時多少の噴烟ありしは南嶽にして、兩中には水を湛へたり。 全山輝石安山岩及び其集塊岩より成り、中腹以下は大部火山灰及び灰石の被覆する所となる、只西方の裾野に卓子状を爲せる城山(俗稱袴腰)は凝灰集塊岩より成り櫻島本體と其成立を異にせり。 櫻島の海岸には往々岩骨峩々として削壁を爲せる所あり、是昔時の熔岩流の末端にして、黒神村の北方に突出せる大燃崎、野尻、持木兩部落の間なる燃崎、湯之、古里兩部落の間にある觀音崎及び其東方湯の濱の間に在る辰崎は何れも文明年度の迸發に係る熔岩流にして、東北海岸高免の東なる西迫鼻より浦の前に至る間は安永熔岩流の末端なり。 櫻島近海の島嶼中西南海中に於て今回の熔岩流下に沒したる烏島及び其東南の沖小島は共に文明年間の湧出に係り、沖島は角閃輝石安山岩より成れり、櫻島の東北海中に散布せる燃島(一名安永島)猪ノ子島、ドロ島、中ノ島、硫黄島、濱島の諸島は何れも安永八年大破裂の際新造せられたるものなり。 【噴火口】 櫻島の西側には主なる爆裂火口三あり、第一は北嶽の西南に近きものにして、其位置最も高く、第二に引平(海拔五百五十三米突)の東にあるもの、第三は四百米突高地の南にあるものにして、新噴火口は實に其中にあり。 櫻島の東側に於て東方に開ける半圓形を畫せるを鍋山側火口とす、今回櫻島の東部に於ける新噴火口は何れも其南方に開口せり、北嶽の北側には略々南北に走れる二條の顯著なる峻谷あり、恰かも地割れの状を爲せり、今回の地變により多少崩壞し、岩骨を曝露したる形跡あり。 鹿兒島造士館篠本講師は今回の地變により櫻島の地體に西々北より東々南に走る幾多の地割れを生じたるを目撃したりと云ふも、予輩の踏査區域は主に熔岩流の附近なりしかば是等の地割れを觀察するの機會を逸したるは遺憾なり、只黒神村より熔岩縁に沿ひ瀬戸に至る間に於て西々北より東々南に走る一條の小段違(落差二三尺)あるを目撃せり。 二、噴火の沿革 【噴火の舊記】 舊記に依るに今を去ること千二百六年和銅元年始て隅州向島湧出せりとあり、其後靈龜、養老、天平、應仁、文明年間にも或は噴火し、或は温泉湧出し、新島突如として沿海に隆出せり等の記事あり、大日本地震史料によれば天平九年十月二十三日大隅國大地震、次に天平神護二年六月五日大隅國神造新島地震動止まず居民多く流亡せりとあり、是より以後慶長元年に至る迄大隅、薩摩に大地震の記事なし。 慶長元年閏七月九日豐後薩摩地大震、次で慶長九年十二月十六日薩摩、大隅地大震とあり、又寛文二年九月十九日日向、大隅地大震とあり。 近代に於る櫻島大噴火は文明三年九月十二日、文明七年八月十五日、同八年九月十二日、寛永十九年三月七日、安永八年九月晦日に起りたるものにして、就中猛烈を極めたりしは安永八年九月晦日より十月朔日に及べる大噴火とし、之に次ぐものを文明三年、同七年の噴火とす、文明より安永に至る間は約三百年にして、安永八年は大正三年より百三十五年前なり、斯くの如く大噴火は數百年を距てて起れども、其間に之に次げる噴火あり、大抵六七十年を週期として消長するものの如し。 大日本地震史料によれば安永八年十月一日辛亥大隅國櫻島前夜より鳴動し地震ふこと強く、是日山巓兩中の地爆裂して火を噴き砂石泥土を迸流し山麓の諸里落是が爲めに蕩盡せられ人畜の死傷せるもの夥し是時島の近海に新嶼を生ぜり、後名けて安永島と謂ふとあり、當時の地變に死者合計百四十八人(内男八十二人、女六十六人)を出せり、梅園拾遺には今年(安永己亥)九月廿九日の夜より翌十月朔日南に當て雷の如くして雷にあらず(云 云)櫻島の南北端より火起り(乃 至)去年以來伊豆大島なども燒くる由沙汰せりとあり、又地理纂考には文明七年八月十五日野尻村の上より火を發し砂石を雨らし此邊凡て燃石なりとあり、是等の記事により察するに、安永八年の大噴火は新月の時に起り、文明七年及び今回の破裂は共に滿月の頃に起れり、而して安永及び文明の地變は共に北々東より南々西に走れる地盤の弱線即ち霧島火山脈の方向に活動を逞うしたるものの如く、主として災害を蒙りたるは北岸にては高免、白濱、南岸にては野尻、持木、湯之、古里、の諸部落なりしが、今回の變災は西々北より東々南の方向に走れる弱線に沿ひ暴威を振ひたるものの如く、新噴火口の位置を連結すれば正に此方向に一致し、又鹿兒島市及び其西北伊集院方面が地震最も強烈なりし事實に徴するも思半ばに過ぐるものあり、從て櫻島西岸に於て最も慘害を蒙りたるは横山、赤水、小池、赤生原、調練場の諸部落にして、東南岸に於て最も慘怛たる状況を呈せるは瀬戸、脇、有の諸部落なりとす。 現に鹿兒島市に於て南北又は是に近き方向の石垣は大部分倒壞又は大損害を被りたるにも係はらず東西若くは是に近き方向に延長せる石垣に損害少なきを觀ても西々北より東々南の方向に振動したる地震が最も強大なりしを察知するに難からず。 三、噴火の前兆 (一)、地震 【噴火の前兆たる地震】 大正三年一月十日頃より頻繁に鹿兒島市附近に地震ありたり、今鹿兒島測候所に於て觀測の結果を示せば左の如し。 十一日 二三八回 十二日 二三一回 十三日 五回 十四日 二回 十五日 九回 十六日 一一回 十七日 三回 十八日 六回 十九日 〇回 二十日 一回 二十一日 二回 但十二日午後六時廿九分烈震後十五日午後一時四十二分まで缺測、 鹿兒島測候所の記録によれば一月十一日午前三時四十一分無感覺の地震あり、爾後地震頻繁にして十二日午前十時迄に總計四百十七回の地震あり、其多數は微震にして弱震は三十三回あり、其震動は主に水平動にして、上下動は極て輕微なるも性質稍々急なりきと。 抑も火山噴火に伴ふ地震の多數は左の如き特徴あり。 (一)、初期微動及び終期動短くして著しからず、主要動のみ著し (二)、主要動は水平動に比し上下動割合に顯著なること多し (三)、下より衝き上るが如き衝動と轟鳴を伴ふ (四)、震域狹小にして震央よりの半徑二里を出でざること多し (五)、頻繁に續發し性質急なり 是を前記の事實に適用して考察するに、一月十日頃より鹿兒島市附近に續發したる地震は火山性のものたりしを推知するに難からず、只其水平動に比し上下動の輕微なりしは震央よりの離距遠きに因るものと思考せざるを得ず。 他の特徴は何れも具備したるが如し。 (二)、温泉并に井水の異状 【地震以外の噴火の前兆】 鹿兒島造士館篠本講師に宛たる加治木中學校長田代善太郎氏の通信によれば、加治木温泉は一月七日頃より温度を増加し、又加治木、國分附近の井水は其の水量増加せりと。 避難民の言によれば、櫻島の北岸白濱に於ては爆發前井水涸れたりと云ふ。 鹿兒島市外西田、武、新照院附近の井水は濁り又は涸渇せる事實あり。 (三)、地割 入來温泉附近にては著しき地割を生じたりと云ふ。 |
一 消燈喇叭が鳴つて、電燈が消へて了つてからも暫くは、高村軍曹は眼先きをチラ〳〵する新入兵たちの顔や姿に悩まされてゐた。悩まされてゐた――と云ふのは、この場合適当でないかもしれない。いざ、と云ふ時には自分の身代りにもなつて呉れる者、骨を拾つても呉れる者、その愛すべきものを自分は今、これから二ヶ年と云ふもの手塩にかけて教育しようとするのであるから。 一個の軍人として見るにはまだ西も東も知らない新兵である彼等は、自分の仕向けやうに依つては必ず、昔の武士に見るやうに恩義の前には生命をも捨てゝ呉れるであらう。その彼等を教育する大任を――僅か一内務班に於ける僅か許りの兵員ではあるが――自分は命じられたのだ。かう思ふ事に依つて高村軍曹は自分が彼等に接する態度に就ては始終頭を悩まされてゐた。で、眠つてる間にもよく彼等新兵を夢に見ることがあつた。彼はどんな場合にも、自分の部下が最も勇敢であり、最も従順であり、更に最も軍人としての技能――射撃だとか、銃剣術だとか、学術に長じることを要求し希望してゐた。 彼は自分のその要求や期待を充足させることが、自分を満足させると同時に至尊に対して最も忠勤を励む所以だと思つてゐた。それに又競争心もあつた。中隊内の他のどの班の新兵にも負けない模範的の兵士に仕立てようと云ふ希望をもつてゐた。が、その希望はやがて大隊一の模範兵を作らうと云ふ希望になり、それがやがて聯隊一番の模範兵にしようといふ希望に変つて行つた。この時彼の心にはまた昔から不文律となつて軍隊内に伝はつてゐるところの、いや現在に於て自分たちを支配してゐるところの聯隊内のしきたり――部下に対する残虐なる制裁に対して、不思議な感情の生れて来るのを感じた。また自分よりかずつと若い伍長や軍曹、上等兵なぞがまるで牛か馬を殴るやうに面白半分に兵卒たち、殊に新兵を殴るのを見ると、彼は妙に苛立たしい憤慨をさへ感じた。殊に自分までが一緒になつて昨日までそれをやつてたのかと思ふと、不思議なやうな気さへした。新兵の時に苛められたから古兵になつてからその復讎を新兵に対してする――そんな不合理なことが第一この世の中にあるだらうか。自分たちを苛めてゐた古兵とは何んの関係もない新入兵を苛める――その不合理を何十年といふ長い間、軍隊は繰り返してゐるのだ。そして百人が百人、千人が千人といふもの、少しもそれを怪しまずにゐたのだ。俺はなぜ、そんな分り切つた事を今まで気がつかずにゐたらう?――さう思ふと彼は只不思議でならなかつた。 彼は聯隊では一番古参の軍曹であつた。もう間もなく満期となつて、現役を退かなければならなかつた。が彼は予備に編入される前には必ず曹長に進級されるであらうと云ふことを、殆ど確定的に信じてゐた。また古参順序から行けば当然、今年度の曹長進級には彼が推されなければならぬのであつた。それは強ち彼れ自身がさう思つてる許りでなく、他の同僚たちもさう信じ、よく口に出しても云つてる事であつた。だが、彼に取つて最も気懸りなことが一つあつた。それは自分の隣村から出身してゐる聯隊副官のS大尉が、その地方的の反感から自分を単に毛嫌ひしてゐると云ふこと、埒を越へて、憎悪してゐると云ふことを知つてゐたから。 S大尉さへ自分に好意を持つてゝ呉れるなら、いや好意は持たずとも無関心でゐて呉れたなら、自分はどんなに有難いだらう。だがあのS大尉はいつも自分を貶しよう貶しようとしてゐる人だ。現に、自分が新入兵の入営する間際になつて、第八中隊から此の第十二中隊に編入を命じられたと云ふのも、つまりはあのS大尉の差しがねに違ひない。それはもう明白な事実だ。―― 彼はS大尉のその軍人らしくない、百姓根生の染み込んだ卑劣な態度をどんなに憎んだことだらう。彼は兵卒から現在の故参下士官になる八年と云ふ長い間、自分の家庭のやうに暮して来た第八中隊を離れて此の中隊へ来た時、自分の部下たるべき第×内務班の兵卒の凡て、それから同僚の下士たちの凡てが、如何に冷たい眼をして、まるで異邦人の闖入をでも受けたやうな眼をして迎へた印象を、いつまでも忘れることが出来ない。今居る班の兵卒たちは皆んな、自分の教育したのではない、苦楽を倶にしたのではない、まゝつこだ――とも思つた。しかし、こん度入営して来る新兵こそは、自分に取つて実子である。自分は温かい心をもつて、理解ある広い同情をもつて、彼等を迎へ、彼等を教育してやらう。――彼は実にかう思つて、今の此の十五人の新兵を自分の班に迎へたのであつた。だから自分に取つてまゝつこである二年兵たちが新兵を苛めるのを見ると彼は頭がカツとした。彼は理由も訊さずに二年兵たちを叱つた。 高村軍曹は実にかうしたいろ〳〵の理由からして、兵卒たちを自分の恩義に狎れさせ、信服させようと努めたのであつた。また自分の受持である新兵教育を完全に果して、聯隊随一の模範兵を作ると云ふことは、取りも直さず自分の成績を上げることであり、それは又曹長進級の難関を通過する唯一の通行券となるものであつた。如何に利け者のS大尉が聯隊本部に頑張つてゐたからとて、自分の成績が抜群であり、自分の教育する部下が優良兵であり、模範兵となつたならばどうにもなりはしないだらう。高村軍曹は眼をつぶると浮んで来る部下の顔に、愛撫の瞳を向けながらそんなことを思つてゐた。 これから第一期の検閲までにはざつと四ヶ月ある。それまでは……と、彼は自分に与へられた四ヶ月と云ふその「時」を楽しむやうに、いろ〳〵教育に関して計劃を廻らした。 その日の演習が終つて入浴や夕飯をすますと、他の各班の班長たちはあとの事を上等兵たちに任せて外出して了ふのであつた。が、その上等兵は上等兵で只だ役目に二十分か三十分、厭や〳〵新兵を集めて読法とか陸軍々制につひての学課をして、帰営後の班長に報告するに止まつてゐた。だから少し記憶の悪い兵や、ふだん憎まれてゐる兵は、さらでも自分の「時」を新兵たちの為めに犠牲にされてると考へてゐる上等兵の疳癪を募らしては、可なり痛々しく苛めつけられてゐた。時には「パシーツ」「パシーツ」と横頬を喰らはされるらしい痛々しい無気味な音が、下士室まで響いて来たりした。高村軍曹は何んとも云へない複雑な表情を浮べてそれを聞き、やがて自分の部下のゐる第×内務班にスリツパを引き摺りながら入つてゆく。 「敬礼!」と云ふ叫び声が一かたまりの部下の中から起つて、彼等は一斉に起立して高村軍曹に対し敬礼した。彼は笑顔をもつてそれに答へた。 「古兵はよろしい、初年兵だけこつちへ集まれ、学課をする!」 高村軍曹は矢張り微笑を浮べながら云つた。初年兵たちは三脚並んでる大机を挟んで、両側に対ひ合つて腰をおろした。 「宮崎!」 高村軍曹はさう叫んで一人の初年兵を立たせた。宮崎はのつそりと立ち上つて、窟の奥の方からでも明るい外光を見るやうに、眩しさうな眼をして高村軍曹の顔を瞶めた。宮崎は高村軍曹の一番手古摺つてる兵であつた。彼の眼はいつも蝙蝠を明るいところへ引き出したやうにおど〳〵してゐた。 「おい、返事はどうした!」高村軍曹はぽかんと突つ立つてる宮崎を見ながら小供を教へるやうに穏やかに云つた。『呼ばれて立つ時には必ず「はいツ」と返事をしなければいけない』 「ヘーツ」 宮崎はからだをくね〳〵と曲げて揺さぶりながら長く語尾をひつぱつて云つた。腰掛の両側からくす〳〵と笑ひ声が起つた。 「笑つてはいけない。軍隊は笑ふところではない!」と、高村軍曹は一寸顔をしかめて見せて云つた。 「宮崎! 昨日教へた勅諭の五ヶ条を云つて見い!」 「ヘーツ」と、宮崎は再び云つて頸をだん〴〵下へ垂れて、時々蝙蝠のやうな眼で高村軍曹の顔を見る。そして「忘れました」と云つた。 「忘れたら思ひ出すまでそこに立つて居れ!」と云つて高村軍曹は眼をきよろ〳〵させて其処にかしこまつて腰掛けてゐる初年兵たちを物色する。「では田中!」 「はい!」と、田中は威勢よく立ち上つて「一つ、軍人は忠節をつくすを本分とすべし」「一つ、軍人は……」と云つてすら〳〵と片づけて了つた。 高村軍曹の顔には嬉しげな微笑が浮んで、「さア、宮崎云つて見い!」と、また宮崎の顔を見つめた。 「一つ、軍人は……」と云ひかけて、彼はまたつかへて了う。 高村軍曹の顔は一寸曇つたが、今度は自分で一句一句切りながら自分の云ふあとをつかせて、宮崎に読ませた。そして云つた。「暇があつたらよく暗記して置かなくてはいけないぞ!」 かうして一時間ばかりの学課がすんで、高村軍曹が下士室へ引き上げると間もなく点呼の喇叭が鳴つた。外出してゐた各班の下士たちもぞろ〳〵時間を違へずに帰つて来て、班毎にならぶ。点呼がすんでやがて消燈喇叭が鳴り、皆んな寝台について了ふと高村軍曹は必ず、自分が寝る前に一度自分の班に来て見て皆んな寝顔を見てから自分の寝床へ入るのであつた。が、彼は班内を巡視する時に、若し寝てゐる筈の初年兵が寝台に居ずに空になつてゐる時には、いつまでもそこに待つてゐた。兵卒たちは大概点呼がすんでから便所に行つて寝るので彼等は便所から戻るのが遅くなつた場合にはいつも、高村軍曹の心配げな顔に見迎へられるのであつた。 高村軍曹はまた夜中にふと眼が覚めたりすると、必ずシヤツのまゝで下士室を出て自分の班に行つて見た。彼には一つ気になつてたまらない事があつたのである。それは毎夜のやうに自分が班内を見て廻るのに、皆んなぐう〴〵鼾をかいて寝てゐる中に宮崎だけがいつも溜息をしながらゴソ〳〵寝返りを打つてゐるのを見かけるからであつた。彼の今までの長い軍隊生活の経験に依つて、逃亡するやうな兵は兵営生活に慣れない一期の検閲前に一番多く、そして最も注意すべき事は宮崎のやうな無智な人間が、殊に何か屈託があるらしい溜息をついたり眠れなかつたりする時であつた。 困つた奴を背負ひこんだもんだなア――高村軍曹の頭はいつもこの事の為めに悩まされてゐた。 日曜が来た。各班では初年兵を一纏めにして、一人の上等兵がそれぞれ引率して外出するのであつた。が、高村軍曹は上等兵には関はないで自分が引率して外出した。彼は時間を惜しむ余り、かうした休暇をも何かしら他の班の兵たちの及ばない智識を得させたいと思つたのであつた。 「皆んなどういふ所へ行つて遊びたい?」 先頭に立つてゐた高村軍曹は歩きながら後ろを振り返つて云つた。が、誰れも、どこそこへ行きたい――と自分の希望を述べる者はなかつた。 「では観音山へ登つて見よう」暫く皆んなの返事を待つて得られなかつたので、彼はかう云つてまた先頭に立つた。 観音山はK川を隔てゝ高台にある聯隊と相対してゐる山であつた。山の頂上には京都の清水の観音堂になぞらへて建てられたといふ観音堂が、高い石の階段を挟んでにゆツと立つてゐた。 K川にかゝつてるH橋を渡ると、麦畑と水田が広々と拡がつてゐた。高村軍曹はそこの道を歩きながら云つた。 「かういふ広いところを開豁地と云つて、演習や実戦の場合、軍隊が行進する時には最大急行軍をもつて通過して了はなければならない。さうしないと直ぐ敵から発見されて了ふ……いゝか、かういふ広い場所を開豁地と云ふのだ。」 高村軍曹はかう教へてから「駆け足――ツ」と号令をかけた。足を揃へることも、ろくに知らない十五人の初年兵は、バタ〳〵高村軍曹のあとについて走り出した。学課の時、寝てゐる時、いつも高村軍曹の注意を惹く宮崎は、この駆け足の時にも彼の眼を惹いた。宮崎はまるで跛を引いたやうに、右と左の肩をひどく揺さぶつて足を引き摺り、埃をポカ〳〵と立てた。 「宮崎! お前どうかしたか?」高村軍曹は走りながら訊いた。「足でも痛めたんぢやないか」 宮崎は最初は顔をしかめて頸を左右に振つて、どうもしたんぢやない――と云ふことを示してゐたが、やがて「班長殿! 靴がでつか過ぎてバタ〳〵して駆けられません」と、云つた。 隊はやがて観音山の麓について、百姓家のボツ〳〵並んでる村に入つた。 「早足ーツ、オーイ」と、言ふ号令が高村軍曹の口から出た。皆んな息をハア〳〵はづませながら、普通の歩き方に復つた。道の両側が竹籔だの雑木林だので狭くなつてゐるところへ出た時、高村軍曹はまた後ろを振り返つて云つた。 「かういふ狭い処を隘路と云ふ。そしてかういふ処を斥候なんかになつて通る時は必ず、銃に剣を着けて、いつ敵の襲撃を受けてもそれに応じられるやうに要意して置く。」 高村軍曹はかう云つてまた直ぐ宮崎に呼びかけた。「宮崎ツ、かういふ狭い処を何んと云ふ?」 「アイロと云つて剣を着けて通ります」宮崎は得意然として蝙蝠のやうな眼を光らせながら、今度は言下に答へた。 「ふむ、今度は記憶へたな! 忘れないやうにしろ、いまに野外要務令でかういふ学課があるんだから」高村軍曹は微笑を含みながら云つた。そして観音堂の正面につけられた石階の道を取らないで、側道へ入つて行つた。そこは少しも人工の加はらない自然のまゝの山道であつた。箒のやうに細かい枝の尖つた雑木林の間には松や杉の木が緑の葉をつけて立つてゐた。山へかゝると同時に、陰鬱な萎びたやうな宮崎の顔がすつかり元気になつて、生々とした色が蘇つて来た。山道で皆んなの足が疲れて来ると反対に、宮崎の足はぐづ〴〵してゐる仲間を追ひ越して先頭に立つて了つた。 高村軍曹は驚異の眼をもつて彼を見た。 「宮崎! お前は隊へ入るまで何をしてゐたんだ、商売は」彼は静にかう訊いた。 「班長殿、木挽をしてゐました。あつしらの仲間はもうはア山から山を歩いて一生涯山ん中で暮しますだよ」宮崎はいつか高村軍曹の穏やかな言葉にそゝられて、軍隊語を放擲して自分の言葉で話し出した。が、彼も別に咎めもしないで微笑をもつて聞いてゐた。 「木挽は儲かるか?」彼はまた訊いた。 |
ここに初旅といふのは新春の旅といふ意味ではなく、生れて初めての旅といふことであり、それを更に説明すれば、生れて初めて宿屋に泊つた経験といふことである。この間寺田さんの「初旅」といふ文章を読んで居たら、ふと私自身の初旅を想ひ出し、それを書いて見る気になつたのである。 私の初旅は中学一年の頃だから、私の十四の夏のことであつた。明治二十九年、ちやうど日清戦争の翌年であつた。旅行の目的は四国第一の高山石鎚山に登ることであつた。私の少年の頃「お山行(やまゆき)」といへば石鎚登山の連中を指した。夏になると家に居る子供を妙にそそのかす法螺貝の音が時々響いて来る。「そらお山行ぢや」と私達は街頭に出て行つて、その「お山行」から石楠花の枝をもらふのがおきまりであつた。「お山行」の連中は皆白装束、白の脚絆、白の手甲をして居り、先達に率ゐられた村々の団体だつたらしい。石楠花の枝をもらはなかつた記憶がないから、いつも帰りの連中であつたのか、往きの連中はどうしたのか、そこはよく分らない。どこの霊山にもあるやうに、精進のわるい者、偽を言ふ者は天狗に投げ飛ばされるといふやうな話は、子供の時からよく聞かされて居た。 松山市を囲む小さな道後平野を限つて、北には高縄山があり、南と東とに亙つて障子山、三坂峠、北ヶ森、遅越峠、石墨山などの連峯が屏風のやうにそそり立つてゐる形は、少年の眼には高山らしい威力を以て迫つた。その東の方の隅に凹字形をした石鎚山が奥深く控へて、その時々の気象によつて或は黒く、或はほのかに、或は紫に、或は真白にこちらをのぞいてゐる姿は、「お山行」と共に長い親しみ深い威容であつた。 私達をお山へ連れて行つてくれたのは、今正金銀行に居る岸の駿さんのおとうさんで、我々が岸のおいさん(おぢさん)と称して居た人であり、親族ではなかつたが親族同様に親しくして居た家であつた。岸のおばさんは正岡子規の母堂の妹で、駿さんは子規の従弟である。このおいさんは県庁の役人を止めてから、地方銀行の監査役の外に何をして居たのか知らぬが、私達の身の鍛錬の為によく私達を海や山へ連れて行つてくれた。「数理」を基礎にした実学をやらねば駄目といふのが、このおいさんの主張であり、兎に角一種の風格ある人物であつた。心配性の父が山行を許してくれたのも、このおいさんの統率だつたからである。 一行は駿さんの十二を最少として、二十歳に近い伊藤の丈さん、その弟の秀さん、藤野の準さん、戸塚の巍さんと私の二つ違ひの兄とで、皆十五、六歳の年恰好、おいさんを合せて八人の一行であつた。八月の或る日のことだつたと思ふが、暁の三時に家を出るといふことで、私達は早く起きて母の心尽しの朝飯を食つて出かけた。その時母は父の命で小鯛の白味噌汁を作つてくれた。その旨かつた味が今に忘れられない。精進を宗とするお山行の門出にこんな生臭を食はせたことを考へると、父には神信心の念は乏しかつたと見える。服装は霜ふりの木綿の制服で、白い脚絆は母の手製であつたらしい。浴衣に股引といふいでたちのものもあつた。 草鞋ばきで、小さい柳行李形の弁当を筒形の白布に入れて肩にかけた外には、殆ど荷物もなかつたやうに思ふ。アルピニストの七つ道具は、その頃まだ恐らく日本に、まして田舎の都会にははひつて居なかつた。 まだ薄暗い頃に一里ばかりの久米といふ所を通つた。ここに日尾八幡宮といふのがあつて、そこの石標は、維新頃の勤王の志士三輪田米山といつて、ここの神官をして居た書家の書であることを、おいさんから聞かされた。その屈託のない行書の文字の跡を昧爽の夏の空気の中にぼんやりと見た印象は、私には抹消することの出来ぬものになつて居る。横河原といふ駅の近くであつたかに、兜の松といつて、老松に共通ではあるが、枝が垂れ下つて全体が円錐形的に兜に似た松の姿も鮮明に残つて居る。四里ばかりを隔てた川上といふ町は、何だか大きな家が多かつたやうに思ふ。ここで街道の汚い煮売屋(居酒屋)にはひつて、午食の弁当を開くことになつたが、そこで出した青肴の煮たのが腐つたやうに見え、肴嫌ひの私にはただ気味がわるかつた。 予定の中にあつたのかどうか、我々は街道を離れて川内村の瀑布を見に行くことになつた。しかも途中でおいさんが遠縁のOといふ人にあひ、その夜はその家へ泊つた。それが川上の町で邂逅してさういふことになつたのか、街道から外れて瀑布を見に行く途中、野中にある、鎌倉堂といつて、最明寺時頼の行脚時代のものだと称する腰掛石を記念する堂のあたりで会つて、さういふことになつたのかはつきりしない。O氏の家は川内の八幡宮の前にあつて、荒物屋で居酒屋を兼ねて居た。社境は砂が白くて周囲に緑樹が多く、如何にも清浄だつたといふ感じが残つて居る。元の士族でかういふ事をして居たのは、今から考へれば訳もあつたのであらう。私達はO氏の家に休んで後、O氏の案内でここの奥にある白猪の滝を見に行つた。白猪と並び称せられる唐岬の滝を見たかどうかは記憶にない。私の一番強く感銘したのは、途中の谷川に大きな岩石がごろごろと転り、その上に松の樹が生えてゐたことである。石に大きな樹が生えてゐるといふことが非常に珍しかつたのであらう。帰りに夕立にあつてびしよぬれになり、O氏の宅に帰つて、薪を焚いてそれを前の広場で乾かした。夕食の温い御飯が実に有難かつた。おかずには南瓜があつたのを記憶するだけである。そこにはO氏の細君の綺麗な冷たい感じのするおばさん、二十四、五になるかと思ふのと、十七、八歳かとも思ふ綺麗なお嬢さんとが居た。 翌日通称「桜三里」といつて三里の間桜を道傍に植ゑた中山越を上下し、大頭といふ村にとまつた。桜は固より葉桜であつたが老幹には趣があつた。峠を大方越えて下りた所に川があつて、屋根のある木橋が架り、その下に水が小し濁りを帯びて青黒く湛へて居る所に多分鮠であらう、魚が沢山居た。私達が欄によつて唾を吐くと、水面に上つてそれを捕へようとするのが面白かつた。大頭に近い所に落合といふ所があつた。渓流が落合ふ場所からの名であらう。そこいら一体に薄藍色の岩の間を、谷川が急湍となり、激越怒号して雷の如き声を立てて居るのが、少年の全心を緊張せしめた。 大頭の宿に着いたのは日のまだ高い頃であつたが、夕食の時に素麺の煮たのに鶏卵をかけて食つたのが旨かつた。 この大頭で丈さんの同級の渡辺といふ、鉄棒のうまい、身体の理想的に引締つた青年が一行に加はつた。この人は土地の大きな家の子息であり、その家も白壁の塀を廻らした新築の立派な邸であつた。その日は次第に山深くはひつて行つて、石鎚山の中腹の黒川といふ人家の少ない僻村までたどりついた。途中も二、三軒位しか家のない寒村にたまに出喰はすくらゐのものであつた。その間に雨に打たれ霜にさびた山寺に休んだ。横峯山大宝寺といつたと思ふ。山号は確かだが寺名はあやしい。ここで五十に近い(と思つた)坊さんの、猿のやうなぎよろりとした眼をして、白衣を身に著けてゐたのが、白瓜を庖丁で縦断してそれを寺の庭に干してゐた。それから黒川までは実に急な長い坂を下りてまた登つた。その坂を下りる度に膝の間節がガタリガタリとがたついて、実に苦しかつたのを覚えてゐるのは、坂を下ることの楽易といふ観念を初めて破られたといふ理由によるものである。 黒川の宿の主人は山袴をつけて居た。これは木曾や東北で用ひるのと同じやうなものである。伊予のやうな暖国でも山深く行けばさういふものを穿くのである。畳の醤油色にこげて、小さい床の間に南無妙法蓮華経か何かの軸をかけたその座敷の近くには、猪垣と称する野獣の害を防ぐ石垣が設けられ、庭に乾された固まつたやうな茶の放つ香が異様に鼻を打つた。その日の夕食にがさがさした紅塗の浅い椀に盛つて出されたお菜は、多分馬鈴薯だつたであらう。その頃私達の町ではまだ馬鈴薯の広く食べられない頃であつたが、或は山地にも育つものとしてこの山村に植ゑられたのであらうか。 翌朝宿で弁当を拵へてもらつてお山の頂上を極めた。ここから頂上まで里程にすれば恐らく二里半位であつたらうか。一里位ゆくと成就社といふのがある。それが本社で、頂上が奥社になつて居るのであらう。成就社までは樹木が茂つて居り、その中には樅が多かつたこと、樹下の道の涼しかつたこと位しか覚えて居ない。私はその後数度、それもあまり遠い前でなく、この成就社から石鎚山を眺めた景色を夢に見たことがある。実際の旅の時の印象ははつきりして居ないのに、夢ではそれがはつきりと、山の姿も遥かに色彩に富んだ絵画的なものになつて居る。一度の夢には下駄を穿いて午後にここまで来て、夕方までにお山へ上り下りが出来るかを思ひ煩つたこともあつた。ただ併し成就社の近くで頂上の岩山の景色を少くとも一度は眺め得たことがあつた。それが私の夢を結ぶ縁になつたのであらう。 ここからは地面に熊笹が毛氈のやうに茂り、その上に小さな五葉の松が庭木のやうに生えた景色が珍しかつた。頂上近くなつて鎖の懸崖にかかつたのが三条あり、最初の鎖の手前で登山の行者が皆草鞋を穿き替へることになつて居り、そこいらの岩道は草鞋の腐蝕した堆積によつて黒く柔かくじめじめとなつて居た。全くゴツゴツした岩石の盛上りであり、そこに小さな祠が置かれて居た。私達は頂上近い岩蔭で弁当を食つたが、その時冷たい風が天際から吹いて来て、見る見る内に雲が下から駈けて来た。それを見て居る中に私は何だか恐ろしくなつて来たのに、渡辺君は肱を枕にしてグウグウ昼寝をして居た。その膽玉の太さうなのを、私は感歎もし羨望もした。私はそれから暫くの間は、この恐怖を心に深く恥ぢて居たが、今になつて考へれば、少年らしく自然の威力の前におびえる経験も、無意味なものではなかつた。併し私を羨ませたこの鉄のやうな体躯の持主なる渡辺君は、中学時代に死んでしまつた。 頂上では雲の為に妨げられて殆ど眺望はなかつたらしい。ただ少し下の方に天柱石とよばれるオベリスクのやうな石柱の立つて居るのが見えた。我々は腹をすかして成就社まで下り、そこで殆ど米のない黒い麦飯にありついた。私の兄は平生麦飯を嫌つたが、この空腹でも遂に節を屈しなかつた。 |
一 如月のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹荒んで、戸障子を煽つ、柱を揺ぶる、屋根を鳴らす、物干棹を刎飛ばす――荒磯や、奥山家、都会離れた国々では、もっとも熊を射た、鯨を突いた、祟りの吹雪に戸を鎖して、冬籠る頃ながら――東京もまた砂埃の戦を避けて、家ごとに穴籠りする思い。 意気な小家に流連の朝の手水にも、砂利を含んで、じりりとする。 羽目も天井も乾いて燥いで、煤の引火奴に礫が飛ぶと、そのままチリチリと火の粉になって燃出しそうな物騒さ。下町、山の手、昼夜の火沙汰で、時の鐘ほどジャンジャンと打つける、そこもかしこも、放火だ放火だ、と取り騒いで、夜廻りの拍子木が、枕に響く町々に、寝心のさて安からざりし年とかや。 三月の中の七日、珍しく朝凪ぎして、そのまま穏かに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨気を持ったのさえ、頃日の埃には、もの和かに視められる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧々の大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。 この七の日は、番町の大銀杏とともに名高い、二七の不動尊の縁日で、月六斎。かしらの二日は大粒の雨が、ちょうど夜店の出盛る頃に、ぱらぱら生暖い風に吹きつけたために――その癖すぐに晴れたけれども――丸潰れとなった。……以来、打続いた風ッ吹きで、銀杏の梢も大童に乱れて蓬々しかった、その今夜は、霞に夕化粧で薄あかりにすらりと立つ。 堂とは一町ばかり間をおいた、この樹の許から、桜草、菫、山吹、植木屋の路を開き初めて、長閑に春めく蝶々簪、娘たちの宵出の姿。酸漿屋の店から灯が点れて、絵草紙屋、小間物店の、夜の錦に、紅を織り込む賑となった。 が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見櫓が遠霞で露店の灯の映るのも、花の使と視めあえず、遠火で焙らるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御堂の前も寂寞としたのである。 提灯もやがて消えた。 ひたひたと木の葉から滴る音して、汲かえし、掬びかえた、柄杓の柄を漏る雫が聞える。その暗くなった手水鉢の背後に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細はない。……参詣の散った夜更には、人目を避けて、素膚に水垢離を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。 今境内は人気勢もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明に幽に映った。 びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋って、そこで息を吐く、肩を一つ揺ったが、敷石の上へ、蹌踉々々。 口を開いて、唇赤く、パッと蝋の火を吸った形の、正面の鰐口の下へ、髯のもじゃもじゃと生えた蒼い顔を出したのは、頬のこけた男であった。 内へ引く、勢の無い咳をすると、眉を顰めたが、窪んだ目で、御堂の裡を俯向いて、覗いて、 「お蝋を。」 二 そう云って、綻びて、袂の尖でやっと繋がる、ぐたりと下へ襲ねた、どくどく重そうな白絣の浴衣の溢出す、汚れて萎えた綿入のだらけた袖口へ、右の手を、手首を曲げて、肩を落して突込んだのは、賽銭を探ったらしい。 が、チヤリリともせぬ。 時に、本堂へむくりと立った、大きな頭の真黒なのが、海坊主のように映って、上から三宝へ伸懸ると、手が燈明に映って、新しい蝋燭を取ろうとする。 一ツ狭い間を措いた、障子の裡には、燈があかあかとして、二三人居残った講中らしい影が映したが、御本尊の前にはこの雇和尚ただ一人。もう腰衣ばかり袈裟もはずして、早やお扉を閉める処。この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立った時は、ばたり、ばたりと、団扇にしては物寂しい、大な蛾の音を立てて、沖の暗夜の不知火が、ひらひらと縦に燃える残んの灯を、広い掌で煽ぎ煽ぎ、二三挺順に消していたのである。 「ええ、」 とその男が圧えて、低い声で縋るように言った。 「済みませんがね、もし、私持合せがございません。ええ、新しいお蝋燭は御遠慮を申上げます。ええ。」 「はあ。」と云う、和尚が声の幅を押被せるばかり。鼻も大きければ、口も大きい、額の黒子も大入道、眉をもじゃもじゃと動かして聞返す。 これがために、窶れた男は言渋って、 「で、ございますから、どうぞ蝋燭はお点し下さいませんように。」 「さようか。」 と、も一つ押被せたが、そのまま、遣放しにも出来ないのは、彼がまだ何か言いたそうに、もじもじとしたからで。 和尚はまじりと見ていたが、果しがないから、大な耳を引傾げざまに、ト掌を当てて、燈明の前へ、その黒子を明らさまに出した体は、耳が遠いからという仕方に似たが、この際、判然分るように物を言え、と催促をしたのである。 「ええ。」 とまた云う、男は口を利くのも呼吸だわしそうに肩を揺る、…… 「就きましては、真に申兼ねましたが、その蝋燭でございます。」 「蝋燭は分ったであす。」 小鼻に皺を寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、 「御都合じゃからお蝋は上げぬようにと言うのじゃ。御随意であす。何か、代物を所持なさらんで、一挺、お蝋が借りたいとでも言わるる事か、それも御随意であす。じゃが、もう時分も遅いでな。」 「いいえ、」 「はい、」と、もどかしそうな鼻息を吹く。 「何でございます、その、さような次第ではございません。それでございますから、申しにくいのでございますが、思召を持ちまして、お蝋を一挺、お貸し下さる事にはなりますまいでございましょうか。」 「じゃから、じゃから御随意であす。じゃが時刻も遅いでな、……見なさる通り、燈明をしめしておるが、それともに点けるであすか。」 「それがでございます。」 と疲れた状にぐたりと賽銭箱の縁に両手を支いて、両の耳に、すくすくと毛のかぶさった、小さな頭をがっくりと下げながら、 「一挺お貸し下さいまし、……と申しますのが、御神前に備えるではございません。私、頂いて帰りたいのでございます。」 「お蝋を持って行くであすか。ふうむ、」と大く鼻を鳴す。 「それも、一度お供えになりました、燃えさしが願いたいのでございまして。」 いや、時節がら物騒千万。 三 |
槐と云ふ樹の名前を覚えたのは「石の枕」と云ふ一中節の浄瑠璃を聞いた時だつたであらう。僕は勿論一中節などを稽古するほど通人ではない。唯親父だのお袋だのの稽古してゐるのを聞き覚えたのである。その文句は何でも観世音菩薩の「庭に年経し槐の梢」に現れるとか何とか云ふのだつた。 「石の枕」は一つ家の婆さんが石の枕に旅人を寝かせ、路用の金を奪ふ為に上から綱に吊つた大石を落して旅人の命を奪つてゐる、そこへ美しい稚児が一人、一夜の宿りを求めに来る。婆さんはこの稚児も石の枕に寝かせ、やはり殺して金をとらうとする。すると婆さんの真名娘が私かにこの稚児に想ひを寄せ、稚児の身代りになつて死んでしまふ、それから稚児は観世音菩薩と現れ、婆さんに因果応報を教へる、この婆さんの身を投げて死んだ池は未だに浅草寺の境内に「姥の池」となつて残つてゐる、――大体かう云ふ浄瑠璃である。僕は少時国芳の浮世絵にこの話の書いたのを見てゐたから、「吉原八景」だの「黒髪」だのよりも「石の枕」に興味を感じてゐた。それからその又国芳の浮世絵は観世音菩薩の衣紋などに西洋画風の描法を応用してゐたのも覚えてゐる。 僕はその後槐の若木を見、そのどこか図案的な枝葉を如何にも観世音菩薩の出現などにふさはしいと思つたものである。が、四五年前に北京に遊び、のべつに槐ばかり見ることになつたら、いつか詩趣とも云ふべきものを感じないやうになつてしまつた。唯青い槐の実の莢だけは未だに風流だと思つてゐる。 北京 灰捨つる路は槐の莢ばかり |
(第一信) 岩見沢にて 一月十九日。雪。 僅か三時間許りしか眠らなかつたので、眠いこと話にならぬ。頬を脹らして顔を洗つて居ると、頼んで置いた車夫が橇を牽いて来た。車夫が橇を牽くとは、北海道を知らぬ人には解りツこのない事だ。そこ〳〵に朝飯を済まして橇に乗る。いくら踏反返つて見ても、徒歩で歩く人々に見下ろされる。気の毒ながら威張つた甲斐がない。 中央小樽駅に着きは着いたが、少しの加減で午前九時の下り列車に乗後れて了つた。仕方なさに東泉先生のお宅へ行つて、次の汽車を待つことにする。馳せ参ずる人二人三人。暖炉に火を入れてイザ取敢へずと盃が廻りはじめる。不調法の自分は頻りに煙草を吹かす。話はそれからこれへと続いたが就中の大問題は僕の頭であつた。知らぬ人は知るまいが、自分の頭は、昨年十一月の初め鬼舐頭病といふのに取付かれたので、今猶直径一寸余の禿が、無慮三つ四つ、大きくもない頭に散在して居る。東泉先生曰く、君の頭は植林地か、それとも開墾地か、後者だとすれば着々成功して居るが、植林の方だと甚だ以て不成績ぢやないか! 火を入れた暖炉の真赤になる迄火勢のよくなつた時は、人々の顔もどうやらほんのりと色づいて居た。今度こそは乗遅れぬやうにと再び停車場に駆け付ける。手にした切符は、 「ちうおうおたるよりくしろまで」 客が少くて、殊に二等室は緩りとしたもの。汽笛の鳴る迄を先生は汽車衝突の話をされる。それは戦役当時の事であつたとか。先生自身と外に一人を除いては皆軍人許り、ヒヨウと気たたましい非常汽笛が鳴ると、指揮官の少尉殿は忽ち「伏せツ」と号令を下した、軍人は皆バタ〳〵と床に伏した。そのため、機関車は壊れ死傷者も数多くあつたけれど、この一室中の人許りは誰一人微傷だもしなかつたと云ふ。汽車に乗つたから汽車衝突の話をするとは誠にうまい事と自分はひそかに考へた、そして又、衝突なり雪埋なり、何かしらこんどの旅行記を賑はすべき事件が、釧路まで行くうちに起つて呉れゝばよいがと、人に知らされぬ危険な事を思ふ。 午前十一時四十分。車は動き出して、車窓の外に立つて居た日報社の人々が見えなくなつた。雪が降り出して居る。風さへ吹き出したのか、それとも汽車が風を起したのか、声なき鵞毛の幾千万片、卍巴と乱れ狂つて冷たい窓硝子を打つ。――其硝子一重の外を知らぬ気に、車内は暖炉勢ひよく燃えて、冬の旅とは思へぬ暖かさ。東泉先生は其肥大の躯を白毛布の上にドシリと下して、心安げに本を見始める。先生に侍して、雪に埋れた北海道を横断する自分は宛然腰巾着の如く、痩せて小さい躯を其横に据ゑて、衣嚢から新聞を取出した。サテ太平無事な天下ではある。蔵逓両相が挂冠したといふ外に、広い世の中何一つ面白い事がない。 窓越しに見る雪の海、深碧の面が際限もなく皺立つて、車輛を洗ふかと許り岸辺の岩に砕くる波の徂徠、碧い海の声の白さは降る雪よりも美しい。朝里張碓は斯くて後になつて、銭函を過ぐれば石狩の平野である。 午後一時二十分札幌に着いて、東泉先生は一人下車せられた。明日旭川で落合ふといふ約束なのである。降りしきる雪を透して、思出多き木立の都を眺めた。外国振のアカシヤ街も見えぬ。菩提樹の下に牛遊ぶ「大いなる田舎町」の趣きも見えぬ。降りに降る白昼の雪の中に、我が愛する「詩人の市」は眠つて居る、※(「闃」の「目」に代えて「自」)として声なく眠つて居る。不図気がつけば、車中の人は一層少くなつて居た。自分は此時初めて、何とはなく己が身の旅にある事を感じた。 汽笛が鳴つて汽車はまた動き出した。札幌より彼方は自分の未だ嘗て足を入れた事のない所である。白石厚別を過ぎて次は野幌。睡眠不足で何かしら疲労を覚えて居る身は、名物の煉瓦餅を買ふ気にもなれぬ。江別も過ぎた。幌向も過ぎた。上幌向の停車場の大時計は、午後の三時十六分を示して居た。 雪は何時しか晴れて居る。空一面に渋い顔を披いた灰色の雪が大地を圧して、右も左も、見ゆる限りは雪又雪。所々に枯木や茅舎を点綴した冬の大原野は、漫ろにまだ見ぬ露西亜の曠野を偲ばしめる。鉄の如き人生の苦痛と、熱火の如き革命の思想とを育て上げた、荒涼とも壮大とも云ひ様なき北欧の大自然は、幻の如く自分の目に浮んだ。不図したら、猟銃を肩にしたツルゲネーフが、人の好ささうな、髯の長い、巨人の如く背の高い露西亜の百姓と共に、此処いらを彷徨いて居はせぬかといふ様な心地がする。気がつくと、自分と向合つて腰かけて居る商人体の男が、金釦の外套を着た十二三の少年を二人伴れて居る。そして二人共悧巧さうな顔をして居る。自分は思はずチヨツと舌打をした。日本人はどうして恁うせせこましい、万事に抜目のない様な、悧巧さうな、小国民らしい顔をしてるだらうと、トンダ不平を起して再び目を窓外に転じた。積雪の中に所々、恰も錆びた剣の如く、枯れた蘆の葉が頭を出して居る。 程なく岩見沢に下車して、車夫を呼ぶと橇牽が来た。今朝家を出た時の如く、不景気な橇に賃して四時頃此姉が家に着いた。途中目についたのは、雪の深いことと地に達する氷柱のあつた事、凍れるビールを暖炉に解かし、鶏を割いての楽しき晩餐は、全く自分の心を温かにした。剰さへ湯加減程よき一風呂に我が身体も亦車上の労れを忘れた。自分は今、眠りたいと云ふ外に何の希望も持つて居ない。眠りたい、眠りたい……実際モウ眠くなつたから、此第一信の筆を擱く事にする。(午後九時半) (第二信) 旭川にて 一月二十日。曇。 午前十時半岩見沢発二番の旭川行に乗つた。同室の人唯四人、頬髯逞しい軍人が三十二三の黒いコートを着た細君を伴れて乗つて居る。新聞を買つて読む、札幌小樽の新聞は皆新夕張炭鉱の椿事を伝へるに急がしい。タイムスの如きは、死骸の並んでる所へ女共の来て泣いてる様を書いた惨澹たる揷絵まで載せて居る。此揷絵を見て、軍人の細君は「マア」と云つた。軍人は唸る様に「ウウ」と答へた。 砂川駅で昼食。 ト見ると、右も左も一望の雪の中に姿淋しき雑木の林、其間々に雪を冠つた屋根の規則正しく幾列も、並んで居るのは、名にし聞ゆる空知の屯田兵村であらう。江部乙駅を過ぎて間もなく、汽車は鉄橋にかゝつた。川もないのに鉄橋とは可笑いと思つて、窓をあけると、傍人は「石狩川です」と教へて呉れた。如何様川には相違ないが、岸から岸まで氷が張詰めて居て、其上に何尺といふ雪が積つてあるのだから、一寸見ては川とも何とも見えぬ。小学校に居る頃から石狩川は日本一の大河であると思つて居た。日本一の大河が雪に埋れて見えぬと聞いたなら、東京辺の人などは何といふであらう。 此辺は、北海道第一の豊産地たる石狩平野の中でも、一番地味の饒かな所だと、傍人はまた教へて呉れた。 雑誌など読み耽つてゐるうちに汽車は何時しか山路にかゝつた。雪より雪に続いて、際限がないと思つて居た石狩の大原野も、何時の間にか尽きて了つたと見える。軈て着いた停車場は神威古潭駅と云ふ、音に高き奇勝は之かと思つて窓を明けた。「温泉へ五町、砂金採取所へ八町」と札が目についた。左の方、崖下を流るゝ石狩川の上流は雪に隠れて居る。崖によつて建てられた四阿らしいのゝ、積れる雪の重みにおしつぶされたのがあつた。「夏は好いですが喃」と軍人は此時初めて自分に声を掛けた。 汽車は川に添ふて上る。川の彼岸は山、山の麓を流に臨んで、電柱が並んで居る。所々に橋も見える。人道が通つてるのだらうが、往来の旅人の笠一つ見えぬ。鳥の声もせねば、風の吹く様子もない。汽車は何処までも何処までもと川に添うて、喘ぎ〳〵無人の境を走る。 川が瀬になつて水の激して居る所は、流石に氷りかねて居て、海水よりも碧い水が所々真白の花を咲かせて居る。木といふ木は皆其幹の片端に雪を着けて居る。――死の林とは、之ではあるまいかと思つた。幾千万本と数知れぬ樹が、皆白銀の鎧を着て動きツこもなく立往生して居る。 川が右の方へ離れて行くと、眼界が少しづつ広くなつて来た。何処まで行つても、北海の冬は雪また雪、痩せた木が所々に林をなして居て、雪に埋れて壁も戸も見えぬ家が散らばつて居る。日は西の空から、雲間を赤く染めて、はかない冬の夕の光を投げかける。 旭川に下車して、停車場前の宮越屋旅店に投じた。帳場の上の時計は、午後三時十五分を示して居た。 日の暮れぬ間にと、町見物に出かける。流石は寒さに名高き旭川だけあつて、雪も深い。馬鉄の線路は、道路面から二尺も低くなつて居る。支庁前にさる家を訪ねて留守に逢ひ、北海旭新聞社に立寄つた。旭川は札幌の小さいのだと能く人は云ふ。成程街の様子が甚だよく札幌に似て居て、曲つた道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい。さる四辻で、一人の巡査が恰も立坊の如く立つて居た。其周匝を一疋の小犬がグル〳〵と廻つて頻りに巡査の顔を見て居るのを、何だか面白いと思つた。知らぬ土地へ来て道を聞くには、女、殊に年若い女に訊くに限るといふ事を感じて宿に帰る。 湯に這入つた。薄暗くて立ち罩めた湯気の濛々たる中で、「旭川は数年にして屹度札幌を凌駕する様になるよ」と気焔を吐いて居る男がある。「戸数は幾何あるですか」と訊くと、「左様六千余に上つてるでせう」と其人が答へた。甚麽人であつたかは、見る事が出来ずに了つた。 夜に入つて東泉先生も札幌から来られた。広い十畳間に黄銅の火鉢が大きい。旭川はアイヌ語でチウベツ(忠別)と云ふさうな、チウは日の出、ベツは川、日の出る方から来る川と云ふ意味なさうで、旭川はその意訳だと先生が話された。 |
一 近年にない暑さである。どこを見ても、泥で固めた家々の屋根瓦が、鉛のやうに鈍く日の光を反射して、その下に懸けてある燕の巣さへ、この塩梅では中にゐる雛や卵を、そのまゝ蒸殺してしまふかと思はれる。まして、畑と云ふ畑は、麻でも黍でも、皆、土いきれにぐつたりと頭をさげて、何一つ、青いなりに、萎れてゐないものはない。その畑の上に見える空も、この頃の温気に中てられたせいか、地上に近い大気は、晴れながら、どんよりと濁つて、その所々に、霰を炮烙で煎つたやうな、形ばかりの雲の峰が、つぶつぶと浮かんでゐる。――「酒虫」の話は、この陽気に、わざ〳〵炎天の打麦場へ出てゐる、三人の男で始まるのである。 不思議な事に、その中の一人は、素裸で、仰向けに地面へ寝ころんでゐる。おまけに、どう云ふ訳だか、細引で、手も足もぐる〳〵巻にされてゐる。が格別当人は、それを苦に病んでゐる容子もない。背の低い、血色の好い、どことなく鈍重と云ふ感じを起させる、豚のやうに肥つた男である。それから手ごろな素焼の瓶が一つ、この男の枕もとに置いてあるが、これも中に何がはいつてゐるのだか、わからない。 もう一人は、黄色い法衣を着て、耳に小さな青銅の環をさげた、一見、象貌の奇古な沙門である。皮膚の色が並はづれて黒い上に、髪や鬚の縮れてゐる所を見ると、どうも葱嶺の西からでも来た人間らしい。これはさつきから根気よく、朱柄の麈尾をふりふり、裸の男にたからうとする虻や蠅を追つてゐたが、流石に少しくたびれたと見えて、今では、例の素焼の瓶の側へ来て、七面鳥のやうな恰好をしながら、勿体らしくしやがんでゐる。 あとの一人は、この二人からずつと離れて、打麦場の隅にある草房の軒下に立つてゐる。この男は、頤の先に、鼠の尻尾のやうな髯を、申訳だけに生やして、踵が隠れる程長い皁布衫に、結目をだらしなく垂らした茶褐帯と云ふ拵へである。白い鳥の羽で製つた団扇を、時々大事さうに使つてゐる容子では、多分、儒者か何かにちがひない。 この三人が三人とも、云ひ合せたやうに、口を噤んでゐる。その上、碌に身動きさへもしない、何か、これから起らうとする事に、非常な興味でも持つてゐて、その為に、皆、息をひそめてゐるのではないかと思はれる。 日は正に、亭午であらう。犬も午睡をしてゐるせいか、吠える声一つ聞えない。打麦場を囲んでゐる麻や黍も、青い葉を日に光らせて、ひつそりかんと静まつてゐる。それから、その末に見える空も、一面に、熱くるしく、炎靄をたゞよはせて、雲の峰さへもこの旱に、肩息をついてゐるのかと、疑はれる。見渡した所、息が通つてゐるらしいのは、この三人の男の外にない。さうして、その三人が又、関帝廟に安置してある、泥塑の像のやうに沈黙を守つてゐる。…… 勿論、日本の話ではない。――支那の長山と云ふ所にある劉氏の打麦場で、或年の夏、起つた出来事である。 二 裸で、炎天に寝ころんでゐるのは、この打麦場の主人で、姓は劉、名は大成と云ふ、長山では、屈指の素封家の一人である。この男の道楽は、酒を飲む一方で、朝から、殆、盃を離したと云ふ事がない。それも、「独酌する毎に輒、一甕を尽す」と云ふのだから、人並をはづれた酒量である。尤も前にも云つたやうに、「負郭の田三百畝、半は黍を種う」と云ふので、飲の為に家産が累はされるやうな惧は、万々ない。 それが、何故、裸で、炎天に寝ころんでゐるかと云ふと、それには、かう云ふ因縁がある。――その日、劉が、同じ飲仲間の孫先生と一しよに(これが、白羽扇を持つてゐた儒者である。)風通しのいゝ室で、竹婦人に靠れながら、棋局を闘はせてゐると、召使ひの丫鬟が来て、「唯今、宝幢寺とかにゐると云ふ、坊さんが御見えになりまして、是非、御主人に御目にかゝりたいと申しますが、いかゞ致しませう。」と云ふ。 「なに、宝幢寺?」かう云つて、劉は小さな眼を、まぶしさうに、しばたたいたが、やがて、暑さうに肥つた体を起しながら、「では、こゝへ御通し申せ。」と云ひつけた。それから、孫先生の顔をちよいと見て「大方あの坊主でせう。」とつけ加へた。 宝幢寺にゐる坊主と云ふのは、西域から来た蛮僧である。これが、医療も加へれば、房術も施すと云ふので、この界隈では、評判が高い。たとへば、張三の黒内障が、忽、快方に向つたとか、李四の病閹が、即座に平癒したとか、殆、奇蹟に近い噂が盛に行はれてゐるのである。――この噂は、二人とも聞いてゐた。その蛮僧が、今、何の用で、わざわざ、劉の所へ出むいて来たのであらう。勿論、劉の方から、迎へにやつた覚えなどは、全然ない。 序に云つて置くが、劉は、一体、来客を悦ぶやうな男ではない。が、他に一人、来客がある場合に、新来の客が来たとなると、大抵ならば、快く会つてやる。客の手前、客のあるのを自慢するとでも云つたらよささうな、小供らしい虚栄心を持つてゐるからである。それに、今日の蛮僧は、この頃、どこででも評判になつてゐる。決して、会つて恥しいやうな客ではない。――劉が会はうと云ひ出した動機は、大体こんな所にあつたのである。 「何の用でせう。」 「まづ、物貰ひですな。信施でもしてくれと云ふのでせう。」 こんな事を、二人で話してゐる内に、やがて、丫鬟の案内で、はいつて来たのを見ると、背の高い、紫石稜のやうな眼をした、異形な沙門である。黄色い法衣を着て、その肩に、縮れた髪の伸びたのを、うるささうに垂らしてゐる。それが、朱柄の麈尾を持つたまゝ、のつそり室のまん中に立つた。挨拶もしなければ、口もきかない。 劉は、しばらく、ためらつてゐたが、その内に、それが何となく、不安になつて来たので「何か御用かな。」と訊いて見た。 すると、蛮僧が云つた。「あなたでせうな、酒が好きなのは。」 「さやう。」劉は、あまり問が唐突なので、曖昧な返事をしながら、救を求めるやうに、孫先生の方を見た。孫先生は、すまして、独りで、盤面に石を下してゐる。まるで、取り合ふ容子はない。 「あなたは、珍しい病に罹つて御出になる。それを御存知ですかな。」蛮僧は念を押すやうに、かう云つた。劉は、病と聞いたので、けげんな顔をして、竹婦人を撫でながら、 「病――ですかな。」 「さうです。」 「いや、幼少の時から……」劉が何か云はうとすると、蛮僧はそれを遮つて、 「酒を飲まれても、酔ひますまいな。」 「……」劉は、ぢろぢろ、相手の顔を見ながら、口を噤んでしまつた。実際この男は、いくら酒を飲んでも、酔つた事がないのである。 「それが、病の証拠ですよ。」蛮僧は、うす笑をしながら、語をついで、「腹中に酒虫がゐる。それを除かないと、この病は癒りません。貧道は、あなたの病を癒しに来たのです。」 「癒りますかな。」劉は思はず覚束なさうな声を出した。さうして、自分でそれを恥ぢた。 「癒ればこそ、来ましたが。」 すると、今まで、黙つて、問答を聞いてゐた孫先生が、急に語を挟んだ。 「何か、薬でも御用ひか。」 「いや、薬なぞは用ひるまでもありません。」蛮僧は不愛想に、かう答へた。 孫先生は、元来、道仏の二教を殆、無理由に軽蔑してゐる。だから、道士とか僧侶とかと一しよになつても、口をきいた事は滅多にない。それが、今ふと口を出す気になつたのは、全く酒虫と云ふ語の興味に動かされたからで、酒の好きな先生は、これを聞くと、自分の腹の中にも、酒虫がゐはしないかと、聊、不安になつて来たのである。所が、蛮僧の不承不承な答を聞くと、急に、自分が莫迦にされたやうな気がしたので、先生はちよいと顔をしかめながら、又元の通り、黙々として棋子を下しはじめた。さうして、それと同時に、内心、こんな横柄な坊主に会つたり何ぞする主人の劉を、莫迦げてゐると思ひ出した。 劉の方では、勿論そんな事には頓着しない。 「では、針でも使ひますかな。」 「なに、もつと造作のない事です。」 「では呪ですかな。」 「いや、呪でもありません。」 かう云ふ会話を繰返した末に、蛮僧は、簡単に、その療法を説明して聞かせた。――それによるに、唯、裸になつて、日向にぢつとしてゐさへすればよいと云ふのである。劉には、それが、甚、容易な事のやうに思はれた。その位の事で癒るなら、癒して貰ふのに越した事はない。その上、意識してはゐなかつたが、蛮僧の治療を受けると云ふ点で、好奇心も少しは動いてゐた。 そこでとうとう、劉も、こつちから頭を下げて、「では、どうか一つ、癒して頂きませう。」と云ふ事になつた。――劉が、裸で、炎天の打麦場にねころんでゐるのには、かう云ふ謂れが、あるのである。 すると蛮僧は、身動きをしてはいけないと云ふので、劉の体を細引で、ぐるぐる巻にした。それから、僮僕の一人に云ひつけて、酒を入れた素焼の瓶を一つ、劉の枕もとへ持つて来させた。当座の行きがかりで、糟邱の良友たる孫先生が、この不思議な療治に立合ふ事になつたのは云ふまでもない。 酒虫と云ふ物が、どんな物だか、それが腹の中にゐなくなると、どうなるのだか、枕もとにある酒の瓶は、何にするつもりなのだか、それを知つてゐるのは、蛮僧の外に一人もない。かう云ふと、何も知らずに、炎天へ裸で出てゐる劉は、甚、迂濶なやうに思はれるが、普通の人間が、学校の教育などをうけるのも、実は大抵、これと同じやうな事をしてゐるのである。 三 暑い。額へ汗がぢりぢりと湧いて来て、それが玉になつたかと思ふと、つうつと生暖く、眼の方へ流れて来る。生憎、細引でしばられてゐるから、手を出して拭ふ訳には、勿論行かない。そこで、首を動かして、汗の進路を変へやうとすると、その途端に、はげしく眩暈がしさうな気がしたので、残念ながら、この計画も亦、見合せる事にした。その中に、汗は遠慮なく、眶をぬらして、鼻の側から口許をまはりながら、頤の下まで流れて行く。気味が悪い事夥しい。 それまでは、眼を開いて、白く焦された空や、葉をたらした麻畑を、まじ〳〵と眺めてゐたが、汗が無暗に流れるやうになつてからは、それさへ断念しなければならなくなつた。劉は、この時、始めて、汗が眼にはいると、しみるものだと云ふ事を、知つたのである。そこで、屠所の羊の様な顔をして、神妙に眼をつぶりながら、ぢつと日に照りつけられてゐると、今度は、顔と云はず体と云はず、上になつてゐる部分の皮膚が、次第に或痛みを感じるやうになつて来た。皮膚の全面に、あらゆる方向へ動かうとする力が働いてゐるが、皮膚自身は、それに対して、毫も弾力を持つてゐない。それでどこもかしこも、ぴり〳〵する――とでも説明したら、よからうと思ふ痛みである。これは、汗所の苦しさではない。劉は、少し蛮僧の治療をうけたのが、忌々しくなつて来た。 |
保吉は三十になったばかりである。その上あらゆる売文業者のように、目まぐるしい生活を営んでいる。だから「明日」は考えても「昨日」は滅多に考えない。しかし往来を歩いていたり、原稿用紙に向っていたり、電車に乗っていたりする間にふと過去の一情景を鮮かに思い浮べることがある。それは従来の経験によると、たいてい嗅覚の刺戟から聯想を生ずる結果らしい。そのまた嗅覚の刺戟なるものも都会に住んでいる悲しさには悪臭と呼ばれる匂ばかりである。たとえば汽車の煤煙の匂は何人も嗅ぎたいと思うはずはない。けれどもあるお嬢さんの記憶、――五六年前に顔を合せたあるお嬢さんの記憶などはあの匂を嗅ぎさえすれば、煙突から迸る火花のようにたちまちよみがえって来るのである。 このお嬢さんに遇ったのはある避暑地の停車場である。あるいはもっと厳密に云えば、あの停車場のプラットフォオムである。当時その避暑地に住んでいた彼は、雨が降っても、風が吹いても、午前は八時発の下り列車に乗り、午後は四時二十分着の上り列車を降りるのを常としていた。なぜまた毎日汽車に乗ったかと云えば、――そんなことは何でも差支えない。しかし毎日汽車になど乗れば、一ダズンくらいの顔馴染みはたちまちの内に出来てしまう。お嬢さんもその中の一人である。けれども午後には七草から三月の二十何日かまで、一度も遇ったと云う記憶はない。午前もお嬢さんの乗る汽車は保吉には縁のない上り列車である。 お嬢さんは十六か十七であろう。いつも銀鼠の洋服に銀鼠の帽子をかぶっている。背はむしろ低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしている。殊に脚は、――やはり銀鼠の靴下に踵の高い靴をはいた脚は鹿の脚のようにすらりとしている。顔は美人と云うほどではない。しかし、――保吉はまだ東西を論ぜず、近代の小説の女主人公に無条件の美人を見たことはない。作者は女性の描写になると、たいてい「彼女は美人ではない。しかし……」とか何とか断っている。按ずるに無条件の美人を認めるのは近代人の面目に関るらしい。だから保吉もこのお嬢さんに「しかし」と云う条件を加えるのである。――念のためにもう一度繰り返すと、顔は美人と云うほどではない。しかしちょいと鼻の先の上った、愛敬の多い円顔である。 お嬢さんは騒がしい人ごみの中にぼんやり立っていることがある。人ごみを離れたベンチの上に雑誌などを読んでいることがある。あるいはまた長いプラットフォオムの縁をぶらぶら歩いていることもある。 保吉はお嬢さんの姿を見ても、恋愛小説に書いてあるような動悸などの高ぶった覚えはない。ただやはり顔馴染みの鎮守府司令長官や売店の猫を見た時の通り、「いるな」と考えるばかりである。しかしとにかく顔馴染みに対する親しみだけは抱いていた。だから時たまプラットフォオムにお嬢さんの姿を見ないことがあると、何か失望に似たものを感じた。何か失望に似たものを、――それさえ痛切には感じた訣ではない。保吉は現に売店の猫が二三日行くえを晦ました時にも、全然変りのない寂しさを感じた。もし鎮守府司令長官も頓死か何か遂げたとすれば、――この場合はいささか疑問かも知れない。が、まず猫ほどではないにしろ、勝手の違う気だけは起ったはずである。 ところが三月の二十何日か、生暖い曇天の午後のことである。保吉はその日も勤め先から四時二十分着の上り列車に乗った。何でもかすかな記憶によれば、調べ仕事に疲れていたせいか、汽車の中でもふだんのように本を読みなどはしなかったらしい。ただ窓べりによりかかりながら、春めいた山だの畠だのを眺めていたように覚えている。いつか読んだ横文字の小説に平地を走る汽車の音を「Tratata tratata Tratata」と写し、鉄橋を渡る汽車の音を「Trararach trararach」と写したのがある。なるほどぼんやり耳を貸していると、ああ云う風にも聞えないことはない。――そんなことを考えたのも覚えている。 保吉は物憂い三十分の後、やっとあの避暑地の停車場へ降りた。プラットフォオムには少し前に着いた下り列車も止っている。彼は人ごみに交りながら、ふとその汽車を降りる人を眺めた。すると――意外にもお嬢さんだった。保吉は前にも書いたように、午後にはまだこのお嬢さんと一度も顔を合せたことはない。それが今不意に目の前へ、日の光りを透かした雲のような、あるいは猫柳の花のような銀鼠の姿を現したのである。彼は勿論「おや」と思った。お嬢さんも確かにその瞬間、保吉の顔を見たらしかった。と同時に保吉は思わずお嬢さんへお時儀をしてしまった。 お時儀をされたお嬢さんはびっくりしたのに相違あるまい。が、どう云う顔をしたか、生憎もう今では忘れている。いや、当時もそんなことは見定める余裕を持たなかったのであろう。彼は「しまった」と思うが早いか、たちまち耳の火照り出すのを感じた。けれどもこれだけは覚えている。――お嬢さんも彼に会釈をした! やっと停車場の外へ出た彼は彼自身の愚に憤りを感じた。なぜまたお時儀などをしてしまったのであろう? あのお時儀は全然反射的である。ぴかりと稲妻の光る途端に瞬きをするのも同じことである。すると意志の自由にはならない。意思の自由にならない行為は責任を負わずとも好いはずである。けれどもお嬢さんは何と思ったであろう? なるほどお嬢さんも会釈をした。しかしあれは驚いた拍子にやはり反射的にしたのかも知れない。今ごろはずいぶん保吉を不良少年と思っていそうである。一そ「しまった」と思った時に無躾を詫びてしまえば好かった。そう云うことにも気づかなかったと云うのは……… 保吉は下宿へ帰らずに、人影の見えない砂浜へ行った。これは珍らしいことではない。彼は一月五円の貸間と一食五十銭の弁当とにしみじみ世の中が厭になると、必ずこの砂の上へグラスゴオのパイプをふかしに来る。この日も曇天の海を見ながら、まずパイプへマッチの火を移した。今日のことはもう仕方がない。けれどもまた明日になれば、必ずお嬢さんと顔を合せる。お嬢さんはその時どうするであろう? 彼を不良少年と思っていれば、一瞥を与えないのは当然である。しかし不良少年と思っていなければ、明日もまた今日のように彼のお時儀に答えるかも知れない。彼のお時儀に? 彼は――堀川保吉はもう一度あのお嬢さんに恬然とお時儀をする気であろうか? いや、お時儀をする気はない。けれども一度お時儀をした以上、何かの機会にお嬢さんも彼も会釈をし合うことはありそうである。もし会釈をし合うとすれば、……保吉はふとお嬢さんの眉の美しかったことを思い出した。 爾来七八年を経過した今日、その時の海の静かさだけは妙に鮮かに覚えている。保吉はこう云う海を前に、いつまでもただ茫然と火の消えたパイプを啣えていた。もっとも彼の考えはお嬢さんの上にばかりあった訣ではない。たとえば近々とりかかるはずの小説のことも思い浮かべた。その小説の主人公は革命的精神に燃え立った、ある英吉利語の教師である。鯁骨の名の高い彼の頸はいかなる権威にも屈することを知らない。ただし前後にたった一度、ある顔馴染みのお嬢さんへうっかりお時儀をしてしまったことがある。お嬢さんは背は低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしている。殊に銀鼠の靴下の踵の高い靴をはいた脚は――とにかく自然とお嬢さんのことを考え勝ちだったのは事実かも知れない。……… 翌朝の八時五分前である。保吉は人のこみ合ったプラットフォオムを歩いていた。彼の心はお嬢さんと出会った時の期待に張りつめている。出会わずにすましたい気もしないではない。が、出会わずにすませるのは不本意のことも確かである。云わば彼の心もちは強敵との試合を目前に控えた拳闘家の気組みと変りはない。しかしそれよりも忘れられないのはお嬢さんと顔を合せた途端に、何か常識を超越した、莫迦莫迦しいことをしはしないかと云う、妙に病的な不安である。昔、ジァン・リシュパンは通りがかりのサラア・ベルナアルへ傍若無人の接吻をした。日本人に生れた保吉はまさか接吻はしないかも知れないけれどもいきなり舌を出すとか、あかんべいをするとかはしそうである。彼は内心冷ひやしながら、捜すように捜さないようにあたりの人々を見まわしていた。 するとたちまち彼の目は、悠々とこちらへ歩いて来るお嬢さんの姿を発見した。彼は宿命を迎えるように、まっ直に歩みをつづけて行った。二人は見る見る接近した。十歩、五歩、三歩、――お嬢さんは今目の前に立った。保吉は頭を擡げたまま、まともにお嬢さんの顔を眺めた。お嬢さんもじっと彼の顔へ落着いた目を注いでいる。二人は顔を見合せたなり、何ごともなしに行き違おうとした。 ちょうどその刹那だった。彼は突然お嬢さんの目に何か動揺に似たものを感じた。同時にまたほとんど体中にお時儀をしたい衝動を感じた。けれどもそれは懸け値なしに、一瞬の間の出来事だった。お嬢さんははっとした彼を後ろにしずしずともう通り過ぎた。日の光りを透かした雲のように、あるいは花をつけた猫柳のように。……… 二十分ばかりたった後、保吉は汽車に揺られながら、グラスゴオのパイプを啣えていた。お嬢さんは何も眉毛ばかり美しかった訣ではない。目もまた涼しい黒瞳勝ちだった。心もち上を向いた鼻も、……しかしこんなことを考えるのはやはり恋愛と云うのであろうか?――彼はその問にどう答えたか、これもまた記憶には残っていない。ただ保吉の覚えているのは、いつか彼を襲い出した、薄明るい憂鬱ばかりである。彼はパイプから立ち昇る一すじの煙を見守ったまま、しばらくはこの憂鬱の中にお嬢さんのことばかり考えつづけた。汽車は勿論そう云う間も半面に朝日の光りを浴びた山々の峡を走っている。「Tratata tratata tratata trararach」 |
一 お話のはじまり コペンハーゲンで、そこの東通の、王立新市場からとおくない一軒の家は、たいそうおおぜいのお客でにぎわっていました。人と人とのおつきあいでは、ときおりこちらからお客をしておけば、そのうち、こちらもお客によばれるといったものでしてね。お客の半分はとうにカルタ卓にむかっていました。あとの半分は、主人役の奥さんから、今しがた出た、 「さあ、こんどはなにがはじまりしましょうね。」というごあいさつが、どんな結果になってあらわれるかと、手ぐすねひいて、待っているのです。もうずいぶんお客さま同士の話がはずむだけはずんでいました。そういう話のなかには、中世紀時代の話もでました。あるひとりは、あの時代は今の時代にくらべては、くらべものにならないほどよかったと主張しました。じっさい司法参事官のクナップ氏などは、この主張にとても熱心で、さっそく主人役の奥さんを身方につけてしまったほどでした。そうしてこのふたりは*エールステッドが年報誌上にかいた古近代論の、現代びいきな説にたいして、やかましい攻撃をはじめかけたくらいです。司法参事官の説にしたがえば、デンマルクの**ハンス王時代といえば、人間はじまって以来、いちばんりっぱな、幸福な時代であったというのでした。 *デンマルクの名高い物理学者(一七七七―一八五一)。 **ヨハン二世(一四八一―一五一三)。選挙侯エルンスト・フォン・ザクセンのむすめクリスティーネと婚。ノルウェイ・スエーデン王を兼ねた。 さて会話は、こんなことで、賛否こもごも花が咲いて、あいだに配達の夕刊がとどいたので、ちょっと話がとぎれたぐらいのことでした。でも、新聞にはべつだんおもしろいこともありませんでしたから、話はそれなりまたつづきました。で、わたしたちはちょっと表の控間へはいってみましょう。そこにはがいとうと、つえと、かさと、くつの上にはうわおいぐつが一足置いてありました。みるとふたりの婦人が卓のまえにすわっていました。ひとりはまだ若い婦人ですが、ひとりは年をとっていました。ちょっとみると、お客のなかのお年よりのお嬢さん、または未亡人の奥さんのお迎えに来て、待っている女中かとおもうでしょう。でもよくみると、ふたりとも、ただの女中などでないということはわかりました。それにはふたりともきゃしゃすぎる手をしていましたし、ようすでも、ものごしでも、りっぱすぎていましたが、着物のしたて方にしても、ずいぶんかわっていました。ほんとうは、このふたりは妖女だったのです。若いほうは幸福の女神でこそありませんが、そのおそばづかえのそのまた召使のひとりで、ちょいとしたちいさな幸福のおくりものをはこぶ役をつとめているのです。年をとったほうは、だいぶむずかしい顔をしていました。これは心配の妖女でした。このほうはいつもごじしん堂堂と、どこへでも乗り込んでいってしごとをします。すると、やはりそれがいちばんうまくいくことを知ってました。 ふたりはおたがいに、きょうどこでなにをして来たか話し合っていました。幸福の女神のおそばづかえのそのまた召使は、ほんのふたつ三つごくつまらないことをして来ました。たとえば買い立ての帽子が夕立にあうところを助けてやったり、ある正直な男に無名の篤志家からほどこし物をもらってやったり、まあそんなことでした。しかし、そのあとで、もうひとつ、話しのこしていたことは、いくらかかわったことであったのです。 「まあついでだからいいますがね。」と、幸福のおそばづかえのそのまた召使は話しました。「きょうはわたしの誕生日なのですよ。それでそのお祝いに、ご主人からうわおいぐつを一足あずけられました。そしてそれを人間のなかまにやってくれというのです。そのうわおいぐつにはひとつの徳があって、それをはいたものはたちまち、だれでもじぶんがいちばん住んでみたいとおもう時代なり場所なりへ、はこんで行ってもらえて、その時代なり場所なりについて、のぞんでいたことがさっそくにかなうのです。そういうわけで、人間もどうやら、この世の中ながら幸福になれるのでしょう。」 こういうと心配の妖女が、 「いや、お待ちなさいよ。そのうわおいぐつをはいた人は、きっとずいぶんふしあわせになるでしょうよ。そしてまた、はやくそれをぬぎたいとあせるようになるでしょうよ。」といいました。 「まあそこまではおもわなくても。」と、もうひとりがふふくらしくいいました。「さあ、それでは幸福のうわおいぐつを、ここの戸口におきますよ。だれかがまちがってひっかけていって、いやでも、すぐと幸福な人間になるでしょう。」 どうです。これがふたりの女の話でした。 二 参事官はどうしたか もうだいぶ夜がふけていました。司法参事官クナップ氏は、ハンス王時代のことに心をとられながら、うちへかえろうとしました。ところで運命の神さまは、この人がじぶんのとまちがえて、幸福のうわおいぐつをはくように取りはからってしまいました。そこで参事官がなんの気なしにそれをはいたまま東通へ出ますと、もうすぐと、うわおいぐつの効能があらわれて、クナップ氏はたちまち三百五十年前のハンス王時代にまでひきもどされてしまいました。さっそくに参事官は往来のぬかるみのなかへ、両足つっこんでしまいました。なぜならその時代はもちろん昔のことで、石をしいた歩道なんて、ひとつだってあるはずがないのです。 「やれやれ、これはえらいぞ、いやはや、なんというきたない町だ。」と参事官がいいました。「どうして歩道をみんな、なくしてしまったのだろう。街灯をみんな消してしまったのだろう。」 月はまだそう高くはのぼっていませんでしたし、おまけに空気はかなり重たくて、なんということなしに、そこらの物がくらやみのなかへとろけ出しているようにおもわれました。次の横町の角には、うすぐらい灯明がひとつ、聖母のお像のまえにさがっていましたが、そのあかりはまるでないのも同様でした。すぐその下にたって、仰いでみてやっと、聖母と神子の彩色した像が分かるくらいでした。 「これはきっと美術品を売る家なのだな。日がくれたのに看板をひっこめるを忘れているのだ。」と、参事官はおもいました。 むかしの服装をした人がふたり、すぐそばを通っていきました。 「おや、なんというふうをしているのだ。仮装舞踏会からかえって来た人たちかな。」と、参事官は、ひとりごとをいいました。 ふとだしぬけに、太皷と笛の音がきこえて、たいまつがあかあかかがやき出しました。参事官はびっくりしてたちどまりますと、そのとき奇妙な行列が鼻のさきを通っていきました。まっさきには皷手の一隊が、いかにもおもしろそうに太皷を打ちながら進んで来ました。そのあとには、長い弓と石弓をかついだ随兵がつづきました。この行列のなかでいちばんえらそうな人は坊さんの殿様でした。びっくりした参事官は、いったいこれはいつごろの風をしているので、このすいきょうらしい仮装行列をやってあるく人はたれなのだろう、といって、行列のなかの人にたずねました。 「シェランの大僧正さまです。」と、たれかがこたえました。 「大僧正のおもいつきだと、とんでもないことだ。」と、参事官はため息をついてあたまを振りました。そんな大僧正なんてあるものか。ひとりで不服をとなえながら、右も左もみかえらずに、参事官はずんずん東通をとおりぬけて、高橋広場にでました。ところが宮城広場へ出る大きな橋がみつかりません。やっとあさい小川をみつけてその岸に出ました。そのうち小舟にのってやって来るふたりの船頭らしい若者にであいました。 「島へ渡りなさるのかな。」と、船頭はいいました。 「島へ渡るかって。」と、参事官はおうむ返しにこたえました。なにしろ、この人はまた、じぶんが今、いつの時代に居るのか、はっきり知らなかったのです。 「わたしは、クリスティアンス ハウンから小市場通へいくのだよ。」 こういうと、こんどはむこうがおどろいて顔をみました。 「ぜんたい橋はどこになっているのだ。」と参事官はいいました。「第一ここにあかりをつけておかないなんてけしからんじゃないか。それにこのへんはまるで沼の中をあるくようなひどいぬかるみだな。」 こんなふうに話しても、話せば話すほど船頭にはよけいわからなくなりました。 「どうもおまえたちの*ボルンホルムことばは、さっぱりわからんぞ。」と、参事官はかんしゃくをおこしてどなりつけました。そして背中をむけてどんどんあるきだしました。 *バルティック海上の島。島の方言がかわっていた。 しかしいくらあるいても、参事は橋をみつけることはできませんでした。らんかんらしいものはまるでありませんでした。 「どうもこのへんは実にひどい所だ。」と、参事官はいいました。じぶんのいる時代を、この晩ほどなさけなくおもったことはありませんでした。「まあこのぶんでは、辻馬車をやとうのがいちばんよさそうだ。」と、参事官はおもいました。そういったところで、さて、どこにその辻馬車があるでしょうか。それは一台だってみあたりそうにはありませんでした。 「これではやはり、王立新市場までもどるほうがいいだろう。あそこならたくさん馬車も来ているだろう。そうでもしないと、とてもクリスティアンス ハウンまでかえることなどできそうもない。」 そこで、またもどって、東通のほうへあるきだしました。そしてほとんどそこを通りぬけようとしたときに、たかだかと月がのぼりました。 「おや、なんとおもって足場みたいなものをここに建てたのだ。」 東門をみつけて、参事官はこうさけびました。そのころ東通のはずれに、門があったのです。 とにかく、出口をさがして、そこをとおりぬけると、今の王立新市場のある通へでました。けれどそれはただのだだっ広い草原でした。二三軒みすぼらしいオランダ船の船員のとまる下宿の木小屋が、そのむこう岸に建っていて、オランダッ原ともよばれていた所です。 「おれはしんきろうをみているのか知らん。それとも酔っぱらっているのじゃないか知ら。」と、参事は泣き声をだしました。「とにかくありゃあなんだ。」 もうどうしても、病気にかかっているにちがいない、そうおもい込んで、また引っかえしました。往来をとぼとぼあるきあるき、なおよくそこらの家のようすをみると、たいていの家は木組の小屋で、なかにはわら屋根の家もありました。 「いや、どうもへんな気分でしょうがない。」と、参事官はため息をつきました。「しかしおれは、ほんの一杯ポンスを飲んだだけだが、それがうまくおさまらないとみえる。それに、時候はずれのむしざけをだしたりなんかして、まったくくいあわせがわるかった。もういちどもどっていって、主人の代理公使夫人に小言をいって来ようかしらん。いや、それもばからしいようだ。それにまだ起きているかどうかわからない。」 |
一 表二階の次の六畳、階子段の上り口、余り高くない天井で、電燈を捻ってフッと消すと……居合わす十二三人が、皆影法師。 仲の町も水道尻に近い、蔦屋という引手茶屋で。間も無く大引けの鉄棒が廻ろうという時分であった。 閏のあった年で、旧暦の月が後れたせいか、陽気が不順か、梅雨の上りが長引いて、七月の末だというのに、畳も壁もじめじめする。 もっともこの日、雲は拭って、むらむらと切れたが、しかしほんとうに霽ったのでは無いらしい。どうやら底にまだ雨気がありそうで、悪く蒸す……生干の足袋に火熨斗を当てて穿くようで、不気味に暑い中に冷りとする。 気候はとにかく、八畳の表座敷へ、人数が十人の上であるから、縁の障子は通し四枚とも宵の内から明放したが、夜桜、仁和加の時とは違う、分けて近頃のさびれ方。仲の町でもこの大一座は目に立つ処へ、浅間、端近、戸外へ人立ちは、嬉しがらないのを知って、家の姉御が気を着けて、簾という処を、幕にした。 廂へ張って、浅葱に紺の熨斗進上、朱鷺色鹿の子のふくろ字で、うめという名が一絞。紅の括紐、襷か何ぞ、間に合わせに、ト風入れに掲げたのが、横に流れて、地が縮緬の媚かしく、朧に颯と紅梅の友染を捌いたような。 この名は数年前、まだ少くって見番の札を引いたが、家の抱妓で人に知られた、梅次というのに、何か催のあった節、贔屓の贈った後幕が、染返しの掻巻にもならないで、長持の底に残ったのを、間に合わせに用いたのである。 端唄の題に出されたのも、十年近く以前であるから。見たばかりで、野路の樹とも垣根の枝とも、誰も気の着いたものはなかったが、初め座の定まった処へ、お才という内の姉御が、お茶聞しめせ、と持って出て、梅干も候ぞ。 「いかがですか、甘露梅。」 と、今めかしく註を入れたは、年紀の少い、学生も交ったためで。 「お珍らしくもありませんが、もう古いんですよ、私のように。」 と笑いながら、 「民さん、」 と、当夜の幹事の附添いで居た、佐川民弥という、ある雑誌の記者を、ちょいと見て、 「あの妓なんか、手伝ったのがまだそのままなんです。召あがれ。」と済まして言う。 様子を知った二三人が、ふとこれで気が着いた。そして、言合わせたように民弥を見た。 もっとも、そうした年紀ではなし、今頃はもう左衛門で、女房の実の名も忘れているほどであるから、民弥は何の気も無さそうに、 「いや、御馳走。」 時に敷居の外の、その長六畳の、成りたけ暗そうな壁の処へ、紅入友染の薄いお太鼓を押着けて、小さくなったが、顔の明い、眉の判然した、ふっくり結綿に緋の角絞りで、柄も中形も大きいが、お三輪といって今年が七、年よりはまだ仇気ない、このお才の娘分。吉野町辺の裁縫の師匠へ行くのが、今日は特別、平時と違って、途中の金貸の軒に居る、馴染の鸚鵡の前へも立たず……黙って奥山の活動写真へも外れないで、早めに帰って来て、紫の包も解かずに、…… 「道理で雨が霽ったよ。」 嬉々客設けの手伝いした、その―― 二 お三輪がちょうど、そうやって晴がましそうに茶を注いでいた処。――甘露梅の今のを聞くと、はッとしたらしく、顔を据えたが、拗ねたという身で土瓶をトン。 「才ちゃん。」 と背後からお才を呼んで、前垂の端はきりりとしながら、褄の媚めく白い素足で、畳触りを、ちと荒く、ふいと座を起ったものである。 待遇に二つ三つ、続けて話掛けていたお才が、唐突に腰を折られて、 「あいよ。」 で、軽く衣紋を圧え、痩せた膝で振り返ると、娘はもう、肩のあたりまで、階子段に白地の中形を沈めていた。 「ちょっと、」……と手繰って言ったと思うと、結綿がもう階下へ。 「何だい。」とお才は、いけぞんざい。階子段の欄干から俯向けに覗いたが、そこから目薬は注せなそうで、急いで降りた。 「何だねえ。」 「才ちゃんや。」 と段の下の六畳の、長火鉢の前に立ったまま、ぱっちりとした目許と、可愛らしい口許で、引着けるようにして、 「何だじゃないわ。お気を着けなさいよ。梅次姉さんの事なんか言って、兄さんが他の方に極が悪いわ。」 「ううん。」と色気の無い頷き方。 「そうだっけ。まあ、可いやね。」 「可かない事よ……私は困っちまう。」 「何だねえ、高慢な。」 「高慢じゃないわ。そして、先生と云うものよ。」 「誰をさ。」 「皆さんをさ、先生とか、あの、貴方とか、そうじゃなくって。誰方も身分のある方なのよ。」 「そうかねえ。」 「そうかじゃありませんよ。才ちゃんてば。……それをさ、民さんだの、お前はんだのって……私は聞いていてはらはらするわ、お気を注けなさいなね。」 「ああ、そうだね、」 と納得はしたものの、まだ何だか、不心服らしい顔色で、 「だって可いやね、皆さんが、お化の御連中なんだから。」 |
一八八七年の春英国で科学の学会があった。此時ワイスマン先生も夫れへ出席せられ、学会から帰られた時私に「モースからお前に宜しく云うて呉れとの伝言を頼まれたが彼れは実に面白い人で、宴会のテーブルスピーチでは満場の者を笑わせた。」夫れから後其年の十一月だと思ったが、先生がフライブルグに来られた事がある。其時折悪くワイスマン先生と私とはボーデンセイへ研究旅行へ行って留守であった。であったのでウィダーシャイム先生が先生を馬車に載せて市の内外をドライブした処カイザー・ストラーセに来ると、モース先生が、「アノ家の屋根瓦は千年以上前のローマ時代のものだ。ヤレ彼処にも、此処にも」と指されたので、ウィダーシャイム先生も始めて夫れに気付き、後考古学者に話して調べた処、夫れが全て事実であったと、ウィダーシャイム先生もモース先生の眼の鋭い事には驚いて居られた。先生の観察力の強い事では此外幾等も知れて居るが、先生はローウェルの天文台で火星を望遠鏡で覘いて其地図を画かれたが、夫れをローウェルが前に研究して画いたものと比べて見た処先生の方が余程委しい処迄出来て居たので、ローウェルも驚いたとの事を聴いて居た。夫れで先生は火星の本を書かれた。処が此本が評判になって、先生はイタリア其他二、三の天文学会の会員に選ばれたのである。私が一九〇九年にセーラムで先生の御宅へ伺った時先生は私に Mars and its Mystery を一部下さって云われるのに、お前が此本を持って帰ってモースがマースの本を書いたと云うたらば、日本の私の友達はモースは気が狂ったと云うだろうが、自分は気が狂って居ない証拠をお前に見せて置こうと、私に今云うた諸方の天文学会から送って来た会員証を示された。此時又先生が私に見せられたのは、ベルリンの人類学会から先生を名誉会員に推薦した証書で、夫れに付き次ぎの様な面白い事を話された。自分がベルリンへ行った時フィルショオが会頭で人類学会が開かれて居た。或る人に案内されて夫れへ行って見た処南洋の或る島から持って来た弓と矢とを前に置いて、其使用方を盛んに議論して居た。すると誰かがアノ隅に居るヤンキーに質して見ないかと云うので、フィルショオから何にか良い考えがあるならば話せと云う。処が自分が見ると其弓と矢とは日本のものと殆んど同じで、自分は日本に居た時弓を習ったから、容易にそれを説明した処が大喝采を博した。で帰って見たら斯んな物が来て居たと。先生は夫れ計りでなく、実に多才多能で何れの事にでも興味を有たないものはなく、各種の学者から軍人、商売人、政治家、婦人、農民、子供に至る迄先生が話相手にせないものはない。殊に幼い子供を先生は大層可愛がられ、私がグロースターのロブスター養殖所へと行くと云うたら、先生が私に自分の友達の婦人を紹介してやると云われたので、先生に教わった家へ行って見ると、老年の婦人が居て、先生の友達は今直きに学校から帰って来るから少し待って下さいと云われるので、紹介して下さった婦人は或いは学校の先生ででもあるのかと思い、待って居ると、十四、五位の可愛い娘さんが二人帰って来て、一人の娘さんが、此方は自分のお友達よと云うて私に紹介され、サー之れからハッチェリーへ案内を致しましょうと云われて、行ったが、此可憐の娘さんが、先生の仲好しの御友達であったのだ。先生は日本に居られた頃にも土曜の午後や日曜抔には方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将になって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだが、又或る時神田の小学校で講演を頼まれた時、私が通訳を勤めた。先生の講演が済んだ後、校長さんが、先生に何にか御礼の品物でも上げ度いがと云われるので、先生に御話した処自分は何にも礼を貰わないでも宜しい。今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼であると申された。 今云うた戦争ごっこで思い出したが、先生の此の擬戦は子供の遊戯であった計りではなく、夫れが真に迫ったものであったとの事である。夫れは当時或る日九段の偕行社の一室で軍人を沢山集めて、此擬戦を行って見せた事があったが、其時専門の軍人連が、之れは本物だと云うて大いに賞讃された事を覚えて居る。 斯様に先生は各方面に知人があって、又誰れでも先生に親んで居たし、又直ぐに先生の友人となったのである。コンクリン博士が先生の事に就き私に送られた文章に「彼れは生れながら小さい子供達の友人であった計りでなく又学者や政治家の友人でもあった」と書いて居られるが実に其通りである。 先生が本邦に来られたのは西暦一八七七年だと思って居るが、夫れは先生が米国で研究して居られた腕足類を日本で又調べ度いと思ったからである。で其時先生には江の島の今日水族館のある辺の漁夫の家の一室を借りて暫くの間研究されたが、当時我東京大学で先生を招聘したいと云うたので、先生には直ぐに夫れを承諾せられ一度米国へ帰り家族を連れて直ぐに又来られたのである。此再来が翌年の一八七八年の四月だとの事であるが、夫れから二年間先生には東京大学で動物学の教鞭を執って居られたのである。 其頃の東京大学は名は大学であったが、まだ色々の学科が欠けて居た。生物学も其一つで此時先生に依って初めて設置されたのである。で動物学科を先生が持たれ植物学科は矢田部良吉先生が担任されたのであった。先生の最初の弟子は今の佐々木忠次郎博士と松浦佐与彦君とであったが、惜しい事には松浦君は其当時直きに死なれた。此松浦君の墓は谷中天王寺にあって先生の英語の墓碑銘がある。 先生は此両君に一般動物学を教えられた計りでなく、又採集の方法、標本の陳列、レーベルの書き方等をも教えられた。之れ等は先生が大学内で教えられた事だが、先生には大学では無論又東京市内の各処で進化論の通俗講演を致されたものである。ダーウィンの進化論は、今では誰れも知る様、此時より遙か前の一八五九年に有名な種原論が出てから欧米では盛んに論ぜられて居たが、本邦では当時誰独りそれを知らなかったのである。処が茲に面白い事には先生が来朝せられて進化論を我々に教えられた直ぐ前にマカーテーと云う教師が私共に人身生理学の講義をして居られたが、其講義の終りに我々に向い、此頃英国にダーウィンと云う人があって、人間はサルから来たものだと云う様な説を唱えて居るが、実に馬鹿気た説だから、今後お前達はそんな本を見ても読むな又そんな説を聴いても信ずるなと云われた。処がそう云う事をマカーテー先生が云われた直ぐ後にモース先生が盛んにダーウィン論の講義をされたのである。 先生は弁舌が大層達者であられた計りではなく、又黒板に絵を書くのが非常に御上手であったので、先生の講義を聴くものは夫れは本統に酔わされて仕舞ったのである。多分其時迄日本に来た外国人で、先生位弁舌の巧みな人はなかったろう。夫れも其筈、先生の講演は米国でも実に有名なもので、先生が青年の時分通俗講演で金を得て動物学研究の費用にされたと聴いて居た。 処が当時本邦の学校に傭われて居た教師連には宣教師が多かったので、先生の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来たしたものである。であるから、彼れ等は躍起となって先生を攻撃したものである。併し弁舌に於ても学問に於ても無論先生に適う事の出来ないのは明かであるので、彼れ等は色々の手段を取って先生を攻撃した。例えば先生が大森の貝塚から掘り出された人骨の調査に依り其頃此島に住んで居た人間は骨髄を食ったものであると書かれたのを幸いに、モースはお前達の先祖は食人種であったと云う抔云い触し、本邦人の感情に訴え先生は斯様な悪い人であると云う様な事を云い触した事もある。併し先生だからとて、無論之れ等食人種が我々の先祖であるとは云われなかったのである。 此大森の貝塚に関して一寸云うて置く事は先生が夫れを見付けられたのは先生が初めて来朝せられた時、横浜から新橋迄の汽車中で、夫れを発見せられたのであるが、其頃には欧米でもまだ貝塚の研究は幼稚であったのだ。此時先生が汽車の窓から夫れを発見されたのは前にも云う様に先生の視察力の強い事を語るものである。 斯様にして先生は本邦生物学の祖先である計りでなく又人類学の祖先でもある。又此大森貝塚の研究は其後大学にメモアーとして出版されたが、此メモアーが又我大学で学術的の研究を出版した初めでもある。夫れに又先生には学会の必要を説かれて、東京生物学会なるものを起されたが、此生物学会が又本邦の学会の嚆矢でもある。東京生物学会は其後動植の二学会に分れたが、其最初の会長には先生は矢田部良吉先生を推されたと私は覚えて居る。 (先生が発見された大森の貝塚は先生の此書にもある通り鉄道線路に沿うた処にあったので、其後其処に記念の棒杭が建って居たが、今は夫れも無くなった。大毎社長本山君が夫れを遺憾に思われ大山公爵と相談して、今度立派な記念碑が建つ事になった。何んと悦ばしい事であるまいか。) 之れ等の事の外先生には、当時盛んに採集旅行を致され、北は北海道から南は九州迄行かれたが其際観察せられた事をスケッチとノートとに収められ、夫れ等が集まって、此ジャッパン・デー・バイ・デーとなったのである。何んにせよ此本は半世紀前の日本を先生の炯眼で観察せられたものであるから、誰れが読んでも誠に面白いものであるし、又歴史的にも非常に貴重なものである。夫れから此本を読んでも直ぐに判るが先生は非常な日本贔屓であって、何れのものも先生の眼には本邦と本邦人の良い点のみ見え、悪い処は殆んど見えなかったのである。例えば料理屋抔の庭にある便所で袖垣根や植木で旨く隠くしてある様なものを見られ、日本人は美術観念が発達して居ると云われて居るが、まあ先生の見ようは斯う云うたものであった。 又先生は今も云う様にスケッチが上手であられたが、其為め失敗された噺も時々聞いた。其一は先生が函館へ行かれた時、或る朝連れの人達は早く出掛け、先生独り残ったが、先生には昼飯の時半熟の鶏卵を二つ造って置いて貰いたかった。先生は宿屋の主婦を呼び、紙に雌鶏を一羽画かれ、其尻から卵子を二つと少し離れた処に火鉢の上に鍋を画き、今画いた卵子を夫れに入れる様線で示して、五分間煮て呉れと云う積りで、時計の針が丁度九時五分前であったので、指の先きで知らせ何にもかも解ったと思って、外出の仕度をして居らるる処へ、主婦は遽しく鍋と火鉢と牝鶏と卵子二つを持って来た。無論先生は驚かれたが、何にかの誤りであろうと思い、其儘外出され、昼時他の者達が帰って来られたので、聞いて見ると宿屋の御神さんは、九時迄五分の間に夫れ丈けのものを持って来いと云われたと思い、又卵子も夫れを生んだ雌鶏でなくてはと考えたから大騒をしたとの事であった。 之れは先生の失策噺の一つであるが、久しい間に又は無論斯様な事も沢山あったろう。併し先生は今も云うた様にただ日本人が好きであられた計りでなく、又先生御自身も全く日本人の様な考えを持って居られた。其証拠の一つは先生が日本の帝室から戴かれた勲章に対する事で、先生が東京大学の御傭で居られたのは二年であったので、日本の勲章は普通では戴けなかったのである。併し先生が日本の為めに尽された功績は非常なもので、前述の如く日本の大学が大学らしくなったのも、全く先生の御蔭であるのみならず、又先生は帰国されてからも始終日本と日本人を愛し、本統の日本を全世界に紹介された。であるから日清、日露二大戦争の時にも大いに日本の真意を世界に知らしめ欧米人の誤解を防がれたのである。其上日本から渡米した日本人には誰れ彼れの別なく出来る丈け援助を与えられボストンへ行った日本人でセーラムに立ち寄らないものがあると先生の機嫌が悪かったと云う位であった。であるから、我皇室でも初めに先生に勲三等の旭日章を授けられ其後又勲二等の瑞宝章を送られたのである。誰れも知る様外交官や軍人抔では夫れ程の功績がなくとも勲章は容易に授けらるるのは世界共通の事実であるが、学者抔で高級の勲章をいただく事は真に功績の著しいものに限られて居る。であるから先生が我皇室から授けられた勲章は真に貴重なものである事は疑いのない事である。処が先生は、日本皇帝からいただいた勲章は、日本の皇室に関する時にのみ佩用すべきものであるとの見地から、常時はそれを銀行の保護箱内に仕舞い置かれた。尊い勲章を売る様な人面獣心の奴が日本人にもあるのに先生の御心持が如何に美しいかは窺われるではないか。 私は前に先生が左右の手を同時に使われる事を云うたが、先生は両手を別々に使わるる計りでなく、先生の脳も左右別々に使用する事が出来たのである。之れに付き面白い噺がある。フィラデルフィアのウィスター・インスチチュートの長ドクトル・グリーンマン氏が或る時セーラムにモース先生を訪い、先生の脳の話が出て、夫れが大層面白いと云うので先生は死んだ後は自分の脳を同インスチチュートへ寄贈せようと云われた。其後グリーンマン氏はガラス製のジャーを木の箱に入れて先生の処へ「永久之れを使用されない事を望む」と云う手紙を付けて送った。処が先生は之れを受け取ってから、書斎の机の下に置き、それを足台にして居られたと。先生が御亡くなりになる前年であった、先生の八十八歳の寿を祝う為めに、我々が出して居る『東洋学芸雑誌』で特別号を発行せようと思い、私が先生の所へ手紙を上げて其事を伺った処斯様な御返辞が来たのである、 “The Wister Institute of Anatomy of Philadelphia sent a glass Jar properly labelled …… in using for my brain which they will get when I am done with it.” (……の処の文字は不明)。 此文章の終りの when I am done with it は実に先生でなければ書かれない誠に面白い御言葉である。 斯様な事は先生には珍しくない事で、先生の言文は夫れで又有名であった。であるから何れの集会でも、先生が居らるる処には必ず沢山の人が集り先生の御話を聴くのを楽みにして居たものである。コンクリン博士が書かれたものの中に又次ぎの様なものがある。或る時ウーズ・ホールの臨海実験で先生が日本の話をされた事がある。此時先生は人力車に乗って来る人の絵を両手で巧に黒板に画かれたが、其顔が直ぐ前に坐って居る所長のホイットマン教授に如何にも能く似て居たので満場の人の大喝采を博したと。 併し先生にも嫌いな事があった。其一つは家蠅で、他の一つは音だ。此音に付き、近い頃日本に来る途中太平洋上で死なれたキングスレー博士は、次ぎの様な面白い噺を書いて居る。モースがシンシナチイで、或る豪家に泊った時、寝室に小さい貴重な置時計があって、其音が気になってどうしても眠られない。どうかして之れを止めようとしたが、不可能であった。困ったあげく先生は自分の下着で夫れを包み、カバンの中に入れて、グッスリ眠ったが、翌朝此事を忘れて仕舞い、其儘立った。二十四時間の後コロンビアに帰り、カバンを開けて大きに驚き、時計を盗んだと思われては大変だと云うので直ぐに打電して詫び、時計はエキスプレッスで送り返したと。 先生は一八三八年メイン州のポートランドに生れ、ルイ・アガッシイの特別な門人であられたが、アガッシイの動物学の講義の中で腕足類に関した点に疑問を起し、其後大いにそれを研究して、声名を博されたのである。前にも云うた様に先生が日本に来られたのも其の研究の為めであった。其翌年から前述の如く二年間我大学の教師を勤められ、一度帰られてから八十二年に又来朝せられたが之れは先生には主として日本の陶器を蒐集せらるる為めであった。先生にはセーラム市のピーボデー博物館長であられたり又ボストン美術博物館の日本陶器類の部長をも勤めて居られた。で先生が日本で集められた陶器は悉く此美術博物館へ売られたが、夫れは諸方から巨万の金で買わんとしたが、先生は自分が勤めて居らるる博物館へ比較的安く売られたのであると。之れは先生の人格の高い事を示す一つの話として今でも残って居る。夫れから先生は又此陶器を研究せられて、一大著述を遺されたが、此書は実に貴重なもので、日本陶器に関する書としては恐く世界無比のものであろう。 先生は身心共に非常に健全であられ老年に至る迄盛んに運動をして居られた。コンクリン博士が書かれたものに左の様な言葉がある。「先生は七十五歳の誕生日に若い人達を相手にテニスをして居られた処、ドクトル・ウワアヤ・ミッチェル氏が七十五歳の老人にはテニスは余り烈しい運動であると云い、先生の脈を取って見た処、夫れが丸で子供の脈の様に強く打って居たと。」私が先年ハーバード大学へ行った時マーク氏が話されたのに、モースが八十六(?)で自分が八十で共にテニスをやった事があると。斯様であったから先生は夫れは実に丈夫で、亡くなられる直前迄活動を続けて居られたと。 先生は一九二五年十二月廿日にセーラムの自宅で静かに逝かれたのである。セーラムで先生の居宅の近くに住い、久しく先生の御世話をして居たマーガレット・ブルックス(先生はお玉さんと呼んで居られた)嬢は私に先生の臨終の様子を斯様に話された。 先生は毎晩夕食の前後に宅へ来られ、時々夜食を共にする事もあったが、十二月十六日(水曜日)の晩には自分達姉妹が食事をして居る処へ来られ、何故今晩は食事に呼んで呉れなかったか、とからかわれたので、今晩は別に先生に差し上げるものもなかったからと申し上げた処、でも独りで宅で食うより旨いからと云われ、いつもの様に肱掛椅子に腰を下して何にか雑誌を見て居られたが、九時半頃になって、もう眠るからと云うて帰られた。夫れから半時も経たない内に先生の下婢が遽しく駈込んで来て先生が大病だと云うので、急いで行った処、先生には昏睡状態で倒れて居られた。急報でコンコードに居る御嬢さんが来られた時に少し解った様であったが、其儘四日後の日曜日の午後四時に逝かれたのである。であるから、先生には倒れられてからは少しの苦痛も感ぜられなかった様であると。 斯様に先生は亡くなられる前迄活動して居られたが八十九年の長い間には普通人に比ぶれば余程多くの仕事をせられたのである。夫れに又前述の如く、先生には同一時に二つの違った仕事もせられたのであるから、先生が一生中に致された仕事の年月は少なくとも其倍即ち一九八年にも当る訳である。 先生の此の貴い脳は今ではウィスター・インスチチュートの解剖学陳列室に収めてある。私も先年フィラデルフィアへ行った時、グリーンマン博士に案内されて拝見したが、先生の脳はドナルドソン博士に依って水平に二つに切断してあった。之れは生前先生の御希望に依り先生の脳の構造に何にか変った点があって夫れが科学に貢献する処があるまいかとの事からである。併しドナルドソン博士が私に話されたのには、一寸表面から見た処では別に変った処も見えない。先生が脳をアノ様に使われたのは多分練習から来たものであったろうと。 であるから「先生は生きて居られた時にも亦死んだ後にも科学の為めに身心を提供されたのである」とは又コンクリン博士が私に書いて呉れた文章の内にあるが、斯様にして「先生の死で世界は著名な学者を失い、日本は最も好い親友を失い、又先生の知人は楽しき愛すべき仲間を失ったのである」と之れも亦コンクリン博士がモース先生に就いて書かれた言葉である。 私がセーラムでの御墓参りをした時先生の墓碑は十年前に死なれた奥さんの石の傍に横になって居たが、雪が多いので、其時まだ建てる事が出来なかったとの事であった。 × × × × × 終りに茲に書いて置かなくてはならぬ事は、此書の出版に就き医学博士宮嶋幹之助君が大層骨を折って下さった事と、啓明会が物質上多大の援助を与えられた事と、モース先生の令嬢ミセス・ロッブの好意許可とで、之れに対しては大いに御礼を申し上げ度いのである。 |
元素の週期律 物質の元素には、たくさんの異なった種類がありますが、今ではその原子量の最も小さい水素から、それの最も大きいウランに至るまでの間に、全体で九十二箇の元素のあることが知られています。ところが、それらの元素を大体において原子量の順に並べてゆきますと、おもしろいことには、ある間隔をおいて互いに性質の似ている元素が繰返してあらわれて来るのです。 もっともそのなかには、二、三の例外の元素があって、そこでは原子量の大いさの順をとりかえなくてはなりませんが、そのほかはすべて原子量の順にそうなってゆくので、つまりそれはある週期をもって同様の性質の元素が現れて来るということになりますから、この事を元素の週期律と名づけるのです。 そこで、このようにして同様の性質をもつ元素を原子量の小さい方を上にして縦に並べてゆきますと、横向きには大体において原子量の増してゆく順に並ぶことになります。かような元素の表を、普通に週期表と呼んでいますが、ともかくこの事実は非常におもしろい、またいかにも目立った事がらなのであります。 ところで、かような事実のあるということを始めて見つけ出したのは、ロシヤの物化学者ドミトリ・イヴァノヴィッチ・メンデレーエフという人でありまして、それは一八六九年のことでありますから、今からは七十余年以前に当るのです。しかも、このような週期律が見つけ出されたおかげで、その後に新しい元素を発見するのに大層都合がよくなったばかりでなく、ずっと近頃になっては、めいめいの元素の原子がどのような構造をもっているかということに対する理論を形づくってゆくのにも大いに役立ったことなどを考え合わせてゆきますと、これはまことに重要な発見であったと云わなければなりません。つまりこの意味で、物化学を学び、また元素についてのいろいろな知識を得ようとするすべての人々にとって、メンデレーエフの名は忘れることのできないものなので、そこでここにも彼の一生について少しくお話しして見たいと思うのです。 メンデレーエフの生涯 メンデレーエフは一八三四年の二月九日に、シベリアのトボルスクという町で生まれました。祖父が始めてこの町に来て、印刷工場を設け、新聞を発行していたのでしたが、父の代になってはそれも止めて、中等学校であるギムナジウムの校長を勤めました。ところがその子どもがたくさんあって、このドミトリ・イヴァノヴィッチは十四人の兄弟の一番の末子であったのですが、ごく幼ない頃からすぐれた才能をもっていたので、その将来に大いに望みをかけて育てられたのでした。併しそれから間もなく父は眼をわずらって、両眼とも見えなくなってしまいましたので、校長の役をも退かなくてはならなくなり、その後は僅かの恩給ぐらいでは一家の生活を支えることも困難になりました。これには母親も大いになやみましたが、元来が大いに勝気で、またなかなか賢明でもありましたので、近村にあったガラス工場を譲り受け、その経営を自分の手でうまくやって、大いに成功したということです。そしてこの工場の近くに粗末ながらも木造の教会堂を建てて、職工たちに宗教の有難さを説き聞かせ、平素はそれを村の子どもたちのための学校としました。このおかげで一家を支えることができたばかりでなく、村人たちからも大いに慕われるほどになりました。 ドミトリはこのような環境のなかで育ってゆきましたが、やがてトボルスクに追放されて来た一人の青年にいろいろと科学のことを教えられ、元来が数学や科学を好んでいた彼の才能は、そのおかげでずんずんと進んでゆきました。そしてそれを見て母親も大いに喜び、末たのもしく思っていたということです。ドミトリはやがてギムナジウムに入学し、数年の後にそこを卒業しましたが、この間に母の経営していたガラス工場がうまく立ちゆかなくなったばかりでなく、父も眼疾の外に肺をわずらって亡くなってしまい、母はひとりでさまざまの苦労を重ねました。その年齢ももはや五十七歳にもなっていたので、健康も衰えていたのですが、そのうちに工場が火事で焼けてしまいました。それでも母はくじけることなく、ドミトリを大学に入学させたいと思って、トボルスクから遥々とモスクワを目指して旅に出ました。そしてモスクワに到着して、大学の入学試験を受けさせました。ところが、ドミトリはこれには失敗したので、更にセント・ペテルスブルグ(現在のレニングラード)までも赴いて、そこで漸く大学へ入学することができました。母はそれに満足して大いに安心しましたが、間もなく病いにかかって亡くなったということです。これは一八五〇年のことでしたが、そのときの母の遺言が深くドミトリの感銘に値いし、彼が後に大きな仕事に成功するようになったのも、実にそのおかげであったと云われています。まことに彼を偉大な科学者に育て上げた母のけなげな努力はこの上もなく尊いものであったと云わなければなりますまい。 ドミトリはこの後、実に一生懸命に勉強しました。そして一八五六年に大学をすぐれた成績で卒業し、クリミヤ地方の学校に教師として赴任しましたが、やがて再びセント・ペテルスブルグに戻り、次いでフランスのパリやドイツのハイデルベルグに留学し、当時の名だかい学者であったレノー、ブンゼン、キルヒホッフなどの下で大いに研究を行ったので、これが彼の知識をすばらしく高めることになりました。そして一八六一年に故国に帰り、高等工業学校の教授に任ぜられましたが、一八六六年にはペテルスブルグ大学の教授となりました。 かくしてメンデレーエフは学者として大いに尊敬を受け、後にはヨーロッパの諸国の学会から名誉会員に推されたり、賞牌を贈られたりして、その輝かしい名声をますます高めましたが、ただその頃のロシヤにおける政治が徒らに民衆を圧迫する傾きのあったことに対しては、大いに不満を感じ、正しい道義の上からこれを難ずることなどもあったので、その国内では却って厚遇せられなかったとも伝えられています。大学教授としては、一八九〇年まで在職しましたが、その後度量衡局長となり、また枢密顧問官ともなりました。そして一九〇七年の二月二日に遂にこの世を去りましたが、遺骸はウォルコフスキー墓地の彼の母マリヤ・ドミトリエフナの墓処に相並んで葬られたということです。 週期律の発見 メンデレーエフの遺した研究はいろいろありますが、そのなかで最も重要なものが元素の週期律の発見であることは、既に述べた通りであります。元素にこのような週期性があるということは、それより少し以前の一八六四年にイギリスのニューランヅが見出し、大体において八番目毎に性質の類似した元素が現れるというので、これをオクターヴの法則と名づけましたが、この事はまだ一般に認められなかったのでした。ところが、一八六八年になってドイツのユリウス・ローター・マイヤーという学者が同様な週期性を見出だし、これを学会で発表しました。このマイヤーの研究においては、専ら元素の原子容というものだけを考えて、それについて週期的な関係のあることを示したのでしたが、メンデレーエフはそれ以前から更に広く元素のいろいろな性質に注目し、そこに週期性のあることを見つけ出して、その結果を一八六九年の初めにロシヤの物化学会の席上で発表したのでした。題目は「元素の性質とその原子量との関係」というので、その見方もごく一般的であったことから、これがその頃の学界の注目を集めることになったのでした。 最初に記したように、今では九十二箇の元素のあることが知られているのですが、メンデレーエフの研究していた頃には大体六十三箇の元素だけしか知られていなかったのでした。そこで彼はそれをいろいろ考えた末に八行十二列に並べてみました。すると、元素のなかでアルカリ元素とか、ハロゲン元素とか云われて、性質の互いに似通っているものが縦に並ぶことになり、それらが、原子価を等しくすることなどもこれで明らかに示されるのでした。こうしてメンデレーエフのつくった元素の表を掲げて見ますと、次頁の図の通りであります。 この表のなかで、元素の名の下にある数字はその頃認められていた原子量でありますが、今ではそれらも更に精密に測られるようになったので、ここに記してあるのとは幾らか違っているのもあります。また、その外に、元素の週期性は、実はこのような原子量によるのではなく、原子の構造の上から定められる原子番号という数に依るのであることも今ではわかって来たのですが、メンデレーエフの時代にはそれらは全く知られていなかったのですから、彼が原子量に基づいてこの週期性を見つけ出したのは、確かにすぐれた卓見であったのですし、また最初にも述べましたように、それが新しい元素の発見や原子構造の理論をつくってゆく上にも、大いに役立ったのでした。現在の書物に載せられている元素週期表は、その後のいろいろな研究によって訂正されて来ているので、これとはいくらか違っていますが、メンデレーエフの最初につくったこの表がその基礎になっているのですから、その意味でこの表は歴史的に重要な価値をもっていると云わなければならないのでしょう。 週期表はこのように大切なものでありますが、それにも拘わらずメンデレーエフが初めてこれを発表した頃には、学界のなかでもまだそれ程にこの表の重要な意味が認められなかったので、ある人たちなどは、それを徒らな冥想にたよっている空論に過ぎないとまで非難したとも伝えられています。ところが、その後になって新しく発見された元素が正しくこの週期表で示される位置を占め、その性質もメンデレーエフの予言した通りのものであることなどが、だんだんに認められて来ましたので、そうなると、もはやこれを疑うわけにゆかなくなって、ますますその重要な意味が認められるようになったのでした。これで見ても、科学の上の真理というものは、事実を正しく言いあらわすことによって、そこに実に偉大な意味を含んでいるということが、十分にわかるのでありましょう。 週期律の発見はまことにメンデレーエフの最も顕著な仕事というべきでありますが、このほかにも彼の物化学の上での研究はいろいろあるのです。しかしここではそれらについてお話しすることは、あまりこまかい問題に立ち入ることにもなりますから、省くことにします。 もっともそのなかで石油についての研究は、同じくメンデレーエフの重要な仕事として記憶されなくてはならないのでしょう。それは一八七六年にロシヤの政府から派遣されて、アメリカのペンシルヴァニヤの油田を視察したことから始まったのですが、それ以前にも南部ロシヤの油田について研究したことはあったのでした。 このほかにメンデレーエフは物化学に関する有益な書物をたくさんに著述しているのですが、これらはその当時はもちろんのこと、それから今に至るまで多くの人々のためにどれだけ役に立ったか知れません。 ロシヤの国にも昔から多くの名だかい科学者が出ていますが、しかしこのドミトリ・イヴァノヴィッチ・メンデレーエフは、そのなかでも最も輝かしい一人であったと云ってよいのでしょう。それは、もちろん彼の生まれつきのすぐれた性質によるのですが、それと共に、上にもちょっと記したように彼の母からの感化も大いに与かって力があったことは確かであります。メンデレーエフもこの事を深く感じていたと見えて、後に自分で著した書物の序のなかに、母の遺言をしるしているのですが、それには次の言句が見られるのです。 「幻想に囚われてはいけない。 頼るべきものは実行である。 ひたすらに求むべきは 神と真理の知慧であり、 いつもそれを望むがよい。」 |
一 曇ツた日だ。 立待崎から汐首の岬まで、諸手を拡げて海を抱いた七里の砂浜には、荒々しい磯の香りが、何憚らず北国の強い空気に漲ツて居る。空一面に渋い顔を開いて、遙かに遙かに地球の表面を圧して居る灰色の雲の下には、圧せられてたまるものかと云はぬ許りに、劫初の儘の碧海が、底知れぬ胸の動揺の浪をあげて居る。右も左も見る限り、塩を含んだ荒砂は、冷たい浪の洗ふに委せて、此処は拾ふべき貝殻のあるでもなければ、もとより貝拾ふ少女子が、素足に絡む赤の裳の艶立つ姿は見る由もない。夜半の満潮に打上げられた海藻の、重く湿ツた死骸が処々に散らばツて、さも力無げに逶迤つて居る許り。 時は今五月の半ば。五月といへば、此処北海の浦々でさへ、日は暖かに、風も柔らいで、降る雨は春の雨、濡れて喜ぶ燕の歌は聞えずとも、梅桃桜ひと時に、花を被かぬ枝もなく、家に居る人も、晴衣して花の下ゆく子も、おしなべて老も若きも、花の香に酔ひ、人の香に酔ひ、酔心地おぼえぬは無いといふ、天が下の楽しい月と相場が定ツて居るのに、さりとは恁うした日もあるものかと、怪まれる許りな此荒磯の寂寞を、寄せては寄する白浪の、魂の台までも揺がしさうな響きのみが、絶間もなく破ツて居る。函館に来て、林なす港の船の檣を見、店美しい街々の賑ひを見ただけの人は、いかに裏浜とはいひ乍ら、大森浜の人気無さの恁許りであらうとは、よも想ふまい。ものの五町とも距たらぬのだが、齷齪と糧を争ふ十万の市民の、我を忘れた血声の喧囂さへ、浪の響に消されてか、敢て此処までは伝はツて来ぬ。――これ然し、怪むべきでないかも知れぬ、自然の大なる声に呑まれてゆく人の声の果敢なさを思へば。 浪打際に三人の男が居る。男共の背後には、腐れた象の皮を被ツた様な、傾斜の緩い砂山が、恰も「俺が生きて居るか、死んで居るか、誰も知るまい、俺も知らぬ。」と云ふ様に、唯無感覚に横はツて居る。無感覚に投げ出した砂山の足を、浪は白歯をむいて撓まず噛んで居る。幾何噛まれても、砂山は痛いとも云はぬ、動きもせぬ。痛いとも云はず、動きもせぬが、浪は矢張根気よく撓まず噛んで懸る。太初から「生命」を知らぬ砂山と、無窮に醒めて眠らぬ潮騒の海との間に、三人の――生れたり死んだりする三人の男が居る。インバネスを着て、薄鼠色の中折を左の手に持ツて、螽の如く蹲んで居る男と、大分埃を吸ツた古洋服の釦は皆脱して、蟇の如く胡坐をかいた男とは、少し間を隔てて、共に海に向ツて居る。褶くちやになツた大島染の袷を着た、モ一人の男は、両手を枕に、足は海の方へ投げ出して、不作法にも二人の中央に仰向になツて臥て居る。 千里万里の沖から吹いて来て、この、扮装も違へば姿態も違ふ三人を、皆一様に吹きつける海の風には、色もなければ、心もない。風は風で、勝手に吹く。人間は人間で、勝手なことを考へる。同じ人間で、風に吹かれ乍ら、三人は又三人で、勝手な所を見て勝手なことを考へて居る。 仰向の男は、空一面に彌漫つて動かぬ灰雲の真中を、黙つて瞶めて居る。螽の如く蹲んだ男は、平たい顔を俯向けて、右手の食指で砂の上に字を書いて居る――「忠志」と書いて居る。書いては消し、消しては復同じ字を書いて居る。忠志といふのは此男の名である。何遍も消しては、何遍も書く。用の少い官吏とか会社員とかが、仕様事なしの暇つぶしに、よく行る奴で、恁麽事をする男は、大抵弾力のない思想を有ツて居るものだ。頭脳に弾機の無い者は、足に力の這入らぬ歩行方をする。そして、女といふ女には皆好かれたがる。女の前に出ると、処嫌はず気取ツた身振をする、心は忽ち蕩けるが、それで、煙草の煙の吹き方まで可成真面目腐ツてやる。何よりも美味い物が好で、色沢がよいものだ。此忠志君も、美味い物を食ふと見えて平たい顔の血色がよい。 蟇の如く胡坐をかいた男は、紙莨の煙をゆるやかに吹いて、静かに海を眺めて居る。凹んだ眼窩の底に陰翳のない眼が光ツて、見るからに男らしい顔立の、年齢は二十六七でがなあらう。浮いたところの毫もない、さればと云ツて、心欝した不安の状もなく、悠然として海の広みに眼を放る態度は、雨に曝され雪に撃たれ、右から左から風に攻められて、磯馴の松の偏曲もせず、矗乎と生ひ立ツた杉の樹の様に思はれる。海の彼方には津軽の山が浮んで、山の左から汐首の岬まで、灰色の空を被いだ太平洋が、唯一色の強い色を湛へて居る。――其水天髣髴の辺にポツチリと黒く浮いてるのは、汽船であらう。無論駛ツて居るには違ひないが、此処から見ては、唯ポツチリとした黒い星、動いてるのか動かぬのか、南へ駛るのか北へ向くのか、少しも解らぬ。此方へ来るなと思へば、此方へ来る様に見える。先方へ行くなと思へば、先方へ行く様に見える。何処の港を何日立つて、何処の港へ何日着くのか。立ツて来る時には、必ず、アノ広い胸の底の、大きい重い悲痛を、滞りなく出す様な汽笛を、誰憚らず鳴らした事であらう。其勇ましい唸きの声が、真上の空を劈ざいて、落ちて四周の山を動し、反ツて数知れぬ人の頭を低れさせて、響の濤の澎湃と、東に溢れ西に漲り、甍を圧し、樹々を震はせ………………………弱り弱ツた名残の音が、見えざる光となツて、今猶、或は、世界の奈辺かにさまよふて居るかも知れぬ。と考へて来た時、ポツチリとした沖の汽船が、怎やら少し動いた様に思はれた。右へ動いたか左へ寄ツたか、勿論それは解らぬが、海に浮んだ汽船だもの動かぬといふ筈はない、必ず動いて居る筈だと瞳を据ゑる。黒い星は依然として黒い星で、見ても見ても、矢張同じ所にポツチリとして居る。一体何処の港を何日立ツて、何処の港へ行く船だらうと、再繰返して考へた。錨を抜いた港から、汽笛と共に揺ぎ出て、乗ツてる人の目指す港へ、船首を向けて居る船には違ない。 『昨日君の乗ツて来た汽船は、』と、男は沖を見た儘で口を開く。『何といふ汽船だツたかね。』 『午前三時に青森を出て、六時間にして函館港の泥水に、錆びた錨を投げた船だ。』と、仰向の男が答へる。 『名前がさ』 『知らん。』 『知らん?』 『呍。』 『自分の乗ツた船の名前だぜ。』と、忠志君は平たい顔を上げて、たしなめる様に仰向の男を見る。 『だからさ。』 『君は何時でも其調子だ。』と苦い顔をしたが、『あれア陸奥丸です。随分汚ない船ですよ。』と胡坐の男に向いて説明する。 『あ、陸奥ですか。あれには僕も一度乗ツた事がある。余程以前の事たが………………………』 『船員は、君、皆男許りな様だが、あら怎したもんだらう。』と仰向の男が起き上る。 胡坐の男は沖の汽船から目を離して、躯を少し捻つた。『…………さうさね。海上の生活には女なんか要らんぢやないか。海といふ大きい恋人の胞の上を、縦横自在に駛け廻るんだからね。』 『海といふ大きい恋人! さうか。』と復仰向になツた。灰色の雲は、動くでもない動かぬでもない。遙かに男の顔を圧して、照る日の光を洩さぬから、午前か午後か、それさへも知る由のない大気の重々しさ。 胡坐の男は、砂の上に投げ出してある紙莨を一本とツて、チヨと燐寸を擦つたが、見えざる風の舌がペロリと舐めて、直ぐ滅えた。復擦つたが復滅えた。三度目には十本許り一緒にして擦る。火が勢よく発した所を手早く紙莨に移して、息深く頬を凹ませて吸うた煙を、少しづつ少しづつ鼻から出す。出た煙は、出たと見るまもなく海風に散ツて見えなくなる。 黙つて此様を見て居た忠志君の顔には、胸にある不愉快な思が、自づと現れて来るのか、何様渋い翳が漲ツて、眉間の肉が時々ピリ〳〵と動いた。何か言はうとする様に、二三度口を蠢かしてチラリ仰向の男を見た目を砂に落す。『同じ事許り繰返していふ様だが、実際怎も、肇さんの為方にや困ツて了ふね。無頓着といへば可のか、向不見といへば可のか、正々堂々とか赤裸々とか君は云ふけれど、露骨に云へや後前見ずの乱暴だあね。それで通せる世の中なら、何処までも我儘通してゆくも可さ。それも君一人ならだね。彼麽に年老ツた伯母さんを、………………………今迄だツて一日も安心さした事ツて無いんだが、君にや唯一人の御母さんぢやないか、此以後一体怎する積りなんだい。昨宵もね、母が僕に然云ふんだ。君が楠野さん所へ行ツた後にだね、「肇さんももう二十三と云へや小供でもあるまいに姉さんが什麽に心配してるんだか、真実に困ツちまふ」ツてね。実際困ツ了ふんだ。君自身ぢや痛快だツたツて云ふが、然し、免職になる様な事を仕出かす者にや、まあ誰だツて同情せんよ。それで此方へ来るにしてもだ。何とか先きに手紙でも来れや、職業の方だツて見付けるに都合が可んだ。昨日は実際僕喫驚したぜ。何にも知らずに会社から帰ツて見ると、後藤の肇さんが来てるといふ。何しにツて聞くと、何しに来たのか解らないが、奥で昼寝をしてるツて、妹が君、眼を丸くして居たぜ。』 『彼麽大きな眼を丸くしたら、顔一杯だツたらう。』 『君は何時でも人の話を茶にする。』と忠志君は苦り切つた。『君は何時でも其調子だし、怎せ僕とは全然性が合はないんだ。幾何云ツたツて無駄な事は解ツてるんだが、伯母さんの……………………君の御母さんの事を思へばこそ、不要事も云へば、不要心配もするといふもんだ。母も云ツたが、実際君と僕程性の違ツたものは、マア滅多に無いね。』 『性が合はんでも、僕は君の従兄弟だよ。』 『だからさ、僕の従兄弟に君の様な人があるとは、実に不思議だね。』 『僕は君よりズツト以前からさう思つて居た。』 『実際不思議だよ。………………』 『天下の奇蹟だね。』と嘴を容れて、古洋服の楠野君は横になツた。横になツて、砂についた片肱の、掌の上に頭を載せて、寄せくる浪の穂頭を、ズツト斜めに見渡すと、其起伏の様が又一段と面白い。頭を出したり隠したり、活動写真で見る舞踏の歩調の様に追ひ越されたり、追越したり、段々近づいて来て、今にも我が身を洗ふかと思へば、牛の背に似た碧の小山の頂が、ツイと一列の皺を作ツて、真白の雪の舌が出る。出たかと見ると、其舌がザザーツといふ響きと共に崩れ出して、磯を目がけて凄まじく、白銀の歯車を捲いて押寄せる。警破やと思ふ束の間に、逃足立てる暇もなく、敵は見ン事颯と退く。退いた跡には、砂の目から吹く潮の気が、シーツと清しい音を立てて、えならぬ強い薫を撒く。 『一体肇さんと、僕とは小児の時分から合はなかツたよ。』と忠志君は復不快な調子で口を切る。『君の乱暴は、或は生来なのかも知れないね。そら、まだお互に郷里に居て、尋常科の時分だ。僕が四年に君が三年だツたかな、学校の帰途に、そら、酒屋の林檎畑へ這入ツた事があツたらう。何でも七八人も居たツた様だ。………………』 『呍、さうだ、僕も思出す。発起人が君で、実行委員が僕。夜になツてからにしようと皆が云ふのを構ふもんかといふ訳で、真先に垣を破ツたのが僕だ。続いて一同乗り込んだが、君だけは見張をするツて垣の外に残ツたツけね。真紅な奴が枝も裂けさうになツてるのへ、真先に僕が木登りして、漸々手が林檎に届く所まで登ツた時、「誰だ」ツてノソノソ出て来たのは、そら、あの畑番の六助爺だよ。樹下に居た奴等は一同逃げ出したが、僕は仕方が無いから黙ツて居た。爺奴嚇す気になツて、「竿持ツて来て叩き落すぞ。」ツて云ふから、「そんな事するなら恁して呉れるぞ。」ツて、僕は手当り次第林檎を採ツて打付けた。爺喫驚して「竿持ツて来るのは止めるから、早く降りて呉れ、旦那でも来れあ俺が叱られるから。」と云ふ。「そんなら降りてやるが、降りてから竿なんぞ持ツて来るなら、石打付けてやるぞ。」ツて僕はズルズル辷り落ちた。そして、投げつけた林檎の大きいのを五つ六つ拾ツて、出て来て見ると誰も居ないんだ。何処まで逃げたんだか、馬鹿な奴等だと思ツて、僕は一人でそれを食ツたよ。実に美味かツたね。』 『二十三で未だ其気なんだから困ツ了うよ。』 『其晩、窃と一人で大きい笊を持ツて行ツて、三十許り盗んで来て、僕に三つ呉れたのは、あれあ誰だツたらう、忠志君。』 忠志君は、苦い顔をして横を向く。 『尤も、忠志君の遣方の方が理屈に合ツてると僕は思ふ。窃盗と云ふものは、由来暗い所で隠密やるべきものなんだからね。アハヽヽヽ。』 『馬鹿な事を。』 『だから僕は思ふ。今の社会は鼠賊の寄合で道徳とかいふものは其鼠賊共が、暗中の隠密主義を保持してゆく為めの規約だ。鼠賊をして鼠賊以上の行為なからしめんが為めには法律といふ網がある。滑稽極まるさ、自分で自分を縛る繩を作ツて太陽の光が蝋燭の光の何百万倍あるから、それを仰ぐと人間の眼が痛くなるといふ真理を発見して、成るべく狭い薄暗い所に許り居ようとする。それで、日進月歩の文明はこれで厶いと威張る。歴史とは進化の義なりと歴史家が説く。アハヽヽヽヽ。 学校といふ学校は、皆鼠賊の養成所で、教育家は、好な酒を飲むにも隠密と飲む。これは僕の実見した話だが、或る女教師は、「可笑しい事があツても人の前へ出た時は笑ツちや不可ません。」と生徒に教へて居た。可笑しい時に笑はなけれあ、腹が減ツた時便所へ行くんですかツて、僕は後で冷評してやツた。………………尤もなんだね、宗教家だけは少し違ふ様だ。仏教の方ぢや、髪なんぞ被らずに、凸凹の瘤頭を臆面もなく天日に曝して居るし、耶蘇の方ぢや、教会の人の沢山集ツた所でなけれあ、大きい声出して祈祷なんぞしない。これあ然し尤もだよ。喧嘩するにしても、人の沢山居る所でなくちや張合がないからね。アハヽヽ。』 『アハヽヽヽ。』と、楠野君は大声を出して和した。 『処でだ。』と肇さんは起き上ツて、右手を延して砂の上の紙莨を取ツたが、直ぐまた投げる。『這麽社会だから、赤裸々な、堂々たる、小児の心を持ツた、声の太い人間が出て来ると、鼠賊共、大騒ぎだい。そこで其種の声の太い人間は、鼠賊と一緒になツて、大笊を抱へて夜中に林檎畑に忍ぶことが出来ぬから、勢ひ吾輩の如く、天が下に家の無い、否、天下を家とする浪人になる。浪人といふと、チヨン髷頭やブツサキ羽織を連想して不可が、放浪の民だね、世界の平民だね、――名は幾何でもつく、地上の遊星といふ事も出来る。道なき道を歩む人とも云へる、コスモポリタンの徒と呼んで見るも可。ハ………。』 『そこでだ、若し後藤肇の行動が、後前見ずの乱暴で、其乱暴が生得で、そして、果して真に困ツ了ふものならばだね、忠志君の鼠賊根性は怎だ。矢張それも生得で、そして、ウー、そして、甚だ困つて了はぬものぢやないか。怎だい。従兄弟君、怒ツたのかい。』 『怒ツたツて仕様が無い。』と、稍霎時してから、忠志君が横向いて云ツた。 『「仕様が無い」とは仕様が無い。それこそ仕様が無いぢやないか。』 『だツて、実際仕様が無いから喃。』 『然し君は大分苦い顔をして居るぜ。一体その顔は不可よ。笑ふなら腸まで見える様に口をあかなくちや不可。怒るなら男らしく真赤になツて怒るさ。そんな顔付は側で見てるさへ気の毒だ。そら、そら、段々苦くなツてくる。宛然洋盃に一昨日注いだビールの様だ。仕様のない顔だよ。』 『馬鹿な。君は怎も、実際仕様がない。』 『復「仕様がない」か。アハヽヽヽ。仕様がない喃。』 話が間断れると、ザザーツといふ浪の音が、急に高くなる。楠野君は、二人の諍ひを聞くでもなく、聞かぬでもなく、横になツた儘で、紙莨を吹かし乍ら、浪の穂頭を見渡して居る。鼻から出る煙は、一寸許りのところで、チヨイと渦を巻いて、忽ち海風に散ツてゆく。浪は相不変、活動写真の舞踏の歩調で、重り重り沖から寄せて来ては、雪の舌を銀の歯車の様にグルグルと捲いて、ザザーツと怒鳴り散らして颯と退く。退いた跡には、シーツと音して、潮の気がえならぬ強い薫を撒く。 |
夫人堂 神戸にある知友、西本氏、頃日、摂津国摩耶山の絵葉書を送らる、その音信に、 なき母のこいしさに、二里の山路をかけのぼり候。靉靆き渡る霞の中に慈光洽き御姿を拝み候。 しかじかと認められぬ。見るからに可懐しさ言わんかたなし。此方もおなじおもいの身なり。遥にそのあたりを思うさえ、端麗なるその御姿の、折からの若葉の中に梢を籠めたる、紫の薄衣かけて見えさせたまう。 地誌を按ずるに、摩耶山は武庫郡六甲山の西南に当りて、雲白く聳えたる峰の名なり。山の蔭に滝谷ありて、布引の滝の源というも風情なるかな。上るに三条の路あり。一はその布引より、一は都賀野村上野より、他は篠原よりす。峰の形峻厳崎嶇たりとぞ。しかも海を去ること一里ばかりに過ぎざるよし。漣の寄する渚に桜貝の敷妙も、雲高き夫人の御手の爪紅の影なるらむ。 伝え聞く、摩耶山忉利天王寺夫人堂の御像は、その昔梁の武帝、女人の産に悩む者あるを憐み、仏母摩耶夫人の影像を造りて大功徳を修しけるを、空海上人入唐の時、我が朝に斎き帰りしものとよ。 知ることの浅く、尋ぬること怠るか、はたそれ詣ずる人の少きにや、諸国の寺院に、夫人を安置し勧請するものを聞くこと稀なり。 十歳ばかりの頃なりけん、加賀国石川郡、松任の駅より、畦路を半町ばかり小村に入込みたる片辺に、里寺あり、寺号は覚えず、摩耶夫人おわします。なき母をあこがれて、父とともに詣でしことあり。初夏の頃なりしよ。里川に合歓花あり、田に白鷺あり。麦やや青く、桑の芽の萌黄に萌えつつも、北国の事なれば、薄靄ある空に桃の影の紅染み、晴れたる水に李の色蒼く澄みて、午の時、月の影も添う、御堂のあたり凡ならず、畑打つものの、近く二人、遠く一人、小山の裾に数うるばかり稀なりしも、浮世に遠き思ありき。 本堂正面の階に、斜めに腰掛けて六部一人、頭より高く笈をさし置きて、寺より出せしなるべし。その廚の方には人の気勢だになきを、日の色白く、梁の黒き中に、渠ただ一人渋茶のみて、打憩ろうていたりけり。 その、もの静に、謹みたる状して俯向く、背のいと痩せたるが、取る年よりも長き月日の、旅のほど思わせつ。 よし、それとても朧気ながら、彼処なる本堂と、向って右の方に唐戸一枚隔てたる夫人堂の大なる御廚子の裡に、綾の几帳の蔭なりし、跪ける幼きものには、すらすらと丈高う、御髪の艶に星一ツ晃々と輝くや、ふと差覗くかとして、拝まれたまいぬ。浮べる眉、画ける唇、したたる露の御まなざし。瓔珞の珠の中にひとえに白き御胸を、来よとや幽に打寛ろげたまえる、気高く、優しく、かしこくも妙に美しき御姿、いつも、まのあたりに見参らす。 今思出でつと言うにはあらねど、世にも慕わしくなつかしきままに、余所にては同じ御堂のまたあらんとも覚えずして、この年月をぞ過したる。されば、音にも聞かずして、摂津、摩耶山の忉利天王寺に摩耶夫人の御堂ありしを、このたびはじめて知りたるなり。西本の君の詣でたる、その日は霞の靉靆きたりとよ。……音信の来しは宵月なりけり。 あんころ餅 松任のついでなれば、そこに名物を云うべし。餅あり、あんころと云う。城下金沢より約三里、第一の建場にて、両側の茶店軒を並べ、件のあんころ餅を鬻ぐ……伊勢に名高き、赤福餅、草津のおなじ姥ヶ餅、相似たる類のものなり。 松任にて、いずれも売競うなかに、何某というあんころ、隣国他郷にもその名聞ゆ。ひとりその店にて製する餡、乾かず、湿らず、土用の中にても久しきに堪えて、その質を変えず、格別の風味なり。其家のなにがし、遠き昔なりけん、村隣りに尋ぬるものありとて、一日宵のほどふと家を出でしがそのまま帰らず、捜すに処無きに至りて世に亡きものに極りぬ。三年の祥月命日の真夜中とぞ。雨強く風烈しく、戸を揺り垣を動かす、物凄じく暴るる夜なりしが、ずどんと音して、風の中より屋の棟に下立つものあり。ばたりと煽って自から上に吹開く、引窓の板を片手に擡げて、倒に内を覗き、おくの、おくのとて、若き妻の名を呼ぶ。その人、面青く、髯赤し。下に寝ねたるその妻、さばかりの吹降りながら折からの蒸暑さに、いぎたなくて、掻巻を乗出でたる白き胸に、暖き息、上よりかかりて、曰く、汝の夫なり。魔道に赴きたれば、今は帰らず。されど、小児等も不便なり、活計の術を教うるなりとて、すなわち餡の製法を伝えつ。今はこれまでぞと云うままに、頸を入れてまた差覗くや、たちまち、黒雲を捲き小さくなりて空高く舞上る。傘の飛ぶがごとし。天赤かりしとや。天狗相伝の餅というものこれなり。 いつぞやらん、その松任より、源平島、水島、手取川を越えて、山に入る、辰口という小さな温泉に行きて帰るさ、件の茶屋に憩いて、児心に、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる小さき部屋に、黒髪の乱れたる、若き、色の白き、痩せたる女、差俯向きて床の上に起直りていたり。枕許に薬などあり、病人なりしなるべし。 思わずも悚然せしが、これ、しかしながら、この頃のにはあらじかし。 今は竹の皮づつみにして汽車の窓に売子出でて旅客に鬻ぐ、不思議の商標つけたるが彼の何某屋なり。上品らしく気取りて白餡小さくしたるものは何の風情もなし、すきとしたる黒餡の餅、形も大に趣あるなり。 夏の水 松任より柏野水島などを過ぎて、手取川を越ゆるまでに源平島と云う小駅あり。里の名に因みたる、いずれ盛衰記の一条あるべけれど、それは未だ考えず。われ等がこの里の名を聞くや、直ちに耳の底に響き来るは、松風玉を渡るがごとき清水の声なり。夏の水とて、北国によく聞ゆ。 春と冬は水湧かず、椿の花の燃ゆるにも紅を解くばかりの雫もなし。ただ夏至のはじめの第一日、村の人の寝心にも、疑いなく、時刻も違えず、さらさらと白銀の糸を鳴して湧く。盛夏三伏の頃ともなれば、影沈む緑の梢に、月の浪越すばかりなり。冬至の第一日に至りて、はたと止む、あたかも絃を断つごとし。 周囲に柵を結いたれどそれも低く、錠はあれど鎖さず。注連引結いたる。青く艶かなる円き石の大なる下より溢るるを樋の口に受けて木の柄杓を添えあり。神業と思うにや、六部順礼など遠く来りて賽すとて、一文銭二文銭の青く錆びたるが、円き木の葉のごとくあたりに落散りしを見たり。深く山の峡を探るに及ばず。村の往来のすぐ路端に、百姓家の間にあたかも総井戸のごとくにあり。いつなりけん、途すがら立寄りて尋ねし時は、東家の媼、機織りつつ納戸の障子より、西家の子、犬張子を弄びながら、日向の縁より、人懐しげに瞻りぬ。 甲冑堂 橘南谿が東遊記に、陸前国苅田郡高福寺なる甲冑堂の婦人像を記せるあり。 奥州白石の城下より一里半南に、才川と云う駅あり。この才川の町末に、高福寺という寺あり。奥州筋近来の凶作にこの寺も大破に及び、住持となりても食物乏しければ僧も不住、明寺となり、本尊だに何方へ取納めしにや寺には見えず、庭は草深く、誠に狐梟のすみかというも余あり。この寺中に又一ツの小堂あり。俗に甲冑堂という。堂の書附には故将堂とあり、大さ纔に二間四方許の小堂なり。本尊だに右の如くなれば、この小堂の破損はいう迄もなし、ようように縁にあがり見るに、内に仏とてもなく、唯婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。 これ、佐藤継信忠信兄弟の妻、二人都にて討死せしのち、その母の泣悲しむがいとしさに、我が夫の姿をまなび、老いたる人を慰めたる、優しき心をあわれがりて時の人木像に彫みしものなりという。 この物語を聞き、この像を拝するにそぞろに落涙せり。(略)かく荒れ果てたる小堂の雨風をだに防ぎかねて、彩色も云々。 甲冑堂の婦人像のあわれに絵の具のあせたるが、遥けき大空の雲に映りて、虹より鮮明に、優しく読むものの目に映りて、その人あたかも活けるがごとし。われらこの烈しき大都会の色彩を視むるもの、奥州辺の物語を読み、その地の婦人を想像するに、大方は安達ヶ原の婆々を想い、もっぺ穿きたる姉をおもい、紺の褌の媽々をおもう。同じ白石の在所うまれなる、宮城野と云い信夫と云うを、芝居にて見たるさえ何とやらん初鰹の頃は嬉しからず。ただ南谿が記したる姉妹のこの木像のみ、外ヶ浜の沙漠の中にも緑水のあたり、花菖蒲、色のしたたるを覚ゆる事、巴、山吹のそれにも優れり。幼き頃より今もまた然り。 元禄の頃の陸奥千鳥には――木川村入口に鐙摺の岩あり、一騎立の細道なり、少し行きて右の方に寺あり、小高き所、堂一宇、継信、忠信の両妻、軍立の姿にて相双び立つ。 軍めく二人の嫁や花あやめ また、安永中の続奥の細道には――故将堂女体、甲冑を帯したる姿、いと珍し、古き像にて、彩色の剥げて、下地なる胡粉の白く見えたるは、 卯の花や縅し毛ゆらり女武者 としるせりとぞ。この両様とも悉しくその姿を記さざれども、一読の際、われらが目には、東遊記に写したると同じ状に見えていと床し。 |
ポルトガルから、一羽のアヒルがやってきました。もっとも、スペインからきたんだ、という人もありましたがね。でも、そんなことは、どっちでもいいのです。ともかく、そのアヒルは、ポルトガル種と呼ばれました。卵を生みましたが、やがて殺されて、料理されました。これが、そのアヒルの一生でした。 その卵から生れてきたものは、みんな、ポルトガル種と呼ばれました。ポルトガル種と言われるだけで、もうかなり重要なことなのです。 さて、この一家の中で、今このアヒルの庭にのこっているのは、たった一羽きりでした。ここは、アヒルの庭とはいっても、ニワトリたちもはいってきますし、オンドリなどは、いばりくさって歩きまわっていました。 「あのけたたましい鳴き声を聞くと、気分がわるくなってしまうわ」と、ポルトガル種の奥さんは言いました。「でも、見たところはきれいね。それは、うそとはいえないわ。アヒルじゃないけどもさ。もうすこし、自分をおさえりゃいいのに。だけど、自分をおさえるってことは、むずかしいことだから、高い教養がなくちゃできないわ。 でも、おとなりの庭の、ボダイジュにとまっている、歌うたいの小鳥さんたちには、それがあるわ。あのかわいらしい歌いかたといったら! あの歌の中には、なにかしら、しみじみとした調子があるわ。あれこそ、ポルトガル調よ! ああいう歌をうたう小鳥が、一羽でも、わたしの子供になってくれたら、わたしはやさしい、親切なおかあさんになってやるわ。だって、そういう性質は、わたしの血の中に、このポルトガル種の血の中にあるんですもの」 こんなふうに、ポルトガル奥さんが、おしゃべりをしていると、その歌をうたう小鳥が落ちてきました。小鳥は、屋根の上から、まっさかさまに落ちてきました。ネコに、うしろからおそわれたのです。でも、羽を一枚折られただけで、逃げだすことができたのです。そうして、このアヒルの庭の中へ、落ちてきたのでした。 「そりゃあ、あのならず者の、ネコらしいやりかただよ」と、ポルトガル奥さんは言いました。「あいつは、わたしの子どもたちが生きていたときから、ああいうふうなんだよ。あんなやつが、大きな顔をして、屋根の上を歩きまわっていられるんだからねえ! ポルトガルなら、こんなことはないと思うわ」 そして、その歌うたいの小鳥を、かわいそうに思いました。ポルトガル種でない、ほかのアヒルたちも、同じようにかわいそうに思いました。 「かわいそうにねえ」と、ほかのアヒルたちが、あとからあとからやってきては、言いました。 「わたしたちは、自分で歌をうたうことはできないけれど」と、みんなは言いました。「でも、からだの中に、歌の下地というようなものを持っているわ。わたしたちは、それを口に出して言いはしないけど、みんなそう感じてはいるのよ」 「それじゃ、わたしが言いましょう」と、ポルトガル奥さんは言いました。「わたしはね、この小鳥のために、なにかしてやりたいんですよ。それが、わたしたちの義務なんですもの」 こう言うと、ポルトガル奥さんは、水桶の中にはいって、水をピシャピシャはねかしました。おかげで、歌をうたう小鳥は、頭から水をかぶって、もうすこしで、おぼれそうになりました。けれども、それは、親切な気持からしたことでした。 「これは、親切な行いというものよ」と、ポルトガル奥さんは言いました。「ほかのかたも、まねをなさるといいわ」 「ピー、ピー」と、小鳥は鳴きました。羽根が一枚折れているので、からだを、ぶるっとふるわすことはできませんでした。でも、親切な気持から、水をかけられたのだということは、よくわかりました。「奥さんは、ほんとにおやさしいかたですね」と、小鳥は言いましたが、もう、水をあびるのは、たくさんでした。 「わたしは、自分の気持なんて、考えてみたこともないわ」と、ポルトガル奥さんは言いました。「だけど、わたしは、どんな生き物をも愛しているわ。それは、自分でもよく知っていてよ。でも、ネコだけはべつ。わたしに、ネコを愛せと言ったって、それはだめだわ。だって、あいつは、わたしの家族のものを、二羽も食べてしまったんですもの。 ところで、おまえさん、自分の家にいるつもりで、らくになさいね。すぐ、なれるわよ。わたし自身は、外国生れなのよ。そりゃあ、おまえさんだって、わたしの身のこなしや、羽のぐあいを見れば、おわかりだろうけどね。わたしの夫は、ここの土地のもので、わたしと同じ血すじじゃないの。だからといって、わたしは、いばったりはしないけど。――もし、ここで、おまえさんの気持をわかってくれるものがあるとしたら、それは、わたしのほかにはいないことよ」 「あの奥さんの頭の中には、ほら吹き貝がはいってるのさ!」と、ふつうの、若いアヒルが言いました。このアヒルは、とんち者だったのです。ほかの、ふつうのアヒルたちは、「ほら吹き貝」という音が、「ポルトガル」に似ているので、それを、たいそうおもしろがりました。そこで、みんなは、押しっこをして、ガー、ガー、このひとは、ほんとにとんちがあるよ、と言いました。それからは、みんなは、歌をうたう小鳥と、仲よしになりました。 「ポルトガル奥さんは、まったく話がうまいんだよ」と、みんなは言いました。「わたしたちのくちばしには、大げさな言葉はないけども、同情する気持においては、負けやしないよ。わたしたちは、あんたのために、なんにもしていないときは、だまっていることにしているんだよ。それが、いちばんいいことだと、わたしたちは思っているんだもの」 「おまえさんは、いい声をしておいでだね」と、みんなの中で、いちばん年とったアヒルが言いました。「おまえさんのように、ずいぶん大ぜいのひとたちを、よろこばせていたら、さぞかし、自分も楽しいだろうね。わたしにゃ、そんなことは、とってもできないよ。だから、わたしは、だまっているのさ。ほかのものが、ばかばかしいことを、おまえさんに言ってきかせるよりは、そのほうが、よっぽどましさ」 「その子を、いじめないでちょうだい」と、ポルトガル奥さんが言いました。「休ませて、看護してやらなくちゃならないのよ。ねえ、歌をうたう小鳥さん、もう一度水をあびせてあげましょうか?」 「いえ、いえ、それよりも、どうか、かわくようにさせてください!」と、小鳥はたのみました。 「水あびする、なおしかただけが、わたしにはきくんだけどね」と、ポルトガル奥さんは言いました。「気ばらしも、いいものよ。もうすぐ、おとなりのニワトリさんたちが、お客に来るわ。その中には、回教どれいとおつきあいしていた、中国のメンドリさんも、二羽いるわ。あのひとたちは、たいそう教育もあるし、それに、よその国からきたひとたちだから、つい、わたしは、尊敬したくなってしまうのよ」 やがて、そのメンドリたちが、やってきました。オンドリも、やってきました。オンドリは、きょうは、失礼なふるまいをしないように、たいそうぎょうぎよくしていました。 「きみは、ほんものの歌をうたう小鳥だね」と、オンドリは言いました。「そしてきみは、そのかわいらしい声で、そのかわいらしい声にふさわしいことを、なんでもやっているんだね。しかし、男性であることを、ひとに聞いてもらうのには、もっと機関車のような力を、持たなくちゃだめだね」 二羽の中国のニワトリは、歌うたいの小鳥をひとめ見ると、すっかり夢中になってしまいました。小鳥は、水をあびたために、羽がくしゃくしゃになっていました。そのようすが、なんとなく、中国のひよこに似ているように思われました。 「まあ、かわいらしいこと!」と、ニワトリたちは言って、小鳥と仲よしになりました。そして、ひそひそ声で、上流の中国人たちの話す言葉をつかって、チーチーおしゃべりをはじめました。 「わたしたちは、あなたとおんなじ種類なのよ。あのポルトガル奥さんにしたってそうだけど、アヒルさんたちは、みんな水鳥なのよ。あなただって、もう気がついているでしょう。わたしたちのことは、あなたは、まだ知らないわね。もっとも、わたしたちのことを知ってるものが、いったい、どのくらいあるでしょう! そうでなくても、知ろうとつとめるものが、どのくらいあるでしょう! ひとりも、いやしないわ。メンドリたちの中にだって、そんなひとはいないわ。わたしたちは、たいていのニワトリよりも、高い横木にとまるように、生れついているんだけどねえ。―― そんなことは、どっちだっていいわ。わたしたちは、ほかのひとたちのあいだにまじって、自分たちの静かな道を進んで行くのよ。ほかのひとたちは、わたしたちとは、考えがちがうわ。だけど、わたしたちは、いいほうばかりを見て、いいことだけを話しあうようにしているの。そうは言っても、なんにもないところに、なにかを見つけることは、できっこないけどね。 わたしたち二羽と、オンドリさんのほかには、才能があって、しかも正直なひとなんて、わたしたちのトリ小屋には、だれもいなくってよ! このアヒルの庭には、そんなひとは、ひとりもいやしないわ。 ねえ、歌うたいの小鳥さん。あなたに忠告しておくけど、あそこにいる、しっぽなしさんを信用しちゃいけないわよ。あのひとったら、ずるいんだから。それから、あそこの、羽に、ゆがんだ点々のある、まだらさんはね、ものすごいりくつやで、おまけに負けん気なのよ。それでいて、言うことは、いつもまちがいだらけだわ。―― あのでぶっちょのアヒルさんは、なんについてもわるく言うのよ。わたしたちの性質は、そういうのとはまるっきり反対よ。いいことが言えないんなら、だまっているべきだと思うわ。ポルトガル奥さんだけがすこしは教養もあって、つきあってもいいひとなのよ。だけど、あのひとは、すぐにかっとなりやすいし、それに、ポルトガルのことばっかし話しているんですもの」 「あの中国のニワトリさんたちは、ずいぶんひそひそ話をしているねえ」と、アヒルの夫婦が言いました。「まったく、うんざりするよ。わたしたちなんか、あのひとたちと、まだ一度も話したことはないけど」 そこへ、おすのアヒルが、やってきました。そして、歌をうたう小鳥を見ると、スズメだと思いこんでしまいました。 「うん、区別ができんね」と、おすのアヒルは言いました。「とにかく、どっちにしても、おんなじことさ。つまりは、おもちゃみたいなものだよ。そして、おもちゃは、やっぱり、おもちゃなのさ」 「あのひとの言うことなんか、気にしないでいらっしゃい!」と、ポルトガル奥さんがささやきました。「あれで、仕事にかけちゃ、なかなか感心なひとなのよ。なにしろ、仕事をいちばんだいじにしているんだからね。さてと、わたしは、ひと休みするとしよう。わたしたちは、まるまるふとらなくちゃならないんだからね。そうすりゃ、死んでからリンゴとスモモをつめて、ミイラにしてもらえるのよ」 こう言うと、ポルトガル奥さんは、日なたに寝ころんで、かたほうの目をパチパチやりました。寝ごこちはたいへんよく、気分もたいへんよく、そのうえ、たいへんよく眠れました。歌をうたう小鳥は、折れたつばさをそろえると、自分をまもってくれる、奥さんのそばにすりよって、寝ました。お日さまは、暖かく、キラキラとかがやいていました。そこは、ほんとうにすてきな場所でした。 おとなりのニワトリたちは、そのへんを歩きまわっては、地面をひっかいていました。このニワトリたちは、ほんとうは、ただえさがほしくて、ここへやってきていたのです。そのうちに、中国のニワトリが、まず出ていき、つづいて、ほかのニワトリたちも出ていきました。あのとんち者の、若いアヒルは、ポルトガル奥さんのことを、あのおばあさんは、もうすぐ、また「アヒルっ子」になるぜ、と言いました。すると、ほかのアヒルたちが、おもしろがって、ガー、ガー、さわぎたてました。 「アヒルっ子か! あいつは、まったくとんち者だよ」 それから、みんなは、また前のじょうだんの、「ほら吹き貝」をくりかえしました。そのようすは、ほんとにおもしろそうでした。それから、アヒルたちは、寝ころがりました。 みんなは、しばらくのあいだ、じっとしていました。と、とつぜん、なにか食べ物が、アヒルの庭に投げこまれました。バチャッ、と音がしました。すると、いままで眠っていた連中が、みんないっせいにはね起きて、羽をバタバタやりました。ポルトガル奥さんも、目をさまして、ころげまわりました。そのひょうしに、歌をうたう小鳥のからだを、いやというほど、ふみつけました。 「ピー、ピー!」と、小鳥は鳴きました。「いたいじゃありませんか、奥さん」 「なんだって、通り道なんかに、寝ているのさ!」と、奥さんは言いました。「そんなに神経質じゃだめだよ! わたしだって、神経はあるよ。でも、わたしは、一度だってピーなんて鳴いたことはないよ」 「おこらないでください」と、小鳥は言いました。「ピーって、つい、くちばしから出ちゃったんです」 ポルトガル奥さんは、もう、そんなことは聞いてもいませんでした。いそいで食べ物のほうへかけて行って、おいしいごちそうをひろいました。奥さんが食べおわって、また横になったとき、歌うたいの小鳥がそばへやってきました。そして、かわいらしいと言われるように、いっしょうけんめい歌をうたいました。 ピー ピー ピー! あなたの心のやさしさを、 大空高く飛びながら、 いつもわたしはうたいます。 |
スタンダアルとメリメとを比較した場合、スタンダアルはメリメよりも偉大であるが、メリメよりも芸術家ではないと云う。云う心はメリメよりも、一つ一つの作品に渾成の趣を与えなかった、或は与える才能に乏しかった、と云う事実を指したのであろう。この意味では菊池寛も、文壇の二三子と比較した場合、必しも卓越した芸術家ではない。たとえば彼の作品中、絵画的効果を収むべき描写は、屡、破綻を来しているようである。こう云う傾向の存する限り、微細な効果の享楽家には如何なる彼の傑作と雖も、十分の満足を与えないであろう。 ショオとゴオルスウアアズイとを比較した場合、ショオはゴオルスウアアズイよりも偉大であるが、ゴオルスウアアズイよりも芸術家ではないと云う。云う心の大部分は、純粋な芸術的感銘以外に作者の人生観なり、世界観なり兎に角或思想を吐露するのに、急であると云う意味であろう。この限りでは菊池寛も、文壇の二三子と比較した場合、謂う所の生一本の芸術家ではない。たとえば彼が世に出た以来、テエマ小説の語が起った如きは、この間の消息を語るものである。こう云う傾向の存する限り、絵画から伝説を駆逐したように、文芸からも思想を駆逐せんとする、芸術上の一神論には、菊池の作品の大部分は、十分の満足を与えないであろう。 この二点のいずれかに立てば、菊池寛は芸術家かどうか、疑問であると云うのも困難でない。しかしこの二つの「芸術家」と云う言葉は、それぞれ或限定に拠った言葉である。第一の意味の「芸術家」たる資格は、たとえばメリメと比較した場合、スタンダアルにも既に乏しかった。第二の意味の「芸術家」たる資格は、もっと狭い立ち場の問題である。して見れば菊池寛の作品を論ずる際、これらの尺度にのみ拠ろうとするのは、妥当を欠く非難を免れまい。では菊池寛の作品には、これらの割引を施した後にも、何か著しい特色が残っているか? 彼の価値を問う為には、まず此処に心を留むべきである。 何か著しい特色? ――世間は必ずわたしと共に、幾多の特色を数え得るであろう。彼の構想力、彼の性格解剖、彼のペエソス、――それは勿論彼の作品に、光彩を与えているのに相違ない。しかしわたしはそれらの背後に、もう一つ、――いや、それよりも遥かに意味の深い、興味のある特色を指摘したい。その特色とは何であるか? それは道徳的意識に根ざした、何物をも容赦しないリアリズムである。 菊池寛の感想を集めた「文芸春秋」の中に、「現代の作家は何人でも人道主義を持っている。同時に何人でもリアリストたらざる作家はない。」と云う意味を述べた一節がある。現代の作家は彼の云う通り大抵この傾向があるのに相違ない。しかし現代の作家の中でも、最もこの傾向の著しいものは、実に菊池寛自身である。彼は作家生涯を始めた時、イゴイズムの作家と云う貼り札を受けた。彼が到る所にイゴイズムを見たのは、勿論このリアリズムに裏書きを与えるものであろう。が、彼をしてリアリストたらしめたものは、明らかに道徳的意識の力である。砂の上に建てられた旧道徳を壊って、巌の上に新道徳を築かんとした内部の要求の力である。わたしは以前彼と共に、善とか美とか云う議論をした時、こう云った彼の風貌を未だにはっきりと覚えている。「そりゃ君、善は美よりも重大だね。僕には何と云っても重大だね。」――善は実に彼にとっては、美よりも重大なものであった。彼の爾後の作家生涯は、その善を探求すべき労作だったと称しても好い。この道徳的意識に根ざした、リアリスティックな小説や戯曲、――現代は其処に、恐らくは其処にのみ、彼等の代弁者を見出したのである。彼が忽ち盛名を負ったのは、当然の事だと云わなければならぬ。 彼は第一高等学校に在学中、「笑へるイブセン」と云う題の下に、バアナアド・ショオの評論を草した。人は彼の戯曲の中に、愛蘭土劇の与えた影響を数える。しかしわたしはそれよりも先に、戯曲と云わず小説と云わず、彼の観照に方向を与えた、ショオの影響を数え上げたい。ショオの言葉に従えば、「あらゆる文芸はジャアナリズムである。」こう云う意識があったかどうか、それは問題にしないでも好い。が、菊池はショオのように、細い線を選ぶよりも、太い線の画を描いて行った。その画は微細な効果には乏しいにしても、大きい情熱に溢れていた事は、我々友人の間にさえ打ち消し難い事実である。(天下に作家仲間の友人程、手厳しい鑑賞家が見出されるであろうか?)この事実の存する限り、如何に割引きを加えて見ても、菊池の力量は争われない。菊池は Parnassus に住む神々ではないかも知れぬ。が、その力量は風貌と共に宛然 Pelion に住む巨人のものである。 |
二丁目の我が借家の地主、江戸児にて露地を鎖さず、裏町の木戸には無用の者入るべからずと式の如く記したれど、表門には扉さへなく、夜が更けても通行勝手なり。但知己の人の通り抜け、世話に申す素通りの無用たること、我が思もかはらず、然りながらお附合五六軒、美人なきにしもあらずと雖も、濫に垣間見を許さず、軒に御神燈の影なく、奥に三味の音の聞ゆる類にあらざるを以て、頬被、懐手、湯上りの肩に置手拭などの如何はしき姿を認めず、華主まはりの豆府屋、八百屋、魚屋、油屋の出入するのみ。 朝まだきは納豆売、近所の小学に通ふ幼きが、近路なれば五ツ六ツ袂を連ねて通る。お花やお花、撫子の花や矢車の花売、月の朔日十五日には二人三人呼び以て行くなり。やがて足駄の歯入、鋏磨、紅梅の井戸端に砥石を据ゑ、木槿の垣根に天秤を下ろす。目黒の筍売、雨の日に蓑着て若柳の台所を覗くも床しや。物干の竹二日月に光りて、蝙蝠のちらと見えたる夏もはじめつ方、一夕、出窓の外を美しき声して売り行くものあり、苗や玉苗、胡瓜の苗や茄子の苗と、其の声恰も大川の朧に流るゝ今戸あたりの二上りの調子に似たり。一寸苗屋さんと、窓から呼べば引返すを、小さき木戸を開けて庭に通せば、潜る時、笠を脱ぎ、若き男の目つき鋭からず、頬の円きが莞爾莞爾して、へい〳〵召しましと荷を下ろし、穎割葉の、蒼き鶏冠の、いづれも勢よきを、日に焼けたる手して一ツ一ツ取出すを、としより、弟、またお神楽座一座の太夫、姓は原口、名は秋さん、呼んで女形といふ容子の可いのと、皆縁側に出でて、見るもの一ツとして欲しからざるは無きを、初鰹は買はざれども、昼のお肴なにがし、晩のお豆府いくらと、先づ帳合を〆めて、小遣の中より、大枚一歩が処、苗七八種をずばりと買ふ、尤も五坪には過ぎざる庭なり。 隠元、藤豆、蓼、茘枝、唐辛、所帯の足と詈りたまひそ、苗売の若衆一々名に花を添へていふにこそ、北海道の花茘枝、鷹の爪の唐辛、千成りの酸漿、蔓なし隠元、よしあしの大蓼、手前商ひまするものは、皆玉揃ひの唐黍と云々。 朝顔の苗、覆盆子の苗、花も実もある中に、呼声の仰々しきが二ツありけり、曰く牡丹咲の蛇の目菊、曰くシヽデンキウモン也。愚弟直に聞き惚れて、賢兄お買ひな〳〵と言ふ、こゝに牡丹咲の蛇の目菊なるものは所謂蝦夷菊也。これは……九代の後胤平の、……と平家の豪傑が名乗れる如く、のの字二ツ附けたるは、売物に花の他ならず。シヽデンキウモンに至りては、其の何等の物なるやを知るべからず、苗売に聞けば類なきしをらしき花ぞといふ、蝦夷菊はおもしろし、其の花しをらしといふに似ず、厳しくシヽデンキウモンと呼ぶを嘲けるにあらねど、此の二種、一歩の外、別に五銭なるを如何せん。 然れども甚六なるもの、豈夫白銅一片に辟易して可ならんや。即ち然り気なく、諭して曰く、汝若輩、シヽデンキウモンに私淑したりや、金毛九尾ぢやあるまいしと、二階に遁げ上らんとする袂を捕へて、可いぢやないかお買ひよ、一ツ咲いたつて花ぢやないか。旦那だまされたと思し召してと、苗売も勧めて止まず、僕が植ゑるからと女形も頻に口説く、皆キウモンの名に迷へる也。長歎して別に五百を奢る。 垣に朝顔、藤豆を植ゑ、蓼を海棠の下に、蝦夷菊唐黍を茶畑の前に、五本三本培ひつ。彼の名にしおふシヽデンは庭の一段高き処、飛石の傍に植ゑたり。此処に予め遊蝶花、長命菊、金盞花、縁日名代の豪のもの、白、紅、絞、濃紫、今を盛に咲競ふ、中にも白き花紫雲英、一株方五尺に蔓り、葉の大なること掌の如く、茎の長きこと五寸、台を頂く日に二十を下らず、蓋し、春寒き朝、めづらしき早起の折から、女形とともに道芝の霜を分けてお濠の土手より得たるもの、根を掘らんとして、袂に火箸を忍ばせしを、羽織の袖の破目より、思がけず路に落して、大に台所道具に事欠きし、経営惨憺仇ならず、心なき草も、あはれとや繁りけん。シヽデンキウモンの苗なるもの、二日三日の中に、此の紫雲英の葉がくれに見えずなりぬ。 茘枝の小さきも活々して、藤豆の如き早や蔓の端も見え初むるを、徒に名の大にして、其の実の小なる、葉の形さへ定ならず。二筋三筋すく〳〵と延びたるは、荒れたる庭に挘り果つべくも覚えぬが、彼処に消えて此処に顕れけむ、其処に又彼処に、シヽデンに似たる雑草数ふるに尽きず、弟はもとより、はじめは殊に心を籠めて、水などやりたる秋さんさへ、いひ効なきに呆れ果てて、罵倒すること斜ならず。草が蔓るは、又してもキウモンならんと、以来然もなくて唯呼声のいかめしき渾名となりて、今日は御馳走があるよ、といふ時、弟も秋さんも、蔭で呟いて、シヽデンかとばかりなりけり。 日を経るまゝに何事も言はずなりし、不図其のシヽデンの菜に昼食の後、庭を視むることありしに、雲の如き紫雲英に交りて小さき薄紫の花二ツ咲出でたり。立寄りて草を分けて見れば、形菫よりは大ならず、六瓣にして、其薄紫の花片に濃き紫の筋あり、蕋の色黄に、茎は糸より細く、葉は水仙に似て浅緑柔かう、手にせば消えなむばかりなり。苗なりし頃より見覚えつ、紛ふべくもあらぬシヽデンなれば、英雄人を欺むけども、苗売我を愚になさず、と皆打寄りて、土ながら根を掘りて鉢に植ゑ、水やりて縁に差置き、とみかう見るうち、品も一段打上りて、縁日ものの比にあらず、夜露に濡れしが、翌日は花また二ツ咲きぬ、いづれも入相の頃しぼみて東雲に別なるが開く、三朝にして四日目の昼頃見れば花唯一ツのみ、葉もしをれ、根も乾きて、昨日には似ぬ風情、咲くべき蕾も探し当てず、然ればこそシヽデンなりけれ、申訳だけに咲いたわと、すげなくも謂ひけるよ。 翌朝、例の秋さん、二階へ駈上る跫音高く、朝寝の枕を叩きて、起きよ、心なき人、人心なく花却つて情あり、昨、冷かにいひおとしめしを恥ぢたりけん、シヽデンの花、開くこと、今朝一時に十一と、慌しく起出でて鉢を抱けば花菫野山に満ちたる装なり。見つゝ思はず悚然として、いしくも咲いたり、可愛き花、薊、鬼百合の猛くんば、我が言に憤りもせめ、姿形のしをらしさにつけ、汝優しき心より、百年の齢を捧げて、一朝の盛を見するならずや、いかばかり、我を怨みなんと、あはれさ言ふべくもあらず。漱ぎ果てつ、書斎なる小机に据ゑて、人なき時、端然として、失言を謝す。然も夕にはしをれんもの、願くば、葉の命だに久しかれ、荒き風にも当つべきか。なほ心安からず、みづから我が心なかりしを悔いたりしに、次の朝に至りて更に十三の花咲けり、嬉しさいふべからず、やよや人々又シヽデンといふことなかれ、我が家のものいふ花ぞと、いとせめて愛であへりし、其の日、日曜にて宙外君立寄らる。 |
土用波という高い波が風もないのに海岸に打寄せる頃になると、海水浴に来ている都の人たちも段々別荘をしめて帰ってゆくようになります。今までは海岸の砂の上にも水の中にも、朝から晩まで、沢山の人が集って来て、砂山からでも見ていると、あんなに大勢な人間が一たい何所から出て来たのだろうと不思議に思えるほどですが、九月にはいってから三日目になるその日には、見わたすかぎり砂浜の何所にも人っ子一人いませんでした。 私の友達のMと私と妹とはお名残だといって海水浴にゆくことにしました。お婆様が波が荒くなって来るから行かない方がよくはないかと仰有ったのですけれども、こんなにお天気はいいし、風はなしするから大丈夫だといって仰有ることを聞かずに出かけました。 丁度昼少し過ぎで、上天気で、空には雲一つありませんでした。昼間でも草の中にはもう虫の音がしていましたが、それでも砂は熱くって、裸足だと時々草の上に駈け上らなければいられないほどでした。Mはタオルを頭からかぶってどんどん飛んで行きました。私は麦稈帽子を被った妹の手を引いてあとから駈けました。少しでも早く海の中につかりたいので三人は気息を切って急いだのです。 紆波といいますね、その波がうっていました。ちゃぷりちゃぷりと小さな波が波打際でくだけるのではなく、少し沖の方に細長い小山のような波が出来て、それが陸の方を向いて段々押寄せて来ると、やがてその小山のてっぺんが尖って来て、ざぶりと大きな音をたてて一度に崩れかかるのです。そうすると暫らく間をおいてまたあとの波が小山のように打寄せて来ます。そして崩れた波はひどい勢いで砂の上に這い上って、そこら中を白い泡で敷きつめたようにしてしまうのです。三人はそうした波の様子を見ると少し気味悪くも思いました。けれども折角そこまで来ていながら、そのまま引返すのはどうしてもいやでした。で、妹に帽子を脱がせて、それを砂の上に仰向けにおいて、衣物やタオルをその中に丸めこむと私たち三人は手をつなぎ合せて水の中にはいってゆきました。 「ひきがしどいね」 とMがいいました。本当にその通りでした。ひきとは水が沖の方に退いて行く時の力のことです。それがその日は大変強いように私たちは思ったのです。踝くらいまでより水の来ない所に立っていても、その水が退いてゆく時にはまるで急な河の流れのようで、足の下の砂がどんどん掘れるものですから、うっかりしていると倒れそうになる位でした。その水の沖の方に動くのを見ていると眼がふらふらしました。けれどもそれが私たちには面白くってならなかったのです。足の裏をくすむるように砂が掘れて足がどんどん深く埋まってゆくのがこの上なく面白かったのです。三人は手をつないだまま少しずつ深い方にはいってゆきました。沖の方を向いて立っていると、膝の所で足がくの字に曲りそうになります。陸の方を向いていると向脛にあたる水が痛い位でした。両足を揃えて真直に立ったままどっちにも倒れないのを勝にして見たり、片足で立ちっこをして見たりして、三人は面白がって人魚のように跳ね廻りました。 その中にMが膝位の深さの所まで行って見ました。そうすると紆波が来る度ごとにMは脊延びをしなければならないほどでした。それがまた面白そうなので私たちも段々深味に進んでゆきました。そして私たちはとうとう波のない時には腰位まで水につかるほどの深味に出てしまいました。そこまで行くと波が来たらただ立っていたままでは追付きません。どうしてもふわりと浮き上らなければ水を呑ませられてしまうのです。 ふわりと浮上ると私たちは大変高い所に来たように思いました。波が行ってしまうので地面に足をつけると海岸の方を見ても海岸は見えずに波の脊中だけが見えるのでした。その中にその波がざぶんとくだけます。波打際が一面に白くなって、いきなり砂山や妹の帽子などが手に取るように見えます。それがまたこの上なく面白かったのです。私たち三人は土用波があぶないということも何も忘れてしまって波越しの遊びを続けさまにやっていました。 「あら大きな波が来てよ」 と沖の方を見ていた妹が少し怖そうな声でこういきなりいいましたので、私たちも思わずその方を見ると、妹の言葉通りに、これまでのとはかけはなれて大きな波が、両手をひろげるような恰好で押寄せて来るのでした。泳ぎの上手なMも少し気味悪そうに陸の方を向いていくらかでも浅い所まで遁げようとした位でした。私たちはいうまでもありません。腰から上をのめるように前に出して、両手をまたその前に突出して泳ぐような恰好をしながら歩こうとしたのですが、何しろひきがひどいので、足を上げることも前にやることも思うようには出来ません。私たちはまるで夢の中で怖い奴に追いかけられている時のような気がしました。 後から押寄せて来る波は私たちが浅い所まで行くのを待っていてはくれません。見る見る大きく近くなって来て、そのてっぺんにはちらりちらりと白い泡がくだけ始めました。Mは後から大声をあげて、 「そんなにそっちへ行くと駄目だよ、波がくだけると捲きこまれるよ。今の中に波を越す方がいいよ」 といいました。そういわれればそうです。私と妹とは立止って仕方なく波の来るのを待っていました。高い波が屏風を立てつらねたように押寄せて来ました。私たち三人は丁度具合よくくだけない中に波の脊を越すことが出来ました。私たちは体をもまれるように感じながらもうまくその大波をやりすごすことだけは出来たのでした。三人はようやく安心して泳ぎながら顔を見合せてにこにこしました。そして波が行ってしまうと三人ながら泳ぎをやめてもとのように底の砂の上に立とうとしました。 ところがどうでしょう、私たちは泳ぎをやめると一しょに、三人ながらずぼりと水の中に潜ってしまいました。水の中に潜っても足は砂にはつかないのです。私たちは驚きました。慌てました。そして一生懸命にめんかきをして、ようやく水の上に顔だけ出すことが出来ました。その時私たち三人が互に見合せた眼といったら、顔といったらありません。顔は真青でした。眼は飛び出しそうに見開いていました。今の波一つでどこか深い所に流されたのだということを私たちはいい合わさないでも知ることが出来たのです。いい合わさないでも私たちは陸の方を眼がけて泳げるだけ泳がなければならないということがわかったのです。 三人は黙ったままで体を横にして泳ぎはじめました。けれども私たちにどれほどの力があったかを考えて見て下さい。Mは十四でした。私は十三でした。妹は十一でした。Mは毎年学校の水泳部に行っていたので、とにかくあたり前に泳ぐことを知っていましたが、私は横のし泳ぎを少しと、水の上に仰向けに浮くことを覚えたばかりですし、妹はようやく板を離れて二、三間泳ぐことが出来るだけなのです。 御覧なさい私たちは見る見る沖の方へ沖の方へと流されているのです。私は頭を半分水の中につけて横のしでおよぎながら時々頭を上げて見ると、その度ごとに妹は沖の方へと私から離れてゆき、友達のMはまた岸の方へと私から離れて行って、暫らくの後には三人はようやく声がとどく位お互に離ればなれになってしまいました。そして波が来るたんびに私は妹を見失ったりMを見失ったりしました。私の顔が見えると妹は後の方からあらん限りの声をしぼって 「兄さん来てよ……もう沈む……苦しい」 と呼びかけるのです。実際妹は鼻の所位まで水に沈みながら声を出そうとするのですから、その度ごとに水を呑むと見えて真蒼な苦しそうな顔をして私を睨みつけるように見えます。私も前に泳ぎながら心は後にばかり引かれました。幾度も妹のいる方へ泳いで行こうかと思いました。けれども私は悪い人間だったと見えて、こうなると自分の命が助かりたかったのです。妹の所へ行けば、二人とも一緒に沖に流されて命がないのは知れ切っていました。私はそれが恐ろしかったのです。何しろ早く岸について漁夫にでも助けに行ってもらう外はないと思いました。今から思うとそれはずるい考えだったようです。 でもとにかくそう思うと私はもう後も向かずに無我夢中で岸の方を向いて泳ぎ出しました。力が無くなりそうになると仰向に水の上に臥て暫らく気息をつきました。それでも岸は少しずつ近づいて来るようでした。一生懸命に……一生懸命に……、そして立泳ぎのようになって足を砂につけて見ようとしたら、またずぶりと頭まで潜ってしまいました。私は慌てました。そしてまた一生懸命で泳ぎ出しました。 立って見たら水が膝の所位しかない所まで泳いで来ていたのはそれからよほどたってのことでした。ほっと安心したと思うと、もう夢中で私は泣声を立てながら、 「助けてくれえ」 といって砂浜を気狂いのように駈けずり廻りました。見るとMは遥かむこうの方で私と同じようなことをしています。私は駈けずりまわりながらも妹の方を見ることを忘れはしませんでした。波打際から随分遠い所に、波に隠れたり現われたりして、可哀そうな妹の頭だけが見えていました。 浜には船もいません、漁夫もいません。その時になって私はまた水の中に飛び込んで行きたいような心持ちになりました。大事な妹を置きっぱなしにして来たのがたまらなく悲しくなりました。 その時Mが遥かむこうから一人の若い男の袖を引ぱってこっちに走って来ました。私はそれを見ると何もかも忘れてそっちの方に駈け出しました。若い男というのは、土地の者ではありましょうが、漁夫とも見えないような通りがかりの人で、肩に何か担っていました。 「早く……早く行って助けて下さい……あすこだ、あすこだ」 私は、涙を流し放題に流して、地だんだをふまないばかりにせき立てて、震える手をのばして妹の頭がちょっぴり水の上に浮んでいる方を指しました。 若い男は私の指す方を見定めていましたが、やがて手早く担っていたものを砂の上に卸し、帯をくるくると解いて、衣物を一緒にその上におくと、ざぶりと波を切って海の中にはいって行ってくれました。 私はぶるぶる震えて泣きながら、両手の指をそろえて口の中へ押こんで、それをぎゅっと歯でかみしめながら、その男がどんどん沖の方に遠ざかって行くのを見送りました。私の足がどんな所に立っているのだか、寒いのだか、暑いのだか、すこしも私には分りません。手足があるのだかないのだかそれも分りませんでした。 抜手を切って行く若者の頭も段々小さくなりまして、妹との距たりが見る見る近よって行きました。若者の身のまわりには白い泡がきらきらと光って、水を切った手が濡れたまま飛魚が飛ぶように海の上に現われたり隠れたりします。私はそんなことを一生懸命に見つめていました。 とうとう若者の頭と妹の頭とが一つになりました。私は思わず指を口の中から放して、声を立てながら水の中にはいってゆきました。けれども二人がこっちに来るののおそいことおそいこと。私はまた何の訳もなく砂の方に飛び上りました。そしてまた海の中にはいって行きました。如何してもじっとして待っていることが出来ないのです。 妹の頭は幾度も水の中に沈みました。時には沈み切りに沈んだのかと思うほど長く現われて来ませんでした。若者も如何かすると水の上には見えなくなりました。そうかと思うと、ぽこんと跳ね上るように高く水の上に現われ出ました。何んだか曲泳ぎでもしているのではないかと思われるほどでした。それでもそんなことをしている中に、二人は段々岸近くなって来て、とうとうその顔までがはっきり見える位になりました。が、そこいらは打寄せる波が崩れるところなので、二人はもろともに幾度も白い泡の渦巻の中に姿を隠しました。やがて若者は這うようにして波打際にたどりつきました。妹はそんな浅みに来ても若者におぶさりかかっていました。私は有頂天になってそこまで飛んで行きました。 飛んで行って見て驚いたのは若者の姿でした。せわしく深く気息をついて、体はつかれ切ったようにゆるんでへたへたになっていました。妹は私が近づいたのを見ると夢中で飛んで来ましたがふっと思いかえしたように私をよけて砂山の方を向いて駈け出しました。その時私は妹が私を恨んでいるのだなと気がついて、それは無理のないことだと思うと、この上なく淋しい気持ちになりました。 それにしても友達のMは何所に行ってしまったのだろうと思って、私は若者のそばに立ちながらあたりを見廻すと、遥かな砂山の所をお婆様を助けながら駈け下りて来るのでした。妹は早くもそれを見付けてそっちに行こうとしているのだとわかりました。 それで私は少し安心して、若者の肩に手をかけて何かいおうとすると、若者はうるさそうに私の手を払いのけて、水の寄せたり引いたりする所に坐りこんだまま、いやな顔をして胸のあたりを撫でまわしています。私は何んだか言葉をかけるのさえためらわれて黙ったまま突立っていました。 「まああなたがこの子を助けて下さいましたんですね。お礼の申しようも御座んせん」 すぐそばで気息せき切ってしみじみといわれるお婆様の声を私は聞きました。妹は頭からずぶ濡れになったままで泣きじゃくりをしながらお婆様にぴったり抱かれていました。 私たち三人は濡れたままで、衣物やタオルを小脇に抱えてお婆様と一緒に家の方に帰りました。若者はようやく立上って体を拭いて行ってしまおうとするのをお婆様がたって頼んだので、黙ったまま私たちのあとから跟いて来ました。 家に着くともう妹のために床がとってありました。妹は寝衣に着かえて臥かしつけられると、まるで夢中になってしまって、熱を出して木の葉のようにふるえ始めました。お婆様は気丈な方で甲斐々々しく世話をすますと、若者に向って心の底からお礼をいわれました。若者は挨拶の言葉も得いわないような人で、唯黙ってうなずいてばかりいました。お婆様はようやくのことでその人の住っている所だけを聞き出すことが出来ました。若者は麦湯を飲みながら、妹の方を心配そうに見てお辞儀を二、三度して帰って行ってしまいました。 「Mさんが駈けこんで来なすって、お前たちのことをいいなすった時には、私は眼がくらむようだったよ。おとうさんやお母さんから頼まれていて、お前たちが死にでもしたら、私は生きてはいられないから一緒に死ぬつもりであの砂山をお前、Mさんより早く駈け上りました。でもあの人が通り合せたお蔭で助かりはしたもののこわいことだったねえ、もうもう気をつけておくれでないとほんに困りますよ」 お婆様はやがてきっとなって私を前にすえてこう仰有いました。日頃はやさしいお婆様でしたが、その時の言葉には私は身も心もすくんでしまいました。少しの間でも自分一人が助かりたいと思った私は、心の中をそこら中から針でつかれるようでした。私は泣くにも泣かれないでかたくなったままこちんとお婆様の前に下を向いて坐りつづけていました。しんしんと暑い日が縁の向うの砂に照りつけていました。 若者の所へはお婆様が自分で御礼に行かれました。そして何か御礼の心でお婆様が持って行かれたものをその人は何んといっても受取らなかったそうです。 |
水族館の近所にある植込を見ると茶の木が一、二本眼につくでしょう。あれは昔の名残で、明治の初年には、あの辺一帯茶畠で、今活動写真のある六区は田でした。これが種々の変遷を経て、今のようになったのですから、浅草寺寺内のお話をするだけでもなかなか容易な事ではありません。その中で私は面白い事を選んでお話しましょう。 明治の八、九年頃、寺内にいい合わしたように変人が寄り集りました。浅草寺寺内の奇人団とでも題を附けましょうか、その筆頭には先ず私の父の椿岳を挙げます。私の父も伯父も浅草寺とは種々関係があって、父は公園の取払になるまで、あの辺一帯の開拓者となって働きましたし、伯父は浅草寺の僧侶の取締みたような役をしていました。ところで父は変人ですから、人に勧められるままに、御経も碌々読めない癖に、淡島堂の堂守となりました。それで堂守には、坊主の方がいいといって、頭をクリクリ坊主にした事がありました。ところで有難い事に、淡島堂に参詣の方は、この坊主がお経を出鱈目によむのを御存知なく、椿岳さんになってから、お経も沢山誦んで下さるし、御蝋燭も沢山つけて下さる、と悦んで礼をいいましたね。堂守になる前には仁王門の二階に住んでいました。(仁王門に住むとは今から考えたら随分奇抜です。またそれを見ても当時浅草寺の秩序がなかったのが判ります。)この仁王門の住居は出入によほど不自由でしたが、それでもかなり長く住んでいました。後になっては画家の鏑木雪庵さんに頼んで、十六羅漢の絵をかいて貰って、それを陳列して参詣の人々を仁王門に上らせてお茶を飲ませた事がありました。それから父は瓢箪池の傍で万国一覧という覗眼鏡を拵えて見世物を開きました。眼鏡の覗口は軍艦の窓のようで、中には普仏戦争とか、グリーンランドの熊狩とか、そんな風な絵を沢山に入れて、暗くすると夜景となる趣向をしましたが、余り繁昌したので面倒になり知人ででもなければ滅多にこの夜景と早替りの工夫をして見せませんでした。このレンズは初め土佐の山内侯が外国から取寄せられたもので、それが渡り渡って典物となり、遂に父の手に入ったもので、当時よほど珍物に思われていたものと見えます。その小屋の看板にした万国一覧の四字は、西郷さんが、まだ吉之助といっていた頃に書いて下さったものだといいます。それで眼鏡を見せ、お茶を飲ませて一銭貰ったのです。処で例の新門辰五郎が、見世物をするならおれの処に渡りをつけろ、といって来た事がありました。しかし父は変人ですし、それに水戸の藩から出た武士気質は、なかなか一朝一夕にぬけないで、新門のいう話なぞはまるで初めから取合わず、この興行の仕舞まで渡りをつけないで、別派の見世物として取扱われていたのでした。 それから次には伊井蓉峰の親父さんのヘヾライさん。まるで毛唐人のような名前ですが、それでも江戸ッ子です。何故ヘヾライと名を附けたかというと、これにはなかなか由来があります。これは変人の事を変方来な人といって、この変方来を、もう一つ通り越したのでヘヾライだという訳だそうです。このヘヾライさんは、写真屋を始めてなかなか繁昌しました。写真師ではこの人の他に、北庭筑波、その弟子に花輪吉野などいうやはり奇人がいました。 次に、久里浜で外国船が来たのを、十里離れて遠眼鏡で見て、それを注進したという、あの名高い、下岡蓮杖さんが、やはり寺内で函館戦争、台湾戦争の絵をかいて見せました。これは今でも九段の遊就館にあります。この他、浅草で始めて電気の見世物をかけたのは広瀬じゅこくさんで、太鼓に指をふれると、それが自然に鳴ったり、人形の髪の毛が自然に立ったりする処を見せました。 曲馬が東京に来た初めでしょう。仏蘭西人のスリエというのが、天幕を張って寺内で興行しました。曲馬の馬で非常にいいのを沢山外国から連れて来たもので、私などは毎日のように出掛けて、それを見せてもらいました。この連中に、英国生れの力持がいて、一人で大砲のようなものを担ぎあげ、毎日ドンドンえらい音を立てたので、一時は観音様の鳩が一羽もいなくなりました。 それから最後に狸の騒動があった話をしましょう。ただ今の六区辺は淋しい処で、田だの森だのがありました。それを開いたのは、大橋門蔵という百姓でした。森の木を伐ったり、叢を刈ったりしたので、隠れ家を奪われたと見えて、幾匹かの狸が伝法院の院代をしている人の家の縁の下に隠れて、そろそろ持前の悪戯を始めました。ちょっと申せば、天井から石を投げたり、玄関に置いた下駄を、台所の鍋の中に並べて置いたり、木の葉を座敷に撒いたり、揚句の果には、誰かが木の葉がお金であったらいいといったのを聞いたとかで、観音様の御賽銭をつかみ出して、それを降らせたりしたので、その騒ぎといったらありませんでした。前に申したスリエの曲馬で大砲をうった男が、よし来たというので、鉄砲をドンドン縁の下に打込む、それでもなお悪戯が止まなかったので、仕方がないから祀ってやろうとなって、祠を建てました。これは御狸様といって昔と位置は変っていますが、今でも区役所の傍にあります。 (明治四十五年四月『新小説』第十七年第四巻) ◇ その御狸様のお告げに、ここに祀ってくれた上からは永く浅草寺の火防の神として寺内安泰を計るであろうとのことであったということです。 今浅草寺ではこのお狸様を鎮護大使者として祀っています。当時私の父椿岳はこの祠堂に奉納額をあげましたが、今は遺っていないようです。 毎年三月の中旬に近い日に祭礼を催します。水商売の女性たちの参詣が盛んであるようですが、これは御鎮護様をオチンボサマに懸けた洒落参りなのかも知れません。 |
一 森の中。三人の盗人が宝を争っている。宝とは一飛びに千里飛ぶ長靴、着れば姿の隠れるマントル、鉄でもまっ二つに切れる剣――ただしいずれも見たところは、古道具らしい物ばかりである。 第一の盗人 そのマントルをこっちへよこせ。 第二の盗人 余計な事を云うな。その剣こそこっちへよこせ。――おや、おれの長靴を盗んだな。 第三の盗人 この長靴はおれの物じゃないか? 貴様こそおれの物を盗んだのだ。 第一の盗人 よしよし、ではこのマントルはおれが貰って置こう。 第二の盗人 こん畜生! 貴様なぞに渡してたまるものか。 第一の盗人 よくもおれを撲ったな。――おや、またおれの剣も盗んだな? 第三の盗人 何だ、このマントル泥坊め! 三人の者が大喧嘩になる。そこへ馬に跨った王子が一人、森の中の路を通りかかる。 王子 おいおい、お前たちは何をしているのだ? (馬から下りる) 第一の盗人 何、こいつが悪いのです。わたしの剣を盗んだ上、マントルさえよこせと云うものですから、―― 第三の盗人 いえ、そいつが悪いのです。マントルはわたしのを盗んだのです。 第二の盗人 いえ、こいつ等は二人とも大泥坊です。これは皆わたしのものなのですから、―― 第一の盗人 嘘をつけ! 第二の盗人 この大法螺吹きめ! 三人また喧嘩をしようとする。 王子 待て待て。たかが古いマントルや、穴のあいた長靴ぐらい、誰がとっても好いじゃないか? 第二の盗人 いえ、そうは行きません。このマントルは着たと思うと、姿の隠れるマントルなのです。 第一の盗人 どんなまた鉄の兜でも、この剣で切れば切れるのです。 第三の盗人 この長靴もはきさえすれば、一飛びに千里飛べるのです。 王子 なるほど、そう云う宝なら、喧嘩をするのももっともな話だ。が、それならば欲張らずに、一つずつ分ければ好いじゃないか? 第二の盗人 そんな事をしてごらんなさい。わたしの首はいつ何時、あの剣に切られるかわかりはしません。 第一の盗人 いえ、それよりも困るのは、あのマントルを着られれば、何を盗まれるか知れますまい。 第二の盗人 いえ、何を盗んだ所が、あの長靴をはかなければ、思うようには逃げられない訣です。 王子 それもなるほど一理窟だな。では物は相談だが、わたしにみんな売ってくれないか? そうすれば心配も入らないはずだから。 第一の盗人 どうだい、この殿様に売ってしまうのは? 第三の盗人 なるほど、それも好いかも知れない。 第二の盗人 ただ値段次第だな。 王子 値段は――そうだ。そのマントルの代りには、この赤いマントルをやろう、これには刺繍の縁もついている。それからその長靴の代りには、この宝石のはいった靴をやろう。この黄金細工の剣をやれば、その剣をくれても損はあるまい。どうだ、この値段では? 第二の盗人 わたしはこのマントルの代りに、そのマントルを頂きましょう。 第一の盗人と第三の盗人 わたしたちも申し分はありません。 王子 そうか。では取り換えて貰おう。 王子はマントル、剣、長靴等を取り換えた後、また馬の上に跨りながら、森の中の路を行きかける。 王子 この先に宿屋はないか? 第一の盗人 森の外へ出さえすれば「黄金の角笛」という宿屋があります。では御大事にいらっしゃい。 王子 そうか。ではさようなら。(去る) 第三の盗人 うまい商売をしたな。おれはあの長靴が、こんな靴になろうとは思わなかった。見ろ。止め金には金剛石がついている。 第二の盗人 おれのマントルも立派な物じゃないか? これをこう着た所は、殿様のように見えるだろう。 第一の盗人 この剣も大した物だぜ。何しろ柄も鞘も黄金だからな。――しかしああやすやす欺されるとは、あの王子も大莫迦じゃないか? 第二の盗人 しっ! 壁に耳あり、徳利にも口だ。まあ、どこかへ行って一杯やろう。 |
文政四年の師走である。加賀の宰相治修の家来に知行六百石の馬廻り役を勤める細井三右衛門と云う侍は相役衣笠太兵衛の次男数馬と云う若者を打ち果した。それも果し合いをしたのではない。ある夜の戌の上刻頃、数馬は南の馬場の下に、謡の会から帰って来る三右衛門を闇打ちに打ち果そうとし、反って三右衛門に斬り伏せられたのである。 この始末を聞いた治修は三右衛門を目通りへ召すように命じた。命じたのは必ずしも偶然ではない。第一に治修は聡明の主である。聡明の主だけに何ごとによらず、家来任せということをしない。みずからある判断を下し、みずからその実行を命じないうちは心を安んじないと云う風である。治修はある時二人の鷹匠にそれぞれみずから賞罰を与えた。これは治修の事を処する面目の一端を語っているから、大略を下に抜き書して見よう。 「ある時石川郡市川村の青田へ丹頂の鶴群れ下れるよし、御鳥見役より御鷹部屋へ御注進になり、若年寄より直接言上に及びければ、上様には御満悦に思召され、翌朝卯の刻御供揃い相済み、市川村へ御成りあり。鷹には公儀より御拝領の富士司の大逸物を始め、大鷹二基、鶽二基を擎えさせ給う。富士司の御鷹匠は相本喜左衛門と云うものなりしが、其日は上様御自身に富士司を合さんとし給うに、雨上りの畦道のことなれば、思わず御足もとの狂いしとたん、御鷹はそれて空中に飛び揚り、丹頂も俄かに飛び去りぬ。この様を見たる喜左衛門は一時の怒に我を忘れ、この野郎、何をしやがったと罵りけるが、たちまち御前なりしに心づき、冷汗背を沾すと共に、蹲踞してお手打ちを待ち居りしに、上様には大きに笑わせられ、予の誤じゃ、ゆるせと御意あり。なお喜左衛門の忠直なるに感じ給い、御帰城の後は新地百石に御召し出しの上、組外れに御差加えに相成り、御鷹部屋御用掛に被成給いしとぞ。 「その後富士司の御鷹は柳瀬清八の掛りとなりしに、一時病み鳥となりしことあり。ある日上様清八を召され、富士司の病はと被仰し時、すでに快癒の後なりしかば、すきと全治、ただいまでは人をも把り兼ねませぬと申し上げし所、清八の利口をや憎ませ給いけん、夫は一段、さらば人を把らせて見よと御意あり。清八は爾来やむを得ず、己が息子清太郎の天額にたたき餌小ごめ餌などを載せ置き、朝夕富士司を合せければ、鷹も次第に人の天額へ舞い下る事を覚えこみぬ。清八は取り敢ず御鷹匠小頭より、人を把るよしを言上しけるに、そは面白からん、明日南の馬場へ赴き、茶坊主大場重玄を把らせて見よと御沙汰あり。辰の刻頃より馬場へ出御、大場重玄をまん中に立たせ、清八、鷹をと御意ありしかば、清八はここぞと富士司を放つに、鷹はたちまち真一文字に重玄の天額をかい掴みぬ。清八は得たりと勇みをなしつつ、圜揚げ(圜トハ鳥ノ肝ヲ云)の小刀を隻手に引抜き、重玄を刺さんと飛びかかりしに、上様には柳瀬、何をすると御意あり。清八はこの御意をも恐れず、御鷹の獲物はかかり次第、圜を揚げねばなりませぬと、なおも重玄を刺さんとせし所へ、上様にはたちまち震怒し給い、筒を持てと御意あるや否や、日頃御鍛錬の御手銃にて、即座に清八を射殺し給う。」 第二に治修は三右衛門へ、ふだんから特に目をかけている。嘗乱心者を取り抑えた際に、三右衛門ほか一人の侍は二人とも額に傷を受けた。しかも一人は眉間のあたりを、三右衛門は左の横鬢を紫色に腫れ上らせたのである。治修はこの二人を召し、神妙の至りと云う褒美を与えた。それから「どうじゃ、痛むか?」と尋ねた。すると一人は「難有い仕合せ、幸い傷は痛みませぬ」と答えた。が、三右衛門は苦にがしそうに、「かほどの傷も痛まなければ、活きているとは申されませぬ」と答えた。爾来治修は三右衛門を正直者だと思っている。あの男はとにかく巧言は云わぬ、頼もしいやつだと思っている。 こう云う治修は今度のことも、自身こう云う三右衛門に仔細を尋ねて見るよりほかに近途はないと信じていた。 仰せを蒙った三右衛門は恐る恐る御前へ伺候した。しかし悪びれた気色などは見えない。色の浅黒い、筋肉の引き緊った、多少疳癖のあるらしい顔には決心の影さえ仄めいている。治修はまずこう尋ねた。 「三右衛門、数馬はそちに闇打ちをしかけたそうじゃな。すると何かそちに対し、意趣を含んで居ったものと見える。何に意趣を含んだのじゃ?」 「何に意趣を含みましたか、しかとしたことはわかりませぬ。」 治修はちょいと考えた後、念を押すように尋ね直した。 「何もそちには覚えはないか?」 「覚えと申すほどのことはございませぬ。しかしあるいはああ云うことを怨まれたかと思うことはございまする。」 「何じゃ、それは?」 「四日ほど前のことでございまする。御指南番山本小左衛門殿の道場に納会の試合がございました。その節わたくしは小左衛門殿の代りに行司の役を勤めました。もっとも目録以下のものの勝負だけを見届けたのでございまする。数馬の試合を致した時にも、行司はやはりわたくしでございました。」 「数馬の相手は誰がなったな?」 「御側役平田喜太夫殿の総領、多門と申すものでございました。」 「その試合に数馬は負けたのじゃな?」 「さようでございまする。多門は小手を一本に面を二本とりました。数馬は一本もとらずにしまいました。つまり三本勝負の上には見苦しい負けかたを致したのでございまする。それゆえあるいは行司のわたくしに意趣を含んだかもわかりませぬ。」 「すると数馬はそちの行司に依怙があると思うたのじゃな?」 「さようでございまする。わたくしは依怙は致しませぬ。依怙を致す訣もございませぬ。しかし数馬は依怙のあるように疑ったかとも思いまする。」 「日頃はどうじゃ? そちは何か数馬を相手に口論でも致した覚えはないか?」 「口論などを致したことはございませぬ。ただ………」 三右衛門はちょっと云い澱んだ。もっとも云おうか云うまいかとためらっている気色とは見えない。一応云うことの順序か何か考えているらしい面持ちである。治修は顔色を和げたまま、静かに三右衛門の話し出すのを待った。三右衛門は間もなく話し出した。 「ただこう云うことがございました。試合の前日でございまする。数馬は突然わたくしに先刻の無礼を詫びました。しかし先刻の無礼と申すのは一体何のことなのか、とんとわからぬのでございまする。また何かと尋ねて見ても、数馬は苦笑いを致すよりほかに返事を致さぬのでございまする。わたくしはやむを得ませぬゆえ、無礼をされた覚えもなければ詫びられる覚えもなおさらないと、こう数馬に答えました。すると数馬も得心したように、では思違いだったかも知れぬ、どうか心にかけられぬ様にと、今度は素直に申しました。その時はもう苦笑いよりは北叟笑んでいたことも覚えて居りまする。」 「何をまた数馬は思い違えたのじゃ?」 「それはわたくしにもわかり兼ねまする。が、いずれ取るにも足らぬ些細のことだったのでございましょう。――そのほかは何もございませぬ。」 そこにまた短い沈黙があった。 「ではどうじゃな、数馬の気質は? 疑い深いとでも思ったことはないか?」 「疑い深い気質とは思いませぬ。どちらかと申せば若者らしい、何ごとも色に露わすのを恥じぬ、――その代りに多少激し易い気質だったかと思いまする。」 三右衛門はちょっと言葉を切り、さらに言葉をと云うよりは、吐息をするようにつけ加えた。 「その上あの多門との試合は大事の試合でございました。」 「大事の試合とはどう云う訣じゃ?」 「数馬は切り紙でござりまする。しかしあの試合に勝って居りましたら、目録を授ったはずでございまする。もっともこれは多門にもせよ、同じ羽目になって居りました。数馬と多門とは同門のうちでも、ちょうど腕前の伯仲した相弟子だったのでございまする。」 治修はしばらく黙ったなり、何か考えているらしかった。が、急に気を変えたように、今度は三右衛門の数馬を殺した当夜のことへ問を移した。 「数馬は確かに馬場の下にそちを待っていたのじゃな?」 「多分はさようかと思いまする。その夜は急に雪になりましたゆえ、わたくしは傘をかざしながら、御馬場の下を通りかかりました。ちょうどまた伴もつれず、雨着もつけずに参ったのでございまする。すると風音の高まるが早いか、左から雪がしまいて参りました。わたくしは咄嗟に半開きの傘を斜めに左へ廻しました。数馬はその途端に斬りこみましたゆえ、わたくしへは手傷も負わせずに傘ばかり斬ったのでございまする。」 「声もかけずに斬って参ったか?」 「かけなかったように思いまする。」 「その時には相手を何と思った?」 「何と思う余裕もござりませぬ。わたくしは傘を斬られると同時に、思わず右へ飛びすさりました。足駄ももうその時には脱いで居ったようでございまする。と、二の太刀が参りました。二の太刀はわたくしの羽織の袖を五寸ばかり斬り裂きました。わたくしはまた飛びすさりながら、抜き打ちに相手を払いました。数馬の脾腹を斬られたのはこの刹那だったと思いまする。相手は何か申しました。………」 「何かとは?」 「何と申したかはわかりませぬ。ただ何か烈しい中に声を出したのでございまする。わたくしはその時にはっきりと数馬だなと思いました。」 「それは何か申した声に聞き覚えがあったと申すのじゃな?」 「いえ、左様ではございませぬ。」 「ではなぜ数馬と悟ったのじゃ?」 治修はじっと三右衛門を眺めた。三右衛門は何とも答えずにいる。治修はもう一度促すように、同じ言葉を繰り返した。が、今度も三右衛門は袴へ目を落したきり、容易に口を開こうともしない。 「三右衛門、なぜじゃ?」 治修はいつか別人のように、威厳のある態度に変っていた。この態度を急変するのは治修の慣用手段の一つである。三右衛門はやはり目を伏せたまま、やっと噤んでいた口を開いた。しかしその口を洩れた言葉は「なぜ」に対する答ではない。意外にも甚だ悄然とした、罪を謝する言葉である。 「あたら御役に立つ侍を一人、刀の錆に致したのは三右衛門の罪でございまする。」 治修はちょっと眉をひそめた。が、目は不相変厳かに三右衛門の顔に注がれている。三右衛門はさらに言葉を続けた。 |
一 予が寄宿生となりて松川私塾に入りたりしは、英語を学ばむためにあらず、数学を修めむためにあらず、なほ漢籍を学ばむことにもあらで、他に密に期することのありけるなり。 加州金沢市古寺町に両隣無き一宇の大廈は、松山某が、英、漢、数学の塾舎となれり。旧は旗野と謂へりし千石取の館にして、邸内に三件の不思議あり、血天井、不開室、庭の竹藪是なり。 事の原由を尋ぬるに、旗野の先住に、何某とかや謂ひし武士のありけるが、過まてることありて改易となり、邸を追はれて国境よりぞ放たれし。其室は当時家中に聞えし美人なりしが、女心の思詰めて一途に家を明渡すが口惜く、我は永世此処に留まりて、外へは出でじと、其居間に閉籠り、内より鎖を下せし後は、如何かしけむ、影も形も見えずなりき。 其後旗野は此家に住ひつ。先住の室が自ら其身を封じたる一室は、不開室と称へて、開くことを許さず、はた覗くことをも禁じたりけり。 然るからに執念の留まれるゆゑにや、常には然せる怪無きも、後住なる旗野の家に吉事ある毎に、啾々たる婦人の泣声、不開室の内に聞えて、不祥ある時は、さも心地好げに笑ひしとかや。 旗野に一人の妾あり。名を村といひて寵愛限無かりき。一年夏の半、驟雨後の月影冴かに照して、北向の庭なる竹藪に名残の雫、白玉のそよ吹く風に溢るゝ風情、またあるまじき観なりければ、旗野は村に酌を取らして、夜更るを覚えざりき。 お村も少しくなる口なるに、其夜は心爽ぎ、興も亦深かりければ、飲過して太く酔ひぬ。人静まりて月の色の物凄くなりける頃、漸く盃を納めしが、臥戸に入るに先立ちて、お村は厠に上らむとて、腰元に扶けられて廊下伝ひに彼不開室の前を過ぎけるが、酔心地の胆太く、ほと〳〵と板戸を敲き、「この執念深き奥方、何とて今宵に泣きたまはざる」と打笑ひけるほどこそあれ、生温き風一陣吹出で、腰元の携へたる手燭を消したり。何物にか驚かされけむ、お村は一声きやつと叫びて、右側なる部屋の障子を外して僵れ入ると共に、気を失ひてぞ伏したりける。腰元は驚き恐れつゝ件の部屋を覗けば、内には暗く行灯点りて、お村は脛も露に横はれる傍に、一人の男ありて正体も無く眠れるは、蓋此家の用人なるが、先刻酒席に一座して、酔過して寝ねたるなれば、今お村が僵れ込みて、己が傍に気を失ひ枕をならべて伏したりとも、心着かざる状になむ。此腰元は春といひて、もとお村とは朋輩なりしに、お村は寵を得てお部屋と成済し、常に頤以て召使はるゝを口惜くてありけるにぞ、今斯く偶然に枕を並べたる二人が態を見るより、悪心むらむらと起り、介抱もせず、呼びも活けで、故と灯火を微にし、「かくては誰が眼にも……」と北叟笑みつゝ、忍やかに立出で、主人の閨に走行きて、酔臥したるを揺覚まし、「お村殿には御用人何某と人目を忍ばれ候」と欺きければ、短慮無謀の平素を、酒に弥暴く、怒気烈火の如く心頭に発して、岸破と蹶起き、枕刀押取りて、一文字に馳出で、障子を蹴放して驀地に躍込めば、人畜相戯れて形の如き不体裁。前後の分別に遑無く、用人の素頭、抜手も見せず、ころりと落しぬ。 二 旗野の主人は血刀提げ、「やをれ婦人、疾く覚めよ」とお村の肋を蹴返せしが、活の法にや合ひけむ、うむと一声呼吸出でて、あれと驚き起返る。 主人はハツタと睨附け、「畜生よ、男は一刀に斬棄てたれど、汝には未だ為むやうあり」と罵り狂ひ、呆れ惑ふお村の黒髪を把りて、廊下を引摺り縁側に連行きて、有無を謂はせず衣服を剥取り、腰に纏へる布ばかりを許して、手足を堅く縛めけり。 お村は夢の心地ながら、痛さ、苦しさ、恥しさに、涙に咽び、声を震はせ、「こは殿にはものに狂はせ給ふか、何故ありての御折檻ぞ」と繰返しては聞ゆれども、此方は憤恚に逆上して、お村の言も耳にも入らず、無二無三に哮立ち、お春を召して酒を取寄せ、己が両手に滴らしては、お村の腹に塗り、背に塗り、全身余さず酒漬にして、其まゝ庭に突出だし、竹藪の中に投入れて、虫責にこそしたりけれ。 深夜の出来事なりしかば、内の者ども皆眠りて知れるは絶えてあらざりき。「かまへて人に語るべからず。執成立せば面倒なり」と主人はお春を警めぬ。お村が苦痛はいかばかりなりけむ、「あら苦し、堪難や、あれよ〳〵」と叫びたりしが、次第にものも得謂はずなりて、夜も明方に到りては、唯泣く声の聞えしのみ、されば家内の誰彼は藪の中とは心着かで、彼の不開室の怪異とばかり想ひなし、且恐れ且怪みながら、元来泣声ある時は、目出度きことの兆候なり、と言伝へたりければ、「いづれも吉兆に候ひなむ」と主人を祝せしぞ愚なりける。午前少しく前のほど、用人の死骸を発見したる者ありて、上を下へとかへせしが、主人は少しも騒ぐ色なく、「手討にしたり」とばかりにて、手続を経てこと果てぬ。お村は昨夜の夜半より、藪の真中に打込まれ、身動きだにもならざるに、酒の香を慕ひて寄来る蚊の群は謂ふも更なり、何十年を経たりけむ、天日を蔽隠して昼猶闇き大藪なれば、湿地に生ずる虫どもの、幾万とも知れず群り出でて、手足に取着き、這懸り、顔とも謂はず、胸とも謂はず、むず〳〵と往来しつ、肌を嘗められ、血を吸はるゝ苦痛は云ふべくもあらざれば、悶え苦み、泣き叫びて、死なれぬ業を歎きけるが、漸次に精尽き、根疲れて、気の遠くなり行くにぞ、渠が最も忌嫌へる蛇の蜿蜒も知らざりしは、せめてもの僥倖なり、されば玉の緒の絶えしにあらねば、現に号泣する糸より細き婦人の声は、終日休む間なかりしとぞ。 其日も暮れ、夜に入りて四辺の静になるにつれ、お村が悲喚の声冴えて眠り難きに、旗野の主人も堪兼ね、「あら煩悩し、いで息の根を止めむず」と藪の中に走入り、半死半生の婦人を引出だせば、総身赤く腫れたるに、紫斑々の痕を印し、眼も中てられぬ惨状なり。 かくても未だ怒は解けず、お村の後手に縛りたる縄の端を承塵に潜らせ、天井より釣下げて、一太刀斬附くれば、お村ははツと我に返りて、「殿、覚えておはせ、御身が命を取らむまで、妾は死なじ」と謂はせも果てず、はたと首を討落せば、骸は中心を失ひて、真逆様になりけるにぞ、踵を天井に着けたりしが、血汐は先刻脛を伝ひて足の裏を染めたれば、其が天井に着くとともに、怨恨の血判二つをぞ捺したりける。此一念の遺物拭ふに消えず、今に伝へて血天井と謂ふ。 人を殺すにも法こそあれ、旗野がお村を屠りし如きは、実に惨中の惨なるものなり。家に仕ふる者ども、其物音に駈附けしも、主人が血相に恐をなして、留めむとする者無く、遠巻にして打騒ぎしのみ。殺尽せしお村の死骸は、竹藪の中に埋棄てて、跡弔もせざりけり。 三 はじめお村を讒ししお春は、素知らぬ顔にもてなしつゝ此家に勤め続けたり。人には奇癖のあるものにて、此婦人太く蜘蛛を恐れ、蜘蛛といふ名を聞きてだに、絶叫するほどなりければ、況して其物を見る時は、顔の色さへ蒼ざめて死せるが如くなりしとかや。 お村が虐殺に遭ひしより、七々日にあたる夜半なりき。お春は厠に起出でつ、帰には寝惚けたる眼の戸惑ひして、彼血天井の部屋へ入りにき。それと遽に心着けば、天窓より爪先まで氷を浴ぶる心地して、歯の根も合はず戦きつゝ、不気味に堪へぬ顔を擡げて、手燭の影幽に血の足痕を仰見る時しも、天井より糸を引きて一疋の蜘蛛垂下り、お春の頬に取着くにぞ、あと叫びて立竦める、咽喉を伝ひ胸に入り、腹より背に這廻れば、声をも得立てず身を悶え虚空を掴みて苦みしが、はたと僵れて前後を失ひけり。夜更の事とて誰も知らず、朝になりて見着けたる、お春の身体は冷たかりき、蜘蛛の這へりし跡やらむ、縄にて縊りし如く青き条をぞ画きし。 眼前お春が最期を見てしより、旗野の神経狂出し、あらぬことのみ口走りて、一月余も悩みけるが、一夜月の明かなりしに、外方に何やらむ姿ありて、旗野をおびき出すが如く、主人は居室を迷出でて、漫ろに庭を徜徉ひしが、恐しき声を発して、おのれ! といひさま刀を抜き、竹藪に躍蒐りて、えいと殺ぎたる竹の切口、斜に尖れる切先に転べる胸を貫きて、其場に命を落せしとぞ。仏家の因果は是ならむかし。 旗野の主人果てて後、代を襲ぐ子とても無かりければ、やがて其家は断絶にけり。 数歳の星霜を経て、今松川の塾となれるまで、種々人の住替りしが、一月居しは皆無にて、多きも半月を過ぐるは無し。甚だしきに到りては、一夜を超えて引越せしもあり。松川彼処に住ひてより、別に変りしこともなく、二月余も落着けるは、いと珍しきことなりと、近隣の人は噂せり。さりながらはじめの内は十幾人の塾生ありて、教場太く賑ひしも、二人三人と去りて、果は一人もあらずなりて、後にはたゞ昼の間通学生の来るのみにて、塾生は我一人なりき。 前段既に説けるが如く、予が此塾に入りたりしは、学問すべきためにはあらで、いかなる不思議のあらむかを窺見むと思ひしなり。我には許せ。性として奇怪なる事とし謂へば、見たさ、聞きたさに堪へざれども、固より頼む腕力ありて、妖怪を退治せむとにはあらず、胸に蓄ふる学識ありて、怪異を研究せむとにもあらず。俗に恐いもの見たさといふ好事心のみなり。 さて松川に入塾して、直ちに不開室を探検せんとせしが、不開室は密閉したるが上に板戸を釘付にしたれば開くこと無し。僅に板戸の隙間より内の模様を窺ふに、畳二三十も敷かるべく、柱は参差と立ならべり。日中なれども暗澹として日の光幽に、陰々たる中に異形なる雨漏の壁に染みたるが仄見えて、鬼気人に逼るの感あり。即ち隙見したる眼の無事なるを取柄にして、何等の発見せし事なく、踵を返して血天井を見る。こゝも用無き部屋なれば、掃除せしこともあらずと見えて、塵埃床を埋め、鼠の糞梁に堆く、障子襖も煤果てたり。そこぞと思ふ天井も、一面に黒み渡りて、年経る血の痕の何処か弁じがたし、更科の月四角でもなかりけり、名所多くは失望の種となる。されどなほ余すところの竹藪あり、蓋し土地の人は八幡に比し、恐れて奥を探る者無く、見るから物凄き白日闇の別天地、お村の死骸も其処に埋めつと聞くほどに、うかとは足を入難し、予は先づ支度に取懸れり。 誰にか棄てられけむ、一頭流浪の犬の、予が入塾の初より、数々庭前に入来り、そこはかと餌を𩛰るあり。予は少しく思ふよしあれば、其頭を撫で、背を摩りなどして馴近け、賄の幾分を割きて与ふること両三日、早くも我に臣事して、犬は命令を聞くべくなれり。 四 水曜日は諸学校に授業あるに関らず、私塾大抵は休暇なり。予は閑に乗じ、庭に出でて彼の竹藪に赴けり。然るに予てより斥候の用に充てむため馴し置きたる犬の此時折よく来りければ、彼を真先に立たしめて予は大胆にも藪に入れり。行くこと未だ幾干ならず、予に先むじて駈込みたる犬は奥深く進みて見えずなりしが、哬呀何事の起りしぞ、乳虎一声高く吠えて藪中俄に物騒がし、其響に動揺せる満藪の竹葉相触れてざわ〳〵〳〵と音したり。予はひやりとして立停まりぬ。稍ありて犬は奥より駈来り、予が立てる前を閃過して藪の外へ飛出だせり。其剣幕に驚きまどひて予も慌たゞしく逃出だし、只見れば犬は何やらむ口に銜へて躍り狂ふ、こは怪し口に銜へたるは一尾の魚なり、そも何ぞと見むと欲して近寄れば、獲物を奪ふとや思ひけむ、犬は逸散に逃去りぬ。予は茫然として立ちたりけるが、想ふに藪の中に住居へるは、狐か狸か其類ならむ。渠奴犬の為に劫かされ、近鄰より盗来れる午飯を奪はれしに極まりたり、然らば何ほどのことやある、と爰に勇気を回復して再び藪に侵入せり。 畳翠滋蔓繁茂せる、竹と竹との隙間を行くは、篠突く雨の間を潜りて濡れまじとするの難きに肖たり。進退頗る困難なるに、払ふ物無き蜘蛛の巣は、前途を羅して煙の如し。蛇も閃きぬ、蜥蜴も見えぬ、其他の湿虫群をなして、縦横交馳し奔走せる状、一眼見るだに胸悪きに、手足を縛され衣服を剥がれ若き婦人の肥肉を酒塩に味付けられて、虫の膳部に佳肴となりしお村が当時を憶遣りて、予は思はずも慄然たり。 こゝはや藪の中央ならむと旧来し方を振返れば、真昼は藪に寸断されて点々星に髣髴たり。なほ何程の奥やあると、及び腰に前途を視む。時其時、玄々不可思議奇絶怪絶、紅きものちらりと見えて、背向の婦人一人、我を去る十歩の内に、立ちしは夢か、幻か、我はた現心になりて思はず一歩引退れる、とたんに此方を振返りし、眼口鼻眉如何で見分けむ、唯、丸顔の真白き輪郭ぬつと出でしと覚えしまで、予が絶叫せる声は聞えで婦人が言は耳に入りぬ、「こや人に説ふ勿れ、妾が此処にあることを」一種異様の語気音調、耳朶にぶんと響き、脳にぐわら〳〵と浸み渡れば、眼眩み、心消え、気も空になり足漾ひ、魂ふら〳〵と抜出でて藻脱となりし五尺の殻の縁側まで逃げたるは、一秒を経ざる瞬間なりき。腋下に颯と冷汗流れて、襦袢の背はしとゞ濡れたり。馳せて書斎に引籠り机に身をば投懸けてほつと吐く息太く長く、多時観念の眼を閉ぢしが、「さても見まじきものを見たり」と声を発して呟きける。「忍ぶれど色に出にけり我恋は」と謂ひしは粋なる物思ひ、予はまた野暮なる物思に臆病の色頬に出でて蒼くなりつゝ結ぼれ返るを、物や思ふと松川はじめ通学生等に問はるゝ度に、口の端むず〳〵するまで言出だしたさに堪ざれども、怪しき婦人が予を戒め、人に勿謂ひそと謂へりしが耳許に残り居りて、語出でむと欲する都度、おのれ忘れしか、秘密を漏らさば、活けては置かじと囁く様にて、心済まねば謂ひも出でず、もしそれ胸中の疑磈を吐きて智識の教を請けむには、胸襟乃ち春開けて臆病疾に癒えむと思へど、無形の猿轡を食まされて腹のふくるゝ苦しさよ、斯くて幽玄の裡に数日を閲せり。 一夕、松川の誕辰なりとて奥座敷に予を招き、杯盤を排し酒肴を薦む、献酬数回予は酒といふ大胆者に、幾分の力を得て積日の屈託稍散じぬ。談話の次手に松川が塾の荒涼たるを歎ちしより、予は前日藪を検せし一切を物語らむと、「実は……」と僅に言懸けける、正に其時、啾々たる女の泣声、針の穴をも通らむず糸より細く聞えにき。予は其を聞くと整しく口をつぐみて悄気返れば、春雨恰も窓外に囁き至る、瀟々の音に和し、長吁短歎絶えてまた続く、婦人の泣音怪むに堪へたり。 五 「あれは何が泣くのでせう」と松川に問へば苦い顔して、談話を傍へそらしたるにぞ推しては問はで黙して休めり。ために折角の酔は醒めたれども、酔うて席に堪へずといひなし、予は寝室に退きつ。思へば好事には泣くとぞ謂ふなる密閉室の一件が、今宵誕辰の祝宴に悠々歓を尽すを嫉み、不快なる声を発して其快楽を乱せるならむか、あはれ忌むべしと夜着を被りぬ。眼は眠れども神は覚めたり。 寝られぬまゝに夜は更けぬ。時計一点を聞きて後、漸く少しく眠気ざし、精神朦々として我我を弁ぜず、所謂無現の境にあり。時に予が寝ねたる室の襖の、スツとばかりに開く音せり。否唯音のしたりと思へるのみ、別に誰そやと問ひもせず、はた起直りて見むともせず、うつら〳〵となし居れり。然るにまた畳を摺来る跫音聞えて、物あり、予が枕頭に近寄る気勢す、はてなと思ふ内に引返せり。少時してまた来る、再び引返せり、三たびせり。 此に於て予は猛然と心覚めて、寝返りしつゝ眼を睜き、不図一見して蒼くなりぬ。予は殆ど絶せむとせり、そも何者の見えしとするぞ、雪もて築ける裸体の婦人、あるが如く無きが如き灯の蔭に朦朧と乳房のあたりほの見えて描ける如く彳めり。 予は叫ばむとするに声出でず、蹶起きて逃げむと急るに、磐石一座夜着を圧して、身動きさへも得ならねば、我あることを気取らるまじと、愚や一縷の鼻息だもせず、心中に仏の御名を唱へながら、戦く手足は夜着を煽りて、波の如くに揺らめいたり。 婦人は予を凝視むるやらむ、一種の電気を身体に感じて一際毛穴の弥立てる時、彼は得もいはれぬ声を以て「藪にて見しは此人なり、テモ暖かに寝たる事よ」と呟けるが、まざ〳〵と聞ゆるにぞ、気も魂も身に添はで、予は一竦に縮みたり。 斯くて婦人が無体にも予が寝し衾をかゝげつゝ、衝と身を入るゝに絶叫して、護謨球の如く飛上り、室の外に転出でて畢生の力を籠め、艶魔を封ずるかの如く、襖を圧へて立ちけるまでは、自分なせし業とは思はず、祈念を凝せる神仏がしかなさしめしを信ずるなり。 寒さは寒し恐しさにがた〳〵震少しも止まず、遂に東雲まで立竦みつ、四辺のしらむに心を安んじ、圧へたる戸を引開くれば、臥戸には藻脱の殻のみ残りて我も婦人も見えざりけり。其夜の感情、よく筆に写すを得ず、いかむとなれば予は余りの恐しさに前後忘却したればなり。 然らでも前日の竹藪以来、怖気の附きたる我なるに、昨夜の怪異に胆を消し、もはや斯塾に堪らずなりぬ。其日の中に逃帰らむかと已に心を決せしが、さりとては余り本意無し、今夜一夜辛抱して、もし再び昨夜の如く婦人の来ることもあらば度胸を据ゑて其の容貌と其姿態とを観察せむ、あはよくば勇を震ひて言葉を交し試むべきなり。よしや執着の留りて怨を後世に訴ふるとも、罪なき我を何かせむ、手にも立たざる幻影にさまで恐るゝことはあらじ、と白昼は何人も爾く英雄になるぞかし。逢魔が時の薄暗がりより漸次に元気衰へつ、夜に入りて雨の降り出づるに薄ら淋しくなり増りぬ。漫に昨夜を憶起して、転た恐怖の念に堪へず、斯くと知らば日の中に辞して斯塾を去るべかりし、よしなき好奇心に駆られし身は臆病神の犠牲となれり。 只管洋灯を明くする、これせめてもの附元気、机の前に端坐して石の如くに身を固め、心細くも唯一人更け行く鐘を数へつゝ「早一時か」と呟く時、陰々として響き来る、怨むが如き婦人の泣声、柱を回り襖を潜り、壁に浸入る如くなり。 南無三膝を立直し、立ちもやらず坐りも果てで、魂宙に浮く処に、沈んで聞こゆる婦人の声、「山田山田」と我が名を呼ぶ、哬呀と頭を掉傾け、聞けば聞くほど判然と疑も無き我が名の山田「山田山田」と呼立つるが、囁く如く近くなり、叫ぶが如くまた遠くなる、南無阿弥陀仏コハ堪らじ。 |
急病 系図 一寸手懸 宵にちらり 妖怪沙汰 乱れ髪 籠の囮 幻影 破廂 夫婦喧嘩 みるめ、かぐはな 無理 強迫 走馬燈 血の痕 火に入る虫 啊呀! 同士討 虐殺 二重の壁 赤城様――得三様 旭 一 急病 雲の峰は崩れて遠山の麓に靄薄く、見ゆる限りの野も山も海も夕陽の茜に染みて、遠近の森の梢に並ぶ夥多寺院の甍は眩く輝きぬ。処は相州東鎌倉雪の下村……番地の家は、昔何某とかやいえりし大名邸の旧跡なるを、今は赤城得三が住家とせり。 門札を見て、「フム此家だな。と門前に佇みたるは、倉瀬泰助という当時屈指の探偵なり。色白く眼清しく、左の頬に三日月形の古創あり。こは去年の春有名なる大捕物をせし折、鋭き小刀にて傷けられし名残なり。探偵の身にしては、賞牌ともいいつべき名誉の創痕なれど、衆に知らるる目標となりて、職務上不便を感ずること尠からざる由を喞てども、巧なる化粧にて塗抹すを常とせり。 倉瀬は鋭き眼にて、ずらりとこの家を見廻し、「ははあ、これは大分古い建物だ。まるで画に描いた相馬の古御所というやつだ。なるほど不思議がありそうだ。今に見ろ、一番正体を現してやるから。と何やら意味ありげに眩きけり。 さて泰助が東京よりこの鎌倉に来りたるは、左のごとき仔細のありてなり。 今朝東京なる本郷病院へ、呼吸も絶々に駈込みて、玄関に着くとそのまま、打倒れて絶息したる男あり。年は二十二三にして、扮装は好からず、容貌いたく憔れたり。検死の医師の診察せるに、こは全く病気のために死したるにあらで、何にかあるらん劇しき毒に中りたるなりとありけるにぞ、棄置き難しと警官がとりあえず招寄せたる探偵はこの泰助なり。 泰助はまず卒倒者の身体を検して、袂の中より一葉の写真を探り出だしぬ。手に取り見れば、年の頃二十歳ばかりなる美麗き婦人の半身像にて、その愛々しき口許は、写真ながら言葉を出ださんばかりなり。泰助は莞爾として打頷き、「犯罪の原因と探偵の秘密は婦人だという格言がある、何、訳はありません。近い内にきっと罪人を出しましょう。と事も無げに謂う顔を警部は見遣りて、「君、鰒でも食って死よったのかも知れんが。何も毒殺されたという証拠は無いではないか。泰助は死骸の顔を指さして、「御覧なさい。人品が好くって、痩っこけて、心配のありそうな、身分のある人が落魄たらしい、こういう顔色の男には、得て奇妙な履歴があるものです。と謂いつつ、手にせる写真を打返して、頻りに視めていたりけり。先刻より死骸の胸に手を載せて、一心に容体を伺いいたる医師は、この時人々を見返かえりて、「どうやら幽に脈が通う様です。こっちの者になるかも知れません。静にしておかなければ不可せんから、貴下方は他室へお引取下さい。警部は巡査を引連れて、静にこの室を立去りぬ。 泰助は一人残りて、死人の呼吸を吹返さんとする間際には、秘密を唸り出す事もやあらんと待構うれば、医師の見込みは過たず、ややありて死骸は少しずつの呼吸を始め、やがて幽に眼を開き、糸よりもなお声細く、「ああ、これが現世の見納かなあ。得たりと医師は膝立直して、水薬を猪口に移し、「さあこれをお飲みなさい。と病人の口の端に持行けば、面を背けて飲まんとせず。手をもて力無げに振払い、「汝、毒薬だな。と眼を睜りぬ。これを聞きたる泰助は、(来たな)と腹に思うなるべし。 医師は声を和げて、「毒じゃない、私は医師です。早くお飲みなさい。という顔をまず屹と視て、やがて四辺を見廻しつ、泰助に眼を注ぎて、「あれは誰方。泰助は近く寄りて、「探偵吏です。「ええ、と病人は力を得たる風情にて、「そうして御姓名は。「僕は倉瀬泰助。と名乗るを聞きて病人は嬉しげに倉瀬の手を握り、「貴下が、貴下があの名高い……倉瀬様。ああ嬉しや、私は本望が協った。貴下に逢えば死でも可い。と握りたる手に力を籠めぬ。何やらん仔細あるべしと、泰助は深切に、「それはどういう次第だね。「はい、お聞き下さいまし、と言わんとするを医師は制して、「物を言ったり、配慮をしては、身体のために好くない。と諭せども病人は頭を掉りて、「悪僕、――八蔵奴に毒を飲まされましたから、私はどうしても助りません。「何、八蔵が毒を。……と詰寄る泰助の袂を曳きて、医師は不興気に、「これさ、物を言わしちゃ悪いというのに。「僕は探偵の職掌だ。問わなければならない。「私は医師の義務だから、止めなければなりませぬ。と争えば病人は、「御深切は難有う存じますが、とても私は助りませんのですから、どうぞ思ってることを言わして下さいまし。明日まで生延びて言わずに死ぬよりは、今お話し申してここで死ぬ方が勝手でございます。と思い詰めてはなかなかに、動くべくも見えざりければ、探偵は医師に向いて、「是非が無い。ああいうのですから、病人の意にお任せなさい。病人はまた、「そうして他の人に聞かしとうございませんから、恐入りますが先生はどうぞあちらへ。……とありければ、医師は本意無げに室の外に立出でけり。 二 系図 病人は苦痛を忍びて語り出だしぬ。 我は小田原の生にて本間次三郎という者。幼少の折父母を失いければ、鎌倉なる赤城家に嫁ぎたる叔母の許にて養われぬ。仮の叔父なる赤城の主人は大酒のために身を損いて、その後病死したりしかば、一族同姓の得三といえるが、家事万端の後見せり。 叔母には下枝、藤とて美しき二人の娘あり。我とは従兄妹同士にていずれも年紀は我より少し。多くの腰元に斉眉かれて、荒き風にも当らぬ花なり。我は食客の身なれども、叔母の光を身に受けて何不自由無く暮せしに、叔母はさる頃病気に懸り、一時に吐血してその夕敢なく逝りぬ。今より想えば得三が毒殺なせしものなるべし。さる悪人とはその頃には少しも思いがけざりき。 されば巨万の財産を挙げて娘の所有となし、姉の下枝に我を娶わせ後日家を譲るよう、叔母はくれぐれ遺言せしが、我等の年紀の少かりければ、得三は旧のまま一家を支配して、己が随意にぞ振舞いける。 淑母死して七七日の忌も果てざるに、得三は忠実の仮面を脱ぎて、ようやく虎狼の本性を顕したり。入用る雑用を省くと唱え、八蔵といえる悪僕一人を留め置きて、その余の奴僕は尽く暇を取らせ、素性も知れざる一人の老婆を、飯炊として雇い入れつ。こは後より追々にし出ださんずる悪計の、人に知られんことを恐れしなりけり。昨日の栄華に引替えて娘は明暮不幸を喞ち、我も手酷く追使わるる、労苦を忍びて末々を楽み、たまたま下枝と媾曳してわずかに慰め合いつ、果は二人の中をもせきて、顔を見るさえ許さざれば垂籠めたる室の内に、下枝の泣く声聞く毎に我は腸を断つばかりなりし。 数うれば三年前、一日黄昏の暗紛れ、潜かに下枝に密会い、様子を聞けば得三は、四十を越したる年にも恥じず、下枝を捉えて妻にせん。我心に従えと強迫すれど、聞入れざるを憤り、日に日に手暴き折檻に、無慙や身内の皮は裂け、血に染みて、紫色に腫れたる痕も多かりけり。 下枝は我に取縋りて、得堪えぬ苦痛を訴えつつ、助けてよ、と歎くになむ。さらば財産も何かせむ。家邸も何かせむ、皆得三に投与えて、かかる悪魔の火宅を遁れ、片田舎にて気散じに住みたまう気は無きか、連れて遁げんと勧めしかど、否、先祖より伝わりたる財産は、国とも城ともいうべきもの、いかに君と添いたいとて、人手には渡されず。今得三は国の仇、城を二十重に囲まれたれば、責殺されんそれまでも、家は出でずに守るという。男勝りの心に恥じて、強いてとも言い難く、さればとてこのままにては得三の手に死ぬばかりぞ、と抱き合いつつ泣きいたりしを、得三に認められぬ。言語道断の淫戯者片時も家に置難しと追出されんとしたりし時、下枝が記念に見たまえとて、我に与えし写真あり。我はかの悪僕に追立てられて詮方無く、その夜赤城の家を出で、指して行方もあらざればその日その日の風次第、寄る辺定めぬ捨小舟、津や浦に彷徨うて、身に知る業の無かりしかば、三年越しの流浪にて、乞食の境遇にも、忘れ難きは赤城の娘、姉妹ともさぞ得三に、憂い愁い目を見るならむ。助くる術は無きことか、と頼母しき人々に、一つ談話にするなれど、聞くもの誰も信とせず。思い詰めて警察へ訴え出でし事もあれど、狂気の沙汰とて取上げられず。力無く生甲斐無く、漣や滋賀県に佗年月を過すうち、聞く東京に倉瀬とて、弱きを助くる探偵ありと、雲間に高きお姓名の、雁の便に聞ゆるにぞ、さらば助を乞い申して、下枝等を救わむと、行李そこそこかの地を旅立ち、一昨日この地に着きましたが、暑気に中りて昨日一日、旅店に病みて枕もあがらず。今朝はちと快気なるに、警察を尋ねて見ばやと、宿を出づれば後より一人跟け来る男あり。忘れもせぬ其奴こそ、得三に使わるる八蔵という悪僕なれば、害心もあらんかと、用心に用心して、この病院の裏手まで来りしに、思えば運の尽なりけん。にわかに劇しく腹の痛みて、立ってもいられず大地に僵れ、苦しんでいる処へ誰やらん水を持来りて、呑ましてくるる者のあり。眼も眩み夢中にてただ一呼吸に呑干しつ、やや人心地になりたれば、介抱せし人を見るに、別人ならぬ悪僕なり。はっと思うに毒や利きけむ、心身たちまち悩乱して、腸絞る苦しさにさては毒をば飲まされたり。かの探偵に逢うまでは、束の間欲しき玉の緒を、繋ぎ止めたや繋ぎ止めたやと絶入る心を激まして、幸いここが病院なれば、一心に駈け込みし。その後は存ぜずと、呼吸つきあえず物語りぬ。 三 一寸手懸 泰助は目をしばたたき、「薄命な御方だ、御心配なさるな。請合ってきっと助けてあげます。と真実面に顕るれば、病人は張詰めたる気も弛みて、がっくりと弱り行きしが、頻に袂を指さすにぞ、泰助は耳に口、「何です、え、何ぞあるのですか。「下枝の写真。「むむ、それはこれでしょう。先刻僕が取出しました。とかの写真を病人の眼前に翳せば、つくづくと打視め、「私と同じ様に、さぞ今では憔れて、とほろりと涙を泛べつつ、「この面影はありますまいよ。死顔でも見たい、もう一度逢いたい。と現心にいいければ、察し遣りて泰助が、彼の心を激まさんと、「気を丈夫に持って養生して、ね、翌朝まで眼を塞がずに僕が下枝を連れて来るのを御覧なさい。今夜中に助け出して、財産も他手には渡さないから、必ず御案じなさるな。と言語を尽して慰むれば、頷くように眼を閉じぬ。 折から外より戸を叩きて、「もう開けましても差支えございませんか。と医師の尋ぬるに泰助は振返りて、「宜しい、おはいんなさい。と答うれば、戸を排きて、医師とともに、見も知らぬ男入り来れり。この男は、扮装、風俗、田舎漢と見えたるが、日向眩ゆき眼色にて、上眼づかいにきょろつく様、不良ぬ輩と思われたり。 泰助屹と眼を着けて、「お前様は何しに来たのだ。問われて醜顔き巌丈男の声ばかり悪優しく。「へいへい、お邪魔様申します。ちとお見舞に罷出たんで。「知己のお方かね。「いえ、ただ通懸った者でがんすがその方が強くお塩梅の悪い様子、お案じ申して、へい、故意。という声耳に入りたりけん。その男を見て、病人は何か言いたげに唇を震わせしが、あわれ口も利けざりければ、指もて其方を指示し、怒り狂う風情にて、重き枕を擡げしが、どうと倒れて絶入りけり。 今病人に指さされし時、件の男は蒼くなりて恐しげに戦慄きたり。泰助などて見遁すべき。肚の中に。ト思案して、「早く、お退きなさい。お前方の入って来る処ではありません。と極めつけられて悄気かえり、「ああ呼吸を引取ましたかい。可愛や可愛や、袖振合うも他生の縁とやら、お念仏申しましょ。と殊勝らしく眼を擦り赤めてやおら病院を退出ぬ。泰助は医師に向い、「下手人がしらばくれて、(死)をたしかめに来たものらしい。わざと化されて、怪まぬように見せて反対に化かしてやった。油断をするに相違無い。「いかさま怪しからん人体でした。あのまま見遁して置くお所存ですか、「なあにこれから彼奴を突止めるのです。この病人は及ばぬまでも手当を厚くして下さい。誠に可哀相な者ですから。「何か面白い談話がありましたろう。「ちっとも愉快くはありませんでした、がこれから面白くなるだろうと思うのです。追々お談話申しましょう。と帽子を取って目深に被り、戸外へ出づればかの男は、何方へ行きけん影も無し。脱心たりと心急立ち、本郷の通へ駈出でて、東西を見渡せば、一町ばかり前に立ちて、日蔭を明神坂の方へ、急ぎ足に歩み行く後姿はその者なれば、遠く離れて見失わじと、裏長屋の近道を潜りて、間近く彼奴の後に出でつ。まずこれで可しと汗を容れて心静かに後を跟けて、神田小柳町のとある旅店へ、入りたるを突止めたり。 泰助も続いて入込み、突然帳場に坐りたる主人に向いて、「今の御客は。と問えば、訝かしげに泰助の顔を凝視しが、頬の三日月を見て慇懃に会釈して、二階を教え、低声にて、「三番室。」 四番室の内に忍びて、泰助は壁に耳、隣室の談話声を聞けば、おのが跟けて来し男の外になお一人の声しけり。 「お前、御苦労であった。これで家へ帰っても枕を高うして寐られるというものだ。「旦那もう帰国ますか。この二人は主従と見えたり。「ああしてしまえば東京に用事は無いのだ。今日の終汽車で帰国としようよ。「それが宜うございましょう。そうして御約束の御褒美は。「家へ行ってから与る。「間違ませんか。「大丈夫だ。「きっとでしょうね。「ええ、執拗な。「難有え、と無法に大きな声をするにぞ、主人は叱りて、「馬鹿め、人が聞かあ。後は何を囁くか小声にてちっとも聞えず。少時して一人その室を立出で、泰助の潜みたる、四番室の前を通り行くを、戸の隙間より覗き見るに、厳格き紳士にて、年の頃は四十八九、五十にもならんずらん。色浅黒く、武者髯濃く、いかさま悪事は仕かねまじき人物にて、扮装は絹布ぐるみ、時計の金鎖胸にきらきら、赤城というはこの者ならんと泰助は帳場に行きて、宿帳を検すれば、明かに赤城得三とありけり。(度胸の据った悪党だ、)と泰助は心に思いつ。 四 宵にちらり 三時少し過ぎなれば、終汽車にはまだ時間あり。一度病院へ取って返して、病人本間の様子を見舞い、身支度して出直さんと本郷に帰りけるに、早警官等は引取りつ。泰助は医師に逢いて、予後の療治を頼み聞え、病室に行きて見るに、この不幸なる病人は気息奄々として死したるごとく、泰助の来れるをも知らざりけるが、時々、「赤城家の秘密……怨めしき得三……恋しき下枝、懐かしき妻、……ああ見たい、逢いたい、」と同じ言を幾たびも譫言に謂うを聞きて、よくよく思い詰めたる物と見ゆ。遥々我を頼みて来し、その心さえ浅からぬに、蝦夷、松前はともかくも、箱根以東にその様なる怪物を棲せ置きては、我が職務の恥辱なり。いで夏の日の眠気覚しに、泰助が片膚脱ぎて、悪人儕の毒手の裡より、下枝姉妹を救うて取らせむ。証拠を探り得ての上ならでは、渠等を捕縛は成り難し。まず鎌倉に立越えてと、やがて時刻になりしかば、終汽車に乗り込みて、日影ようよう傾く頃、相州鎌倉に到着なし、滑川の辺なる八橋楼に投宿して、他所ながら赤城の様子を聞くに、「妖物屋敷、」「不思議の家、」あるいは「幽霊の棲家、」などと怪しからぬ名を附して、誰ありて知らざる者無し。 病人が雪の下なる家を出でしは、三年前の事とぞ聞く。あるいは救助の遅くして、下枝等は得三のために既に殺されしにあらざるか、遠くもあらぬ東京に住む身にて、かくまでの大事を知らず、今まで棄置きたる不念さよ。もし下枝等の死したらんには、悔いても及ばぬ一世の不覚、我三日月の名折なり。少しも早く探索せむずと雪の下に赴きて、赤城家の門前に佇みつつ云々と呟きたるが、第一回の始まりなり。 この時赤城得三も泰助と同じ終汽車にて、下男を従えて家に帰りつ。表二階にて下男を対手に、晩酌を傾けおりしが、得三何心無く外を眺め、門前に佇む泰助を、遠目に見附けて太く驚き、「あッ、飛んだ奴が舞込んだ。と微酔も醒めて蒼くなれば、下男は何事やらんと外を望み、泰助を見ると斉しく反り返りて、「旦那々々、あれは先刻病院に居た男だ。と聞いてますます蒼くなり、「ええ! それでは何だな。お前を疑う様な挙動があったというのは彼奴か。「へい、左様でござい。恐怖え眼をして我をじろりと見た。「こりゃ飛んだ事になって来た。と一方ならず恐るる様子、「何もそう、顔色を変えて恐怖がる事もありますめえ。病気で苦しんでる処を介抱してやったといえばそれ迄のことだ。「でもお前が病院へ行った時には、あの本間の青二才が、まだ呼吸があったというではないか。「ひくひく動いていましたッけ。「だから、二才の口から当家の秘密を、いいつけたに違いない。「だって何程のこともあるめえ。と落着く八蔵。得三は頭を振り、いや、他の奴と違う。ありゃお前、倉瀬泰助というて有名な探偵だ。見ろ、あの頬桁の創の痕を。な、三日月形だろう、この界隈でちっとでも後暗いことのある者は、あれを知らぬは無いくらいだ。といえば八蔵はしたり顔にて、「我れも、あの創を目標にして這ッ面を覚えておりますのだ。「むむ、汝はな、これから直ぐに彼奴の後を跟けて何をするか眼を着けろ。「飲込ました。「実に容易ならぬ襤褸が出た。少しでも脱心が最後、諸共に笠の台が危ないぞ。と警戒れば、八蔵は高慢なる顔色にて、「たかが生ッ白い痩せた野郎、鬼神ではあるめえ。一思いに捻り潰してくりょう。と力瘤を叩けば、得三は夥度頭を振り、「うんや、汝には対手が過ぎるわ。敏捷い事ア狐の様で、どうして喰える代物じゃねえ。しかし隙があったら殺害ッちまえ。」 まことや泰助が一期の失策、平常のごとく化粧して頬の三日月は塗抹居たれど、極暑の時節なりければ、絵具汗のために流れ落ちて、創の露れしに心着かず、大事の前に運悪くも悪人の眼に止まりたるなり。 さりとも知らず泰助は、ほぼこの家の要害を認めたれば、日の暮れて後忍び入りて内の様子を探らんものをと、踵を返して立去りけり。 表二階よりこれを見て、八蔵は手早く身支度整え、「どれ後を跟けましょう。「くれぐれも脱心なよ。「合点だ。と鉄の棒の長さ一尺ばかりにて握太きを小脇に隠し、勝手口より立出しが、この家は用心厳重にて、つい近所への出入にも、鎖を下す掟とかや。心急きたる折ながら、八蔵は腰なる鍵を取り出して、勝手の戸に外より鎖を下し、急ぎ門前に立出でて、滑川の方へ行く泰助の後より、跫音ひそかに跟け行けども、日は傾きて影も射映ねば、少しも心着かざりけり。 五 妖怪沙汰 泰助は旅店に帰りて、晩餐の前に湯に行きつ。湯殿に懸けたる姿見に、ふと我顔の映るを見れば、頬の三日月露れいたるにぞ、心潜かに驚かれぬ。ざっと流して座敷に帰り、手早く旅行鞄を開きて、小瓶の中より絵具を取出し、好く顔に彩りて、懐中鏡に映し見れば、我ながらその巧妙なるに感ずるばかり旨々と一皮被りたり。 今夜を過さず赤城家に入込みて、大秘密を発きくれん。まずその様子を聞置かんと、手を叩きて亭主を呼べば、気軽そうな天保男、とつかわ前に出来りぬ。「御主人外でも無いが、あの雪の下の赤城という家。と皆まで言わぬに早合点、「へい、なるほど妖物邸。「その妖物屋敷というのはどういう理窟だい。「さればお聞きなさいまし。まず御免被って、と座を進み、「種々不思議がありますので、第一ああいう大な家に、棲んでいる者がございません。「空屋かね、「いえ、そこんところが不思議でごすて。ちゃんと門札も出ておりますが何者が住んでいるのか、それが解りません。「ふふむ、余り人が出入をしないのか。「時々、あの辺で今まで見た事の無い婆様に逢うものがございますが、何でも安達が原の一ツ家の婆々という、それはそれは凄い人体だそうで、これは多分山猫の妖精だろうという風説でな。「それじゃあ風の吹く晩には、糸を繰る音が聞えるだろうか。「そこまでは存じませんが、折節女の、ひい、ひい、と悲鳴を上げる声が聞えたり、男がげらげらと笑う声がしたり、や、も、散々な妖原だといいますで。とこれを聞きて泰助は乗出して、「ほんとなら奇怪な話だ。まずお茶でも一ツ……という一眼小僧は出ないかね。とさも聞惚れたる風を装おい、愉快げに問いかくれば、こは怪談の御意に叶いしことと亭主は頻に乗地となり、「いえ世がこの通り開けましたで、そういう甘口な妖方はいたしません。東京の何とやら館の壮士が、大勢でこの前の寺へ避暑に来てでございますが、その風説を聞いて、一番妖物退治をしてやろうというので、小雨の降る夜二人連で出掛けました。草ぼうぼうと茂った庭へ入り込んで、がさがさ騒いだと思し召せ。ずどんずどんとどこかで短銃の音がしたので、真蒼になって遁げて帰ると、朋輩のお方が。そりゃ大方天狗が嚔をしたのか、そうでなければ三ツ目入道が屍を放った音だろう。誰某は屁玉を喰って凹んだと大きに笑われたそうで、もう懲々して、誰も手出しは致しません、何と、短銃では、岩見重太郎宮本の武蔵でも叶いますまい。と渋茶を一杯。舌を濡して言を継ぎ、「串戯はさて置き、まだまだ気味の悪いのは。と声を低くし、「幽霊が出ますので。こは聞処と泰助は、「人、まさか幽霊が。とわざといえば亭主は至極真面目になり、「いいえ、人から聞いたのではございません。私がたしかに見ました。「はてな。「思い出すと戦慄といたします。と薄気味悪げに後を見返り、「部室の外が直ぐ森なので、風通しは宜うございますが、こんな時には、ちとどうも、と座敷の四隅に目を配りぬ。 泰助は思い当る事あれば、なおも聞かんと亭主に向い、「談してお聞かせなさい、実に怪談が好物だ。「余り陰気な談をしますと是非魔が魅すといいますから。と逡巡すれば、「馬鹿なことを、と笑われて、「それでは燈を点して懸りましょう。暗くなりました。「怪談は暗がりに限るよ。「ええ! 仕方がありません。先月の半ば頃一日晩方の事……」 この時座敷寂として由井が浜風陰々たり。障子の桟も見えずなり、天井は墨のごとく四隅は暗く物凄く、人の顔のみようよう仄めき、逢魔が時とぞなりにける。亭主はいよいよ心臆し、団扇にてはたはたと、腰の辺を煽ぎ立て、景気を附けて語りけるは、「ちょうどこの時分用事あって、雪の下を通りかかり、かねて評判が高いので、怯気々々もので歩いて行くと、甲走った婦人の悲鳴が、青照山の谺に響いて……きい――きいっ。「ああ、嫌否な声だ。「は――我ながら何ともいえぬ異変な声でございます。と泰助と顔を見合せ、亭主は膝下までひたと摺寄り、「ええそれが私は襟許から、氷を浴びたような気が致して、釘附にされたように立止って見ました。有様は腰ががくついて歩行けませなんだので。すると貴客、赤城の高楼の北の方の小さな窓から、ぬうと出たのは婦人の顔、色真蒼で頬面は消えて無いというほど瘠っこけて、髪の毛がこれからこれへ(ト仕方をして)こういう風、ぱっちり開いた眼が、ぴかりしたかと思うと、魂消った声で、助けて――助けて――と叫びました。」 |
もう一月ばかり前から、私の庭の、日当りのいい一隅で、雪割草がかれんな花を咲かせている。白いのも、赤いのも、みんな元気よく、あたたかい日の光を受けると頭をもたげ、雪なんぞ降るといかにもしょげたように、縮みあがる。この間、よつんばいになってかいでみたら、かすかな芳香を感じた。蝶もあぶもいないのに、こんな花を咲かせて、どうするつもりなのか、見当もつかぬが、あるいは神の摂理とかいうものが作用して、これでも完全に実を結ぶのかもしれぬ。 * この花、本名は雪割草でないらしい。別所さんの「心のふるさと」には、 植木屋さんが雪割草というのは、スハマソウのことである。福寿草とともに、お正月の花のようにいわれるけれど、自然のままでは、東京の三月に咲く。 と書いてある。 * 去年の十一月、私はわずかな暇をぬすんで、信州へ遊びに行った。まったく黄色くなった落葉松の林、ヨブスマの赤い実、山で焼いた小鳥の味、澄んだ空気、それから、すっかり雪をいただいた鹿島槍の連峰……大阪に帰って来てからも、しばらくは仕事に手がつかなかった。万事万端、灰色で、きたなくて、わずらわしかった。これは山の好きな人なら、だれでも経験する気持ちであろう。 * このような気持ちでいたある日、五時半ごろに勤めさきの会社を出ると、空はすっかり曇って、なんともいえぬ暗い、陰湿な風が吹いている。ますます変な気持ちになってしまった。そこで、偶然いっしょになった同僚のN君と、一軒の居酒屋へ入り、ここで酒を飲んだ。で、いささか元気がついて、梅田の方へ歩いて行くと、植木屋の店頭で見つけたのが「加賀の白山雪割草、定価十銭」 * 十銭といったところで、単位が書いてないから、一株十銭なのか、一たば十銭なのか、わからない。とにかく五十銭出すと、小僧さんが大分たくさんわけてくれた。新聞紙で根をつつみ、大切にして持って帰った。 * あくる日は、うららかに晴れて風もなく、悠々と草や木を植えるには持ってこいであった。私は新聞紙をとき、更に根を結んであった麦わらを取り去って、数十本の雪割草を地面にならべた。見るとつぼみに著しい大小がある。今にも咲きそうなのが五、六本ある。 そこで私は、この、今にも咲きそうなのを鉢に植えて、部屋の中で育てようと思った。そうしたら、年内に咲くかもしれぬ。私の家は東南に面して建っているので、日さえ当たっていれば、温室のように暖かい部屋が二つあるのである。 * 私は去年朝顔が植えてあった鉢を持ち出して、まずていねいに外側を洗った。次にこの鉢を持って裏の畑へ行き、最も豊饒らしい土を一鉢分失敬した。だが、いくら豊饒でも、畑の土には石や枯れ葉がまざっている。それをいちいち取りのけて、さて植えるとなると、なかなかめんどうくさい。 雪割草を買った人は知っているだろうが、ちょっと見ると上に芽があり、下に長い根がついているらしいが、よく見ると下についているものの大部分は、根でなくて、葉を押しまげたものなのである。おそらく丈夫な葉が、スクスク延びているのを、そのままでは送りにくいので、無慙にも押っぺしょってくるくると縛りつけたのであろう。 私が第一に遭遇した問題は、この葉をいかに取り扱うべきかであった。取ってしまうと、根らしい部分がほとんどなくなる。さりとてそのままでは、バクバクして、いくら土を押えても、根がしまらない。二、三度入れたり出したりしたが、結局めんどうくさいのをがまんして、葉をつけたまま植えた。たっぷり水をやって、ガラス戸の内側に入れる。なんだか、大きな仕事をやりあげたような気がした。これだけで、大分ウンザリした。したがって、残り何十本は、庭のすみに、いい加減な穴を掘って、植えた。 * それから、寒い日が続いた。一体、私の住んでいる所は寒いので有名だが、この冬はことに寒いような気がした。毎朝、窓ガラスに、室内の水蒸気が凍りついて、美しい模様を描き出した。 だが部屋の中は暖かかった。雪割草のつぼみは、目に見えてふくらんで行った。ただ、一向茎らしいものが出ない。きっと、福寿草のように、土にくっついて花が咲き、あとから茎がのびて葉を出すのだろう。それにしても、早く咲きそうだ。このぶんなら、お正月には確かに花を見ることが出来るだろう。と、私は大いによろこんでいた。 * ところがある朝ふと気がつくと、一番大きなつぼみが見えない。チラリと赤い色を見せていたつぼみは、きれいにもぎ取られている。さてはねずみが食ったなとその晩から、夜はねずみの入らぬ部屋に置くことにした。 * それにもかかわらず、つぼみはドンドン減って行く。もともと数えるぐらいしかなかったのだから、四、五日目には、一つか二つになってしまった。毎朝、私は雪割草の鉢を間にして、女房とけんかをした。 「おまえ、またゆうべ忘れたな」 「忘れやしません。ちゃんと入れときました」 「だって、また一つ減ってるぞ」 「でも、ゆうべだってしまいましたよ」 「ほんとうか」 |
この集にはいっている短篇は、「羅生門」「貉」「忠義」を除いて、大抵過去一年間――数え年にして、自分が廿五歳の時に書いたものである。そうして半は、自分たちが経営している雑誌「新思潮」に、一度掲載されたものである。 この期間の自分は、東京帝国文科大学の怠惰なる学生であった。講義は一週間に六七時間しか、聴きに行かない。試験は何時も、甚だ曖昧な答案を書いて通過する、卒業論文の如きは、一週間で怱忙の中に作成した。その自分がこれらの余戯に耽り乍ら、とにかく卒業する事の出来たのは、一に同大学諸教授の雅量に負う所が少くない。唯偏狭なる自分が衷心から其雅量に感謝する事の出来ないのは、遺憾である。 自分は「羅生門」以前にも、幾つかの短篇を書いていた。恐らく未完成の作をも加えたら、この集に入れたものの二倍には、上っていた事であろう。当時、発表する意志も、発表する機関もなかった自分は、作家と読者と批評家とを一身に兼ねて、それで格別不満にも思わなかった。尤も、途中で三代目の「新思潮」の同人になって、短篇を一つ発表した事がある。が、間もなく「新思潮」が廃刊すると共に、自分は又元の通り文壇とは縁のない人間になってしまった。 それが彼是一年ばかり続く中に、一度「帝国文学」の新年号へ原稿を持ちこんで、返された覚えがあるが、間もなく二度目のがやっと同じ雑誌で活字になり、三度目のが又、半年ばかり経って、どうにか日の目を見るような運びになった。その三度目が、この中へ入れた「羅生門」である。その発表後間もなく、自分は人伝に加藤武雄君が、自分の小説を読んだと云う事を聞いた。断って置くが、読んだと云う事を聞いたので、褒めたと云う事を聞いたのではない。けれども自分はそれだけで満足であった。これが、自分の小説も友人以外に読者がある、そうして又同時にあり得ると云う事を知った始である。 次いで、四代目の「新思潮」が久米、松岡、菊池、成瀬、自分の五人の手で、発刊された。そうして、その初号に載った「鼻」を、夏目先生に、手紙で褒めて頂いた。これが、自分の小説を友人以外の人に批評された、そうして又同時に、褒めて貰った始めである。 爾来程なく、鈴木三重吉氏の推薦によって、「芋粥」を「新小説」に発表したが、「新思潮」以外の雑誌に寄稿したのは、寧ろ「希望」に掲げられた、「虱」を以て始めとするのである。 自分が、以上の事をこの集の後に記したのは、これらの作品を書いた時の自分を幾分でも自分に記念したかったからに外ならない。自分の創作に対する所見、態度の如きは、自ら他に発表する機会があるであろう。唯、自分は近来ます〳〵自分らしい道を、自分らしく歩くことによってのみ、多少なりとも成長し得る事を感じている。従って、屡々自分の頂戴する新理智派と云い、新技巧派と云う名称の如きは、何れも自分にとっては寧ろ迷惑な貼札たるに過ぎない。それらの名称によって概括される程、自分の作品の特色が鮮明で単純だとは、到底自信する勇気がないからである。 最後に自分は、常に自分を刺戟し鼓舞してくれる「新思潮」の同人に対して、改めて感謝の意を表したいと思う。この集の如きも、或は諸君の名によって――同人の一人の著作として覚束ない存在を未来に保つような事があるかも知れない。そうなれば、勿論自分は満足である。が、そうならなくとも亦必ずしも満足でない事はない。敢て同人に語を寄せる所以である。 大正六年五月 |
縁日 柳行李 橋ぞろえ 題目船 衣の雫 浅緑 記念ながら 縁日 一 先年尾上家の養子で橘之助といった名題俳優が、年紀二十有五に満たず、肺を煩い、余り胸が痛いから白菊の露が飲みたいという意味の辞世の句を残して儚うなり、贔屓の人々は謂うまでもなく、見巧者をはじめ、芸人の仲間にも、あわれ梨園の眺め唯一の、白百合一つ萎んだりと、声を上げて惜しみ悼まれたほどのことである。 深川富岡門前に待乳屋と謂って三味線屋があり、その一人娘で菊枝という十六になるのが、秋も末方の日が暮れてから、つい近所の不動の縁日に詣るといって出たのが、十時半過ぎ、かれこれ十一時に近く、戸外の人通もまばらになって、まだ帰って来なかった。 別に案ずるまでもない、同町の軒並び二町ばかり洲崎の方へ寄った角に、浅草紙、束藁、懐炉灰、蚊遣香などの荒物、烟草も封印なしの一銭五厘二銭玉、ぱいれっと、ひーろーぐらいな処を商う店がある、真中が抜裏の路地になって合角に格子戸造の仕舞家が一軒。 江崎とみ、と女名前、何でも持って来いという意気造だけれども、この門札は、さる類の者の看板ではない、とみというのは方違いの北の廓、京町とやらのさる楼に、博多の男帯を後から廻して、前で挟んで、ちょこなんと坐って抜衣紋で、客の懐中を上目で見るいわゆる新造なるもので。 三十の時から二階三階を押廻して、五十七の今年二十六年の間、遊女八人の身抜をさしたと大意張の腕だから、家作などはわがものにして、三月ばかり前までは、出稼の留守を勤め上りの囲物、これは洲崎に居た年増に貸してあったが、その婦人は、この夏、弁天町の中通に一軒引手茶屋の売物があって、買ってもらい、商売をはじめたので空家になり、また貸札でも出そうかという処へ娘のお縫。母親の富とは大違いな殊勝な心懸、自分の望みで大学病院で仕上げ、今では町住居の看護婦、身綺麗で、容色も佳くって、ものが出来て、深切で、優しいので、寸暇のない処を、近ごろかの尾上家に頼まれて、橘之助の病蓐に附添って、息を引き取るまで世話をしたが、多分の礼も手に入るる、山そだちは山とか、ちと看病疲も出たので、しばらく保養をすることにして帰って来て、ちょうど留守へ入って独で居る。菊枝は前の囲者が居た時分から、縁あってちょいちょい遊びに行ったが、今のお縫になっても相変らず、……きっとだと、両親が指図で、小僧兼内弟子の弥吉というのを迎に出すことにした。 「菊枝が毎度出ましてお邪魔様でございます、難有う存じます。それから菊枝に、病気揚句だ、夜更しをしては宜くないからお帰りと、こう言うのだ。汝またかりん糖の仮色を使って口上を忘れるな。」 坐睡をしていたのか、寝惚面で承るとむっくと立ち、おっと合点お茶の子で飛出した。 わっしょいわっしょいと謂う内に駆けつけて、 「今晩は。」というと江崎が家の格子戸をがらりと開けて、 「今晩は。」 時に返事をしなかった、上框の障子は一枚左の方へ開けてある。取附が三畳、次の間に灯は点いていた、弥吉は土間の処へ突立って、委細構わず、 「へい毎度出ましてお邪魔様でございます、難有う存じます。ええ、菊枝さん、姉さん。」 二 「菊枝さん、」とまた呼んだが、誰も返事をするものがない。 立続けに、 「遅いからもうお帰りなさいまし、風邪を引くと不可ません。」 弥吉は親方の吩咐に註を入れて、我ながら旨く言ったと思ったが、それでもなお応じないから、土間の薄暗い中をきょろきょろと眗したが、密と、框に手をついて、及腰に、高慢な顔色で内を透し、 「かりん糖でござい、評判のかりん糖!」と節をつけて、 「雨が降ってもかりかりッ、」 どんなものだ、これならば顕れよう、弥吉は菊枝とお縫とが居ない振でかつぐのだと思うから、笑い出すか、噴き出すか、くすくす遣るか、叱るかと、ニヤニヤ独で笑いながら、耳を澄したけれども沙汰がない、時計の音が一分ずつ柱を刻んで、潮の退くように鉄瓶の沸え止む響、心着けば人気勢がしないのである。 「可笑しいな、」と独言をしたが、念晴しにもう一ツ喚いてみた。 「へい、かりん糖でござい。」 それでも寂寞、気のせいか灯も陰気らしく、立ってる土間は暗いから、嚔を仕損なったような変な目色で弥吉は飛込んだ時とは打って変り、ちと悄気た形で格子戸を出たが、後を閉めもせず、そのままには帰らないで、溝伝いにちょうど戸外に向った六畳の出窓の前へ来て、背後向に倚りかかって、前後を眗して、ぼんやりする。 がらがらと通ったのは三台ばかりの威勢の可い腕車、中に合乗が一台。 「ええ、驚かしゃあがるな。」と年紀には肖ない口を利いて、大福餅が食べたそうに懐中に手を入れて、貧乏ゆるぎというのを行る。 処へ入乱れて三四人の跫音、声高にものを言い合いながら、早足で近いて、江崎の前へ来るとちょっと淀み、 「どうもお嬢さん難有うございました。」こういったのは豆腐屋の女房で、 「飛んだお手数でしたね。」 「お蔭様だ。」と留という紺屋の職人が居る、魚勘の親仁が居る、いずれも口々。 中に挟ったのが看護婦のお縫で、 「どういたしまして、誰方も御苦労様、御免なさいまし。」 「さようなら。」 「お休み。」 互に言葉を交したが、連の三人はそれなり分れた。 ちょっと彳んで見送るがごとくにする、お縫は縞物の不断着に帯をお太鼓にちゃんと結んで、白足袋を穿いているさえあるに、髪が夜会結。一体ちょん髷より夏冬の帽子に目を着けるほどの、土地柄に珍しい扮装であるから、新造の娘とは知っていても、称えるにお嬢様をもってする。 お縫は出窓の処に立っている弥吉には目もくれず、踵を返すと何か忙しらしく入ろうとしたが、格子も障子も突抜けに開ッ放し。思わず猶予って振返った。 「お帰んなさい。」 「おや、待乳屋さんの、」と唐突に驚く間もあらせず、 |
むかしむかし、ひとりの貧しい王子がいました。王子は一つの国をもっていましたが、それはとても小さな国でした。でも、いくら小さいとはいっても、お妃をむかえるのに、ふそくなほどではありませんでした。さて、この王子はお妃をむかえたいと思いました。 それにしても、この王子が皇帝のお姫さまにむかって、「わたくしと結婚してくださいませんか?」などと言うのは、あまりむてっぽうすぎるというものでした。けれども、王子は、思いきって、そうしてみました。なぜって、王子の名前は遠くまで知れわたっていましたし、それに、王子が結婚を申しこめば、よろこんで、はい、と、言いそうなお姫さまは、何百人もいたからです。ところで皇帝のお姫さまは、はい、と、言ったでしょうか? では、わたしたちは、そのお話を聞くことにしましょう。 王子のおとうさまのお墓の上には、一本のバラの木が生えていました。それは、なんともいえないほど美しいバラの木でした。花は五年めごとにしか咲きませんが、そのときにも、ただ一りんしか咲かないのです。でも、そのにおいのよいことといったら、またとありません。一度そのにおいをかぐと、だれでも、どんないやなことも、心配ごとも、忘れてしまうほどでした。王子はまた、一羽のナイチンゲールを持っていました。このナイチンゲールは、たいへんじょうずに歌をうたうことができました。その小さなのどの中には、美しい節が、いっぱい、つまっているのではないかと思われました。王子は、このバラの花と、ナイチンゲールを、お姫さまにさしあげようと思いました。そこで、さっそく、その二つを大きな銀の入れ物に入れて、お姫さまのところへ持っていかせました。 皇帝は、その贈り物を大きな広間に運びこませて、自分も、あとからついていきました。その広間では、お姫さまが侍女たちと、「お客さまごっこ」をして、あそんでいました。お姫さまたちには、ほかのことは、なんにもできなかったのです。お姫さまは、贈り物のはいっている、大きな入れ物を見ると、大よろこびで手を打ちました。 「かわいらしい小ネコが、はいっていますように!」と、お姫さまは言いました。――ところが、出てきたのは、美しいバラの花でした。 「まあ、なんてきれいに造ってあるのでございましょう!」と、侍女たちが、口々に申しました。 「きれいどころではない!」と、皇帝は言いました。「なんと言ったらいいのか! じつに美しい!」 ところが、お姫さまは、花にさわってみて、もうすこしで泣き出しそうになりました。 「まあ、いやですわ、おとうさま!」と、お姫さまは言いました。「これは造ったお花ではなくって、ほんとのお花ですわ!」 「あら、いやですこと!」と、侍女たちも、口をそろえて言いました。「ほんとのお花でございますわ!」 「さあ、さあ、おこっていないで、もう一つのほうに、何がはいっているか、見ようではないか」と、皇帝は言いました。すると、今度は、ナイチンゲールが出てきました。そして、ナイチンゲールはたいそう美しい声で歌をうたいましたので、だれもこの鳥には、すぐに文句の言いようがありませんでした。 「シュペルブ! シャルマン!(まあ、すてき! うっとりするようですわ!)」侍女たちは、みんなフランス語がしゃべれましたので、フランス語でこう言いました。ひとりが、なにか言いだすと、そのたびに、だんだん大げさになっていきました。 「この鳥のうたうのを聞いておりますと、わたくしには、おかくれなさいました皇后さまの、音楽時計が思い出されます!」と、年とった家来が申しました。「ああ、それ、それ、声も、歌も、まったく、あのとおりでございます!」 「そうじゃな」皇帝はこう言って、まるで小さな子供のように、泣きました。 「でも、ほんとの鳥とは思われませんわ」と、お姫さまが言いました。 「いいえ、ほんとの鳥でございます」と、贈り物を持ってきた、使いの者たちが、言いました。 「それじゃ、そんな鳥、とばせておしまいなさい!」と、お姫さまは言いました。そして、王子が来るのを、どうしても承知しようとはしませんでした。 しかし、こんなことがあったって、王子のほうは平気です。そのくらいのことでは、ひっこんでいません。すぐさま、顔に茶いろや黒のきたない色をぬりつけ、帽子を深くかぶって、御殿の門の戸をたたきました。 「ごめんください、皇帝さま!」と、王子は言いました。「この御殿で、わたくしを使ってくださいませんか?」 「さようか、働きたいと言ってくる者が、ずいぶんいるからのう」と、皇帝は言いました。「だが、ちょっとお待ち。――そう、そう、ブタの番をする者が、だれかひとり入用じゃ。なにしろ、ブタがたくさんいるのでのう!」 そこで、王子は、御殿のブタ飼いにやとわれました。そして、下のブタ小屋のそばに、みすぼらしい小さな部屋を一ついただいて、そこに住むことになりました。 王子は、一日じゅう、そこにすわって、いっしょうけんめい、なにかを作っていました。そして夕方ごろには、もう、かわいらしい、小さなつぼを作りあげていました。つぼのまわりには、鈴がついていました。つぼの中のお湯がわくと、その鈴はたいへん美しい音色をたてて、リンリンと鳴るのです。そして、 ああ、いとしいアウグスチン、 もうおしまいよ、なにもかも! という、むかしからの、なつかしい節をかなでました。 けれども、このつぼには、もっともっとじょうずなしかけがしてありました。そのつぼの中から立ちのぼる湯気に指をつけると、町じゅうの台所で、いまどんな料理が作られているかを、ここにいながら、たちまち、かぎわけることができるのでした。ね、これはまた、バラの花とは、まったくちがっているでしょう。 さて、お姫さまは侍女たちを連れて、散歩に出かけました。ふと、この節を耳にしますと、立ちどまって、たいそううれしそうな顔をしました。「ああ、いとしいアウグスチン!」というこの節なら、お姫さまも、ピアノでひくことができたからです。もっとも、これだけが、お姫さまにできる、たった一つの節でしたが。それも、一本指でひくのでした。 「あれは、あたしにもひける節よ」と、お姫さまは言いました。「あのブタ飼いは、きっと、学問のある人にちがいないわ。ねえ、あそこへ行って、あの楽器のおねだんをきいてきてちょうだい」 こういうわけで、侍女のひとりが、その中へはいっていかなければならないことになりました。けれども、侍女は、まずその前に、木の上靴にはきかえました。―― 「そのつぼは、いくらでゆずっていただけるの?」と、侍女はたずねました。 「お姫さまのキスを十ください」と、ブタ飼いは答えました。 「まあ、とんでもない!」と、侍女は言いました。 「でも、それ以下では、お売りできません」と、ブタ飼いは言いました。 「ね、なんと言って?」と、お姫さまはたずねました。 「とても、あたくしには申しあげられませんわ!」と、侍女は申しました。「だって、あんまりでございますもの!」 「じゃ、そっと言ってちょうだい」そこで、侍女は、お姫さまにそっと申しあげました。 「まあ、なんて失礼なひとなんでしょう!」そう言うと、お姫さまはいそいで歩き出しました。――ところが、ほんのちょっと行ったかと思うと、もうまた、あの鈴が、かわいらしい音をたてて、鳴り出しました。 ああ、いとしいアウグスチン、 もうおしまいよ、なにもかも! 「ねえ」と、お姫さまは言いました。「あたしの侍女たちのキスを十でもいいかって、きいてきてちょうだい」 「いいえ、ごめんこうむります」と、ブタ飼いは言いました。「お姫さまからキスを十いただかなければ、つぼはおゆずりできません」 |
彼はとう〳〵始末に困じて、傍に寝てゐる妻をゆり起した。妻は夢心地に先程から子供のやんちやとそれをなだめあぐんだ良人の声とを意識してゐたが、夜着に彼の手を感ずると、警鐘を聞いた消防夫の敏捷さを以て飛び起きた。然し意識がぼんやりして何をするでもなくそのまゝ暫くぢつとして坐つてゐた。 彼のいら〳〵した声は然し直ぐ妻を正気に返らした。妻は急に瞼の重味が取り除けられたのを感じながら、立上つて小さな寝床の側に行つた。布団から半分身を乗り出して、子供を寝かしつけて居た彼は、妻でなければ子供が承知しないのだと云ふことを簡単に告げて、床の中にもぐり込んだ。冬の真夜中の寒さは両方の肩を氷のやうにしてゐた。 妻がなだめたならばと云ふ期待は裏切られて、彼は失望せねばならなかつた。妻がやさしい声で、真夜中だからおとなしくして寝入るやうにと云へば云ふほど、子供は鼻にかゝつた甘つたれ声で駄々をこねだした。枕を裏返せとか、裏返した枕が冷たいとか、袖で涙をふいてはいけないとか、夜着が重いけれども、取り除けてはいけないとか、妻がする事、云ふ事の一つ〳〵にあまのじやくを云ひつのるので、初めの間は成るべく逆らはぬやうにと、色々云ひなだめてゐた妻も、我慢がし切れないと云ふ風に、寒さに身を慄はしながら、一言二言叱つて見たりした。それを聞くと子供はつけこむやうに殊更声を曇らしながら身悶えした。 彼は鼻の処まで夜着に埋まつて、眼を大きく開いて薄ぼんやりと見える高い天井を見守つたまゝ黙つてゐた。晩くまで仕事をしてから床に這入つたので、重々しい睡気が頭の奥の方へ追ひ込められて、一つのとげ〳〵した塊的となつて彼の気分を不愉快にした。 彼は物を云はうと思つたが面倒なので口には出さずに黙つてゐた。 十分。 十五分。 二十分。 何んの甲斐もない。子供は半睡の状態からだん〳〵と覚めて来て、彼を不愉快にしてゐるその同じ睡気にさいなまれながら、自分を忘れたやうに疳を高めた。 斯うしてゐては駄目だ、彼はさう思つて又むつくり起き上つて、妻の傍にひきそつて子供に近づいて見た。子供はそれを見ると、一種の嫉妬でも感じたやうに気狂ひじみた暴れ方をして彼の顔を手でかきむしりながら押し退けた。数へ年の四つにしかならない子供の腕にも、こんな時には癪にさはる程意地悪い力が籠つてゐた。 「マヽちやんの傍に来ちやいけない」 さう云つて子供は彼を睨めた。 彼は少し厳格に早く寝つくやうに云つて見たが、駄目だと思つて又床に這入つた。妻はその間黙つたまゝで坐つて居た。而して是れほど苦心して寝かしつけようとしてゐるのに、その永い間、寒さの中に自分一人だけ起して置いて、知らぬげに臥てゐる彼を冷やかな心になつて考へながら、子供の仕打ちを胸の奥底では justify してゐるらしく彼には考へられた。 彼は子供の方に背を向けて、そつちには耳を仮さずに寝入つてしまはうと身構へた。 子供の口小言は然し耳からばかりでなく、喉からも、胸からも、沁み込んで来るやうに思はれた。彼は少しづゝいら〳〵し出した。しまつたと思つたけれども、もう如何する事も出来ない。是れが彼の癖である。普段滅多に怒ることのない彼には、自分で怒りたいと思つた様々の場合を、胸の中の棚のやうな所に畳んで置いたが、どうかすると、それが下らない機会に乗じて一度に激発した。さうなると彼は、彼自身を如何する事も出来なかつた。はら〳〵して居る中に、その場合々々に応じて、一番危険な、一番破壊的な、一番馬鹿らしい仕打ちを夢中でして退けて、後になつてから本当に臍を噛みたいやうなたまらない後悔に襲はれるのだ。 妻は、相かはらず煮え切らない小言を、云ふでもなし云はぬでもなしと云ふ風で、その癖中々しつツこく、子供を相手にしてゐた。いら〳〵してゐる彼には、子供がいら〳〵してゐる訳が胸に徹へるやうだつた。あんなにしんねりむつつりと首も尻尾もなく、小言を聞かされてはたまるものか、何んだつてもつとはつきりしないんだ、と思ふと彼の歯は自然に堅く噛み合つた。彼はさう堅く歯を噛み合はして、瞼を堅く閉ぢて、もう一遍寝入らうと努めて見た。塊的になつた睡気は然し後頭の隅に引つ込んで、眼の奥が冴えて痛むだけだつた。 「早く寝ないとマヽちやんは又あなたを穴に入れますからね」 始めは可なり力の籠つた言葉だと思つて聞いてゐると仕舞には平凡な調子になつてしまふ。子供はそんな言葉には頓着する様子もなく、人を焦立たせるやうに出来た泣き声を張り上げて、夜着を踏みにじりながら泣き続けた。彼はとう〳〵たまらなくなつて出来るだけ声の調子を穏当にした積りで、 「そんなに泣かせないだつて、もう少しやりやうがありさうなものだがな」 と云つた。がそれが可なり自分の耳にもつけ〳〵と聞こえた。妻は彼の言葉で注意されても子供を取扱ふ態度を改める様子もなく、黙つたまゝで、無益にも踏みはぐ夜着を子供に着せようとしてばかりゐた。 「おい、どうかしないか」 彼の調子はます〳〵尖つて来た。彼はもう驀地に自分の癇癪に引き入れられて、胸の中で憤怒の情がぐん〳〵生長して行くのが気持がよかつた。彼は少し慄へを帯びた声を張り上げて怒鳴り出した。 「光! まだ泣いてるか――黙つて寝なさい」 子供は気を呑まれて一寸静かになつたが、直ぐ低い啜り泣きから出直して、前にも増した大袈裟な泣き声になつた。 「泣くとパヽが本当に怒るよ」 まだ泣いてゐる。 その瞬間かつと身体中の血が頭に衝き上つたと思ふと、彼は前後の弁へもなく立上つた。はつと驚く間もあらせず、妻の傍をすり抜けて、両手を子供の頭と膝との下にあてがふが早いか、小さい体を丸めるやうに抱きすくめた。不意の驚きに気息を引いた子供が懸命になつて火のつくやうに「マヽ……マヽ……パヽ……もうしません……もうしないよう……」と泣き出した時には、彼はもう寝室の唐戸を足で蹴明けて廊下に出てゐた。冷たい板敷が彼の熱し切つた足の裏にひやりと触れるのだけを彼は感じて快く思つた。その外に彼は何事をも意識してゐなかつた。張り切つた残酷な大きな力が、何等の省慮もなく、張り切つた小さな力を抱へてゐた。彼はわなゝく手を暗の中に延ばしながら、階子段の下にある外套掛けの袋戸の把手をさぐつた。子供は腰から下が自由になつたので、思ひきりばた〳〵と両脚でもがいてゐる。戸が開いた。子供はその音を聞くと狂気の如く彼の頸にすがり付いた。然し無益だ。彼は蔓のやうにからみ付くその手足を没義道にも他愛なく引き放して、いきなり外套と帽子と履物と掃除道具とでごつちやになつた真暗な中に子供を放り込んだ。その時の気組なら彼は殺人罪でも犯し得たであらう。感情の激昂から彼の胸は大波のやうに高低して、喉は笛のやうに鳴るかと思ふ程燥き果て、耳を聾返へらすばかりな内部の噪音に阻まれて、子供の声などは一語も聞こえはしなかつた。外套のすそか、箒の柄か、それとも子供のかよわい手か、戸をしめる時弱い抵抗をしたのを、彼は見境もなく力まかせに押しつけて、把手を廻し切つた。 その時彼は満足を感じた、跳り上りたい程の満足をその短い瞬間に於て思ふ存分に感じた。而して始めて外界に対して耳が開けた。 戸を隔てて子供の泣く声は憐れにも痛ましいものであつた。彼と妻とに嘗めるやうにいつくしまれたこの子供は今まで真夜中にかゝるめには一度も遇つた事がなかつたのだ。 彼は何かに酔ひしれた男のやうに、衣紋もしだらなく、ひよろ〳〵と跚けながら寝室に帰つて、疲れ果てて自分の寝床に臥し倒れた。そつと頭を動かして妻を見ると、次の子供の枕許にしよんぼりとあちら向きになつて、頭の毛を乱してうつ向いたまゝ坐つてゐた。 それを見ると彼の怒りは又乱潮のやうに寄せ返した。 「あなたは子供の育て方を何んだと思つてるんだ」 気息がはずんで二の句がつげない。彼は芝居で腹を切つた俳優が科白の間にやるやうに、深い呼吸を暫くの間苦しさうについてゐた。 「あまやかしてゐればそれですむんぢやないんだ――」 彼は又気息をついた。彼はまだ何か云ふ積りであつたが総てが馬鹿らしいので、そのまゝ口をつぐんでしまつた。而して深い呼吸をせはしく続けてゐた。 外套掛けからは命を搾り出すやうな子供の詫びる声が聞こえてゐた。彼はもう一度妻を見て、妻が先つきからその声に気を取られてゐると云ふ事に気がついた。苦い敵愾心が又胸につきあげて来た――嫉妬と云ふ言葉ででも現はすべき敵愾心が―― 「それでなくてもパヽは怖いものなんだよ、……それ……に」 パヽだけが折檻をやつては、尚更怖がらせるばかりで、仕舞にはどう始末をしていゝか判らなくなる。男の児は七つ八つになれば、もう腕力では母から独立する。女でも手がける事の出来る間に、しつかり母の強さも感じさせて置かなければ駄目なんだ。それは前から度々云つてる事ではないか。それを一時の愛着に牽かされて姑息にして置く法はない。是れだけの事を云ふ積りであつたのだけれども、迚も云へないと気がついて黙つてしまつたのだ。妻は寒い中に端坐して身もふるはさずに子供の声に聞き入つてるらしかつた。 「もう寝ろ」 彼は暫くたつてからこんな乱暴な云ひやうで妻を強ひた。 「出してやらなくても宜しいでせうか」 彼の言葉には答へもせずに、妻は平べつたい調子で後ろを向いたまゝかう云つてゐる。その落着き払つたやうな、ちつとも情味の籠らないやうな、冷静な妻の態度が却つて怒りを募らして、彼は妻の眼の前で子供をつるし切りにして見せてやりたい程荒んだ気分になつた。憤怒の小魔が、体の内からともなく外からともなく、彼の眼をはだけ、歯を噛み合はさせ、喉をしめつけ、握つた手に油汗をにじみ出さした。彼は焔に包まれて、宙に浮いてゐるやうな、目まぐるしい心の軽さを覚えて、総ての羈絆を絶ち切つて、何処までも羽をのす事が出来るやうにも思つた。彼はその虚無的な気分に浸りたいが為めに、狂言をかいて憤怒の酒に酔ひしれようと勉めるらしくもあつた。 兎に角彼は心ゆく許り激情の弄ぶまゝに自分の心を弄ばした。生全体の細かい強い震動が、大奏楽の Finale の楽声のやうに、雄々しく狂ほしく互に打ち合つて、もう一歩で回復の出来ない破滅を招くかとも思はれるその境を、彼の心は痛ましくも泣き笑ひをしながら小躍りして駈けまはつてゐた。 然しさうかうする中に癇癪の潮はその頂上を通り越して、やゝ引潮になつて来た。どんな猛烈な事を頭に浮べて見ても、それには前ほどな充実した真実味が漂つてゐなくなつた。考へただけでも厭やな後悔の前兆が心の隅に頭を擡げ始めた。 「出したけりや出したら好いぢやないか」 この言葉を聞くと妻は釣り込まれて、立上らうとした様子であつたが、思ひ返したらしく又坐り直して始めて彼の方を振りかへりながら、 「でも貴方がお入れになつて私が出してやつたのでは、私がいゝ子にばかりなる訳ですから」 と答へた。それが彼には、彼を怖れて云つた言葉とはどうしても聞こえないで、単に復讐的な皮肉とのみ響いた。 何が起るか解らないやうな沈黙が暫くの間二人の間に続いた。 その間彼は自分の呼吸が段々静まつて行くのを、何んだか心淋しいやうな気持で注意した――インスピレーションが離れ去つて行くやうな――表面的な自己に還つて行くやうな――何物かの世界から何物でもない世界に這入つて行くやうな―― |
一 うす穢い兵隊服にズダ袋一つ背負つた恰好の佐太郎が、そこの丘の鼻を廻れば、もう生家が見えるという一本松の田圃路まで来たとき、フト足をとめた。 いち早くただ一人、そこの田圃で代掻をしてる男が、どうも幼な友達の秀治らしかつたからである。 頭の上に来かかつているお日様のもと、馬鍬を中にして馬と人が、泥田のなかをわき目もふらずどう〳〵めぐりしているのを見ていると、佐太郎はふと、ニユーギニヤに渡る前、中支は蕪湖のほとりで舐めた雨季の膝を没する泥路の行軍の苦労を思い出した。 過労で眼を赤くした馬の腹から胸は、自分がビシヤ〳〵はね飛ばす泥が白く乾いていた。ガバ〳〵と音立てて進む馬鍬のあとに、両側から流れ寄つて来る饀みたいな泥の海に掻き残された大きな土塊の島が浮ぶ。馬が近ずくと一旦パツと飛び立つた桜鳥が、直ぐまたその土塊の島に降りて、虫をあさる。 また馬が廻つて来て、桜鳥は飛び立つ。そのあとを、馬鍬にとりついて行く男の上半身シヤツ一枚の蟷螂みたいな痩せぎすな恰好はたしかに秀治にちがいなかつた。 「おー、よく稼ぐな」 内地にたどりついて最初の身近な人間の姿であつた。思わず胸が迫つて来て呼びかけた声を、振りむきもせず一廻りして来た秀治は、顔を上げると同時に唸つた。 「おや、佐太郎――今戻つたか、遅かつたなあ」 しかし、そのまま馬のあとを追つて背中で、 「どこに居た、今まで」 「ニユーギニヤだよ、お前はどこで負けたことを聞いた」 「北海道の帯広だよ、近いからな、直ぐ帰つて来た」 「ほー、そりや、得したなあ」 酔つたように突ツ立つている恰好はモツサリとして顔は真黒にすすけていたが、やつぱり上背のある眼鼻立のキリツとした佐太郎にちがいなかつた。 「田植済んだら、ゆつくり、一杯やろうな、同窓生集つて――」 また後でというように言いすてて、もう背中を向けて行くので、佐太郎は田圃路を歩き出したが、直ぐ次の言葉が追いかけて来た。 「初世ちや、待つているよ」 「う――なんだつて」 出しぬけで何のことかわからなかつたので、立ちどまつて聞き返した。しかし、相手はきこえぬ風に振り向きもせず作業をつづけている。で、佐太郎は再び重い編上靴を運びはじめた。 初世が待つているなんて、そんなことはあるはずがない。それは秀治の思いちがいに相違ないが、すると初世がまだ嫁に行かないでいることは事実なのだ。たしか、今年はもう二十四になるはずなのに。 これと言つて別に思い出す女ももたない佐太郎であつた。時たま胸に浮んで来るのは、初世ぐらいのものであつたが、その初世にしてからが、敗戦の年も暮れに近ずいたある日、ふと指折りかぞえて、初世ももうじき二十三になるのだと気ずいてから後は、もう子供の一人や二人ある他人の妻としてしか考えていなかつた。 それがまだ嫁がずにいると聞いては、全く意外の感に打たれずにはいられなかつた。佐太郎の胸は、永い冬の間かたくとざされていた池の氷が春の陽に解け出したように、フトときめきをおぼえた。 二 父親の源治が神経痛であまり働けないために、佐太郎は農業学校を卒業すると同時に、田圃に下りて働いたが、教壇からもドン〳〵戦地にもつて行かれて教員の不足になやみはじめた学校が、多少でも教育のある者の援助を求めるようになり、佐太郎も村では数少い中等学校の卒業者というので、望まれて隣村の高等小学校に、毎日二、三時間の授業をうけもつようになつた。 その女子の高等二年の教室で、初世はもつとも佐太郎の眼をひきつける頬の紅いボツと眼のうるんだ娘であつた。が、翌る年の三月末の卒業式と同時に、初世は佐太郎の眼の前から姿を消した。それ以来幾月というもの、自転車での学校の行き帰りの路でも、ついぞその姿を見かけることがなく、初世はやがて佐太郎の念頭からきれいに消え去りかけていた。 ところが、その秋の稲刈前の村の神明社の祭に、佐太郎は久しぶりにヒヨツコリ初世の姿を見かけた。初世は同じ年頃の娘たち四、五人連れであつた。佐太郎の方もまた、村の仲間の秀治と友一との三人連れだつた。子供のオモチヤや、小娘たちの喜ぶ千代紙やブローチや手提などを、まばゆくきらびやかに照らし出す夜店のアセチレン灯の光が、わずか半年ほど見なかつただけの初世の姿を、人ちがいかと思わせるほど美しく大人ツぽく見せた。 夜店の人混みの前で、行きちがつたこの男女の二組は、間もなくまた出会つた。行きちがつて、今度はもう会わないだろうと思つていると、またもや出会つた。お神楽の前の人混みで手品や漫才の櫓の下の人群のなかで、また夜店の前で、この二組は不思議に何度も行き会つた。その度に、娘たちが殊更に狼狽の様子を見せたり、誘いかけるように振り返つたりすることで、佐太郎はその娘たちのなかでいちばん姉さん株で引卒者という立場の初世が、わざと出会うように仕組んでいるのではないかと疑いはじめた。実際はその逆で、多少不良性のある秀治が、その一流の小狡さで誰にも気ずかれないようにたくみにみんなを引ツぱり廻しているのだつたが、佐太郎はそのときには気がつかずにいた。 夜店の前で四度目に出会つたとき、秀治たちは露骨に娘たちをからかいはじめた。娘たちはキヤツ〳〵と嬌声を上げながら、暗闇の方に逃げ出したが、その癖遠くへは行かず、いよ〳〵秀治たちを強くそつちに引きつけた。秀治と友一の二人は、間もなく娘たちを大銀杏のかげの暗がりの方に追いかけて行つた。お神楽の笛が、人混みのざわめきの向うで鳴つていた。夜店のアセチレン燈の光が、かすかにとどく銀杏の根もとに、初世は一人仲間からはぐれて、空ろな顔で突ツ立つていた。 「おい、帰ろう――あいつらはもう、どこに行つたかわからないから」 娘たちともつれ合つているだろう仲間に、しびれるようなねたましさを感じていた佐太郎は、思いがけない初世の姿を見出すと同時に、曾てそういうことで揮い起したことのない勇気をふるつて一気にそれだけ言い切つた。声がふるえていた。 何故ツて、それは随分思い切つた申出であつた。三日月の光があるとは言つても、殆ど闇夜に近い暗い遠い夜路を、二人だけで帰ろうというのだつたからである。ほかに連れがあるこのときに、二人だけはぐれて帰るということは、内密な何事かを意味するものでなければならなかつた。 初世はしかし、うなずきはしなかつた。星のように光る眼で、ただまじ〳〵と相手を見た。佐太郎はこんなに強く光る初世の眼を初めて見た気がした。遠くからのアセチレン燈の微光が、初世のオリーブ色の金紗の着物を朝草のように青々と浮き立たせていた。 と言つて、初世は拒みもしなかつた。そのことが、佐太郎を勇気ずけた。 「さあ、行こう」 佐太郎はそうやや上ずつた声で勢いこんで言うと同時に、初世の左の手首をつかんで引ツぱつた。すると、初世は別にさからう風もなく、崩れるように歩きはじめた。佐太郎は手をつかんだまま歩き出した。 思つたよりもボタリと重い女の手だつた。しかし、その重みはシツトリとして何か貴重な値打を感じさせる気持のいい重みであつた。 自分の行動に対して、女が何の抵抗をも示さないと思うと、佐太郎は急におさえがたい興奮を感じた。 「一寸そこで休んで行こう、話したいことがあるんだよ」 神明社の少し先の、左側に林檎畑のあるところに来かかつたとき、佐太郎はグイとその畑の方に女の手をひいた。 「いやだ」 初めて初世は立ちどまつて、上半身を反らせた。しかし、それは抵抗というほどのしぐさではなかつた。 「いいよ、何でもないよ、一寸話したいんだ」 そのまま手を引くと、それ以上さからおうとせず尾いて来た。 もう佐太郎は夢中であつた。興奮でボーツと眼先がかすんで、林檎の梢に鋭鎌のような三日月がかかつているのさえ、ろくに眼に入らなかつた。 枝もたわわな林檎はたいてい袋をかぶつていたが、そうでないのは夜露にぬれてつや〳〵と光つていた。 どこか近くで夜鳥がギヤツと一声鳴いた。 |
離れで電話をかけて、皺くちゃになったフロックの袖を気にしながら、玄関へ来ると、誰もいない。客間をのぞいたら、奥さんが誰だか黒の紋付を着た人と話していた。が、そこと書斎との堺には、さっきまで柩の後ろに立ててあった、白い屏風が立っている。どうしたのかと思って、書斎の方へ行くと、入口の所に和辻さんや何かが二、三人かたまっていた。中にももちろん大ぜいいる。ちょうど皆が、先生の死顔に、最後の別れを惜んでいる時だったのである。 僕は、岡田君のあとについて、自分の番が来るのを待っていた。もう明るくなったガラス戸の外には、霜よけの藁を着た芭蕉が、何本も軒近くならんでいる。書斎でお通夜をしていると、いつもこの芭蕉がいちばん早く、うす暗い中からうき上がってきた。――そんなことをぼんやり考えているうちに、やがて人が減って書斎の中へはいれた。 書斎の中には、電灯がついていたのか、それともろうそくがついていたのか、それは覚えていない。が、なんでも、外光だけではなかったようである。僕は、妙に改まった心もちで、中へはいった。そうして、岡田君が礼をしたあとで、柩の前へ行った。 柩のそばには、松根さんが立っている。そうして右の手を平にして、それを臼でも挽く時のように動かしている。礼をしたら、順々に柩の後ろをまわって、出て行ってくれという合図だろう。 柩は寝棺である。のせてある台は三尺ばかりしかない。そばに立つと、眼と鼻の間に、中が見下された。中には、細くきざんだ紙に南無阿弥陀仏と書いたのが、雪のようにふりまいてある。先生の顔は、半ば頬をその紙の中にうずめながら、静かに眼をつぶっていた。ちょうど蝋ででもつくった、面型のような感じである。輪廓は、生前と少しもちがわない。が、どこかようすがちがう。脣の色が黒んでいたり、顔色が変わっていたりする以外に、どこかちがっているところがある。僕はその前で、ほとんど無感動に礼をした。「これは先生じゃない」そんな気が、強くした。(これは始めから、そうであった。現に今でも僕は誇張なしに先生が生きているような気がしてしかたがない)僕は、柩の前に一、二分立っていた。それから、松根さんの合図通り、あとの人に代わって、書斎の外へ出た。 ところが、外へ出ると、急にまた先生の顔が見たくなった。なんだかよく見て来るのを忘れたような心もちがする。そうして、それが取り返しのつかない、ばかな事だったような心もちがする。僕はよっぽど、もう一度行こうかと思った。が、なんだかそれが恥しかった。それに感情を誇張しているような気も、少しはした。「もうしかたがない」――そう、思ってとうとうやめにした。そうしたら、いやに悲しくなった。 外へ出ると、松岡が「よく見て来たか」と言う。僕は、「うん」と答えながら、うそをついたような気がして、不快だった。 青山の斎場へ行ったら、靄がまったく晴れて、葉のない桜のこずえにもう朝日がさしていた。下から見ると、その桜の枝が、ちょうど鉄網のように細く空をかがっている。僕たちはその下に敷いた新しいむしろの上を歩きながら、みんな、体をそらせて、「やっと眼がさめたような気がする」と言った。 斎場は、小学校の教室とお寺の本堂とを、一つにしたような建築である。丸い柱や、両方のガラス窓が、はなはだみすぼらしい。正面には一段高い所があって、その上に朱塗の曲禄が三つすえてある。それが、その下に、一面に並べてある安直な椅子と、妙な対照をつくっていた。「この曲禄を、書斎の椅子にしたら、おもしろいぜ」――僕は久米にこんなことを言った。久米は、曲禄の足をなでながら、うんとかなんとかいいかげんな返事をしていた。 斎場を出て、入口の休所へかえって来ると、もう森田さん、鈴木さん、安倍さん、などが、かんかん火を起した炉のまわりに集って、新聞を読んだり、駄弁をふるったりしていた。新聞に出ている先生の逸話や、内外の人の追憶が時々問題になる。僕は、和辻さんにもらった「朝日」を吸いながら、炉のふちへ足をかけて、ぬれたくつから煙が出るのをぼんやり、遠い所のものを見るようにながめていた。なんだか、みんなの心もちに、どこか穴のあいている所でもあるような気がして、しかたがない。 そのうちに、葬儀の始まる時間が近くなってきた。「そろそろ受付へ行こうじゃないか」――気の早い赤木君が、新聞をほうり出しながら、「行」の所へ独特のアクセントをつけて言う。そこでみんな、ぞろぞろ、休所を出て、入口の両側にある受付へ分れ分れに、行くことになった。松浦君、江口君、岡君が、こっちの受付をやってくれる。向こうは、和辻さん、赤木君、久米という顔ぶれである。そのほか、朝日新聞社の人が、一人ずつ両方へ手伝いに来てくれた。 やがて、霊柩車が来る。続いて、一般の会葬者が、ぽつぽつ来はじめた。休所の方を見ると、人影がだいぶんふえて、その中に小宮さんや野上さんの顔が見える。中幅の白木綿を薬屋のように、フロックの上からかけた人がいると思ったら、それは宮崎虎之助氏だった。 始めは、時刻が時刻だから、それに前日の新聞に葬儀の時間がまちがって出たから、会葬者は存外少かろうと思ったが、実際はそれと全く反対だった。ぐずぐずしていると、会葬者の宿所を、帳面につけるのもまにあわない。僕はいろんな人の名刺をうけとるのに忙殺された。 すると、どこかで「死は厳粛である」と言う声がした。僕は驚いた。この場合、こんな芝居じみたことを言う人が、僕たちの中にいるわけはない。そこで、休所の方をのぞくと、宮崎虎之助氏が、椅子の上へのって、伝道演説をやっていた。僕はちょいと不快になった。が、あまり宮崎虎之助らしいので、それ以上には腹もたたなかった。接待係の人が止めたが、やめないらしい。やっぱり右手で盛なジェステュアをしながら、死は厳粛であるとかなんとか言っている。 が、それもほどなくやめになった。会葬者は皆、接待係の案内で、斎場の中へはいって行く。葬儀の始まる時刻がきたのであろう。もう受付へ来る人も、あまりない。そこで、帳面や香奠をしまつしていると、向こうの受付にいた連中が、そろってぞろぞろ出て来た。そうして、その先に立って、赤木君が、しきりに何か憤慨している。聞いてみると、誰かが、受付係は葬儀のすむまで、受付に残っていなければならんと言ったのだそうである。至極もっともな憤慨だから、僕もさっそくこれに雷同した。そうして皆で、受付を閉じて、斎場へはいった。 正面の高い所にあった曲彔は、いつの間にか一つになって、それへ向こうをむいた宗演老師が腰をかけている。その両側にはいろいろな楽器を持った坊さんが、一列にずっと並んでいる。奥の方には、柩があるのであろう。夏目金之助之柩と書いた幡が、下のほうだけ見えている。うす暗いのと香の煙とで、そのほかは何があるのだかはっきりしない。ただ花輪の菊が、その中でうずたかく、白いものを重ねている。――式はもう誦経がはじまっていた。 僕は、式に臨んでも、悲しくなる気づかいはないと思っていた。そういう心もちになるには、あまり形式が勝っていて、万事がおおぎょうにできすぎている。――そう思って、平気で、宗演老師の秉炬法語を聞いていた。だから、松浦君の泣き声を聞いた時も、始めは誰かが笑っているのではないかと疑ったくらいである。 ところが、式がだんだん進んで、小宮さんが伸六さんといっしょに、弔辞を持って、柩の前へ行くのを見たら、急に眶の裏が熱くなってきた。僕の左には、後藤末雄君が立っている。僕の右には、高等学校の村田先生がすわっている。僕は、なんだか泣くのが外聞の悪いような気がした。けれども、涙はだんだん流れそうになってくる。僕の後ろに久米がいるのを、僕は前から知っていた。だからその方を見たら、どうかなるかもしれない。――こんなあいまいな、救助を請うような心もちで、僕は後ろをふりむいた。すると、久米の眼が見えた。が、その眼にも、涙がいっぱいにたまっていた。僕はとうとうやりきれなくなって、泣いてしまった。隣にいた後藤君が、けげんな顔をして、僕の方を見たのは、いまだによく覚えている。 それから、何がどうしたか、それは少しも判然しない。ただ久米が僕の肘をつかまえて、「おい、あっちへ行こう」とかなんとか言ったことだけは、記憶している。そのあとで、涙をふいて、眼をあいたら、僕の前に掃きだめがあった。なんでも、斎場とどこかの家との間らしい。掃きだめには、卵のからが三つ四つすててあった。 少したって、久米と斎場へ行ってみると、もう会葬者がおおかた出て行ったあとで、広い建物の中はどこを見ても、がらんとしている。そうして、その中で、ほこりのにおいと香のにおいとが、むせっぽくいっしょになっている。僕たちは、安倍さんのあとで、お焼香をした。すると、また、涙が出た。 外へ出ると、ふてくされた日が一面に霜どけの土を照らしている。その日の中を向こうへ突きって、休所へはいったら、誰かが蕎麦饅頭を食えと言ってくれた。僕は、腹がへっていたから、すぐに一つとって口へ入れた。そこへ大学の松浦先生が来て、骨上げのことか何か僕に話しかけられたように思う。僕は、天とうも蕎麦饅頭もしゃくにさわっていた時だから、はなはだ無礼な答をしたのに相違ない。先生は手がつけられないという顔をして、帰られたようだった。あの時のことを今思うと、少からず恐縮する。 涙のかわいたのちには、なんだか張合ない疲労ばかりが残った。会葬者の名刺を束にする。弔電や宿所書きを一つにする。それから、葬儀式場の外の往来で、柩車の火葬場へ行くのを見送った。 その後は、ただ、頭がぼんやりして、眠いということよりほかに、何も考えられなかった。 |
今般、当村内にて、切支丹宗門の宗徒共、邪法を行ひ、人目を惑はし候儀に付き、私見聞致し候次第を、逐一公儀へ申上ぐ可き旨、御沙汰相成り候段屹度承知仕り候。 陳者、今年三月七日、当村百姓与作後家篠と申す者、私宅へ参り、同人娘里(当年九歳)大病に付き、検脈致し呉れ候様、懇々頼入り候。 右篠と申候は、百姓惣兵衛の三女に有之、十年以前与作方へ縁付き、里を儲け候も、程なく夫に先立たれ、爾後再縁も仕らず、機織り乃至賃仕事など致し候うて、その日を糊口し居る者に御座候。なれども、如何なる心得違ひにてか、与作病死の砌より、専ら切支丹宗門に帰依致し、隣村の伴天連ろどりげと申す者方へ、繁々出入致し候間、当村内にても、右伴天連の妾と相成候由、取沙汰致す者なども有之、兎角の批評絶え申さず、依つて、父惣兵衛始め姉弟共一同、種々意見仕り候へども、泥烏須如来より難有きもの無しなど申し候うて、一向に合点仕らず、朝夕、唯、娘里と共にくるすと称へ候小き磔柱形の守り本尊を礼拝致し、夫与作の墓参さへ怠り居る始末に付き、唯今にては、親類縁者とも義絶致し居り、追つては、村方にても、村払ひに行ふ可き旨、寄り寄り評議致し居る由に御座候。 右様の者に候へば、重々頼み入り候へども、私検脈の儀は、叶ふまじき由申し聞け候所、一度は泣く泣く帰宅致し候へども、翌八日、再私宅へ参り、「一生の恩に着申す可く候へば、何卒御検脈下され度」など申し候うて、如何様断り候も、聞き入れ申さず、はては、私宅玄関に泣き伏し、「御医者様の御勤は、人の病を癒す事と存じ候。然るに、私娘大病の儀、御聞き棄てに遊ばさるる条、何とも心得難く候。」など、怨じ候へば、私申し候は、「貴殿の申し条、万々道理には候へども、私検脈致さざる儀も、全くその理無しとは申し難く候。何故と申し候はば、貴殿平生の行状誠に面白からず、別して、私始め村方の者の神仏を拝み候を、悪魔外道に憑かれたる所行なりなど、屡誹謗致され候由、確と承り居り候。然るに、その正道潔白なる貴殿が、私共天魔に魅入られ候者に、唯今、娘御の大病を癒し呉れよと申され候は、何故に御座候や。右様の儀は、日頃御信仰の泥烏須如来に御頼みあつて然る可く、もし、たつて私、検脈を所望致され候上は、切支丹宗門御帰依の儀、以後堅く御無用たる可く候。此段御承引無之に於ては、仮令、医は仁術なりと申し候へども、神仏の冥罰も恐しく候へば、検脈の儀平に御断り申候。」斯様、説得致し候へば、篠も流石に、推してとも申し難く、其儘凄々帰宅致し候。 翌九日は、ひき明け方より大雨にて、村内一時は人通も絶え候所、卯時ばかりに、篠、傘をも差さず、濡鼠の如くなりて、私宅へ参り、又々検脈致し呉れ候様、頼み入り候間、私申し候は、「長袖ながら、二言は御座無く候。然れば、娘御の命か、泥烏須如来か、何れか一つ御棄てなさるる分別肝要と存じ候。」斯様申し聞け候へば、篠、此度は狂気の如く相成り、私前に再三額づき又は手を合せて拝みなど致し候うて、「仰せ千万御尤もに候。なれども、切支丹宗門の教にて、一度ころび候上は、私魂躯とも、生々世々亡び申す可く候。何卒、私心根を不憫と思召され、此儀のみは、御容赦下され度候。」など掻き口説き咽び入り候。邪宗門の宗徒とは申しながら、親心に二無き体相見え、多少とも哀れには存じ候へども、私情を以て、公道を廃す可らざるの道理に候へば、如何様申し候うても、ころび候上ならでは、検脈叶難き旨、申し張り候所、篠、何とも申し様無き顔を致し、少時私顔を見つめ居り候が、突然涙をはらはらと落し、私足下に手をつき候うて、何やら蚊の様なる声にて申し候へども、折からの大雨の音にて、確と聞き取れ申さず、再三聞き直し候上、漸、然らば詮無く候へば、ころび候可き趣、判然致し候。なれどもころび候実証無之候へば、右証明を立つ可き旨、申し聞け候所、篠、無言の儘、懐中より、彼くるすを取り出し、玄関式台上へ差し置き候うて、静に三度まで踏み候。其節は格別取乱したる気色も無之、涙も既に乾きし如く思はれ候へども、足下のくるすを眺め候眼の中、何となく熱病人の様にて、私方下男など、皆々気味悪しく思ひし由に御座候。 扨、私申し条も相立ち候へば、即刻下男に薬籠を担はせ、大雨の中を、篠同道にて、同人宅へ参り候所、至極手狭なる部屋に、里独り、南を枕にして打臥し居り候。尤も身熱烈しく候へば、殆正気無之き体に相見え、いたいけなる手にて繰返し、繰返し、空に十字を描き候うては、頻にはるれやと申す語を、現の如く口走り、其都度嬉しげに、微笑み居り候。右、はるれやと申し候は、切支丹宗門の念仏にて、宗門仏に讃頌を捧ぐる儀に御座候由、篠、其節枕辺にて、泣く泣く申し聞かし候。依つて、早速検脈致し候へば、傷寒の病に紛れ無く、且は手遅れの儀も有之、今日中にも、存命覚束なかる可きやに見立て候間、詮方無く其旨、篠へ申し聞け候所、同人又々狂気の如く相成り、「私ころび候仔細は、娘の命助け度き一念よりに御座候。然るを落命致させては、其甲斐、万が一にも無之かる可く候。何卒泥烏須如来に背き奉り候私心苦しさを御汲み分け下され、娘一命、如何にもして、御取り留め下され度候。」と申し、私のみならず、私下男足下にも、手をつき候うて、頻に頼み入り候へども、人力にては如何とも致し難き儀に候へば、心得違ひ致さざる様、呉れ呉れも、申し諭し、煎薬三貼差し置き候上、折からの雨止みを幸、立ち帰らんと致し候所、篠、私袂にすがりつき候うて離れ申さず、何やら申さんとする気色にて、唇を動かし候へども、一言も申し果てざる中に、見る見る面色変り、忽、其場に悶絶致し候。然れば、私大に仰天致し、早速下男共々、介抱仕り候所、漸、正気づき候へども、最早立上り候気力も無之、「所詮は、私心浅く候儘、娘一命、泥烏須如来、二つながら失ひしに極まり候。」とて、さめざめと泣き沈み、種々申し慰め候へども、一向耳に掛くる体も御座無く、且は娘容態も詮無く相見え候間、止むを得ず再下男召し伴れ、匇々帰宅仕り候。 然るに、其日未時下り、名主塚越弥左衛門殿母儀検脈に参り候所、篠娘死去致し候由、並に篠、悲嘆のあまり、遂に発狂致し候由、弥左衛門殿より承り候。右に依れば、里落命致し候は、私検脈後一時の間と相見え、巳の上刻には、篠既に乱心の体にて、娘死骸を掻き抱き、声高に何やら、蛮音の経文読誦致し居りし由に御座候。猶、此儀は、弥左衛門殿直に見受けられ候趣にて、村方嘉右衛門殿、藤吾殿、治兵衛殿等も、其場に居合されし由に候へば、千万実事たるに紛れ無かる可く候。 追つて、翌十日は、朝来小雨有之候へども辰の下刻より春雷を催し、稍、晴れ間相きざし候折から――村郷士梁瀬金十郎殿より、迎への馬差し遣はされ、検脈致し呉れ候様、申し越され候間、早速馬上にて、私宅を立ち出で候所、篠宅の前へ来かかり候へば、村方の人々大勢佇み居り、伴天連よ、切支丹よなど、罵り交し候うて、馬を進め候事さへ叶ひ申さず、依つて、私馬上より、家内の容子差し覗き候所、篠宅の戸を開け放ち候中に、紅毛人一名、日本人三名、各々法衣めきし黒衣を着し候者共、手に手に彼くるす、乃至は香炉様の物を差しかざし候うて、同音に、はるれや、はるれやと唱へ居り候。加之、右紅毛人の足下には、篠、髪を乱し候儘、娘里を掻き抱き候うて、失神致し候如く、蹲り居り候。別して、私眼を驚かし候は、里、両手にてひしと、篠頸を抱き居り、母の名とはるれやと、代る代る、あどけ無き声にて、唱へ居りし事に御座候。尤も、遠眼の事とて、確とは弁へ難く候へども、里血色至極麗しき様に相見え、折々母の頸より手を離し候うて、香炉様の物より立ち昇り候煙を捉へんとする真似など致し居り候。然れば、私馬より下り、里蘇生致し候次第に付き、村方の人々に委細相尋ね候へば、右紅毛の伴天連ろどりげ儀、今朝、伊留満共相従へ、隣村より篠宅へ参り、同人懺悔聞き届け候上、一同宗門仏に加持致し、或は異香を焚き薫らし、或は神水を振り濺ぎなど致し候所、篠の乱心は自ら静まり、里も程無く蘇生致し候由、皆々恐しげに申し聞かせ候。古来一旦落命致し候上、蘇生仕り候類、元より少からずとは申し候へども、多くは、酒毒に中り、乃至は瘴気に触れ候者のみに有之、里の如く、傷寒の病にて死去致し候者の、還魂仕り候例は、未嘗承り及ばざる所に御座候へば、切支丹宗門の邪法たる儀此一事にても分明致す可く、別して伴天連当村へ参り候節、春雷頻に震ひ候も、天の彼を憎ませ給ふ所かと推察仕り候。 猶、篠及娘里当日伴天連ろどりげ同道にて、隣村へ引移り候次第、並に慈元寺住職日寛殿計らひにて同人宅焼き棄て候次第は、既に名主塚越弥左衛門殿より、言上仕り候へば、私見聞致し候仔細は、荒々右にて相尽き申す可く候。但、万一記し洩れも有之候節は、後日再応書面を以て言上仕る可く、先は私覚え書斯くの如くに御座候。以上 申年三月二十六日 伊予国宇和郡――村 医師 尾形了斎 |
さいしょのお話 鏡と、鏡のかけらのこと さあ、いいですか、お話をはじめますよ。このお話をおしまいまで聞けば、わたしたちは、いまよりも、もっといろいろなことを知ることになります。それは、こういうわけなのですよ。 あるところに、ひとりのわるいこびとの妖魔がいました。それは妖魔の中でも、いちばんわるいほうのひとりでした。つまり、「悪魔」です。ある日のこと、悪魔は、たいそういいごきげんになっていました。というのは、この悪魔は、まことにふしぎな力をもつ、一枚の鏡をつくったからでした。つまり、その鏡に、よいものや、美しいものがうつると、たちまち、それが小さくなり、ほとんどなんにも見えなくなってしまうのです。ところが、その反対に、役に立たないものとか、みにくいものなどは、はっきりと大きくうつって、しかもそれが、いっそうひどくなるというわけです。たとえようもないほど美しい景色でも、この鏡にうつったがさいご、まるで、煮つめたホウレンソウみたいになってしまうのです。どんなによい人間でも、みにくく見えてしまいます。さもなければ、胴がなくなって、さかさまにうつってしまうのです。顔は、すっかりゆがめられてしまって、見わけることさえできません。そのかわり、そばかすが一つあっても、それが、鼻や口の上までひろがって、はっきりと見えてくるしまつです。 「こいつは、とてつもなくおもしろいや」と、悪魔は言いました。たとえばですよ、なにか信心深い、よい考えが、人の心の中に起ってきたとしますね、すると、鏡の中には、しかめっつらがあらわれてくるのです。こびとの悪魔は、自分のすばらしい発明に、思わず、吹き出してしまいました。悪魔は、妖魔学校の校長をしていましたが、この学校にかよっている生徒たちは、みんな、奇蹟が起った、と、言いふらしました。そして、いまこそはじめて、世の中と、人間のほんとうの姿が見られるのだ、と、口々に言いました。 こうして、みんなが、その鏡をさかんに持ち歩いたものですから、とうとうしまいには、その鏡に、ゆがんでうつらない国も、人間も、なくなってしまいました。そこで、今度は、天までのぼっていって、天使や、神さまをからかってやろうと、とんでもないことを考え出しました。みんなが、鏡を持って、高くのぼっていくと、鏡の中にうつるしかめっつらが、ますますひどくなってきました。そして、鏡をしっかり持っているのが、やっとになりました。みんなは、それでもかまわず、ずんずんのぼっていって、だんだん神さまと天使のところに近づきました。 が、そのとき、鏡は、しかめっつらをしながら、おそろしくふるえだしました。そのため、とうとう、みんなの手から離れて、地上に落っこちてしまいました。そして、何千万、何億万、いやいや、もっとたくさんの、こまかいかけらに、くだけてしまいました。こうして、いままでよりももっと大きな不幸を、世の中にまき散らすことになったのです。というのは、くだけ散ったかけらの中には、やっと砂粒ぐらいの大きさしかないのも、いくつかあったからです。こういうかけらは、広い世の中にとび散りました。そして、それが、人間の目の中にはいると、そこにいすわってしまうのです。そうすると、その人の目は、なにもかもあべこべに見たり、でなければ、物のわるいところばかりを、見てしまうようになるのです。なにしろ、一つ一つの、ほんの小さな鏡のかけらでも、鏡ぜんたいと、同じ力を持っているのですからね。 小さな鏡のかけらは、幾人かの人たちの心の中にさえ、はいりこみました。しかし、そうなると、ほんとうにおそろしいことです。その人の心は、ひとかたまりの氷のようになってしまうのです。また、鏡のかけらの中には、窓ガラスに使われるくらい、大きいのもありました。けれども、この窓から友だちを見ようとしたところで、そんなことは、とてもむりな話です。それから、めがねになった、かけらもあります。けれども、このめがねをかければ、物を正しく見たり、正しくふるまったりすることは、とうていできません。これを見た悪魔は、笑いころげて、もうすこしで、おなかが、破裂してしまいそうになりました。でも、ゆかいでたまりませんでした。まあ、それはともかくとして、外では、まだこの小さなガラスのかけらが、空中を舞っていました。 さあ、それでは、つぎのお話を聞きましょう! 二番めのお話 男の子と女の子 大きな町には、たくさんの家があって、大ぜいの人が住んでいます。ですから、みんながみんな、めいめいの庭を持つだけの場所がありません。それで、たいていの人は、植木ばちに花を植えて、それで満足しなければならないのです。 ちょうどそういうような町に、ふたりの貧しい子供がいました。ふたりは、植木ばちよりもいくらか大きい庭を持っていました。このふたりは、兄妹ではありませんが、まるで、ほんとの兄妹のように仲よしでした。ふたりの両親は、おとなりどうしで、どちらも屋根裏部屋に住んでいました。一方の家の屋根は、おとなりの家の屋根につづいていて、両方ののきを、雨どいがつたっていました。そして、その二つの屋根裏部屋から、小さな窓がむかいあっていて、といを、ひとまたぎしさえすれば、一方の窓からむこうの窓へ行くことができました。 どちらの両親も、窓のそとに大きな木の箱を置いて、その中に、みんなの食べる野菜を植えていました。それから、小さなバラも、一かぶずつ植えていました。バラは、みごとにしげっていました。そして、この箱は、といをまたいで置いてありましたので、箱の両はしが、もうすこしで、むこうの家の窓にとどきそうになっていました。ですから、両側に、いきいきとした、二つの花のかべができているようなぐあいでした。エンドウのつるは、箱の外へたれさがり、バラの木は長い枝を出して、窓のまわりにからみついて、たがいにおじぎをしあっていました。そのありさまは、まるで、緑の葉と花とでできた、がいせん門を見るようでした。箱はずいぶん大きかったし、それに、子供たちは、その上にはいのぼってはいけないと言われていましたから、ふたりはときどき、おかあさんのおゆるしをいただいて、屋根の上に出ました。そして、バラの下に置いてある、小さな椅子に腰かけて楽しくあそびました。 冬になると、こういう楽しみもなくなりました。窓ガラスは、よく、こおりついてしまいました。でも、そんなときには、子供たちは、銅貨をストーブであたためて、その熱い銅貨を、こおりついた窓ガラスに押しあてました。そうすると、そこに、まん丸い、すてきな、のぞき穴ができるのです。両方の窓ののぞき穴からは、やさしい、なごやかな目が、一つずつ、のぞいていました。それは、小さい男の子と、女の子の目でした。男の子はカイ、女の子はゲルダといいました。夏のあいだは、ふたりとも、ひとまたぎで、行ったり、来たりすることができました。ところが、冬になると、たくさんの階段をおりて、それからまた、たくさんの階段をのぼっていかなければなりません。外では、雪が、さかんに降っていました。 「あれは、白いミツバチが、むらがっているんだよ」と、年とったおばあさんが言いました。 「あの中には、ミツバチの女王もいる?」と、小さい男の子がききました。この子は、ほんとうのミツバチの中には女王がいることを、ちゃんと知っていたのです。 「ああ、いるよ」と、おばあさんは言いました。「女王バチはね、ミツバチが、いちばんたくさんむらがっているところを、とんでいるんだよ。みんなの中で、いちばん大きいのが女王バチでね、地面の上にちっともじっとしていないんだよ。黒い雲のほうへ、すぐまたとんでいってしまうのさ。冬の夜には、女王バチは、よく、町の通りをとびまわって、ほうぼうの家の窓からのぞきこむんだよ。そうして、ふしぎなことに、そのまま窓ガラスにこおりついてしまって、まるで、花をくっつけたようになるんだよ」 「うん、ぼく、見たことあるよ」「あたしもよ」と、ふたりの子供は、口々に言いました。そして、ふたりとも、それがほんとうのことだということを知りました。 「雪の女王は、ここへはいってくることができる?」と、小さい女の子がたずねました。 「はいってきたっていいや」と、男の子は言いました。「そしたら、ぼく、あついストーブの上にのせてやるから。そうすりゃ、とけちまうさ」 けれども、おばあさんは、男の子の髪の毛をなでながら、ほかのお話をして聞かせました。 夕方、カイは、部屋の中で着物をぬいでいました。ぬぎかけで、窓ぎわの椅子の上によじのぼって、小さなのぞき穴から外をのぞいてみました。外には、雪のひらが、二つ三つ、ひらひらと舞っていました。その中でいちばん大きいのが、花の箱のふちにのっかりました。と、その雪のひらは、みるみる大きくなって、とうとう、女の人の姿になりました。そのひとが身につけている着物は、とてもうすい、まっ白なしゃでできていましたが、それは、お星さまのようにキラキラする雪のひらを、何百万も集めてつくったものでした。そのひとは、見れば見るほど美しい、ほっそりとしたひとでした。でも、からだは、氷でできていました。キラキラする、まぶしいほどの氷で、できているのでした。それでも、そのひとは生きていました。目は、明るい、二つのお星さまのように、かがやいてはいましたが、おちついた、やすらかなようすは見えませんでした。女のひとは、窓のほうにむかってうなずきながら、手まねきしました。男の子は、ふるえあがって、椅子からとびおりました。なんだか、そのとき、窓の外を、一羽の大きな鳥が、とびさったような気がしました。 あくる日は、霜のおりた、よいお天気になりました。――それから、雪がとけはじめました。――やがて、春になりました。お日さまはキラキラかがやき、緑の草が顔を出し、ツバメは巣をつくりました。そして、窓は、あけはなたれました。小さな子供たちは、ふたたび、高い高い屋根の上の、小さいお庭にすわって、あそびました。 バラの花は、この夏は、たとえようもないほど美しく咲きました。小さな女の子は、讃美歌を一つおぼえました。その中には、バラの花のこともうたってありました。そして、歌の中にバラの花のことが出てくるたびに、女の子は、自分の花のことを思い出しました。女の子は、男の子にうたって聞かせました。そして、男の子も、いっしょにうたいました。 バラの花 かおる谷間に あおぎまつる おさな子イエスきみ それから、子供たちは、手を取りあって、バラの花にキスをしました。そして、神さまの明るいお日さまの光をあおいで、まるで、そこにみどり子イエスさまがいらっしゃるように、話しかけました。なんという美しい夏の日でしょう! 家の外で、いきいきとしたバラの花にかこまれているのは、まことに気持のよいものです。バラの花は、いつまでもいつまでも、咲きつづけようとしているようでした。 カイとゲルダは、そこにすわって、動物や鳥の絵本を見ていました。そのとき、教会の大きな塔で、時計がちょうど五時を打ちました。――カイが、こう言いました。 「あ、いたっ! 胸のとこを、なにかに、ちくりとさされたよ。目の中に、なにかはいったんだ!」 小さな女の子は、男の子の首をだきました。男の子は、目をぱちぱちやりました。けれども、なんにも見つかりませんでした。 「もう出てしまったんだろう」と、男の子は言いました。でも、まだ出てしまったのではありません。あの鏡、ほら、あの悪魔の鏡からとび散った、小さなかけらの一つが、とびこんだのです。わたしたちは、まだよくおぼえていますね。あのわるい鏡には、ふしぎな力があって、なんでも大きく美しいものは、小さくみにくく見えるのに、わるい、いやなものは、はっきりと大きくうつって、物のわるいところばかりが、すぐに目につくのでしたね。カイの心臓の中には、そのかけらが一つはいったのです。かわいそうなカイ! カイの心臓は、まもなく、氷のかたまりのようになるでしょう。しかし、いまは、もう、いたくはありません。けれども、やっぱりそれは、まだはいっていたのです。 「どうして泣くんだい?」と、カイはききました。「なんて、へんてこな顔をしてるんだい! ぼくは、もうなんともないんだぜ。チェッ!」それから、すぐまた、きゅうにさけびました。「そこのバラは、虫にくわれてらあ! それからさ、あっちのは、あんなにまがってるよ。きたならしいバラの花だなあ! まるで、植わっている箱みたいだ!」 こう言うと、カイは、はげしく箱をけとばしました。それから、二つのバラの花を、むしりとってしまいました。 「カイちゃん、なにするのよ!」と、女の子はさけびました。カイは、ゲルダがびっくりしたのを見ると、さらに、もう一つのバラの花も、むしってしまいました。そして、かわいらしいゲルダのそばを離れて、自分の家の窓の中にとびこんでしまいました。 それから、ゲルダが絵本を持っていくと、今度は、カイは、そんなのは赤ん坊の見るものだ、と言いました。また、おばあさんがお話をすると、ひっきりなしに、「だって、だって」と言っては、口をはさみました。そればかりではありません。すきさえあれば、すぐに、おばあさんのうしろへまわります。そして、めがねをかけて、おばあさんの話すまねをするのです。しかも、それがとってもうまかったので、みんなは、大笑いをしました。まもなく、カイは、近所じゅうの人たちの話し方も、歩き方も、まねすることができるようになりました。みんなのくせとか、よくないところを、カイは、じょうずにまねすることができました。それを見て、人々は、 「あの子の頭はすばらしい!」と、言いあいました。 けれども、それは、カイの目の中にはいって、心臓の中につきささっている、ガラスのせいだったのです。カイを心の底から好いている、小さなゲルダをさえ、からかうようになったのも、そのためだったのです。 あそびかたも、これまでとは、すっかりかわってきました。なんとなく、頭を働かせるような、あそびになりました。――雪の降りしきっている、ある冬の日のことでした。カイは、大きなレンズを持って、外に出ました。そして、自分の青い上着のすそをひろげて、その上に、雪のひらをつもらせました。 |
一 東京もはやここは多摩の里、郡の部に属する内藤新宿の町端に、近頃新開で土の色赤く、日当のいい冠木門から、目のふちほんのりと酔を帯びて、杖を小脇に、つかつかと出た一名の瀟洒たる人物がある。 黒の洋服で雪のような胸、手首、勿論靴で、どういう好みか目庇のつッと出た、鉄道の局員が被るような形なのを、前さがりに頂いた。これにてらてらと小春の日の光を遮って、やや蔭になった頬骨のちっと出た、目の大きい、鼻の隆い、背のすっくりした、人品に威厳のある年齢三十ばかりなるが、引緊った口に葉巻を啣えたままで、今門を出て、刈取ったあとの蕎麦畠に面した。 この畠を前にして、門前の径を右へ行けば通へ出て、停車場へは五町に足りない。左は、田舎道で、まず近いのが十二社、堀ノ内、角筈、目黒などへ行くのである。 見れば青物を市へ積出した荷車が絶えては続き、街道を在所の方へ曳いて帰る。午後三時を過ぎて秋の日は暮れるに間もあるまいに、停車場の道には向わないで、かえって十二社の方へ靴の尖を廻らして、衝と杖を突出した。 しかもこの人は牛込南町辺に住居する法官である。去年まず検事補に叙せられたのが、今年になって夏のはじめ、新に大審院の判事に任ぜられると直ぐに暑中休暇になったが、暑さが厳しい年であったため、痩せるまでの煩いをしたために、院が開けてからも二月ばかり病気びきをして、静に療養をしたので、このごろではすっかり全快、そこで届を出してやがて出勤をしようという。 ちょうど日曜で、久しぶりの郊外散策、足固めかたがた新宿から歩行いて、十二社あたりまで行こうという途中、この新開に住んでいる給水工場の重役人に知合があって立寄ったのであった。 これから、名を由之助という小山判事は、埃も立たない秋の空は水のように澄渡って、あちらこちら蕎麦の茎の西日の色、真赤な蕃椒が一団々々ある中へ、口にしたその葉巻の紫の煙を軽く吹き乱しながら、田圃道を楽しそう。 その胸の中もまた察すべきものである。小山はもとより医者が厭だから文学を、文学も妙でない、法律を、政治をといった側の少年ではなかった。 されば法官がその望で、就中希った判事に志を得て、新たに、はじめて、その方は……と神聖にして犯すべからざる天下控訴院の椅子にかかろうとする二三日。 足の運びにつれて目に映じて心に往来するものは、土橋でなく、流でなく、遠方の森でなく、工場の煙突でなく、路傍の藪でなく、寺の屋根でもなく、影でなく、日南でなく、土の凸凹でもなく、かえって法廷を進退する公事訴訟人の風采、俤、伏目に我を仰ぎ見る囚人の顔、弁護士の額、原告の鼻、検事の髯、押丁等の服装、傍聴席の光線の工合などが、目を遮り、胸を蔽うて、年少判事はこの大なる責任のために、手も自由ならず、足の運びも重いばかり、光った靴の爪尖と、杖の端の輝く銀とを心すともなく直視めながら、一歩進み二歩行く内、にわかに颯と暗くなって、風が身に染むので心着けば、樹蔭なる崖の腹から二頭の竜の、二条の氷柱を吐く末が百筋に乱れて、どッと池へ灌ぐのは、熊野の野社の千歳経る杉の林を頂いた、十二社の滝の下路である。 二 「何か変ったこともないか。」と滝に臨んだ中二階の小座敷、欄干に凭れながら判事は徒然に茶店の婆さんに話しかける。 十二社あたりへ客の寄るのは、夏も極暑の節一盛で、やがて初冬にもなれば、上の社の森の中で狐が鳴こうという場所柄の、さびれさ加減思うべしで、建廻した茶屋休息所、その節は、ビール聞し召せ枝豆も候だのが、ただ葦簀の屋根と柱のみ、破の見える床の上へ、二ひら三ひら、申訳だけの緋の毛布を敷いてある。その掛茶屋は、松と薄で取廻し、大根畠を小高く見せた周囲五町ばかりの大池の汀になっていて、緋鯉の影、真鯉の姿も小波の立つ中に美しく、こぼれ松葉の一筋二筋辷るように水面を吹かれて渡るのも風情であるから、判事は最初、杖をここに留めて憩ったのであるが、眩いばかり西日が射すので、頭痛持なれば眉を顰め、水底へ深く入った鯉とともにその毛布の席を去って、間に土間一ツ隔てたそれなる母屋の中二階に引越したのであった。 中二階といってもただ段の数二ツ、一段低い処にお幾という婆さんが、塩煎餅の壺と、駄菓子の箱と熟柿の笊を横に控え、角火鉢の大いのに、真鍮の薬罐から湯気を立たせたのを前に置き、煤けた棚の上に古ぼけた麦酒の瓶、心太の皿などを乱雑に並べたのを背後に背負い、柱に安煙草のびらを張り、天井に捨団扇をさして、ここまでさし入る日あたりに、眼鏡を掛けて継物をしている。外に姉さんも何も居ない、盛の頃は本家から、女中料理人を引率して新宿停車場前の池田屋という飲食店が夫婦づれ乗込むので、独身の便ないお幾婆さんは、その縁続きのものとか、留守番を兼ねて後生のほどを行い澄すという趣。 判事に浮世ばなしを促されたのを機にお幾はふと針の手を留めたが、返事より前に逸疾くその眼鏡を外した、進んで何か言いたいことでもあったと見える、別の吸子に沸った湯をさして、盆に乗せるとそれを持って、前垂の糸屑を払いさま、静に壇を上って、客の前に跪いて、 「お茶を入替えて参りました、召上りまし。」といいながら膝近く躙り寄って差置いた。 判事は欄干について頬を支えていた手を膝に取って、 「おお、それは難有う。」 と婆の目には、もの珍しく見ゆるまで、かかる紳士の優しい容子を心ありげに瞻ったが、 「時に旦那様。」 「むむ、」 「まあ可哀そうだと思召しまし、この間お休み遊ばしました時、ちょっと参りましたあの女でございますが、御串戯ではございましょうが、旦那様も佳い女だな、とおっしゃって下さいましたあのことでございますがね、」 と言いかけてちょっと猶予って、聞く人の顔の色を窺ったのは、こういって客がこのことについて注意をするや否やを見ようとしたので。心にもかけないほどの者ならば話し出して退屈をさせるにも及ばぬことと、年寄だけに気が届いたので、案のごとく判事は聴く耳を立てたのである。 「おお、どうかしたか、本当に容子の佳い女だよ。」 「はい、容子の可い女で。旦那様は都でいらっしゃいます、別にお目にも留りますまいが、私どもの目からはまるでもう弁天様か小町かと見えますほどです。それに深切で優しいおとなしい女でございまして、あれで一枚着飾らせますれば、上つ方のお姫様と申しても宜い位。」 三 「ほほほ、賞めまするに税は立たず、これは柳橋も新橋も御存じでいらっしゃいましょう、旦那様のお前で出まかせなことを失礼な。」 小山判事は苦笑をして、 「串戯をいっては不可ん、私は学生だよ。」 「あら、あんなことをおっしゃって、貴方は何ぞの先生様でいらっしゃいますよ。」 「まあその娘がどうしたというのだ。」と小山は胡坐をどっかりと組直した。 落着いて聞いてくれそうな様子を見て取り、婆さんは嬉しそうに、 「何にいたせ、ちっとでもお心に留っておりますなら可哀そうだと思ってやって下さいまし。こうやってお傍でお話をいたしますのは今日がはじめて。私どもへお休み下さいましたのはたった二度なんでございますけれども、他に誰も居りませず、ちょうどあの娘が来合せました時でよくお顔を存じておりますし、それにこう申してはいかがでございますが、旦那様もあの娘を覚えていらっしゃいますように存じます。これも佳い娘だと思いまする年寄の慾目、人ごとながら自惚でございましょう、それで附かぬことをお話し申しますようではございますけれども旦那様、後生でございます、可哀相だと思ってやって下さりまし。」と繰返してまた言った。かく可哀相だと思ってやれと、色に憂を帯びて同情を求めること三たびであるから、判事は思わず胸が騒いで幽に肉の動くのを覚えた。 向島のうら枯さえ見に行く人もないのに、秋の末の十二社、それはよし、もの好として差措いても、小山にはまだ令室のないこと、並びに今も来る途中、朋友なる給水工場の重役の宅で一盞すすめられて杯の遣取をする内に、娶るべき女房の身分に就いて、忠告と意見とが折合ず、血気の論とたしなめられながらも、耳朶を赤うするまでに、たといいかなるものでも、社会の階級の何種に属する女でも乃公が気に入ったものをという主張をして、華族でも、士族でも、町家の娘でも、令嬢でもたとい小間使でもと言ったことをここに断っておかねばならぬ。 何かしら絆が搦んでいるらしい、判事は、いずれ不祥のことと胸を――色も変ったよう、 「どうかしたのかい、」と少しせき込んだが、いう言葉に力が入った。 「煩っておりますので、」 「何、煩って、」 「はい、煩っておりますのでございますが。……」 「良い医者にかけなけりゃ不可んよ。どんな病気だ、ここいらは田舎だから、」とつい通の人のただ口さきを合せる一応の挨拶のごときものではない。 婆さんも張合のあることと思入った形で、 「折入って旦那様に聞いてやって頂きたいので、委しく申上げませんと解りません、お可煩くなりましたら、面倒だとおっしゃって下さりまし、直ぐとお茶にいたしてしまいまする。 あの娘は阿米といいましてちょうど十八になりますが、親なしで、昨年の春まで麹町十五丁目辺で、旦那様、榎のお医者といって評判の漢方の先生、それが伯父御に当ります、その邸で世話になって育ちましたそうでございます。 門の屋根を突貫いた榎の大木が、大層名高いのでございますが、お医者はどういたしてかちっとも流行らないのでございましたッて。」 |
一 古今実物語 一 大阪の画工北璿の著はせる古今実物語と云ふ書あり。前後四巻、作者の筆に成れる揷画を交ふ。格別稀覯書にはあらざれども、聊か風変りの趣あれば、そのあらましを紹介すべし。 古今実物語は奇談二十一篇を収む。その又奇談は怪談めきたれども、実は少しも怪談ならず。たとへば「幽霊二月堂の牛王をおそるる事」を見よ。 「今西村に兵右衛門と云へる有徳なる百姓ありけるが、かの家にめし使ふ女、みめかたち人にすぐれ、心ざまもやさしかりければ、主の兵右衛門おりおり忍びかよひける。此主が女房、妬ふかき者なるが、此事をもれ聞きて瞋恚のほむらに胸をこがし、奴をひそかにまねき、『かの女を殺すべし、よく仕了せなば金銀あまたとらすべし』と云ひければ、この男も驚きしが、元来慾心ふかき者なれば、心安く受合ひける。(中略)下女(中略)何心なくあぜづたひに行く向うの方、すすきのかげより思ひがけなく、下男横だきにして池中へなげ入れける。(中略) 「日も西山にかたむき、折ふししよぼ〳〵雨のふるをいとはず、夜歩きをたのしみにうでこきする男、曾我宮へ日参。此所を通りけるに、池の中より『もしもし』と呼びかくる。誰ならんと立ちどまれば、いぜんの女池の中よりによつと出で、『男と見かけ頼み申し度き事あり』と云はせもはてず、狐狸のしわざか、人にこそより目にもの見せんと腕まくりして立ちかかれば、『いやいやさやうの者にあらず。我は今西村の兵右衛門に奉公致すものなるが、しかじかのことにてむなしく成る。あまりになさけなきしかたゆへ、怨みをなさんと一念此身をはなれず今宵かの家にゆかんと思へど主つねづね観音を信じ、門戸に二月堂の牛王を押し置きけるゆゑ、死霊の近づくことかなはず(中略)牛王をとりのけたまはらば、生々世々御恩』と、世にくるしげにたのみける。 「かのもの不敵のものなれば(中略)そのところををしへたまへ。のぞみをかなへまゐらせんと、あとにつきていそぎゆく。ほどなく兵右衛門が宅になれば、女の指図にまかせ、何かはしらず守り札ひきまくり捨てければ、女はよろこび戸をひらき、家へ入るよと見えしが臥してゐたる女房ののどにくひつき、難なくいのちをとりて、おもてをさして逃げ出でける。(中略) 「女走りいでゝ(中略)此上ながらとてものことにいづくへなりと連れてゆきたまはれと、背につきはなれぬうち、家内にわかにさわぎ立ち、やれ何者のしわざなるぞ、提灯松明と、上を下へとかへすにぞ、以前の男も心ならず足にまかせて逃げゆきしが、思はずもわが家にかへり、(中略)ひとり住みの身なれば、誰れとがむるものもなけれど、幽霊を連れかへりそゞろに気味わるく、『のふ〳〵のぞみはかなひし上は、いづかたへもゆきたまへ、(中略)』と、心のうちに念仏をとなへけるこそをかしけれ。 「幽霊もしばしはさしうつむきてゐたりしが、(中略)怨めしと思ふかたきをかみころし、一念散ずるときは泉下へもゆくべきに、いまだ此土にとどまることのふしんさよと心をつけて見るに、さして常にかはることもなし。(中略)それより一つ二つとはなし合ふに、いよ〳〵幽霊にあらざるにきはまりける。(中略)男も定まる妻もなければと、つひ談合なりてそこを立ちのき、大阪にしるべありてひきこしける。兵右衛門がかたにはかゝることゝは露しらず、本妻と下女が修羅の苦患をたすけんと御出家がたの金儲けとなりけるとなり。」 この話は珍しき話にあらず。鈴木正三の同一の怪談を発見し得べし。唯北璿はこの話に現実主義的なる解釈を加へ、超自然を自然に翻訳したり。そはこの話に止らず、安珍清姫の話を翻訳したる「紀州日高の女山伏を殺す事」も然り、葛の葉の話を翻訳したる、「畜類人と契り男子を生む事」も然り。鉄輪の話を翻訳したる「妬女貴布禰明神に祈る事」も然り。殊に最後の一篇は嫉妬の鬼にならんと欲せる女、「こは有がたきおつげかな。わが願成就とよろこび、其まま川へとび入りける」も、「ころしも霜月下旬の事なれば、(中略)四方は白たへの雪にうづみ、川風はげしくして、身体氷にとぢければ、手足もこごへ、すでに息絶へんとせし時、」いつしか妬心を忘れしと云ふ、誰かこの残酷なる現実主義者の諧謔に失笑一番せざるものあらん。 二 更に又「孝子黄金の釜を掘り出し娘の事」を見よ。 「三八といへる百姓は一人の母につかへて、至孝ならぶものなかりける。或年の霜月下旬の頃、母筍を食し度由のぞみける。もとより貧しき身なれども、母の好みにまかせ、朝夕の食事をととのへすすむといへ共この筍はこまりはてけるが、(中略)蓑笠ひきかづき、二三丁ほど有所の、藪を心当に行ける。積る朽葉につもる雪、かきのけ〳〵さがせども、(中略)ああ天我をほろぼすかと泪と雪に袖をぬらし、是非なく〳〵も帰る道筋、縄からげの小桶壱つ、何ならんと取上げ見れば、孝子三八に賜ると書付はなけれ共、まづ蓋をひらけば、内よりによつと塩竹の子、金もらうたよりうれしく、(中略)女房にかくとしらすれば、同じ心の姑思ひ、手ばやに塩だし鰹かき、即時に羹となしてあたへける。其味生なるにかはる事なく、母もよろこび大方ならず、いか成人のここに落せしや、是又壱つのふしぎ也。 「しかるにかほど孝心厚き者なれ共、挊げばかせぐほど貧しく成り、次第〳〵に家をとろへ、今は朝夕のけぶりさへたえ〴〵に成りければ、三八女房に云ふやう、(中略)ふたりが中にまうけし娘ことし十五まで育てぬれ共、(中略)かれを都の方へつれ行き、勤奉公とやらんをさせ、給銀にて一挊して見んと思ふはいかにと尋ぬるにぞ、わらはも疾くよりさやうには思ひ候へ共、(中略)と答へける。(中略)三八は身ごしらへして、娘うちつれ出でにける。名にしおふ難波の大湊、先此所へと心ざし、少しのしるべをたずね、それより茶屋奉公にいだしける。(中略)扨此娘、(中略)つとめに出る其日より、富豪の大臣かかり、早速に身うけして、三八夫婦母おやも大阪へ引きとり、有りしにかはる暮と成り、三八夏は蚊帳の代りにせし身を腰元共に床を扇がせ、女房は又姑にあたへし乳房を虎屋が羊羹にしかへ、氷から鯉も古めかしと、水晶の水舟に朝鮮金魚を泳がせて楽しみ、是至孝のいたす所なり。」 天は孝子に幸福を与へず。孝子に幸福を与へしものは何人かの遺失せる塩竹の子のみ。或は身を売れる一人娘のみ。作者の俗言を冷笑するも亦悪辣を極めたりと云ふべし。予はこの皮肉なる現実主義に多少の同情を有するものなり。唯唯作者の論理的頭脳は残念にも余り雋鋭ならず。「餓鬼聖霊会を論ずる事」の如き、「寺僧病人問答の事」の如き、或は又「仏者と儒者渡唐天神を論ずる事」の如き、論理の筆を弄したるものは如何に贔屓眼に見るにせよ、概ね床屋の親方の人生観を講釈すると五十歩百歩の間にあるが如し。因に云ふ。「古今実物語」は宝暦二年正月出板、土冏然の漢文の序あり。書肆は大阪南本町一丁目村井喜太郎、「古今百物語」、「当世百物語」号と同年の出版なりしも一興ならん乎。 二 魂胆色遊懐男 「魂胆色遊懐男」はかの「豆男江戸見物」のプロトタイプなり。予の家に蔵するは巻一、巻四の二冊なれども、大豆右衛門の冒険にはラブレエを想はしむるものなきにあらず。 大豆右衛門は洛東山科の人なり。その母「塩の長次にはあらねど、夢中に馬を呑むと見て、懐胎したる子なるゆへ」大豆右衛門と称せしと云へば、この名の由つて来る所は必しも多言するを要せざるべし。大豆右衛門、二十三歳の時、「さねかづら取りて京の歴々の女中方へ売べしと逢坂山にわけ登り」しが、偶玉貌の仙女と逢ひ、一粒の金丹を服するを得たり。「ありがたくおし頂きてのむに、忽ち其身雪霜の消ゆる如くみぢみぢとなつて、芥子人形の如くになれり。」こは人倫の交りを不可能ならしむるに似たれども、仙女の説明する所によれば、「色里にても又は町家の歴々の奥がたにても、心のままにあはれるなり。(中略)汝があふて見度と思ふ女のねんごろにする男の懐の中に入れば、その男の魂ぬけ出、汝仮に其男に入れかはりて、相手の女を自由にする事、又なき楽しみにあらずや」と云へば、頗る便利なる転身と云ふべし。爾来大豆右衛門、色を天下に漁すと雖も、迷宮に似たる人生は容易に幸福を与ふるものにあらず。たとへば巻一の「姉の異見耳痛樫木枕」を見よ。 「台所より飛びあがり、奥の方を心がけ、襖のすこし明きたるあひよりそつと下りて大座敷へ出、(中略)唐更紗の暖簾あげて、長四畳の間を過ぎ、一だんたかき小座敷あつて、有明の火明らかに、是ぞ此家の旦那殿の寝所ならめと腰障子をすこしつきやぶりて、是より入つて見れば夫婦枕をならべて、前後も知らず連れ節の鼾に、(中略)先内儀の顔をさし覗いて見れば、其美しさ此器量で三十ばかりに見ゆれば、卅五六でもあるべし。(中略)男は三十一二に見えて、成程強さうな生れつき。扨は此女房の美しいに思ひつきて、我より二つ四つも年のいたをもたれしか、但入り聟か、(中略)と亭主が懐にはいればそのまま魂入れ替り、(中略)さあ夢さましてもてなしやと云へば、此女房目をさまし、肝のつぶれた顔して、あたりへ我をつきのけ、起きかへつて、コレ気ちがひ、爰を内ぢやと思ひやるか、夜の更けぬ先に往にや〳〵と云ふに、面白うもない歌留多をうつてゐて夜を更かし、今からは往なれまい、旦那殿も大津祭に行かれて留守ぢやほどに、泊つてなりと行きやと、兄弟の忝けなさは何の遠慮もなく一所に寝るを、姉をとらまへ軽忽な、こりや畜生の行儀か。こちや畜生になる事は厭ぢやいの。(中略)多聞悪いと畳を叩いて腹を立てる。扨は南無さん姉ぢやさうな。是は粗相千万、(中略)と後先揃はぬ事を云ふて、又本の夜着へこそこそはいつて、寝るより早く其処を立ち退き、(下略)」(この項未完) |
映画のことなら何でもよいから見計いで書けという命令であるが、私は天性頭脳朦朧、言語不明瞭、文章曖昧、挙動不審の人物であるからたちまちはたとばかりに当惑してしまう。 しかも命令の主は官営雑誌のごとき威厳を備えた『中央公論』である。断りでもしようものならたちまち懲役何カ月かをくいそうだし、引き受けたら最後八さん熊さんがホテルの大食堂に引き出されたような奇観を呈するに決まつているのである。 もつともひつぱり出すほうではもつぱら奇景の探勝を目的としているのであろうから、八さん熊さんがタキシードを着こなして手さばきも鮮かに料理を食うことよりもむしろその反対の光景を期待しているかもしれない。私は奇観をそこねないために法被で出かけることにする。 さて「日本にはろくなものは一つもない」というのは、いまどきの青年紳士諸君が一日三回、ないし二日に一回の割合をもつて好んで使用される警句の一つであるが、多くの警句がそうであるようにこの警句もまたほぼ五十パーセントの真理を含有している。なお、そのうえに「能と古美術と文楽と潜航艇のほかには」というような上の句を添加して用いた場合には事は一層迫真性を帯びてくるし、かたわら、使用者の価値判断の標準がいかに高いかということを暗示する点からいつてもはなはだ効果的である。 いずれにしてもごく少数の例外を除くところの日本の森羅万象がアツという間もなく、忽然としてろくでなしの範疇の中へ沈没してしまう壮観はちよつと比類のないものである。 しかもこの警句の内容の指定するところに従えば、警句の使用者自身も当然この挙国一致の大沈没から免れるわけには行かないのであるからいよいよ愉快である。 かくのごとく沈没が流行する時勢にあたつて、栄養不良の和製トーキーのみがひとり泰然自若としてろくであり得るわけはどう考えてもない。「日本にはろくなものが一つもない」ということを、かりに事実とするならば、その責任はいつたい何人が負うべきであろうか。だれかがそのうち、ろくなものをこしらえてくれるだろうとのんきに構えて、皆が皆、自分だけは日本人でないような顔をして「一つもない」をくり返していたのでは永久にろくなもののできつこはない。 「和製のトーキーはなぜつまらないのか」という質問はいたるところで投げかけられて実にうんざりするのであるが、しかし私は「和製のトーキーはつまらない」という事実を認めない。 もしもつまらない事実を認めるとすれば、まず日本の映画がつまらないという事実を認めるべきであり、さらにさかのぼつて「日本にろくなものはない」という事実をも認めなければならない。 ところが厳密にいえば日本のトーキーはまだ始まつていないのである。したがつて今から日本のトーキーがつまらないといつて騒ぐのはあたかも徳本峠を越さない先から上高地の風景をとやかくいうようなものである。 しかしともかくも現在の状態ではつまらないというなら、それは一応の事実として受け取れる。この一応の事実がよつてくるところを少々考えてみよう。 「めつたに感心するな」ということは、現代の紳士がその体面を保つうえにおいて忘れてはならない緊要なる身だしなみの一つである。これは何もいまさら私が指摘するまでもなく、いやしくも現代の紳士階級の一般心理に関心を持つほどのものならだれしもがとつくの昔に気づいている現象である。 「感心をしない」ということは、昔は「感心をする」という積極的な心理作用の反対の状態を示すための、極めて消極的な影の薄い言葉にすぎなかつたはずであるが、現在では「感心をしない」ということ自身が独立した一つの能動的心理作用にまで昇格してしまつた観がある。 現代の紳士たちは感心しないことを周囲からも奨励されると同時に自分自身からも強要されているわけである。 かくてある場合には「感心しない」という目的のもとにわざわざ劇場に足を運ぶというような理解し難い現象をさえ生ぜしめるにいたつたのである。 しかしこれらは我々が最も苦手とする連中に比較するときはまだ幾分愛すべき部類に属する。 我々が目して最も苦手とする連中は、かの「見ない先からすでに感心しない」紳士たちである。この手合いに対しては残念ながら我々は全く策の施しようがないのである。 もしもこの手合いに対して残された唯一の手段があるとすれば、それはいささかも彼らの意志を顧慮することなく直接行動に訴えて強制的にこれを館へ連行することであるが、この方法は法律的にも経済的にも心理学的にも障害が多くて実行が困難であり、あまつさえもしもこちらより向こうのほうが強い場合には物理学的困難にまで逢着しなければならぬ不便があるため、残念ながら我々はこの方法を放擲せざるを得ないのである。 ところが事実において今日相当の年配と教養とを一身に兼ね備えた紳士階級、すなわち我々にとつては理想的の獲物であるところの諸氏はほとんど例外なしに『中央公論』の愛読者であると同時に、我々の作る映画はこれを「見ない先にすでに感心しない」ところの嗅覚の異常に発達した連中である。 我々は見ない人たちを目標にして、映画を作る自由を持たない。我々の作る映画は要するに始終見てくれる人々に見せるためのものでしかない。 見ない人たちがある日極めて例外的に我々の映画を覗いてみて、何だくだらんじやないかと憤慨しても、それは我々のあえて意に介しないところである。文中おもしろいとかつまらないとかいう語が随所に出てくるはずであるがそれらの語の標準を奈辺においているかは右によつておのずから明らかであろう。 さてどうせ日本のトーキーがおもしろくないことを問題にするからには、ついでのことに、日本の大衆文芸がおもしろくないことも少し問題にしてみたらどんなものかといいたい。 なぜならば日本の映画はそのストーリーの供給の大部分をいわゆる大衆文芸に仰いでいるからである。出る写真も出る写真もほとんど限られた二、三氏の、原作以外に出ないというような退屈な現象は大衆文壇のためたいして名誉にはならない。 いつたい大衆文壇というものにはほとんど批評の存在がないようであるが、これに反して日本の映画界くらい批評の繁昌している国は昔からまたとあるまい。繁昌するばかりでなく、これがおよそ峻烈苛酷をきわめる。ある批評家がある監督を批評していわくに、この監督のただ一つのとりえは女優某を女房に持つている点だけであるとやつているのを見たことがあるが、批評家が作品をそつちのけにして女房の選択にまで口を出す国は古今東西歴史にあるまい。 女房の選択などはまだ事が小さい。もつと大きな例をあげる。日活という会社は批評家の意見によつてとうとう現代劇部を東京へ移転させてしまつた。 京都などに撮影所があるからいい現代劇ができない。早々東京へ引越すべしというのが批評家の意見なのである。会社の移転の指図までするやつもするやつだが、またそれをまに受けて引越すやつのまぬけさかげんときては話にも何にもならない。いつたい現代劇の撮影所が首府の近くになければならぬという理論がどうすれば成り立つのかそれが第一私などにはわからない。外国の例で見てもニューヨークとハリウッドではほとんどアメリカ大陸の胴の幅だけ離れているはずであるが、アメリカの現代劇はいつこうに悪くない。そんなことはどうでもよいが、とにかく批評家が撮影所を移転せしめた記録はだれが何といつても日本が持つているのだからまことに御同慶のいたりである。 かくのごとく僄悍無類の批評家の軍勢が一作いずるとみるやたちまち空をおおうて群りくるありさまはものすごいばかりである。それが思い思いにあるいは目の玉をえぐり、あるいは耳をちぎりあるいはへそを引き裂いて、もはや完膚なしと見るといつせいに引き揚げてさらに他の作に群つて行く状は凄愴とも何とも形容を絶した偉観である。 したがつて読物のほうは十や二十駄作の連発をやつてもたちまち生命に別条をきたすようなおそれはないが、映画のほうは三本続いて不評をこうむつたら気の毒ながら、もはや脈はないものと相場が決まつている。 次に純粋の映画脚本作家の不遇による、オリジナル・ストーリーの欠乏ということも一応問題にしなければなるまい。 北村小松、如月敏、山上伊太郎というような人たちはいずれも過去においては代表的な映画脚本作家であつたが、現在においては申し合わせたように転職あるいはそれに近いことをやつている。映画脚本作家は商売にならないからである。我々の体験からいつても映画脚本を一本書くのは監督を数本試みる労力に匹敵する。しかもむくいられる点は、監督にはるかにおよばないのだからとうていソロバンに合わない。しかもまだかけ出しのどしどし書ける時分にはほとんどただのような安い原稿料でかせがされる。 資本家が認めて相当の値で買つてくれる時分には作家は精力を消耗してかすみたいになつてしまつている。 私のごときものが現に相当の報酬を受けているのは、とつくの昔かすになつてしまつていることを彼らが知らないからである。こういうしくみでは才能ある作家をつかまえることも困難だし、育てることは一層不可能である。映画企業家のせつに一考を要する点であろう。 そもそも映画のおもしろさを決定するものは内容であり、内容を決定するものは原作である。したがつて原作をいいかげんに考えておきながら、いたずらにおもしろくないとか何とかいつて騒ぐのはあたかも空の池に魚を放つておいて魚が泳がないといつて騒ぐようなものである。今の日本の映画界の通弊は何でも監督監督と騒ぎまわることである。監督は一本の映画に関するかぎり、ありとあらゆる責任と義務を背負わされる。そしてそのかわりにほんのわずかな権限を。 監督の実際は、会社の方針、検閲制度、経済的制御、機械的不備、スターの精神異常、こういつた種類のこわい鬼どもの昼寝のすきをねらつてささやかなる切紙細工をして遊んでいる子供にも似たはかない存在である。 しかるに不幸にしていつたん作品ができあがつて世に現われるやいなや、この切紙細工のぼつちやんは突然防弾衣のごとく雨と降りくる攻撃の矢面に立たされる。そしてたちまちのうちにあわれはかなくのびてしまう。たとえば俳優の演技にしてもそれ自身独立した評価をくだされるというようなことは近ごろはほとんどないことである。うまいもまずいも監督の指揮いかんにあるというふうにみるのが通なるものの批評の仕方であるが、監督は神様ではない。へたな俳優はだれが監督してもへた以外には出ないのである。精々まずい芝居の部分を鋏で切り取るくらいの芸当しか監督にはできない。しかしそんなことはだれにでもできることである。要するにへたな俳優を使つてうまい芝居をさせるというのは人間にはできない相談である。うそだと思つたらまずい俳優を外国へ輸送してルビッチにでもスターンバーグにでも使わせてみるがいい。要するに監督ばかりを攻めたところで映画はおもしろくはならないのである。 次にもつとどしどし新人が現われなければ映画はおもしろくならない。我々もこの世界にはいつてきたときはしろうとであつたがためにごくわずかながら清新の気を注入するだけの役割は果したかとうぬぼれているが、現在ではもうくろうとになりすぎてしまつた。くろうとになるととかく視野が狭くなつて頭をひねる範囲が限られてくるものである。穂高のどの岩はどう取りついたらいいかというようなことは登山家の間では問題になり得るであろうが、門外漢にとつてはいつこうに興味をひかない問題である。それよりもむしろ信州側から登つたとか飛騨側から登つたとかいう大まかな問題のほうがおもしろい。 我々はたとえてみれば一つの岩の取りつき方を研究している連中のようなものである。視野がその岩に限られているからふもとのことは考えられない。ふもとのほうから新しいコースを発見して登つてみようという野心と熱意に欠けているのである。それをなし得るのは新人のほかにはない。 実際において映画をおもしろくする効果からいえば一人の天才的なる新人の出現は十人の撮影所長の存在よりも意義深きものである。 ここ数年来、日本映画界の前線を受け持つ顔触れにたいした変化がないということは如上の見地からあまりめでたい話とはいえないのである。 次に現在の日本トーキーのおもしろくない重大原因の一つに資本家側の準備不足がある。 この準備不足が実際的には機械的不備、その他経済的無力となつて日夜仕事の遂行を妨害しているのである。 彼らは損してもうけることを知らない。損をしないでもうけようと欲の深いことを考えているから結局たいしたもうけもできないのである。早い話が日本にトーキー化が始まつてから数年。まだ完全に近い設備をもつてトーキーの仕事をしている撮影所がない。 一番最初に完全に近いトーキー設備を完了したものが一番もうけるにきまつているのであるが、だれもそれをしない。だからごらんのとおりいつまでたつてもどんぐりのせいくらべである。 我々の仕事は設備のあとに始まるものと心得ていたらこれが大変なまちがいであつた。 |
牛屋の手間取、牛切りの若いもの、一婦を娶る、と云ふのがはじまり。漸と女房にありついたは見つけものであるが、其の婦(奇醜)とある。たゞ醜いのさへ、奇醜は弱つた、何も醜を奇がるに當らぬ。 本文に謂つて曰く、蓬髮歴齒睇鼻深目、お互に熟字でだけお知己の、沈魚落雁閉月羞花の裏を行つて、これぢや縮毛の亂杭齒、鼻ひしやげの、どんぐり目で、面疱が一面、いや、其の色の黒い事、ばかりで無い。肩が頸より高く聳えて、俗に引傾りと云ふ代物、青ン膨れの腹大なる瓜の如しで、一尺餘りの棚ツ尻、剩へ跛は奈何。 これが又大のおめかしと來て、當世風の廂髮、白粉をべた〳〵塗る。見るもの、莫不辟易。豈それ辟易せざらんと欲するも得んや。 而して、而してである。件の牛切、朝から閉籠つて、友達づきあひも碌にせぬ。 一日、茫と成つて、田圃の川で水を呑んで居る處を、見懸けた村の若いものが、ドンと一ツ肩をくらはすと、挫げたやうにのめらうとする。慌てて、頸首を引掴んで、 「生きてるかい、」 「へゝゝ。」 「確乎しろ。」 「へゝゝ、おめでたう、へゝゝへゝ。」 「可い加減にしねえな。おい、串戲ぢやねえ。お前の前だがね、惡女の深情つてのを通越して居るから、鬼に喰はれやしねえかツて、皆友達が案じて居るんだ。お前の前だがね、おい、よく辛抱して居るぢやねえか。」 「へゝゝ。」 「あれ、矢張り恐悦して居ら、何うかしてるんぢやねえかい。」 「私も、はあ、何うかして居るでなからうかと思ふだよ。聞いてくんろさ。女房がと云ふと、あの容色だ。まあ、へい、何たら因縁で一所に成つたづら、と斷念めて、目を押瞑つた祝言と思へ。」 「うむ、思ふよ。友だちが察して居るよ。」 「處がだあ、へゝゝ、其の晩からお前、燈を暗くすると、ふつと婦の身體へ月明がさしたやうに成つて、第一な、色が眞白く成るのに、目が覺るだ。」 於稀帷中微燈閃鑠之際則殊見麗人である。 「蛾眉巧笑頯頬多姿、纖腰一握肌理細膩。」 と一息に言つて、ニヤ〳〵。 「おまけにお前、小屋一杯、蘭麝の香が芬とする。其の美しい事と云つたら、不啻毛嬙飛燕。」 と言ふ、牛切りの媽々をたとへもあらうに、毛嬙飛燕も凄じい、僭上の到りであるが、何も別に美婦を讚めるに遠慮は要らぬ。其處で、 不禁神骨之倶解也。である。此は些と恐しい。 「私も頓と解せねえだ、處で、當人の婦に尋ねた。」 「女房は怒つたらう、」 「何ちゆツてな。」 「だつてお前、お前の前だが、あの顏をつかめえて、牛切小町なんて、お前、怒らうぢやねえか。」 「うんね、怒らねえ。」 「はてな。」 とばかりに、苦笑。 「怒らねえだ。が、何もはあ、自分では知らねえちゆうだ。私も、あれよ、念のために、燈をくわんと明るくして、恁う照らかいて見た。」 「氣障な奴だぜ。」 「然うすると、矢張り、あの、二目とは見られねえのよ。」 「其處が相場ぢやあるまいか。」 「燈を消すと又小町に成る、いや、其の美しい事と云つたら。」 とごくりと唾を呑み、 「へゝゝ、口で言ふやうたものではねえ。以是愛之而忘其醜。」と言ふ。 聞者不信。誰も此は信じまい。 「や、お婿さん。」 「無事か。」 などと、若いものが其處へぞろ〳〵出て來た。で、此の話を笑ひながら傳へると、馬鹿笑ひの高笑ひで、散々に冷かしつける。 「狐だ、狐だ。」 「此の川で垢離を取れ。」 「南無阿彌陀佛。」 と哄と囃す。 屠者向腹を立て、赫と憤つて、 「試して見ろ。」 こゝで、口あけに、最初の若いものが、其の晩、牛切の小屋へ忍ぶ。 御亭主、戸外の月あかりに、のつそりと立つて居て、 「何うだあ、」 若い衆は額を叩いて、 「偉い、」と云つて、お叩頭をして、 |
豊島は僕より一年前に仏文を出た先輩だから、親しく話しをするようになったのは、寧ろ最近の事である。僕が始めて豊島与志雄と云う名を知ったのは、一高の校友会雑誌に、「褪紅色の珠」と云う小品が出た時だろう。それがどう云う訳か、僕の記憶には「登志雄」として残った。その登志雄が与志雄と校正されたのは、豊島に会ってからの事だったと思う。 初めて会ったのは、第三次の新思潮を出す時に、本郷の豊国の二階で、出版元の啓成社の人たちと同人との会があった、その時の事である。一番隅の方へひっこんでいた僕の前へ、紺絣の着物を着た、大柄な、色の白い、若い人が来て坐った。眼鏡はその頃はまだかけていなかったと思うが、確には覚えていない。僕はその人と小説の話をした。それが豊島だった事は、云うまでもなかろう。何でもその時は、大へんおとなしい、無口な人と云う印象を受けた。それから、いゝ男だとも思ったらしい。らしいと云うのは、その後鴻の巣か何かで会があった時に、豊島の男ぶりを問題にした覚えがあるからである。 それから豊島とは、始終或程度の間隔を置いて、つき合っていた。何かの用で内へ来た時に、ムンクの画が好きだと云いながら、持っている本を出して見せた事がある。多分好きだろうと思って、ギイの素描を見せたら、これは嫌いだと云ったのもその時ではないかと思う。それからどこかの芝居の二階で遇った事がある。その時は糸織の羽織か何か著て、髪を油で光らせて、甚大家らしい風格を備えていた。それから新思潮が発刊して一年たった年の秋、どこかで皆が集まって、飯を食った時にも会ったと云う記憶がある。「玉突場の一隅」を褒めたら、あれは左程自信がないと云ったのも恐らく其時だったろう。それから――後はみんな、忘れてしまった。が、兎に角、世間並の友人づき合いしかしなかった事は確である。それでいて、始終豊島の作品を注意して読んでいた所を見ると、やはり僕の興味は豊島の書く物に可成強く動かされていたのかも知れない。 それが今日ではだん〳〵お互に下らない事もしゃべり合うような仲になった。尤もそれは何時からだかはっきり分らない。三土会などが出来る以前からだったような気もするし、以後からだったような気もしない事はない。 豊島は作品から受ける感じとよく似た男である。誰かゞそれを洒落れて、「豊島は何時でも秋の中にいる」と形容した、そう云う性格の一面は世間でもよく知っているだろう。が、豊島の人間にある愛す可き悪党味は、その芸術からは得られない。親しくしていると、ちょいと人の好い公卿悪と云うような所がある。そうしてそれが豊島の人間に、或「動き」をつけている。そう云う所を知って見ると、豊島が比較的多方面な生活上の趣味を持っているのも不思議はない。 |
上 元日に雨降りし例なしといふ諺は、今年も亦中りぬ。朝の内、淡雲天を蔽ひたりしが、九時ごろよりは、如何にも春らしき快晴、日は小斎の障子一杯に射して、眩しき程明るく、暖かさは丁度四五月ごろの陽気なり。 数人一緒に落合ひたりし年始客の、一人残らず帰り尽せるにぞ、今まで高笑ひや何かにて陽気なりし跡は、急に静かになりぬ。 机の前の座に着けば、常には、書損じの反故、用の済みし雑書など、山の如く積み重なりて、其の一方は崩れかゝり、満面塵に埋もれ在る小机も、今日だけは、特に小さつぱりなれば、我ながら嬉し。 頬杖をつき、読みさしの新聞に対ひしが、対手酒のほろ酔と、日当りの暖か過ぐると、新聞の記事の閑文字ばかりなるにて、終うと〳〵睡気を催しぬ。これではと、障子を半ば明けて、外の方をさし覘けば、大空は澄める瑠璃色の外、一片の雲も見えず、小児の紙鳶は可なり飛颺して見ゆれども、庭の松竹椿などの梢は、眠れるかの如くに、些しも揺がず。 扨も〳〵穏かなる好き天気かな。一年の内に、雨風さては水の加減にて、釣に適当の日とては、真に指折り数ふる位きり無し。数日照り続きし今日こそは、申し分の無き日和なれ。例の場所にて釣りたらば、水は浪立ずして、熨したる如く、船も竿も静にて、毛ほどの中りも能く見え、殊に愛日を背負ひて釣る心地は、嘸好かるべし。この陽気にては、入れ引に釣れて、煙草吸ふ間も無く、一束二束の獲物有るは受合ひなり。あゝ元日でさへ無くば往きたし。この一日千金の好日和を、新年……旧年……相変らず……などの、鸚鵡返しに暮すは勿体無し。今日往きし人も必ず多からん。今頃は嘸面白く釣り挙げ居つらん。軒に出せし国旗の竿の、釣竿の面影あるも思の種なり。紙鳶挙ぐる子供の、風の神弱し、大風吹けよと、謡ふも心憎しなど、窓に倚りて想ひを碧潭の孤舟に騁せ、眼に銀鱗の飛躍を夢み、寸時恍惚たり。 やゝありて始めて我に返り、思ふまじ思ふまじ、近処の手前も有り、三ヶ日丈け辛抱する例は、自ら創めしものなるを、今更破るも悪しゝ。其代り、四日の初釣には、暗きより出でゝ思ふまゝ遊ばん。併し、此天気、四日まで続くべきや。若し今夜にも雨雪など降りて水冷えきらば、当分暫くは望みなし。殊に、明日の潮は朝底りの筈なれば、こゝ二三日は、実に好き潮なり。好機は得離く失ひ易し、天気の変らざる内、明日にも出でゝ念を霽らし、年頭の回礼は、三日四日に繰送らんか。綱引の腕車を勢よく奔らせ、宿処ブツクを繰り返しながら、年始の回礼に勉むる人は、詮ずる所、鼻の下を養はん為めなるべし。彼れ悪事ならずば、心を養ふ此れ亦、元日なりとて、二日なりとて、誰に遠慮気兼すべき。さなり〳〵、往かう〳〵と、同しきことを黙想す。 されども、想ひ返しては又心弱く、誰と誰とは必ず二日に来るかた仁にて、衣服に綺羅を飾らざれども、心の誠は赤し。殊に、故ら改らずして、平日の積る話を語り合ふも亦一興なり。然るを、予の留守にて、空しく還すはつれ無し。世上、年に一度の釣をも為ぬ人多し。一日二日の辛抱何か有らん。是非四日まで辛抱せんかと、兎さま角さま思ひ煩ひし上句、終に四日の方に勝たれ、力無く障子を立て、又元の座に直りぬ。 一便毎に配達受けし、「恭賀新年」の葉書は、机上に溜りて数十百枚になりぬ。賀客の絶間に、返事書きて出さんかと、一枚づゝ繰り返し見つ。中には、暮の二十九日に届きしを先鋒として、三十日三十一日に届きしも有り。或は、旧年より、熱海の何々館に旅行中と、石版に摺りたるにて、麹町局の消印鮮かに見ゆるあり。或は新年の御題を、所謂ヌーボー流に描き、五遍七遍の色版を重ねて、金朱絢爛たるも有り。さて〳〵凝りしものかな、とは思ふものゝ、何と無く気乗りせず、返事は晩にせんと、其のまゝ揃へて、又机の上に重ぬ。 顔のほてりは未だ醒めず、書読むも懶し、来客もがなと思へど、客も無し。障子に面して、空しく静座すれば、又四日の出遊は、岡釣にすべきか、船にすべきか、中川に往かんか、利根川(本名江戸川)にせんかなど、思ひ出す。これと同時に、右の手は無意識に自ら伸びて、座右の品匣(釣の小道具入)を引き寄せぬ。綸巻を取り出しぬ。検め見れば、鈎※(虫+糸)、沈、綸など、紊れに紊れ、処々に泥土さへ着きて、前回の出遊に、雪交りの急雨に降ひ、手の指亀みて自由利かず、其のまゝ引きくるめ、這々の体にて戻りし時の、敗亡の跡歴然たり。 銅盥に湯を取らせ、綸巻を洗ひかけしに、賀客の訪ふ声あり。其のまゝ片隅に推しやり、手を拭ひながら之を迎へ入る。客は、時々来る年少技術家にて、白襟の下着に、市楽三枚重ね、黒魚子五つ紋の羽織に、古代紫の太紐ゆたかに結び、袴の為めに隠れて、帯の見えざりしは遺憾なりしも、カーキー色のキヤラコ足袋を穿ちしは明なりし。先づ、新年おめでたうより始まりて、祝辞の交換例の如く、煮染、照りごまめも亦例の如くにて、屠蘇の杯も出でぬ。 下 客は早くも、主人の後方なる、品匣に目をつけて、『釣の御用意ですか。』 と、釣談の火蓋を切りぬ。主人は、ほゝ笑みながら、 『どうも、狂が直らんので……。斯の好い天気を、じツと辛抱する辛さは無いです。責めては、道具だけも見て、腹の虫を押へようと思ツて、今、出しかけた処なんです。』と、又屠蘇をさしぬ。 客は更に、『只今釣れますのは、何です。』 と、問ひ返しぬ。この質問は、来る客毎に、幾十回か発せられし覚え有り、今斯く言ふ客にも、一二回答へしやうには思ふものゝ、此の前に答へし通りとも言ひ兼ねて、 『鮒ですよ。鱮は小さくて相手に足りないし、沙魚も好いですが、暴風が怖いので……。』と、三種を挙げて答へぬ。 客『この寒さでは、とても、餌を食ふ気力無さゝうに思はれますが、よく釣れたものですね。』 主『鮒の実際餌つきの好いのは、春の三四月に限るですが、寒い間でも、潮のさす処なら、随分面白く餌つくです。他の魚は、大抵餌つきの季節が有ツて、其の季節の外には、釣れないですが、鮒計りは、年中餌つくです。だから、能く〳〵好きな者になると、真夏でも何でも、小堀を攻めて、鮒を相手に楽んでるです。食べては、寒に限るですが…………。』 客『どうも寒鮒は特別ですね。』 主『さうです。まア十一月頃から、春の三月一杯が、鮒釣の旬でせう。其の外の季節のは骨は硬し味はまづし、所詮食べられんです。 主『千住の雀焼が、彼の通り名物になツてゝ、方々で売ツてゝも、評判の中兼だけは、常の月には売らんです、十一月後のでなくては…………。』 客『銃猟に出る途で、よく千住の市場に、鮒を持ち出す者に逢ふですが、彼れは養魚池からでも、捕ツて来るのでせうか、』 主『なアに、皆柴漬です。それでなくては、彼様なに揃ひやう無いです。』 客『柴漬ツて何ですか。』 主『柴漬ですか。秋の末に、枝川や用水堀の処々に、深い穴を堀り、松葉や竹枝などを入れて置くです。すると、寒くなり次第、方々に散れてる鮒が、皆この、深くて防禦物の多い、穴の内に寄るです。其れを、お正月近くの直の良い時に、掻い掘ツて大仕掛に捕るです。鯉、鯰、其の外色々のものも、一緒に馬鹿々々しく多く捕れるさうです。 主『枝川や、汐入りの池の鮒は、秋の末の出水と共に、どん〴〵大川の深みに下ツて仕舞ふです。冬の閑な間、慰み半分に、池沼の掻掘りをやる者も、大川に続いてるか、続いてないかを見て、さうしてやるです。若し、続いてるのをやツたのでは、損ものです。既に大川に下りきツて、何も居らんですから。柴漬は、この、大川に下るのを引き止めておく、鮒の溜りなのです。 主『柴漬といへば、松戸のさきに、坂川上といふて、利根川(本名は江戸川)に沿ふて、小河の通ツてる処あるです。村の者が、こゝに柴漬して、莫大の鮒を捕るのですが、又、此処を狙ツてる釣師もあるです。見つけても叱らないのか、見付かツたら三年目の覚悟でやるのか、何しろ馬鹿に釣れるです。 主『丁度今が、其処の盛りですが、どんな子供でも、三十五十釣らんものは無いです。彼処の釣を見ては、竿や綸鈎の善悪などを論じてるのは、馬鹿げきツてるです。 主『葭の間を潜ツて、その小川の内に穴(釣れさうな場処)を見つけ、竿のさきか何かで、氷を叩きこわし、一尺四方許りの穴を明けるです。そこへ、一間程の綸に鈎をつけ、蚯蚓餌で、上からそーツとおろすです。少し中りを見て、又そーツと挙げさへすれば、屹度五六寸のが懸ツて来るです。挙げ下げとも、枯枝、竹枝の束などに引ツかけないやうに、徐かにやるだけの辛抱で、幾らも釣れるです。彼処の釣になると、上手も下手も有ツたもんで無く、只、氷こわし棒の、長いのでも持ツてる者が、勝を取るだけですから…………。』 此の時、宛も下婢の持ち出でゝ、膳の脇に据えたる肴は、鮒の甘露煮と焼沙魚の三杯酢なりしかば、主人は、ずツと反身になり、 『珍らしくも無いが、狂の余禄を、一つ試みて呉れ給へ。煖かいのも来たし…………。』 と、屠蘇を燗酒に改め、自らも、先づ箸を鮒の腹部につけ、黄玉の如く、蒸し粟の如き卵を抉り出しぬ。客は、杯を右手に持ちながら、身を屈めて皿中を見つめ、少し驚きしといふ風にて、 『斯ういふ大きいのが有るですか。』と問ふ。 客の此一言は、薪に加へし油の如く、主人の気焔をして、更に万丈高からしめ、滔々たる釣談に包囲攻撃せられ、降伏か脱出かの、一を撰ばざるべからざる応報を被る種となりしぞ、是非なき。 主『誰でも、此間釣ツたのは大きかツたといふですが、実際先日挙げたのは、尺余りあツて、随分見事でした。此れ等は、また、さう大きい方で無いです。併し、此様なのでも、二十枚も挙げると、…………さうですね、一貫目より出ますから、魚籃の中は、中々賑かですよ。鮒は全体おとなしい魚で、たとひ鈎に懸ツても、余り暴れんです。寒中のは殊にすなほに挙るですが、此の位になると、さう無雑作にからだを見せず、矢張鯉などの様に、暫くは水底でこつ〳〵延してるです。其れを此方は、彼奴の力に応じて、右に左にあしらツて、腹を横にしても、尚時々暴れるのを、だまして水面を徐にすーツと引いて来て、手元に寄せる、其の間の楽みといふたら、とてもお話しにならんですな。』 客『此の身幅は、全で黒鯛の恰好ですね。』 客も亦、箸を付けて、少しくほぐす。 主『鮒は、大きくなると、皆此様な風になるです。そして、泥川のと違ひ、鱗に胡麻班など付いてなくて、青白い銀色の光り、そりやア美しいです。話し許りじやいかんから、君解してくれ給へ。』 客『え、自由に頂きます。此れは、何処でお釣りになツたのです。』 主『江戸川です。俗に利根利根といふてる行徳の方の…………。』 客『随分遠方までお出になるですな。四里は確にございませう。』 主『その位は有るでせう。だが、行徳行の汽船が、毎日大橋から出てるので、彼れに乗るです。船は方々に着けるし、上ると直ぐ釣場ですから、足濡らさずに済むです。彼の船の一番発は、朝の六時半でして、乗客の六七分は、何時も釣師で持ち切りです。僕等はまだ近い方で、中には、品川、新宿、麻布辺から、やツて来る者も大分有るです。まア、狂の病院船でせう。』 主人の雄弁、近処合壁を驚かす最中、銚子を手にして出で来れるは、細君なり。客と、印刷的の祝詞の交換済みて、後ち、主人に、 『暖い処をお一つ。』と、勧むるにぞ、 主人、之を干して、更に客に勧むれば、客は、 |
夏目先生は書の幅を見ると、独り語のように「旭窓だね」と云った。落款はなるほど旭窓外史だった。自分は先生にこう云った。「旭窓は淡窓の孫でしょう。淡窓の子は何と云いましたかしら?」先生は即座に「夢窓だろう」と答えた。 ――すると急に目がさめた。蚊帳の中には次の間にともした電燈の光がさしこんでいた。妻は二つになる男の子のおむつを取り換えているらしかった。子供は勿論泣きつづけていた。自分はそちらに背を向けながら、もう一度眠りにはいろうとした。すると妻がこう云った。「いやよ。多加ちゃん。また病気になっちゃあ」自分は妻に声をかけた。「どうかしたのか?」「ええ、お腹が少し悪いようなんです」この子供は長男に比べると、何かに病気をし勝ちだった。それだけに不安も感じれば、反対にまた馴れっこのように等閑にする気味もないではなかった。「あした、Sさんに見て頂けよ」「ええ、今夜見て頂こうと思ったんですけれども」自分は子供の泣きやんだ後、もとのようにぐっすり寝入ってしまった。 翌朝目をさました時にも、夢のことははっきり覚えていた。淡窓は広瀬淡窓の気だった。しかし旭窓だの夢窓だのと云うのは全然架空の人物らしかった。そう云えば確か講釈師に南窓と云うのがあったなどと思った。しかし子供の病気のことは余り心にもかからなかった。それが多少気になり出したのはSさんから帰って来た妻の言葉を聞いた時だった。「やっぱり消化不良ですって。先生も後ほどいらっしゃいますって」妻は子供を横抱きにしたまま、怒ったようにものを云った。「熱は?」「七度六分ばかり、――ゆうべはちっともなかったんですけれども」自分は二階の書斎へこもり、毎日の仕事にとりかかった。仕事は不相変捗どらなかった。が、それは必ずしも子供の病気のせいばかりではなかった。その中に、庭木を鳴らしながら、蒸暑い雨が降り出した。自分は書きかけの小説を前に、何本も敷島へ火を移した。 Sさんは午前に一度、日の暮に一度診察に見えた。日の暮には多加志の洗腸をした。多加志は洗腸されながら、まじまじ電燈の火を眺めていた。洗腸の液はしばらくすると、淡黒い粘液をさらい出した。自分は病を見たように感じた。「どうでしょう? 先生」 「何、大したことはありません。ただ氷を絶やさずに十分頭を冷やして下さい。――ああ、それから余りおあやしにならんように」先生はそう云って帰って行った。 自分は夜も仕事をつづけ、一時ごろやっと床へはいった。その前に後架から出て来ると、誰かまっ暗な台所に、こつこつ音をさせているものがあった。「誰?」「わたしだよ」返事をしたのは母の声だった。「何をしているんです?」「氷を壊しているんだよ」自分は迂闊を恥じながら、「電燈をつければ好いのに」と云った。「大丈夫だよ。手探りでも」自分はかまわずに電燈をつけた。細帯一つになった母は無器用に金槌を使っていた。その姿は何だか家庭に見るには、余りにみすぼらしい気のするものだった。氷も水に洗われた角には、きらりと電燈の光を反射していた。 けれども翌朝の多加志の熱は九度よりも少し高いくらいだった。Sさんはまた午前中に見え、ゆうべの洗腸を繰り返した。自分はその手伝いをしながら、きょうは粘液の少ないようにと思った。しかし便器をぬいてみると、粘液はゆうべよりもずっと多かった。それを見た妻は誰にともなしに、「あんなにあります」と声を挙げた。その声は年の七つも若い女学生になったかと思うくらい、はしたない調子を帯びたものだった。自分は思わずSさんの顔を見た。「疫痢ではないでしょうか?」「いや、疫痢じゃありません。疫痢は乳離れをしない内には、――」Sさんは案外落ち着いていた。 自分はSさんの帰った後、毎日の仕事にとりかかった。それは「サンデイ毎日」の特別号に載せる小説だった。しかも原稿の締切りはあしたの朝に迫っていた。自分は気乗のしないのを、無理にペンだけ動かしつづけた。けれども多加志の泣き声はとかく神経にさわり勝ちだった。のみならず多加志が泣きやんだと思うと、今度は二つ年上の比呂志も思い切り、大声に泣き出したりした。 神経にさわることはそればかりではなかった。午後には見知らない青年が一人、金の工面を頼みに来た。「僕は筋肉労働者ですが、C先生から先生に紹介状を貰いましたから」青年は無骨そうにこう云った。自分は現在蟇口に二三円しかなかったから、不用の書物を二冊渡し、これを金に換え給えと云った。青年は書物を受け取ると、丹念に奥附を検べ出した。「この本は非売品と書いてありますね。非売品でも金になりますか?」自分は情ない心もちになった。が、とにかく売れるはずだと答えた。「そうですか? じゃ失敬します。」青年はただ疑わしそうに、難有うとも何とも云わずに帰って行った。 Sさんは日の暮にも洗腸をした。今度は粘液もずっと減っていた。「ああ、今晩は少のうございますね」手洗いの湯をすすめに来た母はほとんど手柄顔にこう云った。自分も安心をしなかったにしろ、安心に近い寛ぎを感じた。それには粘液の多少のほかにも、多加志の顔色や挙動などのふだんに変らないせいもあったのだった。「あしたは多分熱が下るでしょう。幸い吐き気も来ないようですから」Sさんは母に答えながら、満足そうに手を洗っていた。 翌朝自分の眼をさました時、伯母はもう次の間に自分の蚊帳を畳んでいた。それが蚊帳の環を鳴らしながら、「多加ちゃんが」何とか云ったらしかった。まだ頭のぼんやりしていた自分は「多加志が?」と好い加減に問い返した。「多加ちゃんが悪いんだよ。入院させなければならないんだとさ」自分は床の上に起き直った。きのうのきょうだけに意外な気がした。「Sさんは?」「先生ももう来ていらっしゃるんだよ、さあさあ、早くお起きなさい」伯母は感情を隠すように、妙にかたくなな顔をしていた。自分はすぐに顔を洗いに行った。不相変雲のかぶさった、気色の悪い天気だった。風呂場の手桶には山百合が二本、無造作にただ抛りこんであった。何だかその匂や褐色の花粉がべたべた皮膚にくっつきそうな気がした。 多加志はたった一晩のうちに、すっかり眼が窪んでいた。今朝妻が抱き起そうとすると、頭を仰向けに垂らしたまま、白い物を吐いたとか云うことだった。欠伸ばかりしているのもいけないらしかった。自分は急にいじらしい気がした。同時にまた無気味な心もちもした。Sさんは子供の枕もとに黙然と敷島を啣えていた。それが自分の顔を見ると、「ちとお話したいことがありますから」と云った。自分はSさんを二階に招じ、火のない火鉢をさし挟んで坐った。「生命に危険はないと思いますが」Sさんはそう口を切った。多加志はSさんの言葉によれば、すっかり腸胃を壊していた。この上はただ二三日の間、断食をさせるほかに仕かたはなかった。「それには入院おさせになった方が便利ではないかと思うんです」自分は多加志の容体はSさんの云っているよりも、ずっと危いのではないかと思った。あるいはもう入院させても、手遅れなのではないかとも思った。しかしもとよりそんなことにこだわっているべき場合ではなかった。自分は早速Sさんに入院の運びを願うことにした。「じゃU病院にしましょう。近いだけでも便利ですから」Sさんはすすめられた茶も飲まずに、U病院へ電話をかけに行った。自分はその間に妻を呼び、伯母にも病院へ行って貰うことにした。 その日は客に会う日だった。客は朝から四人ばかりあった。自分は客と話しながら、入院の支度を急いでいる妻や伯母を意識していた。すると何か舌の先に、砂粒に似たものを感じ出した。自分はこのごろ齲歯につめたセメントがとれたのではないかと思った。けれども指先に出して見ると、ほんとうの歯の欠けたのだった。自分は少し迷信的になった。しかし客とは煙草をのみのみ、売り物に出たとか噂のある抱一の三味線の話などをしていた。 そこへまた筋肉労働者と称する昨日の青年も面会に来た。青年は玄関に立ったまま、昨日貰った二冊の本は一円二十銭にしかならなかったから、もう四五円くれないかと云う掛け合いをはじめた。のみならずいかに断っても、容易に帰るけしきを見せなかった。自分はとうとう落着きを失い、「そんなことを聞いている時間はない。帰って貰おう」と怒鳴りつけた。青年はまだ不服そうに、「じゃ電車賃だけ下さい。五十銭貰えば好いんです」などと、さもしいことを並べていた。が、その手も利かないのを見ると、手荒に玄関の格子戸をしめ、やっと門外に退散した。自分はこの時こう云う寄附には今後断然応ずまいと思った。 四人の客は五人になった。五人目の客は年の若い仏蘭西文学の研究者だった。自分はこの客と入れ違いに、茶の間の容子を窺いに行った。するともう支度の出来た伯母は着肥った子供を抱きながら、縁側をあちこち歩いていた。自分は色の悪い多加志の額へ、そっと唇を押しつけて見た。額はかなり火照っていた。しおむきもぴくぴく動いていた。「車は?」自分は小声にほかのことを云った。「車? 車はもう来ています」伯母はなぜか他人のように、叮嚀な言葉を使っていた。そこへ着物を更めた妻も羽根布団やバスケットを運んで来た。「では行って参ります」妻は自分の前へ両手をつき、妙に真面目な声を出した。自分はただ多加志の帽子を新しいやつに換えてやれと云った。それはつい四五日前、自分の買って来た夏帽子だった。「もう新しいのに換えて置きました」妻はそう答えた後、箪笥の上の鏡を覗き、ちょいと襟もとを掻き合せた。自分は彼等を見送らずに、もう一度二階へ引き返した。 自分は新たに来た客とジョルジュ・サンドの話などをしていた。その時庭木の若葉の間に二つの車の幌が見えた。幌は垣の上にゆらめきながら、たちまち目の前を通り過ぎた。「一体十九世紀の前半の作家はバルザックにしろサンドにしろ、後半の作家よりは偉いですね」客は――自分ははっきり覚えている。客は熱心にこう云っていた。 午後にも客は絶えなかった。自分はやっと日の暮に病院へ出かける時間を得た。曇天はいつか雨になっていた。自分は着物を着換えながら、女中に足駄を出すようにと云った。そこへ大阪のN君が原稿を貰いに顔を出した。N君は泥まみれの長靴をはき、外套に雨の痕を光らせていた。自分は玄関に出迎えたまま、これこれの事情のあったために、何も書けなかったと云う断りを述べた。N君は自分に同情した。「じゃ今度はあきらめます」とも云った。自分は何だかN君の同情を強いたような心もちがした。同時に体の好い口実に瀕死の子供を使ったような気がした。 N君の帰ったか帰らないのに、伯母も病院から帰って来た。多加志は伯母の話によれば、その後も二度ばかり乳を吐いた。しかし幸い脳にだけは異状も来ずにいるらしかった。伯母はまだこのほかに看護婦は気立ての善さそうなこと、今夜は病院へ妻の母が泊りに来てくれることなどを話した。「多加ちゃんがあすこへはいると直に、日曜学校の生徒からだって、花を一束貰ったでしょう。さあ、お花だけにいやな気がしてね」そんなことも話していた。自分はけさ話をしている内に、歯の欠けたことを思い出した。が、何とも云わなかった。 家を出た時はまっ暗だった。その中に細かい雨が降っていた。自分は門を出ると同時に、日和下駄をはいているのに心づいた。しかもその日和下駄は左の前鼻緒がゆるんでいた。自分は何だかこの鼻緒が切れると、子供の命も終りそうな気がした。しかしはき換えに帰るのはとうてい苛立たしさに堪えなかった。自分は足駄を出さなかった女中の愚を怒りながら、うっかり下駄を踏み返さないように、気をつけ気をつけ歩いて行った。 病院へ着いたのは九時過ぎだった。なるほど多加志の病室の外には姫百合や撫子が五六本、洗面器の水に浸されていた。病室の中の電燈の玉に風呂敷か何か懸っていたから、顔も見えないほど薄暗かった。そこに妻や妻の母は多加志を中に挟んだまま、帯を解かずに横になっていた。多加志は妻の母の腕を枕に、すやすや寝入っているらしかった。妻は自分の来たのを知ると一人だけ布団の上に坐り、小声に「どうも御苦労さま」と云った。妻の母もやはり同じことを云った。それは予期していたよりも、気軽い調子を帯びたものだった。自分は幾分かほっとした気になり、彼等の枕もとに腰を下した。妻は乳を飲ませられぬために、多加志は泣くし、乳は張るし、二重に苦しい思いをすると云った。「とてもゴムの乳っ首くらいじゃ駄目なんですもの。しまいには舌を吸わせましたわ」「今はわたしの乳を飲んでいるんですよ」妻の母は笑いながら、萎びた乳首を出して見せた。「一生懸命に吸うんでね、こんなにまっ赤になってしまった」自分もいつか笑っていた。「しかし存外好さそうですね。僕はもう今ごろは絶望かと思った」「多加ちゃん? 多加ちゃんはもう大丈夫ですとも。なあに、ただのお腹下しなんですよ。あしたはきっと熱が下りますよ」「御祖師様の御利益ででしょう?」妻は母をひやかした。しかし法華経信者の母は妻の言葉も聞えないように、悪い熱をさますつもりか、一生懸命に口を尖らせ、ふうふう多加志の頭を吹いた。……… × × × 多加志はやっと死なずにすんだ。自分は彼の小康を得た時、入院前後の消息を小品にしたいと思ったことがある。けれどもうっかりそう云うものを作ると、また病気がぶり返しそうな、迷信じみた心もちがした。そのためにとうとう書かずにしまった。今は多加志も庭木に吊ったハムモックの中に眠っている。自分は原稿を頼まれたのを機会に、とりあえずこの話を書いて見ることにした。読者にはむしろ迷惑かも知れない。 |
科学と技術 今の世のなかで私たちの役に立っているいろいろな産業技術や、それと関係しているさまざまの問題のもとは、いずれも科学の上での深い研究にもとづくので、その意味で科学と技術とはいつも密接につながり合っているのです。現在では、そういう科学や技術がすばらしく進んで来ていて、私たちが何をするにもそれらのおかげを蒙らないわけにゆかなくなっているのですが、今から数百年も前の時代にさかのぼると、科学や技術もまださほど進んではいなかったので、一般の世のなかの人たちもそれらを今日のように重くは見ていなかったのも事実であります。おまけにその頃には科学や技術が西洋では多少とも進んで来てはいたのですが、我が国には全くの実用的な技術の外には、学問としての科学などはまるで無かったので、学問と云えば昔の聖賢の書に通ずると云うことが主にせられていたのですから、この時代に最初にそういう道に進むということがどれほど難かしかったかは、恐らく想像以上のことであったに違いないのでした。ところで、ここでお話ししようとする平賀源内は、江戸時代に今からは二百十余年ほど前に生まれた人なのですから、おまけにそれもさほど高くない家に育ったのでしたから、普通ならばその儘で終る筈であったのですが、どこかに科学や技術を好む性格をもっていたと見えて、その頃としては実に驚くべきほどのいろいろな仕事をしたので、そういう点から見て、いかにも非凡な人物であったと云わなくてはならないでしょう。それで源内がどんな事をなし遂げたかと云うことについて、次にざっとお話ししてみたいと思うのです。 平賀源内の生涯 平賀源内は讃岐国志度浦の新町で生まれました。その年ははっきりしないので、後に安永八年に歿した際に、年齢が四十八歳であったとも云い、また五十一歳、又は五十七歳であったとも云われていたので、どれが正しいかわからないのですが、位牌には五十二歳と記されているそうで、この五十二歳を採れば、享保十三年に生まれたことになるのです。父は茂左衞門國久と云い、高松侯の足軽であったと云うことです。平賀家の古い祖先は平賀三郎國綱と称し、その子の國宗が奥州白石に住んでいたことから白石という姓を名のっていたのが、後にまた平賀姓に復したのだとも伝えられています。何れにしても源内の生まれた頃には、身分も低かったのですから、そのなかから学問好きの源内が現れたと云うのは、一つの驚くべき事がらにはちがいありますまい。 幼名は四方吉と云い、後に傳次郎、それから嘉次郎とも称しました。生長してからは國倫と称し、字を士彛と号したのです。元内又は源内というのは通称で、そのほかにいろいろな号をその著述の上では使っています。鳩溪、風來山人、天竺浪人など、そのなかで多く用いられたものでした。 前にも記しましたように、源内の生まれた頃には世のなかでは儒教や仏教や神道が盛んで、それらに属する古い書物を習い覚えることが一般の慣いであったのでした。またその半面には、名だかい西鶴の浮世草紙に続いて、いろいろな読み本や、洒落本などと称えるものがたくさんに出はじめた頃でもあったのでした。ですから源内の眼にもそういうものが触れないわけではなかったので、現に源内自らも後年になってたくさんの滑稽本や洒落本を著しているのですが、それでいて他面にはいろいろな学問の道にも進もうとしたのですから、その頃として実に多芸多才な点で稀に見る人物であったと云ってよいのでしょう。 源内が学問を志すようになったのは、幼少の頃から藩の医者に接近していたことや、また薬園に勤めて本草学に興味をもつようになったのに依ると云われていますが、ともかくも生来そういう学問を好んでいたには違いなかったのでしょう。それで年が長じてから長崎まで赴いて、そこで熱心にオランダ語を学び、オランダ人について薬物をいろいろ研究したのでした。このような本草学や薬物の研究が源内の学問の道への出発点となったのでしたが、源内はその後あらゆる方面の知識を修めようと志したのでした。それで、やがて江戸詰となって江戸に来てからは、林信言や三浦瓶山について漢学を修め、賀茂眞淵から国学を学び、服部南郭や石島筑波から修辞を習い、更に江戸幕府の官医田村藍水から本草学を一層詳しく学び、その間に当時名高かった杉田玄白、中川淳庵、太田蜀山人、松田元長、千賀道有などと云う人々と親しく往来して、いろいろな見聞を広めたので、その学識もあらゆる方面にわたり、これが明敏な彼の性質と相俟って、一世にその多技多能を謳われるようになりました。宝暦十一年に俸禄を辞してからはどこにも仕えなかったので、なかには彼を招こうとする諸侯もいろいろあったのでしたが、特別な仕事のほかはそれに応じなかったと云うことです。しかしその間に自らは貨殖の途を講じて、いろいろの計画を立てましたが、これにはいつも成功しなかったので、それで煩悶しているうちに、世のなかに対する不平不満が多くなり、それをどうにかして晴らそうと思って、たくさんの戯作をつくり、そのなかで自分の欝憤を晴らそうともしたのでした。源内ほどの多芸の人も時世がそれに適応しなかったことによって十分にその手腕をふるうことのできなかったのは、まことに遺憾と言わなければなりますまい。 それにしても源内は、その一生の間にいろいろの仕事をしているので、それについて次に少しくお話して見ましょう。 源内の遺業 源内が最初本草学を修めてそれに詳しかったことは、既に記した通りですが、江戸に来て田村藍水に教をうけてからは一層これに熱心になり、田村藍水や松田元長などと云う人たちと相謀って、宝暦七年から十二年に至る間に五回にわたって、東都薬品会というのを催しました。そしていつも薬物を備えておかなければ病疾を癒やすことはできないと云うので、その間に広く諸国を巡って、多くの種類の薬草を集めたのでした。そして西洋からの薬品だけをあてにしていたのでは、商船が来なかった際には間に合わなくなるので、そんなことではいけないとも言っているのですが、そういう識見はその頃源内にして始めてもち得たのであると思われるのです。 また明和二年には、源内は武蔵国秩父の中津川に赴いて、そこで金、銀、銅、鉄、緑青、明礬、たんぱん、磁石などを見つけ出し、そこで山金採掘の仕事にとりかかりましたが、それはさほどうまくゆかなかったとのことです。しかしその傍らに秩父の山から木炭の焼出しを行い、またそれを運び出すために、荒川に通船業を起して、それには大いに成功したと云われています。この炭焼を始めたのは少し後の事がらで安永四年のことでした。この外に鉱山の関係では、出羽の新庄侯のために銅の検査を行い、また秋田の佐竹侯のために院内の銀山を視まわったこともあるとのことです。 源内の始めてつくった源内焼という一種の陶器も広く世間に知られたのでしたが、これは彼が支那交趾の陶器の美しい彩色を研究して、それからつくり上げたのだと伝えられています。また明和七年に長崎に赴いた際には、天草深江の土が特別に陶器をつくるのに適しているのを見つけ出し、それを建白したとのことです。また金唐革とか、紅革などと云われるものを製作したり、伽羅の木で源内櫛というのを作ったり、硝子板に水銀を塗って自惚鏡という鏡をも作りました。 このように源内は実に多方面の仕事をしたのでしたが、更に驚くべきことは、その頃オランダ人の持ち来した考案に基づいて、自分でいろいろな科学的な装置を工夫したことであります。そのなかには先ず今日の寒暖計に相当する寒熱昇降器というのがあり、また方向を示す磁針器や、水平面を見る平線儀というのもありました。平線儀は、その頃田畑用水掛井手や溜池などを築くときに水盛違いで仕損じるのを防ぐためなのでした。しかし源内がそのほかに最も得意としていたのは火浣布というのとエレキテルと云う器械との二つでした。 この中で、火浣布というのは、秩父の奥で見つけ出した石綿をつかって、それで織った布なのですが、これで唐米袋と言われているような袋をつくると、それは火に焼けないばかりでなく、その布のよごれは火に浣れるようにとれてしまうと云うので、火浣布と名づけたのでした。それを敷いて香をたくのに最も都合がよいと云うので、香敷に多く使われたということです。 エレキテルというのは、つまり今日の摩擦起電機のことなのですが、源内はオランダ人の記した処によって自分で工夫して、これをつくったので、安永五年にそれを発明したと伝えられているのです。外側は木箱で出来ており、その側にハンドルをつけて廻すようになっています。箱のなかには車があって、それがハンドルの廻転につれて廻るようになっており、それと共に調帯が硝子の円筒と銀箔の貼ってある板とを摩擦して電気をおこす仕掛けになっています。そしてこの電気は針金の線で蓄電器へ導かれるようにしてあります。源内はこのエレキテルをつかって、紙細工の人形を動かしたり、火花をとばしたりしたので、その頃の人々はそれを眺めて、いかにも驚いたと云うことであります。安永五年と云えば、西暦一七七六年に当るので、西洋でもまだ電流をつくる電池などはまるで無かった時代であり、クーロンが電気力の法則を見つけ出したのも、それより後の一七八五年のことであったのですから、そういう時代に我が国で源内によりエレキテルがつくられたと云うことは、まことに著しいことであったと云わなければなりますまい。 |
大硯君足下。 近頃或人が第二十七議會に對する希望を叙べた文章の中に、嘗て日清及び日露の兩戰役に當つて、滿場一人の異議もなく政府の計畫を翼贊して、以て擧國一致の範を國民に示した外に、日本の議會には今まで何の功績も無いと笑つてゐた。私のこの手紙も其處から出立する。私はこの或人の物凄い笑ひがまだ〳〵笑ひ足りないと思ふ。かう言へば足下には直ぐ私の心持が解るに違ひない。實際それは彼の兩戰役の際の我々の經驗を囘顧して見れば、誰にでも頷かれる事なのである。日清戰役の時は、我々一般國民はまだほんの子供に過ぎなかつた。反省の力も批評の力もなく、自分等の國家の境遇、立場さへ知らぬ者が多かつた。無論自分等自身の國民としての自覺などをもつてゐる者は猶更少なかつた。さういふ無知な状態に在つたからして、「膺てや懲せや清國を」といふ勇ましい軍歌が聞えると、直ぐもう國を擧げて膺てや懲せや清國をといふ氣になつたのだ。反省もない。批評もない。その戰爭の結果が如何な事になるかを考へる者すら無いといふ有樣だつた。さうして議會も國民と全く同じ事をやつたに過ぎないのである。それが其の次の大戰役になると、前後の事情が餘程違つて來てゐる。事情は違つて來てゐるが、然し議會の無用であつた事は全く前と同じである。日露戰爭に就いては、國民は既に日清戰爭の直ぐ後から決心の臍を堅めてゐた。宣戰の詔勅の下る十年前から擧國一致してゐた。さうして此の兩戰役共、假令議會が滿場心を一にして非戰論を唱へたにしたところで、政府も其の計畫を遂行するに躊躇せず、國民も其の一致した敵愾感情を少しでも冷却せしめられなかつたことは誰しも承認するところであらう。――大硯君足下。こんな事を言ふのは、お互ひ立憲國民として自ら恥づべき事ではあるが、然し事實は如何とも枉げがたい。日本の議會は或人々から議會としての最善の能力を盡したと認められた場合に於てさへ、よく考へて來れば、全くあつても無くても可いやうな事をしてゐたに過ぎないのである。 |
誰でもわたしのやうだらうか?――ジュウル・ルナアル 僕は屈辱を受けた時、なぜか急には不快にはならぬ。が、彼是一時間ほどすると、だんだん不快になるのを常としてゐる。 × 僕はロダンのウゴリノ伯を見た時、――或はウゴリノ伯の写真を見た時、忽ち男色を思ひ出した。 × 僕は樹木を眺める時、何か我々人間のやうに前後ろのあるやうに思はれてならぬ。 × 僕は時々暴君になつて大勢の男女を獅子や虎に食はせて見たいと思ふことがある。が、膿盆の中に落ちた血だらけのガアゼを見ただけでも、肉体的に忽ち不快になつてしまふ。 × 僕は度たび他人のことを死ねば善いと思つたことがある。その又死ねば善いと思つた中には僕の肉親さへゐないことはない。 × 僕はどう云ふ良心も、――芸術的良心さへ持つてゐない。が、神経は持ち合せてゐる。 × 僕は滅多に憎んだことはない。その代りには時々軽蔑してゐる。 × 僕自身の経験によれば、最も甚しい自己嫌悪の特色はあらゆるものに譃を見つけることである。しかもその又発見に少しも満足を感じないことである。 × 僕はいろいろの人の言葉にいつか耳を傾けてゐる。たとへば肴屋の小僧などの「こんちはア」と云ふ言葉に。あの言葉は母音に終つてゐない、ちよつと羅馬字に書いて見れば、Konchiwaas と云ふのである。なぜ又あの言葉は必要もないSを最後に伴ふのかしら。 × 僕はいつも僕一人ではない。息子、亭主、牡、人生観上の現実主義者、気質上のロマン主義者、哲学上の懐疑主義者等、等、等、――それは格別差支へない。しかしその何人かの僕自身がいつも喧嘩するのに苦しんでゐる。 × 僕は未知の女から手紙か何か貰つた時、まづ考へずにゐられぬことはその女の美人かどうかである。 × あらゆる言葉は銭のやうに必ず両面を具へてゐる。僕は彼を「見えばう」と呼んだ。しかし彼はこの点では僕と大差のある訣ではない。が、僕自身に従へば、僕は唯「自尊心の強い」だけである。 × 僕は医者に容態を聞かれた時、まだ一度も正確に僕自身の容態を話せたことはない。従つて譃をついたやうな気ばかりしてゐる。 × 僕は僕の住居を離れるのに従ひ、何か僕の人格も曖昧になるのを感じてゐる。この現象が現れるのは僕の住居を離れること、三十哩前後に始まるらしい。 × 僕の精神的生活は滅多にちやんと歩いたことはない。いつも蚤のやうに跳ねるだけである。 × |
僕は一体冬はすきだから十一月十二月皆好きだ。好きといふのは、東京にゐると十二月頃の自然もいいし、また町の容子もいい。自然の方のいいといふのは、かういふ風に僕は郊外に住んでゐるから余計そんな感じがするのだが、十一月の末から十二月の初めにかけて、夜晩く外からなんど帰つて来ると、かう何ともしれぬ物の臭が立ち籠めてゐる。それは落葉のにほひだか、霧のにほひだか、花の枯れるにほひだか、果実の腐れるにほひだか、何んだかわからないが、まあいいにほひがするのだ。そして寝て起きると木の間が透いてゐる。葉が落ち散つたあとの木の間が朗かに明くなつてゐる。それに此処らは百舌鳥がくる。鵯がくる。たまに鶺鴒がくることもある。田端の音無川のあたりには冬になると何時も鶺鴒が来てゐる。それがこの庭までやつてくるのだ。夏のやうに白鷺が空をかすめて飛ばないのは物足りないけれども、それだけのつぐなひは十分あるやうな気がする。 町はだんだん暮近くなつてくると何処か物々しくなつてくる。ざわめいてくる。あすこが一寸愉快だ。ざわめいて来て愉快になるといふことは、酸漿提灯がついてゐたり楽隊がゐたりするのも賑かでいいけれども、僕には、それが賑かなだけにさういふ時は暗い寂しい町が余計眼につくのがいい。たとへば須田町の通りが非常に賑かだけれど、一寸梶町青物市場の方へ曲るとあすこは暗くて静かだ。さういふ処を何かの拍子で歩いてゐると、「鍋焼だとか「火事」だとかいふ俳句の季題を思ひ出す。ことに極くおしつまつて、もう門松がたつてゐるさういふ町を歩いてゐると、ちよつと久保田万太郎君の小説のなかを歩いてゐるやうな気持でいい気持だ。 十二月は僕は何時でも東京にゐて、その外の場処といつたら京都とか奈良とかいふ甚だ平凡な処しかしらないんだけども、京都へ初めて往つた時は十二月で、その時分は、七条の停車場も今より小さかつたし、烏丸の通だの四条の通だのがずつと今より狭かつた。でさういふ古ぼけた京都を知つてゐるだけだが、その古ぼけた京都に滞在してゐる間に二三度時雨にあつたことをおぼえてゐる。殊に下賀茂の糺の森であつた時雨は、丁度朝焼がしてゐるとすぐに時雨れて来たんで、甚だ風流な気がしたのを覚えてゐる。時雨といへば矢張り其時、奈良の春日の社で時雨にあひ、その時雨の霽れるのをまつ間お神楽をあげたことがあつた。それは古風な大和琴だの筝だのといふ楽器を鳴らして、緋の袴をはいた小さな――非常に小さな――巫女が舞ふのが、矢張り優美だつたといふ記憶がのこつてゐる。勿論其時分は春日の社も今のやうに修覆が出来なかつたし、全体がもつと古ぼけてきたなかつたから、それだけよかつたといふ訣だ。さういふ京都とか奈良とかいふ処は度々ゆくが、冬といふとどうもその最初の時の記憶が一番鮮かなやうな気がする。 それから最近には鎌倉に住つて横須賀の学校へ通ふやうになつたから、東京以外の十二月にも親しむことが出来たといふわけだ。その時分の鎌倉は避暑客のやうな種類の人間が少いだけでも非常にいい。ことに今時分の鎌倉にゐると、人間は日本人より西洋人の方が冬は高等であるやうな気がする。どうも日本人の貧弱な顔ぢや毛皮の外套の襟へ頤を埋めても埋め栄えはしないやうな気がする。東清鉄道あたりの従業員は、日本人と露西亜人とで冬になるとことにエネルギイの差が目立つといふことをきいてゐるが、今頃の鎌倉を濶歩してゐる西洋人を見るとさうだらうと思ふ。 もつとも小説を書くうへに於ては、寧ろ夏よりは十一月十二月もつと寒くなつても冬の方がいいやうだ。また書く上ばかりでなく、書くまでの段取を火鉢にあたりながら漫然と考へてゐるには今頃が一番いいやうだ。新年号の諸雑誌の原稿は大抵十一月一杯または十二月のはじめへかかる。さういふものを書いてゐる時は、他の人は寒いだらうとか何とかいつて気にしてくれるけれども、書き出して脂が乗れば煙草を喫むほかは殆ど火鉢なんぞを忘れてしまふ。それにその時分は襖だの障子だのがたて切つてあるものだから、自分の思想や情緒とかいふものが、部屋の中から遁出してゆかないやうな安心した処があつてよく書ける。もつともよく書けるといつても、それは必ずしも作の出来栄えには比例しないのだから、勿論新年号の小説は何時も傑作が出来るといふ訣にはゆかない。 |
昨夜は夜ふかしをした。 今朝……と云ふがお午ごろ、炬燵でうと〳〵して居ると、いつも來て囀る、おてんばや、いたづらツ兒の雀たちは、何處へすツ飛んだか、ひつそりと靜まつて、チイ〳〵と、甘えるやうに、寂しさうに、一羽目白鳥が鳴いた。 いまが花の頃の、裏邸の枇杷の樹かと思ふが、もつと近い。屋根には居まい。ぢき背戸の小さな椿の樹らしいなと、そつと縁側へ出て立つと、その枇杷の方から、斜にさつと音がして時雨が來た。…… 椿の梢には、つい此のあひだ枯萩の枝を刈つて、その時引殘した朝顏の蔓に、五つ六つ白い實のついたのが、冷く、はら〳〵と濡れて行く。 考へても見たが可い。風流人だと、鶯を覗くにも行儀があらう。それ鳴いた、障子を明けたのでは、めじろが熟として居よう筈がない。透かしても、何處にもその姿は見えないで、濃い黄に染まつた銀杏の葉が、一枚ひら〳〵と飛ぶのが見えた。 懷手して、肩が寒い。 かうした日は、これから霙にも、雪にも、いつもいゝものは湯豆府だ。――昔からものの本にも、人の口にも、音に響いたものである。が、……此の味は、中年からでないと分らない。誰方の兒たちでも、小兒で此が好きだと言ふのは餘りなからう。十四五ぐらゐの少年で、僕は湯どうふが可いよ、なぞは――説明に及ばず――親たちの注意を要する。今日のお菜は豆府と云へば、二十時分のまづい顏は當然と言つて可い。 能樂師、松本金太郎叔父てきは、湯どうふはもとより、何うした豆府も大のすきで、從つて家中が皆嗜んだ。その叔父は十年ばかり前、七十一で故人になつたが、尚ほその以前……米が兩に六升でさへ、世の中が騷がしいと言つた、諸物價の安い時、月末、豆府屋の拂が七圓を越した。……どうも平民は、すぐに勘定にこだはるやうでお恥かしいけれども、何事も此の方が早分りがする。……豆府一挺の値が、五厘から八厘、一錢、乃至二錢の頃の事である。……食つたな! 何うも。……豆府屋の通帳のあるのは、恐らく松本の家ばかりだらうと言つたものである。いまの長もよく退治る。――お銚子なら、まだしもだが、催、稽古なんど忙しい時だと、ビールで湯どうふで、見る〳〵うちに三挺ぐらゐぺろりと平らげる。當家のは、鍋へ、そのまゝ箸を入れるのではない。ぶつ〳〵と言ふやつを、椀に裝出して、猪口のしたぢで行る。何十年來馴れたもので、つゆ加減も至極だが、しかし、その小兒たちは、皆知らん顏をしてお魚で居る。勿論、そのお父さんも、二十時代には、右同斷だつたのは言ふまでもない。 紅葉先生も、はじめは「豆府と言文一致は大嫌だ。」と揚言なすつたものである。まだ我樂多文庫の發刊に成らない以前と思ふ……大學へ通はるゝのに、飯田町の下宿においでの頃、下宿の女房さんが豆府屋を、とうふ屋さんと呼び込む――小さな下宿でよく聞える――聲がすると、「媼さん、又豆府か。そいつを食はせると斬つ了ふぞ。」で、豫てこのみの長船の鞘を拂つて、階子段の上を踏鳴らしたと……御自分ではなさらなかつたが、當時のお友だちもよく話すし、おとしよりたちも然う言つて苦笑をされたものである。身體が弱くおなりに成つてからは、「湯豆府の事だ。……古人は偉い。いゝものを拵へて置いてくれたよ。」と、然うであつた。 あゝ、命日は十月三十日、……その十四五日前であつたと思ふ。……お二階の病床を、久しぶりで、下階の八疊の縁さきで、風冷かな秋晴に、湯どうふを召がりながら、「おい、そこいらに蓑蟲が居るだらう。……見な。」「はツ。」と言つた昨夜のお夜伽から續いて傍に居た、私は、いきなり、庭へ飛出したが、一寸廣い庭だし、樹もいろ〳〵ある。葉もまだ落ちない。形は何處か、影も見えない。豫て氣短なのは知つて居る。特に御病氣。何かのお慰に成らうものを、早く、と思ふが見當らない。蓑蟲戀しく途に迷つた。「其處に居る、……其の百日紅の左の枝だ。」上野の東照宮の石段から、不忍の池を遙に、大學の大時計の針が分明に見えた瞳である。かゝる時にも鋭かつた。 睫毛ばかりに附着いて、小さな枯葉をかぶりながら、あの蓑蟲は掛つて居た。そつとつまんで、葉をそのまゝ、ごそりと掌に据ゑて行くと、箸を片手に、おもやせたのが御覽なすつて、「ゆうべは夜中から、よく鳴いて居たよ――ちゝ、ちゝ――と……秋は寂しいな――よし。其方へやつときな。……殺すなよ。」小栗も傍から手をついて差覗いた。「はい、葉の上へ乘せて置きます。」輕く頷いて、先生が、「お前たち、銚子をかへな。」……ちゝ、ちゝ、はゝのなきあとに、ひとへにたのみ參らする、その先生の御壽命が。……玄關番から私には幼馴染と云つてもいゝ柿の木の下の飛石づたひに、うしろ向きに、袖はそのまゝ、蓑蟲の蓑の思がしたのであつた。 たゞし、その頃は、まだ湯豆府の味は分らなかつた。眞北には、此の湯豆府、たのしみ鍋、あをやぎなどと言ふ名物があり、名所がある。辰巳の方には、ばか鍋、蛤鍋などと言ふ逸物、一類があると聞く。が、一向に場所も方角も分らない。内證でその道の達者にたゞすと、曰く、鍋で一杯やるくらゐの餘裕があれば、土手を大門とやらへ引返す。第一歸りはしない、と言つた。格言ださうである。皆若かつた。いづれも二十代の事だから、湯どうふで腹はくちく成らぬ。餅の大切なだるま汁粉、それも一ぜん、おかはりなし。……然らざれば、かけ一杯で、蕎麥湯をだぶ〳〵とお代りをするのださうであつた。 洒落れた湯どうふにも可哀なのがある。私の知りあひに、御旅館とは表看板、實は安下宿に居るのがあるが、秋のながあめ、陽氣は惡し、いやな病氣が流行ると言ふのに、膳に小鰯の燒いたのや、生のまゝの豆府をつける。……そんな不料簡なのは冷やつことは言はせない、生の豆府だ。見てもふるへ上るのだが、食はずには居られない。ブリキの鐵瓶に入れて、ゴトリ〳〵と煮て、いや、うでて、そつと醤油でなしくづしに舐めると言ふ。――恁う成つては、湯豆府も慘憺たるものである。…… ……などと言ふ、私だつて、湯豆府を本式に味ひ得る意氣なのではない。一體、これには、きざみ葱、たうがらし、大根おろしと言ふ、前栽のつはものの立派な加勢が要るのだけれど、どれも生だから私はこまる。……その上、式の如く、だし昆布を鍋の底へ敷いたのでは、火を強くしても、何うも煮えがおそい。ともすると、ちよろ〳〵、ちよろ〳〵と草の清水が湧くやうだから、豆府を下へ、あたまから昆布を被せる。即ち、ぐら〳〵と煮えて、蝦夷の雪が板昆布をかぶつて踊を踊るやうな處を、ひよいと挾んで、はねを飛ばして、あつゝと慌てて、ふツと吹いて、するりと頬張る。人が見たらをかしからうし、お聞きになつても馬鹿々々しい。 が、身がつてではない。味はとにかく、ものの生ぬるいよりは此の方が増だ。 時々、婦人の雜誌の、お料理方を覗くと、然るべき研究もして、その道では、一端、慢らしいのの投書がある。たとへば、豚の肉を細くたゝいて、擂鉢であたつて、しやくしで掬つて、掌へのせて、だんごにまるめて、うどん粉をなすつてそれから捏ねて……あゝ、待つて下さい、もし〳〵……その手は洗つてありますか、爪はのびて居ませんか、爪のあかはありませんか、とひもじい腹でも言ひたく成る、のが澤山ある。 淺草の一女として、――内ぢやあ、うどんの玉をかつて、油揚と葱を刻んで、一所にぐら〳〵煮て、ふツ〳〵とふいて食べます、あつい處がいゝのです。――何を隱さう、私は此には岡惚をした。 いや、色氣どころか、ほんたうに北山だ。……湯どうふだ。が、家内の財布じりに當つて見て、安直な鯛があれば、……魴鮄でもいゝ、……希くは菽乳羮にしたい。 しぐれは、いまのまに歇んで、薄日がさす……楓の小枝に殘つた、五葉ばかり、もみぢのぬれ色は美しい。こぼれて散るのは惜い。手を伸ばせば、狹い庭で、すぐ屆く。 本箱をさがして、紫のおん姉君の、第七帖を出すのも仰々しからう。……炬燵を辷つてあるきさうな、膝栗毛の續、木曾街道の寢覺のあたりに、一寸はさんで。…… |
○ 運命は現象を支配する、丁度物体が影を支配するやうに。現象によつて暗示される運命の目論見は「死」だ。何となればあらゆる現象の窮極する所は死滅だからである。 我等の世界に於て物と物とは安定を得てゐない。而して安定を得るための道程にあつて物と物とは相剋してゐる。我等がヱネルギーと称するものはその結果として生じて来る。而してヱネルギーが働いてゐる間我等の間には生命が厳存する。然しながら安定を求めて安定の方に進みつゝある現象が遂に最後の安定に達し得た時には、ヱネルギーは存在するとしても働かなくなる。それは丁度一陣の風によつて惹起された水の上の波が、互に相剋しつゝ結局鏡のやうな波のない水面を造り出すに至るのと同様である。そこには石のやうに黙した水の塊的が凝然として澱んでゐるばかりだ。再びそれを動かす力は何所からも働いては来ない。生気は全くその水から絶たれてしまふ。 我等の世界の現象も遂にはこゝに落付いてしまふだらう。そこには「生」は形をひそめてたゞ一つの「大死」があるばかりだらう。その時運命の目論見は始めて成就されるのだ。 この已むを得ざる結論を我等は如何しても承認しなければならない。 ○ 我等「人」は運命のこの目論見を承認する。而かも我等の本能が――人間としての本能が我等に強要するものは死ではなくしてその反対の生である。 人生に矛盾は多い。それがある時は喜劇的であり、ある時は悲劇的である。而して我等が、歩いて行く到達点が死である事を知り抜きながら、なほ力は極めて生きるが上にも生きんとする矛盾ほど奇怪な恐ろしい矛盾はない。私はそれを人生の最も悲劇的な矛盾であると云はう。 ○ 我等は現在の瞬間々々に於て本統に生きるものだと云つてゐる。一瞬の未来は兎に角、一瞬の現在は少くとも生の領域だ。そこに我等の存在を意識してゐる以上、未来劫の後に来べき運命の所為を顧慮する要はない。さうある人々は云ふかも知れない。 然しこれは結局一種のごまかしで一種の観念論だ。 人間と云はず、生物が地上生活を始めるや否や、一として死に脅迫されないものはない。我等の間に醗酵した凡ての哲学は、それが信仰の形式を取るにせよ、観念の形式を取るにせよ、実証の形式を取るにせよ、凡て人の心が「死」に対して惹起した反応に過ぎない。 我等は我等が意識する以上に本能のどん底から死を恐れてゐるのだ。運命の我等を将て行かうとする所に、必死な尻ごみをしてゐるのだ。 ○ ある者は肉体の死滅を恐れる。ある者は事業の死滅を恐れる。ある者は個性の死滅を恐れる。而して食料を求め、医薬を求め、労役し、奔走し、憎み且つ愛する。 ○ 人間の生活とは畢竟水に溺れて一片の藁にすがらうとする空しいはかない努力ではないのか。 ○ 然し同時に我等は茲に不思議な一つの現象を人間生活の中に見出すだらう。それはより多くの死を恐れる人をより賢明な、より洞察の鋭い、より智慧の深い人の間に見出すと云ふ事だ。 これらの人は運命の目論見を常人よりよりよく理解し得る人だと云はなければならぬ。よりよく理解する以上は運命に対してより従順であらねばならぬ筈だ。そこには冷静なストイカルな諦めが湧いて来ねばならぬ筈だ。而して所謂常人が――諦めるだけの理解を有し得ない常人が、最も強く運命に力強い反抗を企てなければならぬ筈だ。生の絶対権を主張せねばならぬ筈だ。 然るに事実は全く反対の相を呈してゐる。我等の中優れたもの程――運命の企てを知り抜いてゐると思はれる癖に――死に打勝たんとする一念に熱中してゐるやうに見える。 ○ 「主よ、死の杯を我れより放ち給へ」といつた基督の言葉は凡ての優れた人々の魂の号叫を代表する。四苦を見て永生への道を思ひ立つた釈迦は凡ての思慮ある人々の心の発奮を表象する。運命の目論見に最も明らかなるべき彼等のこの態度を我等は痴人の閑葛藤として一笑に附し去る事が出来ないだらう。 ○ 死への諦めを教へずして生への精進を教へた彼等の心を我等は如何考へねばならぬのか。 ○ こゝまで来て我等は、仮相からもう一段深く潜り込んで見ねばならぬ。 私は死への諦めを教へずして生への精進と云つた。それは然し本統はさうではない。彼等の最後の宣告はその徹底した意味に於て死への諦めを教へたのではない、生への諦めを教へたのだ。生への精進を教へたのではない、死への精進を教へたのだ。さう私は云はねばならなかつたのだ。 何故だ。 ○ それを私の考へなりに云つて見よう、それはある人々には余りに明白な事であらうけれども。 |
一 不思議なる光景である。 白河はやがて、鳴きしきる蛙の声、――其の蛙の声もさあと響く――とゝもに、さあと鳴る、流の音に分るゝ如く、汽車は恰も雨の大川をあとにして、又一息、暗い陸奥へ沈む。……真夜中に、色沢のわるい、頬の痩せた詩人が一人、目ばかり輝かして熟と視る。 燈も夢を照らすやうな、朦朧とした、車室の床に、其の赤く立ち、颯と青く伏つて、湯気をふいて、ひら〳〵と燃えるのを凝然と視て居ると、何うも、停車場で銭で買つた饂飩を温め抱くのだとは思はれない。 どう〳〵と降る中を、がうと山に谺して行く。がらんとした、古びた萠黄の車室である。護摩壇に向つて、髯髪も蓬に、針の如く逆立ち、あばら骨白く、吐く息も黒煙の中に、夜叉羅刹を呼んで、逆法を修する呪詛の僧の挙動には似べくもない、が、我ながら銀の鍋で、ものを煮る、仙人の徒弟ぐらゐには感ずる。詩人も此では、鍛冶屋の職人に宛如だ。が、其の煮る、鋳る、錬りつゝあるは何であらう。没薬、丹、朱、香、玉、砂金の類ではない。蝦蟇の膏でもない。 と思ひつゝ、視つゝ、惑ひつゝ、恁くして錬るのは美人である。 衣絵さんだ! と思ふと、立つ泡が、雪を震はす白い膚の爛れるやうで。……園は、ぎよつとして、突伏すばかりに火尖を嘗めるが如く吹消した。 疲れたやうに、吻と呼吸して、 「あゝ、飛んでもない、……譬にも虚事にも、衣絵さんを地獄へ落さうとした。」 仮に、もし、此を煮る事、鋳る事、錬る事が、其の極度に到着した時の結晶体が、衣絵さんの姿に成るべき魔術であつても、火に掛けて煮爛らかして何とする! …… 鋳像家の技に、仏は銅を煮るであらう。彫刻師の鑿に、神は木を刻むであらう。が、人、女、あの華繊な、衣絵さんを、詩人の煩悩が煮るのである。 「大変な事をしたぞ。」 園は、今更ながら、瞬時と雖も、心の影が、其の熱に堪へないものゝ如く、不意のあやまちで、怪我をさした人に吃驚するやうに、銀の蓋を、ぱつと取つた。 取ると、……むら〳〵と一巻、渦を巻くやうに成つて、湯気が、鍋の中から、朦と立つ。立ちながら、すつと白い裳が真直に立靡いて、中ばでふくらみを持つて、筋が凹むやうに、二条に分れようとして、軟にまた合つて、颯と濃く成るのが、肩に見え、頸脚に見えた。背筋、腰、ふくら脛。…… 卯の花の色うつくしく、中肉で、中脊で、なよ〳〵として、ふつと浮くと、黒髪の音がさつと鳴つた。 「やあ、あの、もの恥をする人が、裸身なんぞ、こんな姿を、人に見せるわけはない。」 園は目を瞑つた。 矢張り見える。 「これは、不可ん。」 園は一人で頭を掉つた。 まだ消えない。 「第一、病中は、其の取乱した姿を見せるのを可厭がつて、見舞に行くのを断られた自分ではないか。――此は悪い。こんな処を。あゝ、済まない。」 園はもの狂はしいまで、慌しく外套を脱いだ。トタンに、其の衣絵さんの白い幻影を包むで隠さうとしたのである。が、疼々しい此の硬ばつた、雨と埃と日光をしたゝかに吸つた、功羅生へた鼠色の大な蝙蝠。 一寸でも触ると、其のまゝ、いきなり、白い肩を包むで、頬から衣絵さんの血を吸ひさうである、と思つたばかりでも、あゝ、滴々血が垂れる。……結綿の鹿の子のやうに、喀血する咽喉のやうに。 二 で、園は引掴んで、席をやゝ遠くまで、其の外套を彼方へ投げた。 投げた時、偶と渠は、鼓打である其の従弟が、業体と言ひ、温雅で上品な優しい男の、酒に酔払ふと、場所を選ばず、着て居る外套を脱いで、威勢よくぱつと投出す、帳場の車夫などは、おいでなすつた、と丁と心得て居るくらゐで……電車の中でも此を遣る。……下が黒羽二重の紋着と云ふ勤柄であるから、余計人目について、乗合は一時に哄と囃す。 「何でえ、持つてけ。」と、舞袴にぴたりと肱を張つて、とろりと一睨み睨むのがお定り…… と其を思出して、……独りで笑つた。 そんな、妙な間があつた。それだのに、媚めかしい湯気の形は、卯の花のやうに、微に揺れつゝ其のまゝであつた。 銀の鍋一つ包む、大くはないが、衣絵さんの手縫である、其の友染を、密と掛けた。頸から肩と思ふあたり、ビクツと手応がある、ふつと、柔く軽く、つゝんで抱込む胸へ、嫋さと気の重量が掛るのに、アツと思つて、腰をつく。席へ、薄い真綿が羽二重へ辷つたやうに、さゝ……と唯衣の音がして、膝を組むだ足のやうに、友染の端が、席をなぞへに、たらりと片褄に成つて落ちた。――気を失つた女が、我とゝもに倒れかゝつたやうである。 吃驚して、取つて、すつと上へ引くと、引かれた友染は、其のまゝ、仰向けに、襟の白さを蔽ひ余るやうに、がつくりと席に寝た。 ふわ〳〵と其処へ靡く、湯気の細い角の、横に漾ふ消際が、こんもりと優い鼻を残して、ぽつと浮いて、衣絵さんの眉、口、唇、白歯。……あゝあの時の、死顔が、まざ〳〵と、いま我が膝へ…… 白衣幽に、撫子と小菊の、藤紫地の裾模様の小袖を、亡体に掛けた、其のまゝの、……此の友染よ。唯其の時は、爪一つ指の尖も、人目には漏れないで、水底に眠つたやうに、面影ばかり澄切つて居たのに、――こゝでは、散乱れた、三ひら、五ひらの卯の花が、凄く動く汽車の底に、ちら〳〵ちらと揺れて、指の、震へるやうにさへ見らるゝ。世には、清らかな白歯を玉と云ふ、真珠と云ふ、貝と言ふ。……いま、ちらりと微笑むやうな、口元を漏るゝ歯は、白き卯の花の花片であつた。 「――膝枕をなさい。――衣絵さん。」 園は居坐を直した。が、沈んだ顔に、涙を流した。 あゝ、思出す。…… 「いくら私、堪へましてもね、冷い汗が流れるやうに、ひとりでに涙が出るんですもの。御病人の前で、此ぢやあ悪いと思ひますとね、尚ほ堪らなくなるんですよ。それだもんですからね。枕許の小さな黒棚に、一輪挿があつて、撫子が活かつて居ました。その花へ、顔を押つけるやうにして、ほろ〳〵溢れる目をごまかしましてね、「西洋のでございますか、いゝ匂ですこと。」なんのつて、然う言つて――あの、優い花ですから、葉にも、枝にも、此方の顔が隠れないで弱りましたよ――義兄さん。」 と衣絵さんのもう亡くなる前だつた――たしか、三度めであつたと思ふ……従弟の細君が見舞に行つた時の音信であつた。 予て、病気とは聴いて居た。――其の病気のために、衣絵さんが、若手、売出しの洋画家であつた、婿君と一所に、鎌倉へ出養生をして居たのは……あとで思へば、それも寂しい……行く春の頃から知つて居た。が、紫の藤より、菖蒲杜若より、鎌倉の町は、水は、其の人の出入、起居にも、ゆかりの色が添ふであらう、と床しがるのみで、まるで以て、然したる容体とは思ひもつかないで居たのに。秋の野分しば〳〵して、睡られぬ長き夜の、且つ朝寒く――インキの香の、じつと身に沁む新聞に――名門のお嬢さん、洋画家の夫人なれば――衣絵さんの(もう其の時は帰京して居た)重態が、玉の簾を吹ちぎり、金屏風を倒すばかり、嵐の如く世に響いた。 同じ日の夜に入つて、婿君から、先むじて親書が来て、――病床に臥してより、衣絵はどなたにもお目に掛る事を恥かしがり申候、女気を、あはれ、御諒察あつて、お見舞の儀はお見合はせ下されたく、差繰つて申すやうながら、唯今にもお出で下さる事を当人よく存じ、特に貴兄に対しては……と此の趣であつた。 髪一条、身躾を忘れない人の、此は至極した事である。 婿君のふみながら、衣絵さんの心を伝へた巻紙を、繰戻すさへ、さら〳〵と、緑なす黒髪の枕に乱るゝ音を感じて、取る手の冷いまで血を寒くしながらも、園は、謹で其の意を体したのである。 折から、従弟は当流の一派とゝもに、九州地を巡業中で留守だつた。細君が、園と双方を兼ねて見舞つた。其の三度めの時の事なので。――勿論、田端から帰りがけに、直ぐに園の家に立寄つたのであるが。 「ね――義兄さん、……お可哀相は、最う疾くのむかし通越して、あんな綺麗な方が最うおなくなんなさるかと思ふと、真個に可惜ものでならないんですもの。――日当は好んですけれど、六畳のね、水晶のやうなお部屋に、羽二重の小掻巻を掛けて、消えさうにお寝つてゝ、お色なんぞ、雪とも、玉とも、そりや透通るやうですよ。東枕の白い切に、ほぐしたお髪の真黒なのが濡れたやうにこぼれて居て、向ふの西向の壁に、衣桁が立てゝあります。それに、目の覚めるやうな友染縮緬が、端ものを解いたなりで、一種掛つて居たんです。――義兄さんの歌の本をお読みなさるのと、うつくしい友染を掛物のやうに取換へて、衣桁に掛けて、寝ながら御覧なさるのが何より楽なんですつて。――あの方の魂の行らつしやる処も、それで知れます。……紫の雲の靉靆く空ぢやあなくつて、友染の霞が来て、白いお身体を包むのでせうね――あゝ、それにね。……義兄さんがお心づくしの丸薬ですわね。……私が最初お見舞に行つた時、ことづかつて参りました……あの薬を、お婿さんの手から、葡萄酒の小さな硝子盃で飲るんだつて、――えゝ、先刻…… |
一 私が釧路の新聞へ行つたのは、恰度一月下旬の事、寒さの一番酷しい時で、華氏寒暖計が毎朝零下二十度から三十度までの間を昇降して居た。停車場から宿屋まで、僅か一町足らずの間に、夜風の冷に頤を埋めた首巻が、呼気の湿気で真白に凍つた。翌朝目を覚ました時は、雨戸の隙を潜つて空寒く障子を染めた暁の光の中に、石油だけは流石に凍らぬと見えて、心を細めて置いた吊洋燈が昨夜の儘に薄りと点つて居たが、茶を注いで飲まずに置いた茶碗が二つに割れて、中高に盛り上つた黄色の氷が傍に転げ出して居た。火鉢に火が入つて、少しは室の暖まるまでと、身体を縮めて床の中で待つて居たが、寒国の人は総じて朝寝をする、漸々女中の入つて来たのは、ものの一時間半も経つてからで、起きて顔を洗ひに行かうと、何気なしに取上げた銀鍍金の石鹸函は指に氷着く、廊下の舗板が足を移す毎にキシ〳〵と鳴く、熱過ぎる程の湯は、顔を洗つて了ふまでに夏の川水位に冷えた。 雪は五寸許りしか無かつたが、晴天続きの、塵一片浮ばぬ透明の空から、色なき風がヒユウと吹いて、吸ふ息毎に鼻の穴が塞る。冷たい日光が雪に照返つて、家々の窓硝子を、寒さに慄えた様にギラつかせて居た。大地は底深く凍つて了つて、歩くと鋼鉄の板を踏む様な、下駄の音が、頭まで響く。街路は鏡の如く滑かで、少し油断をすると右に左に辷る、大事をとつて、足に力を入れると一層辷る。男も、女も、路行く人は皆、身分不相応に見える程、厚い、立派な防寒外套を着けて、軽々と刻み足に急いで居た。荷馬橇の馬は、狭霧の様な呼気を被つて氷の玉を聯ねた鬣を、寒い光に波打たせながら、風に鳴る鞭を喰つて勢ひよく駈けて居た。 二三日して、私は、洲崎町の或下宿へ移つた。去年の春までは、土地で少しは幅を利かした、さる医師の住つて居た家とかで、室も左程に悪くは無し、年に似合はず血色のよい、布袋の様に肥満つた、モウ五十近い気丈の主婦も、外見によらぬ親切者、女中は小さいのを合せて三人居た。私が移つた晩の事、身体の馬鹿に大きい、二十四五の、主婦にも劣らず肥満つた、小い眼と小い鼻を掩ひ隠す程頬骨が突出て居て、額の極めて狭い、気の毒を通越して滑稽に見える程不恰好な女中が来て、一時間許りも不問語をした。夫に死なれてから、一人世帯を持つて居て、釧路は裁縫料の高い所であれば、毎月若干宛の貯蓄もして居たのを、此家の主婦が人手が足らぬといふので、強ての頼みを拒み難く、手伝に来てからモウ彼是半年になると云つた様な話で、「普通の女中ぢや無い。」といふ事を、私に呑込ませようとしたらしい。後で解つたが、名はお芳と云つて、稼ぐ時は馬鹿に稼ぐ、怠ける時は幾何主婦に怒鳴られても平気で怠ける、といふ、随分な気紛れ者であつた。 取分けて此下宿の、私に気に入つたのは、社に近い事であつた。相応の賑ひを見せて居る真砂町の大逵とは、恰度背中合せになつた埋立地の、両側空地の多い街路を僅か一町半許りで社に行かれる。 社は、支庁坂から真砂町を突切つて、海岸へ出る街路の、トある四角に立つて居て、小いながらも、ツイ此頃落成式を挙げた許りの、新築の煉瓦造、(これが此社に長く居る人達の、北海道に類が無いと云ふ唯一つの誇りであつた。)澄み切つた冬の空に、燃える様な新しい煉瓦の色の、廓然と正しい輪廓を描いてるのは、何様木造の多い此町では、多少の威厳を保つて見えた。主筆から見せられた、落成式の報告みたいなものの中に、「天地一白の間に紅梅一朶の美観を現出したるものは即ち我が新築の社屋なり。」と云ふ句があつて、私が思はず微笑したのを、今でも記憶えて居る。玄関から上ると、右と左が事務室に宿直室、奥が印刷工場で、事務室の中の階段を登れば、二階は応接室と編輯局の二室。 編輯局には、室の広さに釣合のとれぬ程大きい暖炉があつて、私は毎日此暖炉の勢ひよく燃える音を聞き乍ら、筆を動かしたり、鋏と糊を使ふ。外勤の記者が、唇を紫にして顫へ乍ら帰つて来ると、腰を掛ける前に先づ五本も六本も薪を入れるので、一日に二度か三度は、必ず暖炉が赤くなつて、私共の額には汗が滲み出した。が、夕方になつて宿に帰ると、何一つ室を賑かにして見せる装飾が無いので、割合に広く見える。二階の八畳間に、火鉢が唯一個、幾何炭をつぎ加して、青い焔の舌を断間なく吐く程火をおこしても、寒さが背から覆被さる様で、襟元は絶えず氷の様な手で撫でられる様な気持がした。字を五つ六つ書くと、筆の尖がモウ堅くなる。インキ瓶を火鉢に縁に載せて、瓶の口から水蒸気が立つ位にして置いても、ペンに含んだインキが半分もなくならぬうちに凍つて了ふ、葉書一枚書くにも、それは〳〵億劫なものであつた。初めての土地で、友人と云つては一人も無し、恁う寒くては書を読む気も出ぬもので、私は毎晩、唯モウ手の甲をひつくり返しおつくり返し火に焙つて、火鉢に抱付く様にして過した。一週間許り経つて、私は漸々少し寒さに慣れて来た。 二月の十日頃から、怎やら寒さが少しづつ緩み出した。寒さが緩み出すと共に、何処から来たか知らぬが、港内には流氷が一杯集つて来て、時々雪が降つた。私が来てから初めての記者月例会の開かれたのも、恰度一尺程も雪の積つた、或土曜日の夕であつた。 二 釧路は、人口と云へば僅か一万五千足らずの、漸々発達しかけた許りの小都会だのに、怎したものか新聞が二種出て居た。 私の居たのは、「釧路日報」と云つて、土地で人望の高い大川道会議員の機関であつた。最初は紙面が半紙二枚程しかないのを、日曜々々に出して居たのださうだが、町の発達につれて、七年の間に三度四度拡張した結果、私が行く一週間許り前に、新築社屋の落成式と共に普通の四頁新聞になつた。無論これまでに漕ぎつけたのは、種々な関係が結びつけた秘密の後援者があるからで、新聞独自の力では無いが、社の経済も案外巧く整理されて居て、大川社長の人望と共に、「釧路日報」の信用も亦、町民の間に余程深く植ゑつけられて居た。編輯局には、主筆から校正までで唯五人。 モ一つは「釧路毎日新聞」と云つて、出来てから漸々半年位にしかならず、社も裏長屋みたいな所で、給料の支払が何日でも翌月になるとか云ふ噂、職工共の紛擾が珍しくなく、普通の四頁の新聞だけれど、広告が少くて第四面に空所が多く、活字が足らなくて仮名許り沢山使ふから、見るから醜い新聞であつた。それでも記者は矢張五人居た。 月例会と云ふのは、此両新聞の記者に、札幌、小樽、旭川などの新聞の支社に来て居る人達を合せて、都合十三四人の人が、毎月一度宛集るといふので、此月のは、私が来てから初めての会ではあり、入社の挨拶を新聞に載せただけで、何処へも改めては顔を出さずに居たから、知らぬ顔の中へ行くんだと云つた様な気が、私の頭脳を多少他所行の心持にした。午後四時からと云ふ月番幹事の通知だつたので、三時半には私が最後の原稿を下した。 『今日は鹿島屋だから、市子のお酌で飲める訳だね。』 と云つて、主筆は椅子を暖炉に向ける。 『然し芸妓も月例会に出た時は、大変大人しくして居ますね。』 と八戸君が応じた。 『その筈さ、人の悪い奴許り集るんだもの。』 と笑つて、主筆は立上つた。『芸者に記者だから、親類同志なんだがね。』 『成程、何方も洒々としてますな。』 と、私も笑ひながら立つた。皆が硯箱に蓋をしたり、袴の紐を締直したり、莨を啣へて外套を着たりしたが、三面の外交をして居る小松君が、突然、 『今度また「毎日」に一人入つたさうですね。』と言つた。 『然うかね、何といふ男だらう?』 『菊池ツて云ふさうです。何でも、釧路に居る記者の中では一番年長者だらうツて話でしたよ。』 『菊池兼治と謂ふ奴ぢやないか?』と主筆が喙を容れた。 『兼治? 然うです〳〵、何だか武士の様な名だと思ひました。』 『ぢや何だ、真黒な腮髭を生やした男で、放浪者みたいな?』 『然うですか、私は未だ逢はないんですが。』 『那麽男なら、何人先方で入れても安心だよ。何日だツたか、其菊池が、記者なり小使なりに使つて呉れツて、俺の所へ来た事があるんだ。可哀相だから入れようと思つたがね、』と、入口の方へ歩き出した。『前に来た時と後に来た時と、辻褄が合はん事を云つたから、之は怪しいと思つて断つたさ。』 私は、然し、主筆が常に自己と利害の反する側の人を、好く云はぬ事を知つて居た。「先方が六人で、此方よりは一人増えたな。」と云つた風な事を考へて玄関を出たが、 『君。二面だらうか、三面だらうか?』 と、歩きながら小松君に問ひかけた時は、小松君は既に別の事を考へて居た。 『何がです?』 『菊池がさ。』 『さあ何方ですか。桜井の話だと、今日から出社する様に云つてましたがね。』 私共が、ドヤ〳〵と鹿島屋の奥座敷に繰込んだ時は、既七人許り集つて居た。一人二人を除いては、初対面の人許りなので、私は暫時の間名刺の交換に急がしかつたが、それも一しきり済んで、莨に火をつけると、直ぐ、真黒な腮鬚の男は未だ来て居ないと気がついた。人々はよく私にも話しかけて呉れた。一座の中でも、背の低い、色の黒い、有るか無きかの髯を生やした、洋服扮装の醜男が、四方八方に愛嬌を振舞いては、軽い駄洒落を云つて、顔に似合はぬ優しい声でキヤツ〳〵と笑ふ。 十分許り経つて、「毎日」の西山社長と、私より一月程前に東京から来たといふ日下部編輯長とが入つて来た。日下部君は、五尺八寸もあらうかといふ、ガツシリした大男で、非常な大酒家だと聞いて居たが、如何様眼は少しドンヨリと曇つて、服装は飾気なしの、新らしくも無い木綿の紋付を着て居た。 西山社長は、主筆を兼ねて居るといふ事であつた。七子の羽織に仙台平のリウとした袴、太い丸打の真白な紐を胸高に結んだ態は、何処かの壮士芝居で見た悪党弁護士を思出させた。三十五六の、面皰だらけな細顔で、髯が無く、銀縁の近眼鏡をかけて居たが、眼鏡越に時々狐疑深い様な目付をする。 『徐々始めようぢやありませんか、大抵揃ひましたから。』 と、月番幹事の志田君(先程から愛嬌を振舞つてゐた、色の黒い男)が云ひ出した。 軈て膳部が運ばれた。「入交になつた方が可からう。」と云ふ、私の方の主筆の発議で、人々は一時ドヤドヤと立つたが、 『男振の好い人の中に入ると、私の顔が一層悪く見えて不可けれども。』 と、笑ひながら、志田君は私と西山社長との間に座つた。 酒となると談話が急に燥ぐ、其処にも此処にも笑声が起つた、五人の芸妓の十の袂が、銚子と共に急がしく動いて、艶いた白粉の香が、四角に立てた膝をくづさせる。点けた許りの明るい吊洋燈の周匝には、莨の煙が薄く渦を巻いて居た。 親善を厚うするとか、相互の利害を議するとか、連絡を図るとか、趣意は頗る立派であつたけれど、月例会は要するに、飲んで、食つて、騒ぐ会なので、主筆の所謂人の悪い奴許りだから、随分と方々に円滑な皮肉が交換されて、其度にさも面白相な笑声が起る。意外事を素破抜かれた芸妓が、対手が新聞記者だけに、弱つて了つて、援助を朋輩に求めてるのもあれば、反対に芸妓から素破抜かれて頭を掻く人もある。五人の芸者の中、其処からも此処からも名を呼び立てられるのは、時々編輯局でも噂を聞く市子と謂ふので、先刻膳を運ぶ時、目八分に捧げて、真先に入つて来て、座敷の中央へ突立つた儘、「マア怎うしよう、私は。」と、仰山に驚いた姿態を作つた妓であつた。それは、私共が皆一団になつて、障子際に火鉢を囲んで居たから、御膳の据場所が無かつたからで。十六といふ齢には少し老せて居るが、限りなき愛嬌を顔一杯に漲らして、態とらしからぬ身振が人の気を引いた。 志田君は、盃を下にも置かず、相不変愛嬌を振舞いて居たが、お酌に廻つて来た市子を捉へて私の前に座らせ、両手の盃を一つ私に献して、 『市ちやん、此方は今度「日報」へお出になつた橘さんといふ方だ、お年は若し、情は深し、トまでは知らないが、豪い方だからお近付になつて置け。他日になつて悪い事は無いぞ。』 |
一 若いのと、少し年の上なると…… 此の二人の婦人は、民也のためには宿世からの縁と見える。ふとした時、思ひも懸けない處へ、夢のやうに姿を露はす―― こゝで、夢のやうに、と云ふものの、實際は其が夢だつた事もないではない。けれども、夢の方は、又……と思ふだけで、取り留めもなく、すぐに陽炎の亂るゝ如く、記憶の裡から亂れて行く。 しかし目前、歴然と其の二人を見たのは、何時に成つても忘れぬ。峰を視めて、山の端に彳んだ時もあり、岸づたひに川船に乘つて船頭もなしに流れて行くのを見たり、揃つて、すつと拔けて、二人が床の間の柱から出て來た事もある。 民也は九ツ……十歳ばかりの時に、はじめて知つて、三十を越すまでに、四度か五度は確に逢つた。 これだと、隨分中絶えして、久しいやうではあるけれども、自分には、然までたまさかのやうには思へぬ。人は我が身體の一部分を、何年にも見ないで濟ます場合が多いから……姿見に向はなければ、顏にも逢はないと同一かも知れぬ。 で、見なくつても、逢はないでも、忘れもせねば思出すまでもなく、何時も身に着いて居ると同樣に、二個、二人の姿も亦、十年見なからうが、逢はなからうが、そんなに間を隔てたとは考へない。 が、つい近くは、近く、一昔前は矢張り前、道理に於て年を隔てない筈はないから、十から三十までとしても、其の間は言はずとも二十年經つのに、最初逢つた時から幾歳を經ても、婦人二人は何時も違はぬ、顏容に年を取らず、些とも變らず、同一である。 水になり、空になり、面影は宿つても、虹のやうに、すつと映つて、忽ち消えて行く姿であるから、確と取留めた事はないが――何時でも二人連の――其の一人は、年紀の頃、どんな場合にも二十四五の上へは出ない……一人は十八九で、此の少い方は、ふつくりして、引緊つた肉づきの可い、中背で、……年上の方は、すらりとして、細いほど瘠せて居る。 其の背の高いのは、極めて、品の可い艷やかな圓髷で顯れる。少いのは時々に髮が違ふ、銀杏返しの時もあつた、高島田の時もあつた、三輪と云ふのに結つても居た。 其のかはり、衣服は年上の方が、紋着だつたり、お召だつたり、時にはしどけない伊達卷の寢着姿と變るのに、若いのは、屹と縞ものに定つて、帶をきちんと〆めて居る。 二人とも色が白い。 が、少い方は、ほんのりして、もう一人のは沈んで見える。 其の人柄、風采、姊妹ともつかず、主從でもなし、親しい中の友達とも見えず、從姊妹でもないらしい。 と思ふばかりで、何故と云ふ次第は民也にも説明は出來ぬと云ふ。――何にしろ、遁れられない間と見えた。孰方か乳母の兒で、乳姊妹。其とも嫂と弟嫁か、敵同士か、いづれ二重の幻影である。 時に、民也が、はじめて其の姿を見たのは、揃つて二階からすら〳〵と降りる所。 で、彼が九ツか十の年、其の日は、小學校の友達と二人で見た。 霰の降つた夜更の事―― 二 山國の山を、町へ掛けて、戸外の夜の色は、部室の裡からよく知れる。雲は暗からう……水はもの凄く白からう……空の所々に颯と藥研のやうなひゞが入つて、霰は其の中から、銀河の珠を碎くが如く迸る。 ハタと止めば、其の空の破れた處へ、むら〳〵と又一重冷い雲が累りかゝつて、薄墨色に縫合はせる、と風さへ、そよとのもの音も、蜜蝋を以て固く封じた如く、乾坤寂と成る。…… 建着の惡い戸、障子、雨戸も、カタリとも響かず。鼬が覘くやうな、鼠が匍匐つたやうな、切つて填めた菱の實が、ト、べつかつこをして、ぺろりと黒い舌を吐くやうな、いや、念の入つた、雜多な隙間、破れ穴が、寒さにきり〳〵と齒を噛んで、呼吸を詰めて、うむと堪へて凍着くが、古家の煤にむせると、時々遣切れなく成つて、潛めた嚔、ハツと噴出しさうで不氣味な眞夜中。 板戸一つが直ぐ町の、店の八疊、古疊の眞中に机を置いて對向ひに、洋燈に額を突合はせた、友達と二人で、其の國の地誌略と云ふ、學校の教科書を讀んで居た。――其頃、風をなして行はれた試驗間際に徹夜の勉強、終夜と稱へて、氣の合つた同志が夜あかしに演習をする、なまけものの節季仕事と云ふのである。 一枚……二枚、と兩方で、ペエジを遣つ、取つして、眠氣ざましに聲を出して讀んで居たが、恁う夜が更けて、可恐しく陰氣に閉されると、低い聲さへ、びり〳〵と氷を削るやうに唇へきしんで響いた。 常さんと云ふお友達が、讀み掛けたのを、フツと留めて、 「民さん。」 と呼ぶ、……本を讀んでたとは、からりと調子が變つて、引入れられさうに滅入つて聞えた。 「……何、」 ト、一つ一つ、自分の睫が、紙の上へばら〳〵と溢れた、本の、片假名まじりに落葉する、山だの、谷だのを其まゝの字を、熟と相手に讀ませて、傍目も觸らず視て居たのが。 呼ばれて目を上げると、笠は破れて、紙を被せた、黄色に燻つたほやの上へ、眉の優しい額を見せた、頬のあたりが、ぽつと白く、朧夜に落ちた目かづらと云ふ顏色。 「寂しいねえ。」 「あゝ……」 「何時だねえ。」 「先刻二時うつたよ。眠く成つたの?」 對手は忽ち元氣づいた聲を出して、 「何、眠いもんか……だけどもねえ、今時分になると寂しいねえ。」 「其處に皆寢て居るもの……」 と云つた――大きな戸棚、と云つても先祖代々、刻み着けて何時が代にも動かした事のない、……其の横の襖一重の納戸の内には、民也の父と祖母とが寢て居た。 母は世を早うしたのである…… 「常さんの許よりか寂しくはない。」 「何うして?」 「だつて、君の内はお邸だから、廣い座敷を二つも三つも通らないと、母さんや何か寢て居る部屋へ行けないんだもの。此の間、君の許で、徹夜をした時は、僕は、そりや、寂しかつた……」 「でもね、僕ン許は二階がないから……」 「二階が寂しい?」 と民也は眞黒な天井を。…… 常さんの目も、齊しく仰いで、冷く光つた。 |
エネルギーの原理 皆さんは物理学の上でエネルギー恒存の原理というもののあることを知って居られるでしょう。これはすべての物質現象に通じて成り立つ根本的な原理で、今ではこの原理に背くような事がらは全くないと考えられているのですが、このような大切な原理がどうして見つけ出されて来たかということは、科学の上で実に意味ぶかいことであると云わなくてはなりません。 もちろんエネルギーの原理が見つけ出されるまでには、いろいろな段階のあったことは確かであります。すべて科学の発達はある順序を踏んで、その一歩々々を進めてゆかなくてはならないのですが、根本的な原理になると一層そうであることがこのエネルギーの原理などにおいても知られるわけであります。エネルギーが恒存するということは、まず物体の運動に関して最初に知られたのでした。地球上の空間で物体が運動する場合を考えて見ますと、普通に物体が高い処から落ちるようなときには、落ちるに従って速さが増し、それに伴なって運動のエネルギーが増すのです。ところが一方では物体は下の方へ動いてゆくのですから、高さに応じてもっている位置のエネルギーがだんだん減るのです。そして実際にこれ等を計算して見ますと、運動のエネルギーの増加しただけ位置のエネルギーは減じているので、両者を合わせたものはいつも同じになっていることがわかります。つまりこの事は運動の現象の範囲でのエネルギーの恒存を意味しているのです。 これだけの事がらは、ニュートンの力学が発達した十八世紀の時代に既にわかっていたのでしたが、運動以外のいろいろな現象を考えに入れると、事がらがなかなか複雑になって来るので、それは容易にわからなかったのでした。殊にむずかしかったのは、熱が何であるかということでした。この前にラヴォアジエの伝記を述べたときに、熱をおこすところの火についてまちがったフロジストン説が長い間行われていたことをお話ししましたが、火と同じように熱もまた何かしらある物質であると考えられていたのでした。そしてそれをカロリック(熱素)と称えていました。ところがこの説に疑いをもって、熱の本体をつきとめようとした学者もだんだんに出て来たので、そのうちでも正しい考えかたをなし始めたのがルンフォード伯という人であります。 ルンフォード伯の本名はペンジャミン・トンプソンというので、アメリカのボストン市に近いノース・オバーンという処で生まれましたが、壮年の頃に独立戦争が起った折に、独立に反対したという嫌疑を受けて捕えられたのを、うまく抜け出してイギリスに逃がれ、その後科学の研究を始めて、王立協会の会員にもなりました。それからドイツへ赴いて、バイエルンの国王に仕え、非常に重く用いられて、陸軍大臣にもなり、そこでルンフォード伯の爵位をも授かったのでした。晩年には再びイギリスに戻り、科学普及のための王立研究所を立てるのに骨折ったりしましたが、その後フランスへ行き、そこで生涯を終えたのでした。 ところで、このルンフオード伯がバイエルンの首都ミュンヘンで軍事に関する仕事をしていた際に、大砲をつくる工場で砲身に孔を開けると非常にたくさんの熱が出るのに注目し、金属がはげしく摩擦されると、そこに熱が現れるのだと考えて、今度は鉄を数時間も水のなかではげしく摩擦させて、それで遂に水を沸騰させることに成功しました。火を少しも使わないのにこんなにたくさんの水が沸騰したのには、見ている人たちがみな驚いたということです。そこで彼は熱が機械的の仕事によって生ずるということを確信し、これまでのカロリツク説を否定したのでした。 ルンフオード伯のこの考えは一七九八年にイギリスで発表されましたが、熱素説を信ずる人々は強くそれに反対しました。しかしだんだんに学者の間にそれが広まり、またハンフリー・デヴィーなども氷を互いに擦り合わせると、融けて水になることを実験で確めてこの説に賛成しました。この実験は空気を抜いたガラスの器のなかで行ったのでしたが、最初には氷点下二度というつめたい氷が、摩擦して融けると氷点よりも二度以上も高い温度になってしまいました。 このようにして摩擦によって熱のおこることが実験で確かめられるようになったのですが、それでもやはり一般の人々は熱に対するカロリック説に執着して、それを捨てきれなかったのですから、一度信じこんだ考えはなかなかとり去ることのできないものだということが、これでもよくわかるでしょう。それでこの考えが全く破られるまでには、それからなお半世紀を経なければならなかったのでした。 年月が経って一八四〇年頃になりました。そのときドイツにロバート・マイヤーという医者がありました。この人は医学を修めてから、東洋通いの船の船医に就職したので、諸処を航海してジヤヴァに赴きましたところが、それは熱帯の暑い地方なので、船員の病気にかかるものが多く、その診察に忙しく立ちはたらいているうちに、ふと奇妙な事がらを観察したのでした。それはつまり静脈の血液が普通よりもよほど赤みを帯びていて、まるで動脈のように見えるということでした。そういうことは温帯から熱帯に旅行をする人々にはよく見受けられるので、それまでは医者にしても別に怪しみもせずに見のがしていたのでした。がマイヤーはなぜそういうことが起るのかを不審に思って、それを立入って考えてみたのでした。つまり動脈の血の赤いのが、酸素をたくさんに含んでいて、酸化作用のはげしいのに依るのだとするなら、これが熱帯地方の温度の高い処でさかんに起るので、静脈までも赤い色を帯びるようになるのだと思われるのでした。それで酸化作用と熱との間にある関係がなくてはならないということになりますが、酸化作用でなくとも、手足を擦ると暖まるということから見れば、摩擦もやはり酸化作用と同じように熱をおこすことができるのであり、また摩擦でなくとも、何かしら機械的な仕事でも同じになる筈だと推論して、そこで今度はそれとは反対に、ある器に入れてある気体を、圧力にさからって膨脹させてみると、気体が機械的な仕事をしただけ、熱を失って温度が下るにちがいないと考えました。 マイヤーのこのような考え方は、いずれも正しいのでありましたが、ともかくこれは熱と仕事とが外見上はちがっていても、実は同じものが形を変えて現れたのであるということを示した最初のものであります。後にそれが一般にエネルギーという名であらわされるようになったので、ここにエネルギーの原理の最初の言いあらわしが成り立ったのでした。ところがマイヤーがこれ等の考えを記した論文をドイツに帰ってからその頃の有名な学術雑誌に発表しようとしましたら、この雑誌では掲載を断ってしまったので、止むを得ず他の雑誌に載せてもらいました。それでも一向に注意されずに過ぎてしまったというのですから、学問上の仕事にしても、やはり時勢を待つより外はないと云わなくてはなりません。しかしマイヤーはどこまでも自分の説を確信し、その考えを熱ばかりでなく電気やその他の自然のはたらきにまでもひろげようとしたのでした。 マイヤーがこのような研究を行っていたのと同じ頃に、イギリスにはジュールという学者があって、やはり熱と仕事との関係を実験的に測ろうとしました。ジュールはマイヤーの研究についてはまるで知らなかったのですが、ルンフォード伯やデーヴィーの実験を知っていたので、それを数量的に確かめようとしたのでした。最初に実験を行ったのは同じく一八四〇年のことで、電気を通した針金のなかに起る熱を測って、今日普通にジュールの法則と呼ばれている関係を見つけ出し、その後水を機械的にかきまわして、機械のする仕事と、それによって水の温度を高める熱の量との関係を精密に測りました。そしてこの結果から、いつも一定の仕事によって一定の熱の量が起されることを確かめました。 これだけの準備がととのった上で、その次にドイツのヘルムホルツによってエネルギー恒存の原理が立てられることとなったので、それについては次にお話ししますが、科学の上の根本的な原理が見つかるまでには、いろいろな段階を踏み上らなくてはならないことが、これでよくわかるでしょう。 ヘルムホルツの生涯 ヘルマン・フォン・ヘルムホルツは一八二一年にドイツのポッツダムに生まれました。父はギムナジウムという中等学校の教師でありましたが、母方にはイギリスやフランスの血統を受け継いでいたということです。幼い頃は病身で弱かったので、自分の部屋に起居する日が多く、ひとりで積み木遊びなどをしているうちに、幾何学の知識を自然に覚えこんでしまったということです。ところが彼は子どもながらにも、幾何学だけでは満足しなかったので、眼を自然のいろいろな事がらに向けて、そこに大きな興味をもちました。そして父の書斎から物理学の書物を見つけ出して来ては、それを熱心に読んだのでした。しかし父は哲学や言語学に興味をもっていたので、息子をもその方に向わせようとしましたが、これはうまくゆかなかったのでした。その頃のドイツではまだ自然科学はさほど重んぜられてもいなかったので、この父の考えも当然のようでもあったのですが、息子が科学を好むとなれば無理に他に向わせるわけにもゆかないのでした。それにしても科学を勉強するには十分な学資を必要としたので、他に四人も子供をもっていた父親にはそれだけの余裕もなく困っていました。ところが陸軍の軍医を志願すると学資を給してもらうことができるので、それならばと云うので軍医になることに方針を定めました。医学も科学の一部にはちがいないのですから、それを通じて他の科学の勉強もできるであろうと思ったのです。幸いにその頃の医学には物理学を利用して新しい研究を進めようという気運が向いていたので、これが元来好きな物理学にも携わる契機ともなったのでした。 一八四二年に学校を卒業して、翌年軍医となり、生理学の研究をも同時に行っていたのでしたが、その際に生物体内の熱に関していろいろ考えをめぐらすうちに、遂に数年経ってエネルギー恒存の原理に達したのです。そしてこれを一八四七年の七月にベルリンの物理学会で発表しましたが、その際にはさほどの注意を惹かずにすんでしまい、これを学術雑誌に載せようとしたら、以前にマイヤーの論文の掲載を許さなかったのと同じように、やはり断られてしまいました。そこで別に冊子としてこれを出版したところが、ある人たちからはマイヤーの論文の焼きなおしだと云って攻撃されました。しかし実際にヘルムホルツはマイヤーの研究をまるで知らなかったので、それで始めてマイヤーの仕事を知って、自分よりも一歩先んじていたのを認めたということです。それにしてもヘルムホルツは一層完全にエネルギーの原理を確立したので、その点ではヘルムホルツの大きな功績を認めなくてはならないのでしょう。 ヘルムホルツがこの原理を考え出したのには、おもしろい挿話があるのです。これは彼が自分で物語っていることなのですが、その頃の医学などもまだ本当に科学的ではなかったので、ある人たちなどは昔から言い伝えられた霊魂説を信じてもいたのでした。ところが霊魂が人間に宿って生命を得るという考え方ははなはだ非科学的だとヘルムホルツは感じたのでした。なぜと云えば、これは一種の永久機関であるからだと言うのです。永久機関と云うのは自分だけの働きでいつまでも動くものを云うので、例えば時計の針が動くときに、その動きをうまく利用してゼンマイを巻くようにすれば、時計はいつまでも動いていることができるというわけになりますが、そういう事は不可能であるとされているのです。霊魂にしても、それと同じで、これが人間に宿れば、それが生きて働き、また他の人間に移れば、それが生命を得るというのは、つまり一種の永久機関で、これは科学の原理に反すると云うのです。生命のことはまず措くとしても、ともかく永久機関が実現し得ないと云うことから、理路をたどって、エネルギー恒存の原理に到達したので、これははなはだおもしろい考えかたであったのにちがいありません。しかもそれが今では物理学上の最も根本的な原理として認められているのですから、すばらしいではありませんか。 エネルギー原理がだんだんに一般に認められるようになると共に、ヘルムホルツの名声は非常に高まりました。その研究も漸次に進んで来て、その科学上の仕事はまことにすばらしいものになりました。元来が医学を修めた人でありますから、医学や生理学の上の研究もたくさんにあり、次には眼や耳のはたらきを明らかにするには光や音の性質を究めなくてはならないと云うので、そういう物理的の研究に進み、今度はその理論をつくるのに数学が必要であるというので、数学の上でもたくさんの研究を果しました。ですから、その研究の範囲の広いことは、恐らく科学者として他に比べられるものはない程でありますし、その上に生理学者としても、物理学者としても、また数学者としても、当時の第一流として見做されるようになったのですから、なんと驚くべきではありますまいか。これほどの天才はまずその例を他に見ないと云ってよいでしょう。ここではその研究の内容に立入ってお話しするわけにゆきませんが、誰しも科学を学ぶにつけて彼の仕事の大きいことを、ひたすら感じないわけにはゆきません。 |
一 海上 愈東京を発つと云う日に、長野草風氏が話しに来た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算だそうである。その時長野氏は深切にも船酔いの妙薬を教えてくれた。が、門司から船に乗れば、二昼夜経つか経たない内に、すぐもう上海へ着いてしまう。高が二昼夜ばかりの航海に、船酔いの薬なぞを携帯するようじゃ、長野氏の臆病も知るべしである。――こう思った私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも、雨風に浪立った港内を見ながら、再びわが長野草風画伯の海に怯なる事を気の毒に思った。 処が故人を軽蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。同じ船室に当った馬杉君と、上甲板の籐椅子に腰をかけていると、舷側にぶつかる浪の水沫が、時々頭の上へも降りかかって来る。海は勿論まっ白になって、底が轟々煮え返っている。その向うに何処かの島の影が、ぼんやり浮んで来たと思ったら、それは九州の本土だった。が、船に慣れている馬杉君は、巻煙草の煙を吐き出しながら、一向弱ったらしい気色も見せない。私は外套の襟を立てて、ポケットへ両手を突っこんで、時々仁丹を口に含んで、――要するに長野草風氏が船酔いの薬を用意したのは、賢明な処置だと感服していた。 その内に隣の馬杉君は、バアか何処かへ行ってしまった。私はやはり悠々と、籐椅子に腰を下している。はた眼には悠々と構えていても、頭の中の不安はそんなものじゃない。少しでも体を動かしたが最後、すぐに目まいがしそうになる。その上どうやら胃袋の中も、穏かならない気がし出した。私の前には一人の水夫が、絶えず甲板を往来している。(これは後に発見した事だが、彼も亦実は憐れむべき船酔い患者の一人だったのである。)その目まぐるしい往来も、私には妙に不愉快だった。それから又向うの浪の中には、細い煙を挙げたトロオル船が、殆船体も没しないばかりに、際どい行進を続けている。一体何の必要があって、あんなに大浪をかぶって行くのだか、その船も当時の私には、業腹で仕方がなかったものである。 だから私は一心に、現在の苦しさを忘れるような、愉快な事許り考えようとした。子供、草花、渦福の鉢、日本アルプス、初代ぽんた、――後は何だったか覚えていない。いや、まだある。何でもワグネルは若い時に、英吉利へ渡る航海中、ひどい暴風雨に遇ったそうである。そうしてその時の経験が、後年フリイゲンデ・ホルレンデルを書くのに大役を勤めたそうである。そんな事もいろいろ考えて見たが、頭は益ふらついて来る。胸のむかつくのも癒りそうじゃない。とうとうしまいにはワグネルなぞは、犬にでも食われろと云う気になった。 十分ばかり経った後、寝床に横になった私の耳には、食卓の皿やナイフなぞが一度に床へ落ちる音が聞えた。しかし私は強情に、胃の中の物が出そうになるのを抑えつけるのに苦心していた。この際これだけの勇気が出たのは、事によると船酔いに罹ったのは、私一人じゃないかと云う懸念があったおかげである。虚栄心なぞと云うものも、こう云う時には思いの外、武士道の代用を勤めるらしい。 処が翌朝になって見ると、少くとも一等船客だけは、いずれも船に酔った結果、唯一人の亜米利加人の外は、食堂へも出ずにしまったそうである。が、その非凡なる亜米利加人だけは、食後も独り船のサロンに、タイプライタアを叩いていたそうである。私はその話を聞かされると、急に心もちが陽気になった。同時にその又亜米利加人が、怪物のような気がし出した。実際あんなしけに遇っても、泰然自若としているなぞは、人間以上の離れ業である。或はあの亜米利加人も、体格検査をやって見たら、歯が三十九枚あるとか、小さな尻尾が生えているとか、意外な事実が見つかるかも知れない。――私は不相変馬杉君と、甲板の籐椅子に腰をかけながら、そんな空想を逞くした。海は昨日荒れた事も、もうけろりと忘れたように、蒼々と和んだ右舷の向うへ、済州島の影を横えている。 二 第一瞥(上) 埠頭の外へ出たと思うと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我々を包囲した。我々とは社の村田君、友住君、国際通信社のジョオンズ君並に私の四人である。抑車屋なる言葉が、日本人に与える映像は、決して薄ぎたないものじゃない。寧ろその勢の好い所は、何処か江戸前な心もちを起させる位なものである。処が支那の車屋となると、不潔それ自身と云っても誇張じゃない。その上ざっと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしている。それが前後左右べた一面に、いろいろな首をさし伸しては、大声に何か喚き立てるのだから、上陸したての日本婦人なぞは、少からず不気味に感ずるらしい。現に私なぞも彼等の一人に、外套の袖を引っ張られた時には、思わず背の高いジョオンズ君の後へ、退却しかかった位である。 我々はこの車屋の包囲を切り抜けてから、やっと馬車の上の客になった。が、その馬車も動き出したと思うと、忽ち馬が無鉄砲に、町角の煉瓦塀と衝突してしまった。若い支那人の馭者は腹立たしそうに、ぴしぴし馬を殴りつける。馬は煉瓦塀に鼻をつけた儘、無暗に尻ばかり躍らせている。馬車は無論顛覆しそうになる。往来にはすぐに人だかりが出来る。どうも上海では死を決しないと、うっかり馬車へも乗れないらしい。 その内に又馬車が動き出すと、鉄橋の架った川の側へ出た。川には支那の達磨船が、水も見えない程群っている。川の縁には緑色の電車が、滑かに何台も動いている。建物はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階か四階である。アスファルトの大道には、西洋人や支那人が気忙しそうに歩いている。が、その世界的な群衆は、赤いタバアンをまきつけた印度人の巡査が相図をすると、ちゃんと馬車の路を譲ってくれる。交通整理の行き届いている事は、いくら贔屓眼に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都会の及ぶ所じゃない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊恐れをなしていた私は、こう云う晴れ晴れした景色を見ている内に、だんだん愉快な心もちになった。 やがて馬車が止まったのは、昔金玉均が暗殺された、東亜洋行と云うホテルの前である。するとまっさきに下りた村田君が、馭者に何文だか銭をやった。が、馭者はそれでは不足だと見えて、容易に出した手を引っこめない。のみならず口角泡を飛ばして、頻に何かまくし立てている。しかし村田君は知らん顔をして、ずんずん玄関へ上って行く。ジョオンズ、友住の両君も、やはり馭者の雄弁なぞは、一向問題にもしていないらしい。私はちょいとこの支那人に、気の毒なような心もちがした。が、多分これが上海では、流行なのだろうと思ったから、さっさと跡について戸の中へはいった。その時もう一度振返って見ると、馭者はもう何事もなかったように、恬然と馭者台に坐っている。その位なら、あんなに騒がなければ好いのに。 我々はすぐに薄暗い、その癖装飾はけばけばしい、妙な応接室へ案内された。成程これじゃ金玉均でなくても、いつ何時どんな窓の外から、ピストルの丸位は食わされるかも知れない。――そんな事を内々考えていると、其処へ勇ましい洋服着の主人が、スリッパアを鳴らしながら、気忙しそうにはいって来た。何でも村田君の話によると、このホテルを私の宿にしたのは、大阪の社の沢村君の考案によったものだそうである。処がこの精悍な主人は、芥川龍之介には宿を貸しても、万一暗殺された所が、得にはならないとでも思ったものか、玄関の前の部屋の外には、生憎明き間はごわせんと云う。それからその部屋へ行って見ると、ベッドだけは何故か二つもあるが、壁が煤けていて、窓掛が古びていて、椅子さえ満足なのは一つもなくて、――要するに金玉均の幽霊でもなければ、安住出来る様な明き間じゃない。そこで私はやむを得ず、沢村君の厚意は無になるが、外の三君とも相談の上、此処から余り遠くない万歳館へ移る事にした。 三 第一瞥(中) その晩私はジョオンズ君と一しょに、シェッファアドという料理屋へ飯を食いに行った。此処は壁でも食卓でも、一と通り愉快に出来上っている。給仕は悉支那人だが、隣近所の客の中には、一人も黄色い顔は見えない。料理も郵船会社の船に比べると、三割方は確に上等である、私は多少ジョオンズ君を相手に、イエスとかノオとか英語をしゃべるのが、愉快なような心もちになった。 ジョオンズ君は悠々と、南京米のカリイを平げながら、いろいろ別後の話をした。その中の一つにこんな話がある。何でも或晩ジョオンズ君が、――やっぱり君附けにしていたのじゃ、何だか友だちらしい心もちがしない。彼は前後五年間、日本に住んでいた英吉利人である。私はその五年間、(一度喧嘩をした事はあるが)始終彼と親しくしていた。一しょに歌舞伎座の立ち見をした事もある。鎌倉の海を泳いだ事もある。殆夜中上野の茶屋に、盃盤狼藉としていた事もある。その時彼は久米正雄の一張羅の袴をはいた儘、いきなり其処の池へ飛込んだりした。その彼を君などと奉っていちゃ、誰よりも彼にすまないかも知れない。次手にもう一つ断って置くが、私が彼と親しいのは、彼の日本語が達者だからである。私の英語がうまいからじゃない。――何でも或晩そのジョオンズが、何処かのカッフェへ酒を飲みに行ったら、日本の給仕女がたった一人、ぼんやり椅子に腰をかけていた。彼は日頃口癖のように支那は彼の道楽だが日本は彼の情熱だと呼号している男である。殊に当時は上海へ引越し立てだったそうだから、余計日本の思い出が懐しかったのに違いない。彼は日本語を使いながら、すぐにその給仕へ話しかけた。「何時上海へ来ましたか?」「昨日来たばかりでございます。」「じゃ日本へ帰りたくはありませんか?」給仕は彼にこう云われると、急に涙ぐんだ声を出した。「帰りたいわ。」ジョオンズは英語をしゃべる合い間に、この「帰りたいわ」を繰返した。そうしてにやにや笑い出した。「僕もそう云われた時には、Awfully sentimental になったっけ。」 我々は食事をすませた後、賑かな四馬路を散歩した。それからカッフェ・パリジャンへ、ちょいと舞蹈を覗きに行った。 舞蹈場は可也広い。が、管絃楽の音と一しょに、電燈の光が青くなったり赤くなったりする工合は如何にも浅草によく似ている。唯その管絃楽の巧拙になると、到底浅草は問題にならない。其処だけはいくら上海でも、さすがに西洋人の舞蹈場である。 我々は隅の卓子に、アニセットの盃を舐めながら、真赤な着物を着たフィリッピンの少女や、背広を一着した亜米利加の青年が、愉快そうに踊るのを見物した。ホイットマンか誰かの短い詩に、若い男女も美しいが、年をとった男女の美しさは、又格別だとか云うのがある。私はどちらも同じように、肥った英吉利の老人夫婦が、私の前へ踊って来た時、成程とこの詩を思い浮べた。が、ジョオンズにそう云ったら、折角の私の詠嘆も、ふふんと一笑に付せられてしまった、彼は老夫婦の舞蹈を見ると、その肥れると痩せたるとを問わず、吹き出したい誘惑を感ずるのだそうである。 四 第一瞥(下) カッフェ・パリジァンを引き上げたら、もう広い往来にも、人通りが稀になっていた。その癖時計を出して見ると、十一時がいくらも廻っていない。存外上海の町は早寝である。 但しあの恐るべき車屋だけは、未に何人もうろついている。そうして我々の姿を見ると、必何とか言葉をかける。私は昼間村田君に、不要と云う支那語を教わっていた。不要は勿論いらんの意である。だから私は車屋さえ見れば、忽悪魔払いの呪文のように、不要不要を連発した。これが私の口から出た、記念すべき最初の支那語である。如何に私が欣欣然と、この言葉を車屋へ抛りつけたか、その間の消息がわからない読者は、きっと一度も外国語を習った経験がないに違いない。 我々は靴音を響かせながら、静かな往来を歩いて行った。その往来の右左には、三階四階の煉瓦建が、星だらけの空を塞ぐ事がある。そうかと思うと街燈の光が、筆太に大きな「当」の字を書いた質屋の白壁を見せる事もある。或時は又歩道の丁度真上に、女医生何とかの招牌がぶら下っている所も通れば、漆喰の剥げた塀か何かに、南洋煙草の広告びらが貼りつけてある所も通った。が、いくら歩いて行っても、容易に私の旅館へ来ない。その内に私はアニセットの祟りか、喉が渇いてたまらなくなった。 「おい、何か飲む所はないかな。僕は莫迦に喉が渇くんだが。」 「すぐ其処にカッフェが一軒ある。もう少しの辛抱だ。」 五分の後我々両人は、冷たい曹達を飲みながら、小さな卓子に坐っていた。 このカッフェはパリジァンなぞより、余程下等な所らしい。桃色に塗った壁の側には、髪を分けた支那の少年が、大きなピアノを叩いている。それからカッフェのまん中には、英吉利の水兵が三四人、頬紅の濃い女たちを相手に、だらしのない舞蹈を続けている。最後に入口の硝子戸の側には、薔薇の花を売る支那の婆さんが、私に不要を食わされた後、ぼんやり舞蹈を眺めている。私は何だか画入新聞の挿画でも見るような心もちになった。画の題は勿論「上海」である。 其処へ外から五六人、同じような水兵仲間が、一時にどやどやはいって来た。この時一番莫迦を見たのは、戸口に立っていた婆さんである。婆さんは酔ぱらいの水兵連が、乱暴に戸を押し開ける途端、腕にかけた籠を落してしまった。しかも当の水兵連は、そんな事にかまう所じゃない。もう踊っていた連中と一しょに、気違いのようにとち狂っている。婆さんはぶつぶつ云いながら、床に落ちた薔薇を拾い出した。が、それさえ拾っている内には、水兵たちの靴に踏みにじられる。…… 「行こうか?」 ジョオンズは辟易したように、ぬっと大きな体を起した。 「行こう。」 私もすぐに立ち上った。が、我々の足もとには、点々と薔薇が散乱している。私は戸口へ足を向けながら、ドオミエの画を思い出した。 「おい、人生はね。」 ジョオンズは婆さんの籠の中へ、銀貨を一つ拡りこんでから、私の方へ振返った。 「人生は、――何だい?」 「人生は薔薇を撒き散らした路であるさ。」 我々はカッフェの外へ出た。其処には不相変黄包車が、何台か客を待っている。それが我々の姿を見ると、我勝ちに四方から駈けつけて来た。車屋はもとより不要である。が、この時私は彼等の外にも、もう一人別な厄介者がついて来たのを発見した。我々の側には、何時の間にか、あの花売りの婆さんが、くどくどと何かしゃべりながら、乞食のように手を出している。婆さんは銀貨を貰った上にも、また我々の財布の口を開けさせる心算でいるらしい。私はこんな欲張りに売られる、美しい薔薇が気の毒になった。この図々しい婆さんと、昼間乗った馬車の馭者と、――これは何も上海の第一瞥に限った事じゃない。残念ながら同時に又、確に支那の第一瞥であった。 五 病院 私はその翌日から床に就いた。そうしてその又翌日から、里見さんの病院に入院した。病名は何でも乾性の肋膜炎とか云う事だった。仮にも肋膜炎になった以上、折角企てた支那旅行も、一先ず見合せなければならないかも知れない。そう思うと大いに心細かった。私は早速大阪の社へ、入院したと云う電報を打った。すると社の薄田氏から、「ユックリリョウヨウセヨ」と云う返電があった。しかし一月なり二月なり、病院にはいったぎりだったら、社でも困るのには違いない。私は薄田氏の返電にほっと一先安心しながら、しかも紀行の筆を執るべき私の義務を考えると、愈心細がらずにはいられなかった。 しかし幸い上海には、社の村田君や友住君の外にも、ジョオンズや西村貞吉のような、学生時代の友人があった。そうしてこれらの友人知己は、忙しい体にも関らず、始終私を見舞ってくれた。しかも作家とか何とか云う、多少の虚名を負っていたおかげに、時々未知の御客からも、花だの果物だのを頂戴した。現に一度なぞはビスケットの缶が、聊か処分にも苦しむ位、ずらりと枕頭に並んだりした。(この窮境を救ってくれたのは、やはりわが敬愛する友人知己諸君である。諸君は病人の私から見ると、いずれも不思議な程健啖だった。)いや、そう云う御見舞物を辱くしたばかりじゃない。始は未知の御客だった中にも、何時か互に遠慮のない友達づき合いをする諸君が、二人も三人も出来るようになった。俳人四十起君もその一人である。石黒政吉君もその一人である。上海東方通信社の波多博君もその一人である。 それでも七度五分程の熱が、容易にとれないとなって見ると、不安は依然として不安だった。どうかすると真っ昼間でも、じっと横になってはいられない程、急に死ぬ事が怖くなりなぞした。私はこう云う神経作用に、祟られたくない一心から、昼は満鉄の井川氏やジョオンズが親切に貸してくれた、二十冊あまりの横文字の本を手当り次第読破した。ラ・モットの短篇を読んだのも、ティッチェンズの詩を読んだのも、ジャイルズの議論を読んだのも、悉この間の事である。夜は、――これは里見さんには内証だったが、万一の不眠を気づかう余り、毎晩欠かさずカルモチンを呑んだ。それでさえ時々は夜明け前に、眼がさめてしまうのには辟易した。確か王次回の疑雨集の中に、「薬餌無徴怪夢頻」とか云う句がある。これは詩人が病気なのじゃない。細君の重病を歎いた詩だが、当時の私を詠じたとしても、この句は文字通り痛切だった。「薬餌無徴怪夢頻」私は何度床の上に、この句を口にしたかわからない。 |
改造社の古木鉄太郎君の言ふには、「短歌は将来の文芸からとり残されるかどうか?」に就き、僕にも何か言へとのことである。僕は作歌上の素人たる故、再三古木君に断つたところ、素人なればこそ尋ねに来たと言ふ、即ちやむを得ずペンを執り、原稿用紙に向つて見るに、とり残されさうな気もして来れば、とり残されぬらしい気もして来る。 まづ明治大正の間のやうに偉い歌よみが沢山ゐれば、とり残したくともとり残されぬであらう。そこで将来も偉い詩人が生まれ、その詩人の感情を盛るのに短歌の形式を用ふるとすれば、やはりとり残されぬのに相違ない。するととり残されるかとり残されぬかを決するものは未だ生まれざる大詩人が短歌の形式を用ふるかどうかである。 偉い詩人が生まれるかどうかは誰も判然とは保証出来ぬ。しかしその又偉い詩人が短歌の形式を用ふるかどうかは幾分か見当のつかぬこともない。尤も僕等が何かの拍子に四つ這ひになつて見たいやうに、未だ生まれざる大詩人も何かの拍子に短歌の形式を用ふる気もちになるかも知れぬ。しかしそれは例外とし、まづ一般に短歌の形式が将来の詩人の感情を盛るに足るかどうかは考へられぬ筈である。 然るに元来短歌なるものは格別他の抒情詩と変りはない。変りのあるのは三十一文字に限られてゐる形式ばかりである。若し三十一文字と云ふ形式に限られてゐる為に、その又形式に纏綿した或短歌的情調の為に盛ることは出来ぬと云ふならば、それは明治大正の間の歌よみの仕事を無視したものであらう。たとへば斎藤氏や北原氏の歌は前人の少しも盛らなかつた感情を盛つてゐる筈である。しかし更に懐疑的になれば、明治大正の間の歌よみの短歌も或は猪口でシロツプを嘗めてゐると言はれるかも知れぬ。かう云ふ問題になつて来ると、素人の僕には見当がつかない。唯僕に言はせれば、たとへば斎藤氏や北原氏の短歌に或は猪口でシロツプを嘗めてゐるものがあるとしても、その又猪口の中のシロツプも愛するに足ると思ふだけである。 |
A 北海道農場開放に就ての御意見を伺ひたいのですが。殊に、開放されるまでの動機やその方法、今後の処置などに就いてですな。 B 承知しました。 A 少し横道に這入るやうですが、この頃は切りに邸宅開放だとか、農場開放だとか、それも本統の意味での開放でなく、所謂美名に隠れて巨利を貪つてゐるやうな、開放の仕方が流行つてゐるやうですが、いゝ気なものですな。 B 全くですな。土地からの利益が上らなくなつたり、持て余して手放したり、それも単に手放すといふなら兎も角、美名に隠れて利益を得る開放の仕方などは不可ませんね。最近では横須賀侯などが農場を開放されると聞きますが、あれなどは実に怪しからんと思ひますね。農場の小作人に年賦か何かで土地を買はして、それでも未だ不可いからといふので、政府から補助を受けることになつてゐると聞きますが、これなんかは全く何うにかしなければ不可ませんね。 A 実際です。彼等が営利会社か何かと結びついて、社会奉仕などといゝ顔をして利益を得ようといふんですから、第一性根が悪いと思ひます。――ところで…… B ところで、よく分りました。私の場合は、勿論現代の資本主義といふ悪制度が、如何に悪制度であるかを思つたことゝ、直接の動機としては、資本主義制度の下に生活してゐる農民、殊に小作人達の生活を実際に知り得たからです。小作人達の生活が、如何に悲惨なものであるかは分り切つたことですが、先ず具体的に言ひませう。私の狩太村の農場は、戸数が六十八九戸、……約七十戸といふところですが、それが何時まで経つても掘立小屋以上の家にならないで、二年経つても三年経つても、依然として掘立小屋なんですね。北海道の掘立小屋は、それこそ文字通りの掘立小屋で、柱を地面に突き差して、その上を茅屋根にして、床はといへば板を列べた上に筵を敷いただけ、それで家の中へ水が這入つて来ないやうに家の周囲に溝を作へるのです。全戸皆がこんな掘立小屋で、何時まで経つても或ひは藁葺だとか瓦葺だとか、家らしい家にならないし、全く嫌になつて終つたんですな。 A と言ひますと、農民達はそんな家らしい家にして住ふやうな気持を持たないのでせうか。そんな掘立小屋なんかで満足してゐるのでせうか? B さうぢやないんです。農民達はそんなことに満足してはゐないのですが、家らしい家を建てるまでの運びに行かないのです。一口に言へば、何時まで経つてもその日のことに追はれてゐて、そんな運びに至らないのです。小作料やら、納税やら、肥料代やら、さういつた生活費に追はれてゐて、何時まで経つても水呑百姓から脱することが出来ないのです。――それにあのとほり、一年の半分は雪で駄目だものですからな。冬も働かないわけではないのですが、――それよりも、鉄道線路の雪掻きや、鯡漁の賃銀仕事に行けば、一日に二円も二円五十銭もの賃銭がとれるのですから、百姓仕事をするよりも余程お銭が多くとれるのですが、とればとれるで矢張り贅沢になつたり、無駄費ひが多くなつたり、それに寒いので酒を飲む、飲めば賭博をする。結極余るところが借金を残す位ゐのもので、何うにも仕様がないのです。それでは、家の中の手内職は何うかと言へば、九州などの農業と違つて、原料になる藁がないものですから、それにあのとほりの掘立小屋では、小屋の中にばかりゐる気にもなれますまい。つまり。これぢや迚も、農民達は一生浮ばれないと思つたんですね。小作料は畑で一反に一円五十銭、乃至一円七十銭位ゐですが、私の農場は主にこの畑ですが、これにしても北海道の商人はなか〳〵狡猾で、農民達の貧乏を見込んで、作物が畑に青いままである頃から見立て買ひをして、ちやんと金を貸しつけて置くのです。ですから、どんな豊作の時でも農民はその豊作の余慶を少しも受けないことになるのです。それでない場合でも、作物の相場の変動が、この頃は外国の影響を受ける場合が多いものですから、農民達には相場の見込みがつかず、その為めに苦しんだ上句が見込み外れがしたりして、つい悲惨な結果を生むやうになるのです。 A 商人達の狡猾なのは論外です。殊に、北海道あたりでは、未だ植民地的な気風が残つてゐるのでせうから質が悪いかも知れません。――それにしても、あの農場を開放されるまでには随分と、各方面からの反対もありましたでせうな? B ありました。資本主義政府の下で、縦令ば一個所や二個所で共産組織をしたところで、それは直ぐ又資本家に喰ひ入られて終ふか、又は私が寄附した土地をその人達が売つたりして、幾人かのプチブルジョアが多くなる位ゐの結果になりはしないか。結極、私がやることが無駄になりはしないか。といふやうな反対意見があつたのです。然し、私は私のやつたことが画餅に帰するほど、現代の資本主義組織が何の程度まで頑固なものであるか、何の程度まで悪い結果を生むものであるか、そればかりではなく、折角私が無償で土地を寄附しても、それですら尚農民達は幸福になれないのだといふことが、人々にはつきり分つていゝのぢやないかと思ふのです。私は、その試練になるだけでゝも満足です。一旦手放して、自分のものでなくなつた以上は、後の結果が何うならうとも、それに就ての未練は少しもないのですが、たゞ出来るだけは有意義に、有効に、その結果がよくなるやうには私も今の内に極力計る積りです。兎に角、今迄ちつとも訓練のない人達のことですから、私の真意が分つてくれて、それを妥当に動かして行くといふことは、なか〳〵困難なことでせうが、それだけ私も慎重に考えへて、結果をよくする為めに計つてはゐます。『新らしい村』などは、多少ともに頭も出来、武者小路君の意見に讃同した人達が、どれまでのことをやれるかやつて見るのだといふ信仰的なものとは違つて、農民達の方はまるで訓練もなく、知識もなく、まだ私の考へを充分呑み込んでさへもくれないので、なか〳〵困難なことかと思はれます。たゞ『新らしい村』の方は、寄附や其他のお金で生活してゐて、直接村からの生産で生活してゐるのではないから、その点は農場とは余程趣を異にしてゐますが。…… A 成程、してみると、農民達はどうして土地を開放するか、その真意がすつかりと了解出来ないのですか? B それは分つてゐてくれます。然し、その実行問題になると、私が思つてゐることをなか〳〵了解してくれないのです。それは、現在農場にある組合の倉庫なんかでも、組合幹部の見込違ひから、十万円位の穴を明けたりしたことがあるものですから、農民達もびく〳〵してゐるのです。それに、狩太には私の農場の他に、曾我、深見、松岡、小林、近藤などといふ農場があつて、孰れも同じことですが、一種の小作権売買といふのがあるのです。つまり、一つの農場の小作人となるのに、五百円とか、千円とかその農場の小作人となるのに小作の既権者から権利を買つて這入るのですな。その為めにしよつちゆう村の中で出這入りがあるのです。景気がよければよいで、その小作権を売つて、割のいゝ他の職業に就く。その為めに、農場に個定する人、つまり永く何代も何代も定在する人ばかりではないものですから、今度の処置についても非常にやり難い点が多いのです。――その為めに、農場の管理者や、村長や、今後の処置を一任した札幌農大の森本厚吉君や、大学の他の諸君とも計つたことですが、その組織に就いて相談してゐるのです。恰度、あちらからその組合規定が送つて来たのですが、その表題は『有限責任狩太共済農団信用購買販売利用組合定欵』――随分やゝこしいが、内容の総べてを表題に入れて長たらしくしたものですが、実は共済農団を、共産農団にしたかつたのです。共済なんかといふ煮え切らないものよりは、率直に共産の方がいゝのですからな。ところが、これが又皆の反対を買つたのです。共産といふ字は物騒で不可い。他の文字にして欲しいといふのです。それも、森本君なんかよりも、大学の若い人達や、村長、管理者などに反対者があるのですから可笑しいですね。それにしても、共済といふ文字は余り好みませんが、何とかいゝ名前はありませんか。大学の諸君や、村長なんかにも叱られないで、それでゐていゝ名前は? A さあ、私なんかには考へつきません。――然し、随分不可しな人達ぢやありませんか。共産なんて文字に世間の人達が、そんなにまで気を病むなんて、妙なものですな。うまい魚だが、フグだから不可い。それでフクにしたならばいゝだらうといふのですな。この節の議会の問答のやうに、仏教家の平和主義ならばいゝが、社会主義者の平和主義は不可いといふやうなものぢやありませんか。同じいゝことが、名前に依つて不可なかつたり、人に依つて不可なかつたり、…… B さうです。然し、それは事実だから仕方がありません。それに、この表題のことも尚研究中ですから。――この定欵も、北海道の人達が上京して来て完全なものとなり、それから農民達とも相談したら、その結果が何うなつたか。実を云ふと、訓練のない人達のことですから理想的に行くか何うか、それは随分困難のことでせう。私も常にその覚悟はしてゐます。 A 先つきのお話のやうに、今のところは村の出這入りが多少あつても『新らしい村』などの場合と違つて、家族と一緒に暮すのですから、割合に居着き易いと思ひますが、それに土地が自分のものにはなるし、暮し易くはなるしするのですから、段々安住する気になると思ひますが。それに、今度の制度の訓練が段々に上手になつて来ましたら。 B それはそんなものかも知れませんが。それとは又別な困難が一つあるのですから。田舎にばかりゐる人は、何うしても都会に憧れを持つのです。その都会憧憬の心ですな。その為めに小汚ない百姓の足を洗つて、都会へ出てもつと綺麗な仕事をしてみたいといふやうな気が起るのですな。その為めに、落ちつけなくなるのです。私が教へた生徒の中に、一人千葉県人が居りましたが、その人の話に依ると、その村の青年達の理想は、東京へ出て来て自動車の運転手になることだといふから呆れるぢやありませんか。 A 成程、鎌子事件の主人公となつた夢なども悪くはありませんね。 B そんなことで、いろ〳〵の困難なことが伴つて来るだらうと思ひますが、私も一旦農場を寄附する以上、今後は何うなつてもいゝやうなものゝ、再び資本家の手に這入つて終ふやうなことは仕度くありませんので、その悪結果を防ぐ方法として、先つきの話のとほり、共産組合の組織にしようとしてゐるのです。今度の成案などは、まだ〳〵ほんの初めのことで、不完全なものでせうが、組織は農団組合を管理する理事を置いて、これが実務に当ることになるのです。その外に、幹事を数名置くことになりますが、これが会社でいふ監査役といふところです。こんなものが、農民自身の選挙で置かれることになります。今迄の管理者なども勿論、一個の組合員になつて終ふのです。――それに規定の内容は、(一)貯金の便利の為めの信用組合、(二)販売組合、(三)購買組合、(四)利用組合、(五)農業倉庫、その他いろ〳〵とあるのですが、兎に角、農場開放のことは、私自身の気持や、態度などといふことはすつかり確定してゐて、今まで言つたとほりですが、その土地の内部組織などのことは、恰度その過程にあるのですから、その積りでゐて欲しいのです。すつかり確定すれば、又お知らせしますから。 |
浅草の飛んだり跳たり 右は年代を寛政といふ人と文政頃といふ人とあり、原品は東海道亀山お化とて張子にて飛んだりと同様の製作にて、江戸黒船町辺にて鬻ぎをりしを後、助六に作り雷門前地内にて往来に蓆を敷きほんの手すさびに「これは雷門の定見世花川戸の助六飛んだりはねたり」と団十郎の声色を真似て売りをりし由にて、傘の飛ぶのが面白く評判となり、江戸名物となりけるとの事。後は雷門より思ひ寄り太鼓を冠りし雷を造り、はては種々の物をこれに作り売りける由。安政に雷門の焼け失せしまでは売りをり、後久しく中絶の処、十余年前よりまたまた地内にて売るを見る。されどよほど彩色等丁寧になり、昔わが子供(六十年前)時代の浅草紙にて張れる疎雑なる色彩のものとは雲泥の相違にて上等となつた。狂言にたずさはりし故人某の説に、五代目か七代目(六代目は早世)かの団十郎が助六の当り狂言より、この助六を思ひ浮べ、売り出せりとも聞きしが、その人もなく、吾が筆記も焼け、確定しがたき説となつた。 亀戸の首振人形 一名つるし 初めは生た亀ノ子と麩など売りしが、いつか張子の亀を製し、首、手足を動かす物を棒につけ売りし由。総じて人出群集する所には皆玩具類を売る見世ありて、何か思付きし物をうりしにや。この張子製首振る種類は古くからありて、「秋風や張子の虎の動き様」など宝暦頃の俳書にもあり、また唐辛奴、でんがく焼姉様、力持、松茸背負女、紙吹石さげたる裸体男など滑稽な形せしもの数ありて、この類は皆一人の思付きより仕出せしを、さかり場あるいは神社仏閣数多くある処にて売り、皆同一のつくり様にてその出来しもとは本所か浅草か今知る由もなし。今は王子権現の辺、西新井の大師、川崎大師、雑司ヶ谷等にもあり、亀戸天満宮門前に二軒ほど製作せし家ありしが、震災後これもありやなしや不知。予少年の頃は東両国、回向院前にてもこのつるし多く売りをりしが、その頃のものと形はさのみ変りなけれど、彩色は段々悪くなり、面白味うせたり。前いへる場所などに鬻ぐは江戸市中に遠ざかりし所ゆゑ残れる也。 亀戸天神様宮前の町にて今も鬻ぐ。 今戸の土人形 御承知の通り、今戸は瓦、ほうろく、かはらけ、火消壺等種々土を以つて造る所ゆゑ自然子供への玩具も作り、浅草地内、或は東両国、回向院前等に卸売見世も数軒ありて、ほんの素焼に上薬をかけ、土鍋、しちりん、小さき食茶碗、小皿等を作り、人形は彩色あれど多くは他の玩具屋の手にて彩色し、その土地にては素焼のまゝ数を多く焼き出さんがためにてある由。俵の船積が狂詠に「色とりどり姿に人は迷ふらん同じ瓦の今戸人形」(明和年間)とも見ゆ。予記憶せる事あり、回向院門前にて鬻げる家にては皆声をかけ「しごくお持ちよいので御座い」とこの言葉を繰返へしいひ居りしが、予、日々遊びに行けるよりなじみとなり、大なる布袋の人形をほしいといへるに、連れし小者の買はんとせしに、これは山城伏見にて作りし物にて、当店の看板なればと、迷惑顔せし事ありしが、京より下り来し品も、江戸に多くありけるものと見えたり。或る人予に、かゝる事を聞かせし事あり。浅草田圃の鷲神社は野見の宿禰を祀れるより、埴作る者の同所の市の日に、今戸より土人形を売りに出してより、人形造り初めしとなん。余事なれど酉の市とは、生たる鶏を売買せし也。農人の市なれば也。それ故に細杷も多く売りしが、はては細杷のみにては品物淋しきより、縁起物といふお福、宝づくしの類を張り抜きに作り、それに添へてかき込め〳〵などいふて売りけるよし、今は熊手の実用はどこへやら、あらぬ飾物となりけるもをかし。 柳原の福寿狸 柳森神社 土製の小さき大小の狸を出す。神田柳原和泉橋の西、七百二本たつや春青柳の梢より湧く、この川の流れの岸に今鎮座します稲荷の社に、同社する狸の土製守りは、この柳原にほど近きお玉が池に住みし狸にて、親子なる由、ふと境内にうつされたる也。(お玉が池の辺開け住みうかりければやといふ。)親は寿を、子は福をさづけんと託宣ありしよりその名ありとなん。 |
前にタマヨの絵を美術雑誌の原色版で見てそのまか不思議な色彩にひどく惹かれました。 それ以来私は何が何でもタマヨのファンになってしまいました。タマヨのよく使う発酵した様な異様な黄色や紫や桃色にひきつけられたのです。今度のメキシコ展で民芸品の部屋に足をふみ入れると私は“これだ。タマヨの色は”と思いました。民芸品の切り紙も人形も皆タマヨのあの魅力的な紫色や桃色なのでした。これはメキシコの現代絵画のすべてに云えることなのですが、何千年も昔の土偶の形態も民芸品のネンドの人形の色も皆現代絵画の中にそのまま生きていて彼等の激しい力と情熱を語る強力な言葉になって居るのです。 |
ある、詩人の部屋の中でのお話です。だれかが、詩人の机の上にあるインキつぼを見て、こう言いました。 「こんなインキつぼの中から、ありとあらゆるものが生れてくるんだから、まったくもってふしぎだなあ! 今度は、いったい、なにが出てくるんだろう? いや、ほんとにふしぎなもんさ」 「そうなのよ」と、インキつぼは言いました。「それが、あたしには、どうしてもわからないの。いつも言ってることなんですけどね」と、インキつぼは、鵞ペンだの、そのほか、机の上にのっている、耳の聞えるものたちにむかって、言いました。 「この、あたしの中から、どんなものでも、生れてくるのかと思うと、ほんとにふしぎな気がするわ。ちょっと、信じられないくらいよ。 人間があたしの中から、インキをくみ出そうとするとき、今度は、どんなものが出てくるのか、あたし自身にもわからないの。あたしの中から、たった一しずく、くみ出しさえすれば、それで、半ページは書けるのよ。おまけに、その紙の上には、どんなものだって、書きあらわされるのよ。ほんとに、ふしぎったらないわ! あたしの中から、詩人のあらゆる作品が生れてくるのよ。読んでいる人が、どこかで見たと思うくらいに、いきいきとえがかれている人物も、しみじみとした感情も、それから、しゃれたユーモアも、美しい自然の描写もよ。といっても、ほんとは、あたし、自然て、なんだか知りませんけどね。だって、自然なんてものは、見たことがないんですもの。だけど、あたしの中にあることだけは、まちがいないわ。 あの、身のかるい、美しい娘たちのむれも、鼻からあわをふいている、荒ウマにまたがった、いさましい騎士たち、ペール・デヴァーや、キルスデン・キマーも、みんな、あたしの中から生れてきたんだし、これからも生れてくるのよ。もちろん、あたし自身が知ってるわけじゃないけど。だいいち、あたし、そんなこと考えてもみなかったわ」 「たしかに、あなたの言うとおりですよ」と、鵞ペンが言いました。 「あなたは、考えてみるということを、なさらない。もしもあなたが、ちょっとでも考えてみるとする。そうすれば、あなたから出てくるものは、ただの液体だということぐらい、すぐわかるはずですからね。あなたが、その液体をくださる。それで、わたしは話をすることができるんですよ。わたしのうちにあるものを、紙の上に見えるようにすることができるんです。つまり、書きおろすというわけなんですよ。 いいですか。書くのは、ペンですからね。これだけは、どんな人間も、うたがいはしませんよ。ところが、詩のこととなると、たいていの人間が、古いインキつぼと同じくらいの考えしか、持っていないんですからねえ」 「まだ、世間のことも、ろくに知らないくせに」と、インキつぼは言いました。「あなたなんか、やっと一週間ばかり、働いただけで、もう半分、すりきれてしまったじゃないの。ご自分では、詩人の気でいるのね。あなたなんて、ただの召使よ。あたしはね、あなたが来るまえに、もうずいぶん、あなたの親類をつかっているのよ。ガチョウ一家のものも、イギリスの工場から来たものもよ。鵞ペンだって、はがねのペンだって、どっちも、よく知ってるわ。そりゃ、たくさん、つかったんですもの。 でも、あの人間がね、そら、あたしのために働いてくれる人間のことよ。あの人間がやってきて、あたしの中からくみ出したものを、書きおろすようになれば、もっともっとたくさん、つかうようになるわ。それにしても、あたしの中から、くみ出されるさいしょのものは、いったい、どんなものになるのかしら」 「ふん、インキだるめ!」と、ペンは言いました。 その晩おそく、詩人は家に帰ってきました。詩人は音楽会に行っていたのです。有名なバイオリンの名人の、すばらしい演奏を聞いて、すっかり心をうたれ、頭の中は、それでいっぱいでした。音楽家が楽器から引き出したのは、ほんとうにおどろくべき音の流れでした。それは、サラサラと音をたてる、水のしずくのようにも、真珠と真珠のふれあう音のようにも聞えました。また、あるときには、小鳥たちが、声を合せてさえずるようにも、聞えました。そうかと思うと、モミの木の森に、あらしがふきすさぶようにも、聞えました。 詩人は、自分の心のすすり泣く声が、聞えるような気がしました。けれども、それは、女の人の美しい声でなければ、とうてい聞くことができないようなメロディーでした。 ただ、バイオリンの弦だけが、鳴っているのではありません。こまも、せんも、共鳴板も、みんな鳴っているようでした。ほんとうに、おどろくべきことでした。曲は、むずかしいものでした。でも、見たところでは、まるで遊んでいるように、弓が弦の上を、あちこちと、動きまわっているだけでした。これなら、だれにでも、まねすることができそうでした。 バイオリンは、ひとりでに鳴り、弓はひとりでに動いて、まるで、この二つだけで、音楽が鳴っているようでした。みんなは、それを演奏し、それに命と、魂とをふきこんでいる、バイオリンの名人のことは、忘れていました。そうです、その名人のことを、みんなは、忘れていたのです。しかし、詩人は、今、その音楽家のことを思い出していました。詩人は、その人の名を口にし、自分の感想を、つぎのように書きしるしました。 「弓とバイオリンとが、自分のことをじまんするとしたら、じつに、ばかげたことだ。しかし、われわれ人間も、たびたび、同じような、あやまちをする。詩人にしても、芸術家にしても、学者にしても、将軍にしてもだ。われわれは、自分をじまんする。――だが、われわれは、みんな、神の演奏なさる楽器にすぎないのだ。神にのみ、さかえあれ! われわれには、だれひとりとして、じまんすべきものは、なにもないのだ」 詩人は、こう書きつけると、比喩として、「名人と楽器」という題をつけました。 「みごとに、やられましたね、奥さん」と、ペンはインキつぼにむかって、ふたりきりになったとき、言いました。「いま詩人が読みあげたのは、わたしの書きおろしたものですが、お聞きになったでしょうな」 「ええ、あたしが、あなたにあげた、書く材料でね」と、インキつぼは言いました。「あれは、あなたのごうまんを、こらしめるための一うちよ。あなたは、自分がからかわれているのも、わからないじゃないの。あたしはね、心の奥底からの一うちを、あなたにさしあげたのよ。あたし、自分の皮肉ぐらい、わかってよ」 「なに、このインキ入れめ!」と、ペンは言いました。 「ふん、この字書き棒!」と、インキつぼも、やりかえしました。 これで、ふたりとも、それぞれに、うまい返事をした気でいました。うまい返事をしたと思うと、気持がすうっとして、ぐっすり眠れるものです。で、ふたりは、眠ってしまいました。 けれども、詩人は眠りませんでした。さまざまの思いが、バイオリンの中から、わき出てくる音のように、あとからあとから、わきおこってきました。ときには真珠のふれあうように、またときには、森に吹きすさぶあらしのように。詩人は、その中に、自分自身の心を感じました。永遠の名人からの光を一すじ、感じました。 |
チューリッヒでのアインシュタイン教授のことを私は上の文に記しましたが、その後世界大戦が勃発し、それが一九一八年にようやく収まった後に、教授のその間に発表せられた一般相対性理論が世界的に著名となったので、わが国でも改造社の山本実彦氏が京都帝国大学の西田教授と相談して教授招聘のことを決定し、私にもこれを話されたので、私も大いに賛成したのでした。実はしかしこのころアインシュタイン教授は諸方からの同様な招聘に悩まされて、多くはそれを謝絶していられたということを後に親しく話されたのでしたが、それにもかかわらずわが国からの招聘を快諾されたということは、教授がいかに多く東洋への興味をもっていられたかを示すのでありました。改造社からは当時ベルリンに滞在していた社員室伏氏を通じてこれをアインシュタイン教授に謀るとともに、私からも一書を親しく同教授に送ったのでした。それは大正十年夏のことであり、その後十二月に招聘の契約書を送ったのでしたが、翌年五月にそれに対する承諾書が来ました。それには九月にドイツのライプチッヒで自然科学者大会が開かれるが、これは創立百年の記念会であるから、そこでの講演を終えて後に直ちに出発することにすると記してあり、その書信の終わりには、 「あなたとこの秋にお目にかかること、そして私たちにとってはお伽噺の幔幕で包まれている輝かしいあなたの国を知ることをよろこばしくもくろみながら 親しい挨拶をもって あなたの親愛な アルバート=アインシュタイン です」 という懐かしい言葉が添えられてあったのでした。かくて十月八日マルセイユ出帆の北野丸に塔乗して十一月十七日に神戸に到着されたのです。私たちはそれを神戸で出迎えましたが、東京帝大の長岡教授、九州帝大の桑木教授、東北帝大の愛知教授なども来合わせられました。天候のぐあいで船がやや遅れたので、その日は京都に着いたのも日ぐれになってしまい、都ホテルで一泊の後、翌日直ちに東京に向かわれたのでした。それから東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の各地で講演を行ない、十二月二十九日に榛名丸に門司で乗船して帰国の途に就かれたのでしたが、それらの間に夫人とともに諸所の風光に接し、また東洋の芸術を見て驚異の感に打たれられたようでもありました。そのとき私が記した文をここに再録して記念としたいと思います。(講演内容は『アインスタイン教授講演録』のなかに記してあるので、ここではそれは省きます。) 「世界中のいろいろな有様を見るのは自分にとってほんとうに望ましいことです。自分は夢のなかに見るような日本を知りたいので、ことさらにこの旅行に出かけて来ました。実際私には日本ほど特殊な興味を感ずるところはありません」と、教授はいつも私たちに話されました。「科学と芸術とは外見の上では異なっているけれども、それでも両者はこれらが湧き出る同じ精神力を通じて密接に相関連している」と、教授は筆をとって書かれたこともありました。「科学は一つの宗教である」という言葉も書かれました。教授は科学者ではあっても、芸術をも人間の永遠の尊い仕事として、同様に強く愛好されたのでした。それで科学の対象としての自然のほかに、芸術の対象としての自然をもよく観ようと思われたのでした。そしてこの意味で遠く隔たった日本の山河や田園や風俗や、さらにヨーロッパの芸術とはまるで異なっている東洋の固有の芸術に対して多大の興味を抱かれたので、講演の暇々にそれらのものに接することに大きな喜びを感ぜられたのでした。 柔らかな愛らしい自然のなかに、小さな木造の家を建てて簡素に住んでいる穏やかな心の人たちとして、この国の生活をゆかしく印象されたのも、これによるのでした。ヨーロッパのような生存競争の激しい深刻さのないことが、すべての人たちの感情をどれほどゆるやかに伸び伸びとさせ、美しい家族的親愛さを湛えさせているのであろうと、これを羨まれました。もとより近代の生活がそれを漸次薄らがせてゆくことにも気づかれはしたでしょうが、しかしヨーロッパに全く欠けているいろいろな美点をここに見出だして、そういう有様が現実に存在しているのを目撃したことをよろこばれました。教授のおだやかな性格には日本の人たちがどこか遠慮ぶかいつつましさをそなえていることをゆかしくも思われたのでした。なんというはにかましい可憐な心のもち主であろうと、日本の女性を見られもしたのでした。 そしてこのような特殊な環境のなかにこそ特殊な芸術がおのずから育つのであるとも、教授は思われたのです。ことに能楽のしっとりと落ちついたゆるやかさのなかに、象徴的な複雑さを含んだ緊張しきった動作のあるのに、むしろ驚異の感を抱かれたのでした。冥想的な哲学的なこころに浸されて、教授はいつまでもそのまえに座ろうとせられました。またそれとともに一方では古代的な要素を多く含んでいる雅楽にも異常な興味を感ぜられました。東洋風な古画に接しては、陰影をもたないはっきりした輪廓線の鋭さにいつも眼をつけられました。また写実や投射法を無視した構図に対しても、そのおのずからな感情に導かれて、それらが少しも観照を妨げないことに注目されました。諸所の神社仏閣における彫刻や建築にも少なからぬ興味を惹かれたのでした。しかしそれらのなかで最も深く教授を感激させたのは、京都の仙洞御所のなかで清涼殿の前庭をかこんだ一帯の風趣であったのです。そこにはきれいな箒目を縦横にしるした白砂で埋まった四角な広い庭があり、それをとり囲んで二方にはすっきりとした廊下の半ば白い腰障子が並んでいたのでした。西側は清涼殿のおもてで、黄いろい簾が紅の紐で結ばれ、黒瓦の下に平行に懸っているのが見られます。南側には紫宸殿の後ろ側の板戸がありました。「なんという瀟洒なこころよい建築であろう。私は未だかつてこんな気もちの安らかなものを見たことはない」と、教授はほんとうに驚きの表情にみちてそこにたたずまれました。砂を敷いた庭の一隅に一叢のわずかばかりな竹林が四角に囲われて立っており、そこからやや隔たって二、三本の竹があるだけで、他には静寂のほか何ものもないのでした。昔は朝になると、この竹林に小鳥が来て囀るので、それで時刻を知ったのだという説明を、非常におもしろがって聞かれました。もうずっと先方へゆかれた夫人を呼び戻してこの話を繰り返して話されたほどでした、明け放しな宮廷の寒さを身に覚えながら、昔は火の気もおかれなかったことや、宮廷内では三十七歳をこえるまでは、冬足袋もゆるされずに素裸足でいなければならなかったことなどを聞かれて、ふしぎな夢もの語りのようにも思われたようでした。かような場所を中心にしてなだらかな美しい山々で囲まれた京都の一帯は、教授に最も深い印象を与えたので、そのあたりのいろいろな風光に接するのをこの上ない楽しみとせられたのでした。 概して教授は、どこに行っても人々のありのままの姿と、またその手になった芸術を観賞することを好まれたのでした。それで何でもないような襖模様や金具にさえ感興を惹かれて、それを注目されました。ですから床の間が檜の一枚板であるとか、柱が柾目の杉であるとかいうようなことは、教授にとってなんの価値もなかったのです。名古屋城の金の鯱も教授にはさほど注目を惹かなかったので、むしろその形態の趣きや、城の屋根瓦が波のような感じをもつことをよろこばれました。そこに尊ぶべきものは材料の値高さではなく、人間のこころのあらわれであると信ぜられていたからです。ごく平民的な教授は富豪の家でりっぱな装飾を眺めることよりも、むしろありのままの平俗な生活を知るために田舎みちをみずから歩いてみたいとも言われました。しかしそういう機会はあまりなかったのですが、須磨でちょっと町を歩いて、市の防火宣伝の画の建札が辻に立っていたのに注目されたり、人形や菓子の並んでいる店や、魚屋や市場のまえに立ち止まってもの珍しそうにそれを眺められました。福岡で洋式旅館のないことを心配して、改造社では門司の三井倶楽部を借りてそこに泊って福岡の講演におもむかれるようにしたところが、講演の翌日に再び九州帝大の午餐会でそこにおもむかなくてはならなかったので、教授はそれを好機としてぜひとも一度は日本式の旅館へ泊ってみたいと申し出られ、自分ひとりでその夜を蒲団の上に寝ね、味噌汁で朝食をとられました。そして「自分だけで日本を旅行するのならば、どこでもこういう宿屋で泊りたい」とも話されました。米食や日本料理はあまりにもその口に不慣れであったに違いないのですが、それでも習俗を知ろうとする心からそう言われたのに違いありません。もし事情がゆるすならば、もっと静かにひとりでこのめずらしい国を観てゆきたいし、どこか山登りでもしてその自然にも親しみたいとも言われました。しかしそういうことも、わずかの滞在日数で実現できなかったのは遺憾でもありました。 教授はいつも親しく接していた人たちに対して心おきない親しさを示されました。時には自分で戯談ばなしや警句を発して笑い興ぜられたのです。ホテルでの食事にしきりに献立表から何かを選ぼうとしている人を見ると、「これはいくら研究したってわからないものの一つで籤を引くようなものです。あんなにむだに頭をつかっては、おかげであの人の食事はうま味を失うでしょう。だから、自分はいつも妻に任せている」と言われ、私が同じものを注文すると、「講演で我々ふたりはいつも組になるのだから、食皿も同じにしてもいいですね」と笑われました。名古屋城内で襖に描かれた虎の絵を見て、「経済学者の顔のようだ」と言われたり、熱田神宮で手洗いの浄水溜めを見て、「神聖の水は危険だ」と揶揄されたり、大阪で講演半ばの休憩時間に忙がしく食事をせられたとき、「もう少しいかがですか」と山本氏のすすめるのに対し、「歌う鳥はたくさんは食べません」と答えられたりしました。岡本一平氏が東京朝日に書いた漫画を見て、それに添えた文章をいつも附き添っていた稲垣氏に訳させてはいかにも無邪気な笑いに耽られました。真摯な一面にはそういう明るい上品な笑いが常にこもっていました。また機会があると、ヴァイオリンを手にして私たちにもそれを喜んで聞かされました。帝国ホテルでの歓迎会の席上でもこれを奏せられましたが、名古屋では医科大学にいられたミハエリス教授とともにホテルの一室で合奏して午後の半日を楽しまれました。夫人が「私の夫は物理学者にならないで音楽家になっても成功したにちがいありません」と言われ、また「あれがあまりうますぎるので、私はそれ以来楽器を手にするのをやめました」と言われたりしましたが、実際にそういうとき教授はほんとうの芸術家の気分に浸って演奏されるのでした。 教授は華美な歓迎会などはあまりによろこばれなかったので、それよりも静かな休息時間の方がはるかにいいとさえ言われました。アメリカ化された建築ややかましい音楽なども好まれないものに属していました。私がアメリカをまだ見ないことを話しましたら、「あんな国にゆくものでは決してない。あそこはすべて金銭ばかりの一次元の世界だから」と答えられました。「ただアメリカで採るべきところはデモクラチッシュな点だけだ」とも言われました。人情的に見てスイスやオランダなどはよほど好まれていたようですが、ドイツはかなり嫌われていました。教授をドイツ人として歓迎したり、またドイツ人仲間の会合が催されたときには、私たちを省りみて「また黒赤黄いろだ」と苦笑されたりしました。世界大戦中にはスイスに行っていたことなどを話されたこともありました。 物理学上の研究問題については最も熱心に私たちとも論じ、かつ教えられました。量子論は困難な問題であるが、ボーアの理論は少しの疑いもなく信ぜられると言われました。電磁的質量と万有引力との関係については、私がいろいろ尋ねたのに対し、それはまだ想像をゆるされない全くわからない問題であるとなし、「神は想像をもってではなく、理性をもって仕事する」という言を引用されたりしました。私が以前から考えていた電磁的エネルギー・テンソルの対称性の問題について話したことに対し、大いに興味をもたれて、汽車旅行の折りやそのほかの暇のあるたびごとにそれについての意見をいろいろ話されました。そしていくらかの数学的の計算をも行ないましたが、これは完成には至らなかったのでした。 福岡での講演後に、教授は数日を門司に送って関門海峡の美しい風光にも親しまれましたが、十二月二十九日に榛名丸で出発されることになり、もはやうすら寒い風の吹くなかで、幾たびか別れの握手をかわしながら、名ごりを惜しんだのでした。夫人の眼にまず涙が流れ落ちるのを見ると、教授も赤く眼をはらせていられるので、私たちも船を去りかねたほどでした。船が出帆すると、教授夫妻はいつまでも寒い甲板に立って帽を振りハンケチを振られるのが望まれたのでした。教授のわが国における滞在はわずかに四十日あまりにすぎなかったのでしたが、しかしその特殊な印象は必ずいつまでもその脳裡に深く残されていることを、私たちは信じています。日本への旅は教授にとって確かに最も特異なものであったにちがいないからです。 |
夏の街の恐怖 焼けつくやうな夏の日の下に おびえてぎらつく軌条の心。 母親の居睡りの膝から辷り下りて 肥った三歳ばかりの男の児が ちょこ〳〵と電車線路へ歩いて行く。 八百屋の店には萎えた野菜。 病院の窓掛は垂れて動かず。 閉された幼稚園の鉄の門の下には 耳の長い白犬が寝そべり、 すべて、限りもない明るさの中に どこともかく、芥子の花が死落ち 生木の棺に裂罅の入る夏の空気のなやましさ。 病身の氷屋の女房が岡持を持ち、 骨折れた蝙蝠傘をさしかけて門を出れば、 横町の下宿から出て進み来る、 夏の恐怖に物も言はぬ脚気患者の葬りの列。 それを見て辻の巡査は出かゝった欠伸噛みしめ、 白犬は思ふさまのびをして 塵溜の蔭に行く。 焼けつくやうな夏の日の下に、 おびえてぎらつく軌条の心。 母親の居睡りの膝から辷り下りて 肥った三歳ばかりの男の児が ちょこ〳〵と電車線路へ歩いて行く。 起きるな 西日をうけて熱くなった 埃だらけの窓の硝子よりも まだ味気ない生命がある。 正体もなく考へに疲れきって、 汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、 硝子越しの夏の日が毛脛を照し、 その上に蚤が這ひあがる。 起きるな、起きるな、日の暮れるまで。 そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。 何処かで艶いた女の笑ひ声。 事ありげな春の夕暮 |
上 いたづら為たるものは金坊である。初めは稗蒔の稗の、月代のやうに素直に細く伸びた葉尖を、フツ〳〵と吹いたり、﨟たけた顔を斜めにして、金魚鉢の金魚の目を、左から、又右の方から視めたり。 やがて出窓の管簾を半ば捲いた下で、腹ンばひに成つたが、午飯の済んだ後で眠気がさして、くるりと一ツ廻つて、姉の針箱の方を頭にすると、足を投げて仰向になつた。 目は、ぱつちりと睜いて居ながら、敢て見るともなく針箱の中に可愛らしい悪戯な手を入れたが、何を捜すでもなく、指に当つたのは、ふつくりした糸巻であつた。 之を指の尖で撮んで、引くり返して、引出の中で立てて見た。 然うすると、弟が柔かな足で、くる〳〵遊び廻る座敷であるから、万一の過失あらせまい為、注意深い、優しい姉の、今しがた店の商売に一寸部屋を離れるにも、心して深く引出に入れて置いた、剪刀が一所になつて入つて居たので、糸巻の動くに連れて、夫に結へた小さな鈴が、ちりんと幽に云ふから、幼い耳に何か囁かれたかと、弟は丸々ツこい頬に微笑んで、頷いて鳴した。 鳴るのが聞えるのを嬉しがつて、果は烈しく独楽のやう、糸巻はコトコトとはずんで、指をはなれて引出の一方へ倒れると、鈴は又一つチリンと鳴つた。小な胸には、大切なものを落したやうに、大袈裟にハツとしたが、ふと心着くと、絹糸の端が有るか無きかに、指に挟つて残つて居たので、うかゞひ、うかゞひ、密と引くと、糸巻は、ひらりと面を返して、糸はする〳〵と手繰られる。手繰りながら、斜に、寝転んだ上へ引き〳〵、頭をめぐらして、此方へ寝返を打つと、糸は左の手首から胸へかゝつて、宙に中だるみ為て、目前へ来たが、最う眠いから何の色とも知らず。 自ら其を結んだとも覚えぬに、宛然糸を環にしたやうな、萌黄の円いのが、ちら〳〵一ツ見え出したが、見る〳〵紅が交つて、廻ると紫になつて、颯と砕け、三ツに成つたと見る内、八ツになり、六ツになり、散々にちらめいて、忽ち算無く、其の紅となく、紫となく、緑となく、あらゆる色が入乱れて、上になり、下になり、右へ飛ぶかと思ふと左へ躍つて、前後に飜り、また飜つて、瞬をする間も止まぬ。 此の軽いものを戦がすほどの風もない、夏の日盛の物静けさ、其の癖、こんな時は譬ひ耳を押つけて聞いても、金魚の鰭の、水を掻く音さへせぬのである。 さればこそ烈しく聞えたれ、此の児が何時も身震をする蠅の羽音。 唯同時に、劣等な虫は、ぽつりと点になつて目を衝と遮つたので、思はず足を縮めると、直に掻き消すが如く、部屋の片隅に失せたが、息つく隙もなう、流れて来て、美しい眉の上。 留まると、折屈みのある毛だらけの、彼の恐るべき脚は、一ツ一ツ蠢き始めて、睫毛を数へるが如くにするので、予て優しい姉の手に育てられて、然う為た事のない眉根を寄せた。 堪へ難い不快にも、余り眠かつたから手で払ふことも為ず、顔を横にすると、蠅は辷つて、頬の辺を下から上へ攀ぢむと為る。 這ふ時の脚には、一種の粘糊が有るから、気だるいのを推して払くは可いが、悪く掌にでも潰れたら何うせう。 下 其時まで未だ些とは張の有つた目を、半ば閉ぢて、がつくりと仰向くと、之がため蠅は頬ぺたを嘗めて居た嘴から糸を引いて、ぶう〳〵と鳴いて飛上つたが、声も遠くには退かず。 瞬く間に翼を組んで、黒点先刻よりも稍大きく、二つが一つになつて、衝と、細眉に留まると、忽ちほぐれて、びく〳〵と、ずり退いたが、入交つたやうに覚えて、頬の上で再び一ツ一ツに分れた。 其の都度ヒヤリとして、針の尖で突くと思ふばかりの液体を、其処此処滴らすから、幽に覚えて居る種痘の時を、胸を衝くが如くに思ひ起して、毒を射されるかと舌が硬ばつたのである。 まあ、何処から襲つて来たのであらうと考へると、……其では無いか。 店へ来る客の中に、過般、真桑瓜を丸ごと齧りながら入つた田舎者と、それから帰りがけに酒反吐をついた紳士があつた。其の事を謂ふ毎に、姉は面を蔽ふ習慣、大方其の者等の身体から姉の顔を掠めて、暖簾を潜つて、部屋まで飛込んで来たのであらう、……其よ、謂ひやうのない厭な臭気がするから。 と思ふ、愈々胸さきが苦しくなつた。其に今がつくりと仰向いてから、天窓も重く、耳もぼつとして、気が遠くなつて行く。―― 焦れるけれども手はだるし、足はなへたり、身動きも出来ぬ切なさ。 何を!これしきの虫と、苛つて、恰も転つて来て、下まぶちの、まつげを侵さうとするのを、現にも睨めつける気で、屹と瞳を据ゑると、いかに、普通見馴れた者とは大いに異り、一ツは鉄よりも固さうな、而して先の尖つた奇なる烏帽子を頭に頂き、一ツは灰色の大紋ついた素袍を着て、いづれも虫の顔でない。紳士と、件の田舎漢で、外道面と、鬼の面。――醜悪絶類である。 「あ、」と云つたが其の声咽喉に沈み、しやにむに起き上らうとする途端に、トンと音が、身体中に響き渡つて、胸に留つた別に他の一疋の大蠅が有つた。小児は粉米の団子の固くなつたのが、鎧甲を纏うて、上に跨つたやうに考へたのである。 畳の左右に、はら〳〵と音するは、我を襲ふ三疋の外なるが、なほ、十ばかり。 其の或者は、高波のやうに飛び、或者は網を投げるやうに駆け、衝と行き、颯と走つて、恣に姉の留守の部屋を暴すので、悩み煩ふものは単小児ばかりではない。 小箪笥の上に飾つた箱の中の京人形は、蠅が一斉にばら〳〵と打撞るごとに、硝子越ながら、其の鈴のやうな美しい目を塞いだ。……柱かけの花活にしをらしく咲いた姫百合は、羽の生えた蛆が来て、こびりつく毎に、懈ゆげにも、あはれ、花片ををのゝかして、毛一筋動かす風もないのに、弱々と頭を掉つた。弟は早や絶入るばかり。 時に、壁の蔭の、昼も薄暗い、香の薫のする尊い御厨子の中に、晃然と輝いたのは、妙見宮の御手の剣であつた。 一疋、ハツと飛退つたが、ぶつ〳〵といふ調子で、 「お刀の汚れ、お刀の汚れ。」と鳴いた。 また気勢がして、仏壇の扉細目に仄見え給ふ端厳微妙の御顔。 蠅は内々に、 「観音様、お手が汚れます。」 「けがれ不浄のものでござい。」 「不浄のものでござい。」 と呟きながら、さすがに恐れて静まつた。が、暫時して一個厭な声で、 「はゝゝゝはゝ、いや、恁又ものも汚うなると、手がつけられぬから恐るゝことなし。はゝはゝこら、何うぢやい。」と、ひよいと躍つた。 トコトン〳〵、はらり〳〵、くるりと廻り、ぶんと飛んで、座は唯蠅で蔽はれて、果は夥しい哉渦く中に、幼児は息が留つた。 恰も可し、中形の浴衣、繻子の帯、雪の如き手に団扇を提げて、店口の暖簾を分け、月の眉、先づ差覗いて、 「おゝ、大変な蠅だ。」 と姉が、しなやかに手を振つて、顔に触られまいと、俯向きながら、煽ぎ消すやうに、ヒラヒラと払ふと、そよ〳〵と起る風の筋は、仏の御加護、おのづから、魔を退くる法に合つて、蠅の同勢は漂ひ流れ、泳ぐが如くに、むら〳〵と散つた。 座に着いて、針箱の引出から、一糸其の色紅なるが、幼児の胸にかゝつて居るのを見て、 「いたづらツ児ねえ。」と莞爾、寝顔を優しく睨むと、苺が露に艶かなるまで、朱の唇に蠅が二つ。 「酷いこと!」と柳眉逆立ち、心激して団扇に及ばず、袂の尖で、向うへ払ふと、怪しい虫の消えた後を、姉は袖口で噛んで拭いて遣りながら、同じ針箱の引出から、二つ折、笹色の紅の板。 其れを紅差指で弟の唇に。 一寸四辺を眗して又唇に。 |
そろそろさみだれの季節がやって来る。 同じく雨ではあっても、ふしぎに季節や環境によってその感じは非常にちがっている。それで我国では雨にいろいろな名まえがつけられている。春さめ、さみだれ、しぐれ、驟雨、ゆうだち、霧雨、小糠雨、その外にもなおあるであろう。そう云う雨のいろいろな感じのなかには、雨の音がかなりな役目をはたらいている。さみだれの静かに降りそそぐ音とか、ゆうだちの激しくものを撃つ音とか、音もなくひっそりと濡らしてゆく小糠雨とか、みんなそれぞれの趣きをそなえているのである。 ものしずかに雨の音を聞いていると、いろいろな記憶が心のなかによみがえって来るのも、一つのなつかしげな風情である。 ところで、ちょっと見方を変えて、雨というのはたくさんの水粒が空から生れて、地上に落ちて来るものだと考え出すと、恰もそれらが人間の運命を象徴しているようにも思われる。こういう水の粒にもいろいろの大いさのものがある。眼で見ると、雨は普通に細い線につながって見える。雨の落ちるのはそんなに速いのではないが、それでも人間の眼はその粒を見分けるわけにはゆかない。 そこで雨粒の大いさを測るのにはどうしたらよいか。気象学では、そのためにちょっとおもしろい方法をつかっている。それは雨粒の落ちるのを吸取紙で受けて、紙の上に滲み拡がる面積を測るのである。それから別に半径のわかっている水粒を同質の吸取紙に滲ませてその面積を雨の場合と比較すれば、これから雨粒の大いさを知ることができようと云うのである。 この方法は科学的にはさほど精密だとは云い難いが、雨粒の大いさなどは個々にそれ程精密に知る必要はないのであるし、大体の平均がわかればよいのだから、これでも十分に間に合うのであろう。私がそれをおもしろいと云うのは、雨が何事もなく落ちている間は、人間の眼でその大いさなどはっきりとわからないのに、紙で受けとるとそれがはっきり見えるようになると云うことである。生きているうちはさほどとも思われない人間が死ぬと急にその偉さが世間に認められると云うことなども、之と似ている。 すべてもの事はこれと同じである。たいした変り方もなく続いている間は、そう云う事があると承知していながら、人間はとかくぼんやりと見過ごすだけである。そしてそこに何かの事変が起ると、始めてその正体を認めて、今更のように慌て驚くことすらある。また病気などの場合でも、身体のなかに潜んでいる間は、たとえ自分で承知していても、まあ、どうにかなってゆくと、たいして気にも留めずにいるが、それが何かの反応を起すようになると、これではならぬと、今更その重大さを気にするようになる。これらは人間の通性で仕方のない事だと云ってしまえば、それ迄である。併し事の起らない先にその赴くところをはっきりと見究めることこそ、社会や人生や、その他すべての仕事にとってどれ程大切であるかわからない。 雨粒の大いさを吸取紙で調べるなどは、謂わば昔風な観測法である。もっと近代的な方法としては、雨粒の落ちているのを瞬間的に写真にとればよい、そうすれば大いさもわかるし、形などもはっきりする。普通に人間の眼がぼんやりと見過ごしているのを写真はもっと鋭敏に印してくれる。つまり何事に対しても、表面的な感覚的観察に終らせることなしに、もっと科学的な方法をそこに利用することが必要なのではないか。雨をただ直線的に降るものと呑気に見ているだけではいけない。何かしら大事なことだと察したなら、それを出来るだけ科学的に突きつめる近代的な方法を講ずることが大切なのである。この頃のはやり言葉で云えば、認識というのであろうが、写真のレンズが歪んでいると、とんだまちがった認識を結果しないとも限らないから、それも十分に注意しなくてはならない。 雨粒のようなものは直接に写真にとってその形を見ることができるけれども、もっと小さいものになると、それができなくなる。例えば物理学で取り扱う放射性物質からの放射線のようなものである。これらも雨粒を吸取紙で受けとるように、何かの物質に当ててその作用で調べることはできるが、これでは途中の有様がわからない。そこで、ウィルソン霧箱と云うものをつかって巧妙な方法でその途筋を写真にとると、途中の通路がはっきりわかる。ウィルソン霧箱というのは、物理学の書物を見れば説明してあるが、つまり水蒸気を過飽和にする一種の装置で、そのなかへ放射線を通すと、それが通過した場処にはイオンが出来、その周りに水蒸気が凝結して水粒となるから、これを写真にとると放射線の通路が示されるのである。ちょうど雨粒を糸につらねた恰好でこれもあながち雨粒の話と縁がないとは云われない。 このウィルソン霧箱の方法というのは、説明を聞けば何でもないが、いかにも巧妙なものだと云わなくてはならない。放射線をつくっているα粒子だとか電子だとかは、どんなに小さなものであるかは、物理学ではっきりわかっている。そんな眼に見えぬ小さなものの通路を写真に見せるなどと云うことは実に驚くべきことだと思われる。そこで普通にはとても正体のわからないと考えられる事柄でも、何かの工夫をしてせめてその輪廓をでも明らかにすると云うことが、このウィルソン霧箱のように出来たなら、実にすばらしい事ではあるまいか。 雨粒を見ながら私はこんな事をいろいろ考えていた。この頃のように世間の人心が何かしら不安に襲われているときに、衝撃につき当るまでぼんやり待っていると云うだけでは、まことに心細いものである。 |
或曇つた冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。外を覗くと、うす暗いプラツトフオオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。私は外套のポツケツトへぢつと両手をつつこんだ儘、そこにはいつてゐる夕刊を出して見ようと云ふ元気さへ起らなかつた。 が、やがて発車の笛が鳴つた。私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。所がそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云ひ罵る声と共に、私の乗つてゐる二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌しく中へはいつて来た、と同時に一つづしりと揺れて、徐に汽車は動き出した。一本づつ眼をくぎつて行くプラツトフオオムの柱、置き忘れたやうな運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云つてゐる赤帽――さう云ふすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めて懶い睚をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。 それは油気のない髪をひつつめの銀杏返しに結つて、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との区別さへも弁へない愚鈍な心が腹立たしかつた。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云ふ心もちもあつて、今度はポツケツトの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光が、突然電燈の光に変つて、刷の悪い何欄かの活字が意外な位鮮に私の眼の前へ浮んで来た。云ふまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道の最初のそれへはいつたのである。 しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂欝を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切つてゐた。講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告――私は隧道へはいつた一瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆になつたやうな錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、恰も卑俗な現実を人間にしたやうな面持ちで、私の前に坐つてゐる事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。 それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けようとしてゐる。が、重い硝子戸は中々思ふやうにあがらないらしい。あの皸だらけの頬は愈赤くなつて、時々鼻洟をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しよに、せはしなく耳へはいつて来る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものには相違なかつた。しかし汽車が今将に隧道の口へさしかからうとしてゐる事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側に迫つて来たのでも、すぐに合点の行く事であつた。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下さうとする、――その理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。さうしてその四角な穴の中から、煤を溶したやうなどす黒い空気が、俄に息苦しい煙になつて、濛々と車内へ漲り出した。元来咽喉を害してゐた私は、手巾を顔に当てる暇さへなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかつた。が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢の毛を戦がせながら、ぢつと汽車の進む方向を見やつてゐる。その姿を煤煙と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなつて、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷かに流れこんで来なかつたなら、漸咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかつたのである。 しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶げに暮色を揺つてゐた。やつと隧道を出たと思ふ――その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。 暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体の知れない朗な心もちが湧き上つて来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、不相変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。………… 私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。 |
一 小石川白山のあたりに家がある。小山弥作氏、直槙は、筆者と同郷の出で、知人は渠を獅子屋さんと渾名した。誉過ぎたのでもありません、軽く扱ったのでもありません。 氏神の祭礼に、東京で各町内、侠勇の御神輿を担ぐとおなじように、金沢は、廂を越すほどの幌に、笛太鼓三味線の囃子を入れて、獅子を大練りに練って出ます。その獅子頭に、古来いわれが多い。あの町の獅子が出れば青空も雨となる。一飇の風を捲く。その町の獅子は日和を直す。が、まけるものか荒びは激しい、血を見なければ納まらないと、それを矜りとし名誉として、由緒ある宝物になっている。こういうのは、いずれ名ある仏師、木彫の達人の手になつたものであろうと思う。従って、不断この仕事があるわけではないので、亜流の職人が手間取にこしらえる。一種、郷土玩具の手頃な獅子があって、素材づくりはもとより、漆黒で青い瞳、銀の牙、白い毛。朱丹にして、玉の瞳、金の牙、黒い毛。藍青にして、黒い牙、赤い毛。猛き、凄まじき、種々で、ちょいとした棚の置物、床飾り、小児の玩ぶのは勿論の事。父祖代々この職人の家から、直槙は志を立てて、年紀十五六の時上京した。 彫刻家にして近代の巨匠、千駄木の大師匠と呼ばれた、雲原明流氏の内弟子になり、いわゆるけずり小僧から仕込まれて、門下の逸材として世に知られるようになりました。――獅子屋というのはそうした訳で、人品もよし、腕も冴えた。この人物が、四十を過ぎて、まのあたり、艶異、妖変な事実にぶつかった――ちと安価な広告じみますが、お許しを願って、その、直話をここに、記そうと思う。…… ついては、さきだって、二つ三つ、お耳に入れておきたい話があります。 二 以前、まだ、獅子屋さんの話をきかないうち、筆者は山の手の夜店で、知った方は――笑って、ご存じ……大嫌な犬が、人混の中から、大鰻の化けたような面。……なに馬鹿を言え、犬の面がそんなものに似てたまるかと……御尤でありますが、どうも時々そう見える。――その面が出はしまいかと気にしながら、古本古雑誌の前に踞込んで、おやすく買求めて来ましたのが、半紙綴八十枚ばかりの写本、題して「近世怪談録」という。勿論江戸時代、寛政、明和の頃に、見もし聞きもした不思議な話を筆写したものでありますが、伝写がかさなっているらしく、草行まじりで、丁寧だけれども筆耕が辿々しい。第一、目録が目線であります。下総が下綱だったり、蓮花が蓬の花だったり、鼻が阜になって、腹が榎に見える。らりるれろはほとんど、ろろろろろで、そのまま焼酎火が燃えそうなのが、みな女筆だからおもしろい。 中に、浅草だの、新吉原だの、女郎だのという字は、優しく柔かにしっとりと、間違いなくかいてある。どうも、このうつしものを手内職にした、その頃の、ごしんぞ、女房、娘。円髷か、島田か、割鹿子。……やつれた束ね髪ででもありましょうか、薄暗い行燈のもとに筆をとっている、ゆかしい、あわれな、寂しい姿が、何となく、なつかしく目に映る。何も、燈心の灯影は、夜と限ったわけではありません、しょぼしょぼ雨の柳の路地の窓際でもよし、夕顔のまばら垣に、蚊遣が添っても構いはしない。……内職の仕事といえば、御殿や、お邸でさえなければ、言わずともその情景は偲ばれましょう。 ところで、何しろ「怪談録」です。怨念の蛇がぬらぬらと出たり、魔界の巷に旅人が徜徉ったり。……川柳にさえあるのです……(細首を掴んで遣手蔵へ入れ)……そのかぼそい遊女の責殺された幻が裏階子に彳んだり、火の車を引いて鬼が駆けたり、真夜中の戸障子が縁の方から、幾重にも、おのずからスッと開いて、青い坊さんが入って来たりするのでありますから、がたがたがた、酒屋の小僧が台所の戸を開けても、ハッと思い、蚊遣の火も怪しく燃えれば、煙の末に鬼が顕われ、夕顔の蕊もおはぐろでニタリと笑う。柳の雫も青い尾を曳く。ふと行燈に蟷螂でも留ったとする……眼をぎょろりと、頬被で、血染の斧を。 「あれえ。」 筆を持った白い手を、わななかせたに違いない。 時に、白い手といえば、「怪談録」目録の第一に、一、浅草川船中にて怪霊に逢う事、というのがある。 当時の俳諧師、雪中庵の門人、四五輩。寛延年不詳、霜月のしかも晦日、枯野見からお定まりの吉原へ。引手茶屋で飲んだのが、明日は名におう堺町葺屋町の顔見世、夜の中から前景気の賑いを茶屋で見ようと、雅名を青楼へ馳せず芝居に流した、どのみち、傘雨さん(久保田氏)の選には入りそうもないのが、堀から舟で乗出した。もう十時を過ぎている、やがて十二時。舳が蔵前をさすあたり、漾蕩たる水の暗さにも、千鳥の声に、首尾の松が音ずれして、くらやみから姿をさしのべ、舟を抱くばかりに思うと、ぴたりと留って動かない。櫓づかいをあせる船頭の様子も仔細ありげで、夜は深し、潮も満ちて不気味千万、いい合わせたように膝を揉合い、やみを透すと、心持、大きな片手で、首尾の松を拝んだような船の舳に、ぼっと、白いものが搦んでいる。呼吸を詰めて見透すと、白い、細りした、女の手ばかりが水の中から舳に縋っているのであります。「さながら白き布かと見えて、雪のごとし」と、写本には書いてある。うつくしい女の手が布に見えたのは、嘘ではないらしい。狂言の小舞の謡にも、 十六七は棹に掛けた細布、折取りゃいとし、手繰りよりゃいとし…… 肌さえ身さえ、手の縋った、いとしいのを。 「やあ、畜生。」 この怪もの、といったか、河童、といったか、記してないが、「いでその手ぶし切落さんと、若き人、脇指、」……は無法である。けだし首尾の松の下だけの英雄で、初めから、一人供をした幇間が慌てて留めるのは知れている。なぜにその手を取って引上げて見なかったろう。もし枝葉に置く霜の影に透したらんに、細い腕に袖絡み、乳乱れ、褄流れて、白脛はその二片の布を流に掻絞られていたかも知れない。 船頭もまた臆病すぎる。江戸児だろうに、溺れた女とも、身投とも弁えず、棒杭のようにかたくなって、ただ、しい、しい、静にとばかり。おのおの青くなって、息を凝らすうちに――「かの白き手、舳をはなし、水中に消入りぬ。」…… 潮に乗って船は出た。 「が、しかし、水に溺れましたか、あるいは身投の婦人が苦しさのあまり、助りたさにとも申すような……」 幇間、もう遅い。分別おくれに、船頭と相顧みて、「船中このあたりにては、かような不思議はままある事、後に聞くもの、驚かずという事なし、いかなるものやらん合点ゆかず、恐しかりける事なり。」である。 が、ここを筆耕した、上品な、またおっとりと、ものやさしい、ご新造、娘には、恐しかりける事より、何となく、ものあわれに、悲しく、うら寂しく、心を打たれたろうと思う。 あとは隅田の凩である。 この次手に―― 浅間山の麓にて火車往来の事 軽井沢へ避暑の真似をして、旅宿の払にまごついたというのではない。後世こそ大事なれと、上総から六部に出た老人が、善光寺へ参詣の途中、浅間山の麓に……といえば、まずその硫黄の香と黒煙が想われる。……さて行悩んで、侘しげなる茶屋に立寄り休むうちに、亭主がいうには、去年、(享保年中)八月中ばの事――その日も、やがて八ツ下り。稗黍の葉を吹く風もやや涼しく、熔岩とともにころがった南瓜の縁に、小休みの土地のもの二三人、焼土の通り径を見ながら、飯盛の彼女は、赤い襦袢を新しく買った。笄を質に入れたなどと話していると、遥に東の方よりむら立つ雲もなく、虚空を渡るがごとく、車の駆来る音して、しばらくの間に目前へ近づいたのを見ると、あら、可恐し、素裸の荒漢、三人、車を宙に輾くごとし。真先に、布、紙を弁えず飜した、旗の面に、何と、武州、郡の名、村の名、人の名――(ともに憚ると註してある)――歴々と記したるが矢よりも早く飛過ぐる。火を揚げ煙を噴いた車の中に、炎の搦んだように腰の布が紅に裂けて、素裸であろう、黒髪ばかり蓑のごとく乱れた、躯をのせた、輻が軋り、轍が轟き、磽确たる石径を舞上って、「あれあれ浅間山の煙の中へ火の尾を曳いて消えて候よ、六部どの。われら世過ぎにせわしき身は、一夜の旅も、糧ゆえに思うに任せず、廻国のついでに、おのずから、その武州何郡、何村に赴きたまわば、」事のよしをも訪いとむらいたまえと、舌を掉って語ったというのである。――嘘ばっかり。大小哥哥、宿場女郎の髪の香、肌ざわりなど大話をしていたればこそ、そんなものが顕われた。猪か猿を取って、威勢よく飛んだか、早伝馬が駆出したか、不埒にして雲助どもが旅の女を攫ったのかも分らない。はた車の輪の疾く軋るや、秋の夕日に尾花を燃さないと誰が言おう――おかしな事は、人が問いもしないのに、道中、焼山越の人足である――たとえ緊めなくても済むものを、虎の皮には弱ったと見えて、火の車を飛ばした三個の鬼が、腰に何やらん襤褸を絡っていた、は窮している。……ただし窮してまで虎の皮代用の申訳をした、というので、浅間山の麓の茶屋の亭主は語り、六部の爺様は聞いて、世に伝えたのは事実らしい。 三 これに続いて、 目白辺の屋敷猫を殺しむくいし事 下谷辺にて浪人居宅化霊ありし事 三州岡崎宿にて旅人狒々に逢う事 奥州にて旅人山に入り琴の音を尋ねる事 題を見ただけでも、唐から渡りものの飜案で、安価な上方版のお伽稗子そのままなのが直ぐ知れる。 新吉原山口にて客幽霊を見し事 同角町海老屋の女郎客の難に逢いし事 二つとも、ものあわれな譚だが、吉原の怪談といえば、おなじようなのがいくらもあります。 上野国岡部の寺にて怪しき亡者の事 美濃国の百姓の女房大蛇になる事 どうも灰吹から異形になって立顕われるのに、蓋をしたい、煙のようなのが多い。誰の気もおなじと見えて、ずらりと並べた目録の上に、いつかこの写本を見た読者の心をひいたらしく、ただ一つ題の上に、大きな○をかけた一条がある。 |
一 午砲を打つと同時に、ほとんど人影の見えなくなった大学の図書館は、三十分経つか経たない内に、もうどこの机を見ても、荒方は閲覧人で埋まってしまった。 机に向っているのは大抵大学生で、中には年輩の袴羽織や背広も、二三人は交っていたらしい。それが広い空間を規則正しく塞いだ向うには、壁に嵌めこんだ時計の下に、うす暗い書庫の入口が見えた。そうしてその入口の両側には、見上げるような大書棚が、何段となく古ぼけた背皮を並べて、まるで学問の守備でもしている砦のような感を与えていた。 が、それだけの人間が控えているのにも関らず、図書館の中はひっそりしていた。と云うよりもむしろそれだけの人間がいて、始めて感じられるような一種の沈黙が支配していた。書物の頁を飜す音、ペンを紙に走らせる音、それから稀に咳をする音――それらの音さえこの沈黙に圧迫されて、空気の波動がまだ天井まで伝わらない内に、そのまま途中で消えてしまうような心もちがした。 俊助はこう云う図書館の窓際の席に腰を下して、さっきから細かい活字の上に丹念な眼を曝していた。彼は色の浅黒い、体格のがっしりした青年だった。が、彼が文科の学生だと云う事は、制服の襟にあるLの字で、問うまでもなく明かだった。 彼の頭の上には高い窓があって、その窓の外には茂った椎の葉が、僅に空の色を透かせた。空は絶えず雲の翳に遮られて、春先の麗らかな日の光も、滅多にさしては来なかった。さしてもまた大抵は、風に戦いでいる椎の葉が、朦朧たる影を書物の上へ落すか落さない内に消えてしまった。その書物の上には、色鉛筆の赤い線が、何本も行の下に引いてあった。そうしてそれが時の移ると共に、次第に頁から頁へ移って行った。…… 十二時半、一時、一時二十分――書庫の上の時計の針は、休みなく確かに動いて行った。するとかれこれ二時かとも思う時分、図書館の扉口に近い、目録の函の並んでいる所へ、小倉の袴に黒木綿の紋附をひっかけた、背の低い角帽が一人、無精らしく懐手をしながら、ふらりと外からはいって来た。これはその懐からだらしなくはみ出したノオト・ブックの署名によると、やはり文科の学生で、大井篤夫と云う男らしかった。 彼はそこに佇んだまま、しばらくはただあたりの机を睨めつけたように物色していたが、やがて向うの窓を洩れる大幅な薄日の光の中に、余念なく書物をはぐっている俊助の姿が目にはいると、早速その椅子の後へ歩み寄って、「おい」と小さな声をかけた。俊助は驚いたように顔を挙げて、相手の方を振返ったが、たちまち浅黒い頬に微笑を浮べて「やあ」と簡単な挨拶をした。と、大井も角帽をかぶったなり、ちょいと顋でこの挨拶に答えながら、妙に脂下った、傲岸な調子で、 「今朝郁文堂で野村さんに会ったら、君に言伝てを頼まれた。別に差支えがなかったら、三時までに『鉢の木』の二階へ来てくれと云うんだが。」 二 「そうか。そりゃ難有う。」 俊助はこう云いながら、小さな金時計を出して見た。すると大井は内懐から手を出して剃痕の青い顋を撫で廻しながら、じろりとその時計を見て、 「すばらしい物を持っているな。おまけに女持ちらしいじゃないか。」 「これか。こりゃ母の形見だ。」 俊助はちょいと顔をしかめながら、無造作に時計をポッケットへ返すと、徐に逞しい体を起して、机の上にちらかっていた色鉛筆やナイフを片づけ出した。その間に大井は俊助の読みかけた書物を取上げて、好い加減に所々開けて見ながら、 「ふん Marius the Epicurean か。」と、冷笑するような声を出したが、やがて生欠伸を一つ噛み殺すと、 「俊助ズィ・エピキュリアンの近況はどうだい。」 「いや、一向振わなくって困っている。」 「そう謙遜するなよ。女持ちの金時計をぶら下げているだけでも、僕より遥に振っているからな。」 大井は書物を抛り出して、また両手を懐へ突こみながら、貧乏揺りをし始めたが、その内に俊助が外套へ手を通し出すと、急に思い出したような調子で、 「おい、君は『城』同人の音楽会の切符を売りつけられたか。」と真顔になって問いかけた。 『城』と言うのは、四五人の文科の学生が「芸術の為の芸術」を標榜して、この頃発行し始めた同人雑誌の名前である。その連中の主催する音楽会が近々築地の精養軒で開かれると云う事は、法文科の掲示場に貼ってある広告で、俊助も兼ね兼ね承知していた。 「いや、仕合せとまだ売りつけられない。」 俊助は正直にこう答えながら、書物を外套の腋の下へ挟むと、時代のついた角帽をかぶって、大井と一しょに席を離れた。と、大井も歩きながら、狡猾そうに眼を働かせて、 「そうか、僕はもう君なんぞはとうに売りつけられたと思っていた。じゃこの際是非一枚買ってやってくれ。僕は勿論『城』同人じゃないんだが、あすこの藤沢に売りつけ方を委託されて、実は大いに困却しているんだ。」 不意打を食った俊助は、買うとか買わないとか答える前に、苦笑しずにはいられなかった。が、大井は黒木綿の紋附の袂から、『城』同人の印のある、洒落れた切符を二枚出すと、それをまるで花札のように持って見せて、 「一等が三円で、二等が二円だ。おい、どっちにする? 一等か。二等か。」 「どっちも真平だ。」 「いかん。いかん。金時計の手前に対しても、一枚だけは買う義務がある。」 二人はこんな押問答を繰返しながら、閲覧人で埋まっている机の間を通りぬけて、とうとう吹き曝しの玄関へ出た。するとちょうどそこへ、真赤な土耳其帽をかぶった、痩せぎすな大学生が一人、金釦の制服に短い外套を引っかけて、勢いよく外からはいって来た。それが出合頭に大井と顔を合せると、女のような優しい声で、しかもまた不自然なくらい慇懃に、 「今日は。大井さん。」と、声をかけた。 三 「やあ、失敬。」 大井は下駄箱の前に立止ると、相不変図太い声を出した。が、その間も俊助に逃げられまいと思ったのか、剃痕の青い顋で横柄に土耳其帽をしゃくって見せて、 「君はまだこの先生を知らなかったかな。仏文の藤沢慧君。『城』同人の大将株で、この間ボオドレエル詩抄と云う飜訳を出した人だ。――こっちは英文の安田俊助君。」と、手もなく二人を紹介してしまった。 そこで俊助も已むを得ず、曖昧な微笑を浮べながら、角帽を脱いで黙礼した。が、藤沢は、俊助の世慣れない態度とは打って変った、いかにも如才ない調子で、 「御噂は予々大井さんから、何かと承わって居りました。やはり御創作をなさいますそうで。その内に面白い物が出来ましたら、『城』の方へ頂きますから、どうかいつでも御遠慮なく。」 俊助はまた微笑したまま、「いや」とか「いいえ」とか好い加減な返事をするよりほかはなかった。すると今まで皮肉な眼で二人を見比べていた大井が、例の切符を土耳其帽に見せると、 「今、大いに『城』同人へ御忠勤を抽んでている所なんだ。」と、自慢がましい吹聴をした。 「ああ、そう。」 藤沢は気味の悪いほど愛嬌のある眼で、ちょいと俊助と切符とを見比べたが、すぐその眼を大井へ返して、 「じゃ一等の切符を一枚差上げてくれ給え。――失礼ですけれども、切符の御心配はいりませんから、聴きにいらして下さいませんか。」 俊助は当惑そうな顔をして、何度も平に辞退しようとした。が、藤沢はやはり愛想よく笑いながら、「御迷惑でもどうか」を繰返して、容易に出した切符を引込めなかった。のみならず、その笑の後からは、万一断られた場合には感じそうな不快さえ露骨に透かせて見せた。 「じゃ頂戴して置きます。」 俊助はとうとう我を折って、渋々その切符を受取りながら、素っ気ない声で礼を云った。 |
一、病中閑なるを幸ひ、諸雑誌の小説を十五篇ばかり読む。滝井君の「ゲテモノ」同君の作中にても一頭地を抜ける出来栄えなり。親父にも、倅にも、風景にも、朴にして雅を破らざること、もろこしの餅の如き味はひありと言ふべし。その手際の鮮かなるは恐らくは九月小説中の第一ならん乎。 二、里見君の「蚊遣り」も亦十月小説中の白眉なり。唯聊か末段に至つて落筆匇匇の憾みあらん乎。他は人情的か何か知らねど、不相変巧手の名に背かずと言ふべし。 三、旅に病めることは珍らしからず。(今度も軽井沢の寐冷えを持ち越せるなり。)但し最も苦しかりしは丁度支那へ渡らんとせる前、下の関の宿屋に倒れし時ならん。この時も高が風邪なれど、東京、大阪、下の関と三度目のぶり返しなれば、存外熱も容易には下らず、おまけに手足にはピリン疹を生じたれば、女中などは少くとも梅毒患者位には思ひしなるべし。彼等の一人、僕を憐んで曰、「注射でもなすつたら、よろしうございませうに。」 東雲の煤ふる中や下の関 四、彼は昨日「小咄文学」を罵り、今日恬然として「コント文学」を作る。宜なるかな。彼の健康なるや。 五、小穴隆一、軽井沢の宿屋にて飯を食ふこと五椀の後女中の前に小皿を出し、「これに飯を少し」と言へば、佐佐木茂索、「まだ食ふ気か」と言ふ。「ううん、手紙の封をするのだ」と言へど、茂索、中中承知せず「あとでそつと食ふ気だらう」と言ふ。隆一、憮然として、「ぢや大和糊にするわ」と言へば、茂索、愈承知せず、「ははあ、糊でも舐める気だな。」 六、それから又玉突き場に遊びゐたるに、一人の年少紳士あり。僕等の仲間に入れてくれと言ふ。彼の僕等に対するや、未だ嘗「ます」と言ふ語尾を使はず、「そら、そこを厚く中てるんだ」などと命令すること屡なり。然れどもワン・ピイスを一着したる佐佐木夫人に対するや、慇懃に礼を施して曰、「あなたはソオシアル・ダンスをおやりですか?」佐佐木夫人の良人即ち佐佐木茂索、「あいつは一体何ものかね」と言へば、何度も玉に負けたる隆一、言下に正体を道破して曰、「小金をためた玉ボオイだらう。」 七、軽井沢に芭蕉の句碑あり。「馬をさへながむる雪のあしたかな」の句を刻す。これは甲子吟行中の句なれば、名古屋あたりの作なるべし。それを何ゆゑに刻したるにや。因に言ふ、追分には「吹き飛ばす石は浅間の野分かな」の句碑あるよし。 八、軽井沢の或骨董屋の英語、――「ジス・キリノ(桐の)・ボツクス・イズ・ベリイ・ナイス。」 九、室生犀星、碓氷山上よりつらなる妙義の崔嵬たるを望んで曰、「妙義山と言ふ山は生姜に似てゐるね。」 十、十項だけ書かんと思ひしも熱出でてペンを続けること能はず。 |
時 不詳。ただし封建時代――晩秋。日没前より深更にいたる。 所 播州姫路。白鷺城の天守、第五重。 登場人物 天守夫人、富姫。(打見は二十七八)岩代国猪苗代、亀の城、亀姫。(二十ばかり)姫川図書之助。(わかき鷹匠)小田原修理。山隅九平。(ともに姫路城主武田播磨守家臣)十文字ヶ原、朱の盤坊。茅野ヶ原の舌長姥。(ともに亀姫の眷属)近江之丞桃六。(工人)桔梗。萩。葛。女郎花。撫子。(いずれも富姫の侍女)薄。(おなじく奥女中)女の童、禿、五人。武士、討手、大勢。 舞台。天守の五重。左右に柱、向って三方を廻廊下のごとく余して、一面に高く高麗べりの畳を敷く。紅の鼓の緒、処々に蝶結びして一条、これを欄干のごとく取りまわして柱に渡す。おなじ鼓の緒のひかえづなにて、向って右、廻廊の奥に階子を設く。階子は天井に高く通ず。左の方廻廊の奥に、また階子の上下の口あり。奥の正面、及び右なる廻廊の半ばより厚き壁にて、広き矢狭間、狭間を設く。外面は山岳の遠見、秋の雲。壁に出入りの扉あり。鼓の緒の欄干外、左の一方、棟甍、並びに樹立の梢を見す。正面おなじく森々たる樹木の梢。 女童三人――合唱―― ここはどこの細道じゃ、細道じゃ、 天神様の細道じゃ、細道じゃ。 ――うたいつつ幕開く―― 侍女五人。桔梗、女郎花、萩、葛、撫子。各名にそぐえる姿、鼓の緒の欄干に、あるいは立ち、あるいは坐て、手に手に五色の絹糸を巻きたる糸枠に、金色銀色の細き棹を通し、糸を松杉の高き梢を潜らして、釣の姿す。 女童三人は、緋のきつけ、唄いつづく。――冴えて且つ寂しき声。 少し通して下さんせ、下さんせ。 ごようのないもな通しません、通しません。 天神様へ願掛けに、願掛けに。 通らんせ、通らんせ。 唄いつつその遊戯をす。 薄、天守の壁の裡より出づ。壁の一劃はあたかも扉のごとく、自由に開く、この婦やや年かさ。鼈甲の突通し、御殿奥女中のこしらえ。 薄 鬼灯さん、蜻蛉さん。 女童一 ああい。 薄 静になさいよ、お掃除が済んだばかりだから。 女童二 あの、釣を見ましょうね。 女童三 そうね。 いたいけに頷きあいつつ、侍女等の中に、はらはらと袖を交う。 薄 (四辺を眗す)これは、まあ、まことに、いい見晴しでございますね。 葛 あの、猪苗代のお姫様がお遊びにおいででございますから。 桔梗 お鬱陶しかろうと思いまして。それには、申分のございませんお日和でございますし、遠山はもう、もみじいたしましたから。 女郎花 矢狭間も、物見も、お目触りな、泥や、鉄の、重くるしい、外囲は、ちょっと取払っておきました。 薄 成程、成程、よくおなまけ遊ばす方たちにしては、感心にお気のつきましたことでございます。 桔梗 あれ、人ぎきの悪いことを。――いつ私たちがなまけましたえ。 薄 まあ、そうお言いの口の下で、何をしておいでだろう。二階から目薬とやらではあるまいし、お天守の五重から釣をするものがありますかえ。天の川は芝を流れはいたしません。富姫様が、よそへお出掛け遊ばして、いくら間があると申したって、串戯ではありません。 撫子 いえ、魚を釣るのではございません。 桔梗 旦那様の御前に、ちょうど活けるのがございませんから、皆で取って差上げようと存じまして、花を……あの、秋草を釣りますのでございますよ。 薄 花を、秋草をえ。はて、これは珍しいことを承ります。そして何かい、釣れますかえ。 女童の一人の肩に、袖でつかまって差覗く。 |
停車場で釣錢と往復切符と一所に市川桃林案内と云ふ紙を貰つて汽車へのツタ、ポカ〳〵暖い日であつたから三等車はこみ合つて暑かつたが二等車では謠本を廣げて首をふつて居る髯を見うけた。市川で下りて人の跡へ付いて三丁程歩くと直ぐ其處が桃林だ、不規則な道はついて居るが人を入れまいとしつらへた垣根は嚴重で着物の裾に二つ三つかぎざきをせねば桃下の人となるわけには行かぬのである。徑が曲りくねつて居るから見た所が窮屈でごちや〳〵して居るので一向に興が薄ひ樣な心持がする、再び本道へ出ると桃の枝に中山こんにやくをぶらさげ自轉車へ乘つて來る人に逢つた 明治36年4月7日『日本』 |
内田百間氏は夏目先生の門下にして僕の尊敬する先輩なり。文章に長じ、兼ねて志田流の琴に長ず。 |
思想と実生活とが融合した、そこから生ずる現象――その現象はいつでも人間生活の統一を最も純粋な形に持ち来たすものであるが――として最近に日本において、最も注意せらるべきものは、社会問題の、問題としてまた解決としての運動が、いわゆる学者もしくは思想家の手を離れて、労働者そのものの手に移ろうとしつつあることだ。ここで私のいう労働者とは、社会問題の最も重要な位置を占むべき労働問題の対象たる第四階級と称せられる人々をいうのだ。第四階級のうち特に都会に生活している人々をいうのだ。 もし私の考えるところが間違っていなかったら、私が前述した意味の労働者は、従来学者もしくは思想家に自分たちを支配すべきある特権を許していた。学者もしくは思想家の学説なり思想なりが労働者の運命を向上的方向に導いていってくれるものであるとの、いわば迷信を持っていた。そしてそれは一見そう見えたに違いない。なぜならば、実行に先立って議論が戦わされねばならぬ時期にあっては、労働者は極端に口下手であったからである。彼らは知らず識らず代弁者にたよることを余儀なくされた。単に余儀なくされたばかりでなく、それにたよることを最上無二の方法であるとさえ信じていた。学者も思想家も、労働者の先達であり、指導者であるとの誇らしげな無内容な態度から、多少の覚醒はしだしてきて、代弁者にすぎないとの自覚にまでは達しても、なお労働問題の根柢的解決は自分らの手で成就さるべきものだとの覚悟を持っていないではない。労働者はこの覚悟に或る魔術的暗示を受けていた。しかしながらこの迷信からの解放は今成就されんとしつつあるように見える。 労働者は人間の生活の改造が、生活に根ざしを持った実行の外でしかないことを知りはじめた。その生活といい、実行といい、それは学者や思想家には全く欠けたものであって、問題解決の当体たる自分たちのみが持っているのだと気づきはじめた。自分たちの現在目前の生活そのままが唯一の思想であるといえばいえるし、また唯一の力であるといえばいえると気づきはじめた。かくして思慮深い労働者は、自分たちの運命を、自分たちの生活とは異なった生活をしながら、しかも自分たちの身の上についてかれこれいうところの人々の手に託する習慣を破ろうとしている。彼らはいわゆる社会運動家、社会学者の動く所には猜疑の眼を向ける。公けにそれをしないまでも、その心の奥にはかかる態度が動くようになっている。その動き方はまだ幽かだ。それゆえ世人一般はもとよりのこと、いちばん早くその事実に気づかねばならぬ学者思想家たち自身すら、心づかずにいるように見える。しかし心づかなかったら、これは大きな誤謬だといわなければならない。その動き方は未だ幽かであろうとも、その方向に労働者の動きはじめたということは、それは日本にとっては最近に勃発したいかなる事実よりも重大な事実だ。なぜなら、それは当然起こらねばならなかったことが起こりはじめたからだ。いかなる詭弁も拒むことのできない事実の成り行きがそのあるべき道筋を辿りはじめたからだ。国家の権威も学問の威光もこれを遮り停めることはできないだろう。在来の生活様式がこの事実によってどれほどの混乱に陥ろうとも、それだといって、当然現わるべくして現われ出たこの事実をもみ消すことはもうできないだろう。 かつて河上肇氏とはじめて対面した時(これから述べる話柄は個人的なものだから、ここに公言するのはあるいは失当かもしれないが、ここでは普通の礼儀をしばらく顧みないことにする)、氏の言葉の中に「現代において哲学とか芸術とかにかかわりを持ち、ことに自分が哲学者であるとか、芸術家であるとかいうことに誇りをさえ持っている人に対しては自分は侮蔑を感じないではいられない。彼らは現代がいかなる時代であるかを知らないでいる。知っていながら哲学や芸術に没頭しているとすれば、彼らは現代から取り残された、過去に属する無能者である。彼らがもし『自分たちは何事もできないから哲学や芸術をいじくっている。どうかそっと邪魔にならない所に自分たちをいさしてくれ』というのなら、それは許されないかぎりでもない。しかしながら、彼らが十分の自覚と自信をもって哲学なり、芸術なりにたずさわっていると主張するなら、彼らは全く自分の立場を知らないものだ」という意味を言われたのを記憶する。私はその時、すなおに氏の言葉を受け取ることができなかった。そしてこういう意味の言葉をもって答えた。「もし哲学者なり芸術家なりが、過去に属する低能者なら、労働者の生活をしていない学者思想家もまた同様だ。それは要するに五十歩百歩の差にすぎない」。この私の言葉に対して河上氏はいった、「それはそうだ。だから私は社会問題研究者としてあえて最上の生活にあるとは思わない。私はやはり何者にか申しわけをしながら、自分の仕事に従事しているのだ。……私は元来芸術に対しては深い愛着を持っている。芸術上の仕事をしたら自分としてはさぞ愉快だろうと思うことさえある。しかしながら自分の内部的要求は私をして違った道を採らしている」と。これでここに必要な二人の会話のだいたいはほぼ尽きているのだが、その後また河上氏に対面した時、氏は笑いながら「ある人は私が炬燵にあたりながら物をいっていると評するそうだが、全くそれに違いない。あなたもストーヴにあたりながら物をいってる方だろう」と言われたので、私もそれを全く首肯した。河上氏にはこの会話の当時すでに私とは違った考えを持っていられたのだろうが、その時ごろの私の考えは今の私の考えとはだいぶ相違したものだった。今もし河上氏があの言葉を発せられたら、私はやはり首肯したではあろうけれども、ある異なった意味において首肯したに違いない。今なら私は河上氏の言葉をこう解する、「河上氏も私も程度の差こそあれ、第四階級とは全く異なった圏内に生きている人間だという点においては全く同一だ。河上氏がそうであるごとく、ことに私は第四階級とはなんらの接触点をも持ちえぬのだ。私が第四階級の人々に対してなんらかの暗示を与ええたと考えたら、それは私の謬見であるし、第四階級の人が私の言葉からなんらかの影響を被ったと想感したら、それは第四階級の人の誤算である。第四階級者以外の生活と思想とによって育ち上がった私たちは、要するに第四階級以外の人々に対してのみ交渉を持つことができるのだ。ストーヴにあたりながら物をいっているどころではない。全く物などはいっていないのだ」と。 私自身などは物の数にも足らない。たとえばクロポトキンのような立ち優れた人の言説を考えてみてもそうだ。たといクロポトキンの所説が労働者の覚醒と第四階級の世界的勃興とにどれほどの力があったにせよ、クロポトキンが労働者そのものでない以上、彼は労働者を活き、労働者を考え、労働者を働くことはできなかったのだ。彼が第四階級に与えたと思われるものは第四階級が与えることなしに始めから持っていたものにすぎなかった。いつかは第四階級はそれを発揮すべきであったのだ、それが未熟のうちにクロポトキンによって発揮せられたとすれば、それはかえって悪い結果であるかもしれないのだ。第四階級者はクロポトキンなしにもいつかは動き行くべき所に動いて行くであろうから。そしてその動き方の方がはるかに堅実で自然であろうから。労働者はクロポトキン、マルクスのような思想家をすら必要とはしていないのだ。かえってそれらのものなしに行くことが彼らの独自性と本能力とをより完全に発揮することになるかもしれないのだ。 それならたとえばクロポトキン、マルクスたちのおもな功績はどこにあるかといえば、私の信ずるところによれば、クロポトキンが属していた(クロポトキン自身はそうであることを厭ったであろうけれども、彼が誕生の必然として属せずにいられなかった)第四階級以外の階級者に対して、ある観念と覚悟とを与えたという点にある。マルクスの資本論でもそうだ。労働者と資本論との間に何のかかわりがあろうか。思想家としてのマルクスの功績は、マルクス同様資本王国の建設に成る大学でも卒業した階級の人々が翫味して自分たちの立場に対して観念の眼を閉じるためであるという点において最も著しいものだ。第四階級者はかかるものの存在なしにでも進むところに進んで行きつつあるのだ。 今後第四階級者にも資本王国の余慶が均霑されて、労働者がクロポトキン、マルクスその他の深奥な生活原理を理解してくるかもしれない。そしてそこから一つの革命が成就されるかもしれない。しかしそんなものが起こったら、私はその革命の本質を疑わずにはいられない。仏国革命が民衆のための革命として勃発したにもかかわらず、ルーソーやヴォルテールなどの思想が縁になって起こった革命であっただけに、その結果は第三階級者の利益に帰して、実際の民衆すなわち第四階級は以前のままの状態で今日まで取り残されてしまった。現在のロシアの現状を見てもこの憾みはあるように見える。 彼らは民衆を基礎として最後の革命を起こしたと称しているけれども、ロシアにおける民衆の大多数なる農民は、その恩恵から除外され、もしくはその恩恵に対して風馬牛であるか、敵意を持ってさえいるように報告されている。真個の第四階級から発しない思想もしくは動機によって成就された改造運動は、当初の目的以外の所に行って停止するほかはないだろう。それと同じように、現在の思想家や学者の所説に刺戟された一つの運動が起こったとしても、そしてその運動を起こす人がみずから第四階級に属すると主張したところが、その人は実際において、第四階級と現在の支配階級との私生子にすぎないだろう。 ともかくも第四階級が自分自身の間において考え、動こうとしだしてきたという現象は、思想家や学者に熟慮すべき一つの大きな問題を提供している。それを十分に考えてみることなしに、みずから指導者、啓発者、煽動家、頭領をもって任ずる人々は多少笑止な立場に身を置かねばなるまい。第四階級は他階級からの憐憫、同情、好意を返却し始めた。かかる態度を拒否するのも促進するのも一に繋って第四階級自身の意志にある。 私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶対にできないから、ならしてもらおうとも思わない。第四階級のために弁解し、立論し、運動する、そんなばかげきった虚偽もできない。今後私の生活がいかように変わろうとも、私は結局在来の支配階級者の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗い立てられても、黒人種たるを失わないのと同様であるだろう。したがって私の仕事は第四階級者以外の人々に訴える仕事として始終するほかはあるまい。世に労働文芸というようなものが主張されている。またそれを弁護し、力説する評論家がある。彼らは第四階級以外の階級者が発明した文字と、構想と、表現法とをもって、漫然と労働者の生活なるものを描く。彼らは第四階級以外の階級者が発明した論理と、思想と、検察法とをもって、文芸的作品に臨み、労働文芸としからざるものとを選り分ける。私はそうした態度を採ることは断じてできない。 |
上 何心なく、背戸の小橋を、向こうの蘆へ渡りかけて、思わず足を留めた。 不図、鳥の鳴音がする。……いかにも優しい、しおらしい声で、きりきり、きりりりり。 その声が、直ぐ耳近に聞こえたが、つい目前の樹の枝や、茄子畑の垣根にした藤豆の葉蔭ではなく、歩行く足許の低い処。 其処で、立ち佇って、ちょっと気を注けたが、もう留んで寂りする。――秋の彼岸過ぎ三時下りの、西日が薄曇った時であった。この秋の空ながら、まだ降りそうではない。桜山の背後に、薄黒い雲は流れたが、玄武寺の峰は浅葱色に晴れ渡って、石を伐り出した岩の膚が、中空に蒼白く、底に光を帯びて、月を宿していそうに見えた。 その麓まで見通しの、小橋の彼方は、一面の蘆で、出揃って早や乱れかかった穂が、霧のように群立って、藁屋を包み森を蔽うて、何物にも目を遮らせず、山々の茅薄と一連に靡いて、風はないが、さやさやと何処かで秋の暮を囁き合う。 その蘆の根を、折れた葉が網に組み合せた、裏づたいの畦路へ入ろうと思って、やがて踏み出す、とまたきりりりりと鳴いた。 「なんだろう」 虫ではない、確かに鳥らしく聞こえるが、やっぱり下の方で、どうやら橋杭にでもいるらしかった。 「千鳥かしらん」 いや、磯でもなし、岩はなし、それの留まりそうな澪標もない。あったにしても、こう人近く、羽を驚かさぬ理由はない。 汀の蘆に潜むか、と透かしながら、今度は心してもう一歩。続いて、がたがたと些と荒く出ると、拍子に掛かって、きりきりきり、きりりりり、と鳴き頻る。 熟と聞きながら、うかうかと早や渡り果てた。 橋は、丸木を削って、三、四本並べたものにすぎぬ。合せ目も中透いて、板も朽ちたり、人通りにはほろほろと崩れて落ちる。形ばかりの竹を縄搦げにした欄干もついた、それも膝までは高くないのが、往き還り何時もぐらぐらと動く。橋杭ももう痩せて――潮入りの小川の、なだらかにのんびりと薄墨色して、瀬は愚か、流れるほどは揺れもしないのに、水に映る影は弱って、倒に宿る蘆の葉とともに蹌踉する。 が、いかに朽ちたればといって、立樹の洞でないものを、橋杭に鳥は棲むまい。馬の尾に巣くう鼠はありと聞けど。 「どうも橋らしい」 もう一度、試みに踏み直して、橋の袂へ乗り返すと、跫音とともに、忽ち鳴き出す。 (きりきりきり、きりりりりり……) あまり爪尖に響いたので、はっと思って浮足で飛び退った。その時は、雛の鶯を蹂み躙ったようにも思った、傷々しいばかり可憐な声かな。 確かに今乗った下らしいから、また葉を分けて……ちょうど二、三日前、激しく雨水の落とした後の、汀が崩れて、草の根のまだ白い泥土の欠目から、楔の弛んだ、洪水の引いた天井裏見るような、横木と橋板との暗い中を見たが何もおらぬ。……顔を倒にして、捻じ向いて覗いたが、ト真赤な蟹が、ざわざわと動いたばかり。やどかりはうようよ数珠形に、其処ら暗い処に蠢いたが、声のありそうなものは形もなかった。 手を払って、 「ははあ、岡沙魚が鳴くんだ」 と独りで笑った。 中 虎沙魚、衣沙魚、ダボ沙魚も名にあるが、岡沙魚と言うのがあろうか、あっても鳴くかどうか、覚束ない。 けれどもその時、ただ何となくそう思った。 久しい後で、その頃薬研堀にいた友だちと二人で、木場から八幡様へ詣って、汐入町を土手へ出て、永代へ引っ返したことがある。それも秋で、土手を通ったのは黄昏時、果てしのない一面の蘆原は、ただ見る水のない雲で、対方は雲のない海である。路には処々、葉の落ちた雑樹が、乏しい粗朶のごとく疎に散らかって見えた。 「こういう時、こんな処へは岡沙魚というのが出て遊ぶ」 と渠は言った。 「岡沙魚ってなんだろう」と私が聞いた。 「陸に棲む沙魚なんです。蘆の根から這い上がって、其処らへ樹上りをする……性が魚だからね、あまり高くは不可ません。猫柳の枝なぞに、ちょんと留まって澄ましている。人の跫音がするとね、ひっそりと、飛んで隠れるんです……この土手の名物だよ。……劫の経た奴は鳴くとさ」 「なんだか化けそうだね」 「いずれ怪性のものです。ちょいと気味の悪いものだよ」 で、なんとなく、お伽話を聞くようで、黄昏のものの気勢が胸に染みた。――なるほど、そんなものも居そうに思って、ほぼその色も、黒の処へ黄味がかって、ヒヤリとしたものらしく考えた。 後で拵え言、と分かったが、何故か、ありそうにも思われる。 それが鳴く……と独りで可笑しい。 もう、一度、今度は両手に両側の蘆を取って、ぶら下るようにして、橋の片端を拍子に掛けて、トンと遣る、キイと鳴る、トントン、きりりと鳴く。 (きりりりり、 きり、から、きい、から、 きりりりり、きいから、きいから、) 紅の綱で曳く、玉の轆轤が、黄金の井の底に響く音。 「ああ、橋板が、きしむんだ。削ったら、名器の琴になろうもしれぬ」 そこで、欄干を掻い擦った、この楽器に別れて、散策の畦を行く。 |
「支那游記」一巻は畢竟天の僕に恵んだ(或は僕に災いした)Journalist 的才能の産物である。僕は大阪毎日新聞社の命を受け、大正十年三月下旬から同年七月上旬に至る一百二十余日の間に上海、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、北京、大同、天津等を遍歴した。それから日本へ帰った後、「上海游記」や「江南游記」を一日に一回ずつ執筆した。「長江游記」も「江南游記」の後にやはり一日に一回ずつ執筆しかけた未成品である。「北京日記抄」は必しも一日に一回ずつ書いた訣ではない。が、何でも全体を二日ばかりに書いたと覚えている。「雑信一束」は画端書に書いたのを大抵はそのまま収めることにした。しかし僕のジャアナリスト的才能はこれ等の通信にも電光のように、――少くとも芝居の電光のように閃いていることは確である。 大正十四年十月 |
私の父が亡くなる少し前に(お前これから重要な問題となるものはどんな問題だと思ふ?)と一種の眞面目さを以て私に尋ねたことがある。それは父にとつて或種の謎であつた私の將來を、私の返答によつて察しようとしたものであつたらしい。その時私は父に答へて、勞働問題と婦人問題と小兒問題とが、最も重要な問題になるであらうと答へたのを記憶する。 勞働問題と婦人問題とは、前から既に問題となりつゝあつたけれども、小兒の問題はまだほんとうに問題として論議せられてゐないかに考へられる。しかしながら、この問題は前の二問題と同じ程の重さを以て考へられねばならぬ問題だと私は考へる。 私たちは成長するに從つて、子供の心から次第に遠ざかつてゆく。これは止むを得ないことである。しかしながら、今迄はこの止むを得ないといふことにすら、注意を拂はないで、そのまゝの心で子供に臨んでゐた。子供の世界が獨立した一つの世界であるとして考へられずに大人の世界の極小さな一部分として考へられてゐたが故に、我々が子供の世界の處理をする場合にも、全く大人の立場から天降り的に、その處理をしてゐたやうに見える。この誤つた方針は、子供の世界の隅々にまで行き渡つた。家庭の間に於ける親子の關係に於ても、學校に於ける師弟の關係に於ても、社會生活に於ける成員としての關係に於ても、この僻見は容赦なく採用された。すべてが大人の世界に都合がいゝ樣に仕向けられた。さうして子供たちはその異邦の中にあつて、不自然なぎごちない成長を遂げねばならなかつた。かくして子供は、自分より一代前の大人たちが抱いてゐる習慣や觀念や思想を、そのまゝ鵜呑みにさせられた。かくの如き不自然な生活の結果が、どうなつたかといふことは、ちよつと目立つて表れてはゐないやうにも見える。なぜならば、かくの如き子供虐待の歴史は、非常に長く續いたのであるから、人々はその結果に對して、殆ど無頓着になつてしまつてゐるのだ。 しかしながら、誰でも自分の幼年時代を囘顧するならば、そこに成長してまでも、消えずに殘つてゐるさま〴〵な忌まはしい記憶をとり出すことが出來るだらう。若しあの時代にあゝいふ事がなかつたならば、現在の自分は現在のやうな自分ではなく、もつと勝れた自分であり得たかも知れないといふやうな記憶がよみがへつて來るだらう。 もとより、この地上生活は、大體に於て、大人殊に成人した男子によつて導かれてゐるものだから、他の世界の人々が或る程度まで、それに適應して行くのは止むを得ない事ではある。しかしながら、從來の大人の專横は餘りに際限がなさすぎた。そのために、もつと姿を變へて進んで行くべきであつた人類の歴史は、思ひの外に停滯せねばならなかつた。一つの小さな例をとつて見ると、キリスト教會の日曜學校の教育の如きがそれである。子供の心には大人が感ずるやうな祷りの氣分は、まだ生れてはゐない。然るに學校の教師は、子供がそれを理解すると否とに拘らず、外面的に祷りの形式を教へ込む。子供は一種の苦痛を以て、機械的にそれに自分を適應させる。 しかも、教師は大人の立場からのみ見て、かくすることが、子供を彼等の持つやうな信仰に導くべき一番の近道だと心得たが、しかしその結果は、子供の本然性を根底的に覆へしてゐるのだ。ロバート・インガソールといふ人が、日曜學校に行つてゐた時のことを囘想して、毎日曜日に彼は教會の椅子に坐らされて、一時間餘りも教師から、自分には理解し得ない事柄を聞かされるのだつたが、その間大人にふさはしい椅子に腰掛けて居らねばならなかつたので、兩足は宙に浮いたまゝになつてゐてその苦しさは一通ではなかつた。しかも、神の惠みを説きまくつてゐる教師の心には、子供のこの苦痛は、聊かも通じてゐるやうには見えなかつた。その時、彼れは染々と、どういふ惡いことをしたお蔭で、日曜毎に自分はこんな苦しい苛責を受けねばならぬのかと情なく思つた。彼れのキリスト教に對する反感は、實にこの日曜學校の椅子から始まつたといつてゐる。日曜學校の椅子――これは小さなことに過ぎない。しかしながら、そこには大人が子供の生活に對して、どれほど倨傲な態度をとつてゐるかを、明かに語るものがある。かくの如き事實は、家庭の生活の中にも、學校の教育の間にも、日常見られるところのものではあるまいか。 子供は自らを訴へるために、大きな聲を用意してゐない。彼等は多くの場合に於て、大人に限りない信頼を捧げてゐる。然るに大人はその從順と無邪氣とを踏み躙らうとする。大人は抵抗力がないといふだけの理由で、勝手放題な仕向けを子供の世界に對して投げつける。かゝる暴虐はどうしても改められなければならない。大人は及ばずながらにも、子供の私語に同情ある耳を傾けなければならない。かくすることによつて、人間の生活には一轉機が畫せられるであらう。 私は、初めに、大人は小兒の心持ちから離れてしまふといつた。それはさうに違ひない。私たちは明かに子供と同じ考へ方感じ方をすることは出來ない。しかしながら、この事實を自覺すると否とは、子供の世界に臨む場合に於て、必ずや千里の差を生ずると信ずる。若し私たちがそれを自覺するならば、子供の世界に教訓を與へることが出來ないとしても、自由を與へることが出來る。また子供の本然的な發育を保護することが出來ると思ふ。良心的に子供をとり扱つた學校の教師は、恐らく子供の世界の中に驚くべき不思議を見出すだらう。大人の僻見によつて、穢されない彼等の頭腦と感覺の中から、かつて發見されなかつたやうな幾多の思想や感情が湧き出るのに遭遇するだらう。從來の立場にある人は、かくの如き場合に何時でも、彼等自身の思想と感情とを以て、無理強ひにそれを強制しようとする。このやうなことは許すべからざることだ。子供をして子供の求むるものを得せしめる、それはやがて大人の世界に或る新しいものを寄與するだらう。さうして、歴史は今まであつたよりも、もつと創造的な姿をとるに至るだらう。子供に子供自身の領土を許す上に、さま〴〵な方面から研究が遂げられねばならぬといふことは、私たちの眼の前に横はる大きな事業の一つだと信ずる。(完) |
一 加州石川郡金沢城の城主、前田斉広は、参覲中、江戸城の本丸へ登城する毎に、必ず愛用の煙管を持って行った。当時有名な煙管商、住吉屋七兵衛の手に成った、金無垢地に、剣梅鉢の紋ぢらしと云う、数寄を凝らした煙管である。 前田家は、幕府の制度によると、五世、加賀守綱紀以来、大廊下詰で、席次は、世々尾紀水三家の次を占めている。勿論、裕福な事も、当時の大小名の中で、肩を比べる者は、ほとんど、一人もない。だから、その当主たる斉広が、金無垢の煙管を持つと云う事は、寧ろ身分相当の装飾品を持つのに過ぎないのである。 しかし斉広は、その煙管を持っている事を甚だ、得意に感じていた。もっとも断って置くが、彼の得意は決して、煙管そのものを、どんな意味ででも、愛翫したからではない。彼はそう云う煙管を日常口にし得る彼自身の勢力が、他の諸侯に比して、優越な所以を悦んだのである。つまり、彼は、加州百万石が金無垢の煙管になって、どこへでも、持って行けるのが、得意だった――と云っても差支えない。 そう云う次第だから、斉広は、登城している間中、殆どその煙管を離した事がない。人と話しをしている時は勿論、独りでいる時でも、彼はそれを懐中から出して、鷹揚に口に啣えながら、長崎煙草か何かの匂いの高い煙りを、必ず悠々とくゆらせている。 勿論この得意な心もちは、煙管なり、それによって代表される百万石なりを、人に見せびらかすほど、増長慢な性質のものではなかったかも知れない。が、彼自身が見せびらかさないまでも、殿中の注意は、明かに、その煙管に集注されている観があった。そうして、その集注されていると云う事を意識するのが斉広にとっては、かなり愉快な感じを与えた。――現に彼には、同席の大名に、あまりお煙管が見事だからちょいと拝見させて頂きたいと、云われた後では、のみなれた煙草の煙までがいつもより、一層快く、舌を刺戟するような気さえ、したのである。 二 斉広の持っている、金無垢の煙管に、眼を駭かした連中の中で、最もそれを話題にする事を好んだのは所謂、お坊主の階級である。彼等はよるとさわると、鼻をつき合せて、この「加賀の煙管」を材料に得意の饒舌を闘わせた。 「さすがは、大名道具だて。」 「同じ道具でも、ああ云う物は、つぶしが利きやす。」 「質に置いたら、何両貸す事かの。」 「貴公じゃあるまいし、誰が質になんぞ、置くものか。」 ざっと、こんな調子である。 するとある日、彼等の五六人が、円い頭をならべて、一服やりながら、例の如く煙管の噂をしていると、そこへ、偶然、御数寄屋坊主の河内山宗俊が、やって来た。――後年「天保六歌仙」の中の、主な rolê をつとめる事になった男である。 「ふんまた煙管か。」 河内山は、一座の坊主を、尻眼にかけて、空嘯いた。 「彫と云い、地金と云い、見事な物さ。銀の煙管さえ持たぬこちとらには見るも眼の毒……」 調子にのって弁じていた了哲と云う坊主が、ふと気がついて見ると、宗俊は、いつの間にか彼の煙管入れをひきよせて、その中から煙草をつめては、悠然と煙を輪にふいている。 「おい、おい、それは貴公の煙草入れじゃないぜ。」 「いいって事よ。」 宗俊は、了哲の方を見むきもせずに、また煙草をつめた。そうして、それを吸ってしまうと、生あくびを一つしながら、煙草入れをそこへ抛り出して、 「ええ、悪い煙草だ。煙管ごのみが、聞いてあきれるぜ。」 了哲は慌てて、煙草入れをしまった。 「なに、金無垢の煙管なら、それでも、ちょいとのめようと云うものさ。」 「ふんまた煙管か。」と繰返して、「そんなに金無垢が有難けりゃ何故お煙管拝領と出かけねえんだ。」 「お煙管拝領?」 「そうよ。」 さすがに、了哲も相手の傍若無人なのにあきれたらしい。 「いくらお前、わしが欲ばりでも、……せめて、銀ででもあれば、格別さ。……とにかく、金無垢だぜ。あの煙管は。」 「知れた事よ。金無垢ならばこそ、貰うんだ。真鍮の駄六を拝領に出る奴がどこにある。」 「だが、そいつは少し恐れだて。」 了哲はきれいに剃った頭を一つたたいて恐縮したような身ぶりをした。 「手前が貰わざ、己が貰う。いいか、あとで羨しがるなよ。」 河内山はこう云って、煙管をはたきながら肩をゆすって、せせら笑った。 三 それから間もなくの事である。 斉広がいつものように、殿中の一間で煙草をくゆらせていると、西王母を描いた金襖が、静に開いて、黒手の黄八丈に、黒の紋附の羽織を着た坊主が一人、恭しく、彼の前へ這って出た。顔を上げずにいるので、誰だかまだわからない。――斉広は、何か用が出来たのかと思ったので、煙管をはたきながら、寛濶に声をかけた。 「何用じゃ。」 「ええ、宗俊御願がございまする。」 河内山はこう云って、ちょいと言葉を切った。それから、次の語を云っている中に、だんだん頭を上げて、しまいには、じっと斉広の顔を見つめ出した。こう云う種類の人間のみが持って居る、一種の愛嬌をたたえながら、蛇が物を狙うような眼で見つめたのである。 「別儀でもございませんが、その御手許にございまする御煙管を、手前、拝領致しとうございまする。」 斉広は思わず手にしていた煙管を見た。その視線が、煙管へ落ちたのと、河内山が追いかけるように、語を次いだのとが、ほとんど同時である。 「如何でございましょう。拝領仰せつけられましょうか。」 宗俊の語の中にあるものは懇請の情ばかりではない、お坊主と云う階級があらゆる大名に対して持っている、威嚇の意も籠っている。煩雑な典故を尚んだ、殿中では、天下の侯伯も、お坊主の指導に従わなければならない。斉広には一方にそう云う弱みがあった。それからまた一方には体面上卑吝の名を取りたくないと云う心もちがある。しかも、彼にとって金無垢の煙管そのものは、決して得難い品ではない。――この二つの動機が一つになった時、彼の手は自ら、その煙管を、河内山の前へさし出した。 「おお、とらす。持ってまいれ。」 |
曠野 路に迷つたのだ! と氣のついた時は、此曠野に踏込んでから、もう彼是十哩も歩いてゐた。朝に旅籠屋を立つてから七八哩の間は潦に馬の足痕の新しい路を、森から野、野から森、二三度人にも邂逅した。とある森の中で、人のゐない一軒家も見た。その路から此路へ、何時、何處から迷込んだのか解らない。瞬きをしてゐる間に、誰かが自分を掻浚つて來て恁麼曠野に捨てて行つたのではないかと思はれる。 足の甲の草鞋摺が痛む。痛む足を重さうに引摺つて、旅人は蹌踉と歩いて行く。十時間の間何も食はずに歩いたので、粟一粒入つてゐない程腹が凹んでゐる。餓と疲勞と、路を失つたといふ失望とが、暗い壓迫を頭腦に加へて、一足毎に烈しくなる足の痛みが、ずきり、ずきり、鈍つた心を突く。幾何元氣を出してみても、直ぐに目が眩んで來る。耳が鳴つて來る。 戻らうか、戻らうか、と考へながら、足は矢張前に出る。戻る事にしよう。と心が決めても、身體が矢張前に動く。 涯もない曠野、海に起伏す波に似て、見ゆる限りの青草の中に、幅二尺許りの、唯一條の細道が眞直に走つてゐる。空は一面の灰色の雲、針の目程の隙もなく閉して、黒鐵の棺の蓋の如く、重く曠野を覆うてゐる。 習との風も吹かぬ。地球の背骨の大山脈から、獅子の如く咆えて來る千里の風も、遮る山もなければ抗ふ木もない、此曠野に吹いて來ては、おのづから力が拔けて死んで了ふのであらう。 日の目が見えぬので、午前とも午後とも解らないが、旅人は腹時計で算へてみて、もう二時間か三時間で日が暮れるのだと知つた。西も東も解らない。何方から來て何方へ行くとも知れぬ路を、旅人は唯前へ前へと歩いた。 軈てまた二哩許り辿つてゆくと、一條の細路が右と左に分れてゐる。 此處は恰度曠野の中央で、曠野の三方から來る三條の路が、此處に落合つてゐる。落合つた所が、稍廣く草の生えぬ赤土を露はしてゐて、中央に一つ潦がある。 潦の傍には、鋼線で拵へた樣な、骨と皮ばかりに痩せて了つた赤犬が一疋坐つてゐた。 犬は旅人を見ると、なつかしげにぱたぱた細い尾を動かしたが、やをら立上つて蹌踉と二三歩前に歩いた。 涯もない曠野を唯一人歩いて來た旅人も、犬を見ると流石になつかしい。知らぬ國の都を歩いてゐて、不圖同郷の人に逢つた樣になつかしい。旅人も犬に近いた。 犬は幽かに鼻を鳴らして、旅人の顏を仰いだが、耳を窄めて、首を低れた。 そして、鼻端で旅人の埃だらけの足の甲を撫でた。 旅人はどつかと地面に腰を下した。犬も三尺許り離れて、前肢を立てゝ坐つた。 空は曇つてゐる。風が無い。何十哩の曠野の中に、生命ある者は唯二箇。 犬は默つて旅人の顏を瞶めてゐる。旅人も無言で犬の顏を瞶めてゐる。 若し人と犬と同じものであつたら、此時、犬が旅人なのか、旅人が犬なのか、誰が見ても見分がつくまい。餓ゑた、疲れた、二つの生命が互に瞶め合つてゐたのだ。 犬は、七日程前に、恁した機會かで此曠野の追分へ來た。そして、何方の路から來たのか忘れて了つた。再び人里へ歸らうと思つては出かけるけれども、行つても、行つても、同じ樣な曠野の草、涯しがないので復此處に歸つて來る。三條の路を交る交る、何囘か行つてみて何囘か歸つて來た。犬は七日の間何も喰はなかつた。そして、犬一疋、人一人に逢はぬ。三日程前に、高い空の上を鳥が一羽飛んで行つて、雲に隱れた影を見送つた限。 微かな音だにせぬ。聞えるものは、疲れに疲れた二つの心臟が、同じに搏つ鼓動の響きばかり。――と旅人は思つた。 軈て、旅人は袂を探つて莨を出した。そして燐寸を擦つた。旅人の見た犬の目に暫時火花が映つた。犬の見た旅人の目にも暫時火花が閃めいた。 旅人は、燐寸の燃殼を犬の前に投げた。犬は直ぐそれに鼻端を推つけたが、何の香もしないので、また居住ひを直して旅人の顏を瞶めた。七日間の餓は犬の瞼を重く懈怠くした。莨の煙が旅人の餓を薄らがした。 旅人は、怎やら少し暢然した樣な心持で、目の前の、痩せ果てた骨と皮ばかりの赤犬を、憐む樣な氣になつて來た。で手を伸べて犬を引寄せた。 頭を撫でても耳を引張つても、犬は目を細くして唯穩しくしてゐる。莨の煙を顏に吹かけても、僅かに鼻をふんふんいはす許り。毛を逆に撫でて見たり、肢を開かして見たり、地の上に轉がして見たり、痩せた尖つた顏を兩膝に挾んで見たりしても、犬は唯穩しくしてゐる。終には、細い尾を右に捻つたり、左に捻つたり、指に卷いたりしたが、少し強くすると、犬はスンと喉を鳴らして、弱い反抗を企てる許り。 不圖、旅人は面白い事を考出して、密と口元に笑を含んだ。紙屑を袂から出して、紙捻を一本糾ふと、それで紙屑を犬の尾に縛へつけた。 犬はぱたぱたと尾を振る。旅人は、燐寸を擦つて、其紙屑に火を點けた。 犬は矢庭に跳上つた。尾には火が燃えてゐる。犬は首をねぢつて其を噛取らうとするけれども、首が尾まで屆かぬので、きやん、きやんと叫びながらぐるぐる𢌞り出した。 旅人は、我ながら殘酷な事をしたと思つて、犬の尾を抑へて其紙屑を取つてやらうと慌てて立上つたが、犬は聲の限りに叫びつづけて、凄じい勢ひでぐるぐる𢌞る。手も出されぬ程勢ひよく迅く𢌞る。旅人も、手を伸べながら犬の周圍を𢌞り出した。 きやん、きやんといふ苦痛の聲が、旅人の粟一粒入つてゐない空腹に感へる。それはそれは遣瀬もない思ひである。 尾の火が間もなく消えかかつた。と、犬の𢌞り方が少し遲くなつたと思ふと、よろよろと行つて、潦の中に仆れた。旅人は棒の如く立つた。 きやん、きやんといふ聲も、もう出ない。犬は痛ましい斷末魔の苦痛に水の中に仆れた儘、四本の肢で踠いて、すんすんと泣いたが、其聲が段々弱るにつれて、肢も段々動かなくなつた。 餓ゑに餓ゑてゐた赤犬が、恁うして死んで了つた。 淺猿しい犬の屍を構へた潦の面は、小波が鎭まると、宛然底無しの淵の如く見えた。深く映つた灰色の空が、何時しか黄昏の色に黝んでゐたので。 棒の如く立つてゐた旅人は、驚いて周圍を見た。そこはかとなき薄暗が曠野の草に流れてゐる。其顏には、いふべからざる苦痛が刻まれてゐた。 日が暮れた! と思ふ程、路を失つた旅人に悲しい事はない。渠は、急がしく草鞋の紐を締めなほして、犬の屍を一瞥したが、いざ行かうと足を踏出して、さて何處へ行つたものであらうと、黄昏の曠野を見𢌞した。 同じ樣に三度見𢌞したが、忽ち、 『噫、』 と叫んで、兩手を高くさしあげたと思ふと、大聲に泣き出した。 『俺の來た路は何方だつたらう⁈』 三條の路が、渠の足下から起つて、同じ樣に曠野の三方に走つてゐる。 白い鳥、血の海 變な夢を見た。―― 大きい、大きい、眞黒な船に、美しい人と唯二人乘つて、大洋に出た。 その人は私を見ると始終俯いて許りゐて、一言も口を利かなかつたので、喜んでるのか、悲んでるのか、私には解らなかつた。夢の中では、長い間思ひ合つてゐた人に相違なかつたが、覺めてみると、誰だか解らない。誰やらに似た横顏はまだ頭腦の中に殘つてゐるやうだけれど、さて其誰やらが誰だか薩張當がつかない。 富士山が見えなくなつてから、隨分長いこと船は大洋の上を何處かに向つてゐた。それが何日だか何十日だか矢張解らない。或は何百日何千日の間だつたかも知れない。 |
小樽函館間の鉄道沿線の比羅夫駅の一つ手前に狩太といふのがある。それの東々北には蝦夷富士がありその裾を尻別の美河が流れてゐるが、その川に沿うた高台が私の狩太農場であります。この農場は、私の父が子供の可愛さから子供の内に世の中の廃りものが出来たときにその農場にゆけば食ひはぐれることはあるまいといふ考へからつくつたものであります。その当時この北海道の土地は財産を投じて経営する大規模の農場には五百町歩まで無償貸附し小規模の農場には五町歩を無償貸附したのでした。そしてその条件は其翌年の内に一部を開墾するといふので道庁から役人がきてそれを検べ一定の年限がたてばその土地をたゞで呉れるといふことになつてゐたのであります。それから地租はたしか十五年間は免ぜられてゐたと思ひます。私は札幌農学校を明治三十四年に卒業しましたが、三十二年からこの農場が私の父によつて経営されました。この農場の面積は四百五十町歩足らずなのであります。私は農学校を卒業する前年の夏にはじめてこの農場を訪れました。倶知安まで汽車で参つてそれから荷馬を用ひ随分と難儀していつたのでした。熊笹はこの天井位の高さにのびて見通しがきかないのみか樹木は天をくらくする位に繁つてゐました。そこに小さい掘立小屋をたてゝ開墾の事務所がありました。初めに入つた農民が八戸でありまして川に沿うたところに草で葺いた小屋をたてゝ開墾に従つたのでした。小作料なしで三年やり三年後から小作料がとれるとかうなつてゐました。その開墾の方法は秋にはいると熊笹に火を点けて焼き最初はそこに蕎麦を蒔く、それから二年目に麦を蒔き三年目からいくらかの収穫があるといふのでした。狩太の農場は三十二年からはじめて。三十七八年に至つて成墾いたし、こゝで私の父の所有になつたのであります。それ迄にどれ丈けの金がかゝつたかといふと凡そ二万であります。二万円ではやすく出来たのでありました。今この農場へ行つてみましても小作人の家屋はその最初と同じ掘立小屋なのであつて牛一頭も殖えてゐないのであります。私はこれを見て非常に変な感じに打たれたのでありますが、せめて家丈けでも板葺きの家が見られるやうになりたいといつても小作人は自分が経済が発展しやうがないので迷惑がるのであります。廿四五年たちました今は七十戸程に増してゐますがその内で障子をたてたりして幾分でも住居らしくなつた家は、小作をし乍ら小金をためて他の小作へ金を貸したりした人のもので、農業ばかりしてゐた小作人の家はいつまでたつても草葺の掘つ立小屋なのであります。この農場の小作人の出入は随分激しく最初からの人はなく始めて七年後に入つたのが一人あります。併し他と比べて私の農場は変らない方なのであります。何分にも農場は太古から斧鉞が入らない原始の豊饒な土地なもので麦などは実に見事に出来るのですがそれにいゝ気になつて、肥料を施さぬものですから廿五六年もたつて全くひどく枯れて了ふといふことが起つてゐます。それに五六年目毎にはげしい虫害を蒙つてその年は小作料をとりあげられる丈でも苦しいといふことがあるのであります。かうした不安の上に、国内経済から国際経済に移つた為でせうが、外国からの穀物の輸入されるやうになつて、その収穫の作物の価の高低がはげしく時にはそれに投じた資金をも回収できない位に作物の価が廉くなるのであります。それから今一つ、この小作人と市場との間にたつ仲買といふのがその土地の作物を抵当にして恐ろしい利子にかけて所謂米塩の資を貸すのであります。小作人はこれにそれを借りねばならないのでありますがそのため時としては収穫したものをそのまゝ持つていかれて仕舞ふことがあるのであります。この仲買といふのが中々跋扈してゐます。 私は明治廿七八年頃から小作人の生活をみてゐますが実に悲惨なものでありまして、そのため私の農場の附近は現在小作権といふものに殆ど値がないのであります。 さて私は明治三十六年から明治四十年まで亜米利加に留学しました。亜米利加にゐるときクロポトキンの著作などに親しんだことから物の所有といふことに疑問を抱かされたのでありましたが、帰朝するとすぐ英語の教師となつて札幌に赴任いたしました。 私は父の財産で少しの不自由もせずに修学してきたのですけれどほんとうのところそれで少しも圧迫されることが無かつたかといへばさうでもありませんでした。『一円の金でもそれは人力車夫が三日働かねば得られないものだ』と父に戒められたことを記憶してゐます。 人は財産があるがために親子の間の愛情は深められるといひますが私は全く反対だと思ふのです。本能としての愛で愛し合つてこそ其愛情が純粋さを保つのであつて経済関係が這入れば這入るほど鎖のやうなつながりに親子の間はなるのであるとかう信ぜられるのであります。私の家庭では毫も父によつて圧迫を感じさせられたことはなかつたのでしたが、私自身にとつて親子の間に私有財産が存在するといふことが常に一つの圧迫として私にはたらいてゐました。明治四十年頃に私はこの農場を投げだすことを言ひましたがそれは実行が困難でありそれに父に対して、たとひこのことが父のためにも恩恵を与へることになるとは知つてゐましたが、徒らに悲しませることになると思つたのでともかく父の生きてゐる間は黙つてゐることにしたのでした。 併し父も逝くなりそれに最近に至つてしなくてはならなくなつたから――つまり他人がどう思つてもいゝしたくてせずに居られなくなつたので愈かの農場を抛棄することになつたのであります。私が自分自身の為仕事を見出したといふこともこの抛棄の決心を固めさせてくれました。文学といふところに落着くことが出来た、それでその自分の為仕事を妨げようとするものはすべてかいやりたくなつて了つたので。それからもう一つは農民の状態をみるとどうしてもこのまゝにしておけない、このことも強く自分に迫つて参つたのでした。 狩太農場を開放するに到りました動機、それをたづねてみましたら先づ以上のやうなものであります。 私は昨年北海道に行きまして小作人の人々の前で私の考へをお話しました。そして私の趣旨も大体は訳つてくれました。そのとき私がいつたことは『泉』の第一号に小作人への告別として載せておきました。私はどう考へても生産の機関は私有にすべきものでない、それは公有若くは共有であるべき筈のものだ。私有財産としてこの農場からの収益は決して私が収める筈のものでない。小作料は貴君方自身の懐にいれてどうか仲よくやつていつて貰ひたいとお話したのでした。 これでもう私は引退ればいゝのでしたが、その後をいゝ結果のでるやうに組織運営されそこを共同的精神が支配出来るやうにといふ願ひから私はこの農場の組織と施設とを北海道大学農業経済の教室で作製して貰つたのであります。その案は最近に森本厚吉君から私の手に届きました。 それを見て第一に感じたことは今の日本の法律は共有財産を保護するといふ点に於て殆ど役に立たぬものでないかといふことでした。あの農場を小作人の共有にするといふことが許されないなら残つた方法は二つで財団法人にするか組合組織にするかであります。前者にするといはゞ専制政治のやうになつてそこに協調的施設が加はつても小作人自身は自分を共有的精神に訓練させることが困難となる。また組合組織にしても幾多の矛盾は避けがたく一例せば利益金の分配が極めて面倒なのであつてその創設のとき現金を多くもつた人が組合から一番多く利益をうけることになるのであります。 今度出来てきた施行案は土地は皆のものであるとして小作株といふのを持たしてあるので、そのため公有になつても実際の状態は私有制度だといはれるのであります。忠告してくれる人はその小作株は一応買取つて了つてそれの転売をも防ぎ利益配当の不平等もなくするやうに――そして名実ともに公有にせよといつてくれるのであります。土地の利益と持株の利益とを別にして了ふことも必要と思つてゐますが、兎も角充分に案に付き練りました上で、農園の総会に提出したいと考へてゐるのです。農民自身が自身をトレインするものでもつと自由な共産的規約に致しておきたく思つてゐます。今迄に例がないのでクリエイトするより仕方ありません。この農場は共産農園と名付けることを望んだのでしたが共生農園といふ名になりました。 |
「貴君の作品の中で、愛着を持つてゐらつしやるものか、好きなものはありませんか」と云はれると、一寸困る。さういふ条件の小説を特別に選り出す事は出来ないし、又特別に取扱はなくてはならない小説があるとも思へない。第一、自分の小説といふものを考へた時に、その沢山な小説の行列の中から、特に、私が小説で御座ると名乗つて飛び出して来るものも見当らない。かう云ひ切つて了ふと、折角の御尋ねに対する御返事にはならないから、さう大袈裟な問題として取扱はないで、僕の書いた小説の中で、一寸風変りなものを二つ抜き出して見ることにする。 自分の小説は大部分、現代普通に用ひられてゐる言葉で書いたものである。例外として、「奉教人の死」と「きりしとほろ上人伝」とがその中に這入る。両方とも、文禄慶長の頃、天草や長崎で出た日本耶蘇会出版の諸書の文体に倣つて創作したものである。 「奉教人の死」の方は、其宗徒の手になつた当時の口語訳平家物語にならつたものであり、「きりしとほろ上人伝」の方は、伊曾保物語に倣つたものである。倣つたといつても、原文のやうに甘くは書けなかつた。あの簡古素朴な気持が出なかつた。 「奉教人の死」の方は、日本の聖教徒の逸事を仕組んだものであるが、全然自分の想像の作品である。「きりしとほろ上人伝」の方は、セント・クリストフの伝記を材料に取入れて作つたものである。 書き上げてから、読み返して見て、出来不出来から云へば、「きりしとほろ上人伝」の方が、いいと思ふ。 「奉教人の死」を発表した時には面白い話があつた。あれを発表したところ、随分いろいろな批評をかいた手紙が舞ひ込んで来た。中には、その種本にした、切利支丹宗徒の手になつた、ほんものの原文を蔵してゐると感違ひをし、五百円の手附金を送つて、買入れ方を申込んだ人があつた。気毒でもあつたが可笑しくもあつた。 その後、長崎の浦上の天主教会のラゲといふ僧侶に出会つたことがあつた。その際、ラゲさんと「きりしとほろ上人伝」の話を交した。ラゲさんは、自分の生国が、クリストフが嘗て居住してゐた土地であるといふ話し等が出たので、一寸因縁をつけて考へたものであつた。 将来どんな作品を出すかといふ事に対しては、恐らく、誰でも確かな答へを与へることは出来ないだらうと思ふ。小説などといふものは、他の事業とは違つて、プログラムを作つて、取りかかる訣にはゆかない。併し、僕は今後、ますます自分の博学ぶりを、或は才人ぶりを充分に発揮して、本格小説、私小説、歴史小説、花柳小説、俳句、詩、和歌等、等と、その外知つてるものを教へてくれれば、なんでもかきたいと思つてゐる。 壺や皿や古画等を愛玩して時間が余れば、昔の文学者や画家の評論も試みたいし、盛んに他の人と論戦もやつて見たいと思つてゐる。 斯くの如く、僕の前途は遙かに渺茫たるものであり、大いに将来有望である。 |
上 いつごろの話だか、わからない。北支那の市から市を渡って歩く野天の見世物師に、李小二と云う男があった。鼠に芝居をさせるのを商売にしている男である。鼠を入れて置く嚢が一つ、衣装や仮面をしまって置く笥が一つ、それから、舞台の役をする小さな屋台のような物が一つ――そのほかには、何も持っていない。 天気がいいと、四つ辻の人通りの多い所に立って、まず、その屋台のような物を肩へのせる、それから、鼓板を叩いて、人よせに、謡を唱う。物見高い街中の事だから、大人でも子供でも、それを聞いて、足を止めない者はほとんどない。さて、まわりに人の墻が出来ると、李は嚢の中から鼠を一匹出して、それに衣装を着せたり、仮面をかぶらせたりして、屋台の鬼門道から、場へ上らせてやる。鼠は慣れていると見えて、ちょこちょこ、舞台の上を歩きながら、絹糸のように光沢のある尻尾を、二三度ものものしく動かして、ちょいと後足だけで立って見せる。更紗の衣裳の下から見える前足の蹠がうす赤い。――この鼠が、これから雑劇の所謂楔子を演じようと云う役者なのである。 すると、見物の方では、子供だと、始から手を拍って、面白がるが、大人は、容易に感心したような顔を見せない。むしろ、冷然として、煙管を啣えたり、鼻毛をぬいたりしながら、莫迦にしたような眼で、舞台の上に周旋する鼠の役者を眺めている。けれども、曲が進むのに従って、錦切れの衣裳をつけた正旦の鼠や、黒い仮面をかぶった浄の鼠が、続々、鬼門道から這い出して来るようになると、そうして、それが、飛んだり跳ねたりしながら、李の唱う曲やその間へはいる白につれて、いろいろ所作をするようになると、見物もさすがに冷淡を装っていられなくなると見えて、追々まわりの人だかりの中から、※(口+桑)子大などと云う声が、かかり始める。すると、李小二も、いよいよ、あぶらがのって、忙しく鼓板を叩きながら、巧に一座の鼠を使いわける。そうして「沈黒江明妃青塚恨、耐幽夢孤雁漢宮秋」とか何とか、題目正名を唱う頃になると、屋台の前へ出してある盆の中に、いつの間にか、銅銭の山が出来る。……… が、こう云う商売をして、口を糊してゆくのは、決して容易なものではない。第一、十日と天気が悪いと口が干上ってしまう。夏は、麦が熟す時分から、例の雨期へはいるので、小さな衣裳や仮面にも、知らないうちに黴がはえる。冬もまた、風が吹くやら、雪がふるやらするので、とかく、商売がすたり易い。そう云う時には、ほかに仕方もないから、うす暗い客舎の片すみで、鼠を相手に退屈をまぎらせながら、いつもなら慌しい日の暮を、待ちかねるようにして、暮してしまう。鼠の数は、皆で、五匹で、それに李の父の名と母の名と妻の名と、それから行方の知れない二人の子の名とがつけてある。それが、嚢の口から順々に這い出して火の気のない部屋の中を、寒そうにおずおず歩いたり、履の先から膝の上へ、あぶない軽業をして這い上りながら、南豆玉のような黒い眼で、じっと、主人の顔を見つめたりすると、世故のつらさに馴れている李小二でも、さすがに時々は涙が出る。が、それは、文字通り時々で、どちらかと云えば、明日の暮しを考える屈託と、そう云う屈託を抑圧しようとする、あてどのない不愉快な感情とに心を奪われて、いじらしい鼠の姿も眼にはいらない事が多い。 その上、この頃は、年の加減と、体の具合が悪いのとで、余計、商売に身が入らない。節廻しの長い所を唱うと、息が切れる。喉も昔のようには、冴えなくなった。この分では、いつ、どんな事が起らないとも限らない。――こう云う不安は、丁度、北支那の冬のように、このみじめな見世物師の心から、一切の日光と空気とを遮断して、しまいには、人並に生きてゆこうと云う気さえ、未練未釈なく枯らしてしまう。何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。勿論、李は一度もそう云う問題を考えて見た事がない。が、その苦しみを、不当だとは、思っている。そうして、その苦しみを与えるものを――それが何だか、李にはわからないが――無意識ながら憎んでいる。事によると、李が何にでも持っている、漠然とした反抗的な心もちは、この無意識の憎しみが、原因になっているのかも知れない。 しかし、そうは云うものの、李も、すべての東洋人のように、運命の前には、比較的屈従を意としていない。風雪の一日を、客舎の一室で、暮らす時に、彼は、よく空腹をかかえながら、五匹の鼠に向って、こんな事を云った。「辛抱しろよ。己だって、腹がへるのや、寒いのを辛抱しているのだからな。どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。それも、鼠よりは、いくら人間の方が、苦しいか知れないぞ………」 中 雪曇りの空が、いつの間にか、霙まじりの雨をふらせて、狭い往来を文字通り、脛を没する泥濘に満そうとしている、ある寒い日の午後の事であった。李小二は丁度、商売から帰る所で、例の通り、鼠を入れた嚢を肩にかけながら、傘を忘れた悲しさに、ずぶぬれになって、市はずれの、人通りのない路を歩いて来る――と、路傍に、小さな廟が見えた。折から、降りが、前よりもひどくなって、肩をすぼめて歩いていると、鼻の先からは、滴が垂れる。襟からは、水がはいる。途方に暮れていた際だから、李は、廟を見ると、慌てて、その軒下へかけこんだ。まず、顔の滴をはらう。それから、袖をしぼる。やっと、人心地がついた所で頭の上の扁額を見ると、それには、山神廟と云う三字があった。 入口の石段を、二三級上ると、扉が開いているので、中が見える。中は思ったよりも、まだ狭い。正面には、一尊の金甲山神が、蜘蛛の巣にとざされながら、ぼんやり日の暮を待っている。その右には、判官が一体、これは、誰に悪戯をされたのだか、首がない。左には、小鬼が一体、緑面朱髪で、猙獰な顔をしているが、これも生憎、鼻が虧けている。その前の、埃のつもった床に、積重ねてあるのは、紙銭であろう。これは、うす暗い中に、金紙や銀紙が、覚束なく光っているので、知れたのである。 李は、これだけ、見定めた所で、視線を、廟の中から外へ、転じようとした。すると丁度その途端に、紙銭の積んである中から、人間が一人出て来た。実際は、前からそこに蹲っていたのが、その時、始めて、うす暗いのに慣れた李の眼に、見えて来たのであろう。が、彼には、まるで、それが、紙銭の中から、忽然として、姿を現したように思われた。そこで、彼は、いささか、ぎょっとしながら、恐る恐る、見るような、見ないような顔をして、そっとその人間を窺って見た。 垢じみた道服を着て、鳥が巣をくいそうな頭をした、見苦しい老人である。(ははあ、乞丐をして歩く道士だな――李はこう思った。)瘠せた膝を、両腕で抱くようにして、その膝の上へ、髯の長い頤をのせている。眼は開いているが、どこを見ているのかわからない。やはり、この雨に遇ったと云う事は、道服の肩がぐっしょり濡れているので、知れた。 李は、この老人を見た時に、何とか語をかけなければ、ならないような気がした。一つには、濡鼠になった老人の姿が、幾分の同情を動かしたからで、また一つには、世故がこう云う場合に、こっちから口を切る習慣を、いつかつけてしまったからである。あるいは、また、そのほかに、始めの無気味な心もちを忘れようとする努力が、少しは加わっていたかも知れない。そこで李が云った。 「どうも、困ったお天気ですな。」 「さようさ。」老人は、膝の上から、頤を離して、始めて、李の方を見た。鳥の嘴のように曲った、鍵鼻を、二三度大仰にうごめかしながら、眉の間を狭くして、見たのである。 「私のような商売をしている人間には、雨位、人泣かせのものはありません。」 「ははあ、何御商売かな。」 「鼠を使って、芝居をさせるのです。」 「それはまたお珍しい。」 こんな具合で、二人の間には、少しずつ、会話が、交換されるようになった。その中に、老人も紙銭の中から出て来て、李と一しょに、入口の石段の上に腰を下したから、今では顔貌も、はっきり見える。形容の枯槁している事は、さっき見た時の比ではない。李はそれでも、いい話相手を見つけたつもりで、嚢や笥を石段の上に置いたまま、対等な語づかいで、いろいろな話をした。 道士は、無口な方だと見えて、捗々しくは返事もしない。「成程な」とか「さようさ」とか云う度に、歯のない口が、空気を噛むような、運動をする。根の所で、きたない黄いろになっている髯も、それにつれて上下へ動く、――それが如何にも、見すぼらしい。 李は、この老道士に比べれば、あらゆる点で、自分の方が、生活上の優者だと考えた。そう云う自覚が、愉快でない事は、勿論ない。が、李は、それと同時に、優者であると云う事が、何となくこの老人に対して済まないような心もちがした。彼は、談柄を、生活難に落して、自分の暮しの苦しさを、わざわざ誇張して、話したのは、完く、この済まないような心もちに、煩わされた結果である。 「まったく、それは泣きたくなるくらいなものですよ。食わずに、一日すごした事だって、度々あります。この間も、しみじみこう思いました。『己は鼠に芝居をさせて、飯を食っていると思っている。が、事によるとほんとうは、鼠が己にこんな商売をさせて、食っているのかも知れない。』実際、そんなものですよ。」 李は撫然として、こんな事さえ云った。が、道士の無口な事は、前と一向、変りがない。それが、李の神経には、前よりも一層、甚しくなったように思われた。(先生、己の云った事を、妙にひがんで取ったのだろう。余計な事は云わずに、黙っていればよかった。)――李は、心の中でこう自分を叱った。そうして、そっと横目を使って、老人の容子を見た。道士は、顔を李と反対の方に向けて、雨にたたかれている廟外の枯柳をながめながら、片手で、しきりに髪を掻いている。顔は見えないが、どうやら李の心もちを見透かして、相手にならずにいるらしい。そう思うと、多少不快な気がしたが、自分の同情の徹しないと云う不満の方が、それよりも大きいので、今度は話題を、今年の秋の蝗災へ持って行った。この地方の蒙った惨害の話から農家一般の困窮で、老人の窮状をジャスティファイしてやりたいと思ったのである。 すると、その話の途中で、老道士は、李の方へ、顔をむけた。皺の重なり合った中に、可笑しさをこらえているような、筋肉の緊張がある。 「あなたは私に同情して下さるらしいが、」こう云って、老人は堪えきれなくなったように、声をあげて笑った。烏が鳴くような、鋭い、しわがれた声で笑ったのである。「私は、金には不自由をしない人間でね、お望みなら、あなたのお暮し位はお助け申しても、よろしい。」 李は、話の腰を折られたまま、呆然として、ただ、道士の顔を見つめていた。(こいつは、気違いだ。)――やっとこう云う反省が起って来たのは、暫くの間瞪目して、黙っていた後の事である。が、その反省は、すぐにまた老道士の次の話によって、打壊された。「千鎰や二千鎰でよろしければ、今でもさし上げよう。実は、私は、ただの人間ではない。」老人は、それから、手短に、自分の経歴を話した。元は、何とか云う市の屠者だったが、偶々、呂祖に遇って、道を学んだと云うのである。それがすむと、道士は、徐に立って、廟の中へはいった。そうして、片手で李をさしまねきながら、片手で、床の上の紙銭をかき集めた。 李は五感を失った人のように、茫然として、廟の中へ這いこんだ。両手を鼠の糞と埃との多い床の上について、平伏するような形をしながら、首だけ上げて、下から道士の顔を眺めているのである。 道士は、曲った腰を、苦しそうに、伸ばして、かき集めた紙銭を両手で床からすくい上げた。それから、それを掌でもみ合せながら、忙しく足下へ撒きちらし始めた。鏘々然として、床に落ちる黄白の音が、にわかに、廟外の寒雨の声を圧して、起った。――撒かれた紙銭は、手を離れると共に、忽ち、無数の金銭や銀銭に、変ったのである。……… 李小二は、この雨銭の中に、いつまでも、床に這ったまま、ぼんやり老道士の顔を見上げていた。 下 李小二は、陶朱の富を得た。偶、その仙人に遇ったと云う事を疑う者があれば、彼は、その時、老人に書いて貰った、四句の語を出して示すのである。この話を、久しい以前に、何かの本で見た作者は、遺憾ながら、それを、文字通りに記憶していない。そこで、大意を支那のものを翻訳したらしい日本文で書いて、この話の完りに附して置こうと思う。但し、これは、李小二が、何故、仙にして、乞丐をして歩くかと云う事を訊ねた、答なのだそうである。 「人生苦あり、以て楽むべし。人間死するあり、以て生くるを知る。死苦共に脱し得て甚だ、無聊なり。仙人は若かず、凡人の死苦あるに。」 恐らく、仙人は、人間の生活がなつかしくなって、わざわざ、苦しい事を、探してあるいていたのであろう。 |
紙製ノ蛇ガ紙製ノ蛇デアルトスレバ ▽ハ蛇デアル ▽ハ踊ツタ ▽ノ笑ヒヲ笑フノハ破格デアツテ可笑シクアツタ すりつぱガ地面ヲ離レナイノハ余リ鬼気迫ルコトダ ▽ノ目ハ冬眠デアル ▽ハ電燈ヲ三等ノ太陽ト知ル × ▽ハ何所ヘ行ツタカ ココハ煙突ノてつ片デアルカ 俺ノ呼吸ハ平常デアル 而シテたんぐすてんハ何デアルカ (何ンデモナイ) 屈曲シタ直線 ソレハ白金ト反射係数ヲ相等シクスル ▽ハてーぶるノ下ニ隠レタカ × 1 2 3 3ハ公倍数ノ征伐ニ赴イタ 電報ハ来テイナイ |
(一) ○日毎に集つて來る投書の歌を讀んでゐて、ひよいと妙な事を考へさせられることがある。――此處に作者その人に差障りを及ぼさない範圍に於て一二の例を擧げて見るならば、此頃になつて漸く手を着けた十月中到着の分の中に、神田の某君といふ人の半紙二つ折へ横に二十首の歌を書いて、『我目下の境遇』と題を付けたのがあつた。 ○讀んでゐて私は不思議に思つた。それは歌の上手な爲ではない。歌は字と共に寧ろ拙かつた。又その歌つてある事の特に珍らしい爲でもなかつた。私を不思議に思はせたのは、脱字の多い事である。誤字や假名違ひは何百といふ投書家の中に隨分やる人がある。寧ろ驚く位ある、然し恁麽に脱字の多いのは滅多にない。要らぬ事とは思ひながら數へてみると、二十首の中に七箇所の脱字があつた。三首に一箇所の割合である。 ○歌つてある歌には、母が病氣になつて秋風が吹いて來たといふのがあつた。僻心を起すのは惡い〳〵と思ひながら何時しか夫が癖になつたといふのがあつた。十八の歳から生活の苦しみを知つたといふのがあつた。安らかに眠つてゐる母の寢顏を見れば涙が流れるといふのがあつた。弟の無邪氣なのを見て傷んでゐる歌もあつた。金といふものに數々の怨みを言つてゐるのもあつた。終日の仕事の疲れといふことを歌つたのもあつた。 ○某君は一體に粗忽しい人なのだらうか? 小學校にゐた頃から脱字をしたり計數を間違つたり、忘れ物をする癖があつた人なのだらうか? ――恁麽事を問うてみるからが既に勝手な、作者に對して失禮な推量で、隨つてその答へも亦勝手な推量に過ぎないのだが、私には何うもさうは思へなかつた。進むべき路を進みかねて境遇の犧牲となつた人の、その心に消しがたき不平が有れば有る程、元氣も顏色も人先に衰へて、幸福な人がこれから初めて世の中に打つて出ようといふ歳頃に、早く既に醫しがたき神經衰弱に陷つてゐる例は、私の知つてゐる範圍にも二人や三人ではない。私は「十八の歳から生活の苦しみを知つた人」と「脱字を多くする人」とを別々に離して考へることは出來なかつた。 ○某君のこの投書は、多分何か急がしい事のある日か、心の落付かぬ程嬉しい事でもある日に書いたので、斯う脱字が多かつたのだらう。さうだらうと私は思ふ。然し若し此處に私の勝手に想像したやうな人があつて、某君の歌つたやうな事を誰かの前に訴へたとしたならば、その人は果して何と答へるだらうか。 ○私は色々の場合、色々の人のそれに對する答へを想像して見た。それは皆如何にも尤もな事ばかりであつた。然しそれらの叱咜それらの激勵、それらの同情は果して何れだけその不幸なる青年の境遇を變へてくれるだらうか。のみならず私は又次のやうな事も考へなければならなかつた。二十首の歌に七箇所の脱字をする程頭の惡くなつてゐる人ならば、その平生の仕事にも「脱字」が有るに違ひない。その處世の術にも「脱字」があるに違ひない。――私の心はいつか又、今の諸々の美しい制度、美しい道徳をその儘長く我々の子孫に傳へる爲には、何れだけの夥しい犧牲を作らねばならぬかといふ事に移つて行つた。さうして沁々した心持になつて次の投書の封を切つた。 (二) ○大分前の事である。茨城だつたか千葉だつたか乃至は又群馬の方だつたか何しろ東京から餘り遠くない縣の何とか郡何とか村小學校内某といふ人から歌が來た。何日か經つて其の歌の中の何首かが新聞に載つた。すると間もなく私は同じ人からの長い手紙を添へた二度目の投書を受け取つた。 ○其の手紙は候文と普通文とを捏ね交ぜたやうな文體で先づ自分が「憐れなる片田舍の小學教師」であるといふ事から書き起してあつた。さうして自分が自分の職務に對し兎角興味を有ち得ない事、誰一人趣味を解する者なき片田舍の味氣ない事、さうしてる間に豫々愛讀してゐる朝日新聞の歌壇の設けられたので空谷の跫音と思つたといふ事、近頃は新聞が着くと先づ第一に歌壇を見るといふ事、就いては今後自分も全力を擧げて歌を研究する積だから宜しく頼む。今日から毎日必ず一通づつ投書するといふ事が書いてあつた。 ○此の手紙が宛名人たる私の心に惹起した結果は、蓋し某君の夢にも想はなかつた所であらうと思ふ。何故なれば、私はこれを讀んでしまつた時、私の心に明かに一種の反感の起つてゐる事を發見したからである。詩や歌や乃至は其の外の文學にたづさはる事を、人間の他の諸々の活動よりも何か格段に貴い事のやうに思ふ迷信――それは何時如何なる人の口から出るにしても私の心に或反感を呼び起さずに濟んだことはない。「歌を作ることを何か偉い事でもするやうに思つてる、莫迦な奴だ。」私はさう思つた。さうして又成程自ら言ふ如く憐れなる小學教師に違ひないと思つた。手紙には假名違ひも文法の違ひもあつた。 ○然しその反感も直ぐと引込まねばならなかつた。「羨ましい人だ。」といふやうな感じが輕く横合から流れて來た爲めである。此の人は自分で自分を「憐れなる」と呼んでゐるが、如何に憐れで、如何にして憐れであるかに就いて眞面目に考へたことのない人、寧ろさういふ考へ方をしない質の人であることは、自分が不滿足なる境遇に在りながら全力を擧げて歌を研究しようなどと言つてゐる事、しかも其歌の極平凡な叙事叙景の歌に過ぎない事、さうして他の營々として刻苦してゐる村人を趣味を解せぬ者と嘲つて僅に喜んでゐるらしい事などに依つて解つた。己の爲る事、言ふ事、考へる事に對して、それを爲ながら、言ひながら、考へながら常に一々反省せずにゐられぬ心、何事にまれ正面に其問題に立向つて底の底まで究めようとせずにゐられぬ心、日毎々々自分自身からも世の中からも色々の不合理と矛盾とを發見して、さうして其の發見によつて却て益自分自身の生活に不合理と矛盾とを深くして行く心――さういふ心を持たぬ人に對する羨みの感は私のよく經驗する所のものであつた。 ○私はとある田舍の小學校の宿直室にごろ〳〵してゐる一人の年若き准訓導を想像して見た。その人は眞の人を怒らせるやうな惡口を一つも胸に蓄へてゐない人である。漫然として教科書にある丈の字句を生徒に教へ、漫然として自分の境遇の憐れな事を是認し、漫然として今後大に歌を作らうと思つてる人である。未だ嘗て自分の心内乃至身邊に起る事物に對して、その根ざす處如何に深く、その及ぼす所如何に遠きかを考へて見たことのない人である。日毎に新聞を讀みながらも、我々の心を後から〳〵と急がせて、日毎に新しく展開して來る時代の眞相に對して何の切實な興味をも有つてゐない人である。私はこの人の一生に快よく口を開いて笑ふ機會が、私のそれよりも屹度多いだらうと思つた。 ○翌日出社した時は私の頭にもう某君の事は無かつた。さうして前の日と同じ色の封筒に同じ名を書いた一封を他の投書の間に見付けた時、私はこの人が本當に毎日投書する積なのかと心持眼を大きくして見た。其翌日も來た。其翌日も來た。ある時は投函の時間が遲れたかして一日置いての次の日に二通一緒に來たこともあつた。「また來た。」私は何時もさう思つた。意地惡い事ではあるが、私はこの人が下らない努力に何時まで飽きずにゐられるかに興味を有つて、それとはなしに毎日待つてゐた。 ○それが確七日か八日の間續いた。或日私は、「とう〳〵飽きたな。」と思つた。その次の日も來なかつた。さうして其後既に二箇月、私は再び某君の墨の薄い肩上りの字を見る機會を得ない。來ただけの歌は隨分夥しい數に上つたが、ただ所謂歌になりそうな景物を漫然と三十一字の形に表しただけで、新聞に載せる程のものは殆どなかつた。 ○私はこの事を書いて來て、其後某君は何うしてゐるだらうと思つた。矢張新聞が着けばただ文藝欄や歌壇や小説許りに興味を有つて讀んでゐるだらうか。漫然と歌を作り出して漫然と罷めてしまつた如く、更に又漫然と何事かを始めてゐるだらうか。私は思ふ。若し某君にして唯一つの事、例へば自分で自分を憐れだといつた事に就いてゞも、その如何に又如何にして然るかを正面に立向つて考へて、さうして其處に或動かすべからざる隱れたる事實を承認する時、其某君の歌は自からにして生氣ある人間の歌になるであらうと。 (三) ○うつかりしながら家の前まで歩いて來た時、出し拔けに飼ひ犬に飛着かれて、「あゝ喫驚した。こん畜生!」と思はず知らず口に出す――といふやうな例はよく有ることだ。下らない駄洒落を言ふやうだが、人は吃驚すると惡口を吐きたがるものと見える。「こん畜生」と言はなくとも、白なら白、ポチならポチでいゝではないか――若し必ず何とか言はなければならぬのならば。 ○土岐哀果君が十一月の「創作」に發表した三十何首の歌は、この人がこれまで人の褒貶を度外に置いて一人で開拓して來た新しい畑に、漸く樂しい秋の近づいて來てゐることを思はせるものであつた。その中に、 燒あとの煉瓦の上に syoben をすればしみじみ 秋の氣がする といふ一首があつた。好い歌だと私は思つた。(小便といふ言葉だけを態々羅馬字で書いたのは、作者の意味では多分この言葉を在來の漢字で書いた時に伴つて來る惡い連想を拒む爲であらうが、私はそんな事をする必要はあるまいと思ふ。) ○さうすると今月になつてから、私は友人の一人から、或雜誌が特にこの歌を引いて土岐君の歌風を罵つてゐるといふ事を聞いた。私は意外に思つた。勿論この歌が同じ作者の歌の中で最も優れた歌といふのではないが、然し何度讀み返しても惡い歌にはならない。評者は何故この鋭い實感を承認することが出來なかつたであらうか。さう考へた時、私は前に言つた「こん畜生」の場合を思ひ合せぬ譯に行かなかつた。評者は屹度歌といふものに就いて或狹い既成概念を有つてる人に違ひない。自ら新しい歌の鑑賞家を以て任じてゐ乍ら、何時となく歌は斯ういふもの、斯くあるべきものといふ保守的な概念を形成つてさうしてそれに捉はれてゐる人に違ひない。其處へ生垣の隙間から飼犬の飛び出したやうに、小便といふ言葉が不意に飛び出して來て、その保守的な、苟守的な既成概念の袖にむづと噛み着いたのだ。然し飼犬が主人の歸りを喜んで飛び着くに何の不思議もない如く、我々の平生使つてゐる言葉が我々の歌に入つて來たとても何も吃驚するには當らないではないか。 ○私の「やとばかり桂首相に手とられし夢みて覺めぬ秋の夜の二時」といふ歌も或雜誌で土岐君の小便の歌と同じ運命に會つた。尤もこの歌は、同じく實感の基礎を有しながら桂首相を夢に見るといふ極稀れなる事實を内容に取入れてあるだけに、言換へれば萬人の同感を引くべく餘りに限定された内容を歌つてあるだけに、小便の歌ほど歌として存在の權利を有つてゐない事は自分でも知つてゐる。 ○故獨歩は嘗てその著名なる小説の一つに「驚きたい」と云ふ事を書いてあつた。その意味に於ては私は今でも驚きたくない事はない。然しそれと全く別な意味に於て、私は今(驚きたくない)と思ふ。何事にも驚かずに、眼を大きくして正面にその問題に立向ひたいと思ふ。それは小便と桂首相に就いてのみではない。又歌の事に就いてのみではない。我々日本人は特殊なる歴史を過去に有してゐるだけに、今正に殆どすべての新しい出來事に對して驚かねばならぬ境遇に在る。さうして驚いてゐる。然し日に百囘「こん畜生」を連呼したとて、時計の針は一秒でも止まつてくれるだらうか。 ○歴史を尊重するは好い。然しその尊重を逆に將來に向つてまで維持しようとして一切の「驚くべき事」に手を以て蓋をする時、其保守的な概念を嚴密に究明して來たならば、日本が嘗て議會を開いた事からが先ず國體に牴觸する譯になりはしないだらうか。我々の歌の形式は萬葉以前から在つたものである。然し我々の今日の歌は何處までも我々の今日の歌である。我々の明日の歌も矢つ張り何處までも我々の明日の歌でなくてはならぬ。 (四) ○机の上に片肘をついて煙草を吹かしながら、私は書き物に疲れた眼を置時計の針に遊ばせてゐた。さうしてこんな事を考へてゐた。――凡そすべての事は、それが我々にとつて不便を感じさせるやうになつて來た時、我々はその不便な點に對して遠慮なく改造を試みるが可い。またさう爲るのが本當だ。我々は他の爲に生きてゐるのではない、我々は自身の爲に生きてゐるのだ。たとへば歌にしてもそうである。我々は既に一首の歌を一行に書き下すことに或不便、或不自然を感じて來た。其處でこれは歌それ〴〵の調子に依つて或歌は二行に或歌は三行に書くことにすれば可い。よしそれが歌の調子そのものを破ると言はれるにしてからが、その在來の調子それ自身が我々の感情にしつくりそぐはなくなつて來たのであれば、何も遠慮をする必要がないのだ。三十一文字といふ制限が不便な場合にはどし〴〵字あまりもやるべきである。又歌ふべき内容にしても、これは歌らしくないとか歌にならないとかいふ勝手な拘束を罷めてしまつて、何に限らず歌ひたいと思つた事は自由に歌へば可い。かうしてさへ行けば、忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那々々の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない。假に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎に角歌といふものは滅びない。さうして我々はそれに依つて、その刹那々々の生命を愛惜する心を滿足させることが出來る。 ○こんな事を考へて、恰度秒針が一囘轉する程の間、私は凝然としてゐた。さうして自分の心が次第々々に暗くなつて行くことを感じた。――私の不便を感じてゐるのは歌を一行に書き下す事ばかりではないのである。しかも私自身が現在に於て意のまゝに改め得るもの、改め得べきものは、僅にこの机の上の置時計や硯箱やインキ壺の位置とそれから歌ぐらゐなものである。謂はゞ何うでも可いやうな事ばかりである。さうして其他の眞に私に不便を感じさせ苦痛を感じさせるいろ〳〵の事に對しては、一指をも加へることが出來ないではないか。否、それに忍從し、それに屈伏して、慘ましき二重の生活を續けて行く外に此の世に生きる方法を有たないではないか。自分でも色々自分に辯解しては見るものゝ、私の生活は矢張現在の家族制度、階級制度、資本制度、知識賣買制度の犧牲である。 ○目を移して、死んだものゝやうに疊の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。(四十三年十二月) |
「しゃッ、しゃッ、しゃあっ!……」 寄席のいらっしゃいのように聞こえるが、これは、いざいざ、いでや、というほどの勢いの掛声と思えば可い。 「しゃあっ! 八貫―ウん、八貫、八貫、八貫と十ウ、九貫か、九貫と十ウだ、……十貫!」 目の下およそ八寸ばかり、濡色の鯛を一枚、しるし半纏という処を、めくら縞の筒袖を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身に取って、尾を空に、向顱巻の結びめと一所に、ゆらゆらと刎ねさせながら、掛声でその量を増すように、魚の頭を、下腹から膝頭へ、じりじりと下ろして行くが、 「しゃッ、しゃッ。」 と、腰を切って、胸を反らすと、再び尾から頭へ、じりじりと響を打たして釣下げる。これ、値を上げる寸法で。 「しゃッ、十貫十ウ、十貫二百、三百、三百ウ。」 親仁の面は朱を灌いで、その吻は蛸のごとく、魚の鰭は萌黄に光った。 「力は入るね、尾を取って頭を下げ下げ、段々に糶るのは、底力は入るが、見ていて陰気だね。」 と黒い外套を着た男が、同伴の、意気で優容の円髷に、低声で云った。 「そう。でも大鯛をせるのには、どこでもああするのじゃアありません?……」 人だちの背後から覗いていたのが、連立って歩き出して、 「……と言われると、第一、東京の魚河岸の様子もよく知らないで、お恥かしいよ。――ここで言っては唐突で、ちと飛離れているけれど、松江だね、出雲の。……茶町という旅館間近の市場で見たのは反対だっけ――今の……」 外套の袖を手で掲げて、 「十貫、百と糶上げるのに、尾を下にして、頭を上へ上へと上げる。……景気もよし、見ているうちに値が出来たが、よう、と云うと、それ、その鯛を目の上へ差上げて、人の頭越しに飜然と投げる。――処をすかさず受取るんだ、よう、と云って後の方で。……威勢がいい。それでいて、腰の矢立はここのも同じだが、紺の鯉口に、仲仕とかのするような広い前掛を捲いて、お花見手拭のように新しいのを頸に掛けた処なぞは、お国がら、まことに大どかなものだったよ。」 「陽気ね、それは。……でも、ここは近頃の新開ですもの。お魚はほんのつけたりで、おもに精進ものの取引をするんですよ。そういっては、十貫十ウの、いまの親仁に叱られるかも知れないけれど、皆が蓮根市場というくらいなんですわ。」 「成程、大きに。――しかもその実、お前さんと……むかしの蓮池を見に、寄道をしたんだっけ。」 と、外套は、洋杖も持たない腕を組んだ。 話の中には――この男が外套を脱ぐ必要もなさそうだから、いけぞんざいだけれども、懇意ずく、御免をこうむって、外套氏としておく。ただ旅客でも構わない。 が、私のこの旅客は、実は久しぶりの帰省者であった。以前にも両三度聞いた――渠の帰省談の中の同伴は、その容色よしの従姉なのであるが、従妹はあいにく京の本山へ参詣の留守で、いま一所なのは、お町というその娘……といっても一度縁着いた出戻りの二十七八。で、親まさりの別嬪が冴返って冬空に麗かである。それでも、どこかひけめのある身の、縞のおめしも、一層なよやかに、羽織の肩も細りとして、抱込んでやりたいほど、いとしらしい風俗である。けれども家業柄――家業は、土地の東の廓で――近頃は酒場か、カフェーの経営だと、話すのに幅が利くが、困った事にはお茶屋、いわゆるおん待合だから、ちと申憎い、が、仕方がない。それだけにまた娘の、世馴れて、人見知りをしない様子は、以下の挙動で追々に知れようと思う。 ちょうどいい。帰省者も故郷へ錦ではない。よって件の古外套で、映画の台本や、仕入ものの大衆向で、どうにか世渡りをしているのであるから。 「陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖さ。」 「あら、山の中だって、おじさん、こちらにも、海も、湖も、大きなのがありますわ。」 湖は知らず、海に小さなのといっては断じてあるまい。何しろ、話だけでも東京が好きで、珍らしく土地自慢をしない娘も、対手が地方だけに、ちょっと反感を持ったらしい。 いかにも、湖は晃々と見える。が、水が蒼穹に高い処に光っている。近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺は、麓の迫る裾になり、遠山は波濤のごとく累っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端は、巨きな猪の横に寝た態に似た、その猪の鼻と言おう、中空に抽出た、牙の白いのは湖である。丘を隔てて、一条青いのは海である。 その水の光は、足許の地に影を映射して、羽織の栗梅が明く澄み、袖の飛模様も千鳥に見える。見ると、やや立離れた――一段高く台を蹈んで立った――糶売の親仁は、この小春日の真中に、しかも夕月を肩に掛けた銅像に似ていた。 「あの煙突が邪魔だな。」 ここを入って行きましょうと、同伴が言う、私設の市場の入口で、外套氏は振返って、その猪の鼻の山裾を仰いで言った。 「あれ、温泉よ。」 「温泉?」 「いま通って来たじゃありませんか、おじさん。」 「ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀がないていた……」 蟋蟀は……ここでも鳴く。 「その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場でしたわね。」 「そうだっけな――実は、あのならびに一人、おなじ小学校の組の友だちが居てね。……八田なにがし……」 「そのお飯粒で蛙を釣って遊んだって、御執心の、蓮池の邸の方とは違うんですか。」 鯛はまだ値が出来ない。山の端の薄に顱巻を突合せて、あの親仁はまた反った。 「違うんだよ。……何も更めて名のるほどの事もないんだけれど、子供ッて妙なもので、まわりに田があるから、ああ八田だ、それにしても八ツはない。……そんなことを独り合点した事も思出しておかしいし、余り様子が変っているので、心細いようにもなって、ついうっかりして――活動写真の小屋が出来た……がらんとしている、不景気だな、とぎょっとして、何、昼間は休みなのだろう、にしておいたよ。そういえば煙突も真正面で、かえって、あんなに高く見えなかったもんだから、明取りかと思ったっけ。……映画の明取りはちと変だね。どうかしている。」 と笑いながら、 「そうかい、温泉かい……こんな処に。」 「沸すんですよ……ただの水を。」 「ただの水はよかった、成程。」 「でも、温泉といった方が景気がいいからですわ。そしてね、おじさん、いまの、あれ、狢の湯っていうんですよ。」 「狢の湯?……」 と同伴の顔を見た時は、もうその市場の裡を半ば過ぎていた。まだ新しく、ほんの仮設らしい、通抜けで、ただ両側に店が並んだが、二三個処うつろに穴があいて、なぜか箪笥の抽斗の一つ足りないような気がする。今来た入口に、下駄屋と駄菓子屋が向合って、駄菓子屋に、ふかし芋と、茹でた豌豆を売るのも、下駄屋の前ならびに、子供の履ものの目立って紅いのも、もの侘しい。蒟蒻の桶に、鮒のバケツが並び、鰌の笊に、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあなめ空地の尾花が覗いている……といった形。 ――あとで地の理をよく思うと、ここが昔の蓮池の口もとだったのだそうである。―― 「皆その御眷属が売っているようだ。」 「何? おじさん。」 「いえね、その狢の湯の。」 「あら聞こえると悪ござんすわ。」 |
環境が人をつくる 私が井上侯の所へいつたのは學生時代のことであつたから、二十歳くらいであつたろう。それから五、六年いたように思う。 明治初期の頃の書生は、青雲の志に燃えた者が多かつた。その頃は教育機關がまだ整備されておらなかつたので、そのような若者は偉い人の所へ書生に入つて、そこで勉強するというのが、出世をする一つの道程であつた。今のように大學が各所にあつて、學資さえあればどんどん大學を出られる、という時代ではない。だから同郷の偉い人を頼つて、そこの書生になつたものである。 それは人を知ることが眼目であつた。玄關番をしていると、訪問者は必ずそこを通過するのだから、知名の人に接し、そこから立身出世の道を開くことができる。それが書生の權利になつていた。だから、今の學生がやるアルバイトのようなものではない。 明治時代の實業家を私が見たところでは、擡頭期のことではあり、社會が狹く、問題も少かつたが、當時の實業家には、國家的の觀念が強かつたと思う。 日本の御維新によつて世界に飛出してみたわけだが、出てみると、世界の文明から非常に遲れている、これは大變だ、産業も教育も文化も、すべて一度に花を咲かせなければならぬと考えて、非常に焦躁の念に驅られたのである。そこで大變な努力をしたのであつて、全日本が、われわれのような若い者までその空氣の中に置かれたわけである。そうした風に吹かれたのは、われわれが最後かと思うが、その氣持ちは今でも私などに遺つている。 しかし日清戰爭、日露戰爭とやつて來て、日本は一等國ということになつた。實際はなつておらなかつたろうと思うが、なつた、なつたと言われて、國民は滿足していた。日英同盟をやつた、一人前になつた、という氣持ちになつたのである。實際を見極めるような偉い者はおらぬ。衆愚はアトモスフェアで左へゆき右へ動く。戰爭で勝つた、日本は偉い、一等國だ、と新聞が書けば、ほんとうに一等國になつたと思う。 われわれの若い時には、大きな革命の餘波が流れていた。偉い先輩のやつた足跡を、書物を通じてでなしに、じいさんやばあさん、或いは親父に聽いても、ペリーが來たとか、馬關の砲撃をやつたとか、そういう威勢よい話ばかり、それから苦心慘澹した話もある、どんな困難なことでも、やりさえすればやれる、という話ばかりである。 今の人は、どうせ出來やせぬ、やらなければやらないで濟む、やつたからといつて、それほどの効能もない、狡く世の中を渡ろう、パンパン暮しのほうがいい、こういう空氣になつているのではないかと思われる。 この空氣を變えるには、革命以外にない。漸を逐うて改めるということではないのである。思い切つて手術をして膿を出せば、新しい肉が盛り上つて來るのと同じことで、今の空氣を書物に書いても講釋しても改められるものではない。そんな安つぽいものではない。それほど敗戰ということの運動量は大きいのである。 革命には、政治革命もあろうし、産業革命もあると思う。どんな形で革命が來るか、私は知らぬが、革命が來なければ、空氣が一新できないことは事實である。 早い話が、今の總理大臣がいけない、早く辭めろ、などと言う。しかし誰かにかわつても、今以上のことができるとも思われない。どつこいどつこい――と言つては惡いかも知らぬが、大した効果はないと思う。空氣そのものが變つておらぬからである。 いくら偉い者でも、その思うところを行い得るには環境というものが要る。運というものが要る。環境と運、これはわれわれが作るものではない。自然に來るものである。 人が環境を作るということもあるが、これは長くかかる。きよう考えたから明日環境を變える、そんな力はない。變えるには歴史的の時間を要する。こういうことになるのではあるまいか。 今度來るのは、私は經濟革命であろうと思う。今のようなことをしておつて、日本がうまくゆくとは、私は思わない。ここでよほどの大きな對策を實行しなければ――新聞に論じているようなことでは――とても立つてゆきはせぬ。どうしたら立つてゆけるか。自發的にお互いが發心してやつてゆくような空氣は、今の日本にはない。 今までコールド・ウォアやホット・ウォアがあつて、相當疲れて來た。これから日本はどうなるか。世界的に平和風が吹いて來ると、今度擡頭して來るのは經濟戰爭ではあるまいか。ホット・ウォア――武器の戰爭――が終れば、それに取つて替るものは、經濟戰爭というやつである。 その場合、どつちが日本として手答えがあるであろうか。日本は武器の戰爭のほうは、それほど痛くない。經濟の戰爭のほうが痛いのである。時には命取りになる。武器の戰爭は、敗けると思つたものが勝つたりすることがある。バランス・オブ・パワアというものがあつて、必ずしも絶對量によつて勝つものではない。 日本の現在のウエイトは、ただみたいなものである。吹けば飛ぶようなものかも知れない。だが、むかし鶴見祐輔氏が明政會で僅か一票で威力を示したことがあるように、日本が相對立する二つの國の間にあつて、どつちを勝たせようとするかという場合には、鶴見氏の場合と同樣にキャスチングヴォートの威力を發揮することができるので、その値打ちは大いに考える必要がある。 ところが、經濟の戰爭になると、そういうことが出來ない。惡い品物を良いと言つても、買つてくれる人はないのである。現にそういう現象が起りつつあるのではないか。惡くて高いために、買つてくれる國がないのが現状である。 しかも策なしというやり方をしてゐる。策なしとは、手を擧げたということである。これではいけない。 といつて、世の中を搖り動かそうとするほど、私は惡人ではない。人柄が良いのだ。性は善なのである。いわばわれわれにはその資格がないわけだ。われわれは時が來なければ、ようやらん人間である。實際問題だけしか私の頭にはない。青年時代には夢があり、青雲の志があつた。しかし、もう年を取つたし、われわれは革命を起す人間ではない。批評をすることはできるが、革命を起すのは若い人でなければならない。 物を賣ろうと思つても、ドイツその他から安くてよい物がどんどん出るから、日本の物は買つてくれない。中共ともとのように貿易をやろうと思つても、買つてくれるのは鯣と昆布だけ、或いは鮑とか寒天だけ位のことであるまいか。昔のように紡績を賣りたくても、今日の中共は毛澤東がどんどんと産業を興して、そんな物は要らんと言うことになつているかも知れぬ。 これは「かも知れぬ」である。しかし、そういうことになるプロバビリテイは、非常に多いというのは、毛澤東という人物、私はよくは知らぬが、四億五千萬の人間を率いて、自分がやろうと思つた方向へ進んでいる。あの努力は大したものだと思う。そういう現象は日本にはないのである。 いま日本の經濟界にも、新生活運動というようなことが提唱されている。だが、それを唱える人自身が待合へいつて宴會をやつているようでは、初めからダメである。 この際、ほんとにやるべきことは、命の惜しい人や名譽のほしい人には、やりとげられないと思う。名譽も大きな名譽ならいいが、そのへんにザラにあるような小さな名譽を追つかけているような人では、どうすることも出來ない。 御維新の時に働いた人たちは、どこの馬の骨か判らんような奴が、キャアキャア言つて、困つた、困つた、と思われていたにちがいない。ところが、それがあれだけのエポックを作つたのである。 それには外からの刺戟があつた。黒船來である。そこで尊皇攘夷の空氣が起り、後に開國を迫つて、ついに御維新になつた。 パンパンにされた日本 私は今度は經濟革命が來ると思つている。どうしても避けられない。このままで經濟戰爭に敗けたならば、アメリカの保護を乞うても、保護してはくれぬ。一度パンパンになつた人間は、もう使い途がない。潰しが利かぬのである。女はまだよいが、パンパン野郎は何にも使えない。手足まといになるものを、誰が買つてくれるものか。 人口が多いということが、それが心を一つにしていれば力が強い。まだ使い途がある。しかし内部でお互いが反撥し合つているのだから、全然無價値である。それを統制して一つにしようといつても、もとのように權力ある者の命令一下まとまる、というようなわけにはゆかない。權力ある者の命令に從つてやつたところが、敗戰によつて恥をかいた、という大きな經驗をしている以上、もう一度命令に從わせることはなかなかむつかしい。 これは巣鴨へ入つてみると、よく判ることである。巣鴨にいる人たちは、みな、われわれは何の爲にこんな目に遭うのか、と考えている。われわれは何も惡いことをした覺えはない、街にいる人達と何處が違うか。惡いことをした者が免れて街にいるではないか、という考えを持つている。 こうした考えがたくさん積つて來ると、何かの機會にはそれが爆發する危險がある。巣鴨などはその一つであろう。 私に言わせれば日本はまだ困り樣が足らぬと思う。困つたと思う時に特需などがあつたり、どこかから剩り物が來たりして、どうやらこうやら、つないで來ることができた。テンヤモンヤとやつて來て、別に餓死する人もない。 テンヤモンヤとやつていられる間はよろしい。もう少し深刻になつて來て、どうしても食べてゆけない、となつたら、一體どうなるであろうか。 むかし米が上つて一升五十錢になつた時に、米騒動というものが起つた。これは誰言うとなしに起つたものである。何も知らぬ漁師のおかみさんたちが起したのである。學校を出たインテリがやつたものではない。おかみさんたちの付けた火が、パーッと擴がつたのである。情勢が熟していれば、すぐに火が付く。 コールド・ウォアやホット・ウオアが盛んに動いていて、兩方からヤイノ、ヤイノと言われている時はよい。無人島に十人の男と一人の女だけが暮すことになれば、醜婦でも非常な美人に見えるように、日本も今まではまだよかつた。 これから平和風の吹いて來た時が、非常に危險な時である。必ず壁にぶつかる。その時が革命に火の付く時である。 徳川幕府が三百年間續いて、役人が腐敗し、賄賂を公然と取るようになる、旗本の中には自分の家柄を、金で賣つたりする者が出る、大小は佩しているけれども、それは伊達であつて、武士の魂は抜けて遊冶郎になり下つてしまつた。そこへ外來の一大衝動を受けたから有志が起つたのである。初めは尊皇討幕であつたが、御維新によつて今度は開國進取、産業立國、殖産興業、文明開化というような旗印しを立てて進んだのである。 おそらく毛澤東は明治の御維新などをよく體得して、それを利用したにちがいないと思う。 だが、私は日本人に失望してはいない。永い間養われて出來上つた血液は、そう一朝一夕に變るものではない、というのが私の信念である。今は病氣に罹つたか、酒を飮んで醉つたようなもので、日本人の本質は相當のよさを持つていると信じている。 戰爭に敗けて、アメリカが來て、パンパンにされた。あの威力によつて自然にこうなつたのであるが、このまま泥舟に乘つたように沈沒するかといえば、そうではないと思う。まだ發奮する時期が來ないだけのことで、決してダメなのではない。 安賣りは止めよ こんど火力發電のために外資を導入するという。僅か四千萬ドルを借りるのに、それこそ大騒動をして、われわれの意想外の惡い條件で借りるという話である。 ところが、一方には十億ドル近いものを日本は持つている。これをなぜ善用しないのであろうか。しかも世界銀行の加入金を二億ドル拂つて、借りて來るのは四千萬ドル。二億ドルを無利子で預けて、旅費その他をたくさん使つて、大騒ぎをして四千萬ドルの金を利子を拂つて借りて來る。自分の定期預金を擔保にして、非常に高利の金を借りるようなものである。 しかも、これは一番擔保であるから、このあとは勿論それ以下の條件という譯にはゆかない。取つたら最後、それから一歩も讓らぬのが、銀行家の心理である。これが基本になるだけに、今度のことは困る。 |
――この涙の谷に呻き泣きて、御身に願いをかけ奉る。……御身の憐みの御眼をわれらに廻らせ給え。……深く御柔軟、深く御哀憐、すぐれて甘くまします「びるぜん、さんたまりや」様―― ――和訳「けれんど」―― 「どうです、これは。」 田代君はこう云いながら、一体の麻利耶観音を卓子の上へ載せて見せた。 麻利耶観音と称するのは、切支丹宗門禁制時代の天主教徒が、屡聖母麻利耶の代りに礼拝した、多くは白磁の観音像である。が、今田代君が見せてくれたのは、その麻利耶観音の中でも、博物館の陳列室や世間普通の蒐収家のキャビネットにあるようなものではない。第一これは顔を除いて、他はことごとく黒檀を刻んだ、一尺ばかりの立像である。のみならず頸のまわりへ懸けた十字架形の瓔珞も、金と青貝とを象嵌した、極めて精巧な細工らしい。その上顔は美しい牙彫で、しかも唇には珊瑚のような一点の朱まで加えてある。…… 私は黙って腕を組んだまま、しばらくはこの黒衣聖母の美しい顔を眺めていた。が、眺めている内に、何か怪しい表情が、象牙の顔のどこだかに、漂っているような心もちがした。いや、怪しいと云ったのでは物足りない。私にはその顔全体が、ある悪意を帯びた嘲笑を漲らしているような気さえしたのである。 「どうです、これは。」 田代君はあらゆる蒐集家に共通な矜誇の微笑を浮べながら、卓子の上の麻利耶観音と私の顔とを見比べて、もう一度こう繰返した。 「これは珍品ですね。が、何だかこの顔は、無気味な所があるようじゃありませんか。」 「円満具足の相好とは行きませんかな。そう云えばこの麻利耶観音には、妙な伝説が附随しているのです。」 「妙な伝説?」 私は眼を麻利耶観音から、思わず田代君の顔に移した。田代君は存外真面目な表情を浮べながら、ちょいとその麻利耶観音を卓子の上から取り上げたが、すぐにまた元の位置に戻して、 「ええ、これは禍を転じて福とする代りに、福を転じて禍とする、縁起の悪い聖母だと云う事ですよ。」 「まさか。」 「ところが実際そう云う事実が、持ち主にあったと云うのです。」 田代君は椅子に腰を下すと、ほとんど物思わしげなとも形容すべき、陰鬱な眼つきになりながら、私にも卓子の向うの椅子へかけろと云う手真似をして見せた。 「ほんとうですか。」 私は椅子へかけると同時に、我知らず怪しい声を出した。田代君は私より一二年前に大学を卒業した、秀才の聞えの高い法学士である。且また私の知っている限り、所謂超自然的現象には寸毫の信用も置いていない、教養に富んだ新思想家である、その田代君がこんな事を云い出す以上、まさかその妙な伝説と云うのも、荒唐無稽な怪談ではあるまい。―― 「ほんとうですか。」 私が再こう念を押すと、田代君は燐寸の火をおもむろにパイプへ移しながら、 「さあ、それはあなた自身の御判断に任せるよりほかはありますまい。が、ともかくもこの麻利耶観音には、気味の悪い因縁があるのだそうです。御退屈でなければ、御話しますが。――」 この麻利耶観音は、私の手にはいる以前、新潟県のある町の稲見と云う素封家にあったのです。勿論骨董としてあったのではなく、一家の繁栄を祈るべき宗門神としてあったのですが。 その稲見の当主と云うのは、ちょうど私と同期の法学士で、これが会社にも関係すれば、銀行にも手を出していると云う、まあ仲々の事業家なのです。そんな関係上、私も一二度稲見のために、ある便宜を計ってやった事がありました。その礼心だったのでしょう。稲見はある年上京した序に、この家重代の麻利耶観音を私にくれて行ったのです。 私の所謂妙な伝説と云うのも、その時稲見の口から聞いたのですが、彼自身は勿論そう云う不思議を信じている訳でも何でもありません。ただ、母親から聞かされた通り、この聖母の謂われ因縁をざっと説明しただけだったのです。 何でも稲見の母親が十か十一の秋だったそうです。年代にすると、黒船が浦賀の港を擾がせた嘉永の末年にでも当りますか――その母親の弟になる、茂作と云う八ツばかりの男の子が、重い痲疹に罹りました。稲見の母親はお栄と云って、二三年前の疫病に父母共世を去って以来、この茂作と姉弟二人、もう七十を越した祖母の手に育てられて来たのだそうです。ですから茂作が重病になると、稲見には曽祖母に当る、その切髪の隠居の心配と云うものは、一通りや二通りではありません。が、いくら医者が手を尽しても、茂作の病気は重くなるばかりで、ほとんど一週間と経たない内に、もう今日か明日かと云う容体になってしまいました。 するとある夜の事、お栄のよく寝入っている部屋へ、突然祖母がはいって来て、眠むがるのを無理に抱き起してから、人手も借りず甲斐甲斐しく、ちゃんと着物を着換えさせたそうです。お栄はまだ夢でも見ているような、ぼんやりした心もちでいましたが、祖母はすぐにその手を引いて、うす暗い雪洞に人気のない廊下を照らしながら、昼でも滅多にはいった事のない土蔵へお栄をつれて行きました。 土蔵の奥には昔から、火伏せの稲荷が祀ってあると云う、白木の御宮がありました。祖母は帯の間から鍵を出して、その御宮の扉を開けましたが、今雪洞の光に透かして見ると、古びた錦の御戸帳の後に、端然と立っている御神体は、ほかでもない、この麻利耶観音なのです。お栄はそれを見ると同時に、急に蛼の鳴く声さえしない真夜中の土蔵が怖くなって、思わず祖母の膝へ縋りついたまま、しくしく泣き出してしまいました。が、祖母はいつもと違って、お栄の泣くのにも頓着せず、その麻利耶観音の御宮の前に坐りながら、恭しく額に十字を切って、何かお栄にわからない御祈祷をあげ始めたそうです。 それがおよそ十分あまりも続いてから、祖母は静に孫娘を抱き起すと、怖がるのを頻りになだめなだめ、自分の隣に坐らせました。そうして今度はお栄にもわかるように、この黒檀の麻利耶観音へ、こんな願をかけ始めました。 「童貞聖麻利耶様、私が天にも地にも、杖柱と頼んで居りますのは、当年八歳の孫の茂作と、ここにつれて参りました姉のお栄ばかりでございます。お栄もまだ御覧の通り、婿をとるほどの年でもございません。もし唯今茂作の身に万一の事でもございましたら、稲見の家は明日が日にも世嗣ぎが絶えてしまうのでございます。そのような不祥がございませんように、どうか茂作の一命を御守りなすって下さいまし。それも私風情の信心には及ばない事でございましたら、せめては私の息のございます限り、茂作の命を御助け下さいまし。私もとる年でございますし、霊魂を天主に御捧げ申すのも、長い事ではございますまい。しかし、それまでには孫のお栄も、不慮の災難でもございませなんだら、大方年頃になるでございましょう。何卒私が目をつぶりますまででよろしゅうございますから、死の天使の御剣が茂作の体に触れませんよう、御慈悲を御垂れ下さいまし。」 祖母は切髪の頭を下げて、熱心にこう祈りました。するとその言葉が終った時、恐る恐る顔を擡げたお栄の眼には、気のせいか麻利耶観音が微笑したように見えたと云うのです。お栄は勿論小さな声をあげて、また祖母の膝に縋りつきました。が、祖母は反って満足そうに、孫娘の背をさすりながら、 「さあ、もうあちらへ行きましょう。麻利耶様は難有い事に、この御婆さんのお祈りを御聞き入れになって下すったからね。」 と、何度も繰り返して云ったそうです。 さて明くる日になって見ると、成程祖母の願がかなったか、茂作は昨日よりも熱が下って、今まではまるで夢中だったのが、次第に正気さえついて来ました。この容子を見た祖母の喜びは、仲々口には尽せません。何でも稲見の母親は、その時祖母が笑いながら、涙をこぼしていた顔が、未に忘れられないとか云っているそうです。その内に祖母は病気の孫がすやすや眠り出したのを見て、自分も連夜の看病疲れをしばらく休める心算だったのでしょう。病間の隣へ床をとらせて、珍らしくそこへ横になりました。 その時お栄は御弾きをしながら、祖母の枕もとに坐っていましたが、隠居は精根も尽きるほど、疲れ果てていたと見えて、まるで死んだ人のように、すぐに寝入ってしまったとか云う事です。ところがかれこれ一時間ばかりすると、茂作の介抱をしていた年輩の女中が、そっと次の間の襖を開けて、「御嬢様ちょいと御隠居様を御起し下さいまし。」と、慌てたような声で云いました。そこでお栄は子供の事ですから、早速祖母の側へ行って、「御婆さん、御婆さん。」と二三度掻巻きの袖を引いたそうです。が、どうしたのかふだんは眼慧い祖母が、今日に限っていくら呼んでも返事をする気色さえ見えません。その内に女中が不審そうに、病間からこちらへはいって来ましたが、これは祖母の顔を見ると、気でも違ったかと思うほど、いきなり隠居の掻巻きに縋りついて、「御隠居様、御隠居様。」と、必死の涙声を挙げ始めました。けれども祖母は眼のまわりにかすかな紫の色を止めたまま、やはり身動きもせずに眠っています。と間もなくもう一人の女中が、慌しく襖を開けたと思うとこれも、色を失った顔を見せて、「御隠居様、――坊ちゃんが――御隠居様。」と、震え声で呼び立てました。勿論この女中の「坊ちゃんが――」は、お栄の耳にも明かに、茂作の容態の変った事を知らせる力があったのです。が、祖母は依然として、今は枕もとに泣き伏した女中の声も聞えないように、じっと眼をつぶっているのでした。…… 茂作もそれから十分ばかりの内に、とうとう息を引き取りました。麻利耶観音は約束通り、祖母の命のある間は、茂作を殺さずに置いたのです。 田代君はこう話し終ると、また陰鬱な眼を挙げて、じっと私の顔を眺めた。 「どうです。あなたにはこの伝説が、ほんとうにあったとは思われませんか。」 私はためらった。 「さあ――しかし――どうでしょう。」 田代君はしばらく黙っていた。が、やがて煙の消えたパイプへもう一度火を移すと、 「私はほんとうにあったかとも思うのです。ただ、それが稲見家の聖母のせいだったかどうかは、疑問ですが、――そう云えば、まだあなたはこの麻利耶観音の台座の銘をお読みにならなかったでしょう。御覧なさい。此処に刻んである横文字を。――DESINE FATA DEUM LECTI SPERARE PRECANDO……」 私はこの運命それ自身のような麻利耶観音へ、思わず無気味な眼を移した。聖母は黒檀の衣を纏ったまま、やはりその美しい象牙の顔に、ある悪意を帯びた嘲笑を、永久に冷然と湛えている。―― |
「――鱧あみだ仏、はも仏と唱うれば、鮒らく世界に生れ、鯒へ鯒へと請ぜられ……仏と雑魚して居べし。されば……干鯛貝らいし、真経には、蛸とくあのく鱈――」 ……時節柄を弁えるがいい。蕎麦は二銭さがっても、このせち辛さは、明日の糧を思って、真面目にお念仏でも唱えるなら格別、「蛸とくあのく鱈。」などと愚にもつかない駄洒落を弄ぶ、と、こごとが出そうであるが、本篇に必要で、酢にするように切離せないのだから、しばらく御海容を願いたい。 「……干鯛かいらいし……ええと、蛸とくあのく鱈、三百三もんに買うて、鰤菩薩に参らする――ですか。とぼけていて、ちょっと愛嬌のあるものです。ほんの一番だけ、あつきあい下さいませんか。」 こう、つれに誘われて、それからの話である。「蛸とくあのくたら。」しかり、これだけに対しても、三百三もんがほどの価値をお認めになって、口惜い事はあるまいと思う。 つれは、毛利一樹、という画工さんで、多分、挿画家協会会員の中に、芳名が列っていようと思う。私は、当日、小作の挿画のために、場所の実写を誂えるのに同行して、麻布我善坊から、狸穴辺――化けるのかと、すぐまたおなかまから苦情が出そうである。が、憚りながらそうではない。我ながらちょっとしおらしいほどに思う。かつて少年の頃、師家の玄関番をしていた折から、美しいその令夫人のおともをして、某子爵家の、前記のあたりの別荘に、栗を拾いに来た。拾う栗だから申すまでもなく毬のままのが多い。別荘番の貸してくれた鎌で、山がかりに出来た庭裏の、まあ、谷間で。御存じでもあろうが、あれは爪先で刺々を軽く圧えて、柄を手許へ引いて掻く。……不器用でも、これは書生の方がうまかった。令夫人は、駒下駄で圧えても転げるから、褄をすんなりと、白い足袋はだし、それでも、がさがさと針を揺り、歯を剥いて刎ねるから、憎らしい……と足袋もとって、雪を錬りものにしたような素足で、裳をしなやかに、毬栗を挟んでも、ただすんなりとして、露に褄もこぼれなかった。――この趣を写すのに、画工さんに同行を願ったのである。これだと、どうも、そのまま浮世絵に任せたがよさそうに思われない事もない。が、そうすると、さもしいようだが、作者の方が飯にならぬ。そッとして置く。 もっとも三十年も以前の思出である。もとより別荘などは影もなくなった。が、狸穴、我善坊の辺だけに、引潮のあとの海松に似て、樹林は土地の隅々に残っている。餅屋が構図を飲込んで、スケッチブックを懐に納めたから、ざっと用済みの処、そちこち日暮だ。……大和田は程遠し、ちと驕りになる……見得を云うまい、これがいい、これがいい。長坂の更科で。我が一樹も可なり飲ける、二人で四五本傾けた。 時は盂蘭盆にかかって、下町では草市が立っていよう。もののあわれどころより、雲を掻裂きたいほど蒸暑かったが、何年にも通った事のない、十番でも切ろうかと、曾我ではなけれど気が合って歩行き出した。坂を下りて、一度ぐっと低くなる窪地で、途中街燈の光が途絶えて、鯨が寝たような黒い道があった。鳥居坂の崖下から、日ヶ窪の辺らしい。一所、板塀の曲角に、白い蝙蝠が拡ったように、比羅が一枚貼ってあった。一樹が立留まって、繁った樫の陰に、表町の淡い燈にすかしながら、その「――干鯛かいらいし――……蛸とくあのくたら――」を言ったのである。 「魚説法、というのです――狂言があるんですね。時間もよし、この横へ入った処らしゅうございますから。」 すぐ角を曲るように、樹の枝も指せば、おぼろげな番組の末に箭の標示がしてあった。古典な能の狂言も、社会に、尖端の簇を飛ばすらしい。けれども、五十歩にたりぬ向うの辻の柳も射ない。のみならず、矢竹の墨が、ほたほたと太く、蓑の毛を羽にはいだような形を見ると、古俳諧にいわゆる――狸を威す篠張の弓である。 これもまた……面白い。 「おともしましょう、望む処です。」 気競って言うまで、私はいい心持に酔っていた。 「通りがかりのものです。……臨時に見物をしたいと存じますのですが。」 「望む所でございます。」 と、式台正面を横に、卓子を控えた、受附世話方の四十年配の男の、紋附の帷子で、舞袴を穿いたのが、さも歓迎の意を表するらしく気競って言った。これは私たちのように、酒気があったのでは決してない。 切符は五十銭である。第一、順と見えて、六十を越えたろう、白髪のお媼さんが下足を預るのに、二人分に、洋杖と蝙蝠傘を添えて、これが無料で、蝦蟇口を捻った一樹の心づけに、手も触れない。 この世話方の、おん袴に対しても、――(たかが半円だ、ご免を被って大きく出ておけ。)――軽少過ぎる。卓子を並べて、謡本少々と、扇子が並べてあったから、ほんの松の葉の寸志と見え、一樹が宝生雲の空色なのを譲りうけて、その一本を私に渡し、 「いかが。」 「これも望む処です。」 つい私は莞爾した。扇子店の真上の鴨居に、当夜の番組が大字で出ている。私が一わたり読み取ったのは、唯今の塀下ではない、ここでの事である。合せて五番。中に能の仕舞もまじって、序からざっと覚えてはいるが――狸の口上らしくなるから一々は記すまい。必要なのだけを言おう。 必要なのは――魚説法――に続く三番目に、一、茸、(くさびら。)――鷺、玄庵――の曲である。 道の事はよくは知らない。しかし鷺の姿は、近ごろ狂言の流に影は映らぬと聞いている。古い隠居か。むかしものの物好で、稽古を積んだ巧者が居て、その人たち、言わば素人の催しであろうも知れない。狸穴近所には相応しい。が、私のいうのは流儀の事ではない。曲である。 この、茸―― 慌しいまでに、一樹が狂言を見ようとしたのも、他のどの番組でもなく、ただこれあるがためであろう、と思う仔細がある。あたかも一樹が、扇子のせめを切りながら、片手の指のさきで軽く乳のあたりと思う胸をさすって、返す指で、左の目を圧えたのを見るにつけても。…… 一樹を知ったほどのもので、画工さんの、この癖を認めないものはなかろう。ちょいと内証で、人に知らせないように遣る、この早業は、しかしながら、礼拝と、愛撫と、謙譲と、しかも自恃をかね、色を沈静にし、目を清澄にして、胸に、一種深き人格を秘したる、珠玉を偲ばせる表顕であった。 こういううちにも、舞台――舞台は二階らしい。――一間四面の堂の施主が、売僧の魚説法を憤って、 「――おのれ何としょうぞ――」 「――打たば打たしめ、棒鱈か太刀魚でおうちあれ――」 「――おのれ、また打擲をせいでおこうか――」 「――ああ、いかな、かながしらも堪るものではない――」 「――ええ、苦々しいやつかな――」 「――いり海老のような顔をして、赤目張るの――」 「――さてさて憎いやつの――」 相当の役者と見える。声が玄関までよく通って、その間に見物の笑声が、どッと響いた。 「さあ、こちらへどうぞ、」 「憚り様。」 階子段は広い。――先へ立つ世話方の、あとに続く一樹、と並んで、私の上りかかる処を、あがり口で世話方が片膝をついて、留まって、「ほんの仮舞台、諸事不行届きでありまして。」 挨拶するのに、段を覗込んだ。その頭と、下から出かかった頭が二つ……妙に並んだ形が、早や横正面に舞台の松と、橋がかりの一二三の松が、人波をすかして、揺れるように近々と見えるので……ややその松の中へ、次の番組の茸が土を擡げたようで、余程おかしい。……いや、高砂の浦の想われるのに対しては、むしろ、むくむくとした松露であろう。 その景色の上を、追込まれの坊主が、鰭のごとく、キチキチと法衣の袖を煽って、 「――こちゃただ飛魚といたそう――」 「――まだそのつれを言うか――」 「――飛魚しょう、飛魚しょう――」 と揚幕へ宙を飛んだ――さらりと落す、幕の隙に、古畳と破障子が顕われて、消えた。……思え、講釈だと、水戸黄門が竜神の白頭、床几にかかり、奸賊紋太夫を抜打に切って棄てる場所に……伏屋の建具の見えたのは、どうやら寂びた貸席か、出来合の倶楽部などを仮に使った興行らしい。 見た処、大広間、六七十畳、舞台を二十畳ばかりとして、見物は一杯とまではない、が賑であった。 この暑さに、五つ紋の羽織も脱がない、行儀の正しいのもあれば、浴衣で腕まくりをしたのも居る。――裾模様の貴婦人、ドレスの令嬢も見えたが、近所居まわりの長屋連らしいのも少くない。印半纏さえも入れごみで、席に劃はなかったのである。 で、階子の欄干際を縫って、案内した世話方が、 「あすこが透いております。……どうぞ。」 と云った。脇正面、橋がかりの松の前に、肩膝を透いて、毛氈の緋が流れる。色紙、短冊でも並びそうな、おさらいや場末の寄席気分とは、さすが品の違った座をすすめてくれたが、裾模様、背広連が、多くその席を占めて、切髪の後室も二人ばかり、白襟で控えて、金泥、銀地の舞扇まで開いている。 われら式、……いや、もうここで結構と、すぐその欄干に附着いた板敷へ席を取ると、更紗の座蒲団を、両人に当てがって、 |
琉球の那覇市の街端れに△△屋敷と云ふ特種部落がある。此処の住民は支那人の子孫だが、彼等の多くは、寧ろ全体と云ってもよいが、貧乏で賎業に従事して居る。アタピースグヤーと云って田圃に出て行って、蛙を捕って来て、その皮を剥いで、市場に持って行って売る。蛙は那覇、首里の人々には美味な副食物の一つに数へられて居るのだ。それから、ターイユトウヤー(鮒取)サバツクヤー(草履造)、帽子編…………さう云ふ職業に従事して居る。彼等は斯う云う賎業(?)に従事して居て、那覇市の他の町の人々には△△屋敷人と軽蔑されて居ても、その日常生活は簡易で、共同的で、随って気楽である。 榕樹、ビンギ、梯梧、福樹などの亜熱帯植物が亭々と聳え、鬱蒼と茂り合った蔭に群った一部落。家々の周囲には竹やレークの生籬が廻らしてある。その家が低い茅葺で、穢しい事は云ふ迄もない。朝、男達が竿や網を持って田圃へ出掛けて行くと、女達は涼しい樹蔭に筵を敷いて、悠長で而かも一種哀調を帯びた琉球の俗謡を謡ひながら帽子を編む。草履を作る。夕暮になって男達が田圃から帰って来ると、その妻や娘達が、捕って来た蛙や鮒を売りに市場へ行く。それをいくらかの金銭に代へて、何か肴と一合ばかりの泡盛を買って、女達はハブに咬まれないやうに炬火を点して帰って来る。男達は嬉しさうにそれを迎へて、乏しい晩飯を済ますと、横になって、静かに泡盛を啜る。さう云ふ生活を繰り返して居る彼等は、自分達の生活を惨めだとも考へない。貧しい人達は模合(無尽)を出し合って、不幸がある場合には助け合ふやうにして居る。南国のことで、冬も凌ぎにくいと云ふ程の日はない。斯うして彼等は単純に、平和に暮して居るのである。 だが、斯う云ふ人達にとっても、わが奥間百歳が巡査と云ふ栄職に就いた事は奥間一家の名誉のみならず、△△屋敷全部落の光栄でなければならなかった。支那人の子孫である彼等、さうして貧しい、賎業に従事して居る彼等にとっては、官吏になると云ふ事は単なる歓びと云ふよりも、寧ろ驚異であった。 そこで、奥間百歳が巡査を志願してると云ふ事が知れ渡ると、部落の人々は誰も彼も我が事のやうに喜んで、心から彼の合格を祈った。彼の父は彼に仕事を休んで勉強するやうに勧めた。彼の母は巫女を頼んで、彼方此方の拝所へ詣って、百歳が試験に合格するやうにと祈った。百歳が愈々試験を受けに行くと云ふ前の日には、母は彼を先祖の墓に伴れて行って、長い祈願をした。 かうして、彼自身と家族と部落の人々の念願が届いて、百歳は見事に試験に合格したのである。彼と家族と部落民の得意や察すべしだ。彼等は半日仕事を休んで、百歳が巡査になった為の祝宴を催した。男達は彼の家の前にある、大きな榕樹の蔭の広場に集って昼から泡盛を飲んだり、蛇皮線を弾いたりして騒いだ。若い者は組踊の真似をしたりした。 それは大正△年の五月の或日の事であった。もう芭蕉布の着物を来ても寒くない頃だった。梯梧の赤い花が散り初めて、樹蔭の草叢の中から百合の花が、彼方此方に白く咲き出て居る。垣根には、南国の強い日光を受けて仏桑華の花がパッと明るく燃えて居た。 男達が、肌を抜いて歌ったり、踊ったり、蛇皮線を弾いたりして居る周囲には、女達が集って来て、それを面白さうに眺めて居た。その騒ぎの中に、わが奥間百歳は凱旋将軍のやうに、巡査の制服制帽をつけ、帯剣を光らせて、何処から持って来たのか、珍らしく椅子に腰を掛けて居た。娘達はあくがれるやうな、また畏れるやうな眼付で、彼の変った凜とした姿を凝視めて居た。 かうして此の饗宴は夜更まで続いた。静かな夜の部落の森に、歌声、蛇皮線の響、人々のさざめき合ふ声が反響して、何時までも止まなかった。 奥間巡査は講習を終へると隔日勤務になった。彼は成績が良好な為め本署勤務を命じられた。それから彼は一日置きに警察署へ出て、家に居る時は大抵、本を読んで居た。家族は彼が、制服制帽をつけて家を出入するのが嬉しかった。さうして時々、家に来る人々が百歳が制服制帽で何処其処を歩いて居たと珍らしさうに話すのを聞くと、彼等は隠し切れない喜悦の感情を顔に表はした。さう云ふ人々はさも、彼に逢ふと云ふ事その事だけでも異常な事であるかのやうに喜んで話すのだった。さうして、中には、家の子供も将来は巡査になって貰はなければならないと云ふ者もあった。 月の二十五日には、百歳はポケットに俸給を入れて帰った。彼は初めて俸給を握る歓びに心が震へて居た。右のポケットに入ったその俸給の袋を固く握り乍ら、早足に彼は歩いた。家に着くと、彼は強いて落着いて、座敷へ上ってから、平気な風に、その俸給袋を出して、母に渡した。 「まあ」 と嬉しさうにそれを押し戴いて、母は中を検めて見た。さうして紙幣を数へて見て、 「ああ、千百五十貫(二十三円)やさやあ。」 と云った。俸給はそれだけあると聞いて居たが、彼女は現金を見ると、今更ながら驚いたと云ふ風であった。 二、三ケ月は斯うして平和に過ぎた。だが、家族はだんだん彼の心が自分達を離れて行くのを感じ出した。彼はまた、部落の若者達を相手にしなくなった。すると、部落の人々も何時とはなしに彼に対して無関心になって行った。今や彼の心の中には、巡査としての職務を立派に果すと云ふ事と、今の地位を踏台にして、更に向上しようと云ふ事の外に何物もなかった。 その上に彼はだんだん気難かしくなって来た。家に帰って来ると、始終、家が不潔だ、不潔だと云った。さうしてその為めに屡々厳しく妹を叱った。殊に一度、彼の同僚が訪ねて来てからは一層、家の中を気にするやうになった。彼が怒り出すと、どうしてあんなに温順しかった息子が斯うも変ったらうかと母は目を睜って、ハラハラし乍ら、彼が妹を叱るのを見て居た。 それが嵩じると、彼は部落の人々の生活に迄も干渉を始めた。彼は或日祭礼のあった時、部落の人々が広場に集ったので、さう云ふ機会の来るのを待ち兼ねて居たやうに、その群衆の前に出て話を初めた。それを見ると、彼等は百歳が部落の為めに何か福音を齎らすのであらうと予期した。何故なら、彼等は、彼等の部落民の一人である所の奥間百歳を巡査に出したことに依って、彼等は百歳を通して「官」から何か生活上の便宜を得るであらうと予想して居たのだったから。――租税を安くして貰ふとか、道路を綺麗にして貰ふとか、無料で病気を治療して貰ふとか……さう云ふ種類の事を漠然と想像して居たのであった。 所が、彼の話はすっかり彼等の期待を裏切ってしまった。彼は斯う云った。 「毎日、怠らずに下水を掃除しなければならない。夏、日中、裸になる事を平気で居る者が多いが、あれは警察では所罰すべき事の一つになって居る。巡査に見付かったら科料に処せられるのである。自分も巡査である。今後は部落民だからと云って容赦はしない。われ〳〵官吏は「公平」と云ふ事を何よりも重んずる。随って、その人が自分の家族であらうと親類であらうと、苟も悪い事をした者を見逃すことは出来ない。」 さう云ふ種類の事を――彼等の間ではこれまで平気で行はれて居た事を――彼は幾つも挙げて厳しく戒めた。さうして最後に斯う云ふ意味の事を云った。 「それから、夜遅くまで飲酒して歌を歌ふ事も禁じられて居る。酒を飲む事を慎んで、もっと忠実に働いて、金銭を貯蓄して今よりも、もっと高尚な職業に就くやうにしなけれはならない。」 彼がだん〳〵熱を帯びて、声を上げて、こんな事を言ひ続けて居るのを部落民は不快さうな眼付で見て居た。彼等は、彼が彼等と別の立場にある事を感じずには居られなかった。祭礼が終って、酒宴が始ってからも、誰も彼に杯を献す者はなかった。 時々、彼の同僚が訪ねて来ると、百歳はよく泡盛を出して振舞った。彼の家に遊びに来る同僚は可成り多かった。中には昼からやって来て、泡盛を飲んで騒ぐのが居た。どれもこれも逞しい若者で、話の仕方も乱暴だった。此の辺の人のやうに蛇皮線を弾いたり、琉球歌を歌ったりするのでなしに、茶腕や皿を叩いて、何やら訳の解らぬ鹿児島の歌を歌ったり、詩吟をしたり、いきなり立ち上って、棒を振り廻して剣舞をする者もあった。 おとなしい百歳の家族は、さう云ふ乱暴な遊び方をする客に対してはたヾ恐怖を感ずるばかりで、少しも親しめなかった。さうして、そんなお客と一緒に騒ぐ百歳を疎しく感ずるのであった。 部落の人々は巡査といふものに対しては、長い間、無意識に恐怖を持って居た。そこで、初めの中こそ百歳が巡査になった事を喜んだものの、彼の態度が以前とはガラリと違ったのを見ると不快に思った。その上に彼の家へ屡々、外の巡査が出入するのを烟たがった。その巡査達は蹣けて帰り乍ら、裸かになって働いて居る部落の人を呶鳴り付けたりした。そんな事が度重なると、彼等は百歳の家の存在をさへ呪はしくなった。部落の人達はあまり彼の家に寄り付かなくなった。 さう云ふ周囲の気分がだん〳〵百歳にも感ぜられて来た。さうなると彼は家に居ても始終焦々して居た。また途中で出逢った部落の人の眼の中に冷たさを感じると、自分の心の中に敵意の萠して来るのを覚えた。何となく除者にされた人の憤懣が、むら〳〵と起って来るのを、彼は如何ともする事が出来なかった。 それに、彼は此の部落の出身であるが為めに同僚に馬鹿にされて居ると感ずる事が度々あった。 「△△屋敷の人間」 さう云ふ言葉が屡々、同僚の口から洩れるのを聞くと、彼は顔の熱るのを感じた。百歳には此の部落に生れて、この部落に住んで居る事が厭はしい事になった。 そこで、彼は家族に向って、引越の相談をしたが、家族はそれに応じなかった。長い間住み慣れた此の部落を離れると云ふことは、家族にとっては此の上もない苦痛であった。それは感情的な意味ばかりでなしに、生活の上から見ても、殊に模合や何か経済上の関係から見ても不利益であったので。 さうなると、百歳は自分が部落に対して感じ出した敵意を如何にも処置することが出来なかった。彼は寂しかった。と云って、彼は同僚の中には、ほんとうの友情を見出すことは出来なかった。彼の同僚は多くは鹿児島県人や佐賀県人や宮崎県人で、彼とは感情の上でも、これまでの生活環境でも大変な相違があった。さう云ふ人達とは一緒に、泡盛を飲んで騒ぐ事は出来ても、しみ〴〵と話し合ふ事は出来なかった。彼は署内で話をし乍らも、度々、同僚に対して、 「彼等は異国人だ。」 と、さう心の中で呟く事があった。彼等もまた、彼を異邦人視して居るらしいのが感じられて来た。彼は孤独を感ぜずには居られなかった。 それでも、彼の同僚が、彼の家に来て、泡盛を飲んで騒ぎ廻る事に変りはなかった。 その歳の夏は可成り暑かった。長い間、旱魃が続いた。毎日晴れ切った南国の眩しい日光が空一杯に溢れて居た。土や草のいきれた香が乾き切った空気の中に蒸せ返った。街の赤い屋根の反射が眼にも肌にも強く当った。――那覇の街の屋根瓦の色は赤い。家々の周囲に高く築かれた石垣の上に生えた草は萎えてカラ〳〵に乾いて居た。その石垣の中から蜥蜴の銀光の肌が駛り出したかと思ふと、ついとまた石垣の穴にかくれた。午頃の巷は沙漠のやうに光が澱んで居た。音のない光を限り無く深く湛へて居た。 その中に、如何かして、空の一方に雲の峯がむくり〳〵と現はれて、雲母の層のやうにキラ〳〵光って居るのを見ると、人々はあれが雨になればよいと思った。午後になって、夕日がパッとその雲の層に燃え付いて、青い森や丘に反射してるのを見ると、明日は雨になるかも知れないと予期された。明るく暮れて行く静かな空に反響する子供達の歌声が、慵く夢のやうに聞えた。 アカナー ヤーヤ ヤキタン ドー ハークガ ヤンムチ コーティ タックワー シー 夕焼があると、何時でも子供達が意味の解らぬなりに面白がって歌ふ謡である。だが日が暮れ切ってしまふと、その雲の層は何処へやら消えて行って、空が地に近づいて来たやうに、銀砂子のやうな星が大きく光って居るのが見えた。 さう云ふ昼と夜とが続いて、百歳も草木の萎えたやうに、げんなり気を腐らせて居た。職務上の事でも神経を振ひ立たせ(る)程の事はなかった。何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じを感ずるともなく、感じて居た。 こんな気持に倦み切って居た或晩、彼は鹿児島生れの同僚の一人に誘はれて、海岸へ散歩に出た。 珊瑚礁から成って居る此の島の海岸の夜色は其処に長く住んで居る者にも美しい感じを与へた。巌が彼方此方に削り立って居るが、波に噛まれた深い凹みは真暗に陰って居た。渚に寄せて来る波がしらが、ドッと砕ける様が蒼い月光の下に仄白く見えた。何処か丘のあたりや、磯辺で歌って居る遊女の哀婉の調を帯びた恋歌の声が水のやうに、流れて来た。その声が嬌めかしく彼の胸を唆った。海の面から吹いて来る涼しい風は彼の肌にまつはりついた。彼の坐って居る前を、時々、蒼白い月光の中に、軽い相板らしい着物を纏った遊女の顔が、ぼんやりと白く泳いで行った。 その夜、散歩の帰りがけに百歳はその友達に誘はれて、始めて「辻」と云ふ此の市の廓へ行った。 高い石垣に囲まれた二階家がずっと連って居る。その中から蛇皮線の音、鼓の響、若い女の甲高い声が洩れて来た。とある家の冠木門を潜ると、彼の友達はトントンと戸を叩いて合図をした。するとやがて、 「誰方やみせえが。」 |
先生が理性に勝れて居ったことは何人も承知しているところだが、また一方には非度く涙もろくて情的な気の弱いところのあった人である、それは長らく煩って寝ていたせいでもあろうけれど、些細なことにも非常に腹立って、涙をこぼす果ては声を立てて泣くようなことが珍らしくない、その替わりタワイもないことにも悦ぶこともある。 一昨年の秋加藤恒忠氏が、ベルギー公使に赴任する前にちょっと来られた時なども、オイオイと泣かれた加藤氏から貴様にも似合わんじゃないかと叱られたような訳で少し烈しく感情を激すると、モウたまらなくて泣く人であった。内輪の人に対して腹立たり叱ったり泣たりするのも、皆一時の激情に過ぎないので、理屈もなにもなかったのである。 自分が少しのことにも感情を激するくらいであるから、人に対してはそれは随分周密に注意せられていたようであった、どこまでも理は正していられたけれど他の感情を害するようなことはまた決してなし得なかった、そういう訳であるから、理屈の上では非常に厳重で冷酷なことをいうても、その涙もろい情的の方面になるとすぐ以前と反対なことをやるようなことがしばしばあった。 同人諸君の内でも、虚子君、鼠骨君、秀真君、義郎君等は、いわゆる上口の方で酒をやらるる諸君のところ、先生はしきりに酒を飲んではいけぬといわれた、種々理由もあったようであるが、古来酒を飲んだ人にえらいことをやった人がないなどといわれていた、従て前数氏の人々などには随分冷酷な注告をせられたこともあったらしい、鼠骨君などからは、この断酒注告につきての不平を聞かせられたこともある、義郎君などは最も非度く痛罵せられた方である。 しかしこれが皆前にいう通り、理屈の上のことばかりで、先生の所で何かにつけ飯が出る、また飲食会がある、それに必ず欠かさず酒を出すのだ、一方では冷酷に意見をしながら、すぐその跡から酒を出すからいかにも矛盾している、ちょっとおかしく思われるが、ここが先生の涙もろいところだ。 一所に飯をくいながらも、好きな酒を飲せぬというはいかにも残酷なようで、とても堪られんというのである、一度先生と交際した人は皆何となく離れられない風があるのも、こんなところからであろう。 吾輩などは馬鹿に抹茶が好きであるから、先生の所へ往っても、どうかすると抹茶的議論などがでる、もっとも先生は絶対に抹茶を排した訳ではなかったが、世間普通の茶人という奴が、実に馬鹿らしく形式だった厭味なものであるので、吾輩の抹茶についても時折嘲笑的痛罵を頂戴したことがあったのである、だがそれもやはり酒のような筆法で、吾輩が非常に茶を好むというところから、抹茶の器具が一通り備られてあった、吾輩が数年の間に幾百回と通った内に、ただの一回でもこの抹茶の設備と抹茶的菓子の用意とが欠けたことがないのである、 明治三十三年の夏、長塚君と日光まで滝見の旅行をやった時に、帰りは例の通り田端でおりて根岸へ寄った、いろいろ話し込でいる内に、やがて母堂には抹茶の小鑵を盆へ載せて出された、先生は笑いながら君が非常に茶に渇していると思って、大いそぎに神田まで人をやって買わしたのだマア一ぷくやりたまえとあった、予はそれは先生恐れ入ましたなア、実は私は一日の旅でも茶を持って出るのですから、二晩とまり三日の旅ですもの、チャンと用意して参りました、まだ少し残っていますどうも恐れ入りましたなアというと、さすがに茶人だ僕はまた君が三日も茶を飲まないではすこぶる茶に渇してることと思ってから買わしたがそうであったかと大に笑った。 先生の情的方面のことは多くこんな調子であった、こういうことを思いつづけると今でも胸の塞るような心持になる。 これは少し事柄が違うけれど、先生は仔細なことにもよく注意が届いて居って、すべて物事おろそかにするということのなかった人である、病室のいつでも取りととのえられて、少しも乱雑不潔などいうことのなかったは、誰れも知っているが、ごく些細なたとえは手紙一本出すにつけても、いかに親しい友達の処でも、屹度町名番地を記明して出される、名前ばかり記してやるようなことは決してない、これにつきある時のお話に、世間には手紙をやっても返事もこないなどと不平をいう人が随分あるが自分の手紙に宿所を明記しない人は非常に多い、中には姓ばかり書したり、雅号ばかり書したりして手紙を出す人が少くない、これらは人に対して敬意を失うばかりでなく、相手方では返事をしようとしても宿所が判らないで、困ることがあるなどといわれた、それであるから、一ヶ年百回近く通っている人の所へよこす手紙にもちゃんと町名番地が明記してある、何十通の手紙の中にも、この法則に欠けてるのはただの一つもない、それから『日本』新聞社へやる原稿も俳句一枚のでも必ず三銭切手をはって封書にして出していられた、開封でやるということはついに見たことがなかった、これは意味があってかなくてかそれは知らないが、先生の平生が、こんな細事にも察せられるかと思うままに記して世人に示すのである。〔『馬酔木』明治三十六年十一月十三日〕 明治三十五年七月初旬の頃である、看護当番として午後二時少し過たと思う時分に予は根岸庵に参った、今日はどんな様子か知らんと思う念が胸に満ているから、まず母堂や律様の挨拶振りでも、その日の先生の様子が良かったか悪かったかということがすぐに知れる。 今日は良くないなということが座敷へ通らぬ内に解った、予は例の通り病室と八畳の座敷の間の唐紙に添うて呉椽に寄った障子の内へ座した、しかもソウッと無言で座したのである、むろん先生いかがですかなどと挨拶する訳ではない、モウこの頃はお極りの挨拶などは無造作に出来なかった、お話の相手にゆくのであるけれど、先生の様子を見てからでなければ、漫りに挨拶することははなはだ危険を感じたのである、予は黙然と座して先生の様子を窺っている、先生は南向に寝ていて顔は東の方戸棚の襖の方へ向けていられる、予は先生の後を見ている体度であった、やがて母堂が茶を持ってこられ、次にお定りの抹茶の器具を出される、予はかかる際にどうかこんなことはおよしなされてといえど、物固い母堂はこの頃までも決してこの設備を欠たことはなかった、まことに忘れんとして忘れられないことである。 昨日は秉(河東)さんの番でありまして、少し悪く御座いました、昨晩はサッパリと寝ませんで、今日も良くありませんゆえ、また朝から秉さんにきてお貰いしたでしたが、少し眠りましたから十二時頃に帰られましたなどと、母堂からお話しがあった。 この間がまだ一時間ともたたない内に、先生は右の手でくくし枕を直しながら顔だけちょっと予の方へ向けて目礼された、よほど苦しそうな様子で口もきかないですぐ元の通り顔を背けてしまったが、しばらくたってから今度は体を少し直して半仰向けになられ、わずかにこちらへ顔を向ける姿勢をとった、 きょうはねイ、 一語しばらく眼をつぶっていられ、息を休めるようにしてから、 きょうはお昼前碧梧桐が独逸の小説を読んで聞かせてくれた。もちろん翻訳ではあるが、僕は小説というものは、吾々の感じを満足させるようなものはとても出来ないものとキメてしまった、 今までは小説についていくらか迷っていたが、とても吾々を満足させる小説は出来得ないものとキメてしまった。 出抜に先生はこういって再度眼を閉てしまった、これだけのことをいうにもよほどタイギそうに次の語を発しない、予は思わず膝を進めて。 それは先生文学上の大問題ですなア。 予は先生に次なる語を促すような語気でもってそういうたのであるが、先生ははなはだ息苦いかのごとく、容易にその次を語らない、この時予はむしろ次なる先生の説を聞たいというよりは、話を続けて先生を慰めようという方に多くの意味を持って、再び次のごとくいうたのである、 ただ今の先生のお話はちょっと考えましたところでも、実に文学上の大問題ではありませんか、西洋なぞの話では文学といえば何より先に小説であって、小説は文学というより文学は小説という有様で、いうまでもなく小説は文学の最高位にあるものだそうじゃありませんか、そういう小説が今先生の申さるるごとく、文学趣味の上から満足な感を得られないということは、実に一大議論のように考えられます、かりそめのお話でなくて、真に思い定めた確信かのように伺いますが、私も先生の今のお話には非常に心が動いた訳であります、それほどの先生の確信、たとい少しなりとも何かへお書きになって公表されてはいかがですか、私は是非そう願度思いますが。 予は思わず熱心こめてこういうたのである、先生は、じっと予の方に眼を向けられ。 それはそうだが、このざまではとてもそんなことは出来んじゃないか。 予は強い近視であるからよくは知れなかったが、この時の先生の眼にはたしかに涙があったと思われた、それきり先生は黙してしまい、予も胸塞がる心持で、語を続けることは出来なかった。いかにも先生のいわるる通で、この時分の先生の容体は、人々各番に毎日看護に来るという有様であるから、以上のごとき複雑な問題に意見を述べるなどいうこと出来るはずがないのである。 お互にしばらく黙している内にも、予は我に返って考えるとなく考えた、この問題については最少し聞いておかねばならぬ、こう思ついたので様子を測って、 ただ今のお話について最少し伺っておきたいと思いますが、話をしても宜しゅうございますか。 といって先生の許しをえてから、 私もと申しては少しおこがましい訳ですが、演劇も小説も熱心に見たというではありませんけれど、ともに面白く思って居りまして、小説なぞは読みかけると夜の明けるも知ずに読んだこともありますが、実を申すとごく浅薄な趣味で面白いので、いわばただ筋書許りを面白く感じますのです、つまりお伽的に面白みを感ずるのでありました、それで少し文学的とか詩的とか真面目な意味から視ると、いつでも不自然殊更作りものというような感がすぐ起ってくるのです、今の大家という人々の小説でも文章は甘いが、趣味という点にはどうしても、不自然な殊更な感じを起さぬことはありません、演劇は見たほど見ませんが、古いことですが明治座で左団次の曾我を見た時などは実に馬鹿らしくて堪りませんでした、団十郎は未だ見ないくらいですから演劇の話などは無理でありますけれど、左団次の五郎といっては名高いのだそうでありますのに、その曾我五郎の左団次が捕縛されるところなどは、まるで人形の転がるようでとても真面目な趣味感が起るものでありゃしません、人を斬るとか自殺するとか、捕縛されるとか、人間の激情無上なるきわどいところなどが、どうして不自然な殊更なママ事らしき感の起らぬように演ずることが出来ましょう、小説でも演劇でも平凡な事実をやればつまらぬ価値のないものになってしまう、少し際立った奇なことをやれば、とても自然を得ることが出来ぬとすれば、到底詩的趣味の感懐を満足させることは六つかしい、普通一般的浅薄な娯楽としてはもちろんこの上なきものであろうが、文学の素養深き人の詩的興快を動すことはなはだ覚束ないものではあるまいか、それは天才的大手腕家が出てきて技倆を振われたら知らぬこと、今日の演劇や(能楽の演技は別)小説では要するに普通人の娯楽程度であってママごとやお伽話の進歩した物としか思われない。 私はこんな風な考えを持っていたこともあったのでありますが、何しろ小説熱の盛な時代、そんなこというたとて誰あって相手にするものありません、そういう私でありますから今先生のお話を伺って私は非常に心が動いた訳ですが、ただ今の先生のお話は今私が申上たような意味で解釈して宜しいのでありましょうか、私は大手腕家が出てきたらと申しましたが、先生のはそれが一歩進んで手腕に係らず、小説というものは素養ある詩人の感懐を満足させることは到底出来ぬものとお極めになったというように承知致しましたが、そう心得てよいのでありますか。 予はかく長々しく自分の考の有丈ケを述べて先生に判断を乞うたのである、先生はその間一語も挿まれず、瞑目して聞かれた様子で、予が話をきるとすぐに大体そんな訳であるといわれた、なお話を進められて。 自分の親しく経歴したことを綴ったら、人によったらあるいは一生涯に一つ二つ、吾々の想うようなものが出来るかも知れぬけれど、そういうことは小説というよりかむしろその人の伝記というのが適当であろう、また自分が一年か二年前に実験した事実を種として作るというようなことがあっても、それは駄目であろう、どうしても想像や推測が出てきて新に考えたものと大差がなくなる。 かく話を添えられた、先生はよほど労れていらるる様子であるのに、こんな複雑な問題について長話をするのよくないことは知れきっているのであるから、予はここでこの問題についての話は止めてしまった、跡は母堂を相手に世間話を始めたような次第でその夜は常のごとく十時まで居って帰宅したのである。 以上の問題は考えれば考えるほど大問題であるという感がましてくる、とても吾々ごとき凡骨の頭で容易くよいの悪いのといわれる問題ではない、しかし予はどうしても、先生の一語しかも心籠めて繰返された一語は、心の底まで染み込んだのである、その後先生歿後、これを碧梧桐に話したら、碧梧桐は首肯しない、それはそんな訳のものでないという、虚子に話せば虚子も首肯しない、鼠骨ももちろん首肯しないのである、四方太には未だ話さない、従て四方太の考は知らぬのである、予の如きもの未だかくのごとき問題について論議するの資格なきことを自任しているが、予が正しく先生より聞取った談話は、前記のごとくで、先生の話より予の話が多いが、当時の談話事況は記述の通りである、これを世間に紹介しておくは予の責任であると思う、 世の中の進歩趨勢はその停止する所を知らずという有様で、従ってすべての思想界にも、頻々新主義を産出してくる今日であるのに、ことに文学美術の上に写実主義の大潮流は、蕩々として洋の東西に湧き返って居る今世のことなれば、あるいは欧米の文士間などより、前記先生の所説のごとき議論が、何時湧出してくるかも知れぬ、こんなこと思うと予はますます予の聞いただけのことを公表しておくの義務あることを信ぜざるを得ぬのである、 |
彼は或町の裏に年下の彼女と鬼ごつこをしてゐた。まだあたりは明るいものの、丁度町角の街燈には瓦斯のともる時分だつた。 「ここまで来い。」 彼は楽々と逃げながら、鬼になつて来る彼女を振りかへつた。彼女は彼を見つめたまま、一生懸命に追ひかけて来た。彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。 その顔は可也長い間、彼の心に残つてゐた。が、年月の流れるのにつれ、いつかすつかり消えてしまつた。 それから二十年ばかりたつた後、彼は雪国の汽車の中に偶然、彼女とめぐり合つた。窓の外が暗くなるのにつれ、沾めつた靴や外套の匀ひが急に身にしみる時分だつた。 「暫くでしたね。」 彼は巻煙草を銜へながら、(それは彼が同志と一しよに刑務所を出た三日目だつた。)ふと彼女の顔へ目を注いだ。近頃夫を失つた彼女は熱心に彼女の両親や兄弟のことを話してゐた。彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。と同時にいつの間にか十二歳の少年の心になつてゐた。 彼等は今は結婚して或郊外に家を持つてゐる。が、彼はその時以来、妙に真剣な彼女の顔を一度も目のあたりに見たことはなかつた。 |
一 ある花曇りの朝だった。広子は京都の停車場から東京行の急行列車に乗った。それは結婚後二年ぶりに母親の機嫌を伺うためもあれば、母かたの祖父の金婚式へ顔をつらねるためもあった。しかしまだそのほかにもまんざら用のない体ではなかった。彼女はちょうどこの機会に、妹の辰子の恋愛問題にも解決をつけたいと思っていた。妹の希望をかなえるにしろ、あるいはまたかなえないにしろ、とにかくある解決だけはつけなければならぬと思っていた。 この問題を広子の知ったのは四五日前に受け取った辰子の手紙を読んだ時だった。広子は年ごろの妹に恋愛問題の起ったことは格別意外にも思わなかった。予期したと言うほどではなかったにしろ、当然とは確かに思っていた。けれどもその恋愛の相手に篤介を選んだと言うことだけは意外に思わずにはいられなかった。広子は汽車に揺られている今でも、篤介のことを考えると、何か急に妹との間に谷あいの出来たことを感ずるのだった。 篤介は広子にも顔馴染みのあるある洋画研究所の生徒だった。処女時代の彼女は妹と一しょに、この画の具だらけの青年をひそかに「猿」と諢名していた。彼は実際顔の赤い、妙に目ばかり赫かせた、――つまり猿じみた青年だった。のみならず身なりも貧しかった。彼は冬も金釦の制服に古いレエン・コオトをひっかけていた。広子は勿論篤介に何の興味も感じなかった。辰子も――辰子は姉に比べると、一層彼を好まぬらしかった。あるいはむしろ積極的に憎んでいたとも云われるほどだった。一度なども辰子は電車に乗ると、篤介の隣りに坐ることになった。それだけでも彼女には愉快ではなかった。そこへまた彼は膝の上の新聞紙包みを拡げると、せっせとパンを噛じり出した。電車の中の人々の目は云い合せたように篤介へ向った。彼女は彼女自身の上にも残酷にその目の注がれるのを感じた。しかし彼は目じろぎもせずに悠々とパンを食いつづけるのだった。…… 「野蛮人よ、あの人は。」 広子はこのことのあって後、こう辰子の罵ったのをいまさらのように思い出した。なぜその篤介を愛するようになったか?――それは広子には不可解だった。けれども妹の気質を思えば、一旦篤介を愛し出したが最後、どのくらい情熱に燃えているかはたいてい想像出来るような気がした。辰子は物故した父のように、何ごとにも一図になる気質だった。たとえば油画を始めた時にも、彼女の夢中になりさ加減は家族中の予想を超越していた。彼女は華奢な画の具箱を小脇に、篤介と同じ研究所へ毎日せっせと通い出した。同時にまた彼女の居間の壁には一週に必ず一枚ずつ新しい油画がかかり出した。油画は六号か八号のカンヴァスに人体ならば顔ばかりを、風景ならば西洋風の建物を描いたのが多いようだった。広子は結婚前の何箇月か、――殊に深い秋の夜などにはそう云う油画の並んだ部屋に何時間も妹と話しこんだ。辰子はいつも熱心にゴオグとかセザンヌとかの話をした。当時どこかに上演中だった武者小路氏の戯曲の話もした。広子も美術だの文芸だのに全然興味のない訣ではなかった。しかし彼女の空想は芸術とはほとんど縁のない未来の生活の上に休み勝ちだった。目はその間も額縁に入れた机の上の玉葱だの、繃帯をした少女の顔だの、芋畑の向うに連った監獄の壁だのを眺めながら。…… 「何と言うの、あなたの画の流儀は?」 広子はそんなことを尋ねたために辰子を怒らせたのを思い出した。もっとも妹に怒られることは必ずしも珍らしい出来事ではなかった。彼等は芸術の見かたは勿論、生活上の問題などにも意見の違うことはたびたびあった。現にある時は武者小路氏の戯曲さえ言い合いの種になった。その戯曲は失明した兄のために犠牲的の結婚を敢てする妹のことを書いたものだった。広子はこの上演を見物した時から、(彼女はよくよく退屈しない限り、小説や戯曲を読んだことはなかった。)芸術家肌の兄を好まなかった。たとい失明していたにしろ、按摩にでも何にでもなれば好いのに、妹の犠牲を受けているのは利己主義者であるとも極言した。辰子は姉とは反対に兄にも妹にも同情していた。姉の意見は厳粛な悲劇をわざと喜劇に翻訳する世間人の遊戯であるなどとも言った。こう言う言い合いのつのった末には二人ともきっと怒り出した。けれどもさきに怒り出すのはいつも辰子にきまっていた。広子はそこに彼女自身の優越を感ぜずにはいられなかった。それは辰子よりも人間の心を看破していると言う優越だった。あるいは辰子ほど空疎な理想に捉われていないと言う優越だった。 「姉さん。どうか今夜だけはほんとうの姉さんになって下さい。聡明ないつもの姉さんではなしに。」 三度目に広子の思い出したのは妹の手紙の一行だった。その手紙は不相変白い紙を細かいペンの字に埋めていた。しかし篤介との関係になると、ほとんど何ごとも書いてなかった。ただ念入りに繰り返してあるのは彼等は互に愛し合っていると云う、簡単な事実ばかりだった。広子は勿論行の間に彼等の関係を読もうとした。実際またそう思って読んで行けば、疑わしい個所もないではなかった。けれども再応考えて見ると、それも皆彼女の邪推らしかった。広子は今もとりとめのない苛立たしさを感じながら、もう一度何か憂鬱な篤介の姿を思い浮べた。すると急に篤介の匂――篤介の体の発散する匂は干し草に似ているような気がし出した。彼女の経験に誤りがなければ、干し草の匂のする男性はたいてい浅ましい動物的の本能に富んでいるらしかった。広子はそう云う篤介と一しょに純粋な妹を考えるのは考えるのに堪えない心もちがした。 広子の聯想はそれからそれへと、とめどなしに流れつづけた。彼女は汽車の窓側にきちりと膝を重ねたまま、時どき窓の外へ目を移した。汽車は美濃の国境に近い近江の山峡を走っていた。山峡には竹藪や杉林の間に白じろと桜の咲いているのも見えた。「この辺は余ほど寒いと見える。」――広子はいつか嵐山の桜も散り出したことなどを思い出していた。 二 広子は東京へ帰った後、何かと用ばかり多かったために二三日の間は妹とも話をする機会を捉えなかった。それをやっと捉えたのは母かたの祖父の金婚式から帰って来た夜の十時ごろだった。妹の居間には例の通り壁と云う壁に油画がかかり、畳に据えた円卓の上にも黄色い笠をかけた電燈が二年前の光りを放っていた。広子は寝間着に着換えた上へ、羽織だけ紋のあるのをひっかけたまま、円卓の前の安楽椅子へ坐った。 「ただ今お茶をさし上げます。」 辰子は姉の向うに坐ると、わざと真面目にこんなことを言った。 「いえ、もうどうぞ。――ほんとうにお茶なんぞ入らないことよ。」 「じゃ紅茶でも入れましょうか?」 「紅茶も沢山。――それよりもあの話を聞かせて頂戴。」 広子は妹の顔を見ながら、出来るだけ気軽にこう言った。と言うのは彼女の感情を、――かなり複雑な陰影を帯びた好奇心だの非難だのあるいはまた同情だのを見透かされないためもあれば、被告じみた妹の心もちを楽にしてやりたいためもあったのだった。しかし辰子は思いのほか、困ったらしいけはいも見せなかった。いや、その時の彼女のそぶりに少しでも変化があったとすれば、それは浅黒い顔のどこかにほとんど目にも止らぬくらい、緊張した色が動いただけだった。 「ええ、ぜひわたしも姉さんに聞いて頂きたいの。」 広子は内心プロロオグの簡単にすんだことに満足した。けれども辰子はそう言ったぎり、しばらく口を開かなかった。広子は妹の沈黙を話し悪いためと解釈した。しかし妹を促すことはちょっと残酷な心もちがした。同時にまたそう云う妹の羞恥を享楽したい心もちもした。かたがた広子は安楽椅子の背に西洋髪の頭を靠せたまま、全然当面の問題とは縁のない詠嘆の言葉を落した。 「何だか昔に返ったような気がするわね、この椅子にこうやって坐っていると。」 広子は彼女自身の言葉に少女じみた感動を催しながら、うっとり部屋の中を眺めまわした。なるほど椅子も、電燈も、円卓も、壁の油画も昔の記憶の通りだった。が、何かその間に不思議な変化が起っていた。何か?――広子はたちまちこの変化を油画の上に発見した。机の上の玉葱だの、繃帯をした少女の顔だの、芋畠の向うの監獄だのはいつの間にかどこかへ消え失せていた。あるいは消え失せてしまわないまでも、二年前には見られなかった、柔かい明るさを呼吸していた。殊に広子は正面にある一枚の油画に珍らしさを感じた。それはどこかの庭を描いた六号ばかりの小品だった。白茶けた苔に掩われた木々と木末に咲いた藤の花と木々の間に仄めいた池と、――画面にはそのほかに何もなかった。しかしそこにはどの画よりもしっとりした明るさが漂っていた。 「あなたの画、あそこにあるのも?」 辰子は後ろを振り向かずに、姉の指した画を推察した。 「あの画? あれは大村の。」 大村は篤介の苗字だった。広子は「大村の」に微笑を感じた。が、一瞬間羨ましさに似た何ものかを感じたのも事実だった。しかし辰子は無頓着に羽織の紐をいじりいじり、落ち着いた声に話しつづけた。 「田舎の家の庭を描いたのですって。――大村の家は旧家なんですって。」 「今は何をしているの?」 「県会議員か何かでしょう。銀行や会社も持っているようよ。」 「あの人は次男か三男かなの?」 「長男――って云うのかしら? 一人きりしかいないんですって。」 広子はいつか彼等の話が当面の問題へはいり出した、――と言うよりもむしろその一部を解決していたのに気がついた。今度の事件を聞かされて以来、彼女の気がかりになっていたのはやはり篤介の身分だった。殊に貧しげな彼の身なりはこの世俗的な問題に一層の重みを加えていた。それを今彼等の問答は無造作に片づけてしまったのだった。ふとその事実に気のついた広子は急に常談を言う寛ぎを感じた。 「じゃ立派な若旦那様なのね。」 「ええ、ただそりゃボエエムなの。下宿も妙なところにいるのよ。羅紗屋の倉庫の二階を借りているの。」 辰子はほとんど狡猾そうにちらりと姉へ微笑を送った。広子はこの微笑の中に突然一人前の女を捉えた。もっともこれは東京駅へ出迎えた妹を見た時から、時々意識へ上ることだった。けれどもまだ今のように、はっきり焦点の合ったことはなかった。広子はその意識と共にたちまち篤介との関係にも多少の疑惑を抱き出した。 「あなたもそこへ行ったことがあるの?」 「ええ、たびたび行ったことがあるわ。」 広子の聯想は結婚前のある夜の記憶を呼び起した。母はその夜風呂にはいりながら、彼女に日どりのきまったことを話した。それから常談とも真面目ともつかずに体の具合を尋ねたりした。生憎その夜の母のように淡白な態度に出られなかった彼女は、今もただじっと妹の顔を見守るよりほかに仕かたはなかった。しかし辰子は不相変落ち着いた微笑を浮べながら、眩しそうに黄色い電燈の笠へ目をやっているばかりだった。 「そんなことをしてもかまわないの?」 「大村が?」 「いいえ、あなたがよ。誤解でもされたら、迷惑じゃなくって?」 「どうせ誤解はされ通しよ。何しろ研究所の連中と来たら、そりゃ口がうるさいんですもの。」 広子はちょっと苛立たしさを感じた。のみならず取り澄ました妹の態度も芝居ではないかと言う猜疑さえ生じた。すると辰子は弄んでいた羽織の紐を投げるようにするなり、突然こう言う問を発した。 「母さんは許して下さるでしょうか?」 広子はもう一度苛立たしさを感じた。それは恬然と切りこんで来る妹に対する苛立たしさでもあれば、だんだん受太刀になって来る彼女自身に対する苛立たしさでもあった。彼女は篤介の油画へ浮かない目を遊ばせたまま「そうねえ」と煮え切らない返事をした。 「姉さんから話していただけない?」 |
一、人類歴史は統制主義の時代にある フランス革命は專制主義から自由主義えの轉換を決定した典型的自由主義革命であり、日本の明治維新もこの見地からすれば、自由主義革命に属する。自由主義は專制主義よりも遙かに能率高き指導精神であつた。しかるに第一次大戰以後、敗戰國もしくは後進國において、敗戰から立上り、或は先進國に追いつくため、自由主義よりも更に能率高き統制主義が採用された。ソ連の共産黨を含み、あらゆる近代的社會主義諸政黨、三民主義の中國國民黨、イタリアのフアツシヨ、ドイツのナチ、遲れ馳せながらスペインのフランコ政權、日本の大政翼賛會等はいづれもこれである。依然として自由主義に止つた諸國家も、第二次大戰起り、ドイツのフランス、イギリスにたいする緒戰の壓倒的勝利、さてはドイツの破竹の進撃にたいするソ連の頑強なる抵抗を見るにおよんで、自由主義をもつてしては到底統制主義の高き能率に匹敵し得ざることを認め、急速に方向を轉換するに到つた。 自由主義は人類の本能的欲求であり、進歩の原動力である。これにたいし、統制は專制と自由を綜合開顯せる指導精神であり、個々の自由創意を最高度に發揚するため必要最小限度の專制を加えることである。今日自由主義を標榜して國家の運營に成功しているのは、世界にアメリカだけである。かつて自由主義の王者たりしイギリスさえ、既にイデオロギーによる統制主義國家となつている。しかして今やアメリカにおいても、政府の議會にたいする政治的比重がずつと加わり、最大の成長を遂げたる自由主義は、進んで驚くべき能率高き統制主義に進みつゝある。國内におけるニユー・デイール、國際的にはマーシヤル・プラン、更に最近に到つては全世界にわたる未開發地域援助方策等は、それ自身が大なる統制主義の發現に他ならぬ。その掲ぐるデモクラシーも、既にソ連の共産主義、ドイツのナチズムと同じきイデオロギー的色彩を帶びている。かくしてアメリカまた、ソ連と世界的に對抗しつつ、實質は統制主義國家に変貌し來つたのである。 專制から自由え、自由から統制えの歩みこそ、近代社會の發展において否定すべからざる世界共通の傾向ということができる。 二、日本は統制主義國家として獨立せねばならぬ アメリカは今日、日本を自由主義國家の範疇において獨立せしめんとしている。しかし嚴密なる意味における自由主義國家は、既に世界に存在しない。そもそも、世界をあげて自由主義から統制主義に移行したのは、統制主義の能率が自由主義に比べて遙かに高かつたからである。イタリア、ドイツ、日本等、いづれも統制主義の高き能率によつて、アメリカやイギリスの自由主義と輸贏を爭わんとしたのである。これがため世界平和を攪亂したことは嚴肅なる反省を要するが、それが廣く國民の心を得た事情には、十分理解すべき面が存するであろう。 ただしアメリカが自由主義から堂々と統制主義に前進したに反し、イタリアもドイツも日本も、遺憾ながら逆に專制主義に後退し、一部のものの獨裁に陷つた。眞のデモクラシーを呼號するソ連さえ、自由から統制えの前進をなし得ず、ナチに最も似た形式の獨裁的運營を行い、專制主義に後退した。唯一の例外に近きものは三民主義の中國のみである。かく觀じ來れば、世界は今日、統制主義のアメリカと專制主義に後退せるソ連との二大陣營の對立と見ることもできる。 この觀察にはいまだ徹底せざる不十分さがあるかも知れぬが、日本が獨立國家として再出發するに當つては、共産黨を斷然壓倒し得るごときイデオロギー中心の新政黨を結成し、正しき統制主義國家として獨立するのでなければ、國内の安定も世界平和えの寄與も到底望み得ざるものと確信する。 もしアメリカが日本を自由主義國家として立たしめんと欲するならば、日本の再建は遲々として進まず、アメリカの引上げはその希望に反して永く不可能となるであろう。しからば日本は結局、アメリカの部分的属領化せざるを得ず、兩國間の感情は著しく惡化する危險が多分にある。日本は今次の敗戰によつて、世界に先驅けた平和憲法を制定したが、一歩獨立方式を誤れば、神聖なる新日本の意義は完全に失われてしまうであろう。繰返して強調する、今日世界に自由主義國家はどこにもない。我等の尊敬するイギリスさえ統制主義國家となり、アメリカまた自由主義を標榜しつつ實質は大きく統制主義に飛躍しつつある。日本は世界の進運に從い、統制主義國家として新生してこそ過去に犯した世界平和攪亂の罪を正しく償い得るものである。 三、東亞的統制主義の確立――東亞連盟運動の回顧 世界はその世界性と地方性の協調によつて進まねばならぬ。東亞の文化の進み方には、世界の他の地方と異る一つの型がある。故に統制主義日本を建設するに當つても、そのイデオロギーは東亞的のものとなり、世界平和とよく協調しつつ東亞の地方性を保持して行かねばならぬ。 前述のごとく、幾多の統制主義國家が專制主義に後退した。しかるに三民主義の中國は、蒋介石氏の獨裁と非難されるが斷じてしからず、蒋氏は常に反省的であり、衰えたる國民黨の一角に依然美事なる統制えの歩みが見られる。毛澤東氏の新民主主義も、恐らくソ連のごとき專制には墮せず、東洋的風格をもつ優秀なる思想を完成するに相違いない。我等は國共いづれが中國を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亞的指導原理の確立に努力すべきである。この態度はまた、朝鮮新建設の根本精神とも必ず結合し調和し得るであろう。 しからば日本はどうであるか。大政翼賛會は完全に失敗したが、私の関係した東亞連盟運動は、三民主義や新民主主義よりも具体案の点において更に一歩進んだ新しさを持つていたのではないかと思う。この運動は終戰後極端なる保守反動思想と誤解され、解散を命ぜられた。それは私の持論たる「最終戰論」の影響を受けていたことが誤解の原因と想像されるが、「最終戰論」は、これを虚心に見るならば、斷じて侵略主義的、帝國主義的見解にあらず、最高の道義にもとづく眞の平和的理想を内包していることが解るであろう。東亞連盟運動は、世界のあらゆる民族の間に正しき協和を樹立するため、その基礎的團結として、まづ地域的に近接し且つ比較的共通せる文化内容をもつ東亞諸民族相携えて民族平等なる平和世界を建設せんと努力したるもの、支那事変や大東亞戰爭には全力をあげて反對したのである。 東亞連盟の主張は、經濟建設の面においても一の新方式を提示した。今日世界の經濟方式は、アメリカ式かソ連式かの二つしかない。しかしこれらは共に僅かな人口で、廣大な土地と豊富な資源のあるところでやつて行く方式である。日本は土地狹く資源も貧弱である。しかも人口は多く、古來密集生活を營んで來た文化的性格から部落中心に團結する傾向が強い。こんなところでは、その特殊性を生かした獨自の方式を採用せねばならぬ。アメリカ式やソ連式では、よしトルーマン大統領やスターリン首相がみづから最高のスタツフを率いてその衝に當つても、建設は成功し難いであろう。東亞連盟の建設方式によれば、國民の大部分は、各地方の食糧生産力に應じて全國農村に分散し、今日の部落程度の廣さを單位として一村を構成し、食糧を自給しつつ工業其他の國民職分を擔當する。所謂農工一体の体制である。しかして機械工業に例をとれば、農村の小作業場では部品加工を分擔しこれを適當地域において國營もしくは組合經營の親工場が綜合統一する。この種の分散統一の經營方式こそ今後の工業生産の眼目たるべきものである。しかしてかくのごときは、事情の相似た朝鮮や中國にも十分參考となり得るのではあるまいか。 また東亞連盟運動は、その實踐においても極めてデモクラチツクであり、よくその統制主義の主張を生かした。組織を見ても、誰もが推服する指導者なき限り、多くの支部は指導者的支部長をおかず、すべて合議制であつた。解散後數年を經た今日、尚解散していないかのごとく非難されているが、これは運動が專制によらず、眞に心からなる理解の上に立つていた實情を物語つている。 今日私は、東亞連盟の主張がすべて正しかつたとは勿論思わない。最終戰爭が東亞と歐米との兩國家群の間に行われるであろうと豫想した見解は、甚しい自惚れであり、事實上明かに誤りであつたことを認める。また人類の一員として、既に世界が最終戰爭時代に入つていることを信じつつも、できればこれが回避されることを、心から祈つている。しかし同時に、現實の世界の状勢を見るにつけ、殊に共産黨の攻勢が激化の一途にある今日、眞の平和的理想に導かれた東亞連盟運動の本質と足跡が正確に再檢討せらるべき緊急の必要ありと信ずる。少くもその著想の中に、日本今後の正しき進路が發見せらるべきことを確信するものである。 四、我が理想 イ、超階級の政治 マルクスの豫言によれば、所謂資本主義時代になると社會の階級構成が單純化されて、はつきりブルジヨアとプロレタリアの二大陣營に分裂し、プロレタリアは遂に暴力革命によつてブルジヨアを打倒するといわれている。しかしこの豫言は、今日では大きく外れて來た。社會の階級構成はむしろ逆に、文明の進んだ國ほど複雜に分化し、ブルジヨアでもプロレタリアでもない階級がいよいよ増加しつつあり、これが社會發展の今日の段階における決定的趨勢である。共産黨はかかる趨勢に對處し、プロレタリアと利害一致せざる階級或は利害相反する階級までも、術策を弄して自己の陣營に抱込み、他方暴力的獨裁的方式をもつて、少數者の獨斷により一擧に事をなさんとしている。しかし右のごとき社會發展の段階においては、國家の政治がかつてのブルジヨアとかプロレタリアのごとき、或階級の獨裁によつて行われることは不當である。我等は今や、超階級の政治の要望せらるべき時代を迎えているのである。 今日までの政治は階級利益のための政治であつた。これを日本でいえば、民主自由黨はブルジヨアの利益を守り、共産黨がプロレタリアの利益を代表するがごとくである。しかるに政治が超階級となることは、政治が「或階級の利益のために」ということから「主義によつて」「理想のために」ということに轉換することを意味している。ナチス・ドイツやソ連の政治が共にイデオロギーの政治であり、アメリカのデモクラシーも最近ではイデオロギー的に変化して來たこと前述の通りであるが、これらは現實にかくのごとき世界的歴史的動向を示すものである。かくして政治はますます道義的宗教的色彩を濃厚にし、氣魄ある人々の奉仕によつて行わるべきものとなりつつある。 私は日蓮聖人の信者であるが、日蓮聖人が人類救濟のために説かれた「立正安國」の教えは、「主義によつて」「理想のために」行われる政治の最高の理想を示すものである。「立正安國」は今やその時到つて、眞に實現すべき世界の最も重大なる指導原理となり來つたのである。人は超階級の政治の重大意義を、如何に高く評價しても尚足りぬであろう。 ロ、經濟の原則 超階級の政治の行わるべき時代には、經濟を單純に、資本主義とか社會主義とか、或は自由經營とか官公營とか、一定してしまうのは適當でない。これらを巧みに按配して綜合運用すべき時代となつているのである。ここにその原則を述ぶれば次のごとくである。 第一。最も國家的性格の強い事業は逐次國營にし、これが運營に當るものは職業勞働者でなく、國家的に組織されたる青年男女の義務的奉仕的勞働たるべきである。我等はブルジヨアの獨裁を許し得ざるごとく、プロレタリア、つまり職業勞働者の獨裁をも許し得ざるものである。 第二。大規模な事業で、國民全体の生活に密接なる関係あり、經營の比較的安定せるものは逐次組合の經營に移す。かくして國家は今後組合國家の形態に發展するであろう。戰爭準備を必要とする國家においては、國家權力による經濟統制が不可欠である。しかし日本は既に戰爭準備の必要から完全に解放された。組合國家こそ、日本にとつて最適の國家体制である。 第三。しかし創意や機略を必要とし、且つ經營的に危險の伴う仕事は、やはり有能なる個人の企業、自由競爭にまかすことが最も合理的である。特に今日の日本の困難なる状勢を突破して新日本の建設を計るには、機敏に活動し、最新の科学を驅使する個人的企業にまつべき分野の極めて多いことを考えねばならぬ。妙な嫉妬心から徒らに高率の税金を課し、活發なる企業心を削減せしめることは嚴に戒しむべきである。 ハ、生活革命 我等の組合國家においては、國民の大部分は農村に分散し、今日の部落程度の廣さを單位として農工一体の新農村を建設する。各農村は組合組織を紐帶として今日の家族のごとき一個の共同体となり、生産も消費もすべて村中心に行う。これが新時代における國民生活の原則たるべきである。一村の戸數は、その村の採用する事業が何名の勞働力を必要とするかによつて決定される。概ね十數戸乃至數十戸というところであろう。この体制が全國的に完成せらるれば、日本の經濟は一擧に今日の十倍の生産力を獲得することも至難ではないと信ずる。 しかし農工一体の實現は、社會制度の革命なしには不可能である。日本の從來の家族は祖父母、父母、子、孫等の縱の系列をすべて抱擁し、これが經濟單位であり、且つ生活單位でもあつた。この家族制度は日本の傳統的美風とされたが、一面非常な不合理をも含んでいた。我等の理想社會は、經濟單位と生活單位とを完全に分離するものである。 即ちそこでは、衣食住や育兒等の所謂家事勞働のすべては、部落の完備せる共同施設において、誠心と優秀なる技術によつて行われる。勿論家庭單位で婦人のみで行う場合より遙かに僅少の勞働力をもつて遙かに高い能率を發揮できよう。かくして合理的に節約される勞働力は、男女を問わずすべて村の生産に動員される。しかして各人の仕事は男女の性別によらず、各人の能力と関心によつてのみ決定する。生産の向上、生活の快適は期して待つべく、婦人開放の問題のごときも、かかる社會においてはじめて眞の解決を見るであろう。 かくのごとき集團生活にとり、最も重要なる施設は住宅である。私は現在のところ、村人の數だけの旅客を常に宿泊せしめ得る、完備した近代的ホテルのごとき共同建築物が住宅として理想的だと考えている。最高の能率と衞生、各人の自由の尊重、規律ある共同的日常行動等も、この種の住宅ならば極めて好都合に實現し得るのではあるまいか。 新農村生活はまた、舊來の家族制度にまつわる、例えば姑と嫁との間におけるごとき、深刻なる精神問題をも根本的に解決する。そこでは老人の扶養は直接若夫婦の任務ではない。また老人夫婦は若夫婦の上に何等の憂も懸念ももつ必要はない。それぞれの夫婦は、完全に隔離された別室をもち、常に自由なる人生を樂しむであろう。そこでは新民法の精神を生かした夫婦が新たなる社會生活の一單位となり、社會生活は東洋の高き個人主義の上に立ち、アメリカ以上の夫婦中心に徹底するのである。親子の間を結ぶ孝行の道は、これによつて却つて純粹且つ素直に遵守されるものと思われる。この間、同族は單に精神的つながりのみを殘すこととなるであろう。 眞に爭なき精神生活と、安定せる經濟生活とは、我等が血縁を超えて理想に生き、明日の農村を今日の家族のごとき運命共同体となし得た時、はじめて實現し得るものである。(二四、七、八) 全體主義に關する混迷を明かにす 「新日本の進路」脱稿後、これに使つた「統制主義」という言葉が「全体主義」と混同され、文章全体の趣旨を誤解せしむる惧れありとの忠告を受けた。ここに若干の説明を加えて誤解なきを期したい。 近代社會は專制、自由、統制の三つの段階を經て發展して來た。即ち專制主義の時代から、フランス革命、明治維新等を經て自由主義の時代となり、人類社會はそこに飛躍的發展をとげたのであるが、その自由には限度あり、増加する人口にたいし、土地や資源がこれに伴わない場合、多くの人に眞の自由を與えるため若干のさばきをつける、所謂「統制」を與える必要を生じた。マルクス主義はその最初の頃のものであり、以後世界をあげて統制主義の歴史段階に入つた。ソ連の共産黨はじめ、イギリス、フランス等の近代的社會主義諸政黨、三民主義の中國國民黨、イタリアのフアツシヨ、ドイツのナチ、スペインのフランコ政權、日本の大政翼賛會等がその世界的傾向を示すものであることは本文中に述べた通りである。 しかしよく注意せねばならぬ。「統制」はどこまでもフランス革命等によつて獲得された自由を全うするために、お互の我ままをせぬということをその根本精神とするものである。統制主義はかくのごとき社會發展の途上において、自由を更にのばすための必要から生れた、自由主義よりも一歩進んだ指導精神である。 しからばこの間、全体主義は如何なる立場に立つものであるか。第二次世界大戰以後、全体主義にたいする憎しみが世界を支配し、その昂奮いまだ覺めやらぬ今日、これにつき種々概念上の混迷を生じたのは無理からぬことであるが、これを明確にせぬ限り、眞に自由なる世界平和確立の努力に不要の摩擦を起す惧れが多分にあり、特に行過ぎた自由主義者や共産黨の陣營において、かつて獨善的日本主義者が自己に反對するものは何でも「赤」と攻撃したごとく、自己に同調せざるものを一口に「フアツシヨ」とか、「全体主義」とか、理性をこえた感情的惡罵に使用する傾向あることは十分の戒心を要するであろう。即ち全体主義に関する我等の見解は次のごとくである。 |
私は、いつも同じ事をばかり云つてゐると思ふ人があるかもしれない。けれども、私は何時までも、自分の考へてゐる最も重要なことについては、駄々つ子が物ねだりをするよりも、まだうるさいと思はれる位に、云ひたいと思つてゐる。私自身が既でにさうだが私たちの周囲のどの人もあんまりいそがし過ぎると私は思ふ。そして他人の云ふ事はおろか、自分の云つた事でさへ僅かな時間のたつた間に忘れて既でに次の自分の云つてゐる事に熱中してゐる。他人の云ふことを一々頭の中で翫味したりしてゐる人なんかはまあないといつてもいゝ位だと私は思ふ。それ故、私は是非とも受け入れて欲しいと思ふ程重要なことについては何時までも〳〵煩さいと怒鳴られる程続けたいと思つてゐる。 当然通るべき道として私自身の通つて来た道をふりかへつて見るとき私は取りかへしの出来ない失策を沢山に持つてゐる。まだあぶなつかしい随分と通りにくい処も通つて来た。併し私がいまかうしていろ〳〵な事件のあつた過去をふり返るとき一番自分を導いて教へたものは私自身の内心の争闘である。一番自分にとつて苦痛であつたのもそれである。 私が可なり楽な学校生活を終へて先づぶつかつたものは不法な周囲の圧迫に対する反抗であつた。それは誰にも、大抵同じ形式をもつて来る結婚であつた。私はそれをはね返した。併しそれは可なり煩さい情実がひし〳〵とからみついた面倒な結果をもたらした。私は数かぎりもない種々な詰責や束縛や嘲罵を受けた。併しあらゆるものに敵意を含んで見える中にゐる私は、それに対する反抗で一杯になつてゐた。偶に、肉親の者たちの感傷的な態度に反抗の機先を折られさうなこともあつた。けれどもより多くの真意をもつて自分を抱く愛人があつた。さうして切りぬけた時、私は立派な一つの仕事をなし遂げた気でゐた。私は他人の知らぬ多くの苦痛を自分一人で味はつた気でゐた。私は本当にえらい仕事をした気でゐた。併し今の私にはそれは何でもない事であつた。私はより多くのより深い苦痛を知らなければならなかつた。 私が初めて、他人ばかりの中に交渉しはじめた時、私はやうやく自分と云ふものゝみぢめなのを見た。私は本当にひとりだ、と思つた時、私の心はひとりでに捨てゝ来た故郷の友達の上に吸ひよせられて行つた。私がいくら習俗を軽蔑して反抗で一杯になつたつて私の臆病な心はその反抗を他人に、かつて私が肉親の人たちに向つてしたやうに容易くは、向けることを肯んじなかつた。私の体中を人々に対する憎悪と反抗と侮蔑が渦を巻いて出口を見つけやうとあせつてゐる時でも私はその渦の出処を探さうとは容易にしなかつた。 私は自分のそのふしぎな矛盾をぢつと見つめてゐた。そうして、その渦をしづめるよりも出すのが当然のことだといふことがはつきり私にわかつてゐた。私はその度びにいつも此度こそはと云ふ決心をした。けれどもそれが何時でも直ぐに行為に出ては来なかつた。遂に私の内心では決心を断行する勇気が出ないかと云ふ自身の弱い意志への憤怒に燃えた。併し私の血球の中に細胞の一つの中に迄くひ入つた習俗の前には私の憤怒は何の抵抗力もなくくづをれた。私は自分に絶望しさうになつた。 けれども私は、そのことについて可なり考えた。私はその卑怯な態度が他人に悪い感じを持たれたくないと云ふ虚栄から来てゐることをよく知つてゐた。それにもかゝはらず私はそれを打ち破ることをしなかつた。併し直きに私は自分がいくらさうしてよく思はれやうとつとめてもそれに何の効果もないことを知る事が出来た。私は私の本当の値以外にいくらかよく見て貰はうとしても駄目なことを確実に見せられた。私の下だらない遠慮や気づかひはずん〳〵消えて行つた。けれども矢張り主要な交渉になるとそれが出たがつて困つてゐる。私は本当につまらないことながら肉親と他人と云ふやうな関係の区別があまりに深く自分に染み込んでゐることに驚かずにはゐられない。 冷静に批判をする上には肉親も他人もおなじである。私の頭の中では両親であらうが或は他人であらうが、一切かまはずに無遠慮に解剖し批判する。けれどそれが一度実生活の上に関して来ると不思議な愛は肉親に対する軽侮の心を片よせ他人の上にはそのまゝな批判が依然と支配する。これも私をどの位苦しめたか知れない。殊に私は愛する良人の肉親に対しては他人であつた。無理に交渉しなければならなかつた。私は前に私が肉親にそむいた時の苦痛よりも更に幾倍も〳〵の苦しみをその交渉のうちにしなければならなかつた。私は初めそれを馬鹿々々しいと思つた。何故私はこんなに苦しまなければならない理由があるのだらう。こんな苦しみに囚はれてゐる位ならば私は私一人で別にこんな人達と交渉しなくてもすむやうにしたいとも思つた。けれども、私がそれ等の人々に対して不快な感を持つ程自分の肉親の愛を力強く思ひ出すことを私はぢつと眺めてすます訳にはゆかなかつた。良人は私が彼を愛してゐるやうに私を愛してくれる。さうして私が肉親を愛するやうに彼も肉親を愛するに違ひない。 昔からどれ丈けの婦人がこの事について苦しんで来たかと思つたときに私はこの苦しみが決して馬鹿々々しいものでも何でもないことを知つた。私はこの苦しみをどう片附けるかと云ふことに自分自身に対する興味をおぼへた。皆んなこの苦しみをあきらめて通して来た。そして私自身も人並みにこの道へふみ込んで来た。私は決して馬鹿々々しいことだとおもつてはならない。私は何かしてこの道をごまかさずに通りぬけたいと願つた。 けれども私がさう考へたときにはその苦痛はさまで強いものではなかつた。私はだん〳〵に自分と他人の区別をたてる事が出来て来た。他人のしたり、云つたりすることが気にならなくなつて来た。自分のしたいことをする。云ひたいことをする。他人にも勝手にさせる云はせると云ふことが平気で出来るやうになつた。自分の価値がよく云はれたり悪く云はれたりすることに依つて動くものでないと云ふ自覚がはつきりして来た。 私は何の為めにくだらない経験ばなしを持ち出したか? それはすべての若い婦人達の前に展かれた道がいま同じであると云ふことが私にわかつてゐる。それはしば〳〵未知の人々から若い婦人たちから自分の境遇を訴へて来る多数の手紙に依つても知れ、その他私達のせまい見聞のうちの多数をそういふ問題が占めて居るけれども彼女等は大方は、頑強には反抗が出来ないらしいし、出来たにしてもさきに私が書いたやうに、もうその反抗が立派な一つの自分の力を証明した事実として安神してゐる人の方が多い。しかし私の考へる処ではそれはほんの関門を出たにすぎないので、それから先き自分一人を他人の中につきだして交渉しはじめるときに本当の仕事がまつてゐるのだと思ふ。他人との交渉には傲慢と虚偽はどうしても許されない。或ひは傲慢でないかも知れない。肉親に対すると同じ「わがまゝ」と反抗をそのまゝ他人に向けやうとする。そして多くの人が失敗する。さうして自分のした事に権威がなくなる。曾つては私もその道をたどつたのだ。さうして誤解されて怒つたけれども、その誤解は当然であつた。通るべき道は避くることは出来ない。私はこゝに述べた私の内心の経験がこれからさうした道を歩かねばならない人にとつて些細な助けにでもなればと云ふ年よりじみた考へで書いて見た。併しすべての人に一様に私が考へてゐる程重大な事であるかどうかは私にもわからない。たゞこれは私一個の過をふり返つて見て思ひついた事に過ぎない。 |
明治三十二年十二月和人三浦市太郎ナル者酋長川村モノクテ、副酋長村山与茂作両名ヲ三浦宅ニ呼ビ寄セ、三浦ノ云フニハ、東京カラトノ(役人)ガ来テ云フニハ旭川モ七師団ガ出来旭川町モ出来テアイヌノ土地ガナクナリ、是カラアイヌノ子孫ガ多クナレバ土地ガ不足ニナル故オカミデ其レヲ案ジ、此近文ノ土地ノ外ニオ前等ノコノム土地ヲ呉レ又金モ呉レルト云フガ如何デアルヤト問ハレ、モノクテエカシモ与茂作エカシモ近文ノ土地ノ外ニ呉レルト云フカラ天塩ノテーネメムヲ貰ヒタイト両名云フニ、然ラバ明日トノ(役人)ガ東京ニ帰ル故今日ノ内ニ近文一同ノ印ヲ願書ニ押セヨトテ、村山与茂作エカシト三浦市太郎ノ悴両名ニテ四十戸以上ノ皆様ノ宅ニ集リ其事ヲ話シ、一同ノ者ニ願書ニ押印スル由、然ルニ近文ノ土地ノ外ニ土地ヲ呉レルトハ真赤ナ偽リ、其当時ノ長官園田安賢、陸軍大臣桂太郎、大倉喜八郎等ノ悪手段デ、近文アイヌ地ヲ大倉喜八郎ノ名儀デ下附ヲ受ケ、近文アイヌ一同ヲ天塩山中ニ移転サセルコトニ決定、明治三十三年五月末ニ立退クベシト長官ヨリ命令サレ、其移転料金六千八百円、其内金二千四百円ハ三浦市太郎ノ報酬金、残リ四千四百円外ニアイヌ一戸ニ鉄砲一丁ニテ移転サセルコトニナリ、然ルニモノクテエカシ外一同三浦ニ欺レタルコトヲ初メテ知リ、一同驚キ、仮リニ死ストモ祖先地故移転セヌト云フ一同ノ意見、其レニ旭川町大倉ニアイヌ地ヲ横領サレレバアイヌ地一大市街トナリ今ノ旭川町ハ役ニ立タヌト云フ騒ギデ、旭川町ハアイヌニ肩ヲモツテ、現旭川市ニ居住ノ友田文次郎氏宅ニテ酋長川村モノクテエカシ、村山与茂作、川上コヌサアイヌ外一同札幌ノ浅山弁護士ニ依頼シテ三浦市太郎ヲ札幌地方裁判所検事局ニ告訴シ、其証人調ベトシテ明治三十三年三月十二日マデニ札幌検事局ニ出頭セヨト川村エカシ、村山エカシ呼ビ出サレ、然ルニ川村エカシ、村山エカシ、川上コヌサアイヌ三名ヨリ助ケテ呉レトテ書留ニテ書面来リ、其レニ又明治三十三年三月八日電報ニテ石狩生振村豊川富作方ニ待ツテ居ル直グ来イト云フ電報、私モ同族ノコト故三月十日ニ浜益出立、豊川宅ニテ川上エカシ面会シ十一日出札、札幌大通因旅館ニテ川村エカシ、村山エカシニ面会シ、同日浅山弁護士宅ニ集リ、私ハ両エカシノ通弁スルコトニ裁判所ニ届ケ置キ、三月十二日川村エカシ同道ニテ検事局ニ来リ検事取調ベヲ受ケ、十三日日曜、三月十四日村山エカシト同道検事局ニ来リ検事ノ調ベヲ受ケ、因旅館ニ帰リ見ルニ浜益自宅ヨリ電報アリ、開封シ見ルニ「カカ死ススグカヘレ」トアリ、ソコデ私ハイヤシクモ行政官タル国民保護ノ当局者タル長官園田安賢ノ悪手段ノ為メ不在中妻ハ死去シ是皆長官ノ悪手段ノ為メト自分モ決心、浜益親族ニ電報ニテ「カイラヌソーシキタノム」ト知報シ、川村エカシト同車出旭シ、川村エカシ宅ニテ一同面会相談ノ上ニ上京スルコトニ決定、然ルニ川村モノクテエカシヲ連レテ上京スル考デアルガ、川村エカシハ天保生レノ御老人故上京シテ土地取戻シ出〔来〕レバイイガ出来ヌ時ハ自分ハ二重橋デ死ヌ決心、然レバ自分死〔ス〕レバ重大問題トナリ何ントカ解決スルト決心シタル次第故ニ、川村エカシヲ案ジテ川上コヌサアイヌヲ同車シテ、明治三十三年四月十二日旭川駅ヨリ青柳、板倉四名デ上京、中央政府ニ訴ヘ、其当時ノ内務大臣西郷閣下、大隈重信閣下、私小樽量徳小学校入学中三回閣下ノ御前デ字ヲ書キ本ヲ読ミ一方ナラヌ御厚情ニ預リ、其関係デ閣下ノ御宅ニ私一人呼バレ種々御尋ネニナリ、其長官ノ不法ヲ申述ベ、其レデ園田長官内務省ニ呼バレ、明治三十三年五月四日内務省ニテ談判行ハレタ結果、大倉等ノ指令ヲ取消シ従来ノ如ク土人ニ之レヲ返還スルコトニ決定シ、然ルニ其時長官園田ノ云フニハ、アイヌニ土地ヲ下附スルニ開墾出来ルヤト御尋ネ故、私引受ケテ開墾スルト答ヘタリ、若シ開墾セザレバ国有未開地処分法デ没収スルト云フ故、近文ヘ帰リ一同ニ相談シ、開墾セザレバ土地没収サレル故、幸ヒニ私ノ友人デ札幌ノ河田ト云フ方アイヌ地開墾セザレバ没収サレルトハ実ニ不祥ナコトデアルト、然ラバ私ガ開墾料貸スト云フカラ、川村モノクテエカシ、村山エカシ、川上コヌサアイヌ、私ト札幌ニ参リ河田氏ヨリ金弐十円借受ケ、其金ハ川上持参シ近文ニ帰リ、川上コヌサアイヌ宅ヲ事務所ニシ其ノ金デ近文未開地全部開墾シタル者ナリ 然ルニ其後道庁ニ参リ園田ニ面会シ、近文アイヌ全部開墾シタルニ依リアイヌニ土地指令御下附願タルニ、語ヲ左右ニシ指令モ下附セズ、明治三十七年五月同族栗山国四郎ニ告訴サレ、其告訴ノ理由ハ、近文アイヌ地ハアイヌ自身土地全部開墾シタル者デ河田ヨリ借リタル金デ開墾シタルモノニアラズ、又河田ヨリ借リタル金、天川ハ近文アイヌノ名ヲカタリテ借受ケ、天川一人デ私用シタルモノトノ告訴ナリ、然ルニ栗山国四郎ハ深川村ノアイヌデ近文事件以来努力シタルコトアルヤ、其間彼ハ一度モ近文ニ顔ヲ見セズ、突然ニ明治三十七年五月ニ私ヲ前記ノ理由デ告訴シ、然ルニ其後彼ノ行ヲ調ベ見ルニ、其当時ノ旭川町長奥田千春、昨年マデノ市長奥田ニ願シ私ヲ無実ノ告訴シ、然ルニ明治三十七年九月札幌検事局ニ送ラレ未決監ニ入監サレ、明治三十八年五月札幌地方裁判所予審判事長春田判事ニ助ケラレ予審免訴トナリ、青天白日ノ身トナリ出獄シテ新聞ヲ見ルニ、旭川町長奥田千春近文アイヌ地ヲ横領シタリトアリ、然ルニ私ハ札幌ノアル弁護士ヲ頼ンデ栗山ヲブ告罪デ告訴スル考ヲ頼ンダラ、弁護士云フニハ、天川ハ同族ノ為メ尽シタルコトハ誰一人知ラヌ者ナシ、然ルニ栗山国四郎如キ者ヲブ告罪デ告訴スルヨリ旭川町長奥田千春ノ不法今一度旭川近文ニ行テ酋長川村モノクテ外一同ニ面会シ、奥田ヲ土地取戻シノ訴セヨト云フ故、私モ其事ニ決心、明治三十八年五月出監スルヤ否ヤ近文ニ参リ、川村エカシニ話シヲスルニエカシモ驚キ入リ、是皆川上コヌサアイヌト栗山国四郎ノ悪手段、奥田千春ノ手下ニナリ種々ナル悪事ヲ成シ、今一度川村エカシニ代リ奥田ヨリ土地取戻シテ呉レト頼マレ、明治三十八年六月川村モノクテヲ代理シ旭川区裁判所ヘ奥田千春ヲ訴ヘタリ、然ルニ町長奥田ノ代理入山弁護士裁判所ニテ判事曰ク「アイヌノ□知ナキ者ヲアイヌヲ欺キ土地ヲ横領セントハ甚ダヨロシカラズ、アイヌニ土地ヲ返還セヨト、返還セザレバ第二ノ大倉事件トナルゾ」ト入山弁護士判事カラ叱ラレ判決ヲ云ヒ渡サレタリ、其後入山弁護士ハ私ニ云フニハ、奥田ハ旭川町大建設ヲ思ヒタル故ナリト云フニ、私ハ如何ニ奥田ハ旭川大建設ヲ計レバトテ、同旭川町民アイヌ地ヲ横領スルトハ甚ダ其意ヲ得ザルコトナリ、然シ乍ラ示談シテ呉レトアラバ示談スルガ、今後ハ旭川町役場デ近文アイヌヲ保護シ、土地モ人手デ部開墾シアレバ町役場デ道庁ニ願ヒ、アイヌニ土地指令ヲ与ヘテ呉レレバ私ハ示談スルト云フニ、入山モ喜ビテ然ラバ是ヨリ旭川町役場ニ行キ奥田町長ニ会ツテ話スルト云フ故、入山同道ニテ町役場ニ参リ奥田ニ会ヒ、入山ハ奥田ニ私ノ意見ヲ述ベルニ奥田モ喜ビ、奥田ノ云フニハ当役場ニ委セテ呉レレバアイヌニ土地指令モ道庁ヨリトツテ呉レルト明言シタルニ、現今マデアイヌニ指令ドコロカ学校敷地マデアイヌ地ヲ奪ヒ、栗山国四郎ハ其当時アイヌノ印ヲ偽造シ道庁ニ移転願書提出シテアルト道庁ノアル御方カラ聞イテ居リマス、川上コヌサアイヌ、栗山国四郎ラノ親分奥田千春デアツタガ其ノ奥田ガ首ニナリ、川上、栗山ハ定メシ力ヲ落シテヰルデアラウ 明治三十三年以来ノ事件相違ナキコトヲ記ス 昭和八年一月二十三日 |
四五年といふもの逗子の方へ行つてゐたので、お花見には御無沙汰した。全體彼地では汐風が吹くせゐか木が皆小さくて稀に二三株有つても色も褪せて居るやうだから、摘草などをこそすれつい〳〵花を見る事は先づすくないのである、と言つて花時に出ても來ないし、愈々以て遠々しくは成つたものの、何もお花見だからと言つて異裝なんかする事はさう別に奬勵するにも及ばなければ、恐しく取緊る事もないと思ふ。さうしなければ樂めないといふ譯もなし、普通の身裝で普通の顏で、歡樂を擅にする事ができるのだから。 近來櫻花の下を通る女の風俗を見るに、どうも物足りない點がある、花に對する配合が惡い。たとへば上野なら上野で、清水の堂に、文金の高島田、紫の矢絣、と云つた美人が、銀地の扇か何か持つてゐるといふと、……奈何にも色彩が榮えて配合その宜しきを得てゐるが、これが今時のやうな風俗であると一寸弱る、前述のやうだとお花見らしい上野が見えると言ふもの。夫から上野にしろ向島にしろ、そこらを歩いてゐる女達が、左程迄にゆかなくつても、濃艶淡彩とり〴〵に見えるけれど、此頃の風俗ではパツと咲いてる櫻花の下に、女は唯黒ツぽく見えるばかり、打見たところ色が雜つて、或混氣のない心持のよい色だけで、身裝を飾るといふ事が出來なくなつたらしく、色の上にぼかしをかけて、ぼかし過ぎた部分へまた白粉の極彩色、工手間のかゝつた、一刷毛で埓のあかぬ化粧ぶりは、造花に配したら見劣もしまいけれど、唯妙に薄黒く見えるので、全體海老茶といふあの色がもう黒く見える。其他背負上、帶の色、混沌たる色彩を爲して、二重にも三重にも塗りつけた有樣がある。そこで其色彩が、日中の花盛砂埃を浴びて立つても水際立つて美しくあつて然るべきのが、ボーツと霞んで居る時に見ても一向鮮かに見えぬ。 酒なくて何のおのれが櫻かな、で花にはいづれも附物だが、ほんとうに花を見ようといふなら、明方の櫻か、薄月でもあつて、一本の櫻がかう明るいやうな所を見るにあると、言ふものの半ば御多分に漏れない、活きた花を見るのだが、陰氣な顏をして理窟を言つたり、くすんだりして見るよりは、派手に陽氣に櫻と競つて花見をしたら、萬都の美觀を添へるだらうと思ふ。 要するに櫻の下に行交ふ女が黒つぽいと言つて、素人らしくないといふ意味では決してない。が何も御自分勝手にさういふ風をなさるのも、異裝をするのも惡い事ではない。どんな事をしても、お樂みがあれば夫でよい譯だが、庇髮に金ピカの三枚櫛なんてものは、其上に櫻は決して調和したものではない。 たとへば第一歩く振なり容子なり、甚だ美しくなくなつた。落花の黒髮にかゝる風情、袂や裾に散る趣きも、今では皆がいきなり手を出して掴むぐらゐな意でゐる。 |
向うの小沢に蛇が立って、 八幡長者の、おと娘、 よくも立ったり、巧んだり。 手には二本の珠を持ち、 足には黄金の靴を穿き、 ああよべ、こうよべと云いながら、 山くれ野くれ行ったれば………… 一 三浦の大崩壊を、魔所だと云う。 葉山一帯の海岸を屏風で劃った、桜山の裾が、見も馴れぬ獣のごとく、洋へ躍込んだ、一方は長者園の浜で、逗子から森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の時分、人死のあるのは、この辺ではここが多い。 一夏激い暑さに、雲の峰も焼いた霰のように小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になって覆れそうな日盛に、これから湧いて出て人間になろうと思われる裸体の男女が、入交りに波に浮んでいると、赫とただ金銀銅鉄、真白に溶けた霄の、どこに亀裂が入ったか、破鐘のようなる声して、 「泳ぐもの、帰れ。」と叫んだ。 この呪詛のために、浮べる輩はぶくりと沈んで、四辺は白泡となったと聞く。 また十七ばかり少年の、肋膜炎を病んだ挙句が、保養にとて来ていたが、可恐く身体を気にして、自分で病理学まで研究して、0,などと調合する、朝夕検温気で度を料る、三度の食事も度量衡で食べるのが、秋の暮方、誰も居ない浪打際を、生白い痩脛の高端折、跣足でちょびちょび横歩行きで、日課のごとき運動をしながら、つくづく不平らしく、海に向って、高慢な舌打して、 「ああ、退屈だ。」 と呟くと、頭上の崖の胴中から、異声を放って、 「親孝行でもしろ――」と喚いた。 ために、その少年は太く煩い附いたと云う。 そんなこんなで、そこが魔所だの風説は、近頃一層甚しくなって、知らずに大崩壊へ上るのを、土地の者が見着けると、百姓は鍬を杖支き、船頭は舳に立って、下りろ、危い、と声を懸ける。 実際魔所でなくとも、大崩壊の絶頂は薬研を俯向けに伏せたようで、跨ぐと鐙の無いばかり。馬の背に立つ巌、狭く鋭く、踵から、爪先から、ずかり中窪に削った断崖の、見下ろす麓の白浪に、揺落さるる思がある。 さて一方は長者園の渚へは、浦の波が、静に展いて、忙しくしかも長閑に、鶏の羽たたく音がするのに、ただ切立ての巌一枚、一方は太平洋の大濤が、牛の吼ゆるがごとき声して、緩かにしかも凄じく、うう、おお、と呻って、三崎街道の外浜に大畝りを打つのである。 右から左へ、わずかに瞳を動かすさえ、杜若咲く八ツ橋と、月の武蔵野ほどに趣が激変して、浦には白帆の鴎が舞い、沖を黒煙の竜が奔る。 これだけでも眩くばかりなるに、蹈む足許は、岩のその剣の刃を渡るよう。取縋る松の枝の、海を分けて、種々の波の調べの懸るのも、人が縋れば根が揺れて、攀上った喘ぎも留まぬに、汗を冷うする風が絶えぬ。 さればとて、これがためにその景勝を傷けてはならぬ。大崩壊の巌の膚は、春は紫に、夏は緑、秋紅に、冬は黄に、藤を編み、蔦を絡い、鼓子花も咲き、竜胆も咲き、尾花が靡けば月も射す。いで、紺青の波を蹈んで、水天の間に糸のごとき大島山に飛ばんず姿。巨匠が鑿を施した、青銅の獅子の俤あり。その美しき花の衣は、彼が威霊を称えたる牡丹花の飾に似て、根に寄る潮の玉を砕くは、日に黄金、月に白銀、あるいは怒り、あるいは殺す、鋭き大自在の爪かと見ゆる。 二 修業中の小次郎法師が、諸国一見の途次、相州三崎まわりをして、秋谷の海岸を通った時の事である。 件の大崩壊の海に突出でた、獅子王の腹を、太平洋の方から一町ばかり前途に見渡す、街道端の――直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる――江の島と富士とを、簾に透かして描いたような、ちょっとした葭簀張の茶店に休むと、媼が口の長い鉄葉の湯沸から、渋茶を注いで、人皇何代の御時かの箱根細工の木地盆に、装溢れるばかりなのを差出した。 床几の在処も狭いから、今注いだので、引傾いた、湯沸の口を吹出す湯気は、むらむらと、法師の胸に靡いたが、それさえ颯と涼しい風で、冷い霧のかかるような、法衣の袖は葭簀を擦って、外の小松へ飜る。 爽な心持に、道中の里程を書いた、名古屋扇も開くに及ばず、畳んだなり、肩をはずした振分けの小さな荷物の、白木綿の繋ぎめを、押遣って、 「千両、」とがぶりと呑み、 「ああ、旨い、これは結構。」と莞爾して、 「おいしいついでに、何と、それも甘そうだね、二ツ三ツ取って下さい。」 「はいはい、この団子でござりますか。これは貴方、田舎出来で、沢山甘くはござりませぬが、そのかわり、皮も餡子も、小米と小豆の生一本でござります。」 と小さな丸髷を、ほくほくもの、折敷の上へ小綺麗に取ってくれる。 扇子だけ床几に置いて、渋茶茶碗を持ったまま、一ツ撮もうとした時であった。 「ヒイ、ヒイヒイ!」と唐突に奇声を放った、濁声の蜩一匹。 法師が入った口とは対向い、大崩壊の方の床几のはずれに、竹柱に留まって前刻から――胸をはだけた、手織縞の汚れた単衣に、弛んだ帯、煮染めたような手拭をわがねた首から、頸へかけて、耳を蔽うまで髪の伸びた、色の黒い、巌乗造りの、身の丈抜群なる和郎一人。目の光の晃々と冴えたに似ず、あんぐりと口を開けて、厚い下唇を垂れたのが、別に見るものもない茶店の世帯を、きょろきょろと眗していたのがあって――お百姓に、船頭殿は稼ぎ時、土方人足も働き盛り、日脚の八ツさがりをその体は、いずれ界隈の怠惰ものと見たばかり。小次郎法師は、別に心にも留めなかったが、不意の笑声に一驚を吃して、和郎の顔と、折敷の団子を見較べた。 「串戯ではない、お婆さん、お前は見懸けに寄らぬ剽軽ものだね。」 「何でござりますえ。」 「いいえさ、この団子は、こりゃ泥か埴土で製えたのじゃないのかい。」 「滅相なことをおっしゃりまし。」 と年寄は真顔になり、見上げ皺を沢山寄せて、 「何を貴方、勿体もない。私もはい法然様拝みますものでござります。吝嗇坊の柿の種が、小判小粒になればと云うて、御出家に土の団子を差上げまして済むものでござりますかよ。」 真正直に言訳されて、小次郎法師はちと気の毒。 「何々、そう真に受けられては困ります。この涼しさに元気づいて、半分は冗戯だが、旅をすれば色々の事がある。駿州の阿部川餅は、そっくり正のものに木で拵えたのを、盆にのせて、看板に出してあると云います。今これを食べようとするのを見てその人が、」 |
千八百八十年五月何日かの日暮れ方である。二年ぶりにヤスナヤ・ポリヤナを訪れた Ivan Turgenyef は主の Tolstoi 伯爵と一しよに、ヴアロンカ川の向うの雑木林へ、山鴫を打ちに出かけて行つた。 鴫打ちの一行には、この二人の翁の外にも、まだ若々しさの失せないトルストイ夫人や、犬をつれた子供たちが加はつてゐた。 ヴアロンカ川へ出るまでの路は、大抵麦畑の中を通つてゐた。日没と共に生じた微風は、その麦の葉を渡りながら、静に土の匂を運んで来た。トルストイは銃を肩にしながら、誰よりも先に歩いて行つた。さうして時々後を向いては、トルストイ夫人と歩いてゐるトウルゲネフに話しかけた。その度に「父と子と」の作家は、やや驚いたやうに眼を挙げながら、嬉しさうに滑らかな返事をした。時によると又幅の広い肩を揺すつて、嗄れた笑ひ声を洩す事もあつた。それは無骨なトルストイに比べると、上品な趣があると同時に、何処か女らしい答ぶりだつた。 路がだらだら坂になつた時、兄弟らしい村の子供が、向うから二人走つて来た。彼等はトルストイの顔を見ると、一度に足を止めて目礼をした。それから又元のやうに、はだしの足の裏を見せながら、勢よく坂を駈け上つて行つた。トルストイの子供たちの中には、後から彼等へ何事か、大声に呼びかけるものもあつた。が、二人はそれも聞えないやうに、見る見る麦畑の向うに隠れてしまつた。 「村の子供たちは面白いよ。」 トルストイは残曛を顔に受けながら、トウルゲネフの方を振返つた。 「ああ云ふ連中の言葉を聞いてゐると、我々には思ひもつかない、直截な云ひまはしを教へられる事がある。」 トウルゲネフは微笑した。今の彼は昔の彼ではない。昔の彼はトルストイの言葉に、子供らしい感激を感じると、我知らず皮肉に出勝ちだつた。…… 「この間もああ云ふ連中を教えてゐると、――」 トルストイは話し続けた。 「いきなり一人、教室を飛び出さうとする子供があるのだね。そこで何処へ行くのだと尋いて見たら、白墨を食ひ欠きに行くのですと云ふのだ。貰ひに行くとも云はなければ、折つて来るとも云ふのではない。食ひ欠きに行くと云ふのだね。かう云ふ言葉が使へるのは、現に白墨を噛じつてゐる露西亜の子供があるばかりだ。我々大人には到底出来ない。」 「成程、これは露西亜の子供に限りさうだ。その上僕なぞはそんな話を聞かされると、しみじみ露西亜へ帰つて来たと云ふ心持がする。」 トウルゲネフは今更のやうに、麦畑へ眼を漂はせた。 「さうだらう。仏蘭西なぞでは子供までが、巻煙草位は吸ひ兼ねない。」 「さう云へばあなたもこの頃は、さつぱり煙草を召し上らないやうでございますね。」 トルストイ夫人は夫の悪謔から、巧妙に客を救ひ出した。 「ええ、すつかり煙草はやめにしました。巴里に二人美人がゐましてね、その人たちは私が煙草臭いと、接吻させないと云ふものですから。」 今度はトルストイが苦笑した。 その内に一行はヴアロンカ川を渡つて、鴫打ちの場所へ辿り着いた。其処は川から遠くない、雑木林が疎になつた、湿気の多い草地だつた。 トルストイはトウルゲネフに、最も好い打ち場を譲つた。そして彼自身はその打ち場から、百五十歩ばかり遠のいた、草地の一隅に位置を定めた。それからトルストイ夫人はトウルゲネフの側に、子供たちは彼等のずつと後に、各々分れてゐる事になつた。 空はまだ赤らんでゐた。その空を絡つた木々の梢が、一面にぼんやり煙つてゐるのは、もう匂の高い若芽が、簇つてゐるのに違ひなかつた。トウルゲネフは銃を提げたなり、透かすやうに木々の間を眺めた。薄明い林の中からは、時々風とは云へぬ程の風が、気軽さうな囀りを漂はせて来た。 「駒鳥や鶸が啼いて居ります。」 トルストイ夫人は首を傾けながら、独り語のやうにかう云つた。 徐に沈黙の半時間が過ぎた。 その間に空は水のやうになつた。同時に遠近の樺の幹が、それだけ白々と見えるやうになつた。駒鳥や鶸の声の代りに、今は唯五十雀が、稀に鳴き声を送つて来る、――トウルゲネフはもう一度、疎な木々の中を透かして見た。が、今度は林の奥も、あら方夕暗みに沈んでゐた。 この時一発の銃声が、突然林間に響き渡つた。後に待つてゐた子供たちは、その反響がまだ消えない内に、犬と先を争ひながら、獲物を拾ひに駈けて行つた。 「御主人に先を越されました。」 トウルゲネフは微笑しながら、トルストイ夫人を振り返つた。 やがて二男のイリアが母の所へ、草の中を走つて来た。さうしてトルストイの射止めたのは、山鴫だと云ふ報告をした。 トウルゲネフは口を挾んだ。 「誰が見つけました?」 「ドオラ(犬の名)が見つけたのです。――見つけた時は、まだ生きてゐましたよ。」 イリアは又母の方を向くと、健康さうな頬を火照らせながら、その山鴫が見つかつた時の一部始終を話して聞かせた。 トウルゲネフの空想には、「猟人日記」の一章のやうな、小品の光景がちらりと浮んだ。 イリアが帰つて行つた後は、又元の通り静かになつた。薄暗い林の奥からは、春らしい若芽の匂だの湿つた土の匂だのが、しつとりとあたりへ溢れて来た。その中に何か眠さうな鳥が、時たま遠くに啼く声がした。 「あれは、――?」 「縞蒿雀です。」 トウルゲネフはすぐに返事をした。 縞蒿雀は忽ち啼きやんだ。それぎり少時は夕影の木々に、ぱつたり囀りが途絶えてしまつた。空は、――微風さへ全然落ちた空は、その生気のない林の上に、だんだん蒼い色を沈めて来る、――と思ふと鳧が一羽、寂しい声を飛ばせながら、頭の上を翔けて通つた。 再び一発の銃声が、林間の寂寞を破つたのは、それから一時間も後の事だつた。 「リヨフ・ニコラエヰツチは鴫打ちでも、やはり私を負かしさうです。」 トウルゲネフは眼だけ笑ひながら、ちよいと肩を聳かせた。 子供たちが皆駈けだした音、ドオラが時々吠え立てる声、――それがもう一度静まつた時には、既に冷かな星の光が、点々と空に散らばつてゐた。林も今は見廻す限り、ひつそりと夜を封じた儘、枝一つ動かす気色もなかつた。二十分、三十分、――退屈な時が過ぎると共に、この暮れ尽した湿地の上には、何処か薄明い春の靄が、ぼんやり足もとへ這ひ寄り始めた。が、彼等のゐまはりへは、未に一羽も鴫らしい鳥は、現れるけはひが見えなかつた。 「今日はどう致しましたかしら。」 トルストイ夫人の呟きには、気の毒さうな調子も交つてゐた。 「こんなことは滅多にないのでございますけれども、――」 「奥さん、御聞きなさい。夜鶯が啼いてゐます。」 トウルゲネフは殊更に、縁のない方面へ話題を移した。 暗い林の奥からは、実際もう夜鶯が、朗かな声を漂はせて来た。二人は少時黙然と、別々の事を考へながら、ぢつとその声に聞き入つてゐた。…… すると急に、――トウルゲネフ自身の言葉を借りれば、「しかしこの『急に』がわかるものは、唯猟人ばかりである。」――急に向うの草の中から、紛れやうのない啼き声と共に、一羽の山鴫が舞上つた。山鴫は枝垂れた木々の間に、薄白い羽裏を閃かせながら、すぐに宵暗へ消えようとする、――トウルゲネフはその瞬間、銃を肩に当てるが早いか、器用にぐいと引き金を引いた。 |
団欒 石段 菊の露 秀を忘れよ 東枕 誓 団欒 後の日のまどいは楽しかりき。 「あの時は驚きましたっけねえ、新さん。」 とミリヤアドの顔嬉しげに打まもりつつ、高津は予を見向きていう。ミリヤアドの容体はおもいしより安らかにて、夏の半一度その健康を復せしなりき。 「高津さん、ありがとう。お庇様で助かりました。上杉さん、あなたは酷い、酷い、酷いもの飲ませたから。」 と優しき、されど邪慳を装える色なりけり。心なき高津の何をか興ずる。 「ねえ、ミリヤアドさん、あんなものお飲ませだからですねえ。新さんが悪いんだよ。」 「困るねえ、何も。」と予は面を背けぬ。ミリヤアドは笑止がり、 「それでも、私は血を咯きました、上杉さんの飲ませたもの、白い水です。」 「いいえ、いいえ、血じゃありませんよ。あなた血を咯いたんだと思って心配していらっしゃいますけれど血だもんですか。神経ですよ。あれはね、あなた、新さんの飲ませた水に着ていらっしゃった襦袢のね、真紅なのが映ったんですよ。」 「こじつけるねえ、酷いねえ。」 「何のこじつけなもんですか。ほんとうですわねえ。ミリヤアドさん。」 ミリヤアドは莞爾として、 「どうですか。ほほほ。」 「あら、片贔屓を遊ばしてからに。」 と高津はわざとらしく怨じ顔なり。 「何だってそう僕をいじめるんだ。あの時だって散々酷いめにあわせたじゃないか。乱暴なものを食べさせるんだもの、綿の餡なんか食べさせられたのだから、それで煩うんだ。」 「おやおや飛んだ処でね、だってもう三月も過ぎましたじゃありませんか。疾くにこなれてそうなものですね。」 「何、綿が消化れるもんか。」 ミリヤアド傍より、 「喧嘩してはいけません。また動悸を高くします。」 「ほんとに串戯は止して新さん、きづかうほどのことはないのでしょうね。」 「いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ不可ッていうんです。何、症が知れてるの。転地さえすりゃ何でもないって。」 「そんならようござんすけれど、そして何時の汽車だッけね。」 「え、もうそろそろ。」 と予は椅子を除けてぞ立ちたる。 「ミリヤアド。」 ミリヤアドは頷きぬ。 「高津さん。」 「はい、じゃ、まあいっていらっしゃいまし、もうねえ、こんなにおなんなすったんですから、ミリヤアドのことはおきづかいなさらないで、大丈夫でござんすから。」 「それでは。」 ミリヤアドは衝と立ちあがり、床に二ツ三ツ足ぶみして、空ざまに手をあげしが、勇ましき面色なりき。 「こんなに、よくなりました。上杉さん、大丈夫、駈けてみましょう。門まで、」 といいあえず、上着の片褄掻取りあげて小刻に足はやく、颯と芝生におり立ちぬ。高津は見るより、 「あら、まだそんなことをなすッちゃいけません。いけませんよ。」 と呼び懸けながら慌しく追い行きたる、あとよりして予は出でぬ。 木戸の際にて見たる時ミリヤアドは呼吸忙しくたゆげなる片手をば、垂れて高津の肩に懸け、頭を少し傾けいたりき。 石段 「いいめをみせたんですよ、だからいけなかったんです。あの当時しばらくはどういうものでしょう、それはね、ほんとに嘘のように元気がよくおなんなすッて、肺病なんてものは何でもないものだ。こんなわけのないものはないッてっちゃ、室の中を駈けてお歩行きなさるじゃありませんか。そうしちゃあね、(高津さん、歌をうたッて聞かせよう)ッてあの(なざれの歌)をね、人の厭がるものをつかまえてお唄いなさるの。唄っちゃ(ああ、こんなじゃ洋琴も役に立たない、)ッて寂しい笑顔をなさるとすぐ、呼吸が苦しくなッて、顔へ血がのぼッて来るのだから、そんなことなすッちゃいけませんてッて、いつでも寝さしたんですよ。 しかしね、こんな塩梅ならば、まあ結構だと思って、新さん、あなたの処へおたよりをするのにも、段々快い方ですからお案じなさらないように、そういってあげましたっけ。 そうすると、つい先月のはじめにねえ、少しいつもより容子が悪くおなんなすったから、急いで医者に診せましたの。はじめて行った時は、何でもなかったんですが、二度目ですよ。二度目にね、新さん、一所にお医者様の処へ連れて行ってあげた時、まあ、どうでしょう。」 高津はじっと予を見たり。膝にのせたる掌の指のさきを動かしつつ、 「あすこの、あればかりの石壇にお弱んなすッて、上の壇が一段、どうしてもあがり切れずに呼吸をついていらっしゃるのを、抱いて上げた時は、私も胸を打たれたんですよ。 まあ可い、可い! ここを的に取って看病しよう。こん度来るまでにはきっと独でお上んなさるようにして見せよう。そうすりゃ素人目にも快くおなんなすった解りが早くッて、結句張合があると思ったんですが、もうお医者様へいらっしゃることが出来たのはその日ッきり。新さん、やっぱりいけなかったの。 |
上海の商務印書館から世界叢書と云ふものが出てゐる。その一つが「現代日本小説集」である。これに輯めてあるのは国木田独歩、夏目漱石、森鴎外、鈴木三重吉、武者小路実篤、有島武郎、長与善郎、志賀直哉、千家元麿、江馬修、江口渙、菊池寛、佐藤春夫、加藤武雄、僕、この十五人、三十篇である。このうち、夏目漱石、森鴎外、有島武郎、江口渙、菊池寛の五人のは、魯迅君の訳で、その外は皆、周作人君の訳である。そして、胡適校としてある。 千九百二十二年五月於北京、――と云ふ周作人君の序文によれば、「日本の小説は、二十世紀に於て驚異すべき発達をし、国民的文学の精華となつたばかりでなく、幾多の有名な著作は又、世界的価値を持つやうになつた。その点は欧洲現代の文学と比較するに足る位であるが、唯文字の関係によつて、日本の小説を翻訳することは、欧洲人には甚だ容易でない。その為めにあまり世界に知られずにゐる。しかし支那は日本と種々の関係があり、支那人は日本を知る必要もあれば、亦、日本を知る便利もある。そこでこの翻訳集を出した」と云ふことである。猶又「これ等の小説を選択した標準は、日本の現代の小説を紹介すると云ふ点にあるけれども、十五人の作家を選んだのは、大半個人的趣味によつた」とも云つてゐる。も一つ次手に紹介すれば「この外にもまだ、島崎藤村、里見弴、谷崎潤一郎、加能作次郎、佐藤俊子等の如き幾多の作家があつて、本来選に入るべきであるけれども、時間と能力との関係によつてこの集に収めることの出来なかつたのは甚だ遺憾である」とも云つてゐる。 翻訳は、僕自身の作品に徴すれば、中々正確に訳してある。その上、地名、官名、道具の名等には、ちやんと註釈をほどこしてある。 例へば、「羅生門」の中では、 帯刀――古時的官、司追捕、糾弾、裁判、訴訟等事。 平安朝――西暦七九四年以後約四百年。 等の類である。尤もこの註には、多少妥当を欠いたものもないではない。 例へば、加藤武雄君の「郷愁」のうちに、デコ坊(凸哥児)を註して、 Dekkobō――原意是前額凸出的小児、後来只当作一種親愛的諢名。 と云ふのは好い。しかし「山の手」を註して、 山手――原意是近山的地方、此処却専指東京本郷一帯高地、……云々 と云ふのは少し大雑把である。牛込の矢来は、本郷一帯の高地にははひらない筈である。けれどもこれは、白壁の微瑕を数へる為めにあげたのではない。たとひ妥当を欠いたとしても、これ程僅かしか欠かないと言ふことを示す為めにあげたのである。 巻頭に周作人君の序文のあることは既に述べたが、巻末には各作家に関する短かい紹介を附録として添へてある。これも先づ要領を得てゐると言はなければならぬ。 例へば、武者小路実篤は――千八百八十五年に生れ、「白樺派」の中心人物となり、近来日向に「新しき村」を建設し、耕読主義を実行す。彼の著作は単純真率、技巧を施さず、自ら清新の気を具ふ。極めて人を感動せしむる力量あり。彼は「彼が三十の時」(千九百十五年)の序の中に、嘗つてかう言つてゐる。下略。等の類である。 これを現代の日本に行はれる西洋文芸の翻訳書に比べてもあまり遜色はないのに違ひない。もつと詳しく紹介すれば面白いかも知れないが、少し面倒くさくなつたからこれだけに止めることにする。 |
一 お宗さん お宗さんは髪の毛の薄いためにどこへも縁づかない覚悟をしてゐた。が、髪の毛の薄いことはそれ自身お宗さんには愉快ではなかつた。お宗さんは地肌の透いた頭へいろいろの毛生え薬をなすつたりした。 「どれも広告ほどのことはないんですよ。」 かういふお宗さんも声だけは善かつた。そこで賃仕事の片手間に一中節の稽古をし、もし上達するものとすれば師匠になるのも善いと思ひ出した。しかし一中節はむづかしかつた。のみならず酒癖の悪い師匠は、時々お宗さんをつかまへては小言以上の小言を言つたりした。 「お前なんどは肥たご桶を叩いて甚句でもうたつてお出でなさりや善いのに。」 師匠は酒の醒めてゐる時には決してお宗さんにも粗略ではなかつた。しかし一度言はれた小言はお宗さんをひがませずには措かなかつた。「どうせあたしは檀那衆のやうによくする訣には行かないんだから。」――お宗さんは時々兄さんにもそんな愚痴などをこぼしてゐた。 「曾我の五郎と十郎とは一体どつちが兄さんです?」 四十を越したお宗さんは「形見おくり」を習つてゐるうちに真面目にかういふことを尋ねたりした。この返事には誰も当惑した。誰も? ――いや「誰も」ではない。やつと小学校へはひつた僕はすぐに「十郎が兄さんですよ」といひ、反つてみんなに笑はれたのを羞しがらずにはゐられなかつた。 「何しろああいふお師匠さんぢやね。」 一中節の師匠になることはとうとうお宗さんには出来なかつた。お宗さんはあの震災のために家も何も焼かれたとかいふことだつた。のみならず一時は頭の具合も妙になつたとかいふことだつた。僕はお宗さんの髪の毛も何か頭の病気のために薄いのではないかと思つてゐる。お宗さんの使つた毛生え薬は何も売薬ばかりではない。お宗さんはいつか蝙蝠の生き血を一面に頭に塗りつけてゐた。 「鼠の子の生き血も善いといふんですけれども。」 お宗さんは円い目をくるくるさせながら、きよとんとしてこんなことも言つたものだつた。 二 裏畠 それはKさんの家の後ろにある二百坪ばかりの畠だつた。Kさんはそこに野菜のほかにもポンポン・ダリアを作つてゐた。その畠を塞いでゐるのは一日に五、六度汽車の通る一間ばかりの堤だつた。 或夏も暮れかかつた午後、Kさんはこの畠へ出、もう花もまれになつたポンポン・ダリアに鋏を入れてゐた。すると汽車は堤の上をどつと一息に通りすぎながら、何度も鋭い非常警笛を鳴らした。同時に何か黒いものが一つ畠の隅へころげ落ちた。Kさんはそちらを見る拍子に「又庭鳥がやられたな」と思つた。それは実際黒い羽根に青い光沢を持つてゐるミノルカ種の庭鳥にそつくりだつた。のみならず何か雞冠らしいものもちらりと見えたのに違ひなかつた。 しかし庭鳥と思つたのはKさんにはほんの一瞬間だつた。Kさんはそこに佇んだまま、あつけにとられずにはゐられなかつた。その畠へころげこんだものは実は今汽車に轢かれた二十四五の男の頭だつた。 三 武さん 武さんは二十八歳の時に何かにすがりたい慾望を感じ、(この慾望を生じた原因は特にここに言はずともよい。)当時名高い小説家だつたK先生を尋ねることにした。が、K先生はどう思つたか、武さんを玄関の中へ入れずに格子戸越しにかう言ふのだつた。 「御用向きは何ですか?」 武さんはそこに佇んだまま、一部始終をK先生に話した。 「その問題を解決するのはわたしの任ではありません。Tさんのところへお出でなさい。」 T先生は基督教的色彩を帯びた、やはり名高い小説家だつた。武さんは早速その日のうちにT先生を訪問した。T先生は玄関へ顔を出すと、「わたしがTです。ではさやうなら」と言つたぎり、さつさと奥へ引きこまうとした。武さんは慌ててT先生を呼びとめ、もう一度あらゆる事情を話した。 「さあ、それはむづかしい。……どうです、Uさんのところへ行つて見ては?」 武さんはやつと三度目にU先生に辿り着いた。U先生は小説家ではない。名高い基督教的思想家だつた。武さんはこのU先生により、次第に信仰へはひつて行つた。同時に又次第に現世には珍らしい生活へはひつて行つた。 それは唯はた目には石鹸や歯磨きを売る行商だつた。しかし武さんは飯さへ食へれば、滅多に荷を背負つて出かけたことはなかつた。その代りにトルストイを読んだり、蕪村句集講義を読んだり、就中聖書を筆写したりした。武さんの筆写した新旧約聖書は何千枚かにのぼつてゐるであらう。兎に角武さんは昔の坊さんの法華経などを筆写したやうに勇猛に聖書を筆写したのである。 或夏の近づいた月夜、武さんは荷物を背負つたまま、ぶらぶら行商から帰つて来た。すると家の近くへ来た時、何か柔かいものを踏みつぶした。それは月の光に透かして見ると、一匹の蟇がへるに違ひなかつた。武さんは「俺は悪いことをした」と思つた。それから家へ帰つて来ると、寝床の前に跪き、「神様、どうかあの蟇がへるをお助け下さい」と十分ほど熱心に祈祷をした。(武さんは立ち小便をする時にも草木のない所にしたことはない。尤もその為に一本の若木の枯れてしまつたことは確かである。) 武さんを翌朝起したのはいつも早い牛乳配達だつた。牛乳配達は武さんの顔を見ると、紫がかつた壜をさし出しながら、晴れやかに武さんに話しかけた。 「今あすこを通つて来ると、踏みつぶされた蟇がへるが一匹向うの草の中へはひつて行きましたよ。蟇がへるなどといふやつは強いものですね。」 武さんは牛乳配達の帰つた後、早速感謝の祈祷をした。――これは武さんの直話である。僕は現世にもかういふ奇蹟の行はれるといふことを語りたいのではない。唯現世にもかういふ人のゐるといふことを語りたいのである。僕の考へは武さんの考へとは、――僕にこの話をした武さんの考へとは或は反対になるであらう。しかし僕は不幸にも武さんのやうに信仰にはひつてゐない。従つて考への喰ひ違ふのはやむを得ないことと思つてゐる。 |
親しい人の顔が、時として、凝乎と見てゐる間に見る見る肖ても肖つかぬ顔――顔を組立ててゐる線と線とが離れ〳〵になつた様な、唯不釣合な醜い形に見えて来る事がある。それと同じ様に、自分の周囲の総ての関係が、亦時として何の脈絡も無い、唯浅猿しく厭はしい姿に見える。――恁うした不愉快な感じに襲はれる毎に、私は何の理由もなき怒り――何処へも持つて行き処の無い怒を覚える。 双肌脱いだ儘仰向に寝転んでゐると、明放した二階の窓から向ひの氷屋の旗と乾き切つた瓦屋根と真白い綿を積み重ねた様な夏の雲とが見えた。旗は戦と風もない炎天の下に死んだ様に低頭れて襞一つ揺がぬ。赤い縁だけが、手が触つたら焼けさうに思はれる迄燃えてゐる。 私も、手も足も投出した儘動かなかつた。恰も其氷屋の旗が、何かしら為よう〳〵と焦心り乍ら、何もせずにゐる自分の現在の精神の姿の様にも思はれた。そして私の怒りは隣室でバタ〳〵団扇を動かす家の者の気勢にも絶間なく煽られてゐた。胸に湧出る汗は肋骨の間を伝つてチヨロリ〳〵と背の方へ落ちて行つた。 不図、優しい虫の音が耳に入つた。それは縁日物の籠に入れられて氷屋の店に鳴くのである。――私は昔自分の作つた歌をゆくりなく旅先で聴く様な気がした。そして、正直のところ、嬉しかつた。幼馴染の浪漫的――優しい虫の音は続いて聞えた―― |
この雑誌にこんなことを書くと、皮肉みたいに思われるかもしれないが、西洋の諺、「飢えは最善のソース」には、相当の真理が含まれている。 一流の料理人が腕をふるってつくり上げたソースをかけて食えば、料理はうまいにきまっているが、それよりも腹のへった時に食うほうがうまい、という意味である。 六十年を越す生涯で、いろいろな場合いろいろなものを食ってきたが、今でも「うまかった」と記憶しているものはあまり沢山ない。そのなかで飢えをソースにしたものをちょっと考えてみると、中学校の時、冬休みに葉山へ行っていて、ある日の午後何と思ってか横須賀まで歩いた。着いた時は日暮れ時で寒く、駅前のそば屋で食った親子丼が実にうまかった。しかしこれは飢えばかりでないプラス寒気で、湯気を立てる丼飯を私の冷えた体が歓迎したのだろう。 大人になってからも似たような経験をした。毎日新聞の記者として芦屋に取材に出かけ、晩方の九時頃仕事を済ませて、やはり駅に近いそば屋でテンプラそばを食った。これも冬だったが、七味唐辛子をウンと振り込み、最後に汁を呑んで咽喉がヒリヒリしたことまでおぼえている。これは飢えプラス寒さプラス仕事を終った満足感である。 大正十二年の大震災の時には大阪にいたが、生れ故郷が東京なのですぐ行けと命令され、中央線廻りで上京した。その途中笹子のあたりで山津波があり、汽車が半分埋まってしまった。その泥の流れのなかを歩いてぬけて、ちょっとした高台にある村にたどりつき、一軒の飲み屋で酒を所望すると、ぜんまいを一緒に出した。もちろん干したぜんまいをもどし、煮干しで味をつけた物だが、その煮干しのガサガサした歯ざわりさえ憶えているのだから、相当感銘したに違いない。この場合は飢えプラス山津波を逃れた安心感だろう。親子丼、テンプラそば、ぜんまいと、実にありふれた食物だが、飢えプラス何物かが最上のソースになったのである。 私が冒頭で「相当の真理」といったのはこれなのである。つまり飢え単独では腹がはった満足はあっても、決して「うまい」とは感じない。 * 私が若い頃登った山には、番人のいる小舎が極めてすくなく、大体水に近い場所にテントを張り、飯をたいて食事をしたものである。食物としては米、味噌が主で、味噌の実にはそこらに生えている植物をつかった。罐詰類は重いので、せいぜい福神漬か大和煮を、それもたくさんは持っていかず、動物性蛋白質は干鱈だった。飯をたき味噌汁をつくった焚火のおきに、縦半分にさいた干鱈をのせ、アッチアッチと言いながら指でちぎって食うのである。満腹はするがちっともうまくないので、東京へ帰ったら何を食おう、あれを食おうと、第一日の晩から食物の話ばかりで、事実東京へ帰って腹をこわしたりした。それでいて翌年の夏には同じことを繰り返すのだから、山の魅力は大したものである。 いつだったか本格的なアルピニストであるI・A・リチャーズ夫妻と一緒に、後立山を歩いたことがある。籠川を入っていくと松虫草が咲いていた。暑い日で一同かなり参っていたが、リチャーズはこの花を見て、外側に滴が露になってついているカクテル・グラスを思い出し、「初日からそんなことを言い出すとは、out of form だ」と奥さんに叱られた。こうなると英国人も日本人も同じである。ところがこの旅で、番人のいる唯一の小舎に罠でとった兎があり、その肉を持参のバタでいため、はこび上げてあったビールで流し込んだ時、リチャーズはこんなに贅沢な山小舎は世界じゅうにないと感激した。 * 太平洋戦争の末期に近く、私は北部ルソンのジャングルの中にかくれて生活していた。大きな部隊が移動した後に入り込んだ狙いはあやまたず、ここには米と塩がかなりたくさん残してあった(もっとも終戦がもう一週間もおくれたら、私は餓死していたことだろう)。だがそれ以外の食物は、すべりひゆと筍――長くのびた奴の頭のほう二寸ばかり――に昼顔の葉である。私は現在インダストリアル・デザイナアとして活動している柳宗理君と組んで、盛んに食物をさがした。まず川のカニである。あれを飯盒に入れて火にかけると、最初はガサガサ音を立てるがやがて静かになる。真赤な奴を食うのだが、とにかくその辺をはいまわっているカニだから、肉など全然なく、ちっともうまくない。私はすっかり歯を悪くしてしまった。 その数年後阿佐ヶ谷の飲み屋で、伊勢のどこかでとれるカニを出された。一年じゅうでとれる日が一週間とか十日とかに限られているそうである。これも小さいカニで肉はないが、足や鋏はカリカリしていていい味がする。 ちょっと余談になるが、食いしんぼうの私は、ほかの人たちよりも食える物をよく見つけ出した。野生のレモン、唐辛子――わが国で「鷹の爪」と呼ぶ種類――、れいしがそれである。そしてパパイヤの木のしんが大根そっくりで、すこし古くなるとオナラ臭くなることまで発見したので、これを刻み、太い竹の筒にこれも刻んだ唐辛子の葉と実、れいし――緑、黄、赤と順々に色が変る――、レモンの皮とまぜて押し込み、塩をして一晩おいた。これはとても素晴らしい漬物でいつか有名になり、貰いに来る人がふえるようになった。 * いよいよ終戦投降ときまると、自殺用に持っていた手りゅう弾のつかいみちがない。これも私が主張して、かくれ場の近くの川の深淵にいくつか投げ込み、下流の浅瀬で待っていると、大小の魚が無数に目を廻して流れてきた。みんな大喜びをしたが、特に私たちはヒネしょうがとにんにくを持っていたので、ぼらのさしみをつくり、その骨でダシを取って結びさよりのお吸物をつくり、鰺の塩焼その他で夜中の十時近くまで大御馳走を食った。この時のごとき、まったく飢えプラス「もう負けてしまったんだから仕方がないや、どういうことが起るか、とにかく捕虜になって見よう」という気持と、こちらが変な真似をしなければ、米国人は捕虜を虐待したりしない人間である、という私の知識経験が、このジャングルでの晩飯を、記憶すべくうまい物にしたのである。 * だから飢えだけが「最善のソース」ではない。これで私のお話は終る。 |
僕は鵠沼の東屋の二階にぢつと仰向けに寝ころんでゐた。その又僕の枕もとには妻と伯母とが差向ひに庭の向うの海を見てゐた。僕は目をつぶつたまま、「今に雨がふるぞ」と言つた。妻や伯母はとり合はなかつた。殊に妻は「このお天気に」と言つた。しかし二分とたたないうちに珍らしい大雨になつてしまつた。 × 僕は全然人かげのない松の中の路を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角へ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。 × 僕は路ばたの砂の中に雨蛙が一匹もがいてゐるのを見つけた。その時あいつは自動車が来たら、どうするつもりだらうと考へた。しかしそこは自動車などのはひる筈のない小みちだつた。しかし僕は不安になり、路ばたに茂つた草の中へ杖の先で雨蛙をはね飛ばした。 × 僕は風向きに従つて一様に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。これは不気味でならなかつた。 × 僕は風呂へはひりに行つた。彼是午後の十一時だつた。風呂場の流しには青年が一人、手拭を使はずに顔を洗つてゐた。それは毛を抜いた雞のやうに痩せ衰へた青年だつた。僕は急に不快になり、僕の部屋へ引返した。すると僕の部屋の中に腹巻が一つぬいであつた。僕は驚いて帯をといて見たら、やはり僕の腹巻だつた。(以上東屋にゐるうち) × 僕は夢を見てゐるうちはふだんの通りの僕である。ゆうべ(七月十九日)は佐佐木茂索君と馬車に乗つて歩きながら、麦藁帽をかぶつた馭者に北京の物価などを尋ねてゐた。しかしはつきり目がさめてから二十分ばかりたつうちにいつか憂鬱になつてしまふ。唯灰色の天幕の裂け目から明るい風景が見えるやうに時々ふだんの心もちになる。どうも僕は頭からじりじり参つて来るのらしい。 × 僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供に遇つた。子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。その恐怖は子供とすれ違つた後も、暫くの間はつづいてゐた。 × 僕はぼんやり煙草を吸ひながら、不快なことばかり考へてゐた。僕の前の次の間にはここへ来て雇つた女中が一人、こちらへは背中を見せたまま、おむつを畳んでゐるらしかつた。僕はふと「そのおむつには毛虫がたかつてゐるぞ」と言つた。どうしてそんなことを言つたかは僕自身にもわからなかつた。すると女中は頓狂な調子で「あら、ほんたうにたかつてゐる」と言つた。 × 僕はバタの罐をあけながら、軽井沢の夏を思ひ出した。その拍子に頸すぢがちくりとした。僕は驚いてふり返つた。すると軽井沢に沢山ゐる馬蝿が一匹飛んで行つた。それもこのあたりの馬蝿ではない。丁度軽井沢の馬蝿のやうに緑色の目をした馬蝿だつた。 × 僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴は何ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団をかぶるか、妻のゐる次の間へ避難してしまふ。 × 僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二三日たつた後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。(以上家を借りてから) |
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