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磁石にくっつく金属といえば、鉄、コバルトと何でしょう?
ニッケル
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[ "ニッケル", "クロム", "ビスマス", "鉛", "ロジウム" ]
[ "ニッケル (蘭: nikkel, 英: nickel, 羅: niccolum) は、原子番号28の金属元素である。元素記号は Ni。 地殻中の存在比は約105 ppmと推定され、それほど多いわけではないが、鉄隕石中には数%含まれる。 特に 62Ni の1核子当たりの結合エネルギーが全原子中で最大であるなどの点から、鉄と共に最も安定な元素である。 岩石惑星を構成する元素として比較的多量に存在し、地球中心部の核にも数%が含まれると推定されている。 銀白色の金属で、鉄族に分類される。原子量は約58.69である。常温で安定な結晶格子は、面心立方格子 (FCC) である。 また、鉄よりは弱いが強磁性体で、キュリー点は350 °Cであり、鉄族元素としては最も低い。 銀白色の光沢ある金属であり乾燥した空気中では錆びにくいが、微粒子状のものは空気中で自然発火することもあり、細いニッケル線は酸素中で火花を出して燃焼する。水素よりイオン化傾向がやや大きく、塩酸および希硫酸に徐々に溶解し、緑色の水和ニッケルイオンを生成するが、その反応は極めて遅い。 酸化作用を持つ希硝酸には速やかに溶解し、濃硝酸では不動態を形成する。 アルカリに対しては比較的強い耐食性を示す。 Ni + 2 H + ( aq ) ⟶ Ni + ( aq ) + H 2 {\\displaystyle {\\ce {Ni + 2H^+(aq) -> Ni^+(aq) + H2}}} 3 Ni + 8 HNO 3 ⟶ 3 Ni ( NO 3 ) 2 + 2 NO + 4 H 2 O {\\displaystyle {\\ce {3Ni + 8HNO3 -> 3Ni(NO3)2 + 2NO + 4H2O}}} 微粒子状の金属粉末は水素および窒素ガスなどを吸蔵し、水素付加反応を活性化させる作用をもち、融解状態でもこれらの気体を吸収し、凝固時にその大部分を放出するため表面が巣穴になりやすい。 また、鉄と同様、融解状態では炭素を6.25 %まで溶解し、凝固するとグラファイトを析出する。 50-60 ℃で微粉末状のニッケルに一酸化炭素を反応させるとテトラカルボニルニッケルを生成し、これを200 ℃に加熱すると分解してニッケルを生じる。この反応は、モンド法と称し、ニッケルの精製に用いられる。 Ni + 4 CO ↽ − − ⇀ Ni ( CO ) 4 {\\displaystyle {\\ce {Ni + 4CO <=> Ni(CO)4}}} 光沢があり耐食性が高いため、装飾用のめっきに用いられるほか、導電性も高い(鉄、クロムより優れるが銅には及ばない)ため電気接点のめっきにも好んで使われる。ステンレス鋼や硬貨の原料などにも使用される。 硬貨の原料 日本で2010年現在発行されている50円硬貨や100円硬貨は、銅とニッケルの合金、(白銅)である。アメリカ合衆国の5セント硬貨も白銅だが、通称「ニッケル」と呼ばれている。純ニッケルも硬貨の材料として用いられたことがある。これはニッケルが特殊鋼や薬莢の材料である白銅の原料として重要であるため、国家が備蓄し、平時は硬貨として流通させ、有事に際しては他の素材の硬貨や紙幣で代替して回収するためである。日本でも第二次世界大戦直前の1933年(昭和8年)から1937年(昭和12年)にかけて、5銭と10銭のニッケル硬貨が発行されており、その名目で軍需物資であるニッケルを輸入した。ただし、戦後もニッケル硬貨は発行されていて、1955年(昭和30年)から1966年(昭和41年)まで発行されていた50円硬貨(1959年(昭和34年)に無孔から有孔に変更)がニッケル硬貨である。 磁性材 ニッケルと鉄にモリブデンやクロムを加えた合金をパーマロイと呼ぶ。優れた軟磁性材料であることから、変圧器の鉄心や磁気ヘッドに用いられている。 耐熱材 ニッケル36 %、鉄64 %の合金を「インバー」、ニッケル36 %、鉄52 %、コバルト12 %の合金を「エリンバー」と呼ぶ。インバー合金は熱膨張率が非常に小さく、エリンバー合金は温度による弾性率の変化が非常に小さいという特徴があり、機械式時計の発条などの精密機械に用いられている。ニッケルベースの合金である各種のインコネルは、その耐熱性からタービン用コンプレッサ材料等に用いられる。 形状記憶合金 チタンとニッケルの1:1の合金は最も一般的な形状記憶合金となる。 触媒 ニッケルは不飽和炭素結合に対する水素付加の不均一系触媒としてラネー合金などに加工され工業的に用いられる。 電極材 水酸化ニッケルはニッケル・水素蓄電池やニッケル・カドミウム蓄電池等の二次電池の正極に使われる。 水素貯蔵合金 水素を取り込む性質を利用し、水素貯蔵合金の AB5 型、Mg 型。 アクセル・クロンステット (Axel Frederik Cronstedt) が1751年に単体分離。名称はドイツ語の Kupfernickel(悪魔の銅)に由来する。これは、ニッケル鉱石である紅砒ニッケル鉱 (NiAs) が銅鉱石に似ているにもかかわらず銅を遊離できなかったために、坑夫たちがこう呼んだものと言われている。 ニッケル鉱石の生産は世界全体で134万トン(2009年現在)である。その内訳はロシアが19 %、オーストラリア14 %、インドネシア12 %、カナダ10 %、ニューカレドニア7 %となっている。 鉱石としては、主に蛇紋岩中に産出する珪ニッケル鉱(Garnierite、(Ni,Mg)3Si2O5(OH)4 とされるが、組成が一定しないので独立種とは認められていない)、磁硫鉄鉱などと共産するペントランド鉱(Pentlandite、(Fe,Ni)9S8)が主に採掘されている。 かつては、オ-フォード法、モンド法、ヒビネット法、徐冷選鉱法などが利用された。2000年代以降は電気精錬法が用いられる。 2011年における国別の産出量は以下の通りである。 日本では第二次世界大戦中、京都府与謝郡の大江山で開発されたニッケル鉱山で日本冶金工業が採鉱して、近くの製錬所でフェロニッケルに製錬し、さらに川崎市の同社工場でニッケル合金として軍用に提供していた。また山口県においても、山口県周南市から岩国市にかけて断続的に蛇紋岩帯があり、昭和15年から20年にかけて金峰鉱山などで採掘が行なわれた。この他に千葉県の房総半島など、蛇紋岩帯の存在する地域で採掘が行なわれた。しかし、これは戦時体制による商業コストを度外視したものであり、ほとんどが終戦とともに閉山・廃鉱となった。 この金属は、日本国内において産業上重要性が高いものの、産出地に偏りがあり供給構造が脆弱である。日本では国内で消費する鉱物資源の多くを他国からの輸入で支えている実情から、万一の国際情勢の急変に対する安全保障策として国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められている。 2015年(平成27年)現在、ニッケルを日本国内で製錬しているのは、大平洋金属八戸製造所、日本冶金工業大江山製造所、住友金属鉱山日向製錬所である。 ウレアーゼ(尿素分解酵素)やいくつかのヒドロゲナーゼ(分子型水素の酸化還元酵素)などは、その機能を発現するためにニッケルを取り込んでいる。しかしながら、ニッケルは金属アレルギーを引き起こしやすい金属の一つであり、WHO の下部組織 IARC はニッケル化合物を「Group1:ヒトに対する発癌性が認められる化学物質」としている。 白銅(キュプロニッケル) 洋白(洋銀) ステンレス鋼 ニッケルクロム鋼 ホワイトゴールド コンスタンタン 形状記憶合金(ニチノール) インコネル パーマロイ マルエージング鋼 化合物中の原子価は2価が最も安定であるが3価および4価のニッケル原子を含む錯体も存在し、-1、0、+1といった低原子価の錯体も存在する。強酸の陰イオンよりなる塩類は一般的に水に可溶であるが、カルコゲンなどとの化合物は難溶または不溶である。 酸化ニッケル(II) (NiO) 水酸化ニッケル(II) (Ni(OH)2) 塩化ニッケル(II) (NiCl2) 硫酸ニッケル(II) (NiSO4) テトラカルボニルニッケル スルファミン酸ニッケル(II) (Ni(NH2SO3)2) - ニッケルめっきに使用 ニッケル酸リチウム (LiNiO2) - リチウムイオン二次電池の正極材料 ^ M. Carnes et al. (2009年). “A Stable Tetraalkyl Complex of Nickel(IV)”. Angewandte Chemie International Edition 48: 3384. doi:10.1002/anie.200804435.  ^ S. Pfirrmann et al. (2009年). “A Dinuclear Nickel(I) Dinitrogen Complex and its Reduction in Single-Electron Steps”. Angewandte Chemie International Edition 48: 3357. doi:10.1002/anie.200805862.  ^ a b 藤原唯義、ニッケル及モネルメタルの採鑛と製錬 日本鑛業會誌 1933年 49巻 575号 p.165-169, doi:10.11508/shigentosozai1885.49.165 ^ 深道和明、 斎藤英夫:不感磁性インバー合金, エリンバー合金Cr基合金を中心にして 日本金属学会会報 Vol.15 (1976) No.9 P553-562 ^ 桜井弘 『元素111の新知識』 講談社、1998年、155頁。ISBN 4-06-257192-7。  ^ 外務省 国際ニッケル研究会の概要 ^ 黒川晴正、高石和幸、住友金属鉱山ニッケル工場におけるニッケル・コバルト精錬 Journal of MMIJ., 2007年 123巻 12号 p.678-681, doi:10.2473/journalofmmij.123.678 ^ 地理 統計要覧 2014年版 ISBN 978-4-8176-0382-1 P,96 ^ ロシア、カナダ、インドネシア、豪州、ニューカレドニアで約3分の2を占める。 ^ 一島英治、『酵素の化学』 p.45 ^ ただし、IARC の報告は疫学的リスク評価であり、ニッケルおよびニッケル化合物に人に対して発癌するリスクが存在するという意味であり、どのぐらいの量をどのくらい長期間接触したら発癌するといった量的評価ではない。 露天掘り サドベリー隕石孔 - カナダの主要な産地。 ノリリスク - ロシアの主要な産地。 ニューカレドニア - 主な産地の一つ。独立運動がある。 大江山鉱山 5セント硬貨 (アメリカ合衆国) - 愛称が「Nickel」。カナダも同様。 金属資源情報センター", "クロム(英: chromium [ˈkroʊmiəm]、独: Chrom [ˈkroːm]、羅: chromium、中: 鉻)は原子番号24の元素。元素記号は Cr。クロム族元素の1つ。 クロムは銀白色の金属で、硬く、融点は1903 °C、沸点は2200 °C(他に融点に関しては1857 °C、沸点に関しては2670 °C、2690 °Cという値がある)[信頼性要検証]。 別名:クロミウム。 1797年にフランスのルイ=ニコラ・ヴォークランによってシベリア産の紅鉛鉱(クロム酸鉛、PbCrO4)から発見され、酸化状態によってさまざまな色を呈することからギリシャ語のχρωμα(chrōma、色)にちなんでルネ=ジュスト・アユイにより命名された。ヴォークランはこの翌年(1798年)ルビーが赤いこと、エメラルドが緑色であることについて、クロムが不純物として入っているためであることを発見した。 一方で秦の始皇帝の兵馬傭坑より出土した青銅の剣や矛・戟・弓矢にもクロムメッキが施されており、それらは2000年以上経った発掘時にも錆びた痕跡がないほどであった。このクロム技術は秦の古文書には一切残っておらず、その後の時代の出土品にはクロム技術が伝承されていないことから、なぜ秦の時代にクロムが用いられ、そして以後の歴史で失われたのかは兵馬俑の数ある謎の一つとなっている。[要出典] 金属としての利用は、光沢があること、硬いこと、耐食性があることを利用するクロムめっきとしての用途が大きい。また、鉄とニッケルと10.5%以上のクロムを含む合金(フェロクロム)はステンレス鋼と呼ぶ。ステンレス鋼ではクロムが不動態皮膜を形成するため、ほとんど錆を生じないので車両や機械といった重工業製品から流し台、包丁などの台所用品まで幅広い用途がある。 この金属は、日本国内において産業上、重要性が高いものの、産出地に偏りがあり供給構造が脆弱である。日本では、国内で消費される鉱物資源の多くが他国からの輸入で賄われている実情から、万一の国際情勢の急変に対する安全保障策として、国内消費量の最低60日分を国家備蓄すると定められている。 インスリンが体内でレセプターと結合するのを助ける働きをしている耐糖因子を構成する材料となる3価のクロムが体内で不足すると、糖代謝の異常が起こり糖尿病の発症に至る可能性があることが明らかにされている。この方面の研究によって、人間にとって必須の栄養素であることがわかってきた。 1日の必要量は、50-200 µg。クロムを多く含む食品は、ビール酵母、レバー、エビ、未精製の穀類、豆類、キノコ類、黒胡椒などである。 もともと、クロムは体内に吸収されにくいミネラルであるが、穀物を精製するとクロムが大幅に失われてしまう問題が存在する。小麦粉の場合、精白すると98%のクロムが失われ、米を精米すると92%のクロムが失われるとされている。そのため、体内へのクロム吸収率の向上を図ったサプリメントなども開発・販売されている。 クロム単体および3価のクロムには毒性が知られていない。ステンレスなどの工業製品として出回っている物の中に含まれているクロムは毒性を持たない。3価のクロムは人体の必須栄養素でもある。 6価のクロム化合物(六価クロム)は極めて毒性が高い。かつては六価クロムをめっき用途として使うことが多かったが、土壌汚染を起こすなどでしばしば問題視され、亜鉛めっき上のクロメート処理では使われなくなってきているが、クロムめっきでは酸化クロム(VI)を使用しためっき液が主流である。また、たばこに含まれる発がん性物質としても知られる。なお、4価のクロム化合物は WHO の下部機関 IARC より発癌性があると (Type1) 勧告されている。 EU-RoHS においては6価クロムの濃度を1000 ppm以下に抑えること、中国版 RoHS においては意図的添加、処理を対象としている。検出方法としてはジフェニルカルバジド法を用いる。これは6価クロムが1,5-ジフェニルカルボノヒドラジドと酸性溶液中で反応してクロム‐ジフェニルカルバゾン錯体を形成することを利用したもので、紫外可視分光光度計を用いて吸光度を測定し、濃度を求める。この際、共存元素(3価鉄、5価バナジウム、6価モリブデン)の影響を受ける。 酸化クロム - 5種類が存在する。 酸化クロム(II) (CrO) - 酸化クロムの1種。 酸化クロム(III) (Cr2O3) - 同上。 酸化クロム(VI) (CrO3) - 同上。 クロム酸カリウム (K2CrO4) - 6価の化合物で、強力な酸化剤。劇物として扱われ、6価クロムによる汚染の際、問題になる事も多い。 二クロム酸カリウム (K2Cr2O7) - クロム酸カリウムと同じく、強力な酸化剤。 クロム酸鉛 (PbCrO4) - 紅鉛鉱として天然に産するほか、黄色顔料・黄鉛(クロムイエロー)として使われる。 クロム酸亜鉛 (ZnCrO4) - 黄色顔料・ジンククロメート(亜鉛黄、ジンクイエロー)として使われる。 クロム酸カルシウム (CaCrO4) - 黄色顔料・カルシウム黄(カルシウムイエロー)として使われる。 クロム酸ストロンチウム (SrCrO4) - 黄色顔料・ストロンチウムクロメート(ストロンシャンイエロー、ストロンチウムイエロー)として使われる。 クロム酸バリウム (BaCrO4) - 黄色顔料・バリウムクロメート(バリウムイエロー、バリウム黄)として使われる。 2011年における国別の産出量は以下の通りである。 ^ Fawcett, Eric (1988年). “Spin-density-wave antiferromagnetism in chromium”. Reviews of Modern Physics 60: 209. Bibcode 1988RvMP...60..209F. doi:10.1103/RevModPhys.60.209.  ^ クロム生産量(国別) 資源について ^ 地理 統計要覧 2014年版 ISBN 978-4-8176-0382-1 P,96 クロムモリブデン鋼 クロム鉄鉱 ビリジアン オキサイド・オブ・クロミウム 耐糖因子 (Glucose Tolerance Factor) クロム - (オレゴン州大学・ライナス・ポーリング研究所) クロム解説 - 「健康食品」の安全性・有効性情報(国立健康・栄養研究所) クロム - 同 クロムの地球化学図", "ビスマス(英: bismuth)は原子番号83の元素。元素記号は Bi。第15族元素の一つ。日本名は蒼鉛(そうえん)。 淡く赤みがかった銀白色の金属で、柔らかく脆い。多彩な色を示すことがあるが、これは表面の酸化膜で光が干渉することによる構造色であり、ビスマス本来の色ではない。電気伝導性や熱伝導性は高くない。融点は271.3 °Cと低い。 常温で安定に存在し、凝固すると体積が増加するのが特徴。またビスマス化合物には医薬品の材料となるものがあり、他の窒素族元素(ヒ素やアンチモン)の化合物に毒性が強いものが多いことと対照的である。 天然には硫化物(輝蒼鉛鉱)として主に産出するが、自然蒼鉛として単体での産出も知られている。なお、鉱工業上はこれらの鉱物ではなく、主に鉛、モリブデン、タングステン精錬の副産物として生産される。ビスマスのドイツ語Wismutは、1472年に与えたシュネーベルクの草原 (Wiese) の採掘許可権 (Mutung) から生まれた語Wiesemutungに由来するが、当時はビスマスはアンチモン、錫、亜鉛などと混同されていた。18世紀にフランスのクロード・F・ジョフロアにより、単体であることが確認された。 ビスマス鉱石を構成する鉱石鉱物には、次のようなものがある。 自然蒼鉛(自然ビスマス)(Bi) 輝蒼鉛鉱(輝ビスマス鉱)(Bi2S3) 蒼鉛土(ビスマイト)(Bi2O3) 日本ではビスマス単産の鉱山は無く、恵比寿鉱山(タングステン)、足尾鉱山(銅)などで副産物としてビスマスが生産された。 医薬品(整腸剤)の原料として、日本薬局方に収載されている。 単体のビスマスと他の金属(カドミウム、錫、鉛、インジウムなど)との合金は、それぞれの金属単体より低い融点となる。このため、鉛フリーはんだに添加されたり、あるいはより低温で溶けるウッド合金のような低融点合金に使われる。また、ビスマスは大きな熱電効果を示す物質であり、特にテルルとの合金は熱電変換素子として実用化されている。 化合物としては、銅酸化物高温超伝導体の1成分としても用いられ、ビスマスを含む超伝導物質はしばしばビスマス系高温超伝導物質または単にビスマス系と呼ばれる。 上記以外にも、高比重・低融点で比較的柔らかく無害である事から鉛の代替として注目され、散弾や釣り用の錘、鉛・カドミウムの代替として黄銅への添加剤、ガラスの材料などとして用いられている。 天然に存在するビスマスの同位体はすべて放射性同位体である。主要な同位体である 209Bi は長らく安定同位体とされてきたが、理論的計算に基づいて不安定である可能性が指摘されていた。2003年、精密な測定で非常に長い半減期を持つ放射性同位体であることが判明し、最重安定同位体の地位を鉛 (208Pb) に譲ることとなった。 209Bi はごくわずかにα崩壊により崩壊するが、その半減期は2003年に測定された値で (1.9 ± 0.2) × 1019 年(≒ 1700京〜2100京年)である。この値は現在の宇宙年齢の9桁以上も長い。 その他にも、半減期は短いが自然界には5つの同位体が存在する。いずれも、壊変系列の崩壊過程によって発生する同位体である。ウラン233の崩壊過程でできるビスマス213はα崩壊核種であり、α線を用いたがんの治療に期待されている(Actimab-B TM)。 収斂作用を持つビスマスの化合物は、腸粘膜のタンパク質と結合して被膜を作り炎症を起こした粘膜への刺激を和らげる効果があり、整腸剤として利用される。 酸化ビスマス(III)(英語版) (Bi2O3) - 整腸剤 次没食子酸ビスマス(英語版) (C7H5BiO6) - 整腸剤(日本薬局方収載) 輝蒼鉛鉱 (Bi3S3) 塩化酸化ビスマス (BiOCl) - 化粧品、パール塗料の原料。 次硝酸ビスマス (Bi5O(OH)9(NO3)4) - 整腸剤(日本薬局方収載) 次サリチル酸ビスマス - 整腸剤 炭酸酸化ビスマス(III) - 整腸剤 チタン酸ビスマスナトリウム ((Bi1/2Na1/2)TiO3) 人工的に作ったビスマスの結晶は、酸化膜による多彩な着色と骸晶による特徴的な形状から、観賞用として市販される場合がある。 ^ Bismuth, mindat.org ^ Bismuth, Mineral Commodity Summaries (1996) Bismuth, USGeological Survey. ^ 大学教育研究会編 「化学―物質と人間の歴史―」開成出版、1985年、ISBN 4-87603-044-8 ^ セオドア・グレイ著 「世界で一番美しい元素図鑑」193ページ 2015年10月1日閲覧 ^ de Marcillac, P. Coron, N. Dambier, G. Leblanc, J. & Moalic, J.-P. Experimental detection of α-particles from the radioactive decay of natural bismuth. Nature 422, 876-878 (2003). ^ Allen BJ., \"Clinical trials of targeted alpha therapy for cancer.\", Rev Recent Clin Trials. 2008 Sep;3(3):185-91. (PubMed) https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18782076", "鉛(なまり、英: lead、羅: plumbum、独: Blei)とは、典型元素の中の金属元素に分類される、原子番号が82番の元素である。なお、元素記号は Pb である。 炭素族元素の1つ。原子量は約207.19、比重は11.34である。錆で覆われた表面は鉛色と呼ばれる青灰色となる。元素記号はラテン語での名称 plumbum に由来する。人類の文明とともに広く使われてきた代表的な重金属である。主に、鉛の硫化鉱物である方鉛鉱の形で産出する。 西洋占星術や錬金術などの神秘主義哲学では土星を象徴するが、これは(錆を生じて)黒く重い鉛が、肉眼で確認できる惑星のなかで最も暗く動きの遅い土星と相似していると考えられたためである。また、魂の牢獄としての肉体、老化、鈍さなども象徴する。 全元素中で最も質量数の大きい安定同位体を持つ元素としてビスマスが挙げられることも多いものの、長らくビスマスの唯一の安定同位体だと信じられてきた209Biは、実際には安定同位体ではなかったことが確認された。このため、通常、鉛が全元素中で最も質量数の大きい安定同位体を持つ元素として挙げられ、鉛の同位体の1つである208Pbが、最も質量数の多い安定同位体と言われている。また、ウランやトリウムなどの鉛よりも原子番号の大きな放射性元素が壊変すると、一般的には最終的には鉛の同位体のうち、206Pbか207Pbか208Pbを生じるとされている。しかし、実は鉛にも安定同位体は1つも存在しないのではないかとも言われ始めている。事実、長らく安定同位体と信じられてきた204Pbも、実は安定同位体ではなかった。 なお、元になった親核種により最終的に生成する鉛の同位体が異なるため(崩壊系列を参照)、鉛の同位体組成は産地ごとに違った特徴を持つ。つまり、ウランやトリウムが集まりやすい場所で産出した鉛は、これらが崩壊した結果生成する同位体を多く含む。これを利用して、出土品や汚染物質の起源を推定することができる。 他の金属と比べると錆びやすく、見かけ上すぐに黒ずむが、酸化とともに表面に酸化皮膜が形成されるため、腐食が内部に進みにくい。また、多くの無機塩が水に不溶であるため水中でも腐蝕されにくい。 ハロゲンおよびカルコゲンなどと加熱により直接反応して化合物を生成する。希塩酸および希硫酸とは表面に難溶性塩を生じて反応しにくいが、硝酸とは容易に反応する。酢酸イオンとの親和力が比較的強く、空気(酸素)の存在下において酢酸水溶液にも溶解して酢酸鉛を生成する。 2 Pb + 4 CH 3 COOH + O 2 ⟶ 2 Pb ( CH 3 COO ) 2 + 2 H 2 O {\\displaystyle {\\ce {2Pb + 4 CH3COOH + O2 -> 2Pb(CH3COO)2 + 2H2O}}} また鉛は軟らかい金属であり、紙などに擦り付けると文字が書けるため、古代ローマ人は羊皮紙に鉛で線および文字を書き、これが鉛筆 (lead pencil) の名称の起源となった。 低融点で柔らかく加工しやすいこと、高比重であること、比較的製錬が容易であることなどから、古代から広く利用されてきた。しかし、生物に対して毒性と蓄積性があるために、近年は利用が避けられる傾向が強い。この問題を解決すべくRoHS指令が成立し、製造者や利用者の保護を確保している。電気回路で用いられるはんだなどでもRoHS指令に対応した「鉛フリー」と銘打った製品が多く市販されている。 7.2Kにおいて超伝導転移を示し、この転移温度が20GPa程度までの印加圧力にほぼ比例して低下していくため、高圧物理学においては鉛の超伝導転移温度から圧力を決定するのに使用されることがある。 地球の地殻における鉛の含有率は約8 ppmと推定されており、これは決して多いとは言えない。しかし、硫化鉱物として広く存在し、採掘および製錬が比較的容易なことから亜鉛と同様に安価な金属である。 単体の自然鉛として存在することは稀であり、硫化物の方鉛鉱として広く分布し、黒鉱鉱床など銅、亜鉛などと共存することが多い。また方鉛鉱が酸化した硫酸鉛鉱、炭酸塩である白鉛鉱、クロム酸塩である紅鉛鉱なども産出する。また火成岩中、特に花崗岩に微量含まれ、イオン半径が近い長石中のカリウムを置換している。 鉛鉱石を構成する鉱石鉱物には、方鉛鉱(PbS)などがあげられる。 原料は方鉛鉱が最も重要であり、焙焼工程および還元を経て粗鉛が取り出され、ついで湿式法または乾式法により精錬される。 まず選鉱により純度を高めた方鉛鉱を焙焼により酸化鉛とし、ついでコークスにより還元して粗鉛を得る。 2 PbS + 3 O 2 ⟶ 2 PbO + 2 SO 2 {\\displaystyle {\\ce {2PbS + 3O2 -> 2PbO + 2SO2}}} PbO + C ⟶ Pb + CO {\\displaystyle {\\ce {PbO + C -> Pb + CO}}} PbO + CO ⟶ Pb + CO 2 {\\displaystyle {\\ce {PbO + CO -> Pb + CO2}}} また直接製錬法では、焙焼により一部を酸化鉛とし、これを残りの硫化鉛と反応させるもので、エネルギー的に有利な反応であるが選鉱の度合いを高める必要がある。 2 PbO + PbS ⟶ 3 Pb + SO 2 {\\displaystyle {\\ce {2PbO + PbS -> 3Pb + SO2}}} 湿式法は電解精錬によるもので、電解液にヘキサフルオロケイ酸水溶液、陽極に粗鉛、陰極に純鉛を使用して電気分解を行う。鉛よりイオン化傾向が小さいヒ素、アンチモン、ビスマス、銅、銀、金などの不純物はスライム状の陽極泥として沈殿する。 Pb ⟶ Pb 2 + + 2 e − {\\displaystyle {\\ce {Pb->Pb^{2}+{}+2{\\mathit {e}}^{-}}}} (陽極) Pb 2 + + 2 e − ⟶ Pb {\\displaystyle {\\ce {Pb^{2}+{}+2{\\mathit {e}}^{-}->Pb}}} (陰極) 酸化還元電位の接近している不純物であるスズは電解精錬では分離しにくいため、鎔融状態で水酸化ナトリウムで処理しスズの除去を行う。これにより99.99 %程度の純度の地金が得られる。 粗鉛を鎔融状態として脱銅→柔鉛→脱銀→脱亜鉛→脱ビスマス→仕上げ精製の順序による工程で不純物が除去される。 脱銅 鎔融粗鉛を350 °Cに保つと鎔融鉛に対する溶解度が低い銅が浮上分離する。さらに硫黄を加えて撹拌し、硫化銅として分離する。この工程により銅は0.05 - 0.005 %まで除去される。 柔鉛 700 - 800 °Cで鎔融粗鉛に圧縮空気を吹き込むと、より酸化されやすいスズ、アンチモン、ヒ素が酸化物として浮上分離する。 柔鉛(ハリス法) 500℃程度の鎔融粗鉛に水酸化ナトリウムを加えて撹拌すると不純物がスズ酸ナトリウム Na2SnO3、ヒ酸ナトリウム Na3AsO4、アンチモン酸ナトリウム NaSbO3 になり分離される。 脱銀(パークス法) 450 - 520 °Cに保った鎔融粗鉛に少量の亜鉛を加え撹拌した後、340 °Cに冷却すると、金および銀は亜鉛と金属間化合物を生成し、これは鎔融鉛に対する溶解度が極めて低いため浮上分離する。この工程により銀は0.0001 %まで除去される。鎔融鉛中に0.5 %程度残存する亜鉛は空気または塩素で酸化され除去される。 脱ビスマス 鎔融粗鉛に少量のマグネシウムおよびカルシウムを加えるとビスマスはこれらの元素と金属間化合物 CaMg2Bi2 を生成し浮上分離する。この工程によりビスマスは0.002 %まで除去される。 鉛の現在の用途は、鉛蓄電池の電極、金属の快削性向上のための合金成分、鉛ガラス(光学レンズやクリスタルガラス)、美術工芸品(例えばステンドグラスの縁)、防音・制振シートや免震用ダンパー、銃弾、電子材料(チタン酸鉛)などである。また、金属の中では比較的比重が大きいので放射線遮蔽材として鉛ガラスや鉛シートなどの形で用いられる。例えば核戦争を想定した戦車の内壁や、X線撮影施設の窓ガラス、ブラウン管用ガラスには鉛が含まれている。 また、釣りなどで用いられるおもり(シンカー)の材料としても鉛は用いられている。しかし、近年鉛の毒性が問題となったために、鉛に代わるおもりの素材としてタングステンなどの導入が進められている。それでも、加工のしやすさやコストの面から、未だにこの用途での鉛の需要は根強い。この他、灯油やホワイトガソリンなどの液体燃料を加圧・気化して燃焼させるポータブルストーブやブロートーチ、ランタンでは、気密性と耐熱性の高さから継ぎ目のガスケットに現在でも鉛が用いられる。さらに、路面表示用白色塗料としても利用されている。 なお、かつては水道管やはんだ、おしろいなどに用いられた顔料についても鉛は大量に利用されていたものの、鉛を用いないものへの置き換えが進められている。この事情については無鉛化の項目も参照のこと。 無機鉛化合物は水に溶けにくいものが多いため急性中毒を起こす事は稀だが、テトラエチル鉛のような脂溶性の有機物質は細胞膜を通過して直接取り込まれるため、非常に危険である。長期的に見た場合、鉛は自然な状態の食物にも僅かに含まれるため常時摂取されており、一定量ならば尿中などに排泄されるので鉛に対して必要以上に神経質になる必要は無いとされる。しかし、有機化合物を摂取してしまったり、排泄を上回る鉛を長期間摂取すると体内に蓄積されて毒性を持つ。 生物に対する毒性としては、体表や消化器官に対する曝露(接触・定着)により腹痛・嘔吐・伸筋麻痺・感覚異常症など様々な中毒症状を起こすほか、血液に作用すると溶血性貧血・ヘム合成系障害・免疫系の抑制・腎臓への影響なども引き起こす。遺伝毒性も報告されている。主に呼吸器系からの吸引と、水溶性の鉛化合物の消化器系からの吸収によって体内に入り、骨に最も多く定着する。生体に取り込まれた鉛の生物学的な半減期は資料によって異なるが、一例として生体全体で5年、骨に注目すると10年という値が示されている。呼吸器からの吸引に対しては、鉛を扱う工場や、鉛を含む塗料や顔料を扱う作業などに多く、職業病としての側面がある。 鉛が原因でもたらされる鉛疝痛に関する最初の記述は、古代ギリシャのヒポクラテスによってなされている。古代ローマ時代は膨大な量の鉛が生産され、陶磁器の上薬、料理器具、配管などにも使われていたために、ローマ人には死産、奇形、脳障害といった鉛中毒が普通に見られたと言われていた。しかしこの件は、現在では俗説扱いされている。かつて西洋では鉛は「灰吹き法」など、金・銀・銅などを製錬するための媒介としてもさかんに利用された。 古代ローマでも、貴族たちが鉛製のコップでワインを飲むのを好んだため、鉛中毒者が続出したといわれる。17世紀ごろから、ワインによる鉛中毒が論じられるようになってきたが、当時はワインを甘くする目的で、鉛の白い酸化物が添加されていた。例えば、ワインを愛飲していたベートーヴェンの毛髪からは、後の調査によって通常の100倍近い量の鉛が検出されたことから、その晩年にほぼ耳が聴こえなくなってしまった原因として、現在では鉛中毒が有力視されている。 鉛害問題の対策として、次のような例がある。 鉛とスズの合金としてはんだが知られ、低融点などの利点を持つため、古くから金属同士の接合に多用されてきた。電気回路の組み立てなどにもはんだは多用されてきたが、近年では鉛を含まない「鉛フリーはんだ」に置き換えられつつある。 欧州連合 (EU) では、RoHS指令により、2006年7月1日以降、高温溶融はんだなどの例外を除き、電気・電子製品への鉛の使用が原則として禁止された。このため、日本のメーカーでも鉛を含有しない部材の使用を原則としつつあるが、代替ハンダの強度不足・融点上昇の問題に起因する電気製品の製造不良(部品の中には熱に弱い物もあり、融点が上がった分ハンダ付けの際により高温に曝され部品が壊れる)が問題となっている。 ガソリンのオクタン価向上及び吸排気バルブと周辺部品の保護にテトラエチル鉛 (C2H5)4Pb が添加されていたが、排気中に鉛が含まれてしまうことから汚染源となって問題視された。現在では鉛を含まない添加剤によるオクタン価向上策が選択されるようになり、日本など先進諸国では法的規制により有鉛ガソリンは使われなくなった。しかし日本自動車工業会によると、およそ50か国で有鉛ガソリンの使用が認められており、今なお有鉛ガソリンの問題は終結していない。また、航空機のレシプロエンジンにも有鉛ガソリン (Avgas) が多用されている。 鉛は、狩猟やクレー射撃に使われる散弾(多数の小さな金属粒を飛ばすタイプの銃に使われる銃弾。単体の金属弾であるライフル弾やスラッグ弾と比べると、威力は劣るが、高い命中精度を要求されないという利点がある)にも使われてきた。しかし鉛散弾は環境中に鉛の粒をばらまくものであり、土壌汚染を引きこしたり(クレー射撃の場合)、鉛散弾を打ち込まれて死んだ上で放置された動物や鳥の死体を食べた鳥獣が鉛中毒を引き起こすなどしたため(狩猟の場合)、威力は劣るが汚染の少ない鉄、銅散弾への切り替えが進められている。また、自衛隊の射撃場等弾頭部が地中に残りやすい箇所に隣接する河川等で高濃度の鉛の成分が検出される事も多く、近年では廃弾の回収や射場の改修工事などで周辺に鉛による被害が出ないように対策されている事もある。 鉛製水道管については、2005年7月時点の厚生労働省調査で約547万世帯に残っているが、本管から分かれた引き込み管については、水道メーターを除き個人の所有とされていることから交換費用は自己負担となり、交換は進んでいない。 安価な鋳造のペンダント、メダル、バッジ、ネックレスなどのアクセサリーには、低融点・低価格であることから鉛を含む錫合金(ホワイトメタルと通称される)が用いられる場合がある。また、金属小物のベースに使われる黄銅には切削性を良くする目的で鉛が添加されているものがある。近年、先進国では鉛への規制が強くなり上記のような素材は利用される事が少なくなったが、安価な輸入玩具にはいまだ利用されている場合があり、これらを子供が口に含んだりすることで健康被害が起こる可能性が指摘されている。 産業の副産物であるスラグ(鉱滓)には鉛を含んでいるものが存在しており、スラグからの溶出する場合がある。そのため、建材試験センターの土工用製鋼スラグ砕石の規格には溶出量と含有量を規定した環境基準が設けられている。 一酸化鉛 (PbO) 二酸化鉛 (PbO2) 四酸化三鉛 (Pb3O4) - 赤色顔料・鉛丹(光明丹)として使用される クロム酸鉛 (PbCrO4) - 黄色顔料・黄鉛(クロムイエロー)として使用される チタン酸ジルコン酸鉛 (Pb(Zrx, Ti1-x)O3) - 代表的な圧電材料 アジ化鉛 (Pb(N3)2) 酢酸鉛(II) (Pb(OCOCH3)2) 酢酸鉛(IV) (Pb(OCOCH3)4) テトラエチル鉛 ((C2H5)4Pb) 砒酸鉛 (Pb2As2O7) 塩化鉛 (PbCl2, PbCl4) インド錬金術で最も階層の低い金属とされる鉛は、ヴァースキの精子でできているとされ、ナーガ(蛇)と呼ばれる。また、金が死後、転生したものが鉛であるとされている。 ^ 『化学大辞典』 共立出版、1993年 ^ a b 西川精一 『新版金属工学入門』 アグネ技術センター、2001年 ^ Taylor & McLennan, 1985 ^ 松井義人、一国雅巳 訳 『メイスン 一般地球化学』 岩波書店、1970年 ^ 「医学大辞典 第18版」南山堂、2004年、1540頁 ^ 化学物質安全性(ハザード)評価シート 酸化鉛 ^ 環境保健クライテリア 165 無機鉛 (国立医薬品食品衛生研究所による日本語抄訳) ^ a b c Hernberg S. Lead poisoning in a historical perspective. Am J Ind Med. 2000;38:244-54. ^ Pearce JM. Burton's line in lead poisoning. Eur Neurol. 2007;57:118-9. ^ 2001年10月放送 日本テレビ「特命リサーチ200X」ベートーヴェンの謎の死亡原因を調査せよ! ^ 社団法人 日本自動車工業会による2002年12月19日発表のニュースリリース ^ http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/02/s0216-5.html 鉛含有金属製アクセサリー類等の安全対策に関する検討会報告書について ^ 株式会社大王製作所の「鉛を含む有害物質への取組」より ^ JSTM H 8001(土工用製鋼スラグ砕石)の制定について 建材試験センター 大澤直「鉛」、『SHM会誌』第11巻第3号、エレクトロニクス実装学会、1995年、 2-8頁、 doi:10.5104/jiep1993.11.3_2。 海洋投棄規制条約 鉛中毒 ごみ公害 耐食合金 バーゼル条約 非鉄金属 RoHS 黒鉛 - 炭素の結晶であり鉛とは無関係。これを主原料とする鉛筆も同様。 環境基準 配管工 - 英語の\"Plumber\"は、ラテン語の「鉛」に由来する。 金属資源情報センター 鉛の地球化学図", "ロジウム(英: rhodium)は原子番号45の元素。元素記号は Rh。白金族元素の1つ。貴金属にも分類される。銀白色の金属(遷移金属)で、比重は12.5 (12.4)、融点は1966 °C、沸点は3960 °C(融点、沸点とも異なる実験値あり)。常温、常圧で安定な結晶構造は面心立方構造。加熱下において酸化力のある酸に溶ける。王水には難溶。高温でハロゲン元素と反応。高温で酸化されるが、更に高温になると再び単体へ分離する。酸化数は-1価から+6価までをとり得る。レアメタルである。 需要の大半がガソリン車の排ガス浄化用触媒である三元触媒の一材料として使われ、一酸化炭素(CO)や窒素酸化物(いわゆるNOx)の浄化を主に担っている。また、めっき(ロジウムめっき)にも使われ、特に銀やプラチナ、ホワイトゴールドなどの銀白色の貴金属製装身具の着色、保護用に多用される。プラチナとの合金は、坩堝や熱電対に利用される。有機合成化学においては不飽和結合を水素化する際の触媒として有用なウィルキンソン触媒の中心金属で、直鎖炭化水素を脱水素して芳香族を製造する触媒にも塩化ロジウムが使われている。 2014年には自動車用触媒向けの需要が増加し、過去30年で生産量が最高となった。 1803年にウィリアム・ウォラストンによって白金鉱石から発見された。現在でも白金鉱石から不純物として産出される。ギリシャ語でバラ色を意味する rhodeos が語源。これは塩の水溶液がバラ色になるため。 2014年に、価格は1/3ほどで同等以上の性質をもつ合金が京都大学により開発され、代替利用が期待されている。これは周期表上でロジウムの両隣に位置するルテニウムとパラジウムとの合金であり、通常は合金にならない金属同士を原子レベルで混ぜ合わせることでロジウムに近い電子状態を形成する技術である。 塩化ロジウム (RhCl3) ^ “Rhodium: rhodium(I) fluoride compound data”. OpenMOPAC.net. 2009年8月6日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2007年12月10日閲覧。 ^ Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds (PDF) (2004年3月24日時点のアーカイブ), in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press. ^ David A. Young (1991). PHASE DIAGRAM OF THE ELEMENT. Univ of California Pr on Demand. pp. 27. ISBN 0520074831. https://www.osti.gov/servlets/purl/4010212.  ^ “ロジウム価格、再び上昇か-下落で自動車の触媒向け需要回復”. ブルームバーグ (2014年2月12日). 2018年11月19日閲覧。 ^ a b c 桜井弘 『元素111の新知識』 講談社、1998年、216頁。ISBN 4-06-257192-7。  ^ 中道理 (2014年1月24日). “京都大学、ロジウムの特性を持つ合金を開発”. 日本経済新聞. http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2302H_T20C14A1000000/ 2014年2月1日閲覧。  ^ “1面記事”. 日刊鉄鋼新聞. (2014年1月30日)" ]
ABC01-02-0181
自分には痛くもかゆくも感じない物事をたとえて、「対岸の何」というでしょう?
火災
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[ "火災", "一時集合場所", "着衣着火", "誤給油", "ガス漏れ" ]
[ "火災(かさい)とは、火による災害である。一般的には火事(かじ)ともいう。また、小規模な火災のうちに消し止められたものは小火(ぼや)、焼失面積が大きく被害が甚大なものは大火(たいか)ともいう。被害は有形財産の焼失はもとより、怪我人や死者がでることも頻繁にある。 火災の多くは放火やタバコの不始末などの犯罪や過失、電気コードのショートといった人工物の不具合などが原因で起こり、落雷や火山の噴火、乾燥した自然林が倒れる等の自然現象を原因とする場合もある。 小規模な火災のうちに消し止められた場合は「小火」(ぼや)と呼ばれることが多く、この他に被害程度によって「半焼」(はんしょう)や「全焼」(ぜんしょう)と区別されることがある。これに対して街区全体が被害を受けるような大規模な火災では「大火」(たいか)と呼ばれる。消防白書では33,000平方メートル(約1万坪)を超える焼失面積を生じたものを「大火」としている。 日本の消防庁では「火災報告取扱要領」において、次の3つの要素を満たすものを火災としている。 人の意思に反して発生(放火も含む) 消火の必要がある燃焼現象である 消火施設の利用を必要とする しかし、爆発現象(人の意図に反して発生し若しくは拡大した爆発現象をいう)の場合は2及び3の有無にかかわらず火災とする。 次の3つが燃焼の3要素である。 可燃物 酸素供給源 点火源 また、火災となるには燃焼反応が継続する必要がある。 反応の継続 日本の消防法による分類 A火災(普通火災) 木材、紙などの一般可燃物で、普通住宅やビルなどの内部火災。 B火災(油火災) ガソリンなどの石油類、食用油、可燃性液体、樹脂類などの火災。 C火災(電気火災) 電気室や発電機からの出火で、感電の危険性がある火災。 D火災(金属火災) マグネシウム、カリウム、ナトリウムなどで引き起こされる火災。 ガス火災 都市ガス、プロパンガスなどの可燃性ガスでの火災。 被災物による一般的な分類 建物火災 林野火災 車両火災 船舶火災 航空機火災 その他の火災 まずは炎の発生を予防することが大事である。まずは直接的に炎を扱うこと(例:タバコ・ストーブ・料理)は、基本的に眼の届く範囲で行うということである。これに従えば、寝たばこや、子供に火遊びをさせない(保護者の目の届かない範囲である)ということになろう。この考えは予防以外にも役に立つ。というのは火災では初期消火の大切さが常々訴えられており、万が一出火してしまったときでも、目の届く範囲ならば迅速な消火活動により被害を軽微にすることが可能だからである。また、炎だけでなく、可燃物に対する意識も重要である。これは火災が放火や漏電などで引き起こされることがあるためである。生ゴミや灯油類は屋外に置かず、また配電設備は時々清掃(埃を拭き取るなど)を行うことが望ましい。 避難経路の確保も重要な予防方法である。避難経路や非常口には物を置かず幅を広めにとり、視界も確保する。他に配慮する点としては身体的弱者、例えばお年寄りや子供は逃げやすい場所を寝室にする、火災警報機や防火戸の設置などがある。大事なのは設置するだけでなく実際に使ってみて使い心地を確かめてみることである。また、後述のように煙が怖いのでそれに配慮した避難経路や道具の設置場所かを考える必要がある。 その他、総務省消防庁は、住宅防火対策の推進について、平成26年版消防白書の中で以下のとおり必要性を訴えている。 2006年の住宅用火災警報器設置義務化から、まもなく10年を迎え、既設住宅用火災警報器の機能劣化が懸念されることから、老朽化した住宅用火災警報器の取替えを推進するとともに、未設置世帯に対する普及促進を図っていく必要がある。 着火物が寝具類や衣類の場合に住宅火災死者が多く発生していることから、防炎品の普及促進を推進していく必要がある。 次に発生してしまった時の対策に移る。まずはできる範囲内で次のことを行う。 大声で「火事だー」と叫び周りの人に知らせる。声が出ないときは音を出す(鍋や釜を叩くなど)。 119番に電話し、火災の発生、住所や目印、燃えているものや逃げ遅れの有無を通報する。 初期消火を試みる(天井に燃え移るまでが限度)。 天井に火が燃え移ったら初期消火のレベルを超えているためすぐ逃げる(燃え広がるため)。 初期消火は消火器や水に頼らなくとも、座布団でたたく、毛布をかぶせるなどの方法もある。しかし、天井などに燃え移り手に負えないと判断した場合は速やかに避難を開始しなければならない。避難を開始する際には火元の部屋のドアや窓は極力閉めて、空気を断ち火勢を弱め、煙を遮断しておく。火災では炎そのものも恐ろしいが、それ以上に煙が有害となることが多い。煙は視界を遮って避難の妨げやパニックを起こす他にも、有毒な一酸化炭素やシアン化水素を含み、吸い込むと命にかかわる。煙をいかに回避して避難するかがカギになるといえよう。そのためにはハンカチや服の袖口で口と鼻を覆いながら、姿勢を低くして壁伝いに水平方向か下方向へ逃げることである。これにはいくつか理由がある。 煙は上昇する動きが人間の動きに比べて極めて速く逃げ切れない(煙突効果) 逆に水平方向へは動きが遅く、下方向へは流れない ゆえに床付近には新鮮な空気が残っている 上に避難してもはしご車が来るまでどうしようもない 避難の途中では炎に突っ込む覚悟が必要な時もある。このときは頭から水をかぶったり、濡れたシーツなどで体を包みながら躊躇せず一気に走りぬける。このとき化繊のものや天然繊維でも起毛処理のしてあるものは着火しやすいとされ、注意が必要である。外に避難出来たら、先に連絡した人がいない場合は、ここで消防署に連絡することになる。その後は救助を待つことになるが、決して現場に戻ってはならないとされる。また、熱で変形した建物は倒壊の危険もあり、できるだけ離れて待つことが望ましい。 一般家庭と違い、大きな建築物には以下の設備があることが多く、使い方に注意が必要である。また、人が集まると集団心理が働き、正しい行動をとれなくなる恐れがあるため、パニックに巻き込まれない冷静な判断が求められる。 シャッター式防火戸 - 火災が発生すると作動して閉まろうとするが、挟まれてしまうと負傷したり防火・煙を遮断するという意義を減らすため絶対にくぐってはならない。シャッター式の防火戸は必ずその横に避難用の扉があるので探すこと。落ち着くことは迅速な避難だけでなく、煙を吸わないためにも重要である。 エレベーター - 地震の時と同様止まったり閉じ込められる可能性があるので使ってはならないとされる。ただし、給電や配電に火事対策が取られた非常用エレベーターというものが存在し、高さ31m以上、もしくは11階建て以上の建築物には消防法で設置が義務付けられている。もっとも、これは高層建築での火災時に消防隊員が迅速に突入するためのものであり、設置場所も一般利用者には目につきにくい場所のことも多い。このため避難する際にはこれを積極的に使うことを考えるよりも、非常口から避難階段・外階段に出たほうが賢明である。 地下施設 - 地下街や地下鉄は人が集まり、煙も地上施設に比べてたまりやすいためにパニックや将棋倒しになりやすい。従業員・係員の指示に従って冷静に避難することが大事である。特に列車乗車中に火災に遭遇した場合、安易なドアコックの操作は厳に慎まなければいけない。ドアコックを操作するとドアを手動であけることが出来るようになるが、これを作動させると運転士が異常を感知して列車を直ちに停止させてしまう。この場合、運転士・車掌は火災のために停車したということが分からず、迅速な対策がとれない。また停止場所がトンネル内や鉄橋上である場合には避難・消火の大きな妨げになるので、列車内での火災を発見した場合はまずは運転士もしくは車掌に連絡し指示を仰ぐことが大切である。近年、最前部・最後部まで行かなくとも連絡をつけられる対話式の車内非常通報装置(SOSボタン)が普及しつつある、この装置もボタンが押された場合は停止義務があるが、火災だとわかるとすぐに運転を再開でき、安全な場所まで運行したうえで避難できるのが大きな違いである。たとえば、大阪市交通局では地下鉄乗車中に火災に遭遇した場合には、安全な車両に移動したうえで、非常通報装置を使って乗務員に連絡を取り、車内に備え付けの消火器を用いて初期消火を行うべきだとの見解を示している。 木造家屋が多い日本では江戸時代より大火が多く、明暦の大火など江戸市街の相当部分を焼失する火災がしばしば発生した。近代では函館市の大火(1907年、1934年)や、1923年の関東大震災、1945年の東京大空襲、1995年の阪神・淡路大震災による大火が有名である。地震や空襲による火災は複数箇所で発生し、延焼地域が繋がって大火に至る場合が多い。プロパンガスを使用している場合や燃料など可燃物を設置している場合などは、ボンベの爆発等による危険を伴う。 日本での主な出火原因は、上位から放火(放火と疑わしいものを含める)、煙草、焚き火、焜炉である。平成26年版消防白書に示される出火原因において、2013年中の総出火件数4万8,095件のうち、失火による火災は3万2,128件(全体の66.8%)であり、失火の多くは火気の取扱いの不注意や不始末から発生している。なお、建物火災の出火原因は、使用される火気器具や燃料の種類の変化、火気器具自体の安全化の進展などの理由から、時代によって変化していくものである。 主な内訳は以下である。 放火5,093件、放火の疑い3,693件で、合計8,786件 煙草4,454件 焚き火3,739件 焜炉3,717件 火入れ(野焼きのため)2,095件 ストーブ1,455件 電灯電話等の配線による漏電 1,301件 配線器具1,219件 火遊び1,185件 放火については、刑法上、殺人と同じ刑が定められている(殺人罪・現住建造物等放火罪ともに死刑又は無期若しくは5年以上の懲役)が、殺人年間件数約1,300件に対して、放火年間件数は約8,000件と数倍にのぼっている。なお、放火(現住建造物等放火)犯を殺人と同様に重く罰するのは木造の長屋が大半だった江戸時代からの流れを継いでいる。江戸時代には江戸でたびたび大火が起きた(江戸の火事)。 日本における放火火災は、かつて農村部に多く、「農村型犯罪」(田舎型犯罪)のように扱われてきた。背景には家族ないし近隣との人間関係の軋轢が存在することが共通条件となっている例が多数を占めた。だが現在では、自分自身が何らかの欲求不満の状態にあり、耐え難い緊張感を解消するために挑戦的な放火にはしる「都市型犯罪」に変化している。 日本における放火による出火件数は、2003年以降おおむね減少傾向が続いており、2013年中の放火による出火件数は5,093件で、前年(5,370件)に比べ、277件(5.2%)減少しているものの、全火災(4万8,095件)の10.6%を占め、17年連続して出火原因の第1位となっている。これに放火の疑いを加えると8,786件(全火災の18.3%、対前年度比1.1%減)となる。 たばこによる出火は喫煙率の低下に伴い1996年から減少傾向だが、死者の発生した建物火災の出火原因では、タバコが1位となっている。 東京消防庁では、喫煙マナーの低下(特に、屋外での吸い殻の処理方法が不適、投げ捨て)が原因とされる。不適な処理方法が火災発生原因となった1803件の理由のうち、半数以上の1061件が「無造作に捨てた」である。特に冬場などは、枯草が増加する上に乾燥により延焼拡大の危険性があり、十分な注意が必要であると広報している。 2013年中のたばこによる火災は4,454件で、全火災(4万8,095件)の9.3%を占めている。たばこによる火災の主な経過別出火状況をみると、不適当な場所への放置によるものが2,741件(61.5%)であり、半数以上を占めている。たばこが原因の火災による損害額は、44億1,627万円となっている。 日本では毎年約5万件前後の火災が発生している。 月別に見てみると、2月・3月に多い。乾燥した気象条件の時に火災が発生しやすいからであり、実効湿度・風速と火災発生件数は相関関係にあることが判っている。そこで、毎年この時期に「春の全国火災予防運動」が実施されている。 火災による死者は、高齢者になるほど多くなる。年齢階層ごとに火災で死亡する確率を求めると、40歳を超えた辺りから、年齢に比例して死亡確率が高くなっている。これは、加齢するに従い、判断力や身体機能が衰えるからだと考えられている。ただし、直近の傾向として無職や独身住まいの男性熟年層(45〜64歳)の死亡者数が急増していることが、消防庁の調査で判明している。火災発生率の地域的な傾向を見ると、北陸地方では特に低く、東北地方では特に高くなっているが、その原因はよく判っていない[要出典]。 また、日本では外国に比べて火災発生率が非常に低い(欧米の数分の1程度)。これは「火災予防意識が非常に高いからだ」とする説もあれば、「火災のような恥ずべきことは公にしたくない、という国民性によるものであり、火災の実数は、把握数の数倍にのぼるはず」とする説もある。 2013年中の建物火災による死者数は1,254人で、火災による死者の総数に対する比率は77.2%となっている。 建物火災による死者1,254人について、建物用途別の発生状況をみると、住宅(一般住宅、共同住宅及び併用住宅をいう。以下、ことわりのない限り同じ)での死者は1,100人で、建物火災による死者の87.7%を占めている。 2013年中の住宅火災による死者(放火自殺者等を除く)を発火源別にみると、たばこによるものが141人(14.1%)で最も多く、次いでストーブ103人(10.3%)、電気器具77人(7.7%)の順(不明を除く)となっている。 2013年中の住宅火災による死者(放火自殺者等を除く)を着火物(発火源から最初に着火した物)別にみると、寝具類に着火した火災による死者が112人(11.2%)で最も多く、次いで衣類66人(6.6%)、屑類47人(4.7%)の順(不明を除く)となっている。 2013年中の住宅火災による年齢階層別の人口10万人当たりの死者発生数(放火自殺者等を除く)は、年齢が高くなるに従って著しく増加しており、特に81歳以上の階層では、全年齢階層における平均0.78人に比べ5.2倍となっている。 火災原因の究明と損害の調査(火災調査)は法に基づき消防が行うこととされているが、特に放火など不審火の場合、警察もまた捜査を行う。 戦争、紛争による火災を除く。火災の年表も参照。日付は1582年10月4日まではユリウス暦、1582年10月15日からはグレゴリオ暦で表記。 江戸の火災については「江戸の火事」も参照。 1601年11月2日 - 慶長六年大火(「江戸駿河町火有り、全市燃亡す。徳川家康入府後第一の大火也」) 1657年3月2日 - 明暦の大火(江戸城・武家屋敷・町屋を焼いた。死者3 - 10万名) 1683年1月25日 - 天和の大火 1698年10月9日 - 勅額火事(死者3,000名以上) 1772年4月1日 - 明和の大火(死者・行方不明者19,000名以上) 1788年3月7日 - 天明の京都大火(死者約150名または約1,800名) 1806年4月22日 - 文化の大火(死者1,200名以上) 1855年11月11日 - 安政の大地震による火災 1864年8月19日 - どんどん焼け(禁門の変による出火が大火に発展) 1897年4月22日 - 八王子大火(八王子市、死者42名、焼失棟数3,100棟) 1900年1月23日 - 光明寺村女工焼死事件(愛知県一宮市、死者31名) 1923年9月1日 - 大正関東地震(関東大震災)に伴う火災。 1932年12月16日 - 白木屋百貨店火災(東京都、死者14名。日本初の高層建築火災) 1934年3月21日 - 函館大火(函館市、死者2,166名、焼損棟数11,105棟) 1940年1月29日 - 西成線列車脱線火災事故(大阪市、死者189名) 1947年4月20日 - 飯田大火(死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟) 1948年6月28日 - 福井地震による火災 1951年 4月24日 - 桜木町事故(横浜市、死者106名) 5月19日 - 北海道浜中村映画館火災(現・浜中町、死者39名) 1952年4月17日 - 鳥取大火(鳥取市) 1954年9月26日 - 洞爺丸台風による北海道岩内大火 1955年 2月17日 - 聖母の園養老院火災(横浜市、死者99名) 6月18日 - 式場精神病院火災(市川市、死者18名) 10月1日 - 新潟大火(新潟市、行方不明者1名) 1956年9月10日 - 魚津大火(富山県魚津市、死者5名) 1963年4月2日 - 日暮里大火。焼失36棟 1964年 3月22日 - 北海道河西郡芽室町にて大火。焼失棟数150棟 4月30日 - 福島県南会津郡伊南村にて大火。焼失棟数145棟 5月7日 - 青森県下北郡大畑村にて大規模火災。39棟全焼。消防団員2名怪我 5月14日 - 秋田県北秋田郡上小阿仁村にて大規模火災。80棟全焼 5月15日 - 北海道利尻郡利尻町にて大規模火災。230戸全焼 6月16日 - 新潟地震による石油コンビナート火災 7月14日 - 品川勝島倉庫爆発火災(東京都品川区、死者19名) 11月18日 - 尼崎市大火(尼崎市、死者7名) 1965年1月11日 - 大島大火(東京都大島町(伊豆大島)、島の中心・元町が全焼、壊滅、死者は無し) 1966年 1月9日 - 金井ビル火災(川崎市、死者12名) 3月11日 - 菊富士ホテル火災(群馬県水上町、死者30名) 1968年11月2日 - 池之坊満月城火災(神戸市、死者30名) 1969年2月5日 - 磐光ホテル火災(郡山市、死者31名) 1971年1月2日 - 寿司由楼火災(和歌山市、死者16名) 1972年 5月13日 - 千日デパート火災(大阪市、死者118名) 11月6日 - 北陸トンネル火災事故(敦賀市、死者30名) 1973年11月29日 - 大洋デパート火災(熊本市、死者104名) 1976年10月29日 - 酒田大火(山形県酒田市、死者1名) 1978年3月10日 - 今町会館ビル火災(新潟市、死者11名) 1979年7月11日 - 日本坂トンネル火災事故(静岡市及び焼津市、死者7名) 1980年 8月16日 - 静岡駅前地下街爆発事故(静岡市、死者15名) 8月19日 - 新宿西口バス放火事件(東京都新宿区、死者6名) 11月20日 - 川治プリンスホテル火災(栃木県川治温泉、死者45名) 1981年10月16日 - 北炭夕張新炭鉱ガス突出事故による坑内火災(北海道夕張市、死者93名) 1982年2月8日 - ホテルニュージャパン火災(東京都千代田区、死者33名) 1983年2月21日 - 蔵王観光ホテル火災(山形市、死者11名) 1984年1月18日 - 三井有明鉱火災事故(福岡県大牟田市、死者83名) 1986年2月11日 - ホテル大東館火災(静岡県賀茂郡東伊豆町、死者24名) 1987年6月6日 - 東京都東村山市の老人ホーム火災(東京都、死者17名) 1990年3月18日 - 長崎屋火災(兵庫県尼崎市、死者15名 1993年7月12日 - 北海道南西沖地震による火災(北海道奥尻島) 1994年12月21日 - 飯坂温泉の旅館火災(福島県福島市、死者5名) 1995年1月17日 - 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に伴う大規模火災(兵庫県神戸市など) 2000年2月 - 長崎県池島炭鉱の坑内火災(長崎市) 2001年9月1日 - 歌舞伎町ビル火災(東京都新宿区、死者44名) 2003年9月26日から9月28日 - 出光興産北海道製油所タンク火災(死者は無し) 2004年12月13日 - ドン・キホーテ放火事件(さいたま市緑区、死者3名) 2007年12月21日 - 三菱化学鹿島事業所エチレンプラント火災(茨城県神栖市、死者4名) 2008年 7月29日から8月5日 - 新日本製鐵八幡製鐵所コークス炉設備・可燃性ガス火災(福岡県北九州市、死者は無し) 10月1日 - 大阪個室ビデオ店放火事件(大阪市浪速区、死者16名) 2009年 3月20日 - 群馬県渋川市の老人ホーム火災(群馬県渋川市、死者10名) 7月5日 - 大阪此花区パチンコ店放火殺人事件(大阪市此花区、死者4名、負傷者19名) 2011年3月11日 - 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波火災 2012年5月13日 - 福山ホテル火災(広島県福山市、死者7名) 2013年10月11日 - 福岡市整形外科医院火災(福岡県福岡市、死者10名) 2016年12月22日 - 糸魚川大火(新潟県糸魚川市、焼失144棟) 2017年12月17日 - 大宮風俗店火災(さいたま市大宮区、死者5名) 17世紀前期のアメリカ合衆国では木造建築が多く、暖房と調理に暖炉、照明に蝋燭や石油ランプが用いられるようになっていたが火災が続発し、特に17世紀中頃のボストンでの大規模火災を機に常設の消防が組織されるようになった。 アメリカ合衆国では1979年に連邦危機管理庁が設置され、同庁の連邦消防局が消防行政を所管することになった。 1871年10月8日 - シカゴ大火 1906年4月18日 - サンフランシスコ地震 1962年5月〜 - セントラリアの坑内火災 2001年9月11日 - アメリカ同時多発テロによるワールドトレードセンターの火災 2007年度の火災出動は804,100回で、うち384,600回が実際の火災であった。その76%が車両火災や草原火災などの戸外火災で、14%が住宅火災であった。 1666年9月1日 - ロンドン大火 2008年の消防の出動件数は402万7900回で、大半は救急救助出動であり、火災出動は31万2100回(8%)であった。2008年の火災による消防出動の割合は、住居火災が28%、乗り物火災が20%、公道上火災が17%、林野等火災が15%であった。 1903年8月10日 - パリメトロ火災 2006年の消防隊の出動件数は3,564,191回で、うち火災及び爆発による出動は187,604回であった。出動件数3,564,191回のうち、63.2%が常備消防隊、32.8%が義勇消防隊、4.0%が事業所消防隊の出動であった。 1842年5月5日〜8日 - ハンブルク大火 64年7月19日 - ローマ大火 中国における火災による年平均損失は、急速な工業化に伴い、1950年代には約0.6億元だったが、1960年代には約1.4億元、1970年代には2.4億元、1980年代には約3.2億元、1990年代には約10.6億元となり、2010年代前半には約15.5億元にまで達した。 2011年度の火災発生件数は125,417件であった。 1874年〜2004年 - 新疆ウイグル自治区のリュウファンゴウ炭鉱(硫黄溝炭田)の火災。130年間燃え続けた 2009年2月9日 - 中央電視台電視文化センター火災 2010年11月15日 - 2010年上海マンション火災 韓国では1958年に消防法が制定されるなど自然災害と人為災害に関する個別法が整備された。災害関連の個別法は1990年代後半に自然災害対策法と災難管理法に統合され、2004年には災難及び安全管理基本法が成立した。 1971年12月25日 - 大然閣ホテル火災(韓国ソウル市) 2003年2月18日 - 大邱地下鉄放火事件 2009年11月14日 - 釜山射撃場火災 1974年2月1日 - ジョエルマビル火災 2007年6月28日〜9月3日 - 2007年ギリシャ山林火災 地震、雷、火事、親父 - 怖いものの代表とされたもの。 火事場の馬鹿力 - 命に関わる緊急事態に際して、行為者本人も驚くような、限界を超えた力が発揮されること。また、その現象。 サンマ焼いても家焼くな - 防火を呼びかける慣用句。 竹屋の火事 - たくさん置かれた竹が燃えるとはじけてポンポン鳴ることから、言いたい事をポンポン言うこと。 対岸の火事、隔岸観火 - 自分には災害が及ばないと、苦痛を感じないこと、親身に思わないこと。 星火燎原 - 小さな火元でも放っておくと野原を焼き尽くすほどに広がる。 焦眉の急、燃眉之急、眉に火が点く - 眉毛が焦げるほど、火災や問題が目前に迫っていること、直ぐに対応しなければならないこと。 妊娠中に火事を見ると、赤い痣のある子供が生まれるとされる。 建物の屋根や壁に「水」と書いておく、または、水に関連した魚、巴などを飾りとしておくと火災にならないとされる。日本の城の鯱もそのひとつ。逆に日本の木造建物には火を連想させる装飾は少ない。 火除けの札として、京都の愛宕神社のものなど。 ヒガンバナの花を持って帰ると火事になると言われる。花の色形が炎のように見えることから。 仏教では火災は生きとし生けるものの瞋恚が原因で発生するものであると説いている。 ^ ぼやと大火 ^ a b 中井多喜優著、『火災と消火の科学』、日刊工業新聞社、2011年1月25日初版1刷発行、ISBN 9784526066054 ^ 福崎町役場 住民生活課広報 火災発生、どうする?(2013年5月13日時点のアーカイブ) 2015年6月6日閲覧。 ^ 地下鉄に乗っているときに火災が起きたら、どうすれば良いのですか。(2011年1月7日時点のアーカイブ) 2015年6月6日閲覧。 ^ 火災便覧 第3版 日本火災学会 ^ a b c d e 平成26年版消防白書 ^ 平成13年版 消防白書 総務省消防庁 ^ 脱タバコ社会の実現に向けて (PDF) 2008年3月4日 日本学術会議 3頁「タバコによる火災と環境汚染」 ^ 東京消防庁|たばこ火災に注意して! ^ 熟年男性の危険が顕著に増大 住宅火災による死者急増の背景 (PDF) ^ 1997年以降は毎年、放火が最大の出火原因であるため、不審火の疑いがあれば警察が放火の可能性を前提に捜査しているからだと思われる。また、第一発見者や通報者は放火の容疑者として疑われるケースが多く、警察や消防は野次馬の写真を撮っておき、後の捜査に使用することがある。 ^ 朝日新聞昭和39年3月22日夕刊記事 ^ 新潟・糸魚川の火災鎮圧 延焼7万5千平米に(朝日新聞デジタル、2016年12月22日閲覧) ^ a b アメリカの消防事情(改訂版) 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。 ^ a b イギリスの消防事情(新版) 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。 ^ a b フランスの消防事情(新版) 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。 ^ a b ドイツの消防事情(新版) 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。 ^ 香港、マカオ、台湾を除く統計。森林、草原、軍隊及び炭坑の地下火災を除く数値。 ^ a b 中国の消防事情(新版) 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。 ^ a b 韓国の消防事情(新版) 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。 火災の年表 火災保険 山火事 放火及び失火の罪 江戸の火事 消火設備 消火器 消防 / 日本の消防 耐燃性 / 可燃性 フェーン現象 バックドラフト フラッシュオーバー 一酸化炭素 火事場泥棒 火遊び 長期使用製品安全点検制度 長期使用製品安全表示制度 電気火災 電気事故 消防年表(消防庁サイト内) 火災の概要(出火原因)消防防災博物館 (公財)日本防炎協会ホームページ 防炎品の燃えにくさ(You tube動画)/防炎チャンネル", "一時集合場所(いっときしゅうごうばしょ)とは、避難場所に避難する前に、近隣の避難者が一時的に集合する場所である。 学校のグラウンド・地域の公園などがこれに当たる。 一時集合場所から避難場所への移動は、徒歩のみとなる。幹線道路は、緊急車両以外は通行止めとなる。 一時集合場所へは被害が発生してから集まるだけではなく、災害発生が予想され発令される避難勧告・避難指示の時にも集合する場所となる。このような初期避難においても重要な拠点であるので、避難する際には自治体の誘導に従い、各自の適切な判断にて、避難場所に避難することが肝要である。また日ごろから、居住地域、就労地域の一時集合場所・避難場所を確認しておくことも重要である。 一時集合場所にはいくつかの問題がある。 既存の公園を一時避難場所に指定する為、避難に適した場所か判断されていない場合がある。 災害の内容に応じて指定場所を変えるようにしているが、災害の発生予測が困難という側面もある。また公園の設置計画は必ずしも地域防災計画に則ったものではないことが多い。また東京の場合、関東大震災の復興時に計画された避難のために造られた復興小学校や復興公園を閉鎖したり、都市部に空き地があるとして、後に図書館やスポーツ施設が作られ、当初の目的(地震からの避難)とは異なってしまった場合もある。 周辺に建物が建っていることが多く、大火の際などには周辺に火が回り避難が難しくなる可能性がある。 公園は各地区に均等に立てられているわけではなく、また周辺の道路事情などにより、災害時にたどり着くのが困難な場合がある。 等の問題である。しかし、こうした施設が有用であることに変わりは無い為、災害前に確認しておくことが肝要である。 ^ “「避難所管理運営の指針(区市町村向け)」”. 東京都福祉保健局. 2017年3月31日閲覧。 ^ 小・中学校の建物をコンクリートで造り、さらに小公園を併設することで、建物とオープンスペースにより、避難場所・収容避難場所とした。 ^ 復興公園は、大公園が3、小公園が52造られた。 収容避難場所 一時避難場所 帰宅困難者 避難経路", "着衣着火(ちゃくいちゃっか)は、(人間の)衣服に引火する災害事故のこと。 家庭内での例としては、「ガスこんろ」の使用中に袖から燃え移ったり、「電気ストーブ」などの熱源や「ろうそく」「たばこの火」に接触して発火するなど。 米国や英国などでは、寝具(子供用パジャマ、マットレスなど)を対象に防炎規制が実施されている。しかし、日本では、一般家庭における製品の防炎性能義務付けは行われていない。日本国内では平成17年度 - 平成21年度の5年間に、86件の「着衣着火」事故が起き、39件が死亡事故に至ったという(2011年(平成23年)1月20日付の、製品評価技術基盤機構 (NITE)による発表)。また東京消防庁管内では平成22年中に、66件の「着衣着火」事故が起き、3名の死者、58名の負傷者が発生している(速報値)。 生地表面の毛羽から引火し、一瞬にして衣服全体に火がまわる(走る)現象。 「フラッシュスプレッド現象」という呼称もある。 綿・レーヨン・キュプラなどの素材で「毛羽」のあるもの(ネル地など)が、特に危険とされている。洗濯を重ねるうちに毛羽立ちは著しくなる傾向にある。 「着衣着火」からご自身や大切な方を守るものとして、(公財)日本防炎協会が認定するエプロン、割烹着、アームカバーなどの防炎の衣服類がある。防炎製品として認定された衣服類には、炎のマークが目印のラベルが付けられている。何度洗濯をしても燃えにくさを維持できるか確認(耐洗濯性能)されたり、接する肌や口に含んだ時に問題がないか確認(毒性審査)されたものが防炎製品として認定されている。衣服類のほかにも火災予防に役立つ様々なものが防炎製品として認定されている。 NITEが推奨する対処法 もし、素早く衣服を脱げる状況であれば、脱ぐ。 水道があればもちろん、そうでなくとも、飲み物や花瓶の水など、手近にあるものをかぶる。 いかなる水も近くにない場合は、決して走り回らず、地面に火を押し付けて消す(窒息消火法)。 火が消えたら、119番。 着衣着火の恐怖/京都市 京都市消防局 研究課 桑名一徳; 土橋律 「表面フラッシュ速度に及ぼす起毛層密度と厚さの影響」 (PDF)、『日本燃焼学会誌』 第51巻第157号223-230頁、2009年。http://www.combustionsociety.jp/fullpaper/157pdf/157_3.pdf。  (公財)日本防炎協会ホームページ 防炎品の燃えにくさ(You tube動画)/防炎チャンネル 静電気 - 引火の原因の一つ 電磁調理器 - ガスこんろに比べ、着衣に火がつく可能性が低い 日本工業規格(繊維)の一覧 - 繊維製品の表面フラッシュ燃焼性試験方法(JIS L 1917、制定 2000年10月20日) 製品評価技術基盤機構 (公財)日本防炎協会 ポリアミド(ノーメックス、コーネックスなどの難燃性繊維) 難燃剤 ^ a b c 着衣着火事故の防止について(注意喚起) (PDF) - 製品安全センター ^ たばこ火災被害の低減対策に関する協議会 中間取りまとめ (PDF) - たばこ火災被害の低減対策に関する協議会 平成23年6月 ^ 防炎ニュース No.187 (PDF) p.33 - 日本防炎協会 2011年7月 ^ a b 服が燃えて大やけど! 知られざる危険「着衣着火」(発表情報) - 国民生活センター 1997年2月4日 ^ 中央区消費生活展2006 (PDF) p.10 ^ 室崎益輝 「着衣着火」、知っていますか? - イー・ウーマン ^ 防炎製品いろいろ (PDF) - 日本防炎協会", "誤給油(ごきゅうゆ)とは自動車・機器に不適当な種類の燃料油を誤って給油する事である。主に自動車へのガソリンと軽油の入れ間違いを指す。誤給油によって、エンジン内で正常な燃焼が行われなくなり、エンジンが掛からない、出力が低下する、故障するなどの悪影響がある。また、灯油用の暖房機器にガソリンを入れると火災につながり、極めて危険である。 ガソリンスタンドでの誤給油は、主にセルフ式で起こっているが、セルフサービス・フルサービスによらず、「トラックはディーゼル」という思い込みでガソリン車のトラックに軽油を入れたり、借りた車で燃料の種類が違っているなど、単純なミスや勘違いによって起こる。 主にセルフ式ガソリンスタンドで発生する。ガソリン車への軽油の給油が頻発しているとされている。理由は「『軽』自動車だから『軽』油をいれる」「軽油の方が安い」という知識不足に起因する、と言われてきたが、下記「日本における統計」に記載の通り誤認識であり、それ以外の理由であると考えられる。背景として、2004年後半ごろからの原油価格の高騰によりガソリン価格も上昇し、フルサービスに慣れたユーザーが安いガソリンを求めてセルフ式に移行したことが挙げられる。給油装置の表記を「軽油」から「ディーゼル」に変更するという防止策も一部で行われている。なお、このような事故防止の手法として、すでに車のタンクに入っている油がガソリンなのか軽油なのかを判別するセンサーを設けたガソリン計量器が日本だけに存在し、高速道路内のサービスエリアとパーキングエリアの給油所等で普及している。[要出典]」 タンクローリーからガソリンスタンドの地下タンクへの注入の際に油種を間違えるミス(コンタミネーション)はしばしば起きている。POSシステムなどでの管理方式や、無人荷卸システム等混油防止装置類や、キー管理などのマニュアル化などの対策をしているが、それでも油種ミスを起こしたガソリン混入灯油の回収騒ぎは起きている。逆にこのようにして灯油が混合したガソリンを故意に販売したケースもある。また、ガソリンスタンド工事での配管ミスにより、ハイオクとレギュラーの誤給油が発生するという例も発生している。 ガソリンスタンドへ供給する際にも誤給油が起こりうる。隠岐島では燃料油を陸揚げする時点で誤給油がおこり、そのまま島内のガソリンスタンドに配給されたため、島内での販売がいっせいに停止し、島内の交通・経済が一時期麻痺した事例もある。 家庭でもっとも使われる石油は灯油であるが、農家などでは農機具や機械の燃料としてガソリンや軽油を保管している場合がある。また、配達にオートバイを使う店舗では燃料のガソリンを保管している場合がある。ガソリンは専用金属容器での保管が義務付けられているが、それを灯油用のポリタンクで代用するなど、ずさんな管理によって石油ストーブにガソリンを誤給油し、出火する事故が起きている。 一般に、エンジンが掛からない、排気ガスに煙が混じる、馬力が出ない、などの症状がでる。給油後にこのような症状が出た場合、速やかにエンジンを止めて整備・修理する必要がある。給油直後に誤給油が判明した場合は決してエンジンをかけてはならない。 エンジンをかけてしまっても直ちに重大な故障は起こらず、燃料、エンジンオイル、点火プラグの交換など、比較的簡単な整備ですむ場合が多い。軽油だけならば始動すらできないが、誤給油しても普通はエンジン手前の燃料パイプにガソリンが残っているのでエンジンは掛かる。多少は走行できるが、軽油はガソリンほど気化しないため不完全燃焼により点火プラグが汚れてエンジンが止まる。走行できる距離はガソリンと軽油の混合比、つまり、元々タンクに残っていたガソリンの量と誤給油した軽油の量によるのでまちまちである。軽油と性質が似た灯油の場合でも同様と思われる。 ハイオクとレギュラーは油種としては同じガソリンであり、トヨタ・2ZZ-GEエンジンなどレギュラー厳禁のエンジン以外では直ちに深刻なダメージはないが、故障につながる場合もある(詳しくは高オクタン価ガソリンを参照)。 ガソリンには十分な潤滑性がないため、燃料噴射ポンプが破損して、深刻な故障を起こすと言われている(乗用車に主に用いられる分配型噴射ポンプは燃料でポンプを潤滑するためガソリンでは故障する。トラックなどで用いられる列型ポンプではエンジンオイルで潤滑されるため、直ちに噴射ポンプの故障とはならない)。実際には元々残っていた軽油と混合されるので始動・走行できるが、馬力が落ち、排気ガスに白煙が混じる。やがては噴射ノズルの故障を起こす。 軽油と灯油は性質が近いため直ちに深刻な故障には至らないが、軽油にはディーゼルエンジンに用いるための潤滑剤を含む様々な添加剤が加えられている事があるが、灯油にそのような処理はされておらず故障の原因になる。灯油を燃料として自動車で公道を走ることは違法である(不正軽油)。 JAFへの救援要請の統計(2007年12月1日~2008年1月31日)が発表され、マスメディアでも報道された(2008年2月7日 Carview、2008年2月16日 読売新聞、RKB毎日ほか)。大きく取り上げられた「安いから、軽自動車だから」の理由での誤給油は少数であった。 発生件数:337件 種類 ガソリン車に軽油:195 ディーゼル車にガソリン:126 ガソリン車に灯油:16 男女比:247:57 発生場所 セルフ式ガソリンスタンド:246 有人ガソリンスタンド:32 イタリアでは軽油を「gasolio」と表記するため、外国人がガソリンと思って誤給油する例がみられる。 ^ 「燃料の給油間違いによるトラブル」全国調査の中間報告(JAF) ^ 「ガソリン車に軽油「動かない」セルフ式 トラブル多発(読売新聞) ^ 灯油混入ガソリンを販売…故意の疑いも(レスポンス) ^ 2006年10月05日読売新聞 ^ 隠岐、島内唯一の油槽所で混油事故、15のガソリンスタンドが販売中止(2008年6月、日経BP社) ^ 石油ストーブ・石油ファンヒーターによる事故事例集(東京都) ^ 「燃料の給油間違いによるトラブル」全国調査の結果(日本自動車連盟) ^ WebCG マッキナ あらモーダ! 第352回:夏休み前集中講座:イタリア式ガソリンスタンドの利用のお作法、教えます ガソリンスタンド 軽油 間違った燃料を給油した場合に起こるトラブルとは? - 日本自動車連盟 コンタミプルーフ(誤給油防止)機能(国立科学博物館 産業技術の歴史)", "ガス漏れ(ガスもれ)は、圧力の高い気体を封じ込めた容器、流路(配管など)から低圧の空間に気体が漏れることをいう。一般に、天然ガスが配管から漏れ出ることを言うことが多い。圧力の高いガスは低圧側に漏れ出る性質があり容器、配管などは漏れでないような構造、品質管理が行なわれているが、組立上の不備、部材の経年劣化、取扱いなどによる亀裂などで漏れ出ることがある。 可燃性、あるいは有毒性のガスのガス漏れを放置すると、生活空間などの一般的にガスが存在しない場所に広まるため、中毒や、何らかの原因による引火により爆発等が発生するため、非常に危険である。またそれ以外のガスの場合でもガスが漏れることで圧力低下、ガス容量消費がされるため使われる機器の能力が発揮できないこともある(エアコンなど)。 燃焼機器類に使われるガス(都市ガスやLPガス)の場合、現在供給されているガスには、ガス漏れを探知しやすくするためにガス事業法で匂いをつけることが義務付けられている。(天然ガスやLPガスそのものは無色無臭である。)一般には、タマネギが腐った匂いを発するチオール類t-ブチルメルカプタンが利用されている。 日本では、各家庭にはガス警報器も普及しており、漏れたガスを検知して警報音で知らせる。また、現在使われているガスメーターのほとんどはマイコンメーターと呼ばれる安全装置を内蔵したメーターであり、地震等により住宅内部の配管が破損した場合や、異常に長い時間連続してガスを使用した場合、自動的にガス遮断装置が作動しガスの供給が停止される。 また、2010年3月25日、四国ガスが13Aに全面転換されて日本国内から一酸化炭素を含む一般熱機器用ガスは根絶されている。つまり、家庭のガスが部屋内に充満しても毒性により死ぬ事はなく、自殺も不可能である(爆発の危険性はある)。" ]
ABC01-02-0182
大工道具で、四つ目、三つ目、つぼ、ねずみ歯といえば、どんな道具でしょう?
キリ
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[ "キリ", "能因法師雨乞いの樟", "シュロ", "カジノキ", "ヤマフジ" ]
[ "キリ(桐、学名: Paulownia tomentosa)は、シソ目のキリ科 Paulowniaceae。以前はゴマノハグサ科に分類していた(あるいはノウゼンカズラ科)。キリ属の落葉広葉樹。漢語の別名として白桐、泡桐、榮。 属名はシーボルトが『日本植物誌』(1835年)においてアンナ・パヴロヴナに献名したもの。ただしシーボルトが与えた学名はP. imperialisであり、後にツンベルクが1783年にノウゼンカズラ科ツリガネカズラ属としてBignonia tomentosaと命名していたことが判明して1841年に現在のものに改められた。 キリとアオギリはまったく異なる種である。中国で古くから両方に「桐」の字を用いているために混乱が生じている。『斉民要術』ではアオギリを「青桐」、キリを「白桐」と呼び分けている。現在の中国ではアオギリを「梧桐」、キリを「泡桐」と呼ぶ。アブラギリも葉の形が似ているだけでまったく異なるが、おなじく桐と呼ばれる。 英語の「princess tree」は、属名の Paulownia の語源であるアンナ・パヴロヴナがロシア大公女であったことに基づく。 高さは10mほどで、初夏の頃に円錐花序に淡い紫色の筒状の花をつける。葉も特徴的であり、広卵形の大きな葉をつける。 翼(よく)のついた小さい種子は風でよく撒布され、発芽率が高く生長が早いため、随所に野生化した個体が見られる。アメリカ合衆国でも野生化して問題となっている。 樹形(関東地方、3月) 樹形(長野県開田高原、10月) 樹皮 葉 花 果実 樹形 葉や花 原産地は中国とされ、日本では北海道南部以南において植栽される。中でも福島県の会津桐、岩手県の南部桐が有名である。 キリは古くから良質の木材として重宝されており、下駄や箪笥、箏(こと)、神楽面の材料となる。また、伝統的に神聖な木とみなされ、家紋や紋章の意匠に取り入れられてきた。 キリは日本国内でとれる木材としては最も軽い。また、湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴があり、高級木材として重宝されてきた。日本では箏や箱、家具、特に箪笥の材料として用いられることが多く、桐箪笥といえば高級家具の代名詞である。かつて日本では女の子が生まれるとキリを植え、結婚する際にはそのキリで箪笥を作り嫁入り道具にするという風習もあった。キリは成長が早いためこのようなことが可能なのである。 またキリは発火しづらいという特徴もあるため、金庫などの内側にも用いられる。日本各地で植栽されていたが、需要の高まりや産業構造の変化により北米、南米、中国、東南アジアから輸入されることも多い。 日本には白桐をもとに意匠化された家紋がいくつかある。それらを総称して桐紋もしくは桐花紋というが、中でも五七の桐と呼ばれるスタイルが有名である。 古くから桐は鳳凰の止まる木として神聖視されており、日本でも嵯峨天皇の頃から天皇の衣類の刺繍や染め抜きに用いられるなど、「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされた。また中世以降は天下人たる武家が望んだ家紋としても有名で、足利尊氏や豊臣秀吉などもこれを天皇から賜っている。このため五七の桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになった。 近代以降も五七の桐は「日本国政府の紋章」として大礼服や勲章(桐花章、旭日章、瑞宝章)の意匠に取り入れられたり、菊花紋に準じる国章としてビサやパスポートなどの書類や金貨の装飾に使われたり、「内閣総理大臣の紋章」として官邸の備品や総理の演台に取付けられるプレートに使われている。過去に存在した国鉄の紋章も桐紋に蒸気機関車の動輪を組み合わせたものだった。 また、皇宮警察本部や法務省では「五三の桐」が紋章として使われている。 五七の桐花紋のついた裃を着た織田信長像 大きな五七桐花紋を随所にあしらった文官大礼服 明治時代の10円金貨の裏には菊紋と共に五七の桐紋 五百円硬貨の表は桐 内閣総理大臣紋章 Tokyo Higher Normal School badge.jpg 東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現・筑波大学)の五三の桐章 筑波大学の校章は五三の桐 元帥たる陸海軍大将が佩用していた元帥徽章 花札、桐と鳳凰 ^ キリ、小石川植物園の樹木、植物名の由来 ^ 賈思勰 『斉民要術』種槐柳楸梓梧柞第五十。 ^ Least Wanted: Princess Tree, Plant Conservation Alliance's Alien Plant Working Group, (2009-07-07), https://www.nps.gov/plants/alien/fact/pato1.htm  ^ ただし中国本来の伝説では鳳凰の止まる木はアオギリ(中:梧桐)という、キリ(中:泡桐)とはまったく異なる樹木である。 茂木透写真 『樹に咲く花 合弁花・単子葉・裸子植物』 高橋秀男・勝山輝男監修、山と溪谷社〈山溪ハンディ図鑑〉、2001年、374-375頁。ISBN 4-635-07005-0。 花の一覧 桐紋 桐花章 桐花賞 勲一等旭日桐花大綬章 スーパーポローニア Paulownia tomentosa (Thunb.) Steud., ITIS, http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=33460 2013年4月18日閲覧。  (英語) \"Paulownia tomentosa (Thunb.) Steud.\". Germplasm Resources Information Network (GRIN). 2013年4月18日閲覧.  (英語) \"Paulownia tomentosa\". National Center for Biotechnology Information (NCBI).  (英語) Paulownia tomentosa - Encyclopedia of Life (英語) 波田善夫. “キリ”. 植物雑学事典. 岡山理科大学生物地球学部. 2013年4月18日閲覧。 paulownia Furniture : Kiri Tansu (日本語) 株式会社 総桐箪笥和光 (日本語)", "能因法師雨乞いの樟(能因法師雨乞いの楠、のういんほうしあまごいのくす)は、愛媛県今治市大三島の大山祇神社境内に生育していたクスノキの巨樹である。幹周17mを測り、推定樹齢は3000年。日本最古のクスノキと云われている。現在は枯死しているが一部が残っており、国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」の一部を成している。 名称は「能因法師雨乞いの樟」、「能因法師雨乞いの楠」などと表記され、現地案内板の表記は後者である。単に「雨乞いの楠」と呼ぶこともある。11世紀に能因がこのクスノキの前で雨乞いを行ったとされる。 大山祇神社は瀬戸内海の大三島に鎮座している。伊予国風土記にも記載のある古社であり、8世紀に島の反対側の瀬戸から現在地に遷宮した。境内にはほかにも幹周11mの「乎千命御手植の楠」(国の天然記念物)や、かつて幹周14mあった「河野通有兜掛の楠」(枯死、国の天然記念物)、近隣にも幹周15.5mの「生樹の御門」(愛媛県指定天然記念物)などクスの大木に恵まれているが、その中でも最大の巨木であった。 古来大三島島内はクスノキやトベラ、ウバメガシの原生林に覆われていたと考えられているが、薪の過剰採取やそれに起因する洪水などの人為的要因により明治時代までにはほとんど失われ、大山祇神社周辺に名残があるのみである。幹周8m以上の大型のクスノキは全て大山祇神社周辺に集中している。 このクスノキは境内北側の放生池(弁財天池ともいう)の傍、宇迦神社の前にある。1941年の測定で幹周17m、根回り26mを測ったが、当時すでに枯死していた。江戸時代の記録では人十五人抱え4尺、あるいは目通り9間(約16.6m)とある。何れも愛媛県最大の巨樹である「生樹の御門」や「土居の大楠」を大幅に上回る大きさであった。 現在は腐朽が進み、幹部分や細い枝はほぼ消滅して太枝の一部が残るだけである。1991年の測定では幹周10m、樹高10m、枝張り10mとなっている。推定樹齢は3000年で、日本最古の楠といわれている。 1041年(長久2年)の大干ばつの際、伊予国司藤原資業の使者として能因が大山祇神社で雨乞いを行った。このことは『金葉和歌集』や『能因法師集』に詠まれている。「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と幣帛(へいはく)に書付け祈請を行うと、伊予国中に一昼夜(能因法師集)、あるいは三日三晩(金葉和歌集)にわたって雨が降り続き、喜んだ村人は能因に餅を送ったという。能因がこのクスノキに前述の幣帛を掛けたとの伝承があり、このため「能因法師雨乞いの樟」と呼ばれるようになった。 1322年(元亨2年)には境内のクスノキが火災により大被害を受けた。これは兵火によるもので、大山祇神社の建造物ことごとくが焼失する大規模な騒乱であった。 1721年から1722年(江戸時代の享保6年から7年)にかけ洪水が起こり、再びクスノキが被害を受けた。この時洪水により楠の諸木が枯れたため公儀により水抜きが仰せ付けられ、622人が従事し、扶持として一人当たり米1合5匁ずついただいた。能因法師雨乞いの樟は一度枯れたが、8月になって芽を出したとも記述がある。 享保年間の越智諸島の様子を記した『越智嶋旧記』以降の記録は知られておらず、1722年の洪水の後、樹勢が回復したか、あるいはそのまま枯れたか記録が残っていないが、1926年(大正15年)に描かれた境内図では葉をつけていない。 1951年(昭和26年)6月9日付で、「大山祇神社のクスノキ群」の一部として、枯死してはいるが国の天然記念物に指定された。 大三島には幹周8m以上のクスノキが8本あるが、全て大山祇神社付近に集中している。大三島を二分する大三島町及び上浦町は平成の大合併で近隣10市町村と合併して今治市となったが、 新今治市全体でも他に幹周8m以上の巨樹は「(初代)子持杉」(玉川町にある幹周10.6mのスギの枯れ木)しか存在しない。クスノキの巨樹が多いため旧・大三島町は、町の木をクスノキとしていた。また、新・今治市もクスノキを市の木としている。 境内は松の大木も複数存在していたが、1975年の台風で最大の樹(幹周5m超)が倒れ、加えてその後のマツクイムシ被害によりほぼ全滅した。この他高樹齢のソテツ(600年以上)やヒノキ、境内近隣にもムクノキが存在していたが、現在は何れも伐採・枯損している。楠以外に幹周3mを超えるものとしては、江戸時代に神門周辺に植えられたスギの諸木と、明治期に能因法師雨乞いの樟の傍に植えられたヒマラヤスギのみとなっている。 乎千命御手植の楠(第一号樹) 大山祇神社境内中央 幹周11m、樹高15.6m、伝承樹齢2600年 第三号樹 大山祇神社境内 幹周8m、樹高48m 第十四号樹 大山祇神社境内 幹周8m 第十五号樹 大山祇神社境内 幹周8.1-8.6m、樹高24m。枯死寸前。樹齢は最低でも700年以上で、1000年ともいわれる。 河野通有兜掛の楠(第十六号樹) 大山祇神社境内 幹周14m(江戸年間),9m(1941年)、樹齢1000年以上、枯死から年代が経過しており腐朽が激しい。 第十八号樹 大山祇神社境内 幹周8-10m 生樹の御門 大山祇神社奥の院入口 幹周15.5m、樹高10m、伝承樹齢2000-3000年 この樹は国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」には含まれず、別途、愛媛県天然記念物に指定されている。 なお「能因法師雨乞いの樟」は、「大山祇神社のクスノキ群」の指定対象中の第二十六号樹にあたる。 所在地 愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地 交通 しまなみ海道(西瀬戸自動車道) 大三島ICより西へ7km 宗方港より北東へ10km、盛港より南西へ8km ^ 「生樹の御門」は複雑な樹形をしており、目通り20mの計測もある。この場合こちらが上回る。 ^ 『能因法師集』の年代を採用。『金葉和歌集』では能因を使者として立てたのは伊予国司藤原範国(1046年~)となっており、年代が矛盾する ^ 天の川をせき止めて、雨を降らせてください、苗代に水を入れてください、神様 ^ 『能因法師集』と『金葉和歌集』では内容が若干異なっている。前者は1041年(長久2年)夏のことで、藤原範国の使者とされ、一昼夜雨が降ったとある。また、『金葉和歌集』や現地案内板は、伊予国司藤原範国の使者で、三日三晩雨が降ったとしている。さらに、やや後代の『俊頼髄脳』、『東関紀行(三嶋大社の条)』等では伊予国司は藤原実綱とする。『能因法師集』が最も古く、具体的に記述されているため定説とされる ^ 放生池の傍には国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」の指定対象38本のうち第20号樹から第31号までの多数のクスノキが集中するが、この時の被害のためか大半が比較的小型の若い樹である(第18号樹(幹周9m超)が比較的近いが約50m離れている) ^ 初代の「子持杉」は枯れてしまったので、近くに生えている杉(幹周6.6m)が「(二代目)子持杉」になっている。その他、「玉澄さんの大楠 」(別名、2000年主幹周7.9m)、「大深山の楠」(伯方町、1988年7.25m)、「胴塚の楠」(朝倉、1988年7.1m)、「賀茂の大楠」(菊間町、1988年7m)、「第六号樹」(大山祇神社、1941年7m)は8mを超えている可能性がある。また、1980年までは朝倉村に「根上り松」(主幹周9m超)が存在した。 ^ 『三島宮御鎮座本縁』 ^ a b 『第4回自然環境保全基礎調査-日本の巨樹・巨木林』1991年、38-33 ^ 『大三島町誌(大山祇神社編)p.173』 ^ 『大三島を中心とする藝豫叢島史』pp.15,18,22-24 ^ 『大三島を中心とする藝豫叢島史』pp.15-16 ^ a b c d 『越智嶋旧記』、宮野浦村の項 ^ a b 「現地案内板」 ^ 『樹木にまつわる物語: 日本の民話・伝説などを集めて』、p.133 ^ 『愛媛県史 文学』(第二巻 - 第三節 - 一)による ^ 『大山祇神社略誌』 ^ 『大三島を中心とする藝豫叢島史』p.92 愛媛県越智郡大三島町宮浦小学校 『大三島を中心とする藝豫叢島史』 松岡進、1955年(昭和30年) 『第4回自然環境保全基礎調査-日本の巨樹・巨木林(中国・四国版)』 環境庁編、1991年 松山藩『越智嶋旧記-宮野浦村』庄屋半助、18世紀 大山祇神社『三島宮御鎮座本縁』年代不明 フロンティア出版 『樹木にまつわる物語: 日本の民話・伝説などを集めて』 浅井治海、2007年 愛媛県 『愛媛県史 文学 第二巻(古代後期)』愛媛県、1984年 愛媛県 『愛媛県史 地誌 II(東予西部)第五章(越智諸島)』愛媛県、1986年 愛媛県 『瀬戸内の島々の生活文化 第二章(島々の自然環境と変遷)』愛媛県生涯学習センター、1991年 大三島町 『大三島町誌(大山祇神社編)』大三島町誌編纂会編、1988年 植物天然記念物一覧 座標: 北緯34度14分54.2秒 東経133度0分17.0秒 / 北緯34.248389度 東経133.004722度 / 34.248389; 133.004722", "シュロ(棕櫚、棕梠、椶櫚)は、ヤシ目ヤシ科ヤシ属 Trachycarpus の総称である。 5種以上が属する。シュロという名は、狭義には、そのうち1種のワシュロの別名とされることもある。逆に広義には、他のさまざまなヤシ科植物を意味することもある。 常緑高木。排水良好な土地を好み、乾湿、陰陽の土地条件を選ばず、耐火性、耐潮性も併せ持つ強健な樹種である。生育は遅く、管理が少なく済むため、手間がかからない。 中華人民共和国湖北省からミャンマー北部まで分布する。日本では九州地方南部に自生する。日本に産するヤシ科の植物の中ではもっとも耐寒性が強いため、東北地方まで栽培されていて、なかには北海道の石狩平野でも地熱などを利用せずに成木できるものもある。 雌雄異株で、稀に雌雄同株も存在する。雌株は5 - 6月に葉の間から花枝を伸ばし、微細な粒状の黄色い花を密集して咲かせる。果実は11 - 12月頃に黒く熟す。 幹は円柱形で、分岐せずに垂直に伸びる。大きいものでは樹高が10mほどになる。 幹の先端に扇状に葉柄を広げて数十枚の熊手型の葉をつける。葉柄の基部は幹に接する部分で大きく三角形に広がり、幹を抱くような形になっている。この部分の下端から下に30-50cmにわたって幹を暗褐色の繊維質が包んでおり、これをシュロ皮という。 シュロ皮を煮沸し、亜硫酸ガスで燻蒸した後、天日で干したものは「晒葉」と呼ばれ、繊維をとるのに用いられる。シュロ皮の繊維は、腐りにくく伸縮性に富むため、縄や敷物、タワシ、ホウキなどの加工品とされる。又、シュロの皮を用いて作られた化粧品も発売されている。 1830年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが出島から初めて西洋に移出し、後にイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンに献名された。英名はロバート・フォーチュンが初めてワジュロを見た中国浙江省の舟山島にちなむ。 トウジュロ(唐棕櫚、Trachycarpus wagnerianus)はワジュロと同種とする説もある(その場合に優先する学名はワジュロの学名 T. fortunei)。 ワジュロよりも樹高・葉面が小さく、組織が固い。そのため葉の先端が下垂しないのが特徴である。中国大陸原産の帰化植物で、江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである。 トウジュロは先述のとおり葉が下垂しないことから、ワジュロよりも庭木としてよく利用され、かつては鉢植え用の観葉植物として育てられることもあった。現在は鉢植えとしての価値は大幅に減少し、衰退している。 ワジュロとトウジュロの間には雑種を作ることが可能で、この交雑種はアイジュロ(合い棕櫚)又はワトウジュロ(和唐棕櫚)と呼ばれている。ワジュロとトウジュロが近くに植えられている場所でよく発生するが、鳥が異種の花粉を運ぶことで、近辺に異種が生えていなくてもアイジュロを生じる事も少なくない。 アイジュロはワジュロとトウジュロの中間の性質を示し、多くは葉が垂れるが、ワジュロほど長い垂れを生じない。成長の速度や耐寒性なども変わりがなく、中には一見するとアイジュロとは分からないほど片親に似通った特徴を示すものもいる。 アイジュロを好んで作出する者はいない[要出典]。アイジュロの種(ワジュロとトウジュロの間にできた種)は質が悪く、トウジュロのように葉がコンパクトに収まらないためである。尚、作出する者はいないが、野外採集で採られたアイジュロを栽培する者はいる。 棕櫚の種は多くでき、鳥によって運ばれるためにかなり広い範囲を移動することが可能である。このため、通常シュロが生えていない場所にシュロの芽や子ジュロが生えている光景をよく目にすることができる。このように、人が故意に植えたわけでないのに芽を出し成長しているシュロのことを俗にノラジュロ又はノジュロという。 ノラジュロは人家や公園、森林、墓地などのいたるところに発生し、多くは群生する。 現在深刻な問題は発生していないが、ノラジュロが増えることによる環境への問題が心配されている。このことからノラジュロを害樹として指定し積極的に駆除する自治体も存在する。しかし、成長した株は一見小さいように見えても地中深く根を張り幹を太らせているので、駆除には手間を要する。 通常シュロは寒さに弱く小さな株は越冬が出来ないと言われてきたが、近年の温暖化による影響で冬が越せる確率が上昇し、子ジュロの生存率が上がったことにより東北地方でもノラジュロの群れを見ることが出来るようになっている。 庭園で装飾樹としてよく用いられる。 樹皮はシュロ縄として古くから利用されている他、ウレタンフォームの普及以前は、金属ばねなどとの組み合わせで、乗り物用を含む椅子やベッドのクッション材としても一般的であった。 シュロは日本の温帯地域で古来より親しまれた唯一のヤシ科植物であったため、明治以降、海外の著作に見られる本来はシュロとは異なるヤシ科植物を、「シュロ」と翻訳していることが、しばしば認められる。特にキリスト教圏で聖書に多く記述されるナツメヤシがシュロと翻訳されることが多かった。今日でも聖書などのキリスト教文献で、ナツメヤシがシュロと翻訳されていることが普通である。 西洋絵画において、シュロ(実際はナツメヤシなど)は勝利および殉教を象徴する図像として描かれる。元来、戦争に勝利した軍隊が凱旋行進の際に持ち歩く姿が描かれていたが、初期キリスト教会はこれを死に対する信仰の勝利と読み替え、殉教者を意味する持物としてとりいれ、定着した。 家紋にシュロを図案化したものがある。富士氏などに代表される。 『長倉追罰記』に「しゆろの丸は富士大宮司」とあり、富士氏の分かれともいわれる米津氏もシュロを用いている。 「棕櫚の花」は夏の季語である。 ^ a b Yahoo!百科事典「シュロ」(佐竹利彦) ^ a b 『広辞苑』「しゅろ【棕櫚・棕梠・椶櫚】」", "カジノキ(梶の木、学名:Broussonetia papyrifera)は、クワ科コウゾ属の落葉高木。単にカジ(梶)またはコウ(構)とも呼ばれる。 樹高はあまり高くならず、10mほど。葉は大きく、浅く三裂するか、楕円形で毛が一面に生える。左右どちらかしか裂けない葉も存在し、同じ株でも葉の変異は多い。雌雄異株。 古い時代においてはヒメコウゾとの区別が余り認識されておらず、現在のコウゾはヒメコウゾとカジノキの雑種といわれている。また、江戸時代に日本を訪れたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもこの両者を混同してヨーロッパに報告したために今日のヒメコウゾの学名が「Broussonetia kazinoki」となってしまっている。 なお、カジノキは神道では神聖な樹木のひとつであり、諏訪神社などの神紋や日本の家紋である梶紋の紋様としても描かれている。 古代から神に捧げる神木として尊ばれていた為、神社の境内などに多く植えられ、主として神事に用い供え物の敷物に使われた。 煙などにも強い植物であるため、中国では工場や鉱山の緑化に用いられる。 葉はブタ、ウシ、ヒツジ、シカなどの飼料(飼い葉)とする。樹皮はコウゾと同様に製紙用の繊維原料とされた。中国の伝統紙である画仙紙(宣紙)は主にカジノキを用いる。 また、昔は七夕飾りの短冊の代わりとしても使われた。 梶の葉 カジノキ(梶の木)理研の自然ホームページ内", "ヤマフジ(山藤、学名: Wisteria brachybotrys)は、マメ科フジ属のつる性落葉木本。ノフジ(野藤)ともいう。 他の木に巻きついて大きく成長する。蔓は上から見ると左回りで、フジとは逆。 花は淡紫色で、花序はフジに比較して短い。 花 日本固有種で、本州西部・四国・九州(暖帯)の山地に自生する。 観賞用に栽培されることがある。 ^ a b 米倉浩司; 梶田忠 (2003-). “「BG Plants 和名−学名インデックス」(YList)”. 2012年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月11日閲覧。 ^ a b 『樹に咲く花 離弁花2』、96頁。 茂木透写真 『樹に咲く花 離弁花2』 高橋秀男・勝山輝男監修、山と溪谷社〈山溪ハンディ図鑑〉、2000年、96-97頁。ISBN 4-635-07004-2。 尼川大録、長田武正 『検索入門樹木 : 総合版』 保育社、2011年(原著1988年)、340頁。ISBN 978-4-586-31055-5。 つる植物 右巻き、左巻き \"Wisteria brachybotrys\". National Center for Biotechnology Information (NCBI).  (英語) Wisteria brachybotrys - Encyclopedia of Life (英語) 波田善夫. “ヤマフジ”. 植物雑学事典. 岡山理科大学総合情報学部. 2012年2月11日閲覧。 福原達人. “フジとマメ科の蝶形花”. 植物形態学. 福岡教育大学教育学部. 2012年2月11日閲覧。" ]
ABC01-02-0185
人間の血管を大きく三つに分けると、動脈、静脈と何でしょう?
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[ "毛細血管", "細動脈", "内皮細胞", "輸出細動脈", "ネフロン" ]
[ "毛細血管(もうさいけっかん、英語: capillary vessel, capillary)(capillary)は動脈と静脈の間をつなぐ、平滑筋を欠く血管である。太さは5〜20μm、多くは7μm前後で赤血球がようやくすり抜けられる。壁の厚さは0.5μmでありガスの拡散に十分な薄さである。個々の長さは通常50μmもないほどである。これらの細い血管は身体中の血管の約90%以上をしめ、総延長は10万kmを超える。 毛細血管のすぐ手前の動脈の部分を小動脈、すぐに先の部分を小静脈とよぶ。小動脈と小静脈の壁にある平滑筋はしだいにまばらになって平滑筋を欠く毛細血管に移行する。毛細血管のうち、動脈につづく、やや太い部分を動脈性、静脈に続く太い部分を静脈性毛細血管という。さらにその下流の部分を毛細血管後細静脈とよぶことがある。平滑筋の有無を毛細血管と定義した場合静脈性毛細血管と小静脈の境界を定めるのがしばしば困難になる。口径150μm位まで平滑筋が存在しないこともある。 小動脈-毛細血管-小静脈が単純なわな(係蹄)をなして接続するのは真皮乳頭や粘膜層の乳頭などに限られており、多くは複雑な網をなす。また小動脈の末端部の平滑筋である毛細血管前括約筋が収縮・弛緩することによって、毛細血管網の血流が調節されていることが多い。内分泌腺の毛細血管は非常に密に分布している。腺細胞からホルモンを受け取って、全身の血液にのせる役割を担っているからである。広義の内分泌腺とみなされる肝臓でもこのことは同じである。多くの内分泌腺の腺細胞索や肝細胞索の間をはしる毛細血管は、多少とも太くなり洞様毛細血管(類洞)とよばれる。洞様毛細血管では血液はゆっくりとながれるので物質交換には非常に都合がよく、心筋や骨髄でも認められる。 毛細血管の壁の構造は内皮とその基底膜からなり、この2層を通じて、血液と組織の間の物質交換(特に酸素と二酸化炭素)が行われる。したがって代謝の盛んな組織である横紋筋や脳の灰白質では毛細血管の分布密度が非常に高い。また内皮細胞のさらに外側に周皮細胞が認められることもある。 脈管系の上皮を内皮という。毛細血管の内皮を構成する内皮細胞は薄い板状であるが、核の部分だけが厚く盛り上がっている。細胞の全形は、血管の方向に概ね一致してやや長く伸び、核もこの方向に長軸を向いた小判形である。毛細血管の横断面をみると、細胞の1個が指輪のように全周を抱くこともあり2,3個がつながって全周を囲むことがある。 内皮細胞の境界線を観察するには古くから硝酸銀による方法が用いられる。腸間膜などの膜片組織を硝酸銀液に浸し、あるいは血管に同液を注入した後、光にさらすと銀粒子が析出し、内皮細胞の境界に沈着し、これを黒く染める。硝酸銀液を血管注入し、光または現像液で処理した後にレジンを注入し鋳型を走査型電子顕微鏡で観察すると内皮細胞の境界線がわかりやすい。内皮細胞の内腔面を走査型電子顕微鏡で観察すると多数の長さの不揃いな微繊毛が生えていることがある。大血管にも小血管にも見られる。この微繊毛の意義は不明である。内皮細胞を透過型電子顕微鏡で観察すると、核の近くにゴルジ装置があり、両者の間にしばしば中心小体が見える。そのほか、核周囲部にはミトコンドリア、若干の粗面小胞体、遊離リボゾーム、少数の水解小体がある。細胞質の薄い部分にはのみこみ陥凹や小胞が通常みられる。内皮細胞の中間径フィラメントはビメンチンが豊富で細胞骨格として内皮細胞を機械的に支持している。また基底膜との接着にも重要な役割を担う。微小管は核の一端に局在する中心小体から出て、細胞の長軸を沿って走っている。血管内皮の細胞間には、多少とも接着装置が存在する。しかしその発達は血管の種類や存在部位によって大きく異なる。血管の透過性は密着結合の発達の程度によって影響を受けると考えられている。血管の透過性は脳血管では低く、脳以外の組織では透過性は高い。脳の血管内皮は強固で連続的な密着結合を形成し、物質透過を遮断しており血液脳関門といわれている。対照的に骨格筋の血管内皮では密着結合の発達が悪く断続的であるので物質の透過性が高い。内皮細胞のマーカーとしてはCD31(platelet endothelial cell adhesion molecule-1、PECAM-1)、CD34、CD36、RECA-1などが知られている。 通常の毛細血管では内皮細胞を外から抱くように周皮細胞(pericyte)とよばれる細胞がある。これはアクチン(平滑筋型のα-アクチン)とミオシンに富み、収縮能力が推測されている。同時に線維芽細胞の性質も兼ね、コラーゲン産出する能力をもつ。内側も外側も基底膜で包まれており、細胞質には少量の粗面小胞体とミトコンドリア、若干のフィラメントがみられる。走査型電子顕微鏡で基底膜を融解除去した毛細血管をみると、この細胞が長い樹枝状の突起を血管壁に這わせていることがわかる。周皮細胞の典型的なものは毛細血管の縦方向に長い主突起を伸ばし、その側枝(二次突起)が血管に取り巻く。細胞は毛細血管の分枝に沿って突起を伸ばしたり、近隣の2つの毛細血管にまたがったりする。小動脈をつつむ輪状の平滑筋線維と毛細血管を抱く周皮細胞とが形態的な移行を示す走査型電子顕微鏡像があり両細胞の相動性と連続性を支持している。周皮細胞の機能としては収縮能力をもって血流を調節することが考えられる。筋フィラメントやα-アクチンの量からみて、小動脈の平滑筋よりゆるやかな収縮をすると思われる。しかし広く枝を広げた1個の周皮細胞が収縮すれば局所の微小循環に与える影響は大きなものがあると想像される。また周皮細胞は毛細血管の申請とその終了の調節をしている。 非連続性毛細血管以外の毛細血管の内皮細胞の外側は基底膜で囲まれている。基底膜の外側は疎性結合組織で、そこには一般にコラーゲン細線維の間に線維芽細胞、マクロファージ、顆粒球、時に肥満細胞や形質細胞が散在する。毛細血管の横断面を透過型電子顕微鏡でみると周皮細胞は半月形を示し、内皮細胞の基底膜が2葉に分かれて、周皮細胞を内側と外側から包んでいる。 毛細血管の壁は血液と組織の物質交換の場である。この壁がいろいろな物質透過させる性質ないし能力を透過性(permeability)という。一般に蛋白質のような高分子物質は、毛細血管壁を自由に透過できない。こうして血漿のコロイド浸透圧が生じ、それが毛細血管の内圧をなしている。しかし現実には、様々な高分子物質が毛細血管壁を通過する。高分子物質の通過は小分子物質の通過とは機構が異なると考えられている。パラーデの説の学説が広く支持されている。この説では内皮細胞の飲み込み小胞によって液滴を飲み込み、それを運んで反対側の表面にはき出すという機構によって高分子が毛細血管壁を通過しうるという考え方である。この考え方には反論があり、内皮細胞をつらぬく小管があり高分子がそこを通過するという考え方もある。 毛細血管後細静脈の部分は血液の液体成分やコロイド状の物質が最も透過しやすい場所として知られる。ここでは内皮細胞の密着結合に3〜6nmの隙間の生じていることが多い。ヒスタミンの作用でこの細静脈の内皮はいっそうひろく開き、多量の液性およびコロイド性の血液成分が組織内へ出て、局所の浮腫を起こす。 かつては細胞境界上に小孔が存在しては血球の通路になると考えられていた。2017年現在、白血球は毛細血管の内皮細胞の核周囲部に一過性の孔を穿って通過すると考えられている。白血球が毛細血管の外に浸潤する機構には多くの接着分子が関与している。第一段階としてセクレチンを発現している白血球が、炎症部位の血管内皮が発現する別のタイプのセクレチンと、糖鎖を介してゆるく結合する。その結果、白血球は内皮に軽く粘着して血流に押されるようになり、ローリングを引き起こす。第二段階として内皮表面のICAM-1と白血球のインテグリンが強固に結合し、内皮細胞と基底膜の一部に孔をこじ開けて血管の外に移動する。 毛細血管は内皮細胞と基底膜の構造によって以下の3つに分類される。 連続性毛細血管(continuous capillary)は骨格筋組織や中枢神経系など多くの組織にみられるので筋型あるいは中枢神経型の毛細血管といわれる。細胞質は薄くなっても100~200nmの厚さがあり窓は空いていない。隣接する細胞との境界のところで両細胞の縁がめくれ返るように辺縁ひだをつくることが多い。内皮細胞の外側は完全に基底膜で取り巻かれる。内皮細胞の間には密着結合が存在するがその程度は器官によって異なる。内皮細胞の細胞質を横切って両方性に巨大分子のトランスサイトーシスを示す多数の小胞が認められる。連続型毛細血管が毛細血管でもっとも一般的なタイプであり筋組織、皮膚、結合組織、肺、外分泌腺、胸腺、神経組織などに存在する。連続性毛細血管をもつ臓器では分子量が1kDa以上の水溶性の物質はほとんど血管外に移行できない。内皮細胞の細胞膜に溶け込んで血管壁を透過する親油性物質を除けば、連続性毛細血管の内皮細胞の物質の透過はピノサイトーシス小胞または細胞間隙または細胞を貫く水で満たされた通路の3つの経路のうちいずれかによって起こる。連続性毛細血管の内皮細胞には半径約6.7〜8.0nmの小孔と20〜28nmの大きな穴の通路の存在が示されているが、それぞれ解剖学的にどの構造に相当するのかは明らかではない。低分子化合物は親水性が高くても小孔を自由に通過できるので連続性毛細血管であっても透過性は高い。 有窓性毛細血管または窓あき毛細血管(fenestrated capillary or pored capillary)では内皮細胞の核周囲部以外の部分が非常に薄く(厚さ20〜60nm)、多数のまるい、径50〜80nmの孔(pore)または窓(fenestration)があいている。血管の内外の物質透過の盛んな部位にみられる。すなわち有窓性毛細血管は腎臓、腸管、脈絡叢、内分泌腺など組織と血液間での迅速な物質交換を必要とする臓器でみられる。窓には薄い隔膜が貼っているのが一般的であるが腎糸球体にはこれがない。隔膜は単位膜構造をとらず、細胞膜よりずっと薄い。その化学的性状も働きもわかっていない。走査型電子顕微鏡でみると、窓あき毛細血管では核周囲部のふくらみから細胞質稜(cytoplasmic crests)が放散しつつ吻合し、それによって窓が分布する領域が縁取られている。この型の毛細血管も、内皮細胞は基底膜によって完全に取り巻かれている。窓も基底膜で裏打ちされている。 非連続性毛細血管(discontinuous capillary、sinusoid capillary)は細胞内と細胞間に大小の孔がある型の毛細血管で肝臓の類洞(類洞毛細血管)にみられる。内皮細胞内の間隙は円形や卵円形の孔で、径1μmを超えるものから、50nmほどの小さい孔まである。小さい孔はふるいのように集まる傾向がある。細胞間の接合は部分的にゆるやかでしばしば1μmを超える細胞間隙をつくっている。この型の毛細血管では基底膜に相当する物質がまばらに内皮細胞の外側に存在するだけで基底膜は連続的な層をなさない。類洞はほとんど不連続な基底膜しかなく、他の毛細血管よりもはるかに大きい。30~40μmという直径を持つことで血流を遅くしているという点で、通常の毛細血管と大きく異なる。非連続性毛細血管は肝臓、脾臓、一部の内分泌器官、骨髄などで見られる。非連続性毛細血管をもつ臓器では100kDa程度の高分子でも容易に血管外に移行できる。 通常は細動脈からの血液は毛細血管へ流入しそして細静脈へ流出する。しかし腎臓の糸球体と門脈系は標準的配列とは異なる。 ^ 藤田ら, p.2 ^ Arch Histol Cytol. 2000;63(5):425-9. PMID 11201200 ^ Acta Physiol Scand Suppl. 1979;463:11-32. PMID 382743 ^ J Cell Biol. 1975 Mar;64(3):586-607. PMID 239003 ^ J Biophys Biochem Cytol. 1956 Jul 25;2(4 Suppl):99-103. PMID 13357528 ^ Arch Histol Jpn. 1970 Mar;31(5):511-28. PMID 5463213 ^ Arch Histol Jpn. 1970 Jun;32(1):81-6. PMID 5464649 ^ J Cell Biol. 1978 Oct;79(1):27-44. PMID 701375 ^ J Biophys Biochem Cytol. 1961 Dec;11:571-605. PMID 14468626 ^ 窪田ら, p.87 ^ Physiol Rev. 1983 Oct;63(4):1536-79. PMID 6318239 ^ 臨床薬物動態学 改訂第5版 p345-360 ISBN 9784524257584 ^ 「次世代バイオ医薬品の製剤設計と開発戦略」 出版:シーエムシー出版 監修:森下真莉子 (2011) p103-110 ISBN 9784781312736 ^ 臨床薬物動態学 改訂第5版 p345-360 ISBN 9784524257584 窪田哲也、窪田直人、門脇孝「血管内皮機能とインスリン抵抗性」、『日本薬理学雑誌』第131巻第2号、日本薬理学会、2008年2月、 85-88頁、 doi:10.1254/fpj.131.85、 ISSN 0015-5691、 NAID 10024186603、 ONLINE ISSN 1347-8397, JOI:JST.JSTAGE/fpj/131.85。 藤田尚男、藤田恒夫 『標準組織学 各論』 医学書院、2001年3月1日、第3版第10刷。ISBN 4-260-10053-X。 ジュンケイラ組織学 第4版 ISBN 9784621088968 標準組織学各論 第5版 ISBN 9784260024044", "細動脈(さいどうみゃく、英語: arteriole, arteriola)は、直径100~200μm程度の細い動脈で、動脈から毛細血管に至る直前に存在する血管。微小循環系を形作る血管の一つとされており、抵抗血管とも呼ばれ、全身の血圧の維持と関係がある。高血圧症が持続すると、細動脈ははじめは機能的に、次に器質的に狭窄してくる。 ^ “微小循環の研究”. 研究内容. 康復医学学会. 2014年9月19日閲覧。《→アーカイブ》", "内皮細胞(ないひさいぼう、英: endothelial cell)は、内皮を構成する細胞。内皮細胞は幅10~15μm、長さ25~50μmの多角形の細胞であり、形質膜小胞と呼ばれる小窩が多数存在し、Weibel-Palade小体と呼ばれる杆状の分泌顆粒を有する。血液およびリンパと組織液の交換の場。内皮細胞間には密着結合が存在する。内皮細胞は部位により種々の構造をとり、その壁構造から連続型、有窓型、不連続型の3種類に分類される。 動脈や静脈、毛細血管を構成する内皮細胞。 →詳しくは血管内皮の項目を参照のこと リンパ管を構成する内皮細胞同士は血管内皮に比べ、その結合が弱く、特に末梢において管外から組織液などが流入しやすい。ただ、末梢のリンパ管は押しつぶされ過ぎないように繋留フィラメントが付着している。 繋留フィラメント トランスサイトーシス ポトサイトーシス 日本獣医解剖学会編集 『獣医組織学 改訂第二版』 学窓社 2003年 ISBN 4873621135", "輸出細動脈(ゆしゅつさいどうみゃく、Efferent arteriole)は、動物の泌尿器系の血管の1つで、糸球体の毛細血管が収束したものである。 哺乳類の腎臓では、輸出細動脈は糸球体の位置によって2つの異なるコースをたどる。 哺乳類の腎臓において、約15%の糸球体は、腎皮質と腎髄質の間にあり傍髄質糸球体として知られ、他は未分化の皮質の糸球体である。 未分化皮質の糸球体の輸出細動脈は簡単な構造をしており、尿細管から再吸収した物質を血液循環に戻す役割を持つ。 輸出細動脈は、糸球体から離れるとすぐ毛細血管に細分化し、腎皮質の尿細管を取り囲む網状血管になる。 傍髄質糸球体の輸出細動脈は複雑になっている。 輸出細動脈は分岐し、血管の束(直細動脈)になって腎髄質の外側と内側を灌流する。 血管は腎髄質の内部に戻り、直細動脈は規則正しく下降し奇網を組織する。この怪網は、腎髄質で浸透性の物質を分離し濃度の高い尿を作る。また、この網は腎髄質のガス交換から分離されており、この領域の代謝は嫌気性である。そして、赤血球は未知の機構で直細動脈を通り、髄質部の外側領域の細管を取り巻く毛細血管の網状血管に運ばれる。怪網の血液と腎髄質から戻る血液は皮質の排出液と同様に腎臓の静脈に運ばれ、全身の血液循環に乗る。 腎小体(マルピーギ小体) 糸球体 直細動脈 腎循環", "ネフロン(nephron:腎単位)とは、腎臓の基本的な機能単位であり、腎小体とそれに続く1本の尿細管のこと。 人間の場合は左右の腎臓合わせて2百万個ほど存在し、各ネフロンで濾過、再吸収、分泌、濃縮が行われ、原尿が作られていく。腎臓の皮質部分に位置する。 腎小体には1本の輸入細動脈が入り、1本の輸出細動脈が出てゆく。腎小体に入った輸入細動脈は分枝して毛細血管となり、塊を作る。この塊を糸球体という。糸球体を形成する毛細血管は再び1本に集まり、輸出細動脈となって腎小体から出てゆく。糸球体はボーマン嚢で包まれており、ボーマン嚢からは1本の尿細管が出ている。細尿管は腎皮質から腎髄質の方へ下行し、この部分を近位尿細管と呼ぶ。腎髄質へ辿り着くと尿細管は狭くなり、Uターンして再び皮質の方へ上行する。このUターンする部分を、ヘンレループと呼ぶ。そのまま上行して皮質へ辿り着くと、尿細管は輸出細動脈と接する(交わったり吻合するわけではない)。この接する部分を、糸球体近接装置という。糸球体近接装置を経た尿細管は、遠位尿細管と呼ばれる。遠位尿細管は再び髄質の方向へ下行しながら互いに集合し、集合管となって腎髄質を貫通して腎盂に開口する。 糸球体を構成する網細血管では血球成分や大質量の蛋白質は漏れ出ず、血漿成分や体内の毒素だけが濾過されてボーマン嚢へ流れ出る。漏れ出なかった血液成分は再び1本の輸出細動脈となり、腎小体から出てゆく。一方、糸球体で濾過された毒素などはボーマン嚢で受け止められ、尿細管へ流れてゆく。尿細管壁では糸球体から流れ出た水分や栄養を再吸収したり、濾過し切れなかった毒素をさらに排泄したりして、原尿を作ってゆく。糸球体近接装置では、原尿の水量や毒素濃度などの情報を輸出細動脈へ伝達する。これを受けた輸出細動脈は血圧を調節するホルモン(レニン)を分泌し、腎臓への血流を調節する。 尿細管における酸塩基平衡の調節。 近位尿細管では炭酸水素イオンの再吸収が行われ、これが損なわれると近位尿細管性アシドーシスになる。 遠位尿細管では水素イオンの排泄が行われ、これが損なわれると遠位尿細管性アシドーシスになる。遠位尿細管で水素イオンを排泄するポンプは鉱質コルチコイドによって活性化されるので、鉱質コルチコイド作用が低下すると遠位尿細管性アシドーシスになる。これを特に高カリウム型尿細管性アシドーシスという。 腎小体(マルピーギ小体) 糸球体 ボーマン嚢(糸球体嚢)" ]
ABC01-02-0187
昔話『文福茶釜』の舞台として知られる、群馬県にある寺は何でしょう?
茂林寺
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[ "茂林寺", "栗生神社", "白髭神社 (小山市)", "湯座神社", "横山不動尊" ]
[ "茂林寺(もりんじ)は群馬県館林市堀工町にある曹洞宗の寺院である。山号は青竜山(せいりゅうざん)。本尊は釈迦牟尼仏。分福茶釜で有名。 室町時代中期の応永33年(1426年)に大林正通禅師により開山した。 当寺は説話で有名な「分福茶釜」ゆかりの寺として知られる。分福茶釜には、お伽話としての「ぶんぶく茶釜」と伝説としての「分福茶釜伝説」の二通りの説話がある。説話の詳細は「分福茶釜」「茂林寺の釜」の項を参照。寺が所蔵する分福茶釜は一般参拝者も見学可能である(拝観は有料)。また「狸コレクション」と称する日本各地の狸にまつわるグッズや狸の剥製が多くが展示されている。境内の至る所に信楽焼の狸が配置されている。 2002年(平成14年)から毎年4月に狸桜祭を開催。岩佐鶴丈の薩摩琵琶『分福茶釜』の演奏や、講談、舞踊などが披露され、先着100名には餅が振る舞われる。 総門 山門間の参道では20体ほどの狸の像が参拝客を迎える。 また、1980年(昭和55年3月31日)に館林市の保存樹に指定された、見事な「シダレザクラ」がある。 境内には1945年にフィリピンの戦いで全滅した戦車第2師団工兵隊の戦死者を祀った「戦車第2師団工兵隊の碑」、「戦車第2師團戦歿者遺骨埋葬之地」の碑が存在する。また、M24軽戦車が置かれていたこともある。 東武伊勢崎線茂林寺前駅から徒歩約10分。 東北自動車道館林ICから約4.5km(約15分) 寺の北には県指定の天然記念物である茂林寺沼湿原が広がり、湿原植物の生育地として保護されているほか、湿原内の茂林寺沼ホタルの里では6月下旬から8月にかけてヘイケボタルが見られるが、これは人為的に移入された群である。 東武トレジャーガーデン - 園内に分福茶釜のシンボルオブジェがある。 ダークダックス館林音楽館 [1] - すぐ東に隣接する 野鳥の森自然公園 1963年 映画「喜劇 駅前茶釜」の舞台となる(出演・森繁久彌/伴淳三郎/フランキー堺/ジャイアント馬場等) 2018年TVアニメ「宇宙よりも遠い場所」において何度か描写される。山門が主要キャラクター達の集まる場所として描かれたほか、主要キャラクターの一人三宅日向が、守鶴堂に参拝する描写もある。 ^ 戦車第2師団工兵隊 ^ たてばやしふるさとマガジン 2002年11月15日号 館林市 ^ 私と戦車 2009年9月21日閲覧 茂林寺の釜 分福球場(第二次世界大戦前に存在し、『茂林寺球場』という通称で呼ばれた野球場) 曹洞宗茂林寺 茂林寺公園 - 群馬県観光情報サイトぐんまなび", "栗生神社(くりゅうじんじゃ)は、群馬県桐生市黒保根町にある神社である。 桐生市北部の黒保根町にそびえる栗生山の麓に鎮座する。 現在では、新田義貞の家臣である栗生顕方を主祭神としている。創建は、慶雲4年(707年)と伝えられる。現在の本殿は、寛政2年(1790年)に建立されたものである。 所在地:桐生市黒保根町上田沢2238番地 栗生神社本殿附棟札(県指定有形文化財) 黒保根栗生神社の大スギ(県指定天然記念物) 沼田屋タクシー(本宿 - 上田沢線)「栗生神社前」バス停下車。 栗生山 桐生市文化財 栗生神社(群馬の旅)", "白髭神社(しらひげじんじゃ)は、栃木県小山市出井にある神社である。 猿田彦命 例祭:1月20日 祈年祭:2月26日 新嘗祭:11月26日 浅間神社 木花開耶姫命 境内に湧水があり、「白髭神社の湧水」として小山市の「おやま百景」にも選ばれている。同地の地名「出井」はこの神泉に由来すると言われている。 臼打ち翁の伝説 昔、神社の前で白髪で白髭3尺の老人が臼を彫っていた。すると悪者に追われた美しい姫が助けを求め、老人はとっさに臼をひっくり返しその中に姫をかくまった。助けられた姫は木花開耶姫命だといわれる。 ^ 同社神泉改修記念之碑より ^ 小山市郷土文化研究会「小山の伝説」 白鬚神社", "湯座神社(ゆざじんじゃ)は、山形県最上郡大蔵村肘折温泉にある温泉神社である。別名、湯坐神社、薬師神社とも呼ばれる。 古来より湯治場として知られた肘折温泉の祭神として薬師如来を祀る。 明徳元年(1390年)創建とされる。一説には、肘折温泉の開湯年次を1390年とする説があり、湯座神社を、肘折開湯時に建立されたとする論がある[誰によって?]。だが、肘折温泉では大同2年(807年)開湯説が広く信じられており、2007年には「開湯1200年祭」が開催された。 共同浴場である「上の湯」横から階段を上がったところが神社である。 境内入口には、火防の御利益がある「秋葉山石碑」が建てられている。瑞鳳寺の南山和尚の揮毫であり、「火禾葉山」と書かれている。江戸時代中期、肘折温泉では大火が頻発したことから、肘折温泉がある南山の地名にちなみ、村民有志が瑞鳳寺に赴いて南山和尚にお願いし、「火禾葉山」と書いてもらった。村民が『秋』ではなく『火禾』である理由を問うたところ、南山和尚は、「秋とは紅葉であり、紅葉は火に通ず。よって火除けのために秋を逆に書いたのだ」と答えたという。 湯座神社は、肘折温泉開湯の地と伝えられる「地蔵倉」へと向かう遊歩道の起点ともなっている。 肘折温泉郷ホームページ", "横山不動尊(よこやまふどうそん)は、宮城県登米市津山町にある曹洞宗の仏教寺院である。 当寺は1156年(保元元年)百済から流れついた仏像を祀って建てられた小堂(現・奥之院)が始まりで、開基は橘知禅と伝えられている。不動堂は津山杉がうっそうと茂る山麓に建つ。本尊は純金製の高さ5cmほどの不動明王像で、高さ約5mの木造の不動明王の胎内に安置されている。空海(弘法大師)の作と伝わる。この本尊は12年に一度、酉年に開帳される。仁王門には仁王像、楼上に十六羅漢像が並んでおり扁額の「白魚山」の揮毫は幕末の三舟の一人として知られる山岡鉄舟による。4月27、28日に春季大祭典、10月28日に秋季大祭典が開催される。 境内には文化財に指定される物件が多くある。 「横山不動」の名で当地方で広く信仰を集めている。一般に丈六といわれる巨像で像高275cm。平安時代、奥州藤原氏の勢力下で作製された。四材をはぎ合わせたカツラ材寄木造で、部材の改変は少なく、両手指のほとんどまで製作時の様相をとどめており、右手に持つ宝剣も当初のものとみられる。1997年(平成9年)6月30日、重要文化財に指定された。 当寺境内の池は、約400年前に造成された。湧水なので四季を通じて水温に変化が少なく、多数のウグイ(コイ科)が生息している。これは不動尊の使いとされ、参詣者から餌を与えられ愛護されてきた。池は東西30m、南北15m、周囲80m程の楕円形で、水深1~1.5m位で底は砂泥質である。池に続く久保川・中川・寺川流域も指定地域になっている。産卵期には雄の腹部が赤くなるのでアカハラと呼ばれており、繁殖期にこれらの川に出て産卵する。1935年(昭和10年)8月27日、天然記念物に指定された。 基座166.7cm、354.5cm、地上総高536.4cm、墓高さ195.4cm。屋根を別々に鋳造し組合わせたもので、塔身は中空。青銅五重塔でこの様に大きいものは珍しい。墓碑は頂上に偏平な宝珠をのせ、正面は地蔵を浮彫にしている。鋳造は仙台の高田定四郎慈延、早山八郎一次が担当している。1765年(明和2年)の作とされる。1957年1月16日、宮城県から有形文化財に指定された。 1994年4月1日、イチョウ、杉、カシが登米市から天然記念物に指定された。 青銅五重塔 横山のウグイの池 山門 仁王像 鉄道 : BRT気仙沼線・陸前横山駅から徒歩8分。 自動車 : 三陸自動車道・桃生津山ICより国道45号を経由し10分。 ^ “木造不動明王座像”. 宮城県. 2018年12月10日閲覧。 ^ a b c d “登米市内指定文化財一覧【平成30年3月1日現在】”. 登米市. 2018年12月10日閲覧。 ^ “横山のウグイ生息地”. 宮城県. 2018年12月10日閲覧。 ^ “青銅五重塔”. 宮城県. 2018年12月10日閲覧。 北海道・東北地方の重要文化財一覧 魚類天然記念物一覧 宮城県指定文化財一覧 横山不動尊 - 宮城の旅 【津山町エリア】横山不動尊 – 登米市" ]
ABC01-02-0188
ローマ数字で100を表すアルファベットはCですが、1000を表すアルファベットは何でしょう?
M
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[ "M", "N", "H", "U", "O" ]
[ "Mは、ラテン文字(アルファベット)の13番目の文字。小文字は m 。ギリシア文字の M μ(ミュー)に由来し、キリル文字の М м と同系の文字である。 2つの字形が使われる。 横に連なる折れ線で、上で2回、下で1回屈曲する4本の直線である。普通は最初と最後の直線が垂直線となる。大文字は一般にこの字形による。 上の屈曲が丸まり、下部は垂直な線となる。一番左の直線はさらに上にまっすぐのびる。左にセリフを出したり左に曲がったりすることがある。右下は右に曲がったり、さらに上に折り返すことがある。小文字はこの字形である。大文字筆記体でこの字形を取ることがある。フラクトゥールはいずれもこの字形に基づき、 M   m {\\displaystyle {\\mathfrak {M\\ m}}} である。 羅・独・仏・英・蘭・葡・イネ:エム [εm]/[em] 西:エメ ['eme] 伯: ême(エミ) 伊:エンメ エス:モー この文字が表す音素は、[m](両唇鼻音)およびその類似音である。 多くの言語で、唇歯摩擦音 [f], [v] の前では異音として唇歯鼻音 [ɱ] になることがある。 フランス語では、同じ単語内の直前に母音があり、直後が母音(発音しない e は除く)か m でなければ、直前の母音を同化し鼻母音にする。このとき、/m/ は発音しない。 ただしリエゾン(「母音+m(語境界)母音」)の場合、/m/は発音され、鼻母音化も保たれる。 「母音+mm+母音」で鼻母音化が起こるかどうかは語による。 これらの振る舞いは n と同様である。 スペイン語では、語末で母音を伴わないとき、[n] になる。 質量 (mass)。 通常の物理量としては小文字イタリック体の m を使う。 大きな質量(2つの質量の大きいほう、天体の質量など)を M で表すこともある。 質量の次元をサンセリフローマン体の大文字 M で表す。密度の次元は [長さ]−3×[質量]=L−3M など。 等級(天体の)(magnitude)。大文字は絶対等級、小文字は実視等級を表す。 月 (month) または 分 (minute)。日時の表現で、YYYY/MM/DD hh:mm:dd などのように使う。大文字・小文字共に使うが、年月日を大文字、時分秒を小文字と区別することもある(ISO 8601 など)。 ローマ数字で1000。 単位 メガ (mega)、またはミリオン (million)。100万。例えば¥100Mは1億円。ビットとバイトに対しては1048576 (= 220) を表すこともあるが、この意味では正式には Mi(メビ)を使う。 マイル (mile)。 モル濃度 (mol/l)。読みはモル、モル・パー・リッター、モラー (MOL per litER)。 磁化 (magnitization)。 地震マグニチュード (magnitude)。例:M 6.5。 化学では、金属元素 (metal)。元素記号の代わりに使い、任意の金属元素を表す。 天体 メシエカタログ (Messier) の符号。M1のようにあとにカタログ番号を続ける。 火星 (Mars)。 月 (Moon)。 ミラ型変光星 (Mira variable)。 文法で、修飾語 (modifier)。S・V・O(主語・動詞・目的語)などと共に使う。 恒星のスペクトル型で、熱温度が2500–3900Kのクラス。 マッハ数 (Mach)。Ma とも。 修士号 (master) の略。M1と表記されれば修士課程1年生の意。 行列環 明朝体 (mincho)。MMは中明朝を表す(2文字目のMはmedium)。 モトローラ製を表す携帯電話端末型番の文字。M702iG, C100Mなど。 ただし、アステルでは三菱電機製端末を表わしていた(通常は「D」)。 電車の車種で、電動車(モーター付車両)。対義語は「T」(付随車、モーターなし車両)。JRの列車番号は、別に指定がない場合、電車列車の末尾にMを付番する。 カラー印刷でのマゼンタ (magenta)。CMY・CMYK色空間の原色。 Mモード。超音波検査方法。 BMWの高性能モデル開発部門子会社 BMW M。 商品名 メルセデス・ベンツの車種のMクラス。 日産自動車の高級乗用車インフィニティ・M。かつてのY34型グロリアの北米地域輸出名で、日本国内ではフーガに当たる。 ソフトウェア開発工程における製造(実装、コーディング)(make)。 海図の記号で「底質が泥」(mud)。 マクドナルド のロゴ。 メタルハライドランプ。構内電気設備配線用図記号(JIS C 0303:2000)で用いられる。 建物などで中何階を表す(例:中2階→M2F)。一般的には地上階では中○階は○階の下で、地下階では中地下○階は地下○階の上となる(中1階・中地下1階は存在しない)。 地下鉄 (metro)。地図標示やロゴに使われる。 オーストラリアの大都市圏の幹線道路ナンバリングシステム・メトロード (Metroad)。路線番号「M3」など。 駅ナンバリングでの路線符号。 東京メトロ丸ノ内線 (Marunouchi) 大阪市高速電気軌道御堂筋線・北大阪急行電鉄 (Midosuji) 名古屋市営地下鉄名城線 (Meijo) マルタ (Malta)の自動車用国際識別記号。 男性 (masculus, male) 中間・中庸 (medium, middle など)。 洋服などの普通サイズ。小さい (small) S・大きい (large) L などに対す。 中間のウェイト(線の太さ)の書体。 言語学で「中期」。ME(中英語)など。 マゾヒズム・マゾヒスト (masochism, masochist)。 古代ローマ人の個人名マルクス (Marcus)。 日本のプロ野球球団千葉ロッテマリーンズ (Marines)。 野球のマジックナンバー。 イアン・フレミングのジェームズ・ボンドシリーズに登場する架空の人物であり、イギリス情報局秘密情報部(MI6)の局長である。M。 ロビン・スコットによるイギリスの音楽ユニットM。 コンピュータゲームのレイティングで mature。 ESRB(アメリカ)では「17歳以上対象」。 OFLC(オーストラリア・ニュージーランド)では「15歳以上推奨(豪)」または「16歳以上推奨 (NZ)」。 任天堂のゲームキャラクターのマリオ (Mario)。 長調 (major)。ただし一般的にはMは省略されて単にA(イ長調)のように書かれることが多い。また、長三和音のコードネームもMは省略されることが多い。 浜崎あゆみの歌「M」。 プリンセス・プリンセスの歌「M」。 フリッツ・ラング監督・ピーター・ローレ主演、1931年のドイツ映画『M』。 廣木隆一監督・美元主演、2007年の日本映画『M』。 イ・ミョンセ監督、カン・ドンウォン主演、2007年の韓国映画『M』 桂正和の漫画『M エム』。 単位 メートル (metre)。 ミリ (milli)。1⁄1000)。 時間の単位の分 (minute)。ただし正式な単位記号は min。 m と n(斜体)で、2つの自然数 (natural) あるいは整数を表す。n の前の文字として選ばれたためで、m 自体の由来はない。 磁気モーメント (magnetic moment)。 m- でメタ (meta) 位を表す。 文法で男性 (masculus)。 文字 m の幅。mダッシュ (―)、mスペース ( ) など。幅の狭い nに対する。 自動車メーカー・マツダの1970年代中期まで使用された丸型ロゴは小文字でサンセリフの\"m\"の書き始めと書き終わりをそれぞれ長くし、丸の中に収めたもの。 英語で am の短縮形 'm。 真夜中 (midnight)。正午 (noon) と対になる。 フラクトゥールで極大イデアル(とくに局所環の極大イデアル) 短調 (minor)。Am(イ短調)など。 Ḿ - アキュート・アクセント Ṁ(中国語版) - ドット符号 Ṃ(フランス語版) Ɱ(英語版) - フックつき文字", "Nは、ラテン文字(アルファベット)の14番目の文字。小文字は n。ギリシャ文字の Ν ν (ニュー) に由来し、キリル文字の Н н と同系の文字である。 2つの字形が使われる。 2本の縦棒と、それを結ぶ左上がりの線から成る。大文字は一般にこの字形による。 円の上半分の半円の2つの端から下に直線を延ばし、左の直線からさらに上にもまっすぐ延ばした形である。この直線の上端から左にセリフを出したり上端が左に曲がったりすることがある。右下は右に曲がったり、さらに上に折り返すことがある。小文字はこの字形である。大文字筆記体でこの字形を取ることがある。フラクトゥールはいずれもこの字形に基づき、 N   n {\\displaystyle {\\mathfrak {N\\ n}}} である。 羅・独・仏・英・蘭・イネ:エヌ(エン)  聞く[ヘルプ/ファイル] 西:エネ 伊:エンネ エス:ノー 越:エンノ この文字が表す音素は、「歯茎鼻音」/n/ ないしその類似音である。 鼻音を代表する子音字として用いられることも多く、後続の子音に同化した同器官的鼻音になりやすい。 フランス語では、同じ単語内の直前に母音があり、直後が母音(発音しない e は除く)か n でなければ、直前の母音を同化し鼻母音にする。このとき、/n/ は発音しない。 ただしリエゾン(「母音+n(語境界)母音」)の場合、/n/ は発音され、鼻母音化も保たれる。 「母音+nn+母音」で鼻母音化が起こるかどうかは語による。 これらの振る舞いは m と同様である。 英語では、軟口蓋音(k・g)に先行する場合、同化され [ŋ] となる。ただし ng は二重音字として2文字で [ŋ] を表すこともある。 日本語のローマ字表記では、な行の子音の他、「ん」の表記に用いる。日本語の「ん」には、後続する音によって[m], [n], [ŋ]などいくつかあるが、訓令式では全てnに統一、ヘボン式では[m]と発音されるもの(b、m、pの前)以外をnで表す。 朝鮮語のローマ字表記では、文化観光部2000年式、マッキューン=ライシャワー式共に初声、終声両方の「ㄴ」に用いられる。また、ngで終声の「ㅇ」を表す。 ng [ŋ](軟口蓋鼻音) : インドネシア語・ベトナム語など東南アジア諸言語や、英語・ドイツ語などのゲルマン諸語、中国語の拼音 gn [ɲ](硬口蓋鼻音) : フランス語・イタリア語 nh [ɲ](硬口蓋鼻音) : ポルトガル語・ベトナム語 自然数 (natural number) 通常は小文字斜体 n を使う 大文字太字の N あるいは N {\\displaystyle \\mathbb {N} } は自然数全体の集合 扱っている中で最も大きな整数、あるいは、非常に大きな整数。母集団の数、医学で被験者数などの場合は大文字を使う。 ドイツ語で主格 (Nominativ) 窒素 (nitrogen) の元素記号。 中性・中立 (neutral)。 単位 ニュートン (newton)。力の単位。 化学で規定度 (normality)。 ネナ (nena)。ジム・ブロワーズ (Jim Blowers) が私的に提案した接頭辞で1057。 解剖学・生理学で神経 (neuron)。 核子 (nucleon) 海王星 (Neptune) 正規化群 ティッツ系((B, N) 対)の N 中性/中立(ニュートラル、neutral) 負性/負極(ネガティブ、negative) 高圧ナトリウムランプ。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。 単5形乾電池。単4形よりも径が太く高さが低い。日本では単5形と呼ばれる乾電池の種類。 N値 - 建築・土木工事を始めるにあたって、予め地盤の強度を調査するための標準貫入試験に基づく指標。 自動車の国際識別記号では、ノルウェー (Norway)。 駅ナンバリングでの路線符号。 東京メトロ南北線 (Namboku) 大阪市高速電気軌道長堀鶴見緑地線 (Nagahori-Tsurumi ryokuchi) 札幌市営地下鉄南北線 (Namboku) JR四国鳴門線 (Naruto) フランス トランジリアンモンパルナス線。 南アフリカ共和国のナショナルロード (national road)。N1は1号線、など。 北 (north)。磁極の N 極も north による。対義語は南を表す S。 否定 (no, not)。Y の反対 テレビ番組表でニュース番組。「N」で表す。 自動車やオートバイのギアポジションのニュートラル。 新型・新形式 (new)。従来形式と同一の名称が使用される場合に、区別のため接頭もしくは接尾に付されることがある。 チェスの棋譜などでナイト(kNight)(Kはキング)。将棋でもナイトに相当する桂馬を表す。 性風俗業界で、生(なま)。 鉄道模型の規格名称、Nゲージ・Nスケール。軌間9mm、縮尺が1⁄148–1⁄160の鉄道模型の規格呼称。転じてN・Nスケールの名称は1⁄148–1⁄160の模型製品全般の縮尺呼称としても使われる。 イカロス出版のNゲージ専門誌『N(エヌ)』 ヌメロン(Numer0n) 日本における貸金業の登録番号で、出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律により特例で高金利が認められていた日賦金融業者(日掛け金融)・電話担保金融業者の登録回数を示す数字につけられる符号(グレーゾーン金利が廃止された2010年にこの特例も廃止)。 ZONEの3枚目のアルバム『N』。 田村直美の2枚目のアルバム『N'』。 ニンテンドーDS用ゲームソフト『ポケットモンスター ブラック・ホワイト』の登場人物。 漫画DEATH NOTEの登場人物ニアの別名。 自然数 (natural number) または整数。 名詞 (noun)。 ナノ (nano)。10−9(10億分の1)。 中性子 (neutron)。 体積密度。 電車等、鉄道車両(旅客車)の用途を表す副記号(サフィクス)で、寝台車。単独の n は通常は B 寝台車(A 寝台車は特別車の記号と組み合わせて sn)。 英語で and の略。rock’n’roll など。 文字 n の幅。nダッシュ (–)、nスペース ( ) など。幅の広い m に対する。 分(時間の)(miNute)。Visual Basic などで、月 (month) と区別するために使われる。 正午 (noon)。真夜中 (midnight) と対になる。 染色体の数を表す際に使用する。二倍体の場合は2n。=をつけ、その後ろに染色体の数を記す(例:ヒトの場合、2n=46)。 フラクトゥールでリー環のある主の部分環(三角分解 g = n− ⊕ h ⊕ n+) Ñ ñ - ティルデ Ń ń - アキュート・アクセント Ņ ņ(ドイツ語版) - セディーユ Ň ň - ハーチェク Ṇ ṇ(ドイツ語版) - サンスクリット N̂ n̂ - サーカムフレックス N̄ n̄ - マクロン Ɲ ɲ Ŋ ŋ", "H は、ラテン文字(アルファベット)の8番目の文字。小文字は h。 はじめの字形がある。 2本の縦棒とそれを中央で結ぶ横棒から成る。大文字は普通この字形である。 右の縦棒の上半分を欠く。右の角は丸まり、左の交点も同じ方向に丸まる。小文字はこの字形である。フラクトゥールは H   h {\\displaystyle {\\mathfrak {H\\ h}}} のように、大文字、小文字ともこの字形である。 ラテン語・ドイツ語・オランダ語・インドネシア語、スラヴ語: ハー フランス語: ache(アッシュ) イタリア語: acca(アッカ) スペイン語: hache(アチェ) 英語: aitch, eitch(エイチ)/eɪtʃ/ アイルランド英語/オーストラリア英語: haitch(ヘイチ)/heɪtʃ/ ポルトガル語: agá(アガー) エスペラント・フィンランド語・スウェーデン語・ノルウェー語、デンマーク語: ホー 越南語: ハ これらの呼称は ラテン語「ha」→後期ラテン語 \"aha\" → \"ahha\" → \"accha\" →イタリア語 \"acca\" →スペイン語 \"hache\" → フランス語 \"ache\" → 英語 \"aitch\" というような推移によるものと考えられている。 なお、英語名は、当初古いフランス語そのままにおおむね [aːtʃə] のごとく発音していたが、その後の規則的な変化(大母音遷移)により現在の音 [eɪtʃ] になっている。現在の英語では一般に単音節語の -aCe を [-eɪC] と発音する(ここで C は任意の子音とする)ものの、C にあたる位置に ch [tʃ] が立つ場合についてはほとんど例がないため、H [eɪtʃ] を ache と綴ることは通常行われない。ache という綴りは [eɪk] と発音する別の語彙に当てられている。 ドイツ語や英語では原則として無声声門摩擦音/h/ないしその類似音を表す。ドイツ語では語頭以外で前に母音、またはt,rを伴うhは発音されない(複合語中のhは元の単語の発音に準ずる)。また、その前の母音を長く伸ばすように作用し、英語でもそうなる場合があり、この場合hの文字そのものは発音されない。 ドイツ語ではiの前で無声硬口蓋摩擦音[ç]を表すこともある(例えばHitomiなど)。 ポーランド語や中国語のピンインでは無声軟口蓋摩擦音/x/を表す。 多くのロマンス語では発音されない。 フランス語では、「無音のh」と「有音のh」の2種類がある。両者とも単独では発音されることは無いが、有音のhで始まる単語はリエゾン・エリジオン・アンシェヌマンを起こさない(語頭以外のhはこの区別を考える必要は無い)。黙字#フランス語も参照のこと。 イタリア語では発音に関わらないhについては、英語のhaveに相当する動詞avereの活用、感嘆詞、外来語を除き、書かれなくなった。なお、hはcやgの後ろに置かれてcやgを/k/や/g/の発音に保つ働きを持つ。 例外的に、ルーマニア語では/h~x/で発音される。ch, ghはイタリア語と同じ。 多くの言語で、\"ch\", \"ph\" などのように他の子音字の後ろに置かれ、類似の別音を表す。摩擦音になることが多い。 他の子音字の後ろに置いて有気音を表すことがある。タイ語やヒンディー語などの有声無声の区別、有気無気の区別の両方がある言語のローマ字表記で使用される。 日本語のローマ字表記ではハ行の子音に用いる。但しヘボン式では「フ」の子音は他のハ行の子音と異なる為別の字 (F) を用いる。また、「ヒ」の子音も他のハ行の子音と異なるが、これには訓令式でもヘボン式でも他のハ行と同じHを用いる。長音の表記に使用する場合もある(佐藤='Satoh'という具合)。 朝鮮語のローマ字表記では初声の「ㅎ」に用いる。一般的ではないが、イェール式等、激音を示す為にも使用される表記法がある。 ギリシャ文字のΗ(エータ)に由来し、キリル文字のИとは共通の祖先を持つ文字である。現在のΗやИが母音字なのに対し、このHが/h/を表すのは、Ηの古い音韻(ヘータと呼ばれ、/h/を表した)に基づくものである。 任意の17<N≤20に対するN進数において、十七(十進数の17)を1桁(1文字)で表すのに用いる。 水素の元素記号。 インダクタンスのSI組立単位、ヘンリー(大文字)。 電磁気学における磁場(磁界)の意。 熱力学におけるエンタルピーの意。 解析力学におけるハミルトニアンの意。 天気図における高気圧 (High pressure area) の意。 洋楽の、ドイツ音名の1つ、「ハー」。イタリア式では「si」、日本式では「ロ」、英米式や中国式では「B」に相当。→ロ (音名) 音階の7番目の音であることから、音楽関係者の間で7を表す隠語として使われる。例:H(ハー)万=7万(円) 大文字太字のHあるいは H {\\displaystyle \\mathbb {H} } は、数学において四元数 (Hamilton) の全体を表す。 コンピュータプログラムで数値リテラルが十六進数 (Hexadecimal) であることを示す接頭辞または接尾辞。(例:マイクロソフト系BASICにおける「&HC9」、Z80のアセンブリ言語における「0C9H」) 接眼レンズの中で、ホイヘンス形式を表す。 真空管の端子の1つ。ヒータ (Heater) (コ)ホモロジー 高さ (height) の量記号 100倍を表すSI接頭辞ヘクト 時間(英: hour、仏: heure)を表す単位(小文字)。 例:1h23 = 1時23分。 熱力学における比エンタルピーの意。 量子力学でプランク定数。 (h = 6.6260693(11)×10-34 J·s) 。 C言語のヘッダファイル(ライブラリ)の拡張子。例 \"stdio.h\" = 標準入出力のライブラリ hパラメータ、h行列。 フラクトゥールでリー環、とくにカルタン部分環 コクセター数 平成の略記。 ドクターH - アニメ「チキチキマシン猛レース」の登場人物。 鉛筆の芯の硬さを表す記号。Hard の頭文字。Fより硬く、以降硬くなるに従って2H、3H…となり、一番硬いのは9H。 エッチの意(hentaiの頭字)。 高さ (Height)。⇔W(幅 Width)。 スリーサイズのうちのヒップ (Hip)。 湯 (Hot) を表す記号。 ホテル (hotel) を指す記号。 ハードル競走の略。「100mH」「110mH」など。 写植において、歯 (0.25mm) の略。 国鉄・JR等の機関車で、動軸を8軸有するものの形式に付される記号。EH10、EH500、EH200。 水銀灯。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。HID灯の図記号に傍記。 医用コンセント。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。コンセントの図記号に傍記。 位置表示灯内蔵スイッチ。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。スイッチの図記号に傍記。 電気業界で日立製作所を表す符丁。 auでも日立製作所製端末の略号。 東海道新幹線でも、開業当初は日立製の編成を「H編成」と称していた。 ホールド (hold) の略。 日本のプロ野球球団福岡ソフトバンクホークス (Hawks) の略号。 ケッペンの気候区分における、高山気候を表す。 日本の地下鉄における駅ナンバリング制度では、札幌では札幌市営地下鉄東豊線(ToHo、東西線がTを使うため)、東京では東京メトロ日比谷線 (Hibiya)、名古屋では名古屋市営地下鉄東山線 (Higashiyama) を表す。 JR西日本の近畿エリアの路線記号で、JR東西線・片町線(学研都市線)を表す。 水平対向エンジン (Horizontally Opposed Engine) の略。 石井竜也のオリジナルアルバム→H (石井竜也のアルバム)。 「H」又は「コミックH」は、株式会社ロッキング・オン (rockin'on) から出版された雑誌。 田中康夫の小説→H (小説)。 浜崎あゆみのシングル。H (シングル)。 フランスの自動車メーカーシトロエンが1947年から1981年まで発売していた貨物自動車→Hトラック(アッシュトラック)。 桜井まちこの漫画。→H-エイチ-。 きんこうじたまの漫画。→H (アッシュ)。 2002年公開の韓国映画。→H [エイチ]。 英語の疑問詞におけるHow。詳しくは記事「5W1H」を参照のこと。 韓国 (Hanguk) の略称に使われることがある。 ホームストレッチ (Homestretch) - 陸上競技場・競馬場・競輪場などで、決勝線のある側の略。HSとも。 Ĥ ĥ - サーカムフレックス Ħ ħ - ストローク Ḧ ḧ - トレマ Ḩ(ドイツ語版) ḩ - セディーユ Ȟ(ドイツ語版) ȟ - キャロン Ḣ(フランス語版) ḣ - ドット Һ һ - キリル文字", "Uは、ラテン文字(アルファベット)の 21 番目の文字。小文字は u 。V、W、Yとともにギリシャ文字のΥ(ウプシロン)に由来し、キリル文字のУに相当する。Υ(ウプシロン)の別形に由来するFとも同系といえる。元来のラテン語字母には存在しない文字であり、中世になって、それまで/u/と/w/の両方を表していたVから、/u/を表すために分離した文字である(V#歴史参照)。 Vの下部を丸めた形であり、下半円の両端から上にまっすぐ直線をのばした形である。小文字や大文字の筆記体では、右の直線を下にも延ばして、ベースラインに達する。その手前で右に曲がることがある。フラクトゥールは U   u {\\displaystyle {\\mathfrak {U\\ u}}} 。フラクトゥールの筆記体では、小文字の下部をとがらせるため、区別のためにŭのように上に下半円を書く。 [u](ウ): スペイン語・イタリア語・インドネシア語・ポーランド語・チェコ語・エスペラント [u˧](ウ): ベトナム語 [uː](ウー): ドイツ語 [y](ユ): フランス語・オランダ語 [juː](ユー): 英語 [jɯː](ユー): 日本語 この文字が表す音素は、おおむね/u/ないしその類似音である。しかしながら、稀に単独の子音を表す場合もある。 フランス語、オランダ語では唇を丸めてイと発音する音/y/(円唇前舌狭母音、ドイツ語のüとほぼ同じ)。フランス語は発音する母音の前ではその半母音/ɥ/(IPA) = /H/(X-SAMPA)である。/u/を表すには、フランス語はou, オランダ語はoeと表記する。フランス語の正書法に近づけた発音表記では、IPA の [y] をあらわすことがある。そのとき、IPA の [u] は /ɯ/ であらわされる。 フランス語・イタリア語・スペイン語では、[w]は/u/の異音である。 英語では大母音推移の結果、強勢(アクセント)が置かれる場合、長母音では「ユー」、短母音では鋭い「ア」(やや前進した非円唇後舌広半母音)となる。ただし後者は、読みにくさをさけるためにoと書かれるようになったものがある。唇音の直後では円唇後舌広め狭母音で読まれることが多い。また、まれに「イ」と読まれる。語末には出現しない。 日本語のローマ字表記では、訓令式、ヘボン式共にウ段の母音に使われる。 朝鮮語のローマ字表記の文化観光部2000年式では、母音ㅜを示す。また、ㅡ、ㅠ、ㅢもeu,yu,uiとuを含む綴りとなる。但し、人名や企業名等ではこの表記法に従わずㅓ、ㅕをu,yuで表していることもある。(例:삼성→Samsung) 中国語の漢語拼音では、介音 /u/ を含む韻母の表記に使われる。ただし、声母(頭子音)が付かない場合は、wになる。「五」「烏」など主母音、尾音無しで介音 /u/ のみの場合、発音は /u/ であり、半母音 /w/ が発音されるわけではないが、wu と表記する。そのためuで始まることは無い。 ドイツ語ではqとともに綴られるとき、なんとこの後ろのuがwと同じ [v] (有声唇歯摩擦音)の発音を表す。 ウラン (uranium) の元素記号。 ジム・ブロワーズによる非公式単位接頭辞 ウダ (uda)。1036。 フォントウェイト(線の太さ)が極太 (ultra bold)。例 : ゴナU、新ゴU UHFテレビ局。(例:独立U局) 数学記号 普遍集合 (universal set) ユニタリー (unitary) - ユニタリ行列、ユニタリ群 U統計量。 量記号 内部エネルギー 熱貫流係数 自動車排出ガス規制コード(平成元年(1989年)規制) 東京の駅ナンバリングでゆりかもめ東京臨海新交通臨海線(Yurikamome の2文字目)。 京浜急行電鉄で、京急本線の終着浦賀駅方向を向く車両の副記号。 人物 U (女性歌手)。 MCUの旧名。 U (男性歌手)。エイベックスより歌手としてメジャーデビュー。城田優の別名。 U (グラビアアイドル)。台湾出身のグラビアアイドルで金城武の長兄の娘。 音楽作品 U - DOUBLE (歌手)の曲。 U - スーパージュニアの曲。 19インチラックに収納されるように設計された機器の高さの単位。1U=1.75インチ (44.45mm) 。 かつてニコンから発売されていた35mm判一眼レフカメラ。 米空軍、航空自衛隊などでの汎用機(雑用機、多目的機とも)。連絡任務や捜索救難、飛行点検などに用いる機体が多い(U-125Aなど)。例外的にU-2は偽装のための符号で実際は汎用機ではない。ヘリコプターの場合はUHとなる。 以下 (under)。主に年齢を表す。U-17など。 Unicodeでは、U+ 4-8桁(足りなければ0詰め)、またはU-8桁の16進数でUnicode文字を示す。例:U+3042、U-00003042 未確認 (unidentified)。UFO、UMA等。 三菱UFJ銀行の旧UFJ店。U店とも称される。 東北新幹線E5系量産編成を表す。試作車はS11編成。 [U]は、英語の辞書などにおいて不可算名詞(uncountable noun)を表す記号。 ミクロネシア連邦ポンペイ州の行政区画の一つ、U(ウー)。ウー (ポンペイ州)を参照。 経済学で、効用(utility)より、効用関数を表す。 10−6 倍のSI接頭語 μ(マイクロ)の代用字。 ジム・ブロワーズによる非公式単位接頭辞 ウント (unto)。10−36。 冪単根基 (unipotent radical) 。 u = 1 3 {\\displaystyle u={\\sqrt[{3}]{1}}} など。 北海道旅客鉄道のuシート専用車両の副記号 統一原子質量単位 (unified atomic mass unit)。質量の単位。 英語で、you(あなた(達))の意味で用いることがある。例:4u = for you C言語、Java、C#などでUnicode符号を表すためのエスケープシーケンス。 Ù ù - グレイヴ・アクセント Ú ú - アキュート・アクセント Û û - サーカムフレックス Ü ü - ウムラウト - トレマ Ū ū - マクロン Ŭ ŭ - ブレーヴェ Ů ů - リング符号 Ű ű - ダブルアキュート Ų ų - オゴネク Ư ư - ホーン符号 Ũ(ドイツ語版) ũ - ティルデ Ü ü - ウラン", "Oは、ラテン文字(アルファベット)の15番目の文字。小文字は o 。ギリシャ文字の Ο(オミクロン)に由来し、キリル文字の О と同系の文字である。 円である。従って、アラビア数字の 0(ゼロ)と同じ形であり、タイプライターによっては 0(ゼロ)をこの字の大文字で代用することもあるが、現在のコンピューターでは別の文字として扱う。区別のために、0(ゼロ)に斜線を引いたり(斜線付きゼロ)、この字の大文字の上部に筆記体のようなヒゲを付けたりすることがある。 手で書く場合には円の頂点から反時計回りに円を描く。筆記体では、 小文字では円の上部で他の文字と接続する。単独で書く場合や語の最後の場合にも、円の上部から右方に、次の字に続くかのように線を書く。 大文字では、円を描いた後に円の上部内部に小さく円を描いて、外側の円の外に線を導く。 フラクトゥールでは、 O   o {\\displaystyle {\\mathfrak {O\\ o}}} である。 羅・独・蘭・イネ・日・エス:オー /oː/ 伊・仏・西・越:オ /o/ 英:オウ /oʊ/ この文字が表す音素は、/o/ ないしその類似音である。 イタリア語では、強勢位置では語によって円唇後舌狭半母音または円唇後舌広半母音、他の位置ではほぼその中間音で発音される。 英語では強勢が置かれる場合、大母音推移により、短音は /ɒ/、長音は /əʊ/ となる。強勢のない場合には曖昧母音化する。また、u の代わり(非円唇中舌狭め広母音)に用いられる。これは、綴字上縦に書かれる線(ミニム)の多かったものを、その見づらさを解消するために置き換えられたものである。 (例)luve→love, cume→come 酸素の元素記号 座標の原点を表す記号。 円の中心を表す記号。 ABO式血液型の1つ。O型。 文法で目的語 (object)。 数学で、大文字で用いて原点 (origin)、直交群 (orthogonal group)、零行列、小文字フラクトゥールで直交リー環、カリグラフ体などで代数体の整数環、正則関数の層、圏 O(英語版)、大文字太字 O で八元数の全体を表す。 計算複雑性理論や解析学で使われるランダウの記号(O 記法) 非SI接頭辞(ジム・ブロワーズ (Jim Blowers) の提案) オカ (ocha)(1054)(大文字) オトロ (otro)(10−54)(小文字) 化学で、オルト (ortho) 位を o- で表す。 O抗原 - 大腸菌の抗原のうち菌体抗原を指す。例・O157 電気業界で沖電気を表す符丁 Oゲージ鉄道模型またはOスケール - 1フィートを7mmとする縮尺1/43.5から、1フィートを1/4インチとする縮尺1/48までの模型の規格名称。 2001年のアメリカ映画→O (映画) 野球のテレビ中継画面や球場内電光掲示板における、アウトカウントの略表記 (Out)→アウト (野球) 日本のプロ野球チーム千葉ロッテマリーンズの前身球団「ロッテオリオンズ」の略号 (Orions)。 衣類のサイズ記号の1つ。L サイズより大きく、LL サイズと同義で使われる場合もある。 島みやえい子のアルバム。→O (島みやえい子のアルバム) ZONE のアルバム。→O (ZONEのアルバム) 大黒摩季のアルバム。→O (大黒摩季のアルバム) 音楽ユニット。→O [ou] アイルランド系の英語姓の接頭語。オブライエン (O'Brien) やオニール (O'Neill) など。元来は「-の孫」「-の子孫」という意味。例えばO'Brienはブライエンの子孫(孫)の意。 ウェブブラウザのOpera。CSS3のベンダープレフィックスでは\"-o-\"と記述する。 O は形が 0(ゼロ)とほぼ同じで紛らわしいため、略号としての使用は避けられることも多い。 電気抵抗の大きさの単位オームの記号は長音のOに対応するギリシャ文字であるΩとしている。 日本の鉄道における駅ナンバリング制度では、東京の都営地下鉄大江戸線の路線記号は頭文字の O でなく2番目の E を採用した。 ^ \"O\" Oxford English Dictionary, 2nd edition (1989); Chambers-Happap, \"oes\" op. cit. Oes is the plural of the name of the letter. The plural of the letter itself is rendered Os, O's, os, o's. Ò ò - グレイヴ・アクセント Ó ó - アキュート・アクセント Ô ô - サーカムフレックス Õ õ - ティルデ Ö ö - ウムラウト Ø ø - ストローク符号 Ő ő - ダブルアキュート Ơ ơ - ホーン符号 Ǫ ǫ - オゴネク Ō ō - マクロン Ǭ ǭ - オゴネク + マクロン Œ œ - 合字 Ɵ(英語版) ɵ º - 男性略語記号" ]
ABC01-02-0189
野球でスコアといえば得点のことを指しますが、オーケストラでスコアといえば何のことを指すでしょう?
楽譜
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[ "楽譜", "ハルモニームジーク", "協奏交響曲", "総譜", "原典版" ]
[ "楽譜(がくふ)は、楽曲を演奏記号や符号などの記号によって書き表したものである。一般に、西洋音楽に発祥したものを指すが、世界の音楽において、様々な楽譜が存在している。また、この記号化の規則を記譜法といい、楽譜を譜面と呼んだり、単に譜と呼んだりもする。 楽譜は、ことばを記録する文字と役割が似ているが、文字が必ずしも朗読されることを目的として書かれるのでないとの対照的に、楽譜はほとんどの場合演奏されることによって目的が達成される所が大きく異なる。 文字では筆記者の意図を書き記したものと語られている内容を書き取ったものとがあるのと同様に、楽譜にも筆記者(作曲家・編曲家など)の意図を書き記したものと演奏を書き取ったものがあり、楽譜の作られ方に若干の相違が生じる。 また、音楽の記録のためには、音そのものを録音するという方法があり、この方法は音楽の微細な表情を記録するのに非常に有効である。しかし、録音が演奏の記録にすぎないのに対して、楽譜には音を使わずに読むことができるので演奏しながら読むことができる・演奏のためのさまざまなヒントを記すことができる・時間の流れを越えて視覚的に把握することができる・といった特徴があり、録音に取って代わられるものではない。 作曲においては楽譜という形で記す事で、楽曲の全体の構成を整えたりするという効用がある。また一方、楽譜を読み書きする技能は作曲や演奏・歌唱には絶対に必須のものではないため、楽譜が読み書きできない作曲家(例:ヴァンゲリス)や演奏家・歌手(例:ポール・マッカートニー)は少なくない。エロル・ガーナーはジャズの名曲・「ミスティ」の作曲家として有名なピアノ演奏家だが、独学でピアノ演奏を会得していたために楽譜の読み書きができず、ある日飛行機で移動する最中にふと頭に浮かんだメロディを記すすべがなかった。彼は到着した先のホテルのピアノとテープレコーダーを急遽借りて、演奏し録音する事でメロディの亡失を防いだ逸話が残っている。 5本の線を基にした五線記譜法による五線譜は、西洋音楽発祥で、現在最も広く用いられている。音高軸と時間軸とを持った点グラフの一種とみなされる五線には、音符や休符以外にも、音部記号や拍子、調号、臨時記号、また、文字を用いて示すものと、それ以外のマークやシンボルによる演奏記号、言葉による標語などがある。これの発展した形にはクラウス・カール・ヒューブラーの楽譜のようにすべてのパラメーターを数段に分けて書いたものがある。完全に記譜できる反面演奏には極度の難解さを持っている。 フルスコア(総譜・スコア) 管弦楽や吹奏楽など合奏用の楽譜で、各パートのすべての音が記載されているもの。普通は指揮者用のA3以上の大型スコアを指すが、作曲家や音楽学者の研究用にミニチュアスコア(Taschenpartitur・独)の方が多く存在し内容は全く同じである。 コンデンススコア(ミニスコア) 総譜を、見やすいように、ピアノでも弾けるようにまた指揮のレッスンでも使えるようにコンパクトにまとめたもの。 大譜表(ピアノ譜) ト音記号、ヘ音記号の2段からなる楽譜。総譜をコンパクトにまとめたり、鍵盤楽器用の曲を記したりするときに使われる。 パート譜 管弦楽や吹奏楽など合奏用の楽譜で、それぞれのパートを演奏するのに必要な楽譜だけが抜き出してある楽譜。総譜の対義語。ヨーロッパには合唱の楽譜にも各パート譜がありボーカルスコアを使わないことが多い。 ボーカルスコア 声楽の含まれるオーケストラのフルスコアから、オーケストラのパートをピアノに直したもの。声楽のためのパート譜として使ったり、声楽がピアノで練習するときに使う。 リード・シート(Cメロ譜) 原曲のメロディとコード・ネームとが書かれている単純な楽譜。ジャズなどのポピュラー音楽で、アドリブ演奏をされることを目的としている。 文字譜 タブラチュア 奏法譜と訳され、一般にはタブ譜と呼ぶ。現在ではギターの奏法(弦の押さえ方が記されている)を示すために多く使われる。 一線譜(一本線) 明確な音程を持たない打楽器の記譜に用いる。明確な音程がない打楽器は必ず一線譜で記譜されるというわけではなく、音部記号を持たない五線譜で記譜されることもある。 図形楽譜 時間と音程を表した空間の中に線や幾何学図形などの図形で音を表す楽譜。芸術性のある視覚効果を狙ったものや、固定した時間軸と音程軸で表した空間に長い四角の図形を使い音を表したものまで様々。この手法を用いる作曲家としてはジョン・ケージやスティーヴ・ライヒ・モートン・フェルドマンなどの前衛的音楽家が多い。MIDIなどの電子音楽では細かい演奏データを忠実に再現できるために、五線譜より精細な記法として図形楽譜的な視覚化を行って作曲・編曲されることがある。ピアノロールは楽譜として見るよりも実際にピアノに押し込んで演奏させる演奏媒体として見られる。現在では図形楽譜を用いる目的は五線譜で表現できないパッセージや雑音のみを記譜する場合が多い。 文字楽譜 ケージの「4分33秒」やシュトックハウゼンの「7つの日々」の音楽のように演奏すべき事柄をすべて文章によって記述した「楽譜」。「絵による楽譜」のように不確定要素が多く、演奏者の感性によって全く違う音楽が奏される一種の即興音楽として見られる。 ムトウ記譜法 ムトウ音楽メソッドを基に作られた、3本の基線で表す楽譜であり、3線譜ともいう。音部記号は変化記号はなく、音域は数字で表され、黒鍵の音にはそれぞれに独立した名称がついている。 工尺譜 博士(声明) 西洋のネウマ譜に相当する。 文化譜(三味線) 弦名譜(箏) 三味線や箏の楽譜は、一般に、楽器の演奏の仕方を書き記したタブラチュアに分類される楽譜で書かれる。弦名や勘所名、奏法、口三味線などの唱歌(しょうが)によって示される。極簡単な例は例えば篠笛#楽譜参照。 尺八の楽譜 文字譜とは古代ギリシアで用いられた記譜法。歌詞の上に音高を文字で記す。オクシリンコス・パピルスに現存する最古(紀元280年)のキリスト教(東方諸教会)の聖歌とされる『三位一体の聖歌』(オクシリンコスの賛歌)がギリシア記譜法で記されていた。 紀元前3世紀ごろの石版にアポロンへの讃歌が刻まれており、讃歌の詩行間に文字があり楽譜を意味するといわれている。紀元後3世紀ごろにアリュピオスがこれらの文字を一覧表にし古典ギリシアの記譜法を書き残している。 9世紀頃、ネウマ譜による最古の聖歌集が現れた。これはキリスト教ローマ典礼で用いられるグレゴリオ聖歌のためのもので、最初は左から右に曲線と直線のみで音の長さと高さを表していたが、次に基準となる音程の位置を水平の線1本で標記する様になり、更に、それが4本、5本となり現代の楽譜と同じ形式になった。ちなみに現代のカトリック教会で使用されるネウマ譜は音の高さを表す線が4本のものである。 1025年頃、グイード・ダレッツォが4本の線の上に四角い音符を書くという、現在の楽譜の表記法の原型を考案した。 機械で印刷された楽譜が初めて登場したのは1473年のことで、これはヨハン・グーテンベルクによる活版印刷技術の開発から20年後にあたる。1501年にオッタヴィアーノ・ペトルーシが、おもにジョスカン・デ・プレとハインリヒ・イザークの曲、96曲を印刷して収録した Harmonice musices odhecaton を発行した。ペトルーシの印刷技法による楽譜はきれいで読みやすかったが、楽譜が出来るまでに五線、文字、音符の順に3度の印刷が必要となり、時間も手間もかかる作業だった。1520年頃のロンドンで、楽譜の印刷が1度の印刷でできるようになり、1528年にフランスのピエール・アテニャンはこの技術を広めた。 1575年にエリザベス1世がトーマス・タリスとウィリアム・バードに楽譜の独占印刷権を与えた。1596年にその期限が切れると、独占権はトーマス・モーリーに渡った。 楽譜の線が5本に落ち着いたのは、17世紀に入ってからで、それまで教会の聖歌隊は、音域が1オクターブなので4本。音域が広い鍵盤楽器は6本。ときには7~8本にもなっていたが、イタリアのオペラ界で音楽による楽譜の違いを統一し煩雑さを無くそうとする動きが出てからである。5本という数は人間が判別し、かつ、さまざまな音楽を表記するには最も適した数だった。オペラ先進国のイタリアから世界に5線譜が広まった。 19世紀には、音楽産業は楽譜印刷業界が担っていた。当時アメリカではティン・パン・アレーがその中心となっていた。20世紀に入ると蓄音機と録音した音楽に比重が移り、その動きを1920年代のラジオ放送開始が加速し、楽譜の出版は飽和を迎えた。そして次第に音楽産業は印刷業者からレコード業界へと移っていった。 20世紀後半から21世紀にかけては、楽譜をコンピュータで読み書きできる形にする技術の開発が盛んに行われ、いくつものシステムが開発された。その意味で、音楽データのデジタル転送規格であるMIDIを利用した記録方式であるStandard MIDI File等も楽譜の系列に連なるものである。 主にクラシック音楽を中心とした、著作権が切れてパブリックドメインとなった楽譜のライブラリをインターネット上に作る活動がある。 従来、出版用の楽譜の作成は専門の写譜屋が手作業で行っていたが、コンピューターの普及した現在はそのような作業を行う楽譜作成ソフトウェアもさまざまなものが発売され、専門の業者から個人まで、その利用者は多い。 その昔西洋において、学術の世界ではラテン語が公用語として用いられてきたように、旧来の西洋音楽においては、楽譜上に記す言語はイタリア語が公用語と規定されてきた。しかしながら、西洋音楽がイタリア優勢ではなくなり、楽譜中はイタリア語で、題名だけはドイツ語であったり、歌詞だけは英語であったり、多言語が氾濫するようになっていった。 また、作曲家が自分の母国語で楽語をイタリア語に混在させることが多くなり、それがベートーヴェンに見られ、シューマンにおいてはもっと顕著になり、後の印象主義の時代には、作曲家が国柄をポリシーとして自負することも兼ねて母国語を楽語に使うことが普通のこととなり、古くからの一部の基本的な楽語はイタリア語のままに存続しているものの、現在は多言語が混在したスタイルが定着している。 日本の作曲家の場合には、フランス音楽の影響を受けた作曲家はフランス語傾倒で、ドイツ音楽の影響を受けた作曲家はドイツ語傾倒で、どの影響を受けたことも表明したくない作曲家や中立を表明したい作曲家は英語傾倒若しくはイタリア語で書き込むことが多い。どの場合も、イタリア語による基本的な楽語に各国語を混合させて書き込むが、作曲家が日本語を書き込むことは、国際的な楽譜読解の壁を避けるためにも敬遠され、基本的に教育目的の楽譜などに限られる。 以下に挙げるサイトではパブリックドメインもしくは自由なライセンスの楽譜を入手可能である。著作権保護されているものについては利用に際してはライセンスに基づいた使用条件を守ることが求められる。 Mutopiaプロジェクト プロジェクト・グーテンベルク IMSLP --国際楽譜ライブラリープロジェクト 収録楽曲数6万以上、楽譜総数20万以上。 新モーツァルト全集・デジタル版 --新モーツァルト全集の総譜すべてが網羅されており、PDFとして入手できる。日本語に対応している。 Choral Public Domain Library (CPDL) 合唱曲の図書館 SheetMusicFox Free-scores.com Piano Sheet Music Online Musopen Public Domain Sheet Music Art Song Central ^ スーパー大辞林(三省堂 2006-2008)より 記録技術の年表 欧文西洋音楽用語の一覧 en:Music stand (譜面台) 楽譜検定", "ハルモニームジーク、あるいはハルモニー(ドイツ語: Harmoniemusik, Harmonie)は、18世紀後半から19世紀前半にかけて流行した管楽合奏の形態。 \"harmonie\"という語は管楽器による合奏全般を指す言葉でもあり、フランス語で軍楽隊を指す\"harmonie militaire\"、ドイツ語で木管五重奏を指す\"Harmonie Quintett\"などの用法がある。しかし現在この語が一般に使われる場合、1780年代からドイツ語圏を中心とした貴族階級に流行した管楽合奏、特に\"full harmonie\"、\"octet harmonie\"と呼ばれる場合もある、オーボエ2、クラリネット2、ホルン2、ファゴット2による八重奏を指す。 ハルモニーが用いられた主な機会は食事や催事の際の伴奏音楽としてであり、ソリストが招かれたときに共演する場合もあった。レパートリーの中心となったのは当時人気のあったオペラからの編曲で、ヨーゼフ・トリーベンゼー(英語版)が編曲したヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラ群や、ヴェンツェル・セドラク(ドイツ語版)編曲のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『フィデリオ』、カール・マリア・フォン・ウェーバーの『魔弾の射手』などが知られている。ヨーゼフ2世の楽団で2番オーボエ奏者だったヨハン・ヴェント(オランダ語版)は40ものオペラをハルモニームジーク用に編曲した。また、交響曲もしばしば編曲されており、ベートーヴェンの存命中にウィーンで出版された交響曲第7番は作曲者自身の編曲とも言われている。オリジナル作品としてはモーツァルトのセレナードK.375(第11番)、K.388 (384a)(第12番)やK.361 (K6.370a)(グラン・パルティータ、第10番)、ベートーヴェンの八重奏曲作品103(英語版)、フランツ・クロンマーの13曲の「パルティータ」などがある。 編成の基本となったのは上記の八重奏編成であったがそれ以外の楽器が用いられることも多く、コントラファゴット(上記のクロンマー作品)、コントラバス、セルパンなどの低音楽器をはじめ、フルート(アントニオ・ロセッティが使用)やバセットホルン、金管楽器や打楽器が追加される場合もあった。フェリックス・メンデルスゾーンの『吹奏楽のための序曲』(Ouvertüre für Harmoniemusik)の原曲『ノクトゥルノ』(Nocturno für Bläser)は、標準的なハルモニームジークの八重奏編成にフルート、トランペット、イングリッシュ・バスホルンが追加された11本の管楽器のために書かれている。 ロマン派以降も、ドヴォルザークの『セレナーデ 作品22』がチェロやコントラバスを含む12人の奏者のために、R・シュトラウスの『セレナーデ 作品7』や『組曲 作品4』では標準的な八重奏編成にフルート、ホルン各2本とコントラファゴットまたはテューバが加わる13管楽器のためのために書かれており、同種の管楽器2本をペアで含むハルモニームジークの伝統が受け継がれている。 同様の用途のために編成された、より小規模な管楽合奏は18世紀初頭からヨーロッパ全体に存在しており、特にオーボエ2、ホルン2、ファゴット2という編成の六重奏は、この編成によってフランツ・ヨーゼフ・ハイドンがニコラウス・ヨーゼフ・エステルハージのために「ディヴェルティメント」あるいは\"Feldmusik\"(野外音楽)と題された作品(Hob. II: 3, 7, 15, 23)を複数作曲している。モーツァルトも1775年から1777年にかけて、同じ編成でザルツブルク大司教のために6曲のディヴェルティメントを書いている。 1782年に、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がウィーンにおいて、クラリネットを加えた上記の八重奏編成による\"harmonie\"を編成した。アントン・シュタードラーの兄弟が加わっていたこの楽団は高水準の演奏によって好評を博し、様々な貴族が追随して楽団を編成した。代表的な人物としてケルン大司教選帝侯のマクシミリアン・フランツ、ラウドニッツ(英語版)のロプコヴィッツ侯爵などがいる。また、モラヴィアからの移民によってアメリカでもハルモニーは編成されている。 この時期、モーツァルトはオペラ『ドン・ジョヴァンニ』や『コジ・ファン・トゥッテ』の中でハルモニーを模した楽節を登場させており、当時の普及ぶりが伺われる。『ドン・ジョヴァンニ』では、『フィガロの結婚』のアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」をはじめとする当時の流行曲が複数引用されている。 19世紀に入ると、ナポレオン戦争によって引き起こされた貴族の権勢の衰えに伴ってハルモニーも衰退していき、解体されあるいはより大きな編成の楽団へ組み込まれていった。1835年にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン公国(英語版)のハルモニー(ヨハン・ジモン・ヘルムシュテットが楽長を務めていた)が管弦楽団に改組されたが、これはハルモニーに関する記録のなかでも最も新しい部類に属するものである。またこのような、ハルモニーを管楽器セクションとして含む管弦楽団の編成は、完全な二管編成による管弦楽団の普及に貢献したと考えられている。 ^ MENDELSSOHN 吹奏楽のための序曲&管楽器のためのノクトゥルノ(日本楽譜出版社)解説(堀内貴晃) Roger Hellyer. \"Harmoniemusik\", The New Grove Dictionary of Music and Musicians, Second edition Oxford University Press, 2001 フレデリック・フェネル『タイム&ウィンズ―フレデリック・フェネルの吹奏楽小史』隈部まち子訳、秋山紀夫監修、佼成出版社、1985年 小交響曲 (グノー) シャルル・グノーが1885年に作曲した室内楽曲。上記の八重奏編成にフルートを加えた九重奏による。 13管楽器のためのセレナード (リヒャルト・シュトラウス) 13管楽器のための組曲 (リヒャルト・シュトラウス) リヒャルト・シュトラウスが1882年と1884年に作曲した楽曲。上記の八重奏編成にフルート2、ホルン2、コントラファゴットまたはテューバを加えた編成による。", "協奏交響曲(きょうそうこうきょうきょく、仏: symphonie concertante, 伊: sinfonia concertante)とは、協奏曲形式の一種を意味する。 一般的には「協奏曲」と呼ぶ場合、ソロ奏者とオーケストラとの協演を目的とした楽曲を意味している。それに対し「協奏交響曲」は独奏楽器がソロではなく複数であり、複数奏者とオーケストラとが演奏する協奏曲を「協奏交響曲」と呼ぶようになった。すなわちこの形式の交響曲(伊: sinfonia)はバロック時代の合奏協奏曲に倣った「複数種の楽器のサウンドが交わった協奏曲」であることを意味しており、ベートーヴェン(あるいはモーツァルトの後期交響曲)以降に広まった「管弦楽のためのソナタ」という意味での交響曲という意味は持っていない。レコード業界の慣習上も、「交響曲全集」に協奏交響曲を含まないことが多い(たとえばカール・ベームのモーツァルト交響曲全集)。 協奏交響曲はカール・シュターミツなどのマンハイム楽派の作曲家によって多く書かれたが、ハイドンやモーツァルトにも作品がある。ジョゼフ・ジョンゲンはオルガン協奏曲を「オルガンと管弦楽のための協奏交響曲」と称した。 20世紀になってからは、シマノフスキが最後の交響曲にこの名称を与えている。実際には交響曲というよりピアノ協奏曲と呼ぶべき作品であるが、しばしばヴァイオリンやフルートの独奏などもピアノ・パートにからむため、あえてその名称が与えられたのであろう。 モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲、ベートーヴェンの三重協奏曲、ブラームスの二重協奏曲やショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番などの作品は「協奏交響曲」とは銘打たれていないものの、協奏交響曲の一種と考えてよい。 19世紀前半の作曲家リトルフは、交響協奏曲もしくは交響的協奏曲(フランス語: concerto symphonique)を幾つか作曲しているが、これは協奏交響曲とは異なり、単独のソロ楽器とオーケストラの対比よりも、協調・融合を目指した協奏曲である。リストやブラームスのピアノ協奏曲に影響を与えた。 ハイドン 協奏交響曲変ロ長調(ヴァイオリン、チェロ、オーボエ、ファゴット) モーツァルト 協奏交響曲変ホ長調 K.297b (K.Anh.C14.01)(偽作。オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット) 協奏交響曲変ホ長調 K.364(ヴァイオリンとヴィオラ) シマノフスキ 交響曲第4番『協奏交響曲』(ピアノ、ヴァイオリン、フルート、ハープ) ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第1番(ピアノ、トランペット) フローラン・シュミット 協奏交響曲(ピアノ) ジョゼフ・ジョンゲン 協奏交響曲(オルガン) エドマンド・ラッブラ 協奏交響曲(ピアノ) タンスマン 交響曲第3番 ピアノと管弦楽のための協奏交響曲 (1954)(ピアノ) シェッフェル 協奏交響曲(1999)(4人のトランペット奏者) ^ ただし音楽学者のロバート・レヴィンとダニエル・リースンによる「統計的・構造的・方法学」を用いたコンピューター分析ではソロ・パートはモーツァルトの作、オーケストラ・パートは第三者の作曲という鑑定結果を導いた。レヴィンの改訂による復元稿も知られている。", "総譜(そうふ)は、合奏・重奏におけるすべてのパートがまとめて書かれている楽譜である。フルスコア、または単にスコアとも言う。 イタリア語で総譜をPartitura、ドイツ語でPartiturと呼ぶが、これは、パート譜をまとめたものという意味である。指揮者などが、合奏全体を見渡すために使う。また、一般に作曲者や編曲者が合奏用の楽譜を起こすときにはまず総譜を起こし、それからパート譜を作る。 楽譜は時間を横軸に取るので、総譜では、各パートの楽譜が縦に並べられている。各パートが同時に演奏されることを示すために、五線の左端が縦線でつながれ、小節線は縦一列に整列されている。 各段の左端には、演奏または歌われるべきパート名が記される。楽器名が明記されるようになったのは16世紀末からである。中世では、どのような楽器も歌の代わりか補助に過ぎず、楽器のパートは手近にある楽器を用いて演奏していたからである。 左から演奏してページの右端まで行ったら、次のページ、またはページの下部に進むが、この左端から右端までの中で1音も発しないパートの五線は、省略されることがある。 総譜では原則として、テンポに関する記号は、合奏全体に同様なので、楽譜の上部等にまとめて書かれる。また実際の演奏には関係がないが、練習等の便宜のため、練習番号や小節番号が楽譜の上下に付される。強弱(ダイナミクス)や表情に関する記号は、パートごとに違うことがあるので、パートごとに五線の下または上に書かれる。 総譜はパート譜を集めたものであるから、それぞれのパートはそのパートの楽器の楽譜の特徴を引き継ぐ。移調楽器は移調されたまま書かれる。読むときにはそれらの楽器の音を実音に移調して読むことになる。20世紀になると、移調による記譜をせずに、実音で総譜を作成する作曲家もいる(プロコフィエフ、ウェーベルン、メシアンなど)。 現在の総譜では、各パートの並べ方にはおおむね次のような習慣がある。もちろん、国や時代によって様々なバリエーションが存在する。 楽器がいくつかのセクションに分かれるときには、セクションによって分ける。 おおむね、音の高い楽器を上に、音の低い楽器を下に置く。 同じ楽器(属)では、1番のパートから書く。 派生楽器は3番奏者などが演奏することが多いので、下に書く。 オーケストラの総譜では、次のように木管楽器、金管楽器、打楽器、挿入楽器・独奏・独唱、弦楽器の順に並べる。管楽器は、同じ楽器ならば2本ないしそれ以上を1段の楽譜に書く。また、声楽では独唱を上に、合唱を下にする。 木管楽器 フルート(ピッコロはフルートの派生楽器という理由で下に書く場合と、フルートよりも音が高いという理由でフルートの上に書く場合がある。アルトフルートなどは前者の理由で下に書く。) オーボエ(イングリッシュホルンは派生楽器として下に書く) クラリネット(バスクラリネット、サクソフォーンは派生楽器として下に書く。しかし小クラリネットは上に書かれることも、下に書かれることもある。) ファゴット(コントラファゴットは派生楽器として下に書く) 金管楽器 ホルン(トランペットより音が低いが木管楽器との共同が多いので上に書く) トランペット(D管、E♭管などの楽器を上に書き、バストランペットを下に書く傾向が強い。) コルネット(トランペットが主であることが多いため下に書く) トロンボーン(テナー2で1段、バス1で1段と分けるのが標準である。) チューバ(バストロンボーンと同じ段に書かれることがある) 打楽器 ティンパニ その他の打楽器 挿入楽器・独奏・独唱・合唱 声楽、ハープ、ピアノ、チェレスタなど、協奏曲などにおける独奏楽器 弦楽器 第1ヴァイオリン 第2ヴァイオリン ヴィオラ チェロ コントラバス(Bassi等として、チェロと同じ段に書かれることがある。この場合、チェロとオクターブで重なることになる) なお、声楽や挿入楽器をチェロの上に置くことがある。 歴史的な楽譜では、ファゴットやチェロ、コントラバス等低音楽器を下にまとめたものがある。プロコフィエフやショスタコーヴィチはしばしばトランペットの下にホルンを入れていた。 吹奏楽では、並べ方がオーケストラと若干異なる部分がある。バスクラリネットなど多くがト音記号で記され、アマチュアのためにトロンボーンやバスーンはテノール譜表を用いないことが多い。 木管楽器 ピッコロ(3番フルートの持ち替えなどでフルートの下に置かれる場合もある) フルート オーボエ イングリッシュホルン ファゴット(クラリネット族の下、あるいはサクソフォン族の下に置かれる場合もある) コントラファゴット(ファゴットの下に書く) クラリネット E♭クラリネット B♭クラリネット1 B♭クラリネット2 B♭クラリネット3 アルトクラリネット (E♭) バスクラリネット (B♭) コントラバスクラリネット(E♭ないしB♭) サクソフォン ソプラノサクソフォン (B♭) アルトサクソフォン1 (E♭) アルトサクソフォン2 テナーサクソフォン (B♭) バリトンサクソフォン (E♭) バスサクソフォン (B♭) 金管楽器 トランペットないしコルネット (B♭)トランペットとコルネットの両方が用いられる場合特に順序は定まっていない フリューゲルホルン(B♭)アルトホルン、テナーホルンなどサクソルンをまとめる場合もある ホルン(F)ないしアルトホルン (E♭) トロンボーンB♭管であるが日本においてはヘ音記号実音表記である。また最低音域を担当するトロンボーンはバストロンボーンと表記する場合と3rd 4thなどの表記の場合がある。 ユーフォニウムないしバリトン, ドイツではテナー・ホルンB♭管であるが日本においてはヘ音記号実音表記である。 チューバ 弦楽器 ギター概ね、ポピュラー編成においてはエレクトリック・ギターがコードとともに表記される場合が多い。 コントラバス(ポピュラー音楽の場合エレクトリックベースが表記される場合もある。) 鍵盤楽器 ピアノ、ポピュラー編成においてはシンセサイザーキーボードが加わる場合もある。 ハープ 打楽器 ティンパニ その他の打楽器(シンバル、トランアングル、大太鼓・小太鼓などに続いて、その下に鍵盤打楽器群(マリンバ・シロフォン・グロッケン・ヴィヴラフォン等)が書かれるケースが見受けられるが、これらは作編曲者の好みにより変わることが多く、順番はまちまちである。) 順序は、おおむね、上の規則が準用される。そのほか、 独奏的な性格の強いものは上に 和音を受け持つ楽器は下に 書かれる。 総譜を読むことを一般にスコアリーディングという。作曲家、編曲家、指揮者には必須の技術である。「リーディング」とは言うものの、普通実際には、楽譜を読み頭の中で音を構築することのみにとどまらず、それをピアノで弾いて鳴らすことまでを意味する。この場合、移調楽器を移調しながら弾くというばかりでなく、当然すべての音を弾くことはできないことが多いので、総譜の中から旋律的、和声的に重要なものを選び出し、それらの音を必要に応じて指が届く範囲にオクターブの関係で移動して演奏することになる。 学習法としては、ハ音記号を多く含む4段合唱譜等から始め、徐々にハイドンやモーツァルト・ベートーヴェンの合奏曲を経てロマン派の序曲や交響曲を学習し、最後はストラヴィンスキーやドビュッシー・バルトーク等の管弦楽曲に至る。 ^ A. Rowland-Jones 「第2章 リコーダーのための作品」『リコーダーのテクニック』 西岡信雄訳、音楽之友社〈オックスフォード大学版 楽器のテクニックシリーズ(全9巻)〉、1967年11月10日、初版、25頁(日本語)。ISBN 4-276-14555-4。", "原典版(げんてんばん、ドイツ語:Urtext Edition)は、可能な限り忠実に作曲家の意図を再現することを目的とした、楽譜の版のことである。数々の資料批判作業を経て作られるので、批判校訂版(クリティカルエディション)とも呼ばれる。古い原典版を批判して新しい原典版を校訂したという意味ではない。新しい原典版は全集として出版されることが多いため、「新全集」と呼ばれるものが、原典版と同一のものとされることも多い。 ドイツ語の接頭辞 \"ur-\" は「オリジナル」を意味する。ドイツ語の慣習に従い、英語圏でも \"Urtext\" と語頭を大文字に書くことがある。 原典版は、19世紀的な合理主義、その当時の演奏家中心の解釈を盛り込んで作られた楽譜を、作曲家の本来の意図に戻すことを目的に作られた。自筆の楽譜そのもののみを自動的に原典とするのではなく、作曲家の弟子、助手または写譜作成業者が作成したコピー、作曲者が関与した初版、作曲者による書き込みのある印刷譜等を比較し、作曲者の意図を判断し作成される。自筆譜が存在しないような作品の場合、源泉からどのように写譜されたのかも判断し、同じ点が資料の多数決ではなく、系統立てて本来の音符を見つけ出していく。 作曲者の自筆譜が頻繁な改訂などによって複数ある場合、「最終決定稿」を原典版とすることも多いが、ブルックナーの交響曲のノヴァーク版のように、それぞれの改訂段階を別の版として独立させる全集もある。 シューベルトの「未完成交響曲」は自筆総譜のみが唯一の資料であるが、校訂者によって細部の読みが異なり、現在出版されている大手数社の原典版では、結果の異なるところが何か所にもわたっている。校訂者の判断は必然的に紛れ込むものであり、その作曲家の様式から理論的に間違いと判断し「誤植」として編者によって改良されてしまうこともあり、校訂報告を詳細に調べて使用しないと危険なこともありうる。 原典版はファクシミリ版とは異なる。ファクシミリ版は、作曲家の自筆譜や初期の版をそのまま複写印刷したものである。 原典版以前のものは実用版または解釈版と呼ばれ、編者の個人的な解釈が記されている。ディナーミクや発想記号が追加/削除されており、作曲家が意図したものを再現しているわけではない。作曲家が書いた音符が変更されていたり、短縮、増大される例もある。19世紀から20世紀の初期にかけて、著名な演奏家は多くの解釈版を発表しており、ハロルド・バウアー、アルトゥール・シュナーベル、イグナツィ・ヤン・パデレフスキらのものが知られている。 原典版と解釈版の折衷として、両者の音符を両方掲載している楽譜も存在する。そのような楽譜では、音符の大きさを変更することや、グレーで表示することによって両者が明確に区別できるようになっている。そのような折衷版は特に初期音楽の分野で目立って見られる。というのも、古い記譜法のために解釈上の困難が生じることが多いからである。 「原典 (Urtext) 」という語は、過剰な表現として批判されることがある。作曲家の意図を正確に再現したつもりでも、新資料、様式研究の推移により、同じ全集の新たな版として変更され続けてもいる。また、原典版を使って演奏者が解釈を加えた場合、客観的に見た楽譜に等しいとは限らないのは常である。 ニューグローヴ音楽辞典の \"Urtext\" and \"Editing\" の項 en:Scholarly method Comments on urtext editions from the C. F. Peters publishing house Comments on urtext editing by Patrice Connelly G.Henle Verlag edition Weiner edition" ]
ABC01-02-0190
舞台衣装に縫い込み、 キラキラと光る金属やプラスチック製のボタン型装飾品を何というでしょう?
スパンコール
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[ "スパンコール", "フレアパンティ", "メリージェーン (靴)", "ジャボ", "ヘッドドレス" ]
[ "スパンコールとは、光を反射させるために使用する服飾資材で、穴の空いた金属やプラスチックの小片のこと。スパングル(spangle)。シークイン(sequin)。パイエット(仏:paillette)。 スパンコールはspangleの日本語訛り。表面に光を反射する加工のされた布のことをスパンコールと呼ぶ場合もある。 元々は、ペルシャ湾沿岸で用いられる、アラブの硬貨シッカ(sikka)に似た装飾品を指した。 様々な形状のものが存在するが、直径6mm程度の中央に穴の空いた円形のものが多く、そのままあるいは糸を通してリボン状にしたものが売られている。 衣服や装飾品に縫い付けて使用するが、洗濯にはあまり向かず、特にドライクリーニングを行った場合に色落ちや変形が生じる場合がある。 ビーズ ビーズ手芸 ラインストーン めっき - 亜鉛めっきを行った場合、表面にスパングルと呼ばれる花模様の結晶ができることがある。", "フレアパンティ(英語:Flare Panties) とは、女性用のランジェリーの一種で、フレアショーツ(英語:Flare Shorts)やタップパンツと同意語に扱われる。裾にフレア・ディテールを用いたランジェリーで、スカートの滑りをよくするとともにスカートのシルエット形成目的で使用される。 フレアパンティは、ショートパンツタイプのゆったりとした形状になっており、裾広がり形のシンプルなデザインから裾にレースをあしらった女性らしい装飾的なデザインまで、さまざまな種類がある。スカートやキュロットスカートを着用するときにキャミソールと組み合わせて使用し、アウターウェアで皮膚がすれたり、アウターウェアが汗で汚れたりするのを防ぐ機能がある。 下着 インナーウェア ランジェリー ファウンデーション", "メリージェーン(Mary Jane)は、ストラップシューズの一種を指す用語で、その典型的な形は、踵が低く、つま先は閉じられ、甲の部分に飾り留め金が通ったものである。多くは黒のエナメル革で作られていたが、現在ではキャンバスやスエードでできたものもあり、それらにはさまざまな色のものがある。慣例的にメリージェーンは主に少女が使うものとされているが、歴史的にみると、少年もよく使っていた。また、現代では全ての世代の女性が使用するが、少女が履いた場合はフォーマルととられ、成人女性が履いた場合はインフォーマルであるととられる。 メリージェーンはリチャード・アウトコルトが1902年に公表した続き漫画『バスター・ブラウン』のために創作したキャラクターで、タイトルキャラクターのバスター・ブラウンの妹である。1904年、アウトコルトはセントルイス世界博覧会に行き、最大200社にバスター・ブラウンのキャラクターを広告に使うライセンスを売ろうとした。その中に、後に役者を雇って国内を巡業し、劇場や店でバスター・ブラウンのキャラクターのパフォーマンスをしたブラウン・シュー・カンパニーもあった。その後、バスター・ブラウンの妹が履いていた靴は彼女の名前メリージェーンとして知られるようになった。 伝統的なメリージェーンが広い人気を集める一方、よりスタイリッシュなメリージェーンは靴の底が0.5から1インチ、かかとが3から5インチのプラットフォーム・スタイルである傾向があり、しばしば誇張されたはと目金やバックルがつけられている。これらのスタイルは1990年代後半から2000年代初頭のアメリカ合衆国のパンク・ロック、サイコビリー、ゴス・サブカルチャーの中ではとりわけ人気があり、着用する際にはアクセントをつけるため暗い色調のストライプや模様のニーハイソックスと、女子学生風のチェックでひだのあるスカートを合わせることが多かった。またメリージェーンは一部のキンダーホア(英語版)やロリータ・ファッションでも人気がある。 ファーギーもソロデビューアルバムの『プリンセス・ファーギー』でメリージェーンについて歌っている。", "ジャボ(英:Jabot)とは、近世にヨーロッパで用いられていた襞の付いた胸の飾りのことである。 主にレースで出来ており袖口と共に装飾の役割を果たしていた。現在のネクタイとして用いられており、付け外しの出来る物や一体化したものまで存在した。立襟や詰襟、折襟の背広や軍服に用いていたがスカーフや蝶ネクタイが流行し姿を消した。現在は社交界や王室、議会、法廷弁護士で用いられている。 17世紀頃から19世紀までのヨーロッパの服飾を果たしてきた。初めは男性用でワイシャツに用いられ、後に女性用にブラウスやジレ、ワンピースに用いられた。ブラウスには襞飾りの名残がある。ジャボとはフランス語で鳥の餌用の袋を意味した。英語ではジャボット。 帽子 二角帽子か三角帽子のいずれ 頭髪 かつら スーツ 立襟・詰襟(アビと称する) ベスト(ウェストコート) ワイシャツ ネクタイ ジャボ スカーフ ネッカチーフ ボトムス キュロット等の半ズボン ブリーチズ [:en] 靴下 絹製の白いハイソックス 靴 赤いヒール - 特別な行事の時に身につけた。 パンプス - 普段着の時に用いられた。 ブーツ - 散歩の時に用いられた。 ジョージ・ワシントン ジャボは貴族的、上品なイメージがあるからか、貴族、王族、メイド、海賊等の登場人物がジャボを身につけていることがある。 逆転裁判 -御剣怜侍 ヒラヒラと称される。 ネクタイ ネッカチーフ 襞襟 コッドピース ガウン", "ヘッドドレス(英: head dress)は、広義には頭部につける衣装・装身具全般のことである。 ヘッドドレスの中でも、特に次のようなものをさすことがある。 地位、階級、職業などを表す、派手なもの。 装飾性のあるかぶりもの全般。ミニシルクハットやボンネット、大きな蝶結び状のリボンをカチューシャのように頭上で止めるものも指す。 ウェディングドレスに合わせる頭部の装飾具で、生花などを用いるものもある。 日本では特にロリータ・ファッションに用いられるレースやリボンで形作られた帯状、あるいは楕円状の飾りを頭上に載せ、両端から伸びるリボンを首の下もしくは、首筋で結んで固定させる物を指すことが多い。またメイド服などに使われるフリルなどの付いたヘアバンドを指すこともある。これらは略してヘドレとも呼ばれる。 スー族の羽飾り(ウォーボンネット(英語版)) フレンチフード(英語版) (メアリー1世) (1540年代) フランスの貴婦人 (18世紀) フランスの農婦 (18世紀) 米国の家政婦 (1930年頃) ロリータ・ファッション(台湾・2006年) 平安時代の女性貴族の髪形大垂髪 エグレット(マリー・アントワネット) ヘアバンド ヘッドギア" ]
ABC01-02-0192
時代劇などでよく見られる、刀の背で打って、深く傷を負わせないようにすることを「何打ち」というでしょう?
峰打ち
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[ "峰打ち", "懐剣", "袋槍", "捕り物道具", "鉄貫" ]
[ "峰打ち(みねうち)とは、両刃ではない刀剣、また日本刀の背面にあたる峰の部分で相手を叩くこと。棟打ち(むねうち)ともいい、両方の読み方で刀背打ちと書くこともある。なお、刀剣の側面でたたくことは平打ち(ひらうち)という。 峰打ちは技としては存在せず、時代劇の殺陣などで相手を殺さずに倒す手段として使われる。 時代劇ではあらかじめ刀を反転させて構える描写も見られるが、日本刀をはじめとする曲刀は基本的に刃で切ることを前提にした造りとなっており、峰を向けた構えは重心がずれるほか、相手に殺意がないことが伝わるなど、実戦向きではない。また、日本刀は峰側で打つことに対して弱いとされる。牧秀彦は著書『剣豪 その流派と名刀』で、「本来の峰打ちは『峰で打つこと』ではなく、『普通に切りかかって相手の体に届く寸前で刃を返すこと』であり、斬撃や打撃の威力ではなく『斬られた』と思い込ませることで意識を断つものである」と記している[要ページ番号]。 「刃で斬らなければ切創などによる出血を伴わないために死ぬことはない」というイメージを持たれやすいが、実際には鋼の打撃は挫創や挫傷、骨折を負わせるには十分であり、当たり所によっては死に至ることもある。つまり、凶器が刃物から鈍器に切り替わったに過ぎず、単純に峰で叩いても挫傷などにより深刻なダメージに至る可能性がある。なお、2015年11月1日に読売テレビで放送されたバラエティ番組『笑撃!あるあるナイアール3』では、峰打ちの切れ味(破壊力)は抜刀術の名人たちや本郷和人(歴史学者、東京大学教授)によって、モハメド・アリのパンチの12倍の威力と検証された。 『後愚昧記』弘和3年(1383年)条の記述として、三条厳子が出産後に宮中に戻ったところ、足利義満との密通を疑った後円融天皇に峰打ちで殴打され、実家三条家に戻る事件が起こる。 『小田原北条記』巻四、天文23年(1554年)加島合戦3月3日のこととして、原美濃守平虎胤が近藤右馬丞を峰打ちで兜のしころを打ち、首の骨を二、三打ちしたため、右馬丞は馬から落ち、そこを友軍が叩き殺そうとしたが、美濃守が「甲州にいた折に目をかけていた者ゆえ、命は助けてほしい」と制止し、静かに味方の所へ引き連れたと記述されている(馬上での峰打ちの例)。 『本朝武芸小伝』の記述として、宮本武蔵が小笠原信濃守の邸に来た時(寛永期とした場合、17世紀前半)、包丁人を勤めていた男が賭け事(達人といえども騙し討ちをすれば打てるか打てないか)で木刀をもち、騙し討ちしようとしたところ、刀の小尻で胸板を突かれて倒れ、起き上がろうとしたところをむね打ちで右腕を4、5回打たれた。腕は治療しても治らず、包丁人はとうとう暇を遣わされたと記される。 『撃剣叢談』の記述として、安永年間(18世紀末)、神道無念流の戸ヶ崎熊太郎は四谷で有名な剣術の師との勝負に勝ち、帰る途中、余りの負け方に無念に思った剣術の師が走って追いかけ、斬りかかって来たため、熊太郎は振り返って斬り結び、最終的にむね打ちで倒し、そのまま帰ったと記述される。 安政元年(1854年)閏7月18日、午後2時頃、無宿人5人が和田村栄蔵宅へ強盗に入り、金を出さなかったため、斬り殺すと脅し、抜刀後、峰打ちや殴るなどの暴行事件を起こしたが、妻の悲鳴を聞いた村人が鐘を鳴らし、周辺村々から駆けつけた村人に取り押さえられている。 ^ a b 『笑撃!あるあるナイアール3』の番組概要ページ - gooテレビ番組(関西版) ^ 名倉敬世「文苑随想 日本人教養講座「日本刀」」 ^ 「将校用軍刀の研究」 ^ 西沢淳男 『代官の日常生活 江戸の中間管理職』 角川ソフィア文庫 2015年 ISBN 978-4-04-409220-7 p.180. 剣 士道 侍 武士 時代劇", "懐剣(かいけん・ふところがたな)とは、日本刀のうち短刀の拵(外装)の様式の一つである。 護り刀(まもり-がたな)ともいう。 脇差よりも小型の、短刀に区分されるもの中でも小型のもので、多くは鍔を用いない合口拵が用いられた。 狭い屋内などの長寸の日本刀の使用が制限される場所や、殿中などの打刀や太刀の携行が禁じられている場所で奇襲を受けた際の護身武器であるほか、女性の婚礼衣装の付属品としての用法もある。 短刀や脇差に隠れがちだが、男性にとっても懐剣は重要な護身武器であった。懐剣は打刀と同等の価値を認められ、大名家などには先祖伝来の名品も多い。 江戸では錦の袋などに入れて持ち歩くが、むき出しのまま持ち歩いたとされる。 1900年に登場した神前結婚式の婚礼には女性は懐剣を持ったとされている。 日本武術では剣術や居合術、柔術において懐剣術がみられる。 これらとは別に、日本の暗器の一つである「鉄貫」に刃をつけたものがあり、これも帯刀できない状況で懐に忍ばせて護身用に使うものであることから「懐剣」と呼ばれる。 宮本武蔵が自作して携行していた、とされるものが著名で、鉄貫を使う武術として知られる長尾流躰術から「長尾流懐剣」の呼称もある。 腰元(妼) 懐刀 ダガー", "袋槍(ふくろやり)とは、矛と同様に穂先の根本がソケット状になっている「袋穂」という形になっており、そこに柄を差し込む形状の槍の総称。別称:かぶせ槍とも。 槍の中子を柄に差し込むものに比べて柄の交換が容易であり、強度がある反面、重量が増えることから穂先の短い物が多い。目釘を打つ場合は鉄目釘が一般的である。 福岡藩で下級武士・足軽が学ぶ武術「男業」の一つである棒術流派の天阿弥流兵杖は、戦闘時に袋槍を装着して戦えるように工夫されていたという。 これに影響されたのかどうかは分からないが、同じ福岡藩の男業流派であった神道夢想流杖術の某修行者は心得として、事あるときに使用するため、この穂先をつねに携帯していたという。", "捕り物道具(とりものどうぐ)とは、江戸時代に犯罪者の捕縛の際に使用された武器である。 十手 与力や同心の役目としての武器である。また同心が配下の目明しに役の証明として渡していた。 三つ道具 奉行所や番所に常備されていた刺又(さすまた)、袖絡(そでがらみ)、突棒(つくぼう)である。 捕具", "鉄貫(てっかん)は、日本の暗器の一種である。護身用として使われる。室町時代以前から伝わる。 形状は斧に似ており使い方は鉄拳と同じく手にはめて使う。刃がついていないため相手に向けても相手を傷つけることがなく、敵を打ったり、突いたり、敵の攻撃を払ったりなどに多く使用する。鉄貫は正伝長尾流躰術で使われている武器でもある。形状は似ているが、懐剣(かいけん)と呼ばれるものがあり、こちらは刃がついていて晩年の宮本武蔵が自作し護身用として使用していた。 ナックルダスター 『歴史群像シリーズ【決定版】図説・日本武器集成』(学習研究社)" ]
ABC01-02-0193
元々はタヒチの民族衣装であった、色とりどりに着色された腰布で、最近は水着とセットにして着こなす人も多いのは何でしょう?
パレオ
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[ "パレオ", "フレアパンティ", "スニーカーソックス", "メリージェーン (靴)", "ジャボ" ]
[ "パレオ(Pareo、Pāreu)とは衣服の一種。身体に巻き付ける綿の布の事であり、元々は「パレウ」というタヒチの民族衣装である。タヒチの言葉で、「巻きつけるスカート」を意味する。 約90cm×180cmほどの色とりどりに着色された綿の布を体に巻きつけ、端を縛り着用する。結ぶ部分を変えることにより、スカートやワンピース、ズボン、水着など様々な着用方法で使用できる。男性が腰に巻くものは主にmaroと呼ばれており、Pareoは女性の使用するスカートを指す。だが、男女関係なく体をくるむ布をパレオと読んでも差し支えないようである。 同様に一枚布を用いる民族衣装としては、インドのサリーなどがある。 ラロトンガ島でのパレオ パレオを着たタヒチ民族 1950年代のアメリカでビーチファッションとして流行後、世界中に広まった。一般的にはドレス等の着衣としてより、水着の上(腰部分)に巻きつける装飾品のイメージが強い。日本では1990年代後半より流行し、現在では水着とパレオの組み合わせは定番となっている。 パレオを巻いた女性(1887年) 水着の上にパレオを巻いたウィキペたん", "フレアパンティ(英語:Flare Panties) とは、女性用のランジェリーの一種で、フレアショーツ(英語:Flare Shorts)やタップパンツと同意語に扱われる。裾にフレア・ディテールを用いたランジェリーで、スカートの滑りをよくするとともにスカートのシルエット形成目的で使用される。 フレアパンティは、ショートパンツタイプのゆったりとした形状になっており、裾広がり形のシンプルなデザインから裾にレースをあしらった女性らしい装飾的なデザインまで、さまざまな種類がある。スカートやキュロットスカートを着用するときにキャミソールと組み合わせて使用し、アウターウェアで皮膚がすれたり、アウターウェアが汗で汚れたりするのを防ぐ機能がある。 下着 インナーウェア ランジェリー ファウンデーション", "スニーカーソックス(すにーかーそっくす、Sneaker Sox)は、靴下の種類の一つ。くるぶしが露出するほど短い。ショートソックスとも呼ばれる。アンクルソックス、アンクレットソックスと混同されることがあるが、こちらは足首(アンクル)丈の靴下であり、スニーカーソックスとは基本的に別物である。 1990年代のスニーカーブームを受け、スニーカーから見えないソックスとして売り出されたものである。暑い地方、特に沖縄県の中高生には昔から人気がある。他地域でも最近は10代・20代の男性を中心に流行している。また、同年代の女性にも流行している。デザイン・柄は他種類の靴下と同様に多種多様である。もっとも多いのは、白をベースにつま先とゴムの部分に色ラインがあるものがある。TPOの立場から言うと、運動・スポーツ用、室内用などカジュアル面でのファッションとされ、社交用、ビジネス用などフォーマル面には適していないという。 株式会社レナウンが商標登録している(商標登録第3091213号「SNEAKER SOCKS」、同第4585726号「スニーカーソックス」)。 最近(2017年)は、ほぼ素足で、足の指が見えてしまい、靴を脱ぐと必ず素足になる靴下も販売されている。しかし、素足が好きな人が靴下を履かなければならない時などはこれを履くと言う。 靴下 スニーカー グレンクライド スニーカーソックスの生みの親   ^ “History” (2017年). 2017年4月30日閲覧。", "メリージェーン(Mary Jane)は、ストラップシューズの一種を指す用語で、その典型的な形は、踵が低く、つま先は閉じられ、甲の部分に飾り留め金が通ったものである。多くは黒のエナメル革で作られていたが、現在ではキャンバスやスエードでできたものもあり、それらにはさまざまな色のものがある。慣例的にメリージェーンは主に少女が使うものとされているが、歴史的にみると、少年もよく使っていた。また、現代では全ての世代の女性が使用するが、少女が履いた場合はフォーマルととられ、成人女性が履いた場合はインフォーマルであるととられる。 メリージェーンはリチャード・アウトコルトが1902年に公表した続き漫画『バスター・ブラウン』のために創作したキャラクターで、タイトルキャラクターのバスター・ブラウンの妹である。1904年、アウトコルトはセントルイス世界博覧会に行き、最大200社にバスター・ブラウンのキャラクターを広告に使うライセンスを売ろうとした。その中に、後に役者を雇って国内を巡業し、劇場や店でバスター・ブラウンのキャラクターのパフォーマンスをしたブラウン・シュー・カンパニーもあった。その後、バスター・ブラウンの妹が履いていた靴は彼女の名前メリージェーンとして知られるようになった。 伝統的なメリージェーンが広い人気を集める一方、よりスタイリッシュなメリージェーンは靴の底が0.5から1インチ、かかとが3から5インチのプラットフォーム・スタイルである傾向があり、しばしば誇張されたはと目金やバックルがつけられている。これらのスタイルは1990年代後半から2000年代初頭のアメリカ合衆国のパンク・ロック、サイコビリー、ゴス・サブカルチャーの中ではとりわけ人気があり、着用する際にはアクセントをつけるため暗い色調のストライプや模様のニーハイソックスと、女子学生風のチェックでひだのあるスカートを合わせることが多かった。またメリージェーンは一部のキンダーホア(英語版)やロリータ・ファッションでも人気がある。 ファーギーもソロデビューアルバムの『プリンセス・ファーギー』でメリージェーンについて歌っている。", "ジャボ(英:Jabot)とは、近世にヨーロッパで用いられていた襞の付いた胸の飾りのことである。 主にレースで出来ており袖口と共に装飾の役割を果たしていた。現在のネクタイとして用いられており、付け外しの出来る物や一体化したものまで存在した。立襟や詰襟、折襟の背広や軍服に用いていたがスカーフや蝶ネクタイが流行し姿を消した。現在は社交界や王室、議会、法廷弁護士で用いられている。 17世紀頃から19世紀までのヨーロッパの服飾を果たしてきた。初めは男性用でワイシャツに用いられ、後に女性用にブラウスやジレ、ワンピースに用いられた。ブラウスには襞飾りの名残がある。ジャボとはフランス語で鳥の餌用の袋を意味した。英語ではジャボット。 帽子 二角帽子か三角帽子のいずれ 頭髪 かつら スーツ 立襟・詰襟(アビと称する) ベスト(ウェストコート) ワイシャツ ネクタイ ジャボ スカーフ ネッカチーフ ボトムス キュロット等の半ズボン ブリーチズ [:en] 靴下 絹製の白いハイソックス 靴 赤いヒール - 特別な行事の時に身につけた。 パンプス - 普段着の時に用いられた。 ブーツ - 散歩の時に用いられた。 ジョージ・ワシントン ジャボは貴族的、上品なイメージがあるからか、貴族、王族、メイド、海賊等の登場人物がジャボを身につけていることがある。 逆転裁判 -御剣怜侍 ヒラヒラと称される。 ネクタイ ネッカチーフ 襞襟 コッドピース ガウン" ]
ABC01-02-0194
キリスト教の原理のひとつで、人間が生まれながらにして持っている罪のことを何というでしょう?
原罪
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[ "原罪", "ケリュグマ", "ノンクリスチャン", "メシア", "全的堕落" ]
[ "原罪(げんざい、英語: original sin, ラテン語: peccatum originale)は、キリスト教内の西方教会において最も一般的な理解では、アダムとイヴから受け継がれた罪のこと。 ユダヤ教では、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とする「いわゆる原罪」の概念を採る説もあるが、多数派はそのような見解を否定する。 現代の西方教会においては、罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来る状態を指す表現として理解される傾向がある。しかし、西方教会内でも教派ごとに様々な見解がある。 また正教会では、原罪についての理解が西方教会とは異なるのに止まらず、そもそも原罪という語彙自体が避けられる場合もある。正教会では原罪につき厳密な定義をためらい、定理とすること(教義化)を避けて今日に至っている。 原罪概念の前提となっているアダムとイヴ(女)による罪は、創世記3章に記されている。創世記の1章から3章までは多くの聖書註解書において1節ごとに詳細かつ重要視される註解がなされる箇所であり、しかも教派・思想の違いによる見解の差も小さく無い。以下の簡潔な記述は、あくまで創世記で原罪にかかる該当箇所の概要に止まるものである。 神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが(創世記2章15節 - 17節)、善悪を知る知識の木の実のみは「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。しかし蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の実を食べ、女に勧められたアダムも食べた(創世記3章1節 - 7節)。ここで蛇は女に強制しておらず(強制できず)、女もアダムに強制しては居ないことが、女とアダムそれぞれ自身の意志によって犯された責任ある罪であることを意味するものとして言及される。ここでの蛇は悪魔を意味すると言う解釈が伝統的になされるが(特に正教会・カトリック教会においては現代もそう捉えられる)、狡猾なうそつきの一動物であって悪魔を意味するものではないとする解釈や、「蛇は悪魔を意味する」のではなく「蛇の背後に悪魔が存在する」とする解釈などが(特にプロテスタントで)なされることがある。 その後、神は自分の命令に背いたアダムと女に対して何を行ったのかを問いかけたが、アダムは神に創られた女が勧めたからとして神と女に責任転嫁をし、女は蛇に騙されたと責任転嫁をした(創世記3章9節 - 13節)。ここでの神がした問いかけは単なる質問ではない(神は全知全能なので知らないことはない)。人に問いかけることで、罪の自覚を促し、悔い改めの機会を与えるものであった。しかしアダムも女も、責任転嫁に終始してこれに応えなかった。 神は蛇をのろい、女の子孫がおまえのかしらを砕くと預言した(創世記 3:14 - 15)。これは神の母マリアから生まれたイエス・キリストが、十字架を以て悪魔を破壊することであるとされたり(ガラテヤの信徒への手紙 3:16, 26、ヨハネの手紙一 3:8 - 10、正教会における解釈例)、悪魔と戦うことであるとされたりする(カトリック教会における解釈例)。他方プロテスタントの中には、長い時を経る中でそのような救いの展開はあったものの、この箇所ではそこまで直接的な預言はされていないと解釈する者もいる。このように教派等によって様々な見解の差はあるものの、この箇所は直接的にせよ間接的にせよイエス・キリストが悪に対して致命的打撃を与える預言であり「原福音」とする基本的解釈については、概ね一致している。 女に対しては産みの苦しみと夫からの支配を、アダムに対しては地から苦しんで食物を取ることと土にかえることを預言した(創世記3章16節 - 19節)。神はアダムとイヴのために皮の着物を造ってアダムとイヴに着せた。なお、3章20節で女の「イヴ」という名が出て来る(創世記3章20節 - 21節)。ここで神が人類に下した判決において、その後の苦しみが指摘されているが、へびに対してされたような「のろい」はされていない。皮の着物が与えられたことには、神の絶えない愛が表されているとも解釈される。 神は人(アダムとイヴ)を楽園から追放した(創世記3章22節)。この楽園追放(失楽園)についても、教派・思想によって解釈が異なっている。 初代教会には原罪の教理について様々な見解があった。 2世紀のエイレナイオスは、全ての人類の頭であるアダムにおいてすべての人類が文字通り罪を犯したとした。テルトゥリアヌスは初めて、アダムとイヴから人類全てが受け継ぐものとして原罪を理解した。他方アレクサンドリアのクレメンスは、原罪は全ての人間が罪を犯すという事実を表す象徴であると主張し、原罪は現行罪の不可避性を表現するものと理解した(場合によっては、クレメンスは原罪説を否定していると解されることもある)。 受け継がれるものとしての原罪について詳細に説明し、「アダムから遺伝された罪」とし、両親の性交を遺伝の機会として解釈したのは、アウグスティヌスである。アウグスティヌスはアダムとイブが恥じ、陰部を隠したのは性行為を行ったからであると解釈し、それを原罪とした。 カトリック教会(西方教会)は、オランジュ公会議(529年、Councils of Orange)において、原罪にかかるアウグスティヌスの教えを承認した。 宗教改革以降、アウグスティヌスの教え、およびオランジュ公会議のカノンなどの影響を受け、改革派教会は原罪にかかる教理として全的堕落説を展開した。これに対し、カトリック教会はトリエント公会議(1546年 - 1547年)において予定説とともに全的堕落説を否定することを確認し、アウグスティヌスの教えについて誤解している(とカトリック教会は考えた)プロテスタントの教えを否定し、原罪にかかる教理を確認した。 一方、正教会は上述のように公会議や教義論争を通じて原罪の概念の定式化に努めた西方教会と異なり、同概念につき、公会議による定理化(教義化)を避けてきており、その理解には様々な見解の余地がある多様性がある。ニッサの聖グリゴリイ(ニュッサのグレゴリオス)をはじめとしたギリシャ聖師父を引証しつつ、アダムとイヴの堕落の結果は肉体のみならず道徳的な面にも及ぶと理解されるが、アウグスティヌスのような「弱さと同時に罪責を(受け継いだ)」とするような「法律的な」理解は避けられる。 カトリック教会において原罪とは、人類の歴史の出発点にある人祖(アダム)の罪であるとされ、その罪とは神に対する不従順であることは間違いないとされる。 他方、人祖の罪が具体的に何であるかは不明であり、神と善のみが理にかなった光であり悪は不可思議なものであり続けるともされ、原罪には完全に理解され得ない神秘的な面があるとされる。 なお、原罪の教理はローマの信徒への手紙5:12 - 21にも示されている通り、イエス・キリストによる救いと切り離して理解することは出来ないともされる。キリストによる恵みが重要であるということを示すためにパウロは罪について論じたと解される。 カトリック教会のカテキズムは原罪について次のように述べている。 「人間は悪の誘惑を受け、神の信頼を裏切り、自らの自由を不正に行使して、神の命令に従わなかった。人間は神の命令に従わないことで、自らの良さを貶める結果となった。…人類の一体性により、全ての人はアダムの罪を引き継ぐことになったが、それと同じようにすべての人間はイエスの義をも受けつぐことができた。どちらにせよ、原罪も神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない。」 創世記3:15 - 19は、原罪の結果、人の世に苦しみ・情欲の乱れ・不毛な生・死が入ったことを示していると解される。死とは生物学的な生命の終わりではなく、人が神のいのちの交わりに到達できないという意味での死である。また、人は成聖の恩寵を喪失したとされる。 罪には社会性があり、一人の人の罪は一個人にとどまらず、周囲に及んで罪の環境のようなものを形成する。原罪と区別される自罪(自分の自由と責任によって犯した罪)は、罪の環境に自分の自由の波長を合わせた行為に出るときに生じる。罪の環境は自分の責任ではないが、各人が背負っており、そこから救われる必要がある。 楽園からの追放は、神による追放でも、人間が別の場所に住むようになったことを意味するのでも無く、罪によって失楽園の状態がつくられていることを指すとされる。失楽園とは、人の世界との関わりが神への道となっておらず、閉鎖的な世界内の循環になっている状態である。本質的には失楽園とは、人に先天的には神の恩恵が無い状態であり、人はここから脱して神のいのちによって救われる必要があるとされる。 洗礼(もしくは血の洗礼、望みの洗礼)によって、原罪も含めた凡ての罪が赦されるとされる。原罪の影響は人間の内に存在するため、人は霊的な戦いをし、その影響に勝つことが求められるとされる。 宗教改革期において、プロテスタントは概ね、アウグスティヌスの説に従い付け加えることをしなかったと、プロテスタントからは評される(ただしカトリック教会はアウグスティヌスの説をプロテスタントは誤解していると捉え、トリエント公会議でプロテスタントの原罪にかかる説を予定説などとともに否定している)。 ただし、「プロテスタント」は数ある諸教派の総称であり、プロテスタント内にも教派ごとに原罪にかかる理解に差がある上に、以下、教派ごとの理解の概略を述べるが、それぞれの教派内にも様々な見解の差異がある。 ルター派は原罪を、行為ではなく性質・状況・生来の状態と捉える。原罪と人の本性とは異なるものであるが、人の本性から原罪を切り離すことは神にしか出来ない。洗礼と聖霊による新生のみにより、原罪の結果から逃れることが出来るとする。 アウグスティヌスの教え、およびオランジュ公会議のカノンなどの影響を受け、カルヴァン主義者(改革派教会、長老派教会)は原罪にかかる教理として、アルミニウス主義を否定して成立したドルト信仰基準において全的堕落を確認した。カルヴァン主義においては、全面的に堕落した人間は悪い性質によって本来の性向と意志とが特徴づけられているとされ、救いに必要な霊的な働きをするための意思能力を一切失っているとされる。 ルター派もカルヴァン主義も、原罪により、人類が原義(original righteousness)を喪失したとみなし、堕落後の自由意思を認めない。 これに対し、ジョン・ウェスレーは、アダムによる原罪と堕落により人類が原義(original righteousness)から大きく離れていることは認めたが、堕落を全面的なものとはせず、神の先行的恩寵によって、全ての人はキリストを選ぶか拒絶するかの自由意思を有するとした。アルミニウス主義の影響を受けたウェスレーによるこれらの考え方は、メソジストの教理となった。 正教会において原罪(ロシア語: Первородный грех, 英語: original sin)に対する認識は西方と幾分異なっている。 正教会においては、西方教会における原罪の概念を否定的に捉えることから原罪という術語を用いる事にさえ慎重な見解をもつ者もいれば、他方、原罪という術語を用いる事自体は忌避していない者もいる。いずれにしても、西方教会における原罪についての理解・論争からは距離をとっている事は共通している。 西方教会では人間全てが完全に堕落し、十字架にかけられ罰を受けるべきだったがキリストが代わりに十字架にかかった、と強調し、東方教会では人間は完全に堕落したわけではないので罰を受ける必要はなかったが、完全な神の像のときアダムが罪を犯したため、完全な神の像であるハリストス(キリスト)が十字架にかかり罪を贖った、と強調する。 正教会は、カトリック教会における教義(1854年決定)である、聖母マリアの無原罪の御宿りを認めない。原罪の結果に対するアウグスティヌスの考え方に同意しない正教会において、無原罪懐胎の教理は、「誤り」であるというよりも、むしろ「不要」なものであると評される。 ^ a b ゴンサレス、鈴木, p87 - p88, 2010 ^ カトリック大辞典 II, p172 昭和42年 ^ SIN - JewishEncyclopedia.com (英語) ^ a b c 罪と救い - 日本正教会公式サイト ^ a b 生神女マリヤへの理解 - 名古屋ハリストス正教会ホームページ ^ a b ウェア、松島, p8 (2003) ^ a b Иустин (Попович), преп. - О первородном грехе ^ \"Orthodox Study Bible\" p6 ^ a b c d バルバロ, p10 (1980) ^ 『旧約聖書略解』p14 ^ 『新聖書注解 (旧約 1)』 p91 ^ a b c 『旧約聖書略解』p16 ^ \"Orthodox Study Bible\" p8 ^ 『新聖書注解 (旧約 1)』 p95 ^ a b Laudate | カテキズムを読もう ^ 『旧約聖書略解』p17 ^ a b c ゴンサレス、鈴木, p88, 2010 ^ a b c 『キリスト教大事典 改訂新版』p390 (昭和52年) ^ CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Councils of Orange ^ Historic Church Documents at Reformed.org About the Council of Orange ^ a b CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Council of Trent ^ a b CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Teaching of St. Augustine of Hippo ^ ウェア、松島, p10, p11, p14 (2003) ^ a b c 『カトリック教会の教え』p53 (2003) ^ a b 『カトリック教会の教え』p52 (2003) ^ a b 教皇ベネディクト十六世の161回目の一般謁見演説 ^ カトリック大辞典 II, p174 昭和42年 ^ a b 『カトリック教会の教え』p55 (2003) ^ 『カトリック教会の教え』p54 (2003) ^ カトリック大辞典 II, p175 昭和42年 ^ Lutheran Church - Missouri Synod - Christian Cyclopedia \"Sin, Original\" ^ Historic Church Documents at Reformed.org About the Council of Orange ^ a b Methodism (By Dr. Richard P. Bucher) ^ \"Orthodox Study Bible\" p1784 ^ アルフェエフ、高松 p56 - p58, 2004 ^ a b 「正教会とローマ・カトリック教会の相異」 - 東方正教会内ページ、長司祭 イオアン長屋房夫による翻訳 ^ 府主教カリストス・ウェア著、司祭ダヴィド水口優明・司祭ゲオルギイ松島雄一訳『カリストス・ウェア主教論集1 私たちはどのように救われるのか』17頁 - 18頁、日本ハリストス正教会 西日本主教区 一般 The 1911 Classic Encyclopedia \"Sin\" カトリック教会 教皇ベネディクト十六世の161回目の一般謁見演説 新要理書編纂特別委員会/編、日本カトリック司教協議会/監修『カトリック教会の教え』(2003年)カトリック中央協議会、ISBN 9784877501068 『カトリック大辞典 II』上智大学編纂、冨山房、昭和42年(1967年)第七刷 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Original Sin Laudate | カテキズムを読もう フェデリコ・バルバロ (翻訳)『聖書』(1980年11月25日) ISBN 9784061426061 プロテスタント 『キリスト教大事典 改訂新版』教文館、昭和52年(1977年) 改訂新版第四版 フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』教文館 (2010年11月)、ISBN 9784764240353 Lutheran Church - Missouri Synod - Christian Cyclopedia \"Sin, Original\" The Five Points of Calvinism (R. L. Dabney) WHAT DO UNITED METHODISTS BELIEVE? (Dr. William Bouknight) Methodism (By Dr. Richard P. Bucher) Southern Baptist Theologians and Original Sin (Dr. Mark A. Gstohl) 『旧約聖書略解』日本基督教団出版部、1986年第40版 『新聖書注解 (旧約 1)』いのちのことば社 (1976年9月) ISBN 9784264000082 正教会 罪と救い - 日本正教会公式サイト 府主教カリストス・ウェア著、司祭ダヴィド水口優明・司祭ゲオルギイ松島雄一訳『カリストス・ウェア主教論集1 私たちはどのように救われるのか』日本ハリストス正教会 西日本主教区 2003年9月1日 \"Orthodox Study Bible\" Иустин (Попович), преп. - О первородном грехе 府主教イラリオン・アルフェエフ著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』2004年 東京復活大聖堂教会 長司祭 イオアン高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫 1980年7月10日(初版)、2004年12月20日(第23刷) ISBN 9784061585003 ユダヤ教 Jewish Encyclopedia (1901年-1906年) オンライン版 全的堕落 神の像と肖 共働 Fall of Man 禁断の果実 Иустин (Попович), преп. - О первородном грехе", "ケリュグマ(κήρυγμα)とは、新約聖書に8回出てくる語。告知者が告知する行為もしくは内容を表している。 カール・バルトらの新正統主義において、ケリュグマと宣教が同一視される。また、ケリュグマは新約だけでなく、旧約にも証言としてあるとされている。松木治三郎は、伝道は宣教の一つではないとしている。 ルドルフ・ブルトマンは聖書を非神話化し、ケリュグマこそが聖書の中心であるとした。 ^ 山口昇『ケリュグマ(使信)』「新キリスト教辞典」いのちのことば社、1991年 ^ NCC大辞典「宣教」 『キリスト教大辞典』日本キリスト教協議会(NCC) 『現代神学小史』C.F.ヴィスロフ いのちのことば社", "ノン・クリスチャン(英: non-Christian)とは、キリスト教、特にプロテスタントの福音派等においてクリスチャンでない人を指して使われる表現である。このような片仮名表記は使用頻度が稀な教派も多く、例えば日本正教会ではこの片仮名表記は全く用いられず、カトリック教会でもほとんど用いられない。片仮名表記を用いない場合、「キリスト教徒ではない人」「(キリスト教)信者ではない人」など様々に表現される。 本項では福音派によるノン・クリスチャン(非キリスト教徒)に対する捉え方について述べるが、正教会、カトリック教会は以下のような見解を持たず、聖公会・プロテスタントにも以下に述べるような見解を持たない者が多数存在する。 福音派の信仰はローザンヌ誓約に表明されており、福音派の立場は「宗教的排他主義」や「差別主義」と呼ばれることがあるが、教界に異なる理解もあるため、他の理解については、アラン・レイスの三類型とキリスト教の共通用語である異教徒を参照のこと。 ノン・クリスチャンと同義の語彙として、異教徒、偶像教徒、非再生者があり、ノンクリスチャンの神学上の定義は「生まれながらの人」、「罪の中に死んだ者」、「怒りの子」、「サタンの子」、「悪魔の子」、「神を知らない人々」、「霊魂と肉体のすべての機能と部分において全的に汚れたもの 」である。 ウェストミンスター小教理問答問19は「全人類は、堕落によって神との交わりを失いました。今は神の怒りとのろいの下にあり、そのため、この世であらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰の責めを負わされています。」と告白する。 未信者、不信者の語もあるが、福音派の神学では区別して用いる場合がある。区別するとき未信者は、地上で生きており、まだクリスチャンでない人を指すが、不信者はすでに死んでクリスチャンになる可能性が無い人を指している。 ノンクリスチャン、ノンクリの語は福音宣教に関連した福音派キリスト教の現場で頻繁に使われることばである。特に家族、友人、知人が未信者である場合、伝道の対象として言及される。 「霊の戦いに関する聖書的・包括的理解のためのナイロビ声明」は、地域を支配する霊は議論のある事柄としている。またナイロビ声明は初代教会において悪霊との対決は教会が未信者と遭遇したところで見られ、「力の対決」が福音伝道と結び付けられているとし、未信者から悪霊を追い出す必要を認めているが、クリスチャンから悪霊を追い出す必要については議論のある事柄として検討されている。 福音派の指導者マーティン・ロイドジョンズによれば、福音は、人をクリスチャンとノンクリスチャンの二種類のグループに分ける。イエス・キリストの福音が非キリスト教のノン・クリスチャンの世界に対して言うべきことは、神の怒りだけである。クリスチャンとノンクリスチャンの間には本質的、完全な相違があり、クリスチャンはノンクリスチャンと出来る限り違った者となりたいと願うべきであり、クリスチャンがキリストに似た者になるにつれ、ノンクリスチャンとは似なくなる。 ジョン・ヒックは多元主義を唱え、ノンクリスチャンもクリスチャンも同様の救済が得られるとし、カール・ラーナーはキリスト教の信仰が無くても、それぞれの宗教者はクリスチャンであるとする「無名のキリスト者」論を唱えるが、福音派はこのような見解を採らない。 第二ローザンヌ、マニラ宣言は人間をこのように四つに分類する。 生ける信仰者。宣教事業の担い手となるクリスチャン 名目上のクリスチャン。洗礼を受け、時々教会に来るが、キリストと生ける交わりを持ったことがなく、新生する必要のある者 福音を聞いたことのある人 福音を聞いたことのない人 2、3、4がノンクリスチャンである。 アブラハム・カイパー、ウォーフィールドら改革派神学者はノンクリスチャンの非再生知性とクリスチャンに与えられた再生知性を区別しており、ノンクリスチャンの知性を限定されたものととらえる。 ノンクリスチャンは聖霊によって生れていないため、ノンクリスチャンに聖書を解釈する能力はないとされる。 小さないのちを守る会では、「問題になることの一つは、ノンクリの彼氏彼女との関係」「ノンクリの彼氏に信仰を反対されて、「イエス様を心では信じてはいるけど」と言いながら教会生活やクリスチャン学生の集いから離れてしまう女子大生たちも。」、「ノンクリ彼氏への愛」としてクリスチャンとノンクリの交際の問題がとりあげられている。用例としては、「私の家族はノンクリです。」「ノンクリに交際を申し込まれました」など。 キリスト教の教派の中で、クリスチャンとノン・クリスチャンの結婚を認めない教会がある。伝統的にはノン・クリスチャンとの結婚だけでなく、他教派との結婚も禁じられていた。プロテスタントの代表的な信仰告白の一つであるウェストミンスター信仰告白では、ローマ・カトリック、偶像崇拝者、ノン・クリスチャンとの結婚を禁じている。カトリック教会でも第2バチカン公会議(1962年 - 1965年)以前は「異教者」との結婚を原則的に禁止し、重大な理由がある場合、特別に許可を得ることができるとされていた。また、禁止しない教派でもクリスチャンの相手が望ましいとされることが多い。ただし、リベラルにはクリスチャンとノン・クリスチャンの相違が問題にされない教会もある。 ^ ジョン・ストット著、宇田進訳『ローザンヌ誓約(解説と注釈)』 いのちのことば社 ^ ハロルド・ネットランド『どんな宗教でも救われるか』松元保羅訳、いのちのことば社 ^ 『聖書の霊感と権威』 ^ 第一コリント12:2、新改訳聖書、新共同訳聖書 ^ 岡田稔『岡田稔著作集』いのちのことば社 ^ P.S.ヘスラム著『近代主義とキリスト教』(アブラハム・カイパーの思想) 教文館 ^ 第一コリント2:14、新改訳聖書 ^ エペソ2:1、新教出版社 ^ エペソ2:3 ^ ジョナサン・エドワーズ『怒りの神』「ルツの決心」p.114 伊賀衛訳 西村書店 1948年 ^ マーティン・ロイドジョンズ著『山上の説教』、『キリスト者の戦い』 ^ 第二テサロニケ1:8 ^ ウェストミンスター信仰告白第6章「人間の堕落と罪、およびその罰について」 ^ 『ウェストミンスター信仰基準』新教出版社 ^ 尾山令仁著『聖書の教理』p.478 ^ non-Christians ^ The history of evangelization frequently links power encounters with the evangelization of non-Christian people ^ DELIVER US FROM EVIL - CONSULTATION STATEMENT ^ 『ナイロビ声明』p.26-27 ^ the gospel divides people into two groups, ^ a b マーティン・ロイドジョンズ『山上の説教』下巻 p.194 1972年 Studies in the Sermon on the Mount by Martyn Lloyd-Jones p.396 1984年 ISBN 080280036X ^ 尾山令仁『ローマ教会への手紙』「二種類の人間」(ローマ6:23)p.237 ^ the non-Christian world ^ the essential, utter difference between the Christian and the non-Christian.マーティン・ロイドジョンズ『山上の説教』上巻p.50-51 1972年 Studies in the Sermon on the Mount by Martyn Lloyd-Jones p.28 1984年 ISBN 080280036X ^ ジョン・ヒック『もうひとつのキリスト教:多元主義的宗教理解』日本基督教団 ISBN 4818400270 ^ ハロルド・ネットランド著『どんな宗教でも救われるか:福音的キリスト教信仰と宗教多元主義』いのちのことば社 ^ 『福音主義キリスト教と福音派』p.298 ^ 『名目上のクリスチャン』誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ、関西ミッション・リサーチ・センター ^ 『近代主義とキリスト教』アブラハム・カイパーの思想 P.S.ヘスラム著 稲垣久和・豊川慎訳 教文館 ^ 尾山令仁『聖書の権威』日本プロテスタント聖書信仰同盟 ^ 内田和彦『神の言葉である聖書』p.96 ^ ロイドジョンズ『山上の説教』 ^ 「愛の真実度>愛の実感度」小さないのちを守る会 ^ 「ノンクリ彼氏への愛」小さないのちを守る会 『聖書の教理』尾山令仁 羊群社 『山上の説教』マーティン・ロイドジョンズ いのちのことば社 『ローマ書講解』マーティン・ロイドジョンズ いのちのことば社 『キリスト者の戦い』マーティン・ロイドジョンズ いのちのことば社 ISBN 9784264005735 『宣教のめざす道-エキュメニカルと福音派の間-』ピーター・バイヤーハウス いのちのことば社 『悪霊を追い出せ!-福音派の危機を克服するために』奥山実 マルコーシュ・パブリケーション ISBN 4872071115 『福音主義キリスト教と福音派』宇田進 いのちのことば社 『日本の福音派』日本福音同盟 『公教要理』天主公教会 カトリック中央出版部 1936年", "メシアは、ヘブライ語のマシアハ(משיח)に由来し、「(油を)塗られた者」の意。 出エジプト記には祭司が、サムエル記下には王が、その就任の際に油を塗られたことが書かれている。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになった。 メシアのギリシャ語訳がクリストス(Χριστός)で、「キリスト」はその日本語的表記である。キリスト教徒はナザレのイエスがそのメシアであると考えている。イエスをメシアとして認めた場合の呼称がイエス・キリストである。イスラム教徒もイエスをメシア(マスィーフ)と呼ぶが、キリスト教とは捉え方が異なっている。 ヘブライ語マシアハがギリシア語にはいってメシアス(μεσσίας)となった。日本語のメシアはメシアスに由来する。メサイアは同じ語に由来する英語。 ユダヤ教におけるメシア(w:Jewish Messiah)はダビデの子孫から生まれ、イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。 各時代にメシアを称した者(保守派や、大多数の者からは「偽メシア」ということになる)は、当然ユダヤ教内部でも解釈が分かれ、分派を形成した。また、これに賛同したキリスト教徒・イスラム教徒もいた。また、こちらも当然ながらユダヤ教からはイエスは偽メシアとして見られている。メシアニック・ジュダイズムのようにユダヤ教を自称し、ユダヤ教的様式の典礼を実践しつつイエスをメシアと認める教派も存在するが、彼ら自身を除いて主流派ユダヤ教やキリスト教両者側からもユダヤ教ではなくキリスト教の一派と認識されている事の方が多い。 イスラームでもユダヤ教、キリスト教からメシアの概念は継承されており、アラビア語で「マスィーフ」( مسيح masīḥ、油等を塗る意味の動詞の派生語)と呼ばれ、イエスのことを指す。イスラームにおいてはイエス自身は預言者にして預言者ムハンマドに先行する神(アッラーフ)の使徒とされており、また神が派遣したメシアであることも認識されている。クルアーンの記述から「マスィーフ」(救済者、メシア)はダビデの子孫から出現するとされ、人々を苦難から救済しアッラーフ(神)の支配を確立する者としている。終末のときに神の代理人として出現し偽メシアを討伐するといい、これらもユダヤ教、キリスト教のメシア像から受継がれている。イスラームにおいて「マスィーフ」は人類の救世主であるのに対し、イスラム共同体のみにおける救世主(指導者)は「マフディー」(「正しく導かれる者」の意味)と称する。単に「アル=マスィーフ」(al-Masīḥ)、「マスィーフッラーフ」( مسيح اللّهMasīḥ Allāh ;神のメシア)と呼ぶ場合、イエス自身を指す尊称である。 「イーサー」として彼を意味する、最後から2番目のメシアとしてクルアーンはイエスを位置づける。ノア、アブラハム、モーゼ、そしてムハンマドと共に、イスラムの伝統ではイエスは最も重要な預言者のひとりである。 キリスト教徒と異なり、イスラム教徒は神ではなくひとりの預言者としてのみイエスを理解する。人間的な形での予言はイスラムでは十分である、しかしキリスト教信仰でのイエスが行うものとしての神の真の力を意味しない。 クルアーンはイーサーが、マルヤムの息子(英:Son of Mariam、アラビア:Isa ibn Maryam)であり、イスラエルの子孫に送られたメシアそして預言者であることを明記する。イサの誕生がクルアーンの19章1-33節に、そしてイーサーがマルヤムの息子として4章171節に明示的に明記される。多くのイスラム教徒はイーサーが天国に生きていることとそしてヤウム・アル‐キヤーマ(英語版)(「復活の日」)の前にまもなく現れる者である、キリスト教信仰での反キリストと姿が似ている、マシーフッダジャール(英語版)(偽のメシア)を撃破するよう地上に帰ってくるのを信じる。ダジャールを滅ぼしてから後、彼の最後の仕事はイスラム教徒の主導者となることだろう。支持者たちによる分派と逸脱が終わることによって、イーサーは純粋なイスラムでの唯一のアッラーの崇拝の共通の目的のもとにイスラム教徒の ウンマ(イスラムの信奉者)を統一するだろう。主流のイスラム教徒はこのときのイーサーのキリスト教徒とユダヤ教徒の彼についての主張を追い払うことを信じる。 ナザレのイエス - キリスト教にとってのメシア/神/神の子(イエス・キリスト)、イスラム教にとっての預言者。分派を形成 ユダの子メナヘム - 第1次ユダヤ戦争を指揮、父であるガリラヤ人ユダは熱心党の創始者 バル・コクバ - 第2次ユダヤ戦争を指揮し、エルサレムで2年半の間全イスラエルを統治 クレタのモーセ スペインのセレヌス David Alroy アブラハム・アブラフィア ニッシム・ベン・アブラハム Moses Botarel of Cisneros アッシャー・レムライン Asher Lemmlein イサーク・ルリア シャブタイ・ツヴィ (サバタイ・ツヴィ)- 解釈が分かれ分派を形成 アイゼンシュタットのモルデカイ・モキア ヤコブ・フランク - 解釈が分かれ分派を形成 メナヘム・メンデル・シュネールソン - 現在、解釈が分かれている 出口王仁三郎 - 自分を、再臨(再来)のキリストだと主張 金百文(キム・ベンムン) - 自分が再臨のキリストであると主張。文鮮明に影響を与える 朴泰善(パク・テソン) - 1960年代に、キリストが雲に乗ってくると言って、多くの信徒を連れて閉鎖的な信仰村を作った。キリストが来ると予言した日には何も起こらず、信徒たちは離れて行った。自分こそが再臨のキリストであると主張 文鮮明 - 1992年に公にメシアであると宣言。2012年死去 麻原彰晃 - 1991年に「キリスト宣言」を出して、自分だけが世界を救済することのできる「救世主・キリスト」であると宣言 又吉イエス - 日本の政治運動家。選挙演説などで再来のキリストと主張 ^ 聖別に用いられる油はナルド(日本ではナード、またはスパイクナードと呼ばれる)のアロマであり、女郎花科のナルドスタキス・ジャターマンシーから抽出された香料(日本でもお香の材料に使われる)をオリーブ油に溶いたものとされる。1500年前に絶滅した「バルサム樹(バルサムの木)」から採取した「バルサム油」とする説もある。 ^ 出エジプト記 28:41 ^ サムエル記下 2:4 ^ ヨハネによる福音書 1:41 ^ a b Albert, Alexander. “Orientating, Developing, and Promoting an Islamic Christology”. FIU Electronic Theses and Dissertations. 2014年5月1日閲覧。 ^ Siddiqui, Mona (2013). Christians, Muslims, and Jesus. Yale University Press. p. 12.  ^ “Muttaqun OnLine - Dajjal (The Anti - Christ): According to Quran and Aunnah”. 2012年11月9日閲覧。 ^ 第33章7節 “部族連合”. 2016年12月16日閲覧。 ^ 第42章13-14節“相談”. 2016年12月16日閲覧。 ^ 第57章26節 “鉄”. 2016年12月16日閲覧。 ^ 第3章45節“イムラーン家”. 2016年12月16日閲覧。 ^ 第19章1-33節“マルヤム”. 2016年12月16日閲覧。 ^ 第4章171節“婦人”. 2016年12月16日閲覧。 キリスト 救世主 メシアニズム List of messiah claimants", "全的堕落(ぜんてきだらく、英語: Total Depravity)は、すべての人間が罪によって全的に堕落しているという聖書の教理の前提であり、プロテスタント、特にカルヴァン主義神学の根幹となる教理である。カルヴァン主義の5特質TULIPの一つ。宗教改革者とプロテスタント正統主義において、教父アウグスティヌスによる原罪論が神学的に発展、展開、構築され、教理的、神学的に提示された。この教えは、ルーテル神学、改革派神学(カルヴァン主義)、ウエスレアン・アルミニアン神学など、プロテスタントにおける各神学的立場を横断して受け入れられている。ただしルーテル教会、カルヴァン主義と、ウェスレアン・アルミニアン神学の間には若干の違いがある。 ローマ・カトリックにおいては、アウグスティヌスの原罪論は採るものの、全的堕落説は採られず、アウグスティヌスの論を全的堕落の根拠とすることについて否定している。 正教会では、アウグスティヌスを全否定はしないものの、アウグスティヌスの自由意志に係る論そのものを受け入れず、全的堕落という考え方は全く採られない。 聖書のコンテキストからの聖典解釈から導かれる「全的堕落」や、さらにはアダムの堕罪さえも人類に対し影響を及ぼすべきものではないと最初に主張し始めた4世紀のペラギウスは、救霊は人間の自由意志によって実現され得るのだから、神の救済を必要としないとする(ペラギウス主義)。 これに対立する、人間の自由意志は認められようが、かかる意志も神が予定したものに過ぎないとするアウグスティヌスとの論争は、ペラギウス派駁論集として著述に残されている。 結果、ペラギウスはエフェソス公会議において異端であるとの審決が確定し、排斥された。 人は、アダムの創造主である神への反逆、すなわち堕罪ゆえに、その結果として「全的に堕落」したとするもので、ここに「全的」とは、二重の意味を持つ。第一に、その「堕落」が全人類に広がりアダムの末裔である限り、その「堕落」から逃れた者はいない、という「堕落」普遍性を示すことばであり、第二に、人格のすべての領域にその「堕落」が及んでいると言う意味において「全的」なのである。つまりすべての人間は堕落しており、また人間の人格もすべて堕落しているという意味である。「神学の第一原理は、人間の堕落、人間の罪である。」と言われている。 教会史上神学の基本的な形は、ペラギウス主義、半ペラギウス主義、アウグスティヌス主義の三つしかないとする指摘がある。ロバート・チャールズ・スプロールは、ペラギウス主義は亜キリスト教、あるいは反キリスト教であり、自由主義神学(リベラル)とペラギウス主義に救いはないとしている。 まず「意志」の分野において、神に背いた人の意志は、罪(sin)の奴隷となっていて、いのちの源である神のいのち、すなわち「永遠のいのち」に与らない限り、意志は常に罪(行)に傾いてゆく。 アウグスティヌスは堕落前と堕落後の人間をこのように分類する。 posse peccare エデンでは罪を犯す自由もあった non posse non peccare 堕落後の人間は罪を犯さずにいるという自由をもっていない posse non peccare 恵みを与えられた人間は罪を犯さない自由もある non posse peccare 天国で罪を犯す自由はない。 「理性」においても、人は自らを賢い者としているが、その実、愚かになっている。近代、啓蒙主義が興るにつれて、人間理性は、神から自立した理性として自己主張し、その結果、物質的世界は、地中海世界から環太平洋世界へと格段に広がり、現代では、人間の知識は、地球を越えて宇宙へと広がりを見せている。しかし、その一方で、心理学の発展にもかかわらず、人は己に関して無知であり、霊の世界を見失って、自らを四次元の世界、五感の世界に閉じ込めてしまっている。 「生まれながらの人間」は堕落しているので、聖書を理解することはできず、新生してクリスチャンとなり、聖霊に導かれて聖書を読んではじめて聖書を理解することができる。 堕落前の世界と堕落後の世界は異なっており、堕落後の人間は堕落前の世界を理解することが出来ない。また、人間の知性にも堕落の影響が及んでいるため、学問にもクリスチャンの学問とノンクリスチャンの学問の二種類の学問がある。 「感情・情緒」の分野においても、この「堕落」の結果は顕著であって、しばしば現代人は感情の倒錯を経験する。愛する代わりに憎み、謙遜である代わりに傲慢となっている。 このように「堕落」は、人格の三要素「知情意」のすべてに及んでおり、ここに人の持つ根源的課題があるとされる。ジャン・カルヴァンはこのように述べる。「キリスト者は神のかたちを帯びることによって神の子と認識されるように、彼らは堕落して帯びるに至ったサタンの像によって、サタンの子らとして、正当に見なされるからである。(第一ヨハネ3:8) ただし、一般恩寵があるので、ノンクリスチャン、異教徒が善を行なう能力をまったく失ったわけではなく、彼らも救いに至ることのない相対的な善を行なう能力は有している。魂が神から離れていることでは霊的死の状態は悪魔と変わらないが、人間である異教徒と御使いであった悪魔には相違がある。堕落した人間も、悪魔や悪霊ほどの腐敗の進捗は見られない。 『ウェストミンスター信仰告白』16:7は、新生していない者が神に命じられている事柄で、自分にも他人にも有益な善行を行ったとしても「その行為は、罪深いものであり、神を喜ばせることも、神から恵みを受けるにふさわしい者にすることもできない。それでもなお、彼らがこの行為を怠ることは、いっそう罪深く、神を怒らせることである」と告白している。 これは「悪い者が耕すことは罪である。しかし、悪い者が耕さないことはもっと罪深い」と表現される。 ローマ・カトリック教会において、全的堕落の見解は採られない。 トリエント公会議(1546年、1547年の第5・第6会議)において、原罪と義認に関する教えがとりあげられた。ここにおいて、人間の自由意志は罪によって弱められるに過ぎず、救いの過程に参与する資格をもっており、人間の救いは恩寵と人間の行為とによるとされ、宗教改革に対抗する立場が明らかにされている。 アウグスティヌスはカトリック教会において「最大の教師」とも呼ばれ重要視されるが、原罪と人間性の脆さ・弱さに関する教理、および恩寵の必須であることを巡っては、しばしば極端に走ったとも指摘される。ルター、ツヴィングリ、カルヴァンなどにより、アウグスティヌスに残存していた誤謬が、誤って利用されたとカトリック教会では理解される。 ローマ・カトリックにおいては、アウグスティヌスの論が全的堕落説であることをそもそも認めない。 正教会はアウグスティヌス、ルター、カルヴァンらが主張したような人間の堕落についての理解を採らない(アウグスティヌスは正教会でも聖人ではあるが、人間の「堕落」についての彼の見解は評価されていない)。 正教会においては、人間は生まれた時から、堕落した条件の中で生きざるを得ず、肉体的な弱化と、霊的な病としての意志の弱さ・連帯性の欠如といった結果がその条件からもたらされると理解される。 しかし正教会では罪によって人間がこのように病んでいる事は認めるが、人間の本性が根から堕落し全面的に腐敗を被っているとはしない。ルター主義者が堕落によって人の内なる神の像が失われたとするのに対し、正教会では「神の像が昏昧したのであって絶滅したのではない」とし、「肖」(Likeness)は失われたが「像」(Image)は失われていないと主張する。さらに、正教会においては、自由意志には限界はあるが絶滅してはいないとし、人間の意志は病んではいるとはいえ、依然として善を選択する事が可能であると理解される。 アウグスティヌスによる、堕落の結果「自由意志は失われた」という説、「人間性はその落ち込んでしまった過誤に組み伏せられ、自由を失った」という説に、正教会は同意しない。 正教会はエルサレムの聖キュリロスの言を採る。「(各人は)その行うことを実行する力を持っている。貴方は罪を犯すために生まれてきたのではないからだ。」「悪魔は悪へのほのめかしを行うことは出来る。しかし、貴方を貴方自身の意志に背かせる事は出来ない。」またさらに、西方教会神学の影響が甚だしかった時代に正教の護教的な信仰告白を表したとされるエルサレム総主教ドシセオス2世は、1672年にエルサレム地方公会で認められた『信仰告白』で、「神は、意志する力、すなわちご自身に従うことを意志する力も、従わないことを意志する力も、取り上げられることはない」と断言した。 と同時に、救いは完全に神のみわざであるともされる。どんな「配分」にせよ、神と、その共働者人間それぞれの貢献につき、割合の概念を当て嵌める事は否定される。我々の救いというわざは、全体的に完全に神の恵みのわざであり、かつその神の恵みのわざの内にあって、人間は全体的に完全に自由であり続ける。神の恵みと人間の自由は互いに排斥する事は考えられず、互いに補い合う。ウラジーミル・ロースキイによればこれは「同じ現実の二つの極」と表現される。神の恵みの働きの余地が広ければ広いほど、人間の自由も一層活発に働くとされる。 以上のような正教会の概念は、正教会においてペラギウス主義、半ペラギウス主義とは自認されない。 ^ Reformed Churches (Christian Cyclopedia The Lutheran Church--Missouri Synod) ^ a b c Teaching of St. Augustine of Hippo (CATHOLIC ENCYCLOPEDIA) ^ マーティン・ロイドジョンズ『山上の説教』下巻pp.328-329 ^ ロバート・チャールズ・スプロール『何からの救いなのか』いのちのことば社 ^ 第一コリント2:14 ^ 『新改訳聖書』 ^ 尾山令仁『聖書の権威』羊群社 ^ ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要』改革派教会 ^ マーティン・ロイドジョンズ『山上の説教』「霊的判断と識別」下巻p.286-302 ^ 内田和彦『神の言葉である聖書』p.96-97、近代文芸社 ^ 尾山令仁『開かれた聖書』ニューライフ出版 ^ P.S.ヘスラム著『近代主義とキリスト教-アブラハム・カイパーの思想-』p.164-180,教文館 2002 ^ ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要』改革派教会 ^ パーマー p.4-8 ^ ローレン・ベットナー『不死』新教出版社 p.20-21 ^ 『ウェストミンスター信仰基準』新教出版社 ^ Works done by unregenerate men, although for the matter of them they may be things which God commands, and of good use both to themselves and others; yet, because they proceed not from a heart purified by faith; nor are done in a right manner, according to the Word; nor to a right end, the glory of God; they are therefore sinful and can not please God, or make a man meet to receive grace from God. And yet their neglect of them is more sinful, and displeasing unto God. ^ 『予定論と一般恩寵』p.46 ^ 『キリスト教大事典』教文館、昭和48年 改訂新版第2版 ^ 『カトリック大辞典 I』(14頁 - 18頁「アウグスチヌス」、上智大学編纂、冨山房、昭和42年第七刷) ^ a b 府主教カリストス・ウェア著、司祭ダヴィド水口優明・司祭ゲオルギイ松島雄一訳『カリストス・ウェア主教論集1 私たちはどのように救われるのか』16 - 17頁、日本ハリストス正教会 西日本主教区 ^ \"The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity\" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p5, ISBN 9780631232032 ^ a b c d 出典・台詞文引用元:前掲『カリストス・ウェア主教論集1 私たちはどのように救われるのか』18- 19頁 ^ 出典・台詞文引用元:前掲『カリストス・ウェア主教論集1 私たちはどのように救われるのか』22頁 ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要』改革派教会 ローレン・ベットナー『カルヴィン主義予定論』 エドウィン・H・パーマー『カルヴィニズムの5特質』鈴木英昭訳 つのぶえ社 アウグスティヌス『神の国』 アウグスティヌス『ペラギウス派駁論集(アウグスティヌス著作集29)』 マルティン・ルター『奴隷意志論』 義認論 悪人正機説 - 浄土教、とりわけ浄土真宗においては、「人間に煩悩がある以上どのように善行を積もうとしてもいかなる人間も煩悩を離れることは出来ない」(歎異抄第三条)として「それを自覚していない『善人』でも阿弥陀仏は救ってくださるから『悪人』が救われないはずはない」と唱えた。" ]
ABC01-02-0195
ヒマラヤ山脈の南の麓に位置する、お茶の産地としても有名なインドの保養都市はどこでしょう?
ダージリン
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[ "ダージリン", "シロン", "クーチ・ビハール", "バーガルプル", "グワーハーティー" ]
[ "ダージリン(ネパール語: दार्जीलिङ्ग、英語: Darjeeling、中国語: 大吉嶺)は、インドの西ベンガル州のダージリン地方(英語版)の中心都市である。 人口は2011年3月1日時点で11万8805人。 ヒマラヤ山脈低部のシワリク丘陵に位置し、平均標高は約2134mである。 北方に標高世界第3位の高峰カンチェンジュンガが遠望できる。 ダージリンはインドの平野部に比べて冷涼な気候であり、夏は過ごしやすい。 イギリス領の時代には、インドに住むイギリス人のための避暑地として栄えた。 ダージリンの元の名称はチベット語の「ドルジェ・リン」(雷の地、rdo rje gling)である。 19世紀初頭まではシッキム王国が支配していたが、ネパールのゴルカ王国が、度重なる侵攻により、19世紀初頭には、ティースタ川までシッキムを駆逐し、テライを併合していた。 1814年~1816年のグルカ戦争の結果として、ゴルカ王国によりイギリス東インド会社に割譲された。 イギリスの植民地時代にイギリス人が呼びやすい呼称にしたのがダージリンである。 ダージリンはダージリン・ティーの栽培で国際的に有名である。 ダージリンでの紅茶の栽培は19世紀中頃のイギリスによる開発、ロバート・フォーチュンによるチャノキの中国からの移入に遡る。 この地域特有の栽培品種と発酵技術から生産された茶葉をブレンドした紅茶は、世界で最高級の紅茶とされる。 この一帯では、西ベンガル州からグルカランドの分立・独立を求めるグルカ族の民族運動が起きている。 その一環であるストライキにより、紅茶の生産にも影響が出ている。 ダージリンと平野部のニュー・ジャルパイグリ駅(英語版)を繋ぐダージリン・ヒマラヤ鉄道は、インドに残る蒸気機関車が走る数少ない路線の一つであり、1999年にユネスコの世界遺産に登録された。 ^ City Population閲覧日:2018年11月24日 ^ Dasgupta, Atis (1999). \"Ethnic Problems and Movements for Autonomy in Darjeeling\". Social Scientist. 27 (11–12): 47–68. JSTOR 3518047. doi:10.2307/3518047. ^ http://www.darjeeling.gov.in/darj-hist.html ^ “Champagne among teas”. Deccan Herald (The Printers (Mysore) Private Ltd.). (2005年6月17日). オリジナルの2007年2月21日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070221074118/http://www.deccanherald.com/deccanherald/jun172005/living1150492005616.asp 2006年7月18日閲覧。  ^ 印ダージリン 茶農園が無期限スト/隣国ネパール 絶好機『日経産業新聞』2017年8月23日アジア・ グローバル面 Darjeelingnews Darjeeling teas", "シロン(英語: Shillong)は、インドのメーガーラヤ州の州都である。スコットランド高地に似ていることから「東洋のスコットランド」とも呼ばれる。もともとはアッサム州の州都であったが、1972年1月26日にメーガーラヤ州として分離した際に同州の州都となる。 ^ “Provisional Population Totals, Census of India 2011 - Cities having population 1 lakh and above (PDF)” (英語). インド内務省. 2013年8月15日閲覧。 ^ “Provisional Population Totals, Census of India 2011 - Urban Agglomerations/Cities having population 1 lakh and above (PDF)” (英語). インド内務省. 2013年8月15日閲覧。 ^ World Weather Information Service-Shillong, World Meteorological Organization. Retrieved 23 August 2012. シロン (英語)", "クーチ・ビハール(ベンガル語:কোচবিহার, Kochbihar、英語:Cooch Behar)は、インドの西ベンガル州、クーチ・ビハール県の都市。 12世紀、この地域はカーマタ王国の支配下にあった。 16世紀、クーチ・ビハール王国が成立し、ここに首都が定められた。 17世紀後半、ムガル帝国の武将ミール・ジュムラーの攻撃があった。 1772年、ブータンの軍勢が攻めてきたため、1773年にクーチ・ビハールはイギリスと軍事保護条約を締結し、藩王国となった。 1947年、ジャガッディーペーンドラ・ナーラーヤンの治世にインドへと編入された。 クーチ・ビハールは北緯26度22分 東経89度29分 / 北緯26.367度 東経89.483度 / 26.367; 89.483. に位置している。 2001年の統計では、クーチ・ビハールの人口は76,812人 ^ “Census of India 2001: Data from the 2001 Census, including cities, villages and towns (Provisional)”. Census Commission of India. 2004年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年11月1日閲覧。 クーチ・ビハール王国", "バーガルプル(भागलपुर, Bhagalpur)は、インドのビハール州の都市である。バーガルプル県(ज़िला, district)の県都。 州都のパトナーの東200kmに位置する。 ※日本では英語表記をもとに「バガルプール」や「バガルプル」とも表記されるが、現地語表記における母音の長短をカナ表記に反映させるならば「バーガルプル」が妥当である。 北緯25.14度 東経86.583度 ガンジス川沿いに位置する。 道路 鉄道 Bhagalpur Online", "グワーハーティー(アッサム語: गुवाहाटी、英語: Guwahati)は、インド東北部のアッサム州の都市である。アッサム州の中央部のカームループ都市圏県(英語版)(旧カームループ県(英語版)より分離)にある。「ガウハティ」や「ゴウハティ」とも表記するが、英語表記からの誤読から生まれたものである。 2011年現在の人口は約96万人。地形としては街の西側をブラマプトラ川が流れている。 街の遺跡などから、4世紀には人々が集まって暮らしていたとされる。7世紀に玄奘三蔵が訪問している。カーマルーパ王国(英語版)の都のプラジョティーシュプラのあった場所である。 ^ a b “Provisional Population Totals, Census of India 2011 - Cities having population 1 lakh and above (PDF)” (英語). インド内務省. 2013年8月15日閲覧。 ^ “Provisional Population Totals, Census of India 2011 - Urban Agglomerations/Cities having population 1 lakh and above (PDF)” (英語). インド内務省. 2013年8月15日閲覧。 ディスプル - 州都、衛星都市 Deepor Beel | Ramsar Sites Information Service" ]
ABC01-02-0196
コロイド溶液に横から強い光をあてると、光の散乱のため光の進路が明るく見える現象を何というでしょう?
チンダル現象
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[ "チンダル現象", "チャージアップ", "ニュートン環", "電荷密度波", "スピン密度波" ]
[ "チンダル現象(チンダルげんしょう、英: Tyndall effect, Tyndall scattering)は、光の特性によって起こる物理化学的現象の一つ。分散系に光を通したときに、光が主にミー散乱によって散乱され、光の通路がその斜めや横からでも光って見える現象を言う。 19世紀イギリスの物理学者ジョン・ティンダルによって発見されたため、この名がある。 太陽が雲に隠れているときに雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える薄明光線は身近なチンダル現象の一種である。 ミー散乱の強度は粒子径と波長がほぼ等しいときに最大となり、光の入射方向より特に前方側に多く散乱する特徴がある。ミー散乱の強度は波長に特に依存しないので、太陽光の場合は白っぽく見えることになる。 光散乱", "チャージアップ(英: charge up)は、SEMあるいはESCAなどで絶縁体試料を測定している際、サンプルが帯電し適切な結果が得られなくなる現象のことである。 SEMでは、サンプルに電子線を照射して発生する2次電子を観測している。したがって、サンプル表面からは常に電子が失われ続けるため、徐々に正に帯電する。この電場の影響によって、像が白く浮き上がってみえてしまう。 ESCAでは、サンプルにX線を照射して発生する光電子を観測している。したがって、SEMの場合と同様に徐々にサンプルが正に帯電する。これにより仕事関数が大きくなるため、光電子の運動エネルギーが小さくなり、結果得られる結合エネルギーのスペクトルは高エネルギー側にシフトしてしまう。 チャージアップを防ぐには、サンプルに金を蒸着して電通をよくする、電子銃を利用して中和する、などの方法がある。", "ニュートン環(ニュートンかん、Newton's rings)は、接触させた2つの凸レンズもしくは凸レンズと透明な板に光を当てたときに観察される同心円状のリングである。ニュートン・リングともいう。これらが作る隙間の両面で反射される光波の干渉によって起こるとして説明できる。 ニュートン環は接触点を中心とした同心円状の多数のリングとして表れ、その幅は内側は広く外側ほど狭くなる。凸レンズは湾曲が少ない(曲率半径が大きい)ものの方がリングが大きくなり観察しやすい。反射光を観察した場合、中心は必ず暗い領域となる。太陽光のような白色光だとリングは虹のように色づいて見え、中心に近いところでは明るいリングの内側が青、外側が赤っぽくなる。ただしこの並びは周辺では不明瞭となる。光が単色光の場合にははっきりした明暗のリングが見え、波長の長い赤い光では大きく、短い青い光では小さくなる。 こうしたいわゆる干渉縞は材質にはよらず、単に2つの透明な物質の間に光の波長に比較しうる程度の細い隙間があれば日常的に観察できる。隙間とは逆に極めて薄い膜でも本質的には同様で、ニュートンは上述のニュートン環の色の並びが、箱の中にそっと置いた石鹸の泡の表面で観察される虹色と正確に同じ順序をもつことに気づいていた。類似した干渉縞は、はりあわせたプラスチックの隙間や、水面に薄く広がった油膜、薄いラップフィルムなどでも観察できる。ニュートン環はこうした波の性質をもつ光の干渉の効果を簡単な道具で端的に示すことができるものであるため、教育上も有用であり干渉やイリデッセンスの典型例としてよく取り上げられる。 ニュートン環の明暗のリングが接触点からの距離に関してどのように現れるかを考えてみる。平板なガラスの上に凸レンズを置き、上方から光が差す場合、問題となる反射光の干渉は、わずかな隙間を作る凸レンズの下面とガラスの上面とで反射した光によって起きる。光が真上から差し、同時に反射光を真上から観察する簡単な場合には、屈折の効果を無視すれば観察される干渉光の振幅は差し込む光の波長 λ とレンズとガラスとの垂直方向の間隔 d とから決まることになる。 下側のガラス上面からの反射では光の波の位相が反転すると考えられているので、接触点、すなわち d = 0 では(両者の材質が同じならば)両者の波は打ち消しあい反射光は現れない。すなわち中心には常に暗い領域ができる。この中心から遠ざかって光が強めあい強い反射光が最初に現れるのは、光は隙間を往復するため隙間が d = λ / 4 のときとなる。その倍の d = λ / 2 となれば再び波は打ち消しあい、これは最初の暗いリングに相当する。このようにして、隙間の幅 d = m λ / 4 (m は自然数)において m が偶数 (0, 2, 4, ...) なら暗いリングに、奇数 (1, 3, 5, ...) なら明るいリングに対応することになる。 球面をなす一般的な凸レンズの表面は接触点からの距離 r の4次以上の項を無視すれば、近似的にパラボラ面とみなせる。これは一般に凸レンズの面の曲率半径を R とするなら、d ≈ r2/2R と表せる。よって、 r ≈ m λ R 2 {\\displaystyle r\\approx {\\sqrt {\\frac {m\\lambda R}{2}}}} であり、ここで m が奇数のときの r に明るいリングが、偶数のときの r に暗いリングが現れる。 例えば、光の波長を λ = 570 nm とし、レンズの曲率半径を R = 30 m とすると、一番内側の明るいリング (m = 1) の半径はおよそ 2.9 mm となる。ニュートンは逆に、こうした各リングの位置 r を精密に測定しその2乗が(レンズを押さえつけすぎて変形していなければ)等差数列となっていることを見出して、隙間の幅に関して周期的に反射と透過を行っていることに気づいている。 ニュートン環は顕微鏡による詳細な観察結果を記したロバート・フックの『ミクログラフィア』の中で1665年に初めて報告された。アイザック・ニュートンは著書『光学』(Opticks, 1701)の中でこのリングについて詳しく研究している。 ニュートンはこれに様々な単色光をあてて、その明暗がガラス間の間隔によって周期的に決まることを見出している。ニュートンは光を粒子だと考えていたためにこの現象の説明に非常に苦慮し、この光の奇妙な性質を透過あるいは反射のしやすさの「発作」(fits of easy transmission or reflection) と呼んだ。フックが発見しニュートンの名を与えられたこの現象は、皮肉にもフックが支持しニュートンが反発した光の波動説を採るときその干渉として自然に説明できるようになった。 しかし、20世紀前半、光が光子という単位でしか相互作用しないことが明らかになってくると、ニュートンの疑問は再び問題となり、状況によって波と粒子の性質をあわせもつ量子の奇妙な性質を端的に示すもののひとつともなった。 ^ ニュートン『光学』(1983) pp.199–204. ^ 図を参照してピタゴラスの定理から R2 = (R − d)2 + r2 ≈ R2 − 2Rd + r2 (R ≫ d) より導く。 ^ ニュートン『光学』(1983) pp.187–190. ^ Robert Hooke (1665). Micrographia. pp. pp.47–67.  ^ ニュートン『光学』(1983) pp.181–207. ^ ファインマン『光と物質のふしぎな理論』(1987). ニュートン 『光学』 島尾永康 訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1983年。ISBN 978-4-00-339041-2。 原書: Newton, Isaac (1701) Opticks. ファインマン, R. P. 『光と物質のふしぎな理論: 私の量子電磁力学』 釜江常好、大貫昌子 訳、岩波書店、1987年。ISBN 978-4-00-005866-7。 (2007)〈岩波現代文庫〉ISBN 978-4-00-600177-3. 原書: Feynman, Richard P. (1986). QED: The Strange Theory of Light and Matter. Princeton University Press. ISBN 978-0-691-08388-9.  (Princeton Science Library, 2006) ISBN 978-0-691-12575-6. 干渉 (物理学) 構造色 アイザック・ニュートン 光波 反射", "電荷密度波(でんかみつどは、英: charge density wave、略称: CDW)とは鎖状化合物や層状結晶でみられる電子の秩序状態で、電子が濃淡を持つネバネバした液体のようにふるまうものである。CDWの中では電子は定在波様式を作っている。この波が全体として平行移動することで、CDWに参加している電子は高い相関を保ったまま集団的な電気伝導を担うことができる。これは超伝導体の集団的伝導と似ているが、CDW電流はとぎれとぎれに流れる特徴がある。その様はまるで蛇口からポタポタと滴る水滴である。以下の節で論じるように、電流が断続的になる原因は不純物によるピン止め効果、および、CDW中に生じる位相欠陥対の間の静電相互作用だと考えられている。 CDWは電子の波動性によって発生するもので、量子力学における粒子と波動の二重性の顕れの一つである。CDWが発生すると電荷密度は空間変調を生じ、周期的に電荷の濃い部分を持つようになる。これは互いに逆の運動量を持つ電子状態(波動関数)が混成することで作られた定在波である。ギターの弦に立つ定在波は互いに逆の方向に運動する二つの進行波が干渉したものだが、CDWも同じように考えることができる。 CDWは電荷密度の波であるだけでなく、結晶格子の周期ひずみ(超格子)をともなっている。CDW状態を取りうるのは擬一次元もしくは擬二次元の層状構造を持つ金属結晶で、前者は光沢のある細長いリボン状(NbSe3など)、後者は光沢のある平板状(1T-TaS2など)の物質である。 CDWの存在は1930年にパイエルスによって予言された。金属の伝導帯はフェルミ波数 ±kF の位置まで占有されており、そこでのエネルギーの値がフェルミエネルギー EF である。パイエルスによれば、一次元金属には ±kF にエネルギーギャップを形成することで電子系のエネルギーを低下させようとする不安定性がある。このようなギャップが開く上限の温度をパイエルス転移温度 TP という。 電荷密度ではなく、電子のスピンが空間的な変調を受けて定在波を形成した場合スピン密度波(英: spin density wave、SDW)と呼ばれる。SDWは上向きスピンと下向きスピンの二つのサブバンドそれぞれに生じたCDWが逆相で重ね合わされたものとみなすことができる。 1954年、ヘルベルト・フレーリッヒは電子系と波数ベクトル Q = 2kF のフォノンが相互作用する結果、ある転移温度以下で ±kF にエネルギーギャップが開くという微視的理論を提唱した。それより高温側では擬一次元導体は金属的であり、そのフェルミ面は ±kF においてチェイン軸と直交する平面である。フェルミ面付近の電子は Q = 2kF の「ネスティング」波数を持つフォノンと強くカップルし、電子フォノン相互作用の結果として 2kF モードのフォノンはソフト化する。温度の低下とともに 2kF フォノンモードの振動数は減少していき、最終的にパイエルス転移温度でゼロに達する。フォノンはボゾンであるからこのモードの占有数は巨大なものになり、定常的な周期格子ひずみとして発現する。同時に電子電荷のCDWが形成され、 ±kF にパイエルスギャップが開く。その後の伝導機構は熱励起型であり、凝縮に加わっていない常伝導電子がパイエルスギャップを熱的に越えることで伝導が行われる。 CDWと格子との位置関係は電荷密度変調 ρ0 + ρ1 cos[2kFx - φ] における位相 φ で表されるが、CDW波長が下地の結晶格子とインコメンシュレートな場合(CDW波長が格子定数の整数倍ではない場合)には安定な位置関係というものが存在しない。そこでフレーリッヒはCDWが格子上を自由に動くことができると考えた。のみならず、 運動量空間中でパイエルスギャップがフェルミの海全体とともに変位して波数分布が非対称となるため、dφ / dt に比例する正味の電流が生じるだろうと。しかしながら、以下の節で論じるように、インコメンシュレートなCDWも不純物によってピン止めされるため動くことはできない。また超伝導と異なり、CDWの伝導は常伝導電子との相互作用によって散逸的なものになる。 層状構造を持つ遷移金属ダイカルコゲナイドなど、いくつかの擬二次元系はパイエルス転移を起こして擬二次元CDWを形成する。擬二次元CDWは複数のネスティングベクトルから生じ、それぞれのネスティングベクトルはフェルミ面上の異なる平坦な領域をつないでいる。電荷密度変調は六方対称なハチの巣格子もしくは碁盤目状のパターンを取る。2012年には、YBCOのような層状構造を持つ銅酸化物高温超伝導体において複数の競合する前駆的CDW相が存在することが示された。 擬一次元導体に関する初期の研究を刺激したのは、ある種の鎖状高分子が高い超伝導臨界温度 Tc を持つという1964年の予言である。その根拠となるのは、隣り合う分子鎖にそれぞれ属する伝導電子と非伝導電子とが相互作用して超伝導BCS理論でいう電子のペアリングを引き起こすというアイディアであった。これに対し、従来型超伝導で電子ペアリングを引き起こすのはフォノン、すなわちイオンの振動である。重いイオンの代わりに軽い電子がクーパー対を作るのだから、特性振動数、ひいてはエネルギースケールと Tc が増大すると予測されたのである。この観点から1970年代にはTTF-TCNQのような有機物質が実験・理論両面から研究された。しかしその結果判明したのは、これらの物質が超伝導転移ではなく金属-絶縁体転移を起こすということである。後にこれらはパイエルス転移の最初の観測例だということで決着がついた。 遷移金属トリカルコゲナイドなどの無機鎖状化合物でCDW伝導が起きることを1976年に実証したのはMonceauらである。彼らはNbSe3に強い電場 E をかけると電気伝導度 σ が上昇することを発見した。この σ の E に対する非線形性をランダウ=ツェナートンネリングの特性式 ~exp(-E0/E) (ランダウ=ツェナーの公式を見よ)でフィッティングする試みがなされたが、常伝導電子がパイエルスギャップを乗り越えてツェナートンネルを行っていると見るには「ツェナー電場」 E0 の実測値があまりにも小さすぎた。続く実験ではシャープなしきい電場の存在が示された。またノイズスペクトルにピーク(狭帯域ノイズ)が現れ、その振動数はCDW電流に比例していた。これらの実験など(一例は)から、電場がしきい値を超えるとCDWが集団的に電流を担うこと、その電流が間欠的であることが確かめられた。 CDW波長 λCDW = π / kF が格子定数に対してコメンシュレート(整数比となる)である場合、負電荷を持ったCDWの山の位置が正電荷を持った格子位置と全域で重なり合うため、CDWは容易に動くことはできない。これに対し、CDWの伝導が起きうる鎖状化合物では λCDW が格子定数に対してインコメンシュレート(整数比ではない)である。そのような物質では、不純物がCDWを「ピン止め(ピニング)」することでCDWの位相 φ に対する並進対称性が破られている。もっとも単純なモデルではピン止めを u(φ) = u0[1 - cosφ] の関数形を持つサイン-ゴードンポテンシャルとして扱う。この周期ポテンシャルは形状から洗濯板ポテンシャルとも呼ばれる。電場はポテンシャル全体を傾けるように作用する。傾きを大きくしていき、位相がポテンシャル障壁を乗り越えて滑り出したときピン止めが外れた(デピニング)と考え、その電場を古典論的なしきい電場とする。このモデルは交流電場に対するCDWの応答を表すものでもあるため、過減衰振動子モデルと呼ばれている。以上の描像はCDW電流に対する狭帯域ノイズのスケーリングを上手く説明する 。 しかしながら、そのような不純物は結晶全域にランダムに配置されているため、より現実的にはCDW位相 φ の最適値が局所的に変動することを踏まえてサイン-ゴードン描像に無秩序ポテンシャルを導入しなければならない。その実例が福山-Lee-Rice(FLR)モデルで、CDWは φ の空間勾配で表される弾性エネルギーとピン止めエネルギーの和を最小化するように最適な位相配置を取る。FLRから導かれる二つの極限のうち、「弱いピン止め」は正味の電荷を持たない不純物などに相当するもので、位相は複数の不純物が含まれるほど長い距離にわたってゆっくり変化する。このときデピニング電場は ni2 ( ni は不純物密度)に比例する。もう一方の「強いピン止め」では個々の不純物がCDW位相を局所的に変化させるだけの強さを持ち、デピニング電場は ni に対して線形である。FLRとは異なるアプローチとしてランダムな不純物分布を取り入れた数値シミュレーション(ランダムピン止めモデル)などもある。 初期の量子的モデルには、真木和美によるソリトン対生成モデルや、凝縮されたCDW電子がパイエルスギャップではなく kF に固定された小さいピン止めギャップをコヒーレントにトンネルするというバーディーンの提案などがある。しかし真木の説ではシャープなしきい電場を説明できず、バーディーンの説はしきい電場に対し現象論的な解釈を与えるにとどまった。そのさなか、KriveとRozhavskyは1985年の論文において、電荷 ±q を持つソリトンと反ソリトンが対生成すると q / ε に比例する内部電場 E* が発生することを指摘した。静電エネルギー 1/2 ε (E ± E*)2 があることにより、しきい電場 ET = E* / 2 以下の印加電圧においてはソリトンはエネルギー保存則を破らずにトンネルすることができない。このクーロンブロッケードしきい電場は古典的なデピニング電場よりはるかに小さく、CDWの分極率と誘電応答 ε がピン止め強さに反比例するため不純物密度と同じスケール性を持つ 。 上記の描像ならびに時間相関を持ったソリトントンネリングについての論文(2000年)を背景に、より新しい量子的モデルが唱えられた。それによると、多数の平行分子鎖上に荷電ソリトン転位のドロップレット[訳語疑問点]が核生成し、それらの複素秩序パラメータの間にジョセフソン的なカップリングが成立する。『ファインマン物理学』III-21にならうと、秩序パラメータの時間発展はシュレディンガー方程式を創発的な古典論的方程式として書き直したもの[訳語疑問点] で記述される。狭帯域ノイズ関連の現象は帯電エネルギーの周期的な充放電に起因するためポテンシャルの詳細な形状には依存しない。以上のモデルからソリトン対生成のしきい電場ならびにより強い古典的デピニング電場の両者が導かれる。アンダーソンの論じるところでは、このモデルはCDWをネバネバした量子液体もしくは転位を含む量子固体として扱うものである。 CDWにおけるアハラノフ=ボーム効果の存在は1997年の論文で初めて報告された。NbSe3に円筒状の穴を多数空けて磁束を通すと、磁束に対してCDW伝導度(常伝導成分を除く)が周期 h / 2e で振動するというものである。2012年の論文をはじめとする後の実験では、直径85 μmのリング状TaS3を用い、77 K以上の温度で周期 h / 2e の振動を観察した。この振る舞いは超伝導量子干渉計と類似のもので、CDW電子の伝導が本質的に量子性を持つことの証拠となった(量子力学を見よ)。 ^ G. 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Tsubota, K. Inagaki, T. Matsuura and S. Tanda (2012年). “Aharonov-Bohm effect in charge-density wave loops with inherent temporal current switching”. EPL (Europhysics Letters) 97 (5): 57011. arXiv:0906.5206. Bibcode 2012EL.....9757011T. doi:10.1209/0295-5075/97/57011. http://iopscience.iop.org/0295-5075/97/5/57011/.  Grüner, George. Density Waves in Solids. Addison-Wesley, 1994. ISBN 0-201-62654-3 Review of experiments as of 2013 by Pierre Monceau. Electronic crystals: an experimental overview. パイエルス転移 スピン密度波 高温超伝導 ボース=アインシュタイン凝縮 物性物理学 - 低温物理学", "スピン密度波(-みつどは、SDW)と電荷密度波(でんかみつどは、CDW)は、固体におけるエネルギーの低い2つの似通った秩序状態を指す。2つの状態とも、異方的な低次元物質もしくはフェルミエネルギー N ( E F ) {\\displaystyle N(E_{F})} に高い状態密度を持つ金属において低温でおきる。このような物質でおきる他の低温での基底状態は、超伝導、強磁性、反強磁性である。秩序状態への転移は、凝縮エネルギーによって引き起こされ、その大きさはおよそ N ( E F ) Δ {\\displaystyle N(E_{F})\\Delta } である。 Δ {\\displaystyle \\Delta } は転移によって開くエネルギーギャップの大きさである。SDWはスピン波とは異なることに注意しなければならない。スピン波は強磁性、反強磁性の励起である。 基本的にSDWとCDWは、周期的な変調をそれぞれ電子のスピンの密度と電荷の密度に生じ、それらは特徴的な空間周波数 q {\\displaystyle q} を持ち、 q {\\displaystyle q} はイオンの位置を表す対称群においては変化しない。CDWによる新たな周期性は、走査型トンネル顕微鏡や電子線回折によって簡単に見ることが出来る。これに比べSDWは見にくく、一般的に中性子回折法や磁化率測定によって見ることができる。もし新たな周期性が格子定数の整数分の1か整数倍の時は、波はコメンシュレートであると言い、そうでない時は、インコメンシュレートであると言う。 なぜ、高い N ( E F ) {\\displaystyle N(E_{F})} を持つ固体は低温で密度波を形成し、他の物質は超伝導や磁気的な基底状態をとるのか。その答えは物質のフェルミ面に存在するネスティングベクトルと関係している。ネスティングベクトルの概念を図に示す。これはよく知られたCrの場合である。Crはネール温度311Kで常磁性からSDW状態に転移する。Crは体心立方格子であり、フェルミ面の特徴として、 Γ {\\displaystyle \\Gamma } 点とH点を中心とする電子ポケットの間に、フェルミ面が多くの平行な境界を持っている。これらの大きい平行な領域は、図の赤で示されたネスティングベクトル q {\\displaystyle q} によって結ばれている。スピン密度波によって出来た実空間での周期は 2 π / q {\\displaystyle 2\\pi /q} で与えられる。この空間周波数のSDWができることによって、エネルギーギャップが開き、系のエネルギーが下がる。CrにおけるSDWの存在を始めて仮定したのはパデュー大学のAlbert Overhauserである。MITのクリフォード・シャルは、CrにおけるSDWを実験で観測したことで、1994年にノーベル物理学賞を受賞した。CDWの理論を初めて提案したのは、超伝導を説明しようとしていたオックスフォード大学のルドルフ・パイエルスである。 低次元の固体の多くはフェルミ面が異方的であり、顕著なネスティングベクトルを持っている。有名なものに、層状物質のNbSe3、TaSe3、K0.03MoO3(Chevrel相)や擬一次元有機導体のTMTSFやTTF-TCNQがある。CDWは固体の表面でも良く見られ、表面再構成や二量化などと呼ばれる。表面は二次元フェルミ面で描かれ、層状物質のようになっているので、CDWにとってしばしば都合が良い。 密度波の最も魅力的な性質は、そのダイナミクスである。適切な電場や磁場のもとでは、場の向いている方向に密度波が\"スライド\"する。電場や磁場の力によるものである。大抵は密度波のスライディングは直ちに起こらず、しきい電場を越えるまでは\"ピン止め\"されている。しきい値電場で、欠陥が作るポテンシャルから抜け出すことが出来る。したがって、密度波のヒステリシスのある動きは転位や磁区のものとは異なる。電荷密度波固体の電流電圧曲線は、ピン止め電圧までは非常に高い抵抗を示し、それより上ではオームの法則的な振る舞いを示す。ピン止め電圧は物質の純度に依存するが、この電圧以下では結晶は絶縁体である。 パイエルス転移 A pedagogical article about the topic: \"Charge and Spin Density Waves,\" Stuart Brown and George Gruner, Scientific American 270, 50 (1994). Authoritative work on Cr: \"Spin-density-wave antiferromagnetism in chromium,\" E. Fawcett, Rev. Mod. Phys. 60, 209 (1988). About Fermi surfaces and nesting: Electronic Structure and the Properties of Solids, Walter A. Harrison, ISBN 0-486-66021-4. Peierls instability." ]
ABC01-02-0198
お盆や正月に、奉公人が休暇をもらって郷里へ帰る期間のことを何といったでしょう?
藪入り
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[ "藪入り", "初荷", "日本三大喧嘩祭り", "仕事納め", "二年参り" ]
[ "藪入り(やぶいり)、薮入りとは、かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が実家へと帰ることのできた休日。旧暦1月16日と旧暦7月16日がその日に当たっていた。7月のものは「後(のち)の藪入り」とも言う。 藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代である。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされるが、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じた 。関西地方や鹿児島地方ではオヤゲンゾ(親見参)などと呼ぶところもある 。六のつく日に行われることから、関西では六入りとの呼び名もある。 藪入りの日がこの二日となったのは、旧暦1月15日(小正月)と旧暦7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされる。そのうちに、地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる賽日であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになった。 藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出した。実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだ。また、遠方から出てきたものや成人したものには実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだ。 藪入りは正月と盆の付随行事であったため、明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われると、藪入りも正月と盆に連動してそのまま新暦へと移行した。文明開化後も商家の労働スタイルにはそれほどの変化はなく、さらに産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となった。藪入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって大きく発展した。 第二次世界大戦後、労働基準法の強化などにより労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると藪入りはすたれ、正月休み・盆休みに統合されるようになった。藪入りの伝統は正月や盆の帰省として名残を残している。 藪入りの語源には諸説あり、はっきりしない。藪の深い田舎に帰るからという説、「宿入り」(実家へ帰る)からの転訛などの説がある。なお、同様に大奥の女性たちが実家に帰ることは「宿下がり」と呼ばれる。 藪入りは奉公人たちにとっては年に2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントであったため、これにちなんだ小説や俳句、落語(「藪入り、旧題お釜さま」など)なども多く残っている。 ^ a b 「国民百科事典7」平凡社 p292-293 1962年6月15日初版発行 ^ a b c d e f g 「日本民俗大辞典 下」p737 吉川弘文館 2000年3月10日1版発行 ^ 「日本人のしきたり」p55 飯倉晴武著 青春出版社 2003年1月25日1版発行", "初荷(はつに)とは、年が明けて、最初に工場や倉庫など物流拠点から販売店へ向けて商品(製品)が出荷されること。 元々は、初売と同じく1月2日に行われていたが、今日では官公庁や多くの企業で業務が開始される1月4日に、新年の初出荷が行われることが多い。その際、昔は「初荷」と書かれた旗やのぼりをつけたトラックが走っていたが、高速道路などでの安全性の点から、現在ではほとんどなくなっている。 年始 初売り", "日本三大喧嘩祭り(にほんさんだいけんかまつり)は、日本で開かれる喧嘩祭りの名数。 日本三大喧嘩祭りには諸説あり、以下の祭りが日本三大喧嘩祭りとして取り上げられている。 飾山ばやし(秋田県仙北市、9月7日 - 9月9日) 飯坂けんか祭り(福島県福島市、10月の第1土曜日を中心) 伏木曳山祭(富山県高岡市、5月15日) 灘のけんか祭り(兵庫県姫路市・松原八幡神社、10月14日 - 10月15日) 新居浜太鼓祭り(愛媛県新居浜市、10月16日 - 10月18日) 伊万里トンテントン祭り(佐賀県伊万里市、10月19日の神殿祭にあわせた土曜日曜) ^ a b c d e ナヴィ インターナショナル 『あなたは3つ言えますか? 日本の三大雑学236』 幻冬舎〈幻冬舎文庫〉、2003年7月、90-93頁。ISBN 978-4344403925。 ^ “地元ケーブル局が「新居浜太鼓祭り・西条祭り」をエリア内外の各種端末に配信”. 日経BP社 ITpro. (2013年10月9日). http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20131009/510033/ 2017年2月7日閲覧。  喧嘩祭り 日本三大一覧 飯坂けんか祭り “新居浜太鼓祭り”. 新居浜市 (2016年10月3日). 2017年2月7日閲覧。 伊万里神社御神幸祭 伊万里トンテントン", "仕事納め(しごとおさめ)とは、年末となる12月の下旬の、最後の仕事のこと。 日本の官公庁では、行政機関の休日に関する法律(昭和63年12月13日法律第91号)により、12月29日から1月3日までを休日とし、原則として執務を行わないものとしており、12月28日を御用納めとして、その年の最後の業務日となっている。12月28日が土曜日、日曜日に当たるときは、それぞれ12月27日、12月26日が御用納めとなる。また、裁判所については、裁判所の休日に関する法律(昭和63年12月13日法律第93号)により、国会に置かれる機関(裁判官弾劾裁判所、裁判官訴追委員会、国立国会図書館並びに各議院に置かれる事務局及び法制局その他法令に基づき各議院に置かれる機関で両議院の議長が協議して定めるもの)については、国会に置かれる機関の休日に関する法律(昭和63年12月27日法律第105号)により、同様に定められている。 また、地方公共団体は、地方自治法第4条の2によりその休日を条例で定めるものとされており、同条第2項第3号で「年末又は年始における日で条例で定めるもの」と決められている。そのため、条例により年末年始の休日が定められ、その前日が御用納めとなるが、条例で12月29日から1月3日まで以外の日程で定められていれば必ずしも12月28日が御用納めになるわけではなく、条例で定められた年末年始の休日の前日が当然に御用納めになり、その日が土曜日、日曜日に当たる場合はその前の平日が御用納めとなる。 一般企業でもこれに準じていることが多いが、年末が多忙な業種などでは12月29日を仕事納めとする企業もある。また、銀行などの金融機関では、12月30日まで窓口業務を行っている。12月30日が土曜日に当たるときは12月29日で、日曜日に当たるときは12月28日で、窓口業務を終了する。 年中行事 年末年始 書初め 初売 仕事始め 大発会・大納会 休日 ^ 『年中行事事典』p319 1958年5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版 ^ 1992年以前は12月31日まで窓口業務が行われていた。", "二年参り(にねんまいり)とは、初詣(はつもうで)の形式の一つである。大晦日の深夜零時をまたがって神社仏閣に参拝・参詣する事を言う。年をまたいで行う為にこの名がある。 単純に深夜零時頃一回一箇所の神社や寺院に参拝・参詣する場合を言うが、除夜に一度参拝してから一度家に帰り、元旦になって改めて参拝・参詣するという形式をとることもある。 新年 年末年始" ]
ABC01-02-0199
1837年から1901年まで、イギリスの歴代君主の中で最も長い64年間にわたってその地位にあった女王といえば誰でしょう?
ヴィクトリア (イギリス女王)
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[ "ヴィクトリア (イギリス女王)", "チャールズ・カニング (初代カニング伯爵)", "プリンス・オブ・ウェールズ", "ムスワティ3世", "チャールズ1世 (イングランド王)" ]
[ "ヴィクトリア(英語: Victoria、1819年5月24日 - 1901年1月22日)は、イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)、初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)。 ハノーヴァー朝第3代国王ジョージ3世の孫。エドワード7世、ドイツ皇后ヴィクトリア、 ヘッセン大公妃アリスの母。2017年現在のイギリス女王であるエリザベス2世の高祖母にあたる。 世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれる。在位は63年7か月にも及び、歴代イギリス国王の中ではエリザベス2世に次ぐ長さである。 イギリス・ハノーヴァー朝第3代国王ジョージ3世の第4王子であるケント公エドワードの一人娘。3人の伯父たちが嫡出子を残さなかったため、1837年に18歳でハノーヴァー朝第6代女王に即位する。 ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツの領邦国家ハノーファー王国の君主(選帝侯、ついで国王)を兼ねていたが、ハノーファーではサリカ法による継承法を採っており、女性君主の統治が認められていなかった。そのためハノーファー王位はヴィクトリアでなく叔父エルンスト・アウグストが継ぎ、イギリスとハノーファーの同君連合は解消された。 はじめホイッグ党の首相メルバーン子爵を偏愛したが、1840年に母方の従弟にあたるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の公子アルバートと結婚すると、その忠告に従って王権の中立化に努めるようになった。その後もしばしば政治に影響力を行使しながらも、基本的に議会の状況に基づいて首相を選ぶようになった。国王の政治的影響力の面ではアルバートがヴィクトリアに代わって重きをなすようになっていったが、彼はその権威が絶対的になる前の1861年に薨去した(また同年3月に母ケント公夫人ヴィクトリアを亡くしている)。これにより、イギリスに立憲君主制の道が開かれることとなった。 一方、悲しみにくれるヴィクトリアはその後10年以上にわたって服喪し、公務に姿を見せなくなったが、1870年代に保守党の首相ベンジャミン・ディズレーリに励まされて公務に復帰し、ディズレーリの帝国主義政策を全面的に支援し、大英帝国の最盛期を築き上げた。1876年には「インド女帝」に即位した。ディズレーリを偏愛する一方、ディズレーリと並んでヴィクトリア朝を代表する自由党首相のウィリアム・グラッドストンのことは一貫して嫌っていて、グラッドストンのアイルランド自治法案の阻止に全力を挙げた。晩年には老衰で政治的な活動は少なくなり、立憲君主化が一層進展した。 1901年に崩御し、王位は長男であるエドワード7世に受け継がれた。 ヴィクトリアの63年7か月の治世はヴィクトリア朝と呼ばれ、政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げた。この時代のものは、政治、外交、軍事、文学、科学、家具などいずれであれ、「ヴィクトリア朝の〜」と形容をされることが多い。 この時代、イギリスは世界各地を植民地化して、一大植民地帝国を築き上げた。その名残でヴィクトリア島(カナダ)、ヴィクトリア湖(ケニア・ウガンダ・タンザニア)、ヴィクトリア滝(ジンバブエ・ザンビア)、ヴィクトリア・ハーバー(香港)、ヴィクトリアランド(南極大陸)、ヴィクトリア(世界各地の都市名)、ヴィクトリア・パーク(世界各地の公園)など、女王の名にちなんだ命名も少なくない。ヴィクトリアは帝国主義政策においては最強硬派・主戦論者として政府に発破をかける役割を果たすことが多かったが、彼女の「帝国の母」「慈愛」のイメージは世界各地の植民地の臣民たちを一つに結び付け、大英帝国の維持・拡大に大きな礎となった。 子女が欧州各国の王室・皇室と婚姻を結んだ結果、ヴィクトリアはヨーロッパの祖母と呼ばれるに至った。例えばドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇后アレクサンドラ(ロシア皇帝ニコライ2世妃)は孫にあたる。 ヴィクトリアは1819年5月24日午後4時15分頃にロンドンのケンジントン宮殿で生まれた。 父はケント公爵エドワード(ハノーヴァー朝第3代英国王ジョージ3世の四男)。母はその妃ヴィクトリア(ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国の公フランツの娘)。 父ケント公は借金まみれであり、物価の高いイギリスでは暮らしていけないと言って、ベルギーやドイツ諸国を転々として暮らしていたが、妃の出産が近くなると、生まれてくる子を「ロンドン出生」にするため流産の危険を冒してでも一時帰国し、ケンジントン宮殿を兄の摂政王太子ジョージ(後の英国王ジョージ4世)から借り受けていた。 父のケント公爵エドワード  母のヴィクトリア妃  ケンジントン宮殿とヴィクトリア像(2005年撮影)  ハノーヴァー家はドイツの邦国ハノーファー王国の君主の家柄であるが、旧イギリス王家ステュアート家と縁戚関係があり、その関係でステュアート家が絶えた後、ハノーファー王が同君連合でイギリス王位も継承した。ハノーファー王室はサリカ法の適用を受けるため、女子の王位継承が認められていないが、イギリス王室にはサリカ法の適用がないため、女子にも継承権があった。イギリス王位継承順位は、2013年王位継承法の制定まではコモン・ローに基づき、王の最年長の男子が継承するのが基本だが、男子がなく女子のみある場合には最年長の女子が王位を継承するとなっていた。 生誕時のヴィクトリアのイギリス王位継承順位は3人の伯父、摂政王太子ジョージ、ヨーク公フレデリック、クラレンス公ウィリアム(後の英国王ウィリアム4世)と父ケント公に次ぐ第5位であった。 かつて摂政王太子ジョージにはシャーロットという嫡出子がおり、いずれ彼女が王位を継ぐものと目されていたが、1817年11月6日に身ごもった子供を死産させた際に薨去したため次々世代の王位継承者が消滅した。というのもこの1817年の時点ではジョージ3世の王子らは摂政王太子を除いて誰も嫡出子を持っていなかったからである。 これに焦った摂政王太子と議会は結婚していない王子たちに資金援助をちらつかせて、しかるべき君主家の娘を正妃に迎えて嫡出子作りを促した。借金まみれのケント公もそれが目当てで未亡人のドイツの小邦国の君主の娘と結婚してヴィクトリアを儲けたのであった。ヴィクトリアが生まれる二か月ほど前に伯父クラレンス公にも嫡出子シャーロットが生まれていたが、その子は出生後すぐに薨去したため、ヴィクトリア誕生の時点ではヴィクトリアが次々世代の王位継承最有力候補者であった。とはいえクラレンス公妃はまだ十分に子を産めそうであり、またヴィクトリアの母ケント公妃もまだ子が産めそうであったため、これから弟が生まれる可能性もあり、そうした場合には第四王子の女子に過ぎないヴィクトリアの王位継承は一気に遠のくという不安定な立場であった。 ヴィクトリア生誕時のイギリス王位継承順位(灰色は故人、かっこの中はハノーファー王位の継承順位) 6月24日に行われたヴィクトリアの洗礼式において代父となったのは、摂政王太子ジョージ、ロシア皇帝アレクサンドル1世(イギリス訪問中で、ジョージとも仲が良かった)。代母は、ケント公爵夫人ヴィクトリアの実母アウグスタ、ヴュルテンベルク公妃シャルロッテ(伯母)だった。 ケント公は娘に「ジョージアナ(ジョージの女性名)」や「エリザベス」といった将来の英国女王としてふさわしい名前を付けたがっていたが、ケント公と仲の悪い摂政王太子ジョージは命名権は自分にあると主張して譲らなかった。摂政王太子はできればクラレンス公夫妻に再び嫡出子を作らせて、その子に王位を継がせたかった。 洗礼式当日にカンタベリー大主教が「何という名で祝福するか」王族たちに尋ねると摂政王太子は「アレクサンドリナ」(ロシア皇帝の名前アレクサンドルの女性名)と答えた。それに対してケント公はミドルネームに「エリザベス」を加えるよう訴えたが、摂政王太子は拒否し、母と同じ「ヴィクトリア」をミドルネームとさせた。 こうして彼女の名前は「アレクサンドリナ・ヴィクトリア」というイギリス人になじみが薄いロシア名とドイツ名になった(ヴィクトリアの名がイギリスの一般的な名前になるのは彼女が女王に即位した後のことである)。即位前にはアレクサンドリナという名から「ドリナ」と愛称された。 1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公が薨去した。時期同じくして1月29日には国王ジョージ3世が崩御し、摂政王太子ジョージがジョージ4世としてハノーヴァー朝第4代国王に即位した。 夫が残した莫大な借金を背負わされた母ケント公妃はヴィクトリアを連れて英国を離れることも考えたが、弟レオポルド(亡きシャーロットの夫で1831年にベルギー王に即位するまで英国に滞在し続けていた)から資金援助を受け、ジョージ4世からそのまま住むことを認められていたケンジントン宮殿に留まることにした。 1820年12月にはクラレンス公が娘エリザベスを儲けたため、ヴィクトリアの王位継承は一時遠のいた。しかしこのエリザベスは1821年春に生後4カ月で薨去したため、再びヴィクトリアの王位継承の可能性が高まった。 ヴィクトリアはケンジントン宮殿で母ケント公妃に大事に育てられた。ヴィクトリアは何歳になっても個室を与えられず、母と同じ寝室で寝起きして母の監視を受けた。母はヴィクトリアがジョージ3世の放蕩息子たちのようにならぬよう宮殿に近づけようとせず、貞潔・道徳を重んじる女性に育てようとした。また母はケント公爵家家令サー・ジョン・コンロイの影響を強く受けており、ヴィクトリアもコンロイの娘ヴィクトワールとの交友をなかば強制された。母とコンロイはヴィクトリアが王位を継いだ後、彼女を操って権力を握る算段であった。 母はドイツ語を母語としていたので、ヴィクトリアも3歳までドイツ語のみを話す生活を送った。幼児期に英語とフランス語の学習を始め、やがて三ヶ国語を自由に話せるようになった。後にはイタリア語とラテン語も少し使えるようになった。ヴィクトリアは5歳まで反抗してアルファベットの勉強をしようとしなかったというが、5歳の頃イギリスと同君連合のハノーファー王国出身のルイーゼ・レーツェン(ドイツ語版)がガヴァネスに付くと反抗も落ち着いてきて勉強をするようになったという。このレーツェンはヴィクトリアに非常に大きな影響を与えた。 6歳の頃には自らの高貴な身分を自覚していたといい、臣民の友人が身分をわきまえずに自分のおもちゃに触ろうとしたり、自分の名前を呼び捨てにするとたしなめるようになったという。 国王ジョージ4世は相変わらずケント公妃を嫌っていたが、同時にこの頃にはヴィクトリアの王位継承は避けられないと考えるようにもなっていた。1825年にケント公爵家の年金が6000ポンド増額され、1826年にヴィクトリアは7歳にしてガーター勲章を与えられ、以降国王は頻繁に彼女を引見するようになった。国王の釣り船に乗せてもらった際に国王が軍楽隊に何を弾かせるかヴィクトリアに尋ねると彼女は『神よ、国王陛下を守りたまえ』をリクエストしたという。 伯父である国王ジョージ4世  母ケント公妃と5歳の頃のヴィクトリア。  ヴィクトリアのガヴァネスだったルイーゼ・レーツェン。  母ケント公妃に強い影響力を持った家令ジョン・コンロイ。  1830年6月26日、国王ジョージ4世が子のないまま崩御した。国王の次弟ヨーク公は1827年に亡くなっており、三弟クラレンス公ウィリアムがウィリアム4世としてハノーヴァー朝第5代国王に即位した。ウィリアム4世は即位時すでに65歳であり、新しい嫡出子を儲けることはほとんど諦めており、ヴィクトリアに王位継承の期待を寄せるようになっていた。ただ彼はヴィクトリアの母であるケント公妃のことを非常に嫌っていた。 ウィリアム4世即位にあたってヴィクトリアは議会から「暫定王位継承者」に認定され、彼女の帝王教育も強化された。乗馬や舞踏、絵画、音楽など上流階級のたしなみを身に付けていった。とりわけスケッチが好きであり、彼女は生涯にわたって絵を描き続けた。歴代英国首相やフランス皇帝ナポレオン3世を描いたヴィクトリアの絵が現代のロイヤル・コレクションの中にも残っている。 「暫定王位継承者」になったとはいえヴィクトリアはいまだ自らが王位継承者であることを教えられていなかった。この年ヴィクトリアは11歳であったが、母ケント公妃はカンタベリー大主教ら聖職者たちの助言に従ってヴィクトリアに女王となる定めであることを告げることを決心した。レーツェンが英国史の教科書の中に英国王室系譜表を隠しておき、それをヴィクトリアに発見させ、いかなる立場にあるのか説明したという。レーツェンの回顧によれば、それを聞いたヴィクトリアは「私は思ったより王座に近いところにいるのね」という感想を述べ、さらに「良い人になるようにしますわ」と応えたという。またヴィクトリアによると一人になった後に大泣きしたという。 1830年11月、トーリー党(後の保守党)の政権が崩壊し、ホイッグ党(後の自由党)が政権を掌握して第一次選挙法改正など自由主義改革が行われるようになった。 亡き父ケント公は兄との対立からホイッグ党に肩入れしており、ケント公妃も夫に従って同じ党派に属していた。ケント公妃の周りには自由主義者が続々と集まり、その中には急進派(英語版)のダーラム伯爵やアイルランド独立運動家ダニエル・オコンネルのような者たちさえいた。そのためヴィクトリアは残忍な強硬保守主義者として知られる叔父カンバーランド公アーネストと対比される形で自由主義者の期待を一身に受けていた。急進派の新聞は「ヴィクトリア公女がカンバーランド公に暗殺されることがないよう守らねばならない」と書きたてた。 国王ウィリアム4世も保守的であったので、ホイッグ党の大臣たちと対立を深めていった(1834年にはホイッグ党の首相メルバーン子爵を罷免する事件を起こす)。ウィリアム4世はホイッグ党の黒幕と看做したケント公妃をより憎むようになった。 ヴィクトリアが暫定王位継承者になると母ケント公妃はしばしば摂政同然にふるまうようになった。帝王教育の一環でヴィクトリアはケント公妃に連れられてイギリス各地を旅行するようになったが、この時にもヴィクトリアを差し置いてケント公妃の摂政然とした態度が目立ったという。ソレント海峡の旅行ではケント公妃は海峡沿岸の砲台や軍艦に王礼砲を行う事を要求したが、これに国王は怒り、王と王妃以外への礼砲を禁じる緊急勅令を下している。 国王はケント公妃が実家ザクセン=コーブルク家の公子たちをやたらとヴィクトリアに引き会わせようとすることに苛立ち、その阻止に全力を尽くした。またケント公妃の弟であるベルギー王レオポルドが頻繁にヴィクトリアに手紙を送ってくることも気にくわなかった。国王にはザクセン=コーブルク家をあげてイギリス王室を乗っ取ろうとしているように思えた。 1836年8月21日の国王の誕生日式典においてウィリアム4世は「神よ、願わくば私の寿命を(ヴィクトリアが成人するまでの)あと9カ月延ばしたまえ。そうすれば摂政を置く必要はなくなる。邪悪な相談者(コンロイ)を持ち、行動も能力も信用できない、そこに座っておる人物(ケント公妃)ではなく、推定王位継承者であるレディー(ヴィクトリア)に直接王位を引き渡すことができるのだ。」と語って怒りをぶちまけた。この公然たる侮辱に立腹したケント公妃は式典を中途退席すべく馬車を呼ぶよう命じ、一方ヴィクトリアは泣き出す騒ぎになった。 1837年5月24日にヴィクトリアは18歳になり、成人した。国王はお祝いとして彼女の年金を1万ポンド増額させるとともに新宮殿を与えるので母親から独立してはどうかと勧めたが、ケント公妃の反対によりヴィクトリアは辞退した。 伯父である国王ウィリアム4世。ヴィクトリアをケント公妃から引き離したがっていた。  1830年のスケッチをするヴィクトリアを描いた絵画(リチャード・ウェスタール画)  1832年のヴィクトリアを描いた絵画(ロイヤル・コレクションの絵画)  1833年のヴィクトリアを描いた絵画(ジョージ・ハイター(英語版)画)  1837年6月20日午前2時20分にウィリアム4世はウィンザー城で崩御した。これによりヴィクトリアが18歳にしてハノーヴァー朝第6代女王に即位した。 宮内長官(英語版)カニンガム侯爵とカンタベリー大主教ウィリアム・ハウリ(英語版)は新女王に即位の報告をするためロンドン・ケンジントン宮殿へと向かった。ヴィクトリアは午前6時に母ケント公妃に起こされ、純白の寝衣のまま、カニンガム侯爵とカンタベリー大主教を引見した。カニンガム侯爵は彼女に国王崩御を報告し、その場に跪いて新女王の手に口づけした。 ついで午前9時に首相であるメルバーン子爵がケンジントン宮殿を訪問してヴィクトリアの引見を受け、彼女の手に口づけした。ヴィクトリアは彼に引き続き国政を任せると述べた。 午前11時半よりケンジントン宮殿内の赤の大広間において最初の枢密院会議を開いた。出席した枢密顧問官たちは新女王の優雅な物腰、毅然とした態度、堂々たる勅語に感服したという。ウェリントン公爵はその光景を「彼女はその肉体で自らの椅子を満たし、その精神で部屋全体を満たしていた」と表した。またジョン・ラッセル卿は「ヴィクトリア女王の治世は後代まで、また世界万国に対して不滅の光を放つであろう」と予言した。 イギリスではピューリタン革命や名誉革命、またハノーヴァー朝初代国王ジョージ1世(ハノーファー選帝侯ゲオルク1世)がハノーファーばかりに関心を持ち、イギリスにほとんど関心を示さなかったことなどにより、他国の君主に比べると君主権がやや弱く、内閣や議会の力が強い傾向があった。とはいえ19世紀半ばのイギリス王はいまだ巨大な国王大権を有しており、いざという時には強権発動が可能であった。大臣の任免、議会の招集・解散、国教会の聖職者と判事の任免、宣戦布告などは国王の大権であった。前王ウィリアム4世も自分と対立した首相メルバーン子爵を一度クビにしている。彼女が受け継いだ王位とはそうした巨大な権力であった。 ヴィクトリアは即位の日の日記に「私が王位につくのが神の思し召しなら私は全力を挙げて国に対する義務を果たすだろう。私は若いし、多くの点で未経験者である。だが正しいことをしようという善意・欲望においては誰にも負けないと信じている。」と抱負を書いている。 即位の日に行った引見はいずれも母の同席なしで行った。この日以来彼女は家族絡みの会見以外はすべて一人で行うようになった。母もヴィクトリアとともにケンジントン宮殿からバッキンガム宮殿へ移っているが、ヴィクトリアは母が自分に干渉してこないよう、母の部屋を自分の部屋から遠ざけた。家令サー・ジョン・コンロイに至っては今後の目通りは一切叶わない旨を通達している。一方レーツェンは自分の部屋の隣に留め置いて相談役として重用した。また叔父ベルギー王レオポルドの側近であるコーブルク家臣クリスティアン・フリードリヒ・フォン・シュトックマー男爵がレオポルドとの連絡役としてバッキンガム宮殿に勤務するようになり、ヴィクトリアの新たな助言役となっていった。しかしベルギーに肩入れするよう求めるレオポルドの要請に対してはヴィクトリアは慎重に回避し続けた。 女王として年金38万5000ポンド、ランカスター公としてランカスター公領(英語版)からの収入2万7000ポンドを受けるようになり、そのお金で父親が残した巨額の借金を返済し、何不自由ない生活を送るようになった。 翌6月21日にセント・ジェームズ宮殿で君主宣言の儀を行い、勅命によって王名を「ヴィクトリア」と定め、以降「アレクサンドリナ」は使用されなくなった。 戴冠式は即位後1年後の1838年6月28日にロンドン・ウェストミンスター寺院において挙行した。ウェストミンスター寺院までの道すがら、「女王陛下万歳」を叫ぶ群衆たちの中を黄金馬車(英語版)で通過した。ヴィクトリアはその日の日記に「このような国民たちの女王となることをいかに誇りに思うことか」と書いている。ちなみに、ヴィクトリアの戴冠式に合わせてオーストリアからヨハン・シュトラウス1世が到来し、ヴィクトリアは彼から『ヴィクトリア女王讃歌』というウィンナ・ワルツを捧げられた。これが端緒となって、ヨーロッパ大陸諸国に遅れること20年、ようやくイギリス社交界においてもワルツが受容されたという。 新女王の御前に跪いてその手に口づけする宮内長官カニンガム侯爵とカンタベリー大主教ウィリアム・ハウリ。  即位当日、最初の枢密院会議を開くヴィクトリア女王を描いたデヴィッド・ヴィルキー(英語版)の絵画。ヴィクトリアが純白の服を着ているが、これは彼女を目立たせるためであり、実際には黒い喪服を着ていた。  ウェストミンスター寺院でのヴィクトリア女王の戴冠式を描いたジョン・マーティンの絵画  戴冠式。カンタベリー大主教から聖油(英語版)を注がれるヴィクトリアを描いた絵画。  首相メルバーン子爵はホイッグ党の所属だが、本質的には貴族主義・保守主義者だった。一方で機会主義者でもあったので内心選挙権拡大に反対の立場ながらグレイ伯爵内閣の第一次選挙法改正に内務大臣として協力した人物だった。 彼は前王ウィリアム4世との関係は悪かったが、シュトックマー男爵がメルバーン子爵の良い評判をヴィクトリアに聞かせていたため、ヴィクトリアからは早々に気に入られることとなった。 メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった。女王の日記にも毎日のように「メルバーン卿」「M卿」の名前が登場するようになる。ヴィクトリアがはじめて貴族院に出席して議会開会宣言を行った日の日記には「彼が玉座の側に控えていてくれるだけで安心できる。」と書いている。 しかしホイッグ党を離党していたスタンリー卿(後の第14代ダービー伯爵)らダービー派が1839年春に保守党に合流し、またこれまでメルバーン子爵を支持してきた急進派やオコンネル派もメルバーン子爵が新たな改革を行おうとしないことに不満を強めたことで、メルバーン子爵は議会において苦しい立場に立たされるようになった。 1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した英領ジャマイカの奴隷制度廃止法案は庶民院を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという。 メルバーン子爵の助言に従って、5月8日午前、保守党貴族院院内総務(英語版)ウェリントン公爵を召し、彼に大命を与えようとしたが、公爵は「自分は老齢であるし、庶民院に影響力を持たない」としてこれを拝辞し、保守党庶民院院内総務(英語版)サー・ロバート・ピールに大命降下されるべきことを奏上した。 公爵の助言に従って午後にピールを召して、彼に大命を降下した。この際にヴィクトリアは今後もメルバーン卿に諮問して良いかとピールに下問したが、枢密院や議会ではなく宮中において野党党首が個人的に女王の側近になるなど前代未聞のことであったからピールはこれを拒否した。このせいでヴィクトリアはピールに強い不信感を持つようになった。その日の日記にもピールについて「何を考えているか分からない男」と書いている。 翌9日にピールが持ってきた人事案の中に女王の寝室女官(ほとんどがホイッグ党の国会議員の妻)を保守党の国会議員の妻に代えるという人事があったが、女王はこれに強く反発し、「一人たりとも辞めさせない」と言って頑強に退けた。 宮内官を務めている国会議員は、政権交代とともに入れ替わるのが慣例であった。ヴィクトリアは女王だったので国会議員の代わりにその妻が女官をやっていたわけだが、国会議員の場合と別個に考える道理はないから、ピールの要求は慣例に照らし合わせれば正当なものだった。だがヴィクトリアは女官の人事は女王の私的人事であることを強弁した。とりわけヴィクトリアの信頼できる相談役になっていた女官長サザーランド公爵夫人(英語版)の更迭は論外だった。 女官人事をめぐって5日ほどヴィクトリアとピールの激闘が続いた。ウェリントン公爵も女王の説得に現れたが、ヴィクトリアは公爵の前でも「サー・ロバートはそんなに弱い方なのですか。女官まで自分と同意見の者でなければ困るなんて」と怒りを爆発させ、譲歩の姿勢を見せなかった。ナポレオンを倒した老公が19歳の少女の剣幕に気圧されて、ほうほうの体で御前から退下した。 最終的にピールは大命を拝辞し、メルバーン子爵が首相に留まることでこの騒動は決着した。女王の個人的感情で政権交代が阻止されたこの事件は、世に寝室女官事件と呼ばれた。 マスコミは女王のきまぐれが立憲政治の確立を妨げていると批判し、彼女を諌める夫が必要だという議論を加速させた。ヴィクトリア本人は後年に寝室女官事件について「あの頃の私は非常に若かった。あの一件を今やり直せるとしたら、私は違った行動を取るだろう。」と語っている。 ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世(母ケント公妃の兄)の次男であるアルベルト(英語名アルバート)がヴィクトリアの婿の最有力候補だった。この二人の結婚はエルンスト1世、母ケント公妃、ベルギー王レオポルドとザクセン=コーブルク家をあげて推進していた。 ヴィクトリアは1836年にアルバートと会ったことがあり、その時の日記の中でアルバートを「髪は私と同じ褐色、目は綺麗な碧眼、美しい鼻と口。顔の表情は魅力的だ。同時に善良さと甘美さと知的さを持っている」と絶賛していた。 もっとも1839年4月にヴィクトリアはメルバーン子爵に対して「私は当面いかなる結婚もしたくない」と語っている。アルバートのことは嫌いではなかったが、周囲が勝手にアルバートとのお見合いを進めているのが気に入らなかったという。だが結局周囲に流される形で1839年10月10日にウィンザーを訪れたアルバートを引見することになった。この頃アルバートは身長こそ167センチと低めだが、顔は一層美男になっており、また高い教養をもっていた。ヴィクトリアはすっかり彼に一目ぼれした。引見の翌日に彼女はメルバーン子爵に対して「結婚に対する意見を変えた」と述べ、さらに翌々日には「アルバートと結婚する意志を固めた」と述べた。 後日再びアルバートを召し、君主である彼女の方からプロポーズを行った。「貴方が私の(結婚の)望みを叶えてくれたらどんなに幸せでしょう」と言ってプロポーズしたという。 ヴィクトリアとアルバートは1840年2月10日にロンドンのセント・ジェームズ宮殿で結婚式を挙行した。その翌日のベルギー王レオポルドへの手紙でヴィクトリアは「世界で私ほど幸せな人間はいないと思います。彼は天使のようです。昨日の披露宴は楽しくて熱気にあふれていました。ロンドン市内では群衆が果てしなく沿道に続いていました」と書いている。 ヴィクトリアのハードスケジュールのため、新婚旅行はウィンザーまでのわずか42キロで済まされた。アルバートがそれについて不満を述べるとヴィクトリアは「貴方は私が君主であることをお忘れなのね。今は議会の会期中であり、私が行わねばならない執務も山のようにあります。ほんの2、3日であっても私がロンドンを離れることは許されないのです」と反論したという。 1840年6月、ヴィクトリアとアルバートが馬車でコンスティテューション・ヒル(英語版)を通過中、見物人の一人が女王に向けて発砲する事件が発生した。一発目は外れ、続けて二発目が撃たれる直前にアルバートはヴィクトリアを馬車のなかに引き倒して彼女を守った。アルバートの行動は新聞に称賛され、ヴィクトリアとアルバートが行くところ国民の万歳の声があがるようになった。 しかし貴族社会や社交界からはアルバートは「外国人」として疎まれていた。ヴィクトリアも結婚初期にはアルバートが政治の場に出てくることを望まず、公文書を見ることを許可しなかった。アルバートに宛てた手紙の中でヴィクトリアは彼に何の爵位も与えない理由として「イングランドの民は外国人がこの国の政治に参画することを嫌います。すでにいくつかの新聞は貴方が政治介入することに反対しています。私自身は貴方にそんな考えは微塵もないと確信していますが、貴方が爵位を得れば国民は声をそろえて連呼するでしょう。貴方が政治的役割を果たそうとしていると」と書いている。しかし1840年11月に生まれた長女ヴィクトリア(愛称ヴィッキー)、1841年11月に生まれた長男アルバート・エドワード(愛称バーティ)を筆頭に1840年代にヴィクトリアが出産を繰り返したため、アルバートが補佐役を務める必要性が増した。 1842年頃からヴィクトリアは公文書作成にあたってアルバートの助力を得るようになり、また大臣引見の際にもアルバートを同席させるようになった。これ以降イギリスはヴィクトリアとアルバートの共同統治に近い状態と化した。アルバートはメルバーン子爵やホイッグ党に肩入れするヴィクトリアに対して「君主は党派争いを超越した存在にならなければならない」と諌め、王権の中立化に努めた。 アルバートは宮中での自身の影響力の増大にも努めた。1842年にはヴィクトリアの幼い頃からの側近であるレーツェンを宮廷から去らせた。さらに1844年にはピール首相の反対を押し切って二大政党の綱引きで雁字搦めになっていた王室管理機構の改革にあたり、宮内長官(英語版)、家政長官(英語版)、主馬頭(英語版)の分掌体制を王室家政長官(英語版)の下に一元化した。 1840年2月10日のヴィクトリアとアルバートの結婚式を描いたジョージ・ハイターの絵画  ウィンザー城のアルバート公子とヴィクトリア女王、夫妻の長女ヴィッキーを描いたエドウィン・ランドシーアの絵画  1851年5月、ヴィクトリアとアルバートと三男アーサーに贈り物を捧げるウェリントン公爵を描いたフランツ・ヴィンターハルターの絵画。『東方三博士の礼拝』を模している。  1841年6月4日、ピール率いる保守党はメルバーン子爵内閣に内閣不信任案を突きつけた。メルバーン子爵の上奏を受けてヴィクトリアは庶民院を解散した。解散総選挙(英語版)の結果、保守党がホイッグ党に80議席以上の大差をつけて勝利した。 メルバーン子爵も今度こそ辞職せざるを得なくなった。ヴィクトリアはこの時点でもピールを首相にする事を渋っていたが、アルバートが彼女を説得した結果、1841年8月30日にピールに大命を下した。 ヴィクトリアは過去の経緯やそのそわそわした態度からピールを嫌っていた。ピールの方も宮殿に居心地の悪さを感じて長時間宮殿に滞在しようとはせず、ヴィクトリアと疎遠になった。しかしアルバートは宮廷策謀より首相の職務に全力を挙げているとしてピールの態度を高く評価した。首相ピールはアルバートの支持のもと関税の大幅減税、所得税導入などの改革を推進した。やがてヴィクトリアもアルバートとともにピールに全幅の信頼を寄せるようになった。保守党内部にはピールの改革に反発もあったが、アルバートとヴィクトリアがピールを支持した事により、ピールは長らく抵抗勢力を押し込むことができた。 ピール首相がミッドランド(英語版)地方の紡績工場主だった関係でヴィクトリアは外国との過当競争や需要低下に苦しむ織物産業に関心を持つようになり、イングランド織物の宣伝のために1842年5月12日に14世紀の絹織工業をテーマにした「プランタジネット舞踏会」を開催した。アルバートはエドワード3世、ヴィクトリアはフィリッパ王妃の仮装をした。しかしこの舞踏会はエドワード3世を侵略者として憎むフランス人の反発を買って英仏関係をギクシャクさせたばかりか、イギリスのマスコミからも失業者が飢えている時に何をやっているのか、という強い批判に晒された。 1842年5月12日のプランタジネット舞踏会におけるヴィクトリアとアルバートを描いたエドウィン・ランドシーアの絵画  首相サー・ロバート・ピール。  1845年夏にアイルランドでジャガイモ飢饉が発生した。これによりアイルランドでは100万人が餓死もしくは栄養失調で病死した。さらに100万人が新天地アメリカやカナダへ移民することを余儀なくされた(アメリカ大統領ジョン・F・ケネディの曾祖父もその一人)。1841年時に800万人だったアイルランド人口が1851年には650万人に減るという惨状だった。 ヴィクトリアはライオネル・ド・ロスチャイルドが主宰する「アイルランドとスコットランドの貧民のための英国救貧協会」に2000ポンドの寄付をしている。これは同協会に寄せられた寄付金額の第一位であり、第二位のロスチャイルドとデヴォンシャー公爵(英語版)の寄付金額1000ポンドを大きく引き離す額だった。 ジャガイモ飢饉の深刻さを受け止めたピール首相はアイルランド人が安い価格の輸入穀物を購入できるよう、保護貿易主義の穀物法を廃止する決意をした。ヴィクトリア夫妻も貧しい民衆もそれを支持した。しかし地主貴族など保守党内の抵抗勢力が穀物の自由貿易に強く反発したため、ピールは穀物法廃止法案と刺し違える形で1846年6月に辞職を余儀なくされた。 この騒ぎで保守党はピールを筆頭とする自由貿易派とダービー伯爵を筆頭とする保護貿易派に分裂しピール派がホイッグ党と連携したことでホイッグ党が議会の多数派になり、ホイッグ党首であるジョン・ラッセル卿に大命降下した。ヴィクトリアはラッセル卿の内閣で外相になったパーマストン子爵が親仏外交でアイルランド貧困問題を無視するようになるのではと心配していた。 ヴィクトリア女王夫妻、メルバーン子爵、ピールらによる自由主義的な改革は裕福なブルジョワには歓迎されたが、貧しい労働者階級には期待はずれであり、社会改革を求めるチャーティズム運動が高まった。 1848年には大陸で1848年革命が発生し、イギリスでもチャーティズム運動が勢いを増した。「共和制万歳」を叫ぶ者たちがバッキンガム宮殿の外のランプを破壊する騒ぎがあり、ヴィクトリアは恐怖のあまり泣き出してしまったという。身の危険を感じたヴィクトリアら王族はワイト島のオズボーン・ハウスへ一時的に避難した。 しかし比較的自由主義的な政府があり、不十分とはいえ一定の改革を行ったイギリスでは絶対主義的な君主国家ばかりの大陸ほど革命は燃え広がらず、やがてチャーティズム運動も下火になっていった。ヴィクトリアは「労働者たちはプロの扇動家、犯罪者、クズどもに扇動されただけで王室への従順さを失っていなかった」と述べて胸をなでおろした。 1851年の第1回ロンドン万国博覧会の準備はアルバートが取り仕切った。ロンドン万博の会場としてハイド・パークにデヴォンシャー公爵所有の豪邸チャッツワース・ハウスの温室をモデルにデザインされた30万枚のガラスで覆われた巨大な水晶宮(クリスタル・パレス)が建設された。 開会宣言はヴィクトリアが行った。女王暗殺を警戒して開会宣言を内輪で行うべきとの意見もあったが、最終的にはヴィクトリア自身が公開して行うと決めた。世界30カ国以上が参加し、水晶宮には世界各地から集められた10万点の展示物が飾られた。ヴィクトリアは万博開催中の数ヶ月間、気分が高揚してロンドン万博以外のことはほとんど頭になくなっていた。万博のすべてを見学しようと1週間に数回という頻度で水晶宮を訪れている。 ロンドン万博は140日の期間中にのべ600万人(リピーターや外国人も含む)も訪れたという。これは当時のイギリス人の人口の3分の1に相当する。収益も相当な額に上り、その収益と議会の創設した基金とでケンジントン地区再開発を行い、エクサビション・ロード(英語版)やクロムウェル・ロード(英語版)、クイーンズ・ゲート(英語版)などの道路が整備された(道路の名前は全てアルバートが命名した)。さらに1850年代にも万博実行委員会所有の土地を使ってロイヤル・アルバート・ホール、ヴィクトリア&アルバート博物館、ロンドン自然史博物館、サイエンス・ミュージアムなどを続々と創設した。 ヴィクトリアは1851年7月18日付けの日記に「我が愛する夫と我が国の功績に対して寄せられた平和の祈りと親善が大勝利を収めた」と書いている。 ロンドン万国博覧会が開催された水晶宮外観。  水晶宮内部を描いた絵画  水晶宮で万国博覧会の開催宣言を行うヴィクトリア。  ジョン・ラッセルは1851年2月に労働者階級に選挙権を拡大する更なる選挙法改正法案を議会に提出したが、下院の反対で退けられた。この件でラッセルはヴィクトリアに辞表を提出した。ヴィクトリアは自由党に次ぐ勢力である保守党保護貿易派の指導者ダービー伯爵に首相の大命降下をくだしたが、保守党の議席は過半数に程遠く、また実務経験のある政治家が党分裂でほとんどピール派に移っていたこともあってダービー伯爵はこれを拝辞し、自由党とピール派に政権を担当させるようヴィクトリアに具申した。ヴィクトリアはその通りにしようとしたが、この二勢力には自由貿易しか共通点がなく、カトリック規制など他の問題で様々な対立を抱えていたため、連立政権を作れなかった。ヴィクトリアはランズダウン侯爵やウェリントン公爵など元老たちにどう対処すべきか諮問し、結果ラッセルを首相に戻すこととした。迷走ぶりを露わにした政党政治の力は減退し、王権の担い手たるアルバート公子の存在感は一層増していった。 1852年2月にヴィクトリアは伯父であるベルギー王レオポルドに宛てて「アルバートは日増しに政治が好きになっていますが、彼の洞察力や勇気はそうした仕事には非常に向いています。一方私は日増しに仕事が嫌になっています。私たち女性は「統治」するようには創られていません。善良な女性であるなら、そのような仕事は好きにはなれないのです。」と書いている。 1851年12月にジョン・ラッセル卿内閣外相パーマストン子爵が独断でフランス大統領ルイ・ナポレオンのクーデタを支持した廉で辞任に追いやられて以降、ホイッグ党はラッセル卿派とパーマストン子爵派という二つの派閥が形成されて内部対立するようになった。 このホイッグ党の内部対立に付け入る形で保守党党首ダービー伯爵が政権奪還することもしばしばあったが、ピール派が離脱した保守党は復古主義的農本主義団体と化していたため、国民から背を向けられ、総選挙で多数派が取れなかった。穀物の自由貿易はイギリス農業を衰退させるどころか大きな繁栄をもたらしていたためである。保守党は徐々に保護貿易主義をフェードアウトさせていったが、多数派を得るのは1874年の解散総選挙(英語版)まで待たねばならなかった。 1850年代を通じて政党政治の混迷は続き、5回も政権交代があった(1852年2月に保守党のダービー伯爵、1852年12月にピール派のアバディーン伯爵、1855年2月のホイッグ党のパーマストン子爵、1858年2月のダービー伯爵再任、1859年6月にパーマストン子爵再任)。 1859年6月にホイッグ党、ピール派、急進派の三派が合同して自由党を結成したことで二大政党制への道が開かれ、政党政治が安定化するようになった。自由党は早速議会に内閣不信任案を可決させ、不安定な少数与党政権の第三次ダービー伯爵内閣(保守党政権)を辞職させ、パーマストン子爵を首相とする自由党長期政権を樹立した。こうして1860年代以降には1850年代のようにヴィクトリアが長老政治家に諮問して首相を選定するようなことも減っていった。 アルバートは1857年に議会から王配殿下(Prince Consort)の称号を受けていたが、1850年代後半から徐々に健康を害するようになっていた。若い頃には美男だった外見もいつしか髪が薄くなり、引き締まっていた身体もすっかり肥満していた。 ヴィクトリアによると夫妻が溺愛していた自慢の長女ヴィッキーが1858年にプロイセン王子フリードリヒに嫁いでからアルバートの元気がなくなったという。夫妻が愚鈍と評価していた皇太子バーティの不良行為や問題行動にもアルバートは随分頭を悩まされ、胃痛がひどくなり、リューマチも患うようになった。 1861年11月22日にアルバートはヴィクトリアが止めるのも聞かず、豪雨の中サンドハースト王立陸軍士官学校の新校舎竣工式に出席し、続けてケンブリッジ大学で校則破りを繰り返す皇太子に説教するためにケンブリッジを訪問し、体調を悪化させた。12月に入ると食事もほとんど取れないほどに衰弱した。そうした中でもアルバートは最期の力を振り絞ってトレント号事件をめぐってのパーマストン子爵の対米強硬姿勢を穏健化させて英米戦争を回避することに尽力した。 侍従医は特に気になる症状はないとしており、ヴィクトリアは侍従医を全面的に信頼していたので、首相パーマストン子爵が他の医者に見せることを提案しても拒否した。だがアルバートの病状は悪化する一方で12月11日にはヴィクトリアも他の医師に診せることを承諾した。召集されたワトソン医師はすでに手遅れの腸チフスと診断した。 12月13日午後遅く、アルバートは危篤状態に陥り、ヴィクトリア女王はじめ家族が集められた。その日の晩ヴィクトリアはヒステリック状態に陥り、落涙と祈祷を繰り返していた。ヴィクトリアがアルバートの枕元に近づくと彼女の存在に気付いたアルバートは彼女にキスをして手を握り、弱弱しい声ながら「gutes Fraüchen(私の可愛い小さな奥さん)」と声をかけたという。翌14日朝にはアルバートは回復に向かっているように見えたが、正午までにはほとんど動けなくなった。アルバートの息が荒くなるとヴィクトリアは彼に駆け寄り、「Es ist Fraüchen(貴方の小さな奥さんですよ)」と囁き、彼とキスをしたという。 ヴィクトリア女王ら家族が見守る中、アルバートは42歳にして崩御した。ヴィクトリアは冷たくなった夫の手をしばらく握り続けていたが、やがて部屋を飛び出して泣き崩れたという。 ヴィクトリアは叔父ベルギー王レオポルドに宛てて「生後8カ月で父を亡くした赤ん坊は、42歳で打ちひしがれた未亡人となってしまいました。私の幸せな人生は終わりました。私がまだ生きなければならないとしたら、それは父を失った哀れな子らのため、彼を喪うことで全てを失った我が国のため、また私だけが知る彼の希望を実現するためです。彼は私の傍らにいつもいてくれるのです。」と書いている。 ヴィクトリアの悲しみは深く、その後彼女は10年以上にわたって隠遁生活をはじめた。日々をワイト島のオズボーン・ハウスやスコットランドのバルモラル城などで過ごしてロンドンには滅多に近寄らなくなった。国の儀式にも出席せず、社交界に顔を出すこともなくなった。たまに人に姿を見せる時には常に喪服姿であった。自分だけではなく侍従や女官、奉公人に至るまで宮殿で働く者全員に喪服の着用を命じていた。ヴィクトリアによればアルバートを失った直後の3年間は死を希望する心境にさえなっていたという。 政治家たちにとってはヴィクトリアがこれまで散々行ってきた政治への介入を止めさせる絶好のチャンスであり、「喪」に服したいという彼女の意思を支持した。だがヴィクトリアは「喪」に服することに全力をあげるために政権交代を阻止しようとするようになった。アルバート崩御直後の頃、パーマストン子爵の政権運営が危なくなっていた時期だったが、ヴィクトリアは野党党首ダービー伯爵に対して「今の自分は政権交代などという心労に耐えられる状態ではない。もし貴下が政権打倒を目指しているのならば、それは私の命を奪うか、精神を狂わせる行為である。」という脅迫的な手紙を送っている。これを見たダービー伯爵は思わず「女王陛下がそんなに奴らをお気に入りだったとは驚いたな」と述べたという。 1862年に再びロンドン万博が開催されたが、彼女はアルバートのことを思いだして居た堪れなくなるとして欠席した。 国民ははじめヴィクトリアに同情する人が多かったが、やがていつまでも公務に出席しない彼女を批判する論調が増えていった。特にヴィクトリアが三女アリスの結婚式をまるで葬式のようにやらせたのを機に女王批判が強まっていった。保守的な『タイムズ』紙さえも「女王の喪はいつになったら開けるのか」「女王には公人としての義務があり、それを無視するのであれば君主制は失われるだろう」という忠告の論調を載せている。女王のあまりの引きこもりぶりに「女王がいなくても国は問題なくやっていけている。王室を養う税金は無駄」などとして共和主義者が台頭し始める始末となった。 女王が君主としての公務を行えないなら皇太子バーティが代行するのが普通であるが、ヴィクトリアはそれも許さなかった。この「出来そこない」の息子のせいでアルバートが過労になったと考えていたヴィクトリアはバーティには重要なことは何も任せないつもりでいた。 引きこもってばかりいると身体に悪いという侍医の薦めでヴィクトリアは乗馬や馬車で出かけるようになり、その関係でバルモラル城でのアルバートの馬係であったスコットランド人ジョン・ブラウンと関わる機会が増え、彼を寵愛するようになった。ブラウンは事実上ヴィクトリアの秘書、ボディーガードとなっていき、王族や首相といえどもブラウンを介さなければヴィクトリアに謁見できなくなった。この女王とブラウンとの関係をマスコミが面白半分に取り上げ、二人が秘密結婚したなどという噂が流れるに至り、ヴィクトリアは「ミセス・ブラウン」などと呼ばれるようになった。1872年、バッキンガム宮殿でヴィクトリアに17歳のアイルランド人が拳銃を向け、ブラウンに取り押さえられる事件が発生する。拳銃に弾が入っていなかったため、犯人の刑は懲役1年だった。二人の間にセックスの関係があったのかについては歴史家の間で意見が分かれており定かではない。ヴィクトリアとブラウンの親密な関係は1883年のブラウンの死まで続いたが、その頃にはすっかり肥満した老婆になっていたヴィクトリアはあまりゴシップのネタにならず、ブラウンも勤勉な世話係として評価されるようになっていた。ブラウンが亡くなった際にはヴィクトリアはアルバート崩御の時並みに取り乱したという。そしてブラウンの部屋を死去までの18年にわたってそのままの状態で保存させ、毎日摘みたてのバラを彼の枕に添えさせた。 ただこの服喪時代にもヴィクトリアは外交には強い興味を持ち、パーマストン子爵の内閣がイタリア統一、アメリカ南北戦争、ポーランド1月蜂起、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題など他の欧米諸国の問題に介入を企む姿勢を見せるとヴィクトリアは不介入を政府に指示してブレーキをかけた。また逆にダービー伯爵の孤立主義・不介入主義に対してはルクセンブルク問題のようにヨーロッパの平和が脅かされる恐れがある問題については積極的に介入するべきであると発破をかける役割を担った。 また夫を弔う事には勤勉であり、アルバートの銅像や霊廟の建設、弔慰アルバム作成などに熱心だった。1868年にはスコットランドでの夫アルバートとの思い出を綴った『ハイランド日誌』を出版した。こうした真摯な追悼の姿は共和主義を台頭させながらも王室への親近感も与えていた。共和主義者のジョン・ブライトも「女王であろうと労働者の妻であろうと愛する者を失った悲劇への同情は広くあるべき」としてヴィクトリア女王への同情を表明していた。 最終的にヴィクトリアを引きこもり生活から立ち直らせたのはベンジャミン・ディズレーリであった。 1868年2月、保守党の首相ダービー伯爵が病気で退任し、大蔵大臣・庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリが後任の首相となった。ディズレーリはユダヤ人として生まれたが、幼い頃、父の判断で将来のためにイングランド国教会に改宗した。小説家として活躍し、1837年の総選挙で初当選して政界入りした。ロバート・ピール首相の穀物法廃止への反対運動を主導したことで保護貿易主義の旗手として名をあげ、ピール派が保守党を離党した後に保守党の指導的地位に上り詰めた人物である。 アルバートとヴィクトリアは自由貿易主義者であり、ピールを尊敬していたので、その彼を攻撃したディズレーリのことはもともと憎んでいた。しかしヴィクトリアは第一次ダービー伯爵内閣の時に大蔵大臣として入閣したディズレーリが送ってくる報告書の小説的な面白さで彼に注目するようになり、彼の印象についても「青白い顔、黒い目とまつ毛、黒い巻き毛の髪という典型的なユダヤ人風の容貌であり、その表情は不快感を覚える。しかし話してみるとそうでもなかった。」と書くようになった。ヴィクトリアがディズレーリに本格的に好感を抱くようになったのはアルバート崩御の際にディズレーリがアルバートの人格を称え、アルバート記念碑の創設に尽力したことだった。ヴィクトリアによれば「アルバートの死去後、多く者が私を憐れんでくれたが、私の悲しみを本当の意味で理解してくれた者はディズレーリだけだった。」という。 ディズレーリの政策面にも共感することが増えた。国民の暴動を阻止するため労働者上層への選挙権拡大が不可避の情勢になった第三次ダービー伯爵内閣期、ヴィクトリアは自由党政権のもとで急進的な選挙法改正を嫌がり、保守党政権による選挙法改正を希望したが、その意を汲んで自由党と交渉の末に第二次選挙法改正を達成したのがディズレーリであった。ヴィクトリアはヴィッキー宛ての手紙の中で「彼は驚くべき方法で改正法案を通過させました。彼について今の私には称賛以外の言葉は何もありません。」と絶賛している。またウィリアム・グラッドストンが目指すアイルランド国教会廃止に反対する姿勢にも好感をもっていた。 第一次ディズレーリ内閣は少数与党なのですぐに議会で敗北したが、世論が保守党有利に転じる時期を見計らうため、解散総選挙の先延ばしを図っていた。そのためにヴィクトリアを公務に復帰させ、彼女の大御心によって政権を存続させようとした。彼はヴィクトリア本人に「政治が重大な時局にある時は国民も君主に備わる\"威厳\"を再認識すべきであります。同時に政府もそのような時局における内閣の存立は女王陛下の大御心次第だという事を了解するのが賢明というものです。」という立憲政治否定に近い上奏を行っている。ヴィクトリアもまんざらではなく、ディズレーリを助けるために徐々に公務に復帰するようになった。1868年春頃からヴィクトリアは自らが摘んだ花束をディズレーリへ送り、ディズレーリはお礼に自分の小説をヴィクトリアへ送るという関係になった。しかし二人の蜜月には反発も多く、保守党内の反ディズレーリ派の貴族院議員ソールズベリー侯は「玉座に君臨しているのは女性であり、ユダヤ人の野心家は彼女を幻惑する術を心得ている」と危機感を露わにしている。 結局1868年11月の総選挙(英語版)において保守党は惨敗した。これを受けてディズレーリは辞職し、自由党のウィリアム・グラッドストンが後任の首相となった。これは総選挙の敗北を直接の原因として首相が辞任した最初の事例であり、以降イギリス政治において慣例化する。これ以前は総選挙で敗北しても議会内で内閣不信任決議がなされるか、あるいは内閣信任決議相当の法案が否決されるかしない限り、首相が辞職することはなかった。これが慣例化したことは君主が首相選定に果たす役割の減少を意味し、立憲君主制の進展をもたらした。 この後しばらくディズレーリは野党党首に甘んじたが、ヴィクトリアとディズレーリの親密な関係は続いた。 1874年2月の総選挙での保守党の勝利を受けてグラッドストンは辞職した。ヴィクトリアはディズレーリに再度組閣の大命を与えた。このディズレーリの第二次内閣においてヴィクトリアは彼への寵愛を深め、不偏不党を崩してディズレーリびいき、保守党びいきになった。その寵愛ぶりはかつてのメルバーン子爵をも超えるものがあった。1878年のヴィッキー宛ての手紙の中では「彼は広い心の持ち主です。これはビーコンズフィールド卿(ディズレーリ)にあって、グラッドストン氏には完全に欠落している資質です。彼は騎士道精神に満ちあふれ、仕える国と主権(女王)に対して広大な視野を持っています」とディズレーリを絶賛している。ヴィクトリアは第二次ディズレーリ内閣の帝国主義政策を全面的にバックアップし、1876年5月にはインド女帝に即位し、以降ヴィクトリアは「Victoria R&I」と署名するようになった。 しかし1880年4月の総選挙に保守党が敗れたため、ディズレーリは辞職を余儀なくされた。この選挙の報を聞いた時ヴィクトリアはバーデン大公国にいたが、絶望して「私の人生はもはや倦怠と苦しみしかありません。今度の選挙は国全体にとって不幸なことになるでしょう」と語った。ディズレーリは病を患っており、もはや首相職に復帰する日は来ないと覚悟していたが、ヴィクトリアは出来るだけ早くディズレーリが首相に返り咲く日を期待していた。ヴィクトリアはディズレーリに「これが永遠の別れになるなどと思ってはいけませんよ。私は必ず近況を貴方に知らせますから貴方もそうすると約束してください」という手紙を送っている。ディズレーリは女王と文通を続け、ウィンザー城にもしばしば通ったが、1881年4月には死去した。 ディズレーリの訃報に接したヴィクトリア女王は悲しみのあまり、しばらく口をきけなかったという。当時女王が臣民の葬儀に出席することを禁じる慣例があったので、葬儀への出席は見合わせたが、代わりにディズレーリが好きだった花プリムラを「彼の好きだった花をオズボーンから、女王からの親愛の供花」というメッセージとともに葬儀に送った。 葬儀後、ディズレーリの墓参りを希望し、ディズレーリの自邸と埋葬された教会があるヒューエンデン(英語版)へ赴いた。女王は、ディズレーリがヒューエンデンにいた時、最後に歩いた道を歩いてから教会へ向かった。女王は掘り返されたディズレーリの棺の上に陶器の花輪を供えた後、教会内に「君主であり友人であるヴィクトリアR&Iから、感謝と親愛をこめて」と刻んだ大理石の記念碑を置かせた。 彼女はディズレーリの遺言執行人に「ディズレーリほど厚い忠誠心で私に仕えてくれた大臣、また私に誠意を尽くしてくれた友人はいません。その情愛ある配慮と賢明な助言は野党の時でも変わる事はありませんでした。私はこれまで大事な友人を大勢亡くしましたが、今回ほど辛いことはありませんでしたし、今後もないでしょう。大英帝国にとって、そして世界にとって掛け替えのない損失です。」という手紙を書いている。 1868年11月の総選挙に自由党が勝利し、第一次グラッドストン内閣が成立した。ウィリアム・グラッドストンはもともと保守党の議員だったが、1846年の穀物法廃止をめぐる保守党分裂の際に自由貿易を奉じるピール派に属して1859年に自由党に合流、1867年にラッセル伯爵の引退で代わって自由党党首となった人物である。敬虔なイングランド国教会の信徒であり、キリスト教の精神を政治に反映させることに使命感を持っていた。1868年はアイルランド独立を目指す秘密結社フェニアンの暴動が問題になった年であり、グラッドストンはアイルランド問題についてアイルランド国教会の廃止、アイルランド土地制度改革、アイルランド人に多いカトリックの信仰を侵されることのない大学の創設という3つの公約を掲げて総選挙を戦い、勝利したのだった。 政権についたグラッドストンは、アイルランド土地法によりアイルランド小作農の権利を保護し、またアイルランド国教会を廃止した。しかし前者は地主貴族、後者はヴィクトリア女王が反発した。1869年初めにグラッドストンはアイルランドにも女王の居城を置いて積極的にアイルランドを訪問するべきと進言したが、ヴィクトリアは拒否した。女王はディズレーリの退任後、再び公務に出席しなくなっていたが、それに対してグラッドストンがたびたび公務復帰を要求してくることも女王には不快だった。女王はグラッドストンからの公務復帰要請は退位をちらつかせてでも拒否した。 1874年の総選挙での自由党の敗北により、グラッドストンは首相職をディズレーリに譲り、1875年に自由党党首職からも退いたが、その後も自由党の実質的な指導者であり続け、ディズレーリ保守党政権批判の急先鋒として「人民のウィリアム」などと呼ばれた。自分のお気に入りの首相を攻撃しまくるグラッドストンへの女王の嫌悪感はいよいよ強まり、ヴィッキーに宛てた手紙の中では「グラッドストン氏は狂人のように進撃しています。私は代議士の中で、これほど愛国心が欠如し、不謹慎な人物を他に知りません。」と怒りを露わにしている。 1880年4月の総選挙にディズレーリ率いる保守党が敗れたため、再びグラッドストンに大命降下せねばならない事態となったが、ヴィクトリアは自由党政権を誕生させるとしてもグラッドストンの首相就任だけは阻止したいと願い、自由党下院指導者ハーティントン侯爵を首相にしようと画策したが、グラッドストンや自由党内からの反発を招き、結局グラッドストンに再度組閣の大命を与えることを余儀なくされた。 グラッドストンには君主は象徴的役割に限定されるべきという持論があり、「女王の忠臣」ディズレーリ時代を機に本格的に政治に介入し始めていたヴィクトリアを再び政治から遠ざけようと図った。彼はアイルランド問題についてヴィクトリアの意見を聞くつもりはなかった。ヴィクトリアは皇太子バーティ宛ての手紙の中で「女王に相談すべき大問題なのに女王を完全に無視するこの恐るべき急進的政府には仮面を付けた共和主義者が大勢いる。彼らはアイルランド自治派に頭が上がらない。グラッドストンは計り知れない過ちを犯している。」と怒りを露わにしている。 1884年、地方の炭鉱などの労働者にまで選挙権を広げる第三次選挙法改正法案が議会に提出されたが、地方に基盤を持つ自由党と都市部に基盤を持つ保守党の間で紛糾し、8月にはグラッドストンもヴィクトリアに仲裁を依頼する羽目になった。女王がグラッドストンと保守党党首ソールズベリー侯爵の間を取り持った結果、11月に自由党と保守党の妥協が成立し、第三次選挙法改正法案が可決されて有権者数が更に増加した。これにはグラッドストンも女王の強力な仲裁に深く感謝した。 1885年6月に予算案が否決されたことでグラッドストン内閣が辞職し、保守党のソールズベリー侯爵に大命降下した。ヴィクトリアはグラッドストン辞職を心より喜んだが、11月の総選挙は自由党とアイルランド国民党が勝利した。グラッドストンはソールズベリー侯爵内閣の倒閣のためアイルランド国民党と手を組もうといよいよアイルランド自治を主張し始めた。グラッドストンが再び首相に就任することを恐れるヴィクトリアは自由党内のアイルランド自治反対派をソールズベリー侯爵と連携させようとした。さらにソールズベリー侯爵内閣に「王室のお墨付き」を与えようと1886年の議会開会式に10年ぶりに出席した(これがヴィクトリア最後の議会開会式出席となった)。 しかしこうした女王の工作もむなしく、自由党とアイルランド国民党の共同はなり、ソールズベリー侯爵は議会で敗北して辞職に追い込まれた。ヴィクトリアはアイルランド自治に反対する自由党議員ジョージ・ゴッシェンを召集して後継首相について諮問することでなおもグラッドストンに大命降下するのを阻止しようとしたが、ゴッシェンが参内を拒否したため、1886年2月1日グラッドストンに三度目の組閣の大命を与えることを余儀なくされた。しかしヴィクトリアは組閣後ただちに倒閣に動き、保守党と自由党内のアイルランド自治法反対派が党を割って創設した自由統一党の連携の仲介を取り、その結果6月にアイルランド自治法案は僅差で否決された。続く解散総選挙もグラッドストンの自由党の敗北、保守党の勝利におわり、グラッドストンは辞職した。 しかし1892年7月の総選挙で保守党が敗北した結果、8月にグラッドストンに四度目の組閣の大命を与える羽目となった。グラッドストンはライフワークのアイルランド自治法案をまた提出した。今回は自由党内が一つにまとまっており、またアイルランド国民党が指導者チャールズ・スチュワート・パーネルを失って立場が弱い時期だったため無条件に自由党に協力した結果、庶民院で同法案が可決された。しかしソールズベリー侯爵の尽力で貴族院が圧倒的多数で否決した。ヴィクトリアはソールズベリー侯爵の功績を称えている。グラッドストンももはや高齢であり、ついにアイルランド自治法案を諦め、1894年に引退を決意して辞職を願い出た。ヴィクトリアは二度とグラッドストンの顔を見ずに済むことに大喜びした。彼の最後の伺候にも労いの言葉はまったくかけなかった。 グラッドストンは1898年に死去したが、ヴィクトリアは弔意を出すことを求められても「嫌ですよ。私はあの男が好きではありません。気の毒と思っていないのにどうして気の毒などと言えるでしょうか」と述べて断っている。 1887年6月20日にヴィクトリア女王は在位半世紀を迎え、在位50周年記念式典(ゴールデン・ジュビリー)(英語版)が挙行された。各国の王室・皇室が招かれての祭典となった。ベルギー(レオポルド2世)、デンマーク(クリスチャン9世)、ギリシャ(ゲオルギオス1世)、ザクセン(アルベルト)の四か国は君主が自ら出席し、それ以外の国々も高位の王族・皇族が出席した。日本からは小松宮彰仁親王が出席した。ヴィクトリアは高官や彼女のために集まった世界中の王族・皇族たちを随伴しながら群衆の間を通ってウェストミンスター寺院へ向かい、そこで神に感謝をささげた。バッキンガム宮殿に戻った後ヴィクトリアは「大変疲れましたが、とても満足です」と述べている。 1897年6月の在位60年周年記念式典(ダイヤモンド・ジュビリー)(英語版)はヴィクトリアの希望で各国の王室・皇室を招いた式典ではなく、世界各地の植民地の首相や駐留連隊代表者を集めた「帝国の祭典」として行われることになった。各国代表使節の出席も認められたが、君主の出席は断っている。日本からは有栖川宮威仁親王と伊藤博文が出席した。ロンドン市民の熱狂の中、カナダ・オーストラリア・インド・香港など世界各地に駐留するイギリス軍連隊が行進して大英帝国の威を示した。ヴィクトリアは植民地首相たちにジュビリー・メダルを授与し、また全世界の臣民たちに向けて「愛する臣民たちに感謝する。神の御加護があらんことを。」と演説した。 1887年のヴィクトリア女王在位50周年記念式典(英語版)でのウェストミンスター寺院記念礼拝を描いたウィリアム・エワート・ロックハート(英語版)の絵画。  1897年、在位60年を迎えたヴィクトリア女王。  通常女王は退任する首相に推挙する後任の首相を下問するのが慣例だったが、グラッドストン第四期目の退任の際にヴィクトリアは彼に一切下問せずにお気に入りの外務大臣ローズベリー伯爵を独断で後任の首相に任じた。しかし自由党内や世論は大蔵大臣ウィリアム・バーノン・ハーコートを推す声が多かったので、この女王の独断には批判があった。 ローズベリー伯爵はエジプトと南アフリカに大きな利権を持つロスチャイルド家から妻を迎えており、自由党内の帝国主義者「自由帝国派」の議員であった。彼はただちにヴィクトリアに海軍増強を提案してヴィクトリアの帝国主義の矜持を満足させた。一方でローズベリーも自由党の政治家であり、貴族院批判を行ったり相続税値上げなどグラッドストンと似通った傾向も多々あり、ヴィクトリアもやや警戒していたが、結局ローズベリー伯爵は貴族院改革にもアイルランド自治にも熱を入れなかったのでヴィクトリアも安堵した。しかし世論ではハーコート人気が高まり、ローズベリー伯爵の権威は失墜していった。嫌になってきたローズベリー伯爵はつまらない法案の否決を理由にさっさと総辞職して保守党のソールズベリー侯爵に政権を譲ってしまった。ヴィクトリアとローズベリー伯爵は必ずしも意見は一致しなかったが、それでも彼女は政権交代を残念がっていた。 保守党のソールズベリー侯爵が自由統一党と連立して第三次内閣を組閣した。以降ヴィクトリアの崩御まで彼が首相を務めた。ソールズベリー侯爵は民主主義を進展させることを拒否し、貴族の特権を守るために全力を尽くす極めて保守的な人物だった。社会主義と帝国主義を結合させた「社会帝国主義者」として知られるジョゼフ・チェンバレンを植民相として積極的な帝国主義政策に乗り出した。ヴィクトリアはソールズベリー侯爵には安心して国政を任せることができ、彼女が政治に口を出すこともあまりなくなっていき、身の回りのことや趣味に集中することが増えた。またソールズベリー侯爵は以前からヴィクトリアに政治的影響力を「温存しておくよう」説得するのがうまかった。 加えてヴィクトリア朝末期、女王は高齢で体力が低下していき、政府に対する影響力を減少させ続けた。女王の旅行の際に女官の切符の手配が忘れられるという事態さえ発生した。1900年には三男コノート公アーサーをサー・ガーネット・ヴォルズリー(英語版)に代わる陸軍総司令官(英語版)に任命しようとしたが、ソールズベリー侯の推挙が優先されてロバーツ卿(英語版)がその任についた。さらに同年ソールズベリー侯は首相の職に専念するとして彼が兼務していた外務大臣職に陸軍大臣ランズダウン侯爵を就任させた。ランズダウン侯爵はかつて陸軍のスキャンダルを公表した人物だったのでヴィクトリアは嫌っていたが、この時も彼女の反対は何の効力も発揮せず、彼女にできたのは日記に不満を書くことだけだった。 1898年のイギリス王室四代。女王ヴィクトリア、皇太子バーティ(エドワード7世)、孫ヨーク公ジョージ(ジョージ5世)、曾孫エドワード王子(エドワード8世)  1897年、南フランスを旅行中のヴィクトリア女王を描いた絵  ヴィクトリア朝64年の間に大英帝国は世界中の非白人国家・民族集団に対して覇道の限りを尽くし、その領土を10倍以上に拡大させ、地球の全陸地面積の4分の1、世界全人口の4分の1(4億人)を支配する史上最大の帝国となるに至った。大英帝国の維持・拡大のためにヴィクトリアとその政府は世界各地で頻繁に戦争を行い、ヴィクトリア朝全期を通じてイギリスが戦争をしていない時期は稀であった(ヴィクトリア朝64年間にイギリス軍が全く戦闘しなかった時期は2年だけだったといわれる)。 ヴィクトリアは非白人国家に対する帝国主義には全面的に賛成していた。「帝国主義には二種類あり、一つは皇帝専制などの誤った帝国主義。もう一つは平和を維持し、現地民を教化し、飢餓から救い、世界各地の臣民を忠誠心によって結び付け、世界から尊敬される英国の帝国主義である。英国の領土拡張は弱い者イジメではなく、英国の諸制度と健全な影響を必要とあれば武力をもって世界に押し広げるものである。」とするディズレーリ内閣植民相カーナーヴォン伯爵の見解を熱烈に支持していたためである。 イングランド人、スコットランド人、アイルランド人、ボーア人、アフリカ人、アラブ人、インド人、中国人、ビルマ人、アボリジニ、マオリ、ポリネシア人、インディアン、エスキモーなど無数の人種、また三大宗教やヒンドゥー教をはじめとする様々な宗教を版図におさめる大英帝国には統一感はまるでなかったが、その彼らを「女王陛下の臣民」として一つに結び付け、統合の象徴の役割を果たしたのがヴィクトリア女王であった。 この時期の英国君主が女性であったことは大英帝国の成功の秘訣であった。実際のヴィクトリアはイギリスの植民地支配を揺るがす反乱に対して容赦のない主張をしていたが、被支配民の間では「帝国の母」としてその「子供」たちである世界中の臣民たちに慈愛を注ぐヴィクトリアのイメージが広まり、大英帝国の支配への抵抗心を和らげたのである。カナダのインディアンのスー族やクリー族はヴィクトリアを「白い母」と呼んで敬意を払っていた。あるインド藩王はヴィクトリアのインド女帝即位にあたってのデリーでの大謁見式(ヴィクトリアは欠席)において「ああ、母上。ロンドンの宮殿にいます親愛なる陛下。」と呼びかけている。1865年に反乱を起こしたジャマイカの黒人たちもヴィクトリア女王個人には忠誠を誓っており、裁判所を襲撃して囚人を解放した際に「我々はヴィクトリア女王陛下に反乱を起こしているわけではないから、陛下の所有物を略奪してはならない」として囚人服を置いていかせたという。かのガンジーもヴィクトリアをインドの自由のために尽くす女帝として敬愛していた。 ヴィクトリア自身も支配下におさめた非白人国家の王や首長の子供たちを後見したり、教育を与えたり、自分の名前(男性の場合はヴィクトリアの男性名ヴィクターや夫の名前アルバートなど)を与えるなどして「女王は人種に寛大」というイメージを守ることに努めた。 ヴィクトリアが即位したばかりの頃、イギリス東インド会社支配下のインド(英語版)の北西が大英帝国の弱点となっていた。イギリスはシク王国と連携してインダス川まで勢力を伸ばしたものの、ロシア帝国もブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国を事実上の勢力下におさめ、ついでアフガニスタン王国を窺っていた。そのためアフガニスタンがイギリスとロシアの中央アジア覇権争い(「グレート・ゲーム」)の中心舞台になろうとしていた。 ヴィクトリアの戴冠式から間もない1838年10月、イギリス軍はアフガニスタンへ侵攻し、首都カーブルを陥落させた。アフガン王(アミール)ドースト・ムハンマド・ハーンは北方ブハラ・ハン国へ亡命したため、イギリスはインドに亡命していたシュジャー・シャーを傀儡の王に即位させた。しかし1841年11月カーブルで反英闘争が激化し、掌握不可能となり、それに乗じてトルキスタンに亡命していた前王の息子アクバル・ハーン(パシュトー語版)がウズベク族を率いてカーブルへ戻ってきたため、イギリス軍は降伏を余儀なくされた。アクバルはイギリス軍の安全な撤退を保障したが、約束が守られることなく、現地部族民が略奪をしかけてきてイギリス軍は大量の死者を出しながら撤退する羽目となった。結局16000人のカーブル駐留イギリス軍で生き残ったのは軍医のウィリアム・ブライドン(英語版)のみであった(第一次アフガン戦争)。大英帝国の威信は傷つき、メルバーン子爵内閣は厳しい追及を受け、退陣に追いこまれた。 イギリスの後ろ盾を失ったシュジャー・シャー王は殺害され、ドーストがアフガンに帰還してアミールの座を取り戻した。イギリスは敗戦したとはいえ、すでにアフガン南西部を半植民地状態にしていることは変わらなかった。結局ドーストは外交権を事実上イギリスに委ねざるをえなかった。さらに1864年にドーストが崩御するとシール・アリー・ハーン、ムハンマド・アフザル・ハーン(英語版)、ムハンマド・アーザム・ハーン(英語版)の三兄弟の王位継承争いが発生し、アフガンは内戦状態となった。インド総督はアフガン弱体化を狙い、内戦を煽るべく不干渉を建前に「兄弟のうち王位を固めた者を承認する」と宣言した。イギリスの狙い通り内戦は激化し、王位の奪い合いの末、最終的には1869年にシール・アリー・ハーンが王位を固めた。 一方ロシア帝国は1868年にブハラ・ハン国、1873年にヒヴァ・ハン国、1875年にコーカンド・ハン国へ攻め込み、中央アジアの3ハーン国をすべて保護領としていた。警戒したイギリスはアフガン支配強化の必要性を感じ、シール王に対してイギリス外交団をカーブルに常駐させるよう求めた。しかしシール王はこれを認めず、逆に1878年8月にはロシア皇帝から送られてきたロシア将校団の使節の受け入れを認めた。イギリス・インド総督リットン伯爵はこの扱いの差に激怒した。 ヴィクトリアの怒りも激しく、彼女はアフガニスタン懲罰の必要性を感じたが、第一次アフガン戦争の苦い思い出もあり、外交圧力をかけて解決させるようディズレーリ首相に指示している。しかし現地インド軍は早々にアフガニスタンへ侵攻を開始していた。ヴィクトリアもやむなくインド軍を全面支援するよう首相と外相に要求した。アフガンとしてはロシアの軍事援助を期待するしかなかったが、ロシアは露土戦争の戦後処理国際会議ベルリン会議で孤立していることに焦り、安易な出兵をして孤立を深めたくない時期だったため、アフガンは見殺しにされた。 こうしてはじまった第二次アフガン戦争でイギリス軍はアフガン軍のゲリラ戦に苦しめられながらもロバーツ将軍の指揮の下にアフガン軍を撃破し、1879年6月にムハンマド・ヤークーブ・ハーン(英語版)王にガンダマク条約(英語版)を締結させて戦争は終結した。イギリスはロシアでの長い亡命生活でロシアからの信頼も厚いアブドゥッラフマーン・ハーンをアミールに即位させ、外交を完全にイギリスが掌握しつつ内政は彼に任せてアフガンから撤収していった。 1842年第一次アフガン戦争で全滅する直前のイギリス第44連隊を描いた絵画  第二次アフガン戦争でカンダハールを攻略するイギリス陸軍第92歩兵連隊「ゴードン・ハイランダー」(英語版)を描いたリチャード・ケートン・ウッドヴィル Jr.の絵画  マイワンドの戦い(英語版)で突撃をかけるイギリス王立騎馬砲兵(英語版)を描いたリチャード・ケートン・ウッドヴィル Jr.の絵画  清は広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行(中国語版)という清政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)。しかしインド産アヘンはこの枠外であり、イギリス商人が密貿易によって中国人アヘン商人に売っていたため清国内にアヘンが大量流入していた。1823年にはアヘンがインド綿花を越えて清の輸入品の第一位となり、清は輸入超過(銀流出)を恐れるようになった。1839年に清がアヘン取り締まりを強化したことで英清関係は緊張し、小競り合いが発生するようになった。 外相パーマストン子爵は1840年6月にイギリス艦隊や陸軍兵力を広東に集結させて阿片戦争を開始し、1842年春に清政府に南京条約、五港通商章程(中国語版)、虎門寨追加条約など不平等条約を締結させた。これによりそれまでの広東貿易制度や公行制度は廃止され、清はイギリスの世界自由貿易体制の底辺に組み込まれる形となった。アヘン輸入も一層拡大され、香港がイギリス領として割譲されることになった。東アジアでの更なる覇権確立の足場の確保にヴィクトリアも喜び、叔父ベルギー王レオポルドに宛てた手紙の中で「ヴィクトリア(1840年に生まれたばかりの長女)を香港大公女(Princess of Hong Kong)に叙そうかと考えています。」と冗談交じりに書いている。 しかしイギリスの主要輸出品木綿の清への輸出量はその後もあまり増えず、マンチェスター綿産業を中心に清に更なる市場開放を迫るべしという声が強くなっていった。また中国では清政府や中国人の無法ぶりが目につくようになっていた。広東では、中国半植民地化に反発する民衆が排外暴動を起こすようになり、イギリス香港総督がこれについて抗議しても、清政府はまともに応じなかったのである。また「夷狄の首府侵入」を許すことによって権威が低下することを恐れていた清政府は、南京条約に違反して、イギリス外交官と北京政府の直接交渉を認めず、外交窓口を広東に派遣する欽差大臣に限定し続けた。 そのため1850年代から上海領事サー・ラザフォード・オールコックらを中心に清に対する再武力行使論が盛んになった。1855年に強硬派のパーマストン子爵が首相となり、クリミア戦争にけりがつくとその傾向は強まった。クリミア戦争を経て同盟関係を深めていたフランス皇帝ナポレオン3世もそれに賛同し、英仏連合軍は1856年10月から清に対してアロー戦争(第二次アヘン戦争)を開始した。追い詰められた清は北京陥落を防ぐため、1858年6月に天津条約を締結して終戦させたが、清が条約を守る姿勢を見せなかったため、英仏連合軍は再度開戦し、1860年8月にも北京を占領し、改めて清に北京条約を締結させた。これにより中国半植民地化は決定的となったが、同時に清朝そのものの弱体化も決定的となり、太平天国の乱が活発になり、イギリスが内政干渉(清朝支持)をせねばならない機会が増加した。また統治能力のない清政府に代わってイギリスが中国沿岸ほぼ全域の防衛を担当せねばならなくなり、その負担は大きかった。 アヘンを吸う中国人  イギリス植民地香港で発効されたヴィクトリア女王が描かれた96セント切手  第一次アフガン戦争の敗北後、イギリス東インド会社はシンド、シク王国、ビルマ王国などに次々と攻め込み、順調に会社領の拡張を図っていた。そのためセポイ(東インド会社の傭兵)の数は増加の一途をたどった。セポイは身分的にはヒンドゥー教の高いカーストの者や上流階級ムスリムが多かった。プライドの高い彼らは劣悪になっていく待遇に耐えられず、出兵拒否などイギリス東インド会社に逆らう事が増えていった。 そんな中、1857年5月にインドのメーラトでセポイたちがヒンドゥー教やイスラム教の教えに従って牛脂や豚脂が塗油として使われるイギリス軍ライフル銃の弾薬筒の使用を拒否する事件が発生した。これに対してイギリス軍司令官はこのセポイたちを事実上の死刑である重労働刑に処した。彼らの解放を求める運動が反乱と化し、メーラトは反乱セポイ軍によって占領された。反乱セポイ達はイギリス支配下で形だけの存在になっていたムガル帝国皇帝バハードゥル・シャー2世(この頃にはイギリスから支給される年金で細々と生きながらえている「乞食僧」同然の存在になっていた)のいるデリーへ向かい、彼を擁立してイギリスに対して反乱を起こした(インド大反乱(セポイの反乱))。地方にも続々と反乱政府が樹立されていき、北インド全域に反乱が拡大した。 反乱がおきて最初の数カ月、英軍は反乱軍におされぎみで首相パーマストン子爵は弱腰になっていたが、ヴィクトリアは毅然とした態度を崩さず、現地に植民している臣民たちを守らねばならないとして主戦論を唱え、政府に発破をかけ続けた。反乱軍に陥落させられたコーンポー駐屯地でイギリス人婦女子が虐殺されたことがイギリス人の怒りに火を付けた。ヴィクトリアも「気の毒な婦人と子供たちに対して犯されたこの恐るべき行為は大昔ならともかく現代ではとても考えられない。誰もが血の凍る思いである」と怒りをあらわにしている。復讐に燃えるイギリス軍はインド人を大量に虐殺する残虐な鎮圧を行った。イギリス軍は1857年9月11日から6日間かけてデリーを攻撃して陥落させた。地方での反乱はその後も続いたが、最終的には1858年6月20日のグワーリヤル陥落でほぼ平定され、7月8日にはインド総督カニング伯爵が正式に平和回復宣言を行っている。反乱者たちは裁判にかけられ、死刑判決を受けた者は大砲に括りつけて身体を吹き飛ばす方法によって処刑された。皇帝も裁判にかけられてラングーン流刑地に流罪となった。インド人の心はすっかり折られ、彼らが大英帝国の支配に対して武装蜂起を起こすことは二度となかった。 反乱鎮圧後の1858年8月2日にヴィクトリアはインドを自らの直接統治下に置く法律に署名した。これによりインド統治は東インド会社ではなくイギリス政府が行うこととなった。(実質的にはとっくに滅んでいた)ムガル帝国は形式的にも崩壊し、以降ヴィクトリアは「インド女帝(Empress of India)」と俗称されるようになった。ヴィクトリアは「巨大な帝国に対して直接責任を負う事に大きな満足感と誇りを覚える」と書いている。 一方でヴィクトリアは再反乱を防ぐには自らの「慈悲深い母」のイメージを前面に出すべきであると考え、信仰の自由を保障することをインド臣民たちに布告した。またヴィクトリアは「インド王侯たちを君主(ヴィクトリア)との個人的な結びつきによって引き付けるべきである。そのためにインドにも高位の勲爵士を置くべきである。」と主張し、アルバート公や政府、インド総督の協力を得てスター・オブ・インディア勲章を制定した。 ディズレーリ時代にはヴィクトリアはインドに強い興味を示すようになり、ヒンディー語の勉強を始めるようになった。またインド人侍従を側近くに置くようになった。とりわけ「ムンシー」ことアブドゥル・カリーム(ヒンディー語版)を寵愛し、彼はジョン・ブラウンの死後にブラウンに取って代わったと言っても過言ではない存在となった。 ヴィクトリアはかねてよりロシア皇帝、オーストリア皇帝が世界一の大国の君主である自分を差し置いて皇帝号(Emperor)を名乗っているのが気に入らなかった。最近ではプロイセンまでドイツ皇帝を名乗り始めており、イギリス君主も皇帝号を得る時だと考えるようになった。またドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の高齢化が進むと、ヴィクトリアはその皇太子フリードリヒ(フリードリヒ3世)に嫁がせた長女ヴィッキーが近いうちに「Queen」より上格の「Empress(皇后,女帝)」号を得ることを懸念するようになった。娘より下に置かれるわけにはいかないと考えたヴィクトリアは「インド女帝(Empress of India)」号を公式に得たがるようになった。1876年1月に首相ベンジャミン・ディズレーリにその旨を指示し、彼に議会との折衝にあたらせた結果、4月に王室称号法によって「インド女帝」の称号を公式に獲得した。彼女はその日の日記に嬉々として「これで私は今後署名する時に『女王および女帝』と書く事ができる」と書いている。 1877年1月1日にデリーでインドの藩王たちや大地主たちが召集されてヴィクトリアの女帝即位宣言式「大謁見式(Great Durbar)」が開催された。もちろんヴィクトリア本人がデリーを訪れることはなく(彼女は生涯ヨーロッパ以外の地域を訪れることはなかった)、インド総督リットン伯爵がその名代を務めた。 スター・オブ・インディア勲章  女帝位を欲しがるヴィクトリア女王を皮肉った風刺画。インド人の格好をしたディズレーリがヴィクトリアとインド帝冠とイギリス王冠の交換をしている。  ヴィクトリア女帝のインド人侍従アブドゥル・カリーム(英語版)。  イギリス人は1820年代から西アフリカの英領ゴールド・コーストにおいてその周辺の最強の部族であるアシャンティ族と小競り合いを続けてきた。アシャンティ族は天から授かったという伝承のレガリア「黄金の丸椅子」を崇拝し、生贄をささげる風習のある部族だった。生贄は王(アシャンタヘネ)の代替わりや戦争などの緊急事態の際に捧げられ、時に何百人という数に及んだ(生贄にささげられるのは基本的にはその時のために生かされている囚人だった。戦争の場合はその場で無造作に生贄が決定された)。ヨーロッパの価値観からは到底認めることのできない文化であり、イギリス人は「迷信深い野蛮な民族」と看做して軽蔑していた。アシャンティ族もイギリス人を「二枚舌の卑怯者」と看做して嫌った。 1872年に好戦的なコフィ・カルカリがアシャンタヘネとなり、またオランダが黄金海岸から撤収する際にアシャンティ族が領有権を主張していたエルミナ城をイギリスに売却したことでイギリスとアシャンティの対立が深まった。エルミナ城とケープ・コースト城が一時アシャンティ族に包囲されるもイギリス軍がこれを撃退し、アシャンティ族はヨーロッパ人宣教師を数名捕虜にして撤退した。 これに対してヴィクトリアの委任を受けたサー・ガーネット・ヴォルズリー(英語版)将軍率いるイギリス軍が1873年11月からアシャンティ族討伐を開始した。これはイギリス軍とアフリカ現地民の組織的な軍隊との最初の本格的な武力衝突となった。イギリス軍は1874年2月にはアシャンティ族の首都クマシを占領し、アシャンティ族の心を折るためここを全て爆破解体した。生贄をささげる「死の木立」も切り倒された。コフィ・カリカリも大英帝国に背くことを諦め、巨額の賠償、捕虜の解放、エルミナ城の所有権の放棄、生贄の風習の根絶を受け入れた。 普仏戦争でプロイセン軍の快進撃を見せつけられたイギリス陸軍や国民は自国陸軍に自信を無くしていた時期であったが、この軍事的成功にイギリス陸軍もいざとなれば迅速な作戦行動ができるのだという自信を強め、以降点在するアフリカの黒人王国に対して積極的に戦争を仕掛けるようになった。 アシャンティ族の生活  アシャンティ族に発砲するイギリス軍  アシャンティ族との戦争を描いた絵  同じころ南アフリカには英国植民地が2つ(ケープ植民地、ナタール共和国)、オランダ人植民者の子孫でイギリス支配に反発してグレート・トレックで内陸部へ移住したボーア人による国家が2つ(オレンジ自由国、トランスヴァール共和国)、計4つの白人植民者共同体があった。オレンジ自由国は比較的親英的で英国と協力関係にあったが、トランスヴァール共和国は反英的だった。 そしてその周囲に白人植民者の20倍にも及ぶ数の原住民である黒人が暮らしていた。黒人たちの中ではズールー族が大きな勢力であった。このズールー族はイギリス・ボーア人問わず現地の白人が最も恐れた戦闘民族だった。ズールー族の独立国家ズールー王国は国民皆兵をとっており、男子は槍を血で洗うまで一人前と認められず、また戦闘で敵を一人殺すか傷つけるまで妻帯が認められないという風習があったため、非常に好戦的だった。銃はほとんどもっておらず、昔ながらの投げ槍を武器にしていた。 このズールー族の脅威や1876年のペディ族(英語版)との戦争、財政難などによりトランスヴァール共和国は1877年4月12日に(この時には何の抵抗もなく)イギリスに併合された。大英帝国の一員となったボーア人とズールー族の間で国境争いが起こる中、英領ナタール行政府の長である高等弁務官バートル・フレアはズールー族を武力で制圧することを決意した。イギリス本国に応援を頼みつつ、その到着を待たずに1879年1月にズールー王国に対して「軍隊を廃棄し、非人道的な法・慣習を廃し、首都に英国人を監視役に置くことを認めるなら国境争いになっている土地を譲る」という最後通牒を送った。ズールー族からの返事はなく、現地イギリス軍は本国に独断でズールー戦争を開始した。装備のうえではイギリス軍が圧倒的に優位だったにもかかわらず、ズールー族は勇敢に戦い、イサンドルワナの戦い(英語版)において現地イギリス軍を全滅させた。 本国から増援が送り込まれることとなったが、この際にイギリス亡命中のフランス第二帝政時代の元フランス皇太子ナポレオン4世がイギリスに恩返しがしたいと従軍を希望した。首相ディズレーリはフランス第三共和政の反発を恐れて慎重だったが、ヴィクトリアと元フランス皇后ウジェニーが強硬にナポレオン4世の意思を支持したため、ディズレーリが折れた。しかし結局ナポレオン4世は現地でズールー族の槍を食らって戦死した。この報を聞いたヴィクトリアはショックのあまり泣き出し、その日の日記に「恐ろしい出来事、おぞましいズールー人の姿が脳裏に浮かんできます。」と書いている。ヴィクトリアはディズレーリの反対を退けてナポレオン4世の葬儀に出席し、悲しみにくれるウジェニーを慰めつつ、ズールー族を倒す決意を新たにした。 ナポレオン4世の葬儀から10日後にヴィクトリアは植民地の軍備増強を怠った政府の責任であるという叱責の書簡をディズレーリ首相に送った。ヴィクトリアの寵愛を失う事を恐れたディズレーリ首相は更なる大部隊を現地に送りこみ、ついに1879年8月末にズールー王国首都ウルンディを陥落させ、ズールー族をイギリス支配下に組み込んだ。 しかしズールー族の脅威がなくなったことでボーア人がトランスヴァール共和国再独立を求めてイギリスに対して蜂起し、現地イギリス軍がこれに敗れた結果、首相ウィリアム・グラッドストンはヴィクトリアと保守党の不興を買いながらもトランスヴァールからの撤退を決意した。ヴィクトリア女王の宗主権という条件付きで1881年8月にトランスヴァール共和国独立を認めることとなった。 ズールー族の戦士たちに殺害される直前のナポレオン4世を描いた絵。  カンブラの戦い(英語版)でズールー族を撃破したイギリス軍を描いた絵。  イギリス軍に焼き払われるズールー王国の首都ウルンディを描いた絵。  1875年にディズレーリ首相は喜望峰ルートに代わって増えていくエジプトからインドへ向かうイギリス船籍のルートを確保するため、フランス資本で作られ、株をフランスが多く握るスエズ運河に注目するようになった。フランス資本家が破産しかけだったエジプト副王イスマーイール・パシャが所持するスエズ運河の株(全株式40万株中17万7000株)を買収するという情報をつかんだディズレーリは友人のライオネル・ド・ロスチャイルド男爵に協力を依頼して資金を確保し、先手を打ってその17万7000株を買収した。これによりイギリス政府がスエズ運河の最大株主となった。ディズレーリはヴィクトリア女王に「陛下、これでスエズ運河は貴女の物です。フランスに作戦勝ちしました」と報告した。ヴィクトリアはフランスよりドイツ宰相ビスマルクが悔しがっているだろうと思って、この報告を大いに喜んだという(ビスマルクが「イギリスは政治力を失った」などと豪語していることにヴィクトリアが憤慨していた時期だった)。 1876年、運河を買収されたエジプト政府は財政破綻し、債権者のイギリスとフランスを中心としたヨーロッパ諸国によりエジプト財政が管理されることとなった。1878年にはイギリス人とフランス人が財政関係の閣僚として入閣した。英仏はエジプト人から過酷な税取り立てを行い、エジプトで反英・反仏感情が高まっていった。高まる反ヨーロッパ感情を利用して副王イスマーイールはイギリス人やフランス人閣僚たちを罷免したが、英仏から激しい反発を受け、彼は退位を余儀なくされた。 そもそもエジプトを統治するムハンマド・アリー朝は原住民のアラブ系エジプト人にとってはトルコからの「輸入王朝」であり、人事ではトルコ系が優先された。これにアラブ系エジプト人は不満を抱いており、1881年2月にはアラブ系将校の待遇をトルコ系将校と同じにすることを求めるアフマド・オラービー大佐の指揮の下にオラービー革命が発生した。エジプト副王タウフィーク・パシャの宮殿が占拠され、彼はオラービーの推挙したアラブ系将軍を陸軍大臣に任命することを余儀なくされた。その後オラービーは軍の人事問題だけではなく、憲法制定や議会開設など政治的要求まで付きつけるようになった(英仏はエジプト議会が予算審議権を持つことで自由に債権回収ができなくなることを恐れていた)。タウフィークはオラービーに屈して1882年2月4日には彼を陸相とする民族主義内閣を誕生させるに至った。オラービーはただちにヨーロッパへの債務の支払いを全面停止して、反ヨーロッパ姿勢を示した。さらに1882年4月にオラービー暗殺を企てたとして50名のトルコ系将校を逮捕し、副王タウフィークとの対立も深めた。 6月11日、アレクサンドリアで反ヨーロッパ暴動が発生し、英国領事をはじめとするヨーロッパ人50人が死傷する事件が発生し、それをきっかけに英国地中海艦隊とオラービー政府の間に小競り合いが発生し、オラービー政府は13日にイギリスに宣戦布告した。いつ殺されてもおかしくない状態だった副王タウフィークはイギリス軍の下に逃れ、「オラービーは反逆者」と宣言した。 このような状況の中でヴィクトリアは「キリスト教徒が咎めなくして殺されている」と主張してグラッドストンに武力介入を促した。自由主義者であるグラッドストンは民族運動に理解があり、帝国主義政策に消極的だったが、スエズ運河の確保はもはやイギリスにとって死活問題になっており、またヨーロッパ人虐殺で英国世論が硬化していた事もあり、しぶしぶながら武力介入を決定した。しかし他のヨーロッパ諸国は参戦を拒否し、イギリスが単独でオラービー追討を行う事になった。 ガーネット・ヴォルズリー将軍率いるイギリス軍は1882年8月19日にアレクサンドリアに上陸してスエズ運河一帯を占領し、ついで9月13日にテル・エル・ケビールの戦い(英語版)において2万2000人のオラービー軍を壊滅させ、カイロを無血占領した。オラービーは逮捕されて死刑を宣告されるもタウフィークの恩赦で英領セイロン島へ流罪となった。 この戦いに皇太子バーティが従軍を希望していたが、ヴィクトリアはこの不健康な肥満体の皇太子がエジプトのような不衛生な土地へ行ったらすぐにも病を患うだろうと心配していた。それにそもそもヴィクトリアは皇太子の能力をまったく信用していなかった。ヴィクトリアは皇太子の代わりに三男コノート公アーサーを王室代表で出征させた。アーサー王子らエジプト遠征軍が帰還するとヴィクトリアは彼らが持ち帰ってきたオラービーが使用していた絨毯の上に立って勝利を誇示し、アーサー王子らに勲章を与えた。 この戦いによりエジプトは英仏共同統治状態からイギリス単独の占領下に置かれることになった。依然としてエジプトは形式的にはオスマン皇帝に忠誠を誓う副王の統治下にあったが、実質的支配権はイギリス総領事クローマー伯爵が握るようになった。彼の下にインド勤務経験のある英国人チームが結成され、エジプト政府の各部署に助言役として配置された。エジプト政府は全面的に彼らに依存した。イギリス人らは副王アッバース2世を傀儡にして税制改革からナイル川の運航スケジュールまであらゆることを自ら決定した。スーダンで発生したマフディーの反乱の鎮圧にエジプト軍が動員された際、アッバース2世には何も知らされず、彼は出兵の翌日になって酔っ払った英国軍将校からそれを聞かされるような始末だった。 イギリスに反乱を起こしたアフマド・オラービー大佐  テル・エル・ケビールの戦いでオラービー軍に突撃をかけるイギリス軍を描いた絵  戦争後、実質的なエジプト統治者となったイギリス総領事クローマー伯爵  ついでエジプト支配下スーダンでイギリスに支配されたエジプトに対する反発が強まり、1882年夏にマフディー(救世主)を名乗ったムハンマド・アフマドによるマフディーの反乱が発生した。マフディー軍は1883年1月19日に西部の都市エル・オベイドを占領して、同地のエジプト軍の武器やスーダン兵を確保し、大幅に戦力増強された。1883年9月にイギリス軍大佐ウィリアム・ヒックス率いるエジプト軍がマフディー軍討伐に出たが、惨敗してヒックス大佐も戦死した。 反乱の第一報を聞いたヴィクトリアはエジプトの反乱と同様にこれも武力で鎮圧すべきと考えたが、グラッドストンはこれ以上自己の信念に反する帝国主義政策を遂行することを嫌がり、スーダンからエジプト守備軍を撤退させることを決定した。エジプト守備軍の撤退を指揮する人物として「チャイニーズ・ゴードン」の異名を取っていたチャールズ・ゴードン少将をスーダン総督に任じてハルトゥームに派遣した。 だがゴードン将軍にはそもそも撤退の意思がなく、またマフディー側に寝返ったスーダン北方の部族により電線が切られて本国からの指示を受け取れなくなったことにより、グラッドストン政府の意思に反して同地に留まり、マフディー軍に包囲された。イギリス世論はゴードン救出を求める声に沸き立ったが、グラッドストンはスーダン問題への深入りを嫌がってなかなか援軍派遣を認めようとしなかった。ヴィクトリアは陸相ハーティントン侯爵を通じて政府にゴードン救出を命じ続け、ついにグラッドストンも折れて遠征軍派遣を決定した。 しかし遠征軍は間に合わず、1885年1月26日にハルトゥームは陥落してゴードンはマフディー軍に殺害された。この報を聞いたヴィクトリアは激怒して暗号電文ではなく通常電文でグラッドストン政府を叱責する電報を送った。ヴィクトリアは2月末に何としてもスーダンを奪還してゴードンの仇を取るべしと命じたが、グラッドストンは4月の閣議で「マフディー軍は意気揚々としており、今はスーダン奪還の時期ではない」と決定した。グラッドストンの態度に怒り心頭になったヴィクトリアはディズレーリの命日にあたって「親愛なるビーコンズフィールド伯爵が生きていてくれたなら」と日記上で嘆いている。 ゴードンの戦死で世論や議会はグラッドストンへの不満を高め、彼の第三次内閣が崩壊する一因となった。ゴードンは「帝国の殉教者」に祭り上げられ、イギリスがエジプト支配を手放すことはプライドにかけてできなくなった。1895年頃からイギリスはスーダン奪回を最優先課題とするようになり、そのためにそれ以外の地域の植民地争いを一時的に収束させようと「栄光ある孤立」を再考さえした。具体的には中国植民地化をめぐるロシアとの対立、トルコの利権をめぐるドイツとの対立、西部スーダン植民地化をめぐるフランスとの対立を、彼らに譲歩することによって回避した。そしていよいよ1898年4月からホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス・エジプト連合軍がスーダン攻撃を開始し、9月までにマフディー軍主力を壊滅させてハルトゥームを奪還した。ゴードン戦死から13年たっての悲願達成であった。ヴィクトリアも日記で「ゴードンの仇をとった」と喜んだ。 この直後キッチナー軍が更に南下したため、フランス植民地軍と睨みあう形となりファショダ事件が発生したが、フランスの譲歩のおかげで英仏戦争の危機は何とか収束した。 長らく中国はイギリスの非公式帝国状態で落ち着いていたのだが、1895年の日清戦争で清が日本に敗れて以降、中国情勢は一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清政府は露仏から借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与し、これがきっかけとなり、急速に列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来のイギリス一国の半植民地状態が崩壊したのである。とりわけ満洲や北中国を勢力圏にしていくロシアと、フランス領ベトナムから進出してきて南中国を勢力圏にしていくフランスはイギリスにとって脅威であった(この両国は1893年に露仏同盟を結んでおり、三国干渉に代表されるように中国分割でも密接に連携していた)。 これに対抗して首相ソールズベリー侯爵は「清国の領土保全」「門戸開放」を掲げて露仏の増長に歯止めをかけようとした。一方ヴィクトリアはヨーロッパ列強諸国が調和して中国分割を行うことを希望し、「我々が我々以外の何者にも分け前を渡すつもりがないという印象を列強に与えないように注意しなければならない。しかし同時に我が国の権利と影響は死守せねばならない」と第一大蔵卿アーサー・バルフォアに訓令している。だがヴィクトリアは非ヨーロッパの日本の増長は面白く思っておらず、三国干渉の際にはロシアとともに東京に圧力をかけたがっていた。 1897年11月に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が山東省に派兵し、膠州湾を占領して、そのまま清政府から同地を租借地として獲得し、山東半島全域をドイツ勢力圏と主張し始めるようになった。これに対抗してロシア皇帝ニコライ2世も翌12月に遼東半島の旅順と大連に軍艦を派遣して占領し、清政府を威圧してロシア租借地とした。首相ソールズベリー侯爵もこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、山東半島の威海衛に軍艦を派遣して占領してイギリス租借地とした。だが同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために山東半島をドイツ勢力圏と認める羽目にもなった。これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域(清国の総人口の三分の二が揚子江流域で暮らしている)にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものとなり、イギリスにとって大きな痛手だった。 列強の中国分割に反発した山東省の農民たちは、1900年6月に「扶清滅洋」をスローガンに掲げる秘密結社義和団を結成し、20万人もの数で北京に押し寄せてきて、ドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラー(ドイツ語版)男爵を殺害した。義和団を味方につけて強気になった西太后は清朝皇帝光緒帝の名前で列強諸国に宣戦布告した。真っ先に危険にさらされたのは北京・外国公使館街に駐在している外国人たちだった。彼らはキリスト教に改宗した中国人とともに公使館街にバリケードを築いて清軍や義和団の攻撃を防いだ。公使を殺害されたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が真っ先に援軍を清に送り込むことを決定。イギリス政府としても援軍を送らないわけにはいかなかったし、ヴィクトリアも援軍派遣を希望したが、イギリス軍は目下ボーア戦争中であり、極東に割く余分は兵力はなかったので日本に協力を要請した。日本政府はこれを快諾し、2万の兵を清に送り込んだ。これを聞いたヴィクトリアは素直に日本に感謝し、駐英日本公使林董に「貴国が派兵を約束してくださったと聞いて感謝の念に堪えません」と述べている。日本軍とロシア軍を主力とする8か国連合軍は、8月に義和団や清軍を倒して、西太后や光緒帝を追って北京を占領し、外国公使街で立てこもっている人々を解放したのであった。 ケープ植民地では1890年よりセシル・ローズが首相を務めていた。彼はトランスヴァール共和国の北方にローデシアと呼ばれるイギリス植民地を作り、最大規模のイギリス勅許状会社南アフリカ会社を創設した男だった。1894年にはアパルトヘイトの萌芽ともいうべき「グレン・グレイ法」を可決させて原住民の黒人に対して年に一回以上の居住区外での労働を強制し、また居住区の隔離を行った。ヴィクトリアと謁見した際に最近何をしていたのか下問されると「陛下の御料地に属州を二つ追加しておりました」と大真面目に述べるような強烈な帝国主義者だった。 ローズには北アフリカのエジプト・カイロと南アフリカのケープ植民地を鉄道で繋いでアフリカ大陸を縦断する大英帝国通商路を建設するという壮大な計画があった。だがこの計画に邪魔なのは反英的なボーア人国家トランスヴァール共和国であった。トランスヴァールは隣接するポルトガル領モザンビークの港と鉄道で通じており、英国領土を通商路に使う必要がない国だった。折しもトランスヴァール共和国のウィットウォーターズランドで金鉱が発掘され、ヨハネスブルグの町が建設されてトランスヴァール共和国は潤い始めていた。ローズはウィットウォーターズランドの金鉱を奪うべきことをヴィクトリアに上奏していた。だがイギリス本国政府は1890年代に入っても白人国家に対しては露骨な帝国主義を行う気にはなれず、トランスヴァール共和国に対しては弱腰だった。 1895年末から1896年初頭にかけてローズの友人である南アフリカ会社ローデシア行政官レアンダー・スター・ジェームソン(英語版)は、ヨハネスブルクの在留イギリス人の内乱準備と連携して500名ほどの南アフリカ会社所属の騎馬警察隊を率いて突然トランスヴァール共和国へ侵入を開始したが、計画があまりに杜撰すぎて早々にボーア人民兵隊に包囲されて降伏した。ヨハネスブルクの在留イギリス人たちの反乱もまもなく鎮圧された(ジェームソン侵入事件(英語版))。この事件はイギリス本国植民相ジョゼフ・チェンバレンが後押ししていたものと見られるが、イギリス本国政府は公式にはこのジェームソンの行動を批判することで関与を否定し、セシル・ローズも「20年来の友人にこんな事件を起こされて破滅させられるとは」と語って無関係を装ったが、彼は植民省のスケープゴートとして本国の査問委員会から弾劾を受けて退任を余儀なくされた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はトランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガーに宛てて祝電を送っている。 だがイギリスの国民世論はローズやジェームソンたちの行動を称賛しており、『タイムズ』紙をはじめとするマスコミ各紙はトランスヴァールに祝電を送ったヴィルヘルム2世とドイツを批判する論説を載せた。ヴィクトリアもこの事件には複雑な思いでおり、とりあえず祝電を送ったヴィルヘルム2世に対して「貴方がいつも多大な愛情を捧げ、また手本にしていると言ってくれている祖母より」との書き出しで「貴方の書状に深い悲しみを覚えます。この行為はイギリスへの敵対行為と看做されます。私は貴方の意思で行われた行為ではないと信じていますが、英国民に非常に悪い印象を与えたといわざるをえません」とする忠告文を送った。結局イギリス政府が処罰を行う事を条件にトランスヴァール共和国はジェームソンらを釈放した。これを聞いたヴィクトリアはクリューガー大統領に「貴方の寛大な処置は南アフリカの平和に寄与するでしょう」というメッセージを送っている。 セシル・ローズの肖像画  植民相ジョゼフ・チェンバレン  トランスヴァール共和国へ侵入するレアンダー・スター・ジェームソンらイギリス人たちを描いた絵。  しかしジェームソン侵入事件以降、イギリスとトランスヴァール共和国の関係は悪化の一途をたどった。比較的親英的だったオレンジ自由国もジェームソン侵入事件以降、同じアフリカーナー(ボーア人)としてトランスヴァール共和国の反英的姿勢に共感を示すようになっていった。1898年2月のトランスヴァール共和国大統領選挙でクリューガーが四選するとケープ植民地高等弁務官アルフレッド・ミルナーはトランスヴァールとの交渉による和解の見込みはないと判断してトランスヴァールとの戦争を煽るようになった。ミルナーの高圧的な要求に激怒しクリューガー大統領はオレンジ自由国と結託してイギリスと戦争する決意をした。 ボーア人の祖先の国であるオランダの女王ウィルヘルミナが戦争回避を望む手紙をヴィクトリアに送ったが、ヴィクトリアは「私も戦争は避けたいですが、私に保護を求めてくる臣民を私は見捨てることはできません。すべてはクリューガー大統領次第です」と回答した。1899年10月9日トランスヴァール共和国から高圧的な最後通牒を受けてソールズベリー侯爵は同国との交渉打ち切りを決意し、開戦やむなしとの結論を下した。ヴィクトリア女王もそれを支持した。 かくして19世紀イギリス最後の戦争ボーア戦争がはじまった。緒戦はイギリス軍の攻撃をことごとく退けたボーア人側が優勢だったが、イギリス軍は1900年3月にヨハネスブルグ、5月にブルームフォンテーンとプレトリアを占領して優勢に立った。それに対抗してボーア人側はゲリラ戦術を激化させた。イギリス軍はこのゲリラ戦術に苦しめられ、当初6週間でケリを付けるつもりであったところ、勝利を得るまでに2年6カ月もかかった。 ボーア戦争の損害は甚大であった。2億3000万ポンドという膨大な戦費が費やされて、イギリス人・ボーア人側双方とも戦死者・戦病死者2万人を超え、またイギリスはボーア人ゲリラへの支援を防ぐため各地に強制収容所を創設してボーア人婦女子を収容した結果、そこでも2万人以上の死者が出た。 多くのイギリス人兵士が死傷しているという報告を受けたヴィクトリアはインド人兵士を戦わせるべきであると考え、インド藩王たちに高位の勲章を与える代わりにインド人兵士を南アフリカの戦地へ続々と送らせた。ソールズベリー侯爵も「安価で出兵に議会の承認がいらない軍隊」としてインド兵を積極的に戦地に送り出していた。 この悲惨な戦争はこれまで成功に継ぐ成功で帝国主義に輝かしいイメージしか持たなかったイギリス人の心が初めて折れた戦争となった。だがヴィクトリアは強気で大臣たちに「戦争がどんなに長期化しようとどんなに犠牲が増えようと幸せな結末に導くという断固たる決意があることを敵軍に思い知らせれば、戦果は心配に及びません」と述べていた。ボーア戦争は1902年5月に終わったが、その時にはヴィクトリアはすでに崩御していた。 1899年12月11日、マガースフォンテインの戦い(英語版)で装甲列車から銃撃するイギリス軍  1900年1月24日、スピオンコップの戦い(英語版)で戦死したイギリス兵たち  ボーア人強制収容所  1843年9月にヴィクトリアはフランス王ルイ・フィリップを訪問した。これはヘンリー8世以来のイングランド王の訪仏であった。 ルイ・フィリップはオルレアン家の当主だが7月革命でブルボン家からフランス王位を簒奪した者と看做されており、またブルジョワへの人気取り的政策からヨーロッパの他の君主たちから嫌われていた。だがヴィクトリアは叔父ベルギー王レオポルド1世がルイ・フィリップの娘ルイーズと結婚していた関係で親オルレアン家だった。ルイ・フィリップと親交を深めたヴィクトリアは「このことをロシア皇帝が知ったらきっと酷く不機嫌になるでしょう。しかし我々にはあまり関係のないことです」と日記に書いた。 実際フランスを敵視するロシア皇帝ニコライ1世はヴィクトリアの訪仏を警戒し、フランスに出し抜かれぬよう英露関係を強化すべく1844年6月に訪英した。ヴィクトリアはこのロシア皇帝訪英に警戒するフランス世論について「気に入らないならフランス人も彼らの国王なり王子なりを我が国に送ってくればいいだけです。」とレオポルド王への手紙の中で述べた。ヴィクトリアはバッキンガム宮殿の宴会の席でニコライ1世に「フランスには嫌悪、トルコには侮蔑の感情を持っている」と外交儀礼を欠いた物言いをした。これは自分をないがしろにして政治を行うアルバートやピールにわざと聞かせる目的があったという。 1848年革命によってフランスではルイ・フィリップが廃位に追いやられ、彼はヴィクトリアにイギリス亡命を請願した。ヴィクトリアは首相ジョン・ラッセルからフランスにできた共和政政府(フランス第二共和政)から睨まれる様な事をしないようにと忠告を受けていたが、結局叔父ベルギー王レオポルド所有のクレアモント館(英語版)をルイ・フィリップに与えた。 オルレアン家のフランス王ルイ・フィリップ  ロシア皇帝ニコライ1世  フランス第二共和政で大統領に選出されたルイ・ナポレオン・ボナパルトは議会と対立を深める中で1851年にクーデタを起こして成功させ、1852年に皇帝に即位してナポレオン3世となった。ナポレオン3世のクーデタの際にイギリスは中立を宣言していたが、パーマストン外相が独断でナポレオン3世にクーデタ成功の祝電を送ったため、ヴィクトリアはラッセル首相に彼の解任を求め、首相もそれに応じた。1852年12月にロンドンで締結された秘密議定書によってイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアは皇帝ナポレオン3世を承認したが、反仏的なロシア皇帝ニコライ1世はナポレオン3世に王号を認めず、ナポレオン3世を苛立たせた。 ロシア帝国は当時崩壊寸前だったオスマン=トルコ帝国の切片を拾い上げる目的で当時トルコ領だったバルカン半島に在住する正教徒の保護権を求めてトルコと対立を深めていた。これに対抗してナポレオン3世はトルコに加担するようになり、トルコからエルサレムのローマ・カトリック教徒の保護権を認められた。トルコの態度に激怒したロシア軍は1853年7月からトルコ領へ侵攻を開始した。11月に両国が宣戦布告してクリミア戦争が始まった。 アバディーン伯爵内閣は閣内分裂状態で初めどちらに付くべきか結論が出なかった。だが海洋の覇者イギリスとしてはロシアが黒海から地中海に出てきたり、あるいは北方のバルト海を支配することは避けたかった。ヴィクトリアもロシア軍の地中海南下に危機感を露わにしていた。ナポレオン3世が英仏共同でロシアに最後通牒を突きつけようと提案してきたこともあり、結局イギリスはそれに乗ることになった。最後通牒で一カ月以内の占領地からの撤収をロシアに求めたが、ロシア皇帝ニコライ1世はこれを無視したため英仏はオスマン側で参戦した。 しかし40年間ヨーロッパでの戦闘経験がないイギリス陸軍は脆弱であり、しかも英仏軍はナポレオン戦争を引きずってどこかギクシャクしていた。戦争は泥沼化し、前線は多くの死傷者、病人を出した。ヴィクトリアは王女や女官たちとともに前線の兵士たちのためにマフラーや手袋を編んだ。戦死者の寡婦に弔慰状を書く事にも精を出した。1854年にはクリミア・メダル(英語版)を制定し、閲兵式において兵士たちに自ら授与した。負傷兵の慰問にも出かけた。またプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に書状を送り、最低でも中立を保つよう依頼した。 クリミア戦争中の1855年4月16日にナポレオン3世と皇后ウジェニーが訪英した。親オルレアン家のヴィクトリアは革命から生まれ出たボナパルト家を嫌っていたが、ナポレオン3世とウジェニーのことはすっかり気に入ったようだった。二人と別れる際にはヴィクトリアは涙ぐんでお別れの言葉を述べた。ただこの頃ナポレオン3世はクリミア半島へ自ら出陣する意思を固めており、ヴィクトリアは大臣たちからそれを諌止してほしいと頼まれていたが、彼女の説得にもナポレオン3世は翻意しなかった(結局彼は自らの暗殺未遂事件があった後にこの計画を断念した)。 パリ万国博覧会開催中の同年8月、返礼としてヴィクトリアとアルバート、ヴィッキー、バーティが訪仏した。ヴィクトリアは子供たちも皇帝が好きになったと日記に書いている。バーティはナポレオン3世に「貴方の息子だったらよかったのに」と語ったという。ナポレオン3世にとって何より重要な儀式となったのは、ヴィクトリアが廃兵院を訪問してナポレオンの棺を詣でたことだった。その場ではナポレオンに敬意を払っていたヴィクトリアだったが、帰国後にはナポレオンの棺について「見事でしたけどプールに似ていたわ」と嫌味を述べた。 一方前線ではセヴァストポリ要塞攻防戦でロシア軍と英仏軍が激戦を繰り広げていた。ヴィクトリアは外相クラレンドン伯爵に「ここを陥落させればオーストリアとプロイセンもこちら側で参戦するはず。文明世界を食らう野蛮国ロシアは周辺の列強全てで封じ込めなければいけません」と語った。1855年9月にセヴァストポリ要塞が陥落したことでロシア皇帝アレクサンドル2世は戦意を喪失し、ナポレオン3世の提唱するパリ講和会議を受け入れ、1856年3月30日にパリ条約が締結されて終戦した。だがこれはイギリスの意に反する形で行われ、ヴィクトリアはナポレオン3世に不信感を持つようになった。とはいえイギリスも一人で粘るわけにはいかず結局この条約に追従する羽目になった。 しかしパリ条約は双方利益が少なく、これでは何のために多くのイギリス人の命が失われたのか分からないとヴィクトリアは不満だった。伯父レオポルド王に宛てて「イギリスの目的は野蛮大国ロシアの危険な野望からヨーロッパを救う事です。オーストリアとプロイセンが1853年の段階でロシアに断固たる姿勢をとっていたらこんなことにはならなかったのに」と書いた。 1855年パリ。訪仏したヴィクトリアとアルバートの歓迎式典を描いたウジェーヌ・ラミ(フランス語版)の絵画  クリミア戦争の負傷者を慰問するヴィクトリア、アルバート、バーティ皇太子、アルフレッド王子を描いたジェリー・バレット(英語版)の絵画  バラクラヴァの戦いにおいてロシア軍の突撃を防いだ第93歩兵連隊の「シン・レッド・ライン」を描いたロバート・ギブ(英語版)の絵画  ヴィクトリアの長女ヴィッキーは1858年にプロイセン王国国王代理ヴィルヘルム1世の長男フリードリヒ王子(フリードリヒ3世)と結婚した。二人は1859年に後にヴィクトリアと因縁になる長男ヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム2世、愛称ウィリー)を儲けた。ヴィクトリアは1860年9月にザクセン=コーブルク=ゴータ公国のコーブルクを訪問した際に初めてウィリーと出会った。ヴィクトリアはこの初孫について日記に「素晴らしく良い子だ。白い美しい肌と繊細な輪郭、ヴィッキーやフリッツのような素晴らしい顔、髪の毛はブロンドの巻き毛。私たちは彼を見ることができて幸せだ」と書いている。 1861年にヴィルヘルム1世がプロイセン王に即位し、1862年にオットー・フォン・ビスマルクがプロイセン宰相となり、プロイセンは軍拡・ドイツ統一に乗り出した。だがドイツ統一をめぐっては大ドイツ主義(オーストリア中心の統一)と小ドイツ主義(プロイセン中心の統一)の対立があった。1863年にオーストリアは大ドイツ主義的なドイツ連邦改革を行おうとフランクフルトでドイツ連邦諸侯会議を開催するもプロイセンが反発して出席を拒否し対立が深まった。ヴィクトリアは1863年8月にアルバートの銅像の完成記念にコーブルクを訪問したが、この際にコーブルクまで彼女に会いにやってきたプロイセン王ヴィルヘルム1世やオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会見した。ヴィクトリアは両国君主に協調を求めたが、ヴィルヘルム1世もフランツ・ヨーゼフ1世もにべもなく自国の譲歩を拒否した。 1863年11月にデンマーク王に即位したクリスチャン9世がロンドン議定書に違反してシュレースヴィヒ公国へのデンマーク憲法の適用を強行したのに対して、プロイセンとオーストリアはデンマークにロンドン議定書を守らせるとしてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を開始した。皇太子バーティはデンマーク王女を妃に迎えており、一方長女ヴィッキーはプロイセン皇太子の妃となっていた。だがヴィクトリアにとって決定的なことは生前アルバートがシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題で常にプロイセンを支持してきたことであり、彼女もその立場を踏襲した。大臣たちに対して「ヨーロッパの平和のため重要なことは一つ。自らこの事態を招いたデンマークを支援しないことです」と主張した。閣内でも「平和派」が主導権を握り、最終的にイギリスはデンマークを見殺しにすることになった。 だがプロイセンへの肩入れもそこまでだった。その後のヴィクトリアはプロイセンへの警戒感を強めた。彼女はロンドン議定書に反してシュレースヴィヒやホルシュタインを併合しようとしているプロイセンに強い怒りを感じていた。ヴィルヘルム1世に宛てて「この恐ろしい時期に私も口を閉ざすわけにはいきません。貴方はある男に騙されているのです。」と書いて送った。1865年には伯父レオポルド王への手紙の中で「プロイセンは極悪非道の限りを尽くしています。不愉快千万です」と怒りを露わにしている。プロイセンは小ドイツ主義統一を確固なものとするため1866年に普墺戦争を起こし、オーストリアを打倒して北ドイツ連邦を樹立した。この際に従兄妹であるゲオルク5世(カンバーランド公)が国王として君臨するハノーファー王国はプロイセンに併合された。 一方ナポレオン3世は1863年に彼の伯父を否定するウィーン体制を破壊しようと1815年のウィーン議定書とパリ条約の改正のためにパリで国際会議を開催することを提唱した。もともとクリミア戦争末の裏切りでナポレオン3世に不信感をもっていたヴィクトリアはこれによって本格的に彼を嫌うようになった。ヴィクトリアはこのナポレオン3世の提案を「無礼千万」と非難している。 ヴィクトリアはビスマルクとナポレオン3世の二人こそがウィーン体制を破壊する元凶と確信した。 1858年、結婚したばかりの頃の長女ヴィッキーと娘婿フリードリヒ(プロイセン王子)  1862年、プロイセン皇太子フリードリヒと皇太子妃ヴィッキー。彼らの子供であるヴィルヘルム王子とシャルロッテ王女とともに。  1867年春にルクセンブルクをめぐって普仏戦争の危機が高まる中、ヴィクトリアは介入に消極的な首相ダービー伯爵や外相スタンリー卿(首相ダービー伯爵の息子)に活を入れてロンドン会議を開催させ、ルクセンブルクを永世中立国にすることで危機を収束させた。だがビスマルクは南ドイツ諸国を取り込むためにフランスとの戦争を欲していた。結局スペイン王位継承問題を利用したビスマルクの策動で1870年にナポレオン3世はプロイセンへの宣戦布告に追い込まれ、普仏戦争が勃発した。ナポレオン3世は緒戦でプロイセン軍の捕虜となり、完全に失脚した。ビスマルクは戦争で高揚したドイツ・ナショナリズムを背景にプロイセン王ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に即位させてドイツ帝国を樹立した。 この間ヴィクトリアにできたことはベルギーの中立を守ることをプロイセン、フランス双方に約束させること、イギリスへの亡命を希望するウジェニー皇后を受け入れてやること、そして新生ドイツ帝国がフリッツやヴィッキーの望む形になる事を祈ることのみだった。1871年3月にプロイセン軍から釈放されたナポレオン3世の亡命も受け入れた。彼はウィンザー城でヴィクトリアと会見したが、落胆しきって涙ぐんでいたといい、ヴィクトリアは日記に「前回(1855年)勝利者としてここにやってきた時の彼と何という違いか」と書いている。 また戦後ヴィクトリアは親仏派の皇太子バーティがドイツ皇太子夫妻(ヴィッキー・フリッツ)と疎遠になって一族がばらばらにならないよう関係を取り持つことに努めた。ヴィクトリアもバーティもドイツ皇太子夫妻もビスマルクを危険人物とする点では見解は一致していた。 1875年にバルカン半島のキリスト教徒のスラブ民族に対して残虐行為を行うオスマン=トルコ帝国の支配に対してスラブ民族が蜂起した。1877年には汎スラブ主義を高揚させたロシア帝国がバルカン半島支配権をめぐってトルコに戦争を挑み、露土戦争が発生した。ディズレーリ首相は親トルコの立場を取ったが、トルコのキリスト教徒への残虐行為から議会・国民世論から強い反発を受けた。ディズレーリを寵愛するヴィクトリアさえもがディズレーリに「なぜトルコのキリスト教徒虐殺に抗議しないのか」と詰め寄っている。 だがディズレーリはバルカン半島をスラブ人小国家郡の割拠状態にしてしまうとロシアの食い物にされるだけと考えていた。ヴィクトリアもこれについては同じ考えであり、彼女はトルコ批判者が主張するようなトルコを処罰してその国土を分割せよというような案はロシアを利するだけとして批判した。また「トルコの野蛮性」を盛んに主張する英国世論が「ロシアの野蛮性」を主張しないことも不可思議に思っていた。 露土戦争は終始ロシア軍の優位で進み、ヴィクトリアはロシアに対する危機感を強めた。ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵はスエズ運河、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープルを奪ってイギリスの権益を侵すような真似はしないので中立を保ってほしいとイギリス政府に依頼していたが、ヴィクトリアはロシアの約束など全く信じていなかった。対ロシア開戦に消極的な外相ダービー伯爵(かつての首相ダービー伯爵の息子)を批判し、ディズレーリ首相に軍を出動させるよう発破をかけ続けた。しまいには退位をちらつかせて首相を脅迫した。ソールズベリー侯爵夫人はこの頃のヴィクトリアの状態を「自制心を失っており、閣僚たちをこづきまわしては戦争へ持っていこうとした」と評している。1878年1月にはディズレーリに宛てた書状の中で「私が男だったら自ら出ていって、あの憎たらしいロシア人どもをぶちのめしてやるのに」と激昂している。 結局ディズレーリ首相は軍に臨戦態勢に入らせながらも参戦しないまま、3月にはトルコとロシアの間にサン・ステファノ条約が締結された。この条約によりトルコはヨーロッパにおける領土をほぼ喪失し、ロシアはトルコから90キロに及ぶ黒海沿岸地域の割譲を受け、さらにエーゲ海にまで届く範囲でバルカン半島にロシア衛星国大ブルガリア公国が置かれ、地中海におけるイギリスの覇権が危機に晒された。またアルメニア地方のカルスやバトゥミをロシアが領有し、イギリスの「インドへの道」も危険に晒された。イギリスの権益など形だけしか守られていないこの条約に英国世論もヴィクトリアも激高した。ディズレーリもロシアに対して大ブルガリア公国建国の中止、アルメニア地域のロシア領土の放棄を要求し、ロシアが拒否するならイギリスもキプロスとアレクサンドリアを占領すべきと主張するなど強硬姿勢を示すようになった。 ロシアはドイツの支持を当て込んで(またすでにイギリスを半ば敵に回しているのにドイツまで敵に回すわけにはいかないので)ビスマルクが提唱する露土戦争の戦後処理国際会議ベルリン会議の開催に賛同した。ディズレーリは自らがベルリン会議に出席する決意を固めたが、ヴィクトリアは「ディズレーリは健康を害している。彼の命は私と我が国にとって重要な価値があり、危険に晒されることは許されない」として反対した。だがディズレーリは「鉄血宰相」と対決できる者は自分しかいないと主張して女王を説得した。 ベルリン会議でディズレーリはアジアに通じる大英帝国通商路を守るために全力を尽くした。ベルリン会議の結果、大ブルガリア公国は分割され、ロシアのエーゲ海への道は閉ざされた。さらにイギリスはキプロス領有が認められ、東地中海の覇権を確固たるものとした。ビスマルクも「あのユダヤ人の老人はまさに硬骨漢だ」と驚嘆したという。 1884年、フリッツとヴィッキーの娘の一人であるモレッタ皇女はバッテンベルク家出身のブルガリア公アレクサンダルと恋愛関係になり、結婚を希望するようになった。ヴィッキーはこの縁談を積極的に推進した。 ブルガリア公は伯父であるロシア皇帝アレクサンドル2世の意向によりブルガリアの君主に擁立されていた人物だが、ロシアの傀儡君主にされる事を拒否してロシアと対立を深めていた。ブルガリア公としては是非ともこの縁談を成功させて後ろ盾が欲しかった。ヴィクトリアもバッテンベルク家をバルカン半島における対ロシア防波堤と看做しており、バッテンベルク家と自分の子孫の縁談を積極的に推進していた。1883年にはヴィクトリアの三女アリスとヘッセン大公ルートヴィヒ4世の間の長女ヴィクトリア・アルベルタがブルガリア公の兄ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルクと婚約し、またヴィクトリアの五女ベアトリスもハインリヒ・モーリッツ・フォン・バッテンベルク(ブルガリア公の弟)と婚約した。 それに続いてモレッタ皇女とブルガリア公の婚約が成立すればロシアから「イギリスとブルガリアの接近にドイツが加担している」と疑われる恐れがあった。ロシアとの関係悪化を恐れるビスマルクの策動によりこの縁談は破壊された。ヴィッキーはこれを「自分のことをイングランドから来た破壊者としか看做していないプロイセン人の迫害行為」と認定した。ヴィクトリアもヴィッキーを支援すべくわざわざ訪独してきてこの論争に参加した。ビスマルクはヴィクトリアの動きを「明らかに独露を離間する政治目的」と見て忌々しく感じていた。ヴィクトリアを黙らせるためビスマルクは彼女に私的な謁見を申し入れ、彼女と議論に及び、ついに結婚中止を認めさせた。 1885年にウィリー皇子は「自分とハインリヒがバーティ叔父の招待でサンドリンガムを訪れた時、『鬼ババア』はブルガリアの縁談話がお流れになったのを根に持って自分たちと会おうとしなかった」と外相ヘルベルト・フォン・ビスマルクに報告している。 ブルガリア公アレクサンダル  フリッツとヴィッキーの娘モレッタ皇女  1888年3月にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が崩御し、娘婿フリッツがフリードリヒ3世としてドイツ皇帝に即位した。しかし彼は喉頭癌を患っており、先は長くなかった。4月にヴィクトリアはフリードリヒ3世のお見舞いも兼ねてイタリア、オーストリア、ドイツ歴訪の外遊に出た。 ドイツに到着すると宰相オットー・フォン・ビスマルクを引見した。ヴィクトリアはビスマルクが噂に聞くより紳士的であったことに驚いたという。ビスマルクはオーストリアがロシアに攻撃されたらドイツはオーストリアを助けねばならない。ロシアはフランスと組むであろうから、そうなるとイギリスが重要になってくると述べた。これに対してヴィクトリアはフランスは政権が不安定なので早々戦争には乗り出さないだろうと無難に返事をした。またヴィクトリアはヴィッキーとフリッツを支えてほしいと依頼した。ビスマルクは自由主義者のこの二人を全く信用していなかったが、その場の口先ではもちろんですと返答した。フリッツとヴィッキーの長男である皇太子ヴィルヘルム(愛称ウィリー)についても話が及び、ヴィクトリアは「ウィリーは未熟であり、イングランド以外にも外遊させて見聞を広げさせるべきではないか」と述べたが、ビスマルクは「殿下はまだ文政をご存じでないですが、もともと頭の良い方なので水の中で放っておいて差し上げればすぐにも泳げるようになりましょう」と回答した。 ついでフリードリヒ3世に面会したが、彼はすでに死にかけの状態でしゃべることはできなかった。ヴィクトリアは彼に接吻し、回復したら是非イングランドへ訪問をと要請した。また駅まで出迎えに出たヴィッキーを慰めた。ヴィクトリアは日記に「ゆっくりと駅を離れる汽車の窓越しに顔をくしゃくしゃにしたヴィッキーを見ながら、私はあの子を待ち受ける恐ろしい運命を思ってぞっとした。哀れな我が子よ。貴女の苦難を少しでも軽くするためなら私はどんなことを厭いません。」と書いている。 1888年6月、フリードリヒ3世が在位99日にして崩御し、ウィリーがヴィルヘルム2世として第3代ドイツ皇帝に即位した。ヴィクトリアは早速この孫に「私は断腸の思いでいます。気の毒な貴方のお母さんのために出来るだけのことをしなさい。また高貴で慈愛にあふれ、この世で最も偉大であった貴方のお父さんを手本となさい」という手紙を送った。この時にはヴィルヘルム2世も「最愛のおばあちゃま」宛てに「母の願い事を叶えるために最大の努力をしているところです」と母を重んじているかのような返信をした。だが反自由主義者のヴィルヘルム2世とビスマルクは「イギリス女」ヴィッキーを事実上の幽閉状態に置いていた。ついにヴィッキーはイギリスに帰りたいと吐露する手紙をヴィクトリアに送るようになり、それを読んだヴィクトリアは日記に「腸が煮えくりかえる思いである」と書いている。 ビスマルクの外交手腕でドイツ帝国はヨーロッパ政治の中枢になっていたが、海軍力ではイギリスに水をあけられていた。ドイツの工業力は飛躍的に伸びており、強力な海軍を建設することも不可能ではなかったが、ビスマルクはあくまで外交で各国を操ってドイツの国際的地位を優位にしようと考えていたため、他国に警戒感を強めさせる過大な軍事力は邪魔だった。一方ヴィルヘルム2世はいつまでもドイツの海軍力をイギリスの下にしておくつもりはなく、イギリスを越える大植民地帝国を創り上げるつもりだった。それを邪魔立てするつもりなら祖母の国との対決も辞さない覚悟だった。ヴィクトリアはヴィルヘルム2世が6歳の頃「『あの恐ろしいプロイセン流の誇りと野心』を持たないよう育ってほしい」と日記の中で祈願していたが、その願いは叶わなかった。 1889年4月、ヴィルヘルム2世がウィーンを訪問していた際に英国皇太子バーティもウィーンを訪問し、バーティは甥に会談を申し込んだが、ヴィルヘルム2世は自分がまず会見して敬意を表すべき相手はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフであり、まだ皇太子に過ぎないバーティではないとして拒否した。この件にヴィクトリアもバーティも「叔父にあたる者に対して無礼である」と激怒した。この騒動は8月にヴィルヘルム2世が訪英してバーティと和解することで何とか解決したが、ヴィクトリアは英独関係に不安を感じるようになり、ビスマルクに自分の肖像画を送るなどして彼を引き込もうとし、ヴィルヘルム2世を抑えさせようとしたが、ビスマルクは1890年にヴィルヘルム2世により辞職に追いやられた。 ヴィルヘルム2世はヴィクトリアやバーティが尊属として自分より上の立場から物を言うことが気にくわず、「イギリスは自分を皇帝として遇していない」と批判するようになった。それに対してヴィクトリアは「私と皇太子は、孫であり甥である彼とは親密な関係にあった。にもかかわらず『皇帝陛下』としての待遇を公私問わずに要求してくるとは狂気の沙汰である。」と怒り心頭に語っている。しかしこうした見解はヴィルヘルム2世だけのものではなく、多くのドイツ国民も自分たちの皇帝を子供扱いするイギリス女王に無礼なりと感じている人が多かった。 ヴィルヘルム2世は年に一度訪英したが、ヴィクトリアにとっては煩わしい行事になり、外務官僚たちにとっても外交儀礼に苦心させられる行事となった。前述したようにヴィルヘルム2世は1896年ジェームソン侵入事件の際にトランスヴァール共和国大統領クリューガーに祝電を送った。「イギリスに悪気があってしたのではない」というヴィルヘルム2世の弁明をヴィクトリアも一応受け入れたが、ヴィクトリアの内心の怒りは強く、その後様々な理由を付けてヴィルヘルム2世の訪英を拒否するようになった。ようやくヴィクトリアの勘気が解けてヴィルヘルム2世が訪英を許されるようになったのは1899年になってのことだった。 1894年4月に亡き三女アリスの娘であるアリックス(アレクサンドラ)がロシア皇太子ニコライ(愛称ニッキー)と結婚した。アリックスはヴィクトリアにとってお気に入りの孫娘であり、かつてはバーティの長男エディ王子の妃にと考えていたほどだった。ヴィクトリアは「ロシアは革命運動で政情不安定であり、いつ恐ろしいことが起こるか分からない」と考えていたため、この結婚に不安を感じていたという。 その年の11月にロシア皇帝アレクサンドル3世が崩御し、ニッキーがニコライ2世としてロシア皇帝に即位した。ニコライ2世とアリックスこと皇后アレクサンドラは1895年9月に訪英した。ヴィクトリアは夫妻をスコットランドのバルモラル城に迎えた。ニコライ2世はイギリスの植民地支配を脅かす意思は全くないことを強調しつつ、ヴィルヘルム2世がイギリスの植民地を狙っていることを批判してヴィクトリアを喜ばせた。ヴィクトリアはこの会談でニコライ2世のことがすっかり気に入り、別れる際には「英露は世界最強の二大国として手を取り合うべきです。そうすれば世界平和が保たれます」と語った。ヴィルヘルム2世が「出禁」になっているのを尻目にニコライ2世は毎年のように訪英しヴィクトリアと親交を深めた。 1899年にヴィクトリアはニコライ2世に「私たちのところへ来るたびに貴方の悪口を言うヴィルヘルムが、貴方のところで私たちを中傷しているのではないかと心配しています。その時にはどうか私に直接問い合わせてください。彼の悪意に満ちた不誠実なやり口に止めを刺さなければなりません。」という手紙を送った。 ロシア皇帝ニコライ2世  孫娘にあたるロシア皇后アレクサンドラ(アリックス)  ヴィクトリアは1900年4月のアイルランド訪問でだいぶ疲労した様子を見せるようになった。同年晩夏頃からは不眠症に苦しむようになり、やがて食事もあまり取れなくなっていった。さらに失語症を患うようになった。そのような状態でもヴィクトリアは日々増えるボーア戦争の戦死者の遺族に慰問状を書く激務に励んだ。だが日記の中では「私もそろそろ休息が許されてもいい頃です。81歳でしかも疲れ果てているのですからね」と弱音を吐くこともあった。 1901年に入ると脳出血を起こすようになった。1901年1月16日、オズボーン・ハウスにおいてヴィクトリアはベッドから起き上がれなくなった。侍従医たちは崩御が近いと看做し、1月18日にヴィクトリアの子らに召集がかかった。この時三男コノート公アーサーはベルリン滞在中で、ヴィルヘルム2世はその報を聞くと「ホーエンツォレルン王朝200年祭」を放り出してコノート公とともに緊急訪英した。 四女ルイーズによると1月21日にヴィクトリアは「まだ死にたくない。私にはしなければならないことがまだ残っている。」と述べたという。1月22日正午頃、枕元にすすり泣きながら立つ皇太子バーティの存在に気付いたヴィクトリアは、手を広げるような仕草をして「バーティ」と呟いたという。これが判別できる彼女の最期の言葉だった。同日午後4時頃、ヴィクトリアの息遣いが荒くなったため、侍従医リードと買ってでたヴィルヘルム2世の二人掛かりで、ヴィクトリアが息をしやすいように頭を支え、崩御までの2時間半その体勢でいた。ウィンチェスター主教(英語版)ランダル・デーヴィッドソンが祈祷を捧げ、子供たちや孫たちが見守る中、6時半頃、ヴィクトリアは81歳で崩御した。 ヴィクトリアの崩御とともにイギリス国王となったバーティは最初の枢密院を開くため、1月23日早朝にオズボーン・ハウスを発ってロンドンのセント・ジェームズ宮殿へ向かった。バーティがロンドン滞在で不在の間オズボーン・ハウスの管理はヴィルヘルム2世に任された。イギリス王室の宮殿が非公式にとはいえ外国君主に委ねられるのは極めて異例だった。ヴィルヘルム2世は彼女の棺の製作と棺を安置する部屋の模様替えを指揮した。この際に彼はウィンチェスター主教に対して「彼女と一緒にいる時、祖母であるという事は常に意識してきた。祖母として愛そうという思いもずっとあった。しかし話が政治に絡むとその瞬間から私たちは君主同士として対等の関係となった。」と語っている。 バーティは枢密院会議で自らの王名をエドワード7世に定めると発表した。ファーストネームの「アルバート」にしなかったのは「アルバートといえば誰もが父を思いだすようにしたかった」からだという。枢密院会議を終えたエドワード7世は1月24日午後にはオズボーン・ハウスへ戻った。エドワード7世とコノート公の二人がかりでヴィクトリアの遺体を持ちあげて棺の中に入れた。チャペルに保管された棺にはヴィルヘルム2世の発案でイギリス国旗ユニオンジャックが掛けられ、ヴィルヘルム2世は記念としてその国旗をもらって帰った。 大葬はヴィクトリアの希望通り軍葬で行われた。2月1日、ヴィクトリアの棺は霊柩船でポーツマス、特別列車でヴィクトリア駅まで移送された。そこからエドワード7世とヴィルヘルム2世を先頭にした軍隊の葬列を伴って馬車でセント・ジェームズ宮殿まで移送された。 女王の大葬は2月4日まで行われた。大葬後、エドワード7世の意向で「ムンシー」はじめインド人侍従たちは全てインドへ送り返されることになり、また「ムンシー」に関する文書も焼却処分された。ジョン・ブラウンの銅像も奥深くに隠された。それ以外にもヴィクトリア思い出の品々が次々と宮殿内から片付けられていった。 ヴィクトリアがエドワード7世に引き渡した王位は、彼女がウィリアム4世から引き継いだ時の王位よりも政治権力の面では大きく弱体化した物ではあったが、国民からの人気はかつてないほど大きくなっていった。世界各地の被支配民からも敬愛の念を一身に集めていたヴィクトリアの名は今日も世界中の地名となって残っている。歴史上彼女ほど多く地図にその名を刻んだ者は存在していない。 イギリス・バーミンガムにあるヴィクトリア女王像  カナダ・モントリオールにあるヴィクトリア女王像  インド・コルカタにあるヴィクトリア女王像  中国香港にあるヴィクトリア女王像  ヴィクトリアの身長は145センチ足らずであった。一方体重はアルバートとの結婚前にすでに56キロ、1880年代には76キロになっていた。この肥満体質は若い頃にはかなり気にしていたらしく、首相メルバーン子爵に相談したこともあったが、メルバーン子爵は「ハノーファー家はもともと太りやすい体質なのです」と慰めたという。 ヴィクトリアは大変な暑がりであり、宮殿内では女王が立ち寄る予定の部屋は必ず侍従たちが前もって窓を開けておくのが常であった。 ヴィクトリアは直情径行、我がまま、短気で、理屈は通らない人物だった。 それについてアルバートは「ヴィクトリアは短気で激昂しやすい。私の言う事を聞かずにいきなり怒りだして、私が彼女に信頼を強要している、私が野心を抱いている、と非難しまくって私を閉口させる。そういう時私は黙って引き下がるか(私にとっては母親にしかられて冷遇に甘んじる小学生のような心境だが)、あるいは多少乱暴な手段に出る(ただし修羅場になるのでやりたくない)しかない。」と語っている。ヴィクトリア自身も自らが「矯正不可能」なほど「意見されると感情が激高しやすい性格」であることを語ったことがある。 ヴィクトリアから寵愛を受け続けたディズレーリは「女王陛下とうまく付き合うコツは、決して拒まず、決して反対せず、(受け入れ難い女王の要求に対しては)時々物忘れをすることだ」と語っている。 またアルバートは自分に比べてヴィクトリアの教養が浅薄であることを気にかけていた。アルバートは科学や技術に精通していたが、ヴィクトリアにはその分野の知識は皆無であり、そういう話題を避けたがった。芸術や音楽の分野には多少通じていたものの、それもやはりアルバートの高い教養には遠く及ばないレベルだった。アルバートはこれをヴィクトリアの女家庭教師だったルイーゼ・レーツェン(英語版)の教育のせいであると考えており、それも1842年にアルバートがレーツェンを宮廷から追放した理由であった。レーツェンはヴィクトリアの両親が結婚した時から侍女として仕え、ヴィクトリアが5歳になると家庭教師となり、女王就任時にバロネス(女男爵)の爵位を得た。常に女王の傍に仕え、女王も非常に親愛しており、宮殿から追放されドイツに帰郷したのちも毎週のように書簡をやり取りするほどだった。 ヴィクトリアにはイギリスよりドイツの血の方がはるかに濃く流れている。計算上ヴィクトリアに流れるステュアート家の血は256分の1に過ぎず、残りはほとんどドイツ人の血であった。 このようにドイツの血が濃厚であるという事実はピョートル3世、エカチェリーナ2世以後のロマノフ家においても同様である。 そのためかヴィクトリアは日ごろから親独派だった。ドイツから来た夫アルバートも同様であったので女王夫妻はドイツ語を日常会話にすることが多かった。アルバートはヴィクトリア以上にドイツ人としての意識が強く、彼は最終的にドイツ諸国、イギリス、ベルギー、デンマーク、スイスなど「ドイツ民族諸国」を一つにして、ロシア、フランス、およびヨーロッパの民主化の風潮に対抗する勢力にしたいと考えていたという。 女王夫妻はイギリスの国益を無視してプロイセンを支援しドイツ統一に協力していると疑うイングランド人も多かった。 彼女が即位した際の英国王位はいまだ大きな政治的権力を備えていた。とりわけ首相や閣僚の任免、および外交について大きな影響力を持っていた。イギリスは不文憲法の国であり、王の権限も曖昧なところがあった。公的な地位にあったわけでもないアルバートがヴィクトリアに代わって王権を発揮するようなことができたのもそのためだった。 アルバート存命期に王権は伸長したが、彼の死とともに王権は弱体化し、ヴィクトリア朝末期にはイギリス史上かつてないほど王権は小さくなり、立憲君主制が確立されることになった。しかしヴィクトリア当人は自分が持っている物を手放すことに非常に抵抗を感じる性質であり、立憲君主になる意思などなく、受動的にそうなってしまっただけであった。 女王が意見する権利は法律で認められているが、ヴィクトリアはその枠に留まるつもりはなく、首相や陸軍大臣を無視して退任した首相や軍部などに政治について積極的に諮問した。また政府が気に入らない法案を推し進めると退位すると脅迫し、自らを批判する者に対しては怒り狂って反撃した。政府や議会の決定を阻止することができないとしても、その頑固さによって遅延させた。政界の人事にも大きな影響力を持ち、積極的に介入した。 特に女王に独断で政治を進める傾向があったパーマストン子爵に対して「女王の下僕(公務員)や大臣が女王に何も相談せずに行動を起こすことは許さない」という戒めの手紙を送ったことがあった。またその時のパーマストンの上司ジョン・ラッセル首相に対して「1、外務大臣は何を行おうとしているか女王に明確に述べること、女王が何に裁可を与えたか把握するためである。2、一度女王が裁可を与えた場合にはそれ以降外務大臣は独断で政策を変更・修正してはならない。そのような行為は王冠に対する不誠実であり、行われた場合には大臣罷免の憲法上の権限を行使するであろう」と通達している。 アルバートもまた立憲君主の枠に収められるつもりはなかった。彼の側近クリスティアン・フリードリヒ・フォン・シュトックマー男爵は「首相は一時的な指導者に過ぎず、君主こそが永遠の指導者である」と考えており、国王には首相を罷免する権限があると考えていた。アルバートは王に首相を罷免する権利があるかどうかは分からないが、あったとしても罷免を実行すれば最終的に王権が危うくなると考えていたと言われる。 ヴィクトリアは君主としての能力が乏しかったが、アルバートにはその能力があった。アルバートは崩御直前の段階ですでに政府にとっても議会にとってもなくてはならない存在となっていた。その彼がもっと長く生存していたならば、イギリスは立憲君主制とはならなかったのではないかという指摘もある。ディズレーリは「アルバート殿下の崩御によって我々は我々の君主を埋めたのである。このドイツ人君主は歴代イギリス王が誰も持たなかった知力と精力でもって21年間我が国を統治した。彼が我ら老練な政治家たちより長生きしたとすれば、彼は我々に絶対君主制をプレゼントしてくれただろう」と語っている。 アルバートの死後、ヴィクトリアの王権は低下する一方であった。それはなんといっても大臣たちの優秀さの賜物であった。彼らは「政治の素人」の彼女が政治に口を出そうとするのを適切に拒否したのである。晩年の彼女は電報を送る権利さえ奪われそうになった。 ヴィクトリア即位の頃にイギリス・ユダヤ人は3万人ほどで、うち半数がロンドンで暮らしていたが、ユダヤ人はキリスト教的な価値観や金融業者のイメージのせいで蔑視され、いまだ政治的に差別的な扱いを受けていた。 ヴィクトリアはヒステリックな反ユダヤ主義者ではなく、ユダヤ人への爵位・ナイト爵の授与はヴィクトリア朝時代から開始された。即位間もない1837年11月9日にロンドン市を公式訪問した際、ユダヤ人シェリフ(英語版)モーゼス・モンテフィオリ(英語版)にナイト爵を授けたのがその最初である。このイギリス史上初のユダヤ人へのナイト爵授与についてヴィクトリアは日記に「正しいと思う事を当然のこととして実行したのは私が最初である。とても嬉しかった。」と書いている。 彼女がとりわけ気に入っていたユダヤ人は首相ベンジャミン・ディズレーリである。ディズレーリは出世のために少年時代にキリスト教に改宗していたが、ユダヤ人をユダヤ教徒ではなく人種(race)ととらえており、自分はユダヤ人種であること、そしてユダヤ人種の優秀性を公言していた。一方ウィリアム・グラッドストンはキリスト教主義的な立場からどこか反ユダヤ主義的であり、ディズレーリ批判を繰り返していたが(たとえばディズレーリの親トルコ外交を「トルコのキリスト教徒虐殺に加担したがっているユダヤ人の本性に根ざしたもの」と批判するなど)、ヴィクトリアはこういうグラッドストンのキリスト教主義的思想を嫌っていた。 一方で1869年にグラッドストンが自由党所属の庶民院議員ライオネル・ド・ロスチャイルドに爵位を与えるべきことを進言してきた際にはヴィクトリアは「ユダヤ貴族は認められない」「貴族は伝統的に地主であるべきで企業家・投機家であってはならない」「准男爵(貴族ではない)までなら許可する」として男爵位以上の授与は拒否している。 しかし1885年7月9日にヴィクトリアはライオネルの息子であるナサニエル・ロスチャイルドに男爵位を与えている。この頃にはロスチャイルド家は所領を手放した貴族たちの土地を買収するようになっており、領民をたくさん従える領主のイメージも付いてきていたため、ヴィクトリアの反発も弱まったものと思われる。先の却下理由の一つである「ユダヤ人貴族は認められない」という点についてはいまだクリアーできていなかったが、恐らくそちらの理由は彼女の中で大きな問題ではなかったのだと思われる。 ヴィクトリアは切り裂きジャックのホワイトチャペル連続殺人事件(英語版)について興味を持ち、首相ソールズベリー侯爵、内務大臣ヘンリー・マシューズに対して1887年にアーサー・コナン・ドイルの小説で登場したばかりのシャーロック・ホームズのような捜査を求めた。 ヴィクトリアはマシューズに対して夜に婦人ばかりが襲われていることから一人住まいの男を中心に聞き込みすべきだと主張し、また犯人の逃亡ルートを探すため船に対する捜査や夜警の徹底を求めた。 なお皇太子バーティの長男エディ王子を切り裂きジャックとする噂が巷に流れていたが、恐らくヴィクトリア女王の耳には入れられていない。 カナダの首都はヴィクトリア女王が選定したが、この時彼女は目をつぶって地図にピンを突き刺した場所を首都に選び、それがオタワだったという。 写真好きであり、自分と家族の写真を多く残した。映画フィルムに残っている最初の英国王でもある。 ある日ヴィクトリアとアルバートが喧嘩してアルバートが部屋の中に閉じこもってしまった。怒ったヴィクトリアはドアを乱暴にノックして部屋の中から「誰だ?」というアルバートの問いかけがあると「イギリス女王です」と答えたが、アルバートは無視したという。何度かこの問答が繰り返された後にヴィクトリアはドアを優しくノックし、アルバートに「誰だ?」と問われると「貴方の妻です。アルバート」と答え、するとアルバートがドアを開いたという。もっともこの逸話は創作であろうといわれている。 ヴィクトリアとアルバートは側近フォン・シュトックマー男爵の忠告で、離婚・愛人・私生児などの不行跡で国民からの人気が皆無だったジョージ3世の息子らのようにならぬよう自らを律していた。イギリスでは王が道徳的に高潔な時にのみ国民から支持が得られるからである。 ヴィクトリアとアルバートは生涯仲睦まじい夫婦であり続け、多くの子供を儲けた。アルバート存命期のヴィクトリアの絵画や写真はほとんどの場合アルバートや子供たちと一緒に映った物である。ヴィクトリア自らがこうした「幸せな王室一家」の構図を描くよう指示したという。 こうした家族団欒の光景は、資本主義の発展で貴族に代わって台頭した中産階級の道徳・価値観に沿うものであり、王室は中産階級の賛美の対象となっていった。ヴィクトリア朝の中産階級では、女性が働くことは下層民への転落の証として忌避され、結婚して家庭に専念することが女性の理想像とされていたのである。 こうしたヴィクトリア朝中産階級の価値観に照らし合わせれば、アルバートを失った後のヴィクトリアの長い喪服も当時の未亡人の理想像といえるものであり、喪服によって王室に親近感を持つ国民も少なくはなかったのである。 夫アルバートとの間に4男5女の9子を儲けた。娘達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、40人の孫、37人の曾孫が誕生した。晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるに至る。 第1子(長女) ヴィクトリア(愛称ヴィッキー)(1840年 - 1901年) - ドイツ皇帝フリードリヒ3世皇后 第2子(長男) アルバート・エドワード(愛称バーティ)(1841年 - 1910年) - サクス=コバーグ=ゴータ朝初代英国王エドワード7世 第3子(二女) アリス(1843年 - 1878年) - ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃 第4子(二男) アルフレッド(1844年 - 1900年) - ザクセン=コーブルク=ゴータ公、エディンバラ公爵 第5子(三女) ヘレナ(1846年 - 1922年) - シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアン夫人 第6子(四女) ルイーズ(1848年 - 1939年) - アーガイル公爵ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人 第7子(三男) アーサー(1850年 - 1942年) - コノート公爵 第8子(四男) レオポルド(1853年 - 1884年) - オールバニ公爵 第9子(五女) ベアトリス(1857年 - 1944年) - バッテンベルク公子ハインリヒ・モーリッツ夫人 女王夫妻と9人の子供たち  ヴィクトリアと親族たち。それぞれが誰かについてはここを参照。  五女ベアトリスと。  ヴィクトリアの子孫の男子は血友病を発症して苦しむ者が多かった。血友病はX染色体上の遺伝子の欠陥による劣性遺伝であり、かつ、アルバート自体は血友病でなかったこと、及びヴィクトリアの息子で血友病である者がいる(息子は父親からはX染色体を受け継がないため、父親が血友病であっても息子は血友病にならない)ことからヴィクトリアが血友病の因子を持っていたと考えられるが、ヴィクトリアの家系には血友病になった者の記録はないため、突然変異で血友病の因子を持ったのだと思われる。ヴィクトリアが血友病の因子を持っていた場合、父ケント公が51歳という高齢でヴィクトリアを儲けたのがその原因ではないかといわれる(父親が高齢だと子のX染色体に突然変異が発生する可能性が高まるという)。 ヴィクトリアの四男レオポルドは血友病で苦しんだ。二女アリスと五女ベアトリスも血友病の因子を持っており、アリスを通じてロシア皇室ロマノフ家、ベアトリスを通じてスペイン王室ブルボン家にも血友病がもたらされた。また長女ヴィッキーの三男ジギスムント皇子と四男ヴァルデマール皇子は感染症で幼くして薨去しているが、彼らには血友病の疑いもあり、そのせいで死期が早まったのではないかともいわれる。アリスの娘アレクサンドラはロシア皇帝ニコライ2世の皇后となったが、血友病の因子を持っており、そのため皇太子アレクセイが血友病をもっていた。このことはニコライ2世とアレクサンドラがグリゴリー・ラスプーチンに入れ込む原因となった。 ヨーロッパの王族の血友病の遺伝 Legend:X - 影響を受けないX染色体、x - 影響を受けたX染色体、Y - Y染色体 * - ロシアの専門家による。アメリカの専門家はマリアが血友病遺伝子を保因しているとしている ガーター勲章(1826年) 64年の長きにわたって世界一の大国イギリスの王座に君臨したヴィクトリアだが、女性であるためにいずれの国からも最高勲章は授与されず、勲爵士の称号が伴わない勲章のみを授与されている。最高勲章は彼女の夫であるアルバートが代わりに受けていた。ヴィクトリア自身も同じ女性君主だからとガーター勲章を贈るようなことはせず、スペイン女王イサベル2世がガーター勲章を授与してほしいと打診してきた際にも「私自身もそうであるように騎士の称号を伴う外国の勲章を女性君主は受けることができないのが慣習である」として拒否している。 ヴィクトリアが外国から授与された勲章は以下の通りである。以下、国名五十音順。カッコ内の年代は授与された年。 エチオピア帝国:ソロモン勲章(1897年) スペイン王国:マリア・ルイーザ勲章(スペイン語版)(1834年)、カルロス3世勲章(スペイン語版) セルビア王国:タコヴォ勲章(セルビア語版)(1882年)、白鷲勲章(英語版)(1883年)、聖サヴァ勲章(1897年) タイ王国:白象勲章(1880年)、大チャクリー勲章(1897年) ハワイ王国:カメハメハ勲章(英語版)(1881年) ヘッセン大公国:金獅子勲章(ドイツ語版)(1862年?) ブラジル帝国:ペドロ1世勲章(ポルトガル語版)(1872年) ブルガリア王国:赤十字勲章(1886年) プロイセン王国:ルイーゼ勲章(ドイツ語版)(1857年) ペルシア王国 :太陽勲章(ペルシア語版)(授与1873年) ポルトガル王国:聖イサベル勲章(ポルトガル語版)(1836年)、我らが貴婦人ヴィラ・ヴィコサ勲章(ポルトガル語版) モンテネグロ公国:ダニーロ1世勲章(セルビア語版)(1897年) ロシア帝国:聖エカテリーナ勲章(英語版、ロシア語版)(1839年) ヴィクトリア女王(英語版) - 1937年、イギリス映画 演:アンナ・ニーグル Sixty Glorious Years - 1938年、イギリス映画 演:アンナ・ニーグル 女王さまはお若い - 1954年、オーストリア映画 演:ロミー・シュナイダー Queen Victoria 至上の恋 - 1997年、イギリス映画 演:ジュディ・デンチ ヴィクトリア女王 世紀の愛 - 2009年、イギリス映画 演:エミリー・ブラント ヴィクトリア女王 最期の秘密 - 2017年、イギリス映画 演:ジュディ・デンチ 女王ヴィクトリア 愛に生きる - 2016年、ITV(日本語吹き替え版:2017年、NHK) 演:ジェナ・コールマン(日本語吹き替え版:蓮佛美沙子) ドリーナ姫童話―クイーン・ヴィクトリア冒険譚(もとなおこ) ^ ヴィクトリアの玄孫に当たるエリザベス2世は、2015年9月9日に高祖母の在位記録を更新した。外国の君主で在位年数がヴィクトリアやエリザベス2世に匹敵するのは、近代以降では、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位68年)、日本の裕仁(昭和天皇)(在位62年+摂政5年)、タイのラーマ9世(在位70年)がいる。 ^ 母の実家ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公家は11世紀以来エルベ川畔地域を支配したマイセン辺境伯ヴェッティン家の分家エルネスティン家の一流であり、人口6万人ほどの小公国の君主であった。 ^ マーガレット・サッチャー首相による1981年の国籍法改正(父か母がイギリス国籍でなければイギリス国籍は認められない)以前のイギリスでは基本的にイギリス国王の領土内に生まれた者にイギリス国籍が認められていた。イギリス国王、外交官、軍人の子は外国領土で生まれてもイギリス国籍が認められていたが、ケント公はナショナリズムの空気を重視してヴィクトリアを「ロンドン出生」にしたがっていた。 ^ 母ケント公妃の前夫はエミヒ・カール・ツー・ライニンゲン侯爵。その間にカール・ツー・ライニンゲン侯爵とフェオドラ・ツー・ライニンゲンの二子を儲けている。彼らはヴィクトリアにとっては異父兄姉にあたる。 ^ ただしアルバートは立憲君主を志向した人物ではなく二大政党のどちらが政権に付こうと王権が影響力を発揮できる状態、つまり王権強化を考えていた。彼の王権強化思想はアルバートの顧問になっていたクリスティアン・フリードリヒ・フォン・シュトックマー男爵の影響であった。 ^ ヴィクトリアはピールの貧乏ゆすりの癖をとりわけ嫌ったという。 ^ ラテン語の\"Reginaet\"(女王)と\"Imperatrix\"(女帝)の略。 ^ 一方でヴィクトリアはグラッドストンの提出した閣僚人事のうちサー・チャールズ・ディルク(英語版)准男爵の大臣任命については彼が共和主義者であるとして拒否した。ディルクは「私が共和主義者だったのは若いころだけで今は立憲君主制論者です」という誓文をヴィクトリアに提出し、それに満足したヴィクトリアは二度と王室費にケチを付けないよう命じたうえでディルクを外務政務次官に任じた。 ^ ゴードンはアロー戦争で活躍し、アロー戦争後に清政府の依頼で清軍の司令官となり、太平天国の乱を平定したためこのあだ名が付いた。 ^ マフディーの反乱の最中の1885年1月にアブクレアの戦いでイギリス軍がマフディー軍に勝利すると、ヴィクトリアは大喜びして司令官ヴォルズリー将軍に祝電を送ったのだが、それに対して陸相ハーティントン侯爵が女王が陸軍軍人に対してメッセージを出すには陸軍大臣の許可を得て行わなければならないと抗議した。ヴィクトリアは「私が将軍たちに直接伝えたほうが彼らも喜びます。女王が彼女の将軍に対して電報を送る事は何の問題もありません。ハーティントン侯爵は差し出がましく生意気です。女王は相手がだれであろうとも自由に祝電を打つ権利があり、指図を受ける気はありません。女王は機械ではありません」と怒りを露わにした。 ^ a b c 秦(2001) p.507 ^ a b 君塚(2007) p.25 ^ a b c d e f 朝倉・三浦(1996) p.122 ^ 世界大百科事典「ハノーバー朝」の項目 ^ a b 尾鍋(1984) p.54 ^ a b ベイカー(1997) p.182 ^ ワイントラウブ(1993) 下巻 p.524-525 ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.67 ^ ストレイチイ(1953) p.19 ^ 川本(2006) p.244 ^ ストレイチイ(1953) p.21-22 ^ a b 森(1986) p.552 ^ 川本(2006) p.227-229 ^ 川本(2006) p.228/244 ^ ワイントラウブ(1993) 上巻 p.63-64 ^ a b 川本(2006) p.3 ^ 君塚(2007) p.6-7 ^ a b c ワイントラウブ(1993) 上巻 p.71 ^ 君塚(2007) p.5-6 ^ a b ワイントラウブ(1993) 上巻 p.47 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1812年12月14日、ジョージ・カニングとその妻である初代カニング女子爵ジョアン・カニング(英語版)の間の三男として、ロンドンのブロンプトンに生まれる。 イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学。1836年8月から1837年3月にかけてウォーリック選挙区(英語版)選出の保守党所属の庶民院議員を務める。1937年3月23日に死去した母からカニング子爵の爵位を継承し、貴族院へ移籍する。 1841年から1846年にかけてサー・ロバート・ピール准男爵内閣の外務政務次官(英語版)や木材・森林長官(英語版)を務めた。 穀物法廃止をめぐる保守党の分裂ではピール派に属した。1853年から1855年にかけてアバディーン伯爵内閣の郵政長官(英語版)を務める。 1856年2月、首相パーマストン子爵の人選でインド総督に就任。1857年から1858年にかけてインド大反乱が発生し、その鎮圧の総指揮を執ることとなった。ムガル帝国皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立した反乱セポイが立て篭もるデリーを1857年9月に陥落させ、ついで反乱軍が逃れたラクナウにも攻撃を仕掛けて陥落させた。中央インドの反乱は1858年半ばまで続いたが、こちらも1858年6月のグワリオール陥落で事実上平定し、カニングは7月8日にも平和回復宣言を発している。反乱鎮圧の恩賞としてカニング伯爵(英語版)位を与えられた。 鎮圧後、再度の反乱を起こさないための様々な改革を実施した。まずインド軍の中のイギリス人兵士の比率を上げ、インド人兵士の人材確保先もグルカ、シク、パンジャーブを中心にさせた。また砲兵にインド人兵士を配置しないこととした(反乱でインド人砲兵に苦しめられたため)。反乱の原因の一つとなった前総督ダルハウジー侯爵制定の「失権の原則」(藩王国取りつぶしを企図した養子への相続を認めない相続法)も廃止し、イギリス女王に忠誠を誓った藩王には養子相続や領土保全を認め、忠誠への様々な見返りも与えるようにした。 この反乱を機にインドはイギリス東インド会社の統治からヴィクトリア女王(女王陛下の政府)の直接統治へ移行した。カニングもそれに対応した財政・司法・行政・軍事などの制度変更を実施した。 インドで健康を害し、帰国間もない1862年6月17日にロンドンのグローブナー広場(英語版)で死去した。 1837年、第2代カニング子爵(1828年創設連合王国貴族爵位) 1859年、初代カニング伯爵(英語版)(連合王国貴族爵位) 1859年、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB) 1861年、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー(KCSI) 1862年、ガーター勲章勲章士(KG) 1846年、枢密顧問官(PC) 1832年に初代ステュアート・ド・ロスシー男爵チャールズ・ステュアート(英語版)の娘シャーロットと結婚したが、子供には恵まれなかった。 シャーロットは夫のインド総督在任中にマラリアにかかって死没している。 ^ a b 秦(2001) p.100 ^ a b UK Parliament. “Hon. Charles Canning” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年3月6日閲覧。 ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Charles John Canning, 1st Earl Canning” (英語). thepeerage.com. 2014年3月6日閲覧。 ^ a b c 浜渦(1999) p.107 ^ 浜渦(1999) p.110 ^ 浜渦(1999) p.111 ^ a b c 浜渦(1999) p.112 浜渦哲雄 『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』 中央公論新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4120029370。 『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』 秦郁彦編、東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。 Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Hon. Charles Canning", "プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ語: Tywysog Cymru、英語: Prince of Wales)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)で王子に与えられる称号のひとつで、ウェールズの君主「ウェールズ公」を意味する。14世紀以来、次期国王として王位を継承するべきイングランド国王(後にはグレートブリテン国王、連合王国国王)の最年長の王子がこの称号を与えられるようになり、王位の法定推定相続人の称号となった。現在は女王エリザベス2世の長男チャールズがプリンス・オブ・ウェールズである。 日本では、この称号を帯びる第一王位継承者(Crown prince)のことを皇太子と訳すことが多いが、「王太子」と訳すこともある。なお、\"Prince of Wales\" を「ウェールズ皇太子」や「ウェールズ王太子」と訳すこともあるが、この「prince」は君主を意味する語であって皇太子や王太子の意味では用いられていないため、誤訳と言ってよい(詳細は後述)。また、第一王位継承者が女性の場合、2013年王位継承法制定まで弟が生まれる可能性がほぼ無い場合であっても推定相続人のため、当該女性にはこの称号は付与されなかった(例えば、エリザベス2世は王位継承前には「エディンバラ公爵夫人エリザベス王女(The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)」と呼ばれていた)。 プリンス・オブ・ウェールズは、「殿下」(His Royal Highness)の敬称で呼ばれ、その妻はプリンセス・オブ・ウェールズ(Princess of Wales、ウェールズ大公妃あるいはウェールズ公妃)の称号を帯びる。ただし、現在のプリンセス・オブ・ウェールズであるチャールズの妻のカミラは、国民的人気が高い前妻のダイアナに遠慮し、コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人)の称号を名乗っている。 もともとプリンス・オブ・ウェールズの称号は、グウィネズ地方のウェールズ人支配者(公)、ルウェリン・ザ・ラストことルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほぼ全域のウェールズ人諸侯に支配力を及ぼして、全ウェールズの君主としてプリンス・オブ・ウェールズの称号を名乗ったことに始まる。この場合のプリンスは王子の意味ではなく、君主(元は「第一人者」の意)、すなわち「公」あるいは「大公」と訳される地位のことであり、現在でもアンドラ公国、モナコ公国、リヒテンシュタイン公国において用いられている(princeの語源も参照)。なお、イギリスの王子が一般に「プリンス」と称するのはハノーヴァー朝以降である。 ウェールズ諸侯の名目上の主君であるイングランド王ヘンリー3世は、1267年にルウェリンをプリンス・オブ・ウェールズとして承認し、ここにウェールズ公国(Principality of Wales)が成立した。しかし、ヘンリー3世を継いだイングランド王エドワード1世はルウェリンと対立、1282年から1283年のウェールズ侵攻で、ルウェリンを敗死に追い込み、ルウェリンの弟ダフィズを処刑してその一族を滅ぼした。 エドワードはルウェリンの作ったウェールズ公の黄金の冠をイングランドに持ち去ってウェストミンスター寺院に安置すると、ウェールズ公国をイングランド王の所領に定め、グウィネズを始めとするウェールズ諸侯領を奪ってウェールズ公直轄領とした。王宮所在地はグウィネズのカーナーヴォン城に定められるが、1284年、ここでエドワード1世の子エドワード(後のエドワード2世)が生まれた。 1301年、エドワード1世はウェールズ人の反乱を抑えるため、王子エドワードにプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けてウェールズの名目上の君主とした。このために、身重の王妃エリナーを当時ウェールズ侵攻の前線基地であったカーナーヴォン城に連れて行き、そこで王子を出産させたのである。エドワード2世をウェールズ人に「ウェールズ生まれの」支配者として受け入れさせるためであった。エドワード1世はウェールズの諸侯に赤ん坊を見せて「ウェールズ生まれで英語を話さない」と即位を認めさせた、という逸話がある(ただし、当時のイングランド王は英語ではなくフランス語を常用していたため、この逸話の真実性には疑問がある)。 のちにエドワード2世の子エドワード3世が1343年、自身の長男で第一王位継承者のエドワード(黒太子)にプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、エドワードがイングランド王位を継ぐ前に死去すると、プリンス・オブ・ウェールズはその長男の次期国王リチャード(2世)に譲られた。こうしてイングランドの次期国王がプリンス・オブ・ウェールズとなる慣例が定着し、現在に至るまで続いている。 イギリス王室 ウェールズの君主 プリンス・オブ・ウェールズの羽根 プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦) プリンス・オブ・ウェールズ (空母) プリンス・オブ・ウェールズ (紅茶) プリンスオブウェールズステークス (イギリス) プリンスオブウェールズステークス (カナダ) エスケープ事件 ドーファン(フランス王国の王太子の称号) アストゥリアス公(スペイン王家の法定推定相続人の称号) ブラバント公(ベルギー王家の法定推定相続人の称号)", "ムスワティ3世(Mswati III、1968年4月19日 - )は、エスワティニの第8代国王。本名はマコセティブ・ドラミニ(Makhosetive Dlamini)。国民からの敬愛を集める一方、放蕩三昧の暮らしぶりや政策に対しては国内外から批判を受けている。 1968年4月19日、イギリスから独立する4カ月前にマンジニのラレイ=フィトキン記念病院で生まれる。王立学校卒業後は士官候補生としてスワジランド軍に入隊する。1982年12月22日に父ソブーザ2世が死去すると、ムスワティは王室諮問評議会によって国王に推戴され、1983年9月に王太子となる。ムスワティは国王としての教養を身に付けるためイギリスに留学し、その間は父の妻ゼリーウェ(英語版)とヌトンビ(英語版)が摂政として国務を代行した。 1986年に帰国し、4月25日に18歳で即位する。ブータンのジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが即位するまで世界最年少の国王であり、コンゴ民主共和国のジョゼフ・カビラが大統領に就任するまで世界最年少の国家元首だった。また、日本の中曽根康弘首相への国王即位式典招待状の宛名が「日本国王ナカソネ」とされていたため話題となった。 アフリカ最後の絶対君主として君臨し、父が解散させた議会を復活させるが、立法権は付与されておらず、国王の諮問機関としての役割しか与えられていない。行政権は首相の管轄だが、首相はドラミニ家の人間が就任することが常態化しており、最高裁判所長官も国王によって任命される。また、政党を解散する権限を持ち、議会の決定を拒否することも認められているなど、強大な権限を有している。 2004年には言論・集会の自由を認める新憲法を制定しているが、国王専制に反対する野党勢力を取り締まるなど相反する政策を行っており、人民統一民主運動(英語版)は「国王の権力を強化し、体制を永続化することが目的」と批判している。また、新憲法制定後も反対者の不当逮捕やジャーナリスト、労働組合指導者、LGBTへの弾圧を行っており批判を受けている。2000年頃には議会で「HIV患者は\"滅菌\"する必要がある」と発言したと言われている。 国民の1/3が貧困層であるという事実を軽視し、王室費だけではなく国家予算にまで手をつけて自家用のセスナ機やダイムラー製のマイバッハを購入したり、2004年には11人の妻のためにいくつもの宮殿を建設したりするなど、その散財癖が各国の非難を呼んでいる。宮殿建設のために国家予算を使用したことについては、首相のテンバ・ドラミニも「無謀と虚偽」と批判している。 2001年9月9日にはHIV/AIDSの蔓延を予防するため、2008年8月までの5年間性行為を禁止した。しかし、禁止から2カ月後に13番目の王妃を選び性行為に及んだことが発覚し、罰金として牛一頭を支払った。また、処女のみが参加を許されるリード・ダンスという国王のためのダンス儀式も行われ、毎年恒例となっている。2008年のリードダンスには7万人の処女が参加した。 アムネスティ・インターナショナルによると、ムスワティは2002年10月に18歳の少女ゼナ・マラングを王妃にするために誘拐したとされる。ゼナの母親は、彼女が二人組の男性に誘拐されたとして警察に訴えたが、その後、ゼナがムスワティの宮殿に王妃候補として迎えられたと聞かされる。母親はゼナを取り戻すため裁判を起こすが、法務大臣フェシェヤ・ムボンゲニ・ドラミニ(英語版)の介入により敗訴している。ゼナはその後二人の子供を産み、2010年に正式にムスワティの王妃となった。 ムスワティには15人の妻と25人の子供がいる。そのうち最初の妻二人は議会によって選び出された。スワジランドの王位は先代国王の王妃と王室諮問評議会の助言によって選ばれる。 ^ Bearak, Barry. \"In Destitute Swaziland, Leader Lives Royally,\" New York Times. 6 September 2008. ^ “King Mswati III is born | South African History Online”. Sahistory.org.za (1968年4月19日). 2014年4月26日閲覧。 ^ Simelane, Hamilton Sipho. (2005). \"Swaziland: Reign of Mswati III,\" in Encyclopedia of African History, p. 1528. ^ 1999年、『日録20世紀』スペシャル第18巻、 講談社 ^ “World Report 2012: Swaziland”. Human Rights Watch. 2016年8月14日閲覧。 ^ a b Davis, Rebecca (2013年5月10日). “King Mswati to WEF: Swazi people don’t want change”. Daily Maverick. 2016年8月14日閲覧。 ^ People's United Democratic Movement (PUDEMO) (2005年7月31日). “PUDEMO rejects the Dlamini family constitution as it is meant to legitimize the continued oppression of our people by one family, King Mswati’s family”. pudemo.org. Swaziland: PUDEMO. 2014年4月26日閲覧。 ^ Maroleng, Chris (2003年6月26日). “Swaziland: The King’s Constitution”. iss.co.za. Paris, France: European Union Institute for Security Studies. 2012年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月26日閲覧。 ^ “Swaziland”. United States Department of State. 2016年8月14日閲覧。 ^ Now only Mswati owns a Maybach!, City Press, 25 January 2009 ^ “king needs R100m for palaces for 13 wives”. The Argus (South Africa). (2011年4月13日). http://www.thestar.co.za/index.php?fSectionId=128&fArticleId=323589 2011年4月13日閲覧。  ^ “The Issue of \"€1 Million Spent on Princess Sikhanyiso\" and The Issue of \"Building\" Royal Palaces by Swaziland Government”. Prime Ministers Office (2004年1月26日). 2007年11月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月26日閲覧。 ^ 南部アフリカ・スワジランドで、処女7万人が国王に捧げるダンス ^ Amnesty International: \"Swaziland: Human rights at risk in a climate of political and legal uncertainty,\"Index No. AFR 55/004/2004. 29 July 2004. ^ \"Swaziland's Royal Bridal Mess,\" CBS News. 4 November 2002. ^ “allAfrica.com: Uganda: Swaziland's King Mswati Iii Weds Again” (2010年11月27日). 2016年8月14日閲覧。 ^ Hilda Kuper (1944年). “A ritual of kingship among the Swazi”. Journal of the International African Institute 14 (5).", "チャールズ1世(Charles I, 1600年11月19日 - 1649年1月30日)は、ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1625年 - 1649年)。宗教弾圧、スコットランド・アイルランドの反乱発生など数々の失政で議会の反発を生み清教徒革命(イングランド内戦)が勃発、敗れて処刑された。 スコットランド王ジェームズ6世(当時はイングランド王位継承以前、後のイングランド王ジェームズ1世)と妃アン・オブ・デンマークの次男として、スコットランドのダンファームリンに生まれた。兄にヘンリー・フレデリック・ステュアート、姉にプファルツ選帝侯フリードリヒ5世妃エリザベス・ステュアートがいる。 話し始めることと歩き始めることが非常に遅かった。父ジェームズ1世も歩き始めたのが5歳以降とも言われている。チャールズの舌と下顎を結ぶ腱の一部の切除、金属製の長靴様の拘束具(補強具としての使用を意図した)の使用の提案を医師団がしたが、結局乳母の反対により、辛抱強い教育で代用された。10歳頃には普通の子どものように動いたり話したりできるようになった。 兄ヘンリー・フレデリックが亡くなったため、1612年にコーンウォール公とロスシー公に、1616年にプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)に叙位された。 王太子の頃から政治に関わり始め、1621年にヨーク公としてイングランド議会の貴族院議員になった。 三十年戦争で争うヨーロッパ大陸のカトリックとプロテスタント諸国の仲裁役を目指した父の意向で、姉は1613年にプロテスタントのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚、チャールズはカトリックのスペイン王フェリペ3世の娘マリアとの結婚が計画された。1620年に義兄フリードリヒ5世がプファルツを奪われたため、父の目標はチャールズ結婚の持参金代わりに義兄の失地回復に変更されたが、父と反カトリックの議会との対立、スペインの交渉先延ばし工作などでチャールズの結婚は進まなかった。 1623年2月、チャールズは父の寵臣だったバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの勧めで、父の許可を得ないまま自らスペイン旅行へ出かけ、3月に首都マドリードに着いた2人はフェリペ4世(フェリペ3世の息子でマリアの兄)の寵臣のオリバーレス伯公爵ガスパール・デ・グスマンと交渉した。しかしフェリペ4世は妹をプロテスタントのイングランドへ嫁がせる気は全くなく、オリバーレス伯は交渉を長引かせイングランドを戦争の圏外に置くこと、あるいは結婚でイングランド国内のカトリック教徒に対する寛容を勝ち取ることを目論んでいたため、2人は無駄に時間を費やした挙句、6月にカトリックへの寛容と生まれてくる子供達をカトリックに育てるという条件を秘密裡に承諾したにも関わらず、スペインがプファルツを回復する気が無いことにやっと気付き、憤慨して交渉を破談し9月に帰国した。外交経験が無い素人2人組の外交は半年が空費され、相手から一方的に条件を呑まされる寸前になり失敗に終わった。 スペインに振り回されたことに怒った2人は反スペイン派となり父の平和政策を覆し、1624年2月に開会された議会の好意的な姿勢に支えられスペインへ戦争すべく新たな同盟相手を求めた。そのためフランス王アンリ4世の娘でルイ13世の妹ヘンリエッタ・マリアとチャールズの結婚が進められたが、外交の素人バッキンガム公はスペインの時と同じ失態を繰り返し、フランス宰相リシュリューとの交渉で譲歩を強いられ、子供達をカトリックに教育、カトリック教徒への寛容などスペインと同様の条件を承諾した。同盟は成立したがイングランドの中途半端な対応でフランスがイングランド軍上陸を禁止、軍は疫病で自滅する羽目になり同盟の見通しは早くも不鮮明になり、イングランド国民はカトリック寛容を警戒し王家と国民の間に亀裂が生じた。 1625年3月、父の死去に伴い王位を継承しイングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ1世に即位した。バッキンガム公の補佐を受け6月にはヘンリエッタ・マリアと結婚したが、カトリック教徒を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった。またチャールズ1世は父同様に王権神授説を信奉し、議会と対立した。加えて権力独占と無能ぶりをさらけ出すバッキンガム公にスペイン熱が冷めた議会が非難を開始、同月開催された議会は戦争補助金を認めたが追加しないことを明言、チャールズ1世がイングランド国教会が奉じるカルヴァン主義に反対するアルミニウス主義を支持したことも議会の批判を高める原因になり、チャールズ1世はバッキンガム公を守るため8月に議会を解散した。しかし状況はむしろ悪化し、10月に大陸の遠征が失敗したこと、同盟に基づいてイングランド艦隊を提供されたフランスが艦隊を国内のプロテスタントであるユグノー攻撃に差し向けたことでバッキンガム公批判は増大した。 チャールズ1世とバッキンガム公はフランス外交を転換、プロテスタント諸国の盟主となるべくオランダと同盟、フランスとの同盟を保ちながらユグノー援助も計画したが、戦費の特別税を求めるため1626年2月に召集した議会でバッキンガム公は無定見な外交と権力乱用を前議会から引き続いて非難され、かつてバッキンガム公の部下だったジョン・エリオット(英語版)が彼にまつわる汚職・贔屓・外交の失敗を列挙して弾劾したが、チャールズ1世はバッキンガム公をかばいエリオットを投獄、議会解散を命じた。これにより特別税をほとんど得られなかったばかりか、フランスがイングランドを見限りスペインと和睦、イングランドは両国を敵に回り孤立した。しかもバッキンガム公が自ら指揮を執った1627年のフランス・ユグノー援助に失敗、1000人以上の兵を失う失態を演じ人々の更なる怒りを買い(ラ・ロシェル包囲戦)、チャールズ1世が特別税の代わりに強制借上げ金を徴収したことがジョン・ハムデンら庶民院議員の反感を買い、政府は議会の信用を失っていった。 1628年3月、チャールズ1世はバッキンガム公の要請で次こそ特別税を獲得すべく議会を召集したが、反バッキンガム公および反専制で固まった議会から「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。これに対しチャールズ1世は一旦請願受託の署名を行うが、相変わらずバッキンガム公批判を続ける議会から側近を守るため6月に議会を停会した。翌1629年1月に議会は再開されたが、3月に議会を解散、エリオットを再度投獄し1632年に獄死するまで監禁、議会が閉じられた状態で専制政治を行った(無議会政治)。しかしこの間、バッキンガム公は1628年6月に私怨で暗殺されチャールズ1世は側近を失った。 無議会政治の間チャールズ1世は外交を親フランスに切り替え1628年にフランス、1630年にスペインと和睦し三十年戦争から手を引いた。内政では財政再建のため国王大権を濫用、トン税・ポンド税・船舶税などを国民から強引に徴収、星室庁・高等宗務官裁判所などを使い反対派を処罰、新たな側近としてトマス・ウェントワース(後にストラフォード伯爵)、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードを取り立て、ロードの助言で宗教をイングランド国教会統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧した。だがロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。一方ストラフォード伯はアイルランドへ赴任・統治したが、こちらも弾圧政策を行ったため不穏な情勢となった。1633年にチャールズ1世がスコットランド王戴冠式を行った時も儀式がカトリック的だとスコットランド国民から反感を買い、1637年に国教会の祈祷書押しつけに反対した国民が暴動を起こす有様だった。 やがて1639年、スコットランド貴族層が国民盟約を結成し主教戦争が発生すると、チャールズ1世はスコットランドへ出兵したが自軍が不利だったため、側近のハミルトン侯爵(後に公爵)ジェイムズ・ハミルトンの工作で一旦休戦したが(ベリック条約)、反乱鎮圧のための戦費を得る目的で1640年、11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった(短期議会・長期議会)。4月の短期議会はジョン・ピムを先頭に専制に対する批判が続出したため5月に解散、戦費は得られずスコットランドは国民盟約が主導権を握り、8月のニューバーンの戦いで国王軍が敗北するにおよびチャールズ1世は盟約派と和睦するしかなくなり(リポン条約)、和睦締結まで北イングランドに駐屯するスコットランド軍の費用を支払う羽目に陥り、財政難のため11月に長期議会を召集せざるを得なかった。 一方、チャールズ1世は議会に対抗するため1641年8月にスコットランドを訪問、盟約派の幹部であるアレクサンダー・レスリーとアーガイル伯爵アーチボルド・キャンベルをリーヴン伯爵・アーガイル侯爵に叙爵、アーガイル侯と対立し投獄されたモントローズ伯爵(後に侯爵)ジェイムズ・グラハムを釈放させ、スコットランドの長老派教会を認めるなど譲歩で味方に付けようと図ったが、アーガイル侯らは敵対姿勢を継続したため当てが外れた。 長期議会はピムが専制政治非難を続行、国王大権を制限するため改革法案を立法化、トン税・ポンド税・船舶税・星室庁・高等宗務官裁判所などが廃止され王権は制限をかけられ、ストラフォード伯とロードも議会に責任を問われ弾劾・投獄・処刑される事態となった(ストラフォード伯は1641年5月、ロードは1645年1月)。アイルランドでも同年10月に反乱が起こりアイルランド・カトリック同盟が結成され、イングランドが政情不安に包まれる中、11月に議会の大諫奏(大抗議文)が議会で可決、追い詰められたチャールズ1世は翌1642年1月、兵隊を率いて反国王派のピム・ハムデンら5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の対立が決定的になり議会から裁可を求められた民兵条例、19ヶ条提案を大権制限する内容のため拒否、8月にチャールズ1世はノッティンガムで王旗を掲げ、ここに第一次イングランド内戦(英語版)が勃発した。 第一次内戦は当初、チャールズ1世の甥に当たるカンバーランド公ルパートとニューカッスル伯ウィリアム・キャヴェンディッシュの働きで10月のエッジヒルの戦いは引き分け、翌1643年6月のアドウォルトン・ムーアの戦いで勝利し互角あるいは王党派が優位であったが、9月25日に議会派と盟約派が厳粛な同盟と契約を締結、スコットランドが議会派に加勢し戦況は議会派に傾き始め、オリバー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、1644年7月のマーストン・ムーアの戦いなどで王党派が各地で打ち破られた。1645年6月のネイズビーの戦いでチャールズ1世・ルパート率いる国王軍はトーマス・フェアファクスを司令官、クロムウェルを副司令官とするニューモデル軍(英語版)に決定的な大敗を喫し、拠点を次々と議会派に奪われ、翌1646年5月にチャールズ1世はスコットランド軍に降伏し第一次内戦は王党派の敗北になり、囚われの身となった。 内戦の最中、チャールズ1世は反乱で背かれたスコットランドとアイルランドから援軍を求め交渉していた。スコットランドを王党派で平定すべく盟約派から王党派に離反したモントローズ伯を侯爵に昇叙、スコットランド総督に任じて帰国させた。モントローズ侯は期待に応え1644年8月にアイルランド貴族のアントリム伯ランダル・マクドネル(英語版)と親戚のアラスデア・マッコーラ(英語版)と共にスコットランドで挙兵(スコットランド内戦(英語版))、1645年にはインヴァロッヒーの戦い(2月2日)・キルシスの戦い(8月15日)で連勝しアーガイル侯ら盟約派を追い落として平定に迫ったが、盟約派の反撃に遭い9月13日のフィリップホフの戦いで敗れ、スコットランド平定はならなかった。 アイルランドでは駐屯軍司令官でアイルランド総督のオーモンド侯ジェームズ・バトラーに反乱勢力のアイルランド・カトリック同盟との交渉を任せ、和睦と援軍派遣を期待していたが、宗教の違いとそれぞれの無理な要求で交渉は難航、1643年9月15日に何とか休戦が成立した。ところが続く和睦交渉は暗礁に乗り上げ、互いの要求を棚上げにして和睦条約が調印されたのは1646年3月28日と第一次内戦が終わる寸前であり、援軍を求めるにはあまりにも遅過ぎた。しかもこの間にチャールズ1世はオーモンド侯の頭越しにアイルランドへ密使を送ることを計画、密使として派遣され1645年7月にアイルランドに着いた寵臣のグラモーガン伯エドワード・サマセット(英語版)はオーモンド侯に協力するふりをしてアイルランド同盟と独自に接触した。 更に、11月にアイルランドへ派遣されたローマ教皇インノケンティウス10世の特使ジョヴァンニ・バッティスタ・リヌチーニ(英語版)が和睦条約に反対して聖職者や軍人達を動かし、グラモーガン伯もリヌチーニと結びつきアイルランド人に対する土地返還とカトリック寛容を引き換えにした軍事援助の秘密条約実施を申し出た。だがリヌチーニはどちらの条約にも反対、グラモーガン伯は秘密交渉の発覚で逮捕され、チャールズ1世はグラモーガン伯との関与を否定したがアイルランド同盟から不信を抱かれ、オーモンド侯の和睦条約もリヌチーニに扇動された反対派により破棄され、もはやアイルランドからも援軍を期待出来なくなった。 1647年11月に一旦ワイト島へ脱出、ハミルトン公らスコットランド王党派と和解契約を結んで第二次イングランド内戦(英語版)を勃発させたが、1648年8月にプレストンの戦いでハミルトン公率いるスコットランド軍(エンゲージャーズ(英語版))がクロムウェルの議会軍に大敗、ハミルトン公が捕らえられたため第二次内戦も敗北に終わり(後にハミルトン公は処刑)、11月に再び議会軍に投降した。一方、議会派は戦争終結を巡り国王との妥協を図る長老派と徹底抗戦の独立派(英語版)が対立、12月6日のプライドのパージで長老派が議会から追放、独立派が残ったランプ議会がチャールズ1世処刑の裁判を進めていった。 1649年1月27日、裁判によってチャールズ1世の処刑が宣告された。1月30日、自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で公開処刑され、チャールズ1世は斬首された。彼の最期の言葉は「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」(原文\"I go from a corruptible to an incorruptible Crown, where no disturbance can be, no disturbance in the World.\")であった。(30 January, 1649). チャールズ1世の処刑後王政は廃止されイングランド共和国が誕生、これを認めない王党派はチャールズ1世の長男チャールズ2世を擁立し議会派との戦いを継続したが(第三次イングランド内戦(英語版))、やがてそれらを平定したクロムウェルが1653年に護国卿となり、ステュアート朝に代わりイングランド・スコットランド・アイルランドを事実上統治した。チャールズ2世ら王党派がイングランドへ戻れるにはクロムウェル死後の1660年の王政復古まで待たなければならなかった。 ヘンリエッタ・マリアとの間に4男5女を儲けた。 チャールズ・ジェームズ(1629年) - コーンウォール公、死産 チャールズ2世(1630年 - 1685年) メアリー・ヘンリエッタ(1631年 - 1660年) - オラニエ公ウィレム2世と結婚 ジェームズ2世(1633年 - 1701年) エリザベス(1635年 - 1650年) アン(1637年 - 1640年) キャサリン(1639年) - 死産 ヘンリー(英語版)(1640年 - 1660年) - グロスター公、ケンブリッジ伯 ヘンリエッタ・アン(1644年 - 1670年) - オルレアン公フィリップ1世と結婚 ステュアート朝の家系図 凡例  :ブルース朝(スコットランド王)  :テューダー朝(イングランド王)  :ステュアート朝(スコットランド王)  :ステュアート朝(スコットランド王およびイングランド王)  :ハノーヴァー朝(グレートブリテン王) ^ しかし皮肉にも、帰国した2人は婚約破談により、反スペインで沸き立っていた民衆に歓迎された。この好意を当てにした2人は議会召集をジェームズ1世に進言、1624年2月に開会された。今井、P168、塚田、P68、清水、P19 - P20。 ^ 元々戦争に反対していたジェームズ1世はスペインを刺激することを避けるため介入、同盟により出兵したイングランド軍に大陸のスペイン領通過を禁じた。これはフランスのイングランド軍上陸禁止に繋がり、ひいては準備不十分のイングランド軍がろくに戦わないまま疫病で自滅という惨めな結果をもたらした。今井、P170 - P171。 ^ バッキンガム公がフランスと約束した条件の中に、ヘンリエッタ・マリアの家庭内における宗教的寛容と聖堂の設置があり、ヘンリエッタ・マリアはイングランドでもカトリック教徒であり続け、セント・ジェームズ宮殿内部にイニゴー・ジョーンズ設計のクイーンズ・チャペルが建てられた。これらはプロテスタントに恐怖の念を抱かせた。森(1986)、P408、今井、P170。 ^ だが、乏しい財政では質の悪い兵士しか集められなかったこと、本国からの補給が不十分だったこと、当時軍事技術は向上しており、イングランドがこの変化についていけなかったことも遠征失敗の原因であり、バッキンガム公に全て責任がある訳ではない。今井、P173 - P174。 ^ 敗北後もモントローズ侯は諦めずゲリラで各地に出没、盟約派との戦いを続けていたが、1646年にスコットランド軍に捕らえられたチャールズ1世が軍解体を命令したためそれに従い、ノルウェーへ亡命した。ウェッジウッド、P578 - P582、P629、P637。 ^ アイルランド同盟はカトリック刑罰法の撤廃を、オーモンド侯はアイルランド同盟が占領したイングランド国教会の領土返還を要求した。この実現が難しい要求で交渉は進まず、援軍欲しさに撤廃に応じるチャールズ1世をオーモンド侯が諫めることもあった。山本、P140 - P141。 ^ その後1649年1月17日に改めてオーモンド侯とアイルランド同盟は1646年と同様の条件で和睦、障害だったリヌチーニが2月にアイルランドを離れたため両者は手を結んだが、皮肉にも和睦した日はチャールズ1世が処刑される13日前だった。山本、P144。 ^ 木村靖二, 岸本美緒, 小松久男 『詳説世界史 改訂版』 山川出版社、2017年、224頁。ISBN 978-4-634-70034-5。 ^ 森(1986)、P401 - P403、P406。 ^ 今井、P172。 ^ 今井、P160、P167、塚田、P66。 ^ a b c d e f g h i j k 松村、P136。 ^ 森(1986)、P406 - P407、今井、P167 - P168、塚田、P67 - P68、清水、P19 - P20。 ^ 森(1986)、P407、今井、P168 - P171、塚田、P68 - P69。 ^ 森(1986)、P407 - P408、今井、P171 - P173、塚田、P69 - P73。 ^ 森(1986)、P408 - P409、今井、P174 - P178、P189 - P190、塚田、P73 - P78、清水、P20 - P21。 ^ 森(1986)、P409、今井、P178 - P180、塚田、P78、清水、P21 - P22。 ^ 森(1988)、P318 - P319、今井、P180 - P187、トランター、P271 - P272、塚田、P97 - P104、清水、P21 - P24。 ^ 今井、P187 - P189、P191 - P192、トランター、P272 - P274、塚田、P104 - P107、P124 - P126、清水、P31 - P35。 ^ 森(1988)、P319 - P320、トランター、P274 - P276。 ^ 森(1986)、P409 - P410、今井、P192 - P197、塚田、P126 - P136、清水、P35 - P40、P43 - P51。 ^ 森(1986)、P410 - P411、森(1988)、P320 - P322、今井、P200 - P209、塚田、P136 - P138、P152 - P154、清水、P60 - P64、P69 - P71、P76 - P82、P88 - P96、P99 - P100。 ^ トランター、P276 - P280、ウェッジウッド、P374 - P378、P426 - P432、P495 - P502、P517 - P518。 ^ 山本、P136 - P142、ウェッジウッド、P324 - P325、P492。 ^ 山本、P142 - P144、ウェッジウッド、P541 - P546、P555 - P559、P617 - P620。 ^ 森(1988)、P411、今井、P213 - P215、塚田、P157 - P159、清水、P123、P126 - P127、P129 - P138。 ^ 森(1986)、P404 - P406、P411 - P412、今井、P215、清水、P138 - P148。 森護『英国王室史話』大修館書店、1986年。 森護『スコットランド王室史話』大修館書店、1988年。 今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』山川出版社、1990年。 ナイジェル・トランター著、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。 松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。 塚田富治『近代イギリス政治家列伝 かれらは我らの同時代人』みすず書房、2001年。 山本正『「王国」と「植民地」 近世イギリス帝国のなかのアイルランド』思文閣出版、2002年。 清水雅夫『王冠のないイギリス王 オリバー・クロムウェル―ピューリタン革命史』リーベル出版、2007年。 シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド著、瀬原義生訳『イギリス・ピューリタン革命―王の戦争―』文理閣、2015年。 ダルタニャン物語 - 『二十年後』に登場。ダルタニャンや三銃士はチャールズ1世を救おうとしたが失敗する。 アラトリステ - 1巻に登場。主人公ディエゴ・アラトリステ・イ・テノーリオに命を救われる。 クロムウェル (映画) (1970年 監督:ケン・ヒューズ) クロムウェル〜英国王への挑戦〜 (2003年 監督:マイク・バーカー)" ]
ABC01-02-0200
テニスや卓球で、デュースになった時、片方が1点リードすることを英語で何というでしょう?
アドバンテージ
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[ "アドバンテージ", "ビッグイニング", "ハーフウェー", "ボールデッド", "リーチ (ゲーム)" ]
[ "アドバンテージとは、前進や優位性という意味の英語(advantage)であるが、ここでは特にスポーツにおける意味を扱う。スポーツにおいて「アドバンテージ」とは、以下の意味で用いられる。 反則が生じた際に、反則を受けたチームが有利となる場合に罰則を適用しないこと。 得点等で優位にある状態。 この形のアドバンテージが採用されるのは、主に2つのチームが対戦するタイプのスポーツである。ラグビー、サッカーなどで採用される。ラグビーの場合、審判がアドバンテージの状況と判断すると、腕を使って合図を出し、プレーは続行される。 アドバンテージを採用するスポーツにおいては、反則が発生しても、その場でプレーを止めて罰則を適用するのではなく、とりあえずプレーを続行する。その結果、反則したチームに有利な状況となった場合にはプレーを中断し、反則があった時点にさかのぼって罰則を適用する。逆に、反則を受けたチームに有利な状況が継続した場合、当該反則はなかったものとして試合を続ける。 罰則を適用するタイミング、アドバンテージを解消するタイミング等は、審判の裁量に任される。いずれにしても反則を受けたチームが有利になるという点で公平な制度である。また、不必要に試合を中断せずに済むため、合理的といえるだろう。 なお、退場処分などの厳しい罰則を伴う反則(暴力行為など)については、アドバンテージなしで即時に罰則が適用されることが多い。警告程度であれば続行することが多い。 テニス デュースの項を参照のこと。 ブラジリアン柔術 ポイントの一部として判定に使用される。基本的にはポイントで勝敗を決するが、ポイントが完全にない(引き分け状態)の時に、攻勢点としてアドバンテージがある方が勝利する。それもない場合はレフェリーの独断で勝敗を決める。詳細はブラジリアン柔術を参照。 日本野球機構 2004年・2005年のパシフィック・リーグにおけるプレーオフ(レギュラーシーズン上位3チームによる決勝トーナメント大会)では、2ndステージ(決勝戦)にシードされた1位チームと、1stステージ(1回戦。2位対3位)の勝利チームのゲーム差が5ゲーム以上あった場合、1位チームに1勝分を与えるものとされた。また2006年の同プレーオフ、ならびに2008年以降のクライマックスシリーズ(セントラル・リーグ、パシフィック・リーグともに導入)では、やはりファイナルステージ(決勝戦。2009年以前は2ndステージ)各リーグ1位チームに無条件に1勝分が与えられた。これらの1勝の差をアドバンテージと称した。詳細は各記事を参照。 日本女子プロ野球機構 2013年度の大会における4チーム対抗戦「ティアラカップ」の1位獲得回数の多い2チームによるプレーオフ「ティアラカップ女王決定戦」(2試合制)で採用。1位獲得の最も多いチームにあらかじめ1勝分のアドバンテージを与え、それを含め2勝したチームの優勝。よって1位は1勝すればグランドチャンピオンとなる。 2015年度は、正加盟3チームのリーグ戦で、それぞれのステージ1位チーム同士で行う「日本シリーズ女王決定戦」(3戦2勝制)で、前後期同じチームが1位で終了した場合は年間勝率2位のチームに出場権を与え、勝率1位チーム(=前後期完全1位チーム)に対しては1勝分のアドバンテージを付与する「2戦2勝制」とする。 韓国野球委員会 2015年度から、プレーオフトーナメント1回戦にあたる「ワイルドカード代表決定戦」(レギュラーシーズン4位対5位の対戦)にて採用。ワイルドカードにノミネートされた2チームのうち、4位チームに予め1勝分を与え、それを含めた先に2勝したチームが、準プレーオフ(2回戦)に進出できる。なお第1戦が引き分けで終わった場合と、第2戦との通算で1勝1敗1引き分けのタイとなった場合は、両チーム間の順位で上位となる4位チームが準プレーオフに進出できる 日本フットサルリーグ(Fリーグ) 2012年-2013年度の大会より採用。この年は上位3チームによるプレーオフの決勝戦(4戦制)で、先に3勝したチームが優勝であるが、プロ野球に倣い、レギュラーシーズン1位のチームにはあらかじめ1勝分のアドバンテージを与えるので、2勝すれば優勝である。 2013年-2014年度は2シーズン制を採用し、プレーオフ決勝戦(2戦制)で、2勝(ないしは1勝1分け)したチームの優勝だが、この場合でも順位ポイントの1位チームに1勝のアドバンテージがあるので、1勝すれば優勝である。2014年-2015年度は1シーズン制としたが、上位5チームでのプレーオフの決勝は2013-14年度の方式に同じである。 プレミアリーグ (バレーボール) 2014年-2015年度シーズンで採用。レギュラーラウンド(1次リーグ)の順位を基に、ファイナル6(2次リーグ)では1位に5点、2位に4点…6位に0点というように、予め順位に応じた持ち点を配分し、これに試合ごとの勝ち点(3-0・3-1の勝ち3点、フルセット(3-2)の勝ち2点、フルセット(2-3)の負け1点、1-3・0-3の負け0点)を加算する方式を取っている。この2次リーグの成績を参考として、上位3チームが決勝トーナメントに進出(1位はファイナル<決勝戦>シード、2位と3位でファイナル3<準決勝>を争う)。 ^ 「観戦必携/すぐわかる スポーツ用語辞典」1998年1月20日発行、発行人・中山俊介、14頁。", "ビッグイニングとは、野球において大量点が記録されたイニング。基準は明確には定まっていないが、一般的に5得点(投手から見ると5失点)以上したイニングがビッグイニングであったと報道されている。 メジャーリーグベースボールにおける1イニングの最多得点は1883年9月6日にシカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)がデトロイト・ウルバリンズ(現存しない)戦で記録した18点。近代野球が確立した1901年以降では1953年6月18日にボストン・レッドソックスがデトロイト・タイガース戦の7回裏に記録した17点。 日本プロ野球においては、2009年6月11日に千葉ロッテマリーンズが広島東洋カープ戦の6回裏に記録した15得点(15打点)が最多。14者連続得点はプロ野球タイ記録であり、1イニング12安打は史上2位。このときロッテの攻撃イニングにおいて延べ20人の打者が打席に立っている。このうち1人が1イニング3打席を記録しており(もう1人は2打席目に出塁後代走を送られ途中交代。その代走にもイニング中に打席が回っている)、こちらもプロ野球記録である。 選抜高等学校野球大会では1971年の東邦高等学校の11点、全国高等学校野球選手権大会では1923年の立命館中学校の14点が最高記録である。 ^ “Woes still beginning with one big inning”. Boston.com(ボストン・グローブ) (2007年8月16日). 2009年8月5日閲覧。 ^ “Johnny Cueto surrenders 9 runs, can't get out of first inning”. ESPN.com (2009年7月7日). 2009年8月5日閲覧。 ^ “Thursday, June 18, 1953,, Fenway Park” (英語). Baseball-Reference.com. 2016年5月8日閲覧。 ^ 従来の記録は13得点(13打点) ^ ロッテ歴史的猛攻1イニング48分20人15点 - 2009年6月12日 日刊スポーツ ^ 【6月11日】2009年(平21) 笑いが止まらないロッテ 6回に日本新記録6個の猛攻 - 2010年6月11日 Sponichi Annex 日めくりプロ野球", "ハーフウェー(英語: halfway)とは、「距離の中ほど」や「道の中途」を意味し、ラグビーやサッカーで競技区域の中央を横に半分に区切る線のハーフウエー・ラインなどに用いられるが、この項では野球用語及び野球規則(公認野球規則)上の取り扱いについて解説する。 野球でハーフウェーとは、一塁・二塁間、二塁・三塁間,三塁・本塁間の俗称である。本塁・一塁間はハーフウェーに含まれない。 打球をノーバウンド(インフライト)で野手が捕球すると、塁上の走者にはリタッチの義務が課せられる。従って、打球が高い飛球になれば走者は安直に進塁できない。この場合、走者はハーフウェーで待機して野手の捕球を見届ける事が多い。飛球が捕球されればリタッチを敢行し、捕球されなければリタッチする事無く次塁に向けて進塁するのである。 走者がハーフウェーを取るシーンの中で最も多いのは、打球が深い外野フライになった場面での一塁走者の走塁である。この理由として、以下の事が考えられる。 深い外野フライを落球した場合、ハーフウェーを取っていれば一塁走者は三塁まで進塁できる可能性が高い。 一般的に、一塁から二塁への進塁でのタッグアップは成功する可能性が低く、珍しい。 深い外野フライなら、二塁走者と三塁走者はタッグアップが容易に可能でハーフウェーを取らない。 浅い飛球の場合、ハーフウェーを取ればリタッチが間に合わずアウトになる可能性が高い。 更に、送りバントが小フライになった場合、一塁走者はハーフウェーを取ることが多い。何故なら、一塁近辺で待機していればバント飛球をわざと落として二塁でフォースアウトとなり、二塁近辺まで飛び出していればバント飛球を捕球して一塁に送球されてアウトになる。つまり、どちらの塁の付近にいてもアウトになる可能性が高い。 二塁走者と三塁走者は、余りハーフウェーを取らない。浅いフライなら占有塁に止まらざるを得ず、深い外野フライならタッグアップに備えるからである。 例外と言えそうなのは、インフィールドフライの対象となる内野飛に対してインフィールドフライが宣告されなかった場合である。打球の性質に関わらず、審判員の宣告が無ければインフィールドフライは成立しない。従って二塁走者と三塁走者は占有塁に止まる事ができずハーフウェーまで飛び出して待機せざるを得なくなる。 リタッチ タッグアップ 飛球 インフィールドフライ", "ボールデッド(英:ball is dead, dead ball)は、野球やソフトボール、アメリカンフットボールで、試合が停止され、プレイが無効となる時間である。死球を意味する和製英語の「デッドボール」とは異なる。 野球の試合時間はボールインプレイとボールデッドの2つに大別されている。審判員の「タイム」の宣告や所定の規則によって、野球の試合はボールデッドになる。ボールデッドになると、一部の例外を除きほとんどのプレイは無効になる。ボールデッドとなったときは、各プレーヤーはアウトになったり、進塁したり、帰塁したり、得点したりすることはできない。ただし、ボールインプレイ中に行われたプレイによって安全進塁権が認められた場合を除く。 例えば、場外に本塁打を放った場合、ボールデッドになり打者及び塁上の走者には4個の安全進塁権が与えられるが、この際の走塁は有効なプレイであり、正規の順序で塁に触れる必要がある。これを怠れば、アピールプレイの対象となる(ただしこの場合は、次にボールインプレイになったときでなければアピールを行えない)。また、このときに前位の走者を後位の走者が追い越すと、ボールデッドであっても後位の走者はアウトになる。 ボールデッドになった後、投手がボールを所持して投手板に正規の姿勢をとり、球審が「プレイ」を宣告したときに、競技は再開され、ボールインプレイとなる。投手がボールをもって投手板に位置したら、球審は、ただちに「プレイ」を宣告することとなっている。 次の場合はボールデッドになる。 審判員が「タイム」を宣告した場合。 投球が、打者の身体や着衣に触れた場合(死球、ストライクゾーンで打者に触れたインフライト投球、打者に触れたが打者が避けなかった投球等)。 ファウルボールが捕球されなかった場合(いわゆる「自打球」を含む)。 打球がプレイングフィールドの外に出た場合。 投球や送球がプレイングフィールドの外に出た場合。 飛球を捕球した後、野手がスタンドやベンチなど、プレイングフィールドの外に足を踏み入れた場合。 打撃妨害が起こった場合。ただし、妨害があったにもかかわらずプレイが継続した場合は、 打者が安打、失策、四球、死球など、何らかの形で一塁に達し、他の全走者も1個以上の進塁を果たしたときは、打撃妨害はなかったものとして以後のプレイが続けられる。この場合はボールデッドにはならない。 そうでないときは、プレイが終了した時点で審判員が「タイム」を宣告する。 投球に対し、ボークが宣告された場合。ただし、ボークが宣告されたにもかかわらずプレイが継続した場合は、 打者が安打、失策、四球、死球など、何らかの形で一塁に達し、他の全走者も1個以上の進塁を果たしたときは、ボークの宣告はなかったものとして以後のプレイが続けられる。この場合はボールデッドにはならない。 そうでないときは、プレイが終了した時点で審判員が「タイム」を宣告する。 走塁妨害が起こったときで、妨害された走者に対してプレイが行われていた場合、または打者走者が一塁に向かっているときにその走塁が妨害された場合。 守備妨害が起こった場合。 球審が、捕手の守備を妨害した場合。(⇒守備妨害#審判員の妨害) 内野手(投手を含む)に触れていないフェアボールが、審判員や走者に触れた場合。 内野手(投手を除く)を通過していないフェアボールが、審判員に触れた場合。内野手(投手を除く)を通過していないフェアボールが、走者に触れた場合は、状況によってはボールインプレイのまま継続することがある。 プレイ中のボールに、従業員や観客が触れた場合。 ボールが、球審や捕手のマスクや用具、金網、木、フェンスの隙間などに挟まって止まった場合。 反則打球の場合。 故意落球が宣告された場合。 本塁への盗塁またはスクイズプレイによって得点を試みている三塁走者に投球が触れた場合。 インフィールドフライと宣告された飛球が捕球されずに、走者に当った場合。 次の場合は、その時点ではボールデッドにならずに、ボールインプレイのままである。 四球の場合(第四ボール目の投球が打者に触れた場合を除く)。 ファウル飛球が捕球された場合。 インフィールドフライが宣告された場合。 送球が審判員に触れた場合。 送球が走者に触れた場合。(走者が故意に送球に触れたなどにより、守備妨害が宣告された場合を除く) 野手がグラブや帽子等を本来身に着けている箇所から外して、フェアボールや送球、投球に故意に当てた場合。 捕手の送球が、正規に位置している打者や打者が所持しているバットに触れた場合。(打者が故意に送球に当てた場合を除く) 走塁妨害が起こったときで、妨害された走者に対してプレイが行われていなかった場合。 投球に対しボークが宣告された場合。 次の場合、審判員は「タイム」を宣告する。 選手を交代させるためや協議するために、監督が「タイム」を要求した場合。(但し、審判が宣告するまではボールデッドにはならないし、またタッチアップ時など走者に進塁の意思があれば審判員はタイムを宣告できない) 天候や暗さ、照明設備の故障等の理由で試合続行が困難だと、球審が認めた場合。 突発事故により、選手がプレイできなくなるか、審判員が職務を果たせない状態となった場合。 試合を遂行するうえで試合を一時中断する必要があると、審判員が判断した場合。 ゲームを混乱させる目的で、占有塁から走者が逆走した場合。 アメリカンフットボール#プレーの終了(ボールデッド)を参照 ^ 公認野球規則5.02 ^ 公認野球規則5.11 ^ プレイングフィールドの外に出たフェアの打球は、インフライトのままフェア地域側のスタンドに飛び込んだものは本塁打であり、地面でバウンドしてからスタンドに入るか、または野手に触れて方向が変わってファウル地域側のスタンドに入ったものは二塁打である。 ボールインプレイ タイムアウト", "リーチとは、ゲームにおいて、後一つで揃う又は上がる可能性がある状態のことである。宣言した場合を特にリーチという場合もある。 リーチという語句は麻雀用語の立直に由来する。 リーチとは、ゲームにおいて、次の番で上がる可能性がある状態のことである。 複数人で順々にターンが回るようなゲームの場合、どれだけ早く揃うもしくは上がるかが、勝利条件である場合が多い。その場合、リーチを宣言した人以外のプレーヤーが、宣言した人に上がられまいと、手を読み合う頭脳戦になることがある。そのため、リーチの条件が揃ったにもかかわらず、リーチしない場合、お手つきになるというルールもある。 ビンゴゲーム ボードゲーム カードゲーム" ]
ABC01-02-0201
光の三原色にあって、色の三原色にない色は何でしょう?
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[ "緑", "ピンク", "水色", "灰色", "黄色" ]
[ "緑(みどり、綠)は、寒色の一つ。植物の葉のような色で、黄色と青緑の中間色。光の三原色の一つは緑であり、1931年、国際照明委員会は546.1nmの波長を緑 (G) と規定した。500-570nmの波長の色相はおよそ緑である。色材においては例えば、シアンとイエローを混合して作ることができる。緑色(リョクショク、みどりいろ)は同義語。 緑は(緑色の、特に新緑のころの)草・木、新芽・若葉、植物一般、転じて、森林、自然などを指す語としても用いられる。 緑に相当する色はかなり広範に及ぶ色の総称であるが、それぞれの色には多く「柳色」や「モスグリーン」などの固有の色名が付いている。より黄色に近い色は黄緑として、より青に近い色は青緑として総称されることも多い。英語のグリーン(green)をはじめ欧米人が感じる対応する色名は、日本人にとっての緑よりも明るく鮮やかな色である傾向がある。緑はまた漢字で碧や翠とも表記されるが、この場合やや青みの強い色を表すことが多く、比較的藍緑色に近い色合いである。翠は本来、カワセミの羽根の色をさす名前である。詩的な、あるいは文語的な表現として、海の深く青い色や、艶やかな黒髪の色を表すのに、「緑」を使うことがある。 「みどり」という語が登場するのは平安時代になってからであるが、これは本来「瑞々しさ」を表す意味であったらしい。それが転じて新芽の色を示すようになったといわれる。英語のグリーンも「草」(grass)や「育つ」(grow)と語源を同じくするといわれ、いずれにしても新鮮さのイメージを喚起する色である。 緑(green)は光の三原色のひとつである。ウェブブラウザ等でgreenと名前で指定もできるが、その色はRGBで#008000であり純色ではない。純色(原色)の緑の名前はlimeで、そちらであれば#00FF00となる。具体的には「明るい緑」に近い色として感じられる色が表示される。 緑の光源は、色合いとしては日常的に目にする緑色よりも明るく鮮やかに感じられる。 JISの規格では緑およびグリーンがそれぞれ定義されている。この両者の色は微妙に異なる色として定義されている。 天然に大量に存在する緑色は葉緑素で、化学的にはポルフィリン構造(ポルフィリン環)と呼ばれる特殊な有機構造を持つ分子の中心に金属元素(マグネシウム)を配位している。よく似た構造の鮮明な緑色顔料としてはフタロシアニングリーンがある。着色材料用途のポルフィリン系以外のピロール系化合物としては、ジケトピロロピロールがあり、橙から赤にかけての重要な顔料である。 古くから顔料として使われたのは孔雀石の粉末で、銅の錆(緑青)と同じく、塩基性炭酸銅を主成分とする。無機顔料では有害性の低いビリジアン、酸化クロム(酸化クロム緑)がよく使われる。ピーコックと呼ばれるセラミック顔料も緑色無機顔料である。 緑土は海緑石と灰緑石からなる。これら鉱物は水酸化鉄、水酸化マグネシウム、硅酸アルミニウム、カリウムなどからなる。硅酸錯塩と同様緑土の組成は様々である。色合いは鈍い黄緑色から淡緑灰色のものまで様々ある。このように発色する原因は2価の鉄(第一鉄)にあるが、大半の鉄は3価の鉄(第二鉄)として存在している。緑土は透明性が高く、着色力は強くない。イタリアの画家が好んでテンペラにおいて下層に用いた。 太古よりヨーロッパで使用されて来た顔料で、比較的広範囲において産出するが、良質の顔料用途になるものの産地は限られる。 岩緑青 Mountain Green 岩緑青・マウンテン グリーンは、マラカイト(Malachite)つまり天然の塩基性炭酸銅で組成式はCu2(CO3)(OH)2、世界中に産する孔雀石の粉末である。最も古くから知られた鮮明な緑色顔料であると考えられている。今日では使用頻度は高くないが、日本画では未だ重要な位置にある。岩緑青の古名は青丹(物理的に青色と丹色の物質を混合すると緑青色になるが、そういう意味ではない)。 ベルデグリ Verdigris ベルデグリは二塩基性酢酸銅である。酢酸臭を伴う緑青色の粉末である。中心製造地はかつてモンペリエ周辺にあった。銅系顔料の内では反応性が高く、水に一部溶解し、酸には溶解する。差熱すると分解してCuO酸化銅が残る。硫黄を含む顔料と反応すると黒変する。ヴァトーは硫黄系顔料であるウルトラマリンと混合して用いたようであるが、色合いを鮮明なまま残しているというように、この理屈に反する事例も知られている。D.V.トンプソンはイタリア初期風景画において愛用された顔料であるが黒変した事例が数多いとしている。ファンエイクグリーン (Van Eyck Green) と強い関係がある。場合によっては炭酸銅、銅、黄銅、青銅から出来る青若しくは緑の錆を指す。Colour Index Generic Name、Pigment Green 20。 ファンエイクグリーン Van Eyck Green 13世紀から14世紀末にかけて、装飾写本にしばしば見受けられる特徴的な緑がある。それは、油を含んでいるような外観を呈し、顕微鏡で観察しても銅塩の結晶は見えないが、銅を含んでいる。断面や脆弱性から、バインダーが樹脂質であると判断される。希塩酸には溶解する。これを研究したA.P.ローリーはこれをファン エイク グリーンと呼んだ。ファン エイクの作品の多くで使用されている。ド・マイエルヌの文献がこれを記述した最古のものとして知られる。銅塩と純粋なバルサムとで絵具を作ると青緑色になるので、これより黄味の、暖かみのある緑は、ケルシトロンレーキ、サフラン、ガンボージなどを添加することによって顕色したとの説をローリーは提出している。この色は、樹脂系バインダーの保護力が高いために保存状態の良いものが多い。 シェーレ緑 Sheele's Green シェーレ緑は酸性亜ヒ酸銅で組成式はCuHAsO3で、1778年、カール・ヴィルヘルム・シェーレが初めて合成した、合成緑色顔料の嚆矢である。品質はそれ程高くなかったので、これに続くエメラルド緑に直ちに取って代わられる。硫黄や硫化物、鉛に触れると黒変し、酸では分解する。黄緑色を呈するがすぐさま褪色現象が現れる。毒性は極めて高い。18世紀から19世紀初頭には絵画にも使用されたとされている。Colour Index Generic Name、Pigment Green 22。 エメラルド緑 Emerald Green エメラルド緑はアセト亜ヒ酸銅で組成式はCu(C2H3O2)3⋅Cu(AsO2)2で、1814年ドイツのシュバインフルト(de:Schweinfurt)で初めて合成された。かなり鮮明な緑色無機顔料で、亜鉛緑ともコバルトクロム緑とも全く異なる。硫黄を含む空気や物質で黒変する。酸や温アルカリで分解される。毒性が高いことから、パリグリーンと呼ばれ殺虫剤に使用された。油性の媒材(Binder)で用いた場合の耐久性は高い。絵画における使用例は少なく、ド ヴェルトの報告では1例のみである。中国の古銅器の緑青のイミテーションとしての使用がある。Colour Index Generic Name、Pigment Green 21。 亜鉛緑/コバルト緑 Zinc Green / Cobalt Green 亜鉛緑・コバルト緑は亜鉛とコバルトの酸化物固溶体。1780年ドイツ人リンマンによって発見された。A.P.ローリーによれば、最初に文献に登場するのは1835年である。コバルトの亜鉛に対する比率は僅かであり、コバルトと亜鉛の比率を多少変えても色合いは殆ど変化しない。耐光性が高く、濃酸には侵されるがアルカリには侵されない。加えて、かなりの高温でも影響を受けない。しかしながら、不透明な無機顔料としては透明性が高く、彩度もそれ程高くないのに高価である為、美術家には喜ばれていない。マグネシウムを添加したものは暗緑色であり、そうでないものは淡い青緑色になる。Colour Index Generic Name、Pigment Green 19。 チタンコバルト緑 Cobalt Titanate Green チタンとコバルトの酸化物固溶体。亜鉛やニッケルが加えられて製品化されたものも多く流通している。Colour Index Generic Name、Pigment Green 50。 コバルトクロム緑 Cobalt Chromium Green コバルトとクロムとアルミニウムの酸化物固溶体。堅牢性は極めて高く、絵画技法をはじめ、耐熱性を要求される分野、例えば窯業に至る広い用途を持っている。Colour Index Generic Name、Pigment Green 26。類縁の顔料にコバルトクロム青がある。これはクロム含有量が少ないコバルトクロム緑である。 酸化クロム緑 Chromium Oxide Green 酸化クロム緑は酸化クロムで組成式はCr2O3。最も安定した緑色顔料である。不透明で、硬度が高い。ヴォークランは1809年に陶器の釉薬への使用を提出している。美術家用絵具に採用されたのは1862年頃である。Colour Index Generic Name、Pigment Green 17。Chromium Oxide Green Brilliantは後述の含水酸化クロムを指す。 ビリジアン Viridian ビリジアンは含水酸化クロムで、組成式はCr2O3⋅2H2Oで表す場合がある。含水量は約40%。ヨーロッパで製造されている伝統的なやや不透明で明るいエメラルドグリーンを呈するもの、これより不透明だが不鮮明なもの、透明性が高く色感に乏しいものなど、様々ある。1838年フランス人パンヌティエが発見したが1859年ギネーが特許を公告させ普及した。このため、ギネーの緑とも呼ばれる。鮮明な青味のある緑を呈する、耐光性の高い顔料である。Colour Index Generic Name、Pigment Green 18。 レーキ顔料でない純然たる有機顔料で緑色のものの種類はそれ程豊富ではない。フタロシアニンの普及に伴い、緑色顔料の生産は大きく変化したと言える。 葉緑素に似た化学構造を持つフタロシアニンは1933年、ICI(インペリアル ケミカル インダストリーズ)社のリンステッドたちがフタロシアニンと命名、1935年に工業化され、モナストラルブルーの名で商品顔料になった。アメリカでは、1936年に別の名で取引が始まる。鮮明で着色力が非常に強く、プロシア青の倍程の着色力がある。 フタロシアニン緑はフタロシアニン青に続いて開発され、塩素化銅フタロシアニンは1838年に商品化された。Colour Index Generic NameにはPigment Green 7、臭素化塩素化フタロシアニンのPigment Green 36、臭素化塩素化亜鉛フタロシアニンのPigment Green 58が記載されている。液晶テレビを含む液晶ディスプレイのカラーフィルタの緑には、構成要素としてPigment Green 36が使われている。 緑のほかに、緑青・ターコイズを呈する無金属フタロシアニン、鮮明な緑気味の青であるフタロシアニン青がある。いずれも化学的に安定な構造で、比較的安価に大量生産されている。 ペリレン顔料は、ペリレンテトラカルボン酸二無水物の六員環を構成している酸素原子2個を脱落させた構造を有する顔料である。赤から紫、そして、緑(但し黒い緑)といった幅広い色相を持つ顔料グループであり、一般に着色力、堅牢性に優れる。緑色のペリレン顔料であるPigment Black 31は、緑味を呈する黒色顔料であるが、色相は濃度やバインダーなどの条件により相違する。 緑色の染料およびレーキ顔料についてはここで述べる。顔料の世界では、アゾメチンの前駆体、特にイミンを構造中に有する顔料をアゾメチン顔料と称する。 クロウメモドキ科の熟成した液果から抽出することが可能な緑色成分があり、これが本来の「サップグリーン」である。サップグリーンは、今日では専ら名称として残る。色素としてラムネチン Rhamnetin (en)やエモジン Emodin (en)を含んでいる。 前述のように、クロウメモドキ科の熟成した液果から抽出することが出来る成分のエモジンは、アントラキノン染料に数えられる。 前述のように、クロウメモドキ科の熟成した液果から抽出することが出来る成分のラムネチンは、フラボン染料に数えられる。 アゾメチン系の緑色顔料としては、緑色のニトロソ染料のナフトールグリーン Naphthol Green B (en)のレーキ顔料(Pigment Green 8)がある。印象的な深い緑を呈する。堅牢であるが耐水性にやや劣るところがある。 マラカイトグリーンは、カルボニウム系の塩基性染料である。このレーキは、安価な水性絵具などにも用いられる。 現在使われている緑は、黄と青の物質を混合したものや併用したもの、黄と青緑の物質を混合したものや併用したものが多い。例としてカドミウム黄とウルトラマリンブルー、フタロシアニン緑、若しくはビリジアンの混合物であるカドミウムグリーン、かつて代表的だった例として黄鉛と紺青の混合物であるクロムグリーンがある。 これらは顔料を混合しただけのものを用いるものあれば、共沈顔料と呼ばれる、複数の顔料を組み合わせた顔料を用いる場合もある。 古代日本語の固有の色名は、アカ・クロ・シロ・アヲの四語のみだったとの説が存在する。緑が色名として明確に扱われてこなかったため、現在緑色と言われる色そのものは日本語では「青」によって表現されてきた。例えば、 「青々とした葉っぱ」「青野菜」など。 「青信号」: 青信号は実際には青緑色になっているが、色覚に特性がある人を考慮したためである。古い信号機では本当の緑色が使われることもある。なお、船舶の右舷及び航空機の右主翼先端に付いている緑色の灯火も、青信号と同じような意味合いを持つが、こちらは「緑灯」と呼ばれている。 「青二才」など:おそらく果実の熟し具合からの転用で「幼い」「若い」「未熟である」ことを英語では “green”、ポルトガル語でも “verde” と緑色をさす語で表しているが、日本では「青い」という。 少なくとも過去において緑色と青色を明確に切り分けなかった言語は日本語に限らず非常に多く、東アジアの漢字文化圏、東南アジア、インド、アフリカ、マヤ語など中南米の言語にみられる。緑色(green)と青色(blue)とを分節しない語彙を表すため、しばしば言語学者はグルー(grue)という語を使用しており、こうした言語はグルー言語ともよばれる。さらにこのような言語では黒色とも区別されず、いわば「暗い色」として表されることがあり、これは特に赤道直下の言語に多い。 言語ごとの色の分節の食い違いは、最も一般的には色の分け方に物理学的な根拠がなく、ソシュール言語学が主張するように最終的にはそれが文化によって分節されていることによる。しかし、グルー言語が熱帯をはじめ比較的温暖な地域に多いことから、これは野外活動により浴びる紫外線から網膜を保護するために加齢とともに水晶体が黄変して、青色のような短波長の感度が低下し、実際に区別が困難になるためであるとする学説もある (lens-brunescence hypothesis)。現代でも高齢者は白内障による視界の黄変化により白と黄色、青と黒、緑と青などの区別が困難となる。 医療機関では、手術の際に緑色もしくは青色の手術着や敷布を使用する。血の赤色を長時間凝視し続けると補色残像という色の錯覚を引き起こし、赤の補色である青緑色の残像が視界全体に生じて手術の妨げになるため、赤の補色を多用することで補色残像の影響を緩和する効果を利用している。 ライムグリーン 黄緑 青緑 萌黄色、萌葱色 浅葱色 ^ 現在でも「みどりの黒髪」、「嬰児(みどりご)」などの用法が残っている ^ 新村出編 (1998/11). 『広辞苑 第五版』. 岩波書店. ISBN 978-4000801126.  ^ “左側通行・右側通行”. 自衛隊鹿児島地方協力本部. 2018年2月4日閲覧。 ^ Paul Kay and Luisa Maffi. “Feature/Chapter 134: Green and Blue”. The World Atlas of Language Structures Online, WALS. 2009年12月25日閲覧。 ^ 鈴木孝夫. 『ことばと文化』. <岩波新書>.  ^ D. T. Lindsey and A. M. Brown (2002年). “Color Naming and the Phototoxic Effects of Sunlight on the Eye”. Psychological Science 13: 506–512.  ^ 宮本サナエ『いろ色なお話: 色彩の世界への招待状』文芸社、2000年、ISBN 4-8355-0727-4、pp.31-32。 『顔料の事典』 伊藤 征司郎(編集) 朝倉書店 2000/10 ISBN 978-4254252439 『絵具の科学』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1994/5(新装普及版) ISBN 480550286X 『絵具材料ハンドブック』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1997/4(新装普及版) ISBN 4805502878 『カラー版 絵画表現のしくみ―技法と画材の小百科』森田 恒之監修 森田 恒之ほか執筆 美術出版社 2000.3 ISBN 4568300533 『絵画材料事典』 ラザフォード・J・ゲッテンス・ジョージ・L・スタウト著 森田恒之訳 美術出版社 1999/6 ISBN 4254252439 近江源太郎・監修 『色々な色』 光琳社出版 1996年 ISBN 4771302324 清野恒介・島森功 『色名事典』 新紀元社、2005年7月。ISBN 4-7753-0384-8。 永田泰弘・監修 『新版 色の手帖』 小学館 2002年 ISBN 4095040025 福田邦夫・著 『色の名前はどこからきたか』 青娥書房 1999年 ISBN 4790601803 福田邦夫・著 『色の名前507』主婦の友社 2006年 ISBN 4072485403 藤井健三・監修 『京の色事典330』 平凡社 2004年 ISBN 4582634125 色 色名一覧 日本の色の一覧 緑で始まる記事の一覧", "ピンク(英語: pink)は赤と白を混ぜて出来る色の一つ。しばしば明るい赤と表現されるが、より正確には明度が高く彩度の低い赤である。ピンクは濃淡によってさまざまなバリエーションが存在する。 英語の pink は、元来ナデシコの意であり、シェークスピアの時代にはまだ色名としての用法はなかったとされる。後に、ナデシコの花の色を指してpink、すなわち「なでしこ色」と呼ぶようになった。 また、英語以外の多くのヨーロッパの言語では、ピンク色を指すのにバラを意味する語やその派生語を使い、いわば「ばら色」という言い方をする。 日本語では英語を借りて「ピンク」「ピンク色」と呼ぶのが一般的だが、モモの花に見立てた「桃色」の名もある。ほかに「撫子色」(なでしこいろ)、「石竹色」(せきちくいろ)などナデシコに由来する和色名もあるが、これらが英語pinkの同義語として扱われてきた実績がとくにあるわけではない。実際の色は微妙に異なる。 ピンクの顕色は一般的には赤色顔料と白色顔料による。セラミック顔料においては陶試紅やクロムスズピンク、サーモンピンクといったピンクの顔料が存在する(セラミック顔料で赤色顔料はカドミウムレッドをジルコンでコーティングしたファイアーレッドしか存在しない)。特にクロムスズピンクはピンクから紫がかった赤、ワインレッドにいたる様々な色を出す。 また、強い印象を与える派手で鮮明なピンク色をショッキング・ピンクと呼ぶ。 ピンクは、同性愛および両性愛を表す。ナチスが強制収容所に収容された囚人を区別する印のうち、同性愛者に付けられたラベンダー・ピンクの三角形に由来する。 日本では、ピンクは性的な意味も持つ。英語圏で成人映画を\"blue movies\"と呼ぶのに対し、日本では、これらはしばしば「ピンク映画」と呼ばれる。 ブルーが「より優美で繊細」であるのに対し、ピンクは「よりはっきりして力強い」と1918年版の『レディーズ・ホーム・ジャーナル』に書かれており、同書はそれが「一般的な見方」であるという。 ^ 一説に、花弁の縁端の特徴的な形状から、「ギザギザに切る」(cf. ピンキング)を意味するpinkの同系語であるとされる。 ^ 松村明『大辞泉』小学館 ^ 『ウィズダム和英辞典』三省堂、2007年。 ^ “The History of the Gay Male and Lesbian Experience during World War II”. pink-triangle.org. 2011年11月9日閲覧。 ^ a b 『ウィズダム和英辞典』三省堂、2007年。『スーパー大辞林』三省堂、2013年。 色 色名一覧 日本の色の一覧 ナデシコ", "水色(みずいろ)は澄んだ水の色を表す、淡い緑みの青色。英語の \"light blue\"、\"pale blue\" にあたる。 日本古来の水縹(みずはなだ)と呼ばれる色も水色と同じような色を表しているとも考えられる。しかし、これは水浅黄同様、水の色というよりは水によって薄められた色とも考えられる。 一切不純物の混じっていない純粋な水、すなわち純水や蒸留水の色はほぼ無色透明であるが、池や湖、川、海などは青色に見える。これは主に水そのものが微かに青緑色を呈していることによるもので、ほかにも水の微粒子による可視光の散乱(レイリー散乱)や、水中の藻類などの微生物の色や、水面に反射する空の色などが影響を与えている可能性もある。水色という名は、このような「水の青」に由来する。日本語の水色は平安時代から見られる色名であり、古くから「水=青い」というイメージが存在していたこととなる。 現在では一般的に淡い青色のことを水色と呼ぶことがあり、その中には空色などが含まれることが多い。 空色はとくに水色に近いため、色鉛筆やクレヨンのセットでは水色に代表されることが多く、しばしば同一視される。しかし、本来の定義から言えば、空色のやや紫側によった青色に対して、水色は若干緑みを帯びた深みのある青色となる。 英語のアクア(英: aqua)は一般的な水の色を表す名前であるが、ウェブカラーではAquaはやや緑みが強く彩度の高い色合いとして定義されている。ただし、この場合のAquaはCyanとまったく同じ色である。 そのほかにも英語には水の色に由来する色名が多い。 水の色の緑みをより強調する場合にはアクアグリーン (aqua green)・ウォーターグリーン (water green) などの色名も用いられる。 ただし、アクアマリンは宝石のアクアマリン(緑柱石)の色であり、水とは直接関係ない。 空色 セルリアンブルー サックスブルー 浅縹 青 青緑 シアン ^ 「水色」『スーパー大辞林』三省堂、2013年。 ^ 「水色」『ウィズダム和英辞典』三省堂、2007年。 近江源太郎・監修 『色々な色』 光琳社出版 1996年 ISBN 4-7713-0232-4 清野恒介・島森功 『色名事典』 新紀元社、2005年7月。ISBN 4-7753-0384-8。 永田泰弘・監修 『新版 色の手帖』 小学館 2002年 ISBN 4-09-504002-5 福田邦夫・著 『色の名前はどこからきたか』 青娥書房 1999年 ISBN 4-7906-0180-3 福田邦夫・著 『色の名前507』主婦の友社 2006年 ISBN 4-07-248540-3 藤井健三・監修 『京の色事典330』 平凡社 2004年 ISBN 4-582-63412-5 色 色名一覧 日本の色の一覧 青22号 WEB色見本 原色大辞典 色サンプル(色見本と配色) 色見本の館", "灰色(はいいろ、カイショク、英: gray / grey)は物を燃やした際に出る灰のような色。例えば、白と黒の着色材の混合によって作ることができる。無彩色もしくは白と黒の中間色と呼ばれるが、普通は若干の色味を有する。鼠色と呼ぶこともある(ただし、灰色と鼠色は厳密には異なる)。 黒と白の配合の割合の違いで、さまざまな明度を持つ色を作ることが出来るが、その色がすべて極めて彩度の低い色になるとは限らない。黒色の着色材には様々な色足があり、白色の着色材を加えるに従い、色味を現す。千々岩英彰は、白色絵具と黒色絵具の混合物は「中性の灰色ではなく,青みを帯びて見える.」としているが、良く知られるように黒色顔料の足色は多様であり、この表現は一面的である。ただし、有機顔料に限って言えば、個性的な足色を有する顔料は、用途や消費量に関しても限定的なものが多く特殊である。 反射率50%の灰色は、視覚的には黒に近く見える。マンセル表色系では、明度5を反射率19.27%としている。マンセル表色系における灰色の決定には、二分法、大距離法と呼ばれる比較的新しく考案された知覚尺度構成法が用いられた。なお、以下に挙げるパーセンテージは反射率そのものではない。 先述のように、灰色の着色材には普通、黒色顔料と白色顔料を用いて、灰色顔料は用いない。市販の灰色の絵具はしばしば、黒色と白色以外にも有色顔料を含む。 単独で灰を呈色する顔料は殆ど存在しないが、天然スレート粉を挙げることが出来る。練成に時間の掛かる顔料である。天然スレート粉は、ヘンリー・デービスが考案した、デービスグレーとして知られる。ただし、天然スレート粉は品質が一様ではなく管理が困難であり、現在では別の顔料によって色出しするなどの対策が採られている。なお、セメントから作られるスレート板は、粉砕しても顔料の適性を具えない。 犯罪の容疑者について、有罪のことをクロ、無罪のことをシロとし、疑わしいが証拠が十分ではない場合を灰色(またはグレー)と表現する。。 英語では、grayとgreyという2通りの綴りが存在する。greyはイギリス英語で用いられる。 類似する色に「オフホワイト」が存在する(完全に白ではない色)。 日本では、容器保安規則第10条で、ガスボンベは、特定の種類のガスや別途例外となる場合を除き、ねずみ色に塗装することに定められている。 鼠色 鈍色 銀色 白 黒 生牡蠣色 ^ 『色彩学概説』 千々岩 英彰 東京大学出版会 2001/4 ISBN 4130820850 ^ 『絵具の科学』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1994/5(新装普及版) ISBN 480550286X ^ Goo辞書「灰色」 - デジタル大辞泉より(2012年8月1日閲覧)。 ^ Goo辞書「grey」 - プログレッシブ英和中辞典より(2012年8月1日閲覧)。 ^ 容器保安規則(昭和四十一年五月二十五日通商産業省令第五十号)、2012年8月1日閲覧。 『色彩学概説』 千々岩 英彰 東京大学出版会 2001.4 ISBN 4130820850 『絵具の科学』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1994.5(新装普及版) ISBN 480550286X 『絵具材料ハンドブック』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1997.4(新装普及版) ISBN 4805502878 『絵具の事典』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1997.1 ISBN 978-4805503171 色 色名一覧 日本の色の一覧 無彩色 グレースケール モノクローム", "黄色(黃色、きいろ、オウショク)は、基本色名の一つであり、色の三原色の一つである。ヒマワリの花弁のような色。英語では yellow と言う。暖色の一つ。波長 570〜585 nm の単色光は黄色であり、長波長側は橙色に、短波長側は黄緑色に近付く。RGBで示すと赤と緑の中間の色。黄(き、オウ、コウ)は同義語。 現代日本語では一般に「黄色」(名詞)、「黄色い」(形容詞)と呼ぶ。これは小学校学習指導要領で使われ、母語として最初に学ぶ色名の一つである。しかし JIS 基本色名やマンセル色体系における公式名称は一般に黄色ではなく黄(黃、き)である。複合語内の形態素としては、黄緑、黄身、黄信号など、「黄」が少なくない。 色料の三原色の一つが yellow と取り決められているため、イエローと呼ぶ場合、単に黄色の英語名というよりも色料の三原色の一つとしての黄色であることを指示することが多い。カラー印刷でのインク・トナーに使われる。通常、シアン (cyan)・マゼンタ (magenta)・キープレート(key plate) と共に使われ、CMYK と呼ばれる。印刷技術の専門用語ではキと呼ぶこともある。 ただし、現在の技術では理想の分光反射率曲線を示すイエローのインク・トナーを作ることは少なくとも不可能であり、黄色のインクは理想的なイエローとは違う色をしている。具体的な物質としての黄色の顕色成分については、黄色天然染料・黄色合成染料・黄色有機顔料・黄色無機顔料を参照。 JIS では黄色およびイエローがそれぞれ定義されている。この黄色とイエローはわずかに異なる色として示されている。 光の三原色である赤 (#FF0000) と緑 (#00FF00) を一対一の割合で混合した色に該当し、RGB 値では (R, G, B) = (255, 255, 0) で表される。ウェブカラーで Yellow を指定すると、#FFFF00 と同等に扱われる。これは、固有色名でいう檸檬色に近い。 また、LightYellow というコードも指定可能である。物体色の黄色には Gold が近い。 着色に使用される黄色色素は様々あるが、様々な着色のシステムに用いられる色素の中で黄色を呈するものの耐光性は、総じて劣っている。加えて、無機顔料については毒性を有するものが多いが、被覆力を含めた様々な特性を全面的に代替する顔料は存在しない。 染料については、天然染料と合成染料に大別し、顔料については有機顔料と無機顔料に大別して、記述する。この区分は、顔料と染料のそれぞれの分野で尊重されている典型的な区分である。なお一般的に使用される安全な色料を先に記述し、その後で有毒で一般的に使われない色料を記述する。 黄色の染料のうち植物由来のもの。黄色天然染料は伝統的な染料で、一部は、日本語の来歴を証言する性格も有する。 黄色のガム樹脂で、東アジアでは数百年以上昔から絵具として使用された。主としてインド、中国、タイ等に自生するマンゴスチン科の各種樹木から採取される。ヨーロッパでは古くから商品として伝えられており、初期フランドル絵画に使用されたとも言われる。主として水性絵具、揮発性ニス (varnish)、金属ラッカーの用途がある。草雌黄とも言う。 キハダ(黄檗)は「黄肌」という意味で、ミカン科の植物である。5から6月頃黄緑の花をつける。樹皮の内側は黄色であり苦味がある。樹皮は染色に使用される。樹皮の薬用名は黄檗(オウバク)であり、健胃剤や火傷の薬である。なおキハダで染色する場合は媒染剤を用いず直接染料として用いる。 カリヤス(刈安)はイネ科の植物である。灰汁を媒染剤に用いる。 ウコンはショウガ科の植物である。地下茎を黄色の染料として用いる。媒染剤不要の直接染料。香辛料・食品用の天然着色料としても用いられる。 オウレンはキンポウゲ科の植物である。根を黄色の染料として用いる。媒染剤不要の直接染料。 クチナシはアカネ科の植物である。果実を黄色の染料として用いる。媒染剤不要の直接染料。食品用の天然着色料としても用いられるが、天然着色料として用いる場合は黄色から緑、青にかけての幅広い色調をカヴァーする。 ズミはバラ科の植物である。樹皮を黄色の染料として用いる。ミョウバンを媒染剤に用いる。煎餅の着色にも用いられる。 ハイノキはハイノキ科の植物である。葉を黄色の染料として用いる。灰汁を媒染剤に用いる。 メギはメギ科の植物である。樹皮を黄色の染料として用いる。媒染剤不要の直接染料。 黄色の染料のうち石油から化学的に合成されたもの。代表的なものとしてアゾ系の黄色染料やピラゾロン系の黄色染料が挙げられる。なお黄色合成染料はレーキ化することによって黄色の有機顔料としても用いられる。レーキ型アゾ系黄色顔料やレーキ型ピラゾロン系黄色顔料はアゾ系黄色染料やピラゾロン系黄色染料をレーキ化して顔料としたものである。 一般工業製品や学校で使われる絵具などには、しばしば毒性の少ない有機顔料が使用される。但し一般印刷に使用されている安価な製品は安価な赤色色素と同様紫外線に弱く、数箇月程屋外に掲示されたポスターなどはマゼンタやイエローが退色し、青く見える。なお、レーキ型の有機顔料は、水溶性を有する有色物質を電離させ、担体としての金属イオンと電気的に結合させたものである。 アゾ顔料はアゾ基を有する化合物で、顔料としては顔料色素型とレーキ顔料型がある。ただし高分子化するにつれ耐溶剤性は高まる。レーキ顔料型は鮮明な色相を有し耐溶剤性も有する。一般印刷用インキや塗料、安価な絵具等に使われている。 黄色のモノアゾ (monoazo) 顔料の種類は多いが概して耐溶剤性に劣る。Color Index には Colour Index Generic Name、Pigment Yellow 1、Pigment Yellow 3、Pigment Yellow 74、Pigment Yellow 65、Pigment Yellow 111等が記載されている。Pigment Yellow 3は有機顔料としてはかなり以前に開発された顔料であるが、緑味黄を呈する比較的不透明な黄色顔料で、その色相やコストパフォーマンスから重要な顔料である。Pigment Yellow 65は日本では、Pigment Yellow 83によって駆逐された傾向を見出せる顔料であるが、世界的には依然として重要な顔料である。アリライドイエロー (arylide yellow) とも言う。 ジスアゾ (disazo) 顔料も種類が多い。モノアゾ顔料と比較して着色力が強く、耐溶剤性も高い。Color Index には Colour Index Generic Name、Pigment Yellow 81、Pigment Yellow 83等が記載されている。ジアリライドイエロー (diarylide yellow) とも言う。 縮合ジスアゾ (condensed disazo) 顔料は従来の不溶性アゾ顔料に比べ、耐光性、耐溶剤性などが高いが、生産コストも高い。ジスアゾ縮合とも呼ばれる。具体的には、Pigment Yellow 93、Pigment Yellow 94、Pigment Yellow 95、Pigment Yellow 128、Pigment Yellow 155、Pigment Yellow 166がある。Pigment Yellow 94は生産終了。 Pigment Yellow 128は、現行最も緑味の縮合ジスアゾ顔料で、インクジェットインキ等にも使用される実績のある、透明性が高い割に鮮明な顔料である。 Pigment Yellow 155は、Pigment Yellow 17に近い色相を具えた鮮明な黄色顔料である。耐久性が高く塗料、インキ、プラスチックなど様々な分野で使用されている重要な顔料で、色相や物性の異なる様々な製品が流通している。塗料分野では高い隠蔽性を具えた製品が使用されていて、耐候性はかなり優れている。印刷インキ用としては、透明タイプも隠蔽タイプも使用されているが、透明タイプは流動性に難がある。単にジスアゾ顔料にも分類されることもある。 ピラゾロン系黄は赤味の強い黄色系統の顔料である。Colour Index Generic Name、Pigment Orange 13、Colour Index Generic Name、Pigment Orange 34 がよく使用される。レーキ型ピラゾロン系黄色顔料として、タートラジンイエローがある。色合いは美しいが耐光性に難がある。そのため、あまり普及していない。 ベンツイミダゾロン (benzimidazolon) 顔料は近年重要性が高まっているアゾ顔料で、その中でも特に重要なのはベンツイミダゾロン系モノアゾ (benzimidazole monoazo) である。具体的にはPigment Yellow 151、Pigment Yellow 154、Pigment Yellow 175 等がある。ベンツイミダゾロン顔料の内で赤味のものは橙色を示すが、それ程優れた顔料ではない。具体的にはPigment Orange 36、Pigment Orange 72がある。 キノキサリン顔料としては、Pigment Yellow 213がある。Pigment Yellow 175のベンツイミダゾロン基をキノキサリンジオン基に置換した構造である。つまり、Pigment Yellow 175に炭素原子1個、酸素原子1個が追加された分子構造のモノアゾ顔料である。分子式は、C22H19N5O8で、分子量は約481 g/mol。色相はPigment Yellow 175より赤味で、Pigment Yellow 154より緑味であり、幾分緑味の黄色を呈する顔料である。濃色ではPigment Yellow 154よりも不透明で、淡色では着色力の強さが際立つ。耐久性に関しては、全面的にPigment Yellow 154と同等以上で、Pigment Yellow 154の弱点である耐溶剤性と耐オーバーラッカー性を格段に向上させている。現在はまだ黄色顔料としては高価である。N-メチルピロリドン中で加熱して製造される。 アゾメチン顔料は、シッフ塩基そのもの、或いは、シッフ塩基の一部を置換した構造、特にイミンを分子構造中に有する顔料。 金属錯体顔料は、高い透明性と濃色と淡色の色差が特徴であるが、彩度の低さなどから市場性が限定的であり、比較的短期間で生産が終了したものもある。 具体的にはPigment Yellow 117、Pigment Yellow 129、Pigment Yellow 150、Pigment Yellow 153がカラーインデックスに記載されている。 Pigment Yellow 117とPigment Yellow 129は濃色ではいわゆるオリーブ色で、淡色は緑味黄である。Pigment Yellow 129は、Pigment Yellow 117に類似した構造の顔料で、Pigment Yellow 117よりは幾分鮮やかである。Pigment Yellow 117はBASFの製品であったが生産終了。 Pigment Yellow 150は濃色では低彩度で低明度の赤味黄であり、淡色は不鮮明な中黄である。チタン白との併用で「レモンイエロー」になると表現されるが、実際にはレモンイエローと呼ぶには随分赤味であり、幾分宣伝的な表現である。Pigment Yellow 150は、2つのバルビツール酸の炭素と化合している水素原子2個をアゾ基で置換した構造、言い換えると、2つのバルビツール酸をアゾ基で架橋した構造のニッケル錯体顔料である。関連する合衆国特許は、United States Patent 3869439である。 Pigment Yellow 153は濃色ではやや暗い黄橙色を呈し、淡色は赤味黄である。濃淡に関わらず、発色が重くやや不透明で曇りがある。彩度は比較的高いが、多くのアゾ顔料程の明度の高さは無い。色相、粒度、外観性状、透明性など幾つもの理由から、プロセスカラーには適さない。ニッケル錯体顔料で、窒素原子と酸素原子が化合した箇所が多く、複数の構造式が知られている。構造中にニトロソ基を有する。 黄色顔料のキノフタロンイエローは 1968 年に開発された。無水フタル酸とキナルジンから合成される顔料で、フタロシアニン顔料に匹敵する高い堅牢性を具える。高価であるため、あまり普及していない。Colour Index には Colour Index Generic Name Pigment Yellow 138 が記載されている。 イソインドリノン顔料は、イソインドールの五員環を構成する炭素と化合している水素1個を酸素で置換し、もう一方の水素を脱落させた構造として説明可能な、イソインドリノン骨格を有する顔料である。 具体的には、Pigment Yellow 109、Pigment Yellow 110、Pigment Yellow 173、Pigment Orange 61 がある。蛍光を発するが不安定なイソインドールを塩素の導入などによって、耐久性を改良した顔料シリーズである。Pigment Yellow 173は最も緑味で、透明性が高い。導入されている塩素原子は1分子当たり2個。これ以外のPigment Yellow 109、Pigment Yellow 110、Pigment Orange 61に導入されている塩素原子は1分子当たり8個で、高塩素顔料である。Pigment Orange 61は、構造中にアゾ基を有する。 イソインドリン顔料は、イソインドールの五員環を構成する炭素と化合している水素2個を炭素で置換した構造として説明可能な構造を有する顔料である。現在までに、対称性の高い分子構造の顔料は存在していない。具体的には、Pigment Yellow 139、Pigment Yellow 185、Pigment Orange 66、Pigment Orange 69、Pigment Red 260 がある。Pigment Red 260は、構造中にシッフ塩基を有する。 黄色のアントラキノン系の顔料としてColour Index にはColour Index Generic Name、Pigment Yellow 24 が記載されている。このフラバントロンイエローは、1901 年に開発された。アントラキノンの一部を置換した構造を具えた顔料であり、アントラキノン顔料に分類される。260℃まで安定である耐熱性、希釈時の耐光性が際立っている。色数が乏しく高価であり、用途は限定的である。現在は製造中止。 色合いや耐光性、被覆力などの性能から有機顔料では代替できないものがある。毒性が強いものもある。 世界中で極めて古くから使用されてきた黄色顔料で、フランスやイギリスで良質のものが産出する。いわゆるシエナ土の組成は黄土とほとんど同じで、類似している。水和酸化鉄 Fe2O3・H2O を主たる発色成分とし、珪酸アルミを含有する。様々な成分による自然な色合いに特徴がある。色合いも多様であるが、いわゆる黄土色を呈すると言って障りない。毒性のない黄色無機顔料として知られ、有機顔料が使用できない用途での使用がある。Colour Index Generic Nameは天然黄土がPigment Yellow 43で、合成黄土がPigment Yellow 42である。 コバルト黄は、含水亜硝酸第二コバルトカリである。彩度が高く堅牢で、黄色の無機顔料の中で唯一、透明である。耐光性はあまり高くない。オーレオリンの名前で絵具として使用されている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 40である。ただし、コバルト黄によらない「オーレオリン」も存在する。このように、絵具の名称から顔料の組成を即断することはできない。 チタン-ニッケル-アンチモン 酸化物、チタン-ニッケル-バリウム 酸化物、チタン-クロム-アンチモン 酸化物、ジルコニウム-バナジウム 酸化物などは、黄色を呈する複合酸化物顔料である。複合酸化物顔料 (mixed metal oxide pigment) とは、複数の金属酸化物を混合し、1000℃以上の高温で焼成した顔料である。複合酸化物顔料は着色力が小さいものの、耐熱性、耐候性に優れる。セラミックや耐熱塗料に使用される。焼成顔料 (calcination pigment) とも呼ばれる。 黄色のチタン系顔料は、下掲のものが知られている。 レモン調の極めて堅牢な顔料。チタン、ニッケル、アンチモンの酸化物固溶体。安全な無機顔料として知られている。1950年代にUSAで製造されるようになった。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 53である。 彩度の高い緑味がかったレモン調の顔料。チタン-ニッケル-アンチモン酸化物同様安全な無機顔料として知られている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 157である。 鮮明な黄土色といった色合いの顔料。クロムを含む黄色顔料ではあるがクロムが六価ではなく三価の状態になっており、クロム化合物であるが、現在使用されている安全性の高いクロム系顔料同様、安全な顔料として知られている。Colour Index Generic NameはPigment Brown 24である。 チタン-クロム-アンチモン 酸化物同様クロムが三価の状態で含まれる黄色顔料であり、クロム化合物であるが安全性の高い顔料として知られている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 162である。 チタン-クロム-アンチモン 酸化物やチタン-クロム-ニオブ 酸化物同様クロムが三価の状態で含まれる黄色顔料であり、クロム化合物であるが安全性の高い顔料として知られている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 163である。 ジルコニアにバナジウムイオンを固溶させて製造される黄色顔料で、セラミック顔料として使用される。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 160である。 酸化スズにバナジウムイオンを固溶させて製造される黄色顔料で、セラミック顔料として使用される。バナジウムジルコニウム黄よりも色調が鮮やかである。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 158である。 ビスマスの化合物とメタバナジン酸アンモニウムを反応させて製造される黄色顔料で、ビスマスのバナジン酸塩である。ビスマス黄 (Bismuth Yellow) とも呼ばれる。鮮やかな色調をもち耐熱性に優れた毒性のない黄色無機顔料であることから、鮮やかな色調ながら毒性が強くなおかつ発色と効果の面で黄色有機顔料による代替を許さなかったカドミウム黄の代替品として使用されることがある。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 184である。 ジルコンに4価のプラセオジムイオンを固溶させて製造される黄色顔料で、セラミック顔料として使用される。黄色の無機顔料の中では安全性が高く、近年は絵具にも使用されている。 黄色を呈する硫化ヒ素で、各地に産するが毒性があり、その供給に限りがあり今日では顧みられない。純度の高いものは、輝きのある冴えたレモン色を呈する。古画にあっては、荒粒で用いられ、現在でも豊かな黄色を保っている。しばしば、近い関係にあるリアルガーを含んでいる。プリニウスやヴィトルヴィウスが言及している、古典時代に使用された顔料である。ド・ヴィルトの調査によれば、オランダ及びフランドルの絵画には一例も使用が無い。これは錫 - 鉛 - 黄の登場によって、不要になったからだと考えられている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 39である。 14世紀においても僅かに使用されたが、15-17世紀に使用された顔料である。17世紀のナポリ黄の出現により忘却され、かつては、ナポリ黄と混同されていた。1940年デルナー研究所のヤコビ博士のスペクトル分析によって再発見されるまで、様々な文献にも現れない。隠蔽力に優れ、油性媒材、水性媒材ともなじむ。 密陀僧・マシコット、金密陀・リサージ (litharge) は共に黄色を呈する一酸化鉛の呼称である。塩基性炭酸鉛を長時間高温で加熱すると黄色の一酸化鉛が得られる。かつてはヨーロッパ絵画に使用されたと言われているが、自然科学的方法で調査すると錫 - 鉛 - 黄である。日本においては法隆寺壁画に使用された。唐から日本に密陀僧が伝わり乾燥促進剤として使用された。 主成分はアンチモン酸鉛。イタリアのベスビオス火山で得られたとされる。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 41である。絵具のネープルスイエローは、名前として残る。但しセラミック顔料のネープルスイエローは本物のアンチモン酸鉛が使用されている。 黄鉛、ジンククロメート、バリウムクロメート、ストロンチウムクロメート、カルシウム黄等のクロム酸塩からなる黄色顔料。六価クロムを含むため毒性が強く、また耐光性に弱い上硫化水素により黒変するといった欠点がある。クロム酸系黄のうち黄鉛とジンククロメートは 2000年頃までは錆止め塗料や黄色塗料に大量に使われていたが、毒性や環境問題から使用が制限されてきている。例えば自動車用塗料では既に鉛や六価クロムを含む顔料はほとんど使用されていない(日本自動車工業会 JAMAGAZINE より)。また日本塗料工業会でも自主規格 JPMS 26 を設け、塗料中の鉛を減らすように動いている。 バリウム黄はクロム酸バリウムで、淡緑黄の顔料でクロム酸カリウムと塩化バリウムの溶液から作る。塩化バリウムが塩化ストロンチウムに置き換わる以外は、ストロンチウム黄と同じ製法である。1809年ヴォークランはクロム酸バリウムの製法を発表したが、これはこの顔料の最初の記録である。バライタイエロー、バライトイエロー、レモンイエローとも言われる。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 31である。 淡緑黄の顔料でクロム酸カリウムと塩化ストロンチウムの溶液から作る。塩化ストロンチウムが塩化バリウムに置き換わる以外は、バリウム黄と同じ製法である。ウルトラマリンイエローの名称ももつがウルトラマリンとは無関係。クロム酸ストロンチウム。ストロンシャンイエロー、レモンイエローとも言われる。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 32である。 クロム酸カルシウムを主成分とする黄色顔料。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 33である。 黄鉛はクロム酸鉛を主成分とする。L.N.ヴォークランは、回想録の 1909 年の欄においてクロム酸鉛の製法および性質を記している。そして1818年に大量生産が開始された。かつて塗料に大量に使用されていたが最近は毒性を考慮して使用が減少している。黒変する。ジャック=ルイ・ダヴィッドは、この顔料のパレットへの採用に関して保守的だった。フィンセント・ファン・ゴッホがよく使用したことも知られている。ゴッホの黄色が独特の色合いをしているのは、黄鉛が黒変する為であり、必ずしも彼の色彩感覚が独創的だったことを意味しない。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 34である。 クロム酸亜鉛、クロム酸カリ亜鉛、塩基性クロム酸亜鉛による顔料などを亜鉛黄と呼称する。ジンクイエロー。レモンイエローとも言われる。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 36である。 組成は硫化カドミウム(Colour Index Generic Name、Pigment Yellow 37)もしくは硫化カドミウム-硫化亜鉛(Colour Index Generic Name、Pigment Yellow 35)である。Colour Index Generic Nameからはカドモポン黄であるか否かは判別できない。ただし欧米では、カドミウム黄でも毒性の高いPigment Yellow 37ではなく、Pigment Yellow 37よりは毒性が弱いPigment Yellow 35に代替されている。淡色は淡色のビスマスバナジウム黄にも似た色合いであるが、濃色のカドミウム黄は濃色のビスマスバナジウム黄では到底及ばない、高彩度で不透明性の高い無機顔料である。堅牢性は複合酸化物による黄色顔料のほうが高いが、色合いではカドミウム黄が優れる。有毒で高価であり、なおかつ絵具以外ではカドミウム黄と似た色調でなおかつ毒性のない黄色無機顔料であるビスマスバナジウム黄に代替されているため、今日では油絵具や水彩絵具を除いてほとんど使われない。他方、絵具においては、先述の性質から人気が高く、カドミウム黄の優れた特性を全面的に具えた代替物は存在しない。したがって、代替顔料はカドミウム顔料が持つ優れた特性を必要としない場合にこそ勧められる。また、世間ではカドミウム化合物が環境に及ぼす影響を懸念する声が一部存在するが、絵具メーカーが使用するカドミウム顔料は、実用において他の物質に溶け出すことは無い。 様々な物質の呼称にも色彩を表す語彙が用いられてきた。人体を素材としたものも例外ではない。生薬の人中黄には、黄の字が入る。顔料としても用いられたミイラよりも黄味の色合いである。ミイラは、ルネサンス期の一部の肖像画、それもその下層に少量用いられた。近世にはこれとは異なる処方も存在したが、必ずしも典型的なものではなかった。この時代には既に、酸化鉄を用いた別の顔料も存在していた。 仏教団誕生時から法衣を黄色に染めた。原料はウコン。ウコンからとれる染料の黄色は、古代インドでは、「太陽の黄金色」として珍重された。 宋代から清代までの中国では、黄色は皇帝・皇位を表す色として尊ばれ、皇帝以外の使用が制限された。黄色が皇帝を表す理由に、「黄」と「皇」の発音が同じ(北京官話ではともにhuáng)だからという説がある。また、中国の五行思想で黄色が中央を表すことから、国の中心である象徴として黄色の服を着たともいわれる。黄色は黄帝の象徴である。 現代では黄色と書くと「エッチな」・「卑猥な」の意味となり、日本でいうピンクと同様の意味合いで使われる。 1980年代以降の反精神汚染運動において、低俗・西側かぶれとする文化を「黄色文化」と称する。 奈良時代の冠位十二階において、上から7番目の位(大信)を示す色であった。律令時代以降は無位の者の袍の色とされたが、時代が下るとこの袍は公に用いられることが無くなり、わずかに貴族の子弟が元服の時使用するに至った。 これには様々な説があるが、第一の説としてイエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダの衣の色が黄色だったことから、西欧では、黄色には負のイメージがあった。道化の服の色でもあった。第4ラテラノ公会議はキリスト教徒とユダヤ人を衣服で区別させることを決議したため、国によってはユダヤ人に黄色の布の標識を着用させる制度が生まれた。近代においても、ナチスはユダヤ人に黄色のバッジ(英語版)を着用させた。このため黄色には「裏切り」、「嫉妬」、「排斥」といったネガティブなイメージもある。現在でも西欧では黄色を第一のナショナルカラーとする国は少ない。国旗・紋章において用いる黄色は、金色の代替色であることが多い。 ネガティブイメージの例: yellow-dog;〔形容詞〕下等な、卑しむべき(→「黄犬契約」) 黄色は視認性の高い色で、特に黒との組み合わせは非常に目立つコントラストとなる。この「黄色と黒」の組み合わせを一般に「警戒色(警告色)」と呼び、交通標識(警戒標識)や軽自動車のナンバープレート(下記参照)、鉄道の踏切、工事現場、各種工場などで多用される。警戒色としての黄色と黒の組み合わせは、太陽の色である黄色と、闇夜の色である黒を組み合わせる事で、視認性を高めている。俗に「虎マーク」とも呼ばれている。 日本海海戦のロシア艦隊は、煙突を黄色と黒に塗り分けており、日本艦隊にとって視認しやすかったと言われている。また、蜂の体色も、黄色と黒の組み合わせ(縦縞)であることが多い。これは、蜂は毒針で刺す能力を持つ自分を、視覚的に他の動物に印象づけることで、外の動物が避けてくれるようになる効果を持つと言われており、これを生物学の分野でも「警戒色」という。ちなみに、虻やカミキリムシの一部など、擬態のためにこの体色となる生物も少なくない。 このように、黄色は暗い所でかなり目立つ色なので、交通安全には必需の色であると言える。特に小学生が登下校時に被る通学帽(黄色い帽子)や、幼稚園児の通園バッグや、児童用の雨傘には、黄色一色が用いられることが多い(かつては珠算塾の通塾バッグなどにも黄色が多く使われていた)。かっぱやヘルメットにも、黄色一色が用いられることも多い。関連してアメリカ合衆国のスクールバスの多くは黄色に黒帯のカラーリングを採用する。(en:School bus yellowも参照) 檸檬色 クリーム色 淡黄色 浅黄色 山吹色 黄土色 金色 オレンジ色 橙色 琥珀色 ミカドイエロー サフラン色 玉蜀黍色 アプリコット ベージュ 生成色 カーキ色 バフ ジャスミン ストロー 茶色 オリーブ色 黄緑 萌黄 ライムグリーン 緑 黄1号 黄5号 シアン マゼンタ 色 色名一覧 日本の色の一覧 黄で始まる記事の一覧 ^ 大阪府教育センター, ed. (2005), “色彩教育研究 — 美術における色彩教育の在り方と系統化 —”, 研究報告集録 121, http://www.osaka-c.ed.jp/kak/web/kenkyuu17/01.html  ^ 絵本では一貫して「黄色」が使われている。五味太郎「きいろのほん」、わらべきみか「ミーミとクークのあか・あお・きいろ」、ロラン・ド・ブリュノフ「ババールのあか・あお・きいろ」、タナ・ホーバン「あか あお きいろ」、レオ・レオーニ「あおくんときいろちゃん」など多数。 ^ K は Key Plate の K ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae The Color of Art Pigment Database : Pigment Yellow, PY ^ a b c d e The Color of Art Pigment Database : Pigment Orange, PO ^ http://www.j-tokkyo.com/1999/C09B/JP11100519.shtml ^ The Color of Art Pigment Database : Pigment Red, PR ^ 『有機顔料ハンドブック』 橋本勲 カラーオフィス 2006.5 ^ The Color of Art Pigment Database : Pigment Brown, PBr ^ a b 画材のエコロジー『アートなび』からの提言 - 株式会社ハート・アンド・アート公式サイト 内のページ ^ 「WINSOR&NEWTON Artist's Water Colour Perfecting the Fine Art of Water Colours ― パーフェクトな水彩絵具を目指して ―」Winsor & Newton ^ ジャック・アタリ著、鈴木正昭訳「ユダヤ人, 世界とお金 (7)」、『中央学院大学人間・自然論叢』第28巻、中央学院大学、2009年1月、 162頁、 NAID 110007004468。 『色彩学概説』 千々岩 英彰 東京大学出版会 2001.4 ISBN 4130820850 『色彩論の基本法則』ハラルド キュッパース (著), Harald K¨uppers (原著), 沢田 俊一 (翻訳) 中央公論美術出版 1997.07 ISBN 9784805503348 『顔料の事典』 伊藤 征司郎(編集) 朝倉書店 2000.10 ISBN 978-4254252439 『有機顔料ハンドブック』 橋本勲 カラーオフィス 2006.5 『絵具の科学』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1994.5(新装普及版) ISBN 480550286X 『絵具材料ハンドブック』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1997.4(新装普及版) ISBN 4805502878 『絵画技術入門―テンペラ絵具と油絵具による混合技法(新技法シリーズ)』 佐藤 一郎 著 美術出版社 1988.11 ISBN 978-4568321463 『カラー版 絵画表現のしくみ―技法と画材の小百科』森田 恒之監修 森田 恒之ほか執筆 美術出版社 2000.3 ISBN 4568300533 『絵画材料事典』 ラザフォード・J・ゲッテンス・ジョージ・L・スタウト著 森田恒之訳 美術出版社 1999.6 ISBN 4254252439 『広辞苑 第五版』新村 出 岩波書店 1998.11 ISBN 978-4000801126 『漢字源』漢字源 藤堂 明保,竹田 晃,松本 昭,加納 喜光 学習研究社 改訂第四版 2006.12 ISBN 978-4053018281 『漢字源』藤堂 明保,竹田 晃,松本 昭,加納 喜光 学習研究社 改訂新版 2001.11 ISBN 978-4053008893 『ジーニアス英和辞典』 小西 友七,南出 康世(編集) 大修館書店 第3版 2001.11 ISBN 978-4469041583 『ジーニアス和英辞典』 小西 友七,南出 康世(編集) 大修館書店 第2版 2003.11 ISBN 978-4469041651 近江源太郎・監修 『色々な色』 光琳社出版 1996年 ISBN 4771302324 清野恒介・島森功 『色名事典』 新紀元社、2005年7月。ISBN 4-7753-0384-8。 永田泰弘・監修 『新版 色の手帖』 小学館 2002年 ISBN 4095040025 福田邦夫・著 『色の名前はどこからきたか』 青娥書房 1999年 ISBN 4790601803 福田邦夫・著 『色の名前507』主婦の友社 2006年 ISBN 4072485403 藤井健三・監修 『京の色事典330』 平凡社 2004年 ISBN 4582634125" ]
ABC01-02-0202
少し緑がかった青色のことを、その色がトルコ石に似ていることから何ブルーというでしょう?
ターコイズブルー
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[ "ターコイズブルー", "ライラック (色)", "生牡蠣色", "フクシャ", "鬱金色" ]
[ "ターコイズブルー(turquoise blue)は緑がかった青のこと。くすんだ緑がかった青を「ターコイズブルー」と呼ぶ場合もある。また、ターコイズブルーより緑がかっている青色は、「ターコイズグリーン」と呼ばれる。ターコイズとはトルコ石を意味する。 色材としてのターコイズブルーに用いられる色料は様々であり、顔料としてはコバルトクロム青、マンガン青、フタロシアニン青及び緑などがある。また、セラミック顔料を使用する分野ではバナジウムジルコニウム青のことをターコイズブルー或いはトルコ青と呼ぶ。 硫酸バリウムに定着させたマンガン酸バリウム。極めて赤みの少ない青色顔料であり、黄と混合しても鮮明な緑を作る。このような独特な色調から注目されていたが、環境配慮の為に製造が中止された。 青#コバルトクロム青 Cobalt Chromium Blueを参照。 フタロシアニン、青#フタロシアニン Phthalocyanineを参照。 バナジウムジルコニウム青を参照。 水色 青 緑 青緑 シアン アクアマリン 浅葱色 セルリアンブルー 色名一覧 色", "ライラックは色の一つ。ライラックの花の色を由来とする。英語で薄紫色でもある。 日本工業規格において、JIS慣用色名の1つとしてこの色名が次のようにマンセル値で定義されている。 藤色 葡萄色 マゼンタ 紅色 藍色 色 色名一覧 日本の色の一覧", "生牡蠣色(なまがきいろ)は色の一つで、カキの身のような色を指す。 単に牡蠣色(かきいろ)といっても同じ色をさす。 英名ではオイスターホワイト (oyster white)。 灰色 色 色名一覧 日本の色の一覧", "フクシャ(フクシア・フューシャ、fuchsia)は赤紫色のことである。アカバナ科の植物フクシアの花の色にちなんで名づけられた。そのほかにフクシアの花の色にちなんで名づけられたものが、アニリン染料のフクシンであり、このフクシンの色は後にマゼンタと名づけられたため、フクシャとマゼンタはしばしば同一視される。フクシアの名前はドイツの植物学者フクスL. Fuchsにちなんでいる。 色材としてはマゼンタは三原色のひとつとして特別な扱いを受けるため、しばしばフクシャとの間に相違が出る。いわばマゼンタは基本色としての色名であり、フクシャはあくまで花の色にちなむ固有色なのである。 一方、ウェブカラーとしてもFuchsiaの語が定義されており、HTMLやCSSなどでカラーネームをFuchsiaとすることでウェブ上に鮮やかな赤紫色を表示することが出来る。ところがこの色は、赤(Red, #FF0000)と青(blue, #0000FF)をそのまま合成した色(#FF00FF)であり、ウェブカラーとしてのマゼンタ(Magenta, #FF00FF)とまったく同じ色合いになる。ウェブ上ではフクシャとマゼンタは完全に同一の色として扱われる。(このウェブカラーはしばしばピンクや紫とも呼ばれる。) また、フクシアの花の個体差によるわずかな色合いの違いによって、フクシャパープル(fuchsia purple)、フクシャレッド(fuchsia red)、フクシャピンク(fuchsia pink)などの色名も用いられるようになった。 マゼンタ 紅色 唐紅 赤 ピンク 紫 近江源太郎・監修 『色々な色』 光琳社出版 1996年 ISBN 4771302324 清野恒介・島森功 『色名事典』 新紀元社、2005年7月。ISBN 4-7753-0384-8。 永田泰弘・監修 『新版 色の手帖』 小学館 2002年 ISBN 4095040025 福田邦夫・著 『色の名前はどこからきたか』 青娥書房 1999年 ISBN 4790601803 福田邦夫・著 『色の名前507』主婦の友社 2006年 ISBN 4072485403 藤井健三・監修 『京の色事典330』 平凡社 2004年 ISBN 4582634125 色 色名一覧 フクシア フクシン マゼンタ", "鬱金色(うこんいろ)とは、ウコンの根で染めた色のこと。強い赤みの黄色。 原料となるウコンは、かつて「インドサフラン(crocus indicus)」とも称され、インド周辺及びアジア南部が源産地とされる。ウコンの塊根から抽出される黄褐色の粉末は、染料や漢方薬として古くより世界各地で利用された。スリランカなどでは上座部仏教の僧侶の衣の色として知られ、英語にもターメリックという色名が存在する。 鬱金色は、井原西鶴の浮世草紙に散見され、江戸時代前期に日本の上方を中心として、紬や小袖など着物の地色として好まれていた。また、防虫や皮膚病予防の効果があるとして幼児の肌着や木綿に染めて骨董品を包む用途に充てられた。 また、鬱金という字は「金がさかんに増える」(「鬱蒼とした森」のように、鬱には木々が生い茂るさまを表す意味もある)という意味に通じ、縁起を担いで財布や風呂敷の染色にも用いられた。 また、ベニバナ染めの下染めにもよく使われる。 原料となるウコンは、かつて「インドサフラン(crocus indicus)」とも称され、インド周辺及びアジア南部が産地とされる。 福田邦夫『すぐわかる 日本の伝統色』東京美術 ISBN 4-8087-0784-5 吉岡幸雄『日本の色辞典』紫紅社 ISBN 4-87940-549-3" ]
ABC01-02-0203
石川さゆりの曲「天城越え」にも歌われている、伊豆・天城山中にある落差25mの滝は何でしょう?
浄蓮の滝
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[ "浄蓮の滝", "万城の滝", "九頭竜峡", "義経岩", "陣馬の滝" ]
[ "浄蓮の滝 浄蓮の滝(じょうれんのたき)は、静岡県伊豆市湯ヶ島にある滝。日本の滝百選の一つ。 滝は狩野川の上流部、天城山の北西麓を流れる本谷川にあり、1万7000年前に伊豆東部火山群の鉢窪山スコリア丘が噴火した際に流出した玄武岩溶岩流を流れ落ちる直瀑である。落差は25m、幅は7mで岩盤には柱状節理が見られる。 かつて滝の付近に「浄蓮寺」という寺院があったことから「浄蓮の滝」という名称がついたと伝わる。 周囲には日本では伊豆半島と熊本県にのみ自生が確認されている「ハイコモチシダ(ジョウレンシダとも)」の群生地があり、静岡県指定の天然記念物にもなっている。 無料の駐車場が完備されており、傍らには土産物店が並ぶ。滝は駐車場から谷をかなり降りたところにあり、足腰の弱い高齢者には厳しい面がある。滝壺の近くにも土産物店が並ぶ。また、沢に沿ってワサビ田が広がる光景が見られるが関係者以外立入り禁止となっている。 女郎蜘蛛の精 - 滝壺にはジョロウグモの化身が棲むとの伝説がある。「むかし樵夫が、落とした鉈を探しに滝つぼの中に入ると美しい女性と出会う。その女性と姿を見たことの公言をしない約束をしたが、「滝の主は女郎蜘蛛だ」と村人から聞き、その出来事を話すと樵夫は深い眠りについた。」 滝の脇には、演歌歌手・石川さゆりのヒット曲である『天城越え』の歌碑がある(『天城越え』の歌詞に浄蓮の滝が登場するため)。 東海バス バス停「浄蓮の滝」下車 徒歩5分 ^ 静岡大学防災総合センター 静岡大学教育学部総合科学教室 小山真人研究室 伊豆の大地の物語 伊豆東部火山群の時代(34)浄蓮の滝と鉢窪山 ^ 伊豆市公式サイト 県指定天然記念物 ^ 「史話と伝説」より ^ 国土交通省 河川整備基本方針 狩野川水系「狩野川水系流域及び河川の概要」のPDF 『日本の滝① 東日本661滝』 北中康文/写真・文、2004年、山と溪谷社 伊豆東部火山群 - 鉢窪山が属する火山群 萬城の滝 - 伊豆市内にあり、浄蓮の滝と同じく天城山を源流とする滝 河津七滝 - 伊豆市に隣接する河津町にあり、浄蓮の滝と同じく天城山を源流とする滝 伊豆半島ジオパーク 浄蓮の滝 - 伊豆半島ジオパーク 浄蓮の滝観光センター 天城温泉郷観光ガイド - 伊豆市観光協会 天城支部", "万城の滝(ばんじょうのたき)は静岡県伊豆市の中伊豆地区にある高さ20メートル、幅6メートルの滝。萬城の滝と書かれることも多く、別名は裏見の滝。古くは大滝と呼ばれていた。 天城山の北麓を源流とする狩野川、その支流である地蔵堂川に滝は位置する。およそ2万4000年前に伊豆東部火山群の活動の一端として地蔵堂火山が誕生。そこから流れだした溶岩流の末端付近にあるのが万城の滝である。溶岩の岩盤には柱状節理が発達している。 別名に表れているように、以前は滝の裏側を見ることができたが、岩盤の崩落のおそれがあるために、現在歩道は閉鎖されている。また、2010年 - 2011年にかけて、崩落防止のために柱状節理の溝をモルタルで埋める補強工事が行われ、自然そのものの姿は失われている。滝は県と伊豆半島の7市6町が取り組んでいる「伊豆半島ジオパーク構想」の候補地の一つであったが、致命的な形で手が加えられたため、この滝をジオサイトとして指定することができなくなった。 滝には、「この地に住んでいた赤姫の機を織る音がこの滝の水の音と合して、牛の鳴き声に似ているので、滝の主はこの赤姫の飼っていた赤牛である」との伝説が残されている。 周囲には「萬城の滝キャンプ場」や「寄生木(ヤドリギ)」などがある。毎年8月中旬には「萬城の滝祭り」が開催され賑わう。 修善寺駅から伊豆箱根バス万城の滝行で「万城の滝」下車(季節運転)。 ^ 静岡大学防災総合センター 静岡大学教育学部総合科学教室 小山真人研究室「伊豆の大地の物語(71) 伊豆新聞連載記事(2009年1月4日) ^ 川中島建設 DKボンド工法 施工実績一覧 ^ 静岡大学防災総合センター 静岡大学教育学部総合科学教室 小山真人研究室「伊豆ジオパークの目標(10)ジオパークの保全 伊豆新聞連載記事(2011年5月22日) 北中康文 『日本の滝1 東日本661滝』 山と渓谷社、2004年。ISBN 4-635-06257-0。 浄蓮の滝 - 同じく天城山を源流とする伊豆市の名瀑。 河津七滝 - 同じく天城山を源流とする河津町の滝群。 萬城の滝キャンプ場", "九頭竜峡(くずりゅうきょう)は福井県大野市にある渓谷。九頭竜川の上流に位置し、九頭竜峡の地名は河川名に因む。奥越高原県立自然公園に属する。 荒島岳の閃緑岩が激流によって垂直に浸食されたもので、穿入蛇行を繰り返す河谷は非常に変化に富んだ景観が見られる。見所としては魚止の滝(単純に魚止と呼ばれることが多い)を始め、仏御前の滝、鳥ヶ壁、法善壁などがあり、紅葉も美しい。上流には仏原ダムがあり、更にその上流には全国最大級のロックフィルダム、九頭竜ダムがある。 日本の典型地形NO71 - 国土地理院 大野市", "座標: 北緯36度48分53.6秒 東経137度2分32秒 義経岩(よしつねいわ)は、富山県高岡市の雨晴海岸にある大岩。義経伝説が残る。雨晴岩(あまはらしいわ)ともいう。能登半島国定公園内にある景勝地。 1187年、義経一行が奥州平泉へ向かう途中に俄雨が降り出したため、弁慶が岩を持ち上げ、その陰で雨宿りをしたという伝説が残る。「雨晴」という地名はこの伝説に由来する。義経岩の上には義経神社が建てられており、「義経の腰掛」や「弁慶の足跡」といわれる跡が残っている。近くの伏木には歌舞伎の「勧進帳」のモデルとなったとされる如意の渡しがある。 源義経に関する史跡・祭祀一覧", "陣馬の滝(じんばのたき)は静岡県富士宮市にある滝。 五斗目木川にかかる滝で、上流からの水の流れと、溶岩層のすき間から湧き出す水が滝をなしている。「陣馬の滝」という名は源頼朝が行った富士の巻狩りの際、滝の近くに一夜の陣を敷いたことから名づけられた。 頼朝一行が滝の近くに陣を敷いた夜、滝壷から「ドンドン」と太鼓を打つような音がした。それを不思議に思った頼朝は、次の日に家来に滝壷を探らせた。すると滝壷から、中が空洞になった太鼓の胴のような石が出てきた。その後、その石は「太鼓石」と名付けられ今に伝えられている。 東名高速道路富士IC→西富士道路→国道139号→静岡県道414号富士富士宮線 駐車場 あり(20台・無料) 富士の巻狩り 白糸の滝 (静岡県) 音止めの滝 陣馬の滝 - 富士宮市" ]
ABC01-02-0204
楽譜に書かれる記号で、D.C.といえばダカーポですが、D.S.といえば何でしょう?
ダル・セーニョ
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[ "ダル・セーニョ", "ハルモニームジーク", "変ハ長調", "持続低音", "ハンガリー音階" ]
[ "ダル・セーニョ(イタリア語: dal segno)は、西洋音楽の楽譜上に「Dal Segno」ないし「D.S.」と記される演奏記号で、この記号の箇所から目印(セーニョ、)の箇所へと飛ぶことを指示する。 目印は、現代においては segno の頭文字 S を米印(※)のように見付けやすくデザインした「」の形が定着しているが、古い時代の浄書譜においては写譜家の装飾によって様々な形に書かれた。当時の目印は必ずしも決められたものではなく、無条件にそれと分かるものであれば事足りた。 イタリア語の dal は da + il が結合したもので英語の from + the に相当する。また、segno は英語の sign (印)を意味する。これらを合わせると、dal segno = from the sign、すなわち「印から」という意味になる。Dal Segno とは目印の箇所から演奏することをイタリア語で指示したものである。 クラシック音楽においては、古典派音楽の時代から徐々に、楽譜の一区間をそのまま繰り返すことを嫌い、音楽の進展をより求めるようになったため、この記号が用いられることは少なくなった。ロマン派以降は現代まで滅多に見かけることがないものであるが、ポピュラー音楽においては現在でもよく用いられる一般的な記号である。 古い音楽の中には多く使用され、da capo(ダ・カーポ)が曲頭に戻る指示であるのに対し、曲頭ではない箇所に戻りたい時に使用される。繰り返した後は、fine(フィーネ=end)か、もしくはフェルマータ記号が記されている箇所において曲を終えることとされる。時に、dal segno al fine と丁寧に記されている場合もある。イタリア語の al は a + il の結合型で、英語の to + the に相当するため、dal segno al fine = from the sign to the end すなわち「目印(の箇所)から終わり(と書いてある箇所)まで(演奏せよ)」という意味になる。 ショパンの初期の作品である『マズルカ作品7-5』には既に、終わりのない踊りを表現する奇抜な作品が書かれている。曲頭にはが書かれ、曲尾にはあえて dal segno senza fine =「終わることなく目印へ(戻れ)」と記されている。当時としては誰も書いたことのない斬新な指示を作品に書いたことになるが、彼は後に『マズルカ作品68-4』でも同様の指示をし、終わりなき踊りを書き残している。 サティによる『スポーツと気晴らし(挿絵とコメント付)』の第16曲目“Le Tango”(タンゴ)においては、曲尾から曲頭へとが付せられており(曲尾から曲頭へと戻るため、本来なら da capo を指示すべきであるが、曲に「はじめ」(capo)を設けたくなくて、あえて dal segno にしたとも考えられている)、戻って繰り返しても fine がないため、永遠に繰り返され、一旦弾き始めると底なし沼のように終えることのできない恐怖の曲とされている。題の下には彼自身によってフランス語で Perpétuel (永久の)と書き込まれ、曲中の各部分には「タンゴは悪魔の踊り。悪魔のお気に入りの踊り。妻も娘も召使いも、こうやって心を冷たくする。」とコメントが書きちりばめられている。サティはショパンのマズルカを知らなかったとは断定できないため、先人の作品から着想を得た可能性も充分に考えられる。 通常は、このように終わりがない曲にならないように、特別な意図がない限りは必ず曲の終わりを示しておく必要がある。", "ハルモニームジーク、あるいはハルモニー(ドイツ語: Harmoniemusik, Harmonie)は、18世紀後半から19世紀前半にかけて流行した管楽合奏の形態。 \"harmonie\"という語は管楽器による合奏全般を指す言葉でもあり、フランス語で軍楽隊を指す\"harmonie militaire\"、ドイツ語で木管五重奏を指す\"Harmonie Quintett\"などの用法がある。しかし現在この語が一般に使われる場合、1780年代からドイツ語圏を中心とした貴族階級に流行した管楽合奏、特に\"full harmonie\"、\"octet harmonie\"と呼ばれる場合もある、オーボエ2、クラリネット2、ホルン2、ファゴット2による八重奏を指す。 ハルモニーが用いられた主な機会は食事や催事の際の伴奏音楽としてであり、ソリストが招かれたときに共演する場合もあった。レパートリーの中心となったのは当時人気のあったオペラからの編曲で、ヨーゼフ・トリーベンゼー(英語版)が編曲したヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラ群や、ヴェンツェル・セドラク(ドイツ語版)編曲のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『フィデリオ』、カール・マリア・フォン・ウェーバーの『魔弾の射手』などが知られている。ヨーゼフ2世の楽団で2番オーボエ奏者だったヨハン・ヴェント(オランダ語版)は40ものオペラをハルモニームジーク用に編曲した。また、交響曲もしばしば編曲されており、ベートーヴェンの存命中にウィーンで出版された交響曲第7番は作曲者自身の編曲とも言われている。オリジナル作品としてはモーツァルトのセレナードK.375(第11番)、K.388 (384a)(第12番)やK.361 (K6.370a)(グラン・パルティータ、第10番)、ベートーヴェンの八重奏曲作品103(英語版)、フランツ・クロンマーの13曲の「パルティータ」などがある。 編成の基本となったのは上記の八重奏編成であったがそれ以外の楽器が用いられることも多く、コントラファゴット(上記のクロンマー作品)、コントラバス、セルパンなどの低音楽器をはじめ、フルート(アントニオ・ロセッティが使用)やバセットホルン、金管楽器や打楽器が追加される場合もあった。フェリックス・メンデルスゾーンの『吹奏楽のための序曲』(Ouvertüre für Harmoniemusik)の原曲『ノクトゥルノ』(Nocturno für Bläser)は、標準的なハルモニームジークの八重奏編成にフルート、トランペット、イングリッシュ・バスホルンが追加された11本の管楽器のために書かれている。 ロマン派以降も、ドヴォルザークの『セレナーデ 作品22』がチェロやコントラバスを含む12人の奏者のために、R・シュトラウスの『セレナーデ 作品7』や『組曲 作品4』では標準的な八重奏編成にフルート、ホルン各2本とコントラファゴットまたはテューバが加わる13管楽器のためのために書かれており、同種の管楽器2本をペアで含むハルモニームジークの伝統が受け継がれている。 同様の用途のために編成された、より小規模な管楽合奏は18世紀初頭からヨーロッパ全体に存在しており、特にオーボエ2、ホルン2、ファゴット2という編成の六重奏は、この編成によってフランツ・ヨーゼフ・ハイドンがニコラウス・ヨーゼフ・エステルハージのために「ディヴェルティメント」あるいは\"Feldmusik\"(野外音楽)と題された作品(Hob. II: 3, 7, 15, 23)を複数作曲している。モーツァルトも1775年から1777年にかけて、同じ編成でザルツブルク大司教のために6曲のディヴェルティメントを書いている。 1782年に、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がウィーンにおいて、クラリネットを加えた上記の八重奏編成による\"harmonie\"を編成した。アントン・シュタードラーの兄弟が加わっていたこの楽団は高水準の演奏によって好評を博し、様々な貴族が追随して楽団を編成した。代表的な人物としてケルン大司教選帝侯のマクシミリアン・フランツ、ラウドニッツ(英語版)のロプコヴィッツ侯爵などがいる。また、モラヴィアからの移民によってアメリカでもハルモニーは編成されている。 この時期、モーツァルトはオペラ『ドン・ジョヴァンニ』や『コジ・ファン・トゥッテ』の中でハルモニーを模した楽節を登場させており、当時の普及ぶりが伺われる。『ドン・ジョヴァンニ』では、『フィガロの結婚』のアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」をはじめとする当時の流行曲が複数引用されている。 19世紀に入ると、ナポレオン戦争によって引き起こされた貴族の権勢の衰えに伴ってハルモニーも衰退していき、解体されあるいはより大きな編成の楽団へ組み込まれていった。1835年にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン公国(英語版)のハルモニー(ヨハン・ジモン・ヘルムシュテットが楽長を務めていた)が管弦楽団に改組されたが、これはハルモニーに関する記録のなかでも最も新しい部類に属するものである。またこのような、ハルモニーを管楽器セクションとして含む管弦楽団の編成は、完全な二管編成による管弦楽団の普及に貢献したと考えられている。 ^ MENDELSSOHN 吹奏楽のための序曲&管楽器のためのノクトゥルノ(日本楽譜出版社)解説(堀内貴晃) Roger Hellyer. \"Harmoniemusik\", The New Grove Dictionary of Music and Musicians, Second edition Oxford University Press, 2001 フレデリック・フェネル『タイム&ウィンズ―フレデリック・フェネルの吹奏楽小史』隈部まち子訳、秋山紀夫監修、佼成出版社、1985年 小交響曲 (グノー) シャルル・グノーが1885年に作曲した室内楽曲。上記の八重奏編成にフルートを加えた九重奏による。 13管楽器のためのセレナード (リヒャルト・シュトラウス) 13管楽器のための組曲 (リヒャルト・シュトラウス) リヒャルト・シュトラウスが1882年と1884年に作曲した楽曲。上記の八重奏編成にフルート2、ホルン2、コントラファゴットまたはテューバを加えた編成による。", "変ハ長調(へんハちょうちょう)は、西洋音楽における調のひとつで、変ハ (C♭) 音を主音とする長調である。調号はフラット7箇所 (B, E, A, D, G, C, F) である。 赤マスは一般に臨時記号により表される。 和音は自然長音階で考えたもの。 VIIの和音 (B♭m-5) はV7 (G♭7) の、VII7の和音 (B♭m7-5) はV9 (G♭9) の根音を省略した形とみなされることがある。 その他のコードネームも実際の楽譜では異名同音的に変えられることがある。 ロ長調の方が調号が少なく(シャープ5つ)読譜が容易であり、変ハ長調が持たない同主調・下属調・下属調平行調を含めて関係調をすべて持つなど利便性が高いため、通常はロ長調が用いられ、変ハ長調はほとんど用いられない(変ハ長調と同じく調号7箇所の嬰ハ長調や変イ短調は同主調を持っているのである程度は使われる)。 コンサート用のハープは、各オクターブ内の7音に相当する7本のそれぞれの弦がフラット、ナチュラル、シャープを持っており、フラットが開放弦となるので、すべての音がフラットの状態、すなわち変ハ長調の状態でチューニングを行う。このためハープでロ長調の曲(ストラヴィンスキーの火の鳥フィナーレなど)を演奏する場合は、変ハ長調に書き換えて演奏することがある。 シューベルトは特にピアノ曲においてこの調を好んだ様で、ソナタなどの主調で使う事はなかったものの、曲中の転調部分で使っている例を若干見る事ができる。 Category:変ハ長調を参照。", "持続低音(じぞくていおん、英:pedal point、仏:pédale、独:Orgelpunkt)は、和声のある音楽において、特に低音で持続する音である。 持続低音は、和声には組み入れられない非和声音の一種であるが、「最初は和声音であるが、和音が変わって非和声音になっても続く」、「後で和声音に解決する」という点が他の非和声音とは異なる。 持続低音は「和音を元に引き戻す強い和声上の効果がある」。持続低音は通常、主音または属音に用いられる。また、低音ではなく高音を持続させることもある。 ハープシコードやピアノのような音の減衰が速い楽器では、同一音の繰り返しやトリルなどで代用されることが多い。 西欧の用語には「オルガン」や「ペダル」を表す言葉が含まれることが多いが、これはオルガンでは足踏み鍵盤にて演奏されることが多かったためである。 フーガでは、持続低音がしばしば用いられ、特に曲の終わり近くで用いられることが多い。 ソナタ形式やロンド形式をとる楽曲においては、再現部の直前(ソナタ形式の場合)やロンド主題が再現する直前(ロンド形式の場合)に属音の持続低音が設けられることが多い。緊張感を高揚させ、主調を準備をする役目を果たす。 田園風の主題を提示する際に、主音と属音からなる5度の二重持続低音がしばしば用いられ、これはパストラーレ・オルゲルプンクトと呼ばれる。 パストラーレ・オルゲルプンクトが見られる作品としては、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲ホ長調『春』(第3楽章主題)、ベートーヴェンの交響曲第6番ヘ長調『田園』(第1楽章第1主題、第5楽章前奏)、ドヴォルザークの交響曲第5番ヘ長調(第1楽章第1主題)などがある。 ^ a b Frank, Robert J. (2000). \"Non-Chord Tones\", Theory on the Web, Southern Methodist University.", "ハンガリー音階(ハンガリーおんかい)は、ハンガリー以東のヨーロッパで民謡に使われる短音階のこと。通常の旋律的短音階、和声的短音階と異なり、増音程を複数取り入れる特徴がある。 イ(A)を主音とした場合、 A-B-C-D-E-F#-G#-A(旋律的短音階:上昇) A-G-F-E-D-C-B-A(旋律的短音階:下降) A-B-C-D-E-F-G#-A(和声的短音階:上昇・下降共通) であるが、ハンガリー音階は A-B-C-D#-E-F-G#-A と増二度を2つ取り入れている。 増音程を用いると東洋的な雰囲気を演出できるので、民族主義的な作曲家が好んで用いている。ショパン、リストの作品では作曲語法の中心に据えられており、暗譜する際に理解を欠かすことができない。現代の音楽作品でも「アジアンテイスト」で訴えかけたい楽曲(例:「恋のダンスサイト」)に頻繁に登場する。" ]
ABC01-02-0205
『風立ちぬ』という小説を書いたのは堀辰雄ですが、『風立ちぬ』という曲を歌ってたアイドルは誰でしょう?
松田聖子
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[ "松田聖子", "研ナオコ", "小泉今日子", "久保田利伸", "井上陽水" ]
[ "松田 聖子(まつだ せいこ、1962年3月10日 - )は、日本の歌手、女優。1980年代トップアイドル。娘は女優の神田沙也加。 福岡県久留米市荒木町出身。所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)。身長160cm、体重42kg(身長、体重は公式サイト2008年12月25日のデータより)。血液型A型。 1980年代を代表するアイドル歌手である。1970年代を代表するアイドル山口百恵が引退する年の1980年4月に、「裸足の季節」でレコードデビュー。デビュー曲はCMタイアップで火が付き、その伸びのある透明感のある歌声で注目され、その後も続けざまにヒット曲を連発。「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿と高い歌唱力が人気となり、トレードマークであったヘアスタイルの「聖子ちゃんカット」や、新しいアイドルとしての生き方に関しても多くの話題を集めた。大宅壮一文庫創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2015年2月)となっており、2位の小沢一郎らを抑えて「日本の雑誌にもっとも頻繁に登場した著名人」とされている。 歌手としては1980年の「風は秋色」から1988年の「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコンシングルチャート(週間)1位を獲得。デビュー初期の曲は、三浦徳子の作詞、小田裕一郎の作曲が主だった。 楽曲の制作には2年目の6枚目シングル「白いパラソル」以降、作詞に松本隆が起用され、この後作曲家の選択も含め彼のプロデュース色が濃くなるが、編曲は2枚目シングル「青い珊瑚礁」からの大村雅朗が続けた。作曲家は財津和夫、「呉田軽穂」名義の松任谷由実をはじめ、細野晴臣などニューミュージック系の作家が多い。 1980年代のアイドル歌手としては突出した歌唱力を持っていたとする但馬オサムの評価があり、歌唱力の欠けたアイドルでも通用した「可愛い子ちゃん歌手」の時代から転換したことの象徴とされている。CBS・ソニーの当時のプロデューサーである若松宗雄は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。 絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間は無く、レコーディングの当日に楽曲を聞いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2-3回デモを聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。 当時の人気の高さを端的に示す言葉としては「聖子ちゃんカット」と「ぶりっ子」が挙げられる。聖子ちゃんカットとはその名の通り、デビュー当時からしていた彼女の髪型のことである。当時の若い女性の間でこれを模倣した髪型が大流行し、街中に溢れかえっていた。そしてその聖子ちゃんカットも聖子本人が1981年の年末にバッサリ切ってショートヘアにすると、今度はまたそれを真似たショートヘアが流行りだした。 「ぶりっ子」とは、当時の人気漫才コンビ春やすこ・けいこや山田邦子が、聖子が意識的に自分を可愛く見せようとしている様子をからかった言葉であり、当時の流行語にまでなった。一方で、ある新人賞を受賞した際に故郷の母親と電話でやり取りをする場面で、泣き声を上げながらも涙が明確に見えなかった様子から「うそ泣き聖子」と呼ばれ、「年上や男性、大衆に媚びるのが上手いしたたかな女」と、当時の女性の反感を買っていた面もある。当時の事務所の社長であった相澤秀禎は、ファンが欲しているものをその場で判断して、それにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が松田聖子という歌手を完成させたと語っている。 1985年6月に俳優の神田正輝と結婚。妊娠中に芸能活動を休業するが間もなく復帰し、主に歌手としての活動を続けた。神田正輝との間に生まれた長女はSAYAKA名義で2002年に歌手デビューし、その後は本名の神田沙也加名義で、ミュージカルや舞台女優・タレントとして活動する。 趣向として、天使の持つ無垢性・純粋さを好み、コンサートなどでは天使の羽根のついたコスチュームをすることも多い。 1990年代に入ると、作詞、作曲やアルバムのプロデュースにも自ら取り組むようになり、アイドル歌手ではなく、いわゆる「アーティスト」、あるいはシンガーソングライターとしての活動を展開していく。作詞、作曲に関してはアイドル時代から手がけており、アルバム『ユートピア』では「小さなラブソング」を作詞、アルバム『Canary』で同名曲を作曲したのをはじめ、「とんがり屋根の花屋さん」(アルバム『SEIKO・TOWN』)、「時間旅行」(アルバム『SUPREME』)「シェルブールは霧雨」」(アルバム『Strawberry Time』)などの曲を作曲している。 1990年代のアルバム『1992 Nouvelle Vague』から『FOREVER』までの6枚はセルフ・プロデュース、全曲作詞作曲(作曲の多くは小倉良の共作)が基本となり、シングル曲でも「きっと、また逢える…」「大切なあなた」「輝いた季節へ旅立とう」「さよならの瞬間」などをヒットさせる。特に、1996年発表の「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」は、オリコンチャートで自身シングル初のミリオンセラー(100万枚突破)を記録し最大のヒット曲(2016年現在)となった。また、この時期には「私だけの天使〜Angel〜/あなたのその胸に」(1997年)など、長女への母性愛をテーマとした楽曲もいくつか発表した。 作詞家としては極めて個人的な感情を赤裸々にさらけ出す歌詞、あるいは非常に前向きな歌詞を書くことが多い。作曲家としては長調の曲を好む傾向がある。また、最大のヒット曲「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」が典型であるが、同主調や平行調、あるいは属調や下属調などの近親調に転調することをアクセントに使うことが多い。これは共作者である小倉良の特徴でもある。 「ディナーショーの女王」として知られ、1992年より毎年行われるそのショーは高い人気を誇っている。チケット代は日本の全タレントの中で最も高い部類に入るが、常に即日完売となり入手が困難だと言われている。グランドプリンスホテル新高輪やウェスティンナゴヤキャッスルのS席は49,500円と高額で、ヒルトン名古屋では4人セットで220,000円という価格のものも存在していた。 デビューから35年以上が過ぎ、結婚、出産、2度に亘る離婚、過激なスキャンダル報道などを経てもなお「アイドル」と呼ばれ続けている。近年はその活動に敬意を表して「永遠のアイドル」と称されることがある。 2007年4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、NHKスペシャル『松田聖子 女性の時代の物語』が放送され、放送後も『朝日新聞』の天声人語(4月15日付)にも取り上げられるなど話題を呼んだ。 90年代、2000年代に渉って『女性自身』や『婦人公論』その他の雑誌、TVなどのメディアにおいて「生き方に憧れる女性有名人」「輝いている女性有名人」「スターだと思う有名人」「永遠のアイドルだと思う有名人」などの好感度アンケートでは常に上位にランクインし続けた。その一方では、過剰な不倫スキャンダル報道などの影響から、嫌いな女性著名人のアンケートで上位になることも多かった。週刊誌『SPA!』では「1998年度の男が許せない女」1位、『週刊女性』では「2000年度の読者が選ぶ嫌いな女」5位、『週刊文春』では「2005年度の女が選ぶ嫌いな女」5位になった。 1962年 3月10日、福岡県久留米市荒木町(当時の三潴郡筑邦町)に、同県柳川市出身で社会保険事務所に勤める公務員(厚生省事務官)の父親と、同県八女市の庄屋出身の母親の長女として、母親の姉が院長夫人だった高良台病院で生まれた。難産で生まれた時には仮死状態であった。出生名・蒲池法子(かまちのりこ)。生家は柳川城の城主だった蒲池氏第16代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の三男・蒲池統安の子孫であり、江戸時代は柳川藩家老格だった旧家。家紋は蒲池久憲以来の「左三巴」。8歳上の兄がいる。 中学時代は、スチュワーデスか保母になりたいと思っていた。母親は二重まぶたのはっきりした目なのに、自分は一重まぶただったため、母親の目が羨ましかったという。 1977年 福岡県立の進学校八女高校を受験するが不合格となり、4月8日、カトリック系の久留米信愛女学院高等学校に入学する。志望校ではなかったものの、ジャンパースカートとボレロの制服に憧れ、父親も娘を淑やかなお嬢さんに育てたいという方針でこの高校に決まった。キリスト教研究部に入部し、聖書の勉強に勤しむ。 行事の度に皆の前で聖書を読む「女神」という役職(各学年で1人ずつ)に選出される。大ファンの郷ひろみのコンサートが福岡で行われる度に観に行き、歌手に憧れるようになる。 高校入学まもない春、福岡開催のテイチク新人歌手オーディションに応募し、桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌うが二次審査で落選。8月には第二回ホリプロタレントスカウトキャラバン九州大会にも応募するが書類選考の第一次審査で落選。この時一緒に応募した友人は一次審査に合格したものの大会直前に扁桃腺手術をして歌えなくなったため、法子(聖子)がフォロー役で急遽ピンクレディーの曲でコンビを組み出場した。2人は最終審査の5組に残ったが優勝できなかった。 1978年 CBSソニーと集英社が主催する『ミス・セブンティーンコンテスト』九州地区大会に桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を録音したテープを送り合格し、4月に福岡市民会館で行われた九州地区大会で優勝。全国大会は父親の承諾を得られず辞退するが、九州地区で優勝した法子の歌声を聴いて「この子は絶対に売れる」と確信したCBSソニー制作部・若松宗雄によってスカウトされる。若松の紹介で東京音楽学院九州校(渡辺プロ系列)に通う。渡辺プロの九州支部長の説得により父親が承諾するが、渡辺プロ本社は送られたデモテープをあまり重視せず、スタイルの悪いO脚の法子の写真を見て不採用となる。 1979年 5月、若松がサンミュージックプロダクションの相澤秀禎に直訴するも相澤は一旦保留。6月に法子が上京し面接となり直接歌唱を聞いた幹部社員らに注目され、同プロダクションと契約の運びとなる(来年3月の卒業後に来るように告げられる)。 7月、卒業を待たずに高校を中退し歌手デビューのため単身上京。その行動力と熱意に押された相澤は法子を寮に住まわせ堀越高等学校に転入させる。プロダクションが用意した「新田明子」と「松田聖子」という芸名から、法子は「松田聖子」を選ぶ。「新田明子」という名は同プロ所属の中山圭子のため考えられてボツになったものだった(そのことを中山圭子は法子には言わなかったという)。 12月、日本テレビ系ドラマ『おだいじに』に出演。法子は「松田聖子」という芸名を役名にしてもらう。この時の役名が親しみやすいとしてその後の芸名になったという説もある。 11月、ニッポン放送『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のパーソナリティ「パンチ・ガール」のオーディションに合格し、翌年1月からレギュラー出演開始。 12月、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションを受け、一次審査の面接、二次審査の水着での踊りに合格するが、最終審査のテスト撮影でどうしてもエクボが出なかったため不合格となる(選ばれたのは山田由紀子)。 1980年 2月、サンミュージックの相澤社長の陳情で洗顔クリーム「エクボ」のCMのイメージソングの歌唱起用が決定する。 4月1日、「エクボ」のCMイメージソング「裸足の季節」で歌手デビュー。デビュー当時のキャッチフレーズは「抱きしめたい! ミス・ソニー」。テレビCMで流れる聖子の歌声を初めて耳にした松本隆(のちに聖子の歌う楽曲の作詞を手掛けることになる作詞家)は直感的に、「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がした」という。ジャケット写真で、歌っているのがCMの山田由紀子ではないと分かっても、その声量のある魅力的な声でレコードは売れ始める。 4月13日、NHK総合『レッツゴーヤング』にサンデーズのメンバーとしてレギュラー出演開始。 4月28日、「裸足の季節」で、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』に初登場。 7月、デビュー3か月でファンクラブ発足 発会式には5,000人が集まる。 7月、よみうりランドグリーンステージで『さわやかコンサート』を開き、8,000人のファンを動員する。 7月3日、「裸足の季節」で、TBS『ザ・ベストテン』の「スポットライト」コーナーに初登場(11位)。 8月14日、「青い珊瑚礁」で、TBS『ザ・ベストテン』に初ランクイン(8位)。 9月18日、「青い珊瑚礁」で、TBS『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得。 9月25日、この日の『ザ・ベストテン』で「青い珊瑚礁」が2週連続第1位となり、「さよならの向う側」で10位にランクインした山口百恵と初共演。同番組では70年代と80年代の歌姫の最初で最後の共演となった。 9月、日本青年館ファーストコンサート『First Kiss』開催。 10月 3枚目のシングル「風は秋色」で初のヒットチャート第1位獲得。 8月 - 12月、「青い珊瑚礁」で第22回日本レコード大賞新人賞をはじめ、10もの大きな音楽祭の賞を獲得。第31回NHK紅白歌合戦に初出場した。「聖子ちゃんカット」と呼ばれる独特のヘアスタイルが全国の女の子の間で大流行し、「ブロマイド」の年間売り上げでトップに輝く。 1981年 1月、イタリアのサンレモ音楽祭に出場。 3月、「青い珊瑚礁」が1981年春の選抜高校野球大会の入場行進曲になる。 4月、初の全国横断コンサート(6か所8公演)の締めくくりに日比谷野外音楽堂で『'81聖子ビックコンサート in TOKYO』を開く。 7月、6枚目のシングル「白いパラソル」発表。 7月 - 9月、コンサートツアー『Nice Summer Seiko』 8月8日、初主演映画『野菊の墓』公開。 8月13日、「白いパラソル」が、TBS『ザ・ベストテン』で番組史上初となる「初登場第1位」を獲得(9072点)。 12月、「聖子ちゃんカット」をバッサリ切り、ショートカットになる。 この年の暮れから、父親の定年退職を機に両親を九州から呼んで共に暮らすようになる。のち神田正輝と結婚するまでは東京都目黒区東が丘の一軒家で、この家の門は、代表作「青い珊瑚礁」のサビ部分「あ〜私の恋は〜」の五線譜で飾られていた。 1982年 1月、8枚目のシングル「赤いスイートピー」発売。 3月、CBSソニー・ヒット賞受賞。 4月 - 5月、コンサートツアー『FANTASTIC CONCERT』開催。 8月、新宿コマ劇場・梅田コマ劇場『聖子フェスティバル』 12月、初の日本武道館でのコンサート『Christmas Queen』を開く。 1983年 2月、12枚目のシングル「秘密の花園」が10曲連続シングルチャート1位 9曲連続のピンク・レディーの記録を破る。 2月、大阪厚生年金会館で『Seiko New Year Concert』開催。 3月28日、沖縄の市営体育館でのコンサートにて、「渚のバルコニー」の歌唱中に観客席から男が乱入し、工事用のプラスチックパイプで聖子の頭部を目掛けて数回殴打するという事件が発生。男は傷害の現行犯ですぐに逮捕されたが、聖子は右頭部と右手に全治約1週間の軽傷を負い恐怖で失神し、その日のコンサートは中止となった。この様子は日本テレビがザ・トップテンの放送のために撮影をしていたため、ワイドショー等で頻繁に放送された。その後、4月5日の熊本コンサートから復帰を果たした。 4月、フジテレビの音楽番組ザ・スターに出演。『ザ・スター 松田聖子スペシャル 振り向けば・・・聖子』放送。 7月、コンサートツアー『アン・ドゥ・トロワ』開催。主演映画『プルメリアの伝説 天国のキッス』公開(主題歌は13枚目のシングル「天国のキッス」)。 8月、「SWEET MEMORIES」がサントリー生ビールのCMソングに。ジャケット写真は最初のものと後に発売された両A面版と2パターンある。 11月17日、「SWEET MEMORIES」(9位、6796点)と「瞳はダイアモンド」(2位、8199点)が、TBS『ザ・ベストテン』で番組史上初となる「2曲同時初登場」を記録。 12月、日本武道館でコンサート『SEIKO LAND』開催。伊集院静が舞台演出。 1984年 1月 - 4月、コンサートツアー『JEWELS』開催(15か所16公演)。 4月 - 6月、コンサートツアー『FANTASTIC FLY』開催。日本武道館では香水をまく演出が話題に。伊集院静が舞台演出。 7月、ハワイ大学へ短期留学。主演映画『夏服のイヴ』公開。 7月 - 11月、コンサートツアー『Magical Trump』開催。伊集院静が舞台演出。 12月、コンサートツアー『GOLDEN JUKE』開催 『ドレミファドン』のアンケートで「結婚したい女性」のNo.1(回答は若い男性対象)となる。 1985年 1月23日、交際を公にしていた歌手・郷ひろみと破局。東宝スタジオの食堂にて涙の破局会見を行い、聖子は「生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った」と語ったが、後に郷は「会見することも知らなかった。あんなセリフも言っていない。僕が生まれ変わって虫だったらどうする気だろう?」とジョークを交じえて否定した。 2月、ハワイから帰国した神田正輝が記者会見で松田聖子との交際を認める。 4月9日、神田正輝と松田聖子が婚約発表。 4月13日、神田正輝との主演映画『カリブ・愛のシンフォニー』(メキシコロケ)公開。 4月 - 5月、コンサートツアー『SEIKO PRISM AGENCY』開催(5か所8公演)。 6月、フィル・ラモーンプロデュースでシングル「DANCING SHOES」リリース。 6月24日、神田正輝と東京都目黒区サレジオ教会で結婚。2人の結婚は、世紀の結婚をもじって「聖輝の結婚」と呼ばれた。結婚式・披露宴の独占放送権を獲得したテレビ朝日は、約10時間に亘りこの模様を放送。ゴールデンタイムの平均視聴率は34.9%(ビデオリサーチ・関東地区)を記録した。司会を務めたのは当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫。 8月、初の英語版アルバム『SOUND OF MY HEART』をリリース。 11月、翻訳した絵本『ベビー・ディヴァインの冒険』の発売。 12月、『紅白歌合戦』の出演以降、出産準備のため、約1年間テレビ出演などの主だった芸能活動を休止する。 1986年 1月、神田法子名義で自叙伝『聖子』出版。 6月1日、産休中にレコーディングを行ったアルバム『SUPREME』リリース。 10月1日、長女・神田沙也加を東京飯田橋の東京逓信病院で出産。結婚・出産を経てもアイドル人気は衰えず、“ママになったアイドル”という意味の「ママドル」と呼ばれる。 12月、日本レコード大賞で、アルバム『SUPREME』がアルバム賞を受賞。1年ぶりにステージに立ち、アルバムから3曲をメドレーで歌唱し、『紅白歌合戦』にも出場。 1987年 4月、約2年ぶりのシングル「Strawberry Time」リリース。 4月、写真集『Five Seasons』(篠山紀信/撮影)出版。 4月23日、「Strawberry Time」でTBS『ザ・ベストテン』最後のスポットライトを獲得(2年ぶりの出演)。ランクインは次々週まで待つことになる。 6月4日、「Strawberry Time」でTBS『ザ・ベストテン』最後の1位を獲得。 5月 - 6月、コンサートツアー『SEIKO SUPER DIAMOND REVOLUTION』開催(8か所15公演)。 9月、TBS特別企画ドラマ『スイート・メモリーズ』主演。 12月、NHK紅白歌合戦に「Strawberry Time」で出場(8回目)。 1988年 2月14日、東京都目黒区の自由が丘に現在も営業中のブティック「フローレス・セイコ」(Flawless Seiko)をオープン。「フローレス (Flawless)」とは \"(宝石が) 傷のない、完璧な\" という意味で、ダイアモンドの最高級を表す。(※2014年11月1日に「felicia club by Seiko Matsuda」に店名を改名しリニューアルオープン) 3月、CBSソニー・ゴールドディスク大賞受賞。 4月、アルバム『Citron』をデイヴィット・フォスターがプロデュース。 4月28日、「Marrakech〜マラケッシュ〜」でTBS『ザ・ベストテン』最後の出演。 5月 - 9月、コンサートツアー『Sweet Spark Stream』開催 (19か所25公演)映画監督・根岸吉太郎が演出を手がける。 9月、26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」で24曲連続チャート1位獲得。 10月27日、「旅立ちはフリージア」でTBS『ザ・ベストテン』最後のランクイン(10位)。 12月、NHK紅白歌合戦に「Marrakech〜マラケッシュ〜」で9年連続出場。 1989年 2月、ニューヨークのホテルのバーで近藤真彦と親しげにしている場面を写真週刊誌『FRIDAY』に撮られる。 6月30日、所属事務所「サンミュージックプロダクション」との契約を満了。独立し、個人事務所「ファンティック」に籍を置く。 9月、写真集『NO COMMENT』(篠山紀信/撮影)出版。 12月 - 1月、コンサートツアー『Precious Moment』開催(6か所14公演) 1990年 5月、シングル「THE RIGHT COMBINATION」(USA)で、「New Kids On The Block」のDonnie Wahlbergとデュエット。 6月、アルバム『Seiko』で全米デビュー、アメリカでは『USマガジン』や『インターセクト』で特集される。またイギリスのTV-amの朝のワイドショー番組『Good Morning Britain』(1990年8月)、BBCテレビにも出演し、世界中のメディアに登場。 1992年 2月、ブティック「フローレス・セイコ」が4周年を迎え、記念イベントが行われ2,000人のファンが詰めかける。 3月25日、初の聖子自身による全曲作詞作曲プロデュースアルバム『1992 Nouvelle Vague』発売。先行シングルは、自身初の主演連続ドラマTBS『おとなの選択』の主題歌「きっと、また逢える…」。この年から本人による作詞作曲プロデュースによる楽曲発表が主体となっていく。 6月 - 7月、コンサートツアー『1992 NouvelleVague』開催(10か所16公演)。 12月、初のクリスマスディナーショー(4か所8公演)を開く。 1993年 6月 - 7月、コンサートツアー『Diamond Expression』開催(16か所24公演)。 12月、クリスマスディナーショー開催(全国13か所21公演)。 1994年 たかの友梨ビューティークリニックのイメージキャラクターに選ばれ、「ヌーディッシュ宣言」と題した本人の巨大広告やTVCMが話題となり、ワイドショーやマスコミなどで「第2次聖子ブーム」と騒がれる。 6月 - 8月、コンサートツアー『Glorious Revolution』開催(19か所28公演)。 12月、クリスマスディナーショー開催(10か所21公演)。 1995年 6月 - 8月、コンサートツアー『It's Style '95』開催(23か所33公演)。 12月、クリスマスディナーショー開催(全国8か所22公演)。 1996年 5月にハリウッドとの合作作品となる主演映画『サロゲート・マザー』が公開。主題歌「I'll Be There For You」を同曲の提供者でもあるロビー・ネヴィルとデュエットする。 5月発売米誌『BIKINI』でセミ・ヌードを披露。 再び全米進出を目指すため、デビュー以来所属したソニーレコードを離れ、「マーキュリー・ミュージックエンタテインメント」に移籍。 6月10日、全米進出第2弾となる「WAS IT THE FUTURE」を発売する。 シングル「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」が8年ぶりのオリコンシングルチャート1位、売り上げ110万枚とミリオンセラーを突破し、自身最大のヒットとなる。 6月、コンサートツアー『Vanity Fair』開催(21か所39公演)。 12月、クリスマスディナーショー開催(8か所20公演)。 1997年 1月、神田正輝と離婚。離婚のニュースは、芸能報道の枠を超えて各局とも一般ニュース枠でも報じ、号外が出された。神田との離婚後も、学業半ばの娘の姓が変わらないようにするため婚氏続称を選び、民法上は神田姓であった。 6月 - 7月、コンサートツアー『My Story』開催 (13か所26公演)。 12月、クリスマスディナーショー開催 (全国8か所22公演)。 1998年 5月、6歳年下の歯科医師・波多野浩之と交際2か月で結婚。会った瞬間「ビビビッと来た」というコメントが流行語になる。 6月 - 11月、コンサートツアー『Forever』開催(全国8か所22公演)(広島及び福岡公演は急病のため延期となった)。 12月、クリスマスディナーショー開催(全国8か所22公演)。 1999年 マネージメント事務所を「ファンティック」から元ソニーのプロデューサーだった若松宗雄が代表を務める「グリーンパークミュージック」に移籍。 10月、事務所移籍の諸事情で武道館他全国アリーナ会場の使用予約をとることが出来なかったため、初のライブハウス・ツアー『Zepp Tour』開催(4か所9公演)。 12月18日、11年半ぶりに作詞家に松本隆を起用したアルバム『永遠の少女』を発売する。なお先行シングルの「哀しみのボート」は、フジテレビ系で放送されたテレビドラマ『OUT〜妻たちの犯罪〜』の挿入歌となった。 12月、クリスマスディナーショー開催(11か所)。 2000年 4月1日、歌手デビュー20周年を迎える。 7月 - 8月、コンサートツアー『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR』開催(9か所16公演)。 9月、かつて交際していた郷ひろみとのデュエット曲「True Love Story」発表の話があり受諾・発表し世間を驚かせる。 12月、波多野浩之と離婚。 12月、クリスマスディナーショー2000開催(12か所18公演)。 2001年 3月、初のスプリングディナーショーを開催する(全国9か所17公演)。 6月 - 8月、コンサートツアー2001『LOVE & EMOTION』開催(全国13か所23公演)。 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(全国12か所)。 2002年 ソニー・ミュージックエンタテインメントに復帰。 3月11日、ダイヤモンドのように最も輝く女性として『ダイヤモンド・パーソナリティー賞』を受賞し1000万円相当のダイヤを授与される。 6月21日、全米進出第3弾となる『area62』をHIP-O RECORDSより全米にて発売。 毎年恒例となっている夏のコンサートツアーには、発売されたアルバムタイトルがそのままツアータイトルになることがほとんどだが、02年には国内でのアルバム発売がなかったために『Seiko Matsuda Concert Tour 2002 Jewel Box』と題したコンサートツアーが開催され約15万人を動員する。 11月 - 12月、クリスマスディナーショー2002開催(全国15か所20公演)。 12月31日、この年から2003年まで、大阪城ホールで年末のカウントダウン・ライブを行う。BS中継もされた(2005年以降は東京体育館で開催)。 2003年 同年もアルバム発売がなかったため、夏のコンサートツアーは同年6月に発売されたシングル「Call me」をツアータイトルとし、「Call meでMeet me」キャンペーンと銘打った抽選により、ファンの楽屋招待と握手という直接交流企画を自身のコンサートツアーにおいて初めて実施して話題となる(全国12か所20公演)。 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(全国11か所)。岐阜市内のホテルでのディナーショーのアンコール中、握手した手を離さない男性ファンがいたため、ステージ上でしりもちをつき「頚椎捻挫、背部挫傷」の全治3週間の怪我を負う。 2004年 5月3日、横浜スタジアムにて横浜-巨人戦の始球式を行う。 7月11日、長野オリンピックスタジアムでのサンヨーオールスターゲーム第2戦のゲーム前に「君が代」を斉唱する。 約3年ぶりのオリジナルアルバム『Sunshine』が、7月21日付のオリコンアルバムチャート(週間)で初登場6位を獲得。アルバムトップテン入りで女性アーティストでは松任谷由実に並ぶ歴代1位に輝いた。 10年ぶりに出演(障害児童の母親役)したテレビ・ドラマ『たったひとつのたからもの』(日本テレビ)が関東地区で平均30.1%、関西地区で平均23.6%(ビデオリサーチ調べ)の高視聴率となる。なおのこのドラマはアジア・テレビジョン・アワード2005 単発ドラマ部門 最優秀作品賞を受賞する。 12月31日、デビュー25周年記念イベントを記念してファンクラブ限定の『スーパープレミアムコンサート』を品川新高輪プリンスホテルにて16時からと20時45分からの2部にわけて開催される。会員限定ということもあり、通常のコンサートやディナーショーとは違い、聖子自身の幼少からの未公開写真や縁の品を観覧室に展示し順に観覧できるという特別な趣向が凝らされたイベントを行う。 2005年 6月5日のさいたまスーパーアリーナを初日に、歌手活動25周年にあたる全国ツァー『fairy』を開始。台湾のファンからの強い要請に応え、8月20日、最終公演を台湾の新荘市にある新荘体育館で行う(デビュー初の海外公演)。観客5000人から熱烈に歓迎され、中国語でも歌った。 9月5日開始のAMラジオ史上初となる全国民放AMラジオ47局の統一キャンペーン「あなたに伝えたい〜言い出せなかった“ありがとう”」キャンペーンソングに「しあわせな気持ち」が起用され、11月には特別番組のメインパーソナリティーも務める。 2006年 7月31日付オリコン・アルバムチャートで10万円の74枚組CDボックス『Seiko Matsuda』を96位にランクインさせた。このボックス・セットは週間売上金額で2億1500万円を記録し、2位の『Beautiful Songs〜ココロ デ キク ウタ〜』(9300万円)を2倍以上引き離していた。また、これまで、アルバムでチャートイン(トップ300)した最高額作品は、1989年8月の美空ひばりの6万円の35枚組『今日の我に明日は勝つ』(9位)だったが、松田聖子はこの記録を16年11か月ぶりに更新した。その後、当初の発売予定の1万セットを完売し、売り上げだけで約10億円となる。 2007年 松田聖子を取り上げたドキュメンタリー『松田聖子〜女性の時代の物語』(NHK総合)が放映される。視聴率は9.3%(同放送の平均視聴率は5〜6%前後とされる:ビデオリサーチ調べ)だった。3月、歌手活動について古巣の「サンミュージック」と業務提携契約を締結。 8月1日、横浜スタジムにて横浜-巨人戦の始球式を行う。 11月20日、沖縄で24年ぶりの公演(ディナーショー)。 2008年 7月5日公開の実写版『火垂るの墓』で清太の母.雪子を演じ7年ぶりの映画出演となる。回想シーンでの登場を除けば登場は冒頭のみだが同作の挿入歌を担当。 2009年 6月、ユニバーサルミュージックに再移籍することを発表。 毎年恒例となっている夏のコンサートツアーには、発売されたアルバムタイトルがそのままツアータイトルになることがほとんどだが、09年にはアルバムの発売がなかったために『Seiko Matsuda Concert Tour 2009 My Precious Songs』と題したコンサートツアーが開催され約14万人を動員する。 2010年 4月21日、プリンセス・セイコとして矢島美容室とコラボレーションして「アイドルみたいに歌わせて」を発売。 5月5日、ドラマの主題歌としては14年ぶりとなるフジテレビのドラマ『チーム・バチスタ2 ジェネラル・ルージュの凱旋』の主題歌「いくつの夜明けを数えたら」を発売。 5月19日、26日の2週に渡ってNHKの『SONGS』で松田聖子スペシャルが放送され、1週目が7.5%(同番組の平均視聴率は3 - 4%前後とされる:ビデオリサーチ調べ)で番組史上歴代2位の視聴率となり、翌2週目には更に視聴率を伸ばし、8.3%と歴代1位となる視聴率を獲得した。 6月6日 - 8月7日、『30th Anniversary SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2010 My Prelude』を開催(10箇所14公演)、計15万人以上動員する。 10月10日、20年ぶりとなるファンクラブ会員限定の『30周年記念ファンの集い』を赤坂プリンスホテルにて開催。参加は有料抽選申し込みだったが、日程的に急だったにも関わらず予想以上に申し込み人数が多くなってしまったため、4回に分けてファンの集いを行い、約5000人のファンと交流を果たす。 10月20日、東京国際フォーラムでデイヴィッド・フォスターの実に16年ぶりの日本公演となる『DAVID FOSTER &FRIENDS JAPAN TOUR 2010』にスペシャルゲストとして登場し、デイビッドが88'年に聖子に作曲提供した「抱いて」を彼のピアノ伴奏にて披露する。 1983年に放映を開始したサントリーのTV-CMで、聖子自身が名前を伏せ「SWEET MEMORIES」をアニメのペンギンにあてて歌い話題となったが、そのアニメキャラクターのペンギンと27年ぶりに再びサントリーの缶コーヒー「ボス シルキーブラック」のCMで競演を果たし話題となる。 2011年 6月 - 8月、コンサートツアー『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2011 Cherish』を開催(7箇所11公演) 9月7日、Hollywood Bowlで開かれたクインシー・ジョーンズ主催の『Quincy Jones Global Gumbo All Stars』にゲスト出演し、クインシーとの話し合いで同年3月11日に起きた東日本大震災への復興への願いも込めて全米ビルボード1位にもなった坂本九の「スキヤキ」を歌う。 10月1日、毎年恒例の夏の全国コンサートツアー中、客席のファンからの要望が多かったことにより、昨年の30周年記念のファンの集いに引き続き、この年はザ・プリンスパークタワー東京で2年連続となるファンの集いを、司会進行に、松田聖子の大ファンと公言し続けている藤井隆を迎え開催、4回に分け約5000人のファンと交流する。 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(12箇所27公演) 11月23日、30周年記念シングルとして竹内まりやとの初コラボレーションによる「特別な恋人/声だけ聞かせて」を発売。女性アーティストによるシングル詞・曲楽曲提供は、1985年発売の尾崎亜美の「ボーイの季節」以来約26年ぶりとなる。 12月16日放送の『オールナイトニッポンGOLD』(ニッポン放送)の公開録音を28年ぶりにファンを抽選で招待し行う。 12月31日、毎年恒例となっているカウントダウン・ライブのため出場していなかったNHK紅白歌合戦に、カウントダウンのライブ会場である東京体育館から中継という形で10年ぶりに出場し、「震災復興に“親子の絆”ということで少しでも勇気を与えられたら」ということで、娘である神田沙也加と共に、自身の曲ではなく坂本九の「上を向いて歩こう」をデュエットした。 2012年 5月2日、自身が作詞・作曲を手がけた新曲「涙のしずく」を発表。「涙のしずく」は、2012年4月28日公開の映画『わが母の記』のイメージソングに決定した。 6月 - 8月、コンサートツアー『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2012 Very Very』を開催(6箇所9公演) 6月13日、自身の公式ホームページにて一般男性と結婚したことを発表。再々婚後も神田姓を続称しているかどうかは明らかにしていないため、2013年現在の本名は不明。 9月に全米でリリースされたジャズグループ、フォープレイのアルバム『Espirit De Four』の中の「Put Our Hearts Together」でゲストボーカリストとして参加。この曲は東日本大震災の追悼も込めた形でボブ・ジェームスが作ったもの。 9月9日、東京国際フォーラムで行われた『東京JAZZ 2012』に、ボブ・ジェームス率いるユニットの特別ゲストとして出演。 10月29日、『Put Our Hearts Together コンサートin 大船渡』に出演。この模様は12月27日、NHK総合テレビでドキュメンタリー番組として放送された。 11月4日、舞浜アンフィシアターにてファンミーティング開催。司会は藤井隆。 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(9箇所20公演) 12月28日 - 29日、舞浜アンフィシアターにて初のバラードコンサート『Seiko Ballad』を開催。 2013年 4月2日、京セラドーム大阪にて、阪神―中日戦の始球式を行う。 4月23日、6月5日に発売される藤井隆のCDシングル「She is my new town / I just want to hold you」の作詞・作曲・プロデュースを手がけたことを発表。2曲ともにコーラスでも参加している。 6月 - 7月、コンサートツアー『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2013 A Girl in the Wonder Land』を開催(5箇所8公演) 7月31日 - 8月1日、東京国際フォーラムで行われたクインシー・ジョーンズの32年振りとなる来日公演にシークレットゲストとして出演。 9月14日、幕張メッセで行われた『UNIVERSAL SIGMA 10TH ANNIVERSARY 「SIGMA FES. 2013」 〜U-EXPRESS LIVE AUTUMN〜』に出演。 9月16日、舞浜アンフィシアターにてファンミーティング開催を予定するも荒天のため中止となる。 10月30日、クリス・ハートとのデュエットソング「夢がさめて」を発売。 11月2日、TOKYO FM 『McDonald's SOUND IN MY LIFE』のゲストとして東京・渋谷スペイン坂スタジオに生出演。その後、東京・お台場ヴィーナスフォートでシングル発売記念イベントを開催。 11月 - 12月、クリスマスディナーショーを開催(10箇所22公演) 12月31日、グランドプリンスホテル新高輪「飛天」にて、『2013 New Year's Eve Live Party』を開催。2回公演で、2回目は紅白歌合戦と、カウントダウンセレモニーが含まれていた。 2014年 6月8日 - 8月31日、コンサートツアー『Pre 35th Anniversary Seiko Matsuda Concert Tour 2014 Dream & Fantasy』を開催(11箇所14公演) 11月1日、「felicia club by Seiko Matsuda」(feliciaとclubの間はハートマーク)が自由が丘に開店 11月21日 - 12月24日、クリスマスディナーショーを開催(10箇所22公演) 12月31日、第65回NHK紅白歌合戦に大トリとして出場し、個人別で最高視聴率を獲得する。 2015年 4月17日 - 18日、舞浜アンフィシアターにて『35th Anniversary \"Thank You Event!!\"』と称したファンミーティングを開催する(合計5公演)。司会はモト冬樹 6月13日 - 8月30日、コンサートツアー『〜35th Anniversary〜 Seiko Matsuda Concert Tour 2015 \"Bibbidi-Bobbidi-Boo\"』を開催(5か所8公演) 10月1日、六本木ヒルズアリーナで催された映画『PAN〜ネバーランド、夢のはじまり〜』ジャパン・プレミアレッドカーペットに出演する。 10月11日、舞浜アンフィシアターにて『35th Anniversary Seiko Matsuda Fan Meeting 2015』を開催する(1日3公演)。キーボード奏者・野崎洋一とアルバム『SQUALL』から『Canary』までを振り返る。 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(11か所24公演) 12月31日、第66回NHK紅白歌合戦に2年連続大トリとして出場した。 2016年 4月17日、舞浜アンフィシアターにてファンミーティング『SEIKO MATSUDA 2016 \"Heart♡心\"EVENT!!』を開催(1日2公演) 6月11日 - 9月22日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2016 Shining Star』を開催(5か所9公演) 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(10か所22公演) 2017年 6月10日 - 8月20日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2017 Daisy』を開催(5か所8公演)。7月8日の東京公演は、ケガのため椅子に座った状態で行われた。関係者によると、数日前に転倒した際に背中と腰を強打し、一時は立ち上がることもできなかったという。翌日の公演も同様に行われ、2日間の東京公演を決行した。 11月2日、オーチャードホールにて『SEIKO JAZZ 2017』を開催。 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(10か所21公演)。 11月24日スタートのNHKのドラマ『マチ工場のオンナ』の主題歌「新しい明日」を担当。同局のドラマ主題歌を歌うのは初めて 2018年 1月25日、大阪フェスティバルホールにて『SEIKO JAZZ』を開催。 2月9日、愛知県芸術劇場大ホールにて『SEIKO JAZZ』を開催。 3月10日、舞浜アンフィシアターにて『SEIKO MATSUDA Birthday party 2018』を開催。(1日3公演) 6月9日 - 9月2日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2018 Merry-go-round』を開催 (5か所8公演) 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催 (11か所24公演) 久留米市立荒木中学校を卒業。テニス部に所属。実家と同校が隣接しているため、油断して遅刻の常習者となってしまう。同校創立50周年の1997年に正門を寄贈。高校時代(久留米信愛女学院)は、明るく快活な女の子だった。学年を代表する「女神」に選ばれている。 デビューのきっかけとなった高校1年の時の、ミスセブンティーンコンテストの応募理由は、優勝特典が「アメリカ西海岸のディズニーランドにご招待」であったため、「大好きなミッキーマウスに会える」ということと、全国大会のゲスト審査員が憧れの郷ひろみであったことである。それまで歌手になるという夢は全く考えていなかったが、この書類選考が通ったことが歌手を目指すきっかけになったという。しかし、両親には内緒で応募していたため、コンテスト当日は“大好きな歌手に会いに行く”と嘘をついて母親に会場である福岡市民会館まで送ってもらった。母親は聖子と別れて買い物に行くが、買い物を終えて会場に入ってみると聖子がステージ上で歌っていたという。 九州地区大会で優勝し全国大会への切符をつかんだものの、公務員で厳格な父親は娘の東京行を認めず出場を辞退することとなった。そんな最中、全国大会用のデモテープをチェックしていたCBSソニーの当時のディレクター若松宗雄が聖子の歌声に惚れ込み、プロとしてデビューしないかと声をかけた。若松は聖子の歌声を初めて聴いた時のショックを「まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃でした」と語っている。聖子の芸能界入りは学校の規則や父親の反対により既に断念されていたが、諦めきれなかった若松は久留米の実家まで足を運び両親を説得することにした。それでも父親は応じず、結局高校を卒業するまで認めてもらえなかった。そのため聖子のデビューは当時のアイドルとしてはやや遅い(女優デビューは高校3年時、歌手デビューは高校卒業後)。 渡辺プロダクション傘下の東京音楽学院九州校に在籍していた高校3年の時、同プロダクションの九州支社長に注目され、聖子と契約する打診が東京本社に行われたが、「この娘は、ガニ股である。ガニ股はテレビ映りがよくない。舞台でも問題がある」との理由で却下される。 芸能事務所のオーディションを受けに来た聖子について、当時のサンミュージック社長相澤秀禎は、田舎から上京してきたばかりで垢抜けず爽やかでもないという印象を持ち、男性スタッフも同様に興味を持たなかったが、音楽プロデューサーとして信用していた女性スタッフが聖子を熱烈に推したことで採用に至り、契約することになった。前述のCBSソニーの若松宗雄は、両親の反対を押し切ってまでもデビューさせるということで、面倒見の良い相澤の事務所に預けたかったという。 福岡からの上京時は、丁度出張で出向くということもあり父親が一緒に付き添って行った。5日ほど滞在して父親が帰郷する日、聖子は寂しさのあまり泣きだしてしまい、見かねた父親が「そんなに悲しいなら一緒に帰ろう」と尋ねるが、両親の反対を押し切ってまで来たのだから頑張ってやってみようと意志を貫いたという。 当時のサンミュージックは、新人アイドルとして売り出す予定の中山圭子に注力していたため、聖子がすぐに歌手デビューする予定はなかったという。しかし、翌年にはその方針が変わり、それによって当時のトップアイドルであった山口百恵の引退という、時代の転換期である1980年にデビューすることとなる。 当初の芸名は「新田明子」になる予定であった。しかし、あまりパッとしない印象であり本人も気に入らなかったため、社長の相澤が当時凝っていたという姓名判断に委ねた結果「松田聖子」に決まった。この時の名付け親が沖紘子である。 アイドルとしてレコードデビューをする前に、日本テレビ系のテレビドラマ「おだいじに」にて「松田聖子」役で女優デビューを果たしている。その際、事務所の先輩でもある太川陽介とのキスシーンがあり、聖子にとってはそれがファーストキスであったという。 歌手デビューにあたり、資生堂の若年層向け洗顔料「エクボ」のCMオーディションを受けるが、聖子は頬にえくぼができないため、そもそもCM出演の条件を満たしていなかった。何とかCMソングだけでもと交渉を続けた結果、そちらは採用され、デビュー曲「裸足の季節」にタイアップが付くことになった(相澤社長は聖子にビジュアル的な面を期待しておらず、もっぱら歌だけでやっていこうと考えていたためCM出演させなかったと語っている)。その前にもアイスクリームのCM出演オーディションも受けていたが落ちていた。映像に出演したのは同じく新人タレントの山田由紀子だった。聖子の歌声はCMで頻繁に流れたものの、顔と名前の浸透度が低く、山田と2人で行ったCMイベントのサイン会でも聖子の前には誰も並ばず、「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。それから程なくしてテレビの歌番組などに聖子が登場するようになると瞬く間に人気が沸騰した。 1980年前半の全盛期を迎えていた頃、ジャイアント馬場との初対面に馬場から、「俺は水戸黄門しか見ないから(聖子を)知らない」と言われたことがある。 現在では聖子の代表作の一つとなっている「SWEET MEMORIES」であるが、シングル発売当時は「ガラスの林檎」のB面で、サントリーのCM曲であった。CM使用部分は英語詞であったし、当初「歌・松田聖子」のテロップ無しだったため、「誰が歌っているのか?」という問い合わせが相次いだ。そして発売から約2ヵ月後にフジテレビ系『夜のヒットスタジオ』でテレビ番組では初めてこの曲をフルコーラスで披露したところ、この曲にもスポットライトが当たるようになり、後に映画の主題歌にもなった。 ぶりっ子 意識して可愛い子ぶるという見方から「ぶりっ子」と評する声もあったが、聖子本人はラジオのDJなどでサバサバとしたくだけた横顔も見せていた。当然そのくだけた口調とテレビでの可愛らしい態度とのギャップが「ぶりっ子」と呼ばれる所以でもある。無論、人気者への嫉妬や羨望から来るものが大きく、彼女がアイドルとして第一線で活躍を続けるに従い、徐々にそのような声は薄れていった。実際に大衆から「ぶりっ子」と呼ばれていたのはデビューから数年程の間である。それ以降は聖子自身もコントなどで「ぶりっ子」発言をしたり、露骨に「ぶりっ子」を演じたりして、ネタとして使用することも多い。 ヘアースタイル 1980年代には聖子の髪型を真似た「聖子ちゃんカット」が女性の間で大流行した。その後にデビューしたアイドル達(花の82年デビュー組といわれる小泉今日子、松本伊代、早見優など)の多くがこの聖子ちゃんカット風のスタイルでデビューしていたが、聖子自身はそんな「聖子ちゃんカット」流行真っ只中の1981年の暮れにばっさり切り、ショートカットにしている。よって、彼女自身がこの髪型にしていたのはデビュー年の1980年から81年暮までの約2年間だった。聖子がショートカットにしたことで追随する後続アイドルたちもまたこぞってショートカットに変え、今度はショートカットブームが訪れた。 「ソバージュ」とよばれる1980年代後期から1990年代まで世間で広く流行り続けたカーリーヘアーも1983年末、まだ日本では全くそのスタイル名も聞き慣れない頃に、聖子がいち早くその髪型でTVに登場して披露、紹介しこのヘアスタイルの名前が一気に広まっていくことになる。84年の秋に映画『カリブ・愛のシンフォニー』撮影用にニューヨークで髪型を変えるまでは、所属事務所近くの四谷『ヘアーディメンション』が行きつけの美容室だった。 結婚前のインタビューなどで自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し、主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫の神田正輝が自由に働けば良いと復帰を容認していたこともあり、ファンの期待に応える形で歌手業を再開するという選択をしている。 「ママドル」という言葉は、最初に使われ始めたのは聖子が出産して以降のことであった。その後、かつてアイドルであった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されるようになった。 2001年から2005年ごろは娘の神田沙也加と音楽番組やバラエティ番組でよく共演しており、2005年以降は自身の旧来ファンである著名人とも共演している。 2003年11月、兄が卒業した久留米大学附設高等学校の同窓会東京支部の総会に私人としてノーギャラで、旧姓の蒲池法子でゲスト出演する。子供の頃から兄とは仲がよい。 2006年5月19日放送の『ぐるぐるナインティナイン』の「ゴチになります!7」にVIPチャレンジャーとして登場し、レギュラー陣を抑えて第1位を獲得。ニアピン賞付きで5万円を獲得する快挙を達成。しかし、2回目の出演では逆にビリになって自腹を払っている。 TBSのドラマ『渡る世間は鬼ばかり』には同姓同名の松田聖子という人物が登場した(演じているのは中島唱子)。また、離婚後の神田正輝が「渡る世間は鬼ばかり」に出演した際には、役名の「松田聖子」と共演する場面があった。 「蒲池」という名字が、ZARDの坂井泉水(本名:蒲池幸子)と同じなので、従姉妹や親戚なのではないか、と噂されることがあったが、仮に遠い先祖が同じだったとしても、2人は従姉妹でもなければ親戚でもない。 元夫の神田正輝、娘の神田沙也加と共に干支が3人全員寅年である。 海外進出 1990年のアメリカでの歌手デビューのために徹底的に英語を学び、CNNのインタビューその他で堪能な英会話力を示し、また2005年の台湾におけるコンサートなどでは北京語も披露している。1990年代後半は歌手デビュー以外にもハリウッドデビューも考え、積極的にオーディションを受けて幾つか端役も得ている。 1998年公開の映画『アルマゲドン』で、日本人観光客の役として数秒程のシーンだがカメオ出演を果たしている。 1999年に公開されたキルスティン・ダンスト主演の『わたしが美しくなった100の秘密』という青春コメディーの作品にて、ストーリーに無関係の冒頭のアジア人家族の娘役として登場した。 2010年には、アメリカの人気サスペンスドラマ『BONES』のシーズン5・第15回『魂の伴侶』に、主人公のベストセラー作について取材する為に訪米した「リク・イワナガ」役でゲスト出演した。 デビュー当時は同期である岩崎良美、浜田朱里、河合奈保子らと仲が良かったとされ、特に堀越高等学校の同級生でもあった良美とは長く付き合いが続いていたという。 飲酒の習慣がない聖子は芸能界での交友録も多くはないと云われているが、モト冬樹とは家族ぐるみの付き合いがあり、プライベートでカラオケに行ったり、自宅に招いて食事を振る舞うこともあったという。 2015年4月に開催されたファンクラブイベント『Thank You Event!!』において、本人より明らかにされたエピソード。 『ミス・セブンティーンコンテスト』九州地区大会出場時には、2曲の楽曲を準備するよう指示があったため、桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」と渡辺真知子のデビュー曲「迷い道」を準備しリハーサルで歌ったところ、係員より前者を指定された。 上京の1か月後より収録・出演したドラマ『おだいじに』において、九州訛りが抜けずにNGを連発。杉村春子、池内淳子などの大御所俳優に迷惑をかけた。なお、同ドラマ出演時にはすでに芸名「松田聖子」が決まっており、ドラマの役名にはその芸名がそのまま使われた。 健康維持・リフレッシュの方法は入浴と睡眠である。入浴剤は使用せず、43℃の熱い真湯に10分間ほど入る(シャワー使用時は45℃に表示されている)。ストレッチを毎日行なっている。 Alan Reed 「LOVE YOU BETTER」 作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim、作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura、編曲:Ryo Ogura 「BETWEEN MY LINES」 作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim、作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura、編曲:Ryo Ogura 「STANDIN' TALL」 作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim、作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura、編曲:Ryo Ogura 「YOU AND ME AND TIME」 作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim、作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura、編曲:Ryo Ogura 「YOU'RE THE GIRL」 作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim、作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura、編曲:Ryo Ogura 「YOUR EYES(Japanese Version)」 作詞:Alan O'day、作曲:山下達郎、日本語詞:Seiko Matsuda、編曲:Ryo Ogura 岡田有希子 「くちびるNetwork」 作詞:Seiko、作曲:坂本龍一、編曲:かしぶち哲郎 「愛…illusion」 作詞:Seiko、作曲:飛澤宏元、編曲:かしぶち哲郎 神田正輝 「雨のシナリオ〜Can't Say Good-bye〜」 作詞・作曲:SEIKO、編曲:大村雅朗 電波子 「駈けていく少女」 作詞:Seiko Matsuda、作曲・編曲:後藤次利 藤井隆 「SHE IS MY NEW TOWN」 作詞:Seiko Matsuda、作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura、編曲:Ryo Ogura 「I just want to hold you」 作詞:Seiko Matsuda、作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura、編曲:Ryo Ogura 首位獲得数:25作(歴代6位・女性アーティスト単独2位) 12枚目のシングル「秘密の花園」でピンク・レディーの1位獲得数9枚を抜いて単独首位獲得数1位を記録する。首位獲得数25作まで記録を伸ばすが2000年10月にB'zに抜かれるまで(1983年2月〜2000年10月)の約17年8か月間首位獲得数1位を保持していた。 女性アーティト・ソロ部門では2006年3月に浜崎あゆみに抜かれるまで(1983年2月〜2006年3月)の23年1か月間首位獲得数1位を保持していた。 首位連続獲得数:24作(歴代7位・女性アーティスト単独2位) 3作目の「風は秋色/Eighteen」〜26作目の「旅立ちはフリージア」(1980年10月〜1988年9月)まで首位1位獲得数を保持し、上記に続いて12枚目のシングル「秘密の花園」でピンク・レディーの首位連続数9作を抜いて首位連続最高数単独1位を記録保持する。2000年7月にB'zに抜かれるまで(1983年2月〜2000年7月)の約17年5か月間首位連続最高数1位を保持していた。 女性アーティト・ソロ部門では2010年10月に浜崎あゆみに抜かれるまで(1983年2月〜2010年10月)の27年8か月間首位連続獲得数1位を保持していた。 月間チャート首位獲得曲:15作(歴代3位・ソロ1位) 月間チャート1位月数:17月(歴代2位・ソロ1位) 月間チャート1位最高連続獲得数:4作(計3回、歴代7位タイ・ソロでは単独3位) 同曲による首位2週以上獲得数:14作(歴代1位) オリコン首位獲得週数:50週(歴代4位・ソロでは単独2位) オリコンシングル同作による首位返り咲き最長週数:11週(「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」・1983年8月15日付〜10月31日付)(歴代3位・ソロ1位、再発売の曲も含めると:歴代4位・ソロ2位) オリコン首位・2位同時獲得:(「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ」・「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」・1983年11月7日付)(藤圭子に次いで2人目) オリコン首位返り咲き作品数:3作「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」・「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ」・「Strawberry Time」(歴代1位タイ) ベスト10位以内獲得数:31作 ミリオンセラー獲得数:1作 シングル総売上枚数;1543.9万枚(歴代14位・女性アーティスト単独5位) 19作目の「ハートのイアリング」で、史上8人目(ソロでは7人目)、女性アーティストでは3人目のシングル総売上枚数1000万枚を達成。デビューからの4年8か月での達成当時は、ピンク・レディーに次いでの当時2番目の早さ。 34作目の「大切なあなた」で沢田研二の総売上最多枚数を抜き総売上枚数単独1位になり、(1993年5月〜1994年8月)まで総売上最多枚数記録を保持していた。CHAGE and ASKAの37作目のシングル「HEART/NATURAL/On Your Mark」で総売り上げ最多枚数記録を抜かれた。 53作目の「True Love Story/さよならのKISSを忘れない」でシングル総売上枚数1500万枚を達成。史上8人目で女性アーティスト・ソロでは2人目の快挙であった。 日本人でアメリカのBillboard Hot 100にチャートインしたアーティストとしては3番目の順位である。「Right Combination」が最高位54位。(1963年-坂本九「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」1位、1979年-ピンク・レディー「Kiss in The Dark」37位。) 首位獲得数:19作(歴代4位・女性アーティスト単独3位) ベスト10位以内獲得数:50作 (2017.06)(歴代2位・女性アーティスト1位タイ) ベスト100位以内同時チャートイン作数:13作(歴代3位タイ・日本人歴代1位タイ・女性アーティスト単独1位) 8年間首位獲得(歴代5位・女性アーティスト3位タイ) アルバム総売上枚数1356.9万枚 1位となった回数:44回(3位) 1位となった曲数:15曲(2位) 1位となった連続最高週数:「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ」(1983年11月24日放送〜1984年1月12日放送)の8週で4位タイ ベストテン入りした回数:218回(3位) ベストテン入りした曲数:25曲(3位) 1位となった年内最高獲得数:13回(1983年度による6位タイ) アルバム・シングル総合売り上げ:2953万枚(歴代13位・女性ソロアーティスト5位)(2012年) 日本武道館コンサート回数:108回(歴代2位・女性ソロアーティスト1位)(2017年7月時) オリコンの年間アーティスト・トータル・セールス首位を獲得した(1984年)。 紅白歌合戦の大トリを2年連続(2014年〜2015年)でつとめる(紅組では美空ひばり、八代亜紀以来史上3人目)。 おだいじに(1979年11月5日 - 1980年5月5日、日本テレビ) - 松田聖子 役 玉ねぎむいたら…(1981年4月3日 - 11月6日、TBS) - 斎藤梓 役(初回2話のみゲスト出演) フジ三太郎 第6話「衝撃! 恐るべき少年放火魔!」(1982年11月25日、テレビ朝日) 日立テレビシティ「松田聖子のはじめての情事」(前篇/後篇)(1983年10月19日・26日、TBS) - 石井恵子 役 スウィート・メモリーズ(1987年9月30日、TBS) - 水野薫・水野佳代 役(二役) 風に恋して(1989年1月2日、テレビ朝日) - 三枝あやこ 役 ママ母戦争(1990年5月3日、日本テレビ) - 伊集院ななこ 役 おとなの選択(1992年1月10日 - 、TBS) - 谷口未希 役 季節はずれの海岸物語'92秋(1992年10月8日、フジテレビ) - 優香子 役 わたしってブスだったの?(1993年4月16日 - 、TBS) - 帰山夕子 役 家族ネットワーク(1994年1月4日、テレビ朝日) - 竹内翠 役 季節はずれの海岸物語ファイナル(1994年10月13日、フジテレビ) - 優香子 役 The Big Easy(1997年、USAネットワーク) Partners(2000年、アメリカTVムービー) たったひとつのたからもの(2004年10月26日、日本テレビ) - 佐藤由美 役 世にも奇妙な物語 2005年 秋の特別編『過去が届く午後』(2005年10月4日、フジテレビ) 花ざかりの君たちへ 〜イケメン♂パラダイス〜(2007年7月 - 9月、フジテレビ)第1話・最終話 - 桜咲学園校長・椿 役(特別出演) 花ざかりの君たちへ 〜イケメン♂パラダイス〜 卒業式&7と1/2話スペシャル(2008年10月12日、フジテレビ) - 桜咲学園校長・椿役(特別出演) 和田アキ子物語(2008年6月20日、フジテレビ) - 先輩女性歌手 役(特別出演) BONES (2010年、アメリカFOX) - イワナガ 役(吹き替えも担当) 平清盛(2012年1月 - 12月、NHK「大河ドラマ」) - 祇園女御・乙前 役 8時だョ!全員集合(1980年 - 1985年、TBS) とんねるずのみなさんのおかげです(1988年 - 1997年、フジテレビ)※ゲスト出演 ドリフ大爆笑(フジテレビ)※ゲスト出演 さんまのまんま(関西テレビ)(1986年6月9日、1991年1月3日、1991年10月12日、2007年4月20日) 志村けんのだいじょうぶだぁお茶の間に笑顔をSP(2015年11月25日、フジテレビ) 志村けんのバカ殿様笑いのお年玉スペシャル(2016年1月5日、フジテレビ) キング・オブ・ザ・ヒル(2002年5月、FOX) - 音楽ゲームをする女の子 役(ゲストキャラクター) ドラえもん(2007年8月、テレビ朝日) - 本人 役(特別ゲスト) NHKスペシャル(2007年4月9日、NHK) ※初のドキュメンタリー番組出演 野菊の墓(1981年8月8日公開、東映) - 初主演・民子 役 プルメリアの伝説(1983年7月2日公開、東宝) - 主演・早坂恵美子 役 夏服のイヴ(1984年7月7日公開、東宝) - 主演・藤枝牧子 役 カリブ・愛のシンフォニー(1985年4月13日公開、東宝) - 主演・沢木彩 役 ペンギンズ・メモリー 幸福物語(1985年、東宝東和)※歌手として出演 どっちもどっち(1990年11月10日公開、東宝、【W主演:明石家さんま】) - 主演・門脇亜由子 役 Final Vendetta (サロゲート・マザー)(1996年、東映) - 主演 Armageddon(アルマゲドン)(1997年)※カメオ出演 Drop Dead Gorgeous (ドロップ・デッド・ゴージャス)(1999) ※カメオ出演 GEDO The Final Blade(2000年、東映) 千年の恋 ひかる源氏物語(2001年、東映) Shanghai Baby(上海ベイビー)(2007年、ドイツ作品) 火垂るの墓(2008年) - 雪子(清太の母) 役 矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜(2010年4月29日公開、松竹) - プリンセス・セイコ 役 ザ・パンチ・パンチ・パンチ (1980年1月 - 12月、ニッポン放送) ピンクのスニーカー (1980年10月 - 1983年3月、文化放送) 中塚政幸のガッツガッツナイト (1980年12月 - 1981年3月、TBSラジオ) 夢で逢えたら [SONY Night Square] (1981年4月 - 1983年3月、ニッポン放送) ひとつぶの青春 (1982年4月 - 1983年3月、FM東京ネット) 愛にくちづけ (1983年10月 - 1985年3月、ニッポン放送) オールナイトニッポン(1986年6月、1987年4月、1987年11月、1989年6月、1990年11月、2008年5月19日、ニッポン放送) スーパーギャング(1987年5月18日、TBSラジオ) オールナイトニッポン GOLD(2010年5月28日、2010年12月15日、2011年6月2日、2013年6月21日、2018年6月8日、ニッポン放送) オールナイトニッポン MUSIC 10(2015年10月 - 2018年3月、ニッポン放送) - 火曜日・月1回担当 さしじん(田原俊彦と共演) 江崎グリコ ヨーレル アーモンドチョコレート&セシルチョコレート(田原俊彦と共演) フロート クルール パナップ ポッキー カプリソーネ(ゆーとぴあと共演) キャデリーヌ チョコピック ワンタッチカレー 熟カレー(神田沙也加と共演) 森永L&L サントリー CANビール BOSSシルキーブラック「シルキー歌姫(ディーバ)」篇 資生堂 エクボ ピンポンパンツ カネボウ バイオ口紅、ファンデーション コーセー アミノマイルド ソニー ベータマックス パソコン(HiTBiT)1983年から1984年にかけて、ソニーが発売した独自規格のパソコン「SMC-777」、「SMC-777C」及びMSXパソコン「HB-55」のイメージキャラクターとなった。 カセットウォークマン ミノルタ(現・コニカミノルタ) トークマン(オートフォーカスカメラ) maxell 服部時計店 ピコレ、アルバ ブラザー工業 コンパルシリーズなど 大阪ガス ガスファンヒーターエアコン エスエス製薬 エスタック、ブロン液W 山之内製薬 カコナール(※現在の発売元は第一三共ヘルスケア) 月星化成 ジャガーΣ、ファルコンバイオフェック 学研 ニューコース問題集 スバルREX KINCHO ゴン ユニマット 宝酒造 TaKaRaCANチューハイ ドミノピザ ピザーラ 日本食研 家族のやきそば(神田正輝と共演) 有線放送 U-kara 角川書店 ザ・テレビジョン スカイパーフェクTV PHSアステル ライオン チャーミーV SUBARU レックス(550cc・クローバー4エンジン搭載シリーズ) 大京 ライオンズマンション(神田沙也加と共演) ドクターデヴィアス化粧品 たかの友梨ビューティークリニック 富士フイルム アスタリフト 「偶然の出逢い」篇(中島みゆきと共演) 「旅先の出逢い」篇 「純白の出逢い」篇 「ハリーさん・語る」篇 「ハリーさん・歌う」篇 「アスタキサンチンとは?」篇 「ハリーさん体操」篇 「お肌の試食」篇 「お肌の実感」篇 「屋上新年会・アスタリフトジェリー」篇 「それぞれの旅先」篇(小泉今日子と共演) 「東京上空でお正月・アスタリフトジェリー」篇 「お肌の実感」篇(2012年改定) 「衝撃の出会い レタッチペン新登場」篇 「実感してください」篇 「肌時間旅行」篇 「赤組・松田聖子」篇 「聖子さんと赤い球体」篇 「新発想・ジェリー」篇(高畑充希と共演) アスタリフト ホワイト 「澄みきる美。輝く美。」篇 (高畑充希と共演) ソフトバンクモバイル シュワルツコフヘンケル パオン ディオーサ(クリーム リニューアル篇にて神田沙也加と共演) トヨタ自動車「カムリ」 メガネトップ「眼鏡市場」 SUMMER COLLECTION「サングラスが欲しいなぁと思ったら」篇(2015年) P'layer「新しいメガネ欲しいなぁと思ったら」篇 「価値あるレンズ、価値ある価格。」篇(西田敏行と共演) 「2016 お正月」篇 「スマホ老眼」篇 「価値あるレンズ、価値ある価格。高機能レンズ」篇(西田敏行と共演) 「真夏のサングラス」篇 「2017 お正月」篇 トリンプ・インターナショナル・ジャパン「FLORALE by Triumph」(2016年、2017年) HILLS AVENUE 「自由を、履く。デビュー」篇 プロクター・アンド・ギャンブル P&G 「ファブリーズダブル除菌」 「寝汗がひどい夫」篇 (遠藤憲一と共演) 「キッチン専用ファブリーズ」  「妻の意地」篇 (遠藤憲一と共演) 住宅情報館 「想いに応えて」篇 ^ 「青い珊瑚礁」(2回目)→「時間の国のアリス」→「素敵にOnce Again」のメドレー ^ 「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」(3回目)→「夢がさめて」のメドレー ^ 「風立ちぬ」→「ハートのイアリング」→「天国のキッス」→「渚のバルコニー」のメドレー 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 1980年 日本テレビ音楽祭 新人賞 1980年 歌謡新人グランプリ グランプリ 1980年 銀座音楽祭 専門審査員奨励賞 1980年 新宿音楽祭 金賞 1980年 横浜音楽祭 新人賞特別賞 1980年 テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 最優秀新人賞 1980年 日本歌謡大賞 新人賞 1980年 FNS歌謡祭 新人賞 1980年 日本有線大賞 新人賞 1980年 全日本有線放送大賞 新人賞 1980年 第22回日本レコード大賞 新人賞 1981年 日本テレビ音楽祭 金の鳩賞 1981年 テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 審査員奨励賞 1981年 日本歌謡大賞 放送音楽賞 1981年 第23回日本レコード大賞 ゴールデンアイドル賞 1982年 CBSソニー ヒット賞 1982年 日本テレビ音楽祭 トップアイドル賞 1982年 テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 特別賞 1982年 日本歌謡大賞 放送音楽賞 1982年 FNS歌謡祭 グランプリ 1982年 日本有線大賞 有線音楽賞 1982年 全日本有線放送大賞 優秀スター賞 1982年 第24回日本レコード大賞 金賞 1983年 CBSソニー ヒット賞 1983年 日本テレビ音楽祭 トップアイドル賞 1983年 テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 ゴールデングランプリ 1983年 日本歌謡大賞 最優秀放送音楽賞 1983年 第25回日本レコード大賞 金賞、ベストアルバム賞 1986年 第28回日本レコード大賞 アルバム大賞 1988年 CBSソニー ゴールデンディスク大賞 1990年 日刊スポーツ映画大賞 話題賞(受賞理由:「どっちもどっち」の大胆演技で映画界の話題作りに貢献) 1992年 第34回日本レコード大賞 最優秀ボーカル賞 2002年 第19回ダイヤモンド パーソナリティ賞(ダイヤモンド・インフォメーション・センター) 2002年 第40回ゴールデンアロー賞 ゴールデン・スター賞女性部門 2005年 アジア・テレビジョンアワード2005単発ドラマ部門 最優秀作品賞「たったひとつのたからもの」(主演作品) 2007年 ショートショートフィルムフェスティバル&アジア2007 PV話題賞「涙がただこぼれるだけ」 2009年 第18回日本映画批評家大賞 審査員特別賞(映画「火垂るの墓」) 2013年 第55回日本レコード大賞 企画賞 2015年 第57回日本レコード大賞 最優秀歌唱賞 2017年 第59回日本レコード大賞 企画賞 (Seiko Matsuda名義) 2018年 第32回日本ゴールドティスク大賞 ジャズ・アルバム・オブ・ザ・イヤー (Seiko Matsuda名義) 『両手で聖子』松田聖子著。集英社 『もう一度あなた』松田聖子著。ワニブックス 『夢で逢えたら』松田聖子著。ワニブックス 『聖子20歳 愛と歌の青春譜』松田聖子著。少年画報社 『青色のタペストリー』松田聖子著。CBS・ソニー出版 『夢で逢えたらパート2』松田聖子著。ワニブックス 『赤いスイートピー』松田聖子著・篠山紀信 写真。講談社 - ISBN 4062129094 『愛する人に』松田聖子著・稲越功一 写真。朝日出版社 - ISBN 4255950059 『勇気を出してSay Hello!―Live Talk English』松田聖子著。集英社 - ISBN 4087801411 『聖子』神田法子著。小学館 - ISBN 4093632413 『松田聖子のバランスシート』相澤秀禎著。光文社 『松田聖子』地球音楽ライブラリー。TOKYO FM出版 - ISBN 4887451067 『松田聖子論』小倉千加子著。朝日新聞社 - ISBN 4022640839 『魔性のシンデレラ。松田聖子ストーリー』大下英治著。角川書店 - ISBN 4041571146 ^ 神田正輝との結婚の披露宴の際に身につけていた緞子織りの白無垢に左三巴紋が記されていたことがテレビでも放送された。 ^ 2日後の6月26日の『夜のヒットスタジオ』では司会の芳村真理が郷ひろみに、「聖子ちゃん、きれいだったわよ」と言い、郷が「そう……よかった」とだけ応じる場面があった。その後に郷は「ハリウッド・スキャンダル」と「哀愁のカサブランカ」を熱唱(「哀愁のカサブランカ」の歌に合わせて、聖子との共演シーンが流される演出がなされた)。 ^ 『うたばん』で聖子の大ファンだという米良美一と共演。2008年3月10日放送の『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で聖子の大ファンだという中川翔子と共演。2008年11月10日放送の『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で聖子の大ファンだというはるな愛と共演。 ^ 山下達郎のカバー曲、原曲は英語詞だが、松田が日本語詞を提供している。 ^ a b “『SEIKO MEMORIES~Masaaki Omura Works~』スペシャルサイト”. OTONANO. ソニー・ミュージックダイレクト. 2018年8月12日閲覧。 ^ 「タレント名簿録」(『オリコン年鑑』オリジナルコンフィデンス出版社、2014年) ^ a b c d e f g h i 「第二章 遅れてきたアイドル――1980年」中川 2014, pp. 66-116 ^ a b 『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p43-45 ^ a b c d 相澤秀禎 『人気づくりの法則』(東洋経済新報社 1988年4月23日) ISBN 978-4492553091 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 「第一章 夜明け前――1972年~79年」中川 2014, pp. 18-65 ^ 福岡県立柳川古文書館、大下英治『魔性のシンデレラ。松田聖子ストーリー』(角川書店、1989年7月、ISBN 978-4041571149) ^ 玉鶴姫の意地。詳しくは「蒲池氏#子孫たち(大木喬任、広津和郎、宇都宮徳馬、松田聖子、他)」を参照のこと ^ a b 「第五章 激突――1983年」中川 2014, pp. 203-241 ^ “ザ・スター松田聖子スペシャル 振り向けば・・・聖子”. 歌謡ポップスチャンネル. 2018年8月17日閲覧。 ^ a b c d e f g 「第七章 華燭と大賞――1985年」中川 2014, pp. 277-316 ^ a b c d e f g 「第八章 緩やかな下降線――1986年~88年」中川 2014, pp. 317-350 ^ 「終章 ――1989年」中川 2014, pp. 351-359 ^ 「米へ進出 日本のポピュラー」『日本経済新聞』1991年4月20日付朝刊、39頁。 ^ 松田聖子が親子の絆を描いた『わが母の記』イメージソングを作詞・作曲 2012年4月10日 ムービーコレクション ^ 松田聖子が再々婚を発表 ^ “松田聖子、NHKで初のドラマ主題歌 主演の内山理名「うわぁぁ」と感激”. ORICON NEWS (oricon ME). (2017年10月13日). http://www.oricon.co.jp/news/2098888/full/ 2017年10月14日閲覧。  ^ 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』pp.299-300 ^ ちょっといい話 ^ a b c 別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.72-73. ^ “松田聖子:「眼鏡市場」新CMキャラクターに”. まんたんWEB (2015年6月26日). 2015年6月26日閲覧。 ^ “眼鏡市場「CMギャラリー」”. 眼鏡市場 (2015年8月8日). 2015年8月8日閲覧。 ^ “眼鏡市場「CMギャラリー」”. 眼鏡市場 (2015年11月20日). 2015年11月20日閲覧。 ^ “眼鏡市場「CMギャラリー」”. 眼鏡市場 (2016年4月1日). 2016年4月1日閲覧。 ^ “眼鏡市場「CMギャラリー」”. 眼鏡市場 (2016年4月23日). 2016年4月23日閲覧。 ^ “松田聖子、トリンプ新ブランドCMでランジェリー姿を披露”. 音楽ナタリー. (2016年5月25日). http://natalie.mu/music/news/188398 2016年5月25日閲覧。  ^ “CM公開中!松田聖子xヒルズアベニュー”. ヒルズアベニュー (2017年2月27日). 2017年2月27日閲覧。 中川右介 『松田聖子と中森明菜[増補版]一九八〇年代の革命』 朝日文庫、2014年12月。ISBN 978-4022618146。  日本の女優一覧 レッツゴーヤング Bibleシリーズ 福岡県出身の人物一覧 堀越高等学校の人物一覧 リカちゃん(1998年にフローレスセイコ限定で『松田聖子ドール Seikoちゃん』と言うリカちゃんサイズの人形をタカラから発売した) 新人類 聖子ちゃんカット 神田正輝 神田沙也加 公式ウェブサイト ソニー ミュージックによる公式サイト ユニバーサル ミュージックによる公式サイト 日本ポータル 福岡県ポータル 音楽ポータル アイドルポータル 人物伝ポータル", "研 ナオコ(けん ナオコ、本名:野口 なを子(旧姓:浅田)、1953年7月7日 - )は、日本の歌手、タレント、コメディエンヌである。所属事務所は田辺エージェンシー。 身長162cm、体重51.5kg、血液型A型。一男一女の母。娘は歌手・タレントで、Bro.KONEの長女・近藤麗奈と田代まさしの長女・田代小夏と組んでいた小夏・ひとみ・レイナのひとみ(本名:野口ひとみ)。 静岡県田方郡天城湯ヶ島町(現・伊豆市)出身。静岡県立三島南高等学校中退。「ナオコ節」とも称される独特のアンニュイな歌声と歌唱法で、1970年代中盤から1980年代中盤にかけて数々のヒット曲を世に送り出した。代表曲には『あばよ』『かもめはかもめ』『夏をあきらめて』(オリコンチャートシングル売上・ベスト3)などが挙げられる。 芸名の「研」の由来は、当時の所属事務所「研音」から。歌手として活動するだけではなく、数多くのCMやバラエティ番組にも出演するテレビ・タレントとしても活躍。殺虫剤のCM「飛んでれら、死んでれら」のキャッチフレーズやザ・ドリフターズ(志村けん)との共演、『カックラキン大放送』の「ナオコばぁちゃん」のキャラクターでのコントなどで人気を博した。タモリ、所ジョージ、関根勤、明石家さんまらお笑いタレントとも交友関係が深く、漫画家の赤塚不二夫は、研ナオコファンクラブの会長であった。 若手時代はザ・スパイダースのコンサートに前座として連れて行かれたが、実際にはスパイダースのメンバーが中座している最中に歌わせてもらった。その際、舞台袖で堺正章のMCを見て勉強するなどしていたため、研にとっては師匠のような存在となっている。 歌手仲間で研と同期(1971年)デビューだった野口五郎を弟分として可愛がり、現在も時々2人でジョイントコンサートを開いている。後輩歌手だった高田みづえを妹のように可愛がり、高田も研を姉のように慕っていた。 また1970年代後半には、当時下積み時代のTHE ALFEEをバックバンドにつけていたこともあった(1978年シングル発売の『窓ガラス』など)。 1990年代以降、歌手としてのリリースは激減したものの、コンサートなどの活動は精力的に行っている。 今で言うストーカーがずっと家の前まで来ていたが、その人物を家に招きいれ、最終的に自身のマネージャーにしたという逸話がある。 極度の高所恐怖症。エスカレーターやエレベーターも苦手で、ガラス張りのエレベーターはもってのほか。エレベータに乗った際、知り合いと間違えたのか、知らない人の手を握り、何も言わず降りたことがある。 犬を4匹、猫を2匹飼っている。 愛煙家だが下戸である。 研ナオコの楽曲に影響を受けたと公言している人物に、シンガーソングライターの中村中、俳優で脚本家の今井茂雄がいる。 また、陸上選手の日吉克実とは親戚関係にあり、日吉選手の支援もしている。 1953年 7月7日、静岡県田方郡天城湯ヶ島町(現:伊豆市)出身。 1965年 ちびっこのどじまんにて『星空に両手を』を唄い、「子供がそんな歌を唄って」と不合格。 同年 静岡放送の『のど自慢大会』に出場し、合格。 1967年 静岡放送の『のど自慢大会』に出場。準優勝。 1970年 歌手を目指し上京。東京宝塚劇場のエレベーターガールなどのアルバイトもしていた。 1971年 4月1日、東宝レコードの第1号歌手として『大都会のやさぐれ女』でデビュー。 1973年 美人画で知られた画家:岩田専太郎に「百年に一人出るか出ないかの不世出の美人」と絶賛される。 1975年 『愚図』で、自身初となるオリコンシングルチャートベスト入り(週間最高9位)、FNS歌謡祭優秀歌謡音楽賞を受賞。 1976年 『あばよ』で、自身初のオリコンシングルチャート週間1位、日本歌謡大賞放送音楽賞、FNS歌謡祭最優秀歌謡音楽賞、第18回日本レコード大賞歌唱賞受賞。『LA-LA-LA』で第27回NHK紅白歌合戦に初出場。 1977年芸能界マリファナ汚染事件事件で取り調べを受け謹慎を余儀なくされる。 1978年 中島みゆき作詞、作曲による復帰作『かもめはかもめ』がヒット。 日本歌謡大賞放送音楽賞、第20回日本レコード大賞金賞を受賞。また、同曲で第29回紅白歌合戦に2年ぶり2回目の出場。 1982年 『夏をあきらめて』(桑田佳祐作詞、作曲)で、第24回日本レコード大賞金賞、日本有線大賞有線音楽賞、全日本有線放送大賞優秀スター賞を受賞。同曲で第33回紅白歌合戦に出場。 1983年9月、急性尿路感染症で入院。『泣かせて』で、古賀政男記念音楽大賞優秀賞を受賞。第34回紅白歌合戦に出場。 1985年、田原俊彦との異色のデュエットソング(歌手名義は「Toshi & Naoko」 )『夏ざかりほの字組』がヒット。 1987年7月7日、7歳年下の野口典夫と結婚、同時に妊娠6か月を公表。同年10月29日、長男が誕生。 1989年8月8日、長女が誕生。 1993年 声帯ポリープの手術。同年第44回紅白歌合戦に、『かもめはかもめ』で1986年の第37回紅白歌合戦以来7年ぶり11回目の出場(現在の処これが自身最後の紅白出演)。 1994年 胆のうの全摘出手術 2001年 日本テレビ、第24回『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』で、歴代女性初のチャリティーマラソン(85km)を完走。 2002年 初の自伝エッセイ本『家族リレー 〜ナオコんちの場合〜』(ISBN 4764819562)を出版。 2006年 中日ドラゴンズが優勝した日(10月10日)の祝勝会ビール掛けに参加。 2017年3月21日 山梨県甲府市内で舞台『梅沢富美男劇団特別公演「アッ!とおどろく夢芝居」』の公演中に転倒、右大腿骨頸部骨折と診断され入院。長期療養も余儀なくされたが、驚異的な回復力により同年4月28日に復帰。 カックラキン大放送!!(日本テレビ) マチャアキのガンバレ9時まで!!(日本テレビ) 華麗にAh!so(テレビ朝日) だぅもありがと!(TBS) 1億人の大質問!?笑ってコラえて!(日本テレビ) ろみひー(中京テレビ)ゲスト ザ!鉄腕!DASH!!(日本テレビ) たかじん・ナオコのシャベタリーノ!(毎日放送) ものまね王座決定戦(フジテレビ)→ものまねバトル(日本テレビ) MUSIC YELL!はやし系(よみうりテレビ) 即席!明るい改造計画(よみうりテレビ) あったか生活!秘伝!カテイの魔法(毎日放送) Dのゲキジョー 〜運命のジャッジ〜(フジテレビ) 志村けんのバカ殿様(フジテレビ) 志村けんのだいじょうぶだぁ(フジテレビ)(常連ゲストとして出演・キャラ「変なおばさん」) ドリフ大爆笑(フジテレビ) 時間ですよ(1973年・TBS) ありがとう 第4シリーズ(1974年 - 1975年・TBS) 三男三女婿一匹(1976年・TBS) ほんとうに(1976年 - 1977年・TBS) ちょっとマイウェイ(1979年・日本テレビ) 西遊記II(1979年・日本テレビ)弁財天役(第20話) 私はタフな女(1981年・日本テレビ) どきどき婦警さん(1983年・フジテレビ) 主婦代行いたします(1987年・日本テレビ) パパはニュースキャスター お正月スペシャル(1989年・TBS) 火曜サスペンス劇場「名無しの探偵シリーズ3 愛の復讐」(1987年・日本テレビ) 連続ドラマ『六本木ダンディーおみやさん』(1987年・朝日放送) パパはニュースキャスター お正月スペシャル(1989年・TBS) 火曜スーパーワイド 「ナオコ、さんまの結婚式ララバイ」(1989年、朝日放送) 金曜エンタテイメント「山村美紗サスペンス ニュースキャスター沢木麻沙子」シリーズ(1998年 - 2002年・フジテレビ) 億万長者と結婚する方法(2000年・日本テレビ) 月曜ミステリー劇場「ペットシッター沢口華子の事件簿」シリーズ(2001年 - 2004年・TBS) 女と愛とミステリー→水曜ミステリー9「猪熊夫婦の駐在日誌」シリーズ(2004年 - 2007年・テレビ東京) きらきら研修医(2007年・TBS) 相棒 Season 10 第6話「ラスト・ソング」(2011年11月23日・テレビ朝日) - 安城瑠里子 役 月曜ゴールデン(TBS) 「税務調査官・窓際太郎の事件簿26」(2014年2月24日) - ラーメン屋女将 役 「駅弁刑事・神保徳之助8」(2014年5月5日) - 藤井直子 役 現ナマ弁護士(2017年) - 富沢珠代 街の灯(1974年) にっぽん美女物語(1974年) にっぽん美女物語 女の中の女(1975年) お姐ちゃん、お手やわらかに(1975年) トラック野郎・爆走一番星(1975年) 喜劇 百点満点(1976年) 美女放浪記(1977年) だいじょうぶマイ・フレンド(1983年) 必殺! THE HISSATSU(1984年) - およね 役 西遊記(人形劇、声のみ。1988年) 必殺! 三味線屋・勇次(1999年) - 叶屋おせき 役 真夜中の弥次さん喜多さん(2005年) 20世紀少年(2008年) - ジジババ 役 20世紀少年 第2章 最後の希望(2009年) - ジジババ 役 20世紀少年 最終章 ぼくらの旗(2009年) - ジジババ 役 忍道-SHINOBIDO-(2012年) 振り子(2015年) - タバコ屋 役 THE HYBRID 鵺の仔(2015年) - 澤津久森の母 役 悪漢探偵(ナンシー:シルヴィア・チャン)※フジテレビ版 皇帝密使(ナンシー:シルヴィア・チャン)※フジテレビ版 注 出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す。 子象のダンス(1975年) アスタ・ルエゴ 〜さよなら月の猫〜(1977年) 赤いサラファン(1984年) ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)「SR-Tスーパー」(愛川欽也と共演) 久光製薬「ウィンネア(女性保健薬)」 KINCHO「キンチョール」 ユニ・チャーム「チャーム・ソフトタンポン」「シルコット(化粧用コットン)」 明治乳業(現・明治)「クイーンカップ」 ミツカン「おむすび山」 服部セイコー(現・セイコーホールディングス)「アルバ腕時計」(レオナルド熊と共演) 電電公社「ミニファクス」 コーセー ライオン「エメロン・エチケットシャンプー」、「ソフト&ドライ」、「ブラッシュライオン(液体歯磨き)」 レダ「プチシルマ」 (志村けんや中村玉緒と共演) 雪印乳業「カマンベールチーズ」(実子3人と共演) エースコック「きつね大吉三枚目」(インスタントカップ麺) 日本軽金属「どんびえ」(アイスクリーム製造機) 哲ちゃん・ナオコの二人でドン→哲ちゃん・ナオコの「ハチあわせドン!」(ニッポン放送、いまに哲夫の歌謡パレードニッポン内ミニコーナー) 研ナオコの過払い金ぶっちゃけ法律相談(文化放送ほか全国AM38局、JFN36局) 研ナオコとともこのプチプチトーク(ニッポン放送) ^ 夫が代表を務めるケンズファミリーと業務提携し、自らプロデュースも行っている ^ TBS系「消えた天才~一流アスリートが勝てなかった人大追跡」2017年1月3日放映分にて ^ アニメ映画「未来少年コナン」OP主題歌。 ^ アニメ映画「未来少年コナン」ED主題歌。 ^ 中島みゆきの同名曲のカバー。 ^ 日本テレビ系テレビドラマ「私はタフな女」主題歌。 ^ 福島邦子の同名曲のカバー。 ^ アリスの同名曲のカバー。 ^ サザンオールスターズの同名曲のカバー。 ^ 自身の楽曲「ふられた気分で」のリメイク。 ^ 中島みゆきの同名曲のカバー。 ^ 田原俊彦とのデュエット(Toshi & Naoko名義)。 ^ 松任谷由実の同名曲のカバー。 ^ テレビ朝日系テレビドラマ「六本木ダンディーおみやさん」主題歌。 ^ ライラックスとのデュエット(ナオコ & ライラックス名義)。 ^ フジテレビ系テレビドラマ「ダブルマザー」主題歌。 ^ 志村けんとのデュエット(けん♀♂けん名義)。 ^ 田原俊彦とのデュエット。 ^ カセットテープでのみの発売。 ^ 2009年9月29日の『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』で清水アキラが『王座』時代から18年半ぶりに披露した研のものまねのご本人ゲストで登場した。また、清水同様に顔にセロハンテープを貼り、司会陣から「それはズルい」とツッコまれていた。 ^ THE HYBRID 鵺の仔 Ken's Family 株式会社田辺エージェンシー 研ナオコオフィシャルブログ『NAOKO KEN』 - Ameba Blog Ken’s Farm - 北海道・音更町で研ナオコがプロデュースした農園 研ナオコ (@naokoken77) - Twitter", "小泉 今日子(こいずみ きょうこ、1966年2月4日 - )は、日本の女優、歌手、および制作事務所「株式会社明後日」代表取締役。身長153cm。血液型O型。1980年代のアイドルとしては松田聖子と中森明菜の2強に続いた存在であり、歌手としては筒美京平や馬飼野康二の作曲した作品でヒットを連発した。KYON2(キョンキョン)の愛称で知られる。音楽レーベルはビクターエンタテインメント、所属事務所はバーニングプロダクション系列の明後日である。 神奈川県厚木市出身。厚木市立三田小学校、厚木市立睦合中学校卒業、神奈川県立津久井高等学校中退。 1981年1 - 3月、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に出場、石野真子の「彼が初恋」を歌って合格。その石野が当時所属していた芸能事務所(バーニングプロダクション)およびレコード会社(ビクター音楽産業)と契約する。 1982年3月21日にシングル「私の16才」でアイドル歌手としてデビュー。キャッチフレーズは「微笑少女。君の笑顔が好きだ」。 同期に、堀ちえみ、三田寛子、石川秀美、松本伊代、早見優、中森明菜、シブがき隊らがおり、「花の82年組」と呼ばれるアイドルの一人に数えられた。 髪をショートカットにイメージチェンジした5作目のシングル「まっ赤な女の子」でブレイクし、月曜ドラマランドで主演ドラマに抜擢された『あんみつ姫』が放送され一気に女優としても話題となり、高視聴率を獲得しながら多忙ながらに続編シリーズが放送された。なお、月曜ドラマランドの人気が出たのも『あんみつ姫』が放送されてからである。人気絶頂期時の1984年にリリースした9作目の「渚のはいから人魚」で初のオリコン週間チャート1位を獲得、33万枚を越える売上となった。このヒットにより、第35回NHK紅白歌合戦に初出場を果たし、後半戦のトップバッターに抜擢された。第39回NHK紅白歌合戦まで5年連続出場を果たす。明るくキュートな容姿が広く支持され、天真爛漫な明るさと新しいアイドル像を作り上げ、その人気は不動のものとなり、歌手活動以外にも、ドラマや映画に出演して一躍トップアイドルに躍り出た。また、この年はキョンキョンカットが流行り正にキョンキョン疾風な年でもあった。従来型のアイドルと比べて女優としての活動に重きを置いていた経緯があった。 新曲をリリースするごとにザ・ベストテンやザ・トップテンにランクインされたが、女優としても活動していたために映画やドラマの撮影場所からの中継も多かった。年末に発表される年間ベストテンにも100位以内にほぼ全曲がランクインされ、女性歌手では松田聖子、中森明菜に続く勢いであった。なお、アイドルの中では数少ない日本レコードセールス大賞のTOP10の中に輝く記録をしている。別冊宝島の調査によると、1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても279.1万枚、年間50位以内ランクイン曲数は10曲と、どちらも当時の女性アイドル中3位であった。 1985年に主演した連続テレビドラマ『少女に何が起こったか』は好評を博し、毎回20%以上越える高視聴率を獲得し、彼女の代表作ともなる。同年11月、17枚目のシングル「なんてったってアイドル」をリリース。オリコンチャートでは1位を獲得しつつ、約30万枚のヒットになり、歌詞のなかで「私はアイドル」と堂々と歌い上げて話題になった(それまでのアイドルは自らをアイドルと呼称することは殆どなかった)。親交のあった秋元康が、「アイドル・小泉今日子」をイメージして作詞をし、アイドルであることを楽しむ、あるいは遊ぶ、新時代のアイドルの形が創り出された。 一方、アルバムも40万枚近い売上を記録。1989年にリリースした『KOIZUMI IN THE HOUSE』では、当時まだあまりメジャー扱いされていなかったハウスミュージックを取り入れられた。楽曲や衣装などスタッフ任せだけでなく、自分の意見を述べるようになった。セルフプロデュースするアイドルの先駆者である[独自研究?]。 1989年に月9で放送された『愛しあってるかい!』では学園ドラマで陣内孝則の相手役に抜擢され、コミカルな内容でトレンディドラマとして代表作ともなるヒットとなり、平均視聴率が22.6%をマークし最高視聴率では26.6%を越えるヒットとなる。 1991年5月にリリースされた自身の主演ドラマ『パパとなっちゃん』の主題歌に起用され、自身が作詞を手掛けた「あなたに会えてよかった」はミリオンセラーを記録(累計出荷枚数158万枚)、自身最大のヒット曲となる(80年代アイドルで初めてのミリオンセラーでもある)。また、第33回日本レコード大賞では作詞賞とゴールドディスク賞を受賞する。 1993年には、自身主演のドラマ『愛するということ』の主題歌としてリリースされた「優しい雨」がオリコン2位を獲得し、累計出荷枚数143万枚にもなる大ヒットを記録した。 私生活では、1995年2月22日、俳優・永瀬正敏と結婚したが、2004年2月22日に離婚。2006年公開の映画『さくらん』が離婚後の初共演となった。 2005年1月、読売新聞の読書委員に就任。日曜読書面で書評を執筆。同年7月より、テレビ朝日系列で放送されていたテレビアニメ『あたしンち』のオープニングテーマ曲が「あたしンちの唄」に変更された。当初のクレジットタイトルには歌手名に「あたし仮面(仮)」と記され正体が隠されていたが、同年8月27日の同番組の放送でその正体が小泉であると発表された。 2008年、『空中庭園』以来3年ぶりの映画単独主演作『グーグーだって猫である』に出演。 2011年2月公開の映画『毎日かあさん』で、離婚後6年の歳月を経て元夫の永瀬正敏と夫婦役で共演して話題を呼んだ。永瀬は同映画で第20回日本映画批評家大賞の主演男優賞に選ばれ、同年5月28日に行われた授賞式で、小泉「『主役とは何だ』ということを非常によく分かっている女優さん。現場をすべて背負って走り抜ける覚悟がある大した人だなあと思いました」と絶賛した。 2013年には連続テレビ小説『あまちゃん』に出演し、劇中歌「潮騒のメモリー」もヒットして話題となった。 2016年、舞台、映像、音楽、出版などを企画製作するプロジェクト「明後日」を立ち上げ、第1弾作品として舞台『日の本一の大悪党』で初めて演出とプロデュースを手掛ける。また、6月24日には『徹子の部屋』に初出演を果たした。 2016年10月には株式会社明後日主催でフジテレビオンデマンド初のオリジナル音楽番組「PARK」と連携した音楽イベント「GO→TO」を開催。 2017年10月にはTBS系連続ドラマ『監獄のお姫さま』で主演を務める。小泉にとってTBS系連続ドラマの主演は、2001年の『恋を何年休んでますか』以来16年ぶり。 2018年1月31日付を以てデビュー以来36年間所属していたバーニングプロダクションから独立。今後の活動は2015年に小泉自身が立ち上げていた制作会社明後日で舞台の制作やプロデュース業等を行う。 2018年6月15日に、独立以前から決まっていた女優業などの仕事についてはしばらく休養し、舞台の制作などプロデューサー業に力を入れることを発表。 子供のころに父親の会社が倒産し、夜逃げの経験をしたことがある。その影響で金銭感覚がシビアになったという。アイドルとして働き出して潤沢な収入を得るようになっても不必要な出費はあまりしなかった。そのため日常生活する分にはお金に困ったことがないと話している。3姉妹の末っ子であるが、中学の時は家庭の事情で父親と2人暮らしをしていた。 デビュー当初より賞レースや音楽祭などに多くノミネートされて出演していた。NHK紅白歌合戦にも出場していたが、次第に辞退するようになった。 デビューよりバーニングプロダクション所属であり、グループ事務所を含め他事務所からの移籍が多い同社のタレントでは珍しい生え抜きタレントである。デビュー3年目の1984年、所属事務所の方針に嫌気が差し、精神的な疲れから数週間の休養期間をとる。休養明けに事務所に現れた時には、その当時流行っていたパーマのかかったヘアスタイル(聖子ちゃんカットの変形)を無断で刈り上げて、スタッフを慌てさせたとされる[要出典]。その時期、女性アイドルグラビア雑誌『DUNK』の創刊イメージキャラクターに決定しており、女の子らしいアイドル路線で表紙を飾る方向で編集部は準備を進めていたが、急遽コンセプトの変更を余儀なくされた[要出典]。ボーイッシュな刈り上げに合うよう応援団のような学生服を着用させ「コイズミよろしく!」のキャッチコピーを添えた(結果的に成功を収め、アンケートはがきでも好評であったという)。また、自分自身を「コイズミ」と苗字で称するようにもなった。 『アンアン』に連載していたショートエッセイ「パンダのアンアン」中で、身長153cmと小柄であるため、アイドル時代は他のアイドルとバランスをとるため事務所の方針で常にハイヒールを履かされており、転ばないようにいつも前のめりに踏ん張っていたのでふくらはぎに立派な筋肉がついてしまった、と述べている。 アイドル時代から衣装の奇抜さも有名であり、中には自らがデザインをして製作した衣装や、スタイリストをつけず独自のセンスで衣装を選ぶことも多かった。ファッションについて厳しい視点を持っていた芳村真理からも「自分をちゃんと主張していて素晴らしい」と称賛された。芳村司会の『夜のヒットスタジオ』出演時には他の歌番組とは異なる特注の奇抜な衣装を身に着けて歌を披露することが多かった。 『ザ・ベストテン』で小泉が愛読書として吉本ばななの作品を挙げた。また、ラジオ番組でJ・D・サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』を紹介し、ベストセラーになったこともあった。 写真集において、全裸で魚拓ならぬ人拓を披露したこともあった(後に、これは自身の付き人の物と告白した)。永瀬正敏との結婚の際には入浴中の写真などを含むプライベート写真展を開催。愛煙家であり、喫煙している姿も特に隠すことはない。 1980年代後半から1990年代前半にかけて、数多くのCMに起用された。“小泉をCMで起用した商品は売れる”といわれ、雑誌の記事などでは「売上10%増」とも書かれることもしばしばあった。当時、企業の広報・宣伝担当者や広告代理店の中には「神様仏様小泉様」という言葉まであったという。それだけに企業との契約期間も長く、特に資生堂のCMには、商品こそ替わるものの、1988年から2010年まで延べ20年以上断続的に出演していた。 黒柳徹子とは『ザ・ベストテン』で共演してから長く交友があるが、『徹子の部屋』には2016年6月24日の放送まで一度も出演した事がなかった。これは、所属事務所が小泉をトーク番組に出さない方針を長い間貫いてきたためであり、デビュー35年目にしてようやく解禁され、初出演が叶った。 女性歌手の中では浜崎あゆみ、モーニング娘。、倉木麻衣、安室奈美恵に次いでオリコンベスト10入りの曲数では歴代5位である(「春風の誘惑」(1983年2月発売)から「潮騒のメモリー」(「天野春子(小泉今日子)」名義で、2013年7月発売)まで34作)。ザ・ベストテンでは、120週以上ランクインしていた。歴代9位。 タレントのYOUや飯島直子、米倉涼子、中森明菜、中山美穂、荻野目洋子、とんねるず、二宮和也、松岡昌宏、堤真一、吉高由里子、マツコ・デラックス、アルフィー、高畑充希、古田新太、水川あさみ、観月ありさ、石原さとみらと親交がある。深浦加奈子(故人)を実姉のように慕っていて非常に仲が良かった。観月ありさは20年以上に渡って妹のように可愛がっており親友の一人でもある。交流はほぼなかったが女優の沢村貞子の芯の通った凛とした姿勢に憧れを抱いているという。連続テレビ小説『あまちゃん』で共演した能年玲奈(2016年に「のん」に改名)を役柄そのままに娘のように可愛がっており、また能年も小泉のことをドラマ終了後も「ママ」と慕っている。 恋愛について、「やっぱり同業者には仲間意識しか持てないのかも。だから私、共演者と付き合ったことは一度もないんですよ」「プロポーズしてくれて自然な流れで結婚した」と語っている。 あたしンちの唄(2005年8月27日)※配信限定 - 発売当時は「あたし仮面(仮)」名義 Innocent Love(2008年11月12日)※配信限定 虹が消えるまで(2009年1月21日)※配信限定 うちへ帰ろう(2011年2月9日)※配信限定 Innocent Love (FPM 4/4 DUB MIX)(2011年2月9日)※配信限定 三日月ストレッチ 背すじのばし編(2011年2月9日)※配信限定 三日月ストレッチ 腰ほぐし編(2011年2月9日)※配信限定 100%(2012年9月5日)※配信限定 マイ・ファンタジー(1982年8月21日) 詩色の季節(1982年12月16日) Breezing(1983年7月5日) WHISPER(1983年12月16日) Betty(1984年7月21日) Today's Girl(1985年2月21日) Flapper (1985年7月5日) 今日子の清く楽しく美しく(1986年2月21日) Liar(1986年7月23日) Hippies(1987年3月5日) Phantasien(1987年7月21日) BEAT POP(1988年4月5日) ナツメロ(1988年12月17日) KOIZUMI IN THE HOUSE(1989年5月21日) No.17(1990年7月21日) afropia(1991年7月26日) Banbinater - Koizumix Production名義(1992年12月16日)※ミニアルバム TRAVEL ROCK(1993年11月21日) オトコのコ オンナのコ(1996年11月21日) KYO→(1998年10月7日) Inner Beauty(1999年5月21日)※ミニアルバム KYO→2 〜Anniversary Song〜(2001年2月21日)※ミニアルバム 厚木I.C.(2003年4月23日) Nice Middle(2008年11月26日) Live Session (iTunes Exclusive) - EP(2009年12月16日))※配信限定 Koizumi Chansonnier(2012年10月24日) SUPER BEST THANK YOU KYOKO(1983年11月21日)※カセットテープ販売のみ Absolute Best For CD(1984年7月5日)※CD販売のみ Celebration(1984年12月5日) Melodies 〜Kyoko Koizumi Song Book(1985年8月21日) Do You Love Me(1985年12月25日) ザ・ベスト(1986年12月16日) Ballad Classics(1987年12月1日) CD FILE Vol.1(1987年12月16日) CD FILE Vol.2(1987年12月16日) CD FILE Vol.3(1987年12月16日) Ballad Classics \"Off Vocal\" Special(1988年1月21日) Best Of Kyong King(1988年12月17日) CD FILE VOL.4(1989年3月21日) Ballad Classics II(1989年12月16日) K2 Best Seller(1992年3月21日) anytime(1994年12月1日) 89-99 collection - Koizumix Production名義(1998年12月19日) 89-99 VINYL COLLECTION - Koizumix Production名義(1999年)※アナログレコード KYON3 〜KOIZUMI THE GREAT 51(2002年12月18日) K25 〜KYOKO KOIZUMI ALL TIME BEST〜(2007年3月21日) 裏K25 〜KOIZUMI KYOKO ALL TIME BEST 19→38〜(2008年2月13日)※配信限定 コラボレーキョン(2011年2月16日) Kyon30〜なんてったって30年!〜(2012年3月21日) Kyon30 extra(2012年3月21日)※配信限定 コイズミクロニクル〜コンプリートシングルベスト 1982-2017〜(2017年5月17日) SEPARATION KYOKO(1983年9月5日)※カセットテープ販売のみ(後に配信) Kyon Kyon倶楽部(1984年)※カセットテープ販売のみ(後に配信) 夏のタイムマシーン(1988年7月6日)※3曲入りのミニアルバム Fade Out Super Remix Tracks(1989年7月28日) Super Remix Tracks II(1990年9月5日) KYON2「とかげ」を読む。(1993年9月22日)※吉本ばななの小説の朗読 MASTER MIX PARTY - Koizumix Production名義(1993年10月21日) Timeless World(1984年9月5日) ドキュメント〜走り続けるミス・ヒーロー今日子〜(1985年12月25日) コイズミ シネマグラフティ メイキング・オブ「ボクの女に手を出すな」(1986年12月24日) Phantasien(1987年8月1日) BEAT TICK CAMP TOUR '88 Vol.1, Vol.2(1988年9月21日) Fade Out 〜KYONGKING HONGKONG(1989年7月5日) National Koizumic Video(1990年8月21日) シング!シング!シングルス!!!(1991年2月21日) 改訂版 Koizumic Video(1992年4月21日) 小泉今日子宇宙人説(1992年12月23日) VIDEO TRAVEL ROCK(1993年12月16日) オトコのコ オンナのコ Movies(1996年12月18日) KYON8(2003年2月21日) K25 〜KOIZUMI KYOKO ALL TIME BEST CLIIPS〜(2008年2月20日) 明石家さんま 「FALL IN LOVE」 作曲:高見沢俊彦、編曲:武部聡志 市井由理 「恋がしたかった」 作曲・編曲:朝本浩文 「優しいトーン」 作曲・編曲:朝本浩文 国本武春 「儚い手紙」 作曲:OTO、編曲:渡辺貴浩・OTO 小箱静 「ずっとForever」 作曲・編曲:屋敷豪太 観月ありさ 「私は泣かない」 作曲・編曲:大橋好規 Ram Jam World 「ハダカ」 作曲:朝本浩文 TANGOS 「革命女神国家」 作曲・編曲:渡辺貴浩 大河ドラマ 峠の群像(1982年、NHK) - つる 役 武蔵 MUSASHI(2003年、NHK) - 吉野太夫 役 いだてん〜東京オリムピック噺〜(2019年、NHK) - 美津子 役 振りむけば春(1990年、NHK) 夫についての情報(2000年、NHK) - 主演・奈津子 役 川、いつか海へ 6つの愛の物語(2003年、NHK) - 有田悦子 役 とんび(2012年、NHK) - たえ子 役 連続テレビ小説 あまちゃん(2013年、NHK) - 天野春子 役 富士ファミリー(2016年) - ナスミ 役 富士ファミリー 2017(2017年) トットてれび(2016年4月30日 - 6月18日、NHK総合) - 語り(パンダ) 役 ※ 声の出演のみ 明日はアタシの風が吹く(1989年、日本テレビ) - 主演・アヤ 役 瞳に星な女たち(1993年、日本テレビ) - 主演・萌子 役 私立探偵 濱マイク(2002年、日本テレビ) - サキ 役 すいか(2003年、日本テレビ) - 馬場万里子 役(友情出演) HiGH&LOW〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜 Season1(2015年、日本テレビ) Season2(2016年、日本テレビ) スーパーサラリーマン左江内氏(2017年、日本テレビ) - 左江内円子 役 少女に何が起ったか (1985年、TBS) - 主演・野川雪 役 おかあさん〜たぬき屋の人々(1985年、TBS) 花嫁人形は眠らない(1986年、TBS) - 宮本今日子 役 今日の日をこそ(1988年、TBS) 花束(1990年、TBS) - 主演・野々宮美智子 役 パパとなっちゃん(1991年、TBS) - 主演・志村夏実 役 ヒマラヤの赤い自転車(1992年、TBS) - 主演・井上衣里香 役 愛するということ(1993年、TBS) - 月村智美 役 僕が彼女に、借金をした理由。 (1994年、TBS) - 立花ゆき 役 風を聴く日(1995年、TBS) - 長沢晶子 役 メロディ(1997年、TBS) - 主演・原サチコ 役 終わりのない童話(1998年、TBS) - 滝子 役 カミさんなんかこわくない 第1話(1998年、TBS) - ゲスト 恋を何年休んでますか(2001年、TBS) - 主演・小西有子 役 恋を何年休んでますかスペシャル(2002年) マンハッタンラブストーリー(2003年、TBS) - 赤羽伸子 役 セーラー服と機関銃(2006年、TBS) - 三大寺真由美 役 ハタチの恋人(2007年、TBS) - 沢田絵里 役 うぬぼれ刑事 第7話(2010年、TBS) - 板倉里奈 / 福原直美 役(二役) 監獄のお姫さま(2017年、TBS) - 主演・馬場カヨ 役 あんみつ姫シリーズ(1983年 - 1984年フジテレビ) - 主演・あんみつ姫 役 藤子不二雄の夢カメラ 「第3話 じゃんけんぽん」(1986年3月3日、フジテレビ) - 主演・田所鏡子/田所照子 役(二役) 艶歌・旅の終りに(1988年、フジテレビ) 愛しあってるかい!(1989年、フジテレビ) - ヒロイン・椎名吹雪 役 愛しあってるかい!スペシャル(1990年) 花迷宮・昭和異人館の女たち (1990年、フジテレビ) あなただけ見えない(1992年、フジテレビ) - 主演・川島恵 役 華岡青洲の妻(1992年10月30日、フジテレビ) チャンス! 第1話(1993年、フジテレビ) - ゲスト まだ恋は始まらない(1995年、フジテレビ) - 主演・神崎茜/お由紀 役(二役) 恋愛結婚の法則(1999年、フジテレビ) - 主演・中嶋朝子 役 黒い十人の女(2002年、フジテレビ) - 三雲三輪子 役 優しい時間(2005年、フジテレビ) - ナース 役 最後から二番目の恋(2012年、フジテレビ) - 主演・吉野千明 役 最後から二番目の恋 2012秋(2012年) 続・最後から二番目の恋(2014年) 極悪がんぼ 第7話(2014年、フジテレビ) - 吉野千明 役 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(2015年、フジテレビ) - 宿海塔子 役 あとは寝るだけ(1983年、テレビ朝日) - なつみ 役 女の一生(1985年、テレビ朝日) - 主演・キク 役 女と男と物語 PARTII「白い夜顔」(2003年、テレビ朝日) - 主演・かすみ 役 センセイの鞄(2003年、WOWOW) - 主演・大町月子 役 贖罪(2012年、WOWOW) - 主演・足立麻子 役 十階のモスキート(1983年、ATG) - RIE 役 生徒諸君!(1984年、日本ヘラルド) - 主演・北城尚子 / 北城真理子 役(二役) ボクの女に手を出すな(1986年、東映) - 主演・黒田ひとみ 役 子猫物語(1986年、東宝) - 詩の朗読 快盗ルビイ(1988年、東宝) - 主演・加藤留美 役 稲村ジェーン(1990年、東宝) - 退院する患者 役 超少女REIKO(1991年、東宝) - 藤沢教諭 役 病は気から 病院へ行こう2(1992年、東映) - 主演・安雲祐子 役 虹をつかむ男・南国奮斗篇(1997年、松竹) - 祝節子 役 踊る大捜査線シリーズ - 日向真奈美 役 踊る大捜査線 THE MOVIE(1998年、東宝) 踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!(2010年、東宝) 共犯者(1999年、東映) - 主演・安田聡美 役 風花(2001年、シネカノン) - 主演・冨田ゆり子 役 陰陽師(2001年、東宝) - 青音 役 青い春(2002年、ゼアリズエンタープライズ) - さぼーる 役 ロッカーズ ROCKERS(2003年、ギャガ・コミュニケーションズ) 照明熊谷学校(2004年、フェローピクチャーズ) - ナレーション SURVIVE STYLE5+「自信過剰なCMプランナーと、人気催眠術師」(2004年、東宝) - 主演・洋子 役 空中庭園(2005年、アスミック・エース) - 主演・京橋絵里子 役 雪に願うこと(2006年、ビターズ・エンド) - 田中晴子 役 涙そうそう(2006年、東宝) - 新垣光江 役 映画監督って何だ!(2006年、マジックアワー) - 主演・女弁士 役 LOVE MY LIFE(2006年、トライネットエンタテインメント=タキ・コーポレーション) - いちこのママ 役 ユメ十夜・第一夜(2007年、日活) - 主演・ツグミ 役 さくらん(2007年、アスミック・エース) - お蘭 役 東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜(2007年、松竹) - 不動産屋の事務員 役 やじきた道中 てれすこ(2007年、松竹) - お喜乃 役 転々(2007年、スタイルジャム) - 麻紀子 役 グーグーだって猫である(2008年、アスミック・エース) - 主演・小島麻子 役 トウキョウソナタ(2008年、ピックス) - 主演・佐々木恵 役 The ショートフィルムズ/みんな、はじめはコドモだった「ダイコン〜ダイニングテーブルのコンテンポラリー〜」(2008年、リトルバード) - 主演 劇場版ムーミン パペット・アニメーション〜ムーミン谷の夏まつり〜(2009年、アスミック・エース) - ナレーション マザーウォーター(2010年、スールキートス) - タカコ 役 サビ男サビ女「せびろやしき」(2011年、ニューシネマワークショップ) - 主演・岡田真弓 役 毎日かあさん(2011年、松竹) - 主演・サイバラリエコ 役 贖罪 インターナショナル版(2012年、WOWOW) - 主演・足立麻子 役 つやのよる ある愛に関わった、女たちの物語(2013年、東映) - 石田環希 役 リアル〜完全なる首長竜の日〜(2013年、東宝) - 藤田真紀子 役 ふきげんな過去(2016年、東京テアトル) - 主演・未来子 役(二階堂ふみとW主演) お江戸のキャンディー2 ロワゾー・ドゥ・パラディ(天国の鳥)篇(2017年、トリウッド) - ナレーション 散歩する侵略者(2017年、松竹・日活) - 医者 役 ピース・ニッポン(2018年、ファントム・フィルム) - ナレーション 食べる女(2018年、東映) - 主役・餅月敦子 役 グローイング・アップ/ラスト・バージン(1983年7月6日、フジテレビ系「ゴールデン洋画劇場」) - カレン(ダイアン・フランクリン) 役 地球!ふしぎ大自然(2001年 - 2006年、NHK総合) - 語り 高橋克典・小泉今日子の魂の百年物語武士道をゆく(2001年、日本テレビ) - ナレーション 終電〜ミッドナイト・ピクニック〜(2010年、NHK総合) - ナレーション ザ・ノンフィクション(フジテレビ) - 語り ハナエゆれる ある家族のゆくえ(2013年6月16日、フジテレビ) 27年ぶりの「運動靴」(2015年7月19日、フジテレビ) 『生きると決める 何度でも~京都・大人たちの想い出草ノート~』(2015年、NHKEテレ) - 語り 注意点 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 パリンコ学園No.1(1982年10月7日 - 1983年3月31日、TBS) 24時間テレビ 「愛は地球を救う」(1985年8月24日 - 25日、日本テレビ) ザ・サンデー -THE SUNDAY-(1986年10月 - 1987年3月、フジテレビ)※初となるレギュラーMC担当 ゆく年くる年 (民間放送テレビ)(1986年12月31日 - 1987年1月1日、民放各テレビ局(制作局はTBS)) 加トちゃんケンちゃんファンタジーワールド(1989年、TBS) とんねるずのみなさんのおかげです(フジテレビ) ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!(フジテレビ) holy mountain(1997年 - 1998年、日本テレビ) 小泉今日子&中山美穂 二人は楽園ハンター!!(1999年5月23日、日本テレビ) 世界わくわくエンターテイメントシティー「小泉今日子 プラハの旅」〜もうひとつの映画の都を訪ねて〜(2001年4月3日、NHK BS2) 小泉今日子の世界旅行研究所イン楽園タヒチ(2001年7月15日、日本テレビ) SAVE THE FUTURE・エコレゾTV(NHK) ショコラ(日本テレビ) ネオコラ!東京環境会議(フジテレビ) Eテレ0655・Eテレ2355(NHK教育テレビジョン) 旅嬢ヂカラ(2011年1月3日、テレビ東京) 世界は言葉でできている(2012年、フジテレビ) 鶴瓶の家族に乾杯(2013年6月、NHK) 今夜あの場所で(2013年9月24日、日本テレビ) コトバのお年玉〜薬師丸ひろ子×小泉今日子×有働由美子の初夢トーク〜(2016年1月1日、NHK) 小泉今日子 50歳 ニューヨーク(2016年1月3日、テレビ朝日) PARK(2016年12月22日 ~ 、フジテレビオンデマンド) マイ・ラスト・ソング 〜人生の最後に聴きたい歌は〜(2018年3月28日、NHK総合) - 進行役・朗読 キョンキョンワールド、キョンキョンランド(1983年、文化放送、吉田照美のてるてるワイド内) 小泉今日子 おきょんな夜だから (1985年 - 1986年、ニッポン放送) キョンキョン話がE(1985年 - 1986年、文化放送) 小泉今日子のオールナイトニッポン (1986年 - 1988年、2007年、2012年、2017年ニッポン放送) KOIZUMI IN MOTION(1989年 - 1992年、TOKYO FM) 小泉今日子のstar radio(2008年、FM NACK5) 小泉今日子の Nice Middle Stories Special(2009年、TOKYO FM) KOIZUMI IN MOTION 2010(2010年、TOKYO FM) ラジオドラマ「想像ラジオ」(2014年3月9日、ニッポン放送) YELLOW APARTMENT, A BLACK CAT~小泉今日子、原宿ストーリー(2016年4月29日、J-WAVE) ラジオドラマ「明るい夜に出かけて」(2018年4月16日、ニッポン放送) 紙のドレスを燃やす夜(1997年) 隠れる女(2000年) おかしな二人・女編(2002年) シブヤから遠く離れて(2004年、2016年) - マリー 役 エドモンド(2005年) 労働者M(2006年) 禿禿祭(2007年) 恋する妊婦(2008年) チェロを弾く女(2008年) 楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜(2009年) 高き彼物(2009年) At Home At The Zoo(2010年) トップ・ガールズ(2011年) マイ・ラスト・ソング(2008年 - 2013年、2015年 - 2016年、2018年) 朗読劇『宮沢賢治が伝えること』(2012年) 頭痛肩こり樋口一葉(2013年) シダの群れ 第三弾 港の女歌手編(2013年) フタゴの女(2014年) いやおうなしに(2015年) 草枕(2015年) 家庭内失踪(2016年) - 雪子 役 明後日プロデュースVol.1『日の本一の大悪党』(2016年) - お岩 役 ※ 演出・プロデュースも担当 毒おんな(2018年) お蘭、登場(2018年) 消しゴムのない手紙(1983年) 出逢いの瞬間(モーメント)(1983年) concert'84『今日子・NOW・春』(1984年) 時計のいらない夏〜Timeless Summer〜(1984年) KYON2 PANIC '85〜熱いこころのパフォーマンス〜(1985年) KYON2 PANIC '85〜楽しいことは、いいことだ!!〜(1985年) テロ'86 武装アイドルを援護せよ!(1986年) GoGo hippies TOUR '87(1987年) 小泉今日子一座 '87 夏公演大入り(1987年) BEAT TICK CAMP TOUR '88(1988年) スクールフェスタ '88 きょーこちゃんまつりヒューヒュー!(1988年) 小泉今日子のTOUR'89 スーパーウルトラハード!!(1989年) Club Koizumi Vol.3(インクステック芝浦ファクトリー)(1989年10月14日) Club Koizumi Vol.4(MZA有明)(1990年7月29日) 24時間テレビ 「愛は地球を救う」コンサート(1990年8月26日) 小泉今日子のTOUR'90 SING!SING!!SINGLES!!!(1990年) 小泉今日子のTOUR'91 セクシー・ダイナマイト・ツアー 〜MMK(モテてモテてコマる)作戦〜(1991年) クラブ・ツアー「afropia night」(1991年) Club Koizumi Vol.6(日新パワーステイション)(1991年9月25日) 小泉今日子『ハプニング集会』(1993年) 「キリン午後の紅茶」PRESENTS「KYO→LIVE#001」(1998年) 「キリン午後の紅茶」PRESENTS Kyoko Koizumi Tour '99(1999年) KOIZUMIX100号記念 コイズミックス百科事典(2001年8月5日) Space Shower TV Live EX.1(2003年5月30日) Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ(2005年10月7日) ARABAKI ROCK FEST.(2003年9月7日) SUMMER SONIC 2008(2008年8月10日) -HOWL- night presented by tadashi mochizuki(2008年11月23日) SWITCH ON LIVE 2008(2008年11月27日) ZUSHI FES 2009(2009年8月12日) RISING SUN ROCK FESTIVAL 2009 in EZO(2009年8月15日) MONSTER bash 2009(2009年8月22日) コヤブソニック 2009(2009年8月23日) 音楽と髭達2009“Way”(2009年8月29日) Kスタトークショウ・表参道物語 Vol.17(2009年2月14日) CLUB DICTIONARY #1 Organic Lounge(2009年3月30日) 第23回東京国際映画祭『映画人、小泉今日子の世界』(2010年10月23日) TOKYO No.1 SOUL SET+Ladies「全て光」ALBUM RELEASE PARTY(2011年2月9日) 30周年記念ライブ(2011年) コヤブソニック2011 (2011年5月21日) 2011 Kyoko Koizumi LIVE EVENT(2011年8月20日) 水平線の花火と音楽2(2011年10月22日) 忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー 日本武道館 Love&Peace 2012(2012年5月2日) Kyoko Koizumi 30th Anniversary Tour2012(2012年) SOUND MARINA '12(2012年9月1日) 20th Sunset Live 2012 -Love&Unity-(2012年9月2日) 氣志團万博2012「房総ロックンロール・オリンピック」(2012年9月16日) コヤブソニック2012 (2012年9月26日) Koizumi Chansonnier 〜新春シャンソンショー〜(2013年2月9日) UEda KENji 50th.BIRTHDAY FESTIVAL〜Female night〜(2015年8月30日) 『小泉今日子書評集』刊行記念 小泉今日子 × 市川真人トークショー(2015年11月8日) 渡辺えり還暦特別公演『ガーデン〜空の海、風の国〜』アフタートーク(2015年12月19日) 小泉今日子エッセイ集『黄色いマンション 黒い猫』刊行記念 J-WAVE公開収録イベント(2016年4月24日) いぬねこなかまフェス 2016 〜動物愛護週間に集まろう〜(2016年9月11日) いとうせいこうフェス〜デビューアルバム『建設的』30周年祝賀会〜(2016年9月30日) 平山秀幸監督上映会トークショー(2016年10月16日) いぬねこなかまフェス 2017 〜動物愛護週間に集まろう〜(2017年9月18日) 江崎グリコ 「アーモンド&セシルチョコレート」(1982年) 「アーモンドチョコレート」(1983年 - 1984年) 学生援護会「日刊アルバイトニュース」(1983年) ライオン「エメロン エチケットシャンプー」(1983年) ビクター(現・JVCケンウッド)(1984年) 「CREATION」 「VHD」 武田薬品工業 「ベンザエース」(1985年 - 1990年) ロッテ 「コアラのマーチ」(1985年) 「ガーナミルクチョコレート」(1985年) 「アーモンドヌガーバー」(1987年) 「アーモンドビッグバー」(1989年) 「巨峰ヨーグルト」(1992年) 集英社「集英社文庫」(1986年) 味の素 「クノールカップスープ」(1986年 - 1994年) 「テイクアウト」(1990年) 「鍋キューブ」(2012年 - ) カネボウ化粧品「アクアルージュ」(1987年) 三菱電機「霧ヶ峰」(1987年 - 1993年) 資生堂 「スーパーマイルドシャンプー&リンス」(1988年 - 1998年) 「ELIXIR」(1998年 - 2004年) 「ELIXIR SUPERIEUR」(2008年 - 2010年) 本田技研工業「スタンドアップタクト」(1989年) 第一勧業銀行(現・みずほ銀行)「ハートの銀行」(1990年) JR東日本(1990年 - 1994年)→本項JR東日本CM詳細参照 オートザム「レビュー」(1990年) キリンビバレッジ「午後の紅茶」(1995年 - 1999年) コダック「アドバンティックス」(1995年 - 2002年) 新潮社「新潮文庫の100冊」(1996年) 第二電電(現・KDDI)「DDI」(1997年 - 2000年) スズキ「アルト」(1998年 - 1999年) 日立 「毎日使うから、日立。(家電シリーズ)」(1999年) サンヨー食品 「サッポロ一番どんぶり」(2000年) キリンビール 「キリンラガー」(1990年) 「酔茶チューハイ」(2004年) 「キリンフリー」(2013年 - ) サントリー 「フルーツアップ」(1986年) 「マグナムドライ」(2001年) 「DAKARA」(2006年) スバル「ステラ」 (ナレーション)(2006年) サッポロビール 「ヱビスビール」(2009年) 「シルクヱビス」(2009年) ピックス「ミルク」(2009年) - ナレーション 明治 旧・明治製菓「明治ミルクチョコレート」(2009年 - 2011年) 旧・明治乳業「明治北海道十勝スマートチーズ」(2009年 - 2011年) 富士フイルム 「カルディア」(1984年) 「タンデム」(1985年) ヘルスケア ラボラトリー「ASTALIFT」(2011年 - 2013年) 「お正月を写そう♪2012」(2011年 - 2012年) 「お正月を写そう♪2013」(2012年 - 2013年) ハイアールアクアセールス「AQUAデビュー編」ほか(2012年 - ) 野村不動産 「Tokyoイゴコチ研究所」(2013年 - ) 明治安田生命 「しあわせカフェ」篇(2013年) 「うさりんとかめろんの歌」篇(2014年) 「進化する保険 ベストスタイル誕生」篇(2014年) 「ベストスタイル あなたのスタイル」篇(2014年) コーセー ELSIA 「エルシア 明るい顔」篇(2014年) ELSIA 「エルシア かわいい口紅」篇(2014年) ELSIA 「エルシア 明るい目もと」篇(2015年) ELSIA 「ナイスカバー、エルシア」篇(2016年) 「Tokyo Seven Days」篇(2016年) ELSIA 「上げていこう」篇(2016年) ELSIA 「ポンポンBB」篇(2016年) ELSIA 「大人の欲張ルージュ」篇(2017年) ソフトバンク SoftBank 「MOON RIVER」篇(2015年) 明星食品「チャルメラ」(2016年) 1990年 もっともっと!(ダイヤ改正) もっとディズニーランド(ダイヤ改正) もっと新幹線(ダイヤ改正、やまびこ・あさひ増発) 素敵な場所 素敵な乗り物 白銀は招くよ(ガーラ湯沢スキー場オープン) 白い恋人たち(ガーラ湯沢駅開業) 1991年 ジャンジャカジャーン(ダイヤ改正) 乗ってちょーライナー(成田エクスプレス開通) ステップ(東北新幹線東京駅開業) 1992年 ふるさとは遠くにあらず(かがやき本数増便) ダイヤとはなんぞや(ダイヤ改正) ある部屋(ダイヤ改正) 花笠音頭(東京 - 山形のりかえなし直通) 1993年 文字のコンポジション(ダイヤ改正) 電車が走る(時差通勤) 夏に歌えば(房総ビューエクスプレス) 1994年 ダイヤ改正デラックス オール2階建て新幹線Max(東北・上越新幹線に登場) 国立新美術館「大回顧展 モネ〜印象派の巨匠、その遺産〜」(2007年) 人生らしいね(吉見佑子との共著、1988年、マガジンハウス「Oliveの本」) パンダのan an(1997年、マガジンハウス / 2009年、マガジンハウス文庫) 小泉今日子→往復書簡←こぐれひでこ(こぐれひでことの共著、2003年、SSコミュニケーションズ) 小泉今日子の半径100m(2006年、宝島社 / 2007年、宝島社文庫) 小泉今日子実行委員会(大人女子実行委員会との共著、2010年、宝島社) 原宿百景(2010年7月23日、スイッチ・パブリッシング「SWITCH LIBRARY」)ISBN 978-4884182946 小雨日記(2011年4月22日、角川マーケティング)ISBN 978-4047318380 小泉今日子書評集(2015年10月23日、中央公論新社)ISBN 978-4120047794 黄色いマンション 黒い猫(2016年4月15日、スイッチ・パブリッシング「SWITCH LIBRARY」)ISBN 978-4884184483 - 第33回講談社エッセイ賞受賞 小泉放談(2017年12月6日、宝島社文庫)ISBN 978-4-8002-7669-8 第15回新宿音楽祭 金賞(ひとり街角)(1982年) 第12回銀座音楽祭 金賞(ひとり街角)(1982年) 第9回FNS歌謡祭 優秀新人賞(ひとり街角)(1982年) 第13回日本歌謡大賞 放送音楽新人賞(ひとり街角)(1982年) 第8回日本テレビ音楽祭 新人賞・最優秀新人賞(素敵なラブリーボーイ)(1982年) 第25回日本レコード大賞 ゴールデン・アイドル賞(艶姿ナミダ娘)(1983年) 第10回日本テレビ音楽祭 トップアイドル賞(ヤマトナデシコ七変化)(1984年) 第22回ゴールデン・アロー賞 グラフ賞(1984年)The Stardust Memory 第27回日本レコード大賞 優秀アルバム賞(Today's Girl)(1985年) 第15回東京音楽祭 外国審査員団賞(なんてったってアイドル)(1985年) 第20回日本レコードセールス大賞 シングル部門・シルバー賞(1987年) 第43回毎日映画コンクール 女優主演賞(快盗ルビイ)(1988年) 第3回高崎映画祭 主演女優賞(快盗ルビイ)(1988年) 第10回ヨコハマ映画祭 主演女優賞(快盗ルビイ)(1988年) 第33回日本レコード大賞 作詩賞(あなたに会えてよかった)(1991年) 第33回日本レコード大賞 ゴールド・ディスク賞(あなたに会えてよかった)(1991年) 第9回日本ゴールドディスク大賞 歌謡曲・アイドル部門(anytime)(1995年) 第24回おおさか映画祭 助演女優賞(踊る大捜査線 THE MOVIE)(1998年) 第26回報知映画賞 主演女優賞(風花) 第25回日本アカデミー賞 優秀主演女優賞(風花) 第25回日本アカデミー賞 優秀助演女優賞(陰陽師) 平成15年度芸術選奨新人賞 放送部門(センセイの鞄、マンハッタンラブストーリー、すいか) 第48回ブルーリボン賞 主演女優賞(空中庭園) 第18回日刊スポーツ映画大賞 主演女優賞(空中庭園) 第20回高崎映画祭 最優秀主演女優賞(空中庭園) 第15回日本映画プロフェッショナル大賞 主演女優賞(空中庭園) 第82回キネマ旬報ベスト・テン 主演女優賞(グーグーだって猫である、トウキョウソナタ) 第33回報知映画賞 主演女優賞(グーグーだって猫である、トウキョウソナタ) 第32回山路ふみ子映画賞 女優賞(グーグーだって猫である、トウキョウソナタ) 平成20年度芸術選奨 文部科学大臣賞・映画部門(グーグーだって猫である、トウキョウソナタ) 第66回毎日映画コンクール 女優主演賞(毎日かあさん) 第49回ギャラクシー賞 テレビ部門・個人賞(最後から二番目の恋、贖罪) 第38回放送文化基金賞 番組部門・演技賞(最後から二番目の恋) 東京ドラマアウォード2013 助演女優賞(あまちゃん) 第78回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 助演女優賞(あまちゃん) 第81回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 主演女優賞(続・最後から二番目の恋) 第50回紀伊國屋演劇賞 個人賞(草枕) 第23回読売演劇大賞 優秀女優賞(草枕) 第8回TAMA映画賞 最優秀女優賞(ふきげんな過去) 第33回講談社エッセイ賞(黄色いマンション 黒い猫) ^ a b 2は2乗の表記。愛称としてだけでなく、ヤマトナデシコ七変化(12インチ)とハートブレイカーでは名義として使用された。 ^ 但し、小泉自身は雑誌の撮影や音楽番組で共演した際には仲良くしていたが、プライベートでは連絡を取り合うほどの深い交友関係ではなかったという。 ^ 出演した動機は、小泉自身が原作者の大島弓子のファンであることによるものである。 ^ 配給の松竹によると、元夫婦が映画で夫婦役をするのは史上初で前代未聞という[要出典]。 ^ 既存の“アイドル”の枠に押し込めようとした戦略や、全く休みの取れないスケジュールの過密さなど…とライブMCなどで激白している。 ^ 小泉とは盟友に当たる同期の中森明菜も芳村から同様の言葉を受けている。 ^ a b c d e f g h 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.112. ^ a b c d e f g h i j k l 別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.23. ^ a b 別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.73. ^ 日本タレント名鑑(VIPタイムズ社) ^ 別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.2. ^ 別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.39. ^ “女優 小泉今日子さん”. 読売家庭版YOMY (読売新聞社). オリジナルの2013年5月1日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/20130501065144/http://www.yomiuri.co.jp/pr/kateiban/yonde0507.htm 2016年9月2日閲覧。  ^ 書評一覧 ^ “永瀬正敏:元妻キョンキョンを絶賛「大した人」 共演の「毎日かあさん」で批評家大賞”. まんたんウェブ. 毎日新聞デジタル (2011年5月28日). 2013年5月24日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年5月24日閲覧。 ^ a b “小泉今日子が舞台演出、プロデュースに初挑戦!「四谷怪談」モチーフに”. ステージナタリー. 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静岡県立静岡商業高等学校に入学。商業高校ということもあって、在学中に簿記検定などの資格も取得した。 1981年に高校卒業後、駒澤大学経済学部経済学科へ進学し上京。在学中に軽音楽部ロック研究会に属し、そこで出会った羽田一郎とアマチュアバンド「HOTTENTOTS」(ホッテントット)を結成。翌1982年には、ヤマハ主催のコンテスト「EAST WEST '82」に出演し、ベスト・ボーカリスト賞を受賞。(このコンテストで披露された演奏は、レコードに収録され発売された。またバンド在籍時の久保田は、アフロヘアーに口ひげを生やしていた。)頻繁に髪型を変える。 大学のゼミは「アフリカ研究会」(古沢紘造教授)に所属。好きな音楽のルーツがアフリカだったため、アフリカ三昧で楽しかったという。卒論も「アフリカの音楽」 をテーマにした。 1985年に大学を卒業後、音楽プロデューサーとしてキティミュージックとの作家契約で音楽業界に入り、1980年代には20代前半という若さで多くの歌手、アイドルに楽曲提供をしていた。主な相手としては、田原俊彦、中山美穂、小泉今日子、鈴木雅之、GWINKO、荻野目洋子、芳本美代子、小山水城、とんねるず、バブルガムブラザーズ。特に田原には1985年から1993年までの間に多くの楽曲を提供している。1990年代に入ってからも、清水美恵、西田ひかる、森高千里、TOKIO、高橋真梨子などに楽曲を提供、ここ数年にもCHEMISTRY、MISIA、ISSA、山田優などに提供している。 2004年、ノルウェーの外資系企業に勤める11歳年下の女性と入籍し、同年12月には、第一子となる男児が誕生した。 好きな食べ物はエビフライ、担々麺以外のラーメン、シャウエッセン。特にラーメンは久保田の実家の近所にある食堂「蒲原館」のラーメンを大変気に入っている。また、西麻布の百貨店にある惣菜店の焼きそばも大変気に入っている。嫌いな食べ物は柿とセロリで、柿については本人曰く「柿は柔らかくても硬くても食えない」との事である。また、20代の頃から体重は50kg台後半から60kg程度を維持しており、出前は好きな物を食べているが、玄米を主食としていることでこの体重を維持している。 久保田の作品はテレビドラマへの起用が多く、特にフジテレビ系列への起用が目立っている。なお、テレビ東京系列の番組に久保田の楽曲が起用されたことは現在までのところない。 デビュー当時には日本ではまだ市民権を得ていなかったブラックミュージックを浸透させるのに一役買った功績は大きく、現在も国内外でR&Bシンガーとして活動している。ブラックミュージックと言う事で、久保田自身の音楽スタイルは山下達郎、大沢誉志幸、吉田美奈子、佐野元春、井上陽水、忌野清志郎、キングトーンズ、ハイクオリティなシティ・ポップスという点で角松敏生や稲垣潤一、小田和正等によって確立されたジャンルであるが、ヴォーカルスタイル、リズム感、ソングライティング等の部分でブラックミュージックに大きく影響を受け、又それを自身の音楽性に取り入れ、さらにセールス的にも大成功を収めたのは、彼以前には居なかったと言っても過言では無く、その事から彼自身は「ブラック・ミュージックのパイオニア」とも称されている。 2015年12月に『松尾潔のメロウな夜』(NHK-FM)に出演した際、楽曲製作でマーヴィン・ゲイの影響を大きく受けていると話している。 1982年 YAMAHA主催のコンテストEast Westに出場し、ベストヴォーカリスト賞を受賞。 1984年 ジャズ・ラテンミュージシャンの松岡直也のアルバム『LONG FOR THE EAST』の1曲目『The Latin Man』に作詞・ゲストボーカルとして参加。(全詞英語。コーラスは楠瀬誠志郎。) 1985年 アマチュアながら音楽業界の注目を浴び、TBSラジオ「SURF&SNOW」のサウンドステッカー制作を担当する。田原俊彦のシングル曲『華麗なる賭け』、『It's BAD』、岩崎宏美のシングル曲『月光』を作曲。この頃に趣味で「すごいぞ!テープ」を作る。 1986年 6月21日 シングル『失意のダウンタウン』でメジャーデビューする。 9月にはファーストアルバム『SHAKE IT PARADISE』、12月にはセカンドシングル『TIMEシャワーに射たれて』をリリース。 1987年 4枚目のシングル『CRY ON YOUR SMILE』でシングルチャート最高8位を記録し、ブレイク。 1988年 5枚目のシングル『You Were Mine』がフジテレビ系ドラマ(月9枠)「君の瞳をタイホする!」の主題歌となる。TBS「ザ・ベストテン」にも、(VTR出演ではあったが)初登場。オリコン年間ランキングにおいて1988年度第10位となる。 1989年 1枚目のベスト・アルバム『the BADDEST』が、シングル・アルバム通じて初のミリオンセラー。 1990年 「NHK紅白歌合戦」に出演(アリスンウイリアムズとデュエットで) 1991年 ナイジェリアで開催されたイヴェント〈The Children Of Africa Concert〉に出演し、ジミー・クリフの「MANY RIVERS TO CROSS」と、オリジナル曲「MAMA UDONGO」を披露。 1993年 日本における11枚目のシングル『夢 with You』がフジテレビ系ドラマ(水曜劇場枠)「チャンス!」の主題歌となる。本人も最終回にちょい役で出演。年末、ニューヨークに拠点を移す。 1994年 日本ハム「シャウエッセン」のCMに出演。以後、1999年まで続く。 1995年 「Toshi Kubota」として全米デビュー。 1996年6月21日、メジャーデビュー10周年。ナオミ・キャンベルとデュエットした『LA・LA・LA LOVE SONG』が、フジテレビ系ドラマ(月9枠)「ロングバケーション」の主題歌となり、ミリオンセラーを記録。ちなみに、当該曲の『LA・LA・LA』は久保田の出身地の方言の語尾に使われる「~ら」から取ったとの事。また、作詞をしている時に、歌詞がうかばずに浮かんだのが、『LA LA LA』と書いたとも言われている。 1998年 日本における20枚目のシングル『AHHHHH!』が発売。日本テレビ系「進め!電波少年」での「朋友(パンヤオ)」の応援歌として作られたもの。 2004年 2月、松尾潔の呼びかけで集まったアーティストたちが久保田の楽曲をカバーしたトリビュート・アルバム『SOUL TREE ~a musical tribute to toshinobu kubota~』が発売。参加アーティストは、Skoop On Somebody、MISIA、倖田來未、中島美嘉、ATSUSHI(EXILE)、BoA、ゴスペラーズ、Rhymesterほか。 2004年 11月上旬に米国のテレビ番組「ソウル・トレイン」(英語版を参照)に出演。日本人アーティストとしてはYMOに次いで2番目。ソロアーティストとしては初出演となった。 2006年 6月21日、メジャーデビュー20周年を迎えた。1995年10月から続いていたラジオ番組「久保田利伸のプラネット・フレーヴァ」が2006年3月に終了。翌月からエフエム大阪で「JAM FOR REAL」がスタート。 2007年 3月、「mtv iCON 久保田利伸 powerd by 楽天オークション」がSHIBUYA-AXにて開催された。平井堅、SunMin、AI、DOUBLE、ATSUSHI(EXILE)、VERBAL(m-flo)、KREVA、AFRA、加藤ミリヤ、SOULHEAD、森大輔、bird、椎名純平、TOKUらが参加し、久保田の楽曲をカバーした。 2010年6月には『LOVE RAIN 〜恋の雨〜』が、みたびフジテレビドラマ(月9枠)主題歌となり(「月の恋人〜Moon Lovers〜」木村拓哉主演)、自身14年ぶりにオリコントップ3入りを果たした。 2011年6月21日、メジャーデビュー25周年を迎えた。 2016年6月21日、メジャーデビュー30周年を迎えた。 2017年9月29日、母校である静岡県立静岡商業高等学校の開校120周年・学園祭70周年記念で静商祭校内発表にサプライズで登場した。 とんねるずの2人とは、1987年にフジテレビ系「夜のヒットスタジオDELUXE」で共演して以来の仲で、彼らの冠番組にはよくゲスト出演する(「とんねるずのみなさんのおかげです」、「とんねるずのハンマープライス」、「木梨サイクル」、「うたばん」)。 石井竜也は1988年のツアーパンフレットでインタビューを寄せていたり、デビュー前には同じライブハウスで共演もしていた。米米CLUBでは「TIMEシャワーに射たれて」のパロディ曲『ライスシャワー』を歌っている。1990年の野外イベントで米米と久保田が出演した際、先に登場した米米が「ライスシャワー」を歌った。その後、本家の久保田が登場した時の1曲目が「TIMEシャワーに射たれて」だった。米倉利紀とは『Gift』というアルバムで彼が久保田の楽曲をカバーした際、久保田が絶賛したことがきっかけで付き合いが始まる。 同じ事務所の面々でバーで飲んでいた際、偶然にも山下達郎がいたので、久保田が事務所の後輩である森大輔を山下に紹介した。そのとき、山下に「あまりにもファッションが若いもんだから久保田君に似てる人かと思った」と言われた(携帯サイトのスタッフコメント)[出典無効]。 ミュージック・ソウルチャイルドが来日した際、客席にいた久保田はステージ上から彼に呼ばれ、サプライズゲストとして出演した。 平井堅については、何度か久保田が平井のレコーディングにプロデューサーとして参加したことがあり、平井自身も久保田のファンだったこともあって付き合いがスタート。2012年には音楽雑誌の誌面上に於いて久保田・平井と対談している。 松任谷正隆とは、1986年に小泉今日子のアルバム「今日子の清く楽しく美しく」に楽曲提供をした際、そのアレンジをしていたのがきっかけで知り合った。1991年には、松任谷由実のアルバム「DAWN PURPLE」にコーラスでゲスト参加している。デビュー・アルバムのレコーディングには武部聡志らユーミンクルーと中村哲ら山下達郎クルーが参加しており、レコーディングスタジオにスマイルガレージも入っている。 富樫明生とは、1989年の仙台市での野外ライブイベントJT SUPER SOUNDでバブルガムブラザーズ、アマゾンズらと共に共演している。 作家の山田詠美のエッセイにしばしば「久保田君」として登場する。その後、山田詠美の短編小説と久保田の裏ベスト版をコラボレーションし、リリース。 1996年にリリースの『LA・LA・LA LOVE SONG』では、ナオミ・キャンベルとコラボレーションしているが、これはニューヨークでたまたま同じアパートに住んでいて意気投合して曲へのコラボレーションを頼んだと言っていた。 TBS「アナザースカイ」(2012年7月6日放送)にて、山田優がワシントンスクエアパークを訪れると公園の真ん中で歌って踊ったことがあると話した。そこに久保田利伸がたまたま通り声をかけた。 2006年のライブツアーの代々木公演の会場には、岡村隆史、飯島直子、ゴスペラーズの黒沢薫、高木ブー、CHEMISTRYの堂珍嘉邦、仲間由紀恵、オセロの中島知子、平井堅、山田詠美、KREVA、島谷ひとみ、天海祐希、加藤茶らが来ていた 2010年4月2日に札幌ドームで行われたプロ野球「北海道日本ハムファイターズ 対 埼玉西武ライオンズ」の試合の始球式に登板。野球が大好きで、過去には北海道日本ハムファイターズを応援する曲「Funky Fighters」という曲を制作した経緯がある。 柿崎洋一郎とは、1986年に久保田利伸のバックバンド「MOTHER EARTH」のメンバーに加入して以来、アレンジャー、キーボード奏者として切っても切れないほどの長年の付き合い。MOTHER EARTHには、ほかに羽田一郎(G)、杉山卓夫(K)、中村キタロー(B)、中島オバヲ(Per)、ジーノ秋山(Dr) が参加していた。初期には、江口信夫、阿部薫、武部聡志も参加。 後に衆議院議員となる宮内秀樹とは、大学時代に同じ下宿で隣同士の部屋に住んでいた仲で、しばしば一緒に酒を飲んだり金を借りたりしていた。 シンガー・ソングライターのYURIとは、アメリカで活動を行っていた彼女を発掘し、彼女の才能を「アジアで最高の女性シンガー」と絶賛し、日本に紹介した。ライブツアーやレコーディングに参加させている。 音楽プロデューサーの松尾潔とは、久保田がデビューする前のライター時代から交流があり、同氏は久保田との出会いをきっかけに90年代半ばから音楽制作に携わるようになった。同氏のラジオ番組NHK-FM「松尾潔のメロウな夜」にも度々ゲスト出演している。 2ndから1990年代前後までにリリースされたシングルはほぼ、オリジナルアルバムには収録されず、セレクションアルバム(主にベストアルバム)にしか収録されなかった。 1986年から1987年までにリリースされたシングルはアナログレコード、1988年から1999年までのシングルは8cmシングルCD、それ以降はマキシシングルとしてそれぞれ発売。 アナログレコードとしてリリースされていた作品は1989年11月20日に8cmCDとして初CD化。 既に8cmCD(アナログレコード除く)として発売されていた作品は後に、2005年8月24日にマキシシングルとして一挙再リリース。 12センチCDで発売。現在の基準でマキシシングルと呼ばれるものにあたるが、発売当時3曲以上収録されたものはミニアルバムと呼ばれることが多く、公式サイトではアルバム(もしくはミニアルバム)として分類されている(尚、現在は製造中止の為、何も廃盤となっている。)。 TOSHINOBU KUBOTA in INDIA(2012年11月30日、中村和孝、幻冬社) すごいぞ!テープ 公式に認められたデモテープ。デビュー前に関係者のみに配布され、その後のデビューへの足がかりとなった。 THE BRIDGE(1997年) マイケル・センベロ主導による企画アルバム。久保田は「send me an angel」、「gone」、「change on change」の3曲で歌声を披露。センベロの歌う「send me an angel」の日本語バージョンでは、作詞、コーラスを担当している。 GHETTO BLASTER 1988年、KIRINから発売された清涼飲料水「Mets」CMソングに、新曲「OH, WHAT A NIGHT」起用されたのを記念に、同商品の懸賞(2等。ちなみに1等は、MICHIKO LONDONの自転車)としてプレゼントされた非売品カセットテープ。同曲は後にベスト・アルバム「the BADDEST」が発売されるまでは、このカセットテープでしかフルコーラスを聞くことが出来なかった。 (尚、このカセットに収録されているオリジナルバージョンと「the BADDEST」収録曲はバージョンが違う為、CMに起用されたオリジナルバージョンは、このカセットでしか聞くことが出来ない。また、オリジナルバージョンからベスト版にボーカルを入れ直した理由として、オリジナルの時は風邪で喉の調子が悪かった為と話している。 収録は同曲と、既発売曲のリミックス3曲。 尚、同じ内容でCDも製作されたが、CDはプロモーション用の完全非売品。 1986年 コンベンションツアー Debut Live Funky Live Performance I ~SHAKE IT PARADISEへようこそ~ 1987年 Funky Live Performance II GROOVIN' 1987-1988年 Funky Live Performance III KEEP ON DANCING 「KEEP ON DANCING」 Tour Last FROM HERE TO ETERNITY 1989年 Funky Live Performance IV \"I NEED YOUR FUNKY THANG\" 1990-1991年 日本一のBONGA WANGA 男S TOUR '91 1992年 Funky Live Performance VI FUNKIN' ON NEPTUNE TOUR 1993年 Funky Live Performance VII EVRY'TING COOK AN CURIE! 1996年 TOSHINOBU KUBOTA \"PARTY ON!!\" UNDER A GROOVE TOSHINOBU KUBOTA CONCERT TOUR '96 \"Oyeees!\" 2000-2001年 TOSHINOBU KUBOTA CONCERT TOUR \"NOTHING BUT AS ONE\" 2003年 TOSHINOBU KUBOTA CONCERT TOUR 2003 \"mo'bounce to the ounce\" 2006年 TOSHINOBU KUBOTA CONCERT TOUR 2006 \"WE FOR REAL\" 2007年 Netz Super Live JFN Human Conscious' Choice ~Unity! 2007 (KREVAとのコラボツアー) 2010年 TOSHINOBU KUBOTA Concert Tour \"Timeless Fly\" 2011年 25th Anniversary TOSHINOBU KUBOTA CONCERT TOUR \"Gold Skool\" 2012年 25th Anniversary Toshinobu Kubota Concert Tour 2012 \"Party ain't A Party!\" 2013年 Toshinobu Kubota Special Tour with Acoustic Band ☆in the Universe☆ 2015年 TOSHINOBU KUBOTA CONCERT TOUR 2015 \"L.O.K\" TOSHINOBU KUBOTA CONCERT TOUR 2015 \"L.O.K Supa Dupa\" ツアーメンバー:柿崎洋一郎(key)、Ralph Roll(ds)、森多聞(b)、オオニシ ユウスケ(g)、GAKUSHI(key)、DJ大自然(turntable)、Ty Stephens(cho/vo)、Nikki(cho/vo)、YURI(cho/vo)、Ricky(dancer)、Kanako Fujita(dancer)、Shanti(dancer) 2017年 3周まわって素でLive!~THE HOUSE PARTY!~ 「FUNKY DYNAMITE」LIVE-INN(1987年12月29日)謎のバンドFUNKY DYNAMITEのボーカルBOOTY KUBOTAとして出演 「FUNKA HIPS LIVE SHOW LAST -NEW BLOOD PRESENTS-」日本武道館(1989年9月26日) FUNKA HIPS ALL STARS:久保田利伸&MOTHEREARTH、GWINKO、AMAZONS、DA BUBBLEGUM BROTHERS、清水美恵、富樫明生、DALE SANDERS、ROLLETTA HEYWOOD 「JT SUPER SOUND '89」(1989年) 「JT SUPER SOUND '90」仙台リゾートパークオニコウベ高原(1990年8月4日)、海の中道海浜公園(1990年8月8日) 「THE NIGHT OF SEXUAL HEALING at 浜名湖渚園」浜名湖渚園(1990年8月11日) 「Children Of Africa」アフリカ ナイジェリア,ラゴス球場(1991年11月28日)日本人唯一の出演 「JT SUPER SOUND '92」(1992年) 「We Love Music We Love the Earth '92」日本武道館(1992年4月22日)キャロン・ウィーラー 「Excite Music Festival '06」国立代々木競技場第一体育館(2006年7月1日) 「mtv iCON:久保田利伸 powered by 楽天オークション」SHIBUYA-AX(2007年3月8日)<サプライズゲスト(アンコール時)> 「KREVA CONCERT TOUR 2007 \"K-ing 日本武道館2days\"」日本武道館(2007年11月23日) 「ap bank fes '10」静岡県掛川市つま恋多目的広場(2010年7月19日) 「SOUL POWER SUMMIT 2010」日本武道館(2010年9月24日・25日) 「平安神宮月夜の宴」平安神宮(2010年10月3日) 「夏木マリGUEST久保田利伸 ~夏になったら~」渋谷PLEASURE PLEASURE(2011年6月2日) 「J-WAVE LIVE 2000+10」国立代々木競技場第一体育館(2011年8月13日) 「MICHAEL JACKSON TRIBUTE LIVE」国立代々木競技場第一体育館(2011年12月13日・14日) 「COUNTDOWN JAPAN 11/12」幕張メッセ(2011年12月30日) 「Beat Connection 2013」横浜アリーナ(2013年1月27日) 森大輔 Live Tour「Beauty is yours」大阪・森ノ宮ピロティホール<サプライズゲスト>(2013年9月29日) FM802開局25周年記念イベント「RADIO MAGIC」大阪城ホール<サプライズゲスト>(2014年5月31日) 「908 FESTIVAL 2014」日本武道館(2014年9月8日)KREVA主催 「岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭in横浜アリーナ2016」横浜アリーナ(2016年10月23日) 「J-WAVE LIVE AUTUMN」オーチャードホール(2016年11月17日) 「FM COCOLO CROSSOVER JAM COOL VIBES」フェスティバルホール(2016年11月23日) 「武部聡志 Original Award Show ~Happy 60~」東京国際フォーラム(2017年2月27日) 「AI presents 「伝説NIGHT II」」大阪城ホール(2017年4月30日) 「J-WAVE LIVE SUMMER JAM 2017」橫浜アリーナ(2017年7月23日) 「WEST GIGANTIC CITYLAND '17」大阪舞洲スポーツアイランド(2017年8月6日) 「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2017 in EZO」石狩湾新港樽川ふ頭横野外特設ステージ(2017年8月12日) 「音楽と髭達2017-NO BORDER-」ハードオフエコスタジアム新潟(2017年8月26日) 「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2017」山梨県・山中湖交流プラザきらら(2017年8月27日) 「宗像フェス〜World Heritage Munakata〜」宗像市グローバルアリーナ(2017年9月3日) 「908 FESTIVAL 2017」日本武道館(2017年9月8日)KREVA主催 「\"SONGS & FRIENDS\"荒井由実「ひこうき雲」Produced by 武部聡志」武蔵野の森総合スポーツプラザ(2018年3月17日) 特記以外は作曲提供 aira (現:美元智衣) 「ずっと忘れない」 杏里 「TIME OUT」 ISSA 「SHAPE OF LOVE」 岩崎宏美 「月光」 岡本舞子 「L.A. LOVER」「冬が終わるまで」 荻野目洋子 「美女と野獣」「MORNING RAIN」「LAZY DANCE」 風間杜夫 「スローダンスでさよならを」 加藤ミリヤ 「One Night Only」 キップ・レノン 「DREAM」 KinKi Kids 「FUNKY PARTY」「The Red Light」「会いたい、会いたい、会えない。」 CHEMISTRY 「monologue」 小泉今日子 「教会の前で」「青春でゆこうよ」「NUDIST」「パーティー」「MOONLIGHT」 彩恵津子 「永遠のモーニング・ムーン」(作曲・デュエットボーカル) 相楽晴子 「KISSでLONG BOOD-BYE」 SMAP 「Style(木村拓哉ソロ)」「そっと きゅっと」「We are SMAP! -Funky Lude-」(作詞・作曲)「We are SMAP! -Bounce Lude-」(作詞・作曲) 高橋真梨子 「美しき戯れ」「想い出はひかりの中」 高橋洋子 「One Heart to Love」 タッキー&翼 「L.O.V.E.」 田原俊彦 「It's BAD」「永遠の正体」「華麗なる賭け」「切り札は一度だけ」「COOLなままシェイク」「ショットガン」「ダーリン涙を見せて」「DO YOU WANNA KISS」「夢の翼」「夜の都」 TOKIO 「ありがとう…勇気」 とんねるず 「ALL OR NOTHING」「ENDLESS NIGHT -ほっといてくれ―」 中村雅俊 「LOVE CRISIS」 中森明菜 「清教徒」 中山エミリ 「private eyes」 中山美穂 「IN THE MORNING」「SINGA PORE」「CHEERS FOR YOU」「TAKE IT EASY」「BY BY MY SEABREEZE」「VELVET HAMMER」 西田ひかる 「ああホントやんなっちゃう」「LOVE IS CHANGING」 TBS系『JNNニュースの森』オープニングテーマ(1990年4月 - 1994年9月) 羽賀研二 「NO MORE TRICK」 松田聖子 「白い月」 松本明子 「たとえば、ずっと…」 松本典子 「虹色スキャンダル」 MISIA 「Let It Smile」「Holy Hold Me」 宮沢りえ 「走れLOVE TRAIN」 May J. 「君のとなりに」(作曲・コーラス) 森高千里 「海まで5分」 山下智久 「原始的じゃナイト ~アナログ ラブ~」 山本理沙 「13日の金曜日」「おしゃれなパラダイス」 芳本美代子 「ヴァニティ・ナイト」「REAL TIME」 米倉利紀 「SOLE SOUL」 鈴木雅之 feat. 久保田利伸 「リバイバル」 関ジャニ∞ 「王様クリニック(TAKATSUKING)」 Skoop On Somebody 「Every Kiss, Every Lies」(作曲。作詞はS.O.S.と久保田の共作) 吉野紗香 with NANSHO boppers 「こんな気持ち 〜ハリハリヘリヘリ〜」(1998年7月17日、ポニーキャニオン) 平井堅 「HEAT UP」(1997年)「Unfit In Love」 「HEAT UP」はスーパーバイザーとして参加。コーラス・アレンジも手がけている。 SunMin 「Keep Holding U」(SunMin thanX Kubota名義) 韓国の新人歌手をフックアップするという形態をとってリリースされたシングル。映画『日本沈没』主題歌。 山田優 「fiesta! fiesta!」 SOUL TREE〜a musical tribute to toshinobu kubota〜 - Skoop On Somebody、MISIA、倖田來未、中島美嘉、ATSUSHI(EXILE)、BoA、ゴスペラーズほか TIMEシャワーに射たれて… - THC!! Missing - Water、平原綾香、中西保志ほか。 LA・LA・LA LOVE SONG - 絢香、BENI、EXILE、BoA、クリス・ハート、NOKKO、赤い公園ほか。 「遠くからHAPPY BIRTHDAY」 - 小林麻美 「Bee's Knees」(久保田利伸×NOKKO) - 武部聡志のアルバム「CLARA」(1988年) 「Happy Birthday to You~ヴィーナスの誕生」 - 松任谷由実 「Golden Smile feat. 久保田利伸」 - EXILE ATSUSHI 「LoveRespectHarmony」 - YURIのアルバム(2012年) 「GODDESS ~新しい女神~」(with 久保田利伸) フジテレビ系ドラマ『君の瞳をタイホする!』主題歌(1988年)「You were mine」 フジテレビ系ドラマ『あいつがトラブル』主題歌(1989年)「Moving Target」 フジテレビ系ドラマ『同・級・生』挿入歌(1989年)「Missing」 フジテレビ系ドラマ『チャンス!』主題歌(1993年)「夢 with You」※久保田本人もちょい役で出演 NTV系ドラマ『夜に抱かれて』主題歌(1994年)「夜に抱かれて ~A Night in Afro Blue~」 フジテレビ系ドラマ『ロングバケーション』主題歌(1996年)「LA・LA・LA LOVE SONG (with Naomi Campbell)」 TBS系ドラマ『君が人生の時』主題歌(1996年)「Cymbals」 TBS系ドラマ『独身生活』主題歌(1999年)「the Sound of Carnival」 ANB系ドラマ『はみだし刑事情熱系』主題歌(2000年)「Always Remain」 フジテレビ系ドラマ『水曜日の情事』主題歌(2002年)「Candy Rain」 TV朝日系ドラマ『菊次郎とさき』主題歌(2005年)「Club Happiness」 NHKドラマ『君たちに明日はない』主題歌(2009年)「Tomorrow Waltz」 フジテレビ系ドラマ『水曜日の情事』主題歌(2010年)「Candy Rain」 フジテレビ系ドラマ『月の恋人 Moon Lovers』主題歌(2010年)「LOVE RAIN ~恋の雨~」 ANB系スポーツ番組『ワールドプロレスリング』オープニングソング(1987年)「OLYMPICは火の車」 ANB系スポーツ番組『ワールドプロレスリング』エンディングソング(1987年)「Missing」 TBS系トーク番組『噂的達人』エンディングソング(1988年)「Indigo Waltz」 TBS系ニュース番組『ニュースの森』テーマソング(1990年)「MAMA UDONGO ~まぶたの中に・・・~」 TBS系クイズ番組『世界・ふしぎ発見!』テーマソング(1990年)「Be wanabee」 NTV系バラエティ『進ぬ!電波少年』\"朋友\"応援歌(1998年)「AHHHHH!」 フジテレビ系バラエティ『笑う犬の情熱』テーマソング(2003年)「FUNKY DOGS」 NTV系バラエティ『ぐるぐるナインティナイン』テーマソング(2005年)「Rock wit me Poh'!」 YTV『秘密のケンミンSHOW』エンディングテーマ(2009年)「Life-long High-way」 日本テレビ『スッキリ!』テーマソング(2011年)「流れ星と恋の雨 ~毎度オブリガート ver.~」 WOWOW『リーガ・エスパニョーラ14-15シーズン』イメージソング(2014年)「Vamos」 フジテレビ系『バイキング』テーマソング(2018年)「Make U Funky」 フジテレビ系シドニーオリンピックイメージソング(2000年)「ポリ リズム」 NTV主催『イサム・ノグチ展』テーマソング(2005年)「Sign of Love」 フジテレビ主催『DAIHATSU DRALION』イメージソング(2009年)「FLYING EASY LOVING CRAZY (TOSHINOBU KUBOTA feat. MISIA)」 男子プロバスケ・Bリーグ初の公式トーナメントCUP戦「アーリー カップ」大会テーマソング(2017年) 「SOUL BANGIN'~B.LEAGUE EARLY CUP Version~」 東宝系映画『19 ナインティーン』オープニングテーマソング(1987年)「流星のサドル」 東宝系映画『咬みつきたい』主題歌(1987年)「CRY ON YOUR SMILE」 東宝系映画『メッセンジャー』オープニングテーマソング(1999年)「No Lights...Candle Light」 東宝系映画『メッセンジャー』エンディングテーマソング(1999年)「Messengers' Rhyme~Rakushow, it's your Show!~(featuring NAOMI SHIMIZU)」 映画『アイノカラダ』テーマソング(2002年)「Free your Soul」 東映系映画『同じ月を見ている』主題歌(2005年)「君のそばに」 東宝系映画『日本沈没』主題歌(2006年)「Keep Holding U (SunMin thanX Kubota)」 アメリカ映画『Shall we Dance?』日本公開テーマソング(2006年)「a Love Story」 角川映画『夜明けの街で』エンディングテーマ(2011年)「声にできない~夜明けの街でver.~」 ABC系アニメ『H2』オープニングテーマ(1995年)「虹のグランドスラム」 ファレル・ウィリアムス『Happy』日本版MV(2014年) L.O.K発売記念 ニコニコ生放送(2015年3月18日) Netflixオリジナルドラマ「ゲットダウン」Part2のスペシャルトークショー出演(2017年4月19日) HITACHI FAN! FUN! TODAY(ニッポン放送、木曜出演) ランド・オブ・グルーヴ(TOKYO FM系列) ポレ・ポレ・タクシー(~1994年、TOKYO FM系列) Peace Sound Design(1994年頃から、TOKYO FM) SHAKE IT PARADISE(FM横浜) 久保田利伸のプラネット・フレーヴァ(1995年10月~2006年3月。TOKYO FM、エフエム大阪他、全国ネット。) JAM FOR REAL(2006年4月~同年12月。『プラネット・フレーヴァ』の後番組だが、エフエム大阪のみの放送。) THE MUSIC OF NOTE〜久保田利伸Love, Peace and Soul(2016年10月2日〜12月25日の毎週日曜日。FM COCOLO) 久保田利伸 ファンキーフライデー(2017年4月28日~、NHK-FM、毎月最終金曜23時、再放送翌週木曜10時。) FNS歌謡祭(フジテレビ、2010年12月4日、2016年12月14日)出演 僕らの音楽(フジテレビ) 久保田利伸×SunMin(2006年7月14日放送) 「Keep Holding U」 JUJU×榮倉奈々(2010年4月9日放送) 「Missing」、「Is it over?」 月9ドラマ『月の恋人 Moon Lovers』スペシャル(2010年5月14日放送) 「LOVE RAIN~恋の雨~」 久保田利伸×飯島直子×ジェロ(2011年8月12日放送) 「Indigo Waltz」、「流れ星と恋の雨」 久保田利伸 works(2013年8月9日放送) 「Dance If You Want It(KUBOSSA Ver.)」、「Corcovado(Quiet Nights of Quiet Stars)」 新堂本兄弟(フジテレビ系列) 久保田利伸VS三代目 J Soul Brothers 俺のSOUL道!!(2013年6月30日放送) 「My Cherie Amour」 アナザースカイ(日本テレビ系、2013年7月5日放送) 久保田がゲストとして、ブラジル・リオデジャネイロのコルコバードの丘を訪れた。 「EXILE ATSUSHI Premium Live」- 命をうたう -(TBS、2013年1月3日) ゲストとしてEXILE ATSUSHIと共演 「LA・LA・LA LOVE SONG」、「Golden Smile」(ATSUSHI×久保田利伸) SMAP×SMAP(フジテレビ系列) 「月恋生放送SP!」(2010年5月10日放送) 「LOVE RAIN ~恋の雨~」(久保田利伸×) 「みんなで歌おう!! SMAP ni のど自慢!」(2011年1月10日放送) 「Peace!」(久保田利伸×木村拓哉、草彅剛) S-Live(2015年4月20日放送) 「Bring me up!」、「Loving Power」(久保田利伸×SMAP) S-Live(2016年12月5日放送) 「Missing」(久保田利伸×SMAP) S-Liveは久保田が8回で最多出演となった。 月曜から夜ふかし(日本テレビ) ゲスト出演(2016年11月14日放送) 関ジャム完全燃SHOW(テレビ朝日) ゲスト出演(2016年11月27日放送) 久保田利伸が教える“R&B\"講座 ゲスト出演(2017年8月27日放送) KinKi Kids20年目の真実!今リアルに考えていること バカリズム(日本テレビ) 「おしゃべリズム」ゲスト出演(2016年12月9日深夜帯放送) レジェンド久保田利伸初登場!ファンキーな事件告白&仰天楽曲制作秘話 「おしゃべリズム」ゲスト出演(2017年5月26日深夜帯放送) 「クリスマススペシャル 久保田利伸 キューバ音楽紀行」(BS日テレ)(2016年12月25日放送) 注意点 出演順は「出演順/出場者数」で表す。 ダイハツ工業「シャレード」(1986年)楽曲のみ 「GODDESS ~新しい女神~」を使用 キリンビバレッジ「Mets」(1988年)楽曲のみ 「Oh! , What A Night!」を使用 日立マクセル「日立マクセルUD I(カセットテープ)」(1988-1990年)出演 「Dance If You Want It」、「High Roller」を使用 ミズノ(1990-1991年)楽曲のみ 「君に会いたい」を使用 JAL「冬 沖縄キャンペーン」(1990-1991年)楽曲のみ 「永遠の翼」を使用 大同生命(1991-1992年)楽曲のみ 「FOREVER YOURS」を使用 カメリアダイヤモンド(1991年)楽曲のみ 「Honey B」、「雨音」を使用 三菱電機「AVミラクルキャンペーンなど」(1991-1992年)楽曲のみ 「Keep On JAMMIN'」、「誓い」、「To The Limit」を使用 アサヒ飲料「バヤリースオレンジ」(1991年)出演 「GIVE YOU MY LOVE」を使用 キリンシーグラム「HIPS」(1992年)楽曲のみ 「 Let's Get A Groove ~Yo! Hips~ 」を使用 コカ・コーラ「コカ・コーラクラシックス」(1993-1994年)出演 「ふたりのオルケスタ」を使用 日本ハム「シャウエッセン」(1994-2000年)出演 「Sunshine, Moonlight」、「君は なにを 見てる」、「Sunshine, Moonlight <英語楽曲>」、「CLUB PLANET」を使用 ヴィクトリアFCO(1994-1995年)楽曲のみ 「ZA-KU-ZA-KU Digame」を使用 エバンス「ROLEX専門店」(1995-1996年)楽曲のみ 「6 TO 8」、「さがしてた 忘れもの」、「Too Light To Do <英語楽曲>」、「My Love(6 To 8) <英語楽曲>」を使用 サントリー「ハーフ&ハーフ」(1996年)出演 サッポロビール「ブルーマウンテンブレンド(缶コーヒー)」(1995-1996年)楽曲のみ 「Nice & EZ <英語楽曲>」を使用 キャノン「PIXEL(コピー機)」(1996-1997年)楽曲のみ 「Summer Eyes」を使用 日本テレコム(1996-1997年)出演 「BODY-CATION」を使用 JAL「国際線マイレージバンク」(1997-1998年)楽曲のみ 「ちょっとそこまで」を使用 トヨタ自動車「ランドクルーザー プラド」(1999-2000年)楽曲のみ 「SOUL BANGIN'」を使用 MAX FACTOR「P&G パンテーンPro-V」(2000-2001年)楽曲のみ 「His Sugar」を使用 NEC「携帯電話N503iS」(2001-2002年)楽曲のみ 「In your flow」を使用 NEC「LaVie C(ノートパソコン)」(2003-2004年)楽曲のみ 「La vie son Musique」を使用 au「着うた&着ムービーキャンペーン」(2003-2004年)出演 「Our Christmas」を使用 クライスラー「グランドボイジャー」(2008年)出演 「ooh wee Rida」を使用 ニッカウヰスキー「ブラックニッカ クリアブレンド」(2009年)出演 「Soul Mate ~君がいるから~ 」を使用 千寿製薬「1STマイティアCL」(2010年)楽曲のみ 「Nyte Flyte」を使用 フォルクスワーゲン「up!」(2012年)出演、CHARAと共演 「Bring me up!」を使用 三陽商会「Paul Stuart」(2013年)出演 「As you're in Rio」を使用 フォルクスワーゲン「up!」(2013-2014年)出演 「Upside Down」を使用 日本コカ・コーラ「シュウェップス」(2013-2014年)出演 「Free Style」を使用 ヨコハマタイヤ「BluEarth」(2015年)楽曲のみ 「Loving Power」を使用 日本ハム「チキチキボーン」(1994年) 本人出演。中学、大学の先輩である日本ハムファイターズ広瀬哲朗と共演。 2017年にも、同商品と久保田の30周年、1994年にCM出演した縁もあり、デビュー30周年企画である「3周まわって素でLive!~THE HOUSE PARTY~」に協賛。 コーセー「ESPRIQUE」(2018年)楽曲のみ 「You Go Lady」を使用 赤坂泰彦 ATSUSHI 石井竜也 上柳昌彦 岡村隆史 陣内孝則 柿崎洋一郎 木村拓哉 村上信五 ナオミ・キャンベル バブルガム・ブラザーズ 平井堅 ブラザートム 松尾潔 森大輔 山下達郎 米倉利紀 Skoop On Somebody 東京女子流 KREVA - 2007年コラボレーションツアーを行い、久保田利伸 meets KREVA名義でシングル「M☆a☆g☆i☆c」をリリース。 アリソン・ウィリアムス アンジー・ストーン ザ・ルーツ J Dilla ジョージ・クリントン ダイアン・ウォーレン トニー・トニー・トニー(en:Tony! Toni! Toné!) ナイル・ロジャース ベビーフェイス ブーツィー・コリンズ モス・デフ YURI 広瀬哲朗 ^ 当時の家族構成は本人、両親、姉2人で、いずれも一般人のため氏名は公表されていない。 ^ また、久保田自身は幼少時代から野菜を自転車で配達する等の手伝いもさせられていたとの事。その青果店は明治時代から6代続いているが、久保田自身は青果店を引き継ぐことなく、音楽業界に飛び込んでいる。 ^ 久保田利伸 音楽の原点はSワンダー デイリースポーツ 2013-07-07 ^ 2010年現在の久保田も口ひげにアフロヘアーである。 ^ 1986年から1990年代は髪を突き上げたツンツンヘアー、1996年頃はチョンマゲ、現在はアフロ。金髪にしていたこともある。 ^ 『学園通信』 第299号(2011.10)~駒澤大学 ^ 本人が歌手デビューする前、母親からは相当心配されていたが、父親からは反対はされていなかったとのことである。 ^ 日本テレビ製作の『しゃべくり007』に於いて久保田自身が発言。 ^ 玄米は本人が食事をする際、楽屋で炊飯器を持参して炊いているとのことである。 ^ テレビ東京制作の番組に出演したことはある。番組出演もフジテレビ系列の番組が圧倒的に多い。久保田の楽曲は過去に幾度かフジテレビ系列の月曜夜9時枠のドラマ(いわゆる月9)の主題歌に起用されたことがあり、2010年春季のドラマの主題歌にも起用されている。 ^ 久保田に影響されたアーティストとして、KREVA、平井堅、EXILEのATUSHI、中西圭三等が有名。中西は音楽性が似ている事から「ポスト久保田」と評されていた事もある。 ^ (タワーレコード 特集 久保田利伸) ^ NISSAN あ、安部礼司〜BEYOND THE AVERAGE 第203回放送分より) ^ 久保田利伸さん 来校 ^ このアルバムは、1曲目は久保田が米倉に提供した楽曲、他の楽曲は久保田自身の楽曲のカバー。 ^ その時、岡村が久保田に呼び出されて壇上に上がり、そこで自身の特技であるブレイクダンスを披露した事もある。 ^ 4/2(金)埼玉西武ライオンズ戦久保田利伸さんが始球式に登板!(北海道日本ハムファイターズHP) ^ 自民党 宮内秀樹 衆議院議員 - みわちゃんねる ^ YURI ^ 森大輔ツアーファイナル、久保田利伸からの倍返しプレゼントに感激 ^ 久保田利伸 サプライズ出演に大歓声 絢香とデュエット ^ 圧倒的な実力と才能が導いた最高のショーに、ゆりやん & RIP SLYMEも参加した豪華エンディング! WEST GIGANTIC CITYLAND 2017 ^ 久保田利伸 ニコ生初出演!オリジナル・ニューアルバム「L.O.K」発売記念SP ^ 僕らの音楽 ARTIST(く) ^ 「TOSHINOBU KUBOTA & ALYSON WILLIAMS」名義 ^ 「久保田 利伸 with NAOMI CAMPBELL」名義 ^ 「TOSHI KUBOTA Duet with Caron Wheeler」名義 ^ a b 原曲はGrover Washington Jr(アルバム「Winelight」に収録(1980年))。 ^ 「TOSHI KUBOTA」名義 ^ 「久保田利伸 meets KREVA」名義 ^ 「久保田利伸 feat. MISIA」名義 ^ 1stから3rd迄のミニアルバムは何れも3作目のアルバムからの実質シングルカット、4thミニアルバムはアメリカデビューシングルにリミックス曲を加えた物で、4枚ともオリコンではシングルとして扱われている。 公式サイト Toshi Kubota(英語版) 久保田利伸 - Facebook J!-ENT 英語のインタビユー", "井上 陽水(いのうえ ようすい、1948年8月30日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、音楽プロデューサー。本名・井上 陽水(いのうえ あきみ)。旧芸名:アンドレ・カンドレ。 福岡県嘉穂郡幸袋町(現・福岡県飯塚市幸袋)生まれ・福岡県田川郡糸田町育ち。血液型はAB型。 1973年発売のアルバム『氷の世界』は、アルバムとして日本市場で初のミリオンセラーを記録する。その後も1984年のアルバム『9.5カラット』が売り上げ100万枚、1999年のベスト・アルバム『GOLDEN BEST』は売り上げ200万枚を達成している[要出典]。 デビュー前からビートルズの熱狂的ファンである[要出典]。 2人目の妻・石川セリとの間に1男2女を儲ける。長女は作詞家・歌手の依布サラサである。 身長178cm。 父は高知県幡多郡佐賀町(現黒潮町)出身の元軍医であり、当時赴任していた京城(現在のソウル)で母と知り合い結婚している。終戦に伴い、母が地元の福岡県直方市に帰郷。追って父が引き揚げて、以降福岡に定住。 父は引き揚げ後は炭鉱で働いていたが、陽水が生まれてまもなく福岡県田川郡糸田町で歯科医院を開業。兄弟姉妹は姉1人、妹1人。 1953年、糸田町に引っ越す。田川は何も縁のない土地で、ずっと\"よそ者\"意識があったという。糸田小学校、糸田中学校、西田川高校と進学。 小学校時代、子供会や婦人会の集まりで歌わせられることが多々あり、当時から歌がうまいねと褒められる少年だった。またこの頃から、8歳上の姉の影響でプラターズやエルヴィス・プレスリーなど洋楽を聴くようになり、ヒットパレード系のラジオに熱中するようになる。 1963年、中学3年の時に小島正雄のラジオ番組で紹介された「プリーズ・プリーズ・ミー」に衝撃を受け、以降ビートルズに熱中する。高校時代はビートルズ狂いと周りから呼ばれ、数人の仲間と一日中歌いまくり、休日には(当時出始めの)オープンリールのテープレコーダーでその歌を録音するなど、ビートルズ漬けの生活を送っており、仲間内のみならず町内でも生粋の音楽狂として名が知られていた。 家業を継いで歯科医になることを期待されていたため、1967年、九州歯科大学を受験するも失敗し、予備校に通い始める。この年は小倉育英館に通ったが、翌年には九州英数学舘に変える。二浪目の1969年「帰って来たヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)を深夜放送で聞き、自らも高校時代に歌を録音する際に同じような早回しテクニックで遊んでいた経験から、「これなら自分にもできる」「音楽でひとやま当てたい」と思ったのが曲を作り始めたきっかけ。ギターを見よう見まねで始める。1968年、再度の受験にも失敗する。1969年、3度目の受験に失敗し、大学進学を諦めた。その後「東京で勉強して大学入学を目指す。」と父に伝え上京するが歌手となるための活動に専念し、受験活動は行っていなかった。 1969年、RKB毎日放送のラジオ番組『スマッシュ!!11』が放送開始される。この番組には視聴者が作った音楽を流すコーナーがあり、それを知った陽水は「カンドレ・マンドレ」を自宅録音(テープレコーダーを二つ使った多重録音の擬似弾き語り)し、4月16日、テープをRKB毎日に持ち込む。このとき陽水は「マンドレ」という芸名を考えていたが、『スマッシュ!!11』のディレクターの野見山実が難色を示し、芸名は「アンドレ・カンドレ」に決まる。「カンドレ・マンドレ」は『スマッシュ!!11』で放送され、数多くのリクエストを受ける。ただしリクエストの大半は、陽水が友人(主に浪人仲間)にはがきを配ってリクエストを出すよう指令したためのものだったという。 放送後、RKBのスタッフからホリプロを紹介され、同年6月にレコーディングのため上京。「カンドレ・マンドレ」を改めてレコーディングし、同年9月1日、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックレコーズ)からアンドレ・カンドレとして同曲でデビュー。演奏は六文銭、編曲は小室等が担当したが、ほとんど注目されず、続く「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」も、松山猛と加藤和彦から楽曲提供を受けた「花にさえ、鳥にさえ」(1970年)も不振に終わり、シングル3枚でアンドレ・カンドレとしての活動は終わることになった。以後、ポリドール移籍までの約一年間、本人も語ろうとしない空白の一年が存在する。 ビートルズ狂いの経緯もあり、本人は自らをフォーク歌手とは全く思っていなかったが、当時一般には「ギターを持って歌う歌手はフォーク歌手」として認識されていたため、フォーク歌手的な扱いを受けることが多く、営業先で嫌な目にあう事がしばしばあり、これが後にホリプロから独立する遠因になった。 アンドレ・カンドレ時代に知り合った小室等、安田裕美(六文銭のギタリスト)、星勝(モップスのギタリスト)、RCサクセションの忌野清志郎などとは以後長く深い交際になる。特に小室等からボブ・ディランを薦められ、以降の作詞に強い影響を受けた。 当時の映像として1970年公開の、和田アキ子主演映画『女番長 野良猫ロック』にモップスなどホリプロのアーティストと共に出演。「アンドレ・カンドレ」を歌うシーンがある(但し、レコード音源に合わせて歌う、いわゆる「リップシンク」)。 1971年、ポリドール・レコードのディレクター多賀英典に誘われて移籍し、初のアルバム『断絶』のレコーディングを始める。このアルバムの製作開始に合わせて名前を変えることになり、マネジメントの指揮を執った奥田義行が本名を聞くと「井上アキミ」というので、どんな字かと思ったら「陽水-ようすい」と書くという。奥田は吉田拓郎を意識し、「拓郎がその二文字で若者にインパクトを与えている。だったら下の名前の「陽水」の2文字で対抗、強調していこう」と戦略を立てた。 翌1972年、芸名を井上陽水(ようすい)と改め、シングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たす。「人生が二度あれば」を編曲した星勝は、以後しばらく、陽水の作品の大部分を編曲することになる。5月に「傘がない」が収録されたアルバム『断絶』がリリースされる。陽水が売れ始めたのは、このアルバム『断絶』から。陽水自身は売れた理由について『陽水ライヴ もどり道』ジャケット内自筆年表で、「おりからのフォークブームでなんとなく浮上」と書いている。 翌1973年3月のシングル「夢の中へ」が初のヒット作(オリコン17位、以下売り上げ順位はすべてオリコン)となり、同年7月には初のライブアルバム『陽水ライヴ もどり道』がリリースに至る。人気上昇の切り口となった「夢の中へ」は、自身が「みんなで歌えるように作った」とコメントしているとおり、単純で明るく、親しみやすい曲である。中川右介はこの曲がようやくヒットするまでの陽水は低迷していたと指摘している。 「人生が二度あれば」「愛は君」「傘がない」「つめたい部屋の世界地図」「東へ西へ」「夜のバス」「夏まつり」「神無月にかこまれて」「紙飛行機」「能古島の片想い」などの作品は四畳半フォークに通じる叙情的な色合いを持っている[誰によって?]。また「東へ西へ」などには超現実主義的な歌詞がすでに現れている[誰によって?]。これについて陽水は「ボブ・ディランの影響を受けた」と語っている[要出典]。さらに「たいくつ」「自己嫌悪」など内省的な作品が多いこともこの時期の大きな特徴である[誰によって?]。ただし『二色の独楽』はロサンゼルスでレコーディングされ、演奏にジャック・ニッチェやジーン・ペイジを迎えたものであり、サウンドが『氷の世界』以前のフォーキーな作風から一転してロック色を帯びている[誰によって?]。 ポリドール時代には理由は諸説あるが殆どテレビに出演せず(「傘がない」「紙飛行機」「たいくつ」の映像は確認されている[要出典])、外見が一般の目に触れる機会はレコードのジャケット写真がもっとも多くを占めていた。シングル「人生が二度あれば」から『氷の世界』までのジャケットでは、髪型がアフロヘアー、サングラスはなしで写っている。しかし『氷の世界』のインナースリーブにある写真の一枚ではサングラスをかけており、サングラスなしの写真は1975年のシングル「御免」を以降著書『綺麗ごと』のために撮られたものなど少数の例外を除き見られなくなる。1982年日本テレビのドラマ『幕末青春グラフィティ 坂本竜馬』、1986年の映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』で、サングラスを外し、髷のカツラをかぶって若き日の伊藤博文を演じている。 1974年1月17日、熊本県出身の女性と結婚する。 1975年、陽水・吉田拓郎・泉谷しげる・小室等が中心となって、フォーライフ・レコードを発起する。また、後に結婚する石川セリと出会う。 1976年2月、離婚。同年にフォーライフからリリースした『招待状のないショー』は9週連続1位を獲得。1977年、石川のアルバム『気まぐれ』に「ダンスはうまく踊れない」ほか2曲を提供する。「ダンスはうまく踊れない」は、陽水の部屋に遊びに来たセリの目の前で30分ほどで作られたという。同年9月10日、大麻所持容疑で逮捕され、「自分は酒が飲めないので、くつろぐためにマリファナを吸った」と自供した。9月22日に保釈され、10月11日には懲役8か月、執行猶予2年の判決を受ける。この逮捕に関して筑紫哲也が、マリファナは日本では違法であるが、これと絡めて井上陽水の歌まで否定する一部の意見は間違っていると発言し、援護を行っている。なお筑紫がキャスターを務めた『筑紫哲也 NEWS23』は、放送開始時のエンディングテーマを井上が担当していた。筑紫は番組を持つことになったとき、『傘がない』の「テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」というくだりが頭に浮かんだ、と回想している。この事件直後にリリースされたアルバム『\"white\"』は、オリコンチャートの3位を獲得したものの、事件以前と比較して売り上げは低迷していくことになる[要出典]。『NEWS23』において、井上の曲は1997年9月までの8年間にわたって使われていた。 1978年8月30日、30歳の誕生日に石川と結婚、同年12月16日には長男が産まれている。 1979年のアルバム『スニーカーダンサー』では高中正義が5曲の編曲を務め、1980年のアルバム『EVERY NIGHT』では星勝が編曲から外れるなど、この時期にはサウンドが大きな転換を遂げている。さらに1981年のアルバム『あやしい夜をまって』から編曲に加わった川島裕二は、その後BANANAなどの名前で陽水の作品に多く携わり、星勝と並んで重要な位置を占めるようになる。上述の通りセールスは伸びなかったが、この時期の作品には「なぜか上海」「海へ来なさい」「ジェラシー」「とまどうペリカン」「カナリア」「リバーサイドホテル」などが含まれている。 1981年1月、特別番組でテレビ初出演(詳細不明)。7月『夜のヒットスタジオ』で二度目のテレビ出演、生放送は初めて。8月『ザ・ベストテン』出演。初登場初出演(「いっそセレナーデ」)だったが、翌週は「法事があるから」という理由で出演を拒否している。 1982年、バックバンドを務めていた安全地帯がデビューし、1983年には自身作詞による「ワインレッドの心」をヒットさせる。さらに1984年には安全地帯に歌詞を提供した「恋の予感」、中森明菜に歌詞と曲を提供した「飾りじゃないのよ涙は」、そして自身の「いっそセレナーデ」がヒットする。12月10日付のチャートでは「飾りじゃ〜」が2位、「恋の予感」が3位、「いっそ〜」が4位と、陽水の手がけた作品が上位を占める。同月21日にはこれらのヒット曲をはじめとする提供曲を、自身が自ら歌ったアルバム『9.5カラット』がリリースされ、翌1985年にかけてヒットする。『9.5カラット』は1985年のアルバム年間売り上げ1位を獲得し、陽水にとっては『氷の世界』以来2作目のミリオンセラーとなる。このヒットにより第27回日本レコード大賞で作曲賞とアルバム賞を獲得する。1986年8月にはライブアルバム『クラムチャウダー』がリリースされ、9月には同じ題名のライブビデオも発売される。さらに8月20日から2日間、安全地帯とのジョイントで「STARDUST RENDEZ-VOUS」と題したコンサートを明治神宮野球場で行う。このコンサートで「夏の終りのハーモニー」を初披露、6万人の聴衆を動員しテレビ中継のほか、ライブアルバム、ライブビデオにも収録された。 1988年9月1日、日産自動車より新発売されたセフィーロ(初代・A31型)のCMに出演し、アドリブで「みなさん、お元気ですか?……失礼しまーす」と声を出す。ところがこのCMが公開されて間もなく、病気で臥せっていた昭和天皇が危篤になったため、声はカットされた。いしいひさいちは団欒中の家族に、窓を開けた陽水が「皆さんお元気ですか」と言うと一気にしらける、イラク軍の捕虜にこのCMを見せた途端、それまで騒がしかった捕虜たちが脱力しておとなしくなる、という作品を描いている。それから間もない10月、フジテレビ系のドラマ『ニューヨーク恋物語』の主題歌に使われた「リバーサイドホテル」がヒットする(11位)。「リバーサイドホテル」は1982年に発表されていた作品だが、リリースから6年を隔ててのヒットとなった。 翌1990年から1991年にかけて、映画『少年時代』の主題歌として作られた「少年時代」(作曲は平井夏美との共作)がヒットする。リリース直後はそれほどでもなかったが、ソニーのビデオカメラ「ハンディカム・CCD-TR105」のCMに使われてから売り上げを伸ばした。シングル「少年時代」はロングセラーとなった。当初は藤子不二雄Aの作詞という話であったが、出来上がってみると藤子の歌詞はまったく使われていなかった。 1993年、フジテレビ系のドラマ『素晴らしきかな人生』の主題歌に使われた「Make-up Shadow」(2007年にはトヨタ・ブレイドのTVCFソングとしても使われた)で、第35回日本レコード大賞の金賞を受賞する。 このころからリリースのペースが落ち始める。1994年にアルバム『永遠のシュール』を発表してから、次のアルバム『九段』(1998年)までには3年半のブランクがある。また、この時期はコンサートも少なく、1994年末から1999年9月までのおよそ5年間は全国ツアーを一度も行っていない。 1996年、PUFFYのデビュー曲として歌詞を提供した「アジアの純真」がヒットする。「アジアの純真」の作曲は、以前から交流のあった奥田民生である(1994年には「月ひとしずく」(小泉今日子)を共作している)。同じく陽水作詞、民生作曲でPUFFYに提供した「渚にまつわるエトセトラ」もヒットする。続いて「井上陽水奥田民生」というアーティスト名でリリースしたシングル「ありがとう」、アルバム『ショッピング』はこれらのヒットを受けたものと言えよう。「ありがとう」はリリースされた1997年にサッポロビール・「黒ラベル」のCMに使われたことも手伝ってヒットする。 1999年、アンドレ・カンドレとしてのデビューから30周年になることを記念して、2枚組のベスト・アルバム『GOLDEN BEST』がリリースされる。『GOLDEN BEST』は自身3作目のミリオンセラーとなった後も売り上げを伸ばし続ける。このヒットを受け、『GOLDEN BEST』のリリースからちょうど1年後には「裏ベスト」として『GOLDEN BAD』が、『GOLDEN BEST』の売り上げが200万枚を突破した2003年には記念として『GOLDEN BEST SUPER』が発売される。 2001年、「コーヒー・ルンバ」「花の首飾り」のカバーがヒット。これに続いてリリースしたカバーアルバム『UNITED COVER』は80万枚を売るヒットとなり、その期間のライヴ映像はDVD『UNITED TOUR』として発売される。このアルバムに関して小林信彦は『週刊文春』2002年10月10日号の連載コラム「人生は五十一から」で、陽水がラジオでプロモーションをしているのを聞いたが、フォークの長老である自分が歌謡曲のような低いものを歌ってやるんだという態度がモロに出ていたと感じたためか、出来には感心しなかった。それならPRになんか出なければいいのに、と記している。 2002年には4年振りの新作『カシス』と、ジャズ・アレンジを施したセルフカバー・アルバム『Blue Selection』をリリース。1999年から2006年までは、2004年を除いて毎年全国ツアーを行うなど、歌うことに関しては活発だが、自作の新曲は少なくなっている。 2006年にはツアーの合間を縫って制作された4年振りの新作『LOVE COMPLEX』をリリース。2008年もツアー活動を行いつつ、『弾き語りパッション』と『BEST BALLADE』の2作を発表している。2009年にはデビュー40周年を迎え、12月には15年振りとなる日本武道館公演を行い、その模様を収録したDVD『40th Special Thanks Live in 武道館』をリリース。翌2010年には4年半振りとなるオリジナル・アルバム『魔力』をリリースしている。 2014〜2015年「井上陽水 氷の世界ツアー」を行う。40年前に発売されたアルバム「氷の世界」を全曲歌う、という内容のツアーだった。 2015年、40年ぶりにポリドールの流れを組むユニバーサル・ミュージックに復帰することが発表された。 かなり昔にゲスト出演したラジオ番組で、作詞方法は日本語辞書を見ながら面白いと感じた言葉を抜き出して創作することなどや、「なぜ歌手になったのか」の質問に「歯科大学の受験に3度失敗して歯科医を断念したほど、頭が悪かったから。頭が良かったら歌手なんてやっていません」などと語り、番組パーソナリティを驚かせた。この発言は、富澤一誠が自著で紹介している。 『NHK紅白歌合戦』には1度も出場経験がなく、本人も全く出場する意思が無い事を明らかにしている。NHKの番組には度々出演しているが、「紅白は別」と出場を何度も辞退している。同局の1993年の連続テレビ小説『かりん』の主題歌『カナディアン アコーデオン』を担当したが、その年の第44回NHK紅白歌合戦出場については、「あの場は余りにもハデ。恥ずかしいから」と辞退。1996年にも「恥ずかしい」と辞退。のちに「(出演を拒否していた当時)テレビに出なかったことは後悔している」というコメントも行っている。2006年には、「今年は出る気がない。今後の紅白の出演を検討する」と出場の可能性を否定。 「第二次陽水ブーム」を代表として、無数の楽曲をほかの歌手に提供している。経歴で挙げた例のほかには、沢田研二のアルバム『Mis cast.』の全曲を作詞作曲した例が有名である。また一青窈は自ら陽水のファンと称しており、アルバム『一青想』のうち2曲は陽水の作曲による。 曲をカバーした歌手には、「夢の中へ」の斉藤由貴、TRICERATOPS、「心もよう」の中森明菜、南沙織、「氷の世界」の筋肉少女帯、工藤静香、「傘がない」の中森明菜、斉藤和義、「東へ西へ」の本木雅弘、中村あゆみ、「神無月にかこまれて」の香坂みゆき、「Make-up Shadow」の上原多香子、「いつのまにか少女は」の持田香織、「ジェラシー」の高橋真梨子、「結詞」の高橋真梨子、中村あゆみ、「夏の終りのハーモニー」の中村あゆみ、MOOMIN、「最後のニュース」の奥田民生、「カナリア」に英語の歌詞を付けて歌ったジェーン・バーキン、「桜三月散歩道」をカヴァーしたキンモクセイなどがいる。本職の歌手でないところでは、お笑い芸人の友近が「Tokyo」を、THE IDOLM@STER RADIOにおいて今井麻美・たかはし智秋が「少年時代」をカバーしている。 嘉門達夫は「リバーサイド・ホテル」からヒント得て「温泉はリバーサイド」(アルバム「リゾート計画」収録)を発表する。「リバーサイド・ホテル」のイントロのギターカッティングを同じにしている他、間奏のセリフでは井上がCMで発した「お元気ですか?」のフレーズを入れている。 2004年に放送されたテレビ番組「空想ハイウェイ」には、持田香織、三上寛、加川良、高田渡、友部正人、小室等、押尾コータロー、ジェイク・シマブクロ、山下洋輔、高田漣、菊地成孔に加え、陽水へのトリビュートアルバム『YOSUI TRIBUTE』に参加したトライセラトップス、布袋寅泰、平原綾香、小野リサ、UA、一青窈、奥田民生、忌野清志郎、DOUBLEが出演した。 文壇との交際が広い。文壇を含む文化人との交流は麻雀が切っ掛け。1976年に『青空ふたり旅』として出版された五木寛之との対談をきっかけに、まず「話の特集」の矢崎泰久がベトナムに行く時の壮行麻雀大会に五木に連れて行かれ、そこで矢崎、ばばこういち、阿佐田哲也に会い、この後、長谷川和彦と知り合い、長谷川に近代麻雀に出ないかと誘われて田村光昭に会い、その繋がりで長門裕之、黒鉄ヒロシ、畑正憲らと知り合った。世代的に上の人との付き合いが多い理由について、「吉田拓郎なんかは、自分がリーダーシップを取って周りの人間を引っ張っていくタイプでしょう。僕はそういうの不得意なんです。高校時代、タテ関係が希薄で女性も多い弓道部にいたせいかもしれないけど、下の世代に対する訓練ができていないんですよ」と、40代のころは話していた。ほかにも沢木耕太郎は歌詞集『ラインダンス』に、村上龍は『綺麗ごと』に寄稿し、町田康は「新しい恋」を作詞している。活動分野は違ってくるが、三谷幸喜は『You Are The Top〜今宵の君』の劇中歌である「You are the top」を作詞しており、またタモリとは同郷でもあって親しい。 水谷豊にも多くの楽曲を提供しているが、レコーディングでの初対面の際はほとんど会話も無かったという。それにもかかわらず「今日家に来ない?」と持ちかけ、その不思議な雰囲気に水谷はよく分からずも応諾する。翌日、水谷は勧められるまま、鰻丼を食べたり近所の公園でキャッチボールをしたという。 フォーライフ所属時代、社長であった小室等とタクシーに乗った際、小室が後部座席から運転手の座席を蹴り出したため、陽水が往生したというエピソードがある。これを自著で紹介した佐高信は、陽水がクスリの問題などで小室にかけた迷惑を考えれば、その程度の往生は往生にならないに違いないと評している。 『噂の眞相』1981年2月号に「五木寛之が流布した「陽水伝説」の真相はこれだ!」という記事が掲載されたことがある。 まだ同じ福岡で活動していた頃の海援隊の武田鉄矢らに「君たち東京においでよ、東京はいいよ。」と声を掛けたことがある。しかし武田らは「僕たちは福岡が好きなので東京には行きません」と断ったというエピソードがある。(しかしその後、武田らは泉谷しげるに半ば強引に東京へ上京させられている。) (リリースリストの表にある各項目の矢印をクリックすると当該項目にジャンプ) クリスマス(1976年11月10日) 小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるによるオムニバスアルバム。 限りなく透明に近いブルー オリジナル・サウンドトラック(1978年5月) サイモン&ガーファンクルの「Homeward Bound」「Cloudy」をカバーしている。 Natural Menu(1979年12月10日) 来生たかおのアルバム。「ゆるやかに愛が…」にコーラスで参加している。 STARDUST RENDEZ-VOUS 井上陽水・安全地帯LIVE at 神宮(1986年11月5日) アーティスト名は「井上陽水・安全地帯」。ライブアルバム。 115人のイラストレーターが描く井上陽水の115曲(1997年12月10日) 115点のイラストに合わせて陽水の歌が流れるCD-ROM。ここでしか聞けない録音が含まれている。 オフ・オフ・マザーグース(1995年)EMIミュージック・ジャパン 37曲めの「みんなくたくた」というシュールな歌を歌っている。 RESPECT! The 30th Anniversary of Kiyoshiro Imawano(2000年5月5日) 2000年3月3日に日本武道館で行われた忌野清志郎30周年記念ライヴの録音盤。清志郎とともに「帰れない二人」を歌っている。また、2000年6月14日には同ライヴのDVDが発売されており、同様に「帰れない二人」が収録されている。 地上のスピード(2000年10月21日) 来生たかおのシングル。シングルバージョンとアルバムバージョン(アルバム『Dear my company』収録)があり、ともに作詞とコーラスで参加している。2つのバージョンが存在するのは、陽水の提案によるものだという。 Queen's Fellows: yuming 30th anniversary cover album(2002年12月11日) 松任谷由実へのトリビュートアルバム。陽水は「甘い予感」で参加している。 Rendez-vous(2004年3月30日、日本版は31日) ジェーン・バーキンのアルバム。 Canary Canaryは陽水の曲「カナリア」に英語の歌詞をつけたもので、バーキンと陽水がデュエットしている。 陽水の参加作品が海外に向けて発売された唯一の例である。 いつのまにか少女は c/w ミステリー あなたに夢中(2004年10月20日) アーティスト名は「持田香織 produced by 井上陽水」。持田香織が歌った作品である。 「いつのまにか少女は」は陽水のカバー。陽水はハーモニカで参加している。 「ミステリー〜」はこのシングルのための提供曲。陽水はコーラスで参加している。 『LOVE COMPLEX』には陽水が歌う「ミステリー〜」が収録されている。 シティ・ポップスカバーコンピ『Happy Holidays! 〜CITY POPS COVERS〜』には「いつのまにか少女は/持田香織 produced by 井上陽水]」が収録されている。 はじめてのやのあきこ(2006年3月8日) 矢野顕子のアルバム。陽水は「架空の星座」を作詞し、矢野とデュエットしている。 『LOVE COMPLEX』には再録された「架空の星座」が収録されている。 服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜(2007年10月17日) 服部良一へのトリビュート・アルバム。2曲目の「胸の振り子」に参加。 奥田民生・カバーズ(2007年10月24日) 奥田民生のトリビュート・アルバム。「The STANDARD」を歌っている。 宇多田ヒカルのうた -13組の音楽家による13の解釈について-(2014年12月9日) 宇多田ヒカルがデビュー15周年を記念してリリースされた初となるトリビュート・アルバム。「SAKURAドロップス」を歌っている。 アダムとイヴの林檎(2018年5月23日) 椎名林檎のデビュー20周年を記念してリリースされた初のトリビュート・アルバム。「カーネーション」を歌っている。 クラムチャウダー<NHKホールライブ> (1986年9月1日) ライブ映像。VHS、LD、β、VHDの4形態で発売。 井上陽水ライブ'88サントリーホール 夜のシミュレーション(1989年4月21日) ライブ映像。VHS、LD、βの3形態で発売。 夢寝見(1989年10月21日) プロモーションビデオ。VHSとLDの2形態で発売。 Curve Yousui Inoue(1990年) プロモーションビデオ、ライブ映像、コンサート会場限定販売。 井上陽水 CONCERT 1999〜2001 UNITED TOUR(2001年12月5日) ライブ映像。VHSとDVDの2形態で発売。 「The Premium Night」―昭和女子大学 人見記念講堂ライブ―(2007年4月11日) ライブ映像。DVDのみの発売。 「40th Special Thanks Live in 武道館」(2010年3月31日) ライブ映像。DVDのみの発売。 いくつかの曲でPVが制作されているが、ソフト化されたのは現在のところ「夢寝見」のみ。他に「夢の中へ」、「リバーサイドホテル」、「少年時代」、「Make-up Shadow」、「花の首飾り」、「傘がない(『弾き語りパッション』)」がある。 オリーブ 「愛ある国へ」 - 作詞・作曲:井上陽水(1970年) ザ・モップス 「窓をあけろ」 - 作詞・作曲:井上陽水(1972年) 「あかずの踏切り」 - 作詞:井上陽水/作曲:星勝(1973年) 石川セリ 「ダンスはうまく踊れない」 - 作詞・作曲:井上陽水(1977年)- 5年後の1982年、高樹澪がカバー・シングルとしてリリース 「気まぐれ」 - 作詞:石川セリ/作曲:井上陽水 佐藤博 「月の子の名前はレオ」 - 作詞:井上陽水/作曲:佐藤博(1979年) 中山千夏 「Kiss」 - 作詞:井上陽水/作曲:小室等(1980年) 山口百恵 「Crazy Love」 - 作詞:井上陽水/作曲:井上陽水(1980年) 三上寛 「俺のあの娘は可愛いい」 - 作詞・作曲:井上陽水(1981年) 沢田研二 「News」 「デモンストレーションAir Line」 「背中まで45分」 「Darling」 「A.B.C.D.」 「チャイニーズフード」 「How Many “Good Bye”」 「次のデイト」 「ジャスト フィット」 「ミスキャスト」 全曲、作詞・作曲:井上陽水(1982年12月10日) 荻野目洋子 「ギャラリー」 - 作詞・作曲:井上陽水(1990年6月27日) 「ON BED」 - 作詞:井上陽水/作曲:井上陽水・平井夏美(1990年6月27日) 小泉今日子 「月ひとしずく」 - 作詞:井上陽水・奥田民生・小泉今日子/作曲:井上陽水・奥田民生(1994年11月14日) デーモン小暮閣下 「LOVE ROMANCE」 - 作詞・作曲:井上陽水(1995年8月21日) 篠原涼子 「ダメ!」 - 作詞・作曲:井上陽水(1995年11月22日) PUFFY 「アジアの純真」 - 作詞:井上陽水/作曲:奥田民生(1996年5月13日) 「渚にまつわるエトセトラ」 - 作詞:井上陽水/作曲:奥田民生(1997年4月16日) 「CAKE IS LOVE」 - 作詞・作曲:井上陽水(1998年4月1日) 「オリエンタル・ダイヤモンド」 - 作詞:井上陽水/作曲:奥田民生(2007年9月5日) Chappie 「DOCU-MENTARY KISS」 - 作詞:井上陽水/作曲:ギターペイダー(1999年10月10日) 一青窈 「一思案」 - 作詞:一青窈/作曲:井上陽水(2004年4月7日) 「面影モダン」 - 作詞:一青窈/作曲:井上陽水(2004年4月7日) 持田香織 「ミステリーあなたに夢中」 - 作詞・作曲:井上陽水(2004年10月20日) 岡本知高 「E-I-E-N」 - 作詞:井上陽水/作曲:筒美京平(2004年10月21日) Akeboshi 「Yellow Moon」 - 作詞:Yosui Inoue/作曲:Akeboshi)(2006年4月19日) DR.STRANGE LOVE 「アメリカのアリゾナ」 - 作詞:井上陽水/作曲:長田進 本山ツトム 「一枚ガラスの喫茶店」 - 作詞:小椋佳/作曲:井上陽水 野崎沙穂 「エアメール・ブルー」 - 作詞:安井かずみ/作曲:井上陽水 かしわ哲 「オシエテモット」 - 作詞:かしわ哲/作曲:井上陽水 水谷豊 「はーばーらいと」 - 作詞:松本隆/作曲:井上陽水(1977年) 「男の手紙」 - 作詞:白石ありす/作曲:井上陽水 「鍵はかけない」 - 作詞:松本隆/作曲:井上陽水 「通過します」 - 作詞:友部正人/作曲:井上陽水 「テンダネス」 - 作詞:松本隆/作曲:井上陽水 「マリーナ デル レイ」 - 作詞:松本隆/作曲:井上陽水 「AMERICAN LINE」 - 作詞:松本隆/作曲:井上陽水 「MUSIC HIGH」 - 作詞・作曲:井上陽水 矢野顕子 「架空の星座」 - 作詞:井上陽水/作曲:矢野顕子 三田寛子 「駈けてきた処女」 - 作詞:阿木燿子/作曲:井上陽水 「夏の雫」 - 作詞:阿木燿子/作曲:井上陽水/編曲:坂本龍一 「ふたりぽっち物語」 - 作詞:阿木燿子/作曲:井上陽水 中森明菜 「飾りじゃないのよ涙は」 - 作詞・作曲:井上陽水 「ムーンライトレター」 - 作詞:松井五郎/作曲:井上陽水 森進一 「風のエレジー」 - 作詞:阿木燿子/作曲:井上陽水 町田義人 「風のように」 - 作詞:阿木燿子/作曲:井上陽水 薬師丸ひろ子 「哀しみの種」 - 作詞:松本隆/作曲:井上陽水 「ステキな恋の忘れ方」 - 作詞・作曲:井上陽水 「ローズ・ティーはいかが?」 - 作詞:松本隆/作曲:井上陽水 樋口可南子 「からたちの花」 - 作詞:流れ星犬太郎/作曲:井上陽水 小林麻美 「グランプリの夏」 - 作詞:小林和子/作曲:井上陽水 「TRANSIT」 - 作詞:松任谷由実/作曲:井上陽水 安全地帯 「ワインレッドの心」 - 作詞:井上陽水/作曲:玉置浩二 「真夜中すぎの恋」 - 作詞:井上陽水/作曲:玉置浩二 「恋の予感」 - 作詞:井上陽水/作曲:玉置浩二 小椋佳 「白い一日」 - 作詞:小椋佳/作曲:井上陽水 「坂道」 - 作詞:小椋佳/作曲:井上陽水 郷ひろみ 「サファイア・ブルー」 - 作詞:松本隆/作曲:井上陽水 来生たかお 「地上のスピード」 - 作詞:井上陽水/作曲:来生たかお 姫乃樹リカ 「地上の楽園」 - 作詞:松本隆/作曲:井上陽水 風間杜夫 「東京さみしがり屋」 - 作詞・作曲:井上陽水 長谷川きよし 「ドライアイス」 - 作詞:井上陽水/作曲:長谷川きよし 武田久美子 「半分ピエロ」 - 作詞:友部正人/作曲:井上陽水 YK型 「バルサの翼」 - 作詞:吉田照美/作曲:井上陽水 ブレッド&バター 「ファッションラヴァー」 - 作詞:GALLWAY PETER ALAN、井上陽水/作曲:GALLWAY PETER ALAN 「WYOMING GIRL」 - 作詞・作曲:井上陽水 ペギー葉山 「プラス・ピアス」 - 作詞・作曲:井上陽水 吉永小百合 「夢さぐり」 - 作詞:来生えつこ/作曲:井上陽水 亀淵友香 「夢のくらし」 - 作詞:及川恒平/作曲:井上陽水 松坂慶子 「ラジオのついたナイト・テーブル」 - 作詞:井上陽水/作曲:小室等 かまやつひろし 「ロンドン急行」 - 作詞・作曲:井上陽水 アンデルセン 「ロンドン急行」 - 作詞・作曲:井上陽水 MAACHO 「NOTHING IN BLUE」 - 作詞:CASS MARK/作曲:井上陽水 香坂未幸 「神無月にかこまれて」 - 作詞・作曲:井上陽水 岩下京子 「BOOING」 - 作詞・作曲:井上陽水(「立花海」名義) スマッシュ!!11(1969年、1970年など、RKBラジオ) ザ・ベストテン(1981年、1984年など、TBS) 第27回日本レコード大賞(1985年12月31日、TBS) 夜のヒットスタジオ(1981年、1987年など、フジテレビ) ミュージックステーション(1989年7月28日「夢寝見」、1991年10月25日「少年時代」、1992年11月27日「結詞」、1994年10月21日「移動電話」、1995年12月22日「嘘つきダイヤモンド」、1997年2月14日「ありがとう」、2001年1月19日「コーヒールンバ」、2006年12月28日「パラレル・ラブ」、テレビ朝日)  など 女番町 野良猫ロック(1970年、日活) ※アンドレ・カンドレ名義 お葬式(1984年) 無能の人(1991年) 幕末青春グラフィティ 坂本竜馬(1982年、日本テレビ) - 伊藤俊輔役 サントリー 角瓶(1984年) 日産自動車 セフィーロ(1988年 - 1989年) キリンビバレッジ 聞茶(2001年頃) - 鉛筆を削っていた。 サントリー サントリーオールド(2006年) JR九州 九州新幹線「九州の歴史の先に」(2011年) 音のそとがわで(1974年、サンリオ) エッセイ集。 青空ふたり旅(1985年、角川書店)ISBN 4041294150 1976年の五木寛之との対談。 1976年のペップ出版発行の方にあった「田川のどろぼう部落」が強くてたくましいイメージ、九州的なものとして大事にしたい、などと二人で擁護する件(同書1976年版p163)などが1985年版では削除されている。 ラインダンス(1982年、新潮社)ISBN 4101282013 歌詞集。 綺麗ごと(1985年、集英社)ISBN 4087800857 ロングインタビューなどを掲載。 歌う見人(ケンジン) - 井上陽水カセットブック(1986年、小学館)ISBN 4093632510 A1 : Dream(夢) A2 : I Fell For You(揺れる花園) A3 : Tangerine Summers(飾りじゃないのよ涙は) A4 : Transit(トランジット) B1 : Sweet Serenade(いっそセレナーデ) B2 : Waiting Game(新しいラプソディー) B3 : Couldn't We(招待状のないショー) B4 : Frozen Eyes(フローズン・アイズ)     以上の英語詞ヴァージョンが収録されている。 媚売る作家(1993年、角川書店)ISBN 4048833294 作品解説などを掲載。 夢の旅人(1994年、新潮社)ISBN 4105299018 井上陽水による詩、ギー・ビルーによる絵で構成された絵本。 井上陽水 FILE FROM 1969(2009年、エフエム東京)ISBN 4887452144 井上陽水40周年記念として今までの多数の活動記録をまとめた本。 別冊カドカワ 総力特集 井上陽水 (2009年、角川マーケティング(角川グループパブリッシング))ISBN 4048950657 井上陽水の40周年記念に作られた特集号。 陽水と親交のある著名アーティストによる陽水についてのインタビュー等も掲載。 「井上陽水・孤独の世界」(1975年、[塩沢茂]著、講談社発行「ビッグ・バックス」) 井上陽水 全発言(1994年、えのきどいちろう編集、福武書店)ISBN 4828817360 陽水の快楽 ― 井上陽水論(1999年、竹田青嗣著、筑摩書房)ISBN 4480034587 満月、空に満月(1995年、海老沢泰久著、文藝春秋)ISBN 4167414112 ^ 加来由子 (2013年9月22日). “長い猫と不思議な家族 依布サラサさん”. BOOK.asahi.com. 2016年9月14日閲覧。 ^ 九州歌謡地図 第5部・井上陽水の世界<2> ^ a b アルバム『陽水ライヴ もどり道』ジャケット自筆年表(うれいの年表) ^ a b 自著『綺麗ごと』、集英社、1985年、p15-16 ^ 五木寛之・井上陽水『青空ふたり旅』、ペップ出版、1976年、p285 ^ a b 相倉久人『日本ロック学入門』(新潮社)対談 ^ 相倉久人『日本ロック学入門』(新潮社)対談、p164 ^ a b c 五木寛之・井上陽水『青空ふたり旅』、ペップ出版、1976年、p70-71 ^ 自著『媚売る作家』角川書店、1993年、p49、251、自著『ラインダンス』、新潮社、1982年、p30 ^ 受験に失敗した原因について、のちに「天才的頭脳がない」「裏口入学させられるほど金持ちの親がいない」(『断絶』の歌詞カード)、「ビートルズ」「女性」「受験慣れ」(『もどり道』のインナースリーブ)などとコメントしている。 ^ 『媚売る作家』、p50-51 ^ 富澤一誠 『ユーミン・陽水からみゆきまで 時代を変えたフォーク・ニューミュージックのカリスマたち』 廣済堂新書 055 ISBN 978-4331519202、91-92p。なお同書には「カンドレ・マンドレ」がリクエスト1位になったという記述はあるが、友人に葉書を出させたことには全く触れていない。88p。 ^ 相倉久人『日本ロック学入門』(新潮社)対談、p166-167 ^ 「LIFE 井上陽水 40年を語る」、2009年8月25日 ^ あの日フォークが流れていた、シンコー・ミュージック、p76-78 ^ 川瀬泰雄 - The Beatlemania.com ^ 中川右介 『山口百恵 赤と青とイミテイション・ゴールドと』 朝日文庫 [な-36-1]ISBN 978-4022617255、113-114p ^ アルバム『二色の独楽』のジャケットにはこの女性とのツーショットが掲載されている。 ^ 今村守之 『問題発言』 新潮新書 446 ISBN 978-4106104466、96-97p ^ 泉麻人 『ナウのしくみ (2)』 文春文庫 [い-22-3] ISBN 4167486032、259-260p ^ 筑紫哲也 『ニュースキャスター』 集英社新書 0145-B ISBN 4087201457、33p ^ 『ラインダンス』、p204 ^ a b 『ラインダンス』、p230、250 ^ 山田修爾 『ザ・ベストテン』 新潮文庫 [や-68-1] ISBN 978-4101363417、166-167p ^ 天野祐吉 『天野祐吉のCMウオッチング』 朝日文庫 [あ-17-1] ISBN 4022610050、484-485p ^ 『歴史読本』編集部 編 『日本の華族 その栄光と挫折の一部始終』 新人物文庫 [れ-1-8] ISBN 978-4404039224、262p。当該箇所の執筆は前坂俊之。 ^ いしいひさいち 『ひさいち文庫 くるくるクロニクル』 双葉文庫 [い-17-22] ISBN 4575713090、110-111p ^ えびはら武司 『藤子スタジオアシスタント日記〜まいっちんぐマンガ道〜』 竹書房 ISBN 978-4801903562、75-80p。同書では他に、藤子・F・不二雄が『傘がない』を好まず、この曲があちこちで流れていたためにウンザリしていた、という記述もある。 ^ 小林信彦 『にっちもさっちも 人生は五十一から 5』 文春文庫 [こ-6-18] ISBN 978-4167256180、224p・228p ^ 井上陽水が、ポリドール(現ユニバーサルミュージック)復帰 アルバム『UNITED COVER 2』リリースへ ^ 『ユーミン・陽水からみゆきまで』、87p ^ 宝島編集部 『現代下世話大全 バウきゅー まちのヘンなもの大カタログ』 宝島社 ISBN 4796612351、158p ^ 鈴木英之 『よみがえれ! 昭和40年代 高度成長期、少年少女たちの宝箱』 小学館101新書 144 ISBN 978-4098251445、207p ^ a b 『井上陽水全発言』えのきどいちろう編集、福武書店、1994年、p131 ^ a b 『究極の10冊物語』ダ・ヴィンチ編集部、メディアファクトリー、1996年、p60-68 ^ 『貧乏だけど贅沢』、p311 ^ 『媚売る作家』、p186、259-260 ^ 『綺麗ごと』、p222-227 ^ SONGS井上陽水 水谷豊インタビューより ^ 佐高信 『抵抗人名録 私が選んだ100人』 光文社知恵の森文庫 [aさ-2-12] ISBN 978-4334785888、113p ^ 岡留安則 『『噂の真相』編集長日誌〈1〉 “スキャンダル雑誌”創刊物語』 現代教養文庫 1633(D-802) ISBN 4390116339、58p ^ a b c 1989年5月25日再発 ^ 1999年5月21日再発 ^ a b c 1988年5月21日再発 ^ 1996年2月21日再発 ^ 2008年7月16日再発 ^ 2007年3月21日再発 ^ 陽水ローカルCM曲が全国発売、スポニチアネックス、2004年5月26日。(インターネットアーカイブのキャッシュ) ^ http://ameblo.jp/sakura-uehara/archive18-201112.html 上原さくらオフィシャルブログ Yosui Inoue Official Site - 公式サイト 井上陽水 フォーライフ公式サイト - フォーライフミュージックエンタテイメントによる公式ページ 井上陽水 ユニバーサルミュージック公式サイト - ユニバーサルミュージックによる公式ページ 井上陽水 info(@yosuiinfo)- Twitter アンドレ・カンドレに関するカテゴリ: ソニー・ミュージックレコーズのアーティスト" ]
ABC01-02-0207
1887年に発表された「緋色の研究」という作品で登場し、いまだに根強いファンを持つ、コナン・ドイルが生んだ名探偵といえば誰でしょう?
シャーロック・ホームズ
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[ "シャーロック・ホームズ", "レストレード", "セバスチャン・モラン", "ハドスン夫人", "フィリップ・マーロウ" ]
[ "シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) は、19世紀後半に活躍したイギリスの小説家・アーサー・コナン・ドイルの創作した、シャーロック・ホームズシリーズの主人公である、架空の探偵。 彼の活躍する一連の作品は大ヒットして、推理小説の分野に一つの頂点を築いた。その魅力は今なお衰えず、世界中で読み継がれている。 生年や出身地は明確な記述がなく、はっきりしていない。 大学時代に友人の父親にまつわる事件(「グロリア・スコット号事件」)を解決したことで、探偵業を志すようになり、大学卒業後に大英博物館近くのモンタギュー街で開業した。1881年、ルームシェアの相手としてワトソンと初めて出会う(『緋色の研究』)。ホームズはその風采を見ただけでアフガン戦争の復員兵だと見抜き、驚かせた。 ワトソンと共にベーカー街の下宿で共同生活を始めた頃から名声が高まり、海外からも事件解決の依頼が寄せられるようになった。1891年に犯罪組織の頭目であるジェームズ・モリアーティ教授との対決(「最後の事件」)で、モリアーティ教授と共にスイスのライヘンバッハ滝にて失踪。モリアーティ教授と滝壺に落ちて死亡したと思われた。だが、落ちたのはモリアーティだけであったと後にわかる(「空き家の冒険」)。ホームズは生きていたが、モリアーティ一味の残党から逃れるために姿を消していたと発言している。また日本を発祥とする東洋武術のバリツを体得していたおかげで、モリアーティ教授との戦いから生き永らえたという(「空き家の冒険」)。 モリアーティ一味の残党から逃れるために姿をくらましてからの行動ははっきりしない(チベットなどアジアにまで足を運んでいたという示唆もある。「空き家の冒険」の項を参照)。ホームズ自身の説明によると、兄のマイクロフト・ホームズに資金を援助してもらいながらモリアーティ一味の残党を倒そうとしたが上手くいかなかったという。 失踪から3年後、モリアーティの腹心の部下であるセバスチャン・モラン大佐を捕まえるため、ホームズはロンドンに戻った。老人に変装してワトソン宅を訪れ、ワトソンが背中を向けた隙に変装を解いて正体を明かすという茶目っ気のある方法で再会したためにワトソンを気絶させるほど驚かせた(「空き家の冒険」)。モラン大佐の逮捕後は、失踪する前と変わらず探偵業を続けた。晩年のホームズは探偵業を引退して田舎で養蜂の研究をしていたが、第一次世界大戦の直前には政府の依頼でドイツのスパイ逮捕に協力した(「最後の挨拶」)。 天才的な観察眼と推理力を持つ、世界でたった一人の「顧問探偵」(consulting detective) である。ロンドンのベイカー街221Bにあるハドスン夫人所有のアパートで、相棒のジョン・H・ワトスン医師と共同生活をしている。 容姿は『緋色の研究』で詳しく描かれている。体格は痩身で身長は少なくとも6フィート(約183センチメートル)以上、鷲鼻で角張った顎が目立つ。作者のドイル自身はとがった鼻のインディアンの様な風貌を想像していたという。 性格は極めて冷静沈着。行動力に富み、いざ現場に行けば地面を這ってでも事件の一端を逃すまいと血気盛んになる活動家。反対に兄のマイクロフト・ホームズは、シャーロックよりも鋭敏な頭脳を持つが、捜査に興味がない為に探偵にはならなかった(「ギリシャ語通訳」)。 ヴァイオリンの演奏にも長けており、ストラディヴァリ製のヴァイオリンを所有している。ボクシングはプロ級(当時はベアナックルの「ロンドン・プライズリング・ルールズ」から「クインズベリー・ルール」へ変更した直後)の腕前。化学実験を趣味とする。ヘビースモーカーであり、ペルシャスリッパの中にタバコをしまう奇妙な性癖があった。事件がなく退屈すると拳銃で壁に発砲して弾痕でヴィクトリア女王のイニシャルを書いたり、コカインやモルヒネを使う薬物依存があった。薬物に手を出すのはワトソンが何年もかけて止めさせた(但し完全に止めたわけではなく、いずれ再発する可能性があったようだ)。後年になるとこういったディレッタント風の退廃的な生活態度をやめ、野山や草木に親しむ保守的な英国紳士風の様子を見せるようになる。 生年月日や家族など私的な事柄については、本編中にはっきりした記述はない。「最後の挨拶」で\"the man of sixty\"とあるのがホームズの年齢に関するほとんど唯一の記述である。ただ、生年月日は1854年1月6日とする説が有力である。ウィリアム・シェイクスピアの『十二夜』の台詞を複数回引用したり、1月6日に誕生日を徹夜で祝ったともとれる描写がある(『恐怖の谷』)ことから、多くの読者に支持されている。また、出身はイングランドのヨークシャー州北ライディングという説が有力である。 家族については、兄のマイクロフト以外はほとんど言及がない。本人は、先祖は地方の地主で、祖母がフランスの画家オラース・ヴェルネの姉妹だと述べている(「ギリシャ語通訳」)。また、ワトソンが開業していた病院を買い取ったヴァーナーという若い医者が、ホームズの遠縁に当たるという記述が見られる(「ノーウッドの建築業者」)。父はサイガー・ホームズ、母はヴァイオレット・シェリンフォードと言われている(正典に記述はない。複数のシャーロキアンによる様々な説と、ベアリング=グールドの創作によって生まれた設定である)。 出身大学についても本編中にはっきりした記述はない。「グロリア・スコット号事件」ではトレヴァーをカレッジで唯一の友人と記述し、「マスグレーヴ家の儀式」ではレジナルド・マスグレーヴを学寮が同じでちょっとした知り合いと述べている。この2人は同じ大学であるとすると矛盾が生じるため、ホームズは2つの事件の間に大学を変わったのではないかと考えるシャーロキアンもいる。その2校の大学は、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学であり、ホームズが1つの大学の学生であったと考えている研究者も、彼が通った大学はこの内のいずれかだろうとみなしている。 ホームズはワトソンが書く自分の物語に関してはその書き方を特に批判している(だが、後にワトソンに「そこまで言うなら自分でやるように」と怒られて、自分で書く羽目になった「白面の兵士」では読者を喜ばせるためにワトソンと同じ書き方をしてしまい、反省する一幕がある)。また、ワトソンはホームズの許可をもらわなければその事件に関する物語を書くことはできない。基本的に自分の名を世間に知られるのは好ましくないと考えている(その割には、ワトソンを自分の「伝記作家」と呼ぶこともあるが)ため、中々許可を出さないが(他にも依頼人の立場などを考慮していることもある)、稀にいきなりワトソンに連絡を取って一方的に許可を出すこともある。 人物評においては辛辣であり、後にその発言を覆しているものの先輩格であるC・オーギュスト・デュパンやルコックを批判したりしている(『緋色の研究』)。 ホームズは女性嫌いとしても知られており、基本的に女性を信用していないようである(「どんなに立派な女性でも100%は信用できない」と言ってワトソンの機嫌を損ねたことがある)。ただし、女性の勘については一目置いており、また、女性には紳士的に接する。ワトソンがメアリー・モースタンと結婚した際にも「お祝いは言わないよ」と言っている。もっとも、メアリーに悪い感情を持っていたわけではないようで結婚後、開業医になったワトソンを事件の捜査において協力を求める際にもメアリー(あるいはそれ以外のワトソンの妻)を気遣うような発言もしている(「株式仲買店員」)。ごくごく稀にだが、女性に惹かれることもあり、「ライオンのたてがみ」で出会ったモード・ベラミー嬢には「彼女に出会っては、どんな青年も無関心ではいられまい」「最も完成された非凡な女性」と感銘を受け、数瞬であるが目を奪われている。 彼の多才な能力はそのまま犯罪に使うこともできるため、ホームズ自身、自分が犯罪者になれば大変なことになっていたであろうという旨の発言をし、また、犯罪紛いの行動を取った際にはレストレード警部にも釘を刺されている。 再三にわたってナイトの地位を辞退している。本人は肩書きが無いのを好むためと言っているが、その一方でフランス政府からのレジオンドヌール勲章は受章しており(「金縁の鼻眼鏡」)、この矛盾については本編内で明確な説明はない。 作者は「シャーロック・ホームズ」と正式に名付ける前に「シェリングフォード」(Sherringford)ないしは「シェリンフォード」(Sherrinford)という仮称を設定しており、後世のパスティーシュ作品にその設定が引用される事がある。日本国内においては「Shellingford」や「Shellinford」と誤って表記される事も多い。 第1作『緋色の研究』の序盤で、ワトソンはホームズに以下の評価を下している。 文学の知識:なし。 哲学の知識:なし。 天文学の知識:なし。地球が太陽のまわりを公転していることを知らない。 政治学の知識:わずか。 植物学の知識:多様。ベラドンナや阿片、毒薬に特に詳しい。園芸の知識はない。 地質学の知識:限られているが実用的。ワトソンのズボンについた土の撥ね返りを見て、色と粘度からロンドンのどこで付いたか言いあてた。 化学の知識:造詣深い。 解剖学の知識:正確であるが体系的ではない。 通俗文学の知識:計り知れない。今世紀(19世紀)に起こったほとんどの凶悪事件の詳細を知る。 ヴァイオリンの演奏が、かなり上手い。 日本武術、フェンシング、ボクシングができる。拳銃や、ステッキ、乗馬鞭など武器を駆使して悪党を制圧する。 イギリスの刑事法に実用的な知識を持つ。 しかし、『緋色の研究』の事件においてホームズはワトソンの判断を覆すような引用・発言をし、後の作品でも多方面にわたる見識と知識を見せている。ワトソンは「後で騙されていたと気付いた」と述べている。『緋色の研究』の時点でこのような評価になった理由は、二人が知り合って間もないうえ、教養の必要性を主張するワトソンをホームズがからかったためだとされる。後に「オレンジの種五つ」で、ワトソン自身がこの評価を「奇妙な診断書」だと笑っている。 ホームズのモデルは、作者の医学部時代の恩師で外科医であるジョセフ・ベルとされている。ドイルは1877年にベルに出会い、エジンバラ王立病院 (Royal Infirmary of Edinburgh) でベルの下で働いた。ベルは、病気の診断には観察力が重要だと学生に説き、訪れる患者の外見から病名だけでなく、職業や住所、家族構成までを鋭い観察眼で言い当てて、学生らを驚かせた。コナン・ドイルは、学生時代にベルの助手を務め、その行動を日頃から目の当たりにしていた。アーヴィング・ウォーレスは、著書『The Fabulous Originals』で初出し、後に加筆されて『The Sunday Gentleman』に収録されたエッセイで、ベルがおもにスコットランドで警察の捜査に何回も関与しており、1893年のアードラモント殺人事件 (Ardlamont murder) などにもたずさわり、多くの場合は法医学を専門としたヘンリー・リトルジョイ (Henry Littlejohn) 教授とともに働いていたと述べている。 一方で、ドイルの息子であるエイドリアン・コナン・ドイルは、実際にいくつかの事件で冤罪を晴らしたことのあるアーサー・コナン・ドイル自身が、ホームズのモデルであると主張していた。 以下はシャーロック・ホームズシリーズの記述から推測されるホームズの経歴である。これとは異なる経歴を支持するシャーロキアンも多いことを付け加えておく。 1853年、イングランドで生まれる。 1872年、シャーロック、大学に入学。化学実験にのめり込み、余暇はバイオリンを演奏して過ごす。スポーツには、あまり興味を示さなかったものの、自己鍛錬のためにフェンシング、ボクシング、武術(バリツ)を習得。 1874年の夏、学友のヴィクター・トレヴァーの父親の勧めで私立探偵を志す(「グロリア・スコット号事件」)。大学生活でシャーロックの推理方法(アブダクション)は洗練され、大学内でも知れた存在になる。 1877年、23歳のシャーロックはモンタギュー街の大英博物館付近に部屋を借り、私立探偵を開業。しかし捜査依頼は皆無だったため、暇な時間を将来役立ちそうな研究に費やす。 学友からの依頼が数件あり、全て解決する(「マスグレーヴ家の儀式」)。聖バーソロミュー病院解剖学教室入局。独自に血痕判定の新薬を開発(『緋色の研究』)。他にもユニークな研究論文を多数発表。 1881年、27歳の頃、ベーカー街221Bに転居。医師ジョン・H・ワトスンとの同居生活を始める。仕事の依頼も増え始める。『緋色の研究』事件を解決。脳の活性化を図り、モルヒネ及びコカインの吸引も積極的に行う。 1887年、『緋色の研究』の事件調査報告がビートンのクリスマス年鑑に発表され、広く世の人々がシャーロック・ホームズという探偵の存在を知る。 1888年、ボヘミア国王の依頼でアイリーン・アドラーから写真を奪い返そうとして失敗(「ボヘミアの醜聞」)。この頃、ワトソンが『四つの署名』に登場したメアリー・モースタン嬢と結婚し、診療所を持ち、ベーカー街221Bを去る。 シャーロックは、ビリーという少年を雇い、身の回りの雑事をさせる(『恐怖の谷』)。 1891年、ジェームズ・モリアーティ教授の犯罪組織を粉砕。モリアーティ教授に襲われるもバリツを使い滝壷に叩き落とす。そのまま身を隠したため、世間では死亡説が流れる(「最後の事件」)。 この後、2年間チベットを旅して周り、ラマ僧と会見。シーゲルソンという偽名を使い探検記を発表。メッカを経てフランスに戻り、コールタール誘導体の研究に数ヶ月を費やす。 1894年、ベーカー街に帰還、探偵活動を再開(「空き家の冒険」)。妻メアリーに不幸があった(と考えられている)ワトソンもベーカー街へ戻る。その際、診療所をヴァーナーという医者に高値で売却。後にヴァーナー(フランス読みでヴェルネ)とは、シャーロックの親類の名で、代金を支払ったのはシャーロック本人であることが分かる(「ノーウッドの建築技師」)。 1895年、ワトソンによればホームズが最も精力的だった年。「ブルースパーティントン設計図」事件の解決によって、ヴィクトリア女王に謁見する。 1899年、シャーロックはエスコットという偽名を使い、ミルバートン家の女中と婚約(「犯人は二人」)。 1900年、サーの称号を辞退。 1902年、ワトソンが再びベーカー街を去る。シャーロックはシンウェル・ジョンソンという情報屋を使うようになる(「高名な依頼人」)。 1903年、49歳で探偵業を引退。風光明媚なサセックスの丘で隠遁生活に入る。 1909年、サセックス近辺で起きた教師変死事件を調査(「ライオンのたてがみ」)。 1912年、英国政府からの調査依頼で探偵業を再開。アルタモントという偽名を使ってアメリカに渡り、ドイツ諜報機関に侵入。ドイツ人に偽情報をリーク(「最後の挨拶」)。2年かけて1914年、ドイツ諜報機関の英国内におけるネットワークを壊滅させ、再引退。サセックスの丘へ帰る。 1926年、ワトソンの文章を批判し過ぎて怒られてしまったため、養蜂業を営みつつ、「白面の兵士」、「ライオンのたてがみ」を執筆、発表(「白面の兵士」冒頭) シャーロック・ホームズはよくアブダクションを使う。徹底した現場観察によって得た手掛かりを、過去の犯罪事例に関する膨大な知識、物的証拠に関する化学的知見、犯罪界の事情通から得た情報などと照らし合わせて分析し、事件現場で何が起きたかを推測する。しばしば消去法を用い、「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」(When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.)と述べている(「ブルースパーティントン設計図」)。彼の観察力の鋭さは「白銀号事件」で犬が吠えなかったことを指摘したように、現場で起きた出来事だけでなく、現場で発生すべきなのに起きなかった出来事にも注目した点に表される。この事例は、ミステリ小説界に留まらず広く学問の世界においても、注意力と観察力は如何にあるべきかを示す事例として頻繁に引用される。エジプトの警察は過去、研修にシャーロック・ホームズを教科書として採用していた。 彼は音楽とタバコと有毒植物と過去の犯罪に特に詳しく、前例とタバコで解決した例も少なくない。タバコの灰の見分け方に関しては論文も書いている。 また、彼は、ベイカー街遊撃隊(ベイカーストリートイレギュラーズ)と呼ばれる貧しい少年達に小遣いを与えて、情報収集させることもある。 あまりにも人気があるため、実在の人物と見なして(ただし、本当に実在していると信じているという訳ではない)、数多くの人達がホームズを研究している。彼らは、イギリスではホームジアン、アメリカや日本ではシャーロキアンと呼ばれる。シャーロキアンの組織は世界中にあるが、1934年にアメリカのニューヨークで設立されたベイカー・ストリート・イレギュラーズが最も古い。イギリスのロンドンにはシャーロック・ホームズ協会が、日本には日本シャーロック・ホームズ・クラブがある。 ホームズはまた、多くの俳優に演じられた架空人物の一人に数えられる。ギネスブックによれば、「最も多く映画化された主人公」として記録されている。 ホームズ映画は映画そのものとほぼ同じ歴史を持つとも言える。最初期の無声映画時代には、ドイルの許可も得ないホームズ映画が相当数創られたと考えられている。 アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) が企画した「AFIアメリカ映画100年シリーズ」では、『アメリカ映画の名セリフベスト100』で彼のセリフ「Elementary, my dear Watson」(「基本だよ、ワトソン君」)が65位にランク入りしている。 モーリス・コステロ 1905年の映画『en:Adventures of Sherlock Holmes; or, Held for Ransom』に出演。ドイルの原作に忠実な映画化が試みられた最初の例とされ、出演者の名前が判明している範囲で最も古い映画でもあって、ホームズを演じた映画俳優リストの最初に記載されることが多い。 クライブ・ブルック トーキーで初めてホームズを演じる栄誉を担ったが、その評判は芳しくはなかった。なお、当時まだ全ての映画館がトーキーの設備を備えてはいなかったので、彼の主演作はサイレント版とトーキー版の両方が製作され、厳密を期するならサイレント映画における最後のホームズ俳優でもあったことになる。ブルックが出演した作品でワトソンを演じたレジナルド・オウエンは、後にホームズも演じたが、どちらの役でも不評だった。 ベイジル・ラスボーン ワトソン役のナイジェル・ブルース(Nigel Bruce)とのコンビで、映画やラジオで人気を博した。現在でもアメリカでは「最高のホームズ」に推すファンが多い。しかし、当人はホームズの人気が先行し、ラスボーンでなく「シャーロック・ホームズ」のサインを求められるような扱いに耐えかねて、ワーナー・ブラザース社との契約が切れたのを機に降板したが、後にファンの強い要望に応える形で、幾つかのラジオドラマにホームズ役で出演している。 ロナルド・ハワード(Ronald Howard) 1954年から1955年にかけて製作、放映されたアメリカのテレビ映画シリーズ「シャーロック・ホームズ」(全39話)でホームズを演じた。ワトソン役はハワード・マリオン=クロフォード(Howard Marion-Crawford)。現在、廉価版 DVD が数社から販売されていて人気も高い。 ピーター・カッシング 怪奇映画界の名優として知られるが、英国映画『バスカヴィル家の犬』(1959年)でホームズを演じ、米ニューズウィーク誌に「生きて呼吸する過去最高のホームズ」と称賛された。1968年には BBC のTVシリーズ、1984年には単発のオリジナル TV ムービーでホームズを演じた。英国のホームズファン協会が唯一公認するホームズ俳優であったともいわれる。 ワシーリー・リヴァーノフ ソ連のレンフィルム映画スタジオ制作のテレビ放映用劇映画5本 (1979-86年)でホームズを演じた。元々舞台俳優だったが、人形アニメ『チェブラーシカ』でワニのゲーナの声を担当したり、後には映画も監督する等、多彩な活動を行っている。ワトソン役のヴィターリー・ソローミンとのコンビは、その後も続き、90年代前半にはモスクワで「ディテクティーフ(探偵)」という劇場を数年間主宰した。リヴァーノフは2006年に大英帝国名誉勲章を授与されている(授与の理由は、一説では「スクリーンにおける最高のホームズ像」により、また別の説では「英国とロシアとの友好に貢献したこと」による)。2007年にニュージーランドで発行されたホームズ記念ミント銀貨では、ソローミンと共に肖像のモデルとなったり、同年モスクワの英国大使館の脇に彼とソローミンをモデルとするブロンズのホームズ・ワトソン像が建立されるなど、近年特に英語圏での再評価が進んでいる。 ジェレミー・ブレット グラナダテレビの5シーズンにわたるシリーズに主演した。その姿はシドニー・パジェットが描いた挿絵から抜き出て来た程とまで言われ、奇抜かつ繊細な演技でホームズを演じた。ブレットの演じたホームズは現在でも史上最高と幅広く評価されており、ウィリアム・ジレット、ピーター・カッシング、ベイジル・ラスボーンをも凌ぐとされている。また、彼がホームズを演じている間、彼には世界中から毎週3000通ものファンレターが届いていたという。同シリーズの制作理念が、コナン・ドイルの描いた世界の忠実な映像化であったこともあり、ジェレミー・ブレットのホームズは、ロンドン市内でディアストーカー(鹿撃ち帽)やインバネスコートを着用することはなかった。TV版に出演する前であるが舞台版のホームズ作品ではワトソンを演じていることから、ホームズ、ワトソンを媒体は異なるが両人共に演じた珍しい役者となっている。ブレットは、1984年から1994年までホームズを演じ続け、20世紀後半を代表するホームズ役者となったが、全集を完成する前に心臓病のため短編集を含む18作品を残して他界した。本作は2013年現在でも人気が衰える事がなく、NHKだけでなくCATVのチャンネルでも数多く再放送されており、いまだ多くの人々に愛されている。 なお、同シリーズがNHKで放映された際には、一貫して露口茂が吹き替えを担当し、ファンから好評を博している。しかし、NHKで放映された際には1時間枠にカットされていた。DVD収録時には露口は芸能界から引退状態にあり、放映時カットされた部分のみを諸角憲一が露口に代わって追加収録している。 クリストファー・リー ホームズと兄マイクロフトを両方演じた唯一の俳優とされる。他に『バスカヴィル家の犬』のヘンリー・バスカヴィルも演じている。 ホームズを演じる際に吹き替え版で声をあてたのは大木民夫。 ニコラス・ロウ 映画『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』(1985年)に主演。ホームズの学生時代を描いたオリジナルストーリーで、当時18歳のロウは史上最も若くしてホームズを演じた俳優となった。 リチャード・ロクスバーグ 『バスカヴィル家の獣犬』(2002年)では彼がホームズを演じた。ちなみにロクスバーグは舞台ではドクター・ワトソンを演じており、また『リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い』ではホームズの宿敵のジェームズ・モリアーティ、また『コナン・ドイルの事件簿』にも出演するなどホームズ関連の作品には関わりが深い俳優である。 なお、ホームズとモリアーティを両方演じた俳優は映画・テレビでは他にアンソニー・ヒギンズが、ラジオドラマではオーソン・ウェルズがいる。 ソフト制作で吹き替えを務めたのは津嘉山正種である。 ロバート・ダウニー・Jr ガイ・リッチー監督のハリウッド映画『シャーロック・ホームズ』(2009年)、『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(2011年)でホームズを演じた。アクション満載の娯楽大作で、従来の紳士的なイメージを覆す異色のホームズ像は、公開当時は賛否が割れたが、生粋のアメリカ人ながらキングスイングリッシュを見事に操る高い演技力が評価され、ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。 一方で、植物学・薬学・化学の知識が深い、フェンシング・ボクシング・ステッキ術の達人である(原作では設定のみで披露されることが少ない)、薬物中毒を患っている、ディアストーカーは着用しない…などといった原作に近い部分も多い。ダウニー自身も、かつて薬物問題を抱えていたことで知られるが、インタビューでは「7%の溶解液(原作でホームズが常用しているコカイン)は僕に言わせると薄すぎる」とジョークにしている。。 劇場公開された際に吹き替えを務めたのはダウニー・Jr.の吹き替えを専任で務めている藤原啓治。日曜洋画劇場では大塚芳忠が務めている。 ベネディクト・カンバーバッチ BBC制作で2010-放送のテレビドラマ『SHERLOCK(シャーロック)』でホームズを演じる。舞台が21世紀という異色の作品であるが、頭脳だけでなくスマートフォンやGPSといった現代科学を駆使して推理するホームズを熱演した。本作は時代背景こそ異なるものの、高身長、女嫌い、地質学や解剖学等に詳しい反面、政治やゴシップに関心が無い等、ホームズの基本スタイルは変わっていない。ただし、原作が持つホームズのエキセントリックさが強調されており、一般常識や他者に対する配慮に欠ける描写が多い。しかし推理や頭脳明晰さを示す描写は最新技術も相まって非常に緻密かつ鋭いものになっている。本作は非常に高い評価を受け、英国アカデミー賞最優秀テレビドラマ賞、エミー賞ミニ・シリーズ部門脚本賞を受賞している。またジェレミー・ブレット以来、TVドラマでは久々のシリーズ化された作品ともなった。日本で放送された際の吹き替えは三上哲が担当。スター・トレック イントゥ・ダークネスのカーン役にてクールなイメージ役とのギャップがある。 2015年12月放送の特別編は原作の時代(1895年)を舞台にすることが公表されており、インバネス・コートに鹿射ち帽という「正統派スタイル」で撮影中らしい姿が目撃されている。 ジョニー・リー・ミラー CBS制作で2013年10月から放送のテレビドラマ『エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY』でホームズを演じる。舞台が21世紀のニューヨークという、イギリス以外を舞台にした新作。ロンドン警視庁の顧問だったが薬物依存症にかかり、リハビリ後に父親の住むニューヨークで生活することになったという設定。BBCのホームズ同様エキセントリックさが強調されており、頭脳明晰でありながら、尊大で社会的常識や他者に対する配慮に欠けるキャラクターとして描かれている。日本で放送された際の吹き替えは三木眞一郎が担当。 イゴール・ペトレンコ ロシアの国営テレビ放送チャンネル1 (英語版)で2013年11月に放送されたテレビドラマ『名探偵シャーロック・ホームズ』(全8回)でホームズを演じる。(日本ではAXNミステリーで字幕版のみ放送)本作の設定は異色であり、よく知られる名探偵ホームズ像は、ワトソンが実際のホームズをヒロイックに誇張し探偵小説の主人公として作り上げたものである、ということになっている。そのため、頭脳明晰さや行動力、豊富な犯罪知識は原作通りだが、眼鏡をかけた書生のような風貌、恋に溺れる情熱的な性格、拳闘も射撃も苦手、パイプではなく煙草派、といった原作とはかけ離れた特徴を備えている。なお、27歳のホームズより15歳ほど年上のワトソンとは、親子のような独特の信頼関係を築いている。 イアン・マッケラン 2015年の映画『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』にて、現役を引退し93歳となった老齢のホームズを演じる。 他にロジャー・ムーア、ルパート・エヴェレットなどもホームズを演じている。なお従来の推理物と違うものや、一風変わったホームズを演じた人物には以下のようなものがある。 バスター・キートン 喜劇俳優として有名な彼もサイレント時代にホームズ(厳密にはその弟)を演じた一人である。ただ彼の主演作 (1924年、Sherlock Jr.)は、日本では『忍術キートン』や『キートンの探偵学入門』などと訳されているため、ホームズを演じた俳優の一人としてはあまり認識されていない。 マイケル・ケイン 映画『迷探偵シャーロック・ホームズ/最後の冒険』(1988年)に主演。ホームズが実はただの飲んだくれで、助手のワトスンこそが真の名探偵だったとする奇抜な設定で描いたミステリ・コメディ。 岸田森 NHKの『文化シリーズ・シャーロック・ホームズの世界』(1979年)でホームズを演じた。こちらのホームズは金髪(カツラ)である。『赤毛組合』などをドラマ化。 竹内結子 Huluで配信されるテレビドラマ『ミス・シャーロック』でシャーロック(本名は双葉・シェリー・さら)という名のホームズを演じる。こちらのホームズは女性である。SHERLOCK(シャーロック)やエレメンタリーと同様に舞台は現代の世界。 ウィリアム・ジレット ジレットは舞台で最も成功したと言われるホームズ俳優である。米国の俳優であったジレットはドイルの許可を得て自ら脚色した2本の舞台で、インバネス・コート、鹿撃ち帽、吸い口の大きく曲がったパイプなど、現在まで広く浸透しているホームズ像を形作った。1899年の初演から米国でロングランを続けたこの劇はついに大西洋を渡り英国でも上演された。英国でのビリー少年役はチャールズ・チャップリンが演じたこともある。ジレットは後年ラジオ番組でもホームズを演じている。ドイルはジレットに対し「舞台の中のあなたと比べると本の中のホームズは見劣りがする」と最大級の賛辞を送った。 H.A.セインツベリー 1910年にコナン・ドイル自身が「まだらの紐」を劇化した作品でホームズを演じた。のちに映画「恐怖の谷」でもホームズ役を演じている。第二の主役とも言える蛇は初めのうちは生きた本物の蛇を使用したが思い通りに「演技」をしないため評判が悪く途中から模造品が使用されたが皮肉にもこちらの方が好評であった。 レナード・ニモイ 1976年のジレット版リバイバルの舞台でホームズを演じた。ちなみに「スタートレック」で、彼の演じるミスター・スポックが自分の祖先の言葉としてホームズの言葉を引用する場面がある。 『ルパン対ホームズ』(1981年)では、山城新伍が声を担当した。 『名探偵コナン ベイカー街の亡霊』(2002年)では田中秀幸が声を担当した。 『屍者の帝国』(2012年)では高杉義充が声を担当した。 『名探偵ホームズ』(1984年)では、テレビ版を広川太一郎、劇場版を柴田侊彦が声を担当した。 『オリビアちゃんの大冒険』(1986年)では、ネズミ界のホームズ(バジル)の声を青野武が担当している。 PCエンジンCD-ROM^2用ソフト『シャーロック・ホームズの探偵講座』(1991年)では、若本規夫が声を担当した。制作はビクターエンタテインメント株式会社。 PSP用ゲームソフト『英国探偵ミステリア』(2013年)では、シャーロックホームズの息子、エルロック・ホームズJrとして登場。鈴木千尋が声を担当した。制作は花梨エンターテイメント。 任天堂 3DS用ゲームソフト『大逆転裁判』(2015年)では、主人公成歩堂龍之介のサポート役として登場。川田紳司が声を担当した。制作はカプコン。続編となる『大逆転裁判2 -成歩堂龍ノ介の覺悟-』にも、引き続きサポート役として登場している。 スマートフォン向けオンラインゲーム『Fate/Grand Order』(2015年)では、2016年より非戦闘サーヴァントとして登場、2017年にルーラークラスで期間限定で実装された。実装後は水島大宙が声を担当している。製作はTYPE-MOON。 『シャーロック ホームズ』(2014年)では、山寺宏一が声を担当した。この番組のホームズは15歳の少年であり、既に50代の山寺は当初渋ったが、オーディションを行って、脚本担当の三谷幸喜のOKが出たため、この役を引き受けることになった。 TBSブリタニカのカセットブック「SOUNDミステリー」シリーズ(1987年)では、黒沢良が声を担当した。 新潮で発売されたホームズシリーズのCDでは小川真司が声を担当した。またその際ワトソンの声は永井一郎が担当してるが、オリビアちゃんの大冒険でも永井はワトソン(ドーソン)を担当している。 ^ これはホームズが死ななかった理由を必要としたドイルが考案した後付け設定である。 ^ アーサー・コナン・ドイル 『シャーロック・ホームズの冒険』東山あかね・小林司・高田寛共訳、河出書房新社〈シャーロック・ホームズ全集〉、1998年、678-679頁、ISBN 4-309-61043-9。 ^ 日本語版では「60歳ばかりの男」「60がらみの男」などと訳されることが多いが、直訳すれば「60歳の男」である(『シャーロック・ホームズの大冒険』序論及び訳者あとがき)。 ^ 1852年、あるいは1853年生まれの説も有力であるが、シャーロキアンの集まりで最も大きなグループの一つであるベーカー街不正規連隊では、1854年生まれであると結論づけている(『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、203頁)。 ^ 本編中にははっきりとした記述はないが、有力な説の一つである。この地域には「クロフト」(古サクソン語で「囲われた広野」の意味)あるいは「ホルム」(古サクソン語で「小島」の意味)から転じた地名が多く、ホームズやマイクロフトの名前の由来であるという主張がある。ただし異論もあり、作者のドイルは、本編中でホームズがサリーをひいきする発言をしていることから、サリー出身の可能性に言及している(『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、207頁)。 ^ コナン・ドイル著、ベアリング=グールド解説と注『詳注版シャーロック・ホームズ全集1』小池滋監訳、ちくま文庫、1997年、195-274頁 ^ ベアリング=グールド『シャーロック・ホームズ ガス燈に浮かぶその生涯』小林司・東山あかね訳、河出文庫、1987年 ^ ホームズの通った大学については、「ベーカー・ストリート・ジャーナル」1956年クリスマス号に発表されたN.P.メトカーフの論文「オックスフォードかケンブリッジか両方か?」(N.P.Metcalre, \"Oxford or Cambrige or Both?\", The Baker Street Journal Christmas Annual, 1956) に詳しい。 ^ E.デービズによる『シャーロック・ホームズの帰還』の序文 (The Later Adventures of Shaerlock Holmes, vol.1 (The Return of Sherlock Holmes); New York: The Limited Editions Club, 1952) でこの点について取り上げられており、オックスフォード大学出身であるドロシー・セイヤーズとノックスがホームズをケンブリッジ大学出身と主張し、ケンブリッジ大学出身で同大学の副総長を(1952年当時)務めているS.C.ロバーツがホームズをオックスフォード大出身であると主張しているのは興味深い、としている(『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、243頁)。 ^ ただし、ホームズが自分から許可を出したのは「悪魔の足」と「這う男」の2回だけで、どちらも特異な事件である。 ^ 『コナン・ドイル自叙伝――回想と冒険』 (C. Doyle, Memories and Adventures: The Autobiography of Sir Author Conan Doyle, London, Hodder & Stoughton, 1924) では、最初は Sherringford にしていたとしているが、ヴィンセント・スターレットによる『シャーロック・ホームズの私生活』 (Vincent Starrett, The Private Life of Sherlock Holmes, New York, The Macmillan Company, 1933) で発表されたドイルの古いノートには、Sherrinford という名前が残されている(いずれも『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、45-46頁より)。 ^ コナン・ドイルとは別の著者によるパスティーシュ作品には、シャーロックやマイクロフトの更に年長の兄としてシェリンフォード・ホームズ(Sherrinford Holmes)という名のキャラクターとして登場する場合も。 ^ 『コナン・ドイル自叙伝――回想と冒険』および『シャーロック・ホームズの私生活』の原著における表記は「Sherringford Holmes」ないし「Sherrinford Holmes」であるが、日本の読者にこれらの設定を紹介した『詳注版シャーロック・ホームズ全集』では単に「シェリングフォード」「シェリンフォード」とカタカナで表記されており、正確な綴りが分からないようになっていた。「Shellingford」「Shellinford」という表記はイングランド南東部に実在する地名の「シェリングフォード」(en:Shellingford)との混同と思われる。 ^ ホームズはトーマス・カーライルを知らないと言い、これが文学の知識がないとの評価の一因になった。しかし、事件の調査中にカーライルの発言「They say that genius is an infinite capacity for taking pains(天才とは無限に苦労できる能力だという)」を引用している。 - 曽根晴明「ワトスンによるホームズ研究」『ホームズなんでも事典』平賀三郎編著、青弓社、2010年、250-252頁 ^ 小池滋「教養」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、193-194頁 ^ 原文 It was a singular document ^ 『コナン・ドイル自叙伝――回想と冒険』では、ジョセフ・ベルをモデルにしたとしている。また、1892年に書かれた、ドイルからベルへの感謝の手紙が残されている。ただし、ベルはホームズの天才的な才能はドイル自身が作りだしたものであるといっている(『詳注版シャーロック・ホームズ全集』1巻、37-40頁)。 ^ これをさらにフィクションとしてドラマ化したのがBBC制作のドラマ「コナン・ドイルの事件簿 ベル博士の推理講義」である。なお、「糖尿病を見分けるために学生に尿をなめさせる」という都市伝説も、最古のものとして「ベル教授がそういう授業をした、とコナン・ドイルが述べている」。糖尿病の存在を、実際に尿をなめて確認したのは、17世紀イギリスの臨床医学者トーマス・ウィリス。 ^ ダグラス・G・グリーン 『ジョン・ディクスン・カー : 奇蹟を解く男』 森英俊・高田朔・西村真裕美共訳、国書刊行会、1996年、ISBN 4-336-03884-8。 ^ 田中喜芳『シャーロッキアンの優雅な週末 ホームズ学はやめられない』中央公論社、1998年、7-8頁 ^ “AFI'S 100 GREATEST MOVIE QUOTES OF ALL TIME” (英語). AFI.com. 2014年7月15日閲覧。 ^ eiga.com (2010年3月10日). “ロバート・ダウニー・Jr.&ジュード・ロウが語る新生「シャーロック・ホームズ」”. 2010年5月5日閲覧。 ^ “『SHERLOCK シャーロック』クリスマス特別番組は原作のビクトリア時代ロンドンが舞台に!”. excite.ニュース(2015年3月15日). 2015年4月27日閲覧。 The Complete Sherlock Holmes(英語) - 全作品が当時のイラスト入りで読める コンプリート・シャーロック・ホームズ - 全作品の日本語訳が当時のイラスト入りで読める", "シャーロック・ホームズシリーズ > レストレード レストレード警部 (Inspector Lestrade) は、アーサー・コナン・ドイルの推理小説『シャーロック・ホームズシリーズ』に登場する、スコットランド・ヤード所属の架空の警察官。訳者によりレストレイドの表記も用いられる。 事件が自分の手に余るとベーカー街221Bを訪れシャーロック・ホームズに捜査の手助けを依頼する、少々頼りない人物として知られているが、作中ではロンドンの新聞各紙にその捜査ぶりを称えられる名物警部でもある。 ファーストネームは不明。しかし、『ボール箱』でホームズに宛てた手紙にはG・レストレード (G. Lestrade) と記名されており、頭文字だけは判明している(ジョージもしくはグレゴリー)。 レストレード警部の外見に対するワトスンの印象はあまり良いものではなかったらしく、第1作『緋色の研究』に登場した際には「少し血色の悪い、ネズミのような顔をした黒目の男」などと評され、『ボスコム渓谷の惨劇』でも「ずるそうな格好で人目を忍ぶように待っている、痩せたイタチのような感じの男」と書かれたりしている。 とは言え、年代が下るにつれ親しさゆえかワトスンの評価もだいぶ持ち直し、『ブルース・パーティントン設計書』ではマイクロフトと共にベーカー街を訪ねた彼の外見について「痩せた、厳めしい顔つきの男」と表現されていた。 捜査官としては常にホームズの後塵を拝し、その能力についても折につけ酷評されているような印象があるものの、ホームズのスコットランド・ヤードをはじめとする警察組織全体に対する評価と比べると、『ボール箱』などで語られる彼のレストレード警部に対する評価は意外に高く、時には『六つのナポレオン』のように警察の組織力を活用してホームズを驚かせるほどの短時間で被害者の身元を割り出すなど、彼の有能さを示す描写も作中に見ることができ、『空き家の冒険』でも久々に再会した喜びを述べる中、ホームズに「一年に迷宮入り殺人事件が3件も出るようでは、さぞかし非公式の助力が必要だろう」と指摘されながらも、それに続いて「モウルジー事件での手際はいつもとは違い、なかなか見事だった」と少々皮肉混じりではあるが、その手腕を評価される一幕があった。 『緋色の研究』に登場して以来、レストレード警部はホームズ作品に警察関係者の中では最も頻繁に姿を見せる人物だけあって、ホームズ、ワトスン両名との関わりも深い。 当初はホームズをアマチュアと侮り、その独特の捜査の方法もやや軽蔑を含んだ目で見ていたが、共に難事件に携わりながらそれらを解決する手際を見るうちに次第に彼の能力に敬意を表するようになり、『六つのナポレオン』の頃には時折個人的にベーカー街を訪れて談笑し、不可解な事件を鮮やかに解決したホームズの手腕をワトスン共々憚りなく絶賛し、逆にホームズを感激させるほどにまで打ち解けている。しかし、それでも『ブルースパーティントン設計書』では証拠を得るために夜盗まがいの行動を取ったホームズに対して「あまりそんな事ばかりしていると、そのうちとんでもない目にあいますよ」と手厳しく釘を刺し、職務に忠実な警官としての一面と共に、親しさの中にもホームズへの変わらぬ対抗心を持ち続けていると感じさせる場面もみられる。 主にレストレード警部が担当している事件にホームズが関わっていくのが多いのだが、『バスカヴィル家の犬』、及び『空き家の冒険』ではホームズからの依頼に応じて警部が現地へと駆けつけており、特に『空き家の冒険』の際にはホームズとの会話から、彼自身の意思で捜査に協力したことが窺える。 1881年の事件とされる『緋色の研究』においてすでに20年の経験があると記され、1902年の事件『三人ガリデブ』にも登場しているため、40年にわたり警察官として活動していたことになる。物語への登場期間の長さに反して、作中でのレストレードの階級は初登場した『緋色の研究』から一貫して警部のままであり、新聞でも常々有能と称される世間の評判と裏腹に一階級も昇進した様子はなく不自然である。さらに、レストレードのホームズに対する態度が、1894年の事件である『空き家の冒険』と翌1895年の『ノーウッドの建築業者』で一変していることから、ホームズ作品に登場するレストレードなる人物は2人存在し、『空き家の冒険』と『ノーウッドの建築業者』の事件の間に入れ替わったのだとする説がある。 緋色の研究 ボスコム渓谷の惨劇 花嫁失踪事件 ボール箱 バスカヴィル家の犬 空き家の冒険 ノーウッドの建築業者 犯人は二人 六つのナポレオン 第二の汚点 ブルース・パーティントン設計書 フランシス・カーファックス姫の失踪 三人ガリデブ M.J.トロー (en:M. J. Trow)が、レストレードを主人公としたパスティーシュ小説シリーズを発表している。 日本語訳は以下の通り。 『霧の殺人鬼 - レストレイド警部の冒険』 斎藤数衛訳 早川書房 (1986年) ISBN 978-4150760519 『クリミアの亡霊 - レストレイド警部の冒険』 斎藤数衛訳 早川書房 (1987年) ISBN 978-4150760526 『レストレード警部と三人のホームズ』 後藤安彦訳 新潮社 (1989年) ISBN 978-4102290019 ^ 原文 Little sallow, rat-faced, dark-eyed fellow ^ 原文 A lean, ferret-like man, furtive and sly-looking, was waiting ^ 原文 Thin and austere ^ 原文 in spite of my twenty years' experience ^ ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、383-384頁 ^ この2人のレストレードは父親と息子であると仮定されている。 - 原田正人「レストレイド二人説」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司、東山あかね編、東京堂出版、2001年、932-933頁", "シャーロック・ホームズシリーズ > セバスチャン・モラン セバスチャン・モラン(Sebastian Moran、モラン大佐)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる1903年の推理小説『空き家の冒険』(シャーロック・ホームズシリーズ『シャーロック・ホームズの帰還』に収録)に登場する架空の人物。 ジェームズ・モリアーティ教授の右腕として知られる。シャーロック・ホームズに「ロンドンで2番目に危険な男」と称された。 1840年生まれ。オーガスタス・モラン卿の息子。イートンとオックスフォードで教育を受けた後、アフガンに従軍し、カーブルに駐屯。 退役後、ロンドンに戻る。モリアーティ教授に見出されて彼の部下となる。射撃の名手、猛獣狩りの名人、カードゲームの達人である。 ホームズの事件関連人物ファイルでは“ロンドンで二番目に危険な男”という評が記されている。 ホームズが失踪して3年後、カード仲間であったロナルド・アデア卿を射殺。その後、ホームズがベーカー街221Bに戻ったことを知り、彼の射殺を企てる。しかし、ホームズの計略に乗せられ、下宿の窓に映る蝋人形のシルエットをホームズと思い込み狙撃したところをホームズとワトスンに襲われ、激しい格闘の後、駆けつけたレストレード警部に逮捕された。そして、ホームズの推理により、アデア卿殺人事件の犯人として裁かれることとなった。 逮捕後、ワトスンは「退役後、モランはクラブで行われるカードゲームでイカサマをして生活費を稼いでいたが、それをアデア卿に見破られ、クラブからの退会を迫られた為に犯行に及んだ」と推理しており、ホームズもそれを肯定している。 また、ホームズの回想では、「モランはライヘンバッハの滝に、モリアーティ教授に同行して向かい」、「ホームズが決闘の末、モリアーティ教授を滝つぼへと突き落としたのを見届けた後、ホームズを狙撃して殺害しようとした」事が語られている。 なお、『空き家の冒険』ではホームズはモランを「これだけでも彼を絞首台へ送るに十分(他に「首に環を掛けるに十分」等の訳あり)」と語っているが、それからかなりの年月が経過した『最後の挨拶』の時点でも刑は執行されておらず、未だにホームズへの復讐を口にしているらしい事がホームズの口から語られている。", "シャーロック・ホームズシリーズ > ハドスン夫人 ハドスン夫人(ハドスンふじん、Mrs. Hudson。ハドソン夫人とも)はシャーロック・ホームズシリーズの登場人物で、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンの有名なベーカー街221Bの下宿の女主人。 外見的特徴は特に説明されていない。フルネームも不明だが、一部のシャーロキアンによって『最後の挨拶』で重要な役割を果たす家政婦のマーサは彼女と同一人物だと信じられており、「マーサ・ハドスン」と呼ばれることもある。また、『ボヘミアの醜聞』では、下宿の女主人は何故か、「ターナー夫人」と呼ばれており、多くのシャーロキアンを長年悩ませる難問ともなっている。 家族や親類についても一切不明で「ハドスン夫人(Mrs. Hudson)」と呼ばれる以上、ハドスン氏(Mr. Hudson)はいる(いた)はずだが、彼は一度も登場どころか言及もされておらず、存命かどうかも分かっていない。 全60編のホームズ・シリーズ中で、彼女自身が事件の当事者となったことはない。しかし自宅の2階に住まう、偉大だが風変わりで、「夕食はいつにしましょう?」と聞くと、「あさっての7時半だ」と答える(『マザリンの宝石』)下宿人を根気強く献身的に世話し、また長年にわたって、難問を抱えた依頼人や、もっと物騒な動機を携えた来客が時間を問わずに押しかけて来るのに耐えた。 ホームズはその有名な女嫌いの性癖とは別に、女性に対する態度は誠実で紳士的であり、ハドスン夫人もこの迷惑きわまる下宿人を尊敬し、好感を抱いていた。『空き家の冒険』で、狙撃される危険も顧みず、ホームズに似せた蝋人形を動かす仕事を受け持つなど、時にはホームズのために重要な役割を果たしている。また、『瀕死の探偵』ではホームズの病状をワトソンに伝えている。 ハドスン夫人の料理の腕前については、ワトスンが「ブラック・ピーター」で「すばらしい朝食を用意した」と記している。「海軍条約文書事件」では、突然の来客であるフェルプスを含めた3人分の朝食にチキンカレーやハムエッグを用意して、「バラエティにはやや欠けるが、気が利く人で、朝食のアイディアはスコットランド人女性も顔負け」だとホームズに評されている。この評価はハドスン夫人の腕前を賞賛したものと考えられているが、異なる解釈もある。突然の来客をもてなすため、やむなく残っていた前日の腐りかけた肉を使用し、カレーで腐敗をごまかしていることを皮肉ったとする解釈である。当時の定説では、スコットランド人はケチだということになっていた。 ホームズに関わった女性としては、アイリーン・アドラーと並んで、シャーロキアンに重要視されるハドスン夫人だが、ホームズとの関わり以外では、その来歴や私生活は、原作では多くを語られていない。その点がまた、シャーロキアンの想像をたくましくさせても来た。 最も大胆な推理は、ハドスン夫人は実はホームズの恋人であって、その本名はアイリーン・アドラーだった、とするものである。これは『ボヘミアの醜聞』で下宿の女主人がハドスン夫人ではなくターナー夫人であるという謎を合理的に解決する仮説である。ただし、ワトスンの手記には『ボヘミアの醜聞』の事件がホームズとアドラーのただ一度きりの出会いだったと書かれている。 『名探偵ホームズ』 日伊合作のテレビアニメ。最初期の航空機パイロットであった夫を事故で失った、19歳の若き未亡人として描かれた。ファーストネームはマリー。かつては「街道マリー」と呼ばれ、航空機レースへの出場や、ワトスンを車に乗せてのカーアクションの他、疾走する車上からリボルバーで航空機を狙撃するなど、男性顔負けの活動的な一面を見せている。一方で、かのモリアーティ教授の人質にはなったが、教授と部下達といくばくかの心の交流を結ぶという場面もあった。K・M・ペイトンの『フランバース屋敷の人々』のヒロインが、設定上のモデルとなっている。声優は麻上洋子(テレビ版)、信沢三恵子(劇場版)。 『名探偵コナン ベイカー街の亡霊』 テレビアニメ『名探偵コナン』の劇場版。新型ゲーム機「コクーン」が作り出した仮想空間「オールドタイムロンドン」にて、コナン達がまず訪れたのが、ベイカー街221号B室である。しかし、ホームズとワトソン博士が不在だったため、ハドスン夫人に出迎えられる。声優は速見圭。 『シャーロックホームズ』 脚本・三谷幸喜の人形劇。シャーロック・ホームズが過ごす、ベイカー寮の寮母。ホームズのことを「シャーロック」と呼ぶ。「ハドソン夫人」と呼ばれているが、壁新聞では、「ターナー夫人」と匿名で表記される。 『シャーロック・ホームズ家の料理読本』(1981年) - 成田篤彦訳、晶文社 イギリスの料理研究家ファニー・クラドック著。ハドソン夫人が書いたという設定の料理本。料理のレシピの他、ヴィクトリア時代の生活の知恵が紹介されており、随所にホームズやワトソンに纏わるエピソードが盛り込まれている。なお、本書ではハドソン夫人のファーストネームはサラとなっている。 2012年に朝日文庫から再版。ISBN 978-4022646583 『シャーロック・ホームズの宇宙戦争』(1969年) - 深町眞理子訳、創元推理文庫SF(1980年) アメリカの作家マンリー・W・ウェルマンとウェイド・ウェルマン親子の共著。ホームズやチャレンジャー教授らが(H・G・ウェルズの)『宇宙戦争』に遭遇する。 ヒロイン的扱いで、従来の中年女将ではなく、魅力的な女性に描かれている。なお、本書ではハドソン夫人のファーストネームはマーサとなっている。 ^ 『グロリア・スコット号事件』には同姓のハドスンという男が出てくるが、特に親戚という説明はない。 ^ 原文 and we sat down together to the excellent breakfast which Mrs. Hudson had prepared ^ 原文 “Mrs. Hudson has risen to the occasion,” said Holmes, uncovering a dish of curried chicken. “Her cuisine is a little limited, but she has as good an idea of breakfast as a Scotchwoman. ^ ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、262頁 ^ マシュー・バンソン編著『シャーロック・ホームズ百科事典』日暮雅通監訳、原書房、1997年、217-218頁 ^ コナン・ドイル著、クリストファー・ローデン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第4巻 シャーロック・ホームズの思い出』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、1999年、516頁", "フィリップ・マーロウ(Philip Marlowe)は、レイモンド・チャンドラーが生み出したハードボイルド小説の探偵。マーロウの名はチャンドラーが在籍したロンドンのダリッジ・カレッジの寮名である。 元は地方検事局の捜査官をしていたが、命令違反で免職となりロサンゼルスで私立探偵を開業する。 警察に対しても服従しないのがポリシーだが、金や政治という複雑な背景があってオプ(operative―私立探偵)が成立している面も認識しており、慎重に事件を調べる癖がある。反面、弱い者に対して非情に切り捨てる事ができないために悪党に弱みを握られることもある。 拳銃を所有しているが、普段は携行しておらず、滅多に撃つことはない。 姓の最後に\"e\"がつくのか、と問いかけられるシーンが何度かある。 6作目の『長いお別れ』では、42歳と自称し、ローレル・キャニオン(英語版)地区のユッカ街(英語版)に住んでいる。 身長 - 6フィート1インチ半(186.69センチ) 靴を履いたまま計った可能性がある 体重 - 約190ポンド(約86.18キロ) 髪の色 - 灰色が少し混じった濃い鳶色(濃くて赤黒い茶褐色) 瞳の色 - 鳶色 頭部、手、腕に目に付く傷跡は無い 大いなる眠り(1939年) さらば愛しき女よ(1940年) 高い窓(1942年) 湖中の女(1943年) かわいい女(1949年) 長いお別れ(1954年) プレイバック(1958年) 密告した男(1934年) マーロウ最後の事件(1959年) 他に、マーロウ以外の探偵が登場した作品を、のちにマーロウものに書き改めた短編がいくつかある。 Raymond Chandler's Philip Marlowe: a Centennial Celebration (1988年) 作家23人によるチャンドラー生誕100周年記念アンソロジー。 日本では『フィリップ・マーロウの事件1 1935-1948』『フィリップ・マーロウの事件2 1950-1959』の2分冊で刊行。 プードル・スプリングス物語(1989年) チャンドラーが冒頭4章のみ遺した未完の原稿をロバート・B・パーカーが引き継ぎ完結させた。 夢を見るかもしれない(1991年) - 日本語版は文庫化に伴い『おそらくは夢を』に改題 ロバート・B・パーカーによる『大いなる眠り』の続編。 黒い瞳のブロンド(2014年) ジョン・バンヴィルがベンジャミン・ブラック名義で執筆した『長いお別れ』の続編。 ハンフリー・ボガート、ロバート・ミッチャムなどアメリカ合衆国を代表する俳優が演じたが、作者が最もイメージに合っているとして挙げたのはケーリー・グラントだった。 2014年までに以下の俳優も演じている。 ジェームズ・ガーナー ジェームズ・カーン エリオット・グールド ジョージ・モンゴメリー(英語版) ロバート・モンゴメリー パワーズ・ブース ジェイソン・オマラ ディック・パウエル フィリップ・ケーリー(英語版) ダニー・グローバー トマス・ハナク(チェコ語版) 浅野忠信: 日本を舞台に置き換えたテレビドラマ化でのキャスト(役名:増沢磐二)。 「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」(『大いなる眠り』) 原文は「don't shoot it at people, unless you get to be a better shot. Remember?」で、「もっと射撃の腕が上達しない限り撃たないように」といった意味になる。日本で出版されているハヤカワ・ミステリ文庫(村上春樹訳)や創元推理文庫(双葉十三郎訳)では正しく訳されている。 「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」(『プレイバック』) 原文は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」 作中のヒロインから、「あなたの様に強い(hard)人が、どうしてそんなに優しく(gentle)なれるの?」と問われて。 清水俊二訳は「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」(『プレイバック』(早川書房、1959年10月)第25章)。 生島治郎訳は「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」(『傷痕の街』(講談社、1964年3月)あとがき)。 矢作俊彦『複雑な彼女と単純な場所』(新潮文庫、1990年12月)では、「ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きていく気にもなれない」が正しいとしている。 「さよならをいうのは、少し死ぬことだ」(『長いお別れ』) 原文は「To say Good bye is to die a little.」 清水俊二訳では「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」(『長いお別れ』第50章) 村上春樹訳では「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」(『ロング・グッドバイ』第50章) マーロウは「フランス人の言葉」として回想している。 「ギムレットには早すぎる」(『長いお別れ』) 原文は「I suppose it's a bit too early for a gimlet. 」 このセリフは、強い酒を飲むにはまだ早いとマーロウが述べたセリフと誤解されていることで有名である。実際にはゲストキャラクターがマーロウに、(マーロウの定番であるギムレットに引っ掛けて)酒を飲みに店に行くにはまだ早いという意味合いで述べたセリフである。 清水俊二訳では「ギムレットにはまだ早すぎるね」(『長いお別れ』第52章) 村上春樹訳では「ギムレットを飲むには少し早すぎるね」(『ロング・グッドバイ』第52章) ^ ハヤカワ文庫『長いお別れ』73ページ(警察署内で留置場に入れられる際に受けた身体検査による身体的特徴) ^ “浅野忠信 : デビュー26年で初の連ドラ主演”. まんたんウェブ (2014年1月14日). 2014年4月27日閲覧。 ^ 村上春樹訳の名言集『フィリップ・マーロウの教える生き方』(マーティン・アッシャー編、早川書房、2018年)がある。 S&W M36 - マーロウが所持している38口径の拳銃の一つ。通称「チーフスペシャル」 ノウゼンカズラ - 自宅の外に植えてあり、日本人の庭師が週に1回剪定に来る。村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』では「ノウセンカズラ」と表記されている。 相棒 - 高橋克実演じる探偵八木明が代表を務める探偵事務所がチャンドラー探偵事務所で八木が「マーロウ八木」を名乗っている。 仮面ライダーW - 登場人物の鳴海荘吉(仮面ライダースカル)の尊敬する人物がマーロウであり、名前がなかった主人公の一人にマーロウを由来として『フィリップ』と名付けた。" ]
ABC01-02-0208
アメリカ・大リーグの球団で、カナダに本拠地を置いているのは、モントリール・エクスポズとどこでしょう?
トロント・ブルージェイズ
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[ "トロント・ブルージェイズ", "デトロイト・タイガース", "クリーブランド・インディアンス", "ヒューストン・アストロズ", "マイアミ・マーリンズ" ]
[ "トロント・ブルージェイズ(英語: Toronto Blue Jays、略称:TOR)は、MLB・アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカナダのオンタリオ州トロントにあるロジャース・センター。通称「ジェイズ(Jays)」。2005年以降、MLBで唯一アメリカ以外の国に本拠地を持つ球団でもある。 1977年に創設された新興球団。カナダ最大の都市であるトロントに本拠地を構えており、アメリカ合衆国外に本拠地を置いている唯一のMLB球団である。米国外のMLB球団としては、同じくカナダのモントリオールに本拠地を構えていたモントリオール・エクスポズがあったが、2005年からワシントンD.C.に本拠地を移してワシントン・ナショナルズとなっている。 ニューヨーク・ヤンキース、ボストン・レッドソックスという人気・実力共にMLBトップクラスの2チームが存在するアメリカンリーグ東地区に所属したため、球団創設当初は、6年連続最下位など苦戦が続いた。しかし、1982年にボビー・コックスが監督に就任すると、この頃には生え抜きの若手選手も台頭し始め、チームも徐々に上位に進出する。 そして、1985年に初の地区優勝、1993年までに5度の地区優勝を果たす。1992年、1993年には、2年連続のワールドチャンピオンに輝き、この頃には観客数も400万人(MLB史上初)を超えるなど、まさに黄金時代を迎えることとなる(2014年現在、リーグ拡張で誕生した球団としては唯一のワールドシリーズ連覇)。しかし、1994年のストライキ以降は勢いを失い、主力選手も次々と退団。優勝争いはおろか上位進出もままならず、2014年までの21年間にわたり、東地区ではもっとも長きに渡ってポストシーズンから遠ざかっているチームとなっていた。 2000年に現在の親会社であるロジャース・コミュニケーションズがチームを買収。2004年には本拠地のスカイドームをスポーツコ・インターナショナルから買収し、翌2005年2月、ロジャース・センターに改名。ロジャース・センターは世界初の開閉式屋根付き球場で、近くにはCNタワーがそびえ立っており、屋根が開いている時には球場内からその威容を眺めることができる。 2006年シーズンはチーム創設30周年に当たるため、右袖に30周年エンブレムが、また、左袖には2005年に亡くなった元・専属アナウンサー、トム・チークを偲んで「TC」のエンブレムが付けられた。 前述の通り、本球団はカナダの都市を本拠地としている球団である。MLBの公式戦では毎試合、開始前に米国国歌の演奏が行われるが、本球団の試合に限り、ホームゲーム・ビジターゲーム問わずカナダ国歌「オー・カナダ」も演奏される。ブルージェイズのホームゲームの際には先に米国国歌、続けてカナダ国歌の順に演奏され、ビジターゲームの際はこの順番が逆になる。ロジャース・センターで行われる試合において球場内に掲げられる国旗も、米加2カ国の国旗が掲揚され、ビジターゲームの球場でもカナダ国旗が臨時に掲揚される。 毎年7月1日のカナダ・デー(連邦結成記念日で国民の祝日)には原則ホームゲームが開催され、試合開始前に球場内外でファン向けに様々な催事が行われる。試合においてはカナダの国旗に使用されている色である赤色をベースにした特別ジャージが、1年で唯一この日のみ使用される。背中は選手名に代わり「カナダ」を意味する『CANADA』の文字が入る。 2007年に大家友和が初の日本人選手としてチームに加入、2勝を挙げたがシーズン途中で解雇された。 2009年に高橋建(キャンプの招待選手として)、2012年に五十嵐亮太が短期間所属していた。 2013年に川崎宗則が加入。当初はマイナー契約だったものの、ホセ・レイエスの故障に伴い昇格。96試合に出場し、打率は.229にとどまったが出塁率.326の粘り強い打撃と明るいキャラクターで話題を集めた。シーズン終了後に一旦契約解除となるが、同年末にマイナー契約で再契約し、2015年度まで所属した。2017年には7月末に青木宣親がトレードで移籍したがわずか1ヶ月で自由契約となった。 1977年、アメリカンリーグの拡張で、シアトル・マリナーズとともに誕生。同年4月7日の開幕戦ではシカゴ・ホワイトソックスと対戦。のちに阪神タイガースにも在籍するダグ・オルトの2本塁打の活躍もあり、9対5で初勝利を飾っている。しかし、その後はなかなか勝ち星をあげることができず、54勝107敗を記録し最下位でシーズンを終えた。その後、1979年まで3年連続でシーズン100敗を記録、1982年まで6年連続で最下位に沈むなど、他のエクスパンションチーム同様、設立当初は低迷が続いた。 1982年、ボビー・コックスが監督に就任。就任1年目こそ最下位脱出はならなかったが、翌1983年には、初めて勝率5割を超え、4位でシーズンを終えた。また、パット・ギリックGMが有望な若手選手を数多く獲得したことで、この頃にはジョージ・ベル、ロイド・モスビー、ジェシー・バーフィールドからなる外野手トリオが台頭。彼らの活躍もあり、1984年は2位、1985年にはチームの最高勝率となる99勝62敗という成績(2011年現在)で地区初優勝に輝いた。この年のリーグチャンピオンシップシリーズでは、カンザスシティ・ロイヤルズと対戦。3勝1敗でリーグ優勝に王手をかけたが、その後に3連敗を喫し、リーグ優勝を逃している。また、このシーズン限りでコックス監督が退任し、ジミー・ウィリアムスが監督に就任したが、1988年まで3年連続で地区優勝を果たせなかった。 1989年、開幕から12勝24敗と不調が続いたため、5月にはウィリアムスに代わり、シト・ガストンが新監督に就任する。また、6月には世界初の可動式屋根付きスタジアムであるスカイ・ドーム(現・ロジャース・センター)が開場した。新監督の就任や新本拠地の開場に伴い、チームは快進撃を続け、2度目の地区優勝を果たした。しかし、リーグチャンピオンシップシリーズではオークランド・アスレチックスと対戦し、1勝4敗で敗れている。 1990年は、全体的に好調なシーズンを過ごしたものの、首位ボストン・レッドソックスに2ゲーム差の2位に終わった。この年のオフにはサンディエゴ・パドレスとの間でトニー・フェルナンデス、フレッド・マグリフとジョー・カーター、ロベルト・アロマーによる2対2の大型トレードを行っている。1991年、91勝71敗で3度目の地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズでは、ミネソタ・ツインズに敗れ、この年もリーグ優勝を逃している。なお、この年にはMLBで初めて観客動員で400万人を突破している(その後3年間に渡って400万人を維持した)。 1992年、前年ツインズでプレーし、チームのワールドシリーズ制覇に貢献したジャック・モリスを獲得。またカリフォルニア・エンゼルスからデーブ・ウィンフィールドを獲得した。そして、彼らの活躍もあり、4度目の地区優勝を果たした。リーグチャンピオンシップシリーズでは、アスレチックスと対戦。1勝2敗で迎えた第4戦では、7回まで1対6とリードを許していたが、9回にアロマーの2ランで同点に追いつき、延長11回の末、7対6で勝利を収めた。この勝利によって流れを掴み、この後に2連勝、最終的に4勝2敗で初のリーグ優勝を果たした。また、初出場となったワールドシリーズでは、アトランタ・ブレーブスを4勝2敗で下し、初のワールドチャンピオンに輝いた。なお、アトランタでの第2戦のセレモニーで海兵隊カラーガードがカナダ国旗を逆さに掲げる事態が発生し、このことがブルージェイズの選手やファンを奮起させ、ワールドシリーズ初制覇を促したといわれる。また、第3戦では、外野手のデボン・ホワイトが無死一、二塁の場面でデビッド・ジャスティスの大飛球をフェンスにぶつかりながら後ろ向きで捕球する超ファインプレーをみせた。この後すぐに、一塁手のジョン・オルルドへ返球し、飛び出していた一塁走者を刺殺。オルルドは、すぐさま三塁手のケリー・グルーバーへ送球し、グルーバーは二塁走者にタッチした。これによってトリプルプレーを完成させたかにみえたが、審判が見逃していたため、これはならなかった。 シーズン終了後、ワールドシリーズ制覇の立役者となったウィンフィールドが退団。代わりにミルウォーキー・ブルワーズからポール・モリター、アスレチックスからデーブ・スチュワートを獲得した。1993年も圧倒的な強さをみせ、2位のニューヨーク・ヤンキースに7ゲーム差をつける5度目の地区優勝を果たした。なお、この年には7人もの選手がオールスターに選出され、人気、実力共に絶頂期を迎えることとなった。リーグチャンピオンシップシリーズでは、ホワイトソックスを4勝2敗で下し、2度目のリーグ優勝。ワールドシリーズでは、フィラデルフィア・フィリーズとの対戦となり、ブルージェイズが4勝2敗でワールドシリーズ2連覇を果たした。このシリーズは様々な面で記憶に残るものとなった。第4戦では、両先発が共に崩壊し、7回までに9対14と荒れた試合となり、8回にブルージェイズが一挙6点をとって逆転、最終的に15対14でブルージェイズが勝利した。両チームの合計得点である29点はワールドシリーズの最多得点となっている。また、3勝2敗とブルージェイズが王手をかけた第6戦では、6回までに5対1とリードしていたが、フィリーズは7回表に3ランホームランなどで5点を奪って逆転。9回、フィリーズの守護神ミッチ・ウィリアムスがマウンドに上がったが、一死一、二塁の場面で、カーターがレフトスタンドへ優勝決定サヨナラ本塁打を放ち、MLBの歴史に残る劇的な幕切れとなった。 1994年のストライキ以降、高年俸の主力選手を相次いで放出した結果、成績、観客動員ともに低迷し、ここ10年ほどは、ヤンキース、レッドソックスの2強に次ぐ3位がほぼ定位置となっていた(1998年から2003年まで6年連続で地区3位)。この間、カルロス・デルガドやショーン・グリーンといった若手が台頭。1996年には、パット・ヘントゲンがサイ・ヤング賞を獲得し、翌1997年にレッドソックスから獲得したロジャー・クレメンスも、在籍した2年間でサイ・ヤング賞を連続で獲得している。しかしこれらもチームの成績とは結びつかない状況が続いた。 2000年にロジャース・コミュニケーションズが球団を買収。 2004年には67勝94敗と大きく負け越し、最下位に沈んだ。 2005年オフにはJ.P.リッチアーディGMによる一大補強が行われ、A.J.バーネットやトロイ・グロースなど投打の大物を次々と獲得。 2006年には、補強選手やそれに刺激された既存選手の活躍、若手の台頭もあり、3地区制になって初めて2位でシーズンを終え、1998年以来長らく続いた2強の一角を崩した。 2007年は、新たにフランク・トーマスが加わり、ポストシーズンを狙える位置に近づいたが、打撃陣の不調、故障者の続出もあり、1位レッドソックス、2位ヤンキースから10ゲーム以上離され、進出はならなかった。 2008年も序盤はレッドソックスやタンパベイ・レイズに引き離された最下位と低迷、6月20日に監督のジョン・ギボンズを解任し、1992年と1993年のワールドシリーズ連覇時の監督であるシト・ガストンを新監督として招聘した。86勝76敗と勝ち越したが地区4位に終わった。チーム防御率は両リーグトップだった。 2009年は投手陣に故障者が続出し、新人主体の先発ローテーションを余儀なくされる。序盤は好調で40試合消化時点では27勝13敗で地区首位に立っていた。しかし、直後に9連敗を喫すると、それ以降は急激に失速し、2年連続の地区4位に終わった。大型契約失敗を繰り返したリッチアーディGMは10月3日に解任され、後任にアレックス・アンソポロスが就任した。オフシーズンにはエースのロイ・ハラデイがフィラデルフィア・フィリーズにトレードされ、チームは再建へと舵を切った。 2010年は2年ぶりに勝ち越しに成功(85勝77敗)。ホームでのオリオールズ戦で全勝という珍記録を成し遂げた。チーム記録の54本の本塁打を放ったホセ・バティスタを中心に強力打線を形成し30球団最多の257本塁打を記録した。このシーズン限りでガストン監督が勇退し、後任に前レッドソックス投手コーチのジョン・ファレルが就任した。 2011年も2年連続の勝率5割以上を達成(81勝81敗)。 2012年は故障者が相次ぎチームは低迷。首位と22ゲーム差の4位に沈んだ。この結果を受けてアンソポロスGMはオフシーズンに大補強を敢行。11月中旬にマイアミ・マーリンズとの大型トレードで若手選手と交換に先発投手のマーク・バーリーとジョシュ・ジョンソン、盗塁王3度の遊撃手ホセ・レイエス、ユーティリティー・プレーヤーのエミリオ・ボニファシオなどを獲得。さらに12月17日には当時チームのNO.1プロスペクトだったトラビス・ダーノーと交換でその年にサイ・ヤング賞を受賞した投手R.A.ディッキーをニューヨーク・メッツから獲得した。 2013年シーズン開幕前には5シーズンぶりに復帰した監督ジョン・ギボンズのもと優勝最右翼との呼び声も高かった。しかし、開幕直後にレイエスが左踵を負傷し離脱。ジョンソンは防御率6.20と不振にあえぐなど下馬評通りとはいかなかった。チームはまたもや低迷し74勝88敗で9年ぶりに地区最下位に沈んだ。 2014年に83勝したことにより、そのオフに積極補強を行った。ブレット・ロウリーなど4選手とのトレードでジョシュ・ドナルドソンを獲得し、ピッツバーグ・パイレーツからクオリファイング・オファーを受けたラッセル・マーティンも獲得した。 2015年7月末のトレード期限の段階でワイルドカードを狙える位置にいたため、ここでもトレードで積極補強を行った。ホセ・レイエスやその他多数のマイナー選手を手放して、トロイ・トゥロウィツキー、ラトロイ・ホーキンス、デビッド・プライス、ベン・リビア、マーク・ロウを獲得した。9月25日、22年ぶりのプレーオフ出場を決めたのに続き、優勝へのマジックナンバーを1としていた9月30日、前年17年ぶりに東部地区を制したオリオールズに15-2で大勝し、ワールドチャンピオンになった1993年以来22年ぶりの東部地区優勝を果たした。チームは2番に座ったドナルドソンが41本塁打でリーグ最多の123打点、3番のボティースタが40本塁打で114打点、4番のエンカルナシオンが39本塁打の111打点と打点だけでもアメリカン・リーグベスト5のうちこの3人が占めるほどの破壊力にモノを言わせ、リーグ最多の26試合で二桁得点を記録した。地区シリーズで4年ぶりに西部地区王者に輝いたレンジャーズには最初の2戦は連敗するが、逆境を跳ね返しその後3連勝し、大逆転でリーグ優勝決定シリーズに進出した。リーグ優勝決定シリーズではリーグ最高勝率で中部地区を制したロイヤルズ相手にも最初の2戦を落とし地区シリーズの再現も期待されたが、地区シリーズでは打率3割3分3厘で出塁率4割7分8厘だったエンカルナシオンが打率2割2分7厘で出塁率2割9分2厘、途中入団ながら9勝1敗と抜群の成績を残しながらポストシーズン7敗と調子の上がらないプライスに至っては今年のポストシーズンは防御率6.17と投打で大ブレーキ。最終的にはロイヤルズに6戦目で敗北、ワールドシリーズ出場を逃した。 2016年は2001年から15年インディアンズの経営に携わってきたシャパイロが球団社長に就任し、2年連続でポストシーズンに入ったが、地区シリーズで西部地区を制したレンジャーズにスウィープした一方で奇しくもシャパイロが前に在籍して中部地区を制したインディアンズに1勝しかできずに2年連続でリーグ優勝決定シリーズで敗退した。ただ、観客動員数はリーグ最多だった。 チーム名の由来は北米で見られる美しい鳥でオンタリオ州の州鳥であるアオカケス(Blue Jay)からとられている。「ネームコンテスト」ではブルースに決まりかけたが、同じ名前を持つトロント大学からクレームがきたため「ブルージェイズ」に変更された。 ロベルト・アロマー (Roberto Alomar) ロイ・ハラデイ (Roy Halladay) ポール・モリター (Paul Molitor) ジャック・モリス (Jack Morris) フィル・ニークロ (Phil Niekro) フランク・トーマス (Frank Thomas) デーブ・ウィンフィールド (Dave Winfield) 2011年まで、ブルージェイズでは42番以外での永久欠番を設けておらず、いずれも「レベル・オブ・エクセレンス」(準永久欠番)として顕彰し、他球団における永久欠番・球団殿堂入りと同格に扱われていたが、2011年に往年の中心選手のひとりであったロベルト・アロマーがブルージェイズの選手として初めてアメリカ野球殿堂入りしたため、正式に永久欠番として表彰されることとなった。 12 ロベルト・アロマー (Roberto Alomar) 32 ロイ・ハラデイ (Roy Halladay)  ※現地2018年3月29日(日本時間30日)に記念式典が開催され、正式に制定される。 42 ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson) 欠番扱い パット・ギリック (Pat Gillick) - ゼネラルマネージャー 欠番扱い ポール・ビーストン (Paul Beeston) - 球団代表 1 トニー・フェルナンデス(Tony Fernández) - 内野手 11 ジョージ・ベル (George Bell) - 外野手 25 カルロス・デルガド (Carlos Delgado) - 内野手 29 ジョー・カーター (Joe Carter) - 外野手 37 デーブ・スティーブ (Dave Stieb) - 投手 43 シト・ガストン (Cito Gaston) - 監督 4306 トム・チーク (Tom Cheek) - アナウンサー 出場試合:1450 トニー・フェルナンデス(Tony Fernandez) 打席:5470 バーノン・ウェルズ(Vernon Wells) 得点:889 カルロス・デルガド(Carlos Delgado) 打率(2000打席以上):.307 ロベルト・アロマー(Roberto Alomar) 安打:1583 トニー・フェルナンデス(Tony Fernandez) 本塁打:336 カルロス・デルガド(Carlos Delgado) 打点:1058 カルロス・デルガド(Carlos Delgado) 盗塁:255 ロイド・モスビー(Lloyd Moseby) 出塁率(2000打席以上):.395 ジョン・オルルド(John Olerud) OPS(2000打席以上):.949 カルロス・デルガド(Carlos Delgado) 登板試合:452 デュアン・ウォード(Duane Ward) 投球回数:2873 デーブ・スティーブ(Dave Stieb) 防御率(1000投球回以上):3.42 ジミー・キー(Jimmy Key) 勝利:175 デーブ・スティーブ(Dave Stieb) 奪三振:1658 デーブ・スティーブ(Dave Stieb) セーブ:217 トム・ヘンキー(Tom Henke) ※2014年シーズン終了時点。 安打:215 バーノン・ウェルズ(Vernon Wells) 2003年 得点:134 ショーン・グリーン(Shawn Green) 1999年 打率:.363 ジョン・オルルド(John Olerud) 1993年 本塁打:54 ホセ・バティスタ(Jose Bautista) 2010年 打点:137 カルロス・デルガド(Carlos Delgado) 2000年 盗塁:60 デーブ・コリンズ(Dave Collins) 1984年 防御率:2.05 ロジャー・クレメンス(Roger Clemens) 1997年 勝利:22 ロイ・ハラデイ(Roy Halladay) 2003年 奪三振:292 ロジャー・クレメンス(Roger Clemens) 1997年 セーブ:45 デュアン・ウォード(Duane Ward) 1993年 ※2014年シーズン終了時点。 無安打無得点試合:デーブ・スティーブ(Dave Stieb) 1990年9月2日 対クリーブランド・インディアンス ^ オールスターゲームにおいても、本球団所属選手出場の有無またはカナダ国籍選手の出場の有無を問わず演奏される。 ^ この国歌は公式に英仏2か国語の歌詞が存在するが、本拠地のトロントがあるオンタリオ州は英語が公用語の州であること、また対戦相手となりうる29球団全てが米国、つまり英語圏に所在することなどから原則英語詞のみが歌われている。ただし、ロジャース・センターに招かれる当日のゲスト歌手がケベック州など仏語圏出身者などの場合、部分的に仏語詞を歌唱する場合もある。 ^ 2013年(対デトロイト・タイガース)については、通常のユニフォームと同様、選手名が表記されたものを着用した。 ^ あれれ…ブルージェイズ 22年ぶりプレーオフ進出決まっていた ― スポニチ Sponichi Annex 野球スポーツニッポン、2015年9月27日配信 ^ 2001年から2009年まではGMを、2010年から2015年までは球団社長だった ^ 月刊Slugger2017年1月号 メジャーリーグベースボール アメリカンリーグ The official site of Toronto Blue Jays(英語) トロント・ブルージェイズ情報サイト JAYSONLINE(日本語) チームの通算成績と情報 MLB, or  ESPN, or  Baseball-Reference , or  The Baseball Cube Toronto Blue Jays - Facebook Toronto Blue Jays (@BlueJays) - Twitter Toronto Blue Jays (bluejays) - Instagram", "デトロイト・タイガース(英語: Detroit Tigers、略称:DET)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はミシガン州デトロイトにあるコメリカ・パーク。 1894年に創設。当時はマイナー・リーグであったウエスタン・リーグに所属し、1900年にリーグはアメリカン・リーグに改称して翌年メジャー・リーグ宣言をし、タイガースもそのまま存続して、メジャー・リーグの球団となった。 メジャー・リーグとしてのアメリカンリーグ創設以来の球団で、一度も本拠地を変えなかったのはこのデトロイト・タイガースと、ボストン・レッドソックス、シカゴ・ホワイトソックス、クリーブランド・インディアンスの4チームだけである。以来リーグ優勝11回。1969年以降の地区優勝7回、ワールドシリーズ優勝4回を数え、1961年の球団拡張以前のチームとしては、1894年以後本拠地も愛称も変えなかった唯一の球団である。 初期は球聖タイ・カッブを擁し、1907年からリーグ3年連続優勝を果たすもワールドシリーズ制覇はならず。1935年、ミッキー・カクレーン、ハンク・グリーンバーグなどの活躍で悲願のワールドシリーズ初優勝を果たす。1945年の2度目の世界一を境に低迷期に入るが、1968年はアル・ケーライン、ウィリー・ホートンが中心となり3度目のワールドチャンピオンに輝く。 その後、1979年途中から1995年までスパーキー・アンダーソン監督の長期政権下でワールドチャンピオン(1984年)とリーグ優勝(1987年)が各1回。特に1984年はジャック・モリスをエースにシーズン104勝58敗。2位に15ゲームという大差をつけ、圧倒的な強さを誇った。1990年代前半には元・阪神のセシル・フィルダーが所属し、ベーブ・ルース以来となる3年連続打点王に輝いている。しかし1990年代後半からは勝率5割にも届かない低迷期が続き、2003年にはア・リーグワースト記録の119敗を喫してしまう。 2002年のデーブ・ドンブロウスキーGMの就任後はイバン・ロドリゲスやマグリオ・オルドニェス、ケニー・ロジャースらの獲得に成功。2006年にジム・リーランド監督が就任すると、開幕から怒涛の快進撃を見せ、19年ぶりのプレーオフ進出を決めた。プレーオフでは、ニューヨーク・ヤンキース、そしてオークランド・アスレチックスを破り、リーグ優勝を果たした。 2007年のチーム打率.287、857打点と打率、打点共にヤンキースに次ぐ両リーグ2位。オルドニェス、ゲーリー・シェフィールドといった強打者を擁し、メジャー屈指の強力打線を持つ。投手陣では2006年に新人王を獲得したジャスティン・バーランダーが絶対的エースとして君臨している。2007年オフにはアトランタ・ブレーブスからエドガー・レンテリア、シカゴ・カブスからジャック・ジョーンズ、 フロリダ・マーリンズからミゲル・カブレラ、ドントレル・ウィリスを獲得するなど次々と大型補強を行い、かつてないほど戦力が充実している。 現在の本拠地は、2000年に開場したコメリカ・パーク。入場ゲート前の巨大な虎の像をはじめ、球場の至る所にチームの象徴である虎にちなんだモニュメントが存在する。またNFLデトロイト・ライオンズの本拠地であるフォード・フィールドが隣接している。前本拠地のタイガー・スタジアムは100年近く使用していた歴史ある球場で、移転の際には賛否両論が起こった。 日本人選手では、木田優夫、野茂英雄が所属していた。また1990年代前半には、上記のフィルダーに加え、ビル・ガリクソンの日本からの出戻り組が活躍し、アンダーソン監督をして「日本製品はすばらしい!!」と言わしめている。 デトロイトには1881年から1888年にかけてナショナルリーグにデトロイト・ウルバリンズという球団が存在した。ウルバリンズは1887年にリーグ優勝を遂げ、この年にはアメリカン・アソシエーションのセントルイス・ブラウンズ(現:セントルイス・カージナルス)との間で『ワールドシリーズ』を行っている(結果は10勝5敗でウルバリンズの勝利)。しかし優勝のための補強が大きな負担となり、翌年リーグ5位と低迷すると1888年限りでリーグを脱退。その後、マイナーリーグであるインターナショナルリーグに籍を移し、1889年と1890年の2年間にわたって活動したが、リーグの消滅と共にチームも解散した。 このチームとその後のタイガースとの関係は無い。 1894年、デトロイトに新たなチームが創設され、アメリカンリーグの前身となるウェスタンリーグに加盟した。1896年にはベネット・パークが開場(その後ネビン・フィールド、ブリッグス・スタジアム、タイガー・スタジアムに改称)。2000年にコメリカ・パークが開場するまでの104年間に渡って、この地を本拠地球場とした。なお、球団が創設された頃は愛称が定まっていなかったが、このベネット・パークが開場した頃にはタイガースという名前が定着したといわれる。 1900年にウェスタン・リーグは、アメリカンリーグに改称し翌1901年にメジャー・リーグ宣言をして、デトロイト・タイガースもメジャーリーグの球団となった。開幕戦ではミルウォーキー・ブルワーズ(現在のボルチモア・オリオールズで現在のブルワーズとは関係はない)と対戦し、試合が行われたベネット・パークには1万人もの観客が集まった。試合は9回まで4対13と大量リードされていたが、9回表に一挙10点をあげて逆転し、14対13で劇的な初勝利を飾った。その後シーズンでは74勝61敗をあげ、リーグ3位(8チーム中)に終わっている。しかし、1902年から1904年まで3年連続で負け越し、優勝とは縁のない目立たないチームとしてその歴史をスタートさせた。 1905年、チームにタイ・カッブが入団する。タイガース首脳陣が、マイナーリーグの別のチームで目覚ましい活躍を見せていたカッブに目をつけ、タイガースの投手との間で交換トレードを行ったものだった。なお、カッブは入団の際に、恒例の新人歓迎(新人相手のいたずら)でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こしており、早くからその気性の激しさをチームメイトに知られることとなる。初年度こそ41試合の出場にとどまり、打率.240と本領を発揮できなかったが、2年目の1906年には98試合の出場で打率.316と好成績を残した。 1907年にはヒューイー・ジェニングスが選手兼任監督に就任。この頃チームの打線を引っ張っていたのはカッブとサム・クロフォードだった。クロフォードは1903年にシンシナティ・レッズから移籍し、カッブが入団するまでチームの中心打者を担っていた。カッブはこの年、打率.350・119打点・49盗塁を記録し、首位打者、打点王、盗塁王をそれぞれ獲得。クロフォードも負けずに打率.323・81打点・102得点を記録した。投手陣でもビル・ドノヴァンとエド・キリアンがそれぞれ25勝をあげる活躍をみせ、チームも92勝58敗でリーグ初優勝を果たした。初出場となったワールドシリーズではシカゴ・カブスと対戦。第1戦では3対1とリードしていたが最終回に追いつかれ、延長12回の末に日没コールドで引き分けとなった。その後はカブス投手陣に完全に押さえ込まれ、4連敗でワールドチャンピオンを逃してしまった。 1908年、カッブが打率.324・108打点で二冠王に輝くと、クロフォードも7本塁打で本塁打王に輝いた。シーズンではクリーブランド・インディアンス、シカゴ・ホワイトソックスとの激しい首位争いを演じたが、最終的に90勝63敗で2年連続のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズは再びカブスとの対戦となった。第1戦では前年と同じく6対5とリードしていながら、最終回に一挙5点を奪われ逆転負けを喫し、続く第2戦も敗れた。第3戦で初勝利を飾るものの、第4戦、第5戦でも連敗を喫した。結局1勝4敗でまたしてもワールドチャンピオンを逃し、前年のリベンジを果たすことはできなかった。 1909年、カッブは打率.377・9本塁打・107打点・76盗塁を記録し、史上唯一の四冠王に輝く。この頃にはカッブの勝利への執念は常軌を逸したものとなり、首位を争っていたフィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)との対戦では、盗塁の際にフランク・ベーカーの腕をスパイクで刺したり、エディ・コリンズをスライディングで転ばせるなど、半ば反則紛いのプレーを行った。他球団からのカッブの評判は最悪なものだったが、こうしたカッブの執念が実を結び、チームも98勝54敗でリーグ3連覇を果たした。ワールドシリーズではホーナス・ワグナー擁するピッツバーグ・パイレーツと対戦。両リーグの首位打者同士の対戦として注目を浴びる。シリーズでは交互に勝ち負けを繰り返し、最終戦までもつれ込む大混戦となった。しかし大一番の最終戦でタイガースが完封負けを喫し、3年連続でワールドチャンピオンを逃してしまった。 1910年以降、チームはリーグ優勝から遠ざかることとなるが、カッブの成績が落ち込むことはなかった。1907年から1915年までの9年連続、1917年から1919年までの3年連続で首位打者を獲得し、通算で12回の首位打者を獲得した(歴代1位)。1911年には当時のMLB最長記録となる40試合連続安打で打率.420という高打率を記録。通算打率は.366に上る(歴代1位)。1910年にはナップ・ラジョイと首位打者争いを繰り広げ、カッブに首位打者を取らせたくないが為に、他球団がわざとラジョイに安打を打たせるという事件もあった。最終的にカッブが首位打者となったが、後年になってカッブの記録に誤りが見つかり、ラジョイの打率がわずかに上回ったものの、公式の首位打者はカッブのまま変更されなかった。 1915年にはクロフォード(112打点)、ボブ・ヴィーチ(112打点)、カッブ(99打点)によるタイガースの外野陣トリオが打点ランキングを独占し、カッブは当時のMLB最多記録となる96盗塁を記録した。チームも100勝(54敗)をあげたが、ボストン・レッドソックスがそれを上回る101勝(53敗)をあげたため、リーグ優勝はならなかった。 1921年、長年に渡って監督を務めたジェニングスがチームを離れたため、代わってカッブが選手兼任監督に就任する。この年にはハリー・ハイルマンとカッブが打率1位、2位を独占し、ア・リーグ史上最高となるチーム打率.316を記録した。しかし、投手陣が全くふるわず、首位ヤンキースとは27ゲーム差の6位でシーズンを終えた。この頃からベーブ・ルース擁するヤンキースが圧倒的な強さを見せ始め、タイガースもカッブやハイルマンがチームを牽引するものの、優勝には全く手が届かないシーズンが続いた。1926年限りでカッブもチームを離れ、タイガースの低迷は1934年まで続くこととなった。 1929年、前年までワシントン・セネタース(現:ミネソタ・ツインズ)を率いていたバッキー・ハリスを監督に招く。しかし、ハリスでも結果を出すことができず、1933年のシーズン途中でハリスは解任された。 1934年、アスレチックスの捕手だったミッキー・カクレーンが選手兼任監督に就任する。アスレチックスの黄金期を支えたカクレーンは、まず選手の意識改革を行い、強烈なリーダーシップでチームを牽引した。この年にはカクレーン自身の活躍に加え、チャーリー・ゲーリンジャー、ハンク・グリーンバーグ、グース・ゴスリンら、\"Gメン\"と呼ばれた主力選手達(3人共名前が\"G\"で始まる)が好成績を残し、ルー・ゲーリッグ擁するヤンキースと首位を争った。最終的にタイガースが101勝53敗をあげてヤンキースをかわし、久々のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズの相手は「ガスハウスギャング」と呼ばれたセントルイス・カージナルスで、3勝2敗と追い込んだものの、そこから2連敗を喫し、ワールドシリーズ優勝は成し得なかった。 1935年も引き続きヤンキースとの一騎討ちとなったが、93勝58敗でリーグ2連覇を果たし、ワールドシリーズではカブスとの3度目の対戦となった。第1戦は完封負けを喫したが、第2戦から第4戦で3連勝をあげた。そして3勝2敗で王手をかけた第6戦、3対3のままで迎えた9回裏に、ゴスリンがサヨナラヒットを放ち、タイガースが勝利。5度目の挑戦にして初のワールドチャンピオンに輝いた。 1937年5月25日のヤンキース戦で、カクレーンは頭部に死球を受け、それが元で現役を退き、以降は監督専任となった。翌1938年のシーズン途中には成績不振が続いたため、カクレーンは監督を解任された。1940年、アスレチックス、ヤンキースとの三つ巴の争いとなり、最終的にタイガースがそれぞれのチームに1,2ゲーム差をつけてリーグ優勝した。しかしワールドシリーズではシンシナティ・レッズに2勝3敗で敗れている。 1941年に太平洋戦争が始めると、他球団と同様、タイガースからも選手の多くが従軍することとなる。そんな中、1944年にはハル・ニューハウザーが29勝(9敗)をあげ、アメリカンリーグMVPに選出される。戦争が終わった1945年には従軍していたグリーンバーグもチームに復帰し、ニューハウザーは25勝9敗・防御率.1.81・212奪三振とタイトルを独占する活躍をみせ、2年連続でMVPに選出された。チームも88勝65敗で、首位を争ったセネタースをかわし、7度目のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではカブスと対戦。どちらのチームにもいまだ従軍から戻っていない選手が多かったため戦力的には拮抗していたが、ニューハウザー、グリーンバーグの活躍によってタイガースが4勝3敗でカブスを下し、2度目のワールドチャンピオンに輝いた。 1946年以降チームは徐々に成績を落とし、1952年には50勝104敗で最下位となってしまう。1953年にはハービー・キーンが209安打を放ち、新人王を獲得。1955年にはアル・ケーラインが打率.340を記録し、史上最年少となる20歳での首位打者を獲得する。その後、ケーラインは22年間に渡ってタイガース一筋でプレーし、\"Mr. Tiger\"(ミスター・タイガー)と呼ばれた。1957年にはジム・バニングが20勝で最多勝を獲得し、彼は翌1958年にはノーヒット・ノーランも達成した。しかし彼らの活躍の反面、チームは依然として低迷を続けた。この頃のチームの低迷の一因として、アフリカ系アメリカ人選手の入団を拒んだことがあげられる。ジャッキー・ロビンソンをきっかけとして、多くのアフリカ系アメリカ人選手が活躍し、MLBのレベルを引き上げる中、タイガースはその流れに取り残されることとなった。タイガースにアフリカ系アメリカ人選手が初めて入団したのは1958年のことであり、MLBでは2番目の遅さだった。1959年にはハービー・キーンが首位打者を獲得するが、翌年のシーズン開始直後にクリーブランド・インディアンスで同年42本で本塁打王を獲得していたロッキー・コラビトとの交換トレードが行われた。また1961年のシーズン途中にはタイガースとインディアンスの監督同士をトレードするというMLB史上唯一の珍事もあった。 1960年にロッキー・コラビトは本塁打35本であったが、翌1961年には自己最高の45本を打っている。この年、シカゴ・ホワイトソックスから移籍したノーム・キャッシュが打率.361を記録し、首位打者を獲得。他にも41本塁打・132打点という活躍(なお、キャッシュはこの年の成績だけが突出しており、引退後に規則違反となるコルクバットの使用を認めている)で、この年のタイガーズは、ノーム・キャッシュ、アル・ケーライン、ロッキー・コラビトの三本柱の打撃陣で、チームも101勝(61敗)をあげたが、ヤンキースが109勝53敗という圧倒的な成績だったため、リーグ優勝はならなかった。ヤンキースはロジャー・マリスが61本の本塁打でベーブ・ルースの記録を抜いて新記録を達成し、ミッキー・マントルが54本を打ち、投手陣ではホワイティー・フォードが自己最高の25勝で最多勝と最多勝率を上げて、常勝ヤンキースの最後の輝きを見せた年でもあった。翌1962年秋には来日して日米親善野球で12勝4敗2引き分けの成績を残している。 1966年には当時監督を務めていたチャック・ドレッセンとボブ・スイフトが相次いで病気で亡くなるという事態も起こっている。翌1967年はタイガースを含めた4チームによる史上稀な大混戦が繰り広げられた。最終的にタイガースが最終日のダブルヘッダーで連勝すれば、首位のレッドソックスと1ゲームプレーオフが開かれるところまで持ち込まれたが、2試合目で敗れてしまった。 1968年、シーズン序盤にボルチモア・オリオールズから首位を奪うと、そのまま一度も首位を譲らず、103勝59敗という成績でリーグ優勝を果たした。原動力は31勝をあげたデニー・マクレインで、マクレーンは1934年のディジー・ディーン以来となるシーズン30勝以上を記録した。そして、ワールドシリーズではボブ・ギブソン、ルー・ブロック擁するセントルイス・カージナルスとの対戦となった。この頃、カージナルスは全盛期を誇っており、ギブソンはワールドシリーズに滅法強いことで有名だった。第1戦と第4戦ではマクレーンとギブソンの対決となったが、どちらもギブソンが投げ勝ち、第4戦を終えた時点で1勝3敗と追い込まれてしまった。絶対に負けられない試合となった第5戦、3対2とリードされた5回に、ブロックを二塁においた場面でヒットを打たれ、追加点をとられるピンチとなった。しかし左翼を守っていたウィリー・ホートンが好返球、ブロックを本塁でタッチアウトした。これによって流れがタイガースに傾き、チームはこの試合で逆転勝利を果たす。続く第6戦も連勝し、迎えた第7戦、マウンドに上がったのはギブソンだったが、7回にカージナルス守備陣の乱れから3点を先制し、このままタイガースが逃げ切ってワールドシリーズ優勝を決めた。 1971年、ビリー・マーチンが監督に就任する。マーチンは前々年にミネソタ・ツインズの監督を務め、チームを地区優勝に導いている。しかし、フロントと対立し、1年限りでチームを追われていた。1年目こそ2位に終わったが、翌1972年には2位レッドソックスを0.5ゲーム差でかわし、チームを初の地区優勝に導いた。しかし、リーグチャンピオンシップシリーズではオークランド・アスレチックスに2勝3敗で敗れてしまった(アスレチックスはこの年からワールドシリーズ3連覇を成し遂げるなど、黄金期を迎えていた)。1973年のシーズン途中でマーチンは監督を辞任。その後1974年、1975年と連続最下位に終わり、1980年代に入るまで低迷が続いた。1976年にはマーク・フィドリッチが21歳でメジャーデビューし、いきなり19勝をあげ(戦後では新人最多記録)、新人王を獲得した。その風貌がセサミストリートの登場キャラクターであるビッグバードに似ていたため、\"The Bird\"(ザ・バード)と呼ばれ、ユニークな言動も相まって絶大な人気を誇った。しかし、その後は腕の故障のため、4年間で10勝しかできず、1980年限りで引退した。 1979年のシーズン途中、スパーキー・アンダーソンを監督に迎える。アンダーソンは「ビッグレッドマシン」・シンシナティ・レッズの監督として知られ、アンダーソンが監督に就任すると、タイガースは次第に勝てるチームへと変貌する。この頃チームにはジャック・モリス、ランス・パリッシュ、アラン・トランメル、ルー・ウィテカー、カーク・ギブソンといった有望な若手選手が多く存在し、アンダーソンの下でめきめきとその才覚を発揮していった。 1984年、チームは開幕から40試合で35勝5敗という驚異的なペースで勝ち星を重ねた。最終的に104勝58敗という圧倒的な成績をあげ、断トツ(2位トロント・ブルージェイズとは15ゲーム差)で地区優勝を果たした。続くリーグチャンピオンシップシリーズでカンザスシティ・ロイヤルズに3連勝。ワールドシリーズではサンディエゴ・パドレスを4勝1敗で下し、4度目のワールドチャンピオンに輝いた。これによってアンダーソンは、両リーグで世界一を経験した史上初の監督となった。この年はモリスがノーヒットノーランを含む19勝をあげ、抑えのウィリー・ヘルナンデスが80試合の登板で防御率1.92、32セーブを記録し、MVPとサイ・ヤング賞を獲得した。また、1986年には捕手パリッシュ(22本)、一塁ダリル・エバンス(29本)、二塁ウィテカー(20本)、遊撃トランメル(21本)、三塁ダネル・コールズ(20本)、外野ギブソン(28本)と内野手全員を含む野手6人が20本塁打以上を放っている。この頃のタイガースはまさに往年のビッグレッドマシンを髣髴とさせる陣容を誇った。 1987年のシーズン途中、新人のジョン・スモルツ(スモルツはゲーリンジャーの甥でもあった)との交換トレードでアトランタ・ブレーブスからドイル・アレクサンダーを獲得。アレクサンダーは11試合に先発して、完封3を含む9勝0敗、防御率1.53という驚異的な成績を残した。彼の活躍もあり、チームは逆転で地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズでツインズに敗れた。1988年は首位レッドソックスに1ゲーム差の2位に終わったが、翌1989年には59勝103敗と大きく落ち込み、最下位に転落してしまう。1990年、阪神タイガースでプレーしていたセシル・フィルダーを獲得。フィルダーは51本塁打・132打点で二冠王に輝き、同時に1977年のジョージ・フォスター以来となるシーズン50本塁打以上を記録した。その後、ロブ・ディアー、ミッキー・テトルトンを獲得し、1992年には30本塁打トリオ(と同時に130三振トリオでもあった)を形成するが、投手陣が散々だったため、優勝には手が届かなかった。なお、1992年には現在のオーナー一族であるマイケル・イリッチがチームを買収している。 1994年に3地区制が導入されてからも、1997年までは東地区に所属していた。1995年限りでアンダーソンが監督を辞任し、バディ・ベルが監督に就任する。しかし、就任1年目には53勝109敗で最下位(首位ヤンキースとは39ゲーム差。4位のブルージェイズにさえ21ゲーム差をつけられた)となってしまい、更に投手陣崩壊で一時は1930年にフィラデルフィア・フィリーズが記録したMLBワーストのチーム防御率6.71を更新するかの酷さで、リーグワースト記録のチーム防御率6.38というオマケつきだった。1998年にはタンパベイ・デビルレイズ(現:タンパベイ・レイズ)の加入とミルウォーキー・ブルワーズのナ・リーグ移転に伴い、タイガースは中地区に所属することとなった。しかし、再び最下位に沈み、シーズン途中でベルは解任させられた。代わってラリー・パリッシュが監督に就任するが、彼も結果を残すことができなかった。 2000年にはタイガー・スタジアムからコメリカ・パークに本拠地を移すが、以降チームはますます低迷し、2002年には55勝106敗で再び勝率3割台に落ち込んだ。2003年からアラン・トランメルが監督に就任するが、この年にはア・リーグワーストとなる119敗(43勝)を記録してしまう。事態を重くみたデーブ・ドンブロウスキーGM(2002年開幕直後から就任。フロリダ・マーリンズがワールドシリーズ制覇を果たした際のGMとして知られる)は、この年のオフから積極的な補強を行った。この年にはイバン・ロドリゲスやカルロス・ギーエン、翌年にはケニー・ロジャースやマグリオ・オルドニェスといった一流選手をかき集め、チームの再建を図った。 2005年限りでトランメル監督を解任し、2006年からはジム・リーランドを監督に招く。2006年は上記の助っ人選手に加え、新人王を獲得したジャスティン・バーランダーをはじめとした生え抜きの若手選手も奮起。95勝67敗と12年ぶりに勝ち越し、地区2位ながらワイルドカードを獲得した。ディビジョンシリーズではヤンキースを3勝1敗で下すと、続くリーグチャンピオンシップシリーズではアスレチックスに4連勝し、22年ぶりのリーグ優勝を果たした。しかし、ワールドシリーズではカージナルスと対戦し、こちらは1勝4敗で敗れてしまった。 2007年にはヤンキースからゲイリー・シェフィールドを獲得。2006年のメンバーもほとんど残留し、戦力的には上積みされた。リーグ2連覇に期待がかかったが、いざシーズンが始まってみると故障者が続出し、駒不足となった後半戦からは失速した。結局インディアンスに地区優勝を奪われ、ワイルドカード争いではヤンキースに敗れてしまった。そのためこの年のオフにはブレーブスからエドガー・レンテリア、カブスからジャック・ジョーンズ、そしてマーリンズからミゲル・カブレラ、ドントレル・ウィリスを獲得するなど、球団史上最大級の補強を行った。 2008年は散々なものとなった。ロイヤルズとの開幕戦に延長の末敗れると、その後は泥沼の7連敗、早々に優勝争いから離脱してしまう。結局、開幕戦で戦ったロイヤルズとの最下位争いにも1ゲーム差で敗れ、119敗を記録した2003年以来となる地区最下位となってしまった。原因は投手陣にあるといえ、エースのバーランダーが不振を極めたのをはじめ、フェルナンド・ロドニー、トッド・ジョーンズ、ジョエル・ズマヤといったリリーフ陣も足を引っ張った。シーズン途中には急遽、イバン・ロドリゲスとのトレードでカイル・ファーンズワースを獲得するものの、ほとんど活躍できずに終わった。唯一アーマンド・ガララーガや中継ぎから先発に転向したザック・マイナーらが奮起したものの、投手陣の選手不足が露呈した形となった。打撃陣ではミゲル・カブレラが本塁打王を獲得するなど、個々の活躍はみせたが、チームとして噛み合ったとは言えなかった。特にリリーフ投手不足は未だタイガースにとって大きな課題であり、オフシーズンには投手陣の補強に力を入れるべきだという声も多く聞かれた。 2009年はバーランダーが最多勝と奪三振王の活躍、新人リック・ポーセロの台頭があったが、最終戦にミネソタ・ツインズに並ばれて同率首位となり、1ゲームプレーオフでツインズに敗退し地区優勝を逃した。 2011年はバーランダーが最多勝、最多奪三振、最優秀防御率の投手三冠王を記録した。また、この年は87年ぶりに両リーグから投手三冠王が誕生している。   2012年のシーズンは、チームでは1909年のタイ・カッブ以来103年ぶり、MLB史上でも45年ぶりの三冠王となったミゲル・カブレラらリーグ3位となる2割6分8厘の強力な打撃陣の活躍もあり、2年連続となる地区優勝を果たした。ディビジョンシリーズではアスレチックスを3勝2敗で下し、続くリーグ優勝決定戦ではヤンキースに4連勝、2006年以来のリーグ優勝を果たした。しかし、ワールドシリーズではそのリーグ優勝決定戦での4連勝で試合勘が鈍ったのか、レギュラーシーズンではアメリカンリーグ3位の3.75、ポストシーズンでも2点代前半(ディビジョンシリーズは2.06、リーグ優勝決定戦では1.38)だった投手陣がワールドシリーズでは4.11と打ち込まれ、リーグ優勝決定戦では2割9分1厘と強力だったはずの打撃陣も2試合の完封負け(第2戦と第3戦をいずれも2-0で落とした)も含め1割5分9厘に抑えられ、ナショナルリーグのリーグ優勝決定戦を4勝3敗で制したジャイアンツに初戦から4連敗を喫し、優勝を逃した。 2013年も3年連続の地区優勝を果たし、ディビジョンシリーズではアスレチックスを退けるが、レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズで敗れリーグ連覇は果たせず、リーランド監督も退任した。11月3日に、後任としてブラッド・オースマスが監督に就任する事が発表された。 2014年は、レンジャーズから1番のイアン・キンズラーと抑えのジョー・ネイサンを獲得。リーグだけでなく全体でも1位の2割7分7厘にものを言わせた強力な打撃陣に支えられたものの、29年間ポストシーズンに進出した事の無いカンザスシティ・ロイヤルズが20年ぶりの10連勝した時期に首位から陥落した時期もあり、最終戦に持ち込まれた末4年連続の地区優勝を果たした。18勝で最多勝に輝いたシャーザーを筆頭にポーセロ、2011年のサイ・ヤング賞投手であるバーランダー、2012年のサイ・ヤング賞投手であるデビッド・プライス(レイズからの途中移籍)が3人共15勝を記録したとはいえ、防御率が4.29とアメリカンリーグで3番目に悪かった中継ぎ投手陣がアキレス腱となり、ディビジョンシリーズで17年ぶりに東部地区を制覇したオリオールズに3連敗した。特にボルチモアで行われた最初の2戦は、第1戦で先発したシャーザーが7回途中5失点で降板して以降はジョバ・チェンバレンが2失点でホアキム・ソリアが4失点、第2戦で先発したバーランダーが5回3失点で降板して以降はチェンバレンが3失点でソリアが1失点と2人だけで足を引っ張る形となった。 2015年はレッドソックスから強打のヨエニス・セスペデスをポーセロとのトレードで獲得。打撃陣の更なる強化を図った。4月は15勝8敗の好スタートを切ったものの、それ以降の月はすべて勝率5割以下と低迷。特に投打の柱であるカブレラ、バーランダーが共に故障に泣かされ本領をフルに発揮できなかったのは痛かった。チーム打率こそ3年連続メジャー1位となる2割7分を記録したものの、オフにシャーザーをFAで失い(ワシントン・ナショナルズへ移籍)、バーランダー、故障でシーズンのほぼすべてを棒に振ったネイサンに泣かされた投手陣は防御率4.64でアメリカンリーグ最下位と散々だった。プレーオフ進出の可能性が絶望となった7月末にはそのセスペデスをニューヨーク・メッツ、プライスをブルージェイズ、抑えのソリアをパイレーツにそれぞれフラッグディールで放出。8月4日には不振の責任を取らされる形でドンブロウスキーGMが解任された。結局、連続地区優勝は4年でストップしたどころか、2008年以来7年ぶりとなる地区最下位に沈んでしまった。これを受け、オフには懸案の投手陣の補強としてブリュワーズからフランシスコ・ロドリゲス、ナショナルズからジョーダン・ジマーマン、ツインズからマイク・ペルフリー、ブルージェイズからマーク・ロウ、ヤンキースからジャスティン・ウィルソン、野手にもパドレスからジャスティン・アップトンを獲得する大型補強を行った。 2016年は上記の助っ人選手では、故障でフルシーズン働けなかったジマーマン、不振のペルフリーとロウが期待を裏切ったものの、カブレラとバーランダーが復活し、新人でもメジャー1年目のマイケル・フルマーが台頭。シーズン最後までワイルドカードを争ったものの、10月2日のブレーブス戦に敗れ、ブルージェイズとオリオールズのワイルドカードが決定。ポストシーズン出場はならなかった。 2017年は4月こそ勝率5割で乗り切ったものの、42勝49敗となった7月17日時点でポストシーズンを諦め、翌18日に主軸の一人であったJ.D.マルティネスをアリゾナ・ダイヤモンドバックスに放出したのを皮切りに、7月31日には中継ぎのウィルソンをカブスへ、そして8月31日には長年エースを務めてきたバーランダーをヒューストン・アストロズ、アップトンをロサンゼルス・エンゼルスへそれぞれフラッグディールで放出した。9月には6勝23敗と大きく負け越し、2年ぶりの地区最下位へと転落してしまった。9月22日にはオースマス監督の同シーズン限りでの契約解除が発表された。10月20日、後任としてツインズを6度の地区優勝に導き、2010年には最優秀監督賞を受賞しているロン・ガーデンハイアーが就任することが発表された。 アメリカ大陸には虎は棲息しない。このタイガースという名前は、球団発足当時の監督が濃紺地にオレンジ(アメリカでは一般に、虎の色は黒と黄色ではなくこの2色で表現されることが多い)のストライプのストッキングを履いていて、それがトラの縞を連想させたためである。なお、日本プロ野球の阪神タイガースもこのデトロイト・タイガースに由来しており(工業都市つながり)、後に発足するNFLのデトロイト・ライオンズもこの虎と同じくらい強い猛獣から名前が付いている。 最初はミシガン州に生息していた動物からウルバーリンズ(クズリ、イタチ科の肉食動物)という名称だったが、地元新聞の記者が見出しに「タイガース」と書いた、という異説もある。 1912年5月15日、ニューヨーク・ヒルトップ・パークで行われたニューヨーク・ハイランダース戦において、タイ・カッブに対してヤジを飛ばした観客に、カッブが逆上してスタンドに殴り込み、その観客を暴行したとして退場、出場停止処分を受けた。 この処分に不服を感じたチームメイト(カッブはチーム内からも疎まれやすい人物だったが、この時はその観客の暴言の内容はチームメイトでも聞きかねるほどひどい内容だったという)は、全員で試合出場をボイコット。頭をかかえた球団は、大学生など素人に声をかけ、なんとか人数をそろえて寄せ集めのチームをつくった。 この寄せ集めの素人チームは5回までに相手チームであるフィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)から2点をもぎ取るなどなかなかの健闘ぶりを見せた。その後も素人なりに精一杯のプレーをしたものの、本気を出したメジャーリーガーには太刀打ちできず、結局24対2で大敗した。その後、球団はカッブの出場停止処分を10日間に軽減し、またカッブ自身も説得にあたって、ボイコットを中止させた。 スパーキー・アンダーソン(Sparky Anderson) アール・アベリル(Earl Averill) ジム・バニング(Jim Bunning) タイ・カッブ(Ty Cobb) ミッキー・カクレーン(Mickey Cochrane) サム・クロフォード(Sam Crawford) ラリー・ドビー(Larry Doby) チャーリー・ゲーリンジャー(Charlie Gehringer) グース・ゴスリン(Goose Goslin) ハンク・グリーンバーグ(Hank Greenberg) バッキー・ハリス(Bucky Harris) ハリー・ハイルマン(Harry Heilmann) ウェイト・ホイト(Waite Hoyt) ヒューイー・ジェニングス(Hughie Jennings) アル・ケーライン(Al Kaline) ジョージ・ケル(George Kell) ヘイニー・マニュシュ(Heinie Manush) エディ・マシューズ(Eddie Mathews) ジャック・モリス(Jack Morris) ハル・ニューハウザー(Hal Newhouser) イバン・ロドリゲス(Ivan Rodriguez) アル・シモンズ(Al Simmons) サム・トンプソン(Sam Thompson) アラン・トランメル(Alan Trammell) ファイル:Tiled tigers logo.JPG タイ・カッブ(Ty Cobb) アーニー・ハーウェル(Ernie Harwell) 2 チャーリー・ゲーリンジャー(Charlie Gehringer) 3 アラン・トランメル(Alan Trammell) 5 ハンク・グリーンバーグ(Hank Greenberg) 6 アル・ケーライン(Al Kaline) 16 ハル・ニューハウザー(Hal Newhouser) 23 ウィリー・ホートン(Willie Horton) 42 ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson) 47 ジャック・モリス(Jack Morris) タイ・カッブは背番号が無い時代の人物のため、欠番扱いとなっている。また、アーニー・ハーウェルは球場アナウンサーとして41年間務めた功績により、欠番と同格に顕彰されている。 ^ ヤ軍4連敗で終戦 イチロー無安打 日刊スポーツ 2012年10月19日閲覧 ^ Reports: Ausmus to be named next Tigers manager ^ Ausmus' contract won't be extended past '17 ^ Jason, Beck (2017年10月20日). “Tigers, Gardenhire finalize skipper's 3-year deal” (英語). MLB.com. 2017年10月21日閲覧。 ^ なお、このことは後に日本のテレビ番組『トリビアの泉』でも取り上げられている(No.516)。 メジャーリーグベースボール アメリカンリーグ 公式ウェブサイト(英語) チームの通算成績と情報 MLB, or  ESPN, or  Baseball-Reference , or  The Baseball Cube Detroit Tigers - Facebook tigers (tigers) - Instagram Detroit Tigers (@Tigers) - Twitter", "クリーブランド・インディアンス(英語: Cleveland Indians、略称:CLE)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はオハイオ州クリーブランドにあるプログレッシブ・フィールド。「トライブ(Tribe)」(部族)とも呼ばれる。 1900年にそれまでマイナー・リーグであったウエスタン・リーグがアメリカン・リーグに改称した時に、ウエスタン・リーグに1894年から加盟していたミシガンのグランドラピズ・ラスラーズがクリーブランドに移転し、クリーブランド・レークショアズとしてアメリカン・リーグのチームとなった。これが現在のクリーブランド・インディアンスの起源である。 この年アメリカン・リーグはまだマイナー・リーグであったが、翌年にメジャー・リーグに昇格宣言をしてメジャー・リーグとなった初年度1901年はクリーブランド・ブルーバーズ、翌年の1902年にはクリーブランド・ブロンコスと名乗ったが、1902年にフィラデルフィア・アスレチックスからナポレオン・ラジョイを獲得し、彼が主軸打者として中心メンバーとなり、彼の通称であったナップから1903年からナップスと呼ばれ、ナップ・ラジョイが中心となって活躍したチームだった。この間にはかつてクリーブランド・スパイダーズにいたサイ・ヤングやシューレス・ジョー・ジャクソンも一時在籍した。そして彼がチームを離れたことで1915年にインディアンスと改名し、やがて1920年にトリス・スピーカーを中心とした打線でリーグ優勝してワールドシリーズも勝ち、1948年には火の玉投手ボブ・フェラーを擁してルー・ブードローが遊撃手兼監督でチームを支え、さらにジャッキー・ロビンソンに続いて2人目の黒人選手ラリー・ドビーを獲得して再びリーグ優勝してワールドシリーズでもブレーブスを下した。しかし、その後は長い低迷を続け、1954年のリーグ優勝を最後に1994年までワールドシリーズからは遠ざかった。そのため、1989年には映画『メジャーリーグ』のモデル球団になるなど、弱小チームの代名詞として知られた。 1990年代後半になるとマニー・ラミレス、ジム・トーミといったスター選手を擁し、1995年から1999年まで5年連続で地区優勝を果たすなど、黄金期を築いた。2000年以降、緊縮財政のため上記の主力選手が流失してしまい、厳しい戦いを強いられた。しかし、その主力選手と引き換えに得たグレイディ・サイズモア、トラビス・ハフナー、CC・サバシアといった有望新人を育て、2004年に地区3位、2005年に地区2位、2007年には地区1位と着実に力をつけている。 地元での人気はもちろんのこと、映画『メジャーリーグ』の大ヒットにより、メジャーでも知名度は高い。1995年6月12日から2001年4月4日まで、ホームゲームで455試合連続満員御礼という記録を作っている。これを記念して、455番がチームの永久欠番となった。なお、その後ボストン・レッドソックスが2003年から2013年にかけて、794試合連続満員御礼として記録を更新している。交流戦ではヤンキースとメッツのサブウェイ・シリーズのように、同じオハイオ州のシンシナティ・レッズとのカードが“バトル・オブ・オハイオ”と呼ばれ地元では人気を集めている。 本拠地であるプログレッシブ・フィールドは、2007年までジェイコブス・フィールドと呼ばれていたが、2008年に自動車保険会社のプログレッシブ社が、16年5800万ドルでネーミングライツを獲得したことでこの名前に変更した。クリーブランドの市街地にあり、タワーシティ・センターと呼ばれる電車やバスのターミナル(クリーブランド・ホプキンス国際空港からの電車もここに停まる)から徒歩圏内、途中にNBAクリーブランド・キャバリアーズの本拠地クイックン・ローンズ・アリーナがある。 日本人選手は多田野数人(2004年から2005年まで)、小林雅英(2008年から2009年まで)、大家友和(2009年)、福留孝介(2011年途中から同年終了まで)、村田透(2015年)が在籍した。 インディアンスの本拠地であるクリーブランドのプロ野球チームの歴史は、1860年代に創設された『フォレストシティ・ベース・ボール・クラブ』に遡る。このチームは後にセミプロ化し、1871年に創設された全米プロ野球選手協会(ナショナル・アソシエーション)のプロリーグに「クリーブランド・フォレストシティーズ」として2年間参加した。その後ナショナルリーグには、1879年から1884年までクリーブランド・ブルースというチームが、また1889年から1899年までクリーブランド・スパイダーズというチームが所属して活動した。 ブルースは、通算265勝を挙げたジム・マコーミックを選手兼任監督とし、まずまずの成績を誇っていた。しかし、1884年にユニオン・アソシエーションが創立された際に主力選手が移籍、チームは一気に弱体化し、この年限りで解散した。一方のスパイダーズは、MLB最多の通算511勝を挙げたサイ・ヤングがメジャーデビューした球団として知られる。スパイダーズはヤングをはじめ多くの優秀な選手を揃えたが、なかなか優勝に手が届かなかった。1898年、これに業を煮やしたオーナー達が、同リーグのセントルイス・ブラウンズ(現:セントルイス・カージナルス)を買収し、パーフェクトズと改名(1年後にカージナルスとなった)、ヤングをはじめとした選手の大半を移籍させた。この煽りを受けたスパイダーズは、1899年を20勝134敗という成績で終え、このシーズンを最後にチームは解散した。 これらのチームがクリーブランドを本拠としたが、今日のクリーブランド・インディアンスの起源は、全く別であった。 1900年に当時マイナー・リーグであったウエスタン・リーグがアメリカン・リーグに改称した時に、ミシガン州グランドラピズを本拠地としていたチームをクリーブランドに移転させたことでチームの歴史が始まった。翌1901年、マイナー・リーグであったアメリカンリーグがメジャー・リーグ宣言すると、クリーブランド・ブルーバーズという名前で、リーグ創設以来の球団となった。初年度の1901年こそ、54勝78敗と負け越し、リーグ7位で終わってしまったが、翌1902年クリーブランド・ブロンコスと改め、そしてこのシーズン途中に、フィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)からナップ・ラジョイを獲得した。ラジョイは期待にたがわぬ活躍でチームを牽引し、ファンから絶大な人気を誇った。この年に一般公募によって、チーム名もクリーブランド・ナップスと改めて、1905年にはラジョイが選手兼任監督に就任し、文字通りラジョイのチームとなった。 ラジョイは1903年、1904年と2年連続で首位打者を獲得し、監督を退いた後の1910年には、タイ・カッブが首位打者を獲得したものの、打率.384で打率1位を記録している(当時の記録では、カッブがラジョイの打率をわずかに上回っていたが、後にカッブの記録の誤りが見つかり、カッブの打率は.383となった。しかし公式な首位打者はカッブのまま変更はされなかった)。他にもアディ・ジョスやエルマー・フリックといった選手が活躍し、チームは勝ち越しを続けるものの、なかなか優勝には手が届かなかった。 1909年、サイ・ヤングがクリーブランドに復帰し、42歳という高齢にもかかわらず、防御率2.26・19勝15敗という成績を残した。翌1910年には、アスレチックスでくすぶっていたジョー・ジャクソンを獲得。1911年には打率.408を記録し、1912年、1913年と2年連続で最多安打を放った。しかし、この頃にはジョスの急死やヤングの移籍で投手陣が脆弱なものとなり、チームは更に低迷した。ついに1914年には、51勝102敗と大きく負け越し最下位になってしまった。翌1915年には、ラジョイが古巣のフィラデルフィア・フィリーズに復帰し、1915年のシーズン途中には、ジャクソンがシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことで、57勝95敗と2年連続で大きく負け越した。この年には、チーム名も現在のクリーブランド・インディアンスに変わっている(この名前の由来は1897年から1899年まで、MLB初のインディアンのプロ野球選手であり、スパイダーズで活躍したルイス・ソカレキスに敬意を表してつけられたといわれる)。 1916年、マイナーで過ごしていたスタン・コベレスキとジム・バグビーをメジャーに昇格させ、ボストン・レッドソックスからトリス・スピーカーを獲得した。コベレスキとバグビーはチームの勝ち頭に成長し、スピーカーはこの年、打率.388で首位打者を獲得した。チームも次第に上昇気流に乗り、1919年のシーズン途中にはチームの中心選手だったスピーカーが選手兼任監督に就任する。 翌1920年、チームは首位を快走していたが、8月16日のニューヨーク・ヤンキース戦で悲劇が起こる。ヤンキースの投手カール・メイズの投じた球が、当時インディアンスの遊撃手だったレイ・チャップマンの頭部を直撃し、翌日チャップマンが死亡してしまったのである。これはMLBにおいて、試合中のプレーが原因で死亡した唯一の例となり、その後インディアンスの選手達は喪章をつけてプレーすることとなった。チャップマンが死亡したことで、新人のジョー・シーウェルが代役としてレギュラーに定着し、後にシーウェルはメジャー最高のコンタクトヒッターと呼ばれるまでに成長する。 シーズン終盤、ジョー・ジャクソンらが大審院で証言を行い、前年に起こったブラックソックス事件の話題が再燃する中、インディアンスはヤンキースとホワイトソックスの追撃を振り切り、初のリーグ優勝を飾った。ブルックリン・ロビンス(現:ロサンゼルス・ドジャース)との対戦となったワールドシリーズでは、5勝2敗でこれを下し、初のワールドチャンピオンに輝いた。このシリーズではコベルスキが3試合に登板し、全ての試合で完投勝利を収め、ロビンスに合わせて2点しか与えなかった。また二塁手のビル・ワムズガンスがワールドシリーズでは史上唯一の「無補殺三重殺」を成功させている。 1920年以降は、ベーブ・ルースを擁したヤンキースが台頭し、インディアンスは優勝から遠ざかることとなった。1920年代中盤には、チームの要であったスピーカーやコベルスキが続けてチームを離れ、代わってチームの中心選手だったシーウェルも、1931年にヤンキースに移籍した。1929年、アール・アベリルが27歳という遅咲きでメジャーデビューする。アベリルはデビュー以来、6年連続で3割を記録し、1936年には打率.378と高打率を記録するなど、好成績を残した。しかし、アベリルは優勝とは縁がないままチームを離れることとなった。1930年代に入ると、勝ち越してシーズンは終えるものの、優勝争いにはほとんど絡むことができず、3位や4位が定位置となった。 そんな中、1936年にボブ・フェラーが17歳でメジャーデビューする。アイダホ州の農場に生まれ、野球好きの父親からピッチングを教わって育ったフェラーの才能をインディアンスが見出したものだった。フェラーは、デビュー戦でいきなり1試合15奪三振を記録すると、次の試合でも17奪三振を記録し、デビュー当初からその才能を遺憾なく発揮した。1938年からは先発レギュラーに定着し、1941年までの4年間で最多奪三振4回、最多勝利3回、最優秀防御率1回を受賞するなど、リーグを代表する投手に成長する。しかし1941年に太平洋戦争が始まると、フェラーは兵役に就き、1945年の終戦までチームを離れることとなった。 1946年、ビル・ベックがチームのオーナーとなり、数々のチーム改革を実践する。ベックは他にもリグレー・フィールドの外野フェンスのツタを考案するなど、様々なアイデアでチーム改革を行うオーナーとして有名だった。ベックは、それまで併用していたリーグ・パークでの試合を辞め、本拠地球場をミュニシパル・スタジアムに一本化した。また、ミュニシパル・スタジアムの改修にも務め、女性客を取り込むために、託児所を設けて保育士を雇ったり、女性トイレを清潔に保つようにした。こうした努力が実り、万年中位や戦争の影響で観客数が減っていたインディアンスは、飛躍的に観客数を伸ばすこととなった(1948年にはリーグ新記録となる262万人を動員する)。 1942年にはインディアンスの遊撃手だったルー・ブードローが監督兼任を志願し、MLB最年少となる24歳で選手兼任監督に就任する。ブードローは選手と監督という二足の草鞋を見事に履きこなし、選手としては1944年に首位打者を獲得、監督としてはブードロー・シフトを考案するなど奇抜なアイデアを駆使してチームを率いた。1946年、復帰したフェラーが最多勝と最多奪三振を獲得し、変わらぬ健在ぶりを示すと、野手だったボブ・レモンも投手として4勝を挙げ、その片鱗を見せ始める。また1947年のシーズン途中には、同年にメジャーデビューしていたジャッキー・ロビンソンに続き、ラリー・ドビーが戦後2人目のアフリカ系アメリカ人プレイヤーとしてメジャーデビューするなど、チームの戦力も充実する。 1948年、上記の選手がフル稼働し、シーズン序盤から激しい首位争いを演じた。シーズン途中には、ニグロリーグで長年プレーしたサチェル・ペイジが、42歳という史上最高齢新人投手としてメジャーデビューする。ペイジはデビュー戦を完封勝利で飾り、シーズンでは6勝をあげる活躍でチームに貢献した。最終的に96勝58敗でボストン・レッドソックスと同率首位に並び、ワンゲームプレイオフが行われることとなった。この試合では、監督で内野手であったルー・ブードローが2本塁打を含む4打数4安打の活躍をみせ、8対3でレッドソックスを下し、2度目のリーグ優勝を果たした。 続くワールドシリーズでは、ボストン・ブレーブス(現:アトランタ・ブレーブス)と対戦。このシリーズは、インディアンスのフェラー、レモンに対して、ブレーブスはウォーレン・スパーン、ジョニー・セインという左右のエースを抱えており、それぞれのエース同士の対戦でもあった。第1戦ではフェラーとセインが投げ合い、どちらも7回まで0点に抑える好投をみせたが、結局1対0でセインが投げ勝ち、ブレーブスが勝利を収めた。続く第2戦ではレモンとスパーンが対戦、5回にスパーンが崩れ、4対1でインディアンスが勝利した。第3戦、第4戦とインディアンスが連勝し、第5戦ではブレーブスが一矢報いた。3勝2敗で迎えた第6戦では、レモンが7回まで1点に抑える好投でブレーブスを下し、インディアンスが28年ぶり2度目のワールドチャンピオンに輝いた。 1951年にはブードローに代わり、アル・ロペスが監督に就任。この頃には再びヤンキースが黄金期を迎え、インディアンスは優勝から遠ざかることとなった。戦力的にはヤンキースとほとんど遜色なかったが、優勝にはいま一歩及ばず、特に1951年から1953年までは3年連続でヤンキースに次ぐ2位に甘んじてしまった。1954年にはレモンとアーリー・ウィンが23勝をあげて共に最多勝、打撃陣ではラリー・ドビーが32本塁打・116打点で二冠王、ボビー・アビラが打率.341で首位打者を獲得。主要個人タイトルをインディアンスの選手がほぼ独占する形となり、チームは111勝43敗、勝率.721という圧倒的な成績で、3度目のリーグ優勝を遂げた。しかし、ワールドシリーズでは、ニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)に4連敗を喫してしまった(このシリーズではウィリー・メイズの「ザ・キャッチ」と呼ばれる伝説的なプレーもあった)。以降、インディアンスは40年余りに渡ってワールドシリーズに進出できなかった。 1960年代に入ると、インディアンスの低迷は一層深刻なものとなった。1960年から1993年までの33年間で3位以上になったのは、1968年のわずか1回のみで、他は全て4位以下でシーズンを終えた。シーズン途中の監督の解任劇は毎年のように行われ、それでも状況が改善されることはほとんどなかった。1969年には地区制が導入され、インディアンスは東地区に所属することとなったが、チームは弱いままで、むしろ成績は下がる一方だった。1975年にはフランク・ロビンソンが選手兼任監督に就任。アフリカ系アメリカ人初のMLB監督となったが、結果を残せず、1977年のシーズン途中で監督を解任された。そんなチームの惨状に目をつけたのが、映画『メジャーリーグ』だった。1989年に公開されたこの映画は、後に続編も作られるほど大ヒットし、低迷していたインディアンスの観客数の回復に一役買ったとされる。しかし映画と同様にインディアンスが優勝に近づくには、あと数年は待たなければならなかった。 チームの黄金期は1990年代後半に訪れる。1991年、マイク・ハーグローヴが監督に就任。そしてこの頃からアルバート・ベル、ケニー・ロフトン、ジム・トーミ、マニー・ラミレスといった若手選手が台頭し始める。1994年に3地区制が導入されると、インディアンスはアメリカンリーグ中地区に移動し、老朽化が進んだミュニシパル・スタジアムからジェイコブス・フィールド(現:プログレッシブ・フィールド)に本拠地を移す。シーズンでは1994年から1995年のMLBストライキでシーズンが中断されるまで、首位のホワイトソックスに1ゲーム差の2位という好位置を維持した。 翌1995年は開幕から他チームを圧倒し、2位とは30ゲーム差の100勝44敗で地区優勝を遂げる。この年には主砲のベルが50本塁打・126打点の活躍で二冠王を獲得し、リードオフマンのロフトンも54盗塁で盗塁王を獲得するなどの活躍をみせた。ディビジョンシリーズではレッドソックスを3連勝で一蹴すると、続くリーグチャンピオンシップシリーズでは、シアトル・マリナーズを4勝2敗で下し、41年ぶりのリーグ優勝を果たした。奇しくも前回と同じブレーブスとの対戦となったワールドシリーズでは2勝4敗で敗れ、2度目のワールドシリーズ優勝とはならなかった。 1996年は、ベル(48本)、トーミ(38本)、ラミレス(33本)による前年以上の強力なクリーンナップを形成し、99勝62敗と2年連続で地区優勝を遂げたが、ディビジョンシリーズでボルチモア・オリオールズに敗れた。1997年限りでベルが退団すると、代わりにマット・ウィリアムズ、デビッド・ジャスティスを獲得。ベルの抜けた穴を補って余りある活躍をみせ、3年連続の地区優勝を果たした。ディビジョンシリーズでは3勝2敗でヤンキースとの激闘を制し、続くリーグチャンピオンシップシリーズではオリオールズを4勝2敗で下してリーグ優勝を決めた。ワールドシリーズではフロリダ・マーリンズとの対戦となり、最終戦の延長までもつれ込む大熱戦となったが、結局第7戦の延長11回にサヨナラ負けを喫し、またしてもワールドシリーズ優勝はならなかった。 1998年、1999年も地区優勝を果たすが、いずれもプレーオフで敗れ(1998年はヤンキース、1999年はレッドソックスと対戦)、リーグ優勝はならなかった。なおこの間、本拠地ジェイコブス・フィールドでは満員御礼の試合が続き、1995年6月12日から2001年4月4日まで、「455試合連続入場券売切れ」という記録を作っている。 2000年にはハーグローヴに代わり、打撃コーチだったチャーリー・マニエルが監督に就任。 2001年には地区優勝を果たす。しかしディビジョンシリーズで、この年デビューしたイチロー擁するシアトル・マリナーズに敗退。 2002年には大きく負け越したため、マニエルはシーズン途中で解任された。この頃にはチームの主砲であるラミレス、トーミが相次いで移籍し、彼らに代わる若手選手の育成に力を注ぐこととなった。主力選手が抜けた穴は大きく、2002年からは3年連続で勝率5割を切るシーズンが続いたが、生え抜きのC.C.サバシアやビクター・マルティネス、2003年にテキサス・レンジャーズから移籍したトラビス・ハフナーといった若手選手も着実に力を伸ばした。 2005年は上記選手に加え、クリフ・リーやグレイディ・サイズモアの活躍もあり、ホワイトソックスと首位争いを繰り広げた。しかし最終的に93勝69敗で地区2位となり、ワイルドカード争いでもレッドソックスに敗れる形となった(この年にはホワイトソックスが88年ぶりとなるワールドシリーズ制覇を成し遂げ、これによって中地区ではインディアンスが最もワールドチャンピオンから遠ざかっているチームとなった)。 2006年は78勝84敗と負け越し、優勝争いに加わることなくシーズンを終えている。 2007年は開幕から首位を走り、シーズン中盤には独走態勢をとった。投手陣ではエースのサバシアと2年目のファウスト・カルモナが共に19勝をあげる活躍をみせ、打撃陣では30本塁打以上を放った選手はいなかったものの、マルティネスを中軸として効果的に得点を重ねた。またシーズン途中に復帰したロフトンも、シーズン終盤に足踏みしたチームの中で大きな存在となった。そして最終的に96勝をあげ、6年ぶりに地区優勝を果たした。しかしリーグチャンピオンシップシリーズではレッドソックスを3勝1敗と追い込むものの、そこから3連敗を喫してしまい、リーグ優勝はならなかった。 2008年はチーム状態のなにが悪いのか評論家も頭をひねるほどの悪循環にはまった。この年のサイ・ヤング賞を受賞したクリフ・リーがひとり気を吐く状態が続き、勝率5割をキープするのがやっとで夏前にはシーズンを諦めなくてはならない状態であった。 2009年の前評判ではア・リーグ中地区の優勝候補とする評論家も多く存在していたが、開幕5連敗を喫した後は主力に怪我が相次ぎ、早々にシーズンを諦めてトレードでクリフ・リー、ビクター・マルティネスらの主力を放出することとなった。9月には11連敗を喫し、カンザスシティ・ロイヤルズと並んでア・リーグ中地区最下位という2000年代最悪の成績に終わった。 2010年は、若い選手に育成を軸に再建を行ったが、オールスター前に脱落。クローザーのケリー・ウッド、エースのジェイク・ウエストブルックを放出し、最下位にはならなかったが、4位に終わった。 2011年は、これまで主にショートを守ったオーランド・カブレラをセカンドとして加え、守備の強化に成功すると、若い投手陣を軸に快進撃を進め、首位を独走するも長丁場を戦った経験のない若手が徐々にブレーキ。福留孝介、ウバルド・ヒメネス、かつての主砲・トーミを加えて有望株6人近く出す大出血トレードで勝負を賭けるも、二塁を守ったカブレラが移籍をすると大失速。若手の成長もあって80勝するも負け越し。 2位に終わるも、若いチームにとっては来シーズンにつながるきっかけになった。 2012年は、先発投手陣を整備し勝負を賭けたが、逆に先発陣が完全崩壊したのに続き、ブルペンも崩壊。打線も貧打に陥り4位に終わった。 2013年は、ボストン・レッドソックスの前監督だったテリー・フランコーナが監督に就任。チーム最高給だったトラビス・ハフナーらの退団によって浮いた資金を使ってニック・スウィッシャー、マーク・レイノルズ、マイケル・ボーン、ブレット・マイヤーズ、ジェイソン・ジアンビ、トレードで超有望株トレバー・バウアーの獲得に成功し優勝を狙える陣形を整えた。 2016年シーズンに開幕から快進撃を続け、フランコーナ監督の確実に点を取る野球でリーグ3位の31犠打とリーグ最多の60犠飛を記録。アメリカンリーグ2連覇中のロイヤルズのお株を奪うリーグ最多の134盗塁と機動力も身に着け、7月に世代交代を敢行していたヤンキースからミラーを獲得すると、リリーフ防御率がリーグ1位の3.32とリリーフ陣も安定。9年ぶりの地区優勝を果たした。ディビジョンシリーズでは東地区優勝のボストン・レッドソックスを3連勝でスイープし、アメリカンリーグ優勝決定シリーズではワイルドカードのトロント・ブルージェイズを4勝1敗で破り、1997年以来19年ぶり6度目のリーグ優勝となった。とくにミラーがすべてイニングまたぎの登板ながら無失点に抑え、リリーフとしては史上4人目の投手となった。しかし、迎えたシカゴ・カブスとの顔合わせとなったワールドシリーズでは、3勝1敗と先にワールドチャンピオンに王手をかけたところから3連敗を喫し、またしてもワールドシリーズ優勝を果たすことはできなかった。カブスの優勝によって両リーグでワールドシリーズ優勝から最も遠ざかっているチームとなった。 2017年8月24日のレッドソックス戦から勝ちを積み重ね9月13日のタイガース戦においてアメリカンリーグ新記録となる21連勝を記録。9月14日にはアメリカンリーグ連勝記録を22連勝に更新すると同時に、1935年のシカゴ・カブスを抜くMLB新記録となる22連勝を記録した。しかし、迎えたポストシーズンでは、ヤンキースに2連勝と先にリーグチャンピオンシップシリーズ進出に王手をかけた状況から3連敗を喫して敗退。2年連続のリーグ優勝を果たすことはできなかった。 ロベルト・アロマー (Roberto Alomar) アール・アベリル (Earl Averill) ハロルド・ベインズ (Harold Baines) バート・ブライレブン (Bert Blyleven) ルー・ブードロー (Lou Boudreau) スティーブ・カールトン (Steve Carlton) スタン・コベレスキ (Stan Coveleski) ラリー・ドビー (Larry Doby) デニス・エカーズリー (Dennis Eckersley) ボブ・フェラー (Bob Feller) エルマー・フリック (Elmer Flick) ジョー・ゴードン (Joe Gordon) アディ・ジョス (Addie Joss) ラルフ・カイナー (Ralph Kiner) ナップ・ラジョイ (Nap Lajoie) ボブ・レモン (Bob Lemon) アル・ロペス (Al Lopez) ジャック・モリス (Jack Morris) エディ・マレー (Eddie Murray) ハル・ニューハウザー (Hal Newhouser) フィル・ニークロ (Phil Niekro) サチェル・ペイジ (Satchel Paige) ゲイロード・ペリー (Gaylord Perry) サム・ライス (Sam Rice) フランク・ロビンソン (Frank Robinson) ジョー・シーウェル (Joe Sewell) トリス・スピーカー (Tris Speaker) ジム・トーミ (Jim Thome) ホイト・ウィルヘルム (Hoyt Wilhelm) デーブ・ウィンフィールド (Dave Winfield) アーリー・ウィン (Early Wynn) サイ・ヤング (Cy Young) 3 アール・アベリル (Earl Averill) - 外野手 5 ルー・ブードロー (Lou Boudreau) - 遊撃手、監督 14 ラリー・ドビー (Larry Doby) - 外野手(ア・リーグ初の黒人選手) 18 メル・ハーダー (Mel Harder) - 投手、コーチ 19 ボブ・フェラー (Bob Feller) - 投手 20 フランク・ロビンソン (Frank Robinson) - 外野手、監督 21 ボブ・レモン (Bob Lemon) - 投手 25 ジム・トーミ (Jim Thome) - 一塁手 42 ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson) - 全球団共通の永久欠番。 455 ザ・ファンズ (The Fans,ホームゲームで455戦連続で満員になった記念) クリーブランド・インディアンス殿堂(Cleveland Indians Hall of Fame)は少なくとも3シーズンをインディアンスで過ごし、引退してから1年以上が経過している選手が対象となる。プログレッシブ・フィールドのヘリテージパーク(歴史公園)に位置しており、ヘリテージパークにはフランチャイズの歴史を称えるブロンズの記念プラークなどが展示されている。 クリーブランド・インディアンス殿堂は1951年に設立され、2014年度の選考が終わった時点で40人が選出されている。太字はアメリカ野球殿堂入りも果たした人物。 アール・アベリル(1951年) ジョー・ジャクソン(1951年) メル・ハーダー(1951年) ナップ・ラジョイ(1951年) ジョー・シーウェル(1951年) トリス・スピーカー(1951年) サイ・ヤング(1951年) ハル・トラスキー(英語版)(1951年) ケン・ケルトナー(英語版)(1951年) スティーブ・オニール(英語版)(1951年) ルー・ブードロー(1954年) ビル・ブラッドリー(英語版)(1957年) ボブ・フェラー(1957年) ボブ・レモン(1960年) エルマー・フリック(1963年) サチェル・ペイジ(1965年) スタン・コベレスキ(1966年) ラリー・ドビー(1966年) ジム・ヒーガン(英語版)(1966年) アーリー・ウィン(1972年) ルイス・ソカレキス(2006年) レイ・チャップマン(2006年) ロッキー・コラビト(2006年) アディ・ジョス(2006年) アル・ロペス(2006年) サム・マクダウェル(2006年) アル・ローゼン(2006年) ハーブ・スコア(2006年) ジム・バグビー・シニア(英語版)(2007年) マイク・ガルシア(英語版)(2007年) チャールズ・ナギー(2007年) アンドレ・ソーントン(2007年) ジョー・ゴードン(2008年) マイク・ハーグローブ(2008年) サンディー・アロマー・ジュニア(2009年) ウェス・フェレル(2009年) ケニー・ロフトン(2010年) ゲイロード・ペリー(2012年) カルロス・バイエガ(2013年) オマー・ビスケル(2014年) チャーリー・ジェイミーソン(英語版)(2016年) フランク・ロビンソン (2016年) ジム・トーミ (2016年) インディアンスのチームマスコットには、1990年からスライダー(Slider)というピンク色の着ぐるみのマスコットが存在しているが、それ以前より球団ペットマーク等に使われている「ワフー酋長」という名前の、「歯を剥き出してにやつく赤い顔をした」インディアンキャラクターがある。 このキャラクターは「人種差別的なインディアンのステレオタイプである」として、「アメリカインディアン運動」(AIM)など多数のインディアン権利団体・個人が、「インディアンズ」のチーム名と共に、その意匠廃絶を求めて激しい抗議を半世紀近く行っているものであった。その結果、2018年シーズンを最後に廃止された。 ^ http://www.cbssports.com/mlb/story/11578622 ^ http://sports.espn.go.com/mlb/preview09/news/story?page=09expertpicks ^ “インディアンス、19年ぶり6度目リーグ優勝”. 日刊スポーツ (2016年10月20日). 2016年10月20日閲覧。 ^ 21 pilots! Tribe flying, win streak is AL record MLB.com (英語) (2017年9月14日) 2017年9月15日閲覧 ^ Extra Indians: Tribe's 22nd straight W wows! MLB.com (英語) (2017年9月14日) 2017年9月15日閲覧 ^ “Carlos Baerga, John Hart to be inducted into Cleveland Indians Hall of Fame” (英語). THE OFFICIAL SITE OF THE CLEVELAND INDIANS. MLB.com. 2014年2月18日閲覧。 ^ “Heritage Park at Progressive Field. Where Legends Live.” (英語). THE OFFICIAL SITE OF THE CLEVELAND INDIANS. MLB.com. 2014年2月18日閲覧。 ^ “Omar Vizquel will be inducted into Cleveland Indians Hall of Fame on Saturday, June 21” (英語). Cleveland.com. 2014年2月18日閲覧。 ^ インディアンス、ロゴの使用を中止へ 先住民への人種差別との抗議を受け 米メジャーリーグ メジャーリーグベースボール アメリカンリーグ 公式ウェブサイト チームの通算成績と情報 MLB, or  ESPN, or  Baseball-Reference , or  The Baseball Cube Cleveland Indians - Facebook indians (indians) - Instagram Cleveland Indians (@Indians) - Twitter", "ヒューストン・アストロズ(英語: Houston Astros、略称:HOU)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はテキサス州ヒューストンにあるミニッツメイド・パーク。 1962年のナショナル・リーグのエクスパンション(球団拡張)でそれまでの8球団から10球団に拡張されるに伴い、ニューヨーク・メッツとともにヒューストン・コルト45's(フォーティファイブス)として創設され、ナショナル・リーグに加盟した。1965年にヒューストン・アストロズに球団名を変えて現在に至っている。1980年、1981年には西地区2連覇、1996年から1998年にかけては地区3連覇など、地区優勝7回を誇るが、初のリーグ優勝はワイルドカードを獲得した2005年で、この年はワールドシリーズでは1勝も出来ずに敗退。2013年にアメリカンリーグ西地区へ転属。2017年に球団2度目のリーグ優勝。MLB史上初となるナショナルリーグ・アメリカンリーグ両方からのワールドシリーズ出場を果たし、ワールドシリーズも制覇した。 本拠地としたヒューストンが高温多湿の気候であり、蚊の発生などの問題に悩まされていたため、球団創設前から屋内型球場の建設が計画され、1965年に世界初のドーム球場であるアストロドームが建設された。また2000年に開場したエンロン・フィールド(現ミニッツメイド・パーク)も開閉式屋根付き球場である。 また1975年には、歴代で最も派手と言われるレインボーカラーのユニフォームが導入され話題を呼んだ。このレインボーカラーは1993年までチームカラーとして使用され、アストロズ特有のチームカラーとして親しまれた。レインボーと言われるが実際は、赤・朱色・オレンジ・黄色である。 アメリカ国内でも特に人種差別の根強いテキサス州を本拠地とするためか、かつては他球団に比べ白人選手の割合が非常に高く、2005年のワールドシリーズでも黒人選手が一人もいないスターティング・メンバーが波紋を呼び、物議を醸した。 2006年にはジェフ・バグウェル、2007年にはクレイグ・ビジオと、長らくチームを支えた2人が引退したため、チームの若返りが急務となっていた。その後、2010年代前半の低迷期の期間や直後にホセ・アルトゥーベやカルロス・コレアなど生え抜きの若手が主力選手に育ち、2017年のワールドシリーズ制覇につながっていった。 1962年、ナショナルリーグの球団拡張と同時にヒューストン・コルト45's(フォーティファイブス)として創設。名前は当時ヒューストンに存在した拳銃製造会社のコルト・ファイヤーアームズ社の代表的な拳銃であった「コルト・シングル・アクション・アーミー(コルト45ピースメーカー)」に由来する。「コルト45」拳銃は、19世紀後半の西部開拓の時代に評判となり大いに売れた拳銃で、映画やテレビ映画にも「コルト45」という題名があるくらいに有名な拳銃であった。 この年にはヒューストン・コルト45'sと同時にニューヨーク・メッツも創設され、この球団拡張によってナショナルリーグは8球団から10球団となった。当時はエクスパンション・ドラフトが充実しておらず、フリーエージェント制度がなく、リーグを代表するような長距離砲を獲得できず、メッツもコルト45'sも苦しいシーズンを乗り切らなければならなかった。 同年4月10日に最初の試合を本拠地であるコルト・スタジアムで行った。対戦相手にはシカゴ・カブスを迎え、11対2で初試合を初勝利で飾り、その後の3連戦を3連勝と幸先のいいスタートを切った。結局、初年度は64勝96敗を記録し、リーグ8位となった(リーグ9位はシカゴ・カブスで、最下位は同年に創設されたメッツで40勝120敗だった)。ハリー・クラフト監督の采配がよかったという見方が大半を占めた。翌1963年からスカウトが若手選手を中心に集め、年々その若手選手の活躍が目立つようになった。 1963年9月29日、メッツとの最終戦でジョン・パチョレック(ジム・パチョレックの実兄)がメジャーデビューし、3打数3安打3打点2四球2得点という成績を残した。しかし、故障などが祟って翌年以降はメジャー昇格が叶わず、この1試合に出場した限りで引退した。そのため、パチョレックは打率1.000を記録したまま引退した選手の中で、最も打数の多い選手としてメジャー史に名を残している。また、この試合で勝利投手となったジム・アンブリットが、翌年の4月8日に癌により33歳という若さで亡くなり、彼の背番号である32番はチーム初の永久欠番となった。 この頃、チームで活躍した選手には、後にシンシナティ・レッズでプレーし、ビッグレッドマシンの一員として知られるジョー・モーガンや、通算1920試合の出場で1665安打・291本塁打を記録し、後に永久欠番に指定されるジミー・ウィンなどがいたが、他球団に比べ戦力不足は否めなかった。1964年4月23日のシンシナティ・レッズとの試合で、投手のケン・ジョンソンがレッズ相手にノーヒッターを達成しながら0-1で敗戦投手になった試合は、この頃のチーム状況をよく表した試合の1つであろう。コルト45sはその後アストロズと名を改めるが、1968年まで90敗前後と大きく負け越すシーズンが続くこととなる。 1965年、地元にNASAの宇宙センターがあることから、アストロノーツ(宇宙飛行士)を縮めてヒューストン・アストロズに改名した(なおヒューストンにはNBAのヒューストン・ロケッツも存在するが、こちらの前身はサンディエゴが本拠地であり、その頃からロケッツという名称だったため、NASAが名前の由来というわけではない)。同年には世界初の屋内型スタジアムであるアストロドームが開場し、その近未来的な形から大きな注目を集めた。屋内型スタジアムが建設された背景には、地元ヒューストンの高温多湿な気候と、それに伴う蚊の大量発生が観客や選手を悩ましていたことがあげられ、これらを一挙に解決するための画期的な方法だった。結果的にアストロドームの開場によって、観客数はリーグ9位にもかかわらず前年の725,773人から2,151,470人まで増加し、商業的にも大きな成功を収めることとなった。 球団創設2年目位以降6年連続で90敗以上を記録し続けていたが、1969年には東西地区制が導入され、アストロズはナショナルリーグ西地区に移動。同年には81勝81敗を記録し、チーム史上初めて勝率5割に乗せるが、地区5位(6チーム中)に終わっている。その後は負け越しが続き、1972年には名将レオ・ドローチャーが監督に就任。再び勝率5割台に復帰し、一時期は優勝戦線に加わった。しかし、後半戦は失速し、優勝には手が届かず地区3位に終わった。 1975年1月5日にはノーヒットノーランを2回成し遂げ、通算104勝をあげていたドン・ウィルソンがヒューストンの自宅にてガス中毒事故により死亡するという悲劇が起こり、この年の4月には、ウィルソンの背番号である40番がチームの永久欠番となった。また、同年には赤・オレンジ・黄色・ネイビーからなるレインボーカラーのユニフォームが採用され、話題となった。このレインボーカラーは1993年までチームカラーとして導入され、そこからアストロズは「Rainbow Guts」という愛称で呼ばれることとなった。しかし、この年は64勝97敗と大きく負け越してしまい、地区最下位に沈んでしまった。また、シーズン途中にはビル・バードンに監督が交代している。そしてこの頃から上昇気流に乗り始めた 1976年6月15日、本拠地アストロドームでパイレーツ戦が予定されていたが、洪水のために審判、球場関係者、ファンが球場入りできず、グラウンド外のコンディション不良による試合中止というメジャー史上初の珍事が発生した(翌日からは通常通り試合が行われている)。 1979年、チームは開幕から首位を走り、7月4日の時点で2位レッズに10.5ゲーム差をつけた。この年のアストロズは、チーム本塁打数は49本、本塁打を10本以上打った選手は一人もいないという非力な打線だった。しかし、ホゼ・クルーズを初め、4人の選手が30盗塁以上を記録し、チーム盗塁数は190個を数えるなど、機動力野球で他チームを翻弄した。また、投手陣でもジョー・ニークロ、J・R・リチャードの両エースが活躍。兄フィル・ニークロと共にナックルボールの使い手として知られたニークロは21勝をあげ、最多勝を獲得。リチャードは防御率2.71・313奪三振で最優秀防御率と最多奪三振を獲得し、リチャードは右投手リーグシーズン新記録となった。しかし、その後はレッズが猛追。シーズン終盤で首位を明け渡し、最終的に1.5ゲーム差で地区優勝を奪われてしまった。リチャードは翌年に心臓疾患により引退した。 1980年、カリフォルニア・エンゼルスからノーラン・ライアンを4年450万ドルという当時では破格の契約で獲得。ライアンはメジャー初の100万ドルプレイヤーとなった。また、レッズからはジョー・モーガンがチームに復帰し、モーガンは経験豊富なベテランとしてチームを引っ張った。彼らの活躍もあってチームも勝利を重ね、最終的にロサンゼルス・ドジャースと同率首位に並んだ末、優勝決定戦に勝利し、球団創立19年目にして初の地区優勝を果たした。続くリーグチャンピオンシップシリーズではフィラデルフィア・フィリーズと対戦。第1戦以外はすべて延長戦による決着という激戦の末、2勝3敗で敗れ、リーグ優勝はならなかった。 1981年、ドジャースからドン・サットンを獲得。サットン、ライアンという当時のナ・リーグを代表する右腕投手が揃った。9月26日にはライアンが通算5度目のノーヒットノーランを達成し、サンディ・コーファックスの持つMLB記録を破った。また、自己最高となる防御率1.69を記録し、最優秀防御率も獲得した。同年にはストライキによって前後期制となり、アストロズは33勝20敗で後期優勝を飾る。プレーオフでは、前期優勝のドジャースとのディビジョン・シリーズに臨み、第1戦、第2戦と連勝したが、その後は3連敗を喫し、地区優勝はならなかった。 1983年4月27日にはライアンがウォルター・ジョンソンの持つ通算3509奪三振を抜き、通算奪三振のMLB記録を更新。 1986年にはマイク・スコットがスプリットフィンガード・ファストボールをマスターし、「見えない球をどうやって打つんだ!」と言われるほどの魔球だった。18勝10敗、防御率2.22、306奪三振を記録し、サイ・ヤング賞を受賞。スコットはこの年の9月25日にはノーヒットノーランを達成し、打線ではグレン・デービスが31本塁打を放ち、アストロズではジミー・ウィン以来となる30本塁打以上を記録した(本拠地のアストロドームは極端に本塁打が出にくい球場として知られ、アストロズの選手が25本塁打以上を記録するのも稀であった)。この年は彼らの活躍もあって2度目の地区優勝を果たした。続くリーグチャンピオンシップシリーズではメッツと対戦。共に2勝ずつをあげたが、第5戦、第6戦と共に延長の末に敗れ、リーグ優勝はならなかったが、マイク・スコットが2試合に登板し防御率0.50、2勝を記録し、この活躍が評価されMVPを受賞している。 その後、1988年限りで40歳を迎えていたライアンをテキサス・レンジャーズに放出。ライアンは翌1989年には16勝、301奪三振を記録し、この年には前人未到の5000奪三振を達成。その後300勝、2度のノーヒットノーランを達成するなど、その健在ぶりを示した。逆にチームは低迷し、1990年代中盤まで優勝とは縁のないシーズンが続いた。また、観客減にも悩まされるようになり、移転話も持ち上がったが、こちらは結局実施されなかった。 1988年にはクレイグ・ビジオ、1991年にはジェフ・バグウェルがメジャーデビュー。ビジオはデビュー当初は捕手だったが、その後は二塁手に転向し、メジャーを代表する名二塁手へと成長する。バグウェルはデビュー前にボストン・レッドソックスから獲得し、その独特の「ガニ股打法」で知られた。デビュー1年目には打率.294・本塁打15本・打点82という好成績でナ・リーグ新人王を受賞した。1990年には前年・前々年日本プロフェッショナル野球組織・セントラルリーグ加盟の読売ジャイアンツ属したビル・ガリクソン加入も翌年からはデトロイト・タイガースに。 1994年から1995年のMLBストライキによってシーズンが中断した1994年にはナショナルリーグ中地区に移動。監督にテリー・コリンズが就任し、チームカラーも長年親しまれてきたレインボーカラーから紺と金を基調としたカラーに変更された。この年にはバグウェルが打率.368・39本塁打・116打点という驚異的な成績を残し、ナ・リーグMVPを獲得。ビジオも39盗塁を記録し、盗塁王を獲得した。また、シーズンでは首位レッズに0.5ゲーム差の地区2位でシーズンを終え、翌1995年、1996年も地区2位となるなど、次第にチームも上位に進出する機会が多くなる。 コリンズ監督は口数が多く、ビジオらスター選手とはそりが合わず解任された。1997年には、ラリー・ダーカーが監督に就任したが、(メジャーでは異例である)18年間もテレビ解説者を務めた後の就任で采配や手腕を疑問視された。しかし、84勝78敗ながら久々の地区優勝を果たした。この頃にはビジオ、バグウェル、デレク・ベルの3人がチームの中軸として活躍し、キラーB's(キラービーズ、殺人蜂の意味でアフリカナイズドミツバチの俗称。3人の名字の頭文字が「B」で始まることから名づけられた)と呼ばれ、他球団から恐れられた。翌1998年は球団記録となる102勝60敗で地区優勝、トレード期限の7月31日にはランディ・ジョンソンを獲得した。1999年も97勝65敗をあげ、地区3連覇を果たした。しかし、いずれもディビジョンシリーズで敗退し、リーグ優勝は果たせなかった。 2000年からは老朽化の進んでいたアストロドームから開閉式屋根付き球場であるエンロン・フィールド(現在のミニッツメイド・パーク)に本拠地を移した。またこれに伴い、チームカラーもレンガ色と黒を基調としたカラーとし、ロゴデザインもレトロチックな流麗なものに変更するなど、これまでの近未来を意識したデザインからの脱却を図った。 2001年に再び地区優勝を果たすが、またしてもディビジョンシリーズで敗れた。この年にはランス・バークマンが頭角を表し、スイッチヒッターとしてメジャー初の50二塁打、30本塁打を同時に達成。ベルに代わってビジオ、バグウェル、バークマンによるキラーB'sを形成した。翌2002年からはダーカーに代わり、ジミー・ウィリアムスが監督に就任するが、2002年、2003年と地区2位に終わった。 2004年、引退宣言を撤回したロジャー・クレメンスとアンディ・ペティットの両投手がチームに加入。クレメンスは18勝4敗を挙げ、歴代最多(7度目)、最年長(42歳)、最多球団(4球団)となるサイ・ヤング賞を受賞した。また、この年のシーズン途中にはカルロス・ベルトランもチームに加わり、ビジオ、バグウェル、バークマン、ベルトランによるキラーB'sとジェフ・ケントの5人が20本塁打以上を記録した。シーズン途中には、ウィリアムスからフィル・ガーナーに監督が交代し、地区2位ながらワイルドカードを獲得。リーグチャンピオンシップシリーズに駒を進めたが、同地区のセントルイス・カージナルスに3勝4敗で敗れた。 翌2005年は、前年20勝をあげ、最多勝を獲得したロイ・オズワルト、クレメンス、ペティットによる強力先発陣がフル稼働し、2年連続でワイルドカードを獲得。リーグチャンピオンシップシリーズでは再びカージナルスとの対戦となったが、これを4勝2敗で下し、球団創設44年目にして初のリーグ優勝に輝いた。続くワールドシリーズではシカゴ・ホワイトソックスと対戦。どの試合も僅差ながら、4連敗を喫し、ホワイトソックスの88年ぶりのワールドチャンピオンに花を添えるだけとなった。 2006年には、カージナルスに次ぐ1.5ゲーム差で地区2位となったが、ワイルドカード獲得はならなかった。同年限りでバグウェルも引退を表明し、クレメンス、ペティットの両投手も共にヤンキースに移籍した。翌2007年はレンジャーズからFAでカルロス・リーを獲得したが低迷し、5月には12年ぶりの10連敗を喫するなど、7年ぶりに勝率5割を切って地区4位に沈んでしまった。6月28日のロッキーズ戦で球団史上初の通算3000本安打を達成したビジオはシーズン途中に引退を表明し、監督もガーナーからセシル・クーパーに交代。一方でハンター・ペンスが打率.322・17本塁打・69打点と好成績を残し、新人王投票でも3位に入るなど、世代交代を印象づけるシーズンとなった。 ビジオの後釜にはFAで松井稼頭央を、トレードでミゲル・テハダを獲得し、新たな二遊間を形成した。しかし、それ以降は低迷期に突入し、2011年はペンス、マイケル・ボーンを放出して若手に切り替えるも、球団創設初の3桁敗戦となる106敗という屈辱を味わった。 2012年にはフロントを大刷新。チームもクローザーであるマーク・マランソンを放出し、抑え不在の中、本格的に若手を切り替えるシーズンになる。クローザーのブレット・マイヤーズをホワイトソックス、主軸のリーをマイアミ・マーリンズへとそれぞれ放出。7、8月は大型連敗の繰り返しでブラッド・ミルズ監督を途中解任。新鋭ホセ・アルトゥーベ二塁手の孤軍奮闘も実らず、昨年を上回る107敗を喫して2年連続最下位に沈み、後味の悪い最後のナ・リーグを終えた。 2010年11月19日、ドレイトン・マクレーンオーナーが、球団売却の方針を明らかにした、と、大リーグ公式サイトなどが報じた。 2011年5月16日に、マクレーンがヒューストンの実業家を中心とする投資家グループに約6億8000万ドル(約551億円)で売却することで合意に達したと、複数の米国メディア複数が報じた。 2013年からアストロズはナショナルリーグ中地区からアメリカンリーグ西地区へ移動することになった。リーグ再編は1998年にミルウォーキー・ブルワーズが移動して以来のことで、ナショナルリーグからの離脱は1899年オフにクリーブランド・スパイダーズ、ルイビル・カーネルズ、ワシントン・セネタース(現在のミネソタ・ツインズ及びテキサス・レンジャーズとは無関係)、ボルチモア・オリオールズ(現存球団とは無関係)の4チームが球団削減策により解散して以来のことである。ア・リーグ初年度は終盤に15連敗を喫するなど大不振、全球団で最多の三振を喫し、3年連続100敗以上の111敗で最下位に沈んだ。 2014年シーズンは、開幕前にFAのスコット・フェルドマン、チャド・クオルズを獲得したり、トレードでデクスター・ファウラーを獲得した。このシーズンは70勝92敗で地区4位なり、4年ぶりに地区最下位を免れた。若手の台頭が顕著で、ホセ・アルトゥーベは打率.341 盗塁56個 安打数225で首位打者、盗塁王、最多安打の3つのタイトルを獲得した。3年前のドラフト1巡目指名のジョージ・スプリンガーがデビューした。ダラス・カイケルが初めて200イニングに到達し、メジャー3年目のコリン・マクヒューもブレイクした。MLBの専門家の中には、「2017年にアストロズはプレーオフに行くことができる」と評している者もいた。事実、チームは2017年にリーグ優勝し、球団史上初のワールドシリーズ制覇を果たした。 2015年、シーズン前に積極的な補強を行い、抑えのルーク・グレガーソン、セットアッパーのパット・ネシェック、長打力のあるハンク・コンガー、コルビー・ラスムス、エバン・ガティス、ルイス・バルブエナ、ジェド・ラウリーなど新たに10人を獲得して、4月から5月にかけて10連勝を記録し、予想を覆し首位を走っていた。しかし、大型連敗をする時期もあり、安定しているとは言えないが、6月に2012年ドラフト全体一位のカルロス・コレアがメジャーに昇格し、目覚ましい活躍をしており、先発投手のランス・マッカラーズもデビューしてまずまずの成績を残している。7月にはアスレチックスからスコット・カズミアー、ブルワーズからマイク・ファイヤーズをトレードで獲得し、コマ不足と言われていた先発投手の補強に成功した。カルロス・ゴメスもトレードで獲得した。9月には、レンジャーズと激しい首位争いを繰り広げるも、終盤に入ってからレンジャーズが追い上げる一方でチームは徐々に失速し、レンジャーズに首位を明け渡してしまう。そして最終戦に持ち込みながらもレンジャーズに西部地区優勝を攫われ、ワイルドカード2位で滑り込みリーグ優勝を果たし、当時はナショナルリーグだった2005年以来10年ぶりのポストシーズン進出を果たした。ニューヨークで行われた東部地区に所属するヤンキースとのワイルドカード進出決定戦で田中将大をラスムスとゴメスの2発で沈ませ、10年ぶりの地区シリーズ進出を果たした。続く地区シリーズではカンザスシティ・ロイヤルズに対し、優勝決定シリーズまであとアウト6個の場面から、痛恨のエラーもあり逆転され2勝3敗で敗退した。だが、ワールドチャンピオンを果たしたチームに対して最終戦まで持ち込んだともいえる。二年前まで3年連続100敗していたとは思えないチームの躍進であり、来季以降にもつながるシーズンとなった。 2017年シーズンは青木宣親をマリナーズから、ブライアン・マッキャンを世代交代を図るヤンキースから獲得。5月30日の敵地ツインズ戦では8回までに2-8とリードされながら一挙11点を奪って16対8と当時シーズン19回目の逆転勝ち。8回までに6点差以上つけられた試合は659回あり、全敗していたが660回目にして初勝利を挙げた。青木はシーズン途中でトロント・ブルージェイズへ移籍したが(その後さらにニューヨーク・メッツへ移籍)、アルトゥーベやコレアなどによって強力な打線が構築された結果、チームはレギュラーシーズンで101勝を挙げ、ア・リーグ移籍後初となる地区優勝を果たす。その後出場したディビジョンシリーズではボストン・レッドソックスを、リーグチャンピオンシップシリーズではニューヨーク・ヤンキースをそれぞれ下し、チームとしては12年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではロサンゼルス・ドジャースと対戦。アストロズはMLB史上初めて、ナショナルリーグ、アメリカンリーグ双方からワールドシリーズ進出を果たしたチームになった。第1戦は敗北するも、続く第2戦は延長戦の末に勝利。前回出場した2005年のワールドシリーズでは1勝もできないまま敗退した為、これがチームにとってワールドシリーズ初勝利となった。第5戦で延長10回の乱打戦をアレックス・ブレグマンのサヨナラ打の末に13対12で勝利し、初のワールドシリーズ制覇に王手をかけると、3勝3敗のタイに持ち込まれた後の最終第7戦でダルビッシュ有から初回僅か3球でワールドシリーズ第4戦からの3試合連続ホームランを放ったスプリンガーが出塁し、続くブレグマンの打席で一二塁間のゴロだったのがファーストのコディ・ベリンジャーの送球とダルビッシュのカバーが合わずに悪送球となりエンタイトルツーベースで先制。ブレグマンも2塁に進塁するとアルトゥーベの打席ですかさず盗塁。そのアルトゥーベがファーストゴロを放ち初回2点を奪う。2回に先頭のマッキャンがフォアボールで出塁し続くマーウィン・ゴンザレスがツーベースヒットで無死2塁3塁。レディックは打ち取ったもののランス・マッカラーズ・ジュニアがセカンドゴロで3点目。そして1死3塁でスプリンガーがワールドシリーズ史上初の4試合連続ホームランで勝負あり。5対1で勝利し、球団史上初のワールドチャンピオンに輝き、9月の「ハーヴィー」で甚大な被害を受けた地元ヒューストンのファンに最高の形で恩返しした。 ジェフ・バグウェル (Jeff Bagwell) クレイグ・ビジオ (Craig Biggio) ネリー・フォックス (Nellie Fox) ランディ・ジョンソン (Randy Johnson) エディ・マシューズ (Eddie Mathews) ジョー・モーガン (Joe Morgan) ロビン・ロバーツ (Robin Roberts) イバン・ロドリゲス (Ivan Rodriguez) ノーラン・ライアン (Nolan Ryan) ドン・サットン (Don Sutton) 5 ジェフ・バグウェル (Jeff Bagwell) - 一塁手。 2007年8月26日より 7 クレイグ・ビジオ (Craig Biggio) - 二塁手。 2008年8月17日より 24 ジミー・ウィン (Jimmy Wynn) - 外野手。 2005年6月25日より 25 ホゼ・クルーズ・シニア (Jose Cruz Sr.) - 外野手。 1992年より 32 ジム・アンブリット (Jim Umbricht) - 投手。 1965年より 33 マイク・スコット (Mike Scott) - 投手。 1992年より 34 ノーラン・ライアン (Nolan Ryan) - 投手。 1996年より 40 ドン・ウィルソン (Don Wilson) - 投手。 1975年4月13日より 42 ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson) - MLB全球団共通。 1997年4月15日より 49 ラリー・ダーカー (Larry Dierker) - 投手・監督。 2002年5月19日より ^ a b c d e f g h i j k 伊東一雄「大リーグ球団史20 ヒューストン・アストロズ」『月刊メジャー・リーグ』1999年6月号、ベースボールマガジン社、1999年、雑誌 08625-6、64 - 66頁 ^ “米大リーグ・アストロズ身売りへ、オーナー表明”. 読売新聞. (2010年11月20日). オリジナルの2010年11月23日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101123104501/http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20101120-OYT1T00264.htm 2010年11月22日閲覧。  ^ “大リーグ:アストロズ売却で合意”. 毎日新聞. (2011年5月17日). オリジナルの2012年7月10日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/20120710003306/http://mainichi.jp/sports/?inb=fs  ^ “アストロズ ア・リーグ編入 シーズン通し交流戦実施へ”. スポーツニッポン (2011年11月19日). 2012年6月16日閲覧。 メジャーリーグベースボール アメリカンリーグ 公式ウェブサイト(英語) チームの通算成績と情報 MLB, or  ESPN, or  Baseball-Reference , or  The Baseball Cube Houston Astros - Facebook Houston Astros (astrosbaseball) - Instagram Houston Astros (@astros) - Twitter", "マイアミ・マーリンズ(英語: Miami Marlins、略称:MIA)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ東地区所属のプロ野球チームで、フロリダ州マイアミにあるマーリンズ・パークを本拠地としている。 MLBの球団拡張政策により、1993年にコロラド・ロッキーズと共に誕生。歴史はまだそれほど長くないが、これまでワールドシリーズに1997年、2003年に進出して、いずれも世界一に輝いている。しかし、(後に詳述するように)1997年、2005年、2012年、2017年とわずか20年ほどの間に4回もの「ファイヤーセール」を決行しており、このことから「スター選手を放出することで解体と再構築を繰り返してきた球団」「スター選手の切り売りが悪しき伝統(として根付いている)」と評されている。実際、ファイヤーセールで放出した選手は、ゲイリー・シェフィールド、ジョシュ・ベケット、ホセ・レイエス、ジャンカルロ・スタントンなど、その時々での球界を代表する選手が多く名を連ねている。これがファンがチームに対して愛着が持てず、地元の人気を得られない原因と指摘されている。 マーリンズの経常利益はMLB30球団のうち1位である。これは市場は小さいが、選手へ払う年俸も安い、更に総年俸が安いためにMLBから支給されるレベニュー・シェアリングや贅沢税の分配金を多く獲得出来るからである。 「マーメイズ」というチアリーディング・チームがある。これはMLB球団では唯一の存在である。また新たに「マナティーズ」という太った男達による応援団も結成された。 また、北海道を拠点にしている社会人野球のクラブチーム、トランシスと業務提携をしている。 NFLマイアミ・ドルフィンズのオーナーを務めるウェイン・ハイゼンガー(レンタカー・ビデオショップチェーン経営)が「マイアミは野球のキャンプ地にはなるが、ホーム・チームがないのはいかがなものか」として1993年にフロリダ・マーリンズの球団名で誕生した。 1年目は観客動員数300万人を達成。西武ライオンズで5番を打っていたオレステス・デストラーデが加入している。しかし、翌年以降早くも客足が遠のく。このため1995年よりFA市場にも積極的に乗り出して選手の補強に努める。その結果、総年俸が膨れ上がり球団経営を圧迫。このため、ハイゼンガーはマーリンズ専用の新球場の建設を地元自治体に求め、要求が聞き入れられない場合は身売りすることも公言していた。 監督にジム・リーランドを迎えた創設5年目の1997年、ワイルドカードでプレーオフに進出。クリーブランド・インディアンスを破りワールドシリーズを制覇して世界一を達成する。 しかし、ハイゼンガーは1997年シーズン途中で身売りを決定していた。チームはワールドシリーズ制覇後、シーズン終了後にエース格のケビン・ブラウン、抑えのロブ・ネン、主力打者のモイゼス・アルーなどを、翌1998年シーズン途中にはチームの主力打者であるゲイリー・シェフィールド、ボビー・ボニーヤを次々と放出する「ファイヤーセール」を行う。このため総年俸は1997年の5300万ドルから1300万ドルにまで激減させた。若手中心のチーム作りを目論んだが、1998年には54勝108敗で最下位に転落した。 1999年より、投資家として成功していたジョン・W・ヘンリーがチームを買収し、マーリンズのオーナーとなる。ヘンリーは旧来的な考えが根強いアメリカ球界で、セイバーメトリクスに基づいた合理的な球団運営を行えば成功できると考えていたが、球団の実情はヘンリーが想像していた以上に深刻だった。そのため早くも身売りを目論む。 2002年、オーナーのヘンリーはボストン・レッドソックスに乗り換えるべくモントリオール・エクスポズのオーナーだったジェフリー・ローリア(現オーナー、ニューヨークで画商を営む)が買うという球団の三角売買が行われた。その結果、球団創設時からGMを務めたデーブ・ドンブロウスキー(現:レッドソックス)も放出され、GM以下、スタッフはエクスポズのメンバーで占められることになった。選手もティム・レインズ親子が入団、2001年9月からはエクスポズから移籍したラリー・ベインフェストが球団共同代表に就任し、エクスポズ色の強いチームになった。 2003年はシーズン途中から監督に就任したジャック・マキーオンの下、ワイルドカードでプレーオフへ進出してリーグ優勝を達成。ワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースを4勝2敗で破り、2度目の世界一に輝く。しかしこの時も、直後のオフシーズンでデレク・リーをトレードへ放出するなど主力選出の放出、FA移籍が相次いだ。 2005年シーズン終了後に監督のマキーオンが退任、カルロス・デルガド、フアン・ピエール、ジョシュ・ベケットなど、主力選手のほとんどをトレード(一部選手はFA)で放出する2回目の「ファイヤーセール」を敢行して、残った主力はミゲル・カブレラ、ドントレル・ウィリスなどごく少数だけになった。MLBでは破格の1500万ドル程度という安さのチーム年俸総額となる(これは当時デレク・ジーター一人の年俸にも及ばなかった)。これについては主に球界からは年俸削減と多数の若手有望株の獲得を同時成功させたラリー・ベインフェストGMを評価する声が上がっている。しかし、メジャーでの実績がほとんど無い選手が大半を占めるメンバー構成、そして、「どうせ近々移転してしまう」という諦めムードもあり、残っていたファンも大半が愛想を尽かし、観客動員はより一層減少してしまった。 2006年、監督に元ニューヨーク・ヤンキースの捕手ジョー・ジラルディが就任。5月末時点では11勝31敗と借金20を抱えていたが9月3日には勝率を5割に戻し、最終的には地区4位に終わったものの一時はワイルドカード争いに顔を出すまでの追い上げを見せた。20もの借金を抱えたチームが一時的であれ勝率5割まで持ち直したのは、1899年のルイビル・カーネルズ(ホーナス・ワグナーで有名)以来107年ぶりの快挙だった。しかし、ジラルディはオーナーと真夏の試合中に口論し、機嫌を損ねたオーナーにシーズン終了後に解雇された(後にヤンキースの監督に就任)。 2007年オフには、ついにミゲル・カブレラ、ドントレル・ウィリスをデトロイト・タイガースに放出。チーム年俸総額の半分弱を占めていた両選手の放出により年俸総額は約3000万ドルから約1600万ドルまで減り、タンパベイ・レイズの約2400万ドルを「抜いて」年俸総額はMLB最下位となった。 2008年、2009年とMLB最下位の年俸総額ながら2年連続で勝ち越し、2009年はシーズン終盤までワイルドカード争いに加わるなど健闘を見せたが、あまりにも資金を出し渋る球団に対して「(低年俸球団に分配金が与えられる)収益分配制度を悪用している」という批判の声が高まり、2010年1月には遂に、メジャーリーグ選手会と、コミッショナーのバド・セリグに年俸総額の引き上げを約束させられる異例の事態に発展した。 2011年、ジャック・マキーオンが監督代行に就任。しかし故障者が続出し、4年ぶりの最下位に終わった。 球団発足から2011年まで使用していたサンライフ・スタジアム(旧称ドルフィン・スタジアム)は街外れで不便な上、風雷雨にさらされやすい気候にも拘らず屋根が無いため、2011年シーズンは雨天中止が一番多かった。また、本来アメリカンフットボール用のため、座席の配置(座席が本塁ではなくフィールド中央を向いている)・フィールドの仕様などを見ても、野球に適した競技場ではなかった。 移転の噂が囁かれる中、2007年12月18日に新球場を含めた公共施設の建設計画が承認され、2月中にも正式契約を結ぶ運びとなった。新球場マーリンズ・パークは開閉可能な屋根付きで、37,000人収容。建設費用は約5億2500万ドルでマイアミ・オレンジボウル跡地に建てられた。当初は2011年シーズンにオープン予定であったが、着工の遅れから2012年3月5日に開場した。 本拠地の完成にともない、球団は2012年よりマイアミ・マーリンズに改称。監督には前年までシカゴ・ホワイトソックス監督であったオジー・ギーエンを迎えた他、2010年の最優秀救援投手ヒース・ベルや2011年の首位打者ホセ・レイエスを獲得するなどの大型補強を行い、新球団名でのシーズンを迎えたが、69勝93敗でナショナルリーグ東地区最下位に終わり、ギーエンは解任された。新監督には球団OBのマイク・レドモンドが就任した。 また選手についても、長年チームの主力選手であったハンリー・ラミレス、アニバル・サンチェスがシーズン中にトレードで放出されたほか、11月には「大型補強組」だったレイエス、マーク・バーリー、生え抜きのジョシュ・ジョンソンなど主力5選手を一気にトロント・ブルージェイズにトレードで放出、同じく「大型補強組」のベルをアリゾナ・ダイヤモンドバックスにトレードで放出するなど、前オフの大型補強から一転、球団史上3回目の「ファイヤーセール」が行われる形となった。この放出劇に対しては(単なるファンというだけでなく、新球場の建設費を自分たちの納めた税金で負担した)地元住民から「裏切り」として大きな反発が起こったほか、メディアからも一斉にオーナーのローリアを非難する声が上がった。また、チームの主砲であるジャンカルロ・スタントンも自身のツイッターで球団に対する怒りを爆発させている。 新球団名2年目の2013年もファイヤーセールによってチームが瓦解し、62勝100敗とワイルドカード争いはおろか、ナショナルリーグ東地区でも最下位に沈んだ。 2014年は、前年度の不振から最下位予想が多かったものの、前年度東北楽天ゴールデンイーグルスに所属し、MLBに復帰したケーシー・マギーが球団史上初となるカムバック賞を受賞、外野手のマーセル・オズナ、クリスチャン・イエリッチがレギュラーに定着するなど若手が健闘し、ワイルドカード争いには加われなかったものの、77勝85敗と最下位を免れた。 2015年、ロサンゼルス・ドジャースからディー・ゴードン、ダン・ヘイレン、ミゲル・ロハスをアンドリュー・ヒーニー、クリス・ハッチャー、エンリケ・ヘルナンデスとのトレードで獲得。マギーをサンフランシスコ・ジャイアンツにトレードし、ケンドリー・フローレス、ルイス・カスティーヨを獲得。また、ヤンキースからFAのイチローを獲得し、球団史上初の日本人選手が所属。これにより、日本人選手が所属したことのないMLBの球団はシンシナティ・レッズだけになった。 2015年5月17日、編成本部長のマイケル・ヒルは、監督のマイク・レドモンドとベンチコーチのロブ・レアリーの解任を発表し、翌18日にGMのダン・ジェニングスの監督就任とマイク・ゴフのベンチコーチ就任を発表した。 2015年10月29日、編成本部長のマイケル・ヒルは、ドン・マッティングリーを4年契約で監督に迎え、自らゼネラルマネージャーの職務を兼任することを発表した。 2017年、元ニューヨーク・ヤンキースのデレク・ジーターと実業家のブルース・シャーマンを中心とする投資家グループによって買収され、9月27日のMLBオーナー会議で承認された。10月3日、ジーターが最高経営責任者(CEO)に就任した。 就任当初から、チームの年俸総額を削減する方向性が示唆されていたが、シーズンオフに突入すると、ジャンカルロ・スタントン、ディー・ゴードン、マーセル・オズナ、クリスチャン・イエリッチと4人もの主力打者を次々とトレードで放出する球団史上4回目の「ファイヤーセール」を決行した。特にイエリッチの放出は、直近のレギュラー外野手が3人全員トレードで放出という異常事態になったこともあり、「球団史上最悪のバーゲン」「前代未聞の大解体」と報道されるほどであった。 先述のように、球団の創設年は1993年で、まだ歴史はそれほど長くないが、1997年、2005年、2012年、2017年と、およそ20年間の間に4回もの「ファイヤーセール」(大安売り)と呼ばれる主力選手の大放出を決行している。下記に、主なトレード放出を挙げる(当該選手の項目を併せて参照)。 1997年 ケビン・ブラウン(サンディエゴ・パドレスにトレード。通算211勝、最多勝1回、最優秀防御率2回。1996年、1997年と2年連続で開幕投手を務めて、この年は16勝を挙げてエース格として活躍。) ロブ・ネン(サンフランシスコ・ジャイアンツにトレード。通算314セーブ、最多セーブ投手1回。1994年のシーズン途中から3年半もの間、チームのクローザーを務めて、この年は35セーブを挙げた。) ゲイリー・シェフィールド(ロサンゼルス・ドジャースにトレード[1998年のシーズン途中]。通算2689安打、首位打者1回。1996年に当時の球団記録となる42本塁打でシルバースラッガー賞を受賞。) 2005年 ジョシュ・ベケット(正三塁手であったマイク・ローウェルと共に、ボストン・レッドソックスにトレード。通算138勝、最多勝1回。2003年から3年連続で開幕投手を務めて、2003年にはワールドシリーズMVPに輝いた。) カルロス・デルガド(ニューヨーク・メッツにトレード。正捕手であったポール・ロデューカも程なくしてトレードでメッツへ放出された。通算2038安打、打点王1回。在籍はわずか1年間であったが、打率.301、33本塁打で主力打者として活躍。) フアン・ピエール(シカゴ・カブスにトレード。通算2217安打、盗塁王3回、最多安打2回。正中堅手として2003年の世界一に貢献、この年は盗塁王に輝く活躍であった。) ルイス・カスティーヨ(ミネソタ・ツインズにトレード。通算1889安打。生え抜き選手であり、在籍10年間で盗塁王に2回輝く。長く正二塁手を務めて、出場試合数1127試合は当時の球団記録であった。) 2012年 ホセ・レイエス(トロント・ブルージェイズにトレード。首位打者1回、盗塁王3回。正遊撃手を務めていた。マーク・バーリー、ジョシュ・ジョンソンというエース格の2投手、正捕手であったジョン・バックなど主力4選手と共にトレード放出された。) ヒース・ベル(アリゾナ・ダイヤモンドバックスにトレード。通算168セーブ、最多セーブ1回。クローザーを務めていた。) ハンリー・ラミレス(ロサンゼルス・ドジャースにトレード[2012年のシーズン途中]。6年半在籍して、2009年には首位打者に輝いた。長く正遊撃手を務めていたが、2012年は三塁手にコンバートされていた。) 2017年 ジャンカルロ・スタントン(ニューヨーク・ヤンキースにトレード。生え抜き選手で、在籍8年間で本塁打王2回。2017年は59本塁打で本塁打王に輝いたことと共に、ナショナルリーグMVPにも輝く活躍であった。正右翼手を務めていたが、正左翼手のマーセル・オズナ、正中堅手のクリスチャン・イエリッチも程なくしてトレード放出されて、直近のシーズンでのレギュラー外野手が3人全員退団する事態になった。) ディー・ゴードン(シアトル・マリナーズにトレード。在籍3年間で盗塁王2回。正二塁手を務めていた。2017年は60盗塁で、自身3回目の盗塁王に輝いた。) この他にも、2007年にはミゲル・カブレラ、ドントレル・ウィリスという、当時の投打それぞれの軸をデトロイト・タイガースへと放出している。 上記のように、幾度にも及ぶファイヤーセールは、決行されるたびに物議を醸すこととなり、1997年のファイヤーセールでは、後に(一度は開催が決まっていた)2000年のMLBオールスターゲームの本拠地開催権が剥奪されてしまう原因になった(2017年に晴れてオールスターゲームの本拠地開催が叶った)。2005年のファイヤーセールでは、当時のレギュラーの野手陣のほとんどがトレードで放出された。2012年のファイヤーセールでは、前年のオフに補強したばかりのレイエス、バーリー、ベルを、在籍わずか1年で次々とトレード放出する姿勢が「投げ売り」と批判された。 2017年のファイヤーセールでは、直近のシーズンの本塁打王と盗塁王を次々とトレード放出する姿勢などから、「球団史上最悪のバーゲン」「前代未聞の大解体」「これはチーム再建のためではなく、年俸削減のためのただの売り切りだ」「負けることを願ってすらいる、敗退行為(に等しい)」などと批判を浴びた。 マイアミ・マーリンズの歴代監督一覧を参照。 アンドレ・ドーソン (Andre Dawson) トレバー・ホフマン (Trevor Hoffman) トニー・ペレス (Tony Perez)(アシスタント) ティム・レインズ (Tim Raines) イバン・ロドリゲス (Ivan Rodriguez) 16 ホセ・フェルナンデス (José D. Fernández) 42 ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson) - 全球団共通の永久欠番。 5 カール・バーガー (Carl Barger)(1993年 - 2011年) - チーム設立時、幹部として奔走したが、チーム初の開幕戦を前に急死。 Marlinとはマカジキのことで、ヘミングウェイの小説『老人と海』で老人が生死を賭けて戦った勇猛な魚に因む(『老人と海』の舞台はフロリダ半島南部のパイン諸島に位置するキー・ウェスト)。 なお、かつて同名のマイナーチームが存在した。 ^ 『スラッガー』2018年3月号、29頁~31頁。 ^ a b “MVPスタントン移籍の異常 マーリンズは「放出自体が目的」ヤンキースは「ハーパーより安い」”. Yahoo!ニュース. 2018年1月30日閲覧。 ^ Marlins pay heed, will increase payroll,ESPN(英語,2010/01/12),2010/04/01閲覧 ^ Bill Madden,Bug Selig targets small-market teams to spend revenue-sharing dollars on players,New York Daily News(英語,2010/01/16),2010/04/01閲覧 ^ Redmond is Marlins' choice to be manager The Official Site of The Miami Marlins 2012年11月2日閲覧 ^ Dave George: Miami Marlins betray their fans yet again www.palmbeachpost.com ^ スタントンが自身のツイッターに投稿したチームを非難する趣旨のツイート ^ Giancarlo Stanton is 'pissed off' and other Twitter reaction to the Marlins-Blue Jays blockbuster trade ^ “Dodgers acquire Howie Kendrick from Angels and three prospects from Marlins” (プレスリリース), MLB.com (Los Angeles Dodgers), (2014年12月11日), http://m.dodgers.mlb.com/news/article/103792118/dodgers-acquire-howie-kendrick-from-angels-and-three-prospects-from-marlins 2014年12月29日閲覧。  ^ “Giants acquire infielder Casey McGehee from Marlins in exchange for Minor League right-handed pitchers Kendry Flores and Luis Castillo” (プレスリリース), MLB.com (San Francisco Giants), (2014年12月20日), http://m.giants.mlb.com/news/article/104578118/giants-acquire-infielder-casey-mcgehee-from-marlins 2014年12月21日閲覧。  ^ “MLB 日本人選手が所属したことがないのはレッズだけに”. スポーツニッポン. 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ABC01-02-0210
今年3月に発足した中国の新国家体制で、国家主席になったのは胡錦濤ですが、首相になったのは誰でしょう?
温家宝
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[ "温家宝", "趙紫陽", "呉邦国", "王岐山", "朱鎔基" ]
[ "温 家宝(おん かほう、ウェン・チアパオ、1942年9月15日 ‐ )は、中華人民共和国の政治家。第6代国務院総理(首相)、第16期・第17期中国共産党中央政治局常務委員を務めた。中国共産党の第4世代では最高指導者の胡錦濤党総書記とともに重要な位置を占め、胡錦濤体制における党内序列は胡錦濤、呉邦国に次ぐ第3位であった。 1942年9月、中華民国の天津郊外の教員の家に生まれる。天津南開中学卒業後、1960年に北京地質学院(現・中国地質大学)へ入学。1965年4月、中国共産党に入党し、1968年に研究生課程を卒業、地質関係の技術者として働き始める。1968年から1978年までの間、甘粛省地質局に配属され、地質鉱産部門の技術員・行政指導員として業務に従事。1979年には甘粛省地質局副局長に就任。後に党総書記・最高指導者となる胡錦濤と同様に、当時の甘粛省委員会書記だった宋平によって抜擢された温家宝は、1982年、国務院の地質鉱産部政策法規研究室主任となる。 温家宝が甘粛省から北京の国務院に移った当時、共産党総書記であった胡耀邦は、若手の有能な人物の登用を進めていた。地質鉱産部長(大臣)の孫大光の賞賛を受けた温は、1983年10月、地質鉱産部副部長(次官)に就任。その後、胡耀邦によって抜擢され、1986年5月に党中央弁公庁主任となる。1993年に中央財経領導小組秘書長に転出するまで、温家宝は胡耀邦、趙紫陽、江沢民の3代の総書記の下で中央弁公庁主任を務めた。温は、この3人の総書記に仕えた唯一の人物である。1987年11月には党中央委員に選出され、党中央書記処候補書記となる。 趙紫陽に同伴する温家宝(1989年5月19日・写真中央右) 1989年5月19日、民主化を要求して天安門広場を占拠した学生たちと対話を試みるため、趙紫陽は彼らの下へ向かった。温家宝は趙に同行した(天安門事件を参照)。この趙の行動は「重大な反抗」とされ、趙は総書記を解任されて失脚、2005年1月の死まで自宅軟禁に置かれた。しかし温は、当時の立場や自己批判が考慮されたことで、天安門事件の余波を受けて失脚することもなく政治的に生き残った。 その後、1992年10月に党政治局候補委員・中央書記処書記となり、1997年には党政治局員となった。そして、1998年に朱鎔基内閣が発足すると、温家宝は金融・農業担当の国務院副総理に任命された。朱内閣において、温は経済、農業、財政、防災政策を監督し、中国の重要方針である世界貿易機関への加入の準備活動に従事した。温は1998年から2002年まで中央金融工作委員会(Central Financial Work Commission)の書記を務めた。 2002年11月15日、第16期党中央委員会第1回全体会議(第16期1中全会)において、胡錦濤指導部が発足。温家宝は政治局常務委員に選出された。政治局内での序列は第3位で、翌年3月に正式に発足する胡錦濤政権において温が国務院総理(首相)に指名されることが確実なものとなった。 2003年3月に開催された第10期全国人民代表大会第1回会議にて、温家宝は正式に国務院総理に就任した。共産党員や官僚の腐敗に対しては厳しい態度で臨んでいる。 総理となった温は改革開放を監督し、国家目標を、ほかの社会的目標(公衆衛生や教育など)とともに平等主義の富を重視した成長から何としてでも中国経済を成長させようという目標に転換した。加えて、中国政府は温の指導のもとで、環境や労働者の健康への被害を含む経済発展の社会的費用に焦点を合わせ始めた。この、より包括的な定義は「小康社会」(xiaokang society)に要約された。温の広範な経験と専門知識は、改革による過去20年間で除外された地方の経済を活性化させようという朱鎔基の農業政策のもとで議長を務めるあいだに培われた。当初寡黙で出しゃばらないと思われていた温は、「良き伝達者」、そして「人民の味方」として知られた。温は20年間の経済成長(とくに地方や中国の西方)で除外されたかに見えた人々に手を差し伸べるために多大な努力をしたと思われている。温家宝と胡錦濤の両者は、江沢民および中央政治局常務委員会で彼の保護下にある者、いわゆる「上海幇」を結成していた者たちとは異なり、広漠な中国国内での政治的基盤を強化した。人々は、「人民の味方」こと温家宝と胡錦濤、対する江沢民との対比に注意した。 頑健で直接的にものを言う前任の朱鎔基に比べ、穏やかで融和的な温は、合意に基づく政権運営を旨としていた。これは大きな信用を得たが、より厳格な政策決定を支持する者は、温の政権運営を批判した。温は中央政府の方針と一致しない上海市党委員会書記(当時)の陳良宇と衝突していたことが知られている。 温は総理に就任すると、まず公衆衛生問題に力を注いだ。総理就任直後に中国で発生したSARSの危機では、中国当局の怠慢を厳しく批判し、SARSの伝染防止に尽力した。また、雲南省と河南省で拡大していたエイズを中国発展にかかる大きな負担と捉え、同年11月から、中国の総理として初めてエイズの撲滅に公式に取り組みはじめた。2004年5月、温はエイズの被害に遭った地域を訪問し、その訪問の様子は全国のマスコミによって大きく報じられた。そして薬物依存症の問題にも取り組み、同年3月、中国南方にある複数の薬物依存治療施設を訪問して、国内のエイズが、性交渉よりもむしろ薬物乱用と皮下注射器の再利用によって蔓延しやすいことを認めた。 さらに温は地方の貧困の解決にも取り組んだ。温は頻繁に地方の比較的貧しい区域を視察したが、地方当局がしばしば行う貧困の事実の隠蔽を防ぐために、温の訪問先の決定は無作為に行われた。温は国務院の会議で、地方の経済格差の問題に取り組むことを明らかにした。党総書記の胡錦濤とともに、温は農業、農村地帯、農民のいわゆる三農問題について、研究と発展を要する分野であると強調した。胡温政権は、2005年に農業税を完全に廃止した。これは地方の経済モデルを大きく変えた大胆な手段であった。 外交では、台湾独立運動、チベット独立運動、そして中国の人権問題といった政治的に敏感な難題にしばしば直面した。2003年12月、温はアメリカ合衆国を初めて訪問した。この訪問では、大統領ジョージ・W・ブッシュに対して中華民国総統の陳水扁(当時)に対する非難を訴えた。続くカナダとオーストラリアへの訪問では、経済問題が主要議題に上った。なお台湾問題について、2005年3月15日、全国人民代表大会で2896の過半数(棄権2)であった反分裂国家法が可決された際、温は「我々は外国からの干渉を望まないが、それを恐れない」と述べ、アメリカの姿勢を言外に批判した。温は中国の標準にしては珍しく長い拍手を受けた。 2007年3月5日、温は軍事予算を増やすことを発表した。2007年末までの軍事予算は、前年の450億ドルと比較すると17.8%増加している。これはアメリカ国内で緊張状態を生んだ。 2007年の第17回党大会を前に、温が引退することと、陳良宇との衝突があったという噂が立った。一部の情報源では、温が疲労による引退を請うつもりであったことを示唆していたが、結局、温は総理の座にとどまり続けた。この党大会で胡錦濤が中国の今後5年間の方向性を示す政治報告を行ったが、温はその草稿を作成する責任を負った。 温は中国国民との直接対話を進めた。2005年の旧正月、温は山西省の炭鉱で炭鉱作業員の一団と過ごした。また、2008年1月の旧正月直前、大雪による雪害が中国を襲った。温は長沙と広州の鉄道駅を訪れると、帰省のために列車を長時間待っていた市民たちの怒りを鎮めるために演説した。このように国民との対話を重ねる温は、多くの人から、「国民の総理」であり、「人民主義者」であり、そして「一般人の需要を知り、理解している普通の国民」であると評価されている。彼の態度は一見誠実であり、温和であり、かつての周恩来と比較されることがある。 2008年3月16日、国務院総理に再選された温家宝は、急激に進行するインフレーションの抑制と、北京オリンピックの成功による中国の国威発揚に努力した。一方、同年にアメリカ合衆国で発生した経済危機(リーマン・ショック)が世界中に影響を及ぼすと、中国もそれを免れることはできず、温は深刻な経済問題に直面した。そのため、社会の安定に力を入れたが、2008年3月にチベットで発生した暴動では、政策面で大きな集中力が要求された。チベット騒乱のさなかの温は、「ダライ・ラマとその追随者が全ての分離独立活動を断念することを選ばない限り、彼らとの協議を拒否する」として、共産党政府の報道官として動いた。温が総理に再選された第11期全国人民代表大会第1回会議閉会後の記者会見(2008年3月18日)の場で、温はチベットでの暴動を受けてダライ・ラマ14世とその支持者を非難し、「ダライ・ラマが『チベット独立』を放棄し、『台湾を中国不可分の領土と認める』なら対話してもいい」と発言した。 2009年2月28日、温家宝は中国共産党政府の公式ウェブサイト『gov.cn』と『新華社ネット』が主催したビデオ会議でオンラインによる質問に答えた。温は政府の透明性と見解について公然と述べた。多数の中国人ネットユーザーから広範囲に亘る質問を受けた温は、大きな経済問題(世界的な財政破綻など)についての質問を選び、それに答えた。同年3月の第11期全人代第2回会議で、温は中国の経済成長が2009年には8%を割ることはないという声明を伝えた。温は、新しい景気刺激策を導入せず、中央政府の支出額1兆1800億人民元の一部が財政出動に充てられなかったという考察を重視しなかった。温は中国が保有するアメリカの財務省の負債について懸念を表明した。温はより変わった身振りで台湾訪問への関心も示し、「歩けなければ這ってでも行く」と述べた。 2011年1月24日、全国からの陳情を受け付ける北京市内の国家信訪局を訪問し、賃金の未払いや土地の強制収用などを巡る陳情者の訴えを直接聞いた。これは、中華人民共和国が建国されて以来初めてのことである。温は陳情者の切実な訴えに「私たちの政府は人民の政府であり、私たちの権力は人民が付与したものだ。人民の困難や問題を解決する責任がある」と述べ、対策を取る方針を示した。また、「すべての行政行為は社会からの監督を受ける必要があり、一切の行政権力は白日の下にさらされて運営されるべきだ」と、政治改革について踏み込んだ発言もした。かねてから温は言論の自由の緩和など、中国版ペレストロイカとも言える政治改革の必要性を主張してきた。しかし、一方で温は党内の保守派や既得権益を重んじる層(上海閥、太子党)から批判の矢面に立たされており、そして最終的には政治改革を訴える温家宝は権力闘争に敗れ、改革派とされる李克強を中国の次期党総書記(最高指導者)に据える事に失敗し、軍部や保守派が推したとされる習近平が胡錦濤の後継者に確定したという経緯が日本のマスメディアで報道されている。 2012年3月14日、全人代閉幕後の記者会見で、薄熙来への批判と思われる発言を行った。 2008年5月12日に四川大地震が発生した際、地震発生からわずか数時間で地震の被災地に向かったことで、温の人気はさらに上昇した。彼は災害後、直ちに地震救援活動事務局長に指名された。温の被災地への訪問を受けて、その姿は全国のマスコミに映され、「人民の総理」と呼ばれた周恩来と温家宝とを比較した多数のビデオが中国国内のブログにアップロードされ、その人気は著しく高まった。中国の指導者たちが、堅く、じっと動かずに座っているように見える姿が国営テレビに映し出されると、温の現場での姿と率直な性格は、中国国民から大きな支持を得た。海外メディアと同様にこの大地震の科学的予測の有効性がインターネットフォーラムにて考察された。温は科学的予測を発表しようとした唯一の中国の指導者として伝えられ、それを公表したが、強大な権限を持つ共産党常務委員会のほかの委員によって防がれた。 温家宝の政治的見解に関して、香港と台湾のジャーナリストと同様に、中国国内でもいくつか論争がある。記者会見の場では胡錦濤よりも多く姿を見せるため、彼らの全てを評価することは困難だが、温の観点を識別するのは胡よりも容易である。通常、中国内外のメディアは、温を普通の人々の要求に触れる「人民主義者」と信じている。最大の社会問題には、温の政策の種類として、社会調和に基づく政権の主要なイデオロギーである科学発展観(Scientific Development Concept)を規定している。政治改革に関する温の見解が何なのかは明らかにされてはいない。温は「中国では今後100年、社会主義制度が続くでしょう」と述べた にもかかわらず、のちに第十回全国人民代表大会2007 National People's Congressにて「民主主義は、社会主義制度の基本的な狙いの1つです」と述べた。 2008年9月のインタビューにて、温は独立した司法制度の構築を通して、人々からの批判を受け入れる政府のために、「本当に人々に属した」権限のために、中国の民主主義制度は改善する必要があることを認めた。 台湾に関しては、温は世評によれば段階的な交渉を信じている。新華社は2007年の早期に、温の名前で国家の発展についての記事をいくつか発表している。温は党の公式見解とは若干異なる視点を持っている徴候であると疑われた。 2007年9月、温は全国紙で詩を創作した。中国の将来についての彼の微妙に空想的な認識が紹介され、海外メディアで称賛された。 マスコミでの温の誠実な物腰にもかかわらず、指導者間の明快な分裂はない。知識人の一群は、温の人民主義的アプローチについて警告を発しており、中国の経済発展に影響を及ぼすと主張した。 2013年3月5日に開催された全人代で習近平の政治路線に批判的な発言を行った。 靖国神社参拝問題で温家宝は小泉純一郎との関係は悪く会談を拒否しており、2006年9月にヘルシンキでアジア欧州会議(ASEM)での小泉首相との接触の有無について言及し、「小泉首相が自らあいさつしてこられたので、私もあいさつしたが、接触はしていない」と述べた。 2007年4月11日、温家宝は日本を訪問した。温はこの訪日を「融氷之旅(日中の冷えきった政治的関係を氷に例え、その融解への旅)」と位置付け、「政冷経熱」の日中関係を打開する道筋をつけようとした。4月12日の国会での演説では「日本の過去への謝罪」を評価する一方で「それを行動で示すように」とした(靖国神社参拝の自粛を求めている)。また、温が演説原稿にあった「戦後、日本が平和発展の道を歩んだことを中国人民は評価する」内容の一節を読み飛ばしたこと について、日本の議員たちの間では「わざと抜いたのではないか」と憶測も飛んだ。中国外交部は後日「その直前にあまりに拍手が大きく沸き起こったので、うっかり読み飛ばしてしまった」と説明した。温は首相の安倍晋三(当時)とともに、日中国交正常化35周年イベントの歓迎レセプションに参加し、靖国神社参拝を肯定した安倍とは難なく友好ムードをアピールした。 今上天皇との会見では、「北京オリンピックの開会式に招待したい」と述べ、日本政府を困惑させた。さらに皇太子夫妻の北京オリンピック開会式への参加を招請した。しかし、江沢民時代からの愛国教育によって中国で反日感情が高まっていることを警戒した日本政府は、温家宝の要求を断っている。 主要政党の首脳や創価学会の池田大作とも会談している。最終日の4月13日には、日本で初めて孔子学院が開設された立命館大学を訪問し、「四庫全書」を寄贈した。 立命館大学を訪問した際、温家宝は学生と野球に興じたが、高山正之はこれを「自国向け」のパフォーマンスと見ている。すなわち、中国のテレビ局が温家宝の振る舞いを繰り返し放送することによって、反日感情が高まっている中国国民に対し、「日本と中国は本当は仲良しなのだ」ということを知らしめることを目的としたものだという。 2010年5月、温家宝は再び日本を訪れ、首相(当時)の鳩山由紀夫と会談した。 2011年5月21日に来日。東京で日本のアイドルグループSMAPと会談し、日中友好のための北京講演が実現された。 2010年9月7日、中国の漁船が日本の領海である沖縄県尖閣諸島付近で操業中に日本の海上保安庁の巡視船に発見され、停船を勧告されるも漁船は無視して逃走した。逃走の際、中国の漁船は海上保安庁の巡視船に衝突を繰り返し、巡視船2隻を破損させ、同漁船の船長は公務執行妨害で逮捕された。 日本の対応について中国側は激しい怒りを見せた。温家宝は、「不法拘束中の中国人船長を、即時無条件で釈放することを日本側に求める」と発言、中国人船長の即時・無条件解放を日本に要求した。国の首脳がこの問題に触れたのは初めてとされる。さらに温家宝は、「日本側が釈放しなければ、中国はさらなる対抗措置を取る用意がある。その結果についてすべての責任は日本側が負わなければならない」と日本を恫喝し、「日本側が早急に過ちを正し、中日関係を正しい道筋に戻すことは、両国人民の根本利益に合致するだけでなく、平和、協力という世界の潮流とも一致する」と述べた。また、アメリカ・ニューヨークで開かれた国連会議に出席した温家宝は、2010年9月21日の夜、現地の華僑や中国人留学生らとのレセプションの席で、漁船衝突事件で拘留されている中国人船長を直ちに無条件で釈放するよう求める談話を発表。温家宝は「最近日本は釣魚島で操業していた漁船と船員を拘留し、現在に至るまで船長を釈放せずに日本の国内法で処理しようとしている。これは違法かつ不条理であり、船員やその家族を大いに傷つけ、国内外の中華子女による強い憤りを引き起こした」「われわれは数度にわたって正しい道理のもとに日本に対して交渉を行ってきたが、日本側は聞く耳を持たない。このような状況では、われわれは然るべき対抗措置を採らざるを得ない。この場を借りて、私は日本政府に対して直ちに中国人船長を無条件で釈放することを強く求める」と改めて主張した。尖閣諸島を「釣魚島は中国の神聖な領土である」と強調し、「日本がわれわれの意見を聞かないのであれば、われわれは更なる行動に出る。これによってもたらされる一切の重大な損失は、日本がすべてその責任を負わなければならない」と、中国共産党政府による声明の内容をほぼ踏襲するもので締めくくった。 2010年10月5日の未明、ベルギー・ブリュッセルにて菅直人と会談した際、菅が尖閣諸島について「わが国固有の領土であり、領土問題は存在しない」としたのに対して、中国の外務省は、温家宝が「中国固有の領土だ」と主張したことを発表した。 2009年1月末から2月初めにかけて、温はヨーロッパを訪問した。2月2日、イギリスのケンブリッジ大学にて講演していたところ、会場にいた男から靴を投げつけられる騒ぎがあった。男は「ここに独裁者がいるぞ。彼が語る嘘をよく聞いていられるな。反論もしていないじゃないか」「どうして大学は独裁者に身を売ることができたのか?」 などと叫んでいた。講演は中断し、靴を投げた男は他の聴衆から非難され、会場から排除されたあとに地元警察に逮捕された。講演再開後、温は「我々は平和にやっている。男の行為が中英の友好を妨げることはない。調和は武力によって妨害されないと歴史が証明している」と述べ、講演の会場内の学生たちが拍手で応えた。拍手していたのは中国人留学生であった。中国国内では事件に関する報道を抑制していたが、インターネット上では温家宝支持とイギリス批判の書き込みが盛んにおこなわれた。2月3日、中国外交部は公式に批判声明を出した。ケンブリッジ大学は事件について公式サイトで謝罪表明を行った。 趣味はランニング。外遊に出た際も早朝のランニングは欠かさず行っている。また、以前は野球をやっていたとのことで2007年の来日の際に、立命館大学の学生と野球を楽しんでいた(ちなみに左投左打)。事故などの災害時に現地視察の際に、よく泣く姿が映し出されるため、しばしば「泣きの温家宝」と評される。「宝宝(宝ちゃん)」の愛称で呼ばれることもある。特権階級であるが中国内外において庶民的な人物というイメージを持たれており、「人民の総理」と評される。また、メディアに向かって優しい老人の姿を見せて国民の人気を得る一方で、政府の政策が国民の望むようなことを必ずしもしていないことから、「温家宝がメディアで見せる表情は芝居である」という意見が出され香港では2010年には『中国影帝温家宝』という評伝が出された。題名の「影帝」とは「電影の帝王」つまり「映画スター」・「名優」という意味であるが、「影の皇帝」という意味とも取れる。 幼い孫とテレビを一緒に視聴することがあるが、それに関して「孫と一緒に見るのはウルトラマンなど外国のアニメばかり。国産のアニメを育成しないといけない」と記者たちの前で発言した。日本や韓国のアニメ制作の下請けをしてる無錫市のアニメ制作会社を視察した際もオリジナルアニメの制作を奨励し、日中合作アニメ『チベット犬物語』の制作も支援した。 温は、ソーシャル・ネットワーキング・サービスのFacebookにプロフィールを持っていた。このサイトでの温は、プロフィールが2008年6月16日ごろに削除されるまでは有名な政治家上位5人のうちの1人であった。 温家宝は、六四天安門事件のきっかけにもなった胡耀邦元総書記を「師」と仰いでいる。2010年4月15日、温家宝は人民日報に胡耀邦を偲ぶ回想記を発表した。「胡氏が現場の状況を理解しようとしていたことは明白であり、『(指導者は)民衆の苦しみを子細に観察し、直接の資料を把握しなければならない』という胡氏の言葉が耳に残る」「清廉潔白で親しみやすかった姿が今でも懐かしさとともに思い浮かぶ」とした。温家宝は胡耀邦の死去の際に、入院先に真っ先に駆けつけたという。また、温家宝は毎年旧正月の時期になると胡耀邦の居宅を訪問し、胡耀邦の肖像画を見ることで仕事の原動力になる、と語った。 温は中国の早い経済成長、社会正義、そして公正さについて「艦隊の速さが測定されるのは、もっとも速い船ではなく、むしろもっとも遅い船であります」と述べている。 2003年3月、普段は控えめな温が『「私の脳はコンピューターのようだ」「実に多くの統計を私は記憶できる」と述べた』と、スイスの前駐中大使が伝えた。 夫人の張培莉との間に一男一女を儲けた。長男の温雲松は優創科技(中国)有限公司(Unihub Global Network)創業者、現在は中国衛星通信集団有限公司会長。 2010年12月30日、人民日報の見出しにおいて、温の名前を「温家室」と誤植した。 2016年4月27日、台湾基隆市の緑地で、「台湾英雄」として温の銅像の除幕式を開かれたが、市民からの猛反発を受け、銅像の撤去が決定された。 ^ ::温式微笑将给中国带来什么?温家宝的中国命题:: ^ VOA ^ China's Wen pledges stronger military(2007年3月8日時点のアーカイブ) ^ 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(2015年11月23日). http://www.asahi.com/articles/ASHCR5V9PHCRUHBI01H.html  『趙紫陽 極秘回想録』趙紫陽、バオ・プー、ルネー・チアン、アディ・イグナシアス(著)、河野純治 (訳)、光文社、2010年1月、ISBN 4334962106 『趙紫陽の夢みた中国』趙蔚(著)、玉華(訳)、徳間書店、1989年9月、ISBN 4195540283 『北京迷走―鄧小平・胡耀邦・趙紫陽の軌跡』田所竹彦、亜紀書房、1989年10月、ISBN 475058911X 『趙紫陽―中国共産党への遺言と「軟禁」15年余』宗鳳鳴(著)、高岡正展(訳)、2008年7月、ISBN 978-4828414416 クーデター 趙紫陽軟禁中的談話 学生たちのもとへ出向く趙紫陽", "呉 邦国(ご ほうこく、ウー・バングォ、1941年7月 - )は中華人民共和国の政治家。第8代全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長に相当)、第16期・第17期中国共産党中央政治局常務委員。 父・呉忠性(1912年-1998年)は軍隊知識分子。中国人民解放軍測総学院(現解放軍信息工程学院)教授。母・呉家琪は主婦。貴州部隊駐屯中に呉邦国が生まれている。全部で6人の子供がおり、呉邦国には兄と弟が各一人、3人の妹がいる。 1960年から1967年にかけて、清華大学無線電子学科真空トランジスタ学部に学ぶ。1964年4月に中国共産党に入党。大学卒業後は上海の国有企業である上海電子管第3工場技術員として就職し、昇進を重ねて課長となる。1976年からは同工場の党委員会副書記、革命委員会副主任、副工場長、工場党委副書記などを務める。 1978年、上海市電子工業素子副経理。1979年、上海市真空トランジスタ副経理。1981年、上海市儀表通信工業局党委副書記。 1983年、上海市党委常務委員、市委科学技術工作党委書記。1985年、上海市党委副書記。 1987年10月の第13回共産党大会において、党中央委員会候補委員に選出される。1991年、上海市党委書記に選出。 1992年10月の第14回党大会において党中央委員会委員に昇格するとともに、 同月19日の第14期1中全会において党中央政治局委員に抜擢され、さらに1994年9月の第14期4中全会において党中央書記処書記にも増補された。 1995年3月17日、国務院副総理に任命され、工業を担当。 1997年9月19日、第15期1中全会では党中央政治局委員に再選出されたが、党中央書記処書記を外れている。 2002年11月15日、第16期1中全会では党中央政治局常務委員および党中央政治局委員に選出され、翌2003年3月15日の第10期全国人民代表大会第1回会議において全国人民代表大会常務委員会委員長に選出された。 2013年3月、引退。後任の全人代委員長は張徳江。 夫人の章瑞珍(1944年-)はエンジニア。以前は上海飛楽有限公司計算機室幹部で、現在は、上海飛楽株式会総経理弁公室駐北京連絡処主任兼同株式会社上海董事、上海飛楽音影株式会社董事。妻とのあいだに長男と長女がいる。 ^ 十三届中央委员会候补委员名单(110人) (中国語) ^ 十四届中央委员会中央委员名单(共189人) (中国語) ^ 中国共産党第十四届中央委員会第一次全体会議公報(1992年10月19日) (中国語) ^ 中国共産党第十四届中央委員会第四次全体会議公報(1994年9月28日) (中国語) ^ 中華人民共和国主席令(第四十四号) (中国語) ^ 中国共産党第十五届中央委員会第一次全体会議公報(1997年9月19日) (中国語) ^ 中国共産党第十六届中央委員会第一次全体会議公報 (中国語) ^ 中華人民共和国全国人民代表大会公告(十届一次第1号) (中国語) ^ 飞乐股份(600654)_章瑞珍_公司高管_公司资料_新浪财经 第十一届全国人民代表大会常务委员会委员长吴邦国 全国人民代表大会(中国語) 呉邦国 全人代常務委員会委員長略歴 日本国外務省", "王 岐山(おう きざん、ワン・チーシャン、漢族、1948年7月1日 - )は、中国の政治家、経済学者、歴史学者。第11代国家副主席(副大統領)。中国共産党での序列は韓正副首相に次ぐ第8位。第2次温家宝内閣で国務院副総理(副首相)を務め、第18期中国共産党中央政治局常務委員(序列は7人中6位)、中国共産党中央規律検査委員会書記を歴任した。清華大学経済管理学院顧問委員会名誉委員。姚依林元常務副総理(第一副首相)の娘である姚明珊を妻に持ち、太子党に属する。 中華人民共和国青島市で生まれる。原籍は山西省天鎮県。文化大革命期の1969年1月より陝西省延安市延安県馮荘公社で知識青年として労働に従事。1971年から1973年にかけて陝西省博物館に勤務。陝西省に下放中、姚依林の娘の姚明珊と出会う。1973年、西安市にある西北大学の歴史学部歴史学専攻に入学。1976年に卒業し、再び陝西省博物館に勤務。1979年より中国社会科学院近代歴史研究所実習研究員として史学研究に従事する。折しも時代は改革開放の幕開けを迎えており、王は経済問題の研究に着手し、関係の論文を執筆発表した。1982年、北京に異動となり、中国共産党中央書記処農村政策研究室に配属、国務院農村発展研究センター処長・副局級研究員・連絡室副主任となる。翌年2月、中国共産党に正式に入党。党中央と国務院の研究機関に職を得た王は、農村問題の専門家として知られるようになる。1986年、党中央書記処農村政策研究室正局長級研究員・国務院農村発展研究センター連絡室主任兼全国農村改革試験区弁公室主任に昇格。その後、国務院農村発展研究センター発展研究所所長代理や同所長を歴任する。 1988年、中国農村信託投資公司総経理(社長)・党委員会書記に就任。翌年、中国人民建設銀行副行長(副頭取)・党組成員に移り、以後、金融畑を歩む。人民建設銀行副行長在職中の1992年9月から11月にかけて党中央党校省部級幹部研修班で学ぶ。1993年、中央銀行である中国人民銀行の副行長(副総裁)・党組成員となる。翌年、中国人民建設銀行行長・党組書記に就任。1995年8月、王は中国で初めての国際的な投資銀行である中国国際金融有限公司(中金公司)の設立を主導した。これは中国で初めての国際的な投資銀行であった。中金公司の会長を兼任した王は、彼が主導した多くの投資プロジェクトにより国際金融市場の注目を受けた。1996年、中国建設銀行行長・党組書記に就任。 1997年にアジア金融危機が爆発すると、香港経済は大打撃を受け、その後背にある中国最大の対外貿易省の広東省にも危機が蔓延した。建設銀行改革の実績などから王は、同年9月の第15回党大会で党中央候補委員に選出され、広東省党委員会常務委員として同省に赴任、翌年には広東省常務副省長に就任し、金融を主管して全省に蔓延していた支払危機の処理を指導した。とりわけ、広東国際信託投資公司(GITIC)と粤海の債務の金融処理問題では、王は中央の助けを得ず、香港経済を混乱させずに問題を処理した。1999年1月10日、王は債務超過の深刻なGITICを破産・閉鎖させたが、この王の案は、中央上層部の金融改革の原則を体現したものであった。すなわち、政府と企業を分離し、政府が国有金融機関の債務償還を肩代わりする過去のやり方を改め、政府の信用と企業の信用が未分離なモラル・ハザードの時代を終結させるものだった。一方、粤海については再建に着手したが、これについて王は「(粤海は)国外の集団公司であり、5つの上場会社が関連しており、我々は香港市場の安定を考慮しなければならない。香港の株式市場を混乱させたくはない」と説明している。王はゴールドマンサックスの協力を得て外国の債権者と粘り強く交渉し、2002年12月、広東省政府は外国債権者と粤海再建について合意を得た。なお、同時に広東省政府は中央人民銀行から380億元の融資を受け、広東省内の800余りのローカルな中小ノンバンクを再建・閉鎖し、広東金融は危機を乗り越え安定化した。同時期、ゴールドマンサックスのCEOだったヘンリー・ポールソン(後のアメリカ合衆国財務長官)と親交を結んだ。 このような経済手腕を買われた王は、2000年に国務院経済体制改革弁公室主任・党組書記に抜擢され、2002年11月の第16回党大会で党中央委員に昇進。11月23日、海南省党委書記に任命され、同省人民代表大会常務委員会主任を兼任した。 2003年、新型肺炎SARSが蔓延し、北京では患者の隠蔽問題によって当時の市長の孟学農が更迭された。王は北京市に移り、同年4月20日に市党委副書記に就任、4月22日には市長代理を兼任して事態の沈静化に成功した。広東金融危機とSARS問題を鎮めた王は、「消火隊長」「火消し役」と呼ばれるようになる。2004年2月、第12期北京市人民代表大会第2回会議において正式に北京市長に選出された。北京市長在職中は、北京市オリンピック組織委員会執行主席として2004年アテネオリンピックの閉会式で当時のジャック・ロゲIOC会長から五輪旗を引き継ぎ、2008年北京オリンピックの準備に当たった。 2007年10月の第17回党大会で党中央委員に再選された王は、10月22日に開催された第17期党中央委員会第1回全体会議(第17期1中全会)で党中央政治局委員に選出される。同年11月29日、北京市長兼市党委副書記を退任。そして、2008年3月の第11期全国人民代表大会第1回会議に山東省代表(議員)として選出された王は、3月17日、同会議において国務院副総理に選出され、商務、金融、市場管理、観光などを担当することとなった。折しも世界金融危機が中国にも打撃を与えていたが、王は4兆元の景気刺激策を断行して世界最速のV字回復で金融危機を脱出した中国は世界の国内総生産(GDP)増加の過半数を占めてリーマンショック後の世界経済を救済したと評された。この手腕は国務院内で高く評価され、温家宝国務院総理の後継者と目された常務副総理の李克強が同じ経済通でも危機管理に弱いとされた一方、大規模な財政出動と金融緩和を主導して危機を乗り越えた王の方が総理にふさわしいと言い切る国務院幹部もいたという。元国務院総理の朱鎔基からは「中国共産党随一の経済実務家」と絶賛され、「経済皇帝」と呼ばれた朱鎔基の後継者と待望する向きもあった。ただし、この政策はバブル経済を加速させてバラマキ財政や箱物行政のような無駄な公共投資と地方融資平台による不良債権などの課題も残したと批判する見方もある。また、リーマンショックでアメリカ国債増発の必要に迫られたヘンリー・ポールソン米財務長官による王への要請で中国は大量に引受して日本を上回る最大の米国債保有国となった。 2009年に東京で開催された中日経済ハイレベル対話の共同議長として日本を訪れた。 2012年11月15日、第18期1中全会で習李体制が発足すると、王は党中央政治局常務委員、党中央規律検査委員会書記に選出され、同じ太子党で陝西幇であるだけでなく、習近平の旧識でもあることから習政権の事実上の「ナンバー2」と見られ、「習王体制」とも呼ばれていた。王は中国からヨーロッパを跨ぐモンゴル帝国史に精通する日本の歴史学者である岡田英弘を高く評価するなど史学研究者出身であることからシルクロード経済ベルトを掲げる習近平の歴史観にはかつて陝西省でともに歴史研究に興じた王の影響があるともされる。翌年3月16日、李克強内閣の発足に伴い、国務院副総理を退任。王は党中央規律検査委員会書記に就任して直ちに腐敗官僚の摘発を指揮しているが、汚職の嫌疑により摘発された官僚の大半は江沢民派の人物であった。これについては王が「2017年の第19回党大会で、最高指導部入りする可能性のある胡派の次世代指導者の周辺にターゲットを絞り、調査したのではないか」と指摘する説がある。 2017年9月、ドナルド・トランプ政権の有力者だった元アメリカ合衆国首席戦略官・大統領上級顧問のスティーブン・バノンと中南海で90分間に及ぶ密談を行ったことはその去就に憶測を呼んだ。同年10月の中国共産党第十九回全国代表大会と第19期1中全会では、習の慰留があったとされるにも関わらず、王岐山は68歳を定年とする慣例を守って留任しなかったため、政治局常務委員と中央規律検査委員会書記の後任には同じ陝西幇で陝軍の一人とされる趙楽際が選ばれた。しかし、退任後も習近平派の長老として隠然と影響力を保持するとする見方もあった。 2018年3月の第13期全国人民代表大会にて習近平総書記の国家主席への全会一致での再選とともに中華人民共和国副主席に賛成2969票・反対1票で選出された。現在、党内序列第8位。国家主席とともに国家副主席の任期制限は憲法改正で撤廃されており、習国家主席と王国家副主席による事実上の「習・王終身体制」とも呼ばれた。 2018年5月、外交政策を統括する党中央外事工作委員会委員に選出され、委員会での序列は習近平総書記と李克強総理に次ぐ第3位。国家副主席就任後の初外遊でロシアとベラルーシを訪問してウラジミール・プーチン大統領やアレクサンドル・ルカシェンコ大統領と会談し、訪露していた日本の安倍晋三内閣総理大臣とも会話を交わした。 2018年10月、中国指導部では2000年の江沢民以来18年ぶりのイスラエル訪問を行った。米中貿易戦争 (2018年)で米国からの技術移転は焦点となってるためにハイテク技術の獲得や中国企業の租借したハイファ港を一帯一路の拠点として開発することなどを狙ったとされる。また、パレスチナ自治政府とは自由貿易協定を協議した。 ^ “清華「超豪華」智嚢團嚢括朱鎔基王岐山等”. 大紀元. 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ABC01-02-0211
校倉造でおなじみの正倉院が置かれている寺はどこでしょう?
東大寺
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[ "東大寺", "興福寺", "醍醐寺", "般若寺", "海龍王寺" ]
[ "東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。 8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。 大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。 聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。 難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。 東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。 大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。 天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武太上天皇が崩御する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ。」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったという。 奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。 奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。 また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受け、また講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。 東大寺は、近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要が、建久元年(1190年)には上棟式が行われた。建久6年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれた。 その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(東大寺大仏殿の戦い参照)。天正元年(1573年)9月、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶(1648 - 1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。 東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接していた。 南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。大仏殿前には東大寺創建当時に造立された八角灯籠がある。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。回廊は、現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の中央には「北中門」があった。 南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には東大寺福祉療育病院などがある。大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院」(じょういん)と呼ばれる地区で、開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂、法華堂(三月堂)などがあり、その南には鎮守の手向山八幡宮(東大寺とは別法人)がある。 大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。なお、正倉院の建物と宝物は国有財産で、宮内庁正倉院事務所が管理している。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門(てがいもん)がある。 かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称した。大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも七重塔)があった。これらの塔は、周囲を回廊で囲まれ、回廊の東西南北4か所に門を設けた「塔院」を形成しており、他寺に例をみない規模のものであった。西の東七坊大路に面しては3つの門が開かれていたが、このうち北の門のみが現存する(前述の転害門)。 毎年1月1日の0時から8時までの間、中門(重要文化財)が開かれ、金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できる(通常入堂料:大人500円・小人300円)。参拝は午前7時半から受け付けている。 国宝。平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗房重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものである。 木造金剛力士立像(国宝) 高さ8.4メートルの巨大な木像。建仁3年(1203年)に、わずか69日で造られた。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。 『東大寺別当次第』という史料により、本像は建仁3年(1203年)、大仏師運慶、備中法橋(湛慶)、安阿弥陀仏(快慶)、越後法橋(定覚)によって造立されたことが、従来から知られており、阿形像と吽形像の作風の違いから、前者は快慶、後者は運慶が主となって制作したと考えられていた。1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。阿形像の持物の金剛杵の内面には、建仁3年の年紀とともに「大仏師法眼運慶」「अं〔アン、梵字〕阿弥陀仏」(快慶のこと)の名が記され、吽形像の像内に納入されていた『宝篋印陀羅尼経』(ほうきょういんだらにきょう)の奥書には大仏師として「定覚」「湛慶」の名と小仏師12名の名が記されていた。運慶が制作の総指揮に当たったとする点では研究者の意見が一致しているが、阿形像・吽形像の現場での制作を運慶、快慶、定覚、湛慶がどのように分担したかについては解釈が分かれている。 2014年10月6日から保存修理が始まった。 重要文化財。金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)。享保元年(1716年)ごろの再建。中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至る。 国宝。当初の大仏および大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作である。 聖武天皇は天平15年(743年)、大仏造立の詔を発した。当初、紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立の始まった大仏は、その後現在地の奈良で改めて造立を開始。天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。治承4年(1180年)の平重衡の兵火で大仏殿は焼失、大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちた。その後、大仏と大仏殿は重源の尽力により再興され、文治元年(1185年)に大仏の開眼供養、建久元年(1190年)には大仏殿の上棟式、建久6年(1195年)には大仏殿落慶供養が行われた。この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567年)の松永・三好の合戦によって再び炎上した。大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま、露座で数十年が経過したが、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690年)に鋳造されたもので、元禄5年(1692年)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709年)に落慶したものである。 現存の大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階を回している(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。高さ46.8メートル、間口57メートル、奥行50.5メートルで、高さと奥行は創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は約3分の2に縮小されている。建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)が基本になっており、水平方向に貫(ぬき)を多用するのが特色である。江戸時代にはすでに巨材の調達が困難であったため、柱は芯材の周囲に桶状に別材を巻きつけた集成材が用いられている。なお、しばしば「世界最大の木造建築物」として言及されるが、20世紀以降に近代的工法で建てられた木造建築には、大仏殿を上回る規模のものが存在する(秋田県の大館樹海ドームなど)。 大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置。堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置する。いずれも江戸時代復興期の像である。四天王のうち残りの2体(持国天、増長天)は未完成に終わり、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれている。堂内には他に、大仏前に高さ207㎝の銅製大華瓶が付いている8本脚の揚羽蝶で有名で、元禄5年開眼供養会に池坊門弟の猪飼三枝と藤掛似水の両一門より、約9mの立花二口が奉納されたが、会後、藤掛似水から華瓶に銅蓮が付けられ仏花として寄贈された。また、明治42年(1909年)の日英博覧会用に製作された、東大寺旧伽藍の模型がある。 大仏(盧舎那仏像) 国宝。指定名称は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」。像高は14.7メートルである。大仏は『華厳経』に説く盧舎那仏という名の仏である。盧舎那仏は「蓮華蔵世界」(『華厳経』の説く世界観)の中心に位置し、大宇宙の存在そのものを象徴する仏である。 木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重文) 大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造の寄木造である。大勧進公俊の時代、京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。如意輪観音像は元文3年(1738年)ごろの完成、虚空蔵菩薩像は遅れて宝暦2年(1752年)の完成。 金銅八角燈籠(国宝) 大仏殿の正面に立つ燈籠。総高464センチ。たびたび修理されているが、基本的には奈良時代創建時のものである。火袋羽目板4面には楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像を鋳出する。4面の羽目板のうち西北面と西南面が当初のもので、東北面と東南面はレプリカである。東北面の羽目板は1962年に盗難に遭い、直後に発見されたが、その後はオリジナルは別途保管し、燈籠にはレプリカを取り付けている。東南面の羽目板のオリジナルは早くに紛失した。 多聞天像(金堂東北隅) 広目天像(金堂西北隅) 虚空蔵菩薩像(重要文化財) 如意輪観音菩薩像(重要文化財) 金銅八角燈籠(国宝) 金銅八角燈籠の音声(おんじょう)菩薩像(西北面) 国宝。境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つであり、天平仏の宝庫として知られる。創建当時は羂索堂(けんさくどう)と呼ばれ、東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の堂として建てられたもので、創建時期は天平12年(740年)から同20年(748年)ごろと推定されている。建物の北側(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている寄棟造の部分を正堂(しょうどう)、南側の入母屋造部分を礼堂(らいどう)と呼ぶ。正堂は奈良時代の建築、礼堂は奈良時代にも存在したが、現在あるものは鎌倉時代の正治元年(1199年)ごろ(異説もある)に付加したものである。堂内には本尊の不空羂索観音(ふくうけんさく/ふくうけんじゃくかんのん)立像、梵天・帝釈天立像、金剛力士・密迹力士(みっしゃくりきし)立像、四天王立像の計9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、塑造の執金剛神(しつこんごうしん/しゅこんごうしん)立像を安置する(いずれも奈良時代)。他に塑造の日光・月光(がっこう)菩薩立像、吉祥天・弁才天立像などの諸仏が安置されていたが、これらは2011年から東大寺ミュージアムに移動している。諸仏の細かい製作年代や当初の安置状況については諸説ある(詳細は東大寺法華堂を参照)。 乾漆不空羂索観音立像(国宝) 奈良時代。高さ3.62メートル。三眼八臂(額に縦に第3の目があり、8本の腕を持つ)の観音像で、法華堂の本尊として内陣中央の須弥壇上に安置されている。頭上の宝冠は、正面に銀製の阿弥陀如来像を飾り、数多くの宝石や透かし彫りで飾った華麗なもので、普段は近くで見ることはできないが、奈良時代工芸の優品として知られる。 塑造執金剛神立像(国宝) 高さ1.704メートル。本尊不空羂索観音の背後の厨子に北向きに安置される。右手に金剛杵(こんごうしょ、仏敵を追い払う武器)を持ち、目を吊り上げて威嚇する武神像である。長らく秘仏であったため、当初の彩色がよく残る。執金剛神とは、仁王像を1体で表したもの。本像は東大寺の開山(初代住職)良弁の念持仏と伝え、平将門の伝説でも知られる、古来著名な像である。伝説によれば、平将門が東国で乱を起こした時、この像の髻(もとどり、結髪)を結んでいる元結紐(もとゆいひも)の端が蜂となって飛び去り、将門を刺して苦しめたという(『日本霊異記』)。確かに、本像の元結紐は今も片側が欠失している。秘仏であり、良弁の命日の12月16日のみ公開される。 他に以下の8躯の諸仏を安置する。 乾漆梵天・帝釈天立像(国宝) 乾漆金剛力士立像 2躯(国宝) 乾漆四天王立像(国宝) 国宝。旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。 出家者が受戒(正規の僧となるための戒律を授けられる)するための施設として、天平勝宝7年(755年)に鑑真和上を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733年)の再建である。内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔があり、その周囲を四天王像が守っている。 塑造四天王立像(国宝) 法華堂の日光・月光菩薩像および執金剛神像と共に、奈良時代の塑像の最高傑作の一つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照が見事である。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であり、現在の四天王像は後世に他の堂から移したものである。 南大門を入って左手、東大寺学園中学校・高等学校(1986年郊外に移転)の跡地にある複合文化施設(住所は奈良市水門町100)。東大寺ミュージアム、東大寺図書館、金鐘会館、東大寺史研究所、華厳学研究所からなる。2010年9月に竣工し、ミュージアムは2011年10月に開館した。 塑造日光・月光(がっこう)菩薩立像(国宝) 奈良時代。もと法華堂安置。法華堂本尊不空羂索観音の両脇に建っていた。天平彫刻の代表作として著名だが、造像の経緯等は定かでなく、本来の像名も不明である(「日光・月光菩薩」という名称は後世に付けられたもので、本来は、薬師如来の脇侍となる菩薩)。像の表面は現状ほとんど白色だが、製作当初は彩色像であった。本来の像名は梵天・帝釈天だった、とする説もある。 塑造吉祥天・弁才天立像(重文) 奈良時代。もと法華堂安置。唐三彩の婦人俑に似た豊満な貴婦人の形を取っている。吉祥天は二臂、弁才天は八臂。いずれも破損が著しいがかえって塑像の構造が明らかにされており、美術史上貴重な資料である。 本坊(旧東南院) 本坊は通常は非公開。 本坊経庫(国宝) 奈良時代の校倉倉庫。食堂跡の北方、上司(かみつかさ)と呼ばれる場所にあった油倉を正徳4年(1714年)、東南院に移築したもの。東南院廃絶後は本坊経庫と呼ばれている。東大寺関係では正倉院宝庫を含め、他に5棟の校倉が残っている。このうち法華堂経庫と勧進所経庫は、正倉院の西方にあった倉を移したもの。手向山八幡宮宝庫は本坊経庫と同じく上司の油倉を移築したもの。正倉院の構内にある聖語蔵は塔頭尊勝院の校倉を移したものである。 天皇殿 聖武天皇像を安置する。もとは徳川家康を祀る東照宮であった。 持仏堂 江戸時代作の理源大師(聖宝)像を安置する。建物はもと談山神社(妙楽寺)本殿で、安倍文殊院を経て東大寺に移された。 俊乗堂 鎌倉時代に大仏と大仏殿を再興した中興の祖・俊乗房重源を祀る堂。現在の堂は宝永元年(1704年)の再建。本尊の俊乗上人坐像(国宝)は、上人が86歳で没した直後の製作と思われ、鎌倉時代肖像彫刻の傑作である。 行基堂 奈良時代の著名な僧で、東大寺の創建にも貢献した行基の肖像を安置する。 念仏堂(重文) 鎌倉時代の建築。同じく鎌倉時代の地蔵菩薩坐像(重文)を安置する。 鐘楼(国宝) 鎌倉時代、13世紀初頭の建築。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752年)の製作で、中世以前の梵鐘としては最大のもの(高385センチ、口径271センチ)。俗にこの梵鐘は擬人化して「奈良次郎」と呼ばれる。2002年12月、NHKの下請け業者に釘を打ち込まれる事件に遭った。「東大寺鐘」 は南都八景の一つ。現在の鐘楼は、重源上人に次いで大勧進職に就いた栄西が再建したもの。 開山堂(国宝) 開山(初代住職)良弁の肖像を安置するための堂。内陣は正治2年(1200年)、外陣は建長2年(1250年)の建築で、東大寺南大門と共に、大仏様(だいぶつよう)建築の数少ない遺作である。本尊木造良弁僧正坐像(国宝)は平安初期9世紀の作品で、良弁の命日の12月16日のみ公開される。 三昧堂(四月堂)(重文) 延宝9年(1681年)の建立。寄棟造二重、本瓦葺き。本尊十一面観音立像(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。旧本尊の千手観音立像(重文)は東大寺ミュージアムに移座。 大湯屋(重文) 鎌倉時代の建築。内部に鉄湯船(重文)が残る。 指図堂 大仏殿の西にある。法然の画像を祀る堂。鎌倉時代、大仏の復興に携わった重源は、法然の推挙で大仏復興の大勧進職となった。この堂に復興大仏殿の指図(設計図)を納めたことから指図堂の名が付いたという。浄土教にも関心の強かった重源の招きで法然がこの地で浄土三部経を講じたという。もとこの堂にあった木造釈迦如来坐像(鎌倉時代、重要文化財)は奈良国立博物館に寄託されている。建物は江戸時代末期のものであるが、法然上人二十五霊場11番札所であるため、浄土宗側が喜捨等で再建に協力している。 勧進所 東大寺中興の祖である重源が勧進(焼失した東大寺再興のための寄金募集)の本拠とした所である。大仏殿西側の塀で囲まれた一画で、東側の門を入ると左手に公慶堂、その先の門を入ると右手に阿弥陀堂、正面奥に八幡殿、八幡殿の左に経庫(重文)がある。 阿弥陀堂 五劫思惟阿弥陀(ごこうしゆいあみだ)像(重文)を安置する。 八幡殿 建仁元年(1201年)、快慶作の僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)坐像(国宝)を安置する。この像は東大寺の鎮守である手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の神体であったもので、明治の神仏分離に伴東大寺に移された。製作当初の彩色が鮮やかに残る、快慶の代表作である。毎年10月5日のみ公開される。 公慶堂 江戸時代の大仏殿再興に貢献した公慶上人の肖像(重文)を安置する。像は上人の死去の翌年である宝永3年(1706年)の作。 転害門(国宝) 境内西北、正倉院の西側にある八脚門。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火にも焼け残った寺内で数少ない建物の一つ。鎌倉時代の修理で改修されているが、基本的には奈良時代の創建時の姿を残す建物である。平家一門の怨みを晴らすべく頼朝を暗殺しようと悪七兵衛景清が隠れていたという伝承から、又の名を景清門という。2004年頃から野良猫による糞尿や爪とぎの被害が問題になっている。毎年10月5日に明治初めまで東大寺の鎮守社だった手向山八幡宮の例祭「転害会(てがいえ)」が、転害門などで行われる。奈良時代、宇佐八幡宮から祭神が勧請された際、転害門を通った伝承にちなみ神迎えの様子を再現した祭礼である。 大仏殿の北にあった。今は礎石だけが残っている。天平勝宝8年(756年)ごろに完成し、千手観音を本尊としていたが、延喜17年(917年)に焼失。再建された堂も治承4年(1180年)の兵火で焼失。その後復興されたが、永正5年(1508年)の焼失後は再建されなかった。 東塔跡・西塔跡共に土壇が残るのみで、礎石は持ち去られて残っていない。『東大寺要録』には天平勝宝5年(753年)完成とあるが、天平宝字8年(764年)に塔の露盤を上げたとの記録もあり、このころの完成とみられる。塔は治承4年(1180年)の兵火で焼失。その後復興され、安貞元年(1227年)に完成するが、康安2年(1362年)に落雷で再び焼け、以後は再建されなかった。平成22年(2010年)4月、東大寺は東塔再建に向けて数年内に塔跡地の発掘調査を開始すると発表。平成27年(2015年)7月、東塔の基壇跡の発掘調査が始まり、11月に中間発表が行われた。鎌倉時代の基壇では一辺が27m四方、建物部分では17m四方あり当時の国内最大級であった事が推測される。創建当時の遺構も発見され、この基壇は一辺24m四方だった。時期は未定であるが、再建されれば約650年ぶりに東塔が姿を現すこととなる。なお、大阪の藤田美術館の庭に東大寺東塔の心礎と伝えられる礎石があるが、東塔のものであるという確証はない。 『東大寺要録』には天平勝宝5年(753年)閏3月完成とあるが、閏3月があったのは前年の天平勝宝4年(752年)であり、実際は東塔と同じころの完成とみられる。塔は承平4年(934年)に焼失。その後復興が計画されるが、工事途上の長保2年(1000年)再び焼失、以後は再建されなかった。 東塔・西塔共に七重塔で、高さは『東大寺要録』『南都七大寺巡礼記』には23丈強、『朝野群載』および『扶桑略記』には33丈強とある。この高さについて、1909年に日英博覧会に出展された創建時の復元模型を設計した天沼俊一は、『東大寺要録』等の「東塔が23丈8寸、西塔が23丈6尺7寸」に露盤(相輪)高約8丈(文献により細かい数値は異なる)を加えて31丈余り(約94メートル)とした。一方、建築史家の足立康は、最初に記載する高さは相輪を含むのが当時の文献の通例であるとする一方、23丈程度の全高のうち8丈を相輪が占めるとするとバランスを欠くという見解から、一部の文献に見られる「33丈」(約100メートル)が正しいとした。これらによって、90 - 100メートルとするのが通説となっていた。 これに対し、奈良文化財研究所の箱崎和久は2004年の論文で、現存する同時代の仏塔や、戦後に発掘調査された大型仏塔(大官大寺や吉備池廃寺など)との比較から、天沼の復元図通りの塔を奈良時代当時に建築することは困難であるとし、時代の近い元興寺小塔をモデルとして、総高23丈7尺(約70メートル)、うち相輪部8丈6尺(約26メートル)という復元を推定している。 1970年大阪で開催された日本万国博覧会の古河パビリオンで東大寺七重塔の外観が再現された。パビリオンは博覧会終了後取り壊されたが、相輪のみが保存され、大仏殿回廊の東側に建てられている。 西大門 - 天正11年(1583年)風で倒壊。南大門より大きくかつては東大寺最大の門であった。 中大門 - 中御門、焼門とも。慶長11年(1606年)焼失。 北大門 - 北御門とも。現在の五劫院付近にあった門で、東大寺はかつて北に1つ、西に3つ、南に3つの門を備えていたという。 食堂など。 東南院 南大門を入って右側、今の東大寺本坊の地にあった。貞観17年(875年)、醍醐寺の開祖として著名な聖宝が東大寺内に建てた薬師堂を基とする。延喜4年(904年)、東大寺別当を務めた道義律師は、香積院(佐伯院)という寺の建物を東大寺境内に移転させ、聖宝を招いたのが東南院の始まりである。香積院は平城左京五条六坊(元興寺の南西)にあった、佐伯氏の氏寺であった。以後、東南院は三論宗と真言宗兼学の道場となり、尊勝院と共に有力な院家となって、塔頭の中でも別格の存在であった。東南院の旧地には本坊、天皇殿、持仏堂、本坊経庫がある。天皇殿は聖武天皇を祀る堂であるが、江戸時代は徳川家康を祀る東照宮であった。 尊勝院 東大寺別当を務めた光智が天暦9年(955年)に創建したもので、寺内における華厳教学の拠点であり、東南院と並ぶ有力な院家であった。転害門の東北にあったが、室町時代に廃絶し、跡地は惣持院となった。現在の奈良市立鼓阪(つざか)小学校が跡地である。 真言院 南大門から中門に至る参道を西に入った所にある。東大寺の別当も務めた空海が、弘仁13年(821年)、勅許を受けて開設した灌頂道場が始まりであり、南都における真言教学の拠点となった。重要文化財の地蔵菩薩立像と四天王像を有する。 知足院 大仏殿北方の丘の上にある。寛平2年(890年)の創建で、東大寺における法相教学の拠点となった。奈良県の県花、奈良市の市章になっている奈良八重桜(天然記念物:非公開)や重要文化財の地蔵菩薩立像(文使い地蔵)を有する。 『東大寺辞典』によれば現存する塔頭は18院であるが、この中には寺籍のみあって、独立した堂宇をもたないものもある。上述の真言院、知足院のほか、大仏殿の北東に竜松院、竜蔵院、持宝院、宝厳院、大仏殿東側に宝珠院、中性院、上之坊、観音院、南大門西側、東大寺福祉療育病院に隣接して北林院、地蔵院、正観院がある。惣持院、清涼院は勧進所に所在、上生院、新禅院、金殊院は寺籍のみ残っている。 現境内を含む約12ヘクタールに及ぶ広範囲の土地が「東大寺旧境内」として国の史跡に指定されている。 (建造物) 金堂(大仏殿)(附:棟札1枚) 南大門 本坊経庫 開山堂(附:須弥壇及び厨子) 鐘楼 法華堂(三月堂)(附:棟札1枚) 二月堂 転害門 (美術工芸品) 絹本著色倶舎曼荼羅図 紙本著色華厳五十五所絵巻 銅造盧舎那仏坐像(金堂安置) 乾漆不空羂索観音立像(法華堂安置) 乾漆梵天・帝釈天立像(法華堂安置) 乾漆金剛力士立像 2躯(法華堂安置) 乾漆四天王立像(法華堂安置) 塑造日光菩薩・月光菩薩立像(所在東大寺ミュージアム、もと法華堂安置) 塑造執金剛神立像(法華堂安置) 塑造四天王立像(所在戒壇堂) 銅造誕生釈迦仏立像・銅造灌仏盤 木造金剛力士立像 2躯 附 像内納入品(所在南大門)(像内納入品の明細は後出) 木造俊乗上人坐像(俊乗堂安置) 木造僧形八幡神坐像 快慶作(八幡殿安置) 木造良弁僧正坐像(開山堂安置) 木造弥勒仏坐像 花鳥彩絵油色箱(ゆしょくばこ) 金銅八角燈籠(大仏殿前所在) 葡萄唐草文染韋(そめかわ) 梵鐘 賢愚経 巻第十五(四百六十七行) 東大寺文書100巻(979通)、8,516通 東大寺金堂鎮壇具 一括(明細は後出) 国宝指定物件の明細 東大寺金堂鎮壇具 銀製鍍金狩猟文小壺 1合 金鈿荘大刀 3口 金銀荘大刀 2口 銀荘大刀 1口 瑞花六花鏡 1面 銀製鍍金蝉形鏁子 宝相華透彫座金付 1箇 漆皮箱残片 一括 水晶合子(真珠四箇入) 1合 水晶合子(真珠八箇入) 1合 水晶玉 22顆 琥珀玉類 一括 ガラス玉類 一括 水晶 一括 挂甲残闕 一括 刀子残闕 一括 木造金剛力士立像 附 像内納入品 阿形像 像内納入品 宝篋印陀羅尼経等 1巻 奥に建仁三年八月七日、執筆沙門浄阿弥陀佛・勧進造東大寺大和尚南無阿弥陀佛等とある 木製五輪塔 1基 木造毘沙門天立像等 5躯、3箇 結縁交名 2通 木札 2枚 吽形像 像内納入品 宝篋印陀羅尼経等 1巻 奥に建仁三年八月八日、執筆恵阿弥陀仏、造東大寺大勧進大和尚南無阿弥陀佛、大仏師定覚・湛慶等とある 木造十一面観音立像 1躯 願文 2通 各に建仁三年八月八日の年記があり、一通に類阿弥陀佛、他の一通にあま心女とある 結縁交名 10通 内一紙に建仁三年の年記がある 地蔵菩薩印仏 2枚 不空羂索神呪心経 1巻 法華経普門品残巻等 1帖2巻 木札 2枚 内一枚に□三年八月九日の年記がある (建造物) 中門 東西回廊 東西楽門 念仏堂 法華堂経庫 法華堂手水屋 法華堂北門 二月堂閼伽井屋(若狭井屋) 二月堂参籠所 二月堂仏餉屋(御供所) 三昧堂(四月堂) 大湯屋 勧進所経庫 石造五輪塔(奈良市川上町所在) (絵画) 絹本著色嘉祥大師像・絹本著色浄影大師像(かじょうだいしぞう・じょうようだいしぞう) 絹本著色華厳海会善知識曼荼羅図(けごんかいえぜんちしきまんだらず) 絹本著色華厳五十五所絵 10面 絹本著色香象大師像 絹本著色十一面観音像 絹本著色四聖御影(ししょうのみえ)(建長本)・(永和本) 紙本著色東大寺大仏縁起 芝琳賢筆 3巻 (彫刻) 木造如意輪観音・虚空蔵菩薩坐像 順慶・賢慶・了慶・尹慶等作(金堂安置) 石造獅子一双(所在南大門) 木造阿弥陀如来立像・快慶作(俊乗堂安置) 木造愛染明王坐像(俊乗堂安置) 木造地蔵菩薩坐像(念仏堂安置) 塑造弁才天・吉祥天立像(東大寺ミュージアム安置、旧所在法華堂) 木造不動明王二童子像(東大寺ミュージアム安置、旧所在法華堂) 木造地蔵菩薩坐像(東大寺ミュージアム安置、旧所在法華堂) 木造天蓋3面(所在法華堂) 木造訶梨帝母坐像(二月堂参籠所食堂安置) 木造千手観音立像(東大寺ミュージアム安置、旧所在三昧堂) 木造阿弥陀如来坐像(三昧堂安置) 木造公慶上人坐像(公慶堂安置) 木造五劫思惟阿弥陀坐像(勧進所阿弥陀堂安置) 銅造釈迦・多宝如来坐像(戒壇院) 厨子入木造千手観音・四天王立像(戒壇院千手堂安置) 附 旧厨子後板及扉 7面 木造鑑真和上坐像(戒壇院千手堂安置) 木造愛染明王坐像(戒壇院千手堂安置) 木造菩薩立像(中性院所在) 木造地蔵菩薩立像(真言院所在) 木造四天王立像(新禅院伝来)(真言院所在) 附 像内納入品(明細は後出(「重要文化財の明細」参照)) 厨子入木造地蔵菩薩立像(知足院所在) 木造釈迦如来坐像 善円作(旧所在指図堂) 附 像内納入品(紙本墨釈迦如来造立願文(覚澄筆)1巻、紙本墨書宝篋印陀羅尼等 1巻、紙本墨書華厳経 巻四十 1巻、舎利香木 1包) 木造阿弥陀如来坐像(旧所在勧進所) 木造聖観音立像 木造十一面観音立像(三昧堂安置) 木造地蔵菩薩立像・快慶作(旧所在公慶堂) 木造持国天立像 附 像内納入品(木札 1枚、版本金剛般若波羅蜜経 1巻、版本仁王護国般若波羅蜜経 2巻) 木造多聞天立像 木造十二神将立像(旧所在天皇殿) 銅造舟形光背(二月堂本尊光背) 木造青面金剛立像 木造閻魔王坐像・木造泰山府君坐像 銅造如意輪観音半跏像(菩薩半跏像) 木造伎楽面29面・乾漆伎楽面1面(附木造伎楽面残欠5片(4面分)、乾漆伎楽面残欠7片(3面分)) 木造舞楽面9面(皇仁帝4、散手、貴徳、陵王、納曽利2) 木造伎楽面2面 木造行道面(蝿払)2面 木造菩薩面3面(附 残欠4片) 木造獅子頭 (工芸品) 金銅鉢 2口 孔雀文磬 鉦鼓 長承三年銘 鉦鼓 建久九年銘(附 錫平文鉦架、撞木、蓮実形柄杓、菩提子念珠) 鉄釣燈籠 2基(法華堂所在) 鉄湯船(大湯屋所在)建久年銘 鉄鑰(てつやく)鍵付(附:鉄鍵4本) 堂司鈴 弘安八年銘 銅香水杓 4枝 夫々建長五年、建長七年、文永四年、□□元年銘 銅水瓶 2口 うち1口嘉元三年銘 銅鉢(金銅受台付)・金銅受台 鰐口 梵鐘 (真言院)文永元年銘 梵鐘(二月堂食堂所用)徳治三年銘 雲鳳戧金経櫃(うんぽうそうきんきょうびつ) 朱漆布薩盥(ふさつたらい) 3口 うち2口応永三十四年銘 黒漆鼓胴 2口 黒漆螺鈿卓(しょく) 彩絵鼓胴 彩絵鼓胴 寛喜四年修理銘 五獅子如意(伝聖宝所持) 玳瑁如意(たいまいにょい) 二月堂練行衆盤 11枚 うち10枚永仁六年銘 木製黒漆油壺 2口 元徳二年銘 木造西大門勅額 石燈籠(法華堂前所在)建長六年銘 (書跡・典籍) 東大寺聖教 1,806点 華厳経 巻第一、第四、第五、第六、第九、第十一 6巻 巻第一に貞元十四年訳場列位あり(唐時代) 願文集 寛元三年宗性跋 虚空蔵経 自巻第一至巻第八8巻(附 同経 巻第六(首欠)1巻) 金光明最勝王経註釈 巻第五、第九 金剛般若経讃述 巻上(白点本)承和十一年延厳書写 高僧伝六種 宗性筆(日本高僧伝要文抄3冊、日本高僧伝指示抄1冊、大宋高僧伝要文抄2冊、大宋高僧伝指示抄1冊、名僧伝要文抄1冊、名僧伝指示抄1冊) 高麗版華厳経随疏演義鈔 40巻 紺紙金字華厳経 80巻 紺紙銀字華厳経残巻(二月堂焼経)20巻 細字金光明最勝王経 自巻第六至巻第十 1巻 続華厳略経疏刊定記 巻第二、第九上下、第十三上下 5巻 大威徳陀羅尼経 自巻第一至巻第十(天平十二年五月一日光明皇后願経)10巻(附 経帙 1枚) 大般涅槃経 自巻第一至巻第四十 40巻 大毘婆沙論 巻第廿三(天平十二年五月一日光明皇后願経) 大方等大集菩薩念仏三昧経 自巻第一至巻第十 10巻(附 経帙1枚、経籤1箇) 百法顕幽抄 巻第一末(朱点本)会昌三年書写 法華統略 巻上 弥沙塞羯磨本(みしゃそくこんまぼん) 瑜伽師地論 巻第十二、第十三、第十四、第十七(天平十二年五月一日光明皇后願経)4巻 羯磨(こんま)2巻 新修浄土往生伝 巻下 保元三年弁昭書写奥書 円照上人行状記 凝然筆 3巻 正安四年奥書 東大寺凝然撰述章疏類 自筆本(九種)146巻 東大寺宗性筆聖教并抄録本(二百十四種)99巻、347冊 東大寺要録 10冊 東大寺要録続録 9冊 賢劫経紙本墨書巻物(所在不明) (古文書、歴史資料) 栄西自筆唐墨筆献上状 建永二年六月廿一日 越前国田使解(桑原庄券第二、第三)2巻 天平勝宝八、九年 元久二年重源上人勧進状 阿弥陀悔過料資財帳 神護景雲元年八月 周防国阿弥陀寺領田畠注文 正治二年十一月日重源加判 宣旨 延暦二十四年九月二十四日菅野眞道自署・太政官宣旨 延暦二十四年二月二十五日菅野眞道自署 僧某逆修願文案 貞慶筆 建久九年四月十五日 東大寺大勧進僧行勇自筆書状 九月十六日 年預五師宛 東大寺奴婢見来帳 天平勝宝三年 二月堂修二会記録文書 293冊、2,107通(附 手継箱 3合) 東大寺戒壇院指図 典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。 重要文化財(四天王像内納入品)の明細 木造四天王立像(新禅院伝来) 附 像内納入品 持国天像像内納入品 木製五輪塔 1基 金光明経四天王品第六 1巻 弘安四年三月東大寺新禅院聖守の願文がある 持国天神呪・般若心経 1巻 増長天像像内納入品 木製五輪塔 1基 金光明経四天王品第六 1巻 弘安四年三月聖守の願文がある 増長天神呪・般若心経 1巻 広目天像像内納入品 木製五輪塔 1基 金光明経四天王品第六 1巻 聖守の願文がある 広目天神呪・般若心経 1巻 包紙(願文がある)1枚 多聞天像像内納入品 木製五輪塔 1基 金光明経四天王品第六 1巻 聖守の願文がある 多聞天神呪・般若心経 1巻 聖守の願文がある 願文 1通 弘安四年三月、聖守等の記がある 包紙(願文がある)1枚 本坊経庫(国宝) 金堂鎮壇具(国宝)のうち銀製鍍金狩猟文小壺 伎楽面30面(重要文化財)のうち酔胡従 浄影大師像(重要文化財) 木造弥勒仏坐像(国宝) 華厳海会善知識曼荼羅図(重要文化財) 華厳五十五所絵巻(部分)(国宝) 葡萄唐草文染韋(そめかわ)(国宝) 四聖御影(ししょうのみえ)永和本(重要文化財) 倶舎曼荼羅図(国宝) 五輪塔(重要文化財)奈良市川上町所在(重源墓) 大仏殿西回廊と西楽門(重要文化財) 三昧堂(左の二重屋根)、開山堂(その右の宝形屋根)、奥に大仏殿を望む(二月堂から見る) 大湯屋(重要文化財) 大仏殿東回廊と東楽門(重要文化財) 法華堂北門(重要文化財) 真言院(中央は地蔵堂) 1月1日 除夜の鐘(鐘楼) 1月1日 – 3日 正月三が日(大仏殿・二月堂) 1月7日 修正会(大仏殿) 悔過法要が行われる。 2月3日 節分・星祭り(二月堂) 日中、「還宮(げんぐう)」と「節分豆まき」が行われる。還宮とは古くなったお札やお守り等を火にあげる儀式のこと。節分豆まきは、午後2時ごろ、二月堂の舞台の上から行われる。「星祭り」は、星に「除災与楽」を祈る法会。夕刻、二月堂本堂に万灯明を灯し、「星曼荼羅」を掲げてこの法会を勤める。 3月1日 – 14日 修二会(お水取り)(二月堂) 詳細は修二会の項を参照。奈良時代、実忠和尚によって始められた東大寺の代表的行事。11人の練行衆と呼ばれる僧侶が精進潔斎して合宿生活を送り、二月堂の本尊十一面観音に罪を懺悔し、国家安泰、万民豊楽等を願う。内陣の中では過去帳読誦、走りの行法、韃靼の行法などの行事が行われる。二月堂の上でたいまつを振り回す「お松明」は3月1日以降連日行われる。若狭井から水を汲み本尊に備える「お水取り」は3月12日深夜(13日未明)に行われる。2007年の修二会は1255回目になる。 3月15日 涅槃講 釈迦の入涅槃を記念する法要。 4月8日 仏生会(大仏殿) 釈迦の誕生を祝う。 4月24日 華厳知識供(開山堂) 一山の僧侶が開山堂に参集し、良弁僧正の厨子の前に華厳五十五聖善智識曼荼羅をかけ、華厳経を講じ、法会を行う。 5月2日 – 3日 聖武天皇祭 聖武天皇の御忌法要。 5月2日 天皇殿で論議法要。式衆・稚児の行列が市中から大仏殿に向かう。到着後、大仏殿で聖武天皇慶讃法要。舞楽も奉納される。 5月3日 山陵祭(大仏殿・佐保御陵) 大仏殿を出発し、東大寺一山の僧侶が聖武天皇をまつる佐保御陵に参拝する。帰着後、大仏殿で献茶式。 7月5日 俊乗忌(俊乗堂) 鎌倉時代に大仏を復興した重源の法要。法要終了後(11時ごろ)から午後4時ごろまで日ごろ非公開の秘仏重源上人坐像(国宝)が一般公開される。 7月28日 解除会(けじょえ、げじょえ)(大仏殿) 法要と茅の輪くぐりが行われる。 8月7日 大仏お身拭い(大仏殿) 200人程の僧侶や関係者が、早朝より二月堂の湯屋で身を清め、白装束に藁草履姿で大仏殿に集合し、午前7時より撥遣作法が行われた後、全員でお経を唱え、年に1度の大仏さまの「お身拭い」を行う。 8月9日 およく(二月堂) この日参詣すると46,000回参詣したのと同じ功徳が得られると伝えられている。 8月15日 万灯供養会(大仏殿) 盂蘭盆(うらぼん)の最終日、8月15日の夜、大仏に多くの灯籠をお供えする。お盆に帰省できない方々にもせめて御先祖の供養をしていただけるようにという趣旨で、1985年に始められた。 9月17日 十七夜(二月堂) 観世音菩薩の縁日で、法要のほか二月堂前広場で盆踊りが行われる。 10月5日 転害会 東大寺の鎮守の手向山八幡宮の祭礼。 10月15日 大仏さま秋の祭り(大仏殿) 12月14日 仏名会(二月堂) 三千仏の画像を掛け仏名を唱えて礼拝し、年内の罪障消滅を祈願。 12月16日 良弁忌(開山堂) 東大寺開山良弁僧正の法要。秘仏・良弁僧正坐像、執金剛神立像が公開される。 12月16日 方広会(法華堂) 研学竪義(けんがくりゅうぎ)と呼ばれる口頭試問が行われる。寺内の華厳と三論を学ぶものが学僧として認められるためにはこれに合格しなければならない。現在は形式化している。 12月18日 香水下げ渡し お水取りで汲まれた若狭井の水が信者に分け与えられる。 このほか、2002年以来、毎年12月にザ・グレイトブッダ・シンポジウムが開かれている。仏教に関する諸問題を広い視野に立ちながら厳密な学問的方法をもって分析・検討し、その意義を明らかにすることを目的とする。 東大寺は、光明皇后が悲田院や施薬院を設け、日本の社会事業のさきがけとなった寺院であるため今も各種社会事業が行われている。 東大寺福祉療育病院 肢体不自由児施設「東大寺整肢園」、重症心身障害児施設「東大寺光明園」、および重症心身障害児(者)通所施設「華の明」からなり、障害を持つ子供たちの療育を行っている。一般の整形外科等の外来や入院手術、リハビリテーションなども行っている。東大寺総合文化センターの西隣に所在する。 学校法人東大寺学園 東大寺学園中学校・高等学校 中高一貫の男子教育を行っている。初代校長は別当も務めた清水公照。南大門の西隣にあったが、現在は山陵町に移転している。 東大寺学園幼稚園 2歳児からの保育。戒壇堂の北隣に所在する。 東大寺図書館 主として仏教関係図書、仏教美術、古書、古文書、考古資料等を蒐集保存し、一般の閲覧に供している。南都諸寺に伝わる文物が明治の廃仏毀釈運動で散逸・消失されることを防ぐため設けられ、現在は東大寺総合文化センター内に所在する。 元長崎大学教授の白須賀公平が、大学等環境安全協議会会報に寄稿した論文「水銀蒸気で二十万(推定)都市が潰滅」の中で、東大寺の大仏(盧舎那仏)建立当時に施された金めっきによる水銀公害で平城京が潰滅したとの仮説を立てている。 東大寺要録の記録によると、当時施された金めっきには金10,436両(約375キロ・グラム)と水銀58,620両(約2,110キロ・グラム)が使用されているが、当時の金メッキ技術は、金と水銀の合金であるアマルガムをめっき対象物に塗り、その後炎によって水銀を気化させ金だけを残すという手法が執られていた。白須賀の仮説では、この際に発生した大量の水銀蒸気が平城京を覆い、水銀中毒症状が蔓延して祟りと恐れられたため、平城京はわずか74年で打ち捨てられ、長岡京に遷都したのだとしている。 2006年2月26日に放送されたテレビ朝日「素敵な宇宙船地球号」の第418回「水銀の不思議」は、この仮説に基づいて番組編成が行われた。 金堂、祭典時 虚空蔵菩薩(大仏殿) 二月堂から金堂を望む 二月堂とお社 JR奈良駅(約8分)、近鉄奈良駅(約4分)より奈良交通市内循環バス外回り系統で「東大寺大仏殿・春日大社前」下車、徒歩5分。または各駅から徒歩。 金堂(大仏殿・中門回廊より内側)・法華堂(三月堂)の堂内・戒壇院戒壇堂・東大寺ミュージアムは、通年有料で拝観できる。 大仏殿と東大寺ミュージアムの2箇所のみ共通割引券がある。 大仏殿は毎年1月1日の深夜0時から午前8時までは普段は閉じている中門が開かれ、無料で拝観できる。この間は普段は閉じている大仏殿の唐破風下の観相窓が開かれ、中門から大仏の顔を拝むことができる。 8月15日の万灯供養会の夜は19時から22時の間有料で大仏殿の拝観ができ、この日も大仏殿の唐破風下の観相窓が開かれる。 大仏殿は日本の寺院では珍しく、堂内で自由に大仏を始めとする仏像の撮影ができる。 拝観料は2018年1月から、17年ぶりに値上げ(大人500円→600円など)される予定である。外国人観光客の増加で参拝・見学者が年間300万人を超えるようになったことに伴う防犯・防火対策や伽藍の修繕、史跡整備の費用に充てるためとしている。 二月堂は、修二会のお水取り行事などが行われている時を除き、1年中無料で24時間舞台造の堂の上に上がることができる。 俊乗堂は普段は閉扉しているが、7月5日の俊乗忌、12月16日の良弁忌には、有料で参拝することができる。 開山堂は通常は中へは入れないが、12月16日の良弁忌には良弁像が秘仏開扉され、有料で拝観することができる。 勧進所は通常は中へは入れないが、10月5日の転害会には、国宝僧形八幡神像が開扉され、五刧思惟阿弥陀如来像、公慶堂の公慶上人像と共に、有料で拝観することができる。また公慶堂のみ4月12日にも公慶上人像と共に、有料で拝観することができる。 三昧堂(四月堂)は無料で堂内を拝観できる。 指図堂は法然上人二十五霊場の札所となっているため、主に土・休日に無料で堂内を拝観でき、朱印の押印に対応している。 境内の通路は24時間自由に通行できる。従って、国宝・南大門と国宝・金剛力士像や国宝・法華堂(三月堂)の外観、鐘楼と国宝の梵鐘、中門の外観、国宝の転害門などはいつでも自由に拝観できる。 国宝の梵鐘は普段は撞いていないが、除夜の鐘の時のみ撞く。22時30分頃から配布する整理券を手に入れた一般の参拝者が、除夜の鐘撞きに参加できる。1回につき8人で同時に小綱を引いて撞くので、108×8=864人の人が参加できる。 毎年7月中頃から9月末頃まで大仏殿と南大門のライトアップが行われる。12月31日の夜から元日の夜明けまでも夏ほどの規模ではないが、大仏殿と南大門のライトアップが行われる。 ^ 「金光明」は呉音で「こんこうみょう」と読むことが多いが、東大寺では公式サイト等で「きんこうみょう - 」を正式の読みとしている。 ^ 東大寺の記録には良弁以来の歴代別当が記録されているが、奈良時代期の重要決定・文書が別当ではなく三綱の名義で出されていることなど矛盾も多く、良弁が東大寺の初代の住持であったのは事実であるが、実際に彼が就任したのは「造東大寺司」の別当であり、東大寺の代表者としての別当職の成立は「造東大寺司」が廃された平安初期ごろと推定されている。 ^ 奈良市HP「古都奈良の文化財」の概要2018年6月20日 ^ 大和国分寺は一般に総国分寺の東大寺とされるが、『大和志』では橿原市の国分寺に比定する(「国分寺」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年)。 ^ もっとも、華厳宗は開山・良弁ゆかりの宗派として重要視され、近代以前においても日本における華厳宗研究の中心地として、多数の優れた学僧を輩出していた。 ^ 「東大寺を戦乱に巻き込むな」…信長の書状発見 ^ 東西の七重塔に関しては、一時、再建が検討されたが、木造による完全復元は建築基準法に抵触するため、断念せざるを得ず、再建は見送られた(鉄筋コンクリートによる再建は可能だが、歴史的建造物としての意味が薄れる)。 ^ 『仁王像大修理』、pp.87 - 88, 115 ^ 『仁王像大修理』、pp.19 - 21 ^ 『仁王像大修理』、pp.112 - 115 ^ 東大寺南大門の国宝・金剛力士像、20年ぶりの修理始まる ^ 『南都佛教』2007年12月89号、杉本和江(古美術修復家)「元禄開眼会の大華瓶」、池坊HP「いけばなの歴史 江戸時代(中期)東大寺大仏の立花」2018年1月30日閲覧 ^ 伊藤信二「八角燈籠の歴史と評価」奈良国立博物館編『東大寺大仏 天平の至宝』(展覧会図録、2010)、pp.187 - 192 ^ 宮武外骨編『日本擬人名辞典』37頁、成光館、1930 ^ 「七重の東塔」再建に向け発掘へ 東大寺、過去2回焼失47NEWS 2010年4月2日 ^ 東大寺「東塔」調査結果は ^ 東大寺の焼けた東塔、巨大な土台跡を確認 国内最大級か ^ 東大寺東塔跡:高さ70m超? 鎌倉期の基壇27m四方 ^ 現在、大仏殿内に展示されている。 ^ 箱崎和久「東大寺七重塔考」『東大寺創建前後 ザ・グレイトブッダ・シンポジウム論集第二号』東大寺、2004年 ^ 平成27年9月4日文部科学省告示第134号 ^ 平成23年6月27日文部科学省告示第101号 ^ 平成25年6月19日文部科学省告示第110号 ^ 平成17年6月9日文部科学省告示第85号 ^ 厨子は2015年追加指定、平成27年9月4日文部科学省告示第143号 ^ 平成19年6月8日文部科学省告示第97号 ^ 「賢劫経」は1897年重要文化財(旧国宝)に指定されているが所在不明。写真も残っていない。 ^ 東大寺 ^ テレビ朝日|素敵な宇宙船地球号「水銀の不思議」 〜毒か?薬か?ナゾの液体金属〜 ^ “入堂料・入堂時間改定のお知らせ”. 東大寺ホームページ. 2017年4月27日閲覧。 ^ “東大寺、17年ぶり拝観料上げ 修繕費など負担増”. 日本経済新聞朝刊. 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東大寺別当。日本ユニセフ協会奈良県支部の設立発起人。 平岡定海 - 東大寺別当。歴史学者。 守屋弘斎 - 東大寺別当。修二会の最多参籠記録保持者。 森本公誠 - 東大寺別当。イスラム学者としても有名。 八宗兼学 - 南都六宗も参照。 蘭奢待 - 香木 東大寺ウェブサイト 大仏はなぜ造られたのか(西山厚・奈良国立博物館学芸部長)", "興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。 藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現・京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。 和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年と言える。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。 その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。 興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して、事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。 鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士 と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護や守護大名を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。 興福寺は創建以来、度々火災に見舞われ、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。 この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走。朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。 江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。 江戸時代は2万1,000石の寺領を与えられ保護された。慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰(神仏習合)が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。子院は全て廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったという。ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。 行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、いわゆる「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、この時の名残である。 1998年に世界遺産に登録され、1999年から国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。平城京での創建1300年を機に中金堂と南大門の再建が計画されている。中金堂は2018年10月に落慶法要を迎えた(7日~11日)。 かつて興福寺には「興福寺両門跡」と呼ばれる2つの子院があった。一乗院と大乗院である。 一乗院は、平安時代後期の第6代門主覚信が関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々、摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院の一つとなった。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多かった。ちなみに足利義昭は、もともと近衛稙家の猶子として法名「覚慶」を名乗り一乗院の門跡となっていた。兄義輝の殺害にともない還俗し、織田信長の援助を得て室町幕府将軍となったものである。大和の国衆で後に戦国大名化した筒井氏は一乗院の衆徒の筆頭であった。江戸時代に入って、後陽成天皇の皇子尊覚が門主となったのをきっかけに親王が門主を務めるケースも増えた。たとえば、久邇宮朝彦親王は、元は一乗院の門主で、その後に青蓮院へ移されたものである。摂家や親王家と同様に諸大夫以下の専属の家司もおり、摂家・親王家と同格の立場を誇っていた。また奈良だけではなく、京都今出川の桂宮邸と御所の間に「里坊」と呼ばれる屋敷を持っていた。 大乗院は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となった。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家・二条家・一条家)の子弟が門主を務めるところであった。戦国時代には、日記『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊(一条兼良の子息)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われた後と、義昭のひとり息子が出家して法名を義尋と名乗り、大乗院の門主となっている。一乗院が筒井氏を衆徒としたように、大乗院も古市氏を衆徒としている。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂家・親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となった例はない。 興福寺の最高職である別当は、一乗院門主と大乗院門主が交互に就任する習わしだった。ただし、平家による南都焼き討ち直後の時期に第44代別当となった信円 に限っては、例外的に一条院門跡と大乗院門跡の双方を、他の幾つかの院家と共に兼帯している。また、両門跡に属する門主以外の者が別当に就任した例もある。 また、興福寺がその権限を行使していた大和国守護職については諸説ある。別当が権限を有していた説、両院の門主が共同で権限を行使していたとする説、門主が別当の時は別当が全権を行使し、それ以外の者が別当の時は別当と両院が共同で権限を行使していたとする説である。江戸時代には世俗的権力を失い、幕府から一定の知行(一乗院が1,492石、大乗院が951石)を与えられた単なる寺院となった。両院とも明治の廃仏毀釈で廃寺となった。 かつての興福寺には、中金堂(ちゅうこんどう)・東金堂(とうこんどう)・西金堂(さいこんどう)という3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像を安置していた。寺の中心部には、南から北に、南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には、南から、五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には、南から、南円堂(なんえんどう)、西金堂、北円堂(ほくえんどう)が建っていた。このほか、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は創建以来、火災に度々見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治期以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり、天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。 興福寺中金堂( - ちゅうこんどう)は、藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれている。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、篤志家の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、興福寺国宝館の開館(1959年)までは、高さ5.2メートルの千手観音像をはじめ、興福寺国宝館で現在見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価なマツ材が使用され、瓦も安物が使われ、経年による雨漏りがひどかった。1974年に中金堂裏側の講堂跡に仮金堂(奈良・薬師寺の旧金堂を、入母屋造から寄棟造にし、向拝を撤去するなどの大改造により外観を変えて移築したもの)が建てられ、本尊の釈迦如来坐像などはそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年に解体されている。なお、中金堂解体後の発掘調査も終了し、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内の整備が、創建1,300年となる2010年に着工し、2018年10月に落慶した。 2017年、翌年に新・中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を新・中金堂に移した。中金堂内には興福寺の本尊である釈迦如来坐像(江戸時代の再興)のほか、以下の仏を安置。 木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(重文)-像高3.6メートルの巨像。現在は本尊釈迦如来像の両脇に安置されるが、本来は廃絶した西金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として、鎌倉時代の建仁2年(1202年)に造立されたもの。 木造四天王立像(国宝)-鎌倉時代の作。この四天王像の当初の安置場所や作者は不明であるが、2017年までは南円堂に安置されていた。南円堂本尊の不空羂索観音像と同様、本四天王像も運慶の父・康慶一門の作であると長らく信じられていたが、藤岡穣が1990年に発表した論考で、当時の中金堂(仮金堂)に安置されていた現・南円堂安置の四天王像が、元から南円堂にあった康慶作の像であると指摘して以降、これが定説となった。本四天王像は2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」後に、康慶作の四天王像と入れ替わる形で中金堂に移された。 なお、仮金堂は名称を仮講堂に改め、国宝館にあった阿弥陀如来坐像を新たな本尊として安置した。 現存する興福寺東金堂は、 室町時代中期の応永33年(1426年)に再建された。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。 興福寺東金堂は、神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建した。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置する。 銅造薬師三尊像(重文)-中尊は応永18年(1411年)の火災後の再興像で室町時代の作。脇侍の日光菩薩像・月光菩薩像は応永の火災の際に救出されたもので、奈良時代の作である。 木造維摩居士坐像(国宝)-本尊薬師如来の向かって左に安置。鎌倉時代、建久7年(1196年)、定慶の作。維摩は大乗仏教の重要経典の一つである『維摩詰所説経(維摩経)』に登場する伝説上の人物で、在家仏教徒の理想像とされる。興福寺では山階寺の創建直後に藤原鎌足が維摩経を講賛・供養する維摩会を始めさせ、以後、最重要の法会の一つとして現在に至るまで毎年10月に執り行われている。その経緯などから維摩は藤原氏の篤い信仰を集め、また興福寺においても特に重要な存在と見なされている。実在の老人のようにリアルに表現されている。 木造文殊菩薩坐像(国宝)-本尊薬師如来の向かって右に安置され、上記維摩居士像と対を成す。作者は不明だが、維摩像と同じ頃、定慶の手になるものと推定される。維摩経のクライマックスにあたる文殊と維摩の問答の場面を表現したものである。 木造四天王立像(国宝)-堂内四隅に安置。堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像。 木造十二神将立像(国宝)-薬師如来を守護する12の眷属の像。鎌倉時代、建永2年(1207年)頃の作。各像のダイナミックな姿勢と12体の個性を彫り分けた群像表現が見所である。 現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。 興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては、東寺五重塔に次いで高い。 現存する興福寺北円堂は、鎌倉時代前期・承元4年(1210年)の再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。 興福寺北円堂(国宝)は、養老5年(721年)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた。現在の建物は承元4年(1210年)頃の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」である。現在、回廊の復元計画中。 木造弥勒仏坐像(国宝)-晩年の運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)頃に完成したもの。 木造法苑林菩薩・大妙相菩薩半跏像-弥勒仏の脇侍像だが、制作年代は室町時代に下る。 木造無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)-無著・世親の兄弟は5世紀頃のインドで活動した唯識教学の祖で、興福寺が属する法相宗では尊ばれている。本尊弥勒像と同じ頃、運慶一門の作。鎌倉時代のリアリズム彫刻の頂点をなす作品、日本の肖像彫刻の最高傑作の1つとして高い評価を得ている。※右列に画像あり。 木心乾漆四天王立像(国宝)-堂内の他の諸仏より古く平安時代ごく初期の像である。弘安8年(1285年)の修理銘によると、本来は大安寺のもので、延暦10年(791年)に造立されたという。 現存する興福寺南円堂は、江戸時代中期。年代:寛保元年(1741年)の再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する。1986年(昭和61年)12月20日 、文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている。 興福寺南円堂は、藤原北家の藤原冬嗣が、父・内麻呂の追善のため、弘仁4年(813年)に創建した八角堂である。現在の建物は寛政元年(1789年)の再建。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。堂は西国三十三所の九番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである(2002年秋、2008年秋、2013年春に特別開扉が行われた)。堂内には本尊である不空羂索観音坐像のほか、四天王立像と法相六祖像を安置する。堂の前に生える「南円堂藤」は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。 木造不空羂索観音坐像(国宝)-運慶の父である康慶一門の作で、文治5年(1189年)に完成。坐像で高さ336センチの巨像である。 木造四天王立像(国宝)-もともと南円堂にあったもの。その後、仮金堂(後に仮講堂と改称)に移されていたが、2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」後に南円堂に戻された。鎌倉時代、運慶の父・康慶一門の作。2018年度に国宝指定。 木造法相六祖坐像(国宝) - 運慶の父・康慶一門の作。玄賓、行賀、玄昉、神叡、常騰、善珠という、法相宗の6名の高僧の肖像。※右列に、伝 行賀像の画像あり。 現存する興福寺三重塔は、鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。本瓦葺の三間三重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。 興福寺三重塔は、康治2年(1143年)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建された。治承4年(1180年)の大火による焼失記録はないが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく再建された鎌倉建築と考えられる。 興福寺西金堂は、光明皇后が、母・橘三千代の一周忌に際し、釈迦三尊を安置する堂として天平6年(734年)に創建した。平安時代に2回、鎌倉時代に1回、被災したが、その都度に再建されてきた。その後、江戸時代の享保2年1月4日(グレゴリオ暦 1717年2月14日)に講堂からの出火によって中金堂や南金堂と共に焼失した。この時は資金難のために再建は叶わず、基壇を残すのみという状態になってしまった。そうして今は西金堂跡として往時を偲ぶばかりとなっている。 ただ、堂内に納められていた寺宝には焼失を免れて今日まで伝えられているものが少なくない。釈迦如来像(伝運慶作。体部は焼失し、今は頭部のみが国宝館に安置されている)、両脇侍像(薬王菩薩像と薬上菩薩像。今は中金堂に両脇侍像として安置)、梵天帝釈天像(奈良時代の作。明治時代に国外へ流出し、今は米国サンフランシスコのアジア美術館(英語版)が所蔵)、十大弟子像(奈良時代の作。今は10躯中の6躯を国宝館などに安置)、八部衆像(奈良時代の作。今は国宝館に安置)、金剛力士像(伝定慶作。今は国宝館に安置)、四天王像(所在不明)、華原磐(「かげんけい」と読む銅製楽器で、奈良時代の作。今は国宝館に安置)などがそれである。 現存する興福寺大湯屋は、室町時代中期・応永年間(1394-1427年)頃の再建。平面は桁行四間、梁間四間。屋根は一重、本瓦葺で、西面を入母屋造、東面を切妻造とする。1953年(昭和28年)3月31日 、文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている。 興福寺大湯屋は、五重塔の東方に建つ。五重塔と同じ、応永年間(1394-1427年間)の頃に再建された。 五重塔の南、三条通りを渡ったところに建つ、興福寺の子院である。現在の堂は天正8年(1580年)の再建で、本尊阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。 興福寺本坊( - ほんぼう)は、境内東方に位置する。一般には公開されていない。 木造聖観音立像(重文) - 本坊持仏堂(大圓堂)本尊。鎌倉時代の作。一般には公開されていないが、1997年東京国立博物館で開催された「興福寺国宝展」で初めて展示されたほか、2007年10月20日 - 11月25日に寺内で初めて公開。寺伝では聖観音像とされているが、像内納入文書によれば、本来は弥勒菩薩像として、建長5年(1253年)に仏師の快円によって作られたものである。 興福寺食堂(じきどう)は、奈良時代に創建され、焼失と再建を繰り返したが、1874年(明治7年)、廃仏毀釈のあおりで興福寺が荒廃していた時代に取り壊された。跡地には、1959年(昭和34年)になって寺宝を納める耐火式宝物庫「国宝館」が建設された。旧食堂の遺構は国宝館の地下にそのままの形で保存されている。 国宝館(こくほうかん)は、文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、1959年(昭和34年)、食堂及び細殿の跡地に建てられた。鉄筋コンクリート構造であるが、外観は、創建時の食堂、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている。2010年3月にリニューアルオープンし、従前に比べ展示点数が増えた。文化財に与える悪影響が少ないLED照明が採用されたことにより、多くの仏像がガラスケースなしで見られるようになった。現館長は金子啓明。なお、国宝館は耐震改修工事のため、2017年1月から12月までの1年間休館し、2018年1月に再開した。。 乾漆八部衆立像(国宝) - 奈良時代の作。もと西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。五部浄、沙羯羅(しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)の8体が揃って現存するが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。中でも三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が著名である(※右列に画像あり)。 乾漆十大弟子立像6躯(国宝)-奈良時代の作。八部衆像とともに、西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の一つである。当然ながら制作当初は10体の群像であったが、4体は明治時代に寺外へ流出し、舎利弗、目犍連(もくけんれん)、須菩提、富楼那、迦旃延、羅睺羅(像名はいずれも寺伝による)の6体のみが寺に現存する。寺外に流出した4体は、明治時代の古写真に写っているが、いずれも破損が激しい。これら4体のうち、大倉集古館旧蔵の1体(伝優波離像)は関東大震災で焼失した。他の3体は以下の所蔵先に現存するが、いずれの像も原形を留めていない。 伝阿難像(個人蔵) - 大破していた像の欠失部分を補って復元したものとされるが、詳細不明。 伝大迦葉像(大阪市立美術館蔵) - 頭部のみ残存。 像名不詳心木(東京藝術大学大学美術館蔵) - 両足先と衣の裾の部分がかろうじて残存する。 銅造仏頭(国宝) - 白鳳時代の作で、頭部のみ残っているが、白鳳文化を代表する作品。旧山田寺仏頭とも。元来、飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊薬師三尊像の中尊像の頭部で(前記)、東金堂にあったが、室町時代の火災で頭部だけがかろうじて焼け残った。(この火災により、右耳付近が大きく変形している)。この頭部は新しく作った本尊像の台座内に納められて長らく人目にふれず、1937年(昭和12年)に再発見された。この時には他に、類例の少ない銀製の仏像の腕(重文)も発見されている。※右列に画像あり。 木造仏頭(重文) - 廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部。鎌倉時代。頭部のほかに両手の一部、光背を飾っていた飛天像と化仏(小型の仏像)も残っている。従来、運慶の兄弟子・成朝の作とされていたが、近年、興福寺別当(住職)信円の日記の記述から、文治2年(1186年)正月に運慶によって作られたとする説が有力となっている。 木造金剛力士立像(国宝) - もと西金堂安置。鎌倉時代。定慶作とする説もある。※右列に画像あり。 木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝)-もと西金堂安置。大きな燈篭を、天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した、鎌倉期彫刻の傑作である。龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215年)の作で、天燈鬼も同人か周辺の仏師の作と思われる。※右列に画像あり。 木造千手観音立像(国宝) - もと食堂(じきどう)本尊。現在は、食堂跡地に建つ国宝館の中央に安置される。高さ5.2メートルの巨像で、像内納入品の銘記から鎌倉時代、寛喜元年(1229年)頃の完成と推定される。この千手観音像は記録によると造像開始から完成まで4半世紀の歳月を要した。当初の造像担当者であった成朝は運慶の父康慶の兄弟子にあたり、康慶よりも正当な慶派の後継者であった。しかし成朝は病弱であったため千手観音像の制作途中で亡くなったと推定されている。その後放置されていたものが何らかの理由で制作が再開され、別の仏師の手により完成された。像の部材は制作が中止されている間風雨に晒されていたらしく、内部の木肌は酷く痛んだ状態であった。 板彫十二神将像(国宝) - 平安時代11世紀半ばの作。日本では珍しい、檜板に浮き彫りにした仏像で、現在は剥落しているが、もとは彩色されていた。12面完存している。像容は誇張的にデフォルメされており、武神像でありながらどこかユーモラスな雰囲気が漂う。厚さ3cmほどの板に彫られたとは思えないほど立体感と奥行きが感じられ、特に顔や手足の筋肉は微妙な段差と起伏によって巧みに表されており、作者の高い技量を見て取ることが出来る。10世紀末期に活躍した画僧・玄朝(源朝)の図様を元に制作された。江戸期の文献には、この板彫を指すと見られる十二神将像が東金堂にあったという記載があるが、それ以前の伝来については解っていない。十二神将は薬師如来を守護し、仁和寺の薬師如来坐像の台座には十二神将を彫った作例があることから、元々は薬師像の台座側面に貼られていたと推測される。 金銅燈籠(国宝) - 南円堂前に立っていた銅製の燈籠で、現在は国宝館に展示されている。平安時代初期の弘仁7年(816年)の銘があり、紀年銘のある燈籠としては日本最古のものである。火袋の文字は当代の書道史の遺品としても貴重。 梵鐘(国宝) - 奈良時代、神亀4年(727年)の銘がある。制作年の分かる梵鐘としては、妙心寺鐘(698年)に次いで、日本で二番目に古い。現在は仮講堂に所在。 現在の境内と合わせて奈良公園の一部にまたがる旧境内が国の史跡に指定されている。所有する国宝は27件になる。 東金堂 五重塔 北円堂(附:旧内陣小壁8枚、銘札1枚) 三重塔 木造文殊菩薩坐像(東金堂) 木造維摩居士坐像 定慶作(東金堂) 木造四天王立像(東金堂) ※右列に広目天像の画像あり。 木造十二神将立像(東金堂) ※右列に伐折羅像と波夷羅像の画像あり。 木造弥勒仏坐像 運慶作(北円堂) ※右列に画像あり。 木造無著立像・木造世親立像 運慶作(北円堂) ※「北円堂」節に画像あり。 木心乾漆四天王立像(北円堂) 木造不空羂索観音坐像 康慶作(南円堂) ※右列に画像あり。 木造四天王立像(南円堂) - 2018年度国宝指定 木造四天王立像(中金堂) ※右列に画像あり。 乾漆八部衆立像 8躯(国宝館・旧西金堂) 乾漆十大弟子立像 6躯(国宝館・旧西金堂) 木造金剛力士立像 2躯(国宝館・旧西金堂) 木造天燈鬼立像・木造龍燈鬼立像(国宝館・旧西金堂) 木造法相六祖坐像 6躯 康慶作(南円堂) 板彫十二神将像(国宝館・旧東金堂) 銅造仏頭(国宝館・旧東金堂) 木造千手観音立像(附:像内納入品)(国宝館・旧食堂) 金銅燈篭 梵鐘 華原磬 ※右列に画像あり。 日本霊異記上巻 延喜四年書写奥書 興福寺金堂鎮壇具(銀製鍍金唐花文鋺2口、銀製鍍金唐草文脚杯残欠1口、銀鋺7口、水晶念珠玉5箇、水晶玉類6箇) - 1884年(明治17年)に発掘された鎮壇具の大部分は東京国立博物館の所蔵になっている。興福寺所蔵分は銀器、水晶玉など21点。 ※ 阿修羅像は「乾漆八部衆立像 8躯」のうちの1躯である。 (建造物) 大湯屋 南円堂 (彫刻) 木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(中金堂) 銅造薬師如来および両脇侍像(東金堂) 木造阿弥陀如来坐像(菩提院大御堂) 木造阿弥陀如来坐像(仮講堂) 木造釈迦如来坐像(国宝館) 木造薬師如来坐像・像内納入品(薬師経)(仮講堂) 木造仏頭(附:仏手2箇)(国宝館・旧西金堂本尊) 木造飛天・化仏 11躯(飛天8、化仏3)(国宝館・旧西金堂本尊光背付属) 木造帝釈天立像(仮講堂)- 寺では「梵天像」と称している。 木造梵天・帝釈天立像(国宝館) 木造地蔵菩薩立像(仮講堂) 厨子入木造弥勒菩薩半跏像(附:像内納入品)(国宝館) - 大乗院持仏堂旧所在 厨子入木造吉祥天倚像(中金堂) 銀造仏手(国宝館) 木造大黒天立像(中金堂) 木造広目天立像(奈良国立博物館寄託) - 四天王のうちの1体。残り3体は滋賀・MIHO MUSEUM(持国天)および奈良国立博物館(増長天・多聞天)所蔵。 木造聖観音立像(弥勒菩薩立像)快円作(本坊持仏堂) 木造釈迦如来立像(1929年盗難) (参考)広島県尾道市(生口島)の耕三寺所蔵の木造釈迦如来坐像(1901年重文指定)はもと興福寺にあり、第二次世界大戦後に耕三寺に移ったものである。 (絵画、書跡典籍ほか) 絹本著色慈恩大師像 絹本著色慈恩大師像 絹本著色淄州(ししゅう)大師画像 絹本著色二天王画像 護法善神扉絵 12面 細字(さいじ)法華経 天平十六年書写奥書 経典釈文断簡 成唯識論(じょうゆいしきろん)巻十 天平宝字五年小治田弟成書写奥書 紺紙金字成唯識論 10巻 紺紙金泥金剛般若波羅蜜経 奥に康永二年二条良基の願文あり 宋版一切経 4,354帖 講周易疏論家義記断簡 大慈恩寺三蔵法師伝 10巻 僧綱補任 6巻 明本抄 巻第一、第三、第六、第十紙背文書(内1通栄西自筆)附:建暦二年十二月廿三日貞慶付嘱状等(6通)1巻 延暦寺智行高僧伝 左府抄 3巻 寛喜三年実信鈔写奥書 聖徳太子伝暦 4帖 徳治二年書写奥書 篳篥譜(ひちりきふ) 興福寺別当次第 6巻 造興福寺記 春日版版木 2,778枚(附 版本瑜伽師地論(春日版)91巻、版本大般若経(春日版)610巻) 典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。 興福寺・南円堂の御詠歌は「春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲」。 西国三十三所 8 長谷寺 -- 9 興福寺南円堂 -- 10 三室戸寺 南都七大寺 1 東大寺 -- 2 興福寺 -- 3 元興寺 西国薬師四十九霊場 3 般若寺 -- 4 興福寺東金堂 -- 5 元興寺 大和北部八十八ヶ所霊場 61 春岳院 -- 62 興福寺菩提院大御堂 -- 63 白毫寺 神仏霊場巡拝の道 15 春日大社 -- 16 興福寺 -- 17 大安寺 近鉄奈良線近鉄奈良駅下車、東へ徒歩7分。 JR奈良駅下車、三条通りを東へ。 境内自由。国宝館、東金堂は通年拝観可(有料)。北円堂・仮講堂の内部は春・秋などに期日を限って公開。南円堂開扉は10月17日と特別公開時のみ。 奈良国立博物館 東大寺 春日大社 奈良基督教会 井上靖、塚本善隆監修、大原富枝、多川俊映著 『古寺巡礼奈良11 興福寺』、淡交社、1979 小西正文 『興福寺』(日本の古寺美術5)、保育社、1987 ISBN 4-586-72005-0 『週刊朝日百科 日本の国宝』55 - 57号(興福寺1 - 3)、朝日新聞社、1998。後に『朝日百科 日本の国宝5 近畿3[奈良]』 朝日新聞社、1999年、所収、ISBN 4-02-380012-0 西村公朝 『釈迦と十大弟子』(とんぼの本) 新潮社、2004 ISBN 4-10-602114-5 金子啓明 『もっと知りたい興福寺の仏たち』(アートビギナーズ・コレクション)、東京美術、2009 ISBN 978-4-8087-0859-7 『古寺をゆく1 興福寺』小学館101ビジュアル新書、2009年4月、ISBN 978-4-098-23001-3 写真多数、貫首の法話がある。 大橋一章・片岡直樹編著『興福寺 美術史研究のあゆみ』、里文出版、2011、ISBN 978-4-8980-6379-8 辞典類 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店 『国史大辞典』、吉川弘文館 図録 東京国立博物館編 『興福寺国宝展』 芸術研究振興財団、1997 『興福寺』(興福寺国宝館で発売されていた解説入り図録、著者名表記なし)、1997 東京藝術大学大学美術館ほか編 『興福寺国宝展』 朝日新聞社、2004 ^ なお、唐において「弘福寺」が「興福寺」と改名された事例があるとして、通説では平城遷都後も飛鳥に留まったとされる川原寺(弘福寺)を移転・継承する意図も含まれていたとする説もある。 ^ 室町時代になると、十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする長川党、筒井氏を刀禰とする戌亥脇党、楢原氏を中心とした南党、越智氏を中心とした散在党、平田党の六党が割拠し、その中でも筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏の四氏が「大和四家」と呼ばれる勢力に成長していった。 ^ 信円は松殿家の始祖となった松殿基房の同母弟で、近衛家の始祖となった近衛基実と九条家の始祖となった九条兼実の異母弟にあたる。彼は「奈良僧正」と呼ばれ、後白河法皇、兄の松殿基房、それに九条兼実といった院や摂関家の有力者との関わりが深かったことが『玉葉』などの記述に見える。 ^ これら3体の写真は、『週刊朝日百科 日本の国宝 55 興福寺1』の5-141頁および5-143頁にある。 ^ 食堂は明治の廃仏毀釈により取り壊されその跡地に国宝館が建っている。 ^ 当初指定時(1956年)は「9巻」。1999年に巻四が追加指定され「10巻」となった。(平成11年6月7日文部省告示第139号) ^ 文化庁サイトの「国指定文化財等データベース」に「紺紙金字唯識論」とあるのは誤りで、「紺紙金字成唯識論」が正当。 ^ 加藤優「興福寺と伝戒師招請」関晃先生古希記念会編『律令国家の構造』、吉川弘文館、1989年 ^ 磯貝誠「廃仏毀釈と興福寺」『興福寺 美術史研究の歩み』所収、p.39 - 44 ^ 興福寺整備計画 ^ 「興福寺 300年ぶり再建の中金堂落慶法要」産経WEST(2018年10月7日)2018年10月10日閲覧。 ^ 田中慶治「室町期大和国の守護に関する一考察 -幕府発給文書を中心に-」(初出:矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』(高志書院、2004年) ISBN 978-4-906641-80-2/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4) ^ 『興福寺国宝展』(東京国立博物館、1997)、p.197 ^ a b 興福寺の四天王像がお引っ越し 奈良 朝日新聞 2018年2月16日 ^ a b c d e f 国指定文化財等データベース - 文化庁 ^ a b c d 明治30年12月28日内務省告示第87号(参照:[1]国立国会図書館デジタルコレクション)) ^ a b c d 昭和27年10月16日文化財保護委員会告示第21号(指定は昭和27年3月29日付け) ^ 昭和61年12月20日文部省告示第150号 ^ 平成30 年10 月31日文部科学省告示第204号 ^ 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について〜」(文化庁サイト、2018年3月9日発表) ^ 天平の音 奈良・興福寺の国宝楽器「華原磬」台座を復元・公開産経WEST(2014年4月3日)2018年10月10日閲覧。 ^ 昭和28年7月16日文化財保護委員会告示第59号(指定は昭和28年3月31日付け) ^ 山本勉「興福寺本坊持仏堂弥勒菩薩立像(伝聖観音菩薩像)について」『Museum』553号(1998年4月) ^ 『興福寺国宝展』(東京国立博物館、1997)、p.221 ^ 奈良新聞2016年12月30日付 ^ 本件四天王像の各個の像名について、『奈良六大寺大観 興福寺2』をはじめ、既存の文献・図録では、(a)剣を持つ像、(b)右手を腰に当て、左脚を遊脚とする像、(c)左脚を支脚とし、口を閉じる像をそれぞれ持国天、増長天、広目天としているが、興福寺のサイトでは(a)(b)(c)をそれぞれ増長天、広目天、持国天としている。本項解説は当面、既存の文献・図録に従う。 ^ 平成30 年10 月31日文部科学省告示第204号 ^ 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について〜」(文化庁サイト、2018年3月9日発表) 興福寺の仏像 門跡寺院 多川俊映 多聞院英俊 金子啓明 興福寺奏状 国宝一覧 日本の寺院一覧 奈良華族 果心居士 多聞山城 辰市城の合戦 春日神木 宝蔵院流槍術 法相宗大本山 興福寺", "醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある仏教寺院、真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。 平安時代初期の創建。貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。 醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。 その後、室町時代の応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどし、今日の姿となった。 874年 - 聖宝により創建。 907年 - 醍醐天皇の御願による薬師堂が建立。薬師三尊像を造立。 911年 - 観賢が山上に御影堂を建立。 926年 - 醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立。 952年12月- 五重塔が落成。 1088年12月 - 上醍醐鎮守の清滝宮が上棟。 1115年 - 14代座主勝覚により三宝院が建立。 1598年 - 豊臣秀吉により醍醐の花見が行われる。 1935年 - 霊宝館が開館。 1939年8月 - 上醍醐を襲った山火事により短時間で経蔵、清滝宮本殿、西国三十三所第11番札所の准胝堂(じゅんていどう)が焼失。 1968年5月 - 准胝堂が再建。 1995年1月17日 - 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の影響で、五重塔、金堂などの漆喰が剥がれた。 1997年9月11日 - 朱雀天皇の勅願で下醍醐に三昧堂として949年に創建され1470年に焼失した堂を、真如三昧耶堂として建立。 2008年8月24日 - 落雷による火災で、上醍醐の准胝堂(1968年再建)がほぼ全焼した。 上醍醐と下醍醐は険しい山道で隔てられ、徒歩で1時間は要する。 本尊の薬師如来像を安置する金堂、三宝院などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がる。応仁の乱でほぼ全焼し、その後も焼失・再建を繰り返しているが、護摩道場前に建つ五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像として現存最古のものである。 総門 左側に三宝院(当院の入口受付で拝観券の販売)、右側に霊宝館。 桜馬場 西大門(仁王門・受付) - 豊臣秀頼が慶長10年(1605)に再建。 清瀧宮本殿(重要文化財) - 永正14年(1517)に再建。 清瀧宮拝殿 - 慶長4年(1599年)建立。 金堂(国宝) 入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。平安時代後期の建立。豊臣秀吉の発願により紀州から移築したもので、慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)に落慶している。『紀伊名所図会』等によると、当初は紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された後白河法皇の御願寺)本堂であったという。秀吉が紀州征伐を行った1597年当時、湯浅一帯を支配していた守護・畠山氏の家臣・白樫氏が満願寺一帯を拠点としており、その居城である白樫城(満願寺城)とともに焼き討ちされる予定であったが、ちょうど醍醐寺座主・義演が以前応仁の乱で大内氏に焼かれた醍醐寺金堂の再建を欲していたこともあり、満願寺の建築を秀吉に差し出すことをバーターにして焼き討ちが回避された経緯がある。部材には平安時代のものが残るが、堂が湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、移築時の桃山時代の手法も混在する。組物が統一されておらず、正面が出三斗、側面と背面が平三斗と言う異例のデザインを持つのが特徴で、平三斗は創建当時の物、正面の出三斗は鎌倉時代の補修の際に付け加えられたものと考えられている。立ちの高い入母屋屋根は近世風で、移築時の改修である。内部には本尊・薬師如来坐像(重要文化財)と日光・月光菩薩と四天王像を安置する。堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、一体の空間とする点に特色がある。 五重塔(国宝) 平安時代の天暦5年(951年)建立。承平元年(931年)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画された。しかし、代明親王の死去(937年)などの影響で工事は停滞し、発願の20年後に完成した。総高38メートル。うち相輪部が12.8メートルで、全体の3割以上を占める。屋根の逓減率が大きく、塔身の立ちが低いため、後世の塔のような細長いプロポーションにはならない。創建以来修理を重ねたが、特に天正13年(1585年)の地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受けたため、豊臣秀吉の援助で慶長3年(1597年)に修理が完成している。昭和25年(1950年)の台風でも被害を受け、同35年(1960年)に修理が完成した。京都に残る数少ない平安時代建築として貴重であるとともに、初重内部の両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安絵画の遺品として重要であり、塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されている。 不動堂 - 堂前で柴燈護摩が焚かれる。 真如三昧耶堂 - 真如苑の開祖・伊藤真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰するため醍醐寺により平成9年(1997年)建立。金色の涅槃像を祀る。 祖師堂 - 向かって右に弘法大師、左に理源大師を祀る。慶長10年(1605)建立。 旧阿闍梨寮、旧伝法学院 - ここより上の一帯を大伝法院という。 日月門 鐘楼堂 観音堂(旧・大講堂) - 昭和5年(1930年)建立。本尊は丈六の阿弥陀如来坐像であるが、現在は消失した上醍醐の准胝堂の西国札所が仮に移されており、「観音堂」と改称されていて、堂内に納経所 がある。入り口は向かって左後ろにある。 弁天堂 - 昭和5年(1930年)に林泉の北東岸に建立された建物。 お休み所寿庵 下醍醐の伽藍の一覧 総門  三宝院唐門(国宝)  西大門(仁王門)  清瀧宮本殿(重要文化財)  不動堂  真如三昧耶堂  祖師堂  日月門  鐘楼堂  観音堂  弁天堂  西国三十三所第11番札所であり、西国一険しい札所として知られる。上り口にはかつて女人結界があったことから、女人堂がおかれ、そこから険しい山あいに、平安時代のままに残る国宝の薬師堂、醍醐寺の鎮守神である清瀧権現拝殿、准胝堂(現存せず)、五大堂などが立ち並ぶ。上醍醐には有名な「醍醐水」が今も湧き出ているほか、醍醐山頂(標高450m)には、如意輪堂と開山堂とその間に白山大権現祠が並ぶ。山頂から笠取山に向かう途中に奥の院がある。 女人堂(成身院)- 上醍醐への入山料の支払所、これより19丁(2.6km)約1時間の軽登山。 清瀧宮拝殿(国宝)・本殿(重要文化財)- 室町時代の永享6年(1434年)に再建。清瀧宮は弘法大師(空海)が唐・長安の青龍寺から勧請した密教の守護神を祀った醍醐寺の鎮守社。 醍醐水 - 聖宝が感得し、醍醐寺の名前の由来となったといわれる霊泉。 准胝堂跡 - 聖宝が如意輪堂とともに建立、西国三十三所観音霊場第十一番札所。1968年に再建された堂は2008年8月24日焼失。再建までの間は西国札所は下醍醐の観音堂(大講堂)に仮に移されている。 薬師堂(国宝) 醍醐天皇の勅願により延喜7年(907年)頃に聖宝(理源大師)により創建。現存の堂は保安2年(1121年)の建立。入母屋造、檜皮葺き。正面5間、側面4間。側面の柱間4間のうち、中央の2間が狭く、前寄りと後寄りの各1間が広いのは珍しい。内部には薬師三尊像(国宝)、閻魔天像、帝釈天像、千手観音像(以上は重要文化財)などを安置していたが、現在はすべて下醍醐の霊宝館に移されている。 五大堂 - 聖宝が開いた鎮護国家の祈願道場。 如意輪堂(重要文化財)- 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建。元は理源大師(聖宝)により准胝堂とともに建立されたと伝わる。 開山堂(重要文化財)- 如意輪堂ともに慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建。内陣の厨子には理源大師(聖宝)坐像など安置。 奥の院・洞窟 - 開山堂の向かって右奥の木製の一の鳥居から二の鳥居、三の鳥居を経て約30分、左へ少し行くと浅い洞窟の奥の院、右へ進むと「東の覗き」で下は断崖絶壁。 上醍醐の伽藍の一覧 女人堂  客殿・寺務所  清瀧宮拝殿(国宝)  清瀧宮拝殿(国宝)南側から  醍醐水  准胝堂(現存せず)  薬師堂(国宝)  五大堂  如意輪堂と開山堂(手前)  如意輪堂(重要文化財)  開山堂(重要文化財)  白川皇后陵  様々な行事が毎月行われる。屋外での壮大な柴燈護摩(さいとうごま)は聖宝が始めたと伝わり、醍醐寺でも折々に行われる。五大明王の功徳を讚える2月23日の「五大力尊仁王会」(ごだいりきそんにんのうえ)は、150kg(女性は90kg)という巨大な鏡餅を持ち上げる力比べが行われることで有名であり、当日に備えて練習に励む信徒もいる。豊臣秀吉の「醍醐の花見」にちなむ豊太閤花見行列(4月第二日曜日)、施餓鬼法要などからなる8月の万灯会(まんとうえ)なども多くの参拝者や観光客が訪れる。 建造物 金堂 五重塔 清滝宮拝殿(上醍醐) 薬師堂(上醍醐) 三宝院唐門 - 1599年建立 三宝院表書院 絵画 絹本著色五大尊像 絹本著色文殊渡海図 絹本著色訶梨帝母像 絹本著色閻魔天像 五重塔初重壁画(板絵著色)18面 両界曼荼羅図 心柱覆板絵4、羽目板絵7 真言八祖像(善無畏を欠く)羽目板絵7 附 両界曼荼羅図(旧四天柱絵2本、羽目板絵断片4面) 紙本著色絵因果経 彫刻 木造薬師如来及両脇侍像(旧上醍醐薬師堂安置) 木造虚空蔵菩薩立像 書跡・典籍、古文書 大日経開題 弘法大師筆 後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡(三通) 後醍醐天皇宸翰天長印信(蝋牋) 狸毛筆奉献表 伝弘法大師筆 理源大師筆処分状 醍醐寺文書聖教(もんじょしょうぎょう) 69,378点 宋版一切経 6,102帖(附 経箱604合) - 2017年度国宝指定 建造物 清滝宮本殿 如意輪堂(上醍醐) 開山堂(上醍醐) 三宝院殿堂(玄関、勅使の間・秋草の間・葵の間、庫裏、宸殿、純浄観、護摩堂) 三宝院宝篋印塔 絵画 絹本著色阿弥陀三尊像 絹本著色大日金輪像(1902年重文指定、98.2×60.9 cm) 絹本著色大日金輪像(1941年重文指定、96.4×83.3 cm) 絹本著色虚空蔵菩薩像 絹本著色地蔵菩薩像 絹本著色普賢延命像 絹本著色弥勒菩薩像 絹本著色大元帥明王像(卅六臂、八臂、四臂)3幅・毘沙門天像・伝釈迦曼荼羅図・虚空蔵曼荼羅図(大元帥法本尊像) 絹本著色愛染明王像 絹本著色金剛夜叉明王像 絹本著色大威徳明王像 絹本著色五秘密像 紙本墨画不動明王像 5幅 紙本墨画密教図像 39点(明細は後出) 絹本著色山水屏風 六曲屏風一隻 絹本著色仁王経曼荼羅図 絹本著色般若菩薩曼荼羅図 絹本著色弥勒曼荼羅図 絹本著色両界曼荼羅図 絹本著色六字経曼荼羅図 紺絹金泥六字経曼荼羅図 紙本著色十巻抄(第十巻補写) 金地著色扇面散図 伝俵屋宗達筆 二曲屏風一双 金地著色舞楽図 俵屋宗達筆 二曲屏風一双 紙本著色調馬図 六曲屏風一双 紙本墨画芦鴨図 俵屋宗達筆(二面衝立) 三宝院障壁画 72面(明細は三宝院の項を参照) 彫刻 木造薬師如来及両脇侍像(金堂安置) 銅造阿弥陀如来坐像 木造阿弥陀如来坐像 木造千手観音立像 木造如意輪観音坐像 木造地蔵菩薩立像 木造弥勒菩薩坐像 快慶作(三宝院本堂安置) 木造閻魔天像 木造吉祥天立像 木造金剛力士立像(所在西大門) - 1134年造立 木造帝釈天騎象像 木造五大明王像(旧三宝院護摩堂安置) 木造不動明王坐像 快慶作 木造不動明王坐像 木造五大明王像(上醍醐五大堂安置) 木造理源大師坐像(開山堂安置) 工芸品 金銅仏具(如意、九鈷杵、五鈷鈴、金剛盤) 金銅両界曼荼羅 石燈籠 弘安八年(1285年)銘(上醍醐清滝宮本殿前) 線刻阿弥陀五仏鏡像 線刻如意輪観音等鏡像 鍍金輪宝羯磨紋戒体筥 沃懸地螺鈿説相箱(いかけじらでんせっそうばこ) 一双 螺鈿如意 書跡・典籍、古文書 典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。2001年以降の指定物件については個別に注記。 ※三宝院唐門、三宝院表書院、三宝院殿堂、三宝院宝篋印塔、三宝院障壁画の国宝2件、重要文化財3件は宗教法人三宝院の所有であり、宗教法人醍醐寺が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている。 重要文化財「密教図像39点」の明細 密教図像 39点 不動明王像 3幅 金翅鳥及大輪明王像 1幅 大日金輪像 1幅 毘沙門天像 1幅 善女竜王像 2幅 普賢延命像 1幅 求聞持法根本尊 1幅 訶梨帝母像 2幅 毘楼勒叉天像 1幅 五大尊像 1幅 孔雀明王像 1幅 金剛童子像 1幅 仁王経法本尊像 5幅 諸菩薩像 8幅 五大尊図像 2巻 八大明王像 1巻 大元帥明王像 1巻 九曜星図像 1巻 諸尊図像 1巻 五大虚空蔵坐居諸図像 1巻 三十七尊羯磨形 1巻 馬頭、大勝金剛、馬鳴曼荼羅六字図像 1巻 祈雨法、深沙大将等諸像 1巻 火天部尊像 1巻 十八会曼荼羅図像 1巻 八大明王図像 1巻 妙見菩薩図像 2巻 仏眼、金輪、仏頂熾盛光、五秘密、宝楼閣図像 1巻 不動明王図像 1巻 四種護摩本尊及眷属図像 1巻 明王部図像 1巻 三摩耶形 3巻 諸文殊図像 1巻 十二天形像 1巻 御筆四種護摩壇三十七尊賢劫三摩耶形 1巻 三十七尊賢劫十六尊外金剛部二十天三形 1巻 天部図像 1巻 四家鈔図像 3巻 十二神将図像 2巻 醍醐寺三宝院庭園 醍醐寺境内 - 指定区域には栢杜遺跡(伏見区醍醐柏森町)を含む (旧)五大堂(上醍醐) - 旧国宝建造物。昭和7年(1932年)4月3日、護摩の火が屋根に燃え移り焼失、昭和15年(1940年)再建。 経蔵(上醍醐) - 旧国宝建造物。昭和14年(1939年)8月29日、山火事が飛び火して焼失。 指定文化財ではないが、上醍醐の准胝堂(1968年再建)は2008年8月24日、落雷による火災で焼失。再建が検討されている。 境内は日本さくら名所100選選定 醍醐山伝法学院 種智院大学(協同経営) 洛南高等学校・附属中学校(協同経営) 醍醐寺文化財研究所 霊宝館 醍醐寺は戦後、真言宗醍醐派から独立した真言宗系新宗教である真如苑、解脱会と現在でも密接な関係を持っている。 解脱会の創始者・岡野聖憲は、醍醐寺三宝院にて出家得度。死後、醍醐寺から「解脱金剛」の諡号が贈られている。解脱会は伊勢神宮、橿原神宮、泉涌寺を三聖地としているが、醍醐寺にも集団参拝を行う。 真如苑の開祖・伊藤真乗は、醍醐寺で恵印灌頂、伝法灌頂を畢めており、1966年には大僧正位が贈られている。醍醐寺は1997年、真乗の興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰する「真如三昧耶堂」を境内に建立した。真如苑の法要には、醍醐派管長をはじめ、醍醐寺の僧侶が招待されることがある。 新明国上教会は不動明王を「新明国上心様」とし、「真言宗醍醐派修験道宿河原教会」(通称「宿河原不動尊」)となって真言宗醍醐派に所属していた。 逆縁も もらさで救う 願なれば 准胝堂は たのもしきかな 西国三十三所 10 三室戸寺 -- 11 醍醐寺(上醍醐・准胝堂) -- 12 岩間寺正法寺 真言宗十八本山 11 随心院 -- 12 醍醐寺 -- 13 宝山寺 神仏霊場巡拝の道 125 平等院 -- 126 醍醐寺 -- 127 毘沙門堂 西国薬師四十九霊場 38 法界寺 -- 39 醍醐寺 -- 40 雲龍院 役行者霊跡札所 法界寺 日野誕生院 一言寺 萱尾神社 醍醐天皇後山科陵 随心院 佛光院 勧修寺 下醍醐の伽藍、上醍醐の入山それぞれに有料エリアがある。 京阪バスによるアクセスが確保されている。2号経路を除き京阪バス山科営業所の管轄。 山科駅(JR・京阪・地下鉄)より、京阪バス29A号経路「醍醐寺」下車すぐ。または、京阪バス22・22A・24・24A号経路「醍醐寺前」下車すぐ。 地下鉄醍醐駅より、徒歩10分(パセオ・ダイゴロー東館2階から続く「緑道」を使う)。または醍醐コミュニティバス4号路線「醍醐寺前」下車すぐ。 六地蔵駅(京阪・JR・地下鉄)より、京阪バス22・22A号経路「醍醐寺前」下車すぐ。 京都駅八条口より、京阪バス山科急行線「醍醐寺」下車すぐ。 竹田駅より京阪バス2号経路「醍醐寺前」下車すぐ(この経路のみ京阪バス洛南営業所による管轄)。 三条京阪・四条河原町・五条京阪より、京阪バス86号・86B号経路「醍醐寺前」下車すぐ。 上醍醐寺へは下醍醐寺の女人堂から山道を約1時間。 かつては横嶺峠の駐車場からの比較的楽なルートもあったが、現在は通行不可になっている。 ^ 仏塔の屋根は、初重が最も大きく、二重、三重と上へ行くにしたがって次第に小さくなるが、その減少率が大きいという意。 ^ a b 読売新聞 1995年9月11日 ^ 総本山醍醐寺・真言宗十八本山・神仏霊場会・西国三十三所第十一番札所・近畿三十六不動尊霊場第二十三番・西国薬師四十九霊場第三十九番・役行者霊蹟札所の納経を扱っている、 ^ 醍醐寺の年中行事一覧(2018年2月25日閲覧) ^ 田中美枝子「餅上げ道場 師範は横綱◇京都・醍醐寺で力を競い奉納 31人の教え子が優勝◇」『日本経済新聞』朝刊2018年2月20日 ^ 平成27年9月4日文部科学省告示第134号 ^ 平成25年6月19日文部科学省告示第105号 ^ 平成29年9月15日文部科学省告示第114号 ^ 国宝・重要文化財の指定について(文化庁サイト) ^ 2004年に「木造大威徳明王像 1躯 附・木造不動明王・降三世明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王像 4躯」として重要文化財に指定されたが、2009年に附指定の4躯を本指定に格上げし、指定名称も「木造五大明王像 5躯」となった。(平成16年6月8日文部科学省告示第112号、平成21年7月10日文部科学省告示第108号) ^ 管理団体指定告示は、昭和52年4月25日文化庁告示第8号及び第9号 ^ 『図説日本の史跡 5 古代2』、同朋舎出版、1991、p.122 ^ 西国三十三観音霊場第十一番、 准胝観世音菩薩ご開扉法要醍醐寺(2018年2月25日閲覧) ^ a b 井上順孝『世界宗教百科事典』丸善出版(2012/12) P426~7 ^ 新明国上教会の由来について宗教法人新明国上教会 ^ 拝観のご案内醍醐寺(2018年2月25日閲覧) 佐和隆研『醍醐寺』、東洋文化社、1976 井上靖、岡田宥秀『古寺巡礼 京都3 醍醐寺』、淡交社、1976 『週刊朝日百科』「日本の国宝 72 醍醐寺」、朝日新聞社、1998 国宝一覧 古都京都の文化財 日本の寺院一覧 近畿の史跡一覧 醍醐寺の鶯(京都市営地下鉄東西線の発車メロディ) 真如苑 解脱会 北川悠仁(ゆず) 醍醐寺 公式サイト (日本語) 近畿三十六不動尊霊場会 公式ホームページ", "般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂(奈良きたまち)に位置する真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。 般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和国(奈良県)と山城国(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。この道はまた、平城京の東端を南北に通っていた東七坊大路(東大寺と興福寺の境をなす)の延長でもある。 般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、これらを裏付ける史料はない。別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向臣が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいう(『上宮聖徳法王帝説』裏書)。 鎌倉時代の文永4年(1267年)、当時の本尊・文殊菩薩像を開眼供養した際の願文(がんもん)では、「般若寺は聖武天皇が創建し、平安時代に僧観賢によって再興された」とする説を採用している。しかし、観賢(854年-925年)が関与した「般若寺」は山城国(今の京都市右京区鳴滝般若寺町)にあった寺であり、上記の説は同名別寺院を混同したものである。この、観賢再興説が誤りであるという点は、すでに江戸時代・享保20年(1735年)刊の『奈良坊目拙解』(村井古道著)で指摘されている。 信頼できる史料における「般若寺」の初出は、天平14年(742年)10月3日付の「金光明寺写経所牒」(正倉院文書)であるとされている。ただし、これについても、今の奈良県香芝市にあった片岡寺(別名般若寺)を指すとみる説もある(なお、同市の般若院を片岡寺の尼寺を引き継いだ寺とする説もある。また、蘇我日向が建てた般若寺を片岡寺に充てる東野治之の説もある)。この事例を外した場合には、『日本三代実録』貞観5年(863年)9月26日条に登場する「添上郡般若寺」が初出ということになる。 その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。治承4年(1180年)、平重衡による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。 廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、建長5年(1253年)頃までに完成した。その後、西大寺の僧・叡尊によって本尊や伽藍の復興が行われた。叡尊は、西大寺を本山とする真言律宗の宗祖で、日本仏教における戒律の復興に努め、貧者・病者救済などの社会事業を行ったことで知られる。般若寺の位置する奈良市街北方地域は、中世には当時「非人」と呼ばれて差別された病者・貧者などの住む地域であり、般若寺の近くには「北山十八間戸」(国の史跡)というハンセン病などの不治の病の人を収容する施設もあった。叡尊は建長7年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、文永4年(1267年)に開眼供養が行われた。この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に12年を要した。 その後、延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失した。延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失している。 明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住となって、本山の西大寺が管理していた時代もあったが、第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている。なお、般若寺の客殿は実業家畠山一清によって東京都港区白金台に移築され、第二次世界大戦後は料亭「般若苑」として営業していた(現在は廃業)。 本堂(奈良県指定文化財)-入母屋造、本瓦葺き。棟木に寛文7年(1667年)上棟の銘がある。 楼門(国宝) 入母屋造・本瓦葺きの楼門(2階建て門)。民家の建ち並ぶ京街道に面し、西を正面として建つ。鎌倉時代(13世紀後半)建立。下層は1間、上層は3間とする。長押を多用し、和様を基調としつつ、上層の組物など細部には大仏様(よう)の意匠を多用する。上層の出組の組物は、外部から見ると複雑な構造に見えるが、建物内部では柱が直接桁(屋根の垂木を支える水平材)に達する単純な構造で、組物は使われていない。つまり、上層の組物は外側から釘止めまたは枘(ほぞ)差しとした見せかけのもので、このような構造の建物は非常に珍しい。 経蔵(重要文化財) - 様式上、鎌倉再興期の建立とみられる、切妻造の小規模な建物。解体修理の結果、建立当初は経蔵ではなく、土間床の建物であったことが判明している。建物の本来の用途は未詳。 鐘楼-元禄7年(1694年)建立。 十三重石塔-高さ12.6メートル。建長5年(1253年)頃に南宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)により建立された、日本の代表的な石塔の一つ。楼門を入って正面、本堂から見ても南正面に位置し、当寺の信仰の中心となっている。 楼門 十三重石塔(附:旧石造相輪、旧銅製相輪) 経蔵 銅造薬師如来立像-奈良時代末から平安時代初期の作。奈良国立博物館に寄託。 木造文殊菩薩騎獅像-本堂安置。元亨4年(1324年)、慶派仏師・康俊の作。もとは経蔵に安置されていた。般若寺の鎌倉再興期に叡尊が造立した文殊菩薩像が延徳2年(1490年)の火災で焼失したため、代わりに本尊とされたものである。 木造寺門扁額-嵯峨天皇の宸筆とされる。奈良国立博物館に寄託。 厨子入舎利塔-奈良国立博物館に寄託。 紙本墨書叡尊願文-東京国立博物館に寄託。 笠塔婆 2基-十三重石塔を建てた伊行末の息子・伊行吉によって建立された石塔婆。現在、本堂手前右側にあるが、当初は寺外の墓地の入口にあった。「考古資料」として重要文化財に指定されている。  石造十三重塔内納置品 一括-1964年から翌年にかけての十三重石塔解体修理の際に塔内から取り出されたもの。奈良時代の銅造如来立像をはじめ、小仏像、舎利塔、宋版法華経などがある。(明細は後出) 木造四天王立像-本堂安置、室町時代。 木造不動明王坐像-本堂安置、江戸時代。 石灯籠-本堂前に立つ。鎌倉時代後期の作。 唐櫃-鎌倉時代の大般若経の経箱で、南朝の大塔宮護良親王が笠置より吉野へ逃れる際に、身を潜め難を免れたと伝わる。 石造十三重塔内納置品の明細 大和般若寺石造十三重塔内納置品 金銅舎利塔 1基 金銅五輪塔 1基 水晶五輪塔 4基 (以上第一重) 宋版細字法華経(一部七巻)外箱共 1帖 外箱建長五年卯月八日納入記等墨書 宋版細字法華経(一部七巻)外箱共 1帖 外箱願文等墨書 宋版細字法華経(一部七巻) 1帖 (以上第四重) 銅造如来立像 1躯 木造大日如来坐像 1躯 銅造十一面観音立像 1躯 木造地蔵菩薩立像 1躯 赤地蓮池水禽文錦打敷 1枚 (以上第五重) 法華経開結共 10巻 梵網経 2巻 (以上第八重) (附指定) 仏像 21躯 経巻類 6巻1幅 舎利容器 2合 納入文書目録等 3通 外箱 4合 摺仏 1幀、2幅、6冊 ヤマブキ(4月) アジサイ(6月~7月) コスモス(6月~11月) JR奈良駅・近鉄奈良駅から奈良交通バス・般若寺下車徒歩5分 ^ 奈良阪、平城坂、平城阪とも 奈良阪町も参照 ^ 東野治之「片岡王寺と尼寺廃寺」『大和古寺の研究』塙書房、2011年 ^ 竹内亮「飛鳥寺と諸寺の禅行」『日本古代の寺院と社会』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1280-5 P112-115・133 ^ 歴史の項は主に、橋本・山岸、pp170 - 178、による。 ^ 橋本・山岸、pp179 - 183 ^ 橋本・山岸、pp183 - 185 井上靖、塚本善隆監修、杉浦明平、工藤良任著『古寺巡礼奈良5 般若寺』、淡交社、1979 『週刊朝日百科 日本の国宝』58号(元興寺ほか)、朝日新聞社、1998 橋本聖圓、山岸常人『法華寺と佐保佐紀の寺』(日本の古寺美術17)、保育社、1987 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店 『国史大辞典』、吉川弘文館 国宝一覧 日本の寺院一覧 奈良 般若寺のホームページ", "海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。 海龍王寺は平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している。法華寺と海龍王寺のある一画は、かつては藤原不比等の邸宅であった。養老4年(720年)の不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17年(745年)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。 海龍王寺は、『続日本紀』、正倉院文書などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」「角寺」「角院」などと呼ばれている。正倉院文書では天平8年(736年)には「隅院」の存在が確認できる。「隅寺」とは、皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われている(「平城京の東北隅にあったため」と解説する資料が多いが、位置関係から見て妥当でない)。 「隅寺」の創建について、伝承では天平3年(731年)、光明皇后の発願で建立され、僧・玄昉が初代住持となったというが、このことは正史に記載がなく、創建時期や事情について正確なところはわかっていない。なお、海龍王寺境内からは飛鳥時代から奈良時代前期の古瓦が出土しており、平城京遷都以前に何らかの前身建物が存在した可能性が指摘されている。海龍王寺の敷地は、平城京の整然とした条坊(碁盤目状の町割り)からずれて位置しており、平城京内を南北に貫通する道の一つである東二坊大路は、海龍王寺の境内を避けて、やや東にずれている(現在の道路にもその名残りが見られる)。このことは、先に寺院等の施設があり、後から道がつくられたことを意味している。 正倉院文書では天平10年(738年)の「経師等造物并給物案」という写経関係の文書の中に「隅院」とあるのが初出である。この文書は光明皇后発願の一切経書写の一部が隅院で行われたことを示すものだが、その2年前の天平8年(736年)作成の別の文書(写経目録)に、上記「経師等造物并給物案」と共通する内容が記載されていることから、「隅院」が天平8年に存在したことは確実視されている。海龍王寺という寺号は、海龍王経という経典にちなむものだが、いつごろからこの寺号が使われるようになったのかは定かでない。文献上は、貞観10年(868年)10月4日付けの太政官符(類聚三代格所収)にみえるのが最古の例である。玄昉が唐から日本への帰途、暴風雨に遭った際に海龍王経を唱えて救われたという伝承もある。 発掘調査の結果により、奈良時代の海龍王寺には、小規模ながら、中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂、西金堂の3つの金堂があったことがわかっている。伽藍配置は、中門の左右から発した回廊が伽藍主要部を方形に囲んで中金堂の左右に達し、回廊で囲まれた内側に南北棟の東金堂と西金堂が相対して建つものであった。現存する西金堂は、位置、規模等は奈良時代のままであるが、鎌倉時代に再建に近い修理を受けており、主要な部材はおおむね鎌倉時代のものに代わっている。中金堂の旧地には本堂が建ち、東金堂は明治時代初期に失われた後、再建されていない。 平安時代の寺史についてはあまりはっきりしていないが、興福寺の支配下にあったようである。鎌倉時代には、真言律宗の宗祖である叡尊が嘉禎2年(1236年)から暦仁元年(1238年)まで当寺に住して復興を行っており、貞治4年(1365年)には第13代信尊和尚、康暦元年(1379年)には第15代興泉和尚、長禄元年(1457年)には第28代元澄和尚、天文7年(1538年)には光淳和尚、明和3年(1766年)には高瑜和尚と、海龍王寺から五名の西大寺長老を輩出しており、真言律宗の中でも筆頭格の寺院であった。 江戸時代には寺領が100石あったが明治時代に入ると没収され、神仏分離令のなかで東金堂も失われ、境内の荒廃も進み、長らく無住の時期が続いた。しかし、1953年(昭和28年)に住職が着任し、堂宇の修理、境内の整備が行われた。長らく奈良国立博物館に寄託されていた五重小塔も本来の安置場所である西金堂に戻された。 本堂(奈良市指定文化財) 江戸時代、寛文6年(1666年)の再建。 西金堂(重要文化財) 奈良時代の建立(鎌倉時代に大修理)。内部に五重小塔(国宝)を安置する。切妻造、本瓦葺き、正面3間、側面2間の小規模な仏堂である(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。古代の仏堂で現存するものは、構造的に中心部の「身舎」(もや)と、その周囲の「庇」という2つの部分からなるものが多いが、この西金堂は「身舎」のみで「庇」にあたる部分がない、簡素な建物である。奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に再建に近い大修理を受けており、奈良時代の部材はその多くが当初位置ではなく、堂内の他の場所に転用されている。創建時より規模や様式的は変更は無いと考えられている。 経蔵(重要文化財)- 寄棟造、本瓦葺きの小建物。鎌倉時代に、西大寺の中興の祖・叡尊により造立されたと伝わる。叡尊の年譜(『興正菩薩行実年譜』)に、正応元年(1288年)、海龍王寺の堂宇を修造し、経蔵を新築したことがみえ、これにあたるものと推定される。 山門(奈良市指定文化財) 室町時代の建立。 築地塀 室町時代に建立。 東金堂跡 創建当初は西金堂に向かい合う形で建ち、内部に五重小塔が建っていた。明治初年に廃絶し現在は基壇が残るのみ。 国宝。西金堂内に安置。相輪を含む総高4.01メートル(相輪を除く高さは2.85メートル)の小塔だが、工芸品ではなく「建造物」として国宝に指定されている。当初から屋内に安置されていたもの。木箱入り法華経2巻と垂木木口金物2個が国宝の附(つけたり)として指定されている。奈良市・元興寺(極楽坊)の五重小塔が内部構造も省略せず、屋外にある塔と同様に1つ1つの部材を組み上げて造られているのに対し、海龍王寺の小塔は箱状の構造物を積み上げ、組物などの細かい部材は外側から貼り付けたものである。しかし、様式的には元興寺小塔より古い8世紀前半頃のもので、細部様式が薬師寺の三重塔に類似しており、遺例の少ない奈良時代建築の様式を知るうえで重要である。 後世の塔では、四隅に45度の角度で突出する組物と、その両隣の組物とは肘木で連結するが、この小塔では連結されていない。後世の建物では、四隅の組物には鬼斗(おにと)という、特殊な形状の斗(ます)を用いるのが普通だが、この小塔では四隅にも通常の斗を使っている。また、軒の部分に支輪(しりん)という斜め方向の壁状のものを設けず、水平に張られた軒天井とするのも古い要素である。以上の点は薬師寺東塔と同様の構造になる。 一方で、薬師寺東塔より時代の下る要素もいくつかある。一番外側の軒桁(垂木を直接支える水平材)は、薬師寺東塔では断面角形だが、この小塔では断面円形である。薬師寺東塔では三手先(みてさき)の組物の二手目の肘木には斗(ます)が1つしか乗らないが、この小塔では斗が2個乗り、後世の塔と同様になっている。以上のことから、この小塔の様式は、730年頃建立の薬師寺東塔よりは新しいが、奈良時代末期の當麻寺東塔よりはさかのぼるものとみられる。 この塔の初重には扉や壁がない。初重と二重目の間には組み入れの格天井を張るが、それ以外の設備は何もなく、当初どのような用途に使われたものかは不明である。前述の木箱入り法華経2巻は塔内に安置されていたものだが、鎌倉時代のものである。この塔は小さいながらも「模型」ではなく、正式の「塔」として造られ、西金堂はその覆屋として建てられたものだとする説もある。基壇には永仁2年(1297年)の銘があって、その頃修理が行われたと推定される。また、相輪は明治39年(1906年)の補作で、当初の状況は不明である。 なお、海龍王寺は皇后宮の内廷寺院として、聖武天皇・光明皇后を支えたが、五重小塔および西金堂は、光明皇后宮内に残る唯一の天平時代建造物であるとともに、内廷仏教と内廷寺院の中心伽藍を現在に伝える仏教建造物として重要な役割を果たしている。 五重小塔 - 解説は前出 西金堂 経蔵 木造十一面観音立像-海龍王寺の本尊。鎌倉時代の像。 木造文殊菩薩立像-鎌倉時代。 絹本着色毘沙門天像-鎌倉時代、奈良国立博物館寄託。 木造寺門勅額-聖武天皇の宸筆と伝わる。 鍍金舎利塔(正応三年七月銘)-奈良国立博物館寄託。 本堂 山門 海龍王経-奈良時代、奈良国立博物館寄託。 隅寺心経-奈良時代、奈良国立博物館寄託。空海の書写と伝わる。 法華経-鎌倉時代。 愛染明王坐像-室町時代。 JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)「法華寺」下車すぐ 近鉄大和西大寺駅より奈良交通バス(JR奈良駅・白土町行き)「法華寺」下車すぐ 〒630-8001 奈良市法華寺町897番地 住職が親交のあるイラストレーターのみうらじゅんより「イケてる住職」という意味である「イケ住」の称号をつけられ、雑誌などでは「イケ住」と紹介されるケースがある。(関西SAVVY 2003年11月号「はじめまして奈良」) モデルで仏像に詳しいはなが、2010年1月11日の朝日新聞東京版 ~奈良大和路 秘宝・秘仏特別開帳~ において、十一面観音菩薩立像と境内の雰囲気を「お気に入り」として挙げている。 ^ 大江親通の『七大寺巡礼私記』(保延6年・1140年)を「海龍王寺」の初見とする資料が多いが、妥当でない。 ^ 橋本・山岸、pp105 - 112 ^ 内田昭人『週刊朝日百科日本の国宝』59号、朝日新聞社、 5-282頁。 『週刊朝日百科』「日本の国宝」59号、朝日新聞社、1998 橋本聖圓、山岸常人『法華寺と佐保佐紀の寺』(日本の古寺美術17)、保育社、1987 国宝一覧 日本の寺院一覧 公式サイト 海からのたより 住職のブログ ツイッター フェイスブック" ]
ABC01-02-0215
弟の正季と共に湊川の戦いで討ち死にした、南北朝時代の南朝の忠臣といえば誰でしょう?
楠木正成
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[ "楠木正成", "楠木正時", "楠木正勝", "新田義興", "赤松氏範" ]
[ "楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。文天祥の日本版とされ、忠君思想の体現者となった。 『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある。 楠木氏は橘氏の後裔とされる。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある。『太平記』巻第三には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる。 また『観世系図』によれば、観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある。 得能弘一が楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博、新井孝重も楠木氏の出自は駿河国とした。筧雅博はその理由として、以下を挙げている。 楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の字(あざ)はない。 鎌倉幕府が正応6年(1293年)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり、楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。 観心寺荘の地頭だった安達氏は、弘安8年(1285年)に入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏に霜月騒動で滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる。 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる。 網野善彦は、楠木氏はもともと武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)で、得宗領河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定した。正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる。 また、『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍(おし)、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている。 永仁3年(1295年)、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした。 林屋辰三郎は河内楠氏が散所民の長であったとした。兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした。 元徳3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある。佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした。 正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている。 元亨2年(1322年)、正成は得宗・北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏を撃滅している。 この一連の状況は『高野春秋編年輯録』に詳しい。渡辺党を討った正成は高野山領を通過して紀伊安田へと向かい、安田荘を攻撃した。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて紀伊国阿弖河荘(阿瀬川荘)を没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた。 その後、正成は越智氏の討伐へと向かった。越智氏は幕府に根成柿の所領を没収され、さらには北条高時が興じる闘犬の飼料供出まで求められ、憤った越智邦永が自領で六波羅の役人を殺害するに至った。六波羅北方は討手として奉行人斎藤利行、小串範行らを二度にわたって派遣したが、そのゲリラ戦に手痛い敗北を喫していた。そのため、六波羅は正成を起用し、彼は越智氏を討つことに成功した。 新井孝重は、正成が渡辺党、湯浅氏、越智氏といった反逆武装民を討滅したことは非常に興味深いと述べている。また、一連の軍事行動を否定する積極的な根拠は見いだせず、これらは本当にあったと考えている。新井は、得宗被官であった正成が反逆武装民を討つのは当然の行為であると指摘し、この当時はまだ鎌倉幕府に忠実な「番犬」として畿内ににらみを利かせていたとしている。 正成による渡辺党、湯浅氏、越智氏の討滅に六波羅は感嘆の声を上げ、そして怖れたといい、世間の人々にもその強烈な印象を与えた。当時、畿内では悪党が幕府への反逆、合戦を繰り返し、その支配に揺らぎが生じていた。幕府は安藤氏の乱で手を焼かされており、合戦の名人である正成が悪党のエネルギーを吸収し、いずれ反逆した場合への不安を抱いたとされる。 その後、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになった。後醍醐天皇と正成を仲介したのは真言密教僧文観と醍醐寺報恩院道祐とされる。ほか、伊賀兼光の関係も指摘されている。 元徳3年(1331年)2月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉若松荘を正成は所領として得た。しかし、同年4月に倒幕計画が幕府側に知られると、8月に後醍醐天皇は笠置山に逃げ、その地で挙兵した(元弘の乱)。なお、正成はこのとき笠置山に参向している。その経緯は『太平記』によると以下のようなものであった。 天皇が笠置山に籠ると、笠置寺の衆徒や近国の豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や、百騎、二百騎を率いた大名などは一人も来なかった。そのため、後醍醐天皇は皇居の警備もままならないと不安になり、心配になって休んだ際に夢を見た。その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた。すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。 夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、 河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした。万里小路藤房が勅使として笠置山から河内に向かい、正成の館に着いてその事情を説明した。すると、正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾した。そして、正成は人に気が付かれないようにすぐさま河内を出て、笠置山に参内した。 正成は後醍醐天皇から勅使派遣より時を置かずに参内したことを褒められ、そのうえで正成がどのような計画を持ち、勝負を一気に決めて天下を太平にするのかを問われた。正成はこの問いに対し、「幕府の大逆は天の責めを招き、衰乱の機会に乗られて天誅が下されます。その好機なら必ず滅ぼすことができます。天下草創には武略と智謀の2つがあります。勢いに任せて合戦を行えば、たとえ60余州の軍勢をもってしても武蔵・相摸の領国に勝利を得ることはできないでしょう。もし何らかの策を用いて戦えば、幕府は守勢に回って欺きやすくなり、怖れるに足らなくなるでしょう。合戦の常は個々の勝敗にこだわらないことです。(たとえ戦いで敗れたとしても)正成がたった一人生存していれば、天皇の聖運が必ず開けると御思い下さい」と述べた。そして、正成は河内に戻り、赤坂城(下赤坂城)で挙兵した。 以上が『太平記』が描く後醍醐天皇と楠木正成の接触に関する経緯だが、『増鏡』によると天皇側は前もって正成を頼りにしていたという。正成は得宗被官から一転したため、鎌倉幕府からは「悪党楠兵衛尉」として追及を受けた。同年9月、六波羅探題は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した。 9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始した。 だが、正成は寡兵ながらものその攻撃によく耐えた。敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた。敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落とし敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした。これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った。正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った。 新井孝重は、一土豪に過ぎない正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している。単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、正成の尋常ならざる実力の証左であるとしている。正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに正成を大いなる脅威と認識していたと考えられる。 しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせた。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。 赤坂城には阿弖河荘の旧主湯浅宗藤(湯浅孫六入道定仏)が幕府によって配置され、その旧領である正成の領地を与えられた。一方、正成は赤坂城の落城後、しばらく行方をくらました。同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉を与えられた。 元弘2年/元徳4年(1332年)4月3日、正成は湯浅宗藤の依る赤坂城を襲撃した。正成は赤坂城内に兵糧が少なく、湯浅宗藤が領地の阿弖河荘から人夫5、6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ。楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器を取り出して鬨の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った。これにより、湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を奪い返した。 楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。そして、5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した。京には和泉・河内の両国からは早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込むと可能性があると知らせたため、洛中は大騒ぎとなった。このため、六波羅探題は隅田、高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢を派遣した。 5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進んだが、渡部橋の南側に楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした。だが、これは正成の策略で、前日に、主力軍は住吉、天王寺付近に隠して2,000余騎の軍勢を三手に分けており、わざと敵に橋を渡らせてから流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決すという作戦であった。正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰った。 その後、六波羅は隅田、高橋の敗北を見て、武勇で誉れ高い宇都宮高綱(のち公綱)に正成討伐を命じ、7月19日に宇都宮は京を出発した。宇都宮は天王寺に布陣したが、その軍勢は600-700騎ほどであった。 和田孫三郎は正成に戦うことを進言したが、正成は宇都宮が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評してその武勇を恐れ、「良将戦わずして勝つ」と述べた。その後、夜にあちこちの山で松明を燃やし、宇都宮がいつ攻めてくるのかわからないような不安に陥らせ、三日三晩これを行った。 7月27日夜半、宇都宮がついに兵を京へ引くと、翌朝には正成が天王寺に入れ替わる形で入った。正成は天王寺に進出してからその勢いをさらに増したが、庶民に迷惑をかけてはならぬと部下には命じており、すべての将兵に礼を以て接したため、その勢いはさらに強大となった。 8月3日、楠木正成は住吉神社に馬3頭を献上し、翌日には天王寺に太刀と鎧一領、馬を奉納した。 やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した。これに対し、正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。 元弘3年/正慶2年(1333年)2月以降、正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い)。正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、 大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年閏2月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した。 幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった。 そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は正成の奮戦に起因するものであった。正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである。 正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護についた。天皇が兵庫を出発して以降、正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていた。 後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)となる。また、そのほかにも河内新開荘、土佐安芸荘、出羽屋代荘、常陸瓜連など多くの所領を与えられた。正成は建武の新政において後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称され、「朝恩に誇った」とされる。 だが、建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したとされることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。 建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反した。追討の命を受けた義貞は12月に箱根・竹ノ下の戦いで尊氏に敗れて京へと戻り、これを追う尊氏は京へ迫った。 だが、翌年1月13日に北畠顕家が近江坂本に到着すると、正成は義貞や顕家と合流し、連携を取って反撃を仕掛けた。28日、正成は義貞、顕家、名和長年、千種忠顕らと共に京都へ総攻撃を仕掛ける。この合戦は30日まで続いた。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。 合戦は正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れたが、2月11日に正成は義貞、顕家とともに摂津豊島河原(大阪府池田市・箕面市)の戦い(豊島河原合戦)で足利方を京から九州へ駆逐する。 『梅松論』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある。その根拠として、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい。さらに義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったことは尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である、というものであった。 正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず、事実かどうかは不明である。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とし洞察力に長けた正成は純粋に武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったといわれる。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方に徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている。 この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり、にべもなく却下されてしまった。正成は尊氏との和睦提案を容認されなかったばかりか、和睦を進言したことで朝廷の不信を買い、国許での謹慎を命じられた。そのため、3月に後醍醐は義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣したが、正成はこの追討軍からは外されている。 義貞は、播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、延元元年/建武3年(1336年)4月に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して態勢を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進し、その軍勢は10万を越していた。一方、義貞の軍勢はその数を日ごとに減らし、5月13日に兵庫(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)に到着した時には2万騎を切っていた。 足利方が再び京に迫まり、義貞が兵庫に退却したという早馬が京へ届くと、後醍醐天皇は正成を呼び出し、義貞とともに尊氏を迎え撃つように命じた。正成は帝に対し、「尊氏の軍勢は大軍であり、疲弊した味方の小勢でまともに正面からぶつかれば、決定的な負け戦になるでしょう。ここは新田殿を京に呼び戻し、帝は以前のように比叡山に臨幸して下さい。私が河内に戻って河尻(淀川の河口)を抑え、京に入った足利軍を新田軍とともに前後から兵糧攻めにすれば、敵兵の数は減ることでしょうし、我々の軍勢には味方が日々馳せ参じるでしょう。その時を狙い、新田殿が比叡山から、私が搦手より攻め上れば、朝敵を一戦で掃滅すること可能かと思えます。新田殿もきっとこの作戦に同意するでしょう」と進言した。この策は正成にとっては、比叡山に朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つという、現実的かつ必勝の策でもあった。 この正成の進言に対して、諸卿らは「確かに戦に関しては武家に任したほうが良い」と、納得しつつあった。だが、坊門清忠が「帝が都を捨てて一年に二度も臨幸するのは帝位そのものを軽んずる」とし、「味方の軍勢は少数ながらも、毎回大敵を滅ぼしてきた。それは武略が優れていた訳でもなく、聖運の天に通じたから」だと述べ、正成は即刻義貞のいる兵庫に向かうべきと主張した。 その結果、後醍醐天皇は正成の意見ではなく、坊門清忠の意見を尊重した。正成は今更反論しても仕方がないと考え、朝議の結果を受け入れた。 絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、5月16日には正成は京から兵庫に下向した。道中、正成は息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ、桜井の宿から河内へ帰した。これが有名な楠木父子が訣別する桜井の別れであるが、史実であるかどうかは不明である。 24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明した。 『太平記』によると、その夜、義貞と正成は酌み交わし、それぞれの胸の内を吐露した。義貞は先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を発露した。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げたため、その期待から尊氏討伐における天皇方総大将という過重な重荷を担わされた。そのため、ずっと常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にせざるを得ず、箱根竹下での敗北、播磨攻めへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた。 正成はこの義貞の心中の吐露に対して、「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」といい、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた。正成の説得で義貞の顔色は良くなり、夜を通しての彼らの物語に数杯の酒が興を添えた、と『太平記』は語っている。 しかし、正成は周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか、と峰岸純夫は分析している。いずれにせよ、正成にとっては義貞と酌み交わした夜が最後の夜となった。 25日の辰刻(午前8時頃)、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙した(湊川の戦い)。正成は他家の軍勢を入れず、7百余騎で湊川西の宿にて布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えていた。『太平記』によると、正成も義貞も足利方の大軍に対して少しもひるむことはなかったという。 だが、戦いが始まると、連合軍は多勢に無勢であったため、正成と義貞の軍勢は引き離されてしまった。正成は正季に「敵に前後を遮断された。もはや逃れられない運命だ」と述べ、前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにした。 正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行した。菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正季は奮戦し、良き敵と見れば戦ってその首を刎ね、良からぬ敵ならば一太刀打ち付けて追い払った。正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで届き、足利方の大軍を蹴散らして須磨、上野まで退却させた。直義自身は薬師寺十郎次郎の奮戦もあって、辛くも逃げ延びることができた。 だが、尊氏は直義が退却するのを見て、「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じた。そのため、吉良氏、高氏、上杉氏、石堂氏の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かった。 6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になっていた。疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込んだ。 正成は自害しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷が11か所にも及んでおり、ほか72人もみな同様に切り傷を負っていた。正季が「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と述べると、正成も自分もそう思うと同意し、皆に「さらばだ」と別れを告げた。正成は正季と刺し違えて自害し果て、橋本正員、宇佐美正安、神宮寺正師、和田正隆ら一族16人、家人50余人もまた自害し、皆炎の中に倒れ込んだ。 湊川で自害した正成の首は足利方に回収され、六条河原に梟首された。だが、正成の首を見た人々は、延元元年/建武3年(1336年)初頭にも偽の首が掲げられたこともあって、その首が本物か疑ったという。その後、尊氏は残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内に送り返した。 息子の正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、正時、正儀らも正成と同じく南朝方として戦い、正行と正時は四條畷の戦いで激戦の末に戦死している。また、彼らの子孫も後南朝に属して、北朝を擁する室町幕府と戦った。 南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。だが、永禄2年(1559年)に正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成は朝敵でなくなった。 楠木氏嫡流を称する伊勢楠木氏は、伊勢国の金場(亀山市関町金場)や楠城を根城とする北勢四十八家楠氏として土豪になり、 また第2代当主正重が千子村正の門下に入って刀工になるなど細々と活動を行っていた。 しかし、第7代当主楠木正具が1576年天王寺の戦いで戦死、次いで第8代当主楠木盛信が1586年小牧・長久手の戦い加賀野井城で戦死したことで絶えた。 刀工としては正重のほか千子正真、坂倉正利、雲林院政盛など千子派の名工を輩出し大いに栄えた。 木俣氏(木俣守勝など。維新後は木俣男爵家)は伊勢楠木氏の傍系。またアラビア石油創業者山下太郎や、伊勢高楠家(仏教学者高楠順次郎が婿入りした家)が第7代当主正具の後裔を称する。 南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でも正成に対して同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためとされる。 今日でいうゲリラ戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井正雪も南木流軍学を講じていた。 江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、正成は忠臣として見直された。会沢正志斎や久留米藩の祀官真木保臣は楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張し、慶応3年(1867年)には尾張藩主徳川慶勝が「楠公社」の創建を朝廷に建言した。長州藩はじめ楠公祭・招魂祭は頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えた。 明治になり、南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のために従容と逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られた。 佩刀であったと伝承される小竜景光(東京国立博物館蔵)は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。 明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。 戦後は、価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で、戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。もっともこの「悪党」という評価はあくまで歴史学のものであり、一般のものではない(悪党という言葉は、一般的に社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団などを意味する用語である)。NHKのテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで放送された際、湊川神社がNHKに抗議する事件が起きている。 大楠公首塚 - 大阪府河内長野市観心寺 高野山真言宗の寺院、檜尾山観心寺の境内にある。湊川の戦いの後、尊氏の命によって送り届けられた正成の首級が葬られている。観心寺塔中院は、正成の曾祖父成氏が再建したと伝えられる、楠木家代々の菩提寺。 湊川神社 - 兵庫県神戸市中央区 楠木正成(大楠公)の神霊を主祭神とし、子息の楠木正行(小楠公)および湊川の戦いで斃れた一族十六柱と菊池武吉の神霊を配祀。戦後になって大楠公夫人久子の神霊も合祀された。神社として創建されたのは比較的新しく、明治5年(1872年)のこと。神社創建以前から存在した墓所には、徳川光圀によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立されている。異説もあるが、湊川の戦いで敗れた正成が弟正季とともに「七生」を誓って現在の湊川神社の北に位置する広厳寺 (廣厳寺)の塔頭で共に自刃して自害したとされる。その後、塚に移された戦没地ではあるが、同寺は墓所地と自害地を境内に有している(同寺本堂には正成とその一族の位牌がある)。 桜井駅跡 「楠公父子訣別之所」として知られ、『太平記』第十六の「正成兵庫に下向の事」(湊川の戦い)において建武3年(1336年)、足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、嫡男の楠木正行を河内国に帰らせたと伝えられている(「桜井の別れ」を参照)。桜井駅自体は、大阪府三島郡島本町桜井1丁目にある古代律令制度下の駅家の跡。1921年(大正10年)国指定の史跡である。 南木神社 - 大阪府南河内郡千早赤阪村建水分神社 建水分神社の摂社で、正成が祭神。本社の建水分神社は楠木家の氏神とされる。延元2年/建武4年(1337年)に後醍醐天皇により自ら彫刻の正成像が祀られたのが起源であり、後に後村上天皇より「南木(なぎ)明神」の神号を受けた。正成を祀る最古の神社。 楠妣庵観音寺 - 大阪府富田林市甘南備 臨済宗妙心寺派の寺院で、楠木家の香華寺とされる。楠公史跡河南八勝第二蹟、河内西国霊場第20番札所。正平3年/貞和4年(1348年)に楠木正行・正時が四條畷の戦いで戦死した後、正成の妻で正行・正時の母の久子が、草庵を建立。敗鏡尼と称して入寂するまでの16年間、この草庵楠妣庵に隠棲し、楠木一族郎党の菩提を弔った。敗鏡尼の入寂後、楠木正儀は観音殿を観音寺と改め、不二房行者(授翁宗弼)を住まわせた。観音寺は楠妣庵とともに、兵火による度重なる衰退を繰り返し、更に廃仏毀釈により廃寺となった。1917年(大正6年)に草庵楠妣庵が復元再建、同11年(1922年)に観音寺本堂が再建された。 長滝七社神社 - 岐阜県山県市長滝 七社神社横に、八王寺宮と刻まれた楠公夫人久子(南江久子)の墓がある。正成の妻が楠木一族郎党の菩提を弔った後、戦乱の中、この地を離れ、美濃乃国伊自良村長滝釜ヶ谷奥の院に隠棲。地域の尊志を得て、久子の生地甘南備村の字名、長滝、平井、掛、松尾等を伊自良に与えた。奥の院にある甘南備神社は、楠木家の遠祖と称える橘諸兄の父、美努王を祀る。甘南備村の口碑には、楠木正成夫人久子は、観音像を念持仏にして、行脚に出たが、終わるところ知らずとある。墓は、伊自良湖の登り口、長滝七社神社境内西にある。楠公夫人がこの地に訪れた最大の理由は、新田義貞亡き後、その弟の脇屋義助が大将となり、北陸で敗れ、美濃の南朝一派と共に、最後の根尾城の戦いでも敗れ、根尾川の下流、本巣地区の北朝の根城を避け、一緒に戦った伊自良次郎左衛門の家臣とともに、伊自良に流れ、吉野に帰ったその経路に従ったものと思われる。 茨木城 - 大阪府茨木市 建武年間に正成が建てたとされる説のある城跡。現在は廃城であり、かつての搦手門が茨木神社に、復元された櫓門が茨木小学校に残る。 楠公産湯の井戸 - 大阪府南河内郡千早赤阪村 生誕の地から徒歩数分のところに「楠公産湯の井戸」とされる井戸がある。 春日大社 - 奈良県奈良市春日野町 国宝の黒韋威矢筈札胴丸(甲冑)は正成が奉納したと伝わっている。 平泉寺白山神社 - 福井県勝山市 平泉寺町平泉寺の神社。「楠正成公墓碑」がある。寺伝によれば正成の弟が当時、同寺宗徒であったがある日兄の夢を見た。のち、その日が戦死の日であったことがわかり、供養として墓を建てたとされている。下って江戸時代には福井藩主の松平光通により、石柵と石畳参道が整備された。 楠公像 - 東京都千代田区 皇居外苑の二重橋を正面に見据える位置に建てられた銅像。1891年(明治23年)に住友家が開発した別子銅山の開坑200年記念事業として、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に製作を依頼、製作には高村光雲、山田鬼斎、岡崎雪聲らが別子鉱山の銅が使って完成までに10年をかけて献納された。像のモデルは、隠岐から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた正成の姿であるとされる。 奉建塔(楠公六百年記念塔) - 大阪府南河内郡千早赤阪村 正成信仰が隆盛のなか、没後600年を記念して、1940年(昭和15年)に全国の児童学生や教職員等の募金により浄心寺塞(上赤坂城支塞)跡に建てられた記念塔。正成討死の年齢43歳に因み、高さはおよそ43尺(約13m)。塔には家紋の菊水紋、旗印の「非理法権天」の文字が刻まれている(ただし、旗印は史実ではなく伝承。「非理法権天」を参照)。 楠水龍王 - 大阪府箕面市小野原東(西国街道) 楠木正成は勅命により兵庫・湊川へと出陣しました。それは死を決意しての悲壮な出陣でした。戦場に同行をせがむ正行を諭し、名残を惜しみつつ桜井の地(島本町)で決別しました(桜井の別れ)。延元元年(1336)その行軍の途中、道街道の途中の小庵で正成が大いにその冷たい井戸水を賞味したことから、この井戸は楠公の井戸と呼ばれるようになり、この話を聞いた旅人たちが必ず立ち寄り、愛飲したと伝えられています。 能 四番目物の侍物。 桜井(さくらい、喜多流) 桜井駅(さくらいのえき、金剛流) 楠露(くすのつゆ、観世流) 浄瑠璃 『楠公櫻井の訣別(楠公)』常磐津節 唱歌 『桜井の決別』 - 正成と息子正行との決別を歌った歌で、明治32年(1899年)6月に発表された。作詞落合直文、作曲奥山朝恭。国学者で一高教授だった落合は、学校生徒行軍歌『湊川』の第一篇に「桜井決別」として発表した。作曲者の奥山朝恭は岡山師範学校の教師。 小説 吉川英治『私本太平記』 講談社文庫:吉川英治文庫全8巻ほか 山岡荘八『新太平記』 講談社文庫:山岡荘八歴史文庫全5巻ほか 大佛次郎『大楠公 楠木正成』 徳間文庫、1990年10月 ISBN 4195991838 アイヴァン・モリス『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』斎藤和明訳、中央公論社、1981年 高橋直樹「葛の楠木」『異形武夫』 新潮社、2001年4月 ISBN 4104452017 北方謙三『楠木正成』(上下) 中央公論新社、のち中公文庫 2003年6月、上 ISBN 4122042178、下 ISBN 4122042186 吉川佐賢『楠木正成 夢の花』(上下) 叢文社、上 2005年12月 ISBN 4794705387、下 2006年1月 ISBN 4794705395 安部龍太郎『道誉と正成』 集英社、2009年8月 ISBN 4087713121 漫画 内野正宏『ナギ戦記』(スーパージャンプ連載) 沢田ひろふみ『山賊王』 (マガジンGREAT連載) 飴あられ『〜楠木正成絵巻〜君がために』(KC別フレ書き下ろし) 宇河弘樹『朝霧の巫女』 (ヤングキングアワーズ連載) 横山まさみち『太平記』 宝城ゆうき(三輪修平)『劇画大楠公』(第三文明連載)ISBN 978-4-476-08156-5 河部真道『バンデット -偽伝太平記-』(モーニング連載) 映画 『楠正成桜井駅』(1911年)演:川上音二郎 『小楠公』(1919年)演:嵐璃珀 『大楠公』(1921年)演:尾上松之助 『大楠公夫人』(1921年)演:内田吐夢 『楠公桜井之駅』(1922年)演:沢村四郎五郎 『大楠公』(1926年)演:井上正夫 『楠公の歌』(1926年)演:横田豊秋 『楠公父子』(1933年)演:早川雪洲 『小楠公とその母』(1936年)演:草間実 『大楠公』(1940年)演:阪東妻三郎 『悲願千早城』(1943年)演:藤間林太郎 『楠公二代誠忠録』(1958年)演:若山富三郎 テレビドラマ 『大楠公』(MBS、1959年)演:小柴幹治 『怒濤日本史(楠木正成)』(MBS、1966年)演:南原宏治 『太平記』(NHK大河ドラマ、1991年)演:武田鉄矢 ^ 織田完之『楠公夫人伝』による推説では、久子(南江正忠の娘)としているが、他に典拠がない(朝日日本歴史人物事典『楠木正成の妻』)。 ^ 現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠(古文書では楠木)という地名が隣接して存在している。 ^ ただし合戦の火蓋が切られたのは27日ともいわれる。山本・199頁より。 ^ 「七生」は七度生まれ変わって朝敵を滅ぼすの意味。後代にはこれに「報国」の意味が加わり「七生報国」と呼ばれた。 ^ a b “楠木正成”. 2016年2月26日閲覧。 ^ 『人物日本の歴史8』106頁。 ^ 副島隆彦.日本の歴史を貫く柱(PHP文庫) ^ 山下宏明校注『太平記』新潮日本古典集成、昭和52年,p113 ^ 佐藤和彦編『図説 太平記の時代』河出書房新社、1990年p6 ^ a b c d e 新井孝重 『楠木正成』 吉川弘文館、2011年、p58-63。ISBN 978-4642080668。 ^ 生田目経徳『楠木氏新研究』東京清教社、1935年 ^ 黒田俊雄『日本の歴史8 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- 貞和4年/正平3年1月5日(1348年2月4日))は、南北朝時代の武将。楠木正成の次男。 妻は丹波亀山の関政実の娘とも伝わっている。 1348年、四條畷の戦いにおいて高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、兄・正行と共に、自害して果てた。享年22。 四條畷神社 楠木正儀", "楠木 正勝(くすのき まさかつ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。正能とも。官名は右馬頭か。楠木正儀の子で、楠木正成の孫にあたる。正秀、正元、正則、津田正信らの兄。子に伊勢楠木氏の祖となる正顯(正盛)、また盛信などの名が伝わっている。正秀を弟ではなく子とする説もある。北朝、室町幕府に徹底抗戦した。 正確な資料に乏しく、兄弟・一族の事跡と混同されている場合があるが、一貫して南朝側の軍事行動を起こしている。 1382年に土丸城に篭城し山名義理と争うが大内義弘の援軍に敗れる。1385年山名氏清と河内国で争い奮戦するが、敗れて退却する。 元中五年(1388年)8月、紀伊国の名勝和歌浦からの帰京中の室町幕府第3代将軍の足利義満を奇襲しようと企てるが、河内国平尾城付近で逆に山名氏清の攻撃を受けて敗走。 1390年山名・細川の河内国平定軍に敗れ、楠木氏の根拠地千早城に逃亡した。1392年には畠山基国に千早城も落とされ、正勝ら兄弟は吉野十津川に逃亡。1399年応永の乱を起こした大内義弘に楠木某は二百余騎の軍を率いて組するが、これを率いていたのは正勝かあるいはその兄弟なのかは定かではない。堺に3か月余篭城の末に室町幕府軍に敗れ、これ以降の事跡は不明である。 奈良県の十津川村には正勝の墓所と伝承が残る。北朝軍に敗れた正勝と弟である正元が十津川村武蔵に10年ほど潜伏したが、再起を図るうちに病に倒れ、同地で病没したとされる。この伝承に従うならば没年日は応永11年(1404年)、または応永18年(1411年)1月15日とされる。 同地には明治期に綺麗に再整備された楠木正勝の墓とされるものがあり、現在も毎年4月3日に供養が行われている。 別伝として、1379年には既に仏門に入っており、曹洞宗の著名な僧傑堂能勝は正勝である、とも伝わっている。同説に拠れば、生年は文和4年(正平10年/1355年)、没年は 応永34年(1427年)8月7日とされる。傑堂能勝が越後国に開基した耕雲寺の寺紋は「菊水」である。 また、普化宗の門に入り、虚風居士の弟子となって「虚無」と名乗り、禅と尺八を持って全国各地を回ったとの伝承もある。同伝承に拠れば全国行脚の際、身なり卑しく異形の体であったため、人に「貴方は一体なんだ?」と問われたため、「虚無僧なり」と答え、これが虚無僧の祖になったとされる。ただし、一般に考えられている虚無僧の発生時期と年代が合わない。 墓とされるものは前述の奈良県十津川村武蔵のほか、正勝の孫が開祖と伝わる大阪市東淀川区豊里の定専坊、茨城県の筑波山神社(古通寺)など各地に存在する。 新潟県南魚沼市雲洞の名刹・雲洞庵には、寺の開基の師に当たる傑堂能勝大和の木像と位牌がある。", "新田 義興(にった よしおき)とは、南北朝時代の武将。新田義貞の次男。 1337年(建武4年/延元2年)、奥州の北畠顕家が西上する。これに呼応して上野で挙兵し、顕家の奥州軍に加わる。吉野で後醍醐天皇に謁見し、元服。父義貞の戦死後、越後に潜伏したと見られる。 観応の擾乱が起こると、鎌倉の奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵する。正平一統が破綻すると、1352年(正平7年/観応3年)に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟脇屋義治と挙兵し(武蔵野合戦)、鎌倉を一時占拠するが、尊氏の反撃にあって鎌倉を追われる。 尊氏が没した半年後の1358年(正平13年/延文3年)、義興は尊氏が亡くなったことを時期到来とばかりに鎌倉奪還のため挙兵、鎌倉をめざした。これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は、竹沢右京亮と江戸遠江守にこの迎撃を命じた。はじめ竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せず、江戸遠江守とその甥江戸下野守の協力を求め、江戸遠江守は甥の下野守とともに三百余騎を率い、『太平記』によると一族の蒲田忠武も首謀者のひとりとして参加していたとされる。10月10日(11月11日)、義興と主従13人は、多摩川の矢口の渡しで謀殺された。享年28。 その後江戸遠江守、竹沢右京亮らは入間川御陣の足利基氏のもとへ馳せ参じ、忠功抜群として関東管領の畠山国清に褒賞され、それぞれ数カ所の恩賞地を拝領したが、江戸某が義興の怨霊により狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために神として祭ったという記述が、『太平記』にある。後に新田大明神として尊崇される。人形浄瑠璃の『神霊矢口渡』は、この事件を扱ったものである。東急多摩川線の武蔵新田駅の「新田」は、新田大明神を祭った新田神社に由来する。 義興は出自が低い側室の子であり、父の義貞からは疎まれていたようである。また、北畠顕家の軍勢に同行していたことが、顕家に対抗意識を抱いていた義貞の不興を買った。 1352年(正平7年/観応3年)、長楽寺に対して義興が発給した、狼藉を禁止する趣旨の文書が残っている。また、水野致秋に宛てられた8通の発給文書に貼付されている花押が長楽寺宛ての文書のそれと類似しており、これらも義興が発給したものであろうと推定される。 1909年(明治42年)9月11日、従三位を追贈された。 新田神社 これは「胴塚」であり、「首塚」は入間市の愛宕神社にある。 『神霊矢口之渡』 歌川国貞画 ^ 義興謀殺の場所については、現在の大田区か、もしくは稲城市の矢野口の2説がある。峰岸・134頁 ^ 『中世武蔵人物列伝』114頁 ^ 峰岸・133頁 ^ a b 『中世武蔵人物列伝』113頁 ^ a b 峰岸・134頁 ^ 『群馬県史』第1巻 峰岸純夫 『新田義貞』〈『人物叢書』〉 吉川弘文館、2005年 ISBN 978-4-642-05232-0 埼玉県立歴史資料館編 『中世武蔵人物列伝』 さきたま出版会、2006年 ISBN 4-87891-129-8", "赤松 氏範(あかまつ うじのり)は、南北朝時代の武将。 玄徳2年(1330年)、赤松則村(円心)の子として誕生。 無双大力の勇士で父と共に各地を転戦する。正平5年/観応元年(1350年)1月に父が死去すると、3人の兄といずれも不仲だったことから観応の擾乱では3人の兄が北朝にくみしたのに対して氏範は南朝に味方した。摂津国中島郡と有馬郡、備前国馬屋郷などに勢力を持った。正平8/年文和2年(1353年)には四条隆俊に従って足利義詮を破り、正平10年/文和4年(1355年)には山名時氏や足利直冬らと共に京都に侵攻して京都を回復するが兵糧問題から京都を放棄した。以後は南朝の中心的武将として興良親王を奉じ、南朝の兵力も任されるに至った。 正平15年/延文5年(1360年)4月25日に赤松宮が南朝に対して謀反を起こすと、氏範も赤松宮に同調して南朝に叛した。賀名生を焼き討ちするなど一時は優勢だったが、結局は南朝の追討軍に敗れたため、宮を奈良に落ち延びさせたあと、自らも吉野を去って兄・則祐がいる播磨国に帰還し降参した。9年後の正平24年/応安2年(1369年)10月10日、摂津中島郡において南朝に帰参して挙兵したため、足利義満の命令で兄・則祐と一族の赤松光範らによる追討を受けた。 元中3年/至徳3年(1386年)9月2日、摂津中島郡において再度南朝として挙兵したが、幕命を受けた細川頼元や山名氏らの追討を受け、子息ら一族郎党100余名と共に清水寺にて自害した。享年57。遺骸は討伐に従軍していた甥であり惣領の赤松義則によって手厚く葬られた。 終焉の地となった清水寺に氏範らの墓がある。また、同地には「赤松氏範の切腹石」と伝わる大石も存在する。 ^ a b c d e 今井尭ほか編 1984, p. 292. ^ 赤松宮、陸良親王ともいわれる。護良親王の子。母は北畠親房の娘。 ^ 高坂 1970, pp. 93, 291. ^ 播磨という説もある。 今井尭ほか編 『日本史総覧』3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。全国書誌番号:84023599。ISBN 4404012403。NCID BN00172373。OCLC 11260668。ASIN B000J78OVQ。 高坂好、日本歴史学会編、 『赤松円心・満祐』155巻 吉川弘文館〈人物叢書〉、1970年3月。 NCID BN02378981。OCLC 29341608。全国書誌番号:73006025。  安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社、1985年11月。全国書誌番号:86011472。ISBN 4404013027。NCID BN0016709X。" ]
ABC01-02-0216
日本のスポーツリーグで、「Jリーグ」はサッカー、「Vリーグ」はバレーボールですが、「Xリーグ」は何のスポーツでしょう?
アメリカンフットボール
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[ "アメリカンフットボール", "バスケットボール", "アイスホッケー", "ゲーリックフットボール", "スティックボール" ]
[ "アメリカンフットボール(英語: American football)は、フットボールの一種であり、楕円形のボールを用いて2つのチームで得点を競い合うスポーツ(球技)。略称はアメフトまたはアメフット。米式蹴球あるいは鎧球(がいきゅう)とも。 その名の通り、アメリカで盛んに行われているフットボールであり、アメリカやカナダで単に「フットボール」というときは、アメリカンフットボールのことを指すことが一般的である。北米以外の地域では、サッカーなど他のフットボールと混同を避けるために、略さずアメリカンフットボールと呼ぶことが多い。オーストラリアでは、グリディロン・フットボールとも呼ばれている。 日本では、一般的にアメフトと略されることが多いがアメフットも使われており、同じ報道機関でも統一されていない。過去にはアメラグ(アメリカンラグビーの略)や アメリカン とも呼ばれており、希に使われる。日本語表記では、アメリカンフットボールを直訳した米式蹴球、または、鎧(よろい)を髣髴させる装備をしていることから鎧球(がいきゅう)と表記される。なお、混同されやすいが「ア式蹴球」はアソシエーション・フットボール(サッカー)を指す。 アメリカンフットボールは、ボールを蹴り込んで得点するフットボールに分類され、特に楕円形のボールを使う、タックルにより相手の前進を止めるなど、古いラグビーを源流としているため共通する要素を持つが、互いにルールが何度も変更されているため現代では、基本的な競技特性が異なる競技となっている。 特徴や他のスポーツとの比較は以下に示す。具体的なルールについては、試合とルールの項で詳述する。 2チームがそれぞれ、ボールを確保する攻撃側(オフェンス)と、守備側(ディフェンス)に明確に分かれゲームが進行する。特殊な場合を除き、得点する機会は攻撃側だけにある。 自由交替制を採用しており、一度交替した選手でも再びプレーに参加することができるため、オフェンスとディフェンスで選手を大幅に入れ替えることができる。 ラグビーと同じく基本的に体格の大きな選手が有利であるが、上記の理由でよりポジションに応じたパワー、スピード、スタミナ、捕球力などの役割、適性が明確であり、選手はほぼ自分の役割に特化した専門選手である。 基本的にすべてのプレーがセットプレーであり、両チームが向かい合った静止状態からひとつのプレーが始まり、タックルなどによりボールの前進が止まったときにプレーが終了する。1プレイはだいたい10秒以内で終了し、また仕切り直して次のプレーを開始する。このような短いプレーの積み重ねによりゲームが進行する。 試合全体で時間が決まっており(正規で60分)、カウントダウンする計時方式を採用し、同じフットボールであるサッカーやラグビーのようなロスタイムがない。時間を流す・止めるルールが細かく決まっており、時計と勝負するスポーツとも言われる。プレーせずに時間を流すこともあり、勝ち越しているチーム(を応援する観客)がカウントダウン・コールをする場面がある。 激しいコンタクトが多い。当初はラグビーと同様にジャージでプレーしていたが安全に配慮してヘルメットやプロテクターなどの防具を装備することが義務づけられている。それでも脳震盪やCTE(慢性外傷性脳症)を発症する選手が続出していることから、危険性の認識、また適切な処置を求め、NFLと元選手約4000人が係争中である。 ビデオ判定が導入されており、NFLなどでは判定に不服がある場合、コーチ(監督)が審判団にビデオ判定を求めることができるチャレンジや一部の選手との無線通信が許可されているなど、技術革新に対して柔軟である。ただし、日本ではチャレンジシステムや無線は採用されていない。 アメリカでは不動の一番人気スポーツである。歴史的に人気が高かった野球に取って代わり、アメリカの“国技”、“国民的娯楽”であるという意見が主流を占めるまでに至った。 アメリカの大手世論調査会社ギャラップが2017年12月に調査した結果によると、「最も観戦するのが好きなスポーツ」では1位はアメリカンフットボール(37%)である。2位にバスケットボール(11%)、3位に野球(9%)、4位にサッカー(7%)が続いた。また、アメリカのワシントン・ポストが2017年に発表した人気スポーツの世論調査によると、 「最も観戦するのが好きなスポーツ」では1位はアメリカンフットボール(37%)である。2位にバスケットボール(11%)、3位に野球(10%)、4位にサッカー(8%)が続いた。アメリカ大手世論調査会社ハリス・インタラクティブの2015年12月時点での調査によると、最も好きなスポーツのトップはプロアメリカンフットボール(33%)であり、2位に野球(15%)、3位に大学アメリカンフットボール(10%)が続いた。プロと大学を合計した場合、アメリカンフットボールは43%であり、15%の野球に対して圧倒的な差をつける結果となった。この調査は1985年から開始されており、1985年時点ではプロアメリカンフットボール(24%)と野球(23%)は僅差であったが、それ以降その差は広がる傾向にある。 プロリーグであるNFL(ナショナルフットボールリーグ)は、北米4大プロスポーツリーグの中で最も人気のあるリーグであり、1試合の平均観客動員数が6万7000人を超えている。経済的に世界最大のプロスポーツリーグでもあり、2014年シーズンの収益は120億ドルを記録した。NFL王座決定戦であるスーパーボウルは、アメリカ最大のスポーツイベントであり、全米テレビ番組史上視聴者数トップ10のほとんどを占めている。レギュラーシーズンの視聴率も非常に高く、数多くの試合がワールドシリーズやNBAファイナルの視聴率を上回る。2013年の全米視聴率ランキングにおいても、上位10番組の中でNFLが9つを占めた。また、同年のスポーツ番組の全米視聴者数トップ50の中でNFLの試合が46を占めた。 大学リーグであるカレッジフットボールも非常に人気が高い。ESPNの調査によると、熱狂的なファンの数はメジャーリーグベースボールなどを上回り、NFLに次ぐ2位のスポーツリーグである。特に大学生を中心とした若年層やハーバード大学など多くの名門大学も参加することから、高学歴層の関心が高い。シーズンの観客動員数は約5000万人であり、ミシガン大学のスタジアムが200試合連続で10万人以上の観客動員数を記録するなど、多くの強豪チームが1試合平均8万人以上の観客動員数を誇る。1月に行われるカレッジフットボールの全米王座決定戦も視聴率が非常に高く、ワールドシリーズやNBAファイナルの視聴率を上回る場合がほとんどであり、2013年はNFLを除いて全米で最も視聴者数の多いスポーツコンテンツであった。 一方、アメリカンフットボールの競技人口は2006年の1010万人をピークに900万人(2011年)へと減少に転じており、バスケットボール(2610万人)や野球(1230万人)よりも少ない。ただし、男子高校生や男子大学生のカテゴリでは2010年時点で最も競技人口が多い。 スーパーボウルをはじめとしたNFLの主要ゲームや、国内でも学生・社会人のチャンピオンシップ戦である甲子園ボウルやジャパンXボウル、日本一のチームを決定するライスボウルといったボウルゲームでは地上波やBSで中継がある。またその他のNFL、社会人のXリーグ、関西学生リーグ、高校選手権クリスマスボウルのCS中継、関西ローカルで学生・社会人の地上波TV中継も一部ある。国内試合は伝統的に関西地区での人気が高く、80年代の京都大学ギャングスターズの全国制覇以後は、秋期の関西地区の主要ゲームには万単位の観客が集まっている。 アメリカに初めて英国のフットボールが紹介されたのは、1867年であるとされている。始めたのはプリンストン大学で、サッカールールのゲームであったが、プレーヤーの数は各チーム25人の計50人だった。続いてラトガーズ大学でも、やはりサッカータイプのフットボールを始めたのだが、プリンストン大学とはルールが異なっていた。 アメリカにおける最初のフットボールの大学対抗試合(インターカレッジ・フットボール)は、やはりサッカータイプのゲームで、プリンストン大学とラトガーズ大学の間で、1869年にニュージャージー州のニューブランズウィックで行われた。1チーム25人ずつのプレーヤーによるゲームで、キックかヘディングによりゴール数を競い、先に6点取った方が勝ちというゲームだったことが記録に残されている。しかし、この時点ではまだボールは丸いサッカーボールで、ボールを持って走ったり、投げたりすることは認められていなかった。そして、コロンビア大学、プリンストン大学、ラトガーズ大学、およびエール大学から成るインターカレッジエイト・(サッカー)フットボール・アソシエーションが、ルールを標準化するために1873年に作られた。 一方、ハーバード大学はこのグループに参加することを拒否。他の相手を求めてカナダのモントリオールのマギル大学からの挑戦を受け、1874年5月14日、ラグビールールの試合を行った。そしてその後も2校は、ラグビールールの下で、1874年から1875年にかけてシリーズ戦を行った。ラグビータイプのゲームはまもなく他の学校にも流行り始め、その後十年以内にアメリカンフットボール特有のゲーム形式が発展して行った。そして19世紀後半以降、アメリカンフットボールは、大学のスポーツとして人気を博すことになる。 現在の形式のアメリカンフットボールは、1874年に行われたハーバード大学とマギル大学の試合に由来する。当初は原始フットボールのルールで行われていたが、ボールの所有権の曖昧さなどから、アメリカ独自のフットボール開発の気運が高まった。 1876年、ラグビー選手として活躍していた、のちに「アメリカンフットボールの父」と呼ばれるエール大のウォルター・キャンプ(英語版)の呼びかけによりマサソイト会議(コネチカット州)が開かれ、基礎的なルールが決められた。この時に制定されたルールの内、現存するのは、 フィールドでプレーするのは1チーム11人ずつ。 第4ダウンの攻撃で10ヤード進めなければ攻撃権を失う。 センターからクォーターバックにボールをスナップして攻撃が始まる。 などである。 その後もウォルター・キャンプを中心に、ラグビーでの「スクラム」から「スクリメージ」への革命的な変更(1880年)、ボール所有権の明確化、「ダウン」制の導入(1882年)などのルールの改革が行われ、初期のアメリカンフットボールが形作られた。そして1885年9月3日には最初のプロフェッショナル・フットボールゲームがプレーされた。しかし、1888年にひざ下へのタックルが合法化されたことでフットボールは血みどろの闘争競技と化し、ついには初のゲーム中の死亡者を出すことになる。 20世紀に入ると、このスポーツでの負傷や事故の多さ(死亡事故も含む)が社会的問題となった。時には「殺人ゲーム」と呼ばれるほど粗野で野蛮なゲームであったため、次第に世間からの非難の声が高まっていった。1905年10月、この事態に時のセオドア・ルーズベルト大統領はホワイトハウスにエール大、ハーバード大、プリンストン大の各責任者を招集してフットボールの健全化を要求、この競技をもっと安全でクリーンなものにするか、さもなければ禁止するよう意見した。事実、コロンビア大学は、もっと安全になるまで事態をうかがうということで10年間活動を中止、ノースウェスタン大学は1年間棄権、スタンフォード大学とカリフォルニア大学はラグビーに転向してしまった。さらに悪いことに、その年の暮れにシカゴ・トリビューン紙によってフットボールの試合で18人が死亡し、154人以上が重傷を負っていることが報道され、競技への非難は頂点に達した。議会では廃止論が叫ばれ、コンタクトが少なく安全なサッカーに転向すべきだという意見が噴出した。1906年1月21日、関係者たちはさっそくルールを改正すべく集まりを持った。ウォルター・キャンプを中心としたこのルール委員会は、フォワード・パスを認め、ニュートラル・ゾーンを設け、これまで3rdダウンで5ヤードを10ヤードに変更、試合時間も70分から60分に減らした。その後、1912年までの間にさらにルールは変わっていった。フィールド・ゴールによる得点は4点から3点に、タッチダウンは5点から6点に変更、フライング・タックルや不正な手や腕及び体の使用の禁止、スクリメイジライン上に7人の選手が位置することの義務付けなどが行われ、これらの改革によって集団で襲いかかるような野蛮な行為は影をひそめ、現在のルールの基本が出来上がった。安全面に配慮したルール改定に加え、負傷軽減のための防具の整備も行われた。 1913年、アメリカ陸軍士官学校対ノートルダム大学戦において、ノートルダム大学のガズ・ドライズ(英語版)とヌート・ロックニー(英語版)がパスプレーを繰り出し、ランプレーと効果的に織り交ぜ、それまでほとんどランプレーだけだったアメリカンフットボールの戦術において革命を起こした。40ヤードのタッチダウンパスを皮切りに、ノートルダム大学が得た5TDはすべてパスプレーによるもので、35-13で圧勝した。パスプレー(1回のみ前方にパスができるルール)自体は1906年から認可されていたが、それまでは限定的にしか使用されていなかった。 競技が普及するにつれて、各地のアスレチック・クラブでプレーする選手たちは次第に報酬をもらうようになって行った。1892年、エール大出身のウィリアム・ヘッフェルフィンガーが1試合500ドルの報酬で最初のプロ選手となり、1893年には年間契約のプロ選手が誕生している。1895年に16歳のジョン・ブラリアーが1試合10ドルでプロに転向することを初めて公表。1896年にはいくつかの試合をプロだけで構成されたチームで戦うクラブが現れ、1889年、ついにカージナルスがプロチームとして誕生した。 20世紀に入ると選手の報酬は急騰し、1915年には第5回夏季オリンピック(1912年、ストックホルム)で2個の金メダルを獲得したジム・ソープが1試合250ドルの報酬を得た。すると、より良い待遇や契約条件を求めて選手がチームを渡り歩くためにチーム力が安定しないという問題が起こり始め、挙句の果てにはチームが大学生をプロ選手としてプレーさせるような事態が続発した。 1920年、上記のような問題を管理・統括するために、現在のNFLの前身となるAPFAが11チームで結成された。加盟費は各チーム100ドルであった。1922年にAPFAはNFLと改名、参加チームは18チームだった。 日本では、岡部平太が1917年留学先のシカゴ大学でスタッグ教授よりバスケット・水泳・陸上競技と共にアメリカンフットボールを学んだ。実際に岡部は大学や近くのクラブチームでプレーを経験した。 岡部は1920年に帰国すると、陸上競技コーチに就任した第一高等学校 (旧制)の「陸上運動部」や、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の学生らにアメリカンフットボールを教えた。3チームが結成され、練習試合も多く行われたらしいが、翌年に岡部が新設の水戸高等学校 (旧制)に赴任したことや、当時は国内にボール製造メーカーが無く、輸入も難しかったこともあり、本格的な継続活動には至らなかった。また、岡部は1925年出版の自著「世界の運動界」の中で、日本で最初と思われるアメリカンフットボール解説を書いている。 1934年になって、立教大学教授ポール・ラッシュと明治大学教授松本瀧藏ら、日本に留学した日系二世が中心となり、立教大学・明治大学・早稲田大学が参加した「東京学生米式蹴球競技連盟」(のち「東京学生アメリカンフットボール連盟」を経て現在の日本アメリカンフットボール協会)を設立。同年11月29日には明治神宮外苑競技場にて、学生選抜軍と横浜外人チームによる、日本で最初の公式戦が行われた。公式にはこれが日本に紹介された嚆矢とされている。ライスボウルで最優秀選手に贈られる「ポール・ラッシュ杯」はラッシュにちなむ。 第二次世界大戦の影響で一時国内競技が中断された時期もあったが、戦後復活して現在に至る。日本はアメリカンフットボールの強豪国であり、1999年にイタリアで行われた第1回ワールドカップイタリア大会で優勝、2003年の第2回ドイツ大会でも優勝、2007年の第3回日本大会でも準優勝を飾っている。2011年の第4回オーストリア大会では、初参加のカナダにシーソーゲームの接戦で敗れ、三位決定戦でメキシコに辛勝し3位を確保している(優勝:USA)。 これら日本での発展の記録は、立教大学アメリカンフットボール部の選手であった服部慎吾が手記として残しており、日本アメリカンフットボール協会のサイトで公開されている。 1946年の第1回国民体育大会で1度だけ採用されたこともある。 アメリカンフットボールの試合は、NCAAが定める公式規則(NCAAルール)を基本として行われる。団体の年代や地域事情などを考慮して、ローカルルールが採用される場合もある。NFLでは、プロの試合としての面白みを加えるための独自ルール(NFLルール)が採用されている。主な違いは、アメリカンフットボール・NFLとNCAAのルールの差異を参照。 この節では、NCAAルールを基本として、NFLルールについても併記する。なお、反則については反則の項に詳述する。 なお、アメリカンフットボールでは長さの単位としてヤード、フィート、インチが用いられる。1ヤード=91.44cm=3フィート=36インチ、1フィート=30.48cm=12インチ、1インチ=2.54cmである。 フィールドの大きさ アメリカンフットボールのフィールドは、長辺120ヤード(約109.73m)のサイドラインと、短辺160フィート(160フィート、約48.78m)のエンドラインで囲まれた長方形である。 エンドゾーン エンドラインから10ヤード中央寄りに、エンドラインと平行してゴールラインが引かれる。サイドライン、エンドライン、ゴールラインで囲まれた、フィールド両端の領域をエンドゾーンという(図の濃緑部分)。 ゴールポスト 両方のエンドラインの中央には、高さ10フィート (3m) のクロスバーで連結された、幅18.5フィート (5.6 m) のゴールポストが設置される。 フィールド上のライン アメリカンフットボールは、ボールや選手の位置について、目視ながら厳密さをこだわる競技のため、ゴールラインとサイドラインの内側に多くのラインが引かれている。 両サイドラインの内側に1ヤードごとに24インチ(61cm)のエンドラインに平行な白線を引く(ヤードライン)。5ヤードごとにサイドラインを結ぶように白線を引く。 両サイドラインから内側60フィート (18.29m)の位置に、ハッシュマークと呼ばれる24インチ(61cm)の白線を引く。 両サイドラインから内側9ヤード (8.23m) の位置に10ヤードごとに、9ヤードマークと呼ばれる12インチ(30cm)の白線を引く。 可能であれば、9ヤードマークを上端とするように、ゴールまでのヤード距離の数字を表示する。 フィールドの区別 エンドラインとサイドラインに囲まれた内側の領域をインバウンズと呼び、外側の領域をアウト・オブ・バウンズと呼ぶ。ライン上はアウト・オブ・バウンズである。 フィールドは、中央のヤードライン50ヤードライン(しばしばハーフウェーラインと呼ばれるが、50ヤードラインと呼ぶのが正しい)で二つの陣地(エンド)に区切られ、それぞれ自陣と敵陣(または○○チーム陣)に区別される。フィールド上のボールの位置は、「陣地+その陣のゴールまでの距離」(○○陣△ヤード)と表される。 両サイドラインの外側に、両25ヤードラインの間に、2つの選手の待機場所(チームエリア)が設置される。 両チームが分かれて、試合を通じて1つずつチームエリアを使用する。 試合時間(ゲームクロック)は、60分であり、カウントダウン形式で計時する。15分ずつの節に分ける。各節をクォーター (quarter、4分の1)と呼び、Qと表記することがあり、4つの節それぞれを1Q、2Q、3Q、4Qと表記することがある。また、「1Qと2Q」で前半、「3Qと4Q」後半と呼ぶ。 1Qと2Qの間、3Qと4Qとの間はクォータータイムと呼ばれる1分から数分程度の休憩が、前半と後半の間は15分程度の休憩(ハーフタイム)がある。加えてプレーの結果によってしばしば計時が止まることもあるため、ゲームクロックは60分であるが、実際の時間は2時間半から3時間程度になる。 日本の場合、選手の体力保全や会場運営のスケジュール上の都合を考慮して、大学生のリーグ戦では、1クォーター12分で、試合全体では48分で実施する。高校生の場合は1クォーター10分で行われる。社会人(Xリーグ)では2016年ごろからジャパンXボウルを含めて、1クォーター12分で実施している。甲子園ボウルや、ライスボウルといったボウルゲームでは1クォーター15分の計時で行なわれる。 4Q終了時点で、得点を多く挙げたチームが勝利チームとする。4Q終了時に同点の場合、原則、引き分けとする。勝敗を決める必要がある場合には、延長戦を行う。 NFLでは、15分間のオーバータイム(延長戦)を行い、先攻チームがタッチダウンをすれば、即勝利となり、フィールドゴールによる得点ならば後攻チームに攻撃権が与えられる、この時、後攻側がフィールドゴールを決めればもう一度先攻の攻撃、タッチダウンを決めれば逆転勝利となる。プレーオフなど、必ず勝敗を決める必要がある場合には、さらに延長戦を行うことが定められている。 NCAAルールでは、「タイブレーク」という特殊なルールにより勝利チームを決定する。 1回のプレーの間に参加できる選手数は、各チーム最大11人、計22人である。 ただし、プレーとプレーの間であれば、一度に何人でも交替できる。一度プレーから外れた選手が再びプレーに参加することも可能である。このため、選手の専門化が著しく、オフェンスチーム、ディフェンスチーム、スペシャルチーム(キッキングチーム)の選手に分かれることが多い。場合によっては1人の選手が複数のポジションを兼ねることもある。 NFLにおいては、チームに53人が登録でき、出場可能な選手は、1試合ごとに46人である。 日本のXリーグは、1チーム最大65人の選手を登録できる。日本の大学や高校ではベンチ入り人数に上限は無い。同時にフィールドに出ていなければ、同じ背番号の選手がいてもかまわない。交代起用回数・人数ともに制限はない。 チームエリアには、選手以外にコーチ、トレーニングスタッフ、医師ほかスタッフが最大60人入ることが出来る。 審判 (オフィシャル) の人数は、最低で4人最大で7人で運営する。7人構成の場合、レフリー、アンパイア、ヘッド・ラインズマン、ライン・ジャッジ、バック・ジャッジ、フィールド・ジャッジ および、サイド・ジャッジで対応する。 レフリーが審判団を代表するが、他の審判も判定の権限は平等に持っている。判定で違いなどがあれば、協議した上で決定する。 試合前には、試合開始予定3分前にセレモニーを開催する。セレモニーでは、レフリーとアンパイアが立ち会いのもと、両チームのキャプテンと審判がフィールド中央に集合する。他の選手はチームエリアで待機する。 両チームのキャプテン(1名以上4名以内)がフィールド中央に集合し、審判から試合上の諸注意を受けた後に、コイントスを行う。ボウルゲームや交流戦などでは、両チームの記念品(ペナントなど)の交換が行われることもある。 コイントスは、試合開始時にボールと、陣地の所有権を決める。以下の手順で行う。 通常、コイントスの勝者は、先に攻撃権を得るため、前半のレシーブを選択する。ただし、守備に自信があったり、後半からの巻き返しを想定したりした場合、後半を選択する。 ビジター側のキャプテンが、審判が持つコインの裏表を選択する。 審判がコインが回転しながら落下するように投げる(ボウルゲームなどでは、特別のゲストにコインを投げる役割を与えることもある)。 結果が当たった(コイントスの勝者)チームは、前半もしくは後半のいずれかのハーフを選択する。 コイントスの敗者は、勝者が選択しなかったハーフを選択する。 コイントス勝者が、後半を選択(前半を辞退)した場合、審判はその旨をコールする。 各ハーフを選択したチームは、そのハーフが始まる前に以下のいずれかを選択し、対戦チームは残りの選択をする。通常は、レシーブを選択し、対戦チームは、陣地を指定する。 レシーブまたはキック 陣地 コイントスの手続きが完了すると、各チームのキャプテンが守るべきゴールライン側に並ぶように回転し、審判はどちらのチームが前半のレシーブであるかを試合会場に通告するのが通例である。前半のキックのチームによるフリーキック(キックオフ)により試合が開始する。 アメリカンフットボールでは、プレーをダウンと呼ばれる概念で区切る。 ダウンには、スナップで始まるスクリメージ・ダウン、フリーキックで始まるフリーキック・ダウン、フェアキャッチ・キックで始まるフェアキャッチ・キック・ダウン(NCAAルールではフェアキャッチ・キックはない)に分けられる。 ダウンは、審判がプレーの開始(レディ・フォー・プレイ)を宣告してから終了(ボールデッド)を宣告するまでの単位であり、ダウンが終わったら、仕切り直して次のプレーを開始する。これがアメリカンフットボールを見慣れない人にとって、「アメリカンフットボールは良く止まる」としばしば違和感を覚えるところである。 フリーキックとは、前後半・延長戦の開始時、及び得点後の試合再開のために行われる特殊なプレーである。 キックオフは、フリーキックの1種で、前後半・延長戦開始、またはトライ、フィールドゴールの後のフリーキックを言う。セイフティという得点の後のフリーキックは、キックオフではない。ただし、セイフティというプレー結果自体がまれなため、普段は、キックオフとフリーキックが同じとみても良い。 前後半・延長戦を開始するフリーキックは、コイントスの結果に基づく。 トライ後のフリーキックは、タッチダウンした側が行う。 フィールドゴール後のフリーキックは、フィールドゴールをした側が行う。 セイフティ後のフリーキックは、セイフティを献上したチーム(失点したチーム)が行う。 キックオフでは、キック側のチーム(キッキングチーム)陣35ヤード、セイフティ後のフリーキックではキッキングチーム陣20ヤードで行う。 ボールが蹴られるまで、キック側の選手はボールの後方にいなければならない。 また、キッカーを除いて全員がボールの位置から5ヤードの間にいなければならない(片足が5ヤード以内であればOK)。 レシーブ側の選手はボールの位置から10ヤード以上自陣側にいなければならない。 フリーキックは、通常、ボールを地面(またはキッキングティー)において蹴るプレースキックを行う。 ルール上、地面に落としてはずんだ直後に蹴るドロップキックで行うこともできる。ただし、安定して蹴れないドロップキックを用いることは稀なため、ボールを置いて蹴るプレースキックが一般的である。 セイフティ後のフリーキックの場合は、さらにパントも認められている。ただし、日本では練習量の問題からプレースキックで行うことが多い。NFLではキッキングティーの使用が認められないこともあり、パントを採用する。 風が強い場合などはボールが倒れやすいため、キック側のチームの選手がホルダーとしてボールを支えても構わない。また、審判がキックチームに指示する場合がある。キッキングティーは、プレーの終了後、キック側のチームが回収(NFLでは専門の係員、スタジアムが用意した動物などが回収)する。 ボールを敵陣に向けて蹴ることにより、フリーキックのプレーが開始する。その後、レシーブ側の選手が捕球(レシーブ)し、キック陣に向けボールを持って走る(キックオフ・リターン)。キックチームのタックルで止まったり、サイドラインを割ったりすれば、フリーキックのプレーが終了する。 リターンにより相手のエンドゾーンに到達すれば、タッチダウンが成立する(キックオフ・リターン・タッチダウン、フリーキック・リターン・タッチダウン)。 タッチダウンに至らなかった場合、ボールを確保したチームに攻撃権が与えられ、スクリメージ・ダウンに移行する。 フリーキックのボールは、原則、キックしたチームの相手チーム(レシーブチーム)に確保する権利がある。 ただし、キックした位置から10ヤードを超えたり、レシーブチームの選手が触れたりすると どちらのチームも確保することができ(フリーボール)、確保したチームが攻撃権を得ることができる。 蹴ってから地面につく前、または、1回だけついてバウンドしている間(いわゆるノーバウンドまたはワンバウンドの)ボールは、レシーブチームの選手に優先して確保する権利があり、キックチームが、その邪魔をすると反則である。 キックされたボールが、ゴールラインより手前で、他の選手に触れられることなくアウト・オブ・バウンズとなった場合は、キック側の反則となる。(反則の項で詳述) キック側が攻撃権の確保を狙って、わざと短く蹴るプレーをオンサイドキックと言う。 オンサイドキックを行う場合、キッカーはボールを弾ませるようにサイドライン方向に目掛けて蹴る場合が多い。これは、不規則なバウンドによりレシーブ側が取り難くなることと、キック側がボールに到達する時間を稼ぐねらいがある。 ただし、オンサイドキックの意図はレシーブ側も察知しやすいうえ、ボールがキック側の意図する動きをするとは限らないので、成功率はかなり低い。さらに、オンサイドキックのボールをレシーブ側が確保した場合は、キック側は通常のフリーキックよりも不利な地点から守備を行わなければならないことが多い。これらのことから、オンサイドキックは非常にリスクの高いプレーであるが、キック側が負けていて、残り時間が少ないが、逆転を狙う必要がある場合などに行われる。 スクリメージ・ダウンとは、フリーキック、フェアキャッチ・キック以外のすべてのダウンであり、アメリカンフットボールのほとんどのダウンはスクリメージ・ダウンである。 スクリメージ・ダウンでは、開始前に審判によってボールをサイドラインに平行に置かれ、審判により開始が宣告される。 攻撃側のスナップ(地面に置かれたボールを後方の味方選手に渡すこと)により開始する。 ボールの両端には仮想のライン(スクリメージ・ライン、英語ではLine Of Scrimage)が存在し、この間をニュートラルゾーンと呼ぶ。 スナップ前には、両チームの選手は自陣に近いスクリメージ・ラインより手前に位置しなければならない。 スナップ後、攻撃チームは敵陣方向に進めることを目指し、守備チームはその前進を阻み、逆に後退させたり、ボールを奪ったりすることを目指す。 ボールを持った選手がサイドラインの外に出たり、倒れたりするとプレーが終了する。 攻撃権を得たチームは、当初4回連続のプレーを行う権利(シリーズ)が与えられる。 この4つのダウンを順にファーストダウン、セカンドダウン、サードダウン、フォースダウンという。 攻撃権を得た地点からスナップし、その地点から敵陣方向10ヤード先にシリーズ獲得線が設定される。 4回のダウンの間にシリーズ獲得線に到達するか越えれば(10ヤード以上前進すれば)新たなシリーズが与えられ、再びファーストダウンとなり改めて4回の攻撃権を保持する。これを「ファーストダウンの獲得」あるいは「ファーストダウンの更新」という(日本ではフレッシュと呼ぶことがあるが、和製英語である)。 逆に、シリーズ獲得線に到達できなければ(10ヤード前進できなければ)、攻守交替でありプレー終了地点で相手チームが攻撃権を獲得する。 攻撃側のチームは、攻撃権を維持したままプレーを繰り返し、最終的にはタッチダウンなどによる得点を目指す。 攻撃側には4回のダウンが与えられるが、フォースダウンになった場合には、ファーストダウンの獲得をあきらめてフィールドゴールまたはパントを行うことが多い。 ダウンを継続し攻撃権を得てから得点する、あるいは攻撃権を失うまでの一連をドライブと呼ぶ。 なお、ドライブのことをシリーズと呼ぶこともある。シリーズは、上述の通り、4回連続の攻撃ダウンとしてルールで定義されているが、実況の用語としてはドライブと同様の意味として使用される。 ボールを前進させる方法は、主にランプレーとパスプレーに大別される。それぞれのプレーにおいて、選手は予め決められた動き方(アサイメント)に従って動く。通常、どのチームでも複数のプレーにおけるアサイメントを用意しており、状況に応じて使い分ける。このアサイメントをまとめた戦術書をプレーブックと言う。 通常、スクリメージ・プレーの前には、両チームの選手はそれぞれ集合し、次のプレーの戦術確認を行う。これをハドルと呼ぶ。ハドルでは、コーチからの指示を確認したチームリーダー(攻撃側では主にクォーターバック、守備側ではそれぞれ決められたチームリーダー)が状況を判断し、他の選手にアサイメントを伝達する(プレイコール)。 コーチからの指示には、交代選手を伝令とする・チームエリアからサインを送る、などの方法がある。NFLでは、無線通信によりリーダーに直接伝達する方法がとられる場合がある。 攻撃側の状況は、ダウン数とシリーズ獲得線までの必要な距離(ダウン・アンド・ディスタンス)で表される。テレビ放送やスタジアム内のスコアボードなどでも表示される。 攻撃権を新たに獲得したり、新たなシリーズを獲得したりした場合には「1st Down&10 To Go(ファーストダウン・アンド・テン・トゥ・ゴー)」と表示される。これは「現在ファーストダウンで、シリーズ獲得線までの残り距離は10ヤード」であることを意味する。なお、ここでいう残り距離は実測ではなく目分量であり、インチ単位は切り上げられる。 ただし、この表記は長いので通常同様に、「1st&10」と略記することが多い(ファースト・ダウン・アンド・テン、またはさらに&も省略してファーストダウン・テンと読む)。同様に「2nd&7(セカンド・ダウン・アンド・セブン)」、「3rd&2(サード・ダウン・アンド・トゥー)」と表示された場合は、それぞれ「セカンドダウンで残り7ヤード」「サードダウンで残り2ヤード」という意味である。 直前のプレーで後退してしまったような場合には、「2nd&15」など、10ヤードを超える残り距離が示されることもある。このように10ヤードを超える距離が残っている場合には大まかに「2nd&Long」という表現を用いることがある。 逆に残り距離が1ヤードに満たない場合には、「2nd&Inches」ないしは「2nd&Short」などと表されることもある。 なお、エンドゾーンまでの残り距離が10ヤード(約9.144メートル)に満たなくなった場合には「1st&Goal」などと表されることが多い。「ゴールまで残りXヤード (X yards to goal)」という表示もある。 なお、フィールド上ではチェーンによってダウン・アンド・ディスタンスが表される。チェーンとは、新たなシリーズの開始位置と更新線の位置を示す目印であり、長さ10ヤードの鎖であり、その両端にポール(棒)をつけた器具全体をさすこともである。チェーンは、ビジター側のサイドライン外側のアウト・オブ・バウンズに設置する。先端にダウン数を示す数字の板をつけた棒である、インジケーター(ダウンボックス)とセットで使う。 いずれかのチームが新たなシリーズを獲得したときに、フィールド上のボールの位置からエンドラインと平行な線とサイドラインとの交点に、プレー開始地点のライン上(サイドライン際)にインジケーターを設置する。 インジケーターの地点にチェーンの片方のポールを設置し、他方のポールはチェーンをぴんと張った状態で攻撃方向10ヤード先に設置する。この一端が、次のファーストダウン獲得地点(シリーズ獲得線)の目印となる。 インジケーターとチェーンの位置が確定したら、プレーの邪魔にならないようにやや外側に離れる。(設置した位置がずれないようにチェーンの1ヶ所に目印をつけることが多い) インジケーターは、プレー終了の都度、プレー終了地点(次のプレーの開始地点)のライン上に設置される。新たなシリーズを獲得したときには、インジケーターとチェーンをあらためて設置しなおす。 シリーズ獲得線に到達したかが微妙なときには、審判の判断あるいはチームからの要求により、メジャーメントを行う。メジャーメントとは、チェーンをサイドラインからボールのある地点まで移動し、実測によりシリーズ獲得線に到達したか判定することである。チェーンが10ヤードであり、ポールの内側を少しでも越えれば、到達したと見なされる。 ここまでの説明でも分かるとおり、チェーンの長さ自体は10ヤードと厳密だが、新たにシリーズを獲得したときのボールの置く位置、そこからインジゲーターやチェーンを設置する位置、プレー終了後のボールの置く位置はすべて審判の目測である。 チェーンとインジケーターの保持、移動、操作を行う係員をチェーンクルーと呼ぶ。 ランプレーとは、ボールを受けた選手(ボール・キャリアまたはランナー)が、走って前進を狙うプレーである。比較的短い距離を確実に前進するために行われることが多い。 通常、ランナーになるのはランニングバックである。また、パスプレーを企図したクォーターバックが、適切なパスの受け手が見つからずに、自らボールを持ったままランプレーによる前進を図ることもある(スクランブルと呼ばれる)。 多くの場合、ランナーはプレーによってチームの作戦で決まったコースを走り、ランナー以外の攻撃側の選手は、ランナーの走路を確保するため、守備の選手をブロックしたり、他のプレーを行っているように装ったりする。 ランナーがサイドラインに出たり、倒れたりなどすれば、プレーが終了しデッドと宣告される。デッドとなった時点のボールの位置を次のダウンの開始位置とする(ランナーの位置ではない)。 守備選手に押し返されて下がった場合は、もっとも進んだ地点でデッドとする。逆にランナーが自らの意志で下がったり、バックパスで下がったりした場合は下がった地点でデッドと判断される。 デッドとなる前にボールを落とした場合(ファンブル)、守備選手もボールを確保しても構わない。ファンブルでなくても力ずくで奪っても構わない。守備選手がボールを確保すれば、その時点で攻守交替(ターンオーバー)である。奪った選手は、デッドとなるまで相手方のエンドゾーンに向けて前進(リターン)することができる。デッド後、ボールを確保したチームが攻撃権を得る。リターンした選手がデッドの前に直接敵陣のエンドゾーンに入った場合には、そのままタッチダウンが認められる。これを、特にファンブル・リカバー・リターン・タッチダウンという。 パスプレーとは、前方へのパスを使ったプレーである。アメリカンフットボールで断り無く「パス」と言った場合は、前方へのパス(フォワード・パス)を意味する。フォワード・パスは、1つのスクリメージ・ダウンにつき1回のみ、スクリメージ・ラインの手前から行うことが認められている(パスの受け手はスクリメージ・ラインの前方でも、後方でも構わない)。 パスが前方か後方かは、スクリメージラインを超えたかどうか、投げた側と受けた側の身体の位置は関係なく、ボール自体が前方に進む軌道であったかで決まる。 パスプレーは、投げられたボールを攻撃側の選手がノーバウンドで捕球したときに成立する。ボールの位置がフィールド外であっても、インバウンズに片足(NFLでは両足)が着地すればパス成功となる。 捕球した選手は、ボールを持ったままさらに前進することができる(ラン・アフター・キャッチ)。パスキャッチ後は、ランプレーと同様のルールに切り替わる。 投げられたボールが、誰にも捕球されずに地面に落下した場合は、接地した時点でプレーが終了し(インコンプリート、パス不成功)、同時に計時も止まる。たとえ空中で選手がボールに触れたとしても、捕球されずに接地した場合はパス不成功となる。またパス不成功の時は、攻撃側は全く前進できずに、スナップした元の位置(プレビアス・スポット)から次のダウンとなる。 通常、パスを投げるのはクォーターバック、パスを受けるのはワイドレシーバーである。スナップ後、ワイドレシーバーはプレーによって定められたコースを走る。クォーターバックは、守備の状況を判断して、捕球可能と判断したワイドレシーバーにパスを投げる。 パスが成功するには、適切なスピード・距離・タイミングでパスが投げられることと、ワイドレシーバーの捕球技術が必要である。その他の選手は、クォーターバックがタックルを受けないように、またパスを投げるまでに必要な時間を稼ぐために、数人の攻撃側の選手が、クォーターバックの周りを取り囲むようにして、守備選手の侵入を防ぐ。特に、オフェンスラインの選手は、ルール上、パスを受けることができず、またパスが投げられるまではスクリメージラインを超えることが出来ず、パスプレーではクォーターバックを守ることに専念する。 また、パスされたボールは守備側の選手も捕球でき、守備選手が捕球することをインターセプトと言う。インターセプトが発生した瞬間に攻守交替(ターンオーバー)となり、捕球した選手は、ボールデッドとなるまで相手方のエンドゾーンに向けて前進(リターン)することができる。ボールデッド後、リターンしたチームが攻撃権を得る。リターンした選手がボールデッドの前に直接敵陣のエンドゾーンに入った場合には、そのままタッチダウンが認められる。これを、特にインターセプト・リターン・タッチダウンという。 パスプレーは、ランプレーと比べると確実性は低く、インターセプトの危険性もあるが、長距離の前進が期待できる。 スクリメージ・ダウンでは、キックすることもできる。 フリーキックに対し、パントとフィールドゴールを総称してスクリメージキックと呼ぶ(各項参照)。 パントとは、ボールを持った選手がボールを落とし、地面につく前に蹴るキックである。 スクリメージ・ダウンでパントを行うと、攻撃権を失う代わりに、大きくボールを前進させることができる。 4thダウンになって、シリーズの更新もフィールドゴールのプレーを行うも距離が遠い場合は、相手の攻撃をできるだけ不利な位置(自陣エンドゾーンから離れたところ)から開始させるため、パントを選択することが多い。 パントを行う場合、攻撃側(キッキング・チーム、またはパント・カバー・チーム)、守備側(レシービング・チーム、パント・リターン・チーム)ともにスペシャルチームと呼ばれるパント専用のユニットがフィールドに出る。 パントを行う攻撃側は、スクリメージライン後方約15ヤードの地点にパントを行うパンターと呼ばれる選手が立ち、その数ヤード前にパンターを守るための選手1〜3名が配置されるほかは全員がスクリメージライン上に1列にセットする。スナップを行うのは通常のセンターではなく、ロングスナッパーと呼ばれる専門の選手である。 一方、守備側もパントに備えた陣形を敷き、パントされたボールを捕球するパント・リターナーを後方に配置する。 パントのダウンは、ロングスナッパーがパンターに対しボールをスナップして開始される。パンターはボールを受け取ると軽く助走しながら前方に向かってパントする。パンター以外の選手はパンターを守るため相手選手の侵入をブロックし、パントの後はリターナーのタックルに向かう(NFLではエンドの2名を除いてはボールが蹴られるまでスクリメージラインを超えることはできない)。 守備側の選手は、スナップと同時にパンターに突進してプレッシャーをかける。一方で、パントを装った奇襲攻撃(フェイク・パント)の可能性もあることに注意する。リターナーはボールを捕球した後はボールを持って前進(リターン)することができ、リターン終了地点でファーストダウンを獲得する。リターンの結果、相手側のエンドゾーンに達すればタッチダウンとなる(パントリターン・タッチダウン)。また、リターンせずにフェアキャッチを選択することもできる。 パントされたボールに守備側が誰も触れなかった場合は、ボールが止まった地点、またはアウト・オブ・バウンズの地点でレシービング・チームが攻撃権を獲得する。 パントされたボールにキッキング・チームが触れた場合は、ボールが止まった地点か、触れた地点を比較して自陣寄りの地点でレシービング・チームが攻撃権を獲得する。 ボールがエンドゾーンに入った場合はタッチバックとよび、レシービング・チームがの20ヤード地点で攻撃権を獲得する。 パンターは単に遠くへ飛ばすだけでなく、高く蹴って滞空時間(ハングタイム)を伸ばすことで味方選手がリターナーに近づく時間を稼ぐ必要がある。また、パントされたボールがエンドゾーンに入った場合はタッチバックとなるため、状況によっては蹴る距離を調節する技術も求められる。 ここまでの内容と一部重複するが、プレーの終了(デッド)となる場合を以下に示す。 得点が成立したとき。 ボールを持った選手が倒れたとき。 厳密には、足の裏および手のひら以外が地面に触れたとき。フィールドゴールのホールダーには適用されない。 なおNFLルールでは、相手チームの選手の接触により倒れた場合(ダウン・バイ・コンタクト)のみボールデッドとして扱い、ボールを持った選手が自ら転倒したような場合は、相手チームの選手と接触せずに再び起き上がれば、プレーは続行する。 ボールを持った選手が他の選手に取り囲まれて密集状態となり、それ以上前進できないと審判が判断したとき。 ボールを持った選手またはボールがサイドラインの外に出たとき(アウト・オブ・バウンズ)。 前方へのパスが失敗したとき。 ボールが誰にも確保されず、静止したとき ここまでの内容と一部重複するが、以下に攻守交替となるケースをまとめて示す。 シリーズ更新に失敗したとき。具体的には、4thダウンが終了し10ヤード前進が達成できなかった。 守備側が攻撃権を獲得したとき。 シリーズ中にファンブル・リカバーやインターセプトが発生し、守備側がボールを確保してプレーが終了した場合。 フィールドゴールを失敗したとき。 パントを行い、レシーブ・チームがボールを確保してプレーが終了したとき。 なお、タッチダウン後のポイントアフタータッチダウンのプレーが終了したとき、またはフィールドゴールにより得点したときは、次のプレーは得点したチームのフリーキックとなるため、事実上、攻守交替となる。 得点は6点。ランナーがボールを持って敵陣エンドゾーンに入る、または、敵陣エンドゾーン内で味方からのパスを捕球する。とにかく敵陣エンドゾーンまでボールを運べば成立する。 さらに、トライの権利が与えられる。 ラグビーと異なり、ボールを接地させる必要はない。ルール上、ゴールラインそのもの及びその上空はエンドゾーンであり、プレイ中に、選手に確保されているボールがエンドゾーンに一瞬でも接触すればタッチダウンが認められることになる。そのため、選手の体のほとんどはエンドゾーンの外にあるが、ボールを持った手だけがエンドゾーンに入ってタッチダウンというシーンも見受けられる。 タッチダウン後、敵陣ゴール前3ヤード(NFLでは2ヤード、キックで得点を狙う場合は15ヤード)の地点から、1回のみの攻撃権が与えられる。ポイント・アフター・タッチダウン、トライ・フォー・ポイントまたはエクストラ・ポイントとも呼ばれることもある。ポイント・アフター・タッチダウンを略して、PAT と表記されることも多い。(ルール上の用語は トライ) フィールドゴールおよびセイフティは1点、タッチダウン(ツーポイント・コンバージョン)なら2点が与えられる。 一般に、ツーポイント・コンバージョンに比べ、キックの方が成功の確率が高いため、通常はキックによる1点を狙うことが多い。ツーポイント・コンバージョンは比較的リスクが高いプレーであるが、リスクをとってももう1点追加したいケースに選択される。試合終盤にリードを許している場合や、得点差を調整したい場合がこれにあたる。 以下の例であれば、ツーポイント・コンバージョンを狙うことが多い。残り時間などを鑑みキックにすることもあるし、その他の場合でもツーポイント・コンバージョンを狙うこともある。 なお、トライ中のプレーで、インターセプトまたは守備側によるファンブルのリカバーが発生し、守備側がリターンして攻撃側のエンドゾーンに到達すると、守備側に2点が与えられる。ただし、次のフリーキックはタッチダウンしたチーム側が行う。 得点は3点。スナップされたボールを地面、あるいは、キッキングティーに置いてキック(プレースキック)し、敵陣のゴールポストの間、かつクロスバーの上方に通す。また、滅多に行われないが、スナップされたボールを地面に弾ませた後に蹴ってポストを通す(ドロップゴール)ことでも得点が認められる(地面に接触させずに蹴るのはパントであり、これによってポストを通しても得点は無効)。 フィールドゴールを狙うプレーにおいては、スクリメージライン上にロングスナッパーと呼ばれる選手、後方約7ヤードにホルダーと呼ばれる選手、さらに後方にキッカーと呼ばれる選手がセットする。その他の攻撃選手は、ロングスナッパーを挟んでスクリメージライン上に一列にセットする。 ロングスナッパーがホルダーに対しボールをスナップすることによりプレーが開始される。ホルダーは受け取ったボールを素早く、蹴りやすいように地面に立てる。スナップと同時に助走を始めたキッカーがタイミングよくこのボールを蹴る。残りの選手はスクリメージライン付近でブロックを行い、ホルダーやキッカーを保護するとともに、キックまでの時間稼ぎを行う。相手チームの選手はキッカーに対しプレッシャーをかけると同時に、蹴られたボールに直接触れることでフィールドゴールを失敗させること(フィールドゴール・ブロック)を狙う。 フィールドゴールに失敗し、そのままボールがデッドになったときは、ゴールラインから20ヤード以上の地点からスナップした(NFLでは蹴った)場合はその地点から、20ヤード未満の場合は20ヤードラインから相手側の攻撃となる。エンドライン手前で捕球できればリターンすることも可能である。 フィールドゴールのNFL最長距離記録は、2013年12月8日にデンバー・ブロンコスのマット・プレーターが記録した64ヤードである。 この記録は、1970年11月8日にトム・デンプシーが記録した63ヤードを43年ぶりに塗り替えた。 NCAAでは、ラッセル・アークスレーベン(テキサス大学、1977年10月1日)、スティーブ・リトル(アーカンソー大学、1977年10月15日)、ジョー・ウィリアムス(ウィチタ州立大学、1978年10月21日) が 67 ヤードを、マーティン・グラマティカ(カンザス州立大学、1998年9月12日) がキッキングティーを使わずに 65 ヤードを成功させている。 なお、記録上のフィールドゴールの距離は、蹴った地点からゴールポストまでの距離で表される。すなわち、ゴールラインからスクリメージラインまでの距離に、スクリメージラインからキック地点までの7ヤードおよびゴールラインからゴールポストまでの10ヤード、合計17ヤードを加算したものとなる。 トリックプレーの一つとして、フィールドゴールを蹴ると見せかけてランやパスプレーに転換する戦術もある(フェイク・フィールドゴール)。この場合、ロングスナッパーからのボールを受け取ったホルダーが、キッカーや別の選手にボールを渡して攻撃権の更新やタッチダウンを狙うことになる。 2点が与えられる。自殺点ともいえる、守備側に得点が入る特殊な得点。 またセイフティ後は、得点を与えた側による自陣20ヤードからのフリーキックで試合再開となる。つまり攻撃側は、相手に得点を与えてしまう上に攻撃権を失う。 セイフティとなる要件は以下の通りである。 ボールが片方のゴールラインの後方でデッドとなり ボールを保持しているのがゴールラインを守る側の選手であるか、ルースボールの状態であり、 ボールがゴールライン後方に移動した原動力がその(ゴールラインを)守る側にある。 上記の1から3の要件について具体的な事例は、以下の場合である。 ボール・キャリアが自ら下がって、エンドゾーンの側方、後方へアウト・オブ・バウンズに出る。 スナップしたボールが、キャッチされず、ゴールライン後方からアウト・オブ・バウンズに出る。 ファンブルしたボールが、誰に押さえられることもなく、ゴールライン後方からアウト・オブ・バウンズに出る。 「原動力」は分かりづらいが、以下の場合、自チーム(攻撃側)の原動力となってゴールライン後方に移動したと判断される。 ボールを持った選手(ボール・キャリア)が自らの意志でエンドゾーンに入った場合 スナップやバックワードパスを受けた選手がゴールラインを超える(インフィールドに入る)ことなくボールデッドになった場合。 自チーム(攻撃側)の選手がファンブルして、誰にも確保されないまま、エンドゾーンに入った場合。 パントやフィールドゴールをブロックされて、跳ね返った勢いでエンドゾーンに入った場合。 以下の場合、「原動力」は相手チームと見なされ、プレー結果は異なる判断がされる。 インバウンズにいるボール・キャリアが相手選手に押し返されて、エンドゾーンに入ってデッド →もっとも前進した位置でデッド。 ゴールライン前方で、インターセプトなどで相手ボールになり、(攻撃に切替わった)相手がファンブルしたボールを確保したりしてその勢いで(自陣の)エンドゾーンに入りデッド。 →確保した位置でデッド。 相手のパスを(自陣の)エンドゾーンでインターセプトして、膝をついた。 →タッチバック。 相手がファンブルしたボールが誰にも確保されないまま、自チームのエンドゾーンまで転がり、自チームの選手がエンドゾーンで押さえた。 →タッチバック。 相手チームのキックオフやパントを(リターンチームの選手が)タッチしたが、取り損なって(確保していないのでファンブルではない)、(リターンチームの)エンドゾーンまで転がり、 キックしたチームが確保して、デッド。 →タッチダウン。リターンチームの選手が触れた時点でフリーボールとなるため。 誰も確保できないままエンドゾーンの外へ出るか、タッチした(リターン)チームが確保して、デッド。 →タッチバック。選手が触れているが、エンドゾーンに入った原動力はキックである。 また、攻撃側の反則によるセイフティの具体例は次の場合がある。 攻撃側が、ボールが自陣エンドゾーンにある状態で、ホールディングなど反則を犯す。 パッサーがエンドゾーンにいて、インテンショナル・グラウンディングの反則を犯す。 これだけをみるとセイフティは、発生したくないところだが、故意に行う「インテンショナル・セイフティ」という戦術もある。 2点を相手チームに献上するが、以下のメリットもあり、天秤にはかって問題なければ「インテンショナル・セイフティ」を選択する。 変に(無理に)プレーしていれば、インターセプトやファンブルをリターンされてTDで7点前後を与えていた可能性があるところ、2点で済む。 パントなどをすれば相手にブロックされる危険はあったが、セイフティの次はフリーキックであり、ブロックされずに安全にキックできる。 プレーすることで数秒でも時間を費やせる。ボールキャリアーが相手選手が近づくまでインバウンズでうろうろすることがある。 エンドゾーンやその手前で蹴っていたところを、自陣20ヤードでフリーキックできる。 試合終了間際に十分な点差で勝ち越しているチームが2点を与えても、ゲームの状況に影響がないとき。 試合終了間際に負け越しているチームが、2点を与えても8点以内の1ポゼッション差でとどまり、次の相手攻撃を止めて次のシリーズで逆転できると判断したとき。 タッチバックとは、ボールが相手チームが原因で自チームのゴールラインを超えて、相手チームがボールを確保していない状況でエンドゾーンまたはエンドライン後方でボールデッドとなることである。 タッチバックが成立すると、次のプレーはゴールラインを守備している側のチームに、自陣20ヤードからのファーストダウンが与えられる。 ただし、フリーキックのプレーでタッチバックとなった場合は、自陣25ヤードからのファーストダウンが与えられる。 タッチバックが成立するケースは、以下のとおり。 パントまたはフリーキックのボールが、レシーブ側のゴールラインを超えてボールデッドとなる。具体的には、捕球した選手がエンドゾーンでタックルを受ける、ニーダウンをする、ゴールライン後方でアウト・オブ・バウンズとなる。パントに限っては、レシーブ側の選手が触れないままエンドゾーン内でボールが静止したり、キック側の選手が触れた場合。 攻撃側がファンブルしたボールが、守備側が触れることなく、守備側のゴールラインを超えて、守備側の選手がリカバーしてボールデッドとなる、またはアウト・オブ・バウンズとなる。 エンドゾーン内でインターセプトしたプレーヤーが、守備側のゴールライン手前でボールデッドとなる。 アメリカンフットボールの計時は、プレーの開始時に始まる。原則として、プレー開始後は、下記に示す場合を除き、計時は止まらない(ランニングタイム)。残り時間が無くなった時点でクォーターは終了するが、プレーが開始しているときは、そのプレーは有効となる。また、ロスタイムの概念はないが、第2または第4クォーター終了時のプレーで、守備側に反則があった場合は、攻撃側はもう1プレーを行う権利がある(超過節)。 前後半・延長戦の開始時は、キックオフのボールを受けたリターナーが走り始めた時から計時が開始される。 下記の場合、計時を停止し、規定のタイミングで計時が再開される。 直後のフリーキックで、リターンを開始した時点で計時を再開するもの。 得点が成立したとき。なお、ポイントアフタータッチダウンのプレー中は、計時は停止したままである。 次のプレーのスナップと同時に計時を再開するもの。 反則が起きたとき。 クォーターが終了したとき。 チーム・タイムアウトを取得したとき。 攻守交替のとき。 ボールを持った選手がサイドラインの外(アウト・オブ・バウンズ)に出たとき。ファンブルしたボールがサイドラインの外に出た場合も同様。 パス不成功のとき。 フリーキックのプレーが終了したとき。 上記の計時の停止条件に該当しない限り、レディー・フォー・プレーと同時に計時を再開するもの。 レフリー・タイムアウトを取得したとき。 なお、キックオフ、フリーキックで、フェアキャッチやタッチバックが成立した際は、時計は動かない。 チーム・タイムアウト(タイムアウト)とは、いずれかのチームにより申告される計時の停止である。両チームは前後半それぞれ3回ずつのタイムアウトの権利を有している。これらのタイムアウトは選手またはコーチが審判に申告し、申告が認められた時点で計時が止まる。タイムアウトの時間は90秒である。 タイムアウトの時間中、選手は水分補給や、コーチと戦術の確認を行うことが出来る。 レフリー・タイムアウトとは、審判が試合の続行に支障があると判断した場合に、審判の権限で計時を停止することである。審判は試合の再開が可能と判断するまで、任意の時間、計時を停止することが出来る。 レフリー・タイムアウトが取得される主な場合を、以下に示す。 攻撃側が連続してファーストダウンを獲得したとき(NCAAルールのみ)。チェーンを設置し直す必要があることから。 反則が発生したとき。反則の結果、次のプレーの地点が確定するまで、計時を停止する。 インバウンズにおいて負傷者が発生したとき。負傷者がアウト・オブ・バウンズの安全な位置まで移動するまで、計時を停止する。 メジャーメントを行う必要があると判断したとき。メジャーメントの結果が確定するまで、計時を停止する。 NFLには、テレビ広告が終了するまで計時を停止する CM タイムアウト、ディレクター・タイムアウトがある。ツーミニッツウォーニングもその一つ。 タイムマネジメントとは、時間を消費し、あるいは停止することにより、自チームに有利となるように試合の残り時間をコントロールすることである。アメリカンフットボールでは、得点差と残り時間の兼ね合いを常に意識しながら、タイムマネジメントを行う。 一般的に、リードしているチームが攻撃権を有している場合には、相手の攻撃時間を極力減らすために、計時が止まらないプレーを主に選択する。具体的には、インバウンズでプレーが終了するよう、確実なランプレーや成功率の高いパスを中心に選択する。サイドライン際ではアウト・オブ・バウンズに出ないよう、わざとボールデッドにすることもある。さらに、終了間際、攻撃側がリードしている場合などは、スナップを受けたクォーターバックがその場に膝をついて(ニーダウン)プレーを終了させる場面(イート・ザ・ボール)がある。前進しなくても、ファンブルなどの危険を冒さずに時計を進めるためのプレーである。場合によってはディレイ・オブ・ザ・ゲームの反則を行ない、罰退を受けてでも時計を進めることも行われる。 逆に、攻撃側がリードを許している場合には、攻撃の時間を確保するために、タイムアウトも消費しながら、計時を有効に止めるプレーを選択する。具体的には、サイドライン際へのランプレーやパスプレーで、成功後すぐにアウト・オブ・バウンズに出るなどである。タイムアウトを使い切っており、なおかつ計時を止めたい場合には、スナップを受けたクォーターバックが、すぐにボールを地面にたたきつける(スパイク)ことがある。スパイクした場合はパス不成功として扱われプレー終了となり、計時は止まる。もちろん1回のダウンは消費するが、ハドルや選手交代の時間を確保するために行われる。 特に、逆転可能の差でリードを許すチームが後半の終了間際に逆転を行うためにはタイムマネジメントが不可欠であり、このパターンが試合終了まで最も緊張感のあるゲーム展開が楽しめるものであり、これがアメリカンフットボールの醍醐味の一つにもなっている。 第2及び第4クォーターの残り時間が2分になると、自動的に(プレー中の場合はプレー終了と同時に)試合時間が止められ中断させられる。これがツー・ミニッツ・ウォーニングであり、NFLにおける特徴的なシステムの一つである。 このルールは、クライマックスの直前に広告を入れたいがために、テレビメディアの要請により採用されたものの、試合の最終局面においてタイムアウトを消費せずに作戦を立てることができるため大変重宝されている。なお、ツー・ミニッツ・ウォーニング後、クォーターが終了するまでは、チャレンジはできない。 カレッジフットボールでも、各チームは終盤に逆転を目指すための戦術を用意している。ツー・ミニッツ・オフェンス、ツー・ミニッツ・ドリルと呼ばれ、同様に「残り2分」が重要視されている。 インスタント・リプレイとは、直前のプレーの結果について、審判が下した判定をビデオ判定によって再考するシステムのことである。インスタント・リプレイは、NFLで1999年に導入された。また、日本でも2017年の第31回ジャパンXボウルから、一部の試合で導入されている。なお、1980年代後半から1990年初頭にもNFLにはビデオ判定制度は存在していた。だが、その頃は回数や判定対象の制限が緩く、ビデオの解像度も悪く、試合時間が延びる問題が顕著となり、一時的に中止された。 インスタント・リプレイは、レフリーがフィールド脇に設置されたリプレイ・モニターの映像を見ることによってなされ、特設室のリプレイ・アシスタントと無線で交信しながら慎重に検討される。最終的な判定はフィールドにいるレフリーが下す。判定を覆すに足る明確な証拠があると認められれば判定が覆るが、明確な証拠がない限りは当初の判定が優先される。 インスタント・リプレイが試合の遅延となることを防ぐため、NFLでは、2007年シーズンからは、判定にかける時間が90秒から60秒に短縮された。また、リプレイの確認にハイビジョン映像が導入され、より鮮明に証拠の有無を確認できるようにしている。 NFLおよびアメリカの大学リーグ特有のルール。日本では2017年の第31回ジャパンXボウルから一部試合で導入。 審判のジャッジに不服がある場合、ヘッドコーチが次のプレーが始まるまでに、赤いフラッグをフィールドに投げ入れて“異議”をアピールし、インスタント・リプレイを要求することができる。これをチャレンジあるいはコーチ・チャレンジとも言う。チャレンジは、得点やターンオーバーなど、試合を決定付ける重要な場面で行われることが多い。日本ではタイムアウトをコールしたあとにチャレンジを申請する。 チャレンジの対象は、プレーの成否に関わるいくつかの事項(得点、ターンオーバー、パスの成功・不成功など)についてのみ認められており、反則の有無そのものについてチャレンジを行うことはできない。 チャレンジは1試合につき3回(大学の場合は2回)まで行うことができる。ただし、3回目の権利はそれ以前に2回続けてチャレンジに成功しないと与えられない。判定が覆らなかった場合はチャレンジ失敗となり、タイムアウトの権利を1回分失う。つまり、チャレンジはタイムアウトの権利を賭けて行うものなので、タイムアウトを使い切った状態では行うことはできない。 なお、チャレンジはツー・ミニッツ・ウォーニング以降、およびオーバータイム中には行うことが出来ない。また、NFLでは2011年より得点プレーについてもできない。ただし、このような時期に疑義のあるプレーが発生した場合、特設室にいるリプレイ・アシスタントと呼ばれる専門の審判がビデオ映像を検証し、インスタント・リプレイが必要かどうかレフリーに指示することがある。これをオフィシャル・レビューという。この場合でも、最終判断は、レフリーが行う。 2012年より、スタジアムの観客にも審判団と同じリプレイ映像が提供されることとなった。 アメリカンフットボールにおけるコンタクトとは、身体の接触を行うことである。アメリカンフットボールのコンタクトは非常に激しく、直ちに負傷につながるおそれがある。このため、安全確保を目的として、コンタクトには厳しい規制がある。 コンタクトはタックルとブロックに大別される。しばしば混同されるが、アメリカンフットボールにおけるタックルとは、ボールを保持する選手(ボール・キャリア)の前進を止めるために体やジャージをつかむことであり、ブロックとは、相手選手の体やジャージをつかむことなく、自らの体を使って相手の進路を妨害する(前に立ち塞がる)ことである。状況により、手を開いて相手を押すことはブロックとして認められる。 原則として、ボールを持っていない選手に対するタックルは認められない。ボールを持っていない選手の体やジャージをつかむと反則(ホールディング)となる(例外的に、守備の選手が、タックルのために他の選手を払いのける目的でつかむことは許されている)。 なお、蹴る・殴るなどのラフプレイ、暴力行為は当然禁止されている。 アメリカンフットボールの装具とは、防具とユニフォームに大別される。このうち防具は、選手の負傷軽減を目的として装着するものであり、様々な改良を積み重ねながら現在に至っている。「間違いやすいジャッジがひと目でわかる!アメリカンフットボールのルールとスコアのつけ方」(笹田英次 監修)によれば、全ての防具の重さを合計すると、スパイクを含んで5kgほどにもなる。 装着が義務付けられた装具に不備があると反則となるので、全ての選手は正しく装具を装着しなければならない。装着が義務付けられた装具は以下のとおりである。 ヘルメット 頭部を保護する。表面はプラスチックで、中にウレタン製のパッドと、ゴムチューブが内蔵されており、ゴムチューブ内の空気圧の調整により、フィット感を向上させる。また、顔面を保護するフェイスマスク(またはフェイスガード。格子の形はポジションにより数種類ある)と、顎に当ててヘルメットを固定するチンストラップ(頚部へのベルトではなく顎そのもので固定する「チンカップ」がある)が必須である。ヘルメットは1平方cm当たり1トンもの衝撃に耐えるとされている。 ショルダーパッド(プロテクター) 胸、背中および肩を保護する。各部位を保護するパッドを、プラスチックのカバーで覆ってつなぎ合せたもので、ポジションごとに形状が異なる(例えばクォーターバックやワイドレシーバーなど、パスに関与するポジションでは、肩の稼動域が広く、軽くて薄いが、ラインポジションではその逆など)。 ニーパッド・サイパッド・ヒップパッド それぞれ、膝、太腿前面、尻を保護するパッド。ユニフォームのパンツの下に装着。 マウスピース 頭部への衝撃を緩和するために装着。スナップする直前に口に入れて噛み締める。プレーしていない時は会話に差し障りがあるのでフェイスマスクにストラップで吊ってある。過去、マウスピースを使用せずに頭部でコンタクトを行った結果、頸椎損傷などの重大事故が発生し、死亡したケースもあるため、着用を義務付ける規定が年々厳しくなっている。 ユニフォーム 上半身を覆うジャージと、下半身を覆うパンツに分かれる。ジャージは、各チームとも、チームカラーを基調とするカラージャージと、白を基調とするホワイトジャージの2種類用意し、ホームチームがカラージャージ、ビジターチームがホワイトジャージの着用を原則とする。両チーム、審判の事前の了解があれば、カラー/ホワイトを入れ替えて着用することもある。また、対照的な色であれば、カラージャージ同士の着用もありうる。ジャージもパンツも、防具の上から着込み、体にぴったりとフィットするよう、現在では非常に伸縮性に富んだ素材を使用する。 主にクォーターバックなどはこの他に、フォーメーションを一覧にした図を腕にリストバンドで着けることがある。 アメリカンフットボールは、激しいコンタクトの伴うスポーツであるが、相手を怪我させてしまうような行為は、反則として扱われる。 また、片方に極端に有利になるような行為についても、反則として扱われる。 反則を犯した場合、反則の内容ごとに決まった距離(5ヤード、10ヤード、15ヤードの3種類)だけ、犯したチーム側にボールの位置をずらす罰則(ペナルティー)を施行して、次のプレーを開始する。ボールの位置が自チームにとって不利な方にずれるため、罰退(ばったい)と呼ばれる。アメリカンフットボールがプレーを1つ1つ区切り、次のプレーを開始する位置を決めていく特性に合わせた罰則であり、他のスポーツではあまり見かけないルールである。 距離による罰則とは別に、あまりにひどい反則を犯した場合、反則した選手が退場(ルールの用語上、資格没収)となることもある。 審判が反則と疑われる行為を見つけた場合、おもり付きの黄色い布(イエローフラッグ)を、反則の発生箇所に向かって投げる。 プレー開始前、プレー終了後、プレーとプレーの間、すなわちデッドボール中に反則(デッドボール・ファウル)が発生したと判断したときは、フラッグを投下後、笛を吹き、可能であればボールを抑えて、選手にプレーをさせないようにする。 気づかずにプレーを開始した場合は、笛を吹き続け、ボール所有者の近くに寄って強制的に中断させる。 プレー中の反則(ライブボール・ファウル)については、フラッグを投げた後プレーを続行させて、プレーがデッドになるまで待つ。 イエローフラッグを投げたのち(ライブボール・ファウルはプレー終了後)、審判が集まり協議する。どんな反則が発生したと判断したか、その反則が成立する要件を満たしているか、他に反則はないか、反則の罰則はどうなっているかなど、複数の審判の視点から判断する。協議した結果はレフリーを通じて、両チームおよび試合会場に通告される。 協議の結果、反則ではないと結論が出たときは、イエローフラッグを頭上で横に振るジェスチャーをして、その旨を通告する。 反則があったと結論が出たときは、反則の内容を示すジェスチャーをし、反則を犯したチームにどちらのチームに反則があったかを示す。その後、ボールの位置をずらして次のダウンの数やファーストダウンの確認を行う。 反則があったとき、デッドボール・ファウルの場合、罰則を施行する。 ライブボール・ファウルの場合、反則を受けたチームが罰則を施行するか、プレーの結果を活かすか選択できる。他のスポーツにおけるアドバンテージと似たような措置である。 罰則を施行した場合、ボールの位置をずらした後、原則として同じダウンを繰り返す。 ただし、反則によっては、罰則を施行した上でダウンを1つ失わせる場合がある。 また、守備側が反則を犯した場合、守備側にボールをずらしたことによって更新線を越えた場合、攻撃側に新たなファーストダウンを与える。さらに守備の反則は、軽度の反則を除きボールの位置を問わず攻撃側にファーストダウンが与える(オートマティック・ファーストダウン)。 ライブボール・ファウルで罰則を辞退し(ディクライン)、プレーの結果を活かした場合、ダウンは1つ消費される。 罰則を施行するかは、ダウンの消費、プレーの結果(獲得距離や得点)と罰則による獲得距離から自チームにとって有利と思う方を選択し、ヘッドコーチがフィールド上のキャプテンを通じて、審判に伝える。 たとえば、長い距離を獲得するプレー(ロングパスなど)が成功したとき、そのプレーで守備側が反則した場合、罰則で進める距離が短ければ、攻撃側は辞退してプレー結果を活かすことが多い。 プレーの獲得距離がそれほど長くない場合、プレーを選択すればダウンを1つ消費するため、距離が多少短くても罰則を受諾し、ダウン消費を免れる場合もある。 反則位置がゴールラインに近く、罰則の距離がゴールラインまでの距離の半分を越えてしまう場合、一部の反則を除いては「ゴールラインまでの距離の半分」で罰退を留める(ハーフディスタンス)。 一つのダウン中に複数の反則が発生した場合、デッドボール・ファウルとライブボール・ファウルでは対処が異なる。 反則が発生した順に、罰則を施行する。ただし、両チームの選手がスポーツマンらしからぬ行為またはパーソナル・ファウルを犯した場合は、相殺される。 片方のチームが15ヤードの罰退となる反則を2つ犯せば、15ヤードの罰退を2回施行し、結果として30ヤードの罰退になる。 両方のチームが反則を犯した場合、発生順序で罰則を施行する。たとえば守備側が5ヤードの反則を犯し、その後、攻撃側が15ヤードの反則を犯した場合、差し引き10ヤードを攻撃側にずらすのではなく、一旦、守備側に5ヤードの罰則を施行した後、攻撃側に15ヤードの罰則を施行する。 この時系列で処理することで、個々の罰則で攻撃側がファーストダウンを獲得したか、ハーフディスタンスを適用すべきか判断する。 片方のチームだけが複数の反則を犯した場合は、相手チームはどれか1つの罰則を受諾するか、プレーの結果か、いずれかを選択する。 発生したすべての反則の罰則すべてを受諾できない。 両チームが反則を犯した場合は、反則の軽重、回数を問わず、相殺(オフセッティング・ファウル)され、次のプレーは同じダウンを繰り返し、同じ位置からスナップする。 つまり、攻撃側が5ヤードの反則を犯し、守備が15ヤードの反則を犯したとしても相殺される。また、攻撃側の反則が1つで、守備側の反則が2つであっても相殺される。 ただし、ボールの所有権が変わるプレー(ターンオーバーやキック)だった場合、最後にボールを所有したチームが、ボール所有が変わる前に反則を犯していなければ、相殺を辞退し、自身の反則の罰則を認めることで、プレー結果を活かしてボールを確保できる。 1つのダウンのプレーでライブボール中に反則が発生し、そのデッド後に別の反則が発生した場合、相殺せずに発生した順序で罰則を施行する。 反則を犯し「資格没収」と判断された選手は、相手チームが罰則を辞退しても、また、相殺になっても、当該選手は資格を没収(退場)される。 ナショナルフットボールリーグ (NFL) カレッジフットボール (NCAA) XFL アリーナフットボールリーグ (AFL) レジェンズ・フットボール・リーグ (LFL) Xリーグ 関東学生アメリカンフットボール連盟 関西学生アメリカンフットボール連盟 東海学生アメリカンフットボール連盟 九州学生アメリカンフットボール連盟 プライベートリーグ NFLヨーロッパ (NFL Europa)2007年に終了 ジャーマン・フットボール・リーグ - ドイツ (GFL) ワールドカップ IVY・サムライボウル JAPAN-USAボウル ワールドゲームズ スーパーボウル(NFL決勝戦) 以下は主要学生リーグにおけるボウルゲーム ローズボウル シュガーボウル オレンジボウル フィエスタボウル コットンボウル 社会人・大学対抗 ライスボウル(アメリカンフットボール日本選手権試合) えびすボウル(関西学生、Xリーグ西地区選抜チームによる対抗戦) ヨコハマボウル(休止) 神戸ボウル(社会人・大学単独チームによる交流戦) 社会人対抗 JAPAN X ボウル(Xリーグ優勝決定戦) パールボウル(東日本社会人選手権=春季) グリーンボウル(西日本社会人選手権=春季) 大学対抗 全日本大学アメリカンフットボール選手権 甲子園ボウル(決勝) シトロンボウル(休止)→パインボウル(北海道・東北地区対抗) クラッシュボウル→あずまボウル(休止)→東日本地区代表決定戦 西日本地区代表決定戦(ウエスタンジャパンボウル) ウエスタンボウル(休止)→平和台ボウル(中国・四国・九州地区対抗) 大学交流戦など TOKYO BOWL(大学単独チームによる交流戦・普通は関東2位校とウエスタンジャパンボウル敗退校で争われる) カレッジボウル(関東1部リーグオールスター対抗戦) 四日市ボウル(東海・北陸オールスター対抗戦) 西宮ボウル(東西オールスター対抗戦 休止) バーシティーボウル(東西下部リーグオールスター対抗戦) シャープカップ平成ボウル→NEW ERA BOWL(ニューエラボウル)(関西オールスター対全米体育協会オールスター対抗戦) 高校対抗 クリスマスボウル(全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会決勝戦) 中学世代対抗 日本中学生アメリカンフットボール選手権(中学世代日本一決定戦) 邦画 エレキの若大将(1965年、東宝) - フットボールの描写は必ずしも正確ではない。 がんばれ!若大将(1975年、東宝) - 主役である三代目若大将役は草刈正雄。 マイフェニックス(1989年、東宝) - 日本大学フェニックスをモデルにした日本大学創立100周年記念映画。 洋画 栄光のタッチダウン フランク・カヴァーノ物語(1943年) ブライアンズ・ソング(1971年) ロンゲスト・ヤード(1974年) パニック・イン・スタジアム(1976年) ジョーイ(1977年) ブラック・サンデー(1977年) 天国から来たチャンピオン(1978年) ノース・ダラス40(1979年) 勝利へのタッチダウン(1980年) トム・クルーズ/栄光の彼方に(1983年) クォーターバック・プリンセス(1983年) ワイルドキャッツ(1986年) キャント・バイ・ミー・ラブ(1987年) ジョニー・ビー・グッド(1988年) 熱き瞳のままに/炎のタッチダウン(1988年) 熱き愛に時は流れて(1988年) スーパー・タッチダウン(1991年) ラスト・ボーイスカウト(1991年) 青春の輝き(1992年) ルディ/涙のウイニング・ラン(1993年) クォーターバック(1993年) フォレスト・ガンプ/一期一会(1994年) リトル・ジャイアンツ(1994年) ライズ&ウォーク(1994年) どんな時も(1995年) ザ・エージェント(1996年) エンジェルス2(1997年) ウォーターボーイ(1998年) メリーに首ったけ(1998年) バーシティ・ブルース(1999年) エア・バディ2(1999年) タイタンズを忘れない(2000年) リプレイスメント(2000年) エニイ・ギブン・サンデー(2001年) ジム・ブラウン オールアメリカン(2002年) 僕はラジオ(2003年) プライド 栄光への絆(2004年) トゥー・フォー・ザ・マネー(2005年) マーシャルの奇跡(2006年) インヴィンシブル/栄光へのタッチダウン(2006年) ギャングスターズ 明日へのタッチダウン(2006年) フェイシング・ザ・ジャイアント(2006年) ロンゲスト・ヤード(2006年) 鉄板スポーツ伝説(2007年) ゲーム・プラン(2007年) かけひきは、恋のはじまり(2008年) ロングショト(2008年) エクスプレス 負けざる男たち(2008年) しあわせの隠れ場所(2009年) Lombardi(2010年) 5thクォーター(2011年) ドラフト・デイ(2014年) アイシールド21(村田雄介・稲垣理一郎、集英社) グーフィーのアメリカンフットボール教室(ディズニー) フットボール鷹(川崎のぼる、講談社) ノーハドル(西山優里子、講談社) 5ヤーダー(小堀洋・守谷哲巳、秋田書店) チャージマン研!(ナック)- 第4話『謎の美少年』 明日へキックオフ(梶原一騎・前田俊夫、少年画報社) ※数字、アルファベット、五十音順 4th and Inches (Accolade、1987年) A.G. Football (Alvin G. and Co.、1992年) All American Football (Peo Manufacturing Co.、1985年) All American Football (Leland、1989年) All-Star Football (Chicago Coin、1972年) Arena Football (independent、1988年) Arena Football シリーズ (EA Sports、2006年) Atari Football (Atari、1978年) Backyard Football シリーズ (Atari、1999年 - 2000年) Black College Football:BCFX:The Xperience(Aspyr Media、2009年) Blood Bowl (MicroLeague、1995年) Bradshaw Football 98 (H+a、1998年) Brutal Sports Football (Gremlin Graphics、1993年) Bud Light Quarterback Challenge (Intermark Amusements、1989年) Capcom's MVP Football (カプコン、1993年) CFL Football '99 (Wintervalley Software、1999年) Classic Football NFL(Namco、2003年) College Football(Gottlieb, D. & Co.、1936年) College Football 15 (College Football PC、2014年) College Football's National Championship (セガ、1994年) College Football's National Championship II (セガ、1995年) Computer Football Strategy (Avalon Hill、1983年) Dada football (日本トランステクノロジー、2001年) EA Sports Active NFL Training Camp (EA Sports、2010年) Computer Quarterback (Strategic Simulations、1981年) Draft Edge Fantasy Football (Cokem International、2004年) Electronic Quarterback (Coleco、1978年) Email Games:NFL Football (Hasbro Interactive) Emmitt Smith Football(JVC、1995年) Family Fun Football (Tecmo、2009年) Flipper Football (Flipper Football、1996年) Football Frenzy SNK 1992 (SNK、1992年) Football (Intellivision game) (Mattel Electronics、1980年) Football Made EZ (MADE EASY SOFTWARE、199x年) Football Manager (Simply Media、199x年) Football Mogul シリーズ (Atari) Front Page Sports Footballシリーズ(Dynamix、1992年 - 2000年) Football Star (Meunier、1920年) Football Type 1 (B. Madorsky Co.、1930年) Football Type 2 (B. Madorsky Co.、1930年) Front Office Football シリーズ(Electronic Arts、- 2007年) High Impact Football (Williams Electronic Games, Inc.、1990年) Jerry Rice & Nitus' Dog Football (Judobaby、2011年) John Elway's Quarterback (Virgin Games/Tradewest、1987年) Kurt Warner's Arena Football Unleashed (Midway、2006年) Full Team Football (Full Team Football Co.、1925年) Madden NFL Football Tackles Arcades (Global VR、2004年) Maximum-Football (Matrix Games、2006年) My Football Game (VTree LLC、20xx年) NCAA Football シリーズ(エレクトロニック・アーツ/EAスポーツ) NFL シリーズ(Gameloft、2009年 - 2013年) NFL 2K シリーズ(セガ/2K Games、1999年 - 2004年) NFL Blitz シリーズ (1997年 - 2012年) NFL Fever シリーズ (Microsoft Game Studios、1999年-2003年) NFL Football (Bally Midway、1983年) NFL Football (Atari、1992年) NFL GameDay シリーズ(989 Sports、1995年 - 2004) NFL Street シリーズ(Electronic Arts、2004年 - ) NFL Tour (EA Sports Big、2008年) NFL Xtreme (SCEA、1998年) NES Play Action Football (Nintendo、2007年) On-Field Football (Gamestar、1983年) Pro-Football (Gottlieb, D. & Co.、1973年) Quarterback (Genco Corp.、1957年) Realsports Football (Atari、1982年) Season Ticket Football 2003 (Infogrames、2002年) Sterling Sharpe:End 2 End (ジャレコ、1995年) Super Action Football (Coleco、1984年) Super Challenge Football (M-Network、1982年) Super Football (Atari、1988年) Super Play Action Football (任天堂、1992年) Super Pro Football (INTV Corporation、1986年) Total Control Football (Philips、199x年) Touchdown Football (Atari、1988年) Troy Aikman NFL Football (Tradewest、1994年) UB QB II Football Challenge (Skee Ball Co.、1996年) Ultimate Football '95 (MicroProse Software, Inc、200x年) Unnecessary Roughness '95 (Accolade、1994年) Who Wants to Be a Millionaire:Sports Edition (Disney Interactive) XS Junior League Football (XS Games, LLC、2003年) 10ヤードファイト (アイレム、1983年) ABCマンデーナイトフットボール (データイースト、1989年、1990年、1991年) NFLクォーターバッククラブ シリーズ(アクレイムジャパン、1993年 - 2002年) NFLフットボール(コナミ、1993年) NFLプロフットボール'94(エレクトロニック・アーツ・ビクター、1993年) TVスポーツフットボール(ビクター音楽産業、1991年) アイシールド21 シリーズ(コナミ/任天堂) アメリカンフットボール タッチダウンフィーバー(ケイアミューズメントリース、1988年) ウルティメイトフットボール(サミー、1992年) エレクトリック・フットボール(マギー・トイズ) オールアメリカンフットボール (テクモ、1987年) クォーターバックスクランブル(ポニーキャニオン、1989年) グレートフットボール(セガ、1987年) サイバーボール シリーズ(Atari Games、1988年-1989年) ジョー・モンタナ フットボール シリーズ(セガ) スーパーハイインパクト(アクレイムジャパン、1993年) スポーツコネクション (UBISOFT、2012年) タッチダウン(ウィンキーソフト、1984年) ディズニースポーツ:アメリカンフットボール(コナミ、2002年) テクモボウル シリーズ(テクモ) テクモスーパーボウル シリーズ(テクモ) バックブレーカー(505 Games、2010年) フットボールフレンジー(SNK、1992年) プレイメーカー・フットボール(Broderbund、1990年) プロフットボール(イマジニア、1992年 - ) プロフットボール'93(エレクトロニックアーツビクター、1993年) マッデンNFL シリーズ (エレクトロニック・アーツ、1988年 - ) ミュータントリーグ・フットボール(エレクトロニック・アーツ・ビクター、1993年) レッスルボール(ナムコ、1992年) アメリカンフットボールのポジション アメリカンフットボールの用語集 アメリカンフットボール選手一覧 アメリカンフットボールの戦術 アメリカンフットボールの反則 アメリカンフットボール・NFLとNCAAのルールの差異 ^ ただし、カナダでの場合はカナディアンフットボールを含む。 ^ 英: 。「グリディロン」とは焼き網という意。フィールドのラインがそのように見えることから。 ^ NFL以外ではアカデミー賞授賞式中継番組が唯一トップ10にランクイン。 ^ ラグビーに限りなく近かったが、これが事実上、初めてのアメリカン・フットボールの試合だったと言えるのかもしれない。 ^ このルール委員会が後のNCAA(全米大学体育協会)に発展し、大学スポーツの管理が始まった。 ^ プロテクター類。初期のものは薄手で軽いものだったが、時代とともに頑丈になって行った。 ^ この歴史的ゲームは陸軍士官学校を舞台とした映画「長い灰色の線」の中で、当時最強チームの陸軍士官学校が無名のノートルダム大学に、まさに見たこともない新戦術によって大敗して呆然とするというエピソードで取り上げられている。 ^ シカゴの地元新聞に顔写真付きの記事がある。 ^ チャレンジのインスタント・リプレイ中に副次的に反則の有無に関する証拠が発見された場合は、反則の有無の判定が覆る。たとえば、ライン際のパスの成否に対してチャレンジを行い、ボールをキャッチした選手がボールに触る前にアウト・オブ・バウンズに出ていたことが発見された場合、イリーガル・タッチが適用され5ヤードの罰退でプレイが再開される。逆に言えば、審判が反則を見逃してもそれ自体に対してチャレンジはできないが、関連するプレイに対するチャレンジ(先ほどの例で言えば「パスの成否に対するチャレンジ」)という形でなら、間接的に反則の有無に対してチャレンジすることができる。 ^ 英: American Football ^ アメフット:関学監督と選手父コメント 日大選手会見受け - 毎日新聞 ^ 川淵氏、悪質タックルに嘆き「なんと愚かな日大アメラグ選手の行為か」 - デイリースポーツ ^ スポーツ庁が異例の調査へ 日大のアメラグ反則プレー - 教育新聞 ^ Concussion Watch|FRONTLINE ^ Coll, Steve, \"Is Chaos a Friend of the N.F.L.?\", The New Yorker, December 26, 2012. Citing the Times. ^ a b c Football Still Americans' Favorite Sport to Watch Gallup.com 2018年1月16日閲覧。 ^ America’s National Sport:Baseball or Football? Move Over, Baseball:Bloomberg Politics Poll Shows 67% of Americans Now Say Football Is National PastimeBloomberg 2015年11月21日閲覧。 ^ America’s National Sport:Baseball or Football?PRRI 2015年11月21日閲覧。 ^ Q:What is your favorite sport to watch? Washington Post 2017年9月7日閲覧。 ^ a b ハリス・インタラクティブによるアメリカでの人気スポーツの世論調査(2016年1月公表) ^ NFL revenue:Here comes another record seasonCNN 2015年11月21日閲覧。 ^ Top 10 TV Programs of 2013 nielsen.com 2014年1月13日閲覧。 ^ a b The 50 Most-Watched Sporting Events of 2013sportsmediawatch.com 2014年1月13日閲覧。 ^ College football wins more fans and ad dollars ^ カレッジフットボールの観客動員数のデータ ^ Chris Jenkins,\"SHOULD PARENTS LET THEIR KIDS PLAY FOOTBALL?\",NBC Sports,May 26,2012 Citing Associated Press ^ NSGA 2011 Sports Participation ^ Participation in High School Athletic Programs by Sex ^ Participation in NCAA Sports by Sex:2007 to 2008 ^ a b c d e タック牧田「フットボールのルーツ」、『FOOTBAALL LOVE CALL』、南雲堂、1992年8月、 70-71頁。 ^ 英: Intercollegiate Football Association ^ a b c d e f g h i 久保田薫「1. アメリカのNo.1スポーツはサッカーだった?」、『改定新版 パーフェクトアメリカン・フットボール』、南雲堂、1989年1月、 293-294頁。 ^ a b 種子田穣 『史上最も成功したスポーツビジネス』 毎日新聞社、2002年、51-58頁。ISBN 4-620-31578-8。 ^ a b c d 久保田薫「Chapter 9 プロスポーツの王者、NFLの世界」、『改定新版 パーフェクトアメリカン・フットボール』、南雲堂、1989年1月、 225-233頁。 ^ 英: National Football League ^ 英: American Proffessional Football Association ^ 「限りなき前進 日本アメリカンフットボール五十年史」(1984年9月)日本アメリカンフットボール協会、32、33、74、75、90頁 「1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実」井尻俊之、白石孝次共著、ベースボール・マガジン社、1994年、21、41-43、50-58、97、98、107頁 山梨県清里高原 キープ協会|日本アメリカンフットボールの殿堂 |日本アメリカンフットボールの熱き継承 関東学生アメリカンフットボール連盟:75周年記念特集[リンク切れ] 川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代 スポーツ発展のカギとなった人物 - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評 歴史が眠る多磨霊園 小川徳治 ^ NCAA football 2011 and 2012 rules, FR-118, Field Diagrams。NFLでは数字の下端がサイドラインから12ヤード(2012 Official Playing Rules, iv, Plan of the Playing Field)。 ^ 英: ball on ○○, △yards ^ 英: official ^ 英: referee ^ 英: umpire ^ 英: head linesman ^ 英: line judge ^ 英: back judge ^ 英: field judge ^ 英: side judge ^ NCAA rule 2 section 7, NFL rule 3 Section 7 ^ 助走距離を短くして相手選手にぶつかるスピードを下げて、怪我する危険性を下げる狙い ^ 英: 1st down ^ 英: 2nd down ^ 英: 3rd down ^ 英: 4th down ^ 英: chain crew ^ 英: previous spot ^ point after touchdown ^ ブロンコスのKプレーター、64ヤードFG成功でリーグ最長記録 ^ 2009 Official NCAA Division I Records Book, 23頁 Longest Field Goal Made ^ 2009 Official NCAA Division I Records Book, 24頁 Longest Field Goal Made without use of a kicking tee ^ シーホークスのフェイクFG、成功の鍵はパッカーズのLBジョーンズ - アメフトNewsJapan・2015年1月20日 ^ “NFL、スタジアムの観客に審判と同じリプレイ映像提供”. NFL JAPAN (2012年7月6日). 2012年7月14日閲覧。 ^ 英: decline NFL カナディアンフットボール - アメリカンフットボールに酷似したスポーツ アリーナフットボール - 室内版アメリカンフットボール 日本アメリカンフットボール協会 Xリーグ 日本学生アメリカンフットボール協会 関東学生アメリカンフットボール連盟 関西学生アメリカンフットボール連盟 日本高等学校アメリカンフットボール連盟 女子アメリカンフットボール ジョック アメリカンフットボール・NFLとNCAAのルールの差異 タッチ・フットボール - タックルをタッチに置き換えたスポーツ フラッグフットボール - タックルを「フラッグ」を取ることに置き換えたスポーツ 公式 IFAF - 国際アメリカンフットボール連盟 (英語) JAFA - 日本アメリカンフットボール協会 (日本語) リーグ NFL JAPAN - ナショナル・フットボール・リーグ (日本語) Xリーグ (日本語) 入門 超初心者向けアメフトルール (日本語)", "バスケットボール(basketball 音声[ヘルプ/ファイル])は、1891年にアメリカで考案されたスポーツ。5人対5人の2チームが、一つのボールを手で扱い、長方形のコート上の両端に設置された高さ305cm(10ft)、直径45cm(18in)のリング状のバスケットにボールを上方から通すこと(ゴール)で得点を競う球技である。公式試合は屋内競技として行われる。狭義では、この競技に使用する専用のボールのことを指す。籠球(ろうきゅう)とも訳される。開催される国・地域、年齢や性別によってルールは調整される。 バスケットボールゲームの特徴は、 ボールを保持したまま基本的に移動できないこと 連続して移動する場合は床面でボールをバウンドさせるドリブル(球運び)を行い、このドリブルはプレーヤーの一連のプレーで1回のみ許されること ボールに対して下半身を使えないこと 対人接触に関しての規定が比較的多くあり、故意に接触すること、相手の身体や衣服を掴むことが禁止されていること ゴールはショットが放たれた位置によって得点が異なること 攻撃と守備の流れは流動的で、試合中の多くの状況で起こり得ること 試合の経過を滞らせないためにほとんどのプレーで制限時間があること などが挙げられる。 歴史にもあるようにルールを一人の考案者で作った事と、NBAなどプロスポーツと共に発展してきた事に起因して、見せるスポーツとしての側面も併せ持っているため、ルールが複雑なスポーツの一つである。その一方、楽しむスポーツという点では、ゴールリングとボールがあれば1人からプレーを楽しむことができ、1オン1(1対1)や、3オン3(3対3)で本格的にゲームをすることもできる。アメリカでは、公園など公共の場所にリングが設置されており、ゴールリングを指す俗称から転じて「hoop」とも呼ばれ親しまれている。 バスケットボールのゴールとなるバスケットは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。競技年齢や設備環境により、設置高さなど各種寸法は異なる。 このバスケット(リング)に正規の方法でボールを上方から下方に通過させることによってゴールが成立し得点が記録される。攻撃側(オフェンス)チームは、定められた方法で、プレーヤーがドリブルでボールを運んだり、プレーヤー間でパス(送球)を行いながら、得点となるバスケットのあるフロントコートへボールを運びつつ、ゴールチャンスをうかがい、一定時間内(ショットクロックが0になるまで)にショットを放ち、ゴール成立によるポイント(得点)を狙う。また一旦フロントコートへ運ばれたボールをバックコートに戻すことは出来ない。攻撃権のない守備側(ディフェンス)チームは、規定された方法でゴールを阻止し、攻撃権を奪うような防御プレーを行う。ボールポゼッション(攻撃権)は、得点があった場合、ヴァイオレイション(ゲーム運用における違反)またはファウル(主に相手チームやオフィシャルに対して犯される反則)があった場合、ピリオド(試合進行中の区切り)開始時などに、決まりに従い、チーム間で移動する。試合中のフィールドゴールは、ショットを放った位置によって、1回の成功で、ツーポイント(2点)あるいはスリーポイント(3点)が記録される。ファウル、あるいはヴァイオレイションに対するペナルティ(罰則)により与えられるフリースローでは、事例によって投数がワンスロー〜スリースロー(1〜3投)の間で決められ、一投成功につき1点が記録される。試合時間終了時点で、より多い得点を得たチームが勝利となる。基本的には、引き分けはなく、通常ピリオドの半分程度の時間のオーバータイム(OT)を、勝敗が決するまで繰り返し行う。 ネイスミスの考案 バスケットボールは、一人の人物によって考案され広まった数少ない競技のひとつである。考案者はアメリカ、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)の体育部教官を務めていたカナダ人のジェームズ・ネイスミスで、1891年に彼の考え出したルールが現在のバスケットボールの原型になっている。 1891年夏、国際YMCAトレーニングスクールでは体育・スポーツ指導者の講習会が開かれたが、当時、全米各州のYMCAでは冬季の屋内における体操中心のプログラムについて学生の意欲が低いとして既存のプログラムに対する不満があり、レクリエーション的で競技的要素を含んだプログラムが求められていた。同年秋、体育部主事のL.H.ギューリックは5人の体育指導教官を集めて数回にわたり検討した結果、新しいスポーツを創り出すほかはないとの結論に達した。体育教官であったネイスミスはアメリカンフットボールやサッカー、ラクロスなどを屋内ゲームとして取り入れようとしたが失敗に終わる。そこで、ネイスミスは各ゲームの要素を取り出すこととし、ボールを使用すること、ラフプレーを取り除く必要からタックルをなくすためボールを保持したまま走ってはいけないこととした。また、ゲーム中の安全性を高めるため競技者間の身体接触を少なくすることが考えられたが、これにはネイスミスが少年時代を過ごしたカナダ・オンタリオ州の雄鴨落し(Duck on the Rock)という的当て遊びにヒントを得てゴールをプレーヤーの頭上に水平に設置することとした。 ネイスミスが最初に考案した13のルールは現在では約250にまでなっているが、ゲームの形式は基本的にほとんどかわっていない。 初めての試合 1891年12月21日、国際YMCAトレーニングスクールで18人の学生を9人ずつに分け初めての試合が行われた。初めての試合のボールにはサッカーボールが用いられた。ネイスミスはゴールについては45cm四方の箱を想定していたが、それは用意できなかったため、代わりに桃を入れる籠(かご)を体育館のバルコニーに取り付けることとなった。このときのゴールの高さ10フィート(3.05m)は以後変更されることなく現在に至っている。また、フロアの広さはおよそ11m×15mの大きさであったという。この世界最初の試合の18人の中には日本人・石川源三郎が含まれていた。最初の試合ではトスアップから1時間ほどたって1年生W・R・チェイスのショットが決まって点が入りゲーム終了となっている。このスポーツの名称について初めての試合が行われるに先立ってネイスミスと学生フランク・マーンとの間で話題になり桃の籠を用いたことから「バスケットボール」と名付けられた。 その後、YMCAトレーニングスクール広報誌「ザ・トライアングル」(1892年1月15日号)に紹介され、1892年1月になって正式に「バスケットボール」という名称に定まった。また、当初、英語での表記は「Basket ball」であったが、1921年に公式に「Basketball」となった。 プレーヤー人数 ネイスミスは両チームが同人数であれば何人であってもよいと考えていたため13条のルールの中にチーム人数を規定していなかった。コーネル大学では50人対50人で試合が行われたが、この試合について担任のE・ヒッチコックは「体育館が破壊されかねない」などと述べるなど逸話となっている。プレーヤー人数については、その後次第に制限され、1894年にプレーヤー人数についてはフロア面積に合わせて5人、7人、9人とされることになった。コートの大きさやプレーヤー人数が現在のように確定したのは1897年になってからのことである。 コート上のプレイヤーは、限られたタイミングで交代することができ、反則やケガで欠員が出ても交代として補充することができる。交代の回数に制限は無いので、1人のプレイヤーが何度も交代することができる。 ゴールの形状 ゴールについては考案当初、シュートが決まるたびに梯子や棒を用いて取り出していた。ゴールの桃の籠は壊れやすかったためすぐに金属製の円筒形ゴールにかわっている。ゴールの形状はその後少しずつ変化し、一説によればネット状で底が切れている現在のようなゴールの形状になったのは1912年から1913年にかけてであるとされる。なお、リングの内径45cmは最初の試合の時から全く変わっていない。 バックボード バスケットボールは熱狂的な人気を博すようになったが、観客が体育館上の手すりや欄干から足や手を伸ばして妨害することが頻発したため遮蔽物が設けられることになった。これがのちのバックボードで当初は金網であったが、1904年から1.8cm以上の木板が用いられるようになった。ところが、観客から見えないことになったため後に透明なプラスチック板が用いられるようになっている。バックボードの位置については当初エンドライン上にあったが、ゴールが61cmコート内側に移動することとなった際にバックボードもそれに伴ってゴールと一体となってエンドラインより内側に配置されることとなった。 FIBAの結成 バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師を務めていたセンダ・ベレンソンによって女子バスケットボールが始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになり、YMCAを通じ世界各国へ急速に広まった。このような背景もあり、1904年のセントルイスオリンピックではデモンストレーションスポーツとして開催された(1904年から1924年までオリンピックの公開競技として実施)。1932年6月には国際バスケットボール連盟(FIBA)が結成され、1936年のベルリンオリンピックから男子オリンピック正式種目に採用された。また、1976年のモントリオールオリンピックから女子正式種目にも採用された。 プロリーグの創設と発展 アメリカ国内では、1946年に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併しNBAが誕生した。1967年に、対抗するリーグABAが設立され地位を脅かしたが、1976年にABAは消滅し、NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けている。 ドリームチームの時代 NBAには、ジョージ・マイカン、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、カリーム・アブドゥル=ジャバー、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなどのスター選手が所属し、1992年のバルセロナオリンピックでは「ドリームチーム」を結成、圧倒的な強さで優勝を果たした。 また、1996年には女子プロバスケットボールリーグWNBAが設立され、シェリル・スウープス、リサ・レスリー、ローレン・ジャクソンなどのスター選手が台頭した。 国際化 NBAやオリンピックの活性化に伴い、近年バスケットボールの国際化が急速に進んでおり、FIBA発表では1998年時点で世界の競技人口は4億5000万人、FIBAに加盟した国と地域は2006年8月時点で213まで増加した。 日本にバスケットボールが伝わったのは1908年で、YMCAの訓練校を卒業した大森兵蔵が東京YMCAで初めて紹介したとするのが現在の定説である。そして1913年にYMCA体育主事のF.H.ブラウンが来日し、関東、関西で競技の指導に尽力し普及していった。 なお、1891年にスプリングフィールドのYMCAの訓練校で行われた世界初の試合に参加した石川源三郎がもたらしたのではないかとする異説もある。ただ、1910年代の日本ではいまだスポーツ施設が少なく競技用具も粗末であるなど本格的に受容するだけの受け皿がなかったとされ、石川がバスケットボールを日本で紹介・指導した記録は見つかっていない。 1924年には、早稲田大学、立教大学、東京商科大学が全日本学生籠球連合を結成。全国各地で対抗戦が行われていった。そして、1930年に日本バスケットボール協会(JABBA)が設立され、普及と発展及び競技レベルの向上に努めている。 2005年には日本初のプロリーグbjリーグが発足したが、日本のバスケ全体の発展・強化が遅く、アジアの各大会で苦戦を強いられている。日本代表は、女子が2004年のアテネオリンピックに3度目の出場を果たしたが、男子は1976年のモントリオールオリンピックを最後に出場は途切れている。 2014年11月27日、日本バスケットボール協会(JBA)はFIBA(国際バスケットボール連盟)より勧告を受けていた『国内男子トップリーグの統合』、『ガバナンス能力に欠けるJBAの改革』『日本代表の長期的な強化策』の問題が解決されず、FIBAから資格停止処分を受けた。 2015年6月19日、FIBA(国際バスケットボール連盟)が、スイスで常務理事会を開き、2014年11月27日に日本協会に科した、無期限の国際試合出場停止処分の解除を決めた。 2016年9月、NBLとbjリーグが統合した新リーグ「ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)」が開幕。 現代の日本では多くの学校や企業で部活動やサークルとしての活動があり、それぞれ全国規模の大会が毎年行われている。多くの学校や公園には簡易的なバスケットゴールが設置されているが、試合ができる環境が整っている場所は多くない。 また、ほとんどのスポーツ用品店でバスケット用品を扱っており、国民の認知度はかなり高いスポーツとなっている。 しかしながらオリンピックを始めとする世界大会や、世界一のレベルと言われるNBAではまだ日本の認知度は低くなっている。 天然皮革、合成皮革、ゴムなどで作られたボールが使われる。公式ボールとしては検定球が使われる。一般(男子)用及び中学生用(男子)には7号球(周囲75 - 78cm、重量600 - 650g)が、一般(女子)及び中学生用(女子)には、6号球(周囲72 - 74cm、重量500 - 540g)が、小学生用には、5号球(周囲69 - 71cm、重量470 - 500g)が使われる。なお、ボールの下端が1.8mの高さから落とした際、上端が1.2 - 1.4mの範囲ではずむ様に空気圧が調整される。 また、2004年のFIBA(国際バスケットボール連盟)の規格改定により従来の茶色の8枚パネルから茶色とクリーム色2色の合計12枚パネルのボールが認められ、選手や観客にとってボールの軌道や回転など視認性が高まった。海外では、スポルディングやアディダス、ナイキ、ウィルソンなどが、日本では、モルテン、ミカサ、タチカラなどが製造販売している。 NBAでは、協会公認で、コミッショナーの認定、使用するホームチーム名などが刻印されたスポルディング社製天然皮革ボールを使用している。2006-2007年シーズンに、合成皮革で二面張りのユニークなボールに一旦は変更したが、選手間での評価が悪く元に戻している。 縦 28m、横15mのコートが使われ、幅5cmの白線で区画が設定される。長辺をサイドライン、短辺をエンドラインと呼ぶ。エンドラインとサイドラインで区画された区域がインバウンズ(コート内)となり、サイドラインとエンドライン上とその外側がアウト・オブ・バウンズ(コート外)となる。コート内には中央でコートを2分するセンターラインや、センターサークル、フリースローレーン、フリースローサークル、3ポイントライン、ノーチャージセミサークルなど様々なラインがマーキングされている。攻撃するバスケットがあるコートの半分をフロントコート、もう一方のバスケットのあるコートの半分をバックコートと呼ぶ。FIBAとNBAではコートサイズや区画などが異なっているが、FIBAでは2010年に変更があり、フリースローレーン(ペイントエリア)が台形から長方形になり、ノーチャージセミサークルが追加され、3ポイントラインも拡張され、NBAの仕様に近づいている。 バスケットに於ける境界線は、ライン上は、ラインを越えた事と同じであると言う考え方が原則である。例えば、3ポイントラインを踏んでのショットは、3ポイント境界線を越えたと見なしゴールしても2ポイントである。ただし、ボールをフロントコートに進めることについては、ボールとボール保持したプレイヤーの両足とがフロントコートに入った段階で成立する。 また、空中でのプレーに関しては最後に触れたコートの部分が適用されるため、ラインのコート内から跳んだ場合は、着地点がコート外だとしても着地するまではプレーを継続でき、シュートをした場合は跳んだ部分での点数が適用される。 バスケットボールのゴールは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから120cm内側の上方に、平行に設置された幅180cm高さ105cmの長方形で平らなバックボードに、リングは、15.1cmのフランジを介して取り付けられている。 NBAでは、高さ305cm(10ft)に水平に設置された内径45.72cm(18in)のNBA認定リング(ダンクショットの際に安全なように可動式となっている)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な38〜45cm(15〜18in)のネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから122cm(4ft)内側の上方に、平行に設置された幅183cm(6ft)高さ 107cm(3.5ft)の長方形で平らなバックボードに、リングは、15.24cm(6in)のフランジを介して取り付けられている。 FIBAでは、フロントコートにあるバスケットは対戦相手のバスケットと呼ぶが、NBAではフロントコートにあるバスケットは自チームのバスケットで、バックコートにあるのが相手のバスケットと定義している。いずれの場合もフロントコートにあるバスケットにボールを入れると得点となる点は同じである。NBAでは自分たちのバスケットにショットを入れることから、ゴールをマネーと表現することがあり、バンクショットのバンクを銀行に掛けて表現することもある。 ミニバスケット(小学生)では、高さが260cmであるなど、競技をする人の年齢や設備環境により、各種寸法は異なる。 ユニフォーム(チーム・ジャージ) ユニフォームはシャツとパンツを言う。シャツはノースリーブやショートスリーブ、ランニングなどを主に着用する。シャツとパンツはチームメンバー全員が同じデザインの色、形のものを着用し、前と後ろは同じ色でなければならない。パンツは必ずしもシャツと同色でなくても良い。一方のチームは 濃い色、他方は淡い色(白が望ましい)のものを着用する。対戦表の先に記載されたチーム、またはホームチームが淡色のユニフォーム、後に記載されたチームまたはビジター(アウェイ)チームが濃色を着用する。両チームの話し合いで入れ替えてもよい。ユニフォームには番号を胸と背中に付ける。この番号は、原則4 - 15まで、または大会主催者により2桁までの番号を付ける事が決められている。これは得点があった場合などの審判のジェスチャーは指を1から3本立てて表現するものが多くあり、番号との混同を避けるためである[要出典]。「0」「00」という番号の使用も大会規定により認めることが可能であるが、同一チーム内に「0」と「00」を同時に使用することは認められず、「07」のような番号も認められない。背番号も参照のこと。他の球技と同様、チームのロゴやエンブレム、広告などを大会主催者の許可のもとで付ける事もあるが、番号との距離などが厳格に定められている。形状は時代と共に変化し、特にパンツは過去には陸上競技並の短かさだったものが、現在では膝丈近くにまで伸びゆったりしたものとなっている。ユニフォーム下は、許可された範囲で、アンダーシャツ、スパッツなどの着用も可能である。他には、ヘッドバンド、アームスリーブ、リストバンド、脛当て、サポーターも着用される場合がある。 シューズ、ソックス バスケットボールをプレーするためには、素早くダッシュし、方向転換したり、瞬時に止まったりジャンプしたりと動きが激しいので、滑りにくく、ジャンプや着地時のショックを和らげるクッション性が高いシューズが必要であり、専用に用意されている。合成樹脂技術の進歩に伴い軽量化が進んだが、1960年代頃までは、厚いゴム底の、スポーツシューズとしては重いものであった。また、ソックスも登山用のような厚手のウールソックスを履くこともあった。また、1970年代にNBAの影響でハイソックスが流行したが、現在では、NBAでも一部のプレーヤーや、復刻ジャージでのゲームで着用されるのに留まっている。 NBAの場合、ゲーム時にはウォームアップウェア、チーム・ジャージと呼ばれるユニフォームから、サポーター、ソックス、ヘッドバンドに至るまで、NBA指定メーカーロゴとNBAロゴ、チームロゴのみが許可されており、唯一、選手が自ら選んで身につけられるのはバスケットシューズのみである。従って選手は、それぞれのシューズメーカーと契約している。スタープレーヤーには、プレーヤーモデルのバスケットシューズが提供されると共に、同型の市販品が作られ販売される。 主なルールの改定を以下にまとめた。 創造から 1932年 バックパスルール設定。シューティングファウルに対するフリースローが現在の数に。 1933年 交代しコートから退いたプレイヤーは、その後さらに2度まではプレーに参加できるように。ユニフォームの背番号は算用数字を使用するよう奨励。 1935年 3秒ルールが現在に近い形に。 1938年 フィールド・ゴール成功後、センター・ジャンプで再開する規定がなくなり、エンド・ライン外からのスローインに。 1946年 バックボードをコート内側の現在位置に移動。交替出場回数に制限がなくなる。5ファウルで退場となる。フリースローを放棄し、アウトからのスロー・インを選ぶ権利が与えられた。 1954年 NBAがショットクロック(24秒ルール)導入。 1956年 ショットクロック(30秒ルール)導入し、バックパスルール廃止。 1957年 フリースローを放棄できなくなる。 ローマ・オリンピック後に国際ルールに沿った規則となって以降。 1965年 一般男女と高校男子の試合を20分ハーフにし、使用ボールを7号ボールに。 1973年 バックパスルール、10秒ルールの復活。 1974年 バスケット・カウント・ワンスローが復活。 1979年 2個のフリースローのうち、1個でも入らないときさらにもう1個を与える「スリー・フォー・ツー・ルール」設定。 1985年 3ポイントルールの採用、チームファール罰則が7ファールに スリーフォーツーの廃止。 1991年 フリースローをせずにセンター・ラインのアウトからのスロー・インを選べる「選択の権利」が廃止。背番号が4番からに。 1995年 アリウープがリーガル・プレイに シューティングファウルがシューターが床に着くまでに拡大。インテンショナル・ファウルが「アンスポーツマンライク・ファウル」改名。 1999年 後半の最後と各延長時限最後の2分間にフィールド・ゴール 成功時はゲーム・クロックを停止。 2000年 20分ハーフを10分クオーター制に。 2001年 30秒ルールから24秒ルールへの変更。 2010年 制限区域が台形から長方形に、3ポイントラインが拡大。ノーチャージエリアの設定。ショットクロックの14秒リセット導入。 2012年 オフェンス・リバウンド時もショットクロックが14秒リセットに。 2014年 プレイヤーのテクニカル・ファウルが2回で失格・退場に。テクニカル・ファウルの罰則のフリースローを1本に。 2018年 ボールを保持すると同時についた足を0ステップとした。 レイアップ時のトラベリングが大幅に減った 以下に記すのは主に国際バスケットボール連盟(FIBA) 及び日本バスケットボール協会(JBA)のオフィシャルルールによる。 日本プロバスケットボールリーグと、北米のプロリーグであるNBAはそれぞれ独自のルールを規定している。 また、小学生が行うミニバスケットボールも、独自のルールが規定されている。 5人対5人で試合を行う。3人対3人の3 on 3(スリー・オン・スリー)もある。 10分のピリオドを4回行う。第1第2ピリオドを前半、第3第4ピリオドを後半という。 第4ピリオドが終わったとき両チームの得点が同じだった場合は、1回5分の延長時限を必要な回数だけ行う。 ボールは手で扱わなければならない。ボールを保持したまま3歩以上歩くこと(トラベリング)、故意に足または腿で蹴ったり止めたりすること、拳で叩くことなど、からだの触れ合いおよびスポーツマンらしくない行為以外の規則に対する違反をヴァイオレイションという(詳細はヴァイオレイションの項を参照のこと)。 相手チームのプレイヤーとの不当なからだの接触やスポーツマンらしくない行為をファウルという(詳細はファウルの項を参照のこと)。 相手チームのバスケットにライブのボールを上から通過させるか、バスケットの中にとどまること(シュート、ショット)によりゴールとなり、規定の得点が認められる。2ポイントエリア(攻撃するバスケット側の3ポイント・ライン以内のエリア)からのフィールドゴールは2点、3ポイント・ラインより外側(3ポイントエリア)でのフィールドゴールは3点が認められる。フリースローによるゴールは1点である。 シュート動作中に守備側からファウルを受けるとフリースローが与えられる。そのショットが成功した場合は得点は認められ(バスケットカウント)、さらに1本のフリースローが与えられる。ショットが失敗した場合は、2ポイントエリアからのショットの場合は2個、3ポイントエリアからのショットの場合は3個のフリースローが与えられる。 プレイヤーがコート内でライブのボールをコントロールした場合、そのチームはコントロール開始から24秒以内にショットをしなければならない(24秒ルール)。 ゲームはセンターサークルで両チームのプレイヤーによりジャンプボールで始められる。前半は相手チームのベンチ側にある相手チームのバスケットを攻め、後半は攻めるバスケットを入れ替える。延長時限は後半と同じバスケットを攻撃する。 第2ピリオド(試合時間を参照)からは、オルタネイティング・ポゼション・ルールにより、オフィシャルズテーブルから遠いほうのセンターラインの外側からのスローインで始まる。 第一ピリオドは各チームのキャプテンが出場しなくてはならない。 審判(オフィシャルズ)は2人もしくは3人で行う。これは主催者により選択される。 このほかに、審判を補佐し、得点を記録するなどの仕事を行うテーブルオフィシャルズ(TO)が4名いる。 10分を1ピリオドとし、第1ピリオドから第4ピリオドまでの4つのピリオド、計40分間で行なわれる。試合時間は、残り時間として電光掲示板や得点板に表示される。 以下の状況では、試合時間(ゲームクロック)が一時停止する。 ファウルやヴァイオレイションの判定の瞬間から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで タイムアウトの開始から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 審判が必要と判断した状況から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 第4ピリオドと延長ピリオドの終了2分を切った(ゲームクロックが2:00を表示した)後は、全てのフィールドゴール成功時からスローイン後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 残り時間が0.0秒になるとともに各ピリオドは終了し、サッカーやラグビーにおけるロスタイムの概念はない。 各ピリオド間では、第1と第2及び第3と第4の各ピリオドの間に2分間、第2と第3ピリオド間のハーフタイムに10分間のインターバル(インタヴァル、インターヴァルとも)がそれぞれ与えられる。ただし、これは大会の主催者によって変更されることもしばしばある。以前は20分の前半・後半(ハーフ)、ハーフタイム10分だった。その後NBAのルールと同じく4ピリオド制となった。いわゆる引き分けはなく、同点の場合5分単位での延長ピリオドを決着がつくまで繰り返し実施する。延長ピリオドは第4ピリオドの延長とみなされ、チームファウルは第4ピリオドと合わせて数えられる。 中学生の試合では、8分のピリオドを4回行う。延長は3分となる。 小学生の試合では、5 - 6分のピリオドを4回行い、前半10人の選手を1人5 - 6分出場させ、第1ピリオドから1人の選手が3ピリオド連続で出場できない。延長は3分となる。 身体の触れ合いを伴わない、あるいはスポーツマンらしくない振る舞い以外の規則に関する違反のこと。バイオレーション、ヴァイオレーションとも。相手チームによるスローインからのリスタートとなる。 規則に反する違反のうち、不当なからだの触れあいおよびスポーツマンらしくない行為をファウル、またはファールと呼ぶ。 パーソナル・ファウル、テクニカル・ファウル、アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクオリファイング・ファウルの種類がある。 選手個人に課されるファウルがほとんどであるが、コーチやアシスタント・コーチ、チームに課されるファウルもある(チームに課されるファウルはコーチのファウルとして記録される)。 1人のプレイヤーにすべてのファウルを合わせて5回(NBAでは6つ)のプレイヤー・ファウルが宣せられた場合、審判によりその事実が告げられ直ちに交代しなければならず(ファウルアウト、俗に退場とも)、以後そのゲームには出場できない(以下の選手交代も参照)。サッカーとは異なり、退場しても自チームのベンチに座り、コート上へ交代選手を入れることが可能であり、通常は以降の試合の出場に関するペナルティはない。 ただし、2回のアンスポーツマンライク・ファウルや2回のテクニカル・ファウルで失格・退場となった場合や、ディスクオリファイング・ファウルにより失格・退場となった場合は、自チームの更衣室(ロッカールーム、控室)にいるか、コートのある建物の外に出なければならない。 パーソナル・ファウルに対しては、ファウルを宣せられたチームの反対チームにスローインが与えられる。ファウルは主にディフェンス側のプレイヤーに対して宣せられることが多いが、オフェンス側のプレイヤーがディフェンス側のプレイヤーの行動を妨げた場合には、オフェンス側にファウルが宣せられる。 ショットの動作中のプレイヤーに対するファウル(テクニカル・ファウル以外)は、そのショットが成功した場合、2ポイントないし3ポイントの得点が認められ、追加として1個のフリースローが与えられる。ショットが成功しなかった場合は、そのショットに応じて、2個ないしは3個のフリースローが与えられる。 アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクォリファイング・ファウルの場合は、ショット動作中以外の場合でも2本のフリースローが、テクニカル・ファウルの場合はいずれの場合でも1本のフリースローが与えられる。 プレイヤーのファウルは、各ピリオドごとにチームファウルとして記録される。チームに4回のファウルが記録された後は、次のようなチーム・ファウルの罰則が適用される。自チームがボールをコントロールしていない場合にファウルを犯した時は、相手チームに2つのフリースローが与えられ、自チームがボールをコントロールしている場合にファウルを犯した時は、相手チームにスローインが与えられる。 ゲーム開始前の10分間や各ピリオド間にファウルが生じた場合は次に続くピリオド中に起こったものとして処理する。延長時限中のファウルは、第4ピリオドのファウルとして扱い、継続してチーム・ファウルに数えられる。 各チームは、タイムアウトを取ることができる。タイムアウトは1分である。各チームはこの間に作戦を練る、選手を休ませるなどしてゲームの流れを変えている。タイムアウトの請求ができるのはコーチまたはアシスタントコーチである。ただし、請求してすぐに認められるわけではなく、ゲームクロックが止まった場合に認められる。前半2つのピリオドで2回、後半2つのピリオドで3回まで取ることができる。したがって、1チームが1試合で使えるタイムアウトは合計5回である。前半2つのピリオドで使わなかったタイムアウトは後半のピリオドに持ち越せない。オーバータイム(延長戦)突入時は1回のオーバータイム(5分)につき1回取れる。 2010年のルール改訂により、4ピリオド残り2:00以降にボールをコントロールするチームがタイムアウトを取った場合、バックコートからスローインするときはフロントコートのスローインラインのアウトからのスローインとなる。 小学生では第4クォーター、延長戦では両チーム交代できる。 NBAのタイムアウトは1試合につき1分を6回(ただし第4クォーターで使える回数は3回まで)、前半もしくは後半2クォーター(1ハーフ)につき20秒を1回(1試合合計2回)取れる。また、オーバータイム1回(5分)につき1分を3回取れる。タイムアウトの請求はコーチだけでなく、攻撃中のチームの選手も可能である。 ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)のタイムアウトには、通常のタイムアウトに加えて、第2・第4クォーターの残り5分を切った最初のボールデッド時に行われる90秒のオフィシャルタイムアウトがある。 コート上にいる選手はプレイヤー、ベンチにいる選手は交代要員として区別される。FIBAが管理する大会では各チームでベンチ入りできる選手は最大12人で、プレイヤーが5人、交代要員が最大7人である。国内の大会では主催者が大会要項で規定し、12名または15名が一般的である。 選手交代が認められるのは、ゲームクロックが止められている時である。フリースローの時はそのフリースローの1投目のボールが渡される前か、最後のフリースローが成功した時に認められる。また、交代はどちらのチームにも認められるが、第4ピリオドの終了前2分間は得点したチームにはショット成功時の交代は出来ない。但し、得点されたチームが交代を行った際には、得点したチームも交代することが可能である。 交代要員は何度でもプレイヤーとしてゲームに復帰できる。ただし、ファウルを5つ犯した場合や悪質なファウル(ディスクオリファイング・ファウル)などで失格・退場になった場合は、再びプレイヤーとしてゲームに復帰することはできない。 ポイントガード(PG) ボールを運び、パスをしたり指示を出したりするチームの司令塔、ゲームメーカー。 シューティングガード(SG) 長距離からのシュートやペネトレイションで得点を稼ぐ。また、ポイントガードの補助をしたり、スモールフォワードのように攻めたりする。 スモールフォワード(SF) 柔軟なプレイを求められる万能的ポジション。シュータータイプからインサイド型まで様々なプレースタイルが存在する。 パワーフォワード(PF) リバウンド、スクリーン、ゴール付近からのシュートビッグマン対応のディフェンスを担当する。 センター(C) 高い身長とパワーが必要とされる。リバウンド、スクリーン、ゴール下での得点とディフェンスでチームを引っ張る。 ポジションは上から順に、1番(PG)、2番(SG)、3番(SF)、4番(PF)、5番(C)という呼ばれ方もする。 バスケットボールにおいてポジションはサッカーのゴールキーパーや野球の投手のようなルール上の規定はなく、厳密に定められているものではない。また、各プレイヤーが多くの役割をこなすことが理想である。そのため、ユーティリティ・プレイヤーも多く、ポイントガードとシューティングガードを兼任できる選手を「コンボガード」、ガードとフォワードを兼任できる選手を「ガード・フォワード(GF)」や「スウィングマン」、またフォワードとセンターを兼任できる選手を「センターフォワード(CF)」あるいは「フォワードセンター(FC)」と呼ぶことがある。パワーフォワードとセンターはポストプレーを行うことからポストプレイヤーとも呼ばれる。NBAでは、本来のポジションがフォワードでありながらポイントガードの働きをする選手も少なくない。そのような選手は稀ではあるが「ポイントフォワード」と呼ばれる。ポイントフォワードの選手には、マジック・ジョンソン(特に現役復帰後)、アンソニー・メイソン、レブロン・ジェームズ、ラマー・オドムらがいる 。NBAプレーヤーで、フランス代表でも有るボリス・ディアウは、ガード、フォワード、センター、全てのポジションをカバーできる稀有なプレーヤーである。 ガード2人を合わせてバックコート、フォワード2人とセンターを合わせてフロントコートなどとも呼ぶ。 パス(Pass)とは、ボールを保持したプレーヤーが、ボールを他のプレーヤーに投げ渡すプレー。投げ方や方向などに規則はない。 バスケットボールでは、ボールを手に掴んだ状態で移動する行為が禁止されているため、進行方向の地面にボールを上から掌を使って叩きつけて跳ねさせ、これを連続的に行ってボールとともに選手が移動する。保持したとみなされた場合反則となる。 自チームが得点するためにバスケットの上からボールを通すことあるいはそのための動作、ボールがバスケットへ至るまでの一連の流れのこと。シュートと呼ばれることが多いが、これは通称であり、ルール(日本バスケットボール競技規則)上では全てショットと称される。 敵・味方関係なく、ショットミスしたボールを取ることを、リバウンドと呼ぶ。リバウンドを取るために有利なポジションを取る行動をスクリーンアウトまたはボックスアウトという。 相手の放ったショットをリング、バックボードに到達する前にボールが上昇中に阻止するプレー。ショットされたボールがリングに向けて下降中、もしくはバックボートに当たりリングに向かっている途中に触れるとゴールテンディングまたはバスケット・インターフェアとなる。 相手のパスをインターセプトしたり、ピボット、ドリブルなどでコントロールしているボールを奪い取るプレー。 ボールが無い場所で、相手選手の移動を制限する位置に立つこと。身体の接触があるためタックルの様な動きは反則となり、その場に停止している必要がある。 攻撃の基点、中継点となるポジションを確保し、スクリーンとして機能したり、攻撃を展開するパスを出したり、ペネトレイトあるいはショットに持ち込むプレー。位置により、バックボード近辺をローポスト、フリースローサークル近辺をハイポスト、それらの中間をミドルポストと呼ぶ。足幅を充分に取り、ディフェンダーを背にして、パスカットされない位置へ手を伸ばして立ち、パスを受ける。アイソレーションを得意とするプレーヤーはミドルポストに立ちパスを待つ場合が多い。 デッドとなったボールをライブに戻し、ゲームを再開するために、攻撃権を持ったチームのプレーヤーが、アウト・オブ・バウンズ からインバウンズにパスをすること。 フリースロー(Free Throw:自由投)とは、一方のチームがファウル、あるいは、特定のヴァイオレイションを 犯した場合に、相手チームに認められるペナルティの一つである。フリースローサークル内のフリースローライン手前から、どのプレーヤにも防御される事無く ショットを放つ事が出来る。ペナルティーの種類によって、1投から3投までの間で、連続でスローされ、フリースロー1投がゴールすれば1得点が与えられる。最終投がスローされた後のプレーの再開方法には、数種類の場合が存在する。又、1996年と1997年の両年にはこのフリースローの全国大会が開催された。 フットワークは、プレーヤーの足運びのこと。バスケットボールは前後左右への素早い動きが要求されるので、すべてのプレーに関わる重要な基本動作である。オフェンスでは、歩数制限があり、その後ジャンプすることも必要である事から正確かつ俊敏な足運びが要求される。また、ダッシュからのサドン・ストップやピボットもオフェンスの重要なフットワークである。通常、ランニングショットの場合は、右手では左足踏切。左手では右足踏み切りとなる。ディフェンスでは、マークするプレーヤの動きに素早く反応して振り切られないよう移動する必要があるため、様々な方向への動きが要求される。サイドステップ、バックステップ、クロスステップなど様々な足捌きができなければならない。 基本ステップ サイドステップ:両足を開いた状態から、足を交差することなく横方向へ行うステップ。 バックステップ:前を向いたままで後方へ走るステップ。 クロスステップ:足を前方、あるいは後方で交差させながら、前後方斜めあるいは横に進むステップ。 ボールキャッチ時のステップ 両足着地状態でキャッチ:自由にピボットフットを決めステップすることが許される。その後次のプレーへ。 空中でボールをキャッチした場合。 片足ずつ着地:先に接地した足がピボットフットとなり、後に接地した足は、ピボットを使って自由にステップ可能。 片足でステップ後、ジャンプし次のステップで着地:浮かせた足を接地することは許されない。この状態からのドリブルも許されない。そのままの状態でボールを保持するかあるいは放す、2歩目で踏切りジャンプした後、ボールを放すこと(ショット、パス)以外は許されない。 一歩目片足でジャンプ次に両足同時に着地:これ以上のステップは許されない。そのままの状態でドリブルを開始するか、ジャンプしてボールを放すこと(ショット、パス)は許される。 ピボットは、着地した状態で、ボールキープを行う時に使用するステップである。片足を軸足(ピボット・フット)にしてコートの同じ場所で接地し、もう片足を前後左右にステップして体の軸を動かし、相手を翻弄、動揺させたり、リズムを崩し、自分のパス、ショット、ドリブルなど次のプレーを容易にする。接地場所を移動することは出来ないが、その場所で回転することは許される。 両足接地の状態でボールを得た場合は、任意の足をピボットフットにすることが出来る。 片足ずつ着地してから行う場合、先に着地した足のみ軸足にすることが出来る。 一歩目を片足、2歩目を両足で着地した場合は、ピボットを行うことは出来ず、そのままジャンプしてボールを離すか、両足を着地した状態でドリブルを開始しなければならない。 これらに違反してステップするとトラベリングとなる。 ボールを保持していない選手については、ステップに関する規制はない。 テンポによる分類 方式による分類 方式による分類 ゾーンプレス = ゾーン+プレス ゾーンマンツー = ゾーン+マンツーマン 陣形による分類 数字はディフェンスの数を示し、フロントコートに近い側からバックコートに近い側の順に記載する。 2-2-1以下の4陣形は通常、ゾーンプレスの場合にしか使われない。1-3-1、1-2-2は通常のゾーンディフェンスとゾーンプレスの両方で使われる。 範囲による分類 バスケットボールリーグ一覧 1990年から週刊少年ジャンプでバスケットボールを扱った漫画『スラムダンク』が連載開始、1996年の連載終了後も売れ続けて1億部を超える大ヒットとなり、バスケットボールの競技人口を押し上げ、2005年には、日本バスケットボール協会への登録者数だけで600万を超えるなど、日本バスケットボール界に大きな影響を残している。またその功績から原作者の井上雄彦は、日本バスケットボール協会から特別表彰されている。バスケットボールは漫画編集者の間ではひとつのタブー(ヒットしない)とされていたが、スラムダンクの後には『あひるの空』『黒子のバスケ』『ロウきゅーぶ!』など様々なヒット作も出るようになった。 ^ FIBA公式サイト(英語)We are Basketball. ^ a b NBA公式サイト(英語)NBA.com ^ a b c d “Official Basketball Rules”. FIBA.com (2017年1月25日). 201170-01-26閲覧。 ^ 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.126 1984年 ^ a b 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.2 1982年 ^ a b c d e “JOC - 競技紹介:バスケットボール”. 2014年10月3日閲覧。 ^ a b c d e 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.127 1984年 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.33 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.34-35 2011年 大修館書店 ^ a b c 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.3 1982年 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.37 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.39 2011年 大修館書店 ^ 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.3-4 1982年 ^ a b c d e f g 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.128 1984年 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.9 2011年 大修館書店 ^ a b c 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.10 2011年 大修館書店 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.44 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.11 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.45 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.70 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.71 2011年 大修館書店 ^ a b c d 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.4 1982年 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.82 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83-84 2011年 大修館書店 ^ a b c 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85-86 2011年 大修館書店 ^ WNBA公式サイト(英語) ^ 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』1984年(p.128)では定説に対する異説として紹介している ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.14-18 2011年 大修館書店 ^ 『社会人のための英語百科』(大谷泰照、堀内勝昭監修)84ページに、アフリカ系アメリカ人の若者について「そこら辺のプレイグラウンドの連中でも、全日本の選手をはるかにしのぐレベル」と記述されており、日本とアメリカを比べるとバスケのレベルに極めて大きな差があるという主張が為されている。 ^ “[http://sports.yahoo.co.jp/sports/basket/all/2014/columndtl/201411270002-spnavi JBA、FIBAより資格停止処分受ける 丸尾会長代行「早期の制裁解除が使命」]”. Yahoo.com (2014年11月27日). 2015年5月31日閲覧。 ^ 国際バスケ連盟が日本の処分解除、改革の成果を評価 ^ a b c d ひとめでわかるミニバスケットボール のルール (PDF) (日本ミニバスケットボール連盟) ^ NBA Introduces New Game Ball - NBA.com ^ a b “Official Rules of the National Basketball Association”. 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NBA Japan. http://www.nba.co.jp/nba/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0no1%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%81%AF/trwzablnrky51e0qbk72ndl34 2015年1月26日閲覧。  ^ 2000 - 2001シーズンまではNBAではゾーンディフェンスそのものが禁止され、違反した場合にはイリーガルディフェンスというヴァイオレーションをとられていた。現在のNBAでは、オフェンスプレイヤーにマークマンとしてついていないディフェンダーに対して、ゴール下のペイントゾーンに3秒以上留まっていてはいけない、というヴァイオレーションが適用されている。 ^ 公益財団法人 日本バスケットボール協会 登録者数推移 ^ マンガの力(1)スラムダンク奨学金(上)、朝日新聞、2007年11月8日。 ^ スラムダンク作者を特別表彰=バスケット協会、時事通信、2010年9月12日。[リンク切れ] ^ 井上雄彦『スラムダンク』第31巻 後書きより。 バスケットボールの日 - 12月21日、バスケットボールの誕生日とされる", "アイスホッケー(英: ice hockey)は、天然または人工氷のスケートリンク上で、スケート靴を履いて行う団体スポーツ競技である。陸上で行われるホッケーの形式を氷上に持ち込んだものである。2チームが長方形(楕円形)をしたリンクの中で、スティック (Ice hockey stick) (長い柄の先端部分に角度をつけ湾曲させた杖状の用具)を用いて硬質ゴムでできた扁平な円柱状の パックを打ち合い、相手方のゴール (Goal (ice hockey)) に入れることでその得点を競うゲームである。『氷上の格闘技』とも呼ばれている。漢字を当てて氷球(ひょうきゅう)と表記される。 スケートを用いるため、グラウンド上の同種競技と比べ格段に早いスピードが出てゲームをスリリングなものにするが、接触等による危険が高いため全身に防具を装着してプレーを行うことが義務づけられている。 アイスホッケーが盛んな国として、世界ではカナダ、アメリカ合衆国、ロシア、スウェーデン、フィンランド、チェコ、スロバキア(1993年以前、前2国はチェコスロバキア)、ベラルーシ、ラトビア、スイスなどを挙げることができる。冬季オリンピックなどでこの競技を統括する国際アイスホッケー連盟(IIHF)の加盟国(または地域)は2015年現在で74カ国に及ぶ。 アイスホッケーの起源については、さまざまな説がある。 16世紀のオランダの絵画(例えば、Romeyn de Hooghe や Hendrick Avercamp の作品)には凍結した運河の上で、市民がホッケーに似たようなスポーツを行っている光景が描かれている。もっとも、これらの絵画で描かれているスポーツは、ホッケーというよりはむしろゴルフやポロに近いとする説もある。 スコットランド発祥のシンティ(Shinty)、アイルランド発祥のハーリング(Hurling)、ネイティブアメリカンのチペア族のプレイしたバゲタウェイ(Baggataway)などのスポーツが起源であると考える説もある。これらのスポーツについて近代的なアイスホッケーとの主な相違点を挙げると、シニーやハーリングにあってはゴーリーが不在、スケート靴を履かない点があり、バゲタウェイにあっては出場選手の数が多い点などがある[1]。このほかにもホッケーの原型に当たる競技として、イングランドのバンディ(Bandy)やフィールドホッケー(Field Hockey)、カナダのシニー(Shinny)やリケット(ricket、ノバスコシア)、米国のアイス・ポロ(Ice polo)などが挙げられる。 1763年にフランスからカナダ領土を勝ち取ったイギリス人兵士達は、フィールドホッケーの経験と、ノヴァスコシアの原住民が行っていた競技、ラクロスを組み合わせ、凍結した河川、湖、池などでカナダの長い冬の慰みとしたと伝えられる。フィールドホッケーのボールは余りにも飛びすぎて危険だったため、ボールを小さめにして飛ばないように工夫をされたという。またサッカーやフィールドホッケーと同じくゴールの代わりとして氷柱を代用したり、また両チームが均等な人数ならば試合が可能とされていた時代もあった。 近代的なアイスホッケーの起源のみに限定しても、カナダのモントリオールとする説の他、キングストン、ウインザー、ノヴァスコシアなどもその発祥地として名乗りを上げている。 今日行われるような屋内でのアイスホッケーのルーツは19世紀、カナダでフィールドホッケーを氷上で行った遊びにあるとされている(モントリオール市の公報には、1875年3月3日に初の屋内試合が行われたとの記録がある)。 1877年には、マギル大学の学生であった、ジェームス・クライトン、ヘンリー・ジョセフ、リチャード・F・スミス、W.F.ロバートソン、W.L.マリー、フランク・パトリック、レスター・パトリックらが、乱雑であった試合に意味を持たせるためラグビーなどのルールを参考にして7つのルールを整備し、地方紙上で発表した[2]。ルール整備によってゲームが洗練されると、アイスホッケーの人気は高まり1883年にはモントリオールの冬祭り(Winter Carnival)の行事に組み込まれるようになった。 この前後からアイスホッケーはカナダ各地で実施されるようになり、1887年にはオンタリオ州でアイスホッケーのリーグ戦も開催された。さらに1896年にはアメリカでも公式戦が開催され、1897年にはカナダ・モントリオールで現在のルールが制定されるなど、アイスホッケーは北米を代表するウィンタースポーツとしての地位を確立した。 1888年に時のカナダ総督スタンレー卿は、この冬祭りを見物した折にこの競技に感銘を受けて、ベストチームに優勝杯を贈ろうと考えたとする説がある(もっとも、彼の妻や子供達の方がこの競技に熱心であったという説も有力である。)。これが今もNHLの優勝チームに授与されるスタンレー・カップの起源とされる。なお、スタンレー卿の子供が本国のイギリスにアイスホッケーに関する知見を持ち帰って、そこからヨーロッパにこの競技が広がったといわれる。 世界初のプロ選手によるリーグ戦ナショナルホッケーリーグ(NHL)は1917年度からカナダで開始され、以来毎年11月から翌年6月にかけてアメリカ、カナダの各地で氷上の格闘技といわれる激戦の数々を開催してきた。また1997年のシーズン開幕戦は初めての海外興行として日本の東京(代々木第1体育館)で「バンクーバー・カナックス vs マイティーダックス・オブ・アナハイム」の試合が開催された。 オリンピックで初めてアイスホッケー競技が実施されたのは、1920年のアントウェルペン(アントワープ)大会。当時はまだ、冬季オリンピックが実施されておらず、夏季オリンピックで実施された。次の1924年大会から冬季オリンピックが開催されたため、アントワープオリンピックのアイスホッケー競技は、夏季オリンピックで実施された唯一の大会である。 第18回長野冬季オリンピックからプロ選手の出場が認められており、現在でも冬季オリンピックの大会中でもメイン競技のひとつに挙げられている。 試合は、ホッケーリンクと呼ばれる表面に氷を張った専用の競技場で行われる。 リンクには、中央の赤いセンターライン(またはレッドライン)とそれをはさんだ2本の青いブルーライン(またはオフサイドライン)という3本の太い線があり、他にゴールラインという赤の細い線もある。ブルーラインを境界として、敵ゴール側をアタッキングゾーン、味方ゴール側をディフェンディングゾーン、中間をニュートラルゾーンという。 フェイスオフ・スポットは、リンク中央の他に、オフサイドライン手前、アタッキングゾーン、ディフェンディングゾーンでそれぞれ左右に設けられ、全部で9箇所ある。オフサイド、アイシング・ザ・パック、センターラインパスの判定は、この線を基準に行われる。なお、専用リンクの外周はボードと言われるフェンス状の囲いで覆われており、このボードをパックが越えない限りアウトオブバウンズとはならないので、プレーをいたずらに中断させることがなく、またボードの反発を利用したパスを行うことも可能である。 アイスホッケーにおいては、ゴールの裏側においてもプレイ可能であり、他の競技にはない大きな特徴となっている。攻防の要衝となる非常に重要なエリアである。 氷上に一度に出ることができる選手は、各チーム6名(キーパー1人を含む)までと決められている。その際、選手はスケート靴を着用する。また、危険を伴う競技のため、防具は正しく装着されていなければ出場できない(なお、近代的なアイスホッケーのルールが整備された19世紀後半においては、プレーヤーの人数は当初、各チーム9人であった。1884年にモントリオールでフィギュアスケートの選手からの「あまりホッケーの人数が多いとリンクが痛みやすく危険である」との声を受けて7人に減少し、その後6人となった経緯がある)。 1チームは通常、氷上およびベンチ入りの選手を合わせ、2人のゴールキーパーを含めた18名から23名程度のロスター(登録)選手で構成される場合が多い。控え選手 (Substitute) 、コーチ、監督は、リンクサイドのボックスに入る。運動量が多く疲労がたまりやすいので、攻撃陣、守備陣(ゴールキーパーを除く)は、あらかじめセット・ユニット・ラインと呼ばれる組を編成する。競技の特性から長い時間プレーを連続することが難しいため、おおむね1分程度で組を随時交代しながら試合を行う。 審判は基本的にレフェリー2名、ラインズマン2名の4審で行いこの他にリンク外のゴール真後ろにあるボックスにゴールジャッジが1人ずつ配置され6人でされる。レフェリーとラインズマンは黒と白の縦縞のセーターと黒のヘルメットを着用する。レフェリーのみ袖にオレンジの腕章を着用する。基本的にペナルティを取るのはレフェリーの権限である。ベンチの反対側には反則選手を収容するペナルティボックスがあり、ペナルティベンチアテンダントが入口の開閉や反則時間の管理を行う。その中間にはオフィシャルボックスがあり、タイムキーパー・スコアラー・アナウンサーが任に就く。オフィシャルボックスとゴールジャッジボックスは、通常透明なアクリル板などの壁と屋根で密閉されている。これは主に防寒のためである。 選手交代は、いつ、何人でも、何回でもかまわない。その際に審判に知らせる必要はない。 プレー中の選手交代は通常相手チームに攻め込まれている時に行うことはなく、パックを確保しているチームが選手交代を行うか否かを実質的に決めることになる。選手交代のプロセスは、パックを確保したチーム側の選手が自陣ゴールキーパーの後ろに陣取りパックを守っている間に、パックを確保した側から選手交代を始め、その選手交代が始まったことを見て相手側も選手交代を始めるのが普通である。なお、選手交代といえどもプレー継続中であるので、油断していたり選手交代に手間取っていたりすると相手側が攻撃してくる可能性があり、互いに相手の動きを監視しながら素早く選手交代を終わらせることとなる。 時計が止まっていればこの制約はなく、選手交代を審判に知らせることで交代完了まで待ってもらえる。 ただしビジターチームはホームチームよりも先に交代を終えなければならない。 反則を犯した選手やチームには反則の重さに準じて以下のペナルティが適用される。複数の反則が同時に起きた場合、一人の選手に複数のペナルティを課したり両チームにペナルティを課すこともある。レフェリーは、反則を犯した選手を退場させペナルティボックスに収容する。退場時間は以下の通り。 マイナーペナルティ 2分 - 普通はこれが適用されるので最も多く見かける。 ダブルマイナーペナルティ 4分 メジャーペナルティ 5分 - 2回適用されると自動的にミスコンダクト。 ミスコンダクトペナルティ 10分 - 代わりの選手を投入できる。2回適用されると自動的にゲームミスコンダクト。 ゲームミスコンダクトペナルティ 試合終了まで - ベンチからも退場。ただし代わりの選手を投入できる。 マッチペナルティ 試合終了まで - ベンチからも退場。5分間代わりの選手の投入禁止。公式戦の場合関係当局による処分決定まで出場停止。 ミスコンダクトペナルティやゲームミスコンダクトペナルティ、マッチペナルティの場合同時にマイナーペナルティやメジャーペナルティを課せられることが多い。その場合には別の選手が代わりにペナルティボックスに入る。(代行消化) ペナルティボックスに入るのは反則を犯した当人だが、ベンチペナルティと呼ばれるチーム全体に課される反則の場合は、ゴールキーパー以外の誰が入ってもよい。また、ゴールキーパーの反則の場合も別の選手が代わりにペナルティボックスに入る。ただしゲームミスコンダクトペナルティ以上の反則の場合はゴールキーパーは退場する。代えのゴールキーパーがいない場合、任意の選手が防具を着替えて(10分間の着替え時間が与えられる)ゴールキーパーを務める。 マイナーペナルティに限り以下のルールがある。 失点時に1名ずつペナルティボックスから解放される 反則行為があっても審判が警笛を吹く前に相手側が得点した場合はペナルティボックス収容を適用しない またペナルティが複数課せられた場合でもリンク上でプレイできる選手が3人以下になることはない。もし同一チームが3人以上の退場者を出した場合は、最初に起きたペナルティから順番に消化し最初の1名のペナルティが終わった時点で、未消化のペナルティが適用開始となる。そのためペナルティの状況によってはマイナーペナルティでもペナルティベンチに2分以上入っていることになる。 他にゴール近くで、もしくはシュートモーション中の選手に対してGKが反則により攻撃を妨害した場合(守備側の選手がペナルティとなった場合にも)、ペナルティーショット (PS) になることがある。PSは攻撃側は任意の1選手(キャプテンが指名)、守備側はGK(反則退場していても代理のGKがいない場合は出場可)を残して全員がベンチに引き上げる。センターフェイスオフスポットにパックを置き審判のホイッスルにより攻撃側の選手がゴールにパックを運びシュートを行う。打てるのは1回だけでGKがはじいたパックを打ち直すことは不可。またシュートを打たないままゴールラインを割ったときも失敗となる。ゴールを成功した場合は1点が追加される。試合途中の場合成否に関係なくセンターフェイスオフスポットでのフェイスオフとなる。 ペナルティには多くの種類がありそれぞれに対応した審判のジェスチャーがある。ペナルティの種類ごとに適用される退場時間が設定されているが故意であると判断された場合や相手を負傷させた場合は1ランク上(特に悪質性が高いと判定されれば2ランク以上のことも)の退場時間が適用される。 ファイティング 手を使った戦い。 トリッピング 相手の足にスティックのブレードもしくは足を引っ掛ける。 ダイビング トリッピングやフッキングに対するオーバーリアクション(わざと転ぶ)。 エルボーイング 肱をぶつける。チェックの際に当たる体勢によっては適用されやすくなる。 ニーイング 膝をぶつける。 ホールディング 相手の身体、ユニフォームなどをつかんだり(ホールディング・アン・オポーネント)、スティックをつかむ。(ホールディング・ザ・スティック) フッキング スティックのブレードで相手を引掛ける。 スラッシング スティックで相手選手の体を叩いたり、相手のスティックを強く叩いたりする。実際に当てていなくても相手を怯ませる目的でスティックを振り回しても適用される。乱闘の最中に振り回した場合はゲームアウト。 ボーディング チェックなどにより相手選手をフェンスに叩き付ける。フェンスとの間に挟むようにチェックすると適用されやすい。 ハイスティッキング スティックのブレードを肩より高く上げる行為。チェックの際に行うとペナルティになる。相手選手が近くにいないとペナルティにはならないが、高く上げたスティックでパックに触れるとゲームを中断し不利な位置からのフェイスオフとなる。 バットエンディング スティックの端(ブレードのとは反対)をぶつける。正しくスティックを持っている限り発生しない。小児のアイスホッケーではすぐ成長するとの理由から長いスティックを持たせることが多いため発生しやすい。行おうとしただけでもダブルマイナー。実際に行った場合はゲームアウト。 スピアリング スティックのブレードの先で相手プレイヤーを突く。ダブルマイナーペナルティ。 チャージング ジャンプもしくは勢いをつけてチェック。パックを保持していない選手へのチェックはチャージングかインターフェアランスになる。 クロスチェッキング スティックを相手にぶつけるようにチェックする。チェックする際にスティックを相手と反対に向けるようにすれば防げる。 インターフェアランス パックを保持していない選手の動きを妨害する。ゴーリー(ゴールキーパー)を妨害することをゴーリーインターフェアレンスという。 クリッピング 相手の前にスライディングするなどして妨害する。パックを保持している選手に対して行うと適用されやすい。 チェッキングフロムビハインド 背面からのチェック。 フィフティカフスまたはラッフィング 必要以上に強い力で、あるいは非常に荒っぽく相手をチェックする。乱闘の際に相手を殴ったときにも適用される。殴り合いのためグローブを外した場合はミスコンダクト。自発的に殴った場合はマッチペナルティ。最初にそれに加勢した選手にもゲームミスコンダクト。反撃した場合はマイナーペナルティだが乱闘しながらリンク外にでるとミスコンダクト。 ツゥーメニープレイヤーズ 6人より多いプレイヤーがリンク上に出ている反則。メンバー交代中に不測の事態が起って混乱すると起こる反則。唯一ラインズマンも取ることができるペナルティ。 アンスポーツマンライクコンダクト 相手選手や審判、あるいは観客などに対して、暴言を吐いたりスポーツマンらしからぬ言動をしたときに適用される。口汚い言葉を使った場合はミスコンダクト。ヘイトスピーチを行った場合はゲームミスコンダクト。審判に暴力を振るった場合はマッチペナルティ。 ディレードザゲーム 遅延行為。デフェンディングゾーンからベンチ上以外へのアウトオブバウンズなどがあたる。 ヘッドバッティング 頭突きをする行為。マッチペナルティ。 キッキング 相手を蹴る行為。スケート靴には刃がついているため極めて危険。マッチペナルティ。 反則によるペナルティーボックスでどちらか一方の人数が少ない場合、人数の多いチームの攻撃を一般にパワープレーと言い、大きな得点チャンスとなる。特に相手が2人少ない場合をツー・メン・アドバンテージと呼び、最大の得点チャンスとなる。またこの時、人数の少ないほうのチームの状態をペナルティキリング(キルプレイ)と言い、通常は守備に徹することとなる。以前は、ショートハンドと称したが短腕症を連想させる等の理由でそう呼ばれなくなった。 反則により選手が退場し選手の少ないチームにはアイシングが適用されない。このため、ペナルティを受け不利な状況にあるチームは、防禦と時間稼ぎをかねてパックを敵側に大きく打ち出す作戦が頻繁に用いられる。一方相手と同じ人数なら双方ともアイシングは適用され退場選手がいてもリンク上の選手が多い側のチームにはアイシングを適用する。 パワープレイの間に得点することを「パワープレイゴール」と呼び、パワープレイゴールが多いと勝ちに繋がりやすい。またペナルティキリングの状態であっても攻撃することは可能で、相手のミスなどからカウンター攻撃で得点することが稀にある。以前は「ショートハンドゴール」と呼んだが最近では前述の理由から「キルプレイゴール」などと呼ばれる。 ペナルティによる退場の時間が残ったままピリオドが終了した選手は、インターバルの間はベンチに戻れるが、次のピリオド開始時にはペナルティボックスに戻り、出場までの残り時間はそのまま持ち越す。 6人の選手のポジションの構成は、攻撃陣に左右2人のフォワードと守備陣にディフェンス2人、攻撃と守備の両方を行うセンター1名と、重装備に身を固めたゴールキーパー1人という配置が一般的であり、チームが反則を犯すと人数が減り攻撃の可能性が低くなるため、フォワードのポジションを1名ずつ欠いて守備重視にして行く布陣をとる場合が多い。ただし、ゴールキーパーをベンチに下げて、代わりに攻撃用の選手を投入する、エンプティ(6人による攻撃)もルール上認められており、ゲーム終盤に得点で負けているチームが、追撃の可能性を高めるために行うことが多い。 ゴールは常に1点、基本的にスティックを使ってパックをゴールに入れることが必要とされるが、自殺点はこれ以外でも認められることもある。パックを直接ゴールに入れるのでなければ、手を使って空中にあるパックを叩き落とすことや、スケート靴でパックを蹴ることも認められている。 試合は、正式にはピリオドと呼ばれる20分の単位を計3回行う。各ピリオドの間には、休憩時間として15分のインターミッションがある。インターバルの間には、プレーで荒れたリンクの表面を整備するための整氷車両、通称「ザンボニー」が登場することがある。 各ピリオドは、両チームのセンター同士が向き合い、ビジターチーム、ホームチームの順にスティックを 氷面につけた後、審判が落下させるパックをスティックで弾き合うフェイスオフによって開始される。またフェイスオフは、得点、反則などがあった場合は特定のフェイスオフ・スポットで行われるが、稀にフェンスを飛び越えてパックがリンクから出た場合(アウトオブバウンズ)はフェイスオフ・スポット以外で行われる場合もある。さらにゴールキーパーがパックを押さえ込んだり、選手の防具にパックが挟まったりした場合も、フェイスオフを行う。 第3ピリオドが終了して同点の場合は、延長戦に突入する。 第3ピリオド終了時で同点の場合に延長戦に入る。延長戦はオーバータイムやエクストラピリオドとも呼ばれる。第3ピリオドとオーバータイムの間にインターミッションはなく(NHLでは1分、アジアリーグやIIHFルールでの試合では3分間ベンチで休憩)、リンクの整備も行わない。 延長戦は基本的に5分間、先に得点を入れたほうが勝ちとなるサドンデス(いわゆるゴールデンゴール(Vゴール)方式)を採用する。アジアリーグのレギュラーリーグではオーバータイムではゴールキーパーを除き4人対4人(俗に言う 4on4)の状態で行う。5分間を終えて両チームとも無得点の場合、規定により引き分け、再延長、ゲームウィニングショットのいずれかが適用される。 NHLのプレーオフやアジアリーグのプレイオフでは、再延長として15分のインターミッション後に20分の延長ピリオドが行われる。どちらかのチームが得点を入れるまでこれが繰り返される。そのため最初の20分間で決着がつかない場合、第2延長ピリオド、第3延長ピリオドと続くことになる。 延長戦で決着がつかない場合はゲームウイニングショット(GWS)を行い、勝利チームを決める。NHLではシュートアウトとも呼ぶ。GWSはペナルティーショットとほぼ同じ要領で、両チーム3回のチャンスが与えられる。3回のチャンスでゴールが決まった数が多い方に得点が1与えられ勝利となる。そのためGWSが行われた試合はGWSでの点差にかかわらず必ず1点差ゲームになる。ゲームウィニングショットの参加選手、そして順番は各チームの申告で行われる。 3回のチャンスで同じゴール数の場合は1名ずつのサドンデス方式となる。この場合はゴールキーパーを除き、最初の3回に出場した選手は1度だけ再出場できる。 試合中に防具が破壊された(もしくは外れた)場合や負傷者が出た場合は、危険防止のため直ちに試合を停止する。二次的な危険を防ぐため防具の破片などを全て回収するまで再開はしない。 プレー中にスティックが折れた場合は、手元に残ったささくれだった柄の部分をただちに手離さなくてはならない。危険を回避するためであり、従わない場合はペナルティーとなる。なお、その際、新たなスティックをベンチから手渡される形で使用することが可能である。 キャプテンは、ユニフォームの左胸(チームによっては右胸)にCのマークを装着する。また、キャプテン代行(オルタネイト<Alternate>キャプテン)はAのマークを装着する。審判の判定に対するクレームは、原則としてキャプテンのみに与えられた権利とされるが、キャプテンが氷上にいない場合にはキャプテン代行がこの権利を代行して行う。NHLにおいてはローテーション制のキャプテン(かつてのミネソタ・ワイルド)、アルタネートキャプテン3人(現在のモントリオール・カナディアンズやトロント・メープルリーフス)も認められている。 得点、反則などが無効になる場合、審判は野球のセーフのような動作を行う。これはワッシュアウトという。「セーフ」と口に出す場合もある。 相手に体当たりして弾き飛ばすことをチェックという。基本的に、パックを保持している選手に対してのみ行うことが許され(保持している選手が相手を弾き返すのは可)、保持していない選手に行うとペナルティ(後述)になる。肩、上腕および臀部で当たることになっている。肘から下や脚を使うことは認められない。ボードにあまり近い場所で行うとペナルティをとられやすい。 他の競技でホームチームが有利な点は地元の声援など間接的な部分のみであるが、アイスホッケーではセット出しやフェイスオフの構えなど、ルールとしてホームチームが有利になっている。これは他の競技には見られない独特なものである。 ルールには、メジャーなものとしていわゆる国際ルール[3]とNHLルール[4][リンク切れ]の2つが存在しており、細部にさまざまな相違点が認められる。 オフサイド アタッキングゾーンにパックが入り込まないうちに攻撃側選手が入り込む、もしくはそこにいる攻撃側選手がパックに触れた場合オフサイドになる。パックを保持したままラインを踏み越しても(踏むだけならワッシュアウト、後述)オフサイド適用。もしパックがニュートラルゾーンに出た場合攻撃側の選手全員がニュートラルゾーンに出る前に攻撃側選手の手によってパックがアタッキングゾーンに運ばれた場合にも適用される。ライン手前のフェイスオフスポットでフェイスオフを行い試合再開。ラインが固定されているので防ぐのは比較的容易だが守備側が作戦として利用することもできる。パスオフサイドの場合パスの出された地点でのフェイスオフ。 アイシング・ザ・パック アイシングと略されることも多い。センターラインの手前から相手ゴール側に向けてパックを放ちそれが誰の手にも触れずにゴールラインを越えた場合を言う。自陣に攻められている側のチームがパックを取り戻した際、敵陣に向かってパックを放り飛ばして危機を脱する行為を防ぐルールである。 また自陣が攻められ続け、守備側の選手の疲労が大きい場合に、取り戻したパックを故意に敵陣まで放り飛ばしてアイシングを取り、その間に選手を交代させる行為もしばしば見られる。NHLの場合、このような試合の中断をなくすために、アイシングを発生させた側のチームは選手を交代させることが出来ない。 アイシングが発生すると試合は中断し、アイシングを発生させた側のディフェンシングゾーンのフェイスオフスポットまで戻されて試合が再開するため、相手方の攻勢となり失点(相手側では得点)の機会となる。 ペナルティ・キリング(キルプレイ)にあるチームについてはアイシングは適用されず、自陣ゴールに迫ったパックを敵陣深くに打ち出し時間稼ぎができる。 アイシングには「オートマチック」と「ワンタッチ」の2種類が混在しており、例えば国際ルールはオートマチックだがNHLではワンタッチとなる。違いは、クリアされたパックがゴールラインを超えた瞬間無条件でアイシングになるのがオートマチック。これに対してクリアされたパックにクリアしたチームのプレーヤーがタッチした場合はアイシング無効になり、クリアされたチームの選手がタッチをした瞬間アイシングコールされるものがワンタッチとされる。つまりワンタッチの場合はクリアしたパックが相手ゴールラインまで誰も触らずに超えたとしても、そのパックをダンプインとして先に自分のチームが触ればアイシングをクリアでき、そのままプレー続行となる。ワンタッチの場合でも触れたのがゴールキーパーの場合はアイシングにならない。 相手選手がパックに触れることが可能でありながらわざと触れずに避けたと判定されればワッシュアウトとなりアイシングは適用されない。ただしゴールキーパーだけは明らかに間に合う場合でもゴールクリーズから出なければ届かない場合には触れなくてよい。 パックがゴールクリーズに入った場合はアイシングを適用せずプレイ続行(クリーズのラインも含む、ほんの一瞬かすめるのみでもよい)。もっともこれはゴールにパックが入る可能性を意味するので6人攻撃でゴールキーパーがいない時を除けば発生は考えられない(通常であれば間違い無くゴールキーパーが止めて打ち返す)。 ラインパス センターラインパス、ツーラインパスとも呼ばれる。敵ゴール方向へ向けて前述の太いラインを2本以上またいでパスが成立すると適用される。パスの出された場所でフェイスオフを行い試合再開。国際ルールでは適用されておらず、NHL傘下の北米のホッケーリーグでのみ採用されていたが、2005-2006シーズン以降、廃止された。 インクリース 国際ルールではゴールの前にはクリース(またはゴールクリース)と呼ばれる長方形または半円の部分にゴールキーパー以外の選手は入ることができない。攻撃側の選手が入った状態でのゴールは無効になる。守備側が入って攻撃側のショットを防いだ場合はペナルティショット。NHLルールでは、かつては適用されていたこともあるが、判定を巡るトラブルがあって以降、適用されていない。ちなみにインクリーズ適用の有無に関係無く、ゴールキーパーはクリーズに入った攻撃側選手を排除する行為が認められており、よほど悪質な方法でない限り反則を取られない。一方で攻撃側がこれを防いだり反撃したりすることは認められず、行なえばペナルティ適用の対象となる。 アウトオブバウンズ パックがフェンスを飛び越えてリンク外部に飛び出した場合即座に時計を止めて近くのスポットと呼ばれるところから試合が再開される。DFゾーン内でクリアのときに故意にパックを出すと、試合を遅らせたということで、マイナーペナルティー、2分間の退場となる。 アイスホッケーを行うためには、さまざまな用具が必要となる。なおアイスホッケー用のスケート靴・防具類はアイスクロスでも使用される。 スティックはブレード湾曲の向きによって右利き用と左利き用がある。GK用のスティックはブレード部分の高さが高いなど形状がかなり異なっている。 ボールに相当するパックは硬質ゴム製で薄い円柱形をしている。直径7.62cm、高さ2.54cm、重さ156-170g。試合の際にはあらかじめ冷却し、試合中も氷上に置かれるため非常に固くなり、生身に当たると骨折等の危険がある。NHLの試合では2002年3月16日、オハイオ州コロンバスで行われたコロンバス・ブルージャケッツ対カルガリー・フレームス戦において、エスペン・クヌートセンが放ったシュートがアウトオブバウンズになり、パックが観客席に飛び込んで観客の少女を直撃、頭蓋骨骨折で死亡するという事故も起きている。 靴はラフなプレイから足や足首を護るように頑丈にできている。スピードより耐久性や小回りの利きの方が重要なため短く厚い刃が装着される。GK用の靴は脛に装着する防具があるためあまり目に見えないがプレイヤー用とは異なる。他のスケート靴に比べ怪我をしにくいようにできているがその分どうしても重くなる。しかし危険を減らすという性質が最も強く初心者でも悪い癖は比較的つきにくいのでスケートの練習には適している。 アイスホッケー用以外の靴を競技に用いるのは危険なため禁止されている。磨耗したり錆びたりした刃はプレイに不利なうえに危険なので定期的に研ぐ必要がある。錆の防止法は刃を乾燥させることが基本。研ぎ方を間違うと悪い癖のある靴になる。稀に新品などでも悪い研ぎ方をしていることがあるので、靴を変えた時はいきなり試合などに使わず、まず試しに滑走してみてから使うべきである。 かつてのプロリーグなどではヘルメットを着用せずプレーする選手が多く、前歯を欠損した選手の写真なども残っているが、ルールの項にもある通り競技には危険が伴うので必ず防具を装着する必要がある。無論事故や怪我の防止が目的であるため、プレイする上で有利になることを優先して選ぶべきではない。防具にはヘルメット(目を保護するためにバイザーがついているものもある)、肩周りや腰周りのパットなどがある。また、靴も足と足首における防具の役割を担っている。粗悪な防具ではかえって負傷の危険が増す場合もあるので信頼できるものを選ぶことが大切である。 GKは顔面を保護する機能のあるヘルメットを被り、手の甲や足に特殊なパッドを装着し、スティックを持たない方の手にはパックをキャッチするためのグローブをはめる(野球で用いられるファーストミットに似ているが、サイズはこれよりも大きい)。基本的に防具も靴もGK用のほうが頑丈に作られているが、背中を見せることのないGKの性質上、後部はプレイヤー用のほうが強固に作られている。 アイスホッケーは、スポーツ競技の中でも女性の間に最も急速に普及した競技のひとつともといわれている。男子ホッケーに見られるような、体系的なリーグ組織の編成までには至らないものの、最高レベルの1999年に創立されたNWHL  (National Women's Hockey League) やオリンピックチームからレクリエーション目的のチーム等が見られる。 女子と男子の競技における相違点としては、前者ではボディー・チェックが認められていないことがある。これについては、1990年の女子世界選手権以後、各国の参加選手の体格差に配意してこれを禁止する措置が採られたといわれているが、フィジカル・コンタクトというアイスホッケーの醍醐味を失わせるものと批判する意見もある。 ところで、女子選手では Manon Rheaume が NHLのプレシーズン・マッチでタンパベイ・ライトニングのゴールを守ったという記録が残されている(対戦相手はセントルイス・ブルース)。また、2003年にはHayley Wickenheiser が、フィンランドのSuomi-sarjaリーグにおいてKirkkonummi Salamatと契約し、男子選手に混じってリーグに参戦したことがある。 日本では北海道の苫小牧市、釧路市で特にアイスホッケーが盛んであり、日本のアイスホッケー選手の大多数が両市の出身となっている。その他、帯広市、札幌市、八戸市、日光市なども盛んな地域である。 2000年ごろから不況により社会人チームの廃部が相次いでいる。 本大会出場回数は男子8回、女子3回(2018年平昌オリンピックまで)。 ※女子は長野オリンピックから公式競技 日本のアイスホッケーのトップリーグとして日本アイスホッケーリーグが1966年から2004年まで存在していた。 2003 - 2004年シーズンからは日本リーグとは別に韓国のチーム、ハルラ・ウィニアを加えた5チーム(4回総当たり)で「アジアリーグアイスホッケー」を開催した。北米2カ国(アメリカとカナダ)をまたぐNHLを範にとり、アジア各国の強豪チームを集結させた大会を目指しており、2004 - 2005年シーズンからアジアリーグに3チームが新規加盟し規模が拡大されたことにより日本リーグは休止となった。 2009 - 2010年シーズン現在は日本からは王子イーグルス、日本製紙クレインズ、HC日光アイスバックス、東北フリーブレイズが参戦している。 詳しくはアジアリーグアイスホッケーの項目を参照。 2005 - 2006年シーズンより、日本アイスホッケーリーグは北海道と西日本の地方リーグとして復活した。 日本アイスホッケーリーグ北海道(通称:J-ice North)には札幌アイスホッケークラブ(旧札幌ポラリス)、釧路厚生社、タダノアイスホッケークラブ、05-06シーズンのみYONH.COM(ヨンエイチドットコム)06-07シーズンからセトルブレイズの4チームが加盟した。05-06シーズンは1回総当たり、06-07シーズンはホーム&アウェーの2回戦総当りのリーグ戦である。 また、日本アイスホッケーリーグ西日本(通称:J-ice West)には香川アイスフェローズ(旧サーパス穴吹→サーパス香川)、兵庫県選抜、福岡県選抜の3チームが加盟。05-06シーズンは2回戦総当たり、06-07シーズンは主催団体の使途不明金疑惑に伴い縮小され1回戦総当りで、このリーグ戦の優勝チームは日本のトップディヴィジョンであるアジアリーグで2006-07年までダブルフランチャイズながらも関西圏から参加した日光(神戸)アイスバックスと対戦できた。現在は経費などの都合で行われていない。 2015 - 2016年シーズン現在では、全国を6つのディビジョンに分割したリーグ戦と、ディビジョンの優勝チームで争われるJアイス・プレーオフが開催されている。 その他、各都府県における社会人リーグも存在する。 大学におけるアイスホッケーリーグは各都道府県連盟に加盟する大学チームを地域に編成して行われている。 大学日本一を決定する大会は1926年より開始された日本学生氷上競技選手権大会である。 この大会以外では各地域ごとにリーグ戦やトーナメント戦が開催されている。しかし、日本学生氷上競技選手権大会でほぼ毎年関東の大学が優勝していることから関東大学アイスホッケーリーグ戦(1部リーグ)と関東大学アイスホッケー選手権大会(Aグループ)は実質的に大学日本一決定戦となっている。日本学生氷上競技選手権大会・関東大学アイスホッケーリーグ戦(1部リーグ)・関東大学アイスホッケー選手権大会(Aグループ)の3大会で優勝するとスポーツ新聞では「大学三冠」と報道されることが多い。 大学男子アイスホッケーは黎明期から早稲田大学と明治大学が中心として動いており、この二強の牙城は高く、他の大学は崩せない状況が続いた。この早明2強体制に対して、1960年代後半から法政大学が頭角を現し、早明法の3強へ移行、1996年から東洋大学が日本学生氷上競技選手権大会6連覇を達成すると4強体制となっている。現在は早明法洋に加え中央大学の5強が群を抜いている。これを追って第二グループに頭一つリードして日大、以下慶應・日体大・専大・大東大などの大学が続き覇権(日本一)を争っている。2015年度の結果は優勝中央大学 準優勝日本体育大学 第3位明治大学 第4位東洋大学であった。 関西の有力校は、同志社大学・立命大・関西大学・関西学院大学・京産大・龍谷大などがあり、なかでも関西大学は2005年に同志社大学を21年ぶりに破りリーグ制覇し、2006年に大学としては日本初の屋内アイスアリーナを高槻キャンパスに建設するなど、全国の注目を集めている。 長野オリンピックから女子の正式種目として加えられスマイルジャパン(女子日本代表)で注目されている女子(大学女子)のアイスホッケーにおいても、2013年から日本学生女子アイスホッケー大会(インカレ)が開催され、初代優勝校は東京女子体育大学準優勝が日本体育大学であった。16校の地区代表校が参戦し競技人口も増えつつある。 野球やサッカーに比べ年少者の競技人口が少なく、大学で始める者も多い。このため高須克弥は「経験者が少ないスポーツでなら、一番が狙えるのではないか」と考え昭和大学にアイスホッケー部を新設し初代主将に就任した。 各リーグとは別に全日本アイスホッケー選手権が開催されている。この大会はオープン大会でアジアリーグに参戦する4チームの他に大学チームやクラブチーム、高校チームがトーナメント形式で参加し優勝を競う大会である。 日本では全国大会として、以下の大会が行われている。 リーグ戦  女子日本アイスホッケーリーグ (2012年開始) カップ戦  全日本女子アイスホッケー選手権大会 (1982年開始) 予選リーグ後トーナメント  日本学生女子アイスホッケー大会 (2013年開始) この他に、各地方・都道府県大会が行われている。 女子チームとしては道路建設ペリグリン、SEIBUプリンセス ラビッツ、釧路ベアーズ、バックスレディース、GANBAX神戸などが名門として知られている。    大学女子チームとしては、2018年現在 日本体育大学、東京女子体育大学の二強時代である。 行け!!南国アイスホッケー部 (久米田康治、『週刊少年サンデー』1991年 - 1996年)(全23巻だがアイスホッケーを行うのは単行本第4巻程度まで) スピナマラダ! (野田サトル、『週刊ヤングジャンプ』2011年 - 2012年、全6巻) 88 (並木洋美、『月刊少年マガジン』2009年 - 2010年、全4巻) GO AHEAD (樋口大輔、『月刊少年ジャンプ』2005年 - 2006年、全4巻) アイスマン (くじらいいく子、『週刊ヤングサンデー』1996年 - 1997年、全4巻) 鉄腕ブレイク (篠原知宏、『週刊少年マガジン』2008年、全2巻) トリックスター (原作:末田雄一郎、作画:高梨みどり、『週刊プレイボーイ』、1994年頃、全2巻) METAL FINISH (鶴岡伸寿、『週刊少年ジャンプ』1990年 - 1991年、全2巻) 氷の国の王子様 (小野ハルカ、『週刊少年サンデーS』、2012年 - 2013年、全3巻) 氷球姫×常磐木監督の過剰な愛情 (小野ハルカ、『週刊少年サンデー』、2013年‐連載中) ホッケーウルフ (原作:竹山洋、作画:小林辰禎、『週刊少年サンデー』1980年、既刊なし) その他 火の玉ボーイ (石渡治)(単行本第8巻、第9巻で主人公がアイスホッケーに挑戦する描写が一部掲載された。) スクラッチタイム (五十嵐浩一)(単行本第2巻の一部に描写がある。) さわやか万太郎 (本宮ひろ志)(おそらく最初にアイスホッケーを扱った作品、主人公はGK。) 「ママたちが戦争を始めた!」(女子アイスホッケー)1985年 日本テレビ 「プライド」 2004年 フジテレビ 北米ではメジャーなスポーツであるためアイスホッケーを題材とした映画が多く作られている。日本国内でソフトが入手可能な主な作品を紹介する。 「スラップショット」 (Slap Shot (film)) (1977年) 「The Sweater」 (The Hockey Sweater)  「スラップショット2」 (Slap Shot 2: Breaking the Ice)  「栄光のエンブレム」 「飛べないアヒル 原題: THE MIGHTY DUCKS (CHAMPIONS)」 (The Mighty Ducks) (1992年) 「D2 マイティ・ダック 原題: D2:THE MIGHTY DUCKS」 (D2: The Mighty Ducks) (1994年) 「D3 マイティ・ダックス 飛べないアヒル3 原題: D3:THE MIGHTY DUCKS」(1996年) 「ミステリー、アラスカ」 (Mystery, Alaska)  「The Rhino Brothers」 「ミラクル」 (2004年) ※ 1980年 レークプラシッド冬季オリンピック大会、大学生を中心に構成された米国代表チームが、4連覇中のソ連代表チームに挑んだ実話。 「ラフ・ショット」 (2004年) 「スマイル 聖夜の奇跡」(2007年) ※監督 陣内孝則 スラップショット (アバロンヒル) アイスホッケーのチームの監督となり、リーグ優勝を目指すカードゲーム。日本語版も発売された。 氷上の怪人 (ホワイトウィンド) 上記の「スラップショット」が絶版になった後に、改良を加え版元を変えて発売されたもの。 パワープレイ (アミーゴ de:Amigo) 上記の「氷上の怪人」が絶版になった後に、改良を加え版元を変えて発売されたもの。 DS・wii マリオ&ソニック AT バンクーバーオリンピック 2010年に開催されたバンクーバーオリンピックのゲームである。 なお、通常のアイスホッケーとは違い人数が4人となっている「DS版は3人」 また、ドリーム競技版「フィーバーホッケー」がある「不思議なマシンにパックを入れるとアイテムが出たり、得点が変わるなどがある」 SG-1000 チャンピオンアイスホッケー(セガ) ファミリーコンピュータ いけいけ熱血ホッケー部(テクノスジャパン) USA ICE HOCKEY in FC(ジャレコ) スティックハンター(ケイ・アミューズメントリース) アイスホッケー(任天堂)(ファミリーコンピュータ ディスクシステム用ソフト) ゲームボーイ ワールドアイスホッケー(アテナ) コナミックスアイスホッケー(コナミ) メガドライブ プロホッケー(エレクトロニック・アーツ・ビクター) PCエンジン ヒット・ジ・アイス(タイトー) TVスポーツ アイスホッケー(ビクター音楽産業) スーパーファミコン USAアイスホッケー(ジャレコ) スーパースラップショット(アルトロン) スーパーホッケー'94(ヨネザワ) NHL プロホッケー'94(エレクトロニック・アーツ・ビクター) セガサターン NHLパワープレイ'96(ヴァージンインタラクティブエンターテインメント) NHL 97(ヴァージンインタラクティブエンターテインメント) PlayStation アクチュア・アイスホッケー(コナミデジタルエンタテインメント) NHL POWERPLAY'96(ヴァージンインタラクティブエンターテインメント) NHL 97(エレクトロニック・アーツ・ビクター) NHL Blades of Steel 2000(コナミデジタルエンタテインメント) NINTENDO64 ウェイン・グレツキー 3Dホッケー(ゲームバンク) オリンピックホッケー ナガノ98(コナミ) ドリームキャスト NHL 2K2(セガ) PlayStation 2 NHL 2002(エレクトロニック・アーツ) PlayStation 3 NHL 2K9(スパイク) NHL 2K10(スパイク) Xbox360 NHL 2K10(スパイク) アーケードゲーム ホッケーTV(セガ) ブルファイター(セガ、アルファ電子) ファイティングアイスホッケー(データイースト) フェイスオフ(バンダイナムコゲームス)(Wii(バーチャルコンソールアーケード)) その他 NHLシリーズ(エレクトロニック・アーツ) Gretzky NHL(SONY) ^ 氷上の格闘技は本当だった!アイスホッケー衝撃の事実 | SPORTS STORY - NHK ^ 「ザンボニー」とは整氷車販売シェア世界一であるメーカーザンボニー (Zamboni) 社から、製氷車自体を一般名詞化したものである。 ^ サッカーでいうPK戦。 ^ 折れたスティックを交換のためにベンチに渡すことは可能 ^ 一発勝負の試合などではホームアイスアドバンテージを適用しない場合もある。 ^ なお、アイスホッケー靴によるスピード競技も存在するといわれる。 ^ ちなみに高校生以下の試合では、フルフェイス(顔の前面全てに保護をつけること)が義務付けられている。 ^ アイスホッケー 日本製紙クレインズ 今季かぎりで廃部へ - NHK ^ 空手、アイスホッケー、山の診療所。毎日が新たな体験の日々だった。 - 高須克弥記念財団 フォワード (アイスホッケー) ディフェンス (アイスホッケー) ゴールキーパー (アイスホッケー) アイススレッジホッケー スノーホッケー 長靴ホッケー ビアリーグ(草アイスホッケー) アイスホッケー選手一覧 アイスホッケー日本代表 アイスホッケー女子日本代表 パック (アイスホッケー) スティック (アイスホッケー) NHL 国際アイスホッケー連盟公式サイト 日本アイスホッケー連盟 アジアリーグ公式サイト アイスホッケー日本代表チームファンサイト Hockey Arena", "ゲーリックフットボール(英語: Gaelic football、アイルランド語: peil ghaelach) は、アイルランド発祥の団体球技である。 アイルランドでは、ハーリングと並んで国民的人気スポーツのひとつで、ゲーリック・ゲームズとして国技にも数えられる。 1884年に設立されたゲーリック体育協会(英語: Gaelic Athletic Association、アイルランド語: Cumann Lúthchleas Gael)によって運営されている。 起源は16世紀から17世紀頃でフットボールが発祥した当時の形に一番近い競技であると言われている。 1チーム15人のプレイヤーで編成され、相手チームと対戦する。手足を使い、ボールをH型の相手ゴールに入れる団体球技である。 H型ゴールの下の部分はネットが張ってあり、上の部分はラグビーのゴールポストの様になっている。ゴール前のポジションにはゴールキーパーが守っている。 ゲーリック・フットボールのボールは皮製の円形で、サッカーボールより若干小さい。男子用と女子用ではサイズが異なり、女子用は少し小さいサイズのボールを使用している。 4つのプロヴィンスのチャンピオンを決め決勝に残った州代表チームがクローク・パークでオールアイルランド・ファイナルを争う。 アイルランドのトップリーグでは、全員がアマチュア(本業を持っている)であると共に、リーグの所属チームの選手はそのホームタウン地域の自治体に在住・在学・在勤しているものに限られる。 ボールは手に持って移動できる。その際の移動範囲は4歩までと決まっており、ボールをバウンドさせることにより更に4歩進むことが出来る。但しこれが許されるのは1回までである。 上記規定の移動範囲内で、ボールを蹴るかフィスト・パス(ボールを掌か拳で打つパス)によって味方プレイヤーにパスが出来る。 このパスは自分自身に対しても有効である。これを行うことでプレイヤーはボールを持ったまま9歩まで進むことができる。 サッカーのオフサイドのような制度はない。 相手が持っているボールを手ではじいたり、ショルダータックルは認められるが、ラグビーのように体全体でタックルすることは認められない。ラグビーのようなスクラムも存在しない。 得点はH型ゴール(ラグビーのゴールポストにほぼ同じ)の上の空間にボールを蹴り通すか、ゴールポストの下のゴールネット(サッカーのゴールネットにほぼ同じ)の部分にボールを入れることで得点となる。ゴールポストを超えて得点すれば1点、ゴールネットにボールを入れるとゴールとなり3ポイントが得られるが、サッカーのようにゴールキーパーがゴールマウスを守っている。 オーストラリアンフットボール アメリカンフットボール カナディアンフットボール GAA公式サイト Japan GAA公式サイト Japan GAA会長による解説 The Asian County Board", "スティックボール (stickball) は、ゴム製のボールをほうきの柄のような棒(スティック)で打つ、野球によく似た路上スポーツ。主にアメリカの大都市部で行なわれている。本来は子どもの遊びであるが、大人になってプレイする者も多い。野球がプレイできる広場や空き地に恵まれない大都市において、路上で野球の楽しさを味わえるスポーツとして根強い人気を保っている。 スティックボールは、18世紀後半にイングランドで行なわれていたゲーム、例えばラウンダーズ (rounders) 、ワン・オールド・キャット (one old cat / catball) 、タウンボール (townball) などから発祥したとされている。また当時、イングランド南部やボストン植民地でプレイされていたストゥールボール (stoolball) とも関連すると考えられている。 スティックボールが大都市の路上スポーツとして確立したのは、1920年代から1930年代にかけての大恐慌時代だったとされる。このスポーツが定着したのは、アメリカ東海岸北部の各大都市(ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアなど)だった。主にイタリア系・ユダヤ系・アイルランド系のアメリカ人若年層に広く普及した。 20世紀後半にはアメリカ東海岸北部のみならず、フロリダ州やサンディエゴを中心とするアメリカ西海岸などにも普及した。ただ、もっともこのスポーツが盛んなのは、ニューヨークであり、ブロンクス、ブルックリン、クイーンズの下町や移民の多い地区でスティックボールが多くプレイされている。 スティックボールでは、野球のバットの代わりに、棒(スティック)を使用する。スティックの長さに制限はない。スティックには、モップやほうきの柄などが用いられる。そのほか、アイスホッケーのスティックを鋸で切断・加工し、スティックボール用のスティックとすることもある。身近な棒状のものをバットに見立てて使用するという、手軽さ、卑近さがスティックボールの魅力の一つとされる。 スティックにはバットのようにグリップエンドがないので、スイング時にスティックが飛んでいかないよう、滑り止めのテープがグリップ部分に手作業で巻かれる。 ボールも野球のボールと異なり、硬球でなく主にゴム製のボールが使用される。大きさや硬さに統一規格はない。用いられるボールには、テニスボール、やわらかい大きなゴムボール、小さなゴムボール(ピンプルボール: pimple ball)などがある。 市街地の路上で行なわれるゲームのため、硬いボールは使用しない。路上駐車の自動車や、道路に面した家々の窓ガラスを破損しないためである。 スティックボールの主なフィールド(競技場)は、市街地の路上である。打球の飛距離を考慮して、1ブロックまたはそれ以上がフィールドとして設定されることもある。ファストピッチ式スティックボール(後述)の場合、建物などのレンガ壁やフェンス、そしてその前面に広がる舗装された広場・空き地・道路がフィールドとなる。しばしば、舗装された校庭もスティックボールのフィールドとなる。 これらのフィールドは公式に設定されるものではない。その日のゲームの参加者たちが気ままに設定しているに過ぎない。この点にもスティックボールの特徴である手軽さ、気ままさが現れている。 スティックボールのルールは、野球にとても類似しているが、野球ほどの厳密さはない。ボールをスティックで打つことの他は、その場の雰囲気などで決まることが多い。 とは言え、ある程度の決まったルールはある。例えば、アウトになるケースは概ね次のとおりである。 打球を直接またはワンバウンド後に野手が捕球した場合 打者が三振または二振または一振した場合 なお、ファウルは空振りと同じである こうしたルールは「今日は二振でアウトにしよう」というように、試合前にあらかじめ設定される。 ベースは置かれることもあれば、置かれないこともある。ベースがおかれる場合、打者は野球と同様に打った後、各塁を走って回る。この場合、マンホールの蓋や駐車自動車のタイヤ、スプレーで路面に描かれた印などがベースとして用いられる。ベースがおかれない場合、打者は打った後に走る必要はない。 ベースがない場合、打球の飛距離に応じて安打・二塁打・三塁打が決まる。あらかじめ安打ポイント、二塁打ポイント、三塁打ポイントが設定され、打球の落下地点がどのポイントを越えたかで打撃結果が決定するのである。 ベースの有無に関わらず、遠方にある外壁やフェンスを越えた打球、向かいの建物の窓ガラスを割って飛び込んでいった打球が本塁打となる。 スティックボールは、以下にあげる3つの方式に分類される。 アメリカ英語では、ノックのように打者が自らトスしたボールを打つことをファンゴ (fungo) という。このファンゴ方式で行なうスティックボールが、ファンゴ・スティックボールである。 この方式では、打者は自分でトスしたボールを打つ。打者は、トスしたボールをノーバウンドのまま打ってもよいし、ワンバウンドまたは数バウンドしたボールを打っても構わない。打撃フォームを整え、打撃のタイミングを計る余裕を得るため、バウンドさせることが圧倒的に多い。しかし同時に、力みすぎてミスショットする打者も少なくない。 投手から打者へゆっくりとノーバウンドまたはワンバウンドの球を投じる方式である。このスローピッチ・スティックボールが、スティックボールの祖形だろうと考えられている。 この方式では、ストライクおよびボールの判定はなされない。たいていの場合、打者には2スイングまで許されている。好球を見逃した打者には、敵味方問わずブーイングが浴びせられる。 投手が遅い球を投じるので、打者は容易に打撃できると思われがちであるが、好投手は複雑な回転を投球に与えたり、巧みな制球と配球を織り交ぜたりし、自由な打撃を許さない。 ファストピッチ・スティックボールでは、投手が投げた手加減なしの速球を打者が打つ。野球と違い、捕手はいない。建物のレンガ壁に四角形のストライクゾーンをスプレーやペンキで描き、打者はそのレンガ壁の前に立ち、投手はレンガ壁のストライクゾーンに向かって投げ込む。投手の中には、150km/hの速球を投げる者もいる。 ストライクゾーンに投げ込まれるとストライクである。野球のストライクゾーンは、打者の体格に応じているが、スティックボールのストライクゾーンは、レンガ壁に描かれたままの完全固定式である。背の低い打者に不利なルールである。 ファストピッチ方式は、特にニューヨーク郊外などで盛んである。 スティックボールは、自由で気ままにプレイする子どもの路上スポーツであるため、競技の組織化は他競技ほど発達していないが、いくつか大人による競技団体と大会が設けられている。 スティックボールがもっとも盛んなニューヨークにはいくつかの競技団体が結成されている。21世紀初頭時点における主要な団体を挙げると、メジャー・スティックボール・リーグ (Major Stick Ball League: MSBL) 、ニューヨーク・エンペラーズ・スティックボール・リーグ (NYC Emperors Stickball League) 、イーストハーレム・スティックボール・リーグ (East Halem Stickball League) などがある。その他の東海岸北部の各都市やフロリダ州、サンディエゴなどにも組織化された団体がある。 これら団体の共同開催により、スティックボール・ワールドシリーズ (Stickball World Series) 、ニューヨーク・スティックボール・クラシック (NYC Stickball Classic)、ブロンクス・メモリアル・デイ大会 (Bronx Memorial Day Tournament) 、労働の日大会 (Labor Day Tournament) などが毎年開催されている。 また、ニューヨーク市立博物館 (Museum of the City of New York) の援助により、スティックボール栄誉の殿堂 (Stickball Hall of Fame) も設立されており、1970年以降、スティックボール史上に残る人物を表彰している。 ^ \"stickball\" - Encyclopaedia Britannica ^ NHK衛星第1テレビジョン放映『世界おもしろスポーツ再発見』 野球 路上スポーツ \"stickball\" - Encyclopaedia Britannica(英語) Stickball - Streetplay.com(英語) stickball.com(英語)" ]
ABC01-02-0217
足の裏にある体の臓器を活性化させるツボを刺激する健康法のことを、「反射」と「学問」を合わせた言葉で何というでしょう?
リフレクソロジー
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[ "リフレクソロジー", "加圧トレーニング", "手技療法", "柔道整復術", "フェルデンクライスメソッド" ]
[ "リフレクソロジー(英: reflexology)または反射療法(はんしゃりょうほう)とは、主に足の裏(手の平などを含む場合もある)の特定部位を押せば体の特定部位に変化が起こるという考えに基づき、疲労の改善などをはかる療法である。語源は、reflex(反射)と-ology(学や論の意味を表す名詞を作る接尾辞)を合わせた造語であるとの説が有力。「リフレ」と短縮して呼ばれることもある。日本での普及初期には「足裏マッサージ」とも呼ばれていた。 リフレクソロジーを行う人はリフレクソロジスト(英: reflexologist)または反射療法士と呼ばれる。 リフレクソロジーは、アメリカが発祥である。アメリカ人医師であるウィリアム・フィッツジェラルド (William H. Fitzgerald) (1872年 - 1942年)が手術中の患者がベッドの梁などに手足を押し付ける行為を観察し、これを医学的に研究したところ、痛みを和らげる効果があることがわかり、「ゾーン・セラピー」という本を発表した。アメリカの理学療法士、ユーニス・イングハム (Eunice D. Ingham) (1899年 - 1974年)は、フィッツジェラルドのゾーン・セラピーを発展させ、足の特定の部位(内臓反射区)が身体の各部位に対応していることを突き止め、「フットチャート」(足の地図)を作った。フットチャートは「足裏反射区図」と呼ばれることもあり、面としてとらえているところに特徴がある。 〔注〕フットチャートは、「足裏ツボ図」と表現されることもあるが、リフレクソロジーで刺激する反射区は、指圧点であるつぼ(経絡経穴)とはまったく関連性が無く「足裏ツボ図」という表現は正しくない(リフレクソロジーが\"面\"でとらえるのに比べ\"つぼ\"はバラバラの\"点\"でとらえていることをはじめとして、様々な相違点がある)。いわゆるマッサージ・あん摩・指圧とリフレクソロジーは似てはいるが、マッサージはフランス生まれであり、あん摩と指圧は中国の経絡経穴思想などの影響をうけて日本で誕生した手技であり、リフレクソロジーとは、起源や歴史、理論もまったく異なるものである。 スイス人宣教師ジョセフ・オイグスター(中国語版)(中国名:呉若石、1940年 - )が信徒にリフレクソロジーを行い、台湾に広まった。若石(じゃくせき)健康法ともよばれる。スイス人看護師の本を参考にした施術であったという。 イギリスにおいてリフレクソロジーは看護士などの活動により、数年にわたる大量の実データの収集と実証的・科学的・医学的な検証を経て、さらに議会の承認も得て、通常の保険医療にも組み込まれている。ホスピスにおける緩和ケアなど、患者中心のケア、患者のクオリティ・オブ・ライフに貢献している。 リフレクソロジーは、足裏などの皮膚の直下の組織の固さの微妙な違い(固い部分を彼らは「クリスタル」と呼んでいる)を施術者が親指で細やかに感じ取り、その時々の患者の健康の鍵となっている特定の部位を細やかに探りあてて、特定の部位に選択的に手技を施してゆくところに特徴がある。 日本では「英国式」と「台湾式」と呼ばれるものが有名である。いずれも元はアメリカが発祥である。「中国式」は台湾式に中国の伝統医学を組み込んだものであることも多い。なお、リフレクソロジーと似た手技として、観趾法(かんしほう)と呼ばれるものがあるが、これはリフレクソロジーとは起源も歴史も異なるものである。(詳しくは足裏健康法あるいは柴田観趾法の項を参照のこと) 英国式リフレクソロジー専門の店舗については、元JALキャビンアテンダント藤田桂子がイギリスでの経験をもとに「英国式」と銘打ち、駅内、駅直近を中心に店舗を展開したのをきっかけに、多忙なOLやサラリーマン層を中心に利用者が広がった。それに追随する形で類似の店舗が広く普及した。現在ではこのタイプの店舗は駅周辺だけでなく百貨店内やスーパーマーケット等まで広く分布し主婦層にも利用者は広がっている。利用者からは、短時間で気軽に利用できる点、清潔で上品な店舗と施術者の洗練された応対、施術中に本人が実感できる即効性、明朗な料金システムなどの理由で評価されているようである。「英国式」は、印象がいいと思ってつけているだけで、英国の医療機関などとの関係はない。[独自研究?] リフレクソロジー専門の店舗以外では、フットケアのサービスを行っていたものが、あらたにリフレクソロジーの手技を習得した者を採用したり、既存の従業員にリフレクソロジーの学校で手技を習得させるなどしてメニューに追加している例も多い。 近年では、日本のホスピスでボランティア形式で施術することで、末期癌患者のクオリティ・オブ・ライフに貢献している者もおり、患者からは評価する声が多い。[独自研究?] リフレクソロジー学校では、「西洋系」と「台湾系」として、若干異なるタイプの手技を並行的に教えているところがある。リフレクソロジーのイギリス、西洋、台湾いずれの系統の手技においてもフットチャート(足裏反射区の地図)自体は、ほぼ一致している。触れる強さ、手技の手順、記録をする/しない、などの点が異なっているだけである。[独自研究?] 台湾式と呼ばれるものは、別名「若石健康法」ともいう。英国式にくらべ刺激が強いとされている。[独自研究?] 法律での定義はされて無いが、無資格者マッサージ施術でエーワン(経営者は、あん摩マッサージ指圧師の有資格者)を摘発するにあたり、厚生労働省はマッサージの定義を「体重をかけ、対象者が痛みを感じる強さで行う行為」と回答している。また、厚生労働省(旧厚生省)は、無免許あん摩師の取り締まりの疑義紹介とあん摩マッサージの定義について下記の通り公文書にて回答している。 昭和38年1月9日医発第8-2号(抜粋) 法第一条に規定するあん摩とは、人体についての病的状態の除去又は疲労の回復という生理的効果の実現を目的として行なわれ、かつ、その効果を生ずることが可能な、もむ、おす、たたく、摩擦するなどの行為の総称である。 平成15年11月18日医政医発第1118001号の疑義照会においても、あん摩マッサージ指圧の手技について厚生労働省医政局医事課長は「施術者の体重をかけて対象者が痛みを感じるほどの相当程度の強さをもって行うなど、あん摩マッサージ指圧師が行わなければ、人体に危害を及ぼし、又は及ぼすおそれのある行為については、同条のあん摩マッサージ指圧に該当するので、無資格者がこれを業として行っている場合には、厳正な対応を行うようお願いする。」と回答した。 日本では、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和22年12月20日公布)において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければマッサージを業として行う事が出来ない。しかし、マッサージの手技定義が法的に明文化されておらず、また患者に害のある行為だと立証されない限り「職業選択の自由」の観点から法的に禁止出来ないとの最高裁判断もあり、整体などと同様に野放しであるが職業選択の自由を言い分に国家資格領域の職種の侵害が行われた場合は、職業選択の自由を盾に危険性が無い範囲であれば無資格者においても、日本の業務独占権の認められ各国家資格者が行う業務領域をも行う事が出来る事になり、そもそも国家資格制度として法令化され業務独占権のある日本の各国家資格の制度の根幹が崩れる事になる。この案件に対しては度々、国会でも法改正の質疑応答や議論はされている。 尚法的には、従来通りマッサージと表記して無資格者がマッサージを行うのは違法であり、厚生労働省通達でも保健所への取り締まり強化を指示している。これは、正規国家資格保持者と無資格者を混同せぬよう、また施術行為を広告で明示する事で世間の混乱を抑える役目が期待されている。 あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律で、国家資格要件に罰金刑以上(死刑・無期懲役・有期懲役・禁固を含む)の刑罰を受けた者は取得国家資格がほぼ与えられない。 無資格者と名称問題では無資格及びマッサージの名称で宣伝広告して業務することは犯罪行為であり法律違反である。近年、厚生労働省は無資格者のマッサージ行為については取り締まり強化してきている。 法制化運動までに至っていない。 名称の如何に関わらず、マッサージを業とできる者は医師以外では「あん摩マッサージ指圧師」の有資格者のみである。 {第一条 医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業としようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許(以下免許という。)を受けなければならない。(あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律より)} しかし、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律には、「あん摩」や「マッサージ」の行為・方法の定義がされていない為、職業選択の自由もあり「整体」や「カイロプラクティック」「足のツボ療法(リフレクソロジーを含む)」「リラクゼーション」などの看板を掲げ、無資格でマッサージ類似行為をする者が後を絶たず、また、柔道整復師による保険を利用した激安マッサージも問題になっている。 上記で注意が必要なのは、厚生労働省通達によると施術行為自体で違法とはならずとも、あん摩・マッサージ・指圧を標榜して類似行為を行えば「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」の違反となる見解を示している。また、「タイ式マッサージ」や「韓国マッサージ」「インド式マッサージ」などは有資格者でなくとも同法の第7条第2項違反となるので注意が必要である。 {第七条 あん摩業、マツサージ業、指圧業、はり業若しくはきゆう業又はこれらの施術所に関しては、何人も、いかなる方法によるを問わず、左に掲げる事項以外の事項について、広告をしてはならない。  一 施術者である旨並びに施術者の氏名及び住所  二 第一条に規定する業務の種類  三 施術所の名称、電話番号及び所在の場所を表示する事項  四 施術日又は施術時間  五 その他厚生労働大臣が指定する事項 ② 前項第一号乃至第三号に掲げる事項について広告をする場合にも、その内容は、施術者の技能、施術方法又は経歴に関する事項にわたつてはならない。(あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律より)} 柔道整復師、理学療法士及び助産師が行うマッサージに関しては手技療法を参照。 あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の国家資格を持つ者の団体からは様々な指摘がある。 エルンストらは1997年に、それまでの研究をまとめた論文を発表し、リフレクソロジーが治療効果を持つとする科学的根拠はない、と主張した。また2008年には別のグループによる、1996年以降に発表された研究をまとめた論文も発表されているが、こちらも同様の結論に達し、リフレクソロジーを治療に用いるのは薦められない、と述べた。 1997年の論文の著者の一人であるエルンストは、科学ジャーナリストのサイモン・シンとともに、代替医療の効果を批判的に検討した著書『代替医療のトリック』を2008年に発表したが、リフレクソロジーをその付録のなかで扱い、そこでは、リフレクソロジーがリラックスのための単なるマッサージ以上の医学的効果を持つとする科学的根拠はない、と主張した。リフレクソロジーでは「足の裏の部位と臓器等の間に繋がりがある」と考えるが、シン、エルンストらは、「その考えに生物学的な根拠はない」と述べ、さらに「臨床試験によれば、リフレクソロジーによる診断は信じるに値しない」と主張した。なお、彼らによれば、骨や関節に問題がある場合にはリフレクソロジーにより怪我をする危険性があると指摘しつつも、それ以外に重大な危険性は知られていないという。 近年日本では女子高生やメイド服などの衣装を着た店員が、上述のようなリフレクソロジーのサービスを行う「JKリフレ」や「メイドリフレ」と呼ばれるマッサージ店が東京・秋葉原や大阪・日本橋などを中心に増加している。 特に「JKリフレ」は女子高生の衣装を着た店員によるリフレクソロジー等の密着なサービスを売りにしているが、風俗店ではないことから18歳未満の少女を雇用しても風俗営業法違反にはならず、18歳未満の女子を含めた本物の女子高生が多く従業しているが、客である男性が少女からの密着なサービスを究極的に求めることによって、女性従業員への性的接触とつながりやすいために脱法風俗店となっており、児童買春などの犯罪の温床になっているとして問題視されている。 なお、メイドリフレには2種類の業態が事実上混在しており、上記のような風俗的な業態に近い「グレーゾーンメイドリフレ」と「正当派メイドリフレ」の2種類が存在する。「正当派メイドリフレ」は、健全で清潔感のある雰囲気で運営されており、「グレーゾーンメイドリフレ」と同一視するには酷ではあるが、「グレーゾーンメイドリフレ」が多数を占める現在、「正当派メイドリフレ」は「グレーゾーンメイドリフレ」の大量増殖の中で埋没しつつある。なお、「正当派メイドリフレ」として歴史が長く、現在も営業中なのは めいどさんのいるリフレのお店 癒あMaiden などが細々と残っているのみである。2000年代中期にオープンしたその他の正当派メイドリフレは現在すべて閉店している。 ^ 日本の学年制度は実務上は年齢主義によって強固に運営されており、中学卒業までは就学猶予・原級留置による過年度生は殆どなく、全日制高校でも過年度入学・原級留置による過年度生の割合は少ないため、全日制高校の女子生徒は殆どの場合は15 - 18歳であり、「本物の女子高生」という言葉は15 - 18歳の女子という認識が世間に広く浸透している。 ^ 宮地ゆう; 内藤尚志; 柴田直治; 小杉豊和. “「もむ」という仕事 世界の大人も子どもも : (Part2) スイスが源の足裏の絵。 : 台湾の一族が世界に広める”. 朝日新聞グローブ (GLOBE) (朝日新聞社): p. 2. http://globe.asahi.com/feature/090803/03_2.html 2016年1月13日閲覧。  ^ “無資格マッサージ等取り締まり関係資料”. あはき等法推進協議会 (2003年12月1日). 2016年1月13日閲覧。 ^ 愛媛県あはき推進協議会 (2005年2月). “あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律ならびに関係法令の遵守と違法者取締りの徹底強化に関する請願書”. 2011年12月8日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年1月13日閲覧。 ^ “無免許・無資格マッサージ”. 大阪府知事認可 大阪東洋療法協同組合. 2009年10月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年1月13日閲覧。[要文献特定詳細情報] ^ Ernst, E; Köder K (1997年). “An overview of reflexology”. European Journal of General Practice 3 (2): 52-57. http://informahealthcare.com/doi/abs/10.3109/13814789709160323.  ^ Wang, MY et al. (2008年). “The efficacy of reflexology: systematic review”. Journal of Advanced Nursing 62 (5): 512-520. doi:10.1111/j.1365-2648.2008.04606.x.  ^ シン, サイモン、エルンスト, エツァート 『代替医療のトリック』 青木薫訳、新潮社、2010年(原著2008年)。ISBN 9784105393052。 ^ a b “現役女子高生がマッサージ、ハグ…“オタクの聖地”に増殖中の「リフレ」って何だ?”. 産経新聞: p. 3. (2012年11月23日). http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121123/waf12112307010000-n3.htm 2013年2月7日閲覧。  ^ “「児童買春の温床」ストーカー誘発の危険も”. 産経新聞: p. 1. 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JAPANは販売している。一方、これは民間資格であり特許期限が切れたためインストラクターの資格などなしに誰でも指導することが可能である。 加圧トレーニングに関する発明である「 筋力トレーニング方法」は1993年11月に特許出願され、1997年7月4日に登録された(特許第2670421号)。出願から20年である2013年11月22日にこの特許は切れたこととなる。専門家によると特許が切れると加圧トレーニングのアイデアはパブリックドメインとなり、他社が、KAATSU JAPAN社の営業秘密の不正取得・参照以下の名称や登録商標を用いたり(たとえば、「コンプレッショントレーニング」等々、非類似の商標を使って、加圧トレーニングの方法を使った商売を行なう分には問題はない)まぎらわしいロゴ表示を用いず・同社の著作物をコピーしないことを条件に、同じようなトレーニングの商売を行なったり器具を製作・販売することが自由となる。その結果価格は下落し消費者はメリットを得られることとなる。なお、加圧と除圧をする従来のトレーニング方法とは別の特許を2012年取得しているが元来の血流制限下での筋力トレーニングについては期限が切れているので自由に行うことができる。 この特許は2011年、無効審判請求されたものの特許維持審決が下された(無効2011-800252号事件)。この審決を不服とする審決取消訴訟が知的財産高等裁判所に提起されたが、2013年8月28日に請求棄却判決がなされた。原告側は最高裁に上告をしたが、最高裁は裁判官全員一致の意見により、当該申立ては民事訴訟法318条1項(判例変更などではない場合)により受理すべきものとは認められないことから、上告審としてこれを受理しない旨の決定を2014年2月18日に下した。 ^ 加圧トレーニングの誕生と歴史 ^ 加圧のあゆみ ^ 加圧トレーニングのメカニズム ^ 宝田雄大のプライベートサイト[Takarada Lab.] ^ 宝田 雄大 著: 薬いらずの肉体改造法 ISBN 4583036639 ^ KAATSU JAPAN 株式会社 ^ テックバイザー国際特許商標事務所-加圧トレーニングの特許権は期間満了しています ^ KAATSU JAPAN社が取得した登録商標とロゴ ^ テックバイザー国際特許商標事務所-加圧トレーニングの方法特許がまもなくパブリックドメインに ^ テックバイザー国際特許商標事務所-加圧トレーニングの特許権は期間満了しています ^ 審決取消訴訟,平成24(行ケ)10400 - 知的財産高等裁判所 ^ 判決文PDF KAATSU JAPAN 株式会社 日本加圧トレーニング学会 無効審判の概要", "手技療法(しゅぎりょうほう)は、古代より行われてきた手で行う療法。薬やサプリメント、器械や道具、鍼、灸などを一切使わずに素手だけで行う。その一部は明治から昭和期に療術とも呼ばれていた。「触る・なでる・揉む・叩く・擦る・押す・身体の他動的操作および自動運動とその誘導」など皮膚上からの物理的刺激・心理的暗示により、筋肉・関節など皮下に存在する各組織に影響を及ぼす治療法をさす。 日本では様々な手技療法が行われている。経験的に民間で行われている伝統的な手技療法から、国家資格により定められている医業類似行為の按摩、マッサージ、指圧、柔道整復術並びに医療従事者の業務である理学療法まで、多くの種類がある。 日本の国家資格者側は、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」(昭和22年12月20日公布)において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ、人体に「触る・なでる・揉む・叩く・擦る・押す・身体の他動的操作および自動運動とその誘導」など総ての手技療法行為を業として、又は金品の授受が無くとも継続的に行うことは出来ない。違反した者には50万円以下の罰金が科せられる等を主張している。 しかし、厚生労働省の見解はヒトに害の無い限り取り締まりの対象とは出来ないとしている。 尚、「○○式・○○流」などの術式・流派についての表記は、按摩師、マッサージ師、鍼灸師に限りあん摩マッサージ指圧師法第7条第2項に抵触する。 ここでいう「業」とは、「不特定多数に対して、反復継続の意思をもって施術を行うこと。その対価の授受は問わない」と定義されている。 柔道整復師は、柔道整復師法(昭和45年4月14日公布)により治療に伴うマッサージ行為が限局的に認められているが、そのほとんどは単なるマッサージ行為のみのあん摩マッサージ指圧師法違反に等しいとする声がある。 厚生省のあん摩マッサージ指圧師とは違う柔道整復師のマッサージについての見解では、 あん摩師、はり師、きゅう師及び柔道整復師法(以下法という)第一条に規定する行為の個々の具体的内容については法的に明確な規定がないが、法第五条に規定するあん摩師及び柔道整復師の施術は、法第一条との関係の下に夫々あん摩師及び柔道整復師の個々の業務範囲におけるものと思料されますが、柔道整復師が柔道整復行為を行うに際し、社会通念上、当然に柔道整復行為に附随すると見なされる程度のあん摩(指圧及びマッサージを含む)行為をなすことは差支えない 柔道整復師が医師又は患者の要請等により、柔道整復の治療を完了して単にあん摩(指圧及びマッサージを含む)のみの治療を必要とする患者に対し、その行為のみを行うことは法第一条の規定に違反する との回答がある。 理学療法士は、理学療法士及び作業療法士法(昭和40年6月29日公布)により病院もしくは診療所において、又は医師の具体的な指示を受けてのみマッサージを行なう事が出来る。 助産師は、妊婦又はじょく婦に対して保健指導の範囲で行なうものであれば乳房マッサージを行う事ができる。 看護師は傷病者又はじょく婦に対して療養上の世話又は診療の補助の範囲で行なうものであれば乳房マッサージを行う事ができる。(ただし、法附則第五十二条第四項に規定する者を除く) 高卒後3年以上、専修学校や大学などの養成課程を修了した者に国家試験の受験資格が与えられる。 国家試験合格者の申請により、医籍に代わる各職種の名簿へ登録され、厚生労働大臣が免許を与えたときは免許証を交付する。 医業類似行為の資格で公的保険にも関わるため、無免許で行った場合は、無資格診療として罰せられる。 独立した判断で手技療法を行える医業類似行為の資格 あん摩マッサージ指圧師 柔道整復師 医師の指示の下で手技療法を行える医療従事者の資格 理学療法士 独学や民間スクール、留学などで、民間団体による独自の認定証や修了書、卒業証書を受けて行うもの。 あん摩マッサージ指圧師が行う手技療法は、「○○マッサージ」という名が付いている。 術式・流派についての表記は、あん摩マッサージ指圧師法第7条第2項に抵触する。 種類 アーユルヴェーダ 足裏マッサージ 足ツボマッサージ アロマセラピー・アロママッサージ 推拿(あん摩に記載) エステティック・エステマッサージ オステオパシー カイロプラクティック スポンディロセラピー 整体 整膚 操体法 ヘッドスパ リフレクソロジー ロミロミ タイ古式マッサージ タイ王国とのFTA(自由貿易協定)による「タイ・スパ・サービス」に伴う施術が日本国内で可能であるか検討を開始する予定とされていたが、関連団体から「無資格問題が未だに解決できていない」という現状の指摘を受け、慎重な姿勢をとらざるを得ない状況にある。カイロプラクティックも同様[要出典]。 昭和22年に「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が制定、翌、昭和23年に同法は施行された。 医療上の定義 その際、これらの営業法上に認められなかった者、つまり、国が法律を持って身分法を制定し法律に規定した資格と条件を具備する者以外の者で、 あん摩の術技の一部もしくは全部の行為 尖端鋭利な器具や機械で皮膚を刺激する行為、もしくは、はり術と類似の術技の行為 電機や光線療法や宗教的霊感暗示を応用した行為 その他、当時の療術業者の自称が「セラピスト」[要出典]「療術師」もしくは「治療師」である。 療術の定義 明治末頃から市井に出現した民間療法であって、指圧・カイロプラクティック・オステオパシー(後ろ二つはアメリカから伝来)などの手技療法、電気療法、光線療法、温熱刺激療法などの手段を用いて保険治病の目的で業となす行為を療術という。 あん摩、はり、きゆう、柔道整復等営業法の施行後は、経過措置により昭和23年2月以前に届け出ていた者に限り、昭和30年12月31日までの期限を設けて療術の営業が許されていた。だが、その裏で施行当時に12916名だった昭和23年2月以前に届け出ていた療術業者が年々増加し、発覚した昭和28年には4万人に達するという出来事が発生していた。 そして、昭和29年。8万人にまで上った療術業者、医師等は「療術師法」制定を目指して一大運動を展開した。 だが、当時の医師、あん摩師などの医療者は療術師法制定に反対の立場であった。 だが結局、全国鍼灸按マッサージ師連合会の断食闘争などによる必死の徹底抗戦によって、昭和30年7月30日。原案通り法案は可決され単独立法化は阻止された。 しかし、療術業者、療術学校の関係者からは「療術は按摩ではない、按摩にはさせられない」という強い反発があったため、業権に関する抗争をこれまで100年に渡り、面々と繰り返していた。 療術師法制定反対運動の決着がついた後、特例により、昭和23年2月以前に3カ月以上、業を行って届出をしていた者に対して、昭和31年1月1日~昭和33年12月31日の間に講習会が開催され、修了者に「あん摩師試験」が行われた。 その後、昭和33年には更に3年間の猶予期間が設けられたが、昭和35年1月、最高裁判決により「医業類似行為を業とすることを禁止処罰するのも人の健康に害を及ぼす虞のある業務行為に限局する趣旨と解しなければならない」旨の判断が示された。 厚生省は昭和39年、法律第120号をもって、先の法律を改正、「既得権者の療術行為は全面的に認める」ものとし、同時に「新規開業等についての資格条件、位置づけなど、速やかに方針を確立、明示する」ことになった。 その後、厚生省医務局は、療術を行う上で、患者の身体生命に危害を及ぼすことのないようにとの配慮から、昭和54年7月以降、講師を派遣するなど治療師の教育に積極的な姿勢で臨むことになった。 1990年代には、全日本鍼灸マッサージ師会は会報のタイトルを「鍼灸手技療法斯界通信(現在は『月刊 東洋療法』)」に改め、筑波大学附属視覚特別支援学校も鍼灸マッサージ師のための職業課程を理療科から鍼灸手技療法科に改めるなど、とくに視覚障害者が関与する現場では、あん摩・マッサージ・指圧を統合して『手技療法』と呼ぶ動きが出ていた。手技療法の名称は元来、療術師が使っていた呼称である。 民間療法は、「人の健康に害を及ぼす虞のない業務行為」でなければならないので、健康被害の発生はありえないとされるが、もし事故が発生した場合、当該民間療法が『人の健康に害を及ぼす恐れのある医業類似行為』であることを事故の発生によって立証してしまう(=違法行為になる)ため、最高裁判例により、その民間療法は以後、禁止処罰の対象になる。 通常は医師法違反で処罰される事になるが、場合によっては刑法(業務上過失致死傷罪)[要出典]により処罰される可能性がある。 民間療法の業務行為による「人への健康被害」を補償するとうたう賠償責任保険が販売されているが、保険業法第5条第3号ハにより、公の秩序を害する行為を助長、誘発する保険契約はできない。よって違法施術(健康被害が発生した施術が違法行為であることは前述のとおり)による健康被害に対しては保険金は降りない。 医療はインフラの一部である: 医療はライフラインなどと同様にインフラストラクチャーの一部であり、国民衛生に直接、関わる問題である事から、 「一定水準の教育基準を設けて、免許を与える権利」と「管理を行う責任」は当然、国家に帰結するので、医療従事者には国家資格が必要である。 判例・通達の新規開業への誤用: 昭和33年の最高裁判決「人の健康に害を及ぼす虞…」の箇所だけが取り沙汰されて一人歩きしているが、この判決の要旨は「…であるから、免許制度が必要であり職業選択の自由には反しない」というものであり、この判決以降の医業類似行為の可否を述べるものではない。 この判決に伴う医業類似行為者(=療術士)への経過措置の期限撤廃は既に行われており、それらは全て昭和23(1948)年2月以前に3カ月以上、業を行って届出をしていた者への経過措置であり、新規開業は許可されておらず新規開業は違法である。 仮に、これらの仕事が乳幼児に出来たとしても2008年現在、60歳未満の療術業者はいないはずである。 業界の慣習: ある特定の療法に従事するための免許が無いなど特段の事情が無い限り、あん摩などの医療業界では原則、民間資格を「資格・免許」とは呼ばない。 無免許・無資格: 前述された「医療インフラに対する国家の権利責任論」から、「民間療法」の指導を行う任意団体の認定・発行する免許は医療資格ではない。 術技の著しい類似性: 療術行為で行われる全ての技法は「揉む・叩く・擦る・押す・身体操作」など、あん摩・マッサージ・指圧で行われる一連の技術体系の範疇に含まれており、無資格者による手技療法は脱法行為である。 カイロプラクティックについては、背部、頚部および肩の痛みをはじめ、喘息、手根管症候群、繊維筋痛、頭痛などの様々な病態に対する脊椎矯正に関する研究が行われている。腰痛に注目した研究が多く、一部の人には脊椎矯正が腰痛に有効であるということが示されている。2010年に実施された種々の病態に対する手技療法の科学的根拠に関するレビューによると、脊椎矯正(またはモビライゼーション)は、背部痛以外にも、偏頭痛や頚性(頚部に関連した)頭痛、頚部痛、四肢関節の症状やむち打ちによる障害など、数種類の病態に対しても効果が認められるようである。また、このレビューでは、脊椎矯正(またはモビライゼーション)が有効ではないと考えられる病態(喘息、高血圧および月経痛など)や、科学的根拠が十分ではない病態(繊維筋痛、背部痛、月経前症候群、坐骨神経痛および顎関節症など)も明らかになった。 脊椎矯正の副作用には、一過性の頭痛、疲労感、施術部位の不快感などがあり、脳卒中、馬尾症候群(下部脊椎管において神経が圧迫された状態)、椎間板ヘルニアの増悪などの重大な合併症が数例報告されている。これらの合併症と脊椎矯正との明確な因果関係は判明していない。今後の研究でカイロプラクティックの安全性を検証することが求められている。 マッサージ療法に関する多くの科学研究には、予備検討や互いに矛盾するものも多い。科学的根拠(エビデンス)の多くは、痛みやさまざまな病気と関連する他の症状に対する効果を示している。科学的根拠(エビデンス)の多くは、効果が短期的であり、継続して効果を得るにはマッサージを受け続ける必要があることを示唆している。 マッサージ療法は、訓練を受けた施術者によって行われればリスクはほとんどないと考えられていが、施術者は妊娠中など特定の健康状態には注意を払う必要がある 平成22・23年度厚生労働省科学研究費補助金「地域医療基盤開発推進研究事業」(研究代表者:津谷喜一郎)・平成26年度厚生労働省『「統合医療」に係る情報発信等推進事業』で、鍼灸、あんま・マッサージ・指圧(あマ指)のエビデンスレポートがまとめられている。 整体は日本の手技療法であるが、理論・技法共に統一されておらず、教育レベル・施術レベルもバラバラの状態である。臨床研究はほとんど行われておらず、また行われた場合も、統一された手技療法ではないため、整体全体に適用することはできない。 ^ 昭和三二年九月一八日 医発第七九九号・山形県知事あて厚生省医務局長 ^ 「助産婦が乳房マッサージを業とすることについて」昭和三五年二月二五日 三五医第二九三号 厚生省医務局医事課長あて高知県厚生労働部長照会 ^ 井村宏次 著『霊術家の黄金時代』 ビイング・ネット・プレス、2014年 ^ 公認北海道治療医学校研究部 「改訂 最新療術学原論」 北海道治療師会 1987 (P3-5) ^ 昭和30年5月2日京都新聞夕刊・「医業類似行為の規制とは」 ^ 最新療術学原論 昭和21年 北海道治療師学院 ^ あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法違反, 刑集14巻1号33頁 (最高裁判所大法廷 昭和35年01月27日). ^ 「あん摩マッサージ指圧師法」への名称変更時の附帯決議のこと。 昭和22年の『あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法』制定時、経過措置による届け出を行なった療術(=医業類似行為)業者について期限を原則として撤廃。 「真にやむを得ない事由によって経過措置による所定の届け出ができなかった」と当局が認めた者が、この『改正法律の施行の口から六カ月以内に所定事項を届け出たとき』は『経過措置によって届け出をした者と同様とする』という決議。昭和22年11月から64年有余の間、療術業を継続している者には経過措置が適用される。 ^ 「手技療法」では必ず議題に上る事象であり、また手技療法における非常に有用な分類のため、本項目においても「民間療法資格および免許」もしくは「手技療法に関する国家資格を持たない者・開業権のない国家資格を所持して手技療法で業を行う者」を「無免許・無資格」もしくは「無免許者・無資格者」と呼称する。 ^ a b c d e f g Chiropractic: An Introduction NIH(アメリカ国立衛生研究所) ^ a b c d e f g カイロプラクティック 「統合医療」情報発信サイト 厚生労働省 ^ a b c d e Massage Therapy for Health Purposes: What You Need To Know NIH ^ a b c d マッサージ 「統合医療」情報発信サイト 厚生労働省 ^ エビデンスレポート集 「統合医療」情報発信サイト 厚生労働省 ^ 立花療術という整体の臨床研究が、2012年に代替医療の査読誌Evidence-Based Complementary and Alternative Medicine に掲載されている。 全日本鍼灸マッサージ師会 日本柔道整復師会 日本あん摩マッサージ指圧師会 日本理学療法士協会 日本カイロプラクターズ協会 手技療法・各種教育機関一覧 厚生労働省 「無資格者によるあん摩マッサージ指圧業等の防止について」 「医業類似行為に対する取扱いについて」 国民生活センター 「手技による医業類似行為の危害-整体、カイロプラクティック、マッサージ等で重症事例も-」 法人団体(国家資格者による) 全日本鍼灸マッサージ師会 日本柔道整復師会 日本理学療法士協会 社団法人 全日本鍼灸学会 一般社団法人日本鍼灸療術医学会(NIHON TRADITIONAL MEDICAL SOCIETY) その他・民間 一般社団法人日本カイロプラクターズ協会 NPO法人日本手技療法協会 一般社団法人身体均整師会 自然手技療法協会 日本理学整体学会", "柔道整復術(じゅうどうせいふくじゅつ)とは、柔術に含まれる活法の技術を応用して、骨・関節・筋・腱・靭帯などの原因によって発生する骨折・脱臼・捻挫・挫傷・打撲などの損傷に対し手術をしない「非観血的療法」という独特の手技によって整復や固定を行い人間の持つ自然治癒能力を最大限に発揮させる[要出典]治療術。日本独自の治療技術である。WHOの『伝統医療と相補・代替医療に関する報告』では、日本の伝統医療、民間療法として柔道セラピーという名称のみ紹介されているが具体的な内容の記述はない。 柔道整復術の源流は戦国時代の武術にたどることができる。武術の書物には「殺法」「活法」の記述がみられる。殺法は敵を殺傷する技、活法は外傷を治療する技術であり、殺法と活法は時代とともに発展・変遷をとげた。これらのうち活法が発展して現在の柔道整復術ができあがったといわれる。武芸者が道場を構えるようになって以降、道場生の怪我を治せる技術があることが道場主に必要な要素となった。江戸時代に柔道整復術の体系化に寄与した人物として以下があげられる。 三浦楊心(揚心古流、三浦流柔術の開祖) 吉原元棟 秋山四郎兵衛義時(楊心流の開祖) 二宮彦可 各務文献 華岡青洲 高志鳳翼 名倉直賢 磯又右衛門柳関斎源正足(天神真楊流の開祖) また整形外科の歴史と重複するが、海外ではアンブロワーズ・パレが記した外科書『パレ大全』が全世界に広がり、オランダでも翻訳され、日本にも蘭学の1つとして伝わった。オランダ経由で日本に入ってきたパレの書は、日本では楢林鎮山が『紅夷外科宗伝』として翻訳したものや、そこからさらに『整骨書』や二宮彦可の『正骨範』として出版されるに至った。内容は骨折や脱臼の治療方法について解説がなされたものであった。柔道整復は折れた骨や脱臼の整復を行うというように、どちらもこの流れを汲むものである。 明治維新後の西洋万能の風潮の中、1881年(明治14年)の漢方医学廃止によってそれまでの接骨術が顧みられなくなった。公認運動に際して、柔道家または柔術家の職業として「接骨院」の公認希望が多かった。しかし、接骨の業務に関して、明治期の文明開化によって、接骨は,内務省令で禁止になっていたから、接骨の名称は使用できない理由で、柔道による整復だから柔道整復術としたのである。これに対して1912年(明治45年)、柔道家・柔術家の職業として認められるよう柔術家(天神真楊流の門人が中心)を中心に運動が起こり、1920年(大正9年)の内務省令によって柔道整復術として公認された。その技術をもつ者は柔道整復師として認定され柔道家、柔術家の収入源となった。その後、1970年(昭和45年)の柔道整復師法の成立、1989年(平成元年)の同法改正で教育内容の充実が図られ、試験及び免許に関する事務権限が都道府県知事から厚生労働大臣への変更[要出典]、1993年(平成5年)に第1回目の国家試験の実施などを経て今日に至る。 柔道整復術の施術には、次のような特徴がある。 受身を重視する柔術/柔道では、他の打撃などを重視する格闘技と比較して、打撃などによる身体の重大な損傷は少ない。しかし、体を組み、投げを打ち、関節を極めるという柔術/柔道そのものの特性から、脱臼や骨折、捻挫などの怪我を負う比率が多い。柔道整復術は、柔術/柔道の技と表裏一体の関係(活殺自在)にあるので、回復に役立つ。 昔から柔術道場の隣に接骨院(整骨院)が多かったのは、その道場主が柔術の技とともに柔道整復術(接骨術)を身につけており、道場経営の余技として接骨院を営んでいたからとされる。 単に施術するだけではなく、そのスポーツ経験や伝統の技によって、早く使える状態に戻すことができる[要出典]。 ただし、現在では柔道経験と柔道整復師の資格には関係がない。資格を取るのに柔道の経験は不要であるものの、養成施設においては柔道の実技を必須授業としてカリキュラムに組み込んでいるところもある。 平成3年になされた厚生労働省通知によると、柔道整復はあん摩マッサージ指圧、はり、きゅうと並んで医業類似行為の一つとされている。その後の厚生労働省の平成23年の国民の質問に対する回答でも、その姿勢を踏襲している。 柔道整復分野において、捻挫と挫傷の概念については一般医学の使われた方と違い独自の解釈をしており、柔道整復教科書の年代ごとにも開きがあるため、医療間のコミュニケーション疎通性を欠くことが指摘されている。 ^ http://apps.who.int/medicinedocs/en/d/Jh2943e/ ^ 社団法人全国柔道整復学校協会・教科書委員会『柔道整復学ー理論編(改訂第5版)』、南江堂、2009年、3頁 ^ アンブロワーズ・パレ(1510 - 1590)は、フランス王室公式外科医。戦場医として活躍した。整形外科の元祖とされる。当時、ヨーロッパでは一言で「医を行う人」と言っても、いくつかタイプがあって、大学でガレノス医学など、伝統や慣習で成り立った医学を学んだ者たち(古い理論ばかりを学び、そうした理論を疑うことや自分たちで新たな発見を付け加えることは許されず、まともな外科治療はほとんど行っていなかった人たち)と、「床屋外科医」と呼ばれる、メスなどを用いて実際に外科的治療も行う人たちがいた。当時、「人の髪を切ることは、ひとの身体に刃物を入れること」として、外科と髪を切ることは同列に考えられ、それら(外科と床屋業)は同一人物によって兼業で行われていたのである。 パレは大学の教育を受けなかった(『近代外科の父・パレ』〈NHKブックス〉、83-87頁。「パレは床屋から身を立て、外科の実技には通じていたが大学で教育されたわけではなく」)が(というよりむしろ、そのおかげで、当時の大学での医学教育を受けずに済み、実践的に現場で各治療法の実際の効果を比較できたからこそ)実際に効果のある治療法を選びとることができ、その成果を書物として残したので、整形外科医の元祖と称されることになったのである。 パレの業績で特筆すべき事項は、当時の“医師”がキズを火で赤くなるまで熱した鉄のコテで焼く、という“治療”をしていたのに対して、出血を結紮により止め、軟膏や湿布により治療する方が治りや回復がよかったということを実績で証明し、書籍にしたことである(『近代外科の父・パレ』〈NHKブックス〉、100-102頁。「銃創の治療に新しい方法」)。 それに対して、当時の大学出の者たち(“医師”たち)は自分たちがなかなか成果をあげられないのに、パレが実績をあげたことを妬み、徒党を組んで、パレの書物の出版を妨害しようとしたり、あげくは(医師でありながら)パレを毒殺しようとする者までいた、と伝えられている(『床屋医者パレ』〈福武文庫〉、288,288-289。「当時の医師会はパレの本の焼却そして出版を差しと止めようとした」)。 だが幸いなことに、王にその腕を見込まれ、侍医にもなったパレは王に守られて、現在にその名を残すことができた。(『床屋医者パレ』〈福武文庫〉、96頁。) ^ 長崎のオランダ医学(長崎大学附属図書館医学分館所蔵) (Report). オリジナルの2013年6月25日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130625043101/http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/igakushi/nagasakioranda/nagasakioranda.html.  ^ 柔道整復術の歴史(公益社団法人 大阪府柔道整復師会) (Report). オリジナルの2012年12月19日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/20121219164248/http://www.osaka-jyusei.or.jp/_m/chiryohou/rekishi/.  ^ 柔道整復師-その歴史と展望-最新のバイオメカニクス(第35回北整学会 日本整形外科学会名誉会員) (Report). オリジナルの2012年12月19日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/20121219190957/http://www.jusei.or.jp/open/infomation/gakkaicarnival_06/spec_lec1.html.  ^ [1] ^ http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/hourei/061115-1a.html ^ http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000011dm5-img/2r98520000011dps.pdf ^ 佐藤揵「柔道整復師養成学校の教科書に見る「捻挫」「挫傷」の概念とその歴史的変遷」、『日本補完代替医療学会誌』第8巻第2号、2011年、 123-127頁、 doi:10.1625/jcam.8.123、 NAID 130001089228。 柔道整復師法-柔道整復師 医業類似行為-手技療法 按摩-鍼-灸 代替医療一覧 柔道整復師養成施設 天神真楊流 楊心流 真之神道流 日本武道医学 中山清 社団法人日本柔道整復師会 財団法人日本柔道整復研修試験財団 公益社団法人全国柔道整学校協会 日本柔道整接骨医学会 厚生労働省:平成22年衛生行政報告例の概要(8ページに柔道整復師数の統計を集録)", "フェルデンクライス・メソッドとは、イスラエル出身の物理学者、モーシェ・フェルデンクライス(Moshe Feldenkrais 1904 - 1984)によって創始されたソマティックエデュケーション。 フェルデンクライス・メソッドのレッスンは「ATM(Awareness through Movement=動きを通しての気付き)」と「FI(Functional Integration=機能の統合)」に分けられる。 フェルデンクライスのATMレッスンは主にグループ単位で行われるレッスンである。 フェルデンクライスのATMレッスンが他の多くの身体教育と異なる特徴として、指導者の動きを見て真似するのではなく、指導者の言葉を聴いて出てくる各人の自発的な動きで行うことが挙げられる。「こうしなければならない」という規範ではなく、各人から自然に引き出されるそれぞれの動きを重視するのである。そして、ある動きをすると身体の感覚がどのように変化するかを観察し、変化の「気付き」を積み重ねる。 フェルデンクライスのFIレッスンは指導者が生徒の身体に柔らかく触れながら、動きを案内してゆくレッスンである。 生徒が身体の機能を有効に活用できるよう、押し付けではない手助けをする。 日本のフェルデンクライス・コミュニティの最大手・最古参であり、フェルデンクライスのトレーニングコースを主催し、フェルデンクライスプラクティショナーを多数輩出している団体が、フェルデンクライスアカデミーである。また、主にその卒業生で組織された『日本フェルデンクライス協会』がある。その他に、トレーニングコースを主催している団体としては、フェルデンクライスWESTジャパンやフェルデンクライスジャパン、がある。そこの卒業生も日本フェルデンクライス協会のメンバーとして登録できることになっている。 『フェルデンクライス身体訓練法』M. フェルデンクライス 著 安井 武 訳 大和書房 (1982/12) 『心をひらく体のレッスン』M.フェルデンクライス著 安井 武 訳 新潮社(1988/05) 一光社(2001/10) 『脳の迷路の冒険』M.フェルデンクライス著 安井 武 訳 壮神社(1991/03) 『フェルデンクライスの脳と体のエクササイズ』マーク・リース、デヴィッド・ゼメック・バースン、キャシー・バースン 著 かさみ康子 訳 晩成書房 (2005/11) 『フェルデンクライス・メソッド Walking』ジェームズ・アマディオ著 橋本辰幸訳 スキージャーナル(2006/07)" ]
ABC01-02-0218
1989年、山陽相互銀行が普通銀行への転換にあたりユニークな名称に変更しましたが、その名称は何銀行でしょう?
トマト銀行
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[ "トマト銀行", "東山口信用金庫", "笠岡信用組合", "島根中央信用金庫", "中国労働金庫" ]
[ "株式会社トマト銀行(トマトぎんこう、英称:Tomato Bank, Ltd.)は、岡山県岡山市に本店を置く第二地方銀行。 コーポレートスローガンは「にんげん大好き」。 なお、アメリカのTomato Bank(宏基銀行)および韓国のトマト貯蓄銀行とは全く関係ない。 旧山陽相互銀行を前身とする県内唯一の第二地方銀行で、岡山県における第二の銀行としての性格を有する。1931年、倉敷市川西町に倉敷無尽として創業し、1989年に山陽相互銀行から普通銀行に転換して現在の商号となった。商号は、世界中で愛され庶民的で認知度の高い“トマト”が、転換後に目指す新しい銀行のイメージと一致したことに由来するもので、シンボルマークもトマトをモチーフとしたものとなる。当時の銀行名称としては斬新であったため、流行語大賞の候補に挙げられたり トマト加工業国内最大手の「カゴメ」が新規に口座を開設したりと話題にもなった。 地元金融機関としては(第一)地方銀行の中国銀行が圧倒的なシェアを有する岡山県内において、企業がメインバンクとする銀行は首位が中国銀行の11,248社(構成比47.00%)、次点がおかやま信用金庫の2,485社(同10.38%)であり、トマト銀行は3位の2,473社(同10.33%)である。一時期、バブル経済破綻の不良債権により経営が危ぶまれていたが、現在は安定している様子。 2014年7月、営業部が入る本棟と住宅ローンセンター棟の2棟からなる倉敷営業部(倉敷本社)を開設した。150人を収容できる多目的ホールも設置し、創業地である倉敷市でのプレゼンスを高めるとしている。 岡山県をホームタウンとするJリーグクラブであるファジアーノ岡山のスポンサーであり、一般通帳とは別に、同クラブチームのイメージカラーとロゴエンブレムをデザインした通帳およびキャッシュカードを希望者(チームサポーター)向けに発行している。 1931年(昭和6年)11月9日 - 倉敷市に倉敷無尽を設立。 1941年(昭和16年)3月 - 興国無尽、別所無尽を吸収合併し、三和無尽と商号変更。本店を岡山市に移す。 1943年(昭和18年)9月 - 中国無尽より営業権を譲り受ける。 1951年(昭和26年)10月 - 相互銀行法の施行により相互銀行に転換、三和相互銀行と商号変更。 1969年(昭和44年)4月 - 山陽相互銀行と商号変更。 1971年(昭和46年)7月 - 株式を大阪証券業協会(現・ジャスダック証券取引所)に店頭登録。 1975年(昭和50年)12月 - 本店を現在地に移転。 1976年(昭和51年)4月 - オンラインシステム移行 1987年(昭和62年)10月 - 大阪証券取引所市場第2部および広島証券取引所に上場。 1989年(平成元年)4月 - 普通銀行へ転換し、トマト銀行と商号変更。 2000年(平成12年)3月 - 広島証券取引所と東京証券取引所の合併に伴い東京証券取引所市場第1部に上場。 2002年(平成14年)7月8日 - 破綻した岡山県信用組合の事業を譲受。 2003年(平成15年)3月24日 - 広島銀行とATM・CD相互無料提携。 2005年(平成17年) 2月23日 - コンビニATM最大手であるアイワイバンク銀行(現・セブン銀行)と提携。 6月7日 - 岡山南営業部に、「新光証券カスタマープラザ岡山(後のみずほ証券カスタマープラザ岡山)」を設置。 2007年(平成19年) 3月13日 - ファジアーノ岡山FCのスポンサー契約を締結。 11月19日 - 「ファジアーノ岡山応援定期預金」の取扱開始。 12月10日 - イオン銀行のATMと提携。 2008年(平成20年)6月2日 - 中国銀行、岡山県下全信用金庫および笠岡信用組合とのATM・CD相互出金利用手数料無料提携サービス「おかやまATMネットサービス」開始。 2009年(平成21年)1月5日 - 勘定系システムをNEXTBASEに移行。 2010年(平成22年)3月23日 - ネット支店である「トマト銀行ももたろう支店」を開設。 2013年(平成25年) 4月12日 - 岡山南営業部に併設されるみずほ証券岡山支店カスタマープラザ岡山が廃止。 8月1日 - 「ファジアーノ岡山 通帳・キャッシュカード」取扱開始。 2014年(平成26年)7月14日 - 倉敷市に倉敷営業部(倉敷本社)を開設。 トマトビジネス株式会社 トマトカード株式会社 トマトリース株式会社 本店所在地である岡山県を基盤として隣県にも一部展開しており、店舗数は岡山県53店舗、兵庫県4店舗(赤穂・龍野・姫路・神戸)、広島県(福山)・大阪府・東京都・インターネット(ももたろう支店)に各1店舗の計61店舗である。 また、香川県の第二地銀である香川銀行は岡山県内にも複数の店舗があるが、その逆であるトマト銀の店舗は香川県に存在しない。かつては高松支店が置かれており、瀬戸大橋開通を翌年に控えバブル景気に沸いていた1987年(昭和62年)4月に開店したが、年数の経過とともに高松と岡山を跨いだ顧客ニーズが減少したため、2001年(平成13年)1月4日に児島支店へ統合された。ただし、トマト銀のテレビコマーシャルは両県が同一の放送エリアとなっている関係で香川県でも同様に放映されている。 2008年6月2日より、岡山県内に本店を置く金融機関の内、当行と中国銀行・岡山県下全信用金庫(おかやま・水島・津山・玉島・備北・吉備・日生・備前)および笠岡信用組合の合わせて11金融機関 におけるATM・CD相互出金利用手数料無料提携を行っている。 地方銀行の広島銀行とも個別に平日8:45~18:00の出金は手数料が相互無料取り扱いとなる。 神田今川橋郵便局・大阪新町郵便局・ゆうちょ銀行高松店(高松中央郵便局内)のゆうちょ銀行ATMでは平日8:45〜18:00・土曜日9:00~14:00の入出金は手数料が無料。それ以外のゆうちょ銀行ATMでは要手数料。 セブン銀行、イオン銀行との提携によりATM利用の際には入出金時、時間帯別ごとに設定された手数料が徴収される。 ^ 参画しない信用組合は民族系の朝銀西信用組合と信用組合岡山商銀の2信組。 ^ 岡山県・香川県内にある中国銀行管理のイーネットATM・ローソンATMは手数料無料取り扱いの対象外。 ^ 広島県・山口県内にある広島銀行管理のイーネットATM・ローソンATMは手数料無料取り扱いの対象外。 ^ “特別企画:岡山県 メーンバンク実態調査 (PDF)”. 帝国データバンク岡山支店 (2015年12月15日). 2016年10月1日閲覧。 ^ “トマト銀、倉敷に旗艦店 来夏開業”. 日本経済新聞. (2013年10月30日). http://www.nikkei.com/article/DGXNZO61826570Z21C13A0LC0000/ 2014年7月8日閲覧。  ^ “倉敷営業部(倉敷本社)7月14日オープン!~住宅ローンセンター倉敷、鶴形支店も同時オープン~ (PDF)”. トマト銀行 (2014年5月29日). 2017年7月8日閲覧。 ^ a b トマト銀行プレスリリース「ファジアーノ岡山通帳・キャッシュカードの取り扱いについて」2013年7月26日 (PDF) ^ 日立の地域金融機関向け共同アウトソーシングサービス「NEXTBASE」がトマト銀行の次期基幹系システムとして採用 株式会社日立製作所 2006年4月13日 ^ 「ITpro トマト銀行がNEC製勘定系の採用を白紙撤回、日立製に切り替え」『日経コンピュータ』 2006年4月13日 ^ “ディスクロージャー 2016 (PDF)”. 株式会社トマト銀行 経営企画部 (2016年7月31日). 2016年10月1日閲覧。 ^ “トマト銀行・店舗の移転および統廃合のお知らせ”. 2000年12月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月1日閲覧。 ^ トマト銀行とアイワイバンク銀行がATM利用提携 株式会社トマト銀行  2005年2月3日 ^ 株式会社イオン銀行とのATM相互利用提携について 株式会社トマト銀行 2007年10月22日 トマト銀行 公式サイト", "東山口信用金庫(ひがしやまぐちしんようきんこ)は、山口県防府市に本店を置く信用金庫。愛称は「とうしん」。 山口県中東部(山口市(旧阿武郡阿東町を含まない)、防府市、周南市、下松市、 光市、柳井市、岩国市および熊毛郡、大島郡、玖珂郡)を営業範囲とし、防府・柳井・岩国・光・下松・周南の各市と田布施町、平生町、上関町に支店を置く。 1918年(大正7年) - 6月 産業組合法に基づく金融機関として、徳山市(当時)に徳山信用金庫設立。 1948年(昭和23年) - 12月 市街地信用組合法に基づく金融機関として、下松市に下松信用金庫設立。 1950年(昭和25年) - 5月 中小企業等協同組合法に基づく金融機関として、柳井市に柳井信用金庫設立。 1991年(平成3年) - 4月 「徳山信用金庫」「下松信用金庫」「柳井信用金庫」の対等合併により東山口信用金庫設立。柳井信用金庫が存続庫となり、本店は柳井信用金庫本店に置かれ、下松信用金庫本店は下松支店に、徳山信用金庫本店は徳山支店になった。 2003年(平成15年) - 4月 個人向けインターネットバンキングの取扱いを開始。 2008年(平成20年) - 11月14日 防府市に本店を置く防府信用金庫と対等合併する旨を発表。当初の発表では合併日を2009年11月24日と予定していたが、合併日を2012年11月26日に延期することを発表した。 2012年(平成24年) - 11月26日 防府信用金庫と合併。存続金庫は東山口信用金庫とし、旧防府信用金庫本店を合併金庫の本店とした。新金庫の理事長には旧防府信用金庫理事長の嶋本博が就任。 2012年11月26日付で、防府信用金庫と対等合併(存続金庫は東山口信用金庫)。本店は旧防府信金本店に置かれ、旧本店は柳井支店、旧防府信金駅前支店が防府駅前支店に改称された。 支店コードについては、防府信金側のコードが旧来の番号に10を足したものに変更され、30番台が旧防府信金、1ケタおよび10、20、40番台が従来の東山口信金の店舗となった。 ^ a b 当金庫概要(東山口信用金庫、2012年11月26日閲覧) ^ “東山口信金・防府信金 合併、3年後に延期”. 山口新聞 (2009年10月24日). 2009年10月24日閲覧。 ^ 人事や事務システムの調整に想定以上の期間を要することから、全国各地にある信用金庫共同事務センターの東西各センターへの集約による日程制限なども重なったことにも配慮したため 東山口信用金庫", "笠岡信用組合(かさおかしんようくみあい)は、岡山県笠岡市に本店を置く信用組合。略称は『かさしん』である。 1952年12月 - 笠岡信用組合として設立。 1991年4月 - 岡山富士信用組合と合併。 2006年7月 - 矢掛支店開店 2018年5月 - 初の県外支店として福山支店開店 岡山県全域・広島県福山市 当信組のキャッシュカードを当信組ATMにて入出金する場合、ATM稼働時間内なら終日手数料がかからない。 また、「しんくみ お得ねっと」提携信用組合ならびに「おかやまATMネットサービス」提携金融機関(中国銀行・トマト銀行及び県下全信用金庫(おかやま・水島・津山・玉島・備北・吉備・日生・備前))のキャッシュカードでも、平日日中(8:45-18:00)及び土曜日中(9:00-14:00)の出金については手数料がかからない(当信組では入金ネットに加盟しているが、このうち「おかやまATMネットサービス」提携金融機関のうち、入金ネットにも加盟しているトマト銀行と6信用金庫(おかやま・水島・玉島・備北・日生・備前)のカードによる入金については、出金無料時間帯と同じ時間帯では無料で利用できる)。 JR東日本の駅などに設置されているVIEW ALTTEからの出金は、終日手数料がかからない[1]。 日本の信用組合一覧 笠岡信用組合 笠岡信用組合データ(金融庁)", "島根中央信用金庫(しまねちゅうおうしんようきんこ)は、島根県出雲市に本店を置く信用金庫。「中央しんきん」の愛称で親しまれる。 2006年11月6日に出雲信用組合と大田市に本店のあった旧島根中央信用金庫とが対等合併し、新「島根中央信用金庫」となった。本店営業部と本部は出雲市の旧出雲信用組合の本店、本部とした。なお、旧島根中央信用金庫本店については「大田営業部」となった。 理事長は旧信金理事長の的場理事長(川本信用金庫出身)、副理事長には旧出雲信組理事長の木佐理事長が就任した。合併前の時点で、預金量は約100億円、貸出量で約200億円ほど出雲信用組合が多かった。 合併後は出雲市内で隣接している店舗の統廃合を進めるとともに、人口の減少、地域地場産業(瓦生産)の衰退の著しい旧島根中央信用金庫の主要営業地区の石見部での営業体制を再考している。また、合併前に発覚した旧信金の監事による横領着服事件と直後に発覚した旧信金職員による着服による金融庁からの業務改善命令は合併後も継続し解除になっていない(2007年12月現在)。 なお、旧:出雲信組の流れを引き継いで島根銀行ATMとの相互開放(しまぎん・中央しんきんネットサービス)も実施されている。 1948年(昭和23年)6月 川本商工協同組合設立。 1948年(昭和23年)11月 大田商工協同組合設立。 1952年(昭和27年)5月 大田信用金庫に改組。 1953年(昭和28年)5月 川本信用金庫に改組。 1969年(昭和44年)8月 都野津信用組合を吸収合併し、島根中央信用金庫に改称。 1974年(昭和49年)4月 大田信用金庫と島根中央信用金庫が対等合併。存続金融機関を大田信用金庫とし金庫名称を島根中央信用金庫とした。 2004年(平成16年)10月1日 山陰合同銀行とATM・CD相互無料提携(さんいんネットサービス)を開始。 2006年(平成18年)11月6日 出雲信用組合と旧島根中央信用金庫が対等合併(信用金庫を存続金融機関とした)、本店を出雲市(旧:出雲信用組合 本店)に移転する(旧本店は「大田営業部」に改称)。 当初2006年4月に出雲信用組合との合併を予定していたが、2005年12月に発覚した常勤監事によるものと更に2006年1月に発覚した職員による顧客の預金の着服事件により金融庁から業務改善命令が出されたため、合併は2006年11月6日に延期になった。その時、旧信組の元理事を新監事に招聘し合併に至った経緯がある。また、本店が出雲市に移転するため、名称は旧金庫の名称を使用することとした。 2017年(平成29年)6月27日 理事長的場章好(79歳)が退任し福間均(59歳)が新理事長に就任。 島根県 松江市、浜田市(旧浜田市、旧旭町)、出雲市、大田市、安来市、江津市、雲南市、仁多郡奥出雲町、飯石郡飯南町、邑智郡川本町、美郷町、邑南町 広島県 三次市(作木町)、安芸高田市(高宮町)、山県郡北広島町(旧大朝町) ^ “島根中央信金理事長に福間氏”. 日本経済新聞. (2017年6月28日). https://www.nikkei.com/article/DGKKZO18182950X20C17A6LCC000/ 2017年12月9日閲覧。  島根中央信用金庫", "中国労働金庫(ちゅうごくろうどうきんこ、略称:中国労金(ちゅうごくろうきん)、英語:Chugoku Labour Bank)は、広島県広島市南区に本店を置く労働金庫である。 鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県を営業エリアとする。 中国労金へ統合・合併される前の岡山労働金庫は、1950年(昭和25年)6月に、全国で最初に設立された労働金庫である。 大田、因島、柳井の3拠点は、関連企業の中国労金サービスが手掛ける労金代理店となっており、口座は、母店となる別の拠点に開設される。なお、労働金庫の業態で、法人が代理店を手掛けたのは当労金が初である。 2003年(平成15年)10月 - 山陰・岡山・広島県・山口県の各労働金庫が合併し中国労働金庫発足する。 2007年(平成19年)6月1日 - 中国労働金庫インターネット中国支店を開設。これに伴い、店舗の一部が基幹店に統合されることになった。 2014年(平成26年)3月 - 新築した本店ビルでの業務を開始。 労働者福祉 中国労働金庫" ]
ABC01-02-0219
県の鳥はキジ、県の花はモモである、桃太郎ゆかりの県といえば何県でしょう?
岡山県
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[ "岡山県", "上房郡", "吉備郡", "加賀郡", "勝田郡" ]
[ "岡山県(おかやまけん)は、日本の都道府県のひとつ。中国地方南東部に位置し、瀬戸内海に面する県。県庁所在地は岡山市である。 瀬戸内の気候と地勢を背景に古代より独自の文化圏としての歴史を有し、現代でも中国・四国地方の交通網の要衝として発展を続けている。県庁所在地の岡山市は2009年(平成21年)4月1日、全国で18番目の政令指定都市に移行した。 古代、沿岸域から内陸地域にかけては「吉備国」として、現在の広島県東部に位置する備後地方や香川県島嶼部などとも併せて大和朝廷に並ぶほどの勢力を成していた。江戸時代初期には岡山に池田氏、津山に森氏が外様大名として入封し、城下町を形成した。特に池田綱政は日本三名園の後楽園を造成し、閑谷学校を開くなど、文化・教育面に多大な功績を残した。倉敷には寛永19年(1642年)に代官所が置かれ、江戸幕府直轄の物資集積地として船舶輸送中継も担う天領として発展した。 県内を南北に流れる3つの一級河川(高梁川・旭川・吉井川)による潤沢な水源、温暖で長い日照時間、江戸時代から昭和にかけての干拓によってもたらされた広い農地を背景として、水稲や麦、果樹の生産が盛んである。特に白桃、マスカット、ピオーネなどは生産量日本一であり、品質の高さから国内外に向けて高値で出荷されている。また、県北の標高1,200mに位置する蒜山高原では、ジャージー牛の大規模な放牧が行われており、チーズやヨーグルトやアイスクリーム等に加工されている。 倉敷市にある水島港は国際コンテナターミナルを備え、鉄鋼(製鉄)石油化学などの基礎素材型、自動車等の加工組立型の企業群が立地し、臨海工業地帯を形成している。1988年(昭和63年)に開通した瀬戸大橋、1997年(平成9年)に全線開通した山陽自動車道をはじめとして、鉄道網、高速道路網が東西南北に整備されている。 近年では瀬戸内市で2019年4月運転開始予定の「瀬戸内 Kirei 太陽光発電所建設プロジェクト」や、真庭市の木質バイオマス発電事業や日本最大の257.7メガワットの太陽光発電所となる作東メガソーラー発電所(運転開始は2019年9月予定)など、有望地として自然エネルギーを最大限活用させる再生可能エネルギー推進が県下全域で進められている。 県庁所在地における快晴日数の多さや降水量1mm未満の日数が全国最多であることから、1989年(平成元年)から「晴れの国 おかやま」を県のキャッチフレーズとしている。 県北部には、三本の一級河川(旭川・高梁川・吉井川)の県内源流ともなっている中国山地の山岳地帯がそびえている。標高500〜1,000mの中央部には鍾乳洞などのカルスト地形が見られる吉備高原の高地が連続的にひろがり、南部には三大河川によって形成された裾野の広い岡山平野が広がっている。岡山平野にはかつて瀬戸内海に浮かんでいた小さな島が丘陵地として残り、干拓で江戸時代に繋がった児島半島が県の南端部にある。 主な山地としては蒜山(標高1,122m)や後山(標高1,345m)などがあり、主な湖沼としては、奥津湖、恩原湖、湯原湖、児島湾奥の締切堤防化によって人工的に造られた児島湖などがある。 なお、兵庫県とは山地および備前市の取揚島で、鳥取県・広島県とは山地で、香川県とは海上および玉野市の井島(石島)で隣接している。 国土地理院地理情報によると岡山県の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは104.87km、南北の長さは116.98kmである。 中国山地と瀬戸内海に挟まれ、南部の平野地帯は典型的な瀬戸内海式気候を示す。一方、北部の中国山地沿いは日本海側気候に属し、豪雪地帯に指定されている。真庭市蒜山では冬季に1mを超える積雪となるほか、−10℃以下まで下がることもある。県北部山間域には4箇所のスキー場がある。中国山地と瀬戸内海の中間に位置する吉備高原は両者を折衷した気候を呈し、南部より多少冷涼で雨量も多く、冬季の寒さは厳しい。 日本列島に来襲する台風やその影響による風雨は中国山地・四国山地によって弱められることが多く、それに加えて夏には瀬戸内海で発生する「凪」や山地越えのフェーン現象の影響もあって、都市部や内陸の盆地を中心に猛暑日になる日も少なくない。県庁所在地の岡山市は、吉備高原に属する旧建部町・御津町地域を除いて日照時間が年間約2,000時間と長く、年間降水量は1,100mm程度であり、日本有数の降水の少ない土地である。降水量1mm以上の日数が日本で最少であることが岡山県のキャッチフレーズでもある「晴れの国おかやま」の根拠となっている。 国立公園 瀬戸内海国立公園、大山隠岐国立公園 国定公園 氷ノ山後山那岐山国定公園 県立自然公園 高梁川上流県立自然公園、吉備史跡県立自然公園、湯原奥津県立自然公園、吉備路風土記の丘県立自然公園、備作山地県立自然公園、吉備清流県立自然公園、吉井川中流県立自然公園 1963年(昭和38年)9月1日 - 岡山県和気郡日生町の大字福浦の一部および大字福浦地先海面のうち真尾鼻突端から綱崎突端まで引いた線以内の区域が兵庫県赤穂市に移行(越県合併) 実行されなかったもの 1963年(昭和38年) - 岡山県笠岡市旧茂平村地区が広島県福山市との越県合併を模索する。広島県福山市に合併嘆願書を提出するも、岡山県の反対により実行されなかった。詳細については笠岡市#旧茂平村越県合併騒動の項を参照されたい。 岡山市 倉敷市 津山市 玉野市 笠岡市 井原市 総社市 高梁市 新見市 備前市 瀬戸内市 赤磐市 真庭市 美作市 浅口市 和気町 1 2 矢掛町 新庄村 鏡野町 勝央町 奈義町 西粟倉村 久米南町 美咲町 吉備中央町 2004年(平成16年)以降、岡山県内でも平成の大合併が進められ、2011年(平成23年)現在、以下の15市・10郡・10町・2村がある。町はすべて「ちょう」、村はすべて「そん」と読む。 県庁所在地の岡山市は2009年(平成21年)4月に政令指定都市に移行し、 北区・中区・東区・南区の各4行政区が設置された。 広域行政圏 岡山県の広域行政圏は旧地方振興局単位で分けられる。 備前地方 岡山圏 - 岡山市、玉野市、加賀郡吉備中央町(旧御津郡加茂川町) 東備圏 - 備前市、瀬戸内市、赤磐市、和気郡和気町 備中地方 倉敷圏 - 倉敷市、総社市、都窪郡早島町 井笠圏 - 笠岡市、井原市、浅口市、浅口郡里庄町、小田郡矢掛町 高梁圏 - 高梁市、真庭市(旧上房郡北房町)、加賀郡吉備中央町(旧上房郡賀陽町) 阿新圏 - 新見市 美作地方 津山圏 - 津山市(旧勝田郡勝北町を除く)、苫田郡鏡野町、久米郡美咲町、久米郡久米南町 真庭圏 - 真庭市(旧上房郡北房町を除く)、真庭郡新庄村 勝英圏 - 美作市、津山市(旧勝田郡勝北町)、勝田郡勝央町、勝田郡奈義町、英田郡西粟倉村 商工会連合会地区 商工会連合会の地区は上記と異なる。 岡山地区 - 岡山市 備南地区 - 総社市、玉野市、倉敷市(真備、庄、茶屋町)、岡山市(灘崎) 備西地区 - 倉敷市、笠岡市、浅口市、井原市、矢掛町、 御津・東備地区 - 備前市、瀬戸内市、赤磐市、岡山市(御津、上道)、和気町、吉備中央町(加茂川) 備北・阿哲地区 - 新見市、高梁市、吉備中央町(賀陽) 真庭地区 - 真庭市、新庄村 苫田・久米地区 - 津山市、鏡野町、美咲町、久米南町 勝英地区 - 津山市(勝北)、美作市、奈義町、勝央町、西粟倉村 その他に広域市町村圏がある。 県名は県庁所在地の岡山市に由来する。「岡山」とは元々現在の岡山城のある場所に存在した小高い丘のことを指して呼んだものであったが、戦国時代に宇喜多秀家が「岡山」に城を築き、その後形成された城下町を含めて岡山と呼ぶようになったことに由来する。なお、秀家の書状から「岡山」が城下町の地名として呼ばれ始めたのは文禄3年(1594年)頃からであると推測される。 旧石器時代 現在の岡山県の地域には、鷲羽山遺跡(倉敷市)などの原始からの遺跡が存在しており、旧石器時代から人々が居住していたことが窺える。県の最北端上斎原村(現鏡野町)に旧石器時代の恩原遺跡がある。その遺跡の下層(約2万5千年前の土層)からナイフ形石器が出土しており、その上層から約1万年前の細石刃も出土している。恩原遺跡では二基の炉跡が検出されている。うち一基は10個ぐらいの小石を半円形に並べており、焚き口幅40cm、奥行35cmの小規模な炉で、石組みの中に木炭塊があり、炉の周辺に灰土が広がっていて、2万2千年前の旧石器時代人の生活痕跡を示す珍しい遺構である。 縄文時代 地球の温暖化による海面上昇で瀬戸内海が出現した。そのことを示すのが瀬戸内市牛窓町の黄島貝塚である。その後は、人々は狩猟・採集・漁労の自然からの贈り物で生活し、豊かになっていった。縄文時代も後期になり、津雲貝塚で170体以上の人骨が発掘されている。晩期には岡山市北区の津島江道遺跡では水田遺構そのものが検出されている。縄文時代の終わり頃には、狩猟・採集活動をしながら水稲耕作も行われた。 弥生時代 また、彦崎貝塚(岡山市南区)では縄文時代前期の土層からイネのプラント・オパールが大量に出土し、朝寝鼻遺跡(岡山市北区)でも同様の発見があり、縄文時代前期には畑作によるイネの栽培が始まっていたとみられる。 古墳時代 古代には吉備国といわれ、畿内地域や北九州地域、出雲地域等とともに、日本列島の中心地のひとつとして栄えていた地域である。吉備国は畿内勢力と同盟関係を築いて日本列島の統一期(4世紀中葉)に影響を与えた。優れた鉄製技術を持ち、その支配地域は現在の岡山県・広島県中東部・香川県島嶼部・兵庫県播磨地方に及び、加古川を境界とし、さらには四国や芸予諸島にも至っていたと推定されている。また、大きさが全国の古墳の中で第4位、一般人でも立ち入れる古墳としては全国第1位の規模をもつ造山古墳(岡山市北区)や全国第9位の作山古墳(総社市)、両宮山古墳(赤磐市)等の大型古墳が岡山県内に残されている。 6世紀前半に大和朝廷への臣従したのち、吉備国は勢力抑圧のために備前国、備中国、備後国の3国に分割され、さらには備前国から美作国が分国された。国府は現在の岡山市(備前国)、総社市(備中国)、津山市(美作国)にそれぞれ置かれた。 旧吉備国からは奈良時代に中央政権で権勢を振るった吉備真備や道鏡の天皇位簒奪を阻んだ和気清麻呂らの優れた人材を輩出した。 平安時代には備前・備中は受領にとって実入りの多い、「上国」のひとつとされており、農業生産力が高かった。またこの時代に各地に荘園が拓かれた。特に鹿田荘は藤原氏の氏の長者が受け継ぐ4つの荘園(殿下渡領)のひとつであった。その他に大安寺荘(岡山市北区)など。平安時代末期には平氏の勢力圏に置かれ、寿永2年(1183年)には県の南東部、倉敷市玉島地区で、翌年には藤戸地区で源平合戦が繰り広げられた(水島の戦い・藤戸の戦い)。 鎌倉時代に入ると元来東国を拠点としていた那須氏・松田氏・三村氏・庄氏・赤木氏などの有力御家人が地頭職などを得て移住・土着した(東国から西国に移った鎌倉幕府御家人という意味で西遷御家人と呼ばれる)。 南北朝時代、後醍醐天皇が隠岐に流される際の通り道になったことで、児島高徳など宮方に与同する武士が現れ、隠岐脱出後は最初に拠点を構えた伯耆船上山が近隣であったため多くの武士が宮方として活動した。観応の擾乱で室町幕府が分裂すると山陰に勢力をもつ山名氏が侵攻し、北部美作を中心に山名氏の勢力下に置かれる。しかし、山名氏は明徳の乱で衰退した。 室町時代には鎌倉幕府倒幕に活躍した播磨の豪族・赤松則村(円心)が播磨・備前・美作3国の守護職に任ぜられ、以後赤松氏が代々三国の守護職を受け継ぎ、この三国はほぼ連動した歴史を展開する。赤松満祐が嘉吉の乱で時の将軍足利義教を討ったため、赤松氏は一時衰亡し、その後は赤松氏と地域の覇権を争っていた山名氏が三国を領有した。紆余曲折の末、復活した赤松氏は応仁の乱で東軍に組みし、管領細川勝元より三国守護職を約束され、赤松政則が西軍の山名氏の勢力を追い払うことで再び三国守護職に返り咲く。しかし、戦国時代に守護代であった三石城城主・浦上村宗によって政則の子が殺され赤松氏は衰退の一途を辿る。赤松氏に取って代わり備前を中心に勢力を伸ばした浦上氏であったが、宗景の代に家臣であった宇喜多直家の下剋上によって滅ぼされ、備前と美作では宇喜多氏が勢力を伸ばした。 備中では室町期は守護細川氏が、戦国時代は出雲から侵攻した尼子氏が庄氏ら有力国人を従えていた。その後毛利氏の支援を得た三村家親が備中全域を統一し、美作・備前の一部も勢力下に治め三国を制する勢いであったが、永禄9年(1566年)三村家親が籾村の佛頂山興善寺に在陣中暗殺され、さらに後を継いだ三村元親が翌年宇喜多氏との明善寺合戦に敗退した。その後、織田氏の誘いを受けて毛利氏と争うに至り、三村氏は滅亡した(備中兵乱)。 このように現在の岡山県域では多数の戦国武将が群雄割拠の様相を呈し、戦国期を通じ、現在の岡山県域を統一する一大勢力は遂に出なかった。これは、岡山県が戦国前期には尼子氏・大内氏等の草刈場と化し、後期においては羽柴秀吉の水攻めで有名な備中高松城の戦いに代表されるように東の織田氏と西の毛利氏の衝突地点となったためである。備前の宇喜多氏や備中の三村氏などを除き、戦国期の在地国人勢力に顕著な活躍は見られなかった。しかし、その宇喜多氏・三村氏にしても東西勢力の代理戦争を演じていた面がないわけではない。秀吉との縁を得て後述のように戦国末期(近世初期)まで家を保持・成長させた宇喜多氏は在地勢力の例外といえる。 現在の岡山の地は「岡山」・「石山」・「天神山(天満山)」と呼ばれていた3つの小高い丘のある備前国西部の農村地帯の一角に過ぎなかったが、岡山の地の利に目を付けた直家は「石山」に小規模な城を築いていた金光氏の当主・金光宗高を謀略により切腹させて開城の後、岡山の地に入封した。直家の子宇喜多秀家は備前・備中・美作3国守護の座に就き、秀吉の許しを得て「岡山」に築城し、商人を備前福岡から呼び寄せるなど、城下町が形成されていった。秀家はその後、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、豊臣家五大老のひとつの地位を占めていた宇喜多氏は所領没収のうえに八丈島に流された。 戦勝側である小早川秀秋が3国51万石を領有したが2年で後継ぎなく死去、断絶となり、慶長8年(1603年)、西国将軍と称された姫路藩藩主・池田輝政の次男、池田忠継が分家として備前38万石に入った。忠継・忠雄のあとに池田本家の鳥取藩から領地の交換で岡山に31万5千石で入封した池田光政(輝政の孫)が備前岡山藩の基礎を築き、以後、明治維新を迎えるまで光政の家系が藩政を担った。また、領内には池田家の家老の陣屋が各地に所在し、伊木家3万3千石の虫明陣屋を筆頭に、池田家3万2千石の天城陣屋、池田家2万2千石の周匝(すさい)陣屋、日置(へき)家1万6千石の金川陣屋、池田家1万4千石の建部陣屋、土倉家1万1千石の佐伯陣屋があった。城下町・岡山は発展を続け、第4代池田綱政の治世の宝永4年(1707年)には町方人口が3万0635人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万〜5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。現在では日本三名園のひとつに数えられる御後園(後楽園)が造成されたのもこの時期である。19世紀に入り岡山藩の財政状況が悪化すると藩は被差別部落への差別を強化した。その結果、安政3年(1856年)に備前一国を巻き込む強訴(渋染一揆)が発生した。 備中には小早川氏改易のあと、一国を管轄する藩が置かれず幕領と大名領・旗本領が錯綜した。備中松山藩を筆頭に、足守藩・庭瀬藩・新見藩、岡田藩、浅尾藩・岡山藩の支藩である岡山新田藩(鴨方藩)および岡山新田藩(生坂藩)が成立した。また、交代寄合の山崎家の成羽陣屋(幕末に成羽藩となる)、交代寄合の戸川家の撫川陣屋が置かれ、戸川家は旗本としても早島・帯江・妹尾・中島(中庄)にそれぞれ陣屋を構えた。倉敷は天領(幕府の直轄)となり、備中のみならず伊予、讃岐など周辺諸国の幕領を管轄統治する幕府陣屋が置かれ、その繁栄は岡山以上とも言われた。 美作には森家が18万6千石で入封。4代で断絶の後、越前松平家の宗家筋の津山藩10万石、三浦家の勝山藩2万3千石が成立した。 幕末期になり薩摩藩や長州藩による倒幕の動きが広がると、外様であった岡山藩は勤皇派に、親藩・譜代であった津山藩・備中松山藩は佐幕派に分かれ、明治元年(1868年)に勃発した戊辰戦争の際には当時の藩主である板倉勝静が老中職にあった備中松山藩を朝敵として岡山藩などが攻撃を加えた。 明治4年7月14日(1871年8月29日)、明治新政府による廃藩置県により岡山藩を受け継いで、岡山県が備前国を範囲として設けられた。当初、現在の岡山県域には14県が設置されたが、同年12月には岡山県、深津県、北条県の3県に再編された。その後、1875年(明治8年)12月10日に備中国と備後国に当たる小田県(旧深津県)を編入し、1876年(明治9年)4月18日には、備後国6郡を広島県に移管、美作国に当たる北条県を併せた。岡山県の境域はこれ以後1896年(明治29年)に吉野郡石井村を兵庫県佐用郡へ編入、同郡讃甘村大字中山を兵庫県佐用郡江川村へ編入、1963年(昭和38年)、和気郡日生町(現:備前市)東部の福浦地区(寺山を除く)を兵庫県赤穂市へ編入以後は、現在まで特に変更はない。 県の政庁は岡山市に置かれ、鉄道網の整備や旧制第六高等学校・旧制岡山医科大学(岡山藩医学館を文部省が引き継ぐ)等の教育機関の設立なども相まって山陽地方の拠点として発展を見せた。また、政財界に優れた人材を輩出し、特に自由民権運動では片山潜や後に首相となる犬養毅や平沼騏一郎をはじめとして多くの運動家・政治家を、経済界では第一生命創業者の矢野恒太らを世に送り出した。 戦前の産業は農業が主であり、南部では児島湾干拓によって稲作面積を拡大して生産性を向上させ、イグサ・綿花栽培や丘陵地での果樹栽培が行われる一方、北部では養蚕が盛んに行われた。瀬戸内海に面した児島地区(倉敷市)では塩田開発が江戸末期から明治にかけて盛んになり、地元の名家である野崎家が財をなした。 1870年代以降になると近代工業として製糸工場が県内に次々と立地した。倉敷紡績(略称:クラボウ)は全国有数の製糸企業に成長し、また倉敷紡績の大原孫三郎によって倉敷絹織(現在のクラレ)、紡績を支える中国水力電気会社(現在の中国電力)なども設立された。この時代の繊維産業の発展が現在の倉敷市のジーンズ、学生服の隆盛の元になっている。大原は実業の傍ら、大原美術館、倉敷中央病院、農業や社会問題の研究所などを設立したり、石井十次の孤児養育事業を支援するなど、現在のことばでいうメセナ事業を行った。 1891年(明治24年)に山陽鉄道(現在のJR山陽線)が岡山を経由して広島県尾道まで開通し、その後もいくつかの私鉄路線が開通した(鉄道の項参照)。これらのうち主要なものは後に国鉄に組み入れられた。 第一次大戦後には重化学工業が発達し、柵原では鉱山が開かれ、玉野では造船業が活況を呈するようになった。 経済の発展で中間市民層が厚みを増したことから、その求めにより中等教育、高等教育の充実が図られた。特に公立・私立の女学校が次々に設立され、全国的に見ても女子の中等教育の盛んな県となった。 こうした地勢より、社会福祉分野においても先見性が高い人材を数多く輩出しており、社会福祉学上において近代福祉事業発祥の地とされることもある。特に1917年(大正6年)に自県にて発足した済世顧問制度は大阪府の方面委員制度と並んで後の民生委員制度に繋がるものとされるし、先述の片山潜も貧困層のために日本最初の隣保館を設立している。他にも救世軍において廃娼運動を繰り広げ女性の権利と生活の向上に足跡を残した山室軍平や児童自立支援施設の先駆けとなった家庭学校を設立した留岡幸助、岡山博愛会病院を設立し地域医療に寄与したアリス・ペティ・アダムス、日本最初の孤児院(児童養護施設)を創り上げた石井十次などが岡山県にてその活動の発起を行った。そのため山室、留岡、アダムス、石井の4名は社会福祉の歴史上に多大なる功績を遺したことにより「岡山四聖人」と称される。 しかしながら第二次世界大戦が勃発し、戦争末期の1945年(昭和20年)6月には航空機工場のあった倉敷市水島地区と岡山市がアメリカ軍による大規模な空襲を受けた。岡山市では空襲により中心部がほとんど壊滅し、1700人以上の市民が犠牲となった。 戦後は大規模な児島湾の干拓事業が引き続いて行われ、耕地を拡大させた。 また三木知事時代の1960年代、全国総合開発計画に合わせて水島地区に大型船が入港可能な港湾と石油コンビナートを造成して製鉄、石油化学および自動車などの工場を誘致し、農業中心の県から工業中心の県へと変貌を遂げた。他方では、1970年代には大気汚染、瀬戸内海への石油流出事故、赤潮、児島湖の水質悪化などに悩んだ。 1970年代以降は山陽新幹線の開業や瀬戸大橋の開通による高速道路・鉄道網の整備、県が管理する空港としては全国で唯一3,000m滑走路を持つ岡山空港の開港による航空網の整備が行われ、交通の結節点としての地位を高めた。 南部では人口の増加が見られ、岡山市や倉敷市などが150万都市圏を形成している(岡山都市圏)。岡山インターチェンジから車で二時間圏の範囲の人口は約1,640万人で、東京都の人口よりも多い。その範囲の総生産額は約97兆円でカナダを上回る規模ともなっている。 岡山県の人口は戦後一貫して増加を続け、2005年(平成17年)には約195万人に達した。広島市に次いで中国地方第二の都市である岡山市(約70万人)や第三都市の倉敷市(約47万人)を擁している南部は人口増加が堅調だが、吉備高原や中国山地の山々に囲まれた地域では高齢化が進行し人口の減少が顕著になってきている。そのため、県全体では1990年(平成2年)頃から人口はほぼ横ばいであったが東日本大震災以降から移住者の増加で転入超過に転じ、NPOが毎年発表している「田舎暮らし希望地域ランキング」にて岡山県が2012年度に2位、2013年度に3位にもランクインしている。これは、男女の初婚年齢が香川県とともに全国屈指の早さとなっている。 (公選知事を特に列記する) (+印は在職中に死去) 岡山県の行政機関の本庁として、岡山県庁が同市北区内山下に所在している。岡山県内に備前・美作・備中の各県民局が置かれ、その下部組織として各地域事務所が設置されている。かつては地方振興局が設置されていたが統合・再編されて現在に至る。 2008年(平成20年)6月2日の定例記者会見で2011年度にも、2009年度から新たに施行された自治体財政健全化法に基づいて起債制限など国に管理される財政再生団体に転落する可能性があるとして、財政危機宣言を発した。このため、構造的に見込まれる400億円規模の財源不足を解消するため、2008年(平成20年)8月に「岡山県財政構造改革プラン(素案)」を公表した。その際に、歳出削減や県有施設の統廃合について、市町村、県民から様々な意見が表明されたことを踏まえ、同年11月に「岡山県行財政構造改革大綱2008」が策定された。この行革大綱の具体的な枠組みは、(1) 職員数の削減、(2) 組織体制の再構築、(3) 職員の意識改革と人事制度、(4) 事務事業の削減、(5) 公共事業の削減、(6) 歳入確保、(7) 公の施設の閉鎖・譲渡・集約化、(8) 市町村の事務・権限移譲、(9) 外郭団体等の抜本的な見直し、(10) 効果的な行政評価システムの構築の10分野に及び、これらの取組を2012年度(職員数は2013年度)までに実施することにより、一般財源で396億円の収支不足を解消し、歳入と歳出のバランスが取れた持続可能な財政構造を確立することを目標としている。また、今後の財政運営の目標として、「収入にあわせた予算を組みます」、「県債残高をこれ以上増やしません(プライマリーバランスの黒字化)」、「同規模県と比較してもっともスリムな体制を目指します」、「行革推進債などの緊急避難的な対策による財政運営と決別します」、「今後4年間で改革の総仕上げを行います」との5つの目標を掲げ、この目標に沿った財政運営に取り組むこととされている。 財政力指数 0.54 Iグループ(財政力指数0.5以上、1.04未満)17自治体中15位 標準財政規模 3978億円 一般会計歳入 6975億円 一般会計歳出 6951億円 財政力指数 0.49 IIグループ(財政力指数0.4以上、0.5未満)9自治体中1位 経常収支比率 97.8%(都道府県平均:92.8% 財政硬直化が進んでいる) 実質収支比率 0.3 人口一人当たり人件費・物件費等決算額 13万0379円 (都道府県平均:12万4759円) 実質公債費比率 17.8%(都道府県平均:14.7% 18%を超えると起債に制限) 人口100,000人当たり職員数 1,237.10人(都道府県平均:1,173.11人) 2005年度(平成17年度)に対して2010年度(平成22年度)の総定員数を1,400人程度削減予定 ラスパイレス指数 96.2 (都道府県平均:99.6) 地方債残高 普通会計分の地方債現在高 1兆2170億円 上記以外の特別会計分の地方債現在高 1092億円 上記以外に第3セクター等(財団法人含む)に対する債務保証にかかわる債務残高がある。 財政力指数 0.42 IIグループ(財政力指数0.4以上、0.5未満)8自治体中8位 財政力指数 0.40 IIグループ(財政力指数0.4以上、0.5未満)10自治体中10位 中国江西省 1992年(平成4年)6月1日友好交流協定締結 オーストラリア南オーストラリア州 1993年(平成5年)5月7日友好交流協定締結 インドマハーラーシュトラ州プネー市 2006年(平成18年)1月19日友好交流協定締結 インドマハーラーシュトラ州ピンプリ・チンチワッド市 2006年(平成18年)1月20日友好交流協定締結 韓国慶尚南道 2009年(平成21年)10月17日友好交流協定締結 農業 岡山県南部に広がる児島湾干拓地を中心とした岡山平野や北部の津山盆地などでは、古来よりコメの栽培が盛んで、現在に至るまで農産物の中心をコメが占めており、コシヒカリや朝日米、ヒノヒカリなどの品種が栽培されている。また、南部では岡山市灘崎地区のナスや倉敷市連島地区のレンコンをはじめ大都市向けに出荷される花卉、全国的にも珍しい黄ニラなどが、北部や吉備高原ではシイタケやマツタケなどが盛んに生産されている。 国内産のマスカットの約9割は岡山県で生産されており、明治時代以降は岡山市津高地域・栢谷地区などの丘陵地においてブドウやモモの温室栽培が行われるようになった。全都道府県における出荷量で見れば、ブドウは4位(西日本1位)、モモは6位(和歌山県に次ぐ西日本2位)で全体シェアの5パーセントにも満たないものの、一部の品種に限れば、ブドウのマスカット・オブ・アレキサンドリア、ニューピオーネや黒大豆の作州黒の生産量は全国トップクラスであり、現在では岡山県の主要な名産品となっている。県内では他にも岡山市東区でお歳暮シーズンの愛宕梨(あたご梨)や鴨梨(ヤーリー)などの果物が全国シェアトップで栽培されており、高い生産技術と穏やかな気候に恵まれ、高品質な商品を生産している。近年、これらの農産物を中国や台湾など海外に輸出し、販売する試みがなされている。 畜産においては中国山地沿いを中心に行われ、特に新見市千屋地区で肉牛の「千屋牛」などの和牛が飼育されている。酪農においては蒜山高原(真庭市)でジャージー牛の放牧が行われ、脂肪分を多く含んだ濃厚な乳を用いた牛乳やチーズなどの製品が生産されている。 かつてはイグサやコンニャク、タバコの生産も盛んであったが、戦後の産業構造の転換により次第に生産量を減らしている。北部を中心とする中山間地域では全国的な傾向に漏れず若者の都市部への流出や高齢化による過疎化が進行しており、農業の担い手不足が課題となっている。 主な品種 ブドウ マスカット・オブ・アレキサンドリア シャインマスカット ニューピオーネ 瀬戸ジャイアンツ(桃太郎ぶどう) オーロラブラック 紫苑 モモ 清水白桃 川中島白桃 白鳳 梨 愛宕梨(あたご梨) 鴨梨(ヤーリー) 黒大豆 作州黒 水産業 瀬戸内海に面する岡山県では児島湾などで、浅瀬を利用した沿岸漁業が行われており、かつてはサワラやタイの中型魚が主に獲れていたが、明治から昭和にかけての干拓事業による漁場の縮小と都市化の影響による瀬戸内海の水質汚濁が発生し、以前ほどの豊かな漁場は失われてしまった。 しかしながら、現在でも倉敷市下津井港をはじめとしてメバルやイイダコ、カレイなどの好漁場となっており、また、瀬戸内市邑久町・牛窓町などでは複雑に入り組んだ海岸を利用した海苔やカキの養殖が盛んに行われている。カキの生産量は全国第2位である。 瀬戸内海で獲れる海の幸を用いた郷土料理として、ばら寿司(まつり寿司として駅弁販売)や、たこめし、ママカリ(サッパ)の酢漬けなどがある。 また、備前市日生町などでは蛎をお好み焼きに入れた「カキオコ」を新たな名物として岡山県内や他県にPRしており、水産資源を町おこしの契機に繋げる新しい取り組みも見られる。 第二次大戦以前、農業県で大規模な港湾がなかった岡山県の第二次産業は製糸・紡績業などの軽工業がその中心であったが、戦後は県によって、それまで中国・四国地方の他県に後れを取っていた工業化に重点を置いた政策が採られ、水島コンビナート(倉敷市)の埋め立て造成と石油精製所・大手製鉄所・自動車工場などの誘致が行われ、工業的に急速な発展を遂げた。 また総社市などの内陸部にも工業団地が次々と立地し、自動車の関連部品の製造や電子機器の工場が誕生した。その他、岡山市では食品や印刷など市場指向型、軽工業系の工場が岡南地区や西大寺地区などに所在し、倉敷市では児島地区にジーンズや学生服など縫製業が立地している。学生服の出荷額は岡山県が全国第1位となっている。 1980年代以降は吉備高原等の内陸地域を新たな産業ゾーンとするために高速道路の整備や岡山空港の郊外移転などの開発が行われ、IT関連企業やICなどの電子デバイス工場の誘致が県によって進められた。しかし、開発から数十年が経過した現在でも立地した工場は多くなく、当初の見込み通りには事業が進んでいない。 こうした県主導の工業化のためのハード面での積極的な整備によって工業県への変貌に成功したものの、反面、これらの事業によって増大した借金が昨今、県の財政を圧迫している。 近年の岡山県の第三次産業は、バイオテクノロジーを活用した医薬品や、IT情報通信などの産業などの特色を持つ。 独自の精密加工生産を支える技術企業や、食品・健康・医療・環境・福祉やバイオ関連の企業・研究機関などが産学官連携で新たな雇用産業づくりに取り組み続けている。 全国に先駆け平成15年度に、高速大容量の基幹光ファィバ網を県内全域を8の字型に結び、全国ギガビットネットワークとも接続された岡山情報ハイウェイが整備された。 サービス業や小売業、金融業等は本社や事業所を主に岡山市を中心とした県南部に構えている。 1960年代までは伝統的な個人経営の小売店舗が多数を占めていたが、1970年代以降、都市化やモータリゼーションの進行、大量消費社会の浸透により、全国や中国・四国地方規模で展開するスーパーマーケットやコンビニ、電器店等のチェーン店舗が郊外の幹線道路沿いに多数開店し、生活する上での利便性が増した一方、中心市街地の空洞化を招いた。バブル経済の崩壊後はこれまで都市部の地価の下落が進んでいた。そんなこともあって近年は中心市街地への高層マンションの建設が相次いる。また小売店舗の中心市街地への新規出店や再開発事業が活発に展開されている。人口の増加も見られており、現在ではまた再び地価が上昇している 岡山市では江戸時代の城下町に由来する表町地区と1972年(昭和47年)の山陽新幹線開業後に発展したJR岡山駅周辺地区が2大商業地区となっている。岡山県南都市圏は現在人口150万人を擁し、地方都市としては数少ない成長が見込まれている都市圏のひとつであるため、岡山市の政令指定都市移行を契機として、今後も再開発等の活性化が期待されている。 一方で、その他の地域では人口の流出・現象を伴った過疎化によって商業施設の撤退・閉鎖、大型商業施設の郊外出店によるスポンジ化現象が見られ、地域活性化が大きな課題となっている。 アルファ E・Jホールディングス ウエスコ 大本組 岡山県貨物運送 岡山製紙 カワニシホールディングス KG情報 サンマルクホールディングス 大黒天物産 滝澤鉄工所 タツモ 中国銀行 テイツー 天満屋ストア トマト銀行 萩原工業 はるやま商事 ハローズ ベネッセホールディングス ミサワホーム中国 リックコーポレーション クラレ - 倉敷市で創業。現在の本社は東京(ただし登記上の本店は現在も倉敷市)。現在も倉敷事業所、岡山事業所を置いている。 倉敷紡績(クラボウ) - 倉敷市で創業。現在の本社は大阪(ただし登記上の本店は現在も倉敷市)。現在も岡山工場を置いている。工場跡地のホテル倉敷アイビースクエアや倉敷中央病院を設立し、現在でも倉敷と繋がりの深い企業である。 三井造船(三井E&Sホールディングス) - 玉野市で創業。現在の本社は東京。現在でも創業の地である玉野市に玉野事業所を置いている。 三菱自動車工業 JFEスチール 東京製鐵 JXTGエネルギー(旧新日本石油精製・ジャパンエナジー) 旭化成 三菱ガス化学 三菱ケミカル 住友化学 NTN 村田製作所(岡山村田製作所) ローム(ローム・ワコー) パナソニック エレクトロニックデバイス(パナソニック エレクトロニックデバイス津山) シャープ(シャープタカヤ電子工業) サノヤス・ヒシノ明昌 品川リフラクトリーズ 北興化学 カラオケボックス セルフ式うどん店 点字ブロック ぶっかけうどん ミルク金時 民生委員 岡山県警察本部の管轄にあり、以下の22警察署が置かれている。ここ数年の市町村合併に伴い、2006年(平成18年)(平成16年)4月1日に警察署管轄地域の見直しが行われた。また、2009年(平成21年)4月1日からは、岡山市の政令指定都市移行に伴って岡山東警察署が岡山中央警察署に、西大寺警察署が岡山東警察署にそれぞれ名称変更された。 岡山中央警察署(岡山市中区): 岡山市北区の東部と中区 岡山西警察署(岡山市北区): 岡山市北区北西部と南区の一部 岡山南警察署(岡山市南区): 岡山市南区の大半と北区の一部 岡山北警察署(岡山市北区): 岡山市北区の北部(旧御津町・建部町域)・吉備中央町 岡山東警察署(岡山市東区): 岡山市東区西大寺・上道地区 赤磐警察署(岡山市東区): 岡山市東区瀬戸地区・赤磐市 備前警察署(備前市): 備前市・和気町 瀬戸内警察署(瀬戸内市): 瀬戸内市 玉野警察署(玉野市): 玉野市 倉敷警察署(倉敷市): 倉敷市(倉敷地区)・岡山市北区の一部・早島町 児島警察署(倉敷市): 倉敷市(児島地区) 玉島警察署(倉敷市): 倉敷市(玉島・船穂・真備地区)・浅口市・里庄町 水島警察署(倉敷市): 倉敷市(水島地区) 笠岡警察署(笠岡市): 笠岡市 井原警察署(井原市): 井原市・矢掛町 総社警察署(総社市): 総社市 高梁警察署(高梁市): 高梁市 新見警察署(新見市): 新見市 真庭警察署(真庭市): 真庭市・新庄村 津山警察署(津山市): 津山市・鏡野町 美作警察署(美作市): 美作市・勝央町・奈義町・西粟倉村 美咲警察署(美咲町): 美咲町・久米南町 鉄道は1891年(明治24年)に山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が三石駅から岡山駅まで開通したのを皮切りに、中国鉄道・西大寺鉄道・片上鉄道・下津井電鉄などが次々と開通した。戦時中はその多くが国有化され、戦後にはモータリゼーションの進行や利用者の減少により廃止された路線もある。1972年(昭和47年)には国鉄山陽新幹線新大阪・岡山間が、2年後には岡山・博多間が開業し、1988年(昭和63年)には瀬戸大橋開通に伴ってJR瀬戸大橋線が開業。以来、JR岡山駅は本州と九州、および山陰と四国を結ぶ一大ターミナルとなっている。現在、以下の路線が存在しており、岡山市では全国的に数少なくなった路面電車も運行されている。 西日本旅客鉄道(JR西日本) 山陽新幹線 - 岡山駅(岡山市北区)・新倉敷駅(倉敷市) S W 山陽本線 - 三石駅(備前市) - 笠岡駅(笠岡市) V 伯備線 - 倉敷駅(※岡山駅まで直通) - 新郷駅(新見市) U 吉備線 - 岡山駅 - 総社駅(総社市) N 赤穂線 - 寒河駅(備前市) - 東岡山駅(岡山市中区)(※岡山駅まで直通) T 津山線 - 岡山駅 - 津山駅(津山市) M L 宇野線 - 岡山駅 - 宇野駅(玉野市) M 本四備讃線(瀬戸大橋線) - 茶屋町駅(倉敷市)(※岡山駅まで直通) - 児島駅(倉敷市) P 芸備線 - 備中神代駅(新見市)(※新見駅まで直通) - 野馳駅(新見市) K 姫新線 - 美作土居駅(美作市) - 新見駅 B 因美線 - 美作河井駅(津山市) - 津山駅 四国旅客鉄道(JR四国) ■ 本四備讃線(瀬戸大橋線)- 児島駅 - 下津井瀬戸大橋 智頭急行 ■ 智頭線 - 宮本武蔵駅(美作市) - あわくら温泉駅(西粟倉村) 井原鉄道 ■ 井原線 - 総社駅 - 子守唄の里高屋駅(井原市) 水島臨海鉄道 ■ 水島本線 - 倉敷市駅 - 三菱自工前駅(倉敷市) 岡山電気軌道 ■東山本線 - 岡山駅前電停 - 東山・おかでんミュージアム駅電停(岡山市中区) ■清輝橋線 - 柳川電停(※岡山駅前電停まで直通) - 清輝橋電停(岡山市北区) 山陰地方と四国の中間に位置し、古くから主要街道の山陽道が通っていた岡山県は道路網が充実しており、特に2007年度の高速道路延長(面積1000km²当たり延長)は41kmと全国第5位になっている。 高速道路(高速自動車国道・高規格幹線道路) 山陽自動車道(備前IC - 笠岡IC、倉敷JCT - 早島IC) 中国自動車道(作東IC - 新見IC) 鳥取自動車道(大原IC - 坂根交差点) 岡山自動車道(岡山JCT - 北房JCT) 米子自動車道(落合JCT - 蒜山IC) 瀬戸中央自動車道(早島IC - 児島IC) 一般国道 国道2号 大阪府大阪市 - 福岡県北九州市 国道30号 岡山市北区・南区 - 香川県高松市 国道53号 岡山市北区 - 鳥取県鳥取市 国道179号 兵庫県姫路市 - 鳥取県東伯郡湯梨浜町 国道180号 岡山市北区 - 島根県松江市 国道181号 岡山県津山市 - 鳥取県米子市 国道182号 岡山県新見市 - 広島県福山市 国道250号 兵庫県神戸市 - 岡山県岡山市北区 国道313号 広島県福山市 - 鳥取県東伯郡北栄町 国道373号 兵庫県赤穂市 - 鳥取県鳥取市 国道374号 岡山県備前市 - 岡山県津山市 国道429号 岡山県倉敷市 - 京都府福知山市 国道430号 岡山県倉敷市 - 岡山県玉野市 国道482号 京都府宮津市 - 鳥取県米子市 国道484号 岡山県備前市 - 岡山県高梁市 国道486号 岡山県総社市 - 広島県東広島市 県道 岡山県は隣接する広島県とともにバス事業者の多い県である。岡山市内では多数の会社が乗り入れ、一時期は事業者間での激しい競合が発生する問題も起きていたが、調整が進む等改善している。高速バスは京阪神、山陰、広島、東京、福岡、四国各県などに伸びる。主な事業者は下記。 岡山市・倉敷市周辺 両備ホールディングス(両備バス、岡山市内・倉敷市内および玉野市など) 東備バス(岡山市西大寺地区・瀬戸内市、両備ホールディングスの分社子会社) 岡山電気軌道(岡電バス、岡山市内中心。両備グループ) 中鉄バス(岡山市内および総社市など) 子会社数社が県北部に路線網を持つ(下記記載) 下津井電鉄(下電バス、岡山市内・倉敷市内など) 宇野自動車(岡山市内および、赤磐市、瀬戸内市など) 中国ジェイアールバス(現在は高速バスのみ) 八晃運輸(岡山市内) 県西部 井笠バスカンパニー(旧・井笠鉄道、笠岡市、井原市および広島県福山市など、両備グループ) 北振バス(矢掛町、井原市、高梁市および広島県福山市など) 県北部 備北バス(高梁市、真庭市、新見市など) 中鉄北部バス(津山市など、中鉄バスの子会社) 中鉄美作バス(真庭市など、中鉄バスの子会社) 県内の主要空港は岡山空港である。岡山市北区日応寺に所在し、県が管理する第三種空港、準国際空港である。国内線では東京、札幌、那覇の3都市へ、国際線ではソウル、上海がデイリー運行、北京、大連、へ定期便が就航する。もとより東京行きの便が距離的・料金的に航空機と新幹線との間で競争が激しい地区であり、また、空港内の駐車場が無料[一部有料]であることから、同じ中国地方で第二種空港の広島空港には大きく水を空けられているものの、近年利用者が増大しており、他の地方第三種空港が経営に苦しんでいる中で高い収益を上げている。また、1988年(昭和63年)の岡山空港開港まで主要空港であった岡南飛行場(岡山市南区)は現在セスナ機等の小型機の飛行場として運営されている。 岡山空港 - 岡山市北区 岡南飛行場(旧岡山空港) - 岡山市南区 笠岡ふれあい空港 高松港へ向かう宇高連絡船が発着していた宇野港が四国地方への玄関口として機能していたこともあり、現在も瀬戸内海への航路などが県内各港から出ている。 宇野港 - 玉野市 高松港への宇高航路(四国フェリー、宇高国道フェリー) 直島へのフェリー(四国汽船) 小豆島へのフェリー(小豆島豊島フェリー) 岡山港 - 岡山市南区 小豆島へのフェリー(両備フェリー、四国フェリー) 日生港 - 備前市 小豆島へのフェリー(瀬戸内観光汽船) 笠岡港 - 笠岡市 笠岡諸島(さらに笠岡諸島から香川県多度津)への航路(三洋汽船、白石フェリーなど) 藩政時代末期の1870年(明治3年)、西洋医学を推進する目的で藩の御典医らにより岡山藩医学館が設立され、同館が発展して後の岡山大学医学部となった。岡山県内の主な医療機関としては、岡山大学病院、岡山東部脳神経外科、川崎医科大学付属病院、倉敷中央病院、心臓病センター榊原病院などがある。 今日においても「医療・福祉の先進都市」を目指してきた岡山市は、充実した医療環境のもと、最先端の医療技術で質の高い医療サービスが提供されている。 災害拠点病院は「岡山県災害拠点病院」を、保育所は「岡山県保育所一覧」を参照。 江戸時代に備前国を治めた岡山藩は池田光政の代である1669年(寛文9年)に全国初の藩校である花畠教場を、続いて世界最古の庶民学校である閑谷学校を開くなど、教育の面では古くから先進的な取り組みがなされてきた。特に閑谷学校は領民だけでなく他藩の藩士にも入学を許可し、さらには藩主の転封や改易などの不測の事態でも学校を存続できるように学校領を設けて藩財政から独立させており、岡山藩が教育を重視していたことが窺える。また、幕府の薦める朱子学ではなく儒学(陽明学)を学ばせ、頼山陽ら著名人も来訪したことで知られている。江戸時代の岡山県内の寺子屋数は長野県、山口県に次ぐ第3位(1,031校)で、私塾数は第1位(144か所)であった。 明治時代になると1870年(明治3年)に岡山藩医学館が設置され、1900年(明治33年)には第六高等学校が、1922年(大正11年)には岡山藩医学館を継承した官立岡山医科大学が開校するなど高等教育が活発に行われ、当時の就学率は全国トップクラスであった。 ただし女子教育については明治の初めまで、ほとんどの地域において初等教育(いわゆる市井の寺子屋や女紅場・裁縫所)以上の教育はなされなかった。上記の各学校においても中等教育以上は男子教育の場でしかなく、中等以上の女子教育を行っていたわけではない。そのため岡山における女子の中等教育においては日本全国の他地域と同様、明治以降にキリスト教系の信徒・思想者によって、その先駆と分野開拓が行われている。岡山県内において、その嚆矢となったのが1885年(明治18年)に高梁向町(現在の高梁市向町)において福西志計子が開いた順正女学校とされている。さらに、その源流においては福西の幼少期の師として、私塾である牛麓舎において彼女に男女の別を問わず惜しむことなく漢学を授けた山田方谷の存在を指摘する声もある。 そして順正女学校の設立を皮切りとして、翌1886年(明治19年)に岡山市内で山陽英和女学校および岡山女学校などの女学校が開校していく事となった。 大学 現在、岡山県には3つの国公立大学、15の私立大学が設置されている。2007年(平成19年)現在、人口10万人当たりの大学・短大設置数は全国第6位となっている。 2006年(平成18年)度からは、岡山県と岡山経済同友会を中心に、県内15の4年制大学が参加する大学コンソーシアム岡山が開始され、産・学・官の連携による地域社会の活性化や時代に合った高等教育の創造を目指している。 国公立 岡山大学 岡山県立大学 新見公立大学 私立 岡山商科大学 岡山理科大学 岡山学院大学 川崎医科大学 川崎医療福祉大学 吉備国際大学 倉敷芸術科学大学 くらしき作陽大学 山陽学園大学 就実大学 中国学園大学 ノートルダム清心女子大学 美作大学 環太平洋大学 短期大学 公立 倉敷市立短期大学 新見公立短期大学 私立 山陽学園短期大学 就実短期大学 中国短期大学 川崎医療短期大学 岡山短期大学 美作大学短期大学 作陽短期大学 吉備国際大学短期大学部 高等専門学校 国立 津山工業高等専門学校 専修学校 岡山県専修学校一覧 特別支援学校 岡山県特別支援学校一覧 高等学校 岡山県高等学校一覧 中学校 岡山県中学校一覧 小学校 岡山県小学校一覧 幼稚園 岡山県幼稚園一覧 岡山県では県域放送のNHKおよび電波相互乗り入れによる5つの民放テレビ局が視聴可能となっている。民放5局のうち3局は岡山県に、2局は香川県に本社を置いており、1970年代から相互乗り入れを実施している。 岡山県では2006年(平成18年)12月1日より地上デジタル放送が本格的に開始された。岡山・玉野市境の金甲山送信所を親局とし、県内に78ヶ所の中継局が整備されている。リモコン番号はリモコンキーIDの記事の岡山県部分を参照。独立UHF局がないことを除けば関東広域圏と同じとなっている。 \"テレビ局舎外観\" 日本放送協会 (NHK) 岡山放送局 (岡山市北区)  山陽放送 (RSK) (岡山市北区)  岡山放送 (OHK) (岡山市北区)  テレビせとうち (TSC) (岡山市北区)  西日本放送 (RNC) 岡山本社 (岡山市北区)  瀬戸内海放送 (KSB) 岡山本社 (岡山市北区)  県域放送 NHK岡山放送局-AMラジオ第一放送・第二放送・NHK-FM 山陽放送(RSK、JRN・NRN系列) 岡山エフエム放送(FM岡山、JFN系列) コミュニティFM 岡山シティエフエム(岡山市、ミュージックバード配信・インターネット放送実施局) エフエムくらしき(倉敷市、J-WAVE、ミュージックバード配信・インターネット放送実施局) エフエムゆめウェーブ(笠岡市・里庄町・浅口市、ミュージックバード配信) つやまコミュニティFM(津山市、インターネット放送実施局) エフエム津山(津山市、J-WAVE配信・インターネット放送実施局) ※南東部から北東部では、近畿地方に本社および送信所を置く毎日放送 (MBS)、朝日放送 (ABC)、ラジオ大阪 (OBC)、ラジオ関西 (CRK) と香川県に本社および送信所を置く西日本放送 (RNC) ラジオ、およびエフエム香川が受信できる地域がある。また、西部では広島県に本社および送信所を置く中国放送 (RCC)、広島エフエム放送 (HFM) と愛媛県に本社がおよび送信所を置く南海放送 (RNB) が受信できる地域がある。この他、四国放送や山陰放送が受信できる地域もある。 ※インターネットにおけるサイマルラジオ放送はコミュニティ放送のつやまコミュニティFMを皮切りにエフエムゆめウェーブ以外の放送局が実施している。なお、エフエムくらしきやエフエム津山は、通常の番組の配信は行われず、特別番組などの単発的な配信のみ行っている。県域民放局が実施しているradikoには山陽放送 (RSK)は参加しているが、岡山エフエム放送(FM岡山)は参加していない。 岡山県では県紙で1889年(明治22年)創刊の山陽新聞を中心に購読されている。また、全国紙では各紙が大阪本社の管轄下にあり、県内に支局を設置している。読売・毎日・日経・産経の各紙は県内に印刷工場を設け、朝日新聞は香川県内の印刷工場から輸送する体制を採っている。夕刊紙の岡山日日新聞も存在したが、2011年(平成23年)11月10日をもって廃刊した。 地方紙 山陽新聞 津山朝日新聞 備北民報 中国新聞(本社:広島市)-本県に支局を持っている 全国紙 読売新聞 朝日新聞 毎日新聞 日本経済新聞 産経新聞 スポーツ紙 デイリースポーツ スポーツニッポン サンケイスポーツ スポーツ報知 日刊スポーツ 大阪スポーツ 岡山市を中心とする備前地域(旧備前岡山藩)は池田光政の儒教尊重が家風となり、近代以後も教育熱心な地域と言われる。 古今和歌集において「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の音のさやけさ」と謳われ、吉備を表す枕詞が「真金吹く」であるように、古くから岡山(旧国名は吉備)は古代吉備から連綿と受け継いできた優れた鉄製技術を持っていた。そのため平安時代の古備前派に端を発し、福岡千軒(現在の瀬戸内市長船町)では福岡一文字や備前長船、そして吉岡一文字、国宗派、また備中国の青江貞次らの青江派などといった有力な刀匠の一派が数々生まれて栄えた。更に、備前・美濃・相模・山城・大和の5か国の作刀方式を「五箇伝」と呼び、その五箇伝のうち備前伝と美濃伝の刀が傑出して大量に生産されるに至った。また質の面では備前刀があらゆる流派の中で最も多く国宝に指定されている。現在でも備前では刀匠によって刀が生産されている。 一方で陶器の備前焼は日本六古窯のひとつであり、古墳時代の須恵器から発展したもので釉薬を全く付けずに焼かれる。また何も塗られることもない素朴さと力強さ、炎と火の粉、薪の灰から生じる窯変の味わい、そのわびさびを体現した風貌から千利休や古田織部などといった茶人に愛された。1250度の高温で約2週間焼き締めるため「投げても割れない」と言われ、茶人や公家、武家以外の一般庶民にも広く流通した。鎌倉時代初期までの作品は「古備前」と呼ばれ特に珍重される。金重陶陽といった人間国宝などの活躍もあり、また戦後にも再び脚光を浴びて一躍全国的に有名となった。 津山市を中心とする美作地域では、江戸後期から幕末にかけて宇田川家、箕作家などの洋学の人材を輩出した。 主に東京式アクセントの岡山弁が用いられるが、旧国ごとに「備前弁」「備中弁」「美作弁(作州弁・津山弁)」の3種に分類されることもある。 郷土料理 古代以来の農業の盛んな地域で、農産物・水産物は豊富である。主要なものは以下の通り。 ばらずし(駅弁では、まつり寿司として) ままかり料理 サワラ料理 備中手延べ麺 鮒飯 鯖寿司 など ご当地B級グルメ 日生カキオコ(牡蠣入りお好み焼き) ホルモン焼きうどん ひるぜん焼そば 日生カキオコ 倉敷バーガー ドミグラスソースカツ丼(デミカツ丼) えびめし おかやま中華そば(岡山市内でのラーメンの名称) トンカツラーメン 笠岡ラーメン ぶっかけうどん など 郷土菓子 吉備団子 大手まんぢゅう 藤戸まんじゅう むらすゞめ 落合羊羹 ゆべし(高梁市) ゆべし(矢掛町) など 経済産業大臣指定伝統的工芸品 備前焼(陶磁器、1982年) 勝山竹細工(竹工品、1979年) 伝統工芸品 岡山県は、プロ野球とJリーグの球団の両方が本拠を構えている兵庫県と広島県に挟まれ、地元に拠点を置くスポーツに対する関心が低く、1995年(平成7年)には倉敷市を本拠としていた川崎製鉄サッカー部(現:ヴィッセル神戸)がJリーグ誘致を目指していた神戸市に本拠を移すなど長年に渡って本県に本拠を置くプロスポーツチームができず、「プロスポーツ不毛の地」と揶揄されることもあった。しかし、2001年(平成13年)11月に女子バレーボール・Vリーグに所属するシーガルズが岡山市に本拠を移転し、美作町(現:美作市)に女子サッカークラブ・岡山湯郷Belleが設立された。その後、2005年(平成17年)には晴れの国おかやま国体が開催され、県全体としてスポーツに対する関心が高まった。国体開催の機運に乗じてJリーグを目指すサッカークラブとしてファジアーノ岡山FCが設立され、好成績を収め続けたファジアーノは岡山県リーグから中国リーグ、JFLと次々と昇格し、2009年(平成21年)シーズンからはJ2に昇格した。こうした市民クラブに対するスポンサーやボランティア等の支援の輪が広がっており、プロスポーツが県民にとって身近な存在になりつつある。 その他、女子マラソンに関しては岡山市に本店がある天満屋の女子陸上競技部から2000年(平成12年)シドニーオリンピックに山口衛里が、2004年(平成16年)アテネオリンピックに坂本直子、さらに2008年(平成20年)の北京オリンピックでも中村友梨香が出場している。さらに、1992年(平成4年)のバルセロナオリンピック、1996年(平成8年)のアトランタオリンピックの2大会でメダルを獲得した有森裕子は岡山県出身であり、オリンピックに5大会連続で岡山県の関係者が出場している。 高校野球においては1965年(昭和40年)の選抜高等学校野球大会で優勝し、平松政次や八木裕らを輩出した岡山東商業高校、星野仙一を輩出した倉敷商業高校や倉敷工業高校をはじめとした古豪があるほか、近年では1999年(平成11年)の全国高等学校野球選手権大会で準優勝した岡山理科大学附属高校、関西高校などの私立校が台頭している。 岡山県内に本拠を置く主なスポーツチーム ファジアーノ岡山FC(Jリーグ) 岡山湯郷Belle(日本女子サッカーリーグ) FC吉備国際大学Charme(日本女子サッカーリーグ) 岡山シーガルズ(バレーボール・Vプレミアリーグ) セリオスタンディングベアーズ(アメリカンフットボール・Xリーグ) 天満屋女子陸上競技部 シティライト岡山硬式野球部(社会人野球) 三菱自動車倉敷オーシャンズ(社会人野球) 岡山リベッツ(卓球・Tリーグ) 国宝 吉備津神社(岡山市北区)- 本殿および拝殿 旧閑谷学校 (備前市)- 講堂 重要伝統的建造物群保存地区 吹屋(高梁市) 倉敷川畔(倉敷美観地区) (倉敷市) 後楽園 岡山城 備中高松城跡(岡山市北区) 最上稲荷(岡山市北区) 曹源寺(岡山市中区) 西大寺観音院(岡山市東区) 倉敷美観地区(倉敷川畔)(倉敷市) 大原美術館 倉敷民藝館 倉敷考古館 井上家住宅 大橋家住宅 旧大原家住宅 倉敷アイビースクエア 藤戸寺(倉敷市) 吉備路 吉備津神社(岡山市北区) 吉備津彦神社(岡山市北区) 造山古墳(岡山市北区) 作山古墳(総社市) 備中国分寺(総社市) 津山城跡(鶴山公園)(津山市) 衆楽園(津山市) 鬼ノ城(総社市) 宝福寺(総社市) 神明神社 (総社市) 備中松山城(高梁市) 熊山遺跡(赤磐市) 矢掛本陣(矢掛町) 誕生寺(久米南町) 岩山神社(新見市上熊谷) 和気神社(和気郡和気町) 亀石神社(岡山市東区)-神武天皇東征時に、水先案内を行った珍彦が乗る大亀を祀る。 足守地区(岡山市北区) 旧足守藩侍屋敷 近水園 犬島(岡山市東区) 野崎家旧宅(倉敷市) 鷲羽山(倉敷市) 下津井町並み保存地区(倉敷市) 城東地区(津山市) 瀬戸内温泉 たまの湯(玉野市) みやま公園(玉野市) 渋川海水浴場(玉野市) 豪渓(総社市) 井倉洞(新見市) 閑谷学校(備前市) 牛窓(瀬戸内市) 竹久夢二生家(瀬戸内市) 吹屋ふるさと村(高梁市) 勝山町並み保存地区(真庭市) 蒜山高原(真庭市) 旧遷喬尋常小学校(真庭市) 美作三湯 湯原温泉(真庭市) 湯郷温泉(美作市) 奥津温泉(鏡野町) 奥津渓(鏡野町) 宇甘渓(吉備中央町) 池田動物園(岡山市北区) RSKバラ園(岡山市北区) 岡山市半田山植物園(岡山市北区) たけべの森公園(岡山市北区) やはたの里(岡山市北区) 石原果樹園(岡山市東区) おかやまファーマーズマーケットサウスビレッジ(岡山市南区) 鷲羽山ハイランド(倉敷市) 酒津公園(倉敷市) おもちゃ王国(玉野市) 渋川動物公園(玉野市) 岡山農業公園ドイツの森クローネンベルク(赤磐市) ヒルゼン高原センター(真庭市) おかやまファーマーズマーケットノースビレッジ(勝央町) まきばの館(美咲町) 牛窓オリーブ園(瀬戸内市) 藤公園(和気郡和気町) 蒜山ジョイフルパーク(真庭市) 国の重要無形民俗文化財 白石踊り(笠岡市) 備中神楽(井原市・総社市・高梁市・新見市) 大宮踊(真庭市) 県指定重要無形民俗文化財 吉備津彦神社御田植祭(岡山市北区) 西大寺会陽(岡山市東区) 鴻八幡宮祭りばやし(倉敷市) 唐子躍(瀬戸内市) 横仙歌舞伎(奈義町) 誕生寺二十五菩薩練供養(久米南町) 二上山護法祭(美咲町) 加茂大祭(吉備中央町) 祭事・イベント 岡山さくらカーニバル(岡山市北区・中区) おかやま桃太郎まつり・うらじゃ(岡山市北区) 岡山国際音楽祭(岡山市) 倉敷天領夏祭り(倉敷市) 津山さくらまつり(津山市) 津山納涼ごんごまつり(津山市) 備中たかはし松山踊り(高梁市) 牛窓秋祭り(瀬戸内市) 岩山神社大祭(新見市上熊谷) 藤まつり(和気郡和気町) 博物館・美術館 岡山県立博物館 岡山県立美術館 岡山市立オリエント美術館 林原美術館 岡山市デジタルミュージアム(以上岡山市北区) 夢二郷土美術館(岡山市中区) 大原美術館 倉敷民藝館 倉敷考古館 倉敷市立美術館(以上倉敷市) 津山郷土博物館(津山市) 玉野市立玉野海洋博物館(玉野市) 笠岡市立カブトガニ博物館 笠岡市立竹喬美術館 ワコーミュージアム(以上笠岡市) 美星天文台 井原市立田中美術館(以上井原市) 成羽町美術館(高梁市) 岡山県備前陶芸美術館 BIZEN中南米美術館(以上備前市) 備前長船刀剣博物館(瀬戸内市) 岡山天文博物館(浅口市) 奈義町現代美術館(奈義町) コンベンション・コンサート 岡山シンフォニーホール 岡山市民会館 岡山コンベンションセンター(ママカリフォーラム) 三木記念ホール(以上岡山市北区) 岡山市立市民文化ホール(岡山市中区) 西大寺市民会館(岡山市東区) コンベックス岡山(岡山市南区・早島町) 倉敷市民会館 倉敷市芸文館(以上倉敷市) ベルフォーレ津山(津山市) 高梁総合文化会館(高梁市) エスパスホール(真庭市) スポーツ施設 岡山県総合グラウンド(岡山市北区) 岡山県野球場 岡山武道館 岡山県総合グラウンド陸上競技場(シティライトスタジアム) 岡山県総合グラウンド体育館(桃太郎アリーナ) 岡山ドーム(岡山市北区) 岡山市総合文化体育館(岡山市南区) 岡山県倉敷スポーツ公園野球場(倉敷マスカットスタジアム) 倉敷市営球場 ヘルスピア倉敷 児島競艇場(以上倉敷市) 岡山県津山総合体育館(津山市) 玉野競輪場(玉野市) きびじアリーナ(総社市) 小山田真 - 岡山県岡山市出身。ハリウッド俳優・プロデューサー。米国コヤマダ国際機構理事長。 ^ 近代の児島湾干拓計画を策定したムルデル:農林水産省 http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/okayama_02/ ^ 蒜山酪農農業協同組合 http://www.hiruraku.com/ ^ 岡山県産業振興財団 | Facebook https://ja-jp.facebook.com/okayamazaidan/ ^ 「おかやま新エネルギービジョン」の策定について - 岡山県 http://www.pref.okayama.jp/page/detail-98424.html ^ “大好き「晴れの国岡山」1岡山県のアウトライン(県の概況、シンボルなど)”. 岡山県総合政策局公聴公報課. 2011年7月14日閲覧。 ^ a b “「晴れの国おかやま」が引き続き統計的に裏付けられました”. 岡山県総合政策局統計分析課 (2011年5月26日). 2016年1月30日閲覧。 ^ 真庭市蒜山上長田(標高430m)では、1981年(昭和56年)2月28日に西日本(近畿以西)の平地における最低気温(−20.2℃)を記録したほか、2011年(平成23年)1月には最深積雪137cmを記録した。 ^ 上長田(岡山県) 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値) - 気象庁 ^ 吉備中央町:市町村紹介:工業団地紹介:やっぱり岡山!企業立地ガイド:岡山県産業労働部企業立地推進課を玉野市・倉敷市といった吉備高原を含まない自治体と比較。 ^ 「昔から吉備高原と呼ばれている一角にあり、気候はやや内陸性で県南部と比較して冷涼な地域です。」- 吉備中央町ホームページ ^ 狩野久「吉備の国づくり」 藤井学・狩野久・竹林栄一・倉地克直・前田昌義『岡山県の歴史』山川出版社 2000年(平成12年) 10 - 11ページ ^ a b 震災以降、移住先として急浮上した岡山県とは?(上) ^ a b 震災以降、移住先として急浮上した岡山県とは?(下) ^ 2012年田舎暮らし希望地域ランキング公開 ^ 2013年田舎暮らし希望地域ランキング公開 ^ 岡山県財政構造改革プラン(素案),財政構造改革について - 岡山県ホームページ ^ 平成25年 農林水産統計より ^ a b c 県のプロフィール・統計(岡山県) ^ 岡山)基準地価、上昇は50地点 昨年より倍増 ^ 分類は、『岡山企業年報』の掲載業種別。 ^ 現・岡山県立高梁高等学校家政科。女学校の前身となる裁縫所においては1881年(明治14年)設立。高梁高校では裁縫所の設立年を創立年としている。なお同地に在する吉備国際大学を筆頭とする学校法人順正学園の運営各校は福西死後の新設校であるため直接の繋がりは無い事に注意。(設立時における間接的な繋がりはあるため、順正学園は福西を準学祖として扱っているが、それに関しては各校の項目を参照) ^ a b 『福西志計子と順正女学校 -山田方谷・留岡幸助・伊吹岩五郎との交友-』倉田和四生・著、吉備人出版・刊。2006年。ISBN 4-86069-143-1 ^ 現在の山陽学園大学 ^ 現在のノートルダム清心女子大学 ^ ただし、一部地域では、兵庫県のサンテレビがケーブルテレビで再送信されているため、事実上茨城県と東京都を除く関東広域圏と全く同じになっている。 ^ <飛翔 J元年ファジアーノ>(4)胎動 山陽新聞 2009年2月15日 ^ 日本バレーボールリーグ機構. “チーム沿革”. 2014年6月17日閲覧。 ^ 古くは、アムステルダムオリンピック(1928年(昭和3年))の人見絹枝、東京オリンピック(1964年(昭和39年))の木原美知子などがいる。 岡山県の観光地 岡山弁 太平洋ベルト 山陽地方 瀬戸内海 瀬戸大橋 日本の地方公共団体一覧 日本の地理、日本の地域 行政 岡山県ホームページ(公式サイト) 観光 岡山県観光総合サイト おかやま旅ネット - 公益社団法人 岡山県観光連盟 地図 オープンストリートマップには、岡山県に関連する地理データがあります。 岡山県 | 歴史的行政区域データセットβ版 - Geoshapeリポジトリ(左側基準年月日のチェック操作で行政区域の変遷を見ることができる)", "令制国一覧 > 山陽道 > 備中国 > 上房郡 日本 > 中国地方 > 岡山県 > 上房郡 上房郡(じょうぼうぐん)は、岡山県(備中国)にあった郡。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 高梁市の一部(高梁川以東) 加賀郡吉備中央町の一部(豊野・稔・黒土・田土・湯山・吉川・黒山) 古来、吉備国・備中国の中心地として栄えた賀陽郡に属していた。後に北部を上方郡(じょうほう・じょうぼう)として分離した。 元は「上方」と書き「じょうほう」「じょうぼう」と読んでいたが、「上房」と表記もした。表記は統一されていなかったが郡区町村編制法施行時に「上房」と書き「じょうぼう」と読む様に定められた。郡名の由来は賀陽郡に対し(高梁川の)上流にあったためといわれている。郡衙の位置は不明。 戦国時代に郡内に備中松山城(松山城、高梁城)が築かれ、三村氏の居城となった。江戸時代には、同城を陣屋とする備中国で最も大きい藩である備中松山藩(松山藩・高梁藩)があった。 真庭市旧北房町地区や高梁市中井町地区などは、元々は上房郡ではなく阿賀郡であった。明治33年(1900年)にこれらの地域を阿賀郡から上房郡へ割譲された。 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。岩村は2ヶ所に所在。●は村内に寺社領が存在。(1町32村) 明治元年12月7日(1869年1月19日) - 松山藩が戊辰戦争後の処分により減封。貞村・室納村・上村が倉敷県の管轄となる。 明治2年11月2日(1869年12月4日) - 松山藩が改称して高梁藩となる。それにともない松山が高梁に、松山東村が高梁東村に、松山西村が高梁西村にそれぞれ改称。 明治3年(1870年) - この年までに一橋徳川家領が倉敷県の管轄となる。 明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が高梁県、亀山県の管轄となる。 11月15日(1871年12月26日) - 第1次府県統合により、全域が深津県の管轄となる。 明治5年6月5日(1872年7月10日) - 小田県の管轄となる。 明治7年(1874年)(1町29村) 上湯山村・下湯山村が合併して湯山村となる。 東吉川村・西吉川村が合併して吉川村となる。 南組・北組が合併して川面村となる。 明治8年(1875年)(1町22村) 12月20日 - 第2次府県統合により岡山県の管轄となる。 高梁東村・高梁西村が合併して高梁村となる。 矢野村・岩村(一橋徳川家領)が合併して豊野村となる。 宮瀬村・片岡村・六名村・柳分村が合併して巨瀬村となる。 中村・下村・上村が合併して有漢村となる。 明治9年(1876年)(1町17村) 舞地村・室納村が合併して納地村となる。 岩村(亀山藩領)・貞村が合併して稔村となる。 上津村・有納村が合併して有津井村となる。 長代村・垣村・川関村が合併して上有漢村となる。 明治11年(1878年) 9月29日 - 郡区町村編制法の岡山県での施行により、行政区画としての上房郡が発足。郡役所が高梁本町に設置。 高梁村が改称して松山村となる。 明治22年(1889年)6月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。特記以外は現・高梁市。(1町10村) 高梁町(高梁城下が単独で町制施行) 松山村(単独村制) 津川村 ← 今津村、八川村 川面村(単独村制) 巨瀬村(単独村制) 有漢村(単独村制) 上有漢村(単独村制) 上竹荘村 ← 有津井村、納地村 豊野村 ← 豊野村、稔村(現・加賀郡吉備中央町) 下竹荘村 ← 黒土村、田土村、湯山村(現・加賀郡吉備中央町) 吉川村 ← 吉川村、黒山村(現・加賀郡吉備中央町) 明治33年(1900年)4月1日 - 郡制を施行。同日、阿賀郡中井村・呰部村・中津井村・水田村・上水田村が本郡の所属となる。(1町15村) 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 昭和4年(1929年) 5月10日 - 高梁町・松山村が合併し、改めて高梁町が発足。(1町14村) 7月1日 - 呰部村が町制施行して呰部町となる。(2町13村) 昭和28年(1953年)10月1日 - 中津井村・呰部町・上水田村・水田村が合併して北房町が発足。(2町10村) 昭和29年(1954年)5月1日 - 高梁町・津川村・川面村・巨瀬村が川上郡玉川村・宇治村・松原村・高倉村・落合村と合併して高梁市が発足し、郡より離脱。(1町7村) 昭和30年(1955年)2月1日(2町2村) 中井村が高梁市に編入。 上竹荘村・豊野村・下竹荘村・吉川村が吉備郡大和村と合併して賀陽町が発足。 昭和31年(1956年)4月1日 - 有漢村・上有漢村が合併して有漢町が発足。(3町) 平成16年(2004年)10月1日(1町) 賀陽町が御津郡加茂川町と合併して吉備中央町が発足。同町の区域をもって加賀郡が発足。 有漢町が高梁市・川上郡成羽町・川上町・備中町と合併し、改めて高梁市が発足。 平成17年(2005年)3月31日 - 北房町が真庭郡勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村と合併して真庭市が発足。同日上房郡消滅。 自治体の変遷  ^ 松山城下各町の総称。無高のため記載なし。本項では便宜的に1町に数える。 ^ 記載は川面村南組。 ^ 記載は川面村北組。 ^ 記載は竹井村ノ内岩。 ^ a b c 記載は有漢を冠称。 ^ この時点では高梁内山下、高梁川端町、高梁本町、高梁新町、高梁片原町、高梁中之町、高梁頼久寺町、高梁石火矢町、高梁御前町、高梁小高下、高梁伊賀町、高梁寺町、高梁向町、高梁間之町、高梁甲賀町、高梁八幡町、高梁荒神町、高梁柿木町、高梁大工町、高梁下町、高梁南町、高梁鍛冶町、高梁中間町、高梁弓之町、高梁鉄砲町が存在。 角川日本地名大辞典 33 岡山県 旧高旧領取調帳データベース 消滅した郡の一覧", "日本 > 中国地方 > 岡山県 > 吉備郡 吉備郡(きびぐん)は、岡山県にあった郡。 1900年(明治33年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 岡山市 北区の一部(真星、上高田、山上、石妻、杉谷、日近、足守、下足守、高松稲荷、平山、立田より南西かつ高松原古才、三手、高塚より北東) 倉敷市の一部(真備町各町・玉島服部) 総社市の大部分(赤浜、下林、上林、三須、真壁、三輪、中原、清音柿木、清音上中島より南東および中央・駅前の各一部を除く) 加賀郡吉備中央町の一部(北・岨谷・西・宮地・竹部・上野) 明治33年(1900年)4月1日 - 郡制の施行により、下道郡・賀陽郡(2町16村)の区域をもって発足。以下の町村が所属。郡役所が総社町に設置。(2町30村) 旧・下道郡(14村) - 岡田村、川辺村、二万村、穂井田村、呉妹村、箭田村、薗村(現・倉敷市)、新本村、山田村、久代村、下倉村、水内村、秦村、神在村(現・総社市) 旧・賀陽郡(2町16村) - 庭瀬村、真金村、高松村、生石村(現・岡山市)、服部村、阿曽村、総社町、浅尾村、池田村、日美村、富山村(現・総社市)、大和村、菅谷村(現・加賀郡吉備中央町)、福谷村、岩田村、日近村、大井村、足守町(現・岡山市) 明治34年(1901年)2月6日 - 庭瀬村が町制施行して庭瀬町となる。(3町29村) 明治41年(1908年)2月11日 - 総社町・浅尾村が合併し、改めて総社町が発足。(3町28村) 大正4年(1915年)11月10日 - 高松村が町制施行して高松町となる。(4町27村) 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 昭和4年(1929年)8月1日 - 真金村が町制施行して真金町となる。(5町26村) 昭和7年(1932年)4月1日 - 菅谷村が御津郡加茂村・福山村と合併して御津郡津賀村が発足。(5町25村) 昭和12年(1937年)5月5日 - 庭瀬町と都窪郡撫川町が合併して都窪郡吉備町が発足。(4町25村) 昭和25年(1950年)4月1日 - 箭田村が町制施行して箭田町となる。(5町24村) 昭和26年(1951年)4月1日(5町21村) 岡田村・川辺村が合併して大備村が発足。 神在村・服部村が総社町に編入。 昭和27年(1952年)4月1日(6町13村) 日美村・富山村・下倉村・水内村が合併して昭和町が発足。 二万村・大備村・薗村・箭田町・呉妹村が合併して真備町が発足。 昭和29年(1954年) 3月1日 - 秦村が総社町に編入。(6町12村) 3月31日 - 新本村・山田村・久代村・池田村・阿曽村・総社町が都窪郡常盤村と合併して総社市が発足。(5町7村) 昭和30年(1955年) 1月1日 - 生石村・高松町が都窪郡加茂村と合併し、改めて高松町が発足。(5町6村) 2月1日 - 大和村が上房郡上竹荘村・豊野村・下竹荘村・吉川村と合併して上房郡賀陽町が発足。(5町5村) 昭和31年(1956年) 3月31日 - 足守町・大井村・日近村・岩田村・福谷村が合併し、改めて足守町が発足。(5町1村) 4月1日 - 穂井田村が分割し、一部(陶及び大字服部の一部)が玉島市に、残部(服部の残部)が真備町にそれぞれ編入。(5町) 昭和35年(1960年)4月1日 - 真金町が高松町に編入。(4町) 昭和46年(1971年) 1月8日 - 高松町が岡山市に編入。(3町) 5月1日 - 足守町が岡山市に編入。(2町) 昭和47年(1972年)4月22日 - 昭和町が総社市に編入。(1町) 平成17年(2005年)8月1日 - 真備町が倉敷市に編入。同日吉備郡消滅。 自治体の変遷  ^ 足守地域および旧・都宇郡を除く高松地域。 角川日本地名大辞典 33 岡山県 『吉備郡史. 巻上』 永山卯三郎、岡山県吉備郡教育会、1938年。NDLJP:1218664。 『吉備郡史. 巻中』 永山卯三郎、岡山県吉備郡教育会、1938年。NDLJP:1218699。 消滅した郡の一覧 吉備路の由来", "日本 > 中国地方 > 岡山県 > 加賀郡 加賀郡(かがぐん)は、岡山県の郡。 人口11,227人、面積268.78km²、人口密度41.8人/km²。(2018年10月1日、推計人口) 以下の1町を含む。 吉備中央町(きびちゅうおうちょう) 2004年10月1日 - 上房郡賀陽町と御津郡加茂川町が合併して吉備中央町となるのに伴い発足。 5つの新町名候補のうち合併前の町名から1字ずつ取り郡名とした。 日高郡 (北海道) - 平成の大合併で新設された郡。 二海郡 - 同上。 鳳珠郡 - 同上。 三方上中郡 - 同上。", "令制国一覧 > 山陽道 > 美作国 > 勝田郡 日本 > 中国地方 > 岡山県 > 勝田郡 勝田郡(かつたぐん)は、岡山県(美作国)の郡。 人口16,550人、面積123.57km²、人口密度134人/km²。(2018年10月1日、推計人口) 以下の2町を含む。 勝央町(しょうおうちょう) 奈義町(なぎちょう) 英田郡と合わせた地域が勝英地方と呼ばれる場合がある。 1900年(明治33年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町のほか、下記の区域にあたる。 津山市の一部(吉井川・加茂川以東のうち三浦、奥津川、大吉以南) 美作市の一部(吉野川以西および明見、豊国原、北山、吉、和田、矢田、小畑、大町、久賀、梶並、東谷下、東谷上より北西) 久米郡美咲町の一部(吉井川以東) 中世に勝南郡・勝北郡に分割された。 明治33年(1900年)4月1日 - 郡制の施行により、勝北郡・勝南郡の区域をもって発足。以下の各村が所属。郡役所が勝間田村に設置。(23村) 旧・勝北郡(13村) - 新野村、広戸村、勝加茂村、広野村(現・津山市)、植月村(現・勝田郡勝央町)、吉野村(現・美作市、勝田郡勝央町)、勝田村(現・美作市)、古吉野村(現・勝田郡勝央町)、北吉野村、豊田村、豊並村(現・勝田郡奈義町)、梶並村(現・美作市)、滝尾村(現・津山市) 旧・勝南郡(10村) - 勝間田村(現・勝田郡勝央町)、豊国村、湯郷村、公文村(現・美作市)、飯岡村、南和気村、北和気村(現・久米郡美咲町)、高取村(現・勝田郡勝央町)、大崎村、河辺村(現・津山市) 明治34年(1901年)4月1日 - 植月村の一部(平)が勝間田村に編入。 明治39年(1906年)3月28日 - 勝間田村が町制施行して勝間田町となる。(1町22村) 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 昭和15年(1940年)11月3日 - 勝田村が町制施行して勝田町となる。(2町21村) 昭和24年(1949年)10月1日 - 湯郷村が町制施行して湯郷町となる。(3町20村) 昭和28年(1953年)4月1日 - 湯郷町・豊国村が英田郡林野町・豊田村・楢原村と合併して英田郡美作町が発足。(2町19村) 昭和29年(1954年) 3月31日 - 植月村・吉野村・古吉野村・勝間田町・高取村が合併して勝央町が発足。(2町15村) 7月1日 - 河辺村・大崎村・広野村・滝尾村が津山市に編入。(2町11村) 11月1日 - 勝田町が英田郡粟広村の一部(長谷内・馬形・宗掛)を編入。 昭和30年(1955年) 1月1日(3町4村) 新野村・広戸村・勝加茂村が合併して勝北町が発足。 勝田町・梶並村が合併し、改めて勝田町が発足。 飯岡村・北和気村・南和気村が久米郡吉岡村と合併して久米郡柵原町が発足。 2月1日 - 北吉野村・豊田村・豊並村が合併して奈義町が発足。(4町1村) 4月1日 - 勝北町の一部(楢)が津山市に編入。 6月1日 - 勝央町の一部(池ヶ原・堂尾)が津山市に編入。 昭和31年(1956年)2月1日 - 公文村が分割し、一部(下山・城田・中河内・鳥淵・青野)が英田郡英田町に、残部(阿蘇・岩見田)が英田郡美作町にそれぞれ編入。(4町) 平成17年(2005年) 2月28日 - 勝北町が津山市に編入。(3町) 3月31日 - 勝田町が英田郡大原町・東粟倉村・作東町・美作町・英田町と合併して美作市が発足し、郡より離脱。(2町) 自治体の変遷  ^ 同日、豊久田の一部(現・美作市杉原)が勝田町に編入。 角川日本地名大辞典 33 岡山県" ]
ABC01-02-0220
ドイツでは「ルドルフの数」と呼ばれ、日本ではギリシャ文字のπで表される数といえば何でしょう?
円周率
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[ "円周率", "平方根", "調和数列", "立方根", "冪乗" ]
[ "円周率(えんしゅうりつ)は、円の周長の直径に対する比率として定義される数学定数である。通常、ギリシア文字 πで表される。数学をはじめ、物理学、工学といった様々な科学分野に出現し、最も重要な数学定数とも言われる。 円周率は無理数であり、その小数展開は循環しない。円周率は、無理数であるのみならず、超越数でもある。 円周率の計算において功績のあったルドルフ・ファン・コーレンに因み、ルドルフ数とも呼ばれる。ルドルフは、小数点以下35桁までを計算した。小数点以下35桁までの値は次の通りである。 π = 3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288 … 円周率を表すギリシア文字 π は、ギリシア語 περίμετρος(ペリメトロス)あるいは περιφέρεια(ペリペレイア)の頭文字から取られた。いずれも周辺・円周・周などを意味する。文字 π をウィリアム・オートレッドは1631年に著した著書において半円の円弧部分の長さを表す文字として用い、アイザック・バローは論文において半径 R の円周の長さとして用いた。ウィリアム・ジョーンズ(英語版) (1706) やレオンハルト・オイラーらにより(現代と同じく)円周の直径に対する比率を表す記号として用いられ、それが広まった。日本では「パイ」と発音する。 数 π を指す言葉には、日本・中国・韓国における「円周率(圓周率)」、ドイツの「Kreiszahl」(Kreis は円(周)、Zahl は数の意)の他、それを計算した人物の名前を取った「アルキメデス数」(英: Archimedes' constant)、「ルドルフ数」(英: Ludolph's constant、独: Ludolphsche Zahl)などがある。一般にドイツ語を除いたヨーロッパの諸言語には「円周率」に対応する単語はない。 なお、「π」の字体は、表示環境によってはキリル文字の п に近い π などと表示されることがある。 また、文字「π」は、数学では他に素数計数関数や基本群・ホモトピー群にも用いられる。またある種の写像を表すときにも慣習的に用いられる。 平面幾何学において、円周率 π は、円の周長の直径に対する比率として定義される。すなわち、円の周長を C, 直径を d としたとき、 π = C/d である。全ての円は互いに相似なので、この比率は円の大きさに依らず一定である。 ところが、この定義は円の周長を用いているため、曲線の長さを最初に定義していない解析学などの分野では、π が現れる際に問題となることがある。この場合、円の周長に言及せず、解析学などにおける性質の一つを π の定義とすることが多い。この際の π の定義の一般なものとして、三角関数 cos x が 0 を取るような x > 0 の最小値の2倍とするもの、級数による定義、定積分による定義などがある。後述の#円周率に関する式も参照。 円周の直径に対する比率が円の大きさに依らず一定であり、それが 3 より少し大きい程度だということは古代エジプトやバビロニア、インド、ギリシアの幾何学者たちにはすでに知られていた。また、古代インドやギリシアの数学者たちの間では半径 r の円板の面積が πr2 であることも知られていた。さらに、アルキメデスは正96角形を用いて半径 r の球の体積が 4/3πr3 であることや、この球の表面積が 4πr2(その球の大円による切り口の面積の4倍)であることを導き出し、約1000年後、祖沖之(五世紀、中国)が小数点以下第6位まで弾き出した。 14世紀インドの数学者・天文学者であるサンガマグラーマのマーダヴァは次のような π の級数表示を見いだしている(ライプニッツの公式): π 4 = 1 − 1 3 + 1 5 − 1 7 + ⋯ = ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n 2 n + 1 . {\\displaystyle {\\frac {\\pi }{4}}=1-{\\frac {1}{3}}+{\\frac {1}{5}}-{\\frac {1}{7}}+\\cdots =\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}}{2n+1}}.} これは逆正接関数 Arctan x のテイラー展開の x = 1 での実現になっている。マーダヴァはまた、 π = 12 ( 1 − 1 3 ⋅ 3 + 1 5 ⋅ 3 2 − 1 7 ⋅ 3 3 + ⋯ ) {\\displaystyle \\pi ={\\sqrt {12}}\\left(1-{\\frac {1}{3\\cdot 3}}+{\\frac {1}{5\\cdot 3^{2}}}-{\\frac {1}{7\\cdot 3^{3}}}+\\cdots \\right)} を用いて π の値を小数点以下11桁まで求めている。 17世紀。ドイツのルドルフ・ファン・コイレンが325億角形を使い、小数点以下第35位まで計算。1699年(または1706年)にエイブラハム・シャープが小数点以下第72~127位まで求めた。 18世紀フランスの数学者アブラーム・ド・モアブルは、コインを 2n 回投げたときに表が x 回出る確率は、n が十分大きいとき、ある定数 C を取ると、 C n exp ⁡ { − ( x − n ) 2 n } {\\displaystyle {\\frac {C}{\\sqrt {n}}}\\exp \\left\\{-{\\frac {(x-n)^{2}}{n}}\\right\\}} で近似できることを、n = 900 における数値計算により見いだした。この正規分布の概念は1738年に出版されたド・モアブルの『巡り合わせの理論』に現れている。ド・モアブルの友人のジェイムズ・スターリングは後に、C = 1/√2π であることを示した。 1751年にヨハン・ハインリヒ・ランベルトは、x が 0 でない有理数ならば正接関数 tan x の値は無理数であることを示し、その系として π は無理数であることを導いた。さらに1882年にフェルディナント・フォン・リンデマンは π が超越数であることを示し、円積問題(与えられた長さを半径とする円と等積の正方形を作図する問題)は解くことができないことを導いた。 1873年、ウィリアム・シャンクスが小数点以下第707位まで計算(ただし途中で計算ミス)。 20世紀以降、コンピュータの発達により、計算された円周率の桁数は飛躍的に増大した。1949年に、ジョン・フォン・ノイマンはコンピュータ ENIAC を使い72時間かけて、円周率を2037桁まで計算した。その後の数十年間、さまざまな計算機科学者によって計算は進められ、1973年には100万桁を超えた。この進歩は、スーパーコンピュータの開発だけによるものではなく、効率のよいアルゴリズムが考案されたためである。そのうちの最も重要な発見の一つとして、1960年代の高速フーリエ変換がある。これにより、多倍長の演算が高速に実行できるようになった。 2016年の時点では、円周率は小数点以下22兆4591億5771万8361桁まで計算されている。 π は無理数である。つまり、2つの整数の商で表すことはできず、小数展開は循環しない。このことは1761年にヨハン・ハインリッヒ・ランベルトが証明したが、厳密性に欠けた部分があった。その部分は1806年にルジャンドルによって補われた。 したがって、円周率のコンピュータによる計算や暗唱、10進法における各数字 (0, 1, …, 9) の出現頻度は、興味の対象となる。 さらに、π は超越数である。つまり、有理数係数の代数方程式の根とはならない。これは1882年にフェルディナント・フォン・リンデマンによって証明された(リンデマンの定理)。特に、整数から四則演算と冪根をとる操作だけを有限回組み合わせて π の正確な値を求めることはできないことが分かる。 π が超越数であることより、古代ギリシアの三大作図問題の内の一つ「円積問題」(与えられた長さを半径とする円と等積の正方形を作図すること)が不可能であることが従う。 π は現在小数点以下10兆桁を超える桁まで計算されている。そして、分かっている限りでは 0 から 9 までの数字がランダムに現れているようには見えるが、はっきりと乱数列であるか否かは実は分かっていない。たとえば π が正規数であるかどうかも分かっていない。正規数であれば π の10進表示において、各桁を順に取り出して得られる数列: 3, 1, 4, 1, 5, 9, 2, 6, 5, 3, 5, …(オンライン整数列大辞典の数列 A796) には、0 から 9 が均等に現れるはずだが分かっておらず、それどころか、0 から 9 がそれぞれ無数に現れるのかどうかすら分かっていない。もし仮に正規数でないとすれば、乱数列でもないということになる。 5兆桁までの数字の出現回数は以下の通りである。全てほぼ等しく(約0.0005%の違いに収まる)、最も多いのは 8 で、最も少ないのは 6 である。 0:4999億9897万6328回 1:4999億9996万6055回 2:5000億0070万5108回 3:5000億0015万1332回 4:5000億0026万8680回 5:4999億9949万4448回 6:4999億9893万6471回 7:5000億0000万4756回 8:5000億0121万8003回 9:5000億0027万8819回 次の数は超越数か? π ± e , π e , π e , π π , π e , π 2 , e π 2 . {\\displaystyle \\pi \\pm e,\\pi e,{\\frac {\\pi }{e}},\\pi ^{\\pi },\\pi ^{e},\\pi ^{\\sqrt {2}},e^{{\\pi }^{2}}.} π は正規数か? π についての式は非常に多い。ここではその一部を紹介する。数式によってはそれ自体が π の定義になり得るし、π の近似値の計算などにも使われてきた。 半径 r の円の周長: 2πr 半径 r の円の面積:πr2 半径 r の球の体積:4/3πr3 半径 r の球の表面積:4πr2 長半径 a, 短半径 b の楕円の面積:πab 180° = π ラジアン π 4 = 1 − 1 3 + 1 5 − 1 7 + ⋯ = ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n 2 n + 1 {\\displaystyle {\\frac {\\pi }{4}}=1-{\\frac {1}{3}}+{\\frac {1}{5}}-{\\frac {1}{7}}+\\cdots =\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}}{2n+1}}} (ライプニッツの公式、#2千年紀も参照) π = 12 ( 1 − 1 3 ⋅ 3 + 1 5 ⋅ 3 2 − 1 7 ⋅ 3 3 + ⋯ ) {\\displaystyle \\pi ={\\sqrt {12}}\\left(1-{\\frac {1}{3\\cdot 3}}+{\\frac {1}{5\\cdot 3^{2}}}-{\\frac {1}{7\\cdot 3^{3}}}+\\cdots \\right)} (#2千年紀も参照) 2 1 ⋅ 2 3 ⋅ 4 3 ⋅ 4 5 ⋅ 6 5 ⋅ 6 7 ⋅ 8 7 ⋅ 8 9 ⋯ = π 2 {\\displaystyle {\\frac {2}{1}}\\cdot {\\frac {2}{3}}\\cdot {\\frac {4}{3}}\\cdot {\\frac {4}{5}}\\cdot {\\frac {6}{5}}\\cdot {\\frac {6}{7}}\\cdot {\\frac {8}{7}}\\cdot {\\frac {8}{9}}\\cdots ={\\frac {\\pi }{2}}} (ウォリス) ζ ( 2 ) = 1 1 2 + 1 2 2 + 1 3 2 + 1 4 2 + ⋯ = π 2 6 {\\displaystyle \\zeta (2)={\\frac {1}{1^{2}}}+{\\frac {1}{2^{2}}}+{\\frac {1}{3^{2}}}+{\\frac {1}{4^{2}}}+\\cdots ={\\frac {\\pi ^{2}}{6}}} (1735年:オイラー、バーゼル問題、ゼータ関数) ζ ( 4 ) = 1 1 4 + 1 2 4 + 1 3 4 + 1 4 4 + ⋯ = π 4 90 {\\displaystyle \\zeta (4)={\\frac {1}{1^{4}}}+{\\frac {1}{2^{4}}}+{\\frac {1}{3^{4}}}+{\\frac {1}{4^{4}}}+\\cdots ={\\frac {\\pi ^{4}}{90}}} π 2 6 = ∑ n = 1 ∞ 1 n 2 2 n − 1 + ( log ⁡ 2 ) 2 {\\displaystyle {\\frac {\\pi ^{2}}{6}}=\\sum _{n=1}^{\\infty }{\\frac {1}{{n^{2}}2^{n-1}}}+(\\log 2)^{2}} (オイラー) ζ ( 2 n ) = ( − 1 ) n − 1 2 2 n − 1 B 2 n ( 2 n ) ! π 2 n   ( n ∈ N ) {\\displaystyle \\zeta (2n)={\\frac {(-1)^{n-1}2^{2n-1}B_{2n}}{(2n)!}}\\pi ^{2n}\\ (n\\in \\mathbb {N} )} (Bn はベルヌーイ数) ∫ − ∞ ∞ e − x 2 d x = π {\\displaystyle \\int _{-\\infty }^{\\infty }e^{-x^{2}}\\,dx={\\sqrt {\\pi }}} (ガウス積分) Γ ( 1 2 ) = π {\\displaystyle \\Gamma {\\biggl (}{\\frac {1}{2}}{\\biggr )}={\\sqrt {\\pi }}} (ガンマ関数) π = 2 ∫ 0 1 d t 1 − t 2 {\\displaystyle \\pi =2\\int _{0}^{1}{\\frac {dt}{\\sqrt {1-t^{2}}}}} π = ∫ − 1 1 d t 1 − t 2 {\\displaystyle \\pi =\\int _{-1}^{1}{\\frac {dt}{\\sqrt {1-t^{2}}}}} π = 2 ∫ − 1 1 1 − t 2 d t {\\displaystyle \\pi =2\\int _{-1}^{1}{\\sqrt {1-t^{2}}}\\,dt} π = 4 ∫ 0 1 d t 1 + t 2 {\\displaystyle \\pi =4\\int _{0}^{1}{\\frac {dt}{1+t^{2}}}} 逆三角関数は主値を取るものとすると π = 2 arccos ⁡ 0 = 2 arcsin ⁡ 1 = 4 arctan ⁡ 1. {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\pi &=2\\arccos 0\\\\&=2\\arcsin 1\\\\&=4\\arctan 1.\\end{aligned}}} 逆三角関数(逆正弦関数)の公式より π = 2 ∑ n = 0 ∞ ( 2 n − 1 ) ! ! ( 2 n + 1 ) ( 2 n ) ! ! = 2 2 F 1 ( 1 2 , 1 2 ; 3 2 ; 1 ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\pi &=2\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(2n-1)!!}{(2n+1)(2n)!!}}\\\\&=2\\,{}_{2}F_{1}{\\bigl (}{\\tfrac {1}{2}},{\\tfrac {1}{2}};{\\tfrac {3}{2}};1{\\bigr )}\\end{aligned}}} 逆三角関数(逆正接関数)の公式より π = 4 ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n 2 n + 1 = 4 2 F 1 ( 1 2 , 1 ; 3 2 ; − 1 ) = 2 ∑ n = 0 ∞ n ! ( 2 n + 1 ) ! ! = ∑ n = 0 ∞ 2 n + 1 n ! 2 ( 2 n + 1 ) ! = ∑ n = 0 ∞ 2 n + 1 ( 2 n n ) ( 2 n + 1 ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\pi &=4\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}}{2n+1}}\\\\&=4\\,{}_{2}F_{1}{\\bigl (}{\\tfrac {1}{2}},1;{\\tfrac {3}{2}};-1{\\bigr )}\\\\&=2\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\cfrac {n!}{(2n+1)!!}}\\\\&=\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\cfrac {2^{n+1}n!^{2}}{(2n+1)!}}\\\\&=\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\cfrac {2^{n+1}}{{\\binom {2n}{n}}(2n+1)}}\\end{aligned}}} ガウス=ルジャンドルのアルゴリズム 初期値の設定: a 0 = 1 , b 0 = 1 2 , t 0 = 1 4 , p 0 = 1. {\\displaystyle a_{0}=1,\\quad b_{0}={\\frac {1}{\\sqrt {2}}},\\quad t_{0}={\\frac {1}{4}},\\quad p_{0}=1.} 反復式:an, bn が希望する桁数になるまで以下の計算を繰り返す。小数第 n 位まで求めるとき log2 n 回程度の反復でよい。 a n + 1 = a n + b n 2 , b n + 1 = a n b n , t n + 1 = t n − p n ( a n − a n + 1 ) 2 , p n + 1 = 2 p n . {\\displaystyle {\\begin{aligned}a_{n+1}&={\\frac {a_{n}+b_{n}}{2}},\\\\b_{n+1}&={\\sqrt {a_{n}b_{n}}},\\\\t_{n+1}&=t_{n}-p_{n}(a_{n}-a_{n+1})^{2},\\\\p_{n+1}&=2p_{n}.\\end{aligned}}} π の算出:円周率 π は、an, bn, tn を用いて以下のように近似される。 π ≈ ( a n + b n ) 2 4 t n . {\\displaystyle \\pi \\approx {\\frac {(a_{n}+b_{n})^{2}}{4t_{n}}}.} 非常に収束が早く、金田康正が1995年に42億桁、2002年に1.24兆桁を計算したスーパー π に使われていた。 n ! ∼ 2 π n ( n e ) n {\\displaystyle n!\\sim {\\sqrt {2\\pi n}}\\left({\\frac {n}{e}}\\right)^{n}} (スターリングの近似。f(n) ∼ g(n) は lim n → ∞ f ( n ) / g ( n ) = 1 {\\displaystyle \\lim _{n\\to \\infty }f(n)/g(n)=1} を表す) ∑ k = 1 n ϕ ( k ) ∼ 3 n 2 π 2 {\\displaystyle \\sum _{k=1}^{n}\\phi (k)\\sim {\\frac {3n^{2}}{\\pi ^{2}}}} (φ(k) はオイラーのφ関数) eπi + 1 = 0 (オイラーの等式) ∑ k = 0 n − 1 e 2 π i k / n = 0 {\\displaystyle \\sum _{k=0}^{n-1}e^{2\\pi ik/n}=0} (オイラーの等式の一般式) 後者は 2 以上の任意の整数 n に対して成り立ち、1 の n 乗根全ての和は 0 であることを意味している。n = 2 とするとオイラーの等式を得る。 1 π = 2 2 99 2 ∑ n = 0 ∞ ( 4 n ) ! ( 1103 + 26390 n ) ( 4 n 99 n n ! ) 4 {\\displaystyle {\\frac {1}{\\pi }}={\\frac {2{\\sqrt {2}}}{99^{2}}}\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(4n)!(1103+26390n)}{(4^{n}99^{n}n!)^{4}}}} (ラマヌジャン) 4 π = ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n ( 4 n ) ! ( 1123 + 21460 n ) 882 2 n + 1 ( 4 n n ! ) 4 {\\displaystyle {\\frac {4}{\\pi }}=\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}(4n)!(1123+21460n)}{882^{2n+1}(4^{n}n!)^{4}}}} (ラマヌジャン) 1 2 1 2 + 1 2 1 2 1 2 + 1 2 1 2 + 1 2 1 2 ⋯ = 2 π {\\displaystyle {\\sqrt {\\frac {1}{2}}}{\\sqrt {{\\frac {1}{2}}+{\\frac {1}{2}}{\\sqrt {\\frac {1}{2}}}}}{\\sqrt {{\\frac {1}{2}}+{\\frac {1}{2}}{\\sqrt {{\\frac {1}{2}}+{\\frac {1}{2}}{\\sqrt {\\frac {1}{2}}}}}}}\\cdots ={\\frac {2}{\\pi }}} (ビエト) 4 arctan ⁡ 1 5 − arctan ⁡ 1 239 = π 4 {\\displaystyle 4\\arctan {\\frac {1}{5}}-\\arctan {\\frac {1}{239}}={\\frac {\\pi }{4}}} (マチン、1709年) ただし arctan x は主値 − π 2 < arctan ⁡ x < π 2 {\\displaystyle -{\\frac {\\pi }{2}}<\\arctan x<{\\frac {\\pi }{2}}} を取るものとする。 4 arccot ⁡ 5 − arccot ⁡ 239 = π 4 {\\displaystyle 4\\operatorname {arccot} 5-\\operatorname {arccot} 239={\\frac {\\pi }{4}}} と書かれることもある。4 と 1/4 が二進法と相性がよく、収束も早いため、コンピュータでの円周率計算によく使われる公式の一つである。 4/π の連分数表示: 4 π = 1 + 1 3 + 4 5 + 9 7 + 16 9 + 25 11 + 36 13 + 49 ⋱ {\\displaystyle {\\frac {4}{\\pi }}=1+{\\cfrac {1}{3+{\\cfrac {4}{5+{\\cfrac {9}{7+{\\cfrac {16}{9+{\\cfrac {25}{11+{\\cfrac {36}{13+{\\cfrac {49}{\\ddots }}}}}}}}}}}}}}} 1 π = 12 640320 3 ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n ( 6 n ) ! ( 13591409 + 545140134 n ) ( 3 n ) ! n ! 3 × 640320 3 n {\\displaystyle {\\frac {1}{\\pi }}={\\frac {12}{\\sqrt {640320^{3}}}}\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}(6n)!(13591409+545140134n)}{(3n)!n!^{3}\\times 640320^{3n}}}} (チュドノフスキー) (各項の素因数分解: 13591409 = 13 × 1045493, 545140134 = 2 × 32 × 7 × 11 × 19 × 127 × 163, 640320 = 26 × 3 × 5 × 23 × 29.) π = 426880 10005 { ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n ( 6 n ) ! ( 13591409 + 545140134 n ) ( 3 n ) ! n ! 3 × 640320 3 n } − 1 {\\displaystyle \\pi =426880{\\sqrt {10005}}\\left\\{\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}(6n)!(13591409+545140134n)}{(3n)!n!^{3}\\times 640320^{3n}}}\\right\\}^{-1}} (チュドノフスキー) π = ∑ n = 0 ∞ 1 2 4 n ( 2 2 8 n + 1 − 2 8 n + 4 − 1 8 n + 5 − 1 8 n + 6 ) {\\displaystyle \\pi =\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {1}{2^{4n}}}\\left({\\frac {2^{2}}{8n+1}}-{\\frac {2}{8n+4}}-{\\frac {1}{8n+5}}-{\\frac {1}{8n+6}}\\right)} (David Bailey, Peter Borwein and Simon Plouffe、俗称“BBP”) π = ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n 2 2 n ( 2 4 n + 1 + 2 4 n + 2 + 1 4 n + 3 ) {\\displaystyle \\pi =\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}}{2^{2n}}}\\left({\\frac {2}{4n+1}}+{\\frac {2}{4n+2}}+{\\frac {1}{4n+3}}\\right)} (Adamchik and Wagon) π = 1 2 6 ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n 2 10 n ( − 2 5 4 n + 1 − 1 4 n + 3 + 2 8 10 n + 1 − 2 6 10 n + 3 − 2 2 10 n + 5 − 2 2 10 n + 7 + 1 10 n + 9 ) {\\displaystyle \\pi ={\\frac {1}{2^{6}}}\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}}{2^{10n}}}\\left(-{\\frac {2^{5}}{4n+1}}-{\\frac {1}{4n+3}}+{\\frac {2^{8}}{10n+1}}-{\\frac {2^{6}}{10n+3}}-{\\frac {2^{2}}{10n+5}}-{\\frac {2^{2}}{10n+7}}+{\\frac {1}{10n+9}}\\right)} (Fabrice Bellard) 整数全体から無作為に2つ取り出すとき、その2つが互いに素である確率は 6/π2 である(互いに素#互いに素である確率を参照)。 ロジスティック写像 xi+1 = 4xi(1 − xi) により帰納的に定まる数列 {xi} を考える。初期値 x0 を 0 以上 1 以下に取るとき、そのほとんど全てで、次が成り立つ。 lim n → ∞ 1 n ∑ i = 1 n x i = 2 π . {\\displaystyle \\lim _{n\\to \\infty }{\\frac {1}{n}}\\sum _{i=1}^{n}{\\sqrt {x_{i}}}={\\frac {2}{\\pi }}.} f ( x ) = 1 σ 2 π exp ⁡ [ − ( x − μ ) 2 2 σ 2 ] {\\displaystyle f(x)={\\frac {1}{\\sigma {\\sqrt {2\\pi }}}}\\,\\exp {\\biggl [}-{\\frac {(x-\\mu )^{2}}{2\\sigma ^{2}}}{\\biggr ]}} (正規分布の確率密度関数) 幅 1 の無数の平行線の上から長さ 1/2 の針を落とすとき、その針が直線と共有点を持つ確率は 1/π である(ビュフォンの針)。 河川の長さの水源・河口間の直線距離に対する比率は、平均すると円周率に近い。 π の桁を記憶術に頼らずに暗記する方法が各種存在している。 日本語では、語呂合わせにより、長い桁を暗記するのも比較的簡単である。有名なものとして、以下がある。 産医師異国ニ向コー、産後厄無ク産婦御社ニ虫サンザン闇ニ鳴ク —マーティン・ガードナー著、金沢養訳、『現代の娯楽数学 新しいパズル・マジック・ゲーム』(白揚社、1960年)144頁 英語圏では語呂合わせがうまくいかないため、単語の文字数で覚える方法がある。 これらのような覚え方は多くあり、日本語では上記のものの改編で90桁までのものや、歌に合わせたもの、数値を文字に置き換えて1,000桁近く覚える方法などがある。 2004年9月25日、原口證が8時間45分かけて円周率5万4000桁の暗唱に成功し、従来の世界記録を更新した。しかしながら、実際はより多くの桁を覚えていたため、2005年7月1日 - 7月2日に再挑戦し、8万3431桁までの暗唱に成功した。2006年10月3日午前9時 - 10月4日午前1時30分(16時間30分)の挑戦で円周率10万桁の暗唱に成功した。原口はこれをギネス世界記録に申請したが、2017年現在に至るまで認定されていない。 『ギネス世界記録』によれば、円周率暗唱の世界記録は2015年10月21日に7万30桁を暗唱したインド人、スレシュ・クマール・シャルマ (Suresh Kumar Sharma) が記録したものである。 円という日常でもよく知られた図形についての単純な定義でありながら、小数部分が無限に続くという不思議さから、数学における概念の中で最もよく知られたものの一つである。 3月14日は円周率の日および数学の日である。小数点以下が「永遠に続く」という意味にあやかり、3月14日に結婚するカップルもいる。また7月22日は円周率近似値の日とされている(22/7 は円周率の近似値)。 2012年8月14日、米国勢調査局が、米国の人口が円周率と同じ並びの3億1415万9265人に達したと発表した。アメリカには円周率の曲を作る人もいる。 組版処理ソフトウェア TeX のバージョン番号は、3.14, 3.141, 3.1415, … というように、更新のたびに円周率に近づいていくように一桁ずつ増やされる。 小数点以下1000桁までの値 π = 3. 14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288 41971 69399 37510 58209 74944 59230 78164 06286 20899 86280 34825 34211 70679 82148 08651 32823 06647 09384 46095 50582 23172 53594 08128 48111 74502 84102 70193 85211 05559 64462 29489 54930 38196 44288 10975 66593 34461 28475 64823 37867 83165 27120 19091 45648 56692 34603 48610 45432 66482 13393 60726 02491 41273 72458 70066 06315 58817 48815 20920 96282 92540 91715 36436 78925 90360 01133 05305 48820 46652 13841 46951 94151 16094 33057 27036 57595 91953 09218 61173 81932 61179 31051 18548 07446 23799 62749 56735 18857 52724 89122 79381 83011 94912 98336 73362 44065 66430 86021 39494 63952 24737 19070 21798 60943 70277 05392 17176 29317 67523 84674 81846 76694 05132 00056 81271 45263 56082 77857 71342 75778 96091 73637 17872 14684 40901 22495 34301 46549 58537 10507 92279 68925 89235 42019 95611 21290 21960 86403 44181 59813 62977 47713 09960 51870 72113 49999 99837 29780 49951 05973 17328 16096 31859 50244 59455 34690 83026 42522 30825 33446 85035 26193 11881 71010 00313 78387 52886 58753 32083 81420 61717 76691 47303 59825 34904 28755 46873 11595 62863 88235 37875 93751 95778 18577 80532 17122 68066 13001 92787 66111 95909 21642 01989 …(オンライン整数列大辞典の数列 A000796) ^ 古代ギリシア語読み: πεῖ [pêː, pi]、中世ギリシア語読み: πῖ [piː, pi]、現代ギリシア語読み: πι [pi]。日本語読み: パイ、ピー ラテン文字表記: pi, Pi 英語発音: [pai], ドイツ語発音: [piː], フランス語発音: [pi], オランダ語発音: [pi] ^ ただし、これは明らかな根拠がない話であり、適切に表現すれば定まらないというのが正しい、という主張も見られる。 ^ 3回の反復で小数18位まで求めることができる ^ 『π』 - コトバンク ^ 『Π,π』 - コトバンク ^ Alfred S.Posamentier(英語版)、Ingmar Lehmann 『不思議な数πの伝記』 松浦俊輔訳、日経BP、62, 63。 ^ a b 日本数学会 2007, pp. 94–95. ^ a b Boeing, Niels (2016年3月14日). “Die Welt ist Pi” (ドイツ語). 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Borwein : \"Pi: The Next Generation: A Sourcebook on the Recent History of Pi and Its Computation\"(1st ed.)、Springer、ISBN 978-3319323756(2016年8月5日)。 数学に関するもの 円周率の歴史 円周率の無理性の証明 τ (数学定数) - 円の周長と半径の比 リンデマンの定理 ファインマン・ポイント 数学定数 教育に関するもの 円周率は3 社会に関するもの 円周率の日 インディアナ州円周率法案 算数用語集「円周率」 - 新興出版社啓林館 江戸の数学「コラム 円周率」 - 国立国会図書館", "平方根(へいほうこん、英語: square root)とは、数に対して、平方すると元の値に等しくなる数のことである。与えられた数を面積とする正方形を考えるとき、その数の平方根の絶対値がその一辺の長さであり、一つの幾何学的意味付けができる。また、単位長さと任意の長さ x が与えられたとき、長さ x の平方根を定規とコンパスを用いて作図することができる。二乗根(にじょうこん)、自乗根(じじょうこん)とも言う。 数 a に対して、a = b2 を満たす b を a の平方根という。a がどのような数の範囲であるかによって、この概念は、意味を持つかどうかということを含め、さまざまな点で差異が生じるということに注意が必要である。 0 の平方根は 0 のみである。また、どんな正の数 a に対しても平方根は正と負の2つ存在し、そのうち正である方を根号(こんごう、radical symbol) {\\displaystyle {\\sqrt {\\;}}} を用いて a {\\displaystyle {\\sqrt {a}}} と表し「正の(あるいは非負の)平方根」(principal square root; 主平方根)と呼ぶ(文脈上紛れのおそれの無いと思われるときは「正の」を省略することもある)。このとき、もう一方の「負の平方根」は − a {\\displaystyle -{\\sqrt {a}}} と表すことができる。また、2つの平方根を併せて ± a {\\displaystyle \\pm {\\sqrt {a}}} と表記することもできる。例えば、16 の平方根は ±4、すなわち +4 と −4 の2つであり、 16 {\\displaystyle {\\sqrt {16}}} は正である 4 の方を表す。 0 {\\displaystyle {\\sqrt {0}}} は、0 の唯一の平方根 0 を意味すると約束する。根号に関するこれらの規約は、非負の実数の範囲でのみ通用する便宜的なものであることに注意を要する。 負の数の平方根は、考える数の範囲を複素数まで拡大すれば定義できる。また、数とは限らず、もっと一般にいくつかの数学的対象についても、それぞれに意味のある仕方で平方根が定義されるものがある(正定値行列など)。 a が正の整数でも、a の平方根は整数とは限らない。例えば 10 {\\displaystyle {\\sqrt {10}}} は小数表示すると 3.162277660168… と小数部分が循環せず、無理数である。平方根が整数であるような整数は平方数に限られる。そうでない整数の平方根は無理数となる(無限降下法または素因数分解の可能性・一意性から証明される)。正の整数や小数の平方根の小数表示を求めるには、開平法という筆算による方法が知られている。 a = x2y (x, y > 0) と表せるならば、その正の平方根について: a {\\displaystyle {\\sqrt {a}}} = x y {\\displaystyle x{\\sqrt {y}}} が成り立つから、正の整数 a が平方因子を持つ場合は、根号内がより小さい表示にできる。 例えば 18 = 32 × 2 であるから、 18 = 3 2 {\\displaystyle {\\sqrt {18}}=3{\\sqrt {2}}} と表せる。 比較的小さな数の平方根については、概数を知る必要がしばしばあることから、以下のような小数部分の数桁目までの語呂合わせが知られている。 2 = 1.41421356 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt {2}}=1.41421356\\cdots } 一夜一夜に人見頃(ひとよひとよにひとみごろ) 3 = 1.7320508075 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt {3}}=1.7320508075\\cdots } 人並みに奢れや女子(ひとなみにおごれやおなご) 5 = 2.2360679 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt {5}}=2.2360679\\cdots } 富士山麓鸚鵡鳴く(ふじさんろくおーむなく) 「富士山麓に 鸚鵡鳴く」と誤って覚えるむきも多い。 5 = 2.236067977 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt {5}}=2.236067977\\cdots } なので、小数点以下 8 桁ならば、切り捨てた「 2.2360679 」よりは、四捨五入した「 2.2360680 」の方が近い。 6 = 2.4494897 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt {6}}=2.4494897\\cdots } ツヨシ串焼くな(つよしくしやくな)、煮よ良く弱く(によよくよわく) 000≈ 2.44949 似よ良く良く(によよくよく)、二夜しくしく(によしくしく) 7 = 2.64575 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt {7}}=2.64575\\cdots } 菜 (7) に虫来ない((な)にむしこない)、「菜に虫いない」とも。 8 = 2 2 = 2.828427 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt {8}}=2{\\sqrt {2}}=2.828427\\cdots } ニヤニヤ呼ぶな(にやにやよぶな) 10 = 3.162277 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt {10}}=3.162277\\cdots } 父 (10) さん一郎兄さん(とうさんいちろーにーさん) 実数 x に対して、x2 ≥ 0 であり、 x 2 = | x | ( = { x ( x ≥ 0 ) − x ( x ≤ 0 ) ) {\\displaystyle {\\sqrt {x^{2}}}=|x|\\left(={\\begin{cases}x&(x\\geq 0)\\\\-x&(x\\leq 0)\\end{cases}}\\right)} が成り立つ。ここで |x| は x の絶対値である。また、x と y が非負のときには x y = x y x y = x y {\\displaystyle {\\begin{aligned}{\\sqrt {xy}}&={\\sqrt {x}}{\\sqrt {y}}\\\\{\\sqrt {\\frac {x}{y}}}&={\\frac {\\sqrt {x}}{\\sqrt {y}}}\\end{aligned}}} が成り立つ。これらは(証明を述べれば明らかであるが)非負の実数に対してその非負の平方根が一意に定まるということに依存して成立しており、後述するように、根号内が負の数や虚数のときは、一般には成り立たない。 また、非負実数 x に対しては、その冪乗と冪根について x = ( x ) 2 = ( x 2 4 ) 2 = ( x 3 6 ) 2 = ⋯ {\\displaystyle x=\\left({\\sqrt {x}}\\right)^{2}=\\left({\\sqrt[{4}]{x^{2}}}\\right)^{2}=\\left({\\sqrt[{6}]{x^{3}}}\\right)^{2}=\\cdots } が成り立ち、特に x 1 / 2 := x {\\displaystyle x^{1/2}:={\\sqrt {x}}} と定めることは(指数の表示 1/2 = 2/4 = 3/6 = … に依らずに一定という意味で)well-defined で、指数法則とも整合する。 入力 x に対してその非負の平方根 x {\\displaystyle {\\sqrt {x}}} を返す函数 f ( x ) = x {\\displaystyle f(x)={\\sqrt {x}}} を非負実数全体の集合 R+ ∪ {0} 上で定義されていると考えた正の平方根函数 ∙ : R + ∪ { 0 } ∋ x   → 1-1,onto   x ∈ R + ∪ { 0 } {\\displaystyle {\\sqrt {\\bullet }}\\colon \\mathbb {R} ^{+}\\cup \\{0\\}\\ni x\\ {\\xrightarrow {\\text{1-1,onto}}}\\ {\\sqrt {x}}\\in \\mathbb {R} ^{+}\\cup \\{0\\}} は(函数として well-defined で)、それ自身への全単射になる。正の平方根函数のグラフと負の平方根函数 − ∙ : R + ∪ { 0 } ∋ x   → 1-1,onto   − x ∈ R − ∪ { 0 } {\\displaystyle {-{\\sqrt {\\bullet }}}\\colon \\mathbb {R} ^{+}\\cup \\{0\\}\\ni x\\ {\\xrightarrow {\\text{1-1,onto}}}\\ {-{\\sqrt {x}}}\\in \\mathbb {R} ^{-}\\cup \\{0\\}} のグラフの和集合は、二次函数 y = x2 のグラフと直線 y = x に関して線対称な放物線に等しい。 正の平方根函数 √ は連続かつ x > 0 で微分可能であり、導関数は d d x x = 1 2 x {\\displaystyle {\\frac {d}{dx}}{\\sqrt {x}}={\\frac {1}{2{\\sqrt {x}}}}} 原始関数の一つは ∫ x d x = 2 3 ( x ) 3 = 2 3 x 3 2 {\\displaystyle \\int {\\sqrt {x}}\\,dx={\\frac {2}{3}}({\\sqrt {x}})^{3}={\\frac {2}{3}}x^{\\frac {3}{2}}} で与えられる。また、収束冪級数としての二項展開 1 + x = ∑ n = 0 ∞ ( 1 / 2 n ) x n = 1 + x 2 − x 2 8 + ⋯ = ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n ( 2 n ) ! ( 1 − 2 n ) ( n ! ) 2 ( 4 n ) x n {\\displaystyle {\\sqrt {1+x}}=\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\binom {1/2}{n}}x^{n}=1+{\\frac {x}{2}}-{\\frac {x^{2}}{8}}+\\cdots =\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}(2n)!}{(1-2n)(n!)^{2}(4^{n})}}x^{n}} が |x| < 1 で成り立つ。 x > 0 に対して自然数 n に関して帰納的に f n ( x ) = x + x + x + x + . . . {\\displaystyle f_{n}(x)={\\sqrt {x+{\\sqrt {x+{\\sqrt {x+{\\sqrt {x+...}}}}}}}}} (x および根号の個数は n)と定めると、函数列 fn は漸化式 f n + 1 ( x ) 2 = x + f n ( x ) {\\displaystyle f_{n+1}(x)^{2}=x+f_{n}(x)} に従い、fn(x) > 0 が α(x) > 0 に収束するならば α(x)2 − α(x) − x = 0 でなければならないから、 lim n → ∞ f n ( x ) = x + 1 4 + 1 2 {\\displaystyle \\lim _{n\\to \\infty }f_{n}(x)={\\sqrt {x+{\\frac {1}{4}}}}+{\\frac {1}{2}}} が成り立つ。 a < 0 の場合は、a の平方根は実数でなく、はっきりと指定することができない。複素数の範囲では、a の平方根の1つを b とすると、x2 = a の解は (x + b)(x − b) = 0 より x = ±b で、a の平方根は2つあると分かる。そこで、記号 a {\\displaystyle {\\sqrt {a}}} は +b, −b のどちらを指すかが問題となる。 −1 の平方根の1つ(どちらでもよい)をあらかじめ指定しておき、それを i で表す(虚数単位と呼ぶ)。これにより、a の平方根は ± − a i {\\displaystyle \\pm {\\sqrt {-a}}\\,i} と表せるから、 a = − a i {\\displaystyle {\\sqrt {a}}={\\sqrt {-a}}\\,i} と定めることにする。例えば − 5 = 5 i {\\displaystyle {\\sqrt {-5}}={\\sqrt {5}}\\,i} である。 正の数の平方根においてよく知られる計算法則 a b = a b {\\displaystyle {\\sqrt {a}}{\\sqrt {b}}={\\sqrt {ab}}} は、a < 0 かつ b < 0 のとき成立しない。実際、左辺は a b = − a i × − b i = − a − b i 2 = − a b {\\displaystyle {\\sqrt {a}}{\\sqrt {b}}={\\sqrt {-a}}\\,i\\times {\\sqrt {-b}}\\,i={\\sqrt {-a}}{\\sqrt {-b}}\\,i^{2}=-{\\sqrt {ab}}} なので、この場合 a b = − a b {\\displaystyle {\\sqrt {a}}{\\sqrt {b}}=-{\\sqrt {ab}}} が正しい。 四元数や八元数においては、複数の虚数単位を定義し、a の平方根は2個より多くなる。 有理数体 Q(有理数全体(負の数も含む))上で定義される函数 Q ∋ x ↦ x ∈ A {\\displaystyle \\mathbb {Q} \\ni x\\mapsto {\\sqrt {x}}\\in \\mathbb {A} } において、その値域は(虚数も含めた)代数的数(の一部)からなる。有理数の平方根が再び有理数となるならば、その有理数は(有理数の範囲での)平方数であるという。有理数内で平方数とならない有理数 d に対して √d は二次の無理数であって、Q に √d を付け加えて得られる体(たい)は二次体と総称される。 a が 0 でない複素数のとき、 b2 = a を満たす複素数 b は2個存在する。a の極形式を a = r e i θ   ( r > 0 , − π < θ ≤ π ) {\\displaystyle a=re^{i\\theta }\\ (r>0,\\,-\\pi <\\theta \\leq \\pi )} とすると、b の動径の2乗が r、b の偏角の2倍が θ であるから、 a = r e i θ / 2 {\\displaystyle {\\sqrt {a}}={\\sqrt {r}}\\,e^{i\\theta /2}} と定義すると、これは a に対して一意に定まり、(√a)2 = a を満たす。これを a の平方根の主値(しゅち、principal value)という。この主値により定義される平方根函数 C ∋ z ↦ z ∈ C {\\displaystyle \\mathbb {C} \\ni z\\mapsto {\\sqrt {z}}\\in \\mathbb {C} } は、実軸の負の部分を除くガウス平面 C の全域で至る所正則である。しかし実軸の負の部分上では連続でさえない。これを2枚のガウス平面を実軸の負の部分で張り合わせた平方根函数のリーマン面上で考えるならば、至る所解析的である。 ガウス平面上の平方根函数を色で示したもの。原点の周りを偏角が正の方向(反時計回り)に回って、実軸の負の部分を跨ぐときもう一枚のガウス平面へ跳ぶ(緑→緑)。 もう一枚のガウス平面上の平方根函数。こちらもやはり原点を正の方向に回ると、実軸の負の部分を境に最初のガウス平面に帰る(紫→紫)。 原点付近での平方根函数のリーマン面(2つのガウス平面を張り合わせたときの様子) 平方根関数 Re z1/2 ここで、z は複素数。 一般に、正方行列 A に対して、A = B2 を満たす正方行列 B を A の平方根行列と呼び、記号で √A あるいは A1⁄2 と表す。平方根行列は存在するとは限らず、存在しても1つだけの場合や複数個の場合、無限個存在する場合がある。例えば、二次単位行列 I2 は無数の平方根を持つ。ただしその中で正定値となるのはただ一つ I2 自身である。 また、半正定値複素 (resp. 実) 正方行列 A に対して、A = BB*(あるいは A = B*B. ここに ∗ はエルミート共軛)を満たす(正方とは限らない)任意の行列 B をしばしば、 A の非エルミート (resp. 非対称) 平方根 (non-Hermitian (resp. symmetric) square root) と呼ぶ(とくに適当な三角行列となるときコレスキー因子 (Cholesky factor)とも呼ぶ)。B がそれ自身エルミート(実係数の場合は対称)ならば、これは上で述べた平方根の概念と一致する。任意の正定値エルミート行列 P に対し、それ自身正定値エルミートとなる平方根は一意であり、これを主平方根 (unique square root, principal square root)と呼ぶが、しばしば記号 √P や P1/2 は専ら主平方根を表すために予約されることに注意すべきである。また、正定値エルミート行列の任意の非エルミート平方根は、ユニタリ行列を掛ける分の不定性を持つが、これは正実数の場合に、(正値の主平方根が一意に決まること、および)主平方根に ±1 を掛けたものがその平方根のすべてであることと対応している。 このような半正定値行列の平方根の計算および一意性の証明には、エルミート作用素に関するスペクトル論(固有値分解)や特異値分解あるいはコレスキー分解などが利用できる。 (可換)整域の各元が二つより多くの平方根を持つことはない。実際、乗法の可換性により二平方数の差の公式(英語版) u2 − v2 = (u − v)(u + v) が成り立つことに注意すれば、u, v が同じ元の平方根であるとき u2 − v2 = 0, ゆえに零因子を持たないことから u = v または u + v = 0 であることが従う。後者は、二つの平方根が互いに加法逆元の関係にあることを言っているのだから、すなわち一つの元の平方根は(存在すれば)符号の違いを除いて一意である。特に、整域において零元 0 の平方根は 0 自身のみである。 標数 2 の可換体において、各元の平方根は一つ持つ(各元が自身を加法逆元にもつことに注意せよ)か、全く持たないかの何れかとなる(標数 2 の有限体においては任意の元が一意な平方根を持つ)。それ以外の任意の標数の体においては、先の段落のとおり任意の非零元が二つの平方根を持つか全く持たないかの何れかとなる。 奇素数 p と適当な正整数 e に対し q = pe と置く。q-元体 Fq の非零元が平方剰余であるとは、その平方根が Fq に属することを言い、さもなくば平方非剰余であるという。この体において (q − 1)/2 個の元が平方剰余であり、(q − 1)/2 個が非剰余である(零元はいずれのクラスにも属さないことに注意)。平方剰余元の全体は乗法に関して群を成す。この性質は代数的整数論において広く用いられる。 一般の環において、a の平方根 b を b2 = a のことと定めるならば、一般には平方根は符号を除いて一意とは限らない。 たとえば合同類環 Z/8Z を考えれば、この環において単位元 1 は相異なる四つの平方根を持つ(具体的には ±1, ±3)。他方、元 2 は平方根を持たない。詳細は平方剰余の項を参照されたい。 他の例として四元数体 H において、−1 は ±i, ±j, ±k を含む無数の平方根を持つ。実は −1 の平方根の全体はちょうど集合 { a i + b j + c k ∣ a 2 + b 2 + c 2 = 1 } {\\displaystyle \\{ai+bj+ck\\mid a^{2}+b^{2}+c^{2}=1\\}} であり、したがって各平方根は絶対値が等しく、この集合は三次元空間内の二次元単位球面を描く。四元数#−1 の平方根も参照。 零元 0 の平方根は、定義により、0 自身または零因子である。四元数体のような可除環では零因子が存在しないから、一般に 0 の平方根は 0 のみである。しかし、零因子が存在しうる一般の環では必ずしもそうでないことは、反例として任意の自然数 n に対するZ/n2Z を考えればよい(この場合、n は零因子であり、実際に n2 = 0 を満たす)。 ^ Higham, Nicholas J. 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progression)とは、各項の逆数を取ると等差数列となる数列である。ピタゴラス音律では、ドの弦の長さを 1 とすると、ソは 2/3、1オクターブ高いドは 1/2 の長さになる。各項の逆数はそれぞれ 1, 3/2, 2 となり、公差が 1/2 の等差数列となる。よって、1, 2/3, 1/2 は調和数列である。 調和数列とは、一般項 hn が a を初項とし定数 d を用いて h n = a 1 + ( n − 1 ) d {\\displaystyle h_{n}={\\frac {a}{1+(n-1)d}}} と表せる数列 {hn} のことである。ここで −1/d は自然数でないとする。このとき、a は初項である。各項は隣接する2項の調和平均になっている(調和中項)。調和数列の極限は 0 である。例としては、 12 , 6 , 4 , 3 , 12 5 , 2 , … , 12 n , … {\\displaystyle 12,\\,6,\\,4,\\,3,\\,{\\frac {12}{5}},\\,2,\\dots ,{\\frac {12}{n}},\\dots } 10 , 30 , − 30 , − 10 , − 6 , − 30 7 , … , 30 5 − 2 n , … {\\displaystyle 10,\\,30,\\,-30,\\,-10,\\,-6,\\,-{\\frac {30}{7}},\\dots ,{\\frac {30}{5-2n}},\\dots } などが挙げられる。 n 番目の項と m 番目の項の関係を表す漸化式は h n = h m 1 + ( n − m ) d {\\displaystyle h_{n}={\\frac {h_{m}}{1+(n-m)d}}} である。 この数列の隣接2項間漸化式は 1 h n + 1 = 1 h n + d h 1 ( n ≥ 1 ) {\\displaystyle {\\frac {1}{h_{n+1}}}={\\frac {1}{h_{n}}}+{\\frac {d}{h_{1}}}\\quad (n\\geq 1)} である。 一般項 h n = a 1 + ( n − 1 ) d {\\displaystyle h_{n}={\\frac {a}{1+(n-1)d}}} , 項数 n の調和数列 {hn} の総乗は h 1 h 2 ⋯ h n = ( a d ) n ( 1 d ) n ¯ = ( a d ) n Γ ( 1 d ) Γ ( 1 d + n ) {\\displaystyle h_{1}h_{2}\\cdots h_{n}={\\frac {\\left({\\frac {a}{d}}\\right)^{n}}{\\left({\\frac {1}{d}}\\right)^{\\overline {n}}}}=\\left({\\frac {a}{d}}\\right)^{n}{\\frac {\\Gamma \\left({\\frac {1}{d}}\\right)}{\\Gamma \\left({\\frac {1}{d}}+n\\right)}}} で表される。ここで、 x n ¯ {\\displaystyle x^{\\overline {n}}} は上昇階乗冪(x から 1 ずつ増やしながら x + n − 1 までの n 個の総乗(階乗の類似物)、Γ は ガンマ関数を表す。 調和数列は各項の逆数を取ると等差数列になることから、等差数列の関係から調和数列の関係を得ることができる。 一般項 h n = a 1 + ( n − 1 ) d {\\displaystyle h_{n}={\\frac {a}{1+(n-1)d}}} , 項数 n の調和数列 {hn} の全ての項の逆数和は、次の式で表される。 1 h 1 + 1 h 2 + ⋯ + 1 h n = n 2 ( 1 h 1 + 1 h n ) = n { 2 + ( n − 1 ) d } 2 a {\\displaystyle {\\frac {1}{h_{1}}}+{\\frac {1}{h_{2}}}+\\cdots +{\\frac {1}{h_{n}}}={\\frac {n}{2}}\\left({\\frac {1}{h_{1}}}+{\\frac {1}{h_{n}}}\\right)={\\frac {n\\{2+(n-1)d\\}}{2a}}} 調和数列の級数は一般調和級数 ∑ n = 1 ∞ a 1 + ( n − 1 ) d = a d ∑ n = 1 ∞ 1 n − 1 + 1 d {\\displaystyle \\sum _{n=1}^{\\infty }{\\frac {a}{1+(n-1)d}}={\\frac {a}{d}}\\sum _{n=1}^{\\infty }{\\frac {1}{n-1+{\\frac {1}{d}}}}} になる。これは発散級数である。", "立方根(りっぽうこん、cubic root、root of third power)とは、ある数が与えられた時、三乗して与えられた数となるような新たな数を指す。三乗根(さんじょうこん)ともいう。 積の定義された集合 E を固定して考える。E の元 a に対し、a = x3 を満たす x ∈ E が存在するとき、x は E における a の立方根であるという。また、立方根を求めることを開立(かいりゅう)という。 a が実数であれば a の立方根は実数の範囲に常にただ一つ存在 し、それを a 3 {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{a}}} と表す。 正の数 a に対して、 − a 3 = − a 3 . {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{-a}}=-{\\sqrt[{3}]{a}}.} 1 の虚立方根の一つを ω とすると、もう一つの虚立方根は ω2 であり、ω, ω2 はともに 1 の原始冪根である。また、1 + ω + ω2 = 0 が成り立つ。 α が 0 でない複素数ならば、α の立方根は常に 3 個あり、それらは複素数平面上で、原点 O を中心とする半径 | α | 3 {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{|\\alpha |}}} の円に内接する正三角形の頂点になる。 2 3 = 1.2599210498 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{2}}=1.2599210498\\cdots } (オンライン整数列大辞典の数列 A002580) 3 3 = 1.4422495703 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{3}}=1.4422495703\\cdots } (オンライン整数列大辞典の数列 A002581) 4 3 = 1.5874010519 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{4}}=1.5874010519\\cdots } (オンライン整数列大辞典の数列 A005480) 5 3 = 1.7099759466 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{5}}=1.7099759466\\cdots } (オンライン整数列大辞典の数列 A005481) 6 3 = 1.8171205928 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{6}}=1.8171205928\\cdots } (オンライン整数列大辞典の数列 A005486) 7 3 = 1.9129311827 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{7}}=1.9129311827\\cdots } (オンライン整数列大辞典の数列 A005482) 8 3 = 2 {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{8}}=2} 9 3 = 2.0800838230 ⋯ {\\displaystyle {\\sqrt[{3}]{9}}=2.0800838230\\cdots } (オンライン整数列大辞典の数列 A010581) 立方数 冪根 平方根 代数的数 定規とコンパスによる作図(三大問題の内の「立方倍積問題」)", "冪演算(べきえんざん、英: 独: 仏: Exponentiation)は、底 (base) および冪指数 (exponent) と呼ばれる二つの数に対して定まる数学的算法である。 通常は、冪指数を底の右肩につく上付き文字によって示す。自然数 n を冪指数とする冪演算は冪乗(べきじょう)または累乗(るいじょう、英: repeated multiplication) に一致する。 具体的に、底(英語版) b および冪指数 n を持つ冪 (power) bn は、n が自然数(正整数)のとき、底の累乗 b n = b × ⋯ × b ⏟ n  factors {\\displaystyle b^{n}=\\underbrace {b\\times \\cdots \\times b} _{n{\\text{ factors}}}} で与えられる。このとき bn は b の n-乗とか、n-次の b-冪などと呼ばれる。 頻繁に用いられる冪指数に対しては、固有の名前が付けられている数詞がある。例えば冪指数 2 に対して二次の冪(二乗) b2 は b の平方 (square of b) あるいは b-自乗 (b-squared) と呼ばれ、冪指数 3 に対する三次の冪 b3 は b の立方 (cube of b, b-cubed) と呼ばれる。四次以後は四乗、五乗、六乗…というように「n乗」という言い方が一般的である。 また冪指数 −1 に対して冪 b−1 は 1/b であり b の逆数(あるいは乗法逆元)と呼ばれる。一般に負の整数 n に対して底 b が零でないとき、冪 bn はふつう bn × bm = bn + m なる性質を保つように bn := 1/b−n と定義される。 冪演算は任意の実数あるいは複素数を冪指数とするように定義を拡張することができる。底および冪指数が実数であるような冪において、底を固定して冪指数を変数と見なせば指数函数が、冪指数を固定して底を変数と見れば冪函数がそれぞれ生じる。整数乗冪に限れば、行列などを含めた非常に多種多様な代数的対象に対してもそれを底とする冪を定義することができるが、冪指数まで同種の対象に拡張するならばその上で定義された自然指数函数と自然対数函数を持つ完備ノルム環(例えば実数全体 R や複素数全体 C などはそう)を想定するのが自然である。 歴史上に冪が現れたのは非常に古くB.C.16世紀頃に作成された粘土板には平方数表、平方根表、立方根表や三平方の定理について書かれておりエジプトやインド、ギリシャなどでも冪の概念は明示されている。一方で指数法則に言明する文献は見当たらず「指数概念」には未だ到達していないと考えるべきであるが、冪を意味する用語 \"power\" はギリシアの数学者エウクレイデス(ユークリッド)が直線の平方を表すのに用いた語に起源がある。また「原論」において指数法則 am × an = am+n に相当する命題に言及しているが、この時代には算式は発明されておらずすべて言葉で表現していた。 アルキメデスは 10 の冪を扱うために必要となる指数法則 10a • 10b = 10a+b を発見し証明した。9世紀、ペルシアの数学者アル゠フワーリズミは平方を mal, 立方を kab で表した。これを後に中世イスラムの数学者がそれぞれ m, k で表す記法として用いていることが、15世紀ごろのアル゠カラサディ(英語版)の仕事に見ることができる。 16世紀後半、ヨスト・ビュルギは冪指数をローマ数字を用いて表した。 17世紀初頭、今日用いられる現代的な冪記法の最初の形はルネ・デカルトが著書 La Géométrie の一巻において導入した。 アイザック・ニュートンなど一部の数学者は冪指数は二乗よりも大きな冪に対してのみ用い、平方は反復積として書き表した。これは例えば ax + bxx + cx3 + d のように多項式を書くということである。 15世紀にニコラ・ショケ(英語版)は冪記法の一種を用い、それは後の16世紀にハインリヒ・シュライベル(英語版)およびミハエル・スティーフェル(英語版)が用いている。 16世紀にロバート・レコードは square(二次), cube(三次), zenzizenzic(四次), sursolid(五次), zenzicube(六次), second sursolid(七次), zenzizenzizenzic(八次(英語版))の語を用いた。四乗については Biquadrate(複二次)の語も用いられた。 歴史的には \"involution\" が冪の同義語として用いられていたが現在では稀であり、現在別の意味で用いられているので混同すべきではない。 冪指数を意味する用語として、英語ではしばしば exponent と index が同義語として用いられる。この用語選定は18世紀、19世紀を通じて極めて曖昧で個人の嗜好に委ねられていた。しかし、ガウスはその著書 Disquisitiones Arithmeticae において通常の冪指数と数論的な指数を峻別する必要性から exponens は通常の冪指数、index は数論的な指数を表すものとして明確に区別し使い分けて解説に使用しており、この使い分けはディリクレ、デデキント、ヒルベルトを通じて数論の世界での標準となった。 もとをたどれば、1544年にミハエル・スティーフェルがラテン語: \"exponens\" を造語し、対して1586年にラザルス・シェーナーが数学者ペトルス・ラムスの書籍への補注としてラテン語: \"index\" を(シュテイフェルが exponens と呼んだものと同じものを指す意味で)用いたのがそれぞれの語源と考えられる。exponent と index はこれらの英語翻訳で、例えば index はサミュエル・ジーク(英語版)が1696年に導入した。 exponentとindexの微妙な使い分けと併用の時代はここから始まるのであるが、その併用のされ方は国と時代のみならず個人によっても異なり、イギリスは当初indexが優勢でこれは聖バーソロミューの大虐殺で殉死したラムスの著作がプロテスタント諸国で非常に人気を集めたためとの指摘がある。 『冪』の字義は「覆う、覆うもの」で、『冖』と同音同義である。江戸時代の和算家は冪の略字として「巾」を用いていた。 第二次世界大戦後の漢字制限政策のもと、これらの字は常用漢字・当用漢字に含まれず、1950年代以降の学習参考書などの出版物では仮名書きまたは「累乗」への書き換えが進められ、結果として初等数学の教科書ではもっぱら「累乗」が用いられた。「累乗」の字義は「重ね掛けた乗算」であり、自然数乗以外の冪に対して用いることは字義からすればあまり自然でない。 「冪剰余」「冪集合」「冪級数」などの高等学校以下で扱われない多くの概念に対しては、「冪」の部分が置き換えられることはなく、例えば「べき乗集合」や「累乗集合」などといった表現は生じていない。 実数(または積 × {\\displaystyle \\times } の定義された群、より一般には半群)において、元 x 、および、自然数 n に対して xn を x n = x × ⋯ × x ⏟ n   times {\\displaystyle x^{n}=\\underbrace {x\\times \\cdots \\times x} _{n\\ {\\text{times}}}} で定義する。(厳密には再帰的に定義する。) 上付きの n が書けない場合などには、 x^n という表記を用いることが多い。 これを x の n-乗あるいは x の n -乗冪と呼び、n を問題にしないときは x の累乗や x の冪と言う。 また、これら操作を「x の n 乗 (etc.) を取る」などと称し、特に n を固定して x を入力とする関数(特に実数 x の函数)と見るときは、冪関数という。 x の 2乗、3乗は特に、それぞれ x の平方 (へいほう、 英: square)、立方 (りっぽう、 英: cube) と呼ばれ、2乗を特に自乗という場合もある。 冪 xn において、x を底(てい、英: base、 基数)と呼び、n を冪数、冪指数または単に指数(しすう、 英: exponent) と呼ぶ。また、必ずしも冪指数とは限らない添字 n をその基準となる文字 x の右肩に乗せる添字記法を指数表記・冪記法などとよぶ場合もある。 厳密には、x の n-乗冪は x1 = x, xn+1 = xn × x   (n ≥ 1) によって再帰的に定義される。 帰納的定義を見れば以下のように拡張するのが自然である。 有理数の範囲で2の累乗数を例に取ると: 24 = 16 23 = 8 22 = 4 21 = 2 20 = 1 2−1 = 1/2 2−2 = 1/4 2−3 = 1/8 2−4 = 1/16 ただし、底が0の場合は「0で割れない」などの理由から定義しないか、あるいは 00 については 1 と定義するのが一般的である。 自然数 m に対し、x の m 乗根すなわち m 乗して x になるような数 y がただ一つあるならば、その y を x1/m とし、自然数または整数 n に対し xn/m = (x1/m)n と定めることによって、x を底とする冪乗の指数を有理数の範囲まで拡張することができる。 このとき、指数法則と呼ばれる以下の関係式が成り立つ。 xr+s = xr × xs xr×s = (xr)s ここで、r と s は、冪が定義できる範囲の有理数である。つまり、x が逆元をもたないなら自然数、逆元はもつが冪根をもたないなら整数、m 乗根をもつが逆元をもたないならば m を分母とする正の有理数、逆元も m 乗根ももつならば m を分母とする有理数である。 x が正の実数であれば、上で制限されていた指数への条件は外れる。 なぜなら、正数であれば任意の自然数 m に対する正の m 乗根 m√x がただ一つだけ存在するから、正の有理数 n/m に対し x n / m = ( x m ) n = x n m {\\displaystyle x^{n/m}={\\bigl (}\\!{\\sqrt[{m}]{x}}\\,{\\bigr )}^{n}={\\sqrt[{m}]{x^{n}}}} と定めることができるし、さらに x が 0 でなければ逆元が存在するので、指数は有理数全体まで拡張される。 さて、x (>0) の冪はその指数に関して極限を取ることにより、実数上の関数に拡張され連続関数になる。連続な拡張は一意であり、これを x を底とする指数関数と呼ぶ。 複素数 z に対し、 e z := ∑ n = 0 ∞ z n n ! {\\displaystyle e^{z}:=\\sum _{n=0}^{\\infty }{\\frac {z^{n}}{n!}}} と定める。この級数は任意の複素数 z に対して収束する。z = x + iy (x, y は実数)と表すと、 e x + i y = e x ( cos ⁡ y + i sin ⁡ y ) {\\displaystyle e^{x+iy}=e^{x}(\\cos y+i\\sin y)} が成り立つ。 さらに、この関数の「逆関数」を log と書けば、一般の複素数 w ≠ 0 に対し w z := e z log ⁡ w {\\displaystyle w^{z}:=e^{z\\log w}} と定義される。これは log が多価関数であるため一般には値が 1 つには定まらない。ただし、w = e の場合には、上に冪級数で定義した方の意味で用いるのが普通である。 冪演算は可換でない(たとえば 23 = 8 ≠ 9 = 32)。また結合的でない(たとえば (31)3 = 27 ≠ 3 = 3(13))。 括弧を用いずに abc と書いたときには、これはふつう a(bc) を意味する。すなわち冪演算は右結合的である(演算子の優先順位も参照)。 以下の一覧表において多重定義の虞を除くため、底は非零実数であるような冪のみを考える。ただし、正の冪のみを考えるならば、底が 0 でも各法則は成り立つ。また以下の一覧において、有理数について分母が奇数あるいは偶数であるというときは、常にその有理数の既約分数表示における分母のことを言っているものとする。 (ar)s = ±ar • s に関して 冪指数 r, s の少なくとも一方が無理数であるとき、あるいはこれらの双方が有理数だが r または r  • s の少なくとも一方の分母が偶数となるときには、a < 0 に対する (ar)s または ar • s は定義されない。それ以外のとき、この両者は定義されて符号の違いを除いて一致する。特に両者は a > 0 ならば任意の実数 r, s に対して一致し、また a ≠ 0 ならば任意の整数 r, s に対して一致する。 a < 0 かつ r, s が整数でない有理数であるときには可能性は二通り考えられ、どちらになるかは r の分子と s の分母の素因数分解が関係する。式 (ar)s = ±ar • s の右辺の符号は何れが正しいのかを知るには a = −1 のときを見れば十分である(与えられた r, s に対して a = −1 のとき正しくなる方の符号をとれば、任意の a < 0 についても成り立つ)。 a < 0 に対して (ar)s = −ar • s が適用されるならば、a ≠ 0 に対して (ar)s = |a|r • s が成り立つ(冪指数が正ならば a = 0 のときも成り立つ)。 例えば、((−1)2)1⁄2 = 1 および (−1)2 • 1⁄2 = −1 であるから、a < 0 に対して √a2 = (a2)1⁄2 = −a2 • 1⁄2 = −a, したがって任意の実数 a に対して √a2 = |a| が成り立つ。 正の実数に対する冪および対数に関する等式のいくつかは、複素数冪や複素対数がどのように一価函数として定義されようとも、複素数に対しては成り立たないことが起こる。 等式 log(bx) = x⋅log(b) は b が正の実数で x が実数のときにはいつでも成り立つ。しかし、複素対数の主枝(英語版)に対して i π = log ⁡ ( − 1 ) = log ⁡ [ ( − i ) 2 ] ≠ 2 log ⁡ ( − i ) = 2 ( − i π 2 ) = − i π {\\displaystyle i\\pi =\\log(-1)=\\log \\left[(-i)^{2}\\right]\\neq 2\\log(-i)=2\\left(-{\\frac {i\\pi }{2}}\\right)=-i\\pi } は反例になる。複素対数のどの枝を用いたかに関わらず、この等式には同様の反例が存在する。(この結果のみを使うものとすれば) log ⁡ ( w z ) ≡ z ⋅ log ⁡ ( w ) ( mod 2 π i ) {\\displaystyle \\log(w^{z})\\equiv z\\cdot \\log(w){\\pmod {2\\pi i}}} であるとまでしか言えない。 この等式は log を多価函数と考えるときでさえ成り立たない。log(wz) の取り得る値は z⋅log(w) の取り得る値を部分集合として含む。log(w) の主値を Log(w) とし、m, n を任意の整数とすると、両辺の取り得る値は { log ⁡ ( w z ) } = { z ⋅ Log ⁡ ( w ) + z ⋅ 2 π i n + 2 π i m } {\\displaystyle \\{\\log(w^{z})\\}=\\{z\\cdot \\operatorname {Log} (w)+z\\cdot 2\\pi in+2\\pi im\\}} { z ⋅ log ⁡ w } = { z ⋅ Log ⁡ ( w ) + z ⋅ 2 π i n } {\\displaystyle \\{z\\cdot \\log w\\}=\\{z\\cdot \\operatorname {Log} (w)+z\\cdot 2\\pi in\\}} である。 等式 (bc)x = bx⋅cx および (b/c)x = bx/cx は x が実数でさらに b と c が正の実数ならば成り立つ。しかし主枝を用いた計算で 1 = ( ( − 1 ) ( − 1 ) ) 1 2 ≠ ( − 1 ) 1 2 ( − 1 ) 1 2 = − 1 {\\displaystyle 1=((-1)(-1))^{\\frac {1}{2}}\\neq (-1)^{\\frac {1}{2}}(-1)^{\\frac {1}{2}}=-1} および i = ( − 1 ) 1 2 = ( 1 − 1 ) 1 2 ≠ 1 1 2 ( − 1 ) 1 2 = 1 i = − i {\\displaystyle i=(-1)^{\\frac {1}{2}}=\\left({\\frac {1}{-1}}\\right)^{\\frac {1}{2}}\\neq {\\frac {1^{\\frac {1}{2}}}{(-1)^{\\frac {1}{2}}}}={\\frac {1}{i}}=-i} が反例として示される。 他方、x が整数のときには任意の非零複素数に対して成り立つ。 複素数冪を多価函数として考えれば、((−1)(−1))1/2 の取り得る値は {1, −1} で、等式は成り立つが {1} = {((−1)(−1))1/2} と言うことは間違っている。 等式 (ex)y = exy は x と y が実数であるときには成り立つが、任意の複素数に対して正しいと仮定すると、Clausen et al. (1827)の発見した 任意の整数 n に対して、 e 1 + 2 π i n = e 1 e 2 π i n = e ⋅ 1 = e {\\displaystyle e^{1+2\\pi in}=e^{1}e^{2\\pi in}=e\\cdot 1=e} ( e 1 + 2 π i n ) 1 + 2 π i n = e {\\displaystyle (e^{1+2\\pi in})^{1+2\\pi in}=e} e 1 + 4 π i n − 4 π 2 n 2 = e {\\displaystyle e^{1+4\\pi in-4\\pi ^{2}n^{2}}=e} e 1 e 4 π i n e − 4 π 2 n 2 = e {\\displaystyle e^{1}e^{4\\pi in}e^{-4\\pi ^{2}n^{2}}=e} e − 4 π 2 n 2 = 1 {\\displaystyle e^{-4\\pi ^{2}n^{2}}=1} を得るが、これは n が 0 でないとき誤りである。 という不合理が生じる。この推論にはいくつも問題がある: 主な誤りは、二行目から三行目に行くときに冪の順番を変えることで選ばれる主値が変わることである。 多価函数の視点から見ると、最初の誤りは更に早く起きている。一行目で暗に e は実数としているにも拘らず、e1+2πin の結果は複素数であり、e + 0i と書いたほうがよい。二行目を実数ではなくこの複素数で置き換えることで、そこでの冪が取れる値を複数持つようになる。二行目から三行目で指数の順番を変えたことも、取りうる値の数に影響を及ぼす。(ez)w ≠ ezw だが、整数 n にわたって多価な意味で (ez)w = e(z+2πin)w としたほうがよい。 冪演算は任意のモノイドにおいて定義できる。モノイドは単位元を持つ半群、すなわち適当な集合 X を台として合成あるいは乗法と呼ばれる二項演算が定義される代数系であって、その乗法が結合法則を満足し、かつ乗法単位元 1X を持つものを言う。モノイドにおける自然数冪は x 0 := 1 X ( ∀ x ∈ X ) , {\\displaystyle x^{0}:=1_{X}\\quad (\\forall x\\in X),} x n + 1 := x n x ( x ∈ X , n ∈ Z ≥ 0 ) {\\displaystyle x^{n+1}:=x^{n}x\\quad (x\\in X,\\,n\\in \\mathbb {Z} _{\\geq 0})} として帰納的に定義することができる(先の式の右辺(の 1)は X の単位元、後の式の左辺の 1 は自然数の 1 で、当然だがこれらは互いに別のものである)。特に先の式(零乗すること)は「単位元を持つ」ことによって初めて意味を成す規約であることに注意すべきである(空積も参照のこと)。 モノイドの例には群や環(の乗法モノイド)のような数学的に重要な多くの構造が含まれ、またより特定の例として行列環や体の場合について後述する。 正方行列 A に対して A 自身の n 個の積を行列の冪と呼ぶ。また A0 は単位行列に等しいものと定義され、さらに A が可逆ならば A−n := (A−1)n と定義する。 行列の冪は離散力学系(英語版)の文脈でしばしば現れる。そこでは行列 A は適当な系の状態ベクトル x を次の状態 Ax へ遷移させることを表す。これは例えばマルコフ連鎖の標準的な解釈である。これにより、A2x は二段階後の系の状態であり、以下同様に Anx は n 段階後の系の状態と理解される。つまり行列の冪 An は現在と n 段階後の状態の間の遷移行列であって、行列の冪を計算することはこの力学系の発展を解くことに等しい。便宜上、多くの場合において行列の冪は固有値と固有ベクトルを用いて計算することができる。 行列を離れてより一般の線型作用素にも冪演算は定められる。例えば微分積分学における微分演算 d/dx は函数 f に作用して別の函数 df/dx = f' を与える線型作用素であり、この作用素の n-乗は n-階微分 ( d d x ) n f ( x ) = d n d x n f ( x ) = f ( n ) ( x ) {\\displaystyle {\\Bigl (}{\\frac {d}{dx}}{\\Big )}^{\\!n}f(x)={\\frac {d^{n}}{dx^{n}}}f(x)=f^{(n)}(x)} である。これは線型作用素の離散的な冪の例であるが、作用素の連続的な冪が定義できたほうがよい場面が多く存在する。C0-半群の数学的理論はこのような事情を出発点としている。離散冪指数に対する行列の冪の計算が離散力学系を解くことであったのと同様に、連続冪指数に対する作用素の冪の計算は連続力学系を解くことに等しい。そういった例として熱方程式、シュレーディンガー方程式、波動方程式あるいはもっとほかの時間発展を含む偏微分方程式を挙げることができる。このような冪演算の特別の場合として、微分演算の非整数乗は分数階微分と呼ばれ、分数階積分(英語版)とともに、分数階微分積分学の基本演算の一つとなっている。 体は、四則演算が矛盾なく定義されそれらの馴染み深い性質が満足されるような代数的構造である。例えば実数全体は体を成す。複素数の全体、有理数の全体などもそうである。これら馴染み深い例が全て無限集合であるのと異なり、有限個の元しか持たない体も存在する。そのもっとも簡単な例が二元体 F2 = {0,1} で、加法は 0 + 1 = 1 + 0 = 1, 0 + 0 = 1 + 1 = 0 および乗法は 0  • 0 = 1  • 0 = 0  • 1 = 0, 1  • 1 = 1 で与えられる。 有限体における冪演算は公開鍵暗号に応用を持つ。例えばディフィー・ヘルマン鍵交換は、有限体における冪は計算量的にコストが掛からないのに対し、冪の逆である離散対数は計算量的にコストが掛かるという事実を用いている。 任意の有限体 F は、素数 p がただ一つ存在して、任意の x ∈ F に対して px = 0 が成り立つ(x を p 個加えれば零になる)という性質を持つ。例えば二元体 F2 では p = 2 である。この素数 p はその体の標数と呼ばれる。F を標数 p の体として F の各元を p-乗する写像 f(x) = xp を考える。これは F のフロベニュース自己準同型と呼ばれる。新入生の夢(英語版)(幼稚な二項定理)とも呼ばれる等式 (x + y)p = xp + yp がこの体においては成り立つため、フロベニュース自己準同型が実際に体の自己準同型を与えるものであることが確認できる。フロベニュース自己準同型は F の素体上のガロワ群の生成元であるため数論において重要である。 冪指数が整数であるような冪演算は抽象代数学における極めて一般の構造に対して定義することができる。 集合 X は乗法的に書かれた冪結合的(英語版)二項演算を持つもの: ( x i x j ) x k = x i ( x j x k ) ( ∀ x ∈ X ) {\\displaystyle (x^{i}x^{j})x^{k}=x^{i}(x^{j}x^{k})\\quad (\\forall x\\in X)} とするとき、任意の x ∈ X と任意の自然数 n に対して冪 xn は、x の n 個のコピーの積を表すものとして x 1 = x x n = x n − 1 x ( n > 1 ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}x^{1}&=x\\\\x^{n}&=x^{n-1}x\\quad (n>1)\\end{aligned}}} のように帰納的に定義される。これは以下のような性質 x m + n = x m x n ( x m ) n = x m n {\\displaystyle {\\begin{aligned}x^{m+n}&=x^{m}x^{n}\\\\(x^{m})^{n}&=x^{mn}\\end{aligned}}} を満足する。さらに、考えている演算が両側単位元 1 を持つ: ∃ ! 1  s.t.  x 1 = 1 x = x ( ∀ x ∈ X ) {\\displaystyle \\exists !1{\\text{ s.t. }}x1=1x=x\\quad (\\forall x\\in X)} ならば x0 は任意の x に対して 1 に等しいものと定義する。[要出典] さらにまた演算が両側逆元を持ち、なおかつ結合的 x x − 1 = x − 1 x = 1 , ( x y ) z = x ( y z ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}xx^{-1}&=x^{-1}x=1,\\\\(xy)z&=x(yz)\\end{aligned}}} ならばマグマ X は群を成す。このとき x の逆元を x−1 と書けば、冪演算に関する通常の規則 x − n = ( x − 1 ) n x m − n = x m x − n {\\displaystyle {\\begin{aligned}x^{-n}&=\\left(x^{-1}\\right)^{n}\\\\x^{m-n}&=x^{m}x^{-n}\\end{aligned}}} はすべて満足される。また(例えばアーベル群のように)乗法演算が可換ならば ( x y ) n = x n y n {\\displaystyle (xy)^{n}=x^{n}y^{n}} も満足される。(アーベル群が通常そうであるように)二項演算を加法的に書くならば、「冪演算は累乗(反復乗法)である」という主張は「乗法は累加(反復加法)である」という主張に引き写され、各指数法則は対応する乗法法則に引き写される。 一つの集合上に複数の冪結合的に項演算が定義されるときには、各演算に関して反復による冪演算を考えることができるから、どれに関する冪かを明示するために上付き添字に反復したい演算を表す記号を併置する方法がよく用いられる。つまり演算 ∗ および # が定義されるとき、x∗n と書けば x ∗ ⋯ ∗ x を意味し、x#n と書けば x # ⋯ # x を意味するという具合である。 上付き添字記法は、特に群論において、共軛変換を表すのにも用いられる(即ち、g, h を適当な群の元として gh = h−1gh)。この共軛変換は指数法則と同様の性質を一部満足するけれども、これはいかなる意味においても反復乗法としての冪演算の例ではない。カンドルはこれら共軛変換の性質が中心的な役割を果たす代数的構造である。 自然数 n と任意の集合 A に対して、式 An はしばしば A の元からなる順序 n-組全体の成す集合を表すのに用いられる。これは An は集合 {0, 1, 2, …, n−1} から集合 A への写像全体の成す集合であると言っても同じことである(n-組 (a0, a1, a2, …, an−1) は i を ai へ送る写像を表す)。 無限基数 κ と集合 A に対しても、記号 Aκ は濃度 κ の集合から A への写像全体の成す集合を表すのに用いられる。基数の冪との区別のために κA と書くこともある。 一般化された冪は、複数の集合上で定義される演算や追加の構造を持つ集合に対しても定義することができる。例えば、線型代数学において勝手な添字集合上でのベクトル空間の直和を考えることができる。つまり Vi をベクトル空間として ⨁ i ∈ N V i {\\displaystyle \\bigoplus _{i\\in \\mathbb {N} }V_{i}} を考えるとき、任意の i について Vi = V とすれば得られる直和を冪記法を用いて V⊕N あるいは直和の意味であることが明らかならば単に VN のように書くことができる。ここで再び集合 N を基数 n で取り替えれば Vn を得る(濃度 n を持つ特定の標準的な集合を選ぶことなしに、これは同型を除いてのみ定義される)。V として実数体 R を(それ自身の上のベクトル空間と見て)とれば、n を適当な自然数として線型代数学でもっともよく調べられる実ベクトル空間 Rn を得る。 冪演算の底を集合とするとき、何も断りがなければ冪演算はデカルト積である。複数の集合のデカルト積は n-組を与え、n-組は適当な濃度を持つ集合上で定義された写像として表すことができるのだから、この場合冪 SN は単に N から S への写像全体の成す集合 S N ≡ { f : N → S } {\\displaystyle S^{N}\\equiv \\{f\\colon N\\to S\\}} である。この定義は |SN| = |S||N| が満たされるという意味で基数の冪と整合する。ただし |X| は X の濃度を表す。\"2\" を集合 {0, 1} として定義すれば |2X| = 2|X| が得られる。ここに 2X は X の冪集合であり、普通は 𝒫(X) などで表される。 デカルト閉圏において、任意の対象に対して別の任意の対象を冪指数とする冪演算を冪対象によって与えることができる。集合の圏における冪対象は配置集合であるから、これはその一般化になっている。考えている圏に始対象 0 が存在するならば、冪対象 00 は任意の終対象 1 に同型である。 集合論では基数や順序数の冪演算も定義される。 基数 κ, λ に対して冪 κλ は基数 λ の任意の集合から基数 κ の任意の集合への写像全体の成す集合の基数を表す。κ, λ がともに有限ならばこれは通常の算術的な(つまり自然数の)冪演算と一致する(たとえば、二元集合から元を取って得られる三つ組全体の成す集合の基数は 8 = 23 で与えられる)。基数の算術において κ0 は常に(特に κ が無限基数や 0 であるときでさえ)1 である。 基数の冪は順序数の冪とは異なる。後者は超限帰納法を含む過程の極限として定義される。 自然数冪が乗法の反復として考えられたことと同様に、冪演算を繰り返す演算というものを定義することもできる。それをまた反復すれば別の演算が定義され、同様に繰り返してハイパー演算の概念を得る。このようにして得られるハイパー演算の列において、次の演算は前の演算に対して急速に増大する。 写像の冪乗となるべきものとして、写像を表す符牒の直後に整数の上付き添字を添えたとき、それは(反復乗法ではなくて)反復合成冪の意味で用いることがよく行われる。つまり例えば f3(x) は f(f(f(x))) の意味であり、また特に f−1(x) は f の逆写像を意味するのが普通である。反復合成写像はフラクタルや力学系の研究において興味を持たれる。チャールズ・バベッジは写像の平方根 f 1/2(x) を求める問題を研究した最初の人であった。 しかし歴史的経緯により、三角函数の場合には、函数の略号に正の冪指数を添えたときは函数の値に対して冪を取ることを意味する一方で、−1 を冪指数としたときは逆函数を意味するという特別な文法が適用される。つまり、 sin2 x は (sin x)2 を括弧を用いずに略記する方法に過ぎない一方、sin−1 x は逆正弦函数 arcsin x を意味するのである。三角函数の逆数函数は(例えば 1/(sin x) = (sin x)−1 = csc x のように)それぞれ固有の名前と略号が与えられているから、三角函数の逆数の略記法は無用である。同様の規約は対数函数にも適用され、log2 x はふつう (log x)2 の意味であって log log x の意味でない。 添字付けられた変数を考えるとき、その変数の添字を上付きにする場合があり、それはあたかも冪であるかのような印象を受けるかもしれないが混同するべきではない。これは特にテンソル解析においてベクトル場の座標表示などで現れる。あるいはまた数列の列のような、既にそれ自身添字付けられているような量に対してさらに添字付けを行う場合にもしばしば用いられる。 函数 f の n-階導函数はふつう f(n) と書かれるように、冪記法は冪指数を括弧で囲んで書くこともある。 コンピュータ上で冪乗演算を行なう効率的な演算方法としてバイナリ法(二進数法; en:Exponentiation by squaring) とも呼ばれる演算方法を示す。 RSA暗号や確率的素数判定法であるフェルマーテストなどによって、指数として巨大な自然数を扱うことが多くなった。この方法を使うと、指数となる自然数がいかに巨大であっても高々そのビット数の2倍の回数の乗算で算出することが可能になり、繰り返し掛けるよりも大幅に効率がよくなる。特にRSA暗号やフェルマーテストなどにおいて各演算後に必要となる剰余演算(一般に最も計算時間がかかる)の回数を減らす効果がある。 一般に、コンピュータにとって標準的な(32bitsコンピュータならば約4億までの)自然数や浮動小数点数を扱う場合は下位桁から計算する方式を、前述のような巨大な自然数を扱う場合には上位桁から計算する方式を用いると効率が良い。 バイナリ法では、次の性質を利用する。 ( a x ) 2 = a 2 x {\\displaystyle (a^{x})^{2}=a^{2x}} 例えば (a8)2 = a16 である。したがって、a(すなわち a1)から始めて2乗を繰り返すと以下のようになる。 a 1 → a 2 → a 4 → a 8 → a 16 → a 32 → ⋯ {\\displaystyle a^{1}\\to a^{2}\\to a^{4}\\to a^{8}\\to a^{16}\\to a^{32}\\to \\cdots } これらの数のうち、適切なものを選んで掛け合わせれば、任意の累乗を速く(すなわち少ない乗算回数で)計算することができる。例えば a43 は、上で示した指数法則によって、 a 43 = a 32 + 8 + 2 + 1 = a 32 × a 8 × a 2 × a 1 {\\displaystyle a^{43}=a^{32+8+2+1}=a^{32}\\times a^{8}\\times a^{2}\\times a^{1}} として計算することができる(乗算回数は 8 回で済むので、a を 42 回繰り返し掛け合わせるのに比べて効率がよい)。 コンピュータのアルゴリズムとして書くとこうなる。下位桁から順に扱うことから、順に2で割ると同時にその余りを求め(実際にはシフト演算を用い)ながら演算を行うことで二進表記を省略し、効率を高める。 指数を n とし、2乗していく値 p := a、結果値 v := 1 とする。 n が 0 なら、v を出力して終了する。 n の最下位桁が 1 なら、v := v * p とする。 n := [n/2] とし(端数切り捨て)、 p := p * p として、2. に戻る。 この方式は a が浮動小数点数である場合や、最終結果がレジスタに収まることがわかっている場合に効率が良い。また乗算にモンゴメリ乗算などを用いて冪剰余を計算する場合も、この方式で充分な効率が得られる。 上の方式と同様に、次の性質を使う。 a 2 x = ( a x ) 2 {\\displaystyle a^{2x}=(a^{x})^{2}} これに性質 a x + 1 = a x ⋅ a {\\displaystyle a^{x+1}=a^{x}\\cdot a} を組み合わせると、次の変形ができる。 a 2 x + 1 = ( a x ) 2 ⋅ a {\\displaystyle a^{2x+1}=(a^{x})^{2}\\cdot a} これら二つの式を適宜使い分けることによって、指数を順次約1/2にしていくことができる。例えば a 43 {\\displaystyle a^{43}} は、上で示した指数法則によって、 a 43 = a 21 ⋅ 2 + 1 = ( a 21 ) 2 ⋅ a {\\displaystyle a^{43}=a^{21\\cdot 2+1}=(a^{21})^{2}\\cdot a} である。そして a 21 {\\displaystyle a^{21}} も同様に、 a 21 = a 10 ⋅ 2 + 1 = ( a 10 ) 2 ⋅ a {\\displaystyle a^{21}=a^{10\\cdot 2+1}=(a^{10})^{2}\\cdot a} である。 a 10 {\\displaystyle a^{10}} はこうなる。 a 10 = a 5 ⋅ 2 = ( a 5 ) 2 {\\displaystyle a^{10}=a^{5\\cdot 2}=(a^{5})^{2}} 以下同様に、 a 5 = a 2 ⋅ 2 + 1 = ( a 2 ) 2 ⋅ a {\\displaystyle a^{5}=a^{2\\cdot 2+1}=(a^{2})^{2}\\cdot a} a 2 = a 1 ⋅ 2 = ( a 1 ) 2 {\\displaystyle a^{2}=a^{1\\cdot 2}=(a^{1})^{2}} a 1 = a {\\displaystyle a^{1}=a} となる。これを逆にたどり、 a 43 = ( ( ( ( ( a ) 2 ) 2 ⋅ a ) 2 ) 2 ⋅ a ) 2 ⋅ a {\\displaystyle a^{43}=(((((a)^{2})^{2}\\cdot a)^{2})^{2}\\cdot a)^{2}\\cdot a} として算出される。 この各演算において、2乗した後に a を乗算するのか否かの判定は、ちょうど指数 n を二進表記したときの各ビットが1であるか否かと一致する。 コンピュータのアルゴリズムとして書くとこうなる。 指数 n を二進表記したものを n とし、n の最下位桁を n[0]、最上位桁を n[m]、最下位から数えて k 桁目を n[k] と表記する。 結果値 v := 1 とし、 k := m とする(最上位)。 v := v * v n[k] が 1 ならば v := v * a とする。 k := k - 1 k ≧ 0 なら 4. に戻る。 この方式では、5.における乗数が常に a なので、下位桁から計算する方式に比べて乗数の桁数が小さくてすみ、計算時間がかからない。このことは特に、レジスタに入りきらないような巨大な自然数を扱う場合に顕著となる。ただし(RSA暗号で冪算する時のように)冪乗の剰余を計算する場合であって法の大きさが a と同程度ならば、この効果はない。 また5.における乗数が常に a なので、あらかじめ a が定数(2や10など、あるいはディフィー・ヘルマン鍵共有の生成元gなど)であることがわかっている場合には5.の乗算そのものを最適化をすることができる。 巨大な自然数の汎用的な冪算ルーチン(aが小さい可能性が高い)や、a が小さかったり定数であることがわかっている場合、冪乗の剰余を計算する場合であってモンゴメリー演算を用いず別途剰余を計算する場合、数を保持するコストが高い場合など、指数を二進表記するコスト以上の効率が得られる場合に選択される。 ^ For further analysis see The Sand Reckoner. ^ 単に「指数」と呼ぶ場合、\"exponent\" に限らず、(数学に限っても)種々の index を意味する場合も多く、文脈に注意を要する(たとえば部分群の指数)。また、(必ずしも冪指数のことでない)\"exponent\" の訳として冪数が用いられることもある(たとえば群の冪数)。 ^ a b c 鈴木 2013, p. 319, (PDF p. 5). ^ a b O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “Etymology of some common mathematical terms”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews, http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Miscellaneous/Mathematical_notation.html . ^ O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “Abu'l Hasan ibn Ali al Qalasadi”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews, http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Al-Qalasadi.html . ^ Cajori, Florian (2007). A History of Mathematical Notations; Vol I. Cosimo Classics. Pg 344 ISBN 1602066841 ^ René Descartes, Discourse de la Méthode ... (Leiden, (Netherlands): Jan Maire, 1637), appended book: La Géométrie, book one, page 299. From page 299: \" ... Et aa, ou a2, pour multiplier a par soy mesme; Et a3, pour le multiplier encore une fois par a, & ainsi a l'infini ; ... \" ( ... and aa, or a2, in order to multiply a by itself; and a3, in order to multiply it once more by a, and thus to infinity ; ... ) ^ Quinion, Michael. “Zenzizenzizenzic - the eighth power of a number”. World Wide Words. 2010年3月19日閲覧。 ^ This definition of \"involution\" appears in the OED second edition, 1989, and Merriam-Webster online dictionary [1]. The most recent usage in this sense cited by the OED is from 1806. ^ a b 鈴木 2013, p. 372, (PDF p. 58). ^ See: Earliest Known Uses of Some of the Words of Mathematics Michael Stifel, Arithmetica integra (Nuremberg (\"Norimberga\"), (Germany): Johannes Petreius, 1544), Liber III (Book 3), Caput III (Chapter 3): De Algorithmo numerorum Cossicorum. (On algorithms of algebra.), page 236. Stifel was trying to conveniently represent the terms of geometric progressions. He devised a cumbersome notation for doing that. On page 236, he presented the notation for the first eight terms of a geometric progression (using 1 as a base) and then he wrote: \"Quemadmodum autem hic vides, quemlibet terminum progressionis cossicæ, suum habere exponentem in suo ordine (ut 1ze habet 1. 1ʓ habet 2 &c.) sic quilibet numerus cossicus, servat exponentem suæ denominationis implicite, qui ei serviat & utilis sit, potissimus in multiplicatione & divisione, ut paulo inferius dicam.\" (However, you see how each term of the progression has its exponent in its order (as 1ze has a 1, 1ʓ has a 2, etc.), so each number is implicitly subject to the exponent of its denomination, which [in turn] is subject to it and is useful mainly in multiplication and division, as I will mention just below.) [Note: Most of Stifel's cumbersome symbols were taken from Christoff Rudolff, who in turn took them from Leonardo Fibonacci's Liber Abaci (1202), where they served as shorthand symbols for the Latin words res/radix (x), census/zensus (x2), and cubus (x3).] ^ 鈴木 2013, p. 337, (PDF p. 23). ^ 鈴木 2013, p. 348, (PDF p. 34). ^ 鈴木 2013, p. 350, (PDF p. 36). ^ 王青翔 (1999), 「算木」を超えた男, 東京: 東洋書店, ISBN 4-88595-226-3  ^ Steiner, J.; Clausen, T.; Abel, N. H. (1827年1月). “Aufgaben und Lehrsatze, erstere aufzulosen, letztere zu beweisen [Problems and propositions, the former to solve, the later to prove]”. Journal für die reine und angewandte Mathematik (Berlin: Walter de Gruyter) 2: 286-287. doi:10.1515/crll.1827.2.96. ISSN 0075-4102. OCLC 1782270. http://gdz.sub.uni-goettingen.de/no_cache/dms/load/img/?IDDOC=270662.  ^ Nicolas Bourbaki (1970). Algèbre. Springer. , I.2 ^ Chapter 1, Elementary Linear Algebra, 8E, Howard Anton ^ Strang, Gilbert (1988), Linear algebra and its applications (3rd ed.), Brooks-Cole , Chapter 5. ^ E Hille, R S Phillips: Functional Analysis and Semi-Groups. American Mathematical Society, 1975. ^ N. Bourbaki, Elements of Mathematics, Theory of Sets, Springer-Verlag, 2004, III.§3.5. ^ 奥村晴彦 『C言語による最新アルゴリズム事典』 技術評論社、1991年、304頁。ISBN 4-87408-414-1。 鈴木真治 「「指数」はなぜ指数と云うのか? : その概念と用語の歴史的変遷を巡って」、『津田塾大学数学・計算機科学研究所報』、第24回数学史シンポジウム(2013) (津田塾大学数学・計算機科学研究所) 第35巻315-397頁、2013年。http://ci.nii.ac.jp/naid/40020080419。 PDFファイル (PDF) 冪函数 指数関数 - 冪指数を実数へ拡張し、連続関数としたもの 平方数 立方数 2の冪 冪剰余 ゼロ除算 0の0乗 冪乗則 Weisstein, Eric W. \"Exponentiation\". MathWorld(英語). CS1 maint: Multiple names: authors list exponentiation in nLab exponentiation - PlanetMath.(英語)" ]
ABC01-02-0222
中押し勝ちといえば、どんなゲームの勝負の決まり方を表す言葉でしょう?
囲碁
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[ "囲碁", "藤沢一就", "武宮陽光", "向井一男", "土田正光" ]
[ "囲碁(いご)とは、2人で行うボードゲームの一種。交互に盤上に石を置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争う。単に碁(ご)とも呼ばれる。 2人のプレイヤーが、碁石と呼ばれる白黒の石を、通常19×19の格子が描かれた碁盤と呼ばれる板へ交互に配置する。一度置かれた石は、相手の石に全周を取り囲まれない限り、取り除いたり移動することはできない。ゲームの目的は、自分の色の石によって盤面のより広い領域(地)を確保する(囲う)ことである。 アブストラクトゲーム、ボードゲームの一種で、ゲーム理論の言葉で言えば二人零和有限確定完全情報ゲームである。勝敗は、より大きな地を確保することで決定される(#勝敗に関するルール)。ゲームの終了は、将棋やチェスと同じように、一方が負けを認めること(投了という)もしくは双方の「もう打つべきところがない」という合意によって行われる。他のボードゲームと比較した場合の特異な特徴は、ルール上の制約が極めて少ないこと、パスが認められていることが挙げられる。 発祥は中国と考えられ、少なくとも2000年以上前から東アジアを中心に親しまれてきた。そうした文化・歴史の中で爛柯(らんか)をはじめとしたさまざまな別称を持つ(#囲碁の別称とその意味)。日本でも平安時代から広く親しまれ、枕草子や源氏物語といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみでもあり、庶民にも広く普及した。江戸時代には家元四家を中心としたプロ組織もでき、興隆の時期を迎えた。明治以降も引き続き広く親しまれ、近年ではインターネットを経由して対戦するネット碁も盛んである。 西洋的な価値観からはチェスなどと同様マインドスポーツ(つまり競技)でもあり、国際囲碁連盟は国際オリンピック委員会が承認する国際スポーツ団体総連合に加盟し、五輪競技としての採用を目指している。中国・広州で開催される2010年アジア競技大会では競技種目として採用された。 日本では古くから親しまれ、駄目、布石、捨て石、定石など、数多くの囲碁用語は、そのまま日本語の慣用句としても定着している(#囲碁に由来する慣用表現)。 「碁」という字は本来は「棋・棊」の異体字で、意味も発音も同じだった。現在も中国では「囲棋」(新字体による代用表記。繁:圍棋 / 簡:围棋)と書く。日本漢字音での「ゴ」と「キ」の音の違いは呉音と漢音の違いに由来する。 囲碁の実際の起源ははっきりとはわかっていない。少なくとも春秋時代には成立していたようで、『論語』・『孟子』の中には碁の話題が出てくる。中国碁は前漢時代17路盤であったと考えられている。 伝統的な中国碁は、盤上に多くの石を載せたほうが勝ちというルールであった。 初期の碁石は、唐宋期のものが残っている。 その後5世紀には朝鮮へ、7世紀頃に日本に伝わったとされる。そのころから日本の貴族を中心に広く遊ばれ、正倉院には碁盤と碁石が収められている。清少納言や紫式部も碁をよく打ったとされ、枕草子や源氏物語中にも囲碁と思われるものが登場する。 室町時代末期からは碁打ちが公家や武将に招かれるなどの専業化も進むとともに、それまでの事前置石制から自由布石への移行も起こった。戦国時代には戦国武将たちに大いに好まれ、織田信長に日海(本因坊算砂)が名人の称号を許されたと言われる。江戸時代には幕府から家禄を受ける家元制度が成立し、囲碁の技術が飛躍的に向上するとともに、将軍御目見えによる御城碁が行われたり、碁会所が生まれるなど庶民の娯楽としても定着した。 1999年ごろには漫画『ヒカルの碁』の影響で若年層にも囲碁ブームが生まれた。 囲碁は日本のみならず中華人民共和国、中華民国(台湾)、韓国、北朝鮮などでも盛んに行われ、その他にも北アメリカ・南アメリカ、ヨーロッパなどでも行われている。今日、囲碁は世界80ヶ国以上で打たれており、世界選手権も行われている。 レジャー白書によると、日本の囲碁人口は2017年で推計190万人である。2013年の年齢別構成は男+女合計で10歳代11.8%、60歳以上8.1%であった。 碁盤 板の上に、直交する縦横それぞれ同じ本数の線分を引いたもの。碁石を置くのは縦線と横線の交点である。一般に、縦横19本ずつの19路盤が使われる。初心者向け、お好み対局向けに13路盤や9路盤、7路盤や6路盤もある。古来使用されたものには17路盤も存在した。 線は最も外側にあるものから順に第1線、第2線、第3線……のように呼ぶ。また第4線の交点や辺の中間、碁盤の中心にある黒点を星と呼び、19路盤の場合、9つある(右図参照)。碁盤の中央にある星を特に天元という。 碁盤の交点座標は、先手の黒から見て、横の座標を左から右に1~19の算用数字で、縦の座標を上から下に一~十九の漢数字で表すことが多く、これは数学の直交座標系における第四象限と考えるとわかりやすい。この場合、右上隅の星は「16の四」、天元は「10の十」と表現する。 座標については、上述の表記が最も伝統的なものであり新聞や雑誌でももっぱらこの表記法が用いられるが、海外の囲碁ファンの増加などもあり算用数字とアルファベットで座標を表現することもある。ただし、その表現方法は統一されていない。横の座標はアルファベット、縦の座標は算用数字を用いるが、「数字の1とアルファベットのIの混合を避けるために、Iを用いないかどうか」、「数字の0とアルファベットのOの混合も避けるために、Oも用いないかどうか」、「縦の座標を上から下にとる(直交座標系における第四象限)か、下から上にとるか(同じく第一象限)」は場合によってまちまちである。 碁石 単に石ともいう。黒・白の二色あり、合わせて碁盤を埋め尽くせる数(黒181、白180)だけ用意される(グリーン碁石と呼ばれる、濃い緑と薄い緑の二色のものもある)。碁石を入れる器を碁笥(ごけ)と言う。盤上の碁石を数える時の単位は「子(もく)」であり、一つを一子(いちもく)、二つを二子(にもく)などと表す。しかしながら、囲碁特有の読み方であるため、「子」が「し」と読まれることもある。「子(もく)」ではなく「目(もく)」の字を当てることもある。 囲碁のルールには、いわゆる日本ルールと中国ルール、中国ルールを元に台湾で考案された計点制ルールなどがある。いずれもゲームの進め方や勝敗の判定に大きな違いはないが、細かい違いはある。以下は日本ルール(日本棋院と関西棋院による日本囲碁規約)を元に説明する。 主なルールは5つ。 碁盤の線の交差部分に黒と白が交互に打つ。 地(自分の領域)の多いほうが勝利。 相手の石は上下左右を囲うと取れる。 着手禁止点(自殺手) コウ 黒、白の対局者が交互に自分の石を盤上の交互に着手する。着手した石は、取られない限りそこから動かしてはならない。 相手の石を縦横に隙間なく取り囲むと、ハマとして取ることができる。取ることができるようになった石は、着手の後に盤面から取り除かなければならない。下図の場合、黒がそれぞれ1と打った場合、△の白が取り上げられる。取られる1手前の状態を「アタリ」と言い、下図の白石はそれぞれアタリの状態である。 自殺手は禁止(自ら取り囲まれた状態にする手の禁止)。たとえば下図で白が左上aや右上bに打つのは反則となる(黒からは打ってよい)。ただし、その石を打った時点で相手の石を取ることができる場合は例外である。左下cや右下dに打てば▲の黒が取れるため、ここに白が打つのは反則にならない。 石を取るルールと自殺手の禁止のルールによって、囲碁では下図のような石の配置には決してなり得ない。 自分が打つことによって、相手が打った直前の局面に戻してはならない。下図の形で、黒がaに打てば△の白石を取り上げることができる。 しかしその直後、今度は下図のように黒1子がアタリとなっている。白がbに打って黒石を取り返すと、上図の形に戻ってしまう。この形をコウ(劫)と呼ぶ。 これを繰り返すと永遠に対局が終わらないため、同一局面の反復は禁止とされている。つまり上図で黒がaと取った直後に、白がbと取り返すのは反則となる。詳しくはコウの項目を参照。 囲碁におけるハンディキャップ戦として置碁がある。これは実力が下位のものが黒を持ち、あらかじめ盤上に黒石を置いた状態でスタートするものである。あらかじめ置かれた石を「置石」という。実力差によって、置石は普通2子から9子の範囲で調節される。なお、置碁においては白が先に着手するため、1子の置石は置碁ではなく定先にあたる。詳しくは置碁の項目を参照。 先に述べた着手禁止点のルールから、二ヶ所の離れた空間(眼と称する)を持った石は、決して取り上げることができないことになる。たとえば下図左上の黒は周辺をびっしりと白に囲まれているが、白からはaにもbにも打てないのでこの黒の一団を取り上げることができない。この場合、「黒は生きている」という言い方をする。すなわち、眼を2つ(二眼)作ることができればその石は生きになる。 なお、下図右下の黒は独立した2ヶ所の眼を持っているわけではないため、白からcとdに打って取ることができる。これは二眼ではなく、黒は「死に」ということになる。 自分がどう打っても相手が正しく対応すれば二眼を作ることができない石の一団は「死に」である。終局後に、死んでいる石はハマに加えられる。 特殊なケースとして、両方ともに二眼がないが、互いに手出しできない形がある。これは「セキ」と呼ばれ、双方とも生きとして扱われる。詳細はセキの項目を参照。 相手の石が中に入り込んで生きることのできない、自分の石の一団に囲まれた領域のことを地と呼ぶ。 地の面積とハマの数の和の大小によって勝敗を争う。形勢判断などでは、この和の数値のことを地というため、たとえば、黒地○○目、白地○○目などというときは、この和のことを言う。下図は9路盤での終局図の一例。▲の黒石は生きられないため、「ハマ」として取り上げられ、黒地に埋められる。左上から左下に広がった黒地はこれを埋めて29目、右上から右下を占拠した白地は23目で、この場合「黒の盤面6目勝ち」となる。 ただし囲碁では先番の黒が有利であり、その分のハンディとして「コミ」が設定されている。多くの場合コミは6目半とされており、この分を白地に足して計算する。つまり上図では白が29目半になるので、コミを入れて計算した場合「白の半目勝ち」ということになる。 以前のルールでは、これ以上は打っても得をする場所がないと双方が認めて合意すると「終局」となり、その後でダメ(打っても得をしない箇所)を埋めて互いの地を数えることとされていた。しかしトラブルがあったために2006年にルールが改変され、ダメしか残っていなくても、全てダメを埋めてからでないと終局することができないとされた(インターネット対局では、双方がパスをすることによって終局とするケースが多い)。 対局中に三コウ以上の多元コウ、長生、循環コウが発生し、双方譲らず同型反復となった場合、対局は無勝負扱いとなる。詳しくは「コウ」の項目を参照。 通常、対局が始まるとしばらくは布石が行われる。大体の場合は碁盤の四隅に打つことから始まる。なお、初手を四隅に打つ場合は、白番(上手)が右手で打ちやすい隅を残すため、慣例的に右上隅に打つ。 三々(さんさん) 碁盤の隅から3・3の位置のこと。地に対して最も堅い手であるが中央への働きが弱い。 小目(こもく) 碁盤の隅から3・4あるいは4・3の位置のこと。古来から布石の基本とされる。 星(ほし) 碁盤の隅から4・4の位置のこと。現在の布石の花形。また置碁ではこの位置に石を置いて打ち始める。 目外し(もくはずし) 碁盤の隅から3・5あるいは5・3の位置のこと。相手の作戦をくじくための物として打たれることが多い。 高目(たかもく) 碁盤の隅から4・5あるいは5・4の位置のこと。目外しと同じように使われるが、目外しより多少地に甘く(意識が低い)、中央重視の場合に打たれる。 五ノ五(ごのご) 碁盤の隅から5・5のこと。打たれる頻度はかなり低い。 大高目(おおたかもく) 碁盤の隅から4・6、あるいは6・4、あるいは6・6、あるいは15・15の位置のこと。 天元(てんげん) 碁盤の中心。中心に打つため四方全ての向きからのシチョウに有利とされるが、五の五・大高目とともに未だあまり研究がなされていない。五の五同様、打たれる頻度はかなり低い。 近年では隅の着点は小目と星が全体の8割以上を占め、高目や目外しなどの位の高い着点はやや特殊な打ち方とされる。これはその他の隅の占め方(打ち方)が、地に甘いとされているからであり、現代は実利が重視されているということを表しているともいえる。しかし、実利が重視されているといっても、最も地に辛い(重視する)三々は目外しよりも打たれる頻度は低い。これは碁が、単に地を奪い合えば良いというだけのゲームではないことの表れであろう。 以下は19路の布石の例である。 二連星(にれんせい) 隣接する二つの隅の星を占める布石のことを指す。黒白問わずよく打たれ、特に白番での使用例が増えている。 三連星(さんれんせい) 二連星の間の辺の星をさらに占めた布石。基本的に実利にとらわれず、中央を目指す碁になる。武宮正樹九段が愛用する布石。 中国流(ちゅうごくりゅう) 隅の星と内側向きの小目に、さらにその間にある星脇(右上を星、右下を小目とすると、辺の星の一つずつ右・下に位置するところ)(小目から見て五間ジマリ)に並べられた布石。打ち出したのは日本人だが、大会で中国の若手が一様に使用しこの名前がついた。お互いの応手により実利・厚みのどちらにも転換することが可能。ただし、戦いになると一本調子になるところがある。加藤正夫などが愛用した。 高中国流 話し言葉の上では「たかいちゅうごくりゅう」と呼ばれ、書き言葉では普通「高中国流」。中国流との違いは辺の石が第三線ではなく、第四線にあることである。そのため実利より戦いを求める布石になる。地に甘いため2000年以降は打たれることが少なくなっている。 ミニ中国流(みにちゅうごくりゅう) 原型は本因坊道策の時代から打たれている。自分の小目の先にある相手の隅の星に小ゲイマガカリして受けさせた後、星脇にヒラく。この星脇の石と小目の位置関係からこの名前が付いた。1990年代から日本・中国・韓国で主に研究され、流行している布石である。 中盤は死活の絡んだ戦いになる。互いに死活がはっきりしていない弱い石を意識しながら打ち進める。攻め、サバキ、シノギの技量が問われる。 中盤は、もっとも作戦が富んだところである。基本的な構想をいくつか挙げると、 自分の模様を広げる。模様に手を入れて地模様にする。 相手の模様を制限する(模様を「値切る」という)。 相手の模様に打ち込んで生きる。 自分の弱い石を守る。 相手の弱い石を攻撃することで利益を得る(相手の石を取る、相手の石をイジメながら別の石を取ったり、厚みを築いたり、確定地を作ったりする)。 自分の石を捨てて(相手に取らせて)別のところで利益を得る(捨て石あるいはフリカワリ)。 などがある。高等戦術の例として、自分の模様に隙を残しておいてあえて打ち込ませ、イジメながら各所で得を図ったり、序盤は地で先攻し(必然的に相手は厚みで対抗する)、相手の模様が完成する直前に打ち込みで荒らす手法などがある。 ヨセは双方共に死活の心配がなくなり、互いの地の境界線を確定させる段階を指す。ただしヨセは必ずしも終盤に起こるものではなく、局面によっては序盤・中盤のように手数が少ない場合でも大ヨセが打たれることがある。互いの地に、およそ20目以下10目以上の差がつくヨセを大ヨセ、およそ10目以下を小ヨセと呼ぶ。 序盤・中盤・終盤には明確な区別はなく、ほとんど序盤のないまま戦いに突入したり、ヨセに入ってからの駆け引きで中盤に逆戻りすることもある。 大まかに囲っている地域(これを模様という)と最終的な地との間には大きな違いがあり、ゲームの進行と共に、景色が大きく入れ替わる。相手が囲おうとしているところに石を突入させて(打ち込み)生きてしまえば、そこは自分の地となる。相手が地だと思って囲っている壁の一部を、国境を侵害するように切り取ってしまえば、地はそれだけ減ってしまう。逆に、相手が生きると思っている石を殺してしまえば、そこは自分の地となる。戦いの中で相手の地や石と自分の地や石を奪い合う、フリカワリという戦略もある。最終的に相手の石が生きることができず、かつ境界が破られないような領域が地となる。つまるところ、囲碁は石の効率を競い合うゲームといえる。 一般に、両者が最善を尽くしている状況では、相手の石の生きにくさ(地になりやすさ)と模様の広さ(大きな地になる可能性の大きさ)との間にはトレードオフの関係がある。相手の生きがほぼ見込めない領域のことを確定地と呼び、これを優先する考え方を実利重視という。これに対して、将来の利得を重視する考え方が、厚みである。経営における短期と長期のバランスに似て、この実利と厚みの絶妙なバランスが囲碁の戦略できわめて困難なポイントである。とりわけ、厚みの形式的表現が極めて困難なことが、コンピュータ囲碁ソフトの最大の壁であるとも言われる。 基本的に序盤は隅から打ち進めるのが効率がよいといわれる。これはある一定の地を得るために必要な石数が、中央より辺、辺より隅の方が少なくて済むためであり、その分効率がよいとされるためである。近年のプロの対局では、第一手のほぼ全てが隅から始まっている。第一手を中央に打った対局も存在するが、多くの場合趣向と評される。 囲碁のルールは非常に単純であるが、そこから派生する効率の良いほぼ必然的な着手の仕方、つまり石の形を理解することである程度の棋力を得ることができる。効率のよい形を「好形」、悪い形を「愚形」「凝り形」などと呼ぶ。「空き三角は愚形」「二目の頭見ずハネよ」など、格言になっている石の形は多く存在する。 碁を打つ上で重要な要素として厚みがある。言い換えれば勢力のようなものである。例として三間ヒラキの真ん中に打ち込もうとする場合、ただの三間ヒラキに打ち込むより、ヒラキを成す一方の石が2石の連続した形(中央方向に立っている)である場合のほうが、より打ち込みは無謀と感じるだろう。これは打ち込まれた石を勢力に追い詰めることで、取ることができないにしても相当いじめられることが予想されるからである。これ以外にも有効に石を連続させておくことで大模様を形成できたり、盤上で不意に発生したシチョウに対しシチョウあたりの効果を発揮するなど、あらゆる可能性をもっている。 囲碁はお互いに着手する回数はほぼ同じなため、その中でいかに効率よく局面を進め、最終的により多くの地を獲得するかが重要になる。この石の効率のことを「石の働き」とも言い、効率が良い状態を「石の働きが良い」、効率が悪い状態を「石の働きが悪い」と言う。石の効率は石の形とも密接な関係にあり、愚形や凝り形と呼ばれる形は総じて石の働きが悪い形でもある。 また、石の働きの評価方法に「手割り計算」がある。局所において白黒双方の形が定まった時点で互いの働きのない石(不要な石)を除外していき、どちらの方が除外した数が多いか、または白黒同じ数だけ取り除き、その時に残った石の働きにより形勢を判断する方法である。手割り計算の概念を最初に編み出したのは本因坊道策とされており、これによって局所戦に終始する旧来の碁の時代が終わり、石の効率を追求するという近代碁の概念が確立された。 囲碁の力量を数値で表すための段級位制度が存在している。アマチュアとプロで認定の仕組みが異なっており、アマチュアでは日本棋院・関西棋院が認定をしている。 アマチュアは、初心者は30~50級から始まり、最高位は八段である.。段級位の認定を受ければ、免状を発行してもらうことができる。 プロは初段から始まり、最高位は九段である。プロ棋士同士の対局の成績によって昇段が行われる。 日本では室町時代末期から棋士による大会が行われていた。20世紀に入り日本棋院が設立されると、新聞社の協賛により多くの大会が開催されるようになった。また、戦後からは韓国・中国を中心として世界規模の大会も開催されるようになった。 室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れたが組織化までは至らなかった。江戸時代に家元が幕府より俸禄を受けるようになり公認の職業として職業棋士が成立し、家元を中心とする組織化が行われた。明治になると俸禄が停止され家元制度が弱体、愛好者や新聞社と契約を結ぶものも現れ、職業棋士組織も乱立したが、これらが連合し日本棋院が生まれた。 人工知能AlphaGoの対局では世界で約6000万人が観戦した。世界競技人口は約4000万人にのぼる。 『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上囲碁の対局をおこなう、いわゆる「囲碁人口」は、1982年の1130万人から、2004年450万人、2006年360万人、2015年250万人、2017年190万人と漸減傾向が続いている。 囲碁の特徴として、盤面が広く、また着手可能な手が非常に多いため、出現しうる局面の総数やゲーム木のサイズが他の二人零和有限確定完全情報ゲームに比べてもきわめて大きくなることが挙げられる。また、そのルールの単純性と複雑なゲーム性から、コンピュータの研究者たちの格好の研究材料となってきた。 19×19、361路の碁盤に黒石、白石、空点をランダムに配置したとき、その組合せの総数は3361、およそ1.7×10172(173桁)となる。この中には着手禁止点に石があるなどの非合法な盤面が含まれるので、この値より囲碁の合法な局面数は小さくなる。合法な局面の総数の正確な値は2016年に求められ、約2.1×10170(171桁)であることが明らかにされた。正確な値は下記のとおりである。 合法な19路盤の囲碁の総局面数: 2081681993819799846994786333448627702865224538845305484256394568209274196127380153785256484516985196 43907259916015628128546089888314427129715319317557736620397247064840935≃2.1^170 これは将棋の1068~1069、チェスの1050、シャンチー(象棋)の1048、オセロの1028、チェッカーの1020などと比べても非常に大きく、観測可能な宇宙の原子の総数約1080とも比較にならない。 他の大きさの碁盤の総局面数も算出されており、13路盤では約3.7×1079、9路盤では約1.0×1038である。 数学的な解のある合法な局面数とは異なり、ゲーム木の総数には正確な定義がない。コンピュータ将棋の開発に携わった田中哲郎は、ゲームの複雑性を表現するために用いられる「ゲーム木のサイズ」は多くの棋譜の平均手数と合法手の数の掛け算によって求められているにすぎず、平均手数が数手変わるだけで算出結果が何桁も変わるため数学的にはあまり根拠がないと指摘している。 ゲーム木の複雑性は、将棋で10226、チェスで10123、シャンチーで10150と見積もられるのに対し、囲碁では10400と見積もられている。 チェスの世界では、1996年のガルリ・カスパロフとの対局で、初めて単一のゲームで世界チャンピオンにコンピュータが勝利した。また、1997年にはオセロの世界チャンピオンであった村上健がコンピュータとの6番勝負で6戦全敗し、2006年にはシャンチーのプログラムが大師との対局に勝利、2012年には引退した将棋棋士の米長邦雄がコンピュータに敗れた。こうした他のゲームにおけるコンピュータの躍進と比較すると、コンピュータ囲碁の棋力は伸び悩み、2000年代前半においてもアマチュアの有段者に及ばない程度の棋力であった。 コンピュータ囲碁が他のゲームに比較して進歩が緩やかだったのは、前述の囲碁の総局面数の多さやゲーム木の複雑性も影響しているが、それだけではない。将棋やチェス、シャンチーより局面数の少ない9路盤においても、2005年まではコンピュータはアマチュア初段の域を出ることができていなかった。初めてコンピュータが9路盤でプロに公の舞台で勝ったのは2008年のエキシビジョンマッチでのMoGo対タラヌ・カタリン戦(1勝2敗)であるが、プロ側が9路盤の対策を練った2012年の電気通信大のイベント、2014年の第1回囲碁電王戦ではいずれもコンピュータ側が全敗した。 こうしたコンピュータ囲碁の進歩の難しさの一因に、囲碁において評価関数を作るのが非常に難しい点が挙げられる。将棋やチェスでは駒の損得や局面の状態に応じた評価関数が作りやすく、オセロにおいても隅や辺の重要な部分のパターンで評価関数が作成されてきた。しかし囲碁にはそうした評価方法が存在せず全ての石の価値が平等であり、オセロの隅のように大きな重みをもつ箇所も存在しない。「形の良さ」「厚み」「味の良さ」「石の軽さ」などが複雑に絡み合っており、評価関数を設定することで強いコンピュータを作るのは非常に困難であった。 しかし2006年、レミ・クーロンがモンテカルロ法を応用して作成したCrazy Stoneがひとつの転機となる。クーロンはこれを「モンテカルロ木探索」と名付けた。従来の評価関数を作成して着手を選択させる手法とは異なり、モンテカルロ木探索ではコンピュータにランダムな着手を繰り返させて多数の対局を行わさせ、さらにその中で有望な展開に多くの探索を繰り返させ、最も勝率が高くなる着手を決定させる。従来の手法よりモンテカルロ木探索は囲碁に適合し、ほかのプログラムもこぞってこれを採用した。コンピュータ囲碁の棋力は2006年から1年に1~2子ほどの速さで向上し、2012年ごろにはアマ六・七段程度の棋力にまで達したが、そこからは棋力の伸びが停滞した。2015年の段階でも、コンピュータがプロに勝つにはまだ10年以上かかるとクーロンや他の関係者は語っていた。 ところが、2016年にモンテカルロ木探索にディープラーニングとニューラルネットワークの技術を組み合わせたAlphaGoをGoogle DeepMind社が発表した。AlphaGoは数千万の棋譜による学習の後、数百万の自己対戦を繰り返し強化された。ヨーロッパのプロ棋士である樊麾に2015年10月に勝利していたことが公表され、2016年3月に行われた韓国のトップ棋士である李世乭との五番勝負も4勝1敗で制した。2017年には中国のトップ棋士である柯潔とも三番勝負を行い、3連勝して人間との戦いから引退した。 AlphaGoの登場は、コンピュータがプロを上回るのはまだまだ先だろうと考えていた囲碁界に大きな衝撃を与えた。AlphaGoの技術を使用した囲碁AIはプロ棋士を凌駕する棋力を有するようになり、AlphaGoをはじめとする囲碁AIの様々な手法は従来の定石や布石に大きな影響を与え、新たな布石や定石の流行を生むようになった。 囲碁にはさまざまな別称・雅称があるが中には中国の故事に由来するものも多い。 そのような故事由来の異称の代表である爛柯(らんか)は中国の神話・伝説を記した『述異記』の次のような話に由来する。晋の時代、木こりの王質が信安郡の石室山に入ったところ童子たちが碁を打っているのを見つけた。碁を眺めていた王質は童子からナツメをもらい、飢えを感じることはなかった。しばらくして童子から言われて斧を見ると、その柄(柯)が朽(爛)ちていることに気付いた。王質が山を下り村に帰ると知っている人は誰一人いなくなっていた。 この爛柯の故事は、囲碁に没入したときの時間感覚の喪失を、斧の柄が腐るという非日常な事象で象徴的に表している。また山中の童子などの神仙に通じる存在から、こうした時間を忘れての没入を神秘的なものとしてとらえていることもうかがえる。この例と同様に、碁を打つことを神秘的にとらえた異称として坐隠(ざいん)がある。これは碁にのめりこむさまを座る隠者に通じるとしたもので、手談(しゅだん)と同じく『世説新語』の「巧芸」に囲碁の別称として記されている。手談は字の通り、互いに碁を打つことを話をすることと結び付けたものである。 囲碁の用具に着目した異称として烏鷺(うろ)がある。碁石の黒白をカラス(烏)とサギ(鷺)にたとえている。方円(ほうえん)は碁石と碁盤の形からつけられたもので、本来は天円地方で古代中国の世界観を示していた。のちに円形の碁石と正方形の碁盤から囲碁の別称となった。「烏鷺の争い」とも言う。 『太平広記』巻四十「巴邛人」の話も別称の由来となっている。巴邛に住むある男が橘の庭園を持っていたが、あるとき霜がおりた後で橘の実を収穫した。しかし3、4斗も入りそうな甕のように大きな実が二つ残り、それらを摘んで割ってみると、中には老人が二人ずつ入っていた。この老人たちは橘の実の中で碁を打っていた。この話から囲碁は橘中の楽(きっちゅうのらく、―たのしみ)とも呼ばれる。ただし、原文では老人が遊んでいたのは碁ではなく「象戯」(シャンチー)である。 碁盤には、「天元→北極星」、「星→星」、「19路×19路=361 → 1年365日」、「四隅→春夏秋冬」など、自然界・宇宙を抽象的に意味づけているとの主張もあるが、361日と365日は10年で40日(一ヶ月以上)も差があり、こじつけという見方もある。 傍目八目・岡目八目(おかめ はちもく) そばで見ていると冷静だから対局者の見落としている手も見え、八目ぐらい強く見える意から、当事者よりも第三者の方がかえって物事の真実や得失がよく分かる例え。 一目置く(いちもく おく) 棋力に明らかに差のある者どうしが対局する場合、弱い方が先に石を置いてから始めることから、相手を自分より優れていると見なして敬意を表すること。その強調形の『一目も二目も置く』が使われることもある。 なお、ハンデ付で対局する「置き碁」については、2目以上を置く場合をそのように呼ぶことが多く、1目を置く(黒で先手し、コミを出さずに対局する)場合については、一般に「先(せん)」という呼び方が用いられる。 駄目(だめ) 自分の地にも相手の地にもならない目の意から、転じて、役に立たないこと、また、そのさま。 駄目押し(だめおし) 終局後、計算しやすいように駄目に石を置いてふさぐこと。転じて、念を入れて確かめること。また、既に勝利を得るだけの点を取っていながら、更に追加点を入れることにもいう。 八百長(やおちょう) 江戸時代末期、八百屋の長兵衛、通称八百長なる人物が、よく相撲の親方と碁を打ち、相手に勝てる腕前がありながら、常に一勝一敗になるように細工してご機嫌を取ったところから、相撲その他の競技において、あらかじめ対戦者と示し合わせておき、表面上真剣に勝負しているかのように見せかけることをいう。 布石(ふせき) 序盤、戦いが起こるまでの石の配置。転じて、将来のためにあらかじめ用意しておくこと。また、その用意。 定石(じょうせき) 布石の段階で双方が最善手を打つことでできる決まった石の配置。転じて、物事に対するお決まりのやり方。 捨て石、捨石(すていし) 対局の中で、不要になった石や助けることの難しい石をあえて相手に取らせること。転じて、一部分をあえて犠牲にすることで全体としての利益を得ること。 死活(しかつ)、死活問題(しかつもんだい) 石の生き死にのこと。また、それを詰碁の問題にしたもの。転じて、商売などで、生きるか死ぬかという問題ごとにも用いられる。 大局観(たいきょくかん) 的確な形勢判断を行う能力・感覚のこと。転じて、物事の全体像(俯瞰像)をつかむ能力のこと。 目算(もくさん) 自分と相手の地を数えて形勢判断すること。転じて、目論見や見込み、計画(を立てること)を指す。 『源氏物語』「空蝉」「竹河」「手習」「宿木」 『枕草子』「心ゆかしきもの」「遊びわざは…」「碁をやむごとなき人の打つとて…」 川端康成『名人』 斎藤栄『黒水晶物語』『黒白の奇蹟』 竹本健治『囲碁殺人事件』他 内田康夫『本因坊殺人事件』 水原秀策『黒と白の殺意』 遠田潤子『月桃夜』 トレヴェニアン『シブミ』 シャン・サ『碁を打つ女』 ノ・スンイル『オールイン』 『未完の対局』佐藤純彌監督(南里征典による同名ノベライゼーションもある) 『π』ダーレン・アロノフスキー監督 『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード監督 『呉清源〜極みの棋譜〜』田壮壮監督 祇園祭礼信仰記、金閣寺の段 - “国崩し”松永大膳と此下東吉との対局から碁笥を利用した決定的な場面につながる。この話は囲碁用語を解さないとストーリーが理解できない。 山松ゆうきち『天元坊』 島本和彦『逆襲棋士瞳』 倉多江美『お父さんは急がない』『続・お父さんは急がない』 ほったゆみ(原作)・小畑健(画)『ヒカルの碁』 岡野玲子『陰陽師』 諸星大二郎『碁娘伝』 川原泉『かぼちゃ計画』 竹本健治『入神』 赤塚不二夫『ニャロメのおかしなおかしな囲碁格言』 モリエサトシ『星空のカラス』 笠碁 碁泥 アタリ - アメリカ合衆国のゲーム会社。創業者のノーラン・ブッシュネルが囲碁好きで、囲碁用語から社名を取ったというエピソードは有名。詳細はアタリを参照。この後に子会社として「テンゲン」、ノーランが次に作った会社に「センテ」(ノーラン・ブッシュネル参照)があった。 1988年より、市名が囲碁を想起させる青森県黒石市(白石黒石囲碁交流を促進する会)と宮城県白石市(白石黒石囲碁親交会)との間で親善囲碁将棋交流大会が毎年開催されている。 1968年にイギリス・トランスアトランティック・レコードから発売されたジョン・レンボーンとバート・ヤンシュのLP『ジョン・アンド・バート』のカバーには、両人が囲碁にうち興じる写真が使われている。 中山典之『囲碁の世界』岩波新書 1986年 『囲碁・将棋文化史展-その伝来から近代まで』国立国会図書館 1988年 『江戸時代の囲碁の本―文化遺産詳解』日本棋院 1996年 水口藤雄『囲碁の文化誌―起源伝説からヒカルの碁まで (碁スーパーブックス) 』日本棋院 2001年 ^ 日本の公式戦で使用される囲碁のルールである「日本囲碁規約」の規定上は対局者が合意しないと、無限に続く可能性もあるため、有限なゲームとは分類されないが、事実上有限なゲームで、広くプレイされているゲームであるため、適切な停止条件を考慮した上で、二人零和有限確定完全情報ゲームとして研究されている。 ^ 実際に「信長から名人の称号を受けた」かには異論もある。詳細は本因坊算砂を参照。 ^ ふりがな付きの使用例:日本棋院発行の月刊碁ワールド2012年10月号38ページ、週刊碁2012年11月19日号18面1段最終行。 ^ 「直前」のみならず、対局中のすべての同一局面の再現の禁止はスーパーコウルールと呼ばれる。日本ルールでは採用されていない。 ^ “The Sadness and Beauty of Watching Google’s AI Play Go”. WIRED (2016年3月11日). 2016年3月12日閲覧。 ^ 世界の囲碁人口分布図 ^ 「レジャー白書に見るわが国の余暇の現状」 ^ a b c “Combinatorics of Go”. tromp.github.io. John Tromp, Gunnar Farneback. 2018年12月22日閲覧。 ^ “将棋における実現可能局面数について”. www.nara-wu.ac.jp. 篠田正人、奈良女子大学理学部. 2018年12月22日閲覧。 ^ a b c d e f g h i 美添一樹「モンテカルロ木探索-コンピュータ囲碁に革命を起こした新手法」、『情報処理』第49巻第6号、2008年6月15日、 686–693。 ^ a b Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) \"Computer Chinese Chess\" Archived 2015年7月9日, at the Wayback Machine. ^ “ゲームの解決”. 田中哲郎. 2018年12月22日閲覧。 ^ “コンピューターにプロ全勝 九路盤、巧みにミス誘う” (日本語). 朝日新聞. 2018年12月22日閲覧。 ^ “「第1回囲碁電王戦」プロ棋士の張豊猷八段と平田智也三段がコンピュータに全勝” (日本語). マイナビニュース (2014年2月11日). 2018年12月22日閲覧。 ^ a b c “なぜ「囲碁」だったのか。なぜ「10年かかる」と言われていたのか──AlphaGo前日譚|WIRED.jp” (日本語). WIRED.jp. 2018年12月22日閲覧。 ^ 日本棋院「別冊囲碁クラブNo.37囲碁雑学ものしり百科304ページ「岡目」の項 昭和56年12月」 ^ “おかめはちもく”. yahoo辞書. 2012年3月10日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年1月14日閲覧。 ただし「八目」が「八手先」を指すと解釈するのは無理がある。 囲碁用語一覧 囲碁の形勢判断 囲碁の手合割 囲碁界 日本囲碁大系 現代囲碁大系 詰碁 NHK杯テレビ囲碁トーナメント 囲碁の時間(NHK囲碁講座) 日本棋院 囲碁公式ホームページ 公式サイト 関西棋院 公式サイト 日本ペア碁協会 公式サイト 世界ペア碁協会 公式サイト 囲碁棋士になるには? 天職攻略大図鑑 中国围棋协会 台湾棋院 韓国棋院 囲碁パンダネット 楽しい囲碁入門(日本棋院) 囲碁入門(関西棋院)", "藤澤 一就 (ふじさわ かずなり、1964年8月12日 - ) は、日本棋院東京本院所属囲碁棋士、八段。東京都出身。新宿こども囲碁教室主宰。 父は藤沢秀行名誉棋聖、長女は女流四冠などを達成した藤沢里菜四段。 2000年に開始。新宿区歌舞伎町1丁目にある。生徒数約200人。ここで育った院生は20数名おり、これは院生全体の3分の1以上を占める。 院生上位に達した子どもたちは、徒歩で10分ほどの場所にある、藤沢秀行が名付け親の「天豊道場」で特別教育を受けている。道場には、指導のため高尾紳路九段や結城聡九段、坂井秀至八段などが頻繁に訪れている。 Men's Knuckle カズアキの目指せ1000人斬り!(2010-2011) 囲碁少女15(-2013) ニコスト -niconico stones- ヒカルの碁 鑑賞会 N高等学校・囲碁部特別顧問(2016年) ^ 院生の3分の1が学んだ藤澤一就八段の囲碁教室 NHKテキストView ^ 寺山怜 ^ 沼舘沙輝哉 ^ 本木克弥 ^ 飛田早紀 ^ 木部 夏生 ^ 広瀬 優一 ^ 上野 愛咲美 ^ 関 航太郎 ^ 青木 裕孝 ^ “ネット部活”. N高等学校(通信制高校 広域・単位制). 2017年11月12日閲覧。 日本棋院の藤沢 一就 紹介ページ 新宿こども囲碁教室 時々囲碁日誌+", "武宮 陽光(たけみや ようこう、1977年4月29日 - )は、日本棋院所属の囲碁棋士。東京都出身。父、師匠は囲碁棋士の武宮正樹。 1998年入段。 1999年二段。 2000年三段。 2001年四段。 2005年五段。 2007年度前期、NHK『囲碁の時間』の講師を矢代久美子と担当。 2016年2月16日付けで、勝ち星対象棋戦通算90勝にて六段に昇段。 2016年6月7日、北九州市で開かれた人工知能学会の公開イベントでコンピュータ囲碁プログラム「Zen(ゼン)」と二子局(Zenがあらかじめ黒石2個を置くハンデ)で対戦し敗れた。 2016年7月8日放送のNHK『ドキュメント72時間』(新宿・歌舞伎町の24時間営業の碁会所「秀策」が舞台の回)で、撮影2日目の夜にたまたま碁会所に来店し出演を果たした。 2002年、通算100勝を達成。 「やっしー&陽光の置き碁で上達」(NHK出版) 日本棋院の紹介", "向井 一男(むかい かずお、1900年(明治33年) - 1969年(昭和44年)1月24日)は、日本の囲碁棋士。愛媛県出身、田坂信太郎門下、方円社、日本棋院所属、八段。1935年の全日本囲棋選手権大会優勝。晩年一時清純を名乗る。日本棋院棋士会長を務めた。 愛媛県越智郡伯方島に生まれる。1914年(大正3年)上京し、郷里に近い尾道出身で方円社の田坂信太郎に入門。1918年初段。1920年に若手棋士による六華会を設立。1924年三段時に日本棋院設立に参加し、1926年の院社対抗戦では4人抜き。この1926年から比叡山の修学院村に1年間籠る。 1935年四段時に本因坊戦の前哨戦である全日本囲棋選手権大会で、トーナメントを勝抜いて鈴木為次郎、呉清源とのリーグ戦出場。決勝で呉に先番6目を収めて優勝した。本因坊秀哉に私淑していたが、この頃秀哉に入門を頼み、教えを乞うようになった。また当時の新布石流行にも乗らなかった。1939年第1期本因坊戦では甲組四段トーナメントで優勝し五段級トーナメント進出。1941年五段。1969年の大手合で14連勝を記録、七段。1969年没、追贈八段。 1968年にナダレ定石の新手で『囲碁新潮』第1回新手賞受賞。仇名は「こん」で、理由は「一発くらったとき、こん棒で、こん!とぶんなぐられたみたいだから」ということだった。門下に山部俊郎、井手八百次郎、小坂田幸次、小山久良。 鈴木為次郎との対局後の感想で「黒3の手早計なり」と語ったことが、3手目が敗着という噂になった。 日本棋院対棋正社勝継手合 1926年 4-1(先番○雁金準一、先番○野沢竹朝、先番○高部道平、二子○雁金準一、二子×野沢竹朝) 木谷實『囲碁百年 2 新布石興る』平凡社 1968年 坂田栄男『囲碁百年 3 実力主義の時代』平凡社 1969年 伊藤敬一「思い出の棋士 向井一男八段」(『棋道』誌1985年12月号)", "土田 正光(つちだ まさみつ、1944年8月1日 - )は日本の囲碁棋士。木谷實九段門下、日本棋院中部総本部所属、九段。門下に小県真樹九段、松岡秀樹八段。日本棋院岐阜支部を創設。岐阜県での囲碁の普及に貢献している。 岐阜県岐阜市出身。1953年(昭和28年)ごろ、自宅隣の碁盤屋で故大平修三九段の父、憲治に碁の手ほどきを受ける。1955年には岐阜県のアマチュア囲碁タイトルを数多く獲得。1957年、中学入学と同時に木谷實九段の木谷道場(神奈川県平塚市)に入門、院生となる。1961年に入段。1972年、日本棋院岐阜支部を設立。碁席の経営を始める。1974年日本棋院理事。1975年結婚。1979年九段昇段。2005年現役引退。 1962年 大手合第2部優勝 1965年 大手合第1部2等 1970年 王冠戦挑戦 1978年 第3期中部最高位戦準優勝 1987年 王冠戦挑戦 1974年 棋道賞連勝賞(11連勝) 1983年 土川賞受賞 1990年 第11回普及功労賞受賞 1992年 棋道賞勝率第一位賞受賞(22勝5敗 .815) 1999年 岐阜新聞大賞文化賞受賞 2007年、岐阜市西園町の日本棋院岐阜支部2・4階に開設。開館は毎月第1、2日曜日の午後。土田九段が幼少期から収集した資料を展示している。門下生時代の写真や、入段時の新聞、1992年に全国勝率1位となった際の賞状、現役約43年間の棋譜などの資料を見ることができる。 日本棋院プロフィール" ]
ABC01-02-0223
アンデルセンの「人魚姫」で、人魚姫が足をもらうために失ったものは何でしょう?
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[ "声", "音高", "音の強さ", "地声", "ボイスチェンジャー" ]
[ "声(こえ)とは、ヒトを含む動物の発声器官(主として口、喉)から発せられる音のことである。本項ではヒトの声(人声)について扱う。 鳥類以外の、ヒトを含む脊椎動物は、普通声帯を振動させることによって声を発する(有声音)。ただし、声帯振動を伴わない気息的な音(無声音)なども「声」に含む場合がある。また、仮声帯等、真声帯以外の襞の振動によっても似た音声が得られる。ヒトの場合は特に、言語のために調整された音声を指して声という場合もあり、より口腔などの共鳴、調音に重みがあるといえる。したがって「声は口で発せられる」という捉え方もあながち間違いではない。 発声は気道を(普通は真声帯の)声門閉鎖で遮り、そこに呼気圧を加えて息を流し込むことで声門が繰り返し開閉し、断続的な圧力変動(音波、喉頭原音)が生まれ、さらに声道による共鳴の効果で連続的な波形に整えられると同時に口腔や鼻腔、舌、歯、唇などの調音機構によって母音および子音が付加される。 真声帯は声唇とも呼ばれ、ヒトの口唇や瞼に似た構造の器官である。口唇を呼気で振動させる(リップロール、リップリード)と声帯振動を模した運動となり喉頭原音に似た音が生じる。これは金管楽器の発音体(マウスピース)に利用されている。 声には一般に高低があるとされるが、厳密には音高(ピッチ、振動数)の高低とフォルマントの高低の2種類がある。歌唱の際を除けば、両者の区別を付けずに「声が高い(低い)」といっている場合が多い。 フォルマントの高さは主に声道の長さで決まるので発声時の喉頭の位置に影響される。また一般に身長が高く顎や首の長い人ほど低いフォルマントで発声できる。 音高は声帯の形状、サイズ、伸展状態、声門閉鎖の強さ、呼気流の圧および速さ、振動様式(声種)などによって変わる。一般に知れ渡っている「声帯の長短で決まる」というような単純なものではない。また、木管楽器等のように共鳴のフィードバックにピッチが支配されることは基本的にない。これは、声道の共鳴の効果に対して声帯のスケール(長さ、重さ、剛さ)が大きいためである。 一般に男性の声は低く、女性の声は高い。また子供の声は男女とも高いとされ、成長に従って音高、フォルマントともに低下する。また男性のほとんどは第二次性徴で急に低い声に変わる。女性の場合も軽度であるが低くなる。壮年期を過ぎると女性は低くなることがあり、男性はやや高くなることがある。 子供や若い女性の場合、声帯伸展が強い発声が多いため(伸展が強いと振動形態が弦の振動に近づく)声帯の長短と音高の相関が成人男性より強いようである。背の高い女性声優は少年声・青年声で、背の低い女性声優は甲高い子供声で活躍する例が多く見られる。また、それとは対照的に、一般的に高いとされる声質の男性が少年や青年の声を演じる事もある。稀ではあるが、女性に近い声を発する事が出来る男性声優が女性役の声を演じる事もある。男性の場合は声種の兼ね合いから背の低い人がバリトンに多く高身長がテナーに多いといった逆転現象も良く見られる(あくまでアマチュアレベルの話で、ソリストはテノールに小柄な人が多いといわれる)。 ハスキーボイス ウィスパーボイス 人の発声機構は管楽器(中でもリード楽器)に例えられることがあり、管楽器に近いと思っている人は多い。 管楽器と人声の共通点は、発音体を作動させるのが呼気流であることと共鳴器を変形させる点である。ただし管楽器の共鳴器変形は音高調節のものであるのに対し、人声の場合は音波変形のための機構で、両者はかなり異質なものである。また、音高調整のために発音体を変形させる点は弦楽器に類似し、輪状甲状筋などを弦楽器のペグ(糸巻き)に例える人も多い。 人声の共鳴器のように多種の音波を生む機構は他の楽器には見られないものである。強いて挙げるならばパイプオルガンのストップ(音栓装置)やシンセサイザーが多様な音色を扱うという点では似ている。またダイレクトに波形を変形させる点からするとエレクトリックギターのエフェクターが類質の装置である。 トーキング・モジュレーター(talk box)はヒトの共鳴器をギターなどのエフェクターに利用するものである。 ヒトは声を使って言葉を発するため、声という言葉には「意見」という意味もあり、報道関係で多く用いられる。報道記者が「~~との声もあるが(どう考えますか?)」という形でインタビュー対象者に質問するなどの際に用いられることも多い。 スポーツの場面(テニスや陸上競技の投擲競技など)でもしばしば声が使われる。これは一時的に強い力を出すときに有効な手段であるからである。 言語には音素上、声による対立をなすものと、息による対立をなすもの(中国語、タイ語など)、声と息の両方による対立をなすもの(ヒンディー語など)がある。 文献上の記録として、『北条五代記』によれば、風魔小太郎はその声が50町(5.4km以上)先まで響いたと記される(事実なら城内のどこにいても声が聞こえる)。 糸電話は音声が振動の伝導であることの証明実験に用いられる。 平原や海中といった音をさえぎる障害物が少ない環境では、声は容易に遠くまで届き、動物はこれを利用したコミュニケーションを用いる。例として、クジラの声は3,000km先まで届く(クジラの歌参照)。 発声 発声法 音声学 声楽 声優 擬音語 変声(声変わり) 山彦", "音高(おんこう)、ピッチとは、 音楽用語 音声学用語 における音の高さのこと。 本項では音楽用語の「音高」「ピッチ」について解説する。音声学の「ピッチ」についてはアクセントを参照。 音の丁度可知差異 (jnd; Just noticeable difference) は約5セント(半音の5/100)である。しかし、この値は音域によって異なり、音を同時に鳴らした場合にはより精密となる。人が感じる音高は音の大きさや音域そして音色に影響されるといわれる。周波数成分が複数ある音(自然界や楽器の音は全てそうである)から、人間がどのようにして音高を捉えているのかは、はっきりとは分かっていない。人間におけるその他の刺激と同様に、音高の知覚についても、ヴェーバー‐フェヒナーの法則によって説明することができる。可聴域の下限に近い音は高め、上限に近い音は低めに聴こえる。一般に大きい音ほど(僅かだが)高めに聴こえ、低音域では音の振幅が大きくなるほど、音高は低く知覚される。また、倍音の多い(強い)音ほど高めに聴こえる。 他の人間の感覚と同様に、聴覚にも錯覚が存在し、この「聴覚の錯覚」 (Auditory illusion) の結果、音高の相対的な知覚が惑わされる場合がある。これには、「3全音パラドックス (Tritone paradox)」などいくつかの例があるが、最も特筆すべきなのは「無限音階(シェパード・トーン、Shepard tone)」である。これは、連続の、あるいは不連続の特別な音のスケールが、無限に上昇または下降し続けるように知覚される現象である。 中央の1点ハ音(ド・C4・c')の上の1点イ音(ラ・A4・a')は、1939年にロンドンで行われた国際会議で440 Hzとされた(通常 \"A = 440 Hz\" か \"A440\" と記される)。しかしベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団では A = 444〜445 Hzが基準とされている。日本では、戦後の1948年に9年遅れでA = 440 Hzを導入したが、以前は、1859年のパリでの会議、1885年のウィーンでの会議で定められたA = 435 Hzを標準としていた。現在の日本ではオーケストラや演奏会用のピアノは A = 442〜443 Hzとなる場合が多い。 ^ 最相 (1998) pp.170-171 最相葉月『絶対音感』小学館、1998年 音程 音階 倍音 音名・階名表記", "音の強さ、あるいは音響インテンシティとは、単位面積を通して伝わる音響パワーである。単位はW/m²。 音響インテンシティの大きさを、基準値との比の常用対数によって表現した量が音響インテンシティレベルである。単位はデシベル (dB)。 基準値は最小可聴音 I 0 = 10 − 12 W / m 2 {\\displaystyle I_{0}=\\;10^{-12}\\,\\mathrm {W/{m}^{2}} \\,} であり 音響インテンシティI1 (W/m²) の音響インテンシティレベルは L I = 10 log 10 ⁡ ( I 1 I 0 )   d B {\\displaystyle L_{\\mathrm {I} }=10\\,\\log _{10}\\left({\\frac {I_{1}}{I_{0}}}\\right)\\ \\mathrm {dB} \\,} である。 『音の基礎講座3 人間の聴覚について』 (財)建材試験センター、建材試験情報12'07。 音の大きさ", "日本語の地声 (じごえ)は文字通り「地の声」であり、元来は「普段平素で喋るときの声」といった意味である。 歌唱においては胸声あるいは実声に似た意味で使われるがその場合、声区的に用いられることが多い。 また、歌唱のために調整された声に対して声区に関係なく「地声」という場合があり、これには「喉声」(生声などともいわれる)に近い意味合いがあり、「喉が狭い、デックンされていない」ことを指す。 デックング ベルティング エッジボイス 胸声 裏声 発声法", "ボイスチェンジャー (Voice changer) とは、入力された音声を加工して違う音声に聞こえるようにする機械、またはその機能のついた電話機である。変声機や音声変換機とも呼ばれる。機材の他にもパソコンで使えるソフトウェアのボイスチェンジャーも存在する。 ニュースやワイドショー等で身元が割れてはいけない場合のインタビューや一般人に対するプライバシー保護のためにも用いられることもある。 また男声を女声に変換、女声を男声に変換するためにも用いられる。 漫画『名探偵コナン』に登場する蝶ネクタイ型変声機もボイスチェンジャーの一種である。 ^ 一般に異性の声、ロボットの声に変えるなど判りやすい説明がされている。 ^ 外部リンクを参照 AV Voice Changer Software Diamond Edition MorphVOX Junior リアルタイムボイスチェンジャー" ]
ABC01-02-0224
鼻は象、目はサイ、しっぽは牛、体は熊に似ているという伝説上の動物で、俗に悪い夢を食べると言われているのは何でしょう?
バク
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[ "バク", "フォッサ", "アクシスジカ", "タテガミオオカミ", "アリクイ" ]
[ "バク(獏)は、奇蹄目に含まれるバク科(バクか、Taipiridae)の構成種の総称。現生種はすべてバク属(バクぞく、Tapirus)に分類される。 北アメリカ大陸、南アメリカ大陸、東南アジア 最小種はTapirus kabomani。成獣の体長は1.7-2m程度。体型は流線型で、藪の中を進むのに適している。肩よりも腰の方が高い。皮膚は分厚く、ヤマバクを除いて体毛は少ない。ヤマバクは長い体毛で被われ、寒さから身を守るのに役立つと考えられている。頸部に鬣状に体毛が伸長する種もいるが、これは捕食者から頸部を守る役割があると考えられている。マレーバクは体色が前部と後部が黒・胴体中央部が白だが、これも夜間では体が分断されたように見え輪郭がつかめず捕食者から身を守る役割があると考えられている。ブタのような体つきをし、ゾウの鼻のような口吻をもつ。 吻端は鼻と上唇があわさり、その先端に鼻孔が開口する。眼は小型で眼窩の奥の方にあり、藪の中で眼が傷つきにくくなっている。四肢は短く頑丈。前脚が後脚よりも長いという特異な骨格構造を持つ。これは主な生息域には藪が多く、背丈の長い草を掻き分けて走ることに適した形状であるとされる。前肢の指は4本、後肢の趾は3本。前肢の4本目の指は小型で高い位置にあり、柔らかい地面を移動する時にのみ用いられる。指趾は蹄状になっているが、接地面は球状。奇蹄目はその名が示すとおり、通常奇数の指をもつが、バクの各脚の指の数は、前脚が4本、後脚が3本である。 幼獣の体色は赤褐色で、白い斑点や筋模様が入る。この体色も藪の中では保護色になると考えられている。 これらの形態が中国や日本に伝わる幻獣の「獏」に似ていることが名称の由来だが、むしろ架空の獏こそがバクをモデルとした動物だという説もある。獏の項目も参照。 分子系統によると、奇蹄目の現生3科のうちバク科とサイ科が姉妹群で、ウマ科はやや離れている。 以下のうち現生種の分類・英名はGrubb(2005)に、和名はMacKinnon・祖谷訳(1986)に従う。 †ヘスペラレテス Hesperaletes †Hesperaletes borineyi †Hesperaletes walshi †モタピルス Miotapirus †Miotapirus harrisonensis †プロタピルス Protapirus †Protapirus obliquidens †Protapirus simplex バク属 Tapirus †Tapirus webbi †Tapirus simpsoni - 最大のバク属。 †Tapirus johnsoni †Tapirus priscus †Tapirus arvernensis †Tapirus augustus †Tapirus polkensis †Tapirus haysii †Tapirus veroensis Tapirus bairdii ベアードバク Baird's tapir Tapirus indicus マレーバク Malayan tapir Tapirus kabomani Tapirus pinchaque ヤマバク Mountain tapir Tapirus terrestris アメリカバク South American tapir 主に森林に生息する。夜行性傾向が強い。水辺を好み、採食や避暑・外部寄生虫から身を守るなどの理由から水中で過ごすことも多い。幼獣を連れた母親以外は、主に単独で生活する。危険を感じると水中へ逃げ込む。 草本、木の葉・芽・若枝、果実、水生植物などを食べる。 繁殖様式は胎生。周年繁殖する。交尾前の儀式的な行動として、お互いに鳴き声を交し合う。雌雄は互い違いの向きになり、お互いの陰部の臭いをかぎながら回り始める。回るのが早くなると共に互いの耳介や脇腹・四肢に噛みついたり、吻端で腹を突く。1回に1頭の幼獣を産む。 皮革が利用されることもあり、手綱や鞭の原料とされることもある。 ゴムやトウモロコシなどを食害する。 森林伐採や農地開発・ダム建設などによる生息地の破壊、食用や皮革用・スポーツハンティングなどの狩猟により生息数が減少している種もいる。 中国の伝説上の獣「獏」(ばく)と同一視され、日本では夢を食べるとされる。 鶴見川水系を地図上にあらわすとバクの形に似ているので、バクが鶴見川のキャラクターとなっている。 ヤマバク ベアードバク マレーバク ^ アメリカバクはワシントン条約附属書II ^ Appendices I, II and III<http://www.cites.org/>(accessed[リンク切れ] December 17, 2015) ^ a b c d Peter Grubb, \"Order Perissodactyla,\" Mammal Species of the World, (3rd ed.), Volume 1, Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (ed.), Johns Hopkins University Press, 2005, Pages 629-636. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae Kathy MacKinnon 「バク」祖谷勝紀訳『動物大百科 4 大型草食獣』今泉吉典監修 D.W.マクドナルド編、平凡社、1986年、44-45頁。 ^ a b Mario A. Cozzuol, Camila L. Clozato, Elizete C. Holanda, Flávio H. G. Rodrigues, Samuel Nienow, Benoit de Thoisy, Rodrigo A. F. Redondo, Fabrício R. Santos, \"A new species of tapir from the Amazon,\" Journal of Mammalogy, Volume 94, Issue 6, 2013, Pages 1331-1345. ^ Tougard, Christelle; Delefosse, Thomas; Hänni, Catherine; Montgelard, Claudine (2001), “Phylogenetic Relationships of the Five Extant Rhinoceros Species (Rhinocerotidae, Perissodactyla) Based on Mitochondrial Cytochrome b and 12S rRNA Genes”, Mol. Phylogenet. Evol. 19 (1): 34–44  ^ Price, Samantha A.; Bininda-Emonds, Olaf R. P. (2009), “A comprehensive phylogeny of extant horses, rhinos and tapirs (Perissodactyla) through data combination”, Zoosyst. Evol. 85 (2): 277–292  奇蹄目", "フォッサ(Cryptoprocta ferox)は、哺乳綱食肉目マダガスカルマングース科フォッサ属に分類される食肉類。本種のみでフォッサ属を構成する。 マダガスカル 体長61 - 80センチメートル。尾長65 - 90センチメートル。肩高37センチメートル。体重オス6 - 12キログラム、メス5 - 7キログラム。マダガスカルに分布する食肉目では最大種。体形は長い。頭部はやや短い。頭部の形状は角張る。全身は短く柔らかい体毛が密生する。背面は赤褐色や暗褐色、腹面はクリーム色。 眼は大型。眼は顔の正面に位置する。耳介は丸みを帯びる。口髭の長さは、頭長とほぼ同程度に達する。歯列が門歯が上下6本、犬歯が上下2本、小臼歯が上下6 - 8本、大臼歯が上下2本の計32 - 36本の歯を持つ。裂肉歯が発達する。四肢は短い。足裏にはほぼ体毛がなく、樹上での生活に適していると考えられている。指趾には小型の爪があり、爪を収納する鞘がないものの自由に出し入れができる。指趾には水掻きがある。胸部には臭腺が発達する。肛門周辺の臭腺(肛門腺)が発達し、肛門が隠れる。属名Cryptoproctaは古代ギリシャ語で「隠れた肛門」の意。染色体の数は42。 出産直後の幼獣は体重100 - 150グラム。体色は白や灰色。オスは陰茎骨があり、陰茎は長く亀頭表面に刺が並ぶ。乳首の数は6個で、脇の下や胸部・腹部に左右に1つずつある。陰核は大型で、陰核骨がある。子宮は左右に完全に分かれる(重複子宮)。 古くは形態からネコ科に分類されていたこともある。 標高2,600メートル以下の熱帯雨林やサバンナなどに生息する。一方で標高1,500メートル以上でみられることはまれとされる。樹上棲だが、地表でも活動する。夜行性だが、昼間に活動することもある。木の股で休むが、洞窟で休むこともある。単独で生活する。足裏全体を接地して移動する(蹠行性)。 キツネザル類や齧歯類・テンレック類などの哺乳類、鳥類、爬虫類、カエル、昆虫などを食べる。獲物を前肢で捕らえ、後頭部や喉に噛みついて仕留める。キツネザル類などの大型の獲物を、2頭で協力して捕らえることもある。 繁殖様式は胎生。9 - 11月に交尾を行う。妊娠期間は90日。シロアリの蟻塚などの中で出産する。1回に2頭(まれに3 - 4頭)の幼獣を産む。幼獣は生後16 - 25日で開眼する。授乳期間は約4か月。飼育下では3 - 4年で性成熟した例がある。寿命は20年。 和名や英名はマダガスカルでの呼称に由来する。 生息地では食用とされることもあり、部位によっては伝統的に薬用になると信じられている。 民家やテント・家禽小屋に侵入し、家禽を襲うこともある。 森林伐採や農地開発による生息地の破壊、狩猟、害獣としての駆除などにより生息数は減少している。1977年にワシントン条約附属書IIに掲載されている。 日本では唯一恩賜上野動物園がフォッサを飼育展示している(2014年現在) イラスト 頭骨 ^ Appendices I, II and III<https://cites.org/eng>(Accessed 01/08/2018) ^ a b UNEP (2018). Cryptoprocta ferox. The Species+ Website. Nairobi, Kenya. Compiled by UNEP-WCMC, Cambridge, UK. Available at: www.speciesplus.net. (Accessed 01/08/2018) ^ a b c d e f g Hawkins, F. 2016. Cryptoprocta ferox. The IUCN Red List of Threatened Species 2016: e.T5760A45197189. doi:10.2305/IUCN.UK.2016-1.RLTS.T5760A45197189.en, Downloaded on 01 August 2018. ^ a b c d W. Christopher Wozencraft, \"Order Carnivora\". Mammal Species of the World, (3rd ed.), Volume 1, Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (ed.), Johns Hopkins University Press, 2005, Pages 532-628. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 祖谷勝紀・伊東員義 「ジャコウネコ科の分類」『世界の動物 分類と飼育2 (食肉目)』今泉吉典監修、東京動物園協会、1991年、78-118頁。 ^ 川田伸一郎, 岩佐真宏, 福井大, 新宅勇太, 天野雅男, 下稲葉さやか, 樽創, 姉崎智子, 横畑泰志 「世界哺乳類標準和名目録」『哺乳類科学』58巻 別冊、日本哺乳類学会、2018年、1-53頁。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 小原秀雄 「フォッサ」『動物世界遺産 レッド・データ・アニマルズ8 太平洋、インド洋』小原秀雄・浦本昌紀・太田英利・松井正文編著、講談社、2001年、161-162頁。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Chiris Wemmer 「ジャコウネコとジェネット」「フォッサ」古屋義男訳『動物大百科 1 食肉類』今泉吉典監修 D.W.マクドナルド編、平凡社、1986年、152-159,161頁。 ^ 東京都恩賜上野動物園「マダガスカル島最大の肉食獣 フォッサ日本初公開!!」[リンク切れ]", "アクシスジカ(学名:Axis axis)は、シカ科アクシスジカ属に分類されるシカの一種。 インドの森では最も普通に見られるシカの仲間であり、多くの地方名を持つ。本種はチタール (chital) と呼ばれることもあるが、これベンガル地方の言葉で「斑点のある」という意味である。本種はいわゆる単型であり、本種だけでアクシスジカ属 (Axis) を構成する。かつてはこの属には本種の他にHyelaphus亜属の3種が含まれていたが、Hyelaphus亜属については遺伝子による分類に基づいて属への格上げが行われたため、本種とは属単位で異なることになった。 本種は以下の2つの亜種で構成される。 Axis axis axis 基亜種。 Axis axis ceylonensis 南アジア地域、インド(ただし北部を除く)を中心にバングラデシュ、ネパール、ブータンを原産地とする。亜種 Axis axis ceylonensis はスリランカに生息する。 いくつかの国に外来種として定着しており、オーストラリアのクイーンズランド、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、アメリカ合衆国のテキサス州、フロリダ州、カリフォルニア州の一部地域、それにクロアチアのブリユニと呼ばれる地域でアドリア海に浮かぶ無人島Velki Brijun Islandにも分布している。 本種は落葉性もしくは半常緑性の森林や開けた草原で頻繁に見かけることが出来、数も多い最も生息数が多いのはインドの森でそこでは背の高い草や低木を食べて暮らしている ブータンの国立公園である「Phibsoo Wildlife Sanctuary」の森でも見つかっている。この公園は天然のサラソウジュ Shorea robusta が残る唯一の場所である。標高の高い地域ではサンバー Cervus unicolorの様な種と競合するのであまり見られない。直射日光には弱いために林冠が良く茂って林床は日陰になるような森林も好む。 背中の毛皮は黄褐色で、腹の部分は白いという一般的なシカのイメージである。背中に多数あらわれる白い斑点が特徴的で。角は三つに分かれることが多く、長さは70-80 cmで1年ごとに生え変わる。かつて同属とされた近縁種の Hyelaphus porcinus (英名:Hog deer) と比較してみると本種はより走るのに適した体を持っている。加えて角の柄は短いことは形態学的な進化と考えられ、耳骨胞も小さい。肩高90 cmで体重は約90 kgでありオスはメスよりも大きくなる傾向がある。寿命は8-14年ほど。 Axis axis の角の形状 背中の白い模様が美しく特徴的である。角はオスだけにある。 食植性で主な食べ物はイネ科の草の新芽である。他にも広葉性の草の新芽や樹木の果実や枝も食べることがあり、特に樹上のサルが落とした時にはよく食べている。特にオスは後ろ脚で立ちあがり、樹上の葉もよく食べることも多い。毎年生え変わる古くなった角も食べてしまう。これはミネラルの摂取だろうと言われている。水辺を好み暑い季節には朝夕水を飲む。アクシスジカを捕食する捕食者としてはトラ、インドライオン (ライオンはごく限られた地域のみ)、ヒョウ、ドール、ヌマワニなど。他にも子供はアカギツネに襲われることもある。一般にアクシスジカのメスと子供はアクシスジカのオスよりも捕食されてしまう。アクシスジカは捕食者から逃げるときには最高70 km/hで走ることが出来るが、アクシスジカのオスでも集団で狩りをするドールにはよく捕食されている事が多い。アクシスジカのオスがドールに捕食される確率はトラやヒョウに捕食される確率よりも高い。 南アジア一帯に広く分布するサルの一種ハヌマンラングール Semnopithecus entellus の群れと本種の群れの間には興味深い関係が観察されている。サルの群れは樹上で葉や木の実を食べ、シカは地上で草を食んでいる。サルは樹上からあたりを見回し、捕食者の接近を見つけると警告する。シカはこれを聞いて早く逃避体制に入れるので明らかに利益がある。サルの立場で見るとシカの優れた嗅覚によって敵の接近が分かると考えられている。シカにとっては他にも利益があり、樹上のサルが木の実を落とすことによってそれを食べることが出来る。 10頭から50頭の群れを作って生活する。一番大きく支配的なオスたちを中心に周りをメスや子供が取り巻く形となる。オスの子供は大きくなると群れを出なければならず、その目安は角のビロードがとれるときである。同じくらいの大きさのオスが群れに入ろうとしたら、群れのボスであるオスは慎重に角を突き合わせて新参者を観察する。角の突き合いは若い個体で盛んにおこなわれる。体の大きな個体はマーキングすることをより好む。後ろ足で立ちあがって頭上の枝にマーキングを行うことも知られている。 繁殖期は熱帯性気候の期間中だらだらと続き、出産は年中行われることもある。発情期の最中オスは大きな声で鳴く。メスの発情周期は約3週間である。オスは発情しているメスを引き連れて守り続け、その間は食事もしない。交尾の前には追いかける期間と互いになめ合う期間がある。メスは1回の出産で1頭、まれに2頭を生む。 群れで草をはむ 水を飲む個体 子育てするメス 本種はIUCN (International Union for Conservation of Nature and Natural Resources, 国際自然保護連合) の保全状況評価では軽度懸念 (Least Concern) に位置付けられている。これは本種が広い範囲に分布し、個体数も多いためである。近年では生息が脅かされることも全体的に少なくなり、多くの保護地域で暮らしているが、多くの生息場所では生息密度は環境収容力 (ecological carring capacity) を下回っている。この原因は狩猟や家畜との競合のためである。狩猟によって個体数の減少と地域的な絶滅が発生している。このために本種はインドでは1972年の「Indian Wildlife Protection Act(意訳:インド野生動物保護法)」の第三段階(Schedule III)において、バングラデシュでは 1974年のWildlife Act(意訳:野生動物法)によって保護されている。この2つの主要な法律が法的な保護の要になっている。 原産地で保護される一方で本種はいくつかの国に移入されており、オーストラリアのクイーンズランド、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、アメリカ合衆国のテキサス州、フロリダ州、カリフォルニア州の一部地域、クロアチアのブリユニと呼ばれる地域でアドリア海に浮かぶ無人島Velki Brijun Islandに分布している。 日本には定着していないものの、ニホンジカ Cervus nipponと交雑する恐れがあるため、外来生物法によって特定外来生物に指定されており、飼育や日本国内への持ち込み・移動が原則禁じられている。この法律には例外規定があり、動物園や研究施設などは逃げ出さないような設備を持つという条件付きで、飼育・輸入が出来る。本種の場合は愛知県の東山動物園で生体を見ることが出来る。 ^ a b c d e “Axis axis in IUCN Red List of Threatened Species. Version 2011.2.” (英語). 国際自然保護連合(IUCN). 2012年1月28日閲覧。 ^ “Axis axis (Erxleben, 1777)” (英語). ITIS. 2012年1月28日閲覧。 ^ Grubb, Peter (16 November 2005). Wilson, Don E., and Reeder, DeeAnn M., eds. ed. Mammal Species of the World (3rd ed.). Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2 vols. (2142 pp.). ISBN 978-0-8018-8221-0. OCLC 62265494. ^ Pitraa, Fickela, Meijaard, Groves (2004). Evolution and phylogeny of old world deer. Molecular Phylogenetics and Evolution 33: 880?895. ^ Groves (2006). The genus Cervus in eastern Eurasia. European Journal of Wildlife Research 52: 14-22. ^ a b c d e f g h i The Deer and the Tiger: A Study of Wildlife in India. George Schaller. University Of Chicago Press. 1967. Pg. 37-92. (Midway Reprint) ^ a b c d e f g h i j k Deer of the world: their evolution, behaviour, and ecology. Valerius Geist. Stackpole Books. 1998. Pg. 58-73. ^ Prasad, S.; R. Chellam; J. Krishaswamy & S. P. Goyal (2004) Frugivory of Phyllanthus emblica at Rajaji National Park, northwest India. Current Science 87(9):1188-1190 ^ 多紀保彦(監修) 財団法人自然環境研究センター(編著) 『決定版 日本の外来生物』 平凡社、2008年4月21日。ISBN 978-4-582-54241-7。 決定版 日本の外来生物 多紀保彦監修 平凡社 2008 Wikipedia 英語版 en:Chital シカ", "メディアを再生する タテガミオオカミ(鬣狼、Chrysocyon brachyurus)は、哺乳綱ネコ目(食肉目)イヌ科タテガミオオカミ属に分類される食肉類。本種のみでタテガミオオカミ属を構成する。 アルゼンチン北部、パラグアイ、ブラジル中部以南、ペルー南東部、ボリビア東部 南米のイヌ科動物の最大種。オオカミと名が付くが、オオカミよりはキツネに近い動物で体長122.5-132センチメートル。尾長27.5-45センチメートル。肩高72-90センチメートル。体重20-23キログラム。頚部背面の体毛が伸長して鬣状になり、名前の由来とされる。背面の毛衣は赤褐色。吻や鬣、四肢の毛衣は黒く、耳介内側や喉、尾先端の毛衣は白い。 耳介は大型で、聴覚が優れている。上顎の門歯や第4臼歯は小型で、犬歯は細長い。四肢は長く、茂みの中を歩くのに適している。第3指と第4指の指球が基部で癒合する。 出産直後の幼獣は体重0.3-0.4キログラム。幼獣の毛衣は尾先端が白いものの黒く、生後約70日で淡赤褐色になる。 低木が点在する草原、沼沢地などに生息する。夜行性。27-31平方キロメートルの行動圏内で生活し、ペアで行動圏を共有する。単独で生活するが、繁殖期はペアで生活する。同側の四肢を一緒に動かして移動(側対歩)する。 食性は雑食で、小型哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、昆虫、陸棲の貝類、果実などを食べる。聴覚を使って獲物を探して忍び寄り、跳躍して捕える。 繁殖形態は胎生。妊娠期間は62-66日。8-10月に1回に2-5頭の幼獣を産む。授乳期間は15週間。飼育下の観察例では父親が幼獣に獲物を吐き戻して与える。幼獣は生後9日で開眼する。生後1年で性成熟するが、初産を迎えるのは生後2年以降。 民話ではニワトリを睨んだだけで殺すことができる動物とされる。 開発による生息地の破壊、狩猟、害獣としての駆除などにより生息数は減少、絶滅も心配されている。 本種はチーターにも匹敵する脚力の持ち主だと言われる。 しかし短距離を走った後、いちいち立ち止まって安全確認をする習性があるためそのとき人間に突かれて殺されてきたという。 現在(2016)考えられている最も有力な、タテガミオオカミが減っている理由は、ブラジル周辺の著しい森林破壊である。(IUCN) また生息地を探すために移動をしている際に車との衝突、ほかの動物との接触、病気、悪質なアニマルハンティング等が理由と考えられている。 ^ a b c d e f g h i j k 今泉吉典監修 D.W.マクドナルド編 『動物大百科1 食肉類』、平凡社、1986年、94-95頁。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 今泉吉典監修 『世界の動物 分類と飼育2 (食肉目)』、東京動物園協会、1991年、139-140頁。 ^ a b c d e f g h i j k l 『絶滅危惧動物百科3 ウサギ(メキシコウサギ)―カグー』 財団法人自然環境研究センター監訳、朝倉書店、2008年、30-31頁。 ^ 『野生イヌの百科』 今泉忠明 ISBN 978-4-88718-915-7 ^ 『野生イヌの百科』 今泉忠明 ISBN 978-4-88718-915-7 ^ 『野生イヌの百科』 今泉忠明 ISBN 978-4-88718-915-7 今泉忠明 『野生イヌの百科』 データハウス、1993年、ISBN 4-88718-171-X。 国際自然保護連合 IUCN http://www.iucnredlist.org/details/4819/0 イヌ科 パタゴニアン・ドッグ ^ CITES homepage Appendices I, II and III ^ The IUCN Red List of Threatened Species Rodden, M., Rodrigues , F. & Bestelmeyer, S. 2008. Chrysocyon brachyurus. In: IUCN 2010. IUCN Red List of Threatened Species. Version 2010.4. 環境省 特定動物リスト (動物の愛護と適切な管理)", "アリクイ(蟻食・蟻喰・食蟻獣)は、哺乳綱有毛目アリクイ亜目(Vermilingua)の総称である。 アリやシロアリを食べることからアリクイ、英語でもアントイーター(anteater)と呼ぶ。分類群の学名 (Vermilingua)は「蠕虫状の舌」を意味し、まれに「虫舌亜目」とも訳されるが、もっぱら「アリクイ亜目」と意訳される。ただし、分類体系によっては下目にもなる。 中南米の森林・草原地帯に住む。 その学名のとおりミミズのような細長い舌を持ち、粘着力のある唾液を付け、餌を舌に粘着させて捕る。 口吻は極端に細長く、口は小さく歯がほとんどない。餌は丸呑みされる。このため、虫のような小さな餌かペースト状の餌(もっぱら飼育下で与えられる)しか食べることができない。 尾は長くて力強く、オオアリクイ以外は物に巻きつけることができる。 前足の第3指は強大な鉤爪を持ち、蟻塚を崩したり、木に登ったり、捕食者に対する武器として使う。 嗅覚は優れるが、視覚と聴覚は鈍い。 群は作らず、単独か母子で行動する。 野生のアリクイは1日に約3万匹のアリを捕食している。 短く柔らかい毛に覆われる。ただしオオアリクイは長く硬い毛に覆われる。 威嚇するときに仁王立ちのようなポーズをとる。 ナマケモノ亜目 Folivora アリクイ亜目 Vermilingua ヒメアリクイ科 Cyclopedidae ヒメアリクイ属 Cyclopes ヒメアリクイ Cyclopes didactylus オオアリクイ科 Myrmecophagidae オオアリクイ属 Myrmecophaga オオアリクイ Myrmecophaga tridactyla コアリクイ属 Tamandua キタコアリクイ Tamandua mexicana ミナミコアリクイ Tamandua tetradactyla 日本でもいくつかの動物園で飼育されているほか、個人で飼育している事例も多い。 実際に、一部のペットショップでは販売している。 アリクイという名前からアリ以外は食べないと思われがちだが、実際にはペースト状にした食べ物ならかなり食べる。 個人で飼育する場合には、栄養バランスなどの面からは、食虫動物用の餌というものが売られているので、これを購入してミキサーで粉々にして与えると良い。 ペースト状にした餌を穴をあけた木の幹などに注入しておくと穴に舌を差し込んで食べる。 あるいはビール瓶などの入り口の細いビン状の物に入れておいても食べる。動物園などではこの方式が多く用いられている。 特に、飼育下のアリクイはマヨネーズを好んで食べることが知られている。 飼育する場合には、腐敗による食中毒防止のため、餌皿代わりの木は毎日洗うことが必須である。" ]
ABC01-02-0226
毎年3月頃、日本の労働組合が歩調をそろえて実施する労働闘争のことを一般に何というでしょう?
春闘
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[ "春闘", "全日本労働総同盟", "第二組合", "全日本民間労働組合協議会", "全日本労働組合会議" ]
[ "春闘(しゅんとう)とは、日本において毎年春(2月)頃から行われる、ベースアップ等の賃金の引上げや労働時間の短縮などといった労働条件の改善を交渉する労働運動である。呼称は「春季生活闘争」(おもに労働組合側が使用)、「春季労使交渉」(おもに経営側が使用)、「春季闘争」などと言われている。 企業別労働組合が主流である日本においては、個々の企業ごとの労働組合の交渉力の差が大きい。そこで労働者側が団結し、各企業・各産業が毎年同時期に歩調をあわせ団結することで交渉力を高める狙いがある。 連合は、中央闘争委員会または中央執行委員会 全労連は、国民春闘共闘委員会 1954年に、5単産(産業別単一組合:炭労、私鉄総連、合化労連、電産、紙パ労連)で「共闘会議」が設立された。 1955年に、全国金属、化学同盟、電機労連が加わり「8単産共闘会議」が結成された。 毎年1月に経団連が春闘への姿勢を示す「経労委報告」を公表する。これを受け、まずは自動車や電気機器、鉄鋼などの大手製造業(各社の労働組合が全日本金属産業労働組合協議会(金属労協)に所属しているため金属産業と呼ばれる)が口火を切って交渉し、その年の労働条件の方向性が固まる。その後、鉄道や電力会社などの非製造業が交渉に入り、いわゆる大手企業の春闘が終了する。そして中小企業では概ね3月中に労働条件の改善交渉が行われて、その年の春闘が終了する。なお、公務員などの春闘もある。 2013年以降は毎秋、翌年の春闘に向け、政府が経団連に賃上げを要請ているため、「官制春闘」とも呼ばれ、ここがスタートとなる。 しかし、近年では若者を中心にイベント化しているとの声が上がっている。また、非正規社員は参加できないため、製造業などでは組合員数の減少が深刻な問題になっている。 春闘賃上げ率は、各年の春闘の結果、各企業の使用者と労働組合間で妥結した平均の賃金引上げ率である。通常採用されている春闘賃上げ率の数値は、厚生労働省が発表している「民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況」における賃上げ率である。これ以外に、速報として日本経団連が発表している「春季労使交渉・大手企業業種別妥結結果」や「春季労使交渉・中小企業業種別回答一覧」などが利用される。 雇用者の賃金は、所定内給与だけでなく所定外給与(いわゆる残業手当など)や賞与(ボーナス)にも大きく左右される。景気動向によって所定外労働時間は大きく変動し、また近年は賞与の支給も企業業績に連動するなどの方式を採用する企業も増加している。 多くの日本企業では、所定内給与(いわゆる本俸)の改定は春闘の結果を受けて年度単位で実施され、所定外手当てや賞与の計算も所定内給与を基礎に計算されるので春闘賃上げ率は各年度の賃金の動向に大きな影響を及ぼしてきた。このため春闘賃上げ率は、その年度の雇用者所得の推計や労働コストから物価上昇率に与える影響などの予測に利用されてきた。 近年、年俸制や賞与の業績連動制を採用する企業が増加し、各従業員の給与についても年功序列型で個人差の少ない賃金体系から、各個人の業績に応じて賃金格差を拡大させる方向に変化しているため、春闘賃上げ率が日本全体の雇用者所得の動向を示す指標としての役割もかつてに比べて低下している。月額千円程度のベースアップ意見もある。 国民春闘共闘委員会は貧困解消と格差是正、労働法制改悪ノーを掲げ1月18日、厚労省や経団連を包囲する行動を行い、全日本金属産業労働組合協議会(金属労協:自動車や電機など主要製造業の5産業別労組)も、同日静岡県熱海市で2007年闘争中央討論集会を開いた。 電機連合は、1月25日に中央委員会で月額2,000円以上の賃金改善要求する2007年春闘方針を決めた。 全労連と国民春闘共闘委員会が2月21日に、全国で地域総行動を実施した。 ^ a b 『解剖財界2』読売新聞2018年10月25日付朝刊経済面 ^ 労組は働く人の味方か?(テレビ東京WBS1月27日放送) 日本経済団体連合会(経団連) 日本労働組合総連合会(連合) 全国労働組合総連合(全労連) 全国労働組合連絡協議会(全労協) 全日本金属産業労働組合協議会(金属労協) 日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連) 日本の労働組合 労働運動 メーデー 労働者福祉 ストライキ 檄布 民間主要企業春季賃上げ集計|厚生労働省 平成26年 民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況を公表します |報道発表資料|厚生労働省 平成27年 民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況を公表します |報道発表資料|厚生労働省 図2 主要企業春季賃上げ率/早わかり グラフでみる長期労働統計|労働政策研究・研修機構(JILPT)", "全日本労働総同盟(ぜんにほんろうどうそうどうめい) 戦前の日本の労働組合のナショナルセンターの一つ。略称は全総(ぜんそう)。 日本労働組合総連合会(連合)発足以前の日本の労働組合のナショナルセンターの一つ。略称同盟(どうめい)。本項にて記述。 1964年、全日本労働組合会議(全労会議)と全日本労働総同盟組合会議(同盟会議)と日本労働組合総同盟(総同盟)が全日本労働総同盟を結成。「自由にして民主的な労働組合」を旗印に、日本社会党を支持する左派路線の日本労働組合総評議会(総評)と対抗した。 1982年 全日本民間労働組合協議会(全民労協)結成。 1987年 全日本民間労働組合連合会(全民労連、旧「連合」)結成。 1989年 日本労働組合総連合会(「連合」)結成。 一連の労働運動再編は同盟の路線に沿ったもので、同盟系が連合の主流派となった。同盟は連合結成で、共産系の排除を認めさせたため、総評は解散し、「自由にして民主的な労働組合」の路線で多数派の連合に合流するか、戦闘的労働運動(階級的労働運動)の路線に立ち、少数派であっても共産党系の全国労働組合総連合(全労連)や社会党左派系の全国労働組合連絡協議会(全労協)で運動を推進するか、どこにも加盟せず中立組合となるのか、いずれかを迫られた。 旧同盟はその後、友愛会議→友愛会→友愛連絡会と後継団体が名称を変更しながら存続していたが、2007年8月31日の友愛連絡会解散をもって、旧同盟の設立から43年の歴史に幕を降ろした。なお、友愛連絡会は、政策研究フォーラム(旧民主社会主義研究会議)・民社協会・核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)への支援を行っていた。 労使協調。 全国民の中産階級化。 左右の全体主義に反対する。 1と2は、従来の労使の対立路線ではなく、労働者と使用者が協調して企業を繁栄させれば、パイが増え、労働者の取り分も増えるものと考えてのことだった。使用者も、労働運動に譲歩しなければ自分の首を絞めることに気付いており、利潤の公平分配に努めた。結果として厚みのある新中間層が成立し、一億総中流と呼ばれる現象が出現した。自衛隊や原発を容認する姿勢を取り、これらとの関係が深い、金属・自動車・電力・繊維などの産業の労働組合が中心となっていた。 政治的には民社党を支持し、右翼全体主義よりも、左翼全体主義との対決姿勢を強め、国内にあっては共産党打倒のために自由民主党と共闘し、開発独裁を標榜し国民への弾圧を強行した韓国の朴正熙政権や、チリのピノチェト政権も積極的に評価した。 総評がソ連主導の世界労連への加盟に躊躇する中、同盟は迷わず資本主義国家群の組合で構成される国際自由労連に加盟した。 解散時点の加盟組合。総評が官公労が主だったのに対し、同盟は民間労組が主体であった。 ゼンセン同盟 全国金属産業労働組合同盟(全金同盟) 日本自動車産業労働組合連合会(自動車労連) - 日産グループの労働組合で構成しており、1989年に全日産・一般業種労働組合連合会(日産労連)と改称した。同盟の他、自動車総連にも加盟していた。 全国造船重機械労働組合連合会(造船重機労連) 全国電力労働組合連合会(電力労連) 全日本海員組合(海員組合) 全国化学一般労働組合同盟(全化同盟) 全国交通運輸労働組合総連合(交通労連) 全日本郵政労働組合(全郵政) 全国一般労働組合同盟(一般同盟) 鉄労友愛会議 - 前身は鉄道労働組合(鉄労)で、1987年に鉄道労連が結成されると、これの中の旧鉄労系組合員で構成していた。後に、多くの組合員はJR総連(鉄道労連が分割民営化に際し略称を変更)を離脱した組合と鉄産総連が統合し結成されたJR連合に加入する。 国税労働組合全国会議(国税会議) 全日本紙パルプ紙加工産業労働組合総連合(紙パ総連合) 全国食品産業労働組合同盟(全食品同盟) 三菱自動車工業労働組合(三菱自工労組) - 三菱重工からの自動車事業分離により、1970年に造船重機労連加盟の三菱重工労組より分離して発足。同盟の他、自動車総連にも加盟していた。 全日本航空産業労働組合総同盟(航空同盟) - 日本航空グループの労働組合で構成していた。1999年に全日空グループ労協と統合し、航空連合となる。 建設産業労働組合同盟(建設同盟) 全国金属資源産業労働組合連合会(資源労連) 日本林業労働組合(日林労) 凸版印刷労働組合(凸版労組) 全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱) 全国自治団体労働組合連合(自治労連) 社会保険診療報酬支払基金労働組合(基金労組) 全国石油産業労働組合同盟(石油同盟) 全国電力検針集金労働組合連絡協議会(検集労連) 日本港湾労働組合同盟(日本港湾) 統計労働組合(統計労組) 全国映画演劇労働組合(全映演) 全国民主自由労働組合(全民労) 全日本農協職員組合連合会(全国農協連合) 南波佐間豊(1964年~1968年、全日本海員組合) 滝田実(1968年~1972年、全国繊維産業労働組合同盟) 天池清次(1972年~1980年、全国金属産業労働組合同盟) 宇佐美忠信(1980年~1987年、ゼンセン同盟) ^ 法政大学大原社研 1987年同盟の組織状況〔日本労働年鑑 第58集 240〕 ^ 同盟三菱自工労組(全日本労働総同盟三菱自動車工業労働組合)[労]1970.8.18 - 法政大学大原社会問題研究所 労働組合 - ナショナルセンター 労働運動 日本労働組合総連合会 日本労働組合総評議会 - 中立労働組合連絡会議 - 全国産業別労働組合連合 労働貴族 御用組合 黄犬契約", "第二組合(だいにくみあい)とは、ある事業体で二番目に組織された労働組合のこと。 一般的には現に存在する労働組合の中から組合分裂によって新たに結成される労働組合を指す。 多くの場合、経営者に敵対的な紅色組合(第一組合)に対し、経営者に友好的(労使協調)な労働組合が作られる場合を指し、いわゆる「御用組合」が多い。 第一組合から見れば組合が分裂して第二組合が結成されることは経営者に対して交渉力が低下することになるため、第二組合結成に批判的である。労働組合は労働者2人以上いれば結成でき、一事業体一業種に1つの労働組合にしなければならないとする義務はない。ただし、団体交渉において経営者が複数の労働組合に対して同じ要求について違う回答が出す等の複数組合の取扱差別をした場合は不当労働行為に該当する。 旧国鉄における国労に対する鉄労、郵便局における全逓に対する全郵政、日本航空のJAL労働組合(JALFIO。当時は「日本航空新労働組合」)。 第二組合と見られる組合は連合ができる前、同盟に加盟し、民社党を支持する傾向が見られた。いわゆる労働戦線の統一で連合ができると、第一組合と第二組合が歩調を合わせたり合同したりして、逆に共産党系組合などが離脱するなどの動きが起きた。 労働組合 御用組合", "全日本民間労働組合協議会(ぜんにほんみんかんろうどうくみあいきょうぎかい)は、かつて存在した日本の労働組合の協議会。略称は全民労協(ぜんみんろうきょう)。 1982年に労働戦線の統一を民間主導で進めるために設立され、1987年に全日本民間労働組合連合会(全民労連または民間連合)として発展的解消され、1989年にはさらに官公労も合流して、現在の日本労働組合総連合会(連合)となる。 1962年に右派組合が結集した全日本労働総同盟(同盟)が成立して以後、日本のナショナルセンターは勢力の順に、 左派・社会党及び共産系の日本労働組合総評議会(総評) 右派・民社党系の全日本労働総同盟(同盟) 中間派の中立労働組合連絡会議(中立労連) 左派・非共産の全国産業別労働組合連合(新産別) の4団体が並んでいた。これらはたびたび「労働戦線統一」などの目標を掲げて統一を模索したが、そのたびに対立が表面化して挫折していた。 だが、1970年代後半の労働運動の高まりを受けて、1979年3月9日に、まず中立労連と新産別や中立数組合によって全国労働組合総連合(総連合)が結成され、「ゆるやかな連合」として「労働戦線統一の触媒」として活動をはじめる。 また同盟でも民間組合を先行させた労働戦線の統一が打ち出され、総評も態度を軟化させる。1980年9月30日、総評・同盟・中立労連及び無所属の民間労組の代表による労働戦線統一推進会が発足。メンバーは総評2、同盟2、中立労連1、無所属単産1の計6単産の代表であった。 労働戦線統一推進会による「民間先行による労働戦線統一の基本構想(のちの連合の綱領路線)」(1981年)は、「自由にして民主的な労働組合」の路線と「西側の一員」論の立場に立ち、国際自由労連(ICFTU)加盟、批判勢力の排除を求めた。推進会が打ち出した基本方針は、組織を協議会体制にすることや、共産色の強い統一労組懇との対決姿勢などである。同盟はこれを概ね支持したが、総評左派がこの方針に難色を示した。左派勢力の抵抗に総評は結論を先送りにしたが、1981年11月の評議会で強行採決をして基本方針の修正案を可決した。 これに対して同盟側は難色を示したものの、推進会は玉虫色のまとめを採択し、12月14日に労働戦線統一準備会が発足した。当初参加した組合は総評5、同盟17、中立労連7、新産別4、無所属6の計39単産。組合員数は約378万3000人であった。 これより協議会へ向けた詰めの話し合いが行われたが、総評と同盟の対立が再び浮上。しかし総評の左派組合を中心に新組織への反対・懐疑が出され、右派と左派の対立が深刻になる。それでも左派を押さえ込む形で交渉、譲歩などをした結果、新組織の発足にこぎつけ、1982年12月14日に全日本民間労働組合協議会が発足した。発足時の加盟組合は総評5、同盟17、中立労連8、新産別4、無所属7の計41単産、組合員は約423万5000人。初代議長は竪山利文・電機労連委員長。 同時期に総連合や政策推進労組会議(政推会議)は活動を停止。全国民間労組委員長懇談会(全民懇)、民間労組共同行動会議は解散。春闘の共闘機関である賃金対策民間労組会議は翌年は発足しないことを決定。これらは事実上の全民労協への移管・吸収である。 統一労組懇は全民労協への一連の動きに反発し、総評の主流左派の組合がこれに同調する動きをした。それでも総評内でも官公労組の統一機運が高まる動きが出てくるが、総評や同盟の有力組合から反対の声が上がった。官公労組の加盟議論が活発になるのは連合の結成以降である。 また、共産党を除く野党はこの動きを軒並み歓迎し、野党連合の枠組みにつなげたいとする声も上がった。これ以降の野党の提携、ひいては55年体制の崩壊後の非自民政権の枠組みへのつながりに、全民労協、そして連合の存在の影響があったとも言える。 一方、全民労協は1983年11月の第2回総会で、オブサーバー加盟や友好加盟制度の導入など組織の積極的拡大路線を打ち出した。また「政策・制度要求と提言」を毎年発表したり、中央省庁や経済団体とも交流をしたりと、積極的な活動をする。 連合体制への移行についての議論は1985年に入ると活発化し、同年11月の第4回総会で連合組織への移行を確認。1986年11月の第5回総会で翌年秋の連合組織への移行を確定した。そして1987年11月9日の第6回総会で解散。この時、全64単産(うちオブサーバー加盟1、友好加盟6)組合員数約555万7000人であった。 同月19日、同盟と中立労連が解散。翌20日に全日本民間労働組合連合会(全民労連、民間連合)が結成、1989年11月21日には官公労と統一し日本労働組合総連合会(連合)となった。なお、総連合は民間連合結成に先立つ1987年9月16日に、新産別は翌年の10月に、総評は官公労が残っていた関係もあってさらに次の年の11月に解散している。 総評(2単産) 鉄鋼労連、全日通 同盟(2単産) ゼンセン同盟、電力労連 中立労連(1単産) 電機労連 無所属(1単産) 自動車総連 総評(15単産) 1981年12月(発足時)に加盟(5単産) 鉄鋼労連、合化労連、全日通、電通労連、全鉱 1982年6月までに加盟(7単産) 全国金属、私鉄総連、炭労、全電力、繊維労連、全自交、紙パ労連 1982年12月までに加盟(3単産) 全国一般、全海連、全造船 同盟(17単産) 1981年12月(発足時)に加盟(17単産) ゼンセン同盟、全金同盟、造船重機労連、海員組合、一般同盟、交通労連、全化同盟、全食品同盟、紙パ総連合、航空同盟、建設同盟、資源労連、凸版労組、全炭鉱、基金労組、石油同盟、日本港湾 中立労連(8単産) 1981年12月(発足時)に加盟(7単産) 電機労連、食品労連、全電線、全窯連、全石油、全国ガス、全国セメント 1982年12月までに加盟(1単産) 生保労連 新産別(4単産) 1981年12月(発足時)に加盟(4単産) 全機金、新化学、新運転、京滋地連 無所属(7単産) 1981年12月(発足時)に加盟(6単産) 自動車総連、電力総連、商業労連、運輸労連、ゴム労連、全国自労 1982年12月までに加盟(1単産) 相銀全労 総評(20単産) 1982年12月(発足時)に加盟(5単産) 鉄鋼労連、合化労連、全日通、電通労連、非鉄金属労連 1983年3月までに加盟(8単産) 私鉄総連、全国金属、紙パ労連、繊維労連、全自交、全電力、日放労、全海連 1983年11月までに加盟(4単産) 全造船、ホテル労連、炭労、全国自労連合会 1986年11月までに加盟(1単産) たばこ共闘 1987年11月までに加盟(2単産) 鉄道労連、鉄産総連 同盟(18単産) 1982年12月(発足時)に加盟(17単産) ゼンセン同盟、全金同盟、造船重機労連、海員組合、一般同盟、交通労連、全化同盟、全食品同盟、紙パ総連合、航空同盟、建設同盟、資源労連、凸版労組、全炭鉱、基金労組、石油同盟、日本港湾 1983年12月までに加盟(1単産) 全民労 中立労連(8単産) 1982年12月(発足時)に加盟(8単産) 電機労連、食品労連、全電線、全窯連、全石油、全国ガス、全国セメント、生保労連 新産別(4単産) 1982年12月(発足時)に加盟(4単産) 全機金、新化学、新運転、京滋地連 無所属(7単産・オブ1・友好6) 1982年12月(発足時)に加盟(7単産) 自動車総連、電力総連、商業労連、運輸労連、ゴム労連、全国自労、相銀全労 1984年12月までに加盟(6単産) 化学総連(オブサーバー加盟)、日建協(友好加盟)、チェーン労協(同)、車輛労協(同)、金属家具労協(同)、全国アロイ労協(同) 1986年11月までに加盟(1単産) 化労研(友好加盟) 労働戦線統一推進会の構成員(6人) 総評(2人) 中村卓彦(鉄鋼労連・委員長)、田淵勲二(全日通・委員長) 同盟(2人) 宇佐美忠信(ゼンセン同盟・会長)、橋本孝一郎(電力労連・会長) 中立労連(1人) 竪山利文(電機労連・委員長) 無所属(1人) 塩路一郎(自動車総連・会長) 労働戦線統一準備会の幹事(13人) 総評(3人) 中村卓彦(鉄鋼労連・委員長)、田淵勲二(全日通・委員長)、立花銀三(合化労連・委員長) 同盟(3人) 宇佐美忠信(ゼンセン同盟・会長)、金杉秀信(造船重機労連・委員長)、田中良一(全化同盟・常任顧問) 中立労連(2人) 竪山利文(電機労連・委員長)、岡村惠(食品労連) 新産別(1人) 前川忠夫(全機金・委員長) 無所属(3人) 塩路一郎(自動車総連・会長)、鈴木治(電力総連)、鈴木健勝(商業労連・会長) 注:いずれも役職名は当時 労働組合 - ナショナルセンター 労働運動 日本労働組合総評議会、全日本労働総同盟、中立労働組合連絡会議 日本労働組合総連合会", "全日本労働組合会議(ぜんにほんろうどうくみあいかいぎ)は、かつて存在した日本の労働組合のナショナルセンター。略称は全労会議(ぜんろうかいぎ)。 1950年にGHQの主導の下日本労働組合総評議会(総評)が結成され、日本の労働組合の多数派を単一組織に結集させたが、翌1951年に総評と密接な関係にあった日本社会党が平和四原則(全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対)を打ち出すと、この取り扱いや国際自由労連への一括加入をめぐって総評内部の左右両派の対立が表面化。1952年には、日本炭鉱労働組合(炭労)・日本電気産業労働組合(電産)が共に賃上げ要求のストライキを実施し、63日間の長期闘争の結果中央労働委員会(中労委)の斡旋案受諾で決着したが、これも労使協調を取る右派系の労働組合からの批判が強く、ついには全日本海員組合(海員)・全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)・全国映画演劇労働組合(全映演)・日本放送労働組合(日放労)の「四単産批判」として公然化することになる。更に武藤武雄総評議長も、出身母体の常磐地方炭鉱労働組合連合会が炭労・総評から離脱を表明したことで、議長を辞職。炭坑・鉱業関係の右派労組を中心に全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)を結成した。 その後、日放労を除く上記右派系労組は右派社会党や日本労働組合総同盟と結びつきながらも、労使協調と反共を基調とした民主的・愛国的労働運動の結集を目指し、1954年に全日本労働組合会議を結成。全繊同盟出身の滝田実を議長に海員組合出身の和田春生を事務局長に、それぞれ選出した。その後1962年に総同盟・全官公と共に全日本労働総同盟組合会議(同盟会議)を結成し、1964年には総同盟・同盟会議と共に全日本労働総同盟(同盟)へと合流した。 日本労働年鑑 第22集~第28集[1]" ]
ABC01-02-0227
南極とフェゴ島の間にある、スペインの海賊の名前のついた海峡は何でしょう?
ドレーク海峡
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[ "ドレーク海峡", "バイカウントメルビル海峡", "スミス海峡", "ラブラドル海", "デービス海" ]
[ "ドレーク海峡(ドレークかいきょう、英: Drake Passage)は、南アメリカ・ホーン岬とサウス・シェトランド諸島(南極半島の北側に連なる諸島)との間の海峡。南極海の一部でもあり、世界でも最も荒れる海域の一つ。ギネスブックで世界一幅の広い海峡として認定されており、最狭部でも約650キロメートルある。 名前は、イギリス人の私掠船の船長で探検家の、フランシス・ドレークにちなんでつけられた。1578年、ドレーク船長が南太平洋で暴風雨に遭い、ホーン岬付近に漂着した後大西洋へ出たことから、この海峡の存在が初めて知られた。それまでは、マゼラン海峡が大西洋と太平洋を結ぶ唯一の海峡と考えられていた。ドレーク海峡を最初に航海した公的な記録は、オランダ人ウィレム・スホーテン(Willem Cornelisz Schouten)が船長を務めた1616年の航海とされている。 海峡の南、南シェトランド諸島と南極半島との間には、ブランスフィールド海峡(Bransfield Strait)があり、その周辺は南極観測基地のメッカである。 ドレーク海峡を含む南緯60度付近はいつも荒れているため\"shrieking sixties\"(絶叫する60度)と呼ばれる。年間を通して温帯低気圧の通り道となっており、陸地が全く存在しないために強風や海流が遮られないことによる波浪の発達が著しい。 マゼラン海峡 土渕海峡 - 世界一幅の狭い海峡。最も狭いところが9.93m。1996年ギネスブック認定。 座標: 南緯58度34分49秒 西経65度54分34秒 / 南緯58.58028度 西経65.90944度 / -58.58028; -65.90944", "座標: 北緯74度0分 西経108度0分 / 北緯74.000度 西経108.000度 / 74.000; -108.000 バイカウントメルビル海峡(英: Viscount Melville Sound)は、カナダのヌナブト準州にあるプリンスオブウェールズ島とクイーンエリザベス諸島の島とを隔てている海峡である。東に進むとランカスター海峡を経てバフィン湾へ至る。西はマクルアー海峡を経由して北極海につながる。このため、北西航路の一部となっている。長さは400キロメートル、幅は160キロメートル。 ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年3月10日閲覧。", "スミス海峡(スミスかいきょう)は、グリーンランドとカナダのエルズミーア島との間のネアズ海峡の一部であり、バフィン湾南部と同じくネアズ海峡の一部である ケイン湾(en)とを結ぶ。 この海峡のグリーンランド側の沿岸には、現在は廃村となっているエタ、アンノアトックの定住地があった。 判明している限りでは、スミス海峡にヨーロッパ人が初めて訪れたのは1616年のディスカヴァリー(船長:ロバート・バイロット(en)操縦士:ウィリアム・バフィン)であった。 イングランド人の外交官トーマス・スマイス(en)のあとに独自に「トーマス・スミスの海峡」と命名され、1750年代には地図上に正式に掲載されるよえになった。1818年の ジョン・ロスによるものまで、この海域でこれより北に到達した探検はなかった。その頃には、トーマス・スミスの海峡は単に「スミス海峡」と呼ばれるようになった。 1852年には、エドワード・オーガスタス・イングルフィールド(en)がバフィン湾のわずかに北を通り、知られている新たな北アメリカ最北の地となった。 ^ Google Earth ^ 国際水路機関の定義ではスミス海峡も含むネアズ海峡もバフィン湾に含まれる。 ^ Gretel Ehrlich, Gretel (2001). This Cold Heaven: Seven Seasons in Greenland. Random House. pp. 26–7,141,239,348. ISBN 978-0-679-75852-5.  Blake, W. 1999. \"Glaciated Landscapes Along Smith Sound, Ellesmere Island, Canada and Greenland\". Annals of Glaciology. 28: 40-46. Elton, Charles S. Movements of Arctic Fox Populations in the Region of Baffin Bay and Smith Sound. The Polar Record. [Offprint], no. 37-38. [Cambridge: University Press], 1949. Grist, Alexander, and Marcos Zentilli. 2005. \"The Thermal History of the Nares Strait, Kane Basin, and Smith Sound Region in Canada and Greenland: Constraints from Apatite Fission-Track and (U Th Sm)/He Dating\". Canadian Journal of Earth Sciences. 42: 1547-1569. Kroeber, A. L. The Eskimo of Smith Sound. [New York: Knickerbocker Press], 1900. Peary, Robert E. Northward Over the \"Great Ice\" A Narrative of Life and Work Along the Shores and Upon the Interior Ice-Cap of Northern Greenland in the Years 1886 and 1891-1897 : with a Description of the Little Tribe of Smith-Sound Eskimos, the Most Northerly Human Beings in the World, and an Account of the Discovery and Bringing Home of the \"Saviksue,\" or Great Cape-York Meteorites. London: Methuen, 1898.", "ラブラドル海(英: Labrador Sea)は、カナダのラブラドル半島とグリーンランドの間にある海である。北はデービス海峡でバフィン湾に、南は大西洋につながっており、大西洋の一部とする考え方もある。中央部の水深は約3kmあり、南西・北西および北東に大陸棚が連なる。冬は流氷により船舶の航行は困難となる。ラブラドル海流が流れている。 ラブラドル海の形成は今から約6100万年前に始まり4000万年前に終わった海洋底拡大によるものと考えられている。氷河時代には北アメリカの氷床から流れ出た大量の氷山が流れ込み、それらが溶解することで溶け出した岩石が現在のラブラドル海の底に岩石層を成している。", "デービス海(英語: Davis Sea)は、南極海の海域のひとつ。南極大陸東部(東南極)にあり、シャクルトン棚氷の西、ウエスト棚氷の東に位置する。 インド洋の方向にあたり、東経90度線が通過する。 1911年から1914年にかけて、この海域を探検したオーストラリアの探検家ダグラス・モーソンが、探検隊の副長で調査船オーロラの船長でもあったJ.K.デービス(J.K. Davis)にちなんで命名している。" ]
ABC01-02-0229
ラテン語で「別のところに」という意味がある、事件などの時に、現場に不在していたことを証明することを何というでしょう?
アリバイ
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[ "アリバイ", "犯人", "証拠", "無実", "証拠方法" ]
[ "アリバイ(英: alibi)または現場不在証明(げんじょうふざいしょうめい)は、犯罪等で被疑者・被告人が犯行に関わっていないことを推認させる間接事実の一つ。ラテン語のalius ibi(他の場所に)に由来する。 犯行が行われた際、被疑者がその場に存在していなかったことを主張(現場不在証明)し、犯罪の直接的な実行が不可能であったことを主張するのがアリバイである。もっとも、この場合、その人物がその場にいなかったことそれ自体を証明するのではなく、実際にはその時間に別の場所にいたことを主張立証する活動が行われる。同一人物が、同一の時間に異なった二カ所に存在することは不可能であるため、それが現場に存在しなかったことの証明になる。現在では一般的な用語としても使われている。 事件においてアリバイが証明されたら捜査機関の容疑者候補から外れるが、アリバイが証明されないと捜査機関の容疑者候補から外れないことが起こりうる。しかし、刑事訴訟法的には当事者主義訴訟構造をとっている刑事訴訟法上当然の原則から、当該被告人が犯人であること(犯人性)および公訴事実の存在を証明する必要は訴追側の検察官にあるため、アリバイ事実を被告人側が証明する必要はない。 刑事裁判において、被告人のアリバイの有無は犯行の可能性を左右する重要な要素であるため、弁護側と検察側の間でしばしば争われる。また、証人が被告人のためにアリバイを偽装することは違法であり、偽証罪や犯人隠匿罪等に問われることはない。 推理小説においてはアリバイの偽装工作が見せ場となっており、各々の作家がアイデアを凝らしている。アリバイもので著名な推理作家としてはF・W・クロフツやヘンリー・ウェイド、鮎川哲也、笹沢佐保等がいる。 殺人事件が起きた時間が完全に特定できる場合に、その場にいなかった、という場合と、殺人の時間は完全に特定できない、だから被疑者のアリバイもその前後に違う場所にいた、という場合とでは扱いがかなり異なる。後者の方が現実的であろう。 後者に於いては、アリバイの主張もその間の時間に、事件の現場と被疑者のいた場所の間での移動が不可能だ、ということになるから、普通には有り得ない移動をどうやって可能にしたかが問われる。これに鮎川哲也が『ペトロフ事件』で初めて列車時刻表を用いて以降、作品中に時刻表を用いることが定番となった。とくに松本清張の『点と線』は秀逸で、日本のその後の推理小説、サスペンスに一つの定型を作ったとされる。 逆に、事件が起きた時間を誤認させることにより、アリバイが成立するかのように見せるトリックもある。 有栖川有栖は、『マジックミラー』の第7章「アリバイ講義」において、ディクスン・カーの『三つの棺』の「密室講義」における密室トリックの分類に倣(なら)って、ミステリにおけるアリバイトリックの分類を行っている。作品例は、『マジックミラー』(講談社文庫)の「文庫版のためのあとがき」に紹介されているものである。 1.証人に悪意がある場合 証人が嘘をついていた場合 例:『ナイルに死す』(アガサ・クリスティ)、『不連続殺人事件』(坂口安吾) 2.証人が錯覚している場合 a.時間を錯覚している場合 証人が見る時計の針に細工をする、日にちを間違わせる、曜日を間違わせる、など。 b.場所を錯覚している場合 証人が犯人と一緒にいる場所(アパート、新幹線、山や川など)を間違わせる、など。 c.人物を錯覚している場合 犯人が替え玉を使った場合。 例:証人がa、b、cすべてを錯覚している場合の作品 - 『人それを情死と呼ぶ』(鮎川哲也) 3.犯行現場に錯誤がある場合 例えば実際の犯行現場はA市の山林で、後で死体をB市の雑木林に移動させてB市を犯行現場と思わせるもの。 4.証拠物件が偽造されている場合 写真トリック(合成写真)が典型。 例:『フレンチ警部の多忙な休暇』(F・W・クロフツ) 5.犯行推定時間に錯誤がある場合 a. 実際よりも早く偽装する場合 例えば3時に殺した被害者が、2時には既に死んでいたように見せかけ、2時のアリバイを用意するというもの。 b.実際よりも遅く偽装する場合 例えば3時の時点で生きていた被害者が、4時まで生きていたと思われるよう細工して、4時のアリバイを用意するというもの。 例:2件の事件でaとbのそれぞれを用いている作品 - 『鍵孔のない扉』(鮎川哲也) A.医学的トリック 死体を冷やしたり熱したり、胃の消化物を加工したりして、死亡推定時刻の判定を狂わせるもの。 B.非医学的トリック 医学的トリック以外の方法で、aとbの例に挙げたような細工をするもの。 ※AとBにそれぞれaとbがある。 6.ルートに盲点がある場合 例えば移動するのに1時間かかる2地点間を、意外なルートを使って30分で移動するというもの。 時刻表を使った鉄道ミステリに作品例が多いが、例えば歩いて1時間かかる山道を断崖の上からパラシュートで数分で下ったというものも該当する。 例:『シタフォードの謎』『ゼロ時間へ』(アガサ・クリスティ) 7.遠隔殺人 a.機械的トリック 時限装置によって発射される拳銃や時限発火装置など。 b.心理的トリック 催眠術をかけた相手や夢中歩行癖のある相手に、危険な行為をさせるというもの。 例:『空白の起点』『炎の虚像』他(笹沢佐保) 8.誘導自殺 相手に精神的に大きなショックを与えて、自殺に追いやるもの。 例:『暗い傾斜』他(笹沢佐保) 9.アリバイがない場合 犯人が訴えるアリバイが、実はアリバイでも何でもなく、読者にアリバイがあると思い込ませるもの。 例:『真昼に別れるのはいや』他(笹沢佐保) なお、鯨統一郎は『九つの殺人メルヘン』(2001年)において、有栖川有栖の「アリバイ講義」におけるアリバイトリックの9つの分類に対応する9つの短編を著している。 ^ 英語発音: [ˈæləbaɪ] 証拠 冤罪 トリカブト保険金殺人事件 吉展ちゃん誘拐殺人事件 完全犯罪", "犯人(はんにん)とは法律によって禁じられ刑罰が科される根拠となる事実・行為を行った人物のこと。 凶悪犯罪の場合、犯人を野放しすることは治安秩序の観点から問題視されるため、治安機関は犯人を摘発して裁判にかけることに全力を尽くす。 現実世界では未解決事件における正体不明の犯罪者に対して、犯罪者自身の犯行予告から犯行声明やメディア等の呼称から、犯人名が呼称されることがある。 ミステリーの世界では登場人物から犯人を推理するジャンルでは、探偵が犯人を言い当てる前に犯人を推理することが最大の醍醐味となる。 犯人による犯行予告や犯行声明から 「草加次郎」、「ウルトラ山田」、「東アジア反日武装戦線」、「かい人21面相」、「赤報隊」、「墨子」、「酒鬼薔薇聖斗」、「てるくはのる」、「ネオむぎ茶」 メディア等の呼称 「火曜日の放火魔」、「赤いフェアレディの女」、「水曜日の絞殺魔」、「レッサーパンダ帽男」 など 警察の間では犯人の事を「ホシ」という隠語で呼ぶことがある。 関西地方では「ホシ」という呼称は、あまり使われず犯人の事を「太夫さん(だゆうさん)」と呼ぶ事が多い。 犯罪 実行犯・共犯・幇助 被疑者(容疑者)", "証拠(しょうこ、英語: evidence)とは、ある命題の真偽や存否を判断する根拠となるものをいう。 法律用語としての証拠は、証拠方法、証拠資料、証拠原因という3つの異なった意味を含んでいる。 証拠方法(しょうこほうほう)とは、事実を認識するための資料をもたらす有形物であり、裁判官による証拠調べの対象となる人や物そのものをいい、日常用語として目の前に出せる物としての「証拠」という用語法に近い意味を持つ。 証拠資料(しょうこしりょう)とは、事実を認識するための資料であり、裁判官が証拠調べにより証拠方法から得た内容をいい、証人の証言や書証の記載内容のことを指す。 証拠原因(しょうこげんいん)とは、証拠資料のうち裁判官が心証形成に採用したものをいい、当事者の立証活動は、自己に有利な証拠原因をできる限り多く裁判官に提供することを目的として行われることになる(刑事訴訟に関する用例であるが、「証拠不十分により処分保留のまま釈放」といった新聞でよく見かける表現は、この証拠原因の意味で「証拠」を用いていることになる。)。 ある人・物を、訴訟において証拠方法として用いることのできる資格を、証拠能力(しょうこのうりょく)という。すなわち、証拠能力のない人、物、書面等については、これを取り調べて事実認定のために用いることはできない。 一方、ある証拠資料が、証明すべき事実の認定に実際に役立つ程度を、証明力(しょうめいりょく)、証拠力、証拠価値という。例えば、証拠能力のある書面を取り調べて証拠資料が得られたとしても、その内容が信用できなかったり、証明すべき事実とあまり関係がなかったりする場合には、事実認定には役に立たないから、証明力が低いことになる。 証拠の性質によって、次のような分類がある。 人的証拠と物的証拠 証拠方法が人(証人や鑑定人)であるものを人的証拠、物(書証物)であるものを物的証拠という。 供述証拠と非供述証拠 人の供述(ある事実について言葉で述べること)を内容とする証拠を供述証拠、そうでない証拠を非供述証拠という。 ある証拠が要証事実との関係でどのような意味を持つかによって、以下のように分類できる。ここで要証事実とは、証拠によって証明すべき事実をいい、民事訴訟では契約締結の有無といった主要事実をいう。刑事訴訟では、犯罪事実(被告人が犯人であるか、また実行行為、結果の発生、故意といった構成要件に当たる事実)や違法性阻却事由、責任阻却事由等をいう。 実質証拠 次の直接証拠と間接証拠を併せて実質証拠という。 直接証拠 主要事実を直接的に証明する証拠を、直接証拠という。例えば、民事訴訟において、契約書や、契約を締結した旨の当事者本人の供述は、契約の存在についての直接証拠となる。また、刑事訴訟において、被害者・目撃者の犯行目撃証言や、被告人の自白は、犯行の事実についての直接証拠に当たる。 直接証拠が信用できるものであれば、その要証事実は認定できることになる。 間接証拠(情況証拠) 間接事実(主要事実を推認させる事実)を証明する証拠を、間接証拠(情況証拠・状況証拠)という。例えば、刑事訴訟において、被告人を犯行時刻前後に犯行現場付近で目撃したという証言や、動機の存在を示す証拠は、その証拠それ自体が直接要証事実を物語っているわけではないが、「被告人は犯行時刻前後に犯行現場付近にいた」、「被告人には動機があった」といった間接事実から、被告人がその犯行を行ったという要証事実を推認する根拠となるから、間接証拠となる。間接証拠は状況証拠とも呼ばれるが、状況証拠という語は間接事実を指す語として使われる場合もあるなど、多義的に用いられるため注意を要する。 補助証拠 補助事実(実質証拠の証明力(信用性)に関する事実)を証明する証拠を、補助証拠という。 例えば、目撃者が犯人を目撃した時に付近が明るかったことを示す証拠は、それ自体犯罪事実を立証するものではないし、これを間接的に推認させるものでもない。しかし、目撃者の「私が目撃した犯人は被告人に間違いない」という証言の信用性を高める証拠であるから、補助証拠に当たる。逆に証言の信用性を低下させる証拠も補助証拠である。 実質証拠の証明力を高める補助証拠を増強証拠といい、低下させる補助証拠を弾劾証拠(だんがいしょうこ)という。また、弾劾証拠によって弱められた実質証拠の証明力を回復させる補助証拠を回復証拠という。 このうち弾劾証拠という語は、ある証人(又は被告人)自身が別の機会にした異なる供述に限る場合もある(刑事訴訟法328条参照)。 民事訴訟においては、当事者間に争いのない事実(裁判上の自白が成立した事実)及び顕著な事実(裁判所に顕著な事実)については、そのまま判決の基礎とすることができ、証拠によって立証する必要がない(弁論主義、民事訴訟法179条)。したがって、証拠によって立証する必要があるのは、当事者間に争いのある事実(争点)に限られる。 そして、裁判所は、証拠調べの結果(証拠資料)及び弁論の全趣旨に基づいて、自由な心証により、争点についての事実認定を行う(民事訴訟法247条)。弁論の全趣旨(べんろんのぜんしゅし)とは、当事者の主張そのものの内容、その主張の態度のほか、訴訟の情勢からすればある主張をし、又はある証拠を申し出るはずなのに、これをしなかったり、時機に後れてしたりしたこと、当初は相手方の主張を争わなかったのに後で争ったこと、裁判所や相手方の問いに対して釈明を避けたことなど、口頭弁論における一切の事情をいう(大審院昭和3年10月20日判決)。このように、証拠調べの結果(証拠資料)のほか、弁論の全趣旨も証拠原因に含まれることとなる。 民事訴訟においては、証拠能力には、原則として制限がない。 民事訴訟法上規定されている証拠方法として、文書、検証物、証人、当事者本人、鑑定人があり、これらに応じて証拠調べの方法が定められている。 書証 文書を取り調べる証拠調べを書証といい、裁判官が文書を閲読することによって行われる。これによって得られる証拠資料は、文書の記載内容である。 証拠となる文書を収集するための手段として、民事訴訟法上、文書提出命令(同法220条~225条)や文書送付嘱託(同法226条)が規定されている。 書証の取調べに際しては原則として原本を用いるが、取調べの際には裁判所及び相手方に写しを提出し、原本は返還してもらうのが通常である。なお、写し作成に当たっての偽造は文書偽造罪に当たる。 検証 検証物を取り調べる証拠調べを検証といい、裁判官が検証物の状態等を直接観察することによって行われる。これによって得られる証拠資料を、「検証の結果」という。 証拠となる検証物を収集するための手段として、検証物提示命令(民事訴訟法232条、223条)や検証物送付嘱託(同法232条、226条)が規定されている。 証人尋問 証人を取り調べる証拠調べを証人尋問といい、裁判官や当事者が証人に対して口頭で質問し、口頭で答えさせるという方法によって行われる(民事訴訟法190条~206条)。これによって得られる証拠資料を、証言という。 証人となり得るのは、当事者(及びそれに代わって訴訟を追行する法定代理人)以外の、すべての者である。 当事者尋問(本人尋問) 当事者(原告・被告)本人及びそれに代わって訴訟を追行する法定代理人(代表者)を取り調べる証拠調べを当事者尋問といい、証人尋問と同様の方法で行われる(民事訴訟法207条~211条)。これによって得られる証拠資料は、当事者本人・代表者の供述である。 当事者本人は、偽証罪の対象とならない点などで証人と異なる。 鑑定 鑑定人を取り調べる証拠調べを鑑定といい、特別の学識経験を有する鑑定人に、書面又は口頭で、専門的知識や意見を述べさせることによって行われる(民事訴訟法215条1項)。これによって得られる証拠資料を、鑑定意見という。裁判所はこれに拘束はされない。 調査嘱託 裁判所は、官庁・公署等の団体に対し、必要な調査を嘱託することができる(民事訴訟法186条)。この調査嘱託の結果も証拠資料となる。 刑事訴訟法には、事実の認定は証拠による旨の明文がある(同法317条、証拠裁判主義)。したがって、犯罪事実を認定するためには、証拠能力を備えた証拠について、法定の証拠調べ手続を踏まなければならない(証拠能力があり、かつ法定の証拠調べ手続を経た証拠による証明を、厳格な証明という)。 民事訴訟と異なり、検察官と被告人(弁護人)に争いのない事実であっても、証拠によって認定しなければならない。 また、証拠能力についても、後述のような厳格な制限がある。 刑事訴訟法上、証拠方法として、証拠書類、証拠物、人証(証人、鑑定人)があり、それぞれ証拠調べの方法が定められている。 証拠書類の取調べ 証拠書類の取調べは、朗読による(刑事訴訟法305条)。ただし、裁判長は、相当と認めるときは、朗読に代えて、要旨の告知を行わせることができる(刑事訴訟規則203条の2)。現在、刑事訴訟の実務では多くが要旨の告知によって行われている。 証拠物の取調べ 証拠物の取調べは、証拠物を示すこと(展示)によって行われる(刑事訴訟法306条)。 証人尋問 証人を取り調べる証拠調べが、証人尋問である(刑事訴訟法304条)。 鑑定人尋問 鑑定人が口頭で鑑定結果を報告することを鑑定人尋問という。鑑定人尋問については、証人尋問の規定が準用される(刑事訴訟法171条)。 被告人質問 被告人は黙秘権を有するが(刑事訴訟法311条1項)、任意に供述したときは、その供述は、被告人に有利・不利を問わず証拠資料となる。 刑事訴訟法においては、証拠能力(証拠となり得る資格)が厳格に制限されている。 証拠能力が認められるためには、(1)自然的関連性があること、(2)法律的関連性があること、(3)証拠禁止に当たらないことが必要である。法律的関連性については、刑事訴訟法上、自白法則と伝聞法則という重要な原則が設けられている。また、証拠禁止の例が、違法収集証拠排除法則である。 自然的関連性 被告人の悪性格、前科、余罪の存在等は、犯罪事実との関連性がないから、これらに基づいて犯罪事実を認定することはできない。 自白法則 自白は最も重要な証拠であるが、同時に冤罪を生む危険な証拠でもあることから、その証拠能力が制限されている。 すなわち、憲法38条2項は、「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることはできない。」としており、この憲法の規定を受けて、刑事訴訟法319条1項も、「強制、拷問若しくは脅迫による自白、不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることはできない。」と規定している。 なお、証拠能力に関する原則ではないが、自白の証明力に関して、被告人は、自己に不利益な唯一の証拠が被告人の自白である場合には、有罪とされないとの補強法則がある(憲法38条第3項、刑事訴訟法319条2項、3項)。 伝聞法則 被告人の反対尋問権(憲法37条2項)の保障及び実体的真実発見のため、伝聞証拠も排斥される。 すなわち、公判期日における供述に代えて書面を証拠とし、又は公判期日外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とすることは、原則としてできない(刑事訴訟法320条1項)。 違法収集証拠排除法則 以上のように明文の規定があるもののほか、違法に収集された証拠物の証拠能力を否定するのが判例・通説である(違法収集証拠排除法則)。 民事訴訟の例による。 なお、一定の準司法的手続において適法に認定された事実は、これを立証する実質的な証拠があるときは、裁判所を拘束するものとされている(実質的証拠法則)。現在は、①電波法令に基づく総務大臣の処分についての審査請求に対する裁決に係る電波監理審議会の事実認定について当該裁決に対する取消しの訴えの場合(同法99条)と②鉱業等に係る土地利用の調整手続等に関する法律に基づく裁定委員会の裁定に対する訴訟の場合(同法52条)について認められている。 ^ 公知の事実と職務上顕著な事実(例えば、同じ裁判所で行われた決定等)があるとされる。 事実認定 - 自由心証主義 裁判官 証拠調べ 書証 - 文書、陳述書 人証 - 偽証 伝聞証拠 事例証拠 犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪 最良証拠主義 - 最良証拠の原則(英語版) 伝聞証拠禁止の原則 - 口頭証拠排除の原則(英語版) 違法収集証拠排除法則 - 毒樹の果実(米国) 秘密の暴露 補強法則 自白 Evidence (英語) - スタンフォード哲学百科事典「証拠」の項目。", "無実(むじつ)とは、中身(実)がないことを意味する言葉。そこから派生していくつかの用法がある。 人に対する「誠意がない」という否定的評価の表現。用例:「あいつは無実な男だからさ」 事象についての、「事実に反する」「事実とは異なる」「実質が伴わない」という否定的評価の表現。用例:「それは有名無実だから」 犯罪行為などを行っていないことを意味する表現。英語では「innocent」。犯罪などをめぐっては「無実」と「無罪」が区別なく用いられることがあるが、「無実」は法的概念ではなく「無罪」は法的概念である。本項目では、この犯罪をめぐる「無実」について詳説する。 犯罪を行ったかどうか、ということ点は、本来、立証の有無を離れた客観的事実として論じることができるものであるが、有罪である場合にはそれを処断することが一般に求められることから、「無罪」ないしは「無実」という用語が用いられる場面では、それを立証する技術的方法論との関係を無視することは難しい。一つの使い分けとして、「無罪」は裁判過程などの現実の方法論との関係でその限界を踏まえた上での結論として用いられ、「無実」は技術的限界がなく、真実、罪を犯していないことを意味するものとして対比されることがある。 裁判という紛争処理の様式は古来より存在したが、それらの多くは裁判手続きを通じて「真実を解明し、その真実に基づいて利害関係を調整する」という考えを持つものであった(→神権裁判)。この場合、裁判は「真実を明らかにする場」であることが期待されていたため、概念として「無実」と「無罪」は一致していた(もちろん、必ずしも「真実」を解明できたとは限らず、捜査技術の未発達もあり、現実には一致しないケースも多かったものと思われる)。近現代に至ってもこの考え方は根強く残り、たとえば刑事訴訟において、罪を糾弾する者(検察)と判断する者(裁判官)が一体化して糾弾される者(被告人)と対峙する、という様式で裁判が行われることがあった。 しかしながら、近代合理主義の「人間には、容易に真実を見出すことはできない」という立場から裁判制度が見直され、現代では多くの国の刑事訴訟では、罪を糾弾する者と糾弾される者とが同一地平に立って議論を行い、裁判官が第三者の視点から判決を下すという制度が採用されている。 また、近代刑法では、「有罪」、すなわち犯罪として処罰するという国家的判断をするためには、実行行為の有無のみではなく有責性があるかも勘案される(有罪となるのは、構成要件に該当し、違法で有責な行為に限られる)。たとえば、他人を殺害したとしても、正当防衛などに該当する場合には、有罪になることはない。 「無実」はもっぱら国語上の用語であり、「無罪」は法律用語である。しかしながら、上記のような歴史的経緯から、また「裁判は真実を明らかにする場である」という期待をこめた誤解から、現在でも「無実」と「無罪」は、しばしば混同して用いられることもある。 無罪 冤罪 事実認定 無実はさいなむ(アガサ・クリスティ)", "証拠方法(しょうこほうほう)とは、民事訴訟及び刑事訴訟において、裁判官がその五感によって取り調べることができる有形物をいう。 民事訴訟における証拠方法には、人的証拠(人証)と物的証拠(物証)がある。人証には、証人、鑑定人、当事者本人があり、物証には、文書、検証物がある。 その種類別に証拠調べの手続が定められ、証人については証人尋問、鑑定人については鑑定、当事者本人については当事者尋問、文書については書証、検証物については検証が行われる。 証拠方法として用いることのできる資格を証拠能力というが、民事訴訟においては、原則として証拠能力の制限はない。 刑事訴訟における証拠方法には、人証、証拠物、証拠書類がある。人証には、証人、鑑定人がある。 その種類別に証拠調べの手続が定められ、証人については証人尋問、鑑定人については鑑定人尋問、証拠物については展示(刑事訴訟法306条)、証拠書類については朗読(同法305条)又は要旨の告知(刑事訴訟規則203条の2)によって取り調べられる。 刑事訴訟においては、証拠能力が認められるには、関連性があること、伝聞法則・自白法則に違反しないこと、違法収集証拠でないことなど、制限がある。 証拠 証拠調べ 証人 証人喚問" ]
ABC01-02-0230
きのこの特徴をいった言葉で、「においマツタケ」とくれば「味は何」と続くでしょう?
シメジ
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[ "シメジ", "げんこつ飴", "小ねぎ", "大和いも", "ネクタリン" ]
[ "シメジ、シメジダケ(占地、湿地、占地茸、湿地茸)は食用キノコの名前。分類学的には定義が曖昧。 キシメジ科シメジ属ホンシメジ キシメジ科シロタモギタケ属のブナシメジ ヒラタケ科ヒラタケ属のヒラタケ シメジと言えば本来キシメジ科のキノコ、とりわけキシメジ科シメジ属のホンシメジを指す。場合によっては、漠然と他のキシメジ科のキノコ(シメジ属のハタケシメジやシャカシメジ(センボンシメジ)、シロタモギタケ属のブナシメジなど)も含めた総称とされることもある。ホンシメジは、生きた木の外生菌根菌であるために栽培が非常に困難であり、ほぼ天然物に限られ稀少なため高級品とされる。ほとんど流通していない。 かつて「ホンシメジ」の名で流通していたキノコは、キシメジ科シロタモギタケ属のブナシメジの栽培品である(詳細はブナシメジ#名称の混乱を参照)。 かつて「シメジ」(あるいは「ツクリシメジ」「味シメジ」「信州しめじ」など)の名で流通していたキノコはヒラタケ科ヒラタケ属のヒラタケの栽培品であり、上記のような本来的な意味でのシメジとは全く別のものである。 「匂いマツタケ、味シメジ」という有名な句があるが、ここでいうシメジとは上記1.のホンシメジのことである。ホンシメジは、生きた木の外生菌根菌であるために栽培が非常に困難であり、ほぼ天然物に限られ稀少なため高級品とされる。句に言う通り、ホンシメジはグアニル酸、グルタミン酸、アスパラギン酸などのうま味成分に富む。 なお、食味に違いが少ないことから、同じシメジ属のハタケシメジ、シャカシメジ(センボンシメジ)などと一括して「ホンシメジ」として扱うことがある。ちなみに、シャカシメジのほうがよりホンシメジに近い。 2000年代に入りタカラバイオやヤマサ醤油などいくつかのグループから栽培法が報告され、雪国まいたけやヤマサ醤油から販売されている。ただし栽培品は天然物とは風味が異なる(詳細はホンシメジ#人工栽培も参照)。 ブナシメジと比較した場合、キノコの主なうまみ成分であるグルタミン酸やグアニル酸や糖質のトレハロースの含有量に差があり、それが味の差という説が紹介されたこともある(日本テレビ 所さんの目がテン 第758回)。 上記2.のブナシメジの栽培品。普通に流通しており、食用とする。かつては「ホンシメジ」の名で流通していた。 上記3.のヒラタケの栽培品。日本全国で普通に流通しており、食用とする。ただし近年は、栽培品のヒラタケは以前のような細かい株立ち状にせず、大柄で自然の状態に近い形状に育て、標準和名どおり「ヒラタケ」として販売しているものが多くなっており、「シメジ」と言った場合にヒラタケを指すことは少ない。 先に挙げたもの以外で、「シメジ」を名称に用いているキノコとしては、ウラベニホテイシメジ、キシメジ、コムラサキシメジ、サクラシメジ、シモフリシメジ、ハエトリシメジ、ハタケシメジ、ハルシメジ、ムラサキシメジなどの多くの食用キノコがあるが、イッポンシメジ、カキシメジ、ネズミシメジなど毒キノコにも一部「シメジ」の名のつくものがある。 群生するシャカシメジ。傘の直径は10mm程度 ^ Hyoeiオリジナルコラム(なでしこ通信) 日本人はキノコが大好き, 兵庫栄養調理製菓専門学校. ^ METHOD FOR ARTIFICIALLY CULTURING LYOPHYLLUM SHIMEJI, TAKARA AGURI KK, JP2001120059. ARTIFICIAL CULTIVATION METHOD OF LYOPHYLLUM SHIMEJI, TAKARA BIO INC, JP2007143565. ^ NEW STRAIN OF LYOPHYLLUM SHIMEJI AND USE OF THE SAME, YAMASA SHOYU KK, JP2006271234. METHOD FOR ARTIFICIALLY CULTURING LYOPHYLLUM SHIMEJI AND CULTURE MEDIUM, Yamasa Shoyu KK, JP2007054044. ^ 雪国本しめじ, 雪国まいたけ. ^ ヤマサほんしめじ, ヤマサ醤油. ハタケシメジ - 「健康食品」の安全性・有効性情報(国立健康・栄養研究所)", "げんこつ飴(げんこつあめ)は、大豆を原料としたきな粉から作られた飴菓子で、飛騨の伝統的な駄菓子。 水飴を混ぜて練り上げるときに、抹茶や胡麻、ヨモギなどいろいろなものを混ぜることもある。また仕上げにも、まわりにきな粉や砂糖などをまぶすこともあり、組合せにより多くの種類のげんこつが出来あがる。作り方は、練り上げたものを直径1.5cmほどの棒状に仕上げ、包丁で長さ2cmほどに切っていく。この包丁さばきを店頭で見せている店もある。やわらかく一口サイズになっている。 飛騨では、お土産物店だけでなく、スーパーやコンビニでも売られているポピュラーな菓子である。飛騨の駄菓子では、穀煎や甘々棒とともに古来から作られてきたものである。また、甘々棒とともに、菓子作り体験として行われている施設もあり、修学旅行などの体験学習としても人気がある。 岐阜県に隣接する愛知県犬山市でもげんこつ飴が特産物になっている。こちらは飛騨で見られるものよりやわらかく作られている。", "小ねぎ(こねぎ)とは、青ネギ(葉ネギ)を若取りしたものである。細ねぎ、万能ねぎなどとも呼ばれる。 葉鞘径が5mm程度、長さ50cm程度のものが一般的で、100g単位で袋詰めされた形態で市販されていることが多い。地方、特に関東以北ではアサツキ(浅葱)との混同がしばしばみられる。 各地の農業協同組合でブランド化が図られており、下関市の安岡ねぎ、福岡県朝倉市の博多万能ねぎ、佐賀県唐津市のうまかねぎ、大分県の大分味一(あじいち)ねぎ、高知県のやっこねぎ、宮城県の仙台小ねぎ、名古屋市のなごやっこ葱など各地で栽培されたものが流通している。 一般的にビニールハウスを利用した施設栽培が行われており、周年で出荷が行われている。 博多万能ねぎ 福岡県 JA筑前あさくら 博多万能ねぎ部会 福岡県朝倉市で栽培されている小ねぎ。日本初の空輸野菜「フライト野菜」として、全国に出荷されており、もともと白ネギ文化だった関東へ青ネギ文化を広めたのはJA筑前あさくらの博多万能ねぎ部会である。その功績もあり、1986年(昭和61年)に第15回日本農業賞、第25回全国農林水産祭で天皇杯を受賞している。「万能ねぎ」は商標登録されており、万能ねぎと呼べるのはJA筑前あさくらから出荷された「博多万能ねぎ」のみである。「生でよし、煮てよし、薬味によし」と三拍子揃っていることから、「博多万能ねぎ」と命名された。 安岡ねぎ 山口県 JA下関 下関小ねぎ部会 「ふくねぎ」とも呼ばれる。東京ではふぐとの関係で、魚市場で取引される。主に、福江、横野地区で栽培されている。ハウスの中で水を調節しながら育てる。また、成長に応じて中ねぎ、大ねぎとしても横野地区にあるJA下関の青果市場に出荷している。その他、各種ねぎを栽培しているが、総称して安岡方言で「ネブカ」と呼んでいた。下関のふぐ鍋の定番ネギであり、ふぐ鍋以外にも、うどん、瓦そばなどにパラパラとふりかけても美味しい。 うまかねぎ 佐賀県 JAからつ うまかねぎ部会 大分味一ねぎ 大分県 JA中津下毛 大分味一ねぎ部会 やっこねぎ 高知県 JA土佐香美 やっこねぎ部会 仙台小ねぎ 宮城県 JAみどりの 仙台小ねぎ部会 なごやっこ葱 名古屋市 JAなごや 丸前出荷組合 水耕栽培で作られており、名古屋市立の小学校給食にも使われている。 梅沢昌太郎", "大和いも(やまといも)は、ヤマノイモ科のつる性多年草の芋で、奈良県在来のツクネイモの品種である。関東などでは、イチョウ芋を「やまと芋」と呼ぶが、奈良県産の大和いもは粘り気の強いげんこつ型黒皮ツクネイモで、別の品種である。 県内で古くから栽培されきた伝統野菜の一つとして、奈良県 により「大和野菜」に認定されている。 大和いもを含むツクネイモ群は、大陸から渡来したナガイモ(学名:Dioscorea opposita Thunb. 英名:Chinese yam)の一種で、山に自生する日本原産のヤマノイモ(学名:Dioscorea japonica Thunb. 英名:Japanese yam)とは別の種である。 古い記録では、ヤマノイモ、ナガイモ両種を混同して「薯蕷」(あるいは「暑預」)の語が使われているとみられ、ナガイモの渡来時期が分かる資料はない。つくねいもの名前が最初に登場するのは『清良記』(1654年頃)、「薯蕷(やまのいも)」の栽培の記録があるのは『百姓伝記』(1681~1684年頃)、『農業全書』(1697年)以降であり、渡来時期は17世紀以前であると大雑把に推定されるのみである。 大和にかかわって「薯蕷」「暑預」の文字が現れる資料としては、 『日本書紀』巻第十六「武烈天皇」に「暑預(うも)を掘らしむ」 『正倉院文書』に「漿料、栗子、薯預、梨子、郁子、蓮根、干柿、」(760年天平宝字4年)他 『東大寺文書』四ノ五十二に「白米六斗進上茗荷一蕗青菜苣大笋少少小笋暑預二柄山老五升小豆四升白豆五合串柿九串」(1176年安元2年) との記述がある。 また、1533年(天文2年)奈良転害郷(現奈良市手貝町)の塗師松屋久政によって起筆され、久好、久重の3代にわたって1650年(慶安3年)まで書き継がれた茶会記『松屋会記』に記された茶会の食材と料理の中には、「山ノイモ」や「スイモノ山ノイモ」の記述が見られる。 これらは今のところ、自生のヤマノイモ(自然薯)であると考えられる。 江戸時代の『本草綱目啓蒙』および『成形図説』に「大和イモ」「大和芋」の名が現れるが、この頃は「仏掌薯(つくねいも)」を指していた。1924年(大正13年)の『本場に於ける蔬菜栽培秘法』(三農学士編 柴田書房)にも「大和蕷薯〔ママ〕 一名仏掌薯(ツクネイモ)」の項があり、この頃まで「仏掌薯(つくねいも)」が「大和いも」と呼ばれていたことが分かる。 1881-82年(明治14-15年)頃の記録を記した『大和国町村誌集』には、「葛上郡組合村櫛羅 芋二万貫目(75t)」(現御所市)と記されている。これが「大和黒皮」「櫛羅いも」とも呼ばれるげんこつ型黒皮ツクネイモ、つまり現在の「大和いも」であると考えられる。 1911年(明治44年)、奈良県農事試験場(現農業研究開発センター)がツクネイモの品種試験を開始した。黒皮ツクネの特徴として「所謂大和薯にして本県の原産なり 蔓褐色にして太く葉は広き心臓形にして葉肉厚く濃緑なり 草勢強壮にして本県の風土に能く適正す 塊根は球状にして豊肥凹凸なく外皮粗厚にして小亀裂をなして亀甲形の斑点をなす 肉質純白水分少なく粘気強くして品質頗る佳良 料理用菓子用蒲鉾用等に用途広く四ヶ年平均反当収量六百三十二貫四百匁(2.37t)にして種薯に対する生産割合は約八倍に達し供試各品種中第二位にありと雖も其価格高きが故に経済上は寧ろ第一位を占む 該薯は零余子(むかご)は頗る小にして二ヶ年間栽培せざれば種薯に供養し難し」と記録されている。 1919年(大正8年)にヤマトイモの純系が育成されたとされる。 一方で、奈良の食文化研究会は『出会い 大和の味』の「大和芋」の中で、「明治の中ごろ、大和の配置売薬家が丹波から種芋を持ち帰って植えられた」との説もあることを紹介している。 1933年(昭和8年)、系統比較と選抜により、純系「やまといも」の育成が行われた。1935年(昭和10年)には南葛城郡大正村櫛羅(現御所市)に薯蕷試験地が開設されて品種改良試験が行われた。これにより県内の生産熱が高まり80haに作付けされ、大阪市場をはじめ各市場で「やまといも」の名声が高まった。 1938年(昭和13年)には、宇智村農会(現五條市)の窪田敏文によって『大和薯の栽培秘法』が著されている。 それによると、「第二節 大和薯の性状」として、「花は小形で白く雌雄に別れ根は扁平丸形等であります 蔓は長く伸び濃緑色であります。」とあり、扁平丸形のイモであったことが分かる。また、「第六節 栽培」に「種用大和薯は(中略)一個四五十匁位上の根塊を」とあり、種イモ用に使うイモが150g~180gであったことが分かる。 奈良県で栽培される、げんこつ型黒皮ツクネイモの「大和いも」が、2005年(平成17年)10月5日、「大和の伝統野菜」として「大和野菜」に認定された。 芋が球形をしたものをツクネイモ群と称し、表皮が黒いものは大和いも、白いものは伊勢いもと呼ばれるが、いずれも中身は白色である。 凹凸が少なく形が整い、品質に優れている。 肉質が緻密でナガイモの中では最も粘り気が強く、食感が濃厚である。摺り下ろして放置しても変色しない。 土質を選び、乾燥をきらうので、栽培が難しく、産地は限られる。現在は奈良県御所市の葛城山麓を中心に栽培され、産地の地名を取って「櫛羅(くじら)いも」とも呼ばれる。 その他に天理市などで栽培されている。 優れた品質から、高級料理の食材として珍重され、薯蕷饅頭やかるかんなど和菓子の原料に用いられる。 摺りおろしてとろろごはんにしたり、汁ものに落として餅のような具(落とし汁)にしたりする。揚げ物にしても美味しい。 摺りおろしただけでは粘りが強い場合、溶き卵や吸い物出汁で伸ばしたりするが、本場の奈良県では、卵と味噌汁を加えて摺りのばし、「とろろ汁」にすることが多い。 主産地御所市の葛城高原ロッジでは、大和いもを摺りおろして鍋の出汁で伸ばし、鍋の具材に絡めて食べる「山芋鍋」を味わえる。 皮をむいて薄切りにし茹でてから田楽味噌をつけて軽く焼くと、他の芋とは違った味わいのある味噌田楽になる。 大和いもは親芋の下に子芋ができる姿から、円満な家庭と重ねて「めでたいいも」とか「孝行いも」とも呼び、おせち料理の煮物にも使われる。 「山薬」の別名があり、胃腸の働きを整える薬効も備えている。 ^ 竹村達男 「ながいものルーツ」『環境研ミニ百科』第59号、環境科学技術研究所、2000年8月17日。 ^ 宮崎安貞ほか 『農業全書』巻五1815年(文化12年)。 ^ ヤマノイモの歴史野菜ナビ。 ^ 千宗室編纂、永島福太郎解題 『茶道古典全集』第9巻、淡交新社、1957年(昭和32年)11月20日。 ^ 小野蘭山 『本草綱目啓蒙』巻之二十三、1803年。 ^ 曽槃、白尾国柱ほか編 『成形図説』 巻二十二、文化年間(1804年~1818年)、29-30頁。 ^ 三農学士編 『本場に於ける蔬菜栽培秘法』 柴田書房、1924年、76頁。 ^ 川井景一 選編 『大和国町村誌集』巻七、1891年。 ^ 奈良県農業試験場編集『大和の農業技術発達史』 1995年7月、116頁。 ^ 奈良県農業試験場編 『奈良県農業試験場百年記念誌 資料編』 農業試験場百周年記念事業実行委員会、1995年7月、4頁。 ^ 奈良の食文化研究会 『出会い 大和の味』「大和芋」 奈良新聞社、2007年7月1日、8頁、ISBN 978-4-88856-065-8。 ^ 奈良県農業試験場編集『大和の農業技術発達史』 1995年7月、116頁。 ^ 窪田敏文 『大和薯の栽培秘法』 宇智村農会、1938年。 ^ 奈良県学校給食栄養研究会 「郷土大和の味」 1984年3月、55頁。 ^ 山芋鍋、葛城高原ロッジ、2015年4月9日閲覧。 ^ 大和いも、地方特産食材図鑑。 大和野菜 ナガイモ 大和いも 奈良県公式ホームページ内 「大和いも」栽培マニュアル 奈良県公式ホームページ内 やまのいも近畿農政局", "ネクタリン(Nectarine、学名:Amygdalus persica var. nectarina)は、バラ科の果樹。モモの変種。和名はズバイモモ。別名でツバキモモ(椿桃)、ヒカリモモ(光桃)、アブラモモ(油桃)などとも呼ばれる。 落葉高木。果皮は紅赤色に着色し、モモのような毛がない。果皮の地色は品種により白色、黄色ともあるが、現在、日本で栽培されている品種は黄色の品種が多い。果実はモモよりも小さく、果肉は赤紅色~黄色や白色。肉質は締まっており、強い甘みと適度な酸味をもつ。果実の形態に違いはあるがモモと同種である。 海外での生産地はオーストラリアなどがあり、ホワイトネクタリンと呼ばれる品種を始めとするネクタリンを栽培している。日本での生産地は長野県が全体の約70%を占める。他に山梨県、福島県などのモモの産地で栽培している。" ]
ABC01-02-0231
インダス文明の遺跡「ハラッパー」「モヘンジョ・ダロ」といえば、ともにどこの国にあるでしょう?
パキスタン
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[ "パキスタン", "チュニジア", "トルコ", "エジプト", "サウジアラビア" ]
[ "パキスタン・イスラム共和国 اسلامی جمہوریہ پاکِستان 国の標語:ايمان اتحاد تنظيم ラテン文字転写: īmān, ittihād, tanazeem (ウルドゥー語: 信頼、統一、規律) 国歌: قومی ترانہ(ウルドゥー語) 神聖なる大地に祝福あれ パキスタン・イスラム共和国(パキスタン・イスラムきょうわこく、ウルドゥー語: اسلامی جمہوریہ پاکِستان‎)、通称パキスタンは、南アジアの国家で、イギリス連邦加盟国である。首都はイスラマバード。最大の都市はカラチ。面積は80万km2で日本 (38万km2) の約2倍程。東はインド、北東は中華人民共和国、北西はアフガニスタン、西はイランと国境を接し、南はインド洋に面する。国土の中心部を流れるインダス川の流域に国民の75%以上が住み、人口の増加が著しい国の一つである。 正式名称は、اسلامی جمہوریہ پاکِستان(ウルドゥー語;ラテン文字転写(一例)は、Islāmī Jumhūrī-ye Pākistān。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)。 公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。 日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。かつてはパキスタン回教共和国という表記も見られた。 国名「パキスタン」は、ペルシア語起源の言葉で「清浄な国」を意味するパーキスターン(پاکستان Pākistān、「パーク」がペルシア語で「清浄な」を意味する。〜イスターンについてはスターン」を参照)に由来するとともに、パキスタンを構成する五大地域であるパンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANを表すともされる。パキスタンの名は、英領インドの独立運動の中でムハンマド・アリー・ジンナーらが提唱したムスリム(イスラム教徒)多数地域の分離独立要求において、将来樹立されるべき国家の名として採用され、1947年の独立とともに正式な国名となった。 1947年-1956年:パキスタン 1956年-1958年:パキスタン・イスラム共和国 1962年-1973年:パキスタン共和国 1973年-現在:パキスタン・イスラム共和国 19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであった。しかし、独立運動の中でイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなった。しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州(英語版)としてパキスタンに組み込まれ、1955年に東パキスタンとなったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなった。 1947年8月14日 イギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂くドミニオン(英連邦王国パキスタン)となる。1947年 第一次印パ戦争(1947年10月21日 - 1948年12月31日)。1951年10月16日、en:Liaquat Ali Khan首相が暗殺される。1956年、共和制移行。1958年の軍事クーデタで(en:1958 Pakistani coup d'état)、アイユーブ・ハーン(Ayub Khan)の独裁政権が誕生。第二次印パ戦争(1965年8月 - 9月23日)。1970年11月、東パキスタンがボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立した。 1972年、イギリス連邦脱退。パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任した。1975年、バングラデシュ大統領のムジブル・ラフマンが暗殺される。 1977年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりズルフィカール・アリー・ブットーが職を追われ、後に処刑された。 1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命(英語版)が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起し、アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。 1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死した。同年10月31日には国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションが活動を開始し、12月2日にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘であるベーナズィール・ブットーが、イスラム諸国初の女性首相に選出された。1989年にイギリス連邦に再加盟を果たしたが、1990年8月6日にクーデターでブットー首相が解任された。1993年、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、1996年11月5日に汚職や不正蓄財を理由に職を追われた。 1998年5月11日と13日、インドのヴァージペーイー政権がコードネーム『Shakti』を実施した。これに対抗して5月28日と5月30日にナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣がパキスタンによる初の核実験を実施・成功させた。これに対し、日米がインド・パキスタン両国へ経済制裁を課した。 1999年5月、インドとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。 1999年10月12日の無血クーデター(英語版)でナワーズ・シャリーフ首相から実権を奪取したパルヴェーズ・ムシャラフは、2001年の民政移管でそのまま大統領に横滑りした。この際イギリス連邦の資格が停止されたが、2004年には復帰した。3月以来、連邦直轄部族地域に浸透したターリバーン勢力との間で紛争が始まり、現在も続いている(ワジリスタン紛争)。2005年10月8日、パキスタン地震で大きな被害が発生したが、中央政府の弱さから救援体制がたてられず二次被害の拡大につながったとされる。 2007年7月、イスラム神学生によるパキスタン・モスク立てこもり事件が発生した。同年10月にはパキスタン大統領選挙(英語版)が行われたが、11月には軍参謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡ってパキスタン最高裁判所(英語版)のイフティカル・ムハンマド・チョードリー(英語版)と対立、軍を動員して全土に非常事態宣言と戒厳令を発令するという事実上のクーデターをおこなった(en:Pakistani state of emergency, 2007)。ムシャラフは、11月28日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日に解除するとテレビを通じて発表した。一方、米国の支援を受けて11月に元首相ベーナズィール・ブットーが帰国したが、12月27日に演説終了後会場にて暗殺された(ベーナズィール・ブットー暗殺事件(英語版))。2007年、またもイギリス連邦の参加資格を停止される。 2008年1月8日に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約した。2月18日、パキスタン下院・4州議会議員選挙が行われた(2008年のパキスタン下院総選挙(英語版))。登録有権者は8091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保される。342から留保の70を除いた272議席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられる。与党パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)と野党パキスタン人民党(PPP)、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派(PML-N)の3党が中心となって議席が争われた。因みに、上院は100議席で、州議会議員等による間接選挙で選出される。総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はムスリム連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟である。他にムッタヒダ国民運動(MQM)、アワーミー国民党(ANP)などがある。3月24日、パキスタン国民議会は、議員投票でユースフ・ラザー・ギーラーニー(就任時55歳)を首相に選出した。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。5月、イギリス連邦復帰。8月18日、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明した。 2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にてパキスタン大統領選挙(英語版)が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出された。 2010年、パキスタン水害(en:2010 Pakistan floods)。 2011年1月2日、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院(定数342)で過半数を割り込むことになった。MQM(下院25議席)は声明で「上下院とも野党席に座る決定をした」と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げている。 5月2日、アボッターバードでウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認された。 11月26日、国際治安支援部隊(ISAF、アフガニスタン駐留)の北大西洋条約機構 (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻撃し、兵士28人が死亡した。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会はNATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地から15日以内に立ち退くよう米国に求めた。 2012年2月13日、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、パキスタン最高裁判所(英語版)がギーラーニー首相を法廷侮辱罪で起訴し、6月19日にギーラーニー首相が退任し、後任の首相にラージャ・パルヴェーズ・アシュラフ(英語版)が就任した。 2013年5月13日のパキスタン下院総選挙(英語版)でパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派が勝利し、6月5日にナワーズ・シャリーフが首相に就任。 連邦共和制。4つの州と連邦首都イスラマバード及び連邦直轄地から成る連邦国家。インドとの対立関係のため伝統的に軍部の力が強く、対照的に政党の力は弱い。独立以来クーデターが繰り返され、政局は常に不安定である。地方においては部族制社会の伝統が根強く、特に連邦直轄部族地域にその傾向が著しい。また、南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。パキスタン憲法は、連邦直轄部族地域では大統領が指示しない限り、パキスタンの法律が適用されない旨規定しており、部族地域は強い自治権を有している。法律に代わるものとしてパシュトゥン・ワリというパシュトゥン民族の慣習法が適用されている。 独立以来、アメリカ合衆国と中華人民共和国との協力・同盟関係を維持しながら、カシミール問題で激しく争うインドに対抗するのがパキスタンの外交政策の全体的傾向とされる。東南アジア条約機構の存続期間等から読みとれる。 日本との関係は1958年の外交関係樹立以来おおむね良好であったが、1998年のパキスタンの核実験を機に関係は悪化した。当時の橋本内閣は遺憾の意を表明したうえ、対パキスタン無償資金協力・新規円借款を停止し、その他の援助も見合わせるなどの制裁を行った。 2002年にはムシャラフ大統領が来日した。2005年4月には小泉純一郎首相が日本の首相として5年ぶりにパキスタンを訪問し、核実験以来停止されていた有償資金援助が開始された。 また、貿易収支は日本側の大幅な黒字であり、日本からの投資はインドと比較するとかなり少ない。これは不安定な政治とインフレ経済が嫌われたものである。 独立の経緯以来、インドとの間では緊張関係が継続している。北東部のカシミール地方の所属を巡って1948年に勃発した第一次印パ戦争以来3度の全面戦争(印パ戦争)を経験し、特に1971年の第三次印パ戦争における大敗によって独立運動に呼応したインド軍の侵攻を受けた東パキスタンをバングラデシュとして失うことになった。その後もインドとの間では常に緊張関係が続き、軍事境界線で南北に分断されたカシミールでは両国軍の間で死者を伴う散発的な衝突が日常化していた。 1998年にはインドに対抗してカーン博士の指導のもと地下核実験やミサイル発射実験などを実施した。インドと共に核保有国の一つとなる。 2001年12月、イスラム過激派によるインド国会議事堂襲撃テロが起きると、インド政府はパキスタン軍情報機関の関与を疑って対立が激化。当時のムシャラフ大統領は「インドへの核攻撃も検討した」と回想している。 一方でムシャラフ前政権は南アジア地域協力連合を通じた緊張緩和に努めており、2004年から和平協議がもたれている等、その成果は徐々に現れてきていた。2008年11月のインド西部ムンバイでの同時爆破テロによって和平協議は一時中断したが、2010年4月、両国首脳がブータンで会談し、外相会談を開催することで合意。公式の対話を再開、維持することを決めた。6月には外務次官級協議と内相会談、7月15日にはインドのクリシュナ外相とパキスタンのクレシ外相会談が、パキスタンのイスラマバードで行われた。そして2011年2月に対話再開で合意している。 パキスタンは独立以来、アメリカ合衆国の軍事支援を受け入れている。アメリカにとっては非同盟主義のインドと友好関係が深いソビエト連邦への対抗上、またイスラム革命を起こしてアメリカと激しく対立するイランの封じ込め策として、パキスタンは重要な支援対象国家である。パキスタン側もこの点は承知しており、クーデターなどで政権交代が起こっても親米路線は堅持されている。しかしながら、近年のテロとの闘いにおいて、米国はパキスタンの一部(特に、部族地域)がタリバンなどの武装勢力の聖域になっていること、パキスタンがそうした武装勢力に対し十分な戦闘や対策を取っておらず、むしろパキスタンの一部(特に、軍統合情報局ISI)はいまだにタリバンなどを非公式に支援していると見られていることに不満を持った。一方でパキスタンは、米国がパキスタン国内での無人機攻撃など主権侵害を継続していることに不満を持ち、両国関係は冷却化した。現在、両国の不信感は根深いものがある。 1990年、東西冷戦の終結が唱えられる中、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ政権はパキスタンによる核開発疑惑を理由に軍事援助を停止したが、1996年にはビル・クリントン政権によって再開されている。 2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を受け、米国はパキスタンに対しアル・カーイダをかくまうターリバーンとの関係を断ち米国に協力することを迫った。パキスタンにとってターリバーンはインドとの対抗上重要であったが、ターリバーンを支援し続けることによる国際的孤立を恐れ、また、米国に協力することに伴う経済支援等の見返りを期待し、ムシャラフ大統領は米国への協力を決断した。これに対し、パキスタン国内では反米デモが起こるなどムシャラフ政権は苦しい立場に立たされた。 アフガニスタンに関しては、インドとの対抗上アフガニスタンに親パキスタン政権が存在することが望ましく、1979年に始まったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後、パキスタンは反政府武装勢力ムジャーヒディーンを支援した。ソ連軍撤退後の内戦では、パキスタン軍統合情報局は当初ヘクマティヤール派を支援。それがうまくいかなくなると厳格なイスラム原理主義のターリバーンを育て政権樹立まで強力に支援したといわれている。 しかし、ターリバーンがかくまうアルカーイダがアメリカ同時多発テロ事件を起こした事から始まった2001年のターリバーン政権への攻撃ではムシャラフ政権がアメリカと有志連合諸国支持を表明し、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権からF-16戦闘機供与を含む巨額の軍事・経済援助を受けた。これに対し、イスラム原理主義者をはじめイスラム教徒に対するキリスト教国の攻撃に反感を持つ多くの国民から不満が増大し、パキスタン国内では多くの抗議行動が起こった。また、アフガニスタンを追われたターリバーン勢力は連邦直轄部族地域に浸透し、パキスタン軍やアメリカ軍との戦闘が継続されている。 2010年8月31日、パキスタン軍機がアフガニスタン国境付近(パキスタン北部カイバル・パクトゥンクワ州ペシャーワルなど)の部族地域を空爆し、イスラム過激派が少なくとも30人死亡。過激派の隠れ家や訓練施設、自爆テロに使用する予定の車両8台も破壊したと同国治安当局者が語った。 2011年5月1日、首都イスラマバード郊外の住居でアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが米海軍特殊部隊SEALsに急襲された。ビンラーディンは頭部を撃たれ死亡、遺体は米軍により確保されたとオバマ米大統領より発表された。 また、中華人民共和国との関係も深く、上海協力機構の加盟国でもある。中国とはインドへの対抗で利害が一致して印パ戦争で支援国だった他、パキスタンはミサイル技術供与などの軍事援助などを受け、パキスタン初の人工衛星バドルの打ち上げや原子力発電所の建設も支援された。このような両国の同盟関係を「全天候型戦略的パートナーシップ」関係(中国語:全天候战略合作伙伴关系)と呼ばれている。2011年5月にウサーマ・ビン・ラーディンがパキスタン国内で殺害されて以降米国との関係は悪化しており、中国との関係は近年さらに緊密なものとなっている。パキスタンの中国への急接近は南アジアでの中国の影響力拡大を懸念する米国への牽制との見方もある。2015年の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では派遣されたパキスタン軍が天安門広場を行進した。 また、ギルギット・バルティスタン州と中国の新疆ウイグル自治区との間はカラコルム・ハイウェイで結ばれており、トラック輸送による国境貿易が行われている。中国とパキスタンの間では自由貿易協定が締結されており、パキスタンは安い中国製品を多く輸入し、多数の中国企業が進出している。逆にパキスタンの最大の輸出相手は中国である。両国は更に、カラコルム・ハイウェイからアラビア海に面するグワーダル港までの約3000kmで道路・鉄道、発電所などを整備する「中パ経済回廊」(CPEC)計画を進めている。事業費4600億ドルは大半を中国が融資する。CPECは過激派の活動地域も含むため、2016年にパキスタンの有力将軍である陸軍参謀長ラヒール・シャリフ(英語版)が指揮するCPECプロジェクト警備専門の特別治安部隊(SSD)を創設した。CPECは中国が進める「一帯一路」と、対インド包囲網「真珠の首飾り戦略」の一部でもある。 中国とのビジネスが拡大していることから、パキスタン国内では中国語ブームが起きている。イスラマバード市内の私立高校では中国語を必修科目に導入し、パキスタン企業の間でも中国語研修を行う企業が増えている。パキスタン政府も中国との関係強化と中国企業にパキスタン人を雇用させるというの観点からこうした動きを後押しし、アースィフ・アリー・ザルダーリー大統領も出身地であるシンド州にある全ての小中学校で、2011年から2年以内に英語、ウルドゥー語、アラビア語、シンド語に次いで中国語も必修科目に義務づけると発表した。しかし、教育現場の混乱や生徒への負担、中国語を教える教師の数が不足していることなどを理由にシンド州教育省は中国語を必修では無く、選択科目として緩やかに導入していくことで計画を修正している。 ソ連のアフガン侵攻で、パキスタンはアメリカとともに反ソ武装抵抗勢力を支援した(サイクロン作戦)。ソビエト連邦はアフガン撤退の直後に崩壊。ロシア連邦となってからは同じ上海協力機構の加盟国にもなったことから関係が改善している。2016年にはパキスタン領内でロシア連邦軍と初の合同軍事演習を実施した。 陸軍、海軍、空軍のほか、沿岸警備隊、さらに国境警備、治安維持用の準軍事組織を有する。印パ戦争・カシミール紛争が繰り返されたことからインドと軍事的な対立関係にある。 パキスタンは核拡散防止条約(NPT)に加盟しておらず、1998年の核実験以後は核兵器を保有している。 4つの州と、2つの連邦直轄地区に分かれる。 州 バローチスターン州 カイバル・パクトゥンクワ州 パンジャーブ州 シンド州 連邦直轄地区 イスラマバード首都圏 連邦直轄部族地域 (FATA) その他、カシミール地方におけるパキスタンの実効支配領域は、2つの行政区に分かれる。 アザド・カシミール ギルギット・バルティスタン州 人口100万人以上の都市が7都市ある。人口順では、カラチ(933万9000人、1998年)、ラホール(514万3000人)、ファイサラバード(200万9000人)、ラワルピンディ(141万人)、ムルターン(119万7000人)など。首都イスラマバード(52万9000人)は人口順では10番目に位置する。 イスラマバード(イスラマバード首都圏、首都) カラチ(シンド州の州都) ラーホール(パンジャーブ州の州都) ファイサラーバード(パンジャーブ州) ペシャーワル(カイバル・パクトゥンクワ州の州都) ラーワルピンディー(イスラマバード首都圏) クエッタ(バローチスターン州の州都) ムルターン(パンジャーブ州ムルターン県の県都) 国土の北部には世界の屋根カラコルム山脈とヒンズークシ山脈が連なり、K2(標高8,611m)とナンガ・パルバット(標高8,126m)がそびえる。国の中央を南北に走るのはスライマン山脈である。アフガニスタン国境はカイバル峠、インドとの国境には大インド砂漠(タール砂漠)が広がり、その南にはカッチ大湿地が分布する。北部高地からアラビア海(インド洋)に流れ出すインダス川は流域に主要な平野(北のパンジャブ、南のシンド)を形成する。 パキスタンには四季があり、12月から2月が冷涼乾燥な冬、3月から5月が高温乾燥の春、6月から9月が高温多雨・モンスーンの夏、10月から11月が移行期の秋である。この時期は地域によって若干異なり、洪水と旱魃がしばしば生じる。 気候は、中南部が砂漠気候 (BW)、北部がステップ気候 (BS)、北部山岳地帯が温帯夏雨気候 (Cw) となっている。国花はジャスミンである。 IMFの統計によると、2013年のパキスタンのGDPは2,387億ドル。一人当たりのGDPは1,307ドルであり、世界平均のおよそ10%の水準である 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は9710万人と推定されており、国民の半数を超えている。 パキスタン証券取引所のナディーム・ナクビ社長は、パキスタンはGDPの需要面が十分補足できておらず、「実際の1人当たりGDPは2200ドルはある」「人口2億人弱のうち4000万~4500万人を中間層が占める」と語っている。 主要産業は、農業や綿工業。特にパンジャーブ地方で小麦の生産が盛んで世界生産量第4位である。輸出品としては米がトップで輸出の11.2%を占め、ついで綿布、ニット、ベッドウェア、綿糸、既製服といった繊維製品が続く。また中国が一帯一路政策の要として、パキスタン国内を鉄道・道路・港湾などで結ぶ中パ経済回廊(CPEC)建設を進めているため、セメントや鉄鋼の生産が増えている。 2011年に、パキスタン政府はインドとの交易関係を正常化し、インドへの貿易上の「最恵国待遇」付与を目指す方針を明らかにした。インドは1996年にパキスタンに同待遇を付与している。またインドが含まれるBRICsの次に経済の急成長が期待できるNEXT11のうちの一つでもある。IMFによる3年間の財政支援は2016年9月に終了した。国民の多くは貧しく、テロの頻発など治安も良くないが、人口増加率が高いため労働力や消費者となる若年層が多い。このため今後経済的に期待できる国といえ、コカ・コーラや味の素など飲食品・消費財メーカーが進出している。 通貨はパキスタン・ルピー(1ルピー=100パイサ、硬貨の種類は5パイサ、10パイサ、25パイサ、50パイサ、1ルピー、5ルピーの6種類、紙幣は、2ルピー、5ルピー、10ルピー、20ルピー、50ルピー、100ルピー、500ルピー、1000ルピー、5000ルピーの8種類)。 日本の自動車メーカーが複数進出して製造販売を行っている。スズキは、1975年に国営会社を通じて自動車の生産を開始した後、1982年、現地合弁会社パックスズキ社を立ち上げてパキスタンへの本格参入。スズキ・フロンテやキャリーなどの現地モデルの生産を始めた。2007年10月には、二輪車の現地代理店と合併する形で二輪車の生産販売も始めた。2009年には国内の自動車累計生産台数100万台を達成している。トヨタ自動車は、現地合弁会社インダス・モーター社を1989年に設立。トヨタ・カローラやトヨタ・ハイラックスの生産を始め、2012年に生産累計50万台を達成した。本田技研は、1992年より現地合弁会社をアトラスホンダ設立し二輪車の生産販売を開始。1994年には、四輪車生産を目的とした合弁会社ホンダアトラスカーズを立ち上げて、ホンダ・シビックなどの生産を行っている。2016年累計生産台数30万台を達成。 日産自動車は、カラチに現地工場を建設。1997年、現地法人ガンダーラ日産の手によりノックダウン生産によりサニーの生産を始めた。2010年代に一旦閉鎖されたが、2020年初頭を目途にピックアップトラックの生産を開始することが発表している。 2005年に1億6千万人を超え、現在は約1億8800万人。2003年以降の人口増加が顕著なのは、戦闘が続く隣国アフガニスタン他からの移民が急増したためと見られる。その数は累計で約600万人と言われる。また、出生率も高く、国連の推計では2050年には約3億4000万人にまで増加し、インドネシア(2050年に約2億9000万人)とブラジル (2億3000万人)を抜き、中国・インド・米国に次ぐ世界第4位の人口大国になると予想されている。 2004年:1億5919万人(前年比1016万増) 2003年:1億4903万人(前年比307万増) 2002年:1億4596万人(前々年比1146万増) 2000年:1億3450万人 1991年:1億1552万人 182人/平方キロメートル(2001年)、145人/平方キロメートル(1991年) パンジャーブ人56%(60%とも)、パシュトゥーン人16%(13%とも)、シンド人(英語版)13%、バローチ人(英語版)4%、カラシュ人など イスラム教97%(国教)、ヒンドゥー教1.5%、キリスト教1.3%、ゾロアスター教0.2%など、ほかにアニミストも存在している。 ゾロアスター教の信者は10万人くらいで、地方によってはカースト制度なども残っている。 結婚時に妻は結婚前の姓をそのまま用いること(夫婦別姓)も、夫の姓に変えること(夫婦同姓)も可能。イスラム法では夫の姓に変えることを求めておらず、イスラム系住民は婚前の姓をそのまま用いることが多い。 ウルドゥー語(国語)、英語(公用語)に加え、パンジャーブ語、シンド語、カシミール語、コワール語といったインド語群のほか、イラン語群のパシュトー語およびバローチー語、ドラヴィダ語族のブラーフーイー語、孤立した言語ブルシャスキー語などがある。 現行の1973年憲法251条はパキスタンの国語をウルドゥー語としており、1988年までに英語に代えてウルドゥー語を公用語化することになっていたが、2004年現在も実現にいたっていない。同時にウルドゥー語が公用語化されるまでは英語を公用語とする旨規定している。憲法を始めとする全ての法令や、公文書は英語で書かれている。政府の公式ウェブサイトは英語でだけ書かれている。全ての高等教育機関が英語を教授言語としている。ただ、ほとんどの初等中等教育はウルドゥー語で行われているため、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くない。母語を異にするもの同士が会話する時は、ウルドゥー語を用いることが多い。ウルドゥー語を母語にするパキスタン人は全人口の一割以下である。ウルドゥー語は北部諸語とはやや近いもののシンド語とは離れており、さらに南部でウルドゥー語を母語とするムハージル人(英語版)(パキスタン独立時にインドから逃れてきた難民の子孫)とシンド人との間に対立があるため、ウルドゥー語の公用語化には特に南部で反対が強い。 著名な遺跡として世界遺産になっているモヘンジョ・ダロ遺跡とクシャーナ朝時代に繁栄したタキシラの都市遺跡がある。ほかにインダス文明の遺跡として標式遺跡となったハラッパー遺跡がある。 古典音楽は北インドと同じヒンドゥースターニー音楽。イスラム神秘主義の宗教歌謡カッワーリーの大歌手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは、パンジャーブ地方で生まれている。 詳細は「パキスタン料理」および「パンジャーブ料理」を参照 パキスタン国内にはアジア最初のビール醸造所があり、非ムスリム向けにマリービールが製造されている。フンザ地方においては、ワインがよく飲まれいる。 パキスタン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。 パキスタンは守旧的イスラームに基づく国家であり、憲法で公式にイスラームの理念にのっとった政治を行うことを宣言し、イスラム法の強い影響を受けた法を施行するという点でイスラム国家としての色彩が強い [要出典]。 パキスタンではイスラム教徒・非イスラム教徒を問わず、イスラームやムハンマド、コーランに対する批判は禁止されており、言論の自由はない。違反した場合投獄や死刑に処される。またイスラム教徒が他の宗教に改宗することも国法で禁止されており、違反した場合死刑である。2008年6月にはコーランを焼却し、ムハンマドを批判したとしてイスラム教徒の男性に死刑が宣告された。 パキスタンは死刑存置国であり、2014年6月、スイス・ジュネーブで開催された国連人権理事会の会合において提出された「死刑制度のある国に死刑囚の権利保護を求める決議案」に日本、中国、インド、サウジアラビアなどとともに反対するなど死刑維持の姿勢を取っているが、一方で2009年以降、国法上の死刑の執行自体は凍結していた。しかし2014年12月、北西部のペシャワルで軍が運営する学校をイスラム過激派反政府武装勢力「パキスタン・タリバーン運動(TTP)」が襲撃し、教師・児童・生徒ら140名以上が殺害されるテロ事件が起こったことを受け、ナワーズ・シャリーフ首相は死刑執行凍結措置の解除を承認・指示し、過激派に対し厳しく対処する姿勢を打ち出した [要出典]。 また、法律とは別に保守的な慣習が根強く存在しており、主に婚前交渉を行った女性を家族の名誉を汚したとして処刑する名誉の殺人は珍しくないとされる。2011年度は、900人を超える女性が「家族に恥をもたらした」などの理由で殺されている。「パキスタン人権委員会」の調査によると、2015年で987件の名誉の殺人が発生し、1000人以上が殺害されたという。2016年に名誉の殺人を厳罰化する新法が制定された後も、2016年10月から2017年6月までの間に少なくとも280件の名誉殺人が発生するなど、大勢の若い女性が、家族に恥をもたらしたという理由で親族に殺害されている。男性も対象となることはあるが、犠牲者は女性が圧倒的に多く、中には婚前交渉など無くとも、単に「男性を見た」という理由だけで発生する殺人もある。 2005年10月8日、パキスタン北東部カシミール地方・インド国境付近を震源とするマグニチュード7.8の大地震(パキスタン地震)が発生し、死者9万人以上の大災害となった。カシミール地方を中心に被害が相次いだほか、首都イスラマバードでも高層アパートが崩壊した。 2010年7月末、カイバル・パクトゥンクワ州で大規模な洪水が起こり、パンジャブ州、シンド州にも広がった。被災者1400万人、死者1200人以上の大災害になっており、少なくとも200万人が家庭を失っている。国連人道問題調整事務所(OCHA)は、被災地の一部では下痢などの疾病が広がっているとしている。欧米メディアが2010年8月16日、大規模な洪水により飲料水が汚染され、伝染病の流行の可能性が高まり、約350万人の子どもが感染の危機にさらされていると国連人道問題調整事務所(OCHA) の報道官の話として報道した。 北澤俊美防衛大臣は8月20日夕方、国際緊急援助隊派遣法に基づく派遣命令を発出した。8月23日以降陸上自衛隊第4師団を主力とした部隊が派遣され、復興活動を行った。10月10日(現地時間)をもって活動終結。 7月の洪水で、国土(79.6万平方キロ)の約2割が被害を受け、死者約2千人、家屋174万軒損壊(国家災害管理庁)た。12月時点でも一部地域が冠水している。シンド州の約4200平方キロ(福井県に相当)が冠水19万人が国内避難民と成っている。 ^ イムラン・カーン氏(65)=パキスタンの新首相に指名された・毎日新聞 ^ 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Central Intelligence Agency.  (英語) パキスタン - DMOZ (英語) パキスタンのウィキメディア地図 (英語) パキスタン - ウィキマピア 座標: 北緯30度40分 東経73度10分 / 北緯30.667度 東経73.167度 / 30.667; 73.167 (パキスタン)", "チュニジア共和国 الجمهورية التونسية 国の標語:نظام، حرية، عدالة (アラビア語: 自由、秩序、公正) 国歌:祖国の防衛者 チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、アラビア語: الجمهورية التونسية‎、ベルベル語: ⵜⴰⴳⴷⵓⴷⴰ ⵏ ⵜⵓⵏⴻⵙ、フランス語: République tunisienne)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。 正式名称は、الجمهورية التونسية(ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya at-Tūnisīya、片仮名転写 : アル・ヂュムフーリーヤ・アッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、تونس(Tūnis)。 日本語の表記は、チュニジア共和国。通称、チュニジア。テュニジアと表記されることもある。漢字表記は、突尼斯。 アラビア語名のتونس(Tūnis、トゥーニス) は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス (Thunes) で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus 地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。 古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州(前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa、314年 - 432年)になるが、ゲルマン系ヴァンダル人が439年に侵入。カルタゴにヴァンダル王国(439年 - 534年)が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた(Praetorian prefecture of Africa、534年 - 590年)。7世紀にはイスラム教のもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王カーヒナ(英語版)と東ローマ帝国の連合軍を破り(カルタゴの戦い (698年)(英語版))、アフリカをイスラム世界に編入した。 ウマイヤ朝イフリキーヤ(665年 - 744年)、Fihridイフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝のカリフに臣従する形でカイラワーンのアグラブ朝(800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスにハフス朝(1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった 1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方(英語版)(1574年 - 1705年)として併合された。オスマン帝国時代の初期には「パシャ」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ列強侵略によるオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ」はイスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになり、1705年にはフサイン朝チュニス君侯国(1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。 フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ(英語版)時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。ハイルディーン・パシャ(英語版)などの活躍により1861年には憲法(en)が制定され、サドク・ベイ(英語版)はイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。 1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約(英語版)、1883年のマルサ協定(fr)でフランスの保護領フランス領チュニジア(1881年 - 1956年)となった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。 1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設され、1920年には「憲政党(英語版)」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党(英語版)」はチュニジアの完全独立を要求した。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は1956年にベイのムハンマド8世アル・アミーン(英語版)を国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、チュニジア王国(1956年 - 1957年)が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更した。しかし長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。 1991年の湾岸危機ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。 現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。一方で若者の失業率は30%前後と未だに高い。 2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる(「ジャスミン革命」は、2011年1月現在、正式な名称ではない。詳細は該当ページを参照)。 2011年10月23日、中東・北アフリカ地域で広がっている政変(「アラブの春」とも称されている。)後の最初の選挙(定数217)が行われた。穏健派の「ナフダ」が第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、エタカトルが20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。 11月19日制憲議会選挙で第1党になった「アンナハダ」と二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリ(アンナハダ)を次期首相に選出することで合意したと第2党の共和国会議当局者が明らかにした。また、次期大統領にはモンセフ・マルズーキ(CPR党首)、議会議長に第3党の「労働・自由民主フォーラム」(FDTL、通称エタカトル)のムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。 2013年2月野党党首暗殺事件の責任を取り、ジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月アリー・ラライエド(英語版)内相に組閣要請した。 2013年7月ラライエドは繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け、混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明。 2014年1月26日制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。 チュニジアの政体は共和制、大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は1959年6月1日に公布(1988年7月12日および2002年5月26日改正)されたもの。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は行政の最高責任者とされ、首相・閣僚・各県の知事の任免権、軍の最高指揮権、非常事態宣言の発令権など強大な権力を与えられている。首相および閣僚評議会(内閣に相当)は大統領の補佐機関に過ぎない。 立法府は両院制で、2002年の憲法改正により新設された上院と、従来立法府として存在してきた代議院(下院に相当)で構成される。上院の定数は126議席で、うち85議席は地方議会による間接選挙により選出され、41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で、全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年、代議院が5年である。 チュニジアでは1988年の憲法改正で複数政党制が認められたが、2011年の政権崩壊まで与党立憲民主連合(RDC)が事実上、チュニジア政治を担っていた。RDCは1988年まで社会主義憲政党(PSD)という名称で一党支配を行っており、複数政党制承認後にRDCと改称した後もチュニジアの支配政党であり続け、2011年まで一度も政権交代は成されていなかった。政権崩壊後の選挙でアンナハダが与党になった。野党で比較的有力なものには民主社会運動(MDS)と人民統一党(PUP)がある。他に非合法化されたチュニジア共産党の流れを組むエッタジディード(変革)運動があったが、同党は他勢力と統合し「社会民主の道運動」(アル・マサール)になっている。 過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。 司法権は最高裁判所が担っている。 チュニジア軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。 兵器体系はかつて中国から購入した哨戒艇などを除いて殆ど西側に準じている。 独立直後から暫くはフランス軍のビゼルト基地問題や、アルジェリア戦争への対応を巡ってフランスと対決する姿勢で接したが、1970年代以降は親フランス、親西側政策が続いている。1980年代に入るとアラブ連盟の本部がカイロからチュニスになり、事務局長にチュニジア人が選ばれ、1990年代のエジプトの連盟復帰までアラブ諸国の盟主にもなった。初代大統領ブルギーバはセネガルの初代大統領サンゴールらと共にフランコフォニー国際組織の設立に尽力した。 1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によってリビアと合邦が宣言され、アラブ・イスラム共和国の成立が宣言されたが、この連合はすぐに崩壊した。その後、リビアはチュニジアと対立し、1980年のガフサ事件ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力がガフサの街を襲撃し、多くの被害を出した。1985年にはリビア軍がチュニジアとの国境付近に集結し、チュニジアを威嚇した。 パレスチナ問題を巡っては、チュニジアは僅かながら第三次中東戦争と第四次中東戦争にアラブ側で派兵した。1982年にパレスチナ解放機構(PLO)の本部がチュニスに移転したが、オスロ合意後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアにはパレスチナ人難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを承認しているが、関係は決して良好とは言えず、ガザ紛争 (2008年-2009年)においてはイスラエルを非難している。 チュニジアには24のウィラーヤ(県)(アラブ語表記:ولاية)に分かれている。各県の県知事は大統領による任命制。 アリアナ県 Ariana ベジャ県 Béja ベンナラス県 Ben Arous ビゼルト県 Bizerte ガベズ県 Gabès ガフサ県 Gafsa ジェンドゥーバ県 Jendouba ケルアン県 Kairouan カスリーヌ県 Kasserine ケビリ県 Kebili ケフ県 Kef マーディア県 Mahdia マヌーバ県 Manouba メドニン県 Medenine モナスティル県 Monastir ナブール県 Nabeul スファックス県 Sfax シディブジッド県 Sidi Bou Said シリアナ県 Siliana スース県 Sousse タタウイヌ県 Tataouine トズール県 Tozeur チュニス県 Tunis ザグアン県 Zaghouan チュニス(Tunis):首都 スファックス(Sfax) カルタゴ(Carthage) スース(Sousse) シディ・ブ・サイド(Sidi Bou Said) ケルアン(Kairouan) ハマメット(Hammamet) ナブール(Nabeul) タバルカ(Tabarka) 国土は、北端から南端までが約850キロメートル、東の沿岸から西方の国境まで約250キロメートルと細長く、南北に伸び、南端は先の細いとがった形である。 東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の3つに大きく分けられる。 北部地中海沿岸にはテル山地があり、その谷間を北東にメジェルダ川が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な穀倉地帯になっている。東側の地中海に面した海岸線は約1300キロメートルにわたる。北からチュニス湾、ハマメット湾、ガベス湾の並び、良港も多い。この沿岸部に古くから定住民が集住した。。 その南には、アルジェリアから続くアトラス山脈中の国内最高峰であるシャンビ山(1,544m)以東がドルサル山地となっている。ドルサル山地は地中海からの湿気を遮るため、ドルサル山地より南はガベス湾までステップ気候になっていて、西部の標高400m〜800mの地域をステップ高原、東部の標高400m以下の地をステップ平原と呼ぶ。ステップ高原の南には平方5000kmのジェリド湖(塩湖)がある。この塩湖の北にある町メトラーウィやその西のルダイフでは19世紀の末からリン鉱石の採掘が開始され、現在ではその産出量は世界第5位で、チュニジアの主要な輸出品ともなっている。。 ガベス湾の沖にはジェルバ島が存在する。南半分はサハラ砂漠になっており、マトマタから南東にダール丘陵がリビアまで続く。ダール丘陵から東には標高200m以下のジェファラ平野が広がる。この砂漠は風によって絶えず景色が変化する砂砂漠(エルグ)、ごつごつした石や砂利と乾燥に強い植物がわずかにみられる礫砂漠、または植生のない岩肌がむき出しになっている岩石砂漠が広がっており、砂砂漠は一部であり、大部分は礫砂漠と岩石砂漠で占められている。 ケッペンの気候区分によると、北部の地中海沿岸部は地中海性気候となり、地中海沿岸を南に行くとスファックス付近からステップ気候になる。さらに南のサハラ砂漠は砂漠気候となる。春から夏にかけてサハラ砂漠から北にシロッコと呼ばれる熱風が吹き出す。北部では冬に雪が降ることがある。チュニスの年間降水量は470mm前後だが、北部のビゼルトでは1,000mmを越える。 今ではチュニジアは経済の自由化と民営化のさなか、自らが輸出指向の国であることに気づいており、1990年代初期から平均5%のGDP成長でありながらも、政治的に結びついたエリートが恩恵を受ける汚職に苦しんだ。 チュニジアには様々な経済があり、農業や工業、石油製品から、観光にまで及ぶ。2008年ではGDPは410億ドル(公式為替レート)もしくは820億ドル(購買力平価)であった。 農業分野はGDPの11.6%、工業は25.7%、サービス業は62.8%を占める。工業分野は主に衣類と履物類の製造や自動車部品と電子機器の生産からなる。チュニジアは過去10年間で平均5%の成長を成し遂げたが、特に若年層の高い失業率に苦しんでいる。 チュニジアは2009年には、世界経済フォーラムによってアフリカにおいてもっとも競争力のある経済と位置づけられた。全世界でも40位であった。 チュニジアはエアバスやヒューレットパッカードなどの多くの国際企業の誘致に成功した 。 観光は2009年にはGDPの7%と37万人分の雇用を占めていた。 変わらずヨーロッパ連合がチュニジアの最大の貿易パートナーであり、現在チュニジアの輸入の72.5%、チュニジアの輸出の75%を占めている。チュニジアは地中海沿岸でヨーロッパ連合のもっとも確固とした貿易パートナーの1つであり、EUの30番目に大きい貿易パートナーに位置づけている。チュニジアは1995年7月に、ヨーロッパ連合とヨーロッパ連合連合協定(英語版)を締結した最初の地中海の国である。ただし、効力が生じる日の前に、チュニジアは両地域間の貿易で関税を撤廃し始めた。チュニジアは2008年に工業製品への関税撤廃を完了し、そのためEUとの自由貿易圏に入った最初の地中海の国になった。 チュニス・スポーツ・シティ(英語版)はチュニスで建設されている完全なスポーツ都市である。集合住宅に加え多くのスポーツ施設からなるこの都市は50億ドル(約500億円)かけてUAEのBukhatirグループによって建設される。 チュニス・ファイナンシャル・ハーバーは30億ドル(約300億円)の開発利益を見込むプロジェクトにおいてチュニス湾にある北アフリカで初めてのオフショア金融センターになる。 チュニス・テレコム・シティはチュニスにおけるITハブを作成する30億ドル(約300億円)規模のプロジェクトである。 チュニジア経済には小麦とオリーブを中核とする歴史のある農業、原油とリン鉱石に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。そのため他のアフリカ諸国より工業基盤は発達しており、1人当たりのGDPは約4000ドルでありモロッコやアルジェリアと共にアジアの新興国とほぼ同じレベルである。急速な成長を見せているのは欧州諸国の被服製造の下請け産業だ。貿易依存度は輸出34.4%、輸入45.2%と高く、狭い国内市場ではなく、フランス、イタリアを中心としたEU諸国との貿易の占める比率が高い。2003年時点の輸出額80億ドル、輸入額109億ドルの差額を埋めるのが、24億ドルという観光収入である。国際的には中所得国であり、アフリカ開発銀行 (ADB) の本部が置かれている。 フランスやリビアに出稼ぎしているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。 アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの、農地の占める割合が国土の31.7%に達している。ヨーロッパに比べて早い収穫期を生かした小麦の栽培と輸出、乾燥気候にあったオリーブと野菜栽培が農業の要である。食糧自給率は100%を超えている。 北部は小麦栽培と畜産が盛ん。ヒツジを主要な家畜とする畜産業は北部に集中するが、農業に占める比率は中部、南部の方が高い。2005年時点の生産高を見ると、世界第5位のオリーブ(70万トン、世界シェア4.8%)、世界第10位のグレープフルーツ(7.2万トン、2.0%)が目を引く。ナツメヤシ(13万トン、1.8%)、らくだ23万頭(1.2%)といった乾燥気候を生かした産物・家畜も見られる。主要穀物では小麦(136万トン)が北部で、大麦(44万トン)は主に南部で生産されている。生産量ではトマト(92万トン)も目立つ。 チュニジア鉱業の中核は、世界第5位のリン鉱石(リン酸カルシウム、240万トン、5.4%)、主な鉱山は国土の中央部、ガフサ近郊にある。油田は1964年にイタリア資本によって発見され、南部のボルマ近郊の油田開発が進んでいる。一方、リビア国境に近いガベス湾の油田はあまり進んでいない。2004年時点の採掘量は、原油317万トン、天然ガス82千兆ジュールである。エネルギー自給率も100%を超えている。このほか、亜鉛、銀、鉄、鉛を採掘している。これはプレート移動によって形成された褶曲山脈であるアトラス山脈に由来する。全体的な鉱業の様相はアトラス山脈西端に位置する国モロッコとよく似ている。 チュニジア工業は農業生産物の加工に基づく食品工業、鉱物採取と連動した化学工業、加工貿易を支える機械工業と繊維業からなる。食品工業は、6000万本にも及ぶオリーブから採取したオリーブ油と、加工野菜(缶詰)が中心である。オリーブ油の生産高は世界第4位(15万トン、6.4%)だ。化学工業は主として肥料生産とその派生品からなる。世界第3位のリン酸(63万トン、3.7%)、同第6位の硫酸(486万トン、4.8%)、同第7位のリン酸肥料(97万トン、2.9%)である。主な工業都市は首都チュニス。 輸出に占める工業製品の比率が81%、輸入に占める工業製品の比率が77.8%であるため、加工貿易が盛んに見える。これは、繊維産業と機械産業によるものだ。輸出を品目別に見ると、衣料37.0%、電気機械11.9%、原油5.4%、化学肥料4.7%、織物3.7%である。一方、輸入は、繊維14.7%、電気機械11.9%、機械類10.7%、自動車6.9%、衣料5.3%である。食料品が輸出に占める割合は7.6%、輸入では9.0%。主な貿易相手国はEC諸国、特に旧宗主国であったフランスと支配を受けたイタリアである。輸出入ともこの2国が約5割の比率を占める。金額別では輸出相手国が、フランス、イタリア、ドイツ、隣国リビア、ベルギー、輸入相手国がフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギーである。 首都チュニスにはチュニス・カルタゴ国際空港があるほか、ヨーロッパではリゾート地として知られるエンフィダ(英語版)にはエンフィダ=ハンマメット国際空港が、ジェルバ島にはジェルバ=ザルジス国際空港があり、いずれの空港も主として周辺国やヨーロッパの都市と結ばれている。 北部を中心に、チュニジア鉄道が敷設されている。 A1、A2、A3、A4の4つが主要路線となっている。また、一部区間はトランスアフリカンハイウェイ(英語版)の一部分となっている。 イスラーム国だが世俗的な国家であり、独立と同年の1956年、ブルギーバ初代大統領の「国家フェミニズム」の下で制定された家族法によって、トルコと同様に一夫多妻制や公共の場でのスカーフやヴェールの着用は禁止されている。続くベン・アリー大統領もフェミニズム政策を踏襲し、1993年には婚姻後の夫婦共有財産も個別財産として選択可能となった。家族法制定から現在まで女性の社会進出が著しく、アラブ世界で最も女性の地位が高い国となっている。イスラム世界では珍しく、チュニジアは中絶が法律で認められている国である。1956年の独立時から2007年までの人口増加が約2.3倍である。 住民はアラブ人が98%である。チュニジアの先住民はベルベル人やフェニキア人だったが、7世紀のアラブによる征服以降、住民の混血とアラブ化が進んだため、民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りはヨーロッパ人が1%、ベルベル語を話すベルベル人、ユダヤ人、黒人などその他が1%である。 アラビア語が公用語であるが、独立前はフランスの保護下にあったことからフランス語も広く普及しており、教育、政府、メディア、ビジネスなどで使われるなど準公用語的な地位となっている。教授言語はフランス語とアラビア語の両方となっており、大多数の国民がフランス語を話すことが可能である。アラビア語チュニジア方言はマルタ語に近い。また、ごく少数ながらベルベル語の一つであるシェルハも話されている。 イスラームが国教であり、国民の98%はスンナ派で、僅かながらイバード派の信徒も存在する。その他、ユダヤ教、キリスト教(主にカトリック、ギリシャ正教、プロテスタント)。イスラームも比較的戒律は緩やかで、女性もヴェールをかぶらず西洋的なファッションが多く見られる。1980年代にイスラーム主義の興隆と共にヴェールの着用も復古したが、1990年代に隣国アルジェリアでイスラーム主義者と軍部の間で内戦が勃発すると、イスラーム主義は急速に衰退し、ヴェールの着用も衰退した。 チュニジアには56万人の信者を擁するキリスト教徒のコミュニティがあり、大まかにいってカトリックとプロテスタントに分かれる(24万人がカトリックで32万人がプロテスタント)。 チュニジア南部のジェルバ島はユダヤ人居住区の飛び地となっており、島のエル・グリーバ・シナゴーグは世界で最も古いシナゴーグの内の一つである。 6歳から16歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となっており、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から正則アラビア語の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から英語を教わる。2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は74.3%(男性:83.4% 女性:65.3%)である。 主な高等教育機関としては、ザイトゥーナ大学(737)、チュニス大学(1960)、カルタゴ大学(1988)、エル・マナール大学(2000)などが挙げられる。名門リセ(高校)としてはサディーキ校(1875)も挙げられる。 代表的なチュニジア料理としてはクスクス(粒状のパスタ)、ブリック、ラブレビなどが挙げられる。チュニジアはイスラーム国であるが、ワインの生産国でもある。チュニジア・ワインにはフランスの影響によりロゼワインも多い。マツの実入りのミントティーがあり、オレンジ、ゼラニウムなどの花の蒸留水フラワーウォーターはコーヒー、菓子に入れる。 大多数のチュニジア人の母語はアラビア語だが、正則アラビア語の宗教的な特性により、近現代のチュニジア文学はフランス語で書かれることも多い。現代の代表的なチュニジア出身の作家としては、アルベール・メンミ、アブデルワハブ・メデブ、ムスタファ・トゥリリなどが挙げられる。 中世において「イスラーム世界最大の学者」と呼ばれるチュニス出身のイブン・ハルドゥーンは『歴史序説』を著わした。ハルドゥーンは『歴史序説』にてアサビーヤ(集団における人間の連帯意識)を軸に文明の発達や没落を体系化し、独自の歴史法則理論を打ち立てた。ハルドゥーンは労働が富を生産するとの概念を、18世紀に労働価値説を唱えたアダム・スミスに先んじて説くなど天才的な学者であった。 チュニジアは映画製作の盛んな国ではないが、チュニジア出身の映像作家としては「チュニジアの少年」(1990)のフェリッド・ブーゲディールや、「ある歌い女の思い出」(1994)のムフィーダ・トゥラートリなどの名が挙げられる。 1966年から二年に一度、カルタゴ映画祭が開催されている。 チュニジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件、自然遺産が1件存在する。 チュニス旧市街 - (1979年、文化遺産) カルタゴ遺跡 - (1979年、文化遺産) エル・ジェムの円形闘技場 - (1979年、文化遺産) ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡 - (1985年、文化遺産) スース旧市街 - (1988年、文化遺産) ケルアン - (1988年、文化遺産) ドゥッガ/トゥッガ - (1997年、文化遺産) イシュケル国立公園 - (1980年、自然遺産) 国技はサッカーであり、2016年現在サッカーチュニジア代表は初出場となった1978年のアルゼンチン大会以降、1998年のフランス大会、2002年日韓共同大会、2006年のドイツ大会まで3期連続でFIFAワールドカップに出場した。主なプロクラブとしてはエスペランス・チュニス、クラブ・アフリカーン、エトワール・サヘル、CSスファクシアンなどの名が挙げられる。 バレーボールも盛んであり、バレーボールチュニジア男子代表はアフリカ諸国の強豪に挙げられる。 陸上競技ではモハメド・ガムーディがメキシコシティオリンピック男子5000mで金メダルなどメダル4個、競泳でウサマ・メルーリが2008年の北京オリンピック男子1500m自由形で金メダルを獲得している。 ^ a b c d IMF (2018年10月). “World Economic Outlook (October 2018)”. 2018年12月29日閲覧。 ^ 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The World Factbook. Central Intelligence Agency.  オープンストリートマップには、チュニジアに関連する地理データがあります。 チュニジアのウィキメディア地図 (英語)", "トルコ共和国 Türkiye Cumhuriyeti 国の標語:Yurtta Sulh, Cihanda Sulh (トルコ語: 国に平和、世界に平和) 国歌:İstiklal Marşı(トルコ語) 独立行進曲 トルコ共和国(トルコきょうわこく、トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。 トルコ語による正式国名は、 Türkiye Cumhuriyeti(テュルキイェ・ジュムフリイェティ)[ヘルプ/ファイル]、通称 Türkiye(テュルキイェ)である。公式の英語表記は、Republic of Turkey。通称 Turkey(ターキー)。日本語名のトルコは、ポルトガル語で「トルコの」を意味する形容詞turcoに由来する。漢語表記の土耳古。 英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、Turkey, Turquie など、「トルコ人の国」を意味する名でこの国家を呼んできたが、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。 Türk(テュルク)は、アナトリアへの移住以前、中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いた6世紀頃にはすでに使われていた民族名だが、語源には諸説ある。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国を以って「トルコの建国」と考えている。 アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末頃から鉄をつくる技術が中近東世界に広がった。この地域が鉄器時代に入ったと考えられる。 トルコの国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)とトルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト・フリュギア・リディア・東ローマ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地である。 一方、北アジアではトルコ(テュルク)系民族として突厥が552年にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれを以てトルコの最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した西突厥の部族の一つから部族長トゥグリル・ベグが出て西進を始めボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝を成立させた。さらに西進して1055年バクダッドに入城、アッバース朝のカリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争って大敗し急激に衰えた、後にフラグの侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、更にウイグル系民族に圧迫されてイラン(ペルシャ)北部、カスピ海東岸の隅地に逃亡し歴史の記録から消える。 11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系のチムールにアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するがチムールの侵略に、アナトリア南部の険に依って抵抗し、命脈を保った一族がチムールの死後にオスマン朝を復興した。 19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立した。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した。また、東部では、アルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人たち(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人たち)は国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした。この抵抗運動をトルコ独立戦争(1919年5月)という。1920年4月アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブールから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。シャリーアは国法としての地位を喪失した。トルコは大陸法だけでなく、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。 第二次世界大戦後、ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年NATOに、また1961年OECDに加盟した。NATOとOECD加盟の間は西陣営内で経済戦争が起こっていた(セカンダリー・バンキング)。1956年ごろ、トルコはユーロバンクの資金調達先となったので外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量をぐんぐん増やしたが、ソ連がすでに1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するトルコは、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。 国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。 またキリスト教(正教会)を国教とするアルメニア共和国とも緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派はトルコ東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。ナブッコ・パイプラインの拡張にかかわる国際問題となっている。 1982年に定められた憲法では、世俗主義が標榜されている。三権はほとんど完全に分立しており、憲法の目的(世俗主義、他)を達成するためにそれぞれの役割を果たすことが期待されている。このことが、世俗派と宗教的保守派との対立を助長し、その対決が終息しない遠因ともなっている。立法府として一院制のトルコ大国民議会(Türkiye Büyük Millet Meclisi、定数550名、任期5年)がある。行政は議会によって選出される国家元首の大統領(任期7年)が務めるが、首相の権限が強い議院内閣制に基づくものであった。司法府は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されている。司法は政党の解党判断、党員の政治活動禁止と言った政治的な事項についても判断できる。 その後、2007年の憲法改正(英語版)により大統領は国民投票により選出されることとなり、また任期も7年から5年へと短縮された。2010年の憲法改正(英語版)を経たのち、2017年の憲法改正(英語版)では大統領権限が強化され、議院内閣制を廃止することが定められている。 政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式を採っている。この制度のために、2002年の総選挙では、選挙前に中道右派・イスラム派が結集して結党された公正発展党 (AKP) と、野党で中道左派系・世俗主義派の共和人民党 (CHP) の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。2007年7月22日に実施された総選挙では、公正発展党が前回を12ポイントを上回る総得票率 47 % を獲得して圧勝した。共和人民党が議席を減らし、112議席を獲得。極右の民族主義者行動党 (MHP) が得票率 14.3 % と最低得票率 10 % 以上の票を獲得し71議席を獲得、結果的に公正発展党は340議席となり、前回より12議席を減らすこととなった。独立候補は最低得票率の制限がなく、クルド系候補など27議席を獲得した。 ムスタファ・ケマル・アタテュルク以来強行的に西欧化を押し進めてきたトルコでは、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍がしばしば政治における重要なファクターとなっており、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。1960年に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、参謀総長と陸海空の三軍および内務省ジャンダルマ(憲兵隊)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議 (Milli Güvenlik Kurulu) が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。1980年の二度目のクーデター以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は1997年にイスラム派の福祉党主導の連立政権を崩壊に追い込み、2007年には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。8月29日には、議会での3回の投票を経てアブドゥラー・ギュル外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、軍が最早以前のように安易に政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と宗教的保守派の対立はもっと社会の内部にこもったものとなってきている(エルゲネコン捜査)。 2009年3月29日、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党・公正発展党が世俗派野党・共和人民党などを押さえ勝利した。 2010年9月12日には、与党・公正発展党 (AKP) が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。現憲法は1980年のクーデター後の1982年に制定されたもので、軍や司法当局に大幅な権限を与え、国民の民主的権利を制限するといわれてきた。この憲法改定案は民主主義を求める国民の声や欧州連合 (EU) 加盟の条件整備などを踏まえ、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなど26項目を提起している。国民投票の結果、憲法改正案は58%の支持で承認された。投票率は 73 % であった。エルドアン首相は民主主義の勝利だと宣言した(AFP電)。また、国民投票結果について「発達した民主主義と法治国家に向けトルコは歴史的な一線を乗り越えた」と評価した。欧米諸国はこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合 (EU) の執行機関欧州委員会は、トルコのEU加盟に向けての一歩だと讃えた。 2014年8月28日にエルドアン首相は大統領に就任し、アフメト・ダウトオール外相が首相となったが、2016年5月22日にはビナリ・ユルドゥルムが新たな首相に就任した。 その後、2017年に大統領権限の強化と首相職の廃止を盛り込んだ憲法改正案が可決され、2018年7月9日に首相職は廃止された。 トルコには軍事組織として、陸軍・海軍・空軍で組織されるトルコ軍 (Türk Silahlı Kuvvetleri) と内務省に所属するジャンダルマ(憲兵隊、Jandarma)・沿岸警備隊 (Sahil Güvenlik) が置かれている。トルコ政府は2011年末までに金銭を納めることで兵役を免除可能とすることで事実上良心的兵役拒否を合法化した。兵員定数はないが、三軍併せておおむね65万人程度の兵員数である。また、ジャンダルマ・沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍・海軍の指揮下にはいることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平時から陸軍と共同で治安作戦などを行っている。 指揮権は平時には大統領に、戦時には参謀総長 (Genelkurmay Başkanı) に属すると憲法に明示されており、戦時においてはトルコには文民統制は存在しない。また、首相および国防大臣には軍に対する指揮権・監督権は存在しない。ただし、トルコ軍は歴史的にも、また現在においてもきわめて政治的な行動をとる軍隊であり、また、国防予算の 15 % 程度が議会のコントロール下にない軍基金・国防産業基金等からの歳入であるなど、平時においてもトルコ軍に対する文民統制には疑問も多い。この結果、軍はいわば第四権と言った性格を持ち、世俗主義や内政の安定を支える大きな政治的・社会的影響力を発揮してきた。 1960年と1980年にはクーデターで軍事政権を樹立したこともある。近年はエルドアン政権の権限強化とそれに対するクーデター失敗、経済発展に伴う社会の成熟・多様化により、軍部の影響力は以前より低下している。 軍事同盟としては1952年以降NATOに加盟し、1992年以降はWEUに準加盟している。また、1979年それ自体が崩壊するまでCENTO加盟国でもあった。2国間同盟としては1996年、イスラエルと軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、1998年には実際にアメリカ合衆国・イスラエル・トルコの3国で共同軍事演習が行われた。 NATO加盟国としては唯一、中露が主導する非欧米国家グループである上海協力機構の対話パートナーにもなっており、2015年にはエルドアン大統領によって正規加盟が要請された。 トルコ南東部においてはPKKとの戦闘状態が長年続いている。南隣にあるイラクとシリアに対しても、国境をまたいで活動するPKKやイスラム国など反トルコ勢力への攻撃と、親トルコ派勢力の支援を目的に、派兵や越境空爆をしばしば行っている。 また2016年には、ペルシャ湾岸のカタールの基地を利用する協定を結んだ。 外交面では北大西洋条約機構 (NATO) 加盟国である。また、NATO加盟国としては唯一、非欧米軍事同盟である上海協力機構の対話パートナーであり、中露との軍事協力も行うなど、もはや西側一辺倒の外交路線ではなくなっている。 トルコ政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としている。現代では経済的・政治的にヨーロッパの一員として参加しつつある。トルコはヘルシンキ宣言に署名している。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件付ではあるものの欧州委員会によって2005年10月からの欧州連合への加盟交渉の開始が勧告された。現在、国内世論と戦いながら加盟申請中である。なお、加盟基準であるコペンハーゲン基準については現在議論が行われている。 トルコの国土の96%がアジアのアナトリア半島にあり、人口でもアジア側が9割弱を占める。 首都アンカラはアジア側に位置し、最大の都市であるイスタンブールはアジアとヨーロッパにまたがる海峡都市である。 歴史的にもセルジューク朝をはじめイラン(ペルシャ)やイラクの影響が強い。 日本の公式見解では、中東アジアの国として分類されている。 1890年(明治23年)に、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖で発生したエルトゥールル号遭難事件で日本の対応が評価されたことなどから、両国の友好関係が築かれている。 日本には多くのトルコ友好協会があり、トルコとの交流が積極的に行われている。 <トルコ政府系団体> ユヌス・エムレ インスティトゥート東京 トルコ文化 センター 東京ジャーミイ・トルコ文化センター(東京) <トルコ政府連携協会> 日本・トルコ協会(東京) 大阪・トルコ協会(大阪) 九州・トルコ協会(福岡) 北海道日本トルコ友好協会(北海道) 日本・トルコ婦人クラブ(東京) 日本トルコ文化経済交流支援協会(愛知) 日本トルコ友好協会(東京) 砺波市トルコ友好交流協会(富山) 柏崎トルコ友好協会(新潟) 日本ガレノス協会(群馬) 日本トルコ文化協会(京都) 神戸・トルコ友好協会 トルコーべ(兵庫) 和歌山トルコ文化協会(和歌山) 串本トルコ文化協会(和歌山) 隣国のギリシャとは緊張関係が続いている。古くはギリシャ人国家であった東ローマ帝国が現在のトルコに当たる地域を支配していたが、やがてオスマン帝国がそれを滅ぼし支配下に置いた。その後、19世紀初頭に列強の後押しでギリシャが独立し、「大ギリシャ主義」を掲げて衰退の進むオスマン帝国からの領土奪回を目論んだ。バルカン戦争、第1次世界大戦後に領土をめぐる希土戦争が起こり、ギリシャとトルコの住民交換で解決された。しかし当時イギリスの植民地だったキプロス島の帰属は決められなかったためにキプロス独立後にキプロスと北キプロスに分裂した。 隣国のアルメニア共和国とは緊張関係が続いている。アルメニアの民族派がヴァン県などトルコ東南部をアルメニア人の奪われた土地だと主張している。 一部のアルメニア人の反トルコ主義や西アルメニアの返還の主張にはトルコの保守層の警戒感を招いている。元々、アルメニア王国とトルコの国境は時代により大きく変化しており、国民国家の概念が成立する前から対立が続いた。またトルコはイスラーム信者が多く、アルメニアにはキリスト教を国教にしている宗教対立の側面もある。 MIKTA(ミクタ)は、メキシコ (Mexico)、インドネシア (Indonesia)、大韓民国 (Korea, Republic of)、トルコ (Turkey)、オーストラリア (Australia) の5ヶ国によるパートナーシップである。詳細は該当ページへ。 トルコの地方行政制度はオスマン帝国の州県制をベースとしてフランスに範をとり、全土を県 (il) と呼ばれる地方行政区画に区分している。1999年以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事 (vali) が置かれ、県の行政機関 (valilik) を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い、県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。 県の下には民選の首長を有する行政機関 (belediye) をもった市 (şehir)があり、郡の下には自治体行政機関のある市・町 (belde) と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村 (köy) がある。イスタンブール、アンカラなどの大都市行政区 (büyük şehir) は、市の中に特別区に相当する自治体とその行政機関 (belediye) を複数持ち、都市全体を市自治体 (büyük şehir belediyesi) が統括する。 トルコの都市人口率は2003年時点で 66.3 % であり、世界平均より20ポイント高く、比較的都市への人口集中が進んでいるといえる。三大都市圏として2大陸にまたがるイスタンブール(都市的地域人口1137万2000人、2007年)、首都アンカラ(372万9000人)、港湾都市イズミル(264万9000人)が挙げられる。その他、都市的地域人口が100万人を超える都市としては、ブルサ(156万2000人)とアダナ(153万人)があり、また同50万人を超える都市は、ガズィアンテプ、コンヤ、アンタルヤ、カイセリ、メルシン、エスキシェヒル、ディヤルバクル、サムスンである。このうち、アナトリア高原など山岳部に位置する都市は、アンカラ、ガズィアンテプ、コンヤ、ディヤルバクル、カイセリ。国の東部には小規模な都市が目立ち、特に東北部、または黒海沿岸には都市への人口の集中があまり見られない。 アンカラ - 首都 イスタンブール - 最大の都市 アクサライ アダナ アンタキヤ アンタルヤ イズニク イズミル ヴァン エディルネ エスキシェヒル エルズィンジャン エルズルム カイセリ ガズィアンテプ カルス ギョレメ クシャダス コンヤ サフランボル サムスン スィヴァス ダルヤン チャナッカレ ディヤルバクル デニズリ トラブゾン ネヴシェヒル ブルサ ベルガマ ボル ユルギュップ 国土はヨーロッパ大陸とアジア大陸にまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海を繋ぐボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡によって隔てられる。面積は日本の2倍で、北緯35度から43度、東経25度から45度に位置し、東西1600km、南北800kmに及ぶ。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。東部イラン国境近くにはヴァン湖とアララト山(国内最高峰で休火山、標高 5137m)がある。 トルコは国内に多くの断層を持つ地震国であり、近年では、1999年のイズミット地震でマルマラ海沿岸の人口密集地が大規模な被害を受けた。なお、他の地震国の多くと同様、国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。 中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に、温暖なイメージととらえられがちであるが、それら沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海・地中海沿岸地方は温暖でケッペンの気候区分では地中海性気候に属し夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。 イスタンブールのあるマルマラ海周辺やヨーロッパトルコ地域は地中海性気候と温暖湿潤気候の中間に属し、夏は他地域よりは涼しく、冬は比較的寒くなり雪も降る。黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じてトルコで最も降水量が多い場所で深い緑に覆われている。一方、国土の大半を占める内陸部は大陸性気候で寒暖の差が激しく乾燥しており、アンカラなどの中部アナトリア地方はステップ気候や高地地中海性気候に属する。夏は乾燥していて非常に暑くなるが、冬季は積雪も多く、気温が−20°C以下になることも珍しくない。東部アナトリア地方は亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、東部の標高1500mを超えるような高原地帯では1月の平均気温は−10°Cを下回る。標高1757mにあるエルズルムでは気温がしばしば−30°Cを下回り、−40°Cに達することさえあるほどの酷寒地である。ヴァン県のチャルディラーン (Çaldıran) では1990年1月9日にトルコ国内最低となる−46.4°Cを記録している。高温記録としては1993年8月14日にシリア国境に近いマルディン県のコジャテプ(Kocatepe)で48.8°Cを記録している。 最暖月22°C未満・・・薄水色 最寒月−3°C未満(= 亜寒帯 (D) の条件)・・・薄水色、水色、青色 IMFによると、2013年のトルコのGDPは8,200億ドル(約88兆円)で、世界第18位である。一人当たりのGDPは10,721ドルで、世界平均を若干上回る。産業は近代化が進められた工業・商業と、伝統的な農業とからなり、農業人口が国民のおよそ40%を占める。漁業は沿岸部では比較的盛んであるが、エーゲ海ではギリシャ領の島々がトルコ本土のすぐ近くに点在しているため、領海・排他的経済水域や公海上の漁獲量を巡る国際問題が起きることもある。 工業は軽工業が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である。近年では、世界の大手自動車メーカーと国内の大手財閥との合弁事業が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な外貨獲得源になっている。具体的には、国内最大の財閥であるサバンジュ財閥と日本のトヨタ自動車、国内2位の財閥であるコチ財閥とイタリアのフィアット、国内4位の財閥であるオヤック財閥とフランスのルノーが挙げられる。また、コチ財閥のアルチェリッキ・ベコ、ゾルル財閥のヴェステルなど、家電・エレクトロニクス部門の成長も期待されている。工業化が進んでいるのは北西部のマルマラ海沿岸地域が中心である。 ロシア連邦を含むヨーロッパ諸国などから訪れる観光客は、経常収支が赤字であるトルコにとって貴重な外貨収入源となっている。外国人観光客数は2014年のピークで3683万人。その後、シリア内戦に誘発された相次ぐテロ事件やロシア軍爆撃機撃墜事件(2015年)、2016年トルコクーデター未遂事件が起きたため2016年は約2500万人に減ったものの、2017年以降は回復している。 空路のほか、クルーズ客船も利用されている。エーゲ海沿岸地域やイスタンブール、内陸のカッパドキアなどが観光地として人気が高い。 地中海に面する西部と首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。特に東部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。 トルコの国土は鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では石炭の埋蔵量が多い。2002年時点では亜炭・褐炭の採掘量が6348万トンに達した。これは世界シェアの7.0%であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの1/20に過ぎない。原油(252万トン)と天然ガス(12千兆ジュール)も採掘されている。 金属鉱物資源では、世界第2位(200万トン、世界シェア17.9%)のマグネシウムをはじめ、アンチモン、金、鉄、銅、鉛、ボーキサイトを産出する。 しかしながら、石炭は発電など燃料として国内で消費し、マグネシウムの国際価格が低迷していることから、同国の輸出に占める鉱物資源の割合は低く、4%程度(2002年時点)に過ぎない。 石油・天然ガスについては黒海で開発を進め、2002年の段階から生産を始めていたが、近年石油は100億バレル、ガスは1兆5千億立方メートルと莫大な埋蔵量であることが分かった。これにより2023年から40年間にわたって、国内消費分を賄うことができるようになるとの見通しである。 1990年代の後半から経済は低調で、政府は巨額の債務を抱え、国民は急速なインフレーションに悩まされていた。歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し、2000年からIMFの改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危機を起こした。この結果、トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。 2002年以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権の下でインフレの拡大はおおよそ沈静化した。2005年1月1日には100万トルコリラ (TL) を1新トルコリラ (YTL) とする新通貨を発行し、実質的なデノミネーションが行われた。なお2009年より、新トルコリラは再び「トルコリラ」という名称に変更されている。 近年のGDP成長率は2010年9.2%、2011年8.5%、2012年2.2%となっている。 トルコの貿易は慢性的に赤字が続いている。2003年時点では輸出466億ドルに対し、輸入656億ドルであった。ただし、サービス収支、例えば観光による収入(90億ドル、2002年)、所得収支、例えば海外の出稼ぎからの送金などが多額に上るため、経常収支はほぼバランスが取れている。 輸出・輸入とも過半数を工業製品が占める。世界第2位の生産量を占める毛織物のほか、毛糸、綿糸、綿織物、化学繊維などの生産量がいずれも世界の上位10位に含まれる、厚みのある繊維産業が輸出に貢献している。衣料品を輸出し、機械類を輸入するという構造である。 輸出品目では工業製品が 83.2%を占め、ついで食料品9.9%、原材料・燃料5.0%である。工業製品では衣類21.1%、繊維・織物 11.1%、自動車10.5%、電気機械8.6%が主力であり、鉄鋼も輸出している。輸出相手国はヨーロッパ圏が主力であり、ドイツ 15.8%、アメリカ合衆国7.9%、連合王国7.8%、イタリア6.8%、フランス6.0%の順である。日本に対する最大の輸出品目はマグロ (21.7%)、ついで衣料品である。 輸入品目でも工業製品が65.9%に達する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%である。品目別では機械類13.4%、電気機械9.2%、自動車7.7%、原油6.9%、繊維・織物5.0%である。輸入相手国も欧州が中心で、ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス6.0%、連合王国5.0%の順である。日本からの最大の輸入品目は乗用車 (12.1%)、ついで自動車用部品である。 トルコにおいて交通の中心となっているのは、旅客・貨物ともに陸上の道路交通である。鉄道は国鉄 (TCDD) が存在し 10,940 km の路線を保有・運営しているが、きわめて便が少なく不便である。また、駅舎・路線・その他設備は整備が不十分で老朽化が進んでいる。2004年には国鉄は最高時速 160 km の新型車両を導入したが、7月にその新型車両が脱線事故を起こし39名の死者を出した。これは、路線整備が不十分なまま新型車両を見切り発車的に導入したことが原因といわれている。この事故は国鉄の信頼性を一層低下させ、その後鉄道乗客数は激減している。その後、路線の新設や改良に巨額の投資をし始め、2007年4月23日、エスキシェヒール - アンカラ間にて最高時速250kmのトルコ初のトルコ高速鉄道が開通した。その後も、アンカラ-コンヤ間でも完成するなど、各地で高速鉄道建設がすすめられ近代化が図られている。 トルコ政府は道路整備を重視しており、トルコ国内の道路網は2004年時点で63,220kmにおよんでいる。また、イスタンブール・アンカラを結ぶ高速道路 (Otoyol) も完成間近となった。貨物輸送はもちろん、短距離・長距離を問わず旅客輸送の中心もバスによる陸上輸送が中心で、大都市・地方都市を問わずトルコの都市には必ず「オトガル」と呼ばれる長距離バスターミナル (Otogal/Terminal) が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路線を運行している。また、世俗主義国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは親子や夫婦などを除き男女の相席をさせることはまずない。 トルコでは雇用所得がまだ低いことや、高額の自動車特別消費税(1600cc未満37%、1600cc以上60%、2000cc以上84%)、非常に高価なガソリン価格(2008年時点で1リットル当たり3.15YTL(約280円)程度)のために、自家用車の普及はあまり進んでいない。また、農村部においては現在でも人的移動や農作物の運搬のためにトラクターや馬を用いることはごく普通である。農村部や地方都市において露天バザールが開催される日には、アンカラやイスタンブールとはかけ離れたこれらの光景をよく目にすることができる。 トルコ共和国の位置するバルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国成立の過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。 トルコ共和国以前に存在した多言語、多宗教国家のオスマン帝国では、このような地域事情を汲み取って「ゆるやかな統治」を目指して統治を行い、帝国では信仰の自由を大幅に認めていたため、住民にオスマン帝国民という意識はほとんどなかった。各自の信奉するイスラム教や東方教会のキリスト教(ギリシア正教、アルメニア正教、シリア正教)といった宗教に分かれ、さらに言語ごとに細かいグループに分かれて宗教・言語のエスニック・グループの集団が存在し、イスラム教徒ではトルコ語、クルド語、アルバニア系、などの母語グループに分かれていた。この集団が、永らく人々のアイデンティティ形成と維持に主導的な役割を果たしてきたといえる。このため、国民国家としてのトルコ共和国成立に伴い、国内における民族意識(ナショナリズム)の醸成が急務となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定義するのかを画一的に判断することが非常に困難であった。このことは、1830年のギリシャ独立以降、トルコと隣国ギリシャ間でバルカン半島とアナトリア半島をめぐり領土紛争の勃発する要因となり、1922年に紛争の抜本的解決を目的に締結されたローザンヌ条約と住民交換協定では、トルコ国内に住む正教会信者のトルコ語話者は「ギリシャ人」、逆にギリシャ国内に住むイスラム教徒のギリシャ語話者は「トルコ人」と規定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。 こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、トルコ政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてトルコ語を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると同時にその時に、トルコにおける少数民族とは非イスラム教のギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の三民族であることを定義した。しかしながら、実際には共和国成立以前から東部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるものの、それらが少数民族とは認知していない。 少数派の民族としては、クルド人、アラブ人、ラズ人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ザザ人、ガガウズ人などが共和国成立以前から東部を中心に居住している。特に、クルド人はトルコ共和国内でトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は1,400~1,950万人と言われている。かつてトルコ政府はトルコ国内にクルド人は存在しないとの立場から、クルド語での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど、差別的に扱っていた。しかしながら、現在では少数民族の存在を認める政府の立場から、山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。実際問題として長年の同化政策の結果、今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分離した民主党 (DP) とは別組織)レイラ・ザーナ党首の釈放と同日に、国営放送であるTRTの第3チャンネル (TRT3) においてクルド語放送が行われた。2008年末には24時間クルド語放送を行うためTRTに第6チャンネルが開設され、2009年1月から本放送を開始した。 なお、クルド人はいわゆる北部南東アナトリア地域(南東アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、トルコ国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分布している。実際、クルド系政党民主国民党 (DEHAP) はトルコ全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降は全国的な農村部から都市への移住が増加に伴いクルド人も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降最も多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブール県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における大衆政党として草の根活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつける見方も存在する。 宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると、人口の 99 % 以上がムスリム(イスラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分証明書にその記載事項がないことから、宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その結果、一般的にはムスリムを信奉するトルコ国民の大半はスンナ派に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティであるアレヴィー派の信奉者がトルコ国内にも相当数存在しているとの主張もあり、一説には20%を越えるとも言われている。 その他の宗教には東方正教会、アルメニア使徒教会、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントなどが挙げられるが、オスマン帝国末期からトルコ共和国成立までに至る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。 一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者であるコンスタンディヌーポリ総主教はイスタンブールに居住しており、正教徒がごく少数しか存在しないトルコに東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。トルコ国内にある東方正教会の神品を養成するための「ハルキ神学校」は1971年からトルコ政府命令によって閉鎖されており、東方正教会へのトルコ政府からの圧迫の一つとなっている。 公用語のトルコ語のほか、クルド語(クルマンジー)、ザザキ語(ディムリ語、キルマンジュキ語)、チェルケス語派(英語版)(カバルド語、アディゲ語)、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、アラビア語(北メソポタミア・アラビア語(英語版)、アラビア語イラク方言)、バルカン・ガガウズ・トルコ語、ブルガリア語、ギリシア語(ギリシア語ポントス方言)、アルメニア語、カルトヴェリ語派(グルジア語、ラズ語)などが話されている。 1934年に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓をもつことが義務付けられたため、上流階級は他のアラブ諸国と同じように先祖の名前や出自に由来する『家名』を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起の良い言葉を選んで姓をつけている。婚姻の際は、以前は夫婦同姓のみが認められていたが、2001年の法改正により女性の複合姓が認められ、さらに2014年に最高裁において、婚前の姓のみを名乗ることを認めないことは憲法違反との判決が下され、完全な夫婦別姓も選択可能となったことで、選択的夫婦別姓制度が実現している。 義務教育機関として、8年制の初等教育学校 (ilk öğretim okulu) が置かれ、そのほか4年制(2004年9月入学以降、それ以前は3年制)の高等学校 (lise)、大学 (üniversite) などが置かれている。ほかに就学前教育機関として幼稚園 (anaokulu) なども存在する。初等教育学校を含めほぼ全ての学校が国立だが、私立学校も存在する。ただし、私立学校の1ヶ月間の学費は、給食費・施設費等込みで一般労働者の月収とほぼ同等で、きわめて高価である。 公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。トルコにも受験競争は存在し、高校入試・大学入試のために塾 (dershane) に通うことも珍しくない。 教員数・教室数はともに十分な数には達しておらず、初等教育学校は午前・午後の二部制である。また学校設備も不十分で、体育館・プールなどは公立学校にはまず存在しない。特に大都市の学校では運動場は狭くコンクリート張りで、バスケットボールやフットサルが精一杯である(地方においては芝生のサッカー場などを持つ学校も多い)。また、図書館も存在しないか、あっても不十分である。学校設備の問題に関しては国も認識し、世界銀行からの融資を受けるなどして改善を図っているが、厳しい財政事情もあって改善が進んでいない。 2004年現在、男子児童の就学率は統計上ほぼ100%に到達したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、トルコ政府は、「さあ、女の子たちを学校へ (Hadi Kızlar Okula)」キャンペーンを展開するなどその解消に努めている。しかし、女子非就学者の問題には、経済事情に加え、男女共学の上、未だ保守的なイスラムを奉ずる地域ではヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から問題視する親が存在するという事情もあり、女子非修学者の減少はやや頭打ちの状態である。 トルコでは、イスラム教の教えに基づいた創造論が学校等で公然と教育されており、進化論への検閲行為などの問題が生じている。また、クルド語を教育することはおろか、教育機関などでの「公的な場」で使用することさえ法律で禁止されており、これに違反した場合は国家反逆罪などで起訴される。実際に投獄された一般のクルド人も多い。 トルコの国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなどさまざまな文明が栄えた地であり、諸文化の混交がトルコ文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくはトルコの世界遺産を参照)。トルコの伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受け合いながら発展してきた。 近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明開化と同じように、西洋文明を積極的に取り入れてきたが、それとともにトルコ文学、演劇、音楽などの近代芸術は、言文一致運動や言語の純化運動、社会運動などと結び付いてトルコ独自の歴史を歩んできた。こうした近代化の一方で、歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。無形文化財ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少し、また剣術、弓術などいくつかの伝統的な技芸はすでに失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており、多くの遺跡が長らく管理者すら置かれない事実上の放置状態に置かれてきた。近年は、いくつかの有名なギリシャ・ローマ時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化されて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遺跡は風化の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているが、その保全対策は財政事情もありほとんどまったく手付かずの状態である。 トルコ料理は伝統的に世界三大料理 とされ、ギリシャ料理やシリア地方の料理(レバノン料理など)とよく似通っている。またイスラム教国ではあるが飲酒は自由に行われており、ブドウから作られアニスで香りが付けられたラク が有名。ワインやビールの国産銘柄も多数ある。コーヒー粉末と砂糖を入れた小さな容器を火にかけて煮出すトルココーヒーはユネスコの無形文化遺産に登録された。 ハリデ・エディプ・アドゥヴァル ナーズム・ヒクメット ヤシャル・ケマル オルハン・パムク - ノーベル文学賞(2006年) 伝統的なトルコ音楽の一つオスマン古典音楽はアラブ音楽との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブールに暮らした作曲家が残したものである。 建築は、イランとギリシャ双方の影響を受け、トルコ独自の壮麗なモスクやメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナンであり、スレイマン・ジャミィなどに当時の文化を垣間見ることができる。 俗に「トルコ風呂」などと呼ばれている公衆浴場文化(トルコ本国においては性風俗店の意味はなく、伝統的浴場の意である)は、中東地域に広く見られるハンマーム(ハマム)の伝統に連なる。逆に、中東、アラブの後宮として理解されているハレムとは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイメージが、オリエンタリズム的な幻想に乗って伝えられたものであった。 トルコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が11件、複合遺産が2件存在する。 トルコでは政治的な理由でネット検閲が行われている。2014年には裁判所の命令がなくてもウェブサイトを遮断したり、インターネットを通じて個人の閲覧記録を収集することを首相に認める法律(インターネット法に関する5641改正法)が可決されている。 そのため、YouTubeなどGoogle関連を含む約3700の外部サイトへのアクセスは政府によってブロックされており、反政府運動の抑え込みや言論統制を理由にFacebookやTwitterなどソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)も度々ブロックされている。 2017年4月29日にはトルコ政府は国内からのウィキペディアへの通信を遮断したと発表。運輸海事通信省(英語版)はウィキペディアに政府がテロ組織と連携しているような記事が書かれていることを非難し、「トルコに対して中傷作戦を展開する情報源の一部になっている」と主張している。当局はウィキペディアに対して削除を要請したが、ウィキペディア側は拒否したという。ウィキペディア側が要請に応じた場合、遮断解除を行うとしている。 トルコにおいて国民的なスポーツとしては、まずサッカー(トルコ語でfutbol:発音フトボル)があげられる。トルコ国内には、18のプロクラブが参加するスュペル・リグ (Süper Lig) を頂点に2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部の地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボール・バレーボールなど、他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。 トルコはUEFA加盟国であるため、スュペル・リグ上位クラブはUEFAチャンピオンズリーグ・UEFAヨーロッパリーグに参加可能である。その中でもイスタンブールのフェネルバフチェ (Fenerbahçe) ・ガラタサライ (Galatasaray) ・ベシクタシュ (Beşiktaş) とトラブゾンのトラブゾンスポル (Trabzon Spor) は4大クラブと呼ばれ、テレビ・新聞などでの報道量も他に比べ抜群に多い。これらのクラブは実力的にも上位にあるためUEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するクラブは、半ばトルコ代表として扱われることもあり、これらの強豪は地域にかかわらず全国的に人気がある。また、イスタンブールのフェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3クラブはイスタンブール証券取引所に上場する上場企業でもある。2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグの決勝はイスタンブールのアタテュルク・オリンピヤット・スタドゥで行われ、イスタンブールの奇跡が起こった。サッカートルコ代表は2002 FIFAワールドカップで3位に入るなど健闘した。この大会では開催国の日本と韓国に勝利しており、同一大会で2つの開催国に勝つという珍しい記録を達成した。また優勝したブラジルには2回敗北している。 ほかにプロスポーツとしてはバスケットボール・バレーボールのプロリーグが存在する。特にバスケットボールはNBAでのトルコ人選手の活躍や2010年に世界選手権が開催されたこともあり、近年人気が上昇している。 また2005年から2011年まではF1トルコGPが開催されており、WRCのラリー・オブ・ターキーとあわせてモータースポーツにおける発展も期待される。 650年の歴史をもつ伝統格闘技としてヤールギュレシ(オイルレスリング)があり、トルコの国技となっている。アマチュアスポーツとしてはレスリング、重量挙げなど人気がある。またトルコ人の気風を反映してか、柔道・空手道の道場も非常に多い。 競馬や競走馬の生産も行われており、日本産馬ではディヴァインライトがトルコで種牡馬として供用されている。 ボスポラス海峡に浮かぶ「乙女の塔」(イスタンブール) オルタキョイ・モスクと夕暮れのボスポラス海峡(イスタンブール) ユルドゥルム・バヤズィド・モスク(ブルサ) セリミエ・モスク(エディルネ) アヤソフィア(イスタンブール) パムッカレの石灰棚 タフタル山(オリンポス山) オリンポスのダイバー マナヴガットの滝 ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). 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ケーミ)。 アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形のミスライム (מצרים, ミツライム) となる。 公式の英語表記は Arab Republic of Egypt。通称 Egypt [ˈiːdʒɨpt]。形容詞はEgyptian [ɨˈdʒɪpʃən]。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハ神の魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話のアイギュプトスにちなむ。 日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト。漢字では、埃及と表記し、埃と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。 1882年 - 1922年 (イギリス領エジプト(英語版)) 1922年 - 1953年 エジプト王国 1953年 - 1958年 エジプト共和国 1958年 - 1971年 アラブ連合共和国 1971年 - 現在 エジプト・アラブ共和国 「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。 3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年にアケメネス朝ペルシアに支配された。 紀元前332年には、アレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系のプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心の一つとして栄えた。 プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。 7世紀にイスラム化。639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝、イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。 1517年に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国の下でもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト(英語版))。 1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功。アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。 ムハンマド・アリーは綿花を主体とする農産物専売制をとっていたが、1838年に宗主オスマン帝国がイギリスと自由貿易協定を結んだ。ムハンマド・アリーが1845年に三角州の堰堤を着工。死後に専売制が崩壊し、また堰堤の工期も延びて3回も支配者の交代を経た1861年ようやく一応の完工をみた。1858年末には国庫債券を発行しなければならないほどエジプト財政は窮迫していた。スエズ運河会社に払い込む出資金の不足分は、シャルル・ラフィット(Charles Laffitte)と割引銀行(現BNPパリバ)から借りて、国庫債券で返済することにした。イスマーイール・パシャが出資の継続を認めた時、フランスのナポレオン3世の裁定により契約責任を問われ、違約金が自転車操業に拍車をかけた。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させた。この前後(1862-73年)に8回も外債が起債され、額面も次第に巨額となっていた。エジプトはやむなくスエズ運河会社持分を398万ポンドでイギリスに売却したが、1876年4月にデフォルトした。 英仏が負債の償還をめぐって争った。エジプトの蔵相は追放された。イタリアやオーストリアも交えた負債委員会が組織された。二回目のリスケジュールでイスマーイール一族の直轄地が全て移管された。しかし土地税収が滞った。 1882年、アフマド・オラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの保護国となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。さらにサアド・ザグルールの逮捕・国外追放によって反英独立運動たる1919年エジプト革命が勃発し、英国より主政の国として独立した。 第一次大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。 エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。第二次世界大戦では、枢軸国軍がイタリア領リビアから侵攻したが、英軍が撃退した(北アフリカ戦線)。第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。 この状況を受けて1952年、軍内部の秘密組織自由将校団がクーデターを起こし、国王ファールーク1世を亡命に追い込み、ムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命)。生後わずか半年のフアード2世を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位して共和政へと移行、ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となり、エジプト共和国が成立した。 1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルのもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年の第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。 1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、ソビエト連邦に代えてアメリカ合衆国など西側諸国に接近。社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切る上で、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。しかし、サーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺された。エジプトはオイルショックによって経済改革を漸進させていた。 イラクのクウェート侵攻はエジプトの国際収支を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。 ムバラク政権は1990年12月に「1000日計画」と称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す湾岸戦争では多国籍軍へ2万人を派兵した。これにより約130億ドルも対外債務を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務は、クウェート、サウジアラビアに対するものと、さらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には国際通貨基金のスタンドバイクレジットおよび世界銀行の構造調整借款(SAL)が供与され、パリクラブにおいて200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのは、ドル・ペッグによる為替レート一本化であった。 海外の機関投資家に有利な条件が整えられていった。イスラム主義運動は厳しく弾圧された。喜捨の精神は失われていった。1997年にはイスラム集団によるルクソール事件が発生している。1999年にイスラム集団は武装闘争放棄を宣言し、近年、観光客を狙った事件は起こっていない。しかし、ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された。 2002年6月、エジプト政府は15億ドルのユーロ債を起債したが、2002-3年に為替差損を被り、対外債務を増加させた。 チュニジアのジャスミン革命に端を発した近隣諸国の民主化運動がエジプトにおいても波及し、2011年1月、30年以上に渡って独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱をまねいた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリ(英語版)を暫定首相とする政権が発足した。その後2011年12月から2012年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。 2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動(英語版))。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換。ムハンマド・イブラヒーム(アラビア語版)が内相に就任した2013年1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない。イブラヒーム内相は、国民が望むならば辞任する用意がある、と2月に述べている。下落するエジプト・ポンドがとめどなくUSドルに交換され、外貨準備を減らすような混乱が同月10日のロイター通信で報じられている。下落は1月から起きており、同月にはドバイのエミレーツNBD(Emirates NBD)がBNPパリバのエジプト支店を完全買収した。オイルマネーがエジプト経済を我が物にする社会現象が起こっていた。さらに『フィナンシャル・タイムズ』が1月19日に報じたのは、エチオピアがナイルの川上に48億ドルの予算をかけてダムを造るという計画であった。混乱中のエジプトが水紛争で負ければ大きな水ストレスが生じるだろうと予測された。 2013年4月、エジプト中央銀行はリビアから20億ドルの預金を得た。リビア側が利害を説明したところによると、リビアはエジプト株を100億ドル近く保有しているという。リビアは世界金融危機の時から欧米のメガバンクと癒着を疑われている。 ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた。8月下旬にムバラクが釈放され、国内銀行が平常運転に復帰した。8月30日のCNNでは、中国石油化工が米国ヒューストンのアパッチ(Apache Corporation)とエジプト内油田事業を提携したことが報じられた。10月下旬、アラブ首長国連邦がエジプトに50億ドルの支援を申し出た。エジプトエリートの売国とソブリン危機は翌年4月まで深化していった。 なお、イブラヒームは、クーデター後に成立したベブラーウィー暫定内閣でも続投している。 2014年5月、エジプト出身のエコノミストであるシャフィク(Nemat Shafik)がイングランド銀行副総裁に指名された。彼女は世界銀行でキャリアを積んでから、世界金融危機以降に欧米で国際金融機関に関する包括的な調査にあたった。 同5月26〜28日に行われた大統領選挙に当選したアブドルファッターフ・アッ=シーシーが6月8日、大統領に就任し、8月5日からは新スエズ運河の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。2015年3月13日には、カイロの東側に向こう5─7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした。行政と経済の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米ニューヨークのマンハッタンのおよそ12倍の面積の予定であり、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わしたアラブ首長国連邦のエマール・プロパティーズや中国の中国建築股份有限公司との破談はあったものの2016年4月に地元企業によって工事を開始し、代わりにエジプト政府がピラミッドに匹敵する一大事業のランドマークと位置づけているアフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う中央業務地区を中国の銀行が8割超融資して中国建築が請け負うこととなり、2018年3月18日に着工式が行われた。 アラブ首長国連邦(UAE)や中国と破談した背景には通貨不安が存在する。2016年11月3日、エジプト中央銀行が変動相場制を採用すると発表した。エジプト・ポンドが売られるのを革命の影響だけで片付けるには、この不安は長引きすぎている。同行は6日後、国際金融機関から20億ドルのレポ借入を始めた。4月に国際通貨基金からも120億ドルを借りている。エジプトは経済主権を失っている。ガーディアンが10月4日に報じたところでは、国際金融機関のバークレイズがエジプト事業をワファバンクに売却した。 2017年末、政府が世界銀行に対し、エチオピアのダム事業を差し止めるように要請した。世銀は5月にエジプトへ10億ドルを追加融資しており、エジプトは厳しい立場にある。翌2018年1月中旬にエチオピアとの水紛争が妥協に至った。5月末にエジプトの対外債務累積額は829億ドルであった。9月、ムバラクの息子ら二人(Gamal and Alaa)がエジプトの株価を操作した疑いで逮捕された。 共和制 国家元首の大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍(エジプト軍)の最高司令官でもある。大統領の選出は、直接選挙による。任期は4年で、三選禁止となった。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。 第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領ホスニー・ムバーラクは1981年の就任以来、約30年にわたって独裁体制を築いた。ムバーラクの親米・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、多選可。議会が候補者を指名し、国民は信任投票を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。 2011年9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態となり、2月11日、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣で軍最高評議会議長のムハンマド・フセイン・タンターウィーが元首代行を務め、それは2012年エジプト大統領選挙の当選者ムハンマド・ムルシーが6月30日に大統領に就任するまで続いた。2011年3月19日、憲法改正に関する国民投票が行われ、承認された。 しかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年、軍事クーデターが勃発。ムルシーは解任され、エジプトは再び軍による統治へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され、同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。 議会は、一院制の人民議会(マジュリス・アッ=シャアブ)。全508議席で、498議席は公選、10議席は大統領指名枠。任期5年。これとは別に、諮問評議会(シューラ)が1980年設置されたが、立法権は有さない大統領の諮問機関である。全270議席で、180議席が公選、90議席が大統領指名枠。 2011年11月21日、イサーム・シャラフ暫定内閣は、デモと中央治安部隊の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは11月22日テレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した。 人民議会選挙は2011年11月28日から2012年1月までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も3月11日までに実施された。また5月23日と24日に大統領選挙の投票が実施された。 しかし、6月14日に最高憲法裁判所が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効」(3分の1の議員について当選を無効と認定)との判決を受け、16日までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた。大統領選挙の決選投票は6月16日と17日に実施され、イスラム主義系のムハンマド・ムルシーが当選した。 2011年3月28に日改正政党法が公表されて、エジプトでは宗教を基盤とした政党が禁止された。そのため、ムスリム同胞団(事実上の最大野党であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党(アラビア語: حزب الحرية والعدالة‎ - Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala, 英: Freedom and Justice Party)が結成された。また、ヌール党(サラフィー主義、イスラーム保守派)、新ワフド党(エジプト最古の政党)、政党連合エジプト・ブロック(英語版)(含む自由エジプト人党(世俗派)、エジプト社会民主党(中道左派)、国民進歩統一党(左派))、ワサト党、政党連合革命継続(英語版)、公正党(英語版)(アラビア語: حزب العدل‎ - Hizb ElAdl, 英: Justice Party、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた。 首相(英語版)・ムスタファ・マドブーリー 2018年6月就任。 国防大臣(英語版)・セドキ・ソブヒィ(英語版) 2014年3月就任、エジプト軍総司令官。 ナポレオン法典とイスラム法に基づく、混合した法システム。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。フランスにおける裁判所の二元性(フランス語版)参照。 最高憲法裁判所(英語版) - 法律が違憲か否かを判断する。1979年設立。長官はアドリー・マンスール(2013年7月1日-)。他、10人の判事は1998年から2013年7月までに着任している。長官は最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)の委員長を兼任していたが、2012年9月には副長官ハーティム・バガートゥーが務めていた。 司法省管轄の一般の裁判所 - 最高裁判所(破毀院、1931年設立)と以下の下級裁判所(控訴院、第一審裁判所、地区裁判所および 家庭裁判所-2004年設立)からなる。 国務院管轄の行政裁判所 - コンセイユ・デタ - 1946年設立。2011年2月19日、従来の政党委員会(政府運営)の申請却下に対する不服申し立てを認めた形の判決で、政党の許認可を、4月16日、与党・国民民主党(NDP)の解散を、裁定した。 国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には非同盟諸国の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年のキャンプ・デービッド合意とその翌年の[イスラエル国交回復によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、1981年にサーダートが暗殺された後に政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年にはシリア、レバノン、リビアを除く全てアラブ諸国との関係が回復した。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には国際連合安全保障理事会の常任理事国入りを目指すことを表明した。2011年、パレスチナのガザの検問所を開放した。また、イランと関係修復しようとしている。 シーシー政権はムスリム同胞団政権時代のこうした外交政策とは一線を画している。欧米や日本、親米アラブ諸国、イスラエルのほか、中国やロシアなどと広範な協力関係を築いている。 2017年カタール外交危機では、サウジアラビアとともに、ムスリム同胞団を支援してきたカタールと国交を断絶した国の一つとなった。またサウジアラビアとは、アカバ湾口に架橋して陸上往来を可能とするプロジェクトが話し合われた(チラン島を参照)。 中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は468,500人。予備役479,000人。兵員数は陸軍34万人(軍警察を含む)、海軍18,500人(沿岸警備隊を含む)、空軍3万人、防空軍8万人。内務省管轄の中央治安部隊、国境警備隊と国防省管轄の革命国家警備隊(大統領親衛隊)の準軍事組織が存在する。 イスラエルとは4度にわたる中東戦争で毎回干戈を交えたが、第二次中東戦争で政治的な勝利を得、第四次中東戦争の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。その後はイスラエルと接近し、シーシー政権下ではシナイ半島で活動するイスラム過激派(ISIS)に対する掃討作戦で、イスラエル空軍による爆撃を容認していることを公式に認めた。 軍事的にはアメリカと協力関係にあるため、北大西洋条約機構(NATO)のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。また、ロシアや中国からも軍事支援を受けており、上海協力機構への加盟も試みている。 エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ(محافظة, 県、州 と訳されることもある)である。知事は、中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において、中央集権体制をとる。極端な行政区分でナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、ナイル流域以外が全域砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。 アフリカ大陸北東隅に位置し、国土面積は1,002,450平方キロメートルで、世界で30番目の大きさである。国土の90%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠(リビア砂漠)、東側には紅海とスエズ湾に接する東部砂漠(الصحراء الشرقية - シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8000km²の広さをもつカッターラ低地は海面より133mも低く、ジブチのアッサル湖に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。シナイ半島の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰のカテリーナ山 (2637m) や、旧約聖書でモーセが十戒をさずかったといわれるシナイ山 (2285m) がある。シナイ半島とナイル河谷との間はスエズ湾が大きく湾入して細くくびれており、ここがアフリカ大陸とユーラシア大陸の境目とされている。この細い部分は低地であるため、スエズ運河が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。 ナイル川は南隣のスーダンで白ナイル川と青ナイル川が合流し、エジプト国内を南北1545kmにもわたって北上し、河口で広大なデルタを形成して地中海にそそぐ。アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり、アシュート近辺で分かれた支流がファイユーム近郊のカールーン湖(Birket Qarun、かつてのモエリス湖)へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なファイユーム・オアシス(英語版)を形成している。一方本流は、カイロ近辺で典型的な扇状三角州となるナイル・デルタは、地中海に向かって約250kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内で最も肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから下エジプトと上エジプトという、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域を指し、後者はカイロから上流の谷を指している。ナイル河谷は、世界でも最も人口密度の高い地域の一つである。 ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人がオアシスに集まって住むのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側にはワジが全く。シーワ、ファラーフラ、ハルガ、バハレイヤ、ダフラといったオアシスが点在している。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルとアラビア半島を結ぶ重要な交通路に位置しているため、いくつかの小さな港が存在する。 1885年に列強がドイツのベルリンで開いた会議で、それまでに植民地化していたアフリカの分割を確定した。リビア国境の大部分で東経25度に、スーダンでは北緯22度に定めたため、国境が直線的である。 スーダンとの間では、エジプトが実効支配するハラーイブ・トライアングルに対してスーダンも領有権を主張している。一方、その西にあるビル・タウィールは両国とも領有権を主張していない無主地である。 国土の全域が砂漠気候で人口はナイル河谷およびデルタ地帯、スエズ運河付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠に属する。夏には日中の気温は40℃を超え、50℃になることもある。降雨はわずかに地中海岸にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13〜14℃、上エジプトで16℃程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。 2010年のエジプトのGDPは約2168億ドル(約17兆円)。アフリカでは屈指の経済規模であり、BRICsの次に経済発展が期待できると言われているNEXT11の一国にも数えられている。しかし、スエズ運河収入と観光産業収入に依存するところが大きく、政情に左右されやすい。かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが少なくなった上、アスワン・ハイ・ダムの建設によって上流からの土壌がせき止められるようになった、そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大し、農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったためにコストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。1970年代に農業の機械化及び各種生産業における機械への転換により、労働力の過剰供給が見受けられるようになり、都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招くも、80年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。この為綿花及び綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するが、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大及び失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるが、結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化及び税制改革に取り組んでいる。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生した。 エジプトの交通の柱は歴史上常にナイル川であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。ファルーカという伝統的な帆船や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。 鉄道は、国有のエジプト鉄道が運営している。営業キロは5,063キロメートルにのぼり、カイロを起点としてナイル川デルタやナイル河谷の主要都市を結んでいる。 航空は、フラッグ・キャリアであるエジプト航空を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港はこの地域のハブ空港の一つである。 エジプトの人口は、8254万人(2013年1月現在)で、近年急速に増大し続けている。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、ピラミッド型の人口構成をしている。しかし、若年層は更に増加傾向にあるにも関わらず、経済はそれほど拡大していないため、若者の失業が深刻な問題となっており、2011年エジプト騒乱の原因の一つともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033 %。 住民はイスラム教徒とキリスト教徒(コプト教会、東方正教会など)からなるアラブ人がほとんどを占め、その他にベドウィン(遊牧民)やベルベル人、ヌビア人(英語版)、アルメニア人、トルコ人、ギリシア人などがいる。遺伝的に見れば、エジプト住民のほとんどが古代エジプト人の直系であり、エジプト民族との呼称でも呼ばれる所以である。また、エジプト人の大半は、イスラム勢力のエジプト征服とそれに続くイスラム系国家の統治の間に言語学的にアラブ化し、本来のエジプト語を捨てた人々であるとする見解がある。それだけではなく、長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入・定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。現代においてカイロは世界都市となっており、また歴史的にもアル=アズハル大学は、イスラム教スンナ派で最高権威を有する教育機関として、中東・イスラム圏各地から人々が参集する。 なお古代エジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしていることが多い。すなわち、ギザの大スフィンクスやギザの大ピラミッドを建て、太陽神や様々な神を信仰(エジプト神話)していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。 現在のエジプトではアラビア語が公用語である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語(フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言である[要出典]。 古代エジプトの公用語であったエジプト語(4世紀以降の近代エジプト語はコプト語の名で知られる)は、現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民は極めて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である。他には地域的にヌビア諸語、教育・ビジネスに英語、文化においてはフランス語なども使われている。 宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(が、既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる。 エジプトの教育制度は、1999年から小学校の課程が一年延び、日本と同じく小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年の6・3・3・4制となっている。 義務教育は小学校と中学校の9年である。1923年のエジプト独立時に初等教育は既に無料とされ、以後段階的に無料教育化が進み、1950年には著名な作家でもあった文部大臣ターハー・フセインによって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めた全ての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の教員が給料の少なさなどから個人の家庭教師を兼任することが広く行われており、社会問題化している。高額な授業料を取る代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。エジプト国内には、20万以上の小中学校、1000万人以上の学生、13の主要大学、67の師範学校がある。 2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された。 主な高等教育機関としては、アル=アズハル大学(988年~)、吉村作治、小池百合子等が出身のカイロ大学(1908年~)などが存在する。 国立図書館として新アレクサンドリア図書館が存在する。 古代エジプトの建造物で有名。 ボードゲームやカードゲームの発祥の地としても知られている。 座った時に足を組むと、相手に敵意があると受けとられる。 古代エジプトにおいてはパピルスにヒエログリフで創作がなされ、古代エジプト文学には『死者の書』や『シヌヘの物語』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラビア語文学の一つの中心地となった。近代の文学者としてターハー・フセインの名が挙げられ、現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。 エジプト国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。 メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯 - (1979年、文化遺産) 古代都市テーベとその墓地遺跡 - (1979年、文化遺産) アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群 - (1979年、文化遺産) カイロ歴史地区 - (1979年、文化遺産) 聖カトリーナ修道院地域 - (2002年、文化遺産) ワディ・アル・ヒタン - (2005年、自然遺産) 鈴木恵美編著『現代エジプトを知るための60章』、明石書店、2012年 ISBN 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"サウジアラビア王国 المملكة العربية السعودية 国の標語:لا إله إلا الله محمد رسول الله (lā ilāhā illā-llāhu; muhammadu rasūlu-llāhi) (アラビア語:アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり) 国歌:サウジアラビアの国歌 サウジアラビア王国(サウジアラビアおうこく、アラビア語: المملكة العربية السعودية‎)、通称サウジアラビアは、中東・西アジアの国家。首都はリヤド。サウード家を国王に戴く絶対君主制国家。世界2位の原油埋蔵量を持つ国であり、石油(原油)を中華人民共和国をはじめ世界中に多く輸出している。イスラム教最大の聖地メッカ(マッカ)と第2のマディーナ(メディナ)を擁する。世界銀行の定義では高所得国に分類され、アラブ諸国で唯一G20に加盟しているが、産業の多様性には乏しく、天然資源開発が主要産業となっている。 サウジアラビアにおける死刑や信教の自由、女性の人権など、欧州と異なる文化、法体制に対しては批判もある。 アラビア文字による正式名称はالمملكة العربية السعودية(翻字: al-mamlakah al-ʿarabīyah al-suʿūdīyah, アル・マムラカ・ル・アラビーヤ・ッ・スウーディーヤ)であり、「サウード家によるアラビアの王国」を意味する。通称السعودية(al-suʿūdīyah, アッ=スウーディーヤ)。 公式の英語表記は Kingdom of Saudi Arabia(キングダム・オヴ・サウディ・アレイビア)。通称 Saudi Arabia(サウディ・アレイビア)。国民・形容詞はSaudi。日本語での表記はサウジアラビア王国。通称サウジアラビア。まれにサウディアラビアとも表記される。サウジと略して呼ばれることも多い。 リヒテンシュタインと同様に、国際連合加盟国でも非常に珍しい「統治王家の名前」を国名にしている国家である。 この国が現在存在する地域には長い歴史があるが、サウード王家自体は1744年に中央アラビアのナジュド地方に登場している(第一次サウード王国)。この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウード(英語版)は宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと盟約を結び、新たな国家体制をつくった。この同盟は18世紀に形成され、今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国そして他のアラブ部族ラシード家(英語版)のジャバル・シャンマル王国と争い興亡を繰り返した(第二次サウード王国参照)。 第三のそして現在のサウード国家は、1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。 1915年にメッカ(マッカ)の太守(シャリーフ)であったハーシム家のフサイン・イブン・アリーが、イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスの協力を得てアカバを占領し、その後ダマスカスに進軍してヒジャーズ王国を建国した(アラブ反乱)。 アブドゥルアズィーズは、1913年からハサー、1921年のハーイル征服(英語版)までにカティーフ、ナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)を制圧した。そして1926年までにヒジャーズ王国を制圧し(サウード家のヒジャーズ征服(英語版))、1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となる。1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日に結ばれたジッダ条約によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立。1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が成立した。1934年、サウジ・イエメン戦争、イドリシ朝アスィール首長国(英語版)を併合した。 アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済には及ばず、1933年にサウジアラムコが設立され1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった(サウジアラビアの石油産業の歴史(英語版))。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。 アブドゥルアズィーズは1953年の崩御を前に、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図っている。同年に次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウードの経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトのナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウードは退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王に即位した。1973年の第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。 1975年に家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド(英語版)王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。1979年にイラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。1982年にハーリドが崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。 1990年にイラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに敬虔なイスラム教徒たちは反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。 2005年にファハドが崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、ナーイフ、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。 2015年1月、アブドゥッラーが崩御し、異母弟のサルマーンが第7代国王に即位、異母弟のムクリンが皇太子となった。同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフが皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。 サウード家による絶対君主制でワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としており、後述の時期になるまでは憲法をもたなかった政教一致。要職は王族が独占しており、ギネス世界記録には王族の数が世界最大と記載されている。サルマーン現国王は第2世代であるが現在は第6世代まで誕生している。 建国以来、長年にわたって不文憲法を貫いていたが、ヒジュラ暦1412年シャアバーン27日(1993年3月1日)に公布された統治基本法が憲法の役割を果たすようになった。また、同時に諮問評議会法や地方行政法も発布され近代法治国家としての体裁が整えられた。 政府は統治基本法が憲法であるとしているが、一方でその第1条に「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と明記されており、実態はクルアーンこそが『憲法』である。同じイスラム教でも、シーア派は敵視されている。 従来は内閣も議会も存在せず、勅令が法律公布と同義となり、行政も勅令の他、クルアーンやシャリーアに則って施行されてきたが、統治基本法公布によって選挙が行われ、内閣に相当する閣僚評議会や国会に相当する諮問評議会、そして地方議会も設置された。ただし首相格の閣僚評議会議長は国王の兼任である。 国内は13の州に分割されている。勅任の知事(アミール)が就任するがサウード家出身者以外は認められない。 税金のない国と言われることもあるが、実際には統治基本法にザカート税(喜捨の義務)が明記されており、ザカート税法の規程が存在する。徴税担当は「所得税およびザカート税省」。属人主義であるシャリーアを基準とするサウジアラビアではサウジアラビア人とそれ以外の外国人では適用される税法が異なる。税率的にはほとんど変わらないが、サウジアラビア人にはザカート税を、外国人には所得税を課す。 税金がないといわれる一因には、ワッハーブ派の法理ではザカートとワクフ以外の財産徴収はシャリーアに反する搾取であると考えられているため、欧米で言うところの税金は搾取であり憲法違反であるとされているからである。これはオイルマネーで潤っているからというわけでもなく、油田発見以前の貧しい国だった時代にも初代国王が欧米式の税制を導入しようとした時にイスラムに反するとして猛反対されて実施されなかった過去がある。ザカート、ワクフは欧米の税金とは違うものであるとする主張を採用すれば税金のない国となる。 サウジアラビアでは宗教が法律となりコーランに基づくイスラム法(シャリーア)により統治が行われている。しかし、実際は部族的慣習がそのまま社会的慣習となっているケースが多く、数々の矛盾を孕んでいるため、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生み出している。この複雑な法体系の近代化が進められ、現代では大幅に制度改革が実施されている。 司法は原則としてワッハーブ派に基づいて執行されることになっているが、東部州のシーア派住民は法務省の下位機関であるシーア派裁判所のシーア派の裁判官(カーディー)による裁判権が認められている。このため、一国に二種類の刑法と民法が存在するという複雑な事情があり、どちらの裁判所によって判決が出されるかによって適用される法律が異なる場合もある。ただし、シーア派に認められているのは24条の刑法と婚姻、遺産相続、ワクフのみであり、ワッハーブ派住民とシーア派住民の間で訴訟になった場合にはワッハーブ派の法が優先される差別的な状況になっている。 通常の警察組織とは別に、勧善懲悪委員会と呼ばれる宗教警察が厳しい取り締まりを行っており、違反者は外国人であっても問答無用で逮捕される。 原則的に女性と男性は完全に区別されている。公共の場所でのアバヤ(ベール)、ヒジャーブ(スカーフ)、ニカーブ(顔のベール)の着用は、一般にサウジアラビアの習慣について語る際にしばし用いられる特徴的なことであろう。女性による自動車の運転も世界で唯一禁止されてきたが(イスラムでは禁じられていない)、2017年9月26日にサルマーン国王が運転を許可する勅令を出し、2018年6月24日解禁された。結婚、就職、旅行など全ての行為について、女性は父またはその男兄弟(即ち、伯父または叔父)、夫などの「男性保護者」の許可が必要である。20世紀初頭までのアジアでのいわゆる「三従」に似る。 裁判はアラビア語のみで行われ、仮に被告がアラビア語を理解できなくても通訳なしで一方的に進められる。また、証人はイスラム教徒の男性がアラビア語で証言しなければ証拠能力を認めない。このため、アラビア語を理解できない外国人労働者には極めて不利な裁判になる。 酒やポルノ類の持込などに対しては、重刑が課せられる。イスラム思想に則り法整備をしており、麻薬、強姦、殺人、同性愛においては死刑、窃盗においては手首切断や、飲酒においては鞭打ち刑などの身体刑を行っており、また裁判についても、被告人が理解できない言語で公判が進められたりと公平でない上、判決を容認しない場合は、弁護士などは資格を剥奪される。これらの法令は西欧各国のメディアにより非難されている。 2005年5月には、スリランカから出稼ぎに来ていたリザナ・ナシカというメイド(事件当時17歳)が、乳児にミルクを与えた際に気管に詰まり、メイドが救命措置を取ったが死亡してしまい、事故死ではなく殺人であると判定され、死刑が宣告された。スリランカ政府は寛大な処分を求めたが、それにもかかわらず2013年1月、斬首刑が執行された。 ムハンマドの慣例に従い、9歳女子との結婚を認めるというイスラーム法が存在するため、10歳前後での早婚も公に認められている。一例ではあるが親の借金のかたに結婚させられる8歳の幼女までも存在し、上記のイスラーム法に定められた年齢になるまで性行為を行わないことを条件に結婚の継続が承認されている。これに関しては批判も少なくないが、サウジの大ムフティーであるアブドルアジズ・アール=アッシャイフが、イスラーム法上10歳の少女でも結婚・性行為の対象とすることができ、批判者は少女への不正義を行っていると逆に批判した。 名誉殺人も存在しているとされ、認められれば罪に問われないことが多い。家族を他の宗教に改宗させようとした外国人とその家族を射殺した男は、これにより無罪判決が下った。 ディーヤと呼ばれる制度があり、被害者の法定相続人が加害者を許した場合は罪に問われない。これは金銭によって示談になった場合にも適用される。 保守的なサウジアラビアの司法制度であるが、近年になってからはさまざまな司法制度改革が行われている。 建国以来、長年にわたって憲法がなかったが、1993年3月1日に公布された統治基本法が実質的な憲法となった。 シャリーアでは特許や著作権などの欧米では一般的な権利について認めていなかったが、1989年に特許と著作権に関する法律が施行され、1990年には特許を認定する特許局が設置された、サウジアラビア人の特許が初めて認められたのは1996年のことである。特許は15年間有効とされ、さらに5年間の延長が可能である。 ただし、サウジアラビアで公式の暦はヒジュラ暦であり、1年がグレゴリオ暦にくらべて11日ほど短いため、期限切れがグレゴリオ暦のそれよりも若干早く来るという特徴がある。 2007年10月に出された勅令により始まり、2009年2月14日の勅令で大規模な司法制度改革が行われた。今までの最高司法委員会に代わって最高裁判所、控訴裁判所、普通裁判所が設置され日本や欧米のような三審制の裁判が行えるようになった。2009年2月14日の勅令で大規模な人事異動が実施され、初めての女性副大臣が誕生するなどリベラル派人材への大幅入れ替えが実施された。 国際人権規約(自由権、社会権)に批准しておらず、厳格にシャリーアを執行する姿勢に対して、欧米諸国から批判が多々ある。しかし、批判国に対する石油輸出停止などの経済制裁がたびたび実行されているため、これらの報復を恐れて国交断絶や経済制裁などを発動する先進国は皆無となっている。また中東有数の親米国家であることから、アメリカ合衆国は、アメリカ中央軍の部隊を駐留させて中東の反米諸国を牽制している。 基本統治法は第26条で「王国はイスラム法にのっとり人間の権利を保護するものとする」と明文規定するが、ここに定める“人間の権利”とはイスラム法における権利であって、西洋的な「人権」とは異なる概念である。また、雇用主による外国人就労者に対するパスポートの取り上げ(スポンサー制度)も横行しており、国際労働機関から再三にわたり改善勧告を受けている。近年、スポンサー制度を一括管理する民間機関の設置が議論されているが、本格的な実施には至っていない。 2014年2月には、「社会の安全や国家の安定を損なう」全ての犯罪行為、「国家の名声や立場に背く」行為をテロリズムと判じ、処罰対象にする対テロ法を施行した。これにより捜査当局は“容疑者”の尾行や盗聴、家宅捜索が可能になる。ヒューマン・ライツ・ウォッチは「当局がすぐに平和的な反体制活動家に対して新法を利用するだろう」と警鐘を鳴らした。 最初に国交を結んだ国はソビエト社会主義共和国連邦であるも、反共主義と君主制のために独立後、冷戦時はアメリカ合衆国や宗主国イギリスなどの西側諸国と緊密な関係を築き(ただし、冷戦時代でもオイルショックで西側諸国に経済制裁を行った際やアメリカに無断で中華人民共和国から弾道ミサイルを導入して摩擦もあった)、今日も中東では最大の親米国家で同盟国とされる。そのため、サウジアラビアの内政を西側諸国は表立っては非難しない最大の要因となっており、外交では常にサウジアラビアの姿勢・立場を擁護しており、イランやシリア等の反米国家に対する対応とは正反対となっている。一方で湾岸協力会議やイスラム協力機構の盟主としてイスラム圏に影響力を持ち、ユダヤ人国家であるイスラエルを承認していない。しかし両国ともにアメリカやイギリスとの関係が深いことから、表面的には対立を避けている。また、歴史的な関係が深く、ともに王室が存在しているスペインとは王室同士の交流が頻繁にあるなど、元来友好関係が深い。なお、イスラム国家に対する対立の歴史がない日本とも特に1960年代の高度経済成長以降日本がエネルギー外交を進めることもあり、石油の輸出入などの貿易を含め敵対的でない関係にある。しかし、サウジアラビアには文化の大きな違いがあるため宮内庁は日本の皇室のサウジアラビアへの接近には極めて慎重である。反面、経済的理由からサウジアラビアとのつながりを深めたい内閣等の強い要望で、皇太子徳仁親王が何度か訪問したことがあり、アブドラ国王崩御の際にも訪問している。 シーア派のイランとは敵対関係にあり、2016年1月2日にサウジアラビアがシーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにイランとの関係は急速に悪化。イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけにイランとの国交を断絶し、これにバーレーン、スーダンも続いてイランとの国交断絶を表明した。シーア派に近いアラウィー派のシリアのアサド政権とも強く敵対してきた。また、両国の同盟国であるロシアとの関係も良くないとされる。 2018年、カナダとサウジアラビアの間でにわかに緊張が高まっている。 ウガンダのイディ・アミン、パキスタンのナワーズ・シャリーフ、チュニジアのザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーなどの亡命を受け入れた。 基本統治法33条によればサウジアラビア軍が守るべきものの優先順位は一に「イスラム教義」、二に「二聖モスク」(マスジド・ハラームと預言者のモスク)、三番目が「社会と祖国」であり、「国民」の防衛は含まれていない。少なくとも建前の上では、国民及びその権利を守ることを第一とした民主国家の軍とは基本理念が異なる。 アメリカ軍と親密な関係を持ち、アメリカ中央軍の部隊駐留を認め、キング・ハリド軍事都市など国内にいくつもの米軍基地を置かせている。 兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網などもアメリカによって整備されている。 装備は西側諸国のものだけでなく、例えば中国からは弾道ミサイルのDF-3やDF-21を導入している。また、軍部と軍事産業との汚職もあり、特に、駐米大使を長く務めたバンダル・ビン・スルターン王子(当時国防大臣だったスルターン皇太子の息子 2012年から2014年まで総合情報庁長官)は1982年のF15の輸入に際してアメリカ議会で強力なロビー活動を展開し、またBAEシステムズとの400億ポンドにのぼる取引でも王子側に10億ポンドの賄賂が渡ったことが明らかになっている。2011年の軍事支出は485億USドルと若干の増加傾向にある。 使用する兵器の大半は輸入に頼っているが、1998年にはダンマームの工場で国産のファハド装甲車を生産するなど、工業基盤の成熟に伴い兵器の国産化を始めている。 湾岸戦争とイラク戦争では後方基地としての役目を担っていた。 志願制であり、職業軍人により構成されている。 正規軍 陸軍 海軍 空軍 防空軍 準軍事組織 サウジアラビア国家警備隊 サウジアラビア王室警備隊 総合情報庁 武装警察 サウジライトニングフォース アラビア半島の大部分を占め、紅海、ペルシア湾に面する。中東地域においては面積が最大級である。 北はクウェート、イラク、ヨルダン、南はイエメン、オマーン、アラブ首長国連邦、カタールと国境を接する。 かつては、イエメン、オマーン、アラブ首長国連邦との国境線は大部分が未画定であったが、2000年までにすべて画定した。 アラブ首長国連邦との国境は1974年の条約(英語版)によって一時画定し、これによりサウジアラビアはアル・アイン周辺の数ヶ村をアラブ首長国連邦へ譲り渡す代わりにカタールとアブダビとの間のアラビア湾に面した地域の割譲を受けて、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。 国土の大部分は砂漠で、北部にネフド砂漠、南部にルブアルハリ砂漠(広さ25万平方km)があり、その間をアッダハナと呼ばれる長さ1500kmに及ぶ砂丘地帯が結ぶ。鉄分を含むため赤色を呈し、衛星画像で弓状に曲がった地形が識別できる。砂漠と紅海の間には中央山地(北のヒジャーズ山地から南東のアシール山地)があり、標高2500m前後に達する。その間のマッカ州、バーハ州、アスィール州にかけては標高2000mを超える高原地帯が広がっている。南部には国内最高地点であるサウダ山(英語版)(標高3313m)がそびえる。 気候は砂漠気候で夏は平均45°C、春と秋は29°Cで、冬はまれに零下になり、標高2000mの高原地帯では過去に積雪も観測されている。ジッダやダンマーム等の沿岸部は高温多湿、リヤド等の内陸部は高温乾燥となり内陸部は昼夜の気温差が大きい。標高1500~2200mに位置するターイフ、ハミース・ムシャイト、‎アブハー、バーハ等が位置する高原地帯は避暑地となり快適な気候となる。インド洋モンスーンの影響を受けるバーハ州、アスィール州は降水量が多く、年間降水量が200㎜~500㎜に達する。 国内には13の州があるが、知事(アミール)は、すべて王族が勅任されている。 リヤド(リヤード:首都、650万、標高612 m) ジッダ(ジェッダ:397万、標高12 m) メッカ(マッカ:191万、標高277 m) マディーナ(メディナ:127万、標高608 m) フフーフ(アル・フフーフ:113万、標高154 m) ターイフ(110万、標高1,879 m) ダンマーム(ダンマン:97万) ブライダ(65万) アル=フバル(62万) タブーク(60万、標高760 m) カティーフ(55万) ハミース・ムシャイト(54万、標高2,066 m) ハーイル(44万、標高992 m) アル=ジュバイル(41万) - ロイヤルコミッション(英語版)(Royal Commission for Jubail and Yanbu)管轄の石油工業団地都市 アブハー(39万、標高2,270 m) ナジュラーン(35万、標高1,293 m) ヤンブー(ヤンブウ:32万) バーハ(アル・バハ:10万、標高2,155 m) ジーザーン(ジャーザーン:10万、標高40 m) 西部にはイスラム教の2大聖地であるメッカとマディーナがあり、世界各地から巡礼者が訪れる。2007年からは非ムスリムに対しても観光ビザが発行されるようになったが、団体ツアーのみ発行され個人には発行されていないが、2018年中に外国人に対して観光ビザを発行する計画があることを明らかにしている。個人入国を認める査証は巡礼(巡礼ビザ、ムスリムのみ)か政府や各種団体(外交官ビザ、公用ビザ)、現地企業の招聘による仕事(商用短期訪問ビザ)、サウジアラビア在留者の家族(家族訪問ビザ)の場合のみ発行される。女性は既婚者が原則で夫または男性の近親者同伴、単独の場合は30歳以上であることが条件。 国営航空会社のサウジアラビア航空が世界各国を結んでいる他、外国航空会社がリヤードやジッダなどの主要都市に乗り入れている。 世界で唯一女性が自動車を運転することが禁止されていた国であるが、2017年9月に解禁される方針が発表された(法的に禁止しているわけではないが運転免許の発給がされず、社会通念的にも運転は禁止されていると見なされた)。ただし、女性が財産として自動車を所有することは禁止されていない。このため、女性が自動車を利用する場合は運転手を雇うか、親族男性に運転してもらわなければならなかった。政府の統計によると、サウジアラビアの家庭が雇う男性運転手の数は約140万人で、多くは海外からの出稼ぎ労働者であった。そして、2018年6月24日女性の運転が解禁された。 鉄道ではかつてはヒジャーズ鉄道が運行されていたが現在は廃止になっている。現代はサウジアラビア鉄道公社によってリヤド - ダンマーム間に旅客路線が運行されている。またハラマイン高速鉄道が建設されている。その他都市鉄道としてメッカにメッカ・メトロが運行され、リヤドでもリヤド・メトロの建設が進められている。ガルフ鉄道構想もある。 2015年のGDPは約6320億ドルであり、日本の近畿地方よりやや小さい経済規模である。同年の一人当たりGDPは2万138ドルである。 OPECの盟主的存在であり、石油などの天然資源の採掘と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約90%を占めている)となっているほか、これらで獲得した外貨を世界各国で投資運用している。中央銀行は1952年に設立された通貨庁であり、政府系投資ファンドとしても知られている。 しかしながら製造業などは小規模なものしか存在せず、また巡礼者や業務渡航以外の一般観光客を受け入れていないことから、観光業による外貨獲得も非常に低い。この為、近年では政府主導でITなどを中心とした経済多角化を進めているが、依然として天然資源開発関連以外の分野においては外国資本導入が進んでいない。 2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、リヤドは世界第69位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタール、バーレーンと比較するとまだ出遅れている。 こうした状況を打開するために、ムハンマド・ビン・サルマーンが中心となり「ビジョン2030」と題された経済大改革を打ち出すなどしている。 G20の一員となっている。 サウジアラビア航空 サウジアラムコ SABIC (Saudi Basic Industries Corporation) キングダム・ホールディング・カンパニー サウジ・ビンラディン・グループ サウジアラビアの水資源は、古くはオアシスなどの湧水と井戸からの取水に頼ってきた。聖地メッカではザムザムの泉と呼ばれるわき水を頼りに定住生活が営まれてきた。1932年に300メートル以上の深井戸の掘削に成功すると化石水の採取により水の供給量は大幅に増加し農業生産を支えている。汲み上げられる地下水は、アラビア半島が湿潤だった1万年以上前に降った雨水が地下の帯水層に閉じこめられた化石水であり、現在ではほとんど補給されることがない。このため各地の井戸では水位の低下が深刻になってきており、現在のペースで水を使い続ければ、地下水資源は2040年までに枯渇すると予測されている。 サウジアラビアは世界最大の海水淡水化プラント稼働国である。20余りの主要都市に人口の80%が集中しており、都市部ではオアシスや地下水だけではまったく足りないため、海水淡水化プラントからの供給無しには生活できない。アシュベールにある世界最大のプラントは毎日100万トンを生産しており、国全体では年間で12億2千万立方メートルの水を海水淡水化によって得ている。プラントの多くは1970~1980年代に建設されており、2000年ごろから多くのプラントが老朽化を迎え始め、メンテナンスと建て替えのために多くの事業が日本を始めとする海外へ発注されている。主要都市では下水を再処理して都市周辺の農業用水に回すための浄化施設がある。海水淡水化プラントから供給される水は1リットルあたり2リヤルのコストがかかり、さらに内陸部へ送水するのに1 - 2リヤルのコストがかかるため、大変に高価な水である。しかし、水道代は10トン1リヤルほどで、一般家庭の水道代が1か月4リヤルを超えることはあまりない。送水設備とコストの関係から主要都市部以外への送水はあまり活発ではなく、地方では古来からの井戸とオアシスの水源に頼っている。 リヤドなど内陸部でも毎年冬場になると数日は雨が降る。ただ、砂漠気候であるため、わずかな期間に集中して降り、数日経てば再び乾燥するため水資源としての価値はない。近年になってからは降雨量は増加傾向にあり、雨が降ると都市の低地が水没するようになっている。もともと砂漠であるため都市部には排水路などの水害対策の設備が全くなく、毎年水害によって数十人の死者が出ている。膨大な地下水のくみ上げと淡水化プラントによって総雨量を超えるほどの水が使用されていることが原因ではないかと言われており、実際にここ20年あまりでサウジアラビアの気候が穏やかになってきている。 広大なアラビア半島には古来から続く無数の部族勢力が跋扈しており、サウド家による長年の中央集権化政策・部族解体政策にも関わらずサウジアラビア人という民族意識の形成には至っていない[要出典]。部族社会が定住民だけでなく遊牧民から形成されていること、各地に点在する少数派宗教なども状況を難しくしている。サウード家自身、中央集権化政策が頓挫するたびに部族間・宗教間のパワーバランスを権力保持に利用している[要出典]。 概ねサウジの住人は、サウジ国民という意識の前に「どの部族の出身か」(部族対立)、「どの地方の出身か」(地方対立)、「どの宗派を信じるか」(宗教対立)、「どの階級に属するか」(階級対立)で自らを認識しているという[要出典]。 統計局が発表した2010年の人口統計は27,136,977人で、サウジアラビア国籍が18,707,576人と全体の69%に過ぎず、外国人が8,429,401人となっており、総人口の31%が外国人労働者である。最も多い外国人はインド人とパキスタン人でそれぞれ130万~150万人に達する。次いで、エジプト人、イエメン人、バングラデシュ人、フィリピン人、ヨルダン人、インドネシア人、スリランカ人、スーダン人などが多くなっている。 労働省によると、登録されている家庭内労働者120万人のうち、女性48万人がメイド(アラビア語:خادمة)として登録されている。 言語は公用語が古典アラビア語で、日常生活での共通口語は、サウジアラビアの現代口語アラビア語変種である。 アラビア語ヒジャーズ方言 (約600万人) - アラビア半島の紅海沿岸の地方 アラビア語ナジュド方言 (約800万人) - アラビア半島の中央部にある高原地帯 アラビア語湾岸方言 (約20万人) - ペルシャ湾岸 外国人労働者の母語として、いくつかの言語が話されている。 タガログ語 (約70万人) ロヒンギャ語 (約40万人) ウルドゥー語 (約38万人) アラビア語エジプト方言 (約30万人) 宗教はイスラム教が国教である。このため、国民が他の宗教を信仰することは禁じられており、サウジアラビア国籍の取得の際にもイスラム教への改宗が義務付けられている。西部にイスラム教の聖地であるメッカがあるため、世界各地から巡礼者が訪れることもあってイスラム世界においての影響力は最も大きい。このため、サウジアラビア国民はイスラム教徒が100%であると公表されているが、これは他の宗派や宗教の存在を公式に認めていないという建前上の見解によるものである。実際には国内に多数のシーア派は住んでおり、財団法人中東経済研究所の調査によると、シーア派はイランと地理的に近い東部州に多く東部州の人口の42.5%を占めており、サウジ全土では6.4%になると推定されている。また、イエメンに近い南部のアブハーなどもシーア派(イスマーイール派、ザイド派)が多いとみられる。CIAによる統計ではスンニ派が85~90%、シーア派が10~15%と推計されている。 多数のシーア派の居住する東部地方はアハサーと呼ばれていた土地で、サウジアラビアに征服され併合された土地である。初代国王アブドルアジーズは東部州を併合するのに際しシーア派住民による一定の自治を認めたが、時代と共に自治権を奪われ名目上は存在しないことにされてしまったという経緯がある。このため、長年にわたりシーア派の宗教機関は非合法な存在とされてきた。湾岸戦争以降は、反体制運動を行っていたシーア派を容認、和解した。 湾岸戦争以降は他の宗派を容認する方向へ方針転換を行い、法律上もシーア派以外にも他宗教の存在を公式に認めている。近年では他宗教の信仰も限定的ながら解禁されてきている[要出典]。しかし、これは建前上のものとされ、地方では他宗派への差別的政策が未だ執られている。また、他宗教の容認は国政の一層のイスラーム化を求めるイスラーム主義の改革運動の激化を引き起こし、サウジアラビア人によるイスラーム主義武装闘争派のテロを引き起こした。このため、各個人や集団による私的なジハードを禁止するために、国王の勅令がなければ禁止とする法令が出された。 国民の4%はキリスト教徒だとも言われているが、内務省の統計では外国人居住者(数十万人のアメリカ軍関係者と外国人)もキリスト教徒に含まれている。 近年では宗教指導者たちが示す宗教的見解と民衆の生活の乖離が進み、国民が宗教的な指導に従わなくなってきており、宗教指導者がハラーム(禁忌)であるとファトワー(宗教見解)を出したものの多くを民衆が利用していることが珍しくなくなった。代表的なものとしてポケモン、バレンタインデー、クリスマスなどがある。 民衆が宗教指導者の言うことを聞かなくなった結果、宗教指導者が今まで以上に原理主義的で過激な発言を繰り返したり、宗教警察である勧善懲悪委員会による取り締まりを過激化させる傾向にある。 このような過激な発言がニュースで配信されたりしてネット上で話題になることがあるが、発言と実情がかけ離れていることが多い。 2008年には過激派宗教指導者二人が国王によって解任されるなど、過激派宗教指導者はサウジアラビアでも排除され始めている[要出典]。 サウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議は長年にわたりワッハーブ派が独占してきたが、近年になって近い宗派であるシャーフィイー学派がわずかに参加するようになり、2009年2月14日に21名に増員されるとハナフィー学派とマーリク学派のウラマーも入った[要出典]。これによってサウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議がワッハーブ派の独占ではなくなりスンナ派の四大法学派が全てそろったことになる。 婚姻時に改姓することはなく、夫婦別姓である。 イスラム教を国教とする祭政一致国家のため宗教教育が重視されるが、自然科学や実技については不十分とされる。初等教育の段階でクルアーン(コーラン)の朗誦、講義を受ける。高等教育ではコンピューターや金融など第三次産業に関わるカリキュラムが組まれる。一方、初の工科系大学であり男女共学制のサウジアラビア王立科学技術大学(英語版) (KAUST) が、2009年9月に100億ドルの基金で設立された。 また、シーア派を邪教とする教育が、シーア派を含むすべての国民に対して長らく行われてきたとされる。 2008年10月29日、これまで女性が学ぶことが困難であった医学、経営学、外国語などを教えるサウジアラビア初の女性専用の総合大学を創設することが国王アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードによって決定され、リヤド郊外で起工式が行われた。 女子がスポーツを行う機会は限られており、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「公教育で女子の体育を禁じている唯一の国」として批判している。サウジアラビア教育省は、2013年5月、一部私立校で女子の体育の授業を認めると発表した。2012年のロンドンオリンピックに、初めて女性選手を送るなど、近年、僅かながらではあるが女子のスポーツへの門戸が徐々に開かれている。 近隣の中東諸国同様サッカーが盛んであり、実際に中東、アジア内の強豪の一国として知られている。アジアカップの上位争いの常連であるだけでなく、FIFAワールドカップの常連としても知られている。 一方で、厳しい気象条件から屋外スポーツはもとより、外で運動する習慣に乏しいという実態がある。このため、成人の肥満率は30-35%近くに達すると推計されている。政府は状況を問題視しており、スポーツの振興や健康増進に向けて様々な取り組みが行われている。 1965年からテレビ放送が始まったが、宗教指導者がテレビに対して否定的見解を示しているため、現在でもアパートなどでテレビ不可を入居条件に明記している所がある。娯楽番組の視聴には衛星放送が広く利用されており、同じアラビア語圏の番組が衛星放送を利用して視聴されている。 近年では国営放送でも日本のアニメを放送するなど非常に軟化した態度を示すようになったが、これに反発した宗教指導者が2001年にポケモン禁止令を出した。しかし、数年後に事件が鎮火すると再び放送されており、ポケモン禁止直後にデジモンアドベンチャーが放送されるなど放送業界は柔軟な態度を示している。 ポケモン禁止令の詳細はポケットモンスター#ポケットモンスターに関する様々な逆風を参照 また、派手なライフスタイルで知られる米国人のパリス・ヒルトンがサウジアラビアなどの中東でのみファッションブランドを展開し、その店舗はイスラム教の聖地メッカにも進出しているという事実があり、一般の欧米人よりも派手で身体の露出の大きい衣服を売り物にしたファッションブランドが女性に人気という側面がある。 インターネットの規制が厳しく、国内から海外のサイトへの接続は厳しく制限されている(ネット検閲)。 国内ではアラビア語の出会い系サイトやSNSなどが運営されている。家族以外の男女は会話をすることすら禁止されているが、親族男性の代理人がメールや書き込みを行っているという設定で女性が直接書き込んでいたりして、脱法行為的にネット上での男女交際が行われることも多い。 厳重な報道管制と言論統制が敷かれており、当局が許可した書籍でなければ販売することが出来ない。特に王族に関する批判的な書籍は検閲で発売を禁じられ、世界の長者番付が掲載されアブドゥッラー現国王の資産が公開されたビジネス誌『フォーブス』は国内発禁となるなど不敬規定がある。内政に関する外国マスメディアの取材も大幅に制限され、日本ではNHK『クローズアップ現代』が2006年12月にようやく許された程度である。 しかし、2007年にはサウジアラビアの女性を主人公にした小説「リヤドの女たち」の発禁処分が解かれ、ベストセラーになるなど少しずつ自由化してきている。 厳しい検閲が実施されているが、出版の抜け道としてメールマガジンがある。メールの送信は出版とはみなされていないため、紙に印刷されないメールマガジンによる発行は合法とされている。リヤドの女たちも元はメールマガジンで発行されていた小説だった。 出版物に関する著作権は著作権審議委員会によって管理されており、カーディ裁判は著作権問題による訴えを扱わないため、著作権侵害があった場合は民事訴訟などではなく委員会に申し立てることになっている。ただし、申し立てが出来るのは検閲による許可を受けている出版物のみで、日本や欧米のように無条件に著作物に著作権があるわけではない。 2018年4月20日、約35年ぶりに映画が一般向けに上映された。(映画自体はDVDやブルーレイで視聴でき、設備を備えた文化センターのような施設がありたびたび上映されていた)1980年代、映画館を低俗で罪深いものと非難する宗教界の保守強硬派の働きかけを受け、国内の映画館を閉鎖していた。 注釈 出典 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ “サウジの人権侵害への世界的な非難”. Pars Today (2016年8月20日). 2017年9月10日閲覧。 ^ “中国とサウジ、国連人権理事会入り濃厚も「人権侵害国家に?」批判の声”. 産経新聞社 (2013年11月8日). 2017年9月10日閲覧。 ^ “サウジに子どもの死刑撤廃など要求、国連子どもの権利委員会”. AFP通信 (2016年10月8日). 2017年9月10日閲覧。 ^ Otto, Jan Michiel (2010). Sharia Incorporated: A Comparative Overview of the Legal Systems of Twelve Muslim Countries in Past and Present. p. 175. ISBN 978-90-8728-057-4.  ^ 距離が縮まるイラクとサウジアラビアニューズウィーク日本版公式ホームページ ^ 統治基本法日本語訳文 ^ a b “サウジアラビア、女性の自動車運転を許可する国王令”. BBC News (BBC). (2017年9月27日). http://www.bbc.com/japanese/41410207 2017年9月27日閲覧。  ^ a b サウジアラビアで女性の運転解禁AFP、2018年6月26日閲覧。 ^ a b 「とても興奮しています」女性の車運転解禁毎日新聞、2018年6月26日閲覧。 ^ a b サウジで女性の車の運転が解禁 「とても興奮しています」産経新聞、2018年6月26日閲覧。 ^ a b 女性たちは笑顔でハンドルを握った。サウジアラビアで運転解禁HUFFPOST、2018年6月26日閲覧。 ^ a b サウジで女性の自動車運転が解禁 現地女性が喜び語るBBC、2018年6月26日閲覧。 ^ フランス通信社 (2008年3月18日). “Saudi 11-year-old marries 10-year-old cousin”. BREITBART. 2008年9月26日閲覧。 ^ “サウジで10歳の少年と9歳の少女が結婚!!”. 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ABC01-02-0232
バドミントンで使われる、コルクに羽をつけた球のことを何というでしょう?
バドミントン
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[ "バドミントン", "ソフトテニス", "バスケットボール", "弓道", "テニス" ]
[ "バドミントン(英: badminton 英語発音: [ˈbædmɪntən])は、ネットを隔て二つに分けられたコートの両側にプレーヤーが位置し、シャトル(シャトルコック)をラケットを使って打ち合い、得点を競うスポーツである。誤って「バトミントン」と呼ばれることが多いが、正しくは「バドミントン (badminton)」である。また、打球は最速初速493km/hであり、最速のスポーツとしてギネスブックに認定されている。羽球と称する場合もある。 半球状のコルクに水鳥等の羽を接着剤などで固定した『シャトル(シャトルコック)』を打ち合う。近年は、プラスチック製やナイロンの合成球を使うこともあるが、大会などの公式戦では使われない。 球技の中で打球の初速が最も速いことで、ギネスブックに認定されている。スマッシュの初速は、最速で時速で493㎞に達する。また打球が相手コートに届くまでに空気抵抗を受けて急激に速度が低下するため、初速と終速の差が著しいことも特徴である。 身体的にはシャトルやラケットが軽量であるためテニスに比べ筋力の影響は少ないが、相手との距離が近く球速も速いためフットワークと動体視力が重要となる。また緩急を使い分ける様々なショットの技術も必要である。距離は短いが素早く動き続けることから持久力も必要となる。 心理的には対戦相手との駆け引き、ダブルスの場合はペアとのコンビネーションなどの要素が絡むが、球速と距離により判断のための時間が短いため、状況を素早く判断する必要がある。 レクリエーションとしては、スマッシュを使わなければ球速が遅く羽により滞空時間も長いため、瞬発力や動体視力はさほど必要とされず、気軽に楽しむことが出来る。 プレーが始まる前に『サービスをするかレシーブをするか』または『コートのどちらのエンドを選ぶか』の選択権をトスによって決める。トスに勝ったサイドが先にどちらかを選び、負けたサイドは、残りから選択する。国際大会ではコイントスを行うが、日本では、一般にじゃんけん等で決められる場合がある。 試合は、シングルス、ダブルスともに、2ゲーム先取の3ゲームマッチ。それぞれラリーポイントの21点ゲーム、ただし20対20になった場合延長戦となり、以降どちらかが2点差をつけるか、30点に達するまで行われる。但し、29-29まで来ると一発勝負となる。 すべてのラリーはサービスから始める。サービスは、トスの直後を除いて1つ前のラリーに勝ったサイドが行う。よって、第2ゲームと第3ゲームの初めは、直前のゲームの勝者サイドが行う。 シングルス、ダブルスともに、1ゲーム終了毎にチェンジエンド(プレイするコートのエンド交換)を行う。3ゲーム目まで試合が続いた場合、2ゲーム目終了直後のチェンジエンドに加え、どちらかが11点先取した時に、チェンジエンドを行う。 決められた相手コート内にシャトルを落とすか、相手がフォルト(反則)を取られた場合、1点を得る。 主審の判定は、最終的なもので、質問は許されても抗議は認められない。 サービスでは、シャトルの台を打たなければならない。 サーバーがシャトルを打つ瞬間、ラケットのシャフトが下向きでなければならない。 ラケットで打たれる瞬間、シャトル全体がサーバーのウエスト(肋骨の一番下の高さ)より下でなければならない。 サービスを行うときに両足を地面から離してはならない。 サーバーは、コートのライン内でサービス シングルスでは内側のサイドラインを使用し、ダブルスでは外側のサイドラインを使用する。 サービスは、サーバーから見て対角線側のコートに打つ。このとき、シングルスではショートサービスラインからバックバウンダリーライン、ダブルスではショートサービスラインからダブルス用のロングサービスラインの間にシャトルが落下するよう、それぞれ打たなければならない。 各ゲームどちらかの点数が11点に達した時は60秒以内、ゲームとゲームの間には120秒以内のインターバルをとることができる。 各インターバル以外でコート外に出ることは、故障等の止むを得ない場合を除き、基本的に認められない。ただし手の汗を拭いたり、破損したラケットを交換することは認められる。 バドミントンで使用される用具は以下の通りである。特に断りがない限り、競技用のものについて述べる。 「羽(羽根)」または「シャトル」と呼ばれることが多い。シャトルコックという名前は以前鶏(コック)の羽で作られていたころの名残である。現在は試合球、練習球においても鶏の羽根のシャトルはほとんど使われていない。競技規則には、シャトルコックではなく、シャトルと記載されている。 競技用に主として使用されている物は、主に食用のガチョウの羽(羽軸が強く、丈夫。中でも次列風切という部位が最適)とコルクから作られていて、各羽は樹脂で固められている。安価なシャトルはアヒルの羽によって作られている物もある。卓球、テニスボールのように羽根を蛍光色に着色したものもナイロン製では古くからあったが、最近では鳥の羽製のものでも存在する。また動体視力を鍛える練習球として、黒ガチョウの羽根を使用したシャトルも一部メーカーが販売している。 コルク部分に羽根を埋め込み、軸を糸で留めた後、接着剤で固定する。 1本でも羽が折れれば正しい軌道で飛ばなくなる。最近では、練習用に羽だけ部分的に交換できる物も販売されている。一般に壊れたシャトルは、ノック練習等でボロボロになるまで再利用された後、廃棄される。かつて、経済的に苦しいチームは、ニカワ・木工用ボンドなどで補強再生され使用していた。 気温や湿度の変化による空気抵抗の差により、飛距離が変化しやすい。具体的には、気温が高く湿度が低いときはよく飛び、逆に気温が低く湿度が高いときは飛ばなくなる。バドミントンの試合前に温度などを測り、常に同じ飛びのシャトルでプレーできるように、同じ銘柄のシャトルでも飛距離の違うものが数種類ずつ製造されている。 かつては、選手が羽の内側にラケットのグリップエンドや自分の肘を押し込み、羽を外側に広げ、改造する行為の場面が見られた。これは、シャトルが飛び過ぎる場合、空気抵抗を故意に上げ、標準のフライトに近づけるためである。 価格は、安価なもので1球数十円ほど、最高級品では1球400円近い物もある。1ダース単位で筒状のケースに入った状態で売られている。多くのメーカーでは、使用する羽の種類や、質などにより、細かく等級を定めており、大きな価格差がある。 世界のシャトルの9割以上は中国で生産されている。 材料(ガチョウ、アヒルの羽)と生産地(中国)の関係で、2005年から2006年に鳥インフルエンザが流行した際には、現地で食用ガチョウが大量に処分された。その影響で各メーカーが販売価格を値上げした。 高品質のシャトルとそうでないものとでは、飛行精度や強度が大きく異なる。 重量約5g、長さ約7cm。羽根の枚数は16枚。羽根の先端(コルクとは逆側)は58mmから68mmで、円形でなければならない。コルクの直径は25mmから28mmで、先は丸くする、と規定されている。 日本バドミントン協会では、「第一種検定合格球」「第二種検定合格球」という等級を定めている。「第一種検定合格球」とは、日本バドミントン協会が主催する大会およびその予選で使用できるシャトルコックであり、 「第二種検定合格球」とは、日本バドミントン協会の加盟団体が単独で開催する競技大会で使用を認められているシャトルである。 「第一種検定合格球」を更に厳密に分けると、全国大会、国体競技で使用できる「第一種合格水鳥シャトル」と、開催地都道府県協会が使用できる「第一種合格水鳥シャトル開催地選択品」がある。2006年度、「第一種合格水鳥シャトル」には6メーカー6銘柄、「第一種合格水鳥シャトル開催地選択品」には17メーカー22銘柄が認定された。 1980年代日本では、中学生の大会等で費用の問題からナイロンシャトルが公式採用されていたが、打球感などが羽毛球と異なり軽いことや、いずれ世界を目指すジュニア選手は、早くから羽毛球に慣れ親しんだ方が育成につながること、また、最近では安価の羽毛球も多く販売されていることから、現在は試合でも練習でもほとんど使われていない。しかし、寒冷地などでは検定より温度が下がるため使用されている。 ただし、前述の鳥インフルエンザ等の影響から、数十年後には水鳥の羽根の安定した供給が望めなくなることが示唆されており、また高価なシャトルの使用が新規プレイヤー獲得の妨げとなっているという意見もあることから、将来的にナイロンなどの人工素材シャトルを公式球として使用することになる可能性がある。 ナイロン製は羽毛球に比べ、減速度合いが低い(飛び過ぎる)傾向があり、羽毛球と比べ若干の放物線の違いがある。誕生から数十年経過しており、長年の製造技術・開発力で羽毛球に類似させることは可能と思われるが、ナイロン製への移行が進んでいないのが現状である。 ヨネックスでは安価で耐久性の高いナイロン製をスマッシュの打ち込みなど消耗しやすい用途に使うなど、特性を活かした練習メニューを公開している。 バドミントンのラケットは、テニスやスカッシュのそれと同じように、フレームにストリング(ガット)を張ったフェースと呼ばれる部分で球を打つ構造となっている。以前はフレーム部分が木製でたいへん重く、木材の歪みを防止するために、使用後は専用の器具で固定しておかなければならなかった。ストリングには動物の内臓など(通常ヒツジの腸、ストリングの別名のガット(英語で内臓の意)の語源でもある)が使われていた。今日では技術の進歩により、以下のようになっている。 全長で680mm以内、幅は230mm以内と規定されており、そのうちヘッド部分は長さ330mm以内、幅230mm以内とされている。 カーボン繊維を中心に、複合素材としてチタン等の金属が使われている。後者は主にラケットヘッドのねじれを低減したり、重量バランスを調整したりする用途で用いられる場合が多い。ケブラー等の素材が使われているものもある。 木製→金属製→カーボン製と材質が軽量化、高弾性化したことで、選手のフォームが肩を中心としたスイングから手首や指を使うものへと変化し、その結果、打球やゲーム展開が高速化した。また、ストリングを高テンション(張りの強さ)で張れるようになった。 ヘッドとシャフトをつなぐ部分をスロートという。金属製のラケットはヘッドとシャフトが別々になっているものが多く、そのようなものはT字型の部品で固定されている。フレームとシャフトが異種素材であるものも同様である。ただしこのようなラケットは、消耗と共に抜けやすくなる。 従来の卵形のヘッドのラケットの他に、ヘッドの形状をやや四角型に成型し、中央部のストリングスが長い部分を増やすことで、スイートスポットと呼ばれる快適に打つことが出来る部分を広げたラケットが、各メーカーで製造されている。現在では、後者がむしろ主流となりつつある。 近年、ナノテクノロジーやゴムメタルを採用した高反発、軽量なラケットも登場している。 ストリングが張ってある部分をストリングド・エリアという。ストリングド・エリアの部分の大きさは、縦280mm以内、横220mm以内と規定されている。ただし、ストリングスを張って拡がったエリアの幅が35mm以内で、ストリングド・エリアの縦の長さが330mm以内になっているという条件を満たしているときに限り、ストリングスをスロート部分に拡げて張ることが認められている。 ナイロンなどの化学繊維を細かく編んだものが主に用いられ、金属音に近い高い打球音を好むプレーヤーのためチタンなどの金属素材を配合した物も販売されている。 ストリングのテンションは低くて20ポンド弱、高くて30ポンド強である。高テンションで張ると打球音がよくなり、インパクト時のブレが少なくなるためコントロール性が向上するが、ある程度パワーや技術が無ければシャトルが飛ばなくなり(スイートスポットが狭くなる)、また肘などへの反動も大きくなるため、上級者ほど高テンションで張ったラケットを使う傾向がある。ただしプレースタイルにもよる。 ストリングは基本的に縦糸・横糸共に22本ずつであり、縦糸の左右最後の一本は穴(グロメットホール)を一本飛ばして通す。ただし検定品でない安価なラケットの場合はストリングの本数がいい加減なものもある。ヨーロッパのラケットで日本に進出したもので縦横24本ずつのものもある。(検定品) 多くは木製で、それを土台としてシャフトを埋め込み、釘で固定してある。 ハンドル(手で握る部分)にはほとんどの場合、合成レザーのグリップテープが最初から巻かれている。ただしグリップ性能の問題からそのままの状態で使用するプレーヤーは少なく、レザーの上にポリウレタン等でできた別売りのグリップテープ(オーバーグリップ)を重ねて巻く人が多い。 オーバーグリップは、大別してポリウレタン製のものとタオル地のものとに大別される。 ポリウレタン製 よく延びるため太さの調節もしやすく、糊などは使わずにテープ一枚で固定できることから取替えも手軽であるため、多くのプレーヤーが使用している。中にはフィット感を高めるために、ウレタンの凸凹がついている物もある。 タオル地 表面がタオル上の布の裏に両面テープがついており、それをハンドル部分に貼り付けて使用する。汗をよく吸うため、手のひらに汗をよくかく人が好んで使う。また使っているうちに、タオルが手の形になじんでくる点も好まれている。ただし使っているうちに硬くなるので、耐久性の面ではポリウレタン製に劣るが、グリップパウダーを使用すると改善されることが多い。 バドミントン競技は、動きが激しく、また、それにより多くの発汗を伴うため、伸縮性・吸湿性・速乾性・防臭性などが優れた高機能素材のウェアが好まれ、選ばれている。 ウエアの色や柄に制限はない。以前は白地でなければならない等のルールがあったため、非常に地味でファッション性の乏しいウェアが多かったが、規制が緩和されたことでカラフルなウェアを使用でき、使用している選手も多くいる。ただし、日本国内の公式大会では日本バドミントン協会の検定審査合格品を着用することとされている。 2000年代初頭まではショートパンツは前ファスナー付きのものが多かったが、現在はジャージ形式のものが主流である。 ウエア前面には1行の文字列(チーム名またはスポンサー名のいずれか)と番号の表示(背番号と同一とすること)が認められている。 ウエア背面には3行までの文字列の表示が認められており、プレイヤー名、チーム名、スポンサー名、都道府県名を表示できるが、これらは項目ごとに別の行に表示しなければならず同一行に異なる項目を並べてはならない。背番号(2桁以内)は文字列の中央下に表示しなければならない。 各行の文字列はウエアの前面・背面ともに高さ6~10 cm、横30cm以内でなければならない。 ウエアの左右襟、左右袖、前面(計5か所)のいずれか3か所にはスポンサーロゴ、チーム名、プレーヤー名を1個ずつ表示することができる(メーカーロゴはその数に含まれない)。 バドミントンはストップ&ダッシュの連続でフットワークの技術も特殊であるため、ほとんどの場合で専用の屋内用シューズを使用する。特に踵の部分のショック吸収性と、左右の動きで生じるズレやつぶれ等に対する強さに重点を置いているものが多い。特徴として他のスニーカーに見られない「シャンク」という合成樹脂製のパーツがソールに埋め込まれており、一般的な靴で言われる「反り」(かえり)が良くなる様に設計されておりソールを見ただけで、それと判る。 バドミントンにおいて必要な技術は、ラケットでシャトルを打つ技術(ラケットワーク)と、無駄の無い動きで素早く追いつくための技術(フットワーク)である。詳細はバドミントンの技術を参照。 諸説あるものの、最も有力とされている説は次の通り。元々はイギリス植民地時代のインドのプーナで1820年代に行われていた、皮の球をラケットでネット越しに打ち合う「プーナ」(Poona)という遊びを、インド帰りのイギリス人兵士(イギリス人とインド人の混血とも言われる)が1873年に本国に伝えたのが始まりとされる。その兵士は、プーナを紹介するためにシャンパンの栓に鳥の羽根を刺したものを用い、それをテニスラケットで打って見せたという。紹介されたのがイギリスのグロスタシャーのバドミントン荘(英語版)という邸宅であったため、バドミントンという名称がついた(ただし、1870年代にはかなり進んだバドミントンルールが存在したことなどから、この起源説に対し、疑問を持つ者も少なくない。スポーツの起源というものは往々にして脚色されがちである)。いずれにせよ、現在の国際的流行の下地を作ったのはイギリスである。 イギリスにはバトルドア・アンド・シャトルコック(英語版)という、シャトルコックに似た球を打ち合う遊びが、プーナ伝来よりも前から伝わっている。その競技の性質や、名前などから、バトルドア・アンド・シャトルコックが次第にバドミントンへと変化していったという説も信憑性が高い。初期のバドミントンはバドミントン・バトルドアと称していることも、この説を裏づける。ともあれ、1860年代-1870年代ごろに誕生したらしいバドミントンは次第にイギリス中に普及していった。 その後ルール統一の必要性から、1893年イギリスにバドミントン協会が誕生。プレーする人数や、コートの広さ、マッチまでの得点などが様々だったが、これ以後、ルールの統一が進んでいく。当時のバドミントンは、バックバウンダリーラインから、ネットに向けて狭くなっていく、バスケットボールのフリースローレーンのような形のコートを2つ合わせたような形であった。これは、バドミントン荘がそのような形状であったから、というのが定説である。日本に古くから伝わる羽根突きとの関連は不明。 1899年にはロンドンで第一回全英オープンが行われ、1921年にカナダ、1930年にデンマーク、オランダ、フランスにバドミントン協会が設立され、そして1934年に世界バドミントン連盟が誕生した。 1972年のミュンヘンオリンピックにて公開競技として行われた後、その次のモントリオールオリンピックから正式競技になるとの観測があったが、中国が脱退するなどして国際バドミントン連盟が分裂する事態が起こり、立ち消えとなったことがある。 オリンピックの方が注目されがちだが、オリンピックや世界選手権よりも上記の全英オープン、国別対抗団体戦のトマス杯、ユーバー杯の方が長い歴史と伝統を誇る。 イギリスから世界に広まった競技であるため旧植民地(イギリス連邦)で普及しており、コモンウェルスゲームズにも含まれている。このほかにもデンマークやオランダ、その旧植民地でも行われており、植民地が多い東南アジアでは人気が高い。特にオランダ領だったインドネシアでは国技であり、オリンピックで獲得したメダルの半分以上がバドミントンによるものである。日本、中国、韓国など1950年代から競技が本格化した国からもトップ選手が誕生しており、アジアでは人気スポーツとなっている。一方、イギリスを含む欧米ではデンマークとオランダ以外では人気が低迷し選手層が薄く、近年の国際大会ではデンマークとオランダ以外はアジア勢が上位を占めている。 日本では1921年、横浜YMCAの体育主事をしていた広田兼敏が名誉主事のアメリカ人スネードから用具一式を寄贈されたことが始まりとされている。広田はその後、在日欧米人よりバドミントンについて学び、1933年に横浜YMCAの体育活動に取り入れ、1937年にはバドミントンクラブを設置したと言われる。 その後、第二次世界大戦のために普及活動は停滞するが、1946年、終戦後早々と各地のYMCAなどのクラブチームはバドミントンを再開した。同年、11月2日、日本バドミントン協会が設立される。1948年、第1回全日本総合バドミントン選手権大会開催、日本体育協会に参加。1949年、第四回国民体育大会の競技種目となり、1950年第一回全日本学生バドミントン選手権開催、1951年第1回全国高等学校体育大会バドミントン競技大会開催、第1回実業団バドミントン選手権開催、1952年国際バドミントン連盟加盟し、急速にバドミントンは普及する。 1954年男子チームが初の国際大会となる第3回トマス杯大会アジア地区予選に出場した。女子チームは湯木博恵などを中心に1965年-1966年、1968年-1969年、1971年-1972年、1977年-1978年、1980年-1981年に、最も権威ある国際大会の一つであるユーバー杯で優勝するという快挙を成し遂げた。また、公開競技として行われた1972年のミュンヘンオリンピックにおいて女子シングルスに出場した中山紀子が金メダル、湯木博恵が銅メダルを獲得。さらに1988年のソウルオリンピックにおいて女子シングルスに出場した北田スミ子、男子ダブルスに出場した松野修二・松浦進二ペアが銅メダルを獲得している。 1992年のバルセロナオリンピックにて正式種目として採用されてからはしばらくメダルを獲得出来なかったが、2008年の北京オリンピックで女子ダブルスに出場した末綱聡子・前田美順ペア(スエマエ)がベスト4入りを果たすと、2012年のロンドンオリンピックで同種目に出場した藤井瑞希・垣岩令佳ペア(フジカキ)が銀メダルを獲得。そして、2016年のリオデジャネイロオリンピックで高橋礼華・松友美佐紀ペア(タカマツ)がオリンピックで日本初の金メダルを獲得した。 社会人の大会としてはバドミントンS/Jリーグがある。 1972年のミュンヘンオリンピック、1988年のソウルオリンピックでは、公開競技として行われた。1992年のバルセロナオリンピックより正式競技種目として採用された(混合ダブルスは1996年のアトランタ大会から)。国際バドミントン連盟(IBF)は、オリンピック種目として生き残ることを視野に、2000年から 7点5ゲーム・サイドアウト制の試行を始めた。この得点システムは2002年6月に見直され、元の15点(女子シングルスは11点)3ゲーム・サイドアウト制に戻された。2003年3月に、イングランドの呼びかけで開かれた IBF臨時総会では、9点5ゲーム制、女子種目と混合ダブルスの11点3ゲーム制(いずれもサイドアウト制)などが検討されたが、再び旧ルールに戻る結末を迎えた。2005年は、IBFの提案により、ラリーポイント制について、実験的採用が行われた年となった。2006年5月6日、トマス杯ユーバー杯開催中の日本の東京で開かれた IBF年次総会において、21点ラリーポイント制の得点システムが加盟各国理事に満場一致で支持され、IBF の世界ランキング大会は、これで行われることが正式に決定した。 2006年9月、国際バドミントン連盟は、世界選手権開催中のスペインのマドリードで開かれた臨時総会において、名称を 世界バドミントン連盟(Badminton World Federation)に変更することを決め、発表した。 屋内競技ではあるがシャトルは非常に軽いため、バレーボールなどでは無視できる空調の弱い風や室温にも影響を受ける。このためプロ選手は競技会場の大きさや吹き出し口からの距離、設定温度による変化を把握するため、事前に入念なチェックを行うようになった。 オリンピック 世界バドミントン選手権大会 世界ジュニアバドミントン選手権大会 世界学生バドミントン選手権大会 世界シニアバドミントン選手権大会 トマス杯(男子国別対抗団体戦) ユーバー杯(女子国別対抗団体戦) スディルマンカップ(男女混合国別対抗団体戦) BWFワールドツアー 全英オープン ヨネックスオープンジャパン 他 アジア大会 東アジア大会 大阪インターナショナルチャレンジ 全日本総合バドミントン選手権大会 日本ランキングサーキット大会 全日本社会人バドミントン選手権大会 全日本シニアバドミントン選手権大会 全日本ジュニアバドミントン選手権大会 全日本実業団バドミントン選手権大会 全日本教職員バドミントン選手権大会 全日本学生バドミントン選手権大会 全日本レディースバドミントン選手権大会 日本バドミントンジュニアグランプリ 全国高等学校バドミントン選手権大会 全国高等学校選抜バドミントン大会 全日本高等専門学校バドミントン選手権大会 全国中学校バドミントン大会 全日本中学生バドミントン選手権大会 全国小学生ABCバドミントン大会 全国小学生バドミントン選手権大会 若葉カップ全国小学生バドミントン大会 バドミントンS/Jリーグ(実業団クラブ対抗・団体戦) バドミントン日本リーグ(実業団対抗・団体戦) 国民体育大会(県対抗・団体戦) 日本スポーツマスターズ 全国スポーツ・レクリエーション祭 全国青年大会 全国スポーツ祭典 ^ クレイグ・グレンディ 著『ギネス世界記録2015』(角川アスキー総合研究所)参照 ^ [1] ^ [2] ^ 日本バドミントン協会、世界バドミントン連盟の競技規則を参照。 ^ 水鳥シャトルコック・ナイロンシャトルコック併用練習マニュアル - ヨネックス ^ a b c d e 公益財団法人日本バドミントン協会『観戦&プレーで役に立つ! バドミントンのルール 審判の基本』実業之日本社、2016年、23頁 ^ a b c d e f g 公益財団法人日本バドミントン協会『観戦&プレーで役に立つ! バドミントンのルール 審判の基本』実業之日本社、2016年、25頁 ^ 『「先生なぜですか」ネット型球技編 0のことをなぜラブと呼ぶの?』(稲垣正浩・他=編著、大修館書店)※バドミントンの項目は奈良重幸=著 ^ バド奥原希望、空調から流れる風を入念に確認 - アジア大会 - スポーツ : 日刊スポーツ スマッシュ!(咲香里) やまとの羽根(咲香里) はねバド!(濱田浩輔/テレビアニメ化) バドガール(朝吹まり) S〈エス〉(水城せとな) ガズリング(才谷ウメタロウ) ラブオール!(栄羽弥) あかねのハネ(磯谷友紀) パラバドミントン - 障がい者向けの競技。ルールはバドミントンと同じ。 日本バドミントン協会 世界バドミントン連盟 バドミントン日本代表 フリンゴ - バドミントンのダブルスコートを準用する球技。 ミニバレー - バドミントンのダブルスコートを準用する球技。 毽球(ジェンチウ) - 現代中国でプレイされるバドミントンに似たスポーツ。 ヨネックス - バドミントン用品のメーカー Badminton World Federation(BWF) 世界バドミントン連盟 (英語) Badmintonworld.tv - BWF の公式生チャンネル(YouTube) (英語) Parabadminton World Federation(PBWF) 世界障害者バドミントン連盟 (英語) 日本バドミントン協会 バドミントン日本リーグ 日本実業団バドミントン連盟 日本教職員バドミントン連盟 全日本学生バドミントン連盟 全国高等学校体育連盟バドミントン専門部 日本中学校体育連盟バドミントン専門部 日本小学生バドミントン連盟 全日本社会人クラブバドミントン連盟 日本レディースバドミントン連盟 日本障害者バドミントン協会 日本ろう者バドミントン協会 競技規則 - 日本バドミントン協会 詳しいバドミントン新ルール解説 - 日本ユニシス実業団バドミントン部 バドミントンルール百科 バドミントンシャトル百科 バドミントン初心者ガイド 日本オリンピック委員会(バドミントン)", "ソフトテニス(英語: Soft Tennis)は、2対2(計4人)または1対1(計2人)となりプレイヤー同士がゴム製の柔らかいボールをネット越しにラケットで打ち合うテニス(硬式テニス)から発展した球技。2対2(ダブルス)が主流で、主に日本を中心としたアジア圏の一部でプレーされる。軟式庭球、軟式テニスと呼ばれていた。正式名称は、1992年の全面的なルール改定の際にソフトテニスとなった。 ソフトテニスは日本を中心とした東アジア(韓国、台湾、中国大陸、モンゴルなど)で主に競技される。硬式テニスと同サイズのコートを使用し、似た形状の道具を用いるが、ほぼダブルス中心の競技として発展してきたのがラケットスポーツとしては特異な点である。ダブルス中心での発展の過程でポジションの専門性が高くなったが、近年、オールラウンドプレーがおもに海外から流入し、多様化が進んでいる。 ローンテニスがイギリスで発生したのは1874年(明治7年)であり日本への伝播は早くて1878年(明治11年)といわれるが諸説が存在する。表孟宏編による『テニスの源流を求めて』には数々の説が紹介されているが、どれが事実なのかは特定できていない。なかでは明治政府の招きで来日したリーランド博士がアメリカから用具をとりいれて、赴任校である体操伝習所(1879年創設)で教えたという説が一般に広く知られている。がこれとてそれを決定づける確たる証拠はないとされる(前書参照)。ただ遅くとも体操伝習所が廃校になる1886年頃にはゴムボールをつかったテニスが普及しつつあった。これはローンテニスのボールの国産が難しく、また輸入品も高価であったために、比較的安価であったゴムボールを代用した、と伝えられる。ゴムボールも当初は輸入品であったが、1900年に国産化に成功している。 1885年に坪井玄道・田中盛業編集による『戸外遊戯法』という本が出版されているが、これが日本語によるテニスのルールの最初のものとされる。 体操伝習所は廃校になったが、高等師範学校に体育専科がおかれ、『戸外遊戯法』の編者である坪井玄道が教師に赴任、テニスの指導をおこなう一方で、三田土ゴム(のちのアカエム)に委嘱してゴムボールを製造させ、普及に尽力した。 三田土ゴムは1890年(明治23年)に製造を開始。日本国産球が完成したのが1900年。1908年には特許を取得している。 東京高等師範体育専科の卒業生は1887年頃から全国に教員として赴任していくが、ボールの国産化はそれと同時に進行していき、ゴムボールをつかったテニスは全国に普及していくこととなった。 1904年(明治37年)、東京高等師範学校(後の東京教育大 現筑波大)、東京高等商業学校(一橋大)、早稲田、慶応の4校の代表が集まりルールを制定。まだまだ不備な点が多々あったものの、これが日本人が制定したソフトテニスルールの最初のものとされる。これ以前は翻訳ルールをそのまま流用していた。 1970年代『軟式テニスは中、高校ではもっとも人気のあるスポーツである』とされていた。現在は、日本において約60万人の競技人口(登録者)と推定700万人の愛好者がいると日本ソフトテニス連盟は主張している。 しかしながら、一般的にも愛好者の意識のなかでもマイナー感が極めて強いのもまた事実である。原因としては、オリンピック種目ではないこと、日本国内にプロ選手が存在しないこと、学校体育(中学、高校)が中心であると認識されていること、1980年代から急速に大衆化したテニス(硬式テニス、ローンテニス)の影響等が考えられる。 ダブルスとシングルスがある。ダブルスが主流である。 試合に先立ってトスを行う。 サーバーはコートより外側、センターマークとサイドラインの仮想延長線の間から、ネットより向こう側、相手コートの対角線上のサービスエリアでバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールが2回バウンドする前に相手コートに打ち返し、お互いにラリーを続ける。次のようなときに相手に1点が入る。 サーブを二回連続でフォルト(ミス)したとき(ダブルフォルト) サーブされたボールがバウンドする前にレシーバーが触れたとき(ダイレクト、レシーバー側の失点) 相手の打ったボールが自分のコートで連続2回バウンドしたとき(ツーバウンズ) 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、相手のコート外だったとき(アウト) 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、自分のコート内だったとき ラケット以外の部位がボールに触れたとき(ボディータッチ) 打ったボールがアンパイヤーに命中したとき 相手コート内でボールに触れたとき(ネットオーバー) ラケットが手から離れてボールに当たったとき ボールがネットにかかったとき(ネットの裂目や隙間をすり抜けた場合を除き、ネットに触れた後に相手コートにバウンドするのは認められる。) プレー中に体かラケットがネットに触れたとき(ネットタッチ)(プレーヤーが身に着けていたものが地面に落ちる前に触れた場合も含む) プレー中に体かラケットが審判台、アンパイヤーに触れたとき(タッチ) ボールがラケットのフレームに当たったとき(チップ) 得点は、ゼロ、ワン、ツー…と数える。先に4点を取った方が1ゲームを取得する。ただし、ポイントが3-3になるとデュースとなり、その場合にゲームを得るには、相手に2点差をつける必要がある。デュースの後の数え方は、サーブ側がポイントを取るとアドバンテージ・サーバー、レシーブ側がポイントを取るとアドバンテージ・レシーバーとなる。カウントコールはサーバー側が先となる。2-2等両者の得点が同じ場合は、3-3以前までは「○○オール」と言う数え方をする。3-3以降は前記の通り。但し2回目のデュースでは「デュース アゲイン」と言うコールをする。 総ゲーム数の過半数ゲーム(5ゲームマッチなら3ゲーム、7ゲームマッチなら4ゲーム、9ゲームマッチなら5ゲーム)先取すると勝ちとなる。ゲームカウントが2-2(5ゲームマッチの第5ゲーム)3-3(7ゲームマッチの第7ゲーム)あるいは4-4(9ゲームマッチの第9ゲーム)になったときは、7ポイント先取のファイナルゲームを行う。ポイントが6-6の場合はデュースとなり、相手に2点差をつけると、そのマッチの勝者となる。偶数ポイント目の決着後にコートサイドやサーブ(サーバーペア)を交代する。(最初の2ポイントでサイドとサーブを交代し、以降4ポイント毎にサイド、2ポイント毎にサーブを交代) シングルスは1993年より正式に導入された。このとき採用されたルールは現在のそれとはおおきく異なり、コートの左右半面を使用するというもの。発足当初から疑問の声があがっていたが、2003年の世界選手権よりルールが改定。硬式テニスのシングルスと同サイズのコートで競技されることになった。ネットの高さなどはダブルスと同様である。 ダブルスのルールは1993年に大きな変更が見られた。1993年のルール改定では、主に「ポジションの制約」というルールが加えられた。レシーバー以外のプレーヤーはインプレー前にコートに入ってはいけない、とするもの。加えて、2ポイント毎にペア同士でサーバーを交代することとなった。またファイナルゲームでのタイブレークシステムが採用。当然サービスサイドの交代もとりいれられ、永年の不公平がようやく解消された。 2004年にはマイナーチェンジがあり、サービス時のポジションの制約がなくなった。 日本国内で日本ソフトテニス連盟主催の大会(あるいはそれに準ずる大会)に出場するには基本的に日本ソフトテニス連盟公認用具を使用しなければならない。(公認用具はラケット、ボール、ウエア(ユニフォーム)、ストリングス、シューズ) 棒状のグリップの先が輪になっており、そこ(フレーム)にストリングを張り使用する。長さ約70センチ前後、重さは200〜320グラム程度。また、硬式のラケットと違いソフトテニスのラケットはグリップの形が正八角形になっていたり、シャフト(グリップと面の間)が長いという違いがある。 空気の入ったゴム製のボールを使用する。色は原則として白色又は黄色で、直径は6.6センチメートル、重さは30グラム〜31グラム。コート内において、ボールの下端が1.5メートルの高さから落として、70〜80センチメートルバウンドするもの。 ボールの空気圧を調整するためのもの。これを使いバウンドの調整を行う。 ソフトテニスコートの規格について、日本ソフトテニス連盟は次のように定めている。 縦23.77メートル、横10.97メートルの長方形とし、区画するラインの外側を境界とし、中央をネットポストで支えられたネットで二分する。競技規則第5条 コートのラインは原則として白色で、幅は5センチメートル以上、6センチメートル以内。ただしベースラインの幅は5センチメートル以上、10センチメートル以内。競技規則第7条 ネットポストの高さは1.07メートル競技規則第10条。ネットの高さは1.07メートル。これを張ったときの高さはサイドライン上から1.07メートルで、水平に張る。競技規則第12条 コートのサーフェス(表面)は、屋外コートではクレー(土、含アンツーカー)、砂入り人工芝、ハード(全天候型ケミカル)等。屋内コートでは、木板(フローリング)、砂入り人工芝、硬質ラバー、ケミカル等がある。 原則1.07メートルのネットを使用する。硬式テニスのネットとは違い、ストラップは使用しない。 クロス コート対角線のこと。右対角線を正クロス(順クロス)、左対角線を逆クロスという。単にクロスという場合は正クロス(順クロス)を指すことがおおい。 ミドル コートのセンターマークからセンターサービスラインにかけてのコースを指す。 ストレート サイドラインの平行線となるコースを指す。いわゆるダウンザライン。 グリップ ラケットのハンドル部分の呼称だが、単にグリップと言う時、慣例的にその握り方を指すことがほとんど。 ウエスタングリップ 地面と水平に置いたラケットを真上から握って持ち上げた握り方。ソフトテニスの基本的なグリップになる。 イースタングリップ ラケットフェースを地面と直角になるようにセットし、握手するように握る。あるいはラケットフェースに手のひらをあてそのままグリップ位置までずらし握る。ラケットフェースと手のひらの角度が同じになる コンチネンタルグリップ ラケットエッジを刃に見立てた、いわゆる、包丁握り。サービスやスマッシュ、あるいは難球処理等で用いる。 グラウンドストローク ワンバウンドで打つストローク。バックハンドとフォアハンドがある。 トップ打ち(トップストローク或いは単にトップと呼んだりもする) グラウンドストロークにおいて高い打点から打ち込む打法。 ネットプレー 前陣、つまりコート半ばからネット際でのボールの処理。ノーバウンドでのプレーが多くなる。攻撃の要。 ボレー ボールがバウンドする前に直接打つこと。 スマッシュ ボールを上から叩き込むように強く打つこと。語源は「打ち砕く」。 サービス プレーをはじめるにあたっての第一打。一度ミス(フォルト)してももう一度打つ事ができる。(セカンドサービス) ダブルフォルト サーブを一度ミスすることをフォルトという。そして、もう一度サーブを打ってミスすることをダブルフォルトという。ダブルフォルトをすると、失点となり相手の点となる。 フラットサービス 回転(スピン)をかけずに打ち込むサービス。最も速いサービス。 トップスピンサービス ボールに順回転(トップスピン)をあたえて打つサービス。フラットサーブに比して威力は減じるがスピンをあたえることでコントロール性が高くなる。 リバースサービス ボールに左回転をあたえて打つサービス。 スライスサービス ボールに右回転をあたえて打つサービス。打点の高さによりトップスライスサーブ、サイドスライスサービスと区別される場合がある。 カットサービス ボールに鋭角にラケットフェースを当て、切る(カット)ように打たれるサーブ。ファーストサーブとして強烈に打たれるものから、セカンドサーブとして用いられる比較的ゆるいサーブまでさまざまなバリエーションがある。 スピン ボールの回転のこと。 トップスピン 順回転のこと。 アンダースピン。 逆回転のこと。 サイドスピン 横回転のこと。 ベースラインプレー 後陣、つまりベースライン付近でのボールの処理。グラウンドストロークが中心。 ロビング 主にグラウンドストロークにおいて高い軌道をとる打球のこと。ロブともいう。 中ロブ ロビングとシュートの中間の打球。 シュート コートとほぼ平行で、ネットすれすれの高さに飛ぶボールのこと。シュートボールともいう。強く打つため、攻撃的なボール。 ドライブ ソフトテニスではトップスピン(順回転)をかける意味。 レディ(ready) マッチ開始前の練習をやめさせ、プレーヤーを位置につかせるコール プレーボール(play ball) マッチ開始を告げるコール チェンジサイズ 奇数ゲームが終了した時、サイドを交代し、サービスを相手方と交代することを命ずるコール(競技規則第32条) チェンジサービス 偶数ゲームが終了した時、サービスの交代を命ずるコール(競技規則第32条) インターフェア インプレー中において、明らかにゲームの妨害、反則になる行動もしくは発言あったときコールされる。失点並びにイエローカードとなる。 世界ソフトテニス選手権 アジアソフトテニス選手権 アジア競技大会 「東アジア競技大会」 全日本ソフトテニス選手権大会 全日本シングルスソフトテニス選手権 全日本インドアソフトテニス選手権 国民体育大会(国体) 東日本ソフトテニス選手権 西日本ソフトテニス選手権 社会人 全日本実業団ソフトテニス選手権 ソフトテニス日本リーグ 全日本社会人ソフトテニス選手権 全日本シニアソフトテニス選手権 全日本クラブ選手権 大学 全日本学生ソフトテニス選手権(インカレ) 全日本大学ソフトテニス王座決定戦 全日本学生インドア大会 高校 全国高等学校総合体育大会(インターハイ) 全日本高等学校選抜ソフトテニス大会 アゼリアカップ国際大会 ハイスクールジャパンカップ 中学校 都道府県対抗全日本中学生ソフトテニス大会 全国中学校ソフトテニス大会 小学生 全国小学生ソフトテニス大会 東アジア競技大会 亜細亜軟式庭球選手権大会 1955年から1973年までほぼ隔年毎に9回開催された日本、韓国、中華民国(台灣)による3カ国対抗。国際ソフトテニス連盟の設立にあわせて発展的に解消された。 アジア学生選手権 1982年から1997年まで隔年毎に3回開催された中華民国(台灣)韓国、日本。による3カ国対抗による学生大会。プロケネックス社のスポンサードを得て台灣主導で起ち上がった。。 1955年に日本・韓国・台湾の3か国によって「アジア軟式庭球連盟」が設立。同連盟により1956年-1973年に3か国対抗によるアジア選手権を開催。 1970年日米軟式庭球普及連絡協議会発足。これはアメリカンスクールとの連絡機関であり、中学生の日米親善試合を実現。 1972年にはアメリカ合衆国ハワイ州にハワイ軟式庭球連盟が設立。同時に州選手権を開催。ハワイ州公立高校の学校体育正科種目として採用。 ハワイ軟式庭球連盟が設立の前後、台湾(中華民国網球協会)の尽力により香港軟式網球協会が発足。ブラジル、ベネズエラでも軟式庭球協会が設立。 1974年に国際軟式庭球連盟が創立される(創立時の加盟国 日本、韓国、中華民国(台湾)、アメリカ、ベネズエラ、ブラジル、香港)。 1975年、第1回世界選手権が国際軟式庭球連盟主催、日本軟式庭球連盟主管のもと、アメリカ合衆国ハワイ州にて開催された。ハワイ開催となったのはハワイ軟式庭球連盟の設立を記念してという名目があったが、田中角栄の中国訪問による日中国交正常化の影響、それは中華民国(台湾)との断交を意味し、日本国内開催が困難となったためである。 1970年代後半には欧州およびアフリカ大陸(ザイール等)への普及活動が開始された。 1979年、ナショナルチームが渡米しカリフォルニアでデモンストレーションを行った。 欧州への普及活動が21世紀に入って行われている。ヨーロッパソフトテニス連盟も設立され、ハンガリー、チェコ、ポーランド等で定期的にトーナメントが開催されている[要出典]。 現在、4年毎に開催される世界選手権は2015年で15回を数え、2007年9月に韓国・安城で開催された第13回世界選手権には42か国に及ぶ国と地域からの参加があった。 アジア競技大会種目入りを目標として、韓国・台湾以外のアジア諸国への普及活動が1980年代に行われ、1988年には新生アジア選手権が名古屋で開催されている。1990年アジア競技大会(北京)に公開種目として初参加。 1994年からアジア競技大会(ASIAN GAMES)の正式競技。以降、1994年も含めて7大会連続で正式種目として競技されている。 1997年から東アジア競技大会の正式競技。 2009年にはユースのための年齢別国際大会である国際ジュニアソフトテニス大会(INTERNATIONAL JUNIOR SOFT TENNIS TOURNAMENT)がスタート。第1回大会が四日市市で12月に開催された 2011年東南アジアのオリンピックである東南アジア競技大会に正式競技として参加(第26回東南アジア競技大会SEA GAMES)。 2014年11月、第2回世界ジュニア選手権がインドで開催。 ^ 英語表記では1992年以前もsoft-tennis。また中国語圏(中国、台湾等)では現在でも軟式の文字が使われている(軟式網球) ^ 後衛、前衛 ^ シングルスは1990年代半ばになって正式採用された国際大会においては1992年にジャカルタで開催された第二回アジア選手権において個人戦シングルスが行われたのが最初となる。翌1993年の東アジア競技大会(上海)では団体戦にも採用(上海大会には公開種目として参加)。国内では1994年に第一回の全日本シングルス選手権が天皇賜杯・皇后賜杯全日本ソフトテニス選手権(ダブルス)と同時開催された。日本学生連盟ではそれ以前も独自ルールでシングルス選手権を開催してきている。 ^ 『戸外遊戯法』は1883年にイギリスで出版された『アウトドアゲームス』(FWストレンジ)の翻訳といわれている。 ^ ボール製作会社は明治30年頃には2社、明治40年代には7社。 ^ 1978,6.28朝日新聞東京版。文部省(当時)がおこなった調査に基づく記事。 ^ 日本ソフトテニス連盟発行「ソフトテニスコーチ教本』他による ^ ソフトテニスはその普及の過程で東京高師(現筑波大学)の(教員となった)卒業生たちの手によって全国に広く分布普及していった歴史的背景、経緯 がある。 ^ 第二次テニスブーム ^ 歴史的にダブルス中心で発展し、現在もダブルスが主流だが、1992年のアジアソフトテニス選手権においてシングルス(個人戦)が採用、1993年の東アジア競技大会では団体戦においてシングルスを導入し3ダブルス2シングルスの形式で競技され、以後、団体戦にシングルスを組み込むことが慣例となった(2003年世界選手権より2ダブルス1シングルス)。1994年には全日本シングルス選手権が創設、以後、急速に普及が進んでいる。 ^ ラケットあるいはコインを使用する。じゃんけんが併用される場合もある。 ^ コート上でマッチの直前に行われる場合、入場前に行われる場合がある。 ^ トスとは、選択権を得たプレイヤーが第1ゲームのサーブ・レシーブ、又はコートサイドを選び、もう一方のプレイヤーは残った方を選ぶもの。 ^ ベースライン中央にある ^ ダブルスの場合、2ポイント毎にペア内でサーバーを交代する ^ 1-1ワンオール、2-2ツーオール ^ ストリング(ス)---俗に『ガット』ともいわれるが、厳密には『ガット』はナチュラルストリングスを指す。ソフトテニスにおいてナチュラルストリングスといえば鯨筋を指すが、現在はあまり用いられない ^ 日本ソフトテニス連盟の規定では、フレームに使われる材質や重量、または寸法・形状などに関する規定は無いが、両面のプレー特性が同一になるように設計されたもの、打球面は平面のもの、と定められている(競技規則第14条) ^ 現在日本国内では白、黄、青、赤、黒が販売されているが、白、黄以外は日本ソフトテニス連盟公認球ではない。なお公式戦では白色球が使用されることがほとんどである。 ^ 日本における公式戦では日本ソフトテニス連盟公認球が使用される。2015年現在、公認球は3種(三社、以前は数種(数社)あった)のみ。マッチにおけるボールの選択にはトスによる任意選択制、主催者の指定の二通りがある。 ^ 砂入り人工芝の通称として用いられる「オムニコート」は、SRIハイブリッド社の登録商標である。 ^ イースタングリップにはフォアハンドイースタンとバンクハンドイースタンがあるが、ソフトテニスにおいてイースタングリップというとき、ほとんどに場合フォアハンドイースタンを指す ^ 古くはイングリッシュグリップともいわれる。 ^ オーバーヘッドで打球される。 ^ ショルダーカットサーブとほぼ同様の低い打点でのサーブ。セカンドサーブで用いられる。 ^ 日本ソフトテニス連盟発行の教程 ^ 現在、国際大会のトップクラスではこれが主流である。 ^ 国内においてはマッチ開始前の練習は1分以内であることが多い。進行状況によっては省略されることもある。 ^ 1993年上海大会では公開競技、1997年釜山大会、2001年大阪大会、2005年マカオ大会では正式種目、2009年香港大会では正式種目から外れた。2013年天津大会では正式種目として復帰。同大会はその2013年天津大会をもって終了予定、東アジアユースゲームズとして再スタートすることが決まっている。 ^ 天皇賜杯(男子)、皇后賜杯(女子) ^ 旧全日本総合選手権 ^ 最古の室内大会、第一回より大阪で固定開催されている。開催年度のランキング上位ペアが出場(2015年現在で12組。 ^ 少年男子、少年女子、成年男子、成年女子の4カテゴリ毎の団体戦。2014年までは3ダブルスの点取り戦、2015年より2ダブルス、1シングルスの点取り戦。 ^ 一般(フリー)、成年(35歳以上)、シニア(45歳以上)の各種目がある、シニアは5歳刻みで数種目あり。 ^ 企業対抗の団体戦(3ダブルス点取り)。国体のリハーサル大会を兼ねる。 ^ 2ダブルス、1シングルスの点取り戦 ^ 下部リーグとして日本リーグ入れ替え戦、全日本実業団リーグ、各地区リーグがある ^ 一般男子、一般女子、成年男子(35歳以上)、成年女子(35歳以上)の4種目 ^ 全日本社会人より独立。45歳以上5歳区切りの各カテゴリーがある。 ^ 文部大臣杯大学対抗団体戦、三笠宮杯(ダブルス)、全日本学生シングルスの3トーナメントから成る。 ^ 各地区春季リーグ戦の優勝校が出場。近年は台湾、韓国代表大学も出場。 ^ 総理大臣杯 ^ 団体戦(3ダブルス点取り戦と個人戦ダブルス 男女計3種目から成る_ ^ 学校対抗の3ダブルス点取りによる団体戦。毎年度末に名古屋で開催される。 ^ 毎年2月に高松市で開催 ^ 3ダブルス点取り団体戦。韓国、台湾からも参加あり。 ^ 毎年6月に北海道で開催 ^ ダブルス、シングルス ^ 年度末に三重県伊勢市で固定開催 ^ 男子団体、女子団体、男子ダブルス、女子ダブルスの4種目 ^ 世界ソフトテニス選手権にグレードアップ ^ 第一回は台南市(クレー)、第二回はテグ市(クレー)、第三回は東京駒沢体育館で開催。 ^ 男子団体、女子団体、男子ダブルス、女子ダブルスの4種目。団体戦は3ダブルス総当たり9対戦という独特の形式。 ^ 亜細亜軟式庭球選手権大会。日本、韓国、中華民国(台湾)の3か国対抗、男子団体戦、女子団体戦、男子ダブルス、女子ダブルスの4種目。現在の世界選手権の前身となった。 ^ ソフトテニスセミナー主宰の宮本行夫氏の尽力による。 ^ 参考 日本庭球史 第1編軟式庭球概史 第6章 5.海外の軟式庭球 ^ ドイツ、イタリア、フランス、チェコ、ハンガリー、オーストリア、ポーランド等 ^ 第12回世界ソフトテニス選手権大会(2003年・広島)には全大陸よりエントリーがあった[要出典]。 ^ 1988名古屋、1992ジャカルタ、1996バンコク、2000佐賀、2004チェンマイ、2008ムンギョン、2012嘉義(台湾)、2016千葉で開催された。 ^ 1990年北京大会には公開競技として参加 ^ 1993年上海大会には公開競技として参加 ^ 男女それぞれにU21、U18、U15の3つのカテゴリーがあり、それぞれダブルス、シングルスが競技された。 ^ 国際ジュニアソフトテニス大会 主催-アジアソフトテニス連盟 ^ 2年毎の開催予定だったが、第二回大会は世界ジュニア選手権としてグレードアップして2014年にインドで開催された。 ^ タイ、フィリピン、インドネシアではナショナルゲーム(国体)の正式種目として定着 ^ 旧国際ジュニアソフトテニス選手権 テニス(硬式テニス) 日本ソフトテニス連盟 体育 公立学校 日本のスポーツ アジアのスポーツ 公益財団法人 日本ソフトテニス連盟 Soft tennis Homepage 日本学生ソフトテニス連盟", "バスケットボール(basketball 音声[ヘルプ/ファイル])は、1891年にアメリカで考案されたスポーツ。5人対5人の2チームが、一つのボールを手で扱い、長方形のコート上の両端に設置された高さ305cm(10ft)、直径45cm(18in)のリング状のバスケットにボールを上方から通すこと(ゴール)で得点を競う球技である。公式試合は屋内競技として行われる。狭義では、この競技に使用する専用のボールのことを指す。籠球(ろうきゅう)とも訳される。開催される国・地域、年齢や性別によってルールは調整される。 バスケットボールゲームの特徴は、 ボールを保持したまま基本的に移動できないこと 連続して移動する場合は床面でボールをバウンドさせるドリブル(球運び)を行い、このドリブルはプレーヤーの一連のプレーで1回のみ許されること ボールに対して下半身を使えないこと 対人接触に関しての規定が比較的多くあり、故意に接触すること、相手の身体や衣服を掴むことが禁止されていること ゴールはショットが放たれた位置によって得点が異なること 攻撃と守備の流れは流動的で、試合中の多くの状況で起こり得ること 試合の経過を滞らせないためにほとんどのプレーで制限時間があること などが挙げられる。 歴史にもあるようにルールを一人の考案者で作った事と、NBAなどプロスポーツと共に発展してきた事に起因して、見せるスポーツとしての側面も併せ持っているため、ルールが複雑なスポーツの一つである。その一方、楽しむスポーツという点では、ゴールリングとボールがあれば1人からプレーを楽しむことができ、1オン1(1対1)や、3オン3(3対3)で本格的にゲームをすることもできる。アメリカでは、公園など公共の場所にリングが設置されており、ゴールリングを指す俗称から転じて「hoop」とも呼ばれ親しまれている。 バスケットボールのゴールとなるバスケットは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。競技年齢や設備環境により、設置高さなど各種寸法は異なる。 このバスケット(リング)に正規の方法でボールを上方から下方に通過させることによってゴールが成立し得点が記録される。攻撃側(オフェンス)チームは、定められた方法で、プレーヤーがドリブルでボールを運んだり、プレーヤー間でパス(送球)を行いながら、得点となるバスケットのあるフロントコートへボールを運びつつ、ゴールチャンスをうかがい、一定時間内(ショットクロックが0になるまで)にショットを放ち、ゴール成立によるポイント(得点)を狙う。また一旦フロントコートへ運ばれたボールをバックコートに戻すことは出来ない。攻撃権のない守備側(ディフェンス)チームは、規定された方法でゴールを阻止し、攻撃権を奪うような防御プレーを行う。ボールポゼッション(攻撃権)は、得点があった場合、ヴァイオレイション(ゲーム運用における違反)またはファウル(主に相手チームやオフィシャルに対して犯される反則)があった場合、ピリオド(試合進行中の区切り)開始時などに、決まりに従い、チーム間で移動する。試合中のフィールドゴールは、ショットを放った位置によって、1回の成功で、ツーポイント(2点)あるいはスリーポイント(3点)が記録される。ファウル、あるいはヴァイオレイションに対するペナルティ(罰則)により与えられるフリースローでは、事例によって投数がワンスロー〜スリースロー(1〜3投)の間で決められ、一投成功につき1点が記録される。試合時間終了時点で、より多い得点を得たチームが勝利となる。基本的には、引き分けはなく、通常ピリオドの半分程度の時間のオーバータイム(OT)を、勝敗が決するまで繰り返し行う。 ネイスミスの考案 バスケットボールは、一人の人物によって考案され広まった数少ない競技のひとつである。考案者はアメリカ、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)の体育部教官を務めていたカナダ人のジェームズ・ネイスミスで、1891年に彼の考え出したルールが現在のバスケットボールの原型になっている。 1891年夏、国際YMCAトレーニングスクールでは体育・スポーツ指導者の講習会が開かれたが、当時、全米各州のYMCAでは冬季の屋内における体操中心のプログラムについて学生の意欲が低いとして既存のプログラムに対する不満があり、レクリエーション的で競技的要素を含んだプログラムが求められていた。同年秋、体育部主事のL.H.ギューリックは5人の体育指導教官を集めて数回にわたり検討した結果、新しいスポーツを創り出すほかはないとの結論に達した。体育教官であったネイスミスはアメリカンフットボールやサッカー、ラクロスなどを屋内ゲームとして取り入れようとしたが失敗に終わる。そこで、ネイスミスは各ゲームの要素を取り出すこととし、ボールを使用すること、ラフプレーを取り除く必要からタックルをなくすためボールを保持したまま走ってはいけないこととした。また、ゲーム中の安全性を高めるため競技者間の身体接触を少なくすることが考えられたが、これにはネイスミスが少年時代を過ごしたカナダ・オンタリオ州の雄鴨落し(Duck on the Rock)という的当て遊びにヒントを得てゴールをプレーヤーの頭上に水平に設置することとした。 ネイスミスが最初に考案した13のルールは現在では約250にまでなっているが、ゲームの形式は基本的にほとんどかわっていない。 初めての試合 1891年12月21日、国際YMCAトレーニングスクールで18人の学生を9人ずつに分け初めての試合が行われた。初めての試合のボールにはサッカーボールが用いられた。ネイスミスはゴールについては45cm四方の箱を想定していたが、それは用意できなかったため、代わりに桃を入れる籠(かご)を体育館のバルコニーに取り付けることとなった。このときのゴールの高さ10フィート(3.05m)は以後変更されることなく現在に至っている。また、フロアの広さはおよそ11m×15mの大きさであったという。この世界最初の試合の18人の中には日本人・石川源三郎が含まれていた。最初の試合ではトスアップから1時間ほどたって1年生W・R・チェイスのショットが決まって点が入りゲーム終了となっている。このスポーツの名称について初めての試合が行われるに先立ってネイスミスと学生フランク・マーンとの間で話題になり桃の籠を用いたことから「バスケットボール」と名付けられた。 その後、YMCAトレーニングスクール広報誌「ザ・トライアングル」(1892年1月15日号)に紹介され、1892年1月になって正式に「バスケットボール」という名称に定まった。また、当初、英語での表記は「Basket ball」であったが、1921年に公式に「Basketball」となった。 プレーヤー人数 ネイスミスは両チームが同人数であれば何人であってもよいと考えていたため13条のルールの中にチーム人数を規定していなかった。コーネル大学では50人対50人で試合が行われたが、この試合について担任のE・ヒッチコックは「体育館が破壊されかねない」などと述べるなど逸話となっている。プレーヤー人数については、その後次第に制限され、1894年にプレーヤー人数についてはフロア面積に合わせて5人、7人、9人とされることになった。コートの大きさやプレーヤー人数が現在のように確定したのは1897年になってからのことである。 コート上のプレイヤーは、限られたタイミングで交代することができ、反則やケガで欠員が出ても交代として補充することができる。交代の回数に制限は無いので、1人のプレイヤーが何度も交代することができる。 ゴールの形状 ゴールについては考案当初、シュートが決まるたびに梯子や棒を用いて取り出していた。ゴールの桃の籠は壊れやすかったためすぐに金属製の円筒形ゴールにかわっている。ゴールの形状はその後少しずつ変化し、一説によればネット状で底が切れている現在のようなゴールの形状になったのは1912年から1913年にかけてであるとされる。なお、リングの内径45cmは最初の試合の時から全く変わっていない。 バックボード バスケットボールは熱狂的な人気を博すようになったが、観客が体育館上の手すりや欄干から足や手を伸ばして妨害することが頻発したため遮蔽物が設けられることになった。これがのちのバックボードで当初は金網であったが、1904年から1.8cm以上の木板が用いられるようになった。ところが、観客から見えないことになったため後に透明なプラスチック板が用いられるようになっている。バックボードの位置については当初エンドライン上にあったが、ゴールが61cmコート内側に移動することとなった際にバックボードもそれに伴ってゴールと一体となってエンドラインより内側に配置されることとなった。 FIBAの結成 バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師を務めていたセンダ・ベレンソンによって女子バスケットボールが始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになり、YMCAを通じ世界各国へ急速に広まった。このような背景もあり、1904年のセントルイスオリンピックではデモンストレーションスポーツとして開催された(1904年から1924年までオリンピックの公開競技として実施)。1932年6月には国際バスケットボール連盟(FIBA)が結成され、1936年のベルリンオリンピックから男子オリンピック正式種目に採用された。また、1976年のモントリオールオリンピックから女子正式種目にも採用された。 プロリーグの創設と発展 アメリカ国内では、1946年に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併しNBAが誕生した。1967年に、対抗するリーグABAが設立され地位を脅かしたが、1976年にABAは消滅し、NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けている。 ドリームチームの時代 NBAには、ジョージ・マイカン、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、カリーム・アブドゥル=ジャバー、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなどのスター選手が所属し、1992年のバルセロナオリンピックでは「ドリームチーム」を結成、圧倒的な強さで優勝を果たした。 また、1996年には女子プロバスケットボールリーグWNBAが設立され、シェリル・スウープス、リサ・レスリー、ローレン・ジャクソンなどのスター選手が台頭した。 国際化 NBAやオリンピックの活性化に伴い、近年バスケットボールの国際化が急速に進んでおり、FIBA発表では1998年時点で世界の競技人口は4億5000万人、FIBAに加盟した国と地域は2006年8月時点で213まで増加した。 日本にバスケットボールが伝わったのは1908年で、YMCAの訓練校を卒業した大森兵蔵が東京YMCAで初めて紹介したとするのが現在の定説である。そして1913年にYMCA体育主事のF.H.ブラウンが来日し、関東、関西で競技の指導に尽力し普及していった。 なお、1891年にスプリングフィールドのYMCAの訓練校で行われた世界初の試合に参加した石川源三郎がもたらしたのではないかとする異説もある。ただ、1910年代の日本ではいまだスポーツ施設が少なく競技用具も粗末であるなど本格的に受容するだけの受け皿がなかったとされ、石川がバスケットボールを日本で紹介・指導した記録は見つかっていない。 1924年には、早稲田大学、立教大学、東京商科大学が全日本学生籠球連合を結成。全国各地で対抗戦が行われていった。そして、1930年に日本バスケットボール協会(JABBA)が設立され、普及と発展及び競技レベルの向上に努めている。 2005年には日本初のプロリーグbjリーグが発足したが、日本のバスケ全体の発展・強化が遅く、アジアの各大会で苦戦を強いられている。日本代表は、女子が2004年のアテネオリンピックに3度目の出場を果たしたが、男子は1976年のモントリオールオリンピックを最後に出場は途切れている。 2014年11月27日、日本バスケットボール協会(JBA)はFIBA(国際バスケットボール連盟)より勧告を受けていた『国内男子トップリーグの統合』、『ガバナンス能力に欠けるJBAの改革』『日本代表の長期的な強化策』の問題が解決されず、FIBAから資格停止処分を受けた。 2015年6月19日、FIBA(国際バスケットボール連盟)が、スイスで常務理事会を開き、2014年11月27日に日本協会に科した、無期限の国際試合出場停止処分の解除を決めた。 2016年9月、NBLとbjリーグが統合した新リーグ「ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)」が開幕。 現代の日本では多くの学校や企業で部活動やサークルとしての活動があり、それぞれ全国規模の大会が毎年行われている。多くの学校や公園には簡易的なバスケットゴールが設置されているが、試合ができる環境が整っている場所は多くない。 また、ほとんどのスポーツ用品店でバスケット用品を扱っており、国民の認知度はかなり高いスポーツとなっている。 しかしながらオリンピックを始めとする世界大会や、世界一のレベルと言われるNBAではまだ日本の認知度は低くなっている。 天然皮革、合成皮革、ゴムなどで作られたボールが使われる。公式ボールとしては検定球が使われる。一般(男子)用及び中学生用(男子)には7号球(周囲75 - 78cm、重量600 - 650g)が、一般(女子)及び中学生用(女子)には、6号球(周囲72 - 74cm、重量500 - 540g)が、小学生用には、5号球(周囲69 - 71cm、重量470 - 500g)が使われる。なお、ボールの下端が1.8mの高さから落とした際、上端が1.2 - 1.4mの範囲ではずむ様に空気圧が調整される。 また、2004年のFIBA(国際バスケットボール連盟)の規格改定により従来の茶色の8枚パネルから茶色とクリーム色2色の合計12枚パネルのボールが認められ、選手や観客にとってボールの軌道や回転など視認性が高まった。海外では、スポルディングやアディダス、ナイキ、ウィルソンなどが、日本では、モルテン、ミカサ、タチカラなどが製造販売している。 NBAでは、協会公認で、コミッショナーの認定、使用するホームチーム名などが刻印されたスポルディング社製天然皮革ボールを使用している。2006-2007年シーズンに、合成皮革で二面張りのユニークなボールに一旦は変更したが、選手間での評価が悪く元に戻している。 縦 28m、横15mのコートが使われ、幅5cmの白線で区画が設定される。長辺をサイドライン、短辺をエンドラインと呼ぶ。エンドラインとサイドラインで区画された区域がインバウンズ(コート内)となり、サイドラインとエンドライン上とその外側がアウト・オブ・バウンズ(コート外)となる。コート内には中央でコートを2分するセンターラインや、センターサークル、フリースローレーン、フリースローサークル、3ポイントライン、ノーチャージセミサークルなど様々なラインがマーキングされている。攻撃するバスケットがあるコートの半分をフロントコート、もう一方のバスケットのあるコートの半分をバックコートと呼ぶ。FIBAとNBAではコートサイズや区画などが異なっているが、FIBAでは2010年に変更があり、フリースローレーン(ペイントエリア)が台形から長方形になり、ノーチャージセミサークルが追加され、3ポイントラインも拡張され、NBAの仕様に近づいている。 バスケットに於ける境界線は、ライン上は、ラインを越えた事と同じであると言う考え方が原則である。例えば、3ポイントラインを踏んでのショットは、3ポイント境界線を越えたと見なしゴールしても2ポイントである。ただし、ボールをフロントコートに進めることについては、ボールとボール保持したプレイヤーの両足とがフロントコートに入った段階で成立する。 また、空中でのプレーに関しては最後に触れたコートの部分が適用されるため、ラインのコート内から跳んだ場合は、着地点がコート外だとしても着地するまではプレーを継続でき、シュートをした場合は跳んだ部分での点数が適用される。 バスケットボールのゴールは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから120cm内側の上方に、平行に設置された幅180cm高さ105cmの長方形で平らなバックボードに、リングは、15.1cmのフランジを介して取り付けられている。 NBAでは、高さ305cm(10ft)に水平に設置された内径45.72cm(18in)のNBA認定リング(ダンクショットの際に安全なように可動式となっている)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な38〜45cm(15〜18in)のネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから122cm(4ft)内側の上方に、平行に設置された幅183cm(6ft)高さ 107cm(3.5ft)の長方形で平らなバックボードに、リングは、15.24cm(6in)のフランジを介して取り付けられている。 FIBAでは、フロントコートにあるバスケットは対戦相手のバスケットと呼ぶが、NBAではフロントコートにあるバスケットは自チームのバスケットで、バックコートにあるのが相手のバスケットと定義している。いずれの場合もフロントコートにあるバスケットにボールを入れると得点となる点は同じである。NBAでは自分たちのバスケットにショットを入れることから、ゴールをマネーと表現することがあり、バンクショットのバンクを銀行に掛けて表現することもある。 ミニバスケット(小学生)では、高さが260cmであるなど、競技をする人の年齢や設備環境により、各種寸法は異なる。 ユニフォーム(チーム・ジャージ) ユニフォームはシャツとパンツを言う。シャツはノースリーブやショートスリーブ、ランニングなどを主に着用する。シャツとパンツはチームメンバー全員が同じデザインの色、形のものを着用し、前と後ろは同じ色でなければならない。パンツは必ずしもシャツと同色でなくても良い。一方のチームは 濃い色、他方は淡い色(白が望ましい)のものを着用する。対戦表の先に記載されたチーム、またはホームチームが淡色のユニフォーム、後に記載されたチームまたはビジター(アウェイ)チームが濃色を着用する。両チームの話し合いで入れ替えてもよい。ユニフォームには番号を胸と背中に付ける。この番号は、原則4 - 15まで、または大会主催者により2桁までの番号を付ける事が決められている。これは得点があった場合などの審判のジェスチャーは指を1から3本立てて表現するものが多くあり、番号との混同を避けるためである[要出典]。「0」「00」という番号の使用も大会規定により認めることが可能であるが、同一チーム内に「0」と「00」を同時に使用することは認められず、「07」のような番号も認められない。背番号も参照のこと。他の球技と同様、チームのロゴやエンブレム、広告などを大会主催者の許可のもとで付ける事もあるが、番号との距離などが厳格に定められている。形状は時代と共に変化し、特にパンツは過去には陸上競技並の短かさだったものが、現在では膝丈近くにまで伸びゆったりしたものとなっている。ユニフォーム下は、許可された範囲で、アンダーシャツ、スパッツなどの着用も可能である。他には、ヘッドバンド、アームスリーブ、リストバンド、脛当て、サポーターも着用される場合がある。 シューズ、ソックス バスケットボールをプレーするためには、素早くダッシュし、方向転換したり、瞬時に止まったりジャンプしたりと動きが激しいので、滑りにくく、ジャンプや着地時のショックを和らげるクッション性が高いシューズが必要であり、専用に用意されている。合成樹脂技術の進歩に伴い軽量化が進んだが、1960年代頃までは、厚いゴム底の、スポーツシューズとしては重いものであった。また、ソックスも登山用のような厚手のウールソックスを履くこともあった。また、1970年代にNBAの影響でハイソックスが流行したが、現在では、NBAでも一部のプレーヤーや、復刻ジャージでのゲームで着用されるのに留まっている。 NBAの場合、ゲーム時にはウォームアップウェア、チーム・ジャージと呼ばれるユニフォームから、サポーター、ソックス、ヘッドバンドに至るまで、NBA指定メーカーロゴとNBAロゴ、チームロゴのみが許可されており、唯一、選手が自ら選んで身につけられるのはバスケットシューズのみである。従って選手は、それぞれのシューズメーカーと契約している。スタープレーヤーには、プレーヤーモデルのバスケットシューズが提供されると共に、同型の市販品が作られ販売される。 主なルールの改定を以下にまとめた。 創造から 1932年 バックパスルール設定。シューティングファウルに対するフリースローが現在の数に。 1933年 交代しコートから退いたプレイヤーは、その後さらに2度まではプレーに参加できるように。ユニフォームの背番号は算用数字を使用するよう奨励。 1935年 3秒ルールが現在に近い形に。 1938年 フィールド・ゴール成功後、センター・ジャンプで再開する規定がなくなり、エンド・ライン外からのスローインに。 1946年 バックボードをコート内側の現在位置に移動。交替出場回数に制限がなくなる。5ファウルで退場となる。フリースローを放棄し、アウトからのスロー・インを選ぶ権利が与えられた。 1954年 NBAがショットクロック(24秒ルール)導入。 1956年 ショットクロック(30秒ルール)導入し、バックパスルール廃止。 1957年 フリースローを放棄できなくなる。 ローマ・オリンピック後に国際ルールに沿った規則となって以降。 1965年 一般男女と高校男子の試合を20分ハーフにし、使用ボールを7号ボールに。 1973年 バックパスルール、10秒ルールの復活。 1974年 バスケット・カウント・ワンスローが復活。 1979年 2個のフリースローのうち、1個でも入らないときさらにもう1個を与える「スリー・フォー・ツー・ルール」設定。 1985年 3ポイントルールの採用、チームファール罰則が7ファールに スリーフォーツーの廃止。 1991年 フリースローをせずにセンター・ラインのアウトからのスロー・インを選べる「選択の権利」が廃止。背番号が4番からに。 1995年 アリウープがリーガル・プレイに シューティングファウルがシューターが床に着くまでに拡大。インテンショナル・ファウルが「アンスポーツマンライク・ファウル」改名。 1999年 後半の最後と各延長時限最後の2分間にフィールド・ゴール 成功時はゲーム・クロックを停止。 2000年 20分ハーフを10分クオーター制に。 2001年 30秒ルールから24秒ルールへの変更。 2010年 制限区域が台形から長方形に、3ポイントラインが拡大。ノーチャージエリアの設定。ショットクロックの14秒リセット導入。 2012年 オフェンス・リバウンド時もショットクロックが14秒リセットに。 2014年 プレイヤーのテクニカル・ファウルが2回で失格・退場に。テクニカル・ファウルの罰則のフリースローを1本に。 2018年 ボールを保持すると同時についた足を0ステップとした。 レイアップ時のトラベリングが大幅に減った 以下に記すのは主に国際バスケットボール連盟(FIBA) 及び日本バスケットボール協会(JBA)のオフィシャルルールによる。 日本プロバスケットボールリーグと、北米のプロリーグであるNBAはそれぞれ独自のルールを規定している。 また、小学生が行うミニバスケットボールも、独自のルールが規定されている。 5人対5人で試合を行う。3人対3人の3 on 3(スリー・オン・スリー)もある。 10分のピリオドを4回行う。第1第2ピリオドを前半、第3第4ピリオドを後半という。 第4ピリオドが終わったとき両チームの得点が同じだった場合は、1回5分の延長時限を必要な回数だけ行う。 ボールは手で扱わなければならない。ボールを保持したまま3歩以上歩くこと(トラベリング)、故意に足または腿で蹴ったり止めたりすること、拳で叩くことなど、からだの触れ合いおよびスポーツマンらしくない行為以外の規則に対する違反をヴァイオレイションという(詳細はヴァイオレイションの項を参照のこと)。 相手チームのプレイヤーとの不当なからだの接触やスポーツマンらしくない行為をファウルという(詳細はファウルの項を参照のこと)。 相手チームのバスケットにライブのボールを上から通過させるか、バスケットの中にとどまること(シュート、ショット)によりゴールとなり、規定の得点が認められる。2ポイントエリア(攻撃するバスケット側の3ポイント・ライン以内のエリア)からのフィールドゴールは2点、3ポイント・ラインより外側(3ポイントエリア)でのフィールドゴールは3点が認められる。フリースローによるゴールは1点である。 シュート動作中に守備側からファウルを受けるとフリースローが与えられる。そのショットが成功した場合は得点は認められ(バスケットカウント)、さらに1本のフリースローが与えられる。ショットが失敗した場合は、2ポイントエリアからのショットの場合は2個、3ポイントエリアからのショットの場合は3個のフリースローが与えられる。 プレイヤーがコート内でライブのボールをコントロールした場合、そのチームはコントロール開始から24秒以内にショットをしなければならない(24秒ルール)。 ゲームはセンターサークルで両チームのプレイヤーによりジャンプボールで始められる。前半は相手チームのベンチ側にある相手チームのバスケットを攻め、後半は攻めるバスケットを入れ替える。延長時限は後半と同じバスケットを攻撃する。 第2ピリオド(試合時間を参照)からは、オルタネイティング・ポゼション・ルールにより、オフィシャルズテーブルから遠いほうのセンターラインの外側からのスローインで始まる。 第一ピリオドは各チームのキャプテンが出場しなくてはならない。 審判(オフィシャルズ)は2人もしくは3人で行う。これは主催者により選択される。 このほかに、審判を補佐し、得点を記録するなどの仕事を行うテーブルオフィシャルズ(TO)が4名いる。 10分を1ピリオドとし、第1ピリオドから第4ピリオドまでの4つのピリオド、計40分間で行なわれる。試合時間は、残り時間として電光掲示板や得点板に表示される。 以下の状況では、試合時間(ゲームクロック)が一時停止する。 ファウルやヴァイオレイションの判定の瞬間から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで タイムアウトの開始から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 審判が必要と判断した状況から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 第4ピリオドと延長ピリオドの終了2分を切った(ゲームクロックが2:00を表示した)後は、全てのフィールドゴール成功時からスローイン後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 残り時間が0.0秒になるとともに各ピリオドは終了し、サッカーやラグビーにおけるロスタイムの概念はない。 各ピリオド間では、第1と第2及び第3と第4の各ピリオドの間に2分間、第2と第3ピリオド間のハーフタイムに10分間のインターバル(インタヴァル、インターヴァルとも)がそれぞれ与えられる。ただし、これは大会の主催者によって変更されることもしばしばある。以前は20分の前半・後半(ハーフ)、ハーフタイム10分だった。その後NBAのルールと同じく4ピリオド制となった。いわゆる引き分けはなく、同点の場合5分単位での延長ピリオドを決着がつくまで繰り返し実施する。延長ピリオドは第4ピリオドの延長とみなされ、チームファウルは第4ピリオドと合わせて数えられる。 中学生の試合では、8分のピリオドを4回行う。延長は3分となる。 小学生の試合では、5 - 6分のピリオドを4回行い、前半10人の選手を1人5 - 6分出場させ、第1ピリオドから1人の選手が3ピリオド連続で出場できない。延長は3分となる。 身体の触れ合いを伴わない、あるいはスポーツマンらしくない振る舞い以外の規則に関する違反のこと。バイオレーション、ヴァイオレーションとも。相手チームによるスローインからのリスタートとなる。 規則に反する違反のうち、不当なからだの触れあいおよびスポーツマンらしくない行為をファウル、またはファールと呼ぶ。 パーソナル・ファウル、テクニカル・ファウル、アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクオリファイング・ファウルの種類がある。 選手個人に課されるファウルがほとんどであるが、コーチやアシスタント・コーチ、チームに課されるファウルもある(チームに課されるファウルはコーチのファウルとして記録される)。 1人のプレイヤーにすべてのファウルを合わせて5回(NBAでは6つ)のプレイヤー・ファウルが宣せられた場合、審判によりその事実が告げられ直ちに交代しなければならず(ファウルアウト、俗に退場とも)、以後そのゲームには出場できない(以下の選手交代も参照)。サッカーとは異なり、退場しても自チームのベンチに座り、コート上へ交代選手を入れることが可能であり、通常は以降の試合の出場に関するペナルティはない。 ただし、2回のアンスポーツマンライク・ファウルや2回のテクニカル・ファウルで失格・退場となった場合や、ディスクオリファイング・ファウルにより失格・退場となった場合は、自チームの更衣室(ロッカールーム、控室)にいるか、コートのある建物の外に出なければならない。 パーソナル・ファウルに対しては、ファウルを宣せられたチームの反対チームにスローインが与えられる。ファウルは主にディフェンス側のプレイヤーに対して宣せられることが多いが、オフェンス側のプレイヤーがディフェンス側のプレイヤーの行動を妨げた場合には、オフェンス側にファウルが宣せられる。 ショットの動作中のプレイヤーに対するファウル(テクニカル・ファウル以外)は、そのショットが成功した場合、2ポイントないし3ポイントの得点が認められ、追加として1個のフリースローが与えられる。ショットが成功しなかった場合は、そのショットに応じて、2個ないしは3個のフリースローが与えられる。 アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクォリファイング・ファウルの場合は、ショット動作中以外の場合でも2本のフリースローが、テクニカル・ファウルの場合はいずれの場合でも1本のフリースローが与えられる。 プレイヤーのファウルは、各ピリオドごとにチームファウルとして記録される。チームに4回のファウルが記録された後は、次のようなチーム・ファウルの罰則が適用される。自チームがボールをコントロールしていない場合にファウルを犯した時は、相手チームに2つのフリースローが与えられ、自チームがボールをコントロールしている場合にファウルを犯した時は、相手チームにスローインが与えられる。 ゲーム開始前の10分間や各ピリオド間にファウルが生じた場合は次に続くピリオド中に起こったものとして処理する。延長時限中のファウルは、第4ピリオドのファウルとして扱い、継続してチーム・ファウルに数えられる。 各チームは、タイムアウトを取ることができる。タイムアウトは1分である。各チームはこの間に作戦を練る、選手を休ませるなどしてゲームの流れを変えている。タイムアウトの請求ができるのはコーチまたはアシスタントコーチである。ただし、請求してすぐに認められるわけではなく、ゲームクロックが止まった場合に認められる。前半2つのピリオドで2回、後半2つのピリオドで3回まで取ることができる。したがって、1チームが1試合で使えるタイムアウトは合計5回である。前半2つのピリオドで使わなかったタイムアウトは後半のピリオドに持ち越せない。オーバータイム(延長戦)突入時は1回のオーバータイム(5分)につき1回取れる。 2010年のルール改訂により、4ピリオド残り2:00以降にボールをコントロールするチームがタイムアウトを取った場合、バックコートからスローインするときはフロントコートのスローインラインのアウトからのスローインとなる。 小学生では第4クォーター、延長戦では両チーム交代できる。 NBAのタイムアウトは1試合につき1分を6回(ただし第4クォーターで使える回数は3回まで)、前半もしくは後半2クォーター(1ハーフ)につき20秒を1回(1試合合計2回)取れる。また、オーバータイム1回(5分)につき1分を3回取れる。タイムアウトの請求はコーチだけでなく、攻撃中のチームの選手も可能である。 ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)のタイムアウトには、通常のタイムアウトに加えて、第2・第4クォーターの残り5分を切った最初のボールデッド時に行われる90秒のオフィシャルタイムアウトがある。 コート上にいる選手はプレイヤー、ベンチにいる選手は交代要員として区別される。FIBAが管理する大会では各チームでベンチ入りできる選手は最大12人で、プレイヤーが5人、交代要員が最大7人である。国内の大会では主催者が大会要項で規定し、12名または15名が一般的である。 選手交代が認められるのは、ゲームクロックが止められている時である。フリースローの時はそのフリースローの1投目のボールが渡される前か、最後のフリースローが成功した時に認められる。また、交代はどちらのチームにも認められるが、第4ピリオドの終了前2分間は得点したチームにはショット成功時の交代は出来ない。但し、得点されたチームが交代を行った際には、得点したチームも交代することが可能である。 交代要員は何度でもプレイヤーとしてゲームに復帰できる。ただし、ファウルを5つ犯した場合や悪質なファウル(ディスクオリファイング・ファウル)などで失格・退場になった場合は、再びプレイヤーとしてゲームに復帰することはできない。 ポイントガード(PG) ボールを運び、パスをしたり指示を出したりするチームの司令塔、ゲームメーカー。 シューティングガード(SG) 長距離からのシュートやペネトレイションで得点を稼ぐ。また、ポイントガードの補助をしたり、スモールフォワードのように攻めたりする。 スモールフォワード(SF) 柔軟なプレイを求められる万能的ポジション。シュータータイプからインサイド型まで様々なプレースタイルが存在する。 パワーフォワード(PF) リバウンド、スクリーン、ゴール付近からのシュートビッグマン対応のディフェンスを担当する。 センター(C) 高い身長とパワーが必要とされる。リバウンド、スクリーン、ゴール下での得点とディフェンスでチームを引っ張る。 ポジションは上から順に、1番(PG)、2番(SG)、3番(SF)、4番(PF)、5番(C)という呼ばれ方もする。 バスケットボールにおいてポジションはサッカーのゴールキーパーや野球の投手のようなルール上の規定はなく、厳密に定められているものではない。また、各プレイヤーが多くの役割をこなすことが理想である。そのため、ユーティリティ・プレイヤーも多く、ポイントガードとシューティングガードを兼任できる選手を「コンボガード」、ガードとフォワードを兼任できる選手を「ガード・フォワード(GF)」や「スウィングマン」、またフォワードとセンターを兼任できる選手を「センターフォワード(CF)」あるいは「フォワードセンター(FC)」と呼ぶことがある。パワーフォワードとセンターはポストプレーを行うことからポストプレイヤーとも呼ばれる。NBAでは、本来のポジションがフォワードでありながらポイントガードの働きをする選手も少なくない。そのような選手は稀ではあるが「ポイントフォワード」と呼ばれる。ポイントフォワードの選手には、マジック・ジョンソン(特に現役復帰後)、アンソニー・メイソン、レブロン・ジェームズ、ラマー・オドムらがいる 。NBAプレーヤーで、フランス代表でも有るボリス・ディアウは、ガード、フォワード、センター、全てのポジションをカバーできる稀有なプレーヤーである。 ガード2人を合わせてバックコート、フォワード2人とセンターを合わせてフロントコートなどとも呼ぶ。 パス(Pass)とは、ボールを保持したプレーヤーが、ボールを他のプレーヤーに投げ渡すプレー。投げ方や方向などに規則はない。 バスケットボールでは、ボールを手に掴んだ状態で移動する行為が禁止されているため、進行方向の地面にボールを上から掌を使って叩きつけて跳ねさせ、これを連続的に行ってボールとともに選手が移動する。保持したとみなされた場合反則となる。 自チームが得点するためにバスケットの上からボールを通すことあるいはそのための動作、ボールがバスケットへ至るまでの一連の流れのこと。シュートと呼ばれることが多いが、これは通称であり、ルール(日本バスケットボール競技規則)上では全てショットと称される。 敵・味方関係なく、ショットミスしたボールを取ることを、リバウンドと呼ぶ。リバウンドを取るために有利なポジションを取る行動をスクリーンアウトまたはボックスアウトという。 相手の放ったショットをリング、バックボードに到達する前にボールが上昇中に阻止するプレー。ショットされたボールがリングに向けて下降中、もしくはバックボートに当たりリングに向かっている途中に触れるとゴールテンディングまたはバスケット・インターフェアとなる。 相手のパスをインターセプトしたり、ピボット、ドリブルなどでコントロールしているボールを奪い取るプレー。 ボールが無い場所で、相手選手の移動を制限する位置に立つこと。身体の接触があるためタックルの様な動きは反則となり、その場に停止している必要がある。 攻撃の基点、中継点となるポジションを確保し、スクリーンとして機能したり、攻撃を展開するパスを出したり、ペネトレイトあるいはショットに持ち込むプレー。位置により、バックボード近辺をローポスト、フリースローサークル近辺をハイポスト、それらの中間をミドルポストと呼ぶ。足幅を充分に取り、ディフェンダーを背にして、パスカットされない位置へ手を伸ばして立ち、パスを受ける。アイソレーションを得意とするプレーヤーはミドルポストに立ちパスを待つ場合が多い。 デッドとなったボールをライブに戻し、ゲームを再開するために、攻撃権を持ったチームのプレーヤーが、アウト・オブ・バウンズ からインバウンズにパスをすること。 フリースロー(Free Throw:自由投)とは、一方のチームがファウル、あるいは、特定のヴァイオレイションを 犯した場合に、相手チームに認められるペナルティの一つである。フリースローサークル内のフリースローライン手前から、どのプレーヤにも防御される事無く ショットを放つ事が出来る。ペナルティーの種類によって、1投から3投までの間で、連続でスローされ、フリースロー1投がゴールすれば1得点が与えられる。最終投がスローされた後のプレーの再開方法には、数種類の場合が存在する。又、1996年と1997年の両年にはこのフリースローの全国大会が開催された。 フットワークは、プレーヤーの足運びのこと。バスケットボールは前後左右への素早い動きが要求されるので、すべてのプレーに関わる重要な基本動作である。オフェンスでは、歩数制限があり、その後ジャンプすることも必要である事から正確かつ俊敏な足運びが要求される。また、ダッシュからのサドン・ストップやピボットもオフェンスの重要なフットワークである。通常、ランニングショットの場合は、右手では左足踏切。左手では右足踏み切りとなる。ディフェンスでは、マークするプレーヤの動きに素早く反応して振り切られないよう移動する必要があるため、様々な方向への動きが要求される。サイドステップ、バックステップ、クロスステップなど様々な足捌きができなければならない。 基本ステップ サイドステップ:両足を開いた状態から、足を交差することなく横方向へ行うステップ。 バックステップ:前を向いたままで後方へ走るステップ。 クロスステップ:足を前方、あるいは後方で交差させながら、前後方斜めあるいは横に進むステップ。 ボールキャッチ時のステップ 両足着地状態でキャッチ:自由にピボットフットを決めステップすることが許される。その後次のプレーへ。 空中でボールをキャッチした場合。 片足ずつ着地:先に接地した足がピボットフットとなり、後に接地した足は、ピボットを使って自由にステップ可能。 片足でステップ後、ジャンプし次のステップで着地:浮かせた足を接地することは許されない。この状態からのドリブルも許されない。そのままの状態でボールを保持するかあるいは放す、2歩目で踏切りジャンプした後、ボールを放すこと(ショット、パス)以外は許されない。 一歩目片足でジャンプ次に両足同時に着地:これ以上のステップは許されない。そのままの状態でドリブルを開始するか、ジャンプしてボールを放すこと(ショット、パス)は許される。 ピボットは、着地した状態で、ボールキープを行う時に使用するステップである。片足を軸足(ピボット・フット)にしてコートの同じ場所で接地し、もう片足を前後左右にステップして体の軸を動かし、相手を翻弄、動揺させたり、リズムを崩し、自分のパス、ショット、ドリブルなど次のプレーを容易にする。接地場所を移動することは出来ないが、その場所で回転することは許される。 両足接地の状態でボールを得た場合は、任意の足をピボットフットにすることが出来る。 片足ずつ着地してから行う場合、先に着地した足のみ軸足にすることが出来る。 一歩目を片足、2歩目を両足で着地した場合は、ピボットを行うことは出来ず、そのままジャンプしてボールを離すか、両足を着地した状態でドリブルを開始しなければならない。 これらに違反してステップするとトラベリングとなる。 ボールを保持していない選手については、ステップに関する規制はない。 テンポによる分類 方式による分類 方式による分類 ゾーンプレス = ゾーン+プレス ゾーンマンツー = ゾーン+マンツーマン 陣形による分類 数字はディフェンスの数を示し、フロントコートに近い側からバックコートに近い側の順に記載する。 2-2-1以下の4陣形は通常、ゾーンプレスの場合にしか使われない。1-3-1、1-2-2は通常のゾーンディフェンスとゾーンプレスの両方で使われる。 範囲による分類 バスケットボールリーグ一覧 1990年から週刊少年ジャンプでバスケットボールを扱った漫画『スラムダンク』が連載開始、1996年の連載終了後も売れ続けて1億部を超える大ヒットとなり、バスケットボールの競技人口を押し上げ、2005年には、日本バスケットボール協会への登録者数だけで600万を超えるなど、日本バスケットボール界に大きな影響を残している。またその功績から原作者の井上雄彦は、日本バスケットボール協会から特別表彰されている。バスケットボールは漫画編集者の間ではひとつのタブー(ヒットしない)とされていたが、スラムダンクの後には『あひるの空』『黒子のバスケ』『ロウきゅーぶ!』など様々なヒット作も出るようになった。 ^ FIBA公式サイト(英語)We are Basketball. ^ a b NBA公式サイト(英語)NBA.com ^ a b c d “Official Basketball Rules”. FIBA.com (2017年1月25日). 201170-01-26閲覧。 ^ 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.126 1984年 ^ a b 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.2 1982年 ^ a b c d e “JOC - 競技紹介:バスケットボール”. 2014年10月3日閲覧。 ^ a b c d e 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.127 1984年 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.33 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.34-35 2011年 大修館書店 ^ a b c 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.3 1982年 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.37 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.39 2011年 大修館書店 ^ 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.3-4 1982年 ^ a b c d e f g 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.128 1984年 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.9 2011年 大修館書店 ^ a b c 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.10 2011年 大修館書店 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.44 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.11 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.45 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.70 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.71 2011年 大修館書店 ^ a b c d 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.4 1982年 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.82 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83-84 2011年 大修館書店 ^ a b c 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85-86 2011年 大修館書店 ^ WNBA公式サイト(英語) ^ 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』1984年(p.128)では定説に対する異説として紹介している ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.14-18 2011年 大修館書店 ^ 『社会人のための英語百科』(大谷泰照、堀内勝昭監修)84ページに、アフリカ系アメリカ人の若者について「そこら辺のプレイグラウンドの連中でも、全日本の選手をはるかにしのぐレベル」と記述されており、日本とアメリカを比べるとバスケのレベルに極めて大きな差があるという主張が為されている。 ^ “[http://sports.yahoo.co.jp/sports/basket/all/2014/columndtl/201411270002-spnavi JBA、FIBAより資格停止処分受ける 丸尾会長代行「早期の制裁解除が使命」]”. Yahoo.com (2014年11月27日). 2015年5月31日閲覧。 ^ 国際バスケ連盟が日本の処分解除、改革の成果を評価 ^ a b c d ひとめでわかるミニバスケットボール のルール (PDF) (日本ミニバスケットボール連盟) ^ NBA Introduces New Game Ball - NBA.com ^ a b “Official Rules of the National Basketball Association”. NBA.com (2008年9月8日). 2012年3月29日閲覧。 ^ ストライプは規定に沿ったものであれば認められる ^ バスケットボールルールの変遷Ⅰ NPO法人 日本バスケットボール振興会 ^ バスケットボールルールの変遷Ⅱ NPO法人 日本バスケットボール振興会 ^ JBAオフィシャルグッズ ^ bjリーグ・競技ルール ^ Official Rules of the NBA(英語)最新版 ^ 3ポイントか2ポイントかは、シュートを行った位置で決定される。3ポイントエリアからジャンプし、シュート後に2ポイントエリアに着地しても3ポイントシュートとなる。 ^ ジャンプボールシチュエーションでは、オルタネイティング・ポゼション・ルールによるスローインでゲームを再開するので、ジャンプボールは試合開始の1回しか行わない。 ^ NBAやBリーグなどではピリオドではなく、クォーターで表される。(例)第1ピリオド=第1クォーター ^ NBAの場合の試合時間は12分4クォーター、計48分間で行われる。NCAAは前後半各20分ずつ。 ^ 電光掲示板の場合、試合時間は、残り1分までは10:00、9:59、と秒単位で表示され、残り1分以後では59.9、59.8、と10分の1秒単位で表示される。得点板の場合9、8と1分ごとに残り時間を表示し、残り1分以後では1/2と1/4と30秒単位、15秒単位で表示するものが多い。 ^ 試合ではこのルールを活かし、残り時間を有効に活用する。とりわけ接戦における第4ピリオドの終盤では、オフェンスファウルやディフェンスファウル、タイムアウトによる試合時間の停止の利用が、勝負に重要な影響をもたらすことがある。これにより試合のクライマックスが形作られる ^ 残り時間0.0秒後の得点は、審判が判定する。残り時間0.0秒以前にシュートしたプレイヤーの手からボールが離れていると判定されれば、得点となる。ただし、残り時間0.3秒以上の時スローインをした場合は、ボールキャッチ後のシュートは認められるが、0.3秒未満の場合は、直接ダンクシュートまたは直接タップシュートした場合のみ得点が認められる。 ^ ファイティングは、チームベンチ・パーソネル(ベンチメンバー)に対して宣せられる。 著しくスポーツマンシップに欠ける行為に関しては、大会主催者や所属連盟の判断により、以降の試合への出場停止が命じられる場合もある。 ^ DID YOU KNOW about NBA? ゲーム編(NBA公式サイトによるポジションの解説) ^ 佐々木クリス. “[コラム]佐々木クリスが語る『リーグNo.1のバックコートコンビは!?』”. NBA Japan. http://www.nba.co.jp/nba/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0no1%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%81%AF/trwzablnrky51e0qbk72ndl34 2015年1月26日閲覧。  ^ 2000 - 2001シーズンまではNBAではゾーンディフェンスそのものが禁止され、違反した場合にはイリーガルディフェンスというヴァイオレーションをとられていた。現在のNBAでは、オフェンスプレイヤーにマークマンとしてついていないディフェンダーに対して、ゴール下のペイントゾーンに3秒以上留まっていてはいけない、というヴァイオレーションが適用されている。 ^ 公益財団法人 日本バスケットボール協会 登録者数推移 ^ マンガの力(1)スラムダンク奨学金(上)、朝日新聞、2007年11月8日。 ^ スラムダンク作者を特別表彰=バスケット協会、時事通信、2010年9月12日。[リンク切れ] ^ 井上雄彦『スラムダンク』第31巻 後書きより。 バスケットボールの日 - 12月21日、バスケットボールの誕生日とされる", "弓道(きゅうどう)は、和弓で矢を射て、的に中(あ)てる一連の所作を通し、心身の鍛練をする日本の武道である。古武道の弓術を元とし、現在ではスポーツ競技、体育の面も持ち合わせている。しかし、古から続く流派が失われたわけではなく、現代の弓道と共存しながら古流を守り続けている。 全日本弓道連盟 1949年設立。全国規模の組織であり、日本オリンピック委員会、日本体育協会、日本武道協議会に加盟している。全都道府県の54地方連盟(東京都は第一・第二・第三の3地区連盟、北海道は中央・西部・南部・東部・中部・北部の6地区連盟)が加盟している。審査を行い、段級位や称号を授与している。 国際弓道連盟 2006年、弓道の国際組織として全日本弓道連盟を中心に結成された。 全日本学生弓道連盟 1930年創立。大学生の組織で、全国の大学・短期大学の弓道部のほとんどが加盟している。全日本弓道連盟からは独立しており、試合規則も独自に定めている。 全国高等学校体育連盟弓道専門部 高校弓道を全日本弓道連盟と連携しつつ統括している。 その他、教職員連盟・実業団連盟などの職域組織、流派組織などが存在する。流派組織の規模の大きなものとして、財団法人生弓会(本多流)、小笠原流同門会、浦上同門会(日置流印西派)などがある。(#流派参照) 平成27年度の全日本弓道連盟への登録人口は、約14万1,000人である。男女比はやや男性が多く、年齢層では高校生が約7万1,000人(全体の50%)、一般が約4万3,000人(31%)、中学生が約1万3,000人(9%)、大学生が約1万4,000人(10%)である。ただ、この人数は、全弓連関連の審査や試合に参加するのでなければ連盟への登録は必須ではない点に留意すべきである。 各地の弓道連盟(地連)の登録人口をもとに都道府県別の競技人口を見ると、上位5位は愛知県、東京都(3地区連盟の合計)、神奈川県、福岡県、埼玉県、下位5県は下位から和歌山県、沖縄県、秋田県、鳥取県、島根県である。中学生登録人口は地域により大きなばらつきがあり、栃木、愛知、鹿児島各地連の登録者が2,000人前後であるのに対し、登録者数人から数十人の地連も多い。 高校生では、近年の少子化傾向のなかにあっても競技者数は6万人台を維持しており、男子・女子ともに剣道競技者を上回り、武道では最も競技者が多い 。ただ実施校数は約2,000校であり多くはない。普及の地域差は大きく、愛知県では半数の高校に弓道部があるが、大阪府では10%前後である。 現在でも小笠原流、日置流、本多流、大和流など様々な流派が存在し活動しているものの、大多数の弓道家は流派には所属せず、全日本弓道連盟の定めた射法(#射法八節)を学んでいる。流派の人々も全日本弓道連盟に所属し審査を受けている場合もあり、多くの流派組織は連盟と対立してはいない。 流派の系統は今日的な用語で「礼射系」・「武射系」と分類されている。礼射系は儀礼・儀式的な要素が加味されつつ発展した射の系統をいうが、事実上小笠原流系統をさす。武射系は戦場での実利を重視して発展してきた射の系統をいい、事実上日置流系統をさす。本多流は、三十三間堂の通し矢を得意とした日置流の堂射系統が母体で、本来は礼射系で行っていた正面打起しを取り入れた、武射系の流派である。 弓道は『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著)などの著作で精神と礼節を重んじる面が取り上げられたことなどから外国人の関心を惹き、オリンピック種目でないにもかかわらず欧米各国中心に競技団体が設立され愛好されている。ただ、最も盛んなドイツでもドイツ弓道連盟登録者数は約1100人、他国連盟は多くても数百人である。2006年5月2日、弓道の普及と振興などを図るため国際弓道連盟が創設された。 武芸の一つ(武芸十八般の一つでもある)である弓術は、幕末から明治になり、それまでの江戸時代の制度が崩壊し、軍隊に西洋の最新兵器が導入されるという時代の流れに伴い、大きく変遷を強いられた。幕末の1862年(文久2年)、幕府における「弓術上覧の儀」が廃止され、講武所の教科目からも弓術が除外された。続く1867年(慶応3年)の大政奉還により伝統的な弓術文化は幕藩体制・武家社会の崩壊と共に大きな衰退を余儀なくされた。1871年(明治4年)には廃藩置県により各地方や藩で教育されていた武術教育も姿を消し、弓術に限らず武術全般で実用性が見いだされなくなり、武術衰退に拍車をかけた。明治維新以前は、弓をひくことに制限が存在したが、維新による緩和を受けて、維新後は一般人でも弓を引く者が増えるようになり、急速に一般に普及し、遊戯化・娯楽化も進んだ。 他方で既に遊興の道具としての弓矢は民衆の間でも存在しており、盛り場での賭弓場が維新後の都市部で大流行した。賭弓場の多くは風俗営業であり、明治政府から規制を加えられるほど盛況化するなど、明治初期には一般的に弓といえば賭弓場を連想するほどに弓射文化は衰退していった。このような世相に煽られ公的な弓術道場が姿を消していく中、私設弓術道場を開くなど弓術古来の伝統を正しく引き継ごうとする真摯な弓術家の活動により、日本弓道の命脈・伝統文化は保たれていった。 明治中期に入ると初等教育の開始や徴兵制度の徹底、日清戦争などでの勝利などを背景に、武術を再認識する機運が高まり始めた。後に団体や国策により武術が利用されはじめ、国民は弓道を含めた各種武道の再認識・尊重をするようになった。このような社会風潮を受け、1895年(明治28年)、京都在住の有識者により各種武術を統括する団体として大日本武徳会が設立され、京都の平安神宮境内に建設された武徳殿を本部とした。弓術をはじめとする各武術は、技術を目的とした武術は、心の涵養を目的とした武道として改められ、1919年(大正8年)、武術専門学校を武道専門学校と改称、時を同じくして弓術も「弓道」と改称された。反面、遊興的に『中りさえすれば良い』とした衰退期の反動から、『射型さえ良ければ中らなくても良い』とする過度な精神や礼節を重んじる気風が広まった側面もあった。これにより庶民への更なる普及もなされ、弓道への関心がより強まっていった。 また、大正から昭和初期にかけて、本多利実とその弟子達によって行われていた正面打起しの射法が大流行した。後に利実の弟子達はこの射法をもって本多流を称した。 大日本武徳会は事業のひとつとして各武道の形の統一を目指し、剣道では「大日本帝国剣道形」、柔道は「大日本武徳会柔術形」などが制定され、弓道もまた射型統一を行うことになった。1933年(昭和8年)5月に開催された全国範士・教士会からの要請を受け、同年9月、当時の大日本武徳会会長鈴木莊六によって全国から招集された著名弓道家により「弓道形調査委員会」を構成。大日本武徳会弓道部長 跡部定次郎が委員長となり、同年11月10日から京都武徳殿で「統一射法」に向けて3日間にわたる議論が交わされることとなる。 初日は小笠原流を基本にした巻藁射礼、的前射礼、立射礼の3つの射礼が決定される。2日目は射法について審議されるが、「打起し(後述射法八節)」の審議に入るとそれぞれ自己の流派射法から「正面打起し」と「斜面打起し」を主張し合い、互いに譲らず喧々囂々白熱した議論へと発展、その日は議論の決着を見ずに終了した。最終日、議論はほとんど決裂の様相を呈していたが、九州の祝部範士から出された妥協案「正面打起し・斜面打起しの中間的方法」を採用することで一同は賛成を表明、これで一応の決定を得た。(以下当時の「中間的方法」) 1934年(昭和9年)11月、これをもって「弓道要則」とし、統一射法として正式に制定。大日本武徳会は全国に普及、徹底させようとするも、この「中間的妥協案」には弓道界から賛否が続出し、雑誌・新聞紙上で大論争が展開され、ついには「鵺(ぬえ)的射法」と揶揄されるまでに至った。 1937年(昭和12年)日中戦争が勃発し、翌1938年(昭和13年)「国家総動員法」が公布された。武道は政府・武道団体幹部によって「国力増強・国威発揚」を狙って次第に政府管理下に組み込まれ始め、そして利用されていった。1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会が開催され、弓道も参加する。1941年(昭和16年)太平洋戦争が開戦し、同年政府機関による議論の末、厚生・文部・陸軍・海軍・内務の5省共管による政府の外郭団体とした新たな武道統括団体の新設、既存の武徳会はこれに包含される形でこの武道団体に改組・帰一されることとなる。翌1942年(昭和17年)、既存の武徳会は改組され会長に東條英機内閣総理大臣、副会長に厚生・文部・陸軍・海軍・内務の各大臣と学識経験者1名をそれぞれ招き、理事長に民間人、各支部長には知事をあて、本部は京都の武徳殿から東京の厚生省内に移転、こうして政府5省が共管する政府の外郭団体として新たな大日本武徳会が発足する。武徳会弓道部会長には宇野要三郎範士が就任し、常務理事も兼務した。 政府の外郭団体として再出発したことにより、武道は飛躍的に普及した。伝統芸能・文化財的扱いであった弓道も、満州国建国10周年を記念した「日満交歓武道大会」に選手団を新京へ派遣(1942年7月)するなど積極的に活動を行った。1943年(昭和18年)3月、大日本武徳会は称号を範士・達士・錬士とし、段位を等位制に改め、初段を五等、二段を四等…のようにし、五段を一等として、六段以上の段位を廃止。1944年(昭和19年)3月、弓道部会長宇野要三郎範士が委員長となり「弓道教範制定委員会」を設け、「弓道教範」を作成。懸案事項であった打起しの形式は「弓道要則」を認めつつ従来の正面・斜面もそれぞれ認め、正面・斜面・弓道要則の3様式を採用した。巡回指導や移動審査の実施など活発に行動する反面、太平洋戦争の戦局が切迫するにつれ、政府は国民生活の全てを戦争遂行に結集すべく国民への武道の修練を強く奨励した。しかし、戦争末期には日本各地で連合国軍の空襲や艦砲射撃が苛烈を極め、多くの弓道場が焼失、また、焼け残った弓道場も弓道以外の目的(倉庫・宿舎など)で使用されるなどして、弓道や武道を行う環境は極度に悪化した。その上、生活の困窮から弓道に割く時間的・心理的余裕も無くなり、国民から弓道は遠ざかっていった。 終戦後、戦前-戦中の国策ともいうべき武道励行に対する反動から、国民の武道に対する感情は非常に厳しいものとなった。 大日本武徳会は終戦に伴い、ただちに従来の性格を改めて民間団体に改組するべく、1946年(昭和21年)1月には運営の民営化をはかり、武道の諸団体と協力して維持発展に努力を期し、役員も全国から選ばれた評議員の会で純民間人を推薦してこれをあて、取扱う種目も剣道・柔道・弓道などに限定した。文部大臣の認可も得たが、次第に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からの査察が厳しくなり、財閥と同様に政府支援団体として解体される可能性が高まった。 また、GHQが本格的に解体の動きに入ると 強力な中央集権的団体であった。 中央・地方を通じ軍や特高などと関係する警察を網羅し国家組織と結びついていた。 莫大な資産を有していた。 などの理由で解散を命じる空気がさらに漂い始める。大日本武徳会と文部省は協議を重ねたが、「解散は止む無し」との結論にいたり、ついに解散を決定した。1946年(昭和21年)9月28日付でGHQあてに報告書を提出、10月31日に自主解散を宣言し、52年にわたる歴史を閉じた。しかし、GHQは自発的解散を認めず、11月9日、大日本武徳会に対し公命で解散を命じ、関係者約五千名が追放された。 大日本武徳会の解散に伴い、愛好者によって各地で地方連盟の組織化が進み全国的に波及した。これら諸団体の総意を結集し、1947年(昭和22年)に「全日本弓道連盟」が結成された。しかし、諸般の事情が絡み1948年(昭和23年)12月解散。1949年(昭和24年)4月3日、新たに「日本弓道連盟」を結成、8月2日日本体育協会に正式加盟が承認される。1953年(昭和28年)9月15日、文部省より財団法人の設立許可。世情が落ち着いた1954年(昭和29年)、1952年に起きた大日本武徳会再建活動が再度活発となり、弓道連盟内でも問題となった。しかし、文部省は慎重な審議の結果、民主的に組織されて健全に活動している全国的な団体が既に設立され、日本体育協にも加盟していることなどの理由から、1955年(昭和30年)8月、武徳会設立認可申請を却下し、弓道連盟内で武徳会再建活動を行っていた射手達は連盟を去っていった。1957年(昭和32年)1月18日、「全日本弓道連盟」へと名称を改めた。 戦後の射法混乱を改善し、弓道の大綱を明らかにすべく、1953年(昭和28年)8月『弓道教本 第一巻』が発刊される。様々な流派の長所を生かして現代弓道の指標とし、特定の流派に所属しないでも弓道の大綱を学ぶことができるようになった。「弓道教本」では射法八節を定め、大日本武徳会で制定された「弓道要則」の統一打起し(中間打起し)を正式に廃し、正面・斜面の打起し方法を採用した。射礼・体配は小笠原流の所作を中心に採り入れ、流派ごとにまちまちであった射礼・体配を連盟方式に統一し、試合や審査上の混乱を是正した。 戦前においては、1924年(大正13年)に都下学生弓道連盟(現東京都学生弓道連盟)設立、1930年(昭和5年)に日本学生弓道連盟(現全日本学生弓道連盟)が設立され、特に大学においては盛んに全国規模の大会が開かれるなどされていた。 しかし、1945年(昭和20年)11月・12月、文部省発体80号・100号により、学校における武道(剣道・柔道・薙刀・弓道)の授業は全面的に禁止され、課外の部活動も禁止された。文部省は学校教育における戦時色の払拭に努め、武道の免許状も無効扱いとされ、「武道」という言葉自体に軍事的な意味合いを含むとして使用は控えられた。その後、1951年(昭和26年)7月25日、文部事務次官通知により中学校以上の体育教材として弓道の実施が認可され、再び学校教育に採り入れることが許可され、課外の部活動も解禁された。1953年(昭和28年)7月11日、全日本学生弓道連盟が再結成。1956年、全国高等学校体育連盟に弓道専門部が新設。1967年(昭和42年)3月29日、文部省発体120号の通達により、弓道が高校正課体育種目として体育の授業で指導することが可能となる。1989年(平成元年)、高等学校学習指導要領改訂に伴い、「格技」は「武道」に改められ、これまで「格技」ではなく「個人種目」に含まれていた弓道は、「武道」の領域に含まれることになった。 現在では全日本弓道連盟が中心になり、各流派の特徴を取り入れるなど現代社会のスポーツ性を考慮した射法が主流となって、全国的に射法が平均化され地域差が少なくなっている現状がある。ただし、全日本弓道連盟の「統一見解による射法」は非常に曖昧なもので、指導者によって技術論に差異が認められるなど、全日本剣道連盟による「日本剣道形」のようないわゆる「統一の形」は存在せず、全日本弓道連盟が公式に定めているのは「射法八節(後述)」「礼法」「間合い」のみとなっている。同じ射距離で同じ弓・矢・カケを用いているにもかかわらず、全く正反対の技術であっても通用している。 このような技術論に差異が認められる所以は、日本の弓術独特の進化過程に起因する。目的に合わせて、馬上の射「騎射」、徒歩(かち)の射「歩射」、通し矢の射「堂射」と、流派の中でそれぞれで独自に進化、発展した経緯が背景にあり、「射法八節」の中で流派技術であったり、日本弓術の伝統的技術体系である歩射・騎射・堂射の技術が入り乱れるなど、射手や指導者によって技術の取捨選択が成され、現在では多くの射手はそれぞれの技術が入り交じった「射法」を行っているのが現状である。目標がそれぞれ異なる歩射・騎射・堂射を明確に把握して弓を引いている射手は非常に少数となった。従って高段位である指導者層の変遷に伴い、時代による射技・射型の流行・廃れが現代弓道のひとつの特徴として見られる。一方で、古から続く弓道、弓術流派は自身の発展の土台(「騎射」「歩射」「堂射」の内のどれか)を重要視、または流祖の教え、古流の保存など、それぞれの目的に合わせ一貫した技術・教えにより古来からの伝統を受け継いでいる。弓道連盟に属して活動している流派・団体も多いが、連盟とは一切関与せずに活動を行っている流派・団体も存在する。 全日本弓道連盟では、射の基本動作を8つの節に分けて説明・指導をしている。これを射法八節(弓道八節)といい、戦後に日本弓道連盟(全弓連の前身)の射法制定委員により制定された。詳細な技術内容は、流派や個人の考え・体格・思想などにより異なる。以下は全弓連発行の「弓道教本」により説明されている射法八節の基本的内容である。 射位(しゃい:弓を射る位置)で的に向かって両足を踏み開く基本動作。 最初に「執り弓の姿勢」(弓を左手、矢を右手に持ち両拳は腰に、両足を揃えて立つ姿勢)を取り、続いて「射位」に入り「足踏み」を行う。「射位」で的右手方向を正面にして立ち、両足爪先を結ぶ線の延長に的の中心が来るように両脚を左右に踏み開く。両足底は外向きに約60度開き、両足爪先の間隔はおおよそ身長の半分程度。踏み開き方には以下二種の様式がある。 「一足開き」…顔を的に向けたまま左足を的に向かい半歩踏み開き、次に右足を一旦左足に引きつけて右外側へ扇のような軌道を取りつつ踏み開く。 「二足開き」…顔を的に向けたまま左足を的に向かい半歩踏み開き、一旦目線を足下に取り右足を外側に半歩踏み開く。 礼射系に由来する射法の場合は「一足開き」、武射系に由来する射法の場合は「二足開き」。 足踏みを基礎として、両脚の上に上体を安静におく動作・構え。 弓の下端を左膝頭に置き、弓を正面に据える。右手は右腰の辺りに置く。 「足踏み」と共に弓を引く為の基本姿勢を作る。 矢を番えて弓を引く前に行う準備動作。 「取懸け」(とりかけ:ゆがけで弦・矢を保持すること)、「手の内」(てのうち:弓を保持する左手)を整える。 「取懸け」、「手の内」、「物見」(ものみ:的を見定める)の動作が含まれる。「弓構え」には大別して以下二種の様式ある。 「正面の構え」…体の正面にて取懸けて構える。 「斜面の構え」…体の正面にて取懸けて左斜め前(自分から見て)にやや弓を押し開き、手の内を整え構える。 礼射系に由来する射法の場合は一足開きの足踏みで正面の構え、武射系に由来する射法は斜面の構えか、二足開きの足踏みで正面の構え。 弓を引き分ける前に、弓矢を持った両拳を上に持ち上げる動作。 次の「引分け」へ繋げるための動作。「打起し」には大別して以下二種の様式がある。 「正面打起し」…正面の構えからそのまま弓矢共々両拳を垂直に持ち上げる。 「斜面打起し」…やや弓を押し開いた斜面の構えから両拳を左前方に打起す。 礼射系に由来する射法の場合は一足開きの足踏みで正面打起こし、武射系に由来する射法の場合は斜面打起しか、二足開きの足踏みで正面打起し。 打起こした位置から弓を押し弦を引いて、両拳を左右に開きながら引き下ろす動作。 「引分け」には以下三種の様式ある。 正面に打起した状態から左拳を的方向へ送り腕を伸ばし、右腕は弦を支え右拳を左拳と高さを合わせながら肘を張り、途中止めずに左腕は弓を押し開きつつ右腕を引き下ろし、次の会へ繋げる。礼射系に由来する射法の引分け方。 正面に打起し、引分けの途中「大三」(だいさん:押大目引三分一(おしだいもくひけさんぶんのいち)の略。弦を3分の1程引き取った状態。)で一旦動作を止め、一呼吸置いた後、さらに引分けて会へ繋げる。武射系に由来する射法の引分け方だが、足踏みは一足開き・二足開き双方とも組み合わせられる。 斜面に打ち起こした状態から弓を押し開きつつ右腕を引き下ろし、会へ繋げる。あるいは、引分けの途中「三分の二」(矢が眉毛の高さ、弦を3分の2程度引き取った状態)で一旦動作を止め、一呼吸置いた後、さらに引分ける。武射系に由来する射法の引分け方。 会は形の上では引分けが完成され(弓を引き切り)、矢が的を狙っている状態をいうが、射手の心理からいえばむしろ無限の「引分け」である。 矢は右頬に軽く添え(頬付け)、小鼻の下部から上下唇の間(口割り)の高さ以内に収める。 見た目上は静止して見えるが身体的には「会」に入った後も力を掛け続け、次の離れへと繋げる。 矢を放つ、あるいは放たれた時の動作の事。 右腕が大きく右方向に伸びる「大離れ」、右拳が右方向に僅かに移動するに留まる「小離れ」、その中間の「中離れ」がある。 三種の内どの離れに至るかは「引分け」〜「離れ」に至る力の掛け様により異なってくる。 矢が放たれた後の姿勢。「残身」とも書く。 「離れ」後、そのままの姿勢を数秒保ち、心身ともに一息置く。 精神を意味して「残心」、身体で意味して「残身」と書く。 弓 和弓長さ221cm(多少の長短がある)、握りの位置は下から三分の一のあたり。本来は竹と木を鰾(にべ。膠の一種)で張り合わせた竹弓だが、現在では合成接着剤で張り合わせた竹弓や、安価なガラス繊維強化プラスチック、炭素繊維強化プラスチック製のものが普及している。 矢 竹またはジュラルミンまたは炭素繊維強化プラスチック製の箆(の。矢柄、シャフトとも呼ばれる)に金属製の板付(矢尻)、矢をつがえる筈、三枚の羽をつけたもの。甲矢(はや)と乙矢(おとや)の2本1組を一手という。 ゆがけ(「弽」「弓懸」「弓掛け」とも書く) 弓を引く際に右手に装着する鹿の革でできた手袋の一種。通す指の本数に応じて三ツ弽、四ツ弽、諸弽(騎射弽)が存在する。現在では親指に木製の角(帽子という)が入っている堅帽子のものが主流。昔は、和帽子(柔帽子)という角の入っていないものが本流であった(角入りでは、馬上で弓を引いたり、刀を握ることが出来ないので都合が悪い。そもそも角が入った理由は、三十三間堂での通し矢で強弓を数多く引けるように改良されたため)。騎射弽は(昔の武士が付けていたものと同じ)角のないものが、四つ弽は堅帽子のみが、三つ弽と諸弽は、先に述べたとおり角の入っていない和帽子・堅帽子のほか、この二つの中間的な角入り帽子という三つの種類の弽が存在する(諸弽は基本的に、小笠原流の人のみが使用する)。左手を保護する押し手弽というものもある。また、「掛け替えのない」の語源であるとの説もあるが、定かではない。 弦 麻または合成繊維(ケブラーやアラミドなど)をよりあわせたものの表面に薬煉(「くすね」と読む。松脂に油を加えて煮たもの)を塗って補強してある。合成繊維製のものでは薬煉を塗っていないものもある。 的 星的、霞的、三色的、遠的用色的、射割りなどがある。大きさは直径1mのものから直径8cmのものまである。 巻藁 藁をたばねたもの。稽古用の的。 ※巻藁専用の矢がある。 ギリ粉 松脂を煮込み、粉末にしたもの。弦につけて使用する。摩擦を強め、ゆるまずに離れをしやすくする。 弓道は安全上の理由から原則として専用道場で行うのが好ましい。現在日本国内には公設・私設合わせて1400箇所以上の弓道場があり、体育館などに安全を配慮した上で仮設道場を造る場合もある。弓道場は競技の違いから近的場、遠的場があり、同時に的前に立てる人数(置ける的の数)はその道場の規模によって1人-15人以上と大きく幅がある。 近的場 射位(射手)から的までの距離が28m、通常は直径が一尺二寸(36cm)の的を置く。的場には矢が傷まないよう土が斜めに盛ってあり、これを安土(あづち)という。中学校-大学、公設道場から私設道場まで殆どの弓道場がこれで、通常の稽古は近的道場で行う。敷地面積が比較的取りやすいため、個人宅に1人-2人立ちの簡易道場を造る弓道家も少なくない。 遠的場 一般的には射位から的までの距離が60mあり、通常は直径1mの的を置く。広い敷地が必要なため、専用遠的場の設置数は少ない。的場に土盛りの安土は無し。近的場との併設が殆どで、現在は敷地面積の制約上、東京武道館弓道場など近・遠的射場を上下二階建てに設計された道場やアーチェリーとの併用も見られる。 稽古、試合などでは弓道衣を、改まった場(射礼、祝賀射会、奉納射会など)や高段位・称号の審査を受ける際は和服を着用する。ただし、低段位の者は常に弓道衣でかまわない。その他、特殊な儀式などでは直垂、狩衣、裃などを着用することがある。 弓道衣 上衣は白筒袖。袴は黒または紺で、男性は馬乗袴、女性は腰板のないもので襠袴(馬乗袴)または行灯袴。袴は帯を締めてから着用する。白足袋を着用する。全弓連が関与する代表的大会では、男女とも白筒袖・黒袴・白足袋を着用すると定められている。 和服 正式には和服の慣例に準じ、男性は黒の5つ紋付の長着に縞袴、女性は紋付の黒または色留袖に襠袴だが、規定は無く、それ以外が着用されることも多い。特殊な場合として成人の日の記念射会で女性が振袖を着用することがある。羽織は行射中は着用しない。足袋はやはり白を用いる。男性は左袖を脱いで片肌を出して行射する(肌脱ぎ)。女性は襷をかける。いずれも動作の作法が定められている。肌脱ぎも襷掛けも、左袖を弦で払わないためにする。 一般的な全日本弓道連盟の競技規則によるものを記す。なお、全日本学生弓道連盟(全学連)は全日本弓道連盟の傘下には属さない独立の組織であり、全学連および傘下の各地区連盟による各種試合は以下とは異なる点もある(詳細は全日本学生弓道連盟参照)。 以下の2種目。個人競技と団体競技が行われる。 近的競技 射距離:28m、的:直径36cm(一尺二寸)の霞的、星的または色的(的 (弓道)参照)。順位決定には直径24cm(八寸)の的を用いることもある。 遠的競技 射距離:60m、的:直径100cmの霞的または得点的。順位決定には直径79cmまたは50cmの霞的を用いることもある。 (第53回-第57回全日本弓道遠的選手権大会では、射距離30m、的直径36cmでも実施された。) 射手は一回に2射(一手)、または4射(二手)する(射詰競射の場合は1射)。通常の行射の際は取矢をすることが定められている。 的中制 的中数を競う。「あたり」と「はずれ」のみで判定し、的のどこに的中しても同じである。「あたり」とは以下の場合(弓道競技規則第36条で規定)、「はずれ」はそれ以外の場合をいう。 一、標的に矢があたりとどまっている場合。 二、標的にあたった矢が標的を突き抜けた場合。 三、矢が折れた時、矢の根のある方が標的の内側にある場合。 四、矢が標的にあたっている矢にくいこんだ場合。 五、矢が的枠の合わせ目または的枠に立った場合。 六、矢が的輪の内側から的枠の外に射ぬいた場合。 七、矢があたって標的が転び、その矢が標的についている場合。 八、あたった矢が地面についている場合。 九、的面にあるはずれ矢を射てあたった場合。 得点制 色的(得点的)を使用し、得点を競う。同点の場合は的中数による。国体の遠的競技、実業団の近的競技などで行なわれている。 採点制 的中だけではなく、射形、射品、態度などを総合して審査員が採点する。全日本男子弓道選手権大会および全日本女子弓道選手権大会で行なわれている。 全日本弓道連盟が定める礼法は、小笠原流礼法を縦糸としている。ちなみに、室町幕府の頃より武家の礼を2部門に分け、伊勢氏は内向き(殿中)の諸礼を仕い、小笠原家は外向き(屋外)一切の武礼を司っている。 国民体育大会 全日本弓道選手権大会 全日本弓道大会 全日本勤労者弓道選手権大会 全日本学生弓道王座決定戦 全日本学生弓道女子王座決定戦 東西学生弓道選抜対抗試合 東西学生弓道女子選抜対抗試合 全日本学生弓道選手権大会 全国大学弓道選抜大会 全関東学生弓道選手権大会 全国高等学校総合競技大会 全国高等学校弓道選抜大会 全国中学生弓道大会 世界弓道大会 全国青年大会(2004年の第53回を最後に廃止) アーチェリー(洋弓)はかつて全日本弓道連盟が「洋弓部」として管轄し、1958年には国際アーチェリー連盟(FITA)に加盟した。しかし国内のアーチェリー団体からの要請や、1967年の第24回世界選手権に出場した和弓選手の惨敗などを受けて、1968年にFITA加盟権を全日本アーチェリー連盟に移譲し、洋弓への関与を終えた。 技術的には、アーチェリーは矢を(身体から見て)弓の左に番え、弦は右手人差し指、中指、薬指で引く「地中海式」をとるのに対し、弓道は矢を弓の右に番え、取り掛けは右手親指根で弦を引っ掛けるようにして保持する「蒙古式(モンゴル式)」をとる(弓術#諸外国弓術との比較)。また日本のアーチェリーでは弓道の射法八節を取り入れている。 道具では、弓道もアーチェリーも本質的には同じであるが、アーチェリーの弓には(競技種目にもよるが)多数の補助具(スタビライザー、サイト(照準器)、クリッカーなど)を付けるのに対し、和弓は基本的に弓と弦だけである。アーチェリーでは左右両手用の弓があるが、和弓では基本的に左手用の弓しかない(弓道では左手に弓を持ち、右手で弦を引く)。 ルール面では、弓道では試合において引き戻しが許されず、矢を発射前に落とした場合は「失(しつ)」として、その矢は失格となる。 弓道では礼法や服装など武道の要素が強いが、アーチェリーは純粋に精度を競うため、服装やフォームなどは考慮されない。 本弭 握り 末矧 弦巻と弦 半弓 大弓と半弓 弓袋 四つ弽 ^ 対象物に善く中て、強く貫き、精度を維持する事「中貫久」(本来は「貫中久」である)。 ^ 香川の岡内木、東京の関口源太・本多利実・浦上直置、京都の石崎反求・岡田透、佐賀の森川秀実、愛知の奥村閑水・横浜有仲、岡山の富田忠正、長崎の市川虎四郎、熊本の生駒新太郎 ら ^ 本多利実の弟子、大平善蔵(射仏)談「自分が20年前(大正2年頃)京都の武徳祭に出場したときは、前面(正面)打起は自分一人であったから妙なやり方もあるものだと言った人も多かったが、今日(昭和7年)では出演者の九割は前面打起となっている。」 ^ 後の日本剣道形 ^ 大日本武徳会柔道形に改称。武徳会解散後は講道館の柔道形に統合 ^ 大平 善藏(日置流道雪派・東京)、浦上 榮(日置流・東京)、西牟田 砥潔(日置流竹林派・東京)、根矢 熊吉(日置流竹林派・東京)、鱸 重康(小笠原流・静岡)、渡邊 昇吾(日置流竹林派・茨城)、阿波 研造(日置流竹林派・宮城)、三澤 喜太郎(日置流竹林派・愛知)、堀田 義次郎(日置流竹林派・滋賀)、酒井 彦太郎(日置流雪荷派・兵庫)、大島 翼(小笠原流・武徳会・日置流・兵庫)、河毛 勘(一貫流・鳥取)、小西 武次郎(日置流竹林派・香川)、村河 淸(大和流・京都)、石原 七蔵(日置流吉田大蔵派・福岡)、三輪 善輔(日置流竹林派・福岡)、祝部 至善(日置流竹林派・福岡)、坂本 茂(日置流・熊本)、宇野 東風(日置流道雪派・熊本)、溝口 武夫(日置流・鹿児島)、種子島 常助(日置流・鹿児島)、小笠原 淸道(武徳会本部)、跡部 定次郎(武徳会本部)、田島 錦治(武徳会本部)、膳鉦次郎(武徳会本部)、高倉 永則(武徳会本部)。 ^ 大日本武徳会解散時、宇野要三郎は副会長という要職に就いており、武徳会がGHQにより強制解散させられた際に追放(パージ)された。(旧)全日本弓道連盟結成後暫くして、「追放された者が会長を務めている「(旧)全日本弓道連盟」は大日本武徳会の延長である」との趣旨の噂が司法界や文部省で囁かれ、国民体育大会から「弓道」が除外される懸念も出始め、宇野会長は辞任。(旧)全日本弓道連盟も解散させる形をとった。 ^ 弓道教本第2巻-射技篇、弓道教本第3巻-続射技篇、弓道教本第4巻-理念と射技詳論に詳説。 ^ 男子と同じ腰板付の袴を着用することもある。 ^ 一部流派や学校ではあえて着用しない場合もあるが、多くの弓道場では裸足が禁止されている。 ^ はね返った場合は「はずれ」となる。 ^ 以前は矢が的にあたる前に地面に触れた場合と区別せずに「はずれ」としていたが、現在の規則ではあたった後に筈が地面についた場合は「あたり」としている。 ^ 1.スタンス(足構え)、2.セット(胴構え)、3.ノッキング(矢つがえ)、4.セットアップ(射ち起こし)、5.ドローイング(引き分け)、6.フルドロー(会)、7.リリース(離れ)、8.フォロースルー(残身) ^ 全日本弓道連盟「平成27年度事業報告書」 ^ a b 平成27年度加盟登録状況(全国高等学校体育連盟) 財団法人全日本弓道連盟編 『弓道教本』 第1-4巻。 宇野要三郎(監修) 『現代弓道講座』全7巻、雄山閣出版、1970。 今村嘉雄、小笠原清信、岸野雄三(編) 日本武道全集 第3巻 『弓術・馬術』、人物往来社、1966。 浦上栄述、浦上同門会編 『行射60年』、浦上同門会、1955。 浦上栄、齋藤直芳 『弓道及弓道史』、平凡社、1935。 稲垣源四郎、川村福二 『日本の武道 弓道・なぎなた』、講談社、1983。 入江康平、森俊男編著 『弓道指導の理念と実際』、不昧堂出版、1998。 入江康平編著 『武道文化の探求』、不昧堂出版、2003。 中村 民雄 編 『史料近代剣道史』 島津書房、1985年。 小山 高茂 他3名 編 『現代弓道講座 第一巻』 雄山閣出版、1994年。ISBN 4-639-00146-0。 戦時下の「国民体育」行政 厚生省体力局による体育行政施策を中心に 中村佑司 中野文庫 国民体力管理制度調査会官制 中野文庫 国民体力法 小野﨑紀男、松尾牧則、守田勝彦編 『弓道日本』、太陽書房。 小野﨑紀男著 『日本弓道史料』第一巻-第九巻、太陽書房。 ISBN 978-4-903447-06-3 鏑矢 全国高等学校総合体育大会弓道競技歴代優勝校 アーチェリー 全日本弓道連盟 弓道、弓道への誘い 一貫流伝 昭和8年弓道統一 大日本武徳会のその後の弓道 「礼記射義及射法訓」 武田流弓馬道 全国大学弓道部「流派Map」 Kyudo Online Library Project なまこ先生のマンガで弓道教室 北京五轮馆国际文化交流中心(GRK)弓道部 KYUDO PHOTOGRAPH Q", "テニス(英: tennis)またはローンテニス(英: lawn tennis)は、二人または二組のプレイヤーがネット越しにラケットでボールを打ち合う球技。オリンピックやパラリンピックで採用されている競技であり、年齢性別、身体的個性を問わず広く親しまれている。日本において漢字名の庭球(ていきゅう)と呼ばれることもある。 複数の人間が1つの球を互いに打ち合うという形態の球技の起源は、紀元前にまで遡ることが出来る。エジプトでは宗教的な行為のひとつとしてこのような球技が行われていた。紀元前15世紀の壁画で球を打ち合う球技を行う人々の姿が描かれたものが発見されている。 フランス貴族の遊戯として定着をはじめた16世紀以降には「jeu de paume」(ジュ・ド・ポーム、「掌の遊戯」の意)と呼ばれた。 フランスでこの球技が盛んになった理由としては、ローマ時代の直接の影響よりも、8世紀から11世紀まで、イベリア半島から南フランスまで進出していたイスラム教徒(後ウマイヤ朝)が、エジプト時代と同様に、宗教的行為として行っていたものに、キリスト教の僧侶が興味を持ち模倣したことから始まったと言われている(「ラケット」の語源がアラビア語であることに注意されたい。フランスの僧院で特に盛んに行われるようになったのは、イスラム勢力がヨーロッパから駆逐された12世紀ごろ以降からとされる)。 「テニス」の名称はフランス宮廷で行われたテニスの原型であるジュ・ド・ポム (Jeu de Paumme) において、攻守交代の際にサーバーが「トゥネス!」(仏: Tenez!、動詞 tenir の命令形で「(球を落とさないように)取ってみろ」の意、現代フランス語では「トゥネ」と発音する)と掛け声をしていたことにちなむと一般的に言われる。アラビア史研究の権威フィリップ・K・ヒッティ(Philip Khuri Hitti)は、中世にリンネル織物で有名だったエジプトのデルタ地方の都市で、リンネルで球を作ったと思われる「ティンニース」からきているのだろうと述べている。基本的なルールやスコアリング方式はローンテニスと似ている部分もあり、ファイブズ (fives)、ペロタ (Pelota) などのハンドボールから発達した。 18世紀から19世紀にかけてヨーロッパの貴族の間で大流行し、多くのコートが建造されたが、現存するものは少ない。イギリスでは復元されたコートがクリフトン大学にある。近代における貴族階級の遊戯としてのテニスは、イギリスではロイヤル・テニス(Royal Tennis、「王家のテニス」の意)、アメリカではコート・テニス(Court Tennis、「宮廷のテニス」の意)とも呼ばれている。 手袋を使うこともある。Jeu de paumeの「paume」とは掌を意味する。ボールは固形物(石等)を芯に糸を巻き、皮で被ったもので現代のものよりはるかに重く、弾力性は少ない。サーブは一方の側からのみ行われ、傾斜した屋根を転がるように打ち上げる。レシーブ側のプレイヤーは、落ちてきたボールが二度バウンドする前に打ち返す。失敗したプレイヤーはポイントを失う。ゲームの最初の第一球の打ち込みが「サーブ」と呼ばれるのは、中世においては、レシーバーにあたる人間の従者が第一球を屋根に打ち上げる役目を行っていたことに起源がある(従者「サーバント」が主人に対して行う行為は「サービス」)。14世紀には現在のラケットの原型が登場した。これにはまだガットは張られておらず、ガットが張られるようになったのは16世紀になってからである。 現代の多くのスポーツとは異なり、ローンテニスの歴史はごく浅い。1873年12月、ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐が考案した「スフェリスティキ(sphairistike、ギリシア語: σφαιριστική、「球戯術」の意。略してスティッキ[sticky])」がその原型。現在の社会体育、生涯スポーツの概念の先駆けとなる発想で、ラケット、ネット等をセットで商品化し、芝生の上なら何処でも楽しめる「持ち運びのできるテニス」などともいわれ、コートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていた。ボールは中空のゴムボール(ソフトテニスボールと同様なもの)を採用し、当初は現在のように硬質のフェルトで覆われていなかった。1874年、少佐は商用としての可能性を見て特許を取得したが、商業的には成功せず、特許の期限切れにともなう再申請は行っていない。しかし、イギリスやアメリカで有閑階級を中心に急速に広まり、アメリカではニューヨークのスタッテン島、メアリー・ユーイング・アウターブリッジの家で最初にプレイされた。中空のゴムボールでは芝生上でしばしば不安定なバウンドをみせることがあり、フェルトを巻いたものも考案され、2種のボールは永らく併用されていたが、やがてフェルトカバーボールが主流となっていく。 1877年、イギリスのロンドンでアマチュアの大会として第1回目のウィンブルドン選手権が開催された。アメリカでは1881年に設立されたアメリカ国立ローンテニス協会(現在の全米テニス協会)が、ルールを標準化し、かつ競技を組織化した。同年、「全米シングルス選手権」(最初の名称:U.S. National Singles Championship)の第1回大会がアメリカ・ロードアイランド州ニューポートで開催され、1887年には「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship) が始まった。これらのアメリカでの大会群は現在の全米オープンの原型である。歴史的にボーリングが上手い人はテニスも上手い。1900年には男子国別対抗戦であるデビスカップがナショナルチームの間で始まった。 試合形式としては、1人対1人で行うシングルスと2人対2人で行うダブルス、混合ダブルスがある。 試合開始前のトスによって決定された一方のプレイヤーがサーバー、他方がレシーバーとなり、ゲームごとに交替する。プレーヤーは奇数ゲーム終了ごとにコートを入れ替わる。サーバーはベースラインの外から相手コートのサービスエリアでバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールを2回バウンドする前に相手コートに打ち返す。次のようなときに失点(相手方の得点)となる。 サーブを2回続けてフォールト(ダブルフォルト)したとき サーブされたボールがバウンドする前にレシーバーが触れたとき 自分のコートでボールが1回バウンドし、もう1回バウンドしたとき 自分のコートでボールが1回バウンドし、逆回転によってネットを越えて相手のコートに戻ったとき(この場合は特殊で、ボールが相手コート上にあってもネットタッチさえしなければ、2バウンドする前にオーバーネットして打ち返し、相手が取れなければそのポイントは自分のものとなる) 自分のコートに落ちたボールがバウンドしなかったとき 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、相手のコート外(アウト)だったとき 打ったボールが審判に命中したとき ラケット以外の部位がボールに触れたとき 相手コート内でボールに触れたとき 体やラケットがプレー中にネットに触れたとき ラケット以外の持ち物をコート上に2回落としたとき スコアは、0ポイント:ラブ (love)、1ポイント:フィフティーン (fifteen, 15)、2ポイント:サーティー (thirty, 30)、3ポイント:フォーティー (forty, 40) と数える。2ポイント差以上をつけて4ポイント以上を取ると1ゲームを獲得する。例としてカウントが40-30であれば、40の側のプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。両者とも3ポイント (40) の状態を「デュース」(deuce) と呼び、デュースの後1ポイントリードしている状態を「アドバンテージ」(advantage) と呼ぶ。アドバンテージを得ているプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。アドバンテージを得ているプレーヤーの相手側が1ポイントを取得すると再びデュースとなる。 2ゲーム差以上をつけて6ゲーム以上を取得するとセットを得る。例としてゲームカウントが5-5となった場合は、6-5の後、7-5とすればそのセットを得る。ゲームカウントが6-6となった場合には、次のゲームはルールによってはタイブレーク (tiebreak) が行われる。タイブレークでは2ポイント以上の差をつけて7ポイント以上を獲得した方がゲームの取得者となり、このセットを得る。タイブレーク中のポイントの数え方は、zero、one、two、three、…となる(註:この時は0はzeroとなる)。タイブレークが行われたセットのスコアは、例としてセット取得者側から見る場合は7-6(6)のように表記し、この場合はタイブレークが8-6のスコアで終了したことを意味する(カッコ内の数字はタイブレークを取得しなかった方のポイント数である)。総セット数の過半数、例として5セットの内3セットを取得すれば勝利となる。 タイブレークは1965年にJames Henry Van Alenが試合時間短縮のために考案し、1971年にウィンブルドン選手権において初めて導入された。この時には最終セット以外のセットでゲームカウントが8-8となった後に行うというルールであり、1979年に同大会において最終セット以外のセットでゲームカウント6-6の後に行うというルールに変更された。4大大会の内の全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン、およびオリンピックでは最終セットでタイブレークを採用しておらず、この場合は2ゲーム差が付くまでセットが続行される。かつてはデビスカップ、フェドカップでも同様のルールを採用していたが、現在ではすべてのセットでタイブレークを採用している。 2005年秋以降の男子国際大会でのダブルスにおいて、ノーアドバンテージ、また1セットを5ゲーム先取方式とする(ゲームカウント4-4でタイブレークを行う)等のルール変更が提案されており、ダブルスプレイヤーを中心とした反対運動など論争が起こっている。 このシステムを試行した初の国際大会である2005年10月のAIGジャパンオープンテニスでは、日本の岩渕聡、鈴木貴男組が日本人ペアとして初のツアーダブルス優勝を果たしている。 2006年のナスダック100オープンにおいて、条件つきで判定に異議を唱えられる「インスタントリプレイシステム」(チャレンジシステム)が初めて採用された。選手が審判の判定に疑問がある場合に「チャレンジ」を行うと、「ホークアイ」というコンピューターグラフィックスを用いた自動ライン判定システムのスロービデオが流れ、判定がやり直される。この手続きは主審がオーバールールを行うのと同様に、オンプレイの場合はラリー中のボールを止めて行う。明らかなエースおよびアウトやフォールトの場合はポイントが適用されるが、その他の場合はレットとなり、ポイントをやり直す。誤審が判明すればチャレンジする権利は失われないが、判定が覆らなかった場合、その選手はチャレンジ失敗となり、チャレンジする権利を1回失う。 同システムは、4大大会では2006年の全米オープンにおいて初めて導入され、センターコートなど2会場で設置された。2007年には全豪オープンおよびウィンブルドン選手権でも導入された。日本では2008年に東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントにおいて、2010年にジャパン・オープン・テニス選手権においてそれぞれ初めて使用された。 2011年のウィンブルドンにおいては、インスタントリプレイ (Electronic Review) に関して以下のルールが適用されている。 タイブレークになった場合は、その時のチャレンジの残り回数に1回追加される。すなわち、そのセットでのチャレンジ失敗 (incorrect challenges) の限度が3回だったものが4回に増える。 最終セットにおけるチャレンジ失敗の回数の限度は、12ゲームごとに3回にリセットされる。すなわち、 ゲームカウントが6-6となった場合は、回数はリセットされ、続く12ゲームの間は3回までとなる。 チャレンジの回数は繰り越されず、12ゲームごとに回数がリセットされる。 線審がポイント終了時に視界をさえぎられ判定ができなかった場合、主審はインスタント・リプレイを要求してもよい。 インスタント・リプレイが何らかの理由で利用できない場合は、元の線審の判定あるいは主審のオーバールールが有効となる。 なお、チャレンジシステムはクレーコートの試合ではコートにボールの跡が残るため採用されない。 ラケット 棒状のグリップの先が輪になっており、そこに糸状のもの(ストリングスやガットと呼ばれる)が縦横に張られ、この面でボールを打つ道具。材質は、当初は木を加工していたが、その後、スチール、アルミ、などの単一素材が使われ進化して行き、近年は繊維強化プラスチック (FRP)、チタンなどを用いた複合材料のものが主流となっている。長さ69センチ前後、重さは240〜380グラム程度。なおゴムボールを使用するソフトテニス用を硬式テニスに用いると、即ラケット損傷につながるので、混同しないよう注意が必要。 ボール 黄色、表面はメルトンと呼ばれるフェルトで覆われている。直径6.35〜6.67センチメートル、重さ56.7〜58.5グラム。保管している缶に1.8気圧が保たれるようになっておりプレッシャー・ボールと呼ばれる。公式球の表面は白のメルトンであったこともある。 大気圧のノンプレッシャー・ボールという練習球もあるが公式戦では使用できない。 コート 床面の材質(サーフェス)は天然芝(グラス)、土(真砂土・荒木田土・粘土砂混合土。クレイ)、焼成土(アンツーカ)、塗装したコンクリート(ハード)、ウレタン樹脂またはゴム(ウレタン)、砂入り人工芝(グラスサンド)など。縦23.77メートル(78フィート)、横はシングルスでは8.23メートル(27フィート)、ダブルスでは10.97メートル(36フィート)である。 床材の専用の製品も普及しており、英国ではグラス(芝生)、北米ではデコ・ターフ、オセアニアではリバウンド・エースという製品が普及している。 コート上のラインには合成樹脂製のラインテープをラインの線に打ちつけて表示する。 ネット 中央の高さが91.4センチメートル(3フィート、あるいは1ヤード)、またシングルス、ダブルスのコートそれぞれで、ネットポストでの高さが1.07メートル(3フィート6インチ)である。 ネットポスト(テニスポスト)はコートに予め設置されている埋筒に差し込むか、専用のアンカーで固定して用いられる。そして、ネットのコードをネットポストのウインチ部分に引っ掛け、ハンドルを回して巻き取りながらネットを張るようになっている。 シングルス・スティックス (singles sticks) シングルスの試合において、ネットポストがダブルス用に設置されている状態で、シングルス用の本来のネットポストの位置に立て、ネットを既定の高さに修正する用具。 公式の試合において、着用する服装はルールにより定められている。清潔でプレーにふさわしいと認められたテニスウェアを着用しなければならない他、トーナメントによっては開催要項に明記して、服装の形や色を規制する場合がある。有名なのはウィンブルドン選手権において白を基調としたウェアとシューズの着用が義務づけられている。これは、1884年の初代女子シングルス優勝者のモード・ワトソンが上下のウェアを白で統一していたことに由来する。 また、スポンサーや製造者のマークの大きさも決められており、アディダスの三本線はデザインとは認められず製造者マークと見なされ、2008年より大きさの制限が設けられている。 ジュニアの大会では、原則としてメーカーのマークなどが、胸の位置以外にあるものは認められない。 テニスラケットも原則としてメーカー契約選手で無い限りメーカーのマークがされたガットを使用する事は出来ない。 テニス (tennis) 「(球を落とさないように)取ってみろ」という意味の「Tenez!」に由来する。これはロイヤルテニスにおけるサーバー側のプレイヤーの掛け声である。 チャンスボール 試合中に緩いボールがあがったり、打ちやすく自分にとって有利なボール。 ボールパーソン (ball person; ball boy, ball girl) 試合中に、ラリーが終了した後のボールを拾ったり、選手にボールを渡したり、ルールに沿って新しいボールに変えたりする人。多くの場合、正式な訓練を受けた子供たちが行う。タオルや、落としたラケットを渡すこともある。 ラケット (racquet, racket) フランス語の「raquette」からきているが、この言葉は「掌」という意味のアラビア語ラーハ(راحة (rāḥat))に由来する。 ガット (gut) ラケットに張る弦。正式にはストリングス (strings) という。ガットは「腸」を意味する。素材はナチュラルガット(動物の腸)の他、ナイロンやポリエステル等がある。太さは、主に1.10〜1.42mm (15〜18)。 テンション (tension) ガット(ストリングス)をラケットに張る強さ。強さの単位には通常ポンド (pounds, lbs, LBS) が使われる。ガットやラケットは、それぞれ適正張力が推奨されている場合が多く、45〜60ポンドである場合が多い。張り上がりが強いほど硬くなり、コントロール性が良くなる。また弱いとボールスピードが上がる。 振動止め ゴム状の素材でできており、ラケット全体の振動を軽減させる目的でストリングスの一部に装着して利用する。利用するかどうかは利用者の判断で選択できるが、装着できる位置などに関してルールで定められている。実際には音をミュートするだけで、腕に伝わる衝撃はほとんど変化しない。ただ音による打感の違いは重要でテクニックに少なからず影響する。 オーバーグリップ (overgrip, overwrap) グリップに巻いて利用するテープ。グリップには元々ラバーや合皮等が巻いてある(アンダーグリップ)が、摩擦感や吸汗性などに難点があり、耐久性も低い為、そのまま使用するプレーヤーは少ない。様々な材質(主に、ウレタン、タオル素材)が存在する。 ノン・プレッシャライズド・ボール (non-pressurized ball, pressureless ball) 一般にノンプレッシャーボールと呼ばれる。ボール内の空気圧を外気圧と同じ程度にして作られているため、空気がほぼ抜けないボール。プレッシャライズド・ボールよりも空気圧が低い分、ボールの素材で反発力を補っている。空気抜けの問題はないため、販売時に缶などで高圧で密封する必要はない。 ストリング・セーバー(string savers [複数]) ストリングスが摩耗したり早く切れることを防ぐ目的で、ストリングスが交差する箇所に装着する小さいプラスチックの用具。 デュース (deuce) 現在、フランス語では平等・同点を意味するエガリテ (égalité) が用いられる。 ラブ (love) 無得点をさす。アラビア数字の「0」が卵型をしていることから、卵を意味するフランス語の定形「l'œuf」に由来するという説がある。。 「0」「15」「30」「40」というスコアの数え方は、当初は60進法で0、15、30、45であったものの45の5が省略されるようになったものだという説が有力である。なお、フランス語では「0」、「15」、「30」、「40」、「アドバンテージ」は、「zéro」、「quinze」、「trente」、「quarante」、「avantage」(アヴァンタージュ、アヴォンタージュ)であり、全仏オープン等で聞くことができる。 キープ (keep) サーバー側がゲームを取得すること。この競技では一般的にサーバー側が有利である。したがって試合に勝利するためには自分のサービスゲームを確実に保守し(keep)、いかに相手のサービスゲームをブレークするかが鍵となる。ただしキープは和製英語。英語圏ではholdという。 ホールド (hold [serve]) サーバー側がゲームを取得すること。 ブレーク (break) レシーバー側がゲームを取得すること。なおブレーク無しで勝利することができるのは、あるセットで自分側と相手側がサービスゲームをすべて取得し、その後のタイブレークでそのセットを取得するという方法で規定のセット数すべてを取得する場合である。それ以外の場合、試合に勝利するためにはブレークを行う必要がある。 ミニ・ブレーク (mini-break) タイブレークにおいて相手側のサーブ時に取得するポイント。またこのミニ・ブレークが相手よりも最低1つでも多い状態(1ミニ・ブレーク アップ)にならないとセットを取得するまた勝利することが出来ない。 フォールト、フォルト(fault) サーブで打ったボールがサービスエリアに入らなかったときのコール。1ポイント中に2度フォールトすると「ダブルフォールト」となり、サーバーはそのポイントを失う。 フットフォールト、フットフォルト (foot fault) サーブを打つ時に、ラインを踏んだり、ラインを越えて踏むなど、足を着いていた位置が規定の範囲から外に出ていた場合にコールされ、フォールトとしてカウントされる。ボールがラケットから離れた後に足を着く位置は問われない。 レット (let) プレーをやり直すこと。サーブの時、打ったボールがネットに当たってサービスエリア内に入ったり、トスしたボールが着地するまでに打たなかったりした場合、サーバーにはそのサーブをやり直す権利がある。また、プレー中に他のコートからのボールや、その他プレーの妨げとなるものが入ってきたり、身に付けているものや持っているボールを落とした場合などにもコールされ、ファーストサービスからまたはセカンドサービスがレット (let) になった場合はセカンドのやり直しとなる。 ネット (net) サービスで打たれたボールがネットに接触した場合、審判が発するコール。このコールによってボールがネットに接触したことを確認し、その後、そのボールがサービスエリアに収まった場合はレット、収まらなかった場合はフォールトをあらためてコールする。 タッチ (touch) ネットにラケットや体で触れた時、またボールがラケットや体にかすったことで失点となったと判断された場合や、ボールが天井などの構築物に触れたと判断された時などにコールされ、失点となる。 ナット・アップ、ノット・アップ (not up) 打球時にボールがすでに2回バウンドしていた場合の審判によるコール。 オーバールール (overrule) 線審の判定を主審が覆すこと。 トス (toss) サーブの際にボールを上空に投げ上げる動作。 試合開始前に、初めにサーブを行うプレーヤーを決定するための動作。コイントスと、ラケットによるトスがある。以下はラケットを使用する場合である。1人のプレーヤーがグリップを軸にしてラケットを回転させ、ラケットが地面に倒れ静止した状態での表裏を、ラケットが回転している間に相手側のプレーヤーが当てることにより行う。このとき、ラケットを回すプレーヤーは、相手側のプレーヤーに対して以下に示すような問いかけを行い、公正を期すため応答がある前にラケットを回す。トスの結果により選択権を得た側が、「サーブを初めに行う」「レシーブを初めに行う」「ネットのいずれかの側のコートに入る」「選択権を相手に譲る」のいずれかを選ぶ。なお、規定の練習が開始されるとコートの状況の確認が可能となるため、トスは規定の練習の前に行われる。 ラフ・オア・スムース (rough or smooth)、またはスムース・オア・ラフ (smooth or rough) かつてのラケットには、飾りガット、あるいは飾り糸と呼ばれる紐が結わえられており、紐が平坦である側が表(スムース)、凹凸がある側が裏(ラフ)と判断される。飾りガットが廃れた一方で、グリップエンドのラケット製造者のマークを用いて表裏を判断するようになった。なおsmoothの発音は/smuːð/である。 アップ・オア・ダウン (up or down) グリップエンドのマークが正しい向きになっている場合は表(アップ)、上下逆になっている場合は裏(ダウン)と判断される。 フィッチ (which) 上2つの選択肢を特に指定せず、単に「どちらか」を答えさせる意味での問いかけ。 ノー・アドバンテージ・スコアリング方式 試合時間の短縮を図って採用されることのあるルールで、デュースの後1ポイントでそのゲームの取得者を決定する。この1ポイントをディサイディング・ポイント (deciding point) と呼ぶ。略して「ノー・アド」などと呼ばれることがある。 レシーバーズ・チョイス (receiver's choice) ノー・アドバンテージ・スコアリング方式のゲームで採用されることがあり、デュースの後ゲームを1ポイントで決める時に、サーバーが左右どちらからサーブを行うかを、レシーバー側が決めることができる。審判は「Deuce. Deciding point, receiver's choice.」とコールする。 リタイアメント (retirement) 試合中の棄権。 ウォークオーバー (walkover) 相手側が何らかの理由で試合を開始できなかった場合に与えられる不戦勝。 ゲーム、セット、アンド マッチ(game, set and match または game, set, and match) 「ゲーム終了、セット終了、そして試合終了」の意で、試合終了時にコールされる(なお英語では、ゲームセット (game set) という言葉は、チェスなどのゲーム用具一式の意を持つ。)。 グリップ(ラケットの握り方) 主にコンチネンタル、イースタン、ウエスタンの3つの握り方がある。コンチネンタルは、ボレーやスマッシュに、イースタンは、フラット、トップスピン、スライスとどれも打てる。またウエスタンはフラットやトップスピンに適している。 ストローク ボールを打つこと。フォアハンドストロークとバックハンドストロークがある。 フラットストローク ボールに対してラケットの面(フェイス)をフラットにして打つ。スピードのあるボールが打てる。 トップスピンストローク ボールに強い順回転をかけることにより、落差の大きい打球となり、高くバウンドする。 スライスストローク ボールに逆回転をかけることで、バウンドした後に低く滑るような打球となる。 ロブ (lob) 相手の頭上を抜いたり、時間を作るなどの目的でボールを高く打ち上げること。フラット、アンダースピン、トップスピンの3つがある。 ボレー (volley) 相手が打ったボールをバウンドする前に打ち返すこと。ボレーにはミドルボレー、ローボレー、ハイボレー、ハーフボレー、ドロップボレー、アングルボレー、ドライブボレーなどがある。 サーブ (serve) ボールを空中に離し(「トス」と呼ぶ)、そのボールをラケットで打つこと。「サービス」(service) とも言い、サーブを打つ人を「サーバー」と呼ぶ。サーバー側コートのベースライン後方から対角にある相手コートのサービスエリア(サービスボックスとも言う)にサーブを入れる事で、ゲームのポイントが開始される。サーブがサービスエリアに入らなかった場合、前述のように(「ルール」の項を参照)、1ポイントにつき1度のみ失敗(フォールト)が許されており、もう1度サーブを打つことができる。2度目のサーブも失敗した場合、ダブルフォールトとなり、サーバーはそのポイントを失う。トスを上げる場所は特に規定されているわけではないが、多くの場合、頭上に上げる。サービスエリアに入りかつ相手がサーブしたボールに触れる事ができなかった場合、このポイントを「エース」(Ace) と呼ぶ(日本では「サービスエース」と呼ばれる事が多い)。また、かろうじて触れられたものの、エース級のサーブでポイントを取った場合は「サービスウィナー」と呼ぶ。サーブの種類はボールの回転で分類されることが多く、主に「フラットサーブ」、「スライスサーブ」、「スピンサーブ」などと呼ばれる球種が存在する。しかし実際のところ、これらの球種の分類は回転量や回転の方向についてのものであるため、明確な区別が難しく、複数の性質を併せ持つ中間型も多い(「スライスサーブ」と「スピンサーブ」の両方の性質を持つ「トップスライスサーブ」などが知られている)。また、回転ではなく打法における分類としては、ラケットの先端を水平よりも下側に向けた状態から打つサーブを特にアンダーサーブと呼ぶ。 フラットサーブ ボールの回転量が少なく、軌道の変化に乏しいので、他の回転をかけたサーブに比べるとサービスエリアに入れることは難しいとも言えるが、その分最もスピードを出すことのできるサーブである。 スライスサーブ ボールに横回転をかけて打つサーブ。回転の効果でボールは横に曲がりながら飛び、バウンド後も切れていく球筋をたどる。安定性も高く、セカンドサーブとして使うのにも適している。 スピンサーブ 前方への回転が主で、落差の大きい軌道を描く。このため、前述のフラットサーブなどよりも比較的サービスエリアに入れることが容易である。バウンド後は回転の影響により他のサーブに比べて高く弾む。サービスエリアに入る確率が高いこと、また高く弾むために攻撃されにくいことからセカンドサービスとして用いられることが多い。回転方向によっては、やや左に跳ねさせたり、逆にやや右に跳ねさせたりといった調節も可能である。「ツイストサーブ」や「キックサーブ」と呼ばれるサーブがあるが、もともとスピンサーブがこのような別名を持っている。一方、これらの呼称をそれぞれ独立したサーブとして差別化しようとする動きもある。 リターン (return) サーブを返球すること。返球したボールがサーバーに触れずにポイントを得た場合「リターンウィナー」と呼ぶ(日本では「リターンエース」と呼ばれることが多いが、「エース」はサーブ側のみに使われる用語であり、厳密には誤りである)。 ポーチ (poaching) ダブルスにおいて、ネット付近にいるプレーヤーが、移動して自分のパートナーの方へ打たれたボールをボレーする攻撃的な動作。 ダウン・ザ・ライン(down the line) 相手のコートへ打たれたボールがサイドラインに沿ってまっすぐであることの表現。 コードボール 自分もしくは相手が打ったボールがネットに当たり相手側のコートに入ること。 ウィナー ボレーやドロップショットなどで相手が全く触れずに得点となること。前述の「リターンウィナー」もこれに含まれる。 プレイのスタイル アグレッシブベースライナー (Aggressive Baseliner) 強打などで攻撃的なプレーを行うベースライナー。 カウンターパンチャー (Counter Puncher) 自分からは強打せずに相手のショットを拾って粘り、ミスを誘ったり、相手の強打を利用してカウンターを狙うスタイルのプレーヤー。 サーブアンドボレーヤー (Serve and Volleyer) サーブを打った後すぐにネット付近に移動してボレーやスマッシュを行うプレーを得意とするプレーヤー。 オールラウンダー (All-Arounder) 万能なプレーを行うことのできるプレーヤー。 スプリット・ステップ (split step) 相手側がボールを打つ直前に小さくジャンプする一つのフットワークの技術。 アイ・フォーメーション (I-formation) ダブルスにおいて、ポイントの開始前に、サーバーのパートナーがネットの中央付近に位置している陣形。 オーストラリアン・フォーメーション (Australian formation) ダブルスにおいて、ポイントの開始前に、コートを左右に分ける中心線よりも右側か左側のどちらか一方にサーバーとそのパートナーの両方が位置している陣形。 ホットドッグ (hot dog) プレイヤーがロブをネットから離れる方向へ追っていき、ネットに背中を向けた状態でボールを両足の間で打つプレー。 バギー・ウィップ (buggy whip) フォアハンドでの打球時のフォロー・スルーが、体の前を通って逆側に行かず、低い場所から高い場所へ移動して同じ側で終了する打法。この打法を行う選手としてはラファエル・ナダルが知られる。名前は馬車の馬を鞭で打つ御者の動作に似ていることに由来する。 ジャックナイフ (jack knife) ストローク時にボールにスピン系の回転がかかり高く跳ね上がったときに対応するためにジャンプをしながらバックハンドでスマッシュを打つ方法。主に身長が低い選手が多く用いている。 テニス肘、テニス・エルボー (tennis elbow) プレーヤーの技術やラケットが不適当であるために腕に過度の振動が伝わっていることが原因とされるけが。 ベーグル (bagel) 試合で自分もしくは相手にセットの中で1ゲームも取れないまた取られないことを言う(6-0、6-3 など)。また2セット続けて1ゲームも取れないまた取られない場合はダブルベーグルと呼ぶ。日本のテニス用語では団子とも言われる。 全豪オープン(1月) 全仏オープン(5月 - 6月) ウィンブルドン(6月 - 7月) 全米オープン(8月 - 9月) 四大大会を1年間ですべて優勝することを年間グランドスラム(複数年に跨っての達成はキャリア・グランドスラム(生涯グランドスラムとも)と呼ばれる。 これにオリンピックの金メダル獲得をも達成すると「ゴールデン・スラム」と呼ばれ(グランドスラムをオリンピックの開催年(オリンピアード)に達成し、かつオリンピックの金メダルを獲得することを年間ゴールデン・スラムという)、更なる難易度を要するものである。1988年に当時19歳のシュテフィ・グラフが達成し、この言葉が作られた。グラフの後に達成した選手は、2008年に車いすテニス界において日本人プレーヤーの国枝慎吾が、成し遂げている(全豪オープン、ジャパンオープン、全英オープン、全米オープン、パラリンピック)が、グラフが達成したのは年間グランドスラムで、国枝の達成したものはキャリア・ゴールデン・スラムである。 諸説あり、1878年(明治11年)にアメリカ人教師のリーランドが文部省の体操伝習所で紹介したローンテニスが最初であろうという説が有力とされている。 このあと、明治期の日本で調達が困難であったローンテニス用具を、安価なゴムボール等の代用品で賄った。これがやがて軟式テニスと呼ばれる様になり、体操伝習所の教師であった坪井玄道が普及に尽力し、伝習所の卒業生が教師となって各地の学校に赴任し伝えることにより独自の発展を遂げ、今日のソフトテニスに至る。 軟式テニスで育った熊谷一弥、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎ら多数の名選手がテニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らは、その当時においては独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で活躍し、1920年代前半から1930年代後半まで続いた日本テニス黄金時代を築き上げることとなる。 1918年(大正7年)、熊谷一弥が全米選手権において、日本人テニス選手として史上初のベスト4進出を果たし、1920年(大正9年)には清水善造のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝(現在では準決勝に相当)に進出し、世界1位に君臨していたビル・チルデンに肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックにおいて熊谷がシングルスで銀メダルを獲得し、ダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアが銀メダルを獲得し、オリンピックで初めての日本のメダルとなった。翌1921年、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本チームの活躍は目覚ましく、準優勝に輝いている。 日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代には原田武一が日本を代表する選手として活躍した。原田はとりわけ、デビスカップで傑出した成績を挙げることとなる。特に1926年のデビスカップでは、日本テニス史に残る名勝負が繰り広げられた。日本は「アメリカン・ゾーン」決勝でキューバに5戦全勝で勝ち、「インターゾーン」の決勝でフランスと対戦する。当時のテニス界は、フランスの「四銃士」と呼ばれた4人の強豪選手たちが世界を席巻し始めていた。原田はインターゾーン決勝のフランス戦で、第2試合シングルスでルネ・ラコステを 6-4, 4-6, 6-3, 9-7 で破り、第5試合シングルスでもアンリ・コシェに 6-1, 6-3, 0-6, 6-4 で勝ち、この活躍で世界的に有名な選手となった。日本チームは2勝3敗でフランスに敗れたが、原田のシングルス2勝は大きな反響を呼んだ。1926年、原田武一は「全米テニスランキング」でビル・チルデン、マニュエル・アロンソに次ぐ第3位にランクされ、世界ランキングでも7位に躍進する。 1930年代に入ると、佐藤次郎が登場する。佐藤は4大大会でシングルスでは通算5度もベスト4に進出し、ダブルスでは布井良助とペアで準優勝を経験し、混合ダブルスにおいても準優勝に輝くなど、日本の男子テニス選手として空前絶後の世界的な活躍を残し、当時の世界ランキング3位にまで登り詰めたが、1934年(昭和9年)4月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をしてしまう。しかし、同年のウィンブルドン混合ダブルスで三木龍喜がドロシー・ラウンドとペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。 佐藤亡き後は山岸二郎、中野文照が日本テニス界を代表する選手になる。特に山岸は1938年のデビス・カップ「アメリカン・ゾーン」決勝でオーストラリアと対戦した時、この年の世界ランキング3位だったジョン・ブロムウィッチを6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で破り、1937年(昭和12年)に山岸は世界ランキング9位に入り、1938年(昭和13年)には8位にランクされた。同年にはアメリカのドン・バッジがテニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成しており、山岸は彼らに続く強豪選手として高い評価を受けたのである。 しかし、1937年に勃発した日中戦争は泥沼の様相を呈し、国内の物不足も顕著になりボールも配給制となった。1939年には四大大会への海外遠征とデビス・カップへの選手派遣も中止となり、戦前の日本テニスの黄金時代は終わりをつげた。1941年に日本が太平洋戦争に突入すると、日本国内は戦時一色となり、日本テニス協会も1942年11月に解散を余儀なくされてしまい、翌年から3年間、戦争激化のため大会は中止せざるを得なかった。この影響は日本テニス界を確実に蝕み、今までのような高水準のレベルが維持できないようになってしまい、長期の低迷を迎えることとなる。 終戦後には日本においてテニスをはじめとするスポーツも徐々に復興し、1951年(昭和26年)からデビスカップの国際舞台に復帰すると徐々にレベルを回復させるようなる。1955年(昭和30年)、全米選手権男子ダブルスにおいて宮城淳、加茂公成のペアが優勝を成し遂げる。 1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。 1995年(平成7年)には松岡修造がウィンブルドン選手権男子シングルスでベスト8を獲得した。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少なかった。 しかし、2008年(平成20年)に錦織圭が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たし、2014年(平成26年)には、全米オープンでアジア男子初の準優勝、同年末にはアジア男子初のATPワールドツアー・ファイナルに出場。初出場で2勝をあげ、準決勝まで進出するという快挙を達成、2015年には日本人及びアジア人最高位を更新する世界ランキング4位を記録、アジア選手初の生涯獲得賞金1,000万ドル (約12億円) を突破した。そして、全米オープンでは日本人で初めてのグランドスラムでの第4シードを獲得した。2016年にはリオデジャネイロオリンピックに男子シングルスの日本代表として出場。準決勝でイギリスの英雄アンディ・マリーにストレートで敗退するも3位決定戦で同大会ダブルス部門で金メダルを獲得したラファエル・ナダルにフルセットの末、勝利し銅メダルを獲得し、前述の熊谷一弥,柏尾誠一郎以来の96年ぶりのオリンピックテニス競技のメダリストに輝いた。 女子では、1975年(昭和50年)のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、沢松和子とアン清村のペアが初優勝した。1980年代から90年代には井上悦子や1989年にプロ転向した伊達公子が活躍。伊達は1995年に日本人選手として最高の世界ランキングシングルス4位を記録。1997年には平木理化が全仏オープン混合ダブルスで優勝した。2004年2月、杉山愛が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たした。また、ダブルスとしては世界的な名手と知られ、2000年10月には日本人男女初となる世界ランキング1位を記録した(後に2003年にも1位に返り咲く)。 前述したようにソフトテニス(軟式テニス)はテニスが日本へ紹介された当時、テニス用具の国産化が難しく輸入品が高価であったため、比較的安価に輸入(独)[要検証 – ノート]できたゴムを材料としたボールが使われたのが始まりで、ゴムボールを使用するソフトテニスは日本が発祥。日本のインド学・仏教学の祖である高楠順次郎は若い頃、日本で初めてソフトテニス(軟式テニス)をしたひとりとしても知られている。アジアを中心に行われていたがプレイされる国や地域が増え、2007年の第13回世界選手権では40を超える国がエントリーした。ダブルスが主体であるというイメージがある。1994年以降はシングルスのルールが整備されている。ルールの一部はテニスのものと異なっている。日本語においては、ソフトテニスと区別して、テニスを硬式テニスと呼ぶこともある。 テニススクールの頁を参照。 1998年、日本テニス協会や日本プロテニス協会などが参加する「日本テニス振興協議会」は設立された1998年に9月23日(秋分の日)を「テニスの日」に制定した。 バドミントンなどとともに、レクリエーションやレジャーとしても広く行われる競技である。公園や高原のリゾート地などには、しばしばテニスコートが見られる。 ^ フィリップ・K.ヒッティ (著), 岩永 博 (翻訳) 『アラブの歴史 (上)』 講談社学術文庫、1982年 p687 ^ 「Tennis score」『Wikipedia英語版』 2011年10月8日 07:54 (UTC)。 ^ 「Tennis」『Wikipedia英語版』 2011年10月25日 16:04 (UTC)。 ^ 死闘戦った両者が最終セットタイブレークなしを非難日刊スポーツ(2018年7月14日) ^ デビスカップ、16年から第5セットのタイブレーク採用へAFPBB(2015年9月26日) 2018年7月14日閲覧 ^ 「Player Challenge System」(英語)『2011 Wimbledon Championships Website - Official Site by IBM』 IBM Corp.、AELTC、2011年10月31日閲覧。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「Glossary of tennis terms」『Wikipedia英語版』 2011年10月10日 04:38 (UTC)。 ^ 『オックスフォード英語辞典』第二版によれば、「for love」に「楽しみのために、賭け金0で(ゲームをする)」の意味がある(文献初出1678年[要検証 – ノート])。 ^ a b 「Wikipedia:表記ガイド:外来語」『ウィキペディア日本語版』 2011年10月8日 11:07 (UTC) に沿って、本項目での表記を「フォールト」で統一。 ^ a b 「fault」『Wiktionary英語版』 2011年9月15日 21:16 (UTC)。/fɔlt/に近いカタカナ表記、また慣習的表記として。 ^ 「smooth」『Wiktionary英語版』 2011年10月14日 01:38 (UTC)、2011年10月24日閲覧。 ^ 『基本が身につくテニス練習メニュー200』181頁。 ^ タイムスクープハンター(NHK総合1ch 11:30 - 0:00)2013年4月27日放送分 第4話『打て!大正テニスガール』番組内説明 ^ 「テニスをブームではなく根付かせるために…18年目を迎えた9月23日「テニスの日」」|「国内ニュース」のニュース|THE TENNIS DAILY/テニスデイリー、閲覧2017年7月14日 国際テニス連盟 (ITF) 男子プロテニス協会 (ATP) 女子テニス協会 (WTA) 日本テニス協会 テニス選手一覧 ビーチテニス パドルテニス フリーテニス ジュ・ド・ポーム アンダースコート 公式 ITF - 国際テニス連盟 (英語) ATP - 男子プロテニス協会 (英語) WTA - 女子テニス協会 (英語) JTA - 日本テニス協会 (日本語) 大会 全豪オープン (英語)(日本語) 全仏オープン (フランス語)(英語) ウィンブルドン選手権 (英語) 全米オープン (英語)" ]
ABC01-02-0233
「長十郎」といえば梨の品種ですが、「利平」はどんな秋の味覚の品種でしょう?
クリ
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[ "クリ", "ダイコン", "キュウリ", "ウンシュウミカン", "ラッカセイ" ]
[ "クリ(栗、学名:Castanea crenata)とは、ブナ科クリ属の木の一種。 クリのうち、各栽培品種の原種で山野に自生するものは、シバグリ(柴栗)またはヤマグリ(山栗)と呼ばれる、栽培品種はシバグリに比べて果実が大粒である。また、シバグリもごく一部では栽培される。 落葉性高木で、高さ17m、幹の直径は80cm、あるいはそれ以上になる。樹皮は灰色で厚く、縦に深い裂け目を生じる。 葉は長楕円形か長楕円状披針形、やや薄くてぱりぱりしている。表はつやがあり、裏はやや色が薄い。周囲には鋭く突き出した小さな鋸歯が並ぶ。 雌雄異花で、いずれも5月から6月に開花する。雄花は穂状で斜めに立ち上がり、全体にクリーム色を帯びた白で、個々の花は小さいものの目を引く。また、香りが強い。非常によく昆虫が集まる。ブナ科植物は風媒花で花が地味のものが多いが、クリやシイは虫媒花となっている。一般に雌花は3個の子房を含み、受精した子房のみが肥大して果実となり、不受精のものはしいなとなる。 9月から10月頃に実が成熟すると自然にいがのある殻斗が裂開して中から堅い果実(堅果であり種子ではない)が1 - 3個ずつ現れる。果実は単に「クリ(栗)」、または「クリノミ(栗の実)」と呼ばれ、普通は他のブナ科植物の果実であるドングリとは区別される(ただし、ブナ科植物の果実の総称はドングリであり、広義にはドングリに含まれるとも言える)。また、毬状の殻斗に包まれていることからこの状態が毬果と呼ばれることもあるが、中にあるクリノミ自体が種子ではなく果実であるため誤りである。 香りの主成分はメチオナール(サツマイモの香りの主成分)とフラノン(他にはイチゴやパイナップルに含まれている)。 栗樹 樹皮 葉 雄花 雌花 成長を始めたばかりの若い殻斗果(殻斗に包まれている状態の果実) 殻斗果 色付き裂開し、中の果実が見えるようになった殻斗 地面に落ちた殻斗。裂開し、中の果実が見える 日本と朝鮮半島南部原産。北海道西南部から本州、四国、九州に分布。暖帯から温帯域に分布し、特に暖帯上部に多産する場合があり、これをクリ帯という。 ただし、現在では広く栽培されているため、自然分布との境目が判りにくい場合がある。中華人民共和国東部と台湾でも栽培されている。 日本において、クリは縄文時代初期から食用に利用されていた。長野県上松町のお宮の裏森遺跡の竪穴式住居跡からは1万2900年前~1万2700年前のクリが出土し、乾燥用の可能性がある穴が開けられた実もあった。縄文時代のクリは静岡県沼津市の遺跡でも見つかっているほか、青森県の三内丸山遺跡から出土したクリの実のDNA分析により、縄文時代には既にクリが栽培されていたことがわかっている。 生食も可能であるが、現代においては、ほんのりとした甘さを生かして石焼きにした甘栗、栗飯(栗ご飯)の具、菓子類(栗きんとんなど)の材料に広く使われている。 年間平均気温10 - 14℃、最低気温が -20℃を下回らない地方であれば栽培が可能で、日本においてはほぼ全都道府県でみられる。生産量は、茨城県、熊本県、愛媛県、岐阜県、埼玉県の順に多い。また、名産地として丹波地方(京都府、大阪府、兵庫県)や長野県小布施町、茨城県笠間市が知られる。これらの地域では「丹波栗」のようなブランド化や、クリを使った菓子・スウィーツ開発による高付加価値化、イベント開催による観光誘客への活用が進められている。 果実としての採取以外に、甘みがある栗焼酎の醸造や茶飲料、蜂蜜を採取する蜜源植物としても利用される。 戦前に中国から持ち込まれたクリタマバチにより、昭和20年代には日本全土に存在した100種を超える品種の大半が消滅した。現在栽培されている品種は、その後育成されたクリタマバチに対する抵抗性品種である。クリタマバチ被害については、1979年以降、クリタマバチの天敵であるチュウゴクオナガコバチがクリの主産地で放飼されたことにより被害が激減した。 次に問題となっているのが、クリシギゾウムシによる果実被害である。これまでは、収穫後の臭化メチルによるくん蒸を主として防除がなされていたが、臭化メチルガスは温室効果が高いため、全廃されることが決定した(2005年に全廃する予定であったが、2015年まで不可欠用途申請されて使用されていた)。臭化メチルくん蒸の代替技術としてヨウ化メチルが登録されたが、ヨウ素の逼迫による価格上昇や、臭化メチルに比べて沸点が高く扱いにくいなどの理由で、製造が中止された。代替法としては、氷蔵庫(壁面に不凍液を循環させて庫内温度を高湿度のまま一定に保つ保冷庫)によって -2℃で3週間程度貯蔵する氷蔵処理と、50℃のお湯に30分間浸漬する温湯処理が確立されている。 日本のクリはシナグリに次いでクリ胴枯病に対する抵抗性が高い。 シナグリなどと比較して、渋皮剥皮が困難であり、生食用用途では渋皮を直下の果肉とともに削り取る作業が必須である。特にこのことが近年の家庭におけるクリの需要を低下させる原因となってきた。そのような中、近年独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構果樹研究所において、シナグリ並に渋皮剥皮性の優れるクリ品種「ぽろたん」(2007年10月22日品種登録)が育成された。 日本国内の収穫量 2014年度 23,401 t 茨城県 5,180 t 熊本県 3,820 t 愛媛県 1,540 t 岐阜県 1,010 t 埼玉県 727 t 宮崎県 640 t 山口県 570 t 長野県 554 t 栃木県 541 t 千葉県 510 t 日本の主なクリの産地(自治体及び旧自治体は作況調査市町村別データ長期累年一覧による) 作況調査2014年版によると、沖縄県以外の46都道府県で収穫実績あり。そのうち33都府県は収穫量100トン以上となっている。 秋田県 仙北市(旧西木村)- 西明寺栗の産地 茨城県 - 国内1位。 小美玉市(旧美野里町) 笠間市(旧岩間町、旧友部町) 茨城町 かすみがうら市(旧霞ヶ浦町、旧千代田町) 石岡市 土浦市 つくば市 埼玉県 日高市 - 全国に先駆けて『ぽろたん』を特産品化。  東京都 八王子市 あきる野市 長野県 小布施町 岐阜県 中津川市 美濃加茂市 静岡県 掛川市 愛知県 豊田市(旧足助町) 京都府 綾部市 - 丹波栗の主産地。 大阪府 能勢町 - 銀寄発祥地 山口県 岩国市(旧美和町)- がんね(岸根)栗の産地 愛媛県 - 国内3位。 大洲市 伊予市(旧中山町) 内子町 熊本県 - 国内2位。県北部の菊鹿地方と県南東部の人吉地方に偏在する。 山鹿市(旧菊鹿町、旧鹿北町) - 西日本一の生産量(市町村) 山都町(旧清和村) 菊池市 山江村 人吉市 宮崎県 須木村 堅くて腐りにくいことから、建物の柱や土台、鉄道線路の枕木、家具等の指物に使われたが、近年は資源量の不足から入手しづらくなった。成長が早く、よく燃えるので昔は薪木としても使われていた。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることが、遺跡出土の遺物から分かっている。触感は松に似ているが、松より堅く年輪もはっきりしている。楢よりは柔らかい。 『猿蟹合戦』(民話) 桃栗三年、柿八年(梨の馬鹿めが十八年、もしくはユズの馬鹿野郎十八年、梅はすいすい十六年) - 種を植えてから実を収穫できるまでの期間を指すことわざ。 三度栗伝説 『大きな栗の木の下で』(童謡) 江戸時代、日本にサツマイモがもたらされたとき、その味がクリと比較された。クリを9里と重ね、『クリに近い』ので『八里半』、あるいはクリより(9里4里)うまいので『一三里』等と言われたという。 クリの葉を揉んで、ウルシかぶれに塗ったり、クリの樹皮を煎じ汁をかぶれに塗ったれば良いという伝承が長野県開田地に残っている。一方、クリの根を煎じて飲んだり、クリの花の煮汁を下剤としたり、クリの樹皮を煎じてウルシかぶれに塗ったりする伝承が長野県阿智村や喬木村などにある。 日本国指定の天然記念物 カズグリ自生地 - 岩手県花巻市(1927年4月8日指定) 小野のシダレグリ自生地 - 長野県上伊那郡辰野町(1920年7月17日指定) 西内のシダレグリ自生地 - 長野県上田市(1920年7月17日指定) 竹原のシダレグリ自生地 - 岐阜県下呂市竹原(1921年3月3日指定) 品種(フォーム) ヤツブサグリ C. c. f. foemina - 花穂に多くのイガをつける。 タンバグリ C. c. f. gigantea - 別名オウグリ。栽培品種としては銀寄と呼ばれる。 ハゼグリ C. c. f. imperfecta - 別名ハダカグリ。果皮が縦に裂けて内部が見える。 シダレグリ C. c. f. pendula - 樹幹や枝が屈曲し垂れ下る。 ハコグリ C. c. f. pleiocarpa(シノニム C. c. var. pleiocarpa)- 1つの殻斗に果実が6 - 8個入る。 ハナグリ C. c. f. pulchella(シノニム C. c. var. pulchella)- 花とイガは赤い。 トゲナシグリ C. c. f. sakyacephala(シノニム C. c. var. sakyacephala)- 殻斗のイガが極端に短い。 栽培品種 - 約200種類以上あり、シバグリが改良されたものが主ではあるが、海外産のクリ類と交雑されたものも存在する。栽培品種は収穫期により早生、中生、晩生に大別される。以下代表的品種。 早生栗 - 丹沢(たんざわ)、国見(くにみ) 中生栗 - 筑波(つくば)、銀寄(ぎんよせ)、利平栗(りへいぐり) 晩生栗 - 石鎚(いしづち)、岸根(がんね) ^ 米倉浩司・梶田忠 (2003-). “Castanea crenata Siebold et Zucc.”. BG Plants 和名−学名インデックス(YList). 2013年8月22日閲覧。 ^ 米倉浩司・梶田忠 (2003-). “Castanea crenata Siebold et Zucc. var. kusakuri (Blume) Nakai”. BG Plants 和名−学名インデックス(YList). 2013年8月22日閲覧。 ^ 文部科学省 「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 毬果とは、松かさのようなマツ綱植物の果実を指す。 ^ 国内最古、1万年以上前のクリか 長野の遺跡で発見『朝日新聞』朝刊2017年12月26日 ^ 日本栗の始まり いわまの栗 ^ 第11回かさま新栗まつり笠間市ホームページ ^ 栗焼酎ダバダ火振株式会社・無手無冠ホームページ ^ 『ハイピース くりほうじ茶HOT』をリニューアル発売盛田ニュースリリース(2014年9月2日)など ^ 柴田書店, ed (2006). 一〇〇の素材と日本料理〈下巻〉野菜・肉篇. 柴田書店. ISBN 4388059951.  ^ 齋藤 寿広,壽 和夫,澤村 豊,他 (2009年). “ニホングリ新品種‘ぽろたん’” (PDF). 果樹研究所研究報告 (農業技術研究機構果樹研究所) (9): 1-9. http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010791637.pdf 2016年6月9日閲覧。.  ^ 農林水産省 作況調査(果樹)くり 平成26年版 ^ 日高市公式ページ 特産品 ^ 旬の食材百科 銀寄 ^ 『信州の民間薬』全212頁中80頁医療タイムス社昭和46年12月10日発行信濃生薬研究会林兼道編集 茂木透写真 「クリ」『樹に咲く花 離弁花1』 高橋秀男・勝山輝男監修、山と溪谷社〈山溪ハンディ図鑑〉、2000年、278-281頁。ISBN 4-635-07003-4。 木の一覧 季語一覧 ヨーロッパグリ シナグリ マロン (植物) 栗 (駆逐艦) ラス・メドゥラス:スペインにある古代ローマ時代の金山跡。労働者の食料としてクリの木が多く植えられた。 Castanea crenata Siebold & Zucc., ITIS, http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=506540 2013年8月22日閲覧。  (英語) \"Castanea crenata\". National Center for Biotechnology Information (NCBI).  (英語) Castanea crenata - Encyclopedia of Life (英語) 波田善夫. “クリ”. 植物雑学事典. 岡山理科大学生物地球学部. 2013年8月22日閲覧。 福原達人. “クリ(ブナ科)”. 植物形態学. 福岡教育大学教育学部. 2013年8月22日閲覧。 新潟大学農学部農業システム工学研究室. “新潟県 栗 データベースシステム”. 新潟県農産物画像データベース. 2013年8月22日閲覧。 “知識の宝庫!目がテン!ライブラリー”. 所さんの目がテン!. 日本テレビ (2006年10月29日). 2013年8月22日閲覧。", "ダイコン(大根、学名:Raphanus sativus var. longipinnatus)はアブラナ科ダイコン属の越年草で、野菜として広く栽培される。主に肥大した根を食用とするほか、種子から油を採ることもある。緑黄色野菜でもあり、淡色野菜でもある。名前の由来は、大きな根を意味する大根(おおね)から。 多くの品種があり、根の長さ・太さなどの形状が多様。また皮の色も白以外に赤、緑、紫、黄、黒などがあり、地域によっては白よりも普通である。日本ではほとんどが白い品種で、スズシロ(清白)の別名もこれに基づく。 原産地は確定されていないが、地中海地方や中東と考えられている。紀元前2200年の古代エジプトで、今のハツカダイコンに近いものがピラミッド建設労働者の食料とされていたのが最古の栽培記録とされ、その後ユーラシアの各地へ伝わる。 日本には弥生時代には伝わっており、平安時代中期の『和名類聚抄』巻17菜蔬部には、園菜類として於保禰(おほね)が挙げられている。ちなみにハマダイコンまたはノダイコンと見られる古保禰(こほね)も栽培され、現在のカイワレダイコンとして用いられていた。江戸時代には関東の江戸近郊である板橋、練馬、浦和、三浦半島辺りが特産地となり、その中で練馬大根は特に有名であった。 ダイコンは日本においては品種・調理法とも豊富である。世界一大きくて重い桜島大根、世界一長い守口ダイコンなどの種類があり、日本人の食卓(鍋料理・おでん等)には欠かすことのできない野菜となっている。葉はビタミンAを多く含み、青汁の原料として使われる。汁はビタミンCやジアスターゼを多く含む。 野菜としての位置づけにおいては、春の七草の一つ「すずしろ」であり、薬味や煮込み料理にも使われるなど、利用の幅は広い。薬草であり、消化酵素を持ち、血栓防止作用や解毒作用がある。 根出葉は羽状複葉で、頂小葉は大きい。太い主根は主軸が肥大して食用となる。収穫せず春を迎えれば、アブラナ属と似た淡紅色を帯びた白花をややまばらに付ける。果実の種子数はアブラナ属より少ない。 茎は、葉の付け根の低い三角錐部分で、食用にされない。また、一般的に根と呼ばれる食用部分のうち地上部分は、発生学的には根ではなく、胚軸に由来する中間的な性質を持っている。青首大根では特に目立ち、ジャガイモ同様、光に応じて葉緑体を発達させる茎の性質を示している。 茎、胚軸、根の区別は道管の位置で区別できるが、ひげ根(二次根)でも見分けられる。根の部分は両側一列ずつ二次根が発生し、店先のダイコンではその痕跡がくぼんだ点の列として観察できる。 アブラナ属のカブ(蕪)では、丸く肥大する食用部分が胚軸で、根はヒゲ根となって食用にされない。 栽培種も変種 R. sativus var. longipinnatus として扱われるが、原種ははっきりしていない。染色体はn=9で、アブラナ属の多くの野菜と同様自家不和合性を持ち、交雑しやすい。 遺伝的研究から、日本のダイコンはヨーロッパ系統、ネパール系統とは差が大きく、中国南方系統に近い事が確認されている。 ハツカダイコン (R. sativus var. sativus) ハマダイコン (R. sativus var. hortensis f. raphanistroides) 日当りのよい砂浜などに自生的に生育する。野草として食用にされるほか、食用選抜も行われている。普及した栽培種と比較してかなり硬く、辛味も強い。 栽培種が野生化した種と考えられていたが、遺伝的研究では日本の栽培種とは差が大きく、栽培種とは全く別の系統に属す可能性が高い。比較検討の結果としては、古い時代にもともとの原産地である地中海沿岸から中国を経由して人間の移動と共に入ってきた野生ダイコンが起源であるとする説が唱えられている。 ノダイコン 日本の福島県会津盆地、山形県米沢盆地などでみられる内陸性の自生種。遺伝的に栽培種に近く、野生化したものと見られるが、中国系統と交雑する前の日本在来種とする説がある。 黒大根 (R. sativus var. niger) 根の表面が黒く内側は白。根が長くなる品種と蕪の様に丸い品種がある。丸い品種は肉質が硬くデンプンが多い。花の色は白や紫。 なお、アカザ科のテンサイ(甜菜)を形状と用途から「サトウダイコン」(砂糖大根)と呼ぶが、ダイコンとは目レベルで異なる縁遠い種である。 品種として有名なもの以外に、各地で地ダイコン(地野菜)が栽培利用されていた。1980年の文献には、全国で110品種が記録されている。特に九州南部は独自性が強いとされている。 青首大根 現在の主流品種で、作付面積の98%を占めるともいう。青首宮重(あうくびみやしげ)群。辛みが少なく甘みが強いこと、地上に伸びる性質が強く収穫作業が楽である事などから昭和50年代に急速に普及した。:他の品種はこれに押されて廃れ、郡大根(こおりダイコン)のように「絶滅」してしまった品種もある。現在他の品種は、品種保存や町おこしなどを志す一部の農家が少量栽培している。 宮重 現在主流の青首大根の片親。 白首大根 胚軸が発達しないため、緑色の部分が無い。沢庵漬け用など。 練馬大根 元禄から栽培され「大根の練馬か、練馬の大根か」とも言われた。 大蔵大根 東京都世田谷区周辺が産地。昭和時代に廃れたが地場野菜として復活させている。 三浦大根 三浦半島が主産地で、真ん中から下部が下膨れしている。 御薗大根 伊勢たくあんに使用され、これは「こうこ」とも呼ぶ。 辛味大根 汁気が少なく辛味が非常に強いため、主に蕎麦などの薬味に用いられる。見かけはミニサイズのダイコンで、形状から「ねずみ大根」とも呼ぶ。 青皮紅心 中国産で、心里美(しんりび)とも。白い皮で中が紅色のダイコン。甘く水気が多いため果実のようにカービングにも利用される。 葉だいこん 葉を蔬菜とするための品種で、家庭園芸向け。 亀戸大根 小型で肉質が緻密。 源助(源助だいこん) 加賀野菜の一つ。短く太く、甘味が強く煮崩れしにくいことから、おでんに使われる。 聖護院大根 京野菜の一つで、カブのような球形。 守口大根 ゴボウのように細長く、世界最長。守口漬に使われる。 大阪四十日 小型種で、根が屈曲して独自の形状になる。現在は主に、貝割れ大根の種子として利用されている。 祝だいこん 雑煮の具などに使われる奈良県の伝統野菜(大和野菜)。 紅大根(長崎県原産)、紅しぐれ(群馬県原産) 外見は紫系の赤いダイコン。摩り下ろすと紫色の大根おろしになる。千枚漬のような漬物や大根おろしなどに使われる。 桜島大根 胴回りが巨大。 栽培、統計上は春だいこん、夏だいこん、秋冬だいこんに区分され、秋冬が全体の7割を占め、春と夏が残りを分け合う。 収穫量順(農林水産省平成22年)では千葉県、北海道、青森県、宮崎県、鹿児島県、神奈川県で全国生産量の半分を占める。平成22年度生産量は全国で117万トン。日本のダイコン生産量は作付面積、収穫量とも減少傾向にある。 政府統計 平成21年産野菜生産出荷統計 より 主に生食または加熱調理される。保存用に漬け物、乾物とされるほか、辛みを生かして香辛料ともなる。 ダイコンはクビ(葉に近い部分)は汁が多くて甘く、サキ(地に深い先端部分)は汁が少なく辛い。このため、クビの部分は生でサラダに、サキは大根おろしなど薬味に向く。タコやイカの煮込み料理に用いられるのは、ダイコンの酵素がこれらを軟らかくするため。 生食 大根おろし、サラダ(春大根向き)、繊切りにして刺身のつまなど 大根を繊切りにすることを「千六本」(せんろっぽん)という。これは中国語で大根を表す羅葡に繊切りの繊がついた「繊羅葡」(シエンルオポ)が、音訛したものである。 加熱 おでんやブリ大根などの煮込み料理、風呂吹き、味噌汁など 漬け物 浅漬け、たくあん、べったら漬け、福神漬け、さくら漬け、いぶりがっこなど。かつては秋に収穫される越冬野菜の典型として、冬季間の食卓に供される重要な保存食だった。 乾物 切って干したものは切り干し大根、立て四つに割って干したものは割り干し大根、茹でて干したものはゆで干し大根などと呼ぶ。戻して煮物にしたり、漬物、酢の物などに用いる。 加工品 広東料理の一種で、台湾などでは大根を刻んで他の材料を混ぜて焼いた「蘿蔔糕(大根餅)」として食されている。 香辛料 辛味の強い辛味大根は、ざるそば、うどんなどの薬味、付け汁(おしぼり)として用いる。蕎麦処の信州戸隠のものは小ぶりの大根に長い尻尾がついていることからねずみ大根などと呼ばれる。 茨城県水戸市には、0.2ミリメートル程の薄さで剥いた大根を、立体的な花(牡丹・菊・アヤメ)のように見せる「大根むき花」という民芸が、江戸時代の水戸藩以来伝わっている。 栄養価が高く、春の七草のスズシロ(清白)でもある。おひたし、みそ汁の具、漬物として用いられる。 炒め物にして食べると栄養の吸収が良いといわれる。また、カブの葉同様、刻んで飯に炊き込んだものは菜飯となる。 間引き菜(まびきな) 発芽から数週間で間引きした苗 大根菜(だいこんな) 一ヶ月ほど経ち10〜20cm程度に根が発達した幼植物。これを野菜として利用するための品種もある。 大根葉(だいこんば) 収穫期の葉でかつては広く利用されたが、現在は流通の都合や消費者の嗜好により原則として捨てられ、まれに葉付きダイコンと称して販売されている。成長した葉柄には棘状の突起があるので、生食には適さず加熱調理する。 干葉(ひば) 根と同様に干して保存性を高めたもの。緑黄色野菜の少ない季節の貴重な保存食とされた。 スプラウト 発芽させ、胚軸と子葉をカイワレダイコンとして食用にする。 生薬 羅葡子(ライフクシ)として、健胃、去痰作用。中国医学では、肥満の薬として有名。 食材としての大根はビタミンC以外に目立った栄養はない。カロリーは少なく、ジアスターゼを多く含み消化を助ける効能も有るため、ダイエット・フードとしても注目されている。 葉付き大根はそのまま置くと栄養価が下がるので、葉を切り落として二等分にし、切断面を密封して立てて保存するとよい。 真宗大谷派の了徳寺(京都市)は毎年12月9、10日の報恩講で大根焚を行う。食べると中風除けのご利益があるとされている。 東京・浅草にある本龍院待乳山聖天(まつちやましょうでん)では1974年以来、1月7日に「大根まつり」が行われている。「聖天さま」(大聖歓喜天)へ供えた大根のお下がりを、ふろふき大根にして参拝者2000人に振る舞う。 『古事記』 継苗生(つぎねふ)や 山代女(やましろめ)の 木鍬(こくわ)持ち 打ちし大根(おほね) 根白(ねしろ)の 白腕(しろただむき) 枕(ま)かずけばこそ 知らずとも云はめ 仁徳天皇 継苗生(つぎねふ)山代女(やましろめ)の 木鍬(こくわ)持ち 打ちし大根(おほね) 騒々(さわさわ)に 汝が家背(いへせ)こそ 打ち渡す 弥(や)が栄(は)え為(な)す 来入(きい)れ参来(まいく)れ 磐姫皇后 兼好法師の『徒然草』第68段に、焼き大根の話が出る。 俳句では冬の季語。「だいこ」とも。 大根引き大根で道を教えけり(小林一茶) 大根は、生でも煮ても焼いても消化が良く、食当たりしないので、何をやっても当たらない役者を「大根役者」と呼ぶ。同じ理由で、なかなか当たりを打てない野球の打者を「大根バッター」とも呼ぶ。 ^ a b 西貞夫、野菜あれこれ(2) 調理科学 15巻 (1982) 1号 p.24-32 , doi:10.11402/cookeryscience1968.13.2_111 ^ 伊沢凡人・会沢民雄「カラー版 薬草図鑑」(家の光協会 ISBN 4-259-53653-2) 157ページ ^ “植物の観察〜根”. 10min.ボックス. 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ウェイバックマシン(2017年5月17日アーカイブ分) だいこんホームガーデン百科 アタリヤ農園", "キュウリ(胡瓜、Cucumis sativus L.)とはウリ科キュウリ属のつる性一年草、およびその果実のことである。野菜の一種として食用にされる。 かつては熟した実も食用とされたが、甘みが薄いためにあまり好まれず、現在では未熟な実を食用とするようになった。インド北部、ヒマラヤ山麓原産。日本では平安時代から栽培される。漢字表記で使われる胡瓜の「胡」という字は中国から見た西方諸民族を指し、シルクロードを渡って来たことを意味している。 「キュウリ」の呼称は、漢字で「木瓜」または「黄瓜」(きうり、現代中国語でも「黄瓜」)と書いていたことに由来する。上記の通り現代では未熟な緑色の実を食べる事からあまり知られていないが、熟した実は黄色くなる。今と異なり古い時代はこれを食べていた。尚、現代では「木瓜」はパパイアを指す。 温暖な気候を好むつる性の植物である。栽培されているキュウリのうち、3分の2は生で食することができる。種子は暗発芽種子である。雌雄異花ではあるが、単為結果を行うため雄花が咲かなくとも結実する。 主に黄色く甘い香りのする花を咲かせるが、生育ステージや品種、温度条件により雄花と雌花の比率が異なる。概ね、雄花と雌花がそれぞれ対になる形で花を咲かせてゆく。葉は鋸歯状で大きく、果実を直射日光から防御する日よけとしての役割を持つ。長い円形の果実は生長が非常に早く、50cmにまで達する事もある。熟すと苦味が出るため、その前に収穫して食べる。 日本では収穫作業が一日に2-3回行われる(これには、日本市場のキュウリの規格が小果であることも影響している)。夏は露地栽培、秋から初春にかけては、ハウスでの栽培がメインとなり、気温によっては暖房を入れて栽培することもある。しかし、2003年から2008年の原油価格の高騰により、暖房をかけてまでの栽培を見送る農家も少なくなかった。 果実色は濃緑が一般的だが、淡緑や白のものもある。根の酸素要求量が大きく、過湿により土壌の気相が小さい等、悪条件下では根が土壌上部に集中する。生産高は2004年、2005年は群馬県が第一位であったが、2006年からは宮崎県が第一位である。 開花時の雌花 開花時の雄花 キュウリは古くから食用の野菜として栽培されている。果実成分の95%程度が水分とされ、栄養価は非常に低いが、歯応えのある食感とすっきりとした味わいがある。水分を多く含むことから暑い季節・地域では水分補給用として重用されてきた。 紀元前4000年前にメソポタミアで盛んに栽培されており、インド、古代ギリシア、古代エジプトなどでも栽培された。その後、6世紀に中国、9世紀にフランス、14世紀にイングランド、16世紀にドイツと伝播していった。アメリカ大陸には15世紀末、クリストファー・コロンブスがハイチに持ち込んだのを端緒に普及していった。キュウリを好物とした歴史上の有名人としてローマ皇帝ティベリウスがいる。 中国ではかつて、ビルマ経由で伝来した水分の少ない南伝種が普及し、シルクロード経由の瑞々しい北伝種の伝来まで、この南伝種を完熟させてから食べるのが一般的であった。のちに南伝種は漬物や酢の物に、北伝種は生食に使い分けられることになる。南伝種の伝来後、日本でも江戸時代までは主に完熟させてから食べていたため、「黄瓜」と呼ばれるようになった。日本では1500年ほどの栽培の歴史を持つが、完熟した後のキュウリは苦味が強くなり、徳川光圀は「毒多くして能無し。植えるべからず。食べるべからず」、貝原益軒は「これ瓜類の下品なり。味良からず、かつ小毒あり」と、はっきり不味いと書いているように、江戸時代末期まで人気がある野菜ではなかった。これには、戦国期の医学者曲直瀬道三の『宣禁本草』などに書かれたキュウリの有毒性に関する記述の影響があると見られている。安土桃山時代以前にはキュウリに禁忌は存在せず、平安後期の往来物『新猿楽記』に登場する美食趣味の婦人「七の御許」が列挙した好物の一つに「胡瓜黄」が入っている。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは著書『日欧文化比較』(1585)で「日本人はすべての果物は未熟のまま食べ、胡瓜だけはすっかり黄色になった、熟したものを食べる」と分析している。幕末、キュウリの産地だった砂村(現在の江東区)で、キュウリの品種改良が行われ、成長が速く、歯応えや味が良いキュウリが出来て、一気に人気となった。 ツルを支柱にしっかり固定し這わせる方法と、地面を這わせる栽培法がある。ともに10度以下の低温には弱く、また25度以上の高温にも弱い。ウリ科の植物同士の連作にも弱い。最低でも3年を空けて植えるか、接ぎ木苗を使う。根が浅いため乾燥に弱く、高温乾燥が続くとあっという間にうどん粉病などの病気にかかり枯れる。種まきの時期をずらしながら栽培することによって秋まで収穫出来る。 ミナミキイロアザミウマの媒介するウイルスで「キュウリ黄化えそ病」にかかり株が枯れ、収量が減る被害が報告されている。岐阜県農業技術センターにより赤色の防虫ネットを導入した予防策の研究開発が進められている。 非常に種類が多く、世界中で500もの品種が栽培されている。現在、商業目的で栽培される品種の多くはF1(えふわん)と呼ばれる一代雑種品種である。分類方は幾つかあり、果実の性質によれば白イボ系と黒イボ系に大別される。 白イボ系 現在栽培されている胡瓜の90%以上が白イボ系。もともとは皮が薄くて歯切れが良い。 黒イボ系 春に収穫するタイプで以前は南西日本で多く栽培されていたが、皮が厚く、白イボ系の真夏の旬の味に劣るため、現在では九州、四国、山形でわずかに作られているだけである。 四葉(スーヨー)胡瓜 本葉が四枚付いた頃から実がなるのでこの名がある。白イボ系胡瓜。普通の白イボ胡瓜の1.5倍ぐらいの大きな瓜。イボと皺が多く見た目が悪い上に鮮度落ちが早いが、歯切れが良く漬物にもむく。 四川胡瓜 四葉胡瓜の改良型。大きさは普通の白イボ胡瓜と同じぐらいである。四葉と同様に皺が多い。 その他の品種 勘次郎胡瓜(かんじろうきゅうり) 山形県真室川町の真室川の伝承野菜のひとつ。明治初期頃、真室川町の谷地の沢地区の姉崎勘次郎家に隣の鮭川村から来た嫁が携えてきたのが始まりで、姉崎家によって現代まで細々と守られてきた。全国的にも珍しい黒イボ系の胡瓜で、本来の黒イボ系のような特徴は少なく、果肉は柔らかく、キュウリ特有の青臭さやえぐみなどがほとんど無いため、フルーツ感覚で食べることが出来る。町の洋菓子店「平和堂」では、スイーツとして活用されているほか、勘次郎胡瓜のコンポートなどが発売されている。 馬込半白胡瓜(まごめはんしろきゅうり) 東京都大田区の伝統野菜。明治時代に節成胡瓜を改良した品種で、実の長さは10cm強と小さく、色は大部分が白っぽく、元の一部のみが緑色である。小さい上に傷みやすく、流通に向かないため、現在はほとんど栽培されていない。 相模半白胡瓜(さがみはんしろきゅうり) 昭和初期に馬込半白胡瓜が神奈川県二宮町において改良された品種で、馬込半白胡瓜よりも日持ちがよい。現在はほとんど栽培されていない。 高井戸節成胡瓜(たかいどふしなりきゅうり) 東京都杉並区の伝統野菜。馬込半白胡瓜と練馬の枝成胡瓜の交配から生まれた固定種。現在はほとんど栽培されていない。 落合節成胡瓜(おちあいふしなりきゅうり) 埼玉県の伝統野菜。大正時代に与野町下落合において青節成胡瓜と地域の在来種針ヶ谷胡瓜の交配から生まれた品種で、強健で低温に強い。現在ではほとんど栽培されていないが、交配親としても使われ、現行品種の多くがこの品種の血を引いている。 加賀太胡瓜(かがふときゅうり) 石川県の伝統野菜(加賀野菜)。実が白瓜のように太く育つのが特徴で、重さが1kgを超えるものも珍しくない。皮は固いが、果肉は軟らかく、他の品種よりもビタミンB2を多く含む。 聖護院胡瓜(しょうごいんきゅうり) 江戸時代から伝わる京都市の伝統野菜。実は濃緑色で三角形の断面となるのが特徴で、明治時代には左京区聖護院を中心に栽培されていたが、絶滅した。 毛馬胡瓜(けまきゅうり) 大阪府の特産種で、30cm以上の長い実ができる。元は緑で先は白のグラデーションとなり、歯ごたえがよいのが特徴。江戸時代の摂津国毛馬村(現・大阪市都島区毛馬町)が発祥の地とされる。「浪華漬」と呼ばれる粕漬けの原料として周辺地域でも栽培されるようになったが、収率が悪いため廃れ、現在は、南河内郡河南町を中心に伝統野菜(なにわ野菜)として栽培されているにとどまる。 大和三尺(やまとさんじゃく) 奈良県特産の品種で、実が最大90cm程度にもなるので、この名がある。奈良漬けにも加工される。 佐久古太きゅうり(さくこだいきゅうり) 長野県佐久市志賀地区・春日地区において、少なくとも昭和20年代から栽培されている品種(信州の伝統野菜)。果実はずんぐりむっくりとした形をしており、長さは13センチメートル程度。熟すにつれ白から茶褐色に変色することから、シベリア系の品種と推定されている。 その他にピクルス用の品種もある。 蔓の伸び方による分類 日本での経済栽培はネットに伝わせるか紐で吊り下げて行われるので、蔓が自然に上に向かって伸びる品種が使われる。蔓が上に向かって伸びない品種は頻繁に誘引するか、ネットを使わずに「地這い栽培」する。家庭菜園では省力栽培できる地這い品種が使われる事も多い。 着果習性による分類 親蔓の各節に雌花が付くタイプを「節成り」または「親蔓タイプ」などとよぶ。親蔓には殆ど付かず子蔓や孫蔓に多く雌花が付く品種を「子蔓・孫蔓タイプ」などとよぶ。また、この中間型のものは「飛び節」とよぶ。ただし、着果習性は少数の遺伝子で決まるわけではなく日長・気温・日照・肥料・株の老若などの影響も受ける。一般には短日・低温で節成り性が強くなる。 系統による分類 華南型・華北型・イギリス温室型(高温に弱い)・スライスキュウリ型・ピクルス型など主に5系統に分類される。 生のまま味噌やもろみをつけて齧ったり、サラダ、寿司(かっぱ巻き)、酢の物、和え物、塩揉みなどで食べたりするほか、かっぱ漬け、奈良漬け、醤油漬け、わさび漬け、ピクルス、オイキムチなどの漬物の材料として使われる。日本の料理で加熱調理されることは少ないが、中華料理では煮物や炒め物としても利用される。トルコ料理のシャジュク、スペイン料理のガスパチョなど、スープにして食することも多い。イギリスのアフタヌーン・ティーにはキュウリサンドイッチが欠かせない。 キュウリの調理の際には、表面を滑らかにして色を鮮やかにするため、塩を振ったまな板の上で転がすようにして塩を擦りこむ板摺り(いたずり)と呼ばれる調理法が用いられることも多い。 最近では、キュウリの表面に出るブルーム(白い物質)が、農薬と紛らわしいという理由で嫌がられ、ブルームレスキュウリが多く作られている。ブルームの無いブルームレスキュウリは通常のキュウリと比べ皮が固い。そもそもこのブルームは、キュウリの水分が蒸発するのを防ぐ物質だが、ブルームレスキュウリは通常のキュウリより味が落ちると考える人も多い。ブルームレスキュウリは専用に育種したカボチャを台木として、接ぎ木することによって作成できる。 採れたばかりのキュウリには薔薇のとげのようなイボがあり、素手で触ると痛い。このイボは鮮度が失われるにつれて硬さを失っていくため、この性質をキュウリの鮮度を見分けるための目安にすることもできる。イボの部分に雑菌などが付く恐れがあるため、近年ではイボの無い品種も開発されている。 まだ実が小さいうちに収穫したものを「もろきゅう」(「もろみキュウリ」を略した言葉でもある)と言い、主に生で食べる。さらに未熟で花の付いた物は「花丸キュウリ」と呼ぶ。ただし、地域によって呼び方や規格が異なることがある。品種改良によって苦味を取り除いたキュウリも登場している。 キュウリは全体の90%以上が水分で、ビタミンC、カロチン、カリウムなどの栄養素が含まれているが、含有量は非常に低い。 またキュウリにはビタミンCを酸化させる酵素(アスコルビナーゼ)が含まれているため、キュウリを食べるとビタミンCが破壊されると言われているが、実際は酵素作用によって還元型ビタミンCから酸化型ビタミンCに変異されるだけである。一方で、酸化型に変わったビタミンCでも体内で還元型に戻るという可逆的性質を持っているため、今日では生理作用も還元型と同等であるとされている。キュウリを食することでビタミンCが破壊されると言われた理由として、過去にはビタミンCは還元型だけに生理作用があると考えられており、酵素によって酸化型に変化したビタミンCには生理作用はないものと考えられていたことがあげられる。そのため酸化型ビタミンCはビタミンCとしてカウントされておらず、ビタミンC量が減少したように見えたという背景がある。しかしながら前述の通り、酸化型ビタミンCであっても体内で還元型に戻るため現在では還元型と酸化型を合わせた総ビタミンC量を記述することが一般的である。 かつて、キュウリはデザイナーフーズ計画のピラミッドで3群に属していた。3群の中でも、ハッカ、オレガノ、タイム、アサツキと共に3群の中位で、癌予防効果のある食材であると位置づけられていた。 このように栄養価は低いものの、ダイエット向きな食材として、特に食事の最初に摂るよう推奨する本もある。水分が多く低カロリーな割には食べ応えがあるため早く満腹感が得やすいことや、キュウリに含まれる酵素ホスホリパーゼに脂肪分解作用があることが理由に挙げられている。 家紋の「木瓜紋」は、胡瓜の切り口を図案化したものとの説もある。 江戸時代は、輪切りにすると徳川家の家紋である三つ葉葵に似ているところから、それを食べるのは不敬であるとして、キュウリを輪切りにされることは慎まれていた。 祇園信仰において、スサノオ(牛頭天王)を祭神とする八坂神社の神紋が木瓜であり、キュウリの切り口と似ていることから、祭礼の期間はキュウリを食べないという地方(博多の博多祇園山笠など)もある。八坂神社がある福井市網戸瀬町ではキュウリ栽培を行なわない。毎年7月14日にはキュウリ祭りが行なわれ、この日は食べることも禁じられる。 キュウリは河童の大好物だとされ、キュウリの異称となっている(かっぱ巻き、かっぱ漬け)。 きゅうり加持(きゅうり封じ) キュウリウオという名の魚がある。キュウリのような匂いがすることからこの名がついた。 バーバラ・サンティッチ、ジェフ・ブライアント編、山本紀夫訳「世界の食用植物文化図鑑」(柊風舎) ISBN 978-4-903530-35-2 195ページ ^ 文部科学省 「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 厚生労働省 「日本人の食事摂取基準(2015年版)」 ^ 農林水産省/野菜の魅力(2018年8月7日閲覧)。 ^ 宮崎正勝『知っておきたい「食」の日本史』145p・角川ソフィア文庫。 ^ 鈴木晋一 『たべもの史話』 小学館ライブラリー、1999年、pp36-38 ^ “苦さゆえ幕末まで不人気だった「胡瓜(きゅうり)」 身体を冷やし、利尿効果も高い、使える夏野菜に”. ダイヤモンド・オンライン. 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中国の温州にちなんでウンシュウミカンと命名されたが、温州原産ではなく日本の不知火海沿岸が原産と推定される。農学博士の田中長三郎は文献調査および現地調査から鹿児島県長島(現鹿児島県出水郡長島町)がウンシュウミカンの原生地との説を唱えた。鹿児島県長島は小ミカンが伝来した八代にも近く、戦国期以前は八代と同じく肥後国であったこと、1936年に当地で推定樹齢300年の古木(太平洋戦争中に枯死)が発見されたことから、この説で疑いないとされるようになった。発見された木は接ぎ木されており、最初の原木は400 - 500年前に発生したと推察される。DNA鑑定により種子親がキシュウミカン、花粉親がクネンボであると推定された。 ウンシュウミカンは主に関東以南の暖地で栽培される。温暖な気候を好むが、柑橘類の中では比較的寒さに強い。5月の上・中旬頃に3 センチメートル程の白い5花弁の花を咲かせ、日本で一般的に使われているカラタチ台では2-4 メートルの高さに成長する。 果実の成熟期は9月から12月と品種によって様々で、5 - 7.5 センチメートル程の扁球形の実は熟すにしたがって緑色から橙黄色に変色する。一般的に花粉は少ないが単為結果性のため受粉がなくても結実する。自家和合性であるが、受粉しても雌性不稔性が強いため種子を生じにくく、通常は種なし(無核)となる。ただし、晩生品種は雌性不稔性が弱いことから、近くに甘夏等の花粉源があると種子を生じることがある。生じた場合の種子は多胚性で、播種しても交雑胚が成長することはまれであり、ほとんどの場合は珠心細胞由来の珠心胚が成長する。そのため、種子繁殖により母親と同一形質のクローン(珠心胚実生)が得られる。ただし、種子繁殖は日本ではまれにしか行われない。繁殖効率、未結実期間の短縮、樹勢制御、果実品質向上等のため、日本では通常は接ぎ木によって繁殖を行う。台木としては多くはカラタチが用いられるが、ユズなど他の柑橘を用いることもある。 成熟した果実 若い果実 花と葉 果実の水平断面 果実の垂直断面 果皮内にある房 9月から10月頃に掛けて収穫される。1970年代に発生したオイルショックを受けて、ハウス栽培における石油消費量を減らす目的で研究が進められるようになった。近年は生産過剰気味である。 宮本早生 宮川早生の枝変わりとして1967年に和歌山県下津町(現海南市)の宮本喜次によって発見され、1981年に品種登録された。果実は扁平で、収量性に優れる。宮川早生よりも2-3週間程早く成熟する。かつては極早生温州の中心品種であったが、後の品種改良で誕生した極早生品種に比べ糖度が低く食味が劣るため近年では栽培は激減している。 日南1号 興津早生の枝変わりとして1978年に宮崎県日南市の野田明夫によって発見され、1989年に品種登録された。比較的樹勢が強く、じょうのう膜が軟らかい。栽培容易で糖度、酸度ともに安定しているため栽培が広がり、現在では極早生温州の中心品種となっている。 日南の姫(日南N1、ニュー日南) 日南1号の枝変わりとして2008年3月18日に品種登録された。日南1号と比べ減酸や着色が早いため、8月下旬から収穫可能な超極早生品種として栽培が広がりつつある。日南の姫(ヒナノヒメ)は都城大同青果株式会社の登録商標である。 岩崎早生 興津早生の枝変わりとして1968年に長崎県西彼杵郡西海町(現西海市)の岩崎伝一によって発見された。極早生の中でも最も早く出荷される品種のひとつである。 崎久保早生 松山早生の枝変わりとして1965年に三重県南牟婁郡御浜町の崎久保春男によって発見された。三重県の主力品種。 上野早生 宮川早生の枝変わりとして1970年に佐賀県東松浦郡浜玉町(現唐津市)の上野壽彦によって発見され、1985年に品種登録された。減酸が緩やかなため、他の極早生品種に比べて収穫時期が遅れるが、その分食味は長く保たれる。また浮皮の発生が少ないのも特徴である。 ゆら早生 宮川早生の枝変わりとして1985年に和歌山県日高郡由良町の山口寛二によって発見され、1995年に品種登録された。他の極早生品種に比べ糖度が高く、じょうのう膜が極めて薄く、多果汁であるため食味がよい。樹勢が弱く、さらに小玉果が多いため栽培が難しい。 YN26(紀のゆらら) 2001年に和歌山県果樹試験場によりゆら早生の珠心胚実生から育成され、2012年に品種登録された。ゆら早生よりも糖度が高く、減酸や着色も早く、樹勢も強い。ゆら早生同様にじょうのう膜が薄く多果汁であるため食味がよい。小玉果が多いという欠点はゆら早生から引き継いでいる。栽培および苗木の供給は和歌山県内に限られている。紀のゆららは和歌山県農業協同組合連合会の登録商標。 10月から12月に掛けて収穫される。比較的単価が高いことから、中生や普通温州からの切り替えを進める産地もある。 青江早生 1892年(明治25年)頃に大分県津久見市青江で発見された従来木の枝変わりの早生品種。日本初の早生温州とされる。1903年(明治36年)に広島県大長に導入されたほか、日本全国に広まった。現在ではほとんど栽培されていない。 宮川早生 1910年頃に福岡県山門郡城内村(現柳川市)の宮川謙吉邸にて発見された枝変わりを、1925年に田中長三郎が発表した。育てやすく収量性が良いなど優れた特徴を持つため、古くから全国的に広く栽培されるようになった。食味がよいため現在でも早生温州の代表的な品種で、ハウス栽培用としても広く用いられる。また、袋掛けを行い樹上で越冬完熟させたものなども出荷されている。 興津早生 1940年に農林省園芸試験場(現農業・食品産業技術総合研究機構果樹研究所カンキツ研究興津拠点)において宮川早生にカラタチを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1963年に品種登録された。宮川早生と比べて着色が1週間程早く、樹勢が強い。宮川早生と共に早生温州の代表的品種である。 田口早生 興津早生の枝変わりとして1978年に和歌山県有田郡吉備町(現有田川町)の田口耕作によって発見され、1995年に品種登録された。興津早生と比べ糖度が高く、減酸が早い。幼木のうちは大玉果になりやすいという欠点がある。 木村早生 宮川早生の枝変わりとして1976年に熊本県で発見された。宮川早生と比べ糖度が高く、じょうのう膜が薄いため食味がよい。大玉果になりやすく浮き皮が多く、さらに隔年結果になりやすいため栽培は難しい。 11 - 12月頃に収穫される。 藤中温州 神奈川県湯河原町吉浜在住の藤中さんの農園で昭和初期頃発見された系統で、現在は湯河原町 - 小田原市を中心に早生みかんから晩生みかんへの中継役として育成されている品種である。 南柑20号 1926年に愛媛県宇和島市の今城辰男の果樹園にて発見された系統で、本種を優良系統として選抜した南予柑橘分場(現愛媛県立果樹試験場南予分場)にちなんで名付けられた。中生温州の代表的な品種で、愛媛県、特に南予地方において主力品種とされている。浮皮が多いのが欠点。 愛媛中生 1973年に愛媛県立果樹試験場において南柑20号にパーソンブラウンを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1994年に品種登録された。南柑20号に比べて1週間程着色が早く糖度が高い。 向山温州 1934年に和歌山県伊都郡かつらぎ町の向山勝造によって発見された。樹勢が強く大果。果皮の紅色が濃いのが特徴。糖度が高く酸が低い。年により浮皮が多いのが欠点。 きゅうき 1989年に和歌山県有田市宮原町の久喜護によって向山温州の1樹変異個体として発見された。2011年品種登録。向山温州に比べ浮皮の発生が極めて少なく、糖度が高く減酸も早い。さらにじょうのう膜が薄く早生温州と似た食味である。向山温州に比べ樹勢はやや弱いが、隔年結果しずらく豊産性。栽培および苗木の供給は和歌山県内に限られている。 久能温州 農林省園芸試験場において長橋温州にジョッパオレンジを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1971年に品種登録された。樹勢が強く果実は大きく育つ。缶詰用としても利用される。 瀬戸温州 農林省園芸試験場において杉山温州にトロビタオレンジを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1971年に品種登録された。果実は浮皮が少なく、風味は糖度が高く酸が低い。瀬戸内などの雨量が少ない地域で特徴を表し、広島県を中心に栽培される。 盛田温州 宮川早生の枝変わりとして佐賀県東松浦郡七山村(現唐津市)の盛田博文によって発見され、1980年に品種登録された。表面が非常に滑らかでトマトにたとえられることもある。 11月下旬 - 12月に収穫される。特に遅く出荷される品種(青島や十万など)は晩生温州として区別される。 青島温州 静岡市葵区福田ヶ谷の青島平十によって、枝変わりとして1935年頃発見された。果実は大きく育ち、浮皮になりにくい。高糖系品種の代表格で、長期間の貯蔵も可能である。特に静岡県において主力品種として多く栽培されている。じょうのう膜が硬く、さらに隔年結果しやすいのが欠点。 十万温州 高知県香美郡山南村(現香南市)の十万可章の果樹園にて発見された。長く貯蔵が可能で3月いっぱいまで出荷される。徳島県で多く栽培されている。 大津四号 1964年に神奈川県足柄下郡湯河原町の大津祐男が十万温州の珠心胚実生から選抜した。1977年に品種登録。青島温州と並び高糖系品種の代表格として各地で栽培されている。隔年結果しやすいのが難点。 今村温州 福岡県久留米市草野町吉木の今村芳太の果樹園にて発見された。濃厚な味わいで貯蔵性が良いが、樹勢が強く結実が不安定なため栽培が難しい品種とされる。栽培が難しく流通量が少ないため「幻のミカン」とも言われる。現在当時発見された原木は伐採されて存在しない。 紀の国温州 和歌山県果樹園芸試験場(現・和歌山県農林水産総合技術センター果樹園芸試験場)において丹生系温州の珠心胚実生から選抜され、1986年に品種登録された。丹生系温州よりも2週間程早く成熟する。 寿太郎温州 1975年の春、沼津市西浦久連で山田寿太郎の青島温州の木より発見された青島系統品種。青島温州よりも小ぶりでM・Sサイズ中心の小玉みかん。果皮は温州みかんとしては厚めで日持ちが良い、糖度も12度以上と高く濃厚で今後期待される品種である。近年産地保護育成の期限が切れ栽培解禁となった。 日本で最も消費量の多い果実であったが、近年の総務省の家計調査では一世帯あたりの消費量においてバナナに抜かれて二位に転落し、2013年現在はバナナ、リンゴに次ぐ3位となっている。尤も、産地近辺では栽培農家からお裾分けをもらうことが多い。 ウンシュウミカンの生産量は、和歌山県、愛媛県、静岡県が年間10万トン以上、続いて、熊本県、長崎県が5万トン以上、佐賀県、愛知県、広島県、福岡県、神奈川県、が2万トン以上、三重県、大分県、大阪府、香川県、徳島県、鹿児島県、宮崎県が1万トン以上、山口県、高知県が5000トン以上(2016年度の生産量に準拠)となっており、これらの県で99%以上を占める。以下、千葉県、岐阜県、兵庫県、岡山県が1000トン以上、その他茨城県、埼玉県、東京都、新潟県、福井県、京都府、奈良県、島根県、沖縄県などでも作られている。このように、ウンシュウミカン栽培は、温暖、かつ日当たり、風当たり、水はけが良い斜面の地形が条件であり、主な産地のほとんどが太平洋や瀬戸内海に面した沿岸地である。 近年は保存技術の向上と共にビニールハウスや温室で栽培されたハウスみかんも多く流通し、ほぼ一年中目にすることが出来る。ハウスみかんでは佐賀県、愛知県、大分県などが主産地となっている。 日本以外では、世界最大の産地である中国浙江省の寧波市・奉化市・寧海市、他にアラバマ州、スペインやトルコ、クロアチア、韓国の済州島、ペルーなどでも栽培されている。 収穫量(2016年度) 全国合計 80万5,100 トン(2015年比 2万7,300 トンの増加) 和歌山県 16万1,100 トン(全国シェア約20%) 愛媛県 12万7,800 トン(全国シェア約16%) 静岡県 12万1,300 トン(全国シェア約15%) 昭和初期まで和歌山県が首位を独走してきたが、1934年の風水害で大きく落ち込み、以降は静岡県が生産量1位の座についていた。 愛媛県は1970年より34年連続で収穫量1位を守ってきたが、2004年度から13年連続和歌山県が逆転し首位に。これを機に、愛媛県では新品種柑橘類の栽培を推奨したため、相対的にみかん産地(特に極早生)が減少。結果として全国シェアの差が年々広がっている。 ウンシュウミカンは収穫が多い年(表年)と少ない年(裏年)が交互に発生する隔年結果の傾向が顕著なため、統計対比は2年前の統計を対象に行うのが通例となっている。実際は香川県、佐賀県、鹿児島県など裏年の方が収穫量が多い都道府県もある。 普通温州のみの生産量は静岡県が最も多い。早生、極早生などを含むウンシュウミカン全般(農水省のミカンがこれに当たる)だと和歌山県、イヨカンなどの柑橘類全般を含めると愛媛県が最も多い。また、極早生、早生種のみは熊本県、ハウスみかんは佐賀県が一番多い。 上位三県以外の九州地方も全県が上位に含まれるなど、みかん栽培が盛んである。特に佐賀県や長崎県ではマルチシート被覆率が高い。 2006年度は1963年以来43年ぶりに収穫量が100万トンを下回った。その原因として、開花後の日照不足や、夏季の少雨で果実が十分に成長できなかったことなどがあげられる。 栽培北限は「最寒月の平均気温が5℃以上」とされている(北限産地については後述)。 和歌山県 年間収穫量は14万トン - 19万トンで、大産地の割に隔年結果の影響は少なく、また出荷調整を行っている。主産地に有田市、有田川町(旧吉備町、旧金屋町)、湯浅町、広川町、海南市(旧下津町、旧海南市)、紀の川市(旧粉河町、旧那賀町、旧打田町、旧桃山町)、和歌山市、由良町、日高川町(旧川辺町)、田辺市、かつらぎ町、紀美野町(旧野上町)、上富田町など。主な出荷先は近畿、北海道、新潟、関東など。大都市圏に近いため、観光農園や直売所も多い。かつては京阪神中心で、東京の市場へはそこまで重視していなかったが、近年は出荷量ベースでは愛媛県産に肉薄してきている。 有田みかん 有田川流域や有田郡の沿岸で栽培される和歌山県の代表的ブランドで、有田市と有田郡の3町(有田川町、湯浅町、広川町)が指定産地。江戸時代からの名産地であり、県産みかんの40%以上を占めるが、ミカン樹木の老齢化も進んでおり、近年は内陸の産地が主力となっている。管内には10以上の選果場(古くは20以上あったが統廃合により集約された)があり、更にJA直営と地域運営に分けられる。前者によるものはAQみかん(AQはArida Qualityから。内陸に位置する複数の選果場を統合し、有田川町に2箇所と広川町《マル南》に選果場を持つ。全国に先駆けて非破壊酸度測定装置《シトラスセンサー》を導入)というブランド名が付けられる。対して、地域運営による共同選果場のものとしては、宮原共選(有田市宮原町)、マルス共選(湯浅町栖原。昔は有田市須谷にも須谷マルス共選があったため、栖原マル栖共選といわれていた)、マル御共選(有田川町庄。御は御霊地区に因む)、マル有共選(有田川町西丹生図)、マル賢共選(有田川町賢。マル賢みかんと呼ばれ、宇都宮市と石巻市の市場にのみ出荷)、ありだ共選(有田市千田。アルファベットの「A」を象ったエースマークがシンボル)等がある。これらの選果場では、JAが指定する協会共通のブランドに「味一α」「味一みかん」があり、上記の選果場共通で糖度12.5%以上の優良品に付けられる。また、有田市にある選果場では、一定糖度以上の優品に対し「有田市認定みかん」という独自の選定ブランドも設けられている。それとは別に出荷組合による個撰ブランドがあり、「新堂みかん」(有田市新堂。新堂みかん出荷組合)、湯浅町の「田村みかん」(湯浅町田《旧田村》。田村出荷組合)、「田口共販みかん」(有田川町田口。田口共販組合。田口みかんともいい、同地区は田口早生発祥地)が知られる。これに農業法人や企業、または個人農家のブランドもあり、上質みかんをジュースにして販売し成功を収めた、早和果樹園(草創は早和共選)などが知られる。有田みかんは全国他の51箇所とともに地域団体商標の全国第一弾として認定された。 下津みかん 海南市下津町は有田郡に次ぐ和歌山県の主産地で、江戸時代から連綿とみかん栽培が行われており、紀伊國屋文左衛門がこの下津から船を出したと伝わっている。早生種が中心の有田に対し、普通温州が中心。経営的な戦略もあって有田みかんとは時期をずらし、1月 - 2月頃に蔵出しみかんという貯蔵みかんを出荷する。収穫後に貯蔵を行うことで、酸を和らげ糖度を増す。貯蔵みかん産地としては国内最大規模で、江戸時代からの歴史を持つ。また、選果場を最新の糖度センサーを導入した蔵夢選果場1箇所に集約しており、ブランド品に糖度13%以上の「ひかえおろう」、12%以上の「雛みかん」などがある。京阪神のほか、北海道への出荷が多い。「しもつみかん」として地域団体商標登録。また、旧海南市域の藤白地区でも栽培が盛んで、下津みかんとして出荷している。 紀南みかん JA紀南管内である和歌山県田辺市・上富田町・白浜町などで栽培される。紀南地方は気候が有田地方より温暖なため、内陸部の斜面に産地が多い。温暖な気候を活かした極早生みかんの早出し出荷および早生みかん・中晩柑類の樹上完熟出荷が特色である。ブランドとして田辺市大坊地区の「大坊みかん」、極早生みかんの「天」、早生みかんの「木熟みかん天」「紀州一番」、デコポン・ポンカン・八朔・清見・ネーブルオレンジの「木熟」シリーズ等があり、有田や下津と比較すると、首都圏への出荷比率が高い。 日高郡 日高郡は有田郡ほどではないが、みかんの栽培を行っている地域がある。太平洋に面した由良町はゆら早生の発祥地として知られ、ミカンの他にもレモンや清見などを栽培する複合産地となっている。「ゆらっ子」は日高郡由良町で生産されるブランドみかんで、マルチ栽培により高糖度を実現している。また日高川町(旧川辺町)でもみかん栽培が盛んで、総称して川辺みかんと呼ばれ、ブランド産地では若野地区の若野みかんなどがある。また、一帯は県内有数の中晩柑産地となっており、伊予柑生産量が多い。 紀の川市、和歌山市 紀の川市、和歌山市山東地区でもみかん栽培が盛ん。紀の川市はJA紀の里が管轄しており、紀ノ川南岸、龍門山脈北嶺にみかん産地が展開する。生産量は県内有数で、極早生種や紀州ミカン(紀州小ミカン)の栽培が中心だが、早生種、普通種も見られる。大阪という大都市に近いため、観光農園や直売所販売も多い。汎用的な名称である和歌山みかんが一般的だが、産地を差別化するため、管轄JAの名から紀の里ブランドみかん、紀の里みかんと名乗っているケースも散見される。また、一帯は八朔の生産が盛んで、生産量、出荷量、栽培面積において日本一の産地となっている。和歌山市は和歌山電鉄貴志川線沿線の山東(さんどう)地区で栽培が盛ん。 愛媛県 年間収穫量は12万トン - 16万トンで、出荷額は高い。また、市場価値の高い中晩柑生産にシフトしてきている。主産地に八幡浜市(旧八幡浜市、旧保内町)、宇和島市(旧吉田町、旧宇和島市、旧津島町)、西予市(旧三瓶町、旧明浜町)、伊方町(旧伊方町、旧瀬戸町)、伊予市(旧双海町、旧伊予市)、砥部町、松山市(旧中島町、旧松山市、旧北条市)、今治市(旧大三島町、旧大浦町、旧関前村、旧菊間町、旧今治市、旧大西町)、大洲市(旧長浜町)など。主な出荷先は関東、甲信越、近畿で。愛媛みかんという名称で県外に出荷するため、箱の色や選果部会の商標で産地を区別している。 西宇和みかん JAにしうわが管轄する愛媛県八幡浜市、伊方町、西予市三瓶地区(旧三瓶町)で生産されるみかん産地の総称。明治時代から痩せ地を開墾し、戦後みかん産地として発展。海岸沿いの南向き、西向き急斜面という好条件により、品質に優れたみかんを生産、首都圏の築地や大田市場を中心に高い評価を受け、首都圏を中心に名の通ったブランド産地に成長した。中でも「日の丸みかん」(八幡浜市向灘地区で、名称は共同選果部会名から。ブランド品に「豪琉頭日の丸千両」「日の丸千両」「百年蜜柑」などがあり、高級品特化。また、もっぱら葉擦れ品を扱った家庭用一般用に「ガキ大将」があるが、この産地だけは茶箱を用いていない)、「真穴みかん」(八幡浜市真網代《まあじろ》地区及び穴井地区。旧真穴村にあった真穴選果部会に因み、マルマの愛称を持つ。ブランド品に「ひなの里」がある。また、真網代青果による「真穴みかん貴賓」などがある)、「川上みかん」(八幡浜市川上地区。旧川上村にあった川上選果部会に因み、マルカと略される。ブランド品に「味ピカ」「味ピカ小太郎」「風」など)はウンシュウミカン専作の産地となっている。他には旧保内町喜須来、宮内と八幡浜市の日土町から成るみつる共選(以前の名称は保内共選。みつるはブランド品「蜜る」に因んだもの)、磯津共選(同旧保内町内磯津地区)、八幡浜共選(八幡浜市内にあり、川之石、舌田、粟野浦の市内沿岸3地区から成る中晩柑との複合産地で、収穫量最大の選果部会。ブランド品に「濱ノ姫」「濱美人」)、八協共選(八幡浜市内内陸に位置する矢野崎、千丈、双岩、神山の4地区から成る中晩柑との複合産地。ブランド品に「媛美月」)、三瓶共選(西予市三瓶地区(旧三瓶町)を包含。ニューサマーオレンジの産地として知られる複合産地。ブランド品に「しずる」《雫流》)、伊方共選(伊方町。ウンシュウミカンを中心とする複合産地。ブランド品に「媛匠」)などの10箇所の共同選果部会が独自のブランドを築いている(あと、伊方町(旧三崎町)に三崎共選があるが、ここは清見タンゴールなどの中晩柑専作であり、ウンシュウミカン栽培はほとんど行っていない)。また、箱の色から高級品は俗に黒箱と呼ばれるが、家庭用一般品は茶色の箱。なお、JAにしうわでは西宇和みかんPRとキャンペーンのために、例年クレヨンしんちゃんの野原しんのすけを採用している。 宇和みかん JAえひめ南が管轄する宇和島市吉田町(旧吉田町)、宇和島市を中心とした産地で作られるみかんの総称。特に宇和島市吉田町は八幡浜市に次ぐ県内2番目のミカン産地で、戦後しばらくは首都圏に盛んに出荷され、八幡浜を凌ぐ県内随一の産地であった。赤色の箱が特徴で、宇和青果農協時代からの銘柄である「うわの赤箱」という愛称で親しまれている。宇和島市吉田町内に味楽、玉津、喜佐方、宇和島市に宇和島共同の、計4箇所の選果場がある。ブランド品に「美柑王」「お袋さん」などがあり、またブランド力の高い玉津選果場では厳選品を「たまもの」という名称でブランド販売している。温州みかんのほか、甘平、甘夏、ポンカン、不知火の産地にもなっている。 明浜みかん 八幡浜市と宇和島市吉田町の中間に位置する西予市の明浜地区(旧明浜町)で生産されるみかん。みかん産地の中でこの明浜だけがJAひがしうわ管轄となっており、箱の色も他とは異なり、橙色である。一般品の「風のいたずら」、ブランド品に「はまかぜみかん」などがあり、契約農家が任意で搾汁し販売するムテンカというストレートジュースでも注目を浴びている産地でもある。有機栽培農法でみかんを栽培、販売する無茶々園も同地区内にある。 興居島みかん(ごごしまみかん) 愛媛県松山市の西部に位置する興居島(旧興居島村)で生産されるみかんで、「島みかん」と呼ばれ親しまれている。県外出荷の他産地と異なり、市内流通が中心となっているため、愛媛みかんという名称を用いていない。また、共同選果場がなく、個人選果を行っている珍しい産地である。箱の色は濃紅色。 中島みかん 愛媛県松山市の北西部に位置する中島(旧中島町)で生産されるみかん。かつては選果場を持ち、マルナカブランドとして京阪神、首都圏などに出荷していたが松山市に吸収合併されると産地として衰退した。後にブランド再興の気運が高まり、松山市の内地産と差別化(内地ではハウスみかん中心)を図るため、「中島便り」として販売される。ブランド品に「中島便り 匠と極」。箱の色は黄緑色(管轄JAのJAえひめ中央に因む)。伊予柑、カラマンダリンやその他柑橘の複合産地にもなっている。 今治、越智地方 県北部の今治市(旧越智郡を含む)もみかん栽培が盛んな地である。JAおちいまばり管轄となっており、青色の箱から、青箱と呼ばれる。また、産地から瀬戸内みかんと呼んでいるケースもある。ブランド品に「サンエース」があるが、宇和地方の産地がブランド志向となるなか、一般向け中心であり、比較的京阪神方面への出荷も多い。中晩柑の栽培も盛んで、せとか、はれひめ、愛媛県果試28号(紅まどんな)などの生産も盛んになっている。 松山市(島嶼以外)、伊予市、砥部町 JAえひめ中央が管轄し、県中心部、中予に位置する産地で、ハウスみかん生産が主流である。ブランド品に「道後物語」がある。また、一帯は伊予柑、せとか、甘平、愛媛県果試28号(紅まどんな)の主産地としても発展してきている。 静岡県 年間収穫量は10万トン - 13万トン(隔年結果の差が大きい)。主産地に浜松市(旧三ヶ日町、旧浜松市、旧細江町、旧引佐町、旧浜北市)、湖西市、藤枝市(旧藤枝市、旧岡部町)、静岡市葵区、静岡市清水区(旧清水市、旧由比町)、沼津市、熱海市、伊東市、島田市、牧之原市(旧榛原町)などで、県内の東西に産地が分布する。普通温州栽培国内1位。特に浜松市はみかん栽培が盛んな三ケ日町や細江町、引佐町などを合併したため、収穫量、出荷量ともに自治体として国内トップである。主な出荷先は中京圏、北陸、関東、東北など。 三ケ日みかん 静岡県浜松市北区三ヶ日(旧三ケ日町)。静岡県内最大の産地で浜名湖北部の南向き斜面に産地が広がり、中京圏を中心に高いブランド力を持つ。ミカちゃんという少女がトレードマークとなっている。収穫後出荷を行うもののほか、貯蔵してからの出荷も多く、産地の出荷期間は長い。高級ブランドとして指定登録、樹上熟成などを徹底した「ミカエース」を初め、「心」、貯蔵みかんの「誉れ」などがあり、また浜松市の卸売会社マルマによる私撰の「マルマみかん」も知られる(同社はミカンが有名だが、柿、馬鈴薯などもブランド化している)。 丸浜みかん 浜松市。浜名湖の北東部に位置する丸浜選果場に因み、丸浜柑橘農業共同組合連合会によるブランドみかん産地。片山ミカンという品種(原産は徳島県。普通温州)を多く栽培することで知られる。 浜名湖みかん 三ヶ日町の周囲の浜名湖畔はみかん産地が集中しており、細江町、引佐町、浜松市東区、湖西市知波田地区などで盛んとなっている。また、一帯のみかんを指して浜名湖みかんと名乗っていることが多い。浜松市細江町は白柳ネーブルの産地としても知られる。また、浜松市内にあるJAとぴあ浜松ではとぴあみかんという名称で販売もしており、マルチ栽培による高糖度みかんを「天下糖一」としてブランド販売している。 西浦みかん 沼津市に位置し、県東部を代表するブランドみかん産地。駿河湾に面する斜面に産地が展開し、古くからの産地となっている。寿太郎温州という糖度の高い品種の栽培が主流になってきており、貯蔵により糖度を上げた「寿太郎プレミアム」、ハウスみかんの「寿太郎プレミアムゴールド」というブランド品がある。 静岡青島みかん 静岡市葵区の山間部は青島温州の発祥地。マルチ栽培によるブランド化を進めており「夢頂」「いあんばい」などの銘柄がある。 清水のミカン 静岡市清水区は県中部で盛んな場所の一つで、清水のミカンと呼んでPR活動(清水産柑橘類の統一ロゴマークの設定、応援ユニットの結成など)を行っている。温暖な気候を生かし、ミカンのほかに不知火、はるみ、スルガエレガント(静岡県独自の中晩柑)、ポンカンにハウスみかんなどを栽培する複合産地となっている。また、全国でも珍しく平地面でみかん畑が広がる(一帯は降雨が少なく、日照時間が長いため実現した。日照時間の均一化、高齢者の負担を軽減する目的)。古くは地元のみかんを使った缶詰(缶詰は清水を代表する産業である)も作っており、清水から海外に輸出し、外貨を獲得していた。 藤枝市とその周辺 藤枝市(旧岡部町含む)は県中部で最も盛んな場所の一つで、岡部は県内みかん栽培の発祥地とされている。まれに、地域名から志太みかんとも言われる。管轄のJAおおいがわは、厳しい検疫をクリアした輸出ミカン管理組合を置いており、国内の対米、カナダ、ニュージーランドへのミカン輸出拠点となっている。また、島田市ではハウスみかん栽培が盛んなほか、神座みかんというブランド産地がある。 熊本県 年間収穫量は7万トン - 10万トン。2017年は不作の静岡県を上回り、収穫量全国3位となっている。主産地に熊本市(旧熊本市、旧植木町)、玉名市(旧天水町、旧玉名市)、宇城市(旧三角町、旧不知火町)、宇土市、荒尾市、玉東町、和水町(旧三加和町)、山鹿市、天草市(旧牛深市)など。八代海に面した県北部に産地が集中する。主な出荷先は九州、岡山、中京圏など。極早生種の生産が多い。 河内みかん 熊本県河内町(1991年2月熊本市に編入)の金峰山山麓の西側で多く栽培されている産地の総称。江戸後期からみかん栽培が勧められ、1934年には県立果樹実験場が設置。石垣を組んだ段々畑となっており、温暖な気候と八代海の反射光、石垣からの反射熱から良質のみかんが作れ、県最大の産地となった。一帯には4箇所の選果場があったが品質向上のために統合され、夢未来みかんとして出荷している。ブランドに「夢の恵」などがある。 天水みかん(小天みかん) 小岱山麓にある玉名市天水町付近は熊本県内有数の産地。夏目漱石の『草枕』にもその記述があり、ブランド品「草枕」の由来にもなっている。また、玉名市などでは「小天みかん」と呼んでいる。 三角みかん 熊本県宇城市三角町(2005年1月宇城市に編入)で多く栽培されているブランド。早生種の「肥のあかり」「肥のあけぼの」の特産地にもなっている。温州みかんではないが、熊本県果実連合会が登録商標を持つデコポンでも有名。 長崎県 年間収穫量は5万トン - 7万トン。主産地は佐世保市、諫早市(旧多良見町、旧小長井町、旧諫早市、旧高来町)、西海市(旧西海町、旧西彼町)、長崎市、大村市、南島原市(旧北有馬町、旧有家町)、長与町、川棚町、長崎市(旧琴海町、旧長崎市)、時津町、東彼杵町など。主な出荷先は九州、関東など。200年以上の歴史がある長崎みかんは、長崎県を代表する特産品の一つとなっており、大村湾を中心とした海岸地域を中心に、県内広く生産されている。長崎県は三方を海に囲まれて対馬海流の影響を受け、年間を通じて温暖な気候であり、また海からの反射光があること、傾斜地を利用して非常に日当たりのいい段々畑を中心に栽培されていることなども併せて、みかん作りに適した環境が整っている。また、マルチシート被覆率は50%を超え、愛媛県と並びブランド戦略が活発である。 西海みかん 針尾島などの佐世保市南部から西彼杵半島西岸に位置するみかんの愛称。西海みかんではさせぼ温州という早生種が栽培されており、ブランド品に「味っ子」「味まる」(JAながさき西海)や「ながさきの夢」「味ロマン」(JA長崎せいひ)などがある。その中で、「出島の華」は14度以上という糖度が保証されたブランド品で、させぼ温州の県共通ブランドであるが、西海地区での栽培が盛ん。 伊木力みかん・長与みかん 長崎県諫早市多良見町(旧多良見町)を中心とするみかん産地で、旧市町村では多良見町が県内最大の産地であった。とりわけ伊木力(いきりき)地区のものが知られ、伊木力みかん、更に佐瀬地区のものは皇室献上の歴史もなどもあり、佐瀬みかんとして高級ブランド化している。隣接する長与町でもみかん生産は盛んで、200年の歴史を持つ。町内にはかつて長与選果場があり長与みかんと呼ばれていたが、2011年にことのうみ伊木力選果場に統合されたため、県外向けには伊木力みかんとして出荷、販売される場合もある。また、この伊木力と長与は共にJA長崎せいひの管轄内であり、長崎中央卸売市場による「ながさき甘姫」という共通のブランド品もある。 南高みかん 長崎県南島原市の南高(なんこう)果樹農協を中心とするみかん産地で、周辺の産地を島原みかんと呼ぶこともある。堆肥にステビアの葉を利用しているのが特色(ステビア有機農法は桃やメロンなど他の果物でも実践している地区がある)で、糖度の高いみかんができる。ハウスみかん栽培が多く、県共通ブランド品「長崎恋みかん」の主産地にもなっている。また、管轄JAのブランドに「太鼓判」、「南高自信作」、「味錦」などがある。 県央 大村湾東岸に位置する県央部の大村市や川棚町もみかん栽培が盛んな地区であり、JAながさき県央の管轄となっている。大村湾の海面と多良岳西麓の斜面など地形条件に恵まれており、ブランド品に糖度13度以上の「味ホープ」、12度以上の「はなまる物語」などがある。 豆酘みかん 長崎県対馬市の豆酘(つつ)地区で栽培されるみかん。豆酘地区はみかん産地としては北限に近く、かなり高緯度となっているが、対馬海流の温暖な気候を利用して、ブランドみかんが栽培されている。 佐賀県 年間収穫量は5万トン前後。主産地に唐津市(旧浜玉町、旧唐津市、旧七山村)、太良町、鹿島市、佐賀市(旧大和町)、多久市、小城市(旧小城町)、玄海町、伊万里市など。県の東西にオレンジベルトと呼ばれるみかん生産地が分布している。「さが美人」は県共通の高級ブランド。ハウスみかんの収穫量は国内1位。出荷先は北九州、京阪神など。 からつハウスみかん 佐賀県唐津市浜崎、玉島地区(旧浜玉町)は愛知県蒲郡市と並ぶハウスみかんの一大産地。古くからハウスみかんの生産が盛んで、4月 - 9月の間に京阪神圏などに出荷される。また、唐津市の上場地区(旧鎮西町)では「うわばの夢」という高糖度のみかん(ハウス・露地)を生産する。 太良みかん(たらみかん) 多良岳の山麓、太良町で生産されるみかん。戦後は全国最大級の極早生産地として一世を風靡したが、その後の社会情勢に伴い生産量が激減。近年は選果場統合の危機に直面したことで、「たらみかん活性化プロジェクト」を立ち上げ、同町内のミカン農家が有志で立ち上げた「たらシトラス会」で情報発信や地元への奉仕活動を行ったり、たらみかん通販サイト「タラッタ」で太良みかんを販売したりしている。盛田温州(皮肌がツルツルしているため、トマトみかんという愛称を持つ)やクレメンティン(スペイン原産の柑橘)などが産地の特色である。 鹿島市 鹿島市は太良町と並び、多良岳山麓の大規模みかん産地。鹿島市は祐徳稲荷神社の門前町であり、「さが美人」の中でも、特に糖度の高いみかんを選び「祐徳みかん」としてブランド化している。 天山みかん 県北部にそびえる天山の南麓に分布する産地の総称。佐賀市大和町、小城市、多久市が栽培の中心。貯蔵みかんやハウスみかんなどで個性化を出しており、大和町の貯蔵ブランドみかん「あんみつ姫」、小城市の高糖度高級ブランド「プレミアム天山」、多久市の「孔子の里」などがある。 広島県 年間収穫量は2万5000トンから4万2000トン。主産地は呉市(旧豊町、旧豊浜町、旧倉橋町、旧蒲刈町)、大崎上島町(旧大崎町、旧木江町、東野町)、尾道市(旧瀬戸田町、旧向島町、旧因島市、旧尾道市)、三原市など。芸予諸島で生産が盛んだが、内地にも三原市、尾道市などにみかん産地がある。出荷先は広島、岡山、阪神地方など。 大長みかん(おおちょうみかん) 広島県を代表するブランド産地。大長とは呉市豊町(旧豊町)に属した旧大長村に因む。大崎下島、豊島(以上広島県呉市)、大崎上島(同大崎上島町)のほか、岡村島(愛媛県今治市)で栽培されるみかんも歴史的経緯などから大長みかんとして出荷される。大崎上島では石垣を組んだ産地で育てた「大長石積みかん」がある。 瀬戸田みかん 尾道市瀬戸田町(旧瀬戸田町)は、国産レモン、あるいは国産ネーブルの産地として知られる一方で、みかん栽培でも名高い。瀬戸田みかんとして県内では大長みかんに並ぶほどの成長を遂げ、最高級品には「せとだの五つ星」というブランドが付けられる。 高根みかん(こうねみかん) 旧瀬戸田町のうち、高根島で栽培される高根みかんは高島屋百貨店のブランドロゴに類似したロゴを使いまるたかみかんと呼ばれ、古くは関西、関東方面へも出荷された。高根みかんとして地域団体商標に登録しているが、今日では瀬戸田のブランド知名度が上がったため、瀬戸田みかん(高根島産と付記することも)で販売されることもある。 石地みかん(いしじみかん) 石地みかんとは倉橋島の農家、石地富司清の農地で発見された突然変異種。糖度が高く味が濃厚で、倉橋島の特産となって今日に至っている。ブランド品に「いしじの匠」がある。 因島 尾道市因島(旧因島市)もみかんの産地として知られ、因島みかんと呼ばれる。また、一帯は八朔の発祥地としても知られ、八朔、紅八朔は特産品となっている。 愛知県 年間収穫量は2万3000トン - 3万トン。主産地に蒲郡市、美浜町、東海市、南知多町、豊川市(旧御津町)、知多市、豊橋市など。ハウスみかん栽培国内2位。出荷先は中京圏、関東など。 蒲郡温室みかん 愛知県蒲郡市は温泉資源が豊富であるため、温泉水を利用したハウス栽培が盛んになった。蒲郡温室みかんは栽培されるハウスみかんのブランド品で、主に中京圏、首都圏に出荷される。蒲郡みかんとして地域団体商標登録。 知多みかん 知多半島では美浜町が中心となって栽培が盛んであり、あいち知多柑橘出荷組合が陣頭指揮を執る。ブランド品にマルチ栽培の露地みかんである「あまみっこ」、ハウス栽培の「みはまっこ」、「さわみっこ」がある。 東海市 かつては斜面沿いにみかん畑が多く見られ、県内有数の産地であったが、後に宅地化が進行し、また畑作が主流となったため、産地としては大きく縮小した。一方で、名古屋都市圏への近接性から観光農園が散見される。 福岡県 年間収穫量は2万トン~3万トン。筑後地方が主産地で、みやま市と八女市で県内の6割以上を占める。主産地にみやま市(旧山川町、旧高田町)、八女市(旧立花町、旧黒木町)、大牟田市、豊前市、古賀市など。県統一のブランドに、「ハニーみかん」「マイルド130」「博多マイルド」などがある。 山川みかん みやま市(旧山川町)は県内随一の知名度を誇るブランド産地で、山川みかんは高級品として九州を中心に市場出荷される。マルチシート被覆率が高いほか、青年部での研修会など人材育成にも注力している。 立花みかん 八女市立花町で作られるみかん。立花は山川と並ぶ大産地で、露地みかんの他に貯蔵みかん、ハウスみかん栽培も多く、また国内最大のキウイ産地としても知られる。ブランド品に「姫たちばな」「華たちばな」がある。 神奈川県 年間収穫量は2万トンから3万トン。主産地は湯河原町、小田原市、南足柄市、中井町、大磯町、秦野市など。大規模産地としては日本で東端、北端に当たり、相模湾岸に果樹園が分布するほか、内陸にも見られる。観光農園、直売所販売も多い。 湯河原みかん 温暖で温泉地でもある湯河原は柑橘の産地でもあり消費地としても盛んなため、一年中小売できるように一つの畑で数十品種を栽培している農家も多い。大津四号・師恩の恵の原産地でもある。 小田原市 県内最大の産地で、富士山の火山灰土により、質の良いみかんができ、市南西部の片浦、市北西部の久野、市南東部の国府津、市北東部の曽我などに広がる。大津四号、青島温州、そして県が開発した湘南ゴールドなどを生産する。 片浦みかん 小田原市片浦地区のみかん。かつては「西の大長、東の片浦」と呼ばれたブランド産地だったが、生産量が最盛期の10%程になるなど宅地化や高齢化などで産地の存続が危ぶまれており、片浦みかんプロジェクトによって六次産業化が進んでいる。 早川みかん 小田原市早川地区のみかん。先進的な農道整備により第二回カンキツ全国大会の視察地になった。鎧塚俊彦の営業する一夜城店を中心とした農商工連携が盛ん。ドレッシングを初めとする様々な商品が開発され、早川みかんのブランドを確立している。 三重県 年間収穫量は2万トン前後。主産地は御浜町、南伊勢町(旧南勢町)、熊野市、多気町、紀宝町など。県単位でブランド化を図っており、全国に先駆けて7月に露地栽培による極早生種の出荷を行っている。市場出荷のほか、観光地での販売促進も盛ん。 南紀みかん 三重県中南部、南紀地方で栽培されるみかんの共通ブランド(和歌山県では同地方産のみかんを紀南みかんと名乗っているため名称の混同はないが、三重県産と強調するため三重南紀みかんと名乗っている)で、ブランド品に南伊勢町五ヶ所地区の「マルゴみかん」、極早生種の「みえの一番星」などがある。また、一帯はカラマンダリンの産地としても知られ、全国有数の生産量を誇る。 大分県 年間収穫量は1万3000トン - 1万7000トン。主産地に杵築市、国東市(旧安岐町)、日出町、津久見市、宇佐市、大分市など。ハウスみかん栽培が盛んで佐賀、愛知に次ぐ大産地となっており、ハウスみかん市場で、4月の出荷量は一番多い。 杵築市 県内で最も生産が盛んな主産地。栽培が難しい品種「美娘」を特産し、ブランド化している。また、デコポン、アンコールの生産も盛ん。 一尺屋みかん 大分市佐賀関町に位置する古くからの露地みかん産地。 宮崎県 年間収穫量は1万トン - 1万6000トン。主産地に宮崎市(旧南郷町、旧宮崎市)、高岡町、日南市、日向市など。極早生中心だが、土壌がみかん栽培に適し、温暖で降雨が少ないため、糖度の高い良質のみかんができ、国内で最も出荷時期が早い産地の一つ。早生の優良種、日南1号の発祥地としても知られる。ミカンの省力化大規模経営組織「シトラス21」も宮崎の一農家から始められた。また、柑橘類では日向夏の生産が全国トップである。 ひょっとこみかん 日向市で生産、販売されるブランドみかん。ひょっとこは日向市に伝わる伝統芸能のひょっとこ踊りに因む。木の皮を剥いで陽光を多く取り込む独自の農法により、糖度の高いみかんができる。 鹿児島県 年間収穫量は1万2000トン - 1万6000トン。主産地に出水市(旧出水市、旧高尾野町、旧野田町)、南さつま市(旧加世田市)、大崎町、阿久根市など。また、ペットボトルキャップ大の桜島小みかんで有名。奄美大島や徳之島などの奄美群島では、熱帯果樹であり本土では栽培が難しいポンカンやタンカンの栽培が盛んである。奄美群島では重要病害虫であるミカンコミバエの侵入が数年に一度あり、発生した年は島外への果実の持ち出しが禁止される。 桜島小みかん 桜島や霧島市などで栽培されるペットボトルキャップ大のみかんで、ギネスブックに世界一小さなみかんとして登録されている。桜島大根と並ぶ桜島の主要作物であり、江戸時代初期から栽培が勧められた。 米ノ津みかん・針原みかん 出水市。平均17度という温暖な気候と赤土の土壌がみかん栽培に適していたため、県内最大のミカン産地となった(国内ウンシュウミカン発祥となった長島町からも近い)。地名から米ノ津みかん(針原地区では針原みかんとも)と呼ばれている。ミカンの他に「早香」という柑橘類や甘夏、ポンカンなども特産する。 香川県 年間収穫量は1万1000トン - 1万8000トン。主産地に坂出市、三豊市(旧仁尾町、旧高瀬町)、高松市、観音寺市(旧大野原町)、善通寺市など。小原紅早生という皮が紅いミカンがよく知られる。 坂出市 小原紅早生の特産地。糖度によって「さぬき紅」「金時みかん」としてブランド販売している。また、王越地区では古くからみかんの名産地として知られ、王越みかんというブランド品となっていたが、後に後継者不足や他産地との競争で衰退したため、近年は保存運動や有機栽培農法などが行われている。 曽保みかん(そおみかん) 荘内半島西岸に位置する三豊市仁尾町曽保(そお)地区は県を代表するブランド産地。高松市場を中心に高級品として出荷されている。 徳島県 年間収穫量は1万3500トン前後で、隔年結果の影響が少ない。主産地に勝浦町、徳島市、阿南市、小松島市、佐那河内村など。ハウスみかん栽培も盛んで、大阪市場では徳島県産が一番多く出荷されている。 勝浦みかん 勝浦町で生産されるみかんで、同町は県内最大のみかん産地。収穫後に土蔵で貯蔵を行い、糖度を増してから出荷する貯蔵みかんで知られる。一帯では十万温州という、貯蔵に適した品種を栽培している。 大阪府 年間収穫量は1万3500トン前後。主産地に和泉市、岸和田市、千早赤阪村、堺市、貝塚市、富田林市など。大消費地に近いため、観光農園や直売所が多い。 大阪みかん 大阪府は、戦前は和歌山県に次ぐ国内2位の大産地であった。戦後になって宅地化や都市化、他地区との競争で大きく栽培面積を減らすものの、生産量は依然1万トンを超える主産地である。 大消費地に近いため、直売所や観光農園が多い。また、マルチ栽培や有機栽培などにも注力しており、学校給食にも提供されるなど地産地消を勧めている。 山口県 年間収穫量は8000トン~1万3000トン。主産地に周防大島町(旧橘町、旧久賀町、旧大島町、旧東和町)など。また、響灘沿岸の下関市や旧豊浦町、旧豊北町、周防灘沿岸の柳井市、防府市などにも産地がある。 山口大島みかん 屋代島(周防大島)は県産みかんの8割以上を産出するみかんの島で、県内では大島みかんと呼ばれている。同県で開発された「なつみ」という品種も特産。また、同島には皮ごと焼いたみかんを鍋に入れて具材と一緒に煮込む「みかん鍋」でも有名である。 高知県 年間収穫量は6000トン - 9000トン。主産地に香南市(旧香我美町、旧野市町)など。ハウスみかん栽培が盛んで、国内4位となっている。 山北みかん 香南市(旧香我美町)は県内最大の産地で、県収穫量の半数以上を占める。山北地区で栽培される山北みかんがブランド化しており、露地栽培、ハウス栽培の双方が行われるため、年中通してミカンが生産される。 以上19府県が主要産地となっており、それ以下の県と大きく収穫量を離しているが、千葉県、兵庫県も累年統計を取っている。 兵庫県 年間収穫量2,000トン以上。主産地に淡路市(旧一宮町)、南あわじ市(旧南淡町、旧緑町)、赤穂市など。淡路島ではみかん栽培が行われており、淡路みかんと呼ばれ、ブランド育成のための品評会が行われているほかに観光農園も多い。また、内地では赤穂市などでみかん栽培が行われているが、周辺府県と比較すると栽培面積、収穫量は少ない。 千葉県 年間収穫量1,000トン以上。主産地に南房総市(特に旧三芳村・旧千倉町)、鴨川市、館山市。中小規模の産地を除けばみかん産地としては東端に当たり、房州みかんと呼ばれ、市場出荷のほか観光農園が多い。とりわけ、旧三芳村は観光みかん園が集まる県内最大の産地。 収穫量は最新の全国調査を行った作況調査(果樹)2014年版による。 岐阜県 主産地に海津市(旧南濃町)。養老山地の山麓はみかんの一大産地で、県の9割以上を占め、内陸県では唯一年間収穫量1000トンを超える産地となっており、北限の産地の一つとして知られる。地名から「にしみのみかん」「南濃みかん」と呼ばれ、貯蔵して糖度を増してから出荷する。 なお、累年統計を取っている主産地を除くと最も収穫量が多い。 岡山県 年間収穫量1,000トン以上。主産地に瀬戸内市(旧邑久町)、玉野市、備前市など。瀬戸内海に位置し、気候条件に恵まれるものの、沿岸は平野が広がり、傾斜地が少ないため産地としては小規模。瀬戸内市邑久町黒井山付近が県内の主な産地で、生産組合がある。 奈良県 年間収穫量500トン前後。主産地に桜井市、明日香村。内陸県だが、明治時代にみかんが植えられてから、現在も桜井市穴師地区では連綿とみかん栽培が続けられている。住宅地に近いため、観光農園が主体。 沖縄県 年間収穫量500トン前後。主産地に名護市、国頭村、本部町など。かつては固有種のオートゥーやカーブチー・シークヮーサー・クネンボなどが栽培され名産品となっていたが、1919年にミカンコミバエの本土侵入を防ぐために果実の移動規制が敷かれたため生産量は激減した。1982年、沖縄郡島でミカンコミバエの完全駆除に成功。以後は本土への果実の出荷が行えるようになったため、早生ミカンやタンカン産地となった。しかし、ミカンキイロアザミウマなどの害虫が発生しやすく、産地としては大きく収穫量を落としている。 京都府 年間収穫量400トン前後。主産地に舞鶴市、宮津市、井手町など。後述するが、丹後地方の舞鶴市大浦地区及び宮津市由良地区は古くからの歴史を持つみかん産地となっており、国内北限の産地の一つ。一方、山城地方はそこまで栽培は盛んではなく、井手町多賀地区(多賀フルーツラインと呼ばれている)に観光農園が点在する程度である。 以下、茨城県、埼玉県が年間100トン以上、福井県、東京都が年間80トン以上、島根県が年間50トン以上、群馬県と新潟県が年間20トン以上、また収穫実績があった県として栃木県、石川県、滋賀県が記されている(詳細については次項で解説)。 前述したように、年収穫量1000t以上の経済的産地形成としては岐阜県の養老山地山麓、あるいは千葉県の房総半島周辺となっている。だが、それ以外にも小規模な産地が点在し、それぞれが北限の産地と名乗っている。栽培技術の進歩と品種改良、また気候条件の変化などにより北限産地は年々北上している傾向がある。 東日本内陸のみかん産地 一般的には、筑波山麓が北限のみかん産地と呼ばれていた。産地としては茨城県桜川市真壁町酒寄地区(酒寄みかん)や石岡市八郷町などがあり、周辺の年収穫量は100t以上となっている。この周辺では名物の七味唐辛子の原料にもなる陳皮産地で知られる福来みかん(厳密にはタチバナの品種)が栽培されてきた歴史がある。近世以降になると埼玉県の比企地方にもみかん産地が展開し、盆地の気候を生かしたみかん作りが行われてきた。具体的な産地の例としては同地区内最大規模の産地である寄居町風布・小林地区(規模は年収穫量は数十トン程度だが、市場出荷といった農業生産を行っている産地としては北限に当たる)、ときがわ町の大附地区(福みかんという固有品種《福来みかんと同種》で知られる)、東秩父村の大内沢みかんなどがある。その他、東京都武蔵村山市も北限と言われた産地の一つで古くからみかん栽培が行われており、狭山みかんと呼ばれている。後に栽培技術の発達や品種の改良によって、北関東内陸県でも観光目的によるみかん栽培が行われるようになった。栃木県那須烏山市小木須地区では1980年代ぐらいから観光農園が出現し、北限のみかん産地として宣伝している。1995年には群馬県藤岡市鬼石の桜山公園でも、観光農園中心のみかん産地が成立した(みかん産地としては、国内で最も内陸に位置する)。また、藤岡や烏山ほどではないが、茨城県日立市十王町にも観光みかん園が存在する。更に高緯度となると、1985年に福島県広野町が町民にみかんの苗木を配布し、みかん栽培が行われている(ただし、町民のレクリエーション目的で市場出荷は行っていないため、今まで収穫実績はない)。 一方で、関東以外の内陸部にはみかん産地は少なく、前述した岐阜県海津市南濃町、奈良県桜井市穴師地区や京都府井手町多賀地区ぐらいである。 本州日本海側のみかん産地 本州日本海側にも古くからのみかん産地が点在している。山口県ではまだ下関、豊浦、萩などみかん産地が多く見られるが、島根県以北となると冬場は厳寒になるため、産地は一部に限られる。その中で、京都府舞鶴市の大浦半島に位置する瀬崎、大丹生地区、京都府宮津市の由良地区は本州日本海側最大の産地で、古くから寒暖の差が激しく、良質のみかんが生産されている。栽培面積はそれぞれ10ha以上、年収穫量はそれぞれ100t以上と、中規模産地としては国内最北端に位置し、それぞれ大浦みかん、由良みかんと呼ばれている。また、福井県の越前海岸にもみかん産地が展開する。福井県敦賀市東浦地区も北限産地の一つとして知られ、東浦みかんと呼ばれる。 ここでは従来の早生や普通種なども栽培可能だけでなく、かつては阪神地方に出荷したり、ロシアに輸出も行っていたりしたほどの規模があった(現在は年収穫量30 - 50t程度で、市場に出回ることは少ない)。その北部に延長する福井県福井市越廼村、越前町などにも観光農園が点在する。島根県松江市美保関町の美保関みかんなども再興の気運があり、美保神社への奉納にちなんで、ゑびすみかんと呼んでPRを行っている。島嶼部では、長崎県対馬の豆酘地区における豆酘みかんや隠岐島の崎みかんなどがある。対馬の豆酘(つつ)地区は県内のシェアは低い(長崎県が全国有数の産地であるため)ものの、ブランド化の動きも進んでいる。島根県の隠岐諸島に位置する海士町には崎みかん(東浦より高緯度。年収穫量10t程度)と呼ばれる産地があり、Iターンの若者たちによる再生プロジェクトが進んでいる。そして佐渡島の羽茂地区でもみかんが明治時代から自家用に植えられていた。2007年12月には新潟県佐渡島の農家が早生種の「興津早生」など約1トンを出荷し話題となった。後に産地として成長し栽培農家数は約20人、栽培面積も3haの規模となっており、佐渡みかんと呼ばれジャムなどの加工品も作られている(これが暫定的な国内最北端の産地となっているが、佐渡の南部沿岸は降雪も少なく、丹後や北関東より気候条件としては温暖である)。 柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国等へ広まったとされる。中国においては古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる文献『晏子春秋』には「橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている。 日本にはタチバナと沖縄にシークヮーサーが原生していたが、3世紀の日本の様子が書かれた『魏志倭人伝』には「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」(生薑、橘、山椒、茗荷があるが、それらを食用とすることを知らない)と記されており、食用とはされていなかったと考えられる。 日本の文献で最初に柑橘が登場するのは『古事記』『日本書紀』であり、「垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(日本書紀の訳)との記述がある。ここでの「橘」はタチバナであるともダイダイであるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われており、定かではない。 その後も中国からキンカンやコウジ(ウスカワミカン)といった様々な柑橘が伝来したが、当時の柑橘は食用としてよりもむしろ薬用として用いられていた。 ミカンとして最初に日本に広まったのはキシュウミカンである。中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現熊本県八代市)に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた、それが15 - 16世紀ごろ紀州有田(現和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられた。また江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得た伝説でも有名である(史実ではないとされる。詳細は紀伊国屋文左衛門の項目を参照)。また江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州からキシュウミカン(ホンミカン)が献上され、家康が植えたこの木が静岡地方のみかんの起源とされている。 静岡のみかんの起源には富士市(旧富士川町)の農夫が外国から移植した経緯もあり、家康が起源のみかんとは歴史も古く品種も異なる。 ウンシュウミカンは当初「長島蜜柑」「唐蜜柑」等と呼ばれていたが、種子を生じない性質から武士の世にあっては縁起が悪いとされ、ほとんど栽培されることはなかった。しかし江戸時代後期よりその美味と種なしの利便性から栽培が行われるようになり、明治27年(1894年)頃から生産を増やして徐々にキシュウミカンに取って代わるようになった。「温州蜜柑」との呼称が一般的になったのもこの頃である。 明治時代に入ると、以前よりミカン栽培に力を注いできた紀州有田はもとより、静岡県や愛媛県等でもウンシュウミカンの栽培が本格化する。産地の拡大により市場競争が始まり、栽培技術の改善や経営の合理化が図られるようになった。またアメリカのフロリダに苗木が送られたのを皮切りに北米や朝鮮にも輸出されるようになり、日本国外への展開も始まった。昭和初期にはナツミカンやアメリカから輸入されたネーブルオレンジ等も広く栽培され、柑橘市場の成長は最初のピークを迎える。その後太平洋戦争に突入すると、食糧増産の煽りを受けて栽培面積は減少し、資材の不足と徴兵による労働力の減少により果樹園は荒廃した。戦後の復興期もしばらくは食糧難の解消が最優先とされ、栽培面積の減少が続いたが、数年後には増加に転じ、1952年に戦前の水準まで回復した。 そのまま高度経済成長の波に乗り、ミカン栽培は飛躍的な伸びを見せる。復興ブームによる果実消費の増大によってウンシュウミカンは高値で取引されるようになり、一部では「黄色いダイヤ」とも呼ばれた。1960年以後は行政施策の後押しもあって全国的に過剰なまでに増産され、1968年の豊作時には計画生産量を上回った。この頃には完全に生産過剰となっていたがなおも増産は続けられ、1972年には豊作とこの年から始まったグレープフルーツの輸入自由化の影響により価格が暴落。ピークの1975年には生産量は終戦直後の約8倍にあたる366.5万トンに達していた。 生産過剰に加えて1970年代よりアメリカからオレンジ輸入枠拡大の要請が強まり、政府はミカン栽培縮小へ方針を転換した。政府の政策は他種への改植を促すことにもなり、ウンシュウミカンの栽培面積が年々減り続ける一方で、他の柑橘の栽培は拡大した。 1980年代からの日米貿易摩擦の中で1991年にオレンジの輸入自由化が始まった。円高も相まってオレンジの輸入が増大する一方で主に北米向けに行われていた輸出は途絶え、ミカン栽培は危機を迎えた。これに対して各産地では生産調整、品質の向上、価格が高い早生や極早生への切り替え等で対応し、ウンシュウミカンの価格は傾向として一時的に上昇した。しかし農家の後継者不足や果樹消費の多角化等、日本のミカン栽培は今なお様々な問題を抱えている。 近年では新たな販路として日本国外への輸出拡大が試みられており、主な輸出先である北米の他にも香港や台湾といったアジア諸国への輸出も始まった。 果肉にはプロビタミンA化合物の一種であるβ-クリプトキサンチンが他の柑橘に比べて非常に多く含まれている。これには強力な発ガン抑制効果があるとの報告が果樹試験場(現・果樹研究所)・京都府医大などの共同研究グループによってなされ、近年注目されている。[出典無効] オレンジ色の色素であるβ-クリプトキサンチンなどのカロテノイドは脂肪につくため、ミカンを大量に食べると皮膚が黄色くなる。これを柑皮症という。柑皮症の症状は一時的なもので、健康に悪影響はない。その他にもクエン酸、食物繊維などが多く含まれる。白い筋にはヘスペリジンが含まれ、動脈硬化やコレステロール血症に効果があるとされている。 ミカンのおいしさは、含まれている糖と酸の量・バランスやホロの薄さなどによって決まる。糖度が高いことは重要だが、酸の量も同様に味の決め手になる。 生食されることが多く、内皮(瓤嚢膜)を丸ごと食べる人と食べない人で個性も分かれている。また、むき方も「へそ」からむく方法と、へたからむく方法と、刃物で切る方法とさまざまある。 他に北陸地方、東北地方、九州地方など地域によっては焼きミカンといって焼いて食べる所もある。また凍らせて冷凍みかんにしたり、お風呂に入れて食べたり、下記のように用途に応じて様々な加工品も作られている。ミカンの全生産量の約2割はジュースや缶詰に加工されている。 缶詰 そのまま食べるか、ケーキなどのトッピングに使用する。 ジュース(特に安価な濃縮還元ジュースは中国産が多い) 飲用のほか、クリームなどの材料になる。 砂糖菓子 主に皮の部分を使用する。よく洗った外皮を細かく切り、炒めて水気を飛ばしたものに砂糖をまぶした菓子。 食物繊維として含まれるペクチンには整腸作用の他、消化酵素のひとつである膵リパーゼの働きを阻害する作用があるとされる。これを食前に摂取することにより食物中に含まれる脂肪の吸収を抑制することができる。またシネフリンにはβ3アドレナリン受容体に働きかけて脂肪分解と熱生産を促進する効果があり、体脂肪を減らす効果が高い。特に熟していない青い果実に多く含まれている。 しかし、こうしたウンシュウミカンの性質が優れたダイエット効果をもたらすというわけではない。ミカンからシネフリンを抽出しダイエット効果を謳ったサプリメントも市販されているが、シネフリンと刺激性物質(カフェインやカテキン等)を同時摂取した際の危険性も指摘されている。 また、ミカンダイエットを大々的に報じた「発掘!あるある大事典II」2006年10月22日放送分においてミカンの血糖値抑制効果を示すグラフが提示されたが、後にこのグラフは改竄されたものであった事が報告された。 漢方では未成熟なものの果皮を干したものを青皮、熟したものの果皮を干したもの陳皮として利用する。成分としてヘスペリジン、ルチン などフラボン配糖体が含まれている。陳皮は七味唐辛子の材料としても用いられる。なお、中国における伝統医学「中医学」において、みかんは体を冷やす食べ物として分類されるため、風邪を引いた際には食べてはならない食品として認識されている。また、精油はアロマテラピーに用いる事もある。 油胞と呼ばれる果皮のつぶつぶにはリモネンという成分が含まれ、合成樹脂を溶かす溶剤として注目されている。また、オレンジオイルやリモネンは洗剤等にも利用されている。 ミカンのしぼり汁はあぶりだしに用いることが出来る。特に冬には手軽に手に入れることができるため、年賀状に使うこともある。また、ロウソクの炎にむかってミカンの皮を折り曲げ、飛んだ油脂で炎の色が変わるのを楽しむ遊びもある。 ミカンの皮はむきやすくすぐにはがれ、むいた皮はさまざまな形になるので、意図的な形に切ることによって動物などの形を作ることができる。典型的なものとして「8本足のタコ」がある。 和歌山県は古くからミカンの栽培がさかんである(江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得た伝説は既述)。そのため、みかんをモチーフにした加工品やキャラクターなどが存在する。 和歌山県のみかんブランドでは有田みかんが全国的に有名だが、県内では「ジョインジュース」と呼ばれるものも名が知られている(近畿地方以外ではCMがないので、近畿圏外の人には分からない)。これはJA和歌山県連の商品で、農協などで売られている。 和歌山県には、「正統和歌山剥き」(または「有田剥き」)と呼ばれるみかんの剥き方が存在する。手順は以下の通り。 みかんを数回〜数十回ほど揉む ヘタがない方に指を入れ、2つないし3つに割る 2つに割った場合は、さらに4つに割る 愛媛県はミカンの一大産地としての地位を長らく誇っており、ミカンやその加工品がいろいろな場面に登場する。県の花はミカン、県の旗はミカンの花をあしらっている。 キャラクターとしても積極的に利用しており、県の公式イメージアップキャラクターのみきゃん、サッカーの愛媛FCのキャラクターはミカンをモチーフとしたデザインであり、ユニフォームのシンボルカラーもオレンジ色である。また、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツやジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグの愛媛オレンジバイキングスも同様である。 愛媛とミカンに関するジョークで最も有名なのが「愛媛では蛇口をひねるとポンジュースが出てくる」という話である。ポンジュースの製造元のえひめ飲料ではこれを逆手にとって「うわさのポンジュース蛇口プレゼントキャンペーン」を実施したり、今治市の直売所や松山空港に期間限定の「ポンジュースの出る蛇口」を設置したことがある。これらが好評であったことから、2008年6月から2009年3月まで毎月第三日曜日に松山空港ターミナルビル内に設置され、その後も断続的に設置されている。 愛媛県の一部の地域では、学校給食に「みかんごはん(あけぼのめし)」というものが出てくるという。作り方は普通の炊き込みご飯と変わらないが、ダシの代わりにポンジュースを入れて炊き込む。 愛媛のミカンジュースと言えば前述のポンジュースが有名であるが、他にも農家ごとに別々に瓶詰めされたムテンカが雑誌やテレビで紹介され、通販の人気商品になった。 愛媛県には「いよかん大使」を起用したミカン(かんきつ類全般を対象とする)PRキャンペーンを例年行なっている。毎年一般公募で選ばれ、全国各地をまわり愛媛みかんをPRする活動を行っているもので、このキャンペーンは1959年から続いている。 ミカンの起源は奈良時代以前にまでさかのぼるが、生食用としては江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州から紀州みかんが献上され、家康が植えたこの木が起源とされている。現在も駿府城公園に「家康公お手植えのみかんの木」として残っている。 静岡県内で最も広く栽培されている温州みかんの一品種である青島みかんは、静岡市の青島平十氏が昭和初期に自己のみかん畑で枝変わりを発見、育成したもので、普通の温州みかんに比べ一回り大きく形はやや平たく味にコクがあるのが特徴。浜松市三ケ日町のものは「三ケ日みかん」として有名である。 オレンジ色をシンボルカラーにしている企業や団体等が多数存在する。 代表例 国民体育大会の静岡県選手団のシンボルカラー 1957年に行われた静岡国体ではそれまで東京都が独占してきた天皇杯を初めて獲得し「オレンジ旋風」と称された。 清水エスパルスのシンボルカラー 静鉄オレンジツアー 東海道本線のラインカラー 80系およびその塗色を踏襲した湘南電車の黄かん色に由来。この塗色は静岡特産のミカンと茶(ミカン畑との意見もあるが)をイメージしたとの説がある。実際はアメリカのグレート・ノーザン鉄道をモデルにしたものであり、この説は後付けによるものである。 アメリカでは温州ミカンは「サツママンダリン」と呼ばれ、1878年にフロリダ州に移入された。温暖な南部では大規模な栽培が行われており、アラバマ州には「Satsuma」という名前の町がある。 イギリスやカナダでは年末年始に皮が固く剥け難いオレンジに替わって、ミカンを食べて家族と一緒の時間を過ごすのが100年以上前から続く伝統的な家庭での風景。そのため、ミカンはクリスマスオレンジと呼ばれている。 かつて放送されていた子供向け番組『ウゴウゴルーガ』(フジテレビ系)にミカンせいじんというCGキャラクターが登場した。そのシュールさから人気を得て、スクリーンセーバー等の関連グッズが発売。後に『ガチャガチャポン!』やフジテレビHPデジタルコミック『週刊少年タケシ』等で復活した。 サンエックスのキャラクターであるみかんぼうやが、2003年から2006年までハウス食品「フルーチェ」のイメージキャラクター「フルーチェメイツ」の一員に起用されていた。 ミカンにまつわる歌として最も知られている『みかんの花咲く丘』は終戦直後の1946年に生み出された。急ごしらえで作られた曲であったが大反響を呼び、以後童謡として現在まで歌い継がれている。歌の舞台は静岡県伊東市である。 1996年にヘヴィメタルバンドのSEX MACHINEGUNSが、愛媛みかんに対する感情を『みかんのうた』として歌い上げた。 2006年にはGTPのシングル『冷凍みかん』が静岡県を中心にヒットし、連動して冷凍みかんの売上が急増した。 1970年代から活躍していたフォークデュオ、あのねのねの10枚目のシングルとして『みかんの心ぼし』(1980年9月25日)が発売されヒットした。後にPART2も発売された。 2001年にシンガーソングライターの福山雅治が『蜜柑色の夏休み』という楽曲を発表している。長崎みかんの産地である大村湾沿岸が楽曲の舞台である。 日本の代表的な果物であり、冬になれば『炬燵の上にミカン』という光景が一般家庭に多く見られる。 落語には、真夏に季節外れのミカンを求める『千両蜜柑』という演目がある。 腐りやすい上に箱詰めされて出荷されるため、1つでも腐ったミカンがあるとすぐに他のミカンも腐ってしまう。この様子は比喩として使われることもある(ドラマ『3年B組金八先生』でそのたとえが使われた)。 『三国志演義』には柑子(こうじ)を巡る曹操と左慈の逸話が記されている。横山光輝の漫画『三国志』ではこれを「温州蜜柑」と表記しているが、正確には温州産の柑子であり、ウンシュウミカンではない。 花言葉は「純潔 花嫁の喜び 清純」 ^ Parental diagnosis of satsuma mandarin (Citrus unshiu Marc.) revealed by nuclear and cytoplasmic markers Breeding Science (2016) doi:10.1270/jsbbs.16060 ^ 10)大分県のみかんの起源・津久見の柑橘史・小蜜柑の元祖木。青江早生の発生 有田みかんデータベース ^ JAながみね 蔵出しみかん ^ “「長崎みかん」”. 長崎県. 2013年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月18日閲覧。 ^ “国産果実産地訪問記「長崎みかん」”. 雪印メグミルク. 2014年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月18日閲覧。 ^ “長崎みかんのブランド「出島の華」”. 長崎県農林部. 2013年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月14日閲覧。 ^ 「たらみかん」を取り巻く現状 ^ ひろしま文化大百科 大長のミカン ^ 摘果みかん ドレッシング ^ 奄美大島全域タンカン等移動禁止へ ^ 大阪府/なにわ特産品 大阪みかん ^ 大垣地方ポータルサイト西美濃 南濃のみかん ^ 桜川市観光協会 福来みかん ^ 寄居町観光協会 よりい風布・小林みかん山 ^ “景色も楽しみ 北限のミカン栽培”. NOSAIとちぎ (2006年1月). 2009年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年1月4日閲覧。 ^ 観光みかん園 那須烏山市 商工観光課 ^ 大浦みかんミカン狩りが約20年ぶりに復活 「ふるるファーム」企画、瀬崎の6農園が協力【舞鶴】 ^ 中日新聞 【福井】東浦ミカンの観光農園オープン 敦賀 ^ 文部科学省 「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 厚生労働省 「日本人の食事摂取基準(2015年版)」 ^ 石見圭子「柑橘系フラボノイドの骨粗鬆症予防効果」 国立健康・栄養研究所、2004年。 ^ 果樹試験場「がん予防食品としてのカンキツ果実[リンク切れ]」 農林水産省、1998年。 ^ 久保和弘、齋藤衛郎 「シトラスアウランチウムについて」 国立健康・栄養研究所、2002年。 ^ 「報告書 外部有識者による調査委員会報告書を受けて (PDF) 」 関西テレビ放送、2007年、21-22頁。 ^ 厚生労働省, ed (2011). “チンピ”. 日本薬局方 (第十六改正 ed.). pp. 1550-1551 ^ 最近の研究成果 東アジアで薬用利用される植物(漢方・生薬を含む) (PDF) - 近畿大学薬学部 ^ 松山空港での「ポンジュース蛇口」試飲イベントの実施について (PDF) - 松山空港利用促進協議会 ^ 愛媛からカナダから、世界に広げる「クリスマスオレンジ」 冷凍みかん サクラジマミカン キシュウミカン えひめ飲料:愛媛県松山市に本社を置く飲料メーカー。ポンジュースが有名。 ジョインジュース:JA和歌山県連のブランド。 愛媛かんきつ情報缶 - 愛媛県 JAありだ みかんの美味しい見分け方 - ありだ農業協同組合 静岡みかんスペシャルサイト - JA静岡経済連", "ラッカセイ(漢字: 落花生、学名: Arachis hypogaea、英語: peanut または groundnut)はマメ亜科ラッカセイ属の一年草。食用にされる種子は別名ナンキンマメ(南京豆)、ピーナッツともいう。 方言名に地豆(ぢまめ、ジーマーミ。沖縄方言)、唐人豆(とうじんまめ)、異人豆(いじんまめ)、だっきしょ(落花生。鹿児島県)、ドーハッセン、ローハッセン(落花生。長崎県)などがある。 中国語では「花生」(ホワション 拼音: huāshēng)、「落花生」(ルオホワション 拼音: luòhuāshēng)、別名「長生果」。台湾語では「塗豆」(「土豆」とも表記。トータウ thô͘-tāu)。客家語では「番豆」(ファンテウ)ともいう。 ピーナット(Peanut)または、ピーナッツ(peanuts)の語源はPeaピー(エンドウマメ)Nutsナッツ(木の実)であるが、名称のみで、実際はエンドウマメの木の実ではない。 草丈は25-50cm。夏に黄色の花を咲かせる。受粉後、数日経つと子房柄(子房と花托との間の部分)が下方に伸びて地中に潜り込み、子房の部分が膨らんで地中で結実する(=地下結実性)。 南米原産で東アジアを経由して、江戸時代に日本に持ち込まれたと言われている。日本では主に食用として栽培されている。 花が落ちるようにして(花が受粉して落ちて)地中で実を生むことから「落花生」という名前が付けられた。 原産地は南アメリカ大陸である。最も古い出土品は、ペルーのリマ近郊にある紀元前2500年前の遺跡から出土した大量のラッカセイの殻である。また、紀元前850年頃のモチェ文化の墳墓にあった副葬品にラッカセイが含まれていることから、ラッカセイが生活の中で重要な位置を占めていたことが分かる。 その後、メキシコには紀元前6世紀までに伝わっていた。16世紀のスペイン人修道士の記録では、アステカ族はラッカセイを食糧ではなく薬と考えていた。また、カリブ海の島々でもラッカセイの栽培は行われており、そこでは重要な食糧とされていたという。 大航海時代の始まりで、ラッカセイはヨーロッパにも紹介されたが、土の中で成長するラッカセイはそれまでのマメ類の常識とはかけ離れた、奇妙な存在と感じられた。気候もあまり適さないことから、ヨーロッパでの栽培はあまり行われなかった。 南アメリカ以外にラッカセイの栽培が広がったのは16世紀中頃である。ポルトガルの船乗りたちが西アフリカ-ブラジル間の奴隷貿易を維持するためにアフリカに持ち込んだのが始まりで、そのまま西アフリカ、南部アフリカ、ポルトガル領インドに栽培地が広がっていく。ほぼ同時期にスペインへ伝わったラッカセイは南ヨーロッパ、北アフリカへと渡っていく。さらにインドネシア、フィリピンへの持ち込みもほぼ同時期である。 日本には東アジア経由で1706年にラッカセイが伝来し、「南京豆」と呼ばれた。ただし、現在の日本での栽培種はこの南京豆ではなく、明治維新以降に導入された品種である。 18世紀以前の北アメリカでは、ラッカセイは家畜の餌か黒人奴隷向け食糧として栽培されていた。南北戦争による食糧事情の悪化により白人もラッカセイを食べるようになり、「ピーナツ」と呼ばれ愛されるようになった。 ラッカセイの実を食べる時は、殻(莢、豆果)のまま炒るか殻からむいたものを炒ることが多い。もしくは炒った後にバター(またはパーム油など)を絡める。 また、殻のまま塩茹で(茹でピー)にする。北海道、東北地方、千葉県の一部では節分の豆まきで殻付きで炒った落花生を用いる地域もある。 中国や台湾では殻ごと塩、八角などの香辛料を加えた湯で茹でる調理や、蒸篭で蒸すことも多い。茹で落花生は日本でも静岡県、鹿児島県などでは一般的である。長崎県大村市では筑前煮に落花生を入れる習慣がある。 中国では皮付きの種を油で揚げてから塩をまぶす方法も一般的である。これは朝食に食べる粥の具としても使う。 ラッカセイの薄皮には、レスベラトロールが含まれ、薄皮ごと食べる方が健康に良いと言われている。 加熱したピーナッツの外側に砂糖をまぶしたり、小麦粉の衣を付けて揚げたりした豆菓子や、チョコレート菓子などの加工品も生産・販売されている。鹿児島県奄美群島には熱した黒砂糖と絡めたがじゃ豆(さた豆)、味噌も加えた味噌豆といった菓子がある。千葉県の名産品には「落花生の甘納豆」が存在している。他には、砕いて団子の中に入れる餡にしたり、揚げせんべいに加えられたりもする。 ラッカセイの日本での主産地である千葉・茨城県では、炒ったラッカセイを甘辛く味つけた味噌であえた惣菜が郷土料理となっており、スーパーの惣菜コーナーなどでも売られている。日の出味噌の加工品から名が広がり「味噌ピー」と呼ばれている。 料理では加熱して砕いたラッカセイをゴマ同様に薬味に使う場合があり、中華料理のうち四川料理、台湾料理などではよく見られる。また、龍のひげ飴(クルタレ)、団子などの菓子に入れられることもある。 福建省厦門市や台湾には小豆の代わりにラッカセイで作ったぜんざいともいうべき「花生湯」「花生仁湯」がある。 広東料理のスープ料理に鶏の足(もみじ)、ナツメなどと薄皮付きのラッカセイを煮込んだ「紅棗鷄腳花生湯」や、ナツメをパパイヤに変えた「木瓜鷄腳花生湯」などがある。広東粥には豚のあばら骨、タラの干物、するめや干しエビと薄皮付きのラッカセイを入れて煮込んだ「排骨花生粥」「柴魚花生粥」「艇仔粥」などもある。 沖縄県では「ジーマーミ(地豆)」と呼び、水分を含ませてすり潰したラッカセイにサツマイモのデンプンを加えて加熱して作るジーマーミ豆腐がある。鹿児島県の奄美群島にもあり、鹿児島市や鹿屋市ではだっきしょ豆腐と呼ぶ。ごま豆腐に似た食感のものである。 中国の福建省、台湾、ベトナムなどでは加熱後、粉状にしたラッカセイと砂糖を合わせて押し固めた、落雁に似た「花生酥」がある。福建省、台湾、マレーシアには更に麦芽糖を加えて固めた貢糖もある。 ラッカセイを炒ってすり潰して練るとピーナッツバターや「花生醤」(ホワションジアン)を作ることができる。 殻付きの落花生。 皮を剥いた状態の落花生。バターピーナッツ ピーナツ味噌(味噌ピー) がじゃ豆 油脂含有分が高く、ピーナッツオイルが製造されている。不飽和脂肪酸、オレイン酸、リノール酸が多く、血中のコレステロールを下げ、動脈硬化の予防が期待できる。広東料理など、中華料理にはよく使用されている。また、サラダ油、マーガリンの原料にもなる。工業用途では石鹸、シャンプー、塗料樹脂などにも原料として応用できる。 殻は肥料、干して燃料にするほか、粉砕して、プラスチックのフィラー、コルク代用品、研磨材などに利用することができる。 ラッカセイは(蕎麦同様に)重篤な食物アレルギー(アナフィラキシー)を引き起こす可能性のある食材として知られている。ナッツアレルギーを持った女性がピーナッツバター入りのサンドイッチを食べたボーイフレンドとキスをした後、重度のアレルギー症状で死亡する事故も起きている。 ラッカセイは、材料・加工品ともにアレルギー物質を含む食品として食品衛生法施行規則、別表第5の2による特定原材料として指定されている。同法第11条及び同規則第5条による特定原材料を含む旨の表示が義務付けられている。しかし、飲食店では必ずしも表示されておらず、沖縄料理店でジーマーミ豆腐の主原料がラッカセイであると分からず食べてしまうこともある。 主たる生産地 以下に、国際連合食糧農業機関(FAO)による2004年時点の生産量、輸出量、輸入量のうち、上位5カ国を示す。いずれも重量ベースである。 生産量は、中国(1,441万トン)、インド(590万トン)、ナイジェリア(294万トン)、アメリカ合衆国(211万トン)、インドネシア(147万トン)である。中国が約4割、上位5カ国で全生産量の75%を占める。統計値は殻付き (Groundnuts in Shell) である。 むきみの輸出と輸入 未加工品の落花生は主にむきみ (Groundnuts Shelled) の形で貿易ルートに乗っている。輸出では、中国(32.5万トン)、アメリカ合衆国(14.6万トン)、インド(11.2万トン)、アルゼンチン(7.0万トン)、オランダ(6.3万トン)である。輸入では、オランダ(22.5万トン)の輸入量が突出しており、ついでイギリス(8.5万トン)、カナダ(8.0万トン)、メキシコ(7.6万トン)、ドイツ(6.0万トン)である。日本のむきみ輸入量は世界第7位に位置し、主に中国から輸入されている。 殻付き むきみと比較すると、殻付きの貿易量は少ない。輸出量は、中国(7.8万トン)、インド(6.5万トン)、アメリカ合衆国(1.7万トン)、エジプト(1.1万トン)である。輸入ではメキシコ(2.2万トン)、イタリア(2.1万トン)、インドネシア(1.9万トン)、ドイツ(1.4万トン)、スペイン(1.4万トン)である。 むきみ、殻付きのほか、煎る・揚げるといった加工品、ピーナツバターのようにさらに加工が進んだ形の商品も貿易ルートに乗っており、金額ベースでは加工品の占める割合が高い。 日本における生産量は、農林水産省の『作物統計』によると、2015年の生産量はむきみ換算で1万2,300トンである。輸入量は、財務省の貿易統計によると9万8,867トンであった。県別の生産量では、千葉県が9590トンで突出しており、78.0%を生産している。千葉県は農林総合研究センターに「落花生研究室」を設けている。品種として「ナカテユタカ」「郷の香」「おおまさり」のほか、2018年に命名した「Qなっつ」のように品種改良やブランド化、高齢化で減少傾向にある栽培農家数の回復にも力を入れている。特に千葉県中央部の八街市が生産量では日本一を誇る。県別では茨城県(1500トン、12.2%)が続き、千葉県と合わせると9割を超える。以下、神奈川県、栃木県、鹿児島県が続く。 日本で初めて栽培されたのは1871年(明治4年)に神奈川県大磯町の農家、渡辺慶次郎が横浜の親戚から落花生の種を譲り受け、自分の畑に蒔いたもの。花は咲いたが何も実を結ばないので「こんなもの」と足蹴りしたら地中から鞘(殻)が出てきて、地下結実性であることが判明した。経済栽培に向けて、販売先の確保のため、地元旅館に試食を依頼したが「客は喜んだが、座敷が汚されて困る」と断られた逸話が残っている。その後、明治10年に0.4リットル袋入りにて横浜の駄菓子屋に売り込んだところ盛況となり、採算がとれる商業生産への見通しがたった。千葉県においては1876年より栽培が開始されている。 日本で生産されている主な品種は以下の通り。 千葉半立 ナカテユタカ(千葉県農試育成) 郷の香(千葉県農試育成) 立落花生一号(神奈川県農試選抜) 改良半立(神奈川県農試選抜) フクマサリ(千葉県農試育成) 金時 おおまさり 日本国内で消費されている安価なラッカセイの大部分は中国産で、主に大粒の品種を栽培している山東省、河北省、天津市産の輸入が多い。「南京豆」という別名に使われている江蘇省の南京など、華中・華南地方産のラッカセイは小粒の物が多い。 2000年を過ぎた頃から相場が下がり始め、2006年頃には100グラムあたり40円にまで下がった。2007年頃に相場が上がり、100グラムあたり100円となった。しかし、店によっては100グラムあたり65円で売っていることもあり、販売ルートによって価格に差がある。 ラッカセイはこんにゃく芋と同様に関税割当制度の対象であり、2007年は1次税率が10%、2次税率が617円/kgと保護関税が課せられている。 ^ 文部科学省 「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 厚生労働省 「日本人の食事摂取基準(2015年版)」 ^ USDA栄養データベースUnited States Department of Agriculture ^ http://www.nal.usda.gov/fnic/foodcomp/search/ ^ [『タンパク質・アミノ酸の必要量 WHO/FAO/UNU合同専門協議会報告』日本アミノ酸学会監訳、医歯薬出版、2009年05月。ISBN 978-4263705681 邦訳元 Protein and amino acid requirements in human nutrition, Report of a Joint WHO/FAO/UNU Expert Consultation, 2007] ^ 英語発音: [ˈpiːnʌt]。日本語では英語からの外来語をカタカナで「ピーナッツ」または「ピーナツ」と表記。英語で「peanut」はこの植物全体を指しうるが、日本で「ピーナッツ」は、専らこの植物の種子部分(特に、食用のそれ)を指していることが多い。 ^ 張璐、『本経逢原』、清。 ^ a b c d e ジョンソン 1999, p. 125-131. ^ ジョンソン 1999, p. 133-136. ^ a b 『落花生 栽培手引き』p48、2010年3月、相州落花生協議会。 ^ 大正10年に神奈川県秦野市曽屋原に軍の飛行場が建設されることとなり、10月上旬に収穫が強制されたものを塩水につけて茹でたところ味がよかったので、だんだんと神奈川県西部地域に広がった。軍が生んだ産品ともいえる。 ^ 「情報:農と環境と医療 47号」(北里大学学長室通信)No.47 2009/2/1 ^ ピーナツは皮ごと食べよう : 視的!健康論 ~眼科医坪田一男のアンチエイジング生活~ (読売新聞/ヨミドクター、2010年10月21日) ^ “「みそピー」物語”. 日の出味噌ホームページ. 2018年10月20日閲覧。 ^ KERI BLAKINGER Quebec woman opens up about daughter’s tragic death after allergic reaction from kissing boyfriend who ate peanut butter sandwich Daily News2016年6月13日 ^ FAOによる生産統計(2004年) ^ FAOによる輸出統計(2004年) ^ FAOによる輸入統計(2004年) ^ 「27年産豆類(乾燥子実)及びそばの収穫量(全国農業地域別・都道府県別)」『作物統計』、2016年、農林水産省 [1] ^ 千葉県農林総合研究センター・落花生研究室(2018年7月26日閲覧) ^ 落花生新品種は「Qなっつ」千葉県、10年ぶり/甘み強く後味あっさり■秋デビュー『日本経済新聞』朝刊2018年7月20日(首都圏経済面)2018年7月26日閲覧。 ^ 『落花生 栽培手引き』p47、2010年3月、相州落花生協議会。同時期に神奈川県二宮町の二見庄兵衛も「南京豆」の種子を入手し、試作した。後年、この中から立性種を選別した。 ^ 農林水産省年報 第2章 国際部 シルヴィア・ジョンソン; 金原瑞人訳 『世界を変えた野菜読本』 晶文社、1999年。ISBN 4794964129。  食物アレルギー ピーナッツバター アフラトキシン ジーマーミ豆腐 ディーゼルエンジン - バイオディーゼル ジョージ・ワシントン・カーヴァー - アメリカ出身の植物学者で、ラッカセイを原料に数百種類の食料品・生活用品などを考案した。 プランターズ(英語版)" ]
ABC01-02-0235
豊臣秀吉が造営した聚楽第の一部を移築したものである、京都の西本願寺にある国宝の建物といえば何でしょう?
西本願寺
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[ "西本願寺", "金戒光明寺", "東本願寺", "建仁寺", "三宝院" ]
[ "西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある仏教寺院。浄土真宗本願寺派の本山である。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。 西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。 境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。 本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。 境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、平成6年(1994年)に国の史跡に指定され、同年12月にユネスコの文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されている。 建物の配置と構造は東向きを原則とする真宗建築の典型で、親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が、北隣の本堂(阿弥陀堂)よりも大きく造られている。これは本願寺がそもそも宗祖親鸞の廟堂として始まったためである。寛永13年(1636年)に再建された御影堂は、「寛政の大修復」寛政12年(1800年)及び「平成大修復」(1999年 - 2008年12月)と2回の大修復を経ている。 なお、西本願寺や東本願寺では「ごえいどう」と呼称するが、専修寺(真宗高田派)と知恩院(浄土宗)では「みえいどう」と呼称する。 国宝建造物の詳細は、後述「国宝の建造物」の節を参照のこと。 御影堂 - 堂正面に「見真」と書かれた額が掲げられている。親鸞は明治天皇から見真大師の大師諡号を1876年に贈られた。ただし、2008年の「宗制」改正によって、「見真大師」の語は「宗制」から削除されている。 阿弥陀堂 附:渡廊下、喚鐘廊下 書院(対面所及び白書院) 北能舞台 黒書院及び伝廊 2棟 飛雲閣 - 金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)と並んで「京の三閣」と呼ばれる。 唐門 紙本墨画親鸞聖人像(鏡御影) 附:絹本著色親鸞聖人像(安城御影)・ 絹本著色親鸞聖人像(安城御影副本) 『観無量寿経註』 親鸞筆  『阿弥陀経註』 親鸞筆  熊野懐紙(後鳥羽天皇宸翰以下11通)附:伏見宮貞敦親王御添状1巻、飛鳥井雅章添状1巻 三十六人家集37帖、附:後奈良天皇宸翰女房奉書1幅 御影堂 阿弥陀堂 唐門 渡廊下(国宝の附指定) 飛雲閣 三十六人家集のうち「重之集」の帖末 建造物 玄関、浪之間、虎之間、太鼓之間 1棟 能舞台(南能舞台)附:橋掛 浴室(黄鶴台)附:廻廊 本願寺 7棟 経蔵 鐘楼 手水所 鼓楼 御影堂門 阿弥陀堂門 総門 附 御成門 附 目隠塀 附 築地塀 3棟 旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)(下京区油小路通正面下る玉本町所在) 経蔵 鐘楼 手水所 鼓楼 御影堂門 阿弥陀堂門 総門 目隠塀 伝道院 美術工芸品 絹本著色聖徳太子像 紙本著色親鸞・如信・覚如三上人像 紙本著色善信上人絵(琳阿本) 2巻 紙本著色慕帰絵詞 画隆章、隆昌、久信筆 10巻 絹本著色雪中柳鷺図(伝趙仲穆筆)  絹本著色親鸞聖人絵伝 6幅 銅鐘(梵鐘) 『歎異抄』 2巻 蓮如書写奥書 『教行信証』 6冊 『唯信抄』 親鸞筆  『浄土三経往生文類』 自筆本(略本) 尊円親王詩歌書巻 自筆本(鷹手本) 版本『浄土論註』 上下 2帖 建長8年親鸞加点奥書 『伏見天皇宸翰歌集』(99首) 『栄花物語』 15帖 恵信尼自筆書状類 覚信尼宛 (10通) 証如上人極官関係文書 3幅、2巻 親鸞自筆書状類(4通) 2巻 『天文日記(光教日記)』自筆本 56冊、11巻 本願寺御影堂留守職歴代譲状(18通)12巻 附 本願寺留守職相伝系図3通、光佐以下歴代譲状(6通)4巻2通 ※ 典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。 本願寺境内 本願寺書院庭園 滴翠園 書院(対面所及び白書院) 御影堂の南西に位置する。近世書院造を代表する建築の一つである。入母屋造妻入り、本瓦葺きで、平面規模は桁行(本建物の場合は奥行)38.5メートル、梁行(間口)29.5メートル。南側の対面所と北側の白書院から成るが、両者は元来別々の建物であった。本建物を豊臣秀吉の伏見城の遺構とするのは俗説で、実際は後述のとおり江戸時代に西本願寺自身により建てられた建物である。 対面所の主室は欄間に雲と鴻(コウノトリ)を透彫りにするところから、「鴻の間」とも呼ばれる。広さは下段のみで162畳、上段を含め203畳、天井は格天井とする。襖、壁等の障壁画は本願寺お抱え絵師の渡辺了慶の筆と推定されている。正面奥(北側)は東西方向に長大な上段とし、中央に大床(おおどこ)、左に帳台構を設ける。上段の東には床高をさらに一段高めた上々段があり、違い棚と付書院を設ける。能舞台を持つ広庭に南面する広大なスペース、無目敷居による下段の三列二段の区画など、住宅建築としての書院造から儀式空間である対面所に特化した書院造の姿を見せる。この広大な平面については、真宗の本堂建築を基本に、その内陣に代えて上段、上々段、帳台構など書院造の要素を付加したものとの指摘もある。この対面所の西側には控えの間である雀の間、雁の間、菊の間があり、北側には納戸2室を挟んで白書院がある。白書院は西から東へ三の間、二の間、一の間(紫明の間)からなる。一の間には変形10畳の上段があり、床、棚、付書院、帳台構を備える。なお、対面所と白書院三の間は、畳を上げると板敷きで、能舞台としても使用できるように工夫されている。 寺の文書によれば、対面所は元和3年(1617年)の火災で失われた対面所に代わって火災の翌年に再建された建築である。当初は現御影堂付近に東向きに建てられていたが、御影堂再建に先立ち寛永7年(1630年)に元和焼失以前に対面所が建っていた現在地で90度向きを変えて移築された。このことは1969年に行われた半解体修理の際に発見された小屋組の梁の番付墨書により初めて確認された。この移転と同時に西側に雀の間などが増築されたと考えられ、後に(安永6年か)北側に別棟であった白書院を移築合体させた。東縁側に面してで枯山水の「虎渓の庭」が設けられている。 書院は原則非公開。期日を限って特別公開が行われる場合があるが、それ以外の時期の拝観には事前の許可が必要である。(詳細は下記「拝観」の項を参照) 黒書院及び伝廊 黒書院は書院の北東に位置し、伝廊とともに国宝に指定されている。桁行21.5メートル、梁行13.9メートル。寺の記録から明暦3年(1657年)の建立とわかる。屋根は寄棟造、こけら葺きで、主屋部分と庇部分に分けて2段に葺く。前述の白書院が表向きの接客空間で、金地障壁画や彩色透彫の彫刻などで意匠を凝らしているのに対し、黒書院は門主の生活の場としての内向きの空間である。屋根は前者の瓦葺きに対してこけら葺きとし、内部の意匠は水墨の障壁画、土壁、面皮柱、棹縁(さおぶち)天井などを用いた数寄屋風の造りとする。東側の一の間(11畳)、西の二の間(20畳)のほか、広敷の間、鎖の間、茶室などがある。一の間の床、棚、付書院なども草庵風の造りである。建物の東北隅は、一部を床を張らない土庇(どびさし)とし、外部空間を屋根内に取り込んでいる。黒書院は現在も門主の私的空間として使用されているため非公開であるが、2012年11月に初公開された。 北能舞台 書院(対面所及び白書院)の南北にある能舞台のうち北側のもの。正面入母屋造、背面切妻造、檜皮葺き。修理時に「天正九年」(1581年)の墨書が発見されたが、これは懸魚(けぎょ)の裏に貼られていた紙(現在は亡失)に書かれていたもので、ただちに建立年代を示すものとは考えられていない。本願寺の坊官を勤めた下間家が徳川家康から拝領したとの伝えもあり、正確な年代は不明ながら、江戸時代初期にはあったことが確認できるところから現存する能舞台としては最古のものといわれている。 飛雲閣 境内南東隅の滴翠園(てきすいえん)内、滄浪池(そうろうち)と名付けられた池に面して建つ、3階建の庭間建築である。江戸時代の絵図には「御亭(チン)」あるいは「御物見」として現れる。3階建であるが、各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠も左右相称を避け、変化に富んだ外観をもつ。寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)には豊臣秀吉の遺構だと記されていることから聚楽第の遺構との説も広く流布したが確証はなく、様式的にもやや新しく、建築史からは否定的意見が多い。一方その1階平面が大書院対面所に共通するから寛永期に本願寺により建てられたのではないかとする説も唱えられたが(平井聖)、飛雲閣1階は一列型書院造の形を示し、一方対面所は3列型で先に触れたように真宗の本堂建築のスタイルを踏襲していると考えられる。こうしたことから両者が似るとするのは無理があり、さらに建築時期、建築理由など十分な説得性にも乏しく、定説とは言えない。飛雲閣を数寄屋と見た場合、元和期創建の桂離宮古書院と比べて洗練さに欠け、また明らかに古様である。さらに寛永期は元和3年の大火災からの復興途上の経済逼迫期に当たり、このような遊興的な建物を新築したとは考えにくい。これらの点からも寛永期創建説には疑問がある。近年、付属建物である黄鶴台から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見され(鶴岡典慶報告)、これが移築の時期を示すのではないかとの推測から、秀吉の京都新城、後の高台院屋敷の「アコセガ池」畔から、後水尾上皇の仙洞御所造営(寛永4年着手)に先立ち解体撤去され、本願寺に移築された建物との説も登場した。 1階は池から船で直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段を設けた主室の招賢殿、下段の八景の間、茶室憶昔席(いくじゃくせき)などがある。舟入の間は書院造の「中門」に当たり、ここ以外に正式な入り口は見当たらない。本来障壁画で飾らるべき上段床の間背面の壁が大障子となっている点や上段が部屋の中心軸上になく北側に寄っている点が特異である。柱や長押は角材を使っており数寄屋の手法は見られないが、これら上段や上々段には数寄屋の趣きが濃厚である。招賢殿の背面から渡廊を介して西側に黄鶴台(重文)が建つが、これは浴室の機能を有し、創建当初から飛雲閣と一体となって庭間建築を形成していたものと考えられる。憶昔席の部分のみは建築年代が明確で、寛政7年(1795年)、茶人の藪内竹陰らによって増築されたものである。これら主室の南側にはバックヤードとして厨などが付帯する。本来こうした火気使用エリアは廊下を介して別棟とすべきだが、ここでは主屋と一体化しており、本願寺飛雲閣成立時の事情の一端が伺える。2階歌仙の間は、西側8畳の上段、東側16畳半の下段からなり、上段背面の壁には1階招賢殿と同様障壁画はなく窓が開けられている。隅には喫茶の用に供したものと推測される丸炉が切られている。下段三方の板戸の内外には御簾の下に座す三十六歌仙の像(現状は三十四歌仙)を華やかに描き、天井は金具に飾られた格天井、長押も格調高く打ちまわしており、総じて御殿風の趣きがある。二階へは八景の間横からの階段のほか厨からも上がれるようになっている。3階は摘星楼と名付けた8畳で、長押は打たず天井も低い草庵風の意匠となっている(ただし天井は鏡天井)。奇木を床柱にした一畳の出床が設けられているがこれは後補。各階の主開口部はいずれも北に開けられており、特に1階の書院が南側に全く開口部を持たないのは書院造としては他に例がなく、また我が国の住宅建築の原則からも外れている。このことが元々南向きであったのではないかとの推測を生み、先に述べた「移築説」の根拠の一つとなっている。 なお、元禄時代の状況を示すと考えられる1階平面図(本善寺所蔵)により、現況では北縁側(入り側)に設けられている腰障子はなかったと判り、当初の北からの姿は今より凹凸に富んで見えていたと考えられている。 飛雲閣は原則非公開であるが、外観のみ期日を限って特別公開される。また毎年5月21日の宗祖降誕会の際には室内に茶席(有料)が設けられる。 唐門 境内の南側、北小路通に南面して建つ。境内東側の御影堂門、阿弥陀堂門がそれぞれの堂への入口であるのに対し、唐門は書院(対面所)への正門である。前後に計4本の控え柱をもつ四脚門形式で、屋根は檜皮葺き、正背面は唐破風造、側面は入母屋造の「向い唐門」である。総漆塗り、各部各所を中国の許由と張良の故事を題材とした極彩色彫刻と鍍金金具で装飾しており、日暮し眺めても飽きないとされることから「日暮門」の俗称がある。場所によっては厚さ60センチメートルにもなるこれら装飾彫刻の多くがのちに付加されたものであることが修理に際して明らかにされている。金具の各所には桐紋と菊紋が打たれ、寺院の門としては華麗に過ぎるところから聚楽第の遺構とも伏見城の遺構とも、あるいは元和2年以降に破壊が進んだ豊国神社から移築されたものとも伝えるが、確証はない。ただ様式から言えば天正銘が発見された大徳寺唐門に比べて明らかに後の時代に属するものと考えられ、その創建は慶長期以降と推定されることから、聚楽遺構説は否定される。寺の記録『元和四戊午年御堂其外所々御再興ノ記』によれば、元和3年(1617年)の寺の火災の翌年に旧御影堂門(一説には阿弥陀堂門)を「御対面処ノ東」に移築したとあるから元和3年以前に本願寺にあったことが確認でき、のちに寛永初期、御影堂再建に先立つ一連の境内整備の際に現在地に再移築したと考えられているが、そもそもこの門が最初に本願寺に現れた年代や事情ははっきりしていない。 西本願寺の住職は、浄土真宗本願寺派の門主が代々務めてきた。2016年9月時点、第25代門主釋専如が本願寺住職である。 代表的な別院 鷺森別院(鷺森本願寺) - 文明8年(1467年)に第8代宗主蓮如が建立。 津村別院(北御堂) - 真宗大谷派の南御堂と並び、門前を通る大阪市のメインストリートが御堂筋と呼ばれる所以である。 築地別院(築地本願寺) - 元和3年(1617年)に第12代宗主准如が西本願寺の別院として建立。2012年に西本願寺唯一の「直轄寺院」となり、それまでは通称だった「築地本願寺」が正式名称となったため、「別院」ではなくなっている。 大谷本廟 - 京都市東山区五条橋東六丁目にある。親鸞の墓所で通称は「西大谷」。 日野誕生院 - 京都市伏見区日野西大道町にある。親鸞誕生の地を記念して建てられた。 角坊 - 京都市右京区山ノ内御堂殿町にある。親鸞往生の地を記念して建てられた。 三夜荘(京都市伏見区):門主の別荘。第21代門主の大谷光尊が明治9年(1876年)に建築するが、老朽化のため解体される。 天正19年(1591年)、豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、大坂天満から現在の堀川六条に寺基を移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。 慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(11代顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進され、本願寺が正式に西(本願寺派)と東(大谷派)に分立する。この時、江戸幕府内では当時の門主准如(顕如の三男)が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を門主にするとの考えもあったが、真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった。とは言うものの元来、教如は石山合戦以来の自らの派を有しており、宗派内部は既に分裂の状態にあった。 分立当初は准如の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の「本願寺」は「信淨院本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。 1987年(昭和62年)までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺を「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺は「西本願寺」と通称されるようになる。 幕末期には京都を守る剣客集団新選組の本拠地ともなっている。現在まで境内地に大きな変化は無いが、1876年(明治9年)に真宗興正派が独立した際に南境内地を割譲。 本願寺の北には日蓮宗大本山本圀寺の境内が隣接しており、両寺の間に道などはなかったのであるが、付近の住民の訴えにより、住民の負担で、島原から大宮通までで止まっていた花屋町通をさらに大宮通から堀川通にまで伸ばす形で新たに道路を開く工事が行われ、1882年(明治15年)に竣工した。 1971年(昭和)に本圀寺が山科区に移転した。その後、1986年(昭和61年)になって本願寺はその旧本圀寺境内地を取得して新たに「本願寺北境内地」とした。現在はその敷地内に聞法会館を建てるなどして、主に駐車場として使用している。本願寺の寺基自体は400年以上に渡り移転していない。 2011年(平成23年)4月9日より翌2012年(平成24年)1月16日まで、本願寺御影堂において親鸞聖人750回大遠忌法要が修行された。 2015年(平成27年)5月に、国宝である御影堂の柱に落書きがされているのが発見された。 本願寺の住職が浄土真宗本願寺派の門主に就任する。 西本願寺ホームページの「恒例法要と行事」による。 1月1日 : 修正会、元旦会 1月9日 - 16日 : ご正忌報恩講(親鸞の祥月命日) 2月7日 : 如月忌(九條武子の遺徳を偲ぶ) 春分の日前後7日間 : 春季彼岸会 4月8日 : 花まつり(灌仏会) 5月20 - 21日 : 宗祖降誕会 8月上旬 : 盆踊り大会 8月14 - 15日 : 盂蘭盆会 秋分の日前後7日間 : 秋季彼岸会 8月14 - 15日 : 盂蘭盆会 10月15 - 16日 : 龍谷会(大谷本廟報恩講法要) 10月中旬 - 11日中旬 : 献菊展 12月20日 : 御煤払 12月31日 : 除夜会 拝観料は無料で、境内および国宝の御影堂や阿弥陀堂に自由に入ることができ、国宝の唐門もすぐ横まで行ける。 国宝の書院や飛雲閣は前日までに予約をすれば、定員に達していない限り拝観可能(拝観料は志納・300円以上が望ましい)である。当日予約は一切認めていない。時間は14:30の1日1回のみで、10分前には受付箇所である「龍虎殿」に集合する必要がある。公式ホームページに記載されている代表電話番号に書院等の拝観である旨を伝え、電話転送先に希望日時や時間等を伝えれば良い。当日受付にて書面を記載するか、予約が早かった場合は予め郵送された書面を受付に提出する必要がある(本来は門信徒向けのサービスであるので、所属している寺院名の欄があるが、空欄でも構わない)。また、住所が確認できるものを当日持参する必要がある。案内役の僧侶が付き説明を受ける。ただし自由に行動することはできない。飛雲閣は外観のみの拝観になる。行事等により一方、または両方の拝観を行っていない日もある。拝観所要時間は約80分間で、途中離脱は認められていない。また、書院または飛雲閣の修復時は、両方または片方の拝観ができなくなる。 春または秋の法要時は、法要終了後から16時頃まで予約なしで書院内部や飛雲閣の外観を予約なしで自由に無料で拝観できる事が多い。詳しい日程・拝観時間はその都度公式ホームページで発表される。 京都の諸寺社の特別公開に合わせて書院内部や飛雲閣の外観が公開されることもあり、この場合は他の寺社と同様に文化財保護のための拝観料金が必要となる。また、書院内部は公開される部分が普段とは異なることがある。 隣接する北境内地に「聞法会館」というホテルがあり、信徒でなくても比較的安価で宿泊できる。なお、このホテルに宿泊すると早朝の晨朝に希望者は参加しやすく、午前中に国宝の書院や飛雲閣を特別拝観できるプランを時々用意している。 宗派の教義により、西本願寺にはお守り・朱印・おみくじはなく、祈祷も行っていない。記念スタンプはある。 主に週末のみ北境内地から大谷本廟までの無料バスを運行している。また、北境内地には広大な駐車場があり、参拝者は無料で使用できる。 阪急大宮駅 (京都府) 徒歩20分 京阪七条駅 徒歩20分 地下鉄烏丸線五条駅 京都駅 徒歩10分 丹波口駅 徒歩10分 京都市営バス9・28・75系統 西本願寺前下車すぐ 参詣者や観光客が多いことから、門前町が形成されている。西本願寺御用達の仏具店や和菓子店などの老舗は「開明社」という団体に組織されており、信徒として報恩講などに参加する。 興正寺(隣接) 龍谷ミュージアム(総門隣) 龍谷大学大宮キャンパス(隣接) 本願寺中央幼稚園(隣接) ブラジルのモジ・ダス・クルーゼス市の浄土真宗本派本願寺のように海外にも寺がある。 ^ 「本願寺」のローマ字表記は、ヘボン式ローマ字では「Hongan-ji」であり、世界遺産「古都京都の文化財」登録時の英文名称も「Hongan-ji」であるが(参照:ユネスコのサイト)、西本願寺自身は「Hongwan-ji」の綴りを採用しており(参照:西本願寺英語版HP)、URLもその綴りを採用している。 ^ 既指定物件の「本願寺鐘楼」(明治43年・1910年指定)に他の6棟を追加指定し、「本願寺 7棟」とした。 ^ 信淨院…教如の院号。 ^ 信門…信淨院の門跡の意。 ^ 昭和62年に本願寺(東本願寺)は「宗教法人 本願寺」を解散し、真宗大谷派に合併されて「真宗本廟」と改称する。 ^ 浄土真宗本願寺派 本願寺御影堂平成大修復推進事務所だより(27)(28) ^ ようこそ、東本願寺へ|諸殿拝観|御影堂 ^ 本山専修寺のご紹介|真宗高田派本山 専修寺 ^ 本寺 高田山 専修寺(施設のご案内 御影堂) ^ 御影堂|総本山知恩院 ^ 平成26年9月18日文部科学省告示第129号 ^ 平成26年9月18日文部科学省告示第130号 ^ 平成26年9月18日文部科学省告示第132号。 ^ 平成26年9月18日文部科学省告示第131号 ^ 本節の解説は特記なき限り以下の資料による。 文化庁編『国宝事典』(新増補改訂版)、便利堂、1976 『週刊朝日百科』「日本の国宝64」、朝日新聞社、1998(解説執筆は小沢朝江、西和夫、斎藤英俊、鶴岡典慶) 宮元健次『図説日本建築のみかた』、学芸出版社、2001 京都府教育委員会『国宝本願寺書院修理工事報告書』1969 京都府教育委員会『国宝本願寺唐門修理工事報告書』1980 ^ 加藤繁生「飛雲閣を探して」(『史迹と美術』825号 - 832号所収)、史迹美術同攷会、2013 ^ 落書き:西本願寺の国宝、御影堂に 京都 毎日新聞 2015年5月28日 ^ 『日本経済新聞』朝刊2018年2月25日(NIKKEI The STYLE)「精進/信仰のつながり 共に食べて実感」 ^ 新モジ西本願寺=極楽浄土を描くふすま絵=久保開教使9割方仕上げ=モダンな色彩と話題に 『原色日本の美術12 城と書院』小学館 1968 平井聖ほか『日本古寺全集21』集英社 1982 『日本の美術13 城と書院』平凡社 1965 『本願寺史料集成 (慶長日記)(元和日記)(西光寺日記)』同朋舎出版 『真宗全書70』国書刊行会 1976 『新編真宗全書 (史伝編6)(史伝編10)』新編真宗全書刊行会 1977 櫻井敏雄『浄土真宗寺院の建築史的研究』1997 本願寺 - 他にも京都市内や東京などに本願寺という名称の寺がある(現在は移転した寺や廃寺を含む)。 龍谷大学 - 西本願寺系の私立大学。大宮学舎は境内に隣接する。 古都京都の文化財 日本の寺院一覧 国宝一覧 聚楽第 西本願寺の時間 興正寺 - 南隣にある旧脇門跡。真宗興正派本山。 本願寺(西本願寺)(English) 親鸞聖人750回大遠忌 西本願寺の宿 聞法会館 西本願寺ストリートビュー 唐門の3D映像ソルボンヌ大学協会", "金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。境内には皇族・公家の茶の湯に使われた黒谷明星水という名水がある。 承安5年(1175年)春、浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷を下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで法然は、うたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。 こうして法然はこの地に草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と岡崎白川の本房を法然に与えた。そのため、比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ。法然は、後に信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、白川上人信空はこの地に住み、白川門徒の拠点となった。その後、岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。なお、比叡山では、大津市坂本の黒谷を現在も「黒谷」と呼ぶ。 第5世恵顗の時に堂を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。第8世運空は、後光厳天皇に戒を授けて、金戒の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになった。法然が最初に浄土宗の布教を行った地であることに因み、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。江戸時代初期に城郭構造に改修された。文久2年(1862年)には、京都守護職の本陣となった。第二次大戦後、1946年(昭和21年)に「黒谷浄土宗」として一派を立てて独立するが、1977年(昭和52年)に浄土宗に合流し七大本山の一翼を担う。 「池の水ひとの心に似たりけり 濁り澄むこと定めなければ」 金戒光明寺は、徳川初期に、同じ浄土宗の知恩院とともに、城郭構造に改められていた。会津藩主松平容保が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。しかし、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって、薩摩藩・長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。 なお、このころ中間として出入りしていた侠客が、会津小鉄こと上坂仙吉である。 御影堂(みえいどう) – 大殿(だいでん)とも言う。法然75歳時の肖像(坐像)を安置。昭和9年、火災により焼失1944年(昭和19年)に再建。中山文殊と吉備観音を安置する。 山門 – 応仁の乱で焼失。 万延元年(1860年)に再建。後小松天皇の「浄土真宗最初門」の額がかかる。 阿弥陀堂 – 慶長10年(1612年)豊臣秀頼が再建した。 文殊塔(三重塔)(重要文化財) – 寛永10年(1633年)建立。近年まで文殊菩薩と脇侍像を安置していた。現在は御影堂に安置(これらの像は運慶作と伝えられるが実際の作者は不明)。 大方丈 – 1934年(昭和9年)、火災により焼失。1944年(昭和19年)に再建。久保田金僊筆「虎図」や今尾景祥筆「松図」などの障壁画で飾られている。 法然上人御廟所 – 法然の遺骨が祀られているお堂。蓮池院の上にある。 直実鎧掛けの松 – 熊谷直実が鎧を洗いそれを掛けたという松。もとの松は枯れ、それを引き継いだ2代目が2003年(平成15年)に京都市指定保存樹に指定されたが、2013年(平成25年)に枯れ、翌2014年(平成26年)に3代目の松が植えられた。 山内塔頭 蓮池院(れんちいん) – 平安時代末期の武将熊谷直実が出家し、法力房蓮生となり、庵を結んだ場所。蓮生は建永元年8月(1206年)翌2月8日に極楽浄土に生まれると、予告往生の高札を武蔵国村岡の市に立てたが果たせず、京都に戻り、ここ東山の草庵で、承元2年9月14日(1208年10月25日)に往生したと「吾妻鏡」にある(別説あり)。通称寺の名称を熊谷堂と呼ぶ。直実が兜を置いたので蓮池を別名「兜之池」という。その後春日局は、池に蓮を植え、堂を改修して名を蓮池院熊谷堂と改称した。 永運院 – 御影堂の西にある塔頭。普段は非公開だが、申し込めばイベント等で使用することができる。 西翁院 – 永運院の西にある塔頭。 常光院(八はし寺、やつはしでら) 金光院 松樹院 勢至院 浄源院 善教院 光安寺 超覚院 西住院 瑞泉院 長安院 龍光院 顕岑院 栄摂院 西雲院 三重塔(文殊塔) 木造千手観音立像(通称吉備観音) 絹本著色山越阿弥陀図・地獄極楽図 御影堂 大方丈 玄関 唐門 築地塀 阿弥陀堂(京都府指定文化財) 山門(京都府指定文化財) 経堂(京都府登録文化財) 一枚起請文(伝・真筆) 建暦2年(1212年)正月23日に、源智が形見にということで法然に懇願して、念仏の教えを書いてもらったという(「四十八巻伝」45)。4月23日・24日の御忌法要時のみ公開される。 鏡の御影 法然の御真影(肖像画)。毎年4月25日の御忌法要に於いて一般拝観可能。 12月31日大晦日に23:30から除夜の鐘をつき始める。 除夜の鐘 つき始め 除夜の鐘 鐘をつく人の行列 動画 撮影時刻は、2014年12月31日23:34頃、最初のつき始めである。 メディアを再生する 清和天皇火葬塚 – 火葬後、遺骨は水尾山陵(みずのおやまのみささぎ:京都市右京区)に埋葬された。 熊谷一族墓所 法然廟の前に、平敦盛と相対して熊谷直実(蓮生法師)の五輪の塔がある。「四十八巻伝」27では、蓮生は建永2年9月4日(1207年9月27日)に熊谷市の生家で往生したとされる(別説があるがこれが一般的)。墓所は熊谷寺にあるが、遺言により遺骨は、西山の念仏三昧堂(粟生光明寺)に安置されたとされる。 八橋検校墓所 – 江戸時代前期の音楽家・検校。菓子の八ツ橋の語源とする説もある。 山崎闇斎墓所 – 江戸前期の儒者・朱子学者・神道家・思想家。 江-崇源院供養塔 – 徳川秀忠正室・徳川家光の母。 五劫思惟阿弥陀如来石像 – 文殊塔に登る石段の左に位置しているが、独特の頭髪の形状から「アフロ地蔵(アフロ阿弥陀)」と通称される。この「地蔵」は「石仏」程度の意味である。 春日局墓所 – 斎藤利三の娘。江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。 徳川忠長供養塔 – 徳川秀忠と崇源院の子(三男)で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の弟。「駿河大納言」と呼ばれた。 宮城頼久の墓所 – 清富藩初代藩主である宮城豊嗣の実父。 山中鹿之助幸盛の五輪塔 – 戦国大名尼子氏の家臣。本姓は源氏。家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。 会津藩殉難者墓所 会津藩士352名の墓所。 黒田孝高妹心誉供養墓 – 一柳直末室。子孫小野藩主一柳末礼の建立。 木下広次の墓所 – 京都大学(当時は京都帝国大学)の初代総長。 ()内は何代目かを記す 法然房源空(1) → 勢観房源智(前2) → 法蓮房信空 (後2) → 正信房湛空 (3) → 求道房恵尋 (4) → 素月房恵顗 (5) → 寿観房任空 (6) → 示観房範空 (7) → 我観房運空 (8) → 僧然定玄 (9) → 佛立恵照国師(僧任等凞)(10) → 良秀僧尋 (11) → 聖深阿縁 (12) → 僧海等珍 (13) → 僧秀良玉 (14) → 威照良真 (15) → 称譽秀馨 (16) → 極譽理聖 (17) → 栄譽永真 (18) → 西譽雲栖 (19) → 弘譽伝心 (20) → 性譽法山 (21) → 道残源立 (22) → 看譽源良 (23) → 縁譽休岸 (24) → 長譽源然 (25) → 琴譽盛林 (26) → 了的 (27) → 潮呑 (28) → 忍譽源授 (29) → 眼譽呑屋 (30) → 誓譽厳真 (31) → 檀譽順応 (32) → 広譽順長 (33) → 叶譽酋村 (34) → 通譽◎林 (35) → 薫譽寂仙 (36) → 重譽写悦 (37) → 到譽順教 (38) → 香譽春沢 (39) → 鑑譽万龍 (40) → 法譽智俊 (41) → 晃譽念潮 (42) → 到譽潮音 (43) → 謙譽霊忠 (44) → 神譽感霊 (45) → 覚譽霊長 (46) → 逾譽俊海 (47) → 禀譽 (48) → 浄譽原澄 (49) → 明譽顕海 (50) → 祐譽天従 (51) → 宣譽巨道 (52) → 貫譽学善 (53) → 住譽密善 (54) → 在譽祐倫 (55) → 黒谷定円〘寥譽〙(56) → 獅子吼観定〘梁譽〙(57) → 佐藤説門〘開譽〙(58) → 獅子吼観定〘梁譽〙(59) → 秋浦定玄〘静譽〙(60) → 吉水賢融〘仏譽〙(61) → 大鹿愍成〘深譽〙(62) → 郁芳随円〘相譽〙(63) → 望月信亨〘昱譽〙(64) → 芳井教岸〘道譽〙(65) → 川端信之〘源譽〙(66) → 渡辺教善〘闡譽〙(67) → 千葉良導〘妙譽〙(68) → 福井周道〘鑑譽〙(69) → 澤崎梁寿〘定譽〙(70) → 藤原弘道〘法譽〙(71) → 稲岡覚順〘等譽〙(72) → 坪井俊映〘仁譽〙(73) → 高橋弘次〘満譽〙(74) ※ 35世の◎は「涱」「氵」に「長」(漲の異体字) 57世と59世は同一人物。 山門 清和殿、新清和殿 熊谷直実鎧掛けの松 五劫思惟阿弥陀仏 会津藩殉職者墓。寺の北東に存在 (2014.12.23) 江-崇源院供養塔 (2014.12.23) 法然上人の御廟所 熊谷堂こと蓮池院 (2014.12.23) 蓮池と極楽橋 (2014.12.23) 八橋検校の墓。右側が記念碑 (2014.12.23) 洛陽三十三所観音霊場 5 真如堂新長谷寺 -- 6 金戒光明寺 -- 7 長楽寺 法然上人二十五霊跡 23 清浄華院 -- 24 金戒光明寺 -- 25 知恩院 数多くの映画やテレビ時代劇で撮影が行なわれている。 『大奥』 - 庭園 『憑神』 - 山門 『新選組』 『新選組!』 『怪奇大作戦』(第25話) - 山門、阿弥陀堂、経蔵他 『吼えろ鉄拳』 - 墓地内 『ゴルフ夜明け前』 - 御影堂前 『新極道の妻たち・惚れたら地獄』 - 御影堂前 『必殺!ブラウン館の怪物たち』 - 山門 『桜の樹の下で』 - 御影堂前 『丹下左膳 百万両の壷』 - 御影堂前 『鴨川ホルモー』 - 御影堂前、山門 金戒光明寺境内で麒麟の川島明が造園に挑戦したことがある(NHK総合テレビジョン『仕事ハッケン伝』の2012年9月6日放送回)。 京阪電気鉄道鴨東線神宮丸太町駅から徒歩30分 真正極楽寺 泉屋博古館 聖護院 平安神宮、岡崎公園 ^ 明星が天降って菩薩が現われたことから名付けられた。: 小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.206 ISBN 9784569616186 ^ 「浄土の真なる宗」という意味で現「浄土宗」を指し、現「浄土真宗・真宗」とは無関係である。 ^ 3代目「鎧掛けの松」植樹 金戒光明寺、熊谷直実ゆかり、京都新聞Web、2014年3月25日 23:35配信、2015年1月26日閲覧。 ^ 平成27年8月4日文部科学省告示第125号。以下の4件も同じ。 ^ 京都府指定・登録等文化財。山門、経堂についても同じ。 ^ 麒麟川島、地元京都で歴史ある寺の庭造りに挑戦、お笑いナタリー、2012年9月5日配信、2012年12月28日閲覧。 「本山黒谷略縁起」より 「黒谷誌要」より 『大本山くろ谷 金戒光明寺 宝物総覧』 浄土宗 大本山くろ谷 金戒光明寺発行、思文閣出版発売、2011年4月、ISBN 978-4-7842-1564-5 金戒光明寺(京都黒谷) 法然25霊場の24番 洛陽三十三所観音霊場の6番 京都寺社案内", "東本願寺(ひがしほんがんじ、Higashi Hongan-ji)は、京都府京都市下京区烏丸七条にある真宗大谷派(以下、大谷派)の本山である。東本願寺の名は通称で、正式名称は「真宗本廟(しんしゅう ほんびょう)」。愛称は「お東」「お東さん」。 「東本願寺」という通称は、堀川七条にある「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置することに由来している。 2016年現在の門首は、平成8年(1996年)に継承した大谷暢顯(淨如)。 大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』(以降、『宗憲』)には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派 の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定 される。 東本願寺(真宗本廟)は、包括宗教法人である「真宗大谷派」に包括される単位宗教法人(被包括宗教法人)ではなく、法人格を有していない。大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による寺院ではない。(宗教法人法による宗教法人の分類については、宗教法人#単位宗教法人と包括宗教法人を参照。) 東本願寺は、江戸時代に4度の火災に遭っており、その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄される。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。 現存建造物の多くはどんどん焼けの後、明治期の再建だが、建築・障壁画等は当時の技術の粋を集める。 御影堂は、境内のほぼ中心に位置する和様の道場形式の堂宇である。屋根は瓦葺きの重層入母屋造。外観が二重屋根であるため二層建築に見えるが、下部は裳階であり単層建築である。建築規模は、間口76m・奥行き58mであり、建築面積において世界最大の木造建築物である。現在の建物は、明治13年(1880年)に起工し、明治28年(1895年)の完成である。平成16年(2004年)3月から平成21年(2008年)12月にかけて、大規模修復が行われた。総工費は、約98億円である。御影堂の瓦の枚数は175,967枚で、その内の3割は修復時の検査で合格した瓦を再利用して葺いている。再利用した瓦(明治瓦)は風雨に晒されにくい裳階の奥側、「受平瓦」よりも奥に用いられている。 堂内は、「内陣」・「外陣」・「参拝席」に分かれている。 内陣は横に7つの室に分かれていて、中央の間を「内陣本間」と呼ぶ。「内陣本間」側から、左側の余間を「十字の間」・「九字の間」・「飛檐の間」と呼び、同じく右側の余間を「六軸の間」・「新六軸の間」・「御簾の間」と呼ぶ。 「内陣本間」の中央に須弥壇上を設け、その上に「御厨子」を置き、宗祖親鸞の坐像である「御真影」を安置する。「内陣本間」の左右壇上には歴代門首の絵像が奉掛される。 平時は、「十字の間」の床(とこ)上の中央に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を奉掛し、その両脇に宗祖親鸞と現門首を除く「大谷派御歴代」の絵像を二幅に分けて奉掛する。「九字の間」の床上には、「南無不可思議光如来」の九字名号が奉掛される。報恩講などの法要時は、奉掛される絵像やその配置などが変更になる。 かつては「大師堂」と呼ばれた。その由来は、明治9年(1876年)に明治天皇から親鸞に対して「見真大師」の大師諡号が贈られたためである。昭和56年(1981年)に「宗憲」が改正された際、「見真大師」号が削除され、同時に大師堂の呼称が取りやめられ、御影堂の呼称に復した。 阿弥陀堂は、御影堂の南側に位置する禅宗様を取り入れた仏堂で、本尊・阿弥陀如来を安置する本堂である。屋根は瓦葺きの単層入母屋造。建築規模は、間口52m・奥行き47mである。床面積比で御影堂の半分以下しかないが、仏堂の大きさとしては全国7位である。現在の建物は、明治13年(1880年)起工し、明治28年(1895年)の完成である。 御影堂と同様に阿弥陀堂内も、内陣・外陣・参拝席に分かれている。 内陣の本間中央に須弥壇を設け、その壇上の宮殿内に本尊・阿弥陀如来(木像・立像)が安置される。また、本間右側の壇上には「聖徳太子御影」の絵像が、本間左側の壇上には「源空上人御影」の絵像が奉掛される。内陣の「本間」から右側の余間を「北余間」と呼び、その床上に内側から「龍樹大士御影」・「天親菩薩御影」・「曇鸞和尚御影」の絵像が、左側の「南余間」の床上に「道綽禅師御影」・「善導大師御影」・「源信僧都御影」の絵像が奉掛される。 ※北余間には元々亀山天皇の天牌が奉安されていた 2004年3月から2008年12月にかけて行われた御影堂修復の際は、阿弥陀如来像の向って右側に御影堂より遷座した「御真影」を仮の「御厨子」に安置し、左側には蓮如の絵像・聖徳太子の絵像・七高僧の絵像(法然の絵像と六高僧の絵像)が奉掛された。また、阿弥陀堂で御真影を安置するために製作された仮の「御厨子」は、府中刑務所の講堂の本尊の厨子として利用される。 平成21年(2009年)7月16日、御影堂を覆っていた修復用の素屋根がスライドして阿弥陀堂を覆う。 平成23年(2011年)の「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」法要後、阿弥陀堂の修復工事が行われ、平成27(2015)年12月に完了した。工事では耐震補強もされた。 御影堂門は、高さ約28mの入母屋造・本瓦葺き・三門形式の二重門。「真宗本廟」の扁額を掲げる。京都三大門(東福寺、知恩院)の1つである。明治44年(1911年)の再建。 上層(非公開)には、釈迦如来像(坐像)を中央に、脇侍として向って右側に弥勒菩薩像(立像)、左側に阿難尊者像(立像)の三尊が安置され、浄土真宗の正依の経典「浄土三部経」の1つである『仏説無量寿経』の会座をあらわす。また、その手前には仏舎利が安置される。 2013年1月、御影堂門の修復が開始され、2015年12月に完了した。 阿弥陀堂門は、切妻造・檜皮葺きの四脚門。正背面に唐破風を設ける。境内で京都駅に一番近く、段差の無いバリアフリーの門である。江戸時代中頃に、「唐門」の名称で建てられる。現在の阿弥陀堂門は、御影堂門と同じく明治44年の再建である。 消失した阿弥陀堂を再建する際に規模が拡大されたため、御影堂の正面にある御影堂門と異なり、阿弥陀堂門は阿弥陀堂の真正面に位置していない。 ※北余間、元亀山天皇の天牌があった北余間正面に門が来ている 2012年1月、阿弥陀堂門の修復に着工する予定である。 ※2012年に着工されなかった。 参拝接待所は、東本願寺(真宗本廟)の総合窓口である。昭和9年(1934年)に「志納所」に替えて建てられる。「真宗本廟収骨(須彌壇収骨)」「本山読経」「帰敬式」の申込・受付の他、本尊・蔵版の授与、懇志の受付などの窓口業務を行なう。 平成10年(1998年)には、「蓮如上人五百回御遠忌」の記念事業として、参拝接待所北側地下に「真宗本廟視聴覚ホール」を増設した。また参拝接待所と視聴覚ホールの間に「展示ギャラリー」を併設する。 総合案内所は、案内所としての機能の他に、休憩所や喫煙所、出版物販売部などがまとまっている建物である。 平成21年(2009年)、御影堂修復事業の一環として改修される。境内の諸施設を統合管理する「防災センター」を併設する。 渉成園は、近接する飛地境内にある池泉回遊式庭園。昭和11年(1936年)、国の名勝に指定される。別名、「枳殻邸」。(位置情報) 同朋会館は、真宗同朋会運動の一環である「真宗本廟奉仕」の参加者のための研修宿泊施設である。昭和33年(1958年)11月に着工、翌年11月に完成。「仏祖崇敬の念を篤くする」「無上仏道を聞き開く」「同信同行の交りを深める」の3つの願いに立って、真に私自身の人間性を回復することを目的とする。 しんらん交流館は、平成27年(2015年)に開設された教化センター。「しんらん交流館定例法話」や「東本願寺日曜講演」が開催される。所在地は下京区諏訪町通六条下る上柳町199。(位置情報) 教行信証(坂東本)全6冊 - 紙本墨書。正式名称は『顕浄土真実教行証文類』。鎌倉時代筆。真宗大谷派所蔵本は、もとは東京の坂東報恩寺が所蔵していたため「坂東本」と呼ばれ、現存する唯一の『教行信証』親鸞真蹟本である。 昭和27年(1952年)に、国宝に指定。 平成16年(2004年)3月、劣化の激しい同本を修復。 絹本著色親鸞聖人像(安城御影〈あんじょうのごえい〉) - 鎌倉時代作。83歳の頃の影像とされる。西本願寺蔵の原本は、国宝。 紙本著色『本願寺聖人伝絵』(康永本)4巻 - 康永2年(1343年)作。詞書(ことばがき)は、覚如筆。絵は、上2巻は康楽寺円寂、下2巻は、康楽寺宗舜による筆。 紙本著色『本願寺聖人親鸞伝絵』(弘願本)4巻 - 貞和2年(1346年)作。各巻末に「釋弘願」の法名が署名されているため、弘願本と通称される。詞書(ことばがき)は、善如筆。 紙本『一念多念文意』親鸞筆 - 鎌倉時代作。 御影堂 阿弥陀堂 大寝殿 大玄関 鐘楼 造合廊下 二筋廊下 御影堂門 阿弥陀堂門 菊の門 玄関門 阿弥陀堂門南側築地塀 御影堂門南側築地塀 御影堂門北側築地塀 菊の門北側築地塀 玄関門北側築地塀 特別な儀式・法要・行事のない日の予定。儀式・法要などが営まれる日は、日程および時間を変更する場合がある。 7:00 晨朝勤行(阿弥陀堂・御影堂) 7:30 晨朝法話(御影堂) - 12月27日〜31日はなし。 10:10 真宗本廟法話(真宗本廟視聴覚ホール) - 12日・27日はなし。 11:00 真宗本廟収骨・読経・帰敬式 - 12日・27日は取扱いなし。 13:10 真宗本廟法話(真宗本廟視聴覚ホール) - 28日はなし。11月21日〜28日は御影堂にて開催。 14:00 真宗本廟収骨・読経・帰敬式 - 28日は取扱いなし。 14:00 しんらん交流館定例法話(しんらん交流館・すみれの間) - 12日・27日は10:00に、13日・28日は14:30に時間を変更して開催。 16:00 夕事勤行 毎週日曜9:30 東本願寺日曜講演(しんらん交流館・大谷ホール) 日程は、変更になる場合がある。 修正会(1月1日〜7日) 春季彼岸会法要 (春分の日前後各3日を合わせた7日間)期間中に永代経総経が厳修される。 春の法要(4月1日〜3日) 春の法要中の主な行事 1日 - 師徳奉讃法要・親鸞聖人御誕生会 2日 - 全戦没者追弔法会 3日 - 相続講員物故者追弔会 兼 帰敬式受式物故者追弔会 立教開宗記念法要(4月15日) 蓮如上人御影吉崎別院御下向式(4月17日) 蓮如上人御影吉崎別院御帰山式(5月9日) 盂蘭盆会法要(7月14日〜15日 〈8月13日〜16日〉) 秋季彼岸会法要(秋分の日前後各3日を合わせた7日間)…期間中に永代経総経が厳修される。 御正忌報恩講(11月21日〜28日)…宗祖親鸞の祥月命日である11月28日までの1週間に勤められる法要で、年中行事の中で最重要行事とする。 御正忌報恩講中の主な行事 21日 - 初逮夜(しょたいや) 22日 - 初晨朝(しょじんじょう)・初日中 24日 - 中逮夜 25日 - 中晨朝・中日中(ちゅうにっちゅう)・『御伝鈔』拝読 27日 - 結願逮夜(けちがんたいや)・「御俗姓」拝読 28日 - (御満座)、結願晨朝・結願日中・坂東曲(ばんどうぶし) お煤払い(12月20日) 歳末昏時勤行(12月31日) 親鸞の入滅から本願寺東西分立までの歴史の詳細については、「本願寺の歴史」を参照。 文禄元年(1592年)11月24日、本願寺十一代 顕如の示寂にともない顕如の長男である教如(光寿)が本願寺を継承する。この時、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した穏健派は重用しなかったため、教団内に対立が起こる。 文禄2年(1593年)閏9月、教如は豊臣秀吉の命により退隠させられ、准如に法主が継承する事が決定する。(教如#退隠を参照。) 慶長7年(1602年)2月、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より烏丸六条 に寺地を寄進され、教如は本願寺の第十二代に就任する。このことにより本願寺は、「堀川七条の本願寺」と「烏丸六条の本願寺」とに分立する。(詳細は、本願寺の歴史・「教如退隠」〜「本願寺分立」のセクションを参照。) 慶長8年(1603年)11月10日、阿弥陀堂が落成する。 慶長9年(1604年)9月16日、、御影堂が落成する。 承応元年(1652年)、規模拡大のため御影堂の再建に着手する。 明暦4年/万治元年(1658年)3月28日、御影堂が落成する。 寛文7年(1667年)、規模拡大のため阿弥陀堂の再建に着手する。 寛文10年(1670年)3月15日、阿弥陀堂が落成する。 元治元年(1864年)7月20日、禁門の変を発端とする兵火が元となり、京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火災となる。東本願寺も罹災し、御影堂・阿弥陀堂・渉成園など伽藍の大部分を消失する。 昭和52年(1977年)11月2日、東本願寺爆破事件が起きる。 昭和56年(1981年)6月11日、新『真宗大谷派宗憲』(「新宗憲」)発布。宗憲改正にともない、「法主」を廃して「門首」を新たに設け、本願寺住職および管長の役職を廃止した。(詳細は「お東騒動」を参照。) 昭和62年(1987年)12月、「宗教法人 本願寺」を宗教法人法に基づいて解散の登記を行い、「宗教法人 本願寺」は「宗教法人 真宗大谷派」に吸収合併される。このことを「宗本一体」という。当時の法主は、第二十四代法主 闡如。合併により「東本願寺」は、法人格を有さない寺院となり、真宗大谷派の本山としての礼拝施設となる。正式名称は「真宗本廟」に変更される。また、「東本願寺」の通称も公式に併用している。 平成15年(2003年)11月、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の特別記念事業の一環として行われる「御影堂修復」のため、「御影堂」に安置している「御真影」(宗祖親鸞の坐像)を「阿弥陀堂」へ移す、「御真影動座式」を執り行う。「御真影」は、「阿弥陀堂」の本間右側に新たに設けた仮の「御厨子」に安置する。 平成16年(2004年)3月4日、「真宗本廟御影堂御修復起工式」を執り行う。修復は、非解体修理を基本とし、素屋根工事、瓦葺き替え工事、御厨子・須弥壇の修復を含む内陣・外陣等の美装工事、大虹梁鉄骨補強補強を含む構造補強工事、耐震補強工事、土居葺工事、木工事、金属工事、外部鋩金物工事等の大規模修復である。 平成21年(2009年)8月3日、「御影堂」において「真宗本廟御影堂修復竣工式」が執り行う。 同年9月30日、「阿弥陀堂」に安置していた「御真影」を「御影堂」の「御厨子」に戻す、「宗祖親鸞聖人御真影還座式」を執り行う。 同年11月20日、「御影堂御修復完了奉告法要」を厳修する。 2017年4月26日、東本願寺の職員2人に過去数年間サービス残業(多い時で月130時間以上)をさせていたとし、未払いの残業代約660万円を支払ったことを明らかになった。2人は寺の研修施設に宿泊する門徒の世話を担当する「補導」と呼ばれる職員で、寺によると、1973年(昭和48年)に「補導」には残業代を一切支払わないとする違法な取り決めをしていた。また、全国の教務所でも残業に必要な労働基準法第36条に基づく労使協定(三六協定)を結ばずに、職員に違法な残業を行わせていたこと、本山宗務所の残業についても労使協定を結んだ「真宗大谷派職員組合」が、協定が法的効力を持つために必要な「労働者の過半数で組織する労組」に該当しないため本山の残業も労基法に抵触している可能性があること、昨年12月に本山を管轄する京都下労働基準監督署から「臨検」と呼ばれる任意の立ち入り調査を受け、職員の労働時間を適正に管理していないとして行政指導を受けたことが明らかになった。 所在地 - 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754番地 京都駅より徒歩7分。 地下鉄烏丸線五条駅より徒歩5分。 京都市営バス烏丸七条バス停より徒歩1分。 3月〜10月 - 5時50分開門、17時30分閉門。 11月〜2月 - 6時20分開門、16時30分閉門。 ^ a b 昭和27年(1952年)3月29日指定。国宝としての名称は、「教行信証〈親鸞筆/(坂東本)〉」、種別は「書跡・典籍」、所有者名は「真宗大谷派」である[1]。原題は『顯淨土眞實敎行證文類』である。 ^ 東本願寺とは(東本願寺公式サイト) ^ 正式名称…昭和62年(1987年)までは、「本願寺」が正式名称である。 ^ 大谷派の公式ホームページ・出版物などでは「東本願寺」の通称を用いており、正式名称「真宗本廟」と併用している。 ^ 本派 - 真宗大谷派のこと。 ^ 『真宗大谷派宗憲』第三章 真宗本廟 第十三条 ^ 単位宗教法人としての寺院ではない…西本願寺の場合は、「浄土真宗本願寺派」が包括宗教法人・「本願寺」(西本願寺)が被包括宗教法人である。(出典 - 宗門機構組織略図表) ^ 『東本願寺』淡交社(2009)P.100(解説、草野顕之)・121(解説、伊藤延男) ^ 『東本願寺』淡交社(2009)P.22(解説、木場明志) ^ 『東本願寺』淡交社(2009)P.22(解説、木場明志)より引用。 ^ 総工費は、瓦葺土再資源化費用が含まれる。 ^ 「阿弥陀堂の御修復に向けて」、真宗大谷派(東本願寺)宗務所、p.7「御影堂の修復について」御影堂の修復の概要を参照。 ^ 「修復後(2010年3月撮影)」の画像で影のように見えているのが明治瓦である。 ^ 「阿弥陀堂の御修復に向けて」、真宗大谷派(東本願寺)宗務所、p.13「環境に配慮した御修復」御影堂瓦再資源化の取り組みを参照。 ^ a b 外陣…正式ではないが、参拝席を「外陣」と呼ぶ場合もあり、その場合は本来の外陣を「柵内」と呼ぶ ^ 『東本願寺』淡交社(2009)P.121(解説、伊藤延男) ^ 『東本願寺』淡交社(2009)P.120(解説、伊藤延男) ^ 「阿弥陀堂の御修復に向けて」、真宗大谷派(東本願寺)宗務所、p.1「阿弥陀堂の概要」を参照。 ^ 床面積比…柱に囲まれた部分の床面積の比較である。御影堂の床面積は2,892.6m2(桁行63.6m・梁行45.5m)であるのに対して、阿弥陀堂は1,346.5m2(桁行39.8m・梁行33.8m)である。向拝・後堂などは面積に含まない。 ^ 「阿弥陀堂の御修復に向けて」、真宗大谷派(東本願寺)宗務所、p.1「阿弥陀堂の概要」阿弥陀堂の荘厳についての阿弥陀堂正面奉掛図を参照。 ^ 真宗大谷派・御真影の還座に伴い御厨子を府中刑務所へ『南御堂』真宗大谷派難波別院、2010年4月1日。 ^ 「御影堂門の釈迦三尊像」『週刊 古寺を巡る』第27号「東本願寺」、小学館、2007年8月、P.12。 ^ 非公開…御影堂門上層部は、真宗本廟奉仕の日程により参加者に公開するため完全非公開ではない。以前は報恩講などの行事の際に公開されていたが、上層への階段の傾斜が急で危険であることなどから、平時は非公開としている。 ^ 本山読経とは、「本山永代経」、「本山申経」のこと。 ^ 浄土真宗ドットインフォ > 交流館施設案内 ^ 浄土真宗ドットインフォ > 交流館へのアクセス ^ a b c d 東本願寺 > 法話 ^ a b 東本願寺 > 真宗本廟収骨 ^ a b 真宗大谷派(東本願寺) > 帰敬式(おかみそり) ^ 年表などの文献には、現住所の「烏丸七条」ではなく、「烏丸六条」と記述される。(『真宗の教えと宗門の歩み』2003年、第3版、P158) ^ 「宗教法人 本願寺」…「東本願寺」の正式な法人名。 ^ 宗教法人法に基づく「解散の登記」…『宗教法人法』第57条合併の登記・第58条解散の登記 ^ 「寺院」とは、「仏寺とそれに付属する別舎をあわせた称。」(『大辞泉』)、「宗教的儀式を執り行うための建物。」(『大辞林』)である。よって寺院の定義に、法人格の有無は無関係である。 ^ 瓦葺き替え工事…瓦の3割は、再利用している。 ^ “東本願寺 僧侶にサービス残業”. NHK (2017年4月26日). 2017年4月26日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年4月26日閲覧。 ^ “真宗大谷派、残業代未払い 違法な労使覚書を40年超締結「職員に甘えていた」”. 産経新聞 (2017年4月26日). 2017年4月27日閲覧。 ^ http://www.sankei.com/west/news/170426/wst1704260060-n1.html ^ 「京都駅より徒歩7分」 - 公式サイト東本願寺について › アクセスを出典とする。 ^ 「五条駅より徒歩5分」 - 東本願寺について › アクセスを出典とする。 ^ 「烏丸七条バス停より徒歩1分」 - 東本願寺について › アクセスを出典とする。 真宗大谷派宗務所 編 『真宗の教えと宗門の歩み』 真宗大谷派宗務所出版部、2007年、第3版。ISBN 978-4-8341-0273-4。 『真宗本廟 東本願寺』 真宗大谷派宗務所出版部、2000年。ISBN 4-8341-0294-7。 真宗大谷派宗務所 編 『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』 真宗大谷派宗務所出版部、2006年。ISBN 4-8341-0355-2。 千葉乗隆 『浄土真宗』 ナツメ社〈図解雑学〉、2005年。ISBN 4-8163-3822-5。 坂東 浩 監修 『うちのお寺は真宗大谷派』 双葉社、2005年。ISBN 4-575-29813-1。 大谷暢顯・井沢元彦 『東本願寺』 淡交社〈古寺巡礼 京都 40〉、2009年。ISBN 978-4-473-03510-3。 『週刊 古寺を巡る』第27号「東本願寺」、小学館、2007年8月。 「阿弥陀堂の御修復に向けて」、真宗大谷派(東本願寺)宗務所、2009年。 真宗大谷派 大谷派御歴代 大谷祖廟 - 真宗大谷派の親鸞の墓所 真宗大谷派 名古屋別院 真宗大谷派 難波別院 京都タワー - 「お東さんのろうそく」とも呼ばれる事もあるが、本来は灯台をモチーフにしたものである。 お東騒動 東本願寺の時間 本願寺道路(本願寺街道、有珠新道) 日本の寺院一覧 日本の寺の画像一覧 真宗大谷派(東本願寺) ようこそ、東本願寺へ 東本願寺ストリートビュー", "建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。 日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西がはじめとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。 その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。 創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる。 建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災にあっており、創建当時の建物は残っていない。 重要文化財。寺の南側正面、八坂通りに面した四脚門。 平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したものと伝えるが定かでない。様式的には鎌倉時代末頃の建築である。 「望闕楼」(ぼうけつろう)の別称がある。静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から1923年に移築したもので、江戸時代末期の建築である。 仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている。 明和2年(1765年)の建立。また、平成14年(2002年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により双龍の絵が描かれた。 重要文化財。室町時代の建物で、もと広島の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもの。東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結する。 創建当初は杮葺であったが、1736年に瓦葺きに改められた。建物の外周すべてに建具が入り、壁が少ない構造のためか、1934年の室戸台風で倒壊し、1940年に創建当初の杮葺で復旧された。その後1962年に銅板葺きに改められていたが、2013年に杮葺に復した。 各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されている。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』(しょうじょうるてん)『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』(計60面、1940年完成)が設置されている。 北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。二畳台目下座床の席。構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られる。大正年間に現在地に移築された。 北門 西門 本坊(庫裏) 浴室 1628年(寛永5年)三江紹益によって建立されたもの。現在のものは平成に入って再建されたものである。いわゆる明智風呂で、湯気で身体を温める蒸し風呂形式である。 開山堂 境内の北東にある開山堂は、開山栄西禅師の墓所。旧名を護国院、古くは興禅護国院と呼ばれていた。そして開山栄西祖師八百年大遠諱の慶讃事業として、開山堂の桜門修復工事が、2013年(平成25年)1月に完了しました。この桜門は、もともと京都宇多野鳴滝にある建仁寺派妙光寺にあったもので、1887年(明治20年)に現在の開山堂が再建された翌年の1885年建仁寺に移築されたものである。 桜門をくぐると正面に開山塔を拝することができます。その中には入定塔があり栄西禅師の木像が奉安されている。 明星殿(楽神廟、楽大明神) - 吉備津神社の末社である「楽の社」の神を、楽大明神として祀る。虚空蔵菩薩を本地仏とする。縁日は11月13日。 京都ゑびす神社(もとの鎮守社) 明治時代の廃仏毀釈により多くの塔頭が失われ、現在は14院が残るのみ。 正伝永源院(しょうでんえいげんいん) 建仁寺の真北に位置する境外塔頭。当初正伝院と永源庵は別個の塔頭寺院だった。 正伝院(しょうでんいん) 鎌倉時代の創建、開基は建仁寺第十二世義翁紹仁。当初は祇園の地にあった。応仁の乱以後荒廃するが、大坂冬の陣ののち京都に隠居した織田有楽斎が元和4年(1618年)に復興、本院に住して茶道を極めた( →「如庵」も参照)。 永源庵(えいげんあん) 南北朝時代の創建、開基は建仁寺第三十九世無涯仁浩。細川頼有がこの無涯仁浩を師として禅に帰依したことが縁で、以後永源庵は和泉上守護家細川氏8代の菩提寺となり、さらにこの系統から出た細川幽斎・細川三斎父子を祖とする熊本藩主家細川氏の菩提寺の一つともなった。 両塔頭とも幕末から明治維新の混乱期に衰退し、特に永源庵は明治初年にはすでに無住となっていたことから、廃仏毀釈ですぐに廃寺と決まってしまった。ところが永源庵は建仁寺の真北に位置する境外塔頭だったことが幸いして建物そのものが直ちに破壊されなかったため、廃仏毀釈を生き残った正伝院がこの永源庵の跡地に移転することになった。その後正伝院は、細川侯爵家の菩提寺たる永源庵の名を絶やすには忍びないということで、寺名を旧両塔頭の名を合わせた正伝永源院と改め今日に至っている。 常光院(じょうこういん) 温中宗純を開山とする。温中は妙心寺派の禅僧である。1604年(慶長9年)に豊臣秀吉の親族である木下家定が中興した。1872年(明治5年)に替え地を得て、現地に移建される。木下家定の墓所。 霊洞院(れいとういん) 建仁寺26世の慈照高山(法燈派)を追請開山とする塔頭で、弟子の海雲禅慧らが創建した。現在は建仁寺の僧堂(専門道場)。左辺亭竹田黙雷の時に禅堂が創建された。1552年(天文21年)に焼失し、1554年(天文23年)に再建された。その後1853年(嘉永6年)に改築される。 清住院(せいじゅういん) 蘭洲良芳の塔頭で、蘭州は1378年(永和4年)に54世として建仁寺に住持した。足利義満からあつい信頼を受けた、五山文学僧である。1873年(明治6年)に花見小路から現地に移る。 興雲庵(こううんあん) 陀枳尼尊天(だきにそんてん)が興雲庵の鎮守稲荷として祀られている。 禅居庵(ぜんきょあん) 開山は中国僧である大鑑禅師(清拙正澄 1274-1339)。境内の中には摩利支天堂がある。右側の写真がそれである。境内には狛犬ではなく狛猪がある。 堆雲軒(たいうんけん) 1346年(正平1年)霊洞院の正中西堂禅師の建立による塔頭。 久昌院(きゅうしょういん) 建仁寺境内の西側に位置する。1608年(慶長13年)に前加納藩主であった奥平信昌が三江紹益を開基に迎えて創建した奥平家の菩提寺で、九昌院の名前は信昌の法号から名付けられたと言われている。 大統院(だいとういん) 建仁寺境内の南東の端に位置する。夢窓疎石の法嗣である、青山慈永(1302-1369)を開山として1352年に創建された寺院であって、本尊は聖観音である。 霊源院(れいげんいん) 両足院(りょうそくいん) もとは知足院といい、その寮舎であった也足軒と合併し両足院となったともいう。 戦国武将、黒田長政に所縁の塔頭で、元は鞍馬にあった毘沙門天像を兜の中に入れ、関ヶ原の戦いで活躍したとの言われがあり、明治時代になり黒田侯爵家から像が寄進され、毘沙門天堂に祀られた。 西来院(せいらいいん) 開山は宋から来た蘭渓道隆(らんけい どうりゅう 1218-1278)である。北条時頼の招聘で蘭渓道隆は鎌倉にある建長寺の開山となった名僧であり、大覚禅師といわれ日本で禅師号最初の禅僧でもある。そして兀庵普寧(ごったん ふねい)の来日を機に、蘭渓道隆は1262年(弘長2年)建仁寺第11世住持に迎えられ、塔頭西来院の開山となった。西来院の本堂は内陣中央正面に、大覚禅師の等身木造り坐像を安置している。 大中院(だいちゅういん) 建仁寺北門前の花見小路通の南端東側に位置している。大中院は東海竺源(1270-1344)が開基である。ただ何度も戦乱と大火により復興を繰り返した。方丈は南面し、雪窓和尚が再建した当時の遺構と言われている。方丈の室中正面には、後光厳天皇の扁額「勅謚安威禅師」が掲げられ、本尊白衣観世音菩薩立像が安置されている。 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ) 風神雷神図(国宝)-俵屋宗達筆。金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神を描く。たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせる。印も落款も無いが、俵屋宗達の代表作として名高い。原本は京都国立博物館に寄託され、常時の公開はされていないが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができる。元々は京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈された。 方丈 勅使門 絹本著色十六羅漢像 16幅 紙本墨画竹林七賢図 16幅(方丈室中 旧障壁画) 紙本墨画花鳥図 8幅(方丈書院の間 旧障壁画) 紙本淡彩琴棋書画図 10幅(方丈衣鉢の間 旧障壁画) 紙本墨画雲竜図 8幅(方丈礼の間 旧障壁画) 紙本墨画山水図 8幅(方丈檀那の間 旧障壁画) 一山一寧墨蹟 雪夜作(正和乙卯臘月) 明恵上人筆消息(上覚御坊宛) 宋拓石橋可宣筆三自省 3幅 三彩兕觥形香炉(じこうがたこうろ) 奥田頴川作 - 2017年度指定。 ※「竹林七賢図」「花鳥図」「琴棋書画図」「雲竜図」「山水図」は、海北友松一派の筆になる方丈旧障壁画であり、襖絵から掛軸に改装されている。 ※典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。 建仁寺四頭茶礼(京都市登録無形民俗文化財) 2010年3月23日付で指定 法堂 浴室 大鐘楼 小鐘楼 楽神廟 西門 北門 向唐門 庫裏 四頭茶会は、1141年(永治1年)の4月20日に生まれた建仁寺開山の明庵栄西禅師の誕生日に合わせて、四月二十日に開山降誕会の行事として開催される。 栄西の遺徳を偲び慶讃法要を厳修し、建仁寺本坊の大方丈での古式にのっとった四頭の茶会。そのほか当日は、裏千家、表千家などの副席もあって、茶道を志す方にとっては関心のある儀式といえます。 詳しい説明は避けますが四頭茶会とは大まかに言えば、四人の正客に準じて相伴客がお茶をいただく、広間での作法に近いといえる。 そしてその由来は、中国の宋・元の時代に禅宗寺院で行われ、それが鎌倉時代に日本へ禅と一緒に入ってきたものといわれている。 臨済宗大本山建仁寺では毎月第二日曜日に坐禅会を開催しています。坐禅会は開山栄西禅師こと千光国師から名前をとって「千光会」と呼ばれています。平成29年頃からは、二百名前後の参加者があって盛況です。時間厳守。室内では極力静かに願います。また途中での休憩時以外の退出等は他の参加者の邪魔になりますので、ご遠慮願います。 坐禅会の参加費は無料です。(注意 但し終了後拝観される場合には別途拝観料を要します。) 坐禅会は毎回次の要領で実施されます。八月は盆につき休会、七月は暁天坐禅会緑陰講座として三日連続であります。下記参照のこと。 開催日 毎月第二日曜日 07時50分~ 静座 08時00分~ 坐禅 二炷 08時45分~ 般若心経と白隠禅師坐禅和讃の読経 09時00分~ 小堀泰巌建仁寺派管長の「碧巌録」提唱 09時50分~ 四弘誓願文 10時00分  終了 ○暁天坐禅会緑陰講座 七月は第二日曜日を含む金土日の三日間開催されます。時間は通常より早く六時半から開催。最初の二日間は大学教授等が講演、最終日の日曜日は通常の提唱となっている。 2009年1月31日に、木造の十一面観音坐像が何者かに盗まれたが、同年3月2日盗んだ男が逮捕され、無事仏像は押収された。 京阪本線 祇園四条駅 徒歩7分 阪急京都線 河原町駅 徒歩10分 京都市営バス 「東山安井」バス停(80・86・202・206・207系統)より徒歩5分 安井金比羅宮 六道珍皇寺 六波羅蜜寺 祇園甲部歌舞練場 法観寺 高台寺 ^ 「関雪年表」(白沙村荘 橋本関雪記念館公式サイト) ^ 『臨済宗大本山 建仁寺』2016年パンフレット ^ 華蔵界 第37号 臨済宗建仁寺派宗務本院発行 2013年3月 ^ 『京都の禅寺散歩』竹貫元勝 雄山閣出版 1994年7月発行 ^ 平成29年9月15日文部科学省告示第117号 ^ 国宝・重要文化財の指定について(文化庁サイト) ^ 京都府指定・登録文化財 ^ 四頭茶会案内パンフレット 大本山建仁寺発行 2014年 井上靖、塚本善隆監修、秦恒平、伊藤東慎著『古寺巡礼京都6 建仁寺』、淡交社、1976 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛東下』駸々堂、1981 『週刊朝日百科 日本の国宝』71号、朝日新聞社、1998 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店 『国史大辞典』、吉川弘文館 『観光&ツーリズム』17号、大阪観光大学観光学研究所、2012 日本の寺院一覧 日本の寺の画像一覧 建仁寺 建仁寺ストリートビュー 正伝永源院並びに織田有楽斎の墓", "三宝院(さんぼういん)は、京都市伏見区醍醐にある寺院。真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭、大本山、門跡寺院である。また、真言宗系の修験道当山派を統括する本山であった(現在は修験道当山派なる宗教法人はない)。三宝院門跡は、醍醐寺座主を兼ね、真言宗醍醐派管長の猊座にある。 永久3年(1115年)、左大臣 源俊房の子で醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院(かんじょういん)として開き、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。康治2年(1143年)に鳥羽上皇の御願寺となっている。勝覚が村上源氏の出身であったことから、初期には代々源氏の寺院とみなされていた。  鎌倉から南北朝時代にかけて、成賢(7世)・憲深(11世)・定済(13世)・賢俊(21世)と高僧を輩出し、足利尊氏から厚く保護された。 成賢は朝廷や鎌倉幕府の信任が厚く多くの弟子を育成したが、亡くなった後に弟子の道教が三宝院、同じく弟子の憲深が極楽房(後の報恩院)を継承した。ところが、道教が急死したことから、朝廷では三宝院の再建のために憲深を三宝院門跡に任じた。このため、憲深と亡くなった道教の弟子が対立した。だが、火災によって三宝院は焼失してしまい、三宝院を再建したのは憲深の弟子の定済であった。だが、憲深の他の弟子達もこれに反発したために、三宝院の後継を巡る争いが続いたが、定済の流れを汲む賢俊が足利尊氏の庇護を背景に三宝院のみならず報恩院・理性院・金剛王院も支配下に置いて他派を圧倒した。 賢俊の没後、三宝院の急激な台頭に対する醍醐寺内部を含む内外の反発の動きを受けて光済(22世)が配流されるなどの苦難を受けるが、応安7年/文中3年(1374年)になって足利義満が光助(23世)を室町幕府の祈祷を行う武家護持僧の管領役に任じたことから幕府の中でも特別な扱いを受けた。反面、これが室町幕府による三宝院人事への介入の名目となり、定忠(24世)は足利義満の不興を買って醍醐寺を追放されて三宝院門跡が一時空席となっている。満済(25世)は「黒衣の宰相」とも呼ばれ、応永3年(1396年)に足利義満の猶子となって醍醐寺座主に任じられ、続いて准三后となり、後には足利義教の室町幕府将軍擁立にも活躍するなどした。以後、歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる慣例が成立する。また、古くから醍醐寺は真言宗系の修験の中心であったが、この頃から三宝院が真言宗系の修験者・山伏の取締にあたるようになる。また、貴種出身の門跡で諸事情によって先に門跡の継承が決定した者であっても、伝法灌頂に必要な四度加行(十八道法・金剛界法・胎蔵界法・護摩法)を全て完成させなければ、伝法灌頂を受けて正式な門跡にはなれないという原則が厳守されていたことも三宝院が重んじられた一因になったと考えられている。 応仁の乱で三宝院が焼失し廃寺同然となるが、安土桃山時代に醍醐寺金剛輪院の院主であった義演は豊臣秀吉の信頼が厚かったため、同院を中心に有名な「醍醐の花見」が開かれた。義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称した。桜で有名な醍醐寺三宝院庭園はその時期に整備された。義演は徳川家康からも信任を受け、江戸時代初期の天台宗系修験道である本山派本山の聖護院との相論では江戸幕府の支援を受けて、慶長18年(1613年)に修験道法度が制定された。 明治4年(1871年)、廃仏毀釈の影響で門跡号を差し止められるが、14年後に復称する。現在では、真言宗醍醐派総本山として宗務庁、醍醐寺の寺務所が三宝院内に設置され、醍醐派管長・醍醐寺座主・三宝院門跡の三職兼務が定められており、仲田順和が在任している。 唐門 - 国宝 表書院 - 国宝 本堂(護摩堂) - 重要文化財、快慶作の弥勒菩薩を安置 純浄観 - 重要文化財、桃山時代移築 奥宸殿 - 重要文化財、江戸時代初期建立 豊国大明神 - 庭の背後の小さな社。秀吉の神霊を祀る。 枕流亭 - 茶室 松月亭 - 茶室、江戸時代末期建立 表書院 - 醍醐の花見の際に奈良から移された能の楽屋を再移転し、中門を付加するなど書院造風に整えたもの。 唐門 - 平唐門、檜皮葺、黒漆塗り。正面扉に金箔の桐紋、その脇に菊紋を張り付けるいかにも桃山期らしい豪壮な門。2011年(平成23年)に行われた解体修理の結果、遺された墨書などから本来三宝院のために造られたものでなく、他の場所に建立する予定のものが何らかの事情によりここに建立されたと推測される。北政所の寄進、前田玄以の奉行により建立されたとの伝承もある。かつては漆塗りが剥落劣化していたが、2011年の修理時に黒漆塗が施されて、印象は一新された。 三宝院殿堂 6棟 玄関 勅使の間・秋草の間・葵の間 庫裏 宸殿(奥宸殿) 純浄観 護摩堂(本堂) 宝篋印塔 醍醐寺南総門南方400mほどの山側の三宝院墓地内に立つ。壇上積みの上にさらに二重の壇を積み、蓮座と請座を設けた上に立つ。請座の側面には走獅子と牡丹の文様を彫る。南北朝期の宝篋印塔だがその荘厳さと装飾性において比類を見ない。 三宝院障壁画 72面 - 長谷川等伯一派と石田幽汀の作 表書院障壁画 40面 紙本著色松柳図 床貼付3(上段の間) 紙本著色柳草花図 違棚壁貼付6、襖貼付4、戸襖貼付6(上段の間) 紙本著色果子図 違棚天袋貼付2(上段の間) 紙本著色四季山水図 襖貼付8、戸襖貼付11(中段の間) 勅使間秋草間障壁画 32面 紙本著色竹林花鳥図 襖貼付4、戸襖貼付4(勅使の間) 紙本著色秋草図 障子腰貼付6(勅使の間) 紙本著色秋草図 襖貼付8、戸襖貼付6、障子腰貼付4(秋草の間) 醍醐寺三宝院庭園- 秀吉の作庭になると伝え、築造には賢庭の名も伝えられている。中央に据えられた藤戸石は聚楽第から運ばれた由緒のあるもので天下の名石として名高い。 左 中 右 ^ a b c d 藤井雅子「中世における三宝院門跡の確立と存続」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3 ^ 『大日本古文書』醍醐寺文書65号 ^ 大田壮一郎「室町幕府の宗教構想と武家祈祷」(初出:『ヒストリア』188号(2004年)/所収:大田『室町幕府の政治と宗教』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1264-5) ^ 満済以降、武家との関係が深くなり、三宝院門跡がより将軍の居所に近い法身院を居院として継承するようになったことも一因で、応仁の乱当時の義賢(26世)は足利満詮の実子であった。また、足利義稙の将軍復帰時には足利義澄に近い門跡持厳は京都を脱出し、代わりに義稙の猶子であった義堯(九条政基の子)が門跡になっている(藤井雅子「中世における三宝院門跡の確立と存続」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3)。 古都京都の文化財 国宝一覧 日本の特別名勝一覧 日本の特別史跡一覧 世界遺産 京都 醍醐寺:三宝院のご案内 座標: 北緯34度57分8.2秒 東経135度49分10秒 / 北緯34.952278度 東経135.81944度 / 34.952278; 135.81944" ]
ABC01-02-0236
愛称をチータという、『いっぽんどっこの唄』『三百六十五歩のマーチ』などのヒット曲で知られる歌手は誰でしょう?
水前寺清子
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[ "水前寺清子", "森昌子", "梓みちよ", "梶光夫", "小柳ルミ子" ]
[ "水前寺 清子(すいぜんじ きよこ、1945年10月9日 - )は、日本の女性演歌歌手、女優。本名は林田 民子(はやしだ たみこ)。身長158㎝、血液型O型。 熊本県熊本市中央区の子飼商店街で生まれ、小学校まで同地で過ごす。熊本市立碩台小学校、洗足学園中学校・高等学校卒業。 芸名の水前寺は故郷・熊本市の水前寺成趣園から、清子は熊本ゆかりの戦国武将・加藤清正からそれぞれ取られている。愛称の「チータ」は、小柄だった水前寺を作詞家の星野哲郎が「ちいさなたみちゃん」と呼んだことに由来する。動物のチーターとは直接の関係はないが、着物の柄などにチーターの意匠を用いることがある。過去には長年にわたってサンミュージックプロダクションに所属していた。 見得を切りながらの歌唱は「んーにゃっ!」という語尾ひねりによって物まねされることが多いが、本人の癖はそれほど強くない。しかし、自らの物まねを意識してあえてひねることもある。 15歳時に出場した「コロムビア歌謡コンクール」に出場し2位になる。そのときに星野哲郎が水前寺に声を掛けたことが後のデビューのきっかけになった。その後、歌謡コンクールを主催したコロムビアで11回もレコーディングをしたものの、レコードデビューすることはできなかった。そこで、水前寺はクラウンレコードに移籍し、畠山みどりが歌う予定だった「袴を履いた渡り鳥」を畠山のキーのままで「涙を抱いた渡り鳥」とタイトルを変更した上で念願のデビューを果たした。 1970年からは民放ドラマ史上最高の視聴率56.3%を記録したTBSのドラマ「ありがとう」に主演し、山岡久乃演じる母と娘(水前寺)の日常生活、石坂浩二との恋を演じた。プロデューサーの石井ふく子はこのドラマを構想以来、水前寺がTBSに歌の仕事に来るたびに局内の女子トイレで待ち構えて口説き、歌手しかやらないという水前寺をついに出演させた。しかし水前寺が歌手活動に専念したいとの意向で第3シリーズをもって降板し、第4シリーズは主演が佐良直美に交代となった。 1994年にサントリーフーズより清涼飲料水「C.C.レモン」が発売となり、そのCMソング「C.C.レモン」(商品と同名タイトル)を歌ったことで話題になる。 プロサッカークラブのロアッソ熊本応援イメージソング 「HIKARI 〜輝く未来へ〜」を歌った縁から、ロアッソのファンであることを自ら公言している。 「NHK紅白歌合戦」には1965年(16回)から1986年(37回)まで22回連続出場していた。その内紅組の司会を4回務めたことがあり、1960年代後半 - 1980年代にかけて、紅組内ではムードメーカー的存在であることが多かったが、トリを飾ったのは1983年(第34回)のわずか1回だけである。しかしながら、全盛を極めていた時代の紅白の象徴的な歌手であり、様々なエピソードが残されている(詳細は後述)。 また、健康日本21推進ウオーキング実行委員長、社団法人日本ウオーキング協会理事の役職も務めており、本業よりもそうした方面での活動も多くなっている。 2011年6月14日に広島で行ったコンサートでステージ中央の階段から落ち、左ひざをはく離骨折する大けがを負った。当日はそのまま公演を続けたが、翌15日に病院で診察を受けたところ、左ひざの骨折だけでなく、じん帯損傷も判明。担当医には「治るまでかなりの時間がかかる。絶対安静」と言われたという。自身のブログでは「大丈夫です。何とかいつものように、あちこちと動けるように努力してま〜す。あまり心配しないでください」とつづっている。 これまでに制作した衣装や着物などを自宅内に全て保管しておりごみ屋敷状態になってると、2015年10月5日放送の『私の何がイケないの?』で紹介されて、捨てずに整理する方法を提案されてから総勢13名が作業にあたり綺麗に片付いた。 和田アキ子とは、1970年代に確執が囁かれ、水前寺が和田のレギュラー番組から出演オファーがあった際、「アコが嫌いだから出演しない」とオファーを断り、それを聞き和田が涙をこぼしたと『女性自身』(1974年2月9日号)に報じられた。水前寺は2016年11月4日放送のフジテレビ『ダウンタウンなう』で、「週刊誌に(番組に)出てくれないんで、一晩中泣いたと書かれたんですよ。その時に、私はあの方が元気いいところを知ってましたんで、『泣くタマか!』と言ったのは覚えています。売られたケンカは買います。この事件は、(喧嘩を)売られたと思いましたから。私が全く知らないところでこういうことがあって、『一晩泣いた。どうしてくれるんですか?』って言われたんで。『泣くタマか』って言ったのは、今でも本当に申し訳なかったと思います。アッコちゃんは、本当に今はとってもよくしてくださるし、優しいです」と語った。 前史…水前寺の父、林田壽は熊本市内で化粧品・洋品店を経営していたが、過大投資が祟って破綻し、一家は夜逃げ同然に「あさかぜ」で上京、歌のうまい民子に将来を託した。 1964年10月15日 『涙を抱いた渡り鳥』でデビュー。 1965年 NHK紅白歌合戦に初出場。以降、1986年まで22回連続出場。 1968年 『三百六十五歩のマーチ』が100万枚の大ヒット。翌1969年3月開催の第41回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用となる。 1969年 『真実一路のマーチ』で第11回日本レコード大賞大衆賞受賞。 1970年 ドラマ『ありがとう』(TBS) 主演 1981年 『有明けの海』で古賀政男記念音楽大賞、日本作詩大賞に入賞。 1989年 音楽家「小松明」と結婚。2月28日、水前寺公園の中の出水神社で挙式。 2000年 熊本市に老人ケアハウス「水清庵」を設立。また「水前寺清子一座」を旗揚げ、全国公演。 2005年 期間限定再集結聖飢魔IIのミサにゲスト出演し、聖飢魔IIの演奏で『三百六十五歩のマーチ』をデーモン閣下と歌唱。 2017年 第1回ももいろ歌合戦に出場。 デビュー前、芸名は「東京マリ」にしようと自分で考えていた(もともとポップス歌手志望だった)が、演歌歌手としてデビューすることになり、恩師である星野哲郎やレコード会社ディレクターの提案によって芸名が「水前寺清子」になった。また、星野の葬儀では弔辞を読み上げた。 水前寺は1960年代半ば - 1980年代まで紅組トップバッター2回、紅組トリ1回、紅組司会4回、1981年よりチームリーダー制が敷かれてからは紅組リーダー4回(1983年は盟友である同期デビューの都はるみにその座を禅譲している)をそれぞれ務めた。 1968年、第19回紅白で初の紅組司会を務める。冒頭の選手宣誓で「昭和43年」を「昭和33年」と言い間違えた。またこの頃は大抵、着流しやパンツルックなど、ボーイッシュな衣装でテレビに出ることが多かった彼女が芸者姿で司会をした。水前寺は「当日ドキドキで精神安定剤を飲んだらスーッと気持ちが落ち着いてきたから、『こりゃいいや』と思ってもう1錠飲んだらヘロヘロになっちゃって。選手宣誓の時、昭和43年を34年と言っちゃった」と話している。 1971年、2回目の紅組司会を務めたが、紅組トリおよび大トリとなった美空ひばりの曲紹介を拒否したと噂されたことで、後日謝罪の記者会見を行い波紋を呼んだが、実際は、大トリだけは宮田輝が司会をするということが決まっていた。(フジテレビ系「ダウンタウンなう」に出演時の発言より) 翌1972年の紅組司会は佐良直美に変更となるも、その翌1973年は水前寺が同年3回目の紅白司会を務めている。 1979年、4回目の司会を務めた紅白では、歌手としてよりも司会の方に重点を置く意思で司会に臨んだ。そのため、紅組出場歌手の意思を取りまとめるべく、特に初出場で緊張の極度にいる歌手に対しては激励の言葉をかけ続けたり、各歌手のいい部分を最大限すくい上げようと司会者面談をいつも以上に念入りに行うなど、努力を惜しまなかった。 1982年の入場行進は、それまでの五十音順での行進という鉄則を破って、意表をつく組み合わせでの入場となった。この時に同期の都はるみと共に入場した相手は当時のトップアイドル、近藤真彦・田原俊彦だった。 1983年、「あさくさ物語」で出場19回目にして初の紅組トリを務める。しかしこの年、紅白の直前に、最大の理解者であった父親が死去。彼女のたった1回の紅組トリは、終始涙を浮かべての悲しみを押し殺してのステージとなった。紅組司会の黒柳徹子は「天国のお父ちゃん、聞こえますか?」と曲紹介時に述べた(黒柳の言葉を聞いた水前寺は父親に届いたと思ったという)。なお、水前寺は11月20日の時点で紅組トリ担当を知らされていたが、関係者や親族にもそのことを明かしてはならないとの注文がNHK側から付けられていたために、病床の父親にもその事実を告げることができなかったことが心残りとなっていると言い、この事実を父親に告げていれば、紅白本番の時まで父親は生きていてくれたのかもと思っていると話す。そして同年から1985年まで設けられた個人賞「銀杯」を獲得している(優勝チームの個人賞は「金杯」で、白組の沢田研二が獲得)。 トリ担当は1回限りだが、出場した他の回でもトリの有力候補に挙がったことは幾度もあったとされる。紅組司会についても実際選出回以外でも有力候補に挙がった回があると言われる。 佐良直美や森昌子が歌手兼司会で出演した回では、当人の歌手出番の代理曲紹介を行ったこともある。 1987年、紅白改革の嵐に巻き込まれる形で、出場22回にして落選という挫折を味わう。その際、番組側から水前寺に対し、「辞退した」と公に発表することを許可されたが、「(落選という)結果を正面から受け入れようと思いました。辞退は逃げだと思います」とこれを拒み落選をそのまま公表した。1990年代に入り、紅白でも懐メロが本格的に解禁されて再出場の機会は幾度となくあるものの、落選後は1度も出場できていない。紅白が50回を迎えた時のインタビューでは「今ではテレビで見る立場になってしまいましたが、お声がかかったり時代の流れに乗ればいつでも出るし待ってます」とコメントしている。ただし、紅白の事前番組(『思い出の紅白・感動の紅白』など)にはコロッケらとほぼ毎年出演している。また、2009年11月に読売テレビ制作・日本テレビ系列『情報ライブ ミヤネ屋』にゲスト出演した際、紅白に初出場を果たした歌手が記者会見で「親孝行になった」と発言する姿が印象的だと話し、紅白を「若い歌手に是非出てほしい番組」と推奨していた。 自身のブログでは、「紅白はヒット曲が出ない限りは出場しない。今は半卒業状態」だと綴っていた。 ペプシコーラのCMソングに起用された「1+1の音頭」は、1970年11月までに26万枚を売り上げ、盆踊りの定番曲の一つとしても知られる。水前寺が宣伝以外でこの曲を歌うのは2015年11月7日にトロント日系文化会館で開催されたチャリティーコンサートが初めてだったという。 TBSのドラマ「ありがとう」に出演を拒んだ理由として、「私は歌手であり、女優をやったら歌が売れなくなってしまうから」と本人が語っている。しかし、石井ふく子の熱心な説得により出演し、結果的に高視聴率を獲得し、シリーズ化されるほどの人気を博した。しかし、「その後、歌が売れなくなった」と、本人は自虐的に語っている。 実母の介護経験から、熊本市に老人ケアハウス「水清庵」を設立した。切っ掛けは、仲の良かった母親が認知症を患って、最初に水前寺の名前を忘れてしまいショックだった事と語っており、その時の経験を生かせないかと思い、設立を決意したという。 夫である6歳下の小松明は、現在、水前寺のマネージメントに専念しているという。子どもはいないが夫婦仲は良く、自分の仕事よりも水前寺のマネージメントに徹して平身低頭で売り込む姿から、『水前寺清』と業界内で形容されているという。皮肉にも、この事が知られることとなったのは、同じく夫がマネージメントに乗り出した水前寺と同期で仲の良い小林幸子の独立騒動が切っ掛けであった。 デビュー時から現在まで一貫して世田谷区桜新町に在住。毎年4月の「さくらまつり」には毎年出演している。 想い出の軍歌を唄う(1968年) 麦と兵隊~水前寺清子戦時歌謡を唄う 哀歓の戦時歌謡集(1968年) 戦友~水前寺清子哀愁の軍歌を唄う(1969年) 大利根月夜~水前寺清子 巷の唄ベスト12(1970年) ねんがら子守唄~水前寺清子 こころの故里を唄う(1971年5月) お控えなすって!チータです~水前寺清子 任侠歌謡を唄う(1972年) 時は流れる(1974年) 股旅(1978年) 徒然歌枕(1981年) やぁ!チータ(1984年) チータのカモナ・マイ・ハウス(1988年)※水前寺音楽出版より発売された自主制作アルバム。 水前寺清子歌手生活30周年特別企画 ありがとう30年(1994年10月21日) 素晴らしい冒険 チータ! -Suizenji Kiyoko Live In Tokyo-(1970年) 2枚組。1970年、新宿厚生年金ホールにて収録。 水前寺清子 リサイタル〜演歌人生応援歌(1982年12月) 1982年10月13日、郵便貯金ホールにて収録。 泣いて笑ってひとり旅 あなたをゆさぶるチータの声(1967年)※ナレーションを含むベスト・アルバム 水前寺清子 ゴールデン・ヒット〜\"涙を抱いた渡り鳥\"から\"艶歌\"まで(1968年) 人生の応援歌(1977年) GOLDEN☆BEST 水前寺清子 RCAイヤーズ(2013年6月26日) 水前寺清子の世界(2013年11月2日) (注意点) 対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。 曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。 出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す。 天と地と(NHK系、1969年) - 八重 役 ありがとう(TBS系、1970年-1973年(第1-3シリーズ)) - 主演・四方光 / 古山新(十新)/ 志村愛 役 女と味噌汁 その18(TBS系、1971年) おれは男だ!(日本テレビ系、1971年)第18話「若い生命をぶっつけろ! 」 天下御免(NHK、1971年)ナレーション 青春をつっ走れ 第16話(フジテレビ、1972年) - 水町清子 役 ほうねんまんさく(フジテレビ、1974年)主演 東海道姉ちゃん仁義(フジテレビ、1974年)主演 あたしのものよ(TBS系、1974-1975年) 明日がござる(TBS系、1975年) - 世渡集子 役 バケタン家族(NET、1976年) 大江戸捜査網 第269話「涙の花嫁衣裳」(12ch、1976年) - おきよ 役 銭形平次 第691回「涙の重さ」(フジテレビ、1979年) 遠山の金さん 第1シリーズ 第66話「姓は女医、名は酔いどれ芸者!」(テレビ朝日、東映、1983年) ※高橋英樹版 暴れん坊将軍II 第43話「鉄火意気地のおんな河岸」(テレビ朝日、1984年) - おけい 役 必殺仕事人意外伝 主水、第七騎兵隊と闘う 大利根ウエスタン月夜(ABC、松竹、1985年) - お鹿 / イエローディーア 役 木曜ドラマストリート「心はロンリー、気持ちは「…」IV」(フジテレビ、1986年) まんが道・青春篇(NHK 銀河テレビ小説、1987年) - 須賀照江 役 春日八郎物語(テレビ東京、1993年) 肥後のカミナリ 北里柴三郎(テレビ熊本、1994年) 痛快大名 徳川宗春~吉宗に挑んだ男(テレビ東京、1996年) - 瓦版屋 教習所物語(TBS系、1999年(スペシャル)、2000年(連ドラ)) - 小鳥遊美幸 役 土曜ワイド劇場「法医学教室の事件ファイル16・監察医VS鑑識官 ふたりの熱い闘い」(テレビ朝日、2002年) - 中根祐美子 役 お義母さんといっしょ(フジテレビ、2003年) - 荒巻よし江 役 VICTORY!〜フットガールズの青春〜(フジテレビ、2003年) ナースマンがゆく(日本テレビ、2004年) - 高沢留美子 役 月曜ミステリー劇場「警察庁・内偵監察官 桜沢葵の事件簿」(TBS、2005年) - 主演・桜沢葵 役 課外授業 ようこそ先輩(NHK、2005年10月26日) 火曜ドラマゴールド「大女優殺人事件」(日本テレビ、2007年) - 坂東都季子 役 新美味しんぼPART2(フジテレビ、2007年) 新・京都迷宮案内5 第10シリーズ 第1話(テレビ朝日、2008年1月17日) - 佐竹律子 役 水戸黄門 第40部 第6話「肝っ玉母さん 猛烈告白・松島」(TBS、2009年8月31日) - 紀代 役 サザエさん アニメ&ドラマで2時間半SP(2013年12月1日、フジテレビ) - (特別出演) 戦力外捜査官 第7話(日本テレビ、2013年2月22日) - 北里スエ子 役 夜のヒットスタジオ(フジテレビ) NTV紅白歌のベストテン 紅組初代キャプテン 九州土曜プレゼント(NHK九州・沖縄ブロック放送) チータ55号(TBS系) 飛べ!孫悟空(TBS、1977年-1979年) - イタチ女王 役(声の出演) ワイド!スクランブル(初代メイン司会、テレビ朝日、1996年-1998年) BSふれあいステージ(司会、NHK衛星第2テレビジョン) 渋谷らいぶステージ(司会、NHK衛星第2テレビジョン) 昭和歌謡大全集(司会、テレビ東京系列、年2回、不定期放送) DO YOU?サタデー(司会、BSフジ、2016年4月 - 2017年3月25日) 水前寺清子情報館(司会、BSフジ、2017年4月29日 - 2018年9月29日) 人生は三百六十五歩のマーチ(司会、BSフジ、2018年10月13日 - ) 他多数 座頭市鉄火旅(1967年) - お春 役 わが命の唄 艶歌(1968年) - 眉京子 役 コント55号と水前寺清子の神様の恋人(1968年) - 鶴田きよ / 水前寺清子 / 煙草屋のソメ子 役 コント55号と水前寺清子のワン・ツー・パンチ三百六十五歩のマーチ(1969年) - 水前寺亭清奴 / 鶴田清子 役 三度笠だよ人生は(1970年) - 松浦政子 役 コント55号水前寺清子の大勝負(1970年) - 庄司清子 役 あまから物語 おんなの朝(1971年) - 長谷部キヨ 役 おしゃれ大作戦(1976年) - TVショーの歌手 役 山下少年物語(1985年) - 山本先生 役 デコトラの鷲 其の五 火の国熊本親子特急便(2008年) - 竹原珠代 役 元気印! チータdeマーチ (AMラジオ各局) 歌謡大行進(文化放送) 野村邦丸のごきげん!二重丸◎(文化放送) おはよう!ニッポン全国消防団(ニッポン放送) - 番組開始1年目から年1回、1ヶ月間出演(2016年除く) ペプシコーラ (水前寺自身の談によれば、コカ・コーラを愛飲しておりペプシコーラはそれまで飲んだことがなかった。撮影スタジオにはコカ・コーラが用意されていたといい、それ以後水前寺はペプシコーラのファンになったという) 明治製菓(現・明治) ストロベリーチョコレート エスエス製薬 エスタック、新エスエスブロン液 協和発酵 ダイヤ焼酎(現在はニッカウヰスキーが製造し、アサヒビールから発売) カネボウ カップしるこ(現在はクラシエフーズから発売) カゴメ バーベキューソース ユニ・チャーム 愛犬元気 サントリー C.C.レモン(CMソング。のちに、出演してるバージョンもあり) マンダム GATSBY(歌)※三百六十五歩のマーチの替え歌 高橋酒造 ロアッソ熊本応援ボトル ※挿入歌『HIKARI』も歌っている ※熊本県限定 コナミ がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス 『きっかけはフジテレビ』初代キャンペーンキャラクター(2002年) テレビ熊本(ナレーション)※熊本県限定 ^ これまでに訪れた所 熊本県 - NHK ここはふるさと旅するラジオ(2014年4月19日閲覧) ^ “「ヒューマン」水前寺清子、汗かきべそかき半世紀”. サンスポコム (産経デジタル): p. 5. (2014年11月29日). http://www.sanspo.com/geino/news/20141129/int14112905050001-n5.html 2018年9月1日閲覧。  ^ 自然化粧品 サビーナ 水前寺清子さんスペシャルインタビュー ^ 合田道人『紅白歌合戦の真実』幻冬舎、2004年 ^ 『お宝TVデラックス』での石井・水前寺両者の証言より。 ^ [1],goo ^ 水前寺清子 和田アキ子との確執報道語る「泣くタマか!」,デイリースポーツ,2016年11月5日 ^ 水前寺清子語った大物歌手との確執 「売られたケンカは買う」,女性自身,2016年11月5日 ^ 『紅白50回』 ^ 『紅白50回』 ^ 全日本CM協議会(編)、加藤秀俊(監修)『CM25年史』講談社、1979年、196頁。(『東京新聞』1970年11月12日) ^ 例として【イベント案内】8/16(金)「にしわき市・黒田庄夏まつり」開催のお知らせ☆、にっぽんまんなか紀行(西脇市観光協会)、2013年8月10日。 ^ 観客に元気と感動を与えてくれた「チータ」水前寺清子チャリティーショー、e-Nikka、2015年11月12日号。 ^ a b 心のエステ Session 23 水前寺清子さんから聞いた感動話、bits LOUNGE、2015年。 ^ 第1回日本作詩大賞受賞曲。また、東京12チャンネル系テレビドラマ「いつでも君は」の主題歌として使用された。 ^ 第10回日本レコード大賞・作詩賞受賞曲。また、日活映画「わが命の唄 艶歌」の主題歌として使用された。 ^ 第11回日本レコード大賞・大衆賞受賞曲。 ^ ペプシコーラのCMソングとして使用された。 ^ 水前寺主演のTBS系テレビドラマ「ありがとう」の主題歌として使用された。 ^ NTV系テレビドラマ「青空浪人」の主題歌として使用された。 ^ NHKの音楽番組「みんなのうた」で使用された。 ^ NTV系テレビドラマ「黒帯風雲録 柔」の主題歌として使用された。 ^ 水前寺主演のTBS系テレビドラマ「ありがとう」の第3シリーズのED主題歌として使用された。 ^ フジテレビ系テレビドラマ「東海道姉ちゃん仁義」の主題歌として使用された。 ^ TBS系テレビドラマ「あたしのものよ」の主題歌として使用された。 ^ チータとみつばち合唱団名義。NET系テレビアニメ「みつばちマーヤの冒険」のOP主題歌として使用された。 ^ TBS系テレビドラマ「明日がござる」の主題歌として使用された。 ^ フジテレビ系テレビドラマ「かあちゃんの勲章」の主題歌として使用された。 ^ Chita名義。 ^ 再録音バージョン。フジテレビ系テレビアニメ「丸出だめ夫」のOP主題歌として使用された。 ^ NHKの音楽番組「みんなのうた」で使用された。 ^ コナミのゲームソフト「がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス」のCMソングとして使用された。 ^ M.C.チータ名義。 ^ チータ名義。サントリー「C.C.レモン」のCMソングとして使用された。 ^ チータ名義。 ^ 武田鉄矢とのデュエット。水前寺主演のTBS系テレビドラマ「教習所物語」の主題歌として使用された。 ^ 三好鉄生の同名曲のカバー。 ^ フジテレビのキャンペーン「きっかけは、フジテレビ。」のCMソング、及びフジテレビ系子供向け番組「ポンキッキーズ21」の挿入歌として使用された。 ^ 配信限定シングル。ロアッソ熊本応援ソング。 ^ “18年ぶりナマ司会!70歳・水前寺清子「体調は万全です」”. SANSPO.COM (2016年3月9日). 2016年3月9日閲覧。 赤頭巾ちゃん気をつけて 水前寺清子 オフィシャルウェブサイト 水前寺清子オフィシャルブログ「Chitaオフィシャルブログ」 - Ameba Blog 日本ポータル 熊本県ポータル 音楽ポータル 人物伝ポータル", "森 昌子(もり まさこ、1958年10月13日 - )は、日本のアイドル・演歌歌手・女優。本名、森田 昌子(もりた まさこ)。栃木県宇都宮市出身。 前夫は森進一。長男はロックバンド「ONE OK ROCK」のボーカリストであるTakaこと森内貴寛。次男はテレビ東京に勤務するサラリーマン、三男はロックバンド「MY FIRST STORY」のボーカリストであるHiroこと森内寛樹。 父はフタバ食品の元社員で、兼業農家だった。音楽好きで厳しく歌唱を教えられる。小学校4年生のとき東京に引っ越す。人見知りが激しくいじめにあったため、学校に行くふりをして、実際には行かないことが多かった。 宇都宮市立細谷小学校から港区立御田小学校に移り卒業、港中学校(現:三田中学校)から小野学園女子高等学校に進学し、堀越高等学校に移り卒業。 1971年(昭和46年) 同年10月開始の日本テレビ『スター誕生!』(1971)に13歳で出場。初代グランドチャンピオンとなる。同番組には、昌子本人ではなく、激しい人見知りを克服してほしいと親戚の叔母が内緒で申し込んだもの。オーディション当日は、「洋服を買ってあげるついでだから」という口実で歌を歌わせた。 グランドチャンピオンになった結果、家に色々な芸能プロダクションが来て、昌子を芸能界に勧誘するようになった。父親は猛反対だったものの、家が貧しかったこと、母親の体が弱かったことから、家計の助けになるであろうと、昌子本人が父を説得して芸能界デビューした。ホリプロダクション(現ホリプロ)に所属。ホリプロに決めたのは、学業と両立させてくれるからだった。 1972年(昭和47年)7月1日、徳間音工から『せんせい』で歌手デビュー。当時のキャッチフレーズは、「あなたのクラスメート」と称された。その翌年デビューした同学年の山口百恵、桜田淳子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれる。 1973年、第24回NHK紅白歌合戦に出演。なお、この中三トリオで最初にNHK紅白歌合戦に初出場を果たしたのは森であり、当時女性最年少の15歳での出場だった。なお、現在の女性最年少記録は芦田愛菜の7歳。 1973年(昭和48年)、松竹の『男じゃないか・闘志満々』で映画デビュー。同年、『としごろ』で主演に抜擢された。この年から開催された『ものまね王座決定戦』の初代チャンピオンとなる。 1975年(昭和50年)、『花の高2トリオ・初恋時代』で初めて山口・桜田と共演。また、この年3〜4月に開催された、春の選抜高等学校野球大会(第47回)に『おかあさん』が入場行進曲に選ばれ、森もセンバツ大会の開会式にゲスト出演した。 1977年(昭和52年)、堀越高校を卒業。同期卒業生には岩崎宏美、岡田奈々、池上季実子らがいる。 1977年(昭和52年)の『なみだの桟橋』以降、本格的な演歌歌手への道を歩み始め、『津和野ひとり』『彼岸花』(1978年・昭和53年)など、難易度の高い曲を歌いこなせる実力派へと成長。 1979年(昭和54年)、新宿コマ劇場で史上最年少女座長として『森昌子公演』を行う。 1981年(昭和56年)、第32回NHK紅白歌合戦では『哀しみ本線日本海』で出場9回目、23歳にして初の紅組トリを務める。 1983年(昭和58年)、『越冬つばめ』で第25回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。感激の余り受賞時に嬉し涙を流しながら歌い、その後の第34回NHK紅白歌合戦でも泣きながらの歌唱となる。このほか、TBSの金曜ドラマ『想い出づくり』などドラマにも出演、女優としても活躍した。 1984年(昭和59年)、NHK『みんなのうた』で、『海へ来て』を歌う。放送期間は、1984年(昭和59年)8月1日 - 9月30日(再放送は5回)。 1985年(昭和60年)、第36回NHK紅白歌合戦で初の紅組司会を、歌手出番では2度目の紅組トリをそれぞれ務める『愛傷歌』の歌唱前から感極まって号泣したため、途中で歌えなくなった。 1986年(昭和61年)10月1日、森進一と結婚。これに先立ち8月、引退コンサートおよび引退記念曲『〜さようなら〜』を発表し歌手業を引退。 進一との結婚式はテレビで生中継され、視聴率45.3%を叩き出すなど、日本中の注目を集めた。ただ、その裏では自宅に空き巣が入ったという。昌子は「結婚式の間に、ウチに泥棒が入った。生放送しているので、ウチには誰もいないだろうということで泥棒が…」と生放送がアダとなったと話した。「ドレスのまま、家に帰ったらセコムとパトカーがいて、どうしたんだろうと思ったら泥棒だった」と語る。貴金属一式が盗まれ、「ウエディングドレスを着たままソファに座って…」警察官の聴取を受けたという。 1996年4月、長男・貴寛の小学校入学式の模様を一部マスコミに撮影され、昌子が激怒するという事態が発生。 2001年12月31日、第52回NHK紅白歌合戦へ16年ぶりに出場。これを機に、夫婦共演形式でのコンサートツアーおよびCD吹き込みのみと限定的ながら復帰。ただし、この以前にもテレビ朝日『徹子の部屋』に出演するなど、芸能活動を稀に行うことがあった。 これまで進一との夫婦関係は良好だったが、夫婦共演形式での『ジョイントコンサート』の継続は、主婦業と仕事を両立させようとする昌子にとって心身ともに大変な負担であり、夫婦の溝が深まる大きな原因となった。 2005年2月、自宅で過呼吸の発作を起こし、意識を失って倒れ緊急入院した。薬物中毒と診断され、集中治療室にて胃洗浄を受けた。過換気症候群とも呼ばれる一種のパニック障害だった。集中治療室から一般病棟に移って間もなく、夫の進一が医師に退院を要請し、本人の同意の上で、わずか1日で退院した。このことが様々な憶測を呼び、ワイドショーや週刊誌に不仲説が取り上げられて、後の離婚騒動に発展した。3月、進一と別居。4月19日、離婚を発表。親権を長男が昌子側、次男と三男が進一側で持ち、養育権は3人とも昌子側とすることを進一が提案し、昌子が同意した。養育費は1人につき13万円として進一が負担した。 2006年3月27日、旧所属事務所のホリプロから歌手として復帰することを正式発表。4月、幻冬舎から初エッセー集『明日へ』を刊行。その後、和田アキ子・片平なぎさ・榊原郁恵らにより、『おかえり! 昌子 激励の会』が開かれ、関係者700人が詰め掛けた。5月、『NHK歌謡コンサート』でテレビに復帰。『哀しみ本線日本海』『越冬つばめ』『父娘草』を涙ながらに熱唱した。以後意欲的にテレビ出演などの活動を行う。6月7日、古巣のポニーキャニオンから20年ぶりの新曲『バラ色の未来』をリリース(初登場14位で、初登場としては過去最高の順位。ジャケットタイトルは森大衛揮毫)。この年の暮れには、同曲で第57回NHK紅白歌合戦に5年ぶりに出場した。元夫・進一との競演が注目されたが、結局順序をずらしての出演となり、2人が同じステージに出演する場面は一度も無かった。なお、2007年(平成19年)以降、紅白には出場していない。 2007年 上期のNHK連続テレビ小説『どんど晴れ』で女優業を本格再開。7月13日には22年ぶりのドラマ主演となる金曜プレステージ『お母さん ぼくが生まれてごめんなさい』放送。 同年9月26日、体調不良を訴え、急性肺炎により急遽入院。同日予定していた熊本のコンサートを始め、同年内のツアーの中止を発表。 2008年2月5日、『NHK歌謡コンサート』で『越冬つばめ』を歌い、芸能活動を再開した。 同年3月31日、ホリプロを退社。4月1日に個人事務所おんがく工房を設立。 2009年2月28日個人事務所、おんがく工房より通販による新曲『子供たちの桜』リリース。 同年5月、子宮筋腫の手術を受ける。 同年12月31日、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』大晦日年越しSP『絶対に笑ってはいけないホテルマン24時』の中で、デビュー当時の髪型、衣装で『せんせい』を熱唱した。 このころから更年期障害や貧血、デビュー当時の歌唱力を失った自信喪失などからうつ状態に陥る。 2010年5月17日、子宮頸癌治療のため、子宮を全摘出手術。癌と知って一時的に自殺願望が生まれたことを告白、退院時の記者会見の模様も放送された。 2011年3月23日、レコード会社をホリデージャパンに移籍。新レーベル、ハートソングレコーズから『洗濯日和』をリリース。 2012年11月21日 レコード会社をキングレコードに移籍し「人生に乾杯」を発売 2016年7月1日 デビュー45周年を迎えた、同日、記念シングル「百年の恋歌」 アルバム「百年の恋歌~時を終えて』を発売。当日は自身初のクラブでの記念ライブショーが東京丸の内の「コットンclub」で開催された。 親交 美空ひばりに大変可愛がられていた。ひばりがテレビ局に共演を持ちかけ、昌子を楽屋に呼んだことが最初の対面である。そのときひばりの歌を歌って気に入られ、自宅に招かれて、直接歌を習ったりすることもたびたびあった。ひばりは自らを「オネエチャマ」と呼ばせ、レッスンが遅くなると彼女を自宅に泊めたりもした。 美空ひばりからはプライベートで「マチャコ」と呼ばれていたが、初対面での印象「まあ、ちっちゃい子」から「マチャコ」と呼ぶようになった。ひばりはプライベート以外TV・ラジオなど公の場では絶対に「マチャコ」と呼ぶことはなかった。愛川欽也が「マチャコ」と呼んだとき、ひばりさんから「森昌子」って名があるのよと注意されている。 カバー 演歌の大御所、都はるみのヒット曲『大阪しぐれ』をはじめとした数々の楽曲をカバーする。演歌特有の泥味を感じさせないその歌唱はテレサ・テンと双璧をなすと言われることがある。 物まね 南沙織や あべ静江、小柳ルミ子 の歌マネは絶品で最近売れてる本職のモノマネ芸人よりも完成度が高く、声だけ聴いてたら当人と聴き分けが困難なほど上手い物真似で清水ミチコやコロッケも脱帽した。 先述の通りものまねが上手かったため、ある生放送番組でアグネス・チャンといたずらをしかけた。自分の手番にアグネスがこっそり音声をオフにし、舞台裏から昌子が別のマイクで彼女の歌をあてた。スタッフ一同誰もそのことに気づかず、昌子がばらしたときは怒られるどころか、ものまねの上手さに驚かれ賞賛されたという。 その他、八代亜紀など歌マネのレパートリーの幅は本職のモノマネ芸人よりも多いくらい幅がひろい。 いたずら 若い時はかなりのやんちゃで、八代亜紀がよくいたずらのターゲットになった。髪の毛をかためるスプレーを缶一本使い切る程ふりかけたり、八代が綺麗なヒラヒラのドレスを着ていた時、中身がどうなっているか確認するためめくったりした(本人いわく「ビラ〜ンとまくったら足だった」)。八代が1977年(昭和52年)第28回NHK紅白歌合戦の紅組トリで「おんな港町」を歌い出す時、昌子がマイクのコードを知らずに踏んでいて、あやうくステージ中央に間に合わないところだった(実際の映像) ことを、30数年の時を経て本人に謝罪した。ただし昌子は、それが『舟歌』の時だと記憶違いをしていた。 中三トリオ 中三トリオと呼ばれた昌子、百恵、桜田の三人は、生放送本番直前まで一緒にトイレに隠れたりして、スタッフをよく困らせていた。山口百恵が引退して約3年経った1983年12月の『週刊読売』での徳光和夫との対談では「二人とは全然会ってません。ぷっつりですね。電話で話すこともありません。思い出っていっても、つい最近のことだったんだから、三人集まって話をするようなことは別にないし、今あっても、せっかく中三トリオから高三トリオっていう名前がついてたものが、何かぺらっぺらのすごく軽いものになっちゃっていやなんですよね」などと述べ、2006年の昌子の著書『明日へ』では、三人はそれほど親しくはなく、ハワイに行った時も同室で気まずい空気になった、と述べているが、一方で自伝的エッセイ『それはじんせい』(2011年)の付属写真では、昌子が桜田の頬にキスする程親しい仲である、と書いており、内容が矛盾している。 デビュー前の山口百恵は昌子の付き人であり、昌子の家に下宿していた。 家族 子煩悩で子育てに厳しく、挨拶は徹底し、偏食しないよう気を遣い、兄弟間でも長幼有序を守らせた。成人後も弟は兄に敬語で話すという。また、テレビに自身の映像が映りそうになると素早く察知して電源を消すようにし、国民のアイドルではなく子供達だけの母親であるように努めたという。 その他 2005年頃より通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する森の代表曲で背景映像に森本人が出演する映像が多く採用されている。主な作品は以下の通りである。 あなたを待って三年三月 哀しみ本線日本海 立待岬 父親ゆずりのプロ野球・読売ジャイアンツファンである。[要出典] 19歳の時に、単身でアメリカのロサンゼルスへ旅行。友人宅に泊めてもらい逗留しつつ、アメリカの若者を観察して、アイドルとして輝いているはずの自分がアメリカの若者に見られるような輝きを持っていないのはなぜか、と考えたという。 (注意点) 対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。 曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。 出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す。 その他のシングル 「せんせい/同級生」 発売元 徳間ジャパン 1972年11月25日発売 「中学三年生」 発売元 徳間ジャパン 1973年3月25日発売 「マコ想い出の歌」 発売元 徳間ジャパン 1973年6月25日発売 「白樺日記〜マコ初恋へのあこがれ」 発売元 徳間ジャパン 1973年10月1日発売 「若草の季節〜マコの好きなヒット曲」 発売元 徳間ジャパン 1974年4月1日発売 「森昌子ショウ〜下町の青い空」 発売元 徳間ジャパン 1974年6月1日発売 「おかあさんに捧げる詩」 発売元 徳間ジャパン 1974年12月1日発売 「十六歳の演歌〜他人船」 発売元 徳間ジャパン 1975年2月1日発売 「森昌子ショウ〜北風の朝」 発売元 徳間ジャパン 1975年3月1日発売 「森昌子民謡集〜北海盆唄」 発売元 徳間ジャパン 1975年9月10日発売 「あの人の船行っちゃった」 発売元 徳間ジャパン 1975年12月1日発売 「五周年森昌子ショウ-初姿-」 発売元 徳間ジャパン 1976年3月1日発売 「森昌子十七才の演歌〜別れの一本杉」 発売元 徳間ジャパン 1976年7月1日発売 「青春の日記 森昌子五周年記念アルバム」 発売元 徳間ジャパン 1976年9月1日発売 「森昌子歌舞伎座特別公演 青春の熱唱」 発売元 徳間ジャパン 1976年11月10日発売 「森昌子傑作民謡第二集」 発売元 徳間ジャパン 1977年1月21日発売 「新春特別公演森昌子ショー“演歌に涙と青春を”1977年1月18日 浅草国際劇場」 発売元 徳間ジャパン 1977年3月1日発売 「森昌子十八歳の演歌 南国土佐を後にして/長崎物語」 発売元 徳間ジャパン 1977年7月1日発売 「新歌舞伎座特別講演ライブ 涙の熱唱」 発売元 徳間ジャパン 1977年11月1日発売 「すぐに消えそうな愛なら」 発売元 徳間ジャパン 1978年4月1日発売 「十九歳の演歌 港・桟橋・別れ唄」 発売元 徳間ジャパン 1978年7月1日発売 「お嫁にゆきます 森昌子デビュー7周年記念東宝映画 サウンドトラック盤」 発売元 徳間ジャパン 1978年9月5日発売 「森昌子デビュー7周年記念リサイタル 〜熱唱ひとり舞台〜 1978年9月21日 帝国劇場」 発売元 徳間ジャパン 1978年11月1日発売 「昌子哀愁」 発売元 徳間ジャパン 1979年7月1日発売 「二十歳の演歌 銀のライター/みちづれ」 発売元 徳間ジャパン 1979年8月1日発売 「旅立ち」 発売元 ポニーキャニオン 1980年3月21日発売 「森昌子古賀メロディーを唄う 〜二十一歳の演歌〜」 発売元 ポニーキャニオン 1980年7月21日発売 「そしてひとり」 発売元 ポニーキャニオン 1980年11月21日発売 「北寒港」 発売元 ポニーキャニオン 1981年4月21日発売 「森昌子十周年記念リサイタル 1981年9月26日 大阪厚生年金ホール」 発売元 ポニーキャニオン 1981年11月21日発売 「北のおんな」 発売元 ポニーキャニオン 1982年5月21日発売 「立待岬…愛しき人へ」 発売元 ポニーキャニオン 1982年11月21日発売 「北風は暖かい〜今、故郷は…〜」 発売元 ポニーキャニオン 1983年8月21日発売 「森昌子 艶華12」 発売元 ポニーキャニオン 1984年3月21日発売 「女の暦〜ゆれる想い〜」 発売元 ポニーキャニオン 1984年12月5日発売 「愛傷歌〜やがて秋から冬へ〜」 発売元 ポニーキャニオン 1985年10月21日発売 「日本のうた〜森昌子15周年記念」 発売元 ポニーキャニオン 1986年1月21日発売 「おぼえていますか、あの時を…」 発売元 ポニーキャニオン 1986年8月5日発売 「いつまでも ありがとう そして、今…さようなら」 発売元 ポニーキャニオン 1986年8月21日発売 「あのころ」 発売元 ポニーキャニオン 2007年8月22日発売 「時の過ぎゆくまま〜心のスクリーン〜」 発売元 キングレコード 2014年3月5日発売 「森昌子ベスト15 今、あなたへ」 発売元 キングレコード 2014年9月17日発売 「ゴールデン☆アイドル」森昌子 「せんせい」〜「さよなら」までシングルAB面全99曲を収録 発売元 ポニーキャニオン 2015年2月11日 「百年の恋歌~時を超えて~」45周年記念アルバム プロデューサー:加藤登紀子 発売元 キングレコード 2016年7月1日発売 としごろ 男じゃないか・闘志満々 お姐ちゃんお手柔らかに 花の高2トリオ 初恋時代 どんぐりッ子 主演 昌子・淳子・百恵 涙の卒業式〜出発〜 お嫁にゆきます 主演 恋とオンチの方程式(香西志帆監督、2014年) - 山吹真雪 役 刑事くん 第3部 第4話「少女が石段のぼる時」(1973年、TBS) てんつくてん(1973年、NTV) 大河ドラマ「風と雲と虹と」(1976年、NHK)- 桔梗 役 銭形平次 第555話「凧凧あがれ」(1977年、CX) - おきよ 役 明日の刑事(TBS) 第1話「昌子絶唱! 行かないで!」(1977年) 第26話「昌子の危機! 保育園ジャック」(1978年) おはなちゃん繁昌記(1978年、ANB)主演- おはな 役 下町探偵局・お手伝い志願(1978年、ANB)主演 氷山のごとく(1980年、CX) 水戸黄門 第11部 第5話「黄門様を叱つた娘-新庄-」(1980年、TBS) - おはな 役 大江戸捜査網 第485話「花嫁絶唱お父っつあんの唄」(1981年、12ch) - おはる 役 秘密のデカちゃん 第3話(1981年、TBS) 想い出づくり(1981年、TBS)主演-佐伯のぶ代 役 木曜ゴールデンドラマ (YTV) 「ガス橋あたり 悲しみのり越える母と娘たち」(1982年) - 工場で働く長女・千鳥 役 「母の犯した罪」(1983年) おにいちゃん(1982年、TBS) 西部警察 PART-III 第63話「愛と哀しみの銃弾」(1984年、ANB) 月曜ワイド劇場 (ANB) 「女が会社に居すわる時 オフィスラブ76%の生態」(1984年) 「女がオフィスラブに決着をつける時」(1985年) 平岩弓枝ドラマシリーズ 「女の暦」(1984年、CX) 連続テレビ小説「どんど晴れ」(2007年4月 - 、NHK) - 浅倉房子 役 金曜プレステージ 「お母さんぼくが生まれてごめんなさい」(2007年7月13日、CX)主演- 香川亜希子 役 鳥取発地域ドラマ「ちょっとは、ダラズに。」(2014年1月29日、NHK BSプレミアム) - 淀江充子役 カリキュラマシーン(NTV) 象印スターものまね大合戦(NET→ANB) 歌まね振りまねスターに挑戦!!(NTV) オールスターものまね王座決定戦(CX) 当時芸能人のものまね番組の常連であった。 欽ちゃんのどこまでやるの!?(テレビ朝日) カックラキン大放送!!(日本テレビ)- 不定期出演 ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 大晦日年越しSP 絶対に笑ってはいけないホテルマン24時(NTV,2009年12月31日) ダウンタウンなう(フジテレビ) - ゲスト(2016年6月)、ナレーション(2016年9月~ - レギュラー) なるほど!ザ・ワールド(フジテレビ) ペコジャニ∞!(TBS、2018年3月19日、7月2日) 3月19日放送分で、ホンジャマカ・石塚英彦との卵料理対決で敗れた後、7月2日放送分でも、石塚との卵料理対決でまた敗れた。 現在ONエアー中 森昌子のあったかライフ(MBSラジオ 2009年4月開始) - 29年ぶりのパーソナリティー 森昌子 心の旅(YBSラジオ、ぎふチャンラジオ、福井放送、RADIO BERRY、HBCラジオにネット) 「森だくさん!昌子の青春歌謡曲!!」USEN 毎月第4週目を担当します USENのC59チャンネル「あの素晴らしい音楽をもう一度」で放送 西川きよし芸能生活50周年を記念「コメディ 水戸黄門」 千代役で友情特別出演 なんばグランド花月 2013年9月6日(金)初日 - 28日(土) 音楽喜劇「のど自慢」~上を向いて歩こう~2017年6月29日~ 1972年 第14回日本レコード大賞・新人賞「せんせい」 第3回日本歌謡大賞・放送音楽新人賞「せんせい」 第5回日本有線大賞・新人賞「せんせい」 第5回全日本有線放送大賞・新人賞「せんせい」 1980年 第13回日本作詩大賞・大衆賞「波止場通りなみだ町」 1981年 第23回日本レコード大賞・金賞「哀しみ本線日本海」 第10回FNS歌謡祭・歌謡音楽賞「哀しみ本線日本海」 第5回日本テレビ音楽祭・特別賞「哀しみ本線日本海」 第2回古賀政男記念音楽大賞・優秀賞「哀しみ本線日本海」 1982年 第3回古賀政男記念音楽大賞・大賞「立待岬」 1983年 第25回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞「越冬つばめ」 第16回日本作詩大賞・優秀作品賞「越冬つばめ」 エースコック(熊っこ) タケダ(ベンザシリーズ) スズキ(ユーディーミニ) - CMコピーは「昌子のバイク」であった。 松下電器(現・Panasonic。エレックさん) カルビー(おさつスナック) JA共済 津村順天堂(現・バスクリン。バスピカ) 森昌子 『明日へ』 幻冬舎、2006年、149頁。ISBN 4-344-01154-6 森昌子 『それはじんせい』主婦と生活社 週刊女性2010年7月 - 2011年5月連載 再編集2012年 花の中三トリオ 山口百恵 桜田淳子 布施明 森進一 森田貴寛 和田アキ子 野口五郎 志穂美悦子 田中裕子 石川さゆり 遠藤実 阿久悠 片平なぎさ 榊原郁恵 石原信一 円広志 千葉県八千代市 堀越高等学校の人物一覧 ^ ただし1979年 - 1987年9月まではキャニオン・レコード名義。 ^ とんねるず、テレ東初出演“裏話”も披露 サンケイスポーツ 2012年8月16日閲覧 ^ 森昌子、森進一との結婚披露宴の裏でハプニング!テレビ生中継で自宅に空き巣が…,スポーツ報知,2016年11月6日 ^ 1996年4月9日放送のテレビ朝日『スーパーモーニング』より。 ^ a b 森昌子 『明日へ』 舘野晴彦(編集)、菊地朱雅子(編集)、斉藤さゆり(構成)、幻冬舎、東京都渋谷区千駄ケ谷四丁目9番7号、2006年4月15日、初版(日本語)。ISBN 4-344-01154-6。 ^ テレビ朝日『徹子の部屋』2011年11月21日放映。 ^ BSフジ『歌人伝説』2012年3月24日放映 ^ 関西テレビ『雨上がり食楽部』2011年11月19日放送より ^ 「連載リレー対談(14) おもしろまじめアナのちょっトーク ゲスト 森昌子 ホスト徳光和夫」、『週刊読売』1983年12月25日号、読売新聞社、 34 - 37頁。 ^ それから10年後の1987年・第38回NHK紅白歌合戦でも、松原のぶえが当曲を歌唱している。 ^ 雑誌「平凡」募集歌。 ^ 東宝映画「どんぐりッ子」主題歌。 ^ 農協の共済・協賛ソング。 ^ テレビ朝日系テレビドラマ「おはなちゃん繁昌記」主題歌。 ^ テレビ朝日系テレビドラマ「おはなちゃん繁昌記」挿入歌。 ^ TBS系テレビドラマ「おにいちゃん」主題歌。 ^ フジテレビ系テレビドラマ「花の暦」主題歌。 ^ 森昌子のペンネーム。 ^ 委託製作盤。八千代市・市制施行10周年記念楽曲。 ^ 森進一とのデュエット。テレビ朝日系テレビアニメ「釣りバカ日誌」OP主題歌。 ^ 森と川中美幸、黒柳徹子、森口博子、森進一の計5人による楽曲。「じゃがいもの会」活動20周年記念チャリティーソング。 ^ 森進一とのデュエット。 ^ 円広志とのデュエット。 おんがく工房 - 森昌子公式ホームページ キングレコード- 森昌子 昌子ファンの為の掲示板(ファンサイト) 森昌子 - NHK人物録", "梓 みちよ(あずさ みちよ、1943年6月4日 - )は、日本の歌手、女優。本名、林 美千代(はやし みちよ)。 福岡県福岡市博多区出身。福岡女学院中学校・高等学校1年修了。宝塚音楽学校中退。血液型はO型。株式会社アラベスク所属で株式会社プロダクション尾木と業務提携。1960年代から1970年代を中心に数曲のヒットを飛ばした。アメリカンポップスから歌謡曲まで幅広いレパートリーを持つ。 1960年、福岡女学院高校1年修了で宝塚音楽学校に入学。同校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募し合格し、上京し契約する(同校は中退)。約1年間のレッスンを経て、1962年に“ボサノバ娘”のキャッチフレーズでキングレコードより「ボッサ・ノバでキッス」でデビューし、歌手として本格的に活動を始める。 『夢であいましょう』の今月の歌として発表された「こんにちは赤ちゃん」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)が大ヒットとなり、同年12月の第5回日本レコード大賞の大賞を受賞。また『第14回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、人気歌手としての地位を得た。また同曲は翌1964年3月の第36回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲に採用された。さらには1964年5月、東京・文京区の椿山荘で開かれた学習院初等科同窓会に招待され、昭和天皇の御前でこの歌を披露した。明治時代以降において日本芸能界初の天覧歌謡曲となる。 しかしその後は歌手として人気が一時低迷、1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』まで7年連続出場していた紅白歌合戦も翌1970年に落選、1973年まで4年間出演出来なかった。1971年に俳優の和田浩治と結婚したが、翌1972年に離婚している。 デビューから1960年代は清純歌手のイメージで売っていたが、実際は10代の頃から飲酒や喫煙を行っているなど清純とはほど遠いもので、そのイメージが嫌で仕方なかったと発言している[要出典]。本人の意向もあり、1970年代以降は大人の女路線へとイメージチェンジしていく[要出典]。1974年には床に座り込んで歌う「二人でお酒を」(作詞・山上路夫、作曲・平尾昌晃)が久々に大ヒット。同曲で第5回日本歌謡大賞・放送音楽賞、同年末の第16回日本レコード大賞・大衆賞をそれぞれ受賞し、また『第25回NHK紅白歌合戦』にも5年ぶり8回目の復帰出場を果たし、イメージ・チェンジを成功させた。一方、1971年7月から1978年2月まで『新婚さんいらっしゃい!』(司会・桂三枝)の2代目アシスタントを務めていた。 1975年末の『第26回NHK紅白歌合戦』は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲「リリー・マルレーン」を日本語詞で歌唱。1976年は「メランコリー」(作詞・喜多条忠、作曲・吉田拓郎)が翌1977年にかけてロングヒット。同曲で1976年末に第18回日本レコード大賞・編曲賞(編曲・萩田光雄)を受賞し、『第27回NHK紅白歌合戦』に3年連続で出演した。1979年、レコード会社をCBS・ソニーに移籍。同年日本専売公社「パートナー」のCMソングに採用された「よろしかったら」(作詞・阿木燿子、作曲・筒美京平)がスマッシュヒット。1982年、前年の1981年5月に37歳の若さで急逝したシンガーソングライター・大塚博堂の「トマトジュースで追いかえすのかい」(作詞・阿久悠、作曲・大塚博堂)をカバーした。 1992年には『第43回NHK紅白歌合戦』に16年ぶり11回目の紅白カムバック出場を果たし、同1992年6月に亡くなった作曲家・中村八大を偲んで「こんにちは赤ちゃん」を歌唱した。70歳を過ぎた現在でもコンスタントに歌謡番組に出演するなど、意欲的に芸能活動を行っている。また実業家としても活躍しており、「梓プラチナローズジェル」という化粧剤を監修している[要出典]。 自身の持ち歌である「こんにちは赤ちゃん」を長年コンサートで封印し歌わなかった(テレビ番組などではその限りではなかった)。その理由は「この歌は今、私にとって重すぎる」、「いまさらこの歌は私には似合わない」などというものだったが、2002年の40周年記念コンサートでのアンコールの際に「初めて、心からこの歌の素晴らしさを理解することが出来た。こんな良い歌を今まで歌わなかったのか、情けない」と言い、封印を解き歌唱。以後はステージでも必ず歌うようになった。「良い歌は古い歌でも後輩の歌でも関係なく歌っていきたい」とJポップ、歌謡曲からタンゴ、シャンソンなど幅広いジャンルの歌を唄っている。また「自身のステージの参考のために」と人気絶頂期の1976年に一時休業しアメリカで各地のステージを鑑賞して回っている。[要出典] 福岡市・ツルタバレエ・宝塚音楽学校出身の後輩小柳ルミ子から宝塚退団の際、渡辺プロとの契約の便宜を図ったり芸能活動の手法について相談を受け助言を行ったといわれており、そのこともあり2人の親交の深さは知られていた。1979年リリースの小柳のライヴ・アルバム『やさしさということ…NHKホールリサイタル』収録曲「林さんのお姉さん」では、梓と小柳の子どものころからのエピソードがコミカルに歌われている。しかし2000年ごろより小柳は長年自身でも語っていたこの話を否定し「自分から(渡辺プロダクション)売り込みに行った」と発言するようになる。そのことに梓が激怒しテレビ番組などで反論し、以来不仲とされている。ただしその後も番組共演自体はあり、同じ事務所に所属していたこともある。[要出典] 『さんまのまんま』第69回(1986年10月6日)に出演した時、明石家さんまの失礼な言動に対し怒り、グラスのシャンパンをさんまに対してかけた。このことで、マスメディアや大衆からバッシングを受け芸能界から5年間姿を消したという噂がある(後に梓はさんまへブレスレットを贈り謝罪している[要出典])。このシーンはさんまのまんま名場面としてときおり番組内で放送される[要出典]。 (愛犬家としても知られ、飼い犬のポメラニアン(愛称「レイン」。2010年に死亡)を溺愛。犬の名をつけた楽曲(内容は全く犬とは関係ない)や著書(『ウチの子、犬じゃありません』)まで出している。[要出典] 1964年3月25日、熊本市立体育館でコンサートが開かれた時に7千人もの観客が殺到して折り重なるように倒れ重軽傷者10名がでた[要出典]。 2016年7月11日、「こんにちは赤ちゃん」の作詞家・永六輔が同年7月7日に83歳で逝去の報道を受け、梓は「突然の訃報にただ驚いております。最後にお会いしたのは2年前『夢であいましょう』のイベントで、その時は『こんにちは赤ちゃんのアンサーソングを作ろうよ』の話で盛り上がり、お元気な印象でした。私がデビュー間もない頃に永さん作詞、中村八大さん作曲の『こんにちは赤ちゃん』の曲を頂いた時『ママでもないのにどう歌えばいいんですか?』と泣きそうになりながら聞いた処『いいかい、女性はみんな母性本能があるんだ。胸に玉のようなかわいい赤ちゃんを抱いていると思って歌えばいいんだよ』とアドバイスを頂きました。その言葉が昨日のように思い出されます。永さんなしでは『梓みちよ』という歌手は誕生しませんでした。感謝の気持ちしかありません。有難う御座いました。ご冥福をお祈り申し上げます」と追悼のコメントを発表した。 ボッサ・ノバでキッス/恋のゆきどまり(1962年11月) スカイリング・デイト/グッドバイ・ジョー(1963年2月) 恋はボッサ・ノバ/すてきなメモリー(1963年3月) 渚のデイト/ラスト・ダンスを私と(1963年5月) ヘイ・ポーラ/黒い瞳に青い空(1963年6月)田辺靖雄とのデュエット けんかでデイト/バイバイ・ハイスクール(1963年6月)田辺靖雄とのデュエット こんにちは赤ちゃん/いつもの小道で(1963年11月) NHK『夢であいましょう』1963年7月の歌。番組内で募集した譜面の応募総数が1万通を超える大反響となる。同年11月に発売されたレコードは100万枚を超える大ヒット。同年、第5回日本レコード大賞受賞曲となり、翌1964年選抜高校野球の開会式行進曲にもなった。 きよしこの夜/別れのワルツ(1963年11月)田辺靖雄とのデュエット ダンケ・シェーン/月光価千金(1964年1月) 素敵な新学期/さよならデイト(1964年3月)田辺靖雄とのデュエット ラスト・ダンスを私と/二人で夢を(1964年3月) ひとりだけの歌/パララン・パン(1964年4月)田辺靖雄とのデュエット おかあさん/12と13(1964年4月) 夢みる想い/ウィッシング・ウェル(1964年6月) アウフ・ヴィーダーゼーン/二人はステディ(1964年7月)田辺靖雄とのデュエット リンデンバウムの歌/夕陽が似合う(1964年) 白い想いで/幸福を祈ろう(1964年) 忘れな草をあなたに/虹を掴もうよ(1965年4月) 言えばよかった/ごめんなさい(1965年) 忘れたはずなのに/笑顔をみせて(1965年11月) ねむの木の子守唄/おめめがさめれば かあさん(1966年3月) ポカン・ポカン/憶えているかしら(1966年4月) 赤いつるばら/白い浜(1966年9月) キッスして/お嫁さん(1967年2月) 渚のセニョリーナ/二人の夏(1967年6月) 恋のギターラ/恋してる(1967年10月) あなたの時計/ふたりのこころ(1968年2月) 月夜と舟と恋/夜はバラ色(1968年6月) 愛せないの/めぐりあうために(1968年11月) だけど愛してる/夜のせいなの(1969年2月) 渚のSha La La/熱い愛(1969年6月) 麗人の唄/愛の新世界(1969年10月) 朝とブラック・タイ/一年前の街角で(1970年4月) 売れ残ってます/ナルシズム(1970年9月) 愛されてます/悲しい旅(1971年1月) 陽のあたる窓辺/もう来ない明日(1971年6月) ここに幸あり/約束(1972年1月) 愛はルフラン/眼が覚めて(1972年7月) 番組で特段のクレジットはされなかったが、長期間に渡り『新婚さんいらっしゃい!』のオープニングテーマとして歌唱した。 二人でお酒を/両手で愛して(1974年3月) 同曲の大ヒットにより同年末の『NHK紅白歌合戦』に5年ぶりにカムバック出場 淋しがりや/別ればなし(1974年9月) あかいサルビア/リリー・マルレーン(1975年3月) よこがお/九月の渚(1975年9月) 二日酔い/独りあるき(1976年2月) メランコリー/雪どけ(1976年9月) 翌1977年に作曲・吉田拓郎が『ぷらいべえと』でセルフカバー 女達のキイワード/UP AND DOWN(1977年3月) ノクターン/ひとり暮らし(1977年9月) 銀河系まで飛んで行け!/ミストレス(1978年1月) 元は当時の渡辺プロ所属の後輩であるキャンディーズのLP5枚組BOX『CANDIES 1676 DAYS〜キャンディーズ1676日〜』の収録曲 熱帯夜/フィニッシュ(1978年6月) 信天翁/ミッドナイト・ブルー(1978年11月) よろしかったら/ビロードの爪(1979年9月)CBSソニーへ移籍 日本専売公社「パートナー」CMソング 淋しい兎を追いかけないで/コーランの恋人(1980年3月) 小心者/純情馬鹿(1980年8月) 行きずり-日本の美女たちへ-/思うままの女(1981年5月) いま、親友/アムール アムール(1981年10月) トマトジュースで追いかえすのかい/裏面(1982年4月) 1981年に亡くなった大塚博堂のアルバム『感傷』(大塚の没後にシングル・カット発売)からのカバーソング 恋はウー・ラ・ラ・ラ/愛を散らかしていた(1982年9月) もっと人生を下さい/女の幻想曲(1983年) いらっしゃい/サファイア色の午後(1985年) ぬすんでもいいわ-暗闇にぬすむ接吻-/危険な関係(1986年) 横恋慕/シャンペンでこんや破産(1988年11月)アポロン FOREVER FRIENDS/TOKYOシンドローム(1992年12月)東芝EMI 愛の落書き/紫のバラ(1997年4月)バンダイ・ミュージック Rain愛しくて/まだまだ世の中捨てたものじゃない(2002年) Michiyo Azusa/梓みちよ第一集(1963年7月) たのしい、たのしいクリスマス(1963年11月)オムニバス盤 ⇒CD(1991年11月・キングKICX-144) こんにちは赤ちゃん/梓みちよ第二集(1964年1月) ⇒CD(1989年5月・キング194A-16) マイ・カップル(1964年1月)田辺靖雄・梓みちよ ⇒CD(1989年6月・キング194A-25) おかあさん/みちよのヒットパレードVol.3(1964年8月) ⇒CD(1989年5月・キング194A-16) 二人はステディー/マイ・カップルVol.2(1964年9月)田辺靖雄・梓みちよ ⇒CD(1989年6月・キング194A-25) みちよと歌おう / 梓みちよの抒情歌集(1965年) おかあさんへプレゼント(1966年)オムニバス盤 渚のセニョリーナ(1967年)ベスト盤 梓みちよ デラックス(1968年)ベスト盤 退職願い―ナツコの結婚―(1970年) 梓みちよ オン・ステージ(1972年)1972/9/6 渋谷公会堂でのライブ盤 二人でお酒を(1974年)ベスト盤 グラスにうつる愛の詩(1975年4月) ⇒CD(1994年2月・キング) 梓みちよ・リサイタル(1975年)1975/2/17 大阪フェスティバル・ホールでのライブ盤 メランコリー(ゴールデン・スター・ベスト・アルバム)(1976年)ベスト盤 オリジナル・コレクション(1977年12月)ベスト盤 女が男を語るとき(1979年)CBSソニー移籍 リラックス(1980年) いま、親友(1981年) 夜会服で…(1982年) 耳飾り(1984年) 黄昏のモンテカルロ(1987年6月) モスクワの仔猫(1997年4月) 梓みちよCD-BOX(2002年7月)キング・レコード時代(1963-1978)のCD5枚組BOX ゴールデン☆ベスト 梓みちよ ニュー・シャンソン(2005年3月)CBSソニー時代のシングル、アルバムからの2枚組編集盤 梓みちよ パフォーマンス(1983年) 夢であいましょう(1991年)全5巻VHS 歌の妖精(2001年)全7巻VHS 夢で逢いましょ(1962年、東宝)星野洋子 役 若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん(1963年、東宝)牧ミチル 役 こんにちは赤ちゃん(1964年、東宝)主演・会田道代 役(主題歌も担当) 虹をつかむ恋人たち(1965年、東映) てなもんや東海道(1966年、東宝)お染 役 ドリフターズですよ!全員突撃(1969年、東宝)人魚の風子 役 アッと驚く為五郎(1970年、松竹) ぼうや(1963年4月15日 - 9月30日、日本テレビ) 松本清張シリーズ 万葉翡翠(1966年3月、関西テレビ)主演 お嫁さん(1)(1966年6月 - 12月、フジテレビ)主演・山縣まち子 役(主題歌も担当) 夏に恋する女たち(1983年8月5日 - 9月30日、TBS)青山早苗 役 銀河テレビ小説 男の子育て日記(1987年6月8日 - 7月3日、NHK総合) 透明人間 第5話(1996年5月11日、日本テレビ) ビューティ7 第10話(2001年9月5日、日本テレビ)田浦せつ 役 水戸黄門 第39部 第11話(2008年12月22日、TBS)お勢 役 新婚さんいらっしゃい!(1971年7月 - 1978年2月、朝日放送)アシスタント 11PM(1982年6月 - 1983年5月、日本テレビ)金曜アシスタント 知りすぎていた男(ドリス・デイ) キングコモディティ証券 梓みちよ 美の秘訣(2014年10月4日 - 、TBSラジオ) 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 ^ a b c d e 梓みちよ Tower Records Online ^ a b c d e f g h i >梓 みちよ (あずさ みちよ) アラベスク ^ a b c d さんまにシャンパンかけた 梓みちよ 2012年10月23日 日刊ゲンダイ ^ 『音楽CD検定公式ガイドブック(下)』CDジャーナル(編)289p ^ 和田浩治 結婚1年7カ月で梓みちよと泥沼離婚 2013年7月17日 日刊ゲンダイ ^ 「永さんなしで梓みちよは誕生しなかった」悼む 2016年7月12日 日刊スポーツ", "EMAUX MUSEUM (エマーユ七宝美術館)  ホームページ  [1] 梶 光夫(かじ みつお、本名:梶 芳道。1944年9月9日 - )は、日本の歌手であり、現在は日本を代表する金細工師・宝飾デザイナーとして国際的に知られ活躍している。また、米国宝石学会(G.I.A GG) の資格を取得し宝石鑑定家としても知られている。 大阪府大阪市出身。 遠藤実門下に入り、1963年12月に日本コロムビアより「黒髪」にてデビュー。舟木一夫の後輩として華々しくデビューし、3作目となる「青春の城下町」が大ヒット。TVドラマでは江田島海軍兵学校の青年将校の物語・菊田一夫作「若いいのち」の主人公を好演、大ブレイクした。その後も「可愛いあの娘」「わが愛を星に祈りて」「アキとマキ」など数々のヒット曲を出した。1965年には高田美和とのデュエット曲「わが愛を星に祈りて」のヒットは、ふたりで歌う青春純愛路線の作品のきっかけとなり、次々と注目を集めていった。月間のテレビ出演は40本を越え、多くのグラビアを飾るスターとなった。、テレビを中心に映画にも出演した。 実家は宝石商で、父親は梶が長男であり、家業を継いで欲しいという思いもあって芸能界入りを反対していたが、梶は5年で辞めると約束。その約束を守って、1970年に人気絶頂の頃に歌手を引退。家業を継いで現在は金細工師・宝飾デザイナー、宝石鑑定士として活躍しているが、後年、本業に支障のない範囲に限定して歌手活動を再開し、時折ステージに立ち歌を披露している。 2010年10月26日、「NHK歌謡コンサート」(NHK総合)に生出演し、「青春の城下町」を歌唱した。その際に共演した千昌夫が「梶さんに憧れていました」とコメントした。 2011年8月13日、「第43回思い出のメロディー」(NHK総合)に生出演し、高田と「わが愛を星に祈りて」を歌唱した。 2014年12月6日、「NHK歌謡コンサート」(NHK総合)「遠藤実・不滅の名曲集」に生出演し、「青春の城下町」を歌唱。 2015年5月12日、「NHKプレミアムカフェ宝石 神秘と魅惑の小宇宙 「モダン・ジュエリーの巨人たち パリ&ニューヨーク”メゾン”物語」」(NHK BSプレミア)  梶 光夫 ゲスト出演] 2015年5月13日、「NHKプレミアムカフェ宝石 神秘と魅惑の小宇宙 「遥(はる)かなる宝石の旅 ”ジェム・ストーン”の世界」」(NHK BSプレミア)  梶 光夫 ゲスト出演] 2015年5月14日、「NHKプレミアムカフェニューヨークウエーブ 「トレンドはビック!ジュエリー最前線」 恋する雑貨「オーストラリアの天然石アクセサリー」 恋する雑貨「メキシコのシルバーアクセサリー」」(NHK BSプレミア)  梶 光夫 ゲスト出演] 2016年12月31日、「第49回年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京)に生出演し、「青春の城下町」を歌唱。 2017年12月31日、「第50回年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京)に生出演し、「青春の城下町」を歌唱。 黒髪 あヽ純愛 夕陽に叫ぼう 花散る金閣寺 青春の城下町 (昭和の歌謡史を飾る梶光夫のベストヒット曲) 赤い草の実 涙のむこう明日がある つばさの若人 夢のやまなみハイウェー 逢いたいな 野菊の君 幼なじみ 星になった妹よ 湖城の歌 いつも二人で歩く街 - with 広瀬みさ 涙なんかほしくない(雑誌「明星」募集歌) 可愛いあの娘(東映映画「可愛いあの娘」主題歌) 青春讃歌 青春ひとり旅 東京の若い星 俺はやるんだこの街で(兵庫県尼崎市民公募で選ばれた尼崎の歌) 若いいのち(テレビ映画「若いいのち」主題歌) 大空にひとり 走っておいで (朝日放送「クレハ・ホーム・ソング」) ふたりなら あの娘の面影 君を恋して 青い山脈 (松竹テレビ映画「青い山脈」主題歌) 伊豆の踊り子 (〔川端康成〕原作より) ぼくの心が燃えたのは こころの瞳 (「こころの瞳」(大和書房刊)より) 啄木のふるさと あの人のロック あの道もこの道も わが愛を星に祈りて (大和書房出版「わが愛を星に祈りて」(佐伯浩子著)より) - with 高田美和 いつだっけ アキとマキ - with 高田美和(雑誌「女性明星」連載、平岩弓枝原作、「アキとマキの愛の交換日記」より) 空と海と白い船 愛の手紙 愛の手紙は幾歳月 - with 高田美和 野菊の墓 - with 高田美和(伊藤左千夫原作「野菊の墓」より) 嫁ぎゆくひと 幸せをあなたにあげたい - with 高田美和 星空のささやき ふりそで 竹馬の友 星降る湖 白い雲のはてに 雨の大阪 愛の潮騒 さよならお嫁さん さよならなんていわないで 太陽をつかもう サン・サン・サン 世界の友よ札幌で逢いましょう 復活 青春の城下町 (新録音) デザイナー活動30周年記念版 ひとつぶの愛 やさしいダイヤモンド ・可愛いあの娘 (1965年、東映) ・われら劣等生 (1965年、松竹) 太陽に突っ走れ (1966年、東映) 愛の手紙は幾年月 (1966年、大映) わが愛を星に祈りて (1966年、大映) ・てなもんや三度笠 (1962年~1968年、朝日放送) ・漫才太平記 (1964年~1965年、NHK(大阪放送局)) ・巳年春浪花酔醒 (1965年、NHK) ・若いいのち (1965年、宝塚映画製作所、読売テレビ) 青い山脈 「夏雲に誓う」(1966年、日本テレビ) かあさん握手だ (1966年、NTV) 発車、オーライ! (1967年、KTV) ==ジュエリーデザイナー 梶 光夫 プロフィール== 日本を代表するジュエリーアーティストとして幅広く活躍。 古典と現代の融合「クラシック&モダン」をテーマとしてエマーユジュエリーを発表し、 日本の宝飾界に独自の世界を確立し評価を得る。 その後、我が国で最上級クラスの宝飾品を目指した「ザ・ベストコレクション」、 世界の名作映画をテーマにした、「名作映画ジュエリー」、 ユネスコ協力のもと、壮大な構想で取り組んだ「世界遺産ジュエリー」など、 他の追随を許さない圧倒的なスケールの作品群を発表。 ポリシーは、100年後にも残る価値あるジュエリーを生み出すこと、 すなわち”未来のアンティークを目指す”が、梶 光夫の創作の原点である。 G.I.A.(米国宝石学会)グラジュエート・ジェモロジスト(G.G.)の称号を取得。 宝石鑑定家、またエマーユコレクターの第一人者であり、アンティークの蒐集・研究家としても知られている。 著書に、「梶 光夫の宝石教室」 (大和書房刊)     「梶 光夫 ジュエリーの世界」 (世界文化社刊)     「エマーユ美しき貴婦人たち」 (里文出版刊) 2017年10月発売予定  など、、、      ==ジュエリーデザイナー 梶 光夫 バイオグラフィ== 1944年 大阪で時計・宝石・貴金属を扱う「スイス時計店」の長男として生まれる。 1964年 コロムビアレコードより「黒髪」で歌手としてデビュー。「青春の城下町」が大ヒット。テレビを中心に映画にも多数出演。 1971年 父親との約束により芸能界を引退。   第1回インターナショナルパールデザインコンテストにてグランプリと銀賞をダブル受賞。 1972年 アメリカG.I.A.(米国宝石学会)に留学。宝石学のジュエリーデザインについて学び、国際的な宝石学資格G.G.(グラジュエイトジェモロジスト)の称号を取得。 1975年 G.I.A.での留学を終え帰国し、ダイヤモンド鑑定機関「日本ダイヤモンド鑑定所」を設立。宝石鑑定家として活動。 1983年 クラシック&モダンをテーマにした「エマーユジュエリー」を発表し、ジュエリーデザイナーとして本格的に活動を開始。 1986年 揺れ動くジュエリー「トレンブランジュエリー」(特許取得)を発表。 1990年 時計蒐集家として、オールドウォッチコレクション展を開催。 1993年 創作活動10周年記念イベント「アンティーク&モダン展」を開催。 1994年 イギリス大使館の依頼で「アンティークカメオ100選展」を開催。アンティークジュエリー蒐集家として評価される。 1998年 創作活動15周年イベント「アールヌーヴォーの女神たち」を開催。   個性派ジュエリー「インプレッシブジュエリー」発表。 1999年 ミレニアム企画として20世紀最大の文化遺産”映画”テーマとした「名作映画ジュエリー」を発表。「ローマの休日」や「風と共に去りぬ」などをイメージした数々の作品を製作。 2002年 世界に通用する本格派の宝飾品「ザ・ベストコレクション」を発表。最高品質をもつ22.78ctの”ザ・グレートアショカダイヤモンド”が業界で話題となる。 2003年 創作活動20周年記念作品「世界遺産ジュエリー」を発表。日本ユネスコ協会の協力のもと世界遺産をジュエリーにした作品を創作。そのシンボリックオブジェとして452個のダイヤモンドと2kgのプラチナを使用した「モン・サン・ミシェル」を製作。 2007年 メメント・モリをテーマとしたロングセラー作品「スカルジュエリー」を発表。 2008年 創作活動25周年として自身が所有する世界的名車ロールス・ロイス・レイス(1939年製)を飾るカーマスコットオブジェ「Dea del Cosmo-宇宙の女神-」を発表。各マスコミから注目を浴びる。 2013年 創作活動30周年記念展にて45年ぶりの新曲「ひとつぶの愛」を発表。それを記念して”愛”をテーマとした作品群を発表する。 2015年 世界クルーズ旅行で思い出に残った風景をジュエリーにした新作を製作。 2017年 メンズジュエリー作品に意欲的に取り組む。   世界の名車をテーマとした作品、またワインをテーマとした「ワイン&グラス」など発表。   2018年に迎える、創作活動35周年記念に向かって更なる高みを目指し、意欲的に創作活動に取り組んでいる。 Profile - ジュエリーデザイナー 梶光夫", "小柳 ルミ子(こやなぎ るみこ、本名:小柳 留美子、1952年7月2日 - )は、日本の歌手、女優。70年代アイドル。別名:rumico。現在の福岡市早良区生まれ。母親は秋田県出身。血液型はA型。愛称:ルミちゃん。 プラチナムプロダクション所属。 筑紫女学園中学校卒業後、宝塚音楽学校に入学。以後の2年間は朝9時より夜10時過ぎまで学び、寮の門限である11時擦れ擦れに帰宅する多忙な年月を過ごす。友人が宝塚音楽学校の先輩にあたる梓みちよの知り合いでその口利きで在学中に渡辺プロダクションに歌手になりたいと願い出る。渡辺プロは、「宝塚を首席で卒業したら歌手にしてあげる」と回答。言葉通り見事、1970年(昭和45年)に宝塚音楽学校を首席で卒業。同期には元専科の萬あきら、女優の麻実れい、東千晃らがいる。歌手デビューが約束されていたが、初舞台だけは踏みなさいと言われ、そのまま「夏川るみ」の名で宝塚歌劇団に入団し、2か月で退団した。歌手デビューを当初から念頭においており、小柳にとって宝塚は歌や演技の鍛錬を積むためのいわゆる腰掛けであった。 退団した同年の1970年、歌手デビューの前に顔を売るためにNHK連続テレビ小説『虹』で女優としてデビュー。 翌1971年(昭和46年)4月25日にはワーナー・ブラザース・パイオニア(現在のワーナーミュージック・ジャパン)の邦楽部門初の歌手として契約。作曲家平尾昌晃のプロデュースにより「わたしの城下町」で歌手デビューし、160万枚の大ヒットとなる。同曲は1971年のオリコン年間シングル売上チャートで第1位を記録し、また第13回日本レコード大賞最優秀新人賞も獲得した。 その後も、翌1972年(昭和47年)にリリースした「瀬戸の花嫁」で同年の第3回日本歌謡大賞を受賞。ほか「お祭りの夜」「京のにわか雨」「漁火恋唄」 なども大ヒットし、天地真理・南沙織らとともに当時『三人娘』と呼ばれ(後年には『新三人娘』とも言われる)、1970年代前半を代表するアイドルとなった。 その後はアイドルというジャンルを卒業。1970年代後半~1980年代前半に入ってからは、持ち前の歌唱力を活かした正統派歌手として「冬の駅」「逢いたくて北国へ」「星の砂」「来夢来人(ライムライト)」「お久しぶりね」など、数々のヒット曲を飛ばした。その軌跡として、デビューの1971年(昭和46年)から1988年(昭和63年)まで、NHK紅白歌合戦に18年連続出場という実績を残している。さらに女優としても活躍し、1983年に日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞するなど高く評価を受ける(詳しくは後述 「女優として」)。8時だョ!全員集合の最多出演ゲストである。 順風満帆かに見えたが、元々、ポップスやミュージカルを志向していた小柳と渡辺プロとは意見の相違があった。待遇面の不満も含め、渡辺プロダクションからの独立を巡り当時のナベプロに妨害された事から仕事を干される等辛酸を舐める。1971年には、公衆の面前で渡辺プロダクションの和久井保(のちワクイ音楽事務所社長)から「現場のマネージャーの言うことを聞かない」と殴打され、和久井が退社に追い込まれたこともある。 1989年(平成元年)に、13歳年下の無名のダンサーであった大澄賢也と電撃結婚するが、2000年(平成12年)に離婚となる(詳しくは後述 「結婚について」) 。 2002年(平成14年)、歌手名をrumicoに、女優名を小柳ルミ子とした。同年リリースされた島津亜矢のシングル「夜桜挽花」とアルバム『彩 -AYA-』のトータルプロデュースを手がける。 2007年(平成19年)7月22日、27歳年下の俳優・石橋正高との婚約を発表するが、入籍直前に婚約解消(詳しくは後述 「結婚について」) 。 2010年(平成22年)7月2日には芸能生活40周年記念パーティーとバースデーパーティを兼ねて盛大に開催された。各界に人脈があり交友関係が大変幅広い小柳のもとに友人、親友などの芸能人や関係者が700人集まった。 1982年『誘拐報道』でキネマ旬報賞助演女優賞、第6回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞、1983年に公開の『白蛇抄』で見せた迫真の演技により、第7回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した。 1994年(平成6年)、日本テレビ系連続ドラマ『家なき子』に安達祐実演じる主人公・相沢すずを執拗に苛める伯母・園田京子役で出演(ドラマでは序盤の3週のみ出演。その後、映画版にも登場)、小柳本人にとっては初の苛め役であった。インタビューでは「絶対に弱みを見せないで頑張りましたね」と安達を評価したこともある。 2000年(平成12年)、日本テレビ系列にて松本幸四郎主演で放送されていたドラマ『明日を抱きしめて』にて、主要キャストとして出演していた三田佳子が息子の不祥事の心労から降板。急遽、三田とも親しい小柳に白羽の矢が立てられた。 大澄との結婚後は、夫婦でのテレビ出演やステージを精力的に行い、かつては芸能界のおしどり夫婦とも呼ばれていたものの、夫婦生活は約12年で離婚。離婚する条件として、「大澄に対して高額(1億円)の慰謝料を要求したこと」、そうでなければ「以前の無名のバックダンサーに戻ること」のどちらかの二者選択を迫っていたことが明らかになった。しかし、テレビ朝日系『徹子の部屋』に出演した際に、上記の二者選択発言は、実際は大澄が発言したとも告白している。加えて、「週刊女性」の中で小柳のマネージャーが「\"慰謝料はもらっていない\"と、小柳から聞いています。\"慰謝料は一銭もいただいていない\"と。でも、もう過去のことです」と語っているが、第三者を通してこれらの実態が明確にされたことはない。 婚約の前年である2006年12月12日に亡くなった小柳の母親の喪が明けてから籍を入れる予定であった。しかし、入籍直前、石橋に対して結婚への疑問を抱き始めたとのことで、石橋との同居及び婚約も解消したことを告白。「甘えられる事に疲れた」と話しているが、実際には交際が世に知れ渡る1ヶ月前には破局していたとのこと。 小柳ルミ子が宝塚に入ったりアイドル歌手になったりしたことは、全て小柳の母の影響であったという。小柳の母は娘・ルミ子の人生に非常に大きな影響を及ぼしたとのこと。 幼少期は、娘を歌手にさせたかった母の期待を受け、日本舞踊・クラシックバレエ・ジャズダンス・タップダンス・ピアノ・三味線・習字・歌、計8つの習い事に通っていた。 「わたしの城下町」や「瀬戸の花嫁」が大ヒットしていた頃、小柳ルミ子は“清純派の歌が上手なアイドル歌手”としてもてはやされていた。しかし小柳は自分が“清純派”として見られることには抵抗感を感じていたという。昼間は“清純派歌手”として慎ましい言動をとりながら、夜は毎晩のようにディスコで踊りまくっていたという。 同年代のアイドルだった天地真理とは、所属事務所が同じ渡辺プロダクションだったということもあり、なにかと比較されることが多かった。当時は天地真理・小柳ルミ子・南沙織の3人が「3人娘」として一世を風靡したが、小柳は「3人娘」の中でも特に人気が高かった天地真理に対して、激しい嫉妬を感じていたという。シングルレコードのジャケット写真の撮影でも、天地真理の衣装はまるで白雪姫のような豪華な衣装であったのに対して、小柳のシングルレコードのジャケット写真の衣装は、自分の服だったという。それらの過去の不満を数十年後に放送されたテレビ番組の特番で、小柳が天地真理に告白したことがあった。しかし、これは当時の小柳の会社に対する思いであり天地真理には何ら関係がない。マスコミ(テレビや週刊誌)はそのような採り上げ方で2人のライバル関係を煽り今も放送することがある。 霊感があると主張し、旅先でのホテルなどで体験した心霊体験は『ごきげんよう』などのテレビ番組で度々、披露している。 麻雀を得意にしており、フジテレビ系の番組『THEわれめDEポン』で、風間杜夫、阿藤快、長門裕之という実力派相手に小四喜を自摸和したことがある。「東」・「南」・「西」は小柳が副露して「北」の単騎待ち状態だったが、その前に「北」が既に2枚捨てられて残り1枚という厳しい状況だった。 以前よりジュエリー好きを公言している。2014年には、“大人の女性が身に着けるに相応しい華やかでエレガントなハイジュエリー”をコンセプトにした本人企画・デザインのジュエリーブランド『DANCING QUEEN』をプロデュース。テレビショッピング専門チャンネルのQVCにおいて販売をしている。特に新作が発表される放送日には小柳本人が生出演しモデルを買ってでて実際に商品を身に着け、デザインの拘りを解説している。又従兄弟にドラァグクイーンの福岡で活躍中のリリー・チャンがいる アルゼンチン代表メッシに魅了されて以来、筋金入りのサッカーファンとなり、年間2000試合を超える観戦を行い、書き留めた観戦ノートは100冊以上に上る。日本代表槙野智章との対談では「スカウティング担当としてきて欲しい」と言わしめた。  25年ぶりのNHK大河ドラマへの出演となった『西郷どん』では島津斉興(演:鹿賀丈史)の側室由羅を好演。その悪女ぶりが話題となった。 私の十二曲 小柳ルミ子 日本抒情歌集(ワーナーブラザーズ・パイオニア L-6018R) (1971.9.25) 愛のカフェテラス・お祭りの夜 美しい娘ふたり/辺見マリ 小柳ルミ子の世界(ワーナーブラザーズ・パイオニア L-6027P) (1971.10) お祭りの夜 ふるさと日本の唄・小柳ルミ子(ワーナーブラザーズ・パイオニア L-6032R) (1971.11.25) 京のにわか雨 はるかなるこころのふるさと SOFTLY RUMIKO KOYANAGI(ワーナー・パイオニア L-8012R) (1972.8.25 絵葉書にもつかえるルミ子のカラーポート 全十二枚付) 小柳ルミ子のすべて 忘れかけていた心の歌 ALL ABOOUT RUMIKO KOYANAGI(ワーナー・パイオニア L-5501~2R)(1972.11.25 「クリスマス・ソング」「春の唄」「詩・朗読」17センチLP・カラー・レコード付 カレンダー付カラー・ポスター 豪華カラー写真集付) 春のおとずれ ルミ子とフォークの出逢い RUMIKO WIYH FOLK(ワーナー・パイオニア L-8017R) (1973.3.10 ルミ子の自筆歌詞カード付) 小柳ルミ子 あしたも日本晴れ(ワーナー・パイオニア L5053~4R) (1973.11.10 豪華大型カラーポスター付) 小柳ルミ子 -あたらしい友達-(ワーナー・パイオニア L-8035R)(1974.5.25) 小柳ルミ子 昨日・今日・明日(ワーナー・パイオニア L-5058~9R) (1974.11.25 カラー・ポスター付) 小柳ルミ子 こころの歌 緑の地平線(ワーナー・パイオニア L-8060R) (1975.5.25 全曲カヴァー) 小柳ルミ子 花車(ワーナー・パイオニア L-10008R) (1975.9.10) 小柳ルミ子 春・夏・秋・冬(ワーナー・パイオニア L-5505~6R) (1975.12 豪華カラー・ポスター付) 故郷 小柳ルミ子 北から南から(ワーナー・パイオニア L-6103~4R) (1976.6 豪華カラー写真集付) 青春の真中で 小柳ルミ子(ワーナー・パイオニア L-5519~20R) (1976.12) 小柳ルミ子 わたしの城下町から星の砂まで(ワーナー・パイオニア L-4901~6R) (1977.4) 風がはこぶものは 小柳ルミ子(ワーナー・パイオニア L-10069R) (1977.5) 愛に甦える・小柳ルミ子 南から北へ(ワーナー・パイオニア L-10091R) (1977.11) 愛こそはすべて 小柳ルミ子(ワーナー・パイオニア L-10116)(1978.7) 素顔のまま(SMS SM25-5001) (1978.11) スペインの雨(SMS SM25-5011) (1979.5) 来夢来人(SMS SM25-5050) (1980.4) 小柳ルミ子大全集(SMS SMAO-5155~9) (1980.10.21) 浪漫的 ロマンチック(SMS SM28-5068) (1980.12 ★カラー・ピンナップ★ 歌詞カードつき) たそがれラブコール(SMS SM28-5077) (1981.8) いくつもの星が流れて(SMS SM28-5095) (1982.12) うたかた(SMS SM28-5408) (1984.5) 小柳ルミ子/ベスト・セレクション(ポリスター PSCF-5006) (1995.7.26、25周年記念アルバム) 初心を忘れまいと誓った日 小柳ルミ子オン・ステージ 東京日比谷公会堂・ライヴ録音(ワーナーブラザーズ・パイオニア L-5024~5R) (1972.4.25 特大カラー・ポスター付) こんにちわ小柳ルミ子です わたしがいちばんしあわせな日 1973年4月5日 東京厚生年金ホール・ライヴ録音(L-8022R) (1973.6.10 豪華カラーポスター付) 小柳ルミ子 いつまでもこんな日が 大阪梅田コマ・ライヴ録音(ワーナー・パイオニア L-10020R) (1975.10.25) 青春・歌はわたしの心 小柳ルミ子 1976年10月25日 大阪フェスティバルホール・ライヴ録音 (ワーナー・パイオニア L-5517~8R) 「やさしさということ」 小柳ルミ子NHKホールリサイタル 1979年8月11日 NHKホール・ライヴ録音 (SMS SM40-5033~4) (1979.9 初回特典:写真集付) 雪あかりの町 小柳ルミ子 輝く明日への出発(ワーナーブラザーズ・パイオニア L-6042R) (1972.2.25) 小柳ルミ子・トップ・リクエスト(ワーナー・パイオニア L-8052R) (1975.3.10) 小柳ルミ子全曲集(CBS・ソニー FCLD-101)(4枚組) 私の故郷 小柳ルミ子(ワーナー・パイオニア L-5533~4R) (1977.12) THE BEST OF RUMIKO KOYANAGI(SMS SM25-5019)(1979.7) 愛.あの頃そして今(SMS SM38-5042~3) (1979.12) 旅(SMS SM25-5032) (1980.2) 海(SMS SM25-5025) (1980.3) 蛍火(SMS SM28-5056) (1980.8) 日本の夏~ひと雨くれば(SMS SM28-5074) (1981.7) NHK紅白歌合戦出場曲(SMS SM28-5082) (1982.10) お久しぶりね-ベストセレクション-(SMS SM28-5404) (1983.10) ベストセレクション 小柳ルミ子(SMS SM28-5411) (1984.11) 小柳ルミ子 ニュー・ベスト(ソニー・ミュージックエンタテインメント EPCE-4009) (1998.05.21) 小柳ルミ子 CD-BOX(ビクター エンタテイメント VCS-1004~9) (2002.5.21CD6枚組) ゴールデン☆ベスト 小柳ルミ子 シングル・コレクション(ソニー・ミュージックダイレクト MHCL-518)(2005.3.24) 小柳ルミ子 デラックス・ボックス(ワーナーミュージック・ジャパン WQZQ-21/32) (2011.7.20、CD11枚、DVD1枚組) 小柳ルミ子 GOLDEN☆BEST SMSイヤーズ・コンプリート・ABシングルス(CDSOL-1576~7)(2014.6.4、CD2枚組) 1971年・第22回に初出場以来、1988年・第39回まで18年連続で出場。 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 ドリフ大爆笑(フジテレビ) セイシュンの食卓(1992年 - 1994年、テレビ朝日) ビートたけしのTVタックル(1995年1月16日、テレビ朝日) - バイク事故で休養していたビートたけしの代理司会 バラエティーざっくばらん(1995年4月 - 6月、NHK総合) うつみ&ルミ子の思い出ボロボロ(1999年 - 2000年、フジテレビ) あの人は今!? ヒーロー&ヒロイン 伝説の101人(2002年1月10日、日本テレビ) - パネラー あの人は今!? テレビ生誕50年 世紀のヒロイン50人(2003年10月2日、日本テレビ) - パネラー 壮絶バトル!花の芸能界(2003年、日本テレビ) カラオケ★バトル(2011年 - 、テレビ東京) 明治安田生命Jリーグワールドチャレンジ2017 浦和レッズVSドルトムント (2017年7月15日、フジテレビ、副音声でのコメンテーター) 連続テレビ小説(NHK) 虹(1970年) - 三谷かおる 役 こころ(2003年) - 千野小江美 役 おさな妻 第35話(1971年6月4日 東京12チャンネル) お祭り銀次捕物帳 第1話「出発の唄」(1972年 フジテレビ) - おとせ 役 家光が行く(1972年 日本テレビ) - 志津 役 大江戸捜査網 第172話「盗まれた花嫁」(1975年 テレビ東京) - お千代 役 金のなる樹は誰のもの(1976年 NETテレビ) - 美子 役 バケタン家族(1976年 NETテレビ) - 露子 役 いちばん星(1977年 NHK) あした泣く(1978年 TBS) 水戸黄門 第10部 第2話「女度胸の鉄火肌・神奈川」(1979年 TBS) - お竜 役 新・江戸の旋風 第1話「誓いの八丈太鼓」(1980年、CX) - お菊 役 青春諸君!夏 第10話(1980年 TBS) - 華子 役 お化けのサンバ(1980年 テレビ東京) - 柳下ゆう子 役 春まっしぐら!(1981年 TBS) - 主演・塩田千春 役 ある日突然恋だった(1982年 TBS) - 花沢知子 役 望郷 美しき妻の別れ(1983年 フジテレビ) - 主演・船渡葉子 役 火曜サスペンス劇場(日本テレビ) 松本清張スペシャル・一年半待て(1984年5月22日) - 主演・須村さと子 役 過去からの声(1988年7月12日) - 主演・片桐久美子 役 湾岸に消えた女(1989年2月28日) - 主演・片桐久美子 役 ※「過去からの声」と同じシリーズ。原作はスー・グラフトン。 外科医・有森冴子II 告知(2000年10月3日) - 竹田香奈 役 だます女だまされる女5(2003年2月25日) - 宮口遥子 役 ザ・ドラマチックナイト 松本清張の地方紙を買う女(1987年10月23日、フジテレビ) - 主演・潮田芳子 役 火曜スーパーワイド 和久峻三の京都ドラマ うちは祇園のゲイシャ弁護士え(1988年6月28日、朝日放送) - 主演・藤波静香 役 ※挿入歌は小柳ルミ子「シルクな心」 1990年代後半から2000年代前半にかけて、土曜ワイド劇場枠で『京都の芸者弁護士事件簿』シリーズとして制作された。主演は小柳と同様に宝塚出身の涼風真世。 代表取締役刑事 第30話「長いお別れ」(1991年 テレビ朝日) 裸の大将放浪記 第52話「母子おくんち太鼓・唐津編」(1992年 関西テレビ) 月曜ドラマスペシャル 松本清張作家活動40周年記念・迷走地図(1992年3月30日 TBS) - 織部佐登子 役 大河ドラマ(NHK) 琉球の風(1993年) - 蔡真鶴 役 西郷どん(2018年) - 由羅 役 鍵(1993年 テレビ朝日) 家なき子 第2〜4話(1994年 日本テレビ) - 園田京子 役 愛とは決して後悔しないこと(1996年 TBS) - 宮田秋子 役 冬の蛍(1997年 NHK) - 西山さと子 役 土曜ワイド劇場 ジャンボ宝くじ1億5千万円が当たった女!連続殺人(1998年1月17日、朝日放送) - 主演・福原富子 役 ※小柳ルミ子として衣裳協力もしている くれなゐ(1998年4月 - 6月 読売テレビ) - 貴志尚子 役 金曜エンタテイメント 主夫デカと猛妻鑑識官の夫婦事件帳(1999年5月7日、フジテレビ) - 志摩真紀子 役 ※「おもろい夫婦事件帖」のパイロット版 おもろい夫婦事件帖(1)(2001年1月19日、フジテレビ) - 志摩真紀子 役 おもろい夫婦事件帖(2)(2001年6月29日、フジテレビ) - 志摩真紀子 役 明日を抱きしめて(2000年 読売テレビ) - 高宮洋子 役(※三田佳子降板後の後任) 金田一少年の事件簿(第3シリーズ) 黒死蝶殺人事件(2001年8月4日・8月11日 日本テレビ) - 斑目緑 役 女と愛とミステリー 悪の仮面(2001年9月12日、テレビ東京) - 熊谷香織 役 女と愛とミステリー 骨壺を抱く二人の女(2001年10月31日、テレビ東京) - 葛原彩子 役(藤田朋子とのダブル主演) 仔犬のワルツ(2004年 日本テレビ) - 志賀華子 役 特命係長 只野仁リターンズ 女弁護士の秘密を暴け!!(2004年12月22日、テレビ朝日) - 里美映子 役 復讐のダイヤモンド(2006年3月18日、テレビ朝日) - 池田美佐子 役 土曜ドラマ 魂萌え!(2006年、NHK総合) - 山田栄子 役 火曜ドラマゴールド 検事霞夕子SP 悪徳女代議士は許さない(2006年11月7日、日本テレビ) - 柏木美輪 役 不倫調査員・片山由美9 黒髪人形・尼寺殺人事件(2007年9月19日 テレビ東京) - 花岡清泉 役 白と黒(2008年、東海テレビ) - 大貫彩乃 役 金曜プレステージ 山村美紗サスペンス 4週連続スペシャル 第3弾「推理作家・池加代子〜殺しのシナリオ〜」(2012年5月18日、フジテレビ) - 三戸珠世 役 月曜名作劇場 「ミステリー作家・朝比奈耕作シリーズ2」(2018年3月12日、TBS) - 鳥神姫羽 役 春だドリフだ 全員集合!!(1971年・松竹) - 小柳ルミ子 役 日本一のショック男(1971年・東宝) - 八木沢恵美子 役 どてらい男(1975年・東京映画) - 前戸弥生 役 誘拐報道(1982年・東映) - 古屋芳江 役 ※第6回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞 白蛇抄(1983年・東映) - 主演・石立うた 役 ※第7回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞 塀の中の懲りない面々(1987年・松竹) - 風見待子 役 塀の中のプレイ・ボール(1987年・松竹) - 栗田夏代 役 家なき子 劇場版(1994年・東宝) - 磯貝(園田)京子 役 陽炎2(1996年・松竹) - 高木由良 役 Codename:TOMOKO<TOMOKO もっとも危険な女>(2000年・パル企画=日本スカイウェイ) - 主演・トモコ 役 歌の妖精4(日本音楽教育センター) ミュージカル・スターは夢を見る…(2009年・劇団とっても便利・大野裕之作曲脚本演出) ミスター・グッドバーを探して - テレサ・ダン〈ダイアン・キートン〉 役※テレビ朝日版 花の万博 グランドフィナーレショー(1990年) 週刊大衆(双葉社) 「ルミ姉の清く正しく美しく」を連載 週刊宝石(光文社) 対談コーナー「小柳ルミ子の男と女のトーク」を連載 西陣 CR小柳ルミ子 CYBER SPACE ルミチャンネル(2006年) ヤクルト本社ジョア(1970年代中頃) KINCHO(1970年代後半~1980年代中期) お多福産業 お多福の磁気付きシューズ 日本民間放送連盟 はつらつ、30才。 みやもと歯科ジャパン・インプラントセンター(福岡ローカル、2010年) 夫(当時)の大澄賢也と共演。 サムスン電子 (1990年代後半) 日本ビール BEER(赤・黒) (1995年) 三人娘 新三人娘 - GOLDEN☆BEST 新三人娘 〜天地真理・小柳ルミ子・南沙織〜(MHCL1933/4) 森岡賢一郎 ボビー吉野 - 振付を担当 大野裕之 ^ 『あの日あの時母の顔―私の母語り』 小学館 1996年 156頁 ^ 監修:小林公一『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)』阪急コミュニケーションズ、2014年4月1日、80-81頁。ISBN 9784484146010 ^ 新井恵美子『女たちの歌』 光文社、2004年、ISBN 4334783147。 ^ 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.248 ^ 後に音楽番組に出演する際も「小柳ルミ子」名義に戻している。 ^ 2007年7月10日号の週刊女性『独占スクープ! 小柳ルミ子との離婚から7年 大澄賢也 慰謝料1億円 実は…「一銭も払ってないッ!」』より。 ^ 2007年11月27日、テレビ朝日系『スーパーモーニング』 ^ QVC ブランド「小柳ルミ子『DANCING QUEEN』」 ^ 小柳ルミ子、サッカー解説者デビューへ!「浦和-ドルトムント」で副音声初挑戦 ^ JR瀬戸大橋線・宇野線とJR四国の発車メロディとして使用されている。 ^ 1979年にA面とB面の入れ替え盤をリリースした。さらに1981年には、大日本除虫菊のCMソングとして使用され、再度A面としてシングルリリースされた。 ^ 石川ひとみの楽曲「恋」に、異なる歌詞をつけたリメイク楽曲。 ^ 高山厳とのデュエット。 ^ rumiko名義。 ^ rumiko meets a million bamboo名義。 ^ 農協共済のCMソングとして使用された。歌詞は一般応募で一等入選したものが採用された。レコードは非売品であったが、2011年発売の「小柳ルミ子 デラックス・ボックス」で初CD音源化された。 ^ 辺見マリと小柳ルミ子のジョイント編集アルバムではあるが、辺見と小柳のトークが入っている。 ^ 色は黄色。 ^ SMSから再発された際にアルバム・タイトルは『泣きぬれてひとり旅』に変更された。 ^ SOUNDS MARKETING SYSTEMの略。かつて存在した渡辺プロダクションのレコード会社。 ^ アルバム・タイトルはいわゆるベスト・アルバムを思わせるものがあるが、10曲中7曲はオリジナル作である。 ^ ただし、A面1曲目の「恋にゆれて」はスタジオ録音。 ^ “2018(平成30)年 大河ドラマ「西郷どん」出演者発表!”. NHKドラマトピックス. NHK (2017年4月12日). 2017年4月12日閲覧。 小柳ルミ子 - 所属事務所プラチナムプロダクションによるプロフィール 小柳ルミ子 - 最新ニュース - クラウンレコードによるオフィシャルサイト 小柳ルミ子オフィシャルブログ - Ameba Blog 小柳ルミ子 - KINENOTE 小柳ルミ子 - テレビドラマデータベース 小柳ルミ子 - NHK人物録 夏川るみに関するカテゴリ: 宝塚歌劇団卒業生 宝塚歌劇団56期生 娘役 背中でちょっとI Love Youに関するカテゴリ: 小柳ルミ子の楽曲 岡本朗が制作した楽曲 1987年のシングル 泣かないからに関するカテゴリ: 小柳ルミ子の楽曲 松井五郎が制作した楽曲 玉置浩二が制作した楽曲 1987年のシングル LEATHERYに関するカテゴリ: 小柳ルミ子の楽曲 湯川れい子が制作した楽曲 ワーナーミュージック・ジャパンのシングル 1988年のシングル" ]
ABC01-02-0237
客が出した3つの題を使い、即興で話を作る落語の形式の一つは何でしょう?
三題噺
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[ "三題噺", "彦六伝", "松竹梅 (落語)", "お菊の皿", "五貫裁き" ]
[ "三題噺(さんだいばなし)とは、落語の形態の一つで、寄席で演じる際に観客に適当な言葉・題目を出させ、そうして出された題目3つを折り込んで即興で演じる落語である。三題話、三題咄とも呼ぶ。 元来、トリを取れるような真打ちだけがやったもので、客席から3つ「お題」を出してもらい即席で演じた。 出して貰う「題」にも決まりがあり、「人の名前」「品物」「場所」の3つで、どれかを「サゲ」に使わないといけなかった。 初代三笑亭可楽が始めたとされており、幕末には盛んに行われた。三題噺を元にした演目の代表作としては『芝浜』が挙げられる。三遊亭圓朝がある時の寄席で挙げられた題目が「酔漢」「財布」「芝浜」の3つで、これを題目として演じたのが『芝浜』の原形といわれている。この他『鰍沢』も三題噺を元にした演目の代表作である。 三題噺落語の創作には、かなりの発想力やセンス、またそれを演じるための技術が求められるため、誰もができるわけではない。近年では、三遊亭白鳥や柳家喬太郎などのほか、二ツ目の柳家わさびなども定期的に三題噺を演じる会を開いている。 現代では、落語のみならず、漫才やトーク番組などでも応用されて用いられている。また、大手マスコミ等の採用試験の問題として出題される。 聴衆から三つの題を得て即興で一回の落語を創作する三題噺を再興し、文久年間に一大ブームを巻き起こした幕末の粋狂人の集まりを連と呼び、その代表的なものに粋狂連と興笑連が有った。仮名垣魯文、山々亭有人、河竹新七、梅素玄魚、落合芳幾、山閑人交来などの他に玄人の三遊亭円朝、柳亭左楽、立川談志なども加わっている。粋狂連の代表は好文舎花兄(金座の役人で高野某)で、興笑連の代表は春廼屋幾久(大伝馬町の豪商勝田市兵衛)であった。 ざこば・鶴瓶らくごのご(朝日放送) - 三題噺を主体にしたテレビ番組 横浜美術館企画監修 『はじまりは国芳 江戸スピリットのゆくえ』 大修館書店、2012年。", "『彦六伝』(ひころくでん)とは、初代林家木久蔵(現・林家木久扇)による新作落語の名称。 原題『正蔵伝』、別名『林家彦六伝』。「芝居噺・怪談噺の大家」と謳われた8代目林家正蔵こと彦六が織り成す日常風景の姿を切り取り、弟子である木久蔵が経験した失敗談や体験談を交えつつ脚色を加えて編み出した滑稽噺。 3代目三遊亭圓歌の『中沢家の人々』(これをオマージュした8代目橘家圓蔵の『大山家の人々』)や5代目鈴々舎馬風の『会長への道』と共に、自身の身の上話を主題とした代表的な新作落語の一つ。 木久蔵が彦六一門への入門(正確には直接の師匠である3代目桂三木助の病没に伴う移籍)に至る経緯と師匠の姿を語って聞かせ、高血圧のために常に体が揺れ動く様子を「陽炎が座っている」、体の揺れを伴う独特の声色を「波動のある声」と紹介した上で物真似をやって見せる。これをくすぐりとし、「こういう人が目の前に居てごらんなさい。面白いから。」というオチで締めることで本題への導入とする。 木久蔵が得意とする声帯模写や形態模写による演出を前提としており、本人の映像や音源以外で生前の彦六の様子をありありと表現する貴重な作品。事の真偽は別としても彦六にまつわるエピソードが極めて豊富であるために筋の通った本伝は存在せず、木久扇襲名後も新たなネタを加えた『新・彦六伝』を発表するなど、時々に応じて自在にネタを組み変えられる小噺集としての側面が強い。 同じく木久蔵の手による新作落語『昭和芸能史』(原題『片岡千恵蔵伝』)と交わる部分が多く、高座で彦六伝をかけてもネタの進行によっては彦六以外の芸人や役者の物真似(片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、大河内傳次郎、市川右太衛門、月形龍之介など)も披露するため、彦六伝と昭和芸能史を半分ずつ演じる二作折衷の形態を取ることもある。また、自由度の高さから古典、新作を問わず様々な噺の枕にも多用しており、名実共に木久蔵の代名詞となっている。 彦六が「向かいの空き地に囲いができた。へぇー。」という小噺を木久蔵に教えようとした時、「そっくりやるんだ。」と促された木久蔵は彦六の姿そのものも含めて真似をすると勘違いしてしまう。木久蔵は得意の物真似で体の震えやヘナヘナの声色をそっくりそのままにやったものの「向かいの空き地に囲いができた。よかったよかった。」としくじってしまい、オチの間違い以上にその奇妙な姿を訝しく思った彦六は指摘もそこそこに再び小噺を演じて「やってみな。」と木久蔵を促す。これに参った木久蔵はまたもや彦六の物真似をするが今度は力を入れすぎて「向かいの空き地に囲いができた。めぇー。」としくじってしまい、これを聞いた彦六は「誰が山羊なんかやれっつった。てめぇなんざぁ破門だ!!」(別のオチでは「今年は鼠年だ!!」)と返した。 鏡開きの日、神棚に供えてあった鏡餅を割って水餅にしようと思った彦六は木久蔵を呼んで鏡餅を下ろさせる。しかし、神棚の下には長火鉢にかけられた鉄瓶から常に湯気が立っており、その湯気に当たり続けていた鏡餅はヌルヌルになっていた上にあちこちにカビが生えている酷い有様であったため、彦六は木久蔵にカビの生えた部分を小刀で削り取るように改めて促す。手を滑らせないように注意して作業を続ける木久蔵の様子をぎこちないと感じた彦六は、大怪我があってはならないとする親心からその手元をじっと見つめていたが、当の木久蔵には刺さるような彦六の視線が耐えられない。そこで、どうにか間を持たせようと一計を案じて「師匠、どうして餅ってカビが生えるんでしょうかね?」と彦六に質問を投げ掛けると、彦六は即座に「馬鹿野郎、早く食わねぇからだ!!」と答えて木久蔵を驚かせた。 昭和36年頃、彦六がテレビでバスケットボールの試合をじっと見ている姿を目にした木久蔵は「明治生まれなのにこうした新しい物事もネタにしようとしているのか。」と遠巻きに感心していたが、その矢先に彦六はテレビに向かって「誰かが教えてやりゃあいいじゃねえか。」と口走った。彦六の一言が理解できずに「どうかなさいましたか?」と聞いたところ、彦六は「テレビを見てみろよ。さっきから若ぇやつが球を拾っちゃ網ん中に入れてるが、底が無ぇのを知らねぇんだ。」と言った。 彦六が高座に上がって得意とする怪談噺を披露していた頃は、釣竿に吊るした綿玉に焼酎を染み込ませて点火したものを人魂として使う手法が残っており(通称「焼酎火」、現在は消防法により禁止)、それらの舞台演出は彦六門下の仕事の一つであった。鈴本演芸場での高座の際、兄弟子との会話で気が緩んでいた木久蔵が舞台袖から彦六の側へ人魂を出すと勢い余って彦六の頭の上に乗ってしまい、ポマードで整えられていた髪から勢い良く火の手が上がった。「火事だ!!」と絶叫した観客の声に慌てた前座が消防署に電話をすると、応対した消防士から「すぐに行きますから、そのままにしておいて下さい!!」と言われた。 彦六が86歳を迎えた最晩年の頃、とある縁で選挙立候補者の応援弁士を頼まれて快諾したものの、二つ返事で軽く引き受けたために応援者の名前をろくに覚えておらず「この先生」「こちらの先生」でどうにか対処していた。しかし、高齢から来る体力の衰えと長時間に及ぶ車上活動で終盤を迎える頃には車酔いを起こすほど身も心も疲れ切ってしまい、どうにか最後の演説を全うしようと奮起するも「ああ、気持ちが悪い…。こちらにいらっしゃる気持ちの悪い先生のために、気持ちの悪い一票をどうかよろしくお願いを。ああ、ああ…、南無妙法蓮華経。参議院議員全国区の候補者は、候補者は…、候補者…?候補者は、林家彦六。」と口走ってしまった。後に開票してみると、林家彦六と書かれた投票用紙が37票も出てきたために応援演説を願い出た立候補者は落選してしまった(このネタを主軸に据えた場合は題名を『明るい選挙』とする事もあったが、基本的には選挙で無効票の個別内容とその票数までもが詳細に公開されることはないため、近年は投票用紙の部分、あるいはこのネタ自体の口演が少なくなっている)。 ある盛夏の日、彦六が出待ちの客から「これは暑気払いに大変良いものだからどうぞ晩酌の肴に」とキムチを貰ってきたところ、彦六の妻がキムチを全く知らなかったために「臭い!腐ってるんじゃないの?」「タダだからって、何でもいただいてくることはないでしょうに。」と酷く嫌がり、銭湯に行った彦六の目を盗んでキムチのヤンニョムを丹念にすすいだ上に何度も水にくぐらせて晒し洗いしてしまった。やがて銭湯から帰ってきた彦六が「おいばぁさん、酒のつまみにいただいたお新香はどこだい?」と尋ねると、妻は「御膳の上に置いてありますよ。」と言って小鉢に入った綺麗な白菜を指差した。それを見て目を丸くした彦六が妻に改めて尋ね、キムチを洗ったことを知るや「洗っ…た…?やい、ばばぁ!!てめぇは、キムチを…洗ったな?それじゃあ何か?!麻婆豆腐も洗うのか!!」と芝居さながらの七五調で怒鳴りつけた。 孫弟子に当たる春風亭小朝が彦六の誕生日に祝いの品を携えて長屋に参じた日のこと。感謝もそこそこに彦六が包みを解いて箱を開けてみるとそこにはチョコレートが入っていたが、どれもがいびつな丸みを帯びた奇妙な形をしていたためにどう食べてよいものか思案に暮れ、とりあえず口中に入れてみた。なるほど確かにチョコレートだとしばらく口中で転がしていたが、程なくしてやけに硬くて歯が立たない何かが現れ、手に吐き出してみると楕円形をした茶色いものが出てきた。実は、高価な贈り物をあまり好まない彦六の性分を知っていた小朝が機転を利かせ、比較的安価でありながら当時はまだ珍しかったアーモンドチョコレートを用意したのだが、そうしたチョコレートをまるで知らなかった彦六は「やい、小朝。このチョコレートには種がある。」と言った。 彦六83歳の時、台東区役所の依頼を受けて養老院への慰問演芸会に出演したが、自宅へ帰ってくると酷く不機嫌な様子であった。それを見て恐々としつつ木久蔵が「あの…師匠、どうなすったんです?」と尋ねると、「ああ、お前かい!アタシぁ今日、養老院へ慰問に行ったろ?ところが、目の前のお客はアタシより若ぇヤツばかりだったよ!!」と怒気を帯びたまま即答し、木久蔵はいかに彦六が矍鑠としているかを改めて思い知らされた。 ある朝、木久蔵が朝食の準備で食パンを切っていたところ、彦六は「おい木久蔵。お前ぇはパンの秘密を知っているか?」と突如問いかけ、続いて「ロシアの捕虜収容所で出されるパンは、木屑が入っているみてぇな非常に堅いものが出される。収容されている班長はパンの柔らかい中身の部分を部下に与え、自分は堅くて不味い部分を食べる。部下からは人格者と思われるが、実際は柔らかい部分はすぐにこなれて(消化が良く)腹が減ってしまい、死んでしまう。対して堅い部分は一生懸命噛むから、なかなか腹が減らない。従って生き残るのは班長の方だ。パンを食べるなら耳だよ。」と薀蓄を語った。これを聞いた木久蔵は気を利かせて食パンの耳ばかりを積んだ皿を彦六の目の前に持ってきたが、これを見た彦六は激怒して「やい、木久蔵!!俺は捕虜じゃねぇ!!」と言い放った。 ある日の事、木久蔵は彦六から「お前ぇは美味しい焼き鳥ってぇのを知っているかい?」と唐突に質問され、心当たりの飲み屋を幾つか挙げてみせたが、彦六は「そうじゃねぇんだよ。」と答えて鶏の講釈を始めた。そこからすらすらと説かれ進む話は奇想天外ながらもいちいち的を射た内容であり、「こうやって作る焼き鳥は、美味ぇなぁ。」とにこやかに語り終えると、すっかり話に聞き入った木久蔵は不躾とは思いつつも「それじゃあ、やはり師匠はその焼き鳥をお召し上がりに?」と問い返した。すると彦六は「まだ食った事は無ぇんだよ。」とさらりと答えた。 生まれついての江戸っ子気質である彦六は、いわゆる「湯が喰い付く」熱い風呂を好んでいたが、その風呂をいただく彦六門下にはどうにも熱すぎて適わない。ある日、木久蔵が「師匠、風呂が熱いようなんですが…。」と苦言を漏らしたが当の彦六は「馬鹿野郎、熱いと思うから熱いんだ!!」と突っ撥ねてまるで相手にしなかった。改めて入り直したところで熱いのには変わりなく、再び木久蔵が「やっぱり熱いです…。」と言うと彦六は「お前ぇたちで『の』の字を書けい!!(=熱いのならば自分たちの体で湯もみをしてでも入れるようにしろ)」と改めて突っ撥ね、水を差して湯温を下げれば済むだけの話をこじらせてはその度にいつもの調子で破門を言い渡された。 珍しく大雪が降った翌日、彦六は「あちこちぬかるんでるからお止めなさいよ。」とする妻の小言を無視して用事のために木久蔵を連れて家を後にした。ぬかるみを避けようと高下駄を履き、さらに用心をして日陰の氷道を歩いていたが下駄の歯が滑って全く前に進まない。そうこうしているうちに氷に足を取られて転んでしまい、木久蔵の心配に「ああ、大丈夫だ。自分で起き上がるから心配するんじゃねえ。」と答えて立ち上がったものの、数歩進むとまた転んでしまったが今度はどうにも立ち上げる気配がない。よもやと思い木久蔵が「師匠、大丈夫ですか?!」と血相を変えて尋ねると、彦六はケロリとした様子で「ああ大丈夫。さっき起きなきゃよかった。」と返した。 昼食に店屋物の蕎麦を取ったある日、食欲旺盛な若き日の木久蔵は汁の一滴も残さずに平らげたが彦六は蕎麦を手繰るだけであり、そのうちに彦六が用事のために汁の残った丼をそのままにして出かけてしまった。用事を終えて彦六が帰宅してみるとすっかりと片付いており、「おい、汁はどうした?」と木久蔵に尋ねると「へぇ、捨てました。」と返されて「破門だ!!」と激昂交じりに言い放った。 など。 ^ NHKラジオ第1『ラジオ深夜便』2018年2月5日放送分に出演したヨネスケの証言 ^ 林家木久扇『林家木久扇 バカの天才まくら集』13ページ ^ 林家木久扇『林家木久扇 バカの天才まくら集』13ページ キクラクゴ(オーマガトキ・新星堂) キクキクラクゴ(オーマガトキ・新星堂) 新落語名人選・林家木久蔵(ユニバーサルミュージック) 林家木久扇 バカの天才まくら集(竹書房文庫) 林家木久扇 林家彦六 木久蔵伝", "松竹梅(しょうちくばい)は古典落語の演目の一つ。原話は、初代三笑亭可楽が出版した「江戸自慢」の一遍である「春の花むこ」。初代松富久亭松竹の作とも。 元々は上方落語の演目で、明治30年(1897年)ごろに4代目柳亭左楽が東京に移植した。主な演者に6代目春風亭柳橋や林家木久扇などがいる。 松五郎、梅吉、竹蔵というトリオが、「名前がめでたい」と言う理由で出入り先のお店のお嬢さまの婚礼に招かれた。 ところが、このトリオは結婚式に招かれるのは初めてで、席上どうしたらいいのかまったく分からない。 仕方がないので、三人そろって岩田の隠居に相談に行くことになった。 相談を受けた隠居は、「ただ飲み食いするだけじゃ失礼だ」といい、何か余興をやってあげたらどうかと勧める。 「例えば、こんなのはどうだ。挨拶をしたら、三人並んでぱっと扇子を広げ、まず松さんが『なったあ、なったあ、蛇(じゃ)になった、当家の婿殿蛇になった』。次に竹さんが『なに蛇になあられた』。最後に梅さんが『長者になぁられた』」 お婿さんが蛇になったとか何とかいい、変な気にさせたあとで「長者になった」と盛り上げるわけだ。 さて、練習。松公から練習することになったが、これがなかなか進まない。 松公は「ま…ま…マァ♪」と出てこないし、竹は「デデンデデン、なあんのぉぉぉぉぉう」と、義太夫調。 問題なのは梅公で、健忘症だと言う彼は何度練習しても言葉が出てこない。 松と竹が何とかフォローすることにして、時間が無いのでそのまま婚礼会場に乗り込んだ。 教わったとおりに忌み言葉を避け、ご挨拶も済んだところでいよいよ『芸』をすることに。 「まことにご愁傷さま…じゃなくて、本日はご婚礼、まことにおめでとうございます。僭越ながら、我々『松竹梅』が婚礼の余興といたしまして…」 扇子をぱっと広げて。 「なったあ、なったあ、蛇(じゃ)になった、当家の婿殿蛇になった」 「なに蛇になあられた」 松と竹は何とか切り抜けたが、肝心の梅吉が案の定、言葉を忘れて固まってしまった。 「紅茶に…番茶に…烏龍茶に…」 間違えるたびにやり直しになり、とうとう松が『なったあ、なったあ、ヤ(嫌)になった』」。 一同大笑い。 「ええ、失礼いたしました。では、改めてまいります。『なったあ、なったあ、蛇(じゃ)になった、当家の婿殿蛇になった』」 「なに蛇になあられた」 梅公、任せた!! 「えー、『亡者になあられた』」 式場は大騒ぎとなり、三人は逃げようとしたが梅吉だけ捕まってしまう。このことを隠居に伝えると隠居はこう言った。 「大丈夫だ、梅さんはそのうちお開きとなって帰るだろう」 この「松竹梅」に限らず、「高砂や」や「たらちね」など結婚式の噺で必ず出てくるのがこの忌み言葉。 詳しいことは「忌み言葉」の項に譲るが、結婚式の司会などもする噺家にとって、この風習は実に恐るべきものらしい。 この噺は比較的短いので、枕として自らが体験した結婚式でのエピソードを入れる噺家が多いのだが、どの口演を見ても一つは「忌み言葉」に対する苦言が入っている。 披露宴でのエピソードに並び、この噺でたびたび出てくるのが祝電に関する小噺。中でも傑作などが以下の一遍だ。 「あたし諦めるわ。ケイコ」 「前のことは忘れてがんばれがんばれ。麹町警察署一同より」 「仕事が立て込んでおり、結婚式に行かれなくてゴメン。次の機会には必ず行くよ」 ^ この部分をあっさり流して『芸』につなげる演者もいれば、マナーや「忌み言葉」に関して、本物の結婚式同様こまごまとレクチャーする演者もいる。 ^ 『披露宴』を疲労と引っ掛けて【疲労エン】(林家木久扇)", "お菊の皿(おきくのさら)は、古典落語の演目の一つ。古典的な怪談である皿屋敷を下敷きとした噺で、別名『皿屋敷』。 上方落語では2代目桂枝雀や3代目桂春団治などが得意演目としている。東京では6代目三遊亭圓生が2代目桂三木助から教わったものが伝わっている。 番町皿屋敷(上方落語版では播州皿屋敷)の怪談で知られる女中お菊の幽霊を見たいと考えた物好きな数名が、怪談の舞台である番町(上方版では播州姫路)の廃屋敷まで出掛けてゆく。果たして廃屋敷の井戸端にお菊の幽霊が現れ、恨めしそうに「一枚、二枚……」と皿を数え始めた。お菊の幽霊は恐ろしいが、とても美しい。数える声を九枚まで聞くと狂い死にすると言われているので、見物人たちはお菊が六枚まで数えたところで逃げ帰る。 美しい幽霊お菊の噂が広まり、翌日はより多くの者がお菊を見に行く。こうして見物人の数は日ごとに増えて行く。やがて周りで弁当や菓子を売る者が現れ、さらに興行主が現れてこれをショーとして興行化し、井戸のまわりに客席が設けられ廃屋敷は芝居小屋のようになり、「お菊の皿数え」は舞台演芸のようになっていく(この部分は自由度が高く、興行の規模や内容は演者により様々なバリエーションがある)。幽霊のお菊も客に愛嬌を振りまくようになる。 今日もお菊の皿数えの上演がある。お菊は喝采を浴びて登場し、「一枚、二枚……」と皿の枚数を数え出す。お菊が六枚目を数えたところで客たちは逃げようとするが、客席が混雑していて逃げられない。ついに聞けば死ぬと言われている九枚目をお菊が数えた。しかし何も起こらず、お菊は「十枚、十一枚……」と皿を数え続ける。客たちが呆気にとられる中、十八枚まで数えたところで舞台は終わりとなった。 「なぜ十八枚まで数えたんだ」と客がお菊に尋ねると、お菊は「こう毎晩じゃあかなわないからね、明日はお休み、その分まで」と答える。 皿屋敷", "五貫裁き(ごかんさばき)は、落語の演目。名奉行と言われた大岡忠相を重要な役に据えた、『大岡政談』の1つである。 賭博場の使い走りをしていたが大病を患い、寝込むことになった八五郎は、闘病中に仲間が誰も見舞いに来なかったことから、自分の人生を見直して堅気になると決意した。八百屋をやりたいと相談しに来た八五郎に、大家は奉加帳(カンパを記録するための帳面)を作って「最初に金持ちの所に行け」と助言する。喜んだ八五郎は早速募りに行くが、なぜか数分で傷だらけになって戻ってきた。 話を聴くと、八五郎は最初に質屋をやっている『徳力屋』という所に行ったが、番頭に初筆三文と書かれて唖然となり、押し問答をしていると、そこへ徳力屋の旦那がやってきて「書き直す」というので、てっきり増やしてくれると思ったが、減らされてしまったという。頭にきた八五郎は一文を徳力屋に投げつけ、殴ろうと飛びかかったら煙管で殴られてしまったらしい。それを聞いた大家は、なぜか「面白いな」と呟き、今度は奉行所に訴え出ることを助言した。 裁きを担当したのはあの大岡越前だったため、八五郎はいい裁きが聞けると思ったが、何とお金を粗末にしたという理由で罰金を払うことになってしまう。その額は五貫(5000文)であり、まとめては払えないため、八五郎が日に一文ずつ徳力屋に渡し、徳力屋が奉行所に払いに行くことになった。当然ながら八五郎は大家を責めるが、「ますます面白い」と何処吹く風の大家は「一文は自分が出してやる」と言い、帰ってしまった。 その翌朝、まだ夜も明けないうちから八五郎宅を大家が訪れ、一文を払うようにと言う。案の定、行ってみると徳力屋はまだ眠っている。それを無理やり叩き起こし、「奉行所に持っていく」と半紙に受け取りを書かせて一文を収めたのだ。その後、店の店員が一文を奉行所に収めに行くが、「主自身が町役人五人組同道で持って来い」と突っ返されてしまった。五人組はただでは動いてくれないため、仕方なく報酬を渡して付き合ってもらうが、今後も五人組同道で持ってくるよう言われてしまう。 毎日毎日、夜になると八五郎が一文返しにやって来る。何日も安眠を妨害された徳力屋は、「奉行も糸瓜もあるか」と激怒してしまうが、そこへ話を聴いた同心が怒鳴り込んできたため、驚愕する。 その一件で、やっと大家の魂胆が分かって面白くなった八五郎は、大家の勧めで日中に睡眠を取り、夜になると夜通し徳力屋に一文返しに行き、眠れないようにしてしまった。これには流石の徳力屋も参ってしまう。計算をしてみると、このままだと13年は眠れぬ日が続き、受け取りの用の半紙が5000枚、なにより五人組への謝礼が莫大な量になってしまうことが判明する。焦った徳力屋に示談を提案された八五郎は、打ち合わせどおりに大家に話を持って行き、結局20両で示談にしてもらった。 その後、徳力屋は善行に目覚め、世間のために尽くしたという。なお、徳力屋は徳力本店として現在も存続し、営業している。" ]
ABC01-02-0241
『地獄門』や『カレーの市民』、そして『考える人』などの作品で知られるフランスの彫刻家は誰でしょう?
オーギュスト・ロダン
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[ "オーギュスト・ロダン", "アンリ・ファンタン=ラトゥール", "ジョルジョ・デ・キリコ", "ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ", "エドゥアール・ヴュイヤール" ]
[ "フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(フランス語: François-Auguste-René Rodin、1840年11月12日 - 1917年11月17日)は、フランスの彫刻家。19世紀を代表する彫刻家とされ、『近代彫刻の父』と称される。代表作に『地獄の門』、その一部を抜き出した『考える人』など。 パリ在住の労働者階級の子として生まれた。父ジョアン・バティスタは警察に雇われる事務員で、オーギュストは妻マリーとの間に生まれた2人目の子供だった。ロダンはエコール・デ・ボザールなどの美術の専門教育(アカデミズム)を受けず、特に青年期以降はほとんど独学で彫刻を習得したことで知られている。 本人の談によれば、10歳の時に初めて絵を描いたことで美術に興味を持ち、14歳の時に地元のプティット・エコール(小さな学校)と呼ばれる工芸学校に入校した。子供達に絵画やデッサンを教えていたルコック・ボードランという教員はロダンを最初に評価した人物で、後年にロダンは感謝の言葉を残している。17歳に工芸学校を退校するまで、ジュール・ダルー・アルフォンソ・ルグロなど同年代に活躍する画家や彫刻家とも知り合っている。 プティット・エコールを退学した直後、ロダンは学業継続を望んでエコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願した。ロダンは同窓生をモデルにした塑像を提出したが、ボザールからの評価は不合格だった。諦めずに翌年と翌々年も塑像を提出し続けたが、ボザールからは全く相手にされなかった。当時のボザールは技術的な要求水準がさほど高くなかったとされ、数度にわたって入学を拒否されたことは非常に大きな挫折といえた。ロダンが入学を拒絶された理由は、ボザールでの新古典主義に基いた彫刻教育と異なる嗜好で作品を作っていたことも一因かもしれない。入校を諦めたロダンは室内装飾の職人として働きながら、次の道を模索していた。 1863年、ボザール入学を果たせなかったロダンに追い討ちをかけたのが姉マリアの死だった。ロダンを経済的に支えていた姉は、恋人との失恋劇で精神を病み、俗世を捨てて修道女になっていた。その姉が体調を崩して修道院で病没すると、姉の恋人を最初に紹介したロダンは激しい罪悪感に苦しんだという。姉の後を追うように修道院に入会したロダンは修道士見習いとして、美術から神学へと道を変えようとした。だがロダンの指導を任されたピエール・ジュリアン司教は彼が修道士に不向きだと判断して、美術の道を続けるように諭した。 修道会を離れたロダンは動物彫刻の大家であったアントワーヌ=ルイ・バリー(英語版)に弟子入りして、深い影響を受けた。また24歳の時には生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、長男オーギュスト・ブーレ・ロダンをもうけているほか、装飾職人としての労働も再開した。普仏戦争が勃発すると彼も徴兵対象となったが、近視であったことから兵役を免れた。それでも戦争の影響で仕事が減って生活が苦しくなり、30歳までロダンは家族を養うだけの稼ぎを持てなかった。職を求めて新天地に向かうことを決めたロダンは家族とベルギーへ移住して、そこで知り合いの紹介でブリュッセル証券取引所の建設作業に参加した。 ロダンは当初は仕事が終われば早々に切り上げてフランスに戻るつもりだったが、様々な理由から6年間滞在を続けた。ベルギー時代は彼の創作活動において重要であったと考えられている。彼は装飾職人として独学で彫刻の技法を修練していたが、展覧会用の作品を作る余裕がなかったために、誰も彼が彫刻家としての夢を抱いていたことを知らなかった。1875年、職人の親方との関係が悪化したこともあり、ベルギー滞在中に生活費を節約して貯蓄を続けていたロダンはローズを連れて、念願のイタリア旅行へと出かけていった。そこで目の当たりにしたドナテッロとミケランジェロの彫刻に衝撃を受けたロダンは、多大な影響を両者から受けることになった。 彼は「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」と語っている。ベルギーに戻ったロダンは早速イタリア旅行で得た情熱を糧に『青銅時代』を製作、十数年ぶりに彫刻家として活動を開始した。 この『青銅時代』はオーギュスト・ネイトという人物をモデルにした等身大の男性像で、極めて緻密でリアルな作品であった。ところがそのあまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられ、憤慨したロダンは2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作った。型を取ったのではなかったと分かった審査員たちは、ロダンの彫刻に対して賞賛の言葉を送り、ロダンの名は一気にフランス中に広まった。 1880年、ロダンの元に、国立美術館を建てるので、そのモニュメントを作ってほしいとの依頼が来た。そのテーマとしてロダンが選んだのがダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』である。ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、粘土や水彩画などでデッサンを重ねていったが、中々構想はまとまらなかった。 この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。だが優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できなかった。ロダンはローズの元に逃げ帰り、ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、死ぬまでそこで過ごすことになる。 1888年、美術館の建設計画は白紙に戻り(予定地だった所には現在はオルセー美術館が建っている)、ロダンに『地獄の門』の製作中止命令が届くが、ロダンはこれを断り、金を払って『地獄の門』を自らの物とし、制作を続けた。 ロダンにとって最早『地獄の門』とは単なる作品ではなく、『神曲』の中の物語でもなく、ほかならぬロダン自身のものとなっていたのである。 そして1889年、『地獄の門』を覗き込む男を一つの彫刻として発表した。はじめこの彫刻には「詩想を練るダンテ」と名づけられていたが、発表するときは「詩人」と名づけられた。この像は誰を表しているのか、ダンテであるという説もあるが、ロダン自身であるという説もある。その姿は地獄の中を覗き込み、苦悩している姿であり、その地獄の中にはカミーユ、ローズとの間に出来た息子(この子のことをロダンは認知せず、世間にも隠していた)の姿がある。なお『考える人』という名はこの像を鋳造したリュディエが付けたものである。 1917年、ロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをした。ロダン77歳、ローズ73歳であった。その16日後にローズは死去し、さらに9ヵ月後の11月17日にロダンも死去した。ロダンの末期の言葉は『パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』だった。結局『地獄の門』は未完に終わった。 ロダンの作品群は世界的に人気があり、特に『考える人』は数多く鋳造され、世界中に存在する。体をひねり、頬杖をついて、地獄の門を覗き込む男。そこには人間の内面までも浮かび上がらせようとするロダンの情念が息づいていた。弟子にはカミーユ・クローデルの他に、アントワーヌ・ブールデル、小倉右一郎、シャルル・デスピオらがいる。 ロダン美術館 - フランス・パリ ロダン美術館 - アメリカ・フィラデルフィア 国立西洋美術館『地獄の門』『カレーの市民』『考える人』 静岡県立美術館『地獄の門』『考える人』(大・小) 『裸のバルザック』(ほか28点) 新潟市美術館『死の顔・花子』『空想する女・花子』『バルザックの頭部』 西山美術館『考える人』『パスティアン・ルパージュ』『永遠の青春』 大原美術館『歩く人』 明治43年(1910年)に発行された同人雑誌『白樺』の第8号は、「ロダン号」と称され、ロダンの特集が組まれている。有島武郎、高村光太郎、永井荷風らがロダン作品の印象を寄稿した。 それをきっかけにロダンは生前、白樺派の人々と文通を行っていた。ロダンにデッサンを送ってもらえる機会を得た白樺派の人々は、フランス語の出来る有島生馬が手紙を書き、白樺派の人々が持っている浮世絵と、志賀直哉と武者小路実篤が金を出し合って買った浮世絵を送った。ロダンからはデッサンではなく『ロダン夫人』『ゴロツキの首』『ある小さき影』の3点の彫刻が送られた。これが日本に初めて来たロダンの作品である。 カミーユ・クローデル - 1988年のフランス映画。主演はイザベル・アジャーニ。ジェラール・ドパルデューがロダンを演じた。 ロダン カミーユと永遠のアトリエ - 2017年のフランス映画。ロダンの没後100年を記念して製作された。ヴァンサン・ランドンがロダンを演じた。 ^ \"(François) Auguste (René) Rodin.\" International Dictionary of Art and Artists. St. James Press, 1990. Reproduced in Biography Resource Center. Farmington Hills, Mich.: Thomson Gale. 2006. ^ Jianou & Goldscheider, 31. ^ Hale, 40. ^ Morey, C. R. (1918年). “The Art of Auguste Rodin”. The Bulletin of the College Art Association of America 1 (4): 145–154. doi:10.2307/3046338.  ^ Date of death from Elsen, 206. ^ Jianou & Goldscheider, 34. ^ a b Jianou & Goldscheider, 35. ^ Hale, 49–50. ^ Taillandier, 91. 『ロダンと日本』静岡県立美術館ほか 2001年 『ロダン事典』淡交社 2005年 ロダン/新庄嘉章訳『フランスの大聖堂』 東京創元社。 『現代美術全集5 ロダン/ブルーデル』集英社 1971年 ウジェーヌ・カリエール アリスティド・マイヨール ライナ・マリア・リルケ - 詩人、著書に『ロダン』 カミーユ・クローデル アントワーヌ・ブールデル 高田博厚 - 彫刻家 高村光太郎 - 『ロダンの言葉』を訳した。初版は大正5年(1916年)。 木村荘八 - ポール・グセル編 『ロダンの芸術観』を訳した。初版は大正3年(1914年)、洛陽堂。他に内藤濯訳、古川達雄訳がある。 静岡県立美術館 ロダン館 Rodin-Web.org: independent academic platform on Rodin, with collections overview, biography, photos, books, events", "アンリ・ジャン・テオドール・ファンタン=ラトゥール(Henri Jean Théodore Fantin-Latour, 1836年1月14日 - 1904年8月25日)は、フランスの画家、リトグラフの版画家。 ファンタン=ラトゥールはフランス、イゼール県のグルノーブルに生まれ、パリのエコール・デ・ボザールで絵を学んだ。 1876年、画家仲間だったヴィクトリア・デュブールと結婚。以後、夏になるとオルヌ県ビュレ(Buré)にあった妻の家族の田舎の邸宅で過ごし、その場所でファンタン=ラトゥールは亡くなった。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬された。 ファンタン=ラトゥールの作品でよく知られているのは、静物画、花の絵、友人の画家・作家たちのグループ肖像画、クラシックの大作曲家たちの作品を描いた精巧なリトグラフ などである。 ファンタン=ラトゥールをイギリスに紹介したのは、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーだった。 ファンタン=ラトゥールの絵の1つは現在250万USドルする。 カラフ、花、果物のある静物画(1865年)東京、国立西洋美術館所蔵  サンザシの花瓶、サクランボの鉢、日本のお椀、カップと皿のある静物画(1872年)  ドラクロワへのオマージュ(1864年)前列左よりデュランティ、ファンタン=ラトゥール、ホイッスラー、シャンフルーリ、ボードレール、後列左よりコルディエール、ルグロ、マネ、ブラックモン、バルロワ  義理の妹シャルロット・デュボーグの肖像(1882年)  テーブルの片隅(1872年)前列左よりヴェルレーヌ、ランボー、L・ヴァラード、E・デルヴィリィ、C・ペルタン、後列左よりP・エルゼアル・ボニエ、E・ブレモン、J・エカール  版画作品\"La Muse (Richard Wagner)\"  ^ ロベルト・シューマンの同名の曲を描いた『楽園とペリ』(1884年)THE CLIEVELAND MUSEUM OF ART", "ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888年7月10日 - 1978年11月20日)は、イタリアの画家、彫刻家。形而上絵画派を興し、後のシュルレアリスムに大きな影響を与えた。 1888年、ギリシャのテッサリアのヴォロス(Volos)にイタリア人の両親のもとに生まれた。父エヴァリスト・デ・キリコは、鉄道の敷設を指揮する技師であった。 1891年、弟アンドレア(のちにアルベルト・サヴィニオと名乗って画家・批評家として活動した)誕生。 1900年、アテネの理工科学校に通う。この頃最初の静物画を描く。 1905年、父死去。 1906年、家族とともに、ギリシャを離れミラノを経てフィレンツェに移住する。 1907年、ドイツのミュンヘンの美術アカデミーに入学。この頃、ニーチェやショーペンハウエルの思想に影響を受ける。 1909年、ミラノに移住する。 1910年、フィレンツェに移住する。弟はパリへ移住、最初の形而上絵画を手がける。 1911年、パリへ移住。 1912年、3点の絵画をサロン・ドートンヌに出品。 1913年、パリのアンデパンダン展、サロン・ドートンヌに出品。詩人で美術評論家のギョーム・アポリネールに注目され、のちに親交をむすぶにいたる。初めて絵の買い手が現れる。 1915年、第一次世界大戦が勃発。イタリア軍に召集されフィレンツェの連隊に入隊し、北イタリアのフェッラーラに駐屯する。当時のフェッラーラは繊維工場が発する麻を煮る臭いが充満する街で、その麻薬効果が当時のキリコの風景画に影響したといわれる。 1916年、詩人トリスタン・ツァラと親交をむすぶ。 1917年、フェッラーラでカルロ・カッラと知り合う。同年カッラは、形而上絵画の作品をミラノで発表する。 1918年、前衛美術雑誌『造形的価値(ヴァローリ・プラスティチ、Valori Plastici)』を創刊。詩的なテクストを発表。 1919年、ローマで個展を開くが、美術史家のロベルト・ロンギに酷評される。ジョルジョ・モランディと知り合う。ルネッサンス絵画の模写を始める。 1920年、「形而上芸術について」、「技法への帰還」などを出版する。 1921年、テンペラ画を描き始める。ベルリンの国立ギャラリーにて、大規模な「造形的価値グループ展」が開催された。 1923年、ローマ・ビエンナーレに出品。フィレンツェ、ローマに住む。 1924年、ライサ・グリエヴィッチ・クロルと結婚。第14回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。 1925年、パリへ移住。 1926年、シュルレアリストたちとの決別を表明。ニューヨークで初の個展。 1929年、小説『エブドメロス(Hebdomeros)』出版。 1931年、ミラノへ戻る。 1932年、フィレンツェへ移住。 1935年、ニューヨークへ移住。 1938年、イタリアへ帰還。ローマに短期滞在し、ミラノへ移住。 1942年、ミラノの家を引き払い、フィレンツェへ移住。 1944年、ローマへ移住。 1978年、90歳の誕生日を祝う。11月20日にローマで心臓発作のため没した。 キリコは1912年にパリの無審査展覧会で作品を発表し始めたが、アーチの並ぶ古典的な建築、古代ギリシャ風の彫刻、煙を吐いて走る機関車などを配した風景画は当時の流行とは全く異質で、すぐには理解されなかった。しかし詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールに見いだされ、のちのダダイスム、シュルレアリスムに大きな影響を与えた。カルロ・カッラやジョルジョ・モランディのような追随者も生んだ。キリコはその後シュルレアリスムを全否定し古典的な作風に突如として転じたが、1970年代からは超現実初期と擬古典中期を折衷させた幻想的な作風に回帰した。 キリコも意図的に作品に間違った制作年のサインを行ったと言われているが、その意図は不明である。 一方でキリコは非常な毒舌家でもあり、著書では同時代の画家たちを辛辣に批評していた。 日本ではシュルレアリスム系の画家として、キリコとサルバドール・ダリの人気はとくに高い。影響例として、吉原治良の作品と難波田龍起の初期の作品を挙げることができる。 フランス経由で紹介されたため、名前のジョルジョをジョルジュとフランス語表記で紹介している例もある。 通りの神秘と憂愁(1914)(個人蔵) ヘクトールとアンドロマケの別れ(大原美術館) 通りの憂鬱 『キリコ回想録』 笹本孝・佐々木菫訳、立風書房、1980年 『エブドメロス』 笹本孝訳、思潮社、1994年 ISBN 978-4783727552(原本は1970年に出版) 形而上絵画 Giorgio de Chirico at MoMA de Chirico at the Mart, Museo di Arte Moderna e Contemporanea di Trento e Rovereto", "ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes, 1824年12月14日 - 1898年10月24日)は、19世紀のフランスの画家。 世代的にはクールベやマネなどとほぼ同時代だが、シャヴァンヌの作風は写実主義、印象派、アカデミズムのいずれとも一線を画している。しいて分類すれば象徴主義ということになろうが、19世紀フランスにおいて位置付けのむずかしい画家である。物語風の伝統を受け継ぎつつ、自然の風景と人物像が調和した独自の作風を作り上げ、後の世代に大きな影響を与えた。フランスに留学した日本人画家が多数そのアトリエを訪れたことも知られる。倉敷の大原美術館に作品が収蔵されていることもあり、日本では比較的早くから雑誌『白樺』などで紹介され、当時留学中の黒田清輝らも訪問していた。フランスを代表する巨匠として高く評価され、大規模な壁画の仕事を次々とこなす一方、多数の肖像画も描いた。神々や聖人を描きながらもシャヴァンヌの作品はその芸術が静かに湛える自然の息吹こそが多くの画家たちをひきつけた。パブロ・ピカソもその一人で、美術館に何回も足を運び、シャヴァンヌの絵を模写していたという逸話が残されている。 1824年、リヨンの織物業の名門の家に生まれる。リヨンとパリに学び、当初は父親と同じく技師になるつもりであったが、病気にかかり勉学を中断せざるを得なくなる。その後療養の為イタリアに旅をしたシャヴァンヌは帰国後画家の道を志すようになり、ロマン派の巨匠ドラクロワおよび古典的な作風の画家トマ・クチュール(1815-1879)に師事している。クチュールは、当時の画壇の大家で、マネなどもクチュールの弟子である。 1850年にサロン・ド・パリにデビューするが8年連続で落選してしまう。しかし当時はナポレオン3世によるパリ大改造計画のため多くの公共の建物が建造されており、シャヴァンヌはそういった建物の壁画を多く依頼されるようになる。 シャヴァンヌは、イタリアを旅行した際にフレスコ画(生乾きの壁面に直接描く壁画の技法)に魅せられ、その後の作品にはフレスコ画を思わせる色調や表現が見られる。古典文学や神話に多く題材を取り、画面には静けさと詩的で夢幻的な雰囲気が満ちている。 その絵の特徴は、立体感や遠近感、陰影を抑えた平面的で装飾的な処理、中間色を多用したフレスコ画的色調などである。シャヴァンヌのこうした装飾的な画面構成や落ち着いた画風は大画面の壁画に適したもので、パンテオンの壁画(1874-1878年)、ソルボンヌ大学の壁画(1887年)をはじめ、フランス各地に大画面の記念碑的作品を残している。またボストン公共図書館の壁画も手掛けた。 仕事(1863年) (ピカルディ博物館) 砂漠のマグダラのマリア(1869年) 白い岩 (1869–1872年) 希望 (1872年) (ウォルターズ美術館) パリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ (1874-1879年) (パンテオン) 貧しき漁夫 (1881年) (国立西洋美術館) 穏やかな土地 (1882年) 夢 (1883年) (ウォルターズ美術館) 羊飼いの歌 (1897年) 幻想(1866年 大原美術館) 砂漠のマグダラのマリア(1869年 クレラー・ミュラー美術館) 希望(1871年頃 オルセー美術館) 夏(1873年 オルセー美術館) 貧しき漁夫(1881年 オルセー美術館) 貧しき漁夫(1881年 国立西洋美術館) 浜辺の少女(オルセー美術館) ロンシャン宮殿(マルセイユ、1867年) パンテオン(パリ、1874年) リヨン美術館(1885年) ボストン公立図書館 ^ Frantz 1911 ^  Gilman, D. C.; Thurston, H. T.; Colby, F. M., eds. (1905). \"Puvis de Chavannes, Pierre\". New International Encyclopedia (1st ed.). New York: Dodd, Mead.  河村錠一郎『世紀末美術の楽しみ方』新潮社〈とんぼの本〉、1998年11月、ISBN 4-10-602074-2 『幻想』 ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ 大原美術館", "エドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard, 1868年11月11日 - 1940年6月21日)は、19世紀-20世紀のフランスの画家。 モーリス・ドニ、ピエール・ボナールらとともにナビ派の1人に数えられる。ヴュイヤールの画面は、他のナビ派の画家よりもさらに平面的、装飾的傾向が顕著である。室内情景など、身近な題材を好んで描き、自ら「アンティミスト」(「親密派」という程度の意味)と称した。生涯独身を通し、酒もたしなまなかったヴュイヤールの絵画は、その渋い色調ともあいまって、穏やかな人柄を彷彿とさせる。晩年の1937年にはパリのシャイヨー宮の室内装飾を担当している。日本美術に影響を受け、日本風と西洋絵画を融合した屏風絵なども多く描いた。 1868年、ソーヌ=エ=ロワール県キュイゾーに生まれる。その後パリに移る。リセ・コンドルセ(英語版)で学んでいたときにケル・グザヴィエ・ルーセル(英語版)、モーリス・ドニらと出会った。 1885年にリセ・コンドルセを卒業し、ルーセルの助言で、ルーセルとともに画家ディオジェーヌ・マイヤールの工房で絵画を学んだ。1886年から1888年はアカデミー・ジュリアンで学んだ。1887年に、国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)の入学試験に合格した。1890年までにピエール・ボナール、ポール・セリュジエと知り合い、「ナビ派」のメンバーになった。画廊「Le Barc de Boutteville」で開かれた展覧会に出展し、後にボナールやモーリス・ドニとスタジオを共有した。1890年代には「作品座」(Théâtre de l'Œuvre)の美術部門で働いた。 1898年にヴェネツィアとフィレンツェを訪れたのを初め、ロンドンやイタリア、スペインを訪れた。1901年かでアンデパンダン展に出展し、1903年からサロン・ドートンヌに出展した。装飾画や雑誌の挿絵も描いた。 ランプの下で(1892年)サントロペ、アノンシアード美術館(英語版) 室内、画家の母と姉(1893年)ニューヨーク近代美術館 求婚者、あるいは仕事台のある室内(1893年)マサチューセッツ州ノーサンプトン、スミス大学美術館 装飾パネル連作:公園(1894年)パリ、オルセー美術館;ブリュッセル、ベルギー王立美術館;オハイオ州、クリーブランド美術館;個人蔵 装飾パネル連作:アルバム(1895年)ワシントン、ナショナル・ギャラリー;ニューヨーク、メトロポリタン美術館;ニューヨーク近代美術館;個人蔵(2点) 6人の人物のいる室内(1897年)チューリッヒ美術館 フレシネ夫人(1931年) 『自画像』(1889年)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)  『朝食』(1894年)  『縞模様のブラウス』(1895年)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)  『室内』(1902年)ダラス美術館  5枚組の屏風作品『ヴァンティミーユ広場』(1911年)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)  ^ Introduction: Tastemaking in the Age of Art Nouveau: The Role of Siegfried BingGabriel P. Weisberg, Nineteenth-Century Art Worldwide, 2005 ^ Edouard Vuillard, The Folding ScreenNational Gallery of Art, Washington, DC 『Vuillard / エドゥアール・ヴュイヤー』ステュアート・プレストン解説、木島俊介訳、東京 : 美術出版社、1974年 『ボナール、ヴュィヤール、ルーセル展』(展覧会カタログ) 東京 : ウィルデンスタイン・東京、1974年 『ヴュイヤール展』(展覧会カタログ) 村木明編集、東京 : 読売新聞社、1977年 『ヴュイヤール』(展覧会カタログ)ギャルリー・ところ編、 ギャルリー・ところ、1979年 ワシントン・ナショナルギャラリーのヴュイヤール特集ページ オルセー美術館所蔵作品 Joconde(フランス国内美術館所蔵作品データベース) RMN(フランス国立美術館連合) ワシントン・ナショナルギャラリー所蔵作品 ニューヨーク近代美術館所蔵作品" ]
ABC01-02-0242
考え方が180度変わることを、ある天文学者の名前を使って「何的転回」というでしょう?
コペルニクス的転回
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[ "コペルニクス的転回", "統覚", "暗号形態", "カリスマ的支配", "社会的行為" ]
[ "コペルニクス的転回(コペルニクスてきてんかい、独: Kopernikanische Wende)とは、物事の見方が180度変わってしまう事を比喩した言葉。 元々は哲学者のイマヌエル・カントが自らの哲学を評した言葉であった。 ニコラウス・コペルニクスは、それまでの常識であった地球中心説に対して、太陽中心説を唱えた天文学者である。 認識論において、人間の認識は、外部にある対象を受け入れるものだというのが、従来の哲学の常識であった。それに対して、カントは、人間は物自体を認識することはできず、人間の認識形式が現象を構成するのだと説いた。こうして、人間の認識形式自体を問う近代的な認識論が成立した。 これから派生して、物事の見方が180度変わってしまうような場合にも、この言葉が使われるようになる(パラダイム転換と同じような意味)。 なお、実際には大勢の学者がコペルニクスに先行して太陽中心説を提唱していて、コペルニクスの独創ではない。また、コペルニクス自身も天体は円運動をするという固定観念に縛られており、実際には楕円運動をしていることを発見したのはヨハネス・ケプラーであった。 齋藤隆『カントの「コペルニクス的転回」の解釈について』日本大学文理学部人文科学研究所32、1986、pp18-28 言語論的転回", "統覚(とうかく、独: Apperzeption、英: apperception)とは、心理学や哲学、認識論における概念である。原語のApperzeptionは、近代ラテン語のadpercipere(ad-「の方へ、に向かって」とpercipere「獲得する、知覚する、理解する」)に由来する。 この言葉はデカルトによって『情念論』の中でapercevoirという言葉の形で考案された。ライプニッツは『理性に基づく自然と恩寵の原理』の中で、統覚の概念をより専門的な哲学的伝統に持ち込んだ。だがライプニッツが実際にその言葉を用いたのは、対象が「非-自己」として、そしてまだ自己との関係の中でとらえられる近代的な注意の意味においてであった。 イマヌエル・カントは、超越論的統覚を経験的統覚から区別した。超越論的統覚とは、主体――経験の必要条件および経験の統一の最終的な基礎である純粋な、本来の、変わらない意識――としての純粋自己の意識を含むような客体の認識である。経験的統覚とは、自分の変化する状態、すなわち内感による実際の具体的な自己意識である。超越論的統覚は自己意識とほぼ等しい。自我の存在が多少顕著かもしれないが、それは常に含まれている。 認識論における統覚とは、自分自身の内面状態の心による内省的あるいは反省的な不安である。 イマヌエル・カント 認識論 共通感覚論 - 著者の中村雄二郎は、この本で書かれている「共通感覚」はカントの「統覚」に非常に近い概念だと、西田哲学についての講演で語っている。 ^ 『西田哲学を語る』239頁「西田哲学の新しさ」(燈影舎)", "暗号形態(あんごうけいたい)は、カール・ヤスパースの実存哲学の概念のひとつであり、実存の絶対意識において聞きとれる超越者のことばを意味する語。 ヤスパースによれば、超越者(人格的には「神」と呼ばれる)は、「暗号」というかたち(暗号形態)においてのみ立ち現れる。すべての事象は、超越者による存在意識への最終的な変革に対応して、超越者の「暗号」となり、世界はいわば「暗号の世界」となる。彼は「暗号」は3種に区分されるとし、歴史的瞬間において、その都度1回限り直接絶対意識に映ずる暗号(「超越者の直接的なことば」)を第一言語とした。第一言語が伝達可能なかたちに普遍化されたものが神話や芸術などであり、ヤスパースはこれを第二言語とした。そしてまた、哲学的伝達の可能な第三言語を形而上学における思弁的なことばだとした。 実存は、これらの「暗号」を自らの限界に突きあたる挫折の経験を通して、解読されなければならない。それがヤスパースの唱える「暗号解読」である。ヤスパースは、暗号を解読するためには、人は日常の生活経験から脱して「限界状況」に立たなければならないとして、これを通して暗号の真の意味をとらえることができ、超越者に直面することができるのだとした。 菩提 限界状況 枢軸時代 神秘主義 啓示 霊感 カール・ヤスパース 『ヤスパース選集9 歴史の起原と目標』 重田英世訳、理想社、1964。原題はVom Ursprung und Ziel der Geschichte カール・ヤスパース 『ヤスパース選集37 神の暗号』 草薙正夫訳、理想社、1982 『世界の大思想 40 ヤスパース(歴史の起原と目標、理性と実存、哲学の小さな学校)』 河出書房新社、1972 宇都宮芳明 『ヤスパース』 清水書院〈人と思想〉、1966", "カリスマ的支配(カリスマてきしはい、英語:charismatic authority)とは、社会学の用語であり、マックス・ヴェーバーによる支配の三類型のうち、合法的支配、伝統的支配の一つである。社会学者の間で広く用いられている。 ヴェーバーは「カリスマ」という語を、特異で超自然的なものの意味で用いている。これを持つ者がリーダーとして扱われるという。 ^ Weber, Maximillan. Theory of Social and Economic Organization. Chapter: \"The Nature of Charismatic Authority and its Routinization\" translated by A. R. Anderson and Talcott Parsons, 1947. Originally published in 1922 in German under the title Wirtschaft und Gesellschaft chapter III, § 10 (available online) マックス・ウェーバー、世良晃志郎訳『支配の社会学』(I)(II)、創文社、1960年。ISBN 4423894017(1) ; ISBN 4423894025(2) マックス・ウェーバー、世良晃志郎訳『支配の諸類型』、創文社、1970年。ISBN 442389405X 佐野誠『ヴェーバーとナチズムの間――近代ドイツの法・国家・宗教』、名古屋大学出版会、1993年。ISBN 4815802114 Rudolph Sohm,Kirchenrecht,Duncker & Humblot, Berlin,1892.", "社会的行為(しゃかいてきこうい)とは社会学用語の一つ。これはマックス・ヴェーバーによって提唱された概念である。これは社会においての人間が行っている行為ということであり、他者と関係しながら生きているという人間ならば、それは社会的行為をしながら生きているということになる。マックス・ヴェーバーは社会学というのを社会的行為によって解明、理解し、その経過と結果を因果的に説明するということで基礎付けた。マックス・ヴェーバーによれば、社会的行為というのは人間が行う行動の中でも、行為者によって主観的な意味を結び付ける場合のみが当てはまるとのこと。 社会的行為 とは - コトバンク ウェーバー「社会学の基礎概念」 ウェーバーの社会学(2)― 理解社会学の方法と「世界宗教の経済倫理」 社会的行為" ]
ABC01-02-0243
その名前の割には全長が約66kmしかない、千葉県にある日本有数の砂浜は何でしょう?
九十九里浜
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[ "九十九里浜", "三浦半島", "盤州干潟", "太東岬", "刑部岬" ]
[ "九十九里浜(くじゅうくりはま)は、千葉県房総半島東岸にある、刑部岬と太東崎の間の、太平洋に面している全長約66キロメートルの海岸。日本の白砂青松100選と日本の渚百選に選定されている。 刑部岬 太東崎 九十九里浜 東側に隣接する海食崖である屏風ヶ浦等の侵食作用によって削られた土砂が潮流によって運ばれ堆積したことにより形成された砂浜海岸である。屛風ヶ浦は砂岩質の土壌の上に火山灰が堆積して形成された脆く崩れやすい地質であり、有史以来数キロに渡って岸壁が削られたが、消波ブロックの設置後、この侵食作用が緩やかになった。反面、侵食作用が緩やかになったことにより土砂の運搬・堆積作用が失われ、九十九里浜の海岸浸食が深刻な問題となっている。このため、養浜対策として突堤等を設置し、土砂流出を少しでも抑えようとしているが、抜本的解決には至っていない。 九十九里浜を中心にして円を描くと、南西諸島を除く北海道から九州までが丁度半円内に収まり、犬吠埼とともに日本列島を扇に見立てた要の位置にある。また日本列島に沿って北上する黒潮がここを境に離れる個所でもあり、「黒潮文化」の北限に位置している。だがその一方九十九里平野中央を流れる栗山川は「サケの回帰の南限の川」とされ、親潮の影響を受ける南端の地域でもある。 沿岸には、日本全体の40パーセントに相当する80例にのぼる丸木舟の出土があり、九十九里浜は香取海とともに危険な犬吠埼沖を通過を避けて設定された、四国・近畿地方から東北地方を結ぶ水上交通の要衝であった。北東側の下海上国造の領域には、古墳時代当時の海岸に面した高台にしゃくし塚古墳・北条塚古墳・御前鬼塚古墳などが築造され、その後壬申の乱に敗れた大友皇子の妃耳面刀自媛が父藤原鎌足の故地鹿島を目指し上陸したが、病に倒れ亡くなったといわれ匝瑳市野手には媛の墓とされる内裏塚古墳がある。また平安時代、アテルイに敗れた征東大将軍紀古佐美が真光寺を建立、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂は蝦夷征討の途中松崎神社に参拝したと伝えられ、天慶2年(939年)承平天慶の乱に際しては、寛朝僧正が難波津から下向している。なお、奈良時代東国巡錫のおり行基が海難防止のため一宇を建立したことに始まり、平安時代空海によって改修されたと伝わる不動院長勝寺は、その後幾度かの改修を経て維持され続け、文化遺産として現存している。 九十九里の名称と由来 古名は玉浦(玉の浦)であるが、源頼朝の命で1里ごとに矢を立てたところ99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったとの説が有名で、中央とされる山武市蓮沼には箭挿神社がある。またその故事に因んで、矢指浦の別称がある。 まん丸や、箭挿(やさし)が浦の月の的  ---- 源頼朝 有史以前には、貝塚などの遺跡のほか、多数の丸木舟の出土例があり古くから水上交通を通した文化圏が形成されていたとみられている。なお、丸木舟の出土地点は現在の栗山川とその支流借当川流域の、旧椿海周辺の海抜4メートル前後の地点に集中しており、当時海岸であったことがわかる。 5世紀以前この地域は、千葉県中部から茨城県、埼玉県、東京都にかけての一帯を支配した「大海上国」ともいうべき勢力圏の一部であったが、6世紀に畿内の大王の有力な外戚である和珥氏の一族武社国造が進出、大海上国は上海上国造と下海上国造に分割され、衰退したとする考えもある。文献史料によるものとして、正史である『日本書紀』卷7景行天皇40年10月の条は、日本武尊が「海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至った」とし、茂原市本納には弟橘媛を祀る橘樹神社がある。また『続日本後紀』承和2年(835年)3月16日条の物部匝瑳熊猪改姓記事には、「昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。凱歌帰報。この功勳に籍りて下総国に始めて匝瑳郡を建て、……」とあり、日本武尊東征のほか物部氏も進出したとされ、小川台古墳群を物部氏の奥都城とする説もある。 古墳時代が終わり仏教が導入されると、下総国では現在の匝瑳市に大寺が置かれた。匝瑳市大寺にある龍尾寺には香取海上流の龍角寺とともに印旛沼の龍伝説が伝えられ、古代の官寺があった地であることをものがたる。また奈良時代上総国では、宝亀5年(774年)に上総介となった藤原黒麻呂が、現在の茂原市付近の牧を開発、初期荘園藻原荘が成立している。 平安時代になると、坂上田村麻呂や文室綿麻呂による蝦夷征討後は、小事の子孫とされる物部匝瑳氏が、足継・熊猪・末守の3代に亘って鎮守将軍に任ぜられ、この地は陸奥国への要衝であり朝廷の蝦夷経営の拠点であった。また、寛平元年(889年)宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下した平高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ子の良兼ともに上総国に下向、武射郡の屋形を本拠とした。なお、当時の上総国の国府は茂原市付近にあったとされる。奈良時代に藤原黒麻呂が開発した藻原荘は、曾孫の菅根等によって寛平2年(890年)興福寺に寄進された。この功績の他、菅根は左遷を諫止するため参内しようとした宇多上皇を内裏の門前で阻み、菅原道真大宰府左遷に果たした功績もあり、後に参議に任じられ公卿に列するが雷に打たれて死に道真の祟りと噂された。 治承・寿永の乱に際し、千田荘の領家藤原親政が、源頼朝に加担した千葉氏に敗れ、後上総広常が粛清され、九十九里浜沿いの各地においても千葉氏一門の台頭を招くことになった。嫡流の千田氏の領した千田荘の他、匝瑳南条荘は千葉常胤の弟椎名胤光に譲られ、子孫の椎名氏が代々地頭を勤めた。建長年間(1249年-1256年)には椎名氏の外護を受けた浄土宗第3祖の良忠が、ここを拠点に関東各地の教化を行った。 南北朝の騒乱においては、千田荘を本拠とした千田胤貞は、従弟の貞胤と千葉氏の家督を賭けて争うが、貞胤が降伏した直後に自身が病没し宗家復帰はならなかった。このため宗家の地位を失った千田氏はその後衰退していった。その後、享徳の乱で、原胤房に襲われた千葉胤直・胤宣親子が千田荘に逃れるが、馬加康胤に討たれて千葉氏宗家の嫡流が滅亡した。胤直の弟胤賢の子実胤と自胤は八幡荘に落ちのび、将軍足利義政が派遣した東常縁の支援はあったが、足利成氏が敵対的な介入を図ったため、さらに武蔵国に逃れることとなり下総帰還は叶わなかった。この時常縁に同行していた酒井定隆は常縁の帰国には同行せず、後に土気城に入り上総酒井氏の祖となった。 徳川家康の関東移封にともない、九十九里浜沿岸には木曾義昌・保科正光・本多康俊・石川康通らが入部したが、木曾氏が改易された他は関ヶ原の戦いの後加増移封、幕府直轄地や旗本知行地となり大きな藩は置かれなかった。 大坂冬の陣の前年の慶長18年(1613年)、徳川家康の命により、江戸城と九十九里浜の中央を結ぶ(鷹狩を名目とした軍事プレゼンスとされる)、ほぼ一直線の道路が作られた。このルートは大政奉還後、小間子牧の開墾(鍋島藩)、陸軍練兵場=現在の自衛隊下志津駐屯地(明治新政府)、房総導水路東金ダム(水資源開発公団)などによって分断されたが、山武市小松からが、千葉県道124号緑海東金線(砂押県道)、船橋までは、千葉県道69号長沼船橋線(船橋から江戸城までは京葉道路)として現存している。 江戸時代には、現在の白子町や大網白里市、九十九里町などの九十九里浜の南部の地域では紀州漁民の入植が盛んとなり、紀州とのつながりと漁業による繁栄があり、「九十九里浜といえば地引き網によるいわし漁」のように言われるようになった。 明治維新後機械揚繰網が登場すると、遠浅な砂浜海岸であり良港に恵まれず漁船の大型化への対応がむずかしかった九十九里浜の漁業は衰退し、農業や観光が産業の主体となった。 釣ヶ崎海岸(志田下ポイント) - 海水浴場ではないが、サーフィンが盛んでシャワー・トイレ等も整備されている。2020年東京オリンピックのサーフィン競技会場となる。 栗山川 木戸川 作田川 南白亀川 一宮川 飯岡漁港 栗山川漁港 片貝漁港 旭市 飯岡海水浴場 矢指ヶ浦海水浴場 中谷里海水浴場 横芝光町 木戸浜海水浴場 屋形海水浴場 山武市 殿下海水浴場(蓮沼海岸) 中下海水浴場(蓮沼海岸) 南浜海水浴場(蓮沼海岸) 小松海水浴場(成東海岸) 白幡・井之内海水浴場(成東海岸) 本須賀海水浴場(成東海岸) 九十九里町 作田海水浴場 片貝海水浴場 豊海海水浴場 大網白里市 北今泉海水浴場 白里中央海水浴場 南四天木海水浴場 白子町 剃金海水浴場 古所海水浴場 五井海水浴場 中里海水浴場 幸治海水浴場 長生村 城之内海水浴場 一松海水浴場 一宮町 一宮海水浴場 新浜海水浴場 東浪見海水浴場 いすみ市 太東海水浴場 ※発表順 映画 子連れ殺人拳 (1976年) - 主人公 (千葉真一) がヤクザたちと戦う。 ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS (2003年) - 怪獣カメーバの死体が打ち上げられる。 漫画 よろしくメカドック - レース「キャノンボールトライアル」のスタート地点として登場。 音楽 想い出の九十九里浜 (1991年) - Mi-Keのデビューシングル。 イエ〜ィ!!☆夏休み(2015年) - DISH//のシングル。歌詞に「九十九里」・「刑部岬」が出てくる。 ^ 栗山川上流の旧山田町(現・香取市、サケの神社:山倉大神がある)の記録によれば、サケは昭和32年(1957年)までは自然遡上していたとのことである。その後両総用水と房総導水路の取水堰(横芝堰)のため自力では遡上できなくなっていたが、平成19年(2007年)に竣工した横芝堰の改修に伴い魚道が設置され、堰上流への遡上が復活している。 ^ 犬吠埼沖を通過する東廻り航路が開かれたのは寛文11年(1671年)のことである。 ^ 1里を近代の尺貫法の36町(1町は約109メートル)とすると17里弱なので、「九十九」は「多い」の意ともされるが、古くから用いられていた長さの単位の1里は6町であり、109メートル×6町×99里=約64.7キロメートルなので、実際にほぼ99里である。 ^ 横芝光町にある山武姥山貝塚は、縄文中期から晩期にかけ、2500年にわたって続いた村であり、茂原市の下太田貝塚も、同様に長期にわたって営まれた墓地であったとされている。 ^ 『先代旧事本紀』「国造本紀」には「和迩臣祖彦伊祁都命孫の彦忍人命を武社国造に定めた」とあり、『古事記』孝昭天皇の段では、孝昭天皇の第1皇子天足彦国押人命を「牟邪臣」の祖とする。 ^ 中央部の武社国造の領域には、6世紀中葉から7世紀初頭にかけ、その時代のヤマト王権の大王稜にも匹敵する小池・芝山古墳群、大堤・蕪木古墳群、胡麻手台古墳群、板附古墳群を造営した4つの勢力があったと考えられている。 ^ 酒井定隆は日蓮宗に帰依し七里法華と呼ばれる宗教政策をとったため、この時代九十九里浜南部の地域では日蓮宗以外の寺院の存在は許されなかった。 ^ 御成街道の着工した慶長18年12月12日は、グレゴリオ暦では1613年ではなく、年が明け1614年1月21日である。 ^ さわやか自然百景 千葉 九十九里浜 ^ 『千葉県の歴史』 4頁 ^ 『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 12 千葉県』 17-18頁 ^ 『日本の神々-神社と聖地 11』 242頁 ^ 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 727頁 ^ 千葉県の文化財 (多古町)松崎神社 木鼓 ^ 大本山成田山新勝寺 開山縁起 ^ 山武市 不動院長勝寺本堂 ^ 『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 12 千葉県』 146頁 ^ 『日本人として知っておきたい地名の話』 221-222頁 ^ 千葉県公式観光物産サイト-まるごとe!ちば- 九十九里浜 ^ 神話の森 歌語り風土記 房総の頼朝 ^ 『日本考古学の現在』 28-29頁 ^ 『古代東国の風景』 18-21頁 ^ 横芝光町ふるさと探訪の「小川台古墳群跡」 ^ 匝瑳市 伝説とむかし話 大寺の龍尾寺 ^ 『図説 千葉県の歴史』 65-68頁 ^ 『日本後紀』 弘仁3年2月10日条 ^ 『続日本後紀』 承和元年5月19日条 ^ 『続日本後紀』 承和4年4月21日条 ^ 『将門記 1』 58頁 ^ 『千葉県の歴史』 72頁 ^ 『悪人列伝 古代編』 237頁 ^ 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 645頁 ^ 千葉胤直・胤宣・けん族の墓 ^ 『図説 千葉県の歴史』 130-134頁 ^ 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 55頁 ^ 白子町 地引網発祥の地 ^ 『図説 千葉県の歴史』 150-155頁 ^ 『日本地誌 第8巻 千葉県・神奈川県』 12-13頁 ^ 『日本地誌 第8巻 千葉県・神奈川県』 228頁 ^ 釣ヶ崎海岸のご案内 - 一宮町 ^ 東京五輪サーフィン競技会場が釣ヶ崎海岸に決定しました! - 一宮町 石井進 他編 『千葉県の歴史』 山川出版社、2000年、ISBN 4-634-32120-3。 『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 12 千葉県』 人文社、1997年、ISBN 978-4-7959-1112-3。 谷川健一 著 『日本の神々-神社と聖地 11』 白水社、1984年、ISBN 4-560-02221-6。 小笠原長和 監 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 平凡社、1996年、ISBN 4-582-49012-3。 北嶋廣敏 著 『日本人として知っておきたい地名の話』 毎日新聞社、2008年、ISBN 978-4-620-31860-8。 山岸良二 著 『日本考古学の現在』 同成社、2011年、ISBN 978-4-88621-563-5。 原島礼二 著 『古代東国の風景』 吉川弘文館、1993年、ISBN 4-642-07394-9。 三浦茂一 編 『図説 千葉県の歴史』 河出書房新社、1989年、ISBN 4-309-61113-3。 梶原正昭 訳注 『将門記 1』 東洋文庫、1975年、ISBN 4-582-80280-X。 海音寺潮五郎 著 『悪人列伝 古代篇』 文藝春秋、2006年、ISBN 978-4-16-713548-5。 日本地誌研究所 編 『日本地誌 第8巻 千葉県・神奈川県』 二宮書店、1967年。 九十九里で始まる記事の一覧 美しい日本の歩きたくなるみち500選 房総の魅力500選 六十余州名所図会 矢指ヶ浦温泉 蓮沼海浜公園 九十九里ポータルサイト(NPO法人 NORTH CHIBA) 九十九里地域13市町村 観光情報", "三浦半島(みうらはんとう)は、神奈川県南東部にある半島である。 太平洋に向けて突き出し、東京湾と相模湾とを分ける。横浜市磯子区の南西にある円海山から藤沢市片瀬にいたる線を北限とし、円海山の北麓で多摩丘陵に接続する。半島東端の観音崎は東京湾の南限であり、浦賀水道を隔てて東の房総半島とともに東京湾を囲む。半島の西には伊豆半島がある。 三浦半島は2000万年前から1500万年前の太古の時代に太平洋の深海底で太平洋プレート上に降り積もった堆積物に由来する。太平洋プレートが海溝において大陸プレートの下に沈み込む際に堆積物は剥離して積み上がり(このような地質構造を付加体という)、約50万年前には海面上まで隆起し、三浦半島や房総半島のもととなった。この後、北上するフィリピン海プレート上の伊豆半島が日本列島に衝突したエネルギーで、三浦半島は時計回りに回転し現在の形状となった。隆起は現在も続いており、関東大震災の折には城ヶ島周辺の広い範囲で海岸線が数メートル隆起している。地質的にはほぼ全域が第三紀層に属する。またおよそ西北西 - 東南東方向に走る衣笠断層帯、北武断層群、武山断層帯、南下浦断層、引橋断層の5箇所の活断層が存在し、三浦半島断層群と呼ばれる。植生は常緑広葉樹林。 三浦丘陵が半島中央に走り、最高峰で標高241mの大楠山、横浜市の最高地点である円海山を擁する。東京湾・浦賀水道に面して横須賀港や久里浜港、三浦海岸があり、半島西部には小田和湾や小網代湾がある。半島南端には城ヶ島が付属する。三浦海岸一帯を除いて海岸線は比較的複雑で、入り江を利用した漁港やマリーナ、海水浴場が数多く存在する。 半島北東部の横浜から横須賀に至る東京湾側、および北西部の逗子・鎌倉は、平地が乏しく起伏の多い地形にもかかわらず市街化が進んでいる。一方、中央部から南部は森林や畑などが広がり、東京から近いわりに広々とした景観が展開するため、日帰り観光地としても人気がある。水田は少なく、ダイコン、キャベツ、スイカその他各種野菜の栽培が盛ん。特産であった三浦大根は現在わずかな作付のみで、主力は青首大根に移行している。 神奈川県横浜市磯子区・金沢区、横須賀市、逗子市、三浦市、鎌倉市、葉山町 主に、三浦半島の大部分を占める横須賀市と三浦市を合わせて指す呼称として「横三」(よこさん)「横三地域」という名称が使用されることがある。 古代の律令制度では、東海道相模国に属する。『日本書紀』には、「御浦」と記されている。 中世には頼朝の挙兵に従った三浦氏の領国であった。三浦氏は北条時頼の時代に宝治合戦で宗家が滅ぼされた。以後半島の北の街道沿いは北条氏の領地となり、北条氏側に付いて三浦の家名を継承した傍系は、半島内に閉じ込められる形となった。後にこの系統は戦国大名化し、扇谷上杉氏の被官となるも、伊豆の北条早雲が相模国に勢力を拡大し、1516年に三浦氏を攻めるために玉縄城を築き、籠城した三浦義同・三浦義意を住吉城から新井城に攻めて滅亡させると、三浦半島は後北条氏の領地となる。戦国時代には三浦半島は後北条氏の水軍の本拠となり、東京湾を挟んで里見氏とが争う。里見義堯は水軍を率いて三浦半島を襲撃し、鎌倉まで攻めて北条氏綱と戦う。江戸時代初期は玉縄を本拠とする本多正信の領地で、江戸幕府直轄の天領であった。1600年にヤン・ヨーステンとともに「リーフデ号」で日本に来航したイギリス人ウィリアム・アダムスは徳川家康の外交顧問となり、三浦半島に領地を貰い、日本名を三浦按針とした。 鎖国後の江戸時代には浦賀の町に廻船問屋が並び、徳川吉宗は浦賀奉行を設置する。後期にはフェートン号事件などが発生したため、鎖国政策をとる江戸幕府は江戸湾防備のために、1810年に会津藩に三浦半島沿岸の警備を命じる。1821年以降は会津藩に代わって川越藩がそれを担当した。その後、モリソン号事件のように外国船が日本近辺に出現して測量などを行うようになり、1846年にはジェームズ・ビドルのアメリカ艦隊が三崎沖に姿を現し開国を求めた。幕府は1853年にはマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航、久里浜に上陸して幕府に通商を迫った(黒船来航)。洋式砲術を研究していた幕臣の江川英龍は、三浦半島に砲台を築いて防衛線とすることを提言するが退けられた。 明治後には三浦半島は国防上の要衝地と認知される。横須賀には横須賀鎮守府が設置され、日露戦争において黄海海戦や日本海海戦で旗艦として活動した戦艦「三笠」の本籍地であった。この「三笠」は日露戦争後に火災で沈没し除籍となるが、保存工事が施され三笠公園に現存する。太平洋戦争(大東亜戦争)の末期には、アメリカ軍の本土上陸に備えて沿岸陣地も築かれた。 戦後には消滅した日本軍に代わりアメリカ軍や自衛隊の基地が横須賀市や逗子市に多く作られ再び『軍都』となる一方、首都圏の発展に伴い三浦半島でもベッドタウン化が進み、2007年現在の人口は62万人であるが、住民の高齢化も進行している。 Category:横須賀市、Category:三浦市、Category:逗子市等も参照されたい。 横浜・八景島シーパラダイス 京急油壺マリンパーク ソレイユの丘 くりはま花の国 米軍横須賀基地 三笠公園(記念艦 三笠) 金沢文庫 県立観音崎公園 防衛大学校 日産自動車工場 走水神社 春日神社 叶神社(西叶神社、東叶神社) 淡島神社 鎮西八郎為朝神社 第六天榊神社 久里浜天神社 雷神社 天照大神 熊野神社 神明社 三島神社 祖母神社 八雲神社 鴨居八幡神社 海南神社 瀬戸神社 富岡八幡宮 諏訪神社 船越神社 吾妻社 三島神社 八雲神社 鹿島神社 杉山神社など 玉縄城 住吉城 浦賀城 三崎城 衣笠城 佐原城 芦名神城 柴漁港 金沢漁港 真名瀬漁港 小坪漁港 長井漁港 北下浦漁港 秋谷漁港 久留和漁港 三崎漁港 間口漁港 金田漁港 毘沙門漁港 初声漁港 国道16号 国道134号 横浜横須賀道路 三浦縦貫道路 東日本旅客鉄道(JR東日本) 横須賀線 京浜急行電鉄 京急本線 京急久里浜線 京急逗子線 横浜新都市交通 金沢シーサイド線(シーサイドライン) 京浜急行バス 横浜京急バス 湘南京急バス 横浜市交通局 神奈川中央交通 江ノ島電鉄 東京湾フェリー 東海汽船 バラエティ 『志村&所の戦うお正月2012』「ペーパードライバー対決」最終チェックポイント (2012年1月1日) 『タモリ倶楽部』「グレートネイチャーシリーズ 三浦半島断層群を行く!!(前編・後編)」(2012年11月30日・12月7日) 文学 小説 『箱根の坂』司馬遼太郎 『夜明け前』島崎藤村 『神の汚れた手』曽野綾子 『能面殺人事件』高木彬光 随筆 『街道をゆく 三浦半島記』司馬遼太郎 『海辺の博物誌』三木卓 漫画 『宇宙戦艦ヤマト』古代進・古代守の生まれ故郷として紹介される。 アニメ 『ヨコハマ買い出し紀行』芦奈野ひとし ゲーム 『トロと休日』ソニー・コンピュータエンタテインメント - 「どこでもいっしょ」シリーズ ^ たとえば神奈川県庁では県横須賀三浦地域県政総合センターに関するニュースを「横三センターメールニュース」の名で配信している。神奈川県高等学校体育連盟テニス専門部において「横須賀三浦地区」(実際には逗子市および三浦郡葉山町を含む)を「横三地区」と称している。労働組合「横三労連」は「横須賀三浦地域労働組合総連合」の略称。 ^ “横三センターメールニュース”. 神奈川県庁. 2013年4月18日閲覧。 ^ “地区専門部”. 神奈川県高体連テニス専門部. 2013年4月18日閲覧。 日本の地理 三浦半島観光NAVI - 神奈川県 三浦半島ガイド&マップ - 神奈川県", "盤州干潟(または盤洲干潟、読み方はともにばんずひがた)は、千葉県木更津市の小櫃川河口から東京湾に広がる最大1400haに及ぶ広大な干潟。日本の重要湿地500指定地に含まれる東京湾最大級の干潟。 東京湾に現存する最大級の干潟である。小櫃川河口付近のアシ原から、東京湾にかけ干潮時に露出する広大な塩性湿地を指す。干潟特有の高い生物生産能力を背景に多様な生物が生息し、シギ、チドリ類の鳥類ほか、マゴチ、カレイ、ハゼ等の魚類、ベンケイガニ、ハマガニ、アナジャコといった甲殻類、ほかアサリ、バカガイ等の底生動物が多い。キイロホソゴミムシは本湿地のみに生息する種である。また、東京湾では唯一のアマモの群生が残っている。かつて新日本製鐵の製鉄事業のため小櫃川の流水を冷却水として用いる試みがあったが、塩分濃度の高さのため断念した。その際に建造された施設が浸透実験池として現存しており、現在はカワウをはじめ数種の野鳥の営巣地となっている。 アサリやバカガイ漁のほか、ノリ養殖が盛ん。近年、希少種となっているアサクサノリを養殖する試みが行われている。干満の差を利用した簾立て漁法等も一部で行われている。 干潟のうち南寄りの江川海岸は潮干狩りシーズンに毎年4万~5万人が訪れる。昭和60年代にアサリ、ハマグリの密漁を防ぐため江川海岸の約1km沖合に監視小屋を建て、浅瀬に電柱を並べて陸地から送電線や電話線を通した。その後は陸地からの暗視カメラによる監視に切り替え、小屋は2003年に役目を終えた。そのまま残されている林立する電柱が、波が静かな日は鏡のような海面に映り、「ウユニ塩湖みたい」と観光名所になっている。だがゴミを捨てたり、電柱によじ登ったりする者もおり、江川漁業協同組合は干潟への立ち入りを禁じ、マナー遵守を呼び掛けている。 小櫃川河口付近のアシ原 盤州干潟から見る海ほたるパーキングエリア 小櫃川河口にある浸透実験池。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成(1979年度撮影) 江川海岸の夕焼け ^ 日本の重要湿地 No.159 東京湾の干潟・浅瀬 - 環境省 ^ 浸透実験池 ^ アサクサノリ復活計画 NPO盤州里海の会 ^ 五大力船LLPのブログ ^ 【写view】海の鏡に整列する電柱 ウユニ塩湖に似ている?千葉県木更津市・江川海岸『産経新聞』朝刊2017年8月27日 座標: 北緯35度24分54.2秒 東経139度53分56.5秒 / 北緯35.415056度 東経139.899028度 / 35.415056; 139.899028", "太東岬(たいとうみさき)は、千葉県いすみ市にある岬である。太東埼(たいとうざき)ともいわれる。太東埼灯台が設置されている。恋のビーナス岬、という別称もある[要出典]。九十九里浜の南端に位置する。高さは約60mで、下は太平洋まで断崖絶壁となっている。岬の周辺は公園として整備され、小型車の駐車場とトイレがあるが、売店や自動販売機はなく、観光化されていない岬である。北側には刑部岬から九十九里浜が弓なりに連なっており、南側には夷隅川の河口と大原の町並みが見える。 江戸時代は現在より数キロメートル海に突き出ていたという。元禄大地震と海蝕により現在の姿になった。戦時中は要塞として利用され、軍事施設が建てられたが、戦後撤去され、その土台のほとんどは岬の浸食により海中に没した。現在は少し奥まった位置に太東埼灯台が建てられている。 房総 太東埼燈台", "刑部岬(ぎょうぶみさき)は、千葉県旭市上永井にある岬である。飯岡灯台が設置されている。 銚子市の犬岩からつづく切り立った断崖、屏風ヶ浦の南端に位置する。高さは65メートルで、下には飯岡漁港から九十九里浜が弓状に連なり、太東崎まで66キロメートルの砂浜が続いている。岬の周辺は上永井公園として整備され、飯岡灯台や飯岡刑部岬展望館〜光と風〜、などがあり、冬場は天気が良ければ富士山が見え、2月25,26日は条件が良ければダイヤモンド富士が見えると言われている。 周囲には『あしたのジョー』のキャラクターの石像がある。作者のちばてつやが飯岡に在住していた時期があるための縁である。また、近辺には軽食の店やレストラン、宿泊施設がある。 JR総武本線旭駅下車、千葉交通バス陣屋町行きで、飯岡灯台入口下車、徒歩約10分。 駐車場:あり、大型バスも駐車可能 ^ “飯岡漁港と飯岡刑部岬、屏風ヶ浦”. 旭市ホームページ あさひ探訪. 2015年5月6日閲覧。 ^ “ダイヤモンド富士”. 飯岡刑部岬展望館〜光と風〜公式サイト. 2015年5月6日閲覧。 関東の富士見百景 座標: 北緯35度41分32.77秒 東経140度44分16.02秒 / 北緯35.6924361度 東経140.7377833度 / 35.6924361; 140.7377833" ]
ABC01-02-0244
魚の良い漁場となる、異なる二つの潮流、とくに暖流と寒流の接する海面に現れる帯状の筋を何というでしょう?
潮境
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[ "潮境", "漂砂", "新期造山帯", "発散型境界", "環流" ]
[ "潮境(しおざかい、boundary of water-masses、oceanic front)とは、異なる水塊の境界のこと。これは一般に、優勢な海流帯や、海流の収束帯に一致する。海水温、塩分など海水の物理的、化学的性質がほぼ一様なもののかたまりを水塊というが、その境目である潮境を横断して観測すると、水温、塩分、栄養塩、溶存酸素量などが急変し、水色、透明度も著しく変わるので肉眼でわかることが多い。潮境海域における海況は時間的にも場所的にも変動が激しく、寒暖両水塊がモザイク状に入り乱れたり、局部的な収束、沈降域や発散、湧昇域が複雑に配列されていたりする。 流れに乗って寒暖両系の魚群が密集しやすく,また湧昇流が栄養分を運び上げてプランクトンを繁殖させるため、有利な漁場となることが多い。親潮と黒潮の接触する三陸沖や、ラブラドル海流とメキシコ湾流の接するニューファウンドランド沖などがその好例である。 潮目(しおめ、current-rip)とは、局所的な表面の流れの収束線をいう。多くは潮境が海面に現れたもの。強い収束によって、泡や、海藻、木片などが集積していたり、鏡のような海面にさざ波が立っていたりするので、肉眼でも識別できることが多い。顕著な潮目は著しい不連続性を示し、わずかな距離で水温が数度も変化することがある。 潮境は現在では異なる水塊の境界という意味で広く使われている。しかし、時代によってはその語義が現代と異なっていたり、その類義語である「潮合(線)」や「潮目」が代わりに使われていたりするので、過去の文献を読む際は注意が必要である。このことは「潮境とその類義語の語義変遷の歴史」に詳しく書かれている。これによれば、「潮境」の初記載者は宇田道隆(1931)で、そのときの意味は現在の潮目に近い意味であった。 ^ a b 文部省編 『学術用語集 海洋学編』 日本学術振興会、1981年。ISBN 4-8181-8154-4。 ^ a b 文部省編 『学術用語集 地理学編』 日本学術振興会、1981年。ISBN 4-8181-8155-2。 ^ 川合英夫「潮境とその類義語の語義変遷の歴史」、『海の研究』第10巻第4号、日本海洋学会、2000年、 351-359頁、 ISSN 0916-8362。 水塊 海流 潮境 | 学習百科事典 | 学研キッズネット", "漂砂(ひょうさ)は、波、または海に発生する様々な流れによって生じる土砂の移動、もしくは移動する土砂のこと。海岸侵食・堆積に深く関わる。漂砂量は通常、方向別に単位長さあたりm3/s/mで表すことが多い。 河川 漂砂の主な供給源は河川である。それゆえ、河川流域および漂砂の移動する沿岸域をまとめて「漂砂系」と呼称する。また、河川工学においては流砂という用語が用いられる。 浜や崖の欠潰 沖合から 隣接海岸から 海中の石・岩礁片・漂着固形物など 漂砂の移動する沿岸域は、おおよそ水深約20mが限界であり、勾配を考えるとせいぜい沖合1kmまでである。 移動形態から分類すると次のようになる。 シートフロー漂砂 底面から層状に移動。波高が大きい波による。 浮遊漂砂 掃流漂砂 海岸浸食対策の1つとして、漂砂をコントロールすることが挙げられ、防砂堤や導流堤、突堤、ヘッドランド、潜堤などがその対策として使用される。", "新期造山帯(しんきぞうざんたい)とは、中生代・新生代以降の造山運動により形成された山脈・山地をいう。 世界の新期造山帯は環太平洋造山帯とアルプス・ヒマラヤ造山帯に二分される。古期造山帯と違い、造山活動が継続中で地震・火山活動が活発であるところが多く、自然災害が頻発する。新しい時代に形成された山脈であるため浸食を受け続けた期間が短く、急峻な山地や弧状列島をなし、日本列島やアルプス山脈などが主な例として挙げられる。また、厚い大陸プレートの下に薄い海洋プレートがもぐりこんだことにより、大陸プレートが上に押し上げられてできたものが、大陸の海岸線沿いに多くみられる。例として、アルプス山脈・ロッキー山脈・シエラマドレ山脈・日本列島が挙げられ、前記のように急峻なものとなだらかなものとに分かれる。 新期造山帯には、激しい造山活動の作用によって、金・銀・銅・スズ・亜鉛などの非鉄金属をはじめとする地下資源が豊富に存在する。なお、石油も褶曲・断層など石油のたまりやすい地質構造(背斜)をもった新期造山帯やその周りの地層から産出されると考えられてきたが、背斜は新期造山帯に特有のものではなく、新期造山帯に油田が分布するのは、イランや中南米など一部地域に限られる。 造山帯 造山運動", "発散型境界(はっさんがたきょうかい)とは、プレートテクトニクス理論において、プレート同士が遠ざかっている境界のこと。大西洋中央海嶺、東太平洋海嶺、中央インド海嶺などがこれに該当する。 プルームテクトニクスの考え方で説明すれば、発散型境界とは、プルームによってマグマが下から供給されてプレートが左右に押し分けられつつも、その間に新しいプレートが形成されている場所である。ウィルソンサイクルの説明上、ホット・プルームは海洋プレートに存在するものであり、実際に海嶺は海洋プレート上にしか存在しない。アフリカの大地溝帯は例外的に大陸プレート上に存在する発散型境界だが、数千万年~数億年後には海底に沈んで海嶺化すると考えられている。 発散", "環流(かんりゅう、英: gyre)は、広域にわたって環のようにめぐり流れること、もしくはその流れ。具体的には海流や大気の大きな循環系を指す。環流はコリオリの力によって引き起こされる。 海洋の主な環流をあげる。 北大西洋亜寒帯循環(North Atlantic Subpolar Gyre) 北太平洋亜寒帯循環(North Pacific Subpolar Gyre) アラスカ環流を含む 北大西洋亜熱帯循環(North Atlantic Subtropical Gyre) メキシコ湾流、ラブラドル海流、東グリーンランド海流、西グリーンランド海流、北大西洋海流、北大西洋赤道海流によって構成される。サルガッソー海を囲んでいる。 北太平洋亜熱帯循環(North Pacific Subtropical Gyre)- 北太平洋環流(North Pacific Gyre)とも呼ばれる。北太平洋旋廻。 この環流は北太平洋の大部分から成る。赤道と北緯50度の間に位置し、約3400万km2もの面積を持つ。北太平洋環流は時計回りに循環し、4つの優勢な海流によって構成される。すなわち、北太平洋海流、カリフォルニア海流、北赤道海流、および黒潮である。漂流ゴミがこの環流内で蓄積されることが知られている(太平洋ゴミベルト)。 南大西洋亜熱帯循環(South Atlantic Subtropical Gyre) ブラジル海流系を含む。 南太平洋亜熱帯循環(South Pacific Subtropical Gyre) 東オーストラリア海流系を含む。 インド洋亜熱帯循環(Indian Ocean Subtropical Gyre)-南半球 アガラス海流系を含む。 南極環流(Antarctic Circumpolar Current) ウェッデル海亜寒帯循環 (Weddell Sea Subpolar Gyre)-南極海 ロス海亜寒帯循環(Ross Sea Subpolar Gyre) 熱帯循環は統合されにくく、南北より東西に広がる傾向がある。 大西洋赤道海流系(Atlantic Equatorial Current System)-two counter-rotating circulations 太平洋赤道海流系(Pacific Equatorial/Tropical Current System) インド季節風循環(Indian Monsoon Gyres) -インド洋北部、two counter-rotating circulations 亜熱帯循環の中心は高気圧帯で、コリオリの力によりその高気圧帯の周りを北半球では時計回りに、南半球では反時計回りに循環している。 中心の高気圧は環流の北側で西へ風が吹き、環流の南側で東へ貿易風が吹くことが原因である。これらの風の摩擦により環流の中心に向かう表面の流れが引き起こされ、中心に盛り上がった海水が赤道方向の流れを作る。この流れはその後西岸境界流となり、極方向へと戻っていく。 各循環で西岸境界流に相当するものは、メキシコ湾流(北大西洋亜熱帯循環)、黒潮(北太平洋亜熱帯循環)、ブラジル海流(北大西洋亜熱帯循環)、東オストラリア海流(北太平洋亜熱帯循環)、アガラス海流(インド洋亜熱帯循環)。 亜寒帯循環は高緯度(約60度)で形成される。表層の風や海水の循環は北半球では反時計回りで、中心に低気圧系が存在する(アリューシャン低気圧とアイスランド低気圧のように)。表面の海流は一般的にその循環系の中心から外へ向かって流れる。これはエクマン輸送によるもので、深海の栄養素に富んだ海水が湧昇する。 南半球における亜寒帯循環は南極環流のみが優勢である。これは南極海を分断する陸地が少ないためである。ほかにはウェッデル海亜寒帯循環やロス海亜寒帯循環といった時計回りの小さな循環が存在する。 ^ Heinemann, B. and the Open University (1998) Ocean circulation, Oxford University Press: Page 98 ^ a b PowerPoint Presentation ^ “New 'battle of Midway' over plastic”. BBC News (2008年3月26日). 2008年4月1日閲覧。 ^ http://www.mar.dfo-mpo.gc.ca/science/ocean/BedfordBasin/Papers/Longhurst1998/Provinces/BGCP_table.htm ^ Wind Driven Surface Currents: Gyres 流体力学 渦 渦巻 メイルストロム Wind Driven Surface Currents: Gyres SIO 210: Introduction to Physical Oceanography - Global circulation SIO 210: Introduction to Physical Oceanography - Wind-forced circulation notes SIO 210: Introduction to Physical Oceanography - Lecture 6 Physical Geography - Surface and Subsurface Ocean Currents North Pacific Gyre Oscillation — Georgia Institute of Technology" ]
ABC01-02-0246
乗り物の加速に使うもので、車はアクセルですが、電車なら何でしょう?
マスター・コントローラー
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[ "マスター・コントローラー", "自動ドア", "集電装置", "フートゴング", "遮光幕" ]
[ "マスター・コントローラー(Master controller,「マスコン」と略される)は、鉄道車両の出力・速度を遠隔制御するスイッチ装置であり、一般に鉄道車両の運転台に設置される。日本語では「主幹制御器」と翻訳される。 本項目では便宜上、(遠隔操作ではない)直接制御器についても説明するが、本来「マスター・コントローラー」「マスコン」あるいは「主幹制御器」という用語には直接制御器は含まれない。鉄道の運転・整備の現場における用語法でも「マスター・コントローラー」や「マスコン」は間接制御における主幹制御器のみを指し、直接制御器を指す場合や、双方を含めて言う場合は「コントローラー」などの語が用いられる。 鉄道車両の動力源の出力自体を制御する機器は動力車に備えられ、電気車の場合は「主制御器」と称される。複数の車両による連結運転の必要上、あるいは制御機器の複雑・大型化で運転台とは別に設置されるようになった場合などには、これらの機器は運転台から遠隔操作されることとなる。そのために運転台に設置し、運転者が操作するものが「主幹制御器」「マスター・コントローラー」である。運転台からの遠隔操作を行わず、運転台で直接主回路切換えやギヤチェンジなどを行う場合の操作機器には、このような呼称は用いない。 制御器などのハンドルを「自動車のアクセルペダルに当たるもの」とする説明が見られるのは、制御器ハンドルが担う操作が主に力行(加速)だからであるが、それが常にあてはまるとは限らない。力行ハンドルとブレーキハンドルが別体のものを「ツーハンドルマスコン」や「ツインレバー型マスコン」と総称するがこれにはブレーキも含まれ、一体化させたワンハンドルなら、ブレーキもマスコンと同じハンドル(レバー)ひとつで操作するわけで、この場合でもマスコン=アクセルとはいえなくなってくる。 なお、ブレーキを制御する装置は制動弁(ブレーキ弁やマンス弁ともいう)やブレーキ設定器と呼ばれ、制御されるものは制動弁(設定器のハンドルに直結している弁本体)を直接、またはブレーキ演算装置を間接的に制御する。本項では主にブレーキ設定器の形態に触れるに留め、詳細は鉄道のブレーキに譲る。 現代の電車・電気機関車・気動車・ディーゼル機関車には通常、以下の方式のいずれかが搭載されている。鉄道車両以外では天井クレーンで設置されているものもある。 モーターの電源となる、架線電流そのものを運転台に引き込み、運転者の力でカム軸を操作し、直接、断続や抵抗器の切り替えを行うものである。この方式では、運転台の制御器で主回路の切り替えが直接行われ、他に遠隔操作される制御器が存在しないため、運転台の制御器は「主幹制御器」ではなく、「直接制御器」(Direct Controller、ダイレクトコントローラー)と呼ばれる。 安易に執筆された文章では、直接制御器を「直接制御のマスコン」「直接制御式の主幹制御器」などと表現しているものが見られることがあるが、いずれも用語の意味を理解していないことによる誤用であり、意味が成り立たない。 直接制御器の歴史は、1870年代にドイツのシーメンスによって発明された最初の電気機関車にまで遡ることができる。 電動機による電動カム軸式などに比べ、構造が単純で反応が素早い利点があり、力行中断・再力行を繰り返す路面電車などではその利点が活用されることも多い。ただ、操作力は大きく体力を要する。また、コントローラー内のスイッチ接点に架線電圧が直接かかるため、特に外装部の絶縁処理に注意を要し、さらに運転台に置かれるため、コントローラー本体の体積(ケースの容積)や接点の寸法などには物理的な限界があり、高電圧・大電流への対応や一定以上の多段化が困難である。 後述の間接非自動制御とも共通するが、ノッチ進段を運転者の判断・感覚で手動で行うため、進段が早すぎた場合や誤ってノッチを飛ばしてしまった場合、主回路に過大な電流が流れ、保護機構が作動して力行が中断してしまうことがある。 架線電流を引き込む構造上、集電装置を持たない非電動車からの遠隔制御や、2両以上の総括制御には不適であり、連結総括制御を行わない用途の車両に用いられる。比較的小型の電気機関車や、路面電車のうち、もっぱら単行運転を行う車両などに多い。車体更新を受けている路面電車車両でも、制御器は従来の直接制御器が引き続き使用されているケースもある(土佐電気鉄道2000形電車、熊本市交通局8500形電車、鹿児島市交通局9500形電車など)。 低圧電源で小電流の主回路切替用制御信号線のみを運転台に引き込み、この信号線の接続切り替えによって、離れた位置にある制御装置を遠隔操作する方式である。この遠隔操作のために運転台に設置されるものが「主幹制御器」「マスター・コントローラー」である。 電車の2両編成以上での運転には遠隔制御を用いるのが望ましいことから、1898年にアメリカのフランク・スプレイグの手により、マルチプル・ユニット・システムと呼ばれる総括制御システムの一環として考案された。最初に開発されたスプレーグ・タイプDは既に自動進段機構を備えており、制御電源は低圧(直流12V)のバッテリーに頼っていたが、これはやがて電動発電機によるより安定した電源を使用するようになった。その後1910年代に入り、低コスト化への要求から補助電源無しで架線電圧による直接駆動可能、しかも構造が極めて単純な手動進段式制御器が、ゼネラル・エレクトリック社(GE社)やウェスティングハウス・エレクトリック社(WH社)の手で相次いで開発された。これらはその廉価さから支線区や中小私鉄を中心に普及した。 運転台に搭載されるコントローラーの内蔵スイッチは、取り扱う電流量が微少であるため直接式より小型にでき、また操作時の運転士の負担は少ない。複数の車両の制御装置を同時に遠隔操作できるのが最大の長所である。電車・電気機関車に限らず、気動車・ディーゼル機関車にも応用できる。 進段について、運転者の手動操作によって行うものを間接非自動制御、自動的に行うものを間接自動制御と称する。 現在の鉄道車両で通常用いられているのは、この間接制御器である。 電車用間接式制御器は、その発祥の地であるアメリカにおいて、GE社とWH社の2大電機メーカーの競争によって発展した。このため、現在もなお、これら2社の製品に由来するシステムが世界中で使用されている。 ここではそれら2社が製造した主な製品と、それらとは別に発展した、イギリスのイングリッシュ・エレクトリック社(EE社)による「デッカー・システム」について概要を説明する。 間接式制御器の生みの親であるスプレーグ自身が、元々エジソンのスタッフの一人であったという経緯から、エジソンが創設したGE社は早期よりこの画期的なシステムの製品化に取り組んできた。その成果は早くも1901年に現れており、電磁式単位スイッチ機構がこの年完成した。後にMコントロールの名で知られるようになったこの合理的なシステムは、直流600 Vの架線電圧を直接その動作に使用する点に特徴があった。前述の通り1910年代には回路構成を大幅に簡略化した手動進段式のMKが派生し、さらに自動進段式のMA (M Automatic) 系は1910年代中盤以降単位スイッチ機構をカムスイッチに置き換えたPC(Pneumatic Cam)へ移行し、1920年代には多段化や発電制動に対応したPCM(Pneumatic Cam Magnetic)が誕生、さらには1940年代に複数カム軸使用とカム軸のパイロットモーターによる電動化を施したMCM(Multiple Cam Magnetic)へと発展、これをコンパクトにまとめたパッケージ式制御器が誕生して技術的な絶頂を迎えた。その後アメリカにおける電気鉄道の衰退期に入ってMCMを整理・簡素化したSCM(Simplified Cam Magnetic)が1960年代に実用化され、これは電力用半導体素子の利用による電子制御実用化まで普及した。 当然ながら、自動進段式のMA系と、手動進段式のMK系とでは、その制御段数の相違からコントローラーの仕様が異なっており、相互の併結は不能であった。 日本においては、総括制御導入初期に事実上の市場独占を実現しており、特に新性能車の導入まで省線電車・国鉄電車の標準マスコンとして長く採用され続けたMC1形主幹制御器は、GE社のC36形マスター・コントローラーを改良したものであった。さらに、MCMは戦後国鉄が開発したいわゆる新性能電車用制御器の基本となったCS12形のプロトタイプとなり、パッケージ制御器の技術はGE社の日本におけるライセンス提携先である東芝の手により、冷房搭載に伴い艤装の小形化が特に強く求められた名古屋鉄道5500系電車や7000系電車などにMC-11系制御器として導入されている。 GE社のライバルであったWH社も、少し遅れて電気鉄道向け機器の開発に乗り出し、電空単位スイッチを1904年に実用化した。これは総括制御に必要なもう一つの技術である空気ブレーキの開発で知られるウェスティングハウスならではのアイデアで、ブレーキに用いる空気圧制御を制御器に応用したものであった。 ブレーキと制御器で極力機構を共通・統合化しよう、というこのWH社の設計コンセプトは、やがてブレーキの電空同期を実現するSMEE/HSC-D発電制動連動型電磁直通ブレーキの開発を経て、ワンハンドルマスコンの嚆矢となったシネストン・コントローラー(後述)の完成で絶頂を迎えた。 WH社(およびそのライセンスを受けて製品を製造した三菱電機)の場合、その型番体系は非常に合理的、かつシステマティックに整理されており、以下の各種の記号を組み合わせたモデルが存在した。 H Hand acceleration : 手動進段 A Automatic acceleration : 自動進段 L Line voltage : 架線電圧動作 B Battery voltage : 低電圧動作 M M compatible : GE社Mコントロール互換。日本ではMultiple notch : 多段進段 F Field tupper : 弱め界磁機能 S Spotting : スポッティング付き 例えば、手動進段・架線電圧動作の場合はHL、自動進段・低電圧動作・弱め界磁機能・Mコントロール互換(多段進段)の場合はABFM、自動進段・低電圧動作・スポッティング付きの場合はABSとなる。 直接式制御器のベストセラーとなったDBI-Kxシリーズで知られたイギリス・デッカー社 (Dick Kerr Works,Preston, Lancs.) も、1910年代には総括制御器をラインナップに含める必要に迫られた。このため、1920年代以降「デッカー・システム (Dick Kerr System)」として知られることになる、画期的な間接自動制御器シリーズを開発した。 これは前述の2社とは異なり、当初よりモーターで駆動される精緻なカムスイッチ機構を備えていた点に特徴があった。電動カムスイッチは、当初はその保守コストは大きかったが、大電流を取り扱うモデルでもコンパクトにまとめられ、機構上、自動進段機構が容易に構成できるというメリットがあった。このため、いずれの製品も自動進段機構を標準搭載して、スムーズな加速に欠かせない多段制御を実現しており、これに合わせてマスコンも自動進段を前提として、実際の制御段数の割にノッチ刻みが少ない、コンパクトかつシンプルな構成となっているのが特徴であった。 デッカー社は、このシステムの開発直後にEE社に吸収合併されたため、その大半はEE社製品として販売された。販路は主として英連邦各国であったが、日本およびその影響下にあった各国においては、日本におけるEE社の提携先である東洋電機製造によるライセンス生産品が多数販売され、使用された。 1954年にカルダン高性能車用制御器PE-11を開発した。これは上記EE社の電動カムスイッチ式を祖とするものだが、ブレーキ系統も連動し、制動ノッチ時は発電ブレーキのみでブレーキ力が不足する際はブレーキハンドルの操作によらず自動で空気制動がかかるなど運転士の負担を大きく低減する機構が盛り込まれた。この制御器は東急5000系電車(初代)に採用されて良好な成績を示し、後に国鉄CS12形を嚆矢とする新性能電車用制御器の雛形になった。 以降、日本の電動カム軸式制御器は独自の発展を遂げ、CS12形の上位互換でノッチ戻し機能を持つCS15形、CS43形が開発され、更には大電流ゆえ不可能と言われていた電気機関車用にも碓氷峠を超える関係から軽量化な超多段制御器が求められた国鉄EF62形電気機関車から本格的に採用された。 また、日本では進段シーケンス(とブレーキ指令方式)さえ合っていれば異形態の主制御器を持つ車両同士(例えば、電動カム軸制御車と単位スイッチ制御車、抵抗制御車とVVVFインバータ車、など)でも併結できる利点が生かされ、広く行われている。 マスコンとブレーキレバーは別々であるものの、従来型と違い、マスコンレバーの見た目が自動車のATセレクターの様な横軸(水平)型レバー式となっている。 かつてマスコンの操作レバーは伝統的にレバーを横方向に旋回させて操作する縦軸(垂直)方式であった。下部にあるカバー内には、ハンドルと結合されたカム軸と隣に接点部と呼ばれるスイッチを平行に複数設置した構成としており、カム軸で複数のスイッチ接点をオン/オフさせる。熟練者であればブレーキの操作と合わせることで細かい制御が可能で、特に起動時における衝撃を抑制することが可能な反面、一定の技能がないといわゆる“ドン突き”衝動を発生させやすかった。直接制御器時代では架線電源の電気を直接取り入れてコントロールしていたため、マスコン自体は大型であった。 自動進段式の間接式制御器が主流になると、電動発電機(MG)または静止型インバータ(SIV)からの低圧電源(直流100V)を使用してコントロールするようになったため、マスコン本体は小型化された。そのため、必ずしも縦軸である必然性はなくなっていた。そこで非熟練者でも操作の容易な形態として横軸マスコンが考案された。国鉄では新幹線の試作車である1000形で試用され、その量産車である新幹線0系で実用化された。また在来線では電車に先んじてキハ181系気動車で初採用された。 視覚的に進段・ノッチオフを意識しやすいよう、国鉄型の横軸マスコンは、“押して力行、引いてノッチオフ(ノッチ戻し・抑速ブレーキ)”であり、後述の民鉄発祥のワンハンドルマスコンとは逆の配置になっている。 国鉄では長らくブレーキ互換性と動作の確実性から、ブレーキについては自動空気ブレーキを採用し、SELD電磁直通ブレーキを採用する電車についてもこれを併設として、自動ブレーキ弁は運転台のブレーキレバーで直接操作するという形態をとった。この為横軸マスコン車でもブレーキは縦軸配置を採った。これはブレーキが電気指令式のみとなった国鉄最末期の量産車である211系電車や205系電車でも乗員の慣習の問題から踏襲され、ブレーキ弁直結とならなくなり、運転台コンソールと一体化して小型化はしたものの、ブレーキレバーそのものは縦軸のままであった。 本来別々に設置されているマスコンとブレーキレバーを一体構造としたものである。運転操作を極力簡易にするための発想で、既に1930年代にはシネストン・コントローラー (Cineston Controller)と呼ばれる、SMEE/HSC電磁直通ブレーキ用ブレーキ制御弁にマスコンの電気接点を組み込んだ制御器システムがアメリカのWH社の手で開発され、遅くとも1940年代後半までにはニューヨーク、シカゴ、ボストン市などの地下鉄および高架鉄道で営業運転に供されている。 ワンハンドルマスコンの実現には、主幹制御器側で操作される発電・回生ブレーキと、ブレーキ弁で操作される空気ブレーキ系が電気的・機械的に確実に同期動作する必要がある。このため、当時の技術では、WH社が開発したセルフラップ式ブレーキ弁と、同じくWH社開発の締切電磁弁 (Lock Out Valve:LOV)や射込弁(Inshot Valve:連動込め弁とも)の併用が事実上必須であった。 日本では1952年の高松琴平電気鉄道10000形電車が電空一体型ワンハンドルマスコンの最初の採用例(制御装置は日立製作所笠戸工場製)であるが、この時点ではセルフラップ弁を持たない、通常の直通ブレーキ上にシステムが構築されており、その操作は極めて特殊であった。しかも、LOV相当の機構も欠落していたことから発電ブレーキと直通ブレーキの同期に難があり、この日立製ワンハンドルマスコンシステムは普及しなかった。 日本においてワンハンドルマスコンが本格的に採用されたのは、1960年代後半であり、従来の空気ブレーキがブレーキ弁の操作により指令を行う空気指令方式から、マスコンと同じく、カム軸の操作により複数のスイッチ接点をオン/オフさせて低圧の電気で指令を行う電気指令式が採用されたことによるものであり、ブレーキ弁を持たないことからブレーキ制御器と呼ばれている。これにより、マスコンとブレーキ制御器を一体化して、一本のハンドルで操作できることが可能となった。 本格的な採用としては1969年の東急8000系電車が最初と言える。また日本ではワンハンドルマスコン採用車両の大半が電気指令式ブレーキとなっている。 東急8000系を開発する際に、ワンハンドルマスコンの操作法について、“押して制動・引いて力行”と、馬を御するやり方に基づいたそれと逆とする案の両方が出され、最終的には前者に決まった。前者については、人間の体が慣性に逆らわずに運動する、また、万一失神時には前に倒れ込むであろう、といった点が“人間工学に基づいたシステム”としての観点から言われている。導入に際しては当時の運輸省から「どちらでも良いが、どちらかに決めたらその方式は以後変えてはならない」という指導があり、以後このタイプのコントローラ(横軸ワンハンドル型マスコン)の操作系については、JR・私鉄等を問わず全ての車両が東急8000系方式を踏襲している。 両手式を多く採用している会社として、関東では東急を筆頭に、小田急電鉄を除く大手私鉄すべてで両手ワンハンドルの採用例がある。関西では阪急電鉄の2200系および6300系以降の車両と阪急の系列会社である北大阪急行電鉄9000形、阪急に乗り入れるOsaka Metro66系、25系(更新車)、30000系(2018年度増備車)、阪急6300系と同様の運行形態を想定していた京阪電気鉄道の8000系が挙げられる。なお、阪急では自社車両への両手ワンハンドルマスコンの導入に当たって東急の協力を得ている。西日本と四国を除くJRグループでは片手式の採用が主流となり、両手式は2017年現在まで採用例が一切ない。 ハンドルが片手側しかないため、ハンドルをL字形にして軸の付け根を運転台デスクの端に寄せることができ、デスクの中央が開いて、各種スイッチやダイヤグラム表などを配置しやすいという長所がある。デッドマン装置を作動させないため、両手ワンハンドルならどちらか片手で握っていればよいが、片手式は走行中つねにハンドル側の手で握っていなければならないのが欠点となる。片手ワンハンドルの反対側には手摺りが設けられ、もう片方の手が遊んでしまうという運転士の心理的負担を和らげている(非常ブレーキ使用の際には両方を全力で握って作動させる)。 日本での本格的採用はまず右手式で、京浜急行電鉄の800形から採用された。続いて2000形でも採用したが、次世代の1500形からは両手式に戻っている(理由は後述)。伊豆箱根鉄道3000系と5000系で採用しているハンドルは、運転台のデスク自体が京急のそれに準じたものを使っている。二階式運転台の特急車(小田急ロマンスカー)を持つ小田急電鉄では7000形と10000形で、江ノ島電鉄では1000形から、いずれも「運転台が狭いため、コンパクトに収まる」という理由で右手ワンハンドルを採用している。なお二階式運転台ではない20000形や30000形も右手ワンハンドルだが、これは小田急ロマンスカー全体での部品共通化を目指したものである。JRグループでは小田急乗り入れを前提に設計されたJR東海の371系が唯一の右手式採用事例となった。 左手式の採用は、JR北海道の721系からであるが、その後はJR東日本の209系から本格的に採用が始まった。基本的には上記の左右逆であるが、片手操作のハンドルがI字形と呼べるほど小型化され、ワンレバー式とも言えるサイズである。2003年の肥薩おれんじ鉄道HSOR-100形気動車は軽快気動車で初めてワンハンドルマスコンが採用された。右手ワンハンドルと比べ、近年は西日本と四国を除いたJRグループや大手私鉄での採用例が増えている。 ヨーロッパにおいては、特にトラム等で早くからワンハンドル制御が行われていた。操作方向は日本とは逆に、押して力行、引いて制動とし、右側通行の大陸ヨーロッパでは左手操作とするのが一般的である。ドイツから導入された広島電鉄5000形では、日本仕様とするため、操作方向を引いて力行、押して制動、右手操作に設計変更している。 ワンハンドルマスコン同様片手操作可能ではあるが、右側/左側両方にマスコンハンドルがある。左右の軸が繋がっており、右手で右のレバーを操作すれば左のレバーも連動して動く仕組みになっている。この方式は路面電車の一部(京福電気鉄道モボ2001形電車、阪堺電気軌道701形電車、広島電鉄3800形電車、鹿児島市交通局2100形電車など)に採用されている。 左手のマスコンを横軸式にする一方で、右手のブレーキハンドルは在来車と連結する必要や、安価な既存技術を採用するという方針から、従来と同じ縦軸ブレーキハンドルとしたもの。国鉄では201系で採用された後、205系などいくつかの系列で採用された。私鉄では神戸電鉄3000系、西鉄5000形、阪神ジェットカー(5550系・5700系)に採用されている。 横軸マスコンが全盛を極めている現在では採用例が少なく、JRグループの在来線車両では2014年登場のJR四国8600系が現時点で最後の採用例である。気動車では関東鉄道の車両(キハ2300形・キハ2400形・キハ5000形)が一貫して縦横軸併用マスコンを採用している。 新幹線車両については、現在もこのタイプのマスコンが主流となっており、分割民営化以降の新造車両ではJR西日本500系を除き、すべてこのタイプである。また、新幹線運転時にはブレーキ操作よりマスコン操作の方が重要視されるため、大多数の運転士の利き手である右側にマスコンが来るよう、ブレーキとマスコンの位置が在来線車両と左右逆転している。 鉄道運転シミュレーションゲーム「電車でGO!」シリーズのアーケード用筐体は、205系をモデルにした縦横軸マスコンを採用している。 マスコン・ブレーキともに横軸としつつも、それぞれ独立して操作する形式である。 電車に先んじて国鉄キハ181系気動車が嚆矢となった。キハ181系ではブレーキがダイヤフラム式のCLE電磁自動空気ブレーキとなったことに加え、他系列との併結を考えない形式であったため運転台用のブレーキ弁をコンパクトにできたことで実現した。しかし、キハ181系自体が国鉄形式としては少数に終わった他、同じ系統のブレーキ弁を装備する201系電車では101系・103系との混用の為、習熟の問題もありすぐには普及しなかった。 国鉄分割民営化の後、運転台に自動ブレーキ弁を設置する電車がほぼ皆無になり、さらに気動車までもが電気指令式ブレーキを採用するようになったため、ブレーキについても縦軸配置の意味が薄れた。一方でワンハンドルマスコンでは細やかな制御がしづらいことを嫌う事業者に普及することになった。 レバーの形状はデスクの横から伸びるL字形か、デスクの上下に伸びるT字形で、拳を横にして握る方式がほとんどである。変わった例としては、ハンドル形状が三度も変わった京阪電気鉄道の3000系で、2番目(ブレーキが全電気指令ブレーキに変わってから、8000系登場後ワンハンドルに更新されるまで)に採用されていた形状では、左のマスコンがT字形で手のひらにより上から押し込み、右のブレーキがI字形で手の甲を右側に向けて握った。 関西圏の各社線では、ブレーキ弁とマスコンを同時に操作して出発時の衝動を軽減するスキルが常用される例が多いことからこのマスコンを採用することが比較的多く、JR西日本の221系電車以降の電車各形式や、私鉄では1990年代以降の新造車両(阪急電鉄・阪神ジェットカーを除く)、地下鉄ではOsaka Metro(堺筋線用の66系・千日前線用25系更新車・30000系2018年度増備車を除く)や京都市、神戸市(海岸線の5000系を除く)、関西以外ではJR四国(JR西日本223系5000番台と共通設計である5000系電車および2000系・1500形・2600系などの各気動車)や第3セクター鉄道の気動車、名古屋市営地下鉄の初期のVVVF制御車で採用例がある。関東の鉄道車両では新京成8800形電車、箱根登山鉄道1000形電車以降の新造車両がツインレバー型を採用している。かつては営団01系・02系や横浜市営地下鉄1000形電車・2000形電車、3000形(1次車のみ、ワンマン装置取り付け前)がツインレバー型を採用していた。新幹線ではJR西日本が開発した500系が唯一この形態を採っている。 近鉄26000系電車は横軸ツインレバー型マスコンであるが、他の横軸ツインレバー型マスコンはブレーキ装置が電気指令式ブレーキであるのに対し、この系列のみ電磁直通ブレーキになっている。 また更に後年に入ると、自動ブレーキを必須とする機関車においてもブレーキ弁の冶金技術高度化による更なる小型化や制御システムの統合電子制御化による間接化で、横軸ブレーキレバーの採用が可能となった。EF200形・EF500形を皮切りとしたJR貨物のVVVFインバータ制御の機関車はこの形態を採っている。 他の鉄道会社と直通運転と行う場合、異なる鉄道会社の境界駅で、もう一方の鉄道会社に運転士が交代する運転方法が多く採用されているため、運転士の熟知の問題から、運転室のスイッチの位置や色に規格統一が求められるケースが多く存在する。マスコンの形状も例外ではなく、直通する全形式で1種類、多くても2種類に統一されているケースが目立つ。 特徴的な例を挙げる。前述の201系と205系で縦横併用式を採用していた国鉄が、東京メトロ千代田線(当時は帝都高速度交通営団)直通用に製造した203系では縦軸マスコンを採用した。一方東京メトロ東西線では05系の初期型は直通先の中央・総武緩行線に103系が多かったことや、自社の5000系も一気に置き換えず、当面は界磁添加励磁制御化改造を行って運用を続ける予定だったことなどから、それらに合わせる形で縦軸ツーハンドルを採用し、後期型の05N系や近年の05系B修繕車では中央・総武緩行線のE231系投入に合わせて左手ワンハンドルマスコンに変更、有楽町線から転属した07系も縦軸ツーハンドルマスコンから左手ワンハンドルマスコンに変更する改造を施した。その他、京浜急行電鉄では右手→両手、西武鉄道では両手→左手→両手と変化した。 反対に1社のみ異なるケースとしては、これまで全車両が横軸マスコンを採用した東京メトロ日比谷線において、ワンハンドルの元祖である東急のみが1000系でワンハンドルを採用していた例がある。 マスコン形状が横軸式となっても、1980年代後期頃までは、内部の機構は縦軸式と同様なカムスイッチであり、制御器ハンドルでカムスイッチを動かして接点を断・接する機構であった。制御段数の増加への対応や操作性の改善のため、1980年代末頃から無接点化したコントローラーが開発・採用されるようになった。無接点化したものでは、カムスイッチを廃し、制御器ハンドルの角度をロータリーエンコーダなどにより検出して制御伝送装置に送り、加減速信号として主制御器等に伝える方式となり、操作性・整備性とも改善されている。 ^ a b c 『鉄道ファン』1983年9月号(No.269) pp.110-112 ^ 吉谷和典 『第二すかたん列車』(日本経済評論社、1987年。著者は元大阪市電乗務員) p.203,p.206,pp.209-215 などを参照。 ^ a b 飯島巌、白井良和、井上広和 『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 保育社、1985年、pp.148-149,p.158 及び 飯島巌、青野邦明、荒川好夫 『復刻版 私鉄の車両3 広島電鉄』 ネコ・パブリッシング、2002年、pp.126-128などを参照。 ^ a b c 小川裕夫 『路面電車で広がる鉄の世界 - チンチン電車と都市計画がわかる本』 秀和システム、2012年、p.76 ^ a b 『鉄道ピクトリアル』1994年7月臨時増刊号(No.593) p.74 ^ 吉谷和典 『第二すかたん列車』(日本経済評論社、1987年) p.203,pp.213-214,p.264 ^ 『鉄道ピクトリアル』1994年7月臨時増刊号(No.593) p.82 ^ 吉谷和典 『第二すかたん列車』(日本経済評論社、1987年) p.165 ^ 『鉄道ファン』 1992年9月号 p.108 ^ 『鉄道ファン』 1992年9月号 p.108 ^ 広島電鉄(株)電車カンパニー車両課「広島電鉄5000形」、『鉄道ファン』第460号、交友社、1999年8月。 ^ 電気車で、主回路切換えを運転者が直接行うものは「直接制御器」(後述)である。内燃車で、エンジンや変速機の操作をワイヤーやリンク機構で運転者が直接行うものについても、運転者が操作するものは「スロットル(又は燃料制御ハンドル)」「変速レバー(又は変速ハンドル)」などとなる。 ^ 用語の意味を理解して執筆・編集された文献ではこのような誤りはない。例えば、1980年代に保育社が発行した『私鉄の車両』シリーズ(2005年にネコ・パブリッシングから復刻版発行)は、上掲の広島電鉄編・名古屋鉄道編を含めいずれも「直接制御器」「主幹制御器」「マスター・コントローラー」等の用語を明確に区分して使用しており、上記のような誤用はない。直接制御器・主幹制御器を含めて運転台の制御器全般を指す場合は、単に「制御器」「制御器ハンドル」「コントローラー」などと表現している。吉谷和典 『第二すかたん列車』(日本経済評論社、1987年)における用語法も同様である。 ^ 直接制御器を解説する際、誤って「この主幹制御器(あるいはマスコン)はXXXX形直接制御器である」と記述してしまうと意味の成り立たない誤文となってしまう。正しい表現は、「この制御器(あるいはコントローラー)はXXXX形直接制御器である」となる。 ^ 車両間に架線電圧を扱うジャンパ線を引き通せば、物理的には一応可能であり、過去には蒲原鉄道などで直接式制御器搭載の小型電車に制御車を連結するために用いられた例があった。また、広島電鉄70形電車がそうであるように、電装品の絶縁処理やスイッチ機構の小型化に自信があったヨーロッパ、特にドイツのメーカーでは、2/3車体連接式の路面電車に超多段式の直接式制御器を搭載するケースが少なからず存在した(広島電鉄70形電車の例について、飯島巌、青野邦明、荒川好夫 『復刻版 私鉄の車両3 広島電鉄』 ネコ・パブリッシング、2002年、p.128 を参照)。 ^ この機構についてはFrank E Caseを発明者として“Pneumatic system of motor control.”(US 795024 A)として1905年に、John B Linnを発明者として“Pneumatic train-control system.”(US 809707 A)の名で1906年に、それぞれ合衆国特許が成立しており、同時期にはそのほかにも様々な特許がGE社を出願者として取得されている ^ 厳密には抵抗器を挿入して降圧の上で使用する。また、直流1,500 V電化線区では電動発電機を用いて給電した。 ^ この技術はFrank E Caseを発明者として“Pneumatically-operated cam-controller.”の名で1917年に合衆国特許(US 1221676 A)を取得している。 ^ 当初12/24Vバッテリーからの給電に依存していたため、このように命名された。アメリカではブレーキの電磁弁を駆動するのに用いられるのと共通の、32V動作のモデルが一般的に用いられていた。日本でも当初は南海鉄道電2形などでバッテリーが制御器の電源として使用されたが、電解液の補充や電極のメンテナンスなど煩雑な保守に手を焼き、早い時期に出力電圧選定の自由度の大きな電動発電機が多用されるようになった。そのため、長大編成化の際に電圧降下による誤動作が起こりにくい100V動作の高電圧モデルが広く普及した。 ^ DBI-K4など。日本の路面電車で現在も標準的に使用されている三菱電機KR-8形制御器などの原型となったモデル。 ^ 201系電車や205系電車、211系電車は民鉄と同様に、引いて力行、押してノッチオフである。 ^ これらはいずれも日本と異なる縦軸式である。 ^ なお、伊東線には伊豆急行から8000系が乗り入れており、これはJRの路線上で両手式ワンハンドルマスコン搭載車が走る唯一の事例である。 ^ これは、京急800形と伊豆箱根3000系がほぼ同時期に東急車輛で開発されていた為であるが、伊豆箱根3000系の動作表示灯の表示方式は親会社の西武鉄道の様式を採用している。 ^ ただし50000形以降のロマンスカーは、左手式を採用している。 ^ ヨーロッパの路面電車車両では、ブレーキとして電磁駆動式のブレーキ(安全のため、ブレーキ力はバネを使用する)が使われることが多かったことも背景にある ^ 路面電車をメインとした「がんばれ運転士!!」を除く。なお、2017年11月に稼動開始した新シリーズは左手ワンハンドル式となっている。 ^ 201系は基礎ブレーキ装置はSELD電磁直通ブレーキだが、保安ブレーキとしてCL自動空気ブレーキを搭載している ^ 2000形・3050形・5050形・6000形。なお、5050形や6000形はATOによる運転がなされているため、通常はマスコンを使用しない。 ^ ツインレバーながら電気制動はマスコンと共用されている。もう片方(右側)は空気制動である。 ^ 方南町支線用は製造当初から、丸ノ内線用はワンマン装置とATO装置が取り付けられると同時にワンハンドルマスコンに変更されている。 ^ ただし名古屋市営地下鉄鶴舞線、および直通先の名鉄豊田線・犬山線のように、縦軸ツーハンドル(3000形、名鉄100系)・横軸ツーハンドル(3050形)・右手ワンハンドル(N3000形)というふうにバラバラになっている例もある。特に名鉄に在籍する電車に横軸ツーハンドルの車両は存在しないため、3050形が唯一名鉄に乗り入れる横軸ツーハンドルマスコンの車両となる。 ^ 銀座線や丸ノ内線では在来車の電子式ATS化改造を避けるため、また日比谷線では全電動車方式でランニングコストが高く付くほか、初期のステンレス車体の老朽化が著しかったことに加え、3路線とも車両冷房が装備されていなかったこともあり短期間で置き換えた。これに対し5000系は国鉄103系に範を取った経済車であり、車両冷房の取り付け改造も実施されている。 ^ ごく短い期間東西線で運用されていた8000系も、東西線で運用されていた間は縦軸ツーハンドルであった。本来の運用線区である半蔵門線に移動する時にワンハンドル化された。 鉄道のブレーキ 電気車の速度制御 デッドマン装置", "自動ドア(じどうドア、英: Automatic door)は、扉の開閉を人力でなく電気などの動力によって行う設備のこと。その中でもとくに、人や物の接近を自動的に検出して扉を開き、通過を確認して扉を閉じる機構を持つ設備を指すこともある。また日本のタクシーのように動力が運転手による人力であってもドアに直接触れずに開閉操作できるものを自動ドアと称する場合もある。 古く紀元前100年ごろにはヘロンが祭壇の火の強弱を利用して空気圧の力で神殿の扉を開閉させる装置を開発していたことが知られている。 日本では、古くは飯塚伊賀七のからくり時計において、朝夕に鐘と太鼓で時間を知らせると同時に家の門を開閉したとされ、復元品がつくば市立谷田部郷土資料館に所蔵されている(飯塚伊賀七の発明の方も参照)。昭和初期には航空母艦(加賀、赤城など)の一部の格納庫の防火防弾用として用いられた。また1926年の山手線の電車や、1927年の東京地下鉄道1000形電車には、空圧式の自動ドアが使用されたとの記録がある。建物では、日劇前の東芝営業所玄関に、光線スイッチ起動による自動ドアが設置された。また建物に対しては、1957年に油圧式、空圧式の自動ドアが開発され、新築ビルの玄関などに使用されるようになった。 スライドする引戸形式のものが多いが、回転式、蝶番(ヒンジ)を用いた折戸や観音開きを含むスイング式、グライドスライドのものもある。 1960年代には、「マジックドア」という表現も見られた。 自動ドアは、オペレータ部、センサー部、ドア・サッシ部の3つから構成される。 オペレータ部は、駆動装置と制御装置からなる開閉装置。 センサー部は、人や物の出入りを自動的に検出する検出装置。 ドア・サッシ部は、ドア、枠、ガイドレールなどの部位。 開閉方式としては、引き戸、開き戸、折り戸、回転ドアなどがある。 駆動方式としては、電気式、空圧式、負圧式、油圧式などがある。 検出方式としては、マットスイッチ、超音波スイッチ、赤外線スイッチなどがある。 エレベータのように挟み込み防止のための安全装置がついている場合もある。 ドアエンジンは自動ドアの開閉動作に際して直接作動する動力装置。現在、建物等の自動ドアに広く使われているのは電気モーターを動力とする方式である。 鉄道車両用には導入当初は空気圧作動式が多く用いられてきたが、近年は電気スクリューやリニアモーターといった電動式も導入され始めており、空気配管の減少に伴うメンテナンスの簡素化に寄与している。 エアコンプレッサーを装備するバスでは空気圧作動式が用いられている。 例外的なものとして、日本のタクシーではてことリンケージを用いた人力によるものがある。運転席横のレバー操作により後部客席ドアを開閉する。一方ではインテークマニホールドの負圧でドアを開閉するものも増えており、通常はステアリングコラムの右インパネ部にボタンが設置されている。 日本では鉄道・バス・タクシーなど多くの公共交通機関は車掌・運転士・駅員が開閉操作を扱い乗客自らはドア開閉を行わないが、鉄道車両では車内の空調効果維持を図るため、停車時に係員は開錠するのみで開閉操作は乗客自身が行い、乗降客がいない停車駅や長時間停車時に開閉回数や開放時間を低減させる場合がある。発車時は車掌の閉扉操作によりドアは自動で閉鎖されることから半自動ドアとも呼称される。 旧来鉄道車両の乗降扉は手動であったが、ドアエンジン駆動式の自動ドア導入後、開閉操作は車掌や運転士が扱い扉は開放か閉状態のまま固定され手動開閉は不能である。本方式は車掌が車掌スイッチを開操作して各扉を開錠するとステップ灯と車側表示灯が点灯してドアエンジンのエアシリンダーが開放され、乗降時に乗客により手動開閉させるもので、乗降扉には取手が配置され「手で開けて下さい」など表記されている。一斉扉閉は車掌スイッチの閉操作で扱われるため、通常時は乗客が手動で開閉させることはできない。 国鉄の一般形・準急形・一部の急行形気動車や、寒地向けの近郊形電車に広く採用され、転属で寒地向けに仕様された旧型国電などでも広く見られたが、現在それらは廃車ないし後述のボタン式半自動へと改造されたため、JR東日本管内の115系や、JR西日本管内の117系やキハ120系など一部のローカル線車両、および上信電鉄に譲渡された107系などで見られる程度になっている。 車両側に特別な装備を必要としない類似する簡便法として、客扱い終了後に全扉を閉めてから係員が非常コックを操作して乗務員室付近の客扉を手動開閉する事例が、JRではホームライナーの乗車駅で乗車口を限定した場合や、特急白鳥・スーパー白鳥が竜飛海底駅や吉岡海底駅で見学客を乗降させる場合に、名古屋鉄道や近畿日本鉄道では通勤型車両の長時間停車時に、箱根登山鉄道は風祭駅の有効長が約49メートルで小田急電鉄車両は箱根湯本方2両で乗降客を扱う場合にそれぞれ用いた。 1972年(昭和47年)から川越線と八高線用国鉄通勤形気動車で、後に相模線の通勤形車両で車両内外の扉脇に押しボタン式スイッチ増設改造が施され、車掌スイッチを半自動位置にすると扉のスイッチ部分が点灯して乗降客自らの操作で扉開閉が可能となる。半自動スイッチとも呼称されるが、ドアエンジンが開放されていない自動扉を個別に操作するものであり、手動開閉は考慮されていない。当初は各線区事情を考慮して採られたが、民営化に向けた211系電車以降の新造車両で寒地向け装備として正式採用されているほか、115系など既存車両に対しても改造により追加するケースもある。また、使用するケースは稀だがJRの一部の特急用車両にも設置されている。 スイッチは両開き扉では内外ともに右側、片開き扉では内外共に戸当り側へ配置されている。車室には開と閉の2つが設置されているが、車外側はコスト低減のために開のみが設置されているため、ドア開時に車外から車内の閉ボタンを操作する際はドアが閉まる前に体をドアから離れなければならない。停車中の扉の状態にかかわらず発車時には全扉の施錠を要するため、阪神電鉄では発車前に半自動を解除する際は一旦半自動扱いとしていた全扉を開いている。また、乗降客が比較的多い駅で乗客の分散を図るためにすべての扉を一斉開閉する場合と車掌スイッチの戸閉め操作のみで発車する場合があり、ボタン操作の開扉後に一定時間無操作で自動閉扉するものもある。 車内温度維持による省エネ効果を期待して、JR東海313系2500番台、JR東日本E231系・E233系、JR西日本製造の一般用車両など、主に暖地を走る車両で始発駅での出発待ち、快速・特急列車などの接続・通過待ち、単線区間での列車交換など、アーバンネットワークでは新快速や快速の接続・通過待ちや折り返しなどで停車時間が長い列車、きのくに線、湖西線(近江今津駅 - 近江塩津駅・敦賀駅間)、北陸本線(米原駅 - 金沢駅間)、加古川線・播但線などでは全列車、大手私鉄では西武4000系・40000系、阪神5700系・5500系リニューアル車・相鉄20000系など、準大手私鉄では山陽6000系、中小私鉄では一畑7000系などで押しボタン式の半自動扱いが行われている。 スイスなどヨーロッパの鉄道ではドアが自動では開かず、乗降客がドア付近のボタンを押すか、ドアの取っ手を引いてドアを開閉するようになっている場合もある。 ^ 城井田勝仁『図解入門よくわかる機械制御の基本とメカニズム』秀和システム、2004年、30-31頁 ^ 水戸計 『教科書には載っていない 江戸の大誤解』 彩図社 2016年 p.107.復元品の写真あり。 ^ 装備車両のみ。 ^ 1993年以前は約30メートル ^ 小田急は最低でも4両編成である。 ^ 琵琶湖線からの乗り入れ含む。 ^ スイス、旅のマニュアル HIS 2019年1月14日閲覧 ドアクローザ シーケンス制御 エスカレータ", "集電装置(しゅうでんそうち)とは、鉄道車両やトロリーバスが電気を得るための装置をいう。集電器(しゅうでんき)とも呼ばれ、代表例としてパンタグラフが挙げられる。 電車では通常、編成内の電動車に装備されるが、重量配分や取り付け位置の制約等の関係で無動力の制御車や付随車に取り付けられる事例もある。 架空電車線方式では、集電装置は車両の屋根上に設置される。 トロリーポール(trolley pole)とは、鉄道車両やトロリーバスの屋根上に取り付けられ、架線(トロリー)に接触させて集電する装置の一種。「ポール」または「電棍」(でんこん)とも呼ばれる。本体は鉄・軽金属・ステンレス鋼等のパイプで出来ており、先端部分にはトロリーホイールと呼ばれる滑車状の車輪、またはスライダーシューと呼ばれるU字断面のすり板が取り付けられており、架線にはめ込む様に接触させる。鉱山鉄道などでは事故防止の観点から、木製のポールに絶縁材で被覆された電源ケーブルを組み合わせたものも用いられた。トロリーポールは架線に対して斜めに角度を付けてトロリーホイールやスライダーシューを接触させて使用し、架線に突っ込む方向で使用すると離線した時にトロリーポール自体もしくは架線や架線を支持する吊架線(スパンワイヤー)の損傷につながるため、なびく方向で使用するのが原則である。車両の速度が向上するにつれ、架線を外れたトロリーポールが架線や吊架線を切断する事故も増えたため、ぜんまいばねの働きで引き紐を巻き取り、トロリーポールの跳ね上がりを防ぐレトリバー(レトリーバー、トロリーキャッチャー)が考案された。 電気鉄道黎明期には幅広く使用されたが、架線に対して斜めに接触させて使用し架線の高さが変位すると架線に対するトロリーポールの接触角度も変位するので、架線との接触面に加わる圧力(架線を押し上げる力)の変動が大きい。かつ質量が大きく剛性も低い(しなる)ため、 架線追従性が悪く、架線にはめこんであるトロリーホイールやスライダーシューが架線から外れてしまう離線が起こりやすい。 一旦離線が発生すると再度乗務員により架線に着線させる操作が必要である。 走行中に離線が発生するとトロリーポールが上に跳ね上がって架線や架線の吊架線を切断する事故が起こりやすい。 分岐器通過時各トロリーポールに操作員(通常は車掌が兼務)が必要で貫通路も使用しにくい。 という問題があり、高速化、大出力化、長編成化には不向きであった。 そのため、曲線や分岐が多く連結運転が多用された日本では電気鉄道の発展に伴い1920年代以降パンタグラフへの移行が急速に進展したが、トロリーポールには、構造が単純で製造コストも低い、本体のサイズが大きく作用範囲が広いため、架線の上下左右の偏倚や張力変動に強い、架線をさほど高い精度で設置しなくても使用できるので架線の設置、及び維持コストを低廉化できる、といった理由から、その後も長きにわたり路面電車や小規模な地方私鉄用として使われ続けた。 アメリカではインターアーバンを中心にその後もトロリーポールを使用する例が多数見られた。路面電車では1929年(昭和4年)からPCCカーが開発されて1936年(昭和11年)に基本仕様が完成。以降量産して全米各地で使用され、マサチューセッツ州ボストン市を走るレッドラインのマタパン(Mattapan)支線では2012年(平成24年)現在でも使用中であり、スライダーシュー付きのトロリーポールを使用している。ペンシルベニア州フィラデルフィアのSEPTAでも、1980年代にPCCカーの代替として導入された川崎重工製軽快電車がトロリーポールを装備して登場し、使用されている。また、アメリカではサンフランシスコ市営鉄道のFライン、ウィスコンシン州ケノーシャなど、トロリーポールを装備したPCCカーのような旧型路面電車を市中で復活運行している例も複数ある。 トロリーポールには進行方向に対して1本(シングルポール)のものと2本(ダブルポール)のものがある。戦前の日本では、大都市の路面電車を中心に、線路からの帰電が漏電して地下埋設した水道用の鉄管を腐食(電食)させる事例があり、これを防ぐために架線に帰電する方式としたため、2本となった。その後、水道管の材質が電気の影響の少ない鉛等に変更されたため、戦後はすべて1本に変更されている。トロリーバスでは構造上地面への帰電が不可能であり、架線に帰電するためすべて2本となっている。 小型の車両では、屋根の中央に取り付けられ、進行方向が変わる場合は乗務員が引き紐で旋回させていた。日本ではこの作業はポール回しと呼ばれる。その後車両の大型化に伴い、進行方向ごとに1対を備えるようになり、2本ポールの場合は合計4本となる。この場合、常に後ろ側を使用し、終端部で乗務員が上げ下ろしを行っていた。ポールを上げるには組み込まれたバネの復元力を利用するが、架線への追従性を確保するためにビューゲルやパンタグラフと比較して押し上げる力が強力で、かつ架線にピンポイントで正確にトロリーホイールやスライダーシューをはめ込む必要があってトロリーコード(引き紐)を操り操作するには熟練が必要であった。また、分岐、転線の際は、本線側の架線から分岐側の架線への架け替えが必要となるため、乗務員は天候にかかわらず身を乗り出してポール操作を行わなくてはならず、大きな負担になった。分岐部でトロリーポールを下げて付け替える手間を軽減するために、軌道側の分岐器よりも進行方向やや奥側に架線の分岐部を設置し、走行中にトロリーコードを分岐側に軽く引くだけでトロリーポールの転線が完了する様に改良されたが、離線も発生しやすいので従来の付け替え作業を行うタイプと併用されていた。 トロリーバスは道路状況によっては架線の直下を大きく外れて走る必要があるが、U字断面で水平・垂直方向に可動式のスライダーシューを装着して架線追従性を高める改良がされたトロリーポールはこの使用状況に向いており、2012年(平成24年)現在もトロリーポールが使われている。スライダー式はトロリーバス用として開発されたが、架線への追従性に優れていたため鉄道でも高速運転を行う路線を中心にホイール式から変更された例がある。 トロリーバスの場合は進行方向が一方のため、終端部には転回線が設けられており、途中の分岐が少ない。トロリーポールの上げ下ろしは(1)数少ない分岐(2)入出庫時(3)電化区間の鉄道線の踏切をわたる場合(4)離線や車両故障時等で、路面電車より頻度を低くして表定速度の向上による高速化を狙っている。トロリーポール自体も当初は路面電車用と同様の構造だったが、高速化に対応し、また離線時の架線や吊架線の切断事故防止のために、後年はほとんどのケースでレトリバー(トロリーキャッチャー)を取り付けた。 手動で操作する架線分岐器が開発され、車庫構内や停留所など停車して操作可能な場所で使用された。自動化した架線分岐機構も開発され、世界各国のトロリーバスで使用されたが、構造が複雑なことと、後述するビューゲルやパンタグラフの普及により、手動式・自動式ともに鉄道や路面電車では一般化しなかった。 電気鉄道の黎明期にはさまざまな試行錯誤が行われ、トロリーポールもその起源の完全な特定には今後の研究が待たれるが、1888年(明治21年)にアメリカのダービーホース鉄道(DERBY HORSE RAILWAY)でヴァン・デポール(Van Depoele)の電気品を使用した電気機関車がトロリーポールを用いている。また同年、アメリカのリッチモンドユニオンパッセンジャー鉄道(Richmond Union Passennger Railway)がフランク・スプレイグ(Frank Julian Sprague)考案の電気鉄道システムを採用して開通、やはりトロリーポールを使用している。日本の営業用鉄道におけるトロリーポールの使用は、1895年(明治28年)2月1日の京都電気鉄道(1918年(大正7年)に京都市電/京都市交通局により買収)を持ってその嚆矢とする(1890年(明治23年)5月4日から東京・上野公園でトロリーポールを使用した『東京電燈スプレーグ式電車』(鉄軌道の分野ではスプレーグと表記する事がある)が走っているが、内国勧業博覧会開催期間中の限定運行でありサンプル的存在)。ホイール式は1975年(昭和50年)12月の京福電気鉄道嵐山本線・北野線、スライダー式は1978年(昭和53年)10月の京福電気鉄道叡山平坦線・鞍馬線(現・叡山電鉄叡山本線・鞍馬線)を最後に旅客用鉄道で使用する路線はなくなり、現在は乗客を乗せる車両では明治村等の保存用鉄道でのみ用いられている。一方、トロリーバス向けスライダー式は、日本に2路線のみ現存するトロリーバス路線の立山黒部アルペンルート内に含まれる関西電力関電トンネルトロリーバスと立山黒部貫光立山トンネルトロリーバスのみで使用されている。 トロリーポール搭載車両の例 アメリカ合衆国ヤキマバレーインタアーバンの297号電気機関車 ダブルポールを使用する東京市電(1905年) 木製ポールを使用した電気機関車(イリノイ州の鉱山内、1939年) ビューゲルとは、路面電車や鉄道車両の屋根上に設置されて架線にすり板(スライダーシュー)を圧接し、摺動させて集電する装置の一種。架線からの集電システムはその黎明期に様々な方式が考案されたがビューゲルも原型になる物がトロリーポールやパンタグラフの原型になる物と近い時期に使用されている。トロリーポール同様に起源の完全な特定にはさらなる研究が待たれるが、アメリカ起源のトロリーポールに対してドイツ語の名詞であるビューゲル(Bügel=枠)が用いられ主にヨーロッパで発展したシステムである。英語ではボウコレクター(Bow collector=弓形集電子)と呼ばれる。 本体は鉄・軽金属・ステンレス等のパイプで作られており、枠状であり通常は関節を持たない。特殊構造で中途に関節を持つものもあるがパンタグラフやZパンタグラフの様に本体の倒れこみを防ぐ機構は持たず、トロリーポールと同様に架線に接触する角度を変位させて架線高さの変位に追従させる。トロリーポールと違い左右方向には首を振らない。横幅を持たせたすり板(スライダーシュー)の左右端が閉じて曲線を描き、枠と接続しているのが特徴で、その形状から日本では「布団たたき」と呼ばれた。枠の丸みは架線が大きく偏倚した際の復元をスムーズにし、ビューゲルと架線の損傷を防ぐ目的で設けられているが、枠が角形でパンタグラフ同様の集電舟を持つタイプも存在する。 架線にトロリーホイールやスライダーシューをはめ込む様に接触させるトロリーポールと異なり、横幅のあるスライダーシューを架線にすべり接触させる。架線とビューゲルがバウンドして離線が発生しても自動で復旧するので、トロリーポールの様に再び架線に着線させる操作をせずに運転を継続することができる。架線を外れて跳ね上がってしまう事も無いので架線や吊架線の切断事故が起こりにくい。運転中の監視や操作が不要となり、乗務員の負担は軽減されて機関車から路面電車まで幅広く普及した。なんらかのばね装置で架線への圧接力を得ており、てこの原理を応用して架線と接触するすり板(スライダーシュー)部分を作用点とし、 本体の台座への取付け部分の回転軸(てこの支点)と直角(車両の前後進行方向)に一組ずつコイルばねを設置し、本体のてこの支点の上部もしくは下部(てこの力点)に作用させるもの(二宮式)。架線への押し上げ圧力を一定にするため架線の高さを一定に整える必要がある。 本体枠中央部分(てこの力点)と台座をリンク装置を介してシリンダに組み込んだ一組のコイルばねで連結するもの(泰平電鉄機械)。スプリングの力を受ける前後のリンクが進行方向毎に切り替わって架線への押し上げ圧力の変動を軽減している。 本体の台座への取付け部分の回転軸(てこの支点)と同軸上にコイルばねを設置し本体枠下部(てこの力点)にトーションスプリング(ねじりばね)として作用させるもの(明石製作所、東洋電機製造)。巻き数を増やしたスプリングの直径を大きくしてばね定数を低めに設定し、復元力の変動を抑制して押し上げ圧力の変動を軽減している。 などの日本での実用化例が見受けられる。 トロリーポール同様原則的に車両の進行方向に合わせてなびく方向で使用し、逆行時には架線を持ち上げて反転させて使用する。車両を逆行させるだけで架線とスライダーシューの摩擦で自然に反転するが、滑って反転しない場合は引き紐を引いて反転させる。反転する箇所の架線はあらかじめビューゲルによって持ち上げられる事を許容する様に取り付ける必要がある。 世界各国ではより大型で台座ごと進行方向と反対に180°旋回させて反転するタイプも使用され、このタイプは架線を持ち上げずに反転できるが乗務員は必ず下車しての作業となる。また、1基の台座に本体を2基装備して進行方向ごとに上げ下げして使い分けるタイプも存在した。ビューゲルはトロリーポールと異なり、分岐点での架線の付け替えは不要で、乗務員による集電装置の監視も折り返し時の反転以外は基本的に不要になる。 日本では1902年(明治35年)に江之島電氣鐡道(現江ノ島電鉄)、1903年(明治36年)に宮川電氣(後の三重交通神都線)がそれぞれ開業時にドイツのジーメンス・ウント・ハルスケ(現シーメンスAG)製ビューゲルを使用するが、いずれも短期間にとどまり、トロリーポールに交換している。1941年(昭和16年)、広島瓦斯電軌(現広島電鉄)が第二次世界大戦中の灯火管制の一環として(トロリーポール離線時のアーク防止の為)ビューゲルとパンタグラフを試験使用した上で1944年(昭和19年)に全線ビューゲル化した。使用したビューゲルは自社開発した二宮式と称する物で、ビューゲルを短期間に留まらずに継続使用した路線としては日本国内最初のケースとなった。 続いて終戦後、都市部の路面電車で各電機メーカーの試作品の試用が始まり、1949年(昭和24年)1月の横浜市電(横浜市交通局)採用の泰平電鉄機械(現泰平電機)が開発した定圧式ビューゲル集電装置(1948年(昭和23年)8月に開発)が本格採用第一号。以降、他メーカー(明石製作所、東洋電機製造)の競合製品共々架線電圧や電流が低く走行速度の低い路面電車や地方私鉄では普及して長く使用された。 トロリーポールに比較して扱いが格段に簡便になったビューゲルではあったが、以下の欠点もある。 トロリーポールと同様に架線に対して斜めに接触するので、架線の高さが変化すると架線に対するビューゲルの接触角度が変位する。架線を押し上げる圧力の変動が大きく離線しやすい。反転時にも架線とビューゲルがバウンドして離線する事が多い。 離線によってアークが飛び、架線・ビューゲルのすり板(スライダーシュー)共に著しく消耗する。 一般的なタイプは離線の発生を考慮すると集電容量を大きくする事が難しい。 反転時に重い架線を持ち上げるので、パイプで軽量化して製作されているビューゲル本体が破損することがある。 これらの欠点がないパンタグラフが高速車両では主流になった。日本国内の路面電車においても順次Zパンタグラフやパンタグラフに交換されて行き、東京都電荒川線が離線によって起こる瞬間的な停電による冷房装置のインバータ故障防止の為パンタグラフに切り替えたのを最後に標準仕様の機器として使用する路線は無くなり、長崎電気軌道の動態保存車や土佐電気鉄道の貨1形に残っている程度である。 \"Y字型ビューゲル\"の略で、形状がアルファベットの「Y」の字に似ている。 これは、ポール集電から移行する際に、既存のトロリーポールを改造して先端部をY字状に分岐させてトラス構造を形成し、左右に首を振らない様に加工の上でスライダーシューを取り付けたもので、トロリーポール同様に車体前後の屋根上に各1基ずつ装備して進行方向にあわせて前後のYゲルを上げ下げして使用する。新品のビューゲルを購入するのと比較して大幅に低コストとなることから、南海大阪軌道線、静岡鉄道秋葉線などで採用された。静岡鉄道秋葉線ではこのYゲルをさらに改造し、2つ組み合わせて途中に関節を設け、菱枠形のパンタグラフとするという工事も実施している。阪神国道線でも使用されたがこれはY字型をしているが本体の長さも短くほぼ通常型のビューゲル同様の構造を持っており、前後に反転使用するタイプで屋根上に1基装備していた。 Yゲルは現在、日本では無車籍ではあるが、えちぜん鉄道のML6形がこれを備えている。 ビューゲルの一種で導入の推移は前述のYゲルとほとんど同じで、Yゲルもボウコレクターと呼ばれる場合がある。Yゲルとの違いは、既存のトロリーポール2本を平行にならべて先端部にスライダーを取り付けるもので、ポール間の梁は鋼管でトラス構造に接続されている。Yゲル同様トロリーポールの再利用例であるが、採用例は少ない。京阪電鉄や阪急電鉄が昭和初期までおもに無蓋の四軸電動貨車や旧北野線の四軸客車に採用していたが、長くは続かなかった。 鉄道におけるパンタグラフとは、コイルばねの力や空気圧などによって架線に集電舟を押し付け、関節構造または伸縮構造を設けることで、架線高さの変化に追従させる形態の集電装置。近年架空電車線方式における集電装置としては最も一般的に使われている。略してパンタ、またはパンと呼ばれることが多い。 パンタグラフの構造は、大きく分けて4つの部分で構成されており、架線に直接に接触して摺動しながら架線の電力を取込むための集電舟、集電舟が自由に動きながら架線の追従性を良くするための集電舟支え装置、鋼板・アルミ合金・ステンレスパイプのリンクで構成された枠組、パンタグラフ全体を支えて車体に固定するための枠からなっており、集電舟の架線との摺動部分は摺板と呼ばれており、導電性の良く架線に損耗を与えにくいカーボンや銅合金などが使用され、摩耗による定期的な交換を必要とするため、それが容易にできるように、いくつかに分割された構造となっている。 その発明者が誰であったかについては、現在に至るまで明らかとはなっていないが、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道(Baltimore and Ohio Railroad)で1895年(明治25年)、電気機関車に先端に集電用台車を取り付けたひし形の集電装置を使用している。アメリカ・サンフランシスコの対岸、オークランド周辺に路線網を形成していたキー・システム (en:Key System) が1903年(明治36年)の開業時に既に菱枠形パンタグラフを装備した電車を就役させていたことが開業当日に撮影された写真で判明している。 「パンタグラフ」の語源は、製図やフライス加工などで、複製のために用いられる、リンク機構を持つ菱形をつなげた形の道具である、パンタグラフ (Pantograph) に動作が似ていたため採られた名称である。現在では必ずしも菱形のもののみを指すのではなく、他の形状のものも含め、関節構造を備えた屋根上に装備する集電装置の総称となっている。 菱形の最も古典的かつ一般的な構造のもので、その形状と動作が絵を拡大または縮小して描くことのできるパンタグラフ(写図器)に似ていたことから、このタイプの集電装置がパンタグラフと呼ばれるようになった。厳密には菱形(四角形)ではなく、五角形である。一般的には鋼管をトラス構造に組立てたものであるが、一部にラーメン構造のものも見られた。 特に低・中速での追従性能がよく、下枠交差型が普及してもなお、国鉄の在来線電車の大半に採用されるなど架空電車線方式の集電装置の主流を占めていた。しかし、可動部の質量が大きい、高速時の空気抵抗が大きい、といった欠点があり、1990年代以降はシングルアーム型に取って代わられつつある。現在、新造車に装備されるケースはほとんどなくなっている。 日本の鉄道で使用された主な菱形パンタグラフは下記の通り。 国鉄・JR東日本・JR四国制式: 東洋電機製造のものがほとんど。一部機種は私鉄向けも存在し、その私鉄向けはPT系の品番が与えられている PS2形 東洋電機製造C形を1923年(大正12年)に制式化。ばね上昇式で鋼管による上下枠を備え、上枠にX字状のたすき状支柱を取り付けて強度を向上している。従来機種と異なり主軸軸受にボールベアリングを採用し、摩擦軽減とこれに伴う追従性の向上を実現した。 PS10形 1930年(昭和5年)にED16形以降の省制式電気機関車用として鉄道省と東洋電機製造・三菱電機をはじめとする各電機メーカーが共同で設計。基本となったのはウェスティングハウス・エレクトリック社製ED53形・EF51形に装着されていた省形式PS9で、空気圧上昇式で上枠だけではなく下枠にもX字状のたすき状支柱が取り付けられ、強度の向上が図られた。 PS11形 PS10の枠構造を基本として主ばねを4本から2本に減らし、ばね上昇式に変更したもの。省制式電車用として設計され、1932年製造開始のモハ40形などより採用された。 PS12形 基本はPS13形と同じだが、天井管がある。 PS13形 1944年(昭和19年)に工作の簡易化と資材の節約を最優先目的として設計。下枠に鋼板折り曲げ溶接によるラーメン構造を採用し、補強用のたすき状支柱を廃止、横方向の支持棒のみとし、さらには非鉄金属資源節約のためにカーボンスライダーを本格採用した。モハ63形やEF13形などに採用され、主軸軸受を平軸受としたことなどによる追従性の低下はあったが、構造の簡素さもあって取り扱いが容易で性能の低下も想定以下であった。このため、戦後も若干の改良の上でモハ90形試作車まで国鉄電車用標準集電装置として生産が継続した。また、相模鉄道では8000系まで使用された。 PS14形 電車では一応の成功を見たPS13だが、電気機関車用としてはばね上昇式などとの相性が芳しくなかった。そのためPS10を基本に再設計された形式である。EF58形・EF15形に採用。空気圧上昇式。 PS15形 PS14を改良し、集電舟支え装置に平行リンク機構を組み込み、枠の幅を縮小することで追従性の向上と軽量化を図ったもの。EF58形およびEF15形の後期生産グループ、それにEH10形に採用。空気圧上昇式。比較的短期間で生産が終了したため、本形式搭載車の一部は後にこれをPS22Bへ交換している。 PS16形 当初は高速運転を実施する153系(旧91系)用として1957年(昭和32年)に設計され、続く151系(旧20系)用PS16Aで集電舟の追従性改良が施されて一応の完成をみた。ばね上昇式で鋼管溶接構造に回帰し、下枠は支柱付加でM字状のトラス構造となっている。また、上枠もN字形の鋼管溶接構造として軽量化と高速追従性、それに強度の両立を図った。PS13に代わる新性能電車用標準集電装置として国鉄在来線電車全般に細部の仕様変更を重ねつつ約30年にわたって大量採用され、一部の旧形電車にも採用された。交直流用電車の401・421系 - 403・423系初期車にも使用されたが、特高圧絶縁が必要な為パンタグラフ折りたたみ限界を確保すべく、パンタグラフ搭載部分が低屋根になっていた。寒地向け(寒冷地仕様)には耐雪カバーが付けられており、交流車向けなども製造されたため、用途に合わせた接尾辞がある。A形はバネカバーなしまたは簡易カバーの直流用、B形がA形の交流用、J形がA形寒地向け、H形がB形寒地向けである。また、私鉄向けはPT16Bとされている。 PS17形 電気機関車用として、PS16を空気圧上昇式に変更して設計され、1958年(昭和33年)よりED60・61形用として採用が開始され、後継となるPS22系下枠交差式パンタグラフへ切り替わるまで国鉄電気機関車用標準パンタグラフとして多用された。 PS18形 カニ22形用としてPS16を基本に設計。 PS19形 EF30形・EF80形などに採用。PS17を基本に交流対応としたもの。 PS21形 剛体架線を使用する地下鉄線乗り入れ対応車として設計された301系用として、PS16を基本にスライダーシューの舟支え装置部分の設計変更等を行って小ばねの追加を行ったもの。追従性能が優秀であったことから回生制動を行い離線が好ましくなかった201系にも採用されたほか、301系以降の各地下鉄線乗り入れ車にも採用された。 PS23形 中央線高尾以西(折りたたみ高さ3980mm)、身延線(折りたたみ高さ3960mm)などの狭小限界区間対策として、PS16を基本に集電舟の小型化やイコライザーの台枠外への移設などの改良を行い、最小折りたたみ高さを縮小したモデル。 PS24形 PS23の集電舟支え装置にPS21と同様の小ばねを追加して架線追従性能を向上させた改良後継機種。JR東日本在籍の201系電車の分割編成に搭載。 PS26形 PS23を基本に交直流対応とした機種。651系 の他253系でも採用、E351系ではシングルアームパンタグラフ化前に採用。 PS28形 PS16を小型化したもの。209系(但し、500番台後期車はPS33A形、1000番台は203系や207系と同様のPS21形が採用された)、E217系に搭載。 PS29形 PS28をさらに小型化し、交直流に対応した。E501系に搭載。 S-PS58形 予讃線の観音寺駅以西はパンタグラフ折りたたみ高さ制限が中央本線・身延線より更に厳しく(折りたたみ高さ3900mm)PS23形でも入線できない。このために開発された専用のパンタグラフ。7000系、6000系、113系に搭載。 私鉄向け 東洋電機製造: 日本における集電装置製造の最大手として、トップシェアを握る。 A形 ゼネラル・エレクトリック社製パンタグラフの原図を元に1921年に阪神急行電鉄向けとしてデッドコピーしたもの。事実上、国産初の菱枠パンタグラフであったと見られている。ばね上昇・空気圧下降式。B形はこれを小型化し、バネ上昇ヒキヒモ下降式としたものである。 C形 A形を基本に改良を施したもので、戦前の日本国内電気鉄道向けパンタグラフのデファクトスタンダードとして、改良を重ねつつ同社製品の顧客であった南海・京阪・阪和・名鉄などの各社に大量納入された。なお、鉄道省でも上述の通りPS2として初期モデルが制式採用されている。 PT42形 国鉄向けのPS16に対応する、戦後私鉄電車向け菱形パンタグラフのベストセラー。初号機は1955年(昭和30年)に設計された。枠構造が同様のPT44形を含め、近鉄・阪急・京阪・東急・小田急・京王・西武・京成など、大手私鉄各社に大量に採用された。構造面ではPS16に類似するが、下枠がM字状ではなく上枠と同様のN字状となっており、また関節部に横方向の支柱が取り付けられている点、主ばね(上昇ばね)が屋根に対し平行にかけられている点などで異なる。舟体をそのままカーブさせてホーンとするモデルからスタートしたが、後にPT43同様パイプ形ホーンとして軽量化が図られた。 PT43形 PT42系と並ぶ私鉄向けベストセラー。PT42の派生機種の一つで、スライダーから舟体とホーンを分離することで架線追従性と軽量化を実現した。また、架線高の低い路線に対応すべく、最低高が400mmとPT42系に比して50mm低くなっている。PT42と比較して枠構造がPS16により近いが、外観上、PT42と同様に関節部に横方向の支柱が取り付けられている点で異なる(初期には省略されたものがあった)。主ばねはPS16などと同じ斜めがけである。東急・京急・京成・新京成、それに阪急などの各社に採用された。 PT44形 営団3000系用に開発された、上下寸法が小型化された機種である。基本的な構造はS-PS58や、(交流用だが)PS105の私鉄版と言える。寸法が大きく異なるもののPS29も同様である。営団と同じく日比谷線直通用車両を用意した東武と東急が、基本構造や寸法がPT43とほぼ共通のPT44Bを採用したが、それ以降は同線用の後継車が営団車でも従来形、東武車が下枠交差形としており、菱形パンタグラフを採用したほとんどの地下鉄はPT42かPT43で用が足り、採用例は極端に落ち込んだ。1985年頃より、省スペースを求めて東急が多数導入したが、この頃には省スペースという点では下枠交差形がすでに普及しており、選択肢としては魅力に乏しかった。 PT45形 近鉄が1961年(昭和36年)より製造を開始した奈良線820系用としてPT45-Qを採用。縮小車両限界に対応する小型モデルの一つ。 三菱電機: 主として近鉄や南海、神戸電鉄など、自社製機器の納入先各社へウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社とのライセンス契約に基づく、あるいはそれを自社で独自に改良した集電装置を製造販売していた。このため型番は基本的にWH社の番号体系をそのまま踏襲していたが、一部にその体系から外れた型番を与えられた特異な機種も存在した。現在では製造販売から撤退している。 S-514形 大阪電気軌道デボ1000・1300・1400形などに採用された機種。主に-Aというサフィックスを付与されたモデルが納入された。横型碍子を備え、上枠と下枠それぞれにX字状の支柱を備える。戦後も長く重用され、ク1560形を電装して近鉄初の高性能試作車であるモ1450形へ改造した際にもS-514-DCが搭載されている。 S-516形 S-514系の後継機種として近鉄モ2250形前期車などに採用。軽量化などに留意した設計となっている。 S-520形 S-516形の改良型。近鉄モ2250形後期グループに採用された。 S-710形 大阪線以上に車両限界の制約が厳しい近鉄奈良線や神戸電鉄向け車両に標準採用された機種。横型碍子の採用はS-514・516系と同様であるが、枠寸法が縮小され、また構造も簡素化されている。伊予鉄道100形101-104、200形にS-710-B、105-106と300形304にS-710-CCを採用。 S-750形 近鉄が奈良線モ800形用としてS-750-DCを採用した。 S-752形 神戸電気鉄道デ300形,長野電鉄2000系,1100系にS-752-Aを採用。N字状の上枠とM字状の下枠を組み合わせた構造で、横方向の支持棒を持たない。前後方向の横型碍子を備える。 P-900-A形 阪和(モタ300・モヨ100形)・東横・目黒蒲田(デハ510形の一部)などに採用。横型碍子で支持され、幅の広いスライダーシューを備える、ヨーロッパ風の空気圧上昇式大型パンタグラフ。Sで始まる型番を付与される通常の三菱電機製パンタグラフとは異なる番号体系に属する製品であり、愛好者の間では古くからスイス・ブラウンボベリ社(Brown Boveri & Co. Ltd: BBC社)からのOEM品であったと伝えられているが、その出自は未だ謎である。 日立製作所: 同社製私鉄用電気機関車、相鉄、京王、東武の戦前型などでの採用が多いが、採用後早期に東洋製に切替えている事業者がほとんどである。 K-100形 相鉄、京王などが採用した。東武に納入していた機種より小型化されている。台枠の上下に碍子が配置され、下枠はPS13の支柱を撤去したようなもの、ほかは後述のPG16に似る。横剛性が乏しかったと見られ、相鉄、京王とも初期車のみの採用で、以降PS13に交換されている。 K-110形 伊予鉄道300形303にK-110Cを採用。 東芝: 電装品一式が同社製の車両への採用が見られた。2014年現在は阪急や地方向けの部品保守程度に縮小されている。 PG16形 東急旧5000系から東急旧6000系B編成まで採用され、地方譲渡時に各地へ渡った。外観は東洋のPT35やPT42に似ている。 PG18形 阪急のうち、3000系前後までで電装品が東芝の車両が採用。外観は東洋の電装品を装備した同3300系等に類似しつつ、PS23のようにリンク機構が台枠の外に移動されている。譲渡車である(能勢電)1500系、1700系も装備している。 工進精工所: 西武への納品が多かった。N700系新幹線や新京成8900形電車、JR貨物EF200形電気機関車用のシングルアームパンタグラフの納入実績がある KP62形 長期に亘り西武が採用した形式。PS16かPT43のどちらかによく似た機種である。同社ではシングルアームパンタグラフ化が進んでいる中、3000系は廃車まで交換されなかった。 菱形の下枠を交差させることで、作用高さを損なうことなく(集電舟の可動範囲を狭めることなく)上枠を小型化でき、それによる軽量化で架線追従性の向上を図ったもの。 1962年(昭和37年)に新幹線1000形電車で採用された試作型PS9009での試験を経て、1964年(昭和39年)に新幹線0系電車においてPS200形が量産形されて採用された。在来線用では、同じく1962年にED30形(2代目)でPS20形が採用され、1968年(昭和43年)には、日本海縦貫線用のEF81形や、函館本線用のED76形500番台、711系電車など、豪雪・積雪地域から本格的に採用が始まった。他の国鉄電気機関車各形式も増備途中から下枠交差式に変更され、在来車の保守、交換用としても普及したが、電車での採用は北海道地区のみに留まった。 新幹線は、最初からパンタグラフを軽量化することを前提に、架線の方でも対応している。その後の新幹線電車では、パンタ台を架線に近づけることでさらにパンタグラフ全体を小型化し、上昇用バネやカギ外しシリンダ、平衡リンク(イコライザ)等の台枠部分にある機器類全てを流線型のカバー内部に収容することによって空気抵抗と風切り音を減少させている。 私鉄車両では、従来の菱形と比較し、小型化による軽量化、空気抵抗減少、省スペース性から注目された。また、冷房装置などの搭載により屋根上搭載機器の増加した新世代の鉄道車両に適合したため、シングルアーム形が主流となるまでは主に関西私鉄(阪急電鉄、阪神電気鉄道、近畿日本鉄道、京阪電気鉄道、南海電気鉄道)、東武鉄道、西日本旅客鉄道(JR西日本)が積極的に採用。 一方で、製造コスト増を忌避し採用しなかった鉄道事業者(東京急行電鉄、京王電鉄や名古屋鉄道等)も多い。 ただ、1990年代以降に、より構造の簡便なシングルアーム形が登場したことで、上記の阪急、阪神、近鉄、南海、JR西日本など下枠交差型を採用してきた鉄道事業者においても、2000年代中頃以降、シングルアーム形が採用されるようになっているが、京阪は現在も下枠交差型が主流となっている(2012年より製造がされている最新の13000系も下枠交差型を採用)。 韓国では、通勤形電車および地下鉄は例外等なく全て下枠交差形を採用している。 呼び名や外観は違うが、基本原理はどちらも全く同じもの。「脚型」と呼ぶ国もある。日本でこのタイプが高速車両に普及していなかった頃は、欧州同様「Zパンタ」と呼ばれていた。 メインビームは横から見ると「く」の字形をしており、ほかに集電舟の平衡とパンタグラフ全体の変形を防ぐリンクを持つ。摺動抵抗となる関節を減らし、枠の軽量化と高剛性化を両立し、高速時の架線追従性を向上させたもの。受風しにくく、着雪面積が小さい点も有利とされ、実際に降雪地域(特に日本海側の豪雪地帯)では離線防止の目的で換装する例もある。 シングルアームパンタグラフは1955年(昭和30年)にフランスの大手鉄道用機器メーカーであるフェブレー社 (Faiveley S.A.) が開発し、特許を取得した。このため欧州では、路面電車から高速車両まで幅広く普及しており、特に高速化に熱心なフランス国鉄では1960年代後半以降標準的に採用されている。イタリア国鉄や西ドイツ国鉄の車両も、フランスへ乗り入れるものは架線高さの問題もあって、古くからシングルアームパンタグラフが採用されていた。 アメリカ合衆国においては、東海岸の都市部に路線をもっていたペンシルバニア鉄道の高速電車「メトロライナー」(1969年運用開始)に使われ、同社の電気機関車にも採用例があった。同社の旅客輸送および路線を引き継いだアムトラックでも最初の新車となったE60形電気機関車(英語版)以来最新のACS-64形まで、高速列車のアセラ・エクスプレスを含めて電車・電気機関車において一貫して採用されている。 日本では、1955年(昭和30年)に路面電車用ビューゲル製造の大手であった泰平電鉄機械(現・泰平電機)が開発したZパンタグラフが路面電車各社局で使われた。これは、ビューゲルの枠を関節構造とし、リンク装置を設けて本体の倒れ込みを防止している。形状はビューゲルに類似しているが、構造上はパンタグラフの仲間である。スライダーシューが架線を押し上げる力の方向を垂直に近づけて架線の高さの変位に対する押し上げ圧力の変動を減少させたので、ビューゲルの欠点である頻発していた離線が大幅に減少した。車両の方向変換の際の反転操作も不要になり、付随する問題点を解決した。スライダーシューの平衡装置(イコライザー)を持たず、高速運転にも対応していないため、欧州型車両の「Z型パンタグラフ」とは異なる。 一方、高速電車用では、1971年(昭和46年)にフェブレー社製シングルアームパンタグラフの純正品が京阪電気鉄道で2000系に装着して試用されたが採用には至らず、これが高速電車や機関車で一般化したのは、同社の特許保護期間が終了し日本国内メーカーによる製造に制約が無くなった1980年代末以降である。日本で初めて本格的に採用した車両は1990年3月より営業運転を開始した大阪市交通局70系電車である。 集電舟を支持する上枠は逆三角形で、前から見るとY字型をしたものが多かったが、近年さらに簡略化が進み、上枠、下枠とも1本の鋼管で済ませ、前後視ではT字型の形状のものが現れている。新幹線に採用されたタイプは、上枠、下枠が中空構造のパイプとなっており、中に平衡リンクを通すことによって外部に露出する構造物を最小限として、空気抵抗と風切り音の低減化を図っている。慣例で「枠」と呼んでいるが、すでに枠構造を持っておらず、当然、従来型パンタグラフのようなトラス構造にもなっていない。このタイプは、架線高さの上下に対応できる範囲が大きく、最低有効作用高や、折畳み高さが低い点は、地下鉄や狭小トンネルでは特に有利となるため、速度域がそれほど高くない日本では、高速性能より、この面の有用性が重視されている。 さらに、部品点数が少ないため、製造、保守コストともに安価であることから近年主流になりつつあり、コストメリットのため、事業者によっては、従来からの保有車両に取付けられていた菱形や下枠交差型のパンタグラフを全面的にこれに換装してしまうケースが見られるようになっている。 折りたたみ時の屋上の占有面積が菱形パンタグラフと比べ少なく済む事から、屋上に配置する空調やその他各種機器の配列の自由度が増す他、屋根上重量の軽減にも寄与する。近年路面電車で主流となりつつある超低床電車では、主要機器を床下に配置できないことから、占有面積も少なく軽いシングルアームパンタグラフが屋上の機器の配置がし易くなり、煩雑さを低減させている。 新幹線でも近年はシングルアームパンタグラフの採用例が増えている。新幹線の場合は架線への追随性のみならず、高速走行時に発生する「風切り音」の軽減に主力が置かれている。現在新幹線で主力となっているシングルアーム型は、通常露出しているイコライザーアームが全て中空構造となっている枠の中に収められ、側面から見ると完全な「く」の字型の一本アームとなっている。更にホーン部分に小さい穴を設けることにより、パンタグラフ自体から発生する風切り音を軽減している(後述の通り)。碍子とパンタグラフ基部を覆う車体前後に設けられたスロープ状のパンタグラフカバーと、側面の遮音版によって風切り音を抑える形態が騒音対策、空力抵抗軽減の主流であるが、近年はJR九州800系やJR東日本E2系1000番台の様に、碍子及びパンタグラフ基部に空力的な処理を施し、パンタグラフカバーそのものを廃しているケースもある。新幹線の場合はかつてはパンタグラフカバーによって騒音を低減するという考え方が主流だったが、カバー自体が騒音の元となることが、JR東海の955形\"300X\"で試用された「ワイングラス型」タイプや、JR東日本の952形・953形\"STAR21\"、JR西日本500系900番台\"WIN350\"といった高速試験車、そしてJR総研での風洞実験等で蓄積されたデータによって突き止められてきたことから、現在はカバーに頼ることなくパンタグラフ自体で騒音を軽減するという思想が主流となっている。 その後N700系の様に、シングルアーム型の下枠を極端に短くし、基部ともに流線型のカバーに納めたもの(この場合は遮音板とスロープ状カバーを組み合わせている)や、JR東日本のE954形\"FASTECH360\"で試用された、関節の無い完全シングルアーム(実際は下枠が極端に短く、カバーに覆われている)のタイプが登場する等、空力と騒音対策の試行錯誤が続いている。 岡山電気軌道の第六代社長であった石津龍輔が1951年に考案した独自のパンタグラフで、社名から「岡電式」「岡軌式」とも呼ばれる。 通常のパンタグラフのように空気圧やバネの力で架線に追従させるのではなく、パンタグラフ下枠を主軸や台枠よりもさらに下に延長し、その下部に下枠交差式パンタグラフを上下ひっくり返したような小型のパンタグラフ機構を形成してその直下に錘をつり下げ、その重力による降下で得られた力でパンタグラフを押し上げ、架線に追随させるものである。 構造上、錘のための小型パンタグラフ機構が台枠の下に組み込まれていることから台枠を屋根上に碍子を介して直接固定することができず、800mm前後の高さの櫓を組んでそこに錘のための機構部を格納し(過去にはこの両側面に広告板を取り付けて運行された例もあった)、その上に台枠を置く必要がある。 枠構造の平衡維持のための機構が備わっておらず高速走行での追随性に難があり、離線も発生しやすいため、路面電車のような低速で走る車両にしか適さないが、ばねも空気配管も不要で保守しやすい長所を持つ。 その開発以来現在に至るまで、岡山電気軌道のみ(9200型「MOMO」を除く)が採用している。 なお、構造は異なるが、過去には草軽電気鉄道でやはり錘を上昇に用いる特異な形状のパンタグラフが使用されていた。 関節構造を用いず、構造体(チューブ、ケース)の伸縮によって架線に追従させる構造となっており、前後視ではT字型、側面視ではI型に見え、使用時は屋根上に直立する形となる。関節構造を持たないため、正しくはパンタグラフの仲間ではない。 高速走行時の乱流による風切り騒音防止のため、音もなく滑空できるフクロウの羽根の構造を手本に開発された凸モールドがアウターチューブの表面にある(これはボルテックスジェネレータの一種である)。JR西日本の新幹線500系電車のみに採用されていた。 これに用いられているダンパーは、F1用ショックアブソーバーの製作で300km/h以上でのデータとノウハウを数多く持つ、ショーワに依頼された。 長所としては可動部分がシンプルで軽量、且つ風切り騒音の低減に有利であることで挙げられるが、欠点としては製造維持コストが高いことと、構造上あまり大きく伸縮させることができないため、 架線高さの変動幅の大きな在来線では使用できないことがあげられる。 また、後年にシングルアーム型で安価で高性能な新幹線用パンタグラフが開発されたため、500系を開発したJR西日本においてもその後の新型新幹線車両では翼型パンタグラフは採用されておらず、「こだま」に転用改造された500系でも組成変更に伴う移設の際車体の切り欠き加工が必須(アルミハニカム構体への穴あけ加工は大きく強度を落とす)ことから移設はされず、シングルアームパンタグラフに換装されている。最後まで翼型パンタグラフを備えたW1編成は2014年3月28日に廃車されたため、翼型パンタグラフは消滅した。 集電装置の基本をなす部品。鋼管を使用し、上枠と下枠からなる。高速時の離線を抑えるため、軽量であることと、十分な剛性と強度を持つことが必要となる。200 km/hを超える条件下で使用されるものは、空力も重要な設計用件となる。 パンタグラフが架線と接触する部分をスライダー(すり板、摺り板)または集電舟と呼ぶが、このスライダーは架線との接触状態を保った状態で走行するため、走行中は常に摩擦された状態になる。したがって使用しているうちに摩耗してくるので、定期的な交換が必要である。 スライダーの材質はカーボン(グラファイト)や銅系の焼結合金が主流であり、特性に応じて使い分けられている。一般的にカーボンすり板は離線によるアークに強く、金属すり板は伝導率が良いために大電流を流しやすい。そのほかの材質として、摩耗を少なくするために鉄系の焼結合金にしたり、銅系の合金に油脂や二硫化モリブデンなどの潤滑剤を混ぜて造ることもある。ただし、スライダーに摩耗の少ない材料を使用する場合、架線の摩耗が早くなることを考慮する必要がある。 また、スライダーの磨耗点が一点に集中することを防ぐため、一般にパンタグラフ集電の路線においては直線部分の架線は緩いジグザグ状に張られている。 通常スライダーは菱形・シングルアーム形共に2枚付いている事が多いが、新幹線では騒音防止のため1枚に減らされた。また第二次世界大戦前後の一部の電車でも1枚のものがあった。路面電車の菱形パンタグラフでは1枚であることが多い。 架線と接触する部分をローラーとして回転する形態となっているもので、接触部の磨耗を抑制する狙いがある。 日本では1914年(大正3年)に鉄道院デハ6340系電車に採用されたが、重量が過大で高速運転時に離線トラブルを起こしがち(架線追随性が悪く、度々アーク放電を起こして架線を断線させた他、軌道の状況が悪い区間ではパンタグラフが激しく上下動してタンピングを引き起こしていた)で、開業記念運転時に運転不能になるという致命的トラブルを起こしたことから、電車の運行を中止し、通常のシュー式に改造するという事態に陥った。低速での運行を行う坑内軌道ではその後も一部で用いられた。 新幹線E5系及びE6系にて採用されたもの。スライダー自体を分割し、それぞれにスプリングを組み込んだもの。これによって追従性が格段に向上し、運転時の集電装置使用数を1つに削減することに成功した。 スライダー両端の湾曲した部分で、ホーンとは角(つの)意味。架線の障害(通常走行時では分岐器等によって架線が交差する部分等)で偏倚が極端に大きくなった場合など、万一の際に集電装置の復元を助け、逸脱を防ぐ。車両やパンタグラフの形式によって、先端が一本のもの、二本のもの、先端が一本にまとまったY型など、形状も様々である。菱形パンタグラフは、日本では登場当初より長らくスライダーそのものがホーンとなっていて、これを平形ないしは船形と呼ぶ。その後私鉄ではPT43(一部例外あり)やPT44、国鉄ではPS21でスライダーとは別にホーンパイプが設けられ、スライダーそのものは集電に徹するようになっている。これによってスライダーが短縮され、その分軽量化に寄与している。現在、ホーンの先端には蛍光色のペイントもしくはテープの巻き付けが広く行われるようになっている。 新幹線用では、波線状に多数の長穴が開けられており、穴の中を抜ける気流により、カルマン渦を小さくし、高速時の「エオルス音(鈍音)」の発生を抑えている。 パンタグラフのイコライザーは、走行時に架線との間に働く摩擦力による、枠とスライダーの傾きを防ぐ平衡装置である。 留置時など、集電装置がばねの力で跳ね上がらないようにするためのフック状の留め金。 車両と集電装置の間に位置し、絶縁用に使われる部品。 交流用など電圧の高い場合は絶縁間隔確保のために段数が増え、海底トンネルや風の強い沿岸部で使われる場合、塩害を防ぐため、さらにシリコン系の絶縁材を塗布する場合がある。 通常は屋根上と集電装置の台枠の間に垂直に挿入して絶縁間隔を確保するが、トンネルなどの断面形状が小さく車両限界に制約がある場合には、碍子を横倒しに配置して台枠高さを可能な限り引き下げる例が近畿日本鉄道などで見られる。 既述のとおり、新幹線車輌によっては、碍子自体に空力的な形状処理を施し、騒音の軽減を図った碍子を採用するケースが増えている。 碍子の形状は風洞実験によって決定され、車輌の外観上のアクセントともなっている。 寒期に車上の集電装置を使用し架線に付着した霜や氷などを掻き取るものを「霜取り用」「除霜用」と称する。集電機能を持たない霜取り専用のものある。また、霜による離線の際に発生するアークを防止する目的でパンタグラフを2台化する場合や、走行方向の関係から霜取り作業用として増設したパンタグラフで集電しながら既設のパンタグラフで霜取りをする場合もある。 集電装置の少ない車両での架線着霜時のスパークの例: ニコニコ動画より 通過動画(見難い場合はコメント非表示推奨)。この車両はJR西日本加古川線の103系電車で、霜取りパンタを装備しておらず、集電用パンタグラフも一基のみである。 日本では新交通システムを除く一般鉄道で実用化されなかったが、ヨーロッパの一部では架空線の三相交流電化が行われている。ポール集電におけるダブルポール同様に架線を並行して2本張り、集電装置は横に2基を並べて集電を行う方式と、1基の集電装置に電気的に独立した2つの集電舟を左右に並べて装備する方式があるほか、初期の三相交流電化では架線を縦に3本張り、集電装置も縦に3機を並べて集電を行う方式も存在した。 日本ではパンタグラフは現在、東洋電機製造と工進精工所で製造されている(ただし、工進精工所製はかなりの数がJR各社への納入)。 かつては日立製作所、東芝、三菱電機、富士電機でも製造されていた。このうち日立製は相模鉄道、東芝製は阪急電鉄(神宝線管内のみ)、三菱電機製は神戸電鉄、富士電機製は山陽電気鉄道などで使用されていたが、いずれの会社も車両の経年廃車、パンタグラフ自体の更新などにより、現在は少数の車両を除き使われていない。 パンタグラフの押上力は、摺り板の磨耗や架線への追従性を考慮して静止状態で50N(およそ5kgf)以下であり、湿った雪が積もった程度でも離線してしまうほどである。 架空電車線方式では集電装置の高さと架線との高さ(建築限界・車両限界)などが異なる区間を走行する場合もままありうる。そういった区間を走行する場合には、通例高さが低い方に合わせる。これは他社の郊外路線と直通する地下鉄などが当てはまる。日本の旧国鉄では、電化工事の際、工期短縮と工費節減を目的として、明治時代に建設された設備(主にトンネル)を、大規模な改修を行わずにそのまま使用した箇所があり、これらの限界が他の線区より狭い。中央本線の高尾 - 中津川の山岳区間、篠ノ井線、私鉄を国有化した路線である身延線、民営化後に電化された予讃線の愛媛県内などの線区が知られている。飯田線も戦時買収私鉄であるが、この事例には該当しない。 国鉄時代、これらの「狭小トンネル」区間に使用または直通する車両は、パンタグラフの折りたたみ時に架線との一定の距離を保つため、その時の高さを通常より低くすること(国鉄の通常の直流区間向け車両では軌道上面から4,000 mm以上。中央本線は3,980 mm。身延線は3,960 mm。予讃線は3,900 mm)や、電気保安装置である避雷器など周辺装置、屋根上のヘッドライトなどの移設を行うことが求められ、既存車の改造や、既系列の新車を設計変更することで対応していた。特に移設装置で目立つものが避雷器であったことから、これらは避雷器移設工事車両といわれた。またパンタグラフ部の屋根を切り欠いて設置位置を低くしたものを低屋根車両と称する場合もあり、特に中央本線向けの車両は、勾配用に低められた電動車の歯数比との組み合わせで「山用電車」と呼ばれることもあった。これらの仕様は42系・71系・72系・80系・101系・115系・165系・JR東海211系などに見られ、72系以降の該当車両には主に800番台などの番台区分がなされている。 しかし、元々重心を下げる目的で全高を抑えた設計の特急形電車や、国鉄民営化後に該当路線に投入された車両は、低屋根車両とは呼ばれない。また、交流形電車・交直流電車については、20,000 Vの特高圧電流を使用する交流電化区間でその保安上、架線およびパンタグラフの基部を直流区間の場合よりも高い位置に取る必要がある事、あわせて関連機器を屋根上にも装備するためのスペースを確保しなければならない事から、元より前述の低屋根に近い設計がなされている。このことから前述の低屋根車両には該当しない。 中央本線については、最低作用高さと折りたたみ高さを低減したパンタグラフ(PS23形・PS24形、シングルアームのPS35形)が開発され、既存または新規の全高の高い車両もこれらのパンタグラフを搭載することでパンタグラフ降下時に架線との距離をクリアすることが可能になり、低屋根車両を製造する必要性がなくなった(対応車両は車番の前に◆のマークが付けられた)。それ以前に製造された低屋根車両は経年廃車が進み、数が減少している。ただし、身延線ではこれでも通れないため、パンタグラフ取り付け部を20 mm下げた専用の低屋根車両(115系2600番台電車)が製造された。なお、JR東海の現在の新型車(373系・313系)は改良型シングルアーム(C-PS27A形)を装着するなど、身延線を走行することを想定した屋根高さで設計されている。 予讃線の場合はさらに条件が悪いため、特別仕様のパンタグラフ(S-PS58形、S-PS59形)を装備し、新造車では屋根全体を低めている。 第三軌条方式とは、軌道と並行して設置される電気供給用のレール(第三軌条と呼ばれる)から集電する集電方式である。 この方式では、台車の外側に取り付けられた集電装置(集電靴(しゅうでんか、英: contact shoe。日本語では「コレクターシュー」と称する)によって第三軌条から集電する方法が一般的である。架線と異なり柔軟性がないため、高速運転には不向きである(日本での第三軌条区間最高速路線は近鉄けいはんな線の95km/h)。イギリスのユーロスター走行区間では160km/h運転を行っているが、フランス国内の区間との速度差が大きいこともあり、架空線方式の高速新線 (CTRL) に順次切り替えられている。 日本では主に地下鉄事業者に採用され、それ以外の事業者では北大阪急行電鉄と近鉄けいはんな線のみ地上区間での採用となっている。これらの路線は、大阪市営地下鉄御堂筋線や中央線に相互直通運転するため第三軌条方式を採用している。かつては信越本線の横川 - 軽井沢間の碓氷峠のアプト区間でも一時期採用されていた(なお、同区間は日本で最初の幹線電化区間である)。営業路線以外では、鹿児島県いちき串木野市にある金山跡を活用した観光施設「薩摩金山蔵」において、この方式を採用したかつての専用軌道が観光用として運行されている。 路面電車で第三軌条を使用する地表集電方式の事例がある。 アルストムの子会社であるINNORAILが開発したAlimemtation par le Sol (APS)が、ボルドーの路面電車で使用されている。これは、軌道中央に給電用のレールを敷設し、車両側に取り付けられた集電靴で集電するシステムだが、そのままでは歩行者が集電レールを踏むと感電してしまう。そこで8mの集電セグメントと2mの絶縁セグメントに集電区間を区切り、絶縁セグメントの前後の給電セグメントを給電ボックスで区切って敷設し、車体側に取り付けた設置アンテナから信号を送ることにより、給電セグメントのON/OFFを走行しながら繰り返す、これにより、電流が流れている区間を電車と共に移動させ、感電を防いでいる。建設コストが架空線方式よりも割高になるが、架線によって都市景観が損なわれないため、ボルドーでは景観保護を重点的にしている区間をAPSシステムとしている。今後はフランスのランス、アンジェ、オルレアンB線がこの方式を採用することを決定している。 APS以外の地表集電方式として「コンデュイット方式」がボルドー、ロンドン、ニューヨーク等の路面電車で採用されていた。これは地中に埋設した給電線から、車体側に取り付けられた「脚」に取り付けられた集電靴で集電するものであった。この方式は、地面を60cm程度掘削する必要があり、保守にも手間が掛かる等様々な問題点があったことから、現在までに路線は全て廃止されている。現在ロンドンの鉄道博物館にこのシステムの解説が展示され、ボルドーには当時の車両が保存されている。 ロンドン地下鉄では、世界でも非常に珍しい「四軌条方式」(Four-rails system) を採用している。通常配置の第三軌条には直流+420 V、走行用レールの間に置かれた「第四軌条」(Fourth Rail) には直流-210 Vがそれぞれ印加されており、トータルで630 Vを得る仕組みとなっている。 ^ 交流→直流変換系の機器を制御・付随車に集約搭載した国鉄781系やJR西日本681系がある。 ^ 架線に対して水平(角度は0°)の時に押し上げる力は最大で、角度が付くに従って押し上げる力が減少し、90°になるとゼロになる。 ^ 花巻電鉄の軌道線では配電用の電柱をそのまま利用して架線を張っていたので架線の吊架線の間隔が広く、架線のたるみや曲線部分での偏倚や折れ曲がりが多かった。世界各国ではポルトガルのリスボン市電が広い道路上ではZパンタグラフを使用し、急勾配と急曲線が連続して架線の設置状況が厳しい旧市街地を走る路線でのみトロリーポールを使用している。 ^ 吉川文夫吉川文夫『路面電車の技術と歩み』136-137頁。アメリカ西海岸に最盛期の1926年(大正15年)に約1870kmの軌道延長を持ち、路線を縮小しながら1961年(昭和36年)まで運行していたパシフィック・エレクトリック・レイルウエイ(Pacific Electric Railway)で2~3両以上を連結してポールカーが走っていた。 ^ 中田安治『路面電車 -消えゆく市民の足-』121-122頁。自動車に対抗して開発された当時の最新鋭車両。 ^ 1911年(明治44年)10月に名古屋電気鉄道で、軌道からの漏洩電流により電話ケーブル鉛管が腐食し、一時通話障害が発生した。 ^ 車体中央に屋根が無い電動無蓋貨車などでは屋根の中央に相当する場所に前後の運転室屋根から梁を渡すか、床から柱を立てて取り付けてあるケースもある。 ^ 依田幸一『チンチン電車始末記 横浜を走った70年』94-95頁、268頁。トロリーコードをつかんでトロリーポールを操作していた乗務員がばねの反力で持ち上げられ宙吊りになるトラブルが頻発し、落下事故も発生した。 ^ a b 京福電鉄叡山本線・鞍馬線はホイール式トロリーポール使用で開業しているが、1970年(昭和45年)の京阪電鉄京津・石山坂本線のパンタグラフ化時に不要となったスライダー式トロリーポールを譲受して切り替えていた。 ^ 石本祐吉「路面電車の集電装置について」80頁。1899年(明治32年)スイスの三相交流電気機関車が大型の下枠付きビューゲルを装備している。 ^ 枠状の物。乗馬用の鐙(あぶみ)やメガネのフレーム、医療用の矯正具等もビューゲルである。 ^ 東京都電の巣鴨車庫では架線が出入庫線を覆う屋根に取り付けてあったため該当箇所では反転不能だった。巣鴨車庫ではZパンタグラフ装備の車両を配備して屋根下で逆行する運用に備え、ビューゲル装備車両は屋根下を避けて反転した。 ^ アムステルダム、ウィーン、ローマ他多数の都市での使用例がある。 ^ 吉川文夫『路面電車の技術と歩み』168頁。パンタグラフは白島線用車両に使用。 ^ その一方で西鉄軌道線や叡山電鉄(京福電鉄時代)のように、トロリーポールからビューゲルを経ずに直接パンタグラフに交換したケースもある。 ^ 吉川文夫『路面電車の技術と歩み』144頁。浜甲子園に停車中の205がこのYゲルを装備している。 ^ 東京出版企画社『チンチン電車80年』102頁。京阪電鉄901(のち1947年(昭和22年)に京阪京津線20形に車体更新改造)が1937年(昭和12年)にボウコレクターを装備している。 ^ 石本祐吉「路面電車の集電装置について」81頁。剛体架線の上の台車から集電する。 ^ その後、1936年(昭和11年)のベイブリッジ完成に伴い、1939年(昭和14年)よりサンフランシスコ市内のトランスベイ・ターミナルへの乗り入れを開始した。1958年(昭和33年)全廃。 ^ これは吉野鉄道が電化時にBBC社から輸入した1形電気機関車に装着されていた同社製パンタグラフと酷似した構造であることが一因と見られる。 ^ 3000系(2代)および大津線用車両を除く。 ^ 当初菱形を搭載して製造された6000系や7000系・7100系1次車が冷房化改造の際に下枠交差型に換装されている。 ^ 207系、221系、223系(9000番台を除く)、281系、321系、681系、683系(4000番台を除く。改造形式の289系を含む)等が該当。国鉄形車両は菱形のままであるが、443系の検測用パンタグラフには採用されている。また、103系体質改善試作車では一時期下枠交差型を使用していた。 ^ 総合高速検測車クヤ900形(DAX)の検測用パンタグラフには採用されている。 ^ 日本と欧米では架線事故が発生した時に、架線と集電装置のどちらの保護を優先するかの違い(日本:架線優先、欧米:集電装置優先)がある事も採用を遅らせる要因となったとされている。 ^ JR北海道では711系電車以来、下枠交差式が主流だったのが2000年代以降に入って一挙にシングルアームへの置き換えが進められた。 ^ トロリーポール集電の場合には直線状に張られるため、ポールからパンタへの集電装置の変更に当たっては、支持金具の変更と共に、架線の吊架方法そのものも変更する必要がある。 ^ 1980年(昭和55年)時点でも三井石炭鉱業芦別鉱業所、三井串木野鉱山、明延鉱業「白金号」の事例が見られた。 ^ 能勢電鉄1700系(元阪急2000系)、3100系(同3100系)も該当。なお阪急5000系は2度目の更新時に東洋電機製造のシングルアーム式に交換された。 ^ 谷川 一巳・西村慶明・水野良太郎『路面電車の基礎知識』〈イカロスムック〉イカロス出版、1999年、179頁。 ^ 『明治工業史 電気編』 1928年、388頁(復刻 原書房、1995年)。 ^ 石本祐吉「路面電車の集電装置について」『鉄道ピクトリアル-臨時増刊号 』通巻第688号、2000年、82頁。 ^ 吉川文夫『日本のトロリーバス』電気車研究会、1994年、148-151頁。 ^ 宮本政幸『新しいトロリーバス』鉄道図書刊行会、1957年、87-91頁。 ^ 吉川文夫『路面電車の技術と歩み』グランプリ出版、2003年、16-20頁。 ^ 中田安治『路面電車 -消えゆく市民の足-』〈カラーブックス264〉、保育社、1977年、139-140頁。 ^ 原口隆行『日本の路面電車I-現役路線編-』〈JTBキャンブックス〉JTB、2000年、82-83頁。 ^ 石本祐吉「路面電車の集電装置について」『鉄道ピクトリアル-臨時増刊号 』通巻第688号、2000年、82頁。 ^ 宮田道一・関田克孝『ありし日の玉電』〈RM LIBRARY 15〉 ネコ・パブリッシング 、2000年、16頁。 ^ 東京出版企画社『チンチン電車80年』立風書房、1979年、122-123頁。 ^ 岡田誠一・澤内一晃『横浜市電(下)戦後の歴史とその車両』ネコ・パブリッシング、2009年、23頁。 ^ 岩成政和「電車とともに八十余年 江本廣一氏インタビュー」『鉄道ピクトリアル-別冊 路面電車の時代-』〈アーカイブスセレクション12 〉、鉄道図書刊行会、2007年、12-13頁。 ^ 東洋電機技報第108号2001年9月『日本におけるパンタグラフの歴史と東洋電機1-東洋電機製造』(Webページ、PDFファイルで掲載)2012年6月8日閲覧。 ^ 湘南倶楽部『江ノ電-なつかしの電車名鑑』JTB、2003年。 ^ 高松吉太郎『写真でつづる日本路面電車変遷史』鉄道図書刊行会、1978年、57頁。 ^ 和久田康雄『日本の市内電車 -1895 - 1945-』成山堂書店、2009年、26頁。 ^ 依田幸一『チンチン電車始末記 横浜を走った70年』かなしん出版、1988年、296-298頁。 ^ 江本廣一『都電車両総覧』大正出版、1999年、106-107頁。 ^ 東武博物館学芸課『なつかしの日光軌道』、2010年、23頁。 ^ 谷川 一巳・西村慶明・水野良太郎『路面電車の基礎知識』84頁。 ^ 吉川文夫・花上嘉成『静岡鉄道秋葉線 ―石松電車始末記―』〈RM LIBRARY18〉ネコ・パブリッシング、2001年、39頁。 ^ 京福福井『はーさんの思い出の鉄道、40年前の鉄道風景』2010年5月11日更新 ^ 電化開業前のED75 501、の試験や、711系の試作車には菱形パンタグラフが使われていたが、電化開業を機にこれらもPS102系列(機関車がPS102A形、電車がPS102B形。)に統一された。 ^ 清水祥史『京阪電車』JTBパブリッシング、2017年、p.61 ^ 「オレンジバーミリオンを見守るもりのみや」『鉄道ジャーナル』通巻570号、2014年4月、鉄道ジャーナル社、p.50 ^ 特集 長寿命化技術 > 材料 > パンタグラフすり板の摩耗を低減する(PDF) - 鉄道総合技術研究所 RRR Vol.71 No.2(2014年2月 / 2016年1月6日閲覧) ^ 『レールガイ別冊 知られざるナローたち』丸善出版、1981年。 離線 架線 3次元構造に対応した架線・パンタグラフ運動シミュレーション - 鉄道総合技術研究所・RRR(2015.12 Vol.72 No.12/2016年1月24日閲覧)", "フートゴング(Foot Gong)とは、路面電車が走行するとき周囲の人や車に注意を促すために鳴らす鐘である。フットゴング、警鈴(けいりん)とも呼ばれる。 フートゴングは、電車の床下に取り付けられており、運転席の足踏みペダルを踏むことによって鳴らすことができる。これによって車外へ向けて音を鳴らし、警笛とほぼ同じ役割を果たしている。 これの音と、車内で車掌と運転手が合図を送りあうための鐘の音の両者が、路面電車の俗称である「チンチン電車」のもとになったと言われている。 かつては日本の多くの路面電車に装備されていた。明治期の路面電車はコンプレッサーを持たなかった車両が多かったため、このような装置によって周囲への注意喚起を行っていた。しかし、その後空気ブレーキの装備によりコンプレッサーを持つようになったため、圧縮空気による警笛を利用する車両が増えていった。警笛とフートゴングを併用していた車両もある。また、第4種踏切の防護にために使用することもある。 現在、フートゴングは警笛に取って代わられていることが多く、現在でも装備しているのは阪堺電気軌道の各車両(モ501形を除く。警笛とフートゴングの両方を装備している)、筑豊電気鉄道2000形など、ごく限られている。 ヨーロッパの多くの路面電車には、モーターで打鳴するゴングが今でも装備されている。", "遮光幕(しゃこうまく)とは、光を遮るための幕(カーテン)などのことをいう。 日本の鉄道車両の場合、夜間・トンネル内などでは乗務員室(運転室)背面の遮光幕を閉める。これは、客室内の照明がそのままフロントガラスに映り込み、前方を注視するのに支障があるためである(夜間、ルームライトを点けたままで乗用車を運転する状態と類似)。事業者によっては助士側(通常、客室から見て進行方向右側)にも設ける場合がある。以下で詳解する。 形状は、ほとんどの場合がロールスクリーン方式で上げ下げを行う、いわゆる遮光「幕」であるが、一部は乗務員室背面ガラス下から遮光「板」を引き出す形状のもの(京成電鉄(一部車両)、京浜急行電鉄800形・2000形など、東京急行電鉄(一部車両)、日本国有鉄道119系、105系など)、横引きのプリーツカーテン(国鉄キハ38形気動車、東日本旅客鉄道(JR東日本)255系、東海旅客鉄道(JR東海)373系、近畿日本鉄道21000系、阪神電気鉄道、西日本鉄道7000・7050形など)を使用している事業者や車両も存在する。 阪急電鉄の6300系および8300系以降の京都線所属の車両と、阪神電気鉄道の新型車両と更新車両、北大阪急行電鉄8000形、京阪電気鉄道800系などは、運転席左側のスイッチ操作で遮光幕の上げ下げを行う。 色は、客室側を白色・淡色もしくは内装の化粧板と同系色、乗務員室側は黒色や茶色である場合が多いが、客室側が緑色のもの(阪急電鉄など)、表裏一体でグレー(旧・国鉄)を用いる事業者もある。 運転士が列車を運転する場合で遮光幕の使用が許される場面は、ほとんどの事業者で早朝、夜間、悪天候時、地下鉄、トンネルなど視界に自然光が差し込まず、客室内の光が反射することが多い区間、およびその直前の停車駅を出発する前から直後の停車駅に到着して停止している間に限られ、それ以外の場合(おおむね曇天日の通年と、1月~3月・9月~12月の晴天日は8時~16時頃、4月~8月は晴天日の6時~18時頃、ただし最も日が長い6月~7月は梅雨時で晴天日が少ないため、特に首都圏で17時以降に開放しているケースは稀である)は原則として全面開放し、不必要に使用して運転してはならないことが指導されている。これは、乗客に対して業務内容を堂々と見せるということであり、乗客側から見ても前方の風景が見えることにより精神衛生上良い効果をもたらす。 しかし、職業としての運転士は、安全輸送・定時運転の観点から、ブレーキのタイミングについて、秒単位の集中力で制動時期を考えており、できれば客室からの視線はない方がいい、という意見(特に労働組合からの「要求」)もある。これら要求に鉄道事業者側当局が認めた場合によっては、運転士の「プライバシー保護」などを名目として、昼間の地上区間から運転席背後の遮光幕が閉められている社局(例・小湊鐵道など)、機器設置などを名目として運転席背面窓を省略した車両を新製する社局(例・東武鉄道、JR東日本の通勤形車両など)もある。ただし後に開放、設置されるケースもある。(例・京成電鉄、秩父鉄道、西日本鉄道(6000形以降)など) 地上区間から地下区間に入る場合、通常は手前の駅で停車中に遮光幕を閉める。たとえば東急東横線ではみなとみらい線ならびに副都心線乗り入れのため東白楽→反町間、代官山→渋谷間で地上から地下に入るが、各駅停車は東白楽駅・代官山駅停車中に遮光幕を閉めるが、急行以上の種別は東白楽・代官山を通過するため、手前の停車駅である菊名駅・中目黒駅停車中に遮光幕を閉める。 京阪京津線では、地下区間と地上区間の境界である山科 - 御陵間で走行中に遮光幕の開閉がある。ただし、運転中に立席して遮光幕を開閉するのは不適切なため、上述の通り同線の800系電車には運転台左側に遮光幕の上下スイッチがある。 線区や車両、事業者によっては「(早朝・)夜間・トンネル区間はカーテンを閉めさせていただきます」といった趣旨の掲示が窓ガラス・カーテン自体になされている場合もある。 一部の車両ではスモークフィルムや特殊な遮光ガラスを使い(外からは見えないが中からは見える)、夜間・地下区間でも遮光幕の使用は不要となっている。 東京地下鉄(東京メトロ)南北線の9000系ほか同線乗り入れ車両では、夜間・地下区間であっても運転室の遮光幕は運転席直後の1枚を除いて開放されている場合が多い。 JR西日本の通勤・近郊型車両でも夜間・トンネル区間であっても運転室の遮光幕は運転席直後の1枚を除いて開放されている場合が多い。 名古屋市営地下鉄ワンマン運転路線車両の乗務員室仕切り窓には遮光幕自体がない。代用として遮光ガラスを使用している。 JR東海の373系。かつて存在したJR東日本区間に入る運用では早朝・夜間・トンネル区間の一部、あるいはすべてのカーテンを閉めていた。逆にJR東海区間では内規により、カーテンを用いることはない。 近鉄名阪ノンストップ特急「アーバンライナー」は、かつて中川短絡線通過時、運転士と車掌の入替えを行っていたが、入替えの際は遮光幕を閉めて行うのが正規の取り扱いであった。ただしこれは2012年のダイヤ変更で津駅に停車するようになり、乗務員交代は同駅で行うようになったため、この取り扱いは廃止されている。また近鉄奈良線の快速急行は、特に近鉄車での運用の場合、昼間でも始発駅から終着駅まで夜間と同様、終始遮光幕を閉めたままとなる。これは近鉄難波線大阪上本町駅発車後、高架駅の鶴橋駅に停車するが、鶴橋発車後は生駒までノンストップで、その間新生駒トンネルを通過し、生駒・学園前・大和西大寺・新大宮の順に停車するが、新大宮駅発車後、地下線に入り近鉄奈良到着となるからである。なお、遮光幕をスイッチで開閉できる阪神車での運用の場合、運転士によっては走行中に遮光幕を開閉することがある。近鉄奈良線では、特急、快速急行を除く電車の大多数の運転士が新生駒トンネル通過時、手前の石切駅停車中に遮光幕を閉め、生駒駅到着時に遮光幕を開ける。 昭和50年代の旧・国鉄では、日中であってもすべての遮光幕は閉めたままであることが珍しくなかった。運転士も車掌も、遮光幕を閉めた乗務員室で勤務中漫画を読んだり喫煙をしたりすることが全国で見られ、本来の設置目的からは逸脱した使い方をされていた。民営化後、JR各社はこの問題解決に取り組み、現在では遮光幕をできるだけ開放して乗務するという方針となっている。なお、国鉄103系電車でATCを搭載した先頭車は、運転席後部をATC車上装置の設置スペースとしたために壁になっており、助士席側にある客室への出入り口のみに窓があった。 以前は、夜間は全面使用という鉄道事業者が多かったが、最近では運転席側の遮光幕だけ使用し、助士席側の幕は開放する事業者が増えている。また、JR東日本E231系電車のように助士席側には幕が無い車両が増えてきた。もともと幕を設置していた車両であっても、助士席側の幕を撤去した車両もある。助士席側のフロントガラスに室内の光が映り込んでも、運転にはほとんど支障がないためである。 京成電鉄やJR東海自社発注の通勤車両、および関西私鉄の車両のほとんどには、以前から助士席側に遮光幕は無い。したがって夜間であっても助士席側の仕切りガラスから前を見ることができる。もっとも、現在での趣旨は前面の眺望のためというよりも、運転士が乗務員室を客室から見て意図的に「完全密室」にする行為を防止するためでもある。 乗務員室の背後が「全面壁」の車両を新製したり、日中の地上区間まで遮光幕の一部、あるいは全てを閉め切って運転することを認める事業者はごく一部の路線を除き現在では見られなくなったが、上述の一部事業者ではいまだに日中でも遮光幕を上げずに運転するケースが見られたり、ごく一部事業者の車掌が夜間・早朝に使用している場合がある(例・他社から東武鉄道への乗り入れ列車最後部運転席側・小湊鐵道など)。 各種事故などの発生時には客室から前面が見えていた場合、見えない場合より目撃者の確保の観点から有利である。また、車内(特に通勤・近郊列車)における犯罪・迷惑行為などの発生時において、列車長である車掌が遮光幕を濫用し、結果的に客室内の注視・監視を怠るのは、列車内の秩序を守るという職務上で無問題とは言えない。 鉄道の場合、事故が発生する可能性が皆無ではないため、前方の視界が確保されているほうが心理的にも安定するという。そのため夜間でも(すべての仕切り窓に遮光幕がある場合も)全面使用を行わないようになってきている(例・京浜急行電鉄など)。 車掌が列車後部などの乗務員室で、現金などを査算する場合に一時的に用いることがあるが、防犯の観点から正規の取り扱いとされている。また、早朝・夜間・地下駅での折り返し、あるいは1駅前発車時以降に、車掌がカーテンを閉める事業者も存在する(折り返しで運転士が入る際の業務軽減などが主目的である)。 設計時から客室からの展望を重視している車両(伊豆急行2100系など)は、遮光幕自体が設置されていない。 九州旅客鉄道(JR九州)885系では、運転室と客室の仕切りに液晶ガラスを採用しており、両先頭車のマスコン(ワンハンドル式)とも非常制動の位置にある場合は不透明になる。 東武鉄道50050系は、乗務員室と客室の仕切り窓の配置の関係から、夜間と地下区間ではすべての遮光幕を閉めていることが多く、同じ区間を走行する東武30000系が助士席側遮光幕を使用していないことや、当初から助士席側に遮光幕がない東急田園都市線や東京メトロ半蔵門線所属車とは遮光幕の取り扱いが微妙な窓仕切りの違いで異なっているので、東武伊勢崎線曳舟~東急田園都市線二子玉川間では先頭車両での前面展望が不可能であることがほとんどである。 北総鉄道9100形は、東武50000系列同様に乗務員室と客室の仕切り窓の配置の関係から、夜間と地下区間では原則すべての遮光幕を閉めている。ただし、北総線内と京急線内は助士席側仕切り窓の遮光幕を開放する。仕切り窓の配置については都営浅草線5300形も準じているが、助士席側仕切り窓が9100形に比べ端に寄っているので京急線区間や北総線区間では、夜間でも常に助士席側窓の遮光幕が開放されている。また都営・京成区間でも乗務員によっては助士席側仕切り窓の遮光幕が開放される場合もある。 南海電気鉄道高野線では、トンネルの連続する九度山駅~極楽橋駅間において、一部の運転士が日中でも遮光幕を下ろして運転を行うことがある。なお、南海の通勤用車両には、運転席真後ろの仕切り窓のみスモークフィルムが貼り付けられている。 東急東横線では、中目黒駅・菊名駅(特急・通勤特急・急行)または代官山駅・東白楽駅(各停)で遮光幕を閉める際、運転士が客室に向かって一礼することが多い。 夜行高速バスの場合、運転席の後ろにカーテンを設置し、室内の光がフロントガラスに映らないようにしている。JRバス関東などのように、運転席のスイッチ操作で開閉できるようにしているケースもある。なお、夜間走行中にカーテンを全閉するのは、道路上の明かりが客室に入り込み、安眠妨害になるのを防ぐためでもある。 一般路線バス、多くの高速バスでは運転席自体が仕切られた部屋にあるわけではなく、カーテンもない場合が多い。運転席の後ろに簡単な仕切りがあるだけである。そのため運転席付近の室内灯は乗降の時だけ点灯するようにしている。また室内の照明灯にカバーを付け、前方に明かりが当たらないようにしている。前方に室内光が映り込むことはあるが、運転に支障が出るほどではない。 新製当初から、客室と乗務員室の間に設置されたドアを含めて全く仕切り窓のない「全面壁」仕様であったり、客室と乗務員室の間に窓ガラスは設置されていても、現地において遮光幕は走行区間とは無関係に終日下げられている場合が多い。譲渡された車両であっても、インドネシア・ジャカルタ都市圏のKRLジャボタベックにおける場合に代表されるように、遮光幕を開放して運転する企業道徳上の習慣は無い。 旅客船においては、夜間航行中は、最前部の部屋の前方の窓の遮光幕として、カーテン等が閉められる。 出航時に既に夜になっている船はもちろん、夜行フェリーの場合は出航時から閉めてある場合もあり、航行中に昼から夜になる航路の場合は、最前部の部屋のカーテンを閉めるように、アナウンスされるのが通例である 船によっては最前部はスイート、特等、一等など、高級な部屋が並ぶ場合も多いが、最前部の部屋は、このような制約があり、夜間は、これらの部屋からの前面展望は困難である。 最前部にラウンジを設置している船もあるが、当然ながらラウンジのカーテン(遮光幕)も閉鎖している。 ^ “運転士の最大の使命は、安全を守ること 迷わずカーテンを閉めよう! 千葉支社は、確認内容を職場に周知しろ – 国鉄千葉動力車労働組合” (日本語). doro-chiba.org. 2018年10月25日閲覧。 電車 気動車" ]
ABC01-02-0247
我が国の都を奈良の平城京へ移したのは元明天皇ですが、京都の平安京へ移したのは何天皇でしょう?
桓武天皇
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[ "桓武天皇", "光孝天皇", "光仁天皇", "陽成天皇", "文徳天皇" ]
[ "桓武天皇(かんむてんのう、737年(天平9年) - 806年4月9日(延暦25年3月17日))は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日(天応元年4月3日) - 806年4月9日(延暦25年3月17日))。 白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一王子)として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。 父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后・井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。 天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもある夫人・藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。 延暦4年(785年)9月頃には、早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。 在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。 平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。 また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、翌22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。 しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政論争)。 また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。その結果として、9世紀の日本列島は無政府状態となり、結果として、日本列島は16世紀の織豊政権樹立まで、700年近い戦乱の時代に陥った。そのような状況において、有力な農民が自衛のために武装して、武士へと成長することとなった。 文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。 その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追号し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。 治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導するなど、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位、母親を通じて騎馬民族の戦闘技術を学んだことが、これらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。 皇后:藤原乙牟漏(760年 - 790年) - 藤原良継女 安殿親王(平城天皇)(774年 - 824年) 神野親王(嵯峨天皇)(786年 - 842年) 高志内親王(789年 - 809年) - 大伴親王妃(淳和天皇贈皇后) 夫人(贈皇太后):藤原旅子(759年 - 788年) - 藤原百川女 大伴親王(淳和天皇)(786年 - 840年) 妃:酒人内親王(754年 - 829年) - 光仁天皇皇女 朝原内親王(779年 - 817年) - 伊勢斎宮、平城天皇妃 夫人:藤原吉子(? - 807年) - 藤原是公女 伊予親王(783年 - 807年) 夫人:多治比真宗(769年 - 813年) - 多治比長野女 葛原親王(786年 - 853年) - 桓武平氏祖 佐味親王(793年 - 825年) 賀陽親王(794年 - 871年) - 子孫の幸身王・時身王は平朝臣姓を賜った 大徳親王(798年 - 803年) 因幡内親王(? - 824年) 安濃内親王(? - 841年) 夫人:藤原小屎 - 藤原鷲取女 万多親王(788年 - 830年) - 子の正躬王・正行王は平朝臣姓を賜った 女御:紀乙魚(? - 840年) - 紀木津魚女? 女御:百済王教法(? - 840年) - 百済王俊哲女 女御:橘御井子 - 橘入居の女 賀楽内親王(? - 874年) 菅原内親王(? - 825年) 女御:藤原仲子 - 藤原家依女 女御:橘常子(788年 - 817年) - 橘島田麻呂女 大宅内親王(? - 849年) - 平城天皇妃 女御:藤原正子- 藤原清成女 宮人:坂上又子(? - 790年) - 坂上苅田麻呂女 高津内親王(? - 841年) - 嵯峨天皇妃 宮人:坂上春子(? - 807年)- 坂上田村麻呂女 葛井親王(800年 - 850年) 春日内親王(? - 832年) 宮人:藤原河子(? - 838年) - 藤原大継女 仲野親王(792年 - 867年) - 子の茂世王・利世王・惟世王は平朝臣姓を賜った 安勅内親王(? - 855年) 大井内親王(? - 865年) 紀内親王(799年 - 886年) 善原内親王(? - 863年) 宮人:藤原東子(? - 816年) - 藤原種継女 甘南美内親王(800年 - 817年) - 平城天皇妃 宮人:藤原平子(? - 833年) - 藤原乙叡女 伊都内親王(801年 - 861年) - 阿保親王妃、在原業平母 宮人:紀若子(? - ?) - 紀船守女 明日香親王(? - 834年) 宮人:藤原上子 - 藤原小黒麻呂女 滋野内親王(809年 - 857年) 宮人:橘田村子 - 橘入居女 池上内親王(? - 868年) 宮人:河上好(? - ?) - 錦部春人女 坂本親王(793年 - 818年) 宮人:百済王教仁(? - ?) - 百済王武鏡女 太田親王(? - 808年) 宮人:百済王貞香(? - ?) - 百済王教徳女 駿河内親王(801年 - 820年) 宮人:中臣豊子(? - ?) - 中臣大魚女 布勢内親王(? - 812年) - 伊勢斎宮 女嬬:多治比豊継(? - ?) 長岡岡成(? - 848年) - 臣籍降下、長岡朝臣姓 女嬬:百済永継 - 飛鳥部奈止麻呂女、藤原内麻呂室、冬嗣母 良岑安世(785年 - 830年) - 臣籍降下、良岑朝臣姓 ほか 諱は山部(やまべ)。崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてりのみこと)が、漢風諡号として桓武天皇が贈られた。また山陵の名をもって柏原(かしわばら)天皇(帝)、天国押撥御宇(あめくにおしひらきあめのしたしらす)柏原天皇とも呼ばれた。 宝亀 天応 延暦 在位年と西暦との対照表 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎にある柏原陵(かしわばらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。 上記とは別に、伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁の大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)では、桓武天皇が被葬候補者に想定されている。 在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵が営まれた。『延喜式』に記された永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、その後幕末に改めて桃山町の現陵の場所に定められた。もっともその根拠は乏しいと見られ、別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため、確かな場所は不明とするほかない。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において、他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。なお、後述するように平安京への遷都を行い、かつ同京最初の天皇となったことにちなんで、明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して桓武天皇を祀る平安神宮が創祀されている。 桓武天皇の生母である高野新笠の出身は、百済系渡来人氏族で史姓の和氏であり、中央政権に顕官を出す氏族ではなく、また新笠の母方の土師氏も有力な氏族ではなかった。光仁天皇の皇后・井上内親王が廃され、山部親王(桓武天皇)が皇太子となっても、新笠は皇后にはなれず、従三位・夫人の位までであった。 桓武天皇は即位間もなく、天応元年(781年)4月に母・新笠を皇太夫人とし、従兄弟にあたる和家麻呂は異例の出世を遂げ、祖母方の土師氏も、大枝(大江)朝臣・菅原朝臣などの姓を賜った。延暦8年12月28日(790年1月)に母・新笠が薨ずると皇太后位を贈り、延暦9年(790年)1月、新笠を葬る際、和氏は百済武寧王の子孫であり、百済王族の遠祖である都慕王(朱蒙)は河伯の娘が日光により身籠ったものであるとして、これにちなんで新笠に「天高知日之姫尊」の諡号を贈った。さらに、同年2月に「百済王氏は朕の外戚である」と詔を発し、百済王氏の位階を進めた。百済王氏を外戚と称することで、母・新笠の出身氏族を名目上高貴なものにし、その結果母の身分を上昇させようとした、と考えられる。在位中、百済王氏が本拠としていた交野にたびたび狩猟のため行幸し、百済王氏を重用した。また、後宮に百済王氏の教法・教仁・貞香を召しいれ、百済王明信を尚侍としている。 平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において、今上天皇は翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言を行った。 この発言は、テレビ各社のニュースでは重ねて報じられたが、日本の新聞各紙の報道は簡素だった。、韓国では大きな反響を呼び、「皇室は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」「日王が秘められた事実を暴露」などの発言意図から逸脱した報道も多く行われたほか、当時の金大中大統領が年頭記者会見で歓迎の意を表するほどだった。なお、今上天皇は平城遷都1300年記念祝典の挨拶でも、百済とのゆかりについて同様の趣旨を発言している。 三田誠広 『桓武天皇 平安の覇王』 作品社、2004年6月。ISBN 4-87893-649-5。 ^ 天皇は後年、「緒嗣の父(百川)微(な)かりせば、予豈(あ)に帝位を践むを得んや」との詔を発している(『続日本後紀』承和10年7月庚戌(23日)条)。 ^ 当時の皇子女の諱は乳母の氏名(うじな)が採用される慣例であったため、「山部」という諱も山部氏の女性が乳母であったためと思われ、その場合の乳母は山部子虫であったと推定される(佐伯、『新撰姓氏録の研究』)。 ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。 ^ 田中邦和によれば、桓武天皇は生前に埋葬を希望したのは宇多野ではなく深草山であり(『日本紀略』延暦11年8月4日条)、平城京にならって都の北側に陵墓を築こうとしたのは皇太子(後の平城天皇)の意向であったとする。ところが、宇多野は賀茂神社を祀る賀茂氏などの在地勢力の勢力圏に近いために彼らの反発を招き、それが宇多野への埋葬断念につながったとされている(山田邦和 「平安時代前期の陵墓選地」『仁明朝史の研究 承和転換期とその周辺』 古代學協會編、角田文衞監修、思文閣出版、2011年2月。ISBN 978-4-7842-1547-8。)。 ^ 山田邦和 『歴史検証天皇陵』 新人物往来社〈別冊歴史読本 78〉、2001年7月、p. 134。ISBN 4-404-02778-8。 ^ a b 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉謚焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」 ^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)二月甲午【廿七】》○甲午…(中略)…是日。詔曰。百済王等者朕之外戚也。今所以擢一両人。加授爵位也。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」 ^ 「百済王氏存続の要因」(山下剛司,佛教大学総合研究所紀要 21号,35-54,2014年) ^ 宮内庁. “天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容”. 2008年11月7日閲覧。 ^ 主要全国紙で本文において「ゆかり発言」を取り上げたのは『朝日新聞』のみであり、『毎日』『読売』『産経』の主要諸紙は「おことば」を全文掲載したものの、この「ゆかり発言」は掲載せずに愛子内親王の話題を取り上げるのに留まった。 ^ 朴正薫 (2001年12月23日). “日王、朝鮮半島との血縁関係を初めて言及”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。 ^ 金基哲 (2001年12月24日). “「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。 ^ 2002年1月15日 毎日新聞 ^ 金剛学園出演「歌垣」が結ぶ韓日中 平城遷都祭「花いちもんめ」一緒に (民団新聞) [1] 井上満郎 『桓武天皇 当年の費えといえども後世の頼り』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2006年8月。ISBN 4-623-04693-1。 緒形隆司 『暁の平安京 桓武天皇史話』 光風社出版、1994年1月。ISBN 4-87519-611-3。 佐伯有清 『新撰姓氏録の研究 研究編』 吉川弘文館、1963年4月。ISBN 4-642-02110-8。 林睦朗 『桓武朝論』 雄山閣出版〈古代史選書 7〉、1994年4月。ISBN 4-639-01222-5。 村尾次郎 『桓武天皇』 吉川弘文館〈人物叢書 新装版 112〉、1987年7月、新装版。ISBN 4-642-05085-X。 森達也 『世界が完全に思考停止する前に』 角川書店〈角川文庫〉、2006年7月。ISBN 4-04-362503-0。 勘解由使 御霊信仰 慈眼堂 (大津市) - 桓武天皇御骨塔在所 令外官 最澄 - 桓武天皇の内供奉十禅師 陰陽師 (映画) - 桓武天皇の治世 桓武海山 平安神宮 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏総括", "光孝天皇(こうこうてんのう、830年(天長7年) - 887年9月17日(仁和3年8月26日)は、第58代天皇(在位:884年2月5日(元慶8年3月5日) - 887年9月17日(仁和3年8月26日))。諱は時康(ときやす)。 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。 幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受ける。843年(承和10年)、父仁明天皇の御前で元服して親王となり、四品に叙せられる。以後、中務卿、式部卿、相撲司別当、大宰帥、常陸太守、上野太守と、親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任し、 882年(元慶6年)、一品に叙せられ親王の筆頭となった。 陽成天皇が母方の叔父である藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位。藤原基経は母方の従兄弟にあたる。『徒然草』には即位後も、不遇だったころを忘れないようかつて自分が炊事をして、黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、という話があり、『古事談』にも似たような逸話がある。基経を関白として、前代に引き続いて政務を委任した。その際、基経は陽成天皇の弟であり、やはり自身の甥である貞保親王にいつか天皇を継がすであろうと斟酌し、即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えない意向を表明していた。だが、基経は妹である高子と仲が悪く、その子である貞保親王を避けていた為に次代の天皇の候補者が確定していないうちに病を得たため、仁和3年8月25日に子息・源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌8月26日に立太子させた。同日に天皇は58歳で崩御(死亡)し、定省親王が践祚した(宇多天皇)。 宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でもあったとされる。和歌・和琴などに秀でたともされ、桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か即位後相撲を奨励している。晩年は、政治改革を志向するとともに、親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創建を計画するも、いずれも実現を見ぬままに終わり、跡を継いだ宇多天皇の「寛平の治」及び仁和寺創建に継承されることになる。 『日本三代実録』に「天皇少く(わかく)して聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されている。 830年(天長7年)、生誕。 836年(承和3年)1月7日、四品に叙品。 843年(承和10年)2月2日、元服。 848年(嘉祥元年)1月13日、常陸太守に任官。 850年(嘉祥3年)5月17日、中務卿を兼任。 851年(仁寿元年)11月21日、三品に昇叙。中務卿・常陸太守如元。 853年(仁寿3年)、常陸太守を止む。 856年(斉衡3年)6月、上野太守を兼任。 860年(貞観2年)1月15日、上野太守を止む。 864年(貞観6年)、上野太守を兼任。(系図纂要は、上総太守としている) 866年(貞観8年)1月13日、上野太守を止め、大宰帥を兼任。 870年(貞観12年)2月7日、二品に昇叙。大宰帥・中務卿如元。 871年(貞観13年)1月28日、大宰帥を止む。 873年(貞観15年)1月13日、上野太守を兼任。 876年(貞観18年)12月26日、中務卿を止め、式部卿を兼任。 877年(元慶元年)10月17日、上野太守を止む。 880年(元慶4年)1月11日、常陸太守を兼任。 882年(元慶6年)1月7日、一品に昇叙。式部卿・常陸太守如元。 884年(元慶8年)1月11日、大宰帥を兼帯。 2月8日、受禅。 兄弟には、文徳天皇、宗康親王 、人康親王、本康親王、源多、源光がいる。また嵯峨源氏の源是茂を養子としている。 女御(皇太后):班子女王(833-900) - 仲野親王女 第一皇子:源元長 第十二皇子:是忠親王(857-922) - 一品式部卿、子孫は光孝源氏・光孝平氏 第十三皇子:是貞親王(?-903) - 三品大宰帥 第十五皇子:定省親王(宇多天皇)(867-931) 第四皇女:忠子内親王(854-904) - 清和天皇女御 第五皇女:簡子内親王(?-914) 第八皇女:綏子内親王(?-925) - 陽成院妃 第十六皇女:為子内親王(?-899) - 醍醐天皇妃 女御:藤原佳美子(?-898) - 藤原基経女 女御:藤原元善子 - 藤原山蔭女 女御:平等子 - 平好風女 更衣:滋野直子(?-915) 皇女:繁子内親王(?-916) - 伊勢斎宮 更衣:讃岐永直女 第九皇子:源旧鑒(?-908) 更衣:藤原元子 宮人:菅原類子 - 菅原是善女 宮人:正躬王女 皇女:穆子内親王(?-903) - 賀茂斎院 宮人:丹治氏 皇女:源緩子(?-908) 宮人:布勢氏 第十二皇子:滋水清実(?-?) 宮人:藤原門宗女 養子:源是茂(886-941) 生母不詳の子女 第二皇子:源兼善(?-879) 第三皇子:源名実(?-?) 第四皇子:源篤行(?-?) 第五皇子:源最善(?-?) 第六皇子:源近善(?-918) 第七皇子:源音恒(?-?) 第八皇子:源是恒(?-905?) 第十皇子:源貞恒(857-908) 第十一皇子:源成蔭(?-?) 第十四皇子:源国紀(?-909) 第十六皇子:源香泉(?-?) 第十七皇子:源友貞(?-?) 第一皇女:源遅子 第二皇女:源麗子 第三皇女:源竒子(?-919) 第六皇女:源崇子 第七皇女:源連子 第九皇女:源礼子 第十皇女:源最子(?~886) 第十一皇女:源偕子 第十二皇女:源黙子(?-902) 第十三皇女:源是子 第十四皇女:源並子(?-906) 第十五皇女:源深子(?-917) 第十七皇女:源周子(?-912) 第十八皇女:源密子 皇女:源和子(?~947) - 醍醐天皇女御 皇女:源謙子(?-924) 皇女:源袟子 皇女:源快子(?-910) 皇女:源善子 ほか后妃・皇女多数 光孝天皇の諡号を奉られた。漢風諡号を持つ古代最後の天皇であり、漢風諡号の奉呈はその後、千年近く経った江戸末期の光格天皇による復興まで待つことになる。在位中の年号を以て仁和帝(にんなのみかど)、また山陵の名を以て小松帝(こまつのみかど)とも呼ばれた。 元慶 仁和 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区宇多野馬場町にある後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。「小松山陵(こまつやまのみささぎ)」とも。 江戸時代には陵の所在はまったくの不明となっており、明治期になり京都市右京区宇多野馬場町の現陵の場所に定められた。ただし、比定に確たる根拠があったわけではなく、仁和寺の西南にあたる現在の場所は文献記録とも矛盾すると指摘されている。 上記とは別に、京都府京都市右京区御室大内にある宮内庁の御室陵墓参考地(おむろりょうぼさんこうち)では、光孝天皇が被葬候補者に想定されている。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 小倉百人一首にとられる。 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ (きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ) ^ 怨霊封じのため「徳」字を奉られた崇徳・安徳・顕徳・順徳の四帝を除く。 ^ 『江家次第』および『中右記』嘉承元年(1106年)2月28日条の記事によって、仁和寺北院の西側に接していたことや仁和寺大教院の東南方角にあったことが分かる。 ^ 山田邦和『平安京の葬送地 平安京周辺の天皇陵 』 ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。 源融 嵯峨源氏 仁明源氏 光孝源氏 この記事は以下のカテゴリでも参照できます 時康親王に関するカテゴリ: 常陸太守 上野太守", "光仁天皇(こうにんてんのう、709年11月18日(和銅2年10月13日) - 782年1月11日(天応元年12月23日))は、第49代天皇(在位:770年10月23日(宝亀元年10月1日) - 781年4月30日(天応元年4月3日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子で白壁王と称した。母は紀橡姫(贈太政大臣紀諸人の娘)。 8歳で父が死亡して後ろ盾を失くしたためか、初叙(天平9年(737年)従四位下)が29歳と当時の皇族としては非常に遅かった。 天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位し皇太子・阿倍内親王が受禅、孝謙天皇として即位した。これにより、同じく聖武天皇の皇女で孝謙天皇の異母姉妹である井上内親王・不破内親王の腹から、女性皇太子の地位を脅かしかねない男子後継者が生まれる可能性を警戒されることは無くなった。そして井上内親王・不破内親王姉妹も伴侶を求める機会が与えられることになり、天平勝宝4年(752年)頃までに、すでに斎宮を退任していた井上内親王は権力争いに巻き込まれる恐れのない白壁王と結婚した。天平勝宝6年(754年)の白壁王45歳、井上内親王38歳の時に酒人女王が誕生。それから俄然として昇進を速め、天平宝字3年(759年)には50歳にして従三位に叙せられる。天平宝字5年(761年)井上内親王45歳の時、他戸王(第四皇子)が誕生。天平宝字6年(762年)に中納言に任ぜられる。 天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧に功績を挙げ、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の信任を得て、天平神護2年(766年)には大納言に昇進した。だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言われている。 神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御する。生涯独身の称徳天皇に後継者はなく、また度重なる政変による粛清によって天武天皇の嫡流にあたる男系皇族が少なくなっていた。しかし妃の井上内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸王(他戸親王)は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の一人であった。このことから天皇の遺宣(遺言)に基づいて立太子が行われ、同年10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位することとなった。 元号は宝亀と改められた。 称徳天皇崩御の際に左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備、参議の藤原宿奈麻呂、藤原縄麻呂、石上宅嗣、近衛大将・藤原蔵下麻呂らによる協議が行われたと『続日本紀』は伝えている。「百川伝」を引用する『日本紀略』などの記述は、この協議で天武天皇系の長親王の子である文室浄三、次いでその弟・大市を推した真備と、白壁王を推す藤原永手・宿奈麻呂らで対立があり、藤原百川の暗躍によって白壁王の立太子が実現したと伝えている。 即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てるが、宝亀3年(772年)3月2日、皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、5月27日、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。翌 宝亀4年(773年)高野新笠所生の山部親王が皇太子に立てられた(のちの桓武天皇)。この背景には、藤原百川ら藤原式家の兄弟と彼らが擁立する山部親王の陰謀があったとされる。 さらに、翌宝亀4年(773年)10月14日、天皇の同母姉・難波内親王が薨去すると、10月19日、難波内親王を呪詛し殺害した巫蠱・厭魅の罪で、井上内親王と連座した他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡の没官の邸に幽閉された。宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死した。この同じ日に二人が亡くなるという不自然な死には暗殺説も根強い。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。 この事件後、光仁天皇の即位について藤原百川とともに便宜を謀った藤原蔵下麻呂が急死すると、宝亀7年(776年)、祟りを恐れた光仁天皇より秋篠寺建立の勅願が発せられる。開基は善珠僧正。 その後も、天変地異が続き、宝亀8年(777年)11月1日には光仁天皇が不豫(病)となり、12月、山部親王も死の淵をさまよう大病を得た。この年の冬、雨が降らず井戸や河川が涸れ果てたと『水鏡』は記している。これらの事が井上内親王の怨霊によるものと考えられ、皇太子不例(病)の3日後の同年12月28日、井上内親王の遺骨を改葬し墓を御墓と追称、墓守一戸を置くことが決定した。 宝亀12年(781年)1月1日、伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により天応に改元する。元日の改元は現在のところ日本史上唯一の事例である。 天皇は70歳を超えても政務に精励したが、天応元年(781年)2月に第一皇女・能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月3日、病を理由に皇太子に譲位。同年12月23日、光仁天皇は崩御した。 直後の天応2年(782年)閏正月頃、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデタ未遂事件が起きた(氷上川継の乱)。川継の父は藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で戦死した塩焼王、母は井上内親王の同母妹不破内親王であった。 同年6月14日、人臣の最頂点である左大臣・藤原魚名が氷上川継の乱に加担していたとして罷免され、その子の鷹取、末茂、真鷲もそれぞれ左遷された。藤原魚名は翌延暦2年(783年)7月25日頓死。光仁天皇の崩御後も政情が落ち着くことは決して無かった。 陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市日笠町にある田原東陵(たはらのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「田原塚ノ本古墳」。 崩御の翌年、広岡山陵に葬られ、延暦5年(786年)、田原陵に改葬された。 広岡山陵(広崗陵、廣高陵)については以下の説がある。 奈良市広岡町に所在を求める説。(『大和志』『大日本地名辞書』『和州旧跡幽考』他) 聖武天皇佐保山南陵の西側(奈良市法蓮町)に「広岡」の地名が残っていたことから、そこに求める説。近年、吉川真司が広岡山陵の別名が「後佐保山陵」であったことを指摘して法蓮町説が注目された(吉川「後佐保山陵」『続日本紀研究』331号、2001年)。 桓武天皇が文武百官を伴い、先帝光仁天皇の一周忌の齋会法要を営んだとされる「続日本紀」の故事に因んで、奈良市大安寺では、毎年1月23日「光仁会」という祭事が開催されている。風雅な青竹づくしの祭儀で、長く不遇であった白壁王時代に竹を切り竹筒に酒を注いで嗜まれた足跡を偲ぶ。中国の故事に言うところの「林間煖酒焼紅葉(林間に酒を温め紅葉を焚く)」風流である。当時としては天寿を全うされた光仁天皇にあやかり、長命をもたらす「癌封じの笹酒」として振舞われる。 光仁天皇陵から道を挟んで向かい側に江戸時代後期の士分(武士)、歴史地理学者で「平城宮大内裏跡坪割図」を作成したり大和の皇陵の調査・修復に尽力した北浦定政(1817年-1871年)の顕彰碑と墓がある。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 皇后:井上内親王(717-775) - 聖武天皇皇女 酒人内親王(754-829) - 桓武天皇妃 他戸親王(?-775) - 光仁天皇皇太子 皇太夫人:高野新笠(?-789) - 和乙継女 能登内親王(733-781) - 市原王室 山部親王(桓武天皇)(737-806) 早良親王(750-785) - 桓武天皇皇太子 夫人:藤原産子(761-829) - 藤原百川女? または藤原楓麻呂女? 夫人:藤原曹司(758-793) - 藤原永手女 夫人:紀宮子 - 紀稲手女 宮人:尾張女王(?-804?)- 湯原王女 薭田親王(751-781) 宮人:県主島姫 - 県主毛人女 弥努摩内親王(?-810) - 神王室 女嬬:県犬養勇耳(または男耳) 広根諸勝 未詳 開成(724-781) ^ 62歳での即位は、実在が確実とされる継体天皇(第26代)以降では現在の今上天皇(1989年、55歳にて即位)を含め最高齢である。 ^ この「百川伝」の記述については他戸廃太子の事情が誤って伝えられたとする河内祥輔の説がある。 ^ 天皇は後年、「緒嗣の父(百川)微(な)かりせば、予豈(あ)に帝位を践むを得んや」との詔を発している(『続日本後紀』承和10年7月庚戌(23日)条) ^ 『王朝序曲』1997年角川出版 永井路子 著 ^ 蔵下麻呂の兄弟も相次いで亡くなっている。 宝亀8年(777年)9月18日、藤原良継(次男)没。藤原清成(三男)没 宝亀10年(779年)7月9日、藤原百川(八男)没。 天応2年(782年)、藤原田麻呂(五男)没。", "陽成天皇(ようぜいてんのう、869年1月2日(貞観10年12月16日) - 949年10月23日(天暦3年9月29日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:876年12月18日(貞観18年11月29日) - 884年3月4日(元慶8年2月4日))。諱は貞明(さだあきら)。 生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に9歳で父・清和天皇から譲位される。父帝に続く幼年天皇の登場であり、母方の伯父・藤原基経が摂政に就いた。在位の初めは、両親および基経が協力して政務を見たが、元慶4年(880年)に清和上皇が崩じてからは基経との関係が悪化したらしく、元慶7年(883年)8月より基経は出仕を拒否するようになる。 基経は清和に娘2人を入内させていたが、さらに陽成の元服に際して娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、皇太后・高子が拒否したためではないかというのが、近年の説である。 これに対し、清和の譲位の詔は基経の摂政を陽成の親政開始までとしており、元慶6年(882年)の天皇元服を機に、基経が摂政を一旦辞することは不自然ではなく、関係悪化の証拠にはならないという反論もあるが、元慶4年(880年)12月の清和が臨終に際して基経を太政大臣に任じたときも、基経は単なる慣例的儀礼的行為以上に5回もの上表を繰り返したうえ、摂政でありながら翌年2月まで私邸に引きこもって一切政務を執らず、政局を混乱させている。 一連の確執の本質は摂政・基経と国母である高子の兄妹間の不仲と権力争いであり、在原文子(清和の更衣)の重用を含めた高子の基経を軽視する諸行動が、基経をして外戚関係を放棄をしてまでも高子・陽成母子を排除させるに至ったとの見方もある。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和自身である。高子が清和との間に貞明親王(陽成)・貞保親王・敦子内親王を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わずあまたの女性を入内させ多くの皇子を儲けていたことから、基経も母方の出自が高くない娘・頼子を入内させ、さらに同じく出自の低い佳珠子を入内させて外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。 基経の出仕拒否からしばらく後の元慶7年11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きる。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、陽成は基経から迫られ、翌年2月に退位した(ただし、公には病気による自発的譲位である)。 幼少の陽成にはそれまでも奇矯な振る舞いが見られたこともあり、暴君だったという説もあるが、退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、殴殺事件については疑問点も多く、高子・陽成母子を排除して自身の意向に沿う光孝天皇を擁立した基経の罪を抹消するための作為だともいわれる。 陽成には同母弟・貞保親王もあり、また基経の外孫である異母弟・貞辰親王(女御・佳珠子の所生)もあったが、基経・高子兄妹間の確執とそれぞれの憚り(同母弟を押し退けての外孫の擁立、我が子の不祥事)がある状況ではいずれとも決しがたかったのか、あるいは幼年天皇を2代続けた上の事件発生という点も考慮されたか、棚上げ的に長老格の皇族へ皇位継承が打診された。まず陽成の曾祖父・仁明天皇の従弟でかつて皇太子を廃された恒貞親王(出家して恒寂)に白羽の矢が立ったが拒絶される。仁明の異母弟である左大臣・源融は自薦したものの、源姓を賜って今は臣下であると反対を受ける。結局、仁明の皇子(陽成の祖父・文徳天皇の異母弟)である大叔父の時康親王(光孝天皇)が55歳で即位することになった。 光孝は自身の皇位を混乱回避のための一代限りのものと心得、すべての皇子女を臣籍降下させて子孫に皇位を伝えない意向を表明した。それは皇位が陽成の近親者、特に陽成の弟であり、また藤原基経の甥でもある貞保親王に行く可能性を考えての行動であった。ところが、即位から3年後の仁和3年(887年)、光孝は病に陥り皇位の行方が問題となった。が、基経は高子と相変わらず仲が悪く、その子である貞保親王を避けていたために、基経と光孝は相計って次期天皇として8月25日に光孝の子である源定省を皇籍に復帰、翌日には立太子させ、そして即日崩御した。こうして定省親王(宇多天皇)が践祚したが、皇籍復帰から皇位継承に至る一気呵成の動きは、はたして重篤であったろう光孝の意志を反映したものか疑問もあるところで、これには天皇に近侍していた尚侍・藤原淑子(基経の異母妹)の力が大きく働いており、同母兄も複数ある宇多が皇位を継いだのは淑子の猶子であったためと言われる。 この異例の皇位継承により、皇統は光孝―宇多―醍醐の系統に移り、嫡流であった文徳―清和―陽成の系統に再び戻ることはなかった。後に陽成は、宇多について「今の天皇はかつて私の臣下ではないか」と言った(宇多は陽成朝において侍従であった)という逸話が『大鏡』に載る。 陽成の退位後も光孝系の歴代からの警戒感は強く、『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成に対して自己の皇統の正当性を主張するための史書作成であったとする説がある。 退位後に幾度か歌合を催していることからもうかがえるように、歌才があったようだが、自身の歌として伝わるのは『後撰和歌集』に入撰し、のちに『小倉百人一首』にも採録された下記一首のみである。この歌は妃の一人で宇多の妹である釣殿宮綏子内親王にあてた歌である。  「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」 (百人一首では「淵となりぬる」) 長命を保ち、上皇歴65年は歴代1位で、2位の冷泉上皇の42年を大きく引き離す。宇多の次代の醍醐天皇よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇・村上天皇と光孝の系統による皇位継承も見届けた。 清和天皇の第一皇子。母は藤原長良の娘、皇太后藤原高子(二条后)。子で醍醐朝から村上朝にかけて公卿に列した源清蔭や元良親王は歌人として知られる。 後世に鎌倉将軍・足利将軍を始めとして武家の名族を多数輩出する清和源氏は、実は元平親王を祖とする陽成源氏であるが陽成天皇は暴君であるとの評判(前述)を嫌って一代前の清和天皇に祖を求めたとする説がある。 妃:綏子内親王(?-925) - 光孝天皇皇女 妃:姣子女王 - 是忠親王女 元長親王(901-976) - 二品式部卿 元利親王(?-964) - 三品弾正尹 長子内親王(?-922) 儼子内親王(?-930) 宮人:藤原遠長女 元良親王(890-943) - 三品兵部卿 元平親王(?-958) - 三品弾正尹式部卿 宮人:紀君(紀氏) 源清蔭(884-950) - 大納言 宮人:伴保平女? 源清鑒(?-936) - 刑部卿 宮人:佐伯氏 源清遠(?-996) - 刑部卿 貞観 元慶 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区浄土寺真如町にある神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は八角丘。 また、皇居の皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 ^ 『王朝の映像-平安時代史の研究』所収「陽成天皇の退位」,角田文衞, 東京堂出版,1970, 他 ^ 『古代政治史における天皇制の論理』所収「陽成退位の事情」,河内祥輔, 吉川弘文館,1986, ^ ただし、河内説では上表回数を3回と解釈すべきとしている。 ^ 『日本三代実録』元慶5年2月9日条 ^ 瀧波貞子「陽成天皇廃位の真相」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収) ^ 『日本三代実録』元慶7年11月10日条 ^ 前掲,角田文衞 著書 ^ 帝紀,五十九代 宇多天皇 ^ 遠藤慶太・細井浩志説 ^ 延喜12-13年夏(推定) 歌題・夏虫恋、 延喜13年9月9日 歌題・惜秋意 他 参考文献『平安朝歌合大成』,萩谷朴,同朋舎出版,1995, ^ 後撰,777番 百人一首,13番 ^ 清和源氏 参照 陽成院に関するカテゴリ: 小倉百人一首の歌人", "文徳天皇(もんとくてんのう、827年(天長4年8月) - 858年10月7日(天安2年8月27日))は、平安時代前期の第55代天皇(在位:850年5月4日(嘉祥3年3月19日) - 858年10月7日(天安2年8月27日))。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。 仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。 承和9年(842年)、承和の変で皇太子・恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父・藤原良房にも推されて代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)3月19日仁明天皇の譲位により践祚。 こうした経緯も含め、藤原良房は仁明朝期頃から次第に権勢を強めた。文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘・明子(あきらけいこ)が入内しており、ちょうど天皇即位の年の3月に第四皇子(惟仁親王、のちの清和天皇)を産んだ。惟仁親王は11月に、生後8か月で3人の兄を押しのけ立太子した。天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子・惟喬親王を鍾愛し期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。 しかしその後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に大内裏の東部にある東宮雅院や、嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかった。また、天皇自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかった。9世紀後半における摂関政治や陣定の成立など、朝廷の政務における「天皇の不在化」の原因を文徳天皇期の天皇不在が影響しているとする説もある。 やがて天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣・源信の諫言で取り止めとなった。 かかる状況下で、天安2年(858年)8月に突然の病で急死する。通説では死因は脳卒中といわれているが、歴史学者の彦由一太はあまりの病状の急変から藤原良房による暗殺説を唱えている。 女御(皇太后):藤原明子(828-900) - 藤原良房女 第四皇子:惟仁親王(清和天皇)(850-881) 第三皇女:儀子内親王(?-879) - 賀茂斎院 女御:藤原古子 - 藤原冬嗣女 女御:藤原多賀幾子(西三条女御)(?-858) - 藤原良相女 女御:東子女王(?-865) 女御:藤原年子 女御:藤原是子 女御:橘房子 - 橘氏公女 女御:橘忠子 - 橘氏公女 更衣:紀静子(三条町)(?-866) - 紀名虎女 第一皇子:惟喬親王(844-897) 第二皇子:惟条親王(846-868) 皇女:恬子内親王(?-913) - 伊勢斎宮 第五皇女:述子内親王(?-897) - 賀茂斎院 皇女:珍子内親王(?-877) 宮人:滋野奥子 - 滋野貞主女 第三皇子:惟彦親王(850-883) - 子孫は文徳平氏 皇女:濃子内親王(?-903) 皇女:勝子内親王(?-871) 宮人:藤原今子 - 藤原貞守女 皇子:惟恒親王(?-904) 皇女:礼子内親王(?-899) 第七皇女:掲子内親王(?-914) - 伊勢斎宮 宮人:藤原列子 - 藤原是雄女、名は則子とも 第一皇女:晏子内親王(?-900) - 伊勢斎宮 第八皇女:慧子内親王(?-881) - 賀茂斎院 宮人:滋野岑子 - 滋野貞雄女 皇子:源本有 皇子:源載有 皇女:源淵子 - 名は滋子とも 宮人:伴氏女 皇子:源能有(845-897) 宮人:布勢氏女 皇子:源行有(854-887) 宮人:多治氏女 皇子:源毎有 宮人:清原氏女 皇子:源時有 宮人:菅原氏女 皇子:源定有 皇子:源富子 生母不明 皇子:源富有(?-887) 皇女:源馮子 皇女:源謙子 皇女:源奥子 皇女:源列子 皇女:源済子(?-?) - 清和天皇女御 皇女:源修子 嘉祥 - 3年3月19日(850年5月8日)践祚、4年4月28日(851年6月1日) 仁寿に改元(代始、白亀・甘露の瑞祥) 仁寿 - 4年11月30日(854年12月23日)斉衡に改元(石見国より醴泉の瑞) 斉衡 - 4年2月21日(857年3月20日) 天安に改元(美作国より白鹿、常陸国より連理の樹) 天安 - 2年8月27日(858年10月7日)崩御 六国史の第五として文徳一代の治世を記録した『日本文徳天皇実録』(通称「文徳実録」)が編纂されている。 御陵の在所によって別名を「田邑帝」(田村帝)ともいう。 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区太秦三尾町にある田邑陵(たむらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「太秦三尾古墳」。 中世以降、陵の所在地はまったく不明となっており、江戸時代には天皇の杜古墳(京都市西京区御陵塚ノ越町)が候補とされていた。幕末の谷森善臣の比定に従い、現在宮内庁によって京都市右京区太秦三尾町に陵墓が定められているが、これは横穴式石室を持つ古墳時代後期とみられる円墳であり、平安時代の陵墓としては不適当と考えられている。 また皇居では宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 ^ 川尻秋生「陣定の成立」吉村武彦 編『日本古代の国家と王権・社会』塙書房、2014年 ISBN 978-4-8273-1268-3 ^ a b 本朝皇胤紹運録による。 ^ 山田邦和『図説天皇陵』(新人物往来社) p.113 『大鏡』- 平安時代後期に成立した歴史物語。文徳天皇の治世も記されている。" ]
ABC01-02-0248
テニス、卓球、バドミントンのうち、ダブルスのとき必ず交互に打たなければならないのはどれでしょう?
卓球
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[ "卓球", "ソフトテニス", "バスケットボール", "弓道", "テニス" ]
[ "卓球(たっきゅう、英: table tennis)は、球技の一種。ピンポン (ping pong) とも言う。競技者は卓球台を挟んで向かい合い、セルロイド製かプラスチック製のボールをラケットで打ち合って得点を競う。 卓球台の上面は長さ2.74m、幅1.525mの長方形で、地面より76cmの高さに水平に位置する。台の長辺に垂直に張られたネットによって、台は2つのコートに等分される。ネットは台から15.25cmの高さに吊られ、台の両端に取り付けられたサポートによって支えられる。 ボールは直径40mmのプラスチック製で、白色で無光沢のもの[要出典]。 ラケットやユニフォームの規定については用具の節を参照。 1試合は2001年9月1日 より、各ゲーム11点先取の7ゲーム制(4ゲーム先取)、5ゲーム制(3ゲーム先取)、または3ゲーム制(2ゲーム先取)で行われる。10対10になったときは先に2点差を付けた方が1ゲーム先取となる。 試合開始前 一般のローカルな試合では最初に練習打(ラリー)をし、次にラケット交換(相手のラケットを確認する)とコイントス(日本ではジャンケン)を行う。大きな大会など、公認審判の入るような大会では、挨拶、ラケット交換、コイントス(じゃんけん)を行い、勝った選手は、「サービス」「コート」のいずれかを選択することができる。 サービス サービスは2本交代。ただし10-10以降は1本交代になる。 サーバーはラケットを持っていない手(フリーハンド)の手のひらからほぼ垂直に16cm以上上に投げ、落ちて来るところをラケットによって台の後方から打球し、まず自分のコートにバウンドさせ、次にネットの上を越して、相手のコートにバウンドさせなくてはならない。サービスがネットに当って相手のコートに落ちた場合は、「レット」となり、サービスのやり直しになる。それ以外の場合はサービスミスになり、相手の得点になる。 また、サーブをするときには、ボールを選手の体やユニフォームで相手選手から隠してはならない。サービスをする時にトスが低かったり(16cm未満のトス)、違法サービスではないかと審判が疑問を持った場合は注意が与えられ、サービスのやり直しをするが、再度、同様の疑わしいサービスはフォルトとなり、相手の得点になる。明らかな違反サービスは(注意されることなく)フォルトとされる。 レシーブ サービスないし返球されて自分のコートにバウンドしてから2バウンドする直前までのボールを返球する。 返球したボールは、直接、またはネットに接触した後に、相手のコートに落ちるように返球しなければならない。これが出来なかった場合、相手の得点になる。 ボールを自分のコートで2バウンドさせたり、ボールを自分の体に当てたり、ラケットに2度意図的に打ったり、相手が返球したボールが自分の台にバウンドする前に直接ラケットや体に当ててはならない。これらに該当した場合は相手の得点になる。但し、意図的でない、一連の打球動作におけるダブルヒットは有効。ラケットを持つ手の手首よりも先(指など)にボールが当たったり、ラバーに当たらずに相手のコートに入った場合も返球として有効で、相手の得点にはならない。 台上でのボレーは禁止。ボレーをすると相手の得点になる。また,プレー中にフリーハンドが台上に触れると失点になる。 チェンジエンド 1ゲームが終わったら、チェンジエンド(コートチェンジ)をして次のゲームに入る。次のゲームでは、前のゲームで最初にレシーブをした選手からサービスを始める。フルゲームになった際は、どちらかの選手が5ポイントになった時点でチェンジエンド(コートを交代する)が行われる。 その他 ラリー中にボールが割れた場合は、そのラリーによる得点は無効となり、ラリー後にボールを拾ってボールが割れたのが判明した場合は、そのラリーでの得点は有効となる。審判からボールを交換してもらった上で練習打(ラリー)をした後、サービスのやり直しにてゲームが再開される。 他のコートからボールが飛んで来てラリーの妨害になった場合は、そのラリーによる得点は無効となり、サービスのやり直しにてゲームが再開される。 ゲーム中のタイムアウトは、1試合につき1回のみだがゲームを中断して取ることができる。但し、制限時間は60秒以内である。 1ゲーム中、開始より10分が経過しても終わらず、双方の合計得点が18未満の時は[促進ルール]が適用される。または、双方が合意すれば最初から促進ルールが適用される。 バットマナー(ラケットを台に投げつける、汚い言葉でののしる。フェンスを蹴飛ばす、台をラケットで叩くなど)の行為については警告として、イエローカードが提示される。2度目の同様な行為にはイエロー、レッドカードが提示れ、相手に1点が与えられる。3度目の同様な行為には相手に2点が与えられる。4度目はレフェリー(審判長)に報告され、審判長が処断する。 基本的にはシングルスと同じルールで行われるが、いくつかの条件が加わる。 サービスは、サーバー側コートの右半面からレシーバー側コートの右半面へと、交差するようにバウンドさせなければならない。バウンドさせる面を間違えた場合は相手のポイントになる。 サービス後のラリーでは、ペアは交互に打たなければならない。同じプレイヤーが二度続けて打つと相手のポイントになる。 サービス権が相手に移動すると、サービスをしていなかった選手がレシーバーになり、それまでレシーバーだった選手が次のサーバーになる。 1ゲームが終わって次のゲームに入る時は、前のゲームで最初にレシーブをしたペアからサービスを始める。その際、最初にサーバーになるのはペアのどちらの選手でも良い。レシーバーは、前のゲームと異なる組み合わせとなるようにする。 世界卓球選手権や全日本卓球選手権などでは、男子2人または女子2人のペアで行われる通常のダブルスに加えて、男子1人、女子1人ずつのペアで行う混合ダブルスが行われている。 団体戦は場合により様々な方式が取られている。世界卓球選手権などでは、双方のチームが3人の選手でシングルスにより最大5回対戦し、先に3勝した側が勝ちとなる方式が採用されている。北京オリンピックの団体戦では、3人の選手で4シングルス、1ダブルスを戦う方式が採用された。 日本国内では、日本卓球リーグを始めとして4人の選手(中学生等では6人の選手)による4シングル1ダブルス方式が多い。この場合、同じ選手がシングルスとダブルスの両方に出ることができる。大会によっては6シングル1ダブルス(関東学生連盟)や3シングル2ダブルス(新日本スポーツ連盟)などの方式もある。さらにローカル大会になると2シングル1ダブルスやダブルスだけの団体戦や男女混成の団体戦もあり、多彩な方式で行われている。 卓球の起源はインドのゴッシマテニスという遊戯でそれが1880年代のイギリスに伝わり上流階級の遊びとして広まっていく中でスポーツに発展したものと考えられている。ちなみに当時のボールはワインなどのコルクを削り出した物を使用していた。テーブルテニスと言われるように、卓球の元はテニスである。テニスが雨でできなくなった時、屋内でできないかと考えられ、そして卓球が誕生したのである(しかし、そもそもテニスの元となったポームは屋内競技であった)。当初はディナーの後に行われる室内ゲームの一種で「ディン=ドン」(\"ding-dong\")と呼ばれていたが、やがてピンポンと呼ばれるようになり、1900年代に急速に現在の形に近いものへと発展した。[要出典] 卓球の起源は、13世紀にフランスの貴族が娯楽としてはじめた「ジュ・ド・ポーム(手のひらのゲーム)」にさかのぼる。ただしテーブルの上でボールを打ち合う、現在の卓球は19世紀後半にイギリスで生まれ、発展してきた。もともとテニス選手が、雨でテニスが出来ず退屈だったので室内のテーブルの上でテニスの真似事をしたのが始まりといわれている。初めの頃は長い柄のついたバドミントンのようなラケットとコルクの球を使用し、ラケットには革や紙やすりなどを張っていた。[要出典]日本には1902年に東京高等師範学校教授の坪井玄道がイギリスから用具一式を日本に持ち込んで普及を始めたことを契機に広まった。山田耕筰の著作によると、1886年生まれの耕筰が15歳の時(1901年)に岡山で卓球をしたという記録がある。 国際卓球連盟(ITTF)は1926年に誕生した。同年、ロンドンで最初の世界選手権が開催された。 1900年代頃に欧州でゴム製のラバー(現在の1枚ラバーに相当するラバー)が開発され主流となったが、それほど強い打球が打てなかったことやネットの高さが高かったこともあり、守りに徹した方が有利であった期間が長く続き、1936年に行われた第10回世界卓球選手権では1点取るのに2時間以上もかかった試合の記録が残っている。1937年、日本初の国際試合が行われ、ハンガリーの元世界チャンピオンと対戦し、その際日本選手は初めてラバーに接した。当時、日本選手のラケットには何も貼っていない状態(別称:木ベラ)でありながらも、好成績を収めた。その頃、男子アメリカチームによって、指を使い、様々な回転を生み出すサービス「フィンガースピンサービス」が開発され、1937年に行われた第11回世界卓球選手権にて、初めて強い回転をかけたプレーが持ち込まれた。これを駆使したアメリカチームは好成績を収めたが、その反面強い回転に慣れていない対戦相手はレシーブミスを連発し、ラリーが続かない展開となった。ラリーが長すぎる、一方では短すぎる、と両極端な展開で観客が退屈と感じる試合が続出したことから国際卓球連盟はルールの改正を行い、ネットの高さを引き下げ、試合時間の制限、指を使いボールに様々な回転を与えるサービス(フィンガースピンサービス)の禁止を決定。その影響で再び守備型が有利な状況となり、1940年代から1950年代初頭までは欧州の選手によるカット主戦型が全盛であった。 この状況が変化する転機は、第二次世界大戦後、1950年代に日本が新しい用具を続々と開発し、実戦に使用され結果を出したことである。先ずは従来のラバーを裏返しにして貼る「裏ラバー」が使われるようになった。これは従来のラバー(現在の1枚ラバー、裏ラバーに対して表ラバーとみなされる)と比較してボールとの接触面積が広いため摩擦が大きく、強い回転をかけやすくなり、それを大きく活かした攻撃を行うことが可能となった。さらに、太平洋戦争時に航空機燃料タンク防弾用など、軍事用に用いられていた独立気泡スポンジが卓球の用具として使われるようになる。これは反発力が強く、従来のラバーと比べて打力が飛躍的に向上した。それをラケットの打球面に貼り付けた「スポンジラバー」、裏ラバーとスポンジを貼りあわせた「裏ソフトラバー」や、一枚ラバー(表ラバー)とスポンジを貼りあわせた「表ソフトラバー」が開発された。また、表ソフトのツブを発展させた「ツブ高ラバー」も開発された。それらの特徴を大きく活かしたスマッシュ攻撃を武器に、1952年の第19回世界卓球選手権で日本は大会初参加ながら、女子団体・男子シングルス・男子ダブルス・女子ダブルスの4種目で優勝と黄金時代の口火を切り、1950年代の世界選手権において日本選手が各種目にて優勝者を多数輩出した。 しかし1959年に国際卓球連盟は用具の制限に乗り出した。スポンジのみの使用は禁止され、スポンジラバーは消滅した。その他のラバーについても厚みが4mmまでに制限された。 2000年から、ボールの直径は38mmから40mmになった。これによってボールの空気抵抗が増し、従来よりもラリーが続くようになった。しかしその一方で回転がかけにくくなり、またラバーが回転の影響を受けにくくなったために、カット型や前陣速攻型のような戦型は苦戦している[要出典]。 2001年には、従来の21点制から11点制に変更され、サービスも5本ずつの交代から2本ずつの交代に変更された。 2002年にはサービス時にボールを隠す行為(ハンドハイドサービス、ボディーハイドサービス)が完全に禁止された。 2007年9月から日本国内での主要大会において有機溶剤性接着剤の使用が禁止された。2008年9月から全面的に有機溶剤性接着剤の使用が禁止され、その1ヶ月後に補助剤を用いた後加工が禁止された。また、アンチ加工された粒高ラバーの使用も禁止された。 2014年からボールの直径は40mmのままでセルロイドボールからプラスチックボールが登場し、2015年からは主要な国際大会においても使用された。 卓球に使用するラケットは、主に木材から作られた板とゴム製のラバーとから構成される。ラケット、ラバー共に様々な種類、特徴を持った製品が存在しており、選手はそれらの中から自分に合う用具を選択することができる。 ラケットには、レジャー向けに低価格で販売されているラバー付きラケット、競技レベルで用いられる市販製品ラケット、自分の好みでカスタマイズできる特注ラケットがある。 日本国内の公式試合に使用するラケットは、見える場所にメーカー名、日本卓球協会の公認の表示 (JTTAA) が義務付けられている(JTTAAの刻印が入っていないラケットの使用については、大会主催者側への使用許可の届け出が必要)。 卓球が他のラケット球技と異なるのは、握り方の異なるシェークハンド・ペンホルダーと大きく分けて2種類のタイプが存在することである。伝統的には、ヨーロッパ出身の選手はほとんどがシェークハンドを使用し、一方アジアではペンホルダーが主流であったが、1980年代頃からはアジア各国においてもシェークを使用する選手の割合が増加し、ペンホルダーと同等かそれ以上になってきている。ペンホルダーのほうが軽いため女子選手やフットワークに自信のある選手が選択するケースが多かったが、現在ではフォアハンドとバックハンドの両面で攻防することが必要とされるため、シェークハンドを選択する選手が多くなっている。しかし、中国式ペンホルダーを使った両ハンド攻撃を得意とする選手が世界ランク上位に名を連ねたりすることもあり、一概にどちらが技術的に優位であるかを結論付けることはできない。 シェークハンド 手で握手する様に握るタイプのラケット。両面にラバーを貼って使用する。 現在、多くの選手がシェークハンドであり、握り方の主流であるといえる。理由として、フォア・バックの切り替えがやりやすく、ラバーを両面に貼れるメリットを生かした多彩な両ハンド攻撃が容易であるためである。反面、ミドルに来たボールに対して比較的処理しにくく、サービスなどでラケットの持ち方を変えなければならないケースがある、ラバーを両面に貼るのでラケットの総重量が重くなりやすいといった欠点もある。 シェークハンドのグリップにも種類があり、ブレードから曲線になって広がっているグリップをフレア、真直ぐになっているものをストレート、直線で広がっているものをコニック、樽形の様なグリップのアナトミックなど様々な形状がある。ブレードからグリップエンドにかけてグリップが徐々に厚くなっているストレートインクライングリップという形状も開発されている。 ペンホルダー ペンを持つように握るタイプのラケット(通称)。日本式ペンホルダーと中国式ペンホルダーに大別できる。親指と人差し指で支えなければならないため、通常、片面のみにラバーを貼り、その面だけで打球する。 シェークハンドに比べ、ラケットのヘッドが下がった状態から打球するので、ラケット角度等を微調整しやすく、手首を利かせた台上での操作性に優れ、ミドルに来たボールを比較的打ち易いと言う特徴がある。その反面、ラケットの握り方ゆえにヘッドが下がるので真下回転サービスがやりづらい、少しでもラケット角度がズレたり感覚がはずれるとミスにつながりやすいといった短所がある。最大の短所は、シェークハンドよりもバックの技術が乏しいことである。 しかし、真下回転サービスのやりにくさ解消のために縦からラケットを入れることなどで真下回転サービスを可能にしたり、打球の幅を広げることを目的として両面にラバーを貼るケースがあり、試合中やラリー中に反転して打球したり(反転式)、シェークハンドよりも劣るとされているバックハンドの技術を補うために裏面打法をする選手が多くなってきている。 ラバーの色としては、シェークハンド同様、表面と裏面とで異なる色のラバーを貼らなければならない。また片面のみにラバーを貼る場合は、表面と異なる色のシートを張るか塗りつぶさなければならない。日本式ペンでは、購入する時には既に塗りつぶされているものが多い。 日本式ペンホルダー ブレードの形状から角型、楕円型、丸型などに分けられ、グリップ部に主にコルクが使用されている。日本、韓国、台湾などに使用選手が多く、主に片面のみにラバーを貼るため、ペンドラなどのラバー性能に命運を託すような戦型の選手に使用者が多い。日本式では、独特の打球感と弾みから檜単板が人気だが、日本国内にて質の良い檜が減少し、高品質の檜単板が少なくなってきている。それに伴い、檜単板ペンホルダーは価格の高騰化も進んでいる。 反転式ペンホルダー 日本式ペンホルダーのうち、反転しても持ちやすいように設計されたもので両面にラバーを貼れるようにしたラケットを指すことが多い。グリップ部にコルクを使っているものの日本式とは違い両面にコルクをつけている。主にペン粒など両面に異質ラバーを貼って変化させる選手が使っている。1980年代前半まではルールで両面同色が禁止されておらず、裏ソフトとアンチ裏ソフトを組み合わせて貼る使い方も存在していた。 中国式ペンホルダー シェークハンドの柄を短くしたような形状をしており、ブレードの形状・厚さがシェークハンドとほぼ同じものが多い。中国に使用者が多いが、他国でも使用者は多い。近年では王皓、馬琳などの中国選手がラバーを両面に貼って裏面打法を取り入れたペン両ハンドドライブ型を完成させ、世界トップレベルで実績を残している。一方で、片面に粒高ラバーを貼り、守備主体であるペン粒と呼ばれる戦型にもよく使われる。 ハンドソウ 拳銃を握るように持つタイプのラケット。その握り方から「ピストルタイプ」「ピストル型」と呼称されることもある。曲がるドライブが打ちやすいといわれるが、使用している選手は非常に稀である。グリップの特性上、サービスに変化をつけるのが難しい。フォア面あるいはバック面を異質にする選手はさらに少ない。 ラケットのうち板の部分のみをブレードと呼ぶ。 一般的に卓球のラケットは、ラバーが重視されてブレードが無視される傾向にあるが、実際は逆で、ラバーよりもブレードの方が最も重要である。トップ選手などの競技レベルでは寸分狂わないボールタッチやボールコントロールなどが要求されるので、ブレードの吸湿性や特性などが打球感や弾性に少なからずの影響を与えるからである。そのため、ラケットの保管には細心の注意を払う必要があり、ラケットを保管するラケットケースが各メーカーから発売されている。 ブレードの特性は、反発力は球を打ったときのスピードを、剛性は打ったときの感覚を、それぞれ表している。一般的に剛性が高い=硬いラケットは反発力が高く、弾離れが速くなり、スピードのある打球を可能にする。逆に、剛性が低い=柔らかいラケットは、打球の衝撃を吸収しやすく反発力が抑えられるため、コントロールがしやすい。また、ブレード厚が厚いと板の剛性が高くなり弾みやすくなるが球離れが速くなりやすく、ブレードが薄いと板がしなるので弾みにくくなるが回転がかけやすくなる。打球音についてはラケットの性能よりも、使用される材質によって左右される部分が大きい。 表記はまちまちだが、各メーカーはラケットの特性を順序づけて表記している。海外では主にOFF、ALL、DEFで表記されており、各項目ごとに弾むのは+、弾まないものはーで表記されることが多い。日本国内では海外での表記に準じて、ファースト、ミッドファースト、ミッド、ミッドスロー、スローで表記されている。最も硬いものはOFF+ないしファースト、最も柔らかいものはDEFないしスローである。 ラケットは主に木材を原料としており、一枚の板からなると単板と、複数枚の板を貼り合わせて作られる合板とに区別できる。単板ラケットはおもに一枚の檜板から作られるのに対し、合板ラケットでは異なる特性の板材を組み合わせることによって作られる。 ブレードの木材については材質によって使用用途が異なるが、使用する木材や製造工程、保管方法によってもラケットの特性は左右される。使用される木材については、単板では檜や桂が主に使用される。合板では和材や洋材など多種多様だが、中芯には桐、バルサ材、柳、シナ材、アバシ、アユース、サンバなどの比重が軽量な木材が使われ、添芯はパイン、アネグレ、スプルース、染色材などが使われ、上板はリンバ、コト、ウォルナット、檜、アユース、染色材が主に使用されるが、近年では黒檀、紫檀、ウエンジ材、ブラッドウッド、ホワイトアッシュなどのハードウッドが上板に用いられている。 合板の中芯に使われている桐やバルサ材は軽量材なので、セルロイドボール時代では打球が軽くなるという致命的な欠点を抱えていた。特に桐は箪笥などに使用されてきた木材なので湿気を吸ってしまうので打球感や弾性が狂いやすい特性があった。しかし、プラスチック製ボールが登場したことで状況は一変。ボールの材質が変わったことで打球感も変わったのである。桐は材質特有の球を掴む感覚と扱いやすさに加えて高い弾性を有しているため、板厚が多少厚くてもプラスチックボールでは球威が出せるため、湿気の問題点を除けば殆ど欠点が解消されており、バルサ材も球威の軽さはボールの材質でほぼ解消しており、プラスチックボール時代では回転量を残すための選択肢としての使い方がある。 単板 単板はその名の通り一枚の檜板ないし桂板から作られ、吸い付くような独特の打球感が得られる。木目を縦横に組み合わせて耐久性を上げられる合板に比べて割れやすいという欠点がある。従って、木目を縦目に配置して板厚を厚くして耐久性を上げる必要があり、ラバーを両面に貼るシェークハンドでは重くなってしまうためあまり作られない。また特性が板材の質に影響されるため、同じ種類のラケットであっても品質のばらつきが大きいが、高品質の檜を使った単板ラケットは独特の打球感に加えて反発力と剛性のバランスが良いため、特に角型ペンホルダーのドライブ主戦型選手に人気がある。そのため、高品質の檜単板を求めるプレイヤーの中には、特注単板ラケットを購入するケースも見られる。 合板 異なる特性の板材を木目を縦横に組み合わせることによって反発力と剛性のバランスをとる。これにより、単板ラケットに比べて多彩な特性のラケットが作られ、品質のばらつきも小さい。シェークハンドや中国式ペンホルダーなどに最も多く用いられ、基本的に3枚合板、5枚合板、6枚合板、7枚合板に大別される。また、特殊素材との併用が可能なのも特徴で、打球感や弾みに関しては、使用する木材や特殊素材の組み合わせにもよるため、様々なタイプの物がある。そのため、3枚合板から、多いものだと17枚合板というラケットも存在している。 合板の構成は5枚合板を例にした場合、中芯材を2枚の添材で挟み、さらに2枚の上板で挟んだ構成になっている。中芯材はラケットの大元となる木材で、ラケットに占める割合が高いため軽量材が主に使用される。使用木材や厚さなどによって弾みの度合いが異なる。一方、添材と上板は反発力と剛性のバランスをとるために用いられる。上板についてはラバー交換時に木材が割れて剥がれるのを防ぐため、柔らかすぎる木材は用いられない。 3枚合板 中芯材と2枚の上板で構成されている。合板の枚数が少なく強度で劣るため、中芯材の厚さを確保したり特殊素材を入れることで高い弾みを有するラケットが登場している。しかし、合板の枚数が少ないので、ブレードの薄型化が困難でかつ中芯材の木目が横目になるため、打球感の柔らかさや中芯材が横目になるのを利用して、前陣速攻型ないしカット主戦型向けのラケットが登場している。 5枚合板 中芯材と2枚の添材、さらに2枚の上板で構成されている。中芯材の木目が縦目のため反発力と剛性のバランスがよく、ブレードの薄型化が可能である。個々の商品によって特徴が異なり、商品数も多いため、戦型を問わず初心者から上級者まで広く扱われている。また、特殊素材を入れても中芯材が縦目になるので、純木、特殊素材入りを問わず合板のブレードでは最も主流となっている。 7枚合板 中芯材と4枚の添材、さらに2枚の上板で構成されている。個々の商品によって特徴が異なるが、ブレードが厚くなりやすいので反発力と剛性が強いため球離れが速いが、中芯材の木目が横目になるため5枚合板と比べて中・後陣では弾みが上がってこないという致命的な欠点を抱えているため、専ら前陣に特化した仕様である。それ故に、従来から上級者向けないし特殊素材入りラケットが嫌という人向けのラケットとされてきたが、プラスチックボールの登場で、セルロイドボール時代の頃以上に上級者専用の傾向が強くなっている。 ラケットは素材の85%以上は天然木と決められていて、15%以内なら木以外の材料を使用することが認められており、炭素繊維(カーボン・ファイバー)、アリレート(ベクトランファイバー)、ケブラー、ガラス繊維(グラスファイバー)、チタン、ザイロンなどの特殊素材を使用したラケットも使われている。上記の素材の他、カーボン・ファイバーとアリレートを合わせたアリレートカーボンや、ZLCと称されるザイロンとカーボンを合わせたもの、ケブラーとカーボンが使われたケブラーカーボンや、テキサリウム、シルバーカーボン、バサルトファイバー、テキストリームなど多種多様の特殊素材がある。 特殊素材を配置することで、純木ラケットよりも弾みが高くなるだけでなく、ラケットのスイートスポットが広くなって均一な弾みを実現する。しかし、特殊素材を用いることにより、木材本来の打球感とは異なる打球感になり、弾みの緩急が付けにくいという短所も抱えている。配置パターンは、上板と添芯の間に配置するアウター、中芯と添芯の間に配置するインナーがあり、アウターは弾みと球離れが高くなり、インナーは木材寄りの打球感になる。 両ハンドスタイルが確立された現代卓球では、ラバーの重量化に伴いラケットも軽いものが求められ、ノングルー以降は、ラバーだけでなくラケットの反発力が求められてきた。また、木製であるためラケットは湿気に弱い。さらに、メーカー側も卓球ラケットには適していなかった桐材を、有効利用とコストダウンを兼ねて模索していた。このような問題を解決するため、木材を手軽に乾燥させる製造方法が確立された。 これは、木材の沸点よりも低い温度で加熱処理することで木材に含有されている水分を取り除き、軽量化と吸湿性の低減をするものである。この方法で製造されたラケットは、均一的な弾みに加えて、5枚合板でありながら特殊素材を用いなくても従来より高い剛性と反発力を得ることが可能となった。2010年頃より登場した新しいタイプのラケットがこれにあたる。 しかしながら、この方法は木材に物理的な加工を施すために、木材本来の球を掴む感覚を失うこと、桐材などの軽量材では球威が落ちるといった欠点を持つが、後者についてはプラスチックボールであれば球威を補うことは可能である。 卓球のラバーは、ゴム(英語でラバー)製のシートとスポンジを接着剤で貼り合わせたものである(但し一枚ラバーはシートのみ)。シートの部分でボールを打球する。 以下の説明の規定については国際卓球連盟の規則に従って記述している。 ラバーの色は明るい赤と黒のみが認められている。ラバーを貼った面の反対側の面には異なる色のラバーを貼るか、異なる色に着色しなければならない。これは、異なる性質の同色ラバーをそれぞれの面に貼った場合に、相手選手が見分けられなくなるためである。厚さについては、ラバーシートの厚さは2mmまで、ラバーシートとスポンジの合計の厚さは4mmまで、と定められている。また、粒の形状に関しても規定が詳細に定められている。2008年以降発売の新製品ラバーには、国際卓球連盟の公認の表示 (ITTFA)、メーカー番号と登録番号(メーカー番号-登録番号)が縁で囲まれた形で表示されているものが多い。 国際大会等の公式大会では、国際卓球連盟の公認ラバーリストに掲載されているラバーに限り使用が認められている(毎年4月と10月に公認ラバーリストが更新される)。日本国内での公式大会においては、2006年4月以降より日本卓球協会の公認の表示(JTTAA)がないラバーでも国際卓球連盟の公認ラバーリストに掲載されているラバーであれば使用が認められるようになった。それ以前の日本国内での公式大会では、見える場所にメーカー名、ITTFAマーク、JTTAAマークが義務付けられていた。 尚、中国のメーカーからは、ラバーの後加工禁止ルール対策として製造段階でラバーのスポンジ面に補助剤グルーを塗布した「已打底」ラバーが発売されており、ノングルーノンブースターラバーを「未打底」として区別している。「未打底」については後述の公認接着剤の規定違反に触れず、「已打底」についても、国際卓球連盟の公認ラバーリストに掲載されているラバーであれば公式大会での使用が可能である。 シート 天然ゴムまたは合成ゴムを主原料としたもので、顔料を混ぜることでシートの色は赤または黒となる。シートの形状はスポンジへの食い込みを考慮しており、片面が平らで反対側の面には粒、あるいはイボと呼ばれる円柱状の突起があり、粒は縦配列ないし横配列で密に並んでいる。ラバーの特性、重量等はシートの特性に大きく依存している。一般に、天然ゴム比率が高いほど回転量が多くなり、逆に合成ゴム比率が高いほど弾みが高くなる。また、重量は硬いほど重くなり柔らかいほど軽くなるが、平らな部分が厚いほど重量が重くなる傾向にある。 スポンジ ボールの食い込みと食い込んでからの復元力に大きく関わっている。復元力が速くて強いほど弾性が高くなり、シートの引き連れ効果による回転量も多くなる。シートと比べて重量は軽いが、製造工程の関係で同じ硬さのスポンジでもバラツキが大きい。「皮付き」と呼ばれる硬いものもある。 スポンジの厚さについては、厚いものは球が食い込みやすく、方向は付けやすく、復元力が高くなるので弾性が高くなると同時に、ボールとの接触時間が長くなるのでシートの引き連れ効果で強い回転が掛かるために威力のある打球が可能であるが、反発時の弾性が高くなり距離の制御が難しくなる。逆に、薄いスポンジは球が食い込まなくなるので、方向は付けにくく、弾みが低下し、ボールとの接触時間が短くなるのでシートの引き連れ効果が弱くなって回転量が落ちるといった弊害が起こるが、スマッシュや擦り打ちでの回転を掛けるのがやりやすくなるので、シートの特性次第ではスポンジを薄くすることでラバーの特徴が出る場合もある。 ラバーの特性 ラバーの特性は、シートの特性に大きく依存しており、シートと組み合わせるスポンジの特性との組み合わせによって総合的に決まる。従って、同じシートに異なる特性のスポンジを組み合わせた製品ラインナップや、同じスポンジに異なるシートを組み合わせたラインナップが用意されることがある。これにラケットの特性も影響するため、自分に合う組み合わせを見つけるためには試行錯誤が必要となる。 硬いシート・スポンジは相手の下回転をカット打ちしやすく、威力のある打球を可能にするが、球が食い込みにくいのでコントロールが難しくなり、回転の影響を受けやすい。逆に柔らかいシート・スポンジは、球が食い込むのでコントロールがしやすく、回転の影響を食い込みで相殺しやすいが、球が食い込んだ際の復元力が遅いので強打時のエネルギーロスが激しい。 ラバーは耐久性があまり高くない。放っておいても乾燥や酸化でゴムが劣化するうえ、球を食い込ませたり回転を掛けるために擦ったりするので、ラバーの摩擦力や弾力が落ちてくる。寿命による交換の目安は、一般の選手で1ヶ月、練習量が少ない選手でも2 - 3ヶ月である。また、打球するうちにラバーに埃などのゴミが付着し、摩擦力が落ちてくる。これをふき取るための専用のラバークリーナーがある。 シートの平らな面を外向きにしてスポンジと貼り合わせたラバー。ボールとの接触面積が大きくなるため、ボールに回転をかけやすい。現在最もよく使われている。 高弾性・高摩擦系 シートは薄くて粒はやや細くて高めの設計なので粒がスポンジに食い込みやすく、スポンジの反発力でボールを飛ばすと同時に、シート表面の摩擦力を利用して引き連れ効果を起こしてボールに回転を掛けることで、高い弾性と摩擦力を実現する。弾道の安定性が良く、伸びのあるドライブを打つのに適している。40年以上もの長い歴史を持っているのでロングセラーラバーが多い。過去には、シートの合成ゴム比率を上げることで弾みを向上させたラバーや、高弾性・高摩擦系の特徴を生かしてテンション系ラバー並みの高い弾性を有する2.6mmの超極厚スポンジ採用のラバーなど個性的なラバーも開発された。以前は最もシェアの高いラバーであったが、テンション系ラバーの登場及び普及によって、高弾性・高摩擦系からテンション系へ移行した人が増加したため使用者は減少している。近年に登場したラバーは、生産技術の改良で従来のものより高い弾性と摩擦力を実現している。日本のメーカーの得意分野。 テンション系 シート及びスポンジを構成するゴム分子に負荷(テンション)がかかった状態を作り出しており、ボールが食い込んでからの速い復元力と強烈なシートの引き連れ効果によって、従来の高弾性・高摩擦系と比べて高い弾性と摩擦力、高い打球音を実現している。そのため、ラバー寿命が短くなりやすい。シートの形状は高弾性・高摩擦系ラバーに準ずるが、一部のラバーではシートが厚くて粒が低くて太く、粒の太さもルール上で認められているギリギリの太さにすることで、台上卓球に適したテンション系ラバーも登場している。弾道が直線的で、鋭く曲がったカーブドライブやシュートドライブ等を打つのに適しているが、打球時に棒球が多くなりやすく、ソフトなラバーだと復元力の遅さから回転量不足に陥りやすく、弾みの制御が難しくなるという側面も持ち合わせている。メーカーによっては、ハイテンション型、エネルギー内蔵型などの様々な呼び名がある。登場してからの歴史は浅いが、トップ選手の間では使用者が多く、グルーの使用が禁止となった2008年以降は「回転系テンションラバー」が登場したことで、現在では最も主流となっているラバーである。しかし、近年はラバーの高性能化と耐久性向上に伴い価格も高騰化している。ドイツ、日本のメーカーの得意分野。 スピード系テンション テンション系では最も歴史が長い。全般的にシートが柔らかいのでシートが変形しやすく、球が食い込んでからのレスポンスが非常に鋭いので、手首主体の打法がやりやすく、軽打時でも高い弾みを有するが、強打時にエネルギーがロスしやすい。全般的に鋭いレスポンスのお陰で弾性は高いが、回転を掛ける技術に乏しいと打球時に棒球が出やすい。しかし、打法によってはシートの引き連れ効果によって強烈な回転を掛けることが可能である。シェークのバック面や中国式ペンの裏面に貼るのに適している。 回転系テンション 天然ゴム比率が高いシートと気泡の大きいテンションスポンジを組み合わせたタイプのラバーである。スポンジがラバー硬度よりも若干柔らかいので球が食い込みやすく、シートが通常のテンション系と比べてシートが少し厚くて粒が若干太くて低くシート表面に摩擦力があるので回転が掛かりやすい。シートの硬さとスポンジの柔らかさが絶妙なラバー設計のお陰で軽打時、中打時、強打時で弾みと回転の緩急が付けやすいが、全般的に球が食い込むレスポンスに優れている一方で食い込んでからのレスポンスが非常に遅いので、手首主体の打法が非常にやりづらく、スポンジが柔らかいほど食い込んでからのレスポンスがさらに遅くなるために、打球時に球が浮いてオーバーしやすい。ノングルー以降では最も主流となっているラバーである。 回転系テンションのうち、いわゆる「曇り系」、「マット系」と言われているものは、天然ゴムで構成された硬いシートに強いテンションを掛けたものを指すことが多く、従来の回転系テンションよりも回転が多く掛かりやすいが、シートが硬いため重量が重く、スポンジが硬いものになると粘着系ラバーと遜色ない硬さとなる。シートが非常に硬いことから、シェークのバック面では非常に扱いづらいが、カット主戦型や日本式ペンには待望のラバーであるといえる。 粘着系 シート表面に粘着性があり、シートが厚めで粒が低くて太いものが多く、粒配列も縦目のラバーだけでなく横目のラバーもあるため、同じ厚さの他種のラバーと比べると重量が重めで弾性が低いものが多い。粘着が強いものでは、ボールを付けても落ちないものもある。粒が低い上にスポンジが硬いものが多く、ボールが食い込みにくいので、ラケットの面を添えて当て擦ることでボールに強烈な回転を掛けるのに適しており、ボールがラバーに触れる時間が長くなるため、クセ球が出しやすく、回転量に変化をつけやすい反面、相手の回転の影響を受けやすい。また、他のラバーと比べて非常にデリケートで、シート表面に粘着があるので市販のラバークリーナーが使えないというデメリットがある。一方で、各メーカーから発売されているラバー保管用の粘着シートを使用してラバーを保管することで、シートの粘着力を強化することが可能である。主に中国系の選手が使用しており、日本国内においてもドライブ主戦型やカット主戦型選手などに使用者が多い。中国のメーカーの得意分野。 強粘着系、微粘着系、超微粘着系 シート表面の粘着の強さによって分類されることがある。粘着が強いほど回転量が多くなりやすいが打球スピードが低下しやすい。 粘着系テンション 粘着系ラバーとテンション系ラバーの性能を併せたような、従来の粘着系ラバーよりも高弾性であることを売りにしたタイプのラバーである。また、前述の気泡の大きいテンションスポンジを採用した粘着系回転系テンションラバーも登場しており、粘着系の欠点だったボールの食い込みが改善されており、当て擦りのドライブ打法などが非常にやりやすい。 極薄系 粘着質のシートと粒が低いシート形状の特性を生かして、極薄スポンジと組み合わせることで「粒高ラバーもどき」の性能を実現した粘着系ラバー。粘着ラバーの特徴である回転量とクセ球に加えて、粒高ラバーのような変化をつけることが可能であるが、弾みが非常に弱く回転の影響も大きいので、専らペン粒に向いた仕様である。 コントロール系 柔らかいスポンジとシートを用い、ボールコントロールがしやすいように設計されたラバー。扱いやすく、安価で長寿命な事が多いため、初心者などを含め技術を身につける際に使用されることもある。一方で反発力と摩擦力が低いため、競技段階では威力不足の感があり使用している人は少ない。 シートの粒の面を外向きにしてスポンジと貼り合わせたラバー。構造上、スポンジに食い込みにくいため、裏ソフトよりも柔らかいスポンジが採用されている。従来のラバーよりも高弾性であることを売りにしたテンション系表ソフトラバーも登場している。 ボールとの接触面積が小さいため球離れが早くなり、裏ソフトより相手の打ったボールの回転の影響を受けにくいとされるが、回転が掛けにくく、回転系の小技がやりにくい。 シートの粒形状や特性により回転系・スピード系・変化系に分類され、粒配列は縦目と横目のパターンがある。 基本的に前陣速攻型の選手やカット主戦型の選手が用いる場合が多いが、近年ではラケット両面に裏ソフトラバーを貼ったドライブ主戦型が全盛となっている影響もあり、ラバーの開発はされているものの、裏ソフトラバーよりも種類が圧倒的に少ないのが現状である。 尚、後述のラージボールでは、ルールによりこの形状のラバーのみ使用が認められている。 回転系表ソフト 粒の形状が台形で、大きめ。表ソフトの中でも回転がかかりやすいが、スピード系のように球離れが速くなく、また、ナックルなどの変化球も出しにくい。主に、スマッシュを主戦としながら、ドライブを織り交ぜるタイプの選手が多く使用している。 スピード系表ソフト 粒の形状が台形+円柱型で、粒は回転系より小さいものがほとんど。表ソフトの中ではもっとも球離れが速く、ナックル系の球も出しやすいが、回転系のように強い回転をかけるのは困難。主に、ドライブはつなぎで使い、スマッシュを主戦とするタイプの選手が多く使用している。 変化系表ソフト 粒は円柱型。粒がやや高めで、ナックルなどの変化が出やすい設計になっている。 スポンジ有りの粒高ラバーと、スポンジ無しの粒高一枚ラバー (OX) の総称。イボ高とも呼ばれるが、イボという語感を避け、粒高ラバーと称されることが多い。従来のラバーよりも高弾性であることを売りにしたテンション系粒高ラバーも登場している。 表ソフトラバーよりも粒がさらに高く、水平面が薄いシートの形状で、粒配列は横に並んでいる横目のものが圧倒的に多く、粒が柔らかいほど変化をつけやすい。布目の有無によっても変化量が異なる。スポンジ有りのものでもスポンジが非常に薄いので弾みが弱く、表ソフトラバーとは異なる弾道になる。 表ソフト以上に自分で回転を与えるのは難しいが、相手の回転の影響も受けにくい。そのため、相手の回転を利用したり、そのまま残して返球することが可能という特性もある。打ったときに粒がボールを弾くため、普通に打球するとあまり回転がかからないか、打たれた打球の回転が弱く残る場合が多い。但し、実際は自分の打法と相手の打球の質にも左右されるため、扱う側も予測しなかった回転や変化がでることもある。逆回転で返すことも可能。ドライブも可能である。 かつては、シート表面にアンチ加工されたアンチ粒高ラバーが存在していたが、現在では禁止されたことにより、以前と比べて粒高ラバーの性能は相対的に低下している。 主にカット型や前陣攻守型の選手が変化を付けるために用いるが、反転型のラケットに貼って使用する場合もある。戦型によっては用途が異なり、一般的にカットの回転量と変化量を求めるカット型では粒が高くて細いものが、ブロックでの変化量とスピン反転能力を求めるペン粒などの守備型では粒が低くて細いものが、ミドルが弱く粒高にも攻撃力が求められるシェーク前陣攻守型では、それらの中間くらいのものが選ばれる傾向にある。 表ソフトラバーからスポンジを除いたもの。第二次世界大戦以前はこのラバーしかなかった。あまり弾まず回転をかけにくいラバーだが、安定した打球を打てるという利点はある。現在このラバーを用いる選手は非常に少ない。かつては、この形態を裏返したラバー(裏ソフトラバーからスポンジを除いたものに相当)も存在したが、現在ルールによって禁止されている。 見た目は普通の裏ソフトだが、摩擦が極端に少なく回転がかかりにくい。同色の裏ソフトと組み合わせ、ラバーの外観の相似と性質の差を利用し、反転させて相手に打球の変化を分かりづらくさせるスタイルで主に使用されていた。1983年のルール改正により両面同色ラバー使用が禁止されてからは使用者が激減した。コントロール性を高めるため、やわらかいスポンジが使われていることも多いが、メーカーによっては折れないほどの硬いスポンジとシートで構成されているものもある。 ボールはセルロイドまたは同質のプラスチック製のメンコと呼ばれる円形素材から作られる。一般的な卓球(硬式卓球)では直径40mm・重さ2.7g、ラージボール卓球では直径44mm・重さ2.2 - 2.4gである。色は白と橙色とがある。硬式卓球ではどちらを使用しても良いが、ラージボールでは橙色のみである。周囲環境(照明、床、背景)、ユニフォームの色、卓球台の色によって見づらい場合はどちらかの色を選ぶことができる大会もある。完全な球形を精度よく大量に作ることは技術上難しいため、同じ製造工程で作られた球に対し、どの程度球形に近いかでグレード付けされている。最も高いものは3スターと呼ばれ、最低ランクの無印まで4段階に分けられる。グレード分けは、ボールを坂路に転がしたときのずれの大きさで決まる。完全な球ならば坂路をまっすぐ下り、ゆがみが大きいほどずれが大きくなる。通常、大会では3スター(スリースター)が使われる。他球技と異なり、1つの大会の公式球に複数のメーカーが選ばれる例もあった。 従来、硬式卓球の試合では直径38mmのボールが使われていたが、ルール変更によって直径40mmになった。直径が変わったことによる変化は、空気抵抗が大きくなった影響で飛びにくくなったこと、ナックルの変化が小さくなったこと、それによってラリーが続きやすいこと、回転がかけにくくなったことなどが挙げられる。 セルロイド製のボールは火災の危険性が高く、航空機への持込を断られた例(アテネ五輪の前)もあったため、IOCがITTFに材質変更を求めたともいわれる。 2014年からは、直径40mmのプラスチックボール(シームレス有りと無し)が登場した。プラスチックに材質が変わったことで、打球感が変わった、シボがつけられなくなったことで回転量が相対的に低下した、打球時の初速が速くなったなどの変化が挙げられる。それに加えて、シームレスボールでは、弾みのばらつきが減少したことで、打球が安定しやすいという特徴がある。一方で、プラスチックボールはメーカーによって性能のバラツキが激しく、壊れやすいという指摘もある。 ラケットが卓球台にあたったときにラケットが破損しないためにつける。ラケットのみを覆うように貼る人や、使用しているラバーのスポンジ部分まで覆うように貼る人もいる。一般的に幅は6mm・8mm・10mm・12mmがある。金属製のサイドテープもあり、ラケットの重量、重心を調節することが出来る。 ラバーとラケットを接着するために使用する。現在使用が認められているのは、水溶性接着剤、接着シート、固形接着剤である。かつてはゴムを有機溶剤で溶いた接着剤が広く使用されていたが、有機溶剤が人体に有害であるという理由から、有機溶剤を含む接着剤の使用は、日本国内の小学生の大会で2007年4月1日より使用が禁止されたのを皮切りに、2007年9月1日以降は日本国内の大会で禁止された。国際大会では2008年9月1日より禁止となった。 現在、日本国内においては日本卓球協会公認の接着剤の使用が認められている。しかし、2009年現在においても、国際卓球連盟に公認された接着剤はない。これは、塗った接着剤とラバーにわずかに含まれている残留溶剤が反応するおそれがあるためであり、たとえ使用が認められている接着剤を用いたとしても、試合後のラケット検査で残留溶剤が検出された場合は失格となる。よって、これを未然に防ぐために、ラバーのパッケージを開けてから72時間放置した後、公認の接着剤を使用してラケットに貼ることが推奨されている。 ラバーとラケットを接着するための有機溶剤性接着剤の一つ。一般の接着剤よりも有機溶剤を多く含んでおり、ラバーに塗るとスポンジの中で揮発して、スポンジが膨張する。この状態でラバーをラケットに貼ると、スポンジの膨張分だけシート面が横に引っ張られるため、常にゴムに負荷がかかった状態となる。反発力と摩擦力が高くなり、金属音と呼ばれる高い打球音になる。スポンジが柔らかくなるため、シートが少し硬くなっても全体としては柔らかくなる。ただし、常にゴムに負荷がかかっているため、一般の接着剤を使用した時よりもラバーの劣化が速い。 グルー効果を最初に発見したのは、ハンガリーのティボー・クランパと言われている。日本では、1980年前半に元日本チャンピオンだった渡辺武弘がベルギー製のグルーを持ち帰って使用したのが最初であった。その後、スピードグルーが開発されて以降は世界的にグルーは普及し、主に攻撃型の選手に広く普及していった。 それを問題視したのが当時国際卓球連盟の会長を務めていた荻村伊智朗であった。荻村は、卓球の普及という観点でのボールスピードの減速、スポーツ精神という観点での用具のドーピングは好ましくないこと、スピードグルーにトルエンが含まれているものが多く人体に有害で、シンナー遊びと同様の卓球以外の不適切な用途に使用されて社会問題化した歴史があったことなどから、スピードグルーの禁止を提案したが、荻村の死去により一旦は白紙の状態となった。 これらの諸問題から、スピードグルーのトルエン規制に乗り出したことで、トルエンに代わってヘプタンが主成分となり弾性と回転量が低下。弾性と回転量低下を補うために、スピードグルーの重ね塗りや蒸らしといった方法が確立されて、イタチごっこの状態が長らく続いたのである。 しかし、スピードグルーは卓球用途での使用時においてもアナフィラキシーショックによる事故があり、これら健康上の問題が議論されたことや、揮発性が高く輸送の面においても危険性を伴っていたため、スピードグルーの使用禁止に至っている。スピードグルーの使用禁止は当初2007年9月1日に施行される予定であったが、翌年に北京五輪を控えたこともあり、最終的には北京五輪終了後の2008年9月1日に施行されることとなった。 前述の通り、有機溶剤を含む接着剤の使用が禁止されたことで、毒性のない水溶性接着剤(主成分は水、天然ゴム、アクリル)が普及したが、スピードグルー禁止を見越して、ブースターとも呼ばれる接着力の無い補助剤や水溶性グルーが卓球用品メーカーから発表されるようになった。 スピードグルー同様、補助剤を使用した状態の方が、未使用の状態よりも弾性と回転量に優れ、有機溶剤を含まず鉱物油を主成分としているので取り扱いが比較的容易で効果が持続しやすい、といったメリットがある。一方で、揮発性が低いのでラバーを剥がしての塗り直しが効かない、スピードグルーのような鋭いレスポンスを補えない、塗ることによって重量が重くなる、といったデメリットがあった。 しかし、国際卓球連盟は、補助剤を塗る行為が(貼る前の)ラバーを加工・改造する行為であり、用具のドーピングにあたるとして、国際卓球連盟はルール改正を行い2008年10月1日以降「後加工の禁止」というルールを付け加えた。これは、事実上補助剤の使用禁止となるものであった。これを受けて、日本卓球協会(JTTA)は国際卓球連盟のルール改定通知に基づき、2008年10月1日以降に開催される全ての大会において、ブースター等の接着補助剤やスピード補助剤についても使用禁止すると発表した。これを受けて、対象の接着補助剤やスピード補助剤の販売を行っている卓球用品メーカーは、2008年9月末をもって販売中止することを発表した。 このように、スピードグルー禁止から僅か1ヶ月で補助剤も禁止されたため、グルーや補助剤を発売してきたメーカーは、多くの在庫を抱えるようになり経営を圧迫する要因にもなった。その直後のヨーロッパ卓球選手権では、ラケット検査が新ルールに対応できなかったことから、従来通り補助剤を使用する選手もいる状況になっていた。 卓球台は経年による反り返りを防ぐために3層構造になっており、真ん中の層には細長い板がフローリング床のように横の継ぎ目をずらして配置されている。 卓球台は1980年代まで緑色(黒に近い深緑)をしていたが、当時の国際卓球連盟会長であった荻村伊智朗の発案により卓球のイメージチェンジを図って、現在の青色の卓球台を製作。1991年に千葉市で開催された第41回世界卓球選手権と翌1992年のバルセロナオリンピックにこの青色の卓球台が使われたことから世界中に広まり現在に至る。 卓球台が青に変わったのは、番組でタモリが織田哲郎に、『あれっ(卓球)て根暗だよね。』と発言したことで、翌年の中学生の卓球部の部員が激減した事がきっかけである。 卓球のユニフォームは、上が襟付でポロシャツに類似した形状のものやTシャツ状のもの、下はハーフパンツ・スカートが基本である。日本国内の公式試合で使用が認められるのは日本卓球協会の公認品のみで、その表示が義務付けられている。非公認品や打球したボールが見えにくくなるなど試合の妨げとなるデザインがされているものは使用不可である。 事前の確認が必要であるが、個人がデザインしたユニフォームも、前述の要件を満たせば使用可能である。2007年1月に行われた全日本卓球選手権では、四元奈生美選手がワンショルダーとミニスカートという斬新なユニフォームで試合に出場し、注目を集めた。 かつてのユニフォームは単色のポロシャツ形状のものが多かったが、近年はテニスやバドミントンと似た素材・デザインで軽く撥水性が向上したものが多い。ショーツは股下が短いものが多く女性に不評であったが、近年では男性用でも太ももにかかるくらいのものが増えている。また、アンダーシャツやスパッツの着用も認められている。 シューズに関しては公認に関する規定が無いので、体育館シューズとして作られたものなら何を履いてもよい。 主にフォアハンドとバックハンドに大きく分類されるが、これに加えて台上で球を処理する台上技術があるのが卓球の特徴の一つである。 フォアハンドはスイングが大きいので威力のある打球が可能であるが、速い打球点でボールを捉えにくく、カウンターを受けた際のリスクが大きい。一方、バックハンドはスイングが小さいのでフォアハンドと比べて打球の威力が出しにくいが、フォアハンドと比べて速い打球点で打球出来るので相手が打球してから返球して相手に到達するまでの時間がフォアハンドよりも短くなるため、速いラリー展開に持ち込む場合に有効である。 従来まではフォアハンド主体が全盛期であったが、スピードグルーのトルエン規制、40mmボールの登場、スピードグルーの禁止等による度重なるルール変更で打球スピードが低下しており、打球スピードの低下を打球点の速さで補うことで、ラリーのスピードが全体的に速くなっており、それに伴ってバックハンドの使用比率も高くなっている。 ツッツキ 台上の短いボールに対して、カットよりもコンパクトなスイングで突くようにして打球する打法。台上から出ないやや長いボールに対して下回転を掛けて返すことが多い。ミスするリスクが少ないが、相手の3球目攻撃を受ける確率が高い。しかし、技術次第では強烈な下回転や横回転を入れたり、長短の変化をつけたりすることでミスを誘うこともできる。また、回転を掛けない無回転系のツッツキのことをナックルと呼ぶ場合がある。 ストップ 主に相手の短い下回転系のボールに対し、バウンド直後の打球を捉えて相手コートに2バウンド以上するように小さく返す打法。ツッツキよりも打球点が速いので、台上の短いサーブに対するレシーブなどで主に使われる。低いストップに対しては物理的にドライブが打てないため、防御技術として有効。しかし浮いてしまうと相手のチャンスボールとなる。上級者のレシーブになると短い上回転系のボールに対してもストップで返したり、強烈な下回転を掛けることが可能である。ストップをストップで返すことをダブルストップという。また、下がった相手に対してネット際に小さく落とすようなストップを繰り出すことを、ドロップショットと呼ぶ場合もある。 フリック 相手のショートサービスまたは台上の球に対して、台上で前進回転を与えて払うように返球する打法のこと。カウンターされた際のリスクが高いので、テイクバック無しの非常にコンパクトな打法である。技術が向上すれば台上強打ともいえるスピードのある打球を打つことも可能で、レシーブから直接得点を狙うこともできる。 プッシュ 押し出すように打つ打法で、主にペンホルダーのバック側の攻撃に使う。シェークハンドのバックハンドに比べて威力を出しにくいが、やり方によっては同等以上に打ち合うこともできる。 台上ドライブ(台上フォアハンドドライブ) 台上から出ない打球に対して当て擦りで打球する方法。フォアハンドフリックとの大きな違いは、打球時にテイクバックが必要でスイングが大きい点である。元々は、中国で開発された粘着系ラバーの特性を活かすための台上技術であり、使用する用具の制約を受けるという短所がある。 チキータ 場合によりチキータ・レシーブなどという場合もある。ピーター・コルベル(チェコ)が発案した打法で、バックハンドの横回転系のフリックのことを言う。この打法を応用したドライブ打法もある。基本的にシェークハンドの選手が使用するが、ペンでも裏面打法を使えば可能である。チキータバナナ(バナナのブランド名の一つ)のようなカーブを描くことから、このように呼ばれるようになった。また、チキータのスイングから打球する逆横回転系のチキータは「逆チキータ」と呼ばれており打法は様々であるが、加藤美優が多用する逆チキータは「ミユータ」とも呼ばれている。 台上バックハンドドライブ(台上BD) 台上ドライブのバックハンドバージョン。台上ドライブと比べてチキータ同様に速い打球点でボールを捉えやすく、ボールの横を捉えるチキータに対して台上BDはボールの上を捉えるため、スピードが出て一発で抜き去ることが可能である。また、スイングがコンパクトなので台上では弾み過ぎない上に用具の制約を受けにくいというメリットがある。しかし、ボールの上を捉えるということは相手のサービスの回転(特に下回転)の影響を受けやすいということであり、ある程度のスイングスピードに加えて、フリーハンドや体の動かし方や打球時の体重移動が必要である。中国の張継科が多用し世界選手権で2連覇を飾ったことから、近年世界中のトップ選手のみならずジュニアや小中学生クラスにも広く流行している。 ドライブ ボールに強い前進回転(トップスピン)を与える打法。ヨーロッパではドライブのことを「topspin」と呼ぶ。基本打法をある程度身に付けてから習得する技術であり、基本的に「擦る」、「食い込ませる」の2つの方法に大別されている。以下に代表される様々な打法が確立され、弱点とされたミドルの打法においてもそれを克服する打法がトップ選手を中心にして普及している。また、用具やラケット、ラバーの進化や練習環境の変化に伴い、従来はパワーに難のあった女子においても一通りのドライブ打法を習得する選手が増加し、多くの戦型の選手に幅広く用いられるようになった。 ドライブは基本的には落ちる軌道を描くためスマッシュに比べて安定性が高いこと、後述するようにスピードとスピンのかけかたで様々な打球をすることができるため戦術の幅が広がることなどが広く用いられる理由である。 スピードドライブ スピード重視で水平に近い軌道のドライブをいう。トップ選手になるとスマッシュ並みの速い打球になる。ラバーの性能が高くなったためコントロールするのが比較的容易で使用者が多い。 ループドライブ スピン重視で山なりに近い軌道のドライブをいう。ループドライブの研究が進むうちにつれ、相手側のネット近くに山なりの弧を描いた弾道でバウンドしたのち、さらに低い弾道で相手コート上でバウンドする、沈む様な軌道のループドライブが試合で使われるようになった。通常のドライブではバウンド後に伸びる軌道を描くのに対し、ループドライブは沈み込む。ただし、ループドライブの軌道が高くネットから遠くに着地すると遅いドライブになるため、反撃を受けることになる。強い回転をかけながらもスピードを殺してネット近くに落とすコントロールが求められる。 カーブドライブ,シュートドライブ ボールに横回転を与えるドライブをいう。右利きの選手がフォアハンドで打った場合、左回転のドライブをカーブドライブ、右回転のドライブをシュートドライブと言う。カーブドライブは(打球者からみて)利腕と反対側へ、シュートドライブは利腕側へ曲がる。野球の変化球のように、回転軸の向き、回転量、スピードによって多彩な変化をする。回転軸によって曲がる角度が変化し、バウンド時にもボールの飛ぶ方向が変化する。さらに返球時にも横回転の影響を受けて打球が左右方向に変化する。ドライブのスイングの癖で一定の横回転がかかる場合もあるが、上級者の選手は意識して回転を操ることができる。 パワードライブ スピードドライブにスピンが掛かったドライブをいう。スマッシュ並みのスピードに加えて強烈な回転をかけるため、習得するには相応の練習量、筋力を必要とする。 カウンタードライブ 相手のドライブに対して打つドライブをいう。スピードのあるドライブを返球する場面もあるため、練習量だけでなく打球を判別する能力や返球するタイミングも要求される。上級者の選手がよく用いる。 スマッシュ ボールを弾くように、フラットに叩き付ける打法。決定打として打つ選手が多い。ドライブより小さいスイングで速いボールを打つことができるが、弾道が直線的になるため、角度がずれると入らない可能性が高い。世界のトップ選手の中には初速が時速280km以上のスマッシュを打つ人もいる。スピードがあるためラケットに当てるのは難しいが、ラケットの角度を合わせて当てれば返球することは可能である。近年はフォームの修正が進んだ結果、ドライブ打法と見分けが付かなくなっている。 バックハンドスマッシュ(ペンホルダー) ペンホルダー型のバックで、右足を前にしてフリーハンドを引き(右利きの場合)、肘を軸に体重を乗せ相手コートに強打する打法。少ない予備動作でコンパクトに振りぬくためコースを読まれにくい。 カット カット型の選手が使う中・後陣での大きいスイングでの打法を言い、ツッツキと区別される。フォア、バックの打法があるが、バック側に粒高ないし表ソフトを貼って使用することから、一般的には使用頻度が高いバックでのカットのことを指すことが多い。上級レベルになると、下回転(バックスピン)のほかにも、斜め下回転、横回転も織り交ぜる選手もいる。 ミート打ち 主に表ソフトラバーの選手が使う攻撃方法で、回転がかかったボールをスマッシュのように強くはじいてレシーブする打法。相手の回転に合わせてラケットの角度を微調整する打法を角度打ちと言うこともある。これらを厳密に区別するかどうかは判断の分かれるところである。ラケットをコンパクトに振り切り、ボールを擦らないので、あまり回転がかからず威力自体はそれほどでもないが、早く高い打点で打つため相手の防御が間に合わず決定打になることがある。 カット打ち ツッツキやカットの下回転を利用して返球する技術である。相手の下回転を利用するため、打点やタイミングが要求される。これを利用しつつドライブ回転を掛けて返球する方法もある。 ブロック 相手のスマッシュやドライブに対して、前 - 中陣でバウンドの上昇期や頂点で当てるように返球する守備技術。裏ソフトでブロックする場合、ラケット角度を的確に調整する必要がある。ブロックは相手の強打を返すことが目的のため、スイングはあまり大きくとらない。相手の球の威力を「殺して返す」、「そのまま返す」、「自分の力を上乗せして返す」など、返球に変化をつける技術もある。技術レベルにもよるが、選手によっては相手強打に対して台上で2バウンドさせるほど威力を殺すブロックをすることが可能である。サイドスピンブロックなどで回転をかけて変化させてミスを誘ったり、相手が打ってきた球を全てブロックしてつなぎ球を狙い撃ちするという戦術を取る選手もいる。 カウンター 相手の強打を強打で返す技術全般を指す。体勢が整わない相手を打ち抜くことや、相手の球威を利用することが目的であるため、固定的な打ち方はなく、カウンタードライブのような強打からカウンターブロックのような守備的な側面をもった技術も含まれている。相手の強打を狙い打つため難度は高いが得点力も高い、ハイリスク・ハイリターンな戦法である。 ロビング ボールを高く打ち上げて時間を稼ぎ返球する打法。相手のミスを誘うものだが、相手の強打を受けやすい。しかし、打球が高い分、バウンド時に回転の影響を受けやすいので、強烈な回転をかけて打つことで、相手にとって打ちにくい球として返球することも可能である。 フィッシュ 中、後陣でロビングよりも低い弾道で相手のボールを返す技術。ブロックの打球点より遅く、フィッシュの打球点は頂点を過ぎたものとされている。いわゆる相手の攻撃をしのぐ為のつなぎ球だが、ロビングに比べて打ちにくい。相手の攻撃をフィッシュでしのいで、相手が攻めあぐねたところで一気に反撃をするといった戦法も用いられる。 卓球ではサービスからラリーが始まる。攻撃の起点としてゲームを組み立てるので、トップ選手になるとレットによるサービスのやり直しを利用して、打球ミスしたサービスをレットで逃げることで無駄な失点を防いだり、相手のレシーブタイミングを外したり、相手のペースを乱す、などの目的で高度なサービス戦術を採る選手が多い。 サービスでは、フォアサービスとバックサービスに大きく分類され、それぞれショートサービスとロングサービスがある。広義でのショートサービスは相手コート上で2バウンド以上する軌道となるサービスのことを指し、ロングサービスは相手コート上で1バウンドして卓球台の外へ出る軌道のサービスのことを指す。また、卓球において、サービスでは回転(スピン)が非常に重要であり、主に縦回転(上回転、下回転)、横回転(順横回転、逆横回転)、無回転に大別され、さらに斜め回転(順横上回転、順横下回転、逆横上回転、逆横下回転)やジャイロ回転のようなバリエーションが存在している。但し、斜め回転はラケットの角度や向き、サービスモーションなどで縦横の比率を変えることが可能であるため、同じ回転であっても縦横の比率や回転量、スピードなどによって変化量も異なる。 ハンドハイドサービス、ボディーハイドサービスが完全に禁止された2002年以降は、相手にサービスが見抜かれやすくなったことで、高度なサービス技術が発達した。代表的なものはフェイクモーション、打球前後のラケットを隠す行為、フォロースルー、バーティカルサービス等である。 フォアサービス 自分の体に対して利き腕側でラケットのフォア面を使って出すサービスのこと。コントロールを付けやすくする、強い回転を掛けるために手首の可動範囲をひろげる、サービスを出した後の戻りを早くする、など目的の選択があり選手によってグリップが異なる。場合によっては似たようなグリップになることもある。シングルスの試合では、基本的に自陣のバック側の位置からサービスを出すことが多く、試合展開や戦術によっては中央付近でサービスする場合もある。 アップダウンサービス フォアサービスの一種で、同じスイング軌道からラケットを上または下に振って上回転と下回転を使い分けるサービスのこと。技術が上がれば横回転系を混ぜることも、後述のバーティカルサービスにすることも、フェイクモーションを加えることも可能である。 YG(ヤングジェネレーション)サービス フォアサービスの一種で、体の内側から外側にスイングして回転をかけるため、逆横回転系のサービスで主に使われている。ルール改正以前は、打球のインパクトを隠すことが可能だったために通常のフォアサービスと共によく用いられた。ボディーハイド・ハンドハイドサービス禁止以降も回転のバリエーションを増やしたり、サービス戦術やラリー展開を変える目的等で用いられている。通称YG、ヤンジェネと呼ばれる。 巻き込みサービス フォアサービスの一種で、ラケットのヘッドをやや上向きに立てて出すサービス。YGサービスと同様に逆横回転系のサービスで回転量は劣るが、ラケットのグリップを変える必要がないため、速い戻りを必要とする女子選手を中心に使用者が多い。 バーティカルサービス 横回転サービスの一種だが、順横系、逆横系のサービスが可能である。ボディーハイド・ハンドハイドサービスの禁止に伴い、フォアハンドサービスを発展させたもので、トップ選手を中心に用いられる。インパクト時にラケットを立ててラケットの面を相手に見せるため、どの方向に回転を掛けたのかが相手にわかりづらいという特徴がある。特性上必ず横回転が掛かるため、純粋な下回転サービスと上回転サービスが出来ないという短所もある。バックサービスとして用いることも技術的に可能である。 バックサービス ラケットのバック面を使って出すサービスのこと。自分の体に対してどのような位置でサービスを出すかは選手によって異なる。早く体勢を戻すことが出来る。 しゃがみ込みサービス サーブを出す際に、膝を曲げてしゃがみ込みながら出すサーブのこと。強い回転をかけることが可能だが、元の体勢に戻るのが遅くなると、返球に対して反応が遅くなる欠点もある。 王子サーブ しゃがみ込みサービスの一種で、下へ屈伸しながらラケットを縦に振り下ろしてラケットの裏面で球を切り回転をかけるサーブである。 スピードロングサービス ロングサービスの一種で、スピードをつけて、2バウンド目を相手コートのエンドライン付近にバウンドさせるサービスである。サービスエースを狙いやすく、相手に充分な体勢で打球させない目的でも使用されるが、カウンターを受けるとサーバーが早く体勢を戻せずに失点につながるという欠点もある。 投げ上げサービス(ハイトスサービス) サーブのトスをする際に、ボールを高く投げ上げて出すサーブ。慣れないと落ちてくる球の軌道が打球ポイントからずれてミスも出るが、回転やスピードが増す。また、照明の光が被るのでサービス前に確認する必要がある。世界には、7 - 8メートルものトスを上げる選手もいる。 サービスでの打球前、打球後において、相手を幻惑させることができるサービス技術の一種である。 通常のサービスではサービスの回転パターンが見抜かれやすいため、競技レベルになるとサービス時にフェイクを入れるフェイクモーションが用いられる。また、サービスを打った直後のフォロースルーでは、肘を上げたり、ラケットのスイング軌道とは異なる動きを入れたり、肘を上げてラケットの向きを変えたり、ラケットを隠す等の行為をすることで、相手を惑わすための手段として用いられる。トップ選手を中心に使用者が多い。 シェークハンド ドライブ主戦型 現在は多くの戦型のなかで主流となっている戦型。卓球台から少し距離をとり、前後左右のフットワークを駆使し、ボールに強いドライブをかけてつねに積極的・攻撃的に試合にのぞむ。ドライブ主戦型どうしのラリー戦は、力強く迫力があることに定評がある。 前陣速攻型 その名のとおり、常に卓球台に近い位置でプレーする戦型。相手の打球の種類やコースを瞬時に見てとり、早いタイミングで攻撃を仕掛けていくプレースタイル。判断の速さと動体視力がもっとも必要とされる戦型といえ、小柄な選手でも強さを発揮することができるため、日本人でこの戦型をとるトップ選手も多い。 カット主戦型 卓球台から離れた位置で、相手の強打に対して強い下回転をかけたボールで対応しながら、チャンスと見ると一気に前に出て反撃するなど、とてもダイナミックな戦型。動作範囲の広いフットワークとねばり強いカットの技術、そして攻めに転じたときのパワーとスピードが要求されるプレースタイル。 上記は『みるみる上達スポーツ練習メニュー5卓球』106ページより。 異質攻守型 台から離れずショートに対しての相手のミスで点を取る戦型。一般的にラケットのバック側に粒高ラバーを貼り、それによる変化ボールやコースの緩急で相手のミスを誘う。たいていフォア側には裏ソフトラバーや表ソフトラバーを貼り、フォアに来たボールはスマッシュやドライブで攻撃する。また、打球に緩急をつける場合に、ラリー中にラケットを反転させて攻撃することがある。日本の福岡春菜が有名。 オールラウンド型 両面に裏ソフトラバーを張り、ドライブ・ロビングなど多くの技術を駆使して点を取る戦型。戦術の柔軟性や高い身体能力、前陣・中陣・後陣全てで戦うことができる技術力が求められる。スウェーデンのワルドナーや日本の水谷隼が有名。 ペンホルダー ドライブ主戦型 通称ペンドラ。主にフォアハンドドライブによって攻める。回り込みや飛びつきなど、フットワークを活かしたダイナミックなプレーをする選手が多い。構造上シェークハンドドライブ型ほど強いバックハンドドライブを打つのは難しいといわれるが、それを十二分に補えるだけの得点力のある快速プッシュや、バックハンドスマッシュを得意とする選手もいる。しかし、基本的にペンホルダーの弱点はバックである。それ故、回り込んだところに逆コースを突かれて守勢に回ってしまうことも多い。しかし、最近は中国を中心に、裏面打法によって強力なバックハンドドライブ(いわゆる裏面ドライブ)を打つ選手もいる。韓国の柳承敏、金擇洙、中国の王皓、馬琳、許昕、日本の吉田海偉が有名。 表ソフト速攻型 表ソフトラバーを用いてできるだけ短い手数で攻撃につなげ、積極的に攻める戦型。主にスマッシュを決定打として用いる。ドライブ主戦型と同じく裏面打法でバックハンドドライブを打つ選手もいる。日本の田崎俊雄、中国の劉国梁(現中国ナショナルチームコーチ)などが有名。 異質ショート型 主に反転式や中国式のペンホルダーラケットを用いて、両面にラバーを貼り、このうち片面には粒高ラバーを貼るタイプを指す。通称ペン粒と呼ばれる。裏ソフト+粒高、表ソフト+粒高の組み合わせが一般的。試合中は台の近くでプレーし、粒高ラバーによるブロックの変化で相手のタイミングを崩し、相手に隙が出来たら攻撃するのに加え、ラケットを反転し異なった球質の打球を出して相手のミスを誘うなど、守備的な戦型である。ラバーの基準変更やルールの変遷の中で、粒高ラバーの威力が昔より減少していることもあり、この戦型を採用しているトッププレーヤーは非常に少ない。女子では中国の陳晴や元中国代表でルクセンブルクの倪夏蓮が有名。 タオリング (towelling) 競技中にタオルで汗をふくこと。以下の場合に、短時間のタオリングが認められる。 各ゲームの開始から6ポイントごと(つまり競技者両方のポイント数の合計が6の倍数の時) 最終ゲームでチェンジエンド(コートの交代)をしたとき ラケットの表面が汗でぬれたり、メガネに汗がついたりして審判員の許可があったとき クロスとストレート クロスは対角線上の相手コート側を指し、ストレートは自陣のいる場所から真正面の相手コート側を指す。 エッジ(エッジボール) 卓球台の端(エッジ)に触れて落ちたボール。 レット プレーをもう一度やり直させる事。サーブのボールがネットに触れて相手コートに入ったり、相手が準備が出来ていない状態でサーブを打った時などが該当する。 ラブゲーム 相手に一点も取られず、セットを取ること。 国際大会では10-0になった時はサーブミスをし、失点しなければいけないという不文律がある。1点与えられた側は勝とうとせず、次にミスをしなければならない。いずれもルールでは決まっていない。 日本 - 1950年代 - 1970年代には、日本は世界のトップクラスであった。過去シングルスの世界チャンピオンを男女計13人輩出している。80年代以降はシェークハンドの普及でプレイスタイルの変更を余儀なくされ、それに伴う世代交代の失敗等により停滞が続いていた。 しかし、2000年代以降は女子が世界選手権団体で5大会連続銅メダル、2014年と2016年には銀メダルを獲得し、五輪では2012年が団体で銀メダル、リオデジャネイロオリンピックは団体で銅メダルを獲得した。また個人では2017年のアジア選手権で平野美宇が3人の中国選手を破って優勝し、2017年の世界選手権で平野美宇が48年ぶりに女子シングルスで銅メダルを獲得した。 男子においても2005年世界ジュニア選手権団体戦で優勝、2008年以降の世界卓球選手権団体で4大会連続で銅メダル、2016年は銀メダルを獲得し、リオデジャネイロオリンピックでは男子団体で銀メダル、男子シングルスで水谷隼が銅メダルを獲得するなど、復調の兆しがある。 中華人民共和国 - 世界最大の卓球大国。歴史的に前陣速攻を軸とした台上卓球を得意とし、かつては表ソフトを使用する選手が多かったが、近年では粘着系ラバーを使用する選手が圧倒的に多い。男子・女子いずれも選手層が厚く、行き場の無くなった強豪選手が数多く海外に流出し、結果的に世界中に帰化選手を送り込んでいる。2008年の北京オリンピックでは、男女個人で表彰台を独占したり、団体では男女共に金メダルを獲得している。 香港 - 国としては中国の一部だが、卓球の国際試合には地域として参加する。当然ながら中国と似たプレースタイルの選手が多い。代表選手のほとんどが中国の帰化選手。 大韓民国 - フットワークを生かしたダイナミックなプレーをする選手が多い。ソウルオリンピック・アテネオリンピックでは男子単の金メダルを獲得。 朝鮮民主主義人民共和国 - 男子は韓国の選手と比べてストイックなプレースタイルを得意としており、女子は粒高や表ソフトを使った異質選手が多い。2002年のアジア競技大会の決勝で中国を破ったり、アテネ五輪ではキム・ヒャンミが中国系選手を倒して銀メダルを獲得したり、2016年の世界卓球選手権団体で女子が銅メダルを獲得する等、強い面を見せることもある。 中華民国 - 日本、韓国に近いプレースタイルの選手が多い。中国ほどの強さはないが、ランク上位に顔を出すことがある。 シンガポール - 代表選手は中国の帰化選手が多く、プレースタイルも中国と類似している。女子は、2008年世界選手権と2008年北京オリンピックの団体でいずれも銀メダルを獲得しており、2010年の世界選手権(団体)では中国を破り金メダルを獲得した。 ドイツ - 卓球のプロリーグ(ブンデスリーガ)があり、男子では世界中から有力な選手が集まっている。男子は2008年北京オリンピック団体で銀メダルを獲得、女子においても2016年のリオデジャネイロオリンピックで団体銀メダルを獲得するなど、ヨーロッパでは強豪国である。 スウェーデン - 1980年代後半から1990年代にかけて、スウェーデンは男子の卓球の頂点を占めていた。最近は若手が育ってきていないため、かつての強さはない。 フランス - 卓球のプロリーグがあり、かつてはヨーロッパではドイツ、スウェーデンと並ぶ強豪国。しかし、世代交代の失敗により2000年代以降は低迷している。 イングランド - イギリスの一部であるが、卓球の国際試合には地域として参加する。島国でかつ過去に香港を統治した歴史的背景から、他のヨーロッパ諸国とは異なるプレイスタイルの選手が多い。長らくは低迷が続いていたが、男子は2016年の世界卓球選手権大会で銅メダルを獲得。 ロシア - 卓球のプロリーグ(プレミアリーグ)があり、男子では世界中から有力な選手が集まっている。 ヨーロッパ諸国 - スウェーデン、ドイツ、フランス以外のヨーロッパの様々な国においても卓球は盛んである。比較的小国が多いため世代交代による浮き沈みが激しいが、有力選手がいる国では国際大会において好成績を残すことがある。 北アメリカ - 上述の国々ほど盛んとは言えないが、中国の帰化選手が代表になってレベルの底上げがなされている。 一般的にアジアとヨーロッパで盛んだが、前述したように中国の帰化選手が世界各地に散っているため、中国人の代表選手が多い国もある。 ラージボール卓球(平成24年4月1日以前は新卓球と呼ばれていた)は、一般的な卓球(硬式卓球)で使われているボール(直径40mm)よりも大きなボールを使って行われる卓球競技である。硬式卓球との主な違いは 使用するボールが大きく(直径44mm)て軽い ラバーには表ソフトラバーのみ使用可、但し粒高ラバーは不可 ネットの高さが2cm高い サービスのトスの高さ(硬式では16cm)の規定がない。 などである。 日本卓球協会が卓球の普及を目的として考案、ルール・用具規格等を1988年に制定した。ボールが大きく空気抵抗の影響が増大するため、ボールの速度、回転量が従来の卓球よりも減り、ラリーが続きやすくなるなどの特徴がある。日本では高齢者でも手軽にできる生涯スポーツとして主に中高年に人気があり、多くの大会が開催されている。 スリッパ卓球では、ラージボールの大きな黄色いボールが使用される。デュースでも1ゲーム13点までで決着がつく。最大ゲーム3ゲームマッチ。 山口市で行われた温泉卓球では、もと日本生命に在籍していた選手が優勝し新聞紙上に大きく取り上げ話題になった。 日本にて初めて卓球が伝来したのは、1902年に東京高等師範学校の坪井玄道がイギリスから卓球用具を持ち帰ったのが最初とされる。そこからしばらくの間は日本独自の用具とルールの発展があり、初の卓球統轄機関として大日本卓球協会が創立された1921年(大正10年)頃は軟式(日本式)卓球にて競技が行われていた。硬式卓球との主な違いは 使用するボールの直径は36.9mm以上38.9mm以下 ボールの重さは2g以上2.13g以下 ネットの高さが2cm高い17.25 cm などである。 ラージボール卓球の普及や硬式卓球のルール変更に伴い日本独自の軟式(日本式)卓球は2001年(平成13年)度を最期に幕を閉じた。 卓球は、他のスポーツと比べ、ゲームをプレイする条件(ルールの理解、スキル、場所・道具・プレイヤーの確保)を満たすことが容易なため、老若男女問わず親しみやすく、実践的、生涯スポーツとして広く日本人に愛されている。しかし卓球部員はいわゆるジョックではなくナードとして扱われる(これは偏見であり、タモリの根暗発言が原因でこのような状況が出来てしまったとの意見がある)ことが一般的であるが、北米やヨーロッパではこのような偏見は無い。ただし、欧米でも前述のように中国人をはじめとした黄色人種に人気のあるスポーツであるというイメージはある。 1993年に漫画『行け!稲中卓球部』がベストセラー、ほぼ同時期に福原愛が「天才卓球少女」として脚光を浴び、2002年に映画『ピンポン』(窪塚洋介主演)が上映されて以降、ブームが若者の間にも広まった。服装を問わず、力のない女性や子供でもできること、ケガの心配も少ないことから、気軽に遊ぶことが出来るスポーツの一つである。 ^ 11点制導入の背景とその戦い方 All About 2001年7月16日 ^ 卓球 知識の泉 藤井基男 2003年 株式会社卓球王国 P23 ^ 山田耕筰著作全集3 株式会社 岩波書店 2001年 P667 ^ a b c d e f g h i 日本卓球栄光の歴史(2009年1月22日時点のアーカイブ) 2009年世界卓球選手権横浜大会公式サイト ^ a b c d e f g h i 世界卓球選手権の歴史(2009年1月22日時点のアーカイブ) 2009年世界卓球選手権横浜大会公式サイト ^ a b c d e 白髭隆幸・SPORTS 21、第三十回 卓球ニッポンを支えた名選手・荻村伊知朗(インターネットアーカイブ) Japan Senior Online ^ ハンドソウラケットの一例 ヤサカ公式サイト ^ よくある質問/Q.ラケットに表示されている打球感のハード、ソフトとはどういう意味ですか?(2008年8月11日時点のアーカイブ) バタフライ卓球用品/タマス公式サイト ^ よくある質問/Q.ラケットにもラバー同様に寿命はありますか?(2008年8月11日時点のアーカイブ) バタフライ卓球用品/タマス公式サイト ^ 【スポーツ異聞】「照明暗すぎる」「大会使用球を統一して」卓球“モノ言う王者・水谷隼”の問題提起 - 産経ニュース 2015年2月13日 ^ 卓球ボールが変わる…「プラスチックボール」は選手にとって毒か、薬か - 東亜日報 ^ 【卓球】思わぬ“洗礼”試合球6球だけ!美誠「気をつけて使わないと」 - スポーツ報知、2016年8月2日 ^ 今後の接着剤の使用とラケット検査について(日本卓球協会 平成19年6月11日) (PDF) 徳島県卓球協会 ^ ルール変更について (PDF) (2008年9月15日時点のアーカイブ) 日本卓球協会 2008年(平成20年)9月13日 ^ 「理念と経営」2016年8月号 ^ 【アスリートを支える】青い卓球台 復興願って - 朝日新聞 2016年4月8日 ^ Narinari.com 2015年9月8日付 2017年2月22日閲覧 ^ テレビ朝日『日本人の3割しか知らないこと くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館』 2016年8月7日放送分より ^ エッジボール とは - コトバンク ^ 「観戦必携/すぐわかる スポーツ用語辞典」1998年1月20日発行、発行人・中山俊介、50頁。 ^ レットとは - コトバンク、2016年6月24日閲覧 ドライブ主戦型 カット主戦型 前陣速攻型 王子サーブ 裏面打法 国際卓球連盟(ITTF) アジア卓球連合(英語版)(ATTU) ヨーロッパ卓球連合(英語版)(ETTU) ラテンアメリカ卓球連合(英語版)(ULTM) 北アメリカ卓球連合(英語版)(NATTU) オセアニア卓球連合(英語版)(OTTF) 日本卓球協会 関東学生卓球連盟 全国専門学校卓球連盟 日本オリンピック委員会(JOC) JOCエリートアカデミー 卓球日本代表 卓球ジュニア日本代表 卓球ホープス日本代表 中国代表(英語版) ドイツ代表(ドイツ語版) フランス代表(ドイツ語版) スウェーデン代表(ドイツ語版) オーストリア代表(ドイツ語版) ポルトガル代表(ドイツ語版) ベラルーシ代表(ドイツ語版) 卓球選手一覧 オリンピック卓球競技 - 4年に1度開催される夏季オリンピックにおいて、1988年ソウル大会から正式種目になった。 世界卓球選手権 - 1926年に始まった世界大会。現在では奇数年に個人戦、偶数年に団体戦が交互に開催されている。 ワールドカップ (卓球) - 1980年に始まった毎年開催される国際大会の1つ。 ITTFワールドツアー - 1996年に始まった毎年世界各地で開催される国際オープン大会。 ITTFワールドツアーグランドファイナル - 毎年行われるITTFワールドツアーのチャンピオンを決める最終戦。 ユースオリンピック - 2010年に始まった4年に1度開催される18歳以下のオリンピック。 世界ジュニア卓球選手権 - 2003年に始まった毎年開催される18歳以下の国際大会。 アジア卓球選手権 - 1952年に始まった隔年開催されるITTF認可のアジアの国際大会。ATTU主催のアジアカップとは異なる。 アジア競技大会卓球競技 - 1958年の東京大会(英語版)から正式種目になった。 アジアカップ - アジア卓球連合(英語版)(ATTU)主催で1983年に始まった、毎年行われるアジアの国際大会である。また本大会3位までの選手は同年に開催されるワールドカップの出場権を獲得する。 アジアユースゲームズ - 2009年に始まった4年に1度開催されるアジアの18歳以下の国際大会。翌年開催されるユースオリンピックのアジア予選も兼ねる。 アジアジュニア卓球選手権 - 1964年に始まった毎年開催されるATTU主催のアジアの18歳以下の国際大会。 アジアカデット卓球選手権 - 1986年に始まった毎年開催されるATTU主催のアジアの15歳以下の国際大会。 東アジアホープス卓球選手権 - 1992年に始まった毎年開催される東アジアの12歳以下の国際大会。 ヨーロッパ卓球選手権 - ヨーロッパの選手を対象に個人戦と団体戦を行っている。ヨーロッパチャンピオンズリーグとは異なる。 ヨーロッパトップ12 - ヨーロッパ卓球連合(ETTU)が主催するヨーロッパの選手を対象にした国際大会で、2017年現在は、16人によるヨーロッパトップ16として開催されている。 ユニバーシアード卓球競技 世界ベテラン卓球選手権 Tリーグ 日本卓球リーグ ビックトーナメント 中国スーパーリーグ (卓球) ヨーロッパチャンピオンズリーグ - ヨーロッパの各リーグの上位クラブによる国際大会。 ETTUカップ(英語版) - ヨーロッパの各リーグのクラブの国際大会。サッカーのヨーロッパリーグに該当。 ドイツ・ブンデスリーガ スーパーリーグ(ドイツ語版) オーストリア、クロアチア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニアのトップクラブが参加するリーグ フランスリーグ(フランス語版) オランダリーグ(オランダ語版) ポーランドリーグ(ポーランド語版) トルコリーグ(トルコ語版) スウェーデンリーグ(スウェーデン語版) スーパーサーキット(ドイツ語版) - 2002年に日本で開幕した、世界トップ選手を集めたトーナメント方式の個人戦の大会。2006年に消滅。 全日本卓球選手権大会 ドイツ選手権(ドイツ語版) フランス選手権(フランス語版) オランダ選手権(ドイツ語版) ポーランド選手権(ポーランド語版) イギリス選手権(英語版) ロシア選手権(ロシア語版) フィンランド選手権(フィンランド語版) トルコ選手権(トルコ語版) スウェーデン選手権(スウェーデン語版) 荻村杯国際卓球選手権大会- 1989年に始まった毎年開催されるITTFワールドツアーの一つ。通称ジャパンオープン。 全日本卓球選手権大会 カデットの部 全日本卓球選手権大会ホープス・カブ・バンビの部 全日本卓球選手権大会マスターズの部 ジャパントップ12卓球大会 東京卓球選手権大会 全日本社会人卓球選手権 全日本実業団卓球選手権大会 全日本大学対抗卓球選手権 全日本学生卓球選手権大会 全日本学生選抜卓球選手権大会 全国高等学校卓球選手権大会 全国高等学校選抜卓球大会 四国高等学校卓球選手権大会 全国中学校卓球大会 全国中学選抜卓球大会 全国ホープス卓球大会 全国ホープス選抜卓球大会 全国レディース卓球大会 国民体育大会 全国健康福祉祭(ねんりんピック) 全国青年大会 全国スポーツ祭典 スリッパ温泉卓球大会 ITTFスターアワード 世界卓球殿堂 ITTF世界ランキング 段級位制 タマス(「Butterfly(バタフライ)」ブランドの卓球用品) 日本卓球(「Nittaku(ニッタク)」ブランドの卓球用品) VICTAS(「TSP」「VICTAS」ブランドの卓球用品、旧ヤマト卓球) ヤサカ (卓球用品)(「Yasaka(ヤサカ)」ブランドの卓球用品) 三英(「SAN-EI」ブランドの卓球台を製造) 上海紅双喜(「紅双喜 DHS(こうそうきディーエイチエス)」ブランドの中国大手の卓球用品メーカー) XIOM(韓国の卓球用品メーカーのChampion社が発売しているブランド。) スティガ(英語版)(スウェーデンの卓球用品メーカー。) 卓球王国(唯一の書店売りをしている卓球専門月刊誌。) 卓球レポート(タマスが発行する卓球専門月刊誌。) ラリーズ 卓球ナビ ナショナルトレーニングセンター 東京体育館 国立代々木競技場第二体育館 グリーンアリーナ神戸 卓球温泉 燃えよ!ピンポン ミックス。 パリス卓球 チームヒルトン 卓球戦隊ぴんぽん5 行け!稲中卓球部 ピンポン 必殺卓球人 卓球社長 卓球少女 ラバーズ7 卓球Dash!! Doubles! P2! - let's Play Pingpong! - ねこみみぴんぐす タッコク!!! 灼熱の卓球娘 卓上のアゲハ 少年ラケット 卓球場シリーズ ピンポンぱんつ! -湯河原学園美少女☆温泉卓球部- コナミのピンポン おきらくピンポンWii 対戦たっきゅう ライジンピンポン ポン パンポン ビアポン ヘディス バスケットピンポン 国際卓球連盟(ITTF) アジア卓球連合(ATTU) 財団法人日本卓球協会 日本卓球リーグ実業団連盟 関東学生卓球連盟 全国専門学校卓球連盟 日本オリンピック委員会(JOC) JOCエリートアカデミー 「卓球ラケットができるまで」 - 株式会社タマスを取材して卓球ラケットの製造工程を紹介(全14分) 2001年 サイエンスチャンネル 「ピンポン球ができるまで」 - 日本卓球株式会社古河工場を取材してピンポン球の製造工程を紹介(全14分) 2003年 サイエンスチャンネル", "ソフトテニス(英語: Soft Tennis)は、2対2(計4人)または1対1(計2人)となりプレイヤー同士がゴム製の柔らかいボールをネット越しにラケットで打ち合うテニス(硬式テニス)から発展した球技。2対2(ダブルス)が主流で、主に日本を中心としたアジア圏の一部でプレーされる。軟式庭球、軟式テニスと呼ばれていた。正式名称は、1992年の全面的なルール改定の際にソフトテニスとなった。 ソフトテニスは日本を中心とした東アジア(韓国、台湾、中国大陸、モンゴルなど)で主に競技される。硬式テニスと同サイズのコートを使用し、似た形状の道具を用いるが、ほぼダブルス中心の競技として発展してきたのがラケットスポーツとしては特異な点である。ダブルス中心での発展の過程でポジションの専門性が高くなったが、近年、オールラウンドプレーがおもに海外から流入し、多様化が進んでいる。 ローンテニスがイギリスで発生したのは1874年(明治7年)であり日本への伝播は早くて1878年(明治11年)といわれるが諸説が存在する。表孟宏編による『テニスの源流を求めて』には数々の説が紹介されているが、どれが事実なのかは特定できていない。なかでは明治政府の招きで来日したリーランド博士がアメリカから用具をとりいれて、赴任校である体操伝習所(1879年創設)で教えたという説が一般に広く知られている。がこれとてそれを決定づける確たる証拠はないとされる(前書参照)。ただ遅くとも体操伝習所が廃校になる1886年頃にはゴムボールをつかったテニスが普及しつつあった。これはローンテニスのボールの国産が難しく、また輸入品も高価であったために、比較的安価であったゴムボールを代用した、と伝えられる。ゴムボールも当初は輸入品であったが、1900年に国産化に成功している。 1885年に坪井玄道・田中盛業編集による『戸外遊戯法』という本が出版されているが、これが日本語によるテニスのルールの最初のものとされる。 体操伝習所は廃校になったが、高等師範学校に体育専科がおかれ、『戸外遊戯法』の編者である坪井玄道が教師に赴任、テニスの指導をおこなう一方で、三田土ゴム(のちのアカエム)に委嘱してゴムボールを製造させ、普及に尽力した。 三田土ゴムは1890年(明治23年)に製造を開始。日本国産球が完成したのが1900年。1908年には特許を取得している。 東京高等師範体育専科の卒業生は1887年頃から全国に教員として赴任していくが、ボールの国産化はそれと同時に進行していき、ゴムボールをつかったテニスは全国に普及していくこととなった。 1904年(明治37年)、東京高等師範学校(後の東京教育大 現筑波大)、東京高等商業学校(一橋大)、早稲田、慶応の4校の代表が集まりルールを制定。まだまだ不備な点が多々あったものの、これが日本人が制定したソフトテニスルールの最初のものとされる。これ以前は翻訳ルールをそのまま流用していた。 1970年代『軟式テニスは中、高校ではもっとも人気のあるスポーツである』とされていた。現在は、日本において約60万人の競技人口(登録者)と推定700万人の愛好者がいると日本ソフトテニス連盟は主張している。 しかしながら、一般的にも愛好者の意識のなかでもマイナー感が極めて強いのもまた事実である。原因としては、オリンピック種目ではないこと、日本国内にプロ選手が存在しないこと、学校体育(中学、高校)が中心であると認識されていること、1980年代から急速に大衆化したテニス(硬式テニス、ローンテニス)の影響等が考えられる。 ダブルスとシングルスがある。ダブルスが主流である。 試合に先立ってトスを行う。 サーバーはコートより外側、センターマークとサイドラインの仮想延長線の間から、ネットより向こう側、相手コートの対角線上のサービスエリアでバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールが2回バウンドする前に相手コートに打ち返し、お互いにラリーを続ける。次のようなときに相手に1点が入る。 サーブを二回連続でフォルト(ミス)したとき(ダブルフォルト) サーブされたボールがバウンドする前にレシーバーが触れたとき(ダイレクト、レシーバー側の失点) 相手の打ったボールが自分のコートで連続2回バウンドしたとき(ツーバウンズ) 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、相手のコート外だったとき(アウト) 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、自分のコート内だったとき ラケット以外の部位がボールに触れたとき(ボディータッチ) 打ったボールがアンパイヤーに命中したとき 相手コート内でボールに触れたとき(ネットオーバー) ラケットが手から離れてボールに当たったとき ボールがネットにかかったとき(ネットの裂目や隙間をすり抜けた場合を除き、ネットに触れた後に相手コートにバウンドするのは認められる。) プレー中に体かラケットがネットに触れたとき(ネットタッチ)(プレーヤーが身に着けていたものが地面に落ちる前に触れた場合も含む) プレー中に体かラケットが審判台、アンパイヤーに触れたとき(タッチ) ボールがラケットのフレームに当たったとき(チップ) 得点は、ゼロ、ワン、ツー…と数える。先に4点を取った方が1ゲームを取得する。ただし、ポイントが3-3になるとデュースとなり、その場合にゲームを得るには、相手に2点差をつける必要がある。デュースの後の数え方は、サーブ側がポイントを取るとアドバンテージ・サーバー、レシーブ側がポイントを取るとアドバンテージ・レシーバーとなる。カウントコールはサーバー側が先となる。2-2等両者の得点が同じ場合は、3-3以前までは「○○オール」と言う数え方をする。3-3以降は前記の通り。但し2回目のデュースでは「デュース アゲイン」と言うコールをする。 総ゲーム数の過半数ゲーム(5ゲームマッチなら3ゲーム、7ゲームマッチなら4ゲーム、9ゲームマッチなら5ゲーム)先取すると勝ちとなる。ゲームカウントが2-2(5ゲームマッチの第5ゲーム)3-3(7ゲームマッチの第7ゲーム)あるいは4-4(9ゲームマッチの第9ゲーム)になったときは、7ポイント先取のファイナルゲームを行う。ポイントが6-6の場合はデュースとなり、相手に2点差をつけると、そのマッチの勝者となる。偶数ポイント目の決着後にコートサイドやサーブ(サーバーペア)を交代する。(最初の2ポイントでサイドとサーブを交代し、以降4ポイント毎にサイド、2ポイント毎にサーブを交代) シングルスは1993年より正式に導入された。このとき採用されたルールは現在のそれとはおおきく異なり、コートの左右半面を使用するというもの。発足当初から疑問の声があがっていたが、2003年の世界選手権よりルールが改定。硬式テニスのシングルスと同サイズのコートで競技されることになった。ネットの高さなどはダブルスと同様である。 ダブルスのルールは1993年に大きな変更が見られた。1993年のルール改定では、主に「ポジションの制約」というルールが加えられた。レシーバー以外のプレーヤーはインプレー前にコートに入ってはいけない、とするもの。加えて、2ポイント毎にペア同士でサーバーを交代することとなった。またファイナルゲームでのタイブレークシステムが採用。当然サービスサイドの交代もとりいれられ、永年の不公平がようやく解消された。 2004年にはマイナーチェンジがあり、サービス時のポジションの制約がなくなった。 日本国内で日本ソフトテニス連盟主催の大会(あるいはそれに準ずる大会)に出場するには基本的に日本ソフトテニス連盟公認用具を使用しなければならない。(公認用具はラケット、ボール、ウエア(ユニフォーム)、ストリングス、シューズ) 棒状のグリップの先が輪になっており、そこ(フレーム)にストリングを張り使用する。長さ約70センチ前後、重さは200〜320グラム程度。また、硬式のラケットと違いソフトテニスのラケットはグリップの形が正八角形になっていたり、シャフト(グリップと面の間)が長いという違いがある。 空気の入ったゴム製のボールを使用する。色は原則として白色又は黄色で、直径は6.6センチメートル、重さは30グラム〜31グラム。コート内において、ボールの下端が1.5メートルの高さから落として、70〜80センチメートルバウンドするもの。 ボールの空気圧を調整するためのもの。これを使いバウンドの調整を行う。 ソフトテニスコートの規格について、日本ソフトテニス連盟は次のように定めている。 縦23.77メートル、横10.97メートルの長方形とし、区画するラインの外側を境界とし、中央をネットポストで支えられたネットで二分する。競技規則第5条 コートのラインは原則として白色で、幅は5センチメートル以上、6センチメートル以内。ただしベースラインの幅は5センチメートル以上、10センチメートル以内。競技規則第7条 ネットポストの高さは1.07メートル競技規則第10条。ネットの高さは1.07メートル。これを張ったときの高さはサイドライン上から1.07メートルで、水平に張る。競技規則第12条 コートのサーフェス(表面)は、屋外コートではクレー(土、含アンツーカー)、砂入り人工芝、ハード(全天候型ケミカル)等。屋内コートでは、木板(フローリング)、砂入り人工芝、硬質ラバー、ケミカル等がある。 原則1.07メートルのネットを使用する。硬式テニスのネットとは違い、ストラップは使用しない。 クロス コート対角線のこと。右対角線を正クロス(順クロス)、左対角線を逆クロスという。単にクロスという場合は正クロス(順クロス)を指すことがおおい。 ミドル コートのセンターマークからセンターサービスラインにかけてのコースを指す。 ストレート サイドラインの平行線となるコースを指す。いわゆるダウンザライン。 グリップ ラケットのハンドル部分の呼称だが、単にグリップと言う時、慣例的にその握り方を指すことがほとんど。 ウエスタングリップ 地面と水平に置いたラケットを真上から握って持ち上げた握り方。ソフトテニスの基本的なグリップになる。 イースタングリップ ラケットフェースを地面と直角になるようにセットし、握手するように握る。あるいはラケットフェースに手のひらをあてそのままグリップ位置までずらし握る。ラケットフェースと手のひらの角度が同じになる コンチネンタルグリップ ラケットエッジを刃に見立てた、いわゆる、包丁握り。サービスやスマッシュ、あるいは難球処理等で用いる。 グラウンドストローク ワンバウンドで打つストローク。バックハンドとフォアハンドがある。 トップ打ち(トップストローク或いは単にトップと呼んだりもする) グラウンドストロークにおいて高い打点から打ち込む打法。 ネットプレー 前陣、つまりコート半ばからネット際でのボールの処理。ノーバウンドでのプレーが多くなる。攻撃の要。 ボレー ボールがバウンドする前に直接打つこと。 スマッシュ ボールを上から叩き込むように強く打つこと。語源は「打ち砕く」。 サービス プレーをはじめるにあたっての第一打。一度ミス(フォルト)してももう一度打つ事ができる。(セカンドサービス) ダブルフォルト サーブを一度ミスすることをフォルトという。そして、もう一度サーブを打ってミスすることをダブルフォルトという。ダブルフォルトをすると、失点となり相手の点となる。 フラットサービス 回転(スピン)をかけずに打ち込むサービス。最も速いサービス。 トップスピンサービス ボールに順回転(トップスピン)をあたえて打つサービス。フラットサーブに比して威力は減じるがスピンをあたえることでコントロール性が高くなる。 リバースサービス ボールに左回転をあたえて打つサービス。 スライスサービス ボールに右回転をあたえて打つサービス。打点の高さによりトップスライスサーブ、サイドスライスサービスと区別される場合がある。 カットサービス ボールに鋭角にラケットフェースを当て、切る(カット)ように打たれるサーブ。ファーストサーブとして強烈に打たれるものから、セカンドサーブとして用いられる比較的ゆるいサーブまでさまざまなバリエーションがある。 スピン ボールの回転のこと。 トップスピン 順回転のこと。 アンダースピン。 逆回転のこと。 サイドスピン 横回転のこと。 ベースラインプレー 後陣、つまりベースライン付近でのボールの処理。グラウンドストロークが中心。 ロビング 主にグラウンドストロークにおいて高い軌道をとる打球のこと。ロブともいう。 中ロブ ロビングとシュートの中間の打球。 シュート コートとほぼ平行で、ネットすれすれの高さに飛ぶボールのこと。シュートボールともいう。強く打つため、攻撃的なボール。 ドライブ ソフトテニスではトップスピン(順回転)をかける意味。 レディ(ready) マッチ開始前の練習をやめさせ、プレーヤーを位置につかせるコール プレーボール(play ball) マッチ開始を告げるコール チェンジサイズ 奇数ゲームが終了した時、サイドを交代し、サービスを相手方と交代することを命ずるコール(競技規則第32条) チェンジサービス 偶数ゲームが終了した時、サービスの交代を命ずるコール(競技規則第32条) インターフェア インプレー中において、明らかにゲームの妨害、反則になる行動もしくは発言あったときコールされる。失点並びにイエローカードとなる。 世界ソフトテニス選手権 アジアソフトテニス選手権 アジア競技大会 「東アジア競技大会」 全日本ソフトテニス選手権大会 全日本シングルスソフトテニス選手権 全日本インドアソフトテニス選手権 国民体育大会(国体) 東日本ソフトテニス選手権 西日本ソフトテニス選手権 社会人 全日本実業団ソフトテニス選手権 ソフトテニス日本リーグ 全日本社会人ソフトテニス選手権 全日本シニアソフトテニス選手権 全日本クラブ選手権 大学 全日本学生ソフトテニス選手権(インカレ) 全日本大学ソフトテニス王座決定戦 全日本学生インドア大会 高校 全国高等学校総合体育大会(インターハイ) 全日本高等学校選抜ソフトテニス大会 アゼリアカップ国際大会 ハイスクールジャパンカップ 中学校 都道府県対抗全日本中学生ソフトテニス大会 全国中学校ソフトテニス大会 小学生 全国小学生ソフトテニス大会 東アジア競技大会 亜細亜軟式庭球選手権大会 1955年から1973年までほぼ隔年毎に9回開催された日本、韓国、中華民国(台灣)による3カ国対抗。国際ソフトテニス連盟の設立にあわせて発展的に解消された。 アジア学生選手権 1982年から1997年まで隔年毎に3回開催された中華民国(台灣)韓国、日本。による3カ国対抗による学生大会。プロケネックス社のスポンサードを得て台灣主導で起ち上がった。。 1955年に日本・韓国・台湾の3か国によって「アジア軟式庭球連盟」が設立。同連盟により1956年-1973年に3か国対抗によるアジア選手権を開催。 1970年日米軟式庭球普及連絡協議会発足。これはアメリカンスクールとの連絡機関であり、中学生の日米親善試合を実現。 1972年にはアメリカ合衆国ハワイ州にハワイ軟式庭球連盟が設立。同時に州選手権を開催。ハワイ州公立高校の学校体育正科種目として採用。 ハワイ軟式庭球連盟が設立の前後、台湾(中華民国網球協会)の尽力により香港軟式網球協会が発足。ブラジル、ベネズエラでも軟式庭球協会が設立。 1974年に国際軟式庭球連盟が創立される(創立時の加盟国 日本、韓国、中華民国(台湾)、アメリカ、ベネズエラ、ブラジル、香港)。 1975年、第1回世界選手権が国際軟式庭球連盟主催、日本軟式庭球連盟主管のもと、アメリカ合衆国ハワイ州にて開催された。ハワイ開催となったのはハワイ軟式庭球連盟の設立を記念してという名目があったが、田中角栄の中国訪問による日中国交正常化の影響、それは中華民国(台湾)との断交を意味し、日本国内開催が困難となったためである。 1970年代後半には欧州およびアフリカ大陸(ザイール等)への普及活動が開始された。 1979年、ナショナルチームが渡米しカリフォルニアでデモンストレーションを行った。 欧州への普及活動が21世紀に入って行われている。ヨーロッパソフトテニス連盟も設立され、ハンガリー、チェコ、ポーランド等で定期的にトーナメントが開催されている[要出典]。 現在、4年毎に開催される世界選手権は2015年で15回を数え、2007年9月に韓国・安城で開催された第13回世界選手権には42か国に及ぶ国と地域からの参加があった。 アジア競技大会種目入りを目標として、韓国・台湾以外のアジア諸国への普及活動が1980年代に行われ、1988年には新生アジア選手権が名古屋で開催されている。1990年アジア競技大会(北京)に公開種目として初参加。 1994年からアジア競技大会(ASIAN GAMES)の正式競技。以降、1994年も含めて7大会連続で正式種目として競技されている。 1997年から東アジア競技大会の正式競技。 2009年にはユースのための年齢別国際大会である国際ジュニアソフトテニス大会(INTERNATIONAL JUNIOR SOFT TENNIS TOURNAMENT)がスタート。第1回大会が四日市市で12月に開催された 2011年東南アジアのオリンピックである東南アジア競技大会に正式競技として参加(第26回東南アジア競技大会SEA GAMES)。 2014年11月、第2回世界ジュニア選手権がインドで開催。 ^ 英語表記では1992年以前もsoft-tennis。また中国語圏(中国、台湾等)では現在でも軟式の文字が使われている(軟式網球) ^ 後衛、前衛 ^ シングルスは1990年代半ばになって正式採用された国際大会においては1992年にジャカルタで開催された第二回アジア選手権において個人戦シングルスが行われたのが最初となる。翌1993年の東アジア競技大会(上海)では団体戦にも採用(上海大会には公開種目として参加)。国内では1994年に第一回の全日本シングルス選手権が天皇賜杯・皇后賜杯全日本ソフトテニス選手権(ダブルス)と同時開催された。日本学生連盟ではそれ以前も独自ルールでシングルス選手権を開催してきている。 ^ 『戸外遊戯法』は1883年にイギリスで出版された『アウトドアゲームス』(FWストレンジ)の翻訳といわれている。 ^ ボール製作会社は明治30年頃には2社、明治40年代には7社。 ^ 1978,6.28朝日新聞東京版。文部省(当時)がおこなった調査に基づく記事。 ^ 日本ソフトテニス連盟発行「ソフトテニスコーチ教本』他による ^ ソフトテニスはその普及の過程で東京高師(現筑波大学)の(教員となった)卒業生たちの手によって全国に広く分布普及していった歴史的背景、経緯 がある。 ^ 第二次テニスブーム ^ 歴史的にダブルス中心で発展し、現在もダブルスが主流だが、1992年のアジアソフトテニス選手権においてシングルス(個人戦)が採用、1993年の東アジア競技大会では団体戦においてシングルスを導入し3ダブルス2シングルスの形式で競技され、以後、団体戦にシングルスを組み込むことが慣例となった(2003年世界選手権より2ダブルス1シングルス)。1994年には全日本シングルス選手権が創設、以後、急速に普及が進んでいる。 ^ ラケットあるいはコインを使用する。じゃんけんが併用される場合もある。 ^ コート上でマッチの直前に行われる場合、入場前に行われる場合がある。 ^ トスとは、選択権を得たプレイヤーが第1ゲームのサーブ・レシーブ、又はコートサイドを選び、もう一方のプレイヤーは残った方を選ぶもの。 ^ ベースライン中央にある ^ ダブルスの場合、2ポイント毎にペア内でサーバーを交代する ^ 1-1ワンオール、2-2ツーオール ^ ストリング(ス)---俗に『ガット』ともいわれるが、厳密には『ガット』はナチュラルストリングスを指す。ソフトテニスにおいてナチュラルストリングスといえば鯨筋を指すが、現在はあまり用いられない ^ 日本ソフトテニス連盟の規定では、フレームに使われる材質や重量、または寸法・形状などに関する規定は無いが、両面のプレー特性が同一になるように設計されたもの、打球面は平面のもの、と定められている(競技規則第14条) ^ 現在日本国内では白、黄、青、赤、黒が販売されているが、白、黄以外は日本ソフトテニス連盟公認球ではない。なお公式戦では白色球が使用されることがほとんどである。 ^ 日本における公式戦では日本ソフトテニス連盟公認球が使用される。2015年現在、公認球は3種(三社、以前は数種(数社)あった)のみ。マッチにおけるボールの選択にはトスによる任意選択制、主催者の指定の二通りがある。 ^ 砂入り人工芝の通称として用いられる「オムニコート」は、SRIハイブリッド社の登録商標である。 ^ イースタングリップにはフォアハンドイースタンとバンクハンドイースタンがあるが、ソフトテニスにおいてイースタングリップというとき、ほとんどに場合フォアハンドイースタンを指す ^ 古くはイングリッシュグリップともいわれる。 ^ オーバーヘッドで打球される。 ^ ショルダーカットサーブとほぼ同様の低い打点でのサーブ。セカンドサーブで用いられる。 ^ 日本ソフトテニス連盟発行の教程 ^ 現在、国際大会のトップクラスではこれが主流である。 ^ 国内においてはマッチ開始前の練習は1分以内であることが多い。進行状況によっては省略されることもある。 ^ 1993年上海大会では公開競技、1997年釜山大会、2001年大阪大会、2005年マカオ大会では正式種目、2009年香港大会では正式種目から外れた。2013年天津大会では正式種目として復帰。同大会はその2013年天津大会をもって終了予定、東アジアユースゲームズとして再スタートすることが決まっている。 ^ 天皇賜杯(男子)、皇后賜杯(女子) ^ 旧全日本総合選手権 ^ 最古の室内大会、第一回より大阪で固定開催されている。開催年度のランキング上位ペアが出場(2015年現在で12組。 ^ 少年男子、少年女子、成年男子、成年女子の4カテゴリ毎の団体戦。2014年までは3ダブルスの点取り戦、2015年より2ダブルス、1シングルスの点取り戦。 ^ 一般(フリー)、成年(35歳以上)、シニア(45歳以上)の各種目がある、シニアは5歳刻みで数種目あり。 ^ 企業対抗の団体戦(3ダブルス点取り)。国体のリハーサル大会を兼ねる。 ^ 2ダブルス、1シングルスの点取り戦 ^ 下部リーグとして日本リーグ入れ替え戦、全日本実業団リーグ、各地区リーグがある ^ 一般男子、一般女子、成年男子(35歳以上)、成年女子(35歳以上)の4種目 ^ 全日本社会人より独立。45歳以上5歳区切りの各カテゴリーがある。 ^ 文部大臣杯大学対抗団体戦、三笠宮杯(ダブルス)、全日本学生シングルスの3トーナメントから成る。 ^ 各地区春季リーグ戦の優勝校が出場。近年は台湾、韓国代表大学も出場。 ^ 総理大臣杯 ^ 団体戦(3ダブルス点取り戦と個人戦ダブルス 男女計3種目から成る_ ^ 学校対抗の3ダブルス点取りによる団体戦。毎年度末に名古屋で開催される。 ^ 毎年2月に高松市で開催 ^ 3ダブルス点取り団体戦。韓国、台湾からも参加あり。 ^ 毎年6月に北海道で開催 ^ ダブルス、シングルス ^ 年度末に三重県伊勢市で固定開催 ^ 男子団体、女子団体、男子ダブルス、女子ダブルスの4種目 ^ 世界ソフトテニス選手権にグレードアップ ^ 第一回は台南市(クレー)、第二回はテグ市(クレー)、第三回は東京駒沢体育館で開催。 ^ 男子団体、女子団体、男子ダブルス、女子ダブルスの4種目。団体戦は3ダブルス総当たり9対戦という独特の形式。 ^ 亜細亜軟式庭球選手権大会。日本、韓国、中華民国(台湾)の3か国対抗、男子団体戦、女子団体戦、男子ダブルス、女子ダブルスの4種目。現在の世界選手権の前身となった。 ^ ソフトテニスセミナー主宰の宮本行夫氏の尽力による。 ^ 参考 日本庭球史 第1編軟式庭球概史 第6章 5.海外の軟式庭球 ^ ドイツ、イタリア、フランス、チェコ、ハンガリー、オーストリア、ポーランド等 ^ 第12回世界ソフトテニス選手権大会(2003年・広島)には全大陸よりエントリーがあった[要出典]。 ^ 1988名古屋、1992ジャカルタ、1996バンコク、2000佐賀、2004チェンマイ、2008ムンギョン、2012嘉義(台湾)、2016千葉で開催された。 ^ 1990年北京大会には公開競技として参加 ^ 1993年上海大会には公開競技として参加 ^ 男女それぞれにU21、U18、U15の3つのカテゴリーがあり、それぞれダブルス、シングルスが競技された。 ^ 国際ジュニアソフトテニス大会 主催-アジアソフトテニス連盟 ^ 2年毎の開催予定だったが、第二回大会は世界ジュニア選手権としてグレードアップして2014年にインドで開催された。 ^ タイ、フィリピン、インドネシアではナショナルゲーム(国体)の正式種目として定着 ^ 旧国際ジュニアソフトテニス選手権 テニス(硬式テニス) 日本ソフトテニス連盟 体育 公立学校 日本のスポーツ アジアのスポーツ 公益財団法人 日本ソフトテニス連盟 Soft tennis Homepage 日本学生ソフトテニス連盟", "バスケットボール(basketball 音声[ヘルプ/ファイル])は、1891年にアメリカで考案されたスポーツ。5人対5人の2チームが、一つのボールを手で扱い、長方形のコート上の両端に設置された高さ305cm(10ft)、直径45cm(18in)のリング状のバスケットにボールを上方から通すこと(ゴール)で得点を競う球技である。公式試合は屋内競技として行われる。狭義では、この競技に使用する専用のボールのことを指す。籠球(ろうきゅう)とも訳される。開催される国・地域、年齢や性別によってルールは調整される。 バスケットボールゲームの特徴は、 ボールを保持したまま基本的に移動できないこと 連続して移動する場合は床面でボールをバウンドさせるドリブル(球運び)を行い、このドリブルはプレーヤーの一連のプレーで1回のみ許されること ボールに対して下半身を使えないこと 対人接触に関しての規定が比較的多くあり、故意に接触すること、相手の身体や衣服を掴むことが禁止されていること ゴールはショットが放たれた位置によって得点が異なること 攻撃と守備の流れは流動的で、試合中の多くの状況で起こり得ること 試合の経過を滞らせないためにほとんどのプレーで制限時間があること などが挙げられる。 歴史にもあるようにルールを一人の考案者で作った事と、NBAなどプロスポーツと共に発展してきた事に起因して、見せるスポーツとしての側面も併せ持っているため、ルールが複雑なスポーツの一つである。その一方、楽しむスポーツという点では、ゴールリングとボールがあれば1人からプレーを楽しむことができ、1オン1(1対1)や、3オン3(3対3)で本格的にゲームをすることもできる。アメリカでは、公園など公共の場所にリングが設置されており、ゴールリングを指す俗称から転じて「hoop」とも呼ばれ親しまれている。 バスケットボールのゴールとなるバスケットは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。競技年齢や設備環境により、設置高さなど各種寸法は異なる。 このバスケット(リング)に正規の方法でボールを上方から下方に通過させることによってゴールが成立し得点が記録される。攻撃側(オフェンス)チームは、定められた方法で、プレーヤーがドリブルでボールを運んだり、プレーヤー間でパス(送球)を行いながら、得点となるバスケットのあるフロントコートへボールを運びつつ、ゴールチャンスをうかがい、一定時間内(ショットクロックが0になるまで)にショットを放ち、ゴール成立によるポイント(得点)を狙う。また一旦フロントコートへ運ばれたボールをバックコートに戻すことは出来ない。攻撃権のない守備側(ディフェンス)チームは、規定された方法でゴールを阻止し、攻撃権を奪うような防御プレーを行う。ボールポゼッション(攻撃権)は、得点があった場合、ヴァイオレイション(ゲーム運用における違反)またはファウル(主に相手チームやオフィシャルに対して犯される反則)があった場合、ピリオド(試合進行中の区切り)開始時などに、決まりに従い、チーム間で移動する。試合中のフィールドゴールは、ショットを放った位置によって、1回の成功で、ツーポイント(2点)あるいはスリーポイント(3点)が記録される。ファウル、あるいはヴァイオレイションに対するペナルティ(罰則)により与えられるフリースローでは、事例によって投数がワンスロー〜スリースロー(1〜3投)の間で決められ、一投成功につき1点が記録される。試合時間終了時点で、より多い得点を得たチームが勝利となる。基本的には、引き分けはなく、通常ピリオドの半分程度の時間のオーバータイム(OT)を、勝敗が決するまで繰り返し行う。 ネイスミスの考案 バスケットボールは、一人の人物によって考案され広まった数少ない競技のひとつである。考案者はアメリカ、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)の体育部教官を務めていたカナダ人のジェームズ・ネイスミスで、1891年に彼の考え出したルールが現在のバスケットボールの原型になっている。 1891年夏、国際YMCAトレーニングスクールでは体育・スポーツ指導者の講習会が開かれたが、当時、全米各州のYMCAでは冬季の屋内における体操中心のプログラムについて学生の意欲が低いとして既存のプログラムに対する不満があり、レクリエーション的で競技的要素を含んだプログラムが求められていた。同年秋、体育部主事のL.H.ギューリックは5人の体育指導教官を集めて数回にわたり検討した結果、新しいスポーツを創り出すほかはないとの結論に達した。体育教官であったネイスミスはアメリカンフットボールやサッカー、ラクロスなどを屋内ゲームとして取り入れようとしたが失敗に終わる。そこで、ネイスミスは各ゲームの要素を取り出すこととし、ボールを使用すること、ラフプレーを取り除く必要からタックルをなくすためボールを保持したまま走ってはいけないこととした。また、ゲーム中の安全性を高めるため競技者間の身体接触を少なくすることが考えられたが、これにはネイスミスが少年時代を過ごしたカナダ・オンタリオ州の雄鴨落し(Duck on the Rock)という的当て遊びにヒントを得てゴールをプレーヤーの頭上に水平に設置することとした。 ネイスミスが最初に考案した13のルールは現在では約250にまでなっているが、ゲームの形式は基本的にほとんどかわっていない。 初めての試合 1891年12月21日、国際YMCAトレーニングスクールで18人の学生を9人ずつに分け初めての試合が行われた。初めての試合のボールにはサッカーボールが用いられた。ネイスミスはゴールについては45cm四方の箱を想定していたが、それは用意できなかったため、代わりに桃を入れる籠(かご)を体育館のバルコニーに取り付けることとなった。このときのゴールの高さ10フィート(3.05m)は以後変更されることなく現在に至っている。また、フロアの広さはおよそ11m×15mの大きさであったという。この世界最初の試合の18人の中には日本人・石川源三郎が含まれていた。最初の試合ではトスアップから1時間ほどたって1年生W・R・チェイスのショットが決まって点が入りゲーム終了となっている。このスポーツの名称について初めての試合が行われるに先立ってネイスミスと学生フランク・マーンとの間で話題になり桃の籠を用いたことから「バスケットボール」と名付けられた。 その後、YMCAトレーニングスクール広報誌「ザ・トライアングル」(1892年1月15日号)に紹介され、1892年1月になって正式に「バスケットボール」という名称に定まった。また、当初、英語での表記は「Basket ball」であったが、1921年に公式に「Basketball」となった。 プレーヤー人数 ネイスミスは両チームが同人数であれば何人であってもよいと考えていたため13条のルールの中にチーム人数を規定していなかった。コーネル大学では50人対50人で試合が行われたが、この試合について担任のE・ヒッチコックは「体育館が破壊されかねない」などと述べるなど逸話となっている。プレーヤー人数については、その後次第に制限され、1894年にプレーヤー人数についてはフロア面積に合わせて5人、7人、9人とされることになった。コートの大きさやプレーヤー人数が現在のように確定したのは1897年になってからのことである。 コート上のプレイヤーは、限られたタイミングで交代することができ、反則やケガで欠員が出ても交代として補充することができる。交代の回数に制限は無いので、1人のプレイヤーが何度も交代することができる。 ゴールの形状 ゴールについては考案当初、シュートが決まるたびに梯子や棒を用いて取り出していた。ゴールの桃の籠は壊れやすかったためすぐに金属製の円筒形ゴールにかわっている。ゴールの形状はその後少しずつ変化し、一説によればネット状で底が切れている現在のようなゴールの形状になったのは1912年から1913年にかけてであるとされる。なお、リングの内径45cmは最初の試合の時から全く変わっていない。 バックボード バスケットボールは熱狂的な人気を博すようになったが、観客が体育館上の手すりや欄干から足や手を伸ばして妨害することが頻発したため遮蔽物が設けられることになった。これがのちのバックボードで当初は金網であったが、1904年から1.8cm以上の木板が用いられるようになった。ところが、観客から見えないことになったため後に透明なプラスチック板が用いられるようになっている。バックボードの位置については当初エンドライン上にあったが、ゴールが61cmコート内側に移動することとなった際にバックボードもそれに伴ってゴールと一体となってエンドラインより内側に配置されることとなった。 FIBAの結成 バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師を務めていたセンダ・ベレンソンによって女子バスケットボールが始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになり、YMCAを通じ世界各国へ急速に広まった。このような背景もあり、1904年のセントルイスオリンピックではデモンストレーションスポーツとして開催された(1904年から1924年までオリンピックの公開競技として実施)。1932年6月には国際バスケットボール連盟(FIBA)が結成され、1936年のベルリンオリンピックから男子オリンピック正式種目に採用された。また、1976年のモントリオールオリンピックから女子正式種目にも採用された。 プロリーグの創設と発展 アメリカ国内では、1946年に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併しNBAが誕生した。1967年に、対抗するリーグABAが設立され地位を脅かしたが、1976年にABAは消滅し、NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けている。 ドリームチームの時代 NBAには、ジョージ・マイカン、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、カリーム・アブドゥル=ジャバー、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなどのスター選手が所属し、1992年のバルセロナオリンピックでは「ドリームチーム」を結成、圧倒的な強さで優勝を果たした。 また、1996年には女子プロバスケットボールリーグWNBAが設立され、シェリル・スウープス、リサ・レスリー、ローレン・ジャクソンなどのスター選手が台頭した。 国際化 NBAやオリンピックの活性化に伴い、近年バスケットボールの国際化が急速に進んでおり、FIBA発表では1998年時点で世界の競技人口は4億5000万人、FIBAに加盟した国と地域は2006年8月時点で213まで増加した。 日本にバスケットボールが伝わったのは1908年で、YMCAの訓練校を卒業した大森兵蔵が東京YMCAで初めて紹介したとするのが現在の定説である。そして1913年にYMCA体育主事のF.H.ブラウンが来日し、関東、関西で競技の指導に尽力し普及していった。 なお、1891年にスプリングフィールドのYMCAの訓練校で行われた世界初の試合に参加した石川源三郎がもたらしたのではないかとする異説もある。ただ、1910年代の日本ではいまだスポーツ施設が少なく競技用具も粗末であるなど本格的に受容するだけの受け皿がなかったとされ、石川がバスケットボールを日本で紹介・指導した記録は見つかっていない。 1924年には、早稲田大学、立教大学、東京商科大学が全日本学生籠球連合を結成。全国各地で対抗戦が行われていった。そして、1930年に日本バスケットボール協会(JABBA)が設立され、普及と発展及び競技レベルの向上に努めている。 2005年には日本初のプロリーグbjリーグが発足したが、日本のバスケ全体の発展・強化が遅く、アジアの各大会で苦戦を強いられている。日本代表は、女子が2004年のアテネオリンピックに3度目の出場を果たしたが、男子は1976年のモントリオールオリンピックを最後に出場は途切れている。 2014年11月27日、日本バスケットボール協会(JBA)はFIBA(国際バスケットボール連盟)より勧告を受けていた『国内男子トップリーグの統合』、『ガバナンス能力に欠けるJBAの改革』『日本代表の長期的な強化策』の問題が解決されず、FIBAから資格停止処分を受けた。 2015年6月19日、FIBA(国際バスケットボール連盟)が、スイスで常務理事会を開き、2014年11月27日に日本協会に科した、無期限の国際試合出場停止処分の解除を決めた。 2016年9月、NBLとbjリーグが統合した新リーグ「ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)」が開幕。 現代の日本では多くの学校や企業で部活動やサークルとしての活動があり、それぞれ全国規模の大会が毎年行われている。多くの学校や公園には簡易的なバスケットゴールが設置されているが、試合ができる環境が整っている場所は多くない。 また、ほとんどのスポーツ用品店でバスケット用品を扱っており、国民の認知度はかなり高いスポーツとなっている。 しかしながらオリンピックを始めとする世界大会や、世界一のレベルと言われるNBAではまだ日本の認知度は低くなっている。 天然皮革、合成皮革、ゴムなどで作られたボールが使われる。公式ボールとしては検定球が使われる。一般(男子)用及び中学生用(男子)には7号球(周囲75 - 78cm、重量600 - 650g)が、一般(女子)及び中学生用(女子)には、6号球(周囲72 - 74cm、重量500 - 540g)が、小学生用には、5号球(周囲69 - 71cm、重量470 - 500g)が使われる。なお、ボールの下端が1.8mの高さから落とした際、上端が1.2 - 1.4mの範囲ではずむ様に空気圧が調整される。 また、2004年のFIBA(国際バスケットボール連盟)の規格改定により従来の茶色の8枚パネルから茶色とクリーム色2色の合計12枚パネルのボールが認められ、選手や観客にとってボールの軌道や回転など視認性が高まった。海外では、スポルディングやアディダス、ナイキ、ウィルソンなどが、日本では、モルテン、ミカサ、タチカラなどが製造販売している。 NBAでは、協会公認で、コミッショナーの認定、使用するホームチーム名などが刻印されたスポルディング社製天然皮革ボールを使用している。2006-2007年シーズンに、合成皮革で二面張りのユニークなボールに一旦は変更したが、選手間での評価が悪く元に戻している。 縦 28m、横15mのコートが使われ、幅5cmの白線で区画が設定される。長辺をサイドライン、短辺をエンドラインと呼ぶ。エンドラインとサイドラインで区画された区域がインバウンズ(コート内)となり、サイドラインとエンドライン上とその外側がアウト・オブ・バウンズ(コート外)となる。コート内には中央でコートを2分するセンターラインや、センターサークル、フリースローレーン、フリースローサークル、3ポイントライン、ノーチャージセミサークルなど様々なラインがマーキングされている。攻撃するバスケットがあるコートの半分をフロントコート、もう一方のバスケットのあるコートの半分をバックコートと呼ぶ。FIBAとNBAではコートサイズや区画などが異なっているが、FIBAでは2010年に変更があり、フリースローレーン(ペイントエリア)が台形から長方形になり、ノーチャージセミサークルが追加され、3ポイントラインも拡張され、NBAの仕様に近づいている。 バスケットに於ける境界線は、ライン上は、ラインを越えた事と同じであると言う考え方が原則である。例えば、3ポイントラインを踏んでのショットは、3ポイント境界線を越えたと見なしゴールしても2ポイントである。ただし、ボールをフロントコートに進めることについては、ボールとボール保持したプレイヤーの両足とがフロントコートに入った段階で成立する。 また、空中でのプレーに関しては最後に触れたコートの部分が適用されるため、ラインのコート内から跳んだ場合は、着地点がコート外だとしても着地するまではプレーを継続でき、シュートをした場合は跳んだ部分での点数が適用される。 バスケットボールのゴールは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから120cm内側の上方に、平行に設置された幅180cm高さ105cmの長方形で平らなバックボードに、リングは、15.1cmのフランジを介して取り付けられている。 NBAでは、高さ305cm(10ft)に水平に設置された内径45.72cm(18in)のNBA認定リング(ダンクショットの際に安全なように可動式となっている)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な38〜45cm(15〜18in)のネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから122cm(4ft)内側の上方に、平行に設置された幅183cm(6ft)高さ 107cm(3.5ft)の長方形で平らなバックボードに、リングは、15.24cm(6in)のフランジを介して取り付けられている。 FIBAでは、フロントコートにあるバスケットは対戦相手のバスケットと呼ぶが、NBAではフロントコートにあるバスケットは自チームのバスケットで、バックコートにあるのが相手のバスケットと定義している。いずれの場合もフロントコートにあるバスケットにボールを入れると得点となる点は同じである。NBAでは自分たちのバスケットにショットを入れることから、ゴールをマネーと表現することがあり、バンクショットのバンクを銀行に掛けて表現することもある。 ミニバスケット(小学生)では、高さが260cmであるなど、競技をする人の年齢や設備環境により、各種寸法は異なる。 ユニフォーム(チーム・ジャージ) ユニフォームはシャツとパンツを言う。シャツはノースリーブやショートスリーブ、ランニングなどを主に着用する。シャツとパンツはチームメンバー全員が同じデザインの色、形のものを着用し、前と後ろは同じ色でなければならない。パンツは必ずしもシャツと同色でなくても良い。一方のチームは 濃い色、他方は淡い色(白が望ましい)のものを着用する。対戦表の先に記載されたチーム、またはホームチームが淡色のユニフォーム、後に記載されたチームまたはビジター(アウェイ)チームが濃色を着用する。両チームの話し合いで入れ替えてもよい。ユニフォームには番号を胸と背中に付ける。この番号は、原則4 - 15まで、または大会主催者により2桁までの番号を付ける事が決められている。これは得点があった場合などの審判のジェスチャーは指を1から3本立てて表現するものが多くあり、番号との混同を避けるためである[要出典]。「0」「00」という番号の使用も大会規定により認めることが可能であるが、同一チーム内に「0」と「00」を同時に使用することは認められず、「07」のような番号も認められない。背番号も参照のこと。他の球技と同様、チームのロゴやエンブレム、広告などを大会主催者の許可のもとで付ける事もあるが、番号との距離などが厳格に定められている。形状は時代と共に変化し、特にパンツは過去には陸上競技並の短かさだったものが、現在では膝丈近くにまで伸びゆったりしたものとなっている。ユニフォーム下は、許可された範囲で、アンダーシャツ、スパッツなどの着用も可能である。他には、ヘッドバンド、アームスリーブ、リストバンド、脛当て、サポーターも着用される場合がある。 シューズ、ソックス バスケットボールをプレーするためには、素早くダッシュし、方向転換したり、瞬時に止まったりジャンプしたりと動きが激しいので、滑りにくく、ジャンプや着地時のショックを和らげるクッション性が高いシューズが必要であり、専用に用意されている。合成樹脂技術の進歩に伴い軽量化が進んだが、1960年代頃までは、厚いゴム底の、スポーツシューズとしては重いものであった。また、ソックスも登山用のような厚手のウールソックスを履くこともあった。また、1970年代にNBAの影響でハイソックスが流行したが、現在では、NBAでも一部のプレーヤーや、復刻ジャージでのゲームで着用されるのに留まっている。 NBAの場合、ゲーム時にはウォームアップウェア、チーム・ジャージと呼ばれるユニフォームから、サポーター、ソックス、ヘッドバンドに至るまで、NBA指定メーカーロゴとNBAロゴ、チームロゴのみが許可されており、唯一、選手が自ら選んで身につけられるのはバスケットシューズのみである。従って選手は、それぞれのシューズメーカーと契約している。スタープレーヤーには、プレーヤーモデルのバスケットシューズが提供されると共に、同型の市販品が作られ販売される。 主なルールの改定を以下にまとめた。 創造から 1932年 バックパスルール設定。シューティングファウルに対するフリースローが現在の数に。 1933年 交代しコートから退いたプレイヤーは、その後さらに2度まではプレーに参加できるように。ユニフォームの背番号は算用数字を使用するよう奨励。 1935年 3秒ルールが現在に近い形に。 1938年 フィールド・ゴール成功後、センター・ジャンプで再開する規定がなくなり、エンド・ライン外からのスローインに。 1946年 バックボードをコート内側の現在位置に移動。交替出場回数に制限がなくなる。5ファウルで退場となる。フリースローを放棄し、アウトからのスロー・インを選ぶ権利が与えられた。 1954年 NBAがショットクロック(24秒ルール)導入。 1956年 ショットクロック(30秒ルール)導入し、バックパスルール廃止。 1957年 フリースローを放棄できなくなる。 ローマ・オリンピック後に国際ルールに沿った規則となって以降。 1965年 一般男女と高校男子の試合を20分ハーフにし、使用ボールを7号ボールに。 1973年 バックパスルール、10秒ルールの復活。 1974年 バスケット・カウント・ワンスローが復活。 1979年 2個のフリースローのうち、1個でも入らないときさらにもう1個を与える「スリー・フォー・ツー・ルール」設定。 1985年 3ポイントルールの採用、チームファール罰則が7ファールに スリーフォーツーの廃止。 1991年 フリースローをせずにセンター・ラインのアウトからのスロー・インを選べる「選択の権利」が廃止。背番号が4番からに。 1995年 アリウープがリーガル・プレイに シューティングファウルがシューターが床に着くまでに拡大。インテンショナル・ファウルが「アンスポーツマンライク・ファウル」改名。 1999年 後半の最後と各延長時限最後の2分間にフィールド・ゴール 成功時はゲーム・クロックを停止。 2000年 20分ハーフを10分クオーター制に。 2001年 30秒ルールから24秒ルールへの変更。 2010年 制限区域が台形から長方形に、3ポイントラインが拡大。ノーチャージエリアの設定。ショットクロックの14秒リセット導入。 2012年 オフェンス・リバウンド時もショットクロックが14秒リセットに。 2014年 プレイヤーのテクニカル・ファウルが2回で失格・退場に。テクニカル・ファウルの罰則のフリースローを1本に。 2018年 ボールを保持すると同時についた足を0ステップとした。 レイアップ時のトラベリングが大幅に減った 以下に記すのは主に国際バスケットボール連盟(FIBA) 及び日本バスケットボール協会(JBA)のオフィシャルルールによる。 日本プロバスケットボールリーグと、北米のプロリーグであるNBAはそれぞれ独自のルールを規定している。 また、小学生が行うミニバスケットボールも、独自のルールが規定されている。 5人対5人で試合を行う。3人対3人の3 on 3(スリー・オン・スリー)もある。 10分のピリオドを4回行う。第1第2ピリオドを前半、第3第4ピリオドを後半という。 第4ピリオドが終わったとき両チームの得点が同じだった場合は、1回5分の延長時限を必要な回数だけ行う。 ボールは手で扱わなければならない。ボールを保持したまま3歩以上歩くこと(トラベリング)、故意に足または腿で蹴ったり止めたりすること、拳で叩くことなど、からだの触れ合いおよびスポーツマンらしくない行為以外の規則に対する違反をヴァイオレイションという(詳細はヴァイオレイションの項を参照のこと)。 相手チームのプレイヤーとの不当なからだの接触やスポーツマンらしくない行為をファウルという(詳細はファウルの項を参照のこと)。 相手チームのバスケットにライブのボールを上から通過させるか、バスケットの中にとどまること(シュート、ショット)によりゴールとなり、規定の得点が認められる。2ポイントエリア(攻撃するバスケット側の3ポイント・ライン以内のエリア)からのフィールドゴールは2点、3ポイント・ラインより外側(3ポイントエリア)でのフィールドゴールは3点が認められる。フリースローによるゴールは1点である。 シュート動作中に守備側からファウルを受けるとフリースローが与えられる。そのショットが成功した場合は得点は認められ(バスケットカウント)、さらに1本のフリースローが与えられる。ショットが失敗した場合は、2ポイントエリアからのショットの場合は2個、3ポイントエリアからのショットの場合は3個のフリースローが与えられる。 プレイヤーがコート内でライブのボールをコントロールした場合、そのチームはコントロール開始から24秒以内にショットをしなければならない(24秒ルール)。 ゲームはセンターサークルで両チームのプレイヤーによりジャンプボールで始められる。前半は相手チームのベンチ側にある相手チームのバスケットを攻め、後半は攻めるバスケットを入れ替える。延長時限は後半と同じバスケットを攻撃する。 第2ピリオド(試合時間を参照)からは、オルタネイティング・ポゼション・ルールにより、オフィシャルズテーブルから遠いほうのセンターラインの外側からのスローインで始まる。 第一ピリオドは各チームのキャプテンが出場しなくてはならない。 審判(オフィシャルズ)は2人もしくは3人で行う。これは主催者により選択される。 このほかに、審判を補佐し、得点を記録するなどの仕事を行うテーブルオフィシャルズ(TO)が4名いる。 10分を1ピリオドとし、第1ピリオドから第4ピリオドまでの4つのピリオド、計40分間で行なわれる。試合時間は、残り時間として電光掲示板や得点板に表示される。 以下の状況では、試合時間(ゲームクロック)が一時停止する。 ファウルやヴァイオレイションの判定の瞬間から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで タイムアウトの開始から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 審判が必要と判断した状況から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 第4ピリオドと延長ピリオドの終了2分を切った(ゲームクロックが2:00を表示した)後は、全てのフィールドゴール成功時からスローイン後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 残り時間が0.0秒になるとともに各ピリオドは終了し、サッカーやラグビーにおけるロスタイムの概念はない。 各ピリオド間では、第1と第2及び第3と第4の各ピリオドの間に2分間、第2と第3ピリオド間のハーフタイムに10分間のインターバル(インタヴァル、インターヴァルとも)がそれぞれ与えられる。ただし、これは大会の主催者によって変更されることもしばしばある。以前は20分の前半・後半(ハーフ)、ハーフタイム10分だった。その後NBAのルールと同じく4ピリオド制となった。いわゆる引き分けはなく、同点の場合5分単位での延長ピリオドを決着がつくまで繰り返し実施する。延長ピリオドは第4ピリオドの延長とみなされ、チームファウルは第4ピリオドと合わせて数えられる。 中学生の試合では、8分のピリオドを4回行う。延長は3分となる。 小学生の試合では、5 - 6分のピリオドを4回行い、前半10人の選手を1人5 - 6分出場させ、第1ピリオドから1人の選手が3ピリオド連続で出場できない。延長は3分となる。 身体の触れ合いを伴わない、あるいはスポーツマンらしくない振る舞い以外の規則に関する違反のこと。バイオレーション、ヴァイオレーションとも。相手チームによるスローインからのリスタートとなる。 規則に反する違反のうち、不当なからだの触れあいおよびスポーツマンらしくない行為をファウル、またはファールと呼ぶ。 パーソナル・ファウル、テクニカル・ファウル、アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクオリファイング・ファウルの種類がある。 選手個人に課されるファウルがほとんどであるが、コーチやアシスタント・コーチ、チームに課されるファウルもある(チームに課されるファウルはコーチのファウルとして記録される)。 1人のプレイヤーにすべてのファウルを合わせて5回(NBAでは6つ)のプレイヤー・ファウルが宣せられた場合、審判によりその事実が告げられ直ちに交代しなければならず(ファウルアウト、俗に退場とも)、以後そのゲームには出場できない(以下の選手交代も参照)。サッカーとは異なり、退場しても自チームのベンチに座り、コート上へ交代選手を入れることが可能であり、通常は以降の試合の出場に関するペナルティはない。 ただし、2回のアンスポーツマンライク・ファウルや2回のテクニカル・ファウルで失格・退場となった場合や、ディスクオリファイング・ファウルにより失格・退場となった場合は、自チームの更衣室(ロッカールーム、控室)にいるか、コートのある建物の外に出なければならない。 パーソナル・ファウルに対しては、ファウルを宣せられたチームの反対チームにスローインが与えられる。ファウルは主にディフェンス側のプレイヤーに対して宣せられることが多いが、オフェンス側のプレイヤーがディフェンス側のプレイヤーの行動を妨げた場合には、オフェンス側にファウルが宣せられる。 ショットの動作中のプレイヤーに対するファウル(テクニカル・ファウル以外)は、そのショットが成功した場合、2ポイントないし3ポイントの得点が認められ、追加として1個のフリースローが与えられる。ショットが成功しなかった場合は、そのショットに応じて、2個ないしは3個のフリースローが与えられる。 アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクォリファイング・ファウルの場合は、ショット動作中以外の場合でも2本のフリースローが、テクニカル・ファウルの場合はいずれの場合でも1本のフリースローが与えられる。 プレイヤーのファウルは、各ピリオドごとにチームファウルとして記録される。チームに4回のファウルが記録された後は、次のようなチーム・ファウルの罰則が適用される。自チームがボールをコントロールしていない場合にファウルを犯した時は、相手チームに2つのフリースローが与えられ、自チームがボールをコントロールしている場合にファウルを犯した時は、相手チームにスローインが与えられる。 ゲーム開始前の10分間や各ピリオド間にファウルが生じた場合は次に続くピリオド中に起こったものとして処理する。延長時限中のファウルは、第4ピリオドのファウルとして扱い、継続してチーム・ファウルに数えられる。 各チームは、タイムアウトを取ることができる。タイムアウトは1分である。各チームはこの間に作戦を練る、選手を休ませるなどしてゲームの流れを変えている。タイムアウトの請求ができるのはコーチまたはアシスタントコーチである。ただし、請求してすぐに認められるわけではなく、ゲームクロックが止まった場合に認められる。前半2つのピリオドで2回、後半2つのピリオドで3回まで取ることができる。したがって、1チームが1試合で使えるタイムアウトは合計5回である。前半2つのピリオドで使わなかったタイムアウトは後半のピリオドに持ち越せない。オーバータイム(延長戦)突入時は1回のオーバータイム(5分)につき1回取れる。 2010年のルール改訂により、4ピリオド残り2:00以降にボールをコントロールするチームがタイムアウトを取った場合、バックコートからスローインするときはフロントコートのスローインラインのアウトからのスローインとなる。 小学生では第4クォーター、延長戦では両チーム交代できる。 NBAのタイムアウトは1試合につき1分を6回(ただし第4クォーターで使える回数は3回まで)、前半もしくは後半2クォーター(1ハーフ)につき20秒を1回(1試合合計2回)取れる。また、オーバータイム1回(5分)につき1分を3回取れる。タイムアウトの請求はコーチだけでなく、攻撃中のチームの選手も可能である。 ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)のタイムアウトには、通常のタイムアウトに加えて、第2・第4クォーターの残り5分を切った最初のボールデッド時に行われる90秒のオフィシャルタイムアウトがある。 コート上にいる選手はプレイヤー、ベンチにいる選手は交代要員として区別される。FIBAが管理する大会では各チームでベンチ入りできる選手は最大12人で、プレイヤーが5人、交代要員が最大7人である。国内の大会では主催者が大会要項で規定し、12名または15名が一般的である。 選手交代が認められるのは、ゲームクロックが止められている時である。フリースローの時はそのフリースローの1投目のボールが渡される前か、最後のフリースローが成功した時に認められる。また、交代はどちらのチームにも認められるが、第4ピリオドの終了前2分間は得点したチームにはショット成功時の交代は出来ない。但し、得点されたチームが交代を行った際には、得点したチームも交代することが可能である。 交代要員は何度でもプレイヤーとしてゲームに復帰できる。ただし、ファウルを5つ犯した場合や悪質なファウル(ディスクオリファイング・ファウル)などで失格・退場になった場合は、再びプレイヤーとしてゲームに復帰することはできない。 ポイントガード(PG) ボールを運び、パスをしたり指示を出したりするチームの司令塔、ゲームメーカー。 シューティングガード(SG) 長距離からのシュートやペネトレイションで得点を稼ぐ。また、ポイントガードの補助をしたり、スモールフォワードのように攻めたりする。 スモールフォワード(SF) 柔軟なプレイを求められる万能的ポジション。シュータータイプからインサイド型まで様々なプレースタイルが存在する。 パワーフォワード(PF) リバウンド、スクリーン、ゴール付近からのシュートビッグマン対応のディフェンスを担当する。 センター(C) 高い身長とパワーが必要とされる。リバウンド、スクリーン、ゴール下での得点とディフェンスでチームを引っ張る。 ポジションは上から順に、1番(PG)、2番(SG)、3番(SF)、4番(PF)、5番(C)という呼ばれ方もする。 バスケットボールにおいてポジションはサッカーのゴールキーパーや野球の投手のようなルール上の規定はなく、厳密に定められているものではない。また、各プレイヤーが多くの役割をこなすことが理想である。そのため、ユーティリティ・プレイヤーも多く、ポイントガードとシューティングガードを兼任できる選手を「コンボガード」、ガードとフォワードを兼任できる選手を「ガード・フォワード(GF)」や「スウィングマン」、またフォワードとセンターを兼任できる選手を「センターフォワード(CF)」あるいは「フォワードセンター(FC)」と呼ぶことがある。パワーフォワードとセンターはポストプレーを行うことからポストプレイヤーとも呼ばれる。NBAでは、本来のポジションがフォワードでありながらポイントガードの働きをする選手も少なくない。そのような選手は稀ではあるが「ポイントフォワード」と呼ばれる。ポイントフォワードの選手には、マジック・ジョンソン(特に現役復帰後)、アンソニー・メイソン、レブロン・ジェームズ、ラマー・オドムらがいる 。NBAプレーヤーで、フランス代表でも有るボリス・ディアウは、ガード、フォワード、センター、全てのポジションをカバーできる稀有なプレーヤーである。 ガード2人を合わせてバックコート、フォワード2人とセンターを合わせてフロントコートなどとも呼ぶ。 パス(Pass)とは、ボールを保持したプレーヤーが、ボールを他のプレーヤーに投げ渡すプレー。投げ方や方向などに規則はない。 バスケットボールでは、ボールを手に掴んだ状態で移動する行為が禁止されているため、進行方向の地面にボールを上から掌を使って叩きつけて跳ねさせ、これを連続的に行ってボールとともに選手が移動する。保持したとみなされた場合反則となる。 自チームが得点するためにバスケットの上からボールを通すことあるいはそのための動作、ボールがバスケットへ至るまでの一連の流れのこと。シュートと呼ばれることが多いが、これは通称であり、ルール(日本バスケットボール競技規則)上では全てショットと称される。 敵・味方関係なく、ショットミスしたボールを取ることを、リバウンドと呼ぶ。リバウンドを取るために有利なポジションを取る行動をスクリーンアウトまたはボックスアウトという。 相手の放ったショットをリング、バックボードに到達する前にボールが上昇中に阻止するプレー。ショットされたボールがリングに向けて下降中、もしくはバックボートに当たりリングに向かっている途中に触れるとゴールテンディングまたはバスケット・インターフェアとなる。 相手のパスをインターセプトしたり、ピボット、ドリブルなどでコントロールしているボールを奪い取るプレー。 ボールが無い場所で、相手選手の移動を制限する位置に立つこと。身体の接触があるためタックルの様な動きは反則となり、その場に停止している必要がある。 攻撃の基点、中継点となるポジションを確保し、スクリーンとして機能したり、攻撃を展開するパスを出したり、ペネトレイトあるいはショットに持ち込むプレー。位置により、バックボード近辺をローポスト、フリースローサークル近辺をハイポスト、それらの中間をミドルポストと呼ぶ。足幅を充分に取り、ディフェンダーを背にして、パスカットされない位置へ手を伸ばして立ち、パスを受ける。アイソレーションを得意とするプレーヤーはミドルポストに立ちパスを待つ場合が多い。 デッドとなったボールをライブに戻し、ゲームを再開するために、攻撃権を持ったチームのプレーヤーが、アウト・オブ・バウンズ からインバウンズにパスをすること。 フリースロー(Free Throw:自由投)とは、一方のチームがファウル、あるいは、特定のヴァイオレイションを 犯した場合に、相手チームに認められるペナルティの一つである。フリースローサークル内のフリースローライン手前から、どのプレーヤにも防御される事無く ショットを放つ事が出来る。ペナルティーの種類によって、1投から3投までの間で、連続でスローされ、フリースロー1投がゴールすれば1得点が与えられる。最終投がスローされた後のプレーの再開方法には、数種類の場合が存在する。又、1996年と1997年の両年にはこのフリースローの全国大会が開催された。 フットワークは、プレーヤーの足運びのこと。バスケットボールは前後左右への素早い動きが要求されるので、すべてのプレーに関わる重要な基本動作である。オフェンスでは、歩数制限があり、その後ジャンプすることも必要である事から正確かつ俊敏な足運びが要求される。また、ダッシュからのサドン・ストップやピボットもオフェンスの重要なフットワークである。通常、ランニングショットの場合は、右手では左足踏切。左手では右足踏み切りとなる。ディフェンスでは、マークするプレーヤの動きに素早く反応して振り切られないよう移動する必要があるため、様々な方向への動きが要求される。サイドステップ、バックステップ、クロスステップなど様々な足捌きができなければならない。 基本ステップ サイドステップ:両足を開いた状態から、足を交差することなく横方向へ行うステップ。 バックステップ:前を向いたままで後方へ走るステップ。 クロスステップ:足を前方、あるいは後方で交差させながら、前後方斜めあるいは横に進むステップ。 ボールキャッチ時のステップ 両足着地状態でキャッチ:自由にピボットフットを決めステップすることが許される。その後次のプレーへ。 空中でボールをキャッチした場合。 片足ずつ着地:先に接地した足がピボットフットとなり、後に接地した足は、ピボットを使って自由にステップ可能。 片足でステップ後、ジャンプし次のステップで着地:浮かせた足を接地することは許されない。この状態からのドリブルも許されない。そのままの状態でボールを保持するかあるいは放す、2歩目で踏切りジャンプした後、ボールを放すこと(ショット、パス)以外は許されない。 一歩目片足でジャンプ次に両足同時に着地:これ以上のステップは許されない。そのままの状態でドリブルを開始するか、ジャンプしてボールを放すこと(ショット、パス)は許される。 ピボットは、着地した状態で、ボールキープを行う時に使用するステップである。片足を軸足(ピボット・フット)にしてコートの同じ場所で接地し、もう片足を前後左右にステップして体の軸を動かし、相手を翻弄、動揺させたり、リズムを崩し、自分のパス、ショット、ドリブルなど次のプレーを容易にする。接地場所を移動することは出来ないが、その場所で回転することは許される。 両足接地の状態でボールを得た場合は、任意の足をピボットフットにすることが出来る。 片足ずつ着地してから行う場合、先に着地した足のみ軸足にすることが出来る。 一歩目を片足、2歩目を両足で着地した場合は、ピボットを行うことは出来ず、そのままジャンプしてボールを離すか、両足を着地した状態でドリブルを開始しなければならない。 これらに違反してステップするとトラベリングとなる。 ボールを保持していない選手については、ステップに関する規制はない。 テンポによる分類 方式による分類 方式による分類 ゾーンプレス = ゾーン+プレス ゾーンマンツー = ゾーン+マンツーマン 陣形による分類 数字はディフェンスの数を示し、フロントコートに近い側からバックコートに近い側の順に記載する。 2-2-1以下の4陣形は通常、ゾーンプレスの場合にしか使われない。1-3-1、1-2-2は通常のゾーンディフェンスとゾーンプレスの両方で使われる。 範囲による分類 バスケットボールリーグ一覧 1990年から週刊少年ジャンプでバスケットボールを扱った漫画『スラムダンク』が連載開始、1996年の連載終了後も売れ続けて1億部を超える大ヒットとなり、バスケットボールの競技人口を押し上げ、2005年には、日本バスケットボール協会への登録者数だけで600万を超えるなど、日本バスケットボール界に大きな影響を残している。またその功績から原作者の井上雄彦は、日本バスケットボール協会から特別表彰されている。バスケットボールは漫画編集者の間ではひとつのタブー(ヒットしない)とされていたが、スラムダンクの後には『あひるの空』『黒子のバスケ』『ロウきゅーぶ!』など様々なヒット作も出るようになった。 ^ FIBA公式サイト(英語)We are Basketball. ^ a b NBA公式サイト(英語)NBA.com ^ a b c d “Official Basketball Rules”. FIBA.com (2017年1月25日). 201170-01-26閲覧。 ^ 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.126 1984年 ^ a b 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.2 1982年 ^ a b c d e “JOC - 競技紹介:バスケットボール”. 2014年10月3日閲覧。 ^ a b c d e 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.127 1984年 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.33 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.34-35 2011年 大修館書店 ^ a b c 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.3 1982年 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.37 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.39 2011年 大修館書店 ^ 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.3-4 1982年 ^ a b c d e f g 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.128 1984年 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.9 2011年 大修館書店 ^ a b c 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.10 2011年 大修館書店 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.44 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.11 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.45 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.70 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.71 2011年 大修館書店 ^ a b c d 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.4 1982年 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.82 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83-84 2011年 大修館書店 ^ a b c 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85-86 2011年 大修館書店 ^ WNBA公式サイト(英語) ^ 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』1984年(p.128)では定説に対する異説として紹介している ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.14-18 2011年 大修館書店 ^ 『社会人のための英語百科』(大谷泰照、堀内勝昭監修)84ページに、アフリカ系アメリカ人の若者について「そこら辺のプレイグラウンドの連中でも、全日本の選手をはるかにしのぐレベル」と記述されており、日本とアメリカを比べるとバスケのレベルに極めて大きな差があるという主張が為されている。 ^ “[http://sports.yahoo.co.jp/sports/basket/all/2014/columndtl/201411270002-spnavi JBA、FIBAより資格停止処分受ける 丸尾会長代行「早期の制裁解除が使命」]”. 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NBA.com (2008年9月8日). 2012年3月29日閲覧。 ^ ストライプは規定に沿ったものであれば認められる ^ バスケットボールルールの変遷Ⅰ NPO法人 日本バスケットボール振興会 ^ バスケットボールルールの変遷Ⅱ NPO法人 日本バスケットボール振興会 ^ JBAオフィシャルグッズ ^ bjリーグ・競技ルール ^ Official Rules of the NBA(英語)最新版 ^ 3ポイントか2ポイントかは、シュートを行った位置で決定される。3ポイントエリアからジャンプし、シュート後に2ポイントエリアに着地しても3ポイントシュートとなる。 ^ ジャンプボールシチュエーションでは、オルタネイティング・ポゼション・ルールによるスローインでゲームを再開するので、ジャンプボールは試合開始の1回しか行わない。 ^ NBAやBリーグなどではピリオドではなく、クォーターで表される。(例)第1ピリオド=第1クォーター ^ NBAの場合の試合時間は12分4クォーター、計48分間で行われる。NCAAは前後半各20分ずつ。 ^ 電光掲示板の場合、試合時間は、残り1分までは10:00、9:59、と秒単位で表示され、残り1分以後では59.9、59.8、と10分の1秒単位で表示される。得点板の場合9、8と1分ごとに残り時間を表示し、残り1分以後では1/2と1/4と30秒単位、15秒単位で表示するものが多い。 ^ 試合ではこのルールを活かし、残り時間を有効に活用する。とりわけ接戦における第4ピリオドの終盤では、オフェンスファウルやディフェンスファウル、タイムアウトによる試合時間の停止の利用が、勝負に重要な影響をもたらすことがある。これにより試合のクライマックスが形作られる ^ 残り時間0.0秒後の得点は、審判が判定する。残り時間0.0秒以前にシュートしたプレイヤーの手からボールが離れていると判定されれば、得点となる。ただし、残り時間0.3秒以上の時スローインをした場合は、ボールキャッチ後のシュートは認められるが、0.3秒未満の場合は、直接ダンクシュートまたは直接タップシュートした場合のみ得点が認められる。 ^ ファイティングは、チームベンチ・パーソネル(ベンチメンバー)に対して宣せられる。 著しくスポーツマンシップに欠ける行為に関しては、大会主催者や所属連盟の判断により、以降の試合への出場停止が命じられる場合もある。 ^ DID YOU KNOW about NBA? ゲーム編(NBA公式サイトによるポジションの解説) ^ 佐々木クリス. “[コラム]佐々木クリスが語る『リーグNo.1のバックコートコンビは!?』”. NBA Japan. http://www.nba.co.jp/nba/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0no1%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%81%AF/trwzablnrky51e0qbk72ndl34 2015年1月26日閲覧。  ^ 2000 - 2001シーズンまではNBAではゾーンディフェンスそのものが禁止され、違反した場合にはイリーガルディフェンスというヴァイオレーションをとられていた。現在のNBAでは、オフェンスプレイヤーにマークマンとしてついていないディフェンダーに対して、ゴール下のペイントゾーンに3秒以上留まっていてはいけない、というヴァイオレーションが適用されている。 ^ 公益財団法人 日本バスケットボール協会 登録者数推移 ^ マンガの力(1)スラムダンク奨学金(上)、朝日新聞、2007年11月8日。 ^ スラムダンク作者を特別表彰=バスケット協会、時事通信、2010年9月12日。[リンク切れ] ^ 井上雄彦『スラムダンク』第31巻 後書きより。 バスケットボールの日 - 12月21日、バスケットボールの誕生日とされる", "弓道(きゅうどう)は、和弓で矢を射て、的に中(あ)てる一連の所作を通し、心身の鍛練をする日本の武道である。古武道の弓術を元とし、現在ではスポーツ競技、体育の面も持ち合わせている。しかし、古から続く流派が失われたわけではなく、現代の弓道と共存しながら古流を守り続けている。 全日本弓道連盟 1949年設立。全国規模の組織であり、日本オリンピック委員会、日本体育協会、日本武道協議会に加盟している。全都道府県の54地方連盟(東京都は第一・第二・第三の3地区連盟、北海道は中央・西部・南部・東部・中部・北部の6地区連盟)が加盟している。審査を行い、段級位や称号を授与している。 国際弓道連盟 2006年、弓道の国際組織として全日本弓道連盟を中心に結成された。 全日本学生弓道連盟 1930年創立。大学生の組織で、全国の大学・短期大学の弓道部のほとんどが加盟している。全日本弓道連盟からは独立しており、試合規則も独自に定めている。 全国高等学校体育連盟弓道専門部 高校弓道を全日本弓道連盟と連携しつつ統括している。 その他、教職員連盟・実業団連盟などの職域組織、流派組織などが存在する。流派組織の規模の大きなものとして、財団法人生弓会(本多流)、小笠原流同門会、浦上同門会(日置流印西派)などがある。(#流派参照) 平成27年度の全日本弓道連盟への登録人口は、約14万1,000人である。男女比はやや男性が多く、年齢層では高校生が約7万1,000人(全体の50%)、一般が約4万3,000人(31%)、中学生が約1万3,000人(9%)、大学生が約1万4,000人(10%)である。ただ、この人数は、全弓連関連の審査や試合に参加するのでなければ連盟への登録は必須ではない点に留意すべきである。 各地の弓道連盟(地連)の登録人口をもとに都道府県別の競技人口を見ると、上位5位は愛知県、東京都(3地区連盟の合計)、神奈川県、福岡県、埼玉県、下位5県は下位から和歌山県、沖縄県、秋田県、鳥取県、島根県である。中学生登録人口は地域により大きなばらつきがあり、栃木、愛知、鹿児島各地連の登録者が2,000人前後であるのに対し、登録者数人から数十人の地連も多い。 高校生では、近年の少子化傾向のなかにあっても競技者数は6万人台を維持しており、男子・女子ともに剣道競技者を上回り、武道では最も競技者が多い 。ただ実施校数は約2,000校であり多くはない。普及の地域差は大きく、愛知県では半数の高校に弓道部があるが、大阪府では10%前後である。 現在でも小笠原流、日置流、本多流、大和流など様々な流派が存在し活動しているものの、大多数の弓道家は流派には所属せず、全日本弓道連盟の定めた射法(#射法八節)を学んでいる。流派の人々も全日本弓道連盟に所属し審査を受けている場合もあり、多くの流派組織は連盟と対立してはいない。 流派の系統は今日的な用語で「礼射系」・「武射系」と分類されている。礼射系は儀礼・儀式的な要素が加味されつつ発展した射の系統をいうが、事実上小笠原流系統をさす。武射系は戦場での実利を重視して発展してきた射の系統をいい、事実上日置流系統をさす。本多流は、三十三間堂の通し矢を得意とした日置流の堂射系統が母体で、本来は礼射系で行っていた正面打起しを取り入れた、武射系の流派である。 弓道は『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著)などの著作で精神と礼節を重んじる面が取り上げられたことなどから外国人の関心を惹き、オリンピック種目でないにもかかわらず欧米各国中心に競技団体が設立され愛好されている。ただ、最も盛んなドイツでもドイツ弓道連盟登録者数は約1100人、他国連盟は多くても数百人である。2006年5月2日、弓道の普及と振興などを図るため国際弓道連盟が創設された。 武芸の一つ(武芸十八般の一つでもある)である弓術は、幕末から明治になり、それまでの江戸時代の制度が崩壊し、軍隊に西洋の最新兵器が導入されるという時代の流れに伴い、大きく変遷を強いられた。幕末の1862年(文久2年)、幕府における「弓術上覧の儀」が廃止され、講武所の教科目からも弓術が除外された。続く1867年(慶応3年)の大政奉還により伝統的な弓術文化は幕藩体制・武家社会の崩壊と共に大きな衰退を余儀なくされた。1871年(明治4年)には廃藩置県により各地方や藩で教育されていた武術教育も姿を消し、弓術に限らず武術全般で実用性が見いだされなくなり、武術衰退に拍車をかけた。明治維新以前は、弓をひくことに制限が存在したが、維新による緩和を受けて、維新後は一般人でも弓を引く者が増えるようになり、急速に一般に普及し、遊戯化・娯楽化も進んだ。 他方で既に遊興の道具としての弓矢は民衆の間でも存在しており、盛り場での賭弓場が維新後の都市部で大流行した。賭弓場の多くは風俗営業であり、明治政府から規制を加えられるほど盛況化するなど、明治初期には一般的に弓といえば賭弓場を連想するほどに弓射文化は衰退していった。このような世相に煽られ公的な弓術道場が姿を消していく中、私設弓術道場を開くなど弓術古来の伝統を正しく引き継ごうとする真摯な弓術家の活動により、日本弓道の命脈・伝統文化は保たれていった。 明治中期に入ると初等教育の開始や徴兵制度の徹底、日清戦争などでの勝利などを背景に、武術を再認識する機運が高まり始めた。後に団体や国策により武術が利用されはじめ、国民は弓道を含めた各種武道の再認識・尊重をするようになった。このような社会風潮を受け、1895年(明治28年)、京都在住の有識者により各種武術を統括する団体として大日本武徳会が設立され、京都の平安神宮境内に建設された武徳殿を本部とした。弓術をはじめとする各武術は、技術を目的とした武術は、心の涵養を目的とした武道として改められ、1919年(大正8年)、武術専門学校を武道専門学校と改称、時を同じくして弓術も「弓道」と改称された。反面、遊興的に『中りさえすれば良い』とした衰退期の反動から、『射型さえ良ければ中らなくても良い』とする過度な精神や礼節を重んじる気風が広まった側面もあった。これにより庶民への更なる普及もなされ、弓道への関心がより強まっていった。 また、大正から昭和初期にかけて、本多利実とその弟子達によって行われていた正面打起しの射法が大流行した。後に利実の弟子達はこの射法をもって本多流を称した。 大日本武徳会は事業のひとつとして各武道の形の統一を目指し、剣道では「大日本帝国剣道形」、柔道は「大日本武徳会柔術形」などが制定され、弓道もまた射型統一を行うことになった。1933年(昭和8年)5月に開催された全国範士・教士会からの要請を受け、同年9月、当時の大日本武徳会会長鈴木莊六によって全国から招集された著名弓道家により「弓道形調査委員会」を構成。大日本武徳会弓道部長 跡部定次郎が委員長となり、同年11月10日から京都武徳殿で「統一射法」に向けて3日間にわたる議論が交わされることとなる。 初日は小笠原流を基本にした巻藁射礼、的前射礼、立射礼の3つの射礼が決定される。2日目は射法について審議されるが、「打起し(後述射法八節)」の審議に入るとそれぞれ自己の流派射法から「正面打起し」と「斜面打起し」を主張し合い、互いに譲らず喧々囂々白熱した議論へと発展、その日は議論の決着を見ずに終了した。最終日、議論はほとんど決裂の様相を呈していたが、九州の祝部範士から出された妥協案「正面打起し・斜面打起しの中間的方法」を採用することで一同は賛成を表明、これで一応の決定を得た。(以下当時の「中間的方法」) 1934年(昭和9年)11月、これをもって「弓道要則」とし、統一射法として正式に制定。大日本武徳会は全国に普及、徹底させようとするも、この「中間的妥協案」には弓道界から賛否が続出し、雑誌・新聞紙上で大論争が展開され、ついには「鵺(ぬえ)的射法」と揶揄されるまでに至った。 1937年(昭和12年)日中戦争が勃発し、翌1938年(昭和13年)「国家総動員法」が公布された。武道は政府・武道団体幹部によって「国力増強・国威発揚」を狙って次第に政府管理下に組み込まれ始め、そして利用されていった。1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会が開催され、弓道も参加する。1941年(昭和16年)太平洋戦争が開戦し、同年政府機関による議論の末、厚生・文部・陸軍・海軍・内務の5省共管による政府の外郭団体とした新たな武道統括団体の新設、既存の武徳会はこれに包含される形でこの武道団体に改組・帰一されることとなる。翌1942年(昭和17年)、既存の武徳会は改組され会長に東條英機内閣総理大臣、副会長に厚生・文部・陸軍・海軍・内務の各大臣と学識経験者1名をそれぞれ招き、理事長に民間人、各支部長には知事をあて、本部は京都の武徳殿から東京の厚生省内に移転、こうして政府5省が共管する政府の外郭団体として新たな大日本武徳会が発足する。武徳会弓道部会長には宇野要三郎範士が就任し、常務理事も兼務した。 政府の外郭団体として再出発したことにより、武道は飛躍的に普及した。伝統芸能・文化財的扱いであった弓道も、満州国建国10周年を記念した「日満交歓武道大会」に選手団を新京へ派遣(1942年7月)するなど積極的に活動を行った。1943年(昭和18年)3月、大日本武徳会は称号を範士・達士・錬士とし、段位を等位制に改め、初段を五等、二段を四等…のようにし、五段を一等として、六段以上の段位を廃止。1944年(昭和19年)3月、弓道部会長宇野要三郎範士が委員長となり「弓道教範制定委員会」を設け、「弓道教範」を作成。懸案事項であった打起しの形式は「弓道要則」を認めつつ従来の正面・斜面もそれぞれ認め、正面・斜面・弓道要則の3様式を採用した。巡回指導や移動審査の実施など活発に行動する反面、太平洋戦争の戦局が切迫するにつれ、政府は国民生活の全てを戦争遂行に結集すべく国民への武道の修練を強く奨励した。しかし、戦争末期には日本各地で連合国軍の空襲や艦砲射撃が苛烈を極め、多くの弓道場が焼失、また、焼け残った弓道場も弓道以外の目的(倉庫・宿舎など)で使用されるなどして、弓道や武道を行う環境は極度に悪化した。その上、生活の困窮から弓道に割く時間的・心理的余裕も無くなり、国民から弓道は遠ざかっていった。 終戦後、戦前-戦中の国策ともいうべき武道励行に対する反動から、国民の武道に対する感情は非常に厳しいものとなった。 大日本武徳会は終戦に伴い、ただちに従来の性格を改めて民間団体に改組するべく、1946年(昭和21年)1月には運営の民営化をはかり、武道の諸団体と協力して維持発展に努力を期し、役員も全国から選ばれた評議員の会で純民間人を推薦してこれをあて、取扱う種目も剣道・柔道・弓道などに限定した。文部大臣の認可も得たが、次第に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からの査察が厳しくなり、財閥と同様に政府支援団体として解体される可能性が高まった。 また、GHQが本格的に解体の動きに入ると 強力な中央集権的団体であった。 中央・地方を通じ軍や特高などと関係する警察を網羅し国家組織と結びついていた。 莫大な資産を有していた。 などの理由で解散を命じる空気がさらに漂い始める。大日本武徳会と文部省は協議を重ねたが、「解散は止む無し」との結論にいたり、ついに解散を決定した。1946年(昭和21年)9月28日付でGHQあてに報告書を提出、10月31日に自主解散を宣言し、52年にわたる歴史を閉じた。しかし、GHQは自発的解散を認めず、11月9日、大日本武徳会に対し公命で解散を命じ、関係者約五千名が追放された。 大日本武徳会の解散に伴い、愛好者によって各地で地方連盟の組織化が進み全国的に波及した。これら諸団体の総意を結集し、1947年(昭和22年)に「全日本弓道連盟」が結成された。しかし、諸般の事情が絡み1948年(昭和23年)12月解散。1949年(昭和24年)4月3日、新たに「日本弓道連盟」を結成、8月2日日本体育協会に正式加盟が承認される。1953年(昭和28年)9月15日、文部省より財団法人の設立許可。世情が落ち着いた1954年(昭和29年)、1952年に起きた大日本武徳会再建活動が再度活発となり、弓道連盟内でも問題となった。しかし、文部省は慎重な審議の結果、民主的に組織されて健全に活動している全国的な団体が既に設立され、日本体育協にも加盟していることなどの理由から、1955年(昭和30年)8月、武徳会設立認可申請を却下し、弓道連盟内で武徳会再建活動を行っていた射手達は連盟を去っていった。1957年(昭和32年)1月18日、「全日本弓道連盟」へと名称を改めた。 戦後の射法混乱を改善し、弓道の大綱を明らかにすべく、1953年(昭和28年)8月『弓道教本 第一巻』が発刊される。様々な流派の長所を生かして現代弓道の指標とし、特定の流派に所属しないでも弓道の大綱を学ぶことができるようになった。「弓道教本」では射法八節を定め、大日本武徳会で制定された「弓道要則」の統一打起し(中間打起し)を正式に廃し、正面・斜面の打起し方法を採用した。射礼・体配は小笠原流の所作を中心に採り入れ、流派ごとにまちまちであった射礼・体配を連盟方式に統一し、試合や審査上の混乱を是正した。 戦前においては、1924年(大正13年)に都下学生弓道連盟(現東京都学生弓道連盟)設立、1930年(昭和5年)に日本学生弓道連盟(現全日本学生弓道連盟)が設立され、特に大学においては盛んに全国規模の大会が開かれるなどされていた。 しかし、1945年(昭和20年)11月・12月、文部省発体80号・100号により、学校における武道(剣道・柔道・薙刀・弓道)の授業は全面的に禁止され、課外の部活動も禁止された。文部省は学校教育における戦時色の払拭に努め、武道の免許状も無効扱いとされ、「武道」という言葉自体に軍事的な意味合いを含むとして使用は控えられた。その後、1951年(昭和26年)7月25日、文部事務次官通知により中学校以上の体育教材として弓道の実施が認可され、再び学校教育に採り入れることが許可され、課外の部活動も解禁された。1953年(昭和28年)7月11日、全日本学生弓道連盟が再結成。1956年、全国高等学校体育連盟に弓道専門部が新設。1967年(昭和42年)3月29日、文部省発体120号の通達により、弓道が高校正課体育種目として体育の授業で指導することが可能となる。1989年(平成元年)、高等学校学習指導要領改訂に伴い、「格技」は「武道」に改められ、これまで「格技」ではなく「個人種目」に含まれていた弓道は、「武道」の領域に含まれることになった。 現在では全日本弓道連盟が中心になり、各流派の特徴を取り入れるなど現代社会のスポーツ性を考慮した射法が主流となって、全国的に射法が平均化され地域差が少なくなっている現状がある。ただし、全日本弓道連盟の「統一見解による射法」は非常に曖昧なもので、指導者によって技術論に差異が認められるなど、全日本剣道連盟による「日本剣道形」のようないわゆる「統一の形」は存在せず、全日本弓道連盟が公式に定めているのは「射法八節(後述)」「礼法」「間合い」のみとなっている。同じ射距離で同じ弓・矢・カケを用いているにもかかわらず、全く正反対の技術であっても通用している。 このような技術論に差異が認められる所以は、日本の弓術独特の進化過程に起因する。目的に合わせて、馬上の射「騎射」、徒歩(かち)の射「歩射」、通し矢の射「堂射」と、流派の中でそれぞれで独自に進化、発展した経緯が背景にあり、「射法八節」の中で流派技術であったり、日本弓術の伝統的技術体系である歩射・騎射・堂射の技術が入り乱れるなど、射手や指導者によって技術の取捨選択が成され、現在では多くの射手はそれぞれの技術が入り交じった「射法」を行っているのが現状である。目標がそれぞれ異なる歩射・騎射・堂射を明確に把握して弓を引いている射手は非常に少数となった。従って高段位である指導者層の変遷に伴い、時代による射技・射型の流行・廃れが現代弓道のひとつの特徴として見られる。一方で、古から続く弓道、弓術流派は自身の発展の土台(「騎射」「歩射」「堂射」の内のどれか)を重要視、または流祖の教え、古流の保存など、それぞれの目的に合わせ一貫した技術・教えにより古来からの伝統を受け継いでいる。弓道連盟に属して活動している流派・団体も多いが、連盟とは一切関与せずに活動を行っている流派・団体も存在する。 全日本弓道連盟では、射の基本動作を8つの節に分けて説明・指導をしている。これを射法八節(弓道八節)といい、戦後に日本弓道連盟(全弓連の前身)の射法制定委員により制定された。詳細な技術内容は、流派や個人の考え・体格・思想などにより異なる。以下は全弓連発行の「弓道教本」により説明されている射法八節の基本的内容である。 射位(しゃい:弓を射る位置)で的に向かって両足を踏み開く基本動作。 最初に「執り弓の姿勢」(弓を左手、矢を右手に持ち両拳は腰に、両足を揃えて立つ姿勢)を取り、続いて「射位」に入り「足踏み」を行う。「射位」で的右手方向を正面にして立ち、両足爪先を結ぶ線の延長に的の中心が来るように両脚を左右に踏み開く。両足底は外向きに約60度開き、両足爪先の間隔はおおよそ身長の半分程度。踏み開き方には以下二種の様式がある。 「一足開き」…顔を的に向けたまま左足を的に向かい半歩踏み開き、次に右足を一旦左足に引きつけて右外側へ扇のような軌道を取りつつ踏み開く。 「二足開き」…顔を的に向けたまま左足を的に向かい半歩踏み開き、一旦目線を足下に取り右足を外側に半歩踏み開く。 礼射系に由来する射法の場合は「一足開き」、武射系に由来する射法の場合は「二足開き」。 足踏みを基礎として、両脚の上に上体を安静におく動作・構え。 弓の下端を左膝頭に置き、弓を正面に据える。右手は右腰の辺りに置く。 「足踏み」と共に弓を引く為の基本姿勢を作る。 矢を番えて弓を引く前に行う準備動作。 「取懸け」(とりかけ:ゆがけで弦・矢を保持すること)、「手の内」(てのうち:弓を保持する左手)を整える。 「取懸け」、「手の内」、「物見」(ものみ:的を見定める)の動作が含まれる。「弓構え」には大別して以下二種の様式ある。 「正面の構え」…体の正面にて取懸けて構える。 「斜面の構え」…体の正面にて取懸けて左斜め前(自分から見て)にやや弓を押し開き、手の内を整え構える。 礼射系に由来する射法の場合は一足開きの足踏みで正面の構え、武射系に由来する射法は斜面の構えか、二足開きの足踏みで正面の構え。 弓を引き分ける前に、弓矢を持った両拳を上に持ち上げる動作。 次の「引分け」へ繋げるための動作。「打起し」には大別して以下二種の様式がある。 「正面打起し」…正面の構えからそのまま弓矢共々両拳を垂直に持ち上げる。 「斜面打起し」…やや弓を押し開いた斜面の構えから両拳を左前方に打起す。 礼射系に由来する射法の場合は一足開きの足踏みで正面打起こし、武射系に由来する射法の場合は斜面打起しか、二足開きの足踏みで正面打起し。 打起こした位置から弓を押し弦を引いて、両拳を左右に開きながら引き下ろす動作。 「引分け」には以下三種の様式ある。 正面に打起した状態から左拳を的方向へ送り腕を伸ばし、右腕は弦を支え右拳を左拳と高さを合わせながら肘を張り、途中止めずに左腕は弓を押し開きつつ右腕を引き下ろし、次の会へ繋げる。礼射系に由来する射法の引分け方。 正面に打起し、引分けの途中「大三」(だいさん:押大目引三分一(おしだいもくひけさんぶんのいち)の略。弦を3分の1程引き取った状態。)で一旦動作を止め、一呼吸置いた後、さらに引分けて会へ繋げる。武射系に由来する射法の引分け方だが、足踏みは一足開き・二足開き双方とも組み合わせられる。 斜面に打ち起こした状態から弓を押し開きつつ右腕を引き下ろし、会へ繋げる。あるいは、引分けの途中「三分の二」(矢が眉毛の高さ、弦を3分の2程度引き取った状態)で一旦動作を止め、一呼吸置いた後、さらに引分ける。武射系に由来する射法の引分け方。 会は形の上では引分けが完成され(弓を引き切り)、矢が的を狙っている状態をいうが、射手の心理からいえばむしろ無限の「引分け」である。 矢は右頬に軽く添え(頬付け)、小鼻の下部から上下唇の間(口割り)の高さ以内に収める。 見た目上は静止して見えるが身体的には「会」に入った後も力を掛け続け、次の離れへと繋げる。 矢を放つ、あるいは放たれた時の動作の事。 右腕が大きく右方向に伸びる「大離れ」、右拳が右方向に僅かに移動するに留まる「小離れ」、その中間の「中離れ」がある。 三種の内どの離れに至るかは「引分け」〜「離れ」に至る力の掛け様により異なってくる。 矢が放たれた後の姿勢。「残身」とも書く。 「離れ」後、そのままの姿勢を数秒保ち、心身ともに一息置く。 精神を意味して「残心」、身体で意味して「残身」と書く。 弓 和弓長さ221cm(多少の長短がある)、握りの位置は下から三分の一のあたり。本来は竹と木を鰾(にべ。膠の一種)で張り合わせた竹弓だが、現在では合成接着剤で張り合わせた竹弓や、安価なガラス繊維強化プラスチック、炭素繊維強化プラスチック製のものが普及している。 矢 竹またはジュラルミンまたは炭素繊維強化プラスチック製の箆(の。矢柄、シャフトとも呼ばれる)に金属製の板付(矢尻)、矢をつがえる筈、三枚の羽をつけたもの。甲矢(はや)と乙矢(おとや)の2本1組を一手という。 ゆがけ(「弽」「弓懸」「弓掛け」とも書く) 弓を引く際に右手に装着する鹿の革でできた手袋の一種。通す指の本数に応じて三ツ弽、四ツ弽、諸弽(騎射弽)が存在する。現在では親指に木製の角(帽子という)が入っている堅帽子のものが主流。昔は、和帽子(柔帽子)という角の入っていないものが本流であった(角入りでは、馬上で弓を引いたり、刀を握ることが出来ないので都合が悪い。そもそも角が入った理由は、三十三間堂での通し矢で強弓を数多く引けるように改良されたため)。騎射弽は(昔の武士が付けていたものと同じ)角のないものが、四つ弽は堅帽子のみが、三つ弽と諸弽は、先に述べたとおり角の入っていない和帽子・堅帽子のほか、この二つの中間的な角入り帽子という三つの種類の弽が存在する(諸弽は基本的に、小笠原流の人のみが使用する)。左手を保護する押し手弽というものもある。また、「掛け替えのない」の語源であるとの説もあるが、定かではない。 弦 麻または合成繊維(ケブラーやアラミドなど)をよりあわせたものの表面に薬煉(「くすね」と読む。松脂に油を加えて煮たもの)を塗って補強してある。合成繊維製のものでは薬煉を塗っていないものもある。 的 星的、霞的、三色的、遠的用色的、射割りなどがある。大きさは直径1mのものから直径8cmのものまである。 巻藁 藁をたばねたもの。稽古用の的。 ※巻藁専用の矢がある。 ギリ粉 松脂を煮込み、粉末にしたもの。弦につけて使用する。摩擦を強め、ゆるまずに離れをしやすくする。 弓道は安全上の理由から原則として専用道場で行うのが好ましい。現在日本国内には公設・私設合わせて1400箇所以上の弓道場があり、体育館などに安全を配慮した上で仮設道場を造る場合もある。弓道場は競技の違いから近的場、遠的場があり、同時に的前に立てる人数(置ける的の数)はその道場の規模によって1人-15人以上と大きく幅がある。 近的場 射位(射手)から的までの距離が28m、通常は直径が一尺二寸(36cm)の的を置く。的場には矢が傷まないよう土が斜めに盛ってあり、これを安土(あづち)という。中学校-大学、公設道場から私設道場まで殆どの弓道場がこれで、通常の稽古は近的道場で行う。敷地面積が比較的取りやすいため、個人宅に1人-2人立ちの簡易道場を造る弓道家も少なくない。 遠的場 一般的には射位から的までの距離が60mあり、通常は直径1mの的を置く。広い敷地が必要なため、専用遠的場の設置数は少ない。的場に土盛りの安土は無し。近的場との併設が殆どで、現在は敷地面積の制約上、東京武道館弓道場など近・遠的射場を上下二階建てに設計された道場やアーチェリーとの併用も見られる。 稽古、試合などでは弓道衣を、改まった場(射礼、祝賀射会、奉納射会など)や高段位・称号の審査を受ける際は和服を着用する。ただし、低段位の者は常に弓道衣でかまわない。その他、特殊な儀式などでは直垂、狩衣、裃などを着用することがある。 弓道衣 上衣は白筒袖。袴は黒または紺で、男性は馬乗袴、女性は腰板のないもので襠袴(馬乗袴)または行灯袴。袴は帯を締めてから着用する。白足袋を着用する。全弓連が関与する代表的大会では、男女とも白筒袖・黒袴・白足袋を着用すると定められている。 和服 正式には和服の慣例に準じ、男性は黒の5つ紋付の長着に縞袴、女性は紋付の黒または色留袖に襠袴だが、規定は無く、それ以外が着用されることも多い。特殊な場合として成人の日の記念射会で女性が振袖を着用することがある。羽織は行射中は着用しない。足袋はやはり白を用いる。男性は左袖を脱いで片肌を出して行射する(肌脱ぎ)。女性は襷をかける。いずれも動作の作法が定められている。肌脱ぎも襷掛けも、左袖を弦で払わないためにする。 一般的な全日本弓道連盟の競技規則によるものを記す。なお、全日本学生弓道連盟(全学連)は全日本弓道連盟の傘下には属さない独立の組織であり、全学連および傘下の各地区連盟による各種試合は以下とは異なる点もある(詳細は全日本学生弓道連盟参照)。 以下の2種目。個人競技と団体競技が行われる。 近的競技 射距離:28m、的:直径36cm(一尺二寸)の霞的、星的または色的(的 (弓道)参照)。順位決定には直径24cm(八寸)の的を用いることもある。 遠的競技 射距離:60m、的:直径100cmの霞的または得点的。順位決定には直径79cmまたは50cmの霞的を用いることもある。 (第53回-第57回全日本弓道遠的選手権大会では、射距離30m、的直径36cmでも実施された。) 射手は一回に2射(一手)、または4射(二手)する(射詰競射の場合は1射)。通常の行射の際は取矢をすることが定められている。 的中制 的中数を競う。「あたり」と「はずれ」のみで判定し、的のどこに的中しても同じである。「あたり」とは以下の場合(弓道競技規則第36条で規定)、「はずれ」はそれ以外の場合をいう。 一、標的に矢があたりとどまっている場合。 二、標的にあたった矢が標的を突き抜けた場合。 三、矢が折れた時、矢の根のある方が標的の内側にある場合。 四、矢が標的にあたっている矢にくいこんだ場合。 五、矢が的枠の合わせ目または的枠に立った場合。 六、矢が的輪の内側から的枠の外に射ぬいた場合。 七、矢があたって標的が転び、その矢が標的についている場合。 八、あたった矢が地面についている場合。 九、的面にあるはずれ矢を射てあたった場合。 得点制 色的(得点的)を使用し、得点を競う。同点の場合は的中数による。国体の遠的競技、実業団の近的競技などで行なわれている。 採点制 的中だけではなく、射形、射品、態度などを総合して審査員が採点する。全日本男子弓道選手権大会および全日本女子弓道選手権大会で行なわれている。 全日本弓道連盟が定める礼法は、小笠原流礼法を縦糸としている。ちなみに、室町幕府の頃より武家の礼を2部門に分け、伊勢氏は内向き(殿中)の諸礼を仕い、小笠原家は外向き(屋外)一切の武礼を司っている。 国民体育大会 全日本弓道選手権大会 全日本弓道大会 全日本勤労者弓道選手権大会 全日本学生弓道王座決定戦 全日本学生弓道女子王座決定戦 東西学生弓道選抜対抗試合 東西学生弓道女子選抜対抗試合 全日本学生弓道選手権大会 全国大学弓道選抜大会 全関東学生弓道選手権大会 全国高等学校総合競技大会 全国高等学校弓道選抜大会 全国中学生弓道大会 世界弓道大会 全国青年大会(2004年の第53回を最後に廃止) アーチェリー(洋弓)はかつて全日本弓道連盟が「洋弓部」として管轄し、1958年には国際アーチェリー連盟(FITA)に加盟した。しかし国内のアーチェリー団体からの要請や、1967年の第24回世界選手権に出場した和弓選手の惨敗などを受けて、1968年にFITA加盟権を全日本アーチェリー連盟に移譲し、洋弓への関与を終えた。 技術的には、アーチェリーは矢を(身体から見て)弓の左に番え、弦は右手人差し指、中指、薬指で引く「地中海式」をとるのに対し、弓道は矢を弓の右に番え、取り掛けは右手親指根で弦を引っ掛けるようにして保持する「蒙古式(モンゴル式)」をとる(弓術#諸外国弓術との比較)。また日本のアーチェリーでは弓道の射法八節を取り入れている。 道具では、弓道もアーチェリーも本質的には同じであるが、アーチェリーの弓には(競技種目にもよるが)多数の補助具(スタビライザー、サイト(照準器)、クリッカーなど)を付けるのに対し、和弓は基本的に弓と弦だけである。アーチェリーでは左右両手用の弓があるが、和弓では基本的に左手用の弓しかない(弓道では左手に弓を持ち、右手で弦を引く)。 ルール面では、弓道では試合において引き戻しが許されず、矢を発射前に落とした場合は「失(しつ)」として、その矢は失格となる。 弓道では礼法や服装など武道の要素が強いが、アーチェリーは純粋に精度を競うため、服装やフォームなどは考慮されない。 本弭 握り 末矧 弦巻と弦 半弓 大弓と半弓 弓袋 四つ弽 ^ 対象物に善く中て、強く貫き、精度を維持する事「中貫久」(本来は「貫中久」である)。 ^ 香川の岡内木、東京の関口源太・本多利実・浦上直置、京都の石崎反求・岡田透、佐賀の森川秀実、愛知の奥村閑水・横浜有仲、岡山の富田忠正、長崎の市川虎四郎、熊本の生駒新太郎 ら ^ 本多利実の弟子、大平善蔵(射仏)談「自分が20年前(大正2年頃)京都の武徳祭に出場したときは、前面(正面)打起は自分一人であったから妙なやり方もあるものだと言った人も多かったが、今日(昭和7年)では出演者の九割は前面打起となっている。」 ^ 後の日本剣道形 ^ 大日本武徳会柔道形に改称。武徳会解散後は講道館の柔道形に統合 ^ 大平 善藏(日置流道雪派・東京)、浦上 榮(日置流・東京)、西牟田 砥潔(日置流竹林派・東京)、根矢 熊吉(日置流竹林派・東京)、鱸 重康(小笠原流・静岡)、渡邊 昇吾(日置流竹林派・茨城)、阿波 研造(日置流竹林派・宮城)、三澤 喜太郎(日置流竹林派・愛知)、堀田 義次郎(日置流竹林派・滋賀)、酒井 彦太郎(日置流雪荷派・兵庫)、大島 翼(小笠原流・武徳会・日置流・兵庫)、河毛 勘(一貫流・鳥取)、小西 武次郎(日置流竹林派・香川)、村河 淸(大和流・京都)、石原 七蔵(日置流吉田大蔵派・福岡)、三輪 善輔(日置流竹林派・福岡)、祝部 至善(日置流竹林派・福岡)、坂本 茂(日置流・熊本)、宇野 東風(日置流道雪派・熊本)、溝口 武夫(日置流・鹿児島)、種子島 常助(日置流・鹿児島)、小笠原 淸道(武徳会本部)、跡部 定次郎(武徳会本部)、田島 錦治(武徳会本部)、膳鉦次郎(武徳会本部)、高倉 永則(武徳会本部)。 ^ 大日本武徳会解散時、宇野要三郎は副会長という要職に就いており、武徳会がGHQにより強制解散させられた際に追放(パージ)された。(旧)全日本弓道連盟結成後暫くして、「追放された者が会長を務めている「(旧)全日本弓道連盟」は大日本武徳会の延長である」との趣旨の噂が司法界や文部省で囁かれ、国民体育大会から「弓道」が除外される懸念も出始め、宇野会長は辞任。(旧)全日本弓道連盟も解散させる形をとった。 ^ 弓道教本第2巻-射技篇、弓道教本第3巻-続射技篇、弓道教本第4巻-理念と射技詳論に詳説。 ^ 男子と同じ腰板付の袴を着用することもある。 ^ 一部流派や学校ではあえて着用しない場合もあるが、多くの弓道場では裸足が禁止されている。 ^ はね返った場合は「はずれ」となる。 ^ 以前は矢が的にあたる前に地面に触れた場合と区別せずに「はずれ」としていたが、現在の規則ではあたった後に筈が地面についた場合は「あたり」としている。 ^ 1.スタンス(足構え)、2.セット(胴構え)、3.ノッキング(矢つがえ)、4.セットアップ(射ち起こし)、5.ドローイング(引き分け)、6.フルドロー(会)、7.リリース(離れ)、8.フォロースルー(残身) ^ 全日本弓道連盟「平成27年度事業報告書」 ^ a b 平成27年度加盟登録状況(全国高等学校体育連盟) 財団法人全日本弓道連盟編 『弓道教本』 第1-4巻。 宇野要三郎(監修) 『現代弓道講座』全7巻、雄山閣出版、1970。 今村嘉雄、小笠原清信、岸野雄三(編) 日本武道全集 第3巻 『弓術・馬術』、人物往来社、1966。 浦上栄述、浦上同門会編 『行射60年』、浦上同門会、1955。 浦上栄、齋藤直芳 『弓道及弓道史』、平凡社、1935。 稲垣源四郎、川村福二 『日本の武道 弓道・なぎなた』、講談社、1983。 入江康平、森俊男編著 『弓道指導の理念と実際』、不昧堂出版、1998。 入江康平編著 『武道文化の探求』、不昧堂出版、2003。 中村 民雄 編 『史料近代剣道史』 島津書房、1985年。 小山 高茂 他3名 編 『現代弓道講座 第一巻』 雄山閣出版、1994年。ISBN 4-639-00146-0。 戦時下の「国民体育」行政 厚生省体力局による体育行政施策を中心に 中村佑司 中野文庫 国民体力管理制度調査会官制 中野文庫 国民体力法 小野﨑紀男、松尾牧則、守田勝彦編 『弓道日本』、太陽書房。 小野﨑紀男著 『日本弓道史料』第一巻-第九巻、太陽書房。 ISBN 978-4-903447-06-3 鏑矢 全国高等学校総合体育大会弓道競技歴代優勝校 アーチェリー 全日本弓道連盟 弓道、弓道への誘い 一貫流伝 昭和8年弓道統一 大日本武徳会のその後の弓道 「礼記射義及射法訓」 武田流弓馬道 全国大学弓道部「流派Map」 Kyudo Online Library Project なまこ先生のマンガで弓道教室 北京五轮馆国际文化交流中心(GRK)弓道部 KYUDO PHOTOGRAPH Q", "テニス(英: tennis)またはローンテニス(英: lawn tennis)は、二人または二組のプレイヤーがネット越しにラケットでボールを打ち合う球技。オリンピックやパラリンピックで採用されている競技であり、年齢性別、身体的個性を問わず広く親しまれている。日本において漢字名の庭球(ていきゅう)と呼ばれることもある。 複数の人間が1つの球を互いに打ち合うという形態の球技の起源は、紀元前にまで遡ることが出来る。エジプトでは宗教的な行為のひとつとしてこのような球技が行われていた。紀元前15世紀の壁画で球を打ち合う球技を行う人々の姿が描かれたものが発見されている。 フランス貴族の遊戯として定着をはじめた16世紀以降には「jeu de paume」(ジュ・ド・ポーム、「掌の遊戯」の意)と呼ばれた。 フランスでこの球技が盛んになった理由としては、ローマ時代の直接の影響よりも、8世紀から11世紀まで、イベリア半島から南フランスまで進出していたイスラム教徒(後ウマイヤ朝)が、エジプト時代と同様に、宗教的行為として行っていたものに、キリスト教の僧侶が興味を持ち模倣したことから始まったと言われている(「ラケット」の語源がアラビア語であることに注意されたい。フランスの僧院で特に盛んに行われるようになったのは、イスラム勢力がヨーロッパから駆逐された12世紀ごろ以降からとされる)。 「テニス」の名称はフランス宮廷で行われたテニスの原型であるジュ・ド・ポム (Jeu de Paumme) において、攻守交代の際にサーバーが「トゥネス!」(仏: Tenez!、動詞 tenir の命令形で「(球を落とさないように)取ってみろ」の意、現代フランス語では「トゥネ」と発音する)と掛け声をしていたことにちなむと一般的に言われる。アラビア史研究の権威フィリップ・K・ヒッティ(Philip Khuri Hitti)は、中世にリンネル織物で有名だったエジプトのデルタ地方の都市で、リンネルで球を作ったと思われる「ティンニース」からきているのだろうと述べている。基本的なルールやスコアリング方式はローンテニスと似ている部分もあり、ファイブズ (fives)、ペロタ (Pelota) などのハンドボールから発達した。 18世紀から19世紀にかけてヨーロッパの貴族の間で大流行し、多くのコートが建造されたが、現存するものは少ない。イギリスでは復元されたコートがクリフトン大学にある。近代における貴族階級の遊戯としてのテニスは、イギリスではロイヤル・テニス(Royal Tennis、「王家のテニス」の意)、アメリカではコート・テニス(Court Tennis、「宮廷のテニス」の意)とも呼ばれている。 手袋を使うこともある。Jeu de paumeの「paume」とは掌を意味する。ボールは固形物(石等)を芯に糸を巻き、皮で被ったもので現代のものよりはるかに重く、弾力性は少ない。サーブは一方の側からのみ行われ、傾斜した屋根を転がるように打ち上げる。レシーブ側のプレイヤーは、落ちてきたボールが二度バウンドする前に打ち返す。失敗したプレイヤーはポイントを失う。ゲームの最初の第一球の打ち込みが「サーブ」と呼ばれるのは、中世においては、レシーバーにあたる人間の従者が第一球を屋根に打ち上げる役目を行っていたことに起源がある(従者「サーバント」が主人に対して行う行為は「サービス」)。14世紀には現在のラケットの原型が登場した。これにはまだガットは張られておらず、ガットが張られるようになったのは16世紀になってからである。 現代の多くのスポーツとは異なり、ローンテニスの歴史はごく浅い。1873年12月、ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐が考案した「スフェリスティキ(sphairistike、ギリシア語: σφαιριστική、「球戯術」の意。略してスティッキ[sticky])」がその原型。現在の社会体育、生涯スポーツの概念の先駆けとなる発想で、ラケット、ネット等をセットで商品化し、芝生の上なら何処でも楽しめる「持ち運びのできるテニス」などともいわれ、コートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていた。ボールは中空のゴムボール(ソフトテニスボールと同様なもの)を採用し、当初は現在のように硬質のフェルトで覆われていなかった。1874年、少佐は商用としての可能性を見て特許を取得したが、商業的には成功せず、特許の期限切れにともなう再申請は行っていない。しかし、イギリスやアメリカで有閑階級を中心に急速に広まり、アメリカではニューヨークのスタッテン島、メアリー・ユーイング・アウターブリッジの家で最初にプレイされた。中空のゴムボールでは芝生上でしばしば不安定なバウンドをみせることがあり、フェルトを巻いたものも考案され、2種のボールは永らく併用されていたが、やがてフェルトカバーボールが主流となっていく。 1877年、イギリスのロンドンでアマチュアの大会として第1回目のウィンブルドン選手権が開催された。アメリカでは1881年に設立されたアメリカ国立ローンテニス協会(現在の全米テニス協会)が、ルールを標準化し、かつ競技を組織化した。同年、「全米シングルス選手権」(最初の名称:U.S. National Singles Championship)の第1回大会がアメリカ・ロードアイランド州ニューポートで開催され、1887年には「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship) が始まった。これらのアメリカでの大会群は現在の全米オープンの原型である。歴史的にボーリングが上手い人はテニスも上手い。1900年には男子国別対抗戦であるデビスカップがナショナルチームの間で始まった。 試合形式としては、1人対1人で行うシングルスと2人対2人で行うダブルス、混合ダブルスがある。 試合開始前のトスによって決定された一方のプレイヤーがサーバー、他方がレシーバーとなり、ゲームごとに交替する。プレーヤーは奇数ゲーム終了ごとにコートを入れ替わる。サーバーはベースラインの外から相手コートのサービスエリアでバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールを2回バウンドする前に相手コートに打ち返す。次のようなときに失点(相手方の得点)となる。 サーブを2回続けてフォールト(ダブルフォルト)したとき サーブされたボールがバウンドする前にレシーバーが触れたとき 自分のコートでボールが1回バウンドし、もう1回バウンドしたとき 自分のコートでボールが1回バウンドし、逆回転によってネットを越えて相手のコートに戻ったとき(この場合は特殊で、ボールが相手コート上にあってもネットタッチさえしなければ、2バウンドする前にオーバーネットして打ち返し、相手が取れなければそのポイントは自分のものとなる) 自分のコートに落ちたボールがバウンドしなかったとき 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、相手のコート外(アウト)だったとき 打ったボールが審判に命中したとき ラケット以外の部位がボールに触れたとき 相手コート内でボールに触れたとき 体やラケットがプレー中にネットに触れたとき ラケット以外の持ち物をコート上に2回落としたとき スコアは、0ポイント:ラブ (love)、1ポイント:フィフティーン (fifteen, 15)、2ポイント:サーティー (thirty, 30)、3ポイント:フォーティー (forty, 40) と数える。2ポイント差以上をつけて4ポイント以上を取ると1ゲームを獲得する。例としてカウントが40-30であれば、40の側のプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。両者とも3ポイント (40) の状態を「デュース」(deuce) と呼び、デュースの後1ポイントリードしている状態を「アドバンテージ」(advantage) と呼ぶ。アドバンテージを得ているプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。アドバンテージを得ているプレーヤーの相手側が1ポイントを取得すると再びデュースとなる。 2ゲーム差以上をつけて6ゲーム以上を取得するとセットを得る。例としてゲームカウントが5-5となった場合は、6-5の後、7-5とすればそのセットを得る。ゲームカウントが6-6となった場合には、次のゲームはルールによってはタイブレーク (tiebreak) が行われる。タイブレークでは2ポイント以上の差をつけて7ポイント以上を獲得した方がゲームの取得者となり、このセットを得る。タイブレーク中のポイントの数え方は、zero、one、two、three、…となる(註:この時は0はzeroとなる)。タイブレークが行われたセットのスコアは、例としてセット取得者側から見る場合は7-6(6)のように表記し、この場合はタイブレークが8-6のスコアで終了したことを意味する(カッコ内の数字はタイブレークを取得しなかった方のポイント数である)。総セット数の過半数、例として5セットの内3セットを取得すれば勝利となる。 タイブレークは1965年にJames Henry Van Alenが試合時間短縮のために考案し、1971年にウィンブルドン選手権において初めて導入された。この時には最終セット以外のセットでゲームカウントが8-8となった後に行うというルールであり、1979年に同大会において最終セット以外のセットでゲームカウント6-6の後に行うというルールに変更された。4大大会の内の全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン、およびオリンピックでは最終セットでタイブレークを採用しておらず、この場合は2ゲーム差が付くまでセットが続行される。かつてはデビスカップ、フェドカップでも同様のルールを採用していたが、現在ではすべてのセットでタイブレークを採用している。 2005年秋以降の男子国際大会でのダブルスにおいて、ノーアドバンテージ、また1セットを5ゲーム先取方式とする(ゲームカウント4-4でタイブレークを行う)等のルール変更が提案されており、ダブルスプレイヤーを中心とした反対運動など論争が起こっている。 このシステムを試行した初の国際大会である2005年10月のAIGジャパンオープンテニスでは、日本の岩渕聡、鈴木貴男組が日本人ペアとして初のツアーダブルス優勝を果たしている。 2006年のナスダック100オープンにおいて、条件つきで判定に異議を唱えられる「インスタントリプレイシステム」(チャレンジシステム)が初めて採用された。選手が審判の判定に疑問がある場合に「チャレンジ」を行うと、「ホークアイ」というコンピューターグラフィックスを用いた自動ライン判定システムのスロービデオが流れ、判定がやり直される。この手続きは主審がオーバールールを行うのと同様に、オンプレイの場合はラリー中のボールを止めて行う。明らかなエースおよびアウトやフォールトの場合はポイントが適用されるが、その他の場合はレットとなり、ポイントをやり直す。誤審が判明すればチャレンジする権利は失われないが、判定が覆らなかった場合、その選手はチャレンジ失敗となり、チャレンジする権利を1回失う。 同システムは、4大大会では2006年の全米オープンにおいて初めて導入され、センターコートなど2会場で設置された。2007年には全豪オープンおよびウィンブルドン選手権でも導入された。日本では2008年に東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントにおいて、2010年にジャパン・オープン・テニス選手権においてそれぞれ初めて使用された。 2011年のウィンブルドンにおいては、インスタントリプレイ (Electronic Review) に関して以下のルールが適用されている。 タイブレークになった場合は、その時のチャレンジの残り回数に1回追加される。すなわち、そのセットでのチャレンジ失敗 (incorrect challenges) の限度が3回だったものが4回に増える。 最終セットにおけるチャレンジ失敗の回数の限度は、12ゲームごとに3回にリセットされる。すなわち、 ゲームカウントが6-6となった場合は、回数はリセットされ、続く12ゲームの間は3回までとなる。 チャレンジの回数は繰り越されず、12ゲームごとに回数がリセットされる。 線審がポイント終了時に視界をさえぎられ判定ができなかった場合、主審はインスタント・リプレイを要求してもよい。 インスタント・リプレイが何らかの理由で利用できない場合は、元の線審の判定あるいは主審のオーバールールが有効となる。 なお、チャレンジシステムはクレーコートの試合ではコートにボールの跡が残るため採用されない。 ラケット 棒状のグリップの先が輪になっており、そこに糸状のもの(ストリングスやガットと呼ばれる)が縦横に張られ、この面でボールを打つ道具。材質は、当初は木を加工していたが、その後、スチール、アルミ、などの単一素材が使われ進化して行き、近年は繊維強化プラスチック (FRP)、チタンなどを用いた複合材料のものが主流となっている。長さ69センチ前後、重さは240〜380グラム程度。なおゴムボールを使用するソフトテニス用を硬式テニスに用いると、即ラケット損傷につながるので、混同しないよう注意が必要。 ボール 黄色、表面はメルトンと呼ばれるフェルトで覆われている。直径6.35〜6.67センチメートル、重さ56.7〜58.5グラム。保管している缶に1.8気圧が保たれるようになっておりプレッシャー・ボールと呼ばれる。公式球の表面は白のメルトンであったこともある。 大気圧のノンプレッシャー・ボールという練習球もあるが公式戦では使用できない。 コート 床面の材質(サーフェス)は天然芝(グラス)、土(真砂土・荒木田土・粘土砂混合土。クレイ)、焼成土(アンツーカ)、塗装したコンクリート(ハード)、ウレタン樹脂またはゴム(ウレタン)、砂入り人工芝(グラスサンド)など。縦23.77メートル(78フィート)、横はシングルスでは8.23メートル(27フィート)、ダブルスでは10.97メートル(36フィート)である。 床材の専用の製品も普及しており、英国ではグラス(芝生)、北米ではデコ・ターフ、オセアニアではリバウンド・エースという製品が普及している。 コート上のラインには合成樹脂製のラインテープをラインの線に打ちつけて表示する。 ネット 中央の高さが91.4センチメートル(3フィート、あるいは1ヤード)、またシングルス、ダブルスのコートそれぞれで、ネットポストでの高さが1.07メートル(3フィート6インチ)である。 ネットポスト(テニスポスト)はコートに予め設置されている埋筒に差し込むか、専用のアンカーで固定して用いられる。そして、ネットのコードをネットポストのウインチ部分に引っ掛け、ハンドルを回して巻き取りながらネットを張るようになっている。 シングルス・スティックス (singles sticks) シングルスの試合において、ネットポストがダブルス用に設置されている状態で、シングルス用の本来のネットポストの位置に立て、ネットを既定の高さに修正する用具。 公式の試合において、着用する服装はルールにより定められている。清潔でプレーにふさわしいと認められたテニスウェアを着用しなければならない他、トーナメントによっては開催要項に明記して、服装の形や色を規制する場合がある。有名なのはウィンブルドン選手権において白を基調としたウェアとシューズの着用が義務づけられている。これは、1884年の初代女子シングルス優勝者のモード・ワトソンが上下のウェアを白で統一していたことに由来する。 また、スポンサーや製造者のマークの大きさも決められており、アディダスの三本線はデザインとは認められず製造者マークと見なされ、2008年より大きさの制限が設けられている。 ジュニアの大会では、原則としてメーカーのマークなどが、胸の位置以外にあるものは認められない。 テニスラケットも原則としてメーカー契約選手で無い限りメーカーのマークがされたガットを使用する事は出来ない。 テニス (tennis) 「(球を落とさないように)取ってみろ」という意味の「Tenez!」に由来する。これはロイヤルテニスにおけるサーバー側のプレイヤーの掛け声である。 チャンスボール 試合中に緩いボールがあがったり、打ちやすく自分にとって有利なボール。 ボールパーソン (ball person; ball boy, ball girl) 試合中に、ラリーが終了した後のボールを拾ったり、選手にボールを渡したり、ルールに沿って新しいボールに変えたりする人。多くの場合、正式な訓練を受けた子供たちが行う。タオルや、落としたラケットを渡すこともある。 ラケット (racquet, racket) フランス語の「raquette」からきているが、この言葉は「掌」という意味のアラビア語ラーハ(راحة (rāḥat))に由来する。 ガット (gut) ラケットに張る弦。正式にはストリングス (strings) という。ガットは「腸」を意味する。素材はナチュラルガット(動物の腸)の他、ナイロンやポリエステル等がある。太さは、主に1.10〜1.42mm (15〜18)。 テンション (tension) ガット(ストリングス)をラケットに張る強さ。強さの単位には通常ポンド (pounds, lbs, LBS) が使われる。ガットやラケットは、それぞれ適正張力が推奨されている場合が多く、45〜60ポンドである場合が多い。張り上がりが強いほど硬くなり、コントロール性が良くなる。また弱いとボールスピードが上がる。 振動止め ゴム状の素材でできており、ラケット全体の振動を軽減させる目的でストリングスの一部に装着して利用する。利用するかどうかは利用者の判断で選択できるが、装着できる位置などに関してルールで定められている。実際には音をミュートするだけで、腕に伝わる衝撃はほとんど変化しない。ただ音による打感の違いは重要でテクニックに少なからず影響する。 オーバーグリップ (overgrip, overwrap) グリップに巻いて利用するテープ。グリップには元々ラバーや合皮等が巻いてある(アンダーグリップ)が、摩擦感や吸汗性などに難点があり、耐久性も低い為、そのまま使用するプレーヤーは少ない。様々な材質(主に、ウレタン、タオル素材)が存在する。 ノン・プレッシャライズド・ボール (non-pressurized ball, pressureless ball) 一般にノンプレッシャーボールと呼ばれる。ボール内の空気圧を外気圧と同じ程度にして作られているため、空気がほぼ抜けないボール。プレッシャライズド・ボールよりも空気圧が低い分、ボールの素材で反発力を補っている。空気抜けの問題はないため、販売時に缶などで高圧で密封する必要はない。 ストリング・セーバー(string savers [複数]) ストリングスが摩耗したり早く切れることを防ぐ目的で、ストリングスが交差する箇所に装着する小さいプラスチックの用具。 デュース (deuce) 現在、フランス語では平等・同点を意味するエガリテ (égalité) が用いられる。 ラブ (love) 無得点をさす。アラビア数字の「0」が卵型をしていることから、卵を意味するフランス語の定形「l'œuf」に由来するという説がある。。 「0」「15」「30」「40」というスコアの数え方は、当初は60進法で0、15、30、45であったものの45の5が省略されるようになったものだという説が有力である。なお、フランス語では「0」、「15」、「30」、「40」、「アドバンテージ」は、「zéro」、「quinze」、「trente」、「quarante」、「avantage」(アヴァンタージュ、アヴォンタージュ)であり、全仏オープン等で聞くことができる。 キープ (keep) サーバー側がゲームを取得すること。この競技では一般的にサーバー側が有利である。したがって試合に勝利するためには自分のサービスゲームを確実に保守し(keep)、いかに相手のサービスゲームをブレークするかが鍵となる。ただしキープは和製英語。英語圏ではholdという。 ホールド (hold [serve]) サーバー側がゲームを取得すること。 ブレーク (break) レシーバー側がゲームを取得すること。なおブレーク無しで勝利することができるのは、あるセットで自分側と相手側がサービスゲームをすべて取得し、その後のタイブレークでそのセットを取得するという方法で規定のセット数すべてを取得する場合である。それ以外の場合、試合に勝利するためにはブレークを行う必要がある。 ミニ・ブレーク (mini-break) タイブレークにおいて相手側のサーブ時に取得するポイント。またこのミニ・ブレークが相手よりも最低1つでも多い状態(1ミニ・ブレーク アップ)にならないとセットを取得するまた勝利することが出来ない。 フォールト、フォルト(fault) サーブで打ったボールがサービスエリアに入らなかったときのコール。1ポイント中に2度フォールトすると「ダブルフォールト」となり、サーバーはそのポイントを失う。 フットフォールト、フットフォルト (foot fault) サーブを打つ時に、ラインを踏んだり、ラインを越えて踏むなど、足を着いていた位置が規定の範囲から外に出ていた場合にコールされ、フォールトとしてカウントされる。ボールがラケットから離れた後に足を着く位置は問われない。 レット (let) プレーをやり直すこと。サーブの時、打ったボールがネットに当たってサービスエリア内に入ったり、トスしたボールが着地するまでに打たなかったりした場合、サーバーにはそのサーブをやり直す権利がある。また、プレー中に他のコートからのボールや、その他プレーの妨げとなるものが入ってきたり、身に付けているものや持っているボールを落とした場合などにもコールされ、ファーストサービスからまたはセカンドサービスがレット (let) になった場合はセカンドのやり直しとなる。 ネット (net) サービスで打たれたボールがネットに接触した場合、審判が発するコール。このコールによってボールがネットに接触したことを確認し、その後、そのボールがサービスエリアに収まった場合はレット、収まらなかった場合はフォールトをあらためてコールする。 タッチ (touch) ネットにラケットや体で触れた時、またボールがラケットや体にかすったことで失点となったと判断された場合や、ボールが天井などの構築物に触れたと判断された時などにコールされ、失点となる。 ナット・アップ、ノット・アップ (not up) 打球時にボールがすでに2回バウンドしていた場合の審判によるコール。 オーバールール (overrule) 線審の判定を主審が覆すこと。 トス (toss) サーブの際にボールを上空に投げ上げる動作。 試合開始前に、初めにサーブを行うプレーヤーを決定するための動作。コイントスと、ラケットによるトスがある。以下はラケットを使用する場合である。1人のプレーヤーがグリップを軸にしてラケットを回転させ、ラケットが地面に倒れ静止した状態での表裏を、ラケットが回転している間に相手側のプレーヤーが当てることにより行う。このとき、ラケットを回すプレーヤーは、相手側のプレーヤーに対して以下に示すような問いかけを行い、公正を期すため応答がある前にラケットを回す。トスの結果により選択権を得た側が、「サーブを初めに行う」「レシーブを初めに行う」「ネットのいずれかの側のコートに入る」「選択権を相手に譲る」のいずれかを選ぶ。なお、規定の練習が開始されるとコートの状況の確認が可能となるため、トスは規定の練習の前に行われる。 ラフ・オア・スムース (rough or smooth)、またはスムース・オア・ラフ (smooth or rough) かつてのラケットには、飾りガット、あるいは飾り糸と呼ばれる紐が結わえられており、紐が平坦である側が表(スムース)、凹凸がある側が裏(ラフ)と判断される。飾りガットが廃れた一方で、グリップエンドのラケット製造者のマークを用いて表裏を判断するようになった。なおsmoothの発音は/smuːð/である。 アップ・オア・ダウン (up or down) グリップエンドのマークが正しい向きになっている場合は表(アップ)、上下逆になっている場合は裏(ダウン)と判断される。 フィッチ (which) 上2つの選択肢を特に指定せず、単に「どちらか」を答えさせる意味での問いかけ。 ノー・アドバンテージ・スコアリング方式 試合時間の短縮を図って採用されることのあるルールで、デュースの後1ポイントでそのゲームの取得者を決定する。この1ポイントをディサイディング・ポイント (deciding point) と呼ぶ。略して「ノー・アド」などと呼ばれることがある。 レシーバーズ・チョイス (receiver's choice) ノー・アドバンテージ・スコアリング方式のゲームで採用されることがあり、デュースの後ゲームを1ポイントで決める時に、サーバーが左右どちらからサーブを行うかを、レシーバー側が決めることができる。審判は「Deuce. Deciding point, receiver's choice.」とコールする。 リタイアメント (retirement) 試合中の棄権。 ウォークオーバー (walkover) 相手側が何らかの理由で試合を開始できなかった場合に与えられる不戦勝。 ゲーム、セット、アンド マッチ(game, set and match または game, set, and match) 「ゲーム終了、セット終了、そして試合終了」の意で、試合終了時にコールされる(なお英語では、ゲームセット (game set) という言葉は、チェスなどのゲーム用具一式の意を持つ。)。 グリップ(ラケットの握り方) 主にコンチネンタル、イースタン、ウエスタンの3つの握り方がある。コンチネンタルは、ボレーやスマッシュに、イースタンは、フラット、トップスピン、スライスとどれも打てる。またウエスタンはフラットやトップスピンに適している。 ストローク ボールを打つこと。フォアハンドストロークとバックハンドストロークがある。 フラットストローク ボールに対してラケットの面(フェイス)をフラットにして打つ。スピードのあるボールが打てる。 トップスピンストローク ボールに強い順回転をかけることにより、落差の大きい打球となり、高くバウンドする。 スライスストローク ボールに逆回転をかけることで、バウンドした後に低く滑るような打球となる。 ロブ (lob) 相手の頭上を抜いたり、時間を作るなどの目的でボールを高く打ち上げること。フラット、アンダースピン、トップスピンの3つがある。 ボレー (volley) 相手が打ったボールをバウンドする前に打ち返すこと。ボレーにはミドルボレー、ローボレー、ハイボレー、ハーフボレー、ドロップボレー、アングルボレー、ドライブボレーなどがある。 サーブ (serve) ボールを空中に離し(「トス」と呼ぶ)、そのボールをラケットで打つこと。「サービス」(service) とも言い、サーブを打つ人を「サーバー」と呼ぶ。サーバー側コートのベースライン後方から対角にある相手コートのサービスエリア(サービスボックスとも言う)にサーブを入れる事で、ゲームのポイントが開始される。サーブがサービスエリアに入らなかった場合、前述のように(「ルール」の項を参照)、1ポイントにつき1度のみ失敗(フォールト)が許されており、もう1度サーブを打つことができる。2度目のサーブも失敗した場合、ダブルフォールトとなり、サーバーはそのポイントを失う。トスを上げる場所は特に規定されているわけではないが、多くの場合、頭上に上げる。サービスエリアに入りかつ相手がサーブしたボールに触れる事ができなかった場合、このポイントを「エース」(Ace) と呼ぶ(日本では「サービスエース」と呼ばれる事が多い)。また、かろうじて触れられたものの、エース級のサーブでポイントを取った場合は「サービスウィナー」と呼ぶ。サーブの種類はボールの回転で分類されることが多く、主に「フラットサーブ」、「スライスサーブ」、「スピンサーブ」などと呼ばれる球種が存在する。しかし実際のところ、これらの球種の分類は回転量や回転の方向についてのものであるため、明確な区別が難しく、複数の性質を併せ持つ中間型も多い(「スライスサーブ」と「スピンサーブ」の両方の性質を持つ「トップスライスサーブ」などが知られている)。また、回転ではなく打法における分類としては、ラケットの先端を水平よりも下側に向けた状態から打つサーブを特にアンダーサーブと呼ぶ。 フラットサーブ ボールの回転量が少なく、軌道の変化に乏しいので、他の回転をかけたサーブに比べるとサービスエリアに入れることは難しいとも言えるが、その分最もスピードを出すことのできるサーブである。 スライスサーブ ボールに横回転をかけて打つサーブ。回転の効果でボールは横に曲がりながら飛び、バウンド後も切れていく球筋をたどる。安定性も高く、セカンドサーブとして使うのにも適している。 スピンサーブ 前方への回転が主で、落差の大きい軌道を描く。このため、前述のフラットサーブなどよりも比較的サービスエリアに入れることが容易である。バウンド後は回転の影響により他のサーブに比べて高く弾む。サービスエリアに入る確率が高いこと、また高く弾むために攻撃されにくいことからセカンドサービスとして用いられることが多い。回転方向によっては、やや左に跳ねさせたり、逆にやや右に跳ねさせたりといった調節も可能である。「ツイストサーブ」や「キックサーブ」と呼ばれるサーブがあるが、もともとスピンサーブがこのような別名を持っている。一方、これらの呼称をそれぞれ独立したサーブとして差別化しようとする動きもある。 リターン (return) サーブを返球すること。返球したボールがサーバーに触れずにポイントを得た場合「リターンウィナー」と呼ぶ(日本では「リターンエース」と呼ばれることが多いが、「エース」はサーブ側のみに使われる用語であり、厳密には誤りである)。 ポーチ (poaching) ダブルスにおいて、ネット付近にいるプレーヤーが、移動して自分のパートナーの方へ打たれたボールをボレーする攻撃的な動作。 ダウン・ザ・ライン(down the line) 相手のコートへ打たれたボールがサイドラインに沿ってまっすぐであることの表現。 コードボール 自分もしくは相手が打ったボールがネットに当たり相手側のコートに入ること。 ウィナー ボレーやドロップショットなどで相手が全く触れずに得点となること。前述の「リターンウィナー」もこれに含まれる。 プレイのスタイル アグレッシブベースライナー (Aggressive Baseliner) 強打などで攻撃的なプレーを行うベースライナー。 カウンターパンチャー (Counter Puncher) 自分からは強打せずに相手のショットを拾って粘り、ミスを誘ったり、相手の強打を利用してカウンターを狙うスタイルのプレーヤー。 サーブアンドボレーヤー (Serve and Volleyer) サーブを打った後すぐにネット付近に移動してボレーやスマッシュを行うプレーを得意とするプレーヤー。 オールラウンダー (All-Arounder) 万能なプレーを行うことのできるプレーヤー。 スプリット・ステップ (split step) 相手側がボールを打つ直前に小さくジャンプする一つのフットワークの技術。 アイ・フォーメーション (I-formation) ダブルスにおいて、ポイントの開始前に、サーバーのパートナーがネットの中央付近に位置している陣形。 オーストラリアン・フォーメーション (Australian formation) ダブルスにおいて、ポイントの開始前に、コートを左右に分ける中心線よりも右側か左側のどちらか一方にサーバーとそのパートナーの両方が位置している陣形。 ホットドッグ (hot dog) プレイヤーがロブをネットから離れる方向へ追っていき、ネットに背中を向けた状態でボールを両足の間で打つプレー。 バギー・ウィップ (buggy whip) フォアハンドでの打球時のフォロー・スルーが、体の前を通って逆側に行かず、低い場所から高い場所へ移動して同じ側で終了する打法。この打法を行う選手としてはラファエル・ナダルが知られる。名前は馬車の馬を鞭で打つ御者の動作に似ていることに由来する。 ジャックナイフ (jack knife) ストローク時にボールにスピン系の回転がかかり高く跳ね上がったときに対応するためにジャンプをしながらバックハンドでスマッシュを打つ方法。主に身長が低い選手が多く用いている。 テニス肘、テニス・エルボー (tennis elbow) プレーヤーの技術やラケットが不適当であるために腕に過度の振動が伝わっていることが原因とされるけが。 ベーグル (bagel) 試合で自分もしくは相手にセットの中で1ゲームも取れないまた取られないことを言う(6-0、6-3 など)。また2セット続けて1ゲームも取れないまた取られない場合はダブルベーグルと呼ぶ。日本のテニス用語では団子とも言われる。 全豪オープン(1月) 全仏オープン(5月 - 6月) ウィンブルドン(6月 - 7月) 全米オープン(8月 - 9月) 四大大会を1年間ですべて優勝することを年間グランドスラム(複数年に跨っての達成はキャリア・グランドスラム(生涯グランドスラムとも)と呼ばれる。 これにオリンピックの金メダル獲得をも達成すると「ゴールデン・スラム」と呼ばれ(グランドスラムをオリンピックの開催年(オリンピアード)に達成し、かつオリンピックの金メダルを獲得することを年間ゴールデン・スラムという)、更なる難易度を要するものである。1988年に当時19歳のシュテフィ・グラフが達成し、この言葉が作られた。グラフの後に達成した選手は、2008年に車いすテニス界において日本人プレーヤーの国枝慎吾が、成し遂げている(全豪オープン、ジャパンオープン、全英オープン、全米オープン、パラリンピック)が、グラフが達成したのは年間グランドスラムで、国枝の達成したものはキャリア・ゴールデン・スラムである。 諸説あり、1878年(明治11年)にアメリカ人教師のリーランドが文部省の体操伝習所で紹介したローンテニスが最初であろうという説が有力とされている。 このあと、明治期の日本で調達が困難であったローンテニス用具を、安価なゴムボール等の代用品で賄った。これがやがて軟式テニスと呼ばれる様になり、体操伝習所の教師であった坪井玄道が普及に尽力し、伝習所の卒業生が教師となって各地の学校に赴任し伝えることにより独自の発展を遂げ、今日のソフトテニスに至る。 軟式テニスで育った熊谷一弥、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎ら多数の名選手がテニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らは、その当時においては独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で活躍し、1920年代前半から1930年代後半まで続いた日本テニス黄金時代を築き上げることとなる。 1918年(大正7年)、熊谷一弥が全米選手権において、日本人テニス選手として史上初のベスト4進出を果たし、1920年(大正9年)には清水善造のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝(現在では準決勝に相当)に進出し、世界1位に君臨していたビル・チルデンに肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックにおいて熊谷がシングルスで銀メダルを獲得し、ダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアが銀メダルを獲得し、オリンピックで初めての日本のメダルとなった。翌1921年、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本チームの活躍は目覚ましく、準優勝に輝いている。 日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代には原田武一が日本を代表する選手として活躍した。原田はとりわけ、デビスカップで傑出した成績を挙げることとなる。特に1926年のデビスカップでは、日本テニス史に残る名勝負が繰り広げられた。日本は「アメリカン・ゾーン」決勝でキューバに5戦全勝で勝ち、「インターゾーン」の決勝でフランスと対戦する。当時のテニス界は、フランスの「四銃士」と呼ばれた4人の強豪選手たちが世界を席巻し始めていた。原田はインターゾーン決勝のフランス戦で、第2試合シングルスでルネ・ラコステを 6-4, 4-6, 6-3, 9-7 で破り、第5試合シングルスでもアンリ・コシェに 6-1, 6-3, 0-6, 6-4 で勝ち、この活躍で世界的に有名な選手となった。日本チームは2勝3敗でフランスに敗れたが、原田のシングルス2勝は大きな反響を呼んだ。1926年、原田武一は「全米テニスランキング」でビル・チルデン、マニュエル・アロンソに次ぐ第3位にランクされ、世界ランキングでも7位に躍進する。 1930年代に入ると、佐藤次郎が登場する。佐藤は4大大会でシングルスでは通算5度もベスト4に進出し、ダブルスでは布井良助とペアで準優勝を経験し、混合ダブルスにおいても準優勝に輝くなど、日本の男子テニス選手として空前絶後の世界的な活躍を残し、当時の世界ランキング3位にまで登り詰めたが、1934年(昭和9年)4月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をしてしまう。しかし、同年のウィンブルドン混合ダブルスで三木龍喜がドロシー・ラウンドとペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。 佐藤亡き後は山岸二郎、中野文照が日本テニス界を代表する選手になる。特に山岸は1938年のデビス・カップ「アメリカン・ゾーン」決勝でオーストラリアと対戦した時、この年の世界ランキング3位だったジョン・ブロムウィッチを6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で破り、1937年(昭和12年)に山岸は世界ランキング9位に入り、1938年(昭和13年)には8位にランクされた。同年にはアメリカのドン・バッジがテニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成しており、山岸は彼らに続く強豪選手として高い評価を受けたのである。 しかし、1937年に勃発した日中戦争は泥沼の様相を呈し、国内の物不足も顕著になりボールも配給制となった。1939年には四大大会への海外遠征とデビス・カップへの選手派遣も中止となり、戦前の日本テニスの黄金時代は終わりをつげた。1941年に日本が太平洋戦争に突入すると、日本国内は戦時一色となり、日本テニス協会も1942年11月に解散を余儀なくされてしまい、翌年から3年間、戦争激化のため大会は中止せざるを得なかった。この影響は日本テニス界を確実に蝕み、今までのような高水準のレベルが維持できないようになってしまい、長期の低迷を迎えることとなる。 終戦後には日本においてテニスをはじめとするスポーツも徐々に復興し、1951年(昭和26年)からデビスカップの国際舞台に復帰すると徐々にレベルを回復させるようなる。1955年(昭和30年)、全米選手権男子ダブルスにおいて宮城淳、加茂公成のペアが優勝を成し遂げる。 1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。 1995年(平成7年)には松岡修造がウィンブルドン選手権男子シングルスでベスト8を獲得した。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少なかった。 しかし、2008年(平成20年)に錦織圭が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たし、2014年(平成26年)には、全米オープンでアジア男子初の準優勝、同年末にはアジア男子初のATPワールドツアー・ファイナルに出場。初出場で2勝をあげ、準決勝まで進出するという快挙を達成、2015年には日本人及びアジア人最高位を更新する世界ランキング4位を記録、アジア選手初の生涯獲得賞金1,000万ドル (約12億円) を突破した。そして、全米オープンでは日本人で初めてのグランドスラムでの第4シードを獲得した。2016年にはリオデジャネイロオリンピックに男子シングルスの日本代表として出場。準決勝でイギリスの英雄アンディ・マリーにストレートで敗退するも3位決定戦で同大会ダブルス部門で金メダルを獲得したラファエル・ナダルにフルセットの末、勝利し銅メダルを獲得し、前述の熊谷一弥,柏尾誠一郎以来の96年ぶりのオリンピックテニス競技のメダリストに輝いた。 女子では、1975年(昭和50年)のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、沢松和子とアン清村のペアが初優勝した。1980年代から90年代には井上悦子や1989年にプロ転向した伊達公子が活躍。伊達は1995年に日本人選手として最高の世界ランキングシングルス4位を記録。1997年には平木理化が全仏オープン混合ダブルスで優勝した。2004年2月、杉山愛が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たした。また、ダブルスとしては世界的な名手と知られ、2000年10月には日本人男女初となる世界ランキング1位を記録した(後に2003年にも1位に返り咲く)。 前述したようにソフトテニス(軟式テニス)はテニスが日本へ紹介された当時、テニス用具の国産化が難しく輸入品が高価であったため、比較的安価に輸入(独)[要検証 – ノート]できたゴムを材料としたボールが使われたのが始まりで、ゴムボールを使用するソフトテニスは日本が発祥。日本のインド学・仏教学の祖である高楠順次郎は若い頃、日本で初めてソフトテニス(軟式テニス)をしたひとりとしても知られている。アジアを中心に行われていたがプレイされる国や地域が増え、2007年の第13回世界選手権では40を超える国がエントリーした。ダブルスが主体であるというイメージがある。1994年以降はシングルスのルールが整備されている。ルールの一部はテニスのものと異なっている。日本語においては、ソフトテニスと区別して、テニスを硬式テニスと呼ぶこともある。 テニススクールの頁を参照。 1998年、日本テニス協会や日本プロテニス協会などが参加する「日本テニス振興協議会」は設立された1998年に9月23日(秋分の日)を「テニスの日」に制定した。 バドミントンなどとともに、レクリエーションやレジャーとしても広く行われる競技である。公園や高原のリゾート地などには、しばしばテニスコートが見られる。 ^ フィリップ・K.ヒッティ (著), 岩永 博 (翻訳) 『アラブの歴史 (上)』 講談社学術文庫、1982年 p687 ^ 「Tennis score」『Wikipedia英語版』 2011年10月8日 07:54 (UTC)。 ^ 「Tennis」『Wikipedia英語版』 2011年10月25日 16:04 (UTC)。 ^ 死闘戦った両者が最終セットタイブレークなしを非難日刊スポーツ(2018年7月14日) ^ デビスカップ、16年から第5セットのタイブレーク採用へAFPBB(2015年9月26日) 2018年7月14日閲覧 ^ 「Player Challenge System」(英語)『2011 Wimbledon Championships Website - Official Site by IBM』 IBM Corp.、AELTC、2011年10月31日閲覧。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「Glossary of tennis terms」『Wikipedia英語版』 2011年10月10日 04:38 (UTC)。 ^ 『オックスフォード英語辞典』第二版によれば、「for love」に「楽しみのために、賭け金0で(ゲームをする)」の意味がある(文献初出1678年[要検証 – ノート])。 ^ a b 「Wikipedia:表記ガイド:外来語」『ウィキペディア日本語版』 2011年10月8日 11:07 (UTC) に沿って、本項目での表記を「フォールト」で統一。 ^ a b 「fault」『Wiktionary英語版』 2011年9月15日 21:16 (UTC)。/fɔlt/に近いカタカナ表記、また慣習的表記として。 ^ 「smooth」『Wiktionary英語版』 2011年10月14日 01:38 (UTC)、2011年10月24日閲覧。 ^ 『基本が身につくテニス練習メニュー200』181頁。 ^ タイムスクープハンター(NHK総合1ch 11:30 - 0:00)2013年4月27日放送分 第4話『打て!大正テニスガール』番組内説明 ^ 「テニスをブームではなく根付かせるために…18年目を迎えた9月23日「テニスの日」」|「国内ニュース」のニュース|THE TENNIS DAILY/テニスデイリー、閲覧2017年7月14日 国際テニス連盟 (ITF) 男子プロテニス協会 (ATP) 女子テニス協会 (WTA) 日本テニス協会 テニス選手一覧 ビーチテニス パドルテニス フリーテニス ジュ・ド・ポーム アンダースコート 公式 ITF - 国際テニス連盟 (英語) ATP - 男子プロテニス協会 (英語) WTA - 女子テニス協会 (英語) JTA - 日本テニス協会 (日本語) 大会 全豪オープン (英語)(日本語) 全仏オープン (フランス語)(英語) ウィンブルドン選手権 (英語) 全米オープン (英語)" ]
ABC01-02-0249
遺伝子が異なる細胞から成る一体の生物個体のことを、ギリシャ神話の怪物にちなんで何というでしょう?
キマイラ
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[ "キマイラ", "バジリスク", "アスピドケロン", "マンティコア", "アンフィスバエナ" ]
[ "キマイラ(古希: Χίμαιρα, Chimaira) は、ギリシア神話に登場する怪物である。 ラテン語ではキマエラ (Chimæra, Chimaera)、ヨーロッパのいくつかの言語ではキメラ (Chimera) といい、英語ではキメラ、キメイラ、またはカイメラ (Chimera)、フランス語ではシメール (Chimère) という。名前の意味は「牝山羊」である。 テューポーンとエキドナの娘。ライオンの頭と山羊の胴体、毒蛇の尻尾を持つ。それぞれの頭を持つとする説もある。強靭な肉体を持ち、口からは火炎を吐く。その火炎によってしばしば山を燃え上がらせていた。リュキアに住み、カーリア王アミソーダロスに育てられたが、ペーガソスに乗る英雄ベレロポーンにより火炎を吐く際に先端に鉛の塊を付けた槍を口に放り込まれ、火炎の熱で溶けた鉛で喉を塞がれて窒息死させられた(背中に矢を射られて退治されたとする説も)。 元はヒッタイトで神聖視された季節を表す聖獣で、ライオンが春、山羊が夏、蛇が冬を象徴していた。 この怪物は生物学におけるキメラの語源となった。 中世のキリスト教寓意譚では、主に「淫欲」や「悪魔」といった意味付けを持って描かれた。12世紀の詩人マルボートによれば、様々な生物の要素を併せ持つ事から女性を表すとされている。この他、ライオンの部分を「恋愛における相手への強い衝動」、山羊の部分を「速やかな恋の成就」、蛇の部分を「失望や悔恨」をそれぞれ表すとされたり、その奇妙な姿から「理解できない夢」の象徴とされた。一般には、怪物の総称や妄想、空想を表わす普通名詞ともなっている。 また、フランスの画家ギュスターヴ・モローはしばしばこの名をタイトルとしながらも、翼を持ったケンタウロスの美青年など、独自の設定を課した怪物を描く作品を手がけている。 上述のように、怪物キマイラは生物学の「キメラ」の語源となっている。ここでは、「異質なものの合成」という意味から「キメラ細胞」「キメラ生物」などの用語がつくられた。フランケンシュタインをして「キメラ合成生物」などと表現することもある。 遺伝子組み換え生物等生物兵器という意味で使われる場合もある。 ロールプレイングゲームなどのファンタジーゲームにもキマイラは登場する。ギリシア神話的世界を背景とするものだけではなく、ファンタジーゲームでは比較的ポピュラーなモンスターである。複数の生物あるいは魔物が合成された怪物として登場することが多い。 カプコンのテレビゲーム『バイオハザード』には、人間とハエの遺伝子を組み合わせた合成生物が登場し、キメラと呼ばれる。 トレーディングカードゲームのデュエル・マスターズでは、闇文明に代表される種族の一つ。熊や龍、蛇といったような怪物が名称通り複雑に組み合わさっており、異形のイラストが多い。 スクウェア・エニックスのRPG『ドラゴンクエストシリーズ』に登場するキメラは蛇の胴に鳥の頭部と翼を持った姿で描かれていたり、キメラの派生であるキメイラは普段のキメラの体に鶏のトサカを持った姿で描かれている。 またデモンズソウルでは名称こそ違うものの、人間の身体(尋常ではない体躯)に翼、蛇の尻尾といった人間との組み合わせをしたモンスターとして描かれているものもある。 さらにカプコンのドラゴンズドグマでは、神話に忠実なキメラがボスモンスターとして登場している。 ファイナルファンタジーシリーズにも、比較的神話に沿ったキメラやキマイラがモンスターとして登場する。 また、『仮面ライダーウィザード』には仮面ライダービースト/仁藤攻介と共に戦うビーストキマイラというファントムが登場している。 ^ ホメーロス著、呉茂一訳 『イーリアス 下』 平凡社 2003年、541頁。 ^ 健部伸明と怪兵隊 『幻想世界の住人たち』 新紀元社 1988年、164頁。 ^ 研究社『新英和中辞典』第4版 伝説の生物一覧 鵺 マンティコア アレッツォのキメラ キマエラ (小惑星)", "バジリスクまたはバシリスク(英: basilisk, 羅: basiliscus, 古希: βασιλίσκος [basiliskos])は、ヨーロッパの想像上の生物である。名称はギリシア語で「小さな王」を意味するβασιλεύς (basileus) に由来する。全ての蛇の上に君臨するヘビの王である。 外見はただの蛇だが、頭に王冠を彷彿とさせる模様がある。身体を半分持ち上げて進むと言われ、移動する音を聞いただけで周囲のヘビが逃げていく。この特徴から、後世には、インドに生息するコブラからこの生物を想像したのではないかとも考えられている。リビアや中東にある砂漠地帯は、そこを住処とするバジリスクの力で砂漠となったと言い伝えられた。 古代ローマの学者大プリニウス(22 / 23 - 79)が書いた『博物誌』(77年)第8巻第33(21)章第78 - 79節及び29巻19章66節の記述をまとめると以下のようになる。バジリスクはクレタ・キュレナイカ州産の小型(体長は12ディジット=24cm以下)のヘビ(トカゲとも)である。その毒は非常に強力で、匂いにより他のヘビを殺し、息に含まれた毒は石を砕く。さらに、馬上の人が手に持った槍でバジリスクを突けば槍を伝った毒がその人を殺しさらに馬すら殺すという。見ただけで死をもたらす力を持っていると思われていた。イタチが一種の天敵であるとも言われている。 『エレミヤ書』や『詩篇』では、バジリスクは救世主によって倒される悪魔の象徴と言われている。 中世になると、バジリスクについての伝承はコカトリスのものと合流し、同一視されるようになる。バジリスクは、雄鶏の産んだ卵をヒキガエル(またはヘビなど)が孵化させて生まれると言われるようになり、その姿や生態についての記述には雄鶏のそれが取り入れられた(後年の主な姿態としては、頭に鶏冠を持ったヘビ、あるいは8本足のトカゲなどがある)。そして、コカトリスとは雌雄関係にある(どちらが雄か雌かは不明)とも言われ、「バジリスク」の別称として「コカトリス」が用いられるようにもなった。また、ジェフリー・チョーサー(1343頃-1400)は『カンタベリー物語』(14世紀)に「バシリコック」(バジリコックとも。Basilicok)という名前でバジリスクを登場させた。 その後、バジリスクの恐ろしさに関する記述はどんどん大げさになっていく。例えば、さらに大きな怪物とされたり、口から火を吹くことになっていたりする。 {ルネサンス時代には、「本当にそれほど危険であれば、実際にバジリスクを見た者は生きて帰れないので、誰もそれについて語れないはずだ」という意見が出てきた。それでもバジリスクの伝承はヨーロッパの文化に根付き、貴族や団体などがバジリスクを紋章のデザインに取り入れており、こんにちまで続いている。 バジリスクはその危険な能力故に、多くのファンタジー作品に強敵として登場している(ダンジョンズ&ドラゴンズ、ソード・ワールドRPGなどのテーブルトークRPGでも事実上のボス敵として登場している)。ほとんどで「猛毒を持つ」「視線で石化する」という2つの能力が共通して登場している。ファンタジー作品におけるバジリスクは、コカトリスと混同されるケースも多い。 1768年に発見されたあるトカゲは、バジリスク(本来はコカトリス)を思わせるトサカを持っていたため、バシリスクと名付けられた。ただし、毒はなく、もちろん、見た者を殺す能力もない。 ^ その血がマギ僧に珍重されたとの伝承もある[要出典]。 ^ アシモフ, アイザック 『アシモフ博士の世界』 小隅黎・十河矜也訳、早川書房、1983年2月、244ページ。ISBN 978-4-15-203221-8。 ^ a b c d e f g h i j 『世界幻想動物百科』 24ページ ^ a b c d 『世界の怪物・神獣事典』 323ページ ^ a b c d e f g h i j 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』 178ページ ^ a b c d e f 『世界の怪物・神獣事典』 324ページ ^ a b 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』 179ページ ^ a b 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』 179-180ページ ^ 『RPG幻想事典』 133、144ページ ルカーヌス 『パルサリ プリニウス 『博物誌』第8巻第33(21)章第78 - 79節、77年。 セビリアのイシドールス 『語源集』第12巻第4章第6 - 9節、622 - 623年。 早川浩 『RPG幻想事典』 SBクリエイティブ、1986年12月。ISBN 978-4-930795-56-4。 松平俊久 「バジリスク」『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』 蔵持不三也監修、原書房、2005年3月、178-181ページ。ISBN 978-4-562-03870-1。 アラン, トニー 「バシリスクとコカトリス」『世界幻想動物百科 ヴィジュアル版』 上原ゆうこ訳、原書房、2009年11月(原著2008年)、24-25ページ。ISBN 978-4-562-04530-3。 ローズ, キャロル 「バシリスク」『世界の怪物・神獣事典』 松村一男監訳、原書房〈シリーズ・ファンタジー百科〉、2004年12月、323-324ページ。ISBN 978-4-562-03850-3。 ボルヘス, ホルヘ・ルイス、ゲレロ, マルガリータ 『幻獣辞典』 柳瀬尚紀訳、晶文社、1974年12月、40-43ページ。ISBN 978-4-7949-2286-1。 伝説の生物一覧 コカトリス カトブレパス バジリスク山 Aaron J. Atsma, Theoi Greek Mythology : Basilisc (英語) David Badke, The Medieval Bestiary : Basilisk (英語) Dave's Mythical Creatures and Places - Basilisks (英語)", "アスピドケロン(英語 : Aspidochelon)、アスピドケローネ(ギリシア語 Ασπιδοχελώνη, ラテン語:Aspidochelone)は、北欧に伝わるクジラに似た海の怪物である。ギリシア語で「蛇亀」(ασπίς「ヘビ」+ χελώνια「カメ」)を意味する。別名、ファスティトカロン(Fastitocalon, 「大洋の流れに浮かぶもの」)。 クラーケンにも似ており、巨大な海亀や魚のような姿をしており、背中に苔をはやし、浮島のように移動するといわれる。 中世のヨーロッパでは、海のただ中に浮かんでいたアスピドケロン(アスピドケローネ)を島と誤認して上陸した船乗り達が焚き火を始めたところ、アスピドケロンが目を覚まして海中に沈み、船乗り達は脱出が間に合わず溺死したりした、という噂が信じられていたという。 ^ ローズ, 松村訳 (2004) で確認できる表記。同書によれば、アスピドデロンとも呼ばれていた。 ^ 松平 (2005) で確認できる表記。 ^ ローズ, 松村訳 (2004)、15頁。 ^ 松平 (2005)、201頁。 松平俊久 「アスピドケローネ」『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』 蔵持不三也監修、原書房、2005年3月、201-202頁。ISBN 978-4-562-03870-1。 ローズ, キャロル 「アスピドケロン」『世界の怪物・神獣事典』 松村一男監訳、原書房〈シリーズ・ファンタジー百科〉、2004年12月、15頁。ISBN 978-4-562-03850-3。 ボルヘス, ホルヘ・ルイス、ゲレロ, マルガリータ 『幻獣辞典』 柳瀬尚紀訳、晶文社、1974年12月、93-95頁。ISBN 978-4-7949-2286-1。 クラーケン アーケロン アルダの巨大水棲生物たち(同名の生物が記録されている) David Badke, The Medieval Bestiary : Whale (Aspidochelone)", "マンティコア (Manticore) は、伝説の生物。主な生息地はインドやマレーシア、インドネシアで、森林に住むとされる。メメコレオウス (Memecoleous) などとも呼ばれる[要出典]。 その姿は、体の色は赤く、尾はサソリのそれに似た形状で、そこに毒針があり(毒が無い代わりに矢のように飛び散る24本の棘と数がはっきりしているものや、太い1本というものもある)、それで相手を刺したり相手に槍のように投げつける。3列に並ぶ鋭い牙を持つが、顔と耳は人間に似ている。大きさはライオンぐらいである。走るのが非常に速く、人間を好んで食べる。 マンティコアは英語読みで、ギリシャ語形ではマンティコーラース (Μαντιχώρας) という。これは、ペルシア語で「人を食らう生き物」を意味するmartiya khwarの誤読に由来する[要出典]。 古くはアジア各地に生息するベンガルトラの異称であったが、人を喰らうトラの恐ろしげなイメージが一人歩きして異形の怪物と考えられるようになった[要出典]。 マンティコアは古くから知られており、紀元前5-4世紀頃の医師で歴史家のクテシアスが記した『インド誌(英語版)』や、古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『動物誌』、大プリニウスの『博物誌』(博物誌では、エチオピアに生息している怪物として紹介されている)などに紹介されて西洋世界に知られるようになった。 中世の動物寓意譚にもしばしば登場し、恐るべき速さで人間に襲いかかって食い殺すとされた。さらにキリスト教の教義では、悪魔を象徴するものだとされた。 イギリスのロックグループ『エマーソン・レイク・アンド・パーマー』は、セカンドアルバム『タルカス』の中にこのマンティコアを登場させており、後に自らが興したレコードレーベルの名前にもなっている。 ^ 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』、196頁。 ^ 『モンスター・コレクション - ファンタジーRPGの世界』、270頁(マンティコアの項)。 ^ 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』、194頁。 ^ 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』、195頁。 ^ 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』、194-195頁。 ^ 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』、194-196頁。 ^ 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』、195-196頁。 松平俊久 「マンティコラ」『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』 蔵持不三也監修、原書房、2005年3月、194-196頁。ISBN 978-4-562-03870-1。 安田均、グループSNE 『モンスター・コレクション - ファンタジーRPGの世界』 富士見書房〈富士見文庫 ドラゴンブック 9〉、1986年10月。ISBN 978-4-8291-4209-7。", "アンフィスバエナ(古希: Αμφισβαινα, 羅: Amphisbaena)は、ローマなどの博物誌関連の書物などに登場する伝説の生物。身体の両端に頭のついている双頭の蛇だとされているが、後世には尾の先にもう1つの頭のついている双頭のドラゴンとして表現されるようになった。 名称はギリシア語で「両方」を意味する「アンフィス」と「行く」を意味する「バイネイン」に由来し、「両方向に進める」という意味を持つ。ギリシャの詩人ニカンドロス(英語版)はこの名前を、身体の頭と尻尾に双方の顔を持つアンフィスバエナを体現した名前と評している。 プリニウスは著書『博物誌』において、アンフィスバエナが双頭を持つ理由として、「毒を吐き出すのに、一つの口では足りないようだ」と言及している。 古代ローマの詩人マルクス・アンナエウス・ルカヌスの『内乱(ファルサリア)(英語版)』にもアンフィスバエナは登場する。そこでは、リビアを移動中のカトーの軍を襲った多数の蛇のうちの1匹として名前が挙げられている。ルカヌスの説明によれば、ギリシア神話のペルセウスが、斬り落としたメドゥーサの首を片手にリビア砂漠を越えた時、彼女の生首から零れ落ちた血液からアンフィスバエナが生まれたのだという。またその住み処は北アフリカの砂漠であるという。 セビーリャのイシドルス(セビリャのイシドロ)の説明によれば、アンフィスバエナは他の蛇に比べてきわめて寒さに強く、それは温血動物であるためだという。 アンフィスバエナは「蟻の母」とも呼称され、神話の世界では頭と尻尾にある両方の口で蟻を食べる蛇として描かれる[要出典]。 古い時代では、アンフィスバエナはしばしば毒々しい双頭の蛇として描かれたが、中世以降になると、鱗に覆われた脚や蝙蝠のような翼がついた、双頭のドラゴンのような姿で描かれることが増えた。 動物寓話集の挿絵には、前方の頭が後方の頭にかみついてタイヤのように転がって移動する様子を描いたものもあるが、多くの場合、2本の脚、背中の翼をもつ姿で表現される。 アンフィスバエナは、ワイバーンやリントヴルムと同じく、ヨーロッパの紋章に描かれていることも多く、尾の先にもう1つの頭が付いたドラゴンとして表現されている。 アンフィスバエナは詩にもその名前を多数見せる。ニカンドロス、ジョン・ミルトン、アレキサンダー・ポープ、パーシー・ビッシュ・シェリー、アルフレッド・テニスン、アルフレッド・エドワード・ハウスマンなど、多くの詩人が、自ら作った詩の中でアンフィスバエナに言及している[要出典]。 のちに、ミミズトカゲ亜目の学名「Amphisbaenia」は、アンフィスバエナの名前に因んで決められた。 ^ 書籍によっては、『博物誌』ではアンフィスバエナの生息地をエチオピアとしていると説明するものがある。 ^ a b c d e f g h 『世界幻想動物百科』・76頁 ^ a b 『幻想動物事典』・26頁 ^ a b 『幻想世界幻獣事典』・143頁 ^ a b c d e 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』・152頁 ^ a b c d e 『世界の怪物・神獣事典』・41頁 ^ 『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』・153頁 ^ 『世界幻想動物百科』・77頁 幻想世界を歩む会 『幻想世界幻獣事典』 スタジオエクレア編集、笠倉出版社、2011年11月。ISBN 978-4-7730-8576-1。 草野巧 『幻想動物事典』 新紀元社〈ファンタジー事典シリーズ〉、1997年5月。ISBN 978-4-88317-283-2。 松平俊久 「アンフィスバエナ」『図説ヨーロッパ怪物文化誌事典』 蔵持不三也監修、原書房、2005年3月、152-153頁。ISBN 978-4-562-03870-1。 アラン, トニー 「アンフィスバエナ」『世界幻想動物百科 ヴィジュアル版』 上原ゆうこ訳、原書房、2009年11月(原著2008年)、76-77頁。ISBN 978-4-562-04530-3。 ローズ, キャロル 「アンフィスバエナ」『世界の怪物・神獣事典』 松村一男監訳、原書房〈シリーズ・ファンタジー百科〉、2004年12月、41頁。ISBN 978-4-562-03850-3。 ワイバーン リンドヴルム ヤクルス Theoi Greek Mythology : Amphisbaena (英語) The Medieval Bestiary : Amphisbaena (英語) Dave's Mythical Creatures and Places - Amphisbaena[リンク切れ] (英語)" ]
ABC01-02-0250
1689年にロシアと清の間に結ばれた条約のことをその締結地から何というでしょう?
ネルチンスク条約
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[ "ネルチンスク条約", "芝罘条約", "天津条約 (1885年6月)", "シムラ条約", "露清密約" ]
[ "ネルチンスク条約(ネルチンスクじょうやく、簡体字:尼布楚条约、繁体字:尼布楚條約、ロシア語: Нерчинский договор)は、1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約。清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというものであった。 17世紀中頃からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が黒竜江・アルグン川より南下(後の南下政策)するようになり、黒竜江沿いにはアルバジンの要塞が築かれた。このため清と朝鮮王朝の連合軍がたびたび「清露国境紛争」と呼ばれている討伐を行った。清は逃亡者の引き渡しをロシアに求め、さらにロシア人の撤退を求めた。しかし、ロシアはこれを拒否した。 清が討伐軍を本格的に動かし始めたため、ロシアの摂政ソフィア・アレクセーエヴナと顧問のヴァシーリー・ゴリツィン(英語版)はフョードル・ゴロヴィン(ロシア語版)を特使として派遣し、1689年にネルチンスクで清のソンゴトゥと交渉を開始した。ロシアは清との交易を望み、清は清・ジュンガル戦争(第一次、1687年 - 1697年)中であったことからモンゴルのジュンガルを孤立させることを望んだため、利害関係が一致し、交渉が成立した。両国間では言語が異なるため条約の原文はラテン語からなっており、清側のアドバイザーとして2人のイエズス会員トマス・ペレイラ(Thomas Pereira、徐日昇)およびジャン・フランソワ・ジェルビヨン(Jean-Francois Gerbillon、張誠)が交渉にあたった。 内容は、次の通りである。 国境をアルグン川(満州語:ergune bira、額爾古納河)・ゴルビツァ川(ロシア語:река Горбица、満州語:gerbici bira)とスタノヴォイ山脈(満州語:amba hinggan、外興安嶺)の線に定める。 ウダ川(udi bira、鳥第河)とスタノヴォイ山脈(amba hinggan、外興安嶺)の間は未確定部分とする。 アルグン川以南からロシア人は退去する。 不法越境を禁止する。 旅券をもつものは交易を許される。 対等の条約ではあったが、清にとって有利なものとなった。なぜなら、ロシア側にとっての念願であった不凍港を獲得できなかったからである。2度のクリミア遠征(1687年、1689年)失敗とネルチンスク条約での譲歩は、ソフィア・アレクセーエヴナの摂政政府の威信を失墜させ、9月にゴリツィンはシベリアへ流罪となり、ソフィアは修道院に幽閉された。ピョートルの母ナタリヤ・ナルイシキナが実権を回復し、1694年に死去するまで国政を運営した。その後、ピョートルが親政を開始した。 清は、ロシア関係の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う理藩院で行うなど、ロシアを朝貢国としてみなしていた。その後、1858年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。 ^ “デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. 2018年2月18日閲覧。 キャフタ条約 (1727年) アイグン条約(1858年) アムール探検 (1849年-1855年)(ロシア語版) アムール併合(英語版) 北京条約(1860年) フェルディナント・フェルビースト 『鹿鼎記』(金庸の武俠小説)", "芝罘条約(しふうじょうやく、チーフー条約、英語:Chefoo Convention、中国語:烟台条约)は1876年にマーガリー事件に端を発し緊張した両国関係を緩和させるため清とイギリスの間で結ばれた条約。煙台条約ともいう。清側に一方的に不利な内容であり、不平等条約とされる。 1876年9月13日、煙台の芝罘の東海関税務司公署で、イギリス公使トーマス・ウェードと清国代表で北洋大臣であった李鴻章によって締結された。 第一部としてマーガリー事件について、  5年間限定でイギリスは雲南省大理他の地区に官吏を派遣・駐在し、通商状況視察をさせること  清政府は賠償金20万両を支払うこと 第二部として  イギリスの在華外交官が清の高官との交渉を承認すること 第三部として貿易について、  宜昌、蕪湖、温州、北海の4港開港  イギリスは重慶に官吏を駐在させ、四川省の通商を調査することが出来ること  揚子江流域に6ヵ所の汽船立ち寄り港を設置  租界をアヘン以外の外国商品取引時の釐金免除地区とすること  租界未設の開港場では租界を確定すること さらに特別条項として、  イギリスが北京から甘粛、青海、四川、チベット経由でインドに探検隊を出す際の安全は清政府が保証すること(イギリスのチベットへの通行権を清が承認することを含む) などの内容を含んでいた。 雲南問題 植民地 イギリス帝国", "天津条約(てんしんじょうやく)は、1885年、清仏間に結ばれた、清仏戦争の講和条約である。 清国代表の北洋大臣李鴻章とフランス公使ジュール・パトノートル(英語版)によって締結されたため、「李・パトノートル条約」とも呼ばれる。 清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権と、中国南部における通商、鉄道建設をみとめた。 トンキン戦争(英語版)講和のため合意された天津停戦協定(英語版)(李・フルニエ協定)に基づき、1885年6月9日に清仏戦争講和のため清仏間で天津にて締結された。 癸未条約(英語版)・甲申条約(英語版)にて確立されたベトナム(アンナン及びトンキン)へのフランスの宗主権を認める内容となっており、中国側のベトナムに対する宗主権の放棄が明確となった。この結果、フランスはインドシナ植民地を確定し、植民地帝国を拡大した。  清はベトナムをフランスの保護国として認知する  ラオカイ(保勝)とランソン以北にそれぞれ通商港を開港する  清が鉄道を敷設する際にはフランスの業者と商議する  フランスは基隆、澎湖島から撤退する ^ 清国代表の北洋大臣李鴻章とフランスの司令官代理フルニエ(François-Ernest Fournier)によって締結されたため、「李・フルニエ協定」とも呼ばれる。 天津条約 (1885年4月)(「李・伊藤条約」とも呼ばれる。) 雲南問題", "シムラ条約(シムラじょうやく)とは、1914年7月3日にイギリス帝国とチベットの間で調印され、チベットを形式的に中華民国の主権の下で実質的に独立した統治体として認めた条約。ただし、中華民国は、署名を拒否した。 モンゴル帝国・清朝の庇護のもとで、中世から近世にかけてのチベットはダライ・ラマ政権による自治を獲得していた。イギリス帝国はインドを植民地とした後に、北進してチベットを支配することを狙った。1903年にはヤングハズバンド率いるイギリス軍がチベット侵攻(英語版)を開始し、一時はチベット第一の都市であるラサ市も占領した。このため、1904年には当時のチベット自治政権の最高指導者であったダライ・ラマ13世はモンゴルに亡命した。 1904年から1906年にイギリス帝国と清朝との間で交渉がもたれ、イギリス帝国は一旦は清朝の宗主権を認めたものの、再度軍事侵攻を開始した。 1905年には(ダライ・ラマ13世のライバルであった)パンチェン・ラマ9世はイギリス領インドを訪問した一方で、 1907年にはダライ・ラマ13世は北京を訪問している。イギリス帝国の軍事侵攻に対して1910年には清軍が反撃に転じたため、チベットの混乱は深まり、今度はダライ・ラマ13世はイギリス帝国インド領に亡命した一方で、翌1911年にパンチェン・ラマ9世がラサ市で清朝の反撃に協力した。 しかし、辛亥革命で清朝が消失すると、建国当初の中華民国は西南国境の防衛に手薄な状況を見越して、イギリス帝国はチベット支配に成功し、1913年にイギリス帝国インド領に亡命中のダライ・ラマ13世をラサ市に戻して政治的に利用することで、親イギリス帝国の傀儡政権の樹立を目指した。1913年から1914年にかけてイギリス帝国インド領北部の避暑地シムラ(Simla、Shimla)でイギリス帝国、中華民国、チベットで会議が実施された。イギリス帝国全権代表ヘンリー・マクマホンは、中華民国抜きでイギリス帝国インド領の国境線を北上させる条項(いわゆるマクマホンラインのこと)をチベットと締結すると共に、チベットを形式的に中華民国の主権の下で実質的に独立した統治体として承認した。 1938年、英国は最終的に二国間協定としてシムラ条約を発効し、マクマホンライン以南のタワンの僧院にラサへ税を収めることを終えるように求めた。なお、C.U.アッチソンの条約関連の記録に、「シムラでは拘束力のある合意には達することが無かった」との注釈が見つかっているが、これは1929年の偽の発効日を持つ新しい巻に取り替えられ、それを中国ではなく、チベットとイギリスが協定は拘束力があると受け入れたと述べた編集者の解説が付いたものが発表された。 中華民国はイギリス帝国の侵略行為と傀儡政権樹立に反発してシムラ条約の署名を拒否した。1930年にはイギリス帝国からのチベットの中華民国への併合を目指す中華民国は軍隊を派遣して、イギリス帝国側のチベット軍と交戦して領土の一部を占領した。 1923年にイギリス帝国による傀儡政権を通じた半植民地支配に反発して、パンチェン・ラマ9世はチベットから脱出した。 1942年にアメリカ合衆国はチベットにおける中華民国の主権に疑義を唱えたことは無いと表明した。 ^ Lin, Hsiao-Ting, \"Boundary, sovereignty, and imagination: Reconsidering the frontier disputes between British India and Republican China, 1914-47\", The Journal of Imperial & Commonwealth History, September 2004, 32, (3). 雲南問題 芝罘条約 天津条約 (1885年6月) 雲南派 チベットの歴史 ラサ条約 チベット・モンゴル相互承認条約 キャフタ協定(英語版) 条約全文 英語テキスト 中国語テキスト(Big5)", "露清密約(ろしんみつやく、カシニー密約、李鴻章-ロバノフ協定、中国語: 中俄密約、禦敵互相援助條約、防禦同盟條約、英語: Li-Lobanov Treaty, Sino-Russian Secret Treaty、ロシア語: Союзный договор между Российской империей и Китаем)は1896年6月3日にモスクワでロシア帝国と清の間で締結された秘密条約。 ロシア側は外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー(ロシア語版、中国語版、英語版)と財務大臣セルゲイ・ヴィッテ、清側は欽差大臣李鴻章が立ち会った。この条約は、日本がロシアと清のいずれかへ侵攻した場合に互いの防衛のため参戦するという相互防御同盟の結成が目的であったが、同時に、清に対してロシアの満州における権益を大幅に認めさせるという不平等条約の側面もあり、日露戦争を惹起した原因の一つとされる。 三国干渉で日本から清に遼東半島を返還させ、清国の負った対日賠償金に対してもいち早く借款供与を申し出て、1895年7月にフランスと共同で借款を決定したロシアは、清に対し見返りを求めた。1896年の5月はじめ、李鴻章はサンクトペテルブルクを訪問、皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席して新皇帝と謁見し、ロバノフとヴィッテとの秘密会談に臨んだ。李鴻章は50万ルーブルの賄賂を受け取り、6月3日に条約を結んだ。 日本の脅威に対して相互の安全を共同で守るという安全保障の名目であったが、ロシアはこの条約で満州での駐留や権益拡大を清に承認させることに成功した。ロシアの役人や警察は治外法権を認められ、戦時には中国の港湾使用を認められた。さらにシベリア鉄道の短絡線となる東清鉄道を清領内に敷設する権利も認めさせた。東清鉄道は名目上は共同事業だったが、実際には出資も管理も全てロシアが行った。清はロシア軍の部隊移動や兵站を妨害することができず、ロシアに対して大幅に割り引いた関税率を認めさせられた。またロシアは鉄道建設に必要な土地の管理権を得たのみならず、密約を拡大解釈して排他的行政権も手にし、鉄道から離れた都市や鉱山も「鉄道附属地」としてその支配下に置いた。 同年10月には南満州を縦貫する東三省鉄道と東清鉄道との接続も認められることになった。 これに続く1897年12月には、ロシア帝国海軍艦隊が清の保護を名目に沿岸に来航し、艦隊の武力を背景にした「砲艦外交」が行われた。ロシアは清に対し、さらに満蒙での鉄道敷設、黄海沿岸の港湾租借などの追加条件を求めた。 日本がロシア極東・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する。 締約国の一方は、もう一方の同意なくして敵国と平和条約を結ばない。 戦争の際には、清の港湾は全てロシア海軍に開放される。 ロシアが軍隊を移動するために、清はロシアが黒竜江省と吉林省を通過してウラジオストクへ至る鉄道を建設することを許可する。鉄道の建設と経営は、華俄道勝銀行=露清銀行が引き受ける。 戦時あるいは平時に関わらず、ロシアはこの鉄道により軍隊と軍需物資を自由に輸送できる。 この条約は15年間を有効期限とし、期限満了の前に双方は条約を継続するか協議する事ができる。 これらの内容は1922年のワシントン会議の席上で中華民国の代表からその存在が初めて発表された。 ロシアに続いて、列強各国も対日賠償金に対する借款供与を行い、その担保条件に港湾の租借や鉄道敷設権を求めるようになり、中国各地に自らが独占的に利権を持つ範囲を設定するようになった。1898年1月にはイギリスが借款供与と引き換えに長江流域の鉄道敷設権を得た。1897年11月、ドイツは宣教師殺害を口実に膠洲湾を占領、1898年3月、膠洲湾租借が明記された独清条約が締結される。 時同じくして1898年3月、対日賠償金の援助に対する担保と、清国内で起こる排外主義運動に対する責任を理由に、「旅順(港)大連(湾)租借に関する条約」がロシアと清の間で結ばれた。これによりロシアは遼東半島の南端の旅順・大連の25年間に渡る租借権と、東清鉄道と大連とを結ぶ支線(南満州支線)の鉄道敷設権を得て、軍港や鉄道などの建設が始まった。イギリスは、シベリア鉄道と旅順・大連を手にしたロシアが東アジアで陸軍のみならず海軍でも優位に立つことを懸念し、1898年5月に清に対して大連対岸の威海衛を租借させた。 ロシアによる鉄道建設により満州の半植民地化が進んだことは中国の民衆の怒りに火をつけ、1900年には義和団の乱が勃発する。この混乱に乗じ、江東六十四屯の清国人を虐殺しアムール川を越えて南下、東三省を占領したロシアは、1900年11月に清と「第二次露清密約」を結び、満州への軍隊駐留権や要塞設置、ロシア人の保護、地方政府に対する監督権の行使など、鉄道沿線のみならず満州全域の軍事や行政も支配下に置いた。 1902年4月の「満州還付に関する露清条約」ではロシア軍の東三省からの段階的撤退が取り決められたが、ロシアは第二期以降の撤退に応じず、1903年4月には逆に撤退条件として清に対し様々な要求を行った。 日本は三国干渉から遼東租借に至るロシアの南下に敵対心を抱いた。フランスが広州湾租借地を手にし、ドイツは膠州湾租借地、ロシアは旅順・大連の租借地を手にしたことは、日本に返還させた領土を自分達の国で獲得するという国際信義に甚だしく悖る行為と受け止められた。ロシアがシベリア鉄道と清国内の鉄道を接続し、清国内で自在に軍を移動できる条件を整えたことは、大韓帝国内でロシアの存在が高まってきたことも相まって、ロシアがいずれ韓国を自らの勢力圏におさめ、日本を圧迫するようになると考えられた。また、アメリカ合衆国が発して日本やロシアを含む列強各国からも賛同を得た「門戸開放宣言」にもかかわらず、ロシアが満州から撤兵しようとしないことも、ロシアが国際社会に従わない国だとする論調を日本国内に生むことになった。 1904年2月に日露戦争が起きると、同年5月13日に慶親王が露清密約の存在を暴露し、5月18日には清により破棄されるに至った。 露清密約から日露戦争までの10年弱は、ロシアが政治的にも経済的にも軍事的にも満州を支配した時期だった。 ^ a b c 加藤 p132 ^ a b c d 加藤 p134 ^ 加藤 p138-139 ^ 加藤 p133 ^ 加藤 p139-143 加藤陽子 『戦争の日本近現代史』 講談社 2002年 ISBN 4-06-149599-2 日露戦争用語集 国立公文書館アジア歴史資料センター 李鴻章 (ウイッテ伯備忘録中一八九六年ノ露清密約締結ノ経緯ヲ説明セル一節) 国立公文書館アジア歴史資料センター" ]
ABC01-02-0251
ヨーロッパの国で、ベネルクス三国と呼ばれるのは、ベルギー、オランダとどこの国でしょう?
ルクセンブルク
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[ "ルクセンブルク", "アンドラ", "リヒテンシュタイン", "スロベニア", "チェコ" ]
[ "ルクセンブルク大公国 Grand Duché de Luxembourg(フランス語) Großherzogtum Luxemburg(ドイツ語) Groussherzogtum Lëtzebuerg(ルクセンブルク語) 国の標語:Mir wëlle bleiwe wat mir sinn (ルクセンブルク語:我々は今ある状態を保ちたい(我々は独立していたい)) 国歌:Uelzecht(ルクセンブルク語) 我が母国 ^ 外務省 ルクセンブルク基礎データ ^ a b c d IMF Data and Statistics 2016年12月16日閲覧 ^ 1999年以前の通貨はルクセンブルク・フラン。 ^ ルクセンブルクのユーロ硬貨も参照。 ルクセンブルク大公国(ルクセンブルクたいこうこく)、通称ルクセンブルクは、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。首都は国名と同名のルクセンブルク市。隣接国は、南のフランス、西と北のベルギー、東のドイツである。ベルギー、オランダと併せてベネルクスと呼ばれる。 963年、アルデンヌ家のジークフロイト伯爵が、今の首都の領土に城を築いたことに始まる。その当時、砦を“lucilinburhuc”(小さな城)と呼んでおり、それが変化してLuxemburgとなった。1060年頃、アルデンヌ家の分家であるルクセンブルク家に伯爵位が与えられた。14世紀から15世紀にはルクセンブルク家から神聖ローマ皇帝やボヘミア王を出し、1354年にルクセンブルク家の皇帝カール4世によって伯領から公領へ昇格された。しかしルクセンブルク家はカール4世の孫の代で断絶し、ルクセンブルク公領は抵当に入れられた後、1461年にブルゴーニュ公国に併合された。その後、ネーデルラント一帯はハプスブルク家領となり、ルクセンブルクはハプスブルク領ネーデルラントの一州としてスペインやオーストリアの支配を受けた。 フランス革命期にフランスの支配を受けた後、1815年にウィーン会議の結果、ドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国となった。1830年のベルギー独立革命の際にはベルギーと行動を共にし、首都ルクセンブルクを除いて、その統治下へと置かれた。1831年、ロンドン会議によって領土の西半分(現在のリュクサンブール州)をベルギー、残りの領土をオランダ国王の統治下条約によってプロイセン王国とフランスの緩衝国とするため永世中立国となった。1890年、元ナッサウ公のアドルフがルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消した。 20世紀初頭から王家が積極的に外資を誘致、労使関係が良好となった。第一次世界大戦と第二次世界大戦においては、ドイツの占領下に置かれた。後者においては、ベルギー国立銀行に預託していた資産をヴィシー政権におさえられナチスに奪われた。1948年、ベネルクス間で関税同盟を結成。1949年にはNATOに加盟し、82年間続いた永世中立を放棄した。1957年に欧州経済共同体、1967年に欧州連合、1999年にユーロ圏へといずれも原加盟国として参加している。2001年、クリアストリーム事件が起きた。 立憲君主制。国家元首はナッサウ=ヴァイルブルク家が世襲するルクセンブルク大公。大公は儀礼的な職務のみでなく、内閣とともに行政権を執行する。2018年現在、世界で唯一の大公国である。 議会は代議院による一院制。全60議席、任期5年。議員は、直接選挙で選出される。また、議会に対して助言をする国務院(コンセイユ・デタ)がある。メンバーは全21名で、首相の推薦に基づき、大公が任命する。 ルクセンブルクの軍事は現状必要最低限のものである。戦力は陸軍のみであり、総兵力は4個中隊、約450名。空軍・海軍はない。北大西洋条約機構に加盟し、欧州合同軍にも兵力を提供している。 新自由主義的な経済政策を志向しているが、伝統的に労使関係が良好でストライキは少ない。また企業への税負担が極めて低く抑えられていることから、外国資本による大規模な投資を呼び込むことに成功してきた。 3つの広域行政区に分かれる。 ディーキルヒ広域行政区 グレーヴェンマハ広域行政区 ルクセンブルク広域行政区 広域行政区の下には12の県が、県の下には126の基礎自治体(Gemeng)があり、三層構造となっている。 国土は南北82km、東西57kmにわたって広がる。神奈川県や佐賀県、沖縄県程度の広さの国土に、人口は48万人強。 国土の大部分には丘と低い山地が広がる。首都ルクセンブルクの標高は379m。最高地点は同国北端に近いクナイフの丘(Kneiff, 560m)。ローマ帝国時代から、街道が交わる重要拠点であった。北部はベルギーから続くアルデンヌ高原、南部はフランスから続くロレーヌ台地。東側のドイツとの国境は、モーゼル川が流れる。 ルクセンブルクは地理的に欧州の中心に位置している。その意味ではブリュッセルやストラスブールと並ぶ世界都市である。 道路や空路(航空貨物大手のカーゴルックス航空が本拠地を置く)といった交通網がよく整備されており、オランダ(国際的な海運業の中核)を隣国とする「欧州における物流の要所」である。更には英語やフランス語、ドイツ語といった「欧州の主要言語がすべて通じる」理想的な環境にあるため、欧州圏にビジネス展開しようとする世界企業にとっては魅力的な立地条件を有している。 ルクセンブルクの気候はケッペンの気候区分によると西岸海洋性気候に分類される。 首都ルクセンブルクの年平均気温は、1961年から2000年の30年平均値で8.6度。月別平均気温が最も低くなるのは1月(0.2度)、最も高くなるのは7月(17.2度)である。 年間降水量は847.7mm。図からも分かるように月別降水量の年間における変化に乏しい。最も降水量が少ないのは2月(59.6mm)、最も多いのは11月(79.3mm)である。どの月においても降水が観測された日が過半数を占める。 相対湿度が最も低くなるのは4月から6月にかけてであり、73%である。最も高い月は12月(90%)。年平均値は81%である。 1965年のビジネス・ウィーク誌によると、ミューチュアル・ファンドの巨人ジョン・テンプルトンとその共同経営者ウィリアム・ダロムスは、Investors Overseas Services ルクセンブルク保険のファイナンスを手がけた腕を買われてIOS のパートナーとなり、バーニー・コーンフェルドもテンプルトンのレキシントン・リサーチ・アンド・マネジメントの株式をIOSと個人名義で保有した。 最近では1MDB をめぐる汚職事件と関係して、実業家のKhadem al-Qubaisi が、パナマ文書に載っているオフショア会社を経由し、ジュネーヴに本店があるエドムンド・ド・ロスチャイルド銀行のルクセンブルク支店で口座を開設した。 IMFの統計によると、2015年のルクセンブルクのGDPは578億ドルであり、2013年度における日本の岐阜県の経済規模とほぼ同じである。1992年以降、一人当たりのGDPは世界首位の座を保っている。ただし、購買力平価ベースでは、2000年代中盤を境にカタールに追い抜かれ、第2位に甘んじている。(補足:ルクセンブルクは高度に発達した先進工業国である一方、カタールは石油産業(オイルマネー)に依存する国である) ルクセンブルクの経済成長率は毎年4 - 5%の範囲で推移(2007年度以降は鈍化)しており、先進国としては例外的に高い経済成長を維持し続けていたが、2008年に起こった世界経済危機の影響を受け、2009年にはマイナス成長に転じた。翌年には持ち直したものの、2012年にはユーロ危機によって再びマイナス成長となった。ただし2016年現在は以前の状態に回復している。 GDP比で特徴的なのは対外債務であり、GDPの67倍となり極めて高い水準にある。(2017年6月末現在)(国別外債残高の一覧)。 ルクセンブルクは先進国の中でも特に税率が低い国であり、数多くの国外企業を誘致することに成功している。近年ではインターネット関連企業の誘致に力を注いでおり、スカイプやeBay、アップルなどを筆頭として数多くのインターネット関連企業が本社機能を移転している。ただし、本社機能を完全移転したスカイプ社のような事例は稀であり、その大半は欧州本社である。日本企業としては、ファナック、楽天などが欧州本社を置いている。 また、その税負担の軽さから、EUやOECD(またはG20)などに事実上のタックスヘイブンとみなされ、強い非難を浴びてきた。近年までは一連の非難に対して強気の姿勢を崩さなかった。典型的な福祉国家ではないのにも関わらず、概して失業率が良好に推移しており、国内の所得格差が北欧諸国並みに小さいのは、巨額の外資を導入しているからである。 とはいえリーマンショックに端を発する世界恐慌以降は、国際的な金融規制の流れを受けて税率改正の動きを見せはじめている。その一環として 2010年1月25日、租税条約改正について日本政府と合意した。 ルクセンブルクには多種多様な産業が発達している。大規模に外資を投下された民間企業による経済活動は極めて盛んである。このことは重工業と金融にあてはまる。また、国策として情報通信分野における産業振興を図った結果、ヨーロッパにおける情報通信産業(放送メディア産業)の中核を担うことになった。ベルテルスマンのRTLグループ買収は一例である。 他にも、高度に発達した工業と豊かな自然(特に田園風景)とが共存しており、観光業(近年ではエコツーリズム)も盛んである。その自然の豊かさから「欧州における緑の中心地(Green heart of Europe)」と称されることもあり、上海万博におけるルクセンブルク・パビリオンの標語としても採用されている。食品産業は全般的に低調である。 中立化以前のルクセンブルクは農業国であった。20世紀初頭からベルギーから外資が投下された。外資の出所はドイツやフランスといった欧州の強国であった。ルクセンブルクが普仏関係の緩衝地帯というのは軍事面でのことであって、経済戦争においては前線であった。次第にベルギー鉄鋼業がルクセンブルクに延長してきた。1926年の鉄鋼カルテル(Entente internationale de l'acier)は欧州石炭鉄鋼共同体の原型となった。第二次世界大戦後、アンリ・J・レイル(Henry J. Leir)がグッドイヤー、デュポン、モンサントなどを誘致した。1960年代よりアルセロールなどがルクセンブルクの経済を牽引した。およそ十年後にオイルショックがベルギーごとルクセンブルクの鉄鋼業に再編を迫った。 2006年、インドに本拠地を置くミタルスチール社がアルセロールを買収した。この事件は国内鉄鋼業の衰退を象徴したが、しかし合併後(アルセロール・ミッタル)も依然として同国に本社を置いている。 製造業としては、化学や繊維、自動車部品、プラスチック・ゴムといった分野でも実績があるが、いずれも鉄鋼業ほどの影響力はない。隣国ベルギー(アントウェルペン市)がダイヤモンド取引の中心地であるため、ルクセンブルクにもダイヤモンド加工産業が根付いているが、ベルギーほど加工技術は高くないとされる。 他に特筆すべき工業製品としては高級食器が挙げられよう。ビレロイ&ボッホ社がルクセンブルク(オーストリア大公国領時代)に工場を置き、ハプスブルク家の御用達となったことから世界的に名声が広まった。ルクセンブルク工場が製造する陶磁製食器は、現在でも世界的に高い評価を受けている。 2016年現在では金融サービス業をはじめとする第三次産業がGDPの約88%を占めるようになった。ユーロ圏におけるプライベート・バンキングの中心地であり、世界的に見てもスイス(非EU加盟国)に匹敵する規模を誇る。デイリーテレグラフ紙によれば、金正日の持つ隠し資産の大半がルクセンブルクの銀行に預けられているという。そんな金融機関を束ねる国際決済機関のクリアストリームは、ルクセンブルクの繁栄を象徴している。また、欧州圏における再保険分野の中心地でもある。 こうした金融セクターは(およそ30万人の労働人口に対して)7万人近い雇用を生み出し続けており、労働人口全体のおよそ5分の1を構成していることになる。一方、ルクセンブルク・リークスで明らかとなったような脱法が目立つ。 また、国内には欧州投資銀行やユーロスタット、欧州会計監査院といった欧州連合における金融関連機関が集中しており、ユーロ圏における金融センターとしての地位を不動のものとしている。 ルクセンブルクは情報通信分野(放送メディア産業)の産業振興に力を入れてきた。結果として、現在はRTLグループとSES S.A.の二大メディア複合体を擁し、欧州における同分野の中核を担っている。RTLグループは欧州随一の規模を誇る放送メディアの企業複合体であり、SES S.A.は欧州のみならず世界有数の規模を誇る衛星放送事業者。特に後者は国策企業(日本で言えばNHK-BSに近い)を前身とし、現在では世界最多(41機)の放送衛星を運用する民間企業である。欧州最大の商業通信衛星群 ASTRAシリーズは、子会社のSES アストラによって運用されている。 金融サービスに関連して電子商取引の重要性にいち早く注目し、2000年8月に世界に先駆けて電子商取引の関連法を制定した。同様に電子商取引の安全性を保証する仕組みとして電子認証機関ルクストラストを官民共同プロジェクトとして設立し、官民を問わず広く利用を促している。続いて2009年には、欧州最大規模の商用インターネット相互接続ポイント「ルシックス」が設立された。ちなみに、国内全域において光ファイバーによる高速回線が利用可能である。近年では、首都ルクセンブルク市および第二都市エシュ=シュル=アルゼットの一帯で Wi-Fiによる高速無線通信も利用可能になった。 他分野と比べると第一次産業が見劣りすることは否めないが、モーゼル川流域は古代ローマ時代からワインの生産が盛んな地域であり、良質な辛口の白ワインを産出することで知られている。ただしドイツやフランスとは異なり国内生産量は15,000kl/年と小規模であるため、輸出されることは少なく希少性が高い(一般的にモーゼルワインと言えばドイツ産が有名)。ちなみに、葡萄の主要品種はリースリングやゲヴュルツトラミネール、ピノ・グリなど。 農業が吸収する労働人口は全体の1%前後とされる。農家の大部分は家族経営の小規模な自作農であり、耕作と畜産の混合農業が一般的。有機農法を用いた農地に政府助成金が支給される仕組みとなっているため、政府認証を受けた農地のほぼ100%が有機農法を行っている。また、農業関係者の遺伝子組み換え食品に対する拒否感は強い。 隣国ベルギー同様にチョコレート菓子が有名で、「オーバーワイス」は王家御用達である。 また、飲食店の格付け冊子として著名なミシュランガイドにおいて国民一人あたりの星の数が世界一という実績から、「美食の国」として誉れ高い隣国ベルギー同様、グルメ観光を目的とした旅行客も少なくない。 大国に翻弄されながらも独立を維持してきたルクセンブルクは、その歴史を偲ばせる建造物が国内各所に点在している。特に首都の旧市街は世界遺産に登録されており、観光地として人気がある。しかし観光客は近隣諸国から来てすぐ帰ってしまう。実際にベルギーからの日帰り客が少なくない。そのため、観光客をいかに長期滞在させるかが観光業の課題となっており、近年では豊かな自然を生かしたエコツーリズムに力点が置かれている。 エコツーリズムをメインとする観光地としては、鬱蒼とした森が広がるアルデンヌ地方や「小スイス」と称されるミュラータール、モーデル川沿いの丘陵地帯(ワイン観光)などが挙げられる。鉄鋼業の中心地である南部(エシュ=シュル=アルゼット)には豊かな自然に加え、かつて鉄鉱石を運んだSL鉄道 をはじめする産業遺産が残されている。この地域は岩石が鉄分を含むために赤味を帯び、通称「赤岩の地(land of red rocks)」とも呼ばれる。 また、小国ながら自転車競技では世界レベルの実力を誇る国だけあって自転車ロードレースの国際大会(ツール・ド・ルクセンブルク)が毎年開催されており、大会期間中は観戦客で大いに賑わう。 ルクセンブルクは伝統的に諸外国から多くの移民を受け入れており、2015年現在のデータでは人口の45.3%が外国出身である。この割合は欧州連合の中でも突出したものであり、世界の中でもルクセンブルクを越える国は多くない。ただし、ルクセンブルクの場合は近隣諸国(同じ言語圏)からの移民も少なくないため、多言語国家であっても、米国のような多民族国家とは言い難い。そもそも、ルクセンブルクに外国出身者が多いのは、同国が(ユーロ圏で唯一)二重国籍を認めていなかったために過ぎず、在住する外国人の多くは近隣諸国からの越境者である(東京と近隣県の関係に近い)。実際、労働人口のおよそ半数が隣国(主にベルギーやフランス、ドイツなど)から越境通勤してくる「コミューター」とされる。ちなみに、こうした越境労働者が多いことが一人当たりのGDPを引き上げる要因となっている。 また、好調な経済に惹かれてやって来た不法移民(不法滞在者)も多いとされるが、ルクセンブルクの国籍(あるいは労働許可証)を取得していない限りは存在しないものとされ、正確な統計情報も存在しない(発覚した場合は国外追放)。もっとも、シェンゲン協定の締結以後、周辺国(現在では欧州のほぼ全域)との往来が自由になっているため、ルクセンブルクを目的地とした不法移民なのかどうかを判断するのは困難である。ちなみに、在留資格がなくとも現地での被雇用を条件に長期滞在許可が下りる(ただし、これは主に難民に対する処置)。 また、ルクセンブルクにおける外国出身者の失業率は他の欧州各国と比較して低く、外国人に対する差別意識もさほど強くない上、前述の通り寛容な移民政策を採用していることから、不法滞在の目的は何らかの非合法活動に従事する場合に限られる。 住民はケルト人、ゲルマン人などの混血が主である。外国人の割合は高く、3分の1程度である。主な外国人は、2016年現在、ポルトガル人(36%)、フランス人(15%)、イタリア人(8%)、ベルギー人(7%)である。神聖ローマ(ドイツ)帝国から分離した歴史上ドイツ系の国民と見なすことができるがフランスの影響も強く、ドイツ語系の方言を古い母語としながら公的にはフランス語が主流となっている点では、フランスのアルザス地方と相似している。 言語はフランス語、ドイツ語、ルクセンブルク語の3つが公用語とされている。フランス語は7歳から教育が始まり、行政と法律の言語として使用されている。家庭内、友人間、地元に密着した店ではルクセンブルク語が現地人の言葉として使われ、また多くの場合カトリック教会の典礼言語としても使用されている。ルクセンブルク語は中部ドイツ語の一派であり、標準ドイツ語との距離も近いため、テレビや映画など報道関係分野ではドイツ語が多用される。またその他、街やレストランなどでは英語のみならず、ポルトガル語やイタリア語などを耳にする機会も多い。 英語は空港やホテルでは問題なく通用するが、バスの運転手や小さな商店などでは通用しないことがある。 宗教はローマ・カトリックが87%、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム教などが13%である。 婚姻の際、法的な姓が変更されることはない。なお、氏名の変更は可能である。2014年より、同姓婚も可能となった。 ルクセンブルク国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件、記憶遺産が1件、無形文化遺産が1件存在する。ルクセンブルクは、もともと丘の上に築かれた城を中心に発展した小国だが、その城と市街が、「ルクセンブルク:その古い街並みと要塞群」として、1994年に登録された。クレルヴォー市にある城の展示室に常設展示されている、ルクセンブルク出身の世界的な写真家エドワード・スタイケンが1955年にニューヨーク近代美術館で企画した「ザ・ファミリー・オブ・マン」展は、世界記憶遺産に2003年に登録。エシュテルナッハ市で中世から続く「踊りの行進(ダンシング・プロセッション)」は世界無形文化遺産に2010年に登録された。 ルクセンブルク大学がこの国における唯一の大学である。 ジャン=クロード・オロリッシュ - イエズス会士、大学教授 ヒューゴー・ガーンズバック - 小説家 ヨハン・ペーター・キルシュ - 教会史家 アンネ・クレマー - テニス選手 フランク・シュレク - 自転車ロードレース選手 アンディ・シュレク - 自転車ロードレース選手 キム・キルシェン - 自転車ロードレース選手 ヴィルヘルム・クロール - 冶金技術者 シャルリー・ゴール - 自転車ロードレース選手 エドワード・スタイケン - 写真家 ミッシェル・スタイヘン - 神父、日本研究家 エーミール・ヒルシュ - ラビ フランソワ・ファベール - 自転車ロードレース選手(生誕地はフランス) ニコラ・フランツ - 自転車ロードレース選手 テオドール・フンク=ブレンタノ - 社会学者 フランツ・フンク=ブレンタノ - 歴史家 ジレ・ミュラー - テニス選手 アーノ・マイヤー - 歴史家 ジャン=クロード・ユンケル - 政治家、首相 ガブリエル・リップマン - 化学者 マーク・ジラルデリ - スキー選手(生誕地はオーストリア) フルール・マクスウェル - フィギュアスケート選手 ルクセンブルク家 ^ 神奈川県は約870万人、沖縄県は約140万人(うち沖縄本島の人口が110万人程度)、佐賀県は約87万人。 ^ CIAワールドファクトブックによれば、2016年12月時点においては、カタール及びマカオに次いで第3位。ちなみに、一人当たりの国民総所得(GNI)では世界第4位だが、購買力平価ベースでは2009年で世界首位。GNIとは、ある国籍を持つ国民が国内外で稼いだ所得の総和であるから、単純に考えれば「世界で最も所得が多い国民」ということができる。 ^ ルクセンブルクは概して失業率が低い国であり、多くとも4%台で推移している。事実、リーマンショック以降ですら4.4%(2008年現在)と低い失業率を維持しているが、これでも同国としては記録的に高い数字である。ちなみに、同年のユーロ圏における平均失業率は7%台後半であり、北欧の福祉国家(およびワークシェアリング政策を採用するオランダ)を除けば欧州で最も低い失業率を誇る。ジニ係数は北欧型福祉国家に匹敵し(0.2ポイント台)、80年代以降はほぼ一定を保っている。言い換えれば、経済成長に伴って所得格差が広がらなかった稀有な例である。 ^ 同社はドイツに本社をおいているが、上述した歴史的経緯と本店がルクセンブルクに置かれていることから、ルクセンブルク企業と誤解する人も少なくない。ちなみに、同工場では機械を用いて皿に絵付けをする際、膨らんだ風船状のゴムにインクを載せ、それを皿に押し付けるようにして着色するといった独特な手法が用いられている。このアイデアを出したのは地元の貴族であったとされ、その末裔はビレロイ&ボッホ社の名誉職を代々受け継いでいる。 ^ ルクセンブルク経済開発局『日本人の知らないルクセンブルク』Archived 2009年10月24日, at the Wayback Machine. ^ \"Lexington's key men, John Templeton and William Damroth, are stockholders in IOS by virtue of helping to finance IOS Luxembourg insurance company. Cornfeld recently took an individual stock interest in Lexington Research & Management.\" ^ “World Economic Outlook Database October 2016 Edition”. IMF. 2016年12月16日閲覧。 ^ 県内総生産(名目) (XLS, 68kB) 内閣府,2016年12月16日閲覧.1ドル=115円で計算。 ^ “アーカイブされたコピー”. 2011年10月27日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年6月21日閲覧。 ^ “一人当たりの購買力平価GDP(USドル)の推移(2003〜2010年)(カタール, ルクセンブルク)”. 2016年12月16日閲覧。 ^ “COUNTRY COMPARISON :: GDP - PER CAPITA(PPP)”. 2016年12月16日閲覧。 ^ “Gross national income per capita 2010 (PDF)”. 世界銀行. 2016年12月16日閲覧。 ^ “ルクセンブルクの経済成長率の推移”. 2012年12月16日閲覧。 ^ a b “ルクセンブルク大公国(Grand Duchy of Luxembourg)基礎データ”. 外務省. 2016年12月16日閲覧。 ^ “eBayがSkypeのIPO計画を発表,2010年前半をめどに分社化”. 日経BP (2009年4月15日). 2016年12月16日閲覧。 ^ “アーカイブされたコピー”. 2010年9月13日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年6月21日閲覧。 ^ “アーカイブされたコピー”. 2010年9月9日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年6月21日閲覧。 ^ “ファナックの歴史”. ファナック. 2016年12月16日閲覧。 ^ “EUで「楽天市場」展開、ルクセンブルクに「楽天ヨーロッパ」設立”. 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d'Andorre(プランシポテ・ダンドール)、通称、Andorre(アンドール)、スペイン語では、Principado de Andorra(プリンシパード・デ・アンドーラ)、通称、Andorra(アンドーラ)である。日本語での正式国名はアンドラ公国、通称はアンドラ、漢字表記は安道爾である。 国名については「アンドラ渓谷公国(カタルーニャ語:Principat de les Valls d'Andorra)」と称することもある。「アンドラ」の由来については諸説あり定かではないが、同地に居住していたイベリア人の部族を古代ギリシア語でアンドシンス(Andosins)と呼称しており、これはバスク語で「巨大な」を意味する「handia」に由来するというのが一つの説である。 国内で発見された遺跡から、紀元前1万年頃には定住が行われていたことが推測されている。古代ギリシアの歴史家ポリュビオスは『歴史』第3巻35章1節において、ポエニ戦争でカルタゴ軍がピレネー山脈を越える際、アンドラの谷に先住民が居住しており、彼らを「アンドシンス」と呼んだ事が記されている。これが文献上に見える最古のアンドラである。 803年、フランク王国のシャルルマーニュがピレネー山脈中においたスペイン辺境領の一つ、ウルヘル伯領(英語版)を起源とする。 1133年、ウルヘル伯はウルヘル司教にアンドラの宗主権を譲り渡した。1096年、司教はカボー家(カタルーニャ語版)にアンドラの防衛を委ねる代わりに、代償としてアンドラの一部カボー谷の統治権を与えた。カボー家の権利はカステルボー子爵(カタルーニャ語版)との婚姻によって移動し、1208年にはフォワ伯(英語版)家によって掌握された。フォワ伯家はアンドラ全体の統治権を狙い、司教と争うようになった。事態の解決のため、1278年に両者を対等の共同統治者とする宗主契約が結ばれた。1419年には最初の議会が設置されている。フォワ伯のガストン4世はナバラ女王のレオノールと婚姻し、以降フォワ伯位とアンドラの統治権にくわえてナバラ王を継承するようになった。フォワ伯の地位は女系を経てブルボン家に渡り、1589年にアンリ4世がナバラ王兼フランス王となったことでフランス王がアンドラの宗主権を受け継ぐことになる。1607年にはアンリ4世が、フランス王とウルヘル司教を共同大公とする勅令を出し、アンドラは公国となった。 フランス革命が発生して1793年にルイ16世が処刑されると、フランス側の共同大公は存在しなくなった。アンドラ側は革命政権を承認せず、フランス第一共和政政府もアンドラとの関係を絶った。1794年、スペインとの間でピレネー戦争を戦っていた共和政政府は、この機にアンドラを併合しようともくろんだ。この時アンドラの代表がフランス軍の司令官のもとにおもむき、侵攻を断念するよう説得している。1806年、フランス皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトとの間で両国関係は修復され、再びフランスの元首が共同大公につくことになった。1814年の第一帝政崩壊により支配から脱するが、以降も封建的な制度はそのまま受け継がれていくことになる。 先述のとおり、フランス元首もアンドラの宗主権を受け継いでいるのであるが、フランス首相は第一次世界大戦の宣戦布告文にフランス元首としてのみならずアンドラ公国宗主としても署名をした[要出典]。それ故第一次世界大戦に参戦したものの[要出典]、ヴェルサイユ条約の範囲外にあった(条約締結の際、フランス元首がアンドラ公国元首としての署名をしなかったため)。そのため、形式的にアンドラ公国は「第一次世界大戦を継続したまま、第二次世界大戦を迎える」という珍事が起こった。この戦争状態は1958年まで続いた。1934年7月にはリトアニアの冒険家、ボリス・スコスヤレフ(英語版)がフランスの庇護下にあるアンドラ王「ボリス1世」を称して、ウルヘル司教に対して宣戦布告したが、まもなく国外追放される事件が起きている。 スペイン内戦の時期には中立を守り、フランス軍が駐屯している。第二次世界大戦では中立を守ったものの、スペイン軍が駐留している。またスペインとヴィシー政権の密輸ルートとして利用されている。1944年にはドイツ軍の部隊が領内に侵入しているが、1945年に退去するまで戦闘行為は発生しなかった。 1993年3月14日、憲法が国民投票の結果可決され、ウルヘル司教とフランス大統領を共同元首とする議会民主主義制国家となる事が決定された。フランスおよびスペインは6月1日に国家承認し、正式に独立国家となった。同年7月、国際連合に加盟した。 国家元首である大公(princes d'Andorre)は、スペインのウルヘル司教(Obispado de Urgell, évêques d'Urgell)とフォワ伯爵位(comte de Foix)の法定継承者であるフランス大統領との二頭政治である。1993年の憲法で国民主権が明記され、大公の権限は首相の任命、大使の接受、法律・条約の認証等である。しかし両者がアンドラの国務に直接携わったり来訪することはほとんどなく、駐在代理官(représentant)が委任を受けてその権限を行使する。 アンドラの国会に当たる大評議会(カタルーニャ語: Consell General d'Andorra)は「渓谷総会(カタルーニャ語: Consell General de les Valls)」とも呼ばれ、一院制で、定数は28議席、任期は4年で、14議席を全国区から選出し、残り14議席は7教区ごとに割り振られて各教区2議席ずつの定数となっている。行政府の長である首相は議会によって選出される。保守・自由民主主義のアンドラ自由党と、社会民主主義の社会民主党による二大政党制だが、他にも小政党が存在する。 敵対する国家も存在しない上、近年まで外交をスペインとフランスにゆだねていたこともあり、軍隊は持たず、国防に関してはフランス及びスペインに委託している。240人規模の警察部隊 (アンドラ)(英語版)が存在し、国境警備や治安活動に当たっている。 外交は1993年までは共同元首の権限であり、ウルヘル司教は外交組織を持っていなかったためフランスが代行していた。独立以後はアンドラ政府自身で行うことになった。国際連合(1993年)および欧州評議会(1994年)に加盟。2018年現在、WTOに加盟申請中。である。これに対して欧州連合(EU)や欧州自由貿易連合(EFTA)、万国郵便連合、生物多様性条約には加盟していない。 2015年3月10日、アメリカ合衆国財務省の金融犯罪取り締まりネットワークは、バンカ・プリバダ・ダンドラ(英語版)(BPA)を「主要マネーロンダリング企業」に指定。HSBC、バンカメ、シティバンク、ドイツ銀行は、BPAのコルレスバンクをしていた。この関係を利用して、BPAは2009〜14年に数億ドル規模の取引を処理した。そうした取引には、ダミー会社、無許可の送金、租税回避地など「その他リスクの高い顧客企業」が絡んでいたとされる。なおアンドラは、国際決済機関のクリアストリームに16の匿名口座を開いていた。 日本は1993年12月にアンドラを国家承認し、1995年10月に両国間の外交関係が築かれた。アンドラにおける日本の代表部は、在フランス日本国大使館が兼轄している。 日本人のアンドラへの渡航は、在スペイン及び在フランス日本人によるものを中心に、年間数千人程度と見られている。 2005年(平成17年)1月20日、首相のマルク・フォルネ・モルネが湘南モノレールを視察。首相夫妻と外務大臣ら5人が、同社社長の前田克彦らとともに全区間を乗車した。同首相は積雪に強いこのモノレールに対し「アンドラ公国にぴったりの交通機関」と感想を述べた。アンドラは冬期5か月間は雪に閉ざされるため、降雪に強い交通手段として、このサフェージュ式モノレールに関心を寄せている。 2011年1月9日にテレビ東京系列で放送された「あなたの街にもいる?189ヶ国愛すべきヘンな外国人」で首相が調査した結果によれば、在アンドラ邦人は4人、在日アンドラ人は1人であった。2013年3月時点では在アンドラの邦人は10人。 7つの教区(パロキア、parròquia)に区分される。 アンドラ・ラ・ベリャ アスカルダズ=アングルダーニ アンカム ウルディーヌ カニーリョ サン・ジュリアー・ダ・ロリア ラ・マサーナ 国土面積は468km2であり、日本では金沢市の面積とほぼ等しい。 ピレネー山脈東部に位置し、スペインとフランスにはさまれた山がちの内陸国である。スペインのカタルーニャ州リェイダ県、フランスのミディ=ピレネー地域圏アリエージュ県とラングドック=ルシヨン地域圏ピレネー=オリアンタル県に接する。厳しい高低差があり、複数の谷が刻み込まれている。山からは粘板岩が産出し、伝統的な家屋の屋根はこれで葺かれ、壁は自然石を用いて作られている。 夏季は乾燥し、冬季の降雪が多い地中海性気候である。耕作地や住宅地の他はほとんどが針葉樹林であるが、標高2500m以上の地域では樹木が生育せず、草地や裸地となっている。 国内最高峰はコマ・ペドローザ峰(2942m)。主な河川はバリラ川。 経済の中心は観光業である。EUには非加盟だがユーロを通貨としている。ユーロ導入前はスペイン・ペセタとフランス・フランを併用していた。また、2011年までタックス・ヘイヴンの国家であり、2012年まで消費税は存在しなかった。国家収入の大半は、EU圏からの輸入税である。 冬期のスキーやスノーボード、夏期のトレッキングやスパなどのレジャー産業が盛んで、格安の宝石店、自動車パーツ店、免税店(ヨーロッパ全域のブランド品・タバコ・香水を扱う)でのショッピングを含めた観光業が基幹産業となっている。マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷は世界遺産にも登録されている。 スペインやフランスなどの周辺の国の人々の別荘も多く存在している。近隣の大都市であるスペインのバルセロナからは、毎週末になると週末の観光を兼ねた買出し客が国境を越えて押し寄せることもあり、国境沿いの道路にはそれらの客を目的にした免税スーパーマーケットや免税ガソリンスタンドが軒を連ねる。この影響を受けて、フランスではカー用品が、スペインではタバコとアルコール飲料が、免税の低価格で販売されるようになった。 農業には人口の4%が従事し、国土の2.1%が農地である。主な品目はタバコ、ジャガイモ、トウモロコシ、オリーブなどの他、牧畜も行われている。世界的な観光業の成立以前は農業が国の基盤だった。現在、世界市場で競争力を持っているのはタバコである。アンドラ産のタバコの葉は大変香りが強いため珍重されており、ブレンド用として輸出されている。 第一次産業、第二次産業はいずれも規模が小さい。アンドラの鉱物資源は鉄鉱石と鉛、ミョウバン、石材、イオウを含んだ水である。300年以上に渡り、採鉱から鍛鉄まで小規模ながら一貫した鉱業が継続していた。現在でも鉄資源は枯渇していないが、製鉄業は成立していない。イオウを含んだ水は羊毛の洗浄に用いるためのものである。 工業は、繊維業、紙巻きたばこ製造、家具製造業を中核とする。繊維業では、レス・エスカルデスの羊毛で織ったスカーフや毛布が著名である。アンドラの輸出額に占める工業製品の比率は90%に達する。内容は自動車、精密機械などで、いずれも軽微な加工に留まる。工業製品に分類される輸出金額は5700万ドル(2002年時点)である。 テレビ局とラジオ局がある(RTVA)。郵便はフランスおよびスペインの郵便局が配達、アンドラ国内の送料は無料。街中に両国の郵政公社によるポストが設置されている。インターネットの国別ドメインは.adである。 国内の交通は自動車とバス、オートバイが一般的である。スペインとフランスとの間は幹線道路で結ばれており、特にバルセロナとの間には、高速道路が一部完成していることから交通量も多い。空港、港、鉄道はない。ヘリポートは存在する(空港の存在しない国の一覧)。 国籍はスペインが37.4%、アンドラが35.7%、ポルトガルが13.0%、フランスが6.6%、その他が7.3%である(2004年時点の公式統計)。 言語は公用語がカタルーニャ語である。その他、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などが使われている。 国民の大半がカトリック教会の信者である。 ユネスコ世界遺産の文化遺産としてマドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷が登録されている。 スキーをはじめとしたウィンタースポーツのほか、自転車競技などもさかん。2010年の3月1日から7日まで、山岳スキーの世界選手権が開催された。 ^ a b c d e f Andorra profile -BBCによるアンドラのプロフィール ^ a b c d e f g h i History of the Principality of Andorra-andorramania.com ^ a b c d e f g アンドラ基礎データ | 外務省 -外務省 ^ 参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧 ^ From Tiny Andorra to the U.N. Center Stage - New York Timese-ニューヨーク・タイムズ2006年9月22日 ^ a b c 映画のロケ地としても注目! 山深い小国が抱える不思議 - exciteニュース、2011年6月25日 ^ CIAワールドファクトブック(英語) ^ ACCESSIONS Andorra 2018年5月29日 16:12 JST ^ WSJ マネロン疑惑の欧州銀、米大手4行に口座保有 2015年3月12日 18:35 JST ^ 石川輝海 2011, pp. 21. ^ 石川輝海 2011, pp. 21-23. ^ 石川輝海 2011, pp. 23. 石川輝海「ピレネー山脈東部の地質学的および地球環境学的研究」(2011年) 政府 アンドラ公国政府 (カタルーニャ語) アンドラ公国議会 (カタルーニャ語)(英語) 日本政府 日本外務省 - アンドラ (日本語) 在アンドラ日本国大使館 - 在フランス日本大使館のサイトの一部 (日本語) 観光 アンドラ政府観光局 (カタルーニャ語)(英語)", "リヒテンシュタイン公国 Fürstentum Liechtenstein 国の標語:Für Gott, Fürst und Vaterland (ドイツ語:神・公・祖国のために) 国歌:若きライン川上流に リヒテンシュタイン公国(リヒテンシュタインこうこく)、通称リヒテンシュタインは、中央ヨーロッパに位置する君主制国家。スイスとオーストリアに囲まれたミニ国家の一つ。首都はファドゥーツ。欧州自由貿易連合(EFTA)加盟国。西欧に分類する見解もある。 正式名称は公用語のドイツ語でFürstentum Liechtenstein(ドイツ語発音: [ˈfʏʁstn̩tuːm ˈlɪçtn̩ʃtaɪn] フュルステントゥーム・リヒテンシュタイン)、Liechtensteinと表記する。公式の英語表記はPrincipality of Liechtenstein(プリンシパリティ・オヴ・リクテンスタイン)、略称、Liechtenstein。日本政府による公式の日本語表記はリヒテンシュタイン公国(リヒテンスタイン公国)、略称:リヒテンシュタイン(リヒテンスタイン)。「リヒテンシュタイン侯国」と表記することもある。なお、リヒテンシュタイン公国がある現地のアレマン語(リヒテンシュタイン方言)では、Förschtatum Liachtaschta(フェアシュタツーム・リアハタシュタ)と表記される。英語表記で国名・形容詞ともLiechtenstein、国民はLiechtensteiner。 元首であるリヒテンシュタイン家の当主の称号はドイツ語で„Fürst“(英語の\"prince\")であり、„Herzog“(公爵。英語の\"duke\")より一段下の爵位であるため、日本語では「公爵」ではなく「侯爵」と訳される場合もある。一方、リヒテンシュタイン家の当主の親族(男子)は„Prinz“(英語の\"prince\")である。 1699年 ヨハン・アダム・アンドレアスがシェレンベルク男爵領を購入。 1712年 ヨハン・アダム・アンドレアスがファドゥーツ伯爵領を購入。 1719年 神聖ローマ皇帝カール6世は、リヒテンシュタイン家が買収したファドゥーツ伯爵領とシェレンベルク男爵領とを併せてリヒテンシュタイン公(侯)領とすることを認可(リヒテンシュタインの始まり)。 1806年 神聖ローマ帝国の崩壊によって独立国となり、翌年にライン同盟に参加する。 1815年 ドイツ連邦に加わる。 1852年 オーストリア帝国との関税同盟を締結。 1866年 ドイツ連邦解体に伴い再独立する。 1867年 永世中立国となる。 1868年 軍隊を廃止。 1919年 オーストリアとの関税同盟を解消。 1921年 憲法制定。スイス・フランを通貨とする。 1923年 スイスと関税同盟を結ぶ。 1938年 ナチス・ドイツ政権が誕生した際、リヒテンシュタイン国内でもナチズム勢力が増大していたが、フランツ・ヨーゼフ2世は君主大権を行使して総選挙を無期限延期とし、リヒテンシュタインがナチズム化(人々を扇動する集会の禁止、ナチスの制服着用禁止等)するのを未然に防いだ。これにより、リヒテンシュタインは第二次世界大戦において併合されず中立を維持した。 1984年6月 女性参政権を認める。 1990年 国際連合に加盟する。 1991年 欧州自由貿易連合(EFTA)に加盟する。 1995年 欧州経済領域(EEA)に加盟する。 2003年 憲法を改正。 2011年 シェンゲン協定に加盟する。 元首はリヒテンシュタイン公(侯)で、リヒテンシュタイン家の当主による男子世襲制である。欧州の君主制国家の元首が象徴・儀礼的存在であるのに対して、公は政治的権限を有している。そのため統治形態としては絶対君主制であるといえるが、公の統治が能わざる時は執務を停止もしくは退位できる旨が憲法で定められており、また必要であれば国民投票によって君主制の存廃を決めることができるなど立憲政治、法の支配、議会民主制が確立されており、また国民の権利と自由も十分に保障されていることから、実質的に立憲君主制に分類される事が多い。現在の君主、ハンス・アダム2世は2004年に長男のアロイス公子を摂政に指名して統治権を譲り、自らは名目上の元首としての地位のみを有している。 議会は一院制で、「Landtag(国会)」と称する。議員定数25、任期4年、解散あり。選挙は、複数投票制と比例代表制を組み合わせた直接選挙で行われる。女性参政権が認められたのは、世界的に見ても遅い1984年である。 議院内閣制を採用している。行政府の長である首相は議会の第一党党首が公によって任命される。また、副首相には第二党の党首が任命される。政党はリヒテンシュタイン進歩市民党(ドイツ語版)(Fortschrittliche Bürgerpartei in Liechtenstein)と祖国連合 (リヒテンシュタイン)(ドイツ語版)(Vaterländische Union)が二大政党である。 歴史的経緯から、民法はオーストリアの民法が基本となっており、刑法はスイスの刑法を基本としている。死刑制度は廃止されている。 普墺戦争で当時密接な関係にあったオーストリアが敗北し、安全保障政策の見直しが必要となった。しかし自国の軍事力では近隣諸国に到底対抗できないため、1868年に軍を解体し非武装中立政策に転換する。 第一次世界大戦後、オーストリア=ハプスブルク帝国の崩壊後はスイスとの関係を強化、1923年に関税同盟を締結してからは実質的にスイスが安全保障を担っている。 また、100名ほどの国家警察は隣接する諸国(スイスおよびオーストリア)の軍と密接な関係を持っている。 1919年の合意に拠り、欧州評議会以外においてはスイスが利益代表を務める。 リヒテンシュタインはチェコ共和国とスロバキア共和国の国家承認を長年行っていなかった。これは第二次世界大戦終結直後の1945年に、当時のチェコスロバキア共和国政府が同国領内のドイツ系およびハンガリー系住民のチェコスロバキア国籍を剥奪のうえ、私有財産を没収した(ベネシュ布告)が、同国に領地を持っていたリヒテンシュタインはこの措置を違法行為とみなし、抗議したためである。その後、2009年にチェコとの間で外交関係を開設することが発表された。また、同年12月9日にはスロバキアとの間でも外交関係が開設されることも発表された。 全部で11の基礎自治体(Gemeinde、ゲマインデ)に分かれる。これらは旧ファドゥーツ伯爵領のオーバーラント(Oberland、高地)と旧シェレンベルク男爵領のウンターラント(Unterland、低地)に分けることができ、現在でも国政選挙の選挙区としてこの区分が残っている。 シャーン トリーゼン トリーゼンベルク バルザース ファドゥーツ プランケン エッシェン ガンプリン シェレンベルク マウレン ルッゲル 詳細はリヒテンシュタインの地理を参照 国境を接する全ての国が内陸国である「二重内陸国」(海に出るために少なくとも2つの国境を越えなければならない国のこと)である。面積は南北に25キロメートル、東西に6キロメートルと狭い。日本の小豆島とほぼ同じである。世界で6番目に小さい国。ドイツのシュヴェービッシュ・アルプスの延長線上に連なり、国土は山がち(最高地点2599m)だが南風が卓越し比較的温暖である。西はライン川に沿ってスイス(ザンクト・ガレン州・グラウビュンデン州)、東はオーストリア(フォアアールベルク州)と接している。 主要な産業は精密機械、牧畜と医療。ほかに観光、国際金融、切手発行もよく知られている。スイスとの関税同盟があり、郵便や電話の制度はスイスと共通となっている。 タックス・ヘイブンとしても知られ、税金免除を目的とした外国企業のペーパーカンパニーも集中しており、人口よりも法人企業数が多いと言われる。これら法人税が税収の40%に及び、この結果、一般の国民には直接税(所得税、相続税、贈与税)がない。 近年はEUとの課税に関する条約に調印し、EU市民の預金については利子課税がなされることになった。ただし、これらの税は、個々の預金者の情報を相手国に通知することなしに一括してリヒテンシュタインから各国に支払われるため、銀行の守秘義務そのものは維持されている(同様の銀行守秘義務を維持している国は、欧州ではスイス、モナコ、サンマリノがある)。 OECDが指名する「非協力的タックス・ヘイブン・リスト」(租税回避地)に掲載されている7カ国の1つであったが、2009年5月の時点で他の二カ国(アンドラ、モナコ)と共にリストから削除されている。 この国に拠点を持つ会社としては、薄膜コーティング装置の製造および、コーティングの受託加工のエリコンバルザース社、電動工具・鋲打機・墨出し機などのヒルティ社、プロ用オーディオコネクターのノイトリック社(ドイツ語版)、歯科材料のイボクラー社(ドイツ語版)などが有名。労働者の約半数はスイス、オーストリアから毎日越境している。 国内の主要な交通は路線バスであり、各所を結ぶ路線が頻繁に運転されている。黄色い車体のリヒテンシュタインバスをよく目にすることができる。主なバス停は郵便局の前であることが多い。バスはライン川対岸のスイスの鉄道駅(ザルガンスやブックス)のほか、オーストリアのフェルトキルヒ駅への路線もある。また、ユーロで運賃を支払うこともできる。 国内を鉄道が走っており、駅が4駅ある(主要駅はシャーン・ファドゥーツ駅)。運行をしているのはオーストリア国鉄である。オーストリアとスイスを結ぶ国際急行列車も通るが、リヒテンシュタイン国内の駅は全て通過する。 空港は存在しない。もっとも近い主要国際空港はスイスのチューリッヒ空港である。 住民はドイツ系が大半で、ゲルマン系のドイツ・アレマン人が86%、その他イタリア人、トルコ人などが14%である。 公用語は標準ドイツ語だが、現地住民は上部ドイツ語に属するアレマン語系最高地アレマン語(ドイツ語版)の一方言を使用し、その他にトリーゼンベルクではヴァリス語が使用される)。 宗教はローマ・カトリックが79.9%、プロテスタント(ルター派、カルヴァン派)が8.5%、その他にイスラムなどが5.4%存在する(2010年時点)。 チェコの作家カレル・チャペックの『山椒魚戦争』ではサンショウウオによる世界水没に対処するため、ファドゥーツで各国による国際会議が開かれた。 他の欧州諸国同様UEFAに加盟しているが、加盟する55の国と地域の中で唯一国内プロサッカーリーグを有しておらず、国内のサッカークラブはスイスのサッカーリーグに参加している。このため、UEFAチャンピオンズリーグの予選及び本大会に国内リーグの結果によって出場可能なチームが存在しない。カップ戦は開催されているためUEFAヨーロッパリーグには予選1回戦から出場可能であり、またスーパーリーグで優勝すればスイスの出場枠でのチャンピオンズリーグ出場は可能である。 リヒテンシュタインでは冬場でも水風呂に入る習慣がある。 欧州小国競技大会を開催、参加している。 ファドゥーツ城 ヨーゼフ・ラインベルガー - 作曲家・オルガン奏者 オットマール・ハスラー - 政治家、元首相 クラウス・チュッチャー - 政治家、前首相 ヴィリー・フロンメルト - アルペンスキー選手 パウル・フロンメルト - アルペンスキー選手 ハンニ・ウェンツェル - アルペンスキー選手 アンドレアス・ウェンツェル - アルペンスキー選手 マルコ・ビュッヘル - アルペンスキー選手 ウルズラ・コンツェット - アルペンスキー選手 マリオ・フリック - サッカー選手 ペーター・イェール - サッカー選手 エリス - バンド バラック・ライディヒベルク - 画家 ヨアヒム・スタンフォール - 物理学者 ^ ただし、他の地域(フランスやイギリスなど)においてはprinceはdukeよりも上位である。イギリスの侯爵(Marquess)に相当するドイツの爵位は辺境伯(Markgraf)であり、FürstはHerzogの下、Markgrafの上の爵位と解釈するのが正しい。各国によって爵位体系には違いがあるので、単純に日本語訳できないというのが正解である。 ^ 『地球の歩き方 2016〜17 スイス』 ダイヤモンド・ビッグ社、2016年、263頁。ISBN 978-4-478-04886-3。 ^ 2018年1月8日19時30分NHK総合放送「世界プリンス・プリンセス物語」 ^ NHK総合テレビ「世界プリンス・プリンセス物語」2018年1月8日放送 ^ 植田健嗣『ミニ国家「リヒテンシュタイン侯国」』(1999年 郁文堂)P131 ^ “Liechtenstein and the Czech Republic establish diplomatic relations (PDF)” (英語). Stabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit (2009年7月12日). 2011年5月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年10月18日閲覧。 ^ “Liechtenstein and the Slovak Republic establish diplomatic relations (PDF)” (英語). Stabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit (2009年12月9日). 2011年5月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年7月10日閲覧。 ^ 外務省 - OECD有害税制プロジェクト(非協力的タックス・ヘイブン・リストの公表) - 3. 上記2. の国・地域のうち、2005年末までの透明性の確保及び実効的税務情報交換の実施を約束せず、2002年4月18日に発表された「非協力的タックス・ヘイブン・リスト」には掲載された国である[1]。 ^ In May 2009, the Committee on Fiscal Affairs decided to remove all three remaining jurisdictions (Andorra, the Principality of Liechtenstein and the Principality of Monaco) from the list of uncooperative tax havens in the light of their commitments to implement the OECD standards of transparency and effective exchange of information and the timetable they set for the implementation. As a result, no jurisdiction is currently listed as an unco-operative tax haven by the Committee on Fiscal Affairs. [2] ^ 植田健嗣『ミニ国家「リヒテンシュタイン侯国」』(1999年 郁文堂)P171 リヒテンシュタイン家 LGTリヒテンシュタイン銀行 欧州自由貿易連合 ドイツ人 若きライン川上流に - リヒテンシュタインの国歌(作成者:ヤーコプ・ヤウホ) 軍隊を保有していない国家の一覧 二重内陸国 シェンゲン圏、シェンゲン協定 ファドゥーツ城 政府 リヒテンシュタイン公国政府(ドイツ語)(英語) 日本政府 日本外務省 - リヒテンシュタイン公国 在スイス日本国大使館 - 在リヒテンシュタイン大使館を兼轄する 観光 リヒテンシュタイン政府観光局(ドイツ語)(英語) - 日本語のページも少々ある", "スロベニア共和国 (スロヴェニア共和国) Republika Slovenija 国の標語:なし 国歌:祝杯 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ 2006年までの通貨はトラール(SIT)。 ^ スロベニアのユーロ硬貨も参照とのこと。 スロベニア共和国(スロベニアきょうわこく、スロベニア語: Slovenija:  [sloˈveːnija])、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国で、主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。 スロベニアは西はイタリア、北はオーストリア、南や南東はクロアチア、北東でハンガリーとそれぞれ国境を接している。国土面積は20,273km2 (7,827 sq mi)で、人口は205万人を擁する。議会制共和国(英語版)で、欧州連合や北大西洋条約機構の加盟国である。スロベニアではアルプス山脈とディナル・アルプス山脈、地中海のアドリア海に沿った少ない海岸部分のヨーロッパの4つの大きな地理的な部分が接している。 スロベニアの国土はモザイク状の構造で多様性に富んだ景観や、生物多様性があり、この多様性は自然の特質と長期の人間の存在による。主に丘陵地の気候であるが、スロベニアの国土は大陸性気候の影響を受け、プリモルスカ地方は亜地中海性気候に恵まれており、スロベニア北西部では高山気候が見られる。 スロベニアはヨーロッパの国の中でも水が豊かな国の一つで、密度が高い河川や豊かな帯水層、かなりのカルスト地形(クラス地方はカルストの語源)の地下水流がある。スロベニアの国土の半分以上は森林に覆われている。スロベニアの集落は分散しており、一様ではない。 スラヴ語派やゲルマン語派、ロマンス諸語、フィン・ウゴル語派などの言語や文化のグループはスロベニアで接し領域は均質でないが 、人口数ではスロベニア人が優勢である。スロベニア語はスロベニアの唯一の公用語であるが、イタリア語やハンガリー語などは地域の少数言語となっている。スロベニアの大部分は宗教と分離しているが、文化やアイデンティティの面ではカトリック教会やルーテル教会の大きな影響を受けている。スロベニアの経済(英語版)は小規模で、輸出志向型工業化の経済 でありその後の国際的な経済情勢に大きく影響を受けている。スロベニアの経済は2000年代後半に始まった欧州経済危機により厳しい痛手を負っている。 経済の主要な分野は第三次産業で、工業や建設がそれに続く。 多くのスロベニア人がスポーツ界で成功しており、特にウィンタースポーツ、ウォータースポーツ、登山、耐久性が要求されるエンデュランススポーツで顕著である。 歴史的に現在のスロベニアの領域は多くの異なった国により支配されており、その中にはローマ帝国や神聖ローマ帝国、それに続くオーストリア=ハンガリー帝国が含まれる。1918年、スロベニアは国際的には認められていないものの自己決定を行使し他民族と共同でスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を樹立し、後に1つとなりユーゴスラビアとなった。第二次世界大戦中、スロベニアはナチス・ドイツやイタリア王国、クロアチア独立国、ハンガリー王国に占領や併合されていた。戦後は新たに樹立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国の共和国の一つとなった。1991年6月に複数政党制の間接民主制を導入し、スロベニアはユーゴスラビアから独立した国となった。2004年にはNATOとEUに加盟し、2007年には元共産主義国としては最初にユーロ圏に加わり、2010年にはOECDに加盟している。 正式な国号はスロベニア語で Republika Slovenija (レプブリカ・スロヴェニヤ)。通称は Slovenija 。公式の英語表記は Republic of Slovenia 。通称 Slovenia 。スロベニア共和国政府による日本語の公式表記は「スロヴェニア共和国」。ただし日本の外務省による日本語の公式表記は、「スロベニア共和国」。通称「スロベニア」。 語源については諸説ある。一つに、「スラブ」(Slav)と同源であるとする説がある。「スラブ」は古スラブ語で「栄光」や「名声」を意味する sláva に由来している。一方、「言葉」や「会話」を意味する slovo に由来するとの説もある。9世紀頃のスラブ民族は、自らを「スロヴェーネ」(slověne:同じ言葉を話す=意思疎通が出来る人々)と呼んでいたとされる。現代英語でスロベニア人に対する総称(デモニム)は Slovenian と Slovene であるが、後者は上述の slověne に由来する。 6世紀ごろに南スラヴ人が定着する。7世紀には初の南スラヴ系のカランタン人による国家であるカランタニア公国が成立する。カランタニアはその後、バイエルン人、ついでフランク王国の支配下にはいる。 この地域はその後もフランクの遺領として扱われ、14世紀以降、東フランク王国、すなわち後の神聖ローマ帝国に編入された。そのために、同様に神聖ローマ帝国領となった現在のチェコともども西方文化とカトリック教会の影響を強く受け、他の南スラブ人地域と異なった歴史的性格をスロヴェニアにもたらすことになる。 15世紀にはハプスブルク家(オーストリア公国)の所領となり、以降オーストリア大公国、オーストリア帝国そして1867年にオーストリア=ハンガリー帝国領となった。 19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトのフランス帝国による支配を受ける。リュブリャナはフランス第一帝政イリュリア州の首都だった。フランス統治下ではイリュリア州が設置され、スロベニア語が州の公用語のひとつとなった。1809年から1813年の間、リュブリャナはフランス第一帝政イリュリア州の首都だった。これは、スロベニア語が公的地位を得た初めてのことであり、文語としてのスロベニア語の発展は勢いづいた。ナポレオンが去ると、ウィーン会議で締結された議定書によって再びオーストリア領となった。 その後1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、セルビア王国の主張する「南スラヴ人連合王国構想」に参加。セルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立に加わった。この際スロベニアの一部地域ではオーストリアとの経済的・文化的な結びつきが強かったため、住民投票が行われ、オーストリアに帰属するか、スロベニア(セルビア・クロアチア・スロベニア王国)に帰属するかを住民投票で決めた地域が存在する。この王国は、1929年にユーゴスラビア王国に改称した。 1941年にユーゴスラビアに枢軸国が侵入すると、スロベニアはナチス・ドイツの占領下に置かれた。西に接するイタリア王国はスロベニア沿岸地方を自国の領土と考えていたため、ベニート・ムッソリーニ指揮下のイタリア軍によって首都リュブリャナを占領され、北東の一部の地域はハンガリーが占領、さらにクロアチア独立国が成立するとイタリア占領地域のうち南東部がクロアチア統治下となり、スロベニア人の住む地域は都合4つの勢力(実質的には3勢力)によって分断された。占領に反対した右派ナショナリストたちはロンドンに逃れたユーゴスラビア王国亡命政府を支持したが、後に枢軸陣営に加わった。他方、共産主義者たちはヨシップ・ブロズ・チトーのパルチザンに加わり、ドイツ軍などと戦った。 パルチザンはスロベニアを含むユーゴスラビア全土を武力でドイツ軍から解放した。大戦前はイタリア領とされていたイストリア半島(イストラ半島)はユーゴスラビア領となり、スロベニアはコペル周辺で海岸線を手に入れることとなった。また、スロベニア人が多く住むオーストリアのケルンテン州の一部も求めたが、この要求は認められなかった。 1945年、社会主義体制となったユーゴスラビアに復帰し、ユーゴスラビアの構成国スロベニア人民共和国となる。ユーゴスラビアでは戦後一貫して政治・経済の分権化が進められていた。社会主義のユーゴスラビアは、ソビエト連邦の影響下に置かれた東側諸国とは異なる独自の路線をとっていた。政治の分権化と自主管理社会主義はその典型例であり、政治においては連邦から共和国、そして自治体へと権限が移管され、経済でも末端の職場に大きな権限が与えられていた。そのためそれぞれの地域では、その地域性を生かした独自の経済政策を採ることが可能であった。また、ユーゴスラビアがソビエト連邦と距離をおき、西側諸国との友好関係を維持していたこともスロベニアには有利に働いた。中央の意向に縛られることなく、西側諸国に隣接する先進的工業地帯というスロベニアの利点を最大限に発揮できたため、スロベニア経済は大きく発展し、1980年代になると他のユーゴスラビア内の諸地域に大きく差をつけるようになっていた。 政治に関しては、ユーゴスラビアでは比較的言論の自由が認められており、またその地方分権政策によってスロベニアをはじめ各共和国は大きな裁量を手にしていた。スロベニアでは、更なる独自の権限を求める声、連邦からの独立を求める声は次第に高まっていった。1980年代にユーゴスラビアが経済苦境に陥ると、スロベニアではその原因が連邦にあると考えた。連邦は通貨発行など一部の経済政策のみを握っていたが、経済改革を進めるために過度に分権化した経済政策の集権化を求めていた。また経済先進地域であるスロベニアが連邦に支払う負担金が、コソボやマケドニアなどの貧しい地域のために使われているという不満から、スロベニア共和国は連邦政府の経済改革を妨害し、連邦に対して支払う負担金を一方的に削減し、連邦に対する反発をあらわにしていった。 さらに、セルビアではユーゴスラビア連邦におけるセルビア人の支配力拡大を狙うセルビア民族主義者のスロボダン・ミロシェヴィッチが台頭し、ミロシェヴィッチはモンテネグロ、ヴォイヴォディナ、コソボの政府を乗っ取って支配力を強め、スロベニアに対しても圧力を強めていた。 こうしたことによって、スロベニアは連邦からの離脱を決意した。連邦からの離脱権を明記した新しい共和国憲法を制定すると、議会での決定と住民投票を経て、1991年6月にユーゴスラビアとの連邦解消とスロベニアの独立を宣言した。 短期的、小規模な十日間戦争を経てスロベニアは完全独立を果たした。1992年5月、連邦構成国だった隣国クロアチア、同じく連邦内にあったボスニア・ヘルツェゴビナと同時に国際連合に加盟した。同時期に連邦を離脱したクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が続いた中、スロベニアではユーゴスラビアという市場を失ったこともあり、1991年から1992年にかけて経済不振が続いたものの、その後はヨーロッパ志向を強め、経済は回復に向かった。政治面においては、ユーゴスラビア離脱前から民主的な制度の整備が強力に進められてきたこともあり、他のどの旧ユーゴスラビア諸国よりも早く、民主的体制が整えられていった。2004年3月にはNATOに、同年5月1日に欧州連合(EU)に加盟した。2008年には、2004年に新規加盟した国々の中で初めて欧州連合の議長国を務め、同年2月にコソボが独立を宣言したことによる一連の危機の対応にあたるなど、議長国として欧州連合の中で指導力を発揮した。 ユーゴスラビア末期の壊滅的な経済苦境、そして台頭するセルビア民族主義への反発から、スロベニアはユーゴスラビアからの独立を志向するようになった。1989年9月にはユーゴスラビア連邦から合法的に離脱する権利を記したスロベニア共和国憲法の改正案が共和国議会を通過する。1990年4月、第二次世界大戦後初の自由選挙を実施。共産党政権は過半数の票を集めることができず、野党連合のデモスが勝利した。首相には第三党のスロベニアキリスト教民主党のロイゼ・ペテルレ党首が選ばれている。同時に、共産党の改革派だったミラン・クーチャンが大統領となった。 1991年6月に独立を発表すると、スロベニア国内に基地を置いていたユーゴスラビア連邦軍と戦闘状態に入るが、7月には停戦に成功、同年10月には連邦側が独立を認めた。12月23日には現在の憲法が有効となり、複数政党制と大統領制が確立する。 1992年12月には独立後、第1回となる大統領選挙を実施、ミラン・クーチャンが選ばれた。同氏は1997年11月にも再選されている。2000年10月の総選挙では自由民主主義党が第1党となったため、連立政権が発足した。2002年12月の大統領選挙ではヤネス・ドルノウシェク首相が当選した。2007年12月、リュブリャナ大学法学部副学部長のダニロ・テュルクが大統領に就任した。 国家元首の大統領は任期5年で、国民の直接選挙によって選出される。行政府の長である首相は議会の下院が総選挙後に選出し、大統領によって任命される。 立法府は両院制をとっている。下院(国民議会)は定数90で、うち40議席を小選挙区で、残る50議席を比例代表で選出する(小選挙区比例代表併用制)。任期は4年。上院(国民評議会)は定数40で、各種団体による間接選挙で選出される。任期は5年。上院の立法権限は下院よりも弱く、諮問機関としての性格が強いが、国民投票を行うか否かの決断を下す権限を有する。 主要政党は中道左派の現代中央党(2015年3月7日にミロ・ツェラル党から改称)と中道右派のスロベニア民主党である。 2014年7月に行われた国民議会議員選挙では、新党「ミロ・ツェラル党」が第一党、スロベニア民主党が第二党となった。これをうけて翌月、国民議会はミロ・ツェラル党の党首で法律家のミロ・ツェラルを首相として承認した。 スロベニアはユーゴスラビア時代から経済的な先進地域であり、ユーゴスラビア紛争が収束する中でセルビア人、クロアチア人労働者を受け入れてきた。しかし、EUではEU内の労働者の移動、就労は自由化されるが、一方でEU外の労働者の受け入れは厳しく制限される。そのため、2004年のEU加盟に前後してセルビア人労働者を制限する方向に転換しており大きな政治焦点になっている。 スロベニアが独立した一年後の1992年に、日本・スロベニア両国が国交を結んだ。翌1993年、東京に在日スロベニア大使館が設置された。2006年には、スロベニアで日本の在スロベニア大使館が開かれた。2013年には、ボルト・パホル大統領が訪日し、続いて日本の文仁親王・同妃両殿下がスロベニアを訪れた。さらに、2015年には武藤容治外務副大臣らがスロベニアを訪れた。また、2016年9月30日に、岸信夫外務副大臣とシモナ・レスコヴァル駐日スロベニア大使との間で、租税条約の署名が行われた。続く2016年10月にはミロ・ツェラル首相が日本を訪問し、安倍首相と共に二国間関係を確認した。 スロベニアは、193の市(自治体)に分かれる。そのうち、特に人口の多い11の市は、特別の地位にある(日本の政令指定都市に相当)。以下にあげるのは、その11の市で、カッコ内はドイツ語・イタリア語名。 ヴェレニェ(ヴェラン) - 旧ユーゴスラビア時代にチトヴォ・ヴェレニエと改称していたことがある。(1981-1991) クラーニ(クラインブルク) - かつて地方政権の首都だった古都。 コペル(カポディストリア) - 海に面する国土が少ないスロベニアの唯一の商業港。 スロヴェン・グラデツ(ヴィンディッシュグラーツ) ツェリェ(ツィリ) - スロヴェニア第三の都市。ハルシュタット文明時代から ノヴァ・ゴリツァ(ノイゲルツ) → 参照:イタリア領ゴリツィアと双子都市。 ノヴォ・メスト(ルドルフスヴェルト) - 先史時代より居住の歴史がある。 プトゥイ(ペッタウ) - スロベニア最古の都市の一つであり、石器時代から人の定着が見られる。 マリボル(マールブルク・アン・デア・ドラウ)- スロベニアの第二の都市であり東部の中心都市でもある。人口は11万人(2002年) ムルスカ・ソボタ(オルスニッツ) リュブリャナ(ライバッハ)- 首都、人口26万人(2002年)はスロベニアの最大の都市。 その他の都市: リピツァ:馬の品種「リピッツァナー」の名称由来 で知られる コチェーヴィエ(ゴットシェー) スロベニアは、アルプス山脈の南端、スロベニア・アルプスの山々の麓に位置する山岳国である。登山や山岳スキーに世界中から観光客がやってくるスロベニア・アルプスはオーストリアとの国境ともなっている。 また、イタリアのトリエステとクロアチアの世界遺産プーラに挟まれたアドリア海の最奥の海岸線の一部も国土であり、ヴァカンス向きのリゾート地となっている。アルプスとアドリア海の両方を持つ風光明媚な国である。 これに対し、クロアチアへと続くスロベニアの内陸部は石灰岩からなるカルスト地形で荒涼とした風景が広がる不毛の土地である。もともと地理用語の「カルスト地形」はスロベニアの地名に由来しており、クロアチア国境に近いクラス地方(Kras、ドイツ語名:カルスト)が「カルスト」の語源である。カルスト地形の窪地・穴を表すドリーネも、スロベニア語の谷に由来する。スロベニアは鍾乳洞の宝庫で、リュブリャナの西には巨大なポストイナ鍾乳洞がある。延長24kmに及ぶ。 首都リュブリャナからハンガリーにかけてはハンガリー大平原の西の端、穀倉地帯である。そして、スロベニアはハンガリーとともに隠れた温泉国でもある。 1991年10月のユーゴスラビア連邦からの離脱により、既存の連邦市場から切り離されたこと、連邦内の分業体制から外れたことにより、一時的に経済が不安定化した。独立時に導入した新通貨トラールの信用も高くはなかった。しかし連邦内の内戦からは距離を置くことができたため、交通輸送、エネルギーなどの社会的インフラを無傷で保持できた。このため、経済成長にもかげりが見えない。例えば、2000年のGDPは前年比4.6%成長しており、その後も3%、2.9%と順調に推移している。旧共産圏随一の生活水準を誇り、国民1人当たりのGDPはポルトガルを上回る。失業率は2000年時点で11.9%と、イタリアを含む周辺諸国と同水準である。近年は消費者物価の上昇に悩まされており、2000年以降、消費者物価の上昇率は8-9%と高い。リーマンショック後はスロベニア「史上最悪」の経済危機にあり、近いうちに国際的な救済措置を受ける事態に陥るのではないかという報道が出ていた。 ユーゴスラビア連邦内では工業を担っていた。繊維産業を筆頭に、組み立てを含む電気機器製造、金属加工業が充実している。農業国でもある。主食となる穀物栽培と商品作物の生産にバランスが取れていることが特徴。貿易では機械の加工貿易の比重が極めて高い。 通貨については、インフレ率の低下などに伴い基準を満たしたため、EUの新規加盟国の先頭として2007年1月1日にユーロへ移行している。2010年には、 エストニア、イスラエルとともにOECDに加盟している。 なお、以下の統計資料はFAOのFAO Production Yearbook 2002などを用いた。 地下資源には恵まれておらず、石灰岩以外には天然ガスと品質の低い石炭を産出するのみである。しかしながら、自国の石炭と豊富な水力をエネルギー源として利用できるため、貿易に占める化石燃料の比率は12%と高くない。主な産出地を挙げると、原油や天然ガスはプレクムリェ地方、水銀鉱山はイドリヤ(ただし1977年に廃止された)、石炭はトルボヴリェ、ザゴリェ・オプ・サヴィ、フラストニク、亜炭鉱山はノヴォ・メストである。 電力生産は116億8200万キロワット時で、内訳は火力が40%、水力が25%、原子力が35%である(1993年)。 工業では、絹織物の生産が際立つ。生産量1036万平方メートル(1995年)は世界第10位である。 麻薬精製の原料である無水酢酸の押収量が世界で最も多い。 全土がケッペンの気候区分でいう温暖湿潤気候と西岸海洋性気候に覆われているため、気候は農業に向いている。しかしながら起伏に富んだ地形が広がるため、耕地面積は全土の14.1%と少ない。 ビールの原料となるホップ生産は2002年時点で世界第8位(シェア2.0%)を占める2000トン(ジャレツでの栽培が盛ん)。主食となる穀物では約2/3がトウモロコシ、残りが小麦。漁業は未発達であり、年間漁獲高は2000トンに達しない。穀倉地帯は平坦な土地が広がるリュブリャナ周辺やプレクムリェ地方である。またブドウの栽培とワインの醸造は古い歴史を持ち、ポドラヴェやポサヴェ、プリモルスカなどで年間8000万から9000万リットルのワインが製造されている。 牛や豚、羊などの家畜も飼育されており、そしてカルスト地方のリブニツァという村では昔からウィーンの宮廷でパレードなどに使われる儀典用馬の飼育がなされている。 2002年時点では、輸入額109億ドルに対し、輸出額が95億ドルであるため、貿易赤字の状態である。これを11億ドルの観光収入などで埋め合わせているため、貿易外収支を含めると、バランスの取れた状態であると言える。貿易依存度は輸出43.1%、輸入49.8%と非常に高い(例えば隣国イタリアはいずれも20%程度)。国際貿易港はコペルである。他にもピランとイゾラに小さな港がある。 2002年時点では、主な輸入品目は工業製品であり、金額にして80%を超える。次いで、原料・燃料、食料品である。細目では、一般機械、自動車、電気機械の順。輸入相手国はドイツ (19.1%)、イタリア、フランスの順であり、対EUが60%を超える。旧ユーゴスラビア諸国に対しては、クロアチアが3.6%と最も高いが、輸入相手国としては重要ではない。 主な輸出品目は工業製品であり、金額ベースで90%を超える。輸入品目と合わせると、スロベニアが加工貿易に強いことが理解できる。細目では、電気機械、自動車、一般機械の順である。輸出相手国はドイツ (24.7%)、イタリア、クロアチアの順である。 2003年時点で、輸入9665万ドルに対し、輸出3172万ドルと、貿易赤字である。主な輸入品目は自動車 (58.0%)、オートバイ、医薬品、輸出品目は、衣類、家具、スキー用品となっている。リュブリャナ大学とマリボル大学その他の一般講座で日本語教育が実施されている。2010年からスロベニアの経済に投資している。日本では1998年にはトヨタ自動車株式会社の海外支部である、トヨタ・アドリアが成立し、輸出入輸出入に関する事業を行なっている。また、安川電機は2018年までにリブニツァに新たな工場を建設する予定である。現場では、170人の仕事場を作る予定であり、全投資予算数は2100万ユーロとされている。2016年には関西ペイント株式会社がヘリオスを買収し、新製品の開発を行う見通しがある。その他にも、パナソニック株式会社はゴレニェ(Gorenje)に投資しており、株式会社ダイヘンはポムリエ地方(プレクムリェ地方)でダイヘンヴァルストローイを建設した。未だスロベニアから日本経済への投資は著しくないが、2017年2月にはスラットナー・アジア社が日本に創設され、同社はスキー用品の販売を開始すると共に、日本を含むアジア各国のスキー場施設の幅広いビジネスを展開する予定である。 代表的な観光資源は首都リュブリャナ、アルプス山脈(トリグラウ山(2864m)、ブレッド、ボーヒニなど)、アドリア海(コペル、ピラン)、カルスト地方の洞窟(シュコツィアン洞窟群、ポストイナ)、温泉である。 住民は、スロベニア人が89%、旧ユーゴスラビア系の住民(クロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人など)が10%、マジャル人(ハンガリー人)やイタリア人が0.5%である。マジャル人とイタリア人は議会内に1議席ずつ代表を持つ。ドイツ系住民は、他の国と比較すると多くない。 言語は、スロベニア語が公用語になっている。ユーゴスラビア時代、多くの国民は教育によってセルビア・クロアチア語を習得しており、一定以上の世代ではセルビア・クロアチア語の通用度が高い。独立後の教育では、第二言語としては、英語が最もよく教えられているが、ドイツ語も広く通用する。 宗教は、ローマ・カトリックが2/3以上、その他は無神論者、東方正教(主にセルビア正教、マケドニア正教)、イスラム教などである。 スロベニア出身の特に著名な哲学者として、ラカン派精神分析とカントなどのドイツ観念論、ヘーゲル、映画を組み合わせてグローバル資本主義を分析するマルクス主義者スラヴォイ・ジジェクの名が挙げられる。ジジェクの他にラカンに影響を受けた哲学者としてはアレンカ・ジュパンチッチなどが存在する。 アトミック・ハルモニク アンサンベル・ロカ・ジュリンドレ カラマリ (バンド) カルティッシモ ライバッハ (バンド) Devil Doll (Slovenian band) Perpetuum Jazzile Slavko Avsenik ドレンスカ地方のコステル地区には、チュースパイスという、シチューのような伝統料理がある。 スロベニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が1件存在する。 シュコツィアン洞窟群 (1986年登録) - 「地理」の章も参照せよ。 スロベニアは、国内に数多くのスキーリゾートを抱えていることからスノースポーツが盛んである。中でもクランスカ・ゴーラにおけるアルペンスキーや、世界最大のジャンプ台を擁するプラニツァにおけるスキージャンプは世界的にも有名である。一方、ヨーロッパの国の中ではサッカーは人気があるスポーツではなかったが、その中で2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002年のFIFAワールドカップ本大会に出場したことは国内外で大きな驚きと共に捉えられ、新興国スロベニアの知名度を高めることになった。なお、2010年のFIFAワールドカップ本大会に2大会ぶりに出場した。なお日本のJリーグにおけるスロベニア国籍選手は2016年現在5人おり、これはブラジル、韓国に次いで第3位の数字である。 人口わずか200万足らずにも関わらず多数のNBA選手や、ヨーロッパを代表する選手を輩出している欧州でも有数の強豪国。国内には数多くのNBA選手や有名選手を輩出してきた、プレミアリーグ(通称1. A SKL)と呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。代表チームの課題は、有力な選手の多くがNBAに行っている為、オフシーズンの代表招集で常にベストメンバーが揃わない事がある。そんな中でも、バスケットボール欧州選手権(通称『ユーロバスケット』)では、2005年には6位に入賞し、独立後初の世界選手権出場を掴んだ。翌年日本で開催された世界選手権では予選リーグを突破し決勝トーナメントに駒を進め、ベスト16入り。最終順位12位を獲得した。2007年には北京オリンピックの欧州予選を兼ねた2007年ユーロバスケットにおいて、7位決定戦でトニー・パーカー率いるフランスを破り、最後の最後で何とか世界最終予選の切符を獲得したが、この世界最終予選の決勝トーナメントでプエルトリコに破れ、独立後初のオリンピック出場の夢は叶わなかった。 スロベニアの交通 スロベニア軍 スロベニア製のコンピュータ スロベニア (小惑星) シェンゲン圏 近藤常子(en:Tsuneko Kondo-Kavese)-日本文化を伝えた。 ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール、訳:千田善 (1999年8月20日). スロヴェニア. 日本: 白水社. ISBN 978-4-560-05827-5.  ^ Armstrong, Werwick. Anderson, James (2007). “Borders in Central Europe: From Conflict to Cooperation”. Geopolitics of European Union Enlargement: The Fortress Empire. Routledge. p. 165. ISBN 978-1-134-30132-4. http://books.google.si/books?id=FWA3ppuOgK4C&pg=PA165.  ^ Černe, Andrej (2004年). Orožen Adamič, Milan. ed. Gateway to Western, Central, and Southeastern Europe. Slovenia: A Geographical Overview. 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1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離し成立した。NATO、EU、OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。 正式名称(チェコ語)は Česká republika [ˈtʃɛskaː ˈrɛpuˌblɪka] ( 音声ファイル)(チェスカー・レプブリカ:チェコ共和国)。通称は Česko [ˈt͡ʃɛsko](チェスコ)。 英語での公式名称は Czech Republic [ˈtʃɛk ɹɨˈpʌblɪk] ( 音声ファイル)(チェク・リパブリック)だった。チェコ外務省が1993年に提唱した通称に、ラテン語風の Czechia があり、チェコ政府は2016年4月14日に公式にこの略称を英語圏および国連に向けて使用することを発表したが、現在一般的に使われているとは言い難く、“Czech Republic” をそのまま用いることが多い。 日本語ではチェコ共和国(外務省統一表記)。通称チェコ。かつての外務省書類等ではチェッコという表記が使用された。なお、「チェッコ」という場合は、日中戦争期のチェコスロバキア製軽機関銃を指すこともある(→ZB26軽機関銃)。 かつて一つの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族による一つの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。 チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。 プラハを中心とした “Čechy” [ˈt͡ʃɛxɪ](チェヒ、ラテン名「ボヘミア」)、ブルノを中心とした “Morava” [mɔˈrava](モラーヴァ、ラテン名「モラヴィア」)、さらにポーランド国境近くの “Slezsko” [ˈslɛsskɔ, ˈslɛskɔ](スレスコ、ラテン名「シレジア」)の3つの地方がチェコ共和国を形成している。 ボヘミア地方を示す “Čechy”(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。そのため、チェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、“Česká republika”、“Czech republic” を用いるのが正確であり、世界的には一般的な考え方である。 現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける “Česko” は、チェコスロバキア時代の通称 “Československo” から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。だが、新しい呼称のため、定着したといえるのは最近であり、公の場や正式な文章では用いられない。 古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後ゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。つづいてアバール人が支配者となった。9世紀前半にようやく、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。 西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時にボヘミア王の称号(DuchyからKingdomに昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。 13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。 15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱がおきた(フス戦争)。 その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国・続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。 18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年にヨーロッパに広がった1848年革命がチェコ革命を誘発し、パラツキーがプラハでスラヴ人会議(英語版)を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。 第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年に民族自決の理念のもとチェコスロバキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼ全てを支配し、スロバキア人と対立した。そのためスロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となって、チェコスロバキアは地図から姿を消した。 第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんど全てが財産を奪われた上チェコスロバキアから追放された(この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。1946年までチェコに領地を持っていたリヒテンシュタイン公国はこれを法律による重大な人権侵害だとして、2009年までチェコ・スロバキア両国を国家として承認するのを拒否してきた)。 1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民民主主義」を宣言した(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン的抑圧に対する不満が爆発し、ノヴォトニー政権に代わりスロバキア人のドゥプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含むワルシャワ条約機構5カ国の軍が介入(チェコスロヴァキア侵攻(英語版))、スロバキア人のフサーク政権が樹立され、「正常化体制(英語版)」路線を推し進めた。国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自ら消滅していき、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。 1989年からの「ビロード革命」によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。 2002年8月、記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し(欧州洪水(英語版))、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。 2004年5月1日にチェコは欧州連合に加盟した。 国家元首は議会によって選出される大統領である。任期は5年で3選は禁止され、2013年以降はミロシュ・ゼマンが務める。大統領は首相を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2010年5月28 - 29日に実施された総選挙の結果、中道左派のチェコ社会民主党が第1党となったものの議席の過半数には程遠く、また連立政権の樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の市民民主党と新党のTOP 09、公共の物との間で中道右派の連立政権を発足させることで合意し、その首班には市民民主党党首のペトル・ネチャスが任命された。しかし、ネチャスは2013年、自身の首席補佐官で愛人と噂されていたヤナ・ナジョヴァーが逮捕されるというスキャンダルで引責辞任し、後任に同党のイジー・ルスノクが就いた。 議会は元老院と代議院によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、比例代表制による直接選挙で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の小選挙区制による元老院選挙が行われて両院制が整った。 チェコの地方行政区画は2000年に再編され、プラハ首都特別区および13のクライと呼ばれる行政区に区分されている。 チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェジカ山である。 国際通貨基金(IMF)による統計ではチェコのGDPは1,985億ドル、一人あたりのGDP(為替レート)は18,857ドルでありEU平均の半分、世界水準の1.8倍である[いつ?]。 オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから産業革命が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての共産党政権下での中央集権的な計画経済から、市場経済への移行を遂げている。もともとチェコスロバキアは旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命等の混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアやハンガリー等と並んで高い水準を維持している。1995年にOECD、2004年にはEU加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化している。 2004年にチェコがEUに加盟してから2007年末までの経済成長により、チェコの平均給与は40%以上も上昇した。このような状況で、チェコの労働者は高い給料を求めて次々と転職を繰り返し、一つの企業で長く働くことはなくなり、企業の教育もおぼつかない状態になった。「安くて良質な労働力」を期待してチェコに殺到した外資系メーカーは深刻な人手不足と納期不達に悩み、急上昇する人件費は企業の利益を急激に圧迫する要因となっている。 打開策として、国内のメーカーは製造ラインのロボット化を進める一方、ベトナムやモンゴルから安くて優秀な労働者を大量に雇いチェコへ労働移民として送り込む方向 [2]。チェコの工場を閉鎖して別の国に工場を新設することを検討している企業も多い。 主要輸出品目は機械、輸送機器、化学製品、金属などで、主要輸出相手国はドイツ、スロバキア、ポーランド、オーストリア、フランス、イギリス、イタリアである。一方、主要輸入品目は機械、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物で、主要輸入相手国はドイツ、ロシア、中国、イタリア、フランス、オーストリア、オランダ、スロバキア、ポーランドである。 チェコ人が90.4%である。さらに、モラヴィア人が3.7%である。少数民族としては、スロバキア人が1.9%、ポーランド人が0.5%、ドイツ人が0.4%、シレジア人が0.1%、マジャル人が0.1%、ロマが0.1%である。 かつてズデーテン地方で多数派であったドイツ人は、第二次世界大戦後のドイツ人追放によりそのほとんどがドイツに追放された。又戦前に多かったユダヤ人のコミュニティも消滅している(詳細はチェコのユダヤ人(チェコ語版)を参照)。 言語はチェコ語が公用語である。 前近代よりフス戦争などの熾烈な宗教戦争が戦われてきたチェコでは、その複雑な歴史的経緯から無宗教者が多く、60%がこのグループに属する。その他、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である。かわりに自民族至上主義を掲げる排他的な民族主義が非常に強いという特徴がある。 キリスト教圏ではあるが、1913年以来チェコのカトリック教会は火葬を容認しており、また、上述の通り無宗教者が多いこともあって、ヨーロッパ諸国のなかではイギリスと並んで火葬率が高い。 婚姻時、夫婦同姓、夫婦別姓、結合姓が選択できる。 ビール - チェコはビールの国民一人当たりの年間消費量が世界一である。2005年統計では一人当たり161. 5Lで日本の3.3倍の消費量。ピルゼン地方を発祥の地とするピルスナータイプ(ラガービールの一種)は、チェコをはじめとした欧州諸国のみならず、日本のような非ビール文化圏も含めた世界中に広がりを見せている。 ピルスナー・ウルケル ブドヴァル(ブドヴァイゼル。英語読みはバドワイザー。ただし、バドワイザーは登録商標である) クネドリーキ(クネーデル) グラーシュ ブランボラーク スマジェニー・ジーゼック スマジェニー・スィール スヴィチュコヴァー クグロフ パーレック・フ・ロフリーク -「ロールの中のソーセージ」という意味で、パンロールにマスタード・ソーセージを入れたもの。 トゥルデルニーク - 小麦粉に砂糖を混ぜて練りこみ、シナモンをかけて生地を鉄棒にらせん状に巻きつけて焼いたもの。 フランツ・カフカ アロイス・イラーセク ボジェナ・ニェムツォヴァー オタ・パヴェル カレル・チャペック ヤロスラフ・ハシェク ヤロスラフ・サイフェルト ミラン・クンデラ イヴァン・ヴィスコチル イヴァン・クリーマ ボフミル・フラバル ミハル・アイヴァス アニメーション作家 イジー・トルンカ カレル・ゼマン ヤン・シュヴァンクマイエル ベドルジハ・スメタナ(ベドジフ・スメタナ) アントニン・ドヴォルザーク(アントニーン・ドヴォジャーク) チェコでもっとも人気のあるスポーツはアイスホッケーであり国技ともいわれる。NHLに多数の選手が所属し、国内リーグでも首都プラハに本拠を置く2つのクラブチームは100年の歴史を有する。ナショナルチームは1998年長野オリンピックではドミニク・ハシェックなどの活躍で同国冬季五輪初の金メダルを、トリノオリンピックでは銅メダルを獲得した強豪である。2004年にはこの長野五輪の活躍を描いたオペラ「NAGANO」が上演された。また同国出身で、長野五輪の金メダルの立役者でもあるNHLのトップ・プレーヤー、ヤロミール・ヤーガーは移籍を重ねても常に68(「プラハの春」の年)の背番号を付けている。フィギュアスケートでもトマシュ・ベルネルやミハル・ブジェジナなどオリンピック選手を輩出している。 また、他のヨーロッパ諸国同様にサッカーも人気があり、チェコスロバキア時代はワールドカップで2回準優勝(1934、1962年大会)している。チェコ代表はFIFAランキング最高2位まで上がったヨーロッパの強豪として知られ、ヨーロッパ選手権では1996年大会で準優勝するなど実績があるが、選手層が厚くないためかワールドカップではヨーロッパ予選をなかなか突破できず、1993年のスロバキアとの分離後は2006年大会以外出場できておらず、世代交代に失敗した2000年代後半からは低落傾向にある。代表的な選手にパベル・ネドベド(引退)、ヤン・コレル(引退)、トマーシュ・ロシツキー(アーセナル)、ペトル・チェフ(チェルシー)、ミラン・バロシュ(ガラタサライ)、マレク・ヤンクロフスキ(FCバニーク・オストラヴァ)などがいる。 日本では、ヘルシンキオリンピックでの男子マラソンのエミール・ザトペック、1964年東京オリンピックでのヴィェラ・チャースラフスカー(ベラ・チャスラフスカ)の女子体操が古くから広く知られている。 テニスでもマルチナ・ナブラチロワ、ハナ・マンドリコワ、ヤナ・ノボトナ、イワン・レンドル、ペトル・コルダなどの名選手を輩出している。近年では、ラデク・ステパネク、ニコル・バイディソバ、トマーシュ・ベルディハ、ペトラ・クビトバなどの若手の活躍もめざましい。 自転車競技ではロードレースにおいてヤン・スヴォラダがツール・ド・フランスなどの世界的レースで活躍したほか、オンドジェイ・ソセンカは ツール・ド・ポローニュで二度の総合優勝を果し、UCIアワーレコード(一時間でどれだけの距離を走れるかの世界記録)を長らく保持していた。ロマン・クロイツィガーは2008年のツール・ド・スイスに22歳で総合優勝したのち、その後もアムステルゴールドレースで優勝するなど、世界の第一線で活躍している。また、ZVVZチームがジャパンカップに参戦するなどしている。 チェコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件存在する。 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ “チェコ、英語略称を「チェキア」に 国連登録を申請へ”. CNN.co.jp. (2016年4月24日). http://www.cnn.co.jp/fringe/35081696.html 2016年4月27日閲覧。  ^ “チェコの英語の略称は「チェキア」に ロシア南部の「チェチニア」に似ているとの声も”. 産経新聞. (2016年4月16日). http://www.sankei.com/world/news/160416/wor1604160030-n1.html 2016年4月27日閲覧。  ^ “英語の国名は「チェキア」に、チェコ政府が声明”. フランス通信社. (2016年4月15日). http://www.afpbb.com/articles/-/3084108 2016年4月27日閲覧。  ^ タキトゥス『ゲルマーニア』泉井久之助訳、岩波書店〈岩波文庫〉1979年、201- 203頁。 ^ “Liechtenstein and the Czech Republic establish diplomatic relations (PDF)” (英語). tabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit (2009年7月12日). 2011年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月18日閲覧。 ^ What’s In a Name?, Expats, Aug 7, 2013. 増田幸弘 『黒いチェコ』 彩流社、2015年。ISBN 978-4779170409。 チェコ関係記事の一覧 チェコの交通 ピルスナー シュコダ - 自動車会社 タトラ メオプタ - 光学会社 クルテク〜もぐらくんと森の仲間たち〜 ヤン・フス 宗教改革 フス派 フス戦争 モラヴィア兄弟団 フッター派 三十年戦争 ハプスブルク家 ハイフン戦争 政府 チェコ共和国公式サイト (チェコ語)(英語) チェコ共和国政府 (チェコ語)(英語) チェコ大統領府 (チェコ語)(英語) チェコ共和国大使館 (日本語) 日本政府 日本外務省 - チェコ (日本語) 在チェコ共和国日本国大使館 (日本語) 観光 チェコ政府観光局 (日本語) その他 JETRO - チェコ (日本語)" ]
ABC01-02-0253
クツワムシの語源であるクツワは、一般的にどんな動物に噛ませる器具のことでしょう?
ウマ
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[ "ウマ", "クォーターホース", "スタンダードブレッド", "ハクニー", "シャギャ・アラブ" ]
[ "ウマ(馬、学名: Equus ferus caballus)は、ウマ目(奇蹄目)のウマ科のノウマ(英語版)の亜種である。 社会性の強い動物で、野生のものも家畜も群れをなす傾向がある。北アメリカ大陸原産とされるが、北米の野生種は、数千年前に絶滅している。欧州南東部にいたターパンが家畜化したという説もある。 古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われ、主に乗用や運搬、農耕などの使役用に用いられるほか、食用にもされ、日本では馬肉を「桜肉(さくらにく)」と称する。軍用もいる。 速力に優れ、競走用のサラブレッドは最高87km/hを出すことができる。また、競走用クォーターホースは、比較的容易に90km/hを達成する。2005年のアメリカでの調査では、下級戦にもかかわらず302mのレースのラスト101mの平均速度が92.6km/hに達していた。 学名は「Equus caballus(エクゥウス・カバッルス)」。「equus」も「caballus」ともにラテン語で「馬」の意。 体長:2.4m~3m 体重:300kg~800kg 速度:平均60km/h (最高速度:87km/h) 首と頭が長く、長い四肢をもつ。角はない。各脚とも第3指を残し他の指は退化している。よく発達した蹄(ひづめ)をもち、硬い土の上を走ることが出来る。長い尾と、頭から首の上部にかけての鬣(たてがみ)を除くと、全身の毛は短いが、ある程度の寒冷地での生活にも耐えられる。優れた嗅覚をもつが、毒草や血のにおいなどを嗅ぎ分けることは出来ない。顔の両側に目が位置するため視野が広いが、反面、両眼視出来る範囲は狭いため、距離感を掴むことは苦手とする。走るときに背中が彎曲しないため、乗用に用いることが出来る。 一般に、立ったまま寝ることでも知られるが、本当に安全な場所であれば、横になって休むこともある。 草食性であり、よく発達した門歯と臼歯で食べ物を噛み切り、擂り潰す。ウマは後腸発酵動物であり、反芻動物とは異なり胃は一つしかもたない。しかし大腸のうち盲腸がきわめて長く(約1.2m)、結腸も発達している。これらの消化管において、微生物が繊維質を発酵分解する。胆嚢がないことも草食に適している。 なお、日本ではウマはニンジンが好物だとされることが多いが、国によってリンゴや角砂糖(トルコ)など様々に言われており、硬くて甘味の強い食物全般を好むとされている。 寿命は約25年、稀に40年を超えることもある。繁殖可能な年齢は3-15/18歳。繁殖期は春で、妊娠期間は335日。単子であることが多い。 牡(オス)馬は歯をむき出しにして、あたかも笑っているような表情を見せることがある。これを「フレーメン」と呼び、ウマだけでなく様々な哺乳類に見られる。このフレーメンによって鼻腔の内側にあるヤコプソン器官(鋤鼻器)と呼ばれるフェロモンを感じる嗅覚器官を空気にさらすことで、発情した牝(メス)馬のフェロモンをよく嗅ぎ取れるようにしている。発情した牝馬の生殖器の臭いをかがせるとこの現象を容易に起こせるため、ウマのフレーメンに関する歴史的エピソードがいくつかある。また、ウマはレモンなどのきつい匂いをかいだり、初めて嗅いだにおいのときにもフレーメンをし、牝馬もフレーメンをすることがある。[要出典] 速力に優れ、ヒトを乗せてかなり速い速度で走ることができる。実際のレースでの記録としては、クォーターホースの世界レコードで440ヤード(402m)を20.274秒というものがあり、これは時速に換算すると71.4km/hとなる。 もう少し長い距離ではサラブレッドが有利となり、1000mの世界レコードが53.07秒(時速68km)を記録している。3200mでも世界レコードは3分12.5秒(時速60km)となっていて、なお速度を維持している。 馬は加速に時間がかかるため、特に短距離戦ではレース中の大部分を上記の速度よりも遥かに速い速度で走っている。2005年のアメリカでの調査では、330ヤード(302m)のレースのラスト101mの平均速度が92.6km/h、440ヤード(402m)のレースでも、レース中間で時速92.4kmに達していた。402mではサラブレッドもレース終盤で時速83.9kmを記録している。ただし、この2005年の調査は何れも下級戦である。同じ調査で、1006mのレースでのサラブレッドの速度は、レース中盤でも時速59.6kmに過ぎなかった。これは、2002年に日本でほぼ同じ距離(1000m)で記録されたレース中間の200m区間平均時速75.0km(9.6秒)よりかなり遅い。 馬術競技のカテゴリーに入るエンデュランス馬術競技は、ヒトにおけるウルトラマラソンに相当する競技であり、30~50キロメートルごとに馬体検査(心拍数が規定値を超えると失権)と休憩を挟みつつ最大160キロメートルを走破する。走路は整地されているとは限らず、山や川があったりする。平均速度はこの距離でも時速28km近くに達することがある。使用するのは中間種でもサラブレッドでも何でもよいが、アラブ種が良く使われる。 競歩に相当する繋駕速歩競走では、Always B Mikiというスタンダードブレッドが、二輪馬車をけん引して側対歩で1マイル(約1609m)を1分46秒(時速55km)で完歩した。 2018年6月、北海道大学は、馬は人の表情と声を関連付けて感情読み取るという研究成果を発表した。 馬の特徴の中でも、一見して最初に目につくのが毛色である。日本馬事協会は、栗毛、栃栗毛、鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、青毛、芦毛、粕毛、駁毛(ぶちげ)、月毛、河原毛、佐目毛、薄墨毛、白毛の14種を定めている。 家畜馬では、鹿毛、栗毛が特に多い。家畜化以前は薄墨毛が多かったと考えられている。 毛色の他に個体の識別に使われるものとして白斑がある。白斑は主に頭部、脚部などに見られる白い毛のことで、毛色やその他の特徴(旋毛等)と合わせると無数の組み合わせがあり、個体識別に利用することが出来る。そのため血統登録の際記載が義務づけられている。代表的なものに、頭部では星・曲星・流星・環星・乱星・唇白・白面・鼻白・鼻梁白・作、肢部では白・半白・小白・微白・長白・細長白・長半白等がある。なお、白斑に至らない程度のものを刺毛という。 馬のつむじのことを旋毛(せんもう)という。位置に個体差があることから、白斑と同じく個体識別に利用することが出来る。位置によって「珠目」、「華粧」といった名称がある。白斑・旋毛の詳細については馬のマーキング参照のこと。 図に基づき説明する。 図に基づき説明する。 馬歯(ばし)は一生を通じて硬い草を食べ続けるため上下に長い形状をしている。考古学においては馬歯は遺跡においても遺存しやすく、馬歯の摩耗具合から個体の年齢を推定する手法も確立している。また、乗用馬に使用する馬具であるハミは奥歯の第二前臼歯と接し続けるために摩耗する。このため野生馬と家畜馬、もしくは乗用馬と駄馬・農耕馬を区別するための指標としても活用されている。 ウマの前肢の構造を見ると、体の外側にあるのは肘から先の前腕のみで、上腕は体の内側にある(躯幹に密着している)。前腕を構成するのは橈骨と尺骨で、主に橈骨によって形成されている(尺骨の下半分は退化しており、橈骨とくっついている(癒合))。前腕の先には手根関節(前膝)がある。手根関節は7つの手根骨からなる。手根関節の先には中手骨がある。このうち最大のものが第3中手骨で、第2・第4中手骨は小さく退化している。第1・第5中手骨は退化して消滅している。第3中手骨の一部はその先にある繋骨(基節骨、第1指骨)とともに球節と呼ばれる関節を形成する。球節の後ろ側には種子骨がある。球節の先には指骨がある。指骨は繋骨(基節骨、第1指骨)・冠骨(基節骨、第2指骨)・蹄骨(末節骨、第3指骨)の3つの骨からなる。なお、ウマの指は第3指(ヒトの中指に相当)のみ存在する。つまり、人間に当てはめるとウマは手足の中指の指先だけで歩いているということになる。 後ろ脚の構造を見ると、大腿骨があり、その先に膝関節(ヒトの膝に相当)がある。膝関節の中には膝蓋骨がある。その先にあるのが下腿で、脛骨と腓骨からなるが、腓骨は前脚における尺骨と同様下半分は退化して脛骨にくっついている。その先にあるのが飛節と呼ばれる大きく屈曲した関節で、ヒトの足首に相当する。その先は前脚とまったく同様の構造をしており、第3中足骨が大きく発達した中足骨、球節、指骨(趾骨)と続く。 ウマ類は化石資料が豊富であり、進化の過程を鮮明に残している。その理由として環境の順応能力が高かったことや、草原で群体を成していたことが挙げられている。 ウマ類の最古とされる化石は、6,500万年前(始新世)の地層から発見されたヒラコテリウムである。ヒラコテリウムは北アメリカ大陸やヨーロッパの森林に生息し、若芽や草の実など柔らかい植物を摂取していたとされる。ヒラコテリウムはキツネほどの大きさで、前肢は第1指がなく、後肢は第1と第5指が退化している。 その後、始新世のオロヒップス、エピヒップス、漸新世のメソヒップス、ミオヒップス、中新世のパラヒップス、メリキップスという系統進化が明らかになっている。約1,000万年前(中新世前-中期)のメリキップスは、真の草食性を示す高冠歯を獲得したことと、より高速での走行を可能にした下肢骨(尺骨と橈骨、脛骨と腓骨)の癒合の2点で画期的であった。当時は乾燥気候が広がるとともに大草原が拡大しつつあり、メリキップスの出現は、草原への進出の結果だった。 約400万年前(中新世中-後期)のプリオヒップスは、第2・第4指を完全に消失させることで指が1本になり、現在のウマに近い形態をしていた。ウマの仲間は、更新世の氷河期にベーリング海を渡り、ユーラシア大陸やアフリカ大陸に到達し、現在のウマであるエクウス(ウマ属)に分化する。 南北アメリカ大陸に残ったウマ科の動物は、氷河期に絶滅した。ミオヒップスやメリキップスからも多様な種分化が起こり、ウマ類は一時、大きな発展を示したが、系統の大半はすでに絶滅し、現存する子孫が、ウマ、シマウマ、ロバの仲間のみとなっている現状は、反芻類の繁栄と対照的である。 ウマ類は反芻類に比べ、植物を消化してタンパク質に再構成する能力が劣っているため、反芻類に駆逐されたものと考えられているが、ウマは高い運動能力を獲得することで生き残った。野生のウマはほとんど絶滅に近いが、内燃機関が発明されるまでの長い間、人類にとって最も一般的な陸上の移動・運搬手段となることで、家畜動物として繁栄した。 馬は31対の常染色体と、XYの性染色体、計32対64本の染色体を持つ。この他に細胞小器官ミトコンドリアに小さな環状(約1万7千塩基対)のデオキシリボ核酸を持っている。馬ゲノムプロジェクトは、犬や牛など他の主要な家畜に比べれば若干遅れたが、2006年に開始された。このプロジェクトでは、日本の競走馬総合研究所も参加している。 約18億円の巨費を賭けたこのプロジェクトでは、2007年2月にまず雌のサラブレッドについて全塩基配列の解読を完了した。総配列は約27億塩基対、遺伝子の総数は約21000個と考えられている。現在読まれているゲノムは全て雌のものであり、Y染色体の配列は決定されていない。 2009年、同定された遺伝子は2万322個であることが発表され、このうち約4分の3に当たる1万5027個についてヒトの遺伝子と一致することが判明した。 ウマの分類に関してはいくつかの方法があるが、どの分類方法も曖昧さを孕んでいる。動物分類学的にはこれらすべてがウマ(正確にはイエウマ)という単一の種である。現在は主に登録された血統に基づいて分類を行うのが主流である。たとえば、サラブレッドとして然るべき団体から登録を受けたウマがサラブレッドであり、サラブレッドであれば軽種である。仮にこれとまったく同一の遺伝子を備えていたとしても登録がなければサラブレッドとは認められない。 東洋種と西洋種 短頭種と長頭種 乗用馬・輓用馬・駄馬 - ウマの使用目的に沿った分類法。 外観や能力による分類法 - いずれも個々のウマの外観的特徴に基づく分類ではなく、登録されている品種単位での分類である。 常歩馬・速歩馬・駈歩馬 - 馬の歩法に着目した分類法。ドイツのミツテンドルフが考案したものでかつては普及していた。 温血種・冷血種 - ウマの運動性能に基づく分類法であり、大まかな分類として温血種は軽種、冷血種は重種が該当される。なおイギリスでは温血種をサラブレッドとアラブに限定している。 軽種・中間種・重種 - 日本で最も一般的に用いられる分類法で、軽種は、サラブレッドやアラブもしくはアングロアラブに限定して適用される。対して重種は、ペルシュロンやブルトンといった大型の種に適用される。なお中間種は、軽種と重種の交雑された種に適用される。この分類法は1937年に馬政局が発令した「馬の種類呼称」という規則が発端となっている。 正方形馬・長方形馬・高方形馬 - 体高と体長の比率による分類法。ドイツでつくられた考え方。 純血馬・半血馬 - 純血といっても遺伝的・生物学的な根拠に基づくものではなく、公式な血統管理団体による登録による分類法である。 正常馬・ポニー - 1899年にイギリスの王立農業協会で提唱された分類法で、体高が148センチ以下のものを機械的にポニーと称した。なお現代においては目安としての信頼性しか持ち得ない。 現在日本では、ウマを軽種とそれ以外に分類している。このうち軽種については、財団法人日本軽種馬登録協会が登録規定を行っている。軽種以外は社団法人日本馬事協会が登録を行っており、登録規定で乗系、輓系(ばんけい)、小格に分類している。ただし日常的には重種、中間種などの表現が用いられることもある。 和種・洋種・雑種 甲種・乙種・丙種・丁種 サラブレッドやポニーなど、我々がふだん目にする馬の多くは改良種と呼ばれ、スピードや耐久力、パワーなどを高めるような改良がなされているが、それに引き替えて不定期の給餌に耐える体質や危険から身を守る本能の一部を失っている。また、各地にそれぞれ在来種と呼ばれる固有の特徴をもった品種が少数存在する。在来種は古来のウマの特徴を比較的よく残しているが、それらも多かれ少なかれ人間の手によって改良されている。細かくみると約250種類以上確認される。混血も多い。 現在では、野生種は絶滅したとされる。アメリカのムスタングやイタリアのジャーラ馬、宮崎県都井岬の御崎馬などは、半野生状態で生息しているが、いずれも家畜として飼育されていたものが逃げ出し、繁殖したものである。かつては北海道では野生化した馬を狩猟・捕獲し、ばん馬として荷物や馬ソリの牽引をさせることもあった。 モンゴルに生息する「タヒ」は、現在、世界で唯一とされる真の野生ウマとされていたが、最近の研究で人間によって家畜化された個体であったことが判明した。1968年以降、生息が確認されなくなり、本国では一度絶滅したとされる。その後、海外の動物園で飼育されていたものを里帰りさせ、自然保護区のホスタイ国立公園内で繁殖を重ね、200頭を超えるまでになっている。 主に乗用や、乗用の馬車を牽くために改良された品種で、軽快なスピードとある程度の耐久力をもつように改良されている。多くがアラブを母体としている。 サラブレッド アラブ アングロアラブ アンダルシアン アハルテケ トラケナー リピッツァナー 軽種と重種の中間的な性質を持ち、軽快さと比較的温厚な性質を持つ。 セルフランセ スタンダードブレッド クォーターホース ハクニー ハンター ノルマン フリージアン 主に農耕や重量物の運搬のために改良された品種。中世ヨーロッパでは重い甲冑を着込んだ重装備の騎士の乗馬とされた。大きな個体では体重1トンを超えることも珍しくない。また、軽種よりも美味とされ、食用として用いられるのは重種馬が多い。 北海道島特有の競馬競走の一種、ばんえい競馬で用いられているのは、この重種でもペルシュロンやベルジャンの混血馬や、これらと北海道和種などの在来種の混血(重半血)が多い。軽種馬以外の登録を管轄する日本馬事協会では、平成15年度以降に生産されるばんえい競馬向けの馬については、純系種同士の馬による配合馬のみ一代限りで「半血(輓系)種」とし、それ以外については「日本輓系種」として登録されている。 ペルシュロン ブルトン ベルジャン(ベルジアン) シャイヤー クライズデール ポニーは、鬐甲(きこう)までの高さが147センチメートル以下の馬の総称である。かつては、14ハンド2インチ(14.2ハンドと表記する)=約147センチ(1ハンドは4インチ=10.16センチメートル)に満たないウマをポニーと称し、それ以上のものを馬として機械的に分類していた。近現代になって血統登録による品種の分類が確立するまでは、例えば下に示すシェトランドポニーでも大柄であれば「馬」と考えられていた。今でも日常的には、品種に関わらず小柄な馬をポニーと称することが多い。 シェトランドポニー ウェルシュマウンテンポニー ハクニーポニー コネマラポニー ミニチュアホース アメリカンミニチュアホース 現存する日本在来種は以下の8種。北海道和種以外は非常に飼育頭数が少ない。在来馬はファラベラのような小型ポニーや、シェトランドポニーのような中型ポニーではなく、蒙古馬系に属する比較的大型のポニーに含まれる。 また、大型在来馬である南部馬等は近代化による西洋種との交雑により多数の大型在来馬は絶滅した。 現存する小型在来馬は西洋種との交雑に用いられたものは少なく、当時の使役馬・駄馬の範疇に含まれるものが多く遺る。 北海道和種(北海道島):「道産子(どさんこ)」の俗称で親しまれている。 木曽馬(木曽郡、岐阜県) 野間馬(今治市野間) 対州馬(対馬) 御崎馬(都井岬) トカラ馬(トカラ列島) 宮古馬(宮古島) 与那国馬 (与那国島) Equus(エクウス)(ウマ属)の学名で呼ばれるウマやロバの直接の先祖は、200万年前から100万年前にあらわれたと考えられている。ヒトは古い時代からウマを捕食し、あるいは毛皮を利用していたことが明らかにされており、旧石器時代に属するラスコー洞窟の壁画にウマの姿がみられる。純粋な野生のウマは、原産地の北アメリカを含め、人間の狩猟によりほとんど絶滅した。 紀元前4000年から3000年ごろ、すでにその4,000年ほど前に家畜化されていたヒツジ、ヤギ、ウシに続いて、ユーラシア大陸で生き残っていたウマ、ロバの家畜化が行われた。 これは、ウマを人間が御すために使う手綱をウマの口でとめ、ウマに手綱を引く人間の意志を伝えるための馬具であるはみ(銜)がこの時代の遺物として発見されており、ハミは馬の下顎骨の第二前臼歯と接し摩耗痕を残すことが観察されるため、馬の家畜化を判断する指標として活用されている。同じく紀元前3500年ごろ、メソポタミアで車が発明されたが、馬車が広く使われるようになるのは紀元前2000年ごろにスポークが発明されて車輪が軽く頑丈になり、馬車を疾走させることが出来るようになってからである。 馬車が普及を始めると、瞬く間に世界に広まり、地中海世界から黄河流域の中国まで広く使われるようになった。これらの地域に栄えた古代文明の都市国家群では、馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、チャリオット(戦車)として軍隊の主力となった。また、ウマの普及は、ウマを利用して耕作を行う馬耕という農法を生んだ。 ウマは反芻動物ではない上にウシやヒツジなどに比べて代謝が高く、それらと比較すると体重に対して約30パーセント以上多くの牧草を必要としたため、中東の古代国家ではウシやヒツジと同時に大量のウマを飼うことは困難だった。ウマはその貴重さから食用として発達することはなく、この地域から馬肉に関する食のタブーが生まれたと考えられている。 一方、メソポタミアからみて北方の草原地帯ではウマに直接に騎乗する技術の改良が進められた。こうして紀元前1000年ごろ、広い草原地帯をヒツジ、ヤギなどの家畜とともに移動する遊牧という生活形態が、著しく効率化し、キンメリア人、スキタイ人などの騎馬遊牧民が黒海北岸の南ロシア草原で活動した。騎馬・遊牧という生活形態もまたたくまに広まり、東ヨーロッパからモンゴル高原に至るまでの農耕に適さない広い地域で行われるようになった。彼ら遊牧民は日常的にウマと接し、ウマに乗ることで高い騎乗技術を発明し、ウマの上から弓を射る騎射が発明されるに至って騎馬は戦車に勝るとも劣らない軍事力となった。遊牧民ではないが、紀元前8世紀にアッシリアは、騎射を行う弓騎兵を活用して世界帝国に発展した。中国では紀元前4世紀に北で遊牧民と境を接していた趙の武霊王が胡服騎射を採用し、騎馬の風習は定住農耕民の間にも広まっていった。さらに騎乗者の足や腰を安定させるための鐙(あぶみ)や鞍(くら)が発明され、蹄鉄が普及して、非遊牧民の間でも、西ヨーロッパの騎士や日本の武士のような騎兵を専門とする戦士階級が生まれた。 15世紀から16世紀に進んだ火薬・銃の普及による軍事革命は騎士階級の没落を進めたが、騎兵の重要性は失われず、また物資の運搬にもウマは依然として欠かせなかった。各国は軍馬に適したウマを育成するために競馬を振興し、競馬を通じて馬種の改良が進められた。 やがて大航海時代に入り、白色人種はアメリカ大陸に到達した。彼らが手にする鉄器や火薬の威力、乗りこなす馬の機動力や威圧感、そして彼らが持ち込んだ天然痘などの伝染病はそれらを知りえなかったアメリカ先住民を恐怖に陥れ、白人による中米や南米の民族の征服は短期間で完了。結局、インカ帝国やアステカ帝国など、独自の文明をもって栄えていた社会はほぼ壊滅させられる。しかしスー族など北米のインディアンの中には、馬の機動性をいち早く取り入れ、生活様式を向上させるものもあった。 20世紀に至り、2度の大戦を経て軍事革新が進んで軍馬の重要性は急速に失われていったが、軍隊、警察においては儀典の場で活躍している。さらに競馬・乗馬は娯楽、スポーツとして親しまれ、世界では現在も数多くの馬が飼育されている。また近年では、世界最小のウマであるアメリカンミニチュアホースを盲導犬のウマ版と言える盲導馬として使用する試みも始まっている。その他、乗馬を通じ心を癒すホースセラピーも注目を浴びている。 先史時代の日本には乗馬の歴史はなく、大陸から伝来した文明、文化とされる。日本に馬が渡来したのは古くても、弥生時代末期ではないかといわれ、4世紀末から5世紀の初頭になって漸く乗馬の風習も伝わったとされる。 4世紀末から馬骨・馬具の出土は古墳の築造と連動して東国など広範囲で確認されており、この頃に馬事文化が大陸から日本へと運ばれたのではないかとされている。日本列島における馬の渡来は東日本・中部高地において先行し、山梨県甲府市塩部の塩部遺跡の方形周溝墓からは4世紀後半代の馬歯、甲府市下向山の東山北遺跡の方形周溝墓からは4世紀末の馬歯、長野県長野市の篠ノ井遺跡群からは4世紀後半代の馬歯が出土している。 5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の応神天皇の陪塚や仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、轡(くつわ)、鐙(あぶみ)などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。群馬県の白井北中道遺跡からは馬の足跡が4万個以上パックされた土層が確認されている。これは榛名山の噴火による堆積物で馬の足跡が遺存したもので、蹄の大きさから中型馬であると考えられている。 その後の古書や伝承には馬にまつわる記述がみられる。『日本書紀』にはアマテラスが岩戸に隠れたのはスサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込み、機織女が驚いて死んだためであるとのくだりがある。『古事記』では、スサノオの息子であるオオクニヌシが出雲国からでかける際に鞍と鐙を装した馬に乗っていたと書かれる。 646年の大化の改新による一連の制度の整備によって、駅馬・伝馬といった通信手段としての乗用馬が設立され、各地に馬牧も開かれた(ただし去勢の技術は導入されなかった)。当時律令制のモデルであった大陸の唐朝は、遊牧民出身の軍事集団が政権中核の貴族層を構成し、その軍事制度も遊牧民の軍制を色濃く継承していたため、律令制の導入は最先端の軍事技術としての馬文化(軍馬)の導入という性格も有していた。壬申の乱では置始兎が率いて急行した千余騎や、勇士来目らの騎馬突撃など、騎馬隊の活躍が目立った。 7世紀に造られた藤原宮跡では、酷使により関節部の癒合・肥大化をきたした馬の骨が見つかった。宮の造営には多数の馬が用いられたようである。 藤原宮跡の骨の中には、肉を取るための削り痕が残っているものと、そうした痕跡がないものがあり、部分的に食用にされたと考えられる。天武天皇4年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令以後、食用を禁止する命令がたびたび下されたが、いずれも一時的な禁令で、あまり行き渡らなかったようである。 平安時代には、いわゆる競馬が行われていたというはっきりとした記録があり、盛んに行われていた。「競馬式(こまくらべ)」、「きおい馬」、「くらべ馬」、「競馳馬」等と称して、単に馬を走らせて競う走馬、弓を射る騎射などが行なわれ、勝者と敗者の間では物品をやり取りする賭け行為が行われる場合もあった。この競馬の起源は尚武(武術の研鑽)にあったと考えられるが、平安時代の貴族社会では、もっぱら神事などの行事ごと、娯楽へと変遷したと考えられる。宮廷儀礼として様式化された「競馬」はやがて神社にも伝わり、祭礼としての競馬も営まれるようになった。このなかでは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で毎年五月に行われる賀茂競馬が有名である。賀茂競馬は古代から中世を通じて継続し、応仁の乱による荒廃の際でも万難を排して開催され、日本の馬事文化ではもっとも歴史のある行事とされる。また藤原道長は馬を好み度々天皇の行幸を仰いでまで馬比をおこなっている。 また、平安時代の大乱天慶の乱の平将門は騎馬に巧みで、関東平野を中心に騎馬による機動的な戦闘を行ったとされ、その後の源平合戦でも関東地方の武者達が騎馬に巧みであったことが平家物語などに記述されている。馬は金と並んで東国の産物とされ、「後撰和歌集」には尾駮(おぶち)の牧が歌われ、藤原秀衡が木曾義仲に軍馬を贈る等、軍事物資としても貴重な存在であった。 10世紀に武士が誕生すると、大鎧を着て騎射を行う武芸とされ、朝廷や国衙による軍事動因や治安活動は、この武士の騎馬弓射の戦闘力に依存するようになった。またに古代に於いて直刀だった刀剣が、斬撃に適するよう、刃に反りがつけられる進化を促したともされている。彼ら平安時代半ばから鎌倉時代にかけての武士の馬術への深い関心は、軍記物語である『平家物語』に記された一ノ谷の戦いで馬に乗ったまま崖を駆け下りた源義経の鵯越え(ひよどりごえ、なお畠山重忠は馬を背おって下りたという)などの逸話によって多くの日本人によく知られている。馬事はふたたび武術としての性格をもちはじめ、後にたしなみとして「競馬」、騎射、流鏑馬、犬追物などが盛んになり、やがて鎌倉競馬として厳格に体系化された。武士の騎乗戦闘の様子や騎乗抜刀の様子は数多くの絵画史料で見ることが出来る。 『蒙古襲来絵詞』には白石通泰勢百余騎の騎馬隊が騎射をしながら敵陣に突進する様子が描かれている[1]。室町時代以降大坪流馬術の「乗用三段」に見られる騎馬隊で突撃して敵陣を切り崩すような集団騎馬戦術が発達していった。大坪流馬術は戦国時代・江戸時代を通じて武士が学ぶ軍事的素養となっていた。江戸時代初期に描かれた『江戸図屏風』には御鞭打といわれる皮竹刀を使った騎馬集団による軍事演習の様子が描かれている[2]。また、領主としての土着性が強かった初期の武士にとっては、馬が排出する馬糞は自己が経営する農地の肥料としても貴重なものであった。 吾妻鏡によれば、1193年、横山時広が淡路国で九本の足を持つ珍妙な馬を発見し、将軍に見せたという。この馬はその後陸奥国まで連れて行かれたが、その道中皇后大進為宗の家人によって射殺されてしまったという。 これらの競馬の伝統は中世を通じて維持され、政治史にあわせた盛衰はあるものの江戸時代中期まで続いた。特に徳川家康、徳川家光、徳川吉宗らは武芸としての馬事を推奨し、江戸の高田に馬術の稽古場をつくった(高田馬場)。ただし騎乗が許されたのは一部の旗本以上の階級のみであった。 8世紀初頭に制定された大宝律令では馬寮(左馬寮・右馬寮)が設置された。また、8世紀の文武天皇の時代には、関東に大規模な御料牧場が設けられ、年間200〜300頭規模の馬産が行なわれていた。御料牧場は、戦国時代に関東を制覇した北条氏政によって整備され、上総・下総の広い地域にまたがっていた。これを監督していた千葉氏は後に豊臣氏に滅ぼされて新領主である徳川氏の直轄地域(千葉野、後の小金牧・佐倉牧)となり、同氏が幕府を開いた江戸時代に入ると代官が設置されて最盛期には年間2000〜3000頭規模の馬産を行った。これが明治時代の下総御料牧場の前身である。ただし牧場や馬産といっても、大陸の遊牧民、牧畜民によって発達し、現在も行なわれているような体系的なものではなく、大規模な敷地内に馬を半野生状態で放し飼いにして自由交配させ、よく育った馬を捕らえて献上するというやり方であった。この方法は、優れた馬ほど捕らえられ戦場に送り込まれることになり、劣った馬ほど牧場に残って子孫を残し、優れた馬ほど子孫を残しにくくなるため、現代の馬種改良とは正反対の方法だった。このような手法で生産された馬は野駒と呼ばれた。一方、仙台や薩摩藩では、種馬として藩主の乗用馬が下賜され、管理された繁殖が行われた。こうして生産された馬は里馬と呼ばれた。 古い文書の記述を信用するのであれば、日本の馬は江戸期に小型化した。平将門の愛馬「求黒」が160センチもの大型馬で人を踏み殺したと言うのは誇張だとしても、平安期の名馬といわれる馬は概ね体高140センチ以上の馬格を有していた。奥州藤原氏が献上した名馬はみな体高150センチで高幹とされた。戦国時代まで馬の大きさの基準は概ねこの程度であったが、江戸末期の御料牧場の繋養馬は平均して10〜15センチほど小型化していた。 改良が全く行われなかったわけではない。徳川家では東南アジア経由で外国産馬をしばしば輸入しており、これを「日本の馬とは違って体が大きく、おとなしい」と称賛している。下北の蠣崎氏は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、[要出典]薩摩の島津貴久や、南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行ったと伝えられている。江戸時代の将軍徳川吉宗や家綱は諸外国から種馬を輸入し品種改良しようとした。しかし、全体としての馬産の方法論は前時代のままであり、継続的な選抜と淘汰による体系的な品種改良という手法は導入されていない。これを象徴する出来事として知られているのが、江戸時代にフランスからアラブ馬を贈られた一件である。1863(文久3)年、14代将軍徳川家茂の時代にフランスで流行病によって蚕が全滅した際に、江戸幕府が代わりの蚕を援助した。この返礼として品種改良の一助になればとナポレオン3世からアラビア馬16頭が贈呈された。しかし当時の幕府首脳にフランス側の意図を理解する者がおらず、珍貴な品扱いで全て家臣や諸侯等へ下賜してしまった。明治に入ると、外国から多くの種馬が輸入され、日本の在来馬の改良に充てられた。 江戸期の太平の時代になると、軍馬としての馬の需要は減り、一方で市民経済の発展に伴って荷馬に用いられるものが増えてきた。(既に中世から荷馬として多く用いられていた→馬借)西洋とは異なり日本では馬車は発達せず、馬に直接荷を背負わせる方法が主流であった。また、農馬は田の耕作や木材の搬出、副次的に馬糞を田畑への肥料とするため飼養された。なお、日本には明治に至るまで蹄鉄の技術が伝来せず、馬には専用のわらじを履かせていた。 明治に入り、明治4年6月5日(1871年7月22日)に平民の乗馬が許可され、民間での娯楽としての乗馬の道が開けた。日清戦争・日露戦争以降には軍馬の改良をすすめるため軍馬資源保護法を制定し日本在来馬の禁止などの政策がとられ、本格的な品種改良を伴う洋式競馬も創設された(詳しくは競馬の歴史 (日本)参照)。太平洋戦争後の経済復興期に日本国内の道路網の舗装が整備されて自動車が普及するまで、ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる最もポピュラーな実用家畜であり、ピーク時には国内で農用馬だけで150万頭が飼育されていた。 1945年、連合国軍最高司令官総司令部指令により国による馬の施策、研究、団体の解散と再編が実施された。 太平洋戦争直後の1950年に飼育されていたウマは農用馬だけで100万頭を超すが、農業の機械化に伴って需要は急減していき、1960年代中頃には30万頭に、1975年には僅か42000頭まで減った。2001年の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬で、農用馬は18000頭にすぎない。※食肉用に肥育されるウマ(肥育馬)は、農用馬に分類されている。 2005年現在では日本在来馬は8種、約2000頭のみとなった。 なお、道路交通法上、馬が引く車および人の騎乗した馬は軽車両に分類される。 昔から馬を大切にしていた地方では現代でも、馬は「蹴飛ばす」=「厄を蹴飛ばす縁起物」などと重宝しているところもある。 モンゴル高原の遊牧民の間ではウマは重要な乳用家畜の一つであり、馬乳は馬乳酒(アイラグ)などの乳製品の原料とされる。 民間療法として、馬肉・馬油には解熱効果があるとされ、捻挫などの患部に湿布として使用される(民間薬)。女子柔道家の谷亮子が使用したことでも有名。また馬肉パックと称して美肌効果を期待する向きもある。また馬脂(馬油は商品名)は皮膚への塗布用のものが販売されている。人間に最も近い自然の油であるため、大火傷、日焼け、虫刺され、霜焼け、しみ、皺、白髪等に効果があると言われる。 太く長いので、ヴァイオリンや胡弓、ヴィオール、二胡など擦弦楽器の弓毛に用いられる。またモンゴルの馬頭琴など、騎馬民族の擦絃楽器では弓毛に加え、弦も本来馬尾毛である。この他、織物に使用することがある。 軍事に使用される馬。軍馬。歴史的には戦車(戦闘馬車)や騎馬兵の乗用動物として駆使され、モンゴル帝国が騎馬弓兵で世界を圧し、イギリスやフランスの騎士や日本の武士が弓馬を専らにした。やがて、鉄砲・大砲に代表される火器が普及すると相対的に騎兵の重要度は下がったが、それでも馬の突進力を生かした突撃は、時に勝敗を分ける事もあるほど強力な物であった。第二次世界大戦までは世界各国軍に当たり前に存在した。 アメリカの騎馬隊が有名で、アメリカ陸軍に歴史的経緯上、騎馬隊という名称が残り、軍パレードなどセレモニーに駆り出されるような場合以外はさほど活躍しない。 なお、今のところ実戦で最後に本格的に騎馬隊が運用されたのは、1945年に行われた老河口作戦での騎兵第4旅団の戦闘であるといわれる。同旅団は日本最後の騎兵旅団である。3月27日に老河口飛行場の乗馬襲撃、占領に成功し、世界戦史における騎兵の活躍の最後を飾った。 警察が市内パトロールのために使用した。現在でも一部の国の衛視が使っているが、日本では主に明治時代から昭和初期までであり、それ以降は警察車両に取って代わられたため殆ど無用となってしまった。 警視庁(東京府・東京都の警察)では伝統を重んじる姿勢から、第三方面交通機動隊の中に騎馬隊を維持しており、平成19年6月現在16頭の警察馬を徴用している。また、京都府警でも「平安遷都1200年」を記念して1994年2月10日に京都府警平安騎馬隊が創設されている。しかし、活躍の場はいずれも交通安全パレードの時の市中警戒に使用される程度である。 騎馬警官が市街地の警備や交通整理を担う場合もある。自動車と比べ環境を劣悪化させる排気ガスや騒音を出さないクリーンな乗り物であるが、乗馬者にとっての環境が未整備ということもあり、大々的には行われていない。海外では、ニューヨークやロンドンなどの大都市で使用されている。これは騎乗することにより遠くまで見渡すことが出来、威圧感もあることと、もともと街中に乗馬のための設備がそろっていることによる。 なお、カナダ国家警察は現在でも王立カナダ騎馬警察を称している。 Category:架空の馬 甲斐の黒駒 カンタ(仏陀の愛馬) ブケパロス(アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の愛馬) 赤兎馬(呂布の乗馬) 『スーホの白い馬』モンゴルの民話。馬頭琴の発祥とされる。 天津馳駒(南アルプス甲斐駒ケ岳) 名馬磨墨(するすみ)・池月(いけづき)伝説(日本各地) ユニコーン バイコーン ペガサス(ギリシア神話)- 騎乗する者を選ぶ馬。翼が生えている馬でもある。 ケンタウロス(ギリシア神話) ケルピー(スコットランド神話) ウッチャイヒシュラヴァス(インド神話) スレイプニル(北欧神話) ヨハネの黙示録の4人の馬乗り(新約聖書) こうま座 名馬一覧 賢馬ハンス 日本では江戸時代後期から近代にかけて養蚕が盛んに行われ、養蚕に関係する民俗も成立した。養蚕には動物に関わる民俗があり、猫と馬に関するものが知られる。猫は養蚕が害獣であるネズミを捕食することからネズミ避けとして珍重されているが、馬と養蚕の関係は昔話の『馬娘婚姻譚』(ばじょうこんいんたん)に由来する。 『馬娘婚姻譚』は人間と異者が結婚する異類婚姻譚の一種で、馬と娘との悲話が語られる。これは東北地方から九州まで日本各地に分布し、特に東北地方ではおしら様信仰と結びつき、おしら様の祭文のなかでも登場する。 日本語で馬の鳴くのを特に「嘶く(いななく)」(動詞)ということがあり、古くは「嘶ゆ(いなゆ)」(下二段動詞)といった。 意馬心猿(いばしんえん) 生き馬の目を抜く 牛は牛づれ馬は馬づれ 馬が合う 馬並み 馬に経文(きょうもん) 馬には乗ってみよ、人には添うてみよ 馬の背を分ける 馬面(うまづら) - 縦に長い顔の人を悪く言う言い方。三遊亭圓楽 (5代目)は笑点でしばしばその馬面をネタにされた。 馬の耳に風 馬の耳に念仏 馬乗りになる 馬を牛に乗り換える 馬を水辺に連れて行くことは出来るが水を飲ませることは出来ない 焉馬(えんば)の誤まり 老いたる馬は路を忘れず 牛飲馬食(ぎゅういんばしょく) 癖ある馬に乗りあり 鞍掛け(くらかけ)馬の稽古 犬馬(けんば)の労 鹿を指して馬となす(馬鹿) じゃじゃ馬(駻馬(かんば)) 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ 尻馬(しりうま)に乗る 寸馬豆人(すんばとうじん) 千里の駒 天高く馬肥ゆ 駑馬十駕(どばじゅうが) 南船北馬(なんせんほくば) 人間万事(ばんじ)塞翁(さいおう)が馬 寝牛起馬(ねうしおきうま) 馬脚(ばきゃく)を現す 馬耳東風(ばじとうふう) 馬車馬(ばしゃうま)のよう 馬首人身(ばしゅじんしん) 人を射るには先に馬を射よ 肥馬(ひば)の塵を望む 隙(ひま)過ぐる駒 瓢箪(ひょうたん)から駒(駒=子馬) 馬子(まご)にも衣装 名馬に癖(難)あり 痩せ(やせ)馬の先走り(道急ぎ) 老馬の智用うべし go to the dogs - 「落ちぶれる」という意味。往時にどんなに愛された名馬も最後にはイヌの餌にされたことから生まれた慣用句。 初午 藤崎八旛宮秋季例大祭 相馬野馬追 厩猿信仰 フェラーリ ポルシェ 中国の百家姓のひとつに「馬」(マー)がある。陸上競技の「馬軍団」(馬家軍)も、軍閥の馬家軍も馬姓の人の率いた集団である。 日本にも、「馬場」(ばば)、「白馬」(はくば)など、馬が付く姓がある。 ^ Equidae ^ 前者はインド・ヨーロッパ祖語にまで遡ることの出来る古い語彙。後者は、イタリア語の「イタリア語: cavallo」、スペイン語の「スペイン語: caballo」、フランス語の「フランス語: cheval」などに連なる。 ^ 英: riding horse ^ 英: draft horse ^ 英: park horse ^ 英: walking horse、walker ^ 英: trotter ^ 英: galloper、runner ^ 英: hot-blood horse ^ 英: cold-blood horse ^ 英: light horse ^ 英: heavy horse ^ モウコノウマ、学名はEquus ferus przewalskii。 ^ 2013年3月1日~2014年4月30日。 ^ 6000年前頃、野生種のモウコウマを黒海からカスピ海の地域で家畜化したものと考えられている。ウマが家畜化されたと考えられる最古の遺跡は黒海の北岸に位置するデレイフカ遺跡から出土した馬である。 ^ 脚の先から肩までの高さ。 ^ この時代の馬の体高は四尺(≒120センチ)を基準に、何寸あるというように記される。たとえば源義経の愛馬として名が残る青海波は「七寸」で四尺七寸≒約141センチとなる。 ^ このサイズはスピード競争を目的として近代に品種改良が重ねられたサラブレッドの平均的な体高である160〜170センチと比べるとかなり小型であるが、小型種シェトランドポニーの平均的な体高である100センチに比べると遥に大型である。モンゴル帝国の征服事業で使われた蒙古馬のような中央ユーラシアの遊牧民の優秀な軍馬も日本在来馬と同じ程度のサイズである。馬は一概に大きければ優秀というものではない。 ^ 小型化が意図的な改良の結果かどうかは不明。江戸期になってウマが軍用としてよりも荷駄用として重用されるようになり、小型のほうが便利だと考えられるようになった、と考える者もいる。一方で、江戸期の文書に現れるウマへの評価は、以前と同様に、大きいものが良い、というものであり、小型化は意図的なものではなく、当時の繁殖の方法論による帰結とも考えられる。 ^ このうち、吉宗が長崎の出島の貿易でオランダ商人ケーズルより購入した種馬についてはカンス、トロン、ミキルという名も残っている。ウマの品種については不明。当時の日本のウマの分類は産地によるものであり、品種ではないため、オランダ産馬とか唐馬とかペルシャウマと記録されているが、現代でいうアラブ馬に相当するかは不確かである。品種を意味すると思われるものには安永年間に汗血馬を輸入したという記録もある。 ^ 下総御料牧場の記録によればサラブレッド。 ^ 明治時代になってフランス公使よりこの件についての抗議を受け、捜索により子孫が発見された。この子孫からは昭和に至るまで活躍競走馬が出た。 ^ これについては、ナポレオン3世の贈呈馬は26頭で、日本に到着した年を1867年(慶応3年)とする異説もあり、日本外務省も同様の立場である。『日本馬政史』の原文と考えられる『大日本馬種略』では馬の散逸は明治政府に責任があるような記述になっている。詳しくはナポレオン三世の馬参照。 ^ 欧米では、戦史上最後の騎馬突撃成功例として、第二次世界大戦の独ソ戦におけるイタリア軍騎兵の戦例(1942年)などが挙げられることが多い。 ^ Nielsen BD, Turner KK, Ventura BA, Woodward AD, O'Connor CI (2006年). “アラブ種及びサラブレッド、クォーターホースの競走速度”. 馬獣医学雑誌 38 (S36): 128-32.  ^ “World Records (PDF)”. 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、4日14:00 - 、23日14:00 - 、29日21:00 - 、30日14:00 - 、12月16日18:30 - 、30日14:00 - 。 ^ 千葉真一 『千葉真一 改め 和千永倫道』 山と渓谷社、2008年、73 - 74頁。ISBN 4635340228。 ^ 「プロダクションノート」 (パンフレット) 、『戦国自衛隊』、角川春樹事務所、1979年12月15日、 26 - 27頁。 ^ JJサニー千葉 『千葉流 サムライへの道』 ぶんか社、2010年、193 - 195頁。ISBN 4821142694。 ^ 千葉真一 (1989年1月13日) (Color). なんだ、こいつら。JACスーパーアクション in 激突 (VHS). 東映ビデオ.", "スタンダードブレッド(Standardbred)とは、温血種・中間種に分類される馬の品種の1つ。別名アメリカントロッターとも。主な用途は競馬と乗馬であり、競走馬としての需要はサラブレッドに次ぐ規模にある。全速力ではサラブレッドにかなわないため平地競走に使われることは稀であるが、速歩が得意なため主に繋駕速歩競走に使用されている。 身体的な特徴は体高が160cm付近、体重は450kg程度が標準的。サラブレッドより丈夫で、少しがっしりとした体格をもち、体が長く足が短い。性質もサラブレッドよりは温厚で扱いやすいとされる。毛色は鹿毛と青鹿毛が多いがそれ以外も見られる。品種を特徴付けているのは速歩が得意なことで、これはこの品種の改良目的でもあった。 同じスタンダードブレッドでも、競走馬としては走法の違いによってトロッター(Trotter、斜対歩)とペーサー(Pacer、側対歩)に分けられており、レースでも区別されている。一般にペーサーの方が早く、1マイル(約1600m)において1分50秒を切るタイムが計測されたことがある。 繋駕速歩競走又は騎乗速歩競走(フランスなど)の盛んな北米、オセアニア、ヨーロッパなどでは盛んに生産され、世界では毎年5万頭以上生産されている。 日本においてはかつては軍馬として使役され、競馬においても平地競走を含め優秀な成績を納めていた(豊平 (馬)を参照)。1971年に速歩競走の1つである繋駕競走(けいがきょうそう)が廃止されてからはほとんど生産されていないが、生産されたものは温和な性格を利用して乗馬や当て馬として使役されている。 スタンダードブレッドの成立は19世紀まで遡る。同じく北米で成立したクォーターホース等と同じくアメリカ開拓期にヨーロッパから連れてきたサラブレッドに、アラブやカナディアンペーサーやノーフォークトロッター、モルガン等を交配し改良を重ね作られた。スタンダードブレッドという言葉が初めて使われたのは1879年。この品種として認められるためには1マイル(約1600m)において2分30秒という基準(スタンダード)に達しなければならなかったためと言うのが語源である。1939年以後トロッティングホース協会によって血統が管理されている。 現在のスタンダードブレッドは、父系を遡ればハンブルトニアン(Hambletonian 1849年アメリカ)にたどり着き、さらにサラブレッドであるメッセンジャー(Messenger 1780年イギリス)そしてダーレーアラビアン(Darley Arabian)まで遡ることができる。これについては、フライングチルダーズ系を参照のこと。メッセンジャーとハンブルトニアンは、スタンダードブレッドにおける始祖とも言える存在であり、スタンダードブレッドによって行われる繋駕速歩競走の大レースであるメッセンジャーステークスとハンブルトニアンに名を残している。", "ハクニー (Hackney) とは、中間種、乗系種に分類される馬の品種のひとつである。ハクネーとも。ハクニー歩様という脚を高く上げて馬車を引く優雅な仕草で知られ、馬車用としては最上級の品種。馬車競技に用いられるため輓系とされることもある。 体高(肩までの高さ)は140 - 153センチメートル。イギリス原産。被毛が美しく、栗毛、鹿毛、黒鹿毛と青毛の毛色を持つ。小さな頭に小さな耳、大きな目が特徴。首は長く、肩に対して垂直にたちあがっており、筋肉の発達がよい。四肢は短くコンパクトな体型で後肢がとくに強い。尾が高い位置についている。頑健で持久力に富み、勇気があり、馬車を引かせてもスピードと持久力が落ちない。自動車が普及するまでは、道路交通の主役であった。軍馬としても極めて需要が高く、強健な後肢で立ち上がり敵の騎馬を威圧し踏倒す馬術が取り入れた。現在ではおもに馬車競技で用いられる。 常歩(なみあし)で肘と膝を高く挙げ、直線的で確固とした優雅で芸術的な歩様はハクニー歩様と呼ばれ、競技の審査で最も重要視される。バレリーナにも喩えられるこの特徴的な歩様を際立たせるため、蹄は長く伸ばす。歩様は左右にぶれてはならない。ハクニー歩様はハクニーのみならず、イヌなどのほかの家畜動物の芸術的審査を行う場合も重視される。 ハクニーの原種はもともとイギリスの野生種で、15世紀後半から17世紀のヘンリー7世からヘンリー8世、エリザベス1世の時代に軽騎兵の乗用として用いられた。この原種は保護され、とくにヘンリー8世は許可なく外国へ輸出することを禁じた。 これらの原種は、生産地の名前を冠してノーフォークトロッター (Norfolk trotter) 、リンカーンシャートロッター (Lincolnshire trotter) 、ヨークシャーロードスター (Yorkshire roadster) などの名前で知られているが、いずれも現存しない。 18世紀に入ると、これらの速歩種に気品や優雅さを加える目的でアラビア産馬(のちのサラブレッド)を交配して品種改良が行われた。 この品種改良のうち影響力が強いのは、前肢を高く持ち上げる走法で有名だったブレイズ (Blaze) という牝馬である(このブレイズは1733年生まれ、フライングチルダーズの直仔、1751年のチャンピオンサイヤーのブレイズとは同名異馬)。ブレイズはダーレーアラビアンの孫の孫にあたり、スタンダードブレッドの祖となったメッセンジャーの近親でもある。ブレイズの父はフライングチルダーズ系のサージョージ (Sir George) 。ブレイズの産駒に1755年生まれ(1760年生まれ?)のシェールズホース (Shale's Horse) が登録された最初のハクニー種(現存するハクニー種の始祖)とされている。 当時、見映えのよいハクニーが牽く飾り立てた馬車はステータスシンボルであった。ハクニーの遺伝力は強く、アウトブリードによってもその特徴は失われなかった。 このころ、イギリスの道路事情が改善されて深い轍溝が減ると、軽快でスピードの出る馬車が普及し、その牽引馬としてハクニーはたいへんな需要があった。ハクニーはアメリカ、オーストラリア、南アフリカ、アルゼンチンなどに輸出され各地で広まった。フランスでは舗装道路にハクニーが牽く辻馬車が誕生した。 その後蒸気機関の発明や鉄道の普及で馬車の需要が減少し、モータリゼーションが急速に進んだ1930年代には絶滅の危機に瀕したが、少数の生産者により保護された。現在では実用というよりは競技用に生産されており、力強さよりは美しさを重視して改良が進んでいる。 血統登録は1883年に始まり、2000年までに血統書は54巻に至っている。 レイディコンバーメア (Lady Combermere) - 1895年6月10日、20マイル(約32キロメートル)を1時間で走破した。 プリテンダー (Pretender) - 1801年にアメリカに輸出された最初のハクニー リトルワンダー (Little Wonder) - 1885年にアメリカに輸出されたハクニー種牡馬で、現在のアメリカ産ハクニーの父祖 ペイシェンス (Patience) - リトルワンダーと同時にアメリカに輸出された牝馬で、現在のアメリカ産ハクニーの母祖 バターカップ (Buttercup) - リトルワンダーと同時にアメリカに輸出された牝馬で、現在のアメリカ産ハクニーの母祖 ステラ (Stella) - リトルワンダーと同時にアメリカに輸出された牝馬で、現在のアメリカ産ハクニーの母祖 ティプシーケーキ (Tipsey Cale) - 1922年の1頭牽き馬車チャンピオン サウスワーススウェル (Southworth Swell) - イギリスのチャンピオン種牡馬 明治から昭和初期まで、実用馬として日本でも生産された。とくにサラブレッド競馬の馬券発売が禁止されていた時期は、サラブレッドより多く生産されていたこともある。 1902年(明治35年)には小岩井農場が種牡馬ブラックパフォーマーを輸入。模範賞や奨励賞をたびたび獲得し、1919年(大正8年)までに328頭の産駒を輩出した。当時、日本で一番多くのサラブレッド活躍馬を出していた小岩井農場にあっても、最盛期の大正15年にはサラブレッド42頭に対しハクニーは65頭が繋養され、取引価格も、大正7年ごろには1頭あたりの平均価格はサラブレッドと並ぶ水準であった。 小岩井農場は独自にハクニーとサラブレッドの交配を試みて改良を行った。しかし、政府は中間種の改良はアングロノルマンに統制する方針に転じ、小岩井農場に対して警告を与えてハクニー生産を抑制した。これにより昭和に入るとハクニーの生産は漸減し、昭和9年以降は生産が行われなかった。末期の販売価格は、サラブレッドの100分の1まで暴落していた。 そのほか当時の代表的な輸入種牡馬を列記すると、セッジフォードリッパー、ウィッチャム、ウィッチャムジェントルマン、フォーレストビュー、スチートンパフォーマー、ロンスヂューク、ケープノアキララ、サンダーランドピーターなど。 「ハクニー」の名前の由来はいくつか説があり、中世フランス語のhaque(やくざ馬)を語源とする説と、ノルマン語のhakny(馬)を語源とする説がある。 1872年には、ハクニーにウェルシュポニーやフェルポニーを交配し、小型のハクニーポニーという品種も誕生している。 Hackney Horse Society (英語) American Hackney Horse Society (英語) Hackney - Wild Horse Advertising (英語) Cassilis Farm (英語)", "シャギャ・アラブ(ハンガリー語: shagya-arab )またはシャギア・アラブは馬の品種のひとつ。19世紀にオーストリア・ハンガリー帝国のバボルナ、メズーヘジェシュ、ラダウツ、ピバー、トポルチャンキーといった牧場で開発されたアラブ種の馬である 。今日、チェコ、オーストリア、ルーマニア、旧ユーゴスラビア諸国、ポーランド、ドイツおよびハンガリーでもっとも多く見られるが、ほかの国にも輸出され世界中で育成されている。現在の純血シャギャ・アラブの血統は、ラダウツ、バボルナ、トポルチャンキーのスタッドブックにすべての系統が遡ることができる。一部ではこの品種はアラブの一系統と考えられているが、少量の非アラブ血脈の存在によりアングロアラブまたはアラブ系種と見なされている。 おもな基幹種牡馬の一頭が、何頭かの Kehilan および Siglavy ( Seglawi ) 系 の祖先を持つ芦毛のアラブ(またはアラブ系とも言われる)シャギャだった 。1830年シリア産で、当時の平均的なアラブより背が高く、15.2-1/2 ハンド(き甲位 62 1/2 インチ=約 159 センチ)あった。彼は大部分、純血アラブの牝馬がほとんどいないバボルナで交配されたので、今日純粋なアラブの子孫は存在しない 。バボルナやほかの牧場で繋養されたアラブ種牡馬の多くは、トルコによる東ヨーロッパの長い占領によりすでにアラブ種の大きな影響を備えていた牝馬と交配された。何頭かのサラブレッドとリピッツァナーも使われた。すべての場合において、非常に注意深く血統記録が残された 。 当初これらのアシル(Asil、純血)ではないアラブの馬は、アラブ馬を表す総称語\"Araberrasse\"(アラブ系種)と呼ばれていたが、第二次世界大戦後シャギャの非純血種の系統が、ハンガリーでも生産されていた純血アラブと混同されるのを懸念して、馬学者のグラマツキ博士 (Dr. Gramazki) によって「シャギャ」に改められた。その際に、ほかの多くのアラブ血統もシャギャ種に含まれていたが、シャギャが実質的にあらゆる系統の祖先であったのでこの名前が選ばれた。 基礎種牡馬シャギャ Shagya b.1830 (写真:1836年)  青インクで書かれた種牡馬 Shagya IX b.1895 の血統表  ハンガリーの伝統的な4頭立て馬車を引くシャギャ・アラブ(バボルナ 1900年)  種牡馬 Jussuf IV b.1918  シャギャは「純血」あるいはアシル・アラブとは認められない一方、クローズド・スタッドブック(英語版)と世界アラブ馬機構 (World Arabian Horse Association, WAHO) における特別な地位がある。1978年に WAHO は、純粋なバボルナとトポルチャンキーのシステムで生産されたシャギャ・アラブは「純血シャギャ・アラブ」と呼ばれ得るものであり、シャギャ生産者協会は WAHO後援の準会員として WAHO紋章の使用を許可する、と声明した。ただし、この場合の「純血種」とはその馬がそれら自身の間で純血なのであって、「純血アラブ」という用語と混同されるべきではない、とも明らかにした 。一部の熱狂的ファンはハンガリーの牧場の非常に綿密な記録管理が、実際には登録により「純血」アラブと認められた一部の馬よりも、長期間完全な血統の馬を生産していたことに注目した。しかしこのような議論にもかかわらず、シャギャは異なった血統グループのままで、通常「純血アラブ」とは認められていない 。 高い位置の尾、丈夫な骨と優れた持久力で、シャギャ・アラブはアシルまたは純血アラブ馬に類似した特徴を示す。しかし非アラブ種のわずかな流入とハンガリーの牧場の育成目的のために、シャギャは純血アラブよりも背が高く、優雅さには欠け骨太な傾向がある。現代のシャギャは通常少なくとも体高 15 ハンド、一般には 16 ハンドあるが、アラブの品種スタンダードの幅は 14.1 から 15.1 ハンドとその高さには差がある。 この品種は乗用馬として認められており、馬車にも使用される。丈夫な騎兵馬だったが、現在は馬場馬術、総合馬術、エンデュランス馬術のようなスポーツ馬競技で人気がある 。2006年の FEI エンデュランス世界チャンピオンはバボルナで生産されたシャギャのせん馬だった 。 ^ バボルナ(ハンガリー語: Bábolna )、メズーヘジェシュ(同: Mezőhegyes )は現ハンガリー、ラダウツ(ドイツ語: Radautz 、ラダウツィ〈ルーマニア語: Rădăuţi 〉)は現ルーマニア、ピバー(ドイツ語: Piber )は現オーストリア、トポルチャンキー(チェコ語: Topoľčianky )は現チェコ共和国所在。 ^ w:en:Arabian horse 参照。 ^ a b Finke (1983) 。 ^ a b Dr. Gramatzki (1979) 。 ^ “Arabian Horse Definition 2007” (英語). World Arabian Horse Organization - WWW.WAHO.ORG. 2008年2月1日閲覧。 ^ “Horses - Shagya” (英語). Breeds of Livestock - Oklahoma State University. 2008年5月28日閲覧。 ^ “Le Shagya, champion du monde!”. 2008年5月21日閲覧。 [リンク切れ] Finke, Betty (1983年). “The Other Arabian Horse (PDF)” (英語). Arabian Horse World, April, 1983. \"About SHAGYAS\" - Shagya-Arabian Registry - ASAV. 2008年2月1日閲覧。[リンク切れ] Dr. Gramatzki, Fritz (1979年). “Important Sires-lines of Purebred Shagya-Araber race: Shagya - Line” (ドイツ語、英語). \"Shagya-Araber\" - ISG Internationale Shagya-Araber Gesellschaft e.V. - holding society of Shagya-Araber breeders all over the world. 2008年2月1日閲覧。[リンク切れ] アラブ種 アングロアラブ ギドラン Shagyas.com - シャギャ種情報ポータル (英語) ISG community of breeders and friends of Shagya-Arabians all over the world - インターナショナル・シャギャ協会 (ドイツ語) (英語) Shagya-Arabian Registry - ASAV - アメリカ・シャギャ・アラブ協会 (英語) shagya.net - 北アメリカ・シャギャ・アラブ協会 (英語)" ]
ABC01-02-0254
鎌倉の鶴岡八幡宮のものがよく知られている、馬を走らせながら鏑矢で的を射る伝統行事を何というでしょう?
流鏑馬
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[ "流鏑馬", "神事相撲", "小笠原流", "打毬", "弓術" ]
[ "流鏑馬(鏑流馬、やぶさめ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる。 現代では、武田流や小笠原流などの流派が古来から伝承する流鏑馬や、各地神社の神職や氏子または保存会などに受け継がれた流鏑馬が、儀式や祭典として実施されている。その他、馬上弓術をスポーツ競技として規格化したものや新造の馬上弓術の儀式が、流鏑馬と称され実施されている。 流鏑馬を含む弓馬礼法は、寛平8年(896年)に宇多天皇が源能有に命じて制定され、また『中右記』の永長元年(1096年)の項などに記されているように、馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在した。 関白藤原忠通によって春日大社若宮の社殿が改築され、保延2年(1136年)3月4日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記文永10・2・26条)し、9月17日始めて春日若宮おん祭を行ない、大和武士 によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきた。(中右記・一代要記) 『吾妻鏡』には源頼朝が西行に流鏑馬の教えを受け復活させたと記されている。鎌倉時代には「秀郷流」と呼ばれる技法も存在し、武士の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された。北条時宗の執権時代までに、鶴岡八幡宮では47回の流鏑馬が納められたとされる。だが、しかし、個人の武勇に頼っていた時代から、兵法や兵器が進化して足軽や鉄砲による集団戦闘の時代である室町時代・安土桃山時代と、時を経るに従い、一時廃れた。 江戸時代に入り、享保9年(1724年)、時の将軍、徳川吉宗の命を受けた小笠原流20代小笠原常春は、小笠原家の伝書を研究し新たな流鏑馬制定、古式と共に奥勤めの武士達に流鏑馬、笠懸の稽古をつける。享保13年(1728年)、徳川家重の世嗣ぎのために疱瘡治癒祈願として穴八幡宮北の高田馬場(現在の東京都新宿区西早稲田三丁目)にて流鏑馬を執り行い、これを奉納した(この10年後、無事疱瘡祈願成就した折に報賽として再び行われ、その様子を絵巻にしたものが『流鏑馬絵巻』である)。この後、将軍家の厄除け、誕生祈願の際などに度々流鏑馬が行われるようになる。 明治維新を経て幕府解体、また第二次世界大戦と以後の煽りを受けるなど三度の衰退を見るが、明治以降も継承され続け、現在に至る。 現在、流鏑馬は様式を多様に変化させつつも伝統を受け継ぎ、日本各地で盛んに行われ、観光の目玉となっている。 また、スポーツ流鏑馬という名称で競技性を持たせた馬上弓術が乗馬倶楽部などにより新興され各所のルールで親しまれている。 馬を疾走させる直線区間で、通常2町(約218メートル)。進行方向左手に間を置いて3つの的を立てる。馬場から的までの距離は5m前後、的の高さは2m前後(流派や規定の違いにより、それぞれの距離にはばらつきがある)。射手(いて)は、狩装束を纏い、馬を疾走させ、連続して矢を射る。 馬上における弓術には、他に笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)があり、流鏑馬と合わせて「騎射三物」とされる。的と射手との距離を10-15間(約18-27メートル)に1つ置いたものを「笠懸」、竹垣で囲んだ馬場に150匹の犬を放し、射手36騎が3手に分かれて犬を射るものを「犬追物」という。犬追物では、犬を傷つけないよう「蟇目(ひきめ)」と呼ばれる大型の鏑をつけた矢を用いる。 以下、徳川氏での例について述べる。 馬場は長さ2町である。広さ2杖半ほどの中に幅1杖の芝を張るか、または縄を張って、中に砂を撒いて馬走とする。いちだん掘り下げることもある。両側には埒がある。左を男埒といい、高さは2尺3寸、右側は女埒といい、高さは2尺、木製でもあり、萩でも結ぶ。 的は3箇所に立てる。一の的までは48杖、一の的から二の的間は38杖、二の的から三の的間は37杖である。的と馬走との間は3杖であり、上手には5杖、7杖などに的を立てることもある。的は方1尺8寸、厚さ1分ほどの檜板である。的串の長さは3尺5寸ほどで、的を挟み、頂点を上下に(いわゆるダイヤ型に)立てる。 射手の服装は水干(すいかん)、または鎧直垂(よろいひたたれ)を着て、裾および袖をくくり、腰には行縢(むかばき)をつけ、あしに物射沓(ものいぐつ)をはき、左に射小手(いごて)をつけ、手袋をはめ、右手に鞭をとり、頭には綾藺笠(あやいがさ)を戴く。太刀を負い、刀を差し、鏑矢を五筋さした箙(えびら)を負い、弓並びに鏑矢一筋を左手に持つ。 次第は、射手、諸役ともに神拝が終わって馬場に行き、馬場を一通り見て回り、射手は馬場末に集まり並び、ウマを立て、諸役はそれぞれ所定の位置につく。日記役が立ち出て、射手の中から一番の射手がこれに出向かってひざまずくとき、日記役は「流鏑馬はじめませ」と宣する。この間、一同の射手は下馬する。一番の射手がこれを受けて立ち帰り、射手に伝え、一同うちそろって乗馬し、馬場元に行き、扇形にウマを立て並ぶ。一番の射手がまずウマを進めて立ち出、祝詞を奏し、終わって中啓を出し、扇捌きをなし、そのままウマを馳せ出し、中啓を前方に高く投げ揚げ、取りかけて一の的を射る。これを揚扇という。次いで二の的、三の的を射ることは変わらない、射手次々と射終わり、5騎でも7騎でも、当日最後の射手は老練、上手の者がこれにあたり、まず一の的を射て矢番いし、ただちに右手に鞭を取り、高く差し上げ、静かにこれを下ろして取りかけ二の的を射、三の的の前にも鞭を上げる。これを揚鞭といい、はなはだ困難な技術である。射手は射終わった者から馬場元に集まるから、全部終了のときはただちに乗り出して、諸役はそれぞれの位置について支度所に戻る。 射法は、胴造り及び矢番いに特色がある。ウマを追い出すとともに鞍まわりといって、左右の膝を開き鐙に立ち上がり、身体は鞍と3寸くらい空くようにする。これを鞍をすかすという。身体は前に伏せ、胸をそらせる。一の矢は番えて出るけれども、二の矢、三の矢は箙から抜いて番える。 流鏑馬では声を掛ける。式には一の的手前で「インヨーイ」と短く太く掛け、二の的手前で「インヨーイインヨーイ」と甲声でやや長く掛け、三の的手前では「インヨーイインヨーイインヨーーイ」と甲を破って高く長く掛ける。略では「ヤアオ」「アララインヨーイ」「ヤーアアオ」「アラアラアラアラーーッ」などと掛ける。 日記は、当日射手、姓名を記し、中不を記す。奉書を長く二つ折りにして、右端を水引で綴じて作る。 青森県八戸市の櫛引八幡宮流鏑馬神事。 青森県青森市の合浦公園。善知鳥の浜。国際大会。 青森県青森市の浪岡城跡。 青森県十和田市の桜流鏑馬。唯一の女流騎士限定。 青森県十和田市の駒フェスタ。 青森県弘前市の弘前城。国際大会。 岩手県遠野市の遠野郷八幡宮。9月15日の例大祭。 岩手県盛岡市の盛岡八幡宮。例大祭。 宮城県仙台市の大崎八幡宮。9月の例大祭。 山形県寒河江市の寒河江八幡宮。9月の前日祭・例大祭。 福島県石川郡古殿町の古殿八幡神社。10月第2土日の例大祭。800年の歴史を誇り、笠懸と流鏑馬を行う。 福島県いわき市の飯野八幡宮。9月15日直前の土曜日と日曜日。 メディアを再生する 茨城県笠間市の笠間稲荷神社。11月3日。小笠原流。 茨城県土浦市の日枝神社。4月の日枝神社流鏑馬祭。 栃木県日光市の日光東照宮。5月と10月。小笠原流。 栃木県宇都宮市の宇都宮二荒山神社。10月最終土日の例祭秋山祭の附祭菊水祭流鏑馬神事。 栃木県佐野市のさの秀郷まつり。8月上旬。秀郷流。 埼玉県入間郡毛呂山町の出雲伊波比神社。3月第2日曜日(春の流鏑馬)と11月3日(秋の流鏑馬)。 千葉県銚子市柴崎町の海上八幡宮。旧暦8月15日。 千葉県香取郡東庄町の東大社。10月20日。 千葉県鴨川市の吉保八幡神社。9月。 東京都大田区の六郷神社。1月の子ども流鏑馬。東京都の無形民俗文化財に指定されている。 東京都台東区の隅田川河畔の特設馬場。4月の第三土曜日。台東区主催『浅草流鏑馬』。小笠原流。 東京都渋谷区の明治神宮。11月の例大祭。武田流。 東京都新宿区の穴八幡宮。10月の体育の日。戸山公園にて実施。小笠原流。 東京都杉並区の井草八幡宮。5年に一度、10月に実施。小笠原流。 神奈川県川崎市川崎競馬場。1月3日。武田流。 神奈川県小田原市曽我梅林。2月11日。武田流。 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮。4月の鎌倉祭りと9月の例大祭。4月は武田流、9月は小笠原流。 神奈川県横浜市馬の博物館。5月5日。武田流。 神奈川県三浦市油壷。5月最終日曜。武田流。 神奈川県高座郡寒川町の寒川神社。秋の例祭の前日。武田流。 神奈川県足柄上郡山北町の室生神社。11月3日。 神奈川県逗子市の逗子海岸。11月日曜。武田流。 浅草流鏑馬(2010年4月20日撮影) 明治神宮 流鏑馬奉納(2013年11月3日撮影) 穴八幡宮 流鏑馬奉納(2010年10月11日撮影) 鶴岡八幡宮 流鏑馬(2010年10月3日撮影) 穴八幡宮の流鏑馬像 富山県射水市下村の下村加茂神社。5月4日。「やんさんま」というなまりで親しまれ、「牛乗式(牛つぶし)」という全国でも唯一の神事が行われる。富山県の無形民俗文化財に指定されている。 山梨県南都留郡富士河口湖町の富士御室浅間神社。9月(2007年4月29日にも行われた)。武田流。 山梨県富士吉田市の小室浅間神社。9月19日。武家の流鏑馬ではなく馬蹄占いを実施する。富士吉田市の無形民俗文化財に指定されている。 長野県諏訪郡下諏訪町の諏訪大社。奉納神事として実施。 長野県大町市の若一王子神社。7月の例祭。 岐阜県土岐市の八幡神社。10月の例祭。 岐阜県可児市の白鬚神社。4月第一日曜日(以前は4月5日に開催されていた)。 静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社。5月5日。小笠原流。 静岡県三島市の三嶋大社。8月の例祭。武田流。 愛知県豊川市の砥鹿神社。5月4日。 若一王子神社の流鏑馬(2018年7月22日撮影) 三重県桑名市の多度大社。11月の勤労感謝の日の流鏑馬祭。小笠原流。 三重県伊賀市の岡八幡宮。4月15日前後の日曜日。 滋賀県高島市の大荒比古神社。5月4日の七川祭。 滋賀県大津市の近江神宮。11月の文化の日。武田流。 京都府京都市左京区の下鴨神社。5月3日。葵祭の前儀として実施。小笠原流。 京都府京都市北区の上賀茂神社。5月5日の馬競会神事(くらべうまえじんじ)。 京都府京都市北区の上賀茂神社。10月。武田流。 大阪府大阪市住吉区の住吉神社。10月の体育の日。 大阪府大阪市北区の大阪天満宮。10月の秋大祭。 兵庫県神戸市の六條八幡神社。10月。 兵庫県篠山市の佐佐婆神社。10月。 奈良県天理市の石上神宮。渡御祭。 奈良県奈良市の春日大社。12月17日の春日若宮おん祭。 和歌山県日高郡みなべ町の須賀神社。10月の秋祭りの競べ馬。 島根県鹿足郡津和野町の鷲原八幡宮。4月。小笠原流。 島根県益田市の高津柿本神社。陰暦8月1日の八朔祭。 岡山県岡山市北区の吉備津彦神社。秋季例大祭。 岡山県加賀郡吉備中央町の吉川八幡宮。10月の当番祭。 広島県山県郡安芸太田町の堀八幡神社。秋の例祭日。 広島県廿日市市の地御前神社(厳島神社の外宮(摂社))。旧暦5月5日端午の節句の御陵衣祭。 山口県下関市の福江八幡宮。10月。 徳島県海部郡海陽町の大里八幡神社。10月第3日曜日の秋祭り。 香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮。10月の例大祭。 愛媛県今治市の加茂神社。10月の秋祭りのお供馬の行事。 高知県安芸郡東洋町の野根八幡宮。10月の秋祭。 福岡県福岡市東区の香椎宮。秋季氏子大祭。 福岡県福岡市博多区の住吉神社。10月13日の例大祭。 福岡県福岡市の飯盛神社。旧暦9月9日。 福岡県那珂川市の現人(あらひと)神社。10月第3日曜日の例祭。奉納相撲とともに行われている。 福岡県大川市の風浪宮。2月11日。大祭(おふろうさんまつり)の最終日。 福岡県宗像市の宗像大社。10月2日。秋季大祭の2日目。 福岡県田川郡香春町の鶴岡八幡神社。10月の第4日曜日。 佐賀県鹿島市の琴路神社。11月の馬かけ神事。 佐賀県武雄市の武雄神社。10月23日。武雄くんちの期間中。 長崎県長崎市の鎮西大社諏訪神社。流鏑馬神事。10月7日 長崎くんちの奉納踊り後。御神幸(お下り)前の午前中に行われる。 長崎県松浦市の淀姫神社。10月26日の志佐くんちの流鏑馬。 熊本県阿蘇市の阿蘇神社。秋季大祭(田実祭)。 熊本県熊本市中央区の出水神社の神苑の水前寺成趣園。4月24日前後の休日と10月20日前後の大祭。武田流。 熊本県熊本市中央区の熊本城。お城祭り。 熊本県玉名市の梅林天満宮。11月25日の梅林天満宮大祭。 宮崎県宮崎市の宮崎神宮。4月3日。 大分県国東市の伊美別宮社。10月の別宮社やぶさめ。 鹿児島県肝属郡肝付町の四十九所神社。10月第3日曜日。 鹿児島県曽於市の住吉神社。11月23日。 鹿児島県日置市の大汝牟遅神社。11月23日。 スポーツ流鏑馬とも呼ばれる。乗馬倶楽部などが主体となり開催される。開催場所毎のルールで競技性を持たせて実施される。 競技流鏑馬関係者により、日本伝統の騎射の技の継承と発展や和種馬の存続と活用を目的に、流鏑馬競技連盟が2002年に発足した。 ^ a b c 武田流35代金子四郎家教、「流鏑馬」、『乗馬への道』Vol. 1、文園社、1992年、ISBN 4-89336-068-X、100頁 ^ 興福寺領荘園内の荘官を衆徒とし、春日社領荘園内の荘官を国民としてそれぞれ荘園の管理をさせた。室町時代になると、十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする長川党、筒井氏を刀禰とする戌亥脇党、楢原氏を中心とした南党、越智氏を中心とした散在党、平田党の六党が割拠し、その中でも筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏の四氏が「大和四家」と呼ばれる勢力に成長していった。おん祭りが始められた当初から、大和武士によって「流鏑馬十騎」が奉納されてきた。 打毬 小笠原流弓馬術礼法 公式ページ 社団法人大日本弓馬会 武田流弓馬道 公式ホームページ 武田流鎌倉派(日本古式弓馬術協会)公式ページ 流鏑馬神事(下鴨神社)公式ページ 武田流騎射流鏑馬保存会(熊本)公式ページ やぶなび 流鏑馬競技連盟", "神事相撲(しんじすもう)とは、相撲の形態の一つ。 相撲は日本の宗教である神道と密接なつながりがある。旧い例では、神龜2年(725年)に諸国が凶作に見舞われ、聖武天皇は伊勢神宮をはじめ21社に神明加護の祈願を行った。すると翌年は豊作になったため、諸社において相撲を奉納したという。その後、神社における祭事においては、相撲、舞楽、流鏑馬、競馬(くらべうま)などが行われるようになる。これらの祭事は、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願うことも多く、そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっている。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもある。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていった。 春日大社 - 相撲節会の事例を受け、11月27日夜、10番相撲をとった。この際、雅楽が合わせて奏された。 上賀茂神社 - 9月9日、神明の儀に続いて10番相撲をとった。 住吉大社 - 9月13日、相撲16番をとった。このうち3番は童相撲であった。 松尾神社 - 8月1日、八朔祭にあわせて相撲が披露された。 香取神社 - 10月28日の神事相撲は三祭の一つとされた。 鹿島神社 - 9月9日の大宮祭において、小童相撲3番取った。現在も子供相撲として行われている。 諏訪神社 - 5月6日、相撲20番をとった。 ^ 『年中行事秘抄公記根源記』 ^ a b c d e f g h 酒井, p. 62. ^ 『古今相撲大全』 ^ 『長秋記』 ^ 『古今相撲大全』 ^ 『旧事記』 ^ 『鹿島志』 ^ 『諏訪大明神絵詞』 酒井忠正 『日本相撲史 上巻』 ベースボール・マガジン社、1956年6月1日。 泣き相撲", "小笠原流(おがさわらりゅう)は、武家故実(弓馬故実)、弓術、馬術、礼法の流派。また兵法、煎茶道、茶道にも小笠原流を名乗るものがある。礼儀作法の流派として知名度の高い流派であるが、本来的には弓術・馬術・礼法・軍陣故実などの武家社会の故実(武家故実)全般の流派である。 原型となったのは小笠原氏家伝の故実であり、室町時代中期以降、小笠原氏が武家社会における故実の指導的存在となったことから、同家の故実が武家に重んじられた。 「小笠原流」と呼称されるものは歴史上いくつか存在し、それぞれ内容、伝えた家系が異なる場合があるので区別が必要である。また、小笠原流の歴史に関しては後世の創作や仮託が広く流布しているため、史実との峻別も必要である。大別すると以下の7種に分類できる。 室町幕府奉公衆京都小笠原氏による武家故実、弓術、馬術、諸礼法の流派。 江戸時代初期の水島卜也の系統による故実礼法。民間はじめ武家社会にも広く普及した。 江戸幕府旗本小笠原氏によるもの。弓馬術礼法小笠原流(小笠原教場)として現在まで継承している。 兵法の一流派。室町時代の京都小笠原氏一族とされる小笠原宮内大輔氏隆が祖。 煎茶道の一流派。小笠原流煎茶道。 旧小倉藩主家である小笠原家総領家に伝わる茶道及び礼法の一流派。小笠原家茶道古流と小笠原流礼法。昭和時代に第32代小笠原忠統によって民間に広まった。 本稿では1~4を中心に記述する。なお、各家系の詳細は小笠原氏、赤沢氏 参照の事。 1.2.については#歴史参照。3.4.は#概要参照。 現存の各団体の概要と来歴は以下の通り。 小笠原流の歴史として流布しているものとしては、本朝武芸小伝などの江戸時代以来の書籍や、寛政重修諸家譜等の家譜、また弓道家による書籍などである。資料間で相違する内容も多いが、以下一般的な小笠原流弓馬術礼法の伝承を主体にとして記述する。なお、これらはあくまで流派の伝承であり、歴史的裏付けがあるとは限らない。 流派の始祖としては、小笠原家の初代小笠原長清とするもの、7代小笠原貞宗とするもの(本朝武芸小伝等)、さらには遠祖の貞純親王とするもの等がある。 寛政重修諸家譜等に見える家伝によれば、小笠原氏は遠祖の貞純親王以来の「糾法」(きゅうほう、弓馬術礼法)を代々伝え、鎌倉時代には初代の小笠原長清が源頼朝の、2代小笠原長経が源実朝の糾法(きゅうほう)師範に命じられたとする。7代目の小笠原貞宗は南北朝時代に後醍醐天皇に仕え「弓馬の妙蘊に達し、かつ礼法を新定して、武家の定式とするなり」という御手判を賜り、このとき「弓・馬・礼」の三法をもって糾法とした。また「王」の字の紋を与えられ、これが現在にも伝わる三階菱の家紋である。 なおこの時期に、貞宗と一族の小笠原(赤沢)常興は『修身論』及び『体用論』をまとめ、今日の小笠原流の基礎を築いたとされる。 室町時代には、足利義満の命により、10代小笠原長秀が今川左京大夫氏頼・伊勢武蔵守憲忠と共に「三議一統」を編纂。武士の一般常識をまとめたとされる。18代小笠原貞慶は、「三議一統」後に加えられた記述をし、武家礼法を「小笠原礼書七冊」としてまとめた。 小笠原家は代々、総領家(本家)が糾法および小笠原流礼法全般をとりしきっていたが、総領家17代の小笠原長時とその子貞慶期には戦国大名として、信濃侵攻を行った甲斐の武田信玄と戦いを繰り広げる中、弓馬礼法の伝統を絶やさないため、永禄5年(1562年)、一族筋にあたる赤沢経直(小笠原貞経)に糾法的伝と系図、記録を携え、弓馬術礼法の宗家の道統を託した。道統とは小笠原の弓・馬・礼の三法の総取り仕切り役の正統継承を意味する。つまりこのとき、総領家と弓馬礼法の家が分離した。 この後、赤沢経直は徳川家康に仕えて小笠原姓に復した。弓馬礼法宗家筋となったこの家系(平兵衛家)は歴代将軍に仕え、将軍家子女の婚礼や元服の儀式に与るとともに、8代将軍徳川吉宗の命により復興された流鏑馬(騎射挟物)が第20代小笠原常春に預けられ、以後代々騎射師範として門弟を指揮し、高田馬場等で行うなどしている。 明治以降も継承され現在、小笠原清忠が弓馬術礼法教場31世宗家。弓馬術礼法の継承者として、大的式・百々手式・草鹿等の歩射、流鏑馬・笠懸などの騎射の各種の式を明治神宮や熱田神宮、伊勢神宮、靖国神社、鶴岡八幡宮など各地で行っている。 なお清忠の嫡男小笠原清基は特定非営利活動法人 小笠原流・小笠原教場の理事長を務めている。小笠原流礼法は登録商標(商標登録番号 第3076080号)となっていて小笠原教場以外が、「小笠原流礼法」の名称を使用して教えることは禁じられている。 なお、弓術流派としての小笠原流は、室町時代後期に戦陣の歩射を起源として興った日置流の斜面打起しに対し、騎射由来である正面打起しを行う点に特色がある。体配(行射の作法)も日置流とは異なり、今日的な用語で礼射系と分類される。射法に関しては日置流の影響を受けている。 小笠原流煎茶道(おがさわらりゅうせんちゃどう)は小笠原長清の父、加賀美遠光以来の作法とされる。小笠原流作法を基礎とした煎茶道の流派である。平成3年(1991年)財団法人小笠原流煎茶道が設立された。現在の家元は小笠原秀道(しゅうどう)。 小笠原家茶道古流のほかに、小笠原流を名乗っていないが、上記忠真の弟で三河吉田藩(愛知県豊橋市)主・小笠原忠知(その子孫は明治維新時は肥前唐津藩主、現在の佐賀県唐津市)が、三千家の祖の父の千宗旦の四天王の山田宗徧を迎えて興された流派がある。これが宗徧流茶道である。但し、これは千家の流派であるため、小笠原流とは呼ばない。 小笠原流の歴史に関しては、長らく本格的な学術的研究は行われていなかったが、二木謙一が「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」(『中世武家儀礼の研究』収録)にて、小笠原氏が武家故実の指導的立場となったのは室町時代中期以降であること、その主体も小笠原宗家でなく京都小笠原氏であること等を指摘して以来、定説となっている。 小笠原流の歴史については、海野幸氏・望月重隆・武田信光に次いで「弓馬四天王」の末席に小笠原長清が列され、初期の鎌倉幕府で重きをなしたことから 鎌倉時代以来武家社会の故実の立場にあったとされてきた。 しかし『吾妻鏡』には、小笠原家が「糾法師範」を勤めたなどの記述はなく海野幸氏〖弓馬の宗家〗と記載がある矛盾点から、弓道史家で小笠原流の弓道家齋藤直芳は、小笠原家が故実の中心であったことを否定している。 また二木によれば、そもそも鎌倉幕府では、小笠原家のような源氏系の故実より、むしろ藤原秀郷流の故実が重視されていた。 古来から朝廷や東国武士の間で勇名をはせる滋野家の望月の駒から産出される駿馬に騎射の技術は鎌倉幕府から弓馬の宗家と謳われ、同族の望月重隆は源頼朝から日の本一の弓上手という勇名を賜り、武田信光は流鏑馬の大会に於いて優秀な成績を修めているのに対し、小笠原家は有名の割に故実が乏しく戦果も心許無いのにも関わらず弓馬四天王に列されたのは、加賀美遠光の縁者であるが故の厚遇とされる。 ただ、当時の武家においては、家々に独自の故実を有している例が多いので、各家が独自のしきたりや故実を古くから有していたことが否定されているわけではない。 室町時代には 足利氏が将軍となったことで、幕府では秀郷流に代わり義家流の故実が標榜されるようになり、同じ清和源氏系の各家の故実も重視されるようになった。武家故実、特に殿中儀礼や諸儀礼が整ったのはこの時代とされる。二木は室町時代の資料調査をもとに、小笠原流が武家社会の規範となる地位を得たのは室町時代中期、足利義教の代であるとした。またそれを担ったのも従来言われていた小笠原宗家ではなく、京都小笠原氏であるとした。 京都小笠原氏は小笠原貞宗の兄弟小笠原貞長が始祖で、室町幕府の奉公衆となり、幕府初期より幕府の的始などにたびたび参加した。幕府の的始は重要な儀礼であり、その大役である弓太郎(一番目の射手)は京都小笠原氏から任じられる事が多かった。 ただ、京都小笠原氏の「将軍家師範」としての地位が確立したのは六代将軍義教以降である。のちに他の武家でも小笠原家の弓馬故実が重視されるようになり、武家社会の規範としての地位を得るにいたった。 この時代に多くの故実書も成立するが、『三議一統』のように成立年代や成立過程に疑義の呈されているものもあり、流派史をたどる上で注意が必要である(ただし史料としての価値と伝書としての価値は別のものである)。 戦国時代に室町幕府が衰退するとに諸儀式は途絶え、京都小笠原家も零落した。宗家の稙清は足利義輝の近習であったが永禄の変で義輝と共に討死し、稙清の子小笠原秀清(少齋)は細川氏に仕えた。子孫は熊本藩士となり故実を伝えた。 京都小笠原家の分家も奉公衆を勤め、故実に関与していたが、足利義澄没後に関東に下向し、姻戚の後北条氏の許に身を寄せた。北条氏没落後は旗本となった(縫殿助家)。 なおこの時代、総領家の小笠原長時や小笠原貞慶が故実研究に意欲を見せている。この系統からは小笠原一族の赤沢経直(旗本小笠原平兵衛家祖)、小池甚之丞貞成-斎藤三郎右衛門久也-水島卜也と続き世間に広く流布した系統などがある。そのため現存している小笠原流礼法の伝書に記される系譜は、多くのものが長時を初代としている。ただし、この系統に関しては、室町期の小笠原家の故実とは家系も性格も明らかに異なっていることを無視することはできない。 江戸幕府で故実に関わった小笠原氏としては、後北条氏の家臣となっていた家系(縫殿助家)と小笠原氏庶流の赤沢氏(平兵衛家)があった。 その他、小笠原長時の流れを汲む水島卜也(之成)は、江戸で新旧の内容を取り混ぜて故実礼法を教授した。天和元年(1681年)には徳川徳松の髪置の儀(七五三参照)の際に守役の堀田正英の命で白髪を献上し、これ以来有名となった。この流れは民間で積極的に教授された他、武家にも普及し、松岡辰方らの著名な故実家も輩出している。 江戸時代前期、幕府では弓術の将軍上覧が行われていたが、故実に依拠した射礼・騎射などは室町幕府以来途絶えていた。徳川吉宗は紀伊藩主時代からこれらの古式の復興に積極的で、将軍就任後も諸家に伝わる文書や絵を調査させ、流鏑馬、笠懸、犬追物、射礼(的始)等を復興させた。ただ流鏑馬については装束などの考証が十分ではなかったので流鏑馬ではなく「騎射挟物」と称し、新式の騎射として制定した。 復興した諸式は、歩射は小笠原縫殿助家(旗本、785石)に、騎射は小笠原平兵衛家(旗本、500石)にあずけ、各々が師範となって旗本などに教授し、式を司った。これ以後幕末まで、古式による射礼や騎射がしばしば行われた。 小笠原縫殿助家の幕末の当主錧次郎は講武所の弓術師範を務めたが、弓術はすぐに科目から除かれた。 なお、松尾小笠原家が藩主となった越前勝山藩においても流鏑馬や笠懸が行われていた。 維新後に縫殿助家は絶え、平兵衛家が小笠原流を司るようになった。武家社会の終焉により幕府などの後ろ盾を失ったが、旧来の兵法家、武家層などが流儀の保存に努めたほか、平兵衛家の当主小笠原清務は流儀の教授を一般にも開放し、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)、女子学習院などで作法を教授した。こうした近代化への対応と学校教育への採用により、明治以降も小笠原流の伝統は存続した。清務の次は清明が継ぎ、各地の流鏑馬復興に努め現在に至る。 小笠原流礼法は、武家における「礼法三家」の一つであり、この他、「伊勢流」と「今川流」が室町期当時に栄えていた。これは足利家が成り上がりの将軍であり、守護や大名に対して権威を高める必要が生じた為、三代将軍義満が、伊勢・小笠原・今川の三名家に礼法の師範を命じた事による(従って、小笠原流が礼法師範を独占していたわけではない)。また、近世に栄えた礼法として、「吉良流礼法」がある。 小笠原流馬術は一騎討ち全盛の時代に成立したもので、集団騎馬戦向きではない。 ^ 特に現存の関係団体の中には、自系統の来歴のみを記し、別系統について触れないものもある。 ^ 古くは伊勢貞丈が指摘しているが、この今川・伊勢の両人は両家の家系図には見られない人物である。これにより貞丈は『三議一統』を偽書としている。 ^ 例えば笠標の故実として秀郷の「佳例」を挙げ(『吾妻鏡』文治5年7月8日条)、秀郷の末裔であることから下河辺行平を頼家の弓術師範に任じている(『吾妻鏡』文治6年4月7日条)。 ^ 例えば、室町時代初期の記録ではあるが、了俊大草子では小笠原氏はじめ各家に作法の違いがあることが記されている。 ^ 北条早雲の正室が京都小笠原氏の出身 ^ 髪置の儀で、子供の長寿を願ってかぶせる白髪のかつら。 ^ 『福井県史』鯖江藩・勝山藩・丸岡藩の武芸 ^ 『歴史読本 特集天皇家の閨閥 明治・大正・昭和の皇室 昭和六十三年三月号』 新人物往来社 p.216 ^ 岸祐二 『図解雑学 剣豪列伝』 ナツメ社 2004年 pp.192 - 193 今村嘉雄・小笠原清信・岸野雄三(編) 『弓術・馬術』(日本武道全集第3巻)、人物往来社、1966。 宇野要三郎(監修)『現代弓道講座』第1巻(総論編)、雄山閣出版、1970。 国史大辞典編集委員会編  『国史大辞典』 吉川弘文館、1979-1997。 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2004年12月。ISBN 4642055843。 近藤好和 『弓矢と刀剣―中世合戦の実像』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、1997年7月。ISBN 4642054200。 『大諸礼集1~2 小笠原流礼法伝書』 島田勇雄 樋口元巳、平凡社〈東洋文庫〉。ISBN 4582805612。 神宮司庁 『古事類苑 武技部』 古事類苑刊行会、1932。 日夏繁高 『本朝武芸小伝』 享保年間。 二木謙一 「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」『中世武家儀礼の研究』 二木謙一、吉川弘文館、1985年。 綿谷雪編 『武芸流派大辞典』 人物往来社、1969。 有職故実 弓術 騎射三物 弓道 伊勢流 小笠原流弓馬術礼法・小笠原教場(平兵衛家系) 小笠原流鎌倉古式弓道保存会(上記の一支部) 儀式の解説など。 公益財団法人 小笠原流煎茶道", "打毬(だきゅう)は日本の競技・遊戯。馬に騎った者らが2組に分かれ、打毬杖(だきゅうづえ。毬杖)をふるって庭にある毬を自分の組の毬門に早く入れることを競う。現在は、宮内庁と青森県八戸市の長者山新羅神社、山形県山形市の豊烈神社にのみ伝承され、長者山新羅神社と豊烈神社では騎馬ではない「徒打毬(かちだきゅう)」も行われる。 紀元前6世紀のペルシャ(現在のイラン)を起源とし、古代中国を経て伝来したもので、ペルシャからヨーロッパに伝播し、イギリスで近代化されたポロとは同源とされる。 中国からの伝来時期は不明であるものの、『万葉集』巻6には神亀4年(727年)正月に王子諸臣が春日野に集まり、打毬をおこなったことが見える。 『西宮記』に5月6日に天皇が武徳殿に行幸して打毬を観覧したことが見え、それによれば打毬者40人(左右近衛府官人以下各15人、兵衛府官人以下各10人)を2番として、各左右馬寮の馬をひきいて、左右近衛の陣の後から、毬門の東辺を経てつらなって、内匠寮から上る毬子29を柳営に盛って、机に置き、主上(天皇)への拝の後に馬に騎ってともに階下に進むと大臣が毬を投げ、これを互いに争い打ちながら、南北15丈で高さ2丈ほどの柱2本を立てて設けた毬門に投げ入れ、もし勝てば幡を挙げて示し、ついで奏楽が行われることになっている。 いつの間にか衰えたが、江戸時代になって練武の必要から享保年間に徳川吉宗により再興された。例えば、弘化2年8月から同3年に行われた大坂城在番の記録には、在番中の大番が打毬を行ったという記述が複数ある。 江戸時代の方法は、毬門に紅白の験を立てて、毬門内に騎者10人、左右5騎ずつくつわを並べ、控える。騎者の後方左右に、勝負の合図に鉦鼓を打つ役人がいて、毬目付毬奉行門のかたわらでたがいに毬の出入りを検し、勝敗を分かつことを司る。また、勝振麾という紅白の麾を左右にならべたて、毬が門にはいるたびごとにこれをふりあげ、また毬がすべて入り終わったときに勝鬨歌をあげるのにもちいる。馬場の他方の端には、紅白の毬を左右相対して数十ずつ並べて、柱2本を立てて、これに目当ての験として紅白の麾がつけてある。中央には毬奉行1人が扇子をもって控える。 定刻になると、馬場殿から継上下着用の役人が来て、毬奉行に打毬を開始するようにという君命を伝える。毬奉行は毬門のほうにむかって日の丸の扇子を開いて、頭上高くあげて、合図を送る。合図に応じて、毬門内に控えていた騎者らは毬杖を横にして右の手綱にもちそえ、馬乗袴、綾藺笠、紅白縮緬の襷、同じ笠標を腰にさし、左右に敵味方相対して、一直線に乗りとおり、順次駐まる。毬門の方の毬目付が合図の麾をあげると、各騎者は杖を下し、毬目付が麾をふりあげると、端の馬から順番に声を発し、早足で乗り出し、自分の毬をすくってはわれさきに投げ入れる。最初に毬を入れた者は、毬に続いて自分も毬門に乗り込み、声をあげると、そのときその方の麾をふる。これは初入の手柄という。もし門の外から毬が入ったときは、やり直しである。 白方へ紅毬、紅方へ白毬といりみだれて入ったときは、たがいに入れさせないよう馬を乗りまわして、敵方の行方を遮りさまたげる。初入のない間は、互いに敵の毬に触れることは禁じられ、初入のあった後は、敵の毬をすくって後へ戻すことができ、双方初入のあった後は、相互に敵の毬を戻し味方の毬を入れようと争うことができた。毬がことごとく入ってしまったときは、勝方の鉦鼓をならし、勝方の勝振麾をあげ、勝敗の決したことをしらせる。これを見て勝ち方の騎者はみな毬杖をふりあげながら味方の毬門から乗りこみ勝鬨をあげる。負方は門外にひかえ、勝鬨が終わり毬奉行が合図の扇子を出すときにウマをもとの地に駐める。坊主はこの間に毬を拾って器に入れ、もとのように並べ、2回目に入る。 2回目は最初、端の馬であった者は後にまわり、2番目の者が端になり、3回目には3騎目、4回目には4騎目と、順番に端を騎り、4回目で全体の勝敗を決する。勝ち方は君前に召し出され、ほうびの禄をたまわる例であった。 毬は、かつては毛を入れて作り、革または布でつつみ、周囲約8寸、円形または楕円形であった。 毬杖は、篠竹を馬の背丈の長さに切り、大竹をわりまげて鉤形にしたものを先に結びつけ、細紐で網がはってあった。 ポロ ブズカシ 蹴鞠 左義長 流鏑馬 打毬(だきゅう) - 宮内庁による解説 豊烈神社例大祭 山形豊烈打毬(古式打毬)・御神輿渡御] - 山形市観光協会", "弓術(きゅうじゅつ)は、弓を用いて矢で的を射る技術、武術である。以降は日本古来の武術、弓の中でも長弓に分類される和弓を用いて矢を射る日本の弓術のことを述べ、またこれを指して弓術とする。 日本の弓術は独自の発展を遂げ、ヨーロッパでの短弓を用いる技術体系を元に成立した現代スポーツのアーチェリー等とは全く異なり、日本独特の技法・文化・歴史を持つ。歴史的にはほぼ同義語的に弓術、射術、射芸等とも呼ばれていたが、現在では日本における伝統的な弓射文化を総称して「弓道」と呼称されており、「弓術」とは「弓道」へ改称する以前の古武術との意味合いで使われることが多い。ただし現在でも「弓術」を名乗り古流を厳格に維持する流派や、また古流を維持しながらも「弓道」とする流派・団体も有り、「弓道」「弓術」の境界は必ずしも明確にあるものではなく、思想・技術面から見ても明確に分類できるものではない。本項では、現代武道としての弓道の母体となった日本古来の弓射技術・文化を指して「弓術」とし、明治維新までを中軸とした一部弓道改称時点までの事情を記述する。 日本の弓術がいつ頃『術』として体系化されたか、また起源など弓矢の始まりが先史時代という事もあり明確な史料に乏しく定かにはなっていない。弥生時代には現在の和弓の原形(長尺・上長下短:後述)が現れ戦争に使用される等、何らかの射術技法があったと推察する事も可能だが、やはり詳細は不明である。礼射思想については飛鳥時代末期には文武天皇により『大射禄法 』が定められたものに起源が見られ、朝廷の間で次第に弓射に関する礼射、礼法が整理され、また同時に技術も体系化、単なる射術から『弓術』として成立していったものと思われる。 一方で弓は武器として狩猟、戦場で用いられた事は勿論だが、人々の間で弓矢には霊妙な力があると信じられており、奈良時代には弓矢の奉納 、弓射神事が行われ、またそれらを起源とした祭りや神事が現在でも各地に残っている。平安時代には弓術流派が興り、各種流派にはそれぞれに独自の技術・教え・作法が存在した。戦場、祭礼行事、朝廷での故実・年中行事などに於いて弓術流派はそれぞれに活躍、発展していく。 戦国時代中期頃には鉄砲の登場により弓は戦場の一線から退くが、実戦から離れても弓術は武術としての地位は変わることなく、泰平の世となった江戸時代においても弓術は表芸として、また心身鍛錬の道として依然人気は高かった。時代と共に技術、道具共に研鑽が重ねられ、また同時に諸流派それぞれに独自、或は相互に発展を遂げた。流派によっては実際の戦場を想定した稽古もあるなど、その稽古内容は今日に見る弓道よりも多彩である。ただし、幕末頃には弓術の基本的な技術体系は各種流派それぞれに通じる所もあり、特徴としての差異はあっても和弓を用いる根本的な弓射技術は各種流派とも大同小異である。今日の弓道に繋がる弓術は技術、道具共に江戸時代に大成したと言っても過言ではない。 明治維新後、幕府崩壊と明治政府による近代化政策の煽りから、武術は時代遅れとされ衰退する。これを重く見た当時の武術家有志により明治28年(1895年)大日本武徳会が結成され、弓術含め各武術の普及を図る。大正8年には弓術は弓道へと改称、武徳会は幾度か射法統一を試みるが普及せず、第二次世界大戦後に解散。その後当時を代表する弓道家らにより、射の過程をその推移に順応して8つの節に分けて説明される「射法八節」が定められ、弓道は現代武道として復活を遂げる。(戦後の弓道史は弓道#歴史を参照されたい。)弓道においても弓術とほとんど変わることはなく続いているが、弓術に至っても昔のまま引き継がれている場合があり、現在でも伝統のある流派などが存在している。 他国の弓術と比較した時にまず目を引くのが、人間の身長より遥かに長い和弓である。和弓は世界最大とも言われる標準で七尺三寸(221cm) の長さを持つ。これは高い弾性限界を持つ動物素材を用いる短弓と違い和弓は弾性限界の低い木・竹を張り合わせる植物素材で作られているため、耐久性と威力を求めた結果、長大になったとも言われる。またもう1つの目立つ特徴として弓幹中央より下側に握りが来るように造られている。この上下非対称の構造のため握りの上下で弓の反発力に差が生じるが、この反発力の差を利用した弓術独特の技術が生まれ、またその技術をより活かすための造りをしている。 また世界の射術を見ると概ね弦を首元までしか引かないのに対し、日本の弓術は弦が耳の後ろに来るまで大きく弦を引き取る。従って矢の長さもそれに応じて長く造られている。 矢を番える際は、矢を(身体から見て)弓の右側に番え、取り掛けは右手親指根で弦を引っ掛けるようにして保持する『蒙古式(モンゴル式)(図Fig.3)』を採る。(洋弓は人指し指から薬指を使って弦を保持する『地中海式(図Fig.1)』を採る)蒙古式の取り掛けはトルコ・モンゴル・中国・朝鮮など短弓を使用する地域にも共通して見られ、また蒙古式を採る射法では多く矢を弓の右側に番える。これは一説では疾走する馬上で向かい風を受けても矢を取りこぼさないように工夫したためとも言われる。ただし、笠懸や犬追物などでは進行方向右側に向かって矢を放つ場合もあり、一様に当てはまる根拠ではない。世界的には馬上での弓はその取り回しのし易さから短弓が用いられるが、日本では例外的に長弓の和弓が使用されてきた。和弓には弓の右側に位置する矢を真っ直ぐに押し出すための『入木』という反りが付けられており、射法もそれを活かすために『角見(つのみ)』の技術が発達してきた。また江戸時代以降は右手に嵌めるゆがけの構造が大きく変化し、これも日本独特の構造、独特の技術を生む切っ掛けとなった。 弓矢は古くから軍事・狩猟に使用され、競技・遊戯・神事にも使用された。日本弓術の特徴は、中国の影響を受けて弓射の文化的要素が発達したことである。以下弓射をいくつかの視点で分類する。 弓術には流派間の違いやその特徴によって様々な射法、様式が存在するが、これらの特徴を弓射の「理念」および「射法」に着目して整理した以下の分類が一般的である。 儀礼的か実戦的かの性格による分類。「文射・礼射(ぶんしゃ、れいしゃ)」、「武射(ぶしゃ)」の2側面。 行射形式、射術方法による違いから、「騎射(きしゃ)」、「歩射(ぶしゃ)」・「堂射(どうしゃ)」の3種。 実際には各流派には様々な歴史的経緯の上で、上記(1)・(2)の各種に重点を置いた思想・教えがあり、それが流派の特徴となっている。 「文射・礼射」・「武射」の2側面。ただし近世の弓術はこの両側面を備える場合が多く、単純に二分できるものではない(#近世弓術の特徴参照)。 文射とは礼射ともいい、弓射の儀礼としての側面である。射は古代中国において 六芸の一つに数えられ、貴族層に必須の素養とされた。論語には「君子は争う所なし。必ずや射か。揖譲して升り、下りて飲ましむ。その争いや君子なり。」とあるなど、支配者層の弓射が文化的・儀礼的性格を強く持っていた。 こうした弓射思想は古くから日本にも伝わり、その後も一貫して存在し続け、現代の弓道の思想にまで大きな影響を与えている。 朝廷では天智朝(7世紀後半)には既に年中行事として大射(射礼〈じゃらい〉)が行われるなど、種々の“儀礼の射”(「礼射」)が行われた。 武家社会においては、弓射の実利的側面が重視されたのは当然であるが、同時に儀礼的側面も重んじられ、公家の弓射儀礼を基礎としつつ様々な礼式が発達した。特に年初の的始(後には射礼と称された)は重要とされた。こうした礼式には逸見・武田・小笠原・伊勢・吉良などの家々に独自の伝があったという。室町時代中期以降は京都小笠原氏が武家故実の中心となった。 その伝統を受け継ぐ小笠原流は武家社会での礼式に則った射の流れを汲む流派であり、今日の弓道で「礼射系」といえば、小笠原流に由来する作法や射法のことをいう。 武射とは弓射の武器としての側面であり、実際の戦場を想定した弓術の系統である。鉄砲伝来まで弓矢は最有力の武器であったことから重んじられ、的中と矢の威力を高めるため、技術の発展と道具の改良がなされてきた。戦国時代初期に発生した日置流により歩射を中心とした弓射技術は大きく進歩し、様々な実戦的技術、たとえば遠矢や矢合せ、槍の脇からの射、狭間からの射などが工夫された。泰平の世となった江戸時代以降も流派によっては実戦的価値に重きを置き、弓射戦術や甲冑を着用しての稽古が行われてきた。 日置流には武射傾向の強い流派が多く、今日「武射系」といえば、日置流諸派やそれに由来する作法・射法のことである。 江戸時代、太平の世にあって弓矢が武器としての役割が消える中で、武射系統も礼法を摂取することにより文武の側面は融合し、弓術は武芸としての一面が目立つようになっていった。この時代の弓術の概観を示す物として、江戸時代初期の大和流流祖・森川香山のよる五射六科がある。五射は代表的な射法を、六科は弓術家として身につけるべき事項を挙げたものである。 射に「真行草」あり、として各種の射が分類されることもあった。 『真』…「的前」(近的)の普通射形 『行』…繰矢(くりや)・矢文の法 『草』…指矢・堂射 また、定められた作法に則り、礼法に従って射を披露することを射礼や体配などという(「体配」とは日置流系の用語)。今日では全日本弓道連盟により「一手射礼」「巻藁射礼」などいくつかの射礼が定められており、現存の各流派もそれぞれ独自の射礼(体配)を伝えている。 ただし江戸時代には「礼は小笠原、射は日置」といわれ、礼法については小笠原流が、射法については日置流が専門であると認識されていた。 弓射は伝統的に、騎乗か徒立(非騎乗)かにより騎射と歩射に分けられてきた。また日置流誕生以降、歩射技術が様々に発展したが、その中でも江戸時代に隆盛した通し矢(堂射)は独自の発展を遂げた。様々な射法は「五射」(上述)に挙げられている。 騎射(きしゃ・うまゆみ)とは歩射に対しての用語で、騎乗して行う弓射。武士の表芸ともされたことから「弓馬」は武芸一般や戦そのものを指すようになり、~の道とは武士の守るべき道を意味した。中世前期まで戦場での主要な戦闘法であったが、南北朝時代頃から弓射の主体は歩兵となり、騎兵も下馬して射るようになったため、騎射戦闘は消滅していった。騎射の訓練としては狩猟が盛んに行われ、また儀式・競技化された流鏑馬、笠懸、犬追物(総称して騎射三物という)も流行した。技術的には歩射射法とかなり異なる。騎射を伝えた流派としては小笠原流、武田流が有名。ただし、江戸時代では弓馬自体の言葉もあまり使われなくなり、それに追い打ちを掛けるように騎乗に制限が加わった。そのため、騎射や流鏑馬を行えた者は少数であった。 歩射(ぶしゃ・かちゆみ・「ほしゃ」は正式な読みではない)とは騎射に対しての用語で、騎乗せずに地面に立って行う弓射。南北朝時代以降、戦陣において歩射が一般化すると、戦国時代初期には歩射弓術を基礎とする日置流が発生し、矢を遠くへ飛ばす繰矢・尋矢(くりや、遠矢とも)、速射をする指矢(さしや、数矢とも)など様々な技法が発展した(五射参照)。武射系では、膝を着いて弓を引き、的(敵)を射る射術が基本であり、その他にも様々な体勢の技術が伝わる。 堂射とは江戸初期に京都三十三間堂、江戸三十三間堂、東大寺などで盛んに行われた通し矢競技の射術。弓射の分類は伝統的に騎射と歩射の二分類であるが、江戸時代に堂射が隆盛し独自の発展を遂げたので、射法の系統としては堂射を加えた3分類とされることが多い。堂射は高さ・幅に制限のある長い軒下(三十三間堂は高さ約5.5m、幅約2.5m、距離約120m)を射通す競技で、低い弾道で長距離矢を飛ばし、さらに決められた時間内で射通した矢数を競うため、独自の技術的発展を遂げた。江戸時代中期以降堂射ブームは沈静化したものの、堂射用に改良された道具(ゆがけ等)や技術が後の弓術に寄与した面は大きい。日置流尾州竹林派、紀州竹林派の射手が驚異的な記録を残した事で有名。 日本の弓射には遊戯的側面をもったものも存在した。朝廷行事の賭弓(のりゆみ)では、的中場所により賞品が支給され、敗者には罰杯を課すなど遊戯的性格を持っていた。鎌倉時代発祥の「草鹿」も「遊射」とされ、厳格な儀式の射とは異なるものであった。江戸時代には賭弓(かけゆみ)は厳しく規正されたが、一部には免許のもと営業する矢場があった。明治以降も料金を取って弓を引かせる店が繁華街を中心に多く存在したが、今日では数えるほどしか存在しない 。 また大弓(通常の長さの弓)より小さい弓を用いるものとして、楊弓という吊り的を射る遊びも上流階級を中心に、後には庶民に親しまれた。江戸時代の楊弓場では矢取りのために女を置き、密かに売春させる例もあった。 宮崎県飫肥(おび)地方(現日南市)発祥の四半的弓道は、戦国時代に農民が半弓を持って戦闘に参加して勝利に貢献した功により、領主から遊戯用として使用を許されたと伝わるもので、同地で愛好されてきた。近年、娯楽・スポーツとして各地に普及しつつある。 現在でも各地の神社では「奉射(ぶしゃ)」・「御弓神事」などと称する弓射行事が行われている。多くは単なる競技ではなく、年占的性格を持つ宗教儀礼として行われている。こうした行事は朝廷や幕府の弓射儀礼に由来するとされる。 さらに弓矢は様々な形で祈祷や民間習俗に取り入れられている。 弓矢の歴史は石器時代にまで遡る。石鏃、簡素な造りの木弓が用いられた。日本では縄文時代草創期(13000年〜10000年前)には既に登場し、狩猟の道具として使用される。漆塗りに装飾を施した弓が狩りとった獲物と共に埋葬されるなど、呪術的・霊的用途に使われた形跡が既に見られる。弥生時代に入ると狩猟生活から稲作へと人々の生活が変化、それに伴い土地や水源確保のため領地争いが盛んになり、戦いの場で弓矢も武器として使用される。この時弓矢により強い威力を求めた改良がなされ、長尺、弓幹下側を握る弓となる。古墳時代には魏志倭人伝の記述から既に和弓の原型が見て取れる。 飛鳥時代、『日本書紀』に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜に看す。乃ち馬的射させたまふ」、他にも「騁射」「馳射」との記述があるなど神事としての騎射の原型も読み取れ、また飛鳥時代末期には文武天皇により『大射禄法』が定められ、展覧されたとの記述もある。『続日本紀』には奈良時代には盛んに騎射が行われていたとの記述がある。室城神社の『矢形餅の神事』などは起源が奈良時代まで遡り、既に弓矢の霊妙な力が信じられていた様子が窺える。古代までにはなんらかの弓術、礼式の形はあったと考えられるが、しかし史料も乏しく史実としての古代の弓射の実体は解っていない。またこの頃から存在していたという流派が伝承などで見られるが、史実としては後世の創作である可能性が高い。従って当時の流派の実在や、その発祥起源も不明である。 この数百年の間に和弓の構造は大きく進化(詳細は和弓#歴史欄参照のこと)、江戸時代初期には堅帽子ゆがけの発明(ゆがけ項参照のこと)、さらに技術面では「角見」「弓返り」の技術が発明される等、この時期に弓術は現在の弓道に繋がる大きな進歩を遂げる。 平安時代の10世紀頃、武家が登場した後、騎射・弓術は武芸として弓馬の道とも言われた。騎射・弓術は実戦武術としての稽古も盛んに行われるなど、戦国中期までは戦での主戦力であり非常に重要となった。また、弓矢は邪を祓う力があるとされ、霊器・神器として、精神性の高いものとして扱われていた(現在でも破魔弓として信仰の名残や各地で弓道、流鏑馬神事が行われている)。鎌倉時代には「騎射三物」と言われる、流鏑馬・犬追物・笠懸が武芸の一つとして、また行事ごとにおいて盛んに行われたが、室町時代・安土桃山時代と時代が進むにつれ一時的に衰退する。戦国後期に「弓」が戦場の主戦力から後退するが、依然「弓射」は武芸として、心身鍛練の道として流派と射術は発展していく。江戸時代に入ると流派単位の活動が盛んになる。江戸初期には三十三間堂の軒下(長さ約120m)を射通す「通し矢」が次第に盛んとなっていった。寛文9年(1669年)星野勘左衛門(日置流尾州竹林派)によって総矢数10,242本・通し矢数8,000本、貞享3年(1686年)和佐大八郎(日置流紀州竹林派)によって総矢数13,053本・通し矢数8,133本という大記録が生まれる。江戸中期、徳川吉宗により一時衰退していた流鏑馬が奨励され、以降、復興した流鏑馬が全国の神社等で神事として行われる。 明治維新後は幕府の崩壊、各制度が廃止され武術は武芸としての目的を失う。文明開化、欧化思想の中で武術そのものが『時代遅れ』とされ、弓術もその例に漏れず衰退の一途をたどり、大衆の意識では『弓』と言えば賭け弓等の娯楽・性風俗の弓を指す程までにかつての弓術は影を潜める。その世相の中、一部の弓術家らは各々自宅道場を開く等、根強く弓術の存続に力を注ぎ、やがて武芸において再認識がされるなど次第に庶民の間でさらに武術が普及・見直され、明治28年(1895年)当時の武術家有志により大日本武徳会が結成され、弓術も奨励され心身鍛錬を目的として学校教育に取り入れられる等普及を図る。大正8年(1919年)に弓術は弓道へと改称、弓道含め各武道の普及は日本の内地(日本国内)に留まらず外地(日本が統治する国外の土地)にまで及んだ。ただ、当時の歴史的世相を反映して、武道は次第に国家の影響を受けるようになっていったとされる。 武徳会の目的の一つに剣道形・柔道形など形の体系化があり、弓道もそれに習う形で射法統一が試みられた。昭和9年(1934年)様々な流派を代表する弓道家や武徳会弓道部役員が集まり、武徳会本部で射形統一が話し合われ、喧々囂々の議論の末「弓道要則」を制定した。しかし、流派関係者や文化人からの批判が相次ぎ、新聞紙上でも論争が起きて「鵺的射法」とまで揶揄されるまでに不評であった。武徳会が政府の外郭団体として再出発する際に再度射型改善の声が上がり、昭和19年(1944年)に「弓道教範制定委員会」の手によって「弓道教範」が作成され、「弓道要則」の射法と、従来の正面・斜面の射法を併せて認めるに至り終戦を迎える。第二次世界大戦後、GHQにより武徳会は解散(昭和21年(1946年))させられ武道全般禁止となるが、時の弓道家の尽力により昭和24年(1949年)日本弓道連盟設立。弓道は『修養の道』として復活し、当時を代表する弓道家らにより『射法八節』が定められ、現在に至る。(詳しい経緯やその後は、弓道#歴史を参照のこと。) 日本の弓術は古代より、騎乗して行う弓射・騎射(きしゃ/うまゆみ)、騎乗せず立って行う弓射・歩射(ぶしゃ/かちゆみ。近年では武射との混同を避け「ほしゃ」とも。)に分類されてきた。これに加え、江戸時代に流行した三十三間堂の通し矢・堂射(どうしゃ)も一大分野である。各時代で騎射・歩射・堂射それぞれにあわせた射法が研究されてきた。この基本的な分類は明治期まで一般的であったが、時代が経つにつれて射手の多くからは忘れられていった。「歩射」「騎射」「堂射」の概念を根本に置くと流派の性格を理解しやすい。(ただこれらの分類は射法の違いであって、必ずしも流派の違いに直結するものではない。)小笠原流では歩射と騎射は別物であり、「歩射」「騎射」「礼法」と分けて考えられ免許もそれぞれ別にある。日置流諸派では歩射と堂射の両方を行った系統もあるが、歩射を重んじて敢えて堂射を行わなかった系統もある。 弓術の流派には様々な名称のものが伝わるが、古い流派は実体が不明なものが多く、「流」とは称していても今日的な流派と同様のものではない。『現代弓道講座』では主な流派として尊流、神道流、日本流、鹿島流、太子流、伴流、紀流、秀郷流、逸見流、武田流、日置流、大和流、小笠原流をあげているが、そのうち近世以降に見られる流派は小笠原流、武田流、日置流、大和流である。これらを大別すると、故実を中心とする弓馬故実の流派と、射法を中心とする弓術の流派に分けられる。 なお、現在では弓道を礼射系・武射系と分類しているが、実質的に礼射系は小笠原流、武射系は日置流系に該当する。 小笠原流・武田流は「もっぱら法式を第一とする」(「弓術要覧」『古事類苑 武技部』)とされ、弓馬に関する故実(弓馬故実)の流派である。騎射を行うのはほぼこの系統の流派であり、流鏑馬・笠懸などの騎射のほか、歩射の諸儀式などを伝える。武家社会においては伝統的に弓馬術が重んじられ、鎌倉~室町時代には弓馬の諸式が盛んに行われた。室町時代には故実の整備が進み、これらの流派に伝えられた。 小笠原流…鎌倉時代の小笠原長清を祖とし、室町時代の小笠原貞宗・小笠原常興によって大成されたとする流派。室町幕府において弓馬故実の中心的地位を得、江戸幕府でも重んじられた。古くから「礼の小笠原」と讃えられてきた。歩射も盛んであり、現代の弓道において主要な流派の一つである。 武田流(細川流)… 安芸武田氏・若狭武田氏の故実を伝える流派である。安土桃山時代に若狭武田氏の縁戚であった細川藤孝(幽斎)に伝授され、江戸時代は細川流弓馬軍礼故実と称して熊本藩で保護された。現在では騎射中心で、歩射の式は行っていない。兵学の武田流(甲州流)とは異なる。 日置流、大和流など。日置流祖の日置弾正正次は射術の祖とされ、日置流は後の弓術の中核となる。 日置流(大和日置)(へき)…室町時代中期ごろの日置弾正正次に始まる。当時の合戦では弓射の主体は歩兵であったので、歩射が中心の流派である。日置流は後に吉田氏に受け継がれたので吉田流とも呼ばれる(竹林派を除く)。 安土桃山時代から江戸初期にかけて多くの分派に分かれた。礼の小笠原に対し、「射の日置」と称されてきた。三十三間堂の通し矢に参加した射手は日置流系であった。 以下、各派とその始祖を示し、系統関係を字下げで表す。系統は代表的な説によるが、実際の系統は複雑、不明確な点もあるため、各派の関係を完全には示していない。 日置流(大和日置) 出雲派(いずも)…吉田助左衛門重高(出雲守、露滴)。 山科派(やましな)…片岡平右衛門家次、または孫の助右衛門家清。 左近右衛門派(さこんえもん)…吉田左近右衛門業茂(木反)。孫の小左近茂成からは左近派とも。 大蔵派(おおくら)…吉田大蔵茂氏。 大心派(だいしん)…田中秀次(大心)。 印西派(いんさい)…吉田源八郎重氏(印西)。一部の系統は日置當流とも。 寿徳派(じゅとく)…木村寿徳。 雪荷派(せっか)…吉田六左衛門重勝(雪荷)。 道雪派(どうせつ)…伴喜左衛門一安(道雪)。 日置流(伊賀日置)(へき)…日置弥左衛門範次の系統。竹林派はこの伊賀日置流の系統を主張する。上記の大和日置流との関係は不詳である。 竹林派(ちくりん)…石堂竹林坊如成。吉田流の吉田氏との関係も指摘されるが、詳細は不明。 石堂竹林派…石堂家の系統。 尾州竹林派…尾張藩に伝わった系統。尾州竹林流とも。 紀州竹林派…紀州藩に伝わった系統。 大和流(やまと)…森川香山により江戸時代初期に創始された。香山は父より日置流寿徳派を学び、その後諸国を遊歴して日置流道雪派、大蔵派、印西派、竹林派、武田流、小笠原流、逸見流の秘奥を究めたという。神道思想を中心とした儒仏の思想をも織り混ぜて大和流として大成させた。 その他の流派 一貫流(いっかん)…大野又兵衛一貫により寛政年間に創始された。 応心流(おうしん)…高木尚三郎正朝(応心斎)。応心斎は紀州出身。挙母藩などで指導した。弟子に挙母藩士で後の新撰組隊士安藤早太郎など。安藤は天保年間に東大寺大仏殿の西廊下で通し矢を行った。 吉田当流(新発田藩、熊本藩)、豊秀流(会津藩)、太子流(姫路藩)など。 明治時代以降に成立した諸流派。弓術ではなく弓道を名乗る流派も含む。 本多流…本多利実の弟子たちによって大正時代に創始された。日置流系であるが正面打起しである。 大日本射覚院…大平善蔵が大正12年に創立。禅の思想を取り入れた流派。大平は本多利実の高弟。 大射道教…阿波研造が昭和初期に創始した流派。宗教的な面が強い。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』で有名。阿波は本多利実の高弟。 正法流… 吉田能安によって創始された。吉田は阿波研造の高弟。 無影心月流…梅路見鸞が創始した流派。 源為朝 那須与一 下河辺行平 河村義秀 武田信義 小笠原長清 海野幸氏 望月重隆 宇都宮頼業 小笠原貞宗 小笠原常興 愛甲季隆 一宮随波斎 - 随波斎流創始者 足利義輝・今川氏真に仕える。 日置正次 - 日置流(へきりゅう) 吉田重氏(吉田源八郎・一水軒印西・葛巻源八郎) - 日置流印西派 大島光義 足利義輝 今川義元 朝倉義景 太田資正 花房正幸 六角義治 柴田勝家 武田信玄 内藤正成 六角義賢 太田牛一 七条兼仲 一栗放牛 那須資景 別所長治 小笠原秀政 那須高資 小笠原貞慶 小笠原長時 六角義堅 六角定頼 吉田重政 真弓広有 大弓音人 石堂竹林坊如成 吉田六左衛門雪荷 伴道雪 森川香山 吉見順正 星野茂則(星野勘左衛門) 和佐範遠(和佐大八郎) 本多利実 阿波研造 オイゲン・ヘリゲル 吉田能安 浦上栄 梅路見鸞 ^ a b 706年(慶雲三年)文武天皇により『大射禄法』が定められる。続日本紀・類聚国史より。 本文 《慶雲三年(七〇六)正月壬辰(十七)》○壬辰。定大射禄法。親王二品。諸王臣二位。一箭中外院布廿端。中院廿五端。内院卅端。三品・四品・三位。一箭中外院布十五端。中院廿端。内院廿五端。四位、一箭中外院布十端。中院十五端。内院廿端。五位、一箭中外院布六端。中院十二端。内院十六端。其中皮者。一箭同布一端。若外・中・内院及皮重中者倍之。六位・七位。一箭中外院布四端。中院六端。内院八端。八位・初位。一箭中外院布三端。中院四端。内院五端。中皮者、一箭布半端。若外・中・内院。及皮重中者如上。但勲位者不着朝服。立其当位次。 訳文 大射(射礼)において、親王で二品の者・諸王臣で二位の者は、矢(箭)一本が外院(的に画かれた三つの輪の一番外の輪)に中れば(賞品として)布を20端、中院に中れば25端、内院に中れば30端与える。 ^ a b 聖武天皇が当時流行した悪病を退散するため、室城神社に弓矢を奉納したという言い伝えがある。以来、『矢形餅の神事』では弓と矢を形どった餅を作り人々に配る事で疫病除けとしている。 ^ 鎌倉時代に七尺五寸(227cm)が標準と定められ、江戸時代初期に七尺三寸(221cm)が標準と改められる。鎌倉以前は2.4mに及ぶ弓も存在し、正倉院に納められ現存している。 ^ 『論語・八佾第三』原文:子曰、君子無所爭。必也射乎。揖讓而升、下而飮、其爭也君子。 訳:君子はめったな事で争う事はなく、あるとすれば射礼の時のみである。しかしその時でさえ礼儀正しく、会釈をして互いに譲り合い堂(射場)に上り、射終わり堂を下りると杯を酌み交わす。これが君子たる争いである。 ^ 九年春正月、乙亥朔辛巳、詔士大夫等、大射宮門内(日本書紀卷廿七天智紀(天智天皇9年、670年)) ^ たとえば流鏑馬は朝廷の年中行事の騎射(うまゆみ)に由来し、鎌倉幕府初期から行われていた的始も同じく朝廷の射礼に習ったものである。 ^ ただしそれらの違いは大同小異であったという。本多利実 弓道保存教授及演説主意 一名 弓矢の手引、明治22年8月。 ^ 矢を持つとき射付節を持つ、乙矢を薬指と小指の間に打込む、足踏みを開くとき一足で開く、など。 ^ 矢を持つとき矢尻を持つ、乙矢を中指と薬指の間に打込む、足踏みを開くとき二足で開く、など。 ^ 稲垣源四郎・入江康平・森俊男 『日本の武道 弓道・なぎなた』 講談社、1983年。 ^ 真行草とは漢字の書体であり、諸芸術の表現法の概念を示すものである。 ^ 日葡辞書によれば、「体配」とは「弓の礼儀作法のこと」という。江戸時代は幕府の命で「たいはい」と平仮名で記した。これは体配とすると殺気が感じられ礼を失するからという。 ^ a b 近藤好和 「騎兵と歩兵の中世史」 吉川弘文館、2004年。) ^ 日置流等の武射系統でも騎射を行う例はあった。 ^ 小笠原流弓馬術礼法 ^ 一例として園山大弓場(京都市所在) ^ 一例としてマト(弓引き)-神戸市を参照のこと。 ^ (家伝に基づく説であるが、現在ではこうした来歴は疑問視されている。二木謙一 「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」『中世武家儀礼の研究』 二木謙一、吉川弘文館、1985年。) ^ (「今に至りて射を学ぶ者、日置の射法に倚(よ)らざるなし。ゆえに正次を以て射術の始祖となす。」『本朝武芸小伝』) 今村嘉雄・小笠原清信・岸野雄三(編) 『弓術・馬術』(日本武道全集第3巻)、人物往来社、1966。 宇野要三郎(監修)『現代弓道講座』第1巻(総論編)、雄山閣出版、1970。 国史大辞典編集委員会編  『国史大辞典』 吉川弘文館、1979-1997。 神宮司庁 『古事類苑 武技部』 古事類苑刊行会、1932。 日夏繁高 『本朝武芸小伝』 享保年間。 綿谷雪編 『武芸流派大辞典』 人物往来社、1969。 騎射三物 弓道 和弓 鏑矢 矢 ゆがけ 巻藁 (弓道) 鸚鵡籠中記 - 作者朝日重章は弓術師匠の朝倉忠兵衛の後継ぎと目され娘けいと結婚。 阿波研造 梅路見鸞 鳥取藩一貫流弓術 一貫流伝 昭和8年弓道統一 武田流弓馬道 「礼記射義及射法訓」 日本武道の形成と大正生命主義: 阿波研造の弓道を視点として 弓術書をどう読むか" ]
ABC01-02-0256
デキシーランドジャズ発祥の地といわれる、アメリカ・ルイジアナ州の都市はどこでしょう?
ニューオーリンズ
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[ "ニューオーリンズ", "タルサ (オクラホマ州)", "エバンズビル (インディアナ州)", "メンフィス (テネシー州)", "ポートランド (オレゴン州)" ]
[ "ニューオーリンズ(英語: New Orleans、フランス語: La Nouvelle-Orléans)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州南部にある同州最大の都市。 メキシコ湾に面し、ミシシッピ川の河口に位置する重要な港湾都市で、元来は穀物・綿花等、ミシシッピ川流域の農産物の輸出港として発展し、のちには工業都市・観光都市としても発展した。英語名New Orleans(英語発音: [njuː ˈɔːrliənz])およびフランス語名La Nouvelle-Orléans(フランス語発音: [lanuvɛlɔrleɑ̃] )は、「新オルレアン」という意味でルイ15世の摂政オルレアン公フィリップ2世に因む。かつてはフランス領ルイジアナの首府であり、市内のフレンチ・クオーターと呼ばれる地区には、今なおフランス植民地帝国時代の雰囲気を残している。 ニューオーリンズはジャン=バティスト・ル・モワン・ド・ビエンヴィルの指導下、「ラ・ヌーヴェル-オルレアン」(La Nouvelle-Orléans、フランス語発音: [lanuvɛlɔrleɑ̃] )としてフランス人によって1718年に設立された。1722年にはフランス領ルイジアナの首府となった。1763年パリ条約によりルイジアナはスペイン領となるが、町はフランス系住民が多く宗主国スペインの影響はほとんど見られなかった。 1801年ナポレオン皇帝がルイジアナをフランスに返還させたが、財政上の必要から1803年アメリカ合衆国に売却した(詳しくはルイジアナ買収を参照)。この時の町の人口は約1万人であった。この頃、カリブ海のフランス領サン・ドマング(現・ハイチ)で黒人革命が起こり、さらに多くのフランス人やクレオール(フランス人と奴隷の混血の人々)が町に流入した。1812年に起こった米英戦争では英軍の侵攻を受け、1815年アンドリュー・ジャクソン将軍が英軍を撃破した(ニューオーリンズの戦い)。1849年に州都がバトンルージュに移ったが、依然として州の経済的・文化的中心の地位を保っている(ただし、アメリカに多く見られる、州都を最大都市よりは遥かに小規模な都市に置く例とは異なり、両市は拮抗した関係である)。 地域の大部分が湿地帯であったため、従来は都市の建設はミシシッピ川に面した高台の地域に限られていたが、1910年代に土木技師のボールドウィン・ウッドが排水ポンプを開発したことが広範囲の開発を可能とした。 1917年、米国海軍の命令により売春地区として知られたストーリーヴィルが閉鎖された。 1923年、ミシシッピ川とポンチャートレイン湖間の輸送ラインとなる工業水路が開通、また1965年には、そのメキシコ湾へ抜ける道となる、ミシシッピ川湾口水路が開通し、輸送ルートは大きく変わることとなった。 1964年、市の「近代化」の一環として、カナル・ストリートの路面電車が廃止され、バスに置き換えられた。しかしながら、その廃止を惜しむ声に後押しされる形で、この路面電車は2004年に復活している。 1965年9月、ハリケーン・ベッツィーがニューオーリンズを襲い、ロウワー・ナインス・ワードを始め、周辺のアラビ、シャルメットといった街に大きな被害を与えた。1995年5月にも、豪雨による洪水で浸水の被害が出ている。 1978年、ニューオーリンズ市議会議員のアーネスト・モリアルがアフリカ系アメリカ人初の市長に選出される。 1984年、ニューオーリンズ国際河川博覧会が開催されるものの、来場者は伸び悩んだ。1982年のノックスビル国際エネルギー博覧会から日が経っていなかったことなどが影響したと言われている。 2005年8月25日にフロリダ州の南部先端に上陸、通過したハリーケーン・カトリーナは北方に進路を変更し、勢力をカテゴリー5に拡大した。そして、8月29日にこの都市の近くのメキシコ湾沿岸に再上陸した。上陸時の勢力はカテゴリー4であった。 ニューオーリンズは、陸上面積の8割が水没した。観光地として有名なフレンチ・クオーターやガーデン地区(Garden District)などは水害を免れたものの、アフリカ系アメリカ人が多く住むロウワー・ナインス・ワード、ポンチャートレイン湖に面した高級住宅街レイクビュー地区(Lakeview)を中心に壊滅的な被害を受けた。 ハリケーン・カトリーナ到来の際、ニューオーリンズのハリケーン防災システムは米国の防災インフラストラクチャーへの準備不足の象徴であった。堤防や防潮壁は耐性がなく、名ばかりの防災システムであったことをアメリカ陸軍工兵司令部も認めたほどである。その反省から米国政府は100年間の災害に耐えうる133マイルの堤防や水門、防潮堤を市の近郊に建造中である。この公共事業への拠出は約145億ドル(1兆3000億円)であり、それらの大規模な支出が事業遂行を柔軟にし、防災のみならず域内の環境も配慮した事業となっている。 ニューオーリンズは、北緯29度57分53秒、西経90度4分53秒にありメキシコ湾から約100マイルほどさかのぼったミシシッピ川の堆積上に位置し、市の北部はポンチャートレイン湖と接している。蛇行するミシシッピ川に沿う地形から「クレセント・シティ(三日月の街)」との愛称でも親しまれている。 アメリカ合衆国統計局によると、この都市は総面積907.0 km2 (350.2 mi2) である。このうち467.6 km2 (180.6 mi2) が陸地で439.4 km2 (169.7 mi2) が水地域である。総面積の48.45%が水地域となっている。 ニューオーリンズは海抜-6.5から20フィート(-2 から 6 m)の都市地域を範囲としているという点で特異な都市であり、\"スープ皿\"の異名をとる。市の東側には広大な湿地帯が広がっている。創設以来、水害に悩まされており、1インチ(約2.5cm)以上の降水量で容易に水害が発生する。水害から市を守るためにニューオーリンズは堤防で囲まれているが、2005年当時の堤防はカトリーナ級のハリケーンを前提にして設計されていなかったため、堤防は決壊し、未曾有の水害を引き起こした。浸水を避けるため、墓地のほとんどが地下に土葬するのではなく、地上に埋葬室を設け、その中に葬っている。 セントタマニー郡(北) セントバーナード郡 (東、南) プラークミンズ郡 (南) ジェファーソン郡 (西) ポンチャートレイン湖 (北) ボーン湖 Lake Borgne (東) ニューオーリンズの気候はケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に区分される。しかし実際には温帯~熱帯の遷移部にあることから、冬は穏やかであり、夏は湿度が高く暑い亜熱帯気候である。 1月の早朝最低平均気温は華氏43度(摂氏6.1度)前後、日中最高気温は華氏62度(摂氏16.7度)前後である。7月の最低平均気温は華氏74度(摂氏23.3度)、最高平均気温は華氏91度(摂氏32.8度)である。 6月から11月にかけてはハリケーンの季節となる。 2000年の国勢調査によると: 人口484,674人、188,251世帯、及び112,950家族が暮らしている。 人口密度は1,036.4/km2 (2,684.3/mi2) である。459.9/km2 (1,191.3/mi2) の平均的な密度に215,091軒の住宅が建っている。 人種的な構成 : 白人28.05%、アフリカ系アメリカ人67.25%、先住民0.20%、アジア系2.26%、太平洋諸島系0.02%。その他の人種0.93%、及び混血1.28%である。人口の3.06%はヒスパニックまたはラテン系である。 しかし、2006年2月28日付の米紙「USAトゥデイ」が報じた調査結果によると、ニューオーリンズの人種構成が、2000年に実施された国勢調査の時のアフリカ系アメリカ人が多数の状態から、白人多数の状態に激変した可能性が高いことが分かった。調査というのは、同紙が電話を持つ市民を無作為に抽出するもので、その結果、回答した約52%が白人で、アフリカ系アメリカ人は約37%にとどまった。これは深刻な被害を受けた地域にアフリカ系アメリカ人が多数住んでいたためとみられている。 188,251世帯のうち、29.2%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、30.8%は夫婦で生活している。24.5%は未婚の女性が世帯主であり、40.0%は結婚していない。33.2%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、9.7%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.48人であり、結婚している家庭の場合は、3.23人である。 この都市内の住民は26.7%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が11.4%、25歳以上44歳以下が29.3%、45歳以上64歳以下が20.9%、及び65歳以上が11.7%にわたっている。中央値年齢は33歳である。女性100人ごとに対して男性は88.2人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は83.3人である。 この都市の世帯ごとの平均的な収入は27,133米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は32,338米ドルである。男性は30,862米ドルに対して女性は23,768米ドルの平均的な収入がある。この都市の一人当たりの収入 (per capita income) は17,258米ドルである。人口の27.9%及び家族の23.7% は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の40.3%及び65歳以上の19.3%は貧困線以下の生活を送っている。 ニューオーリンズと郊外のケナー、メテリーをあわせた地域はグレーター・ニューオーリンズ大都市圏と称される。この地域の人口は、2000年の国勢調査で1,337,726人であったが、カトリーナの影響により人口流出が著しく、一時は120万人を割り込んでいたが、2010年現在では1,235,650人に回復している。 ジャズの発祥地として名高い。 クレオール料理、ケイジャン料理で有名な美食の町としても知られる。 毎年2月頃に行われるマルディグラ祭は、リオデジャネイロのカーニバルなどと並び、世界の主要カーニバルのひとつに数えられる。 ニューオーリンズは、全米でも有数の観光都市であり、多くの見どころ、観光名所が存在する。まず有名なのは、フランス、スペインの植民地時代の街並みを残すフレンチ・クオーターである。カナル・ストリート、エスプラネード・アベニュー、ランパート・ストリートの3つの通りとミシシッピ川で区切られたこの地域の中には、世界的に有名な名所が数多い。多くのバー、ライヴハウス、土産物屋が軒を連ねるバーボン・ストリート、アンティーク街として著名なロイヤル・ストリート、北米最古の大聖堂、セントルイス・カテドラルとその前に位置するジャクソン・スクウェア、伝統的なジャズのライヴ演奏が聴けるプリザベーション・ホール、カフェオレとベニエ・ドーナツが有名なカフェデュモンドなどは皆クオーターの中に位置している。 フレンチ・クオーターを出てアップタウン方面に行けば、洒落たショッピング街として知られるマガジン・ストリート、オーデュボン公園とオーデュボン動物園がある。またセントチャールズ・アベニューには、世界最古と言われる古風な路面電車が走り(公共輸送機関の項参照)、19世紀の豪邸が建ち並ぶ美しい街並みが広がる。 また、ニューオーリンズは特殊な形式の墓も有名であり、ラファイエット墓地、セントルイス墓地などは、国家歴史登録財に指定されている。美術館としては、コンテンポラリー・アーツ・センター(CAC)、ニューオーリンズ・ミュージアム・オブ・アート(NOMA)などがある。広大なミシシッピ川には、蒸気船のナチェス号が浮かび、ミシシッピ川のクルーズが楽しめる。 ニューオーリンズはジャズの発祥地とされる音楽の都である。ジャズのほかにも、さまざまな音楽が息づいている。 ジャズ ニューオーリンズ・ジャズ ディキシーランド・ジャズ ニューオーリンズ・ブラスバンド ニューオーリンズR&B、ファンク セカンド・ライン また、以下はニューオーリンズ発祥ではないが、ルイジアナ州土着の音楽であり、ニューオーリンズでも盛んである。 スワンプ・ポップ ケイジャン・ミュージック ザディコ Category:ニューオーリンズのミュージシャンも参照 ルイ・アームストロング(Louis Armstrong) ハリー・コニック・Jr(Harry Connick, Jr.) ジュヴィナイル(Juvenile) アーマ・トーマス(Irma Thomas) ドクター・ジョン(Dr. John) ファッツ・ドミノ(Fats Domino) ネヴィル・ブラザーズ(Neville Brothers) プロフェッサー・ロングヘア(Professor Longhair) マスター・P(Master P) ウィントン・マルサリス(Wynton Marsalis) ミーターズ(The Meters) リル・ウェイン(Lil' Wayne) オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(Original Dixieland Jass Band) フィル・アンセルモ(Philip Hansen Anselmo) メリー・クレイトン(Merry Clayton) ジェイムス・ブッカー(James Booker) ジョニー・アダムス ギター・スリム アイ・ヘイト・ゴッド(Eye Hate God) エクスホーダー(Exhorder) アシッド バス(Acid bath) ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバル 4月〜5月開催 フレンチ・クオーター・フェスティバル 4月開催 エッセンス・ミュージック・フェスティバル 7月開催 サッチモ・サマーフェス 8月開催 ヴードゥー・エクスピリエンス 10月開催 ニューオーリンズ(New Orleans; 1947)=ルイ・アームストロングが出演 欲望という名の電車(A Streetcar Named Desire; 1951) 雨のニューオリンズ(1966) イージー・ライダー(Easy Rider; 1969) 愛のメモリー(Obsession;1976) ビッグ・イージー(The Big Easy; 1987) ペリカン文書 (The Pelican Brief; 1993) アンダーカバー・ブルース 子連れで銃撃戦!?(Undercover Blues; 1993) ハード・ターゲット(Hard Target; 1993) ザ・サイレンサー MAGNUM357(CODENAME : SILENCER, BODY COUNT; 1994) インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア(Interview with the Vampire; 1994) ニューオーリンズ・トライアル(Runaway Jury; 2003) ベンジャミン・バトン 数奇な人生(The Curious Case of Benjamin Button; 2008) 12 ラウンド(2009) プリンセスと魔法のキス(The Princess and the Frog; 2009) ビューティフルクリーチャーズ 光と闇に選ばれし者(Beautiful Creatures 2013) トレヴィの泉で二度目の恋を(Elsa & Fred 2014) 主要な日刊紙は、1837年創刊のタイムズ=ピカユーンである。 オフビート誌(月刊の音楽誌) ウェア・ヤット(Where Y'At)(月刊のエンターテインメント誌) ギャンビット・ウィークリー(Gambit Weekly)、ザ・ルイジアナ・ウィークリー(The Louisiana Weekly)(週刊のタブロイド紙) ニールセン・メディア・リサーチ(Nielsen Media Research)DMA(指定された市場地域)2004年 - 5年順位:44/210 676,000軒調査 WWOZ、FM90.7MHz(非営利運営のコミュニティー局) ニューオーリンズ・セインツ - NFL の本拠地。 セインツの所有者が所有する、アリーナ・フットボール・リーグのニューオーリンズ・ブードゥーも本拠地としている。 ニューオーリンズ・ペリカンズ - NBA。2002年のシーズンの開幕を機にノースカロライナ州シャーロットから移動した。 ニューオーリンズ・ベビーケークス - マイナーリーグのAAA級チーム。隣接するメテリーで試合を行っている。 この他、ニューオーリンズを本拠地としたチームに野球のニューオーリンズ・ペリカンズ(New Orleans Pelicans、1887–1959年)、アメリカ合衆国フットボール・リーグ(USFL)のニューオーリンズ・ブレーカーズ(現ポートランド・ブレーカーズ)、AFLのニューオーリンズ・ナイト(New Orleans Night、1991–1992年)及びアイスホッケーのニューオーリンズ・ブラス(New Orleans Brass、1997–2003年)、バスケットボールのニューオーリンズ・バッカニアーズ(c. 1967–1970年)及びニューオーリンズ・ジャズ(1974–1980年、現ユタ・ジャズ)がある。 シュガーボウル(カレッジフットボールのボウル・ゲーム)が年一回メルセデス・ベンツ・スーパードームで開催される。 メルセデス・ベンツ・スーパードーム ニューオーリンズ・アリーナ ニューオーリンズ地域周辺の公共交通機関はニューオーリンズ地方交通局(New Orleans Regional Transit Authority、\"RTA\")によって運営されている。多くのバス路線に加え、直流電化された現役の路面電車路線が3路線(カナル・ストリート線、リバーフロント線、セントチャールズ線)ある。運賃は乗車区間に関わらず1.25ドルである。 2005年8月のハリケーン・カトリーナで被災したために、しばらく路面電車の運行がストップしていたが、2005年12月18日には、リバーフロント線とキャナル・ストリート線の全線で運行を再開した。これらの路線ではセントチャールズ線の車両が使用されているが、これはリバーフロント線を運行していた車両7両とカナル・ストリート線を運行していた車両24両が浸水したためである(セントチャールズ線の歴史的にも有名な緑の車両は浸水しなかった)。このため、従来車椅子を使用する乗客のために昇降機がなく、やや不便な状態になっている。 一方、アップタウンとダウンタウンを結ぶセントチャールズ線に関しては架線の電気系統がハリケーンでひどく損傷したために復旧に時間がかかった。2006年12月19日に、キャロンデレット・ストリートとカナル・ストリートの交差点から、セントラル・ビジネス・ディストリクト(CBD)を通過してリー・サークルまでの一部区間のみ運行を再開した。 残りの区間に関しては、リー・サークルからナポレオン・アベニューまでの区間が2007年11月10日に運行を再開、ナポレオン・アベニューからキャロルトン・アベニューまでの区間の運行も12月23日に再開され、ハリケーン被害から2年以上の時を経てようやくリバーベンドと呼ばれる、セントチャールズとキャロルトン通りの交差する地点まで開通した後、2008年5月に残りのキャロルトンとクレイボーンの交差する終点まで全面開通し、以前と同じように地元民と観光客が利用できるようになった。 セントチャールズ線が不通だった間は、同区間には代替バスが運行していた。当初は、FEMAの支援により路面電車もバスも無料運行をしていたが、2006年8月上旬から有料運行に戻された。カトリーナ以前は24時間運行していたが、現在は市内のバス・ストリートカー路線の一部ではまだ利用者の絶対数が少ないことから、12時以降の運行を休止している。 ルイ・アームストロング・ニューオーリンズ国際空港がある。IATA空港コード:MSY、ICAO空港コード:KMSY によってサービスされている。 大都市圏はアメリカ合衆国、カナダ、ラテンアメリカ、及びカリブ海地方行きの路線に毎日300便近い直行便を運行し数百万人の旅客に利用されている、この空港はヨーロッパからの相当数のチャーター便も取り扱っている。MSYは同じように貨物だけの運用も毎日行っている特徴があり、フェデックス・エクスプレス向けにメキシコへの直行便のゲートウェイ・サービスを行っている。アームストロング国際空港はニューオーリンズが所有しているが、ケナーに位置している。 また、ニューオーリンズのポンチャートレイン湖沿岸には、レイクフロント空港があり、こちらは主に小型機、チャーター機などが利用している。 市内には、アムトラックのユニオン駅があり、ワシントンD.C.やニューヨーク、シカゴとの間を結ぶ長距離列車や、オーランド(フロリダ州)-ロサンゼルス間を結ぶ大陸横断列車などが発着する。 クレセント:ニューオーリンズ-アトランタ-ワシントンD.C.-ボルチモア-フィラデルフィア-ニューヨーク サンセット・リミテッド:オーランド-ジャクソンビル-ニューオーリンズ-ヒューストン-サンアントニオ-エルパソ-ツーソン-ロサンゼルス(オーランド-ニューオーリンズ間は2005年8月のハリケーン被害によって無期運休中) シティ・オブ・ニューオーリンズ:ニューオーリンズ-メンフィス-シカゴ グレーター・ニューオーリンズ大都市圏には200前後の郡立学校がある。ニューオーリンズ及びジェファーソン郡公共学校システムはそれぞれ100近い個人学校の拠点として、共に地域最大である。 テューレーン大学 Tulane University ロヨラ大学ニューオーリンズ校 Loyola University-New Orleans ディラード大学 Dillard University 南部大学ニューオーリンズ校 Southern University at New Orleans ゼイヴィアー・ルイジアナ大学 Xavier University of Louisiana ニューオーリンズ大学 University of New Orleans ルイジアナ州立大学医学部 Louisiana State University School of Medicine デルガド・コミュニティカレッジ Delgado Community College ハージング・カレッジ Herzing College ニューオーリンズ料理学校 Culinary Institute of New Orleans ニューオーリンズ・バプテスト神学校 New Orleans Baptist Theological Seminary *Category:ニューオーリンズの人物参照 リース・ウィザースプーン - 女優 カール・ウェザース - 俳優 リー・ハーヴェイ・オズワルド - ケネディ元米大統領の暗殺犯 トルーマン・カポーティ - 作家 ウィル・クラーク - プロ野球選手 パトリシア・クラークソン - 女優 エイブリー・ジョンソン - プロバスケットボール選手、コーチ ラルフ・デュパス - プロボクサー スコット・ドーマン - プロ野球選手 クライド・ドレクスラー - プロバスケットボール選手 レイ・ネイギン - 元ニューオーリンズ市長 ジョン・ハイデンライク - プロレスラー ジェフリー・ハンター - 俳優 マーシャル・フォーク - プロフットボール選手 アリス・ヘイン - モナコ大公妃 リリアン・ヘルマン - 戯曲作家 イーライ・マニング - プロフットボール選手 ペイトン・マニング - プロフットボール選手 ポール・モーフィー - チェス選手 アン・ライス - 作家 ドロシー・ラムーア - 女優 フレディ・リトル - プロボクサー メンフィス・モンロー - ポルノ女優 ※著名なミュージシャンについては「ミュージシャン」の項参照。 以前は総領事が駐在する日本国総領事館があったが、日本人居住者数がテネシー州とケンタッキー州で増加したことにより、2008年1月よりナッシュビルへ移転 島根県松江市と姉妹都市 松江で旧制中学教員となったのちに日本に帰化した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、来日前にニューオーリンズで新聞記者を務めていた縁がある。 ニューオーリンズ港と北海道釧路市釧路港は姉妹港 ニューオーリンズはSister Cities International, Inc. (SCI) によって指定された10の姉妹都市を有している: ポンチャートレイン湖コーズウェイ ジャンバラヤ アビータ・ビール ジャン・ラフィット ブードゥー教 ニューオーリンズ級重巡洋艦、ニューオーリンズ (重巡洋艦) ^ Vast defenses now shielding New Orleans New York Times 2012年6月14日 ^ 神戸新聞:「防災大国」の苦悩 ―ハリケーン禍から半年 ^ “NOWData - NOAA Online Weather Data”. National Oceanic and Atmospheric Administration. 2013年2月11日閲覧。 ^ “Station Name: LA NEW ORLEANS INTL AP”. National Oceanic and Atmospheric Administration. 2014年3月27日閲覧。 ^ “WMO Climate Normals for NEW ORLEANS, LA 1961–1990”. National Oceanic and Atmospheric Administration. 2014年3月27日閲覧。 ^ American FactFinder, United States Census Bureau, http://factfinder.census.gov 2008年1月31日閲覧。  ^ Washington Post - N'Orleans St. Charles Streetcar Is Back ^ Nola.com - Fanfare greets streetcar's return to part of Uptown ^ The St. Charles Streetcar Line Extended Again ^ 在ニューオリンズ日本国総領事館のテネシー州ナッシュビルへの移転について ^ New Orleans, Louisiana:Sister Cities International ^ Extremes are combined from Audubon Park, with records back to 1893, and New Orleans Int'l, the official climatology station for New Orleans since 1 May 1946. For more information, see Threadex ^ Sunshine normals are based on only 20 to 22 years of data ニューオーリンズ市公式サイト (英語) New Orleans Convention & Visitors Bureau (英語) New Orleans Online (英語)", "タルサ(Tulsa)は、アメリカ合衆国オクラホマ州東部に位置する都市である。 2004年現在のアメリカ合衆国統計局の報告で、この都市は大都市圏人口930,842人に加えて、総人口387,807である。タルサはアメリカ合衆国内で43番目に大きな都市であり、北アメリカ内で93番目に大きな都市である。州内ではオクラホマシティに次ぐ、2番目に大きな都市である。ここはタルサ郡の郡庁所在地である。 1901年の油田発見でオイルブームが訪れて一気に発展し、以降、石油精製工業、化学工業が発達している。 タルサ市はオクラホマシティの北東99マイル、州の北東角の北緯36度7分53秒西経95度56分14秒(36.131294, -95.937332に位置している。 アメリカ合衆国統計局によると、この都市は総面積483.9km2(186.8mi2)である。このうち473.1km2(182.6mi2)が陸地で10.9km2(4.2mi2)が水地域である。総面積の2.24%が水地域となっている。 2000年現在の国勢調査で、この都市は人口393,049人、165,743世帯、及び99,114家族が暮らしている。人口密度は830.9人/km2(2,152.0人/mi2)である。379.2km2(982.3mi2)の平均的な密度に179,405軒の住宅が建っている。この都市の人種的な構成は白人70.09%、アフリカン・アメリカン15.47%、先住民4.72%、アジア1.82%、太平洋諸島系0.05%、その他の人種3.45%、及び混血4.40%である。ここの人口の7.15%はヒスパニックまたはラテン系である。 165,743世帯のうち、28.5%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、43.1%は夫婦で生活している。12.9%は未婚の女性が世帯主であり、40.2%は結婚していない。33.9%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、9.8%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.31人であり、結婚している家庭の場合は、2.98人である。 この都市内の住民は24.8%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が10.9%、25歳以上44歳以下が29.9%、45歳以上64歳以下が21.5%、及び65歳以上が12.9%にわたっている。中央値年齢は34歳である。女性100人ごとに対して男性は93.5人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は90.4人である。 この都市の世帯ごとの平均的な収入は35,316米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は44,518米ドルである。男性は32,779米ドルに対して女性は25,587米ドルの平均的な収入がある。この都市の一人当たりの収入(per capita income)は21,534米ドルである。人口の14.1%及び家族の10.9%は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の20.5%及び65歳以上の8.3%は貧困線以下の生活を送っている。 タルサ国際空港(TUL)が玄関口となる。全米各地からの便が運航。タルサ便の利用者数の行先は、ダラスが以下を突き放してトップで、デンバー・ヒューストン・シカゴ(オヘア国際空港)と続く。アメリカン航空のもっとも主要な整備基地でもある。 映画「タルサ(英語版)」- 1920年代の石油ブームを描いた作品。スーザン・ヘイワード主演。1949年公開。タルサ郡の石油ブームについては「タルサ郡 (オクラホマ州)#石油ブーム」を、オクラホマ州の石油ブームについては「オクラホマ州の歴史#州制の後」を、この時代の石油ブームについては隣州「テキサス州の石油ブーム」を参照。 タルサからの24時間(Twenty Four Hours From Tulsa)唄:ジーン・ピットニー、作曲:バート・バカラック ^ リヒテンシュタインに本社を置くヒルティのアメリカ法人があり、工場が設置されている。 ^ US Gazetteer files: 2010, 2000, and 1990, United States Census Bureau, (2011-02-12), http://www.census.gov/geo/www/gazetteer/gazette.html 2011年4月23日閲覧。  ^ American FactFinder, United States Census Bureau, http://factfinder.census.gov 2008年1月31日閲覧。  ^ [1] City of Tulsa(英語版) Tulsa Chamber of Commerce(英語版) Visit Tulsa(英語版) 黒人自治体建設運動とタルサ人種暴動―オクラホマ黒人のアイデンティティを賭けた闘争金城智子, 久留米大学、2015", "エバンズビル(Evansville)は、アメリカ合衆国インディアナ州南西端に位置する中規模商工業都市。インディアナ州南西部およびイリノイ州・インディアナ州・ケンタッキー州の3州における商業、医療、文化の中心地である。バンダーバーグ郡の郡庁所在地で、インディアナポリス・フォートウェインに次ぐ同州第3の都市で、州南部最大の都市ある。2000年国勢調査の人口は121,582人で、2004年の推計では117,156人に減少している。ケンタッキー・イリノイ両州にもまたがる都市圏では人口342,815人を数える。2010年の国勢調査によると、人口117,429人で都市圏人口は358,676人である。 市は大きく蛇行するオハイオ川中流域の北岸に位置し、River Cityという別名を持っている。現存するエンジェル・マウンズの近くに少なくとも紀元前8,000年にはマウンド・ビルダーと呼ばれる先住民が暮らしていた。1812年、白人入植者がやってきて、1819年、町が形成された。この地域の経済基盤は安定性、多様性、存続性とされている。ニューヨーク証券取引所上場5社の本社およびNASDAQ上場2社がある。 エヴァンズヴィル大学は『USニューズ&ワールド・レポート』誌により中西部の地方大学で常に10位以内にランクされる小規模私立大学である。サザン・インディアナ大学は市境すぐ西に位置する、エヴァンズヴィル大学より規模の大きい公立大学である。ダウンタウンに位置するシグネチャー・スクールは全米の高等学校で常に10位以内にランクされるチャーター・スクールである。エヴァンズヴィル・ヴァンダーバーグ公立図書館も全米有数の図書館とされている。 この地域の最も人気のアトラクションはトロピカーナ・エヴァンズヴィルで、インディアナ州初の船型カジノである。Kiplinger により、全米で「住む、働く、遊ぶ」のに適した場所として、2008年に第1位に、2009年に第11位に選ばれた。 約200年前、移民により植民され、エヴァンズヴィルの町はオハイオ川の緩やかな馬の蹄鉄型の沿岸に形成された。もともとこの地にはミシシッピアン族のネイティブ・アメリカンが住んでいた。そこにフランス人入植者たちが住みつくようになり、オハイオ川の雄大さにより初期のフランス人探検家はこの地をフランス語で「美しい川」という意味であるLa Belle Riviereと名付けた。1812年3月27日、ヒュー・マガリー・ジュニアは定住のための土地を購入し、マガリーズ・ランディングと名付けた。1814年、人々の興味を惹くため、米英戦争のウィリアム・ハリソン少将の隊の将校ロバート・モーガン・エヴァンズ(1783年–1844年)に因んでエヴァンズヴィルと名付けた。1817年、マガリー、エヴァンズ、ジェイムス・W・ジョーンズは1814年の都市計画を大幅に見直した。1818年、ヴァンダーバーグ郡が制定され、エヴァンズヴィルが郡庁所在地となった。 蛇行するオハイオ川に面した地の利を生かし、エバンズビルは蒸気船による水上交通の要衝として、そして商業都市として栄えた。1819年には正式な町となり、1847年には市に昇格した。五大湖とオハイオ川を結ぶWabash and Erie Canal が建築され、都市は急速に発展した。1853年、この運河が完成し、同年、エヴァンズヴィルの最初の鉄道であるEvansville and Crawfordsville Railroad (E&CR)がテレホートまで開通した。E&CRの創立者はカリフォルニア州サンディエゴの港を管理する半島にHotel del Coronado を設立した。彼は私有列車で友人達を招き、十二夜を祝ってからエヴァンズヴィルに戻った。なお、この新しいホテルは翌年の十二夜まで使われることはなかった。1890年の国勢調査では、エバンズビルは全米第56位の人口規模を誇る都市へと成長した。しかし、1900年代以降はその順位は徐々に下がっていった。 1932年にはエヴァンズヴィルとケンタッキー州ヘンダーソンを結ぶ、オハイオ川を渡る最初の幹線道路橋がかけられた。1937年、オハイオ川が洪水を起こし、エバンズビルに大きな被害をもたらした。それに対し、郡および市では堤防やコンクリート製の壁、排水ポンプ場を建設して治水に努めた。 第二次世界大戦中、エバンズビルは戦車揚陸艦の内陸最大の製造所となった。またP-47Dsとして知られるP-47サンダーボルトの特別機の製造を行なっていた。この工場は後にWhirlpool の電化製品、主に冷蔵庫の製造工場として使われるようになった。これらの航空機はニューヨーク州ロングアイランドのFarmingdale でも製造されていた。エヴァンズヴィルの航空機の番号は末尾に「-Ra」が、ファーミンデイルの航空機には「-Re」が付けられていた。エヴァンズヴィルでは戦中、P47の約半数の6,242機が、167機の戦車揚陸艦が製造された。 1950年代初頭、製造業は急速に拡大した。1950年代も後半に入るとエバンズビルでも郊外化が進行していった。人口の流出により、商業はダウンタウンから郊外のショッピング・センターへと推移していった。1963年、インディアナ州初のモールとなるワシントン・スクエア・モールが開店した。 1970年代に入ると、エバンズビルは3州にまたがる都市圏の商業、医療、サービス業の中心地へと変遷した。1990年代には、サザン・インディアナ大学の発展に伴い、経済も再び上昇した。北郊のプリンストン市(Princeton)にトヨタ自動車が進出したり、AKスティールの工場や、オハイオ川に浮かぶインディアナ州初のカジノ船であるトロピカーナ・エヴァンズヴィル(旧カジノ・アズター)ができたりと経済の多様化が見られ、雇用に寄与するようになった。 2005年11月6日、エバンズビルで竜巻が発生し、死者24人を出した。 エバンズビルは北緯37度58分38秒西経87度33分2秒(37.977166, -87.550566)に位置している。 アメリカ合衆国統計局によると、エバンズビル市は総面積115.57km²(44.62mi²)である。このうち114.35km²(44.15mi²)が陸地で1.22km²(0.47 mi²)が水域である。総面積の1.05%が水域となっている。 市の南端はオハイオ川に面している。市内のほとんどが浅い低地となっており、緩やかに起伏している丘陵に囲まれている。西側の丘の上にはバーデット公園、メスカー円形競技場、メスカー動物公園などがある。東側の一部は州間高速道路164号線の近くに堤防で守られた低地が発展した。他の著名な場所として、240エーカー(1.0km2)のウエセルマン森林自然保護区やエヴァンズヴィル南東ニューバーグとの間に位置するアメリカ合衆国国定歴史建造物のエンジェル・マウンズなどがある。エンジェル・マウンズは数百年前に使用されていた埋葬地とされている。 全米で142番目の規模のエヴァンズヴィル都市圏にはインディアナ州のギブソン郡、ポージー郡、バンダーバーグ郡、ウォリック郡およびケンタッキー州のヘンダーソン郡、ウェブスター郡が含まれる。エヴァンズヴィルから南東に30 miles (48 km) のケンタッキー州オーエンズボロは含まれない。この都市圏は「ケンタッキアナ」と呼ばれることもあるが、「トライ=ステイト」と呼ばれることが多い。 エバンズビルの気候は1年を通して穏やかで、四季がはっきりとしている。冬の平均気温は摂氏0度前後である。夏は30度を越える。年間の降雨量は1,050mm、降雪量は33cmほどである。ケッペンの気候区分ではCfa(温暖湿潤気候)に属する。 エヴァンズヴィルはインディアナ州、ケンタッキー州、イリノイ州大商圏の総括局を担っている。この地域の経済基盤は安定性、多様性、存続性とされている。市内の主な産業はヘルス・ケア、金融、教育、製造である。続いて電力、倉庫業、流通業、小売業がある。 Accuride 、Atlas Van Lines 、Berry Plastics 、Mead Johnson 、Old National Bank 、Shoe Carnival 、Springleaf Financial 、Vectren などの本社がある。またロックポートのAKスティール、ニューバーグのアルコア、マウント・ヴァーモンのSABIC 、プリンストンのトヨタなど、近郊に大規模工場がある。1995年、エンターテイメント施設のトロピカーナ・エヴァンズヴィルが開業して以降、市の経済は拡大した。 エヴァンズヴィルはトライ=ステイトの中で医療、保健業界の中心となっている。ディーコネス・ゲイトウェイ病院およびディーコネス婦人病院と共にディーコネス病院、聖メアリー病院医療センターは市境のすぐ外側にあり、その大規模な医療システムは地域で最大の雇用を生み出している。ミード・ジョンソンの世界的なオペレーション・センターも地域の雇用に貢献している。 オハイオ川が近く、強固な鉄道や幹線道路などの施設があり、アメリカ合衆国税関・国境警備局に指定され、国内外への貨物の輸送の理想的な立地となった。エヴァンズヴィル都市圏からの化学薬品の海外輸出は64%となり、続いて輸送設備18%、食品製造5%となった。2007年、この都市圏は成長率および経済的影響で全米で88位となった。 冷蔵庫会社のシーガー、サーヴァル、インターナショナル・ハーヴェスターが全てワールプール・コーポレーションのエヴァンズヴィルの大規模施設に合併され、20世紀の間中、エヴァンズヴィルは「世界の冷蔵庫」と呼ばれていた。1960年代から1980年代初頭、ワールプール・コーポレーションは地域最大の雇用を誇っていたが、2009年までに拠点をエヴァンズヴィルからメキシコに移転し、300名のみ製品設計部に残すことを発表した。Berry Plastics やSABIC など多くのプラスチック工場があることから、エヴァンズヴィルは現在「アメリカのプラスチック工場」と呼ばれることがある 。 Vectren の本社があり、バブコック・アンド・ウィルコックスの原子力運転機関、多くの炭鉱、Global Blade Technology 、大規模なエタノールやバイオ燃料の施設、天然ガスや石油のパイプラインの強固なネットワークなど、地域にエネルギー関連施設が多く存在し、エヴァンズヴィルは地域のエネルギーのハブとしても知られている。エヴァンズヴィルはProject Green と提携し、エネルギー産業に焦点を当てた地域経済発展計画を行っている。 エヴァンズヴィルは都市産業ゾーンに位置する企業に企業税制を施している。インディアナ州に5ヶ所しかない都市産業ゾーンの1つとして1984年に制定され、2.1平方マイル(5.4 km2)の都市産業ゾーンで在庫税などが要求される。 ウェッゼルマン森林自然保護区(Wesselman Woods Nature Preserve)は200エーカー (0.8 km2)近くの原生広葉樹林が広がっており、国立自然文化財に指定されている。市内に位置する原生林としては全米最大である。保護区内の自然センターは野生生物観察エリアや会議室、図書館、土産物屋を備えており、展示物を置いたり、イベントを開催したりしている。自然保護区に隣接し、ゴルフ・コース、バスケットボール・コート、テニス・コート、ビーチ・バレー・コート、ソフトボール球場、遊具場などがある。 エバンズビル市内、およびバンダーバーグ郡は65ヶ所の公園と21ヶ所の各種施設を抱え、その総面積は2,300エーカー(9 km2) を超える。自転車や歩行者用のトレイルは隣接郡にも広がり、American Discovery Trail と繋がっている。このトレイル・システムには市を取り囲む42マイルのPigeon Creek Greenway Passage が含まれる。このトレイルにはまたガーヴィン公園(N. Main Street とHeidelbach Ave の交差点)およびダウンタウンのリヴァーフロントも含まれる。市は18ホールの公営ゴルフ・コース3ヶ所、9ホールのゴルフ・コース1ヶ所を操業している。 オハイオ川を一望できるレンガ舗装の歩道やベンチのあるリヴァーフロントには、四つの自由のモニュメント、トロピカーナ・エヴァンズヴィル、ドレス・プラザなどがある。夏季のコンサートやフェスティヴァルに便利な駐車場も完備している。 郡西部の丘陵地帯、約200エーカー(0.8 km2)にわたって広がるバーデット公園(Burdette Park)は、ウォータースライダーや3つのプールを備える水上公園、軽食堂のほか、BMXのレーシングトラック、バッティングセンター、ソフトボール場、ミニゴルフコース、テニスコート、釣堀を抱える大規模な公園である。 エヴァンズヴィルには13ヶ所のアメリカ合衆国国家歴史登録財がある。 フォード・センターはダウンタウンにある最大11,000席の多目的屋内アリーナである。2011年にエヴァンズヴィル初の大規模エンターテイメント施設として開業し、主にバスケットボール、アイス・ホッケー、コンサートに使用されている。 ヴィクトリー・シアターは1,950席のエヴァンズヴィル交響楽団の本拠地である。毎年、クラシック・コンサート7公演、ポップス4公演、スペシャル・イベント・コンサート、多くの教育支援演奏などを行なっている。またこのシアターでは地元のバレエ団、モダン・ダンス、劇団、ツアーの公演も上演している。 ダウンタウンのザ・センターは2,500席で、コンサート、演劇、イベントなどが行なわれる。エヴァンズヴィル西にあるメスカー円形劇場は8,500席で、屋外コンサートやイベントなどが行なわれる。 エヴァンズヴィル・シヴィック・シアターは全米でコミュニティ・シアターがブームとなった1920年代創業の南インディアナ最古のコミュニティ・シアターである。旧セントラル高等学校の粗末なホールから始まり、エヴァンズヴィル・シヴィック・シアターはこれまでSoldiers and Sailors Memorial Coliseum、Bosse High School 、マカーディ・ホテルのローズ・ルーム、エルクス・ボールルーム、エヴァンズヴィル美術館および科学博物館など多くの機関の本拠地となった。1974年、エヴァンズヴィル・シヴィック・シアターはコロンビア映画専用劇場となった。 エヴァンズヴィル大学の演劇プログラムは毎年4回の本公演、2回のスタジオ公演を上演し、全米のプログラムでトップの1つとなっている。また他の団体より多くジョン・F・ケネディ・センターから受賞している。エヴァンズヴィル大学はイェール大学と共にオーディションなしでケネディ・センターで上演を依頼された唯一の団体である。ブロードウェイ・シアター・ウイングやその他の演劇関連賞を受賞した学生数が全米でトップである。 エバンズビルの代表的なイベントとしては、ウェストサイド・ナット・クラブ秋祭り(West Side Nut Club Fall Festival)が挙げられる。このイベントは毎年10月第1週にダウンタウン西側の路地で開催されるものである。15万人が来場し、路地で開催されるイベントとしてはニューオーリンズのマルディ・グラに次ぐ規模である。主なアトラクションは食べ物で、揚げ菓子のエレファント・イヤーズ、アメリカン・ドッグなどの定番からチョコレートがけコオロギ、ブレイン・サンドイッチ、ワニのシチューなど珍しいものもある。ポール・ハーヴェイはこの祭よりも規模が大きいものはニューオリンズのマルディ・グラだけだと語ったことがある。 また、毎年7月に行われるエバンズビル・フリーダム・フェスティバル(Evansville Freedom Festival)も代表的な夏のイベントである。近年では、アメリカ合衆国海軍のブルーエンジェルスおよびCanadian Forces Snowbirds による飛行ショーが観客を集めている。またオハイオ河岸での花火大会が執り行われる。1979年から2009年、このイベントでは、「オハイオ川の稲妻」(Thunder on the Ohio)と呼ばれる水上滑走艇のレースが行なわれていた。 また7月には、市の北に位置する会場でバンダーバーグ郡4-Hフェア(Vanderburgh County 4-H Fair)という郡の夏祭りも行われる。 毎年8月、エヴァンズヴィル西側にある歴史的Germania Mannerchor の建物でGermania Männerchor Volksfest が3日間行なわれ、飲食物、ダンス、音楽が楽しめる。多くのドイツ系住民が民族衣装を着て参加する。8月最終週には、市の北に位置するバンダーバーグ郡4-Hフェア・グラウンドでストリート・ロッド4,000台が集結するフロッグ・フォリーズ(Frog Follies)が行なわれる。 エバンズビル・フィルハーモニック・オーケストラ(Evansville Philharmonic Orchestra)は、3州にまたがるエバンズビル都市圏で最大の芸術団である。1934年に結成されたこのオーケストラは約80人の楽団員を抱え、定例演奏会をはじめ、市内および近隣の各種教育機関などでもコンサートを行なっている。 エバンズビル芸術・歴史・科学博物館(Evansville Museum of Arts, History and Science)は、インディアナ州南部の総合的な文化の中心となっている。館内のコック・プラネタリウム(Koch Planetarium)はインディアナ州最古のプラネタリウムである。敷地内には19世紀から20世紀前半のインディアナ州南部の交通に関する展示物を集めたエバンズビル交通博物館(The Evansville Museum Transportation Center)も立地している。 エンジェル・マウンズ州定史跡(Angel Mounds State Historic Site)は、12世紀から15世紀にかけてのネイティブ・アメリカンの住居跡である。インディアナ州内に16ヶ所ある州立博物館・州指定史跡のひとつであるこの史跡は、全米で最も保存状態の良いネイティブ・アメリカン住居跡のひとつでもあり、1100年から1450年にこの地域に住んでいた中期ミシシッピアン族の文化を知ることのできる場所となっている。何千人もの人々が編み枝や漆喰で作られた防護柵で守られた村に住んでいた。エンジェル・マウンズは首長の村であるため、大規模コミュニティの中の中心地であった。 ライツ邸博物館(Reitz Home Museum)は、エバンズビル市内で唯一、ビクトリア様式の家屋を博物館にしたものである。同博物館は全米屈指のフランス第二帝政時代の建築物として知られている。1973年、この建物はアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定された。 第二次世界大戦中、エバンズビルでは167隻の戦車揚陸艦(他の船35隻)を造船した、内陸最大のLST造船地であった。2005年10月、LST-325)がエバンズビルの河港につけられ、博物館(USS LST Ship Memorial )として転用され、エヴァンズヴィルがいかに戦争に関わったかを知ることができる。このLST-325は航行可能な最後の戦車揚陸艦である。 2006年9月、Children's Museum of Evansville が開館した。この博物館は2年間の構想の後、ダウンタウンの旧中央図書館に設置された。アール・デコのこの建物はアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定された。3階建てで、展示やギャラリーなどがある。 1928年に開園した、メスカー・パーク動物園(Mesker Park Zoo)は全米でも最古および最大の動物園の1つである。200,000m²(5エーカー)を超える広大な敷地の中で200種、700頭以上の動物が飼育されている、これらの動物は外来植物、野草や木など様々な植物が植えられた、自然に近い環境の中で自由に動き回っている。毎年4月から8月までの間に約300万人が訪れる。 エヴァンズヴィルはスポーツ・チームやイベントを支援し、多数のプロ・スポーツ選手の出身地でもある長く深い歴史がある。高校生スポーツ選手は地元の支援を受けることができ、エヴァンズヴィル大学(UE)や南インディアナ大学(USI)は全米大学体育協会(NCAA)のディビジョンIおよびディビジョンIIでそれぞれ何千人もの観客を集める。UEEvansville Purple Aces のバスケットボールのチームはフォード・センターを拠点に活動している。USIのチームはキャンパス内のUSI Physical Activities Center で活動している。 またエヴァンズヴィルはいくつかのプロ・スポーツの拠点でもある。1915年に開場したボッセ・フィールド(Bosse Field)は、ボストンのフェンウェイ・パーク、シカゴのリグレー・フィールドに次いで全米で3番目に長い歴史を持つ野球場である。独立リーグのひとつ、フロンティアリーグに所属する地元野球チーム、エバンズビル・オッターズは1995年よりこの球場を本拠地としている。アターズには、2001年より法政大学出身外野手、根鈴雄次、2003年より愛知学院大学出身で元日本ハムファイターズ外野手、村西辰彦が所属していた。 ECHLのプロ・アイスホッケー・チームであるエヴァンズヴィル・アイスメンはフォード・センターを拠点に活動している。ECHLはアメリカン・ホッケー・リーグ(AHL)およびNHLの下部リーグである。アイスメンは昨シーズン平均5,500名以上を集客し、2012年、ベスト・ローカル・スポーツ・イベントの1つに選ばれた。アイスメンは現在AHLのスプリングフィールド・ファルコンズの傘下である。 エヴァンズヴィル・クラッシュはプレミア・アリーナ・サッカー・リーグ(PASL)のセミプロ・サッカー・チームである。エヴァンズヴィル・エンフォーサーズはグレート・ミッドウエスト・フットボール・リーグのセミプロ・アメリカンフットボール・チームである。 またエヴァンズヴィルはDemolition City Roller Derby とRollergirls of Southern Indiana の女子ローラーゲーム2チームの本拠地でもある。 1957年から1975年、2002年から2014年、NCAA Men's Division II Basketball Championship (Elite Eight)の開催地となった。1999年から2007年、Roberts Municipal Stadium はGreat Lakes Valley Conference のバスケットボールのトーナメント開催地となった。また2013年、フォード・センターが同イベントの開催地となった。NCAAの多くのディヴィジョンIのイベントがエヴァンズヴィルで開催されている。1983年、Roberts Municipal Stadium はNCAA男子バスケットボールトーナメントの第1ラウンドを開催し、1980年と1983年にはMidwestern City Conference (現Horizon League )の男子バスケットボールトーナメントを開催した。 1979年から2009年、オハイオ川でThunder on the Ohio を開催していた頃、H1 Unlimited の水上飛行機のレースを執り行っていた。それ以前の1938年から1940年にもThunder on the Ohio を行なっていた。 またサッカーおよびアイスホッケー用の近代的施設Goebel Soccer Complex を有している。オリンピック・サイズの灌漑装置付きのギョウギシバコート9面、オリンピック・サイズの人工芝コート1面を有する70エーカー(280,000 m2)の施設である。さらにEVSC Fields はサッカー・コート2面を有し、高校のレギュラーシーズンおよびポストシーズンに使用される。Swonder Ice Arena は2002年秋にオープンした2面のリンク、フィットネス・センター、スケート場、イベント会場を備えた施設である。Evansville Vanderburgh School Corporation の学校はSouthern Indiana Athletic Conference の水泳およびダイビングにロイド・プールを使用している。 市の南を流れるオハイオ川には、1996年に開業したカジノ・アズター・エバンズビル(Casino Aztar Evansville)のカジノ船が浮かんでいる。この船の定員は2,700名である。河岸には乗船場・各種ショップ・レストラン・休憩を備えたパビリオンが建っている。250室を備えるホテルもあり、連絡通路でパビリオンとつながっている。 エバンズビル・クーリエ・アンド・プレス紙(Evansville Courier & Press)は、エバンズビル唯一の日刊紙で、E.W.スクリップス社(E.W. Scripps Company)による経営の下で刊行されている。同社はエバンズビル都市圏の月刊経済紙であるエバンズビル・ビジネス・ジャーナル紙(Evansville Business Journal)も刊行している。また、近隣のケンタッキー州ヘンダーソン市(Henderson)でも新聞を刊行している。このほかのエバンズビルの紙メディアとしては、タッカー出版グループ(Tucker Publishing Group)が出版している隔月誌エバンズビル・リビング(Evansville Living)や、無料のエンターテイメント誌ニューズ4U(News4U)、アフリカン・アメリカン向けの月刊紙アワ・タイムズ(Our Times)がある。 エバンズビルのテレビ市場は全米100位の規模で、主要各テレビ局が市内に支局を置いている。また、エバンズビルはラジオ局32局を有する。エバンズビル大学もFMラジオ局を有しており、オルタナティブ、クラシック、ジャズといった幅広いジャンルの音楽番組を放送している。 エバンズビルは市内とその周辺に公立小学校20校、公立中学校11校、公立高校5校のほか、私立高校4校(うち2校はローマ・カトリック系)を有している。私立のシグネチャー高校(Signature School)はニューズウィーク誌の全米高校ランキングトップ100で第54位にランクされた優秀な高校である。インディアナ州内の高校で同ランキングのトップ100に入ったのは、シグネチャー高校ただ1校だけである。 また、エバンズビルにはトヨタ自動車の進出もあり、日本人が比較的多いことから、南インディアナ補習授業校が土曜日に日本語の授業を行っている。 エヴァンズヴィルはいくつかの高等教育機関を有している。エヴァンズヴィル大学(UE)は小規模私立大学で、約3,050名が在籍している。1854年にムーアズ・ヒル・カレッジとして開校し、リベラル・アーツと科学の分野の学科がある。演劇の分野で全米に知られており、卒業生がテレビや映画に出演している。学生の約半数がイングランドのリンカンシャーのグランサムにあるHarlaxton College などのサテライト・キャンパスを含む海外に留学する。スポーツ・チームであるパープル・エイスィズはNCAAのディヴィジョンIに加盟している。Missouri Valley Conference に所属し、United Methodist Church と提携している。 南インディアナ大学(USI)はエヴァンズヴィル近郊にある州立大学である。1965年に開校し、近年学生数が増加し、約10,800名以上の学生を抱えており、インディアナ州立総合大学でも最速の成長を遂げている。USIのスポーツ・チームであるスクリーミング・イーグルスはNCAAのディヴィジョンIIに加盟している。また、インディアナ大学の医学部が南インディアナ大学のキャンパス内に医学教育センターを設置している。このプログラムは元々The University of Evansville's Health Department および提携しているインディアナ大学と州政府の一部であった。 この他エヴァンズヴィルにはIvy Tech Community College of Indiana 、ITT Technical Institute 、Harrison College 、Oakland City University's School of Adult and Extended Learning がある。 エヴァンズヴィルには図書館システムで受賞歴のあるEvansville Vanderburgh Public Library (EVPL)がある。市と郡のシステムが統合されており、インディアナ州最大の図書館の1つとなっている。『Library Journal 』誌において、全米で上位1%しか取得できない五つ星を獲得した。2010年、Hennen's American Public Library Ratings で第10位に、また人口比により第8位にランクインした。 他に私立図書館のWillard Library もある。1881年に公立図書館として開館し、人種に関わらず利用できる19世紀後半としては進歩的な図書館であった。一般的出版物の他、大量の重要な地元の文書、系譜学資料などが所蔵されている。ゴシック・リヴァイヴァル建築のこの建物は1972年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定された。 市の玄関口となる空港はダウンタウンの北約6kmに位置するエバンズビル地域空港(Evansville Regional Airport)である。全米各地から1日50便以上の航空機が発着する。空港から市内各地へは、エバンズビル都市圏交通局(METS)が運営する路線バスの便がある。また、市内の主要ホテルにはシャトルの便もある。 市の北郊を州間高速道路I-64が東西に走っている。I-64はセントルイスとバージニアビーチを結ぶ高速道路で、途中ルイビル・レキシントン・リッチモンドなどの都市を通る。I-64の支線であるI-164は本線とエバンズビルのダウンタウンとを結んでいる。セントルイスへは西へ約270km(所要2時間半)、ルイビルへは東へ約190km(所要約1時間45分)である。 将来的には州間高速道路I-69が南へテキサス州ブラウンズビルまで延伸され、エバンズビルを通る予定である。I-69は現在インディアナポリスからミシガン州フリントを通りカナダ国境へと通じており、完成するとカナダとメキシコそれぞれの国境に通ずる2本目の高速道路になる予定である。延伸に伴い、エバンズビルではI-164がI-69本線に格上げされる予定となっている。 以下は2000年の国勢調査における人口統計データである。 基礎データ 人口: 121,582人 世帯数: 52,273世帯 家族数: 30,527家族 人口密度: 1,153.4人/km²(2,987.0人/mi²) 住居数: 57,065軒 住居密度: 541.3軒/km²(1,402.0軒/mi²) 人種別人口構成 白人: 86.24% アフリカン・アメリカン: 10.92% ネイティブ・アメリカン: 0.21% アジア人: 0.72% 太平洋諸島系: 0.05% その他の人種: 0.49% 混血: 1.37% ヒスパニック・ラテン系: 1.14% 年齢別人口構成 18歳未満: 22.7% 18-24歳: 11.5% 25-44歳: 28.6% 45-64歳: 21.0% 65歳以上: 16.2% 年齢の中央値: 36歳 性比(女性100人あたり男性の人口) 総人口: 88.8 18歳以上: 85.1 世帯と家族(対世帯数) 18歳未満の子供がいる: 26.6% 結婚・同居している夫婦: 40.8% 未婚・離婚・死別女性が世帯主: 13.7% 非家族世帯: 41.6% 単身世帯: 35.1% 65歳以上の老人1人暮らし: 13.5% 平均構成人数 世帯: 2.24人 家族: 2.90人 収入と家計 収入の中央値 世帯: 31,963米ドル 家族: 41,091米ドル 性別 男性: 30,922米ドル 女性: 21,776米ドル 人口1人あたり収入: 18,388米ドル 貧困線以下 対人口: 13.7% 対家族数: 10.1% 18歳未満: 19.0% 65歳以上: 8.4% 1992年、『プリティ・リーグ』の試合のシーンがボッセ球場で撮影された。1915年に開業したこの野球場は、アメリカで現在も使用されている野球場で1912年開業のマサチューセッツ州ボストンにあるフェンウェイ・パーク、1914年開業のイリノイ州シカゴにあるリグレー・フィールドに続き3番目に古い。この野球場は女性球団Racine Belles の本拠地であった。 1988年から1997年に放送されたシットコム『Roseanne 』の外観はエヴァンズヴィルおよび近郊で撮影され、現在もファンが写真撮影に訪れる。コナー邸は南ラニーミード通り619番地に位置し、ロボ・ラウンジはエドガー通りとルイジアナ通りの角のピザ屋である。プロデューサーの1人のマット・ウイリアムズはエヴァンズヴィル生まれでエヴァンズヴィル大学演劇学科卒業である。彼はウィンド・ダンサー・プロダクションの共同創立者の1人で『Home Improvement 』など多くのシットコム、映画、ブロードウェイのストレイト・プレイなどに携わっている。 『ザ・デイリー・ショー』で2回エヴァンズヴィルが取り上げられた。1回目はコメディアンのキャロット・トップが歴史的なヴィクトリー・シアターの再開に関わるエピソードであった。2回目は市議会に出ずにロバーツ・スタジアムで行なわれたシェールのコンサートに行った元市長のラッセル・ロイド・ジュニアをからかうエピソードであった。 エヴァンズヴィルはアルトン・ブラウンの『Feasting on Asphalt 』でも取り上げられたことがある。アルトンとスタッフ達は歴史的グレイハウンド乗車場の自動販売機、YWCAの喫茶室にランチ、Hilltop Inn にブレイン・サンドイッチとバーゴのために訪れた。他に『Ghost Hunters 』でウイラード図書館に出没するという幽霊Gray Lady を探すエピソード、ウエザー・チャンネルの『Storm Stories 』で2005年に起きた竜巻についてのエピソードなどが放送された。また2007年の『プリズン・ブレイク』のエピソード『シカゴへ……(Chicago )』でサラ・タンクレディがマイケル・スコフィールドとリンカーン・バローズと会うのがエヴァンズヴィルであった。2012年、イギリスのテレビ番組『Supersize vs Superskinny 』でアメリカにおいて肥満の住民の割合が高いことでエヴァンズヴィルが取り上げられた。 1955年のウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』、1962年のウォーカー・パーシーの小説『The Moviegoer 』、1969年のロバート・シルヴァーバーグのサイエンス・フィクション小説『To Live Again 』にもエヴァンズヴィルが登場する。 2004年のマイク・ウイッカーの『Invitation to Valhalla 』など、エヴァンズヴィルは歴史フィクション小説によく登場する。この小説は第二次世界大戦中、ドイツ人スパイErika Lehmann がLSTに潜入しようとした記録を基に描かれている。 エドウィン・デンビ - 海軍秘書(1921-1924)、「ティーポット・ドーム事件」に関わった。 アンディ・ベネス - 元ドラフト1位指名MLB野球選手、元オリンピック・アメリカ代表 ジェイミー・キャロル - 野球選手 ドン・マッティングリー - 元ニューヨーク・ヤンキース野球選手、ロサンゼルス・ドジャースの監督 ポール・スプリットオフ - 野球選手 エイヴリー・ブルックス - 俳優。『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』、『私立探偵スペンサー』など。 ルイーズ・ドレッサー - 女優 デビッド・エンゲ - 俳優。『ゾンビ』など。 マイケル・ミシェル - 女優。『ER緊急救命室』など。 カイル・バーンズ - フォーエヴァー・ザ・シッケスト・キッズのドラム奏者 アンディ・ティモンズ - ギタリスト、音楽ディレクター、ソロ・アーティスト 栃木( 日本) オスナブリュック( ドイツ) Tizimín( メキシコ) ^ Find a County, National Association of Counties, http://www.naco.org/Counties/Pages/FindACounty.aspx 2011年6月7日閲覧。  ^ Silverberg, Robert. 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キング牧師が暗殺された旧ロレイン・モーテルの中にある。 消防博物館(Fire Museum) メンフィス博物館名誉の殿堂(Memphis Museum Hall of Fame) メンフィス・ロックンソウル博物館 (Memphis Rock 'n' Soul Museum) ピンクパレス博物館とプラネタリウム (Pink Palace Museum and Planetarium) メンフィス・グリズリーズ(NBA) - フェデックス・フォーラムが本拠地 メンフィス・レッドバーズ(MLBセントルイス・カージナルス傘下3A) - オートゾーン・パークが本拠地 メンフィス・ブルース(ラグビー) メンフィス・リバーキングス(アイスホッケー) - ミシシッピ州デソト郡内のデソト・シヴィック・センターが本拠地 ビール・ストリート - かつての黒人コミュニティの中心地であり、あちこちでブルースの演奏を行なっている。B.B.キングは若い頃ここでギターの演奏をしており、その後も自身の名を冠したブルース・クラブに出演することもあった。ストリート・パフォーマーが路上で生演奏するほか、バーやクラブでは夜明け近くまでライヴを行なう。 メンフィス動物園 ピーボディ・ホテル サン・スタジオ オーフィアム・シアター ニュー・デイジー・シアター マッド・アイランド・アンフィシアター ピラミッド メンフィス市の小中高等学校はメンフィス市学区に属し、郊外の小中高等学校はシェルビー郡学区に属している。 以下の大学がメンフィスにキャンパスを持つ。 バプテスト医科大学(Baptist College of Health Sciences) - 1994年創立 ラ・サール会大学(Christian Brothers University) - 1871年創立 ハーディング大学宗教学部(Harding University Graduate School of Religion) ルモイン・オーウェン大学(LeMoyne-Owen College) - 1871年創立 メンフィス芸術大学(Memphis College of Art) - 1936年創立 アメリカ中部バプテスト神学校(Mid-America Baptist Theological Seminary) - 1971年創立 ローズ大学(Rhodes College、旧称Southwestern at Memphis) - 1848年創立 南部眼科大学(Southern College of Optometry) - 1932年創立 南西テネシー短期大学(Southwest Tennessee Community College、旧称シェルビー州立短期大学) メンフィス大学(University of Memphis、旧称メンフィス州立大学) - 1912年創立 テネシー大学医療科学センター(University of Tennessee Health Science Center - 1911年創立 セント・ジュード小児研究病院(St. Jude Children's Research Hospital) - ノーベル生理学・医学賞を受賞したピーター・ドハーティーが研究を行っている。 ザ・コマーシャル・アピール The Commercial Appeal(第一の日刊紙) ザ・デイリー・ニュース The Daily News メンフィス・ビジネス・ジャーナル Memphis Business Journal メンフィス・フライヤー Memphis Flyer(オルタナティブ週刊新聞) シェルビー・サン=タイムズ Shelby Sun-Times(イースト・メンフィスとシェルビー郡向け地方紙) メンフィス・トライステイト・ディフェンダー Memphis Tri-State Defender(アフリカ系アメリカ人系新聞) ラ・プレンサ・ラティーナ La Prensa Latina(ヒスパニック系新聞) メンフィスを題材としたポップまたはカントリーなどの曲を以下に示す: The Memphis Blues - W.C.ハンディ Memphis, Tennessee - チャック・ベリー Night Train to Memphis - ロイ・エイカフ Goin' to Memphis - Paul Revere and the Raiders Queen of Memphis - Confederate Railroad Memphis Soul Stew - キング・カーティス Maybe It Was Memphis - パム・ティリス Graceland - ポール・サイモン Memphis Train - ルーファス・トーマス All the Way from Memphis - モット・ザ・フープル Wrong Side of Memphis - トリーシャ・イヤーウッド Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again - ボブ・ディラン Memphis Skyline - ルーファス・ウェインライト Sequestered in Memphis - ホールド・ステディ Walking in Memphis - マーク・コーン メンフィスに言及した曲を以下に示す: プラウド・メアリー - クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル ホンキー・トンク・ウィメン - ローリング・ストーンズ ディキシー・チキン - リトル・フィート Who's Gonna Fill Their Shoes - ジョージ・ジョーンズ Daisy Jane - アメリカ ライフ・イズ・ア・ハイウェイ - トム・コクラン Black Velvet - アランナ・マイルス Cities - トーキング・ヘッズ Crazed Country Rebel - ハンク・ウイリアムズ・サード プライド - U2 M.E.M.P.H.I.S. - ディスコ・ビスケッツ New New Minglewood Blues 、Candyman - グレイトフル・デッド You Should Be Glad - ワイドスプレッド・パニック Roll With Me - 8Ball & MJG 1,000曲以上に「メンフィス」という言葉が含まれ、メンフィス・ロックンソウル博物館のウエブサイトでリストを確認することができる。 しあわせの隠れ場所(2009年) 雷神-RAIJIN- (2008年) ブラック・スネーク・モーン(2007年) ウォーク・ザ・ライン/君につづく道(2005年) - ジョニー・キャッシュの伝記映画 ハッスル&フロウ(2005年) 21グラム(2003年) キャスト・アウェイ(2000年) レインメーカー(1997年) - ジョン・グリシャム原作の法廷サスペンス ラリー・フリント(1996年) - ポルノ雑誌「ハスラー」の創刊者、ラリー・フリントの伝記映画 依頼人(1994年) ザ・ファーム 法律事務所(1993年) - ジョン・グリシャム原作の法廷サスペンス 羊たちの沈黙(1992年) メンフィス・ベル(1990年) グレート・ボールズ・オブ・ファイヤー(1989年) - ジェリー・リー・ルイスの伝記映画 ミステリー・トレイン(1989年) コミックス『MAJOR』シリーズ、アニメ『メジャー (アニメ)』シリーズ シーズン4(2008年) - 主人公が所属するマイナーリーグ作中架空チーム「メンフィス・バッツ」(モデルは、「メンフィス・レッドバーズ」)のホームタウン。 市街の南側にデルタ航空(旧・ノースウエスト航空)のハブ空港であり、世界一忙しい空港の一つとなっているメンフィス国際空港がある。 道路関係は、主要路線である一級州間高速道路としてI-40とI-55が走っている。二級州間高速道路としてはI-240が市街地周辺を環状するように走っている。また、USハイウェイはUS 51、US 61、US 64、US 70、US 72、US 78、US 79がメンフィスを通る。US 72、US 78はメンフィスが西の終点である。70、64、72号線は北はシカゴを拠点としてイリノイ州カイロを通り、51、61号線はほぼミシシッピ川に沿い、南側をブルースの歴史深いミシシッピ・デルタを通過する。 鉄道関係は、ニューオーリンズとシカゴを結ぶアムトラックの旅客列車シティ・オブ・ニューオーリンズがセントラル駅に停車する。市街の中心部には路面電車が運行している。 アレサ・フランクリン - 歌手 アンドリュー・スティーヴンス - 映画監督 アンファニー・ハーダウェイ - バスケットボール選手 ウォルター・ラング - 映画監督 エリオット・ペリー - バスケットボール選手 カーク・ウェイラム - ジャズ・フュージョン・サックス奏者 キャシー・ベイツ - 女優 クイントン・ジャクソン - 総合格闘家 サライヴァ - ハードロックバンド ジェリー・ローラー - プロレスラー ジニファー・グッドウィン - 俳優 シビル・シェパード - 女優、歌手、モデル ジャスティン・ティンバーレイク - 歌手 シャナン・ドハーティー - 俳優 ジュニア・ウェルズ - 歌手 ルース・ウェルティング - 歌手 ジョージ・ハミルトン - 俳優 ショーン・レイン - ミュージシャン スリー・6・マフィア - ヒップホップグループ デビッド・ウエスト - プロ野球選手 トーマス・ハーンズ - プロボクサー ネルソン・フレイジャー・ジュニア - プロレスラー ビル・マドロック - 野球選手 ブッカー・リトル - ミュージシャン マシンガン・ケリー - ギャング モーガン・フリーマン - 俳優 モーリス・ホワイト - ミュージシャン リサ・マリー・プレスリー - 歌手 リック・フレアー - プロレスラー ルーシー・ヘイル - 女優 メンフィスはSister Cities International, Inc.(SCI)によって認定された2つの姉妹都市を有している。 カニフィング(ガンビア) カオラック(セネガル) 1987年、中村裕昭 1992年、忌野清志郎 2003年、森泰仁 2006年、中島美嘉 池田大作 ORITO 花柳糸之 ^ “American FactFinder”. United States Census Bureau. 2014年10月3日閲覧。 ^ US Gazetteer files: 2010, 2000, and 1990, United States Census Bureau, (2011-02-12), http://www.census.gov/geo/www/gazetteer/gazette.html 2011年4月23日閲覧。  ^ American FactFinder, United States Census Bureau, http://factfinder.census.gov 2008年1月31日閲覧。  ^ The Most Dangerous Cities in America247wallst ^ “Africa In April”. Africa In April Cultural Awareness Festival, Inc.. 2012年9月10日閲覧。 ^ [1] ^ The Legend ~A Tribute to Super Star vol.4~のお知らせ ^ [2] ^ [3] ^ [4] ^ [5] ^ [6] ^ [7] ^ [8] 公式 メンフィス市公式サイト (英語) 観光 メンフィス観光局 (英語)(ドイツ語)(フランス語)(スペイン語)(日本語) メンフィス市観光局 (日本語) テネシー州観光局 - メンフィス (英語)(ドイツ語)(スペイン語)", "アメリカ合衆国 > オレゴン州 > ポートランド (オレゴン州) ポートランド(英語: Portland)は、アメリカ合衆国オレゴン州北西部マルトノマ郡にある都市。同州最大の都市かつ同郡の郡庁所在地である。太平洋岸北西部ではワシントン州シアトル、カナダブリティッシュコロンビア州バンクーバーに次いで3番目に人口が多い。 ポートランドは環境に優しい都市であるとされ、その評価は全米第1位、世界で見てもアイスランドのレイキャヴィークに次いで第2位と言われる。 2009年10月にフォーブス誌は、ポートランドを全米で3番目に安全な都市にランクした。しかし治安については、犯罪発生率で殺人を除く全カテゴリーで全米平均を上回っている。 また、強力な土地利用計画を行っていることで有名で、オレゴン地域政府「メトロ」がサポートするライトレールシステムへの投資でもよく知られる。そして、地ビールや蒸留酒を生産する小規模な醸造所(マイクロブルワリー)や蒸留所(マイクロディスティラリー)が数多く存在し、コーヒーの消費も非常に盛んである。 温暖な気候によりバラの栽培に非常によく適しているため、市内には国際バラ試験農園を筆頭として多くのバラ園が散在し、ポートランドは100年以上に渡り「バラの町」(The City of Roses)の異名で知られ、最も一般的な愛称ともなっており、2003年には市の公式愛称に採択された。 他の愛称としては、「切り株の町」(Stumptown)、「橋の町」(Bridgetown)、「リップ・シティ」(Rip City)、「小ベイルート」(Little Beirut)、「ビアヴァーナ」(Beervana)、「ビールの町」(Beertown)、「Pタウン」(P-Town)、「PDX」などがある。 現在のポートランドにあたる地域は、オレゴンシティとバンクーバー砦の中間地点にあり、ウィラメット川流域に広がる「空き地」として知られる場所であった。1843年、ウィリアム・オバートンはこの空き地に注目し、商業都市として開発する夢を描いたが、資金不足のため土地請求権を得られなかった。そこでオバートンはマサチューセッツ州ボストンから来たアサ・ラブジョイと25セントで取引をし、この2.6km2(640エーカー)に及ぶ土地の請求権を共同所有することに成功した。その後、オバートンは所有する土地の半分をメイン州ポートランド出身のフランシス・W・ペティグローブに売却した。ペティグローグとラブジョイはこの新都市にそれぞれの故郷の名前を付けることを望んで意見が対立したため、都市名をコイントスで決めることになった。その結果、ペティグローブが3回中2回のトスを当てて勝利した。ここで用いられたコインは今日「ポートランド・ペニー」の名で知られ、オレゴン歴史協会の本部に展示されている。 ポートランド市の成立は1851年2月8日のことであった。当時、既に人口は800人を超え、蒸気による製材工場や丸太小屋のホテルがあり、後にオレゴニアンとなる新聞紙ウィークリー・オレゴニアンが発刊されていた。市成立後も人口は増加の一途を辿り、1879年には17,500人にまで達した。1891年にはアルビナとイーストポートランドの自治体を吸収し、1915年にはリントンとセントジョンズの自治体を吸収した。 ポートランドは立地条件に恵まれた都市だった。ウィラメット川とコロンビア川と辿れば太平洋に出ることが出来、逆にウェストヒルズの峡谷に作られた「グレート・プランク・ロード」(現在の国道26号線のルート)を辿れば農業が盛んで肥沃なトゥアラティン渓谷に出ることも出来た。この立地条件の優位性から近隣にある港町を押し退け、ポートランドの町は急速に発展した。その影響力は大きく、ポートランドは19世紀末まで太平洋岸北西部最大の港湾都市として君臨した。しかし1890年代になると、シアトルにあった深水港がアメリカ内陸部と鉄道が繋がって、コロンビア川を航行する危険なルートに頼ることなく内陸部との輸送が出来るようなった。その後、ポートランドはシアトルに太平洋岸北西部の主要港の座を明け渡すことになる。 ポートランドは、オレゴン州で最も人口の多い地域であるウィラメット渓谷の北端に位置する。しかしポートランドの都市圏は文化的にも政治的にもウィラメット渓谷とは一線を画しているため、実際にはウィラメット渓谷と言った場合にポートランドを含めないことが多い。ポートランドの市域はほとんどがマルトノマ郡にあるが、一部はクラカマス郡とワシントン郡に跨がっている。ウィラメット川が市中央を北に向かって流れており、ポートランドはこれを境に東部と西部に分かれている。ウィラメット川はポートランドを越えると北西に向きを変え、わずかに北上後コロンビア川に合流する。 また、ポートランドは鮮新・更新統の死火山地帯「ボーリング溶岩フィールド」の真上に位置する。ボーリング溶岩フィールドには、テイバー山など少なくとも32の噴石丘があり、南西部ポートランドに特に集中している。ポートランドの東方にある活火山のフッド山は、天気の良い日には市内の多くの場所から見られる。活火山のセントヘレンズ山はポートランドの北方にあり、ワシントン州にある火山であるが、距離も近いためポートランド市内からでも高い場所からであれば見ることが可能であり、1980年の噴火の時には市内に火山灰が積もるほどであった。 アメリカ合衆国統計局によると、この都市は総面積376.5 km2(145.4 mi2)である。このうち347.9 km2(134.3 mi2)が陸地で28.6 km2(11.1 mi2)が水地域である。総面積の7.6%が水地域となっている。 ケッペンの気候区分では地中海性気候(Csb)に属する。 それほど寒くならず湿気のある冬と、比較的乾燥しつつも暖かい夏が特徴的である。その他の気候区分系、例えばトレワーサの気候区分などでは海洋性気候に属する。 夏は暖かく晴天の日が続き、乾燥している。内陸に位置し海風が吹き込まないことから、7月から8月にかけて熱波が発生することがあり、その気温は38℃(100°F)を超える。冬の寒さは穏やかで、非常に湿度が高い。春は予想しにくい天気が続き、ある時は暖かくなったかと思えば、またある時はカスケード山脈の影響で雷雨が起こる。寒波が起こることもあるが大抵期間は短く、一年で雪が降るのは数回程度である。しかし、コロンビア峡谷から流れ込む冷たい空気の影響で、大規模な降雪や、雨氷を含む嵐などが起こることが知られている。年間降雪量は年によって変化が大きく、わずかしか降らない年もあれば、1892-93年の冬のように154.7cm(60.9インチ)に達することもある。 最低気温記録は1950年2月2日に記録した−19℃(−3°F)である。最高気温記録は1965年7月30日、1981年8月8日、1981年8月10日の各日に記録した42℃(107°F)である。また、5月から9月までの各月において38℃(100°F)を記録したことがある。 2000年現在の国勢調査で、この都市は人口529,121人、223,737世帯および118,356家族が暮らしている。人口密度は1,655.31/km2(4,228.38/mi2)である。682.1/km2(1,766.7/mi2)の平均的な密度に237,307軒の住宅が建っている。 223,737世帯のうち、24.5%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、38.1%は夫婦で生活している。10.8%は未婚の女性または寡婦が世帯主であり、47.1%は結婚していない。34.6%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、9.0%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.3人であり、結婚している家庭の場合は3.0人である。 この都市内の住民は21.1%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が10.3%、25歳以上44歳以下が34.7%、45歳以上64歳以下が22.4%および65歳以上が11.6%にわたっている。中央値年齢は35歳である。女性100人ごとに対して男性は97.8人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は95.9人である。 この都市の世帯ごとの平均的な収入は29,506米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は50,271米ドルである。男性は35,279米ドルに対して女性は29,344米ドルの平均的な収入がある。この都市の一人当たりの収入(per capita income)は22,643米ドルである。人口の13.1%および家族の8.5%は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の15.7%および65歳以上の10.4%は貧困線以下の生活を送っている。 オレゴン州平均と比べて、ポートランドの平均住宅価格は州平均を上回っている。また、外国生まれの人口に関しては州平均を大きく上回っている。 ポートランドの人口は順調に増加を続けているが、子どもの総人口は減少傾向にあるため、公立教育学区は閉校の危機に晒されている。2005年の研究報告によれば、ポートランドで教育を受けている子どもの数は、市の人口が現代の半分しかいなかった1925年に比べても少ない。同報告は、市は今後の10年間、毎年3校から4校の小学校を閉校していかなくてはならないと指摘している。 1940年時点のポートランドのアフリカン・アメリカン人口は約2,000人で、ほとんどが鉄道作業員とその家族であった。戦時中のリバティ船建設ブームにおいては、労働者の需要が高まり多くの黒人がポートランドにやってきた。この時に流入した黒人は、アルビナやヴァンポートといった特定の地区に住み着いた。1948年5月にはヴァンポート洪水が発生し、黒人が多かったヴァンポートを破壊し尽くしたが、その後もポートランドの北東地区への黒人流入は続いた。現在、ポートランドのアフリカン・アメリカン人口比率は7.90%と、州平均の4倍となっている。また、オレゴン州に住む黒人のうち、3分の2がポートランドに住んでいる。2000年現在の国勢調査によれば、ポートランドにある高校のうち、クリーブランド高校、リンカーン高校、ウィルソン高校の3校では白人比率が70%と市全体の人種統計を反映したものとなっているが、その一方でジェファーソン高校では76%の生徒が非白人となっている。その他の6つの高校に関しても、黒人やアジア人など非白人の比率が高い状況となっている。ヒスパニックの生徒比率では、ウィルソン高校の3.3%からルーズベルト高校の14.9%まで大きなばらつきがある。 ポートランドの中心はウィラメット川が貫き、近くでコロンビア川と合流する。人口密度が高く、初期の頃から発展した西岸一帯はウェストヒルズ(トゥアラティン山脈)に囲まれているが、ポートランド市域はさらに向こう側のワシントン郡にまで及ぶ。平らかな東岸地域は180街区先まで広がり、ベッドタウンであるグレシャムに隣接する。さらに東に進むとマルトノマ郡の田園地帯が広がる。 1891年にポートランド、アルビナ、イーストポートランドの3市が合併し、これにより重複してしまった道路名の変更が行われた。1931年9月2日には道路名を定めるために大規模な道路番号の再付与が実施され、街区あたり20から100の住居番号が変更された。この実施を受けて、ポートランドは南西地域、南東地域、北西地域、北部地域、北東地域の5地域に分割された。バーンサイド通りが北部と南部の境界となり、ウィラメット川が東部と西部の境界となった。ただしバーンサイド通りから5街区北に進むとウィラメット川は西に折れる。その先では、ウィリアムズ通りが東西の境界線となり、北部地域はウィリアムズ通りとウィラメット川に囲まれた地域となっている。 ウィラメット川の西側にあるリバープレース、ジョンズランディング、サウスウォーターフロントなどの地区がある場所は「第6の地域」と呼ばれ、西から川がある東に向かって住所番号が大きくなる。この「第6の地域」は西側でナイトー公園通りとバーバー通りに接し、北側でモンゴメリ通りに接し、南でネバダ通りに接する。地域内に割り振られた東西の住居番号には最初に0が付いており、この0は省略することができない。例えば、地域内にある「南西カリフォルニア通り0246番」という住所を「南西カリフォルニア通り246番」と書いてしまうと、ポートランド市内の全く別の場所を指してしまうことになる。しかしコンピュター向けの地図ソフトなどでは、この異なる2つの住所番号を区別することができないことが多いのが現状である。 ポートランドには多くの公園があり、空地を保存してきた遺産を誇りとしてきた。ポートランドにおける公園計画・緑地計画の起源は、ジョン・チャールズ・オルムステッドが1903年に「ポートランド公園委員会への報告書」を発表した時のことまで遡る。1995年、ポートランド都市圏に住む登録有権者は魚類や原生生物、人々のための自然地域設置を目的とした地域債発行法案を通過させた。10年後、生態学的に貴重な自然区域33km2が購入され、永久に開発から保護されることになった。 ポートランドには死火山「テイバー山」があるが、このように市域内に死火山がある市はアメリカ大陸部に3つしかない(残りの2つはミシシッピ州ジャクソンとオレゴン州ベンド)。テイバー山公園はその見晴らしの良さと、歴史ある貯水池によって名を馳せている。 ポートランド市内にあるフォレストパークは原生生物を保護した都市公園としては全米最大の公園で、その面積は20km2(5,000エーカー)を超える。また、世界最小の公園であるミルエンズ公園もある。この公園は直径60cmの円の形をしており、面積は0.3m2に過ぎない。ダウンタウンの西にあるワシントンパークにはオレゴン動物園、ポートランド日本庭園、国際バラ試験農園といった施設がある。近くには、ポートランドの最高点となるカウンシルクレストパークがある。 ダウンタウンのウィラメット川西岸沿いには、トム・マコール・ウォーターフロント・パークが広がる。15ヘクタール(37エーカー)の面積を持つ公園で、1974年に完成した。かつてはハーバー・ドライブという高速道路が走る土地であったが、現在はさまざまなイベントが開かれる公園となっている。ポートランド中心街の中で2つの地域(ノース・パーク・ブロックス、サウス・パーク・ブロックス)がこの公園に充てられている。 トライオン・クリーク州立自然地域を筆頭に、3つのオレゴン州立公園がポートランド市内にある。トライオン・クリークではニジマスの遡上が見られる。他の2つの州立公園は、ウェストヒルズにあるウィラメット・ストーン州立遺産公園と、コロンビア川沿いでポートランド国際空港の近くにあるガバメント島州立保養地域である。 ポートランドは、アメリカで広まっているDIY(Do it yourself)と呼ばれる若者文化の中心地として知られる。1980年代後半から今日まで同人誌制作など諸活動の一大拠点となっており、「ポートランド・ジン・シンポジウム」といったイベントが開催されているほか、ミクロコスムといった主要な同人誌の販売会社が拠点を置いている。DIYの流れを汲む工芸愛好家は1990年代から急増しており、今日ではクラフティ・ワンダーランド、チャーチ・オブ・クラフトなどのイベントが開催されているほか、ニットン・キットン、スクラップなどの店舗、ボルト、PDXシームスターズ・ドロップイン・ソーイング・スタジオ、ヤーン・ガーデンなどの個人経営店、ダウンタウンのファイバー・アーツ・ディストリクトなどがある。ポートランドはまた、フェミニストやレズビアンの急進的な活動家の行動拠点となっているほか、ワールズ・オールデスト・ティーンエイジ・ドラッグ・クイーン・パジェントと呼ばれる、1975年にインペリアル・サバリーン・ローズ・コート・オブ・オレゴンをモデルにして始まったイベントの開催拠点ともなっている。また、パンク、ハードコア、クラストパンク、アナーキストなどのムーヴメントの拠点とも考えられており、自立的なポートランドのDIY文化はこれらサブカルチャーの一部にもなっている。 アメリカの他の大都市と同様に、ポートランドにも多くの舞台芸術団体がある。オレゴン・バレー劇場、オレゴン交響楽団、ポートランド・センター・ステージ、ポートランド・バロック管弦楽団、ポートランド・オペラなどが代表的である。また、ニューヨークで言うところのオフ・ブロードウェイやオフ・オフ・ブロードウェイに近い劇場も数多く存在し、ポートランド・センター・ステージ、アーティスツ・レパートリー・シアター、ミラクル・シアター、スターク・レイビング・シアター、ティアーズ・オブ・ジョイ・シアターなどがそれにあたる。また、ハリウッド・シアターではHPラブクラフト映画祭が開催される。 ポートランドを代表するバンドに、キングスメンとポール・リビア&ザ・レイダースがあり、ともに「ルイ・ルイ」で有名となった。その他、ザ・ダンディ・ウォーホルズ、エバークリア、モデスト・マウス、ピンク・マティーニ、スリーター・キニー、シンズ、ブリッツェン・トラッパー、ディセンバリスツ、また今は故人となってしまったがエリオット・スミスなどが有名である。市内にあるサティリコン・ナイトクラブはニルヴァーナのリーダーだった故カート・コバーンが、後に妻となるロックミュージシャンのコートニー・ラブと出会った場所として有名である。 また、アニメーターではマット・グレイニング(『ザ・シンプソンズ』)、ウィル・ヴィントン(『ウィル・ヴィントンのクレイメーション・クリスマス・セレブレーション』)、映画制作者ではガス・ヴァン・サント(『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997年)、『ミルク』(2008年)が著名である。俳優ではサム・エリオット、サリー・ストラザース、また雑誌『ヘビーメタル』などで知られるカートゥーニスト兼イラストレーターのダン・ステファンもポートランド在住である。 ポートランドは映画の舞台になることも多く、近年では『小さな命が呼ぶとき』、『BODY/ボディ』、『超次元の成功法則』、『ハンテッド』、『トワイライト〜初恋〜』、『パラノイドパーク』、『ウェンディ&ルーシー』、『ラブ・アペタイザー』、『ブラックサイト』などの舞台となった。またポートランドの特徴に、セカンドランやリバイバル映画の上映にあたって、ビールの販売を行う映画館の数がかなり多いことが挙げられる。このような「ビールを飲みながら観られる」映画館としては、ザ・バグダット・シアター・アンド・パブが有名である。 また、ポートランドが舞台となったテレビドラマでは『ポートランディア』、『レバレッジ 〜詐欺師たちの流儀』、『アンダー・サスピション』、『ライフ・アンエクスペクティッド』がよく知られる。 ポートランドを代表する作家に、SF作家のアーシュラ・K・ル=グウィン(『ゲド戦記』、『ハイニッシュ・サイクル』、『オルシニア国物語』)、フィクション犯罪文学作家のチャック・パラニューク(『ファイト・クラブ』)、児童文学作家のビバリー・クリアリー(『ゆかいなヘンリーくんシリーズ』)がいる。クリアリーの著作でキャラクター達が住んでいるクリッキタト通りは、ポートランド北東部のNE33番アベニューの近くに実際に存在する道路の名前である。近くにあるグラント公園ではキャラクター達の像を見ることができる。 ポートランドは様々なジャンルの芸術家や芸術組織が拠点を構えていることで知られ、2006年にはアメリカン・スタイル誌で全米第10位の「芸術都市」に選定されている。 ポートランド美術館には市内最大のコレクションを所蔵されており、所蔵品は毎年さまざまな展覧会に出展されている。近年、近現代芸術エリアが追加され、全米25大美術館の1つに数えられるようになった。アートギャラリーはダウンタウン、パール地区、アルバータ芸術地区を中心に市内全域に散在している。 オレゴン科学産業博物館(OMSI)はダウンタウンからウィラメット川を挟んだ東岸にあり、物理科学、生命科学、地球科学、工学、天文学、早期児童教育などに関する展示品を実際に手で触って体験学習をすることが出来る。館内にはOMNIMAXシアターがあるほか、『レッド・オクトーバーを追え!』にも登場したバーベル級潜水艦「SS581 ブルーバック」の展示も行われている。 蘭蘇園(Lan Su Classic Chinese Garden)では、外壁に囲まれた蘇州式の庭園を見ることが出来る。 ポートランディアは、ポートランド・ビルの西側にある像で、打ち出し細工の銅像としてはニューヨークの自由の女神像に次いで全米で2番目に大きい。ポートランドのパブリックアートは、地域芸術文化委員会が管理している。 パウエルズ・シティ・オブ・ブックスは全米最大の個人書店であり、ミシシッピ川以西で最大の書店と自称する。 ポートランド・ローズ・フェスティバルは毎年6月に開催される祭典である。トム・マコール・ウォーターフロントパークでは、パレード、ドラゴンボートレース、カーニバルが催されるなど盛況に賑わう。 ワシントンパークはウェストヒルズにある都市公園である。オレゴン動物園、ポートランド日本庭園、世界林学センター、ホイト樹木園など、ポートランドを代表する娯楽施設が集中する。 ポートランドではオレゴン醸造祭(オレゴン・ブルワリーズ・フェスティバル)を始め、ビールや醸造にまつわる祝典が一年を通じて数多く行われる。オレゴン醸造祭は毎年7月最後の週末に開催され、2008年には7万人を超える観客が訪れるなど北米最大の地ビール祭りとして知られる。その他のビール祭としては、春季ビール・ワイン祭(4月)、北米有機醸造家フェスティバル(6月)、ポートランド国際ビール祭(7月)、ホリデー・エール・フェスティバル(12月)が代表的である。 ポートランドでは、様々なショッピングを楽しむことができる。市内のショッピングエリアとして代表的なものに、ダウンタウン・ポートランド、北西23番アベニュー、パール・ディストリクト、ロイド・ディストリクトがある。また、ノードストロームやメイシーズといった主要百貨店が店舗を構える。ポートランド都市圏にある主要なショッピングモールとして、ブリッジポートビレッジ、ワシントンスクウェア、クラカマスタウンセンター、バンクーバーモール、パイオニア・プレイスが知られる。ポートランド文化を反映したショッピングエリアとしては、ポートランド・サタデー・マーケットという市場がある。ここではバザーのような雰囲気の中で芸術を気取った工芸品からチベットの輸入品に至るまで多くの品々が売られている。サタデーマーケットは3月から12月のクリスマスにかけて毎週の週末に開かれる。また、メイド・イン・オレゴンというポートランドに本社を置く会社があり、オレゴン州の特産品や土産物を販売している。 ポートランドは地ビールの生産が盛んなことでよく知られる。オレゴン公共放送はアメリカにおける地ビール革命に果たしたポートランドの役割について紹介し、ポートランドを「ビアバナ」(Beervana)と呼んだ。一部の人々は、1888年に地元醸造家のヘンリー・ウェインハードが自分の醸造所から新しく完成したばかりのスキッドモア泉にビールを汲み入れたことを受けて、ポートランドの人々が酒好きなことを説明することがある。しかし、ポートランドで質の高いビールが有名になったのは1980年代に入ってからのことであり、この時期に州法が改正されて醸造所でビールを消費できるようになった。短いうちに、地ビール醸造所(マイクロブルワリー)と地ビールパブ(ブルーパブ)が市内の至る所で創業した。ポートランドには地元で生産される大麦や12品種以上のホップ、さらにはブルラン分水嶺から流れている清水など豊かな資源がありそれらをビール作りに用いたことから、ビールの醸造所やパブは堅実に発展した。ウィラメット渓谷は全米有数のホップ栽培地域である。 今日、ポートランドは市内に全米最多となる28の醸造所が稼働している。マクメナミン・ブラザーズは、都市圏地域に30を超える地ビールパブ、ディスティラリー、ワイナリーを運営しており、そのうちのいくつかは改装された映画館や、破壊されるはずだった古い建物で営業している。ポートランドの醸造企業としてはマクメナミン・ブラザーズの他、ウィドマー・ブラザーズ、ブリッジポート、ヘア・オブ・ザ・ドッグなどが著名であるが、小規模な会社まで含めるとかなりの数の醸造所が存在する。1999年、作家マイケル・“ビアハンター”・ジャクソンは、ポートランドを「世界のビール首都の候補地」と称し、ドイツのケルンより醸造所が多くあるポートランドを讃えた。ポートランド・オレゴン観光局は、市の愛称として「ビアバナ」(Beervana)、「ブルートピア」(Brewtopia)を推進している。2006年1月中旬に当時の市長トム・ポッターは、市の愛称として「ビアタウン」(Beertown)を用いることを正式に決定した。 ポートランドのレストラン業界は成長中であり、2007年にはフード・ネットワーク・アワーズによって「今年の美食の街:急成長する食文化都市」に選出されている。 ニューヨーク・タイムズも同年、そのレストラン業界の急成長ぶりにポートランドにスポットを当てている。さらにトラベル+レジャー誌も2007年、ポートランドを全米第9位の街に選定している。また、ポートランドは全米で最も菜食主義者に優しい街としても知られている。 ビールの他、ポートランドは太平洋岸北西部地域を代表するコーヒーの街としても知られ、市内のコーヒー店の件数はシアトルに次いで同地域で第2位となっている。Yelp.comは、ポートランドにある20以上のコーヒー店を4.5星〜5つ星と評価している。市内にあるスタンプタウン・コーヒー・ロースターズは、コーヒーのコアな愛好家から良く知られた店で、全米でも屈指の質を誇る直接貿易型コーヒー焙煎店である。その他、小規模なコーヒー焙煎店やカフェが数十店存在する。 ポートランドはNBAのポートランド・トレイルブレイザーズの本拠地である。2011年から、ポートランドはメジャーリーグサッカーの本拠地占有権を獲得し、ポートランド・ティンバーズがその地位を引き継ぐ。市内には多くのマイナーリーグチームが存在する。ランニングはポートランド都市圏で人気のあるスポーツであり、ポートランド・マラソンやフッド・トゥ・コースト・リレー(世界最大のリレー大会)が開催される。スキーやスノーボードも非常に盛んで、ティンバーラインを始め多くのスキー場がフッド山近郊に存在する。 ポートランドには以前、太平洋岸ホッケー協会所属のポートランド・ローズバッズが本拠地を構えていた。ポートランド・ローズバッズはオレゴン州で最初のプロスポーツチームであり、全米初のプロホッケーチームであった。ローズバッズは1916年、アメリカのチームとしては初めてスタンレーカップの決勝進出を果たした。 ポートランドは全米で最も自転車レースが盛んな都市の一つであり、数百のイベントが毎年オレゴン自転車レース協会によって認可されている。アルペンローズ・ヴェロドロームやポートランド国際レースウェイで週に一度イベンドが開催されることにより、春から夏にかけては市内でほとんど毎日のように自転車レースが繰り広げられる。秋にはクロスクルセードといったサイクロクロスレースが開催され、1000人を越す参加者が集まり、観衆で賑わう。 加えて、ポートランド都市圏は自身のクリケットリーグ「オレゴンクリケットリーグ」も有する。このリーグでは毎年、2種類の屋外クリケットゲームが開催される。 2016年に世界室内陸上競技選手権大会が開催された。 『オレゴニアン』はポートランドにおける唯一の日刊大衆紙である。ポートランドだけでなく、オレゴン州全域およびワシントン州クラーク郡を対象とする。 小規模な地元の新聞もいくつか発刊されており、市内の新聞販売ボックスや新聞社などを通じて販売されている。そのような新聞の例に『ポートランド・トリビューン』(木曜日刊行、大衆紙)、『ウィラメット・ウィーク』(隔週、大衆紙)、『ポートランド・マーキュリー』(週刊、都会の若者を対象とする)、『アジアン・レポーター』(週刊、現地および海外の両方を含めたアジアニュースを扱う)がある。 インディーメディアというインディー系のメディアセンターとしては有数の歴史と規模を有する組織がある。『ポートランド・アライアンス』は非常に反権威主義的・急進的な月刊新聞が市内で発刊している。『ジャスト・ワン』はポートランドで月に2度発刊する新聞であるが、地域内でも最も主流のLGBTの刊行物となっている。週2回刊行する新聞『ストリート・ルーツ』は、ホームレスの団体のメンバーによって販売されている。 『ポートランド・ビジネス・ジャーナル』はビジネスニュースを提供する週刊紙である。『デイリー・ジャーナル・オブ・コマース』も同様のビジネス紙である。『ポートランド・マンスリー』はニュースや文化を掲載する月刊の雑誌である。『ザ・ビー』は創刊100年を越す長寿新聞であり、都心南東部の地区を対象とした新聞である。 ポートランドはテレビ網やラジオ網が充実している。同都市圏は全米22位の指定市場地域として1,086,900戸の住宅を擁し、市場規模は全米の0.992%を形成する。ポートランドにおける主要テレビ網は以下の通り。 KATU 2(ABC) KOIN 6(CBS) KGW 8(NBC) KOPB-TV 10 Oregon Public Broadcasting(PBS) KPTV 12(Fox) KPXG 22(ION) KRCW-TV 32(The CW) KUNP-LP 47(Univision) KPDX 49(MyNetworkTV) ポートランド都市圏の人口はここ10年、全米平均を上回る勢いで成長を続けている。現在の推定によれば、今後50年で都市圏人口が60%増加する見込みは80%とされる。 ポートランドは、一部の産業にとって好都合な場所にある。電気代が比較的安価あること、様々な資源へのアクセスが良いこと、東西南北に州間高速道路が敷かれていること、国際空港があること、大規模な海運施設があること、西海岸大陸横断鉄道があることは、いずれも経済的な利点となっている。米系コンサルティングファームであるマーサーは、2009年に政府や大企業が海外に社員を派遣するためのサポートとなる調査を行い、その中でポートランドを世界42位の「住みやすい街」に認定した。このランキングの評価は、政治が安定していること、個人の自由があること、衛生的に優れていること、犯罪が少ないこと、住居の質が高いこと、自然環境が良いこと、娯楽の機会が多いこと、銀行が充実していること、消費材の購入が容易であること、教育が充実していること、交通や輸送など公共インフラが充実していること、などの点を基準としている。 メディアを再生する オレゴン州が1973年に策定した「都市成長境界法」は、州内の各都市圏の大規模開発に制限を設けたものである。制限の対象となるのは下水道、水道、遠隔通信といった公共設備から、消防署、警察署、学校などといった公共施設までに及ぶ。もともとこの法律は、20年間の発展に向けて市が成長限界領域内の土地をしっかり維持しなければならないと規定していた。しかし2007年、議会は同法を変更し、限界領域内の土地を今後50年の成長に向けて維持し、農場や農村部の保護することを要求する内容となった。 この成長境界法は、ポートランドの経済開発特区を設立しようとする努力とあいまって、ダウンタウンの大規模開発、中層や高層ビルの建設ラッシュ、住居密度・企業密度の全体的な上昇、住居価格の高騰などをもたらした。 コンピューターの部品メーカーであるインテルは、ポートランド都市圏最大の雇用主として14,000人を雇用し、ポートランド西方のヒルズボロにいくつかのキャンパスを構える。同都市圏は1,200を超えるハイテク企業があり、このハイテク企業の密度の高さからポートランド周辺の地域は「シリコン・フォレスト」と呼ばれる。 ポートランド市内ではアディダスの地方本社がある。ポートランド都市圏にまで目を向けると、コロンビア・スポーツウェア、ヤキマ・プロダクツ、ナイキがそれぞれ本社を構えている。ビーバートンに本社を置くナイキと、ポートランドに本社を置くプリサイション・キャストパーツは、フォーチュン500に名を載せたオレゴン州でたった2つの企業である。ナイキの設立者・代表のフィリップ・ナイトは、オレゴン州で生まれ育っており、オレゴン大学の卒業生である。 ポートランドの鉄鋼業の歴史は第二次世界大戦前にまで遡る。1950年代までに鉄鋼業はポートランド最大の雇用を生み出していた.。この地域の鉄鋼業は、シュニッツァー鉄鋼をトップ企業として繁栄を続け、2003年には11億5000万トンの金属屑をアジアへ出荷した。 アルミニウム産業がポートランドで成長していったのは20世紀後半であった。この成長を後押ししたのは地域内の比較的安い電気代と、現地の川にある多くのダムであった。この産業は政府の介入が大きな産業であるが、これは市内の住居や企業などの電力コストに対する影響が大きく、またアルミニウムの生産に伴って汚染が発生することが原因である。 ポートランドは小麦の出荷量で全米第1位を誇るほか、世界でも第2位の小麦の取引港となっている。 ポートランド港だけで毎年1,300万トン以上の貨物を取り扱っており、全米有数の規模となるドックとなっている。ポートランド港はアメリカ西海岸では3番目に大きな港であるが、その位置は河口から80マイル(130km)も遡った所にある。 ポートランド都市圏の交通機関は、アメリカの他の主要都市とほとんど共通している。ポートランドに特徴的な点として、上述の都市成長限界による土地利用計画と交通サービス志向の都市開発が進められていることから、通勤者が交通機関の選択肢を複数持てるような街作りを行っていることが挙げられる。 一部のポートランド市民は、通勤に公共交通機関を利用している。2008年時点では、ポートランド市民の通勤者の12.6%が公共交通機関を利用していた。TriMetは、この地域のバス交通網のほとんどを運営するほか、都心と郊外を結ぶライトレール・システム「MAX」(都市圏急行 Metropolitan Area Expressの略)を運営している。ウェストサイド・エキスプレス・サービス(WES)は、2009年2月に開通したポートランド郊外西部の通勤鉄道で、ビーバートンとウィルソンビルを結んでいる。ポートランド・ストリートカー南北線(2001年開通)は、ポートランドのサウスウォーターフロント地区からポートランド州立大学を通って市北西部の住宅街や商店街を結んでいる。ダウンタウンの5番アベニューと6番アベニューは「ポートランド・トランジット・モール」というバスやライトレール交通の優先道路を形成しており、ここでは自動車の交通が制限されている。TriMetはバスや鉄道のリアルタイムトラッキングをTransitTrackerを介して提供しており、そのデータはソフトウェア開発者に提供されている。ポートランド・ストリートカー中央環状線(2012年開通)はダウンタウンとオレゴン・コンベンションセンター、オレゴン科学産業博物館、鉄道博物館を含む中央東岸地区を結び、2015年には現在建設中の橋を経由してダウンタウンに戻る環状線となる予定である。1975年から2012年8月31日までは都心部の公共交通は無料で乗ることができたが、2012年にトライメット役員会でフリーレイルゾーン(旧称フェアレス・スクエアー)の廃止が同年9月1日付けで決定された。 アムトラックの列車はポートランドのユニオン駅(英語版)に3路線が停車する。このうち長距離夜行列車はロサンゼルスとシアトルを結ぶコースト・スターライトとポートランドを起点にシカゴへ向かうエンパイア・ビルダーであり、それぞれ毎日一往復の運転である。 このほか、昼行の国際列車としてカナダのバンクーバーとポートランド、ユージーンを結ぶカスケーズが数往復運転されている。 ポートランドは本線走行可能な蒸気機関車を保存している全米唯一の都市である。うち一台はサザン・パシフィック鉄道(SP)4449号機であり、ほかにスポケーン・ポートランド・アンド・シアトル鉄道700号機(英語版)がある。 アメリカ西海岸を縦断する州間高速道路5号線(I-5)がポートランドから南はウィラメット渓谷、南オレゴン、カリフォルニア州を結び、北はワシントン州を結んでいる。州間高速道路405号線(I-405)は、ポートランドの都心部でI-5と環状高速道路を形成している。州間高速道路205号線(I-205)はポートランド東部でI-5と大きな環状高速道路を形成し、ポートランド国際空港まで伸びている。国道26号線はポートランド都市圏で都心と郊外を結び、西は太平洋、東はフッド山から中部オレゴンまで伸びている。国道30号線はポートランド都心から西はアストリア、東はグレシャムなど郊外都市を経由して州間高速道路84号線(I-84)に合流し、アイダホ州ボイシまで伸びている。 ポートランド国際空港はポートランドの主要空港であり、ダウンタウンから自動車で北東に20分程度(最大40分程度)の場所に位置する。またポートランドにはオレゴン州で唯一の公共ヘリポートであるポートランド・ダウンタウン・ヘリポートがある。 ポートランドに最初に設けられた空港は「スワンアイランド市営空港」(Swan Island Municipal Airport)であるが、こちらは1940年代に閉鎖されている。 ポートランドは都市サイクリングを推進していることでよく知られており、全米サイクリスト連盟(LAB)から「自転車に優しい道路網などの街作り」で随一の評価を得ている。また、自転車に優しい都市として世界的にも指折りの評価を得ている。自転車交通同盟(BTA)は、毎年自転車通勤チャレンジという大会のスポンサーを務めており、この大会では通勤車が通勤に自転車を使う距離と頻度を基づいた評価と賞を求めて競い合う。職場に自転車で通う人々の割合は全体の8%で、この数字はアメリカの主要都市の中では第1位、全米平均のおよそ10倍にも達する。 カーシェアリングは、ZipcarやU Car Shareを介してポートランド市内や近郊の住民が活用している。 また、通勤用のロープウェイ「ポートランド・エアリアル・トラム」があり、ウィラメット川沿いのサウスウォーターフロント地区とオレゴン健康科学大学のマーカムヒル・キャンパスを結んでいる。 ポートランドには5つの屋内のスケートパーク(スケートボードのための公園)がある他、歴史的に重要なバーンサイド・スケートパークがある。ガブリエル・スケートパークは最も新しいスケートパークであり、2008年7月12日に開園した。その他、14のスケートパークが運営中である。ウォール・ストリート・ジャーナル誌は、「ポートランドはたぶんアメリカで最もスケートボードに優しい街だろう」と述べている。 ポートランドの運営母体は、市長と4人の市政委員と1人の監査役からなるポートランド市議会である。監査役は政府権力の抑制と均衡を保つほか、公的資源の利用について説明責任を負う。また、監査役は、市議会のさまざまな事項に関する情報や書類へのアクセス手段を提供する。 ポートランドには地区参与局(Office of Neighborhood Involvement)という組織があり、市政府と95から成る地区協会の架け橋を担っている。地区協会は7つの連合にグループ分けされている。 ポートランドと周辺都市圏を管轄している「メトロ」は、アメリカで唯一の直接選挙による地域政府である。メトロ設立の目的はいくつかあり、土地利用計画、交通機関計画、廃棄物処理、地図作成などが含まれる。またメトロはオレゴン・コンベンション・センター、オレゴン動物園、ポートランド舞台芸術センター、ポートランド・メトロポリタン・エキスポジション・センターを所有、運営している。さらにはマルトノマ郡政府もさまざまなサービスをポートランド地域に提供している。ポートランドの西部と南部では、ワシントン郡とクラカマス郡がそれぞれサービスを提供している。 1950年代からポートランドでは、あらゆる階層の政府において民主党が好まれる傾向にある。現地の投票は党派を選ぶ形式ではないが、ポートランドで選出された議員はほとんどが民主党員である。また、ポートランドのオレゴン州議会への委任代表でも民主党が優勢となっている。 連邦レベルでは、ポートランドは3つの選挙区に分けられる。市の大部分はオレゴン州第3選挙区に属する。第3選挙区の代表はアール・ブルメナウアーで、彼は1986年から1996年までポートランドの市議会議員を務めた。ウィラメット川西岸のほとんどの地域はオレゴン州第1選挙区に属し、スザーン・ボナミチを代表とする。ポートランドのごく一部はオレゴン州第5選挙区に属し、カート・シュレーダーを代表とする。この3人はすべて民主党員であり、1975年以来、共和党はポートランドの選挙区を席巻できずにいる。オレゴン州選出の上院議員であるロン・ワイデンとジェフ・マークレーは、2人ともポートランドの出身である。ポートランドの前市長サム・アダムスは、同市としては初めて同性愛者であることを公言した市長として2009年に就任した。これにより、ポートランドは同性愛者を市長に擁する全米最大の都市となった。 2004年、マルトノマ郡はオレゴン住民投票法案36号に対して59.7%の反対票を投じた。この法案36号は結婚を男女間のものと定義し、同性婚を禁止するオレゴン州憲法改正案である。マルトノマ郡は反対したが、州全体では56.6%の賛成多数となり、法案は可決された。この法案に反対多数となった郡はもう1つあり、オレゴン州立大学のあるコーバリスを郡内に含むベントン郡であった。 ポートランドは早くも1903年に都市計画家との相談を交わしている。ワシントンパークと、全米屈指の優れた緑道であり市内の多くの公園を結んでいる40マイル・ループは、この時に開発が始められた。 ポートランドは都市利用計画の強い統制が布かれていることで、しばしば引用される。これは、当時のオレゴン州知事トム・マコールが1973年に行った州規模での土地保全政策(特に州内の全ての都市および都市圏に「都市成長境界」が策定されたこと)によるところが大きい。この対極にある統制がほとんどない都市の例としては、テキサス州のヒューストンが有名である。 ポートランドの都市成長境界は1979年に策定され、伝統的農業地(非農業的開発は厳格に制限されている地域)と都市化地域(高密度開発が集中的に推進される地域)が明確に区別された。当時、州間高速道路沿いの都市や郊外・衛星都市の開発が進み自動車の利用が増していく中で、多くの地域で中心都市の衰退を引き起こしており、このような時代においてオレゴン州の政策は異質なものだった。 人口が増加し、都市成長境界内の未開発地域が減少していくにつれて、都市成長境界の規制緩和の動きが見られるようになる。ワシントン郡にある主要企業であるナイキとインテルは、この規制緩和への圧力を援助した。 もともと州の規定では、都市成長境界を拡大する予定を盛り込んでいたが、この拡大が実際に行われていないとして批判を呼んでいた。1995年、州は今後20年間の宅地開発を成長させるため都市成長境界を拡大し、十分な未開発地域を与えるとする法案を通過した。 ダウンタウンの開発で重要な役割を担う準公的機関として、ポートランド開発委員会がある。この委員会は1958年に市の再開発機関として有権者により設立された。委員会は市域内の住宅・経済開発計画を立ち上げるほか、現地の大規模なプロジェクトを抱えるデベロッパーの後援を行う。 1960年代の初め、ポートランド開発委員会はI-405、ウィラメット川、4番アベニュー、マーケット通りに囲まれた、大規模なイタリア系ユダヤ人街の解体を推し進めた。 1970年代にニール・ゴールドシュミットが市長に就任すると、夕方5時を回ると閑散となっていたダウンタウンに住宅回帰の動きが見られるようになる。この動きは、その後30年間にわたって影響を及ぼし続けており、ダウンタウンの3地区(ポートランド州立大学の北側一帯、川沿いでマーカム橋の下に広がるリバープレイス地区、都心にあるパールディストリクト地区)に数千の住宅が建てられるようになった。 ポートランド州立大学地理学科地図研究センターに附設する都市緑地研究所は、建築物と自然環境のよりよい統合を推進するための研究所であり、都市公園、トレイル、自然地域の計画問題について局所・地域の両レベルから研究を行っている。 グリスト誌によれば、ポートランドはアイスランドのレイキャヴィークに次ぐ世界第2位の「環境に優しい都市」である。2010年には、Move.comにおいてポートランドは全米のグリーンな都市10傑のうちの1つに選ばれている。 オレゴン州憲法では表現の自由が固く守られており、この性質はオレゴン州最高裁判所の1987年ヘンリー対オレゴン州憲法裁判において、ストリップクラブにおけるフルヌードやラップダンスが表現の自由として認められた判決によっても確認されている。また、この判例によってポートランドにおける1人あたりストリップクラブの店舗数の多さは、ラスベガスやサンフランシスコを凌ぐと広く言われている。 また、州は2008年に全裸で自転車に乗った人に対する告発を斥ける決定を下し、ポートランドで毎年行われるワールド・ネイキッド・バイク・ライド(市内で全裸になって自転車に乗るイベント)を「もはやポートランドの伝統である」と述べた。2009年もネイキッド・バイク・ライドは開催され、大きな事件もなく無事閉幕した。市警察は道路交差点の管理を行い、その年の参加者は3000人〜5000人と推定されている。 さらに同年、州最高裁判所は公の場で暴力沙汰に発展しかねない表現により他人を侮辱することを禁止する法律を、満場一致で「表現の自由の侵害であり、非常に広義的で曖昧な法律だ」として同法を無効にする判決を下した。 ポートランドには、ポートランド公立学区を筆頭に6つの公立教育学区があるほか、多くの私立学校が存在する。高等教育機関も多数存在し、中でもポートランド・コミュニティ・カレッジ、ポートランド州立大学、オレゴン健康科学大学は規模が大きい。私立大学もポートランド大学、リード・カレッジ、ルイス・アンド・クラーク・カレッジを筆頭に多くの大学が存在する。 ポートランドは9つの姉妹都市を有している。 アシュケロン(イスラエル) 高雄市(台湾) 蔚山広域市(大韓民国) ムタレ(ジンバブエ) グアダラハラ(メキシコ) ハバロフスク(ロシア) 札幌(日本) 蘇州市(中華人民共和国) ボローニャ(イタリア) また、以下の都市とは「友好都市」提携を結んでいる。 タリン(エストニア) ^ Kate Sheppard (2007年7月19日). “15 Green Cities”. 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ABC01-02-0257
ファッションブランドの一つ、ハンティングワールドのロゴにデザインされている動物は何でしょう?
ゾウ
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[ "ゾウ", "ピューマ", "カバ", "シロサイ", "ライオン" ]
[ "ゾウ(象)は、哺乳綱ゾウ目(長鼻目)ゾウ科の総称である。 アジアゾウとアフリカゾウ、それとおそらくはマルミミゾウの、2属3種が現生し、これらは現生最大の陸生哺乳類である。他に絶滅したマンモスやナウマンゾウなどを含む。 「ゾウ」は漢字「象」の音読み(呉音)。「象」の字は、古代中国にも生息していたゾウの姿にかたどった象形文字であるとされる。 これとは別に、日本にはゾウがいないにもかかわらず、日本語には「きさ」という古称があり、『日本書紀』では象牙を「きさのき」と呼んでいる。 『和名抄』には 象、岐佐、獣名。似水牛、大耳、長鼻、眼細、牙長者也。 などの記述がある。ほか、『うつほ物語』、『宇治拾遺物語』、『徒然草』、江戸時代の『椿説弓張月』などにも「象」の記述がある。 英語や仏語の elephant、独語の Elefant はいずれもギリシア語 elephas「ゾウ」に由来し、ギリシア語は雄牛を意味するフェニキア語のエルフ・エルプス、もしくはヘブライ語のエレフ・アレフ・オリフントなどに由来する。 長い鼻、大きな耳が特徴。首が短く、立ったままでは口を地面に付けることができない。膝をついてしゃがむか、筋肉質の長い鼻を使って食べ物や水などを口に運ぶ。鼻を使って水を体にかけ、水浴をすることもある。この鼻は上唇と鼻に相当する部分が発達したものであり、先端にある指のような突起で仁丹のような小さな物から、豆腐といったつかみにくい物までを器用につかむことができる。 また嗅覚も優れており、鼻を高く掲げることで遠方より風に乗って運ばれてくる匂いを嗅ぎ取ることができる。聴覚も優れている。詳細は下記の「生態」の項を参照のこと。しかし視力は弱く、色覚もなく、外界の認識は主に嗅覚と聴覚によっている。 第2切歯が巨大化した「牙」を持ち、オスのアフリカゾウでは牙の長さが3.5mにまで達することもある。牙は象牙として珍重され、密猟の対象となる。巨大な板状の臼歯が上下に1本ずつの計4本しかない。自分の体重や歩くことによって足にかかる負担を少なくするため足の骨と足の裏の間には脂肪に包まれた細胞がつまっており、足の裏の皮膚は固く角質化している。蹄を持つため有蹄類として分類されることもある。 ただし気性には個体差もあり、アフリカゾウが全体的に気性が荒いという性質はあるもののアジアゾウ同様に飼い慣らせば人間に従順になるとみられている。なお、かつて調教され労役に使われたアフリカゾウの種はマルミミゾウであり、これはアフリカゾウの中でも比較的温厚とされている。 雌と子供で群れを形成し、雄は単独か雄同士で別に群れを形成して生活する。巨大な体躯のため、成体のゾウが襲われることはほとんどないが、しかし人間を初め敵が皆無という訳ではなく、アフリカではライオンの群れ、インドではトラが、主に若いゾウや幼獣を襲うことが確認されている。そのため、群れの成獣たちは常に幼獣の周りを取り囲んで、これらの敵から身を守っている。その巨体ながら、40km/h程度で走ることができる。 寿命は60歳から70歳で、20歳ほどで成獣になる。 人間には聞こえない低周波音(人間の可聴周波数帯域下限である約20Hzのそれ以下)で会話していると言われ、その鳴き声は最大約112dBもの音圧(自動車のクラクション程度)があり、最長で約10km先まで届いた例もある。加えて、象は足を通して低周波を捕えられることも確認された。 メディアを再生する ゾウの足の裏は非常に繊細であり、そこからの刺激が耳まで伝達される。彼らはこれで30-40km離れたところの音も捕えることができる。この生態領域はまだ研究途中であるが、雷の音や、遠く離れた地域での降雨を認知できるのはこのためではないかと考えられている。また、足の裏のひび割れには滑り止めの役割があり、人間の指紋のように個体によってひび割れの模様は違っている。ゾウのしわは表面積を大きくし熱を発散させるという。 人間を見分けることもできるほどに高い認知能力を持っているといわれており、例えば飼育下では優しく接してくれた人間に対しては甘えたり挨拶したりするが、逆に自らや仲間に危害を加えた人物に対しては非常に攻撃的になる。また、人の言語の違いを聞き分けられるとも言われ、象を狩っていたマサイ族の言語を非常に警戒したとの報告もある。ただし、同じマサイ族でも狩りに参加しない女性にではなく、男性だけを避けようとする等々、様々な逸話が伝えられる。また、群れの仲間が死んだ場合に葬式ともとれる行動をとることがある。死んだ個体の亡骸(なきがら)に対し、周りに集まり鼻を上げて匂いを嗅ぐような動作や、労わるように鼻でなでる等の行動をとった記録がある。これらの行為の意味については疑問点も多いが、いずれにせよかなり優れた記憶力や知能を持っていると推察されている。近年、ゾウには鏡映認知(鏡に映った自身を自身と理解する能力)があることが明らかになった。 タイのチェンマイでは象が絵を描く芸が披露されている。日本でも市原ぞうの国の「ゆめ花」が絵や文字を書くことで知られている。 草・葉・果実・野菜などを食べる。ミネラルをとるために泥や岩塩などを食べることもある。草食動物で1日に150kgの植物や100Lの水を必要とし、野生個体の場合はほぼ一日中食事をしている。体が大きく必要となる食物も並大抵の量ではないため、森林伐採などの環境破壊の影響を受けやすく、また食欲と個体数増加に周囲の植生回復が追いつかず、ゾウ自身が環境破壊の元凶になってしまうこともある。また糞の量も多く成獣だと1日平均120キロもの糞を出す。動物園で飼われている象で1日に250キロもの糞をした記録もある。 成熟した成獣のオスにはマスト(ムスト)と呼ばれる一定の間凶暴になる時期がある。ゾウはこめかみの辺りからタール状の液体を出すが、マストとなった個体はその分泌量が多くなるため、その判断材料とされる。動物園等では、この時期の個体は保安のため、檻の中で鎖に繋いでおくことが多い。 ゾウの死体や骨格は自然状態では全くと言っていいほど発見されなかったため、欧米ではゾウには人に知られない定まった死に場所があり、死期の迫った個体はそこで最期を迎えるという「ゾウの墓場」伝説が生まれた。だが、実際には他の野生動物でも死体の発見はまれで、ゾウに限ったことではない。自然界では動物の死体は肉食獣や鳥、更には微生物によって短期間で骨格となり、骨格は風化作用で急速に破壊され、結果的に文明人の往来が少なかったアフリカでは遺骸が人目につくことはなかった。そうした事情が基になり、この伝説ができたものと考えられている。象牙の密猟者が犯行を隠すためにでっち上げたという説もある。なお、人の往来が頻繁になった近年はアフリカのサバンナでもゾウの遺骸が見られる事がある。 インドゾウの諏訪子(神戸市立王子動物園) インドゾウのズゼ(神戸市立王子動物園) インドゾウのマック(神戸市立王子動物園) 長寿日本一のアジアゾウのはな子(井の頭自然文化園) ゾウの移動(スリランカの保護区)。飼育員が手に持つ短刀は護身用。 真夜中に水辺に集まるアフリカゾウ(エトーシャ国立公園) アフリカゾウの骨格 長鼻類で最も進化したグループであるゾウは新生代の第四紀にはオーストラリアと南極大陸以外の全ての大陸に分布していたが、自然環境の変化や人類の狩猟などによりやがて衰退し、現在はサハラ砂漠以南のアフリカに生息するアフリカゾウとインドおよび東南アジアに生息するアジアゾウのわずかに2種が残るのみであり、滅亡へ向かいつつあるグループといえる。動物園の定番ではあるが、共にIUCNレッドリストで絶滅危惧IB類に指定されている。またアフリカゾウの亜種と考えられてきたマルミミゾウは、最近は別種とされることが多くなっている。 化石種のゾウではマンモスが特に有名。かつて日本にもナウマンゾウ (Palaeoloxodon naumanni) などのゾウが生息していた時代がある。 ゾウすなわちゾウ科は、ステゴドンなどステゴドン科に最も近縁で、次いでいくつかの科未定の属が続く。 ゾウ科のからいくつかの祖先的な属を除いたゾウ亜科の中で、アフリカゾウ属・アジアゾウ属・マンモス属の3属間の類縁関係は長らく不明瞭だった。歯の特徴や初期の分子系統により、アフリカゾウ属とマンモス属が近縁とされたこともあったが、全ミトコンドリアDNAの解析により、アジアゾウ属とマンモス属が近縁とほぼ確定した。 現生種はアフリカゾウとアジアゾウの2種存在している。アフリカゾウには2亜種、アジアゾウには4亜種がいる。アフリカゾウの亜種とされていたマルミミゾウは、最近はアフリカゾウとは別種とする研究事例が多く、その場合には現生種のゾウは世界に3種いることとなる。 アフリカゾウ (Loxodonta africana ) サバンナゾウ (Loxodonta africana africana ) マルミミゾウ (Loxodonta africana cyclotis ) 体高2-2.4mと小柄。中央・西アフリカの森林地帯に生息し、「シンリンゾウ」とも呼ばれる。耳が小さく丸みを帯びている事、牙が真っ直ぐ下へ向かって生えている事が特徴。マルミミゾウは独立した1つの種として扱う場合、学名は「Loxodonta cyclotis 」となる。 アジアゾウ (Elephas maximus ) インドゾウ (Elephas maximus bengalensis ) セイロンゾウ (Elephas maximus maximus ) スマトラゾウ (Elephas maximus sumatrana ) マレーゾウ (Elephas maximus hirsutus ) メディアを再生する ゾウ類は人間の重要な狩り対象であった。食用としても重視され、先史時代からナウマンゾウやマンモスといったゾウ類が人類にとって重要な獲物であったことは多くの証拠から認められている。崖から数百頭の群れを一度に追い落とす猟が度々行われてきた痕跡から、彼らの絶滅に人間の関与を指摘する向きもある。 現在では数が少なくなったために保護が行われているが、この個体数減少の原因の1つも人による捕獲圧であると考えられる。特に大型になる動物であるクジラ類などにも共通するが、元々の繁殖力が低いため、狩りの圧力を受けやすい。 現在においては食用目的の捕殺はまれであり、捕獲の最大の理由は象牙となっている。象牙(特に長い象牙を持つ象)を目的とした捕獲が後を絶たないため、自然界では成熟しても象牙の短い象の個体数が増えているとの報告もある。また、自然保護と個体数減少によって禁止されるまでは、ゾウは猛獣狩りの最も主要なターゲットであり、欧米の富裕層の観光客によってハンティングが行われていた。 ゾウの個体数が減少してきたことを受け、生息する各国においては国立公園や自然保護区が設定され、ゾウは保護されている。この保護のための資金作りや象牙に代わる地元住民の雇用などを目指し、各国の自然公園ではサファリなどの観光を行うことが多い。このサファリにおいてゾウは目玉の一つであり、ゾウの自然な姿を見るためにヨーロッパやアメリカからやってくる観光客も多く、各国の重要な産業の一つとなっている。現在ゾウの生息数が最も多いといわれるボツワナでは15万頭以上が生息しているといわれ、1980年代の3万から4万頭に比べ大幅に個体数が増加した。一方、かつては自然保護区に指定されても、象牙などを求める密猟が後を絶たず、世界最大のゾウの保護区だったタンザニアのセルー国立公園では、1970年代から1980年代にかけて、かつて10万頭いたゾウが2万頭にまで激減してしまった。その後、保護が強化されたことでセルーでの頭数は回復傾向にある。モザンビークにおいては、2015年には5年前とくらべて密猟のためにゾウの生息数が半数にまで減少してしまった。その他、コンゴ民主共和国など、貧しく政治の混乱が続いている国においては密猟取り締まりに予算を割く余裕がなく、密猟の横行を招いている。 ただし、ゾウが増加すると、今度は害獣として近隣に多大な被害を与えることがある。ゾウは農作物を荒らすことも多く、またその巨体を支えるために食べる食物の量は膨大で、樹木の樹皮をはがしてしまうことも多く、そのために枯死してしまう樹木も多いためである。こうしたことから、特にゾウの個体数が回復した地域においては逆にゾウの駆除が求められる場合がある。 日本の動物園においては定番として飼育されるが、自然繁殖例は極めて少ない。欧米の動物園では人工授精での繁殖に成功している例が幾つかある。(アジアゾウ、アフリカゾウの各項参照) ゾウの持つ長い牙は象牙と呼ばれ、その美しい色合いやなめらかさ、やわらかく加工のしやすい材質などから古来より宝石や工芸材料として珍重されてきた。象牙はアジアゾウ・アフリカゾウともに取れるが、アフリカゾウの方が大きくて品質が良く評価が高い。特に近代以前のアフリカにおいては金と並ぶ重要な交易品であり、サハラ交易の南端に位置するトンブクトゥなどのサヘル交易都市や、インド洋交易の東端に位置するアフリカ東海岸の諸都市は金と象牙を主な交易品として栄えた。大航海時代においてもヨーロッパ人がアフリカに求めたものは金と象牙であることには変わりなかった。19世紀に入ると、それまで象牙を沿岸の港湾都市で買い付けるだけだったアラブ人の隊商が内陸部へと入り、直接象牙や奴隷を買い付けるようになった。これによって内陸部の交易ルートが拡大され、スワヒリ語がこの地域の共通語として広まるきっかけとなった。その後も、20世紀に入るまで象牙はアフリカの重要な特産物の一つとなっていた。一方で象牙の高価さはゾウを狩猟の目的とするのに十分なものであり、とくに19世紀以降上記のとおり象牙を目的とした乱獲が行われ、ゾウの個体数が急減する原因となった。このことから1989年にはワシントン条約によって象牙の国際取引がほぼ禁止され、旧来象牙を使用していた分野においては代替品の開発が急速に進められた。一方で、取引が禁じられたことによって象牙の価値はむしろ高騰し、この高い利益をもとめて密猟を行うものが後を絶たず、問題となっている。 ゾウは使役動物としてかつて現地の人たちには移動手段として使われ、重いものを運ぶのにも利用された。戦象として軍事用に使われたこともある。こうした役畜としての使用はおもにアジアゾウに限られ、アフリカゾウも使われた(下記の古代ローマとゾウを参照)記録はあるものの、あまり役畜としての利用はせず、飼育もあまりされてこなかった。また、ゾウに芸をさせることもあり、サーカスではゾウに逆立ちさせたり台に上らせたりといった芸をさせる。タイではゾウにサッカーをさせる行事がある。また、かつてインドでは象に罪人の頭を踏みつぶさせる処刑があった。 ゾウの糞は、近年さまざまな利用方法が開発されつつある。タイの北部では、コピルアクにヒントを得てゾウの糞からコーヒー豆を集め、高級コーヒー豆としてブランド化させている。(ゾウの糞のリサイクル#食品も参照) インドの神話でゾウは世界を支える存在として描かれる。 ヒンドゥー教には、ゾウの頭を持つガネーシャと呼ばれる神様がいる。仏教では歓喜天に当たり、シヴァ神の長男で富と繁栄の神様とされる。また、天帝インドラはアイラーヴァタと呼ばれる白象に乗っている。 仏教の影響下、東南アジアでも白いゾウ(白象)は神聖視された。釈迦は白象の姿で母胎に入ったという。ゾウは普賢菩薩の乗る霊獣として描かれることが多い。 チェスや将棋などの起源と考えられる古代インドのボードゲーム、チャトランガにはゾウを意味する駒があった。シャンチー(後手のみ)やチャンギにも「象」が登場する。日本でも中将棋を含む古将棋の多くに「酔象」があるが、現在の将棋に「酔象」はない。 古代地中海世界では戦象としてゾウを軍用に使役していた。古代ローマ人が初めてゾウと遭遇したのはピュロスのイタリア半島侵入の際で、ヘレニズム世界で使用されていた戦術をピュロスがそのまま持ち込んだものであった。このときローマ軍が戦象と戦った場所ルカニアからローマではゾウはルカニアの牛と呼ばれた。こうしたピュロスのエピソード以上に第二次ポエニ戦争の際、カルタゴの将軍ハンニバルがその傭兵部隊に加えて39頭の象を引き連れ、イタリア半島に侵攻したことはよく知られている。アルプス山中で受けた妨害と寒さや餓えのため、イタリアの平野部に到達した象は元の半数以下だったが、それもトレビア川の戦いでインドゾウの一頭を残してことごとく倒れた(最後のゾウ以外はアフリカゾウ(マルミミゾウ)であった)。 ゾウはローマにおいては一般的なものではなく、そのためローマ帝国期においてはときおりゾウがローマ市まで連れてこられ、パンとサーカスの一環として見世物に供された。80年にローマ市中心部において完成したコロッセウムにおいても、ゾウが皇帝に挨拶をしたりダンスを踊った記録が残されている。また、ゾウとほかの猛獣とを戦わせる見世物も行われた。 ゾウはその生息地だけでなく、ゾウの生息しない地域においても大きさや温和さ、強さ、賢さなどのイメージから、さまざまなシンボルに使われてきた。アメリカの二大政党の一つである共和党はゾウを党のシンボルマークに使用している。また、ガーナの二大政党の一つである新愛国党も、偉大さや賢さ、愛情深さなどプラスのイメージを持つゾウを党のシンボルマークとして使用している。 日本列島がまだユーラシア大陸と陸続きだった頃、日本にはナウマンゾウが生きており、石器時代には獲物とされていた。日本においては約2万年前に絶滅したとされるが、その骨は後の時代も珍重され、正倉院にもナウマンゾウの臼歯が竜骨として保管されていた。 文献上、現世のゾウが日本へ人為的に初渡来したのは応永15年6月22日(1408年7月15日)、東南アジア方面からの南蛮船により、足利義持への献上品として現在の福井県小浜市に入港。上京した後、朝鮮に贈られた記録がある。 それ以前より仏教の影響でゾウの存在は知られており、『今昔物語集』には、イノシシがゾウに乗った普賢菩薩に化けて僧を誑かす逸話がある。12世紀から13世紀に成立したと言われる鳥獣人物戯画の乙巻には、長い鼻や太い足、牙など象の特徴をよく捉えた絵が描かれている。 天正3年(1575年)には明の船が象と虎を連れて豊後国臼杵に到来し、大友宗麟に献上されたほか、慶長2年(1597年)にはルソン総督が豊臣秀吉への献上品として、また慶長7年(1602年)には交趾から徳川家康への献上品として虎・孔雀とともに贈られた。神戸市立博物館所蔵の桃山時代の南蛮屏風には日本に連れて来られた象が描かれている。 享保13年(1728年)6月には、オスメス2頭の象が江戸幕府8代将軍・徳川吉宗に献上するために広南(ベトナム)から連れてこられた。メスは上陸地の長崎にて3ヵ月後に死亡したが、暴れることを想定しそれに耐えうる頑丈な国産船が当時無かったことから、オスは長崎から陸路歩行で江戸に向かい、途中、京都では中御門天皇の上覧があり、庶民からもかなりの人気があった。上覧には位階が必要なため、オスのゾウには「広南従四位白象」と位と姓名が与えられている。江戸では徳川吉宗は江戸城大広間から象を見たという。その後、ゾウは浜御殿にて飼育されていたが、飼料代がかかり過ぎるため寛保元年(1741年)4月、中野村(現東京都中野区)の源助という農民に払い下げられ、翌年12月に病死した。現在も馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)として、中野の宝仙寺に牙の一部が遺されている。 その後、文化10年6月28日(1813年7月25日)にイギリス船シャルロッテ号とマリア号が長崎に来航した際、将軍への特別の贈り物としてメスの象1頭が連れてこられている。長崎奉行遠山景晋がその象の検分に当たり、しばらく長崎に滞留していたが、同年9月1日に幕府から受け取り拒否の回答が伝えられたため、その象は再び船に乗って日本を出国していった。なお、このイギリス船の来航の本当の目的は、トーマス・ラッフルズの命により、出島のオランダ商館をイギリスに引き渡すようにオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフに要求するためで、象はその挨拶がわりだったのではないかとされている。 とにかく大きくて重いものの代表になり、大きさを示すのにゾウ何頭分という表現が使われたり、「ゾウが踏んでも壊れない」ことがキャッチフレーズになった商品(筆箱)の例もある。 『ゾウの時間ネズミの時間』は生物のサイズ差に関する本であり、表題は「大山鳴動して鼠一匹」などスケールの小ささの表現にも用いられるネズミと対比されている。 群盲象を評す(群盲象をなでる、とも言う) 3人の盲人が象を触り、それぞれが足を触り「これは丸太だ」、鼻を触り「これはロープだ」耳を触り「平べったいものだ」と三者三様の意見を発言するという話からきている言葉。個々の意見はそれなりに正しいが、全体像としては間違っているという意味で使用される。 虎は死んで縞(しま)を残し、象は死んで牙を残す(インドネシアのことわざ) 大きいこと、鼻が長いことがはっきりした特徴となっているから、そのような特徴を捉えて他の生物の名としている例もある。 ゾウムシ・ゾウクラゲ:吻が長いことから付いたもの ゾウガメ:体が大きいことから付いたもの ゾウアザラシ:体が大きいことと、特徴的な大きな鼻から 童話作家の寺村輝夫はゾウ好きで有名であり、ゾウの登場する作品を多く執筆している。詳細は寺村輝夫#アフリカを参照。 ^ a b -formes(型)と-morpha(形)の訳し分けは、日本哺乳類学会種名・標本検討委員会 目名問題検討作業部会による。分類階級を割り当てる場合は「ゾウ亜目」「ゾウ下目」等とするのが普通。 ^ Shoshani, Jeheskel; et al. (2007), “A proboscidean from the late Oligocene of Eritrea, a “missing link” between early Elephantiformes and Elephantimorpha, and biogeographic implications”, PNAS 104 (4), http://www.pnas.org/content/103/46/17296.full.pdf  ^ 齋藤勝「ゾウ」[リンク切れ] - Yahoo!百科事典 ^ キサの語源については諸説がある。また秋田県には「象潟」(きさかた)という地名があるが平安時代までは「蚶方」と書かれていたので、象潟は後世の当て字である。 ^ 亀井節夫 『日本に象がいたころ』 岩波新書 p95 ^ CBSNEWS (2011年3月16日). “Older elephants demo anti-lion moves”. 2018年9月8日閲覧。 ^ Painting Elephant - YouTube ^ “「ファイト日本」子ゾウも被災者にエール”. 読売新聞 (2011年4月5日). 2011年8月3日閲覧。 ^ Shoshani, Jeheskel (1998), “Elephantidae phylogeny: morphological versus molecular results”, Acta Theriologica, Suppl. 5: 89–122, http://rcin.org.pl/ibs/Content/12829/BI002_2613_Cz-40-2_Acta-T42-Supp5-89-122_o.pdf  ^ Thomas, Mark G.; et al. (2000), “Molecular and morphological evidence on the phylogeny of the Elephantidae”, Proc R Soc Lond B, doi:10.1098/rspb.2000.1310, http://abacus.gene.ucl.ac.uk/ziheng/pdf/2000ThomasRS2493.pdf  ^ a b Barriel, V.; et al. 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Puma concolor. The IUCN Red List of Threatened Species 2015: e.T18868A50663436. doi:10.2305/IUCN.UK.2015-4.RLTS.T18868A50663436.en. Downloaded on 10 December 2015. ^ 成島悦雄 「ピューマ」『世界の動物 分類と飼育2 (食肉目)』今泉吉典監修、東京動物園協会、1991年、160-161頁。 Shivaraju A, and Dewey T. (2003): Animal diversity web - Puma concolor(英語) (The Universiry of Michigan Meuseum) - ピューマ全般の情報 Florida Panther Net(英語) - 絶滅が危惧されているフロリダ亜種(フロリダ・パンサー)保護を中心としたピューマ全般の情報 Mortensen, C and Macaulay, T: The Mountain Lion on the Web(英語) - ピューマの特徴、生態、特にカリフォルニアなどピューマの生息する地域で生活する注意点など Meiri, S. et al. (2004): Carnivores, biases and Bergmann's rule.(英語) Biological Journal of the Linnean Society 81(4), 579. - ネコ目の動物では、ベルクマンの法則に従う種と従わない種がある ジャガランディ - ピューマに最も近縁の種であり、ピューマ属の1種。 チーター属(英語版) - ピューマ属に最も近縁とされる属。 プーマ - スポーツ用品メーカー。", "カバ(Hippopotamus amphibius)は、偶蹄目(鯨偶蹄目とする説もあり)カバ科カバ属に分類される偶蹄類。 サハラ砂漠以南のアフリカ大陸。アルジェリア、エジプト、モーリタニアでは絶滅。 属名 Hippopotamus は、「カバ」を意味するラテン語: hippopotamus (ヒッポポタムス)をそのまま用いたもので、大プリニウス『博物誌』等にも言及のある古い言葉である。 さらに遡れば古代ギリシア語: ἱπποπόταμος (ヒッポポターモス; < ἵππος 「馬」 + ποταμός 「川」)であり、当時はナイル川下流でも見られたカバに対してギリシア人が命名したものであった。なお、オランダ語では、nijlpaard(< Nijl 「ナイル川」 + paard 「馬」)という。 日本語の「河馬」は近代になってこれを直接訳したか、もしくは、ドイツ語で「カバ」を意味する Flusspferd (< Fluss 「川」 + Pferd 「馬」)を訳したもの。 丸みを帯び、脚の短いずんぐりとした体つきがブタと相似をなすことから、同じ猪豚亜目 (Suiformes) に属するとされていた。1994年以降、ミトコンドリアDNA法などにより、クジラ類とカバ類(カバ科)が姉妹群である可能性を示唆されていた。岡田典弘は、レトロポゾンの配列を用いたDNA分析の結果において、カバはイノシシ類よりもウシと近縁であり、クジラとの遺伝的関係が最も近い陸上動物であるとした。 体長3.5 - 4メートル。体重はオス平均1,475 kg 、メス平均1,360 kg。陸上動物としてはゾウ、サイに次ぐ3番目の重さとされる。分厚い脂肪と真皮・上皮で覆われるが、表皮は非常に薄い。このため毛細管現象により水分は外側へ放出してしまう。皮膚は乾燥すると裂けてしまい、水分消失量は5平方センチメートルあたり10分で12ミリグラムともされ、これは人間の約3 - 5倍の水分消失量にあたる。 頭部は大型。顔の側面に鼻・眼・耳介が一直線に並んで位置する。これにより水中から周囲の様子をうかがいながら呼吸することができる。鼻孔は内側の筋肉が発達して自由に開閉することができ、水中での浸水を防ぐことができる。顎の筋肉が非常に発達しており、関節の構造と相まって、口を150度まで開くことができる。この巨大な口には、長く先のとがった門歯と犬歯が生えている。下顎の犬歯は50センチメートルに達することもあり、下顎2本の重量はオス2.1キログラム、メス1.1キログラムに達することもある。下顎の犬歯は自らの口腔を貫く場合さえある。闘争時にはこの犬歯が強力な武器となる。第3・4指の間が膜で繋がり水かき状になる。尾は、尾骨の骨盤に接する部分が長いため、外部から見える部分は短い。 尻尾 蹄 全身骨格図 カバの頭蓋骨 10 - 20頭のメスと幼獣からなる群れを形成して生活するが、乾季には100 - 150頭の群れを形成することもある。オスは単独で生活するか、優位のオスは群れの周囲に縄張りを形成する。口を大きく開ける・糞をまき散らす・後肢で蹴りあげる・鼻から水を出す・唸り声をあげるなどして威嚇し縄張りを主張するが、オス同士で犬歯で噛みつくなど激しく争うこともあり命を落とすこともある。縄張りは頭や体を低くする服従姿勢をとれば他のオスも侵入することはできるが、他のオスが縄張り内で交尾することは許容しない。8年以上同じ縄張りを防衛することもあり、このうちの1頭が12年縄張りを防衛した例もある。 昼間は水中で生活し、夜間は陸上に上がり採食を行う。陸上での行動範囲は水場から3キロメートルだが、水場と採食場の途中に泥浴びを行える場所があればさらに拡大し、水場から最大で10キロメートル離れた場所で採食を行うこともある。比重が水よりわずかに大きく体が水に沈むため水底を歩くことができ、また呼吸の際に肺を大きく膨らませることで浮かぶこともできる。水中では泳がずに、後肢を後方へ伸ばし前肢だけで水底を移動する。素早く水中を移動するときは後肢を用いることもある。潜水時間は1分で、最長で5分。陸上では時速30km以上で走る能力を持つが、持久力に乏しく、長距離走は苦手。 食性は植物食で、草本・根・木の葉などを食べる。1日あたり40キログラムの食物を食べる。体重と食事量の比率は他の植物食の動物よりも低い(体重の1 - 1.5 %、有蹄類では約2.5%。飼育下では4トンのゾウは1日あたり約200キログラムを食べるが2トンの本種は約50キログラム)。これは昼間に温度変化の少ない水中でほとんど動かずにエネルギー消費を抑えているためと考えられている。 しかし、死亡したカバの個体も含めて死んだ動物の肉を食べる事例が以前から報告されているほか、1997年7月には、インパラを捕らえて食べるカバの群れの様子が撮影され、ナショナルジオグラフィックチャンネルでも放映されたため、世界的な反響を呼んだ。また、死んだシマウマを食べていたという記録もある。 ただし、他の草食動物でも、キリンがハトを食べた事例、トナカイがレミングを捕食した事例、牛がヒヨコを食べた事例があり、また、草食動物が肉を食べる習慣があることも広く知られている。カバの食性の中心はあくまで草であり、ほとんど肉に依存していないため、分類上は草食動物である。[要出典] 発情期間は2 - 3日。飼育下では交尾時間は12 - 17分の例がある。妊娠期間は210 - 240日。主に水中で1回に1頭の幼獣を産む。オスは生後5歳、メスは生後4歳程度で性成熟する。平均寿命は約30年。繁殖力が高い反面、同じ一族の子孫による近親交配も多い。 皮膚表面を保護する皮脂腺・体温調節のための汗腺を持たないが、「血の汗」などと呼ばれるピンク色の粘液を分泌する腺がある。この粘液はアルカリ性で乾燥すると皮膚表面を保護し、赤い色素により紫外線が通過しにくくなる。主成分も分離されており、ヒポスドール酸 (hipposudoric acid)、ノルヒポスドール酸 (norhipposudoric acid) と命名されている。 この粘液に細菌の増殖を防ぐ働きもあり、傷を負って泥中に入っても化膿するのを防ぐことができる。 そのユーモラスな外見から、カバは“穏和で動きの鈍い草食動物”といった印象を持たれることが多い。しかし、野生のカバは獰猛であり、自分の縄張りに侵入したものは、ワニやライオン、ヒト等だけでなく、他の縄張りから来たカバを攻撃することがある。雄同士の縄張り争いにおいては命を落としたり瀕死の重傷を負う個体も少なくない。また、新たに縄張りを乗っ取った雄は、ライオンと同じように先代のボスの子供を殺す「子殺し」を行うことが確認されている。 出産前もしくは子を守ろうとする雌は、雄以上に気性が荒くなる。子供のカバは捕食対象として狙われることも多いためである。縄張りに侵入したワニに襲いかかり、噛み付いて真っ二つにしたという報告例もある。その一方で、口を開けたままのカバの牙に小鳥が止まって、小鳥が飛び去るまでそのままでいたという例や、ワニが渡河中のヌーやインパラを捕食しようとしているところに、割って入り、ワニの捕食を妨害したという例もある。 ウガンダのエドワード湖・ジョージ湖では個体密度(クイーンエリザベス国立公園で1平方キロメートルあたり31頭に達することもあった)が高く、採食活動により湖岸の森林が消失し土壌が侵食された。そのためアフリカ大陸では初めて野生動物の人為的管理計画として1962 - 1966年に生態的調査を行いつつ間引きが実施された。これにより沿岸の植生が回復し他の動物の生息数も増加したが、間引きが停止すると状況は戻ってしまった。ウガンダのクーデターによりこの試みは棚上げとなり密輸が横行するようになったが、本種の生態的知見はこうした計画による調査から得られたものも多い。 農地開発による生息地の破壊や、食用や牙用の乱獲などにより生息数は減少している。地域差もあり東アフリカでは生息数が多いと考えられている。一方で2003年にコンゴ民主共和国では8年間で生息数が約95 %激減したという報告もある。密猟・密輸されることもあり、1989 - 1990年には15,000キログラム、1991 - 1992年には27,000キログラムの牙が密輸されたと推定されている。1995年にワシントン条約附属書IIに掲載されている。 アフリカでは、野生動物からの攻撃による人間の死者数は、カバによるものが最も多いと言われている。これは川辺のカバの縄張りに誤って侵入したことが原因とされる。アフリカでは1年あたり約500人がカバに襲われて死亡している。 かつて、移動動物園をしたカバヤ食品の「デカ」はいしかわ動物園で飼育された。東山動物園のカバの番(つがい)「重吉」(2代目)と「福子」(初代)は、19頭の仔をもうけ最多産記録である。技術の向上から、1997年に大阪市天王寺動物園では日本で初めてガラス越しに水中を歩くカバを観察できるカバ舎を製作した。この展示スタイルは富士サファリパークの「ワンダー・オブ・ピッポ」なども追随している。また、神戸市立王子動物園はスロープの傾斜を緩くしたバリアフリーを配慮したカバ舎を2003年に造っている。 日本ではかば科(カバ科)単位で特定動物に指定されている。 ワシントン条約で国際取引が禁止されている象牙の代替品として、カバの牙が印鑑や工芸品の高級素材として使われることがある。 早乙女勝元『さようならカバくん』 - 太平洋戦争末期に食糧事情悪化を理由に絶食処分された京子を扱った作品。 マイク・セラー、ロバート・グロスマン(画)『ぼちぼちいこか』 - 邦訳は今江祥智 による。 坪内稔典『カバに会う 日本全国河馬巡り』 小川洋子『ミーナの冒険』 - 坪内は前著で「このコビトカバ、私はあまり好きではない」と書いている。 ひろかわさえこ『かばくん・くらしのえほん』 ふくだとしお『うしろにいるのだあれ』 マーシャ・ブラウン『ちいさな ヒッポ』 - 邦訳はうちだりさこによる。 山根赤鬼『かばどんとなおみちゃん』 『おーい、かばくん』 :中川ひろたか。『ひらけ!ポンキッキ』挿入歌。 『カバ』 :マイナスターズ。 『ヒポポタマス』 :のこいのこ。『ひらけ!ポンキッキ』挿入歌。 『カバトット』 :タツノコプロ製作の短編連続テレビアニメ。 名古屋鉄道関連会社の名鉄整備のCIとしてカバをモチーフにした「ヒポポタマス」というキャラクターを使用している。 ^ 創業当時使用されていたボンネットバスの整備中の姿がカバに似ていたためこのキャラクターが生まれた。また自社が名古屋発祥で中部圏に広まった事と名古屋の東山動物園で飼育されていたカバの重吉・福子の子孫が全国の動物園に広まっていたことにあやかって、ユーザーの事業が全国に広まるようにという願いもこめられている。 ^ Appendices I, II and III<https://cites.org/eng>(Accessed 22/07/2017) ^ a b UNEP (2017). 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世界的に百獣の王として有名であり、一般的に最も強い動物であると思われている。オスの外見はたてがみが非常に特徴的であり、容易に認識できる。オスの容貌はあらゆる文化のなかで動物そのもののシンボルとしてもっとも広まっているものの一つであり、実際に全ての動物の中で国獣として選ばれる数はライオンが最も多い。ライオンは後期旧石器時代から描かれており、古くはラスコー洞窟やショーヴェ洞窟の洞窟画などがある。彫刻や絵画、国旗をはじめ、現代の映画や文学などでも広く扱われている。 サハラ砂漠以南のアフリカ大陸、インド北西部 アンゴラ、インド、ウガンダ、エチオピア、カメルーン、ケニア、コンゴ民主共和国、ザンビア、ジンバブエ、スーダン、スワジランド、セネガル、ソマリア、タンザニア、チャド、中央アフリカ共和国、ナイジェリア、ナミビア、ニジェール、ブルキナ・ファソ、ベナン、ボツワナ、マラウイ、南アフリカ共和国、南スーダン、モザンビーク。 ガーナ、ギニア、ギニアビサウ、コートジボアール、トーゴ、マリ共和国、ルワンダでは絶滅したと考えられ、アフガニスタン、アルジェリア、イラク、イラン、エジプト、エリトリア、ガボン、ガンビア、クウェート、コンゴ共和国、サウジアラビア、シエラレオネ、ジブチ、シリア、チュニジア、トルコ、パキスタン、ブルンジ、モーリタニア、モロッコ(西サハラ含む)、ヨルダン、リビア、レソト、レバノンでは絶滅。 模式標本の産地(模式産地)は単にアフリカとされていたが、バーバリ地方の沿岸部やコンスタンティーヌ(アルジェリア)とする説もある。壁画などから15,000年前にはヨーロッパ広域にも分布し、5,000年前には少なくともギリシャには分布していたと考えられている。 体長オス170 - 250センチメートル、メス140 - 175センチメートル。尾長オス90 - 105センチメートル、メス70 - 100センチメートル。肩高オス123センチメートル、メス107センチメートル。体重オス150 - 225キログラム、メス120 - 182キログラム。オスはケニア山の近くで体重272キログラムの記録もある。頭部は太くて短く、丸みを帯びる。背面の毛衣は黄褐色や赤褐色、腹面や四肢内側の毛衣は白い。耳介背面は黒い体毛で被われる。尾の先端には房状に体毛が伸長し、色彩は暗褐色や黒。 出産直後の幼獣の体重は1 - 2キログラム。幼獣には暗色斑が入るが、成長に伴い消失する。 オスの成獣は頭部から頸部にかけてたてがみが発達する。たてがみは体を大きく見せたり頭部や頸部に対しての攻撃を防ぐのに役立つと考えられている。 種小名leoはラテン語で「ライオン」の意で、本種そのものを指す。 2-7亜種に分かれる。MSW3(Wozencraft,2005)では11亜種に細分化している。少数の標本に基づき亜種が記載されたため、亜種インドライオンを除いた全亜種を基亜種(この説に従うと基亜種の和名がアフリカライオンとなる)のシノニムとする説もある。IUCNでは2016年現在この2亜種のみとする分類を採用している。 以下の亜種の和名は成島(1991)・今泉(2003)に、形態は今泉(2003)に従う。 Panthera leo leo (Linnaeus, 1758) バーバリライオン アフリカ大陸北部 毛衣は黒みがかった黄褐色。腹面の体毛は伸長し、腹面の毛衣は黒褐色。たてがみは発達し、肩より後方に達する。たてがみは黒い。 Panthera leo bleyenberghi (Lonnberg, 1914) アンゴラライオン Angolan lion アンゴラ、コンゴ民主共和国、ザンビア、ジンバブエ 背面の毛衣は灰黄色で、毛先が黒い。たてがみは発達しない。 Panthera leo krugeri (Robert, 1929) トランスバールライオン Transvaal lion 南アフリカ共和国北東部 背面の毛衣は淡黄褐色で、毛先が黒褐色。腹面の体毛は伸長しない。たてがみは発達するが、肩はたてがみで被われない。たてがみは黒い。 Panthera leo massaieus (Neumman, 1900) マサイライオン Masai lion ケニア、タンザニア、モザンビーク 毛衣は灰褐色や淡黄褐色。腹面の体毛は伸長しない。四肢が長く、暗色斑が入る個体が多い。たてがみは発達するが、肩はたてがみで覆われない。たてがみは黒褐色。 Panthera leo melanochaita (Smith, 1858) ケープライオン 南アフリカ共和国 体長メス174センチメートル。尾長メス90センチメートル。毛衣は黄褐色。腹面の体毛は伸長するが、胸部の体毛が伸長しない。たてがみは発達し、肩より後方に達する。たてがみは黒い。 Panthera leo persica (Meyer, 1826) インドライオン Asiatic lion インド(グジャラート州ギル森林)。 体長195センチメートル。尾長78-88センチメートル。体重オス160 - 190キログラム、メス110 - 120キログラム。腹面や肘の体毛が伸長する。 Panthera leo senegalensis (Meyer, 1826) セネガルライオン Senegalese lion セネガルからナイジェリアにかけて 毛衣は赤みがかった黄褐色。腹面の体毛は伸長しない。たてがみは発達せず、肩はたてがみで被われない。たてがみは黄褐色。 近年は以下の2亜種のみとする分類も提唱されている。以下の分類・分布はIUCN SSC Cat Specialist Group(2017)に従う。 Panthera leo leo (Linnaeus, 1758) アフリカ大陸北部・西部・中部、インド。過去にはヨーロッパから中東にかけても分布していた。 Panthera leo melanochaita (Smith, 1858) アフリカ大陸南部・東部 草原や砂漠まで様々な環境に生息する。20 - 400平方キロメートルの行動圏内で生活し、吠えたり尿を撒いて臭いをつけることで縄張りを主張する。食物が少なくなると縄張りを拡大することもある。オス1 - 3頭、15頭までのメスと幼獣からなる群れを形成して生活する。縄張り内では小規模な群れ(サブプライド)で分散し生活することが多い。生後2 - 3年で群れから追い出されたオスは、別の群れに入るまでは同じ群れにいたオスと共同で生活する。オスは基本的に他のオスから縄張り内のメスを守る。群れを乗っ取ったオスは群れ内の幼獣を殺し(子殺し)、これによりメスの発情を促し群れ内の競合相手をなくすことで自分の子孫を多く残すことができると考えられている。獲物が多い場合は20時間は休むが、獲物が少なくなると1日中活動する。走行速度は時速58キロメートルに達する。 主に体重50 - 500キログラムの中型から大型の哺乳類を食べる。小型哺乳類、鳥類、爬虫類、昆虫なども食べる。他の動物が捕らえた獲物を奪うこともある。主に夜間に狩りを行うが、草丈が長く身を隠せる茂みでは昼間も狩りを行う。主にメスが集団で狩りを行い、メスが扇形に散開しながら獲物に忍び寄る。オスが狩りに協力することもある。大型の獲物は吻端や喉に噛みつき窒息死させる。捕らえた獲物は主にオスが独占する。母親は幼獣に獲物を分配するが、獲物が少ないと分配しないため後述するように幼獣の死亡率は高い。 繁殖様式は胎生。1回の交尾は約20秒で、1日に最高で50回以上交尾を行うこともある。妊娠期間は98 - 114日。プライドから離れ、1回に1 - 6頭(主に2 - 3頭)の幼獣を産む。授乳期間は7 - 10か月。メスは同じ群れの幼獣を一緒に育て、自分が産んだ幼獣以外にも授乳する。幼獣は生後3か月で肉を食べられるようになる。幼獣は隠れ場所に24時間放置されることもあり、上記のように獲物が少ないと育児放棄されることもあるため他の肉食獣に捕食されることもある。生後1年以内の死亡率は60 %以上。生後2年以内の死亡率は80 %以上。オスは生後4 - 6年、メスは生後3年で性成熟する。野生下では15年以上生きる個体は少ない。 開発による生息地及び獲物の減少、毛皮や肉目的の狩猟、娯楽としての乱獲、毒餌による中毒死、害獣としての駆除などにより生息数は減少している。セレンゲティ国立公園では犬ジステンパーに感染し一時的に生息数が激減した。亜種ケープライオンは1865年に、基亜種は1920年に絶滅した。1977年にネコ科単位でワシントン条約附属書IIに掲載されている。アフリカ大陸での1996年における生息数は5,000 - 10,000頭と推定されている。 アフリカ大陸西部個体群 CRITICALLY ENDANGERED (IUCN Red List Ver. 3.1 (2001)) P. l. persica インドライオン 亜種インドライオンは1900年に領主により狩猟が規制されたギルの森を除いて絶滅した。亜種インドライオンの生息地は国立公園として保護されている。現在は生息地の国立公園への追加指定や、国立公園内から人や家畜を放出する保護対策が進められている。1977年にワシントン条約附属書Iに掲載されている。亜種インドライオンの1963年における生息数は285頭、1969年における生息数は177頭と推定されている 2005年に生息数は約350頭に回復した[要検証 – ノート]。 ENDANGERED (IUCN Red List Ver. 3.1 (2001)) 日本ではパンテラ属(ヒョウ属)単位で特定動物に指定されている。 ヘロドトスとアリストテレスは、ヨーロッパにはアケローオス川(アヘロオス川)とネッソス川(メスタ川)の間にだけライオンが生息していると記した。この地のライオンは、紀元前480年にギリシャ征服のため行軍中のペルシャ軍の輸送隊のラクダを襲った。 古来より紋章や文様に用いられている。また、特徴的なたてがみを持ち凛々しい姿から「百獣の王」としてよく例えられ、権力(王権)、力、神性、恐怖の象徴として使用される。古代エジプトでは人の顔、ライオンの体、鷲の翼を持つスフィンクス、獅子の顔を持つセクメト・バステト・テフヌトとして神格化された。他にも、アッカド神話の雌ライオン頭を持つ魔の女神ラマシュトゥ等がいる。 日本の狛犬や沖縄のシーサーもインドでライオンを意匠化した石獅子(中国語版)が中国経由で伝わったものと考えられる。中国では法の守護者とみなされ、仏教では建物の守護者とされた。 仏教においては文殊菩薩の乗騎とされ、仏画としてよく描かれている。また文殊菩薩の浄土清涼山には牡丹が咲くとされるが、獅子が百獣の王であるのに対し、牡丹は百花の王といわれる。 キリスト教では、本種は聖マルコの象徴である。聖マルコはヴェネツィアの守護聖人であるため、サン・マルコ広場 にあるライオンの像を始め、ヴェネツィアのいたるところで本種の意匠を見ることができる。ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞もそれに由来する。 イングランド王室でも王冠をかぶったライオンが象徴として用いられているが、これはノルマンディー公時代から受け継がれており、現在のフランスのノルマンディー地方でも本種をあしらった旗が用いられている。勇猛なことで知られるイングランド王、リチャード1世は獅子心王と呼ばれていた。 マサイ族では、人間の力を誇示する目的でライオン狩りをするといわれ、仕留めたライオンのたてがみを頭に被り、祭りのような派手な祝いをする。 紋章のライオンについては、ライオン (紋章学)も参照のこと。 イングランド王室紋章 錬金術の書物に頻繁に登場するモチーフ「緑のライオン(Leo viridis)に食い尽くされる太陽」 紫禁城の石獅子(中国語版) 殺戮と伝染病の女神セクメト ヒンドゥー教のライオンに乗りマヒシャースラを攻める戦いの女神ドゥルガー 文化 物語において、ヘーラクレースの物語に登場するネメアーの獅子などの強敵とし登場することがある。 東アジアから東南アジアにかけては、獅子を芸能、舞踊、演劇、楽曲などとして取り上げるものも多く、美術作品の題材として取り上げられることもしばしばあった。古くは伎楽において、また後世においては能の石橋をはじめ、さまざまな獅子舞や、音楽作品として地歌の「獅子物」、長唄の「石橋物」等の作品群、また園芸植物にも獅子の名のつく品種名は少なくない。 ロマンス語の多くで類似した名前をみることのできる「ライオン lion」は、ラテン語のleo、古代ギリシャ語のλ?ων(leon)に由来している 。またヘブライ語の לֶוִי (lavi)や古代エジプト語の rw ともつながりがある。カロルス・リンナエウスが18世紀に著した「自然の体系Systema Naturae」で、もともと Felis leo として分類された多くの種のひとつである。科学的な呼称である、Panthera leo もギリシャ語の pan- (「あらゆる」)とther(「けもの」)に由来するとしばしば考えられているが、一方でこれは民間伝承的な語源である可能性は否定されていない。この言葉は古典語を通じて英語に入ってきたのだが、同時にサンスクリット語の pundarikam (「虎」)という言葉とも非常な親和をみせている。これはpandarah (「白っぽい黄色」)から来たものだろう。 ネコ科で最も肩口までが高く、体重もトラに次いで2番目に重い。力強い脚部と強力な顎をもち、約8センチメートルの犬歯を備え、大型の獲物でも引き倒し、狩ることができる。頭骨はトラのそれと非常に似通っているが、前頭部がたいてい凹んで平たくなっている。眼窩後部もやや短い。また鼻骨がより広く開いている。しかし頭骨でトラやライオンに区分できるといっても個体差が大きいために、たいていは下顎の構造だけが種をあらわす指標として信頼にたるものとみなされる。体色は淡いバフ色から黄色がかっているもの、赤みがさしているもの、暗い黄土色まで様々である。腹部はふつうそれより明るい色をしていて、尾房は黒い。幼獣には、ヒョウよりもはっきりした、ロゼットと呼ばれる褐色の染みがある。ロゼットは成長するにつれ褪せていくのだが、たいてい脚部や腹部にはかすかに残るもので、その傾向はメスに特徴的である。 ネコ科で唯一性的二形が明瞭な種であり、雌雄で外見がまったく異なる。性によって群れのなかでこなす役割も異なり、専業的である。例えば狩りを行うのは、厚く邪魔になりがちなたてがみがないメスである。獲物をつけ狙い、必死で追いかけるためには身を隠さねばならず、それにオスは向いていないのである。オスのたてがみは金色から黒まで差があるが、たいてい老いたライオンほど暗い色になっている。 ノウェルとジャクソンの報告によれば平均して181kgになる(メスで126kg)。ケニア山のそばで銃殺されたオスには体重272kgというものがいた。その大きさが環境や生まれ育った地域によって異なる傾向にあり、それが結果として記録される体重に開きを生じさせている。例えば南アフリカでは一般的に東アフリカよりも5%ほど体重が重くなるとされる。 大型個体の例として、1973年10月に南アンゴラのムッソで射殺された黒いたてがみをもつオスが知られている。世界一重い個体として知られているのは、南アフリカの東トランスバール、ヘクトルスプルイット郊外で撃たれた、黒いたてがみの人食いライオンである。体重は313kgあった。飼育個体は野生のものより大きくなる傾向にあり、1970年の記録でイギリスのコルチェスター動物園で飼われていたオス「シンバ」の375kgというものがある。 ネコ科で唯一の尾の先に房状の毛が生えているが、その役割はわかっていない。5mmほどの硬い棘や突起をふ房にしまっている個体もいる。房のある尻尾をもった動物なのだが、生後5か月と半月ほどで房が生えはじめ、7か月もするとはっきりそれとわかるようになる。 オスの成獣が持つたてがみは、ネコ科のなかでも独特のもので最も明示的な種の特徴の一つである。たてがみは外観をより大きくみせ、威嚇的に振舞うためには完璧といっても良いほどの役割を果たす。それは他の個体やアフリカでの主な競争者であるブチハイエナたちと対峙する場合も同じである 。たてがみの有無、色、毛の量は遺伝的要因、生育状況、テストステロンの量、気候などに影響される。大まかにいってより黒くたっぷりとしたたてがみを持ったライオンほど健康である。交尾の相手としても、より濃く、黒い色をしたたてがみをもっているライオンほどメスに好まれる。 タンザニアでの調査もたてがみの長さがオス同士の戦いでの強さを裏づけている。一年を通じて非常に暑い時期が続くにもかかわらず、より暗色のたてがみをもつ個体ほど多産であり、子孫も繁栄しやすい。2、3頭のオスの連合体となるプライドでは、より大きいたてがみを持つオスのほうが積極的に交尾をせがまれるということがしばしばである。 かつて生物学者たちは、たてがみの量が亜種の識別形態になると考えられており、基亜種や亜種ケープライオンのような亜種の同定に用いられた。しかし前述のようにたてがみの色や量は、外気温などによって影響を受ける。例えばヨーロッパや北アメリカなど外界温度が低いところで飼育されているライオンはより多量なたてがみをもつ。つまりたてがみは下位区分を明らかにするための目印としては相応しくないということである。一方で亜種インドライオンは、アフリカの個体群よりもたてがみが薄い傾向がある。 セネガルやケニアの東ツアボ国立公園ではたてがみのないオスも報告されている。ティンババティ保護区のホワイトライオンの雄にも本来はたてがみがなかった。テストステロンがたてがみの成長と結びついているため、去勢され生殖腺が除去してテストステロンの生産も抑えられ、しばしばたてがみが非常に薄かったり生えなかったりする。たてがみのない個体は近親交配をした個体にも見られることがある。そのような個体は繁殖力も貧弱なものになる。 多くのメスが首毛(ruff)をもっており、ある姿勢を取るとそれがはっきりわかる。その姿は特に古代の彫刻や絵画などにしばしば現れるが、時にそれは雄のたてがみと間違われていた。メスの首毛はたてがみとは異なるもので、耳の下から顎のラインにかけて生えているが、たてがみというほどの量はなく、オスのたてがみが耳を覆うように伸びてしばしば輪郭を隠してしまう一方で、メスのそれは気づかれないことも多い。 洞窟画に描かれた、すでに絶滅したホラアナライオン(学名 Panthera leo spelaea)にはたてがみがないか、わずかしかない姿をしているものばかりである。これは、彼らがたてがみがなかったことを示唆している 。 ホワイトライオンの風変わりなクリーム色の毛皮はその劣性遺伝のゆえである。亜種トランスヴァールライオンPanthera leo krugeriの変異であり、なかでも珍しい外貌をしている。 ホワイトライオンはきちんとした下位区分ではないが、白変個体という遺伝形質をもつ特殊な形態をしていて、それがホワイトタイガーにも通じる薄い色合いを生んでいる。これはブラック・パンサーの黒化(melanism)とも似通った現象である。ホワイトライオンはアルビノなのではなく、眼や肌には通常の色素形成がなされている。ホワイトトランスヴァールライオンは南アフリカの東にあるクルーガー国立公園やティンババティ保護区の近隣でときに姿をみせることがある。とはいえ、もっともよく見られるのは彼らをあえて選んで飼育しているところである。南アフリカでは、キャンド・ハント(canned hunt:柵、囲いなどで行動を制限した動物を狩猟すること)の的にするためにホワイトライオンを飼育していたことが報告されている。 ホワイトライオンが実在するということが確認されたのはようやく20世紀後半になってからのことだった。長年の間、ホワイトライオンは南アフリカに実しやかに伝わる架空の生物だと考えられており、それによれば彼らの白い毛衣はあらゆる被造物の美を象徴しているとされていた。初めて目撃されたのは1900年代初めで、その後ほとんど半世紀にわたって続けざまに報告が寄せられた。1975年にはティンババティ保護区でホワイトライオンの子供の出産が確認された。 一日のほとんどを寝そべり、およそ20時間ほどを怠惰にすごす。日中にも行動することはあるが、たいてい最も活動的になるのは夕暮れより後であり、それから社会的な行動や身づくろい、排泄などを行う。狩りが最もよく行われるのは日が昇る前の夜間であり、断続的に活発な行動をおこす。平均して2時間ほど動き回り、50分を食事に費やす。 系統の異なる二つの社会を形成する。定住性のプライドと呼ばれるものがその一方である。群れはたいてい5-6頭のメスと、このメスらと交尾する1-2頭のオスからなっている(1頭より多い場合は連合として扱われる)。その子供はオスでもメスでも群れに含まれる。しかし30頭以上からなる非常に大きなプライドも観察されたことがある。連合における成体のオスの数はたいてい2頭であるが、4頭前後まで増えることもある。オスの幼獣は成熟すると、自分の群れから追い出されてしまう。これは遊牧的なものということが、1頭あるいは対になって広大な土地を放浪する。このペアは生まれ育った群れから追い出されたオス同士で組まれることが非常に多い。このように生活様式を切り替えるのだといえる。遊牧的なスタイルが定住型にもなりうるし、その逆もある。オスはこの両方の生活を経験せねばならず、そのまま他の群れに加わることができない個体もいる。遊牧的な生活を送る雌が新たな群れに加わるのは雄よりも遥かに難しい。群れのなかのメスたちは結びつきが強く、馴染みのないメスが家族ともいうべき集団にくわわろうとすることを拒むのである。 プライドの行動範囲をプライドエリアと呼び、遊牧的なスタイルをとっている場合、それはレンジと呼ばれる 。プライドにいるオスたちはエリアの外周に身をおき、その縄張りを警戒してまわる傾向にある。なぜあらゆるネコ科のなかで最も高い社会性がライオンに育まれたのだろうかというテーマについては幾つもの議論がなされてきた。狩りの成功率を高めるためというのがもっともらしく思えるが、実験などで裏づけられたわけではなくはっきりしない。狩りを協同で行うことは捕食の機会を増やすことであるが、一方で群れが大きくなり狩りを行わないライオンが増えることで、1頭あたりのカロリー摂取量は減ることになる。またそこで育つ幼獣が群れを去るのはずっと先のことである。群れのメンバーは狩りのなかで常に同じ役割をこなす。狩りをおこなうものの健康は群れの存続に直接関わるため、彼らは狩りをおこなった場所で一番先に獲物にありつくことができる。血縁淘汰(同族のライオンはそうでないものより食料にあずかりやすい)を含めた同様の恩恵は、幼い仲間を守ることや縄張りの維持、飢えや怪我への保険(individual insurance)にも及ぶ。 群れのために狩りのほとんどをおこなうのはメスである。オスは重くて目立ちやすいたてがみが狩りのさまたげとなるし、また最中に興奮しやすいということもある。獲物に忍び寄り、捕食を成功させるため、メスたちはグループをつくり協力し合って行動する。しかし狩りの現場に雄がいた場合、彼らはすでに雌たちが狩った獲物を独り占めしてしまう傾向にある。獲物を分けあうとすればメスよりも幼獣とであることが多く、オス同士で獲物を分けあうことは滅多にない。比較的小さな獲物の場合はその場で食事がおこなわれ、ハンターたちがそれぞれ分け前にあずかる。獲物が大きかった場合はたいていプライドエリアまで引きずられていき、群れで共有されるのだが、メンバーたちはできるだけ多くの食事をえようと互いに積極的になる。 敵から群れを守るのは雄の仕事でも雌の仕事でもあるが、必ず特定の個体が先頭にたち、他のメンバーはその背後につく。ライオンたちは群れのなかで特定の役割を担っている傾向にあり、後者のライオンでも集団にとっては得がたい貢献をしているものである。侵入者を撃退するリーダーになることには見返りのようなものがあり、群れのなかでのメスの地位にもそういった役割が反映しているのではないかという説もある。プライドと行動するオスは、群れにおける自分の地位を転覆させようとする他のオスと戦わねばならない。群れという安定した社会的単位にあるメスは他のメスを許容することはなく、その構成が変化するのはメスの幼獣が産まれるときと死んだときだけである。一方でオスは2-3歳で成熟したとみなされ、群れを去らなければならない。メスも群れを去り放浪することもある。 集団で協力し合って狩りをし、狙った獲物を追いかける。一方で持久力についてはあまり知られていない。たとえばメスの心臓は体重の0.57%を占めているに過ぎず、雄であれば0.45%にまで落ちる(一方でハイエナはほぼ1%台である)。したがってメスが走るスピードは時速81kmにまで達するのだが、ピークはごく僅かしか維持できないため、獲物に攻撃を仕掛ける前に十分に近づく必要がありおよそ30m以内まで詰め寄るといわれている。メス達は目立ちにくくなるよう、カモフラージュできる場所を選んだり夜の間に狩りをおこなう。何匹かのメスが集い、目当ての群れを数箇所から囲い込むのが典型的な狩りのスタイルである。群れに十分近づいたなら、通常最も近い獲物を標的にする。一気に襲いかかり、最後の一跳びで獲物を捕まえようとする。そして獲物はたいてい絞め落とされ脳虚血症、窒息により死亡する。もしくは口と鼻を顎で塞がれ窒息する。小型の獲物の場合は前足の一撃で絶命する。 獲物は主に小型、中型、大型の哺乳類であり、とくにアフリカではノウサギ、ヒヒ、イボイノシシ、トムソンガゼル、インパラ、スプリングボック、シマウマ、ヌー、トピ、アフリカスイギュウなどが多い。インドではそれがニルガイやイノシシ、シカになる。機会さえあれば狩りの対象はさらに広がり、クーズーやハーテビースト、ゲムズボック、エランドといった50-300kgの有蹄動物も獲物となる。また時としてヤマアラシ、マングース、オオミミギツネ、ラーテル、ダチョウ、ハゲワシ、ナイルワニ、リクガメのような獲物も襲うことがある。集団で狩りをするため、幼獣に限らずほとんどの動物を獲物とすることができるが、成熟したゾウ、サイ、カバ、キリンなど非常に大型の動物になると怪我を負う危険もあるため襲うことはまれといわれる。しかしキリンやバッファローなどは地域によってはしばしば獲物となることがある。たとえばクルーガー国立公園ではキリンが日常的に狩られており、マニャラ公園ではアフリカスイギュウが全体の食事量の62%を占める。これはアフリカスイギュウの生息数が非常に多いことも原因である。サヴティ川流域ではゾウさえも獲物となってしまう。ガイドの報告によれば、ひどく腹をすかせた場合はアフリカゾウの幼獣を獲物とし、頭数の多い群れだと視界が悪くなる夜間、又は昼でも成獣でさえも狩ってしまうことがある。カバを襲うことはあるが、成体のサイは避けるのが一般的である。 いくつもの研究によって集められた様々な統計から、190-550kgの哺乳類を常食していることがわかる。アフリカではヌーが最もよく獲物となっており、セレンゲティではおよそ全体の半分にもなっている(シマウマがそれに次ぐ)。小型のガゼルやインパラその他すばしこいレイヨウなどは一般に狩りの対象とはならない。190kg以下であってもイボイノシシはしばしば狩りの対象となる。家畜も襲うため、インドではしばしばウシが犠牲となる。ヒョウやチーター、ハイエナ、リカオンなど他の肉食動物も狩ることができるが、食べることはほとんどない。屍肉も漁る。病死したものでも他の肉食動物が仕留めたものでも変わらず。輪をつくっている猛禽類につねに目をやりハゲワシなどが死体や弱った動物を囲んでいないか注意深く観察するのである。一般に大食いであり、一度に30kgの肉を平らげる。獲物を食べきれないときには数時間休んで再び口をつける。成獣はメスで1日におよそ5kg、オスで7kgの肉を必要とする。 獲物に見つかりやすい開けた場所で狩りをするため、集団行動をすることでその成功率を上げようとする。特に大型の動物を狙う場合はなおさらである。また獲物を仕留めたあとに、ハイエナなど他の肉食動物に手柄を横取りされないためにもチームワークは必要となる。遮蔽物のないサバンナでは何km先からもハゲタカが集まっているのが容易に見てとれるからである。狩りの大半はメスライオンがこなし、個々のメスライオンがそれぞれの位置について獲物を「鶴翼」で囲んで攻撃をしかけたり、集団で密集して移動し他のライオンと争って獲物を襲うというのが典型的である。そのためオスライオンが怠け者であるといった俗説が一部にあるが、これは誤りでありオスライオンはもっぱらカバ、キリン、バッファローなどの大型動物を専門とする非常に有能なハンターである。アフリカゾウを狩る場合通常7頭のメスライオンが必要だが、オスライオンは2頭で可能である。 若い個体が初めて狩りに加わるのは生後3ヶ月ほどである。ただし獲物を追うだけで、実際に襲うのは1歳。2歳で狩りができるようになる。 通常ライオンは4歳ごろに受胎が可能となる。交尾の時期は決まっておらず、発情期のようなものはない。他のネコ科の動物のように、オスはペニスに傘状の「突起」を持っている。この「突起」がメスの性器を刺激し、排卵を促す。メスが一頭のオスとだけ交尾するということはまずなく、交尾期には複数のオスと接触するのがふつうである。交尾は数日かけて行われることもあり、番のライオンはたいてい食事をとらず1日におよそ20-40回の接合をおこなう。また飼育個体は妊娠しやすい傾向にある。 妊娠期間は平均110日であり、メスはプライドの場所からやや離れた、他の動物の目につかない巣穴で1頭から4頭の幼獣を産む。出産直後の子ライオンは体重が1.2kgから2.1kgほどでおよそ1週間は目が見えない状態であり、ほとんど無力である。這いずりまわるのは生後1-2日で、3週間ほどで歩き回ることができるようになる。幼いうちはこの巣穴に比較的近い場所で狩りを行い、移動の際も他の動物に襲われないようにメスが子供たちの首筋をくわえて何度もねぐらをかえる。 母となったメスは、ふつう子供が生後6-8週間になるまでプライドに戻らない。例外的にこの期間が短縮されるのは、他のメスライオンと出産時期が重なった場合である。例えばプライドにいるメスたちはしばしば同時に受胎するため、幼獣に乳をやり育てることは共同で行われる(子供がひとり立ちする準備段階に入るまでのことである)。この場合母ライオンが誰かということは問題にされず、幼獣はプライドにいる全てのメスから同じような扱いをうける。出産が重なることは、彼らが生き残らせ、大きく育てるためには大事なことである。たとえばあるメスが他のメスの出産後1-2ヶ月して子供を産んだ場合、後から産まれた幼獣が食事から締め出され飢死しがちである。 2歳まで生きる幼獣は20%に満たない。ジャッカルやハイエナ、ハゲワシ、ヘビに襲われることもあり、アフリカスイギュウでさえ子供のライオンの匂いを嗅ぎつけたなら、親たちの守ろうとした巣穴に殺到し、踏み殺そうとする。 プライドのオスが争いに負けて交代すると、新しいオスが幼獣を殺すこともある。これはおそらくメスライオンは子供が成長するか死ぬまでは発情しないからである。子殺しを行うオスに母ライオンはしばしば反発するが、成功することはまれである。たいていオスは2歳に満たない幼獣を殺す。母ライオンはオスよりも体重が軽く、力も弱い。1頭のオスに対して3、4頭のメスが結束した場合には、子供を守れることもある。 初めてプライドへと連れていかれた幼獣は母ライオン親以外の前ではじめから堂々と振舞うわけではない。しかしすぐにプライドでの暮らしに夢中になり、幼獣同士だけでなく成獣とも遊ぼうとする。母ライオンは我慢強くなる傾向が強いが、オスの場合は時と場合による。じっと幼獣がその尻尾やたてがみで戯れるのに任せるときもあれば、唸り声をあげて追い払うときもある。 離乳は生後6-7ヶ月からである。オスは3年ほどで成熟し、4、5歳になると他のプライドのオスたちと決闘して、縄張りを争うようになる 。10-15年で力が衰えるほどの高齢になるが、それはプライドを守るために致命傷を負ったことがないことを意味している(またライバルの雄から群れを追い出されたものが再び天下をとることはごくまれである)。子孫を増やし育てることはごく短い期間だということである。プライドを支配してすぐに子供を儲けることができた方が、追い出される前に成長させることができる。 プライドから追放され、放浪者となるのはオスばかりではない。多くのメスは産まれたプライドに留まり続けるが、プライドが大きくなりすぎると若いメスが縄張りを追われ、群れから放り出される。さらに新たなオスがプライドを支配するようになると、若い個体は雌雄を問わずに追い出されないという保証はない。メスが放浪して生きることは簡単ではなく、こうしたメスが幼獣を成熟させた例はほとんどない。ある統計によれば雌雄を問わずに同性間でホモセクシュアリティー的な交流をもつ。 自然界には天敵は存在せず、多くは他の個体か人間との争いによって死ぬことになる。これはプライドの守護者であるオスには特に当てはまるデータで、彼らは非常にしばしば敵対するほかのオスと積極的に渡りあう必要がある。野生個体と飼育個体の平均寿命が劇的に異なる原因がこれだ。一方で二つのプライドで一箇所の縄張りを争っている場合には、ひどい傷を負ったり殺されることがある。 狩り以外にもいくつもの社会的な行動をみせる。この動物が何かを表現する動きは非常に発達している。もっともよく見られる友愛的な身振りが、頭をすりつけ舌で舐めつけることである。これは霊長類の毛づくろいにあたる。他の個体に頭をこすりつけたり額や首に鼻を寄せるのは歓待的な行動で、仲間としばらく離れていたり敵と戦ったあとにしばしば見られる。オスは他のオスに、幼獣やメスはメスに対して行う。2頭が互いに舌で舐めあうということもよくある。むしろ相互におこない、された側が喜びを露にするのが一般的である。頭部と頸部が舐められることが一般的だが、これは身体の構造上の問題である。ライオンは自分の頭部や頸部を舐めることができないためである。 外見的にそれとわかる表情や身振りなども豊富であり、発声法も複数存在する。強弱とピッチなどが使い分けられ、単なる個々の合図というのではなく、コミュニケーションの主要な道具となっている。ライオンが出す音には、唸り声や叫び声、咳払いのようなものから、グルグルと喉を鳴らしたり、ネコや犬のような鳴き声まである。叫び声をだすときは、非常な特徴がある。まずとても低い声からはじめゆっくりと吠え、最後に何度か短く唸る。たいていそれは夜であり、8km先からも聞こえるほどである。大型のネコ科動物は最も大きな声を出すことで、自分の存在を誇示しているのである。 本種とブチハイエナが同所的に分布している地域では、この2種が同じ生態学的なニッチを占め対立することになる。ときには全体の食糧の68.8%が重なってしまうことがある 。本種はブチハイエナが襲ってきたり食物を奪いにきたりしない限りは相手にしないが、ブチハイエナは食物の有無により本種に対する反応がまったく異なる。本種は容易にブチハイエナを殺すことができるからである。ンゴロンゴロ保全地域では本種がブチハイエナの倒した獲物を奪うことが日常的になっていて、ブチハイエナの高い死亡率につながっている。ハイエナたちが食事をするときの呼び声をテープで再生すると、本種が現れるという報告例もある。命の危険に晒されたブチハイエナはすぐその場から立ち去るか、30-100mほど距離を置き食事が終わるまで待ち続ける。一方で場合によっては食事を続けたり、逆に本種に襲い掛かることもある。食糧とは関係ないところでもこの2種は対立することがあり、はっきりとした理由がみえないような状況で本種がハイエナに飛びかかり、傷を負わせたりする。1頭の雄ライオンが別々の場所でリーダー格の雌ハイエナ2頭をかみ殺した姿が記録されていて、このオスはハイエナを食事にしたわけではない。エトーシャ国立公園のハイエナの71%は本種に襲われて死んでいる。ブチハイエナはライオンが繰り返し自分たちの縄張りに侵入してくるプレッシャーに耐えているのだ。飼育されたブチハイエナである実験をすると、ライオンにまったく接した経験のない個体はその姿を目にしても無関心であるが、匂いをかぐと怯えだすということが明らかになった。 チーターやヒョウといったライオンより小型のネコ科動物と共存している地域でも、ライオンは支配的な影響力をもつ傾向にあり、その獲物を奪ったり、子供たちやときには大人でさえも捕食してしまう。チーターがその獲物をライオンや他の捕食者に奪われる確率は50%にもなる。ライオンはチーターの子供にとって最大の脅威であり、襲われて生後1週間で命を落とす子供は実に90%に達する。チーターは時間をこまかくずらして狩りを行い競合をさけ、子供たちは深い茂みに隠しておく。ヒョウも同じような戦略を使っているが、チーターと違ってヒョウは木登りが得意であり、そこに子供たちをおくことでライオンから身を守っている。しかし、雌ライオンはときどきヒョウの獲物をうばうために木に登ることがあるが、ヒョウ程高い所までは登れない。リカオンにもライオンは優位にたち、獲物を奪いとるだけでなくリカオンの子供や大人を狩ることもある(後者はそれほど多いものではないが)。 アフリカニシキヘビも彼らの捕食対象となる。 ナイルワニもライオンの捕食対象の一つだが、同時にライオンもナイルワニの捕食対象の一つである。 アフリカでは、影のできるアカシアの木がまばらに生えているサバンナの草原地帯にライオンたちをみることができる。 インドでの生息地は乾燥したサバンナかさらに乾いた落葉樹林のなかである。。最近では[いつ?]、ライオンが分布するのはギリシャからインドまでの南ユーラシアと、アフリカの大部分になっている(ただし熱帯雨林のある中央部とサハラ砂漠をのぞく)。ヘロドトスの記すところによれば、ライオンは紀元前480年ごろにはギリシャでよく知られる動物となった。ペルシャの王クセルクセス1世が国中を練り歩いているなか、そのラクダの積荷をライオンが襲ったことが記されている。アリストテレスは紀元前300年にはもう彼らが貴重な動物だと考えていて、その後400年ほどして彼の地でのライオンは絶滅している 亜種インドライオンは10世紀ごろまではヨーロッパの辺境であるコーカサス地方にもいたと考えられている。 パレスチナに由来する種も中世には姿を消した。アジアのほとんどの地域でも、猟銃が簡単に手に入る18世紀ごろになるとライオンの姿は見られなくなった。19世紀の終わりから20世紀はじめにかけて、北アフリカおよび東南アジアでも絶滅している。トルコおよびインド北部のほぼ全域も同様である 。アジアで最後にライオンが確認されたのは1941年のイランであるが、3年後にはカルン川の岸辺で死骸となって発見された。その後イランでは信頼できるレポートは送られていない。最後に生き残った亜種インドライオンはインド北部のギルの森周辺でみることができる。そこはグジャラート州に属する、ほとんどが森に覆われた1412平方キロメートルの土地であり、300頭ほどのライオンたちの聖地となっていて、その数はゆっくりと増しているという報告もある。 アフリカのほぼ全土、西ヨーロッパからインドの多くの地域、北アメリカのベーリング地峡自然保護区など生息地は幅広い。しかし今日では一部の地域で種そのものが絶滅している。 多くの個体は東アフリカと南アフリカに生息しているが、その数は激減しており20年間で30-50%まで数を減らしている。2002-2004年現在のアフリカでの野生個体数は16500-47000頭と推測されているが、1990年代はじめになされた調査では1950年には10万-40万頭までいたとされていた。原因ははっきりしていないが、この数字が回復することはおそらくない。生息地の減少と人間との衝突が種を脅かす最大の原因と考えられる。ライオンたちがいま生き残っている地域はそれぞれが孤立した状態にあり、近親繁殖が進んでしまうため、遺伝的な多様性が失われている。西アフリカにおけるライオンの数は中央アフリカのそれと非常に差があり、交配する個体の交替がまったくといっていいほどなされない。この地域における成体のライオンの頭数調査が近年2度行われ850-1160頭と推計されている(2002年と2004年)。これは最も大きな数字であって、ブルキナファソのArly-Singou エコシステムのもとでは100-400頭という推計とは食い違いがある。 保護には国立公園や禁猟区を設置し維持することが求められる。ザンビアのエトーシャ国立公園、タンザニアのセレンゲティ国立公園、南アフリカのクルーガー国立公園などが有名である。このエリアの外では人間や家畜と接触するために問題が起こってしまうため、たいていライオンのほうが排除される。亜種インドライオンはインド西部にあるギル国立公園が最後の生息地となっている。そこは1,412平方キロメートルの面積をもち、2006年4月の時点でおよそ359頭の生息が確認されている。アフリカと同様にこの公園に非常に近いところに大勢の人間が暮らしているため、ライオンと家畜や地元民、保護団体のあいだで問題が生じている。亜種インドライオンを復活させるプロジェクトが計画され、インドのマディヤ・プラデシュ州にある野生動物保護区に複数頭がまとめられた。亜種インドライオンが生き残るためには遺伝子プールとを確保し、遺伝的多様性をひろげ維持することが重要なのである。 かつて動物園の基亜種は人気があったが、個別に飼育されることでバーバリライオンの野生個体数が減っていくという結果につながった。イギリス、ケント州のポート・リム野生動物公園にいた12頭はモロッコ王が所有していたペットの子孫であった。ほかにも基亜種と考えられる個体11頭がアディスアベバの動物園で発見されている。こちらは皇帝ハイレ・セラシエが飼っていたライオンの子孫である。ワイルドリンク・インターナショナルはオックスフォード大学と共同で、国際的なバーバリーライオン・プロジェクトを立ち上げている。これは世界中のバーバリーライオンを同定し、繁殖することで定期的にモロッコのアトラス山脈にある国立公園に再導入していくというものである。 アフリカで生息数が減っているという事実が明らかになると、それを食い止めるために幾つもの保護プログラムが組まれるようになった。本種はSSP(Species Survival Plan )に含まれる動物であり、動物園と水族館が団結して生存の可能性を高める努力が行っている。この計画はもともと亜種インドライオンを対象に1982年に始まったものだが、北アメリカにいる亜種インドライオンの多くがアフリカ産の亜種と交配され、遺伝的に純粋ではないことが判明したために棚上げされていた。アフリカのライオンを対象にした計画は1993年に持ち上がる。これはとりわけ南アフリカの亜種に重点をおいたものであったが、飼育個体の遺伝的多様性を判断するという難題が課せられていた。ほとんどの個体はその血統がはっきりしていないためである。 ふつう人を襲うことはないが、例がないわけではない。非常に有名になったものにツァボの人食いライオンがいる。これは1898年にケニア(当時はイギリス領東アフリカ)のツァボ川に架橋する工事の最中に起こった悲劇で、ケニア-ウガンダ間に鉄道を敷くための9ヶ月に合計で28人の工夫が犠牲になったものである。1991年にはザンビアでも事件が起き、ムフエのルアングワ渓谷で6人がかみ殺されている。この人食いライオンたちを撃ち殺したハンターは、ライオンたちが捕食行動をおこなっていたと詳細に記している。ツアボとムフエの事件には類似点がみられ、どちらのライオンも平均よりも巨大な体躯をもち、たてがみがなかった。そして虫歯に苦しんでいるらしきところも共通していたが、この虫歯も含めた疾患によるストレスという説を支持する研究者は皆無である。博物館のコレクションにくわえられた人食いライオンたちの顎と歯の分析が示しているのは、虫歯はいくつかの付随的な条件を示すことはあるかもしれないが、ライオンたちが人を襲ったのは人間の多い地域で食糧が不足したためだという可能性が最も高いということである。ツアボの事件を中心に人食いライオン一般を研究した学者は、病気になったり傷を負ったライオンが人を襲う傾向にあることは認めたが、そういった行動は決して異常ではなく、機会さえあればむしろ当然のものだとしている。家畜や人間に遭遇するなどの要因さえあれば、ライオンはいつでも人間を獲物にしうるということである。著者たちはこういった人間との関係は古生物学の記録によればヒョウや他の霊長類にも十分に確認できると記している。ライオンがどのように人を襲うのかという傾向については体系だてられた調査が存在する。アメリカとタンザニアの科学者は、タンザニアの地方でライオンの被害が増加していると報告している。それによれば1990年から2005年にかけて数が増しており、すくなくとも563の村が襲われ、1世紀も前に有名になったツアボの事件の被害者数をはるかに越えるスピードで人間が殺されている。たとえばルフィジ県のセルー国立公園周辺やモザンビーク国境沿いのリンジ地方などで事件が多発している。人口が増えてより辺境に暮らす人が多くなったことも原因の一つだが、著者たちが主張しているのはライオンの保護プログラムが危険を放置したままにしているということである。これらのケースではプログラムがそのまま被害につながっているからである。リンジでのケースは、村からでた人間がライオンに襲われた例として記録されている。 「エデンの人食いライオン」の著者ロバート・R・フランプは、南アフリカのクルーガー国立公園を夜中に横切るモザンビークの難民が定期的にライオンに遭遇し、殺されていると指摘し、公園側もそれが問題となっていることを認めている。公園がアパルトヘイトの対象となり、難民が夜中にそこを通らなければならなくなって以降、10年間で数千もの人々が犠牲になっているとフランプはいう。国境が封鎖されるまでの100年近く、モザンビークの人間は日中を比較的安全に歩いて通ることができたのだ。 パッカーの試算によると、毎年200人以上のタンザニア人がライオンをふくめ、ワニ、ゾウ、カバ、蛇に殺されている。実際の数字はこの倍に達することもありえ、少なくともそのうち70がライオンによるものである。彼は1990年から2004年までの記録をつくり、タンザニアでのライオンが815人を襲い、そのうち563人を食い殺しているとしている。パッカーとイカンダは欧米流の保護プログラムがこういった側面にも責任を持たねばならないとする数少ない論者でもある。ライオンの保護と人命への倫理的な配慮を両立させなければ、長期的な成功はなしえないからである。 2004年にはタンザニアの南で人食いライオンが射殺されている。ルフィジ県の鉱山地帯にある村々で事件を起したこのライオンは、少なくとも35人を襲い、食い殺したとされている。GTZのコーディネーターであるロルフ・D・バルダス博士は、臼歯のしたにおおきな膿瘍があったことが人を襲った原因である可能性が高いと語った。このライオンの臼歯にはいくつかの亀裂さえあり、「特にものを噛む時にはおそらくひどい痛みを感じていた」。GTZとはドイツの開発協力機構で、この20年間タンザニア政府と協同で野生動物の保護にとりくんでいる。彼によれば、他のライオンと同様にこの個体も巨大な体躯をもち、たてがみが無く、そして歯に問題を抱えていた。 「All-Africa」の記録は、ツアボの事件ではなく、あまり知られていない1930年代の終わりから40年代にかけてのタンガニーカ(いまのタンザニア)での人食いライオンの事例を集めたものである。それによれば保護区の巡視員でありプロのハンターであるジョージ・ラシュビーが駆除したプライドには、いまでいうンジョレ地区で3世代にわたって1500から2000もの人々を食い殺してきたとされているものがあった。 18世紀後半には動物園の目玉になっていた。彼らのような大型のネコ科とともに、ゾウやサイ、カバなどの脊椎動物や霊長類なども人気を博していた。かつて動物園はこういった珍しい動物を可能なかぎり集めていたのである。現代の動物園の多くはもっと的を絞っているのがふつうだが、それでも世界中の動物園や国立公園には1,000を越えるアフリカ産の個体と100を越える亜種インドライオンがいる。彼らは大使のような扱いをうけ、教育や観光、環境保護のために駐在していると考えられている 。飼育個体は20年以上生きることもあり、ハワイのホノルル動物園にいた「アポロ」は22歳まで生きて2007年8月に死んだ。1986年に産まれた彼の姉妹2頭は、2007年8月現在も存命である。なお、日本では、横浜市立野毛山動物園にいたオス「モドリ」(2008年3月に24歳で死亡)が最高齢である。繁殖プログラムは異なる亜種を交配しないよう、血統を明らかにする必要がある。そうしなければ保護する価値がわからなくなってしまう。 紀元前850年ごろにはアッシリア王によって飼育された。アレクサンダー大王もまた北インドから調教された個体を献上されたといわれている。ローマの時代がくると、皇帝たちは剣闘士と戦わせるようになる。スッラやポンペイウス、カエサルといった名高い人物たちはしばしば一度に何百頭という個体を集め殺戮させるよう命じていた。東洋ではインドの王妃が飼育された。マルコ・ポーロの記すところによれば、クビライ・ハンは室内にライオンを飼っていたという。ヨーロッパで初めて「動物園」が貴族や王家のあいだで流行したのは13世紀のことである。17世紀ごろまでにはハーレム(seraglios)と呼ばれ、驚異の部屋の延長として当時は見世物小屋(menageries)という名も定着していた。ルネサンス期にはフランス、イタリアからヨーロッパ全土へと広がった。イギリスではこのハーレム文化があまり栄えることはなかったが、13世紀にジョン王がロンドン塔につくったハーレムのなかで飼われていた。おそらく1125年にヘンリ1世がはじめた初期の見世物小屋が起源だと考えられる。それはオックスフォードのそばのウッドストック近くにあり、マームズベリのウィリアムはライオンたちがそこで飼われていたと記録している。 こういった施設は貴族の富と権力とを表すものであり、とりわけ巨大なライオンやゾウたちのような動物はそのまま力のシンボルとなった。これはつきつめると、人間が自然を支配しているということを誇示するためのものでもあった。ライオンのような大自然の「王」が怯える姿や、サイを前にしたゾウが尻込みする様に17世紀の好事家たちは驚き、そして喜んだのだった。見世物小屋が一般大衆に受け入れられるようになると、このような動物同士の決闘は次第にみられなくなっていった。大型動物をペットにするという伝統は19世紀まで続くが、その頃にはかなり奇矯なふるまいとみなされるようになった。。 ロンドン塔には常にライオンがいたわけではなく、たとえばヘンリー6世の妃であったマーガレット・オブ・アンジューのような趣味人が探し出したり、贈られたりしたときに見ることができた。記録によれば、当時のイギリスでの飼育環境は貧弱なもので、フィレンツェなどとは開きがあったという。18世紀ごろには見世物小屋は大衆に開かれたものとなり、3ペンス半を払うか餌となる犬猫をもってくれば入場料となった。エクセターにあるもう一つの小屋も19世紀はじめまでライオンを見世物にしていた。ウィリアム4世によってロンドン塔のmenagerieは閉じられ、動物たちはロンドン動物園に移された。こちらが一般に公開されるようになったのは1828年4月27日のことであった。 野生動物の取引がされるようになり、それが隆盛をきわめるのは植民地貿易が進んだ19世紀のことである。本種はごく一般的かつ安価な生き物だと考えられていた。トラよりは高値がついたものの、キリンやカバなどの巨大で輸送が難しい動物ほどではなく、ましてパンダとは比べものにならなかった。他の動物と同様に、彼らは自然由来の単なる商品とみなされ、捕獲や輸送に関してほとんど省みられるということがなかった。さらにライオンを追いかけるハンターという英雄的なイメージが広く知られるようになり、長年にわたってそれが支配的なものとなった。冒険者やハンターたちはありがちなマニ教的善悪二元論を利用して、その冒険譚に彩りをくわえ、自ら英雄として振舞ったのである。こうして人食いライオンは人食いライオンなのだという考えが大型のネコ科動物にはあてはめられ、「大自然の驚異とそれを克服する悦び」という構図がつくられた。 ライオンが飼育される窮屈で不潔な環境が一変したのは、1870代になってロンドン動物園におおきく住みよいケージがつくられてからである。20世紀のはじめになると、カール・ハーゲンベックがより本来の生態にあうような囲い込み法を考案した。これはさらに開けた敷地をもうけて砂利をまぜた岩山をつくり、柵のかわりに掘割をそなえたものだった。このデザインは、その後メルボルンやシドニーなどで取り入れられている。ハーゲンベックの設計は普及したとはいえ旧式の柵と檻も60年代まで動物園では当たり前のものであった。1990年代になると、敷地はさらに広げられ、自然環境になぞらえられるとともに、鉄網や薄いガラスなどが使用され、見物客はかつてないほどライオンの側まで近寄ることができるようになった。いまではライオンたちの住環境は自然のそれと非常に近く、彼らの欲求に従ってさらにあるがままに近づける現代的なガイドラインが採用されている。巣穴はいくつかに分散させ、ライオンたちが横たわる場所には陽射しと木陰のどちらも過不足がなくなるようにし、水はけをよくするとともに歩きまわれるスペースも確保するということに重点がおかれる。 ライオン狩り(Lion-baiting)とは他の動物とライオンを戦わせる血なまぐさいスポーツのことである。たいていその相手は犬たちであり、記録によれば古代から17世紀まで行われていた。ウィーンでは1800年、イギリスでは1825年に禁止されている。 サーカスなどの見世物にするためにライオンを調教することも昔からなされていた。現代でもジークフリード&ロイといったエンターティナーがいる。これはライオンだけでなく、トラやヒョウ、ピューマなどにも試みられていた。この分野の先駆者は19世紀始めのフランス人アンリ・マーティンと、アメリカ人のアイザック・ヴァン・アンバーグである。二人は世界中をまわり、無数の追随者を生んだ。ヴァン・アンバーグは1838年にイギリスを訪れた際にヴィクトリア女王の前でもその腕を披露している。マーティンは「マイソールのライオンたち」というパントマイムを考案し、アンバーグはすぐにそのアイディアを借用した。これらの出し物はそれまでサーカスの目玉だった馬術にとってかわったが、実際にライオンのショーが大衆の関心を集めたのは20世紀はじめに映画に登場してからである。これは前世紀的なライオンとの決闘と同じような構図でもって動物に対する人間の優位を誇示するものであった。調教師の支配力と監督力を極端なまでに証明するものが、ライオンの口にその頭を突っ込むパフォーマンスである。今日ではライオン調教師の象徴ともいえるパフォーマンスであるが、これを初めて行ったのはアメリカ人のクライド・ベイティ(1903年-1965年)だとされている。 南アフリカなどの国では、単に種の保存を目的とするだけでなく、狩猟用に飼育されている場合がある。このようなライオンたちは、幼獣の時期にはエコツーリズムなどの観光の資源として利用される。観光客は代金を支払い、子ライオンを抱いたり、ミルクを与えたりして楽しむ。そしてライオンは成長すると、狩猟のために野に放され、狩猟愛好家の標的となる。生まれた時から人間に飼育されたライオンに、猟師から逃れるすべはない。狩猟の顧客はアメリカ人が多い。 東洋においてトラの骨の酒(虎骨酒)が珍重されているが、20世紀末になるとトラは保護され、代わりにネコ科の大型獣が用いられるようになり、2008年よりライオンの骨も利用され、養殖されたライオンの骨が国際取引される。 ライオン (企業) - ライオン株式会社の創業は1891年、当時は小林富次郎商店と言った。「ライオン歯磨」の発売は1896年。小林が知り合いの牧師に商品名を相談して「ライオンは歯が丈夫であるし商品の名前としてうってつけではないか」と言われて付けた。 ライオンズマンション - 入り口に座ったライオンの銅像が置いてある。ライオンの名前の由来は群れで行動し、家族を大切にするライオンにあやかり、マンションに住む住人たちの家庭円満を願ってのものである。 ライオン看板 - ライオンたてがみの面構えに似ているという洒落と自嘲でトタン看板の造作を「ライオン造り」と称していた(東京っ子が命名したという)。 野生のエルザ - いくつかの書籍や映画にまとめられたライオンの保護飼育の記録。 グレートハンティング - ライオンの人食いシーンが登場してヒットしたイタリア映画。 ジャングル大帝 - 白いライオンの物語。 ライオン・キング - アフリカを舞台としたライオンの王の物語 ライオン・ガード - 「ライオン・キング」の後日談。プライドランドの王「シンバ」の息子「カイオン」と仲間達がプライドランドを守る物語。 ディスカバリーチャンネルの専門家達による一対一の殺し合いのシミュレートでは、ライオンはアフリカゾウには負けるが、トラ、シロサイ、カバ、ヒグマ、セイウチには勝つと判断され、百獣の王の名に恥じぬ結果となっている。 埼玉西武ライオンズ - 日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。 ^ 例えば万年青では葉先が巻き込むものを獅子葉と言い、この芸を持つものは往々にしてこの名を持つ。 ^ Appendices I, II and III<https://cites.org/eng>(Accessed 23/10/2017) ^ a b c UNEP (2017). 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ABC01-02-0259
パナマを首都とする国はパナマですが、マナマを首都とする国はどこでしょう?
バーレーン
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[ "バーレーン", "チュニジア", "トルコ", "アラブ首長国連邦", "エジプト" ]
[ "バーレーン王国 مملكة البحرين 国の標語:なし 国歌:Bahrainona (我らのバーレーン) バーレーン王国(バーレーンおうこく、アラビア語: مملكة البحرين‎, ラテン文字: Mamlakat al-Baḥrayn)、通称バーレーンは、中東・西アジアの国家。首都はマナーマ。ペルシア湾のバーレーン島(英語版)を主島として大小33の島(ムハッラク島など)から成る君主制の島国である。 王家のハリーファ家(英語版)はクウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族(英語版)出身でスンナ派であるが、1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派がしめる。 1994年以後、シーア派による反政府運動が激化し、2001年2月に行われた国民投票によって首長制から王制へ移行した。 正式名称はアラビア語で مملكة البحرين(ラテン文字:  Mamlakat al-Baḥrayn マムラカトゥ・アル=バフライン)、通称、البحرين( al-Baḥrayn アル=バフライン)。 公式の英語表記は Kingdom of Bahrain。通称 Bahrain。国民・形容詞はBahraini。 日本語の表記はバーレーン王国。通称バーレーン。バハレーン、バハレインと書かれることもある。正則アラビア語に従った仮名表記では「バフライン」になる。 国名のبحرينはアラビア語で「二つの海」という意味であり、島に湧く淡水と島を囲む海水を表すとされている。2002年、バーレーン国(State of Bahrain)から現在の名称に変更した。 かつてはディルムン文明と呼ばれるエジプト文明やシュメール文明に匹敵する文化の中心地であったといわれている。15世紀ごろまでは真珠の産地であった。 16世紀、ペルシャの圧力を受ける中、ポルトガルが進出 1782年 ハリーファ家がカタールから移住。支配が始まる 1867年 カタール・バーレーン戦争(英語版) 1868年 イギリス・バーレーン合意(英語版) 1880年 イギリスの保護国となる 1931年 米国の国際石油資本スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(英語版)(通称ソーカル、SoCal。現:シェブロン)の子会社であるen:Bahrain Petroleum Company(BAPCO)が石油(en:First Oil Well, Bahrain)を発見。 1968年 イギリス軍のスエズ以東撤退が発表されたのを契機に、バーレーンを含む湾岸の9首長国が連邦結成協定を結ぶ 1971年 バーレーン国として独立 1975年 議会廃止 1990年代 en:1990s uprising in Bahrain 2001年 民主化推進に向け、国民投票を実施 2002年 国名をバーレーン王国へ改称し、絶対君主制から立憲君主制へ移行 2011年 2011年バーレーン騒乱。シーア派国民による反政府デモが起こる。 サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島。国土の大半が砂漠と石灰岩に覆われている。 ケッペンの気候区分は砂漠気候(BW)。 サウジアラビアとは「キング・ファハド・コーズウェイ」という全長約24kmの橋によって結ばれている。 4つの県がある。2003年7月3日までは12の行政区に分けられていた。 南部県 北部県 首都県 ムハッラク県 かつては絶対君主制で、「クウェートより危うい国」とされていたが、湾岸戦争以後、民主化を求める国民による暴動が絶えず、首長(アミール)であるシャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファの下で次々と民主化を実行し、2002年より政体を立憲君主制とし、君主の称号をマリク(国王)と改めた。シャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ首長は国王(マリク)に即位した。二院制の議会(国王が任命する評議院と直接選挙による代議院)を設置し、内閣には国王によって任命される首相を置き、男女平等参政権や司法権の独立などの体制を整えている。 外交面では中東地域の国々やイギリス、フランス、日本、アメリカを始め、多くの国と良好な関係を築いており、また親米国だが、カタールとハワール諸島に関しての領土問題がある。イラクと関係が悪かったこともあり、湾岸戦争時にミサイルで狙われたこともある。またペルシア湾を挟んで向かい合う大国イランとは、パフラヴィー朝が「バーレーンは歴史的にみてイラン(ペルシア)の領土である」と領有権を主張していたことから、同国に対して警戒心が強いとされる。イスラーム革命後は、イランが国内のシーア派を扇動して体制転覆を図るのではないかと脅威に感じており、バーレーンのスンナ派住民の間には、こうした警戒心から反イラン・反シーア派感情が強いとされる。アメリカも「敵の敵は味方」思考からスンナ派(政権側で少数派)のシーア派(国内多数)弾圧に懸念を表明しつつも、対話を促す程度にとどまってきた。 2016年1月2日にサウジアラビアがイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにサウジアラビアとイランの関係は急速に悪化し、イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけにサウジアラビアはイランとの国交を断絶し、これに続いてバーレーンもイランとの国交断絶を行っている。 隣国サウジアラビアとは、王家が同じ部族の出身ということもあって関係が深く、実質的な保護国となっている。2011年バーレーン騒乱の際は、サウジアラビアの軍事介入によって事態が収束した。 軍事面では湾岸戦争後、アメリカと防衛協定を結び、アメリカ軍が駐留しており、第5艦隊の司令部がある。2015年には明治維新以降として、史上初の多国籍国際合同艦隊の司令官職として、日本の海上自衛隊より任命された幹部自衛官が赴任し、当地バーレーン第5艦隊での国際協力任務を完遂した。南部の約25%がアメリカ軍基地となっている。 IMFの統計によると、2011年のバーレーンのGDPは約261億ドルと推計されており、日本の島根県よりやや小さい経済規模である。 中東で最も早く石油採掘を行った国で、GDPの約30%は石油関連事業によるものであり、その恩恵で国民には所得税が皆無であるが、1970年ごろから石油が枯渇し始め、このままいくと、あと20年余りで完全に枯渇するという問題に直面していた。資源探査を続けた結果、2018年4月1日、政府は西部沖合で国内で確認されていた埋蔵量を上回る規模の油田を発見したと発表している。 隣国サウジアラビアとは橋で結ばれているため、経済的な結びつきが強い。加えて同国が事実上の鎖国体制を敷いていることやペルシャ湾の入口にあるという地理的特性を活かし、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指してインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開し、多国籍企業を始めとした外国資本が多数進出している。2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、バーレーンは世界第42位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタールに次ぐ第3位である。 観光にも力を入れており、現在は豊かな国の一つとして数えられているが、失業率が15%超 (政府発表値約6.6%:2003年) とGDPと比べて高い。 通貨単位はバーレーン・ディナール。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール(2010年12月3日現在) 国営航空会社のガルフ・エアがアジアやヨーロッパ、アフリカ、オセアニア諸国に乗り入れている他、世界各国の航空会社がバーレーン国際空港に乗り入れている。日本から行く場合は、ドバイやドーハなどで乗り換えていくのが一般的である。 島国ではあるが、1986年にキング・ファハド・コーズウェイが開通、サウジアラビアとの間を車で行き来することが可能になっている。 2008年にライトレールの建設計画が公表されたが、2009年からの建設予定が度々延期が繰り返されている。 2010年の調査によると、バーレーン国籍は46%(568,390人)に過ぎず、半数以上の54%(666,172人)を外国人労働者が占めている。外国人労働者の中で最大の勢力はインド人で290,000人を数える。 住民はアラブ人が7割ほどを占めている(バーレーン人が63%、その他のアラブ人が10%)。その他にイラン人が8%、アジア人(印僑など)が19%などとなっている。シーア派多数の人口構成を変えるために、パキスタン等他のスンナ派イスラーム諸国からの移民を受け入れ、国籍を与えていると言われている。 言語は公用語がアラビア語で、日常的にはバーレーン方言が話される。他にペルシア語、ウルドゥー語、ヒンディー語などが使われる。英語も広く使われている。 宗教は、バーレーン国籍保持者に限ると、イスラームが99.8%に達し国教となっている。そのうちシーア派が75%、スンナ派が25%となっている。外国籍を含むと、イスラームが70.2%にまで下がり、残りはキリスト教が14%、ヒンドゥー教が10%などとなっている。近年はインドなどからの労働者の増加により、非イスラム教の割合が増加傾向にある。少数派であるスンナ派は政治やビジネスなどの面で優遇されて支配層を形成しているのに対して、多数派であるシーア派は貧困層が多く、公務員や警察には登用されないなど差別的な待遇に不満を感じているとされる。こうした不満が、2011年バーレーン騒乱に繋がったと見る向きもある。 全世界からビジネスマンや観光客が来ることもあってか、サウジアラビアやイラン等の周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやかである。例えばアルコールは自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めて人々が集まって盛り上がる。また、女性も顔や姿を隠す必要はない。 欧米の軽音楽の聴取が自由であり、それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている。1981年にデビューしたオシリス (Osiris) はバーレーンを代表するロック・バンドで、ヨーロッパでもレコード、CDが発売されている。 女性の政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでおり、就業率は23.5%(2001年)、大学進学率は11.8%(2001年、男子は13.2%)と高い水準を誇る。 またサビーカ王妃がアラブ女性連合最高評議会の議長を務めるほか、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など政府の要職に女性が就くことも珍しくない。 スポーツで最も人気なのはサッカーであり、2006 FIFAワールドカップのアジア最終予選を抜けようと努力し、ホームのバーレーンのスタジアムではバーレーン国がチケットを買い上げ、それをバーレーンの市民に無料に配布してホームの試合を盛り上げるなどした。 2002年に釜山で行われたアジア大会サッカー競技で当時のU-21日本代表と対戦して以来、バーレーン代表は抽選の都合日本代表との対戦機会が急増しており、国際Aマッチの範囲だけでも2002年から2010年にかけて9試合を交えた。2010年代はFIFAワールドカップ・アジア予選で早期敗退が続いた。 また西部の港町ザラク近郊の砂漠地帯であるサヒールにサーキットを建設し、F1開催の誘致に成功、2004年からバーレーンGPを開催している。 21世紀以降はケニア、エチオピアなどアフリカ出身の選手を多数帰化させるなど陸上競技の強化を進め、オリンピック、世界陸上、アジア競技大会などの国際大会で優勝者や上位入賞者を輩出している。 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年7月19日閲覧([1]) ^ “大辞林 第三版 バハレーンとは”. コトバンク. 2018年1月6日閲覧。 ^ 定冠詞الـ(ラテン文字転写:al)を除いた形。一般名詞の双数形で属格。 ^ “バーレーン、イランと国交断絶”. ロイター (ロイター). 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AFP (2018年4月2日). 2018年4月6日閲覧。 ^ The Global Financial Centres Index8 ^ バーレーン王国大使館HPより ^ 2004年のアジアカップの準決勝、2006年ワールドカップのアジア最終予選(H&Aで2試合)、2010年ワールドカップのアジア3次予選および最終予選(H&Aで2試合×2)、2011年アジアカップの予選(H&Aで2試合)。うち日本に対して勝利を収めているのは、2010年ワールドカップのアジア3次予選(ホームゲーム、2008年3月26日)および、2011年アジアカップの予選(ホームゲーム、2009年1月28日)である。 政府 バーレーン王国政府 (アラビア語)(英語) バーレーン王国大使館 (英語)(日本語) 日本政府 日本外務省 - バーレーン (日本語) 在バーレーン王国日本国大使館 (日本語) その他 JCCME - バーレーン", "チュニジア共和国 الجمهورية التونسية 国の標語:نظام، حرية، عدالة (アラビア語: 自由、秩序、公正) 国歌:祖国の防衛者 チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、アラビア語: الجمهورية التونسية‎、ベルベル語: ⵜⴰⴳⴷⵓⴷⴰ ⵏ ⵜⵓⵏⴻⵙ、フランス語: République tunisienne)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。 正式名称は、الجمهورية التونسية(ラテン文字転写 : al-Jumhūrīya at-Tūnisīya、片仮名転写 : アル・ヂュムフーリーヤ・アッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、تونس(Tūnis)。 日本語の表記は、チュニジア共和国。通称、チュニジア。テュニジアと表記されることもある。漢字表記は、突尼斯。 アラビア語名のتونس(Tūnis、トゥーニス) は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス (Thunes) で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus 地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。 古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州(前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa、314年 - 432年)になるが、ゲルマン系ヴァンダル人が439年に侵入。カルタゴにヴァンダル王国(439年 - 534年)が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた(Praetorian prefecture of Africa、534年 - 590年)。7世紀にはイスラム教のもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王カーヒナ(英語版)と東ローマ帝国の連合軍を破り(カルタゴの戦い (698年)(英語版))、アフリカをイスラム世界に編入した。 ウマイヤ朝イフリキーヤ(665年 - 744年)、Fihridイフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝のカリフに臣従する形でカイラワーンのアグラブ朝(800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスにハフス朝(1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった 1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方(英語版)(1574年 - 1705年)として併合された。オスマン帝国時代の初期には「パシャ」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ列強侵略によるオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ」はイスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになり、1705年にはフサイン朝チュニス君侯国(1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。 フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ(英語版)時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。ハイルディーン・パシャ(英語版)などの活躍により1861年には憲法(en)が制定され、サドク・ベイ(英語版)はイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。 1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約(英語版)、1883年のマルサ協定(fr)でフランスの保護領フランス領チュニジア(1881年 - 1956年)となった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。 1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設され、1920年には「憲政党(英語版)」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党(英語版)」はチュニジアの完全独立を要求した。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は1956年にベイのムハンマド8世アル・アミーン(英語版)を国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、チュニジア王国(1956年 - 1957年)が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更した。しかし長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。 1991年の湾岸危機ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。 現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。一方で若者の失業率は30%前後と未だに高い。 2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる(「ジャスミン革命」は、2011年1月現在、正式な名称ではない。詳細は該当ページを参照)。 2011年10月23日、中東・北アフリカ地域で広がっている政変(「アラブの春」とも称されている。)後の最初の選挙(定数217)が行われた。穏健派の「ナフダ」が第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、エタカトルが20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。 11月19日制憲議会選挙で第1党になった「アンナハダ」と二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリ(アンナハダ)を次期首相に選出することで合意したと第2党の共和国会議当局者が明らかにした。また、次期大統領にはモンセフ・マルズーキ(CPR党首)、議会議長に第3党の「労働・自由民主フォーラム」(FDTL、通称エタカトル)のムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。 2013年2月野党党首暗殺事件の責任を取り、ジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月アリー・ラライエド(英語版)内相に組閣要請した。 2013年7月ラライエドは繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け、混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明。 2014年1月26日制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。 チュニジアの政体は共和制、大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は1959年6月1日に公布(1988年7月12日および2002年5月26日改正)されたもの。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は行政の最高責任者とされ、首相・閣僚・各県の知事の任免権、軍の最高指揮権、非常事態宣言の発令権など強大な権力を与えられている。首相および閣僚評議会(内閣に相当)は大統領の補佐機関に過ぎない。 立法府は両院制で、2002年の憲法改正により新設された上院と、従来立法府として存在してきた代議院(下院に相当)で構成される。上院の定数は126議席で、うち85議席は地方議会による間接選挙により選出され、41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で、全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年、代議院が5年である。 チュニジアでは1988年の憲法改正で複数政党制が認められたが、2011年の政権崩壊まで与党立憲民主連合(RDC)が事実上、チュニジア政治を担っていた。RDCは1988年まで社会主義憲政党(PSD)という名称で一党支配を行っており、複数政党制承認後にRDCと改称した後もチュニジアの支配政党であり続け、2011年まで一度も政権交代は成されていなかった。政権崩壊後の選挙でアンナハダが与党になった。野党で比較的有力なものには民主社会運動(MDS)と人民統一党(PUP)がある。他に非合法化されたチュニジア共産党の流れを組むエッタジディード(変革)運動があったが、同党は他勢力と統合し「社会民主の道運動」(アル・マサール)になっている。 過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。 司法権は最高裁判所が担っている。 チュニジア軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。 兵器体系はかつて中国から購入した哨戒艇などを除いて殆ど西側に準じている。 独立直後から暫くはフランス軍のビゼルト基地問題や、アルジェリア戦争への対応を巡ってフランスと対決する姿勢で接したが、1970年代以降は親フランス、親西側政策が続いている。1980年代に入るとアラブ連盟の本部がカイロからチュニスになり、事務局長にチュニジア人が選ばれ、1990年代のエジプトの連盟復帰までアラブ諸国の盟主にもなった。初代大統領ブルギーバはセネガルの初代大統領サンゴールらと共にフランコフォニー国際組織の設立に尽力した。 1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によってリビアと合邦が宣言され、アラブ・イスラム共和国の成立が宣言されたが、この連合はすぐに崩壊した。その後、リビアはチュニジアと対立し、1980年のガフサ事件ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力がガフサの街を襲撃し、多くの被害を出した。1985年にはリビア軍がチュニジアとの国境付近に集結し、チュニジアを威嚇した。 パレスチナ問題を巡っては、チュニジアは僅かながら第三次中東戦争と第四次中東戦争にアラブ側で派兵した。1982年にパレスチナ解放機構(PLO)の本部がチュニスに移転したが、オスロ合意後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアにはパレスチナ人難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを承認しているが、関係は決して良好とは言えず、ガザ紛争 (2008年-2009年)においてはイスラエルを非難している。 チュニジアには24のウィラーヤ(県)(アラブ語表記:ولاية)に分かれている。各県の県知事は大統領による任命制。 アリアナ県 Ariana ベジャ県 Béja ベンナラス県 Ben Arous ビゼルト県 Bizerte ガベズ県 Gabès ガフサ県 Gafsa ジェンドゥーバ県 Jendouba ケルアン県 Kairouan カスリーヌ県 Kasserine ケビリ県 Kebili ケフ県 Kef マーディア県 Mahdia マヌーバ県 Manouba メドニン県 Medenine モナスティル県 Monastir ナブール県 Nabeul スファックス県 Sfax シディブジッド県 Sidi Bou Said シリアナ県 Siliana スース県 Sousse タタウイヌ県 Tataouine トズール県 Tozeur チュニス県 Tunis ザグアン県 Zaghouan チュニス(Tunis):首都 スファックス(Sfax) カルタゴ(Carthage) スース(Sousse) シディ・ブ・サイド(Sidi Bou Said) ケルアン(Kairouan) ハマメット(Hammamet) ナブール(Nabeul) タバルカ(Tabarka) 国土は、北端から南端までが約850キロメートル、東の沿岸から西方の国境まで約250キロメートルと細長く、南北に伸び、南端は先の細いとがった形である。 東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の3つに大きく分けられる。 北部地中海沿岸にはテル山地があり、その谷間を北東にメジェルダ川が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な穀倉地帯になっている。東側の地中海に面した海岸線は約1300キロメートルにわたる。北からチュニス湾、ハマメット湾、ガベス湾の並び、良港も多い。この沿岸部に古くから定住民が集住した。。 その南には、アルジェリアから続くアトラス山脈中の国内最高峰であるシャンビ山(1,544m)以東がドルサル山地となっている。ドルサル山地は地中海からの湿気を遮るため、ドルサル山地より南はガベス湾までステップ気候になっていて、西部の標高400m〜800mの地域をステップ高原、東部の標高400m以下の地をステップ平原と呼ぶ。ステップ高原の南には平方5000kmのジェリド湖(塩湖)がある。この塩湖の北にある町メトラーウィやその西のルダイフでは19世紀の末からリン鉱石の採掘が開始され、現在ではその産出量は世界第5位で、チュニジアの主要な輸出品ともなっている。。 ガベス湾の沖にはジェルバ島が存在する。南半分はサハラ砂漠になっており、マトマタから南東にダール丘陵がリビアまで続く。ダール丘陵から東には標高200m以下のジェファラ平野が広がる。この砂漠は風によって絶えず景色が変化する砂砂漠(エルグ)、ごつごつした石や砂利と乾燥に強い植物がわずかにみられる礫砂漠、または植生のない岩肌がむき出しになっている岩石砂漠が広がっており、砂砂漠は一部であり、大部分は礫砂漠と岩石砂漠で占められている。 ケッペンの気候区分によると、北部の地中海沿岸部は地中海性気候となり、地中海沿岸を南に行くとスファックス付近からステップ気候になる。さらに南のサハラ砂漠は砂漠気候となる。春から夏にかけてサハラ砂漠から北にシロッコと呼ばれる熱風が吹き出す。北部では冬に雪が降ることがある。チュニスの年間降水量は470mm前後だが、北部のビゼルトでは1,000mmを越える。 今ではチュニジアは経済の自由化と民営化のさなか、自らが輸出指向の国であることに気づいており、1990年代初期から平均5%のGDP成長でありながらも、政治的に結びついたエリートが恩恵を受ける汚職に苦しんだ。 チュニジアには様々な経済があり、農業や工業、石油製品から、観光にまで及ぶ。2008年ではGDPは410億ドル(公式為替レート)もしくは820億ドル(購買力平価)であった。 農業分野はGDPの11.6%、工業は25.7%、サービス業は62.8%を占める。工業分野は主に衣類と履物類の製造や自動車部品と電子機器の生産からなる。チュニジアは過去10年間で平均5%の成長を成し遂げたが、特に若年層の高い失業率に苦しんでいる。 チュニジアは2009年には、世界経済フォーラムによってアフリカにおいてもっとも競争力のある経済と位置づけられた。全世界でも40位であった。 チュニジアはエアバスやヒューレットパッカードなどの多くの国際企業の誘致に成功した 。 観光は2009年にはGDPの7%と37万人分の雇用を占めていた。 変わらずヨーロッパ連合がチュニジアの最大の貿易パートナーであり、現在チュニジアの輸入の72.5%、チュニジアの輸出の75%を占めている。チュニジアは地中海沿岸でヨーロッパ連合のもっとも確固とした貿易パートナーの1つであり、EUの30番目に大きい貿易パートナーに位置づけている。チュニジアは1995年7月に、ヨーロッパ連合とヨーロッパ連合連合協定(英語版)を締結した最初の地中海の国である。ただし、効力が生じる日の前に、チュニジアは両地域間の貿易で関税を撤廃し始めた。チュニジアは2008年に工業製品への関税撤廃を完了し、そのためEUとの自由貿易圏に入った最初の地中海の国になった。 チュニス・スポーツ・シティ(英語版)はチュニスで建設されている完全なスポーツ都市である。集合住宅に加え多くのスポーツ施設からなるこの都市は50億ドル(約500億円)かけてUAEのBukhatirグループによって建設される。 チュニス・ファイナンシャル・ハーバーは30億ドル(約300億円)の開発利益を見込むプロジェクトにおいてチュニス湾にある北アフリカで初めてのオフショア金融センターになる。 チュニス・テレコム・シティはチュニスにおけるITハブを作成する30億ドル(約300億円)規模のプロジェクトである。 チュニジア経済には小麦とオリーブを中核とする歴史のある農業、原油とリン鉱石に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。そのため他のアフリカ諸国より工業基盤は発達しており、1人当たりのGDPは約4000ドルでありモロッコやアルジェリアと共にアジアの新興国とほぼ同じレベルである。急速な成長を見せているのは欧州諸国の被服製造の下請け産業だ。貿易依存度は輸出34.4%、輸入45.2%と高く、狭い国内市場ではなく、フランス、イタリアを中心としたEU諸国との貿易の占める比率が高い。2003年時点の輸出額80億ドル、輸入額109億ドルの差額を埋めるのが、24億ドルという観光収入である。国際的には中所得国であり、アフリカ開発銀行 (ADB) の本部が置かれている。 フランスやリビアに出稼ぎしているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。 アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの、農地の占める割合が国土の31.7%に達している。ヨーロッパに比べて早い収穫期を生かした小麦の栽培と輸出、乾燥気候にあったオリーブと野菜栽培が農業の要である。食糧自給率は100%を超えている。 北部は小麦栽培と畜産が盛ん。ヒツジを主要な家畜とする畜産業は北部に集中するが、農業に占める比率は中部、南部の方が高い。2005年時点の生産高を見ると、世界第5位のオリーブ(70万トン、世界シェア4.8%)、世界第10位のグレープフルーツ(7.2万トン、2.0%)が目を引く。ナツメヤシ(13万トン、1.8%)、らくだ23万頭(1.2%)といった乾燥気候を生かした産物・家畜も見られる。主要穀物では小麦(136万トン)が北部で、大麦(44万トン)は主に南部で生産されている。生産量ではトマト(92万トン)も目立つ。 チュニジア鉱業の中核は、世界第5位のリン鉱石(リン酸カルシウム、240万トン、5.4%)、主な鉱山は国土の中央部、ガフサ近郊にある。油田は1964年にイタリア資本によって発見され、南部のボルマ近郊の油田開発が進んでいる。一方、リビア国境に近いガベス湾の油田はあまり進んでいない。2004年時点の採掘量は、原油317万トン、天然ガス82千兆ジュールである。エネルギー自給率も100%を超えている。このほか、亜鉛、銀、鉄、鉛を採掘している。これはプレート移動によって形成された褶曲山脈であるアトラス山脈に由来する。全体的な鉱業の様相はアトラス山脈西端に位置する国モロッコとよく似ている。 チュニジア工業は農業生産物の加工に基づく食品工業、鉱物採取と連動した化学工業、加工貿易を支える機械工業と繊維業からなる。食品工業は、6000万本にも及ぶオリーブから採取したオリーブ油と、加工野菜(缶詰)が中心である。オリーブ油の生産高は世界第4位(15万トン、6.4%)だ。化学工業は主として肥料生産とその派生品からなる。世界第3位のリン酸(63万トン、3.7%)、同第6位の硫酸(486万トン、4.8%)、同第7位のリン酸肥料(97万トン、2.9%)である。主な工業都市は首都チュニス。 輸出に占める工業製品の比率が81%、輸入に占める工業製品の比率が77.8%であるため、加工貿易が盛んに見える。これは、繊維産業と機械産業によるものだ。輸出を品目別に見ると、衣料37.0%、電気機械11.9%、原油5.4%、化学肥料4.7%、織物3.7%である。一方、輸入は、繊維14.7%、電気機械11.9%、機械類10.7%、自動車6.9%、衣料5.3%である。食料品が輸出に占める割合は7.6%、輸入では9.0%。主な貿易相手国はEC諸国、特に旧宗主国であったフランスと支配を受けたイタリアである。輸出入ともこの2国が約5割の比率を占める。金額別では輸出相手国が、フランス、イタリア、ドイツ、隣国リビア、ベルギー、輸入相手国がフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギーである。 首都チュニスにはチュニス・カルタゴ国際空港があるほか、ヨーロッパではリゾート地として知られるエンフィダ(英語版)にはエンフィダ=ハンマメット国際空港が、ジェルバ島にはジェルバ=ザルジス国際空港があり、いずれの空港も主として周辺国やヨーロッパの都市と結ばれている。 北部を中心に、チュニジア鉄道が敷設されている。 A1、A2、A3、A4の4つが主要路線となっている。また、一部区間はトランスアフリカンハイウェイ(英語版)の一部分となっている。 イスラーム国だが世俗的な国家であり、独立と同年の1956年、ブルギーバ初代大統領の「国家フェミニズム」の下で制定された家族法によって、トルコと同様に一夫多妻制や公共の場でのスカーフやヴェールの着用は禁止されている。続くベン・アリー大統領もフェミニズム政策を踏襲し、1993年には婚姻後の夫婦共有財産も個別財産として選択可能となった。家族法制定から現在まで女性の社会進出が著しく、アラブ世界で最も女性の地位が高い国となっている。イスラム世界では珍しく、チュニジアは中絶が法律で認められている国である。1956年の独立時から2007年までの人口増加が約2.3倍である。 住民はアラブ人が98%である。チュニジアの先住民はベルベル人やフェニキア人だったが、7世紀のアラブによる征服以降、住民の混血とアラブ化が進んだため、民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りはヨーロッパ人が1%、ベルベル語を話すベルベル人、ユダヤ人、黒人などその他が1%である。 アラビア語が公用語であるが、独立前はフランスの保護下にあったことからフランス語も広く普及しており、教育、政府、メディア、ビジネスなどで使われるなど準公用語的な地位となっている。教授言語はフランス語とアラビア語の両方となっており、大多数の国民がフランス語を話すことが可能である。アラビア語チュニジア方言はマルタ語に近い。また、ごく少数ながらベルベル語の一つであるシェルハも話されている。 イスラームが国教であり、国民の98%はスンナ派で、僅かながらイバード派の信徒も存在する。その他、ユダヤ教、キリスト教(主にカトリック、ギリシャ正教、プロテスタント)。イスラームも比較的戒律は緩やかで、女性もヴェールをかぶらず西洋的なファッションが多く見られる。1980年代にイスラーム主義の興隆と共にヴェールの着用も復古したが、1990年代に隣国アルジェリアでイスラーム主義者と軍部の間で内戦が勃発すると、イスラーム主義は急速に衰退し、ヴェールの着用も衰退した。 チュニジアには56万人の信者を擁するキリスト教徒のコミュニティがあり、大まかにいってカトリックとプロテスタントに分かれる(24万人がカトリックで32万人がプロテスタント)。 チュニジア南部のジェルバ島はユダヤ人居住区の飛び地となっており、島のエル・グリーバ・シナゴーグは世界で最も古いシナゴーグの内の一つである。 6歳から16歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となっており、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から正則アラビア語の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から英語を教わる。2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は74.3%(男性:83.4% 女性:65.3%)である。 主な高等教育機関としては、ザイトゥーナ大学(737)、チュニス大学(1960)、カルタゴ大学(1988)、エル・マナール大学(2000)などが挙げられる。名門リセ(高校)としてはサディーキ校(1875)も挙げられる。 代表的なチュニジア料理としてはクスクス(粒状のパスタ)、ブリック、ラブレビなどが挙げられる。チュニジアはイスラーム国であるが、ワインの生産国でもある。チュニジア・ワインにはフランスの影響によりロゼワインも多い。マツの実入りのミントティーがあり、オレンジ、ゼラニウムなどの花の蒸留水フラワーウォーターはコーヒー、菓子に入れる。 大多数のチュニジア人の母語はアラビア語だが、正則アラビア語の宗教的な特性により、近現代のチュニジア文学はフランス語で書かれることも多い。現代の代表的なチュニジア出身の作家としては、アルベール・メンミ、アブデルワハブ・メデブ、ムスタファ・トゥリリなどが挙げられる。 中世において「イスラーム世界最大の学者」と呼ばれるチュニス出身のイブン・ハルドゥーンは『歴史序説』を著わした。ハルドゥーンは『歴史序説』にてアサビーヤ(集団における人間の連帯意識)を軸に文明の発達や没落を体系化し、独自の歴史法則理論を打ち立てた。ハルドゥーンは労働が富を生産するとの概念を、18世紀に労働価値説を唱えたアダム・スミスに先んじて説くなど天才的な学者であった。 チュニジアは映画製作の盛んな国ではないが、チュニジア出身の映像作家としては「チュニジアの少年」(1990)のフェリッド・ブーゲディールや、「ある歌い女の思い出」(1994)のムフィーダ・トゥラートリなどの名が挙げられる。 1966年から二年に一度、カルタゴ映画祭が開催されている。 チュニジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件、自然遺産が1件存在する。 チュニス旧市街 - (1979年、文化遺産) カルタゴ遺跡 - (1979年、文化遺産) エル・ジェムの円形闘技場 - (1979年、文化遺産) ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡 - (1985年、文化遺産) スース旧市街 - (1988年、文化遺産) ケルアン - (1988年、文化遺産) ドゥッガ/トゥッガ - (1997年、文化遺産) イシュケル国立公園 - (1980年、自然遺産) 国技はサッカーであり、2016年現在サッカーチュニジア代表は初出場となった1978年のアルゼンチン大会以降、1998年のフランス大会、2002年日韓共同大会、2006年のドイツ大会まで3期連続でFIFAワールドカップに出場した。主なプロクラブとしてはエスペランス・チュニス、クラブ・アフリカーン、エトワール・サヘル、CSスファクシアンなどの名が挙げられる。 バレーボールも盛んであり、バレーボールチュニジア男子代表はアフリカ諸国の強豪に挙げられる。 陸上競技ではモハメド・ガムーディがメキシコシティオリンピック男子5000mで金メダルなどメダル4個、競泳でウサマ・メルーリが2008年の北京オリンピック男子1500m自由形で金メダルを獲得している。 ^ a b c d IMF (2018年10月). “World Economic Outlook (October 2018)”. 2018年12月29日閲覧。 ^ 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The World Factbook. Central Intelligence Agency.  オープンストリートマップには、チュニジアに関連する地理データがあります。 チュニジアのウィキメディア地図 (英語)", "トルコ共和国 Türkiye Cumhuriyeti 国の標語:Yurtta Sulh, Cihanda Sulh (トルコ語: 国に平和、世界に平和) 国歌:İstiklal Marşı(トルコ語) 独立行進曲 トルコ共和国(トルコきょうわこく、トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。 トルコ語による正式国名は、 Türkiye Cumhuriyeti(テュルキイェ・ジュムフリイェティ)[ヘルプ/ファイル]、通称 Türkiye(テュルキイェ)である。公式の英語表記は、Republic of Turkey。通称 Turkey(ターキー)。日本語名のトルコは、ポルトガル語で「トルコの」を意味する形容詞turcoに由来する。漢語表記の土耳古。 英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、Turkey, Turquie など、「トルコ人の国」を意味する名でこの国家を呼んできたが、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。 Türk(テュルク)は、アナトリアへの移住以前、中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いた6世紀頃にはすでに使われていた民族名だが、語源には諸説ある。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国を以って「トルコの建国」と考えている。 アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末頃から鉄をつくる技術が中近東世界に広がった。この地域が鉄器時代に入ったと考えられる。 トルコの国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)とトルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト・フリュギア・リディア・東ローマ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地である。 一方、北アジアではトルコ(テュルク)系民族として突厥が552年にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれを以てトルコの最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した西突厥の部族の一つから部族長トゥグリル・ベグが出て西進を始めボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝を成立させた。さらに西進して1055年バクダッドに入城、アッバース朝のカリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争って大敗し急激に衰えた、後にフラグの侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、更にウイグル系民族に圧迫されてイラン(ペルシャ)北部、カスピ海東岸の隅地に逃亡し歴史の記録から消える。 11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系のチムールにアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するがチムールの侵略に、アナトリア南部の険に依って抵抗し、命脈を保った一族がチムールの死後にオスマン朝を復興した。 19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立した。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した。また、東部では、アルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人たち(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人たち)は国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした。この抵抗運動をトルコ独立戦争(1919年5月)という。1920年4月アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブールから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。シャリーアは国法としての地位を喪失した。トルコは大陸法だけでなく、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。 第二次世界大戦後、ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年NATOに、また1961年OECDに加盟した。NATOとOECD加盟の間は西陣営内で経済戦争が起こっていた(セカンダリー・バンキング)。1956年ごろ、トルコはユーロバンクの資金調達先となったので外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量をぐんぐん増やしたが、ソ連がすでに1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するトルコは、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。 国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。 またキリスト教(正教会)を国教とするアルメニア共和国とも緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派はトルコ東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。ナブッコ・パイプラインの拡張にかかわる国際問題となっている。 1982年に定められた憲法では、世俗主義が標榜されている。三権はほとんど完全に分立しており、憲法の目的(世俗主義、他)を達成するためにそれぞれの役割を果たすことが期待されている。このことが、世俗派と宗教的保守派との対立を助長し、その対決が終息しない遠因ともなっている。立法府として一院制のトルコ大国民議会(Türkiye Büyük Millet Meclisi、定数550名、任期5年)がある。行政は議会によって選出される国家元首の大統領(任期7年)が務めるが、首相の権限が強い議院内閣制に基づくものであった。司法府は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されている。司法は政党の解党判断、党員の政治活動禁止と言った政治的な事項についても判断できる。 その後、2007年の憲法改正(英語版)により大統領は国民投票により選出されることとなり、また任期も7年から5年へと短縮された。2010年の憲法改正(英語版)を経たのち、2017年の憲法改正(英語版)では大統領権限が強化され、議院内閣制を廃止することが定められている。 政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式を採っている。この制度のために、2002年の総選挙では、選挙前に中道右派・イスラム派が結集して結党された公正発展党 (AKP) と、野党で中道左派系・世俗主義派の共和人民党 (CHP) の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。2007年7月22日に実施された総選挙では、公正発展党が前回を12ポイントを上回る総得票率 47 % を獲得して圧勝した。共和人民党が議席を減らし、112議席を獲得。極右の民族主義者行動党 (MHP) が得票率 14.3 % と最低得票率 10 % 以上の票を獲得し71議席を獲得、結果的に公正発展党は340議席となり、前回より12議席を減らすこととなった。独立候補は最低得票率の制限がなく、クルド系候補など27議席を獲得した。 ムスタファ・ケマル・アタテュルク以来強行的に西欧化を押し進めてきたトルコでは、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍がしばしば政治における重要なファクターとなっており、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。1960年に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、参謀総長と陸海空の三軍および内務省ジャンダルマ(憲兵隊)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議 (Milli Güvenlik Kurulu) が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。1980年の二度目のクーデター以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は1997年にイスラム派の福祉党主導の連立政権を崩壊に追い込み、2007年には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。8月29日には、議会での3回の投票を経てアブドゥラー・ギュル外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、軍が最早以前のように安易に政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と宗教的保守派の対立はもっと社会の内部にこもったものとなってきている(エルゲネコン捜査)。 2009年3月29日、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党・公正発展党が世俗派野党・共和人民党などを押さえ勝利した。 2010年9月12日には、与党・公正発展党 (AKP) が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。現憲法は1980年のクーデター後の1982年に制定されたもので、軍や司法当局に大幅な権限を与え、国民の民主的権利を制限するといわれてきた。この憲法改定案は民主主義を求める国民の声や欧州連合 (EU) 加盟の条件整備などを踏まえ、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなど26項目を提起している。国民投票の結果、憲法改正案は58%の支持で承認された。投票率は 73 % であった。エルドアン首相は民主主義の勝利だと宣言した(AFP電)。また、国民投票結果について「発達した民主主義と法治国家に向けトルコは歴史的な一線を乗り越えた」と評価した。欧米諸国はこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合 (EU) の執行機関欧州委員会は、トルコのEU加盟に向けての一歩だと讃えた。 2014年8月28日にエルドアン首相は大統領に就任し、アフメト・ダウトオール外相が首相となったが、2016年5月22日にはビナリ・ユルドゥルムが新たな首相に就任した。 その後、2017年に大統領権限の強化と首相職の廃止を盛り込んだ憲法改正案が可決され、2018年7月9日に首相職は廃止された。 トルコには軍事組織として、陸軍・海軍・空軍で組織されるトルコ軍 (Türk Silahlı Kuvvetleri) と内務省に所属するジャンダルマ(憲兵隊、Jandarma)・沿岸警備隊 (Sahil Güvenlik) が置かれている。トルコ政府は2011年末までに金銭を納めることで兵役を免除可能とすることで事実上良心的兵役拒否を合法化した。兵員定数はないが、三軍併せておおむね65万人程度の兵員数である。また、ジャンダルマ・沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍・海軍の指揮下にはいることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平時から陸軍と共同で治安作戦などを行っている。 指揮権は平時には大統領に、戦時には参謀総長 (Genelkurmay Başkanı) に属すると憲法に明示されており、戦時においてはトルコには文民統制は存在しない。また、首相および国防大臣には軍に対する指揮権・監督権は存在しない。ただし、トルコ軍は歴史的にも、また現在においてもきわめて政治的な行動をとる軍隊であり、また、国防予算の 15 % 程度が議会のコントロール下にない軍基金・国防産業基金等からの歳入であるなど、平時においてもトルコ軍に対する文民統制には疑問も多い。この結果、軍はいわば第四権と言った性格を持ち、世俗主義や内政の安定を支える大きな政治的・社会的影響力を発揮してきた。 1960年と1980年にはクーデターで軍事政権を樹立したこともある。近年はエルドアン政権の権限強化とそれに対するクーデター失敗、経済発展に伴う社会の成熟・多様化により、軍部の影響力は以前より低下している。 軍事同盟としては1952年以降NATOに加盟し、1992年以降はWEUに準加盟している。また、1979年それ自体が崩壊するまでCENTO加盟国でもあった。2国間同盟としては1996年、イスラエルと軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、1998年には実際にアメリカ合衆国・イスラエル・トルコの3国で共同軍事演習が行われた。 NATO加盟国としては唯一、中露が主導する非欧米国家グループである上海協力機構の対話パートナーにもなっており、2015年にはエルドアン大統領によって正規加盟が要請された。 トルコ南東部においてはPKKとの戦闘状態が長年続いている。南隣にあるイラクとシリアに対しても、国境をまたいで活動するPKKやイスラム国など反トルコ勢力への攻撃と、親トルコ派勢力の支援を目的に、派兵や越境空爆をしばしば行っている。 また2016年には、ペルシャ湾岸のカタールの基地を利用する協定を結んだ。 外交面では北大西洋条約機構 (NATO) 加盟国である。また、NATO加盟国としては唯一、非欧米軍事同盟である上海協力機構の対話パートナーであり、中露との軍事協力も行うなど、もはや西側一辺倒の外交路線ではなくなっている。 トルコ政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としている。現代では経済的・政治的にヨーロッパの一員として参加しつつある。トルコはヘルシンキ宣言に署名している。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件付ではあるものの欧州委員会によって2005年10月からの欧州連合への加盟交渉の開始が勧告された。現在、国内世論と戦いながら加盟申請中である。なお、加盟基準であるコペンハーゲン基準については現在議論が行われている。 トルコの国土の96%がアジアのアナトリア半島にあり、人口でもアジア側が9割弱を占める。 首都アンカラはアジア側に位置し、最大の都市であるイスタンブールはアジアとヨーロッパにまたがる海峡都市である。 歴史的にもセルジューク朝をはじめイラン(ペルシャ)やイラクの影響が強い。 日本の公式見解では、中東アジアの国として分類されている。 1890年(明治23年)に、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖で発生したエルトゥールル号遭難事件で日本の対応が評価されたことなどから、両国の友好関係が築かれている。 日本には多くのトルコ友好協会があり、トルコとの交流が積極的に行われている。 <トルコ政府系団体> ユヌス・エムレ インスティトゥート東京 トルコ文化 センター 東京ジャーミイ・トルコ文化センター(東京) <トルコ政府連携協会> 日本・トルコ協会(東京) 大阪・トルコ協会(大阪) 九州・トルコ協会(福岡) 北海道日本トルコ友好協会(北海道) 日本・トルコ婦人クラブ(東京) 日本トルコ文化経済交流支援協会(愛知) 日本トルコ友好協会(東京) 砺波市トルコ友好交流協会(富山) 柏崎トルコ友好協会(新潟) 日本ガレノス協会(群馬) 日本トルコ文化協会(京都) 神戸・トルコ友好協会 トルコーべ(兵庫) 和歌山トルコ文化協会(和歌山) 串本トルコ文化協会(和歌山) 隣国のギリシャとは緊張関係が続いている。古くはギリシャ人国家であった東ローマ帝国が現在のトルコに当たる地域を支配していたが、やがてオスマン帝国がそれを滅ぼし支配下に置いた。その後、19世紀初頭に列強の後押しでギリシャが独立し、「大ギリシャ主義」を掲げて衰退の進むオスマン帝国からの領土奪回を目論んだ。バルカン戦争、第1次世界大戦後に領土をめぐる希土戦争が起こり、ギリシャとトルコの住民交換で解決された。しかし当時イギリスの植民地だったキプロス島の帰属は決められなかったためにキプロス独立後にキプロスと北キプロスに分裂した。 隣国のアルメニア共和国とは緊張関係が続いている。アルメニアの民族派がヴァン県などトルコ東南部をアルメニア人の奪われた土地だと主張している。 一部のアルメニア人の反トルコ主義や西アルメニアの返還の主張にはトルコの保守層の警戒感を招いている。元々、アルメニア王国とトルコの国境は時代により大きく変化しており、国民国家の概念が成立する前から対立が続いた。またトルコはイスラーム信者が多く、アルメニアにはキリスト教を国教にしている宗教対立の側面もある。 MIKTA(ミクタ)は、メキシコ (Mexico)、インドネシア (Indonesia)、大韓民国 (Korea, Republic of)、トルコ (Turkey)、オーストラリア (Australia) の5ヶ国によるパートナーシップである。詳細は該当ページへ。 トルコの地方行政制度はオスマン帝国の州県制をベースとしてフランスに範をとり、全土を県 (il) と呼ばれる地方行政区画に区分している。1999年以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事 (vali) が置かれ、県の行政機関 (valilik) を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い、県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。 県の下には民選の首長を有する行政機関 (belediye) をもった市 (şehir)があり、郡の下には自治体行政機関のある市・町 (belde) と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村 (köy) がある。イスタンブール、アンカラなどの大都市行政区 (büyük şehir) は、市の中に特別区に相当する自治体とその行政機関 (belediye) を複数持ち、都市全体を市自治体 (büyük şehir belediyesi) が統括する。 トルコの都市人口率は2003年時点で 66.3 % であり、世界平均より20ポイント高く、比較的都市への人口集中が進んでいるといえる。三大都市圏として2大陸にまたがるイスタンブール(都市的地域人口1137万2000人、2007年)、首都アンカラ(372万9000人)、港湾都市イズミル(264万9000人)が挙げられる。その他、都市的地域人口が100万人を超える都市としては、ブルサ(156万2000人)とアダナ(153万人)があり、また同50万人を超える都市は、ガズィアンテプ、コンヤ、アンタルヤ、カイセリ、メルシン、エスキシェヒル、ディヤルバクル、サムスンである。このうち、アナトリア高原など山岳部に位置する都市は、アンカラ、ガズィアンテプ、コンヤ、ディヤルバクル、カイセリ。国の東部には小規模な都市が目立ち、特に東北部、または黒海沿岸には都市への人口の集中があまり見られない。 アンカラ - 首都 イスタンブール - 最大の都市 アクサライ アダナ アンタキヤ アンタルヤ イズニク イズミル ヴァン エディルネ エスキシェヒル エルズィンジャン エルズルム カイセリ ガズィアンテプ カルス ギョレメ クシャダス コンヤ サフランボル サムスン スィヴァス ダルヤン チャナッカレ ディヤルバクル デニズリ トラブゾン ネヴシェヒル ブルサ ベルガマ ボル ユルギュップ 国土はヨーロッパ大陸とアジア大陸にまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海を繋ぐボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡によって隔てられる。面積は日本の2倍で、北緯35度から43度、東経25度から45度に位置し、東西1600km、南北800kmに及ぶ。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。東部イラン国境近くにはヴァン湖とアララト山(国内最高峰で休火山、標高 5137m)がある。 トルコは国内に多くの断層を持つ地震国であり、近年では、1999年のイズミット地震でマルマラ海沿岸の人口密集地が大規模な被害を受けた。なお、他の地震国の多くと同様、国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。 中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に、温暖なイメージととらえられがちであるが、それら沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海・地中海沿岸地方は温暖でケッペンの気候区分では地中海性気候に属し夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。 イスタンブールのあるマルマラ海周辺やヨーロッパトルコ地域は地中海性気候と温暖湿潤気候の中間に属し、夏は他地域よりは涼しく、冬は比較的寒くなり雪も降る。黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じてトルコで最も降水量が多い場所で深い緑に覆われている。一方、国土の大半を占める内陸部は大陸性気候で寒暖の差が激しく乾燥しており、アンカラなどの中部アナトリア地方はステップ気候や高地地中海性気候に属する。夏は乾燥していて非常に暑くなるが、冬季は積雪も多く、気温が−20°C以下になることも珍しくない。東部アナトリア地方は亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、東部の標高1500mを超えるような高原地帯では1月の平均気温は−10°Cを下回る。標高1757mにあるエルズルムでは気温がしばしば−30°Cを下回り、−40°Cに達することさえあるほどの酷寒地である。ヴァン県のチャルディラーン (Çaldıran) では1990年1月9日にトルコ国内最低となる−46.4°Cを記録している。高温記録としては1993年8月14日にシリア国境に近いマルディン県のコジャテプ(Kocatepe)で48.8°Cを記録している。 最暖月22°C未満・・・薄水色 最寒月−3°C未満(= 亜寒帯 (D) の条件)・・・薄水色、水色、青色 IMFによると、2013年のトルコのGDPは8,200億ドル(約88兆円)で、世界第18位である。一人当たりのGDPは10,721ドルで、世界平均を若干上回る。産業は近代化が進められた工業・商業と、伝統的な農業とからなり、農業人口が国民のおよそ40%を占める。漁業は沿岸部では比較的盛んであるが、エーゲ海ではギリシャ領の島々がトルコ本土のすぐ近くに点在しているため、領海・排他的経済水域や公海上の漁獲量を巡る国際問題が起きることもある。 工業は軽工業が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である。近年では、世界の大手自動車メーカーと国内の大手財閥との合弁事業が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な外貨獲得源になっている。具体的には、国内最大の財閥であるサバンジュ財閥と日本のトヨタ自動車、国内2位の財閥であるコチ財閥とイタリアのフィアット、国内4位の財閥であるオヤック財閥とフランスのルノーが挙げられる。また、コチ財閥のアルチェリッキ・ベコ、ゾルル財閥のヴェステルなど、家電・エレクトロニクス部門の成長も期待されている。工業化が進んでいるのは北西部のマルマラ海沿岸地域が中心である。 ロシア連邦を含むヨーロッパ諸国などから訪れる観光客は、経常収支が赤字であるトルコにとって貴重な外貨収入源となっている。外国人観光客数は2014年のピークで3683万人。その後、シリア内戦に誘発された相次ぐテロ事件やロシア軍爆撃機撃墜事件(2015年)、2016年トルコクーデター未遂事件が起きたため2016年は約2500万人に減ったものの、2017年以降は回復している。 空路のほか、クルーズ客船も利用されている。エーゲ海沿岸地域やイスタンブール、内陸のカッパドキアなどが観光地として人気が高い。 地中海に面する西部と首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。特に東部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。 トルコの国土は鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では石炭の埋蔵量が多い。2002年時点では亜炭・褐炭の採掘量が6348万トンに達した。これは世界シェアの7.0%であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの1/20に過ぎない。原油(252万トン)と天然ガス(12千兆ジュール)も採掘されている。 金属鉱物資源では、世界第2位(200万トン、世界シェア17.9%)のマグネシウムをはじめ、アンチモン、金、鉄、銅、鉛、ボーキサイトを産出する。 しかしながら、石炭は発電など燃料として国内で消費し、マグネシウムの国際価格が低迷していることから、同国の輸出に占める鉱物資源の割合は低く、4%程度(2002年時点)に過ぎない。 石油・天然ガスについては黒海で開発を進め、2002年の段階から生産を始めていたが、近年石油は100億バレル、ガスは1兆5千億立方メートルと莫大な埋蔵量であることが分かった。これにより2023年から40年間にわたって、国内消費分を賄うことができるようになるとの見通しである。 1990年代の後半から経済は低調で、政府は巨額の債務を抱え、国民は急速なインフレーションに悩まされていた。歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し、2000年からIMFの改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危機を起こした。この結果、トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。 2002年以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権の下でインフレの拡大はおおよそ沈静化した。2005年1月1日には100万トルコリラ (TL) を1新トルコリラ (YTL) とする新通貨を発行し、実質的なデノミネーションが行われた。なお2009年より、新トルコリラは再び「トルコリラ」という名称に変更されている。 近年のGDP成長率は2010年9.2%、2011年8.5%、2012年2.2%となっている。 トルコの貿易は慢性的に赤字が続いている。2003年時点では輸出466億ドルに対し、輸入656億ドルであった。ただし、サービス収支、例えば観光による収入(90億ドル、2002年)、所得収支、例えば海外の出稼ぎからの送金などが多額に上るため、経常収支はほぼバランスが取れている。 輸出・輸入とも過半数を工業製品が占める。世界第2位の生産量を占める毛織物のほか、毛糸、綿糸、綿織物、化学繊維などの生産量がいずれも世界の上位10位に含まれる、厚みのある繊維産業が輸出に貢献している。衣料品を輸出し、機械類を輸入するという構造である。 輸出品目では工業製品が 83.2%を占め、ついで食料品9.9%、原材料・燃料5.0%である。工業製品では衣類21.1%、繊維・織物 11.1%、自動車10.5%、電気機械8.6%が主力であり、鉄鋼も輸出している。輸出相手国はヨーロッパ圏が主力であり、ドイツ 15.8%、アメリカ合衆国7.9%、連合王国7.8%、イタリア6.8%、フランス6.0%の順である。日本に対する最大の輸出品目はマグロ (21.7%)、ついで衣料品である。 輸入品目でも工業製品が65.9%に達する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%である。品目別では機械類13.4%、電気機械9.2%、自動車7.7%、原油6.9%、繊維・織物5.0%である。輸入相手国も欧州が中心で、ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス6.0%、連合王国5.0%の順である。日本からの最大の輸入品目は乗用車 (12.1%)、ついで自動車用部品である。 トルコにおいて交通の中心となっているのは、旅客・貨物ともに陸上の道路交通である。鉄道は国鉄 (TCDD) が存在し 10,940 km の路線を保有・運営しているが、きわめて便が少なく不便である。また、駅舎・路線・その他設備は整備が不十分で老朽化が進んでいる。2004年には国鉄は最高時速 160 km の新型車両を導入したが、7月にその新型車両が脱線事故を起こし39名の死者を出した。これは、路線整備が不十分なまま新型車両を見切り発車的に導入したことが原因といわれている。この事故は国鉄の信頼性を一層低下させ、その後鉄道乗客数は激減している。その後、路線の新設や改良に巨額の投資をし始め、2007年4月23日、エスキシェヒール - アンカラ間にて最高時速250kmのトルコ初のトルコ高速鉄道が開通した。その後も、アンカラ-コンヤ間でも完成するなど、各地で高速鉄道建設がすすめられ近代化が図られている。 トルコ政府は道路整備を重視しており、トルコ国内の道路網は2004年時点で63,220kmにおよんでいる。また、イスタンブール・アンカラを結ぶ高速道路 (Otoyol) も完成間近となった。貨物輸送はもちろん、短距離・長距離を問わず旅客輸送の中心もバスによる陸上輸送が中心で、大都市・地方都市を問わずトルコの都市には必ず「オトガル」と呼ばれる長距離バスターミナル (Otogal/Terminal) が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路線を運行している。また、世俗主義国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは親子や夫婦などを除き男女の相席をさせることはまずない。 トルコでは雇用所得がまだ低いことや、高額の自動車特別消費税(1600cc未満37%、1600cc以上60%、2000cc以上84%)、非常に高価なガソリン価格(2008年時点で1リットル当たり3.15YTL(約280円)程度)のために、自家用車の普及はあまり進んでいない。また、農村部においては現在でも人的移動や農作物の運搬のためにトラクターや馬を用いることはごく普通である。農村部や地方都市において露天バザールが開催される日には、アンカラやイスタンブールとはかけ離れたこれらの光景をよく目にすることができる。 トルコ共和国の位置するバルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国成立の過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。 トルコ共和国以前に存在した多言語、多宗教国家のオスマン帝国では、このような地域事情を汲み取って「ゆるやかな統治」を目指して統治を行い、帝国では信仰の自由を大幅に認めていたため、住民にオスマン帝国民という意識はほとんどなかった。各自の信奉するイスラム教や東方教会のキリスト教(ギリシア正教、アルメニア正教、シリア正教)といった宗教に分かれ、さらに言語ごとに細かいグループに分かれて宗教・言語のエスニック・グループの集団が存在し、イスラム教徒ではトルコ語、クルド語、アルバニア系、などの母語グループに分かれていた。この集団が、永らく人々のアイデンティティ形成と維持に主導的な役割を果たしてきたといえる。このため、国民国家としてのトルコ共和国成立に伴い、国内における民族意識(ナショナリズム)の醸成が急務となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定義するのかを画一的に判断することが非常に困難であった。このことは、1830年のギリシャ独立以降、トルコと隣国ギリシャ間でバルカン半島とアナトリア半島をめぐり領土紛争の勃発する要因となり、1922年に紛争の抜本的解決を目的に締結されたローザンヌ条約と住民交換協定では、トルコ国内に住む正教会信者のトルコ語話者は「ギリシャ人」、逆にギリシャ国内に住むイスラム教徒のギリシャ語話者は「トルコ人」と規定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。 こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、トルコ政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてトルコ語を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると同時にその時に、トルコにおける少数民族とは非イスラム教のギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の三民族であることを定義した。しかしながら、実際には共和国成立以前から東部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるものの、それらが少数民族とは認知していない。 少数派の民族としては、クルド人、アラブ人、ラズ人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ザザ人、ガガウズ人などが共和国成立以前から東部を中心に居住している。特に、クルド人はトルコ共和国内でトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は1,400~1,950万人と言われている。かつてトルコ政府はトルコ国内にクルド人は存在しないとの立場から、クルド語での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど、差別的に扱っていた。しかしながら、現在では少数民族の存在を認める政府の立場から、山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。実際問題として長年の同化政策の結果、今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分離した民主党 (DP) とは別組織)レイラ・ザーナ党首の釈放と同日に、国営放送であるTRTの第3チャンネル (TRT3) においてクルド語放送が行われた。2008年末には24時間クルド語放送を行うためTRTに第6チャンネルが開設され、2009年1月から本放送を開始した。 なお、クルド人はいわゆる北部南東アナトリア地域(南東アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、トルコ国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分布している。実際、クルド系政党民主国民党 (DEHAP) はトルコ全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降は全国的な農村部から都市への移住が増加に伴いクルド人も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降最も多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブール県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における大衆政党として草の根活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつける見方も存在する。 宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると、人口の 99 % 以上がムスリム(イスラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分証明書にその記載事項がないことから、宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その結果、一般的にはムスリムを信奉するトルコ国民の大半はスンナ派に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティであるアレヴィー派の信奉者がトルコ国内にも相当数存在しているとの主張もあり、一説には20%を越えるとも言われている。 その他の宗教には東方正教会、アルメニア使徒教会、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントなどが挙げられるが、オスマン帝国末期からトルコ共和国成立までに至る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。 一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者であるコンスタンディヌーポリ総主教はイスタンブールに居住しており、正教徒がごく少数しか存在しないトルコに東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。トルコ国内にある東方正教会の神品を養成するための「ハルキ神学校」は1971年からトルコ政府命令によって閉鎖されており、東方正教会へのトルコ政府からの圧迫の一つとなっている。 公用語のトルコ語のほか、クルド語(クルマンジー)、ザザキ語(ディムリ語、キルマンジュキ語)、チェルケス語派(英語版)(カバルド語、アディゲ語)、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、アラビア語(北メソポタミア・アラビア語(英語版)、アラビア語イラク方言)、バルカン・ガガウズ・トルコ語、ブルガリア語、ギリシア語(ギリシア語ポントス方言)、アルメニア語、カルトヴェリ語派(グルジア語、ラズ語)などが話されている。 1934年に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓をもつことが義務付けられたため、上流階級は他のアラブ諸国と同じように先祖の名前や出自に由来する『家名』を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起の良い言葉を選んで姓をつけている。婚姻の際は、以前は夫婦同姓のみが認められていたが、2001年の法改正により女性の複合姓が認められ、さらに2014年に最高裁において、婚前の姓のみを名乗ることを認めないことは憲法違反との判決が下され、完全な夫婦別姓も選択可能となったことで、選択的夫婦別姓制度が実現している。 義務教育機関として、8年制の初等教育学校 (ilk öğretim okulu) が置かれ、そのほか4年制(2004年9月入学以降、それ以前は3年制)の高等学校 (lise)、大学 (üniversite) などが置かれている。ほかに就学前教育機関として幼稚園 (anaokulu) なども存在する。初等教育学校を含めほぼ全ての学校が国立だが、私立学校も存在する。ただし、私立学校の1ヶ月間の学費は、給食費・施設費等込みで一般労働者の月収とほぼ同等で、きわめて高価である。 公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。トルコにも受験競争は存在し、高校入試・大学入試のために塾 (dershane) に通うことも珍しくない。 教員数・教室数はともに十分な数には達しておらず、初等教育学校は午前・午後の二部制である。また学校設備も不十分で、体育館・プールなどは公立学校にはまず存在しない。特に大都市の学校では運動場は狭くコンクリート張りで、バスケットボールやフットサルが精一杯である(地方においては芝生のサッカー場などを持つ学校も多い)。また、図書館も存在しないか、あっても不十分である。学校設備の問題に関しては国も認識し、世界銀行からの融資を受けるなどして改善を図っているが、厳しい財政事情もあって改善が進んでいない。 2004年現在、男子児童の就学率は統計上ほぼ100%に到達したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、トルコ政府は、「さあ、女の子たちを学校へ (Hadi Kızlar Okula)」キャンペーンを展開するなどその解消に努めている。しかし、女子非就学者の問題には、経済事情に加え、男女共学の上、未だ保守的なイスラムを奉ずる地域ではヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から問題視する親が存在するという事情もあり、女子非修学者の減少はやや頭打ちの状態である。 トルコでは、イスラム教の教えに基づいた創造論が学校等で公然と教育されており、進化論への検閲行為などの問題が生じている。また、クルド語を教育することはおろか、教育機関などでの「公的な場」で使用することさえ法律で禁止されており、これに違反した場合は国家反逆罪などで起訴される。実際に投獄された一般のクルド人も多い。 トルコの国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなどさまざまな文明が栄えた地であり、諸文化の混交がトルコ文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくはトルコの世界遺産を参照)。トルコの伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受け合いながら発展してきた。 近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明開化と同じように、西洋文明を積極的に取り入れてきたが、それとともにトルコ文学、演劇、音楽などの近代芸術は、言文一致運動や言語の純化運動、社会運動などと結び付いてトルコ独自の歴史を歩んできた。こうした近代化の一方で、歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。無形文化財ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少し、また剣術、弓術などいくつかの伝統的な技芸はすでに失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており、多くの遺跡が長らく管理者すら置かれない事実上の放置状態に置かれてきた。近年は、いくつかの有名なギリシャ・ローマ時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化されて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遺跡は風化の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているが、その保全対策は財政事情もありほとんどまったく手付かずの状態である。 トルコ料理は伝統的に世界三大料理 とされ、ギリシャ料理やシリア地方の料理(レバノン料理など)とよく似通っている。またイスラム教国ではあるが飲酒は自由に行われており、ブドウから作られアニスで香りが付けられたラク が有名。ワインやビールの国産銘柄も多数ある。コーヒー粉末と砂糖を入れた小さな容器を火にかけて煮出すトルココーヒーはユネスコの無形文化遺産に登録された。 ハリデ・エディプ・アドゥヴァル ナーズム・ヒクメット ヤシャル・ケマル オルハン・パムク - ノーベル文学賞(2006年) 伝統的なトルコ音楽の一つオスマン古典音楽はアラブ音楽との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブールに暮らした作曲家が残したものである。 建築は、イランとギリシャ双方の影響を受け、トルコ独自の壮麗なモスクやメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナンであり、スレイマン・ジャミィなどに当時の文化を垣間見ることができる。 俗に「トルコ風呂」などと呼ばれている公衆浴場文化(トルコ本国においては性風俗店の意味はなく、伝統的浴場の意である)は、中東地域に広く見られるハンマーム(ハマム)の伝統に連なる。逆に、中東、アラブの後宮として理解されているハレムとは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイメージが、オリエンタリズム的な幻想に乗って伝えられたものであった。 トルコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が11件、複合遺産が2件存在する。 トルコでは政治的な理由でネット検閲が行われている。2014年には裁判所の命令がなくてもウェブサイトを遮断したり、インターネットを通じて個人の閲覧記録を収集することを首相に認める法律(インターネット法に関する5641改正法)が可決されている。 そのため、YouTubeなどGoogle関連を含む約3700の外部サイトへのアクセスは政府によってブロックされており、反政府運動の抑え込みや言論統制を理由にFacebookやTwitterなどソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)も度々ブロックされている。 2017年4月29日にはトルコ政府は国内からのウィキペディアへの通信を遮断したと発表。運輸海事通信省(英語版)はウィキペディアに政府がテロ組織と連携しているような記事が書かれていることを非難し、「トルコに対して中傷作戦を展開する情報源の一部になっている」と主張している。当局はウィキペディアに対して削除を要請したが、ウィキペディア側は拒否したという。ウィキペディア側が要請に応じた場合、遮断解除を行うとしている。 トルコにおいて国民的なスポーツとしては、まずサッカー(トルコ語でfutbol:発音フトボル)があげられる。トルコ国内には、18のプロクラブが参加するスュペル・リグ (Süper Lig) を頂点に2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部の地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボール・バレーボールなど、他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。 トルコはUEFA加盟国であるため、スュペル・リグ上位クラブはUEFAチャンピオンズリーグ・UEFAヨーロッパリーグに参加可能である。その中でもイスタンブールのフェネルバフチェ (Fenerbahçe) ・ガラタサライ (Galatasaray) ・ベシクタシュ (Beşiktaş) とトラブゾンのトラブゾンスポル (Trabzon Spor) は4大クラブと呼ばれ、テレビ・新聞などでの報道量も他に比べ抜群に多い。これらのクラブは実力的にも上位にあるためUEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するクラブは、半ばトルコ代表として扱われることもあり、これらの強豪は地域にかかわらず全国的に人気がある。また、イスタンブールのフェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3クラブはイスタンブール証券取引所に上場する上場企業でもある。2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグの決勝はイスタンブールのアタテュルク・オリンピヤット・スタドゥで行われ、イスタンブールの奇跡が起こった。サッカートルコ代表は2002 FIFAワールドカップで3位に入るなど健闘した。この大会では開催国の日本と韓国に勝利しており、同一大会で2つの開催国に勝つという珍しい記録を達成した。また優勝したブラジルには2回敗北している。 ほかにプロスポーツとしてはバスケットボール・バレーボールのプロリーグが存在する。特にバスケットボールはNBAでのトルコ人選手の活躍や2010年に世界選手権が開催されたこともあり、近年人気が上昇している。 また2005年から2011年まではF1トルコGPが開催されており、WRCのラリー・オブ・ターキーとあわせてモータースポーツにおける発展も期待される。 650年の歴史をもつ伝統格闘技としてヤールギュレシ(オイルレスリング)があり、トルコの国技となっている。アマチュアスポーツとしてはレスリング、重量挙げなど人気がある。またトルコ人の気風を反映してか、柔道・空手道の道場も非常に多い。 競馬や競走馬の生産も行われており、日本産馬ではディヴァインライトがトルコで種牡馬として供用されている。 ボスポラス海峡に浮かぶ「乙女の塔」(イスタンブール) オルタキョイ・モスクと夕暮れのボスポラス海峡(イスタンブール) ユルドゥルム・バヤズィド・モスク(ブルサ) セリミエ・モスク(エディルネ) アヤソフィア(イスタンブール) パムッカレの石灰棚 タフタル山(オリンポス山) オリンポスのダイバー マナヴガットの滝 ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). 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(イマーラート)で、これはアラビア語で「首長国」を意味する、「إمارة(イマーラ)」という単語の複数形である。 公式の英語表記は、United Arab Emirates。略称は、UAE。国民・形容詞ともEmirati。 日本語の表記は、アラブ首長国連邦。日本語名称をアラブ首長国連合としている場合が見受けられるが、外務省ではアラブ首長国連邦としている。行政機関では略称としてア首連を使用することが多いが、近年では英字略であるUAEの使用も見られる。また、サッカーなどスポーツ競技内ではUAEを使用することが多い。 現在のアラブ首長国連邦の領域で最古の人類居住遺跡は紀元前5500年ごろのものである。やがて紀元前2500年ごろにはアブダビ周辺に国家が成立した。メソポタミアの資料でマガンと呼ばれるこの国は、メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えたが、紀元前2100年ごろに衰退した。 紀元前6世紀ごろには対岸にある現在のイランに興ったアケメネス朝ペルシアの支配を受け、その後もペルシア文明の影響を受けていた。 7世紀にイスラム帝国の支配を受けイスラム教が広がる。その後オスマン帝国の支配を受ける。 16世紀、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、ポルトガルが来航、オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配する。 その他の地域はオスマン帝国の直接統治を経験する。現在のアラブ首長国連邦の基礎となる首長国は17世紀から18世紀頃にアラビア半島南部から移住してきたアラブの部族によってそれぞれ形成され、北部のラアス・アル=ハイマやシャルジャを支配するカワーシム家と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族とに2分された。 18世紀から19世紀にかけてはペルシア湾を航行するヨーロッパ勢力の人々に対立する海上勢力『アラブ海賊』と呼ばれるようになり、その本拠地『海賊海岸(英語版)』(英語: Pirate Coast、現ラアス・アル=ハイマ)として恐れられた。彼らは同じく海上勢力として競合関係にあったオマーン王国ならびにその同盟者であるイギリス東インド会社と激しく対立し、1809年にはイギリス艦船HMSミネルヴァ(英語版)を拿捕して(Persian Gulf campaign)、海賊団の旗艦とするに至る。イギリスはインドへの航路を守るために1819年に海賊退治に乗り出し、ボンベイ艦隊により海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却。 1820年、イギリスは、ペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来トルーシャル首長国となった)と休戦協定を結び、トルーシャル・オマーン (Trucial Oman:休戦オマーン) と呼ばれるようになる (トルーシャル・コースト (Trucial Coast:休戦海岸とも) 。 1835年までイギリスは航海防衛を続け、1835年、イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル・コースト諸国とオマーン帝国(アラビア語: مسقط وعمان‎)との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなった。その後、1892年までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。 1950年代中盤になると、この地域でも石油探査が始まり、ドバイとアブダビにて石油が発見された。ドバイはすぐさまその資金をもとにクリークの浚渫を行い、交易国家としての基盤固めを開始した。一方アブダビにおいては、当時のシャフブート・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン首長が経済開発に消極的だったため、資金が死蔵されていたが、この状況に不満を持った弟のザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンが宮廷クーデターを起こし政権を握ると、一気に急速な開発路線をとるようになり、湾岸諸国中の有力国家へと成長した。 1968年にイギリスがスエズ以東撤退宣言を行うと、独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドであり、当初は北のカタールやバーレーンを合わせた9首長国からなるアラブ首長国連邦 (Federation of Arab Emirates:FAE) の結成を目指していたが、カタールやバーレーンは単独独立を選び、一方アブダビとドバイは合意の締結に成功した。 アブダビとドバイの合意により、残る首長国も連邦結成へと動いた。 1971年にアブダビ、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラの各首長国が集合して、連邦を建国。 翌1972年、イランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていたラアス・アル=ハイマが加入して、現在の7首長国による連邦の体制を確立した。 アラブ首長国連邦は、7つの首長国により構成される連邦国家である。各首長国は世襲の首長による絶対君主制に基づき統治されている。現行の連邦憲法は1971年発布の期限付き暫定憲法が、1996年に恒久化されたものである。 連邦の最高意思決定機関は連邦最高評議会(FSC、Federal Supreme Council)で、連邦を構成する7首長国の首長で構成される。議決にはアブダビ(首都アブダビ市がある)、ドバイ(最大の都市ドバイ市がある)を含む5首長国の賛成が必要になる。憲法規定によると、国家元首である大統領、および首相を兼任する副大統領はFSCにより選出されることとなっているが、実際には大統領はアブダビ首長のナヒヤーン家、副大統領はドバイ首長のマクトゥーム家が世襲により継ぐのが慣例化している。閣僚評議会(内閣相当)評議員は、大統領が任命する。 議会は一院制の連邦国民評議会で、定数は40。議員は連邦を構成する各首長国首長が任命する。議席数はアブダビとドバイが8議席、シャールジャとラアス・アル=ハイマが6議席、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラが4議席を持つ。連邦の最高司法機関は連邦最高裁判所である。 連邦予算は8割がアブダビ、1割がドバイ、残りの1割は連邦政府の税収によってまかなわれており、残りの5首長国の負担額はゼロである。事実上、アブダビが北部5首長国を支援する形になっていると言える。後述のように石油収入は油田を持つ首長国の国庫に入るため、連邦に直接石油収入が入るわけではない。 国名のとおり、7つの独立した首長国が連邦を組んでいる体制であるため、各首長国の権限が大きく、連邦政府の権限は比較的小さい。外交、軍事、通貨などについては連邦政府の権限であり、また連邦全体の大まかな制度は統一されているが、資源開発、教育、経済政策、治安維持(警察)、社会福祉、インフラ整備などは各首長国の権限である。そのため、アブダビでは石油資源開発系の省庁が大きく、ドバイでは自由貿易系の省庁が力を持っている。世界有数のソブリン・ウエルス・ファンドであるアブダビ投資庁(ADIA)も、連邦ではなくアブダビ首長国に属する。 一般国民には国政に関する選挙権が無いのが特徴だったが、2005年12月1日、連邦国民評議会の定数の半数に対する国民の参政権が認められた。しかし、その参政権の幅は極めて限定的なもので、有権者は各首長が選出した計2000人程度に留まる見通しである。政党は禁止されている。 とはいえ、アラブ首長国連邦は石油の富によって成り立つ、つまり国民の労働とその結果である税金に拠らずして国家財政を成立させうる典型的なレンティア国家であるため、国民の政治への発言力も発言意欲も非常に小さい。また、連邦成立以降の急速な経済発展と生活の向上は首長家をはじめとする指導層の運営よろしきを得たものと国民の大多数は考えており、実際にUAE国籍を持つ国民はゆりかごから墓場までの手厚い政府の保護を受けている。また首長が国民の声を直接聞く伝統的なマジュリスなどの制度も残っているため、民主化を求める動きは大きくない。UAE全住民に対する国民の割合が20%に過ぎないことも、民主化に消極的な原因の一つとなっている。2011年にアラブ世界全域に広がった民主化運動(アラブの春)においても、アラブ首長国連邦国内においては民主化要求デモなどの動きはまったく起きなかった。 外交は湾岸協力会議諸国などの近隣諸国との関係を重視する保守穏健路線で、特に隣接するサウジアラビアとの関係を重視している。ラアス・アル=ハイマ領に属するアラビア湾のアブームーサー島・大トンブ島・小トンブ島にはイラン軍が駐留している。また、サウジアラビアとの国境問題は1974年に条約を締結し一時解決したかに思われたが、2006年に再燃した。 湾岸諸国の中では比較的欧米に寛容で、湾岸戦争時は米軍に基地使用を認め、イラク戦争でもその駐留を許可した。イギリスは旧宗主国であり、現在も関係が深いが、アメリカはじめそのほかの欧米諸国とも関係が深まってきている。 アラブ首長国連邦とインドとは季節風に乗れば非常に近いため帆船時代より関係が深く、現在でもアラブ首長国連邦にやってくる労働者のかなりの部分を南アジア出身者が占める。 アラブ首長国連邦軍は陸軍、海軍、空軍の三軍を有する。このほかに沿岸警備隊がある。湾岸戦争の際はクウェート奪還に戦力を提供した。 湾岸協力理事会 - アラブ首長国連邦のほかサウジアラビア、バーレーン、オマーン、カタール、クウェート。 大韓民国 - 2009年、アラブ首長国連邦が戦争状態になった際に韓国が自動介入する秘密軍事協定が締結された(後に元国防相が協定を暴露)。 アラブ首長国連邦は以下の7首長国から構成されている。各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能している。ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、政治のアブダビ、経済のドバイと言われるようになってきている。アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名でない。 アブダビ首長国 ドバイ首長国 シャールジャ首長国 アジュマーン首長国 ウンム・アル=カイワイン首長国 フジャイラ首長国 ラアス・アル=ハイマ首長国 アラビア半島の南東部にあり、アラビア湾とオマーン湾に面している。国土の大部分は、平坦な砂漠地帯であり、南部には砂丘も見られる。東部はオマーンと接する山岳地帯であり、オアシスがある。南部はサウジアラビア領に広がるルブアルハリ砂漠の一部であり、リワなどのオアシスがある。ホルムズ海峡(海峡に臨むムサンダム半島はオマーン領)に近いということで、地政学上、原油輸送の戦略的立地にある。国民のほとんどは沿海地方に住む。また7首長国のうち、フジャイラを除く6国は西海岸(アラビア湾)に、フジャイラは東海岸(オマーン湾)に位置する。砂漠気候(BW)のため、年間通じて雨はほとんど降らないが、冬季に時折雷を伴って激しく降る事がある。アラビア湾に面し海岸線が長いことから気温の日較差は小さい。11~3月は冬季で、平均気温も20℃前後と大変過ごしやすく、観光シーズンとなっている。6~9月の夏季には気温が50℃近くまで上昇し、雨が降らないにもかかわらず、海岸に近いため湿度が80%前後と非常に高くなる。ドバイの平均気温は23.4℃(1月)、42.3℃(7月)で、年降水量は60mm。 アブダビ首長国に属し、内陸部の同国東部国境にあるアル・アインとオマーン領のブライミは隣接したオアシスであり国境線は複雑に入り組んでいるが、オマーンの入国管理局はブライミよりずっとオマーン寄りに設けられており、両都市間の移動に支障はない。南部の油田地帯を含むサウジアラビアとの国境は1974年の条約によって一時確定し、これによりアラブ首長国連邦はアル・アイン周辺の数村をサウジアラビアから譲り受ける代わりにカタールとアブダビとの間のアラビア湾に面した地域を割譲して、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。 住民は、在来のアラブ人からなるアラブ首長国連邦国籍の国民(英語でエミラティ Emiratis と呼ばれる)は全体の13%を占めるに過ぎない。その他は外国籍の住民であり、他のアラブ諸国から来た人々や、イラン人、南アジア系50%(インド人140万人、パキスタン人、バングラデシュ人、スリランカ人)、東南アジア系(フィリピン人)、欧米系、東アジア系の人々などがいる。これらの外国籍の多くは、石油収入によって豊かなアラブ首長国連邦に出稼ぎとしてやってきた人々である。しかし、単身が条件で家族を連れての居住は認められていない。長期在住者でも国籍取得は大変難しく、失業者は強制送還するなど、外国人へは厳格な管理体制がなされている。 外国人への厳しい管理体制と裏腹に、旧来のUAE国民とその子孫(UAEナショナルと呼ばれる)へは、手厚い支援体制がとられている。教育は無料で、所得税もなく、民間に比べて高給である公務員への登用が優先的になされる。このため、UAEナショナルの労働人口のかなりの部分が公務員によって占められている。国民同士が結婚すれば国営の結婚基金から祝い金が交付され、低所得者や寡婦などには住宅や給付金などの保障が手厚くなされる。これは国民への利益分配の面のほかに、全住民の8分の1に過ぎない連邦国民の増加策の面もある。 しかし政府はあくまでも現在のUAE国民とその子孫の増加を望んでいるため、UAE国民以外の国籍取得は大変難しい。一般の長期在住者がUAEの国籍を取得する資格を得るには、30年以上の継続した国内在住を要する。アラブ系国家出身であれば条件は緩和され、7年の継続居住で国籍取得申請ができ、兄弟国とも言えるカタール、バーレーン、オマーン出身者であれば3年の継続居住で国籍取得申請は可能である。また、帰化しても市民権にはいくつかの制約が設けられる。例えば、カタール、バーレーン、オマーン出身者を除く帰化市民には選挙権は与えられない。 また、近年では若年層人口の増加により公務員の仕事をすべての希望する国民に割り振ることができなくなる可能性が指摘されており、政府は外国人によって占められている職場に自国民雇用義務を導入し、労働力の自国民化を目指している。しかし、厳しい競争に晒されてきた外国人に比べて、これまで保護されてきたUAEナショナルは高給だが能力に劣ることが多く、また国民も厳しい仕事を嫌って高福祉を頼り無職のままでいることも多い。 言語はアラビア語が公用語である。日常会話は湾岸方言となる。ただし、イギリスの植民地であったことと、外国人労働者が大半を占めるために、共通語として英語もよく用いられるほか、ペルシャ語、ヒンディー語、ウルドゥー語、マラヤーラム語やタガログ語なども広く使われている。 イスラム教を国教とする。しかし、他の湾岸諸国と違って戒律規制は緩い。外国人労働者によって、ヒンドゥー教、キリスト教、仏教なども信仰されている。 2015年のGDPは約3391億ドルであり、九州よりやや小さい経済規模である。一人当たりGDPは3万5392ドルである。2016年のGDPは約3487億ドルであり、大阪府よりやや大きい経済規模である。同年の一人当たり国民総所得(GNI)は4万480ドルでベルギーに次ぐ世界第19位となっている。 かつては沿岸部の真珠採集と、ドバイやシャールジャなどでおこなわれていたわずかな中継貿易、それに北部諸首長国でおこなわれた切手の発行(コレクター向けに発行されたもので、郵便には使用可能であったが、本来の郵便目的で発行されたものではなく、土侯国切手と称される)がわずかな収入源であった。その真珠採集も1920年代の日本の養殖真珠の成功により衰退し、ますます経済活動が縮小していたが、1960年代後半にアブダビでの石油産出が本格化して以降、経済構造が一変した。 GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先である。原油確認埋蔵量は世界5位の約980億バレル。天然ガスの確認埋蔵量は6兆600億m3で、世界の3.5%を占める。一人当たりの国民所得は世界のトップクラスである。原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかである。アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっている。 石油が圧倒的に主力であるアブダビ経済に対し、ドバイの経済の主力は貿易と工業、金融である。石油をほとんど産出しないドバイは、ビジネス環境や都市インフラを整備することで経済成長の礎を築いた。1983年にジュベル・アリ港が建設され、1985年にはその地域にジュベル・アリ・フリーゾーンが設立された。ジャベル・アリ・フリーゾーンには、外国企業への優遇制度があり、近年、日本や欧米企業の進出が急増して、物流拠点となっている。オイルショック後オイルマネーによって潤うようになった周辺アラブ諸国であるが、それら諸国には適当な投資先がなく、自国に距離的にも文化的にも近く積極的な開発のおこなわれているドバイに余剰資金が流入したのが、ドバイの爆発的発展の原動力となった。それ以外にアルミや繊維の輸出も好調である。アルミ工場は石油や電力の優遇措置を受けているためきわめて安価なコストでの生産が可能であり、主力輸出品のひとつとなっている。また、貿易、特にインド・イラク・イランに向けての中継貿易の拠点となっている。 数値的にはアラブ首長国連邦の石油依存度は低いように見えるが、連邦の非鉱業部門の中心であるドバイの商業開発や産業はアブダビや周辺諸国のオイルマネーが流れ込んだ結果であり、アルミ部門のように原料面などでの支援を受けているものも多く、石油無しで現在の状況を維持しきれるとは必ずしもいえない。本質的には未だ石油はこの国の経済の重要な部分を占めている。 なお近年は、ドバイのみならず国内全体において産業の多角化を進め、石油などの天然資源の掘削に対する経済依存度を低め、東南アジアにおける香港やシンガポールのような中東における金融と流通、観光の一大拠点となることを目標にしている。また、特にドバイにおいて近年は観光客を呼び寄せるためのリゾート施設の開発に力を入れており、世界一高いホテルであるブルジュ・アル・アラブの建設、「パーム・アイランド」と呼ばれる人工島群、2010年に完成した世界一高い建造物であるブルジュ・ハリーファなど、近年急速に開発が進んでおり、中東からだけでなく世界中から観光客を引き寄せることに成功している。この成功を見たアブダビやシャールジャなど他首長国も観光に力を入れはじめ、豪華なリゾートホテルや観光施設の建設が相次いでいる。 また、食糧安保のために農業にも多大な投資をおこなっている。デーツなどを栽培する在来のオアシス農業のほかに、海水を淡水化して大規模な灌漑農業をおこなっており、野菜類の自給率は80%に達している。 エティハド航空 エミレーツ航空 ジュメイラ・インターナショナル ドバイやアブダビ、シャールジャなどが古くから中東における交通の要衝として発達しており、この3都市は第二次世界大戦後の航空網の発達に併せてその地位を高いものとしている。ドバイ国際空港は中東のハブ空港としての地位にある。また、近代的な高速道路がこれらの都市間を結んでいるほか、海運も盛んに行われている。ドバイでは2009年9月に日本企業による地下鉄であるドバイ・メトロが開通した。 アブダビ アブダビ国際空港 アルアイン国際空港 ドバイ ドバイ国際空港 アール・マクトゥーム国際空港 シャールジャ シャールジャ国際空港 アジュマーン アジュマーン国際空港 フジャイラ フジャイラ国際空港 ラアス・アル=ハイマ ラアス・アル=ハイマ国際空港 アラブ諸国の中では寛容な文化政策を採っており、特にドバイなどでは各所のショッピングモールなどで各国のポップカルチャーや食文化を楽しむことができる。一方で、国民が圧倒的に少数という現状から、政府は伝統的な文化の保存・保護や国民意識の形成に力を入れている。 教育制度は小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年の6・3・3・4制である。識字率は90%(2007年)。義務教育は小学校6年間と中学校3年間のみであるが、ほとんどの生徒は高校へと進学する。近年では大学進学率も上昇を続けている。大学は1977年に国内初の大学としてUAE大学がアル・アインに創立され、以後国立大学数校が設立された。また、私立大学も多く設立され、欧米の大学のUAE校も多数進出してきている。欧米への留学生も多い。連邦政府は教育を最重要項目として重点的に予算を配分しており、連邦予算の25%が教育予算によって占められている。国公立学校においては小中高から大学まで授業料はすべて無料であり設備も充実している。一方、私立学校も多数設立されている。イスラム教国家であるため、小学校から大学にいたるまですべてが男女別学であるが、幼稚園のみは男女共学となっている。 宗教はイスラム教が国教であるが、外国人を中心にキリスト教やヒンドゥー教なども信仰されている。信教の自由は認められ、イスラム教以外の宗教を信仰することも宗教施設を建設することも可能である。一方、イスラム教の戒律に関しては、もっとも自由で開放的なドバイ首長国から、最も敬虔で厳格なシャールジャ首長国にいたるまで、各首長国によって態度に違いがある。たとえば、ドバイでは女性はアバーヤなどを着ずともよく、肌を露出させた服装を着るのも自由であり、酒類の販売も可能である。一方アブダビはやや保守的であり、シャールジャでは服装にも厳格で、酒類販売は原則的に禁止されている。 アラブ首長国連邦で最も人気のあるスポーツはサッカーであり、国内リーグとして12チームからなるUAEリーグがある。また、サッカーアラブ首長国連邦代表は1990年にFIFAワールドカップへの出場歴があり、現在でもアジア内では強豪として知られる。サッカーAFCアジアカップも、1996年大会を開催したことがあり、2019年大会の開催国にもなっている。また、競馬はドバイ首長家であるマクトゥーム家が特に力を入れており、ドバイのメイダン競馬場で3月下旬に開催されるドバイワールドカップは、1着賞金が世界最高金額の競馬競走として知られる。伝統的な競技として、ラクダのレースも人気がある。競技ではないが、鷹狩りも伝統的に人気のあるスポーツである。2005年にはドバイのショッピングモール内に屋内スキー場スキー・ドバイがオープンし、この国でもスキーを楽しむことが可能になった。 ドバイにはメディアのフリーゾーンである「ドバイ・メディア・シティ」(DMC)が建設されており、衛星テレビ局アル・アラビーヤの本部やBBCやCNNの支局などが開設されて、報道の一中心となっている。また、在来のドバイテレビやアブダビテレビもある。 ^ アラブ首長国連邦 - 世界経済のネタ帳 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ ただし、必ずしも民主化や人権問題と無縁ではない。“「アラブの春」 無縁ではないUAE”. 産経新聞. (2011年11月12日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/111112/mds11111212000002-n1.htm 2011年12月1日閲覧。  ^ “韓国、UAEと軍事介入密約か”. 共同通信社 (2018年1月9日). 2018年4月2日閲覧。 ^ World Population Prospects: The 2010 Revision ^ 「湾岸産油国 レンティア国家のゆくえ」p122-124 松尾昌樹 講談社 2010年8月10日第1刷発行 ^ a b 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表) ^ IMF2016年1月2日閲覧。 ^ 県民経済計算内閣府 2016年1月2日閲覧。 ^ 「アラブ首長国連邦」外務省 ^ 「都道府県別県内総生産(名目、10 億円) 」内閣府 ^ 「1.2 名目GDP(国内総生産)及び一人当たりGNI(国民総所得)順位」外務省 ^ 「アラブ首長国連邦(UAE)を知るための60章」p263 細井長編著 明石書店 2011年3月18日初版第1刷発行 アラブ首長国連邦関係記事の一覧 アラブ首長国連邦海軍艦艇一覧 政府 アラブ首長国連邦政府 (アラビア語)(英語) 日本政府 日本外務省 - アラブ首長国連邦 (日本語) 在アラブ首長国連邦日本国大使館 (日本語) その他 JETRO - アラブ首長国連邦 (日本語) JCCME - アラブ首長国連邦 (日本語)", "エジプト・アラブ共和国 جمهورية مصر العربية 国の標語:なし 国歌:بلادي، بلادي، بلادي(アラビア語) 我が祖国 エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、アラビア語: جمهورية مصر العربية‎)、通称エジプトは、中東(アラブ世界)および北アフリカにある共和国。首都はカイロ。 アフリカ大陸では北東端に位置し、西にリビア、南にスーダン、北東のシナイ半島ではイスラエル、ガザ地区と国境を接する。北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。 正式名称はアラビア語で جمهورية مصر العربية (ラテン翻字: Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah)。通称は مصر (標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言ほか、口語アラビア語: [mɑsˤɾ] マスル)。コプト語: Ⲭⲏⲙⲓ (Khemi ケーミ)。 アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形のミスライム (מצרים, ミツライム) となる。 公式の英語表記は Arab Republic of Egypt。通称 Egypt [ˈiːdʒɨpt]。形容詞はEgyptian [ɨˈdʒɪpʃən]。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハ神の魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話のアイギュプトスにちなむ。 日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト。漢字では、埃及と表記し、埃と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。 1882年 - 1922年 (イギリス領エジプト(英語版)) 1922年 - 1953年 エジプト王国 1953年 - 1958年 エジプト共和国 1958年 - 1971年 アラブ連合共和国 1971年 - 現在 エジプト・アラブ共和国 「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。 3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年にアケメネス朝ペルシアに支配された。 紀元前332年には、アレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系のプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心の一つとして栄えた。 プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。 7世紀にイスラム化。639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝、イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。 1517年に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国の下でもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト(英語版))。 1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功。アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。 ムハンマド・アリーは綿花を主体とする農産物専売制をとっていたが、1838年に宗主オスマン帝国がイギリスと自由貿易協定を結んだ。ムハンマド・アリーが1845年に三角州の堰堤を着工。死後に専売制が崩壊し、また堰堤の工期も延びて3回も支配者の交代を経た1861年ようやく一応の完工をみた。1858年末には国庫債券を発行しなければならないほどエジプト財政は窮迫していた。スエズ運河会社に払い込む出資金の不足分は、シャルル・ラフィット(Charles Laffitte)と割引銀行(現BNPパリバ)から借りて、国庫債券で返済することにした。イスマーイール・パシャが出資の継続を認めた時、フランスのナポレオン3世の裁定により契約責任を問われ、違約金が自転車操業に拍車をかけた。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させた。この前後(1862-73年)に8回も外債が起債され、額面も次第に巨額となっていた。エジプトはやむなくスエズ運河会社持分を398万ポンドでイギリスに売却したが、1876年4月にデフォルトした。 英仏が負債の償還をめぐって争った。エジプトの蔵相は追放された。イタリアやオーストリアも交えた負債委員会が組織された。二回目のリスケジュールでイスマーイール一族の直轄地が全て移管された。しかし土地税収が滞った。 1882年、アフマド・オラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの保護国となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。さらにサアド・ザグルールの逮捕・国外追放によって反英独立運動たる1919年エジプト革命が勃発し、英国より主政の国として独立した。 第一次大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。 エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。第二次世界大戦では、枢軸国軍がイタリア領リビアから侵攻したが、英軍が撃退した(北アフリカ戦線)。第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。 この状況を受けて1952年、軍内部の秘密組織自由将校団がクーデターを起こし、国王ファールーク1世を亡命に追い込み、ムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命)。生後わずか半年のフアード2世を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位して共和政へと移行、ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となり、エジプト共和国が成立した。 1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルのもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年の第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。 1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、ソビエト連邦に代えてアメリカ合衆国など西側諸国に接近。社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切る上で、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。しかし、サーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺された。エジプトはオイルショックによって経済改革を漸進させていた。 イラクのクウェート侵攻はエジプトの国際収支を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。 ムバラク政権は1990年12月に「1000日計画」と称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す湾岸戦争では多国籍軍へ2万人を派兵した。これにより約130億ドルも対外債務を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務は、クウェート、サウジアラビアに対するものと、さらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には国際通貨基金のスタンドバイクレジットおよび世界銀行の構造調整借款(SAL)が供与され、パリクラブにおいて200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのは、ドル・ペッグによる為替レート一本化であった。 海外の機関投資家に有利な条件が整えられていった。イスラム主義運動は厳しく弾圧された。喜捨の精神は失われていった。1997年にはイスラム集団によるルクソール事件が発生している。1999年にイスラム集団は武装闘争放棄を宣言し、近年、観光客を狙った事件は起こっていない。しかし、ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された。 2002年6月、エジプト政府は15億ドルのユーロ債を起債したが、2002-3年に為替差損を被り、対外債務を増加させた。 チュニジアのジャスミン革命に端を発した近隣諸国の民主化運動がエジプトにおいても波及し、2011年1月、30年以上に渡って独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱をまねいた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリ(英語版)を暫定首相とする政権が発足した。その後2011年12月から2012年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。 2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動(英語版))。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換。ムハンマド・イブラヒーム(アラビア語版)が内相に就任した2013年1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない。イブラヒーム内相は、国民が望むならば辞任する用意がある、と2月に述べている。下落するエジプト・ポンドがとめどなくUSドルに交換され、外貨準備を減らすような混乱が同月10日のロイター通信で報じられている。下落は1月から起きており、同月にはドバイのエミレーツNBD(Emirates NBD)がBNPパリバのエジプト支店を完全買収した。オイルマネーがエジプト経済を我が物にする社会現象が起こっていた。さらに『フィナンシャル・タイムズ』が1月19日に報じたのは、エチオピアがナイルの川上に48億ドルの予算をかけてダムを造るという計画であった。混乱中のエジプトが水紛争で負ければ大きな水ストレスが生じるだろうと予測された。 2013年4月、エジプト中央銀行はリビアから20億ドルの預金を得た。リビア側が利害を説明したところによると、リビアはエジプト株を100億ドル近く保有しているという。リビアは世界金融危機の時から欧米のメガバンクと癒着を疑われている。 ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた。8月下旬にムバラクが釈放され、国内銀行が平常運転に復帰した。8月30日のCNNでは、中国石油化工が米国ヒューストンのアパッチ(Apache Corporation)とエジプト内油田事業を提携したことが報じられた。10月下旬、アラブ首長国連邦がエジプトに50億ドルの支援を申し出た。エジプトエリートの売国とソブリン危機は翌年4月まで深化していった。 なお、イブラヒームは、クーデター後に成立したベブラーウィー暫定内閣でも続投している。 2014年5月、エジプト出身のエコノミストであるシャフィク(Nemat Shafik)がイングランド銀行副総裁に指名された。彼女は世界銀行でキャリアを積んでから、世界金融危機以降に欧米で国際金融機関に関する包括的な調査にあたった。 同5月26〜28日に行われた大統領選挙に当選したアブドルファッターフ・アッ=シーシーが6月8日、大統領に就任し、8月5日からは新スエズ運河の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。2015年3月13日には、カイロの東側に向こう5─7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした。行政と経済の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米ニューヨークのマンハッタンのおよそ12倍の面積の予定であり、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わしたアラブ首長国連邦のエマール・プロパティーズや中国の中国建築股份有限公司との破談はあったものの2016年4月に地元企業によって工事を開始し、代わりにエジプト政府がピラミッドに匹敵する一大事業のランドマークと位置づけているアフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う中央業務地区を中国の銀行が8割超融資して中国建築が請け負うこととなり、2018年3月18日に着工式が行われた。 アラブ首長国連邦(UAE)や中国と破談した背景には通貨不安が存在する。2016年11月3日、エジプト中央銀行が変動相場制を採用すると発表した。エジプト・ポンドが売られるのを革命の影響だけで片付けるには、この不安は長引きすぎている。同行は6日後、国際金融機関から20億ドルのレポ借入を始めた。4月に国際通貨基金からも120億ドルを借りている。エジプトは経済主権を失っている。ガーディアンが10月4日に報じたところでは、国際金融機関のバークレイズがエジプト事業をワファバンクに売却した。 2017年末、政府が世界銀行に対し、エチオピアのダム事業を差し止めるように要請した。世銀は5月にエジプトへ10億ドルを追加融資しており、エジプトは厳しい立場にある。翌2018年1月中旬にエチオピアとの水紛争が妥協に至った。5月末にエジプトの対外債務累積額は829億ドルであった。9月、ムバラクの息子ら二人(Gamal and Alaa)がエジプトの株価を操作した疑いで逮捕された。 共和制 国家元首の大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍(エジプト軍)の最高司令官でもある。大統領の選出は、直接選挙による。任期は4年で、三選禁止となった。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。 第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領ホスニー・ムバーラクは1981年の就任以来、約30年にわたって独裁体制を築いた。ムバーラクの親米・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、多選可。議会が候補者を指名し、国民は信任投票を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。 2011年9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態となり、2月11日、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣で軍最高評議会議長のムハンマド・フセイン・タンターウィーが元首代行を務め、それは2012年エジプト大統領選挙の当選者ムハンマド・ムルシーが6月30日に大統領に就任するまで続いた。2011年3月19日、憲法改正に関する国民投票が行われ、承認された。 しかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年、軍事クーデターが勃発。ムルシーは解任され、エジプトは再び軍による統治へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され、同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。 議会は、一院制の人民議会(マジュリス・アッ=シャアブ)。全508議席で、498議席は公選、10議席は大統領指名枠。任期5年。これとは別に、諮問評議会(シューラ)が1980年設置されたが、立法権は有さない大統領の諮問機関である。全270議席で、180議席が公選、90議席が大統領指名枠。 2011年11月21日、イサーム・シャラフ暫定内閣は、デモと中央治安部隊の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは11月22日テレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した。 人民議会選挙は2011年11月28日から2012年1月までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も3月11日までに実施された。また5月23日と24日に大統領選挙の投票が実施された。 しかし、6月14日に最高憲法裁判所が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効」(3分の1の議員について当選を無効と認定)との判決を受け、16日までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた。大統領選挙の決選投票は6月16日と17日に実施され、イスラム主義系のムハンマド・ムルシーが当選した。 2011年3月28に日改正政党法が公表されて、エジプトでは宗教を基盤とした政党が禁止された。そのため、ムスリム同胞団(事実上の最大野党であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党(アラビア語: حزب الحرية والعدالة‎ - Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala, 英: Freedom and Justice Party)が結成された。また、ヌール党(サラフィー主義、イスラーム保守派)、新ワフド党(エジプト最古の政党)、政党連合エジプト・ブロック(英語版)(含む自由エジプト人党(世俗派)、エジプト社会民主党(中道左派)、国民進歩統一党(左派))、ワサト党、政党連合革命継続(英語版)、公正党(英語版)(アラビア語: حزب العدل‎ - Hizb ElAdl, 英: Justice Party、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた。 首相(英語版)・ムスタファ・マドブーリー 2018年6月就任。 国防大臣(英語版)・セドキ・ソブヒィ(英語版) 2014年3月就任、エジプト軍総司令官。 ナポレオン法典とイスラム法に基づく、混合した法システム。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。フランスにおける裁判所の二元性(フランス語版)参照。 最高憲法裁判所(英語版) - 法律が違憲か否かを判断する。1979年設立。長官はアドリー・マンスール(2013年7月1日-)。他、10人の判事は1998年から2013年7月までに着任している。長官は最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)の委員長を兼任していたが、2012年9月には副長官ハーティム・バガートゥーが務めていた。 司法省管轄の一般の裁判所 - 最高裁判所(破毀院、1931年設立)と以下の下級裁判所(控訴院、第一審裁判所、地区裁判所および 家庭裁判所-2004年設立)からなる。 国務院管轄の行政裁判所 - コンセイユ・デタ - 1946年設立。2011年2月19日、従来の政党委員会(政府運営)の申請却下に対する不服申し立てを認めた形の判決で、政党の許認可を、4月16日、与党・国民民主党(NDP)の解散を、裁定した。 国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には非同盟諸国の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年のキャンプ・デービッド合意とその翌年の[イスラエル国交回復によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、1981年にサーダートが暗殺された後に政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年にはシリア、レバノン、リビアを除く全てアラブ諸国との関係が回復した。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には国際連合安全保障理事会の常任理事国入りを目指すことを表明した。2011年、パレスチナのガザの検問所を開放した。また、イランと関係修復しようとしている。 シーシー政権はムスリム同胞団政権時代のこうした外交政策とは一線を画している。欧米や日本、親米アラブ諸国、イスラエルのほか、中国やロシアなどと広範な協力関係を築いている。 2017年カタール外交危機では、サウジアラビアとともに、ムスリム同胞団を支援してきたカタールと国交を断絶した国の一つとなった。またサウジアラビアとは、アカバ湾口に架橋して陸上往来を可能とするプロジェクトが話し合われた(チラン島を参照)。 中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は468,500人。予備役479,000人。兵員数は陸軍34万人(軍警察を含む)、海軍18,500人(沿岸警備隊を含む)、空軍3万人、防空軍8万人。内務省管轄の中央治安部隊、国境警備隊と国防省管轄の革命国家警備隊(大統領親衛隊)の準軍事組織が存在する。 イスラエルとは4度にわたる中東戦争で毎回干戈を交えたが、第二次中東戦争で政治的な勝利を得、第四次中東戦争の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。その後はイスラエルと接近し、シーシー政権下ではシナイ半島で活動するイスラム過激派(ISIS)に対する掃討作戦で、イスラエル空軍による爆撃を容認していることを公式に認めた。 軍事的にはアメリカと協力関係にあるため、北大西洋条約機構(NATO)のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。また、ロシアや中国からも軍事支援を受けており、上海協力機構への加盟も試みている。 エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ(محافظة, 県、州 と訳されることもある)である。知事は、中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において、中央集権体制をとる。極端な行政区分でナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、ナイル流域以外が全域砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。 アフリカ大陸北東隅に位置し、国土面積は1,002,450平方キロメートルで、世界で30番目の大きさである。国土の90%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠(リビア砂漠)、東側には紅海とスエズ湾に接する東部砂漠(الصحراء الشرقية - シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8000km²の広さをもつカッターラ低地は海面より133mも低く、ジブチのアッサル湖に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。シナイ半島の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰のカテリーナ山 (2637m) や、旧約聖書でモーセが十戒をさずかったといわれるシナイ山 (2285m) がある。シナイ半島とナイル河谷との間はスエズ湾が大きく湾入して細くくびれており、ここがアフリカ大陸とユーラシア大陸の境目とされている。この細い部分は低地であるため、スエズ運河が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。 ナイル川は南隣のスーダンで白ナイル川と青ナイル川が合流し、エジプト国内を南北1545kmにもわたって北上し、河口で広大なデルタを形成して地中海にそそぐ。アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり、アシュート近辺で分かれた支流がファイユーム近郊のカールーン湖(Birket Qarun、かつてのモエリス湖)へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なファイユーム・オアシス(英語版)を形成している。一方本流は、カイロ近辺で典型的な扇状三角州となるナイル・デルタは、地中海に向かって約250kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内で最も肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから下エジプトと上エジプトという、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域を指し、後者はカイロから上流の谷を指している。ナイル河谷は、世界でも最も人口密度の高い地域の一つである。 ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人がオアシスに集まって住むのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側にはワジが全く。シーワ、ファラーフラ、ハルガ、バハレイヤ、ダフラといったオアシスが点在している。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルとアラビア半島を結ぶ重要な交通路に位置しているため、いくつかの小さな港が存在する。 1885年に列強がドイツのベルリンで開いた会議で、それまでに植民地化していたアフリカの分割を確定した。リビア国境の大部分で東経25度に、スーダンでは北緯22度に定めたため、国境が直線的である。 スーダンとの間では、エジプトが実効支配するハラーイブ・トライアングルに対してスーダンも領有権を主張している。一方、その西にあるビル・タウィールは両国とも領有権を主張していない無主地である。 国土の全域が砂漠気候で人口はナイル河谷およびデルタ地帯、スエズ運河付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠に属する。夏には日中の気温は40℃を超え、50℃になることもある。降雨はわずかに地中海岸にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13〜14℃、上エジプトで16℃程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。 2010年のエジプトのGDPは約2168億ドル(約17兆円)。アフリカでは屈指の経済規模であり、BRICsの次に経済発展が期待できると言われているNEXT11の一国にも数えられている。しかし、スエズ運河収入と観光産業収入に依存するところが大きく、政情に左右されやすい。かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが少なくなった上、アスワン・ハイ・ダムの建設によって上流からの土壌がせき止められるようになった、そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大し、農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったためにコストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。1970年代に農業の機械化及び各種生産業における機械への転換により、労働力の過剰供給が見受けられるようになり、都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招くも、80年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。この為綿花及び綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するが、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大及び失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるが、結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化及び税制改革に取り組んでいる。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生した。 エジプトの交通の柱は歴史上常にナイル川であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。ファルーカという伝統的な帆船や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。 鉄道は、国有のエジプト鉄道が運営している。営業キロは5,063キロメートルにのぼり、カイロを起点としてナイル川デルタやナイル河谷の主要都市を結んでいる。 航空は、フラッグ・キャリアであるエジプト航空を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港はこの地域のハブ空港の一つである。 エジプトの人口は、8254万人(2013年1月現在)で、近年急速に増大し続けている。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、ピラミッド型の人口構成をしている。しかし、若年層は更に増加傾向にあるにも関わらず、経済はそれほど拡大していないため、若者の失業が深刻な問題となっており、2011年エジプト騒乱の原因の一つともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033 %。 住民はイスラム教徒とキリスト教徒(コプト教会、東方正教会など)からなるアラブ人がほとんどを占め、その他にベドウィン(遊牧民)やベルベル人、ヌビア人(英語版)、アルメニア人、トルコ人、ギリシア人などがいる。遺伝的に見れば、エジプト住民のほとんどが古代エジプト人の直系であり、エジプト民族との呼称でも呼ばれる所以である。また、エジプト人の大半は、イスラム勢力のエジプト征服とそれに続くイスラム系国家の統治の間に言語学的にアラブ化し、本来のエジプト語を捨てた人々であるとする見解がある。それだけではなく、長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入・定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。現代においてカイロは世界都市となっており、また歴史的にもアル=アズハル大学は、イスラム教スンナ派で最高権威を有する教育機関として、中東・イスラム圏各地から人々が参集する。 なお古代エジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしていることが多い。すなわち、ギザの大スフィンクスやギザの大ピラミッドを建て、太陽神や様々な神を信仰(エジプト神話)していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。 現在のエジプトではアラビア語が公用語である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語(フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言である[要出典]。 古代エジプトの公用語であったエジプト語(4世紀以降の近代エジプト語はコプト語の名で知られる)は、現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民は極めて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である。他には地域的にヌビア諸語、教育・ビジネスに英語、文化においてはフランス語なども使われている。 宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(が、既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる。 エジプトの教育制度は、1999年から小学校の課程が一年延び、日本と同じく小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年の6・3・3・4制となっている。 義務教育は小学校と中学校の9年である。1923年のエジプト独立時に初等教育は既に無料とされ、以後段階的に無料教育化が進み、1950年には著名な作家でもあった文部大臣ターハー・フセインによって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めた全ての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の教員が給料の少なさなどから個人の家庭教師を兼任することが広く行われており、社会問題化している。高額な授業料を取る代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。エジプト国内には、20万以上の小中学校、1000万人以上の学生、13の主要大学、67の師範学校がある。 2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された。 主な高等教育機関としては、アル=アズハル大学(988年~)、吉村作治、小池百合子等が出身のカイロ大学(1908年~)などが存在する。 国立図書館として新アレクサンドリア図書館が存在する。 古代エジプトの建造物で有名。 ボードゲームやカードゲームの発祥の地としても知られている。 座った時に足を組むと、相手に敵意があると受けとられる。 古代エジプトにおいてはパピルスにヒエログリフで創作がなされ、古代エジプト文学には『死者の書』や『シヌヘの物語』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラビア語文学の一つの中心地となった。近代の文学者としてターハー・フセインの名が挙げられ、現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。 エジプト国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。 メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯 - (1979年、文化遺産) 古代都市テーベとその墓地遺跡 - (1979年、文化遺産) アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群 - (1979年、文化遺産) カイロ歴史地区 - (1979年、文化遺産) 聖カトリーナ修道院地域 - (2002年、文化遺産) ワディ・アル・ヒタン - (2005年、自然遺産) 鈴木恵美編著『現代エジプトを知るための60章』、明石書店、2012年 ISBN 4750336483 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ 西谷進 一九世紀後半エジプト国家財政の行詰まりと外債 (一) 『社会経済史学』 37巻 (1971) 2 号 p. 113-134,216 ^ 西谷進 一九世紀後半エジプト国家財政の行詰まりと外債 (二) 社会経済史学 37巻 (1971) 3 号 p. 283-311,330-33 ^ 片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 p49 ^ 『エジプトの経済発展の現状と課題』 海外経済協力基金開発援助研究所 1998年 23頁 ^ エジプト副大統領が野党代表者らと会談、譲歩示す ^ IMF, Arab Republic of Egypt: Selected Issues, 2005, [2] ^ 「『アラブの春』の国で繰り返される悪夢」 エリン・カニンガム 『Newsweekニューズウィーク日本版』 2013年3月5日号 ^ “I will leave my position if people want: Egypt's interior minister”. アハラムオンライン. 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ABC01-02-0260
明け方の空にかかる虹は、東西南北どちらの方角にかかるでしょう?
西
0
[ "西", "北", "北西", "内陸", "北東" ]
[ "西(にし)とは、四方位の一つ。日が去るの方向の意味の「去にし」が「にし」に転じた。極地以外では太陽が沈む方位。地球の自転とは反対の方向。 南北が絶対的な位置関係にあるのに対して東西は相対的な位置関係にある。 西洋をオクシデント(Occident)というが、本来は「日が沈む地」を意味する。 西側諸国:西洋でも、特に西欧と北米を指す。米ソ冷戦時代には、アメリカに与する陣営として強調された。 日が沈む方位である点から、西は「衰退」に例えられる事がある。 同じく日没の方位から「死」の象徴ともされる。 西は、角度においては270°を表し(北を0°=360°として、時計回りに測る)、時刻においては日暮れ(夕方)を表す。 地図においては、左を西とする事が多い。 西を表す色は、五行思想では白である。しかし、風水では黄色である事が多い。 西半球:南北アメリカ大陸が属する。 西日本、西国:一般的には近畿地方を指し(例:西国三十三所)、近年は中国地方、四国、九州地方を指す事もある(例:西日本鉄道)。 スペイン(西班牙)に当てられた漢字1文字による表記。 大相撲の番付で同地位では、西が東より格下である。 東 / 南 / 北 西で始まる記事の一覧", "北(きた)は、地表に沿って北極点に向かう方位。天の北極を鉛直に下ろして水平面と交わる方位。東西が相対的な位置関係にあるのに対して南北は絶対的な位置関係にある。 地軸の両端(極)のうち北極星を指す方向にある極を北極といい、北極点に向かう方位を北と呼ぶ。後述の磁北やグリッド北と区別するため真北(しんほく、まきた)とも呼ぶ。 磁北(じほく)とは、鉄など外力の影響を受けていない状態において方位磁石が指す「北」のことである。地磁気の水平分力の向き。磁北(磁気子午線)と真北(真の子午線)はほとんどの場所でずれており、その交わる角を偏差あるいは偏角という。偏差は地域や年代により異なり、磁北が真北より右に傾いているときは偏東、左に傾いているときは偏西と呼ばれる。日本国内では、磁北は真北より約5 - 10度西へ偏っている。 さらに、船舶などで使用される羅針儀は現実には船内の鉄の構造物による磁気作用を受けるのが常とされ、磁気子午線と羅針の指す線との間にも差(自差という)を生じ、その結果、真の子午線と羅針との差角は偏差と自差の代数和分の差を生じることになる(この差をコンパス緯差と呼ぶ)。 また、航空機などにおいては、磁北を0度として時計回りに風向や機体を向ける角度、滑走路の向きなどを示すのに用いられる。 「地図では上が北」というが、使用する地図投影法の影響をうけて、真北(および真南)を示す子午線は(厳密には)地図上で縦方向の平行線になっていない場合が(しばしば)ある。小縮尺の地図であれば、真北を常に上に出来るメルカトル図法など正軸の円筒図法を除いて、中心経線以外が真上を向いてない事がすぐに分かる。 大縮尺の地図でも、たとえば斜軸メルカトル図法を使っているスイスの地形図の場合(swisstopo 1/25,000図画(pdf))、経緯度ではなくベルンを原点とした直交座標系により地形図を四角く切り出している。そのため地図は完全な長方形であるが、場所によっては真上と真北が2度以上ずれている。日本ではあまり多くないが、一部の大縮尺地形図に平面直角座標系に基づく直交方眼が引かれており、縦線が真北から約1度ずれる場所もある。このように地図投影面上に直交座標系(グリッド)を定義した場合、地図面での上向きをグリッド北(グリッドきた、grid north)または方眼北という。 睡眠する場合に、北側に頭を向けて寝る事を「北枕」といい、縁起の悪いものとされる。 北枕の凶運は、釈迦が死んだ時に、頭を北向きにして安置された事に由来する。 方位においては北が基準とされ、地図においては北は上を指す事が多い。 時刻や角度において、北は北極星に因んで真夜中や0度(=360度)を表し、変わり目や始終点とされる。 殊に北半球では、北は寒冷の象徴とされて来た。 南北問題 - 地球の北半球に富な国が集中し、南半球に貧しい国が集中する問題。 北日本 - 日本においては、かつて都が畿内にあった時代は北陸地方を指していた。現在では、北陸地方、東北地方、北海道が「北日本」と呼ばれる事があるが、一般的には東北地方と北海道を指す事が多い。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の俗称 - 北朝鮮核問題や朝鮮半島情勢を語る際、「北」と言えば朝鮮民主主義人民共和国のことである。(例:「北の将軍様」、「南北首脳会談」など) ベトナム民主共和国(北ベトナム)の俗称 - 「北爆」など。 華北:中国北部大凡秦嶺・淮河線以北の地域を指す事が多い。 元となった地名より北に位置する土地や鉄道駅などに、新たにつけられる接頭辞。北浦和、北広島町のように隣接地である場合と、北広島市、北吉原駅のように遠隔地の場合がある。 ノースブリッジ - マザーボードの回路図上で「北」(上側)にあるため。 北向く 大相撲の隠語で、変わり者だったり、すねたりする者のことをいう。 高松城の鎮守神である華下天満宮(はなしたてんまんぐう)は改築にあたり社殿が通常の向きと違う北向きに建てられて、そのため別名「北向き天神」と呼ばれている。この呼び名を「北向き変人」とシャレ言葉にして、普通の人と違う者のことを意味している。大相撲の世界には、このようなシャレ言葉が多く、「しかをきめる」などの隠語もある。 ^ 佐藤 1958, pp. 1-2. ^ a b 佐藤 1958, p. 6. ^ 国土地理院 地磁気測量 磁気図 ^ 佐藤 1958, pp. 6-7. 佐藤新一 『誰にもわかる地文航法』 海文堂出版、1958年。  真北方向角 子午線収差(ドイツ語版) 東 / 西 / 南 北で始まる記事の一覧", "北西(ほくせい)は、8方位の1つ。古くは西北(せいほく)といった。北と西の中間で、方位角は315°である。反対の方位は南東。 南北を先にする表し方は西洋からの習慣であり、東西を先にする表し方は中国からの習慣である。 古代中国の世界観では天は円形で地は方形と考えられており、西北は方形の四隅(これを四維という)の一つに位置するとされた。前漢の書籍『淮南子』天文訓では夏至の日に太陽が沈むところが西北維とされている。他の古方位では十二支で戌亥、八卦で乾と表された。このため日本では十二支の和訓からこの方角のことをいぬいといい、乾の訓にも当てた。さらに細かく十二支・八卦に十干を交えた二十四方位でも乾が用いられる。", "内陸(ないりく、英: Endorheic)は、海岸から遠く離れた場所のこと。 場所が地政学的な県、地方、国など範囲や領域を指す場合、その領域が海岸を持たない場合に内陸県、内陸地方、内陸国などと呼ぶ。その領域が「陸地に囲まれている」海岸の地形自体を表すとき、内海、内湾などと呼ばれる。英: Landlocked , Inland などの語も使われる。 一般に水系は海や内海とつながって流域を形成するが、特殊な地形条件により海と接続しない流域もあり、これを内陸流域(英: Endorheic basin)という。日本では火口湖、堰止湖の周囲などのごく一部で見られる(富士五湖のうち西湖、本栖湖、精進湖、北海道の摩周湖、鹿児島県の池田湖など)が、世界の大陸では内陸が大きく広がるため、乾燥地帯の盆地など広範囲に見られる。 「内陸」で始まる記事の一覧 ^ 池田湖は自然流出の河川はないが、灌漑用水として引水されている。 ^ コトバンク『内陸』 (デジタル大辞泉、大辞林)", "北東(ほくとう)は、8方位の1つ。東北(とうほく)ともいう。北と東の中間で、方位角は45°である。反対の方位は南西。 南北を先にする表し方は西洋からの習慣であり、東西を先にする表し方は中国からの習慣である。 古代中国の世界観では天は円形で地は方形とされ、東北は方形の四隅(これを四維という)の一つに位置するとされた。前漢の書籍『淮南子』天文訓では夏至の日に太陽が出るところが東北維とされている。他の古方位では十二支で丑と寅、八卦で艮で表された。このため日本では十二支の和訓からこの方角のことをうしとらといい、艮の訓にも当てた。さらに細かく十二支・八卦に十干を交えた二十四方位でも艮が用いられる。 日本の陰陽道でこの方位は鬼門とされ、忌み嫌われた。" ]
ABC01-02-0262
味噌、豆腐、納豆といえば原材料は何でしょう?
ダイズ
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[ "ダイズ", "サヤインゲン", "コムギ", "ラッカセイ", "ソラマメ" ]
[ "大豆(学名 Glycine max)は、マメ科の一年草。完熟種子は主に搾油の原料となり、脱脂後の絞り粕(大豆粕)は飼料として利用されている。食用にもなり特に東アジアでは様々な利用形態が発達している。未成熟の種子を枝豆と呼ぶ。 農作物として世界中で広く栽培されている。日本には縄文時代に存在したと思われる大豆の出土例があり、『古事記』にも大豆の記録が記載されている。 ダイズ種子には苦み成分であるサポニン (Saponin) (ダイズサポニン)が多く含まれており、人類の主食にまではなっていないが、植物の中では唯一肉に匹敵するだけのタンパク質を含有する特徴から、近年の世界的な健康志向の中で「ミラクルフード」として脚光を浴びている。日本・ドイツでは「畑の(牛)肉」、アメリカ合衆国では「大地の黄金」とも呼ばれている。また、日本料理やその調味料の原材料として中心的役割を果たしている(後述)。菜食主義や殺生を禁じた宗教においては植物性のタンパク源として利用され、精進料理においても重用された事で多くの加工食品が生み出された。加工食品の技術が上がるにつれて、肉を模した代替食品としても注目されている。 古くからの在来種・固定種が多く現存している。両性花なので自家受粉可能であり、自家採種のしやすい植物である。その反面、葉の黄化や生育不良や収穫減少などの連作障害を起こしやすいため、隔年または2年ごとに輪作を行ない、違う作物を作付けし、連作を避けるか、連作を行なうために土壌消毒や土壌改善を行う等の対策を練らねばならない。日本国内においては、このことが栽培規模拡大への障害のひとつとなっている。連作障害にはダイズシストセンチュウが関与していると考えられている。 元々極端に耐湿性が高い作物ではないため、稲作との輪作では水田地形特有の過剰な水分や冠水などがダイズの生育に影響を与えることがある。多くの場合、畝を高く盛ることで対応するが、アメリカのミシシッピ川デルタ(英語版)地帯などの大規模な湿地帯の農家では対応が難しく死活問題となる。このため、耐湿性の強さに着目した品種の導入や改良も試みられている。 ダイズを含む一部のマメ科植物は根に根粒もしくは茎に茎粒を持ち、根粒菌という細菌が共生している。根粒菌は植物からリンゴ酸などの効率のいい栄養分をもらって生活の場を提供してもらう代わりに、大気中の窒素を植物にとって使いやすいアンモニアに転換(窒素固定)する。窒素は植物にとって必須元素であり、肥料として取り入れる成分の一つであるが、自然界では一部の細菌と雷などでしか使用可能形態に転換できない。根粒菌はその能力が高いため、それを持つ植物は自ら窒素肥料を作ることができることになり、やせている土地でもよく育つものが多い。ダイズも根粒菌との共生により十分な量の窒素分を吸収し、豊富なアミノ酸を産生でき、ダイズはその種子に他の植物には見られないような豊富なタンパク質を含有させている。 共生成立までの過程に於いて、Nodファクターと受容体による経路とIII型分泌系による経路の複数の経路が有ることが解明されている。 大豆は20世紀初頭までは、東アジアに限られた主に食用の作物であった。20世紀に入り油糧作物および飼料作物として世界に生産が広まり、世紀後半には生産量が急拡大し、21世紀には、大豆と脱脂大豆を合わせた交易重量は長らく世界最大の交易作物である小麦と並ぶ量となった。 原産地は東アジアである。日本にも自生しているツルマメが原種と考えられている。 遺伝学的研究によれば、東アジアの複数の地域で野生ツルマメからの栽培化が進行し、日本も起源地のひとつである。2010年代の考古学的研究では、アジアでも他の地域に先駆けてダイズの栽培化が進行した可能性が判明しており他の起源地は中国や朝鮮半島である。縄文時代中期、紀元前4000年後半より日本列島での栽培が見られることが2015年の研究で判明し、この時期以降に野生種からの人為的な栽培に特徴的な種子の大型化がみられる。2007年には、縄文時代後期中頃。日本列島においては縄文時代においてアズキやリョクトウなどの炭化種実が検出されているためマメ類の利用が行われていたことが判明していた。山梨県の酒呑場遺跡から出土した土器のダイズ圧痕は蛇体装飾の把手部分から検出されており、これは偶然混入したものではなく意図的に練りこまれた可能性が想定されており、その祭祀的意図をめぐっても注目されている。 中国や日本などでは米・麦・粟・稗(ひえ)・豆(大豆)を五穀として重用されている。 ヨーロッパやアメリカに伝わったのは意外にも新しく、ヨーロッパには18世紀、アメリカには19世紀のことである。ヨーロッパにダイズの存在を伝えたのはエンゲルベルト・ケンペルだといわれており、彼が長崎から帰国した後、1712年に出版した『廻国奇観』において、ダイズ種子を醬油の原料として紹介した。ヨーロッパでは1739年にフランスでの試作、アメリカでは1804年にペンシルベニア州での試作が最初の栽培とされている。ベンジャミン・フランクリンの手紙の中に、1770年にイギリスにダイズ種子を送る旨が記してある。[要出典]ヨーロッパでそれ以前にダイズの存在を知られていなかった理由として、既に他の豆類が栽培されていたことや、土壌が合わなかったこと、根粒菌が土壌にない場合があったことなどが挙げられている。 ダイズが伝播後19世紀にかけては、アジア圏以外では重要な作物とはみなされておらず、緑肥や飼料作物としての生産に留まっていた。20世紀に入り搾油用の需要が拡大していった。ヘンリー・フォードは、油脂の採取、繊維・プラスチックの開発目的で大豆農園を経営していた。作物(油糧作物)として注目されるようになったのは1920年代以降であり、ヨーロッパで食料として初めて収穫されたのは1929年とされる。アメリカで本格的にダイズが栽培されるようになったのは、1915年にワタミハナゾウムシ(英語版)の侵入によってアメリカ南部の綿花が大打撃を受け、それまでアメリカの製油業の中心であった綿実油が不足してからである。ワタに代わる新たな製油材料として、それまでも徐々に栽培を拡大させてきたダイズは一気に脚光を浴びることとなった。1920年代には製油用や飼料用としての需要の高まりにより、さらに大規模に栽培されるようになった。第二次世界大戦後、アメリカは世界最大の大豆生産国となったが、1973年に大豆の輸出規制を実施。大豆の消費の多くをアメリカからの輸入品に頼っていた日本は、輸入国の多様化を図る必要性に迫られた。当時の田中角栄政権は、ブラジルで放棄されてきた内陸部のサバンナ地帯(セラード)に着目、大豆生産を働きかけたところ軌道に乗り、2010年代のブラジルはアメリカに匹敵する規模の大豆生産国となった。 タンパク質含有量の高いダイズ種子は用途が広く、様々な食品の製造に加工されている。そのタンパク質以外の成分である脂質からは食用油以外にもレシチンなどが抽出され、利用されている。 原産地である東アジアでは、大豆(中国・日本)、黄豆(広東語・贛語)と呼ばれている。その他の多くの地域では、東アジアにおける名称とは異なったSoy/Soya、もしくはそれに類似した呼称が使われている。このSoyの起源は日本語の醤油であると考えられている。その経緯は、17世紀にオランダが日本との通商をとおして醤油をsoyaとしてヨーロッパへ紹介したことに遡る。 英国においても、17世紀の文献に醤油をSaio(広東語shi-yau起源か?)、Soyとした記述が見られる。その後20世紀に入るまでSoyとは醤油を意味する単語であった。20世紀に入り、東アジア以外の国で大豆が主に油糧作物・飼料作物として栽培・利用されるようになり、醤油の原料であることから英語ではsoybeanまたはsoya bean、他の国でも同様に呼ばれるようになった。 大豆の生産は20世紀初頭、第二次世界大戦前までは中国特に東北地方(満州国)が世界最大の生産国であり、輸出国であった。大豆の輸入が途絶えた米国では国内での生産へシフトし、戦後から20世紀後半にかけて世界最大の生産・輸出国となった。21世紀に入り増加し続ける需要に呼応し、ブラジル・アルゼンチン他南米各国で生産が拡大していった。 大豆は生産・輸出トン数ではトウモロコシや小麦には及ばないが、輸出金額ではトウモロコシや小麦を抜いて世界最大の交易作物となっている。米国の2017年の作物輸出金額の一位は大豆で216億ドル、二位はトウモロコシの91億ドルであった。ブラジルは世界最大のコーヒー豆と砂糖キビの生産国であるが、輸出金額トップは大豆で190億ドル、砂糖は104億ドル、コーヒー豆は48億ドルであった。アルゼンチンでも大豆製品の輸出金額は脱脂大豆100億ドル、大豆油41億ドル、丸大豆32億ドルの計173億ドルで2位のトウモロコシ42億ドルを大きく引き離している。 日本は現在大部分を輸入に頼っているため、2003年に世界的不作から価格が高騰したときには大きな影響を受けた。最大の生産国はアメリカ合衆国、次いでブラジル、アルゼンチン、中華人民共和国と続く。アメリカの大豆生産量は増減が激しいが、近年アルゼンチンとブラジルの大豆生産量が大きな伸びを示している。輸出国は、アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、カナダの順である。日本の輸入量は、中華人民共和国、EU 27カ国に次ぐ世界第3位である。中華人民共和国では経済成長に伴う食生活の変化により消費量が増加しており、これからも増え続けると見られている。この需要に応えるため、ブラジルでは天然林伐採を伴う大豆農地の拡大が進んでおり、問題視されている。また、ダイズ農場は一つの農場当りに必要とされる労働者が少ないため、失業問題にも繋がっている。 日本国内のダイズ生産量は平成22年度で222800トンであり、県別では北海道が57100トンで最大産地となっており、以下宮城県の18100トン、佐賀県の17700トン、福岡県の16100トンと続く。日本でダイズ生産量が1万トンを超えるのはこの4道県のみである。平成26年では231,800トンであり、県別では北海道が73,600、以下宮城県19,300, 佐賀県15,300、福岡県14,300となっている。平均収量は、北海道(233kg/10a)・佐賀(229kg/10a)・福岡(198kg/10a)の順で、収穫量の上位の収量が多い。 中国は世界の大豆生産量の6割を輸入する大消費地であるが、その輸入先の3割はアメリカ合衆国となっていた。2018年、両国間で貿易摩擦問題が深刻化し、アメリカが中国産品に追加関税を掛けることを予告すると、中国もアメリカ産大豆を含む報復関税対象リストを発表。春先には大豆市場の価格が2割近く下落する動きが見られた。結果的に同年7月には、アメリカと中国で追加関税、報復関税を掛けあう米中貿易戦争 (2018年)に発展し、大豆が経済戦争上の戦略物資の一つとして注目を浴びた。なお、中国が大豆を含む報復関税対象リストを発表した時点では、すでにアメリカの農家は大豆の作付け準備が終わっており、今後、中国の需要を見込んだアメリカ産大豆の在庫が積み上がり価格の下落圧力となる可能性があること、また中国の需要を満たすため各国の作付け面積が増やすなど、国際的な大豆の生産消費に大きな変化が生じることが予想されている。 2007年のダイズの世界消費は、大豆油製造用が87%と圧倒的多数を占め、ついで飼料用が7%、食用が6%となっている。また、ダイズから油を絞った後のダイズ搾りかすも飼料として価値が高く、世界の穀物取引の中心であるシカゴ商品取引所にはダイズとダイズ搾りかす(大豆ミール)がともに上場され、盛んに取り引きされている。 以下は2013年度の全世界の大豆の需要供給の収支表である。大豆の総生産量は2億7836万トンで、その38.4%の1億692万トンが輸出された。輸入量が1億209万トン、在庫変動がプラス608万トンであった。 以上のように大豆の第一次用途の最大のものは搾油用の85%であり、食用は4%に達しない。ダイズ油の食用分9.1%を加味しても総生産重量の約13%しかヒトの食用となっていない。一方で飼料用途では未加工大豆で6.53%、大豆ミールで65.76%の合計72.29%が使われており、重量の観点からは大豆は飼料作物である。飼料、食用に次ぐ三番目の用途はダイズ油のその他の6.53%で、これはバイオディーゼルや化学工業用である。近年飼料やバイオディーゼルとしての需要が拡大し続けており、食用の比率は年々低下している。 日本国内のダイズ消費量は2005年度に534万8000トンであり、このうち大豆油用が429万6000トン、食用が105万2000トンである。ダイズが基幹食料となっている日本では食用消費の占める割合が世界消費に比べかなり多くなっているが、それでも20%弱に過ぎない。日本国内の食用消費の内訳は、豆腐が49万6000トンで半数近くを占め、ついで味噌・醬油用が17万1000トン、納豆用が13万6000トン、煮豆や惣菜用が3万3000トン、その他が21万5000トンとなっている。国産大豆は食用消費の21%を占めている。 大豆種子はタンパク質・脂質および炭水化物を豊富に含んでおり、主にその脂質とタンパク質を食用および飼料用に利用するために大規模に生産され利用されている。 ダイズ種子貯蔵タンパク質のアミノ酸残基組成において、含硫アミノ酸であるメチオニンとシステイン残基が少なく、それらは制限アミノ酸となっていると言われたことがある。そのため、タンパク質の有効利用効率を示すアミノ酸スコアやプロテインスコアを下げていると言われていた。しかし、これらは成長期のラットに基づく数値であり、その後、ヒトに基づく数値に置き換えられ、具体的には、大豆のアミノ酸スコアが1973年には86点だったものが、1985年には100点と変更された。大豆は、牛乳や卵と同等の良質なタンパク質であるとの評価を得ている。 多くのマメ科植物の種子と同様に、ダイズ種子中には有毒なタンパク質性のプロテアーゼ・インヒビター(プロテアーゼ阻害剤) (トリプシン・インヒビター、セリンプロテアーゼ・インヒビター(セルピン))やアミラーゼ・インヒビター(Α-グルコシダーゼ阻害剤)やレクチンが含まれて消化を阻害するため、生食はできない。トリプシン・インヒビターを含むものを摂食すると消化不良を起こし下痢することがある。そのため、加熱してプロテアーゼ・インヒビターやアミラーゼ・インヒビターを変性・失活させて消化吸収効率を上げている。なお、加熱してもプロテアーゼ・インヒビターの失活は十分ではないので、納豆菌などを繁殖させて納豆菌の分泌するプロテアーゼによってダイズ種子中のタンパク質とともにタンパク質性のトリプシン・インヒビターを分解させると、分解されたタンパク質と相まって消化酵素であるトリプシンが正常に機能してタンパク質の消化吸収効率が増大する。 トリプシンインヒビター活性の高い生大豆を飼料としてラットに摂取させると成長阻害や膵臓肥大などの有害作用が引き起こされることが報告されている。この膵臓肥大は、腸内で阻害されるトリプシンを補うための膵臓の機能亢進の結果として生じると考えられる。生大豆粉はラットの膵臓癌と相関することが知られているが、加熱調理済みの大豆粉の発ガン性は認められていない。大豆がヒトの膵臓癌を促進する可能性があるかどうかの研究はまだ十分でないため不明である。ラットに与えられている大豆の量は、人間が通常摂食する量に比べてはるかに大きい。 大豆乳の加熱処理について、100℃10分間の加熱処理した大豆乳には加熱未処理試料のトリプシン・インヒビター活性の約34%が残存し、また100℃20分間では約30%、120℃10分間では約10%、120℃20分間でも約5%のトリプシン・インヒビター活性が残存した。 黒大豆を95℃で加熱した場合のトリプシン・インヒビターの活性変化について、1%のNaCl(食塩)溶液中、16%のショ糖溶液中では、いずれも60分の加熱でトリプシン・インヒビターの70%の活性が残存していたが、0.1%の重曹溶液中の45分の加熱でトリプシン・インヒビターの活性は完全に失われた。 ダイズから得られる大豆油は、パーム油に次ぐ代表的な食用油であり、大豆需要の87%を占めている。主要な生産国は、中国、アメリカ、ブラジル、アルゼンチンで、上位5カ国で8割を占める。日本では菜種油が好まれるため、大豆油の生産量は40万トン前後と菜種油の半分以下に留まる。 近年では環境配慮型の素材とされる大豆インキの原料としての需要も拡大している。 残渣の大豆粕は醤油の原料や家畜の飼料、大豆ミールとして粗タンパク質源に利用されていたが、最近は『ヘルシー』を売りにした小麦粉代替食品としても拡販が進んでいる。 大豆レシチン 大豆レシチンは、大豆油の副産物で、絞ったばかりの大豆粗油をろ過し、お湯を混ぜ、成分を水側に移し遠心分離機で2層になった油を分離後、速やかに水分を乾燥させたものである。利用用途としては、化粧品や食品の乳化剤に利用される。 飼料としての大豆はタンパク質源として良質で、肉牛を肥えさせたり、鳥の産卵率を上昇させるのに大きく寄与している。ただし、含有タンパク質中のメチオニンやシステイン残基含量が少ないため、タンパク質の有効利用効率を上げるために、メチオニンやシステインを多く含む他の飼料と混合して利用されている。近年、特にBSE問題によって飼料のタンパク質源として肉骨粉の利用が規制されたため、肉骨粉に替わるタンパク質源としてダイズ種子の需要は増している。かつては温帯・亜熱帯でしか栽培可能でなかったが、技術の向上により、栽培できる地域が拡大した。 ダイズ種子(大豆)はタンパク質や脂肪、鉄分、カルシウムなど、ミネラルを多く含む。 ダイズの栄養価の代表値  日本では色々な形に加工され、利用されている。まず、大豆を暗所で発芽させるとモヤシ、未熟大豆を枝ごと収穫し茹でると枝豆、さらに育てて完熟したら大豆となる。大豆を搾ると大豆油、油を絞った粕は大豆粕として食用・醤油製造や飼料へ、煎って粉にするときな粉、蒸した大豆を麹菌と耐塩性酵母で発酵させると醬油・味噌、また蒸した大豆を納豆菌で発酵させると納豆となる。熟した大豆を加水・浸漬・破砕・加熱したものを搾ると液体は豆乳、その残りはおから、豆乳を温めてラムスデン現象によって液面に形成される膜を湯葉、にがりを入れて塩析でタンパク質を固めると豆腐、豆腐を揚げると「油揚げ」「厚揚げ」、焼くと「焼き豆腐」、凍らせて「凍み(高野)豆腐」となる。大豆にはサポニン等水溶性の低分子化合物やタンパク質性のプロテアーゼ・インヒビターやアミラーゼ・インヒビターやレクチンなどの有毒成分が含まれており、これらの加工には有毒成分の除去や解毒の意味もある。 蒸した黒豆(黒大豆)を発酵させてから乾燥させたものは、香豉(こうし、別名:豆豉(ずし))という生薬であり、陶弘景校定による『名医別録』には「豉」として収載されている。香豉には発汗作用、健胃作用があるとされ、香豉を含有する漢方薬には梔子豉湯、瓜蔕散などがある。本来、黒豆の発酵・乾燥品を用いるが、現在では納豆を乾燥させたものを代用する。 用途別 蛋白大豆=食用 油大豆=油用 枝豆用 黒豆 赤豆 くろさき茶豆 だだちゃ豆 青入道(青大豆) エンレイ(白大豆) 雁食豆 ミヤギシロメ 大白(おおじろ) 納豆小粒・一関在来・遠野在来・地塚・小娘・生娘(納豆専用の小粒品種) 現在日本でよく知られている大豆加工食品には以下のようなものがある。 大豆の原形をとどめるもの 乾燥大豆 - 大豆を保存する際の基本形であり、数時間以上水にもどしてから調理に用いる。また節分時のようにそのまま「炒り豆」にすることも。 煮豆 - 味をつけずに煮た「水煮」は調理に用いられる。保存のきく缶詰やレトルトパックに個装されて市販もされている。枝豆も参照。 甘納豆 大豆を粉砕したり搾ったりしたもの 大豆油 きな粉 ずんだ - 未成熟の青い大豆を粉砕し、餡仕立てにしたもの 打豆(かち豆)- 大豆を粗く粉砕して乾燥させたもの。さまざまな調理に用いる。 大豆粉 - 乾燥大豆(主に、すずさやか)を炒らないで微粉末にしたもの。低糖質パンや低糖質スイーツなどの原料として注目されている。 呉 - 水煮した大豆を摩砕した状態のもの(豆乳とおからに分離する前段階のもの) 豆乳 - 呉を布などで搾って得られる液体 ゆば - 豆乳を加熱して生じる皮膜 豆腐 - 豆乳ににがりを加えて凝固させたもの 油揚げ - 薄切りにした豆腐を揚げたもの 生揚げ、厚揚げ - 厚く切った豆腐を揚げたもので、内部に豆腐のままの部分を残している。 がんもどき - 水気を絞った豆腐に具材を混ぜて油で揚げたもの 揚げ出し豆腐 - 豆腐に片栗粉などをまぶして揚げたもの 豆腐干 - 豆腐をよく搾って作る中華食材 高野豆腐 - 豆腐を凍結したのちに乾燥させたもの 豆腐の味噌漬け 豆腐餻(とうふよう)、腐乳、臭豆腐(しゅうどうふ) - 豆腐の発酵食品 豆腐ハンバーグ、トーファーキー ごどうふ - 豆乳に葛粉などを加え、加熱して固めたもの 豆汁 - 豆乳を発酵させたもの おから - 呉から豆乳を搾った“搾りかす” 大豆ミート - 大豆を食肉(ミート)のような味・食感に加工した食材。ハンバーグや唐揚げなどに使われる。 大豆を発酵させた加工食品 醬油 もろみ ケチャップマニス - インドネシアの醬油 味噌 納豆 豆豉(とうち) - 一種の納豆を乾燥させて作る中華食材。豆豉醬の材料にもなる。 テンペ - 納豆に似たインドネシアの食品。 大豆オリゴ糖を含み整腸作用がある。大豆オリゴ糖を関与成分とした特定保健用食品が許可されている。 大豆をよく食べる女性グループで脳梗塞・心筋梗塞のリスクが低下した。疫学調査では、大豆の摂取は肥満および閉経後女性で糖尿病発症のリスクが低下するものの、全体としては糖尿病発症との関連なしとされた。 デザイナーフーズ計画のピラミッドの1群に属し、ショウガと共に、癌予防効果のある食材の第3位として位置づけられていた。2006年3月27日、アメリカ合衆国の健康専門月刊誌『ヘルス』による世界の5大健康食品が発表され、スペインのオリーブ油、日本の大豆、ギリシャのヨーグルト、インドのダール(豆料理)、大韓民国のキムチの5品目が選出された。 順天堂大学の研究によれば、納豆の摂食頻度と月経状態・月経随伴症状は有意の関係がみられ、摂食頻度の増加は症状を軽減させている可能性があるとしている。 雄の2型糖尿病マウスに大豆サポニンAグループと大豆サポニンBグループを別々に投与したところ大豆サポニンBグループに血糖値上昇抑制作用は認められたが大豆サポニンAグループにはその作用は認められなかった。 全年齢では鶏卵38.7%、牛乳20.9%、小麦12.1%が3大アレルゲン(ピーナッツと魚卵を足し5大アレルゲン)であり大豆は1.5%の11位である。アナフィラキシーショックを起こす可能性があるため、アトピーや喘息などアレルギー素因のある者は注意が必要である。 大豆イソフラボンとは、大豆に含まれるゲニステイン、ダイゼイン、グリシテインなどのイソフラボンの総称で、弱い女性ホルモン作用を示すことから骨粗鬆症や更年期障害の軽減が期待できる。 イソフラボンはヒトに対する悪影響も懸念されており(詳しくはイソフラボンを参照)、内閣府食品安全委員会は食品とサプリメントを合わせた安全な一日摂取目安量の上限値を、一日あたり70 - 75mgに設定している。なお日本人の食品由来の大豆イソフラボン摂取量は15 - 22mg、多い人でも40 - 45mg程度である。 BSE問題が顕在した結果、それまで畜産飼料として利用されていた肉骨粉の利用が規制され、それに伴い、肉骨粉に替わるタンパク質源としてダイズ種子の利用が急激に増えた。需要が急増したため、南米諸国、特にブラジルやアルゼンチンでの栽培が増えた。その結果、アマゾンの熱帯雨林において、大豆生産のためのプランテーションの大規模な開発が行われており、それによる森林の消失が問題になっている。 日本においては、節分の日に炒った大豆をまく「豆撒き」の風習がある。 大豆の生豆を噛みつぶし、それを子供の頭の上に塗るとかんの虫が切れるという風習が長野県秋山郷地方に伝承されている。 A・レウィントン 『暮らしを支える植物の事典』 八坂書房。 ^ a b 伊藤綾、竹内浩二、高木章雄 ほか、東京都におけるエダマメのダイズシストセンチュウ発生実態 関東東山病害虫研究会報 2006巻 (2006) 53 号 p.153-156, doi:10.11337/ktpps1999.2006.153 ^ 上野敏昭、渡辺耕造、石川元一、転換畑における麦-大豆体系の転換期間 日本作物学会関東支部会報 p.51-52, doi:10.20768/jcskanto.1.0_51 ^ “国際アグリバイオ事業団(ISAAA)アグリバイオ最新情報【2012年8月31日】”. 日経バイオテクオンライン (2012年9月13日). 2018年4月13日閲覧。 ^ Martin Crespi and Susana Gálvez (2000年). “Molecular Mechanisms in Root Nodule Development”. 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サヤエンドウ", "コムギ(小麦)はイネ科コムギ属に属する一年草の植物。一般的にはパンコムギ(学名: Triticum aestivum)を指すが、広義にはクラブコムギ(学名: Triticum compactum)やデュラムコムギ(学名: Triticum durum)などコムギ属(学名: Triticum)の植物全般を指す。世界三大穀物の一つで、パンや麺類、菓子など様々に調理され、食用にされる。古くから栽培され、世界で最も生産量の多い穀物の一つである。年間生産量は約7.3億トンであり、これはトウモロコシの約10.4億トンには及ばないが、米の約7.4億トンにほぼ近い(2014年)。 他の三大穀物と同じく基礎食料であり、各国で生産された小麦はまずは国内で消費され、剰余が輸出される。 日本国内において、麦(小麦・大麦・はだか麦)は食糧法により価格統制が存在する。 コムギの実は硬い外皮に覆われ、その中に可食部である胚乳と、胚芽が存在する。この3部分の割合は外皮が13.5%、胚乳が84%、胚芽が2.5%である。主に食用とするのは胚乳部分であり、製粉して小麦粉とするのはこの部分である。果皮や胚芽部分(ふすま)も食用とすることはできるが、食味に劣るうえ小麦粉に混入すると品質が劣化しやすくなるため、一般的な小麦粉に使用することはない。しかし、ふすま部分には独特の風味と食物繊維など有用成分があるため、販売されることもあるほか、これを取り除かずそのまま粉にした全粒粉も存在する。 コムギは本来は越年生の植物であり、秋に種をまいて越年させ、春に発芽し夏に収穫するのが基本形である。これは、発芽のためにある程度の低温期間が継続する必要があるためである。しかし、突然変異によって低温期間を必要としない品種が生まれ、寒さが激しく種が冬を越せない地方や、逆に本来の収穫期に雨季を迎え収穫が困難になる地域において栽培されるようになった。この品種は春に播いて、夏の終わりに収穫するのが一般的である。播く時期から、前者を秋播き小麦、後者を春播き小麦と称する。 秋播きは10月中から11月初頭にかけてが良く、11月下旬から12月に入ってからの霜が降りる時期になると極端に発芽率が悪くなる。秋播きコムギの開花・結実は5月から6月、春播きコムギのそれは7月から8月であるが、この時期に雨が多いとコムギの種子内のグルテンの形成が鈍くなる。 コムギのゲノム解読は、2018年に完了している。64か国の610機関で構成する「国際コムギゲノム解読コンソーシアム」には、日本からは農業・食品産業技術総合研究機構や京都大学などが参加した。 収穫された種子は粉にして小麦粉として使われる。小麦粉はパンやうどん、中華麺、菓子、パスタ、そうめん、クスクス、天ぷらの衣などの原料となる。粒の硬さにより、生成される小麦粉の種類、用途が異なる。ビールは通常オオムギから作られるものであるが、白ビールはコムギの麦芽を多く使用して作られる。ウイスキーや工業用アルコールの原料にもなる。また、小麦粉からはグルテンを作ることができ、グルテンを加工すると麩を作ることができる。また、グルテンからは代用肉であるグルテンミート(セイタン)も作られ、ベジタリアンやマクロビオティック用、アレルギーや食事制限用の肉代用品として使用されている。 品質が劣るものや製粉の際に出るふすま(麩・麬=コムギの糠)は家畜の飼料となる。ふすまは、セルロースなど不溶性食物繊維を豊富に含むことが着目され、朝食用シリアル等にも用いられるようになった。また、コムギの胚芽には油が含まれ、食用の小麦胚芽油をとることができる。 植物界 Plantae 被子植物門 Magnoliophyta 単子葉植物綱 Liliopsida イネ目 Poales イネ科 Poaceae コムギ属 Triticum コムギ属 Triticum は、1小穂の稔実粒数、染色体数、ゲノム構成によって以下のように分けられる。 1粒系(稔実粒数1、2n=14、ゲノムAA) T. aegilopoides T. thaoudar T. monococcum(1粒コムギ) 2粒系(稔実粒数2、2n=28、ゲノムAABB) T. dicoccoides T. dicoccum(2粒コムギ、エンマーコムギ) T. pyromidale T. orientale(コーラサンコムギ) T. durum(デュラムコムギ、マカロニコムギ) T. turgidum(リベットコムギ) T. polonicum(ポーランドコムギ) T. persicum(ペルシャコムギ) 普通系(稔実粒数3~5、2n=42、ゲノムAABBDD) T. aestivum(普通コムギ、パンコムギ) T. spelta(スペルトコムギ〔ディンケルコムギ、ファッロコムギ〕) T. compactum(クラブコムギ、密穂コムギ) T. sphaerococcum(インド矮性コムギ) T. maha(マカコムギ) T. vavilovii(バビロビコムギ) チモフェービ系(稔実粒数2、2n=28、ゲノムAAGG) T. timopheevi 小麦は栽培時期等によって以下のように区別される。 播種時期 - 春播き小麦、秋播き小麦:コムギは秋播きが本来の作型であるが、低温要求性が小さい品種が作られ、それらが春播き小麦として利用されている。 粒の色 - 赤小麦、白小麦 粒の硬さ - 硬質小麦、中間質小麦、軟質小麦 ユーラシア大陸中部のコーカサス地方からメソポタミア地方にかけてが原産地と考えられている。1粒系コムギの栽培は1万5千年前頃に始まった。その後1粒系コムギはクサビコムギAegilops speltoidesと交雑し2粒コムギになり、さらに紀元前5500年頃に2粒系コムギは野生種のタルホコムギAe. squarrosaと交雑し、普通コムギT. aestivumが生まれたといわれる。 コムギの栽培はメソポタミア地方で始まり、紀元前3000年頃にはヨーロッパやアフリカに伝えられた。テル・アブ・フレイラなどから採掘された古代の野生種ムギはもともと成熟すると麦穂が風などにより容易に飛び散る性質を持っており、当初のコムギも収穫には非常に手間のかかる作物であったと考えられている。このため、その貴重さと保蔵のしやすさから一種の交換の媒体、通貨として取り扱われていたのではないかと推測されている。シリア地方からヨーロッパなどに栽培の範囲が広がるにつれて品種淘汰がなされ、この種子の飛び散りやすさの特性が失われ、主食穀物としての座を獲得することになった。栽培植物化の時期はオオムギの方がやや早く、当初はオオムギの方が重要な作物であった。これは、オオムギの収量の多さや収穫時期の早さ、粒の大きさなどによる。また、この時期はコムギもオオムギも粥として煮て食べるものであったため、調理方法の差が重要となることはなかった。しかし、製粉技術が進歩し碾き臼が登場すると、粉食により美味さが増し、グルテンを持ち様々な料理へと加工することが容易なコムギがオオムギに代わって最重要の作物となっていった。製粉のための水車を人類初の機械発明とする説もある。 聖書の中にも頻繁に「麦」や「小麦」が登場し、重要な作物であったことがわかる。聖書の中で小麦が最初に登場するのは、最初の書である『創世記』(30章14節)である。 中国への小麦の伝来は四千年前頃で、粉食用として広く栽培される様に成ったのは三千年前頃である。これは小麦が冬作物で、粟は稲(米)の端境期に収穫されたためで、七千年前から栽培が行われていた大麦とは対照的である。 中世にはヨーロッパでは既にコムギが最も重要な作物となっていたが、特に農民や下層の都市住民にはコムギだけで作られたパンは贅沢品であり、オオムギやエンバク、ライムギといった安価な穀物が食生活の中心となっていた。一方で栽培されるコムギにおいても、パンコムギはエンマーコムギやスペルトコムギよりも優勢であり、より高く評価されていた。パンコムギには易脱穀性があり、難脱穀性のエンマーコムギやスペルトコムギに比べ脱穀の手間が少なかったためである。 大航海時代に入ると、新大陸に移住したヨーロッパ人植民者たちが故郷からコムギを持ち込んで栽培し、新大陸においても基幹食料となっていった。アメリカ合衆国やカナダ、オーストラリアといった現在のコムギ主要生産国にコムギが持ち込まれたのもこの時期のことである。また、18世紀頃からヨーロッパでは徐々に市民の生活が向上し、また農法の改善や生産地の拡大によってコムギ生産が拡大するとともにコムギが食生活の中心となっていき、量の面でもライムギにかわってコムギが中心となっていった。 20世紀後半、ノーマン・ボーローグらによる小麦農林10号を親としたコムギの短稈種の研究が進められ、肥料を多量に使用しても丈が高くならず、倒伏の危険なしに大量の収穫が見込める品種が次々と開発された。この研究から緑の革命がおこり、これによって多収量の上安定した収穫が望める新品種が発展途上国を中心に普及し、メキシコなど多くの発展途上国でコムギは大幅な増収となり、生産性も大幅に改善された。その一方、旱魃など災害による地域的な不作もなくなってはいない。 中国経由で伝来されたと考えられている日本でも約2000年前の遺跡から小麦が出土しており、伝わったのはそれから遠くない弥生時代であると考えられている。奈良・平安期には五穀の1つとして重視された(『和名類聚抄』には「古牟岐(コムギ)・末牟岐(マムギ=「真麦」)」の名で伝わる)。一方で収穫前の大麦・小麦の青草を貴族や有力豪族が農民から買い上げて馬の飼料にすることが行われ、当時の政府がこれを禁止する太政官符が度々発令(751年、808年、819年、839年)されており、稲や粟と比較して食用作物としての認識が十分に広まっていなかったとする見方もある。ただ、これには当時の日本に製粉用の碾き臼がほとんど普及していない、という事情があった。柔らかい胚乳が硬い表皮で覆われた構造の麦粒を食用にするには、全体をひき潰してから小麦粉とふすまに分離する必要がある。碾き臼を持たない庶民は、搗き臼を使っての非効率な製粉作業に甘んじるしかなかった。その手間を嫌い、手早く利益を得る方法として小麦を飼料用に販売したとも考えられる。それ以降もコムギは全国で栽培され続けたが、製粉技術が未発達だったために使用法が限定されていた。それでも鎌倉時代にはいって二毛作が始まると、稲の裏作作物としてコムギが採用され、室町時代に入ると米に比べてムギの税率が軽かったために裏作でのコムギの栽培量が急速に増加した。 日本では製粉技術の発達が遅れたため、小麦その他「粉」を使用した食品は長らく贅沢品とされた。庶民がうどん、饅頭、ほうとう、すいとんなどの粉食品を気軽に口にできるようになったのは、碾き臼が普及した江戸時代以降である。稲の裏作として麦の生産が盛んに行われるようになり、粒のまま食べるオオムギと粉にして食べるコムギがともに食用として栽培された。都市では小麦粉を使用したうどんや天ぷらといった料理や饅頭などの和菓子の消費が大きくなる一方、自家消費の割合の大きい農村では製粉という手間のかかるコムギは日常ではなかなか口にできるものではなかった。このため、コムギなどの粉食はハレの日の料理として扱われることが多かった。 明治時代に入り、欧米からパンなど様々なコムギ料理が伝わってくるとコムギの消費も増大した。明治時代初期には36万ヘクタールだった栽培面積は、大正時代には50万ヘクタール、最も栽培面積の大きくなった第二次世界大戦中には70万から80万ヘクタールにのぼるようになった。第二次世界大戦後には学校給食がはじまり、パン主体の給食と食の欧米化、多様化はコムギの消費をさらに拡大させた。一方で、アメリカなどから安いコムギが大量に入ってくるようになったことや二毛作自体の衰退、そして1963年の三八豪雪と夏の多雨により小麦生産が大打撃を受けたことにより、栽培面積は急速に減少して、1963年には栽培面積60万ヘクタール、自給率20%前後だったものが、1973年には栽培面積は7.5万ヘクタールにまで減少し、自給率はわずか4%となった。その後、減反政策によってコムギの生産が奨励され、生産はやや復調傾向にある。2005年には栽培面積は21万ヘクタール、自給率は14%となっている。 コムギは、温帯から亜寒帯にかけて栽培されている。比較的乾燥に強く、生産限界は年間降水量500 mである。灌漑設備が整っている場合は、さらに乾燥した地域でも栽培できる。 地域別ではアジア州が4割強、ヨーロッパ州が3割強、北アメリカ州が1割強となる。国際連合食糧農業機関の統計資料 (FAOSTAT) によると、2006年の世界生産量は6億0595万トン。これは米の生産量(6億3461万トン)に匹敵する。トウモロコシ(6億9523万トン、2006年)についで生産量の多い農作物である。上位5位までの生産国、すなわち、中華人民共和国、インド、アメリカ合衆国、ロシア、フランスで総生産量のちょうど5割を生産している。 コムギの反収は、国によって大きな差がある。2012年の10アール当たりの反収は、集約型の農業が行われているヨーロッパでは、フランスが760 kg、ドイツが733 kg、イギリスが666 kgと非常に多収である。日本では411 kgであり、ヨーロッパ諸国の3分の2程度である。これは、日本では、本州以南では、水田稲作の裏作として副次的に作付されることが多く、コムギに最適な土壌管理等がなされにくいこと、また、北海道以外では、コムギの登熟期が梅雨にかかってしまい、収穫量や品質に重大な影響をあたえることがしばしばあるためである。なお、コムギの大生産国であるアメリカ合衆国では311 kg、オーストラリアでは215 kgと反収は低い。カザフスタンに至っては79 kgと、主要な生産国の中では最低レベルである。こういった国々では反収の低さを農園の広大さで補い、粗放栽培型の農業が行われている。ちなみに、コムギにおいては反収は先進国と発展途上国の間に明確な差は見られない。エジプトや、1980年代から1990年代にかけてのジンバブエ(ジンバブエ政府の政策により、2000年代には350 kg前後にまで激減した)のように10アール当たりの反収が550 kgから650 kgにものぼり、世界最高水準に達している途上国もある一方で、ロシアの反収は177 kgと、フランスの4分の1未満にすぎない。 日本の生産量は、86万300トン(2005年)、うち北海道での生産が全体の65%を占める。世界的に問題となる生育期の降水量に関しては、本州以南も申し分ないが、逆に、本州の多くでは、収穫期に梅雨入りしてしまい、コムギの収量・品質に多大な影響を与えてしまうため、国内では梅雨がない北海道が、栽培に適するためである(熟したコムギは水分を得ると発芽する〈穂発芽〉。穂発芽を起こしたコムギの値段は一気に下がる)。 国内の栽培品種についても、梅雨の存在が影を落としている。とりわけ東北南部以南では、水田における裏作として伝統的に栽培されてきた、登熟が早く、収穫期の多湿多雨に比較的強い、うどん等の在来麺類向けの品種が専ら生産され、パン向けは国内生産の半分に満たない。これは、パン向けのコムギは、特に収穫期の高温多湿多雨に弱いため、国内では品質・収量ともに安定的な生産が難しく、農家が敬遠する傾向があるためである。しかし、近年のコムギ国際価格の高騰と、製パン向けの国内産小麦に対する根強い国内需要があることから、パン向けの品種改良や、数少ない国内産のパン用小麦の争奪戦がおこなわれている。 コムギは最も貿易量が多い穀物である。2005年時点の総輸出量は1億2027万トン、総輸入量は1億2018万トン。例えばトウモロコシの総輸出量は8964万トン、米は2503万トンに過ぎない。輸出国はアメリカ合衆国2749万トン (22.9%)、フランス1602万トン (13.3%)、カナダ1398万トン (11.6%)、オーストラリア1392万トン (11.6%)、アルゼンチン1042万トン (8.7%) の順であり、この5か国だけで全輸出量の2/3を占める。輸入国は、スペイン (6.2%)、エジプト、イタリア、アルジェリア、日本、ブラジル、インドネシアの順に多い。この5か国で全輸入量の35%を占める。日本の輸入量は全輸入量の4.6%。 日本のコムギ輸入相手国は、アメリカ合衆国 (55.9%)、オーストラリア (22.2%)、カナダ (21.2%) であり、その他の国は0.7%に過ぎない。 食糧法第三章により、麦は政府の価格統制が存在する。 (麦等の輸入) 第四十五条 麦等の輸入を行おうとする者は、国際約束に従って農林水産大臣が定めて告示する額に、当該輸入に係る麦等の数量を乗じて得た額を、政府に納付しなければならない。ただし、次に掲げる場合は、この限りでない。 一 第四十二条第五項において準用する第三十条第二項の規定による政府の委託を受けて輸入する場合 二 第四十三条の規定による連名による申込みに応じて行う政府の買入れ及び売渡しに係る麦等を輸入する場合 三 国内の需給及び価格の安定に悪影響を及ぼすおそれのないものとして政令で定める麦等を輸入する場合 —食糧法 四十二条により、政府は麦等の輸入を目的とする買入れを行うことができる(政府麦)。 日本政府は、商社が輸入した小麦を購入した上で、政府売り渡し価格を製粉会社に提示、引き渡す制度になっている。製粉会社は、マークアップと呼ばれる上乗せ金 16,868円/tを政府に、拠出金 1,530円/tを、農水省OBが中心の組織、製粉振興会に支払うことで、原料を購入することができる。売り渡し価格は、年3回(現行年2回)、10%程度の増減幅で見直されているが、上記の情勢や天候に大きく左右されれば国際価格に影響を受ける。 2006年頃から上昇傾向にあった小麦価格は、2007年には主にオーストラリアでの大規模な不作によって小麦価格が高騰、それに伴い政府価格も改定し、パンや焼きそばなど小麦粉を使う製品の値段が上昇した。2008年10月には、売渡価格が20%値上げされるほか、2009年には国産買取価格も30%値上げされた。 四十五条により、政府および政府に委託を受けた以外の者が日本に小麦を輸入する際には、輸入関税に加え、国内生産農家保護のため麦等輸入納付金を納付しなければならない。 第四十五条三項に基づき輸入 45.20円/kg(小麦 メスリン及びライ小麦) その他の輸入 日本における農林水産省が認定する「農林認定品種」は、2010年までに170種を超える。日本に輸入される外国産の小麦は、複数品種をブレンドした銘柄で取引される。作付面積は農林水産省調べで、産年による。 コムギの蛋白質の大部分を占めるグルテンは、セリアック病という遺伝性免疫疾患を引き起こすことがあり、先進国の一般人の少なくとも約1%に影響している。罹患していても自覚しなかったり診断されていなかったりするのがセリアック病の例のほとんどであることを示唆するデータもある。唯一効果的な対処法として知られているのは、生涯を通してのグルテン除去食である。 セリアック病はコムギ蛋白質に対する過剰反応として発症し、小麦アレルギーと異なる。鑑別される他の疾患は、非セリアック・グルテン過敏症 (一般人口の0.5-13%が罹患している)、グルテン性運動失調(gluten ataxia)、疱疹状皮膚炎が挙げられる。グルテン摂取が引き起こすこういった疾患は、まとめてグルテン関連障害と呼ばれている。この障害の発症件数は世界各地で増加しており、その原因として、まず食の西洋化が指摘されている。 地中海沿岸域では非伝統的なコムギ系食材の使用が増え、アジアや中東や北アフリカでは伝統的な米と替わるようにコムギが定着しつつある。障害の増加の原因として他には、近年に開発された新しい種類のコムギが細胞毒性的なグルテン・ペプチド をより多く含んでいること、また、生地の発酵時間の減少によってパン等のベーカリー製品がより多くのグルテンを含んでいることも指摘されている。 ^ 総輸出量と総輸入量が等しくならないのは、輸送に要する時間が原因である。 ^ 岡田哲(編) 『コムギの食文化を知る事典』 東京堂出版、2001年、26頁。ISBN 4-4901-0573-8。 ^ “商品情報/小麦ふすま”. 日本製粉. 2018年9月23日閲覧。 ^ “コムギゲノム解読が完了 農研機構など610機関”. 日本経済新聞 朝刊: サイエンス面. 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PMID 17008163.  麦角菌 緑の革命・小麦農林10号 加水分解コムギ コムギ - 「健康食品」の安全性・有効性情報(国立健康・栄養研究所) コムギの話 - KOMUGI NETWORK(日本のコムギの遺伝・育種の研究者が構築したデータベース) 新形質低アミロース小麦の 加工適性と用途開発 (PDF) - 公益財団法人 北海道科学技術総合振興センター", "ラッカセイ(漢字: 落花生、学名: Arachis hypogaea、英語: peanut または groundnut)はマメ亜科ラッカセイ属の一年草。食用にされる種子は別名ナンキンマメ(南京豆)、ピーナッツともいう。 方言名に地豆(ぢまめ、ジーマーミ。沖縄方言)、唐人豆(とうじんまめ)、異人豆(いじんまめ)、だっきしょ(落花生。鹿児島県)、ドーハッセン、ローハッセン(落花生。長崎県)などがある。 中国語では「花生」(ホワション 拼音: huāshēng)、「落花生」(ルオホワション 拼音: luòhuāshēng)、別名「長生果」。台湾語では「塗豆」(「土豆」とも表記。トータウ thô͘-tāu)。客家語では「番豆」(ファンテウ)ともいう。 ピーナット(Peanut)または、ピーナッツ(peanuts)の語源はPeaピー(エンドウマメ)Nutsナッツ(木の実)であるが、名称のみで、実際はエンドウマメの木の実ではない。 草丈は25-50cm。夏に黄色の花を咲かせる。受粉後、数日経つと子房柄(子房と花托との間の部分)が下方に伸びて地中に潜り込み、子房の部分が膨らんで地中で結実する(=地下結実性)。 南米原産で東アジアを経由して、江戸時代に日本に持ち込まれたと言われている。日本では主に食用として栽培されている。 花が落ちるようにして(花が受粉して落ちて)地中で実を生むことから「落花生」という名前が付けられた。 原産地は南アメリカ大陸である。最も古い出土品は、ペルーのリマ近郊にある紀元前2500年前の遺跡から出土した大量のラッカセイの殻である。また、紀元前850年頃のモチェ文化の墳墓にあった副葬品にラッカセイが含まれていることから、ラッカセイが生活の中で重要な位置を占めていたことが分かる。 その後、メキシコには紀元前6世紀までに伝わっていた。16世紀のスペイン人修道士の記録では、アステカ族はラッカセイを食糧ではなく薬と考えていた。また、カリブ海の島々でもラッカセイの栽培は行われており、そこでは重要な食糧とされていたという。 大航海時代の始まりで、ラッカセイはヨーロッパにも紹介されたが、土の中で成長するラッカセイはそれまでのマメ類の常識とはかけ離れた、奇妙な存在と感じられた。気候もあまり適さないことから、ヨーロッパでの栽培はあまり行われなかった。 南アメリカ以外にラッカセイの栽培が広がったのは16世紀中頃である。ポルトガルの船乗りたちが西アフリカ-ブラジル間の奴隷貿易を維持するためにアフリカに持ち込んだのが始まりで、そのまま西アフリカ、南部アフリカ、ポルトガル領インドに栽培地が広がっていく。ほぼ同時期にスペインへ伝わったラッカセイは南ヨーロッパ、北アフリカへと渡っていく。さらにインドネシア、フィリピンへの持ち込みもほぼ同時期である。 日本には東アジア経由で1706年にラッカセイが伝来し、「南京豆」と呼ばれた。ただし、現在の日本での栽培種はこの南京豆ではなく、明治維新以降に導入された品種である。 18世紀以前の北アメリカでは、ラッカセイは家畜の餌か黒人奴隷向け食糧として栽培されていた。南北戦争による食糧事情の悪化により白人もラッカセイを食べるようになり、「ピーナツ」と呼ばれ愛されるようになった。 ラッカセイの実を食べる時は、殻(莢、豆果)のまま炒るか殻からむいたものを炒ることが多い。もしくは炒った後にバター(またはパーム油など)を絡める。 また、殻のまま塩茹で(茹でピー)にする。北海道、東北地方、千葉県の一部では節分の豆まきで殻付きで炒った落花生を用いる地域もある。 中国や台湾では殻ごと塩、八角などの香辛料を加えた湯で茹でる調理や、蒸篭で蒸すことも多い。茹で落花生は日本でも静岡県、鹿児島県などでは一般的である。長崎県大村市では筑前煮に落花生を入れる習慣がある。 中国では皮付きの種を油で揚げてから塩をまぶす方法も一般的である。これは朝食に食べる粥の具としても使う。 ラッカセイの薄皮には、レスベラトロールが含まれ、薄皮ごと食べる方が健康に良いと言われている。 加熱したピーナッツの外側に砂糖をまぶしたり、小麦粉の衣を付けて揚げたりした豆菓子や、チョコレート菓子などの加工品も生産・販売されている。鹿児島県奄美群島には熱した黒砂糖と絡めたがじゃ豆(さた豆)、味噌も加えた味噌豆といった菓子がある。千葉県の名産品には「落花生の甘納豆」が存在している。他には、砕いて団子の中に入れる餡にしたり、揚げせんべいに加えられたりもする。 ラッカセイの日本での主産地である千葉・茨城県では、炒ったラッカセイを甘辛く味つけた味噌であえた惣菜が郷土料理となっており、スーパーの惣菜コーナーなどでも売られている。日の出味噌の加工品から名が広がり「味噌ピー」と呼ばれている。 料理では加熱して砕いたラッカセイをゴマ同様に薬味に使う場合があり、中華料理のうち四川料理、台湾料理などではよく見られる。また、龍のひげ飴(クルタレ)、団子などの菓子に入れられることもある。 福建省厦門市や台湾には小豆の代わりにラッカセイで作ったぜんざいともいうべき「花生湯」「花生仁湯」がある。 広東料理のスープ料理に鶏の足(もみじ)、ナツメなどと薄皮付きのラッカセイを煮込んだ「紅棗鷄腳花生湯」や、ナツメをパパイヤに変えた「木瓜鷄腳花生湯」などがある。広東粥には豚のあばら骨、タラの干物、するめや干しエビと薄皮付きのラッカセイを入れて煮込んだ「排骨花生粥」「柴魚花生粥」「艇仔粥」などもある。 沖縄県では「ジーマーミ(地豆)」と呼び、水分を含ませてすり潰したラッカセイにサツマイモのデンプンを加えて加熱して作るジーマーミ豆腐がある。鹿児島県の奄美群島にもあり、鹿児島市や鹿屋市ではだっきしょ豆腐と呼ぶ。ごま豆腐に似た食感のものである。 中国の福建省、台湾、ベトナムなどでは加熱後、粉状にしたラッカセイと砂糖を合わせて押し固めた、落雁に似た「花生酥」がある。福建省、台湾、マレーシアには更に麦芽糖を加えて固めた貢糖もある。 ラッカセイを炒ってすり潰して練るとピーナッツバターや「花生醤」(ホワションジアン)を作ることができる。 殻付きの落花生。 皮を剥いた状態の落花生。バターピーナッツ ピーナツ味噌(味噌ピー) がじゃ豆 油脂含有分が高く、ピーナッツオイルが製造されている。不飽和脂肪酸、オレイン酸、リノール酸が多く、血中のコレステロールを下げ、動脈硬化の予防が期待できる。広東料理など、中華料理にはよく使用されている。また、サラダ油、マーガリンの原料にもなる。工業用途では石鹸、シャンプー、塗料樹脂などにも原料として応用できる。 殻は肥料、干して燃料にするほか、粉砕して、プラスチックのフィラー、コルク代用品、研磨材などに利用することができる。 ラッカセイは(蕎麦同様に)重篤な食物アレルギー(アナフィラキシー)を引き起こす可能性のある食材として知られている。ナッツアレルギーを持った女性がピーナッツバター入りのサンドイッチを食べたボーイフレンドとキスをした後、重度のアレルギー症状で死亡する事故も起きている。 ラッカセイは、材料・加工品ともにアレルギー物質を含む食品として食品衛生法施行規則、別表第5の2による特定原材料として指定されている。同法第11条及び同規則第5条による特定原材料を含む旨の表示が義務付けられている。しかし、飲食店では必ずしも表示されておらず、沖縄料理店でジーマーミ豆腐の主原料がラッカセイであると分からず食べてしまうこともある。 主たる生産地 以下に、国際連合食糧農業機関(FAO)による2004年時点の生産量、輸出量、輸入量のうち、上位5カ国を示す。いずれも重量ベースである。 生産量は、中国(1,441万トン)、インド(590万トン)、ナイジェリア(294万トン)、アメリカ合衆国(211万トン)、インドネシア(147万トン)である。中国が約4割、上位5カ国で全生産量の75%を占める。統計値は殻付き (Groundnuts in Shell) である。 むきみの輸出と輸入 未加工品の落花生は主にむきみ (Groundnuts Shelled) の形で貿易ルートに乗っている。輸出では、中国(32.5万トン)、アメリカ合衆国(14.6万トン)、インド(11.2万トン)、アルゼンチン(7.0万トン)、オランダ(6.3万トン)である。輸入では、オランダ(22.5万トン)の輸入量が突出しており、ついでイギリス(8.5万トン)、カナダ(8.0万トン)、メキシコ(7.6万トン)、ドイツ(6.0万トン)である。日本のむきみ輸入量は世界第7位に位置し、主に中国から輸入されている。 殻付き むきみと比較すると、殻付きの貿易量は少ない。輸出量は、中国(7.8万トン)、インド(6.5万トン)、アメリカ合衆国(1.7万トン)、エジプト(1.1万トン)である。輸入ではメキシコ(2.2万トン)、イタリア(2.1万トン)、インドネシア(1.9万トン)、ドイツ(1.4万トン)、スペイン(1.4万トン)である。 むきみ、殻付きのほか、煎る・揚げるといった加工品、ピーナツバターのようにさらに加工が進んだ形の商品も貿易ルートに乗っており、金額ベースでは加工品の占める割合が高い。 日本における生産量は、農林水産省の『作物統計』によると、2015年の生産量はむきみ換算で1万2,300トンである。輸入量は、財務省の貿易統計によると9万8,867トンであった。県別の生産量では、千葉県が9590トンで突出しており、78.0%を生産している。千葉県は農林総合研究センターに「落花生研究室」を設けている。品種として「ナカテユタカ」「郷の香」「おおまさり」のほか、2018年に命名した「Qなっつ」のように品種改良やブランド化、高齢化で減少傾向にある栽培農家数の回復にも力を入れている。特に千葉県中央部の八街市が生産量では日本一を誇る。県別では茨城県(1500トン、12.2%)が続き、千葉県と合わせると9割を超える。以下、神奈川県、栃木県、鹿児島県が続く。 日本で初めて栽培されたのは1871年(明治4年)に神奈川県大磯町の農家、渡辺慶次郎が横浜の親戚から落花生の種を譲り受け、自分の畑に蒔いたもの。花は咲いたが何も実を結ばないので「こんなもの」と足蹴りしたら地中から鞘(殻)が出てきて、地下結実性であることが判明した。経済栽培に向けて、販売先の確保のため、地元旅館に試食を依頼したが「客は喜んだが、座敷が汚されて困る」と断られた逸話が残っている。その後、明治10年に0.4リットル袋入りにて横浜の駄菓子屋に売り込んだところ盛況となり、採算がとれる商業生産への見通しがたった。千葉県においては1876年より栽培が開始されている。 日本で生産されている主な品種は以下の通り。 千葉半立 ナカテユタカ(千葉県農試育成) 郷の香(千葉県農試育成) 立落花生一号(神奈川県農試選抜) 改良半立(神奈川県農試選抜) フクマサリ(千葉県農試育成) 金時 おおまさり 日本国内で消費されている安価なラッカセイの大部分は中国産で、主に大粒の品種を栽培している山東省、河北省、天津市産の輸入が多い。「南京豆」という別名に使われている江蘇省の南京など、華中・華南地方産のラッカセイは小粒の物が多い。 2000年を過ぎた頃から相場が下がり始め、2006年頃には100グラムあたり40円にまで下がった。2007年頃に相場が上がり、100グラムあたり100円となった。しかし、店によっては100グラムあたり65円で売っていることもあり、販売ルートによって価格に差がある。 ラッカセイはこんにゃく芋と同様に関税割当制度の対象であり、2007年は1次税率が10%、2次税率が617円/kgと保護関税が課せられている。 ^ 文部科学省 「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 厚生労働省 「日本人の食事摂取基準(2015年版)」 ^ USDA栄養データベースUnited States Department of Agriculture ^ http://www.nal.usda.gov/fnic/foodcomp/search/ ^ [『タンパク質・アミノ酸の必要量 WHO/FAO/UNU合同専門協議会報告』日本アミノ酸学会監訳、医歯薬出版、2009年05月。ISBN 978-4263705681 邦訳元 Protein and amino acid requirements in human nutrition, Report of a Joint WHO/FAO/UNU Expert Consultation, 2007] ^ 英語発音: [ˈpiːnʌt]。日本語では英語からの外来語をカタカナで「ピーナッツ」または「ピーナツ」と表記。英語で「peanut」はこの植物全体を指しうるが、日本で「ピーナッツ」は、専らこの植物の種子部分(特に、食用のそれ)を指していることが多い。 ^ 張璐、『本経逢原』、清。 ^ a b c d e ジョンソン 1999, p. 125-131. ^ ジョンソン 1999, p. 133-136. ^ a b 『落花生 栽培手引き』p48、2010年3月、相州落花生協議会。 ^ 大正10年に神奈川県秦野市曽屋原に軍の飛行場が建設されることとなり、10月上旬に収穫が強制されたものを塩水につけて茹でたところ味がよかったので、だんだんと神奈川県西部地域に広がった。軍が生んだ産品ともいえる。 ^ 「情報:農と環境と医療 47号」(北里大学学長室通信)No.47 2009/2/1 ^ ピーナツは皮ごと食べよう : 視的!健康論 ~眼科医坪田一男のアンチエイジング生活~ (読売新聞/ヨミドクター、2010年10月21日) ^ “「みそピー」物語”. 日の出味噌ホームページ. 2018年10月20日閲覧。 ^ KERI BLAKINGER Quebec woman opens up about daughter’s tragic death after allergic reaction from kissing boyfriend who ate peanut butter sandwich Daily News2016年6月13日 ^ FAOによる生産統計(2004年) ^ FAOによる輸出統計(2004年) ^ FAOによる輸入統計(2004年) ^ 「27年産豆類(乾燥子実)及びそばの収穫量(全国農業地域別・都道府県別)」『作物統計』、2016年、農林水産省 [1] ^ 千葉県農林総合研究センター・落花生研究室(2018年7月26日閲覧) ^ 落花生新品種は「Qなっつ」千葉県、10年ぶり/甘み強く後味あっさり■秋デビュー『日本経済新聞』朝刊2018年7月20日(首都圏経済面)2018年7月26日閲覧。 ^ 『落花生 栽培手引き』p47、2010年3月、相州落花生協議会。同時期に神奈川県二宮町の二見庄兵衛も「南京豆」の種子を入手し、試作した。後年、この中から立性種を選別した。 ^ 農林水産省年報 第2章 国際部 シルヴィア・ジョンソン; 金原瑞人訳 『世界を変えた野菜読本』 晶文社、1999年。ISBN 4794964129。  食物アレルギー ピーナッツバター アフラトキシン ジーマーミ豆腐 ディーゼルエンジン - バイオディーゼル ジョージ・ワシントン・カーヴァー - アメリカ出身の植物学者で、ラッカセイを原料に数百種類の食料品・生活用品などを考案した。 プランターズ(英語版)", "ソラマメ(蚕豆、空豆、英: Broad bean または Fava bean、学名 Vicia faba)は、マメ科の一年草または越年草。別名、ノラマメ(野良豆)、ナツマメ(夏豆)、テンマメ(天豆)、シガツマメ(四月豆)、コヤマメ(高野豆)。 地中海、西南アジアが原産地と推測される。また、大粒種はアルジェリア周辺、小粒種はカスピ海南岸が原産地であるとする二源説もある。イスラエルの新石器時代の遺跡からも出土している。インゲンマメが普及する以前はソラマメは古代エジプトやギリシア、ローマにおいて食されていた。紀元前3000年以降中国に伝播、日本へは8世紀ごろ渡来したといわれている。インド僧・菩提仙那が渡日し、行基に贈ったのが始まりともいう。 古くから世界各地で栽培され、食用にされている。現在は南米、北米、ウガンダ、スーダンなどで栽培されている他、中華人民共和国河北省張家口で最高級品が栽培されている。 高さ50cmほど。秋に播種する。花期は3−4月で直径3cmほどで薄い紫の花弁に黒色の斑紋のある白い花を咲かせる。収穫は5月頃から。長さ10−30cmほどのサヤには3−4個の種が含まれている。 和名の由来は、豆果(さや)が空に向かってつくため「空豆」、または蚕を飼う初夏に食べ、さやの形が蚕に似ていることから「蚕豆」という字があてられた。酒処では「天豆」と表示している場合も多い。 塩ゆでするか、さやごと焼いて、中のマメをそのまま食べる。揚げて塩をふったものはいかり豆(フライビーンズ)と呼ばれる。また、煮物や炒め物、スープなどに広く用いられ、アジアでは豆板醤の原料として利用される。ヒヨコマメと共に、中東のファラフェルの材料になる。中国ではもやしを生で食する。 人体において、酸化還元酵素のグルコース-6-リン酸デヒドロゲナーゼに欠陥があると、ソラマメを食べて溶血性貧血を起こし死に至ることがあり、これをソラマメ中毒と言う。 大豆アレルギーを回避するための代用食品の原料にも用いられる。 花弁の黒点が死を連想させたため、古代ギリシャ人はソラマメを葬儀に用い、不吉として嫌われることもあった。古代ギリシアの数学者・哲学者で「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」などで有名なピタゴラスは、ソラマメの中空の茎が冥界(ハーデース)と地上を結んでおり、豆には死者の魂が入っているかも知れないと考えた。現代ギリシアでは \"fava\" はソラマメでなくエンドウマメを意味する。古代ローマ人もソラマメを葬儀に用いたが、食べることは厭わず、葬儀の際の食事に供することもした。イタリアでは、現在にいたるまで「甘いそら豆」 (fave dolci) や「死者のそら豆」 (fave dei morte) という、細かく刻んだアーモンド、卵白、砂糖で作ったソラマメ形の菓子を死者の日 (I Morti) に作って食べる習慣がある。 ソラマメの豆果 豆果の中のソラマメ 播種用に完熟させ乾燥したソラマメの種子 茹でたソラマメ いかり豆 ペコリーノとファーベ ^ 文部科学省、「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 厚生労働省 「日本人の食事摂取基準(2015年版)」 ^ “Vicia faba (Broad bean)”. Biological Records Centre and Botanical Society of Britain and Ireland. 2017年5月31日閲覧。 バーバラ・サンティッチ、ジェフ・ブライアント(編) 『世界の食用植物文化図鑑』 山本紀夫(訳)、柊風舎、210ページ。ISBN 978-4-903530-35-2。 ファラフェル - ヒヨコマメまたはソラマメから作ったコロッケのような中東の食べ物。 なかやみわ『そらまめくんのベッド』 - 日本の現代絵本の代表的作品の一つ。 ペコリーノ - イタリアのローマでは、ペコリーノとともに食べる習慣がある。 フェーヴ (fève) プトレマイオス9世 - ラテュロス(ソラマメの意)という渾名を持っていた。 アイリス家庭菜園.COM 野菜図鑑「ソラマメ」" ]
ABC01-02-0263
現在は平成という元号が使われていますが、645年に、日本で最初の元号として定められた元号は何でしょう?
大化
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[ "大化", "養老", "神亀", "大宝 (日本)", "大同 (日本)" ]
[ "大化(たいか)は、日本で最初の元号。西暦でいう645年から650年までの期間を指す。 『日本書紀』によれば「天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年とす」と記され、皇極天皇4年6月19日(ユリウス暦645年7月17日)の孝徳天皇即位のときから実施された。この建元により、日本で元号が使われ始めた。 大化6年2月15日(ユリウス暦650年3月22日)白雉に改元。 不明 645年(大化元年) 東国などの国司に戸籍の作成、田の調査を命じる。難波長柄豊碕宮へ遷都。 646年(大化2年) 改新の詔(大化改新の詔)、薄葬令を発する。 647年(大化3年) 七色十三階の官位を制定する。 648年(大化4年) 磐舟柵を造る。 649年(大化5年) 官位十九階を制定する。蘇我倉山田石川麻呂、謀反の疑いをかけられ山田寺で自殺する。 『書経』(『尚書』)大誥 「肆予大化誘我友邦君」 『漢書』巻56 「古者修教訓之官務以徳善化民、已大化之後天下常亡一人之獄矣」 『宋書』巻20 「神武鷹揚、大化咸煕」", "養老(ようろう)は、日本の元号。霊亀の後、神亀の前。717年から724年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。 霊亀3年11月17日(ユリウス暦717年12月24日) 養老の滝命名に因んで改元 養老8年2月4日(ユリウス暦724年3月3日) 神亀に改元 717年(養老元年) 4月23日、行基の活動を禁圧する。 718年(養老2年) 5月2日、能登国・安房国を建てる。藤原不比等、養老律令を選定する。 719年(養老3年) 9月、天下の民戸に陸田を給する。 720年(養老4年) 2月、隼人の反乱勃発。5月、『日本書紀』完成、撰上。8月、藤原不比等没(63)。 721年(養老5年) 6月、諏方国を建てる。 722年(養老6年) 4月、良田100万町の開墾を計画する。 723年(養老7年) 4月17日、田地開墾のため、三世一身法施行する。 ※は小の月を示す。", "神亀(じんき、しんき、正字体:神龜)は、日本の元号の一つ。養老の後、天平の前。724年から729年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 養老8年2月4日(ユリウス暦724年3月3日) - 白亀出現の瑞祥により改元。 神亀6年8月5日(ユリウス暦729年9月2日) - 天平に改元 神亀元(724)年、蝦夷反乱する。藤原宇合を持節大将軍に任ずる。陸奥国に多賀城を設置。 神亀4(727)年、渤海使が初めて来日。 神亀6(729)年2月12日、長屋王(46)が反乱の疑いにより宅に兵を囲まれ自害(長屋王の変)。3月、口分田を悉く収納して班田する。 ※は小の月を示す。 神亀 - 中国・南北朝時代の王朝、北魏の元号。518年 - 520年。 ^ 宇治谷孟「続日本紀 (上)」256P", "大宝(たいほう、だいほう、正字体:大寶)は、日本の元号のひとつで慶雲の前。701年 - 704年の期間を指す。この時代の天皇は文武天皇。 大宝年間には完成した大宝律令が施行され、都城としての藤原京や遣唐使派遣ならび、元号制定も律令国家成立の一環として行われた。『日本書紀』に拠れば、大宝以前にも大化(645年 - 650年)、白雉(650年 - 654年)、1年だけ存在した朱鳥(686年)などの年号があったとされるが、日本における元号制度は断絶状態にあり、「大宝」の改元により元号使用は再開される。以降、元号制度は途切れることなく現在に至るまで続いている。 文武天皇5年3月21日(ユリウス暦701年5月3日)、対馬嶋からの金の献上により大宝に改元。但し後に、この金の献上は対馬産ではないと指摘される(続日本紀)。 大宝4年5月10日(ユリウス暦704年6月16日)、藤原京における瑞雲の発現により慶雲に改元。 『易経』繋辞下 「天地之大徳曰生、聖人之大宝曰位」 不明 大宝元年(701年) 大宝律令を撰定し、新令を明法博士に講義させる。地方行政区画も国評制から国郡里制へと改まった。 大宝2年(702年) 6月 : 粟田真人、高橋笠間ら大宝の遣唐使を唐へ派遣。 12月 : 持統太上天皇崩御。 この年 大宝律令を施行。 諸国に度量器を頒布。 大宝3年(703年) 刑部親王(忍壁皇子)を知太政官事に任ずる。庚午年籍を造籍する。 大宝4年(704年) - 全国の国印が一斉に鋳造された。それを機会に国名に用いる文字が改定された(例、科野→信濃)。 大宝年間(701年 - 704年) 讃岐守道守、那珂郡万濃(満濃)池を築く。 ※は小の月を示す。 ^ 瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社、1972年、28頁 大宝 (梁) - 中国・南北朝時代の王朝、梁の元号。550年 - 551年。 大宝 (南漢) - 中国・五代十国時代の王朝、南漢の元号。958年 - 971年。", "大同(だいどう)は、日本の元号の一つ。延暦の後、弘仁の前。806年から810年までの期間を指す。この時代の天皇は平城天皇、嵯峨天皇。 桓武天皇崩御後践祚した平城天皇が即座に改元したことについて「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している。 延暦25年5月18日(ユリウス暦806年6月8日) 改元 大同5年9月19日(ユリウス暦810年10月20日) 弘仁に改元 大同元(806)年5月、六道観察使を置く。 大同2(807)年2月、古語拾遺が編纂される。 大同2(807)年4月、参議の号を廃し、観察使を置く。近衛府を左近衛府、中衛府を右近衛府とする。 大同5(810)年3月、嵯峨天皇が蔵人所設置。蔵人頭には藤原冬嗣・巨勢野足。 ※は小の月を示す。 ^ 『平安京の時代』 吉川弘文館 大同" ]
ABC01-02-0264
従来の吉田静子の記録を塗り替え、史上最年少で卓球世界選手権の日本代表メンバーに選ばれた選手は誰でしょう?
福原愛
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[ "福原愛", "松平賢二", "韓陽", "張一博", "森薗政崇" ]
[ "福原 愛(ふくはら あい、1988年11月1日 - )は、1990年代から2010年代にかけて活躍した日本の卓球選手。宮城県仙台市生まれ、身長155cm、血液型B型。全日本空輸(ANA)に所属。2016年11月現在は、夫・江宏傑(2016年9月 - )と夫妻でドイツ在住。2017年6月、第1子妊娠を報告。2017年10月13日朝、2995gの女児を出産。 史上初の全日本グランドスラム達成者であり、五輪2大会連続のメダリスト。ITTF世界ランキング最高位は4位(2015年10月)。段級位は7段。日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。 日本では幼少期からテレビなどマスメディアに頻繁に登場し、「卓球の愛ちゃん」「天才卓球少女・愛ちゃん」「泣き虫・愛ちゃん」等と呼ばれ、国際大会で活躍するようになってからは中華圏で「小愛」(シャオアイ)や「瓷娃娃」(ツーワーワー)等と呼ばれ親しまれている。 その注目度から、内閣府「災害被害を軽減する国民運動サポーター」、中国等との間の様々な親善大使、出身地である仙台市の観光大使、CM出演なども務めてきた。 2018年10月、現役引退を表明した。 秋田県大曲市(現・大仙市)出身(2013年10月6日逝去)の父親(当時、宮城県仙台市で会社経営)と、宮城県登米郡石越町(現・登米市)出身の母親(元・卓球選手)との間に、1988年(昭和63年)11月1日に宮城県仙台市の病院にて出生。福原自身は、仙台市青葉区国見ヶ丘出身としている。「愛」という名は、出生の1年前に亡くなった祖母「愛子」からもらった。 福原は6ヶ月でスイミングを始めた。10歳年上の兄が、東京在住の中国の卓球元チャンピオンに仙台に来てもらって1-2回/月の指導を受けていたが、費用面から仙台に移住してもらって毎日指導してもらえる環境を整えた。このような環境下、母と兄の影響で、1992年(平成4年)8月13日に母からラケットをもらい、福原も卓球を始めた。すなわち、3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受けたが、プレイするには身長が低かったため、ゴミ箱や並べた缶詰の上に乗って高さ調整をして、平日4時間、休日8時間の練習を毎日欠かさず行った。また、週末になると栃木県の有名な卓球クラブに出向き、泊まりがけで練習した。練習を始めて数ヶ月でミスなく100本ラリーが出来るようになり、4歳6ヶ月で1000本ラリーが出来るようになった。卓球クラブ「仙台ジュニアクラブ」に所属した。 初の公式戦出場は、1993年(平成5年)6月(4歳時)に開催された「宮城県小学生卓球選手権大会」であり、同大会で優勝、全国大会の同クラスでもベスト16に入った。公式戦中に泣き顔を見せたのはこの4歳のときだけである。マスコミは、幼稚園生が小学生のクラスで快進撃を続ける姿に注目し、「天才卓球少女」と報道した。これ以降、行く先々にマスコミが集まるようになるが(4歳でテレビでの初インタビューを受けた)、天真爛漫に振舞う福原はテレビでもしばしば取り上げられ「卓球の愛ちゃん」として知られるようになり、また、厳しい練習にも泣きながら耐える姿や、試合中に不利になり始めると泣き出す姿から「泣き虫・愛ちゃん」とも呼ばれるようになって、一躍国民的アイドルとなった。 同年12月10日放送のフジテレビ「第2回 明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演。すると、番組内での対戦で明石家さんま[出典無効](当時38歳)が福原(当時5歳)を泣かせた。デーモン小暮との対戦でも泣かされた[出典無効]。 1994年(平成6年)になると卓球専門誌「卓球レポート」の表紙に4月号で初登場し、同年5月には社会人リーグの大会(鹿児島県)、同年6月には社会人の全日本実業団卓球選手権大会(大阪府)に呼ばれてエキシビションマッチでプレーするなど、本来の卓球界においても全国各地に呼ばれる人気者となった。選手として2度目の全国大会に出場すると、個別にマスコミ対応していては福原の負担になるため初めて共同記者会見が開かれ、5歳10ヶ月の幼稚園生ながら全日本選手権バンビの部(小2以下)において、史上最年少で優勝した。 同年12月にはウッチャンナンチャンの南原清隆[出典無効]が「泣いた瞬間の愛ちゃんと記念撮影を撮る」という企画で福原と対戦して泣かせた。「初泣き!初打ち! お正月の愛ちゃん!! 八丈島で(秘)特訓」でも母との1000本ラリーが完遂しなかったため、泣きながら再度ラリーを続ける姿が放送された。 すなわち、公式戦では4歳時にしか泣いていないが、後に福原が「泣くまで撮影が続けられた」と語ったように、長年『あっぱれさんま大先生』に出演し子役の扱い方を知っているはずの明石家さんまが泣かし、南原は泣かすことを公言して対戦し、母親から泣かせ方を伝授されるなど、バラエティ番組では制作側によって意図的に泣かされ、その泣き姿がスポーツ報道における福原の紹介ビデオ等でも繰り返し放送されたことで、まるで子役タレントのキャッチコピーのような「泣き虫・愛ちゃん」というイメージが固定化されていった。その一方、同年の大会以降も数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作っていくことで、「天才卓球少女」の名に違わぬ活躍を続けた。 仙台白百合学園幼稚園年長の1995年(平成7年)3月(6歳時)にテレビゲームソフトメーカー「ハドソン」のCMに初出演。同年4月に仙台市立吉成小学校に入学。 小4(10歳4ヶ月)でプロ宣言し、ミキハウス(大阪府八尾市)と専属契約を結び、1998年(平成10年)8月に仙台市より八尾市へ引っ越した。 福原は当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになった。2年間通った王子卓球センターの作馬六郎から「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛の代名詞ともなった(今はほとんど使っていない)。なお、同センター前の道路は、福原の功績により「ピンポン通り」と命名された。 大阪では公立小学校に通っていた。小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、福原は既にプロ契約をしていたため、アマチュア規程により全中やインターハイなどには出場できないという懸念があった。結局地元公立中へ入学したが、一ヶ月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学校に転校した。青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校。法人は卓球専用の体育館などの施設を備えている。同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由である。これにより福原は多くの卓球遠征が可能になった(その後福原は「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中もインターハイも国体も特例で出場できるようになった)。ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原をその所属とした(他には青森大学の坂本竜介などがいて、混合ダブルスペアをよく組んでいる)。小西杏とはダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼亜衣と組んでいる)。 以降、中学の3年間は世界各地のITTFプロツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。選考会などを経て14歳の若さで2003年世界卓球選手権個人戦に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8に進出。この結果により翌2004年3月の世界選手権団体戦と、4月のアテネ五輪アジア予選出場が内定。2001年にはコーチの黄智敏と1分間に175回のラリーを続けるというギネス記録を達成している。 2004年4月、青森山田高等学校に進学。日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選でシングルス3位となり、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取り、史上最年少の15歳で出場した(他の出場者は梅村礼、藤沼亜衣。なお、小西杏と組んで挑んだダブルスは予選で敗退)。長嶋茂雄の代役として、聖火リレーの最終走者も務めた。アテネ五輪では1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに辛勝、3回戦はガオ・ジュン(高軍)に圧勝、4回戦はキム・キョンア(金暻娥)に負けた。福原の試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかっていない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得。これはアテネ五輪放送の中でトップクラスの数字だった。 2005年3月にはミキハウスとの契約が満了し、翌月グランプリとの契約を結ぶ。グランプリは福原が青森山田高校に通うことを承認、中国リーグに2年連続で参加することも支援。直後に、中国で最もレベルの高い中国超級(スーパー)リーグに参加、遼寧本鋼チームと契約した。この超級リーグは週1、2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいたため、シングルスの出番が少なくダブルスが多かった。期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場した。8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行った。2005年2月にはアジアカップで強豪の郭焱を破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場したが、リ・ジャウエイや帖雅娜といった強豪相手に快進撃を続け3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげた。2006年5月には世界選手権ブレーメン大会で銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)を獲得した。放送したテレビ東京の視聴率は最高12%を出した。好調だった2006年度はチームを広東佐川急便に変えて超級リーグに参加(なお、チームの2006年度オーナー権を福原サイド(千秀企画)が買っている)。 父は高校卒業後の進路として当初、大学も青森山田学園系列の青森大学を考えていたが、福原本人が早稲田大学スポーツ科学部を強く志望し、2006年8月より書類提出、面接を経て9月13日に合格が決まった。同学部による2年目の実施となるトップアスリート入学試験によるものであった。 2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し青森から東京の阿佐ヶ谷に引っ越した。早稲田大学入学前「インカレなど大学の試合に出たい」との意向を示し、彼女の入学を受けて関東学連と日本卓球協会は、プロ選手が大学の大会に出場できるように事前に規約改正を行った。しかし同年5月に行われた春季リーグでチームを一部昇格に導くことはできず、それ以降インカレ、リーグ戦に出場することはなかった(翌2008年春リーグから関東学生リーグは1部所属校を6校から8校と増やした。)。2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。これについて父親が「大学進学で東京に住むこともあり、環境すべてを見直したかった」と説明した。 2007年5月の第49回世界卓球選手権個人戦では3回戦敗退。大学の試合には2007年春リーグ以外出場しておらず、個人練習での強化に努めている。2007年4月より『とっさの中国語』(NHK教育)にレギュラー出演した。2008年1月、世界ランクが10位と、世界ランクの上位から1カ国・地域2名を上限とし上位20名に与えられる代表資格を獲得し北京五輪日本代表に内定した。6月、JOCから日本選手団の開会式旗手に任命された。卓球選手では初であり、最年少である。本人は会見で「(団旗の)グラムの重さより、日本(代表としての)の重さをすごく感じると思う」と意気込みを話した。五輪では平野早矢香、福岡春菜、福原の3人でシングルス、団体戦に出場した。 その後よりレベルの高い試合で実戦感覚を養うことを目的として、2009年4月で早稲田大学卓球部での活動を休止し、海外で行われるITTFプロツアーを中心に出場。日本国内ではサンリツ(物流会社)の卓球部の一員として日本リーグに参戦することになった。そして、海外ツアーや中国のスーパーリーグ参戦を優先するため、および早稲田大学の単位の取得が困難になったために、2010年3月で早稲田大学を退学し、卓球に専念して2012年のロンドン五輪に臨む意向であることが関係者から明らかになった。2008年1月全日本卓球選手権で敗れた後、大学の授業にあまり出席できないこと、また2008年が五輪イヤーでもあることから関係者が福原の休学ないし中退を示唆していた(彼女は入学後も練習を早稲田大学では行わず青森や秋田で練習を続けた。また五輪出場権獲得のために世界ランク高位を維持するため、海外の卓球ツアーに多く出場したため欠席も多かった)。 2011年5月、ロッテルダム世界選手権混合ダブルスにおいて岸川聖也とペアを組み、この種目では日本選手34年ぶりの銅メダルを獲得。大会終了後の5月16日付世界ランキングで日本人2番目の9位となり、ロンドンオリンピックシングルス出場権を獲得。2011年11月27日にはロンドン五輪と同会場で行われたテスト大会のプロツアー・グランドファイナルで石川佳純と女子ダブルスに出場して準優勝を収め、主戦場としてきたシングルス以外に活路を見出していた。そして2012年1月21日、東京体育館で開催された全日本選手権において、決勝戦で石川佳純を4-1で下し、13回目の挑戦にして念願の選手権を獲得している。 2012年は3月に開催された第51回世界卓球選手権団体戦( ドイツ・ドルトムント)に石川佳純、平野早矢香、藤井寛子、石垣優香と共に日本代表として出場するも、準々決勝で大韓民国代表にフルセット(2-3)の末に敗れてメダルを逸してしまった。 7月に開催されたロンドンオリンピック卓球競技では、女子シングルス戦では第5シードとして3回戦から登場し、アンナ・チホミロワ(ロシア)を4-0と退け、4回戦ではジエ・リー(オランダ)に対し、ゲームカウント1-3と追い詰められたが、そこから3ゲームを連取して4-3でオリンピックでは自身初の準々決勝進出を達成。準々決勝では世界ランク1位の丁寧と対戦して、第1ゲームでは先にゲームポイントを迎えたが、これを取れず、結局0-4で敗れた。団体戦には平野早矢香、石川佳純と共に出場。1回戦アメリカ、準々決勝ドイツを破った後の準決勝シンガポール戦では第1戦目でシングルス銅メダリストの馮天薇を3-1で破った。続く2戦目の石川のシングルス、3戦目の石川・平野ペアのダブルスも日本が勝ち、日本勢オリンピック史上初の決勝進出を果たす。決勝戦で中国に0-3で敗れ2位となったが、日本卓球史上初となる銀メダルを獲得した。 ロンドンオリンピック終了後、8月24日に前年夏に故障した右肘滑膜ひだ障害の手術に踏み切った。また、故障を抱えながら出場した2012年3月の世界選手権( ドイツ・ドルトムント)やオリンピックなど、歴戦の疲労も蓄積していたので、手術箇所の治療や疲労回復等を目的に9月から10月は休養を続けた。11月から練習を再開し、12月6日に杭州で開催されたITTFワールドツアー・グランドファイナルで復帰したが初戦の2回戦で陳夢(中国)に敗れた。 2013年には平成24年度天皇杯・皇后杯全日本卓球選手権大会に出場、今大会はヒジ手術からの休養明けを考慮して女子シングルスのみの出場であったが、ブランクを跳ね返す試合運びで勝ち進み、前年同様に石川佳純との対戦になった決勝ではゲームカウント1-2の劣勢から3ゲームを連取する逆転勝ちを収めて2年連続優勝を飾った。 2013年の第52回世界卓球選手権個人戦では、世界ランク166位の朴晟恵(大韓民国)に緒戦で当たり、2-3の逆転負けを喫した。6月の荻村杯ジャパンオープンでは女子シングルス決勝で文玄晶(大韓民国)に4-0で勝利し、日本女子選手として初となる荻村杯優勝を果たした。 2014年の全日本卓球選手権大会女子シングルスにて、準決勝で森さくら(昇陽高)にストレートで敗れた。敗戦後、左第5中足骨の疲労骨折を発症したため、自国開催( 日本・東京)の第52回世界卓球選手権団体戦を欠場した。6月13日の韓国オープンから公式戦に復帰する。荻村杯の女子ダブルスでは若宮三紗子とのペアで出場し、決勝で前年の世界選手権銅メダルペアの馮天薇、于梦雨組(シンガポール)を破り優勝。 9月、仁川アジア大会の団体戦決勝で中国と対戦し、チームは敗れて準優勝だったが、自身は第1戦で丁寧から初勝利をあげた。 2016年8月のリオデジャネイロオリンピックでは女子最年長で代表に選出。シングルスでは準々決勝でシンガポールの馮天薇を破り初の準決勝進出。しかし、準決勝では中国の李暁霞、3位決定戦では北朝鮮のキム・ソンイに敗れシングルスでのメダル獲得を逃した。団体戦では全試合で伊藤美誠とダブルスを組み出場。準決勝ドイツ戦ではシングルス3位決定戦を終えた翌日から足に痛みを訴え骨膜炎と診断された、その影響で黒星を重ねてしまい2大会連続の決勝進出を逃してしまったが、3位決定戦のシンガポール戦ではダブルスで1勝を挙げ2大会連続となる銅メダル獲得に貢献した。 リオデジャネイロオリンピック終了後の2016年9月1日に中華民国の卓球選手:江宏傑と国際結婚(入籍)。この件についてリオデジャネイロパラリンピック終了後の9月21日に東京都内で夫妻ツーショット記者会見を開いて正式に発表した。 リオデジャネイロオリンピック以降は選手として公式戦に出場することは一度もなく、2017年1月の全日本卓球選手権大会も欠場した。 2017年6月29日、第1子妊娠を報告した。同年10月13日、第1子女児を出産。 2018年10月21日、自らのブログを更新して「若手が育ってきたこと、選手ではない違う立場で次のステップへ進みたい」などと語り、現役を引退することを表明した。その2日後の10月23日に東京都内に於いてプレスインタビューに応じ、自ら引退に至った理由などについて語った。 2018年12月5日、第2子妊娠を報告。 1988年(昭和63年)11月 - 宮城県仙台市にて誕生 1992年(平成4年)8月 - 卓球の練習をはじめる 1998年(平成10年)7月 - 大阪府八尾市に転居(9歳)。ミキハウスJSC(ジュニアスポーツクラブ)に所属。 1999年(平成11年)3月 - 日本卓球協会の理事会で承認され、レジスタードプロに登録(3月20日付け、10歳) 2005年(平成17年)4月 - グランプリと所属契約。(4年) 中国超級リーグに参加、遼寧省チームに入団(4月に契約、6月 - 12月まで中断をはさみ試合) 2006年(平成18年) 3月 - 中国スーパーリーグ、広東佐川急便チームに移籍(3月に契約、6月 - 8月まで試合) 8月 - 早稲田大学のスポーツ科学部トップアスリート入学試験に出願 9月13日 - 早稲田大学スポーツ科学部に合格 2007年(平成19年) 3月1日 - 青森山田高等学校卒業 4月1日 - 早稲田大学スポーツ科学部入学 4月3日 - 全日本空輸 (ANA) との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表 2010年(平成22年)3月 - 早稲田大学スポーツ科学部自主退学 2012年(平成24年) 1月 - 全日本選手権・女子シングルス初優勝 8月 - ロンドンオリンピック女子団体で銀メダル獲得 2013年(平成25年) 1月 - 全日本選手権・女子シングルス2年連続優勝 6月 - 荻村杯ジャパンオープン女子シングルス優勝 2015年(平成27年) 3月 - スペインオープン・女子ダブルス優勝ダブルスパートナー日本生命若宮三沙子選手 6月 - オーストラリアオープン・女子シングルス優勝 7月 - 韓国オープン・女子シングルス優勝 8月 - チェコオープン・女子シングルス優勝 2016年(平成28年) 8月 - リオデジャネイロ・オリンピック・女子シングルス 4位 8月 - リオデジャネイロ・オリンピック・女子団体で銅メダル獲得 9月 - 卓球選手の江宏傑(中華民国)と国際結婚、東京都内で婚姻届を提出し、共同記者会見で正式発表。 2017年(平成29年) 6月29日 - 第1子妊娠を報告。 10月13日 - 第1子女児を出産。 2018年(平成30年) 10月21日 - 現役引退を表明。 12月5日 - 第2子妊娠を報告。 右利き前陣速攻。中国卓球の経験を積んでいる事から、中国スタイルのペースの速い卓球である。 ラケット裏面には粒のある表ソフトラバーを貼り、ナックルなどの変化球を出すことが可能で、粒がやや高い表ソフトからのバックハンドに特徴がある。また、ラリー中に時折見せるラケットを反転してからのバックハンドも特徴的である。小学生の頃は日本卓球協会の規定で違う種類のラバーを貼れなかった為、両面表ソフトラバーであった。2007年全日本後あたりにラバーをハイテンションラバーに変え、フォームも振りを大きくするなど今までに無い改革に取り組んでいる。 尊敬する選手は王楠。左利きに憧れている。体が柔らかく低い打球点から繰り出すバックハンドは世界でもトップクラスである。中学、高校前半の頃はよくピンチで王子サーブというしゃがみ込みサーブを使っていたが、今は返されることが多い為、全く使っていない。 2006年11月のワールドカップでティエにストレート負けしたのを見て父親は海外では速い球を打てないと通用しないと考え「一度愛の卓球スタイルをぶっ壊す」と言っていた(しかし、その後もスランプが続いたため、戻したという話もある)。 課題として、単調なショートサーブが多く、フォアハンドが弱い事が度々指摘されている。国内ではカットマンや、粒高ラバーなどの異質攻撃選手に苦手意識がある。また、「試合中、みんなが思っている以上に何も考えていません」と話すように、作戦をあまり考えないため、代表監督から怒られたこともある。それゆえ相手に研究されると弱い一面を持ち、本人は「ビデオ研究をすると、相手が強く見えるから嫌い」とあまり研究したがらない。 2012年のロンドンオリンピックに際しては、課題とされていた下半身を中心とした筋力強化やフォアハンドの改善に取り組み、その成果が出たと評価されている。 小さい頃から天才少女と言われてきた理由の一つに、同世代の国内選手には負けなかった事がある。中1で全日本ジュニア(高校以下)を制すとその後3連覇。どの大会でも一度も負けなかった。だが2006年8月のインターハイ、シングル決勝で同じ年齢の宇土弘恵(就実)に初めて負けを喫した(ストレート負け)。 また、国際大会では世界の強豪相手に善戦して世界ランクを上げており、団体戦においても中国選手から勝利を収めてはいるが、国内大会の一般の部ではシングルの優勝が少なく、人気の割に実績が乏しいという印象を与えていた。全日本卓球選手権でも長年ベスト4を超えられず不本意な成績を残していたが、2012年1月、成長著しい連覇のかかった石川佳純を決勝で下し、ようやくシングルのタイトルを獲得した。なお、全日本の他の出場可能な部門(バンビ・カブ・ホープス・カデット13歳以下・カデット14歳以下・カデットダブルス・ジュニア・女子ダブルス・混合ダブルス)ではすべて優勝しており、史上初の全日本グランドスラム達成者となった。 小学校時代は「ヨー!」(「よーし」の略)というかけ声を使っていたが、中学以降は思春期に入ったためにこのかけ声を使わなくなり、中学後半ぐらいから徐々に大きなかけ声を出すようになり、アテネ五輪で「サー!」は福原の代名詞ともなった(もっとも卓球でこのように声を出す選手は多く決して珍しいことではない)。ただ、強い相手などにはかけ声が全然出ないこともある。「サー!」のかけ声には最大で3連続「サー!サー!サー!」もあり、「サー!ナイスボールサー!」もある。気合が入ると相手がミスしても「サー!」が出る。声が裏返る時もあり、年々闘争心が強くなっている。福原は「かけ声をかけるということは、自分が点を入れているという事なので、いっぱい叫びたいですね」と話す。声の音程には気を使っており、「会場で他の人と同じような音を出すと意味が無いじゃないですか」ということで今の甲高い声になったらしい。中国の選手達の影響で「サー!」を採用したことを、2006年10月30日放映の関西テレビ・フジテレビ系列番組『SMAP×SMAP』で明らかにした。 福原の両親は福原に徹底的に卓球の英才教育を施した。3歳から卓球を始め練習時間は毎日4-5時間、今では7-8時間。年に休みは3日程度。 マネージメントは父親が行っていたが2008年以降母親と兄が行っている。 2004年度末まで日本代表監督の西村卓二から熱血指導を受けてきたが、その後代表監督となった近藤欽司から指導を受けている。 コーチは元中国チャンピオンなど専属の中国人を住み込みで契約している。その方針は今も続いており、現在はカットマン専門のコーチ含め2人が専属コーチで常に福原と帯同している。正月などは頻繁に中国合宿を繰り返し、中国の技術を体に染み込ませ、コミュニケーションのため中国語も身につけた。コーチが瀋陽出身であることから福原の中国語には東北官話訛りがあり、そのことも中国で福原が人気を集める要因の一つになっている。 幼少時から天真爛漫な笑顔でお茶の間の人気者となっていたが、思春期になるにつれメディアに対し喋りたがらないことが増え、悲しそうな表情をすることも多くなった。福原自身は、当時を振り返って、「周りのこととか、卓球以外のことが見えてきていた」と語っている。中学2年生頃から、徐々に再び笑顔を見せるようになり、インタビューにもきちんと答えるようになった。 幼児期を除いて試合後、泣くことはほとんどなく、また勝って泣いたことは一度も無かった。しかし2008年2月の世界選手権広州大会、予選の韓国戦では5番手でフルゲーム、デュースの末に勝利して一位通過を決め、福原は珍しくメンバーとともに号泣し、喜んだ。 2007年12月、眼鏡をかけて成田空港に現れ、遺伝により乱視になったことを告白した。本人はコンタクトレンズにしたかったようだが、20分ではずしてしまうほどコンタクトレンズが合わず、眼鏡にしたとのこと。福原も「ぼやけて見えた世界が当たり前だったので、眼鏡をつけるとスッキリする」と視界不良を認めている。ただ視力自体は1.5-1.0と悪くない。 中国での福原への関心は高く、Yahoo!の中国サイトが2005年4月に発表した世界卓球8大美女に福原愛が選ばれた(他には張怡寧、王楠、白楊、リ・ジャウエイなど。日本人では他に柏木有希が選ばれている)。 当時の小泉純一郎首相の靖国神社問題などで、中国では反日感情が高まり日本に冷たい態度を示すことが多かったが、そんな中で福原のニュースを中国英字紙チャイナデイリーは2006年3月16日付紙面の1面トップで、卓球の中国超級リーグの広東省チームに移籍した日本人選手、福原愛のカラー写真を掲載した。写真は赤いユニフォーム姿の福原が地元の子供達に囲まれ笑顔を見せているもので、福原を「著名な日本の卓球選手」と好意的に紹介した。福原は日本の中国大使館を何度か表敬訪問しており、「中日友好」の色紙を持って王毅駐日大使(当時)と撮影に応じた。他にも日中友好関連のイベントに招かれている。 2008年2月の第49回世界卓球選手権団体戦では、「福原愛永遠支持」と横断幕を掲げた十数人の中国ファンが応援したり、日本ー韓国戦で福原が5番手で登場し接戦をものにした試合を中国メディアは「福原選手が大逆転演じる」(成都日報)、「感涙の福原愛 『観客が力くれた』」(新浪体育)、「みんな福原愛ちゃん大好き」(斉魯晩報)など、福原を中心に見出しや記事を構成した。また、インタビューを「中国語も英語も流暢で立派だ」と褒め称えるところもあった。(斉魯晩報) 同年4月には「福原愛は現在、日本のナショナルトレーニングセンターで北京五輪に向けて積極的にトレーニング中」と中国誌が報じた。上海万博事務協調局は24日、2010年の上海万博の日本親善大使に卓球の福原愛選手ほか2名に決定したことを発表した。同年4月26日の聖火リレー(長野市)では、当初日本オリンピック委員会からの出走依頼はなかったが、中国側から中国大使館枠で参加を要請され、走った。福原の走る姿は中国でも新聞の一面などで大きく報じられた。同年5月7日、胡錦濤国家主席が来日し、早稲田大学で特別講演した折に大学構内で卓球対戦した。胡錦濤に随行していた中国チャンピオンの王楠も参加。同席した日本の福田康夫首相も卓球に誘われたが不得手だということで断ったため、4人のダブルスではなく3人の変則卓球となった。この模様は日中両国で報道された。胡錦濤は福原に「あなたは私のことを知らないかも知れないが、私はあなたのことを知っている」と話しかけた。同年9月27日、山東省の煙台市沖の豪華客船で行われた王楠の結婚式に、王楠の介添え役(中国のメディアは「伴娘」と表記)として、セクシーなベアトップのドレス(中国のメディアは「性感低胸装」と表記)を装って出席した。中国のメディアは、このニュースを大きく報道した。王楠夫妻は既に2005年10月に結婚していたが、北京五輪の為に式をあげていなかった。なお、新郎の介添え役は当初王皓が務める予定だったが彼の試合があったために馬琳が行った。 中国でのニックネームは、\"磁器人形\" という意味の「瓷娃娃」(ツーワーワー)(英語化されると\"Japanese doll\")、または、日本語の「愛ちゃん」を音訳した「爱酱(愛醤)」(アイジャン)や、意訳した「小爱(小愛)」(シャオアイ)、「泣き虫愛ちゃん」に相当する「愛哭鬼小愛」など。 時期により体重の増減が大きい(練習量が多く、その分食べるため)。大きな大会が始まると緊張、疲れから食が進まなくなり痩せてしまうため、大会前は多少体重を増やして臨むことが多い。ベストは48キロ。母親は小さい頃、食が細いのを心配したという。 NHK、2004年正月の番組で足型を取ったところ偏平足であった。足のサイズは24cmで本人はもっと身長が伸びると思っていたが中3で成長は止まってしまったという。公称155cm。 座右の銘は「よく寝て、よく食べ、よく笑う」だったが、2006年に兄から変更を促され「一意専心」に変わった。 子供好きだが、小、中学生ぐらいの大きな子は苦手と話している。 卓球以外のスポーツは苦手で高校の時、体育は好きな教科ではなかったという。小さい頃は水泳教室にも通っていて、親は卓球と水泳のどちらに専念させるか考えていた時期があった。ランニングが苦手だったが2005年以降ランニングなども強化し、筋力をつけスピード、パワーのアップを図っている。 スコートをたまに履くことがあり、2006年1月の全日本選手権ダブルスで小西と共にスコートを履いた。同大会ではベスト4まで進出したものの、「試合に集中できない」というコメントを出した。 アニメ「こてんこてんこ」で彼女の演じた役はその後かないみかが演じた。 大阪は2008年度五輪開催地として正式に立候補し、さまざまな招致活動を行ったが(大阪オリンピック構想)福原愛を誘致のシンボルの一つとした(福原が大阪に引っ越した一つの要因ともされる)。大阪は大阪五輪の盛り上げの一環として、2001年に世界卓球選手権シングル、団体(同時開催)を大阪に誘致し、福原愛もエキシビジョンとして桂三枝(現・六代桂文枝)とオープニングマッチを行なうなどして盛り上げた。 2004年1月の「クロアチアオープン」の最中に39度の高熱になった。 アテネ五輪では家族が大量のおにぎりを会場に持参したが、入り口のセキュリティ・チェックで「爆弾ではないか」と係員に一時引き止められた。 2004年10月、埼玉県彩の国まごころ国体では、会場のウイング・ハット春日部(客席3,500人)に連日5,000人もの客がつめかけ、国体初の入場規制がされることもあった。 2006年の「世界卓球選手権シンガポール戦では強豪リ・ジャウェイを下し予選リーグ通過を決めた。 秋田県湯沢市の稲住温泉敷地内に、卓球道場「友誼館」が完成し、2006年10月26日公開開始。移築してあった旧秋ノ宮村役場(白井晟一設計の建造物)を改装した。 2007年 - 2008年の年末年始に急性胃腸炎で入院した。 2008年6月、北京五輪選手で「さわやかな汗がもっとも似合う人」女子1位に選ばれた。 2008年9月、東京代々木体育館で、不審な男に追い掛け回されるハプニングがあった。男は婚姻届を持ち福原にサインを迫ったが、早大卓球部監督の機転で難を逃れた。 2016年夏季オリンピックにおける東京オリンピック構想のイメージキャラクターの1人として、都営バスの一部車両に福原が描かれたラッピング車両が存在した。 バドミントンの藤井瑞希とは青森山田高校で同級生で出席番号(五十音順)も近いこともあって仲が良く、2012年のロンドンオリンピックで藤井瑞希・垣岩令佳ペアが銀メダルを獲得した際には選手村の宿舎で号泣しながら出迎えた(藤井とペアを組んでいた垣岩令佳も高校の後輩にあたる)。 幼少期に「ルックルックこんにちは」に出演した際、岸部シローらが馬鹿騒ぎばかりしたため「うるさい」と怒鳴った(放送時の東京新聞の芸能欄の投書から)。 1992年8月 - 3歳で初めてラケットを握る。 1993年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部(8歳以下の部)ベスト16 1994年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝 1995年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝 1996年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝 1997年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表) 1997年9月 - 全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝 1997年11月 - 全日本卓球選手権大会・カデットの部(13歳以下の部)優勝(小3) 1998年7月 - 大阪に転居。ミキハウスJSCに所属。 1998年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表) 1998年9月 - 全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝 1998年11月 - 全日本卓球選手権大会・カデットの部(14歳以下の部)ダブルス優勝・シングルス準優勝 1998年12月 - 全日本卓球選手権大会・一般の部 ダブルス ベスト32(史上最年少出場)、ジュニアの部(17歳以下の部)シングルス準優勝(史上最年少出場) 1999年3月20日 - レジスタードプロに登録 1999年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)シングルス ベスト8 1999年9月 - 全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝 1999年11月 - 全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)準優勝 1999年12月 - 全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト4、一般の部 シングルス ベスト64(史上最年少出場、最年少勝利) 2000年6月 - ジャパンオープン(日本代表)シングルス ベスト64、ダブルス ベスト32 日本代表初出場(小6) 2000年9月 - 全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝(7連覇) 2000年11月 - 全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)優勝 2000年12月 - 全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト32 2001年1月 - 第30回後藤杯選手権 女子シングルス 優勝(一般の部でのシングルス初優勝) 2001年4月 - 東アジアホープス大会(日本代表)団体2位、シングルス3位 2001年6月 - 中国オープン 決勝トーナメント進出 世界ランク:126位 2001年9月 - ジャパンオープン シングルス ベスト16、ダブルス ベスト8 世界ランク:98位 2001年12月 - デンマークオープン シングルス ベスト8、ダブルス ベスト8 世界ランク:67位 2001年12月 - 全日本卓球選手権 ジュニアの部優勝、一般の部 シングルス 7位、ダブルス 3位 2002年8月 - 全国中学校卓球大会 女子シングルス優勝 2002年9月 - ジャパンオープン ダブルス ベスト8 2002年10月 - 釜山アジア大会 女子団体 銅メダル 2002年12月 - 全日本卓球選手権 ダブルス優勝、ジュニアの部優勝 2003年2月 - アジア選手権 女子ダブルス準優勝 2003年3月 - 日本卓球リーグ実業団連盟ドリームチャレンジカップ 女子シングルス 優勝 推薦参加 2003年5月 - 第47回世界卓球選手権個人戦 シングルス ベスト8 2003年8月 - 全国中学校卓球大会 シングルス優勝 2003年9月 - アジアジュニア卓球選手権大会 女子団体ベスト4、ダブルス ベスト4 2003年9月 - 中国オープン 3回戦敗退 2003年9月 - ジャパンオープン 3回戦敗退 2003年11月 - ドイツオープン シングルス(アンダー21)優勝 2003年11月 - スウェーデンオープン シングルス(アンダー21)優勝 2003年12月 - 第1回世界ジュニア選手権大会(チリ)ダブルス 銅メダル、シングルス ベスト8 2004年1月 - 全日本卓球選手権 女子ダブルス優勝、ジュニアの部優勝 2004年3月 - 第47回世界卓球選手権団体戦 女子団体 銅メダル 2004年4月 - アジア大陸オリンピック予選 シングルス 3位(アテネオリンピック出場決定) 2004年8月 - アテネオリンピック シングルス ベスト16 ※(直後の世界ランキングwr19位に、初の10位台)次項に詳述あり 2004年10月 - 国体優勝 少年女子団体の部、青森県代表として(埼玉) 2004年12月 - 世界ジュニア卓球選手権大会2004 神戸大会 女子シングルス 3位 混合ダブルス 3位 女子団体 準優勝 2005年1月11~16日、全日本卓球選手権大会 女子シングルス 6回戦敗退 女子ダブルス 優勝 混合ダブルス 優勝 2005年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝 2005年3月12・13日 - 第17回女子アジアカップ シングルス 準優勝※(直後の世界ランキングwr32→wr23へ大幅アップ) 2005年3月28日 - 高等学校選抜卓球大会 団体戦準優勝(青森山田高校) 2005年3月31日 - ミキハウスジュニアスポーツクラブ満期終了、一時フリーになる 2005年4月1日 - 中国スーパーリーグ遼寧省チーム入団(一年契約) 2005年4月11日 - グランプリと4年契約を結ぶ 2005年4月30日~5月6日 - 第48回世界卓球選手権上海大会 女子シングルス 3回戦敗退 女子ダブルス ベスト8 混合ダブルス 3回戦敗退 2005年9月 - アジア卓球選手権、ダブルスで銅メダル、ペアは藤沼 2005年10月 - 国体2連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(岡山) 2005年11月 - ITTF女子ワールドカップ3位(銅メダル)中国広州 ※(直後の世界ランキングwr25→wr16へ大幅アップ) 2006年1月 - 全日本卓球選手権大会 女子シングルス ベスト8 女子ダブルス ベスト4 混合ダブルス 準優勝 2006年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝 2006年3月5日 - 第19回グランプリアジアカップ シングル5位 2006年3月15日 - 超級リーグ広東チームへの移籍契約調印を行う 2006年4月9日 - 日本卓球リーグ実業団連盟 ビッグトーナメント 女子シングルス 優勝(推薦参加) 2006年4月24日 - 5月1日 - 第48回世界卓球選手権ブレーメン大会 女子団体 銅メダル 2006年6月 - ITTFワールドツアー台湾オープン ダブルス優勝 ツアーでは初の優勝、ペアは藤沼 2006年8月7日 - 11日 - インターハイ 女子団体 準優勝 女子シングルス 準優勝 女子ダブルス 優勝 2006年9月 - ITTFワールドツアージャパンオープン ダブルス銅メダル 2006年10月 - 国体優勝3連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(兵庫) 2007年1月 - 平成18年度全日本卓球選手権大会 女子シングルス ベスト16 女子ダブルス 4回戦(初戦)敗退 混合ダブルス 優勝(坂本竜介ペア) 2007年2月10日 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝 2007年4月8日 - ビッグトーナメント 初戦敗退 2007年4月30日 - 5月6日 - 第49回世界卓球選手権ザグレブ大会 女子シングルス 3回戦敗退 女子ダブルス 2回戦敗退 混合ダブルス 3回戦敗退 2007年10月 - ITTFワールドツアー オーストリアオープン ダブルス優勝(平野早矢香とのペア)ツアーでは2度目の優勝(ダブルス) 2008年1月 - 平成19年度全日本卓球選手権大会 女子シングルス ベスト16 女子ダブルス 優勝(照井萌美とのペア) 混合ダブルス 準決勝敗退(坂本竜介ペア) 2008年2月9日 - ジャパントップ12卓球大会 ベスト4 2008年2月 - 第49回世界卓球選手権広州大会 女子団体 銅メダル 2009年1月 - 平成20年度全日本卓球選手権大会 女子シングルス ベスト4 2009年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝 2009年7月 ITTFワールドツアーモロッコオープン 女子シングルス 優勝 ツアーでは初の優勝(シングル) 女子ダブルス 優勝(石川佳純ペア)ツアーでは3度目の優勝(ダブルス) 2009年11月 - 第19回アジア卓球選手権大会 混合ダブルス 3位 2009年12月 - 東アジア競技大会 女子ダブルス 優勝 2010年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝 2010年3月 - ITTFワールドツアーハンガリーオープン 女子ダブルス 優勝(石川佳純ペア)ツアーでは4度目の優勝(ダブルス) 2010年10月 - ITTFワールドツアードイツオープン 女子ダブルス 優勝(石川佳純ペア)ツアーでは5度目の優勝(ダブルス) 2011年1月 - 平成22年度全日本卓球選手権大会 女子シングルス ベスト4 2011年4月 - 日本卓球リーグ ビッグトーナメント石川大会 女子シングルス 優勝 2012年1月 - 平成23年度全日本卓球選手権大会 女子シングルス 優勝(初) 2013年1月 - 平成24年度全日本卓球選手権大会 女子シングルス 優勝(2) 2013年4月 - 日本卓球リーグ ビッグトーナメント愛媛大会 女子シングルス 優勝 2013年6月 - ITTFワールドツアー荻村杯ジャパンオープン 女子シングルス 優勝 ツアーでは2度目の優勝(シングル)単では日本人として初の優勝者である。 2013年11月ーITTFワールドツアードイツオープン 女子シングルス 準優勝 女子ダブルス 準優勝(若宮三沙子パートナー) 2014年1月 - 平成25年度全日本卓球選手権大会 女子シングルス ベスト4 2014年6月 - ITTFワールドツアー荻村杯ジャパンオープン 女子ダブルス 優勝(若宮三紗子ペア)ツアーでは6度目の優勝(ダブルス) 2014年8月 - ITTFワールドツアーチェコオープン 女子シングルス 準優勝 女子ダブルス 優勝(若宮三沙子パートナー)ツアーでは7度目の優勝(ダブルス) 2014年9月 - 仁川アジア大会 女子団体 準優勝 混合ダブルス ベスト4 2015年3月 - ITTFワールドツアースペインオープン 女子ダブルス 優勝(若宮三紗子ペア)ツアーでは8度目の優勝(ダブルス) 2015年5月 - ITTFワールドツアーフィリピンオープン 女子シングルス 準優勝 2015年6月 - ITTFワールドツアーオーストラリアオープン 女子シングルス 優勝 ツアーでは3度目の優勝(シングルス) 2015年7月 - ITTFワールドツアー韓国オープン 女子シングルス 優勝 ツアーでは4度目の優勝(シングルス) 2015年8月 - ITTFワールドツアーブルガリアオープン 女子シングルス 準優勝 2015年8月 - ITTFワールドツアーチェコオープン 女子シングルス 優勝 ツアーでは5度目の優勝(シングルス) 2016年3月 - 第53回世界卓球選手権団体戦 女子団体 銀メダル アテネオリンピック女子シングルス 2回戦 - オーストラリアのミャオ・ミャオと対戦し、4-3で勝利。 3回戦 - アメリカのガオ・ジュン(世界ランク12位)と対戦し、4-0で勝利。 4回戦 - 韓国の金暻娥(世界ランク6位)と対戦し、1-4で敗退。8強ならず。 北京オリンピック女子シングルス 3回戦 - トルコの侯美玲(世界ランク80位)と対戦し、4-1で勝利。 4回戦 - 中国の張怡寧(世界ランク1位)と対戦し、1-4で敗退。8強ならず。 ロンドンオリンピック女子シングルス 3回戦 - ロシアのアンナ・チホミロワと対戦し、4-0で勝利。 4回戦 - オランダのジエ・リーと対戦し、4-0で勝利。 準々決勝 - 中国の丁寧と対戦し、0-4で敗退。 リオオリンピック女子シングルス 3回戦 - ルーマニアのダニエラ・モンテイロドデアンと対戦し、4-0で勝利。 4回戦 - 北朝鮮の李明順と対戦し、4-0で勝利。 準々決勝 - シンガポールの馮天薇と対戦し、4-0で勝利。 準決勝 - 中国の李暁霞と対戦し、0-4で敗退。 3位決定戦 - 北朝鮮のキム・ソンイと対戦し、1-4で敗退。 ※最高成績 オリンピック ベスト4(2016) 世界卓球選手権 ベスト8(2003) ワールドカップ 銅メダル(2005) ITTFワールドツアー・グランドファイナル ベスト4(2010) 世界卓球選手権 ベスト8(2005, 2009, 2013) ITTFワールドツアー・グランドファイナル ベスト8(2007, 2010, 2014) 世界卓球選手権 銅メダル(2011) オリンピック 銀メダル(2012) 世界卓球選手権 銀メダル(2016) ワールドカップ 銀メダル(2011, 2013) 1993年 - 功労賞(日本卓球協会) 1994年 - 未来賞(ミロ[要曖昧さ回避]スポーツ大賞) 1995年 - 日本スポーツ賞(読売新聞社)、特別奨励賞(宮城県体育協会) 1996年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、感謝状(兵庫県卓球協会)、感謝状(ライオンズクラブ) 1997年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会) 1998年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会) 2003年 - 第5回王国大賞、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(卓球王国) 2004年 第4回日本卓球人賞 2月2日 - イタリア・テルニの親善大使を委嘱された。 2005年1月 - 夢見る女の子大賞(ロッテ主催) 2011年3月2日 - 仙台観光アンバサダー(親善大使)の初代大使を委嘱された(任期:2年)。 2012年 9月10日 - 賛辞の盾(仙台市) 9月22日 - 杉並区スポーツ栄誉賞 10月4日 - 宮城県特別表彰 2013年4月17日 - 仙台観光アンバサダーを再委嘱された(任期:2年) 2014年 - 第43回ベストドレッサー賞(スポーツ部門) 2016年 - 第3回Yahoo!検索大賞 パーソンカテゴリ アスリート部門賞 2017年 - 第28回日本ジュエリーベストドレッサー賞 特別賞 2017年 - BLOG of the year 2016 2018年 - 報知プロスポーツ大賞特別功労賞 2000年4月4日、東京ドームで日本ハムの始球式を務める。 2004年1月、ミキハウスの毎年恒例の新年会に最後の参加をした(ゲストは星野仙一)。同年6月、ミキハウスの五輪壮行会に参加、同年6月6日には新宿で2004年アテネオリンピックの聖火リレーの日本国内での最終ランナーを務めた。同年10月20日、新宿、都庁前で一日警察署長を務める。 2005年2月、中国大使館を表敬訪問、卓球交流を行った。同年3月2日、中越地震で被災した長岡市立南中学校を慰問、卓球交流。同年4月23日(反日感情が悪化していた時期) - 中国大使館訪問、王毅駐日大使に表敬。同年5月14日 - 映画『KARAOKE-人生紙一重-』(グランプリ製作)の試写会にゲスト出演。同年7月、「中国と日本60年の歩み」写真展(東京)ジャッキー・チェンとともにイベントに呼ばれる。(福原は晴れ着で登場した。同年9月、青森山田高校体育館で、幼稚園生を対象にこてんこてんこと気球イベント。同年9月19日、愛・地球博の上海ウイークのイベントに出場した。同年11月20日、青森市でスペシャルオリンピックスのトーチランの伴走者を務めた。 2006年3月31日、北京市で行われた日中卓球交流50周年記念イベントに参加、同年10月11日、外国特派員協会の昼食に招かれインタビューに応じた。同年10月12日、全国旅館生活衛生同業組合連合会(全旅連)の「お宿親善大使」に選ばれた 2007年5月、糖尿病対策の会見「グリコヘモグロビン認知向上運動」に出演。 2008年3月24日、谷村新司、コシノジュンコとともに、上海万博のイメージ大使に選ばれた。2010年7月19日、上海万博の日本のPR大使として見学中に突然、気分が悪くなって倒れ、1時間余り休憩した後、貧血だったと話した。 2012年9月22日、杉並警察署の一日警察署長を務めた。同年10月4日、日本製紙クリネックススタジアム宮城の楽天イーグルス対埼玉西武ライオンズ戦で始球式を務めた。 2016年9月10日、新宿警察署の一日警察署長を務めた。 愛が見えた!泣き虫愛ちゃん14年の挑戦(フジテレビ、2003年3月2日) 特別番組で、福原を幼少から成長を追って取り上げたドキュメント。司会は安藤優子。視聴率は14.3%だった。 スポーツ大陸(NHK-BS1・BShi、2005年9月3日) ドキュメンタリー番組。同日放送回において、超級を中心に取り上げた。NHK総合でも再放送。 アンテナ22(日本テレビ、2006年1月16日) 同日の放送回において、前年の超級や学校生活に密着した。 新春スペシャル対談 未来に架ける橋(NHK-BS1、2006年1月) 谷村新司との100分に渡る対談番組。 こてんこてんこ(テレビ東京、2006年1月) テレビアニメ。妖精アイちゃん役として、声の出演。 とっさの中国語(NHK教育、2007年4月 - 9月) 2005年12月26日・2006年1月9日の二度にわたり同局で放送された『中国語会話』においてインタビューを受けたことなどがきっかけで、NHKの語学番組出演に関心を持つようになり、出演依頼を快諾した。番組では、共演者の盧思が「ネイティブ並み」と評する発音で、その日のフレーズを紹介する役割を担う。毎週5分という短さであるが、福原にとって初めてのレギュラー番組である。福原の出演部分は時間的都合を考え、全25回分まとめ撮りされた。 ハドソン 日清オイリオ 2007年4月より放送。また、福原の栄養サポートも行っているとのこと。 全日空…福原が中国の瀋陽で実際に好きなものをカメラで撮ってくるという企画があった。1.SL編(自分で石炭も入れた)2.竹筒マッサージ、3.散髪編(自分で他人の散髪にも挑戦)、4.卓球練習場、の4種類が放送された。 『福原愛@瀋陽』 『SL篇』 『竹筒マッサージ篇』 『体育学院篇』 『散髪篇』 企業CM 『ひまわり篇』 LIVE/中国線就航20周年/ANA 『卓球編』 (2007年3月 - ) 三井生命保険 日本コカコーラ「アクエリアス」 Yahoo!BB グランプリ トヨタ自動車 佐川急便 グンゼ 永谷園「すし太郎」(和田アキ子と共演) アサヒスーパードライ(2016年)…江宏傑と夫婦共演 全日空2017年 旅割(ゴールデンウィーク) アース製薬「サラテクト」(2018年)…江宏傑と夫婦共演 アテネ五輪初戦当日、福原の試合は20時頃から始まったが当初生中継はされていなかった。しかしテレビ東京は競泳の録画放送から彼女が2ゲーム取られピンチの状態から生中継を開始した。30分程度の放送がされ試合途中で番組は終了した。この試合ではフルゲームの末、逆転勝利した。 同日、NHK-BS1とNHK総合は23時頃から、TBSは0時頃から録画放送を開始。その3局は他局と時間がかぶっているにもかかわらず、ノーカットで試合放送した。次の3回戦はNHK、TBSが生放送をした(19:30-)。NHKだけで平均視聴率は20.1%、勝利した瞬間の最高視聴率は31.9%という高視聴率をマークした(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。NHKが「卓球の愛ちゃん人気の高さには驚きました」と話したように、この数字は各局に少なからぬ衝撃を与えた。 最終試合となった3試合目、4回戦は開始が0時頃だったが、これはフジが生放送。2戦目に比べ数字の取りにくい時間帯だったが、これも高視聴率をマーク。福原が敗れた瞬間の最高視聴率は22.7%(フジ:19日0時34分)。 2004年にマクロミルが調査した「アテネオリンピックで注目・期待する選手」についてのアンケートで北島康介と谷亮子に次いで3位となった。福原はメダルを取れなかったが、マスコミは他のメダリストとともに福原を番組に呼んでインタビューを繰り返した。 アテネ五輪で初めて福原の試合を見たという人が多く、その人たちには福原が出す「サーッ!」という声をはじめて聞くことになり、小さい頃は泣きながら卓球をやっていた少女が、あんなに元気よく声を出していることに感銘を受けた人も多かった。各局のインタビューでは、必ず「サー」の質問がされ、「あれはサーなのか、ターなのか、シャーなのか」という論議がしばらく続いた。『報道ステーション』(テレビ朝日)のインタビューでは「気合いです。何て言ってるのか分からない。」とコメントした。声紋を機械にかけたところ、発音は「ター!」であることが判明した。 いくぜ!温泉卓球(彩京、PS2ゲームソフト、2000年)小学6年の福原愛が対戦相手として登場 福原愛の卓球一直線(サクセス、PS2ゲームソフト、2005年)高校生の福原愛となって戦う。 愛ちゃんに挑戦! エキサイトピンポン(エポック、体感ゲームシリーズ、2006年7月)子供の福原愛と、高校生の福原愛と戦える。ラケットにサインが印刷されている。 福原愛物語(少年サンデーで漫画化、あおやぎ孝夫作、2004年8月4日) 卓球ラケット「福原愛」(バタフライ) 卓球シューズ「WAVE FLORA AI」(ミズノ) 卓球練習マシーン「マシンガン愛I、II」(TSP) 卓球のレッスンDVDバタフライより発売されている。 中国の卓球選手ばかりが歌うラップ曲2曲に特別参加している。(2005年・2006年) 2006年度福原愛カレンダーがANAより作られる。(2005年12月) 2頭身フィギュア(ロッテのガムの懸賞の商品になった。2006年) 福原愛写真集「LOVE ALL」(卓球王国、2005年3月) 愛は天才じゃない - 母が語る福原家の子育てって?(生島淳著、2005年1月、三起商行)母のインタビュー本。 愛ちゃんのあ。(福原の母の著、1997年10月、リイド社) スポーツのニューヒロイン〈2〉福原愛物語(本郷陽二著、2005年11月、汐文社) 子供向け 卓球王国(1996年 - ) 創刊号以来何度も表紙を飾り、インタビューも数多く取り上げられた。月刊福原愛という1Pの記事があり、名称は何度か変わったが、小学生の頃から続いている企画がある。 卓球レポート(1994年 - ) AERA(朝日新聞出版、2003年5月12日)表紙を飾った。 小学一年生(小学館、1995年4月 - 1996年3月)表紙を飾った。 中国の卓球雑誌「世界卓球」(2005年8月)で表紙や本編などで大きく取り上げられた。 ^ 同年の9月17日から10月2日まで開催されたソウルオリンピックから、卓球が五輪正式種目になった。 ^ 2008年5月4日に仙台市体育館で開催された、北京五輪壮行試合と日本リーグ・ビッグトーナメント仙台大会に出場した福原が、開始式で語った言葉より。ただし、福原が誕生してからちょうど5ヶ月後の1989年4月1日に仙台市が政令指定都市に移行して行政区が設置されたため、出生時に青葉区は存在していなかった。なお、この大会には、福原のほかに仙台育英学園高等学校卒の平野早矢香および岸川聖也の両選手も出場し、仙台ゆかりの北京五輪卓球代表3人が揃って参加し賑わった。 ^ 福原自身は、「誰からも愛されるように」との意味で命名された、というのは後付けだと語っている。 ^ 東北新幹線は、1982年(昭和57年)6月23日に大宮 - 盛岡間で開通。1985年(昭和60年)3月14日に上野 - 大宮間が延伸開業。1991年(平成3年)6月20日に東京 - 上野間が延伸開業。 ^ エキシビションマッチでは5歳以降も泣いたことがある。例えば1994年12月に開催された兵庫県城崎町の卓球イベントで試合中に泣き出した。 ^ 翌1994年(平成6年)9月19日放送のフジテレビ「第4回 明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」にも出演。 ^ 小暮の山なりの叩きつけサーブに、幼少でまだ身長が低い福原は届かず、悔し泣きした。 ^ 幼少の頃「天才卓球少女」としてTV出演をしていた時代の変わった卓球対戦相手にサッカーイラク代表の選手がいる。その番組出演時には明石家さんまとも対戦した。 ^ 2005年3月13日放送「おしゃれカンケイ」では、泣くところを撮られることよりも、泣くまで撮影が続けられたと語り、それについて嫌な思いをしたと発言している。 ^ 小学生となった1995年(平成7年)にも、フジテレビ「なるほど!ザ・ワールド」出演時に、1000本ラリー中に泣き出したり、上海の小学校を訪問して卓球クラブの中国人小学生との対戦中に不利になって泣き出したりする姿が放送された。 ^ 2001年4月から、日本卓球協会はレジスタードプロ制度をなくした。これにより、以降は子供選手でも誰でもプロ(商業)活動が出来るようになっている。 ^ 福原愛Mizuno ^ a b PROFILE プロフィール(福原 愛 オフィシャルサイト) ^ a b c “福原愛が第1子妊娠、夫の江宏傑がフェイスブックで明かす”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2017年6月29日). http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170629-OHT1T50164.html 2017年6月29日閲覧。  ^ 福原愛、ブログで出産報告「陣痛を感じてから4日目にようやく赤ちゃんに会えました」 - スポーツ報知(2017年10月13日14時37分) ^ a b c “福原愛、3歳から握ったラケットを置く決意 引退” (日本語). ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. (2018年10月21日). https://www.nikkansports.com/sports/news/201810210000915.html 2018年10月21日閲覧。  ^ 卓球・福原愛選手の父武彦さん死去 71歳、旧大曲市出身(秋田魁新報 2013年10月16日) ^ a b c d e f 卓球選手福原愛のお母さん 千代さん:1 いつも泣いてたわけじゃない(朝日新聞 2007年10月2日) ^ <リオ五輪>愛ちゃん攻めろ! 伯父ら声援(河北新報 2016年8月10日)[リンク切れ] ^ a b c d e f g h 【卓球】15歳・愛ちゃん、大緊張初陣はフルセット激闘勝利(サンケイスポーツ 2004年8月15日) ^ 福原愛×川嶋あい スペシャル対談(Yahoo! JAPAN、掲載期間:2016年8月2日-8月31日) ^ a b c d e f g h i 1999年12月21日「福原愛が全日本選手権シングルスで最年少勝利した日」(日本テレビ「DON!」 2010年12月21日) ^ 福原、自分の卓球記念日に単、複で完勝 特別な日「感謝の気持ちでいっぱい」(デイリースポーツ 2016年8月14日) ^ 悩み苦しみ20年…福原、悲願のメダルに笑顔(読売新聞 2012年8月8日) ^ <張本卓球場>愛ちゃん登場! 新星と始球式(河北新報 2016年8月29日) ^ 「リオデジャネイロ五輪2016」で紹介された情報(価格.com) ^ 卓球Report 2007年7月号(タマス) ^ 最後は「泣き虫」愛ちゃん / 27歳福原チーム牽引(東奥日報 2016年8月17日) ^ 阿倍野地区の1路線(愛称「ピンポン通り」)を『防災コミュニティ道路』に認定しました(大阪市) ^ “高校総体出場正式承認へ”. 福原愛オフィシャルサイト (2005年3月4日). 2010年8月14日閲覧。 ^ 世界団体ドーハ大会、アテネ五輪アジア予選 福原愛、日本代表一番乗り!2003年9月28日 ^ “福原愛が早大を中退 大会などへ出場で単位の取得が困難に”. 夕刊フジ (2010年3月5日). 2010年3月5日閲覧。 ^ 【世界卓球2011】5日目・岸川/福原、準決勝で敗れ銅メダルスポーツナビ2011年5月13日 ^ 福原 シングルスで五輪切符!石川は初、男子は水谷&岸川スポーツニッポン2011年5月16日 ^ 愛&佳純組 ロンドン五輪本番会場で準V スポーツニッポン 2011年11月29日 ^ “日本女子、大激戦の末に韓国に逆転負け 6大会連続のメダル逃す”. スポーツナビ (2012年3月30日). 2012年3月31日閲覧。 ^ 愛ちゃん 手術正式発表「成長した姿を見て」 スポーツニッポン 2012年8月27日閲覧 ^ “杭州国際卓球大会 中国の新鋭陳夢が福原愛を破る”. japanese.china.org.cn (2012年12月5日). 2012年12月16日閲覧。 ^ 愛、佳純下し2連覇!右肘手術から5か月「帰ってこられた」…卓球 スポーツ報知 2013年1月20日閲覧 ^ 世界ランク166位の韓国選手相手に…福原愛、まさか逆転で涙 産経新聞 2013年5月16日閲覧 ^ 福原愛が荻村杯初V 女子単で日本選手初の快挙 スポーツニッポン 2013年6月23日閲覧 ^ 福原、準決勝敗退で3連覇逃す 石川は決勝進出=卓球全日本選手権 Yahoo!ニューススポーツナビ 2014年1月18日閲覧 ^ “愛 復帰戦でストレート勝ち!佳純も中国選手破り2回戦へ”. スポニチ. http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/06/14/kiji/K20140614008361470.html 2014年7月27日閲覧。  ^ “卓球団体女子が銀、福原愛は世界2位倒す”. 日刊スポーツ (2014年10月1日). 2014年10月1日閲覧。 ^ “【卓球】福原愛、リオ五輪で足を負傷していたことを初告白 個人戦後に「骨膜炎」と診断”. 報知新聞 (2016年11月2日). 2016年12月2日閲覧。 ^ a b 福原愛結婚していた!交際公表の江宏傑と今月 - 日刊スポーツ、2016年9月8日閲覧 ^ a b “福原愛、結婚会見 プロポーズは「鍵」「頭が真っ白」に”. 産経フォト. 産業経済新聞社. 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ITTF アーカイブ - ITTF 韓陽 - バイオグラフィーとオリンピックでの成績(Sports Reference)(英語) 韓陽- 卓球ナビ", "張 一博(ちゃん かずひろ、1985年7月5日-)は、中国、上海出身の日本の卓球選手。 琉球アスティーダ所属(2018年から)。妻は福原愛のコーチ張莉梓。 高校生の頃、来日。青森山田高校卒業、青森短期大学卒業。2008年8月27日に日本国籍を取得。 ITTFプロツアーデビューは2008年9月11〜14日、上海で行われたPanasonic中国オープン。2009年12月24日に行われた第50回世界卓球選手権団体戦日本代表選手選考会で優勝し男子日本代表に内定しメンバーとなった。 平成19年度日本リーグで前・後期ともに最高殊勲選手賞を受賞、平成20年度日本リーグ(前期)で優秀選手賞を受賞している。 2018年東京アートを退社しTリーグの琉球アスティーダに選手兼コーチとして加入。 常に前陣を守り、両ハンドでの鋭いカウンターやブロックを中心に戦うリスキーな選手。下がってプレーすることは少なめだが、ラリー戦にも強い。2010年のUAEワールドチームカップクラシックでは、世界ランク1位の馬龍に勝利した。 2003年8月 第72回全国高校卓球選手権大会シングルス 3位 2004年8月 第73回全国高校卓球選手権大会シングルス 2位(優勝は岸川聖也) 2005年12月 第2回全日本学生選抜卓球選手権大会優勝 2006年12月 第3回全日本学生選抜卓球選手権大会優勝 2007年11月 第41回全日本社会人卓球選手権大会ダブルス(大森隆弘)優勝 2007年3月 第59回東京卓球選手権大会ダブルス(森田有城)優勝 2008年3月 第60回東京卓球選手権シングルス優勝、ダブルス(大森隆弘)3位 2008年5月 シチズンカップ第17回日本卓球リーグビッグトーナメント ベスト8 2008年9月 ITTFプロツアーパナソニック中国オープンダブルス(松平賢二)3位 2009年3月 第61回東京卓球選手権大会シングルス2位、ダブルス(大森隆弘)3位 2010年1月 全日本卓球選手権大会一般男子シングルス ベスト4 2010年3月 第62回東京卓球選手権大会 シングルス優勝、ダブルス(韓陽)優勝 2010年10月 第44回全日本社会人卓球選手権大会 シングルス優勝、ダブルス(韓陽)優勝 張一博 - ITTF アーカイブ - ITTF 張一博- 卓球王国 張一博- 卓球ナビ 張一博 - 日本卓球リーグ実業団連盟 張一博 - 東京アート", "森薗 政崇(もりぞの まさたか、1995年4月5日 - )は、日本の男子卓球選手。東京都西東京市出身。身長160cm、体重50kg。血液型はA型。左シェーク裏裏ドライブ型。ITTF世界ランキング最高位は21位。段級位は7段。岡山リベッツ所属。姉は卓球選手の森薗美咲(日立化成)である。 小学校までは自身の親が経営する美鷹クラブに所属。その後、青森山田中学校・青森山田高等学校、明治大学を卒業。現在は、岡山リベッツ所属。マネージメントはFPC。 2013年に、全日本ジュニアの部男子シングルスで優勝。 2014年の全日本選手権男子ダブルスでは同じ青森山田高校の後輩である三部航平とペアを組み、決勝で水谷隼・岸川聖也ペアと対戦し勝利。史上2組目となる高校生ペアでの優勝を果たす。 翌年の2015年にも同じく三部航平とペアを組み出場し、決勝は2年連続同じ顔合わせとなった水谷隼・岸川聖也ペアと対戦し勝利。2連覇を達成した。 2015年7月6〜13日、韓国の光州で行われた第28回ユニバーシアード夏季大会男子シングルスで優勝しユニバーシアード卓球競技シングルス種目における日本勢初の金メダルを獲得した。 ポルトガルのリスボンで行われたITTFワールドツアーグランドファイナルの男子ダブルスでは大島祐哉とペアを組み、1996年第1回大会以来初となる日本ペアのグランドファイナル男子ダブルス優勝。 2017年現在2期ぶりにドイツのブンデスリーグでプレーしており前半は結果が振るわなかったが後半は10連勝を上げるなどリーグトップの成績を残した。。8月2017年夏季ユニバーシアードでシングルスで前回大会に続き2連覇を達成、大島と組んだダブルスでも優勝、団体準優勝と活躍した。10月の全日本学生総合選手権では、シングルスにおいて前年の世界ジュニア代表の松山祐季、同年の世界選手権代表の田添健汰、全日本選手権2位の吉村和弘を破り2年ぶり3度目の優勝を果たした。 コブクロの「君という名の翼」という曲のプロモーションビデオに父とともに出演している。 チキータレシーブから前陣に張り付いて速い打点の両ハンドドライブで攻めていく。股関節が柔らかく素早いフットワークが特徴。 左利きの為ダブルスが得意で大島祐哉と組むことが多い。 2003年 全日本卓球選手権大会(バンビ男子)5位 2004年 全日本卓球選手権大会(バンビ男子)3位 2005年 全日本卓球選手権(カブの部)優勝、(ホープス・カブ・バンビの部)ベスト16、(カデットの部)ベスト16 東アジアグランプリホープス大会 : 日本男子Aチーム4位 2006年 全日本選手権(ホープスの部)3位 2007年 全日本カデット 優勝 全日本ホープス 優勝 ワールドジュニアサーキット 団体・カデット 準優勝 日中交歓卓球大会ダブルス : ベスト8 東アジアグランプリホープス :準優勝(日本男子Aチーム) 2008年 全国中学選抜大会 : 男子団体優勝 ハンガリージュニアオープン : ジュニア男子団体優勝 平成19年度全日本卓球選手権大会(ジュニアの部) : 男子シングルスベスト8 全日本卓球選手権大会(カデットの部) : ダブルス準優勝 全国中学校大会 : 団体優勝/シングルスベスト8 2009年 全日本卓球選手権大会(カデットの部) : ダブルス優勝/シングルスベスト8 全国中学校大会 : 団体優勝/シングルス準優勝 オーストラリアジュニアオープン : カデットシングルス優勝/ジュニアシングルス3位/ジュニアダブルス3位/ジュニア団体3位 2010年 平成21年度全日本卓球選手権大会(ジュニアの部) : 男子シングルスベスト8 2011年 平成22年度全日本卓球選手権大会(ジュニアの部) : 男子シングルスベスト8 2012年 平成23年度全日本卓球選手権大会(ジュニアの部) : 男子シングルスベスト8 2013年 ITTFグローバルジュニアサーキットファイナル : ジュニア男子シングルス優勝 平成24年度全日本卓球選手権大会 (ジュニアの部) : 男子シングルス優勝 全国高等学校総合体育大会卓球競技大会 : 男子シングルス優勝 2014年 平成25年度全日本卓球選手権大会 : 男子ダブルス(三部航平)優勝 ITTFワールドツアー チェコオープン男子ダブルス(大島祐哉)優勝 2015年 平成26年度全日本卓球選手権大会 : 男子ダブルス優勝 第28回ユニバーシアード光州(韓国)大会 : 男子シングルス優勝/男子ダブルス準優勝/男子団体準優勝 ITTFワールドツアー クロアチアオープンダブルス(大島祐哉)優勝 ITTFワールドツアー・グランドファイナル:男子ダブルス優勝 2016年 ITTFワールドツアー ポーランドオープン男子ダブルス(大島祐哉)優勝 ITTFワールドツアー ドイツオープン男子ダブルス(大島祐哉)優勝 ITTFワールドツアー グランドファイナル男子ダブルス(大島祐哉)準優勝 2017年 ITTFワールドツアー インドオープン男子ダブルス(大島祐哉)優勝 ITTFワールドツアー カタールオープン男子ダブルス(大島祐哉)優勝 アジア選手権 混合ダブルス(伊藤美誠)準優勝 世界選手権デュッセルドルフ大会 男子ダブルス(大島祐哉) 準優勝 第29回ユニバーシアード台北(台湾)大会 : 男子シングルス優勝/男子ダブルス優勝/男子団体準優勝 ITTFワールドツアー グランドファイナル男子ダブルス(大島祐哉)優勝 2018年 平成29年度全日本卓球選手権大会 : 混合ダブルス(伊藤美誠)優勝 ITTFチャレンジシリーズタイオープンシングルス : 準優勝 ITTFワールドツアー 中国オープン混合ダブルス(伊藤美誠)準優勝 2019年 平成30年度全日本卓球選手権大会 : 混合ダブルス(伊藤美誠)優勝 上月スポーツ賞(2017年) ^ a b c d 卓球部 世界卓球ダブルス銀・森薗 特別インタビュー「僕の卓球人生、ここが分岐点」…明大スポーツWEB 明大スポーツ-明治大学のスポーツ新聞 ^ [1] ^ [2] ^ [3] ^ ブンデスL参戦キツいけど成長実感/森薗政崇 - 300人リレーコラム - 五輪コラム : 日刊スポーツ ^ 卓球日本代表・森薗政崇がドイツから帰国「メンタル的に成長できた」 : スポーツ報知 ^ あおもり発・東京五輪への道:/6止 卓球 遅咲きの天才少年/青森 毎日新聞青森県版 2014年1月10日付 まさたかネット 森薗政崇 (@MasaMezase) - Twitter 森薗政崇 - ITTF 森薗政崇- 日本卓球協会 森薗政崇- 卓球王国 森薗政崇- 卓球ナビ 森薗政崇- Nittaku 森薗政崇- マザーランド ウィキメディア・コモンズには、森薗政崇に関するカテゴリがあります。" ]
ABC01-02-0265
臓器移植において、臓器を提供する人のことをドナーといいますが、提供される人のことを何というでしょう?
レシピエント
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[ "レシピエント", "神経栄養因子", "腫瘍免疫", "脂肪変性", "レニン・アンジオテンシン・アルドステロン系" ]
[ "レシピエント (recipient) とは、英語で使われ、「価値のあるものやサービスを受け取る存在」のように定義される。その存在は、人、グループ、会社、団体、政府など様々である。いくつかの国ではこの用語は、排他的ではないが普通は、賞やメダルといった表彰や贈り物を受け取る存在を指す。 表彰において、賞やメダルを受け取るレシピエント 行政において、年金(奨学金)を受け取るレシピエント 医療において、ドナーから臓器(身体の一部)を受け取るレシピエント", "神経栄養因子(しんけいえいよういんし)は、神経細胞の生存、発生、機能に必要とされる因子。 生体内には、固有の組織が分化する途中、または分化終了後もその組織に存在する細胞の増殖維持に働く分子が作られ、影響を与える可能性が想定されてきた。1986年にノーベル賞を受賞したリータ・レーヴィ=モンタルチーニは、神経細胞の増殖維持に特異的に作用する物質を発見し、これが神経栄養(成長)因子の第一号となった。彼女は鶏胚の発生過程で大量に死滅するニューロンに強い関心を寄せ、以前にある研究者によって行われた肉腫による鶏胚ニューロンへの刺激作用を推し進め、培養系において肉腫産物が交感神経節、脊髄神経節に存在するニューロンに目覚ましい増殖効果を及ぼす事を確認した。そして生化学者スタンリー・コーエンと共に肉腫由来の有効物質を同定し、これを Nerve Growth Factor (NGF) と名付けた。彼らの仕事ではNGFはマウス雄顎下腺から抽出されているが、なぜ神経とほど遠い外分泌腺に神経成長因子が高濃度に含まれているかは今日も疑問のままである。その後ブタ脳から神経に対して増殖刺激作用を持つ物質 Brain-derived Neurotrophic Factor (BDNF) が発見され、更にこれらの成長因子との遺伝子相同性に基づいて、第三の因子Neurotrophin 3 が発見されるに及んで、最初発見されたNGFはNeurotrophin 1 (NT-1)、BDNFはNT-2と呼ばれることになった。現在ではNT-4,5 まで発見されている。", "腫瘍免疫(しゅようめんえき、英:Tumor Immunity)とは癌細胞に対する免疫機構である。癌細胞は自己の細胞の遺伝子に変異が生じることによりできたものであるにもかかわらず、宿主の免疫機構による認識を受け、排除される。腫瘍免疫には自然免疫系と獲得免疫系の両方が関与しており、腫瘍の成長を抑制する。 癌と免疫は関連があることは19世紀末から知られており、1891年に外科医であるW.B.コーリーが細菌由来毒素であるコーリートキシン(Coley Toxin)を癌患者に投与して、免疫を賦活させることにより癌を治癒させたことに端を発する。1950年代に入ると「免疫学的監視説」と呼ばれる形でフランク・バーネットらによって提唱され、1960年代には広く受け入れられるようになった。これは生体内では常に悪性腫瘍細胞が産生されており、免疫応答によってこれらが駆除されているというものである。しかし、リンパ球の一種であるT細胞を持たないはずの胸腺欠損ヌードマウスと正常なマウスを比較したところ癌の発生に差が認められないことなどから免疫学的監視説は一時疑問視された。その後の研究で胸腺欠損ヌードマウスにもNK細胞などによる免疫が残っていることが明らかになり、2001年には免疫グロブリンの多様性に関与するRAG遺伝子を欠損したマウスを用いた実験が行われた。その結果として、RAG遺伝子の欠損は癌の発症率を上昇させることが報告されており、癌と免疫の間には関連があることがうかがわれる。 癌細胞では正常では発現しないはずの抗原が産生されることがあり、これを腫瘍特異抗原(TSA)と呼ぶ。一方、正常組織にも癌組織にも発現している抗原は腫瘍関連抗原(TAA)と呼ばれる。これらの腫瘍抗原は細胞の有する遺伝子に変異が起こった結果生じたタンパク質であり、その産生機構については(1)ウイルス産物(例:EBウイルス)、(2)癌遺伝子あるいは癌抑制遺伝子における変異、欠失などの変化などが提唱されている。これらの腫瘍抗原は下記に示すような細胞により認識され、腫瘍細胞は排除されるはずであるが、実際には免疫寛容と呼ばれる機構が働いて免疫系が腫瘍細胞をうまく認識できないことも多い。そもそも免疫寛容とは自己抗原に対する免疫反応が抑制される現象である。免疫寛容は免疫系の自己抗原に対する特異性に関与しており、免疫寛容の機序としてはT細胞クローンの除去やアネルギー等といったものが知られている。しかし、この免疫寛容が腫瘍抗原に対しても働くことがあり、癌細胞は生体の持つ免疫機構から免れるための機構となっている。その他にも癌細胞が抑制性のサイトカインであるTGF-βやIL-10を放出して免疫系を負に制御する免疫寛容機構も知られている。 免疫とは細菌などの生体異物(非自己)を排除するための機構であり、正常な状態では自己に対して免疫機構は働かない。自己と非自己の判別は各細胞が主要組織適合遺伝子複合体(MHC)クラスIと呼ばれる分子を介して提示した抗原断片を識別することによって行われる。細胞障害性T細胞(CTL)は腫瘍免疫の主役を担う細胞であり、ウイルス感染細胞や癌細胞等の除去を担当する。CTLによって非自己とみなされた細胞は細胞死(アポトーシス)へと誘導される。ウイルスや紫外線などにより誘発された腫瘍は抗原性が高く、CTLにより認識されやすい。一方、自然発癌による腫瘍細胞は抗原性が低く、CTLによってはほとんど排除されない。CTLの分化は樹状細胞からの抗原提示によって誘導される。樹状細胞は抗原提示細胞として働くことが知られており、抗原を細胞内に取り込んだ後に分解を行い、その断片を細胞表面に提示する。抗原提示を受けたヘルパーT細胞は活性化してサイトカインを放出し、CTLの分化・増殖を促す。また、腫瘍免疫には適応免疫系だけではなく、NK細胞やNKT細胞、マクロファージ、顆粒球などの自然免疫も関与しており、癌の進展を抑制している。 Tannock IF,Hill RP,Bristow RG and Harrington L.『がんのベーシックサイエンス 日本語版 第3版』メディカル・サイエンス・インターナショナル 2006年 ISBN 4895924602 谷口 克、宮坂 昌之 編『標準免疫学 第2版』医学書院 2002年 ISBN 4260104527 ^ Shankaran V, Ikeda H, Bruce AT, White JM, Swanson PE, Old LJ and Schreiber RD.(2001)\"IFNgamma and lymphocytes prevent primary tumour development and shape tumour immunogenicity.\"Nature. 410,1107-11. PMID 11323675", "脂肪変性(しぼうへんせい、英:fatty degeneration)とは細胞質内に形態学的に観察可能な脂肪滴が出現している状態。脂肪化とも呼ばれる。脂肪変性は中性脂肪の異常蓄積により出現する。パラフィン切片ではその作成過程で脂肪や脂質が溶出されるため、脂肪滴は空胞として観察される。脂肪変性の識別には凍結切片による脂肪染色が必要であり、中性脂肪はズダンIIIでは橙色、Oil-red-O染色では紅色、ナイル青では赤色、オスミウム酸では黒色に染まる。 獣医学大辞典編集委員会編集 『明解獣医学辞典』 チクサン出版 1991年 ISBN 4885006104 日本獣医病理学会編集 『動物病理学総論 第2版』 文永堂出版 2001年 ISBN 4830031832 日本獣医病理学会編集 『動物病理学各論』 文永堂出版 2001年 ISBN 483003162X 脂肪肝 ニクズク肝 コレステロール沈着症", "レニン-アンジオテンシン-アルドステロン系(英語: Renin-Angiotensin-Aldosterone System, RAAS)とは、血圧や細胞外容量の調節に関わるホルモン系の総称。レニン-アンギオテンシン-アルドステロン系とも。 血圧低下や腎臓の循環血液量の低下に伴って、活性化される。 Naおよびそれに伴う水分の喪失で循環血流量が減少すると、腎臓の傍糸球体装置が血圧低下を感知し、傍糸球体細胞から分泌されるタンパク質分解酵素であるレニンを血液中に分泌する。 レニンは、肝臓や肥大化脂肪細胞から分泌されるアンジオテンシノゲンを一部分解してアンジオテンシンIに変換する。 アンジオテンシンIは、肺毛細血管に存在するアンジオテンシン変換酵素(ACE)によってアンジオテンシンIIに変換される。 アンジオテンシンIIは、血管の緊張を上げ、交感神経系を刺激して心拍出量を増加させることにより血圧を維持する。 アンジオテンシンIIは、副腎皮質球状帯に作用して、ナトリウムの再吸収を促進するアルドステロンの分泌を促進する。。アルドステロンは尿細管に作用してナトリウムおよび水を再吸収すると共にカリウムの再吸収を抑制し、ホメオスタシスを維持させる。 アンジオテンシンIIは、脳下垂体に作用し利尿を抑える抗利尿ホルモンのバソプレッシン(ADH)の分泌を促進。 アンジオテンシンIIは、アミノペプチダーゼによってアンジオテンシンIIIに変換される。 これらの作用により、Naおよびそれに伴う水分喪失による循環血流量の減少で重要臓器が機能不全に陥るのを防ぐ機能であり、Naやそれに伴う水分の不足をきたしやすい陸生生物で特に発達した機構である。 血圧上昇 アンジオテンシンII、III、バソプレッシンの血管収縮作用による。 Na再吸収の増加 アンジオテンシンII、アルドステロンによって尿細管でNa+,Cl-再吸収が亢進。 水分再吸収の増加 バソプレッシンによって集合管でH2O再吸収が亢進。 レニン-アンジオテンシン-アルドステロン系が活性化されると、さまざまな昇圧物質が分泌される。この系の亢進は、高血圧の原因の1つである。 アンジオテンシン変換酵素阻害薬(ACE阻害薬,ACE-I)は、アンジオテンシンII、IIIの産生を抑制し血圧上昇を抑制するため,高血圧の治療に用いられている。 アンジオテンシンIIの受容体をブロックするアンジオテンシン受容体ブロッカー(ARBs)も、血圧上昇を抑制するため、高血圧の治療に用いられている。 アリスキレンは、レニンの作用を直接阻害するとして、注目されている。 レニン-アンギオテンシンーアルドステロン系は塩分とそれに伴う水分の喪失により腎臓血流量が低下した場合に循環血流量を確保し重要臓器の機能を保持するためにおもに陸生哺乳類で進化した系統である。したがって、現代人のように塩分が過多の状況ではレニンおよびアンギオテンシンIIの分泌は抑制されている。 従って、塩分過多の高血圧症例ではアンギオテンシンII変換酵素阻害剤(ACE阻害剤)やアンギオテンシンIIレセプターブロッカー(ARB)による降圧効果は十分でない。このため、現時点の本態性高血圧の治療は、依然として塩分制限が中心であり、ARBにカルシウム拮抗剤や利尿剤とARBを組み合わせた配合錠が広く使われるようになっている。 レニン-アンギオテンシン-アルドステロン系はNaおよび水分の喪失時に重要臓器の血流を確保して臓器を保護するための機構であることから、原理的にはこの系を遮断しても臓器保護作用があるとは考えにくい。現在、多くのメタアナリシスではARBに伴う臓器保護作用は単に一般的な血圧降下作用によるもので、カルシウム拮抗剤や利尿剤と同じ効果によると考えられるようになった。特にバルサルタンに関してはバルサルタン事件の解析で臓器保護作用は完全に否定されている。 厳しいコンプライアンスが要求される最近の試験ではアンギオテンシン変換酵素阻害薬のいわゆる「降圧効果を超えた臓器保護作用」に否定的データが提出されるようになった。バルサルタンには心・脳血管保護作用があるとする論文は捏造であることが判明し撤回された。NAVIGATOR試験ではバルサルタンの心血管イベント抑制効果は認められなかった。 ONTARGET試験ではACE阻害剤に加えたテルミサルタンは心イベントを増加し、TRANSCEND試験ではテルミサルタンはプラセーボより心血管イベントを増加させた。 I-PRESERVE試験では、拡張性心不全患者においてイルベサルタンの上乗せ効果は認められなかった。CASE-J試験では、心血管イベントの発生率はカンデサルタン群とアムロジピン群で優位差は無かったが、武田薬品は説明用スライドで不正を行ったことを認め陳謝した。OSCAR試験では、オルメサルタンを追加よりCa拮抗薬追加の方が心血管イベントが減少した。ADVANCED-J試験では、ARBで降圧効果が十分でなかった症例にARB追加群よりアムロジピン追加群の方が腎保護効果が強かった。 腎保護作用については、腎臓の輸出細動脈を拡張し、糸球体内圧を下げることによる直接的な腎保護作用があるとされていたが、現時点のメタアナリシスでは否定されている。 アンジオテンシン変換酵素(ACE)は、キニン-カリクレイン系ではキニナーゼIIと呼ばれており、キニンの分解に関与する。 アンジオテンシンI→アンジオテンシンIIへと変換する酵素にはACEの他にキマーゼやカテプシンGがある。 ^ 脂肪細胞とインスリン抵抗性 ^ 研究トピックス 塩分の摂りすぎによる血圧上昇のしくみを解明 ^ 利尿を抑えるホルモン\"バソプレシン\"の脳の中の新たな作用を発見[リンク切れ] ^ 「リスクが高い高血圧患者に対してCCB(カルシウム拮抗薬)とバルサルタンを併用した場合の心血管系イベントの抑制への効果」(Clin Exp Hypertens. 2012;34:153-9)、「冠動脈疾患を有する高リスク高血圧患者におけるバルサルタンの心・脳血管保護作用」(Am J Cardiol. 2012 May 1;109(9):1308-14) ^ NAVIGATOR Study Group: Effect of valsartan on the incidence of diabetes and cardiovascular events. N Engl J Med. 2010; 362: 1477-90. ^ Telmisartan, Ramipril, or Both in Patients at High Risk for Vascular Events The ONTARGET Investigators N Engl J Med 2008; 358:1547-1559 ^ Effects of the angiotensin-receptor blocker telmisartan on cardiovascular events in high-risk patients intolerant to angiotensin-converting enzyme inhibitors: a randomised controlled trial.Telmisartan Randomised AssessmeNt Study in ACE iNtolerant subjects with cardiovascular Disease (TRANSCEND) Investigators, Lancet. 2008 Oct 18;372(9647):1384. ^ Massie BM et al for the I-PRESERVE Investigators: Irbesartan in patients with heart failure and preserved ejection fraction. N Engl J Med 2008; 359: 2456-67. ^ Candesartan antihypertensive survival evaluation in Japan trial. Hypertension. 2008; 51: 393-8. ^ http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/events_news/office/kenkyukokusai/kenkyu/news/2014/documents/150227_1/02.pdf ^ An angiotensin II receptor blocker–calcium channel blocker combination prevents cardiovascular events in elderly high-risk hypertensive patients with chronic kidney disease better than high-dose angiotensin II receptor blockade alone Kidney Int. 2013 Jan; 83(1): 167–176. ^ ADVANCED-J investigators: Management of home blood pressure by amlodipine combined with angiotensin II receptor blocker in type 2 diaberes. Circ J. 2012; 76: 2159-66. カプトプリル エナラプリル ベナゼプリル 伊藤勝昭ほか編集 『新獣医薬理学 第二版』 近代出版 2004年 ISBN 4874021018" ]
ABC01-02-0268
「翼よ、あれがパリの灯だ」の名文句を残した、1927年史上初めて単独で大西洋無着陸横断飛行を成功させたアメリカの飛行家は誰でしょう?
チャールズ・リンドバーグ
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[ "チャールズ・リンドバーグ", "デュドネ・コスト", "エミー・ジョンソン", "ロスコー・ターナー", "チャールズ・キングスフォード・スミス" ]
[ "チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(英語: Charles Augustus Lindbergh, 1902年2月4日 - 1974年8月26日)は、アメリカ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、議会名誉黄金勲章の受賞者。1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功。1931年には北太平洋横断飛行にも成功した。 スウェーデン移民の息子としてミシガン州デトロイト市で生まれ、ミネソタ州リトルフォールズで成長した。父チャールズ・オーガスト(en:Charles August Lindbergh)は弁護士、その後共和党の国会議員となり第一次世界大戦へのアメリカの参戦に反対した。母エヴァンジェリン(Evangeline Lodge Land Lindbergh)は化学教師だった。 リンドバーグは幼少時から機械への関心を示したが、1922年には機械工学から離れ、ネブラスカ航空機でパイロットと整備士の訓練に参加したあとカーティスJN-4「ジェニー」を買い、曲芸飛行士になった。1924年にはアメリカ陸軍航空隊で飛行士として訓練を始めた。訓練を一番の成績で終え1920年代にはライン・セントルイスの民間航空便パイロットとして働いた。 1927年5月20日5時52分(出発時の現地時刻)、リンドバーグはスピリットオブセントルイス号(ライアンNYP)にサンドイッチ4つと水筒2本分の水、1700リットルのガソリンを積んでニューヨーク・ロングアイランドのぬかるんだルーズベルト飛行場の滑走路を離陸。途中、海面近くまで降りアイルランドの海岸までの距離を聞こうと漁船に向かって叫んだが上手くいかなかった。5月21日22時21分(到着時の現地時刻)、パリのル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。この時、リンドバーグは25歳であった。飛行距離は5,810kmで飛行時間は33時間29分30秒[要出典]だった。これによりリンドバーグは、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞とその賞金25,000ドル、さらに世界的な名声を得た。無着陸飛行を達成した際にル・ブルジェ空港へ押し寄せた観客の数は、空港に入り切らなかった分も含めて延べ75万人とも100万人ともいわれている。[要出典] スピリットオブセントルイス号は、リンドバーグの指示の下に特別にカスタマイズされた機体であった。多量の燃料(ガソリン)を積むべく操縦席の前方に燃料タンクを設置したため、座席からは直接前方が見えず、潜望鏡のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出す必要があった。当時、無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なかったため、他のオルティーグ賞挑戦者のように大型の機材を用意できず、また機材そのものもリンドバーグが望んだベランカ社製品より性能の低いものにせざるを得なかったことから、前方視界を犠牲にして燃料の搭載量を増やすことで対処したのである。さらにバックアップの操縦士を乗せることもできなかったため、パリまでの全行程を一人で操縦し続けるという過酷な飛行となった。飛行中、リンドバーグは強い睡魔に襲われたが、これを克服してパリに到達した。現在、この機体はスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。 「リンドバーグが大西洋無着陸飛行に初めて成功した」と誤解されがちだが、単独でない大西洋無着陸飛行については、1919年にジョン・オールコックとアーサー・ブラウンが達成している。これは、6月14日から6月15日にかけての16時間でニューファンドランド島からアイルランドへ1,890kmを飛行したものであった(その他の大西洋横断飛行については「大西洋横断飛行」を参照)。 また、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだとされるが、この台詞は後世の脚色であり、リンドバーグはその時自分がパリに着いたことも分らなかったという。実際に発した最初の言葉としては、「誰か英語を話せる人はいませんか?(この後英語を話せる人に「ここはパリですか?」と尋ねる)」であるという説と、「トイレはどこですか?」であるという説の2つがある。いずれにせよ、「翼よ、あれがパリの灯だ!」の出所は自伝 \"The Spirit of St. Louis\"の和訳題であり、日本語では広く知られているが、英語圏ではこれに対応するよく知られた台詞は存在しない。 1929年に駐メキシコ大使ドワイト・モロー(en:Dwight Morrow)の次女アンと結婚した。アンは夫の勧めでパイロットや無線通信士の技術を身につけ、乗務員として調査飛行に同行する。後年、彼女は作家となった。夫妻はチャールズ・オーガスタス・ジュニア(1930年)、ジョン(1932年)、ランド(1937年)、アン(1940年)、スコット(1942年)およびリーヴェ(1945年)の6人の子供をもうけた。 1932年3月1日に1歳8か月の長男ジュニアが自宅から誘拐され、10週間に及ぶ探索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、5月12日、ニュージャージー州ホープウェルで死んでいるのが見つかった(リンドバーグ愛児誘拐事件)。 2003年11月、リンドバーグとミュンヘンの帽子屋ブリギッテ・ヘスハイマー(Brigitte Hesshaimer)の間に3人の非嫡出子が生まれていたことがDNAテストによって証明された。3人はそれぞれ1958年・1960年・1967年にドイツで生まれた。リンドバーグとヘスハイマーの関係は1957年に始まり、彼の死まで継続された。ヘスハイマーは2001年に74歳で死去した。 リンドバーグ夫妻は1931年に、パンアメリカン航空から依頼された北太平洋航路調査のためニューヨークからカナダ、アラスカ州を経て、日本と中華民国までロッキードの水上機シリウス「チンミサトーク号(チンミサトークはイヌイットの言葉で『大鳥』の意)」で飛行した。 途中8月23日には日本の国後島 、8月24日には根室市、26日に霞ヶ浦、その後大阪、福岡を経て、中華民国の南京と漢口まで飛行した。妻のアン・モローは、飛行記録として『 NORTH TO THE ORIENT 』を著した。 リンドバーグの大きな業績の一つとして人工心臓の開発がある。リンドバーグには心臓弁膜症を患っている姉がおり、心臓病の治療法を開発したいという思いから生理学者アレクシス・カレルの研究室を訪れた。2人は意気投合し共同研究をおこない、1935年に「カレル・リンドバーグポンプ」を開発。これは今日の人工心臓に影響を与えている。組織が体外で生き続るための生理学的条件についてはカレルの知識が、血液を連続して環流させるポンプ装置の発明についてはリンドバーグの工学知識が生かされた。 第二次世界大戦前夜、リンドバーグはアメリカ軍の要請でドイツに何度か旅行し、ドイツ空軍についての報告を行った。1938年にはヘルマン・ゲーリングから勲章を授与されたが、この授与は、ユダヤ人を差別する政策やアンシュルスなどの強権的な対外政策を進めるナチス党政権と親密になりすぎているということでアメリカ国内で批判を受けた。批判に対して、リンドバーグは「ドイツに対する過剰な非難である」と反論した。 ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した後、共和党員であったリンドバーグはアメリカの孤立主義とドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行った。1941年1月23日にはアメリカ連邦議会で演説し、ドイツと中立条約を結ぶべきと主張した。リンドバーグは孤立主義をとなえるアメリカ第一委員会(America First Committee)の主要なスポークスマンであり、1941年9月11日のアイオワ州デモインでの演説では、アメリカを戦争に引きずり込もうとしている3大勢力はイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権であると述べた。この発言にユダヤ系アメリカ人が反発し、フランクリン・ルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での委任を解除した。 1953年に大西洋単独無着陸飛行について書いた \"The Spirit of St. Louis\"(邦題『翼よ、あれがパリの灯だ』)を出版し、これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。同書は1957年にビリー・ワイルダー監督の手で映画化された(映画の邦題は『翼よ! あれが巴里の灯だ』で、原作にないフィクションも一部含まれている)。 1970年には訪日し、大阪万博を訪れた。晩年は、妻のアン・モローと共にハワイ州のマウイ島に移り住んだ。また、自然環境の保全に力を注ぐようになり、世界各地を回り、環境保護活動に参加、多額の資金を寄付した。 1974年8月26日朝にマウイ島ハナのキパフルにある別荘にてリンパ腫瘍が原因で72歳で死去した。 2002年5月2日、大西洋単独無着陸飛行75周年を記念して、孫のエリック・リンドバーグが「ニュー・スピリット・オブ・セントルイス号」で大西洋単独無着陸飛行を実行、無事成功した[1]。またエリックは民間宇宙開発競技会Ansari X Prizeに出資している。 「フリーメイソン」の会員である。 ウォルト・ディズニー・プロダクションによるミッキーマウス作品の実質的な第1作『プレーン・クレイジー』は、彼による大西洋単独無着陸飛行を意識した作品である。 桜エビ〜ずが2018年に発売した楽曲「リンドバーグ」は、チャールズ・リンドバーグがモチーフになっている。 『翼よ、あれがパリの灯だ』 佐藤亮一訳、恒文社、1991。ピューリッツァー賞受賞 旧版 『翼よ、あれがパリの灯だ』 旺文社文庫(上下) 1976。他にも様々な版で刊行 『リンドバーグ 第二次大戦日記』 新庄哲夫訳、新潮社(2巻組)、1974 『孤高の鷲 リンドバーグ 第二次大戦参戦記』 学研M文庫(上下)、2002 『リンドバーグ 第二次大戦日記』 角川ソフィア文庫(上下)、2016 ジヨーヂ・ブキヤナン・フアイフ『リンドバーグ物語 孤独の荒鷲』日本飛行学校出版部訳 日本飛行学校出版部 1929 広畑恒五郎『空の王者リンドバーグ』婦女界社 1931 ケニス・S.デイヴィス『英雄 チャールズ・リンドバーグ伝』村上啓夫訳 早川書房 1966 柴野民三『リンドバーグ 大西洋無着陸横断飛行の英雄』チャイルド本社 1984 宝島編集部編『虹を追いかけて リンドバーグ』JICC出版局 1991 岡高志『リトル・ウィング リンドバーグ・ストーリー』ソニー・マガジンズ文庫 1993 ジョイス・ミルトン『リンドバーグ チャールズとアンの物語』中村妙子訳 筑摩書房(上下) 1994 今西祐行『リンドバーグ』チャイルド本社 1998 こども伝記ものがたり アン・モロー・リンドバーグ『翼よ、北に』中村妙子訳、みすず書房 2002 A.スコット・バーグ『リンドバーグ 空から来た男』広瀬順弘訳 角川文庫(上下) 2002 ビリー・ワイルダー監督『翼よ! あれが巴里の灯だ』ジェームズ・ステュアート主演 1957 ^ ルーズベルト飛行場(en:Roosevelt Field (airport))は現存せず、その跡地はルーズベルトフィールドモール(en:Roosevelt Field (shopping mall))というショッピングモールになっている。 ^ マルゲリータ・ジャコーザ、ロベルト・モッタデリ、ジャンニ・モレッリ 訳:村田綾子『世界の特別な1日 未来に残したい100の報道写真』日経ナショナル ジオグラフィック社、2017年6月20日 第1版1刷、51頁より引用 ISBN 978-4-86313-385-3 ^ 平沢秀雄「\"THE SPIRIT OF ST.LOUIS\"-リンドバーグ大西洋単独無着陸飛行80周年によせて」 ^ 「北の宝島へ/北方領土と千島…記憶の周遊旅行」国後島 東沸湖と材木岩 ^ 「北の宝島へ/北方領土と千島…記憶の周遊旅行」択捉島の首都・沙耶 ^ a b c d まんが医学の歴史 茨木保著 医学書院発行 ISBN 978-4-260-00573-9 ^ a b 聖域への挑戦 ~人工心臓の歩み~ ^ Famous freemason A-L ^ 桜エビ~ずがハバナイ浅見北斗提供の新曲「リンドバーグ」配信、MVも公開、音楽ナタリー、2018年7月11日 11:08。 スコット・フィッツジェラルド リンドベルイ ロバート・ゴダード - 現代のロケット技術の開拓者の一人。当時、先進的過ぎる発想で世間から嘲笑されていたゴダードに資金援助した。", "デュドネ・コスト(Dieudonne Costes、1892年11月14日-1973年5月18日)はフランスのパイロットである。第一次世界大戦で6機を撃墜しエースパイロットになる。第1次大戦後、いろいろな飛行記録で、航空史に名前を残している。 1927年10月10日から1928年4月28日の間の世界一周飛行(ただしサンフランシスコ・東京間は船で移動した)を行った。途中、南大西洋(セネガル、ブラジル間)の初の無着陸横断飛行を達成した。使用した機体はブレゲー 19型機である。(『ナンジェセール・エ・コリ号』:大西洋横断に挑戦して、死亡した2人のパイロット(シャルル・ナンジェッセ、フランソワ・コリ)の名にちなむ。)のべ約65,000kmを338時間の飛行時間で航法士ジョセフ・ルブリと共に飛行した。 1929年7月13日 パリ-ニューヨーク大西洋逆横断に挑戦。14時間後に断念。 1929年9月27日 51時間19分、7,905kmの世界長距離記録の新記録を樹立。 1930年9月1日 モーリス・ベロントとパリ-ニューヨーク大西洋逆横断に成功した。ブレゲー19改『ポワン・タンテロガシオン(疑問符)号』でパリのル・ブルジェ飛行場からニューヨークのカーチス飛行場までを37時間18分で飛行した。", "エミー・ジョンソン(Amy Johnson、1903年7月1日 - 1941年1月5日、一時ジェームズ・モリソンと結婚してエミー・モリソン)はイギリスの女流飛行士である。キングストン・アポン・ハル出身。 1929年にパイロットライセンスを取得した。1930年に女性として初めてイギリスからオーストラリアの飛行を行った。5月5日にクロイドンをデハビランド・ジプシーモスで出発して、5月24日にオーストラリアのダーウィンに到着した。 1931年にイギリスから日本への飛行をジャック・ハンフリーと行った。 1932年6月と1936年5月にイギリスから南アフリカのケープタウンの飛行を行った。1932年にジム・モリソンと結婚して、モリソン夫妻は1933年の大西洋横断飛行、1934年のインドまでの無着陸飛行をおこなった。マックロバートソン・エアレースに参加して、インドのアラハードまでレースをリードしたが、リタイヤした。 1938年、モリソンと離婚した。第二次大戦中は航空輸送予備隊(ATA)のパイロットとして基地への航空機輸送を行ったが、1941年1月5日テムズ川河口付近で雲に迷い込みパラシュートで脱出したが行方不明となった。 女性パイロット烈伝", "ロスコー・ターナー(Roscoe Turner、1885年9月29日-1970年6月23日)はアメリカの人気パイロットである。数々のエアレースで活躍した。トレードマークのひげや、いつもパイロットの制服を着込んで、ライオンをペットにするなどで、人気パイロットになった。 ミシシッピ州、コリンスの農家に生まれた。16歳で自動車メカニックになる希望で、メンフィスに出て、さまざまな仕事についた。1913年に最初に飛行機の飛ぶのを見て、1916年にはパイロットになろうと決めた。第一次世界大戦が始まると召集され、気球乗りの訓練を受けたあと1918年にヨーロッパに派遣され、そこで何度か個人的に飛行機の訓練を受けた。1919年7月に帰国し、9月に退役した。10月からバーンストーミング(見世物飛行)に加わり各地を興行し、1924年には自分の名前の興行チーム(Roscoe Turner Flying Circus)を作った。1925年初めに、出資者を得て、航空運行会社 Roscoe Turner Airways Corporationを作り、双発のSikorsky S-29-Aで観光飛行のパイロットなどを務めた。ハワード・ヒューズが監督を務めた第一次世界大戦のパイロットを描いた映画『地獄の天使』のための飛行も行った。1929年から定期航空会社ネバダ航空のチーフパイロットとなり、記録飛行やエアレースに参加したがネバダ航空は1930年に破綻した。その後もスポンサーを得てエアレースに参加した。ライオン繁殖牧場から譲り受けたライオンを1935年頃まで同行させていた。シェルスピードレース、ベンディックスレース、トンプソントロフィーレースなどで活躍した。1939年にレースから引退し、インディアナポリスに飛行学校をつくり、パイロットを育成した。", "チャールズ・キングスフォード・スミス(Charles Kingsford Smith, 1897年2月9日 - 1935年11月8日)は、ニックネームで“スミッシー”とも呼ばれる、最も有名なオーストラリアの開拓飛行士である。ブリスベン生まれ。 最初のオーストラリア本土無着陸横断を成し遂げ、初めてのオーストラリアからニュージーランドの飛行をした。1934年には太平洋を東へ飛び、初めてオーストラリアからアメリカ本土へ飛行した。 1935年、アンダマン海を飛行中に行方不明となった。 1966年発行の20オーストラリア・ドル紙幣に肖像が使用されていた。 キングスフォード・スミス国際空港 Charles Kingsford Smith - The Pioneers - Aviation and Aeromodelling Charles Kingsford Smith biography - Ace Pilots Sir Charles Kingsford Smith - Australian Heroes Charles Kingsford Smith - ABC website Charles Kingsford Smith - about the Tasman flight Charles Kingsford Smith - (チャールズ・キングスフォード・スミスと彼の飛行機Southern Crossの写真を含む) Sir Charles Kingsford Smith - Sound Recordings and Newsreels Austin Byrne and the Kingsford Smith Southern Cross Memorial" ]
ABC01-02-0269
ギタリストのジミ・ヘンドリックスがアメリカ国歌を演奏したエピソードも有名な、1969年8月に行われた歴史的音楽フェスティバルは何でしょう?
ウッドストック・フェスティバル
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[ "ウッドストック・フェスティバル", "ザ・バンド", "ヴァニラ・ファッジ", "スウィート", "ヤングブラッズ (1960年代のバンド)" ]
[ "ウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)は、1969年8月15日(金)から17日(日)までの3日間(あるいは、8月15日午後から18日午前にかけての4日間)、アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開かれた、ロックを中心とした大規模な野外コンサート。約40万人の観客を集め、アメリカの音楽史に残るコンサートになると同時に、1960年代アメリカのカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている。 30組以上のフォーク歌手やロック・グループなどが出演し、入場者は40万人以上であった。このロック・フェスティバルは、アルスター郡ウッドストックにおけるアート・ムーブメントに関連して名付けられた。近郊のサリバン郡ベセルのロシア系ユダヤ人個人農場主マックス・ヤスガーの息子の了解を得られ、所有する酪農農場が会場となった。この一帯は、「キャッツキルバレー」と呼ばれるアメリカインディアンの共同居住区(保留地ではない)である。 主催者となった若者たちは、ボブ・ディランなど往年の歌手やアーティストたちが暮らすウッドストックに自分たちのレコーディング・スタジオを設立する資金集めの目的で、このロック・コンサートを企画した。当初、1万人から2万人程度の入場者を見込んでいたが、多くの人気ミュージシャンから出演の承諾が得られたことから、事前に18万6000枚のチケットが売れ、当日入場者は20万人を超えると予想された。実際はそれをはるかに上回る40万人以上が詰めかけ、半数以上が入場料金を払わなかったため、事実上無料イベントの様相を呈した。 会場への高速道路は、会場に向かおうとする人々でごった返し、この週末は雨の上に、施設は人が混み合い、参加者は食べ物などを分け合っていた。暴力事件などは報告されていない。 度重なる雨による中断のためプログラムが遅れてしまい、最終日のトリを務めたジミ・ヘンドリックスが登場したのは月曜日の朝、8時30分だった。それまでに帰った人もいて、彼らはヘンドリックスの演奏を見られなかった。この時のヘンドリックスの演奏は、1999年にほぼ全曲がアルバム『ライヴ・アット・ウッドストック』として発表された。 ウッドストック・フェスティバルは、カウンター・カルチャーを集大成した、1960年代のヒューマンビーインと呼ばれる人間性回復のための集会でもあり、音楽イベントとしてのみならず、ヒッピー時代の頂点を示す象徴と捉えられている。 このフェスティバル自体は赤字となったが、レコードと映画化のため、最終的には収益にも結びついた。 ウッドストックの会場では2件の出産があった(人数については諸説あり)。 このコンサートの模様は、『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』というドキュメンタリー映画として公開された。マイケル・ウォドレー(英語版)監督、マーティン・スコセッシ編集のこの映画は1970年に公開され、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。 ウッドストックには愛と平和、反戦を主張するヒッピーや若者ら約40万人が集った。 しかし、初の大規模な野外コンサートであったため、現代の観点で捉えれば、混雑など至らない点も多かった。ヒッピーの中にはドラッグを使用する観客もいた。だが、規模と観客数の膨大さに比べれば、驚くほど平和的な祭典だった。 また食糧や清潔な水の供給、雨天を避ける手段も十分とはいえず、トイレや緊急用のテントなど必要な施設も多くなかった。フェスティバルの計画段階ではこれだけ多くの人が集まるとは考えられておらず、そのための準備が全くできていなかったのである。フェスティバル終了後のゴミ問題も大きな問題だったが、観客の中にはゴミを片付けて帰る者もいた。 町の住民からは「ヒッピーが集まるヤスガー祭」と警戒され、場所を提供した農場主のヤスガーには、反対派の住民によって開催前から牛乳の購入打ち切りなどの嫌がらせを受けた。 とはいえ、少なくとも同年12月6日に開かれ死者まで出したローリング・ストーンズによるフリー・コンサート(オルタモントの悲劇)とは対照的に、1960年代を体験した同世代アメリカ人の「輝かしい記憶の余韻」として生き続けたとされている。 1973年の石油ショックが起き、その後の不況でヒッピーや反体制的な若者は減っていった。アメリカの理想の終焉を見せつけたのが、ウォーターゲート事件に起因する1974年の大統領リチャード・ニクソンの辞任であり、1975年に終戦を迎えたベトナム戦争におけるアメリカの敗戦である。 リッチー・ヘブンス オープニング、「Handsome Johnny」、「Freedom」、「High Flyin' Bird」など スワミ・サチダナンダ(インドの聖者)による祈祷 スィートウォーター 「Motherless Child」、「What's Wrong」、「Why Oh Why」 バート・ソマー 「Jennifer」、「She's Gone」、「Things Are Going My Way」、「Smile」 ラヴィ・シャンカール 雨により途中で中止 ティム・ハーディン、「If I Were A Carpenter」 メラニー・ソフィカ 「Beautiful People」、「Birthday of the Sun」 アーロ・ガスリー 「Coming Into Los Angeles」、「Walking Down The Line」、「アメイジング・グレイス」 ジョーン・バエズ 「勝利を我等に」、「Joe Hill」、「Swing Low, Sweet Chariot」など5曲 ザ・クイル 「Waitin' For You」 カントリー・ジョー・マクドナルド 「I Find Myself Missing You」、「Fish Cheer」など ジョン・セバスチャン 飛び入り参加 サンタナ 「Persuasion」、「Soul Sacrifice」 キーフ・ハートリー・バンド 「Spanish Fly」など インクレディブル・ストリング・ バンド 「Catty Come」、「This Moment Is Different」、「When You Find Out Who You Are」 キャンド・ヒート 「A Change Is Gonna Come」、「Going Up The Country」 マウンテン グレイトフル・デッド 「St Stephen」、「Mama Tried」、「Dark Star/High Time」、「Turn On Your Lovelight」 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル  「Born On The Bayou」、「Bad Moon Rising」、「Suzy Q」 ジャニス・ジョプリン 「Piece of My Heart」、「ラヴ・サムバディ」など スライ&ザ・ファミリー・ストーン 「エヴリデイ・ピープル」、「Dance to the Music」、「Music Lover」、「I Want to Take You Higher」 ザ・フー 「ピンボールの魔術師」、「マイ・ジェネレーション」、「See Me, Feel Me」、「サマータイム・ブルース」など24曲 ジェファーソン・エアプレイン 「White Rabbit」など グリース・バンド インストゥルメンタル ジョー・コッカー (Joe Cocker and the Grease Band) 「Delta Lady」、「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」など 大雨の為数時間中止 カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュ テン・イヤーズ・アフター 「I'm Going Home」など ザ・バンド 「ザ・ウェイト」、「アイ・シャル・ビー・リリースト」など ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ 「Spinning Wheel」など ジョニー・ウィンター、フィーチャリングエドガー・ウィンター 「Tobacco Road」など クロスビー、スティルス&ナッシュ 「組曲: 青い眼のジュディ」、「ブラックバード」、「グウィニヴィア」、「ミスター・ソウル」、「グウィニヴィア」、「自由の値」など ポール・バターフィールド・ブルース・バンド 「Everything's Gonna Be Alright」など シャ・ナ・ナ 「カム・ゴー・ウィズ・ミー」、「The Book of Love」、「Duke of Earl」、「At the Hop」、「Teen Angel」など ジミ・ヘンドリックス 「パープル・ヘイズ」、「ヴードゥー・チャイルド (スライト・リターン)」など16曲 ビートルズ ドアーズ レッド・ツェッペリン ジェスロ・タル ムーディー・ブルース トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズ (en:Tommy James and the Shondells) バーズ ポール・リヴィア&ザ・レイダーズ (en:Paul Revere & the Raiders) ボブ・ディラン フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション (en:The Mothers of Invention) フリー ジェフ・ベック(ジェフ・ベックグループ) 1979年にウッドストック10周年記念コンサート(ウッドストック・リユニオン)が開かれたのに続き、1989年、1994年、1999年に記念コンサートが開かれている。とくに94年の25周年は「Woodstock II」と呼ばれ、ボブ・ディランやクロスビー、スティルス&ナッシュらが出演し、約30万人を集めた。Woodstock IIIについてはウッドストック 1999を参照。 ^ a b c Woodstock in 1969, 50 moments that changed the history of rock & roll Rolling Stone, Jun 24, 2004 ^ a b c d Aug 15, 1969:The Woodstock festival opens in Bethel, New YorkThis Day in History ^ http://www.intrepidreport.com/archives/10394 ^ http://www.imdb.com/title/tt0066580/ ^ http://www.imdb.com/title/tt0066580/ ^ Aug 17, 1969:Woodstock Music Festival concludesThis Day in History モントレー・ポップ・フェスティバル ヒッピー アンダーグラウンド (文化) ビート・ジェネレーション イージー・ライダー 俺たちに明日はない いちご白書 ウェストコースト・ロック ロック (音楽) 成毛滋 1969 Woodstock Festival & Concert - ウェイバックマシン(2016年8月23日アーカイブ分) 座標: 北緯41度42分05秒 西経74度52分49秒 / 北緯41.70139度 西経74.88028度 / 41.70139; -74.88028", "ザ・バンド (The Band) は、1967年から1976年にアメリカで活動したロック・バンド。オリジナル・メンバーは、カナダ人4人(ロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ)とアメリカ人1人(リヴォン・ヘルム)。1983年にロバートソン以外のメンバーが再結成し、メンバー・チェンジやサポート・メンバーを加えながら1999年まで活動した。 オリジナル・メンバーの全員が様々な楽器を演奏でき、ミュージシャンズ・ミュージシャンとして、今なお多くのミュージシャンから尊敬を集めている。1989年にカナダのCanadian Music Hall of Fame殿堂入り、1994年にロックの殿堂入りを果たしている。 「ローリング・ストーン誌の選定の歴史上最も偉大な100組のグループ」において第50位。2008年、グラミー賞の Lifetime Achievement Award を受賞した。 1959年、アメリカのロックンローラー、ロニー・ホーキンスは彼のバック・バンド、ザ・ホークスを連れロックンロールが落ち目になりつつあったアメリカを離れカナダへと活動の中心を移した。しかし、次第にドラムスのリヴォン・ヘルム以外のメンバーがホームシックにかかり脱退したため、現地カナダの若者をメンバーに加入させる。その際集まったメンバーが、ギターのロビー・ロバートソン、ベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、後のザ・バンドのメンバーである。1963年までロニー・ホーキンス (Ronnie Hawkins) のバックバンドとして活動していた。 1964年、ロニーと意見の相違から別れたザ・ホークスは、「リヴォン&ザ・ホークス」と名乗りカナダとアメリカで地道なライブ活動を続ける。やがて、ボブ・ディランのマネージャーのアルバート・グロスマンの目に留まり、ブルース・シンガーのジョン・ハモンド(ディランを世に出したプロデューサーのジョン・ハモンドの同名の息子)の推薦もあって、彼らはボブ・ディランのバックバンドとして抜擢されることとなった。折しも、ディランがアコースティックギターの弾き語りによるフォーク路線から、エレキギターを使用したフォークロック路線へと転換する時期であり、電気楽器を嫌う従来のフォークファンからは壮絶なブーイングを受けた。しかしこれが逆にバンドの知名度を高めることになる。 ディランとホークスとのコンサートツアーは全米、オーストラリア、ヨーロッパと続き、行く先々で賛否両論を巻き起こす。この様子はディランのライブ・アルバム『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)に記録されている。ツアー半ばで、保守的な観客のブーイングに嫌気が差したリヴォン・ヘルムが脱退し、後任にはミッキー・ジョーンズが一時的に参加した。 ツアー終了直後の1966年7月29日、ディランは交通事故で負傷。仕事を失っていたメンバーはディランに誘われ、彼の隠遁地であるニューヨーク郊外のウッドストックに住みつく。このころリヴォンも復帰する。彼等の家はピンクのペンキで塗られており、「ビッグ・ピンク」と名付けられた。ここではディランとのセッションが行われ、その音源がロック史上初の海賊盤『Great White Wonder』として流出した。公式には長く未発表であったが、1975年に『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』としてリリースとなった。また2014年にはディランのブートレッグ・シリーズ第11集『The Basement Tapes Complete』として、その全容が公表された。 1968年、ホークスはバンド名をザ・バンドとし、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でデビューする。シングルカットされた「ザ・ウェイト」は翌年の映画『イージー・ライダー』に使われ多くの人々に知られるところとなった。ロックにカントリー、フォーク、R&Bといったルーツ・ミュージックの要素を色濃く反映させた音楽性は非常に高い評価を獲得し、当時の多くのミュージシャンたちに大きな影響を与えた。 1969年8月17日にはウッドストックコンサートに出演。同じ8月末にはディランとともにワイト島フェスティバルに参加。このワイト島出演の際ザ・ビートルズのジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターと親交を深めた。 同年9月、第2作のアルバム『ザ・バンド』を発表。1970年に3作目の『ステージ・フライト』を発表。1971年には野心作『カフーツ』でアラン・トゥーサンを招き、ホーンセクションを取り入れるが、このころからメンバー間に摩擦が生じ曲作りもスランプに陥る。そんな中でも、ライブ演奏は積極的に行われ、トップクラスのライブバンドとしての名声を確保した。 1973年にはカバーアルバム『ムーンドッグ・マチネー』を発表。エルヴィス・プレスリーのナンバー「ミステリー・トレイン」や映画『第三の男』のテーマ曲を演奏するなど話題を集める。1974年にはディランと共にツアーを行い、興行的にはその年で一番といわれるほどの大成功を収めた。このときの様子はアルバム『偉大なる復活』(1974年)で聴くことができる。また、1972年に発表されたライブアルバム『ロック・オブ・エイジズ』は、スタジオ録音と変わらない演奏スタイルで話題を呼んだ。このあたりから、ロバートソンがバンドのイニシアチブを取るようになり、ヘルムとの関係が微妙になる。 以後も、リンゴ・スターやエリック・クラプトン、マディ・ウォーターズのアルバム制作に参加、1975年アルバム『南十字星』発表する。だが、バンド内ではツアー活動よりアルバム制作を重視すべきとの意見をもつロバートソンと、ツアー活動にこだわるメンバーとの対立が激しくなったり、マニュエルが疲労とストレスから酒とドラッグに溺れ体調を崩すなどの問題を抱える。こうして音楽活動が行き詰まる中、ロバートソンは1976年にライヴ活動の停止を発表する。ロバートソンは解散して新たなステップを目指していたが、ヘルムは解散・ライブ活動停止には反対であった。またロバートソン以外のメンバーも解散を望んでいなかった。そのような中、11月24日にサンフランシスコのウインターランドでラスト・コンサートを行なう。(実質的に解散コンサートとなる。)コンサートには多数の大物ミュージシャンが参加した。ホーキンス、ディラン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、ドクター・ジョン、ヴァン・モリソン、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ロン・ウッド、ポール・バターフィールド、ニール・ダイヤモンドら、そうそうたる顔ぶれである。この模様はマーティン・スコセッシの手により撮影され、映画『ラスト・ワルツ (The Last Waltz)』として公開、3枚組サントラ盤もリリースされた。 1976年、キャピトルとの契約が残っていた関係上(「ラスト・ワルツ (The Last Waltz)」のサントラをワーナーブラザーズから発表するため)アルバム『アイランド』をリリースするが、最早往年の出来映えは見られず不評に終わる。結局これを最後にザ・バンドとしての活動に終止符が打たれる。 解散後はメンバー各自がソロ活動を始める。 ヘルムは、ドクター・ジョン、ポール・バターフィールド、スティーヴ・クロッパー、ドナルド・ダック・ダンらとRCOオール・スターズを結成。一枚のスタジオアルバムを製作し、ライヴ活動の一環で来日も行う。2006年には、RCOオール・スターズのライヴ音源も発表されている。その後もアルバム「リヴォン・ヘルム」、「アメリカン・サン」を発表する。音楽活動の傍らで映画俳優としても活動している。 ダンコは、メンバーの中でいち早くソロアルバムに着手する。映画『ラスト・ワルツ』の中でも語っていた、アルバム『Rick Danko』をリリースする。ゲストにクラプトン、ロン・ウッドも参加している。ツアー活動も精力的に行い来日公演も実現している。 1982年、ダンコとヘルムがアコースティック・デュオを組みツアー「リヴィング・ルーム・セット」を開始する。ある公演では、ボブ・ディランの飛び入りも確認されている。そのツアーの最中に、ザ・バンド再結成の機運が高まり、1983年にロバートソン抜きで再結成しツアーを行なう。同年には、ザ・バンドとして初来日公演も行われる。ツアー・メンバーはロバートソン抜きの4人に加え、ケイト・ブラザーズがサポート・バンドとして参加した。 1986年3月4日にマニュエルが自殺するも、ツアー活動は続行。 1990年、ベルリンの壁崩壊後のドイツにて、ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ主催のライブ・イベント「The Wall Live In Berlin」にヴァン・モリソン、ジョニ・ミッチェルらと共に出演する。20万人もの観客を動員し、その模様はCD、現在はDVDに収められている。 1992年、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたボブ・ディランのデビュー30周年コンサートに出演。アルバム『カフーツ』にも収録されていた「マスターピース」を演奏。この模様は、CD/LDに収められている。 1990年代初頭、メジャー・レーベルであるCBSと契約。再結成後初のスタジオアルバムを製作するも、先に発表されたロバートソンのソロ・アルバムのセールス不振を理由に、レーベルの方針でお蔵入りとなる。結局、CBSからはアルバム発表されることはなく、1993年になってピラミッドというマイナー・レーベルから『ジェリコ』のタイトルでリリースとなった。 1994年、米ロックの殿堂入りを果たす。式には脱退したロバートソンも参加するが、反発したヘルムが参加を拒否。プレゼンターを務めたクラプトンを交えて『ザ・ウエイト』を演奏する。 1997年、ジェリー・ガルシアのトリビュート (Dead Heads Festival)、ダンコ・フィヨルド・アンダーセンとしての活動のためダンコが来日。 しかし、日本滞在中の5月6日、米国にいる妻にヘロインをホテル宛に送らせた罪で逮捕されてしまった。7月24日、千葉地裁にて彼の有罪が確定し、強制送還となった。 再編ザ・バンドとして3枚のアルバムを発表するも、1996年にヘルムの喉頭ガンが発覚し、アルバム『Jubilation』では咽頭ガンの後遺症から、かすれた声となってしまう。 さらに1999年12月10日にダンコが死去。以後活動を停止。 リヴォン・ヘルムは、ドラムスとマンドリンの演奏活動は続け、その後再び歌えるようになるまで回復した。自身のバンドであるリヴォン・ヘルム・バンド名義で、2005年には2作のDVD付のライヴ・アルバム「ミッドナイト・ランブル・セッションズ Vol.1」「同 Vol.2」を発表した。2007年には久々のスタジオ・ソロ作「Dirt Farmer」で元気な歌声を聴かせ、2008年の第50回グラミー賞ベスト・トラディショナル・フォーク・アルバムを受賞した。しかし2012年4月19日、ヘルムはニューヨークで死去した。 ガース・ハドソンは、2001年にファースト・ソロ・アルバム「ガースの世界」(原題:The Sea To The North)を発表。また、妻のモード・ハドソンと演奏活動を続けている。モードとの共同名義でのライヴ・アルバム「ライヴ・アット・ザ・ウルフ」も2005年に発表している。 ロビー・ロバートソンは、映像音楽の制作を活動の中心としている。その一方で、ザ・バンドのボックス・セットのコンピレーション・プロデュースや監修を行っている。ソロ・アルバムは2011年の「How To Become Clairvoyant」が現段階での最新作である。 ロニーと別れたバンド(当時はレヴォン&ホークス)の苦難に満ちた下積み生活は、「ヒモと娼婦とアル中と人生の敗北者」(ガースの発言)相手の演奏を繰り返し、その日暮らしの流浪の日々であった。映画「ラストワルツ」ではマニュエルが、その頃、食料に困ってスーパーに入ったメンバーが大きなコートを使って食料を万引きしたことを証言している。だが、「ナップザックを背負って道に立ち、人生というものをみんなで学んだ。僕たちはお互いに守られ励ましあった」とロバートソンが証言しているように、苦難の中でバンドの結束が固まっていった。 エリック・クラプトンは、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を「人生を変えたアルバム」と評しており、1976年に発表されたクラプトンのアルバム『ノー・リーズン・トゥ・クライ』にはザ・バンド全員が参加。後の1986年に発表された『オーガスト』収録の「ホーリー・マザー」は、その年に亡くなったリチャード・マニュエルに捧げられた曲である。2005年のアルバム『バック・ホーム』は、レイ・チャールズらと共にマニュエルとダンコにも捧げられている。 バンドとしてのデビュー・コンサートは、1969年4月17日サンフランシスコ市内のウインターランドであった。初日はロビーがインフルエンザに罹り、心配したマネージャーのアルバート・グロスマンが催眠術師を呼んで治療に当った。散散なステージで、7曲ほどを演奏して逃げるように退場したため、「ロックンロールのショウでは初めて経験する怒りと激情」(グリール・マーカスの言葉:『流れ者のブルース』バーニー・ホスキンズ著、奥田祐士訳、1994年、大栄出版)が溢れた。だが、翌18日のステージは、ロビーの体調も戻ったこともあり、見違える程の出来で前夜の屈辱を晴らした。特に、アンコールの「スリッピン・アンド・スライデン」(リトル・リチャードのヒット曲)では客席は興奮の坩堝と化し、「ロックンロールの歴史に残る瞬間」(グリール・マーカスの言葉、前掲書より)と180度違う評価を受けた。 ボブ・ディランと共演 ブロンド・オン・ブロンド - Blonde On Blonde(1966年) セルフ・ポートレイト - Self Portlate(1970年) ウディ・ガスリー・メモリアル・コンサート - A Tribute To Woody Guthrie, Part 1(1972年) プラネット・ウェイヴズ - Planet Waves(1974年) 偉大なる復活 - Before the Flood(1974年)(プラチナ) 地下室(ザ・ベースメント・テープス) - The Basement Tapes(1975年)(ゴールド) ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集) - The Bootleg Series Vol. 4: Bob Dylan Live 1966, The \"Royal Albert Hall\" Concert(1998年、リヴォン・ヘルムを除く) 単独名義 The Last Waltz/ラスト・ワルツ[1978] The Band Is Back/ザ・バンド・イズ・バック[1983] The Band Japan Tour/ザ・バンド・ジャパン・ツアー The Authorized Biography [1995] Live at the New Orleans Jazz Festival [1996]#日本盤未発売 Classic Albums: The Band /メイキング・オブ・ザ・バンド[1997] Live at Loreley [2001]#日本盤未発売 参加作品 Roger Waters The Wall Live in Berlin/ザ・ウォール~ライヴ・イン・ベルリン~ [1990] Bob Dylan 30th Anniversary Concert Celebration /ボブ・ディラン 30[1993] Let it ROCK!/ロニー・ホーキンス’60thバースデイ コンサート[1995] Festival Express/フェスティバル・エクスプレス[2004] ザ・バンド名義では、以下計3回の日本ツアーを行っている。 8月25日・渋谷公会堂 8月27日・大阪フェスティバルホール 8月29日・大阪フェスティバルホール 8月30日・名古屋市公会堂 9月1日・東京厚生年金会館 9月2日・東京厚生年金会館 9月3日・渋谷公会堂 9月5日・北海道厚生年金会館 2月23日・大阪厚生年金会館 2月24日・渋谷公会堂 2月25日・渋谷公会堂 4月29日・東京厚生年金会館 4月30日・東京厚生年金会館 5月1日・神奈川県民ホール 5月4日・渋谷CLUB QUATTRO 5月5日・名古屋CLUB QUATTRO 5月7日・大阪厚生年金会館 『ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春(原題:TESTIMONY)』 ロビー・ロバートソン 著 奥田祐士 訳 DU BOOKS (2018年9月28日) ISBN 978-4866470535 ^ “Canadian Music Hall of Fame: Past Inductees”. Canadian Academy of Recording Arts And Sciences (CARAS). 2009年8月1日閲覧。 ^ “Inductee List”. Rock and Roll Hall of Fame. 2009年8月1日閲覧。 ^ Williams, Lucinda (2004年4月15日). “The Immortals - The Greatest Artists of All Time: 50) The Band”. Issue 946. Rolling Stone. 2009年8月1日閲覧。 ^ “Lifetime Achievement Award”. 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Live.』をリリースした。 オリジナルメンバー3人(アピス、ボガート、マーテル)は1999年にスタインに代えてキーボードのビル・パスカリを加えて再結成、『Vanilla Fudge 2001/ The Return / Then And Now』をリリースした。このアルバムは以前の曲の再録と新曲3曲が収められた。2002年に病気のボガートに代わってピート・ブレミーとT.M.スティーヴンスがベースで参加、2003年にはライヴアルバム『The Real Deal - Vanilla Fudge Live,』をリリース、これはポール・ハンソンがギターで参加した1987年のツアーを収録した物であった。このアルバムにマーテルがギターとヴォーカルをオーバーダビングした。2003年から2005年にかけてバンドはテディ・ロンディネリがギターで加わってツアーを行った。 2005年、オリジナルメンバー4人で再結成したヴァニラ・ファッジはドアーズ(ライダーズ・オン・ザ・ストームとして)、ステッペンウルフ、またある地域ではヤードバーズと共にツアーを行った。パスカリは2005年、2006年のライブにスタインに代わって参加し、その後ニューラスカルズに加わった。同年10月15日、ヴァニラ・ファッジはジョーン・ジェットらとと共にロングアイランド音楽の殿堂入りした。式典ではフェリックス・キャヴァリエが賞を授与した。 2007年夏、HBOのミニシリーズ「ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア」の最終話で「キープ・ミー・ハンギング・オン」(パスカリのリード・ヴォーカル)が使用された。バンドはまたアルバム『アウト・スルー・ザ・イン・ドア』(レッド・ツェッペリンのカヴァー・アルバム。タイトルは『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』から。)を録音、同年にヨーロッパのみでリリースされた。また、バンド(スタイン、マーテル、スティーヴ・アージー、ジミージャック・タンブロ)はPBSのプログラム「My Music: My Generation - The '60s」で「キープ・ミー・ハンギング・オン」を演奏した。 2008年3月、バンドのオリジナルラインナップでアメリカツアー(ほとんどはニューイングランド)を始めた。しかしながらその夏にボガートとアピスは2006年に再結成したカクタスでの活動に集中するためバンドを離れた。スタインとマーテルはドラムのジミージャック・タンブロ、ベースのピート・ブレミーと共に「Let's Pray For Peace,」と銘打ってツアーを続けた。アルバム『アウト・スルー・ザ・イン・ドア』は同年にアメリカでもリリースされる。この間、スタインとマーテルはスティーヴ・アージー、ジミージャック・タンブロと共に演奏を行った。 2011年春、ヴァニラ・ファッジはフェアウェル・ツアーを開始した。ツアーのラインナップはアピス、スタイン、マーテル、ブレミーであった。同年3月29日、バンドは「レイト・ナイト・ウィズ・ジミー・ファロン」に出演し、「キープ・ミー・ハンギング・オン」を演奏した。バンドはこのラインナップで2011年から2012年2月までヤードバーズと共にツアーを続けた。 2015年、8年ぶりの9thアルバム『Spirit Of '67』を発表。 マーク・スタイン - ボーカル/キーボード (1966-1970, 1982-1984, 2005, 2006-現在) ヴィンス・マーテル - ギター (1966-1970, 1999-2003, 2004-現在) カーマイン・アピス - ドラムス (1966-1970, 1982-1984, 1987-1988, 1991, 1999-2008, 2009-現在) ピート・ブレミー - ベース (2002, 2008, 2011, 2011-現在) マーク・スタイン(Vo/Key) 2011年 ヴィンス・マーテル(G) 2011年 カーマイン・アピス(Ds) 2015年 ピート・ブレミー(B) 2012年 ティム・ボガート - ベース (1966-1970, 1982-1984, 1987-1988, 1999-2002, 2003-2008, 2009-2011) マーク・ドルフェン - ドラムス (1967) ロン・マンキューゾ - ギター (1982-1984) ポール・ハンソン - ギター (1987-1988) ラニー・コードラ - ギター (1988) デレク・セント・ホームズ - ギター (1991) ビル・パスカリ - ボーカル/キーボード (1999-2005, 2005-2006) T.M.スティーヴンス - ベース (2002) テディ・ロンディネリ - ギター (2003) ジミージャック・タンブロ - ドラムス (2008-2009) スティーヴ・アージー - ベース (2008-2009) ベスト・オブ・ヴァニラ・ファッジ (1982) The Best of Vanilla Fudge - Live (1991) Psychedelic Sundae - The Best of Vanilla Fudge (1993) The Return - Live in Germany Part 1 (2003) The Real Deal - Vanilla Fudge Live (2003) Rocks the Universe - Live in Germany Part 2 (2003) Good Good Rockin' - Live at Rockpalast (2007) Orchestral Fudge (live) (2008) When Two Worlds Collide (live) (2008) Box of Fudge - Rhino Handmade (2010) Borthwick, Stuart; Moy, Ron (2004). Popular Music Genres: An Introduction. Edinburgh: Edinburgh University. ISBN 0-7486-1745-0.  モータウン ^ Borthwick & Moy 2001, p. 138 \"In the main, the earliest manifestation of metal in the mid to late 1960s (and known at the time as 'rock' or 'hard rock') can be found in the work of groups such as The Yardbirds, Cream, and the Jimi Hendrix Experience in Britain, and Blue Cheer, Steppenwolf, and Vanilla Fudge in the US.\" ^ “Vanilla Fudge”. Real Sound. 2017年11月16日閲覧。 ^ http://www.allmusic.com/style/art-rock-ma0000002431 ^ Allmusic.com ^ a b c Strong, Martin C. (2000). The Great Rock Discography (5th ed.). Edinburgh: Mojo Books. p. 1030. ISBN 1-84195-017-3.  ^ http://www.billboard.com/music/the-supremes ^ 73年にスティーヴィー・ワンダーの「迷信」をハードにカバーした曲を含むアルバムを発表している ^ The Vanilla Fudge Chronicles ^ 共和党とドナルド・トランプを熱烈に支持している ^ allmusic ((( Then and Now > Overview ))) ^ Home of the L.I. Music Hall of Fame ^ Tour Dates ^ Vanilla Fudge at Blender Theater at Gramercy Newsday March 13, 2008 ^ “ヴァニラ・ファッジが8年ぶりの新アルバム『Spirit Of '67』を3月発売”. amass (2015年2月3日). 2017年11月16日閲覧。 Rees, Dafydd; Crampton, Luke (1989). Rock Movers & Shakers (1st. ed). Billboard Publishing. ISBN 0-8230-7609-1.  “MusicMight”. MusicMight - The World's Biggest Rock Resource On The Web. 2006年9月30日閲覧。 “Official Homepage”. Official Homepage. 2006年9月30日閲覧。 公式ウェブサイト ヴァニラ・ファッジ - DMOZ Vanilla Fudge on Progarchives", "スウィート (SWEET) は、イギリスのロックバンド。1970年代に10曲を全英シングルチャートでトップ10入りさせた。 1968年、ウェインライツ・ジェントルメンというバンドの中心人物だったヴォーカリストのブライアン・コノリー(Brian Connolly、1945年10月5日 - 1997年2月9日)と、ドラマーのミック・タッカー(Mick Tucker、1947年6月17日 - 2002年2月14日)が同バンドを脱退し、ジ・アーミィというバンドにいたベーシストのスティーヴ・プリースト(Steve Priest、1948年2月23日 - )と、ギタリストのフランク・トービィとともにバンドを結成するが、直後にフランク・トービィが脱退、後任のギタリストとしてアンディ・スコット(Andy Scott、1949年6月30日 - )が加わり、スウィートの結成に至った。 1968年7月、フォンタナ・レーベルよりシングル「スローモーション」でデビューするが、商業的に成功せず、直後にEMI傘下のパーロフォン・レーペルに移籍した。ここで3枚のシングルをリリースしたものの、これも商業的な成功には至らず、1971年、RCAに移籍した。 ヒットメーカーのマイク・チャップマンとニッキー・チンが作詞作曲した「ファニー・ファニー(Funny Funny)」がイギリスのチャートで13位まで上昇、さらに次にリリースしたシングル「コ・コ(Co-Co)」がイギリスで2位、アメリカでも99位に初ランクされた。その後もチャップマンとチンが共作した「リトル・ウィリー」(英4位・米3位)「ブロック・バスター」(英1位・米73位)「ボールルーム・ブリッツ」(英2位・米5位)などリリースするシングルの多くがヒットし、スウィートはイギリスのポップ・ロック・シーンにおいて地歩を築いていった。「ブロック・バスター」は日本でも小ヒットした。 しかし、1974年の夏頃には、スウィートはチャップマンとチンによるコントロールから離れようと思うようになる。そして、1975年にはメンバー4人が共作したオリジナル曲「フォックス・オン・ザ・ラン」が全英2位・全米5位の大ヒットを記録して、西ドイツのチャートでは1位を獲得し、スウィートのシングルとしては「リトル・ウィリー」以来のミリオンセラーとなった。続く「アクション」(英15位・米20位)も、やはりメンバー4人の共作で、この曲は後にデフ・レパード等にカヴァーされている。1976年に発表されたスタジオ・アルバム『甘い誘惑(Give Us a Wink)』には、チャップマンとチンの楽曲は含まれず、収録曲のほとんどがメンバー4人の共作で固められた。 1978年に「ラブ・イズ・ライク・オクシジェン」が全英9位のヒットとなるが、その後は全英シングルチャートでトップ100入りすることができず、グループはスランプ状態に陥った。1979年には、ブライアン・コノリーが脱退してソロ活動を開始。スウィートは残った3人で活動を継続したが、ヒットに恵まれず、1981年に解散した。 1985年、スウィートの代表曲をメドレーにしたダンス・シングル「イッツ・ザ・スウィート・ミックス」が全英45位に達して、その後スウィートが再結成された。1991年に再び解散。 1993年に「Andy Scott's Sweet」名義で再々結成され、活動を継続する。また、2008年にはスティーヴ・プリーストもロサンゼルスを拠点としてThe Sweet名義での活動を開始した。 2012年、アンディ・スコット以下ピート・リンカーン(リード・ボーカル、ベース)、トニー・オホーラ(ギター、キーボード、ボーカル)、ブルース・ビスランド(ドラムス、ボーカル)というラインナップで、カヴァーとセルフ・カヴァーから成るアルバム『New York Connection』を発表した。 ※ スウィートのアルバムは、発売国によって選曲/曲順が異なるケースが多い。 1976年 2012年 スレイド T・レックス アルバム「Give Us A Wink(邦題=甘い誘惑)」CD盤(TOCP-6322)ライナーノーツ ^ a b c d ChartArchive - The Sweet ^ この時期の作品は、「First Recordings 1968-1971」でアルバムとしてまとめられた。 ^ a b Sweet - Music Biography, Credits and Discography - Biography by Stephen Thomas Erlewine ^ Sweet - Awards : AllMusic ^ Fox on the Run - Sweet : Listen, Appearances, Song Review : AllMusic - Review by Dave Thompson ^ Give Us a Wink - Sweet : Songs, Reviews, Credits, Awards : AllMusic ^ thesweetband.com - Band Biography ^ “Rock Legend Sweet Return With New Album 'New York Connection'”. Blabbermouth.net (2012年4月13日). 2015年11月21日閲覧。 thesweet.com Andy Scott's The Sweet official site thesweetband.com Steve Priest's Sweet website", "ヤングブラッズ(The Youngbloods)は、1960年代から1970年代初頭にかけて活動したアメリカ合衆国のバンド、フォーク・ロック・バンドである。1965年、ニューヨーク州ニューヨーク市で結成、代表曲はディノ・ヴァレンティ(英語版)の楽曲「ゲット・トゥゲザー」を1967年全米ホットチャートのマイナー部門シングル盤ランキング最高62位、1969年に再びビルボードのシングル盤チャート最高5位のヒット曲にした。 ジェシ・コリン・ヤング(ペリー・ミラー)(Jesse Colin Young/Perry Miller [2] 1941年10月22日生、ニューヨーク州クイーンズ区出身) ボーカル、ベース・ギター、ギター ジェリー・コービット(Jerry Corbitt/Jerry Byron Corbitt[3] 1943年1月7日ー2014年8月3日、ジョージア州ティフト出身) ボーカル、リード・ギター ※1965-69年迄在籍 バナナ(ロウエル・レヴェンジャー3世)(Banana/Lowell LevingerⅢ [4] 1946年生、マサチューセッツ州ケンブリッジ出身) キーボード、ギター ジョー・バウアー (Joe Bauer [5] 1941年9月26日-1983年11月日、テネシー州メンフィス出身) ドラムス マイケル・ケイン (Michael Kane) ベース・ギター ※1971-72年迄在籍 デヴィッド・パーパー (David Perper) ドラムス ※1984-85年在籍 スコット・ロ-レンス (Scott Lawrence) キーボード ※1984-85年在籍 1965年結成、フォーク・ロックの代表的なバンドの一つでラヴィン・スプーンフルとともにニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジを中心に活躍、1969年カリフォルニア州内に活動拠点を移し1972年解散した。 ニューヨーク州出身のジェシ・コリン・ヤング(Jesse Colin Young、本名Perry Miller)は会計士を営む父にヴァイオリニストの母のもと、幼少からクラシック音楽に親しみ遊学からボストンのフィリップス・アカデミーに進学したがフォークリバイバル運動の「洗礼」から熱心な音楽活動に入り学校をドロップアウト後、ニューヨークに戻りフォーク・クラブやコーヒーハウスで活動し1964年4月キャピトル・レコードからボビー・スコット(Bobby Scott)プロデュースによるソロ・アルバム「ザ・ソウル・オブ・ア・シティ・ボーイ(The Soul of a City Boy)」を発表した。 グリニッジ・ヴィレッジの雑多な交流のなかセッションや即席のフォークグループがステージに立ち、デヴィッド・グリスマン(David Grisman・英語版)の呼びかけたブルーグラスのジャグ・バンドには様々なミュージシャンが参加し演奏を繰り広げ、ヤングとジェリー・コービット(Jerry Corbitt本名Jerry Byron Corbitt)はこの前後に知り合った。意気投合した二人はカナダのフォーククラブなどを回る遠征を計画しこの演奏旅行からバンドスタイルを思い立ち、帰国後ヤングは2作目ソロアルバムの制作をマーキュリー・レコード(Mercury Records・英語版)とのもとで契約、この契約付帯項目にはスタジオをソロアルバム録音とは別枠で、バンドセッションのリハーサルとデモ・テープ制作に使う時間枠確保が記載され、全てのプロデュースをジェリー・ロス(Jerry Ross)に依頼した。デモ・テープ・セッションにはのちラヴィン・スプーンフルに加わるジョン・セバスチャンがハーモニカでゲスト参加し、約4人の候補メンバーの選考からコービットとはジャグ・バンド仲間でボストンのセミ・プロバンドを辞め将来の模索にニューヨークへ移住しジャズバンドの臨時雇いだったバナナ(Banana本名はLowell Levinger III)とその友人で社交ダンスホール専属の無名ジャズバンドにいたジョー・バウアー(Joe Bauer)のそれぞれ細々と糊口を凌いでいた二人に定まった。。1964年2月グリニッジ・ヴィレッジで開店したカフェアゴーゴー(Cafe au Go Go)クラブに出演し評判から専属契約を勝ち取り、1965年3月ヤングのソロ2作目アルバム「ヤング・ブラッド(Young Blood)」を発表する。マーキュリーレコードからは、次作を要請されたが態度を保留し、デモ・テープから2枚のシングルはプロモーション・サンプルで終わり発売に至らなかった。マーキュリー・レコードとの交渉が膠着するなか、RCAビクターのスカウトを受け入れ同年11月シングル「グリズリー・ベア(Grizzely Bear)/ティアーズ・アー・フォーリン(Tears Are Falling)」でデビューする。 RCAビクターと結んだ契約は、実績のない新人バンドにたいして異例なもので、破格なスタジオ使用条件とプロデューサー任命権が含まれていた。 再度のマーキュリーレコードとの交渉は、大きな点ではレーベルが斡旋する名義だけで無能なプロデューサー・チームとその経費や印税割を排除し、不慣れなバンド体制による録音時間を少しでも長く確保したいというもので、RCAビクターが代わりに聞き入れて承諾したものだった。グリニッジ・ヴィレッジの親しい音楽仲間友人で恣意にしていたビジネスマン、フェリックス・パパラルディがチーフ・プロデューサーとして招聘され、これに基づいて契約を結んだ。パパラルディは改めて新人バンドのプロデューサー人事権など画期的事項を定めるこの書類内容に目を通すと愕然としたが歓喜し、ヤングらの手腕に呆れたと云う。 パパラルディはアメリカではジョン・サイモンら計算立てのアレンジが出来る先進者の一人で、ニューヨーク出身ミシガン大学でクラシック音楽を修めたキャリアから若手ながら高い評価と実績を持ちその名声からイギリスで前評判高く期待されたバンドクリームのスタッフに起用されている。 交渉を拗らせ契約を逸したマーキュリー・レコードとの音源はその後1970年に編集盤「トゥ・トリップス(Two Trips Jesse Colin Young With The Youngbloods)」に収録、発表されている。 契約条項で異例のスタジオ使用条件とは、作品制作の締切り期限まで会社が使用しない空き時間に限り、バンドが自由に使用するスタジオの占有権に、録音経費では時間制貸切のスタジオ使用料金にはあらかじめ上限額が設定され、RCAは貸切時間超過の使用料について追加の精算を求めない、というものだった(要約)。この条項を盾に無理強いして施錠を解いた深夜早朝のスタジオを自由に使い、スタジオ使用明細書の束とともに完成したアルバムは1967年1月に「ザ・ヤングブラッズ(The Youngbloods)」として発表、5月の「アース・ミュージック(Earth Music・英語版)」が続いた。 最初のアルバムはボブ・ディラン、ビートルズやバーズなど影響にサイケデリック・ロック風のリード・ギター、他のバンドがこぞって取り上げたブルースロック調で最先端のロックミュージックが中心で、6月にシングル・カットされた「ゲット・トゥゲザー(Get Together)」はディノ・バレンティ(Dino Valenti/Chet Powers・英語版)が書き下ろし1964年6月にキングストン・トリオが取り上げ発表後フォーク/フォークロックのグループやミュージシャンが多数取り上げていた。ヤングブラッズのカバーヴァージョンは全米ホットチャートのマイナー部門シングル盤ランキング最高62位と健闘し、その後ニューヨークのラジオ放送局WABC-AMでユダヤ・キリスト教系公益法人のNCCJ(英語版)とICCJ(英語版)のCMに起用され1969年には全国ヒットとなった。「ゲット・トゥゲザー」のヒットとは対称的にアルバムのセールスは振るわなかった。 2枚目「アース・ミュージック」は、ステージで演奏していたフォーク・ロック、リズム・アンド・ブルースなどで幾つかはメンバーがアレンジを手がけた。パパラルディが担当した楽曲は、RCAでは同時期ジェファーソン・エアプレインのアルバムやシングル盤とは異にした時代に左右されない普遍的なものとし一過的な流行のアレンジが無い仕上がりとなったが、パパラルディは一方で出身地元ニューヨークでビート・ジェネレーション余波のフォークミュージシャンとの関係も深く、ティム・ローズ(Tim Rose・英語版)リッチー・ヘブンスの作品などベース・ギターで演奏参加やアレンジで関わり、ヤングブラッズの特徴を注いだこのアルバムはニューヨークのローカルカラーが濃い作品とも云え、全国的なヒット・チューンの流行傾向との乖離は否めず全米トップ200チャート圏外、地元と音楽マニアの支持に留まった。2作のアルバム販売不振はメンバー間の軋轢や主導権争いに発展しアルバム第3作はRCAの催促に関わらず足踏み状態で「クイックサンド(Quicksand)」など数曲を収録して中断、1968年終末にコービットはソロ活動転向を理由に脱退した。コービットが抜けた穴はバナナがオルガン以外にギター、ベースやマンドリンなどを兼任するマルチ・ミュージシャンで、普段はベース担当ヤングが受け持つギターパートと楽曲ごとのアレンジを大幅に変更対処で演奏活動は三人体制で続行を決めた。解散の懸念解消からRCAはアルバムの録音再開にハリウッドの自社スタジオで収録することを持ちかけ、バンドはこの提案を受け入れマリン郡などに滞在し1969年4月チャーリー・ダニエルズのプロデュースで「エレファント・マウンテン」として発表した。ビルボードチャート最高118位、ヒット作とは云えない成果だったが評論家からの高い評価と多くの音楽マニアに受け入れられてロングセラーになり、シングル・カットされた「闇(Darkness, Darkness)」は複数のミュージシャンがカヴァーしている。 バンドが根城にしていたカフェアゴーゴーは10月に閉店することが決まり、RCAとの契約は3作のアルバム制作で満了するため「エレファント・マウンテン」の録音再開前には既に幾社かと接触し交渉を進めていた。1967年に西海岸で演奏旅行を行い9月以降はニューヨークとカリフォルニアを往復し、再レコード契約ではカリフォルニア州に本社があるワーナー・ブラザース・レコードから作品裁量権と不干渉範囲、経費負担、責任債務割合などを提示された。この好条件をほぼ受け入れて、契約内容からバンドは自主レーベル、ラクーン(Raccoon)をワーナー・ブラザース傘下で開設を行い、東西を往復した生活に区切りを付けた。 サンフランシスコを中心に公演を続け国内各地やカナダを訪れこの模様と音源で1970年10月『ロック・フェスティヴァル (Rock Festival)』を発売。プロデュースはゼーガーとエバンズ(Zager and Evans、ワンヒットワンダーで楽曲「西暦2525年」が有名。)、ビルボードチャートは最高80位に。翌年7月の『ライド・ザ・ウィンド(Ride the Wind・イタリア語 )』では新曲を含むライヴ盤で発表した(同チャート最高157位、プロデュースはチャーリー・ダニエルズ。)。1971年『グッド・アンド・ダスティ(Good And Dusty・イタリア語)』に収録する楽曲を巡る各自の配分に対立が生じ、以後ヤングはバンドの出演や演奏参加の一部に条件を立てて拒絶し、ラクーンから発表したバウアーの71年ソロ作品には一切関与しなかった。バナナとバウアーは補助メンバーにマイケル・ケイン(Michael Kane)を雇った。1972年ヤングはソロ・アルバム『トゥギャザー(Together)』をバナナとバウアーの手を借りず完成させ、招聘したミュージシャンには脱退したコービットもいた。同年春のヤングブラッズ『ハイ・オン・ザ・リッジ・トップ (High on a Ridge Top・イタリア語)』録音を前にヤングは脱退を表明しバンドの解散が決定した。マイケル・ケインを昇格させ有名無実と化したヤングブラッズの最終作はヤング作の一曲を除いてカバー曲が占めヤングとスタジオ・ミュージシャンを務めるバナナ、バウアーとケインで収録し決定していたステージスケジュールを9月まで消化して活動停止解散、11月にラストアルバム「ハイ・オン・ザ・リッジ・トップ」が発売された。 1984~5年にかけてヤングブラッズ再結成全米ツアーが行われジェシ・コリン・ヤング、ジェリー・コービット、バナナ、デヴィッド・パーパー(David Perper・英語版)、スコット・ロ-レンス(Scott Lawrence)で各地を公演した。 ジョー・バウアーは1982年9月脳腫瘍で死去した(40歳没)。日本では当時麻薬中毒死と誤って報道された。 ジェリー・コービットは2014年3月8日肺がんで死去(71歳没)。 カントリー・ミュージックのチャーリー・ダニエルズとは関係が深く合名のライブ・アルバムとソロアルバムのプロデュースを依頼したり互いのアルバムやステージにゲスト参加している。 ジェシ・コリン・ヤングは引き続きソロ活動に農園経営を始めたが1995年カリフォルニア州インバレンス公園(Inverness Park)を襲った森林火災で焼き出されハワイ州ハワイ島ケアラケクア(Kealakekua・英語版)に転住し音楽活動とコーヒー農園を営んでいる。 バナナは解散後ミミ・ファリーニャ(英語版)の伴奏を長く務めおもにカントリーロックやブルーグラスの範囲でセッションやツアーのミュージシャンとしてライ・クーダー、ダン・ヒックス・アンド・ホットリックスなど、ニューヨークで活動時代の仲間デヴィッド・グリスマンのセッションに参加し、現在(2016年)、カリフォルニア州インヴァーネス(Inverness)に居住している。 ヤングブラッズはフォークから1970年代シンガーソングライター・ブームへと橋渡しをしたバンドやミュージシャンの一つとなった。 結成前から終焉と活動経過に、ジェシ・コリン・ヤングと同一視したソロキャリアの一部と捉える誤解は多く、ニューヨークの他フォークロックバンドにみられた リズム・アンド・ブルースやブルーグラスの影響、その後「エレファント・マウンテン」以降強めたジャズ風のアレンジなどジェリー・コービット、ジョー・バウアーにバナナの貢献が無ければ成立せずヤングの作曲センスやカバー曲の選択は個性的で1970年代のAORなどに影響を与えた。 ヤングの1964年ソロ作と最初のアルバムに収録した「朝の四人(Four In The Morning)※1969年当時の邦題。午前4時の意。」、二枚目「アース・ミュージック」の「ユフォーリア(Euphoria)」の作者ロビン・リマイリー(Robin George Remailly)はその後1970年ホリー・モダル・ラウンダーズ(The Holy Modal Rounders(英語版))に参加する。「ユフォーリア」は加入前のグループが1964年に、「Four In The Morning」はヤングのソロ作とヤングブラッズがメジャー初公開でヤングのステージでは頻繁に演奏され現在(2015年)に至る(この模様はYouTubeなどで見ることが出来る)。 「Four In The Morning」はヤングブラッズのアレンジを元にロサンゼルスのフォークロックバンド、サンシャイン・カンパニー(Sunshine Company・英語版)がカバー、1967年一枚目アルバム「ハッピー・イズ(Happy Is the Sunshine Company)」に収められた。 1972年以降のソロ作は「英語版ジェシ・コリン・ヤングwikipedia」項目を参照 The Soul of a City Boy(1964年4月)キャピトル・レコード T 2070 Four In The Morning/You Gotta Fix It/Rye Whiskey/Whoa Baby/Susanne/Black Eyed Susan/Same Old Man/Drifter Blues/Talk To Me/Stranger Love/I Think I'll Take To Whiskey Young Blood(1965年3月)マーキュリー・レコード MG 21005/SR 61005 Rider/Doc Geiger/ Lullabye/Brother Can You Spare A Dime/Trouble In Mind /Little Suzie/Nobody's Dirty Business/Green Hill Mountain Home/Summer Rain/Walkin' Off The Blues/Cotton Eyed Joe Together(1972年3月25日)ワーナー・ブラザース・レコード BS 2588(ラクーン#10) Good Times/Sweet Little Child/Together/Sweet Little Sixteen/Peace Song/Six Days On The Road/It's A Lovely Day/Creole Belle/6000 Miles/Born In Chicago/Pastures Of Plenty The Youngbloods(1967年3月)RCAヴィクター・レコード LSP-3724 Grizzly Bear/All Over The World (La-La)/Statesboro Blues/Get Together/One Note Man/The Other Side Of This Life/Tears Are Falling/Four In The Morning/Foolin' Around (The Waltz)/Ain't That Lovin' You, Baby/C.C. Rider The Youngbloods Get Together \"The Youngbloods First Album\" (1969年月)RCAヴィクター・レコード LSP-3724 ※The Youngbloods、LSP-3724のジャケット装丁変更。 Earth Music (1967年5月)RCAヴィクター・レコード LSP-3724 Euphoria/All My Dreams Blue/Monkey Business/Dreamer's Dream/Sugar Babe/Long And Tall/I Can't Tell/Don't Play Games/The Wine Song/Fool Me/Reason To Believe Elephant Mountain (1969年)RCAヴィクター・レコード LSP-4150 Darkness, Darkness/Smug/On Sir Francis Drake/Sunlight/Double/Sunlight/Beautiful/Turn It Over/Rain Song/Trillium/Quicksand/Black Mountain Breakdown/Sham/Ride The Wind Two Trips Jesse Colin Young With The Youngbloods (1970年)マーキュリー・レコード SR- 61273 ※ジェシ・コリン・ヤングソロ作Young Bloodとデモ・テープを編集したもの。 Hey Babe/Sometimes/Another Strange Town/No More Pain/Nobody's Dirty Business/Summer Rain/Brother Can You Spare Dime?/Walkin' Off The Blues/Doc Geiger/Lullabye Rock Festival (1970年)ワーナー・ブラザース・レコード WS 1878(ラクーン#1) It's A Lovely Day/Faster All The Time/Prelude/On Beautiful Lake Spenard/Josiane/Sea Cow Boogie/Fiddler A Dram/Misty Roses/Interlude/Peepin' 'N' Hidin' (Baby, What You Want Me To Do)/Ice Bag Ride the Wind (1971年)ワーナー・ブラザース・レコード BS 2563(ラクーン#4) Ride The Wind/Sugar Babe/Sunlight/The Dolphin/Get Together/Beautiful Good And Dusty (1971年)ワーナー・ブラザース・レコード BS 2566(ラクーン#9) Stagger Lee/That's How Strong My Love Is/Willie And The Hand/Circus Fire/Hippie From Olema #5/Good And Dusty/Let The Good Times Roll/Drifting And Drifting/Pontiac Blues/Moonshine Is The Sunshine/Will The Circle Be Unbroken/I'm A Hog For You Baby/Light Shine High On A Ridge Top (1972年)ワーナー・ブラザース・レコード BS 2653(ラクーン#15) Speedo/She Caught The Katy & Left Me A Mule To Ride/Going By The River/Running Bear/I Shall Be Released/Dreamboat/She Came In Through The Bathroom Window/Donna/La Bamba/Kind Hearted Woman Beautiful ! Live In San Francisco1971 (2005年月)サンデイズド・レコード LP5442/CD SC 11148 Six Days On The Road/Country Home/On Sir Francis Drake/Dreamboat/Drifting And Drifting/Interlude/Old Dan Tucker/You Can't Catch Me/On Beautiful Lake Spenard/Josiane/Explosion/Beautiful/Get Together Sometimes~Stereo Ver. / Sometimes~Monoral Ver. (1966年、※1970年に再プレスプロモ・オンリー)DJ-229 Rider / Sometimes(1966年、※1970年に再プレスプロモ・オンリー)72583 Grizzely Bear / Tears Are Falling (1966年11月)47-9015 Euphoria/ The Wine Song (1967年5月)47-9222 Fool Me / I Can Tell (1967年10月)47-9360 Get Together / All My Dreams (1967年7月)47-9264 Merry-Go-Round / Foolin' Around (The Waltz) (1967年月)47-9142 Quicksand / Dreamer's Dream (1968年1月)47-9422 Darkness, Darkness / On Sir Frances Drake(1969年4月)74-0342 Sunlight / Trillium (1969年11月)74-0270 Darkness, Darkness / On Sir Frances Drake (1970年4月) It's A Lovely Day / Ice Bag(1970年、※プロモ・オンリー)K16098 Dreamboat~Stereo Ver./Dreamboat~Monoral Ver. (1972年月、※プロモ・オンリー) WB 7639 (ラクーンS #12) Running Bear~Stereo Ver./ Running Bear~Monoral Ver.(1972年月、※プロモ・オンリー)WB 7660 (ラクーンS #13) Moonset(1971年)ワーナー・ブラザース・レコード BS (ラクーン#3) Explosion/Five Ten/Old Shoe/Cat Gone/Moonset/Frogs/Swallows/Pelicans/Earthquake Blues ※Joe Bauer - Drums/Michael Kane - Bass/Jack Gregg - Bass/Steve Swallow - Bass/Banana - Guitar, Piano/Richard Anderson - Harmonica ※2016年9月現在ジェリー・コービットソロ活動項目が日本と英語版wikipediaに存在しないため、暫定項目。 カントリー・ミュージックのチャーリー・ダニエルズ、ブルースロック、ブルーグラスなどのミュージシャンを招き制作しヤングブラッズのメンバー参加は少ない[6]。 Corbitt (1969年)ポリドール・レコード 24-4003 Let The Music Come Inside/Out Of The Question/Country Girl/Delight In Your Love/Queen Of England/The Psong/I Love You All/The Rain Song(ヤングブラッズと同曲)/Banned In Boston/Tribulations/Kahuna Song Jerry Corbitt (1976年)キャピトル・レコード ST 771  ※Till You Come Back Home Againにジェシ・コリン・ヤング参加 Country Boy Blues/Burning In Your Love Light/Georgia/Till You Come Back Home Again/Pain/Load On/Happy Times/Canada/Get On Back To The Land Jerry Corbitt & Charlie Daniels – Corbitt & Daniels Live I (1976年)Tiger_Lily_Records TL 14001 Great Big Bunches Of Love/Sweet Gentle Lovin'/Till You Come Back Home Again/Thirteenth Hour/Caldonia/Stormy Monday - Part 1/Orange Blossom Special J. B. Corbitt - On The Line (1984年)Line Records LRLP 5394 AP ※西ドイツ発売  On The Line/Double A/Defend On Me/Pool Hall/Country Home/Snoe Job/Grizzly Bear/Sit Down Rock And Roll Man/Shasta Daisy/Load On Jerry Corbitt & Charlie Daniels – Live II (2011年)Big_Pink – 147 ※韓国発売、CDのみ Country Boy Blues/John Lee Walker/Thirteen Hour/Stormy Monday (Part 2)/John Deere Tractor/The Pope & The Dope/Pain ^ ジョー・ボイドインタヴュー[1]。このセッションはのちイーヴン・ダズン・ジャグ・バンド(Even Dozen Jug Band)に展開しアルバムを制作したがヤング、コービットは参加していない。 ^ The|Proper BostonersとThe Trolls。 ^ 1965年初頭にヤング、コービットにバナナがボストンのコーヒー・ハウスで面識を持ったとする資料もある。 ^ パパラルディは70年代初頭の雑誌インタヴューで「(フォークが中心の)エレクトラ・レコードのスタジオには時間制限は緩かった。大手レーベルのスタジオは(高額な時間貸しから)時間に厳しくスタジオ・ミュージシャンの技量を磨いた。ヤングブラッズの収録で最新機器を備えるRCAのスタジオの使い放題は、音楽仲間の話題をさらい羨望の眼差しでみられた。(略記大意)」と語っている。 ^ パパラルディは後日談(1968年)に「制作経費は内輪話から非公式に約$28,000~29,000と聞いた。信じられない金額だった。」と述べている。 ^ 最初期のジェファーソン・エアプレインもフォークロックでメンバー交代と作る楽曲変化から、1枚目から担当しロサンゼルス中心に活躍した音響エンジニア兼音楽プロデューサーのデヴィッド・ハッシジャー(David Hassinger・英語版)が1967年2枚目のアルバムシュールリアリスティック・ピローズ(Surrealistic Pillow・英語版)に実験音楽の一環からサイケデリック・アレンジを施し、同時期にハッシジャーが手がけたエレクトリック・プルーンズ(The Electric Prunes・英語版)の初期2作とともに「サイケデリック・ロック」作品の代表作の一つとされる。 ^ フェリックス・パパラルディの遺産でクラシック音楽の録音手法を用いたホーン、ストリングス・パートやブレーク無音状態から立ち上がりなど「丹精な格調ある音質とアレンジ」には、CD盤化で行うデジタルリマスター作業で安易なレベルアップ、ノイズ除去処理を施した変換からそのデジタルリミックス担当者が度々批判されている。パパラルディがアレンジを手掛けたクリームの1997年に発売された再発CDボックスセット「THOSE WERE THE DAYS」は雑誌レコード・コレクターズなどで批判されデジタルリマスター技術過渡期の失敗例に挙げられている。デジタルリマスター技術は2000年代以降向上し評価の高い成果を上げる一方、一例で「レット・イット・ビー...ネイキッド」のような錯誤も繰り返されている、 ^ バナナ主導のロックンロールカバー曲やバンドがアレンジしたMonkey Businessなどとは音質が異なる。 ^ キャス・エリオットらのビッグ3(The Big 3・英語版)参加後はソロ活動に移行。原曲はボニー・ドブソン(Bonnie Dobson・英語版)作で1966年ティム・ローズが補作詞とアレンジに関与したモーニング・デュー(Morning Dew・英語版)はイギリスでヒット曲になった。反核・反戦歌で原曲よりティム・ローズのヴァージョンが多くの支持を集めたこの曲の収録セッションはニューヨークで行われ、パパラルディはベース・ギターで参加、デビッド・ルビンソン(David Rubinson・英語版)がプロデュースを担当している。 ^ ビート詩人でファッグスのトゥリ・カッファーバーグ(Tuli Kupferberg・英語版)の楽曲を取上げている。 ^ リズム・アンド・ブルースの影響という点においては、ニューヨーク出身ブルー・アイド・ソウルのヤングラスカルズと共通するものがあった。 ^ 1968年1月に「クイックサンド(Quicksand)」を既発表の「ドリーマーズ・ドリーム(Dreamer's Dream)」と併せシングル盤化。 ^ 録音作業はフェリックス・パパラルディを交えて開始したがパパラルディはマウンテンなどの活動多忙から降板している。楽曲\"Rain Song (Don't Let the Rain Bring You Down)\"にはコービットにパパラルディと夫人のゲイル・コリンズがクレジットされ録音中断の痕跡が残された。 ^ バナナ。SICP_3055ライナーノーツ ^ 一般的には契約金と契約条件。ヤングは三社で不利を被った反省から交渉の事前に条件提示をしていた。 ^ SICP_3055アースミュージック、2014年発売CD日本盤ライナーノーツ著者の長門芳郎はここでバナナから取材を行いカリフォルニア州へ活動場所を移した時期について1967年秋としている。本項ではコービット脱退時期とアルバム録音中断期間に言及した文献従来の内容に従った。 ^ 1971年11月発売。ビルボードチャート最高160位。 ^ 1972年3月25日発売。ビルボードチャート最高157位。 ^ ビルボードチャート最高185位。 ^ ジョーン・バエズの実妹、2001年7月19日死去。 http://www.mtv.com/artists/the-youngbloods/biography/ ジェシ・コリン・ヤング http://www.jessecolinyoung.com/index.php[7] バナナ・Lowell Levinger「Lowell Levinger ? My new Web site」 http://www.lowelllevinger.com/[8] ロック百科 vol.2 著フィル・ハーディ/デイブ・ラング 訳 三井徹 サンリオ 1981年 ロック・エンサイクロペディア THE ENCYCLOPEDIA OF ROCK1950's-1970's 著フィル・ハーディ/デイヴ・ラング 訳 三井徹 みすず書房 ISBN 978-4-622-07344-4 C0073 2009年11月25日発行" ]
ABC01-02-0270
歌舞伎俳優や落語家が、自分の父や師匠の名前を継承することを何というでしょう?
襲名
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[ "襲名", "雷門福助 (初代)", "中村宗十郎", "清元延寿太夫 (5代目)", "軽口" ]
[ "襲名(しゅうめい)は、名を継ぐこと。名を襲うことの意で、先人と同じ名前を意図的に継ぐことを言う。 「戸籍上の氏名」全て(そのまま)を、当人の子供か、他人が引き継ぐことを意味する。 日本だと実名の改名に家庭裁判所の承認(法的な判断)が求められるが、芸能などの襲名であれば比較的認められやすい傾向にある。 戸籍上の本名か、芸名・筆名(変名)との区別を問わずに用いるが、通常の襲名だと歌舞伎や落語などで名跡を継ぐことを想像する人が多いのかと想われる。珍しい例として、初代桂文枝は、明治維新で戸籍ができた際に、本名も桂文枝とした。 伝統芸能以外では、ヤクザや的屋の世界において、伝統的に名跡の襲名により代替わりが行われる。 競技・スポーツにおいては、大相撲で師匠や所属部屋の名力士の四股名を襲名することがあり、こうして伝統あるものとなった四股名は出世名と呼ばれる。また、現役力士が引退して年寄となる際には「引退して年寄○○を襲名」となる。行司については、三役格の行司から立行司に昇格した時点でまず序列第2位の「式守伊之助」を襲名して、その後に最高位の立行司に昇格する時点で「木村庄之助」を襲名することが慣例となっている。登録名やリングネームが襲名されることはほとんどなく、プロレスで2世レスラーが『父親のリングネーム+ジュニア』を名乗ることがあるほか、『タイガーマスク』のように覆面レスラーが代替わりする際にも襲名と表現されることがある。 一般的に、Jr.(ジュニア)が襲名の準備として用いられ、父親が他界する事で、Jr.の表記を外して襲名する。 海軍、海運会社では、特に活躍した艦船の名前をその艦船の退役後に後代の艦船が引き継ぐことがある。 この場合、先代の艦船の名前をそのままつけることもあれば、先代の艦船の名前に襲名の回数を意味する数字等を付けることもある。 ヴィクトリー 6代目、初代は1569年就役の42門艦。 ワスプ 10代目、初代は1775年就役のスクーナー。 ボクサー 6代目、初代は1815年就役のブリッグ。 エセックス 5代目、初代は1799年就役のフリゲート。 キアサージ 4代目、初代は1862年就役のスループ。 ボノム・リシャール 3代目、初代はジョン・ポール・ジョーンズが1779年にフランス国王ルイ16世から与えられたフリゲート「Duc de Durae」を改名したもの。 クイーン・エリザベス - キュナード・ライン 3代目、初代は1940年就役の80000トン級客船。 名の変更届 名跡 世襲 年寄名跡 伊達政宗 - かつての伊達家の偉大な当主にあやかって同じ「政宗」という諱を名乗った。 ^ 明治前期までは木村行司と式守行司は完全に別系であり、他方の姓に存在する名を名乗ることはなかった。また、昭和前期に木村玉之助が第3の立行司として存在した時代には伊之助襲名前に玉之助を襲名していた。", "初代雷門福助(かみなりもん ふくすけ、1901年(明治34年)10月20日 - 1986年(昭和61年)6月11日)は、落語家。本名は川井初太郎。通称「落語界のシーラカンス」。 東京の深川の芝居道具師に家の生まれた。生年月日は口伝えでは2月3日の初午の日で、それゆえに初太郎と名付けられた。 奉公に出た後は陸軍省大臣・田中義一の運転手の助手をしたり、徳川夢声の元で活動弁士の下働きなどをしていた。 1922年(22歳)頃から幇間をしていた友人の薦めで6代目雷門助六に入門して福助を名乗る。二つ目のときに師匠が名古屋に「助六興行部」を設立したので同行した。関東大震災が起こった際は東京に戻らずそのまま名古屋に住み着いた。 戦後は名古屋で旅館を営み長らく高座を退いていた。のちに大須演芸場に出演するようになり、名古屋在住の芸人の団体「名芸互助会」の会長を長年務めた。東京の「東宝名人会」に出演した際、「落語界のシーラカンス」ともてはやされ、度々東京の寄席にも顔を出すようになった。 1986年6月11日、膵臓がんのため、名古屋市中区大須の塚崎医院で死去、享年84歳。 落語はお題噺や廓噺を得意とし大正時代の古き噺を演じていたが、新作も数点残している。SPレコードも数枚残されており、2007年に「初代 雷門福助 落語名演集」(一)〜(三)としてCDが発売された。 2010年には川戸貞吉によってインタビュー集『初代福助楽屋話』が発売される。 弟子には雷門米蔵(橘家米蔵)、雷門小福、雷門喜助。なお、現在でも活躍する雷門獅篭、雷門幸福(共に小福の弟子)は孫弟子に当たる。 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X ^ 一説にはいわゆる「連れ込み旅館」だったという。 ^ 雷門獅篭 (2012年12月20日). ご勝手名人録. ぶんか社. pp. 9-16.  ^ 命名者は中日新聞の芸能記者だった黒川光弘。長寿というわけではなく、長らく東京の寄席には出ていなかったため、芸が擦れていなかったことからそう呼ばれたもの。 ^ 朝日新聞1986年6月12日朝刊", "中村 宗十郎(なかむら そうじゅうろう、天保6年(1835年) - 明治22年(1889年)10月8日)は明治時代に上方で活躍した歌舞伎役者。同時期の初代實川延若、初代市川右團次とともに「延宗右」と呼ばれ、関西劇壇の重鎮として人気を集めた。本名は藤井 重兵衛(ふじい しげべえ)。屋号は末廣屋、俳名は千昇・霞仙。 尾張国名古屋の熱田富江町の銭湯の主人の子として生まれる。のち母の実家で入歯師の藤井家に養子にいく。芸事が好きで踊りや三味線を習い、家を出て旅役者の一座に入り、嵐亀蔵と名乗り伊勢から名古屋で舞台に立つうち、来合わせた大坂の芝居関係者に見いだされて大坂に行く。大坂では二代目中村翫雀(初代中村鴈治郎の父)門人となり中村歌女蔵と名乗る。この修業時代に實川延次という若手と知り合い、二人はコンビを組んで片方が三味線を引きもう片方が踊りを担当し、通行人から金をもらって路銀の足しにした。この延次がのちの初代延若である。 大坂で活躍するうち、その素質を初代中村雀右衛門に認められ、幹部俳優の四代目三桝大五郎の婿養子となり、万延元年(1860年)8月、死亡した義兄の名をおそって三代目三桝源之助を襲名。若手の有望株として大芝居に出演して人気があがるが、元治元年(1864年)女房との離縁を機に雀右衛門の門下となる。このとき、中村宗十郎と改名する。「中村」は師匠の雀右衛門からもらい、「宗十郎」の方は「澤村源之助が澤村宗十郎を襲名するのなら、自分も源之助だから宗十郎を襲名すればいいだろう」とこれを頂戴した。いい加減な命名だが、あまり名跡にはこだわらない上方らしい命名である。 その後は花形役者として道頓堀の大芝居で活躍、「名人延若、上手宗十郎、業物右團次」と呼ばれ、この「延宗右」で芸を競い合った。明治6年(1873年)、しのぎを削る延若が自分より先に座頭になったことに憤激、初めて東上する。このときは人気が集まらず、宗十郎にとってはほろ苦い東京でのお目見えだった。 門閥外から幹部俳優にまで出世するだけに努力もしたがその反面気性も強く、しばしば一座した俳優と衝突を繰り返したり役柄が気に入らないと休んだりした。明治9年(1876年)、大阪に来演した三代目澤村田之助と喧嘩したときは、気位の高い田之助が成り上がりと宗十郎を侮蔑したので、双方負けん気が強いこともあってこじれにこじれ、宗十郎は突然役者を廃業し、本名の藤井重兵衛で大阪太左衛門橋に呉服屋を開店して周囲を驚かせた。間もなく宗十郎は、劇場の火事で経営に不安を持った関係者の尽力により舞台に復帰する。文句の多い口うるさい人物を大阪では「末廣屋」と呼ぶくらい、宗十郎の問題は有名だった。 明治10年(1877年)以後、名興行師十二代目 守田勘彌の招きでしばしば東京の舞台に出た。「團菊左」と舞台を共に勤めたり、黙阿弥作の『夜討曾我狩場曙』(夜討曾我)や『天衣紛上野初花』(河内山)などに出て、東京での人気も上がったが、やはり九代目市川團十郎とはそりが合わずにその問題児ぶりを露呈した。『夜討曽我』初演時には團十郎に面と向かって下手糞だ、菊五郎の方が余程上手いと罵倒して喧嘩となり、仲裁に入った左團次にまで下手糞と罵って揉めたなどというのは序の口。團十郎の活歴志向が気に食わないからといって、彼がつとめる五郎が烏帽子に鎧脛当てという時代考証に則っとった写実的な装いだったのに対して、宗十郎の十郎は敢えて従前同様の小袖姿で登場し、そのちぐはぐなとりあわせは「火事見舞いに水見舞い」「兄は川へ洗濯に、弟は山へ柴刈りに」と嘲笑されるほどだった。今回は勘彌が仲裁にはいるが、結局双方折り合いがつかず、二人の仲はこれまでにないほどこじれてしまった。さらに左團次や菊五郎までもが團十郎の味方についているものだと思い込んで、劇場に出勤してもわざわざ團菊左には挨拶もせずに、さっさっと自分の楽屋に入ってしまったかと思えば、自分の出番が来るまでは出て来もしなかった。当然東京の贔屓の怒りを買ったが、宗十郎は一歩も引くことがなかった。それほど自身の芸に誇りを持っていたのである。 團十郎の活歴物は宗十郎と組ませるのが常だったが、そもそも活歴物は一部の識者以外には人気がなかったため客足が伸びない。そこで劇場関係者は二人の名を引っ掛けてかけて、「一番物は損十郎」と皮肉った。それでも二番物の左團次を組ませた菊五郎の散切物が人気で興行は成り立ったのである。 明治22年(1889年)4月大阪浪花座『伽羅先代萩』の仁木弾正を最後の舞台として55歳で死去した。 宗十郎の大きな功績のひとつは、後輩の育成に熱心だったことで、特に初代 中村鴈治郎の資質をいち早く認めたことがあげられる。明治15年(1882年)鴈治郎を自身の一座に加えて『忠臣連理の鉢植』(植木屋)の弥七実ハ塩冶浪人千崎弥五郎を勤めた時は、鴈治郎に「よう見ときや」とまず自分が何度もやって見せ、のちにこれを鴈治郎に代演させた。これを皮切りに、『心中天網島』「河庄」の治兵衛、『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の武部源蔵、『双蝶々曲輪日記』「引窓」の十次兵衛、『敵討襤褸錦』「大晏寺堤」の治郎右衛門、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の盛綱などの、その後の鴈治郎の当たり役となる役どころの多くを教えている。また活歴を修正した新しい歌舞伎を目指して写実的な演出を行い、これが角藤定憲や川上音二郎の壮士芝居に影響を与えた。『ベニスの商人』の翻案物も上演しているが、これが日本におけるシェークスピアものの嚆矢といわれている。 地味だが、上品で写実的な芸風で、役柄も広く、時代物や和事の立役をはじめ、老け役、女形もこなした。派手な延若とは異なり理知的で斬新な役づくりが特色だった。『伊賀越道中双六』「沼津」の十兵衛、『寺子屋』の源蔵、『假名手本四十七文字』の桃井若狭之助・早野勘平、『河庄』の治兵衛、『五大力戀緘』(五大力)の源五兵衛などが当たり役として知られている。 芸熱心で、『恋女房染分手綱』(重の井子別れ)の乳母重の井をつとめた時は女役者の市川九女八の型を採った。当時女役者は役者の中でも格下とみなされており、当然批判が出たが、宗十郎は「いい芸なら女役者でも手本にする」と答えて動じなかった。宗十郎は日頃楽屋にいる時からその役になりきることを信条としていた。『奥州安達原』の盲目の袖萩をつとめた際には、目を一切明けないという熱演のあまり花道から転げ落ちてしまったが、花道に戻る際にもこれを手探りで這い上がって見せ観客を唸らせている。明治21年(1888年)に『寺子屋』の武部源蔵をつとめた際には、源蔵の女房戸浪を勤める後輩役者から戸浪のやり方を聞かれ「戸浪は誰の女房か、夫源蔵はどんな身分の者か。主君なり夫の身の上に大きな災難が起こった時、女房たる者にどういう感じか起こるか。女ながらも一瞥の力を添え、恩を報じ、夫の忠義を立てさせたいと思うのではないか。まず自分をその位置に置いて演じたら、演じられぬはずはない」(大阪朝日新聞 1889年10月11日)と理論的に説明している。あらゆる意味で明治の新時代にふさわしい役者だった。 位牌養子に初代中村霞仙、和事芸の後継者としては初代中村鴈治郎がいる。 青木繁『初代鴈治郎の芸系』「歌舞伎 研究と批評」21 歌舞伎学会 1998年", "五代目 清元 延寿太夫(ごだいめ きよもと えんじゅたゆう 文久2年8月13日(1862年9月6日) - 昭和18年(1943年)5月22日)本名は斎藤→岡村庄吉。東京都墨田区本所出身。 正式表記は旧字の延壽太夫。 現在の東京都墨田区本所の生まれ。生家は植木屋。叔父の妻が横浜の富貴楼お倉で成人までそこで過ごす。成人後創立間もない三井物産の社員となる。 1877年 15歳で清元菊寿太夫の門下になる。 1890年 十二代目守田勘彌の勧めで三井物産を辞め四代目清元延寿太夫の養子となる。 1891年 三代目清元榮壽太夫を襲名。 1897年 歌舞伎座で五代目延寿太夫を襲名。『青海波』『柏の若葉』等を奏でた。 1919年12月 - 歌舞伎座で、十五代目市村羽左衛門の絹川与右衛門、六代目尾上梅幸のかさねで四代目鶴屋南北作、『色彩間苅豆』を90年振りに上演する。それまで、怪談でかさねが夫絹川与右衛門に木下川堤で惨殺され、親の因果で幽霊になる話は稽古でも敬遠されていた。この「市村羽左衛門の絹川与右衛門、尾上梅幸のかさね 浄瑠璃・延寿太夫、三味線梅吉」が大ヒット。以後、『色彩間苅豆』は人気曲となり、歌舞伎の興業はもとより、舞踊会、演奏会でも上演されるようになった。 1922年 長年の相三味線を弾いていた、三代目清元梅吉(清元寿兵衛)との長年の確執が表面化。分裂してしまう(延寿太夫の横暴な振舞いや出演料を巡るトラブルなど諸説あるが現在も謎)。当時の住居から「高輪」と言われる。延寿太夫のところから、大量の太夫、三味線弾きが脱退するが、数年後には帰参している。このことが原因で延壽太夫と梅吉の合同演奏は、88年後の2010年に五代目延壽太夫の曾孫の七代目延壽太夫と三代目清元梅吉(清元寿兵衛)孫の四代目梅吉が共演するまで、1回も行われなかった。 1937年 歌舞伎座の舞台出演中に脳溢血で倒れる。以降実質引退となる。 1943年 自身の事を書いた『延壽藝談』を発行(清元寿兵衛との分裂には触れられていない)。 1943年 5月22日、死去。 『幻椀久』 『明烏花濡衣』 『田舎源氏露東雲』 『助六曲輪菊』 『柏の若葉』 『青海波』 『名寄の壽』 『残菊物語』のモデルになった、二代目尾上菊之助は実弟。実子が四代目栄寿太夫。孫が六代目清元延寿太夫。 清元志寿太夫 清元榮壽郎", "上方落語の古い別称。 主に2人組で披露される話芸の一種。本項で詳細。 軽口(かるくち)は、主に2人組で披露される話芸の一種。別称は「掛合噺」「掛合茶番」等 漫才や喜劇の源流といわれる。 江戸時代末期に京都四条河原町、大坂天満宮の神社の境内に舞台を設けひとりでに歌舞伎、芝居の物真似演じられた起源。その後舞台芸になり寄席で俄の開幕(前座)として演じられた。2人が正座し簡単な小道具、衣装を身に付け謎かけ問答や知恵比べ問答、歌舞伎、芝居の物真似で人気を取っていた。後に芸として俄から独立。1892年8月に桂梅團治・桂篤團治のコンビが「軽口」の看板を上げ、落語の演目を演じ分けるなど人気を博す。東京には豊年斎梅坊主がおり、音源が残されている。その後も桂次郎坊・太郎坊、秋の家稲子・稲八、鶴家團七・團鶴等が人気を博した。また落語家が余芸で演じることもあった。その後、音曲万歳、しゃべくり漫才の登場で人気も落ちる。なお東京では三遊亭歌輔・歌之輔、橘家圓五郎・圓十郎等が活躍した。 戦後では完全に漫才が主流になり演じ手はいなかったが芦乃家雁玉・林田十郎、松葉家奴・松葉家喜久奴、松鶴家光晴・浮世亭夢若、一輪亭花蝶・松原勝美、浮世亭歌楽・ミナミサザエ、西都ハロー・ジロー等は軽口に近い芸風であった。 現在は軽口を継承している芸人はいないが、林家染丸一門や露の五郎兵衛一門が余芸で寄席などで度々披露される。東京の内海桂子は弟子の笑組、ナイツと舞台に上がる時、軽口の演目であった『名鳥名木』を演じる。 漫才 俄 喜劇 上方落語 コント 「昭和上方笑芸史」(三田純市、学芸書林 ISBN 4-87517-004-1) 「上方まんざい八百年史」(前田勇、杉本書店)" ]
ABC01-02-0272
「やわ肌のあつき血汐にふれも見で、さびしからずや道を説く君」と詠んだ、明治の女流歌人は誰でしょう?
与謝野晶子
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[ "与謝野晶子", "里見とん", "正宗白鳥", "有島武郎", "武者小路実篤" ]
[ "与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。 戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。 雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。 鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ。 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)『文学界』や紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。 20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。 1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれた。 5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。 1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。 子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。 1940年5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる。同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去。戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉。墓は多磨霊園にある。 情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』(1901年)や、日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名である。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。 歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立した。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。 1904年(明治37年)9月、半年前に召集され日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した。なお、晶子の弟の鳳籌三郎は日露戦争から帰還し、1944年(昭和19年)まで生きているが、彼の所属した歩兵第8連隊はこの詩が詠まれた頃は遼陽会戦を戦っており、旅順攻囲戦には参戦していない可能性が高い。 その3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月に反論した(日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる)。 大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが、『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。 この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としては一貫性がなかった。 日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言しているが、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年(明治44年)3月7日に『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガは未決在監中に弁護士・平出修に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことの悔恨を小林天眠への手紙に残している。 1911年(明治44年)に『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、文部省と内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。 1915年(大正4年)に読売新聞に『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した。また、晶子は婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている。この歌は山田耕筰作曲で第一回全日本婦選大会において披露された。 2014年(平成25年)に発見された未発表の歌では、日中戦争の拡大を憂いて「秋風やいくさ初(はじ)まり港なるたゞの船さへ見て悲しけれ」と詠んでいる。「たゞの船」とは民間の商船のこと。1937年(昭和12年)8月13日、横浜港で扇子にしたためたという。 晶子が34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった森鴎外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。そのため、一からやり直し、源氏54帖のうち最後の『宇治十帖』を残すまで書き上げたが、関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまう。またも一からやり直し、さらに17年かけて6巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。1938年(昭和13年)10月より刊行し、翌年9月に完結した。 晶子は日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、評論活動をはじめる。評論は、女性の自立論と政治評論に分類できる。教育問題なども評論している。 女性の自立論は、女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶することを説いた。英米思想的な個人主義である。数学が大変得意であり、女性も自然科学を学ぶべきと主張した。 反良妻賢母主義を危険思想だと見ていた文部省の取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。ここで論壇に登場した女性解放思想家・山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した。 政治評論については反共産主義、反ソ連の立場から論陣を張った。その論文の数は、20本を越える。『君死にたまふことなかれ』を前面に出してはいたが前述のように、一貫性がなく、当時『労農主義』として紹介されていたマルクス・レーニン主義も批判していた。 シベリア出兵を日本の領土的野心を猜疑され日露戦争の外債による国民生活の疲弊を再び起こす、と反対している。また、米騒動に関して『太陽』誌上に「食料騒動について」という文を書き、その中で当時の寺内内閣の退陣を要求している。 晶子は『中央公論』1919年(大正8年)5月号に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時『教育の民主主義化を要求す』と改題)という文を書いている。各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している。今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人とさまざまの社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育や社会教育の場を作るよう提言している。 文化学院の創立に加わり、のち文化学院女学部長に就任した。 夫:与謝野鉄幹 長男:光(明治35年11月) 次男:与謝野秀(明治37年7月)  与謝野秀は外交官としてイタリア・エジプト大使などを歴任し、1964年東京オリンピック事務長を務めた。 長女:八峰(明治40年3月) 次女:七瀬(明治40年3月、八峰と双子)  三男:麟(明治42年3月) 三女:佐保子(明治43年2月) 四女:宇智子(明治44年2月) 四男・アウギュスト(大正2年4月、後に碰(いく)と改名) 五女:エレンヌ(大正4年3月) 五男:健(大正5年3月) 六男:寸(大正6年10月、生後二日で死亡) 六女・藤子(大正8年3月) 定本 与謝野晶子全集 全20巻(講談社、1979年 - 1981年刊) みだれ髪(新潮文庫) みだれ髪 附=みだれ髪拾遺(角川文庫クラシックス) 鳳晶子, みだれ髪 名著複刻全集22, 日本近代文学館, 1968年, 全訳源氏物語 上・中・下(角川文庫クラシックス)・大活字版『ザ・源氏物語』全文対訳(第三書館) 梗概源氏物語(武蔵野書院)鶴見大学文学部、池田利夫 編 蜻蛉日記(平凡社ライブラリー)与謝野晶子 訳 与謝野晶子歌集(岩波文庫) 与謝野晶子評論集(岩波文庫) 愛、理性及び勇気(講談社文芸文庫 現代日本のエッセイ) 女人創造 叢書 女性論(大空社) 与謝野寛晶子書簡集成(八木書店) 私の生ひ立ち(女性文庫/学陽書房)竹久夢二 挿絵/(刊行社) 童話 環の一年間(和泉書院) 1954年 『晶子曼陀羅』佐藤春夫著、大日本雄弁会講談社。角川文庫、講談社文芸文庫ほか 1957年 『与謝野晶子書誌』入江春行著、創元社 1967年 『うたの心に生きた人々』茨木のり子著、さ・え・ら書房。ちくま文庫にも 1967年3月 『どっきり花嫁の記 ――はは与謝野晶子』与謝野道子著、主婦の友社。角川書店 1968年3月 『与謝野晶子』福田清人、浜名弘子編、(清水書院『センチュリーブックス 人と作品』21)、清水書院 1972年 『千すじの黒髪 わが愛の与謝野晶子』田辺聖子著、(『文春文庫』)、文藝春秋 1981年1月 『与謝野晶子の秀歌』馬場あき子著、(『現代短歌鑑賞シリーズ』)、短歌新聞社。三一書房の馬場あき子全集にも 1981年3月 『晶子の周辺』入江春行著、洋々社 1981年7月 『みだれ髪の系譜』芳賀徹著、(『講談社学術文庫』)、講談社、初出は美術公論社 1983年5月 『与謝野晶子の文学』入江春行著、(『近代の文学』13)、桜楓社 1984年3月 『与謝野晶子 : 昭和五十九年春季特別展』堺市博物館編、堺市博物館 1985年9月 『華の乱』永畑道子著、新評論 1985年9月 『夢のかけ橋 晶子と武郎有情』永畑道子著、新評論。文春文庫も 1986年9月 『山の動く日きたる 評伝与謝野晶子』山本千恵著、大月書店 1988年10月 『姑の心、嫁の思い 義母・与謝野晶子との会話』与謝野道子著、PHP研究所 1989年2月 『憂国の詩 : 鉄幹と晶子・その時代』永畑道子著、新評論。ちくま文庫にも 1989年5月 『アメリカで与謝野晶子をうたえば』吉岡しげ美著、朝日新聞社 1990年8月 『与謝野晶子研究 : 明治の青春』赤塚行雄著、學藝書林 1990年10月 『与謝野晶子の教育思想研究』平子恭子著、桜楓社 1991年4月 『与謝野晶子歌碑めぐり : 全国版』堺市博物館編、二瓶社 1991年3月 『与謝野晶子 : その生涯と作品 没50年記念特別展』堺市博物館編、堺市博物館 1991年6月 『与謝野晶子』河出書房新社編?、(『新文芸読本』)、河出書房新社 1991年9月 『晶子と寛の思い出』与謝野光著、思文閣出版 金子幸代『鴎外と〈女性〉』大東出版社、1992年。 1992年3月 『与謝野晶子』尾崎左永子他著、大岡信編(『群像 日本の作家』6)小学館 1992年7月 『恋むらさき : 小説・与謝野晶子』倉橋燿子著、(『mimiヤングガールズ・ブック』)、講談社 1992年8月 『日本橋魚河岸と文化学院の思い出』金窪キミ著、卯辰山文庫 1993年3月 『愛のうた : 晶子・啄木・茂吉』尾崎左永子著、創樹社 1993年9月 『初恋に恋した女 : 与謝野晶子』南条範夫著、講談社。講談社文庫も 1993年10月 『与謝野晶子 : 昭和期を中心に』香内信子著、ドメス出版 1993年11月 『わが晶子わが啄木 : 近代短歌史上に輝く恒星と遊星』川内通生著、有朋堂 1994年2月 『君死にたまふこと勿れ』中村文雄著、和泉書院 1994年10月 『与謝野晶子研究 : 明治、大正そして昭和へ 決定版』赤塚行雄著、學藝書林 1994年10月 『晶子讃歌』中山凡流著、沖積舎 1995年4月 『与謝野晶子 年表作家読本』平子恭子著、河出書房新社 1995年5月 『与謝野晶子を学ぶ人のために』上田博、富村俊造編、世界思想社 1996年1月 『鉄幹と晶子詩の革命』永畑道子著、(『ちくま文庫』)筑摩書房 1996年1月 『君も雛罌粟われも雛罌粟 : 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯』上・下、渡辺淳一著、文藝春秋。文春文庫も 1996年7月 『資料与謝野晶子と旅』沖良機著、武蔵野書房 1996年9月 『山川登美子と与謝野晶子』直木孝次郎著、塙書房 1996年11月 『女をかし与謝野晶子 : 横浜貿易新報の時代』赤塚行雄著、神奈川新聞社 1997年1月 『絵画と色彩と晶子の歌 : 私の与謝野晶子』持谷靖子著、(『にっけんの文学・文芸シリーズ』)、にっけん教育出版社 1997年9月 『火の色す : 富村俊造・与謝野晶子アカデミーの軌跡』与謝野晶子アカデミー百回記念誌編集委員会編、『山の動く日』の会 1998年3月 『尾崎行雄 : 「議会の父」と与謝野晶子』上田博著、三一書房 1998年7月 『チョコレート語訳 みだれ髪』俵万智訳、(『河出文庫』)、河出書房新社 1998年7月 『與謝野晶子と周辺の人びと : ジャーナリズムとのかかわりを中心に』香内信子著、創樹社 1998年7月 『与謝野晶子と源氏物語』市川千尋著、国研出版 1998年10月 『與謝野晶子』渡邊澄子著、新典社 1999年2月 『風呂で読む与謝野晶子』松平盟子著、世界思想社 1999年7月 『おんな愛いのち : 与謝野晶子/森崎和江/ヘーゲル』園田久子著、創言社 1999年8月 『与謝野晶子』渡辺澄子著、(『女性作家評伝シリーズ』)新典社 2000年6月 『東西南北・みだれ髪』永岡健右・荻野恭茂 著、久保田淳 監修、(和歌文学大系 第26巻)、明治書院 2000年  『与謝野晶子』新間進一著、(『短歌シリーズ・人と作品』4)おうふう 2000年4月 『文に生きる絵に生きる : 与謝野晶子、ビアトリクス・ポター、リリアン・ヘルマン、いわさきちひろ』越水利江子、落合恵子、今関信子、松本由理子著、岩崎書店 2000年10月 『与謝野寛・晶子 : 心の遠景』上田博著、嵯峨野書院 2002年6月 『九州における与謝野寛と晶子』近藤晋平著(『和泉選書』)和泉書院 2003年4月 『与謝野晶子 : 童話の世界』古沢夕起子著、嵯峨野書院 2003年4月 『与謝野晶子とその時代 女性解放と歌人の人生』入江春行著、新日本出版社 2003年6月 『与謝野晶子の歌鑑賞』平子恭子著、短歌新聞社 2009年1月 『鉄幹晶子全集』1-26(全四十二巻予定)逸見久美ほか編、勉誠出版  2009年2月 『与謝野晶子』松村由利子著、中央公論新社 『きんぎょのおつかい』(架空社)高部晴市、与謝野晶子 著 『与謝野晶子 女性の自由を歌った情熱の歌人』(学習まんが人物館/小学館)入江春行、漫画・あべさより 著 『与謝野晶子』(学習漫画 世界の伝記NEXT/集英社)漫画・神宮寺 一 著 髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ,みだれ髪 清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき,みだれ髪 柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君,みだれ髪 誰見ても親はらからのここちすれ地震をさまりて朝に至れば, 瑠璃光,今昔秀歌百選:選者:土屋博(日本オートスポーツセンター理事長) 与謝野という姓は、京都府北部の与謝郡与謝野町に由来する。 1907年(明治40年)3月、晶子は女の双生児を出産。命名を頼まれた森鴎外はその名(八峰・七瀬)を織り込んだ歌「聟(むこ)きませ一人は山の八峰(やつお)こえ一人は川の七瀬(ななせ)わたりて 」を贈っている(七瀬はのちに有島武郎の甥と、八峰は孝橋謙二と結婚)。 映画『華の乱』(1988年、東映京都製作所、深作欣二監督)は与謝野晶子の生涯を描く。吉永小百合が晶子を演じている。原作のひとつ『夢のかけ橋―晶子と武郎有情』(永畑道子著)は、晶子の有島武郎に対する仄かな恋心を探ったもの。 1998年(平成10年)5月に生誕120周年を記念して堺市の南海本線堺駅西口に銅像が建てられた。 財務大臣、金融担当大臣、経済財政政策担当大臣などを歴任した与謝野馨は晶子の孫にあたる。馨が満3歳9か月の時に祖母・晶子が死去している。初めて衆議院議員選挙で落選し、浪人生活を送っているときに、祖母の詩集『みだれ髪』を復刻した。 晶子が死去する直前に病床で書いた、短歌の草稿ノートが2014年に発見された。短歌は約90首収録されており、日付は1941年10月から1942年1月2日となっている。 ^ a b 生家の駿河屋は大道筋 - 西六間筋間の街区にあった。この街区と西六間筋は、戦災復興事業によって大道筋を50メートル道路へ拡幅するための道路用地に充てられ、現在は道路上となっている。 ^ 「婦人と文学」宮本百合子 ^ 『柵草紙』とその後継誌『めざまし草』は、いずれも森鴎外を中心にした同人誌。 ^ 鴎外の紹介により、三越の事実上のオーナーである日比翁助から洋行費の補助として千円が贈与された。金子(1992)、295頁。 ^ その中で鴎外は、「僕が特に言わなくてはならない事は無いだらう。併し樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。晶子さんは何事にも人真似しない。個人性がいつも確かに認められる。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(下略)」と評した。ちなみに、与謝野鉄幹とも親交があった鴎外は、晶子が産んだ双子(七瀬、八峰)の名づけ親になっており、当時、母を亡くして落胆していた晶子に「婿きませひとりは山の八峰越えひとりは川の七瀬わたりて」という歌を送った。金子(1992)、288-289頁、299頁。 ^ a b 読売新聞 2015年10月31日 38面掲載。 ^ a b 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)353頁 ^ 歴史が眠る多磨霊園: 与謝野晶子 ^ 入江春行によれば、「中国をやっつけろと盛り上がる世論の中で、悲しいと詠む歌は発表できなかったのだろう」という(東京新聞2014年7月12日) ^ 廣岡守穂「福祉と女性(3) 急進的フェミニスト・与謝野晶子の歌と思想」『白門』61巻9号、中央大学通信教育部、2009年9月、25頁。 宝生あやこ - 「どっきり花嫁」(1968年12月8日、1969年6月1日、1969年10月12日 TBS 東芝日曜劇場) 加藤治子 -「どっきり花嫁-わが母 与謝野晶子-」(1982年、東海テレビ) 吉永小百合 - 映画「華の乱」 監督:深作欣二、1988年。 山田邦子 - 「やわ肌の熱き血汐に」(1990年1月3日、日本テレビ 水曜グランドロマン) 原沙知絵 - 「足尾から来た女」 (2014年1月25日(後編)、NHK土曜ドラマ) 羽田美智子 - 映画「この道」監督 : 佐々部清、2019年。 平塚らいてう 山城正忠 - 弟子。沖縄県出身の歌人。 中原綾子 - 弟子。福岡県出身の歌人。 母性保護論争 城崎町文芸館 天成園 - 別館である飛烟閣を良く利用していた。 コミックス「晶子の反乱」 - 作:高橋由佳利、クイーンズコミックス ハンニバル・ライジング - 小説版でヒロインの紫夫人(Lady Murasaki)が与謝野晶子の和歌を思い浮かべるシーンがある。 オンライン・テクスト 与謝野 晶子:作家別作品リスト - 青空文庫 与謝野晶子(第1~第26歌集掲載)(J-TEXTS 日本文学電子図書館) 『君死にたもうことなかれ』(新字、新かな) UK Indymedia: International Women's Day(冒頭に『そぞろごと』の最初の部分が引用され、英語で読める。\"The day when the mountain will move is coming....\") / Bosque de Bambú, camino del haiku - Yosano Akiko 今昔秀歌百撰 74与謝野晶子 施設・団体など さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館(堺市立文化館与謝野晶子文芸館より移転) 与謝野晶子倶楽部(会員制の研究・交流団体。2003年12月1日サイト開設) (財)三国路 与謝野晶子紀行文学館 湯沢西小学校校歌(秋田県湯沢市立湯沢西小学校サイト学校紹介ページ内)", "里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 - 1983年(昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。本名は山内英夫(やまのうち ひでお)といった。 1888年(明治21年)、有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれる。生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となり山内英夫となったが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた。 1900年(明治33年)に旧制学習院中等科へと進み、この頃から泉鏡花の作品に慣れ親しむ。同高等科を経て東京帝国大学文学部英文科へと進むが、程なくして同校を退校し、バーナード・リーチにエッチングを教わる。1910年(明治43年)4月、志賀直哉や武者小路実篤らが創刊した雑誌『白樺』に2人の兄と共に同人として参加した。ペンネームの里見は、電話帳をペラペラとめくり指でトンと突いた所が里見姓であったとしている。 志賀の手引きで吉原などで遊蕩し、父母の許しの強要の末、大阪の芸妓・山中まさと結婚した。その経歴が『今年竹』『多情仏心』などの代表作に現れている。 志賀の『暗夜行路』冒頭に出てくる友人・阪口は、弴がモデルである。1914年(大正3年)には、志賀とともに松江で暮らし、このことを志賀は『暗夜行路』に、弴は『今年竹』に生かしている。 1915年(大正4年)、『晩い初恋』を中央公論に掲載して本格的に文壇デビュー、翌年同誌に『善心悪心』を発表、弴の初期の代表作とされ同年、同名の短編集を刊行、祖母・静子に献じる。 1917年(大正6年)、『新小説』に『銀二郎の片腕』を発表する。 1919年(大正8年)、時事新報に『今年竹』を連載するが中絶、のち完成させる。この年、吉井勇、久米正雄らと雑誌『人間』を創刊した。1920年(大正9年)、『桐畑』を國民新聞に連載する。1922年(大正11年)から翌年大晦日まで、『多情仏心』を時事新報に連載した。同年、兄・武郎の心中事件があり、弴は「兄貴はあんまり女を知らないからあんなことで死んだんだ」と言ったという。 1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)まで、武郎の心中事件を中心とした長編『安城家の兄弟』を3部に分けて発表する。1932年(昭和7年)より6年間、明治大学文芸科教授を務めた。1940年(昭和15年)、菊池寛賞(戦前のもの)を受賞した。 1945年(昭和20年)、川端康成らと鎌倉文庫創設に参加、1947年(昭和22年)、日本芸術院会員となる。1952年(昭和27年)、『道元禅師の話』を連載、1954年(昭和29年)、十五代目市村羽左衛門の出生の秘密に触れた『羽左衛門伝説』を毎日新聞に連載した。1956年(昭和31年)、短編集『恋ごころ』で読売文学賞を受賞する。 永く鎌倉に住み、鎌倉文士のはじまりとされることもある。その縁で戦後は大船の撮影所にもよく出入りし、小津安二郎監督とも親しく小津と組んでいくつかの映画の製作にもかかわった。1958年(昭和33年)の『彼岸花』は小津と野田高梧の依頼を受け、映画化のために書き下ろしたものである。四男の山内静夫は、松竹の映画制作者でもある。 弴は舞台への造詣も深く、その縁から歌舞伎、新派、文学座など、原作や戯曲も多く提供し、また演出も行った。代表作に花柳章太郎の当たり役(花柳十種のひとつに選ばれている)となった『鶴亀』(脚色:久保田万太郎)などがある。 1959年(昭和34年)、文化勲章を受章する。1960年(昭和35年)、『秋日和』を発表、1961年(昭和36年)に『極楽とんぼ』、1971年(昭和46年)に『五代の民』で2回目となる読売文学賞を受賞した。 1983年(昭和58年)1月21日に肺炎のため神奈川県鎌倉市の病院で亡くなったが、二十四節気の大寒にあたる命日は「大寒忌」と呼ばれている(文学忌)。 同じく小説家の有島武郎、画家の有島生馬は共に実兄にあたる。 姉の有島愛は旧三笠ホテル経営者の山本直良と結婚、山本直良と愛との三男が作曲家で指揮者の山本直忠であり、直忠の長男が同じく作曲家で指揮者の山本直純であり、直純の長男が同じく作曲家の山本純ノ介である。また直良と愛の息子の山本直正は、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻の二女の与謝野七瀬と結婚した。俳優の森雅之は長兄・有島武郎の息子なので、甥にあたる。 山本まさとの間に、長女夏絵(生後間もなく死去)、長男洋一、次男鉞郎(東宝勤務)、次女瑠璃子、三男湘三、四男山内静夫をもうけた。 元赤坂芸妓の菊龍(遠藤喜久、お良)を愛人にした。里見との往復書簡が『月明の径―弴・良こころの雁書』(文芸春秋社、1981)として刊行されている。 『恋ごころ ほか』講談社文芸文庫 『初舞台、彼岸花 ほか』 講談社文芸文庫 『安城家の兄弟』 岩波文庫(上中下) 『極楽とんぼ』 岩波文庫 『道元禅師の話』 岩波文庫 『多情仏心』 岩波文庫(上下)、新潮文庫 『善心悪心』 岩波文庫 『今年竹 前後篇』 岩波文庫 『木魂、毛小棒大』 中公文庫(十二の短篇選集) 『大道無門』 青木書店 『秋日和 ほか』 夏目書房(武藤康史編) 『垣のぞき』 かまくら春秋社 ※『全集』全10巻は、筑摩書房で刊行されたが実質は自選集である。 山内静夫 『八十年の散歩』 冬花社 2007年 ※実子による回想記を収む。 小谷野敦 『里見弴伝 〈馬鹿正直〉の人生』 中央公論新社、2008年 『別冊かまくら春秋 追悼素顔の里見弴』 かまくら春秋社、1983年 ※多くの著名人が寄稿、『唇さむし 文学と芸について 里見弴対談集』を同時期に刊行。 奥野健男「里見弴伝」(『現代日本文学館15 有島武郎、里見弴集』 文藝春秋) ^ a b c d e f g h i j k “里見弴について”. 鎌倉 西御門サローネ. 2016年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月14日閲覧。 ^ a b c 紅野敏郎 (1986), “里見弴”, 日本大百科全書 : Encyclopedia Nipponica 2001, さえ‐しつ, https://kotobank.jp/word/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E5%BC%B4-69372  ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)159頁 ^ “薩摩川内ゆかりの作家・里見しのび「大寒忌」”. 南日本新聞. (2016年1月27日). http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=72727 2016年2月2日閲覧。  里見とん - NHK人物録", "正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3月3日 - 1962年(昭和37年)10月28日)は、明治 から昭和にかけて活躍した小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。 岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。江戸時代の正宗家は代々網元であり、高祖父の雅明の代までは材木商も営んだ財産家であった。閑谷黌を卒業し、1896年(明治29年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。在学中に植村正久・内村鑑三の影響を受けキリスト教の洗礼を受ける。史学科、英語科に在籍し、1901年(明治34年)文学科を卒業。早大出版部を経て読売新聞社に入社。文芸・美術・演劇を担当した。 1904年(明治37年)処女作品となる『寂寞』を発表し文壇デビューする。1907年(明治40年)読売を退社し本格的に作家活動に入る。1908年(明治41年)に発表した、日露戦争後の青年像を描いた『何処へ』は彼の代表作である。自然主義文学に新分野を開き注目された。1911年(明治44年)甲府市の油商清水徳兵衛の娘・つ禰と結婚。この頃、本間久雄は評論書『高台より』上で、諸作品から見た正宗の思想は「シニシズムの哲学」であると評している。 昭和期になると、活動の主点を評論に置く。1936年(昭和11年)1月の読売新聞に小林秀雄が「作家の顔」という小論文を掲載した。その中に、同年に正宗がトルストイについて書いた評論に対する非難が掲載されており、小林と正宗との間に「思想と実生活論争」が起こった。 1935年(昭和10年)、外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。1943年(昭和18年)11月3日から1947年(昭和22年)2月12日まで会長(2代目)。1940年(昭和15年)、帝国芸術院会員。1950年(昭和25年)文化勲章受章。1962年(昭和37年)膵臓癌による衰弱のため、飯田橋の日本医科大学付属病院で死去(83歳)。墓所は多磨霊園にある。 白鳥は6男3女の長男で、弟に画家の正宗得三郎、国文学者の正宗敦夫、植物学者の正宗厳敬が、甥に日本興業銀行第3代頭取となった正宗猪早夫がいる。 なお全集は2種類ある。 『正宗白鳥全集』全13巻 新潮社 1965-68年 代表作を収める 『正宗白鳥全集』全30巻 福武書店 1983-86年  ほぼ全文業を収む 『寂寞』(1904年) 『何処へ』(1908年) 『泥人形』(1911年) 『入江のほとり』(1915年) 『牛部屋の臭ひ』(1916年) 『毒婦のやうな女』(1920年) 『生まざりしならば』(1923年) 『戦災者の悲み』(1946年) 『人間嫌ひ』(1949年) 『銀座風景』(1950年) 『日本脱出』(1949年~1953年) 『人生恐怖圖』(1956年) 『白壁』(1912年) 『秘密』(1914年) 『人生の幸福』(1923年) 『影法師』(1923年) 『ある心の影』(1923年) 『梅雨の頃』(1923年) 『ある病室』(1923年) 『農村二日の出来事』(1923年) 『隣家の夫婦』(1924年) 『最後の女』(1924年) 『大地震』(1924年) 『雲の彼方へ』(1924年) 『観劇の後』(1924年) 『柿の木』(1924年) 『老醜』(1924年) 『ある文学者の心』(1925年) 『安土の春』(1925年) 『勝頼の最後』(1925年) 『歓迎されぬ男』(1925年) 『光秀と紹巴』(1925年) 『文壇人物評論』(1922年) 『自然主義盛衰史』(1948年) 『内村鑑三』(1950年) 『文壇五十年』(1954年) 『作家論』、『文壇的自叙伝』、『読書雑記』等多数ある ^ 中村武羅夫 1909, pp. 206–207. ^ 本間久雄 1913, pp. 96–97,153。同書ではギ・ド・モーパッサンとの比較論も展開されている。 中村武羅夫 『現代文士二十八人』 日高有倫堂、1909年。 本間久雄 『高台より』 春陽堂、1913年。 後藤亮『正宗白鳥 文学と生涯』思潮社、1966  岡山県出身の人物一覧 早稲田大学の人物一覧 正宗白鳥 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館 正宗 白鳥:作家別作品リスト - 青空文庫 早稲田と文学(正宗白鳥) - 早稲田大学 正宗白鳥 - 吉備路文学館 正宗白鳥と敦夫(おかやま人物往来) - 岡山県立図書館", "有島 武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。 学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年(明治36年)渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。 長男・行光(ゆきみつ)は、俳優の森雅之。 代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜しみなく愛は奪ふ』がある。 東京小石川(現・文京区)に旧薩摩藩郷士で大蔵官僚・実業家の有島武の長男として生まれる。母は幸子。祖父・宇兵衛も同じく郷士であった。武郎4歳の時、父の横浜税関長就任を機に一家で横浜に移る。父の教育方針により米国人家庭で生活。その後、横浜英和学校(現横浜英和学院)に通う。このころの体験が後に童話『一房の葡萄』を生むことになる。 10歳で学習院予備科に入学し、寄宿生として過ごし、19歳で学習院中等全科を卒業する。その後、札幌農学校に入学。教授の新渡戸稲造から「一番好きな学科は何か」と問われ「文学と歴史」と答えたところ失笑を買ったという。内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年(明治34年)にキリスト教に入信する。農業学校卒業後に軍隊生活を送り、その後渡米。ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。さらにヨーロッパにも渡り、1907年(明治40年)帰国。このころ信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。アナーキストの巨星であった大杉栄が海外に遠征した際に、黒百合会を主宰していた有島武郎は同志としてカンパをしたが、実はそれまでに大杉とは数回しか会ったことがなかった。 帰国後はふたたび予備見習士官や東北帝国大学農科大学の英語講師として過ごしていたが、弟の生馬を通じて志賀直哉、武者小路実篤らと出会い、同人誌『白樺』に参加する。『かんかん虫』『お末の死』などを発表し、白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍した。 1909年(明治42年)東京にて陸軍少将・神尾光臣の次女・神尾安子と結婚。 1911年(明治44年)、札幌で教職を務めていた時、長男・行光(ゆきみつ)誕生(のち、俳優の森雅之として活躍する)。 1916年(大正5年)に妻・安子(肺結核により平塚の杏雲堂で、27歳で没)と父を亡くすと、本格的に作家生活に入り、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『迷路』を書き、1919年(大正8年)には『或る女』を発表した。 しかし創作力に衰えが見え始め、『星座』を途中で筆を絶つ。1922年(大正11年)、『宣言一つ』を発表し、北海道狩太村の有島農場を開放する。1923年(大正12年)、『婦人公論』記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱く(有島は妻・安子と死別後は再婚せず独身を通した)。ところが秋子の夫春房に知られる所となり、脅迫を受けて苦しむことになる。そして6月9日、2人は長野県軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死を遂げた。7月7日に別荘の管理人により発見されるが、梅雨の時期に1ヶ月遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたという。複数残されていた遺書の一つには、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残されていた。2009年(平成21年)7月に、死の約半年前から有島が秋子と取り交わした書簡各3通が札幌市にある「北海道立文学館」で一般公開された。 辞世の歌は 「幾年の命を人は遂げんとや思い入りたる喜びも見で / 修禅する人のごとくに世にそむき静かに恋の門にのぞまん / 蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな」 というものであるとされ、唐木順三の評では「いずれも少女趣味以上ではない」と断じられている(『自殺について』1950年(昭和25年))。 師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」(大意)と言明した。 魯迅が紹介したことから中華人民共和国での知名度が高く、教科書にも掲載され広く読まれている。 札幌農学校 校歌「永遠の幸」 - 札幌農学校在学中に作詞 同曲は後身の北海道大学校歌としても定められている。 かんかん虫 或る女のグリンプス(のちに『或る女』として刊行) カインの末裔 クララの出家 或る女 生れ出づる悩み 凱旋 骨 酒狂 文化の末路 運命の訴へ 星座 小さき者へ 実験室 お末の死 惜みなく愛は奪ふ 宣言一つ 二つの道 一房の葡萄 溺れかけた兄妹 ドモ又の死  『有島武郎全集』全15巻+別巻 筑摩書房(なお大正期に叢文閣全12巻、昭和初期に新潮社全10巻が出版) 弟に、画家の有島生馬、作家の里見弴、日本油脂取締役の有島行郎。妹シマは東京慈恵会医科大学を設立した高木兼寛の長男喜寛と結婚。妹の愛は、三笠ホテル経営者の山本直良に嫁ぐ。 妻安子は陸軍大将男爵神尾光臣の次女。2人の間に子として、行光(俳優の森雅之。森と愛人との間に産まれた孫に日活ロマンポルノで活躍した女優の中島葵)曾孫にミュージシャンの有島コレスケ、敏行(翻訳家。石井好子と婚約していたと言われるが、第二次世界大戦中に若くして結核で亡くなる)、行三(母方の神尾家を継ぎ、男爵。その次男はシンセサイザー奏者の神尾明朗)。 甥(弟・行郎の息子)に創価学会初代音楽隊長で公明党代議士の有島重武。指揮者で作曲家の山本直純は、妹・愛の孫。 東京都千代田区六番町にある家には落語家の3代目三遊亭圓歌が住んでいたが、晩年に転居している。 1922年(大正11年)、大杉栄がベルリン国際無政府主義大会に参加するために密航を企図すると、密かに渡航費を大杉に渡し、のちに新聞記者に対し「僕は大杉君とは立場が違うが、ああいう器局の大きい人物を、いたずらに日本のようなせせっこましい所に置いて、内輪喧嘩をさせておくのは惜しいような気がしたので、世界の大勢を見てきたほうがよかろうと考えたからである」と談話している。(大杉栄『日本脱出記』、大杉豊『日録・大杉栄伝』より) ^ a b 有島武郎歴史が眠る多磨霊園 ^ 石井好子著『私は私』 ^ 三遊亭圓歌さん追悼秘話 最後まで寄席にこだわり“終活”、「山のあな、あな」は自らの吃音経験笑いに - ZAKZAK 2017年4月25日 森本厚吉 森戸辰男 谷川徹三 賀川豊彦 木田金次郎 大杉栄 山田昭夫 中村三春 あっと九州 有島家の兄弟たち 〜白樺派芸術に流れる南国生まれの父の血〜 - ウェイバックマシン(2008年4月11日アーカイブ分) 有島 武郎:作家別作品リスト - 青空文庫 有島武郎:作家事典(加藤弘一) 著者・編者「有島武郎」の検索結果(国立国会図書館デジタルコレクション)", "武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。 姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、後に「むしゃこうじ」に読み方を変更した。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。 仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。文化勲章受章。名誉都民。日本芸術院会員。贈従三位(没時叙位)。 東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家の武者小路実世(さねよ)子爵と勘解由小路家(かでのこうじけ)出身の秋子(なるこ)夫妻の第8子として生まれた。上の5人は夭折しており、姉の伊嘉子、兄の公共 と育った。2歳の時に父が結核で死去。 1891年(明治24年)、学習院初等科に入学。得意科目は朗読と数学で、体操と作文が苦手だった。同中等学科6年の時、留年していた2歳年上の志賀直哉と親しくなる。同高等学科時代は、トルストイに傾倒、聖書や仏典なども読んでいた。1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らとつくった「十四日会」で創作活動をする。同年、東大を中退。翌年には処女作品集『荒野』を自費出版した。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれ、実篤は白樺派の思想的な支柱となる。1913年(大正2年)、竹尾房子と結婚。1916年(大正5年)には、柳宗悦や志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。 理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。実篤は農作業をしながら文筆活動を続け、大阪毎日新聞に『友情』を連載。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。 この両村は今日でも現存する。同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。実際に実篤が村民だった頃の活動は離村後の彼の執筆に多大な影響を及ぼしたといわれており、また同村にとっても実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで言わば持ちつ持たれつの関係にあると見ることもできる。 1922年(大正11年)、房子と離婚し、飯河(いごう)安子と再婚。翌年の関東大震災で生家が焼失。『白樺』も終刊となった。この頃からスケッチや淡彩画を描くようになる。また油絵も描き、1929年(昭和4年)には東京・日本橋の丸善で個展も開いた。執筆依頼がほとんどない「失業時代」で、トルストイ、二宮尊徳、井原西鶴、大石良雄、一休、釈迦などの伝記小説を多く執筆した。 1936年(昭和11年)、4月27日からヨーロッパ旅行に出発。12月12日帰国。旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく。1937年(昭和12年)、帝国芸術院に新設された文芸部門の会員に選出される。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、戦争協力を行った。 1946年(昭和21年)には貴族院議員に勅選されるが(同年8月7日に辞職)、同年9月には太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。1948年(昭和23年)には主幹として『心』を創刊、『真理先生』を連載。1951年(昭和26年)、追放解除となり。同年に文化勲章を受章した。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」「君は君  我は我なり  されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名だった。 1955年(昭和30年)、70歳で調布市仙川に移住、亡くなるまでこの地で過ごした。 1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある東京慈恵会医科大学付属第三病院で尿毒症により死去。満90歳だった。晩年の20年間居住した調布市の自宅敷地および建物が、没後に「実篤公園」「調布市武者小路実篤記念館」として公開されている。主屋は2017年11月2日付で国の登録有形文化財となった。 実篤は白樺派の思想代名詞的存在で、理想郷の建設に代表される理想主義的・空想社会主義的行動には現実離れしているという批判もつきまとった。また、気紛れで始めたことを簡単に投げ出すという無責任とも取れる言動を批判されることもあった。 ただしその作品は必ずしも彼の思想的背景に依るものではなく、それゆえ現代に至るまで広く一般に読まれている。これが一般には『友情』『愛と死』などの代表作を生んだ、近代日本を代表する作家の一人としての知名度の方が遥かに高い所以である。 全集は小学館より全18巻が出版されている。 父・武者小路実世 (さねよ) 1851年(嘉永4年)12月21日生 - 1887年(明治20年)10月27日没。 武者小路家8代当主・実建 (1810-1863) の次男。童名は多嘉丸。1868年(明治元年)18歳で秋子と結婚。1870年(明治3年)上京、翌年1871年(明治4年)11月に岩倉使節団の留学生としてドイツに2年半滞在し1874年(明治7年)7月帰朝。9代当主となった22歳年上の兄・公香 (1828-1876) が亡くなり、公香の子も夭折していたため、26歳で10代当主となる。華族会館司計局長、麹町区議会議員、熊谷裁判所判事を務め、参事院では大日本帝国憲法発布の準備に関わったという。1884年(明治17年)7月に子爵となるも1887年(明治20年)10月27日、37歳で結核により死去。 母・秋子 (なるこ) 1853年(嘉永6年)9月13日生 - 1928年(昭和3年)11月1日没。 勘解由小路資生の娘。16歳で実世に嫁ぎ、8人の子を産んだが第1子は死産、長男・和丸、長女、次女・且、次男・公城と夭折している。35歳で未亡人となり、三女・伊嘉子、三男・公共、四男・実篤の3子を育てた。1928年(昭和3年)11月1日、76歳で死去。 姉・伊嘉子 1879年(明治12年)11月5日生 - 1899年(明治32年)12月12日没。 秋子が伊香保温泉で養生して生まれたことから伊嘉子と名付けられた。20歳で結婚したが、まもなく結核を発病、母に引き取られ、1899年(明治32年)12月12日、21歳で死去。 兄・公共 1882年(明治15年)8月29日生 - 1962年(昭和37年)4月21日没。 父・実世の亡き後、6歳で家督を相続。少年時代は 従兄の甘露寺受長と皇太子時代の大正天皇の遊び相手を務めている。学習院ではとびぬけた秀才として有名だった。20歳で従五位に叙せられる。東京大学法学部独法科卒。在学中に外交官試験に合格、外務省に入省、各国の公使を務める。ドイツ大使在任中は日独防共協定に調印した。 妻・房子(旧姓・竹尾) 1892年(明治25年)3月10日生 - 1990年(平成2年)没。 実篤最初の妻。福井県出身、日本女子大学付属女学校中退。実篤のもとを訪ね、翌年の1913年(大正2年)2月、22歳で実篤と結婚(届け出は翌年3月21日)するが、「新しき村」の青年と同棲を始め、1929年(昭和4年)12月9日離婚。 妻・安子(旧姓・飯河) 1899年 (明治32年)9月6日生 - 1976年(昭和51年)2月6日没。 実篤の再婚相手。静岡県出身、共立女子職業学校卒。1921年(大正10年)11月、22歳で「新しき村」に入村し、実篤の身の回りの世話をしていた。1923年(大正12年)12月長女出産。昭和4年12月18日入籍。新子、妙子、辰子の3人の娘を産む。1976年(昭和51年)2月6日、77歳で夫より2か月前に亡くなった。 長女・新子 1923年(大正12年)12月1日生 - 1986年(昭和61年)12月8日没。 次女・妙子 1925年(大正14年)2月25日生 - 三女・辰子 1928年(昭和3年)11月4日生 - 養女・喜久子 1909年(明治42年)11月9日生 - 1943年(昭和18年)8月9日没。 従妹の勘解由小路康子の娘。康子が夫と死別し、志賀直哉と再婚したため、実篤に引き取られた。2度の離婚を経て志賀家の戸籍に入り、1941年に三井物産社員と再々婚したが、2年後の1943年(昭和18年)8月9日、35歳で死去。 孫娘・河村有紀子 - 歌舞伎役者四代目中村梅玉の妻。父は実篤の婿養子・穣、母は実篤の娘・辰子。 甥・武者小路公秀 - 国際政治学者。父は実篤の兄・武者小路家10代目当主公共、母は伊東義五郎の娘で公共の後妻・不二子。 従兄・甘露寺受長 - 元東宮侍従、侍従次長。 その他の親族 - 下に掲載されている系図を参照。 『荒野』(1908年) 『お目出たき人』(1911年) 『罪なき罪』(1912年) 『わしも知らない』(1914年) 『世間知らず』  『その妹』(1915年) 『不幸な男』(1917年) 『幸福者』(1919年) 『友情』(1919–1920年) 『人間万歳』(1922年) 『或る男』(1921–1923年) 『愛慾』(1926年) 『母と子』(1927年) 『棘まで美し』(1930年)  『愛と死』(1939年) 『大東亜戦争私観』(1942年)  『真理先生』(1949–1951年) 『馬鹿一』 武者小路実篤全集 全12巻、芸術社、1923–1928年 武者小路実篤著作集 全7巻、調和社、1950–1951年 武者小路実篤作品集 全6巻、創元社、1952年 武者小路実篤全集 全25巻、新潮社、1954–1957年 定本武者小路実篤選集 全12巻、日本書房、1961–1962年 武者小路実篤選集 全12巻、青銅社、1964–1965年 武者小路実篤作品集 全6巻、芳賀書店、1965–1966年 武者小路実篤選集 全8巻、筑摩書房、1967年 武者小路実篤全集 全18巻、小学館、1988–1991年 志賀直哉 - 同じ白樺派の一員。遠い親戚でもある。 木下利玄 真杉静枝 - 一時、愛人関係にあった。 1 寺澤浩樹 武者小路実篤の研究 : 美と宗教の様式 2 楊琇媚 武者小路実篤研究 : その思想と作品の関連性を中心に 3 楊英華 武者小路実篤と魯迅の比較研究 : 文学姿勢とその人間像 4 王泰雄 武者小路実篤研究 : 実篤の初期文学と「新しき村」 5 董炳月 新しき村から「大東亜戦争」へ : 周作人と武者小路実篤との比較研究 ^ 調布市武者小路実篤記念館 よくある質問とその答え ^ 村民になるには原則40歳以下の年齢制限がある。 ^ 董炳月『新しき村から「大東亜戦争」へ −周作人と武者小路実篤との比較研究−』 ^ 「太平洋戦争期においても、武者小路の天皇に対する愛と尊敬は一度も変わったことがなかった。戦争中、武者小路は転向し、戦争に賛成し、協力したのである。これは小さい時から彼の心に滲みこんだ愛国思想と強い国家意識にかかわる」(夏艷文『武者小路實篤自我思想的形成』)[リンク切れ] ^ 『官報』第5871号、昭和21年8月9日。 ^ 『朝日新聞』1946年9月27日一面。 ^ 『朝日新聞』1951年8月7日二面。 ^ 実篤公園 - 調布市 ^ 武者小路実篤記念館 - 調布市 ^ 旧実篤邸が国登録有形文化財に登録調布市ホームページ(2018年12月17日)2019年1月2日閲覧。 ^ 〈裸体をもつてほこる〉詩人 : 武者小路実篤こおける〈詩〉の成立亀井志乃、北海道教育大学 国語論集 11, 19-54, 2014-03 ^ a b c d e f g 大津山国夫 (1989年). “武者小路実篤の系族(下) (PDF)”. 千葉大学. 2017年2月25日閲覧。 ^ 池田小菊関連書簡 (PDF) 弦巻克・二吉川仁子、奈良女子大学『叙説』33号, 2006 河野通勢 - 親交のあった画家 『あかつき』-『暁』『幸福な家族』『愛と死』『友情』『その妹』などを原作とする。ちなみに235話では本人が出演している。 千葉工業大学 - 前身の興亜工業大学設立に携わった。 武者小路実篤記念館 新しき村HP 武者小路実篤 とは - コトバンク 武者小路実篤の系族(下)大津山 国夫、語文論叢 17, 1989 武者小路実篤 - NHK人物録" ]
ABC01-02-0273
各国のプロサッカーリーグの最高峰で、日本は「J1」、イタリアは「セリエA」ですが、イングランドのリーグは何というでしょう?
プレミアリーグ
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[ "プレミアリーグ", "リーグ・アン", "エールディヴィジ", "リヴァプールFC", "チェルシーFC" ]
[ "プレミアリーグ(英: Premier League)は、イングランドのサッカーリーグにおけるトップディヴィジョン(1部リーグ)。 世界中で約10億人以上に視聴され、全世界で最も人気が高いリーグであり、世界最高峰のリーグの一つである。サッカー競技のみならず、全世界のスポーツリーグの中で最もテレビ中継の視聴者が多く、人気、実力は共に高い。また、上位チームから下位チームまでの資金力及び、レベル差が小さいのも特徴で度々下位チームが上位チームに勝利することがある。このため現在では世界で最も優勝するのが難しいリーグであると言われている。2000年以降、欧州主要リーグの中でも圧倒的な売上高を誇り、2009-2010シーズンの売上高は24億7900万ユーロであり、2位のブンデスリーガを大きく引き離している。 テレビ放映権料も巨額であり2016年から2019年の3年間で95億ユーロ(約1.3兆円)の契約を結んでいる。放映権料の半分は各クラブに均等に分配され、25%は放映試合数、残り25%は順位に応じて分配される。また海外放送分については均等に分配される。2014-2015年には1位チェルシーには1億2400万ユーロ(約153億円)、最下位のQPRでさえも7900万ユーロ(約105億円)の収益を手にした。 プレミアリーグ創設から、優勝経験があるのは、アーセナル、ブラックバーン・ローヴァーズ、チェルシー、マンチェスター・ユナイテッド、マンチェスター・シティ、レスター・シティの6クラブのみ。2000年代には、マンチェスター・U、チェルシー、アーセナル、リヴァプールの4クラブが毎年優勝争いを繰り広げていることから「ビッグ4」と呼ばれてきているが、2010年からは、それらのチームにトッテナム・ホットスパーとマンチェスター・シティを加えた「ビッグ6」になりつつある。2011年5月、1992年のプレミアリーグ創設から数えて12度目の優勝をマンチェスター・Uが果たした。この結果フットボールリーグ時代の7度の優勝と合わせて19回目の優勝となり、イングランドのトップリーグでの最多優勝チームとなった。優勝チームは翌シーズン、袖に刺繍されている獅子のロゴが金色になる(通常は紺色)。 プレミアリーグは、1992年にイングランドのプロサッカーリーグの改編に伴い、フットボールリーグから分離して新設された。20クラブが所属し、ホーム・アンド・アウェー方式による2回総当りで8月から翌年5月にかけて全38試合を戦う。勝ち点はそれぞれ勝利が3、引き分けが1、負けが0となっており、獲得した勝ち点によって順位を決定する。勝ち点が等しい場合は得失点差、それも等しい場合は総得点による。優勝クラブ、2位および3位クラブには、翌年度のUEFAチャンピオンズリーグの本大会への出場資格が、4位クラブにはプレーオフへの出場資格が与えられる。5位クラブには翌年度のUEFAヨーロッパリーグの本大会への出場資格が与えられる。また、下位3クラブが自動的に2部相当のフットボールリーグ・チャンピオンシップに降格し、フットボールリーグ・チャンピオンシップからは上位2クラブと、3〜6位の4クラブを対象としたプレーオフを勝ち抜いた1クラブの、計3クラブが昇格する。 外国籍選手の登録制限は無く、EUおよびEFTA加盟国の国籍を持つ選手は労働許可証取得の必要が無い。それ以外の国籍選手は労働許可証取得の必要があるが、取得の条件として過去2年間で代表Aマッチ(親善試合を除く公式戦)の75%以上に出場していること、過去2年間のFIFAランキングの平均順位が70位以上の国の代表選手であることが必要。ただし、条件を満たさない場合でも特例として労働許可証が発行されることはある。ちなみに、イギリス(イングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランド)、およびアイルランド国籍の選手は国内選手扱いとなる。ベンチ入り人数は7人まで。 1980年代、イングランドサッカー界は低迷していた。スタジアムは古く傷んでおり、観客は古びた設備で観戦することを強いられた。サッカー界は、アメリカのNFLのようなエンタテイメント性への脱皮が模索された。 また、同時代にはフーリガンを代表する暴力行為も広がりを見せていた。1985年という年はイングランドサッカー界にとって厄年で、5月11日ブラッドフォードシティサッカー場火災で56人が焼死、バーミンガムシティサッカー場崩落で1人死亡、5月29日、UEFAチャンピオンズカップ決勝 リヴァプール対ユヴェントス戦で、サポーターが暴徒化し39人の死者が出る事件が発生(ヘイゼルの悲劇を参照)。イングランドのクラブはUEFA(欧州サッカー連盟)が主催する大会への出場を禁じられた(無期限、後に5年間。当事者のリヴァプールは7年間に変更される)。これを最後に一旦BBCとITVによるサッカー中継が休止された。 プレミアリーグ移行前であったフットボールリーグのディビジョン1(プレミアリーグが新設されるまでの1部リーグ)は収益・観客数などでセリエA、リーガ・エスパニョーラに大きく遅れを取っており、優秀なイングランド人選手数人は海外に活躍の場を求め、イタリア・フランス・スペインが欧州3強であった。しかし、1990年を境にこの下降傾向が減速し始めた。イタリアワールドカップで、イングランドがベスト4に進出(準決勝で敗退、3位決定戦で敗れ4位)。UEFA主催大会への出場禁止措置も解かれ、イングランドサッカー界に再興の兆しが見え始めた。 1980年代後半頃から、テレビマネーも重要になっていた。フットボールリーグは1986年に2年で630万ポンドで契約していたが、これがBBCとITVとの間で結ばれたカルテルであることが発覚、また放映権料の分配もリーグの全92チームに均等に行われていたため、特に強豪で人気のあったビッグ5(リヴァプールFC、トッテナム・ホットスパーFC、アーセナルFC、エヴァートンFC、マンチェスター・ユナイテッドFC)といわれたチームから不満の声が上がりリーグからの離脱が噂され始めた。 1988年1月、FA創立100周年の年、FAはビッグ5の経営者を集め、当時創立予定であった衛星放送BSB(現:Sky Sports)に放送権を移し、BBCとITV間のカルテル打破と放映権料の増収を図らせた。まだ衛星も打ち上げられていない放送局との契約は不安視されたが、92クラブ中91チームが契約の方向でまとまりかけた。このとき従来放映権を握ってきたITVは、ビッグ5に秘密裏に高額な放映権料を提示したが、わずか5チームだけではリーグを構成できないため、ビッグ5は他のクラブを密かに誘いはじめた。1989年4月15日ヒルズボロ・スタジアムでの観客将棋倒し事故で96人が死亡(ヒルズボロの悲劇)したことを受けて、当時のマーガレット・サッチャー首相はサッカー通の裁判官・ピーター・テイラーに劣悪な環境のサッカー場の改修を指示。その後立見席が全廃された。 1990年11月ビッグ5の各経営者がロンドンで秘密裏に夕食会をもち、リーグからの離脱を決定、FAに報告したところ、リーグから猛反発を招き、1991年6月13日高等法院での審判により、FAにリーグの運営権があることが確認された。 テレビ放映はITVが入札でSkyに敗れ撤退した。  1992年2月20日、フットボールリーグのディビジョン1(1部リーグ)に所属していたクラブ全てが離脱し、FAプレミアリーグを設立。FAプレミアリーグは、テレビ放映権やスポンサーなどの契約を独立して結べるようになった。その後、フットボールリーグとの間で、従来通り3チームずつの昇格・降格を行うことで合意。1992 - 93シーズン、初めてのFAプレミアリーグが開幕。最初のゴールはシェフィールド・Uのブライアン・ディーン(2-1 マンチェスターU.)。その後、1995年にリーグ構成クラブ数を22から20に削減。2006年6月8日、FIFAはヨーロッパ全てのリーグに対し、2007-08シーズン開始前にトップディヴィジョンのクラブ数を18にするよう要求したが、プレミアリーグは削減しない方針を表明している。 2007年2月12日、名称が「FAプレミアリーグ」から「バークレイズプレミアリーグ」に変更された。 2012-2013シーズンからユースリーグのプレミアリザーブリーグとプレミアアカデミーリーグが統合し、U-21プレミアリーグ、U-18プレミアリーグが新設した。 2016-2017シーズンからはバークレイズが冠スポンサーから外れ、U-21プレミアリーグを「プレミアリーグ2」に変更し、23歳以下までの出場が可能となった。 プレミアリーグは、所属する20クラブによって所有される株式会社として運営される。各々のクラブは契約やルールの改定に関する投票権を持つ株主として考えられる。 なお、主要なルール変更やリーグに関わる重要な提案を行う場合、それらに対して拒否する権限を保持するフットボール・アソシエーション(FA)の承認も必要となる。 トップチームに登録できる選手は25人までで外国人枠はないが、ホームグロウン選手を7名含む必要がある。ホームグロウン選手以外の登録は最大で18名となる。尚、23歳以下の選手は上記登録人数に関係なく登録できる。 外国人選手は労働ビザを取得する必要があり、取得条件は直近の2年間の国際Aマッチ75%以上出場が目安。 ベンチ入りは7人まで。 2018-2019年シーズンのプレミアリーグのクラブ数は前年同様の20。ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ、カーディフ・シティ、フラムがプレミアリーグ (PL)に昇格。 ※フットボールリーグ・チャンピオンシップ チーム名・監督・本拠地名については現時点のもの(公式に変更が発表されているものを除く)。 ※1992年までのリーグ優勝チームはフットボールリーグ#歴代優勝クラブを参照。 最多タイトル:13 マンチェスター・ユナイテッド 最多連覇:3 マンチェスター・ユナイテッド (1998-99, 1999-2000, 2000-01) (2006-07, 2007-08, 2008-09) 優勝チームと2位チームの最大勝ち点差:19 (2017-2018) マンチェスター・シティ (勝ち点100) マンチェスター・ユナイテッド (勝ち点81) 優勝チームと2位チームとの最小勝ち点差:0 (得失点差8) (2011-12) マンチェスター・シティ (+64) マンチェスター・ユナイテッド (+56)両チーム勝ち点89で終了したが、マンチェスター・シティが得失点差でプレミアリーグのタイトルを獲得した。 1シーズンの最多勝利 (38試合):32 マンチェスター・シティ (2017-18) 1シーズンの最多勝ち点 (38試合):100 マンチェスター・シティ (2017-18) プレミアリーグ戦における最多得点者。 シーズン途中でプレミアの他クラブへ移籍した場合も、リーグ戦での得点は加算される。 2003年頃から、プレミアリーグに所属する各クラブが外国人投資家に買収されるようになった。現在ではリヴァプール(アメリカ)、マンチェスター・U(アメリカ)、チェルシー(ロシア)、マンチェスター・シティ(アラブ首長国連邦)といったビッグクラブや、アストン・ヴィラ(アメリカ)、ポーツマス(フランス)、バーミンガム(香港)などといった中堅クラブまでが外国人オーナーの所有するクラブとなっている(ウィンブルドン現象)。2011年10月現在、リーグ所属の20クラブ中、半数の10クラブで外国人がオーナー職を務めているという現状である。 肉弾戦を好む国民性のためか、他リーグと比べるとタックルなどに寛容である。 イングランドのリーグだが、英国籍の選手の率は決して高くはない(13-14シーズン開幕戦の英国籍のスタメン率は34%と過去最低となった)。一時期のアーセナルなどではスタメン全員が外国籍選手だけということもあった。 2013/2014シーズンから、ゴール判定システムのホークアイを導入・使用を開始した。 プレミアリーグの国際映像は1997-98シーズン以降、IMGとの合弁によるPremier League Productionsがリーグ戦全試合の映像制作およびレビュー・ハイライト・情報番組の制作、および配信を行っている(現在のところ2012-13シーズンまでの契約を結んでいる)。 現地時間土曜日15時キックオフの試合はスタジアムへ足を運んでもらうため、イギリス国内でのテレビ中継が行われない。ただし、イギリス以外の国では放送されているため、他国の衛星放送をイギリス国内で受信しているスポーツバーなどもあり、その是非が裁判で争われている。 2013-14シーズンから2015-16シーズンの放映権はBスカイB(2014年スカイに社名変更)とBTが獲得している。スカイ(Sky Sports)は年間116試合放映で1シーズンあたり7.6億ユーロ、BT(BT Sport)は年間38試合放映で2.46億ユーロとなっている。この新契約の放映権料の総額は、2010–11シーズンから2012–13シーズンまでの契約よりおよそ70%増加している。 アメリカ国内では2013-14シーズンから3シーズン、NBCスポーツが放映権を獲得。地上波のNBC、ケーブルのNBCSNを中心に放送。2015年8月には、さらに6シーズン分放映権を延長。また最終節はチャンピオンシップサンデーと題して、NBC、NBCSN、USA、Syfy、CNBC、MSNBC、Bravo、E!、Esquire、Oxygenの10チャンネルで同時生中継される。 2007-08シーズンは8月11日に開幕したが、日本国内の放送権獲得の遅れにより開幕戦は全て放送されなかった。ただし開幕から3日後、8月13日になってJ SPORTSが2007-08シーズンから3シーズンに渡り放送権を獲得したと発表。他にNHK BS1でも中継される(週に1~3試合。うち1試合は当日の生中継かディレード録画放送。それ以外の録画中継は主に水曜・木曜の深夜が多い)。その後、2010-11シーズン開幕直前に再びJ SPORTSが3シーズンに渡り放映権を獲得。毎節5試合以上中継されている。 2014-15シーズンも、引き続きJ SPORTSでの放送が決定している。2013-14シーズンのテレビ中継実績は、毎節5試合以上放送。オンデマンド放送と合わせて全380試合を放送した。またNHK BS1も放送を継続している。 2013年10月17日より、2013-14シーズンのプレミアリーグ全試合がライブ配信にて視聴できるインターネットサービス「J SPORTS Football by LIVESPORT.TV」がスタート。(「GOAL.COM」を運営するパフォーム・グループによる運営) 2016-17シーズンからはソフトバンクが運営するスポナビライブで全試合配信されていた。J SPORTSでの放送は生中継2試合、録画放送3試合となるが、権利の都合によりJ SPORTSオンデマンドでの配信は取りやめとなった。シーズン開幕後に新たにフジテレビが放映権を獲得。フジテレビNEXTで毎節2試合、生中継を中心に放送された。 2018年5月31日にスポナビライブがサービスを終了することとなり、2018-19シーズンからはパフォーム・グループが運営するDAZNで全試合配信されている。J SPORTSでの放送は引き続き生中継2試合、録画放送3試合となる。 2017-18シーズン終了時点 2016-17シーズン終了時点 西澤明訓 - ボルトン (2001-2002) 稲本潤一 - アーセナル (2001-2002), フラム (2002-2004), ウェスト・ブロムウィッチ (2004-2006) 戸田和幸 - トッテナム (2003) 川口能活 - ポーツマス (2003) 中田英寿 - ボルトン (2005-2006) 宮市亮 - アーセナル (2011-2015), ボルトン (2012), ウィガン (2012-2013) 李忠成 - サウサンプトン (2012-2013) 香川真司 - マンチェスター・ユナイテッド (2012-2014) 吉田麻也 - サウサンプトン (2012-) 岡崎慎司 - レスター・シティ (2015-) 武藤嘉紀 - ニューカッスル (2018-) 「プレミアリーグを作った男たち」(NHK 2013年) ^ スカパー!・J SPORTSの中継においては「サッカー・イングリッシュ・プレミアリーグ(English Premier League)」と放送されている ^ 『電通報』第4585号 ^ デロイトの調査による欧州主要プロリーグの売上高 ^ http://www.footballchannel.jp/2015/02/11/post71287/ ^ http://www.footballchannel.jp/2015/12/12/post126125/ ^ a b SOCCER KING (2011年10月19日 13:43). “FA、プレミアリーグの昇格・降格廃止案を警戒し阻止の構え” (日本語). フロムワン. 2011年10月26日閲覧。 ^ IMG (2010年3月8日). “IMG SPORTS MEDIA TO PRODUCE THE PREMIER LEAGUE” (English). 2013年2月8日閲覧。 ^ スポーツナビ (2011年11月15日). “テレビ放映権のボスマン裁判”の行方” (日本語). スポーツナビ. 2012年5月20日閲覧。 ^ J SPORTS (2014年7月23日). “イングランド プレミアリーグを中心に14/15シーズン海外サッカーも充実のラインアップで放送” (日本語). J SPORTS. 2014年7月23日閲覧。 ^ http://www.jsportslive.jp ^ http://www.jsports.co.jp/press_release/20160729.html ^ http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2016/161014-420.html ^ “Premier League Player Stats”. Premier League. 2017年5月23日閲覧。 ^ “Premier League Player Stats”. Premier League. 2017年5月23日閲覧。 イングランドサッカーのリーグ構成 フットボールアソシエーション (FA) プレミアリーグ2 U-18プレミアリーグ プレミアリーグ月間最優秀選手 PFA年間最優秀選手賞 PFA年間最優秀若手選手賞 PFA年間ベストイレブン FWA年間最優秀選手賞 イングランドのサッカークラブ一覧 世界のサッカー GOAL!(映画。本リーグが舞台) 公式 プレミアリーグ 公式サイト (英語) The FA.com (英語) ニュース BBC Sport (英語) Sky Sports (英語) ライブ配信サイト スポナビライブ", "リーグ・アン (Ligue 1) は、フランスにおけるサッカーのプロリーグのトップディビジョン(1部リーグ)。1932年に創設された。以前はディヴィジオン・アン (Division 1) と呼ばれていたが、2002-03シーズンに改称した。サッカーにおいてはモナコ公国はフランスに含まれるためモナコ公国のクラブも参加できる。 最多優勝はASサンテティエンヌの10回。その後オリンピック・マルセイユの9回、FCナントとASモナコの8回、オリンピック・リヨンとパリ・サンジェルマンFCの7回と続く。最多連覇記録はリヨンの2001-02シーズンから2007-08シーズンまでの7連覇。 20のチームがそれぞれ2回、互いの本拠地で試合を行い(ホーム&アウェイ方式)順位を決定する。シーズン終了後、リーグ・アンの下位とリーグ・ドゥの上位2チームずつが自動的に入れ替わる。リーグ・アン18位クラブとリーグ・ドゥの3位クラブは入れ替え戦を行い(ホーム&アウェイ方式)勝者が昇格する。(リーグ・アン18位クラブが勝った場合は残留となる) イングランドのプレミアリーグ、スペインのリーガ・エスパニョーラ、イタリアのセリエA、ドイツのブンデスリーガのようにUEFAランキングで1位を獲得したことはないため欧州最上位のリーグとは言えないものの、同ランキングでは常にこの4リーグの次位を占めるハイレベルなリーグである。近年の傾向として、国際大会では2003-04シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでASモナコが準優勝、同シーズンのUEFAカップではマルセイユが準優勝、オリンピック・リヨンも2003-04シーズンから3シーズン連続でCLベスト8に食い込むなどの特定のチームの活躍はあるものの、総じてなかなか上位に進出することができないでいる。また、国内リーグでは2000年よりオリンピック・リヨンが一時代を築いた一方で、資金力を持つビッグクラブが前評判通りの力を発揮することが出来ないケースが多く、2010-11シーズンにリーグ・アンの常連であったASモナコが降格したり、2011-12シーズンには数シーズン前まで2部にいたモンペリエHSCが優勝するなど、順位が予測しづらい混戦の時期が続いた。その後、2012-13シーズンからパリ・サンジェルマンFCが4連覇を果たした。 選手の面においては、フランス代表やブラジル代表をはじめとする各国の代表選手が多数在籍しているほか、フランスが辿ってきた歴史的経緯からアフリカ系の黒人選手が非常に多いのも特徴のひとつである。近年ではマイケル・エッシェン(オリンピック・リヨン)、ディディエ・ドログバ(オリンピック・マルセイユ)、ロナウジーニョ(パリ・サンジェルマンFC)、エデン・アザール(リール)らがリーグ・アンで研鑽を積み他リーグの強豪クラブへと移籍している。現在リーグ・アンでプレーする選手には将来を期待されている若手が多く、アフリカ系選手にも高い潜在能力を秘めた選手が多いため、オランダのエールディヴィジと並ぶ登竜門リーグのような位置づけである。 アミアン ボルドー リール モンペリエ ニース リヨン マルセイユ PSG レンヌ サンテティエンヌ トゥールーズ モナコ ギャンガン ナント カーン アンジェ ストラスブール ディジョン スタッド・ランス ニーム 2018-19シーズン 前年度最終順位順、カッコ内はホームタウン所在地。△はリーグ・ドゥからの昇格クラブ。 ☆はUEFAチャンピオンズリーグ 2018-19出場、◎はUEFAヨーロッパリーグ 2018-19出場。 パリ・サンジェルマンFC(パリ)☆(グループリーグ) ASモナコ(モナコ)☆(グループリーグ) オリンピック・リヨン(リヨン)☆(グループリーグ) オリンピック・マルセイユ(マルセイユ)◎(グループリーグ) スタッド・レンヌ(レンヌ)◎(グループリーグ) FCジロンダン・ボルドー(ボルドー)◎(予選3回戦) ASサンテティエンヌ(サン=テティエンヌ) OGCニース(ニース) FCナント(ナント) モンペリエHSC(モンペリエ) ディジョンFCO(ディジョン) EAギャンガン(ギャンガン) アミアンSC(アミアン) アンジェSCO(アンジェ) RCストラスブール(ストラスブール) SMカーン(カーン) LOSCリール・メトロポール(リール) トゥールーズFC(トゥールーズ) スタッド・ランス(マルヌ県ランス)△ ニーム・オリンピック(ニーム)△ 注1.1992-1993シーズンはオリンピック・マルセイユが優勝したが、八百長が発覚したためタイトルを剥奪された 2017-18シーズン時点 (記録は2017-18シーズン終了時点のもの) UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回 オリンピック・マルセイユ  (1回)注1 UEFAチャンピオンズリーグ準優勝 5回 スタッド・ランス  (2回) ASサンテティエンヌ  (1回) オリンピック・マルセイユ  (1回) ASモナコ  (1回) UEFAカップ準優勝 4回 オリンピック・マルセイユ  (2回) FCジロンダン・ボルドー  (1回) SCバスティア  (1回) UEFAカップウィナーズカップ優勝 1回 パリ・サンジェルマンFC  (1回) UEFAヨーロッパリーグ準優勝 1回 オリンピック・マルセイユ  (1回) 注1.フランス国内リーグでマルセイユの八百長が発覚したため、チャンピオンとして活動する権利を失った 全国プロサッカー選手連合(UNFP)によって毎年開かれるアワードの中で、最優秀選手、最優秀若手選手、最優秀ゴールキーパー、最優秀監督、最優秀チーム(ベストイレブン)、最優秀ゴール(一般からの投票によって選ばれる)に賞が贈られる。 廣山望 - モンペリエHSC (2003-2004) 松井大輔 - ル・マンUC (2004-2008), ASサンテティエンヌ (2008-2009), グルノーブル・フット38 (2009-2011), ディジョンFCO (2011-2012) 中田浩二 - オリンピック・マルセイユ (2005-2006) 伊藤翔 - グルノーブル・フット38 (2007-2010) 稲本潤一 - スタッド・レンヌ (2009-2010) 酒井宏樹 - オリンピック・マルセイユ (2016 - ) 川島永嗣 - FCメス (2016 - 2018) ,RCストラスブール(2018 - ) 昌子源 - トゥールーズFC (2019 - ) ^ http://www.uefa.com/teamsandplayers/teams/club=50023/profile/index.html ^ http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=107/edition=4735/news/newsid=99547.html ^ “Palmarès”. Ligue 1 (Ligue de Football Professionnel). http://www.lfp.fr/ligue1/historique/palmares.asp 2010年6月5日閲覧。  ^ “Ligue 1 (ex-D1 jusqu'en 2001-2002)” (フランス語). French Football Federation. オリジナルの2010年5月1日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100501094130/http://www.fff.fr/palmares/2126.shtml 2010年6月7日閲覧。  ^ “Historique Classments” (French). Ligue 1 (Ligue de Football Professionnel). オリジナルの2009年4月17日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090417041410/http://lfp.fr/ligue1/historique/classement.asp?type_classement=&saison=1932%2F1933 2010年6月16日閲覧。  フランスサッカー連盟(F.F.F.) 世界のサッカー 公式サイト", "エールディヴィジ(オランダ語: Eredivisie, オランダ語発音: [ˈeːrədiˌvizi])は、オランダ・プロサッカーリーグの最上位リーグである。またオランダ語で「名誉ある階級」という言葉が由来である。 18クラブによる2回総当りで基本的に8月終わりに開幕して翌年5月に閉幕する。優勝クラブは次年度のUEFAチャンピオンズリーグへの出場権を得る。4位~7位がヨーロッパ・リーグ出場枠を賭けてリーグ戦終了後に勝ち抜き戦形式のPOを行う。最下位 (18位) のクラブはエールステ・ディヴィジ (2部リーグ) に自動降格 (代わってエールステ・ディヴィジの優勝クラブが昇格) し、16位17位 とエールステ・ディヴィジの8クラブが入れ替えPOを争う。 オランダのフットボールリーグの歴史は1897年まで遡るが、プロ化されてエールディヴィジとしてスタートしたのは1956-1957シーズンからである。レギュレーションは、1956年から18チームとほぼ変動していない。 1897年、オランダ主要都市で発足したチーム同士が競い合ったのをきっかけに、サッカーの普及とともに全国リーグの開催へと発展していった。しかし、第2次世界大戦前には多くの西欧各国のサッカーリーグがプロ化された中、オランダのリーグは1950年代までセミプロやアマチュアの体制をとるクラブがほとんどであった。 その後、オランダでもプロ化の機運が高まりはじめ、1954年にリーグがプロ化し、1956年にエールディヴィジが発足した。ちなみにプロ化以前の第2次世界大戦中、オランダはナチス・ドイツの占領下に置かれたが、オランダリーグ自体はアマチュアであったためか、リーグは例年通りに開催された (事情は違うが、スコティッシュ・プレミアリーグも第2次世界大戦中に通常開催している) 。 プロ化した1956-57シーズンから2007-08シーズンまでの52回のリーグ戦で、アヤックス、PSV、フェイエノールトの3チームが48回の優勝を記録する完全な3強寡占のリーグ構造であった。それ以外のチームではDOS (1957-58) 、スパルタ・ロッテルダム (1958-59) 、DWS (1963-64) 、AZ (1980-81) の計4回にとどまり、1981-82シーズンからの27シーズンは3強による優勝の独占が続いた。しかし、2000年代に入るとフェイエノールトが経済的に弱体化する一方で、AZやFCトゥウェンテなどのチームが徐々に力をつけて上位陣に定着、2008-09シーズンにはAZが28年ぶり2度目の優勝、2009-10シーズンにはFCトゥウェンテがチーム創設以来初のリーグ優勝を果たした。このためかつての圧倒的優位を失ったトップ3は伝統的なトップ3との意味で\"トラディツォネール・トップ3\"と呼ばれているが、現在でもクラブ規模の面では依然群を抜いた存在であり、地方クラブがこの3クラブを追い抜く事は不可能に近い(PSVも地方クラブであるが、例外的にフィリップスのスポンサーシップと過去の成績から国外で高い知名度を得ることに成功した)。AZは後にスポンサーの銀行が破産し経済力が大きく低下、代わりに外国資本によって買収されたフィテッセが財政面での力を付け(実質的には赤字経営だがオーナーが補填)、財政面で危機を脱したフェイエノールトがトップクラブを夢見て運営に失敗したトゥエンテの予算規模を再び抜いている。 アヤックスとフェイエノールトの対戦はデ・クラシケル (De Klassieker) と呼ばれる。 4連覇 HVVデン・ハーグ (1899-1900, 1900-01, 1901-02, 1902-03) PSV (1985-86, 1986-87, 1987-88, 1988-89) PSV (2004-05, 2005-06, 2006-07, 2007-08) アヤックス (2010-11, 2011-12, 2012-13, 2013-14) エールディヴィジが創設された1956年以降、2013-14シーズン終了時点 緑色は2014-15シーズンのエールディヴィジ所属クラブ 赤色は2014-15シーズンのエールステ・ディヴィジ所属クラブ 灰色は解散または合併するなどして現存しないクラブ 無色は2014-15シーズンの下部リーグ所属クラブ 2017-18シーズン終了時点 UEFAチャンピオンズリーグ優勝 : 6回 アヤックス (4回) フェイエノールト (1回) PSVアイントホーフェン (1回) UEFAチャンピオンズリーグ準優勝 : 2回 アヤックス (2回) UEFAヨーロッパリーグ優勝 : 4回 フェイエノールト (2回) PSVアイントホーフェン (1回) アヤックス (1回) UEFAヨーロッパリーグ準優勝 : 3回 FCトゥウェンテ (1回) AZ (1回) アヤックス (1回) UEFAカップウィナーズカップ優勝 : 1回 アヤックス (1回) UEFAカップウィナーズカップ準優勝 : 1回 アヤックス (1回) UEFAスーパーカップ優勝 : 3回 アヤックス (3回) UEFAスーパーカップ準優勝 : 3回 アヤックス (1回) フェイエノールト (1回) PSVアイントホーフェン (1回) インターコンチネンタルカップ優勝 : 3回 アヤックス (2回) フェイエノールト (1回) インターコンチネンタルカップ準優勝 : 1回 PSVアイントホーフェン (1回) オランダサッカー協会 (KNVB) エールステ・ディヴィジ (2部リーグ) KNVBカップ (オランダ・カップ) ヨハン・クライフ・スハール (オランダ・スーパーカップ) ヨハン・クライフ賞 ピッチランキング 世界のサッカー 公式サイト (オランダ語)", "リヴァプール・フットボール・クラブ(Liverpool Football Club)は、イングランド・リヴァプールをホームタウンとする、イングランドプロサッカーリーグ(プレミアリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。クラブカラーは赤。愛称はレッズ(Reds)。 1892年に創立。ホームスタジアムはリヴァプールのアンフィールド(収容人数54,074)。アンフィールドとライバルクラブのエヴァートンとの関係から創設され、プレミアリーグ(当時はFAプレミアリーグ)発足時に参加した22クラブの内の一つである。 1960年代半ばから1980年代にかけて、3連覇(1981-82、1982-83、1983-84)達成を含むフットボールリーグ優勝13回、UEFAチャンピオンズカップ優勝4回など、40以上のタイトルを獲得したイングランドの古豪。特に、イングランドだけでなく欧州の舞台でも活躍した1970年代以降の約20年については “黄金期” と称される一方で、ヘイゼルの悲劇、ヒルズボロの悲劇という2つの暗い悲劇を経験した(後述)。 2005年にはインスタンブールの奇跡と呼ばれる勝利でACミランを下し、通算5回目となるUEFAチャンピオンズリーグ(旧UEFAチャンピオンズカップを含む)制覇を果たす。これによってイングランドで唯一のビッグ・イヤーの永久保持が認められた。 旧フットボールリーグにおいて、最多18回の優勝を誇る。イングランドのトップリーグにおける最多優勝回数記録を長年にわたり保持していたが、2010-11シーズンのリーグを制したマンチェスター・ユナイテッドに抜かれ、現在はそれに次ぐ優勝回数となっている。なお、国内タイトルでは唯一プレミアリーグ優勝の経験がない。 2012年に創設120周年を迎えた。クラブ史上、監督を務めたのは18人。現在の監督は2015年10月に就任したユルゲン・クロップである。 世界中のサッカークラブのサポーター達に歌われ人気を得ているサポーターソング「You'll never walk alone」を最初に合唱したクラブでもある。 2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』の調査によると、2012-13シーズンのクラブ収入は2億4060万ユーロであり、世界のサッカークラブの中で第12位である。 1891年、アンフィールドのオーナーであったジョン・ホールディング(英語版)は、当時アンフィールドを本拠地として使用していたエヴァートンに対して施設使用料の値上げを要求したが、エヴァートンはこれを拒否し、現在のグディソン・パークへの移転を決定した。そこでホールディングはアンフィールドに新たなサッカークラブを設立することを決め、当初は新たなクラブの名前をエヴァートンFC・アンド・アスレティック・グラウンズ・リミテッド(Everton F.C. and Athletic Grounds Ltd. 、略称:エヴァートン・アスレティック Everton Athletic)と定めたが、後に考えを改め、1892年3月15日にリヴァプールFCという全く新しい名前のクラブを創立した。同年9月1日に行われたロザラム・タウンFC(英語版)(注:後のロザラム・ユナイテッドFCの前身チームのひとつとなった1899年設立の同名のクラブとは全く別のクラブである)との親善試合が、リヴァプールFCとしての初めての試合となった。 1936年6月、ジョージ・ケイが前任者ジョージ・パターソンに代わって新監督に就任。サウサンプトンからの就任であった。就任後の12試合は3勝4分という成績で、最初の1936-37シーズンは18位で終えた。翌シーズンは開幕戦の相手の本拠地であるスタンフォード・ブリッジでのチェルシー戦に1-6で敗れ、1937-38シーズンは11位で終えた。 1938-39シーズン前に、ケイはボブ・ペイズリーをBishop Auckland F.C.から移籍金をかけずに獲得。またビリー・リッデルも獲得した。しかしリーグは第二次世界大戦へと突入し、活動の停止を余儀なくされる。 第二次世界大戦後、リヴァプールはアメリカとカナダへの遠征を計画。この計画はジョージ・ケイによるもので、気候などが全く異なる北米でプレーすることは選手に有益であるという考えに沿ったものであった。1946-47シーズンに10試合の北米遠征が行われた。 1949-50シーズンにFAカップで決勝に進出したが、アーセナルに敗れ、初のFAカップ制覇を逃す。その後、ケイは1951年に引退し、監督の座はドン・ウェルシュに引き継がれた。 クラブが大きな変革の時を迎えたのは1950年代に入ってからになる。1954年に2部に降格し、数年にわたり2部で低迷していたが、1959年にビル・シャンクリーが監督として就任。シャンクリーは監督に就任すると、低迷した空気を払拭すべく大きな改革に乗り出した。まず、ロジャー・ハントやイアン・キャラハンという後にクラブ史を背負って立つことになる若手選手をデビューさせたほか、ブートルームの改修などを行った。就任初年度での昇格は逃したものの、翌シーズン(1960-61シーズン)にもケビン・ルイス、ゴードン・ミルンを獲得しチーム力の強化を図った。中でもルイスはシーズン32得点を挙げる活躍を見せたが、このシーズンでも昇格を逃してしまう。1961-62シーズン、シャンクリーは当時のクラブ史上最高額の移籍金でロン・イェーツとイアン・セント・ジョンの2人を獲得。就任3年目にしてようやく2部リーグを制し、昇格を決めた。久々の1部リーグとなった1962-63シーズンは出だしこそつまづいたものの、シーズン途中は13戦無敗などを記録し、最終的には8位でシーズンを終えた。クラブはシーズン途中にウィリー・スティーブンソンを獲得したほか、翌シーズンに向けて夏にプレストン・ノース・エンドからピーター・トンプソンを獲得した。迎えた1963-64シーズンは、序盤は取りこぼしが目立ったが、10月頃から成績が安定し始め、1964年3月20日のボルトン戦から7連勝を飾り、本拠地アンフィールドにて1946-47シーズン以来となるトップリーグ優勝を果たし、クラブ史上初となるヨーロピアンカップへの出場権を手にした。ヨーロピアンカップでもクラブの躍進は止まらず、準決勝まで進んだ。準決勝では前年度覇者のインテルに敗れたものの、FAカップでは決勝でリーズを破って、クラブ史上初のFAカップ制覇を果たした。続く1965-66シーズンでは、前年度のFAカップ優勝で出場権を得たカップウィナーズカップへ出場し、準優勝。さらに再び国内リーグ戦を優勝した。そこから数シーズンはタイトルから離れるものの、その間にレイ・クレメンス、エムリン・ヒューズ、アレク・リンゼイ、ラリー・ロイド、スティーブ・ハイウェイ、ケビン・キーガン、ジョン・トシャックらを獲得し、チームの世代交代を果たす。それが実り、1972-73にはリーグ戦とUEFAカップの2冠を達成。翌1973-74もリーグ戦こそ2位止まりとなったが、再びFAカップを優勝した。このように低迷していたリヴァプールを立て直し、数多くのタイトルを獲得するまでに成長させたビル・シャンクリーは、1963-74シーズン限りでクラブの監督を勇退した。 1974年にシャンクリーが辞任すると、後任の監督にはアシスタントコーチを務めていたボブ・ペイズリーが就任した。シャンクリーからチームを引き継いだペイズリーの下で、リヴァプールは国内、ヨーロッパを席巻し、絶頂期を迎える。ペイズリー体制下に初めて迎えた1974-75シーズン、クラブはテリー・マクダーモットとフィル・ニールを獲得したが、国内リーグは2位、カップウィナーズカップは2回戦敗退と無冠に終わる。しかし翌1975-76シーズンはリーグ戦とUEFAカップの2冠を達成、さらに1976-77シーズンも国内リーグ戦を連覇したほか、クラブ史上初となるUEFAチャンピオンズカップ制覇を達成。このシーズン限りでクラブのエースだったケビン・キーガンは退団したが、ペイズリーはキーガンの後釜にセルティックからケニー・ダルグリッシュを獲得した。1977-78シーズンはリーグ戦は2位止まりも、UEFAチャンピオンズカップ連覇を達成。また、1978年1月にはグレアム・スーネスを獲得している。翌1978-79シーズンはアラン・ケネディを獲得し、再びリーグを優勝した。続く1979-80シーズンは再びリーグ連覇を達成。オフシーズンにイアン・ラッシュを獲得し、迎えた1980-81シーズンには3度目となるUEFAチャンピオンズカップ制覇を達成したほか、リーグカップも優勝し、カップ戦の2冠を達成した。また、シーズン中にブルース・グロベラーを獲得している。翌1981-82シーズン、クラブはマーク・ローレンソン、スティーブ・ニコルを獲得し、リーグ戦優勝、リーグカップ連覇を達成。なお、1978年から1981年までの3年間、ホームスタジアムであるアンフィールドにおけるすべてのリーグ戦・カップ戦含めて85試合連続で無敗だった。85試合中63試合はリーグ戦であり、63試合連続リーグ戦ホーム無敗記録を樹立した(このリーグ戦ホーム無敗記録は2007年にチェルシーによって破られている)。1982-83シーズンにもリーグとリーグカップを連覇したが、これを置き土産にボブ・ペイズリーは監督を辞任することを発表した。後任にはアシスタントコーチを務めていたジョー・フェイガンが就任。リーグ連覇中のチームを引き継いだフェイガンだったが、フェイガン体制でもリヴァプールの強さが揺らぐことはなく1983-84シーズンもリーグ戦とリーグカップの連覇を達成。リーグ戦はクラブ史上初となる3連覇、リーグカップは4連覇となった。 しかし絶頂期を迎えた矢先、1984-85シーズンでのチャンピオンズカップの決勝ユヴェントス戦で「ヘイゼルの悲劇」(1985年) が起きる。これによりイングランドのクラブは国際試合から無期限に締め出され(後にリヴァプールは7年、他クラブは5年となる)、リーグの力の相対的な地盤沈下をもたらした。この事件の責任を感じたフェイガンは監督を辞任、後任には選手兼任監督としてケニー・ダルグリッシュが後を引き継いだ。ダルグリッシュ体制でも3度のリーグ優勝、2度のFAカップ優勝を果たしたとはいえ、1988-89シーズンに起きた「ヒルズボロの悲劇 」(1989年) によってリヴァプールの勢いは大きく落ち込むこととなった。90年代に入るとやや低迷し、処分が解けた後も国際タイトルには手が届かずリーグでは依然として上位の常連であり続けたが、優勝からは遠ざかった。現在に至るまで1989-90シーズンのディヴィジョン1制覇が最後のリーグ制覇であり、プレミアリーグ移行後は優勝経験がない。 新世紀以降は、国際試合での活躍が目立ち、「ヘイゼルの悲劇」の後遺症は完全に過去のものとなった。しかし、依然としてプレミアリーグでは優勝していない。 2000-01シーズンにはFAカップ、リーグカップ、UEFAカップを制して3冠を達成した。なお、1983-84シーズンにもリーグ、リーグカップ、UEFAチャンピオンズカップの組み合わせで3冠を達成している。 2004-05シーズン シーズン開幕前にラファエル・ベニテスが監督に就任すると、ルイス・ガルシア、シャビ・アロンソなどリーガ・エスパニョーラの選手を獲得し、積極的に登用し始める。一方、エースのマイケル・オーウェンをレアル・マドリードへ放出した。チャンピオンズリーグではユヴェントス、チェルシーらの強豪を破り、決勝進出を果たす。決勝のACミラン戦において、前半終了時0-3のビハインドから、後半の6分間にジェラード、スミチェル、アロンソが立て続けに得点し、同点に持ち込んだ。そして、PK戦でACミランを下し、21年ぶりの欧州一の称号を手にした。この試合はイスタンブールの奇跡と呼ばれるようになる。また、UEFAチャンピオンズカップとUEFAチャンピオンズリーグの合計優勝回数が5回となり、5チーム目となる優勝カップの永久保持が認められたクラブとなった。 2005-06シーズン 2005-06シーズンの夏、前シーズンがプレミアリーグ5位であったため、チャンピオンズリーグの出場権は逃していたが、タイトル防衛の機会が与えられるべきという意見から特例で予備予選1回戦からの出場が認められた。2006-07シーズン以降は、前大会優勝チームはグループリーグにシード出場できるというルールが設けられた。 2005年12月、新設されたFIFAクラブ世界選手権2005出場のため来日。12月15日に行われた準決勝で北中米・カリブ海王者デポルティーボ・サプリサに3-0で勝利し決勝戦進出。12月18日の決勝戦では、南米王者サンパウロFCと戦い、接戦の末0-1で敗れ準優勝。 2006年のFAカップ決勝戦では、ウェストハムと対戦。三度先攻を許すも、後半終了間際のジェラードのミドルシュートが決まるなど、三度追いついた。その後の延長戦でも決着がつかず、PK戦の末、同大会で5年ぶりの優勝を決めた。 2006-07シーズン 2006-07シーズンはチャンピオンズリーグで決勝進出を果たした。対戦相手は2004-05シーズンと同じACミランであったが、この時ばがりは奇跡は起きず試合は1-2で敗れ、ACミランに2年前の雪辱を許す形になった。 2007-08シーズン 2007-08シーズンは夏期移籍期間にフェルナンド・トーレスを獲得。シーズン開幕前には懐疑的な意見も聞かれたが、ルート・ファン・ニステルローイが保持していたプレミアリーグ初年度の得点記録を塗り替えた。チャンピオンズリーグはここ数シーズンと同様に、準決勝まで進出した。準決勝でチェルシーに2戦合計3-4で敗れ、敗退した。 2008-09シーズン 夏の移籍市場ではトッテナムから2030万ポンド (約41億円) でロビー・キーンを獲得。また、在籍年数の長かったヨン・アルネ・リーセやスティーヴ・フィナン、ピーター・クラウチ、ハリー・キューウェルなどを放出し、チームの顔ぶれを刷新した。マンチェスター・ユナイテッドと熾烈な優勝争いを演じるも、2位に終わった。 2009-10シーズン 中心選手であったシャビ・アロンソ、アルバロ・アルベロアを放出した。 中盤で攻撃を組み立てていたアロンソを放出したため、中盤の展開力不足、ジェラードとフェルナンド・トーレスへの依存度が更に高まるなどチームが機能せず最終的に7位で終了した。この結果BIG4時代が終焉した。 シーズン終了後、成績不振を理由に双方の合意の元ベニテス監督との契約を解除した。後任は同シーズンフラムをUEFAヨーロッパリーグ準優勝に導いたロイ・ホジソンとなった。イングランド人監督が就任したことやプレミアリーグの規定変更などもあり、チームはイングランド化が進んだ。 2010年4月16日(現地日時)、共にアメリカ人で共同オーナーを務めるジョージ・ジレットとトム・ヒックスは新会長の就任発表と同時にクラブを売りに出したことを発表した。ジレットとヒックスは2007年にクラブを買収したが経営に失敗し資金繰りが悪化、英メディアによれば負債は売却発表時点で2億3700ポンド(発表時点で約335億円)に上る。これまでも中東の富豪との売却交渉などが報じられていたが、売却に向けての初めての正式発表となった。発表によれば、新会長マーティン・ブロートン(ブリティッシュ・エアウェイズ会長)がバークレイズ・キャピタルの支援を受け売却交渉を主導する。 なかなか売却交渉に進展がなかったが、10月15日の負債返済期限を前にしてヒックス、ジレットの両人による反発に遭い裁判にもつれながらもNESV(ニューイングランド・スポーツ・ベンチャーズ)によって約3億£で買収された。11月にはフロント改革の一環としてトッテナム元SDのダミアン・コモリをFD(フットボールディレクター)として招聘した。 2010-11シーズン ハビエル・マスチェラーノやヨッシ・ベナユン、アルベルト・リエラ、ジエゴ・カバリエリらを放出したが、資金不足によりラウル・メイレレス(FCポルト)やジョー・コール(チェルシー)、クリスティアン・ポウルセン(ユベントス)、ミラン・ヨヴァノヴィッチ(スタンダール・リエージュ)、ジョンジョ・シェルヴェイ(チャールトン)、ダニー・ウィルソン(レンジャーズ)、ポール・コンチェスキー(フラム)、ブラッドリー・ジョーンズ(ミドルズブラFC)などの獲得に留まり満足な補強ができず一時は降格圏にまで転落するなど低迷、上記買収後も調子が上がらずホジソンは解任された。 後任には暫定監督としてクラブのレジェンド、ケニー・ダルグリッシュが就任。フェルナンド・トーレスをチェルシーに英国史上最高額推定5000万£で放出し、アンディ・キャロルをトーレスの移籍金に次ぐ3500万£、ルイス・スアレスを2280万£で獲得するなどチームを立て直し、最終的に6位で終えた。しかし、他のリーグであれば6位の場合はUEFAヨーロッパリーグの出場権が与えられるが、5位のトッテナムと共に出場権を獲得したのがFAカップ決勝に進み準優勝だったストーク、プレミアリーグがフェアプレーランキングで上位に入った事による恩恵を受けたフルハム。カーリングカップの決勝に進んだアーセナルが4位でフィニッシュしており、アーセナルが優勝すればヨーロッパリーグの出場権を獲得出来たが、そのアーセナルがバーミンガム・シティに敗れ、18位で降格したにも関わらずバーミンガム・シティがヨーロッパリーグの出場権を獲得し、1999-2000シーズン以来12年ぶりにヨーロッパカップ戦の出場を逃した。 2011-12シーズン ポール・コンチェスキーをレスター・シティ、ミラン・ヨヴァノヴィッチをRSCアンデルレヒト、クリスティアン・ポウルセンをエヴィアン・トノン・ガイヤールFC、ラウル・メイレレスをチェルシーFC、ナビル・エル・ザールをレバンテUD、エミリアーノ・インスアをスポルティング・リスボン、ダビド・ヌゴグをボルトン・ワンダラーズFC、ソティリオス・キルギアコスをVfLヴォルフスブルクへと完全移籍で放出し、ジョー・コールをLOSCリール・メトロポール、アルベルト・アクィラーニをACミラン、ダニエル・パチェコをアトレティコ・マドリードへレンタルで放出するなどした。夏の移籍市場では積極的な投資が行われ、ホセ・エンリケ、ドニ、セバスティアン・コアテスを獲得しただけでなく、ジョーダン・ヘンダーソン、チャーリー・アダム、スチュワート・ダウニング、クレイグ・ベラミーといった英国人も多く獲得し、総額5500万£を投じた。カーリングカップでは準決勝でマンチェスター・シティを下し決勝進出。決勝ではカーディフをPK戦の末に破り2005-06のFAカップ以来となるタイトル獲得となった。FAカップでも決勝進出を果たすなど、カップ戦では結果を残したが、リーグ戦ではアンフィールドでクラブ史上2番目に悪い6勝止まりと(9分け4敗)得意である筈のホームで勝てず、8位と大規模投資(1億£)にあった結果とは言えず、シーズン終了後にダルグリッシュは契約解消という形で退任した。2012年6月、スウォンジー監督のブレンダン・ロジャースの就任を発表。 2012-13シーズン 夏の移籍市場ではアルベルト・アクィラーニをフィオレンティーナ、チャーリー・アダムをストーク、クレイグ・ベラミーをカーディフ、マキシ・ロドリゲスをニューウェルズ、ディルク・カイトをフェネルバフチェSK、ファビオ・アウレリオをグレミオへと完全移籍で放出し、アンディ・キャロルをウェストハム・ユナイテッドへとローンで放出した。補強面ではレアル・マドリーからヌリ・シャヒンをローンで獲得し、ASローマからファビオ・ボリーニ、ヘーレンフェーンからウサマ・アサイディ、スウォンジ・シティからロジャースのかつての教え子であるジョー・アレンらを獲得するも、カップ戦で無冠、前年のリーグカップ優勝によって出場したUEFAヨーロッパリーグもゼニト・サンクトペテルブルクにアウェーゴール差で敗れベスト32で姿を消した。リーグでは冬にはジョー・コールをウェストハム・ユナイテッドへ完全移籍で放出し、チェルシーからダニエル・スターリッジや、インテルからフィリペ・コウチーニョを獲得し、31節から最終節まで8戦連続無敗で巻き返したものの、上位6チーム(マンチェスター・ユナイテッド、マンチェスター・シティ、チェルシー、アーセナル、トッテナム、エヴァートン)相手に1勝しか挙げられず、7位に終わった。ジェイミー・キャラガーがこのシーズンを持っての引退を表明した。 2013-14シーズン 2011-12以来となるヨーロッパカップ戦出場を逃したシーズン。移籍市場ではFWアンディ・キャロルとMFスチュワート・ダウニングをウェストハム・ユナイテッド、MFジョンジョ・シェルヴェイをスウォンジ・シティ、MFジェイ・スピアリングをボルトン・ワンダラーズFC、MF、FWダニエル・パチェコをADアルコルコン、DFダニー・ウィルソンをハーツへと放出し、GKホセ・マヌエル・レイナ、MFスソ、FWファビオ・ボリーニ、MFウサマ・アサイディらをレンタルで放出した一方、サンダーランドからシモン・ミニョレ、マンチェスター・シティからコロ・トゥーレ、PSGからママドゥ・サコー、バレンシアCFからアリ・シソコ、チェルシーからビクター・モーゼス、セルタからイアゴ・アスパス、セビージャからルイス・アルベルト、スポルティングCPからチアゴ・イロリを獲得。リーグ戦では31ゴールを決めた得点王スアレスとそれに次ぐ21ゴールをあげたスターリッジの2トップ(SASコンビ)が2人だけで52ゴールを奪い、ジェラードがロジャースによってアンカーのポジションにコンバートされ、アレンとヘンダーソンとの3ボランチコンビを形成した。2014年4月13日のマンチェスター・シティをホームで破った試合も含めて11連勝を飾り、終盤戦まで優勝争いをしたが12連勝目を目指したチェルシー戦を落とし、クリスタルパレス戦では後半10分までに3-0としながらも34分から9分間で3失点を喫し、引き分けに持ち込まれドロー。結局最後の3試合は勝ち点4しか稼げず惜しくも2位に終わった。2009-10シーズン以来4シーズンぶりにチャンピオンズリーグ出場権を獲得したが、トップ4(シティ、チェルシー、アーセナル)の中では最も多い50失点を喫し、最少失点だったチェルシー(27失点)より倍近く失点を喫したり、トップ4に入った3チームのアウェーゲームを全て落とす等詰めの甘さも露呈した。FAカップは優勝したアーセナルに5回戦で、キャピタル・ワン・カップはマンチェスター・ユナイテッドに3回戦で敗退。無冠でシーズンを終えた。 2014-15シーズン 昨シーズンの得点王であったルイス・スアレスがFCバルセロナに移籍した。他にもイアゴ・アスパス、ルイス・アルベルト、チアゴ・イロリ、セバスティアン・コアテスら余剰戦力をレンタルで移籍させ、ホセ・マヌエル・レイナをFCバイエルン・ミュンヘン、マーティン・ケリーをクリスタル・パレスFC、ダニエル・アッガーをブレンビーIFへと完全移籍で放出した。ビクター・モーゼス、アリ・シソコはレンタルバックした。それらの移籍金も使い、サウサンプトンからデヤン・ロヴレンとアダム・ララーナ、リッキー・ランバート、ACミランからマリオ・バロテッリ、バイヤー・レヴァークーゼンからエムレ・ジャン、SLベンフィカからラザル・マルコヴィッチ、セビージャFCからアルベルト・モレノ、アトレティコ・マドリードからハビエル・マンキージョと計8人を獲得し合計1億1700万£を投じたが、スアレスの穴を埋めることはできず、リーグ戦では前年21ゴールを挙げたスターリッジの故障で攻撃陣が振るわず前半戦は8位で折り返した。冬の移籍市場ではウサマ・アサイディとスソを放出した。2015年1月2日、これまでリヴァプール一筋でプレーし、2003年からキャプテンも務めて数々のタイトルを獲得してきたスティーヴン・ジェラードが、2014-15シーズン終了後に退団する事を発表。17節のアーセナル戦から29節のスウォンジー戦まで13戦無敗を記録するも、30節以降の9試合は勝ち点を8しか稼げず、18勝8分12敗の6位でシーズンを終えた。5年ぶりに参戦したUEFAチャンピオンズリーグは前回王者のレアル・マドリードに2連敗を喫する等、初戦のルドゴレツ戦(アンフィールド)以外は勝ち点3を取れず、グループリーグを3位で終え敗退し、続くUEFAヨーロッパリーグもベシクタシュJKと対戦し、1st legこそバロテッリのPKを守りきり勝利したものの、2nd legを0-1で落とし結局PK戦で敗れ、ベスト32で姿を消した。フットボールリーグカップとFAカップ2つのカップ戦で準決勝に進むが、共に決勝進出はならなかった。 2015-16シーズン マンチェスター・シティにMFのラヒーム・スターリングを当時の英国人の移籍金史上2位となる4900万£で売却した。他にもFWリッキー・ランバートをウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC、DFグレン・ジョンソンをストーク・シティFC、FWファビオ・ボリーニをサンダーランドAFC、DFセバスティアン・コアテスをサンダーランドAFC、FWイアゴ・アスパスをセビージャFCに完全移籍で放出し、FWマリオ・バロテッリやFWラザル・マルコヴィッチをローンで放出した。その移籍金も使いながら補強面ではマンチェスター・シティからジェイムズ・ミルナー、サウサンプトンからナサニエル・クライン、バーンリーからダニー・イングス、チャールトンからジョー・ゴメス、ボルトンからボグダーン・アーダーム、ホッフェンハイムからロベルト・フィルミーノ、アストン・ヴィラFCからクリスティアン・ベンテケ、そして前年度にすでに加入が決まっていたディヴォック・オリジをLOSCリール・メトロポールから獲得するなど計8人を補強。しかし、第8節を終えた時点で3勝3敗2分の10位と苦戦し、10月3日に2012年から指揮を執っていたブレンダン・ロジャーズ監督を解任。10月8日に、ブンデスリーガのボルシア・ドルトムントで一時代を築いたユルゲン・クロップを新監督に招聘した。クロップ監督の戦術の代名詞とも言える「ゲーゲンプレス」がチームに染み渡ったこともあり、初陣となったトッテナム・ホットスパー戦ではスプリント回数614回、走行距離116kmとらしさを発揮した。リーグカップのAFCボーンマス戦で新体制初勝利を飾り、リーグ戦第11節のチェルシー戦ではコウチーニョの2ゴールもありリーグ戦初勝利を飾った。その後もマンチェスター・シティやレスター・シティなどの上位チームには勝利を挙げるものの、クリスタル・パレスやニューカッスルなど下位のチームに敗戦し苦しめられた。冬の移籍市場では既存DFの身長の低さに不満を訴えていたクロップ監督の意向によりスティーヴン・コーカーを獲得。FCジロンダン・ボルドーらを抑えグループ首位通過したUEFAヨーロッパリーグにおいてはマンチェスター・ユナイテッドをベスト16で下し、さらにクロップ監督の古巣であるボルシア・ドルトムントとのベスト8の対戦では、後半12分にマルコ・ロイスにゴールを許し2戦合計1-3とされるもそこからコウチーニョ、サコー、ロヴレンが立て続けにゴールを挙げ2戦合計4-3で逆転勝利を飾った。ベスト4でもビジャレアルCFを2戦合計3-1で下し決勝へ駒を進めた。決勝ではダニエル・スターリッジが先制ゴールを挙げるも、後半に3点を奪われ1-3でセビージャFCに敗れ準優勝に終わった。フットボールリーグカップにおいてもマンチェスター・シティに敗れ準優勝に終わった。リーグ戦では8位でシーズンを終え、ヨーロッパカップ戦への出場を逃した。 2016-17シーズン クロップ体制2年目。マルティン・シュクルテルをフェネルバフチェSK、ジョーダン・アイブをAFCボーンマス、ホセ・エンリケをレアル・サラゴサ、クリスティアン・ベンテケをクリスタル・パレスFC、ジョー・アレンをストーク・シティFC、マリオ・バロテッリをOGCニース、コロ・トゥーレをセルティックFC、ルイス・アルベルトをSSラツィオへと放出し、クロップ監督の元で出場機会をあまり得られなかった選手およびローン生活を繰り返していた選手達を整理した他、ジョーダン・ロシターやブラッド・スミスやジョアン・カルロス・テイシェイラ、ジェローム・シンクレアといったアカデミーの選手も完全移籍で放出した。またラザル・マルコヴィッチやダニー・ウォード、ジョン・フラナガンらをローンで放出している。補強面ではサウサンプトンFCからセネガル代表であるサディオ・マネ、ニューカッスル・ユナイテッドFCからオランダ代表のジョルジニオ・ワイナルドゥム、シャルケ04からジョエル・マティプ、マインツからロリス・カリウス、アウクスブルクからラグナル・クラヴァンとアレクサンダー・マニンガーを獲得。ベンテケやアレン、アイブの移籍金が高かったこともあり売却額が補強額を上回った。開幕戦でアーセナルをアウェイで下すと、第5節にはチェルシーもアウェイで撃破。第11節終了時には首位に躍り出る。その後も好調を継続し、前半戦を13勝4分2敗の2位で終える。しかし、1月にアフリカネイションズカップの影響でマネが離脱。得点王を欠いたチームは失速してしまい、リーグ戦でスウォンジー、フットボールリーグカップでサウサンプトン、FAカップではウルヴァーハンプトンにアンフィールドで2012年10月以来の3連敗。すべてのタイトルの可能性が消滅、1月を1勝4分4敗の成績で終えた。第26節終了時には一時チャンピオンズリーグ圏外となる5位まで順位を落とすが、第27節にアンフィールドでアーセナルを下しシーズンダブルを達成するなど3位に再浮上。シーズン終盤にアーセナルに追い上げられるが、第37節では公式戦5試合勝ちなしと苦手にしていたウェストハムをコウチーニョの2G1Aの活躍などでアウェイで下す。最終節のミドルズブラFC戦も3-0で勝利。4位でシーズンを終え、チャンピオンズリーグ出場権を獲得した。またGKであるマニンガーがこのシーズン限りでの引退を発表した。 2017-18シーズン クロップ体制3年目。移籍市場ではチェルシーからU-20イングランド代表FWのドミニク・ソランケ、ASローマからエジプト代表FWであるモハメド・サラー、ハル・シティからスコットランド代表DFアンドリュー・ロバートソン、アーセナルからイングランド代表MFのアレックス・オックスレイド=チェンバレンを獲得。 一方で10年間チームに在籍したMFルーカス・レイヴァがラツィオに移籍した。他にもアンドレ・ウィズダムをダービー・カウンティ、ケビン・スチュワートをハル・シティに、ママドゥ・サコーをクリスタル・パレスFCにそれぞれ完全移籍で放出し、ディヴォック・オリジをVfLヴォルフスブルクにレンタル移籍させた。開幕戦をワトフォードFC相手に3失点で引き分け、その後も第4節マンチェスター・シティ戦で0-5、第9節トッテナム・ホットスパー戦で1-4で敗れると9位に転落。随所で守備の脆さを露呈した。冬の移籍マーケットでFCバルセロナにエースのコウチーニョを移籍金約218億円で放出し、サウサンプトンFCからフィルジル・ファン・ダイクをDF史上最高額の約114億円で獲得すると徐々に守備が安定した。コウチーニョはそれまで3トップの一角を担っていたが、サラーの獲得によりポジションを1つ下げて出場する試合が増え、それが守備力低下の一因のなっていた面もあった。シーズン序盤からサディオ・マネ、ロベルト・フィルミーノ、モハメド・サラーで形成してきた3トップも、試合を重ねるごとに成熟度を増し、オフェンス面はカウンター攻撃、ディフェンス面ではゲーゲンプレスで相手の脅威となった。これらの要因でシーズン中盤からは盛り返し、23節終了時に3位まで浮上したが、シーズン終盤で怪我人や過密日程によるターンオーバーも影響して勝ち点の取りこぼしが増え、最終的には4位でフィニッシュした。サラーが32得点で得点王となり、1995-1996シーズンにアラン・シアラーが31得点で樹立したプレミアリーグの1シーズンの得点記録を22年ぶりに更新した。チャンピオンズリーグでは8月に行われたプレーオフで1899ホッフェンハイムを2戦合計6-3で破ると、本選はグループEに入りセビージャFC、スパルタク・モスクワ、NKマリボルと対峙、第3節ではマリボルをに7-0で大勝するなどして3勝3分で危なげなく首位突破した。チャンピオンズリーグにて決勝トーナメントに進出したのは2008-2009シーズン以来9年ぶり。その後FCポルトを2戦合計5-0、マンチェスター・シティを5-1、ASローマを7-6で順に破り、2006-2007シーズン以来11年ぶりの決勝進出を果たす。決勝ではレアル・マドリードとビッグイヤーを賭けて対戦するが、好調だったアレックス・オックスレイド=チェンバレンを怪我で欠いた上にエースのサラーが前半で負傷交代、ロリス・カリウスの後半の2つのミスなどで1-3で敗れ準優勝となる。リーグカップは3回戦でレスター・シティに、FAカップは4回戦でWBAに敗れ、シーズン無冠に終わる。 2018-19シーズン プレミアリーグの規定変更により、このシーズンは選手の獲得が開幕前の8月9日で締め切られることになったが、リヴァプールはRBライプツィヒより前年に獲得が決まっていたMFナビ・ケイタ、ASモナコからはMFファビーニョ、2部降格のストーク・シティFCからMFジェルダン・シャチリ、ASローマからGKアリソン・ベッカーの4名を移籍金合計約250億円で獲得し、大型補強を敢行した。更に1月にWBAへレンタル移籍していたダニエル・スタリッジ、同じくVfLヴォルフスブルクへのレンタル移籍からディヴォック・オリジの2名が戻り、プレシーズンマッチからチームに復帰した。一方でエムレ・ジャンは6月に退団後フリーでユヴェントスへ移籍。ジョン・フラナガンをスティーブン・ジェラードが新監督を務めるレンジャーズFCへ、ジョーダン・ウィリアムスはロッチデールAFC、ダニー・ウォードはレスター・シティ、ラグナル・クラヴァンをカリアリへそれぞれ完全移籍で放出した。ダニー・イングスは当該シーズンはレンタル移籍の契約だが、その後2019年7月に完全移籍に切り替わる契約でサウサンプトンFCへ移籍した。さらに前シーズン途中から正GKを務めたロリス・カリウスもベシクタシュJKへ2年間のローンで移籍した。当該シーズン開始前後から、従来のゲーゲンプレスの戦術がストーミングと言う名でも呼ばれるようになった。そのハイプレス戦術と、懸案だったGKには前述のアリソンの補強、そしてファン・ダイクを中心としたディフェンス陣が噛み合い、チームは守備力が飛躍的に向上した。リーグ戦折り返し時点で喫した失点は僅か7と欧州5大リーグで最少である。攻撃面ではシーズン序盤こそ得点力に陰りが見られたものの、従来の4-3-3とシャチリの加入によって新たに4-2-3-1を併用するようになり、10月を過ぎるとそれがフィットし始めて息を吹き返すと43得点のリーグ2位。16勝3分無敗という好成績でリーグ戦を折り返した。チャンピオンズリーグではグループCでパリSG、SSCナポリ、ツルヴェナ・ズヴェズダと同居。初戦こそパリSGに辛勝するも、その後アウェイで全敗した。グループリーグ突破に黄色信号が灯った最終節、ナポリをホームに迎えて1-0で撃破し、ホームでは全勝して決勝トーナメント進出を決めた。ナポリとは勝ち点、直接対決の成績、総得失点差の3つで成績が並んだが総得点で上回り、僅差での突破であった。リーグカップは3回戦でチェルシーに、FAカップでは3回戦でウルヴァーハンプトンにそれぞれ敗れた。 FAカップ:7回 1964-1965, 1973-1974, 1985-1986, 1988-1989, 1991-1992, 2000-2001, 2005-2006 リーグカップ:8回 1980-1981, 1981-1982, 1982-1983, 1983-1984, 1994-1995, 2000-2001, 2002-2003, 2011-2012 コミュニティーシールド:15回 1964*, 1965*, 1966, 1974, 1976, 1977*, 1979, 1980, 1982, 1986*, 1988, 1989, 1990*, 2001, 2006 (*印はタイトル共有) スーパーカップ:1回 1986 2008年10月5日現在 UEFAチャンピオンズリーグ:5回 1976-1977, 1977-1978, 1980-1981, 1983-1984, 2004-2005 UEFAカップ:3回 1972-1973, 1975-1976, 2000-2001 UEFAスーパーカップ:3回 1977, 2001, 2005 同じリヴァプールに本拠を置くエヴァートンFCとはライバル関係にある。両クラブの試合は「マージーサイド・ダービー」と呼ばれ、マンチェスター・ダービー、ノース・ロンドン・ダービー、タイン・ウェア・ダービーなどと並びイングランドでも最も盛り上がるダービーマッチの一つである。 また、マンチェスター・ユナイテッドとは昔からライバル関係にあり、両者はノースウェスト・ダービー(あるいはイングランド・ダービー、ナショナル・ダービー)と呼ばれる伝統の一戦を通じて毎回白熱した試合を繰り広げる。イングランドサッカーを引っ張るチーム同士の対戦であるため、サポーターは試合前から相手チームを罵る歌を歌い、士気を高めている。選手同士もこの試合に関してはとても熱く、過去にはリオ・ファーディナンドとピーター・クラウチの乱闘寸前劇や、ガリー・ネヴィルのリヴァプールファンへの挑発などが見られた。また、リヴァプール出身でライバルのエヴァートンからマンチェスター・ユナイテッドへ移籍したウェイン・ルーニーへのブーイングなども見られ、毎回好ゲームが多い。 2004年にラファエル・ベニテスが監督に就任して以来、リーグ戦でマンチェスター・ユナイテッドに勝利を挙げたことがなかったが、2008-2009シーズンの第4節でホームで逆転勝利を挙げると、アウェイでも快勝した。 リヴァプールのエンブレムには、アンフィールドのシャンクリー・ゲートの門飾りや、サポーターのアンセムともなっている \"You'll never walk alone\" の文字、リヴァプール市の象徴ともなっている鳥「ライヴァー・バード(Liver Bird)」などが用いられている。 ライヴァー・バードの左右にある炎は、サッカー史に残る惨事と言われるヒルズボロの悲劇への追悼の意を表している。片方の炎はヘイゼルの悲劇への追悼の意を表していると誤認識されることがあるが、実際は異なる。また、ライヴァー・バードはリヴァプール市内のピア・ヘッドに位置するロイヤル・リヴァー・ビルディングの二つの時計台上部にある鳥をモチーフにしている。このライヴァー・バードはリヴァプールの船乗り達の守り神である。 リヴァプールはアンフィールドと呼ばれるホームスタジアムを持つ。前述の通り、元々は地元のライバルであるエヴァートンのホームスタジアムであった。 アンフィールドは、アーチボルド・リーチ(Archibald Leitch)という建築技師によって設計された。 リヴァプールのウエスト・ダービーと呼ばれる地区に建つメルウッドは、リヴァプールのトレーニンググラウンドである。メルウッドは1950年代からウエスト・ダービーに建ち、同じリヴァプールのカービーに建つリヴァプールFCアカデミーとは異なる。 リヴァプールは多くのサポーターを持つ。サポーターはアンフィールドの \"Kop\" と呼ばれるスタンドで応援することから、自身をKopitesと呼ぶ。 サポーターは、試合開始前や試合終了直前に「You'll Never Walk Alone」(君は決して一人ではない。チームに関わる者、サポーターの我々は決して一人ではない。共に歩もう)という曲を歌う。この曲は元々リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン2世がミュージカル『回転木馬』の為に書いた曲であるが、1960年代初頭に「マージービート」と呼ばれた一連のポップ音楽の系譜に連なるバンドであるジェリー&ザ・ペースメーカーズが録音し、イギリスのヒットチャート1位を獲得した。この直後からこの曲はリヴァプールサポーターの愛唱曲となり、現在に至っている。その後、この曲はセルティックやアイルランド代表、イプスウィッチ・タウン、SKラピード・ウィーン、フェイエノールト、アヤックス、ベンフィカ、ドルトムント、FC東京などのサポーターにも歌われるようになった。また、2011年に発生した東日本大震災の直後に行われたリヴァプールの試合では、被災地である日本に向けて、「You'll Never Walk Alone」とスローガンを掲げて歌いメッセージが送られた。 著名人のサポーターには、ビートルズのメンバーのうち、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの3人(なお、ポール・マッカートニーはエヴァートンファンである)、ダニエル・クレイグ(映画俳優、6代目ジェームス・ボンド役)、キャロライン・ウォズニアッキ(テニス選手)、ダレン・ティル(格闘家)、ミリー・ボビー・ブラウン(女優)、アダム・ウッドイヤット(俳優)、アンジェリーナ・ジョリー(女優)、ブラッド・ピット(俳優)、クライヴ・オーウェン(俳優)、ドクター・ドレー(ラッパー/音楽プロデューサー)、ゲイリー・バーロウ(歌手)、ジョン・ビショップ(コメディアン)、キム・キャトラル(女優)、ラナ・デル・レイ(歌手)、レブロン・ジェームズ(バスケットボール選手)、リーアム・ニーソン(俳優)、メラニー・チズム(歌手)、マイク・マイヤーズ(俳優)、レベッカ・ファーガソン(歌手)、スティーヴン・グレアム(俳優)、Suchmosボーカルの河西洋介(YONCE)などがいる。 メインスポンサー 2018-19シーズン フォーメーション アリソン # 13 アーノルド # 66 ゴメス # 12 ファン・ダイク # 4 ロバートソン # 26 ワイナルドゥム # 5 ヘンダーソン # 14 ミルナー # 7 マネ # 10 サラー # 11 フィルミーノ # 9 2019年1月7日現在 ※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。 監督 ユルゲン・クロップ out 公式戦に限る 公式戦に限る イアン・ラッシュはリヴァプール最多記録となる346得点を挙げ、1993年から1996年まで主将を務めた。 ブルース・グロベラーは、海外出身の選手としてはリヴァプールで最も多くの試合に出場した。 アラン・ハンセンは1985年から1988年と1989–90シーズンに主将を務めた。 スティーブン・ジェラードは2003年から2015年までリヴァプール史上最長の12シーズンの間主将を務めた ビリー・リデルは1955年から1958年まで主将を務めた。 ロニー・ウィーランは1988–89シーズンに主将を務め、1990-91シーズンにはスティーブ・ニコルと2人で主将を務めた。 イライシャ・スコットはリヴァプールで最も長く守護神を務めた選手である。 サミ・ヒーピアは2001年から2003年まで主将を務めた。 ドナルド・マッキンリーは1919–20シーズンに主将を務めたほか、1921年に再び主将に就任し、1928年まで務めた。 ^ UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝も参照 ^ プレミアリーグの場合、前シーズンの最終成績が4位以上のクラブにUEFAチャンピオンズリーグの出場権が与えられる。5位のクラブにはUEFAヨーロッパリーグの出場権が与えられる。 ^ その後の大会の詳細についてはUEFAチャンピオンズリーグ 2005-06を参照 ^ 前身のUEFAチャンピオンズカップも含む ^ a b Football Alliance、フットボールリーグ、プレミアリーグを含む ^ a b UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAカップ、UEFAカップウィナーズカップ、UEFAスーパーカップ、コミュニティーシールド、インターコンチネンタルカップを含む ^ a b ロイター (2011年5月15日09:26). “マンU、史上最多19回目のリーグ優勝”. スポーツ. ロイター. 2011年5月18日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年6月2日閲覧。 ^ a b c ロイター (2012年6月2日12:00). “サッカー=リバプール、新監督にロジャース氏を任命”. スポーツ. 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チェルシー’'フトゥボール・クラブ)は、イングランドの首都ロンドン西部・チェルシー地区をホームタウンとする、イングランドプロサッカーリーグ(プレミアリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。クラブカラーは青。愛称はブルーズ(Blues)。 1905年に創設。ホームスタジアムはロンドンのスタンフォード・ブリッジ(収容人数41,663人)。プレミアリーグに所属し、同リーグにおいて5回の優勝記録を持つ(フットボールリーグ時代を含めると6)。2003年にロシア人の富豪ロマン・アブラモヴィッチがオーナーに就任して以降、豊富な資金力を活かしてプレミアリーグ有数の強豪クラブとなった。「ブルーズ(Blues)」の愛称で知られる。 同じロンドンに本拠地を置くアーセナルは労働者階級の支持層が多かったのに対し、チェルシーは富裕層の支持層が多かった。凶暴なサポーターが多いことで知られたが、1992年にプレミアリーグが誕生して以降は、スタジアム周辺の整備に力を入れたこともあり、今は問題が起こることはほとんどなくなっている。富裕層が多いのは高級住宅地の中にスタジアムがあることと関係がある。 1905年3月10日、設立のきっかけはスタンフォード・ブリッジを購入したガス・ミアーズとジョゼフ・ミアーズの兄弟がフラムにスタンフォード・ブリッジを本拠地として使用することを打診するも、これを拒絶されたことにある。ミアーズ兄弟はスタンフォード・ブリッジを本拠地として使用するクラブが必要となり、そのクラブとして「チェルシーFC」が設立された。 設立当初はサザンフットボールリーグに加入する予定だったが、フラムやトッテナムなどの反対を受け、フットボールリーグ2部に所属することとなった。 1915年のFAカップで決勝まで進んだ。決勝ではシェフィールド・ユナイテッドに敗れたものの、これがクラブが初めて経験した大舞台だった。 第一次世界大戦による中断後の1919-20シーズンには、リーグで3位の成績を残す。しかし、以降は2部降格など低迷していった。 チェルシーが再び脚光を浴びるようになるのは1950年代に入ってからである。 1952年にアーセナルで選手としても活躍したテッド・ドレイクが監督に就任するとチーム改革に着手。 それによって1954-55シーズンにクラブ史上初のリーグ優勝を手にした。このリーグ優勝により、同年に始まったUEFAチャンピオンズカップのイングランド代表としての出場権を手にしたが、FAやフットボールリーグからの反対を受け、出場を辞退させられる。 その後は再び低迷期に入り、1961年にはクラブの英雄的な存在だったジミー・グリーブスをACミランに引き抜かれた。1961-62シーズンには2部降格の憂き目に遭う。 しかし、クラブを立て直すために33歳のトミー・ドハーティに監督を依頼すると、これが功を奏してわずか1シーズンで1部に復帰。これ以降は安定して上位を維持するようになり、1964-65シーズンにフットボールリーグカップで初優勝を果たした。 1965-66シーズンにはインターシティーズ・フェアーズカップ(旧UEFAカップ・現UEFAヨーロッパリーグの前身)でローマ、1860ミュンヘン、ミランなどを破りベスト4まで勝ち進んだ。準決勝では優勝したFCバルセロナに敗れたものの、初めて欧州カップ戦で好成績を残した。 1967年に当時のコーチだったデーブ・セクストンが監督に就任すると、1970年に悲願のFAカップ初優勝を果たす。 1970-71シーズンにはFAカップ王者としてUEFAカップウィナーズカップに初出場し、決勝まで勝ち進んだ。レアル・マドリードとの決勝戦はギリシャのスタディオ・ヨルギオス・カライスカキスで行われ、試合は延長戦までもつれ込むものの1-1と決着が付かず引き分け再試合に(当時はPK戦がなかった)。2日後の再試合でピーター・オスグッドとジョン・デンプシーの得点でレアル・マドリードを2-1で破り、初めて欧州タイトルを獲得した。 これによりチェルシーは、イングランド国内だけでなくヨーロッパでも一目を置かれるクラブとして確固たる地位を築いた。 しかし、1970年代中盤になると再び成績が低迷し、2部に降格。更に1970年代後半には財政難が表面化した。 この頃のチェルシーはイングランドでも有数の凶暴なフーリガン集団を抱えると言う問題にも苦しみ、1980年代前半までは長らく低迷を味わった。 ケン・ベイツが会長に就任して以降は、なかなか安定した成績を残せないでいたが、1989年に2部で優勝し1部に昇格して以降は、トップリーグに所属し続けている。 1990年代に入るとクラブは躍進を始める。 1993年に元イングランド代表のグレン・ホドルを選手兼任監督として迎え、1994年にFAカップで準優勝。1995年には、UEFAカップウィナーズカップでベスト4に進出。 また、1994年にはケン・ベイツが投資を呼びかけ、チェルシーの熱狂的なファンだった実業家のマシュー・ハーディングがクラブの経営に加わったことで資金面に余裕ができ、イタリアから後に選手兼任監督を務めることになるオランダ人のルート・フリットやダン・ペトレスク、マーク・ヒューズら大物スター選手の獲得に成功した。 1995年12月にボスマン判決が下されたことで、現在に至るまでの外国人のスター選手を大量に獲得するクラブの経営手法がチェルシーで確立される。これにより、プレミアリーグの国際化に先立って「多国籍軍団」と称されるようになった。また、この頃からスタンフォード・ブリッジの大規模な改修工事が行われ、スタジアムにホテルとメガストアと呼ばれるショッピングモールを併設した「チェルシービレッジ」の建設が始まった。 1996年に監督のグレン・ホドルがイングランド代表監督に就任したことを受けて、ルート・フリットがプレイングマネージャーに就任。フリットはその長いセリエAでの活躍をもとに築いたイタリアコネクションとボスマン判決を活用してジャンフランコ・ゾラ、ジャンルカ・ヴィアッリ、ロベルト・ディ・マッテオなどの大物外国人選手を多数獲得した。 1996年10月にそれまでクラブに多額の資金援助をしていたマシュー・ハーディングがアウェーのボルトン戦の観戦後にヘリコプターの墜落事故で亡くなってしまう(スタンフォード・ブリッジの北側スタンドは、この事故以降彼の死を悼み「マシュー・ハーディングスタンド」と呼ばれている)。その後は十分な財政支援を得られず、大きな負債を抱えることとなった。 1996-97シーズンは、外国人選手達の活躍もあり2度目のFAカップ優勝を達成。また、ジャンフランコ・ゾラがFWA年間最優秀選手賞をチェルシー選手として初めて受賞した。 翌1997-98シーズンは、グスタボ・ポジェ、トーレ・アンドレ・フロー、エト・デ・フーイらを獲得して戦力強化を図った。プレミアリーグでは一時2位につけ、カップ戦も順調に勝ち進んでいたが、シーズン途中でフリット監督を解任。その後は、ジャンルカ・ヴィアッリがプレイングマネージャーとして指揮を執ることになった。 そして最終的に1997-98シーズンは、UEFAカップウィナーズカップとコカ・コーラ・カップを制した。UEFAカップウィナーズカップはクラブ史上2度目の制覇だった。カップウィナーズカップ決勝では、後半途中出場のジャンフランコ・ゾラが入って1分にも満たない時間で決勝ゴールを挙げ、シュトゥットガルトを1-0で下して優勝を決めた。これによってUEFAスーパーカップの出場権を得たため、UEFAチャンピオンズリーグ王者のレアル・マドリードとモナコで対戦することとなった。試合はグスタボ・ポジェの得点でレアル・マドリードを1-0で破り、UEFAスーパーカップも制した。このように1998年のチェルシーは、1900年代のチェルシーの中で最も成功した年だと言える。 1998-99シーズンは、ピエルルイジ・カジラギ、マルセル・デサイー、ブライアン・ラウドルップ、アルベルト・フェレールらを獲得した。しかし、カジラギはシーズン途中で大怪我を負った上に、ブライアン・ラウドルップはシーズン序盤にホームシックでデンマークに帰国するなど色々と問題が発生した。これらを受けて、プレイングマネージャーであったジャンルカ・ヴィアッリは監督業に専念するという理由でシーズン途中で選手としての現役を終えた。 このシーズンは、連覇を期待されたUEFAカップウィナーズカップではマジョルカに敗れベスト4に終わったが、プレミアリーグでは一時首位に立つなど終盤までマンチェスター・ユナイテッドやアーセナルと優勝争いを繰り広げ3位に入り、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を初めて勝ち取った。 また、このシーズン頃からキャプテンのデニス・ワイズ以外が全員外国人で、ピッチ上の11人全員が外国人という事も当たり前になっていた。 1999-2000シーズン:ディディエ・デシャンやクリス・サットンらを獲得するもどちらも目立った活躍を見せられず1年で退団した。 また、三度目となるFAカップ制覇を達成。旧ウェンブリー・スタジアムを使用した最後のFAカップ王者というおまけ付きでの優勝だった(2006-07シーズンには現行のウェンブリー・スタジアム最初の優勝も果たしている)。 また、このシーズンはチャンピオンズカップ第1回大会を出場辞退して以来、実に44年ぶりにUEFAチャンピオンズリーグに出場した。チャンピオンズリーグでは、1次グループリーグでミラン、ヘルタ・ベルリン、ガラタサライと対戦し1位で通過。2次グループリーグではラツィオ、マルセイユ、フェイエノールトと対戦し、ラツィオに次ぐ2位で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメントでは準々決勝でバルセロナと対戦し、ホームでは3-1で快勝したものの、アウェーで1-5(90分では1-3だったため延長戦が行われた)で敗れ、2試合合計4-6で姿を消した。 2000-01シーズンは、ジミー・フロイド・ハッセルバインク、イェスパー・グレンケア、エイドゥル・グジョンセンらを獲得、ハッセルバインクはリーグ得点王に輝くなどチームを牽引した。しかし、シーズン序盤に監督のジャンルカ・ヴィアッリが解任され、同じイタリア人のクラウディオ・ラニエリを招聘したもののプレミアリーグでは中位に終わった。また、UEFAカップでも1回戦で敗退した。 2003-04シーズン、イタリア人監督のクラウディオ・ラニエリは既存の選手と新加入選手を融合させ、無冠ではあったものの、プレミアリーグで2位、チャンピオンズリーグでもベスト4という好成績を収めた。特にチャンピオンズリーグの決勝トーナメント準々決勝で、プレミアリーグ無敗優勝という快挙を成し遂げたアーセナルを破り、クラブ史上初めてベスト4に進出したことは特筆すべき出来事であった。 2004年夏、前FCポルト監督のジョゼ・モウリーニョが監督に就任。2004-05シーズンは勝ち点95、得失点差57という驚異的な成績でプレミアリーグを独走。1954-55シーズン以来、50年ぶりにトップリーグでの優勝を果たし、カーリングカップも制して2冠でクラブ創立100周年を祝った。チャンピオンズリーグでは2年連続でベスト4に進出したものの、大会の優勝チームのリヴァプールに敗れ、クラブ史上初の決勝進出は成らなかった。 2005-06シーズンは、プレミアリーグ創設後、マンチェスター・ユナイテッドに次いで2クラブ目のリーグ連覇を達成。モウリーニョの就任後、ホームスタジアムであるスタンフォード・ブリッジでは正に無敵の状態で、特にこのシーズンでは19戦18勝1分けという圧倒的な強さであった。チャンピオンズリーグでは決勝トーナメント1回戦で2年連続でバルセロナと対戦し、敗れてベスト16に終わっている。 2006年夏の移籍市場ではミヒャエル・バラック、アンドリー・シェフチェンコ、アシュリー・コールら大物選手を獲得した一方でダミアン・ダフ、エイドゥル・グジョンセン、ウィリアム・ギャラスといったそれまでの主力選手を放出してチーム編成を一新した。2006-07シーズンはカーリングカップとFAカップの2冠を達成し、モウリーニョの監督就任以来3年連続でタイトルを獲得するも、リーグではマンチェスター・ユナイテッドの後塵を拝して2位に終わり、3連覇を逃した。またチャンピオンズリーグでも2年前と同様、決勝トーナメント準決勝でリヴァプールに敗れベスト4の壁を越えることは出来なかった。このシーズンの結果を受けて、高額な給料に反して期待された活躍が出来ずに終わった新加入選手と、その獲得を推したとされるクラブの経営陣に対する批判が起きた。こうした状況は2007-08シーズンも続き、シーズン序盤の9月20日に強いカリスマ性で選手やファンから支持されてきたモウリーニョが辞任すると、動揺を露にする選手の声、経営陣の責任を問うファンの声などが頻繁に聞かれた。 その後、フットボールディレクターであったアヴラム・グラントが新監督に昇格。混乱の残るチームを引き継いだグラントはチーム内で燻る不満の沈静化に着手し、コーチとして新たに招聘されたヘンク・テン・カテと共に新体制を始動させた。選手の求心力を失い、優勝を競う力は残されていないかに思われていたが、新体制の下でチームは徐々に息を吹き返し、リーグでは前年同様マンチェスター・ユナイテッドに優勝を譲ったものの、最終節までもつれる猛追を見せた。またクラブ史上初めてチャンピオンズリーグの決勝進出を果たし、ここで再びマンチェスター・ユナイテッドと対戦。雨の降るモスクワ、ルジニキ・スタジアムで行われたチャンピオンズリーグ決勝(2008年5月21日)は、同点のまま延長戦を含む120分で決着が付かずPK戦にもつれ込んだ。しかし、キャプテンのジョン・テリーが足をとられて失敗、またしてもマンチェスター・ユナイテッドの前に敗れ、悲願のチャンピオンズリーグ制覇を目前で逃すこととなった。この結果、4シーズンぶりに無冠に終わった責任を取る形でグラントは解任された。 その後、ポルトガル代表監督を退任したルイス・フェリペ・スコラーリが監督に就任し、2008年夏には彼の教え子であるデコなどを獲得した。2008-09シーズンは、開幕当初こそ期待通りのテクニカルなパフォーマンスを見せたものの、優勝を争う上位陣との直接対決で勝負弱さを露呈し、徐々に優勝争いから脱落していった。また2004年2月21日から続いたホーム連続無敗記録(86試合)が2008年10月27日のリバプール戦でストップするなど、ホームでの戦績も低迷した。こうした結果、2009年2月11日にスコラーリは解任され、後任としてロシア代表監督であったフース・ヒディンクが、シーズン終了まで暫定的にロシア代表との兼任という形で就任した。ヒディンクは短期間でチームの建て直しに成功し、プレミアリーグ3位、チャンピオンズリーグベスト4という成績を残した。また、シーズン最後の試合となったFAカップ決勝でエヴァートンを破りタイトルをもたらして2008-09シーズンの有終の美を飾った。モウリーニョの退任後2シーズンで4人の監督が入れ替わった同クラブは、長期政権を築くべく、8シーズンに渡ってACミランの指揮をとり、チャンピオンズリーグを二度制覇したカルロ・アンチェロッティを新たな指揮官として迎えた。 2009-10シーズンは、コミュニティーシールドでマンチェスター・ユナイテッドをPK戦の末に破り、4年ぶりに同タイトルを獲得した。またこの試合、PK戦での勝利は、1998年のジャンルカ・ヴィアッリ監督時代のリーグカップ準々決勝戦以来の11年ぶりの勝利となった。 チャンピオンズリーグでは、ラウンド16でモウリーニョ率いるインテル・ミラノと対戦した。結果は2戦2敗で、チェルシーはベスト16に終わった。 しかし、プレミアリーグでは、マンチェスター・ユナイテッドとの最終節までもつれた優勝争いを制し、4シーズンぶり4度目の優勝を果たした。特に当時ビッグフォーと呼ばれていたマンチェスター・ユナイテッド、アーセナル、リバプールとの直接対決において、6戦全勝を達成したことが優勝の原動力となった。 このシーズンはアンチェロッティ監督の下、攻撃に磨きがかかり、シーズン通算103得点を記録。これは1999-2000シーズンのマンチェスター・ユナイテッドの97得点を抜いてプレミアリーグ記録となった。また得失点差71も07-08シーズンのマンチェスター・ユナイテッドが記録した58を上回るプレミアリーグ記録である。その後のFAカップ決勝ではディディエ・ドログバのフリーキックで先制、ポーツマスとのプレミアリーグ優勝・最下位対決を1-0で制してFAカップ2連覇を達成。クラブ初のリーグとFAカップ2冠を達成した。また、ユースチームもFAユースカップで1960年・61年の連覇以来、3度目の優勝を飾った。 プレミアリーグでは序盤は好調だったが主力の離脱や不調が重なり中盤以降失速。冬の移籍市場では、プレミアリーグ史上最高額となる5000万ポンドでフェルナンド・トーレスを獲得した。他にもSLベンフィカからブラジル代表DFのダヴィド・ルイスを獲得した。終盤は盛り返して首位のマンチェスター・ユナイテッドに迫ったが、最終盤の直接対決で敗れて2位に終わった。チャンピオンズリーグでもユナイテッドに準々決勝で敗れベスト8で敗退。その他のカップ戦でも敗れ、3シーズンぶりの無冠となった。この結果、監督のアンチェロッティは解任され、新監督にはFCポルトでモウリーニョ以来の三冠を達成したアンドレ・ビラス・ボアスが就任した。 夏の移籍市場では、ラウル・メイレレスやファン・マタ、ロメル・ルカク、ティボー・クルトワ、オリオール・ロメウらを獲得。アンドレ・ビラス・ボアス新監督の下で再生を期したが、プレミアリーグではシーズン半ばから低迷。UEFAチャンピオンズリーグでも決勝トーナメント敗退の危機に陥り、WBAに敗れた翌日の2012年3月4日にアンドレ・ビラス・ボアスは解任された。後任にはアシスタントコーチのロベルト・ディ・マッテオが暫定で就任した。するとチームは調子を上げ、決勝でリバプールを破りFAカップを制覇。UEFAチャンピオンズリーグ決勝ではバイエルン・ミュンヘンと対戦。後半の37分にバイエルンのトーマス・ミュラーが先制点を挙げるも、後半43分にディディエ・ドログバがファン・マタのコーナーキックからヘディングで同点とした。ドログバはこの試合を最後に退団することが決まっており、その彼の得点時に解説を行っていたギャリー・ネビルの反応は有名である。延長戦ではドログバのリベリへのファールでバイエルンにPKが与えられるもこれをチェフが防ぎ、結局1-1のまま終了。PK戦ではチェフが5本全てのコースを読み、うち2本をセーブしたのち、5人目のキッカーであったディディエ・ドログバがネットを揺らして悲願のチャンピオンズリーグ制覇を達成した。バイエルン・ミュンヘンを彼らのホームで破っての優勝だった。ロベルト・ディ・マッテオは暫定監督にも関わらずFAカップとUEFAチャンピオンズリーグの2冠を達成した。 暫定監督であったロベルト・ディ・マッテオが正式な監督に就任。ドログバやサロモン・カルー、エッシェンが退団する中、移籍市場ではエデン・アザールやオスカル、マルコ・マリン、セサル・アスピリクエタ、ビクター・モーゼス、アンドレアス・クリステンセンらを獲得。UEFAスーパーカップはアトレティコ・マドリードに敗れた。ディ・マッテオ監督は開幕からチームの指揮を執っていたが、11月に成績不振により途中解任。後続にラファエル・ベニテスが就任した。その後立て直しを図ろうとしたものの、UEFAチャンピオンズリーグはユベントスやシャフタール・ドネツクに競り負けグループリーグ敗退。グループ3位であったためUEFAヨーロッパリーグに回ることとなった。なお前年度王者がチャンピオンズリーグでグループリーグ敗退となるのは史上初であった。FIFAクラブワールドカップ2012にも出場したが決勝で南米王者コリンチャンスに惜敗し準優勝に終わった。冬の移籍市場ではニューカッスル・ユナイテッドからデンバ・バを獲得した。それでも、UEFAヨーロッパリーグでは決勝でSLベンフィカを破り、前年度UEFAチャンピオンズリーグ優勝に続き、UEFAヨーロッパリーグを制覇した。終了間際の決勝点による勝利だった。これによりUEFAチャンピオンズリーグとUEFAヨーロッパリーグのトロフィーを同時に保持する初めてのクラブとなった(EL決勝はCL決勝よりも早く開催されるため)。 2013年6月3日、ジョゼ・モウリーニョの監督復帰が発表された。フルハムからマーク・シュウォーツァー、レヴァークーゼンからアンドレ・シュールレ、アンジ・マハチカラからウィリアン、フィテッセからマルコ・ファン・ヒンケル獲得。さらにはモウリーニョにとってはインテル時代の教え子であるサミュエル・エトオをも獲得した。冬の移籍市場ではファン・マタやケヴィン・デ・ブライネを放出したが、リヴァプールFCを出し抜きエジプト代表FWのモハメド・サラーをFCバーゼルから獲得し、セルビア代表MFネマニャ・マティッチをSLベンフィカから獲得した。プレミアリーグでは2014年2月4日にそれまで11戦全勝だったエティハド・スタジアムでマンチェスター・シティを、4月27日にそのマンチェスター・シティとのプレミア頂上決戦を制したリヴァプールを破るなど、上位チーム相手には勝負強さを見せたが、2014年4月20日のサンダーランドにホームで敗れるなど、中盤から終盤にかけてアストン・ヴィラやWBA、ノリッチ・シティといった下位相手に勝ち点を取りこぼし、3位に終わった。2シーズンぶりの覇権奪回を目指したチャンピオンズリーグではアトレティコ・マドリードに2戦合計1-3で敗れ、FAカップでは5回戦でシティに(ベスト16)、キャピタル・ワンカップは準々決勝でサンダーランドに敗れた。 2014年8月、アトレティコ・マドリードからジエゴ・コスタ、フィリペ・ルイス、ティボ・クルトゥワ(レンタル期間の終了による復帰)、FCバルセロナからセスク・ファブレガスを獲得。更にガラタサライSKからディディエ・ドログバの約2年ぶりの復帰が決まったのに加え、冬にはフィオレンティーナからフアン・クアドラードを獲得した。キャピタルワンカップではダービー・カウンティ、準決勝ではリバプール、決勝はトッテナムを撃破し8年ぶり5回目の優勝を果たした。チャンピオンズリーグでは決勝トーナメント1回戦でパリ・サンジェルマンと対戦。パリでの1stレグを1-1で終え2ndレグもケイヒルのゴールで先制し86分まで1-0(2戦合計で2-1)と優位に立ちながら、奇しくも4950万ユーロで売却したダビド・ルイスに同点のヘディングを決められるという竹箆返しを喰らうと、延長戦でもアザールのPKで一度は勝ち越したものの、その前にPKを献上したセレソンのセンターバック・チアゴ・シウバにもコーナーキックから事実上の逆転弾を決められ2戦合計3-3、アウェーゴール差でベスト16で敗退した。しかし、2015年5月3日のプレミアリーグ第35節のクリスタル・パレス戦で1-0で勝利すると勝ち点を「83」に伸ばし、2009-10シーズン以来となる5年ぶり、5度目のプレミアリーグ制覇を果たした。200日以上も首位に立ち続けての優勝だった。 2015年7月、長年チェルシーの守護神を務めたGKのペトル・チェフがアーセナルに移籍した為、アスミル・ベゴヴィッチを獲得した。加えてFCバルセロナからペドロ・ロドリゲスを、ASモナコからラダメル・ファルカオを獲得。UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグを首位で突破して決勝トーナメントに進出したが、プレミアリーグでは前年から10番を背負うアザールの初ゴールを開幕から29試合目まで待たなければならず、ジエゴ・コスタがウェイトオーバーになる誤算が生じ、最少失点を誇っていた守備陣も11節を終えて前年は11失点に抑えていたのが22失点を喫する等パフォーマンスを落として下位に低迷。第16節のレスター・シティ戦に敗れ降格圏まで1ポイント差まで迫られると、2015年12月17日にジョゼ・モウリーニョと契約解消(両者合意のものと発表されたが、事実上の解任)。後任にはシーズン終了までの暫定監督としてフース・ヒディンクが就任した。冬の移籍市場ではアレシャンドレ・パトを獲得。チャンピオンズリーグでは3シーズン連続での対戦となったパリ・サンジェルマンFCに合計スコア2-4で敗れ2年連続ベスト16に終わった。 アントニオ・コンテが新監督に就任。フィオレンティーナからマルコス・アロンソ、オリンピック・マルセイユからミシー・バチュアイ、レスター・シティから昨シーズンの「奇跡の優勝」に貢献したエンゴロ・カンテを獲得し、さらにはパリ・サンジェルマンからダビド・ルイスを再獲得、ビクター・モーゼスがレンタルから復帰した。序盤戦はコンテが取り組んだ「3-4-3」システムがはまり、第7節ハル・シティ戦から第20節のトッテナム戦に敗れるまでクラブ記録の13連勝を達成するなど好調を維持。その後はトッテナムに追いすがられるも、第36節のWBA戦で勝利し2季ぶりの優勝を決めた。 コンテ体制2年目。ウィルフレード・カバジェロ、ティエムエ・バカヨコ、アントニオ・リュディガー、アルバロ・モラタを獲得する一方でアスミル・ベゴヴィッチ、ネマニャ・マティッチ、ナタン・アケ、ナサニエル・チャロバーを売却。クル・ズマ、ルーベン・ロフタス=チークをレンタルで放出。その他には、移籍市場の最終日にダニー・ドリンクウォーターとダヴィデ・ザッパコスタを獲得し、アンドレアス・クリステンセンがレンタルバック。 開幕戦で、ギャリー・ケイヒルとセスク・ファブレガスが退場してバーンリーFCに敗れる波乱の幕開けとなったが、その後はモラタなど新戦力がコンスタントに活躍し、リーグ3位の成績で2017年を終える。しかし、年が明けると主力選手が軒並み調子を落とし、チームも一気に低迷。特に、1月31日のAFCボーンマス戦を0-3、2月5日のワトフォードFC戦を1-4で落とす衝撃の連敗を喫するなど1月と2月のリーグ戦計7試合で2勝しかできず、CL出場圏外の5位まで順位を落としてしまった。4月1日のトッテナム・ホットスパーFC戦を1-3で落としたことで4位との勝ち点差が10まで広がった。その後6試合を4勝2分けと追い上げを見せるも、最終節でニューカッスル・ユナイテッドに0-3で敗れて5位フィニッシュ。CL出場権を逃してしまった。 新監督にSSCナポリの監督を退任したマウリツィオ・サッリを招聘。サッリに引き抜かれる形でナポリからジョルジーニョを獲得した。また、守護神のクルトワがレアル・マドリードに移籍することになったが、代役としてアスレティック・ビルバオからケパ・アリサバラガをGK史上最高額の7100万ポンドで獲得した。さらにレアルからはマテオ・コヴァチッチをレンタルで獲得。 現オーナーロマン・アブラモヴィッチの就任当初は、スター選手の大量補強で話題となったが、ジョゼ・モウリーニョの監督就任後は、彼の意向に沿った堅実路線をとり、調和を重視した成熟されたチーム作りが行われた(無論、そこにはピーター・ケニオンの力があったことは否めない)。ただ、アブラモヴィッチの豊富な財力を背景にした資金力は欧州随一で、提示する移籍額は相対的にも桁違いである。たとえ他クラブが移籍交渉を進めていても、チェルシーが介入した時点で資金力の差から獲得を断念するケースもしばしば見受けられる。そのため、移籍市場のバランスを崩しているとの批判も多いが、一方でこの資金力を目当てに、相場を超えた移籍金をチェルシーに対し要求するクラブも多いと言われている。少なくとも、慢性的な資金不足に悩むクラブにとって、チェルシーに選手を売却することは、クラブの財政には好影響を与えるものであることは間違いなく、世界全体の移籍マーケットを活性化し資金を流動化させているとの見方もある。また、近年のプレミアリーグにある移籍傾向などからリーグの資産価値そのものを高めた先駆者として一定の評価をする有識者も存在する。 2006-07シーズン開始前の移籍市場では、ACミランからウクライナ代表FWアンドリー・シェフチェンコ、バイエルン・ミュンヘンからドイツ代表MFミヒャエル・バラックを獲得するなど、レアル・マドリードに代わり移籍市場の主役となった。こうしたスター選手の獲得に加え、将来を有望視される若手選手の発掘もチェルシーの得意とする(ケニオンに加えて、スポーティング・ディレクターのフランク・アルネセンの功績も大きい)ところであり、将来を見据えてラッサナ・ディアラをル・アーブルから獲得。最近ではノルウェーのリンとマンチェスター・ユナイテッドの共同保有選手であったナイジェリア出身の若手MFジョン・オビ・ミケルを獲得(共同保有のため移籍金は半分に分割して両クラブに支払われる)し、またフェイエノールトからはFWサロモン・カルーを新たに獲得。しかし、近年では若手の育成にも力を入れるなど、将来を見据えた基盤改革を行っている。2010-11シーズンは極度の不振により一時5位まで後退。そこでフロントはリヴァプールからフェルナンド・トーレス、ベンフィカからダヴィド・ルイスを冬の移籍期間最終日に獲得するなど大型補強をした。 2011年夏の移籍期間ではフアン・マタ、ロメル・ルカク、オリオール・ロメウ、ティボ・クルトゥワを獲得し、2012年の夏の移籍期間ではオスカル、エデン・アザールを獲得するなど、世代交代を進めている。2013年夏の移籍期間ではバイエル・レバークーゼンからアンドレ・シュールレ、フィテッセからマルコ・ファン・ヒンケル、アンジ・マハチカラからウィリアン、サミュエル・エトオを獲得している。2014年の夏の移籍期間ではロメル・ルカク、ダヴィド・ルイスらを放出した資金を元手にジエゴ・コスタ、フィリペ、セスク・ファブレガスら即戦力を補強し、ティボ・クルトゥワをアトレティコからローンバックした。 同じ西ロンドンに本拠を置くフラムやQPRとはライバル関係にあり、両クラブの試合はウェスト・ロンドン・ダービーと呼ばれ、マンチェスター・ダービー、ノース・ロンドン・ダービー、タイン・ウェア・ダービーなどと並ぶダービーマッチの一つである。また、近年上位を争っているアーセナルとの戦いはビッグ・ロンドン・ダービーと呼ばれる。 特にフラムとの縁は深く、1905年のチェルシーのクラブ創設以来続いている。前述のようにスタンフォード・ブリッジはフラムの本拠地として使用依頼を受けていたものの、金銭面で折り合いがつかず拒絶されたことにある。その結果宙に浮いたスタジアムの有効利用のためにスタジアムのオーナーは自ら「チェルシーFC」という名の新しいクラブを立ち上げた経緯がある。 チームマスコットはスタンフォード・ライオン。 古くには熱狂的で凶暴なサポーターが存在することで知られていたが、プレミアリーグ誕生以降はスタジアム整備に力を入れたこともあり、今は問題が起こることはほとんどなくなっている。 2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2012-13シーズンのクラブ収入は3億340万ユーロであり、世界第7位である。プレミアリーグではマンチェスター・ユナイテッド、マンチェスター・シティに次ぐ第3位である。 イギリスメディアが2012年に公表した調査によると、チェルシーFCの平均年俸は約679万ドルであり、世界で4番目に平均年俸が高いクラブである。これはアメリカのスポーツチームで最も平均年俸が高いロサンゼルス・レイカーズやニューヨーク・ヤンキースよりも高い給与水準である。 代表的な応援ソングは「ブルー・イズ・ザ・カラー」で、1972年に作られた。当時の歴代所属選手達が歌っており、歌はホームでの試合終了後にスタジアムに流れる。FAカップの決勝戦でタイトルを手に入れた試合終了後にウェンブリー・スタジアムでも流れた。 2012年4月、スイスに拠点を置くF1チーム・ザウバーとのパートナーシップを結ぶことを発表した。また、2012年12月、日本企業オリコともパートナーシップを結ぶことを発表した。 2015-16シーズンより5年間の契約で日本の横浜ゴムがユニホームの胸部スポンサーとなった。2016-17シーズンまではアディダスがユニフォームサプライヤーとなっていたが、2017-18シーズンよりナイキに変更される。 大量の若手選手と契約し、彼らをレンタル移籍させることで出場機会を確保している。その一方で、毎年のように別のクラブに放出され続けている選手もおり、賛否両論となっている。 プレミアリーグ:5回 2004-05, 2005-06, 2009-10, 2014-15, 2016-17 FAカップ:8回 1969-70, 1996-97, 1999-00, 2006-07, 2008-09, 2009-10, 2011-12, 2017-18 フットボールリーグカップ:5回 1964-65, 1997-98, 2004-05, 2006-07, 2014-15 コミュニティーシールド:4回 1955, 2000, 2005, 2009 UEFAチャンピオンズリーグ:1回 2011-12 UEFAカップウィナーズカップ:2回 1970-71, 1997-98 UEFAヨーロッパリーグ:1回 2012-13 UEFAスーパーカップ:1回 1998 略称説明 1954-55シーズン以降の成績 1980-81シーズンまでは勝ち点2点。1981-82シーズンから勝ち点3点。 2018-19シーズン 基本フォーメーション ケパ # 1 アスピリクエタ # 28 リュディガー #2 D. ルイス # 30 アロンソ # 3 ジョルジーニョ # 5 コヴァチッチ # 17 カンテ # 7 ウィリアン # 22 アザール # 10 モラタ # 29 2019年1月11日現在 ※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。 ※かつてジャンフランコ・ゾラの付けていた25番は、公式な永久欠番とされてはいないものの、彼の退団後に付けた選手は存在しない。 監督 マウリツィオ・サッリ in out 傘下クラブ KVCウェステルロー ^ “General Club Information”. チェルシーFC オフィシャル ウェブサイト. 2015年8月13日閲覧。 ^ “クラブ声明”. Chelsea FC. (2015年12月17日). http://japan.chelseafc.com/news/latest-news/2015/12/club-statement.html 2015年12月17日閲覧。  ^ “ヒディンク就任”. Chelsea FC. (2015年12月19日). http://japan.chelseafc.com/news/latest-news/2015/12/hiddink-appointed-.html 2015年12月19日閲覧。  ^ Deloitte Football Money League 2014 Archived 2014年9月7日, at the Wayback Machine.(2014年1月に国際監査法人『デロイト』が公表した2012-2013シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング) ^ 2012年にイギリスメディア『sportingintelligence.com』が調査した、世界のスポーツチームの平均年俸ランキング ^ ESPNF1 ザウバー、チェルシーとのパートナーシップを発表。 ^ [1] ^ 横浜ゴム、イングランドプレミアリーグ「チェルシーFC」と スポンサー契約を締結 - 横浜ゴム公式サイト、2015年2月27日 ^ チェルシーのレンタル移籍も悪くない 今夏復帰のDFは「すぐ見捨てるとか言うけど……」 - theWORLD、2017年7月27日 ^ チェルシー、今季は38人レンタル放出。選手から「意味なし」と疑問の声も - フットボールチャンネル、2016年9月7日 チェルシーFCの選手一覧 チェルシーFC.リザーブ 公式 公式サイト (英語) 公式サイト (日本語) Chelsea Football Club - Facebook Chelsea FC (@chelseafc) - Twitter The Official Chelsea FC YouTube Channel - 公式YouTubeチャンネル チェルシーFC - Flickr Premier League.com - Chelsea (英語) UEFA.com - Chelsea (日本語) ニュース BBC Sport - Chelsea Sky Sports - Chelsea" ]
ABC01-02-0274
全天88星座のうち、最も面積が広い星座は何座でしょう?
うみへび座
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[ "うみへび座", "ヘルクレス座", "つる座", "みなみのかんむり座", "りょうけん座" ]
[ "うみへび座(海蛇座、Hydra)は、トレミーの48星座の1つ。星座の中で最も領域が広い。 みずへび座 (Hydrus) とは、ラテン語の綴りもよく似ている。 全天で最も大きな星座であるにもかかわらず、2等星のα星以外には、3等星が5つあるのみで、残りは暗い星である。 以下の恒星には、国際天文学連合によって正式な固有名が定められている。 α星:アルファルド (Alphard) は、うみへび座で最も明るい恒星で、唯一の2等星。 σ星:固有名はMinchir。 υ1星:張 (Zhang) は、中国の二十八宿の1つ「張」の距星とされたことから固有名が付けられた。 その他に以下の恒星が知られている。 γ星:うみへび座の尾部に輝く3等星。 ζ星:うみへび座の頭部に輝く3等星。 ν星:3等星。 R星:ミラ型変光星。 V星:SRA型の半規則型変光星。 W星:ミラ型変光星。 TW星:おうし座T型星。 SDSS J090745.0+024507:銀河系からの脱出速度の2倍に達する速さで移動している超高速度星の1つ。 HE 1327-2326:最も金属量の少ない恒星。 M48:散開星団。 M68:球状星団。 NGC 3242(木星状星雲):惑星状星雲。 M83(南の回転花火銀河):渦巻銀河。 NGC 4993:楕円銀河。連星中性子星の合体に由来するGW170817の母銀河である。 なお、うみへび座には、うみへび座銀河団という銀河団がある。 うみへび座A:電波源。 勇者ヘーラクレース(ヘルクレス座)の12の冒険のうち、2番目がこの怪物ヒュドラー退治であった。この怪物は、9つの首を持ち、そのうちの1つは不死であった。また首を切ればすぐに新しい首が2つ生えてくるため、ヘーラクレースは苦戦した。彼は従者のイオラーオスを呼び、切り口に火を当てて焼き、新しい首が生えないようにした。そして、不死の首は大きな岩の下敷きにしてようやく退治した。 日本では、ヒドラ座と呼んだ時代がある。 ^ “SIMBAD Astronomical Database”. Results for NAME ALPHARD. 2013年1月23日閲覧。 ^ Ian Ridpath. “Star Tales - Hydra”. 2014年2月4日閲覧。 ^ 長島晶裕/ORG 『星空の神々 全天88星座の神話・伝承』 新紀元社、2012年。ISBN 978-4-7753-1038-0。 座標: 10h 00m 00s, −20° 00′ 00″", "ヘルクレス座(Hercules)は、トレミーの48星座の1つ。ヘルクレス座は、全天で5番目に大きい星座である。あまり明るい星はない。ギリシア神話に登場する勇者ヘーラクレースにちなむが、日本語での正式な星座名は「ヘルクレス座」である。 以下の恒星には、国際天文学連合によって正式な固有名が定められている。 α星:ラス・アルゲティ (Rasalgethi) は、二重星であり、主星はSRC型に細分類される半規則型変光星。 β星: コルネフォロス (Kornephoros) は、ヘルクレス座で最も明るい恒星(2.77等)。 δ星:Sarin は3等星。 κ星:Marsic は、元々MarfakやMarfikと呼ばれてきたが、2017年2月にIAUにより Marsic が固有名として採用された。 λ星:マシム (Maasym) ω星:クヤム (Cujam) はりょうけん座α2型変光星に分類される5等星。 HD 149026:主星に Ogma、惑星HD 149026 bに Smertrios という固有名が定められている。 その他、以下の恒星が知られている。 14番星:太陽系外惑星をもつK型主系列星。 X星:半規則型変光星。細分類はSRB。 SX星:半規則型変光星。細分類はSRD。 UU星:SRD型変光星の代表星。 AC星:おうし座RV型変光星。 AM星:激変星。 M13:球状星団。北半球で最も明るい球状星団。 M92:球状星団。 NGC 6050:渦巻銀河。 IC 1179:渦巻銀河。 ヘルクレス座・かんむり座グレートウォール:2013年に発見された、最大の宇宙の大規模構造。 勇者ヘーラクレースは、大神ゼウスが王女アルクメーネーとの間にもうけた子で、王になる予定であったが、例によってゼウスの妻の女神ヘーラーの横槍が入り、王になれなかった。勇者でありながら、その後もヘラに生活の邪魔をされ失敗続きだったが、12の冒険を成し遂げ、神となり星座の仲間入りをした。 しし座、うみへび座、かに座、りゅう座などの星座が、ヘーラクレースの12の冒険と関係が深い。 ^ a b c d e 原恵 『星座の神話 - 星座史と星名の意味』 恒星社厚生閣、2007年2月28日、新装改訂版第4刷、146頁。ISBN 978-4-7699-0825-8。 ^ a b c d e f g h “IAU Catalog of Star Names”. 国際天文学連合 (2017年2月1日). 2017年2月12日閲覧。 ^ 塩井宏幸「変光星ガイド・1月」、『天文ガイド』1983年1月号、誠文堂新光社、102頁。 ^ a b 宇宙科学研究倶楽部 『宇宙がまるごとわかる本』 学研パブリッシング、2012年2月14日、57頁。ISBN 978-4054052604。 ^ Horvath, Istvan; Hakkila, Jon; Bagoly, Zsolt (2013年11月5日). “The largest structure of the Universe, defined by Gamma-Ray Bursts”. arXiv:1311.1104v1.  ^ Ian Ridpath. “Star Tales - Hercules”. 2014年2月1日閲覧。 座標: 17h 00m 00s, +30° 00′ 00″", "つる座(鶴座、Grus)は、南天の星座の1つ。新しく設けられた星座の中では明るい星が多い方だが、日本では南に低くしか上らないので目立たない。 α星、β星の2つの2等星がある。 α星:アルナイル(Alnair)は、青白色の主系列星。つる座で最も明るい恒星。 β星:赤色巨星。つる座で2番目に明るい恒星。 γ星:アルダナブ(Al Dhanab)は、3.01等星。 つる座は16世紀以降に作られた新しい星座であり、神話はない。 ペーテル・ケイセルとフレデリック・デ・ハウトマンが残した観測記録を元にペトルス・プランシウスが1597年に作成した地球儀に残したものが最初である。ヨハン・バイエルが1603年に発刊したウラノメトリアでそれを引用したことにより世に知られるようになった。デ・ハウトマンは1603年に出版した星表で Den Reygher「さぎ座」として、プランシウスは、後の1625年に作成した地球儀では Phoenicopterus 「フラミンゴ座」として名付けていたが、最終的にはオリジナルの「つる座」が世に広まった。 つる座はかつてはみなみのうお座の一部だった。α星の「アルナイル」(アラビア語で「明るいもの」を意味する言葉に由来)も「魚の尾の中での明るい星」というアラビア語の一部から付けられた固有名である。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for * alf Gru. 2013年1月23日閲覧。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for V* bet Gru. 2013年1月23日閲覧。 ^ a b Ridpath, Ian. “Star Tales - Grus”. Star Tales. 2013年5月11日閲覧。 ^ 近藤二郎 『星の名前のはじまり アラビアで生まれた星の名称と歴史』 誠文堂新光社、2012年8月、初版、172頁。ISBN 978-4-416-21283-7。", "みなみのかんむり座(南冠座、Corona Australis)は、南天の星座でトレミーの48星座の1つ。かんむり座とは別の星座である。日本の大部分では南の低い空でしか見ることができない。ラテン語名は、国際天文学連合の決定により Corona Australis だが、『学術用語集』では Corona Austrina となっている。(この場合、属格形は Coronae Austrinae、略符は同じ)。 α星:メリディアナ (Meridiana) は、この星座で唯一の固有名が付けられた恒星である。4.087等。 NGC 6541:球状星団。 NGC 6726:反射星雲。γ星とε星の間に位置する。南東すぐの位置にあるNGC 6729などを含めたこの一帯は、太陽系から最も近い星生成領域の1つとして知られている。なお、このγ星とε星の間には暗黒星雲が位置する。 一つの星座として独立して扱われた最古の記録は、紀元前1世紀頃のギリシャの数学者ゲミノスの『ファイノメナ序説』 (Εἰσαγωγὴ εἰς τὰ Φαινόμενα) によるものである。クラウディオス・プトレマイオスは13の星をこの星座に含めていたが、そのうちの星の1つは現在ぼうえんきょう座のα星とされている。 この冠は、ディオニューソスが母セメレーを冥界から救い出したのちに天に置かれたものとする神話がある。ヒュギーヌスはこれをかんむり座に関する神話であるとしているが、二つの星座を混同していると考えられる。 射手の冠、ケンタウルスの冠などと呼ばれることもあるが、これはすぐそばにいて座があることに由来する。 ^ a b “Results for alf CrA”. SIMBAD. CDS. 2018年6月28日閲覧。 ^ 原恵 『星座の神話 - 星座史と星名の意味』 恒星社厚生閣、2007年2月28日、新装改訂版第4刷、154頁。ISBN 978-4-7699-0825-8。 ^ a b “IAU Catalog of Star Names”. 国際天文学連合 (2018年6月19日). 2018年6月28日閲覧。 ^ a b c Ian Ridpath. “Corona Australis”. Star Tales. 2018年6月28日閲覧。 ^ Richard H. Allen (2013-02-28). Star Names: Their Lore and Meaning. Courier Corporation. p. 172. ISBN 978-0-486-13766-7. https://books.google.com/books?id=vWDsybJzz7IC.  座標: 19h 00m 00s, −40° 00′ 00″", "りょうけん座(猟犬座、Canes Venatici)は星座の1つ。 以下の恒星には、国際天文学連合によって正式な固有名が定められている。 α星:りょうけん座で最も明るい恒星。有名な実視連星。主星であるα2星はりょうけん座α2型変光星のプロトタイプで、コル・カロリ (Cor Caroli) という固有名が付けられている。 β星:固有名はカラ (Chara) 。ソーラーアナログの1つ。 Y星:炭素星、SRB型の半規則型変光星。La Superbaという固有名が定められている。 その他、以下の恒星が知られている。 V星:SRA型の半規則型変光星。 AM星:激変星。 M3:球状星団 M51(子持ち銀河):渦巻銀河。渦巻状であることが初めて確認された銀河。そばに伴銀河 NGC 5195 を従えた姿から「子持ち銀河」の通称で知られる。 M63(ひまわり銀河):渦巻銀河 M94:渦巻銀河 M106:渦巻銀河 GRB 090429B - 発見されている中で最も遠いガンマ線バースト。 1687年にヨハネス・ヘヴェリウスによって設定された。ヘヴェリウスは星図の中で、北側の犬にギリシャ語で「小さな星」を意味するアステリオン (Asterion) と、南側の犬にギリシャ語で「楽しみ」を意味するカラ (Chara) とそれぞれ名付けている。 1533年に、ドイツの人文主義者ペトルス・アピアヌスが描いた星図にうしかい座に連れられた猟犬の絵が描かれているが、これは現在のりょうけん座の位置とは異なり、また特定の星と結び付けられたものではないため、りょうけん座の起源とは見做されていない。 新しい星座のため、神話はない。 日本ではかつて、かりいぬ座と呼ばれた。 ^ a b c d e f 原恵 『星座の神話 - 星座の歴史と星名の意味』 恒星社厚生閣、2007年2月28日、新装改訂版4刷、116-117頁。ISBN 978-4-7699-0825-8。 ^ “Results for V* alf02 CVn”. SIMBAD Astronomical Database. CDS. 2013年2月6日閲覧。 ^ a b c “IAU Catalog of Star Names (IAU-CSN)”. 国際天文学連合 (2017年6月30日). 2017年10月14日閲覧。 ^ 『宇宙がまるごとわかる本』 宇宙科学研究倶楽部、学研パブリッシング、2012年2月、54頁。ISBN 978-4054052604。 ^ a b c Ian Ridpath. “Star Tales - Canes Venatici”. 2014年1月28日閲覧。 ^ 野尻抱影 『星座の話』 偕成社、1977年9月、改。ISBN 4037230100。" ]
ABC01-02-0275
証券取引における仕事始めを「大発会」というのに対し、仕事納めのことを何というでしょう?
大発会・大納会
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[ "大発会・大納会", "ナスダック総合指数", "株価平均型株価指数", "浮動株基準株価指数", "東証株価指数" ]
[ "大発会(だいはっかい、だいほっかい)及び大納会(だいのうかい)は、日本の証券取引所における、「1年間の取引の初日と最終日に行われる催事」。転じて、その営業日。 当日には、各界からのゲストを招いた「手締め」が行われるのが恒例である。 かつては大発会・大納会は共に午後(後場)は休場になり、午前11時で立会取引を終了していた(詳細は後述)。 新年最初の営業日に開催される。土日祝日が重ならなかった場合は1月4日である。立会取引は、通常通り前場後場とも行われる。 若い女性(東証の場合、同社の社員や関連各所の女性)が艶やかな晴れ着姿で参加するのが恒例である(東証では立会開始の鐘を鳴らすのが恒例である)。大発会日の取引は株価が上昇することが多い。過去20年間で日経平均株価(225種)が下落したのは2016年を含め8回である(参考文献参照)。これは新年最初というお祝いムード(ご祝儀相場)と、大納会で手仕舞いした反動の買いなどが原因として挙げられる。 年内最後の営業日に開催される。土日祝日が重ならなかった場合は12月30日である。官公庁の御用納めと同じ12月28日に行われていた時期もあったが、証券市場の完全週休二日制実施以降は、12月30日に行われるようになった。立会取引は、通常通り前場後場とも行われる。 大納会日前は、休日の不透明感を意識した買い控えや、税金対策のための損失確定、6月・12月決算の企業における権利落ち日の直後などで、平均株価が下降する場合もある。 なお、それらの売り圧力が一段落し、株価が下げ止まると、大納会日に株価が上昇することがある。 東京証券取引所の大納会では、2002年以降その年話題となったキーパーソンをゲストに呼び、立会終了の鐘を鳴らすのが恒例となっている。また、来場者に、その場で打たれた生そば(持ち帰り用)が振舞われる。以下、ゲストの一覧である。 2002年 - 長嶋茂雄 2003年 - 毛利衛 2004年 - 野村忠宏 2005年 - 為末大 2006年 - 井口資仁 2007年 - 茂木健一郎 2008年 - 鈴木孝幸、小椋久美子、潮田玲子 2009年 - 石川遼 2010年 - 川口淳一郎 2011年 - 佐々木則夫、安藤梢 2012年 - 吉田沙保里 2013年 - 佐藤真海、安倍晋三 2014年 - シャーロット・ケイト・フォックス 2015年 - 佐渡裕 2016年 - 伊調馨、くまモン 2017年 - 井山裕太 2018年 - 西野朗 東京証券取引所では、2009年12月30日の大納会並びに2010年1月4日の大発会から、通常日同様に終日取引を行うこととなった。その理由としては東証のコンピュータシステムの変更に伴う、システム負担の軽減を目的としている。 他の証券取引所についても、東証と同様である。 商品取引所の場合、大発会・大納会が行われる日付は証券取引所と同じである。ただし、夜間にも取引が行われている東京商品取引所では、大発会当日は、日中立会及び夜間立会が行われるが、大納会当日は日中立会のみ行う(毎年の最終営業日「大納会」においては、日中立会終了後の夜間立会は行わない)。大阪堂島商品取引所では、大発会・大納会両当日ともに、前場3節までの立会を行い、後場全節休会。 外国為替相対取引(外為相対)に関しては、土曜日・日曜日・元日と各国の法定祝日を除いて、24時間取引が行われるため、大発会・大納会は行われていない。 読売新聞東京朝刊 2008年1月5日 3面第1段 ^ 2010年までは先着順、2011年より事前申込制となった ^ 東証の開催スケジュールに記載はないものの、日本の首相として初めて出席した。 年中行事 年末年始 仕事納め 仕事始め 休日 日本取引所グループ allaboutマネー、年末年始は「ご祝儀相場」になるって本当?", "ナスダック総合指数(ナスダックそうごうしすう、英: NASDAQ Composite Index)は、株価指数のひとつ。アメリカの全米証券業協会(NASD)が開設・運営している電子株式市場「NASDAQ」に上場している3,000以上の銘柄の全てを対象に、時価総額加重平均で算出した指数である。 1990年代後半以降、NASDAQには、マイクロソフトなどのハイテク関連企業、グーグルなどのインターネット関連企業が数多く上場しており、このため、現在ではハイテクやネット関連業界の動向を窺う上での重要な指標とされる。 1971年以来の指数の推移を示す。1971年2月5日の算出開始時点における終値を基準値「100」として計算されている。 ^ “投資情報ご利用上の注意(情報提供:株式会社QUICK)”. 三井住友アセットマネジメント. 2014年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月13日閲覧。 ナスダック ナスダック100指数 NASDAQ Composite Index(英語) ブルームバーグ ナスダック総合指数速報サイト", "株価平均型株価指数(かぶかへいきんがたかぶかしすう)は株価指数の算出方式の一つ。組入銘柄の株価合計を、除数で除算して求めるものである。 株価の騰落率ではなく騰落金額の平均を示す指数である。株価が100円の銘柄も数万円の銘柄も等しく平均化される事から、発行済株式数は少ないが価格が高い一部の値がさ株の価格変動に左右されやすい性質がある。このため極端な例では、指数は上昇しても値下がり銘柄のほうが多いという状況もあり得る。 大きく分けて、単純平均とダウ式平均がある。 騰落率を示す指数方式として、時価総額加重平均型株価指数がある。 単純平均は、株価を合計し、それを銘柄数で割って算出する。 日本では、株に対して額面の概念があり、戦前から戦後にかけて設立された企業は額面は50円、戦後に新設された電力会社などは500円、さらに商法が改正されてのちの新設企業のNTTなどは5万円となっている。このため、50円額面以外のものは50円額面相当に読み替えた株価を出し、算出対象の株価を合計して、銘柄数で割る。 考え方はシンプルであり、計算も比較的簡単である。 この方式の弱点は、資本構成に変更のない株式分割や株式併合の場合である。たとえば1株を3株に分割する株式分割が行われると、株価は3分の1になる。株価600円の銘柄が1株を3株に分割しその後値上がりして210円になったら、210円で計算する。 株主は持ち株が3倍になるので実質的な変化はない。一方、この分割でおよそ株価は3分の1になるので、単純平均に影響が出る。本質的株式価値に動きがないのに、単純平均に反映されてしまうという問題がある。 上記の問題を解消しようとダウ・ジョーンズが考案したのが、ダウ式平均株価である。 ダウ式では、株式の分割や併合があった際に独特の数値処理を行う。 算出開始時のダウ式平均は、単純平均と同じである。ここで、ある銘柄が1株を3株に分割すると、株価は3分の1になる。それを単純に以前と同じ銘柄数で除すと連続性が途切れる。そこで、この除数のほうを調整し、連続性を維持するのである。これを分母調整型、と呼ぶ。ダウ式平均の真骨頂は、この分母の方を調整する点にある。 世界の株式市場では、ダウ工業株30種平均を筆頭に、それぞれダウ式平均による株価指数が算出されている。これらは上記の分母を調整する、ダウ式の平均株価である。 日本の日経平均株価も、(額面の読み替えがあるものの)2005年6月6日までは、株式分割や併合があった場合は分母を修正する、ダウ式平均で算出された。 しかし、6月7日から計算方式が根本的に変更された。採用銘柄で、2倍をこえない分割や併合があった場合は今までどおり分母を修正する、しかし2倍をこえる分割や併合があった場合は、分割や併合の影響を勘案したみなし株価を出し、それで計算する、というものである。これを分子修正型、と呼ぶ。株価600円の銘柄が1株を3株に分割しそのご値上がりして210円になったら、630円で計算する。 この分子修正に変更したことによって、現在の日経平均株価は、ダウ式平均株価ではなくなった点に留意されたい。 概要にあるように、平均株価は、値がさ株が指数に高い寄与を及ぼす。株式分割が分母修正で織り込まれて指数が算出されるならば、値がさ株の影響は株式分割があれば自然に解消する。しかし、分子修正型ではこの効果がないために、日経平均の算出には、2005年6月時に値がさ株だった銘柄の寄与が、今後株式分割があっても続くことになる。 ダウ式平均は、対象銘柄を同じ株数買い付ければ、ダウ平均と完全に同じポートフォリオを簡単に組むことができるのも長所のひとつである。しかし、日経平均の場合、対象銘柄を同株数買い付けても、日経平均と同じポートフォリオにはならない。1株を3株に分割した銘柄は他の銘柄の3倍、4株を1株に併合した銘柄は他の銘柄の4分の1だけ買わなくてはならない。 日経平均株価(日本) 日経ジャスダック平均株価(〃) ダウ平均株価(アメリカ)", "浮動株基準株価指数(ふどうかぶきじゅんかぶかしすう)は、マーケット全体の価格変動を評価する上で、対象マーケットに上場されている各銘柄の浮動株のみを指数の評価対象にする株価指数の算出方法。 ドイツ株価指数、英FTSE100種総合株価指数はすでに導入済み。日本の東京証券取引所では東証株価指数 (TOPIX) への導入を2005年10月末より段階的に行い、2006年6月30日に実施された3回目の反映を以て完了した。 主に機関投資家の間で、リスクヘッジの一手法として「インデックスファンド」が盛んに行われるようになってきた。この運用は、マーケットの株価指数に連動して、機械的に各銘柄の売買が行われる。このとき、時価総額基準では売買銘柄の数量算出は個々の銘柄時価総額に比例して行われる。しかし、浮動株比率の低い銘柄の場合では、インデックス運用による株価の乱高下が発生しやすい問題があった。また、時価総額の極端に大きい銘柄の株価はマーケットの株価指数と逆に連動してしまう現象も散見された。 これを浮動株基準に変更した場合、各銘柄の株数と価格から指数を算出するため、浮動株の多い株はインデックス運用でも多く売買され、逆に浮動株の少ない株はインデックス運用では少なく売買される。このため、インデックス運用が個々の銘柄の価格決定に与える影響を小さくできると考えられている。 ただし、浮動株の株数をどのように定義するかという問題がある。簡単な方法では「上位10社の所有株式数と該当企業の役員・持ち株会社所有の株を固定株、それ以外を浮動株とする」というものである。この浮動株の算出方法の定義次第では新たな問題が発生する可能性がある。 浮動株基準が東証株価指数に導入された場合、その直後は、浮動株比率が高く時価総額の低い銘柄は買われ、逆に浮動株比率が低く時価総額の低い銘柄は売られるといわれていた。 2004年(平成16年)2月8日、みずほコーポレート銀行保有のキヤノン株500万株の放出が発表された。これも、東証株価指数に浮動株基準化を睨んだ動きと言われている。", "東証株価指数(とうしょうかぶかしすう、英語: Tokyo stock price index、TOPIX(トピックス))とは、東京証券取引所第一部上場株式銘柄を対象として、同取引所が1秒毎に、算出・公表している株価指数である。日経平均株価と共に日本株のベンチマークとして普及している。 東証株価指数は、東証第一部上場株の時価総額の合計を終値ベースで評価し、基準日である1968年(昭和43年)1月4日の時価総額(当初数値は8兆6020億5695万1154円)を100として、新規上場・上場廃止・増減資・企業分割などにより修正され、指数化したものである。 日経平均株価に比べ、特定業種と企業の値嵩株の動きによる株価影響を受けない利点を持つ反面、株券の持ち合いにより、時価総額のダブルカウントが起きやすい欠点も有していた。このため、東京証券取引所は、2004年(平成16年)7月に時価総額加重平均型株価指数から浮動株基準株価指数への変更を示唆。その後、2005年(平成17年)10月31日、2006年(平成18年)2月28日、2006年(平成18年)6月30日の3段階に分けて、東証REIT(リート)指数を除く全ての株価指数を、浮動株基準株価指数へ移行させた。 1969年07月01日 - 東証株価指数・東証規模別株価指数の公表を開始 1969年08月18日 - 東証第二部株価指数の公表を開始 1988年09月03日 - 東京証券取引所にてTOPIX先物取引開始 1989年10月20日 - 東京証券取引所にてTOPIXオプション取引開始 1998年08月02日 - TOPIXニューインデックスシリーズの公表を開始 1999年02月01日 - 配当込み株価指数の公表を開始 2001年07月13日 - 東京証券取引所にてTOPIX ETF取引開始 2003年08月01日 - 東証REIT指数の公表を開始 2003年09月16日 - 東証マザーズ指数の公表を開始 2005年10月31日 - TOPIXの第一回浮動株化 2005年11月17日 - ユーロネクストにてTOPIX ETF取引開始 2006年02月28日 - TOPIXの第二回浮動株化 2006年06月30日 - TOPIXの浮動株化完了 2007年12月03日 - S&P/TOPIX150シャリア指数の公表を開始 2007年12月10日 - TOPIX-17シリーズの公表を開始 2009年02月09日 - TOPIXスタイルインデックスシリーズの公表を開始 2009年02月09日 - TOPIXコンポジットインデックスシリーズの公表を開始 2010年03月08日 - 東証配当フォーカス100指数の公表を開始 2010年06月21日 - 東証REIT用途別指数シリーズの公表を開始 2010年07月22日 - TOPIX配当指数、TOPIX Core30配当指数の公表を開始 2010年09月13日 - TOPIXの配信間隔を1秒単位に短縮 東京証券取引所第一部に上場している、内国普通株式全銘柄。 ただし、銘柄の追加・除外は、以下のルールにのっとって行われる。 (銘柄の追加) 新規上場(直接新規上場・他の証券取引所経由の上場)銘柄 : 新規上場日の翌月末(最終営業日) 新規上場(株式移転等に伴う新設会社等が市場第一部に速やかに上場する場合 : 新規上場日 第二部から第一部へ上場市場が変更(一部指定)となった銘柄 : 一部指定日の翌月末(最終営業日) マザーズ・JASDAQから第一部へ上場市場が変更となった銘柄 : 市場変更日の翌月末(最終営業日) (銘柄の除外) 整理ポスト割当による上場廃止銘柄 : 整理銘柄指定日の4営業日後 株式移転等のために上場廃止となり、当該株式移転等に伴う新設会社が市場第一部に速やかに上場する場合 : 当該新設会社等の新規上場日 合併などにより上場廃止となる銘柄 : 上場廃止日 市場第二部への指定替え : 指定替え日 歴代最高値 - 2884.80(1989年12月18日) 日経平均株価をTOPIXで割った値を「NT倍率」と呼んでいる。2000年以降のNT倍率は、概ね 9.5 - 12.5前後で推移している。日経平均株価の変動は輸出関連・ハイテクや、ファーストリテイリング・KDDI・ファナック・ソフトバンク・京セラの値がさ株による影響が大きいのに対し、TOPIXは時価総額の大きい大企業や内需関連株による影響が大きく、特に大手銀行株の構成比が、両者で大きく異なっている。したがって、NT倍率が大きく上昇したり、逆に下降したりするときは、物色対象が偏っていることを表す。 TOPIX Core30 TOPIX Large70 TOPIX 100 - 東証規模別株価指数(大型株) TOPIX Mid400 - 東証規模別株価指数(中型株) TOPIX 500 TOPIX 1000 TOPIX Small - 東証規模別株価指数(小型株) インデックスファンド 日本取引所グループによる説明" ]
ABC01-02-0276
アメリカのメリーランド州にある、大統領専用の別荘のことを何というでしょう?
キャンプ・デービッド
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[ "キャンプ・デービッド", "モネダ宮殿", "共和国記念日 (インド)", "マイク・ポンペオ", "サラ・ハッカビー・サンダース" ]
[ "キャンプ・デービッド(英語: Camp David)は、アメリカ合衆国大統領の別荘である。 正式な名称は海軍サーモント支援施設(かいぐんサーモントしえんしせつ、英: Naval Support Facility Thurmont)である。 2012年5月18日・19日の「第38回G8サミット」の会場になった。 第二次世界大戦中、フランクリン・ルーズベルト大統領が大統領専用の公設の別荘兼避難所として選定し、その後順次整備されてきた。 当初は「シャングリ・ラ」(Shangri-La=理想郷)という名称であったが、その後ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が自身の実孫の名であるデービッドにちなんで「キャンプ・デービッド(Camp David)」と変更した。 歴代大統領の多くは、この別荘を訪米した外国の要人をもてなす為に使用もしてきた。その最初は、第二次世界大戦中の1943年5月に滞在したイギリスのウィンストン・チャーチル首相である。 場所は、首都ワシントンD.C.から約60マイル(97Km)。 標高約250から400メートルでメリーランド州のサーモント、キャトクティン山岳公園 (Catoctin Mountain Park) の中にある。 面積は約125エーカー(約50万5千平方メートル)で公園内の最も高い山で標高600メートル弱である。 大統領はホワイトハウスからはマリーンワンで移動する。 キャンプ・デービッド屋内での遠隔会議 キャンプ・デービッドで会見する日本の小泉純一郎首相とジョージ・W・ブッシュ大統領(当時、2001年6月29日) キャンプ・デービッド合意 ホワイトハウス", "モネダ宮殿(モネダきゅうでん、Palacio de La Moneda)は、チリの大統領官邸。 1784年に、ホアキン・トエスカ(Joaquín Toesca)設計の元、スペイン植民地の造幣局の建物として着工され、1805年に完成する。1814年から1829年にかけて、通貨が作られる。 1845年6月より、チリの大統領モヌエル・ブルネス(Manuel Bulnes)が大統領官邸として使用する。その後、大統領官邸として機能を果たす。ガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権以降、大統領の住まいは別のところとなる。 1973年9月11日、チリ・クーデターが起き、サルバドール・アジェンデがチリ大統領として執務するモネダ宮殿に対して、チリ空軍が爆撃する。自ら銃を手にしたアジェンデ大統領は、戦死したとも、また自殺したとも言われていたが、チリ当局の遺体調査により2011年、自殺であることが判明した。建物も、各所で破壊されたままとなる。 1981年に、大規模な修理が行われ、再建される。2006年には、地下に『モネダ宮殿文化センター』(Centro Cultural Palacio de La Moneda)が完成されて、広く市民に公開されている空間となっている。 2008年9月15日にはモネダ宮殿で当時のチリ大統領ミシェル・バチェレによって南米諸国連合緊急首脳会議が開催され、ボリビアの農民虐殺事件をかつてのチリでのアジェンデ政権に対するクーデターになぞらえて非難した。 衛兵交代式が1・4・5・8・11・12月は偶数日に、2・3・6・7・9・10月は奇数日に行われている 。 ^ “Allende’s Death Was a Suicide, an Autopsy Concludes”. NYT. www.nytimes.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。 ^ “Informe del Servicio Médico Legal confirma la tesis del suicidio de ex Presidente Allende”. www.latercera.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。 ^ “チリ・故アジェンデ大統領は「自殺」 クーデターで死亡”. asahi.com (朝日新聞社). (2011年7月20日). オリジナルの2011年7月22日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110722021404/http://www.asahi.com/international/update/0720/TKY201107200454.html 2011年7月21日閲覧。  ^ “アジェンデ元大統領は自殺 遺体掘り起こし確認 頭撃ち抜いて チリ”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年7月20日). オリジナルの2011年8月28日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110828133259/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110720/amr11072013380006-n1.htm 2011年7月21日閲覧。  ^ Changing the Guard | Chile / La Moneda Palace, Santiago - Changing-Guard.com サンティアゴ中央郵便局 - 大統領官邸がモネダ宮殿に移るまでの間、大統領官邸として使用されていた。 チリ政府公式サイトでの説明ページ Palacio de La Moneda - Gobierno de Chile[リンク切れ] (スペイン語) スペイン語サイト Palacio de La Moneda - SANTIAGO Turismo (宮殿内部の360度パノラマ画像あり)(スペイン語) 座標: 南緯33度26分35秒 西経70度39分14秒 / 南緯33.443018度 西経70.65387度 / -33.443018; -70.65387", "インドの共和国記念日(きょうわこくきねんび)は、インドの祝日で、1月26日。1950年1月26日にインド憲法が発布され、共和国となったことを記念する日である。 8月15日の独立記念日や10月2日のガンディー生誕記念日とは別に祝われる(独立記念日は1947年に英連邦王国としてのインド連邦が成立して独立国となったことを祝う)。 共和国記念日の式典では、インド陸軍により首都のニューデリーからパレードが行われる。 近年、この式典に外国の首脳が主賓として招かれることが慣例となっているが、式典への招待はインド国外の首脳に贈られる最高の栄誉とされる。 2014年 - 安倍晋三が日本の内閣総理大臣として初めて主賓として出席。 2015年 - バラク・オバマがアメリカ合衆国大統領として初めて主賓として出席。 憲法記念日(戦後日本。5月3日) ^ “インド共和国記念日パレード、米大統領が初出席”. AFPBB News. (2015年1月26日). http://www.afpbb.com/articles/-/3037771 2015年9月8日閲覧。  ^ “首相、インドで軍事パレード出席 親密さアピール”. 47NEWS(共同通信). (2014年1月26日). http://www.47news.jp/CN/201401/CN2014012601001559.html 2015年9月8日閲覧。  ^ “米・インド、親密さアピール オバマ氏主賓で記念行事”. 47NEWS(共同通信). (2015年1月26日). http://www.47news.jp/CN/201501/CN2015012601001967.html 2015年9月8日閲覧。", "マイケル・リチャード・\"マイク\"・ポンペオ(英語: Michael Richard \"Mike\" Pompeo、1963年12月30日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。第70代アメリカ合衆国国務長官。 2011年から2017年まで共和党所属の下院議員(カンザス州第4選挙区選出)に在職したあと、ドナルド・トランプ政権で2017年から第24代中央情報局(CIA)長官を務め、2018年4月から国務長官に在任中。 1963年12月30日にカリフォルニア州オレンジ郡オレンジ市で生まれる。サンタアナに住んでいるときに1982年にロス・アミーゴス高校を卒業する。その後、ウェストポイントの陸軍士官学校に入学し、機械工学を学び、1986年にトップの成績で卒業した。1986年から1991年までアメリカ陸軍機甲部隊で働き、次にハーバード大学ロースクールに入学し、ハーバードロー・レビューの編集者として法務博士の資格を得た。1994年に卒業した後はウィリアムズ&コノリー法律事務所で法律家として働いた。 ティーパーティー運動の一人であり、2010年には民主党のラジ・ゴイルを59%の得票を得て打ち破り、2011年から連邦下院議員となった。 2016年11月18日、ポンペオは中央情報局長官に就任するようドナルド・トランプ次期大統領より指名された。 ポンペオに対する公聴会は2017年1月12日に開催され、1月20日に上院の情報委員会は発声投票で承認した。 2017年1月23日に米国上院は、ポンペオの中央情報局(CIA)長官就任を賛成66、反対32で承認した。 2017年5月、北朝鮮は、CIAと韓国の国家情報院が金正恩委員長の暗殺を試みたと発表し、暗殺に関与したCIA関係者や国家情報院トップの引き渡しと正式な謝罪を要求した。同時期に韓国を訪問したポンペオは金正恩体制への反乱煽動などを脱北した北朝鮮の元駐英公使と協議し、特定の国を対象としたものとしては初めてである北朝鮮を専門とした部署を新設しており、これに対して金委員長暗殺を目的とした動きとする見方もある。また、同年7月にはポンペオは金委員長の排除を示唆した。 2017年4月13日、ワシントンの戦略国際問題研究所で最初の公式講演を行い、我々は大統領と国に情報提供するという単純だが難しい使命を帯びていると語った。 2018年3月31日、極秘訪朝して2000年に平壌を訪問したマデレーン・オルブライト米国務長官と金正日総書記の直接会談以来の米朝のハイレベル対話を金正恩委員長と行った。非核化や拘束された米国人解放などを議論したとされる。 2018年3月13日、トランプ大統領はティラーソン国務長官の解任と、その後任にポンペオCIA長官を指名したことを発表した。4月26日に上院にて57:42で就任が承認され、同日中に就任。 2018年5月9日、国務長官として訪朝し、同年6月12日開催予定の米朝首脳会談を調整し、北朝鮮で拘束されていた米国人3名とともに帰国した。 2018年6月12日の米朝首脳会談後に自身のTwitterで「アメリカ大統領)と我らのチームが北朝鮮と議題にしたことは北朝鮮国内の 人権、宗教の自由、日本人拉致被害者らだ。 」と明かした。 ポンペオはキリスト教の福音派を信仰し、中絶(Abortion)に強硬に反対している。彼は、レイプや近親相姦による妊娠の際の中絶にも反対である。 オバマ大統領がCIAの”水責め”などの拷問を規制した際には、ポンペオは拷問をおこなったのは「拷問者ではなく、愛国者だ」と発言した。 ポンペオは、彼を支持している全米ライフル協会の終身(生涯)会員である。銃規制に反対している。 オバマによる医療保険制度(いわゆるオバマ・ケア)に強く反対している。 ^ マイク・ポンペイオ|NHK NEWS WEB 2018年5月6日閲覧 ^ Staff (2011年). “Once a Soldier... Always a Soldier”. Legislative Agenda. 合衆国陸軍協会. 2013年10月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月26日閲覧。 ^ a b “トランプ大統領 ティラーソン国務長官を解任”. NHKニュース (日本放送協会). (2018年3月13日). https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180313/k10011363871000.html 2018年3月13日閲覧。  ^ “特朗普解僱國務卿蒂勒森 提名中情局長接任” (中国語). 明報 (2018年3月13日). 2018年3月13日閲覧。 ^ “Mike Pompeo, Director of the CIA, will become our new Secretary of State.” (英語). Donald J. Trump. Twitter Inc. (2018年3月13日). 2018年3月13日閲覧。 ^ “Trump's CIA pick: Russian hacking 'aggressive action' by senior leaders”. CNN (2017年1月12日). 2017年3月20日閲覧。 ^ JOSH SIEGEL (2016年11月21日). “WHO IS THE NEW CIA PICK, MIKE POMPEO?”. News Week. 2017年3月20日閲覧。 ^ JOSH GERSTEIN (2017年1月12日). “Who is Mike Pompeo”. Politico. 2017年3月20日閲覧。 ^ Daniel S. Levine (2016年11月18日). “Mike Pompeo: 5 Fast Facts You Need to Know”. Heavy. 2017年3月20日閲覧。 ^ JOEL GEHRKER (2014年10月7日). “Tea-Party Power Endures”. National Review. 2017年3月20日閲覧。 ^ Mazzetti, Mark; Davis, Julie Hirschfeld (2016年11月18日). “Donald Trump Chooses Mike Pompeo as C.I.A. Director”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2016/11/19/us/politics/donald-trump-mike-pompeo-cia.html 2016年11月18日閲覧。  ^ “PN43 — Mike Pompeo — Central Intelligence Agency”. Congress (2017年1月23日). 2017年3月20日閲覧。 ^ Greg Miller (2017年1月23日). “Senate confirms Mike Pompeo as CIA director”. The Washington Post. 2017年3月20日閲覧。 ^ “北朝鮮「韓米情報機関、北首脳部のテロ企図」主張…労働新聞の報道”. 中央日報. (2017年5月12日). http://japanese.joins.com/article/016/229016.html 2018年3月14日閲覧。  ^ “北朝鮮、金正恩氏の暗殺企んだとしてCIAを非難 スパイの存在に言及”. AFP. (2017年5月5日). http://www.afpbb.com/articles/-/3127321 2018年3月15日閲覧。  ^ “北朝鮮、韓国情報機関トップの引き渡し要求 「正恩氏暗殺計画」で”. CNN. (2017年5月13日). https://www.cnn.co.jp/world/35101105.html 2018年3月15日閲覧。  ^ “北朝鮮が米国に「正式な謝罪」要求、金正恩氏暗殺計画で―米メディア”. Record China. (2017年5月8日). http://www.recordchina.co.jp/b177439-s0-c10.html 2018年3月15日閲覧。  ^ “CIA長官、脱北元駐英公使と接触 反乱扇動、金正恩体制転覆の可能性など協議”. 産経ニュース. (2017年5月19日). http://www.sankei.com/world/news/170519/wor1705190017-n1.html 2018年3月14日閲覧。  ^ “CIAに北朝鮮対応の専従組織 特定国対象は初めて”. 産経ニュース. (2017年5月12日). http://www.sankei.com/world/news/170511/wor1705110026-n1.html =2018-03-14閲覧。  ^ “金正恩抹殺に動くのか CIA「北朝鮮専従組織」新設の狙い”. 日刊ゲンダイ. (2017年5月12日). https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/205243 =2018-03-14閲覧。  ^ 「金委員長排除狙う可能性も=北朝鮮問題でCIA長官-米」時事通信2017年7月22日 ^ “Director Pompeo Delivers Remarks at CSIS”. CIA (2017年4月13日). 2017年5月27日閲覧。 ^ “米CIA長官、金正恩氏と直接会談 トランプ大統領認める”. BBC. (2018年4月18日). http://www.bbc.com/japanese/43805678 2018年4月19日閲覧。  ^ “CIA長官、拘束米国人の解放提起=金正恩氏と会談で-ロイター報道”. ロイター. (2018年4月19日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2018041900361 2018年4月19日閲覧。  ^ “ポンペオ氏が米国務長官に就任 トランプ政権で2人目”. CNN.co.jp. CNN. (2018年4月27日). https://www.cnn.co.jp/usa/35118459.html 2018年4月27日閲覧。  ^ “北朝鮮解放の米国人3人が帰国 米朝首脳会談へ前進”. 日本経済新聞. (2018年5月10日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3031415010052018EA2000/ 2018年5月10日閲覧。  ^ [1] ^ http://www.cosmopolitan.com/.../mike-pompeo-trump-cia-director/ ^ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161122-00010001-bfj-n...", "サラ・エリザベス・ハッカビー・サンダース(Sarah Elizabeth Huckabee Sanders、1982年8月13日 - )は、アメリカ合衆国の政治補佐官で、2017年7月からはホワイトハウス報道官を務める。彼女は、元アーカンソー州知事で大統領候補だったマイク・ハッカビーとその夫人のジャネット・ハッカビー(英語版)の娘である。 2018年6月22日、バージニア州レキシントン市のレストランを訪れた際、トランプ政権関係者であることを理由に入店を断られた。このことについて「意見が異なる者に対しても私は常に最善を尽くして人々に接しているし、これからもそうする。」とコメントして表立った批判は行わなかったが、父親がレストランの姿勢に否定的な意見を述べて話題になると、店側に抗議のデモや嫌がらせが殺到。営業が不可能になり、女性経営者が辞任に追い込まれる騒ぎとなった。 ^ “Huckabee daughter weds in Virgin Islands ceremony”. The Arkansas Democrat-Gazette (2010年6月27日). 2017年3月5日閲覧。 ^ “Sarah Elizabeth Huckabee - Little Rock, Arkansas”. InstantCheckMate.com. 2017年3月5日閲覧。 ^ “料理店が報道官を入店拒否 「トランプ政権で働いているから」”. CNN (2018年6月24日). 2018年6月28日閲覧。 ^ “サンダース報道官の入店拒否したレストランに抗議デモ 休業状態に”. 産経新聞社 (2018年6月28日). 2018年6月28日閲覧。 サラ・ハッカビー・サンダース - C-SPAN White House Website – Press Briefings" ]
ABC01-02-0277
約1.8リットルを1とする、お酒などをはかるときに用いる単位は何でしょう?
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[ "升", "粟 (単位)", "俵 (単位)", "圭 (単位)", "キログラム毎立方メートル" ]
[ "升(しょう)とは、尺貫法における体積(容積)の基準となる単位である。10合(ごう)が1升、10升が1斗(と)となる。その量は時代や地域により異なる。日本では、メートル法採用後の1891年(明治24年)に、立方メートル(立米、m3)を基準にして1升を 2401/1 331 000 立方メートルと定めた(後述)。これは、約 1.803 906 837 リットル (L) に当たる。 中華人民共和国では、1 升 = 1 リットルと定義し、また、SI単位としてのリットルにも「升」の字を宛てている。一応区別のために、前者を市升、後者を公升と称するが、同じ値であることから単に升と呼ばれることが多い(市制も参照)。 升は元々は両手で掬った量に由来する身体尺であった。当時の升は 200 ミリリットル程度、現在の升の10分の1程度であった。それが時代とともに大きくなっていき、現在は元々の量の10倍程度になっている。 「升」という文字は柄杓の中に物を入れた形をかたどったものである。そこから量を量る「ます」の意味、およびそれによって量られる容積の単位を意味するようになった(これとは別に、柄杓で物を掬い上げることから「のぼる」の意味もある)。後に容器の方は「升」に木篇をつけて「枡」と書き分けるようになったが、実際にはあまり区別されていなかったようである。上述のように、1升という量があってそれを量る枡が作られたのではなく、先に物を量る枡が定められ、その量が「升」と定められた。 新の嘉量の測定により、当時の 1 升は約 200 cm3 であったと推定されている。隋・唐になると旧来とほぼ同じ 200 cm3 程度の小升と、その3倍の大升が定義された。唐以降は小量升は使われなくなった。 唐以降も1升あたりの体積は増大し、明・清には1Lあまりになっていた。1929年に制定された市制では、1升は正確に1Lに等しいと定義され、この値が現在も使われている。 日本において「升」という単位は大宝律令にまず見られる。日本では、当時の唐の升を導入し、大升を約0.71リットル(新京升の約 0.4 倍)、その3分の1の小升を約 0.24 リットル(同 0.1 倍)としたとの説がある。 以上を含め奈良時代の升量については、江戸時代の学者によるものをはじめ各種の説があるが、いずれも律や令の記述と中国の度量衡制度からの推定に過ぎなかった。しかし、澤田吾一は、奈良時代の穀倉の大きさから割り出し、当時の1石として2,800立方寸を得た。当時使われていた尺度から現在の升量に換算すると、当時の1升は現升の0.4升に当たる(澤田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』、復刻柏書房)。現在、最も信憑性の高いと信じられている升量である。 律令制の崩壊につれ、各国、後に各地の荘園で勝手な升が使われるようになった。後三条天皇は荘園整理を断行し、その一環として1072年、後に延久宣旨枡(せんじます)と呼ばれる公定の升を定めた。この量についてもよく分かっていない。文献的には現升の 0.6270(『伊呂波字類抄』)、0.8223(『東盛義所領注文案裏書』)、0.4932(『潤背』)とする記録が残されている(寶月圭吾『中世量制史の研究』、昭和36年、吉川弘文館)。寶月はこのうち『伊呂波字類抄』による 0.6270 を最も信憑性の高い数値としている。縦横4寸、深さ2寸(32立方寸)の枡で、0.81 リットル、新京枡の 0.45 倍の容積とするのは、鎌倉末期に成立した『潤背』によるものであり、これは本文で「寛治宣旨」となっており、延久年間に宣旨升が出されたことに明らかに反しており、信用できないとする。ただ、古制を復古したはずだとする説によってこれを採用する研究者もいる(小泉袈裟勝『図解単位の歴史辞典』、柏書房)。ただ、寶月による 0.6270 も尺度を中世に普遍的に使われた曲尺として計算しているが、『伊呂波字類抄』は遅くとも平安末期には成立していたので、律令尺は、曲尺の0.97に当たるので現升の 0.5722 升に当たるものと推定される。平安時代末期から鎌倉時代末期ごろまで、京都から関東、九州まで宣旨升による文献が見いだされているが、どの程度普及したかは明かではない。 南北朝時代以降は宣旨枡の検定がほとんど行われなくなり、各地でその地域だけで通用する升が作られた。しかし、商業の活発化は、自ずと市場で共通する升を生み出すこととなった。これが見世升とか町枡といわれる商業升であり、これは新京升よりやや小さく、古京升に近い量をもっていたと考えられる(寶月圭吾『前掲書』)。奈良においては、興福寺が標準となる升を公定していたため、新京枡の0.8程度の升が市場で使われていた(『多聞院日記』)。これは、奈良における状況を示したものであり、これを京都もしくは全国にまで広げるのは誤りである。 織田信長から豊臣秀吉へという全国統一の流れの中で、納める年貢の量に直結する「升」を量るための枡を全国共通のものにする必要が生じた。織田信長は、当時使われていた十合升を公定して標準的取引升とした。元亀二年に「判枡」(発行者の花押を書いた枡)を利用する記述が初めて現れ、これ以降「十合枡」の記述が急減していくことから信長による升の公定が裏付けられる。天正14年10月、豊臣秀吉の代官中坊源五は、旧来奈良で使われていた升の使用を一切禁止し、新たな升の使用を義務づけた。この新たな枡は、京都を中心に使われていた升であったことから京枡(きょうます)と呼ばれた。後の新京枡と区別するために古京枡ともいう。古京枡は縦横5寸、深さ2寸5分で、62.5 立方寸、容積は 1.74 リットル、新京升の 0.964 倍であった。 1669年、江戸幕府は、江戸を中心に使われていた江戸枡(古京枡と同じ量)を廃止し、古京枡より少し大きい新京升の採用を命じた。新京升は縦横4寸9分、深さ2寸7分、約 1.8039 リットルであった。一説には、縦横が1分減り、深さが2分増えたのだから体積は変わらないと思わせて、実は体積が約 3.7 % 増えているという策略であるとも言われる。江戸幕府は江戸と京都に「枡座」を置いて枡の大きさを厳密に統制したので、江戸時代の約300年間大きさの統一が保たれた。 新京升による1升は縦横49分、深さ27分であるので、49分×49分×27分 = 74 × 33 立方分 = 64827 立方分となる。この数字は「武者鮒」「虫や鮒」と語呂合わせで覚えられていた。 1875年(明治8年)、明治政府は新京升の体積を公定の升の体積と定めた。メートル条約批准後に制定された度量衡法で、メートル法に基づいて1尺は 10/33 メートルと定められ、分は尺の 100 分の 1 であるので、 1 分 = (10/33) × (1/100) m = 1/(11 × 3 × 10) m 新京升の体積は、前項のとおり、74 × 33 立方分であるので、 1升 = 74 × 33 / (113 × 33 × 103) m3 = 74/(113 × 103) m3 = 2401/1 331 000 m3 = 2401/1331 リットル = 約 0.001 803 906 837 (m3) = 約 1.803 906 837 リットル となった。 1959年、計量法の施行により同法の規定する以外の単位の使用は規制され、升は公式には使用されなくなった。ただし、今日でも日本酒などの一部の酒類は 1.8 リットル単位で取り引きされている。約 1.8 リットルの液体が入る瓶は「一升瓶」と呼ばれている。 一方で米の取引はキロが主体となったが、白米 1 合が 150 g であるので、米一升は 1.5 キログラムである。米 1 kg は約 6.6 合強、スーパーなどでよく売られている 5 kg 詰めの米袋は、約 3.3 升である。 上記のとおり、「升」は「ます」と訓ずる。また、5合は2分の1升に当たるため、「二升五合」を「ますますはんじょう(益々繁盛)」と判じ読みを行う。しばしば、湯飲みなどに「春夏 二升五合 冬」と書いて、「商い(秋無い)益々繁盛」の縁起物とされる。また、1斗が5升の倍に当たることから、「一斗二升五合」と書き「五升倍 升升 半升」と解して「御商売 益々 繁盛」と洒落として読むこともある。 ^ 度量衡法、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、第三條 量、升の項に、「六萬四千八百二十七立方分」とある。 ^ 度量衡法、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、第二條、「長サ三十三分ノ十ヲ尺トシ」 ^ 度量衡法、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、第三條の度、分の項に、「尺ノ百分ノ一」とある。 ^ 計量法施行法(1951年6月7日法律第208号 廃止:1993年11月1日)第4条第4号による定義 体積の比較", "粟(ぞく)は、日本の尺貫法および中国における歴史上の体積の単位である。 「粟」の漢字はアワを意味する。日本の尺貫法では『塵劫記』により圭の10分の1と定義され、したがって1粟は1勺の1万分の1、メートル法に換算して約1.8039µLとなる。一方、中国の『孫子算経』では圭の6分の1となっている。その下の単位は粒(一説に「顆」)である。", "俵(ひょう)は、米穀などの産品の取引や流通のために使用される単位である。尺貫法の体系から独立した特殊単位で、具体的な量は対象品目ごとに異なる。 米以外にも雑穀、木炭、食塩、綿花など、かつて俵(たわら)で流通したさまざまな産物に適用された。元来は1つの俵に入れる体積の単位であったが、現在は質量の単位である。 1952年(昭和26年)の計量法においては尺貫法と同様に、同法で規定されていない非法定計量単位として使用が禁止され、法的根拠を喪失した。そのため現在は、俵の量目は取引慣行により定められる。 現在の米穀取引の実務における1俵は60 kgとされている。 かつて米の計量は枡を基準とし、体積で計量され流通したため、俵は体積を表す単位だった。文献で最初に記載されている俵についての記述は、平安時代のもので5斗で1俵とするという規定が残っている。この時代の斗量は現在とは異なり、現在の定説では、当時の1斗は現在の0.4斗である。したがって、当時の1俵は約30 kgである。戦国時代から江戸時代の1俵はおおむね2斗から5斗の間で時代・土地ごとに異なり、例えば幕府は1俵を3斗5升としたが、加賀藩の1俵は5斗であった。またそもそも俵自体にも、四斗俵や六斗俵などいろいろなサイズがあって、規格が一定していなかった。 俵が単位として統一されたのは明治時代である。ただし全国的な法規はなく、根拠法規は各県ほぼ共通する内容の「○○県米穀検査規則」という県令である。同規則の中で各県の検査機関が行う米穀検査に使う俵の容量は「4斗」と定められ、同時に俵の寸法や構造が標準化された。未検査の米は流通が禁じられていたので、以後は一俵 = 4斗が事実上の統一基準になった。1斗はメートル法換算で18.039リットルと法定されていたので、明治時代の一俵は72.156リットルである。米1斗の質量は約15 kgなので、1俵は約60 kgとなる。 かつては60 kgの米俵を担ぎあげて運ぶことができれば、一人前の労働者とみなされた(世界大百科事典)。1俵は労働者一人が担いで運ぶ量であり、2俵は馬一匹の積載量であったため、米の出荷・保管・輸送に便利であった。タイなど海外ではいまだに60キロ袋が米の流通に使用されているが、重労働に慣れない現代日本人には60 kgの米俵を扱うことは難しくなり、出荷流通の米袋は「半俵」の30kg入りの紙袋包装が普通となった。 「石」と「俵」はどちらも米の量であるが、一石は兵一人が一年に食べる量とされて軍事動員力を示す石高制の基礎単位、俵は単に米を流通のため包装する単位で、そもそも性格が異なる。江戸時代の武士の収入には「石」と「俵・扶持」の表記があるが、領地を与えられ、そこから収納する石高の年貢を収入とする建前の上・中級階層が「石」、領地を持たず、米の現物支給を受ける軽輩の収入が「俵・扶持」で表されたのである(蔵米知行)。知行の換算は、 米1俵 = 1石 = 金1両(名目レート)また蔵米5俵 = 1人扶持(1日5合換算の端数切り上げによる)であった。 なお、幕府の御家人の知行1石が蔵米1俵に相当するのは、以下の通りの計算である。 天領の税率が四公六民なので、知行1石からは武士に対しては4斗の収益となる。これを精米することにより約3斗5升となり、蔵米の精米1俵分とほぼ同等となる。 大豆や小麦は米と同様に60 kg、馬鈴薯や大麦は50 kg、ソバは45 kgが1俵である。また木炭の1俵は15 kgである。 木炭の例では、北海道胆振地方においては、木炭の等級別に一俵当たりの重量が異なっていた。最上級品が四貫目詰め(約15kg)、上物は十貫目詰め(37.5kg)、さらに下の等級ではむしろで丸めた八貫目詰め(30kg)とされていた。 英語で綿花や羊毛など繊維原料の取引単位を示す「Bale(ベイル)」の訳語には「俵」が当てられ、国内でも取引の基準単位とされる。1ベイルの量は対象品目や産出国によって異なる。一例としてアメリカ綿1俵は500ポンド、約226.8 kgである。 ^ 小泉袈裟勝監修、単位の辞典、改訂4版、p.246、ラテイス、1981年7月31日 ^ 米1俵はメートル法に換算すると何kgになるか 福岡県立図書館、レファレンス事例詳細、レファレンス協同データベース、2013年5月16日  ^ (『延喜式』雑式) ^ (澤田吾一『奈良時代民政経済の数的研究』) ^ ただしこれは舂米(ついた米)の場合であって、当時米は穀(もみがらがついた米)の状態で保存されていたので、この場合の質量は、約20kgである。 ^ 「一俵ノ容量ハ四斗トスルコト」富山県米穀検査規則第四条ノ四、茨城県米穀検査規則第八条ノ五 等 ^ 菅原昭二 『穂別高齢者の語り聞き史(昭和編)大地を踏みしめて 上  十四歳の丸太馬搬と畳屋半世紀の話 』 穂別高齢者の語りを聞く会、2014年、p271。", "圭(けい)は、尺貫法の体積の単位である。 撮(弗)の10分の1のことである。したがって、1圭は1勺の1000分の1となり、メートル法換算で約18.039µLとなる。中国では『孫子算経』、日本では『塵劫記』にみえる単位であるが、米では米粒1粒分を下回っている。その下の単位は粟である。", "キログラム毎立方メートル(キログラムまいりっぽうメートル、記号:kg/m³, kg m-3)は、国際単位系(SI)及び計量法における密度の単位である。1キログラム毎立方メートルは、1立方メートルにつき1キログラムの密度と定義される。 水の最大密度は、3.984 ℃において 999.974 95 kg/m³である。 他の密度の単位との換算は以下のようになる。 1 kg/m³ = 1000 g/m³(グラム毎立方メートル) 1 kg/m³ = 1 g/L(グラム毎リットル) 1 kg/m³ = 0.001 g/cm³(グラム毎立方センチメートル) ^ 国際単位系 (SI) 国際文書第8版 2006年(日本語訳)、訳・監修 (独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター p.28、表2 基本単位を用いて表される一貫性のある SI 組立単位の例、「密度,質量密度」の欄 ^ 計量単位令 別表第一 項番19、「密度」の欄 ^ [1] Density maximum and molecular volume at the temperature of maximum density のaの欄" ]
ABC01-02-0278
英語で、すみれはバイオレットといいますが、三色すみれは何というでしょう?
パンジー
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[ "パンジー", "フリージア", "セントポーリア", "コエビソウ", "トケイソウ" ]
[ "パンジー(学名:Viola × wittrockiana、英: pansy)はスミレ科スミレ属の小型の園芸植物の一種。 スミレもしくはサンシキスミレ(Viola tricolor)から分化したものと考えられ、サンシキスミレの亜種 Viola tricolor hortensis とされることがある。しかし、園芸上用いられる変種は交雑と交配が進んだものであり、学名を Viola × wittrockiana としてあらわしている。「パンジー」という名前は、このパンジーの他にもこれに似ている野生のスミレ属の花を指すときにも使われている。ただし、ヨーロッパではハーツィーズと呼ばれる事もある。また、ハエドクソウ科ミゾホオズキ属のパンジーモンキーフラワー(Mimulus angustatus、英: Purplelip Pansy Monkey-flower)のように、全く関係のない植物も花の形や花弁の模様が似ているためパンジーと呼ばれることもある。小型のパンジーをビオラということもあるが、学名の「ビオラ」(ヴィオラ)はスミレ属のことである。 1800年代に北欧で、アマチュアの園芸家が大きく鮮やかな群性のスミレを作るために、野生のサンシキスミレと野生スミレビオラ・ルテア(V. lutea)、さらに近東のスミレビオラ・アルタイカ(V. altaica)を交配して生まれた。1820年代から1830年代に膨大な交配が行われた結果、有名な品種は非常に大衆的なものとなっていた。1835年までには400品種が存在しており、1841年までには、パンジーは観賞植物として親しまれるようになった。イギリスではフローリスト(園芸愛好家)たちによって育種され、1813年にトムスンが改良を始めたとされる。そして「ショウ・パンジー」が生まれた。しかし19世紀半ばには、ヨーロッパ大陸生まれのファンシー・パンジーに地位を取って代わられた。これは最初ベルギー・パンジーと呼ばれていたが、後にスコットランドで改良が行われた。 ビクトリア時代に低コストな鉄が入手可能になったことから、温室が爆発的に普及し、その結果現在園芸家たちに知られている鮮やかな花が生まれた。 パンジーを低木や潅木の下に植えると、生物マルチのような雑草を抑制する効果が得られる。 寒冷地では春に、暖かい地方では冬から開花が始まる。このため花屋では寒さに強い植物として販売されることが多い。パンジーはしばしばアリッサム(Lobularia maritima)と混植される。これはこの組み合わせが色彩的に魅力的である共に、同時に開花するためである。 パンジーはエディブル・フラワーとして食用にしたり、媒染剤で処理した織物を染めるために使われていたこともある。 パンジーは交配が進み、黄金、オレンジ、赤、紫、青紫、白青、スミレ色、黒(濃青による)、複数色の混合など、多彩な色彩をもっている。パンジーは日当たりがいいところでよく生長する。パンジーは非常に丈夫な植物で、降雪で株が雪に埋まっても、低温で凍結しても、株・茎・葉・花は損傷せず、雪や凍結が解けた後は植物の活動を再開する。パンジーは秋蒔きの一年草であり、通常、ライフサイクルの完結には足掛け2年を要する。1年目に青葉を茂らせて冬を越し、2年目に花実をつけた後に枯死する。開花期は10月~5月である。寒冷地では多年草だが、日本の多くの地域では夏の気候が暑すぎるため枯れてしまう。ほとんどの園芸家は、ホームセンターなどで苗の状態で購入し、庭に移植する。こぼれ種でも自然に増える。 パンジーは、わずかに重なった2枚の上側の花弁、2枚の脇の花弁、下側3枚の花弁が結合するヒゲ、およびわずかな切れ込みを持つ1枚の下側の花弁からなる。 毒成分 ビオリン、サポニン、ビオラルチン、グリコサイド 毒部位 種子、根茎 毒症状 嘔吐、神経麻痺、心臓麻痺 この項目は英語版の直訳で、日本語の病名とは異なる。また、これらの多くは日本では発生していない。 茎腐れ、またはパンジー病 盛りの中頃に突然折れることがある。葉が萎えて変色する。花は早くにしぼんで縮む。茎は軽く引っ張っただけで地面のあたりで折れる。感染した個体を取り除かないで放置すると全滅する。 原因は土に生息する菌 Myrothecium roridum の感染で起こる。殺菌していない動物の堆肥によって感染するおそれがある。 植える前にチェシャント剤か近代的なベノミル抗真菌薬を散布する。感染した個体は焼却する。 さび病 Puccinia aegraというサビキン(担子菌門)の感染で起こる。黄褐色の斑点が葉と茎に生じる。ベノミルか硫化カリウム1オンス(28グラム)を2ガロン半(約9.46リットル)の水で希釈し、スプレーする。 斑点病 Ramularia deflectensという菌の感染で起こる。葉の縁に黒っぽい斑点ができ、その後葉が白い網状の菌糸で覆われる。春に気温が低く雨が多いと発生しやすい。殺菌剤をスプレーすること。 うどんこ病 Oidiumという子嚢菌の感染で起こる。葉の縁と裏側に灰紫色の粉が出る。間隔を十分にとらないで植え付けた個体同士が蒸れると発病しやすい。薬剤をスプレーすればある程度抑制できるが、根絶することは難しい。特に葉の裏側の菌は退治しにくい。 キュウリモザイクウイルス アブラムシ(アリマキ)によって伝染する。若い葉に黄色く細かい葉脈ができる。成長を妨げ、異常な花ができる。ウイルスは潜伏状態のまま植物全体に感染し、次の世代や他の種に伝播することがある。健康な植物を購入する、土壌を湿らせすぎず乾燥させすぎない、pHのバランスの取れた土を使う、窒素、リン酸、カリウムのバランスを取る、植物を弱らせるようなほかの病気を根絶するといった予防が効果的である。 ナメクジ、カタツムリ ナメクジやカタツムリの嫌う尖った砂や樹皮を砕いたマルチで植物の周りを囲い、餌となる落ち葉や異物を取り除いて食害を予防する。ナメクジやカタツムリはビールに誘因される習性があるため、ビールを小さな容器に入れて植物の根元に埋めると効果的な罠となる。 アブラムシ アブラムシは植物の病気を媒介するため、早期の退治が望ましい。希釈した石鹸水(1ガロンにつき2オンス)をスプレーする。 チョウ ツマグロヒョウモンは野生のスミレ類を食草とするが、近年寄せ植えのパンジーにつくようになった。黒い体に赤い縦縞、棘状の突起を密生するのでよく目立つ。蛹は灰褐色に金属光沢の棘を備える。 21種の栽培品種をもつユニバーサルプラス・シリーズがオレンジと黒以外の全てのパンジーの色をカバーしている。 アンティーク・シェイド 花の幅3インチ。絹光沢のあるパステルカラー。 クリスタル・ボウル・ミックス 花の幅2インチ半。無地の鮮やかな色。 フランベ・テラコッタ・F1ハイブリッド 中サイズの花。テラコッタ色の色合い。 フラメンコ・F1ハイブリッド ジョリー・ジョーカー マンボ・ミックスト・F1ハイブリッド オーキド・ブロッチ・F1ハイブリッド パドパラジャ オレンジ色のサファイアにちなんで名づけられた。花の幅2インチ半。無地の深いオレンジ色。1991年全米セレクション優勝。 パンドラズボックス・F1ハイブリッド パンドラズチルドレン・F1ハイブリッド プティット・ミックスト・F1ハイブリッド ラズベリーアイスクリーム・F1ハイブリッド スプリングタイム・ブラック 全体が絹状の深い紫で見た目は黒。 トンプソン&モーガン・ブラック トータル・エクリプス・F1ハイブリッド 無地のオレンジ、黄、黒 トゥルーブルー 無地の空色 ウォーターカラーズ・ミックスト・F1ハイブリッド ゾロ パンジーなどスミレの仲間は、秋まきの草花の中では比較的発芽適温が低いので、10月に入ってから播かないとよく発芽しない。年内に開花させたい場合は、冷蔵庫の野菜室に保管しておき、8月末に浅鉢に丁寧に播き、風通しの良い日陰において管理する。彼岸頃までは病気が出やすいので、なるべく涼しい日陰に置き、本葉が出てきたら一度仮植えし、10月に定植すると、11月中旬頃から花を愉しむことができる。涼しくなると、非常に元気が良くなるので、後はなるべく日当たりの良い、やや重い土に植える。 花が人間の顔に似て、8月には深く思索にふけるかのように前に傾くところからフランス語の「思想」を意味する単語パンセ(pensée)にちなんでパンジーと名づけられた。このその由来のために、パンジーは長い間自由思想のシンボルだった。また、アメリカ非宗教組合の文学で用いられていた。パンジーは2世紀に渡って意図的に野草を掛け合わせて作られたことから、人道主義者たちもまたこのシンボルを好んだ。信教からの自由連盟(FFRF)はパンジーのシンボルを襟ピンや文学で広範囲に用いた。 エリザベス朝時代から現在にいたるまで、英語の「pansy」は女みたいな男、女々しい男、転じて男性同性愛者を意味し、男らしくない、勇気がないという意味で男性を侮辱するときの呼称としても使われる。\"ponce\"(「ヒモ」)という単語は「パンジー」から来ているが、現在で言う売春婦からせびりとる男という意味は元々は無かった。一方\"poncey\"は現在でも女みたいな奴という意味である。 パンジーはPansieとも綴られ、女性の名前として用いられることがある。ハリー・ポッターシリーズでは、パンジー・パーキンソンという登場人物が出てくる。 ウィリアム・シェイクスピアの『夏の夜の夢』では、パンジーの花から絞った汁が愛の妙薬として用いられている。『ハムレット』にもオフィーリアの台詞の中にパンジーが登場する。しかし、シェイクスピアが生きていた時代はパンジーの交配が行われるよりもはるかに前であるため、シェイクスピアの作品中のパンジーは英語で\"heartsease\"と呼ばれるサンシキスミレ(Viola tricolor)のことを指している。 1827年、ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテが絵画「パンジーの花束」を制作。 1926年、ジョージア・オキーフが一輪の黒いパンジーを描いた「パンジー」を制作。引き続き1927年には「白いパンジー」を制作。 D・H・ローレンスは「パンジー」という題の詩集を書いている。 パンジーは刺繍から陶芸までのアーツ・アンド・クラフツで好んで用いられるイメージでもある。 パンジー・ディビジョンという名前のクイアコアの音楽バンドが存在する。 日本工業規格では、JIS慣用色名として右図のように定義されている。", "フリージア (Freesia refracta) はアヤメ科フリージア属・半耐寒性球根植物の種の一つ。または、フリージア属の総称。日本では別名として菖蒲と水仙双方に似ていることから「菖蒲水仙(アヤメスイセン、ショウブスイセン)」、花の色から「浅黄水仙(アサギスイセン)」、甘い香りから「香雪蘭(コウセツラン)」、その他「コアヤメズイセン」などと呼ばれている。 南アフリカで植物採集をしていたデンマークの植物学者エクロン (Christian Friedrich Ecklon) が発見した植物を親友のドイツ人の医師フレーゼ (F・H・T・Freese) に献名している。 南アフリカのケープ地方に10種余りが分布しているが、オランダでの品種改良により現在では150以上の園芸品種が存在する。 休眠期は夏でラッキョウによく似た球茎になる。葉は劒形で数枚垂直に立ち、露地植えでは春に草丈が50 - 100cmくらいになり、穂状花序をなし、白・黄色・紅・ピンク・赤紫・藤色・オレンジ色などの6弁花を6 - 12輪くらい咲かせる。白・黄色は切り花に多く用いられる。他の色は、病気に弱く切り花生産が難しいため、生花市場ではあまり流通しない。 千葉県南部や静岡県沿岸部など強い霜の降りない地方では露地植えで栽培できるが、東京辺りでは霜よけが必要である。鉢植えの場合は6寸鉢に7球植えにし、冬の間十分に日に当てるようにすれば球根が十分な養分を持っているので、特に肥料を与えなくてもよい。 アフリカ原種である黄色、白色のフリージアはキンモクセイのような甘い強い香り。紅・紫系は黄花種ほど強くはないが甘酸っぱい果物の香りがある。 花言葉はフリージアの色によって異なる。白はあどけなさ、黄は無邪気、赤は純潔、紫はあこがれ、淡紫は感受性を表す。 東京都八丈島では毎年3月の春分の日から4月上旬まで「フリージアまつり」が開催されている。八丈島を訪れた観光客に対して、花の摘み取りや八丈島の郷土料理のサービスを行っている。 ^ a b c 米倉浩司・梶田忠. “Freesia refracta (Jacq.) Ecklon ex Klatt”. YList. 2012年6月29日閲覧。 ^ “今月の園芸特産作物”. 農林水産省 (2014年1月). 2016年3月16日閲覧。 ^ フリージアの基礎知識 米倉浩司・梶田忠 (2003年). “BG Plants 和名−学名インデックス(YList)”. http://ylist.info/. 2012年6月29日閲覧。", "セントポーリア(学名:Saintpaulia)はイワタバコ科の属のひとつ。セントポーリア属の総称。和名はアフリカスミレ属(英名 African violet の和訳)。 ケニア南部とタンザニア北部の山地に生息する非耐寒性の多年草。属名は発見者であるドイツ人ヴァルター・フォン・セントポール=イレール(de:Walter von Saint Paul-Illaire)に献名されている。 花言葉は『小さな愛』 生長形態により、ロゼット型とトレイル型の二型に分けられる。ロゼット型は節間が極めて短く、葉がタンポポのように放射状に広がる。トレイル型は節間が長く、地面を這うようにして長い茎が形成される。 花は左右相称の合弁花で、2裂した上唇と3裂した下唇から成る。裂片は下唇の方が大きい。花弁は紫色または薄紫色で、花筒は短く、舷部はほぼ直角に広がる。黄色の葯をもつ2本の雄蕊が筒部から突出している。花柱と柱頭は、花弁と同じ紫色である。花梗は葉腋から伸び、集散花序になる。 葉身は楕円形または卵形で、縁は全縁または鋸歯が入ることもある。葉身には葉毛が生えているが、その長さや形態は種により異なり、開出毛、伏毛など様々である。 ケニア南部とタンザニア北部の山地に20種が知られている。分布の中心はタンザニアのウサンバラ山地(Usambara Mountains)周辺で、16種が生息している。この他に、タンザニアではヌグル山地(Nguru Mountains)に5種、ウルグル山地(Uluguru Mountains)に3種、ウカグル山地(Ukaguru Mountains)に1種、ケニアではテイタ丘陵(Teita Hills)に1種が知られている。 他の多くのイワタバコ科植物と同様に、主として冷涼な日陰、多湿の環境を好み、渓谷沿いの断崖の湿った岩壁や、熱帯雨林の苔むした樹木に着生する。日本のイワタバコやシシンランの生育環境を思い浮かべると、こうしたイワタバコ科の植物の生育に好適な環境は想像しやすい。なお、ウサンバラ山地、ウルグル山地、テイタ丘陵では、農地利用のための森林伐採により林床が乾燥し、セントポーリアの生息地が年々減少している。 1884年 ザンジバルのイギリス副領事をしていたジョン・カークがセントポーリアを採取し、イギリスのキュー王立植物園に送るが、不充分な標本であったために記載までには至らなかった。 1887年 牧師であったW.E.テイラーがケニア南東でセントポーリアを採取し、大英博物館に送るが、またしても標本は不充分であったため、記載には至らなかった。 1891年 ドイツ人フォン・セントポール男爵がウサンバラ山地でセントポーリアを発見し、ドイツに住む父を通じてハノーファーのヘレンハウゼン王宮庭園へ送った。植物園長ヘルマン・ヴェンドランドにより新属新種として記載され、発見者の名前に因んで Saintpaulia ionantha と命名された。 原種の分類に関しては様々な議論があるが、ここでは最も一般的な24種を紹介する。ここに記した以外にも数種の変種が知られている。 イオナンタ Saintpaulia ionantha H. Wendl. 最初に発見されたセントポーリアで、タンザニアに生息する。通常、花は紫色だが、白色の花を咲かせる変異種「ホワイト・イオナンタ」が知られている。なお、種小名のionanthaとは、ギリシャ語で「スミレのような」の意。 インコンスピキュア S. inconspicua B.L. Burtt タンザニアのウルグル山地に生息。 インターメディア S. intermedia B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地東部に生息。 オービキュラリス S. orbicularis B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地西部に生息。 オービキュラリス・パープレア S. orbicularis var. purpurea B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地西部に生息。オービキュラリスの変種。 グランディフォーリア S. grandifolia B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地西部に生息。種小名grandifoliaは「大きな葉」の意。 グロッティ S. grotei Engler タンザニアのウサンバラ山地東部に生息。 ゲッツアーナ S. goetzeana Engler タンザニアのウルグル山地に生息。 コンフューサ S. confusa B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地とヌグル山地に生息。種小名confusaはconfusion(混同)に由来。以前、他の種と混同されていたことによる。 シュメンシス S. shumensis B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地西部に生息。 テイテンシス S. teitensis B.L. Burtt ケニアのテイタ丘陵に生息。種小名teitensisは、生息地であるテイタ丘陵(Teita Hills)に由来。 ディフィシリス S. difficilis B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地東部に生息。 ディプロトリカ S. diplotricha B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地東部に生息。種小名のdiplotrichaは、「多数の毛」の意であり、葉に多数の葉毛が生えていることによる。 トングエンシス S. tongwensis B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地東部のトングエ山に生息。種小名tongwensisは、生息地であるトングエ山(Mt. Tongwe)に由来。 ニチダ S. nitida B.L. Burtt タンザニアのヌグル山地に生息。 プシラ S. pusilla Engler タンザニアのウルグル山地に生息。 ブレビピローサ S. brevipilosa B.L. Burtt タンザニアのヌグル山地に生息。 ベルチナ S. velutina B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地西部に生息。 ペンジュラ S. pendula B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地東部に生息する。 ペンジュラ・キザレ S. pendula var. kizarae B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地東部に生息するペンジュラの変種。種小名kizaraeは、初めて発見された場所がキザラ(kizara)だったことに由来。 マグンゲンシス S. magungensis E. Roberts タンザニアのウサンバラ山地東部に生息。2種類の変種が知られている。 マグンゲンシス・ミニマ S. magungensis var. minima B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地東部に生息する。マグンゲンシスの変種。 マグンゲンシス・オキシデンタリス S. magungensis var. occidentalis B.L. Burtt タンザニアのウサンバラ山地西部に生息する。マグンゲンシスの変種。 ルピコーラ S. rupicola B.L. Burtt ケニア南部の平地に生息。 これまでに多種多様な園芸品種が作出され、その数は2万種とも3万種とも言われている。花色は赤、紫、青、白など多彩で、色合いにも、覆輪(花弁の縁に色がつく)、アイ(花の中心にだけ色がつく)、ストライプ(縞模様が入る)、スプラッシュ(斑点や斑状紋が入る)などがある。花形には、プレーン形(原種と同じ)、スター形(星の形)、フリル形(縁や花弁全体がフリルになる)などがあり、咲き方にはシングル咲き(花弁が一重)、セミダブル咲き(花弁が一重半)、ダブル咲き(花弁が二重)、フルダブル咲き(花弁が八重)がある。葉の形も多様で、プレーン形(葉身が楕円形で全縁)、スプーン形(縁が巻き上がる)、フリル形(縁が波打つ)、ウェーブ形(葉全体がうねる)などがある。 園芸品種は、それぞれの種の特徴により、以下のような種類に分けられる。 普通種 主に原種のイオナンタとコンフューサから作出された種類。茎が直立し、少しずつ伸長しながら葉を展開するため、ロゼットとなる。 ミニチュア種、セミミニチュア種 普通種のうち、サイズが小型のもの。 アルビノ種(斑入り種) 葉に白や薄いピンクの斑が入る種類。 トレイル種 茎がつる状に伸びる性質のもの。 ラプソディ種 ドイツのホルトキャンプ社で作出され、1968年に販売された。 バレー種 ラプソディ種の改良種で、アメリカのフィッシャーで作出された。 オプティマラ種 1970年代にアメリカで作出。品種名には、アメリカ、カナダの都市名や、女性の名前などが付けられている。 メロディー種 1980年代にアメリカのサニーサイドナーセリーがラプソディ種から作出した。 日本では1970年代からラプソディ種が販売され、人気を集めた。川上敏子(1915年-2010年)は、日本の気候に適した室内栽培法を考案し、日本におけるセントポーリアの普及に努めた第一人者である。", "コエビソウ(小海老草、学名:Justicia brandegeeana)とは、メキシコ原産のキツネノマゴ科の植物。 (シノニム:Beloperone guttata) 。日本では道ばたの雑草としてごく普通なキツネノマゴ(Justicia procumbens)と同属である。 名前の由来は、花のつく穂が苞(ほう)に覆われていて、その形が小海老の尻尾に似ていることによる。花はその苞の間から顔を出す。別名はベロペロネ。花期は春-晩秋。繁殖は挿し木で行う。", "トケイソウ(時計草、パッションフラワー、Passion flower)はトケイソウ科・トケイソウ属(Passiflora)に分類される植物の総称であり、狭義には Passiflora caerulea と言う種の和名である。 和名は3つに分裂した雌しべが時計の長針、短針、秒針のように見える特徴のある花を咲かせることに由来する。 英名 passion flower は「キリストの受難の花」の意味で、イエズス会の宣教師らによってラテン語で flos passionis と呼ばれていたのを訳したものである。 16世紀、原産地である中南米に派遣された彼らは、この花をかつてアッシジの聖フランチェスコが夢に見たという「十字架上の花」と信じ、キリスト教の布教に利用した。 彼らによればこの植物はキリストの受難を象徴する形をしており、花の子房柱は十字架、3つに分裂した雌しべが釘、副冠は茨の冠、5枚の花弁と萼は合わせて10人の使徒、巻きひげはムチ、葉は槍であるなどと言われた。 属名は造語だが、やはり上記比喩に倣ったもの。 なお、英単語 passion には「情熱」の意味もあるが、この植物の名称での passion は「受難」の意味であって、「情熱」の意味ではない。 種の数は約500、栽培品種はそれらが掛け合わされてできるためさらに数が多い。栽培品種には驚くべき数のさまざまな色、形のトケイソウが存在する。ガクがそれぞれピンクと白という Passiflora x belotii という栽培品種も存在する。ぱっと見には花弁とガクの区別はつかないので、白とピンクが互い違いになった花ビラのように見える。それとは対照的に、副冠も花弁もガクも全部白というのが Passiflora caerulea 'Constance Elliot' である。 中央アメリカや南アメリカの熱帯・亜熱帯域が原産地だが、世界中で観賞用に広く栽培される。つる植物で、庭先などに植えられる。挿し芽することで増やすことができる。 500種以上が存在し、以下は代表的なもの。 Passiflora alata(ブラジルトケイソウ…実は食用) Passiflora amalocarpa Passiflora amethystina Passiflora aurantia Passiflora caerulea(狭義のトケイソウ) Passiflora capsularis Passiflora coccinea(ベニバナトケイソウ、Scarlet passion flower、Red passion flower) Passiflora edulis(パッションフルーツ) Passiflora foetida(クサトケイソウ、Wild water lemon) Passiflora helleri Passiflora holosericea Passiflora incarnata(チャボトケイソウ、Purple Passionflower) Passiflora karwinskii Passiflora ligularis(グラナディラ (Granadilla) …実は食用) Passiflora mollissima Passiflora mucronata Passiflora murucuja Passiflora quadrangularis(オオナガミクダモノトケイソウ、Giant granadilla…実は食用) Passiflora racemosa(ホザキトケイソウ) Passiflora serratifolia Passiflora tenuifila Passiflora tulae Passiflora vitifolia Passiflora yucatanensis 一般にパッションフルーツと呼ばれる物はクダモノトケイソウ(Passiflora edulis)の実で、これ以外にもP. ligularis、P. mollissima、P. quadrangularis等が食用(果汁の採取)目的で栽培されることがある。またパッションフラワーはハーブとして、鎮痛・精神安定・抗痙攣・不眠の緩和・血圧の降下・ヒステリーやノイローゼの緩和・更年期障害など「精神や痛みを静める」働きがあるといわれている。欧州では伝統生薬製剤の欧州指令に従い医薬品ともなっている。 ^ 熱帯果樹植物館 ^ 熱帯果樹植物館 Passiflora Society International(国際トケイソウ協会) Passiflora Online" ]
ABC01-02-0281
筋肉ではエネルギー供給、肝臓ではエネルギー貯蔵に重要な役割を果たす、「糖原質」ともいう多糖類の一種は何でしょう?
グリコーゲン
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[ "グリコーゲン", "ソルビトール", "スクロース", "アスパラギン酸", "トリプトファン" ]
[ "グリコーゲン (glycogen) あるいは糖原(とうげん)とは、多数のα-D-グルコース(ブドウ糖)分子がグリコシド結合によって重合し、枝分かれの非常に多い構造になった高分子である。動物における貯蔵多糖として知られ、動物デンプンとも呼ばれる。植物デンプンに含まれるアミロペクチンよりもはるかに分が多く、8~12残基に一回の分岐となる。直鎖部分の長さは12~18残基、分岐の先がさらに分岐し、網目構造をとる。英語の発音から「グライコジェン」と呼ばれることもある。 グリコーゲンは肝臓と骨格筋で主に合成され、余剰のグルコースを一時的に貯蔵しておく意義がある。糖分の貯蔵手段としてはほかに、脂肪とアミノ酸という形によるものがある。 脂肪酸という形でしかエネルギーを取り出せない脂肪や、合成分解に窒素代謝の必要なアミノ酸と違い、グリコーゲンは直接ブドウ糖に分解できるという利点がある。 ただし、脂肪ほど多くのエネルギーを貯蔵する目的には向かず、食後などの一時的な血糖過剰に対応している。 肝細胞は、食後直後に肝臓の重量の8 %(大人で100-120 g)までのグリコーゲンを蓄えることができる。本稿の「分解」の節で述べられているように肝臓に蓄えられたグリコーゲンのみが他の臓器でも利用することができる。骨格筋中ではグリコーゲンは骨格筋重量の1-2 %程度の低い濃度でしか貯蔵できない。筋肉は、体重比で成人男性の42%、同女性の36%を占める。このため体格等にもよるが大人で300g前後のグリコーゲンを蓄えることができる。 グリコーゲンの合成・分解は甲状腺、膵臓、副腎がそれぞれ血糖に応じてサイロキシン、グルカゴン及びインスリン、アドレナリンなどを分泌することで調整される。 なお、肝臓で合成されたグリコーゲンと骨格筋で合成されたそれとでは分子量が数倍異なり、前者のほうが大きい。 熱水、ホルムアミド、ジメチル硫酸に可溶。冷水、アルコールに不溶。 分子量1×106から1×107程度(グルコース残基で6,000から60,000程度) ヨウ素デンプン反応における呈色は褐色~赤色。 ヒトの肝臓には約100gのグリコーゲンが含まれ、約600kcalのエネルギーに相当する。 グルコースより、グルコキナーゼ (EC 2.7.1.2)・ヘキソキナーゼ (EC 2.7.1.1)、ホスホグルコムターゼ (EC 5.4.2.2)、UTP-グルコース-1-リン酸ウリジリルトランスフェラーゼ (EC 2.7.7.9)、グリコーゲンシンターゼ (EC 2.4.1.11) の作用により合成される。分枝は1,4-α-グルカン分枝酵素 (EC 2.4.1.18) により形成される。 EC 2.7.1.2 : ATP + D-hexose = ADP + D-hexose-6-phosphate EC 2.7.1.1 : ATP + D-glucose = ADP + D-glucose-6-phosphate EC 5.4.2.2 : a-D-glucose-6-phosphate = a-D-glucose-1-phosphate EC 2.7.7.9 : UTP + a-D-glucose-1-phosphate = diphosphate + UDP-glucose EC 2.4.1.11 : UDP-glucose + (1,4-a-D-glucosyl)n = UDP + (1,4-a-D-glucosyl)n+1 EC 2.4.1.18 : Transfers a segment of a 1,4-a-D-glucan chain to a primary hydroxy group in a similar glucan chain グリコーゲンホスホリラーゼは、グリコーゲンをグルコース単位に分解する。グリコーゲンはグルコースが一分子少なくなり、遊離するグルコース分子は グルコース-1-リン酸となる。代謝されるには、ホスホグルコムターゼによってグルコース-6-リン酸に変換される必要がある。 肝臓はグルコース-6-ホスファターゼを持ち、解糖系や糖新生でできたグルコース-6-リン酸のリン酸基を外すことができる。こうしてできたグルコースは血液中に放出され、他の細胞に運ばれる。グルコース-6-ホスファターゼは、グルコースの恒常性維持のための役割をもつ肝臓と腎臓で見られ、網状組織内部原形質の内膜に存在する。肝臓と腎臓以外の筋肉ではこの酵素を含んでおらず、グルコース-6-リン酸のリン酸基を外してグルコースに変換できないために細胞膜を通過することができず、筋肉中のグリコーゲンは他臓器でグルコースとして利用することができず、筋肉自らのエネルギー源として使用される。 乳酸の輸送にはいくつかの種類のトランスポーターが存在する。例えば、グリコーゲンがグルコースを経て速筋線維で分解され乳酸を生成し、その乳酸が細胞膜を通過して遅筋線維や心筋のミトコンドリアで使われる場合がある。乳酸は肝臓で糖新生によりグルコースが生成されて全身でグルコースとして利用される。経口的に摂取された糖の2-3割は骨格筋で利用されると言われているが、骨格筋の糖消費が十分でない場合には食後の血糖が上昇することとなる。 なお、安静時や強度の低い運動時には脂肪の方が糖よりも多く使われている。血糖やグリコーゲンは利用しやすいが貯蔵量は多くはないので安静時などではあまり多くは使われず、強度の高い運動時などに糖が優先的に使われるようになる。運動強度が低い場合には脂肪とグリコーゲンの燃焼比率は1:1であるが、運動強度が高まるに従って脂肪よりもグリコーゲンの燃焼比率が高まる。 グリコーゲンを効率的に貯蔵することをスポーツ医学ではグリコーゲン・ローディングまたは、カーボ・ローディングと呼ぶ。グリコーゲンの貯蔵を増やすことで、グリコーゲン枯渇による運動能力の限界を上げるために用いられる。前処理としてグリコーゲン枯渇を起こし、グリコーゲン合成能力を上げた後、炭水化物食品を摂取する古典的方法や、炭水化物とグリコーゲン分解を阻害するクエン酸とを同時に摂取する高速ローディング法などがある。 ^ glycogen dictionary.com ^ Campbell, Neil A.; Brad Williamson; Robin J. Heyden (2006). Biology: Exploring Life. Boston, Massachusetts: Pearson Prentice Hall. ISBN 0-13-250882-6. http://www.phschool.com/el_marketing.html.  ^ Marieb, EN; Hoehn, Katja (2010). Human Anatomy & Physiology (8th ed.). San Francisco: Benjamin Cummings. p. 312. ISBN 978-0-8053-9569-3. ^ Livanova NB, Chebotareva NA, Eronina TB, Kurganov BI (May 2002), “Pyridoxal 5′_Phosphate as a Catalytic and Conformational Cofactor of Muscle Glycogen Phosphorylase b”, Biochemistry (Moscow) 67 (10): 1089–1998, doi:10.1023/A:1020978825802, PMID 12460107  ^ a b 八田秀雄「新たな乳酸の見方」『学術の動向』、Vol. 11 (2006) No. 10. doi:10.5363/tits.11.10_47 ^ 坪内博仁、中川八郎「腎臓の糖新生とその特異性」『臨床化学』Vol. 7 (1978) No. 2. doi:10.14921/jscc1971b.7.2_101 ^ 堀田昇「グリコーゲンローディング」『体力科学』Vol. 45 (1996) No. 4. doi:10.7600/jspfsm1949.45.461 グリコーゲン合成 グリコーゲンの分解 カーボ・ローディング 糖原病 グリコ (菓子)", "ソルビトール (sorbitol) はグルコースを還元し、アルデヒド基をヒドロキシ基に変換して得られる糖アルコールの一種。ソルビット (sorbit) またはグルシトール (glucitol) ともいう。甘味があり、食品添加物などに用いられる。 バラ科ナナカマド属 (Sorbus) の植物から発見された糖アルコールのため、ソルビトールと命名された。 バラ科の植物は、光合成産物のデンプンを篩管を通じて転流するときに、デンプンの加水分解で生じたグルコースをソルビトールに変換する。スターキングデリシャスなど、リンゴの品種の一部では、果実内に転流してきたソルビトールを、グルコースやフルクトースといった糖に変換する代謝系が果実の成熟に伴って停止しても、果実内へのソルビトールの転流は継続する。そのため、果実内の維管束周辺にソルビトールが蓄積していわゆるリンゴの「蜜」と呼ばれる半透明部分を形成し、果実の成熟の指標となる。 ソルビトールは、動物の体内ではグルコース(ブドウ糖)をアルデヒド基の還元によってソルビトールにした上で、再度別のヒドロキシ基を酸化し、ケトン基とすることでフルクトース(果糖)を生成する(ポリオール経路)。そのため、精子の活動時の栄養源として精液中のフルクトースを合成する精嚢内にその存在が確認されている。 同じ重量の砂糖と比べてカロリーが75%程度と低いため、ダイエット食品、菓子などの低カロリー食品の甘味料として使用されている。しかし、甘味度は砂糖と比べて60%程度しかないので、同じ甘さを得るためには砂糖よりも多く加える必要がある。また、水に溶解する際に吸熱反応を起こし、口の中でひんやりとした感触がすることから、飴・ガムやスナック菓子などに清涼剤として用いられる。 蒲鉾などの 魚肉練り製品に砂糖などと共に添加することで、水分を保持しやすく、冷凍しても変質しなくなるほか、成形後の製品の食感を保持する効果がある。このため、改良剤としても使用される。また、黄金かまぼこと呼ばれる商品では、タンパク質が糖-アミノ反応(メイラード反応)を起こすことで金色に発色させる効果も利用されている。 下剤、栄養剤、浣腸液などの医療用途にも使われている。 保湿剤、増粘剤として化粧品に添加されている。 品質保持、凍結防止、透明性向上などの目的で、うがい薬や練り歯磨きにも添加されている。 硝酸カリウムと混合して、模型ロケットの燃料に使われる。", "スクロース (sucrose)、またはショ糖(蔗糖、しょとう)は、糖の一種であり、砂糖の主成分である。 スクロースは、グルコース(ブドウ糖)とフルクトース(果糖)がα-1,2-グリコシド結合した糖であり、二糖類の一種である。無色結晶、甘味を有する、水に溶けるという二糖類共通の性質を持つ。加水分解するとグルコースとフルクトースを生じる。 水溶性が高く、25℃において、1gの水に2.1g溶ける。 先進国における主要な甘味料であり、砂糖の主成分である。一般にはサトウキビや、サトウダイコン(テンサイ)から抽出し、純度を高め結晶化したものである。原料としては他にソルガム(モロコシ)とサトウカエデがある。ちなみにショ糖の結晶を大きく成長させると氷砂糖になる。 約170℃に加熱すると、カラメル(キャラメル)と呼ばれる褐色の物質に変化する。カラメルは食用となり、独特の香りを持つ。カラメルはカスタードプディングなどに使用される。 スクロースは、小腸壁に存在する消化酵素「サッカラーゼ(インベルターゼ)」によりグルコースとフルクトースに加水分解され(「転化糖」参照)、小腸で吸収されて血流に入る。 この反応は短時間で起こるため、血糖値を急激に上昇させる。 スクロースは、健康に悪影響を及ぼすことがある。その代表的なものはう蝕(むし歯)である。口腔内の細菌がスクロースを材料としてエナメル質や象牙質といった歯質を破壊する酸を産生するためである。特に甘味を求め、スクロースの摂取量が増加し、なおかつ口腔内の清掃が比較的行き届いていない子供において問題となる。 また、一般にスクロースはカロリーが高く、肥満の原因になり、糖尿病患者はスクロースの摂取を制限しなければならないという説があるが、食物中の炭水化物の総量のうちスクロースの占める割合はごく一部に過ぎないのでスクロースのみを制限しても意味は無い[要出典]。スクロースで180g程度以上を一度に摂取すると健常人であっても一過性の糖尿を生ずる[要出典]。この量は、食品成分表のコーラ・缶コーヒー等に示される量を基にすると2.5リットル前後の量(約1100kcal)に相当する。 上記のような健康への影響からスクロースを避けたいというニーズに応えるため、代用甘味料がいくつも開発されてきた。しかし、例えばアスパルテームは加熱することで甘みが低下するなど、調理用に砂糖の代替として利用するのが難しいものがある。また、他の健康上の問題をも引き起こすものもあり、その安全性が疑問視されている。 スクロースを塩素化した甘味料にスクラロースがある。これは有機塩素化合物であり、スクロースの約600倍の甘さがある食品添加物である。 化学式はC12H22O11であり、グルコースとフルクトースがα-1,2-グリコシド結合した二糖類である。組織名はβ-D-フルクトフラノシル-(2↔1)-α-D-グルコピラノシド (β-D-fructofuranosyl-(2↔1)-α-D-glucopyranoside) である。語尾が「- オシド ( -oside)」になっているのは還元糖ではないためである。グルコースのアルデヒド基とフルクトースのケトン基が共にグリコシド結合のため酸化されず、二糖類としてはトレハロースと同じように例外的に還元性を持たない。なお多糖類には共通の性質として還元性がない。 濃硫酸によって脱水反応が触媒され、単体の炭素が得られる。 C 12 H 22 O 11   → H 2 SO 4   12 C + 11 H 2 O {\\displaystyle {\\mbox{C}}_{12}{\\mbox{H}}_{22}{\\mbox{O}}_{11}\\ {\\xrightarrow {{\\mbox{H}}_{2}{\\mbox{SO}}_{4}}}\\ 12{\\mbox{C}}+11{\\mbox{H}}_{2}{\\mbox{O}}} また、角砂糖に火を近づけても溶けたり焦げたりするだけで燃焼は起きないが、灰をかけて火を近づけると触媒反応によって燃焼が起こる。 ^ Question No. 1835 Singapore Science Centre: ScienceNet|Physical Sciences|General Chemistry (ウェブアーカイブ) 伊藤汎 監修 『砂糖の文化誌 ―日本人と砂糖』 八坂書房、2008年。ISBN 4896949226 炭水化物 異性化糖 メイラード反応 ALIC-農畜産業振興機構|砂糖類情報 国際化学物質安全性カード スクロース 日本語版 - 国立医薬品食品衛生研究所 (英語版)", "アスパラギン酸(アスパラギンさん、aspartic acid)とは、アミノ酸のひとつで、2-アミノブタン二酸のこと。略号はD あるいは Asp。光学異性体としてL体とD体の両方が存在する。アスパラギンの加水分解物から単離され、由来とその構造からこの名がついた。 酸性極性側鎖アミノ酸に分類される。L体のアスパラギン酸は蛋白質を構成するアミノ酸のひとつ。非必須アミノ酸で、グリコーゲン生産性を持つ。うま味成分のひとつ。 致死量はLD50=16g/kgである。 生体内では、クエン酸回路の一員であるオキサロ酢酸が、アスパラギン酸アミノトランスフェラーゼ (EC 2.6.1.1) によるグルタミン酸からのアミノ基の転移を受けて生合成される。 oxaloacetate + L-glutamate → L-aspartate + 2-oxoglutarate 工業的にはフマル酸とアンモニアを原料として大腸菌由来のアスパルターゼを用いる。大腸菌はκ-カラギーナンで固定化され、バイオリアクターを用いて回分法で生産される。 表も参照。 等電点 2.77 溶解性 水にやや難溶、エタノール・ジエチルエーテルに不溶。希塩酸・希硫酸に可溶。 溶解度(水、g/100g)0.42 (20℃)、0.85 (40℃)、1.70 (60℃) ファンデルワールス半径 91 アスパラギン酸は中枢神経系の興奮性神経伝達物質で、大脳皮質、小脳及び脊髄などに存在するNMDA受容体に対しアゴニストとして作用する。アミノ酸系の神経伝達物質は、アスパラギン酸に加えてグルタミン酸(Glu)、γ-アミノ酪酸(GABA)、グリシン(Gly)がある。 ^ “862. Aspartic acid”. The Merck Index (11th ed.). (1989). p. 132. ISBN 091191028X.  ^ 神経伝達: 神経疾患: メルクマニュアル18版 日本語版 ^ 痛みと鎮痛の基礎知識 - Pain Relief ー伝達物質 リンゴ酸-アスパラギン酸シャトル アスパラ アスパラギン酸 - 「健康食品」の安全性・有効性情報(国立健康・栄養研究所)", "トリプトファン (Tryptophan) はアミノ酸の一種である。ヒトにおける9つの必須アミノ酸の内の1つ。 系統名 2-アミノ-3-(インドリル)プロピオン酸。略号はTrpまたはW。 側鎖にインドール環を持ち、芳香族アミノ酸に分類される。蛋白質構成アミノ酸である。糖原性・ケト原性の両方を持つ。多くのタンパク質中に見出されるが、含量は低い。ナイアシンの体内活性物質であるNAD(H)をはじめ、セロトニン・メラトニンといったホルモン、キヌレニン等生体色素、また植物において重要な成長ホルモンであるインドール酢酸の前駆体、インドールアルカロイド(トリプタミン類)などの前駆体として重要である。 分子量 204.23 等電点 5.89 溶解性:蟻酸に可溶、水に難溶、エタノールに極めて難溶、希塩酸に可溶。 溶解度(水、g/100g)1.06 (20℃)、1.44 (40℃)、2.05 (60℃) ファンデルワールス半径:163 味:苦(閾値 0.9mg/ml)(L-体。D-体は甘い) トリプトファンの代謝は極めて多様であり、また複雑である。大まかには以下のように分類できる。 トリプトファンは、ヒトの体内に置いて、概日リズムと関連するセロトニンやメラトニンに代謝される。 ヒトの健康維持にとって欠かせ無い物質であり、かつ、ヒトの体内では十分量が合成出来無い「必須アミノ酸」の1つであって、適量の摂取は精神・神経を落ち着かせるなど、ヒトの健康増進に役立つとされている。 この為、特に改善に役立つとされているのは、不眠症、時差ボケ、うつ病等の疾患であり、米国においてはそれらの症状に処方される場合もある。日本においては、法規上の取り扱いとして成分本質 (原材料) では医薬品でないもの、即ち「医薬品的効果効能を標ぼうしない限り医薬品と判断しない成分本質 (原材料)」に区分されており、現状、国内や海外ではトリプトファンを含むサプリメントが広く流通し販売されている。 しかし、その一方で、トリプトファンもまた多くの栄養素と同様、その過剰摂取に付いて、幾つかの危険性が報告されている。 過剰摂取、或いは他の栄養素や薬品との相互作用で出現する副作用としては、肝硬変の患者に置ける肝性脳症の発症リスク、とりわけトリプトファンはヒトの体内で代謝物のセロトニンを増加させる事から、セロトニン症候群の発症リスクが懸念される。この為、肝硬変の患者へのアミノ酸輸液に付いては、通常の患者に用いる輸液用製剤とは異なる、トリプトファン等の肝性脳症リスクのある物質の配合量を減らした製剤を用いる。 加えて、妊娠中の胎児への影響も報告例があり、1,000mgの摂取で胎児の呼吸不全を招いた懸念が存在する。 更に、過去にはL-トリプトファンを含むサプリメントが好酸球増多筋痛症候群(EMS)を発症させた疑義が在ったが、昭和電工が或る時期に製造した特定の製造ロットの製品を購入した消費者のみにEMSの発症が見られた事から、専門家らで構成された調査委員会の報告では、それらの健康被害はトリプトファンとは別の不純物が原因であるとされた。 基本的には食品中のタンパク質が多いほど多く含まれる。したがって、肉、魚、豆、種子、ナッツ、豆乳や乳製品などに豊富に含まれる。またチョコレート、燕麦、バナナ、ドリアン、マンゴー、ナツメヤシ、牛乳、ヨーグルト、カッテージチーズ、鶏卵、家禽類の肉(ニワトリ、アヒルなど)、ゴマ、ヒヨコマメ、ヒマワリの種、スピルリナ、ラッカセイなどに含まれる、という報告がある。 ^ Dawson RMC, et al. (1969). Data for Biochemical Research. Oxford: Clarendon Press. ISBN 0-19-855338-2.  ^ “Tryptophan metabolism”. KEGG. 2012年5月14日閲覧。 ^ 滝川修研究室. “国立長寿医療センター研究所ラジオアイソトープ管理室”. 2010年2月23日閲覧。 ^ Immunity to fungal infections, 2011 & Figure 3. ^ Vitamins supplements guide. “Tryptophan - Vitamins & health supplements guide”. 2009年11月22日閲覧。 ^ 文部科学省 (2005年1月24日). “五訂増補 日本食品標準成分表”. 2009年11月22日閲覧。 Luigina Romani (2011年4月). “Immunity to fungal infections”. Nature Reviews Immunology: 275-288. doi:10.1038/nri2939. http://www.nature.com/nri/journal/v11/n4/fig_tab/nri2939_F3.html 2012年6月5日閲覧。.  昭和電工によるトリプトファン事件(1988年-1989年) アミノ酸発酵 トリプトファン発酵 日本食品標準成分表 ナイアシン トリプトファン - 「健康食品」の安全性・有効性情報(国立健康・栄養研究所)" ]
ABC01-02-0283
南米大陸で赤道が通っている3つの国とは、ブラジル、コロンビアとどこでしょう?
エクアドル
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[ "エクアドル", "アンゴラ", "アルゼンチン", "ハイチ", "チリ" ]
[ "エクアドル共和国 República del Ecuador 国の標語:Dios, patria y libertad (スペイン語:神、国と自由) 国歌:万歳、おお祖国よ エクアドル共和国(エクアドルきょうわこく、スペイン語: República del Ecuador)、通称エクアドルは、南アメリカ西部に位置する共和制国家。北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000km程離れたところにガラパゴス諸島(スペイン語ではコロン諸島:Archipiélago de Colón)を領有する。首都はキト。最大の都市はグアヤキル。なお、国名のエクアドルはスペイン語で「赤道」を意味する。 正式名称はスペイン語で República del Ecuador。通称 Ecuador [ekwaˈðor]。 公式の英語表記は Republic of Ecuador。通称 Ecuador [ˈɛkwədɔːr]。 日本語の表記はエクアドル共和国。通称エクアドル。 漢字表記は厄瓜多。 国名はこの国を通る赤道(スペイン語でEcuador terrestre)に由来する。植民地時代には現在のエクアドルの領域はペルー副王領の一部であり、独立戦争中にシモン・ボリーバルの采配によってコロンビア共和国(大コロンビア)に併合された後は「南部地区」(Distrito del sur) と呼ばれていた。1830年にコロンビア共和国から分離独立する際に、キト共和国と名乗ることは他の諸都市の反発を招くことが予想されたため、キト直下を通る赤道から名前を採り、エクアドルという名前で諸地域の妥協がなされた。 現在のエクアドル共和国に相当する地域には紀元前10000年頃の人類の生存が確認されており、その後様々な古代文明が栄えた。紀元700年から16世紀半ばまでを統合期と呼び、身分制、首長制を基盤とし、祭祀センターを備えた社会構造が存在したことが明らかになっている。 このような諸文化は最終的に、15世紀半ばにクスコを拠点に急速に拡大していたタワンティン・スウユ(ケチュア語族: Tawantin Suyu、インカ帝国)の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキの遠征によって征服され、キトはクスコに次ぐ帝国第二の都市として栄えた。1527年に皇帝ワイナ・カパックがスペイン人によってパナマからもたらされたヨーロッパの疫病で病死すると、キトで育った皇帝アタワルパは皇位継承権などを巡ってクスコのワスカルと内戦(スペイン語版、英語版)(1529年–1532年)を戦い、勝利したが、疲弊した帝国にまもなく上陸するスペイン人との戦いを余儀なくされた。 1531年にスペイン出身のコンキスタドールの一群を率いてインカ帝国に上陸したフランシスコ・ピサロは、優れた火器や馬を用いてインカ人との戦いを有利に進め、1532年にアタワルパを捕虜にし、1533年にタワンティン・スウユを滅ぼした。 スペイン人による征服後、現在のエクアドルに相当する地域はペルー副王領に編入され、リマの統治を受けることになった。1563年にはキトにアウディエンシアが設置された。1717年にサンタフェ・デ・ボゴタを中心にヌエバ・グラナダ副王領が設立されると、エクアドルはこの副王領に組み込まれたが、1722年には再びペルー副王領に組み込まれた。 征服と植民地化による疫病や、ミタ制による酷使により、インディオ人口は植民地時代に大きく減少し、労働力を補填するためにアフリカから黒人奴隷が連行された。その一方でスペイン系のクリオージョが社会の寡頭支配層となり、メスティーソ(混血者)や、故郷の土地を離れて流浪するインディオなどの境界的な階層も出現するようになった。また、住人のカトリック化も進んだ。 1789年に勃発したフランス革命以降のヨーロッパでの政変、そして1808年にフランス皇帝ナポレオン1世が兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世として即位させると、それに反発する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。 1809年8月10日にキトの革命評議会により、イスパノアメリカ初の自治運動が勃発した。この自治運動はペルー副王フェルナンド・アバスカル(英語版)の差し向けた王党派軍により鎮圧されたものの、同様の運動がすぐにラパス、カラカス、ブエノスアイレス、サンティアゴ・デ・チレ、サンタフェ・デ・ボゴタなど、大陸的な規模で勃発した。 1810年代からコロンビア共和国とリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)が主体となって南米大陸各地の解放が進む中で、北のベネスエラからシモン・ボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレが、南のリオ・デ・ラ・プラタ連合州からホセ・デ・サン=マルティンの率いる解放軍がエクアドルに迫ると、各都市は再び独立を宣言し、1822年のピチンチャの戦い(英語版)でスクレ将軍がスペイン軍を破ると、最終的に現在のエクアドルとなっている諸地域の解放が確定した。 こうして解放された現在のエクアドルに相当する地域はシモン・ボリーバルの采配により、「南部地区」(Distrito del Sur) としてコロンビアの一部に組み込まれたが、コロンビア内での内乱や混乱によりベネスエラが独立を宣言すると、南部地区も独立を画策し、1830年5月13日にコロンビアからの独立を宣言した。しかし、初代大統領になる予定だったスクレ元帥は暗殺され、同年8月10日にフアン・ホセ・フローレス(英語版)が初代大統領に就任した。ラテンアメリカ統合の夢に破れた解放者シモン・ボリーバルは、自らの行った政治的な行為が無為に終わったことを噛み締め、痛恨の内に死去した。 独立後しばらくはヌエバ・グラナダ共和国との戦争や、エクアドル・ペルー領土紛争 (1857年 - 1860年)(スペイン語版、英語版)、保守派と自由派との間でのエクアドル内戦(グアヤキルの戦い(スペイン語版、英語版))など混乱が続いたが、1861年にガブリエル・ガルシア・モレノが政権を掌握すると、モレノは以降15年に渡る独裁政治を行った。モレノ時代にはカトリック教会を軸にした保守政治が進み、エクアドル共和国が「イエズスの聖心」に捧げられるなどの事件があったが、この時期に学校、軍隊、鉄道が整備された。また、インディオ共有地の保護などがなされた。1875年にモレノは暗殺された。 この頃からエクアドルはカカオを中心としたプランテーション経済により、世界経済に従属的な立場で組み込まれていったが、このことがコスタでのプランテーションの発達は自由主義を求めるグアヤキルの資本家層の権力の拡大をもたらした。 モレノの暗殺後、保守派と自由派による争いが続いたが、自由主義者のエロイ・アルファロ(英語版)が1895年に権力を掌握し、大統領に就任すると、以降自由主義的な政治が行われ、国家の世俗化が進んだ。アルファロは1912年に暗殺されたが、1925年までこの自由主義体制は継続した。 1925年にシエラの勢力がクーデターを起こすと、政治的な権力の重心がグアヤキルからキトに移動した。しかし、政治の混乱は続き、さらに1929年の世界恐慌によりエクアドル経済が大打撃を受けると、大衆がエクアドル政治に出現してきた。1933年にポプリスモ政策に訴えたホセ・マリア・ベラスコ・イバラが労働者からの圧倒的な支持を得て大統領に就任した。ベラスコ・イバラは1935年に失脚したが、その後40年間に渡り、エクアドル政治に大きな足跡を残すことになる。 1941年にペルー軍がアマゾン地域を侵略し、エクアドル・ペルー戦争(スペイン語版、英語版)が勃発した。エクアドル軍はこの戦役に敗れ、アマゾン地域の20万から25万km2の領土をリオ・デ・ジャネイロ条約(英語版)で失うことになった。この戦争はこの後50年間に及びエクアドル・ペルーの両国関係を規定し、さらにはエクアドル人に国民的なアマゾンへの郷愁をもたらすことになった。 第二次世界大戦後、バナナブームにより一時的に経済的な発展が見られたものの、1960年頃から政治的に不安定な情勢が続き、ベラスコ・イバラや軍人が大統領になる時期が続いた。また、この頃から、失われたアマゾンへの郷愁により、エクアドルは「アマゾン国家」であるとする言説が見られるようになった。 この状況を打破するために、ギジェルモ・ロドリゲス・ララ(スペイン語版、英語版)将軍が決起し、軍事評議会による革命的国民主義政権が樹立された。ロドリゲス将軍は外国資本、特に開発が進められていたアマゾン地域の石油の国有化を通してエクアドル経済の自立的発展や、農地改革を行い、キューバや東側諸国との友好関係を築き、1973年には石油輸出国機構 (OPEC) に加盟するなど自主外交が行われたが、こうした政策により自らの政治的な立場が危うくなる寡頭支配層と結んだ軍保守派が1976年にクーデターを起こすと、ロドリゲス将軍は失脚した。 新たに政権を握ったアルフレド・ポベダ・ブルバーノ(スペイン語版、英語版)海軍中将は保守化し、外資導入が再び進められた。また、1978年に新憲法草案が国民投票によって承認された。 1979年にキリスト教民主主義の人民勢力結集党からハイメ・ロルドス・アギレーラ(英語版)が当選し、軍事政権から民政移管したが、エクアドルの民主政治は前途多難だった。1981年、en:Paquisha War。1984年の大統領選挙ではレオン・フェブレス・コルデーロ(英語版)が当選した。フェブレスは親米政権を推進した。1987年には大地震によって多数の犠牲者を出し、また、石油パイプラインも破壊された。 1992年にシスト・デュラン・バジェン(英語版)が大統領に就任した。バジェンは1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)を巡ってペルーのアルベルト・フジモリ政権とセネパ紛争(英語版)を行ったが、敗北した。また、1993年にはロドリゲス将軍の時代に加盟した石油輸出国機構 (OPEC) から脱退した。 1996年にはレバノン系のアブダラ・ブカラム(英語版)が大統領に就任した。しかし、エクアドルにおける初のアラブ系大統領は奇行を繰り返したために失脚し、1998年に同じくレバノン系のハミル・マワ(英語版)が大統領に就任した。マワは10月26日にブラジリア議定書でアマゾン地域を放棄することを認め、1942年以来続いたペルーとのアマゾン地域を巡る国境紛争はエクアドルの敗北という形で幕を閉じた。 1998-99年、銀行危機(Ecuador banking crisis)。財政再建策をめぐり国際通貨基金との間で融資交渉が進んでいなかったこともあり、エクアドルは外貨資金を調達できないまま、1999年9月ブレイディ債をデフォルト(世界初)、さらにこの後ユーロ債や他の種類のブレイディ債もデフォルトした。債券を保有していた外国の機関投資家で、貸し倒れの特に大きい8機関が政府に対する顧問団を設立し、外貨準備と再生計画について説明を受けた。2000年1月5日、マワは非常事態宣言を行い、1月9日にそれまでの通貨だったスクレからUSドルに通貨を変更するドル化政策発表した。7月に政府はデフォルトした債権を単一の国際債に交換するという提案を公表した。同年9月にマワは失脚し、グスタボ・ノボア(英語版)が大統領に就任した。政治は安定せず、2003年には軍と先住民組織の支持により、ルシオ・グティエレス(英語版)が大統領に就任したが、2005年に失脚した。 2006年11月の大統領選挙で、ポプリスモ的な政策に訴えたラファエル・コレアが国民から圧倒的な支持を得て勝利し、2007年に大統領に就任した。コレアは反米を旗印に自主外交を進め、ベネスエラのチャベス政権をはじめとする世界の反米政権との友好的関係の構築や、石油出国機構(OPEC)への再加盟などに尽力した。2008年3月3日、コロンビアのウリベ親米政権が3月1日にコロンビア革命軍(FARC,反政府武装組織)征討作戦をエクアドル領内で行ったことに反発し、コロンビアに対し両国の外交関係を断絶することを通告し、公式発表した(アンデス危機)。 2008年9月28日には、大統領の連続再選容認や、経済格差是正を柱とした憲法改正案が賛成多数で承認され、公布された。 2009年4月26日には大統領選挙および議会選挙を含む総選挙が行われ、コレア大統領が得票率50%以上を得て圧勝し、再選された。新憲法は、社会的な変革や両性の平等、複数民族制などを取り入れている。また、米国の同盟国でなく、自主的な立場を明確にしてワシントン・コンセンサスや新自由主義政策と決別することにとどまらず、南米の統合で主導的な役割を果たし、エクアドルのキトに南米諸国連合の本部を建設した。 2017年2月19日(1回目投票)、同年4月2日(2回目投票)の大統領選挙で当選したレニン・モレーノが、同年5月25日に大統領に就任した。 大統領を元首とする共和制国家であり、行政権は大統領に属し、大統領の任期は4年、今まで再選は禁止されていたが2008年の憲法改正で再選が可能となった。現行憲法は2008年憲法である。 立法権は一院制の議会に属し、任期は4年、定数は137議席である。 司法権は最高裁判所に属する。 徴兵制が敷かれており、エクアドル軍は兵員約50,000人を有している。エクアドル軍はエクアドル陸軍、エクアドル海軍、エクアドル空軍の三軍からなる。 過去にペルーとの紛争でアマゾン流域の領土を併合されたことや、強権的な弾圧を行った軍事政権が少ないこと、主要な政治改革が主にクーデターによって政権を握った軍部の革新派将校によって進められたことから、国民の軍への信頼は強い。 コロンビアとの国境付近はコロンビア革命軍 (FARC) の活動地域であり、危険である。また、エクアドル政府は2005年のグティエレス政権時代からFARCに庇護を与えていたが、このことが2008年のコレア政権下で再び発覚し、コロンビアとの外交問題になった。 太平洋岸の港湾都市マンタにはアメリカ空軍の基地(マンタ空軍基地)が存在し、コロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていたが2009年9月、賃貸期限が切れ、政府も更新を認めなかったことから撤退した。 1942年のペルーとの戦争(スペイン語版、英語版)でアマゾン流域の広大な領土を併合されて以来、エクアドル・ペルー間には恒常的な緊張状態が続いていたが、1998年に和平合意が結ばれてからは、エクアドルがアマゾンの領有権主張を諦める形で両国の友好関係が再開した。 一方コロンビアとの関係は、プラン・コロンビア(スペイン語版、英語版)が開始されてから、コロンビア人の難民や反政府武装組織が国境を越えて流入し、エクアドル・コロンビア間の外交問題になっている。この問題は近年アンデス危機に発達している。 アメリカ合衆国との関係も大きく、2004年には二国間自由貿易協定 (FTA) の成立を目指していたが、これは2006年のコレア政権の成立によって阻止された。また、1999年のパナマ運河返還に伴って、パナマの米軍基地が太平洋岸の港湾都市マンタに移動し、マンタ空軍基地から出撃するアメリカ空軍がコロンビアへの枯葉剤散布作戦などを行っていた。現在も多くのエクアドル人がアメリカ合衆国に出稼ぎに行っている。 EUとの関係も重要であり、スペイン、イタリアに多くのエクアドル人が出稼ぎに出ている。 2008年のデフォルトから接近した中華人民共和国はコレア政権時代にエクアドル最大の債権国となり、中国からの融資でエクアドルの財政支出の6割は賄われるようになり、エクアドルの原油は9割が中国に輸出された。また、中国から武器の購入も進め、中国の援助でエクアドル初の人工衛星であるNEE-01 ペガソ(英語版)を打ち上げた他、エクアドル最大のコカ・コド・シンクレル水力発電所や他の南米諸国のインシデント・コマンド・システムのモデルになっている国家緊急事態指揮管理センター(ECU911)などを建設している。 22の県(provincia,州と訳されることもある)に分かれる。地方行政は中央集権体制がとられており、各県知事は大統領が任命する。\"-\" の右側は県都。 モロナ・サンティアゴ県(Morona-Santiago) - マカス ナポ県(Napo) - テナ オレリャナ県(Orellana) - プエルト・フランシスコ・デ・オレリャナ パスタサ県(Pastaza) - プージョ スクンビオス県(Sucumbios) - ヌエバ・ロハ サモラ・チンチペ県(Zamora-Chinchipe) - サモーラ アスアイ県(Azuay) - クエンカ (エクアドル) ボリーバル県(Bolivar) - グアランダ カニャール県(Cañar) - アソゲス カルチ県(Carchi) - トゥルカン コトパクシ県(Cotopaxi) - ラタクンガ チンボラソ県(Chimborazo) - リオバンバ インバブーラ県(Imbabura) - イバラ ロハ県(Loja) - ロハ (エクアドル) ピチンチャ県(Pichincha) - キト(首都) サント・ドミンゴ・デ・ロス・ツァチラス県(Santo Domingo de los Tsáchilas) - サント・ドミンゴ・デ・ロス・コロラドス トゥングラワ県(Tungurahua) - アンバト エル・オロ県(El Oro) - マチャラ エスメラルダス県(Esmeraldas) - エスメラルダス グアヤス県(Guayas) - グアヤキル ロス・リオス県(Los Rios) - ババオヨ マナビ県(Manabi) - ポルトビエホ サンタ・エレーナ県(Santa Elena) - サンタ・エレーナ ガラパゴス県(Galapagos) - プエルト・バケリソ・モレノ 本土とガラパゴス諸島 ガラパゴス諸島 主要な都市はキト(首都)、グアヤキルがある。 エクアドルは赤道直下にあり、北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000km程離れた太平洋上にガラパゴス諸島を領有する。 本土は標高によって三地域に分かれる。中央のアンデス山脈が縦断している地域をシエラ (La Sierra)、太平洋岸の亜熱帯低地をコスタ (La Costa)、東部のアマゾン川上流熱帯雨林が広がる地域をオリエンテ (El Oriente) と呼ぶ。 国内中央のシエラをアンデス山脈が南北に貫き、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(英語版)、東部のオリエンタル山脈(スペイン語版)、及び両山脈の間に位置する10の主要盆地よりなる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のチンボラソ山 (6,267m) である。幾つかの火山が現在も活動している。 基本的に赤道直下の熱帯だが、シエラは標高が高く、またコスタも寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響により、過ごしやすい気候になっている。 2013年のエクアドルのGDPは約937億ドルであり、広島県よりやや小さい経済規模である。同年の一人当たりのGDPは5,943ドルである。アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、米州ボリバル同盟の加盟国でもある。2000年からエクアドルは自国の通貨をスクレからUSドルに切り替えた。 エクアドルは農業国だが、生産が輸出商品作物の栽培に偏っていること、農地の所有制度に問題が残ることから、必ずしも国民の生活・福祉を支えるものとはなっていない。 農地の地域分布は山地と海岸平野に二分される。降水量が少ないため農業に適さない山地で主食となる米やトウモロコシ、肥沃な海岸平野ではカカオ、コーヒー、サトウキビ、バナナなどの商品作物を栽培する。このため、輸出に占める農産物の割合が5割を超えているにもかかわらず、食糧を輸入している。大土地所有制度の弊害は大きい。人口のわずか1%を占めるに過ぎない所有者が農地の4割を所有し、土地なし農民、一種の農奴として働く農民が少なくない。 しかし、2007年には革新政権が誕生し、つづく2008年9月に国民投票で承認された新憲法は、食料主権を確立するために大土地所有制を禁止した。それを受けて、2009年7月に2年以上未使用の土地は政府が接収できるとする政令が発効した。それにより、政府は、企業や大土地利用者が所有している未使用地を小規模農家に配分し始めた。 2009年12月20日、政府は北西部地域に住む農家約1850世帯に対して、合計1万2千ヘクタールの未使用地の所有権を譲り渡した。この土地は大手銀行が所有していたが、1999年に銀行が倒産し後は放置されていたものである。 主食となる作物は、米(138万トン、以下2005年)、トウモロコシ(75万トン)、ばれいしょ(42万トン)、キャッサバ(12万トン)が主力。商品作物では、世界第4位のバナナ(588万トン、世界シェア8.1%)、同7位のカカオ(14万トン、3.6%)、コーヒー(10万トン、1.3%)。世界シェアは低いもののサトウキビの生産量は566万トンに達し、単一の作物としてはバナナに次ぐ。畜産業は馬に集中している。 また、エクアドル沖は好漁場であり、コスタではエビ、マングローブガニが水揚げ、ガラパゴス沖ではマグロなどが漁獲されている。 鉱業は農業、漁業と並んでエクアドル経済を支える3本柱の一つである。埋蔵量が減少しているとはいえ、有機鉱物資源、特に石油は1920年代に開発されて以来エクアドルの主産業となり、2003年時点で輸出額の39.3%を占める最大品目である。東部のオレリャナ州の油田が有力。エクアドル政府は石油が貴重な外貨獲得源であると考えており、火力発電を規制し、地形を生かした水力発電に投資している。2011年では、水力発電が発電量の 58%占めており、火力発電は34%でしかない。2016年には水力発電の比率を93.5%にすることを目標としている。 エクアドルの油田の問題点は、主要な油田がアンデス山脈の東側に位置しながら、輸出のためには山脈の西側の港湾まで輸送しなければならないことである。輸送にはパイプラインを用いているが、地震国でもあるため、いったん損傷が起こると輸出が停止してしまう。 有機鉱物資源の品目では、石油(2046万トン、2002年)に偏っており、天然ガス(6.8千兆ジュール)が次ぐ。石炭は採掘されていない。金属鉱物資源の種類は多く、亜鉛(100トン)、金(11トン)、銀(2トン)、銅(100トン)、鉛(200トン)のほか、錫やビスマスも確認されている。ただし、鉱業として成立しているとは言い難い。その他の鉱物資源としては塩(9万トン)がある。 キト、クエンカの歴史的な町並みや、アマゾンでのエコツアーが多くの観光客を惹きつけているが、エクアドルの観光地として特筆されるのはやはり、多様な生態系で知られるガラパゴス諸島である。また、「リタイア後に移住したい国ランキング」世界1位であり、理由として過ごしやすい気候、高度で安い医療費、物価の安さが挙げられ、リタイヤメントビザでの北米からの移住者が約4000人いる。 首都キトにメトロ、バスと鉄道が通る。同国最大の都市であるグアヤキルにもバスがある。ドゥランに鉄道駅がある。 エクアドルは非常に多様性に富んだ国である。2007年の時点では、国内で最も多い民族集団は国民の67%を占めるメスティーソであり、2番目に多いのは22%を占めるインディヘナとなり、白人が12%を、ムラートやサンボを含んだアフリカ系エクアドル人が8%を占める。また、特にイタリア、スペイン、アメリカ合衆国、カナダ、日本には出稼ぎエクアドル人のコミュニティがあり、2007年の時点で約250万人のエクアドル人が海外で暮らしていると推測されている。国民の多くはコスタやシエラに住み、オリエンテには国民の3-5%ほどしか居住していない。エクアドルの移民の出身地としてはスペイン、フランス、ドイツ、レバノン(レバノン系エクアドル人)、イタリアなどが挙げられる。 1950年の調査で約327万人となり、1970年のセンサスでは8,884,768人、1983年年央推計では約1168万人になった。 公用語はスペイン語のみであるが、インディヘナによりケチュア語(キチュア語(英語版))、シュアール語(スペイン語版、英語版)が話され、特にケチュア語は「統一ケチュア語」が制定されて学校教育でも教えられている。また、オリエンテのアマゾン低地に住む先住民によって多様な言語が使用されている カトリック教徒が国民の80%であるが、近年、先住民社会を中心にプロテスタントの数が増加しつつあり、社会問題になっている。他にはユダヤ教やイスラーム教を信仰するものが少数存在する。ユダヤ人にはセファルディムが多い。 5歳から14歳までを対象に、1年間の就学前教育、6年間の初等教育、3年間の前期中等教育からなる10年間の義務教育制度が敷かれる。義務教育が終わると、3年間の後期中等教育(高校)があり、高校を卒業すると高等教育(大学)への道が開ける。 エクアドルの教育水準は決して高いとはいえない。その理由としては、就学率の低さと義務教育期間における留年率と退学率の高さが挙げられる。2001年のセンサスによれば、15歳以上の人口の識字率は91%(男性:92.3%、女性89.7%)である。 主な高等教育機関としてはエクアドル中央大学(英語版)(1826年)、グアヤキル大学(1867年)、クエンカ大学(1868年)などが挙げられる。 1980年代以降、先住民が教育文化省内に「異文化間二言語教育局」を設置し、スペイン語と先住民言語(主にケチュア語、シュアール語)による二言語教育が実施されており、スペイン語と先住民言語の双方を習得した先住民子弟の教育に力が注がれている。 地形の多様性に伴い、食文化も地域によって異なる。さらに、先住民の食文化と中華料理やスペイン料理、イタリア料理、フランス料理、ファストフードなどの世界各国からの移民や黒人の食文化が融合し、エクアドルの食文化は非常に地方色豊かとなっている。ただし、エクアドルはケチュア系の人々が多く暮らす国ではあるが、ペルー、ボリビアとは違ってエクアドルではコカ栽培は非合法であるため、コカ茶は飲めない。 コスタでは主にコメ、バナナ、ユカイモ、魚、エビ、貝類などを主食としている。中でも有名なのがセビッチェといわれる、冷たいエビや貝などのスープであり、ペルーのそれとは名前が同じだけで味は異なる。日常的なものの一つにはセコ・デ・ポロと呼ばれる、鶏肉をコメとアボカドのスライスと共に煮込んだ料理がある。その他にもアロス・コン・ポジョやアロス・コン・マリネーロなど、周辺国と似た料理が食べられている。 シエラでは芋や、トウモロコシを主食とし、牛、豚などを飼い ミルクを売ったり食べたりして生活している。海産物はめったに手に入らない。クイと呼ばれる天竺鼠の一種を食べる習慣がある。シエラの料理で代表的なものは豚肉のフリターダや羊肉のセコ・デ・チーボ、スープのロクロなどの名が挙げられる。 オリエンテにもユカイモを軸にした独自の食文化が存在する。 乾燥したトウモロコシをゆで塩で炒め卵・牛乳・ねぎで炒めた「モテ・ピージョ」、トウモロコシを寒冷地で干し豚のラードで炒る「トースタッド」、粗挽きトウモロコシを皮に包み蒸した「ウミータス」という料理がある。 エクアドルの文学は先住民の口承文学に伝統を持ち、スペイン人による征服以後も独自の発展を遂げた。 独立前後の作家としては、エウヘニオ・エスペホ、ホセ・ホアキン・オルメド、フアン・モンタルボなどが有名である。 エクアドルにおける小説はミゲル・リオ・フリオの『解放された女』(1863)によって始まった。ロマン主義の時代にはインディオをテーマにした『クマンダー』(1879)のフアン・レオン・メラの名が特に挙げられる。エクアドルの近代小説は、シエラからコスタのプランテーションに向かう人々を描いたルイス・マルティネスの『海岸へ』(1904)が出発点になった。フェルナンド・チャベスの『銀と青銅』(1927)によってエクアドルでもインディヘニスモ文学が始まった。後に国際的に最もよく知られたエクアドルの小説となったホルヘ・イカサの『ワシプンゴ』(1934)では、土地を追われ、政府軍によって殺戮される悲惨さの極致としてインディオが描かれた。イカサとは対照的に、ウンベルト・マタが『塩』(1937)で描いたインディオは、政府軍に対しての抵抗は失敗するものの、イカサのインディオ像には欠けていた人間の尊厳を持ち合わせていた。 キューバ革命後のラテンアメリカでは魔術的リアリズムが影響力を持ったが、エクアドルもその例外ではなかった。1970年代以降の現代小説においては、『マルクスと裸の女の間に』(1976)でフリオ・コルタサルに勝るとまでの反響を得たホルヘ・エンリケ・アドウムや、ベラスコ・マッケンジー、アリシア・ヤネス・コシーオ、『鷲はなぜ飛び去ってしまったのか』(1979)でアメリカ留学帰りのインディオエリート知識人のアイデンティティの葛藤を描いたグスタボ・アルフレド・ハコメ、『塵と灰』(1979)でピカレスクを義賊として描いたエリエセル・カルデナスなどが有名である。 エクアドルの音楽は、シエラの先住民系音楽、メスティーソ音楽、アフリカ系音楽に三大別される。また、ニューヨーク生まれのサルサや、コロンビア生まれのクンビア、バジェナート、ベネズエラ経由でもたらされたメレンゲなども広く愛好されている。 多くのラテンアメリカ諸国と同様に、エクアドルでもサッカーが大変盛んである。1957年にプロリーグが創設された。主なプロクラブとしては2008年のFIFAクラブワールドカップで準優勝に輝いたLDUキト、エル・ナシオナル、CSエメレク、コパ・リベルタドーレスで2度の準優勝経験があるバルセロナSCなどが挙げられる。 サッカー以外のスポーツとしてはテニスや、サッカーボールを使った三人制のオリジナルスポーツ、エクアボレーなどが盛んである。 エクアドル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件存在する。 ガラパゴス諸島 - 1978年、自然遺産、世界遺産登録第一号。ウミイグアナなどのこの諸島固有種の生物が多々生息している。 キトの市街 - 1978年、文化遺産、クスコに次ぐインカ帝国第二の都市。植民地時代を思わせるコロニアルな町並みである。 サンガイ国立公園 - 1983年、自然遺産。 サンタ・アナ・デ・ロス・リオス・クエンカの歴史地区 - 1999年、文化遺産。 ^ a b c d e f “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). 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The World Factbook. Central Intelligence Agency.  (英語) エクアドル - DMOZ (英語) エクアドルのウィキメディア地図 (英語) 座標: 南緯00度09分 西経78度21分 / 南緯0.150度 西経78.350度 / -0.150; -78.350", "アンゴラ共和国 República de Angola 国の標語:不明 国歌:進めアンゴラ! アンゴラ共和国(アンゴラきょうわこく)、通称アンゴラは、アフリカ南西部に位置する共和制国家。東にザンビア、南にナミビア、北にコンゴ民主共和国と国境を接し、西は大西洋に面している。コンゴ民主共和国を挟んで飛地のカビンダが存在し、カビンダは北にコンゴ共和国と国境を接する。首都はルアンダ。 旧ポルトガル植民地であり、1961年からアンゴラ独立戦争を戦い、1975年に独立を達成した。独立後も1975年から2002年まで内戦が続いたが、内戦終結後は石油やダイヤモンドなどの豊富な資源を背景に急激な経済発展を続けている。しかし、1000万を越える敷設地雷や首都ルアンダの物価が世界一高いなど課題も多い。ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国であり、アフリカ最大のポルトガル語人口を擁する国である。 正式名称はポルトガル語でRepública de Angola(発音 [ʁɛˈpublikɐ dɨ ɐ̃ˈɡɔlɐ] レプブリカ・デ・アンゴーラ)。通称、Angola。日本語にするとアンゴーラが近い。 公式の英語の名称は、Republic of Angola(発音: [rɪˈpʌblɪk əv ænˈgoʊlə] リパブリック・オブ・アンゴウラ)。通称、Angola(アンゴウラ)。 日本語の表記は、アンゴラ共和国。通称、アンゴラ。国名はかつてこの地を支配していたンドンゴ王国の王号ンゴラ(英: Ngola)に由来する。独立時の1975年から1992年までは正式名称はアンゴラ人民共和国だったが、1992年の憲法改正により現在のアンゴラ共和国となった。 この地域には、1世紀頃から主にバントゥー系のアフリカ人が住んでいた。 14世紀に現アンゴラ北部に居住していたコンゴ人はコンゴ王国を建国し、コンゴ王国は現アンゴラ北西部ザイーレ州に、首都ンバンザ・コンゴを建設した。 1482年にポルトガル人ディオゴ・カンがコンゴ川河口に到着し、1485年にカンはコンゴ王(英語版)ンジンガ・ンクウとの間に両国の対等な立場の下でコンゴ王国とポルトガル王国の国交を結んだ。1506年に即位したンジンガ・ムベンバの時代にコンゴ王国は積極的にポルトガルの文化やキリスト教を採り入れ、ンジンガ・ムベンバは首都ンバンザ・コンゴをポルトガル語のサン・サルヴァドールと改名した。その後ポルトガル人はコンゴに代わって南のアンゴラを新たな奴隷と、カンバンベに期待されていた銀の供給源とみなし、1575年にアンゴラに到達したパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスがポルトガル領アンゴラ(英語版)(1575年–1975年)を、翌1576年にルアンダを建設した後、ポルトガルはルアンダを拠点に更なる奴隷の供給を求めて徐々にアンゴラ内陸部に進出していった。 以降アンゴラはブラジルやウルグアイ、アルゼンチン、キューバなど南米や西インド諸島への黒人奴隷供給地となった。1617年にベンゲラが建設されると奴隷貿易はさらに拡大し、1576年から1836年までの間に、三百万人の奴隷が大西洋三角貿易の一環としてアンゴラからラテンアメリカに連行された。ポルトガル支配に対し、ンドンゴ王国やマタンバ王国(英語版)は激しい抵抗を繰り広げた。1622年、en:Battle of Mbumbi。特に1623年に権力を握ったンジンガ女王(英語版)は数十年に渡って反ポルトガル戦争を続け、一時はポルトガルと戦争状態にあったオランダと同盟してポルトガルと戦ったが、最終的にサルヴァドール・コレイア・デ・サ(英語版、ポルトガル語版)率いるポルトガル領ブラジル(英語版)から派遣された軍隊が在アンゴラのオランダ軍に勝利したことによって、1648年にアンゴラはポルトガルに征服され、ンジンガ女王は1657年にポルトガルと平和条約を結んだ。ポルトガルはオランダとの間に結ばれた1661年のハーグ講和条約で、400万クルザードの賠償金と引き換えにアンゴラとオランダ領ブラジル(英語版)(現ブラジル北東部)領有を国際的に認められた。 一方、アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は脱走して逃亡奴隷(マルーン)となり、ブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれるキロンボ(英語版)(逃亡奴隷集落)を築いた。1695年のパルマーレスの戦い(ポルトガル語版)で滅ぼされたブラジル最大の逃亡奴隷国家は、キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)と呼ばれる。1665年、アンブイラの戦い(英語版)をきっかけにen:Kongo Civil War(1665年–1709年)が始まる。 1884年から1885年のベルリン会議でのアフリカ分割の結果、ポルトガルはカビンダ以外のコンゴ川流域を失った。この時期のポルトガルは大西洋岸のアンゴラとインド洋岸のモザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想を打ち出し、アフリカ大陸を横断することを植民地政策の目標としたが、この政策はカイロからケープタウンまでアフリカ大陸を縦断しようとしていたイギリスの植民地政策と衝突したため、1890年にポルトガルはイギリスの圧力によって内陸部のザンビア、マラウイ、ジンバブエから撤退し、翌1891年の条約によってポルトガル領アンゴラ(英語版)はほぼ現在のアンゴラの形に再編された。20世紀に入ると、事実上の強制労働制度とイギリスやベルギーの資本により、植民地開発が進められた。この時期にベルギー・イギリス系のディアマング(英語版)社によってダイヤモンド鉱山の開発が始まり、インフラにおいては1907年にイギリス系のタンガニーカ・コンセッション社(英: Tanganyika Concessions Ltd.)によりベンゲラ鉄道の建設が着工され、1929年に完成した。 第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入るとアフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がアンゴラにも押し寄せた。アントニオ・サラザール政権(エスタド・ノヴォ)は1951年にアンゴラ等のアフリカ植民地を「海外州」(葡: Província Ultramarina de Angola, 英: Overseas Province of Angola)と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。アンゴラやモザンビークは形式上本国ポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、アンゴラには5,000万ポンドが投資された。アンゴラには多数のポルトガル人の入植が奨励され、ポルトガル人農園主の経営するプランテーションで栽培されたコーヒーはアンゴラ最大の輸出品目となった。 しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、アンゴラでは1961年2月4日に、アゴスティーニョ・ネト、マリオ・ピント・デ・アンドラーデによって率いられたアンゴラ解放人民運動 (MPLA) が政治犯の解放を求めて首都ルアンダの刑務所を襲撃し、アンゴラ独立戦争(ポルトガルの植民地戦争)が始まった。同年3月に北部のコンゴ人を主体とし、反共を掲げたアンゴラ人民同盟(UPA、葡: União das Populações de Angola、アンゴラ国民解放戦線 - FNLA の前身)も独立運動を始め、両者の主導権争いが続いた後に、1966年にジョナス・サヴィンビがFNLAからアンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) を分離した。1960年代を通じてMPLAによる解放区の拡大は続き、独立派とポルトガル軍(現地採用の黒人兵も多かった)との独立戦争の末に、ポルトガル本国で1974年に勃発したカーネーション革命により、独立三派の紆余曲折を経てMPLAは1975年11月11日にルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言した。 しかし、MPLAに主導権を握られるのを嫌ったアンゴラ国民解放戦線 (FNLA)・アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) 連合がウアンボ(旧ノーヴァ・リズボア)にアンゴラ人民民主共和国の独立を宣言し、独立直後から、キューバ(直接介入)とソ連が支援するアンゴラ解放人民運動 (MPLA) と、南アフリカ共和国(直接介入)とアメリカ合衆国が支援するUNITA、ザイール(直接介入)と中華人民共和国とフランスが支援するFNLA連合の間で内戦状態に陥った。キューバ軍の支援を受けたMPLAは首都ルアンダの防衛に成功し、政権を掌握したが、しかし、1975年の時点で50万人を数えたポルトガル系アンゴラ人の入植者の大規模な引き上げや、戦争によるインフラ、農地の荒廃によってアンゴラの産業は大混乱に陥った。 1979年9月、ネト議長が死去し、第2代大統領にジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任。アンゴラ政府はソ連やキューバなど社会主義陣営との結びつきを強め、MPLAによる社会主義建設のために一党制を敷いた。しかし、この間もUNITA/FNLAとの内戦(アンゴラ内戦)が続いたため、多くの人命が失われ、経済は疲弊。さらに戦闘や地雷で負傷してしまった人々も多く発生した。アンゴラ内戦は、政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援と、それぞれの勢力の代理人であった南アフリカ共和国(アパルトヘイト時代)とキューバ(カストロ政権)の直接介入を受けていたことから、東西冷戦の代理戦争と言われている。 FNLAは1980年代には弱体化し、南アフリカとキューバも1988年に南アフリカがクイト・クアナヴァレの戦い(英語版)でアンゴラ=キューバ連合軍に侵攻を阻止された後に、当時南アフリカ領だったナミビアの独立とキューバ軍のアンゴラ撤退を交換条件に撤退した。外国軍の撤退後、冷戦体制が終結を迎う国際情勢に呼応してMPLA政権は1990年に社会主義路線を放棄し、翌年には複数政党制の導入を決めた。ポルトガル政府の仲介で1991年5月、MPLAとUNITAがリスボンで和平協定(en:Bicesse Accords)に調印。 しかし1992年の大統領選および議会選をめぐる対立から再び武力衝突に突入した。1994年10月31日に国連の仲介でen:Lusaka Protocolが締結され和平が成立したが、アンゴラゲート(英語版)と呼ばれるフランスによるアンゴラ反政府勢力への武器密輸スキャンダルからUNITAの武装解除に失敗した。 1997年5月、アンゴラ政府軍がザイールに出兵(第一次コンゴ戦争、1996年11月 – 1997年5月)。1998年にUNITAの再蜂起により第二次コンゴ戦争が再燃した。ジョナス・サヴィンビ議長の私兵勢力と化したUNITAはダイヤモンドの密輸を資金源にアンゴラ政府軍と衝突を続けた(紛争ダイヤモンド)。 2002年2月にUNITAのサヴィンビ議長は民間軍事会社(PMC)の攻撃で戦死し、和平機運が高まったため、3月15日に双方は休戦で合意した。4月19日に休戦協定(en:Sun City Agreement)が結ばれ、27年間の内戦に終止符が打たれ、飛地のカビンダ(カビンダ共和国(英語版))を除いた全土で1961年以来はじめての恒久的な平和がアンゴラに築かれた。内戦終結後、ダイヤモンドや石油の輸出によってアンゴラ経済は急速に拡大しており、周辺国との友好も続いている。しかし、世界一ともいわれる地雷の敷設や政権の腐敗など、課題は多い。2010年8月9日、政府の地雷除去委員会は、2006年から今年半ばまでの地雷での死亡者は166人、負傷者は313人であることを明らかにした。国連の推定によると、アンゴラ全土に残されている地雷は数百万発であるといわれている。 2010年1月には当地で開催されるサッカーの国際大会アフリカネイションズカップ2010出場の為に訪れていたトーゴ代表一行が乗ったバスを、カビンダの反政府勢力カビンダ解放戦線(英語版)(FLEC)=カビンダ軍(英語版)(FAC)が襲撃し、チーム関係者3名が死亡、選手も含めた数名が負傷する事件が起きた。このため、トーゴ代表は出場辞退した。 大統領を元首とする共和制国家であり、大統領は国会議員による間接選挙によって選出される。任期は5年。現行憲法は2010年憲法である。2010年憲法の施行に伴い、首相職は廃止された。 立法府は一院制の国民議会(en:National Assembly (Angola))であり、220名の議席数からなる。 主要政党としてはアンゴラ解放人民運動 (MPLA)、アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA)、社会改革党、アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)、新民主選挙連合などが存在する。直近の選挙は2012年8月31日に行われた(2012年アンゴラ議会選挙、en:Angolan legislative election, 2012)。 最高司法機関は最高裁判所である。 1961年から1975年までの独立闘争と、建国後の1975年から2002年まで続いた内戦により、極めて不安定な時期が長く続いたが、2002年の内戦終結により漸く安定の兆しが見えている。 アンゴラ軍は陸海空の三軍と、緊急即応警察軍から構成される。独立直後に始まったアンゴラ内戦のため、アンゴラ政府軍はソ連とキューバの支援を受けて南アフリカや中華人民共和国が支援する反政府ゲリラ (UNITA, FNLA) との戦いを繰り広げた。1988年にキューバ軍が撤退した後も2002年にUNITAが降伏するまで内戦は続いた。現在もアンゴラ軍の任務は主に国内のゲリラ組織との戦闘であり、内戦終結後も飛地のカビンダ州の独立を志向するカビンダ飛び地解放戦線(ポルトガル語版)(FLEC)との戦い(en:Cabinda Conflict)が続いており、2010年1月にはFLECによるサッカートーゴ代表への襲撃事件(en:Togo national football team attack)が発生した。 対外的な軍事介入においてはコンゴ民主共和国との関わりが大きく、第一次コンゴ戦争では反政府ゲリラを支援していたザイールに出兵し、モブツ体制崩壊を助けた。第二次コンゴ戦争(en:Ituri conflict、en:Kivu conflict)においてもローラン・カビラ、ジョゼフ・カビラ父子のコンゴ民主共和国新政府支援のために軍を送っている。 兵器体系は旧東側諸国に準ずる。2006年の軍事支出はGDPの5.7%だった。 アンゴラ陸軍兵力:10万人 アンゴラ海軍兵力:1,000人 アンゴラ空軍兵力:6,000人 緊急即応警察軍:1万人 独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるMPLAだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結びつき、反政府ゲリラを支援する南アフリカ共和国、アメリカ合衆国、中華人民共和国、ザイールなどとは敵対政策が続いたが、冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。 ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルやブラジル、カーボ・ヴェルデ、モザンビークなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。 内戦中に現MPLA政府はキューバ軍の援軍と医療援助や教育援助を受けたため、現在もキューバとは友好関係が続いており、キューバの医師団を受け入れている。 党旗を南ベトナム解放民族戦線のものに似せるなど、ベトナムとアンゴラは共に欧米諸国や中国の侵略に立ち向かう同盟国同士であった。ベトナムも少数ながらアンゴラに軍事顧問団を送るなどして支援を行った。そのため、両国は現在でも良好な関係にある。 第二次コンゴ戦争勃発以来隣国コンゴ民主共和国が不安定な情勢であるため、アンゴラもカビラ側での軍事介入を行い、国内にはコンゴ民主共和国人の難民も流入している。 内戦中、MPLAと対立したUNITAやFNLAを支援していた中華人民共和国は、冷戦終結後はMPLAと和解した。中華人民共和国はインフラ整備のためにおよそ20万人[要出典][2]の労働者を送り込み、2007年までに1兆5000億円の資金援助をした。アンゴラは原油の1/4を中国に輸出しており、最大の輸出先となった。アンゴラに利益を還流しない中国の方法にはアンゴラ人からの批判もあり、2004年には反中デモも起きたが、MPLA政権はこれを弾圧した。2014年には内戦で破壊されたベンゲラ鉄道を中国の援助で再建した。 対日関係は1990年代以前は希薄であったが、内戦の終結や豊富な資源等の発見などにより、次第に関係を深めている。2005年には日本大使館が開設された。民間からも難民を助ける会などのNGOが現地で援助活動をしていた。 在留日本人数 - 35人(2018年8月現在) 在日アンゴラ人数 - 49人(2017年10月末現在) 18州(províncias)の下に158の市町村(municípios)に分かれている。 ベンゴ州 (Bengo) ベンゲラ州 (Benguela) ビエ州 (Bié) カビンダ州 (Cabinda) → 飛び地 クアンド・クバンゴ州 (Cuando Cubango) クアンザ・ノルテ州 (Cuanza Norte) クアンザ・スル州 (Cuanza Sul) クネネ州 (Cunene) ウアンボ州 (Huambo) ウイラ州 (Huíla) ルアンダ州 (Luanda) ルンダ・ノルテ州 (Lunda Norte) ルンダ・スル州 (Lunda Sul) マランジェ州 (Malanje) モシコ州 (Moxico) ナミベ州 (Namibe) ウイジェ州 (Uíge) ザイーレ州 (Zaire) ルアンダ ウアンボ ロビト ベンゲラ ルバンゴ カビンダ 国土面積は1,246,700km2で、ニジェールに次いで世界で23番目。また日本の約3.3倍の大きさである。 アンゴラ本土(カビンダ州を除く地域)は、南はナミビア、東はザンビア、北はコンゴ民主共和国と国境を接する。また飛び地であるカピンダ州はコンゴ民主共和国とコンゴ共和国に挟まれている。 寒流であるベンゲラ海流の影響により、沿岸部での降水量は非常に少なく、首都ルアンダをはじめとする多くの港湾都市の気候はステップ気候を示す。最南部の海岸は砂漠気候さえ示す。一方狭い海岸平野を除く国土の大半は広大な台地状の高原となっており、赤道に近い北部はサバナ気候、南部は温帯夏雨気候を示す。 長年にわたる内戦によってインフラの破壊や人的資源の損失などが著しいが、沿岸部の埋蔵量80億バレルとされる石油と内陸部に産出するダイヤモンドなどで、経済的な潜在力は高い。内戦が終結し、毎年貿易で30億ドル以上の黒字を記録するなど、これからの発展に十分な期待が持たれる国として外国企業の進出も盛んである。2004年に中国の政府系金融機関中国輸出入銀行(英語版、中国語版)(中国进出口银行)は20億ドルの現金をアンゴラに貸し出した。ローンはアンゴラのインフラの再建に使われ、同国における国際通貨基金(IMF)の影響力を制限した。 成長は2005年末の時点で日産140万バレル(220,000 m3/d)を越える石油生産の進展によって推進されており、生産能力は2007年までに200万バレル(320,000 m3/d)に伸びると予想された。石油産業の支配はアンゴラ政府が所有するコングロマリット、ソナンゴル(Sonangol Group)によって強化される。また、2007年1月1日にはOPECに加盟した。アンゴラの石油資源の大半は飛地のカビンダ州に埋蔵されている。石油セクターは急速に成長している部門であり、経済活動全体の向上の原動力であるが、にもかかわらず貧困は依然として拡散している。腐敗の監視人たるトランスペアレンシー・インターナショナルは、2005年にアンゴラを最も腐敗した国家のワースト10にランクした。ブリティッシュ・ペトロリアムが、採掘権料を腐敗した役人から政府の歳入に入るようにした時は、他の石油会社はそれに賛同しなかった。首都は最も開発され、同国で言及すべき唯一の経済センターだが、ムセーケス(musseques)と呼ばれるスラムがルアンダの周囲を1マイルに渡って取り巻いている。アメリカの保守的なシンクタンクであるヘリテージ財団によれば、アンゴラからの石油生産はアンゴラが現在中国にとって最大の石油供給国であるため著しく増加している。 内戦の影響で依然として国内各地に地雷が放置されており、開発の大きな障害となっている。各国のNGOや日本の日立製作所などの技術により、地雷の除去が進められている。 CIAワールドファクトブックによれば、実質GDP成長率は2006年に18.6%、2007年に21.1%、2008年には12.3%と非常に高い数値に達した。 近年の急速な経済成長により、2009年現在の首都ルアンダの物価は世界一高くなっている。 国内総生産: 1242億ドル(2017年)- 世界銀行調べ 一人当たり国民所得: 3330ドル(2017年)- 世界銀行調べ フラッグキャリアのTAAGアンゴラ航空が国内主要都市の間を運航している他、アフリカ大陸の近隣諸国やヨーロッパ、南北アメリカ大陸の主要都市との間を結んでいる。なお同社は、近年アメリカ製の最新鋭機であるボーイング777やボーイング737-800を次々と導入し、サービス向上に力を入れている。 陸上交通においては、植民地時代にベンゲラ鉄道が建設されたが、内戦中に操業が停止した。現在中華人民共和国の援助により、復旧作業が進んでいる。 15世紀以来長らくポルトガルの支配下に置かれ、アメリカ合衆国やラテンアメリカへの奴隷供給源となったため、アフリカの中でも人口密度が極めて低い国の一つとなっている。アメリカ合衆国最初の黒人奴隷は、アンゴラ出身であった。 アンゴラの民族は、オヴィンブンド人37%、キンブンド人25%、コンゴ人13%などバントゥー系黒人諸民族が大半であるが、メスチーソ(白人と黒人の混血、いわゆるムラート)が2%を占め、1%ほどポルトガル系(ポルトガル系アンゴラ人)を中心とするヨーロッパ系市民も存在し、その他が22%となる。また、アンゴラ内戦時に派遣され、現在も帰れないまま残留しているキューバ兵が10,000人ほど残っている。その他のマイノリティとしては中国人(華僑)など。両ンブンド人は併せて人口の62%を占める。北部のコンゴ人はかつてコンゴ王国の担い手だった民族であり、国境を越えたコンゴ民主共和国やコンゴ共和国にもまとまった数の集団が存在する。 アンゴラは2007年末で12,100人の難民と、2,900人の亡命希望者を抱えていると推測されている。2008年には400,000人のコンゴ民主共和国人の移民労働者が存在したと見積もられ、少なくとも30,000人のポルトガル系アンゴラ人、少なくとも20,000人の中国人がアンゴラに住んでいる。独立前の1975年には約500,000人のポルトガル人のコミュニティを抱えていた。 アンゴラの公用語はポルトガル語であるが、90%以上の住民はキンブンド語、ウンブンド語、コンゴ語、リンガラ語などのバントゥー諸語を話す。なお、1990年の時点でポルトガル話者数は国民の20%程だと見られている。 アンゴラの宗教はキリスト教が最大で人口の53%を占め、そのうちの72%がカトリック、28%がバプティスト、プレスビテリアン、改革福音派、ペンテコステ派、メソジスト、キリスト教カルトなどである。残り内訳は土着宗教が47%である。 法律では初等教育の8年間は必修かつ無料であるが、政府の報告によれば、学校施設と教員の不足により、かなりのパーセンテージの生徒が学校に出席していない。生徒はしばしば教科書や学用品など学校関連の追加支出を負担しなければならない。 1999年には、初等教育の総就学率は74%であり、1998年には初等教育の純就学率は61%だった。総就学率、純就学率は共に公式に初等学校に登録された生徒の数を基にしており、それゆえ出席実態は実際には反映されていない。また都市と地方の就学状況は顕著な差が開いたままである。1995年には、7歳から14歳までの71.2%の児童が学校に出席していた。男子の方が女子よりも出席率が高い傾向が報告されている。アンゴラ内戦(1975年-2002年)の間、半数近い学校が略奪、破壊されたことが報告されており。現在の学校過密の問題を招いている。 教育省は2005年に20,000人の新教員を雇い、教員研修を実施している。教員は薄給、研修不足、過重労働の傾向がある。また生徒からの直接の支払いや賄賂に要求する教員もいると報告されている。その他に児童が定期的に学校に通うことができなくなっている理由として、地雷の存在、予算の不足、身分証明書類の不備、劣悪な健康状態などが挙げられる。2004年に教育予算の分配は増加したにも関わらず、アンゴラの教育システムは依然として極度に資金不足である。 2001年の推計によれば、15歳以上の国民のポルトガル語での識字率は67.4%(男性:82.9% 女性:54.2%)である。植民地時代の1950年の非識字率は96.4%であった。2005年の教育支出はGDPの2.7%と、世界的に見ても低い数値だった。 主な高等教育機関としてはアゴスティーニョ・ネト大学(1962)やアンゴラ・カトリック大学(1999)が挙げられる。また1975年のポルトガルからの独立以降、アンゴラのエリート層の子女は高等学校、工業専門学校、ポルトガル、ブラジル、キューバの大学などにも協定によって入学している。 2007年の調査では、アンゴラではナイアシンが少なく欠乏した状態が一般的になっていると結論付けられた。コレラ、マラリア、狂犬病、マールブルグ熱のようなアフリカ出血熱などの伝染病は、国内のどの地域でも一般的な病気となっている。同国の多くの地域では結核の感染率と、HIVの感染率が高い。デング熱、フィラリア、リーシュマニア症、回旋糸状虫症(英語版)(川失明)は虫によって媒介されるその他の病気であり、この地域でも発生する。アンゴラは乳幼児死亡率が世界で最も高く、平均寿命が世界で最も短い国の一つである。 ポルトガルは400年以上の長きに渡ってアンゴラを支配していたため、アンゴラは言語(ポルトガル語)や宗教(カトリック)など、ポルトガルの文化の影響を非常に強く受けている。しかしアンゴラの文化は多くが土着のバントゥー系の文化とポルトガルの文化が合わさって形成されている。またオヴィンブンド人、キンブンド人、コンゴ人などを含む土着の多様な部族やそれぞれの伝統、言語・方言がさらに幅の広いコミュニティーを形成している。 アンゴラ独自の文化ではないが、ブラジルのカポエィラやサンバ、アルゼンチン、ウルグアイのタンゴ、カンドンベなどのアフリカに起源を持つ文化は、アンゴラから連行された黒人奴隷の文化が基になったものである。 アンゴラの主食は、キャッサバやトウモロコシの粉を湯と混ぜて餅状にしたフンジであり、肉や野菜をパーム油と煮た、シチュー状のムアンバと共に食べることが多い。その他、旧宗主国のポルトガル料理や、その植民地であったブラジル料理の影響を強く受けている。例えば、アンゴラにはポルトガルが植林したオリーブが生育しており、料理にもオリーブ・オイルが用いられる。 キンブンド人の音楽だったアンゴラのセンバは、ブラジルに渡ってサンバとなった。1947年にリセウ・ヴィエイラ・ディアスが中心となって結成されたンゴラ・リトモスは新たなセンバを創始し、アンゴラのポピュラー音楽の方向を決定づけた。ンゴラ・リトモスによって方向づけられたアンゴラのポピュラー音楽は、1960年代から独立後を通してセンバが主流となり、ボンガ、ヴァルデマール・バストス、パウロ・フローレスのように、国際的な成功を収めたミュージシャンも現れた。センバ以外にアンゴラ発祥の音楽のジャンルには、フランス語圏西インド諸島のズーク(Zouk)とセンバのクロスオーバーであるキゾンバが存在し、アンゴラ発祥のクラブミュージックであるクドゥーロも、ブラカ・ソン・システマの活躍の影響などもあって近年世界的に注目を集めている。近年は、同国初のゴシック・メタルバンドであるネブリナや、キゾンバのネイデ・ヴァン=ドゥーネン(Neide Van-Dúnem)が活動している。 文字によるアンゴラの文学は、ポルトガル語によって19世紀半ばに始まった。これは、カーボ・ヴェルデの文学の成立と同時期であり、モザンビークに半世紀先駆けたものであった。文学において、アンゴラ文学はポルトガル文学との差異を強調する傾向があり、この傾向は独立以前の文学において、ポルトガル文学に対するこだわりを強く持たなかったモザンビーク文学との差となった。 アンゴラの詩は1960年代の独立戦争の頃に大きく高揚した。独立戦争の指導者であるアントニオ・ディアス・カルドーゾ、マリオ・ピント・デ・アンドラーデ、アゴスティーニョ・ネトや、亡命者のアルリンド・バルベイトスなど、多くの政治的な人物によりポルトガル語詩が作られた。 小説においては、20世紀前半にポルトガル人行政官としてアンゴラに駐在し、作品を著したフェルナンド・モンテイロ・デ・カストロ・ソロメーニョや、『ルーアンダ』(1961)などで知られ、キンブンド語とポルトガル語を巧みに融合してノーベル文学賞受賞も取りざたされ、現地の口承文学などを取り入れてポルトガルによる植民地支配を描いたジョゼ・ルアンディーノ・ヴィエイラ、アンゴラ独立戦争における解放軍の戦士の心情描写を通してアンゴラ人の心を描いた『マヨンベ』(1980)で知られ、1997年にカモンイス賞を受賞したペペテラ、ジャーナリストであり、伝記文学や『過去の売人』(O Vendedor de Passados,2004)で2007年の英インデペンデント紙外国フィクション賞を受賞したジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザらがアンゴラの著名な作家の名として挙げられる。 アフリカ屈指のバスケットボールの強豪として知られており、2006年バスケットボール世界選手権では日本などと対戦し、3勝2敗のBグループ3位で決勝トーナメントに進んだ。 サッカーでも代表チームが予選でナイジェリアなどの強豪を破り2006 FIFAワールドカップに初出場した。本大会ではポルトガル、メキシコ、イランと対戦。旧宗主国との対戦があり、この大会の一つの注目点ともなった。結果は1敗2分けで1次リーグ敗退に終わったものの、強豪メキシコに引き分けるなど健闘した。 2010年にはアンゴラでアフリカネイションズカップ2010が開催されたが、FLECによるトーゴ代表襲撃事件が発生するなど痛ましい大会となった。 ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ - 文学者 アクワ - 元サッカー選手(元代表選手) マヌーショ - サッカー選手(代表選手) ヴァルデマール・バストス - ミュージシャン パウロ・フローレス - ミュージシャン ペペテラ - 文学者 ボンガ - ミュージシャン ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ a b 東京より物価が高い国がアフリカに!世界一物価高の国アンゴラ。 2009年6月12日 11:152009年8月28日閲覧 ^ 小田英郎 『世界現代史15──アフリカ現代史III』 山川出版社、1991年9月第2版。p.25。 ^ 川田順造編 『新版世界各国史10──アフリカ史』 山川出版社、2009年8月。pp.285-286 ^ 小田英郎 『世界現代史15──アフリカ現代史III』 山川出版社、1991年9月第2版。p.27。 ^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳 『ポルトガル2──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.86。 ^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳 『ポルトガル2──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.86-87。 ^ 福井英一郎編『世界地理10 アフリカII』朝倉書店、1998年。p.136。 ^ オランダはオランダ領ブラジル (Dutch Brazil) (1630年–1654年)の利権でポルトガルと対立していた。 ^ 岡倉登志 『アフリカの歴史──侵略と抵抗の軌跡』 明石書店、2001年1月。p.22-24。 ^ ボリス・ファウスト/鈴木茂訳 『ブラジル史』 明石書店、2008年6月。p.66。 ^ シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年1月 pp.75-76。 ^ シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年1月 pp.62-63。 ^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳3 『ポルトガル3──世界の教科書=歴史』 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2005年と2010年に債務額を大幅にカットする形で債務交換を強行し、9割以上の債務を再編した。これはアメリカ合衆国との国際問題に発展した。 正式名称は、República Argentina(レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。英語表記は公式にはArgentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)、通称Argentina(アージェンティーナ)。 日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。他にアルゼンティンとも表記され、原語音に即したアルヘンティーナと表記されることもある。漢字表記では、亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷など。 独立当時にはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(Provincias Unidas del Río de la Plata)と呼ばれていた。リオ・デ・ラ・プラタはスペイン語で「銀の川」を意味し、1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスの率いるスペイン人征服者の一行がこの地を踏んだ際、銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈(Sierra del Plata)」があると信じたことから名づけたとされる。これにちなみ、銀のラテン語表記「Argentum(アルゲントゥム)」に地名を表す女性縮小辞(-tina)を添えたものである。初出は、1602年に出版されたマルティン・デル・バルコ・センテネラ(スペイン語版、英語版)の叙事詩『アルヘンティーナとラ・プラタ川の征服』とされる。その後、1825年に正式国名とした。 国名をラテン語由来へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵略を契機として、フランス語読みの「アルジャンティーヌ(Argentine)」に倣ったものでもあるとされる。しかしながら、現在でも「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」や「アルゼンチン連合(Confederación Argentina)」などの歴史的呼称は、アルゼンチン共和国とともに正式国名として憲法に明記されている。 アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。 その後15世紀後半に現ペルーのクスコを中心に発展したケチュア人の国家クスコ王国(1197年 - 1438年)は、タワンティンスーユ(インカ帝国、1438年 - 1533年)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキとワイナ・カパックによって征服され、北西部のアンデス山脈地域はタワンティンスーユに編入された。征服された地域はタワンティンスーユ内の四州の内の一州、コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)の辺境の地となり、30万人ほどのケチュア人やアイマラ人が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャ・スウユの領域は北は現在のフフイ州から南はメンドーサ州、東はサンティアゴ・デル・エステロ州の北部にまで広がっていた。その一方でインカ帝国の権威が及ばなかったチャコやパンパやパタゴニアには、チャルーア人のような狩猟インディヘナが主に居住しており、パンパやチャコにもグアラニー人のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全般的にこの地域に住む人間の数は少なかった。 16世紀に入ると、1516年にスペインの探検家、フアン・ディアス・デ・ソリスが最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れたが、すぐに先住民といさかいを起こし、まもなく殺害された。その後もスペインによってこの地域の植民地化は進められた。1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた「銀の山」を攻めるために、バスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサ(英語版)率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されたが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年ほどラ・プラタ地域の中心は、1559年にアウディエンシアの設置されたパラグアイのアスンシオンとなった。 植民地政策の伸展に伴ってペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を軸に開拓が進み、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年には放棄されたブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネズエラなどと並んでイスパノアメリカでは最も開発の遅れた地域だった。また、1541年に放された12頭の馬がパンパの牧草を食べて自然に大繁殖したこともあり、いつしかガウチョが現れるようになっていった。同じようにして繁殖した牛は19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこの頃の人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイを併せても100万人を越えないほどだった)。植民地政策の経過により、当初は大西洋岸よりも内陸部の発展が早かった。1613年には内陸のコルドバにコルドバ大学が建設され、以降19世紀までコルドバは南米南部の学問の中心となった。18世紀にはグアラニー戦争(英語版)等に代表されるように、ポルトガル領ブラジル(英語版)方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するためもあって、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心は北西部のトゥクマンや中央部のコルドバであり、リトラル地域やブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、後に植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになった。 1806年、1807年の2度にわたるイギリス軍のラプラタ侵略(英語版)を打ち破った後、スペインからの解放と自由貿易を求めたポルテーニョは1810年5月25日に五月革命を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバはブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、1811年のマヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略(スペイン語版、英語版)は失敗した。1813年のサンロレンソの戦いにも勝利するとスペイン王党派軍との戦いが本格化するが、しかし王党派の支配していたアルト・ペルー攻略(スペイン語版)(第一次アルト・ペルー攻略(スペイン語版、英語版)、第二次アルト・ペルー攻略(スペイン語版))は失敗した。 独立戦争が難航する中、1816年7月9日にはトゥクマンの議会(英語版)で正式に独立を宣言したが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて立憲君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・アルティーガス(英語版)のようにアメリカ合衆国のような連邦共和制を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど、独立諸派の意見は全く一致しなかった。ベルグラーノ将軍が第三次アルト・ペルー攻略(スペイン語版)に失敗し、北部軍(スペイン語版、英語版)司令官を辞任すると、後を継いだアンデス軍(英語版)司令官のホセ・デ・サン・マルティン将軍がアンデス山脈越え(英語版)を行い、王党派の牙城リマを攻略するために遠征を重ね、王党派軍を破ってチリ(チャカブコの戦い(英語版)、マイプーの戦い(英語版))、解放者シモン・ボリーバルのコロンビア共和国解放軍から派遣されたアントニオ・ホセ・デ・スクレがペルー(アヤクーチョの戦い(英語版))を解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州やリトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレス(トゥクマン議会派)の対立が激しさを増し、内戦が続いた。内戦の末、1821年にプエイレドン(英語版)が失脚すると中央政府は崩壊したが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協により1825年にブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。 その後、ブエノスイアレスと敵対していた東方州がポルトガル・ブラジル連合王国に併合されたことをブエノスアイレスが見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始したフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍のバンダ・オリエンタル潜入から、かの地を巡って1825年にブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争に際して挙国一致が図られ、ベルナルディーノ・リバダビア(英語版)を首班とした中央政府が一時的に成立し、この時に国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が国内の全ての層の反発を受けると、リバダビアは失脚し、再び中央政府は消滅した。戦局はアルゼンチン有利に進んだが、内政の混乱が災いし、最終的にはイギリスの介入によってバンダ・オリエンタルを独立国とするモンテビデオ条約が結ばれ、1828年にウルグアイ東方共和国が独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。 ブラジルに対しての実質的な敗戦の影響もあって連邦派と統一派の戦いは激しさを増したが、1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェ(英語版)を打倒した連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル3州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったもののアルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入った。ロサスは1832年に州知事を辞すると、「荒野の征服作戦(英語版)」で敵対していたパンパのインディヘナを今日のブエノスアイレス州の領域から追い出して征服した土地を部下に分け与え、大土地所有制を強化した。 1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガ(英語版)が暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れた。この際のロサスの妻のドーニャ・エンカルナシオン(英語版)のクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われてロサスは1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。以降のロサスの政治は恐怖政治であり、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧・追放され、25,000人にも及ぶ市民が粛清されたが、その一方でロサスはパンパの伝統を守り、自由主義者によって弾圧されていた黒人やガウチョを保護するなどの面もあった。こうした政策で、ブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする上流階級以外の各層から支持を得て、独裁制は成り立っていた。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとったロサスは、1833年に マルビナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、イギリスに島を占領されてしまったものの、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリス、フランスとのウルグアイを巡っての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難全てからロサスはアルゼンチン連合を守り抜いた。しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)がエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にロサスはカセーロスの戦い(英語版)でロサスは敗れ、失脚した。 カセーロスの戦い以後のアルゼンチン連合は、当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは近代化の障害として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合の1853年憲法(英語版)は、事実上の起草者だったアルベルディ(英語版)の意向を反映して極めて自由主義的な憲法であった。ウルキーサがこの自由主義貿易によって自由貿易を導入すると、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊滅してしまった。 その後もブエノスアイレス国(英語版)と周辺諸州との間で内戦が続いたが、1861年にブエノスアイレス国(英語版)がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が達成された。このため、勝利した元ブエノスアイレス国知事ミトレ(英語版)ら自由主義者が完全な主導権を握ることになり、国家の西欧化のためにヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉と中央集権政策を進め、アルゼンチン・ブラジル二大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。この時期に極端な集権化に抵抗した勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラ(英語版)などが存在する。1868年に大統領に就任した自由主義者のサルミエント(英語版)政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだが、反面土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方パンパでは未だに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にロカ(英語版)将軍の指揮した砂漠の征服作戦(英語版)によってパンパからインディヘナが追いやられると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制拡大が進んだ。 1880年に正式にブエノスアイレスが国家の首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの「非公式帝国」の一部として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。こうしてヨーロッパからの大量の移民が「洪水」のようにブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」に転身し、1914年には実に国民の約30%が外国出身者となるほどであった。同時にこの頃から、移民の流入や都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ(英語版)』が完成した。 また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治を改めて政治の民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに1891年には急進的人民同盟が組織され、これは後の急進市民同盟(急進党)へと発展して行った。また、1890年の反乱は政府証券を保有していたベアリングス銀行に損失を被らせ、結局1893年恐慌に発展させた。急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、この反乱を恐れた保守派のロケ・サエンス・ペーニャ(英語版)大統領は以降行政による選挙干渉をやめることを提案し、司法が行政に優越する新選挙法を成立させた。この選挙法が適用された1916年の選挙では急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出され、寡頭支配が切り崩された。国民主義的な政策をもって政治に臨んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごした。 民主化の進展によって戦間期には政治も経済も安定に入り、イリゴージェンは1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界第5位の富裕国となった。しかし、1929年の世界恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は急速に不安定化した。 世界恐慌に対する対策を持たなかったイリゴージェンは、翌1930年に軍事クーデターで追放された。クーデターによって1930年に大統領に就任したウリブルはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたが、この試みは失敗した。 ファシズム体制の失敗もあって1932年にフストが大統領に就任すると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。1930年代には19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「忌まわしき10年間(英語版)」と形容された。 国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとのロカ=ランシマン協定(英語版)で、アルゼンチンをイギリスのスターリング・ブロック(英語版)(Sterling bloc)に組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のような様相を呈するようになった。 このような潮流から次第に国民主義的な意識が国民の間に高まり、第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した統一将校団(英語版)(GOU)のフアン・ペロン大佐は徐々に人気を集め、ペロンは戦後1946年の選挙で大統領に就任した。大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの経済的積極国家政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらにデスカミサードス(英語版)から聖母のようにあがめられていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死ぬと政策は傾きだしていった。それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、1954年に離婚法を制定したことからカトリック教会との関係も破綻し、支持基盤の労働者からの失望が広まったこともあり、1955年の軍部保守派によるクーデター(リベルタドーラ革命(英語版))でペロンは亡命した。 フアン・ペロンの失脚後、重工業化とモノカルチャー経済の産業構造転換に失敗したアルゼンチンの経済は下降期に入り、政治的にもペロニスタ(ペロン主義者)と軍部の対立が国家の混乱に拍車をかけた。1962年には急進党のフロンディシ(英語版)大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが、この時の軍事政権は長続きしなかった。 しかし、民政移管した急進党のイジア(英語版)大統領を追放した1966年のクーデター(英語版)(アルゼンチン革命)は様子が異なり、フアン・カルロス・オンガニーア(英語版)将軍はブラジル型の官僚主義的権威主義体制をアルゼンチンにも導入した。軍事政権は外資導入を基盤に衰退する経済を成長させようとしたが、軍事政権の厳しい統制に反対するペロニスタと軍部の戦いは激しさを増し、ペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍部との抗争で多くの犠牲者が出るなど、さながら内戦の様相を呈していった。しかし、1969年にコルドバで起きたコルドバ暴動(英語版)(コルドバソ)を受けると軍事政権は穏健政策に転じ、テロの応酬を収めるためにペロニスタを議会に戻すことを決断した軍部は自由選挙を行った。 1973年のこの選挙では正義党(ペロン党)が勝利し、亡命先からフアン・ペロンが帰国して三たび大統領に就任した。しかし、ペロンは翌1974年に病死し、1974年に副大統領から世界初の女性大統領に昇格した妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切れないまま拙劣な政策を積み重ね、治安、経済共に悪化の一途を辿った。 1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデター(アルゼンチン・クーデター(英語版))を起こし、再び官僚主義的権威主義体制(国家再編成プロセス)がアルゼンチンに生まれた。ビデラ政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧、弾圧を進め、周辺の軍事政権と協調した「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタや左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策には大失敗し、天文学的なインフレーションを招いた。軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと軍を派遣して占領したが、当初うまくいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりフォークランド紛争(マルビナス戦争)に発展し、イギリスの反撃に遭い失敗した。建国以来初めての敗戦によって高まった国民の不満を受けたガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。しかし、この戦争はアルゼンチンと他のラテンアメリカ諸国との絆を強め、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響も与えた。 1983年に、大統領選挙と議会選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領に就任したラウル・アルフォンシンは、軍政期からのインフレや対外債務問題、マルビナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、アウストラル計画に失敗し、経済面では成功を収めることが出来なかったものの、長年敵対関係が続いていたチリやブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線は後のメルコスール形成につながった。また、アルフォンシンは軍政時代に人権侵害(投獄、拷問など)を行った軍人を裁き、軍の予算や人員、政治力を削減した。こうした政策に対して3度にわたる軍部の反乱もあったものの、アルフォンシンは結果として軍部を文民の統制下に置くことに成功した。アルフォンシンは任期を5ヶ月残して1989年に辞任した。 1989年に就任した正義党(ペロン党)のカルロス・メネムは、1990年の湾岸戦争に南アメリカで唯一軍を派遣し、1991年には非同盟諸国首脳会議から脱退するなど、先進国との国際協調路線を標榜し、孤立していたアルゼンチンを国際社会に復帰させた。軍事面でもメネム時代には「汚い戦争」に携わった軍人の恩赦が認められた一方で、核軍縮や徴兵制の廃止など、軍部の権力の制限がさらに進んだ。 一方で経済面では、当初公約で掲げていたペロニスモ路線(社会民主主義)とは180度異なる新自由主義政策を取った。社会インフラや年金をも民営化した、新自由主義政策は成功したかに見え、メネム特有のネオ・ポプリスモ政策と、対ドルペッグ固定相場政策で、長年の懸念だったインフレーションを抑制し、アルゼンチン経済を持ち直したかに見えたが、1997年頃にはこの政策の無理が徐々に明らかになっていった。1999年の大統領選挙では急進党のフェルナンド・デ・ラ・ルアが勝利したが、すでに経済は危険な水準に達しており、IMFからの援助や公務員給与の削減なども効果はなく、最終的にはドルペッグ制の破綻をきっかけに、2001年にデ・ラ・ルアは債務不履行を決行した。なお、アルゼンチンはそれまでに5回の債務不履行(1827年・1890年・1951年・1956年・1982年・1989年)を経験しており、2001年の債務不履行は通算6回目となる。 アルゼンチン経済の崩壊後、アルゼンチンの世界的な評価は地に落ちた。政治面では大統領が次々と入れ替わる大混乱に陥り、社会的にもデモや暴動が多発する異常事態に陥った。しかし2003年に正義党左派から就任したネストル・キルチネルの下で、政治は安定を取り戻し、それまでの新自由主義、市場原理主義と決別した。富裕層優遇をやめ、国民の大多数を占めている貧困層を減らし、中間層へと移行させるなどより、公正な社会を目指す政策を実行した。経済的な再建も進んだ。 2007年10月、正義党からキルチネルの妻のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが、同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業・輸出・農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の経済成長率は8%を記録し、近年のアルゼンチンはリーマンショック以降の世界的不況とは裏腹に好調を維持していた。しかし2014年には、アメリカ合衆国のヘッジファンドが1度目のアルゼンチン債務不履行債権を債権者から買い取り、アルゼンチン債権をアルゼンチン政府から返還することを要求し、アメリカ合衆国で訴訟を提起した。連邦最高裁判所は、ヘッジファンド側の訴えを認めた。アルゼンチン政府はヘッジファンド側との交渉を続けたが和解に漕ぎ着けず、防衛的措置として「計画的債務不履行」を決行した。 2015年11月の大統領選挙では、新自由主義政策による経済復興を主張した中道右派のマウリシオ・マクリが勝利した。キチルネル時代以前に取られていた格差縮小や富の再分配の重視よりも、国際金融資本・グローバル資本の利益を重視して経済成長を目指す新自由主義を中心とした政策へと回帰しつつあるとされる。 大統領を元首とする連邦共和制国家であり、内閣、上下両院制の複数政党制議会を備える。大統領・副大統領ともに直接選挙で選ばれ、その任期は4年(かつては6年)。現職大統領の大統領選挙への再出馬(当選した場合は再選)は1回のみ認められている。 2007年10月の大統領選挙(前回)では、イサベル・ペロンに次ぐ同国二人目(選挙によるものでは初)の女性大統領が誕生している(クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル前大統領) 2015年10月25日の大統領選挙(1回目の投票)では、過半数の得票を獲得した候補者が現れず、翌11月22日に実施された上位二候補による決選投票の結果、「共和国の提案」・「急進市民同盟」(以下、急進党)らが推す保守系のマウリシオ・マクリが当選した。但し、大統領選(1回目)と同日に行われた議会選挙(上院の1/3と下院の約1/2を改選)では正義党が引き続き比較第一党の座を上下両院で維持した為、連立3党(急進党系の地域政党を含めると4党)は議会内では少数派となる。 大統領と内閣は行政権を行使し、首相(Jefe de Gabinete de Ministros)を含む内閣の大臣は大統領によって任命される。大統領による職務執行が一時的(療養など)又は永続的(弾劾・辞任・死去に伴う欠位が発生した場合)に困難となった時は副大統領がそれを代行もしくは大統領に昇格する。 首相(官房長官と和訳される場合も)職は、閣内の意見集約に加え、行政(中央政府)の代表者として立法(議会)及び地方政府(連邦構成州/各種自治体)との渉外・調整も担当。韓国における国務総理(首相)職に類似しているが、アルゼンチンでは副大統領が正職欠位時の代行者であると憲法で既定されている為、その権限はより限られたものとなっている。 下院の与党系会派から選出される場合が多いが、必須条件とはなっておらず、カピタニッチ(上院議員・州知事などを歴任)や経済学者のコロンボ(国立銀行総裁を経てルア政権二人目の首相に就任)のように、非下院系及び民間からの起用事例も存在する。 他の大臣職同様、議会に対しては責任を負わない為、仮に議会内で与党が少数派に転落しても、野党側から首相を選ぶ義務はなく、所属勢力の異なる大統領と首相が併存する、いわゆる「ねじれ現象」は発生しないが、逆転の度合いによっては大統領の求心力が低下し、政情流動化の原因となる可能性はある。 急進党のラウル・アルフォンシンが政権を担当していた80年代後半頃より首相制導入論(権限の一部を首相に移譲する事で大統領を激務から解放するのがその趣旨)は存在していたが、構想が具体化したのは正義党(ペロン党)出身のカルロス・メネムに政権が引き継がれてからである。1994年に議会を通過、大統領の署名により成立した憲法改正案には、首相ポストの追設の他、大統領任期の6年から4年への短縮と再選禁止条項の撤廃が含まれていた。施行直後に実施された大統領選挙(1995年5月)ではメネムが再選を果たし、翌々月の組閣でエドワルド・バウサを初代首相に任命した。 旧正義党政権(左派)を率いたキルチネル夫妻からの信任が厚く、ネストル・キルチネル政権ではネストルの大統領就任から退任まで、クリスティーナ・キルチネル政権でも再任(成立を目指していた輸出税関連の法案が上院で否決された事などを理由に中途辞任)されているアルベルト・フェルナンデス元首相の約5年2ヶ月(2003年5月 - 2007年12月及び2007年12月 - 2008年7月)を除くと、首相の平均的な在任期間は現在2年前後となっているが、経済が混乱を極めていた2000年代の初頭には短命の内閣が続き、現政権党(共和国の提案)の総裁・ウンベルト・チャボニの首相在任期間は僅か4日となっている。11年ぶりに首相職に復帰したホルヘ・カピタニッチ元首相(2013年11月 - )も、1度目(エドワルド・ドゥアルデを大統領代理とする暫定政権)の在任期間は約4ヶ月(2002年1月 - 2002年5月)であった。 2015年12月に発足した現連立内閣では、首相を含む全21の大臣ポスト中、政権党の「共和国の提案」に首相・外相など10ポスト、与党第一党の「急進党」(国会の議席数では政権党を上回る為)に防衛・通信など4ポスト、「市民連合」には蔵相・公安の2ポストがそれぞれ割り当てられ、残りの5名は民間などからの起用となった。 立法権は国民議会(下院)と元老院(上院)に属し、国民議会は定数257人(任期4年)、元老院は定数72人(任期6年)である。下院では2年毎に約半数の議席が、上院も同じく2年毎に1/3の議席がそれぞれ改選される。 下院の議席がドント方式によって比例配分(各州及び首都圏を1選挙区とみなし、定数は選挙区毎に異なる)されているのに対し、上院では、各州及び首都圏にそれぞれ一律で3つの議席が割り当てられており、最大の得票を獲得した政党に2/3(2議席)が、次点の政党に1/3(1議席)がそれぞれ付与される仕組みになっている。 下院の議員総数(各選挙区の定数)は、国勢調査(10年に1回)の結果に応じて見直される。 勢力図が更新(2年周期)される都度、両院の正副議長ポストの顔ぶれも変わる。下院の議長は政権党会派から選出され、副議長(3名)は政権党を除く上位3会派に割り当てられる。上院では、現職の副大統領が議長職を兼任し、副議長(3名)は下院同様、政権党以外の上位3会派からの選出となる。 司法権は国家最高司法裁判所に属し、行政、立法から独立している。 議会における比較第一党である野党「正義党」(統一会派「勝利戦線」の基軸政党)の他、連立関係にある「急進党」(比較第二党・与党第一党)と「共和国の提案」(現政権で正副大統領・首相・上下両院の議長を輩出している保守政党)、「市民連合」、正義党より分派した保守系の「新たなる選択の為の連合」、穏健左派の「拡大進歩戦線」(社会党系の連合体)、「統一」(急進党の分派を含むリベラル勢力)、「左翼労働戦線」(トロツキズム的な極左政党)、5議席未満の地域政党らが国会に議席を有している。 正義・急進両党によって政界の勢力図が二分されていた時期には、首都圏を中心に「中道民主連合」(1982年に故アルバロ・アルソガライが結成した穏健的な保守政党。以下、中民連)が一定の存在感(第3党相当)を有していたが、事実上の与党として旧メネム政権(正義党)と協力関係に入った90年代より党勢が徐々に低迷。2009年1月、過去2回の選挙(2005年と2007年)で2%以上の得票率を獲得する事ができなかった同党は、司法判断によりブエノスアイレス州での政党資格が剥奪され、同年3月には、党の収支報告書(2007年度版)に不備があった事を理由に、政党助成金の給付も停止された。なお、前政権で副大統領を務めていたアマド・ボウドウは国政レベルの現役政治家では唯一の中民連出身者である。 相次ぐ国軍の反乱等や度重なるデフォルトなどに見られるように、歴史上、『中進国』とされてきた国々の中では最も政情の安定していない国のひとつであり、この政情不安定さは1983年の民政移管後の失政や、2001年11月の経済破綻等、一連の経済不安や現在の極度に拡大した貧富格差の元凶とされている。この不安定さを国民統合が成功していない(国民全体に受け入れられる国民文化が成立していない)ことに求める言説は多い。 2009年3月26日、上院は10月に予定されていた上・下両院の中間選挙を6月28日に行う法案を可決した。クリスティーナ・キルチネル前大統領は国際金融危機に対応する必要から議会選挙の前倒しを提案していた。 2012年4月16日、政府はレプソル傘下のアルゼンチン最大の石油会社YPFの株式の過半数にあたる51%を取得し、同社の経営権を取得する方針を明らかにした。 アルゼンチン軍は国防大臣によって指揮され、大統領が最高指揮官を兼ねる。兵制は志願兵制を採用している。軍隊は陸海空の三軍の他に国家憲兵隊から構成される。歴史的にアルゼンチン軍は、チリやブラジルとの軍拡競争の結果もあり、ラテンアメリカで最もよく整備された軍隊だった。 アルゼンチンはブラジルと同じように建国以来軍部の力が強く、クーデターが日常的に起きる不安定な国だった。1970年代のクーデター以降、アルゼンチン軍は都市ゲリラ排除のために国内で『汚い戦争』に従事し、8,000人とも30,000人ともいわれる市民の犠牲者を出しており、これは現在でも五月広場の母の会などの訴えにより問題となっている。しかし、建国以来初の敗戦となったマルビナス戦争により軍の威信は落ち、民政移管後の1983年に長らく第一の仮想敵国だったチリとも国境線が確定され、核計画やアメリカ合衆国の肝煎りで進められていたミサイル計画が放棄されると軍は大幅に削減され、その後の幾つかの反乱計画も未然に終わるなど現在は政治力を減らしている。敗戦の結果から徴兵制を敷いていない国でもあるが、一部で復活を求める意見もある。 国防予算 : 38億ドル(2000年) 兵員 : 7万1100人(2000年) アルゼンチン陸軍 (Ejército Argentino)は兵員4万1400人からなる。軍団3。空挺旅団1、機械化旅団1、などを擁し、装備品はTAM200両、軽戦車150両。地対空ミサイルはタイガーキャットなど。 アルゼンチン陸軍は現在PKOのため、ハイチとキプロスに派遣されている。 アルゼンチン海軍 (Armada de la República Argentina (ARA)) は兵員1万7200人からなる。8基地。潜水艦3隻、駆逐艦6隻、フリゲート7隻、航空隊作戦機21機、武装ヘリ14機、フランス製シュペルエタンダール11機、エグゾセ空対艦ミサイルなど。艦艇についてはアルゼンチン海軍艦艇一覧を参照のこと。20世紀初頭に起きた日露戦争の際には、編入される予定だったイタリア製装甲巡洋艦二隻(日進 (装甲巡洋艦)、春日 (装甲巡洋艦))を日本海軍に売却譲渡し、日露戦争の勝利に貢献したという歴史的関わりを持つ。 アルゼンチン空軍 (Fuerza Aérea Argentina)は兵員1万2500人からなる。航空旅団8など。作戦機133機、武装ヘリ27機、戦闘機はミラージュ3シリーズ、A-4スカイホークなど。 2001年の債務不履行以来、アルゼンチンは諸外国に大きく不信感を持たれ、1982年のマルビナス戦争以来の国際的な孤立に陥ったが、現在は債務の返済などを軸に国際社会への復帰が進められている。アルゼンチンは南極条約締結国であるが、南極の領有権を主張している(アルゼンチン領南極)。またアルゼンチンは、フォークランド紛争に敗北したのちもなおイギリスが実効支配するマルビナス諸島の領有権も主張している。2007年12月、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領は、多国間主義とテロ根絶を強調した。 戦前はイギリスに周辺国化され半ば属国のような様相を呈していながらも、輸出で蓄えた経済力を背景に、スペイン語圏を代表する国家として旧宗主国スペインをしのぐ勢いで権勢を誇っていた。北米において似たような立場にあったアメリカ合衆国をライバル視し、同国がモンロー主義の下で中南米を勢力圏に入れようとしていたのに対し、ヨーロッパ諸国を重視する独自外交のもとでアメリカ合衆国とは距離を置き、常に他のラテンアメリカ諸国とは一線を画していた。 ビーグル水道で領土問題を抱えていたチリとは伝統的に関係が悪く、第二次大戦後は何度か戦争直前にまで陥ったこともあった。1984年にローマ教皇フアン・パブロ2世の仲介により、アルゼンチンが係争地のピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ帰属を認め、領土問題において妥協することにより友好関係が確立された。しかし、その後2004年に事前に連絡なくチリへの天然ガスの輸送を停止してしまったことが大きな外交問題となった。 アルゼンチンの最大のライバルは隣の大国ブラジルであり、オリンピックやサッカーの大会があるたび互いに強烈な対抗意識を持って争っていたが、ラウル・アルフォンシンの融和政策が功を奏して両者ともメルコスールに加盟するなどの経済統合が進んでいる。以上のような事情により、現在のアルゼンチンはブラジルを軸としたラテンアメリカ統合を受容し、その主要国として影響力を保っている。また対外政策では一線を画しながらも、石油や天然ガスなどの資源を背景にベネズエラの歴代政権との友好関係が続いている。 ヨーロッパとの関係も重要であり、最も関係のよい国家はスペインである。言語が共通するために多くのラテンアメリカ人がスペインに出稼ぎ、移民として居住しているが、アルゼンチンもその例外ではなく多くのアルゼンチン人が移住している。 アルゼンチンは23の州(provincia)と1つの特別区*から成る。 ブエノスアイレス* (Capital Federal) ブエノスアイレス州 (Buenos Aires) カタマルカ州 (Catamarca) チャコ州 (Chaco) チュブ州 (Chubut) コルドバ州 (Córdoba) コリエンテス州 (Corrientes) エントレ・リオス州 (Entre Ríos) フォルモサ州 (Formosa) フフイ州 (Jujuy) ラ・パンパ州 (La Pampa) ラ・リオハ州 (La Rioja) メンドーサ州 (Mendoza) ミシオネス州 (Misiones) ネウケン州 (Neuquén) リオネグロ州 (Río Negro) サルタ州 (Salta) サンフアン州 (San Juan) サンルイス州 (San Luis) サンタクルス州 (Santa Cruz) サンタフェ州 (Santa Fe) サンティアゴ・デル・エステロ州 (Santiago del Estero) ティエラ・デル・フエゴ、アンタルティダ・エ・イスラス・デル・アトランティコ・スール州(フエゴ島、南極および南大西洋諸島、Tierra del Fuego, Antártida e Islas del Atlántico Sur) トゥクマン州 (Tucumán) 他にイギリス領のマルビナス諸島の領有権を主張している。 国土統一直後の1853年に首都令があったものの、ブエノスアイレスは1880年までは正式な首都ではなかった。 各州は州内でさらに小さな行政単位に分割され、県(departomentos)は合計376県にもなる。ブエノスアイレス州は県に類似した134ものpartidosに分割される。departomentos・partidosともに市町村や地域の中から分割された区分である。 アルゼンチンは北西部のアンデス山脈周辺から開発が進められたが、独立後は歴史的に外港がブエノスアイレスしか存在しなかったことを反映して、19世紀、20世紀を通して内陸部の開発は進まず、現在も極端なブエノスアイレス一極集中である。1980年代のアルフォンシン時代に、パタゴニアのリオ・ネグロ州州都ビエドマへの遷都計画もあったが、結局実行されないまま計画は凍結された。 ブエノスアイレス Buenos Aires (1180.2万人 1995年) コルドバ Córdoba (約130万) ロサリオ Rosario (約116万) ラプラタ La Plata (約54万) サン・ミゲル・デ・トゥクマン San Miguel de Tucumán (都心人口約47万) メンドーサ Mendoza (都心人口約12万) 2005年におけるアルゼンチンの14の大都市圏 アルゼンチンの国土は、南北に3500km以上の長さに及ぶ、ブラジルについで南米で二番目に大きい国で、面積は全体で2,766,890km²になり、陸地のみでは2,736,690km²に、水域のみでは30,200 km²に及ぶ。 アルゼンチンで最も標高が高いのはメンドーサ州のアコンカグア山(6962m)であり、これは米州と西半球全体で最も高い山でもある。反対に最も標高が低いのはサンタ・クルス州のカルボン湖であり、海抜マイナス105mは南アメリカ大陸全体でも最も低い。国土の中心はラ・パンパ州の南西である。 アルゼンチンは、中華人民共和国と、北部の一部は中華民国(台湾)、南部の一部はモンゴル国やロシア(シベリア)の対蹠地でもある。 アルゼンチンは1904年から南極大陸の領有権を主張している。イギリスが実効支配しているマルビナス諸島の領有権も主張している。 アルゼンチンは伝統的にいくつかの地理的な区分に分けられる。北は亜熱帯に属し、熱帯雨林が形成されている。西にアンデス山脈、東にはパンパと呼ばれる大草原が広がる。パンパは国土の約20%を占める。ウルグアイ川とパラナ川に挟まれた地方は、メソポタミア地方でパンパと同じく草原地帯である。南緯40度付近に位置するコロラド川以南をパタゴニア地方と呼び、荒涼たる砂漠が広がっている。 パンパは国土の約25%を占め、アルゼンチンの富の多くを生み出している。ブエノスアイレスの西と南に広がる草原は湿潤パンパ(スペイン語版、英語版)と呼ばれ、ブエノスアイレス州とコルドバ州のほぼ全てと、サンタフェ州とラ・パンパ州の大部分を占める。ラ・パンパ州の西部は半乾燥パンパ(スペイン語版、英語版)になっている。 湿潤パンパ(スペイン語版、英語版)は年間降水量が750mm以上で、アルファルファ(マメ科・栄養があり、土地を豊かにする牧草)・とうもろこしなどを栽培し、牧牛をしている。半乾燥パンパ(スペイン語版、英語版)は年間降水量が550mm以下で乾燥に強い牧羊をしている。移行地帯では小麦(年間降水量が550mm - 750mmが丁度良い)の栽培をしている。 コルドバ州西部のコルドバ山脈はサン・ルイス州まで延び、パンパの中では最も重要な地域となっている。パンパとパタゴニアの境界線は、かつてはコロラド川だったが、現在はネグロ川となっている。 グラン・チャコ地方はアルゼンチン北部に位置し、雨季と乾季がはっきりと分かれ、主に綿花の栽培や家畜の飼育が盛んである。こうした地域はチャコ州とフォルモサ州の大部分を占める。植生としては亜熱帯雨林や低木林地や湿地帯が点在し、多くの動植物が生息する。サンティアゴ・デル・エステロ州はグラン・チャコの中で最も乾燥した地域である。 パラナ川とウルグアイ川に囲まれた地域はメソポタミア地方と呼ばれ、ミシオネス州、コリエンテス州とエントレ・リオス州が属する。かつてはグアラニー人が多く住んでいた土地で、文化的にはパラグアイやウルグアイに近く、牧草地や植物の育ちやすい平坦な土地が特徴であり、コリエンテス州中部にイベラ湿地(英語版)が存在する。ミシオネス州はより熱帯に近く地理的にはブラジル高原(ポルトガル語版、スペイン語版、英語版)に属し、イグアスの滝と亜熱帯雨林が特徴である。 ネウケン州、リオ・ネグロ州、チュブ州、サンタ・クルス州にまたがるパタゴニアのステップは先住民の地域である。多くの地域では雨が少なく、北は寒くて南は不毛の地であるが、西部の周辺には森林があり、後述するように幾つかの大きい湖も点在する。ティエラ・デル・フエゴ州は寒くて湿っており、大西洋からの海流の影響で多少は過ごしやすい。パタゴニア北部(ネグロ川以南のリオ・ネグロ州とネウケン州)はコマウエ地域と呼ばれることがある。 アルゼンチン中西部はそびえるアンデス山脈に支配されている。同地域の東部は乾燥したクージョ地域として知られており、クージョ(Cuyo)という名前もマプーチェ語で「砂地」という意味の言葉から来ているとされている。高山から溶けてきた水は低地のオアシスの灌漑用水となり、メンドーサ州とサン・フアン州を豊かな果実とワインの生産の中心としている。さらに北の地域、ラ・リオハ州などは地理的な理由でより暑く、乾燥した地域になる。 北西部地域はアルゼンチンでも最も海抜の高い地域であり、6,000mを越えるいくつかの平行なアンデス山脈が領域を貫いている。これらの山脈は北方に向かって延びており、それらは肥沃な流域によって分断され、その中でも最も重要な渓谷はカタマルカ州、トゥクマン州、サルタ州に広がるカルチャキ渓谷(スペイン語版、英語版)である。フフイ州北部のボリビア国境付近からは、中央アンデスのアルティプラーノ高原が広がる。 国土西部を南北にアンデス山脈が貫き、アルゼンチンの山地や国内最高峰のアコンカグアをはじめとする高山の多くはこの地域に集中する。コルドバ州の西部にもコルドバ山脈が存在するが、標高はあまり高くない。 アルゼンチンの主要な河川はピルコマジョ川、パラグアイ川、ベルメホ川、 コロラド川、ネグロ川、サラド川、ウルグアイ川などであり、国内最長の河川はブラジルから流れるパラナ川である。ウルグアイ川とパラナ川は大西洋に流れ出る前に合流し、ラ・プラタ川の河口を形成する。各地域ごとに重要な河川としてはアトゥエル川(スペイン語版、英語版)、メンドーサ州と同名のメンドーサ川、パタゴニアのチュブ川、フフイ州のリオ・グランデ川(スペイン語版)、サルタ州のサン・フランシスコ川(スペイン語版)などがある。 パタゴニアを中心にいくつかの大きな湖が存在する。アルヘンティーノ湖とビエドマ湖がサンタ・クルス州に、ナウエル・ウアピ湖がリオ・ネグロ州に、ファグナーノ湖がティエラ・デル・フエゴ州に、コルウエ・ウアピ湖とムステル湖がチュブ州に、ブエノスアイレス湖とサン・マルティン湖はチリとの国境を形成している。国内で最も大きい塩湖はマール・チキータである。アルゼンチンの多数の貯水池がダムによって作られている。エントレ・リオス州にはテルマス・デ・リオ・オンドなど、水温は30℃から65℃の温泉があり、川を挟んで対岸のウルグアイ北部にも温泉がある。 アルゼンチンは4,665kmの海岸線を有している。大陸の上陸可能地点は非常に広く、アルゼンチンではこの広大な大西洋の浅瀬はアルゼンチン海と呼ばれる。海中には多くの魚が住み、炭化水素エネルギー資源を保有していると予想されている。アルゼンチンの沿岸は砂丘と崖に挟まれている。沿岸に影響を及ぼしている二つの海流のうち、暖流はブラジル海流であり、寒流はフォークランド海流(スペイン語では大西洋海流、もしくはマルビナス海流)である。沿岸の大地では不規則な形状のため、二つの海流は気候に対して相互に影響し、高緯度地方においても気温を下げさせない。ティエラ・デル・フエゴの南端はドレーク海峡の北岸を構成している。 アルゼンチンには飛地が一つある。マルティン・ガルシア島である。パラナ川とウルグアイ川の合流点付近に存在し、約1kmほどウルグアイの水域に入っており、3.5kmほど離れたウルグアイの沿岸にはマルティン・チコ(ヌエバ・パルミラとコロニア・デル・サクラメントの中間)が存在する。 一世紀に亘る両国紛糾の末に、アルゼンチンとウルグアイは1973年に島の管理権について合意に達した。協定に従って、マルティン・ガルシアは排他的自然保護区として用いられることとなった。面積は約2km2であり、住民は約200人である。 地域によって大きく異なるが、亜熱帯、温帯、乾燥帯、寒帯の4つに大別される。北部は非常に蒸し暑い夏と、穏やかで乾いた冬があり、周期的に旱魃に見舞われる。アルゼンチン中部では雷を伴う大嵐(西部では世界で最も多くの雹が降る)のある暑い夏と、涼しい冬がある。南部は暖かい夏と、特に山岳地帯では豪雪に見舞われる寒い冬がある。全ての緯度の地域において、標高の高い地点では冷たい気候となる。 南米における観測史上での最高気温と最低気温は共にアルゼンチンで観測された。最高気温の49.1 ℃は1920年1月20日にコルドバ州のビジャ・デ・マリアで記録された。最低気温の−39 ℃は1972年7月17日にサン・フアン州のビジャ・デ・ロス・パトース・スペリオールで記録された。 IMFの統計によると、2013年のアルゼンチンのGDPは約6,103億ドルである。世界21位であり、南米ではブラジルに次ぐ2位である。一人当たりのGDPは14,709ドルで、こちらはウルグアイ、チリに次いで南米3位である。 アルゼンチンはメルコスール、南米共同体の加盟国である。 農産物は、主要輸出品目は小麦、トウモロコシ、牛肉、ワインなどに加え、2000年代以降大豆の生産も盛んになっている。鉱業生産は、パタゴニアの石油と、近年は天然ガスも有望視されている。 2回にわたる世界大戦に直接関与せず、各国への農産品畜産品の輸出により利益を得た20世紀半ばまでは世界有数の富裕国であった。第二次世界大戦後、ペロン政権は国民主義的な政策により、保護政策による工業化偏重政策をとるが産業構造の転換に成功せず、次第に経済が低迷。ペロン政権以降顕著になった福祉のための放漫財政や、ペロンの残した労働組合 (CGT) の強さにより、投資のしづらい国となり、1960年代以降に頻発する政変、クーデター、1982年のマルビナス(フォークランド)戦争とその敗北、民政移管後も長年の放漫財政のツケや敗戦のショックの影響で混迷する経済状況に安易なポプリスモで対処したために累積債務は雪だるま式に増えていった。1988年から1989年の間に5000パーセントというハイパーインフレーションというを記録。物の価値は1年間で50倍にもなり、アルゼンチン経済は崩壊し、通貨は紙くず同然となってしまった。結局、アルゼンチンは1989年に対外債務不履行を宣言した。この間の混迷による富裕層の没落、中産階級の海外脱出が続くなど経済は混迷の度を深めた。 その後、1988年から親米・親IMF路線を掲げたメネム政権の新自由主義政策により、1990年代には年率9%にも達する経済成長を遂げるなど、一時的に安定した。しかし、1999年に起きたブラジルのレアル切り下げでペソが相対的に高くなり輸出競争力を喪失、国際収支は悪化した。結果的に通貨危機(通貨ペソの対米ドルペッグ制崩壊)により完全に暗転、2001年11月14日には国債をはじめとした対外債務の返済不履行宣言(デフォルト)を発する事態に陥り、経済が破綻。国際的な評価は地に落ちた。デフォルトにより貧困も拡大し、イタリアやスペインに職を求め大量の移民が流出、その中には医者・弁護士などの知識層も少なくなかった。1980年代に国民の約60%を占めていた中間層は2005年には国民の約20%となり、他方貧困率は2002年で53%に達するなど、かつてラテンアメリカで比類なき中流層の国だったアルゼンチンはもはや過去のものとなった。20世紀半ばまでは南米の指導者としての実力を備えていたアルゼンチンは、もはや完全にチリ、ブラジルに先を越されてしまったといえるだろう。 このようにペロン政権以来、一貫した経済政策が採られなかったツケが回り、2002年(アルゼンチン通貨危機)には経済が破綻してしまったものの、2002年に変動相場制を導入してからは通貨安のために輸出が拡大してからは持ち直した。キルチネル大統領は、2006年7月9日の「独立190年記念式典」で、「われわれは国際通貨基金 (IMF) にチャオ(さよなら)を告げた。」と演説した。IMFの干渉を排除するため百億ドル近い債務を完済し、2000年末の経済破綻直後の失業率24%を、2006年5月には11.4%にまで改善した。さらに、2003年から2007年まで平均約8%の高成長を続け、2002年の経済崩壊以来の遅れから立ち直りつつある。とはいえ、再び上昇に転じた対外債務率、一向に回復しない内需および内需不振の主要な一因である国民の30%にまで拡大した貧困層の存在など、課題は山積している。 現在はメルコスール加盟国であることにより、南米諸国との経済交流の活発化による諸外国からの投資の増大に、経済の復活を賭けている。特にブラジル、ベネスエラとは政治面でも関係を深め、ベネスエラからの南米大陸縦断天然ガス輸送管の設立も計画している。 現在のアルゼンチンの課題は、この成長を維持したままどのようにして競争力のある新しい産業を育てるか、あるいは国内の法制度、政治文化などの歪みから来る投資リスクをいかに下げるかなどにかかっている。 アルゼンチンのインフラは他のラテンアメリカ諸国に比べると良好である。 約215,471 kmの道路網と734 kmの高速道路があり、その多くが民営化された。 多車線の幹線道路は現在幾つかの主要都市を結び、さらに現在工事中である。 アルゼンチンの鉄道網は総延長31,902kmである。ブエノスアイレスの地下鉄(Subte、スブテ)はスペイン語圏、ラテンアメリカ、南半球全域の中で最も早く建設された。数十年に亘る整備不足とサービスの腐敗により、多くの路線は1992年の鉄道民営化に伴って閉鎖され、今も数千キロに亘る路線が修理されていない。鉄道輸送は幾つか都市で現役に戻されている。2015年に鉄道が再び国有化され、アルゼンチン国鉄が設立された。 アルゼンチンには約3,000kmに及ぶ水路があり、多くはラ・プラタ川、パラナ川、ウルグアイ川、ネグロ川、パラグアイ川を通行する。 アルゼンチンの国民はヨーロッパ系が85%、メスティーソおよびインディヘナなどが15%である。もっともヨーロッパ系アルゼンチン人の占める比率は89.7%から97%と資料によって大きな差があり、近年の研究では実はアルゼンチン国民の56%に先住民の血が流れていることが明らかになっており、自らを白人だと認識しているアルゼンチン人の過半数に、実は先住民の血が流れていることになる。 ヨーロッパ系アルゼンチン人にはイタリア系、スペイン系、ドイツ系の住民が多く、イタリア系が一番多いという。このイタリア系統の荒い言葉遣いが現在のアルゼンチン人全体の性格に受け継がれているため、アルゼンチンのスペイン語にはイタリア語のナポリ方言の影響が強く見られる。 アルゼンチン人はしばしば「燃えたぎるような愛国者」と形容され、自国への批判に異常に敏感であるが、その一方で概して国を批判する傾向がある。強烈な個人主義者としても知られ、「ビベサ・クリオージャ」と呼ばれるクリオージョ的な人を出し抜く抜け目のなさと、アミーゴと家族以外の非人間的な政府や社会といった組織は信用できないという心性から来る、人を出し抜くような行為によって不快な思いをさせられ、アルゼンチン人はアミーゴ以外には不親切であるという人間も出るのである。これはアルゼンチン人が国家に代表される抽象的なものよりも、友情といった具体的な対象への強く忠誠を抱くことの裏返しでもある。 ペルーの文学者、マリオ・バルガス・リョサは「アルゼンチンの誇り高さは病癖であり、他のラテンアメリカ諸国から批判されても仕方がない」と述べた。アルゼンチン人は自国を選良であると思ってきたが、こうした優越感と劣等感はその選良意識の裏返しであり、強い愛国心の称揚の一方で行われる自国への強烈な批判は、国家が自分に十分な誇りをもたせてくれるには足りない存在であることの裏返しである。こうしたことの起きる原因としては、19世紀半ば以来の自由主義化、ヨーロッパ化が、アルゼンチン国民全体に受け入れられるような国民文化を育てることができなかったためだといわれている。ただし、ガウチョのような例外もあり、アルゼンチン人はガウチョであることを誇る。 五月革命が起きた1810年に70万人だった人口は、ウルキーサがロサスを打倒した直後の1853年には90万人となり、その時点では純粋な白人は6万人ほどで残りはメスティーソや黒人やインディヘナだった。 カセーロス以降自由主義者の政権はヨーロッパから移民を大量導入すると、アルゼンチンの人口は増加し、1869年の初の公的な人口調査では約1,757,000人だった。その後1900年には4,543,000人、1930年には1,186,000人、1940年には14,169,000人、1950年には約1709万人、1960年センサスでは20,065,691人、1975年には約2,538万人、1983年年央推計では約2,963万人となった。2005年の見積もりによると、人口は38,747,000人と推測され、これは南米大陸の国家で三番目に多い。 2005年度の人口密度は1平方kmあたり14人になるが、人口は均衡を持って配分されているわけではなく特にブエノスアイレス市周辺に集中しており、ブエノスアイレス市では人口密度が14,000人/km²になるのに対して、パタゴニアの最南部のサンタ・クルス州では1人/km²以下となる。アルゼンチンは南米で唯一純粋な移民の増加率が0.4%を越える国である。 2008年現在では総人口が4000万人近くになっている、 19世紀半ばの国家の西欧化=白人化を望んだ自由主義者が勝利し、1853年憲法の第25条や、1876年の移民法の制定によってヨーロッパ移民が大量導入されると、次第に都市からは黒人が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿を消し、以降アルゼンチンは白人国家であることを誇り、アインデンティティにするようになった。 20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパから見れば)「文化のない」アメリカ合衆国や、人種的優越感やラテンアメリカ一の経済大国であったことによる自信により、ラテンアメリカ諸国を見下す傾向と、ラテンアメリカとの連帯よりもヨーロッパとのつながりを重視する傾向があり、折からのアルゼンチンの経済的な発展への羨望とあいまって、同国がラテンアメリカ諸国から嫌われる大きな原因となった。 例えばディエゴ・マラドーナのように純粋な南欧系と比較すると小柄で、風貌も若干異なる人が少なくないことから、先住民系の血も少なからず受け継がれていることがわかるが、それでも現在のところアルゼンチン人の主要意識は白人国家、南米のヨーロッパであることに変わりはない。ただし、マルビナス戦争でヨーロッパ(EC)と敵対し、反対にラテンアメリカ諸国の支援を受けたことから、状況は多少変わって来ている。 1837年の世代や1880年の世代に代表される19世紀の自由主義者はアングロ・サクソン移民を多く招いてアルゼンチンを非ラテン化したかったようだが、現実的に1871年から1913年までに定着した317万人のヨーロッパ移民としてはイタリア人(イタリア系アルゼンチン人)、スペイン人が特に多かった。その他にはフランス人、ロシア人、ドイツ人、オーストリア人、イングランド人、ウェールズ人、クロアチア人、ポーランド人、ポルトガル人、スイス人、ベルギー人、アイルランド人などが続き、ロシア系はほとんどがアシュケナジムだった。その他にはレバノン、シリアから移民したアラブ人(アラブ系アルゼンチン人)やブラジルなどから再移住した日本人(日系アルゼンチン人)、スペイン内戦の共和派の亡命者や、第二次大戦前にナチスに追われて逃げてきたドイツからのユダヤ人、そして戦後ナチスの残党として亡命してきたドイツ人などがいる。 主なマイノリティとしてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼ぎにきた移民がいるほか、メスティーソ、ユダヤ人、アフリカ系アルゼンチン人、アジア系アルゼンチン人がおり、先住民としてアンデスにケチュア人とアイマラ人、パタゴニアにマプーチェ人やテウエルチェ人などがいる。19世紀後半までネグロ川北部に20万人ほどいたパンパの狩猟遊牧インディヘナは、1878年に開始されたフリオ・アルヘンティーノ・ロカ(英語版)将軍の砂漠の征服作戦(英語版)により20,000人にまで減少し、以後パンパからはほとんどいなくなった。現在のインディヘナの総人口は420,000人になっている。 アラブ系のコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領を出している。大部分のアラブ系アルゼンチン人はカトリック教会か正教、東方典礼カトリック教会などを信仰している。アジア系アルゼンチン人は日系、中国系、韓国系、ベトナム系などを合わせて130,000人を越える。 ユダヤ人はヨーロッパからのアシュケナジムがほとんどだが、シリアからのセファルディムも15-20%ほどいる(詳細はユダヤ系アルゼンチン人を参照)。経済的にユダヤ系の力が強いため、アルゼンチン社会、特に軍部の反ユダヤ主義は根強く、軍事政権下では「汚い戦争」の中で、ユダヤ人がイスラエルの兵器で弾圧されるという矛盾も起きた。アルゼンチンへのユダヤ人移民は、モーリス・ヒルシュ男爵(en:Maurice de Hirsch)の基金がスポンサーであった。 アルゼンチンの不法移民は大多数が国境を接するボリビア、パラグアイから来ており、少数はペルー、エクアドル、ルーマニアなどからもやって来ている。アルゼンチン政府はこうした不法移民の数を750,000人と見積もっている。 1200万人が住む 大ブエノスアイレス都市圏。 110万人が住む大ロサリオ都市圏。 大西洋のビーチ、マル・デル・プラタ。 ラプラタ市。典型的な計画都市である。 アルゼンチンの都市人口率は昔から非常に高く、それは現在まで変わっていない。 353万人がブエノスアイレス市に、1240万人が大ブエノスアイレス都市圏に住んでいる。第二、第三の都市圏はコルドバとロサリオであり、それぞれ130万人と110万人の都市圏を構成している。 19世紀以降に移民したほとんどのヨーロッパ移民は、大土地所有制が崩れずに入植地の所有権が手に入らなかったため、最終的に都市に落ち着き、仕事や教育等のさまざまな機会を得て中間層となっていった。多くは鉄道網に沿って成長していた小都市に住み着いたが、1930年代に入ると小都市から大都市への国内移民が行われた。 1990年代に入り列車の操業が止まり、小規模工業が外国製の安い製品との競争に敗れて消えていくと、田舎町にはゴースト・タウンになるものも現れてきた。多くのスラムが大都市の郊外を囲み、都市の貧窮した下層労働者層や、内陸部の小さな町からの移住者や、さらに大きな数の近隣諸国からの移民が住民として住み、2001年の経済破綻後も離れようとしていない。 アルゼンチンの都市はヨーロッパ移民の影響が反映されているため、非常にヨーロッパ的である。多くの都市はスペイン風に広場を中心に建設され、カテドラルと重要な役所(カビルド)は広場に面して建てられる(ただし、ブエノスアイレスは1850年代以降フランスのパリを忠実にモデルにして改造された)。一般的に都市の配置はダメロと呼ばれる碁盤目上であるが、19世紀末にワシントンD.C.をモデルに建設されたラ・プラタ市など近代的な計画都市はこの様式からかけ離れていることもある。 1999年度の都市人口率 は 89.1%である。 20世紀半ばまでは移民受け入れ国だったアルゼンチンも、20世紀中盤以降の社会、経済、政治の混乱により、多くのアルゼンチン人が祖国を離れて海外に移住した。特に国連ラテンアメリカ委員会の報告によると、アルゼンチンからの海外移住者の1000人の内191人が大学卒業者であるなど 、留学生がそのまま海外移民になってしまうことや、大学卒業者に見合った職業の不足などを原因とした、高学歴者の移民による社会の空洞化が懸念されている。アルゼンチンからの移民先は主にスペイン、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジルなどである。 言語はスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語)が公用語であり、アルゼンチンではエスパニョールではなくカステジャーノと呼ばれる。ポルテーニョ(ブエノスアイレス市民)のアクセントはイタリア語のナポリ方言の影響が強く、ヨーロッパ移民、特にイタリア移民の影響により、ラ・プラタ地域で話されるルンファルドと呼ばれる独特の俗語が形成されてきた。アルゼンチンはスペイン語圏でも二人称単数においてボセオ(Voseo)のみが全土で使用されている数少ない国であり、ボセオはアルゼンチンのアイデンティティとなっている。 スペイン語の他には英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、および多少の先住民言語なども使用されている。 標準ドイツ語は1,400,000人から1,500,000人のドイツ系アルゼンチン人によって話されているが、1,800,000人以上が話しているともいわれている。ドイツ語は今日のアルゼンチンで第三か第四に多くの人々に話されている言葉である。その他にも、調査によると、1,500,000人がイタリア語を話し、1,000,000人がシリア・レバノンのアラビア語を話している。ガリシア語、イディッシュ語、日本語なども話されているが、これらの言語は現在では話されることは少なくなって来ている。パタゴニアのトレレウやガイマンといった町にはウェールズ語を話すコミュニティがある。近年のアジア系移民は中国語と韓国語をブエノスアイレスに持ち込んだ。 先住民言語はコリエンテス州、ミシオネス州でグアラニー語が話され、コリエンテス州では公用語となっている。ケチュア語は北西部のサンティアゴ・デル・エステロ州で話され、アイマラ語はボリビアからの移民のコミュニティなどで話されている。パタゴニアではマプーチェ語などが話されている。 英語、ブラジル・ポルトガル語、フランス語はあまり大きな存在感を持たない。英語は学校教育で教えられ、ポルトガル語とフランス語が後に続く。 国民の大多数の93%がカトリック教徒だと申告しているが、教会はより正確には70%ぐらいだと見積もっている。現行憲法第二条によると、アルゼンチン共和国はカトリックを保護すべきであるとなっているが、これはアルゼンチンの国教がカトリックであるということではなく、圧倒的に信徒数が多いカトリックに国家の優先権があることを認めるのみとなっている。2013年に行われたコンクラーベでは、アルゼンチン人のブエノスアイレス大司教ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿がローマ教皇に選出されて第266代教皇フランシスコとなり、アルゼンチンが初のアメリカ大陸出身のローマ教皇を出した国となった。 公務員は必ずしもカトリックを信仰しなければならないわけではないが、大統領はキリスト教徒しかなれない(アラブ系だったカルロス・メネムはイスラーム教を棄教しなければならなかった)。 1980年代からプロテスタントの福音派が足場を築き、現在総人口の約10%の330万人が信者である。 330,300人以上がキリスト教系新宗教の末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)に所属しており、これは世界で7番目に多い。 ラテンアメリカで最も多いユダヤ人人口を抱え、人口の約2%がユダヤ人である。 イスラーム教徒は総人口の1.5%を占め、500,000-800,000人がいると推測されている(93% はスンナ派)。現在アルゼンチンはラテンアメリカで最もモスクの多い国のひとつとなっている。 おおよそ12%が無宗教、もしくは世俗派とみなされている。 婚姻の際には夫婦別姓であるが、女性は、自己の姓の後に「de + 夫の姓」を追加することができる。 2010年から、同性同士の結婚(同性結婚)が認められるようになった。 独立後、自由主義者が勝利した1860年代以降のアルゼンチンはドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント政権の下で、他のラテンアメリカ諸国とは対照的に公教育の整備に力を注いだ。2001年のセンサスでは、15歳以上の国民の識字率は97.2%に達している。これはウルグアイやキューバ、チリと共にラテンアメリカで最も高い水準である。ただし、近年は機能的非識字の増加が問題となっている。 幼稚園から初等教育が始まり、5歳から14歳までの10年間の無償の初等教育・前期中等教育が義務教育期間となり、その後3年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。初等、中等教育の問題としては落第率の高さや、待遇の劣悪さから起きる教員のストライキと予算不足から来る十分な授業日数確保の不備、学級崩壊などが挙げられる。 2005年現在で、アルゼンチンには41校の国公立の大学と48校の私立大学があり、代表的な高等教育機関としてはブエノスアイレス大学(1821年)、コルドバ大学(1613年)、ラ・プラタ大学(1905年)、国立工科大学(1959年)、ロサリオ大学(1968年)、アルゼンチン・カトリカ大学(1958年)、トルクァト・ディ・テラ大学(1991年)などが挙げられる。国公立の大学はアルフォンシン政権時に入試を廃止したため、学生数の増加による過密や、非効率な制度による学校運営の混乱が大きな問題となっている。大学進学率はチリと並び南米としては極めて高率である。 アルゼンチンの文化は、まず第一に多くのアルゼンチン人のルーツであるヨーロッパから導入され、ヨーロッパから大きな影響を受けている。ブエノスアイレスはヨーロッパの家系に連なる人々と、ヨーロッパのスタイルを模倣した建造物の両方によって構成された結果として、しばしば南米で最もヨーロッパ的な都市だといわれてきた。もうひとつの大きな影響はガウチョやインカ帝国の文化に代表される、パンパや北西部のアンデスでの伝統的な田園生活によるものである。最終的にインディヘナの伝統的な文化(マテ茶の回し飲みなど)はこの文化的領域に吸収された。 この二つのアルゼンチンは互いに相克しながらアルゼンチンの文化を形成してきた。どちらが真のアルゼンチンであるかというものではなく、どちらも本質的に異なる二つのアルゼンチンの精神を表しているものである。 アルゼンチン文学は1850年代からラテンアメリカ文学のリーダーであった。国家形成の時代の連邦派と統一派の争いが、当時のアルゼンチン文学のロマン主義文学のトーンを印象付けた。アルゼンチンにロマン主義を導入した自由主義者のエステバン・エチェベリーアの『エル・マタデーロ』(1840)ではロサスの圧政を寓意的に描き、同じく欧化主義者のドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントによって亡命先で著された『ファクンド』(1845)は、統一派の視点でラ・リオハ州の連邦派カウディージョ、フアン・ファクンド・キロガを野蛮の象徴として描き、ガウチョやインディオは近代化のための巨大な障害物と見做された。それに対してガウチョ文学(英語版)の傑作となったホセ・エルナンデスの叙事詩『マルティン・フィエロ(英語版)』(1874)は、連邦派の視点でガウチョをアルゼンチンの精神を体現する象徴として描き、現在後者の『マルティン・フィエロ』はアルゼンチンの聖書と呼ばれ、国民文学の基礎だと位置づけられている。アルゼンチン文学の歴史の重要な部分は、フロリダとBoedoの間の紛争である。フロリダグループ(スペイン語版) グループがあった。ホルヘ・ルイス・ボルヘス はフロリダ最高の作家で し た。フロリダのグループは、通常、リッチモンドカフェテリアで会いました。 リッチモンドカフェテリアはフロリダ通りにあった。また、ボエドグループ(スペイン語版) Roberto Arltは最高のBoedoの作家でした。Boedo グループは、Boedo地区の日本のカフェ(スペイン語版)で会合のほとんどを開催しました。 その他にもフアン・バウティスタ・アルベルディ、ロベルト・アルルト、エンリケ・バンチス、アドルフォ・ビオイ・カサレス、エウヘニオ・カンバセレス、レオポルド・ルゴネス、エドゥアルド・マジェーア、エセキエル・マルティネス・エストラーダ、トマス・エロイ・マルティネス、ビクトリア・オカンポ、エルネスト・サバト、オスバルド・ソリアーノ、アルフォンシナ・ストルニ、マリア・エレーナ・ワルシュ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサル、マヌエル・プイグのように、アルゼンチンは国際的に特筆される作家、詩人、知識人を生み出している。 キノ(ホアキン・サルバドール・ラバード)は世界中で多くの読者を楽しませている。文学においてもブエノスアイレスかそれ以外かという対立は、後のモデルニスモ文学や20世紀の文学においても続いた。 正統な文学者ではないが、キューバ革命の指導者の一人であり、ラテンアメリカにおける社会主義理論家として知られ、文学でも『モーターサイクル・ダイアリーズ』や、革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『ゲリラ戦争』(1961)、『ゲバラ日記』(1968)などを残し、キューバの閣僚を務めたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラもアルゼンチン出身の文筆家として名高い。 アルゼンチンはブラジル、メキシコと共にラテンアメリカでも特に映画制作が盛んな三国の内の一角を占める。[要出典] 世界初のアニメ映画は1917年に漫画家のキリーノ・クリスティアーニによってアルゼンチンで製作された。アルゼンチン映画は1930年代から1950年代にかけて黄金時代を迎え、現在、その時代の作品の多くはスペイン語による古典映画だとみなされている[誰によって?]。映画産業はアルゼンチン映画初のスターとなり、タンゴの歌手でもある、リベルタ・ラマルケや、フローレン・デルベーネ、ティト・ルシアルド、ティタ・メレージョ、ロベルト・エスカラーダ、ウーゴ・デル・カリールのような俳優を輩出した。 その後も『ロス・インダドス』(1955)によりブラジルのネルソン・ペレイラ・ドス・サントスやキューバのフリオ・ガルシア・エスピノーサと共に新ラテンアメリカ映画運動の牽引者となったフェルナンド・ビッリや、アレハンドロ・アグリステ、エクトル・オリベラ、『スール/その先は……愛』(1988)のフェルナンド・E・ソラーナス、『ブエノスアイレスの夜』(2001)のフィト・パエスといった映画監督が活躍している。ラ・プラタ市とマル・デル・プラタで例年映画祭が催されている。 ブエノスアイレスの都市的な様子とは対照的なもう一つのアルゼンチンを描いた画家としては、初めて本格的にガウチョを描いたプリリディアーノ・プエイレドンや、アンデス地方の牧場や、ガウチョを題材に描いたフェルナンド・フェデールなどの名が挙げられる。三国同盟戦争などを題材にした歴史絵画ではホセ・イグナシオ・ガルメンディアや、カンディード・ロペス(素朴派)などの名が挙げられる。ロペス、アントニオ・ペリーニ(en:neo figurative)、エミリオ・ペットルーティ(キュビスム)、フェデール、ギジェルモ・クイトカの作品は国際的に認知されている。その他にも「ボカ共和国」こと、ブエノスアイレスのラ・ボカ(La Boca 河口)地区出身のキンケラ・マルティンはラ・ボカ地区や労働者を描いた画家として名高い。 ルシオ・フォンタナとレオン・フェラーリは彫刻家かつコンセプチュアル・アーティストとして喝采された。シルエロ・カブラルは世界的に有名な幻想芸術家かつ彫刻家であり、エドゥアルド・マクリンティーレの幾何学的なデザインは1970年代以降の世界中の広告家に影響を与えた。 あまり日本では知られていないが、冷凍船の発明・普及とともに世界的な大畜産国として発展の基礎を築いただけあって、肉料理などを中心に充実した食文化の歴史がある。その一例として、多くのイタリア移民が持ち込んだパスタ類や、ドゥルセ・デ・レチェなどの菓子類等もバラエティに富んでいる。ブエノスアイレスと他地域とを問わずエンパナーダも広く食べられている。魚は、大きなスーパーや中国人街以外ではメルルーサ(タラ)かサケくらいしか売っていないが、イグアスの滝に近い北部の亜熱帯地方ではスルビ(ナマズの一種)、クージョのアンデス山脈付近ではトゥルーチャ(マス)など、川魚を食べる地方もある。 アルゼンチンの主菜である肉料理は実に多彩であり、特にアサード、ビフェ・デ・チョリソ(サーロインステーキ)、チョリソや臓物も含んだ焼肉の盛り合わせであるパリージャ(Parrilla)が有名である。 アルゼンチンは世界有数のワイン生産国である一方、ほとんどを国内消費するため海外にはあまり知られていない。アルゼンチンには肉料理が多いことから、それと相性がよいとされる赤ワインが特に多く、品質も優れている。アルゼンチンのワインの六割がメンドーサで生産され、残りのほとんどがカファヤテ(Kafajatė)で生産される。ヨーロッパではほとんどブレンドにしか用いないマルベック(Malbec)という品種は、アルゼンチンでもっとも味が良いとされている。近隣諸国と同様にグアラニー人由来のマテ茶を飲む習慣もある。アルゼンチンでは砂糖を入れて飲むことが多い。 ファストフードとしては、チョリソをパンに挟んだチョリパン(英語版)という料理があり、チミチュリや野菜などのトッピングもなされる。アルゼンチンのソウルフードとも評される。 アルゼンチンはブラジル、コロンビアと共に南米の音楽大国の一角を占める。 世界的にウルグアイのモンテビデオと共に、ブエノスアイレス、特にラ・ボカとサン・テルモはタンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタ川風タンゴ。日本に限らず世界ではアルゼンチン・タンゴと呼ばれることが多い)の中心として知られるが、1850年代からカンドンベを下敷きにして、ハバネラ、ミロンガなどの影響を受けてボカで育ったこのリズムは、1920年代以降、カルロス・ガルデルのフランス公演が大成功するとヨーロッパでも大流行し、コンチネンタル・タンゴにもなった。1930年代の最盛期を過ぎるとこの流行は長くは続かずに1950年代ごろには下火になり、その後タンゴはアルゼンチンでも衰退をたどるが、アストル・ピアソラの登場により持ち直した。 このように、アルゼンチンといえばブエノスアイレスのヨーロッパ風のイメージとともに、まず第一にタンゴが連想されるが、しかしタンゴはやはりラ・プラタ川流域の音楽であり、内陸部ではサンバ、パジャドール、チャカレーラ、チャマメ、カルナバリート(実質ワイニョ)などのさまざまなフォルクローレ(民謡)が存在する。こうしたフォルクローレはいくつか隣国のウルグアイとも共通しており、タンゴの元になった黒人音楽カンドンベも元々はアルゼンチン・ウルグアイに共通する音楽だったが、アルゼンチンでの黒人人口の減少と共にアルゼンチンでは廃れていき、現在カンドンベはウルグアイの国民音楽になっている。 アンデスのフォルクローレの代表曲である花祭り (ウマウアカの男)はウマウアカのカルナバルを歌ったものだが、特にアンデス地方のフォルクローレではアルゼンチンのものが日本に最も早く紹介されたこともあり、世界の人々にとってフォルクローレと言えば本場のボリビアと並んでアルゼンチンのものが連想される要因ともなっている。アルゼンチンでの海外の声の代表を自認したアタウアルパ・ユパンキや、メルセデス・ソーサ、ウニャ・ラモスらは世界的に有名であり、日本限定だがグラシェラ・スサーナも有名である。チャランゴ奏者のハイメ・トーレスのように伝統的なフォルクローレを展開する表現者以外にも、近年は新世代のミュージシャンが、欧米のシンガー・ソングライターやジャズ、エレクトロニカなどに影響を受けた新しいフォルクローレを続々と生み出している。代表的なアーティストは、リリアナ・エレーロ、アカ・セカ・トリオ、マリアナ・バラフ、カルロス・アギーレなど。日本でも徐々に注目されており、『オーガニック・ブエノスアイレス』というコンピレーション・アルバムも発表された。 そしてそれだけがこの国の音楽の全てではなく、クラシックやジャズやポップスの分野でも、作曲家のアルベルト・ヒナステラ、ピアニストのマルタ・アルゲリッチ、イングリット・フリッター、ラロ・シフリン等、時折注目すべき人物を輩出することもある。1960年代生まれからは、作曲や指揮の領域でも傑出した人材を輩出している。その他に特筆されるべき音楽家としては、扇情的なサクソフォーンとフリージャズを構成するガトー・バルビエリが存在する。 ポップスの分野では特にロックが盛んな国であり、国外にもアルゼンチン・ロックの愛好家は多い。1960年代の初頭にはアルゼンチン・ロックはウルグアイ勢の進出により、ブエノスアイレスの音楽シーンはロス・シェイカーズやロス・モッカーズなどのウルグアイのロックバンドの草刈り場となったが(ウルグアヤン・インベイジョン)、ウルグアイ人の攻勢が終わった後も、ロス・ガトースなどのアルゼンチン人のロックバンドが主導的な役割を果たしながらも、ラ・プラタ川を越えて多くのウルグアイのミュージシャンがブエノスアイレスで活躍する状況は変わっていない。 2000年代に入ってからは、アルゼンチン音響派がまるでかつてのブラジルにおけるトロピカリズモ運動のような新たなムーブメントとなっている。ファナ・モリーナやサンティアゴ・バスケス、フェルナンド・カブサッキ、アレハンドロ・フラノフなどは日本でも人気を博しており、山本精一や勝井祐二など日本人ミュージシャンとの交流がある。クラブシーンにおいてはコロンビア生まれのクンビアがブエノスアイレス近郊で発達を遂げ、デジタル・クンビアが生まれた。 アルゼンチンが発祥となった音楽ではないが、2002年には日本のロックバンド・THE BOOMの「島唄」が俳優のアルフレッド・カセーロに日本語のままカバーされ大ヒットした。彼の歌う島唄はその年に開催された日韓ワールドカップのアルゼンチン代表の応援歌としても採用された。 アルゼンチン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件、自然遺産が4件存在する。詳細は、アルゼンチンの世界遺産を参照。 アンデスの道路網カパック・ニャン - (2014年、文化遺産) ロス・グラシアレスの国立公園 - (1981年、自然遺産) サン・イグナシオ・ミニのイエズス会伝道所- (1983年 / 1984年、文化遺産) イグアス国立公園 - (1984年、自然遺産) バルデス半島のオタリアたち- (1999年、自然遺産) リオ・ピントゥラスのリオ・ピントゥラスのクエバ・デ・ラス・マノス - (1999年、文化遺産) イスキグアラスト/タランパヤ自然公園群 - (2000年、自然遺産) コルドバのイエズス会伝道所とエスタンシア群 - (2000年、文化遺産) ウマウアカの渓谷 - (2003年、文化遺産) 註1: もし該当の日が火曜日か水曜日ならばその直前の月曜日、木曜日か金曜日ならばその直後の月曜日に移動する。 サッカー大国であり、ディエゴ・マラドーナを筆頭にサッカー史上に残る名選手を多く輩出し、ブラジルと並ぶ南米の強豪として知られている。代表チームはFIFAワールドカップの常連であり、優勝2回、準優勝3回を誇る。1978年には、FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会が行われた。国内リーグもCAリーベル・プレート、ボカ・ジュニアーズ、CAインデペンディエンテ、ラシン・クラブ、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロなどのクラブがしのぎを削っている。 サッカー以外ではテニスが有名で、テニスを国技と称するスウェーデンと並んで、70年代から現在に至るまで世界のテニス界をリードする存在である。70年代後半のギジェルモ・ビラスをはじめ、男女問わず数多の名選手を輩出しており、2004年の全仏オープンテニスにおいては史上初のアルゼンチン勢同士の決勝戦が行われている。最近も、アルゼンチン勢のテニスの躍進は凄く、クレー(赤土)コート以外でも、好成績を残す選手が続出している。 ラグビーは、ロス・プーマスの愛称で親しまれているアルゼンチン代表が強豪国を破る実力をつけてきている。伝統的に屈強のフォワードと意外性のあるバックスの選手を輩出している。1999年のワールドカップ(W杯)ではベスト8に進出、スタンドオフのゴンサロ・ケサダが安定したキックで得点王に輝いた。2007年大会では開催国フランスを2度下し、3位に輝いた。 バスケットボールも第1回世界選手権の開催国ということもあり人気が高く、マヌ・ジノビリ、ファブリシオ・オベルト、アンドレス・ノシオーニらNBAプレイヤーも輩出している。アテネ五輪では金メダルを獲得している。 ボクシングにおいても、70年代の世界ミドル級王座に長期政権を築いた名王者カルロス・モンソン、アルゼンチン初の世界王者でフライ級のパスカル・ペレス、60年代のWBA・WBC世界フライ級王者オラシオ・アカバリョ、ジュニア・ウェルター級の世界王者ニコリノ・ローチェらを輩出している。2000年代にもフライ級でオマール・ナルバエスが長期政権を築いている。 化学部門で3人のノーベル賞受賞者を出している。ルイス・フェデリコ・レロイル(ルイ・ルロワール)はノーベル化学賞受賞者であり、この化学賞はラテンアメリカ全体でも初めてのものだった。 ベルナルド・ウサイのような優れた研究者の残した業績の伝統もあって、現在でも医療の研究や、その他には原子力の研究なども進んでいる。 他にも、素粒子物理学の指導的存在であるフアン・マルダセナがいる。 現在の問題は、大学の整備の遅れによる研究環境の不備や、海外への高学歴者の流出による基礎研究、応用研究の進展が遅れていることなどである。 アルゼンチンの印刷メディアは高度に発達し、独立している。200以上の新聞が存在し、地元の町や地域に影響を与えている。最主要紙はブエノスアイレスの中道紙「クラリン」であり、スペイン語圏で最も流通している新聞の内のひとつとなっている。[要出典]その他の新聞としては1870年創設の「ラ・ナシオン」(中道右派)、Página/12 (左派)、アンビト・フィナンシエロ (保守ビジネス紙), ドイツ語新聞のArgentinisches Tageblatt 、スペイン語とフランス語で発行されるLe Monde Diplomatique、クロニカ (ポピュリズム)。地方紙として重要なのは「ラ・カピタル」(ロサリオ)、「ロス・アンデス」(メンドーサ)、「内陸部の声」(コルドバ)、「エル・トリブノ」(サルタ)など。ブエノス・アイレス・ヘラルドは主要日刊英字新聞である。 アルゼンチンの出版業はスペイン・メキシコといったスペイン語圏の主要国の出版業と共にある。アルゼンチンには、エル・アテネオやジェニーといった、独立し、豊富な在庫を抱えたラテンアメリカ最大級の書店のチェーンがある。英語やその他の言語による書籍も多く流通している。雑多な趣味の領域をカバーした百を越える雑誌が出版され、書店や街頭のキオスクで販売されている。 アルゼンチンはラジオ放送を始めた国家のパイオニアだった。1920年8月27日、Sociedad Radio Argentinaは「我々は今、ブエノスアイレスの下町のコリセオ劇場からのリヒャルト・ワーグナーのパルジファルオペラの実演をあなたの家に送っています。」と発表した。もっとも市内の20家庭しかラジオ受信機を所持していなかった。 世界初の放送局はその時から、Radio Culturaが放送されるようになる1922年まで、アルゼンチン唯一のラジオ局だった。その後1925年までに12局がブエノスアイレスに、10局がその他の都市に開設された。1930年代はバラエティ、ニュース、ソープオペラ、スポーツなどアルゼンチンのラジオにとって「黄金時代」だった。 現在アルゼンチンでは1,500以上のラジオ局が認可されている。260局がAM局であり、1150局がFM局である。[要出典] ラジオはアルゼンチンでは重要なメディアとなっている。音楽と若者文化番組がFM放送を支配しており、ニュース・討論・スポーツはAM放送の内容として第一に来る。ラジオは未だに情報、エンターテインメント、さらに最遠隔地のコミュニティーにおける人命救助にさえ重要なサービスとして役立っている。 アルゼンチンのテレビ業界は大きく多様であり、ラテンアメリカで広く見られていると同時に世界中で見ることができる。多くのローカル番組が他国で放送され、その他は外国人のプロデューサーが市場で権利を買っている。アルゼンチンには五つの主要ネットワークがある。全ての地方主要都市と大都市には、少なくとも1つの地方局がある。アルゼンチンでは北アメリカとほぼ同じぐらいのパーセンテージでケーブルテレビと衛星放送が浸透している。 ケーブルネットワークはアルゼンチンと他のスペイン語圏からもたらされ、ウルティマ・サテリタル、TyCスポーツ、スペイン語Foxスポーツ(合衆国、メキシコも同様)、MTVアルヘンティーナ、コスモポリタンTV、およびニュースネットワークのトド・ノティシアスなどがある。 アルゼンチン共和国の象徴となっているものを列挙する。 アルゼンチンの国旗 アルゼンチンの国章 アルゼンチンの帽章 アルゼンチンの国歌 国花: アメリカデイゴ ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). 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紀元前4000年から1000年までの間にインディアンのアラワク人(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク人は消え去った。征服時にいたインディアンの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。 1492年にクリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見」したとき、この島にはアラワク人(タイノ人)が住んでいたが、それから四半世紀のうちにスペインの入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、インディアンのカリブ人が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。その後、スペインは主に西アフリカの黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地サント・ドミンゴ総督領(スペイン語版、英語版)の経営をした。島の西部をフランスが1659年以降徐々に占領していったが、衰退の一途を辿るスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年のライスワイク条約で島の西側3分の1はフランス領とされた。この部分が現在のハイチの国土となる。フランスはここを、フランス領サン=ドマング (Saint-Domingue) とした。この植民地は、アフリカの奴隷海岸から連行した多くの黒人奴隷を酷使し、主に林業とサトウキビ・コーヒー栽培によって巨万の富を産みだした。 1789年からフランス本国では革命が勃発し、サン=ドマングの黒人奴隷とムラート(混血の自由黒人)たちはその報を受けたヴードゥーの司祭デュティ・ブークマン(英語版)に率いられ、1791年に蜂起した。 トゥーサン・ルーヴェルチュール、ジャン=ジャック・デサリーヌ、アンリ・クリストフらに率いられた黒人反乱軍は白人の地主を処刑した後、フランスに宣戦布告したイギリスとスペインが、この地を占領するため派遣した軍を撃退し、サン=ドマング全土を掌握した。ルーヴェルチュールは1801年に自らを終身総督とするサン=ドマングの自治憲法を公布し、優れた戦略と現実的な政策により戦乱によって疲弊したハイチを立て直そうとしたが、奴隷制の復活を掲げたナポレオンが本国から派遣したシャルル・ルクレールの軍によって1802年に反乱は鎮圧され、指導者ルーヴェルチュールは逮捕されフランスで獄死した。 ところが、新たな指導者デサリーヌの下で再蜂起した反乱軍は、イギリスの支援を受けて、1803年にフランス軍をサン=ドマング領内から駆逐した。そして、1804年1月1日に独立を宣言し、ハイチ革命が成功した。 デサリーヌは国名を先住民族タイノ人由来の名であったハイチ(アイチ)に変更し、ナポレオンに倣って皇帝として即位し(ハイチ帝国)、数世紀に渡る蛮行への報復と、黒人の国であるハイチが再び奴隷制に戻ることへの脅威から、残った白人を処刑し、皇帝はハイチを黒人国家であると宣言し、白人が資産や土地を所有することを禁じた。デサリーヌは1805年に憲法を制定したが、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺された。デサリーヌはハイチ建国の父として後の世まで敬愛されている。 この後、クリストフによって世界で初の黒人による共和国、かつラテンアメリカ最初の独立国が誕生し、南北アメリカ大陸の他の植民地の黒人たちや、独立主義者、そしてアメリカ合衆国の黒人奴隷たちを刺激した。 しかし北部のハイチ国(フランス語: État d'Haïti)と南部のハイチ共和国(フランス語: République d'Haïti)との南北共和国に分かれて争い、南部の共和国の事実上の支配者ペションは農地改革でプランテーションを解体し、独立闘争の兵士たちに土地を分け与えた。その結果、たくさんの小農が出現した。この時期に南アメリカの解放者、シモン・ボリーバルがペションの下に亡命している。 一方、中部のハイチ王国(フランス語: Royaume d'Haïti)でクリストフが王政を宣言、圧政を敷いた。住民を酷使して豪華な宮殿(サン・スーシー)や城塞(シタデル・ラフェリエール、フランスの再征服に対処するため)(両方とも世界遺産)を建設させるなどの波乱があったが、1820年クリストフの自殺に伴い南部のペションの後継者、大統領ジャン・ピエール・ボワイエがハイチを再統一した。1821年、イスパニョーラ島の東3分の2(現在のドミニカ共和国)を支配していたスペイン人のクリオージョたちがスペイン人ハイチ共和国(スペイン語版、英語版)(Santo Domingo)の独立を宣言し、コロンビア共和国への編入を求めて内戦に陥ると、1822年1月ハイチは軍を進めてこれを併合し(ハイチ共和国によるスペイン人ハイチ共和国占領(スペイン語版、英語版))、全島に独裁体制(1822年 - 1844年)を築いた。この時期、ボワイエはフランス艦隊から圧迫を受け、独立時にフランス系植民者たちから接収した農園や奴隷などに対する莫大な「賠償金」を請求された。 ハイチの独立後、独立を承認する国家は存在せず、シモン・ボリーバルが全イスパノアメリカ諸国の連合と同盟を企図して1826年に開催したパナマ議会(スペイン語版、英語版)ではハイチの承認が議題として取り上げられたが、パナマ議会が大失敗に終わったため、大コロンビアとイスパノアメリカ諸国によるハイチの承認はなされなかった。結局ハイチはフランスからの独立の承認を得る代償として賠償金の支払いに応じた。この賠償金は長年借金としてハイチを苦しめることとなった。政府は奴隷制を復活させるなどしたが、経済は貧窮した。 1843年、ボワイエの独裁に対しシャルル・リヴィエール=エラールが蜂起しボワイエを亡命させる。しかし奴隷制に対する農民反乱や軍人の反乱が続く無政府状態に陥り、1844年にフランスへの賠償金のための重税に苦しんでいた東部のスペイン系住民が、再度ドミニカ共和国としての独立を宣言し、これに敗北して東部を手放すなど、内政混乱が続いた。 この状況を収拾したのは元黒人奴隷で1791年の反乱にも参加した将軍フォースタン=エリ・スールーク(英語版)であり、大統領に就任したが後に帝政(ハイチ帝国)を宣言し、ファーブル・ジェフラール(フランス語版、英語版)将軍の蜂起で打倒される1859年まで皇帝フォースタン1世として君臨し、国内に秘密警察の監視網を張り巡らせて圧政を敷き、隣国ドミニカへの侵入を繰り返した。スールークを追放したジェフラールは共和制を復活させたが、フランスに対する巨額の賠償金による経済の崩壊、小作農たちの没落、列強の圧迫、相次ぐ大統領の交代や内戦、国家分裂でハイチは混乱し続けた。しかし、この時期、憲法はよりよく機能するよう何度も改正され、後の安定の時期を用意した。 1870年代末以降、まだ国家分裂や反乱は続いたが、ハイチは近代化への道を歩み始め砂糖貿易などで経済が発展し始めた。しかしフランスへの賠償金は完済せず、近代化のための借金もふくらみハイチの財政を圧迫した。またドイツによる干渉とハイチ占領・植民地化の試みも繰り返されたため、カリブを裏庭とみなすアメリカの警戒を呼び、1915年、アメリカは債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領、シャルルマーニュ・ペラルト(フランス語版、英語版)将軍などが海兵隊と戦ったが敗れ、数十万人のハイチ人がキューバやドミニカ共和国に亡命した。アメリカ軍は1934年まで軍政を続け、この間合衆国をモデルにした憲法の導入、分裂を繰り返さないための権力と産業の首都への集中、軍隊の訓練などを行ったが、これは現在に続く地方の衰退や、後に軍事独裁を敷く軍部の強化といった負の側面も残した。またハイチの対外財政は1947年までアメリカが管理し続けた。 1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト合衆国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。アメリカ占領以降、数人のムラートの大統領が共和制のもとで交代したが、経済苦境は続き1946年にはクーデターが起こりデュマルセ・エスティメ(フランス語版、英語版)が久々の黒人大統領となった。社会保障や労働政策の改善、多数派黒人の政治的自由の拡大などさまざまな進歩的な改革を行おうとした。ポルトープランス万国博覧会(1949年 - 1950年)。 改革がムラートと黒人との対立など国内混乱を招き、1950年にエスティメが憲法を改正して再選を図ろうとしたため、ムラート層や黒人エリートらがクーデターを起こし、黒人エリート軍人のポール・マグロワール(フランス語版、英語版)による軍事政権が誕生した。彼の時代、経済はコーヒーやアメリカからの観光などの景気でいっとき活況を呈したが、またも再選を図ろうとしたことをきっかけに全土でゼネラル・ストライキが起こり、混乱する中1956年末に彼はクーデターで打倒された。 1957年、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデター(July 1958 Haitian coup d'état attempt)が繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家のフランソワ・デュヴァリエが大統領に就任した。彼は福祉に長年かかわり保健関係の閣僚も歴任し、当初は黒人進歩派とみなされ「パパ・ドク」と親しまれた。 翌1958年からデュヴァリエは突然独裁者に転じ、国家財政などを私物化し、ブードゥー教を個人崇拝に利用して自らを神格化することで当時北半球最悪と呼ばれた独裁体制を誕生させた。デュヴァリエは戒厳令を敷いて言論や反対派を弾圧、秘密警察トントン・マクートを発足させ多くの国民を逮捕・拷問・殺害した。1971年にデュヴァリエは死亡し、息子の19歳のジャン=クロード・デュヴァリエ(「ベビー・ドク」)が世界最年少の大統領に就いた。財政破綻による軍事クーデターでデュヴァリエが追われる1986年までの長期に渡り、デュヴァリエ父子主導の下、トントン・マクートの暗躍する暗黒時代が続いた。 1987年に新憲法が制定され、民主的選挙によって選出された左派のアリスティドが1991年に大統領に就任。しかし、同年9月のラウル・セドラ(スペイン語版、英語版)将軍による軍事クーデター(1991 Haitian coup d'état)により、アリスティドは亡命。アリスティド支持派はハイチの進歩と発展のための戦線により多数殺害された。軍事政権は、国連(国際連合ハイチ・ミッション)及びアメリカ合衆国の働きかけ、経済制裁などの圧力、更に軍事行動を受けた結果、政権を返上。セドラ将軍は下野し、アリスティドは1994年に大統領に復帰した。1996年、アリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが新大統領になり、2001年には、再びアリスティドが大統領となった。 2004年2月5日「ハイチ解放再建革命戦線(フランス語版、英語版)」が北部の町ゴナイーヴで蜂起し、武力衝突が発生した(ハイチ・クーデター(英語版))。1994年以降に国軍の解体が進められていたこともあり、反政府武装勢力に対し政府側は武力で十分な抵抗することは出来なかった。2月29日、アリスティド大統領は辞任し、隣国ドミニカ共和国へ出国、中央アフリカ共和国に亡命し、アリスティド前大統領は中央アフリカ共和国においてフランス軍の保護下に入った(この顛末については、ジョージ・W・ブッシュ政権下のアメリカの関与も指摘されている)。アレクサンドル最高裁長官が1987年の憲法の規定に従って暫定大統領になった。三者評議会は直ちに賢人会議を立ち上げ、長く国連事務局にあったラトルチュを首相に指名、組閣が行われた。一連の動きに対し国連は臨時大統領アレクサンドルの要請に基づき多国籍暫定軍(MIF)の現地展開を承認し、3月1日には主力のアメリカ軍がハイチに上陸した(Operation Secure Tomorrow)。4月20日には安保理決議1542号(英語版)が採択され、MIFの後続としてブラジル陸軍を主力とする国際連合ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)を設立、治安回復などを図ることとなった。 2006年2月に大統領選挙が行われ、再びアリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが51%の得票率で当選し、5月に大統領に就任した。 2010年にマグニチュード7.0の地震が発生し、ポルトープランスを中心に甚大な被害が生じた。更に追い打ちをかけるようにコレラが大流行し、多数の死者が出た。地震を機にMINUSTAHの陣容は増強され、2011年現在も活動中である。 2010年11月にはプレヴァルの後任を決める大統領選挙が実施されたが、選挙にまつわる不正疑惑から暴動が発生、翌年3月にようやく決選投票が実施された。決選投票の結果、ポピュラー歌手出身のミシェル・マテリが大統領に選出された。民選大統領の後継を同じく民選大統領が務めるのは、ハイチの歴史上初めてのことである。 大統領は、全国民の選挙によって選ばれ、任期は5年。前々回の大統領選挙は、2000年11月26日に行われ、元大統領のジャン=ベルトラン・アリスティドが92%の票を獲得して、2001年2月7日から再度就任した。2004年4月のアリスティド追放後、再三延期された後に実施された2006年2月の大統領選挙で63歳の元大統領ルネ・ガルシア・プレヴァルが再び大統領に選ばれた。 首相は、大統領の指名によるが、議会の承認が必要である。内閣の閣僚は、首相が大統領と協議して指名する。 議会は、両院制(二院制)であり、上院も下院も議員は、国民の選挙によって選出される。上院は、27議席、任期6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、83議席で、任期は4年。 ハイチの政治は1804年の独立以来混乱が続いている。2009年現在の『失敗国家ランキング』ではワースト12位でありこれは北朝鮮(ワースト17位)より上位である。ハイチ地震 (2010年)で大統領府、財務省、外務省が倒壊したため、政府機能は麻痺状態にある。 ハイチは中華民国(台湾)を承認している。 ハイチには再編されたばかりの国防軍と、小規模な国家警察と沿岸警備隊がある。 ハイチの地方行政区分の最上位にあるのは、10の県 (depatmen) である。ハイチでは地方自治権は与えられておらず、県は中央政策の執行機関としての役割を果たす。2003年以降の県名と県庁所在地は、以下の通り。 アルティボニット県 - ゴナイーヴ 中央県 - アンシュ グランダンス県 - ジェレミー ニップ県 - ミラゴアーヌ 北県 - カパイシャン 北東県 - フォールリベルテ 北西県 - ポールドペ 西県 - ポルトープランス 南東県 - ジャクメル 南県 - レカイ(オカイ) 主要な都市はポルトープランス(首都)、カルフールがある。 ハイチの地勢は、主として岩の多い山々からなっており、沿岸部にはわずかながら平野や谷間を流れる川がある。中央部から東部は、大きく隆起した台地になっている。最高峰はラ・セル山(2680m)で、ゴナーブ島、トルチュ島、ヴァシュ島、グランド・チェミット島などの島々も含む。最も大きな都市は、200万人が住む首都のポルトープランスで、2番目は60万人のカパイシャンである。長年に渡る乱伐で山は禿山だらけになってしまっており、そのために保水力がなく、ハリケーンが通過すると洪水となって大きな被害をもたらす。 北部地域はマッシフ・デュ・ノール(北部山地)とプレイヌ・デュ・ノール(北部平野)から成る。マッシフ・デュ・ノールはドミニカ共和国の中央山脈の延伸である。ハイチの東部国境の始まりとなり、ギュヤムー川の北と、北部半島を通して北東に延長している。プレイヌ・デュ・ノールの低地はマッシフ・デュ・ノールと北大西洋の間のドミニカ共和国との北部国境に横たわる。中央地域は二つの平野と二つの山脈からなる。プラトー・セントラル(中央高原)はマッシフ・デュ・ノールの南のギュヤムー川の両側に沿って南東から北西に延伸している。プラトー・セントラルの南東はノワール山地となり、北西部はマッシフ・デュ・ノールに溶け込んでいる。 南部はプレイヌ・デュ・クル=ド=サク(南東部)と南部半島(チビュロン半島として知られる)の山々からなる。プレイヌ・デュ・クル=ド=サクは自然沈下によりトルー・カイマンやハイチ最大の湖であるラク・アズエイといった塩湖を抱えている。南部山脈はドミニカ共和国最南端のシエラ・デ・バオルコに始まり、ハイチのセル山地とオット山地になりハイチ南部の細長い半島を形成する。この山地にあるラ・セル山がハイチの最高峰(2,680m)になる。 IMFの推計によると、2013年のハイチのGDPは84億ドルである。一人当たりのGDPは820ドルであり、これは世界平均の10%未満、アメリカ大陸の全国家の中で最も低い数値である。 ハイチは植民地時代は世界で最も豊かで生産的な地域とも呼ばれていたが、現在では西半球で最も貧しい国と言われており、国民の80%は劣悪な貧困状態に置かれている。また国民の70%近くが、自給のための小規模な農場に依存しており、経済活動人口の3分の2が農業に従事しているが、規模が零細である上に灌漑設備等の農業インフラが不十分で天水に依存した伝統的農法に頼っており、過耕作、土地の荒廃なども影響して、農業生産性は極めて低く、食料自給率は45%、米の自給率は30%未満である。そのため、恒常的に食糧不足で、食料需要の大半を海外からの輸入と援助に大きく依存しているが、人口の約半数に相当する380万人は慢性的に栄養失調状態にある。かつてフランソワ・デュヴァリエ時代はハイチは国際的にも孤立していたため、食糧の自給は最重要課題であり、政府の手厚い保護政策によって、食糧自給率は80%、米の自給率は100%を誇ったが、民主化後はアメリカのコメが多量にハイチにも入るようになり、ハイチのコメ価格は暴落。安価で安定的な食事が得られるようになったが、その一方で、その代償は大きく、量でも質でも太刀打ち出来ないハイチのコメ農家は次々と田んぼを放棄し、都市へ仕事を求めるようになり、ハイチの食料自給率は急落。仕事にあぶれた農民が都市部へと流れ失業率は急増し、皮肉にもさらなる貧富の格差を生み出すことになる。 こうした中、2007年3月、9月の豪雨、8月、10月、12月の熱帯性暴風雨等の自然災害により、全国で約4万世帯が被災し、同国穀倉地帯も甚大な被害を受けたため、国連による緊急アピールが複数回出された。自然災害による食糧不足のため国内生産物の価格が上昇したが、ほぼ同時期に穀物の国際価格も高騰した。こうした食糧価格の高騰による影響は市民の抗議行動、暴動へとエスカレートし、首相が解任される事態までに発展した。 1996年に就任したプレヴァル大統領以来、若干の雇用が創出されたが、効果は上がっていない。国際的な支援を得られないでいるため、必要とする開発支援を確保できない状態にある。主な外貨収入はコーヒー豆の輸出と国外在住のハイチ人からの送金と国際的な援助ぐらいである。 ハイチの平均人口密度は362人/km2であるが、実際は都市部、沿岸の平野部、山間部に極度に集中している。 ハイチ人の約95%がアフリカ系であり、残りのほとんどはムラート(白人とアフリカ人の混血)である。エリートであるムラートとその他の黒人との間の経済的、文化的、社会的格差が著しい。その他に、数は少ないが独立後に中東から移民したアラブ系ハイチ人が存在する。 植民地時代にアフリカからハイチに連行された人々のルーツは、セネガンビア(現在のセネガルとガンビア)のウォロフ人、バンバラ人、フルベ人、マンディンゴ人などイスラーム教を奉ずる人々や、黄金海岸(現在のガーナ)のファンティ人(英語版)、奴隷海岸(現在のナイジェリア、ベナン)のフォン人、イボ人、ヨルバ人、さらにはコンゴ、アンゴラの人々など非常に多岐に渡るものであったが、ハイチの黒人文化の主流となったのは、ダホメ王国(現ベナン)出身のフォン人の文化であり、ヴードゥー教や祖先信仰などダホメの文化がハイチでヘゲモニーを握ることとなった。アフリカの各地にルーツを持ち、対立していた奴隷たちは、ダホメのヴードゥーによって結束を達成した。 また、貧困から抜け出すために海外への移民・難民も少なくなく、アメリカ合衆国のマイアミとニューヨーク(ハイチ系アメリカ人)、カナダのモントリオール(ハイチ系カナダ人)、フランスのパリ、バハマ、ドミニカ共和国には大きなハイチ人の移民コミュニティがある。 公用語はハイチ語(クレオール言語)とフランス語。フランス語系のクレオール言語であるハイチ語は1987年に公用語として認められた。ほとんどのハイチ人はハイチ語を日常的に使うが、公的機関やビジネス、教育では標準フランス語が使用される。 国民の約95%がキリスト教徒であり、宗教の主流は国教ともなっているカトリックで、国民の約80%が信仰している。カトリックの他にはペンテコステ派、バプティストなどのプロテスタントや、少数ながら正教も信仰されている。多くのハイチ人はカトリックの信仰と並行して、アフリカ系のベナンにルーツを持つ宗教であるブードゥー教の慣習も行っている。ブードゥー教にはブラジルのカンドンブレ、キューバのサンテリアなどとの近似が認められる。 6歳から11歳までの初等教育が無償の義務教育とされているが、2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率はアメリカ大陸で最も低い52.9%である。 主な高等教育機関としてはハイチ大学(1920年)が挙げられる。 独立後のハイチでは、フランスの文化に一体化しようとする都市のムラート層と、アフリカやインディオのクレオール的な文化を持った農村の黒人層の文化が相対立しており、エリートのムラート層は農村のアフリカ的文化に価値を見出さなかった。しかし、1920年代のアメリカ軍政期に、占領に対する抵抗のためにナショナリズムが称揚される動きの中で、特に詩人ジャン・プライス=マルスによってアフリカ的な民衆文化の再評価がなされ、やがてこの運動はアフリカ的文化を見直すノワリズム(黒人主義)に繋がり、1930年代から1940年代のマルチニークのエメ・セゼールとセネガルのレオポルド・セダール・サンゴールらによるネグリチュード運動の源流の一つともなった。 19世紀末から20世紀初頭にかけて一群の知識人達が国民小説と呼ばれる文学を創始した。「国民小説」は、フランス文化を身に付けたハイチ知識人によって担われたため、フランス文化的な背景を持たない農村部の住民の文化とは隔絶していたが、人種主義が猛威を奮っていた時代において、黒人知識人によって担われる文学はそれだけで人種主義への抵抗や、国威発揚を果たした。その後アメリカ軍占領期に『おじさんはこう語った』(1929)を著したジャン・プライス=マルス(フランス語版)によってアフリカ的なハイチ農村文化とヴードゥー教の価値の再評価がなされた。『おじさんはこう語った』はフランス文化を自らの文化としていたハイチの知識人に深刻な衝撃を与え、まもなく『朝露の統治者たち』(1940)のジャック・ルーマンや、『奏でる木々』(1957)のジャック=ステファン・アレクシスによって、アンディジェニスム(原住民主義)に基づいた「農民小説」と呼ばれる潮流が生まれた。 その後、デュヴァリエ政権がノワリスム(黒人主義)を黒人至上主義の人種主義に換骨奪胎してしまい、独裁政権のイデオロギー的背景としてしまったことはハイチの知識人に大きな挫折をもたらした。以降ハイチ文学は亡命者や国外居住者によって担われるものが主流となり、現代ハイチ文学の特に著名な作家としてはフランケチエンヌ、エミール・オリヴィエ、エドウィージ・ダンティカなどの名が特に挙げられる。 ハイチは国民所得や識字率が低いこともあり、音楽が重要な娯楽とメディアの役割を果たしている。主な音楽のジャンルとしては、メレング、ヴードゥー音楽、ララ、コンパ、ヒップ・ホップ、ミジック・ラシーンなどの名が挙げられる。 19世紀の半ばごろにフランス人のコントレダンスとアフリカのコンゴ地方の黒人の舞踊が発達し、メレングと呼ばれるダンス音楽となった。メレングではバンジョーやマリンブラなどの楽器が使用される。 ハイチ特有の音楽ジャンルの中でもっとも有名なものはドミニカ共和国のメレンゲの影響を受け、ハイチ風に解釈したコンパ(en:Compas music)であり、隣のキューバ音楽と同様に華やかな音楽とダンスのジャンルだが、これもまたアメリカ合衆国のジャズと関係を持っている。コンパは1957年にヌムール・ジャン=バティストとウェベール・シコによって始められ、1970年代から1980年代に最盛期を迎えた。コンパはしばしばアフリカの太鼓、モダンギター、シンセサウンド、サクソフォーン、ハイチ語で歌われる歌詞を使う。ハイチのコンパのバンドには合衆国とヨーロッパのハイチ人コミュニティを通して世界的に有名なものも存在し、ミニ・オールスターズ、タブー・コンボ、T-Vice、カリミ、マス・コンパなどがその例である。 1980年代後半からヴードゥー教やララといった伝統音楽を基盤に、ジャズやアフリカ音楽を取り入れて現代的なポピュラー音楽に再生したミジック・ラシーン(en:Rasin,ハイチ語で「根源の音楽」の意)運動が盛んになり、ブックマン・エクスペリアンス(en:Boukman Eksperyans)やブッカン・ギネなどがアメリカ合衆国市場でも一定の成功を収めた。 ハイチで生まれ、9歳でアメリカ合衆国のニューヨークに渡ったワイクリフ・ジョンが主体となって結成されたフージーズは同国市場で大成功を収め、2007年にジーンはハイチの移動大使に任命された。ワイクリフ・ジョンの他にも、アメリカ合衆国やカナダやフランスに移住して創作活動を続けるミュージシャンも多く、カナダ在住のエメリーヌ・ミッシェルやメリッサ・ラヴォーなどの名を挙げることができる。 ハイチ料理はアフリカ料理を基盤にフランスとタイノ人の影響を受けており、スペイン料理の影響も受けている。そのためキャッサバ、ヤムイモ、トウモロコシ、米、豆を多用する。また、カリブ海諸国の例に漏れずラム酒も広く飲まれている。 アンドレ・マルローがハイチ絵画を絶賛したように、20世紀においてハイチの絵画は、第一次世界大戦でヨーロッパが没落した後の、新たに創造的な美術であるとみなされてきた。絵画のジャンルにはハイチの日常生活を描くもの(生活描写派)、ヴードゥー教の儀式を描くもの(ヴードゥー派)、ハイチの歴史を描くもの(歴史画派)などが存在し、独特の色遣いと表現形式により、ハイチ絵画は世界的に高い評価を受けている。 1943年にハイチを訪れたアメリカ合衆国出身のデウィット・ピータースは、英語教育の傍らハイチ美術の支援に努め、ハイチにサントル・ダール(アート・センター)を設立した。ピータースとサントル・ダールの活動により、それまで注意を払われなかったハイチの美術に焦点が当たり、ペティオン・サヴァン、エクトール・イッポリト、フィロメ・オバン、リゴー・ブノワ、カステラ・バジルなど、ハイチの名だたる画家たちの個展が国外で開かれるようになり、ハイチ美術全体の活性化に大きく寄与することとなった。サントル・ダール周辺で活躍した人々はヘイシャン・アートの第一世代を築いた。 ハイチの世界遺産には、ユネスコの文化遺産に登録された、シタデル、サン=スーシ城、ラミエール国立歴史公園の1件が存在する。 トマ=アレクサンドル・デュマ(フランスのルイ16世時代の竜騎兵) トゥーサン・ルーヴェルチュール(独立指導者) ミカエル・ジャン(第27代カナダ総督) ワイクリフ・ジョン(ミュージシャン) ジェフテ・ギオム(ミュージシャン) ヨアキム・アルシン(プロボクサー、ハイチ史上初の世界チャンピオン) サミュエル・ダレンバート - プロバスケットボール選手(NBA・フィラデルフィア・76ers所属、カナダ代表) ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月26日閲覧。 ^ 加茂雄三:編『世界の歴史23 ラテンアメリカの独立』講談社 1978年9月 pp.134 - 137。 ^ http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM15001_V10C11A5FF8000/ ^ McLellan, James May (2010). Colonialism and Science: Saint Domingue and the Old Regime (reprint ed.). University of Chicago Press. p. 63. ISBN 978-0-226-51467-3. Retrieved 2010-11-22. [...] French Saint Domingue at its height in the 1780s had become the single richest and most productive colony in the world. ^ ジョアン・マノエル・リマ・ミラ「ラテンアメリカにおけるアフリカ系文化」子安昭子/高木綾子訳『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄/三田千代子編、新評論、1995/10 ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ha.html 2009年3月30日閲覧 ^ a b c d 立花英裕「ハイチ文学の歴史的背景」『月光浴—ハイチ短篇集』国書刊行会 2003 ^ 佐藤文則『慟哭のハイチ 現代史と庶民の生活』凱風社 2007年 p.314 エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』 新評論、東京、1986年9月。 C.L.R. ジェームズ/青木芳夫訳 『ブラック・ジャコバン──トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』 大村書店、東京、2002年6月増補新版。 中川文雄、三田千代子編 『ラテン・アメリカ人と社会』 新評論〈ラテンアメリカ・シリーズ4〉、東京、1995年10月。ISBN 4-7948-0272-2。 立花英裕 「ハイチ社会の多重構造と文学の前衛性」『人文論集』 早稲田大学法学会、2007年2月20日、45、105-119頁。 二村久則、野田隆、牛田千鶴、志柿光浩 『ラテンアメリカ現代史III』 山川出版社〈世界現代史35〉、東京、2006年4月。ISBN 4-634-42350-2。 浜忠雄 『ハイチ革命と近代世界series=』 岩波書店、東京、2003年10月。 浜忠雄 『ハイチの栄光と苦難』 刀水書房、東京、2007年12月。 浜忠雄「ブラック・ディアスポラとハイチ・アート」、『北海学園大学学園論集』第132巻、北海学園大学、2007年6月、 1-24頁、 NAID 110006996472。 平野千果子 『フランス植民地主義の歴史』 人文書院、京都、2002年2月。ISBN 4-409-51049-5。 ダイアン・ウォークスタイン/清水真砂子訳 『魔法のオレンジの木──ハイチの民話』 岩波書店、東京、1984年5月。 佐藤文則 『ハイチ──目覚めたカリブの黒人共和国』 凱風社、東京、1999年2月。 佐藤文則 『慟哭のハイチ──現代史と庶民の生活』 凱風社、東京、1999年2月。 エドウィッジ・ダンティカ/山本伸訳 『クリック?クラック!』 五月書房、東京、2001年1月。 エドウィージ・ダンティカ/くぼたのぞみ訳 『アフター・ザ・ダンス──ハイチ、カーニヴァルへの旅』 現代企画室、東京、2003年8月。 フランケチエンヌなど/立花英裕など訳 『月光浴──ハイチ短篇集』 国書刊行会、東京、2003年11月。 ハイチ関係記事の一覧 タイノ人 アラワク人 ハイチ料理 フージーズ: メンバーのワイクリフ・ジョンがハイチ生まれ。ローリン・ヒルとプラスもハイチ系アメリカ人。 軍隊を保有していない国家の一覧 政府 ハイチ共和国政府 日本政府 日本外務省 - ハイチ (日本語) 観光 ハイチ共和国政府観光局 (フランス語)(英語)", "チリ共和国 República de Chile 国の標語:Por la razón o la fuerza (スペイン語:理性によって、または力によって) 国歌:チリの国歌 ^ 立法府(国会)はバルパライソに置かれている。 チリ共和国(チリきょうわこく、スペイン語: República de Chile)、通称チリは、南アメリカ南部に位置する共和制国家である。東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接しており、西と南は太平洋に面している。首都はサンティアゴ。 1818年にスペインより独立した。アルゼンチンと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島及びポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している。 ラテンアメリカでは最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされる。 正式名称はRepública de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称 Chile(チレ)。公式の英語表記はRepublic of Chile。通称 Chile(チリ)。 日本語の表記はチリ共和国。通称チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった。漢字表記は智利。日本語での初出は、西川如見『増補華夷通商考』(1708年、宝永5年)に「チイカ」として紹介されるものとされる。その後の江戸時代の文献では、谷川士清『倭訓栞』、斎藤彦麻呂『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。 国名の由来は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレス(英語版)によると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀にインカ帝国に征服される前、同地を支配していた先住民ピクンチェ族(スペイン語版、英語版)の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。この他、先住民の言葉で「地の果て」、「カモメ」、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプチェ族の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来する、などである。 ヨーロッパ人がこの地を訪れる以前の先コロンブス期には、チリの中央部や南部には先住民のマプチェ族やその系統のピクンチェ族などが居住しており、また、ポリネシア系の住人が太平洋を東に渡って上陸していた可能性も指摘されている。 15世紀に入ると、クスコを拠点に拡大したケチュア人のインカ帝国の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキやワイナ・カパックらの征服により、北部は組み込まれたが、マウレ川付近で帝国はマプチェ族の激しい抵抗に遭遇した。トゥパク・インカ・ユパンキの率いる軍はマウレの戦い(英語版)でマプチェ族の軍に敗れ南部への拡大は停止、マプチェ族が支配し続けることになった。 一方本土から遥か西のパスクア島には、ポリネシア系のラパ・ヌイ人(スペイン語版、英語版)によってラパ・ヌイ文化が築かれ、モアイ像が多数建設された。 1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達すると、南米にもヨーロッパ人の到来が始まった。最初に現在のチリとなっている領域を訪れたのは、ポルトガル人の探検家、フェルナン・デ・マガリャンイスだった。彼は1520年、チリとアルゼンチンの最南部のマゼラン海峡に到達した。 1532年、インカ帝国の皇帝アタワルパが、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロらによって処刑され、事実上崩壊すると、1535年にディエゴ・デ・アルマグロがペルー方面からチリに遠征した。彼の遠征は失敗したが、続いて1539年にはペドロ・デ・バルディビアがピサロの命により侵攻した。彼はかつてインカ帝国が支配していた地域の征服にはさしたる抵抗もなく成功、1541年に中央部に辿りつき、サンティアゴ・デ・チレを建設して植民地化を進めたが、南部ではスペイン人の戦術を取り入れたマプチェ族の軍事指導者・ラウタロが激しく抵抗、スペイン勢は敗れ、バルディビアも1552年にラウタロに捕らえられ戦死した。 その後、スペイン人は南部植民地化を進めようと兵を送るが、ラウタロの死後もカウポリカン(英語版)やコロコロ(英語版)といったマプチェ族の戦士達の激しい抵抗によりアラウコ戦争が継続され、以降チリ植民地は300年間に亘ってビオビオ川を境界線にしてスペイン人とマプチェ族の断続的な戦争状態が続くこととなった。1541年に創設されたチリ総督領(スペイン語版)はペルー副王領に組み込まれ、1565年にコンセプシオンにアウディエンシアが設立された。 このように植民地時代のチリでは先住民との戦いや、海賊の襲撃による断続的な戦いが続いた。山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形のチリでの主産業は、ペルー向けの小麦の生産などとなった。これは入植者に地道で手間のかかる農業を厭わない堅実な気質を育み、徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになった。 1776年、ボルボン改革によってペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、現在アルゼンチン領となっている部分も含めてのパタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土は現在の「刀の鞘」のように細長くなった。 16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、ナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱と、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世に据えたことに対する、スペインでの民衆蜂起が発端となったスペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。ラパスやキト、サンタフェ・デ・ボゴタといった各地でクリオーリョの間に独立運動の気運が高まる中、チリでも1810年にブエノスアイレスで勃発した五月革命 の影響により、クリオーヨ達は「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、同年9月18日に開かれ、政治委員会の設立が決議された(パトリア・ビエハ(英語版))。1811年2月21日の法令で、チリの港を国際貿易に解放することが定められ、スペイン領アメリカの主要都市に置かれていた当時組織アウディアンシアの廃止を決定された。フアン・マルティネス・デ・ロサス(英語版)がサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。さらに独立を志向する自由主義者達は、共和国建設を計画はじめていた。 ホセ・ミゲル・カレーラ(英語版)の指導する自治政府は、ペルー副王アバスカル(英語版)が派遣した王党軍とのランカウアの戦い(英語版)(1814年)で敗北したことによって崩壊し、再びスペインの支配を受けた(レコンキスタ)。独立指導者 ベルナルド・オイギンスはラ・プラタ連合州(英語版)(現アルゼンチン)に亡命し、解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍(英語版)と共にアンデス山脈越え(英語版)を行い、1817年のチャカブコの戦い(英語版)に勝利し、再びチリに入った。サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となった。同年中にチリ=ラ・プラタ連合軍がマイプーの戦い(英語版)でスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、シモン・ボリーバルと共にペルーを解放することになる。 1818年から1823年までオイギンスは自由主義的改革を進める。まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられたが(チリ内戦(英語版))、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦い(スペイン語版)で保守派が勝利して国政の実権を握った。保守派の指導者だったディエゴ・ポルターレス(英語版)は1833年憲法を制定した。この憲法では大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、強力な保守支配を実現し、パラグアイと同様にチリは安定した体制を築いた。以降強力な保守支配による政治的安定を実現した「ポルターレス体制」時代にチリは国力を蓄えることになったが、既にこの時期には他のラテンアメリカ諸国と同様にイギリスによる経済進出が進み、チリ経済もイギリスへの従属が始まった。 1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合の建国を宣言すると、北方の大国の出現に脅威を感じたチリ政府は、亡命ペルー人や、アルゼンチンの指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスと共にこの連合を攻撃し、1839年には連合を崩壊に追い込んだ(連合戦争(スペイン語版、英語版)、ペルー・ボリビア戦争とも)。 1851年に保守党からマヌエル・モント(英語版)が大統領に就任すると、電信、鉄道などが整備され、折からの銅の生産増や、政治的安定も相まってチリは急速に成長する。また、この時期にヨーロッパ、特にドイツからのまとまった数の移民が導入された。1849年に自由党が結成されたことをきっかけに1860年代に入ると1861年から1891年まで自由主義者が政権を握り、外交面では1865年からのスペインによる南米再侵略を打ち破り、また、独立以来混乱を続けていたボリビアのマリアーノ・メルガレホ大統領から、ボリビア沿岸部の硝石鉱山の権利を購入した。 そして、1860年のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによるアラウカニア・パタゴニア王国の建国をきっかけに、1862年からアラウカニア制圧作戦が進み、19世紀の間に南部のマプーチェ人の居住地とパタゴニアが国家に組み入れられた。 経済史として、チリは1857年恐慌で金融危機を初体験し、大統領による統制経済への疑問から1860年銀行法にフリーバンキング制度を採用した。民間資本による自由発券銀行の設立を認めたが、身内金融は特に規制されていなかった。1873年恐慌からの銅・銀・小麦の市場価格低迷は純輸出に慢性的なダメージを与えた。正貨は容赦なく流出して準備率は落ち込んでいった。 1878年の大不況はチリという国の形を一変させた。まず金本位制を離脱した。関税は産業保護へ傾きだした。 ボリビアによる、アントファガスタのチリ硝石企業への課税をきっかけに、1879年4月5日、チリはペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発した。硝石証券の価格が暴落して、イギリスがそれを買い漁った。イギリスの支援を受けたチリは完全な勝利を収めて、1884年の講和条約によりボリビアからはアントファガスタを中心とするリトラル県(スペイン語版、英語版)を、ペルーからはタラパカ、アタカマ(スペイン語版、英語版)を獲得した。戦中1882年に南部のマプーチェ人が最後の大規模な組織的反乱を起こしているが、鎮圧後はチリ社会の底辺層に組み込まれていった。南部にはドイツをはじめとするヨーロッパから移民が入植した。 太平洋戦争以降ペルー・ボリビア両国との関係は険悪となり、現在も紛争が続いている。アタカマ国境紛争(スペイン語版、英語版)やプナ・デ・アタカマ紛争(スペイン語版、英語版)である。 終戦後まもない1884年8月1日に硝石史上初のカルテルが結成された。しかしギブス商会が無理に割当を拡大したり、ジョン・トーマス・ノースが別腹で処女地を開発しようとしたりしたのでカルテルは分解した。 1886年に大統領に就任したホセ・マヌエル・バルマセーダ(英語版)は、ペルー・ボリビアから獲得した鉱山資源を背景にイギリスの経済支配からの脱却を目指して国民主義政策と富国強兵政策を行った。1887年から1899年にかけて硝石ブームが起きて、イギリスから南米向けの資本輸出がピークを迎えた。硝石産業は基幹化してゆくが、脆弱な経営基盤はノースなどの外国資本が参入する隙を与えた。戦時に買い漁った硝石証券で事業進出を果したのである。ノースはベルギーのレオポルド2世とパートナーであった。勢いのあったイギリス資本はしかし、ハーバー・ボッシュ法が知られるにともない撤退していった。1891年に専制的大統領統治に対して議会や海軍が反乱してチリ内戦(英語版)に発展した。ここでホセ大統領は議会軍に敗れて失脚し、自殺した。内戦以降チリでは議会主導の政治が確立された。ポルタレス体制とは対照的な「強い議会、弱い大統領」の時代が1920年代まで続いた。そしてチリの硝石産業は先のハーバー・ボッシュ法により褐炭と競合して輸出量を激減させた。 議会共和制期は不安定ながらも硝石、銅の輸出増を背景に鉱山寡頭支配層が政権を握り続けたが、第一次世界大戦後に硝石価格が下落すると保守支配に抵抗した「国民連合」のアルトゥーロ・アレサンドリ(英語版)が1920年の大統領選挙で勝利した。第一次アレサンドリ政権は議会の過半数を占める保守派の抵抗により、改革に失敗した末に1924年の軍保守派によるクーデターで失脚したが、1925年の軍改革派によるクーデターにより返り咲き、再び政権に就いた。第二次アレサンドリ政権は1925年憲法を制定して大統領権力を強化し、ここに議会共和政期は終焉した。なお、同年にチリ中央銀行が創立された。 1927年に急進党から就任したイバーニェス政権は道路、鉄道、港湾、水利などの公共事業と鉱業を拡大したが、1929年の世界恐慌で大打撃を受けると政府財政は破綻し、1931年に崩壊した。混乱の中、1932年の極短期間に「社会主義共和国」が成立するが、同年中に自由党から保守派の第三次アレサンドリ政権が誕生することで混乱に終止符を打った。 1929年6月、イギリス・ドイツ・ノルウェーとカルテル結成。合成窒素の価格統一、生産・輸出割当を規定して世界生産量のほぼ八割を支配した。1930年8月に更新され、イギリス・ドイツ・ノルウェー・ベルギー・フランスがDEN グループとしてカルテルの中心となった。チリの他、チェコスロバキア、オランダ、イタリア、ポーランドはDEN グループと別個に協定した。カルテルはDEN グループのブロック経済に使われた。非加盟国市場について輸出割当が行われたが、アメリカ合衆国に対する輸出は無制限であった。各国の生産能力は増大するばかりであったので、生産量を能力の七割以下に抑えた加盟者に補償金を出していた。補償金は主にチリが負担したから、見返りにチリは生産量を制限されなかった。1932年にも更新。チリがベルギーなどと割当量と価格について協定。 1936年、日本も合成窒素カルテルに参加した。 1938年の選挙によりアレサンドリは敗れ、人民戦線からペドロ・アギーレ・セルダ(英語版)が大統領に就任した。1939年に生産振興公社が設立されたが、1941年にアギーレは辞任した。 第二次世界大戦では中立だったが、1945年4月11日、日本に宣戦布告した。 1946年に急進党からガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権が成立すると、アメリカ合衆国の圧力の下にソ連との断交が行われ、チリ共産党が連立から離脱すると、人民戦線は終焉した。1948年に「民主主義防衛法」が成立すると、以降1958年まで共産党は非合法化された。 1952年にポプリスモ政策を掲げた第二次イバーニェス政権が成立すると、選挙法の改正などにより秘密選挙が保障されるようになり、1958年には「民主主義防衛法」も廃止された。1958年にアルトゥーロ・アレサンドリの息子、ホルヘ・アレサンドリ(英語版)が大統領に就任したが、アレサンドリはブルジョワ層に傾いた政策を採り、「進歩のための同盟」の要請により行われた農地改革もほとんど実効性の無いものに止まった。 1964年にキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ・モンタルバが人民行動戦線のサルバドール・アジェンデを破って大統領に就任した。「自由の中の革命」を唱えたフレイは「銅山のチリ化」や、部分的な農地改革を行った。「銅山のチリ化」、農地改革は共に不徹底なものに終わったが、政治における民衆動員は、1970年の大統領選挙における階級対立の図式を整えることとなった。 1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると(en)、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。 こうした社会的混乱の中で1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。 このピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、軍内の死の部隊や秘密警察「DINA(英語版)」によるコンドル作戦(汚い戦争の一種)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧された。後の政府公式発表によれば約3,000人、人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の1/4のGNPが「全く」なくなるという異常事態を招きながらも、軍事政権はミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入した。このことをフリードマン本人は「チリの奇跡」と呼び賞賛したが、実際には、60年代には4.5%を記録していたGDPの平均成長率は、経済政策導入後、1974年から82までの間のGDPの平均成長率は1.5%まで落ち込んだ。この数値は、同時代のラテンアメリカの平均成長率4.3%よりも低い。また、1970年から80年におけるチリの人口あたりGDP成長率は8%だが、これもラテンアメリカ全体の人口あたりのGDP成長率40%よりも低かった。また、1973年には4.3%であった失業率が10年間で22%に上昇。貧富の差は急激に拡大し、貧困率はアジェンデ時代の倍の40%に達した。そのため、政権末期はシカゴ学派を政権から追い、ケインズ政策を導入し軌道修正を図った。その結果、貧困層の収入は3割増加し、また、貧困層の割合はアジェンデ時代の45%から30%にまで低下した。 しかし、アルゼンチンとボリビア(1982年)や、ウルグアイ(1985年)、ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、1988年のピノチェト信認選挙(en)で敗北すると、1989年12月に行われた総選挙(en)で、反ピノチェト派の政党連合コンセルタシオン・デモクラシアを構成する中道のキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが、ピノチェト派の候補に僅差で勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に移管することになった。 民政移管後、新政権は、ピノチェト将軍ら軍政期に人権侵害に携わった軍人の処遇などの複雑な問題を抱えながらスタートし、ピノチェトは陸軍最高司令官として留任することになった。 1990年に就任したエイルウィンの政策は、基本的には軍政期からの新自由主義を継承するものであったが、市場原理主義の修正を図り、軍政期に拡大した所得格差や貧困問題解決への取り組みも進んだ。 1994年には、コンセルタシオン・デモクラシアを構成するキリスト教民主党から、エドゥアルド・フレイ・ルイスタグレが大統領に就任した(en)。このフレイ時代の1998年2月に、ピノチェト陸軍総司令官が退役したが、ピノチェトには終身上院議員の議席が確保された。しかし、同年10月、イギリスに滞在していたピノチェトは、軍政期に在チリスペイン人へ人権侵害を行ったことを理由としたスペインの要請により逮捕され、外交問題となった。 2000年には、コンセルタシオン・デモクラシアを構成するチリ社会党から、リカルド・ラゴスが大統領に就任し(チリ社会党からの大統領は、アジェンデ以来のこと)、チリ経済の成長が進んだ。1990年から2000年までのGDP成長率は平均約6.6%であり、軍政期(1973年から1990年)の平均の3.70%を上回った。 2006年には、コンセルタシオン・デモクラシアを構成するチリ社会党から、同国初の女性大統領、ミシェル・バチェレが就任した。バチェレ政権は、貧困対策で成果を上げ、中南米諸国の中では高い経済成長を維持した。 このように、チリでは、民政移管後に、キリスト教民主党、社会党など4党を中核とするコンセルタシオン・デモクラシアが、4期連続・20年にわたって政権を担ってきた。国民がコンセルタシオン・デモクラシアに期待した最大の要因は、軍政の傷痕を克服することであった。歴代のコンセルタシオン・デモクラシアの政権は、新自由主義の歪みを修正する試みに挑戦してきた。またバチェレ政権は、非民主的な選挙制度・教育制度の改革・非正規雇用の削減・貧困層向けの社会政策にも挑戦してきた。しかし、国会での与野党の勢力が拮抗していることもあって、抜本的な改革には至らなかった。一方、貧困層支援を強化したことに対する中産階級層から不満や批判が出るようになった。 こうしたなか、2009年12月13日、大統領選挙が実施された。1位は右派野党連合チリのための同盟のセバスティアン・ピニェーラ元上院議員で得票率44%、2位は与党連合コンセルタシオン・デモクラシアのエドゥアルド・フレイで得票率29.6%、3位は与党を離脱した無所属のエンリケス候補で得票率20.1%、4位は共産党などで結成した左翼連合のアラテ候補で得票率6.2%であり、過半数の得票を得た者がいなかったため、1位と2位との決選投票が、2010年1月17日に行われた。この結果、チリのための同盟のセバスティアン・ピニェラが51.6%を獲得し初当選した。与党連合のコンセルタシオン・デモクラシアのエドゥアルド・フレイ元大統領は48.4%であった。 実業家出身のビニェラは、経済成長を目的に民間部門の活用をより重視する企業寄り、市場寄りの政策をとった。ただし、彼は軍政を敷いたピノチェトの信任を問う国民投票では、退陣運動に参加した経験の持ち主でもあって、コンセルタシオン・デモクラシアが進めた政策を全面否定はしておらず、貧困層向けの社会計画の継続を公約するなど、国民本位の政策を実施しようとした。 2013年12月15日の大統領選挙では、コンセルタシオン・デモクラシアから改まった新多数派を構成するチリ社会党の前大統領のミシェル・バチェレ氏が勝利し、2014年より第二次バチェレ政権が誕生した。 政治制度は大統領を元首とする共和制国家であり、三権分立を旨とする議会制民主主義を採用している。行政は大統領を長とする。大統領は4年任期で選挙により選ばれ、2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。2006年1月15日に社会党のミシェル・バチェレが大統領に就任した。これはチリ史上初の女性大統領である。 2008年現在のチリ憲法は、アウグスト・ピノチェトを最高権力者とする軍政下に制定された1980年憲法である。特徴としては、大統領の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、1988年のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北した後、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は継続され、2005年に再改正された。 立法は、両院制であり、議会はバルパライソに所在する。上院は38議席であり、一般投票により選出され、任期は8年。2005年までその他に国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する制度があったが、憲法改正によりこの11議席は廃止された。下院は120議席であり、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。 司法の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は、憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。 チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30ヶ国以内に過去10年間連続してランク付けされており、2017年度のトランスペアレンシー・インターナショナル (TI) による世界腐敗認識指数では26位 とウルグアイに次いでラテンアメリカで2番目であった。ラテンアメリカ諸国の中では、腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている。 独立直後からチリは隣国のペルー、ボリビアに干渉を行ってきた。1836年から1839年までの連合戦争ではペルー・ボリビア連合に終始敵対し、これを崩壊させるのに大きな役割を果たした。その後、1879年にアタカマの硝石資源を巡ってペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、この太平洋戦争によって両国から領土を得た。その影響でボリビアは現在でも国交がない。 19世紀を通してチリは経済的にはイギリスと、文化的にはフランスと関係が深かった。この時期に海軍はイギリスの、法や教育はフランスの、 陸軍はプロイセンの影響を強く受けた。 1973年のクーデターにより、チリは軍事政権による人権侵害などのために国際的孤立に陥ったが、民政移管した1990年以来、チリは国際的孤立から復活した。2007年からチリは他の4カ国と共にOECDの公式加盟国になることを打診している。 軍政期の1983年に長年緊張関係が続いており、何度も戦争直前にまで陥った隣国アルゼンチンがラウル・アルフォンシン政権の下でチリとの歴史的な和解を進めてピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ領有を認めると、パタゴニアを巡ってのチリの領土問題は解決した。また、太平洋戦争以来続いたペルーとの緊張も収まりつつある。しかし、太平洋戦争で併合したアントファガスタを返還するように求めるボリビアとの緊張は未だに続いている。 なお、チリはイギリス、アルゼンチンと同様に南極大陸の領有権(チリ領南極)を主張している。 2009年3月27、28日の両日、中部の都市ビニャデルマルで欧米(スペイン、イギリス、ノルウェーの首相、アメリカの副大統領)と南米(ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの大統領)の8カ国による首脳会議が開かれた。首脳らは同会議を「進歩派首脳会議」と呼んでいる。 会議は、4月20日にロンドンで開かれる第2回20か国・地域首脳会合(G20金融サミット)に向けた意見調整を目的に行われた。各首脳は新たな世界秩序の形成に向けた展望を論議した。同会議は、最終宣言を発表した。 チリの大統領は軍隊の指揮権を有し、軍は国防相と大統領の統制を受けている。また、チリでは徴兵制が実施され、国民は2年間の兵役の義務を有している。陸海空三軍の他に憲兵(カラビネーロス)が存在し、 規模は40,000人ほどである。また、チリはブラジルに続いて南アメリカで二番目に大きな軍事予算を組んでいる。 伝統的にチリの軍隊は、「軍は憲法の番人である」として、他のラテンアメリカ諸国よりは政治に介入する頻度は比較的大きくなかったが、この原則は1973年のピノチェト将軍らによるチリ・クーデターにより崩された。その後軍政期に軍はコンドル作戦や、「汚い戦争」などを遂行し、自国民や、近隣諸国の反体制派市民の拷問、殺害に携わったが、1990年の民政移管後は、それなりの規模と発言力を保ちながら国民との和解が進められた。 チリ陸軍は兵員45,000人を有し、サンティアゴに司令部がある。6つの軍管区に分けられ、ランカグアに飛行旅団が、コリナに特殊部隊の司令部がある。チリ陸軍はラテンアメリカでも最も整備され、専門的かつ技術革新の進んだ軍隊の一つである。 チリ海軍は海兵隊2,300人を含む兵員23,000人を有している。29隻の艦艇を有するが、戦闘艦艇は内8隻のフリゲート艦のみである。水上艦隊の母港はバルパライソにある。海軍は輸送と警戒に当たる航空機を保有しているが、戦闘機や爆撃機は有していない。4隻の潜水艦を運用し、潜水艦の基地はタルカワノにある。 チリ空軍は兵員12,500人を有し、それぞれイキケ、アントファガスタ、サンティアゴ、プエルト・モント、プンタ・アレーナスに5つの飛行旅団を置いている。空軍は南極のキング・ジョージ島の基地でも活動している。2006年にF-16が14機、2007年にも14機導入された。なお空軍は、軍政期は警察とともに反軍政派だった。 1973年9月の軍事クーデター後、チリ国家警察(カラビネーロス・デ・チレ)は国防省と一体化した。民政移管後に、警察の実質的な指揮権は内務省の下に置かれたが、国防省の名目的指揮下に置かれたままとなった。40,964人 の男女が法の執行、交通整理、麻薬鎮圧、国境の管理、対テロ作戦などの任務にチリ国内で従事する。 チリは、州監督官 (Intendente) を長とする15の州 (Region) に分けられる。州はさらに幾つかの県 (Provincia) に分割され、それぞれに県知事 (Gobernador provincial) が置かれる。県はさらに市町村 (Comunas) に分けられ、市(町、村)長がいる。 監督官と知事は大統領により任命され、市(町、村)長は一般投票により選ばれる。 各州は名前とローマ数字により識別される。ローマ数字は北から南の順に割り当てられている。一般的には州名よりローマ数字の方が用いられている。唯一の例外は首都サンティアゴが位置している州で、首都州 (Región Metropolitana) を意味するRMの二文字で表されている。2006年にロス・リオス州 (XIV) とアリカ・イ・パリナコータ州 (XV) が新設された。 主要な都市はサンティアゴ(首都)、バルパライソがある。 西部の太平洋との海岸線、東部のアンデス山脈、北部のアタカマ砂漠によって囲まれた国土は南北に細長く、北から南までの総延長は約4,630kmに及ぶ。海岸線に沿ったペルー・チリ海溝では過去にしばしば超巨大地震(チリ地震)が発生して、太平洋対岸にあたる日本の三陸海岸等の環太平洋全域に津波で大きな被害が起きてきた歴史がある(→チリ地震 (1960年))。また、ペルー・チリ海溝に沿う形でプジェウエ=コルドン・カウジェ火山群などの活発な活火山を多数擁している。 北部の砂漠地帯(Norte Grande)では年間を通してほとんど雨が降らない。銅など鉱物資源に富む。ラ・セレナの南から地中海性気候の渓谷地域(Norte Chico)となり、チリの主要輸出品目の一つであるブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきたワインの生産に適している。19世紀後半から発展した歴史を有するこの国の主要地域であり、人口と農産物が集中する。Zona Central。バルディビアからプエルト・モントまでの南部地域(Zona Sur)は森林地帯の続く牧畜に適した湖水地方であり、火山地域である。年間を通して雨が多い。南緯40度以南(Zona Austral)にはパタゴニアと呼ばれ、沿海部は典型的なフィヨルド地形が形成されている。マゼラン海峡を越えて南にはフエゴ島が存在し、島の西半分がチリ領となっている。南極大陸の125万平方kmの領有権を主張するが南極条約で棚上げとなっている。チリはポリネシアにも領土を有し、サラ・イ・ゴメス島、ロビンソン・クルーソー島とチリ本土から西に3,700kmほど離れてラパ・ヌイ (イースター島) が存在する。 最高地点はアンデス山脈のオホス・デル・サラード山の海抜6893m。 チリの対蹠地は北・中部が中華人民共和国、南部はモンゴル国、最南部はロシアのシベリアである。 気候は幅広く、太平洋上に浮かぶラパ・ヌイ島(パスクア島、イースター島)の亜熱帯から、国土の北3分の1を占め、世界で最も乾燥した砂漠とされるアタカマ砂漠、中央部の肥沃な渓谷地域、そして元々は森林に覆われていた湿度は高いが寒い南部、ツンドラ気候が広がる最南部のパタゴニア地方に大きく分けられる。 チリは南北に大変長細い国であるため、北の方から順に砂漠気候、ステップ気候、地中海性気候、西岸海洋性気候、ツンドラ気候と気候が違っている。寒流であるペルー海流の影響により、北部でも余り気温は上がらない。また寒流は西岸砂漠の成因であり、アタカマ砂漠は世界で降水量が最も少ない地域となっている。 チリ本土ではUTC-4(マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州はUTC-3)だが、パスクア島ではUTC-6となっている。また、マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州を除いて夏時間を実施している。 チリは中南米の国の中では比較的治安が良い国とされてきたが、近年は悪化傾向にあり、貧富の格差の拡大も相まって地方にも犯罪が波及しつつある。そのため防犯意識を持って行動する必要があるとされる。 2013年のチリのGDPは2,770億ドルである。世界38位であり、日本の神奈川県よりやや小さい経済規模である。同年の一人当たりのGDPは15,776ドルであり、ラテンアメリカ諸国の中では上位に位置する。 アジア太平洋経済協力 (APEC) に加盟しており、メルコスール準加盟国であるゆえに南米共同体にも加盟している。また、ブラジルやアルゼンチンなどともにラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内ではベネズエラ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコとともに中進国とされ、2007年からOECD加盟に向けて交渉を進め、2010年5月7日に加盟を果たした。 経済はほとんど輸出により成り立っている。輸出品目の第2位は農業関連製品で、第1位は以前より世界一の生産量を誇る銅である。1970年代初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質なワイン、サーモン、木材パルプの輸出が始められた。 チリ北部の主要産業は鉱業であるが、南部には大規模な農業、酪農がある。バルパライソといった主要港のある中央部にはサービス業と工業が集中している。チリのサービス業部門は大きく、世界で最も自由化され先端を行く通信インフラが整っている。1990年代のにわか景気では、毎年7〜12%の経済成長を記録したが、1997年のアジア通貨危機以降は、年3%にまで落ち着いた。近年、EU・アメリカ、カナダ、メキシコ、韓国などと自由貿易協定を結び、さらにニュージーランドとシンガポールとも同様な協定を結ぶ交渉が進められている。 農業については、果樹類の生産が特筆される。16世紀からポトシ市場向けにワインの原材料としてぶどうが広く生産されている。1970年代には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、1990年代以降は再び生産量を増やしている。 漁業については、東太平洋がアンチョビなどの好漁場であり、古くから活発に漁業が営まれてきた。気候や地形の類似点から、北半球のサケ類の移植が進められたが、自然放流により再生産を図る計画は失敗。しかし、代わりに始まったサケ類の養殖事業は大成功を収め、2005年には世界のサケ類の養殖生産高の1/3、約60万トンを誇る規模(世界第2位)となっている。 林業については、国土の2割が森林となっており木材生産が盛んに行われてきたが、1980年代以降、アメリカ合衆国や日本の業者が進出し、パルプ用の木材チップの生産を飛躍的に高めた。南部のパタゴニア地方を中心とした原生林での生産が有望視されているが、無秩序に近い環境破壊を訴える自然保護団体も存在し、先住民マプーチェ人をはじめとする現地の住民も無軌道な乱伐に反対している。 鉱業については、地下資源、特に金属鉱物資源に恵まれている。2003年時点で、銅の採掘量は世界一であり、490万トンに達する。これは世界シェアの36.0%に相当する。銀は1250トンであり、世界第6位、シェア6.7%である。金の世界シェアも1.5%である。このほか、亜鉛、鉄、鉛を産出する。 金属以外の無機鉱物資源では、ヨウ素、硫黄、塩、カリ塩、リン鉱石が有望であり、リン鉱石以外は世界シェア1%を上回る。有機鉱物資源も見られるが、規模は小さい。例えば、石炭の産出量は43万トンに留まる。19世紀に火薬の原料として世界最大の産出量があったアタカマ砂漠のチリ硝石は20世紀に入ると化学製品に押され役目が終わった。 近年観光業も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部のアタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけてのアンデス山脈のスキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、パタゴニアや、モアイ等の独自の観光資源を持つラパ・ヌイ島(イースター島)も観光地としての人気がある。その他にはビーニャ・デル・マルなどのビーチ・リゾートも存在するが、寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響のため、チリの海は海水浴には適していない。 観光は、2005年にこの部門は国のGDPの 1.33%に相当し、15億ドル以上を生成して13.6%増加した1990年代半ば以降、チリの主要な経済資源の一つとなっている。海外での観光振興では、チリは2012年に合計600万ドルの資金を投資した。 観光客が本土へのすべての訪問の1.8%に達したときのWTOによると、チリのラテン語圏の外国人観光客のための政策は2010年に始まったという 。その年、国は1636万ドルの売上高を挙げ、観光客は276万人に達した。これらの訪問者のほとんどは、アルゼンチンや大陸の国から来た人々であった。しかし近年の最大の成長は、主にドイツなどのヨーロッパからの訪問者に対応したことである。2011年第1四半期中に、その年の終わりまでに合計306万人となった前年同期比9.2%の増加を表す104万人以上の観光客が来訪した。一方では、合計372万人のチリ人が、2011年に他の国を訪問した。 チリのアントファガスタ州タフレタルでアメリカ大陸最古の酸化鉄採掘が始まった。北部鉱山チャニャルシヨでは銀・硝石と連続する石炭採掘がチリ経済を主要な役割へと導いた。 鉱業は、国内15地域のうち13地域で存在し、25種類の製品を産する。とくにタラパカ、アントファガスタ、アタカマ地域の主要な経済活動であり、コキンボ、バルパライソ、オヒギンス地域でも非常に重要である。マガヤネス地域では石油生産が重要である。 主な製品は銅である。世界の36%を供給する世界最大の生産国である、世界の銅埋蔵量の28%を占めている。チリの輸出の30%を占める銅鉱山アカウントは1970年には60%以上をカバーしていた。世界最大の銅会社、国営コデルコは、チュキカマタ、エルテニエンテで世界最大の露天掘りおよび地下の主要鉱床で操業している。 鉄、モリブデン、硝石、銀 - 金のような他の資源開発も重要である。2012年に、鉱物の世界生産の37%がこの国に集中しており、さらにリチウムの世界埋蔵量の21.9%が存在する。 ラピスラズリは、チリ北部コムバルバラ地域に原石が豊富に存在すると1984年に宣言された貴重な装飾用の石である。 農業従事者は、2005年にはチリの労働者の13.2%を占めている。 チリの主な農産物は、穀物であるオート麦、トウモロコシ、小麦、果物 - 桃、リンゴ、ナシやブドウと野菜ニンニク、タマネギ、アスパラガスと豆などである。果物や野菜の輸出は、アジアと欧州市場である。 近年では、チリはノルウェーとともにサケの世界有数の輸出国となっている。 チリでは、再生可能資源があまり多くないため、化石エネルギーに依存している。国際情勢と化石燃料価格に大きく左右される。2010年には、消費量の30%に相当する日量10640バレルの石油を南部で生産し、残りは輸入された。 また、国内で消費される天然ガスの約53%が輸入されている。推計によると、2009年の消費量、28.4億立方メートルの47.53パーセントに相当する13.5億立方メートルが輸入された。 2000年代のを通して、アルゼンチンはパイプラインを介して主要な輸入元であったが、2009年にキンテロ港に液化天然ガスターミナルが開設され、輸入元を世界中に多様化している。 チリでは、ノルテグランデ、電力中央相互接続システム、電力システム、アイセン電力システム、マガジャネスの相互接続システムの4つの電力システムがある。2008年には電力生産は、主に火力発電によって、次に水力発電によって生成され、60280ギガワット時であった推定される。また、818ギガワット時は、アルゼンチン北部から電気を輸入する計画があったが、実際に輸入されたのは2009年であった。水力発電の発電量が少ないのは、ダムの建設による環境や生態系の破壊を防止するために、政府は水力埋蔵量の20%未満に抑えている。 チリの最初の水力発電は、トーマス・エジソンによって設計され、1896年にロタに建てられた南米で二番目の水力発電所であるチビリンゴ水力発電所である。 現時点では原子力発電所はないものの、2006年には原子力エネルギーの安全な使用の技術的実現可能性についての議論が始まった。再生可能な資源の候補としては、風力発電、地熱、潮力、太陽光、太陽熱などがある。 チリは、本島と南極基地を含め、国土の多くをカバーする通信システムを持っている。1968年にはエンテルチリ社が所有する、ラテンアメリカで最初の南極衛星通信地球局が稼働した 。 2012年には327.6万の固定電話回線と2413万携帯電話加入者がいる。チリは2009年、携帯電話100%普及率を達成した第三のラテンアメリカの国となった。また、ネットブック、スマートフォン、タブレット-含む人当たりのモバイルブロードバンドサービスの消費量は、OECD平均に等しかった。この現象は、他の要因の中で自由な競争、MVNOの市場参入や番号ポータビリティを保護するための政策が愛用した。 2010年の人間開発指数によれば、チリは100人あたり32.5のインターネットユーザーがいる。 1987年に国別トップレベルドメイン「.cl」が登録され、1993年に最初のラテンアメリカのWebサーバがチリに設置された。 世界は2011年にソーシャルネットワークに多くの時間を捧げた。2013年には総人口の66.5パーセントのインターネット普及率であり。ブロードバンド普及率は、ラテンアメリカ中で最高であった。 2014年に国内でのインターネットとの統合は、ラテンアメリカで最も大きかった。 フラッグ・キャリアで、ワンワールドの主要構成会社の1つでもあるラン航空が、イースター島を含むチリ国内のみならず、ヨーロッパやオセアニア、北アメリカなど世界各国への路線網を築いている。 チリそしてサンティアゴの表玄関となる空港はアルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港(Arturo Merino Benítez International Airport)で、ラン航空のハブ空港であり、近隣諸国やヨーロッパ、北アメリカなどの航空会社も乗り入れている。 チリ国鉄が、サンティアゴ・デ・チレを中心にチリ中部のコンセプシオン(Concepción)などへ走っている他、ペルーやアルゼンチンなど近隣諸国との間の国際列車もある。中南米各国では1990年代の民営化によりほとんどの路線は旅客サービスを終えたが、チリでは電化や新車両投入など近代化への投資などを行っており、中南米の中では鉄道が整備されている国である。 サンティアゴ大都市圏にはメトロトレン(Metrotrén)と言われる近郊電車がサンフェルナンド(英語版)へ向けて走っている他、サンティアゴにはフランスの協力で建設された5路線の地下鉄(メトロ=Metro)があり、さらに数年以内には2路線の開通が予定されている。渋滞の影響を受けない交通機関として信頼されている。 また、バルパライソとビニャ・デル・マールには地下鉄が走っているほか、コンセプシオンにはビオトレンという近郊電車が運行されている。 サンティアゴ近郊には高速道路網がある他、パンアメリカンハイウェイが国内を通っており、アルゼンチンの首都のブエノスアイレスや、ペルーの首都のリマとの間を結んでいる。 独立直後の1830年にようやく100万人を越えたチリの人口は、1960年のセンサスでは7,374,115人、1970年のセンサスでは8,884,768人、1983年年央推計では約1,168万人となった。 チリの人口は約1,750万人程であり、1990年代から出生率の低下と共に人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。国民の85%が都市部に居住し、内40%が大サンティアゴ都市圏に居住している。 チリの国民は約95%がヨーロッパ系の白人もしくはメスティーソであり、人口の52,7% が純粋な白人であり、44,1%が白人系メスティーソとなっている。 その他インディヘナとしては、パスクア島(イースター島)にはポリネシア系の、北部のアンデス山岳地帯にはケチュア人やアイマラ人など、南部ビオビオ川以南の森林地帯にはマプーチェ人が、その他にはピクンチェ人、ウイリンチェ人、アタカメーニョ人、ディアグイタ人、ペウエンチェ人などが、クリストファー・コロンブスの到来以前より居住しており、こうしたインディヘナを合わせると全人口の5%ほどになる。また、極めて少数であるが、植民地時代に連れて来られた黒人奴隷の子孫として アフリカ系チリ人が存在するが、チリの黒人は人口の1%に満たない。 ヨーロッパからの移住は19世紀に加速した。特に南部のマプーチェ人の土地がアラウカニア制圧作戦により国家に併合されると、隣国のアルゼンチンやブラジル程の規模ではないが、スペインやバスク地方(バスク系チリ人)、クロアチア、イタリア、ドイツ、フランス、パレスチナ(パレスチナ系チリ人)などから移民が導入され、東ヨーロッパとアイルランド(アイルランド系チリ人)からも少数が移住した。日本からの集団移民は行われておらず、移住したペルーやボリビアなどから再移住した日系チリ人が極少数存在するのみである。 チリの公用語はスペイン語(チリ・スペイン語とチロエ・スペイン語)であり、日常生活でも広く使われている。その他にはインディヘナによってマプーチェ語や、ケチュア語、アイマラ語、ラパ・ヌイ語、ウイリンチェ語などが話されており、植民地時代にマプーチェ人はアラウカナイゼーションを進めたため、マプーチェ語はチリ最大の非公用語言語となっている。また、移民のコミュニティ内でドイツ語やイタリア語やクロアチア語が話されることもある。 チリは伝統的にローマ・カトリックの国だったが、2002年のセンサスによればカトリックは国民の70%程となっており、福音派、またはプロテスタントが15%、エホバの証人が1%、末日聖徒イエス・キリスト教会が0.9%、ユダヤ教が0.1%、その他が4.4%、無宗教が8.3%、ムスリムと正教はそれぞれ0.1%以下である。 コピアポ鉱山落盤事故では閉じ込められた作業員が、聖書と十字架像を所望したり、聖書をもとに作られた映画が地上から提供されるなど、国民の間ではキリスト教が深く根付いていることが伺える。 平均寿命は78.8歳と先進国並み。ユニバーサルヘルスケアが達成され、医療支出の33%が自己負担である。 チリの教育は、2009年の教育法(LGE)によって支配される。チリは、教育、幼稚園、小・中と最初の3つは要求されるの表裏面の4つのレベルがあります。就学前の4198、12114プライマリとセカンダリ162と上部などの技術訓練センター、専門の研究機関、大学、軍の高等教育機関:2013年に国が16474教育機関を持っていた。補助金、民間教育の1897949(混合)265044教育245906未就学児、3537087プライマリとセカンダリ1325737市町村教育(公共):その同じ年、国の登録は4967798学生に達したおよび1184805高い - 特に(プライベート)と48537の企業、委託管理を支払った。 19世紀にフランスとドイツの制度を参考に近代的教育制度が確立された。6歳から13歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となり、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。 識字率は約96.4% であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、キューバと共にラテンアメリカで最も高い部類に入る。 代表的な高等教育機関としては、チリ大学(1738年、1842年)、サンティアゴ・デ・チレ大学(1848年)、チリ・カトリック大学(1888年)などが挙げられる。 スペイン人による征服の以前のチリの文化はインカ帝国とマプーチェ人によるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受けた。19世紀初頭の独立後にはエリート層が憧れを抱いたイギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の文化の影響を受けた。また、19世紀後半のドイツ移民の影響により、特に南部のバルディビアやプエルト・モントにはドイツのバイエルン地方の文化の影響が強い。また、ウアッソという独自の農村的文化アイデンティティを表す表象が存在する。 チリ料理はスペイン植民地時代の料理に伝統を持つ。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、牛肉、羊肉が使われ、長い海岸線を有するために大海産国であることもあって魚介類を使う料理も多い。 代表的なチリ料理としてはカルネラ、カルボナーダ、アサード、クラント、ウミータ、パステル・デ・チョクロ、エンパナーダなどが挙げられる。北部のかつてペルー領だった地域ではセビッチェが食べられることもある。 チリはワインの大生産国として知られ、チリワインは高い品質で知られる。ワインの他の地酒としてはチチャやピスコ・デ・チレが挙げられる。また、南部ではアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル南部などと同様にマテ茶を飲む習慣がある。 チリは大衆的伝統の中で多くの詩人を生み出してきた。これはチリの文学者の持つ長い歴史に相応して重要なことであり、特に詩の分野において傑出した人物としてはニカノル・パラ、ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ・テイジエール、エンリケ・リン、ゴンサロ・ロハス、パブロ・デ・ロカが挙げられ、ガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダはノーベル文学賞を、ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれ受賞した。 小説の分野で代表的な作家としては、フランシスコ・コロアネ、マヌエル・ロハス、ホセ・ドノソ、ルイス・セプルベダ、ロベルト・ボラーニョ、イサベル・アジェンデ、ホルヘ・エドワーズ、ゴンサロ・ロハス、マルセラ・パスなどが挙げられる。ホルヘ・エドワーズは1999年に、ゴンサロ・ロハスは2003年にセルバンテス賞を受賞した。マルセラ・パスはパペルーチョと呼ばれる児童文学の作家である。 チリのフォルクローレにおいてはクエッカと呼ばれるリズムが中央部で発達し、その他に北部のケチュア人、アイマラ人にはワイニョなどが、南部のマプーチェ人や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレが存在する。 1960年代前半に特に活躍したフォルクローレグループとしてはロス・デ・ラモンが挙げられる。1960年代後半からは政治と強く結びついたフォルクローレ、ヌエバ・カンシオンが流行した。ビオレータ・パラ、ビクトル・ハラ、インティ・イリマニ、イジャプー、キラパジュンなどが活躍していたが、1973年のクーデター後に軍事政権によって音楽家が殺害、拷問、追放されるとヌエバ・カンシオンは衰退することになった。 2009年12月5日、首都サンティアゴ・デ・チレでハラの葬儀が催され、数万人の市民が参加した。1973年当時、ピノチェト軍事独裁政府の弾圧によってハラの葬儀を公式に開催することができなかった。死後36年を経て公式の葬儀が行われ、バチェレ政権の閣僚や政党幹部らも参加した。 ポピュラー音楽においては、ロックは60年代に中産階級によって始められ、軍政期を通してインカ・ロックなどの形態で独自の発達を辿ることになった。その後80年代に軍事政権の言論弾圧が一時期弱まると、ロックはフォルクローレよりも盛んになり、チリ・ロックはメキシコなどのラテンアメリカ市場でも成功するミュージシャンを生み出している。代表的なミュージシャンとしてはロス・ジョッカーズ、ロス・トレス、ロス・プリシオネロス、ロス・ブンケルス、ラ・レイ、クダイなどが挙げられる。フォルクローレに独自のプログレッシヴ・ロック的な風味を加えたバンド Los Jaivas は国外でも高く評価されており、1960年代後半にデビューして以来、現在も現役で活動をしている。 チリ出身の著名な映像作家としては、『戒厳令下チリ潜入記』、『サンディーノ』のミゲル・リティンや『クリムト』(2006)のラウル・ルイス、ボリス・ケルシア、アレハンドロ・ホドロフスキー(チリ出身)などが挙げられる。 チリ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。 ラパ・ヌイ国立公園 - (1995年、文化遺産) チロエの教会群 - (2000年、文化遺産) バルパライソの海港都市の歴史的街並み - (2003年、文化遺産) ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群 - (2005年、文化遺産) スウェルの鉱山都市 - (2006年、文化遺産) アンデスの道路網カパック・ニャン - (2014年、文化遺産) チリでも他のラテンアメリカ諸国と同じようにサッカーが大変盛んである。サッカーは19世紀にイギリス人によってチリにもたらされ、1933年にプリメーラ・ディビシオンが創設された。主なプロクラブとしては、CSDコロコロ、CDコブレロア、ウニオン・エスパニョーラ、ウニベルシダ・デ・チレ、ウニベルシダ・カトリカなどが挙げられる。1962年にチリで開催されたワールドカップ(以下、W杯)ではチリ代表は3位に入賞した。また、1998年のW杯フランス大会に出場した際には、4チーム制による1次リーグを3引き分け(0勝:勝ち点3)で突破し決勝トーナメント(ベスト16)に進出すると言う珍しい記録を持つ。現行のルールにおいて、8グループ上位2チーム勝ち上がりの1998年大会以降では、初であり現在まで唯一のケースである。 テニスも盛んであり、2004年のアテネオリンピックでは、チリのニコラス・マスーとフェルナンド・ゴンサレスがオリンピック史上初となる金メダルを男子シングルスと男子ダブルスで獲得し、首都のサンティアゴ・デ・チレをはじめチリ国内では喜びのあまり異様な盛り上がりを見せた。 国技はロデオ(チリのロデオ)である。 多数の科学刊行物によると、チリは2011年現在、ラテンアメリカで4位、世界で38位の科学的特許を持つ。また南極に4つの通年運用拠点、夏の間活動する8つの一時的な拠点を所有している。 天体観測においては、パラナル天文台、世界最先端の国際共同利用施設であるALMA、世界最大級の国際共同利用施設であるラ・シヤ天文台など12のステーションがあり、世界の天文観測施設の40%が集中している。しかし、ラスカンパナス天文台での巨大マゼラン望遠鏡やパチョン山での大型シノプティック・サーベイ望遠鏡の建設決定、OWL望遠鏡計画におけるE-ELTの建設決定、ALMAの拡大などにより、今後数十年で世界全体の約70%へと拡大する見込みである。 チリの紋章には、国の動物であるコンドル(Vultur gryphus、山岳地帯に棲む大型の鳥)とアンデスジカ(Hippocamelus bisulcus、絶滅が危惧されている尾部の白い鹿)が描かれている。これらは国の標語である「理性によって、または力によって」とも関連がある。 国花はコピウエであり、この花は南部の森林地帯に自生している。 ^ a b c d e 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The World Factbook. Central Intelligence Agency.  (英語) チリのウィキメディア地図 (英語) 座標: 南緯33度26分 西経70度40分 / 南緯33.433度 西経70.667度 / -33.433; -70.667" ]
ABC01-02-0284
童謡『赤とんぼ』で、ねえやが嫁に行ったのはいくつのときだったでしょう?
15
0
[ "15", "28", "24", "18", "13" ]
[ "15(十五、じゅうご、とおあまりいつつ)は自然数、また整数において、14の次で16の前の数である。ラテン語では quindecim(クィーンデキム)。 15 は合成数であり、正の約数は 1, 3, 5, 15 である。 約数の和は24。 約数の和が3の倍数になる8番目の数である。1つ前は14、次は 17。 奇数の合成数としてみたとき、2番目の数である。1つ前は9、次は21。(オンライン整数列大辞典の数列 A071904) 素数を除いて σ(n) − n が平方数になる4番目の数である。1つ前は12、次は24。ただしσは約数関数。(オンライン整数列大辞典の数列 A048699) 15 = 1 + 2 + 3 + 4 + 5 5番目の三角数である。1つ前は10、次は21。 n = 4 のときの n2 − 1 で表せる2番目の三角数である。1つ前は3、次は120。(オンライン整数列大辞典の数列 A006454) 3番目の六角数であり、3(2 × 3 − 1) = 15 。1つ前は6、次は28。 15 = 3 × 5 6番目の半素数である。1つ前は14、次は21。 最小の双子素数の積で表せる数である。次は35。 15は双子素数唯一積が3の倍数となる数である。(オンライン整数列大辞典の数列 A037074) 奇数かつ素数(奇素数)の、複数の積として表せる最小の数である。 素因数分解すると p × q となる双方が奇数の場合、次は21(3×7)。 素因数分解すると奇素数が n 個と見た場合、次は105(3×5×7)。 n = 1 のときの 5 × 3n の値とみたとき1つ前は5、次は45。(オンライン整数列大辞典の数列 A005030) 15 = 1 × 3 × 5 3連続の奇数の積で表せる最小の数である。次は105。(負の数を含めると1つ前は−3) 3番目の五胞体数である。1つ前は5、次は35。 15 = 3 × 4 × 5 × 6/1 × 2 × 3 × 4 1/15 = 0.0666… (下線部は循環節で長さは1) 5番目の二重階乗数であり、5!! = 1 × 3 × 5 = 15 。1つ前は8、次は48。 6番目のテトラナッチ数である。1つ前は8、次は29。 4番目のベル数である。1つ前は5、次は52。 3番目の完全トーシェント数である。1つ前は9、次は27。 (15, 16) は3番目のルース=アーロン・ペアである。1つ前は(8, 9)、次は(77, 78)。 15 = 3 × (32 + 1)/2 、n(n2 + 1)/2 を満たす3番目の数である。1つ前は5、次は34。 3 × 3 の魔方陣の一列の和は 15 である。 正十五角形は、定規とコンパスのみで作図できる8番目の正多角形である。1つ前は正十二角形、次は正十六角形。(オンライン整数列大辞典の数列 A003401) 二十進法では、F (十五)の倍数は、一の位が F → A (十) → 5 → 0 → F で循環する。例:13510 = 6F, 45010 = 12A。 九九では 3 の段で 3 × 5 = 15(さんごじゅうご)、5 の段で 5 × 3 = 15(ごさんじゅうご)と2通りの表し方がある。 15! = 1307674368000 である(十三桁)。 コンピュータやプログラムあるいは情報工学関連で多用される二進表記の場合は4ビット(1ニブル)のレピュニット、十六進表記の場合は最後の一桁数値(F)となる。 15 = 24 − 1 4番目のメルセンヌ数である。1つ前は7、次は31。 2番目のメルセンヌ素数でないメルセンヌ数である。1つ前は1、次は63。(オンライン整数列大辞典の数列 A135972) 15 = 20 + 21 + 22 + 23 a = 2 のときの a0 + a1 + a2 + a3 の値とみたとき、1つ前は4、次は40。 15 = 16 × 12 − 1 n = 1 のときの 16n2 − 1 の値とみたとき1つ前は−1、ただし自然数では最小、次は63。(オンライン整数列大辞典の数列 A141759) 各位の和が15になるハーシャッド数の最小は195、1000までに13個、10000までに136個ある。 異なる平方数の和で表せない31個の数の中で8番目の数である。1つ前は12、次は18。 約数の和が15になる数は1個ある。(8) 約数の和1個で表せる9番目の数である。1つ前は14、次は20。 約数の和が奇数になる5番目の奇数である。1つ前は13、次は31。 1~4までの約数の和である。1つ前は8、次は21。 各位の和が6になる2番目の数である。1つ前は6、次は24。 奇数という条件をつけると各位の和が6になる最小の数である。 各位の平方和が26になる最小の数である。次は51。(オンライン整数列大辞典の数列 A003132) 各位の平方和が n になる最小の数である。1つ前の25は5、次の27は115。(オンライン整数列大辞典の数列 A055016) 各位の立方和が126になる最小の数である。次は51。(オンライン整数列大辞典の数列 A055012) 各位の立方和が n になる最小の数である。1つ前の125は5、次の127は115。(オンライン整数列大辞典の数列 A165370) 各位の積が5になる2番目の数である。1つ前は5、次は51。(オンライン整数列大辞典の数列 A199985) 連続してある数に対して約数の和を求めていった場合5個の数が15になる。15より小さい数で5個ある数はない。1つ前は8(4個)、次は24(10個)。いいかえると σ m ( n ) = 15   ( m ≧ 1 ) {\\displaystyle \\sigma ^{m}(n)=15~(m\\geqq 1)} を満たす n が5個あるということである。(ただし σ は約数関数)(参照オンライン整数列大辞典の数列 A241954) 1~15までの約数の個数を加えると45個になり15の3倍になる。1~n までの約数の個数が n の整数倍になる4番目の数である。1つ前は5 (2倍)、次は42 (4倍)。(オンライン整数列大辞典の数列 A050226参照) 15の倍数をもつ角度の三角比は三角関数の加法定理を用いて求めることができる。 例. sin 15° = sin (45° − 30°) 15 = 82 − 72 = (8 + 7) × (8 − 7) n = 8 のときの (n + 7)(n − 7) の値とみたとき1つ前は0、次は32。(オンライン整数列大辞典の数列 A098848) 6番目の幸運数である。1つ前は13、次は21。 累乗数はもちろん1にもなり得ない4番目の幸運数である。1つ前は13、次は21。 15の接頭辞:quinquadec, quindec(拉)、pentakaideca(希) 15倍をクィンデキュプル (quindecuple) という。 原子番号15の元素は、燐 (P)。 小惑星番号15番の小惑星はエウノミアである。 15は、E6系列の標準数。 第15代天皇は、応神天皇。 第15代内閣総理大臣は、桂太郎。 鎌倉幕府第15代執権は、北条貞顕。 通算して第15代の征夷大将軍は、建武の新政期の護良親王。 室町幕府第15代将軍は、足利義昭。 江戸幕府第15代将軍は、徳川慶喜。 第15代自由民主党総裁は、宮澤喜一。15代徳川慶喜が江戸幕府の最後の将軍であったことが、15代宮澤総裁の時の総選挙敗北で保守合同以後初めて自民党が野党に転落した際によく引き合いに出された。また、足利義昭も室町幕府最後の将軍である。 大相撲第15代横綱は、梅ヶ谷藤太郎。 アメリカ合衆国第15代大統領は、ジェームズ・ブキャナン。 アメリカ合衆国の15番目の州は、ケンタッキー州。 殷朝第15代帝は、沃甲。 周朝第15代王は、荘王。 第15代ローマ教皇はゼフィリヌス(在位:199年~217年12月20日)である。 ルイ15世は、 ブルボン朝第4代フランス王。 JIS X 0401、ISO 3166-2:JPの都道府県コードの「15」は新潟県。 タロットの大アルカナで XV は、悪魔。 易占の六十四卦で第15番目の卦は、地山謙。 クルアーンにおける第15番目のスーラはアル・ヒジュルである。 十五夜は、満月の夜。新月から約15日後に現れるのでこの名がある。また旧暦8月15日の月見も十五夜といい、この夜の月は中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ)という。 結婚15周年記念日は、水晶婚式。 年始から数えて15日目は1月15日である。 経度15°毎に、時差は 1時間となる。(360 ÷ 24 = 15) 論語に由来する言葉で、15歳を「志学」という。 青年は、一般的に15歳から24歳までを指す。 旧ソビエト連邦15か国。アゼルバイジャン・アルメニア・ウクライナ・ウズベキスタン・エストニア・カザフスタン・キルギス・グルジア・タジキスタン・トルクメニスタン・ベラルーシ・モルドバ・ラトビア・リトアニア・ロシア連邦。 日本の最高裁判所大法廷の裁判官は、15人。 F-15 イーグルは、アメリカの戦闘機。 MiG-15 は、ソ連の戦闘機。 P-15 は、ソ連のミサイル。 Su-15 は、ソ連の戦闘機。 各種の U-15 連珠では、原則として十五路盤が用いられる。 ラグビーの1チームは15人であり、選手たちをフィフティーンという。 テニスの1回での得点は15点であり、1 vs 0 を「フィフティーン・ラブ」(15点 vs 0点)という。 サッカーのハーフタイムは15分。及び、延長戦の時間が15分ハーフ。 高校野球の最大延長は15回までで、トーナメント戦での引き分けの場合は再試合となる。 日本プロ野球・中日ドラゴンズの背番号15は西沢道夫選手(投手→内野手)の永久欠番である。2016年には広島東洋カープの黒田博樹投手の背番号として同球団三人目の永久欠番となった。また、福岡ソフトバンクホークスでも藤井将雄投手がダイエー時代の2000年に急逝して以来、事実上の欠番状態となっている。 昭和14年夏場所から大相撲は、1場所15日制。 交響曲第15番 弦楽四重奏曲第15番 ピアノソナタ第15番 『U-15.F スキにさせて!』は、テレビ東京系列で放送されていたバラエティ番組 。 『Sh15uya』は、テレビ朝日系列で放送された特撮テレビドラマ 。 『15 明刹工業高校ラグビー部』は、成瀬芳貴の漫画。 『ロンリーガールフィフティーン』は、ウェブ上の連続番組。 『Sweet 15th Diamond』は、渡辺美里のアルバム。 『15』は、SOPHIA のアルバム。 『15』は、PUFFYのベスト・アルバム。 『15』は、aiko のライブビデオ。 『HAPPY 15』は、THE ポッシボーの7枚目のシングル。 『15 1/2 フィフティーンハーフ』は、TETSU69 のシングル。 『15の夜』は、尾崎豊のデビューシングル。 『夢見る 15歳(フィフティーン)』は、スマイレージのメジャーデビューシングル。 『フィフティーン・ラブ』は、塀内夏子の漫画。 『十五少年漂流記』は、ジュール・ヴェルヌの小説。 「サクセス15」は、社会評論社の高校進学情報誌。 15パズルは、1878年にアメリカのサム・ロイドが考案したパズル。 大日本帝国陸軍第15方面軍 各国の第15軍 各国の第15師団 各国の第15旅団 第15連隊 大日本帝国陸軍歩兵第15連隊 陸上自衛隊 第15即応機動連隊 第15後方支援隊 アメリカのスペイン語地域社会では、女性の15歳(キンセアニェーラ)を殊に盛大に祝う風習がある。 かつて、プロボクシングの世界タイトル戦は15回戦(最大15ラウンド)で行われていた(リング禍を機に、1980年代から12回戦に短縮された)。 東洋思想では十五夜(満月)に当たる15という数字を「完全な物」として捉える思想がある。 龍安寺(りょうあんじ。京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院)の石庭には15個の石が並べてある。15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されていると云われ、15に1つ足りない14を「不完全さ」を表す物とされている。 数に関する記事の一覧 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 15 30 45 60 75 90 105 120 135 150 165 180 195 210 西暦15年 紀元前15年 1915年 15世紀 - 平成15年 昭和15年 大正15年 明治15年 - 1月5日 名数一覧 15歳(才)、十五歳(才)", "28(二十八、廿八、にじゅうはち、はたや、はたちあまりやつ)は自然数、また整数において、27の次で29の前の数である。 28は合成数であり、約数は 1, 2, 4, 7, 14, 28 である。 約数の和は56。56 = 28 × 2 より完全数である。 σ(n) − n が完全数になる3番目の数である。1つ前は25、次は496。(ただしσは約数関数、オンライン整数列大辞典の数列 A237286) 28 = 22 × (23 − 1) 2番目の完全数である。1つ前は6、次は496。 3番目の倍積完全数である。1つ前は6、次は120。 n = 2 のときの 2n−1(2n − 1) の値とみたとき1つ前は6、次は120。 28 = 4 × σ(4) (ただし σ は約数関数) 28 = 7 × 22 n = 2 のときの 7n2 の値とみたとき1つ前は7、次は63。(オンライン整数列大辞典の数列 A033582) n = 2 のときの 7 × 2n の値とみたとき1つ前は14、次は56。(オンライン整数列大辞典の数列 A005009) 2つの異なる素因数の積で p2 × q の形で表せる4番目の数である。1つ前は20、次は44。(オンライン整数列大辞典の数列 A054753) 28 = 7 × 4 n = 1 のときの 7 × 4n の値とみたとき1つ前は7、次は112。(オンライン整数列大辞典の数列 A002042) 3番目の調和数である。1つ前は6、次は140。 28の調和平均は3,調和平均が素数になる2番目の数である。1つ前は6、次は140。(オンライン整数列大辞典の数列 A074247) 3番目の原始擬似完全数である。1つ前は20、次は88。 28 = 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 7番目の三角数である。1つ前は21、次は36。 三角数が三角数になる約数の個数をもつ2番目の数である。1つ前は1、次は45。(オンライン整数列大辞典の数列 A116541) 三角数が三角数になる約数の個数をもつ数の中で前の数を上回る個数をもつ2番目の数である。1つ前は1、次は496。(オンライン整数列大辞典の数列 A076172) 三角数において各位の和も三角数になる7番目の数である。1つ前は21、次は55。(オンライン整数列大辞典の数列 A062099) 28 = 1 + 6 + 21 = 3 + 10 + 15 3つの異なる三角数の和で表せる2番目の三角数である。1つ前は10、次は45。(オンライン整数列大辞典の数列 A112353) 4番目の六角数である。4(2 × 4 − 1) = 28。1つ前は15、次は45。 28 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 最初からの連続素数の和で表せる5番目の数である。1つ前は17、次は41。 5連続素数和とみたとき最小の数である。次は39。 284 + 1 = 614657 であり、n22 + 1 の形で素数を生む8番目の数である。1つ前は24、次は34。(オンライン整数列大辞典の数列 A000068) 九九では 4 の段で 4 × 7 = 28(ししちにじゅうはち)、7 の段で 7 × 4 = 28(しちしにじゅうはち)と 2 通りの表し方がある。 28番目(完全数番目)の数は素数は107、三角数は406である。 F28 + 28 , F28 − 28 , F28 + 2828 はいずれも素数である。(ただし F28 = 317811 であり、28番目のフィボナッチ数である。) 1/28 = 0.03571428… (下線部は循環節で長さは6) 循環節の長さが6である数のうち6番目の数である。1つ前は26、次は35。(オンライン整数列大辞典の数列 A120100) 各位の和が28になるハーシャッド数の最小は7588、10000までに4個ある。 異なる平方数の和で表せない31個の数の中で15番目の数である。1つ前は27、次は31。 28 = 13 + 33 自然数の奇数の立方和とみたとき1つ前は1、次は153。 n = 3 のときの 3n + 1 の値とみたとき1つ前は10、次は82。(オンライン整数列大辞典の数列 A034472) n = 3 のときの n3 + 1 の値とみたとき1つ前は9、次は65。(オンライン整数列大辞典の数列 A001093) 2つの正の数の立方数の和で表せる4番目の数である。1つ前は16、次は35。(オンライン整数列大辞典の数列 A003325) 異なる2つの正の数の立方数の和で表せる2番目の数である。1つ前は9、次は35。(オンライン整数列大辞典の数列 A024670) 2つの正の数の立方数の和で表せる最小の三角数である。次は91。(オンライン整数列大辞典の数列 A113958) 約数の和が28になる数は1個ある。(12) 約数の和1個で表せる11番目の数である。1つ前は20、次は30。 各位の和が10になる2番目の数である。1つ前は19、次は37。 偶数という条件をつけると各位の和が10になる最小の数である。 各位の平方和が68になる最小の数である。次は82。(オンライン整数列大辞典の数列 A003132) 各位の平方和が n になる最小の数である。1つ前の67は337、次の69は128。(オンライン整数列大辞典の数列 A055016) 各位の立方和が520になる最小の数である。次は82。(オンライン整数列大辞典の数列 A055012) 各位の立方和が n になる最小の数である。1つ前の519は222357、次の521は128。(オンライン整数列大辞典の数列 A165370) 28 = 12 + 12 + 12 + 52 = 12 + 32 + 32 + 32 = 22 + 22 + 22 + 42 4つの平方数の和3通りで表せる最小の数である。次は42。(オンライン整数列大辞典の数列 A025359) 4つの平方数の和 n 通りで表せる最小の数である。1つ前の2通りは31、次の4通りは52。(オンライン整数列大辞典の数列 A025416) 西暦28年 紀元前28年 国道28号は、日本の兵庫県神戸市から淡路島を経て徳島県徳島市へ至る一般国道。 JIS X 0401、ISO 3166-2:JPの都道府県コードの「28」は兵庫県。 『鉄人28号』は横山光輝の漫画および主役ロボットの名前。28機目に作られたものであることから。 ゆうきまさみの漫画『究極超人あ〜る』の主人公R・田中一郎は本名R28号で、成原博士の作った第28のアンドロイドである。 横山の「28」はB-29爆撃機に、ゆうきの「28」は横山の漫画に由来している。 第28代天皇は宣化天皇である。 日本の第28代内閣総理大臣は若槻禮次郎である。 大相撲の第28代横綱は大錦大五郎である。 アメリカ合衆国の第28代大統領はウッドロウ・ウィルソンである。 第28代殷の天子は文武丁である。 第28代周王は貞定王である。 第28代ローマ教皇はカイウス(在位:283年12月7日~296年4月22日)である。 年始(1月1日)から数えて28日目は、1月28日。 易占の六十四卦で第28番目の卦は、沢風大過。 クルアーンにおける第28番目のスーラは物語である。 アメリカ合衆国の28番目の州はテキサス州である。 NHK神戸放送局、NHK大津放送局、山口朝日放送、琉球朝日放送のアナログ親局は 28ch。 原子番号 28 の元素はニッケル (Ni) である。 28 は、核物理学において、2, 8, 20, 50, 82, 126 と共に、原子核中の陽子、もしくは、中性子の数がこれらの数である場合、その原子核は安定しやすくなる、魔法数の一つとして知られている。 グレゴリオ暦やユリウス暦で最短の月は平年の2月で、28日。 1ヶ月は約4週間で、4週間は28日であるため、28日は数値としては半端であるにもかかわらずキリのいい期間としてよく使われる。また月日と曜日の関係は28年で一巡する。つまり、28年前、28年後は本年と同じカレンダーとなる。(閏年を7回経るので。ただし**00年 (特に400の倍数年) を跨ぐものは除く) 二十八宿 雲台二十八将は後漢の光武帝に仕えた28人の将軍。 徳川二十八神将は徳川家康に仕えた28人の武将。 法華経は8巻28品。 コンクリートの強度を示す基準は打ち込み28日目の圧縮強度。 成人の頭蓋骨は舌骨を除いて28個の骨からなる。 人間の歯の本数は、親知らずを含めなければ28本ある。 二八そばとは小麦粉とそば粉の比率が 2:8 のそば。 ネット上でコメントする際、28 が『ニヤ』と読めることから、自分がニヤけているまたは恋愛のような雰囲気に対して『282828282828』などとコメントすることがある。 映画『28日後...』と『28週後...』。 Superfly の曲。輝く月のように/The Bird Without Wingsに収録。 小説『博士の愛した数式』では、博士が完全数である 28 が背番号の(阪神タイガース在籍時)江夏豊のファンである。 『28日後...』と『28週後...』。 歌『ないとー (YouTuber)とうみくん』の歌の題名『28』。 0 - 10 - 20 - 30 - 40 - 50 - 60 - 70 - 80 - 90 - 100 21 - 22 - 23 - 24 - 25 - 26 - 27 - 28 - 29 紀元前28年 - 西暦28年 - 1928年 - 平成28年 昭和28年 明治28年 名数一覧 2月8日", "24(二十四、廿四、にじゅうし、にじゅうよん、はたよん、はたちあまりよつ)は自然数、また整数において、23の次で25の前の数である。 24 は合成数であり、正の約数は 1, 2, 3, 4, 6, 8, 12, 24 である。 約数の和は60。 4番目の過剰数である。1つ前は20、次は30。 約数を8個もつ最小の数である。次は30。 5番目の高度合成数である。1つ前は12、次は36。 自分自身のすべての約数の積が自分自身の4乗になる最小の数である。1つ前の3乗は12、次の5乗は48。(オンライン整数列大辞典の数列 A003680) 約数の積は331776。 約数の積の値がそれ以前の数を上回る11番目の数である。1つ前は20、次は30。(オンライン整数列大辞典の数列 A034287) 素数を除いて σ(n) − n が平方数になる5番目の数である。1つ前は15、次は26。ただしσは約数関数。(オンライン整数列大辞典の数列 A048699) 24から28まではすべて合成数で、5個連続で合成数が続く。 合成数の連続数がこれ以前の数を上回る数である。1つ前の3連続は8、次の7連続は90。(オンライン整数列大辞典の数列 A008950) 1/24 = 0.0416… (下線部は循環節で長さは1) 素因数に2と3が含まれているN進法では、逆数が有限小数になる10番目の数である。1つ前は18、次は27。 六進法では 1/40 = 0.013 となり、十二進法では 1/20 = 0.06 となる。 6番目の高度トーシェント数。1つ前は12、次は48。 7番目のトリボナッチ数であり、1つ前は13、次は44。 24 = 4! = 4 × 3 × 2 × 1 4番目の階乗数である。1つ前は6、次は120。 4連続整数の積で表せる数である。自然数の範囲では最小、0を含めると1つ前は0、次は120。 24 = 2 × 3 × 4 3連続整数の積で表せる数である。1つ前は6、次は60。 24 = 33 − 3 24 = 33 − 31 = 31 × (32 − 1) n = 2 のときの 3n−1(3n − 1) の値とみたとき1つ前は2、次は234。(オンライン整数列大辞典の数列 A219205) 24! = 620448401733239439360000 は24桁である。n! が n 桁になるのは、1, 22, 23, 24 のみで、24 が最大である。 242 + 1 = 577 であり、n2 + 1 の形で素数を生む9番目の数である。1つ前は20、次は26。 かけ算九九では、3 × 8(さんぱにじゅうし)、 4 × 6(しろくにじゅうし)、 6 × 4(ろくしにじゅうし)、 8 × 3(はちさんにじゅうし)と 4 通りに表される。九九での表し方は 4 通りが最大で、他に 6, 8, 12, 18 がそれに当たる。 24 の24乗根の小数部分は、円周率 π の小数部分に近い。 24√24 ≈ 1.14158644 π − 24√24 ≈ 2.00000621 p を 5 以上の素数とすると p2 − 1 は必ず24の倍数である。例: 52 − 1 = 24 × 1 , 72 − 1 = 24 × 2 , 112 − 1 = 24 × 5 12 + 22 + … + 242 = 702 正二十四胞体は6つ中4番目(胞数順で)の正多胞体である。前は正十六胞体、次は正百二十胞体である。 15番目のハーシャッド数である。1つ前は21、次は27。 6を基とする2番目のハーシャッド数である。1つ前は6、次は42。 各位の和が24になるハーシャッド数の最小は888、1000までに1個、10000までに48個ある。 約数の和が24になる数は3個ある。(14, 15, 23) 約数の和3個で表せる最小の数である。次は42。 約数の和が24より小さな数で3個ある数はない。1つ前は12(2個)、次は72(5個)。 各位の和が6になる3番目の数である。1つ前は15、次は33。 各位の平方和が20になる最小の数である。次は42。(オンライン整数列大辞典の数列 A003132) 各位の平方和が n になる最小の数である。1つ前の19は133、次の21は124。(オンライン整数列大辞典の数列 A055016) 各位の立方和が72になる最小の数である。次は42。(オンライン整数列大辞典の数列 A055012) 各位の立方和が n になる最小の数である。1つ前の71は12233、次の73は124。(オンライン整数列大辞典の数列 A165370) 各位の積が8になる3番目の数である。1つ前は18、次は42。(オンライン整数列大辞典の数列 A199989) 連続してある数に対して約数の和を求めていった場合10個の数が24になる。24より小さい数で10個ある数はない。1つ前は15(5個)、次は60(14個)。いいかえると σ m ( n ) = 24   ( m ≧ 1 ) {\\displaystyle \\sigma ^{m}(n)=24~(m\\geqq 1)} を満たす n が10個あるということである。(ただし σ は約数関数)(参照オンライン整数列大辞典の数列 A241954) 24 = 23 × (22 − 1) n = 2 のときの 2n+1(2n − 1) の値とみたとき1つ前は4、次は112。(オンライン整数列大辞典の数列 A059153) 24 = 3 × 23 n = 3 のときの n × 2n の値とみたとき1つ前は8、次は64。(オンライン整数列大辞典の数列 A036289) n = 2 のときの 3n3 の値とみたとき1つ前は3、次は81。(オンライン整数列大辞典の数列 A117642) n = 3 のときの 3 × 2n の値とみたとき1つ前は12、次は48。(オンライン整数列大辞典の数列 A007283) 24 = 23 + 23 + 23 3つの正の数の立方数の和1通りで表せる4番目の数である。1つ前は17、次は29。(オンライン整数列大辞典の数列 A025395) 24 = 23 × 3 2つの異なる素因数の積で p3 × q の形で表せる最小の数である。次は40。(オンライン整数列大辞典の数列 A065036) 24 = 8 × 3 n = 1 のときの 8 × 3n の値とみたとき1つ前は8、次は72。(オンライン整数列大辞典の数列 A005051) 24 = 23 × 31 、2i × 3j (i ≧ 1, j ≧ 1) で表せる4番目の数である。1つ前は18、次は36。(オンライン整数列大辞典の数列 A033845) 24 = 6 × 22 n = 2 のときの 6n2 の値とみたとき1つ前は6、次は54。(オンライン整数列大辞典の数列 A033581) 24 = 6 × 4 n = 1 のときの 6 × 4n の値とみたとき1つ前は6、次は96。(オンライン整数列大辞典の数列 A002023) 24 = 24 + 23 n = 2 のときの n4 + n3 の値とみたとき1つ前は2、次は108。(オンライン整数列大辞典の数列 A179824) 異なる2つの素数の和3通りで表せる最小の数である。次は30。(オンライン整数列大辞典の数列 A077969) 24 = 5 + 19 = 7 + 17 = 11 + 13 異なる2つの素数の和 n 通りで表せる最小の数である。1つ前の2通りは16、次の4通りは36。(オンライン整数列大辞典の数列 A087747) 異なる平方数の和で表せない31個の数の中で13番目の数である。1つ前は23、次は27。(オンライン整数列大辞典の数列 A001422) 24 = 22 + 22 + 42 3つの平方数の和1通りで表せる12番目の数である。1つ前は22、次は26。(オンライン整数列大辞典の数列 A025321) 1を除く自身の桁1個を使って余りなく割り切ることができる13番目の数である。1つ前は22、次は25。(オンライン整数列大辞典の数列 A185186) 1を除く自身の桁の異なる2個を使って余りなく割り切ることができる最小の数である。次は36。(オンライン整数列大辞典の数列 A187516) 1を除く自身の桁の異なる n 個を使って余りなく割り切ることができる最小の数である。1つ前の1個は2、次の3個は248。(オンライン整数列大辞典の数列 A187584) 24 × 単位 24° = 2/15π(ラジアン)。これは 1/15 周であり、すなわち正十五角形の中心角であり、すなわちその外角である。 1日は24時間である。24時は日の変わり目であることから、俗に締切りに例えられる。転じて、締切りや危機が迫っている様相を、「24時15分前」「23時45分」に例える。 24年組: 昭和24年(1949年)生まれの少女漫画家の集まり。花の24年組と呼ばれる。 純金は24カラット(24金)。 青年の定義は一般的に15歳から24歳まで(あるいは34歳まで)である。 24番目のもの 年始から数えて24日目は1月24日。 第24番元素はクロム (Cr) である。 第24代天皇は仁賢天皇である。 日本の第24代内閣総理大臣は加藤高明である。 大相撲の第24代横綱は鳳谷五郎である。 アメリカ合衆国の第24代大統領はグロバー・クリーブランドである。 アメリカ合衆国の24番目の州はミズーリ州である。 JIS X 0401、ISO 3166-2:JPの都道府県コードの「24」は三重県。 第24代殷王は祖甲である。 第24代周王は景王である。 第24代ローマ教皇はシクストゥス2世(在位:257年8月31日~258年8月6日)である。 易占の六十四卦で第24番目の卦は、地雷復。 クルアーンにおける第24番目のスーラは御光である。 一般国道24号は京都府京都市下京区から和歌山県和歌山市まで。 国道124号は、24番目の二級国道である。 第24番小惑星はテミスである。 M24 は星雲・星団等ではなく、天の川が濃くなった領域である。 24あるもの 二十四史: 中国の正史の数。 二十四節気: 1年を24分割し、15日を1節気とする。 長調と短調を併せて24種類ある。J.S.バッハが全24調で「前奏曲とフーガ」を作曲した(『平均律クラヴィーア曲集』、全2巻)ため、後世の作曲家がこれに倣い、前奏曲や練習曲などを24曲構成で作曲している。 大阪市は24区からなり、「東京23区」に対して「大阪24区」と呼ばれることもある。 日本には競艇場が24場ある。 言葉 24/7 (twenty-four seven) は、24時間・週7日間を転じて always(いつも)という意味を持つ。 日本語で「常に」を意味する語「四六時中」は、“4局面 × 6時間 = 24時間”を表す。 「通報」の意。「ツー(2)フォー(4)」から。 企業 タイム二十四:東京都の第三セクター。 に・よん・なな・みゅーじっく:日本の音楽関連企業。 パーク24:駐車場運営会社。 ベルシステム24:コールセンター業最大手の企業。 作品タイトル 24 -TWENTY FOUR-(トゥウェンティフォー):FOX(アメリカ合衆国)制作のテレビドラマ。 24/7 -TWENTY FOUR/SEVEN-:DREAMS COME TRUEのシングル。 24karats GOLD SOULは、EXILEの通算46枚目のシングル。 二十四の瞳: 壺井栄の小説。 24ナイツ : エリック・クラプトンが1991年に発表したライブ・アルバム。 商品名 24ゾイド(ツーフォー-): 『ゾイド』シリーズに登場する架空の兵器。 符号 24系はJRのブルートレインに使われる客車。 日本プロ野球・埼玉西武ライオンズの背番号24は稲尾和久投手の永久欠番(元々は前身の西鉄ライオンズでの永久欠番であったが、1972年11月の西鉄球団売却に伴い失効。その後、2012年に後身の西武が再度永久欠番とした)。 0 - 10 - 20 - 30 - 40 - 50 - 60 - 70 - 80 - 90 - 100 21 - 22 - 23 - 24 - 25 - 26 - 27 - 28 - 29 紀元前24年 - 西暦24年 - 1924年 - 2024年 平成24年 昭和24年 明治24年 24世紀 名数一覧", "18(十八、じゅうはち、とおあまりやつ)は自然数、また整数において、17の次で19の前の数である。ラテン語では duodeviginti(ドゥオデーウィーギンティー)。 18は合成数であり、正の約数は 1, 2, 3, 6, 9, 18 である。 約数の和は39。 自身を除く約数の和は21であり2番目の過剰数である。1つ前は12、次は20。 過剰数の中で高度合成数でない最小の数である。次は20。 約数の和が奇数になる7番目の数である。1つ前は16、次は25。 約数の和が3の倍数になる10番目の数である。1つ前は17、次は20。 1とその数以外で、4つの約数を持つ単偶数では最小の数である。 約数の積は5832。 約数の積の値がそれ以前の数を上回る9番目の数である。1つ前は12、次は20。(オンライン整数列大辞典の数列 A034287) 3番目の七角数である。1つ前は7、次は34。 6番目のリュカ数である。1つ前は11、次は29。 1/18 = 0.0555… (下線部は循環節で長さは1) 逆数が有限小数になる9番目の数である。1つ前は16、次は24。 六進法では 1/30 = 0.02 となり、十二進法では 1/16 = 0.08 となる。 3乗した数の各桁の数の和が元の数になる数。つまり、183 = 5832 → 5 + 8 + 3 + 2 = 18 。1つ前は17、次は26。 このような数は6個あり、1, 8, 17, 18, 26, 27。(オンライン整数列大辞典の数列 A046459) 183 = 5832 , 184 = 104976 であるが、これには 0~9 までの全ての数が重複なく出現している。 九九では 2 の段で 2 × 9 = 18(にくじゅうはち)、3 の段で 3 × 6 = 18(さぶろくじゅうはち)、 6 の段で 6 × 3 = 18(ろくさんじゅうはち)、 9 の段で 9 × 2 = 18(くにじゅうはち)と 4 通りの表し方がある。 18! = 6402373705728000 である(16桁)。 各位の和が18になるハーシャッド数の最小は198、1000までに25個、10000までに335個ある。 10000までの数で各位の和が18になるハーシャッド数は最多の数である。 12番目のハーシャッド数である。1つ前は12、次は20。 9を基とする2番目のハーシャッド数である。1つ前は9、次は27。 偶数という条件をつけると各位の和が9になる最小の数である。 各位の平方和が65になる最小の数である。次は47。(オンライン整数列大辞典の数列 A003132) 各位の平方和が n になる最小の数である。1つ前の64は8、次の66は118。(オンライン整数列大辞典の数列 A055016) 各位の立方和が513になる最小の数である。次は81。(オンライン整数列大辞典の数列 A055012) 各位の立方和が n になる最小の数である。1つ前の512は8、次の514は118。(オンライン整数列大辞典の数列 A165370) 18 = 1 × 3 × 6 3連続三角数の積で表せる最小の数である。次は180。 異なる平方数の和で表せない31個の数の中で9番目の数である。1つ前は15、次は19。 約数の和が18になる数は2個ある。(10, 17) 約数の和2個で表せる2番目の数である。1つ前は12、次は31。 約数の和 n 個で表せる n 番目の数である。1つ前は1、次は48。 18 = 9 + 9 10進数における1桁+1桁の最大の数である。 各位の積が8となる2番目の数である。1つ前は8。次は24。(オンライン整数列大辞典の数列 A199989) 18 = 33 − 32 n = 3 のときの n3 − n2 の値とみたとき1つ前は4、次は48。(オンライン整数列大辞典の数列 A045991) 18 = 2 × 32 n = 2 のときの n × 3n の値とみたときで1つ前は3、次は81。(オンライン整数列大辞典の数列 A036290) n = 3 のときの 2 × n2 の値とみたとき1つ前は8、次は32。(オンライン整数列大辞典の数列 A001105) 18 = 9 × 2 n = 1 のときの 9 × 2n の値とみたとき1つ前は9、次は36。(オンライン整数列大辞典の数列 A005010) 2つの異なる素因数の積で p2 × q の形で表せる2番目の数である。1つ前は12、次は20。(オンライン整数列大辞典の数列 A054753) 18 = 21 × 32 、2i × 3j (i ≧ 1, j ≧ 1) で表せる3番目の数である。1つ前は12、次は24。(オンライン整数列大辞典の数列 A033845) 18 = 12 + 12 + 42 3つの平方数の和1通りで表せる8番目の数である。1つ前は17、次は19。(オンライン整数列大辞典の数列 A025321) 18 = 360 ÷ 20 角度の1/20周は18°である。また、正二十角形の中心角も18°である。 18 の接頭辞:octodeci(拉)、octadeca, octakaideca(希) 18倍を英語でオクトデキュプル (octodecuple) という。 18は、E24系列の標準数。 周期表の族は 18。また、M殻に入る電子の最大数は 18。 第18族元素を希ガスという。 原子番号18の元素は、アルゴン (Ar)。 理論上考えられる炭素数8のアルカンの異性体の数は18。 1斗がおよそ18リットルであり、その名残が灯油の販売単位、18リットル缶などにみられる。 第18代天皇は反正天皇。 第18代内閣総理大臣は寺内正毅。 通算して第18代の征夷大将軍は足利義詮(室町幕府第2代将軍)。 大相撲第18代横綱は大砲万右エ門。 アメリカ合衆国第18代大統領はユリシーズ・グラント。 アメリカ合衆国の18番目の州はルイジアナ州。 JIS X 0401、ISO 3166-2:JPの都道府県コードの「18」は福井県。 殷朝第18代帝は陽甲。 周朝第18代王は襄王。 第18代ローマ教皇はポンティアヌス(在位:230年7月21日~235年9月25日)である。 タロットの大アルカナで XVIII は月。 易占の六十四卦で第18番目の卦は山風蠱。 紀元前1000年頃のバビロニアの天文学においては、三つの帯(赤道帯より北、赤道帯、赤道帯より南)に、18のサインが位置づけられていた。現在の黄道12宮となったのは前5世紀末頃から。 ユダヤ教において、18 は幸運の数とされる。 1月18日は、年始からの数え日数が18日目に当てはまる。 オカルトでは、「18」=「6+6+6」あるいは「6×3」=「666」と変換される。 クルアーンにおける第18番目のスーラは洞窟である。 クォークは色で分けて考えると18種類。 日本プロ野球において背番号18はエースナンバーとされ、主力投手がつけるものとされているが、「背番号18は投手が付けなければならない」という規定はなく、実際に背番号18の野手(北海道日本ハムファイターズ・岡大海外野手)も存在する。 十八日月を居待月(いまちづき)という。 ゴルフ競技のホール数は 18。 中央競馬のフルゲートの最大頭数は、1991年の馬連発売開始以降18頭。 F/A-18 ホーネットは、アメリカの戦闘攻撃機。 Il-18 は、ソ連の旅客機。 QF 18ポンド砲は、イギリスの野砲。 青春18きっぷは、JR の乗車券の一つ。学生を意識した名称だが、使用にあたって年齢制限は無い。 十八銀行は、長崎市に本社を置く地方銀行。 18KIN は、お笑いコンビ。 『おくさまは18歳』は、本村三四子の漫画及びこれを原作としたテレビドラマと映画。 『18 ワン・エイト』は、秋恭魔の漫画。 18 -ワン・エイト- - マンガ図書館Z(※18禁)(外部リンク) 『18 -eighteen-』は、北出菜奈のファーストアルバム。 『18』は、吉井和哉の7枚目のオリジナルアルバム。 「18 -eighteen-」は、福山雅治の楽曲。アルバム『残響』収録。 「Eighteen」は、松田聖子の楽曲。「風は秋色/Eighteen」参照。 「eighteen」は、New Cinema 蜥蜴の楽曲。アルバム『Rail』収録。 「18人の音楽家のための音楽」は、スティーヴ・ライヒが作曲した、ミニマル・ミュージックの楽曲。 アルファベットで1はA、8はHのため、アドルフ・ヒトラーを指すとしてネオナチが隠語として使用している。 軍隊等 大日本帝国陸軍第18方面軍 第18軍 大日本帝国陸軍第18軍 第二次世界大戦時のドイツ陸軍第18軍 アメリカ陸軍第18空挺軍団 アメリカ空軍第18空軍 各国の第18師団 第18連隊 大日本帝国陸軍歩兵第18連隊 陸上自衛隊第18普通科連隊 フランス陸軍第18通信連隊 多くの国で18歳以上が、成人として定義される。日本では20歳以上。 多くの国で選挙権は18歳以上で与えられる。日本では公職選挙法で1945年から選挙権年齢を20歳以上としていたが、2015年6月に改正公職選挙法が成立し18歳以上に引き下げられた。 日本の法律の一部・多くの都道府県の条例などでは、青少年を18歳未満と定義しており、アダルト関係の各種メディアは多くが18歳未満への頒布が禁止されている(18禁、また18歳以上でも高校生は自主規制の対象とされる場合が多い)。これに関連して、アダルトゲームでは業界団体の1つであるコンピュータソフトウェア倫理機構の自主規制により攻略対象キャラクターは全員18歳以上と設定されている。 皇室典範では、天皇・皇太子・皇太孫は、18歳で成人を迎える。 民法では、男性は18歳から婚姻することができる。 児童福祉法第四条では、「この法律で、児童とは、満十八歳に満たない者」とある。 多くの国で18歳は、自動車の運転免許を取得できる年齢とされている。道路交通法では、普通自動車や大型自動二輪車、大型特殊自動車、けん引などの運転免許が18歳から取得できる。 労働安全衛生法では、建設機械の操作免許・資格を18歳から取得できる。 船舶職員及び小型船舶操縦者法では、1級小型船舶の免許(受験は17歳9ヶ月から)および大型船舶の免許を18歳から取得できる。 航空法では、事業用の飛行機、ヘリコプター、飛行船、滑空機の操縦免許を18歳から取得できる。 Jリーグ1部 (J1) の参加クラブ数は18(2005年度より)。 テルスター18 - 2018 FIFAワールドカップで使用された公式球 古着系アイドル「18」なるものが存在していた(現在解散)。名前の由来は「一か八か」である(フレンズ#楽曲も参照)。 ルルドの聖母は18回出現した。 モブキャストが運用していた、パズル式のロールプレイングゲーム「【18】キミト ツナガル パズル」と、そのアニメ化作品「18if」。 歌舞伎十八番:助六・矢の根・関羽・不動・象引・毛抜・外郎売・暫・七つ面・解脱・嫐・蛇柳・鳴神・鎌髭・景清・不破・押戻・勧進帳。 十八宗:三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・普化宗・黄檗宗・修験宗。 武芸十八般:剣術・弓術・柔術・手裏剣術・槍術・薙刀術・棒術・杖術・鎖鎌術・水術・十手術・鉄扇術・捕縄術・馬術・抜刀術・砲術・刺又術・短刀術。 十八史略:史記・漢書・後漢書・三国志・晋書・宋書・南斉書・梁書・陳書・魏書・北斉書・周書・隋書・南史・北史・新唐書・新五代史・続宋編年資治通鑑。 十八学士:杜如晦・房玄齢・于志寧・蘇世長・薛収・褚亮・姚思廉・陸徳明・孔穎達・李玄道・李守素・虞世南・蔡允恭・顔相時・許敬宗・薛元敬・蓋文達・蘇勗。唐王朝における18人の文学館学士。 十八羅漢:十六羅漢に二人を追加した呼称。 ^ “選挙権年齢「18歳以上」に 改正公選法が成立”. 47NEWS. (2015年6月17日). http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061701001110.html 2015年6月18日閲覧。  ^ “【18】キミト ツナガル パズル”. モブキャスト (2015年10月18日). 2015年10月18日閲覧。/“【18】キミト ツナガル パズル”. モブキャスト (2015年10月18日). 2015年10月18日閲覧。 数に関する記事の一覧 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 18 36 54 72 90 108 126 144 162 180 198 216 234 252 270 288 306 324 342 360 西暦18年 紀元前18年 1918年 18世紀 - 平成18年 昭和18年 明治18年 - 1月8日 名数一覧", "13(十三、じゅうさん、とおあまりみつ)は自然数、また整数において、12の次で14の前の数である。英語では thirteen(サーティン、サーティーン)と表記される。西洋を中心に「13 = 忌み数」という認識が強いことから、様々な効果を狙って作品のタイトルなどに使用されることも多い。なお、英語の序数詞では 13th (thirteenth) と表記される。19 (nineteen) まで続く英語の語尾 “-teen”(ティーン)の始まりとなる。ラテン語での表記は tredecim (トレーデキム)。 13は6番目の素数である。1つ前は11、次は17。 ソフィー・ジェルマン素数でも安全素数でもない最小の素数である。 最初の完全数番目の素数である。次は107。 約数の和は14。 11 と 13 は3番目の双子素数である。1つ前は(5, 7)、次は(17, 19)。 7 と 13 は2番目のセクシー素数である。1つ前は(5, 11)、次は(11, 17)。 (5, 7, 11, 13) 、(11, 13, 17, 19) はそれぞれ1番目、2番目の四つ子素数である。次は(101, 103, 107, 109)。 p = 13 のときの 2p − 1 で表される 213 − 1 = 8191 は5番目のメルセンヌ素数である。1つ前は7、次は17。 なお、2p − 1 が素数であるためには p は素数でなければならない。 7番目のフィボナッチ数である。1つ前は8、次は21。 4番目のフィボナッチ素数である。1つ前は5、次は89。 6番目のトリボナッチ数である。1つ前は7、次は24。 トリボナッチ数が素数になる3番目の数である。1つ前は7、次は149。 13# + 1 = 2 × 3 × 5 × 7 × 11 × 13 + 1 = 30031 = 59 × 509 n# + 1 の形で合成数を生む最小の n である(n# は素数階乗、つまり n 以下の素数の総乗)。 1/13 = 0.076923… (下線部は循環節で長さは6) 13は素数であるが999999の約数なので、1/13 は巡回数にならない。 十進法において巡回数にならない5番目の素数である。1つ前は11、次は31。(オンライン整数列大辞典の数列 A186641) 10進数表記において桁を入れ替えても素数となる最小のエマープである。(13 ←→ 31)次は17。 十進法において、1 と 3 を使った最小の素数である。次は31。ただし単独使用を可とするなら1つ前は11。(オンライン整数列大辞典の数列 A020451) 13…3 の形の最小の素数である。次は1333333333333333。(オンライン整数列大辞典の数列 A093671) 1…13 の形の最小の素数である。次は113。(オンライン整数列大辞典の数列 A093011) 連続奇数を昇順に並べてできる最小の素数である。次は135791113151719。(オンライン整数列大辞典の数列 A048847) 13 = 23 + 5 n = 3 のときの 2n + 5 の値とみたとき1つ前は9、次は21。(オンライン整数列大辞典の数列 A168614) 2n + 5 の形の2番目の素数である。1つ前は7、次は37。(オンライン整数列大辞典の数列 A057733) 13 = 32 + 4 n = 2 のときの 3n + 4 の値とみたとき1つ前は7、次は31。(オンライン整数列大辞典の数列 A168609) 3n + 4 の形の3番目の素数である。1つ前は7、次は31。(オンライン整数列大辞典の数列 A102903) 13 = 51 + 8 n = 1 のときの 5n + 8 の値とみたとき1つ前は9、次は33。 5n + 8 の形の最小の素数である。次は2524354896707237777317531408904915934954260592348873615264892578133。(オンライン整数列大辞典の数列 A102910) 132 = 169 → 961 = 312 いかなるN進法で169とか961を表記しても、169及び961は必ず平方数となる。 平方した数を逆順に並び替えた数も平方数となる2番目の数である。1つ前は12、次は21。(オンライン整数列大辞典の数列 A035123) このような性質をもつ最小の素数である。次は31。 132 = 169、142 = 196 連続した整数の平方数の数字が同じ組み合わせになる最小の数である。次は157。(オンライン整数列大辞典の数列 A072841) 連続した整数の平方数の数字が同じ組み合わせになる最小の素数である。次は157。(オンライン整数列大辞典の数列 A175519) 13! = 6227020800 13 = 30 + 31 + 32 a = 3 のときの a0 + a1 + a2 の値とみたとき1つ前は7、次は21。 a0 + a1 + a2 の形で表される2番目のフィボナッチ数である。1つ前は3、次は21。 a0 + a1 + a2 の形で表される3番目の素数である。1つ前は7、次は31。 3の累乗和とみたとき1つ前は4、次は40。 素数 p = 3 のときの p0 + p1 + p2 の値とみたとき1つ前は7、次は31。(オンライン整数列大辞典の数列 A060800) 各位の和が13となるハーシャッド数の最小は247、1000までに5個、10000までに36個ある。 13, 14, 15 の3連続整数の3辺でできる三角形の面積が整数 (84) となる2番目の組である。1つ前は 3, 4, 5 、次は 51, 52, 53 。 2番目の六芒星数である。1つ前は1、次は37。 約数の和が13になる数は1個ある。(9) 約数の和1個で表せる7番目の数である。1つ前は8、次は14。 約数の和が奇数になる4番目の奇数である。1つ前は7、次は15。 各位の和が4になる2番目の数である。1つ前は4、次は22。 各位の和が4になる数で素数になる最小の数である。次は31。(オンライン整数列大辞典の数列 A062339) 奇数という条件をつけると各位の和が4になる最小の数である。 各位の平方和が10になる最小の数である。次は31。(オンライン整数列大辞典の数列 A003132) 各位の平方和が n になる最小の数である。1つ前の9は3、次の11は113。(オンライン整数列大辞典の数列 A055016) 各位の立方和が28になる最小の数である。次は31。(オンライン整数列大辞典の数列 A055012) 各位の立方和が n になる最小の数である。1つ前の27は3、次の29は113。(オンライン整数列大辞典の数列 A165370) 各位の積が3になる2番目の数である。1つ前は3、次は31。(オンライン整数列大辞典の数列 A034050) 各位の積が3になる数で素数になる2番目の数である。1つ前は3、次は31。(オンライン整数列大辞典の数列 A107689) 13番目の三角数は91で2桁の最大数になる。いいかえると自然数を1から13まで加えていくと2桁最大数になる。1つ前は3、次は44。(オンライン整数列大辞典の数列 A095863) 13 = 3 × 22 + 1 4番目のプロス数である。1つ前は9、次は17。 3番目のプロス素数である。1つ前は5、次は17。 13 = 22 + 32 異なる2つの平方数の和で表せる3番目の数である。1つ前は10、次は17。(オンライン整数列大辞典の数列 A004431) n = 2 のときの n2 + (n + 1)2 の値とみたとき1つ前は5、次は25。(オンライン整数列大辞典の数列 A001844) n2 + (n + 1)2 で表せる2番目の素数である。1つ前は5、次は41。(オンライン整数列大辞典の数列 A027862) 3番目の中心つき四角数である。1つ前は5、次は25。 n から始まる n 連続整数の平方和で表せる数である。1つ前は1、次は50。(オンライン整数列大辞典の数列 A050410) 13 = 22 + 9 n = 2 のときの 2n + 9 の値とみたとき1つ前は11、次は17。(オンライン整数列大辞典の数列 A188165) 2n + 9 の形の2番目の素数である。1つ前は11、次は17。(オンライン整数列大辞典の数列 A104070) 13 = 72 − 62 = (7 + 6) × (7 − 6) n = 7 のときの (n + 6)(n − 6) の値とみたとき1つ前は0、次は28。(オンライン整数列大辞典の数列 A098847) 5番目の幸運数の要素である。1つ前は9、次は15。 4番目の幸運数かつフィボナッチ数である。1つ前は3、次は21。 累乗数はもちろん1にもなり得ない3番目の幸運数である。1つ前は7、次は15。 幸運数自身のすべての約数が幸運数になる数としても5番目である。次は21。 13 の接頭辞:tredec(拉)、triskaideca または triskaideka(希) 13倍をトリーデキュプル (tredecuple) という。 英語でパン屋の1ダース (Baker's dozen) は、13 を表す表現。 英語では 13 から 19 までの数には語尾に“teen”(ティーン)が付く。そのため、10代の若者を「ティーンズ」「ティーンエイジャー」と呼ぶこともある。また、独語も同様に 13 から 19 までの数には語尾に“zehn”(10) が付く。 UTC+13は、キリバスの一部やサモア、トンガなどで採用されている標準時である。 13時は日本における時刻の24時間表記(24時制)で使用され、午後1時を指す。 カイコガの幼虫の体節数は13である。 13は、E24系列の標準数(寸法を選ぶ際の工業規格による基準値)。 バーコード規格であるEANの国コード13は、アメリカ合衆国、カナダ。 EAN規格における「標準バーコード」は13桁の数字で構成される。 JIS X 0401、ISO 3166-2:JPの都道府県コードの 13 は東京都。すなわち都道府県コードの番号順に都道府県を配列したとき、13番目は東京都。 トランプの各スートは13枚ずつ。また、13のカードはキング (K)。 麻雀の手牌の枚数は通常13枚。また、么九牌は13種類。全て集めると十三么九(国士無双)という役になる。手役の合計が13翻以上で数え役満とするルールもある。ほかにもローカル役満役として十三不塔という役がある。 囲碁ではしばしば十三路盤が使われる。 日本の刑法では、性的同意年齢が13歳とされており、13歳未満の児童への性行為は合意の上でも性犯罪と見なされる。実際には淫行条例により18歳未満の児童への性行為が禁止されている場合が多い。 日本のテレビ業界では、13週(=91日≒約3箇月)を1クールと呼ぶ。そのため、ドラマやアニメなどは13話を単位として作られることが多い。 ボクシングの世界王座連続防衛日本記録は具志堅用高の13度。 十三角形 第13族元素をホウ素族元素という。 原子番号13の元素は、アルミニウム (Al)。 小惑星番号13番の小惑星はエゲリアである。 第13代天皇は、成務天皇。 第13代内閣総理大臣は、桂太郎。 通算して第13代の征夷大将軍は、久明親王(鎌倉幕府第8代将軍)。 鎌倉幕府第13代執権は、北条基時。 室町幕府第13代将軍は、足利義輝。 江戸幕府第13代将軍は、徳川家定。 大相撲第13代横綱は、鬼面山谷五郎。 アメリカ合衆国第13代大統領は、ミラード・フィルモア。 殷朝第13代帝は、祖乙。 周朝第13代王は、平王。 ルイ13世は、ブルボン朝第2代フランス国王。 アルフォンソ13世は、ボルボン朝第二次復古における同朝としては9人目のスペイン国王。 ダライ・ラマ13世は、第13代のダライ・ラマ。 第13代ローマ教皇はエレウテルス(在位:175年 - 189年)である。 グレゴリウス13世は、第226代ローマ教皇。 レオ13世は、第256代ローマ教皇。 年始から13日目は1月13日。 イスラム教のクルアーンにおける第13番目のスーラは雷電である。 タロットの大アルカナで XIII は、死神。 易占の六十四卦で第13番目の卦は、天火同人。 13th Generation(第13世代)は、アメリカ合衆国において概ねジェネレーションXに該当する。同国の独立前より20年ごとに世代を区切った場合、「13番目の世代」に該当することから。 第十三国立銀行は1877年に鴻池家が開業した国立銀行。後に鴻池銀行に転換、さらに他銀行との合併により三和銀行→現・三菱UFJ銀行となっている。 音楽 交響曲第13番 ピアノソナタ第13番 弦楽四重奏曲第13番 憲法、法律の13条 アメリカ合衆国憲法修正第13条は同憲法の修正条項で、奴隷制を廃止しまたこれを継続すること、さらに「犯罪を犯した者」を制限のある例外付きとして自発的ではない隷属を禁じている。 日本国憲法第13条は同憲法第3章の条文の1つで、個人の尊重(尊厳)、幸福追求権及び公共の福祉について規定。 日本の刑法第13条は、禁錮について規定している。 日本の民法第13条は、保佐人の権限の範囲(同意を有する行為)等について規定している。 鉄道、道路の13号線 日本の一般国道13号は、福島県福島市から秋田県秋田市までを結ぶ。 阪神高速13号東大阪線 東京メトロ副都心線 - 計画当初、営団(現・東京メトロ)13号線。 軍隊関連の第13 各国の第13軍 各国の第13師団 各国の第13旅団 大日本帝国陸軍第13方面軍 第13連隊 大日本帝国陸軍歩兵第13連隊 陸上自衛隊 第13普通科連隊 第13特科隊 第13後方支援隊 フランス陸軍第13工兵連隊 忌み数: 西洋では 13 が忌み数とされている(『13 (忌み数) 』を参照)。なお、キリスト教圏でも忌み数としない地域が存在する。 上記のことに関連して、日本で使用される駐留軍の車のナンバープレートには、下2桁13の番号は払い出されない(希望番号を除く)。野球のメジャーリーグでは、背番号13はアレックス・ロドリゲスを初めとして中南米出身の選手を中心によく用いられている。 作品のタイトルや作中において、不吉さやダークさ、トリッキーさを象徴する数字として使用されることが多い。また、北欧神話やキリスト教の俗説などから「(13人目の)招かれざる客」という意味合いもある。 日本における忌み数4と9を足すと13になる。上述した十三塚や十三重塔における「13」という数は死者を象徴しているとする説がある一方、これらの存在を以て吉数とする見方もある。 中国の広東語圏では一般的に13は吉数である。これは十三の諧音が「實生」(実るという意)のためである。 ヨーロッパの国の中でも、イタリアでは13はラッキーナンバーとなっている。 アメリカ合衆国においても建国時の州数が13(独立十三州)であるため、かつては吉数とされていた。同国では国旗の縞の数の他、1ドル紙幣の裏面や国章にも13の数に因んだものが多く見受けられる。 ユネスコの世界文化遺産に登録された、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた絵画『最後の晩餐』には13人が描かれている。 マヤ文明の代表的な長期暦は13バクトゥンを一つのサイクルとしている。また、より小さい暦ではツォルキン暦における係数を13までとするなど、マヤにとって13は特別な数の一つである。 ユダヤ教において13は聖数とされる。 十三仏(十三佛)は、日本で考えられた冥界の審理に関わる13の仏。 これに関連した霊場・巡礼行として伊予十三仏霊場、おおさか十三仏霊場、大和十三仏霊場、京都十三仏霊場などがある。 十三塚は、日本各地にある民間信仰による土木構造物。 大阪 - 奈良の十三峠および俊徳街道・十三街道の名称はこれに由来する。 十三重塔 談山神社(旧・多武峯妙楽寺)にある多重塔で、国の重要文化財に指定されている。現在の塔は1532年(享禄5年)の再建だが、世界で唯一現存する木造十三重塔である。 この他、石造の十三重塔は浮島十三重塔など複数現存しており、このうち国の重要文化財に指定されているのは18塔である。 諏訪大社上社の古文献の中で、神社(神名)を十三所にまとめた記述がある。後に中・下の各々十三所が追加され全部で三十九所となるが、本来の最初の十三所を「上の十三所」という。なお、十三は1年の12ヶ月に閏月を足した数とされる。 十三箇所巡礼 相模国十三社(巡り)は旧相模国延喜式内社の13社、およびその巡礼行。なお、式内社の数が13の旧令制国としては他に淡路国がある。 信濃国十三社巡りは、旧信濃国の13の神社における巡礼行。 神社の名称 十三神社は、和歌山県海草郡紀美野町に鎮座する神社。当社および摂社二社の本殿(計三社殿)が国の重要文化財に指定されている。 十三騎神社は、秋田県南秋田郡五城目町に鎮座する神社。 十三社神社は、東京都新島村本村(新島)に鎮座する伊豆諸島最大規模の神社。 十三所社は、山梨県南アルプス市上今諏訪に鎮座する神社。諏訪大社上社の摂末社、上・中・下の十三所社に由来する(上社を模して勧請した)ものと考えられる。 十三戎神社(とみえびすじんじゃ)は、大阪市淀川区十三東に鎮座する神津神社の境内社(摂社)。 十三回忌は、没後、12年目の祥月命日。 結婚13周年記念日は、レース婚式。 旧暦9月13日の月見を十三夜、この夜の月を豆名月または栗名月という。 サツマイモの売り言葉として、「栗より美味い十三里」がある。「栗」は九里、「より」が四里にかかっており、足すと十三里になる。由来などの詳細は「サツマイモ#文化」を参照。 くし屋の名称として東京や京都に「十三や」がある。くしの語呂合わせである数字の九四は「苦死」に通じて縁起がよくないため、足して十三としている。 京都周辺など関西を中心とした一部地域では、子供が数え年で13歳になると「十三詣り」という祝い事をする。 沖縄県では、子供が数え年で13歳になると家族や周囲が「十三祝い」という祝い事をする。生年祝い(トゥシビー)の一つ。 十三湖(じゅうさんこ)は、青森県にある湖。 十三湊は、中世から近世にかけて十三湖周辺にあった湊。湖の西岸に残されている十三湊遺跡に当たる。 道の駅十三湖高原は、国道339号における青森県五所川原市の道の駅。 十三村は、青森県にかつてあった村(1955年の合併により廃止)。 十三は、青森県五所川原市の大字。 十三(じゅうそう)は、大阪市北部の淀川区にある地名。→阪急電鉄十三駅 主に十三駅の西側、十三本町一丁目を中心とした繁華街を指す。十三東など周辺の住宅地を含む場合もある。 十三信用金庫は、十三本町に本店を置いていた信用金庫。現在の北おおさか信用金庫。 十三戎神社(とみえびすじんじゃ)は十三東に鎮座する神津神社の境内社(摂社)で、今宮戎神社より勧請されたもの。毎年1月には「十三戎祭」が催されている。 道路の名称として十三筋、十三バイパス、橋の名称として十三大橋、新十三大橋などがある。鉄道関係では十三線も参照。 十三日町は、青森県八戸市にある地名。 十三塚原は、鹿児島県に広がる台地。 十三浜村は、宮城県にかつてあった村(1955年の合併により廃止)、現在の石巻市北上町十三浜。 十三峠は、大阪府八尾市と奈良県生駒郡平群町の境にある峠。上述の通り、峠付近に現存する十三塚に由来。 十三本木峠は、岩手県二戸郡一戸町南部の峠。 タイトル 『サーティーン あの頃欲しかった愛のこと』は、原題が“Thirteen”のアメリカ映画。 『13日の金曜日』は、アメリカのホラー映画。 『十三人の刺客』は、1963年と2010年に公開された時代劇日本映画。 『レベル・サーティーン』(LEVEL THIRTEEN)は、2006年に公開されたタイのホラー映画。 『サーティーン・ボーイ 僕は札束中学生』は、TBS系列で放送されたテレビドラマ。 『サーティーン』は、イギリスのロックバンド、ティーンエイジ・ファンクラブの1993年のアルバム。 『13』は、イギリスのロックバンド、ブラーの1999年のアルバム。 『13』は、アメリカのミュージシャン、ブライアン・セッツァーの2006年のアルバム。 『This is Thirteen』は、カナダのヘヴィメタルバンド、アンヴィルの2007年のアルバム。 『13 (サーティーン)』は、日本のロックバンド、SADSのアルバム。 『サーティーン』は、アメリカのヘヴィメタルバンド、メガデスの2011年のアルバム。 『13』は、イングランドのヘヴィメタルバンド、ブラック・サバスの2013年のアルバム。 『ゴルゴ13』は、さいとう・たかをの劇画およびその主人公。 『XIII サーティーン〜大統領を殺した男〜』は日本のゲームソフト。 『十三支演義 〜偃月三国伝〜』は日本のゲームソフト。「三国志」をテーマにした恋愛アドベンチャーゲーム。 『13階段』は高野和明の長編ミステリー小説、およびこれを題材にした映画作品。 『十三番目のアリス』は伏見つかさ著(イラスト:シコルスキー)のライトノベル作品。 『パラドックス13』は東野圭吾のSFサバイバル小説。 『十三の呪』は三津田信三のホラー小説。 『十三回忌』は小島正樹の推理小説。 『13歳のハローワーク』は村上龍の書籍。また、これを題材にしたゲームやドラマ作品がある。 作品内に登場 「十三妹」は、中国・清代末期に書かれた武侠小説『児女英雄伝』の登場人物、およびこの人物を題材とした作品。 「第13独立部隊」は、アニメ『機動戦士ガンダム』に登場する架空の部隊。 「13th Racing」は、ゲーム『リッジレーサー』シリーズに登場する架空の車名。 十三騎士団 「聖槍十三騎士団」はアダルトゲーム『Dies irae -Also sprach Zarathustra-』に登場する架空の敵組織(軍団)。 「ローマ正教十三騎士団」は鎌池和馬のライトノベル『とある魔術の禁書目録』及び、これを原作としたアニメ・漫画作品に登場する架空の宗教組織「ローマ正教」内の騎士団。 日本の人名に、十三(「じゅうぞう」など)もしくは一三(「かずみ」「いちぞう」など)がある。 伊丹十三(いたみ・じゅうぞう)は『タンポポ』(1985) や『マルサの女』(1987) の映画監督。 田中十三(たなか・じゅうぞう)は撮影技師、「日本キネマ撮影所」(双ヶ丘撮影所)を設立した。 高橋一三(たかはし・かずみ)は、元プロ野球選手。アニメ『巨人の星』において、主人公星飛雄馬の巨人入団以降におけるピッチングフォームのモデルにもなった。 小林一三(こばやし・いちぞう)は阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者として知られる実業家。 一三(いちぞう)は日本の俳優・タレント、以前は本名の屋宮一三で活動していた。 ペンネームとして所十三(ところ・じゅうぞう)、やまさき十三(じゅうぞう、本名に由来)、海野十三(うんの・じゅうざ、または じゅうぞう)などがある。 十三里信号場(旧・十三里駅)は、北海道夕張市紅葉山にある信号場。 十三号街駅は、中国遼寧省瀋陽市鉄西区の駅。 13トリソミーは、13番染色体における染色体異常の一種。 横浜ブルク13は、横浜市中区の桜木町駅近くにあるヒューリックみなとみらいの映画館(ティ・ジョイ運営)。開業時点で13スクリーンを持つ。 株式会社十三は損害保険事業、不動産開発・管理事業、カーリース事業を行う会社。1980年、日産火災海上保険の専属代理店として創業。 十三の窓があり「十三窓席」と俗称される小堀遠州作の茶室「擁翠亭」が、京都市にある。 「Afro13」は、佐々木智広が結成した劇団。 明の十三陵は、中国・明代の皇帝、后妃の陵墓群。 広東十三行は、中国・清代の広州において外国貿易を独占した商人団。 十三勢は、中国武術の一つである太極拳の基本武功。 十三年戦争は、1454年からの13年間にプロシア連合とドイツ騎士団国の間で行われた戦争。 十三翼の戦いは、モンゴル帝国の祖チンギス・ハーンとジャムカの戦い。 13年ゼミは、アメリカ合衆国東部に生息する周期ゼミ。13年周期で発生し4種存在する。 アポロ13号は月への途上にトラブルを起こしたが、奇跡的に地球に生還した。 十三号型巡洋戦艦は、起工前に全隻建造中止となった大日本帝国海軍の巡洋戦艦。 伊号第十三潜水艦は、大日本帝国海軍の潜水艦。 X-13は、アメリカの垂直離着陸 (VTOL) 実験機。 各種のC13 十三星座:十二星座に蛇使い座を加えた星座。また、占星術において「十三星座占い」が使用されることもある。 十三経:易・書・詩・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝・論語・孝経・爾雅・孟子 日本の自動車十三大メーカー:トヨタ・日産・ホンダ・三菱・マツダ・スバル・スズキ・ダイハツ・光岡・日野・いすゞ・三菱ふそう・UDトラックス 行政区画・植民地 13植民地→独立十三州:アメリカ合衆国の独立時の州。それに因んで、アメリカ合衆国の国旗の縞は13本となっている。 十三道制:李氏朝鮮の地方行政区画。13道による構成はその後の大韓帝国、日本統治時代にも引き継がれた。 宗派・教派 中国十三宗:中国で栄えた仏教における13宗派の総称。 十三宗五十六派:宗教団体法施行(1940年)以前で、日本における仏教の成立に大きく関わる大本の宗派。 神道十三派:明治時代から1945年の宗教団体法廃止までにおける日本政府公認の神道教派13派。 13人によるもの アッシリア十三士:キリスト教信仰強化のため6世紀にメソポタミアからグルジアに派遣された13人の修道士。 十三人の合議制:鎌倉時代初期における有力御家人十三人による合議制。 吉田13人衆:内閣総理大臣・吉田茂の主力側近グループ13人を指す。 ^ 吉野裕子『陰陽五行と日本の歴史』(大和書房) ^ 十三仏霊場(鳴門観光興業) ^ 十三重塔 Archived 2012年10月31日, at the Wayback Machine.(談山神社公式サイト) ^ 十三重塔いろいろ[リンク切れ](徒然なるままに) ^ 諏訪大社上社:十三所(上十三所・中十三所・下十三所)(諏訪大社と諏訪神社 from八ヶ岳原人版) ^ 信濃國十三社巡り(玄松子の記憶) ^ 十三神社(神社ふり〜く) ^ 十三神社・神野宮(神奈備) ^ 十三社神社(東京都神社庁) ^ 十三所社(山梨県神社庁) ^ 櫛の十三や 東京と京都 どっちが本家?(木のメモ帳:木あそび) ^ 十三湊遺跡(五所川原市ホームページ) 数に関する記事の一覧 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 13 26 39 52 65 78 91 104 117 130 西暦13年 紀元前13年 1913年 2013年 13世紀 - 平成13年 昭和13年 大正13年 明治13年 - 1月3日 13月(13の月の暦、Undecimber) 名数一覧" ]
ABC01-02-0285
日本の劇場で、特に能や狂言を専門に執り行う劇場のことを何というでしょう?
能楽
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[ "能楽", "浄瑠璃", "長唄", "筑前琵琶", "仕舞" ]
[ "能楽(のうがく)は、日本の伝統芸能であり、式三番(翁)を含む能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。 江戸時代までは猿楽と呼ばれていたが、1881年(明治14年)の能楽社の設立を機に能楽と称されるようになったものである。明治維新により、江戸幕府の式楽の担い手として保護されていた猿楽の役者たちは失職し、猿楽という芸能は存続の危機を迎えた。これに対し、岩倉具視を始めとする政府要人や華族たちは資金を出し合って猿楽を継承する組織「能楽社」を設立。芝公園に芝能楽堂を建設した。この時、発起人の九条道孝らの発案で猿楽という言葉は能楽に言い換えられ、以降、現在に至るまで、能、式三番、狂言の3種の芸能を総称する概念として使用され続けている。 江戸幕府の儀式芸能であった猿楽は、明治維新後家禄を失ったことにより他の多くの芸能と同様廃絶の危機に瀕した。明治2年(1869年)にはイギリス王子エディンバラ公アルフレッドの来日に際して猿楽が演じられたが、明治5年(1872年)には能・狂言の「皇上ヲ模擬シ、上ヲ猥涜」するものが禁止され、「勧善懲悪ヲ主トス」ることも命じられた。 しかし、明治天皇は明治11年(1878年)に青山御所に能舞台を設置し、数々の猿楽を鑑賞した。また欧米外遊の際に各国の芸術保護を実見した岩倉具視は、華族による猿楽の後援団体設立に向けて動き始め、明治12年(1879年)にユリシーズ・グラントを自邸に招いて猿楽を上演させ、更に能楽社(のちの能楽会)の設立や明治14年(1881年)落成の芝能楽堂の建設を進めた。この時、能楽社の発起人九条道孝らの発案で猿楽を能楽と言い換え、「猿楽の能」は「能楽の能」と呼ばれることになる。 明治維新後他の多くの芸能が絶えたなか、名称を能楽と言い換え猿楽の危機は過ぎ去った。だが、やがて各流派はお互いに排他的姿勢を見せるようになり、流派間の交流や共演は消滅していった。 その後、日中戦争が起こって戦時体制に入ると、皇室を多く題材とした能には厳しい目が注がれるようになり、昭和14年(1939年)、警視庁保安課は不敬を理由に「大原御幸」を上演禁止とした。その一方で、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦を題材とした新作能も作られるようになった。 第二次世界大戦の敗戦は、能の世界に大きな転機をもたらした。戦災によって多くの能舞台が焼失したため、それまで流派ごとに分かれて演能を行っていた能楽師たちが、焼け残った能舞台で流派の違いを超えて共同で稽古を行い始めたのである。そのため、若手の能楽師たちは他流派の優秀な能楽師からも教えを受けることが多くなり、大いに刺激を受けるようになった。観世銕之丞家の次男であった観世栄夫はこの時、観世流と他流の身体論の違いに大きな衝撃を受け、結果的に芸養子という形で喜多流に転流して後藤得三の養子となり、後藤栄夫を名乗った。また栄夫の弟で八世観世銕之丞となった観世静夫も、この時期の他流との交流開始の衝撃の大きさを語っている。 この時期にこうした交流の場となった能舞台としては、多摩川能舞台(現在は銕仙会能楽研修所に移築)などが挙げられている。 カマエとは能楽独特の立ち方のことで、膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢である。カマエは観阿弥や世阿弥の時代には成立していなかったと考えられている。文献上でカマエに類似したものが現れるのは16世紀末に書かれた『八帖本花伝書』の巻五で、ここでは「胴作り」の名称で、男役の姿勢としてカマエに似たものが絵図付きで示されている。カマエが男役だけでなく女役も含めて全ての能楽の役の姿勢の基本とされるようになったのは、江戸後期頃と考えられている。またハコビと併せ、こうした能楽の身体技法には日本の武術の身体技法の影響も大きいと考えられている。 能楽は型(演技等の様式、パターン)によって構成されている。所作、謡、囃子、全てに多様な型がある。しかしここでいう型は、いわゆる舞や所作の構成要素としての型である。型の基本は摺り足であるが、足裏を舞台面につけて踵をあげることなくすべるように歩む独特の運歩法で(特にこれをハコビと称する)ある。また能楽は、歌舞伎やそこから発生した日本舞踏が横長の舞台において正面の客に向って舞踏を見せることを前提とするのに対して、正方形の舞台の上で三方からの観客を意識しながら、円を描くようにして動く点にも特徴がある。能舞台は音がよく反響するように作られており、演者が足で舞台を踏む(足拍子)ことも重要な表現要素である。 以下に能の型の例を示す。 シカケ(サシコミ) すっと立ち、扇を持った右手をやや高く正面にだす。 ヒラキ 左足、右足、左足と三足(さんぞく)後退しながら、両腕を横に広げる。シカケとヒラキを連続させる型をシカケヒラキ(サシコミヒラキ)と呼ぶ。 左右(さゆう) 左手を掲げて左に一足ないし数足出た後、右手を掲げて右に一足ないし数足出る型。 サシ 右手の扇を横から上げて正面高くに掲げる型。 シオリ 目の前に手を差し出す。泣くことを示す。 拍子(ひょうし) いずれかの足を上げ、舞台を踏む。 留メ拍子(とめびょうし) 一曲の終わりにはっきりと2回踏む。仕手が踏むこともワキが踏むこともある。 基本的には能も狂言も同じであるが、実世界に題材を求めた世俗的な科白劇でありリアルな表現の狂言に対し、超自然的なものを題材とした抽象的な表現を重視する能とではそれなりの違いがあり、これら種々の型の連続によって表現される所作のまとまりを能の舞と呼んでいる。 能の舞は型の連続であり、他の舞踊に見られる当て振りほとんど行われず無駄を削ぎ落とした極めてシンプルな軌跡を描き静的であるという印象が一般的だが、序破急と呼ばれる緩急があり、ゆっくりと動き出して、徐々にテンポを早くし、ぴたっと止まるように演じられる。稀に激しい曲ではアクロバテックな演技(飛び返りや仏倒れなど)もある。しかし止まっている場合でもじっと休んでいるわけでなく、いろいろな力がつりあったために静止しているだけにすぎず、身体に極度の緊張を強いることで、内面から湧き上がる迫力や気合を表出させようとする特色も持っている。 能では一曲のクライマックスでの表現として、謡が中心となった「クセ」などでの舞や、囃子のみで舞われる「舞事」が演じられる。「舞事」は以下のように分類される。 それぞれ太鼓の入った「太鼓物」や、太鼓の無い「大小物」がある。(後述の囃子の項目も参照) 呂中干(りょちゅうかん)の舞 定型の譜(呂中干の譜)を繰り返しながら、途中で段落や変化をつけた曲で、いろいろな役柄が舞う。 中テンポの「中之舞」や、ゆっくりとした「序之舞」、急テンポの「急之舞」、「男舞」「早舞」「神舞」などがある。 楽(がく) 中国を舞台とした曲で神仙役の者が舞う。楽人役の仕手が舞うこともある(「鶴亀」「天鼓」など)。 神楽(かぐら) 脇能(仕手が神仏の役を演じる曲)で舞われる。神がかりした女性役の舞。太鼓物。 舞ほど長くないが舞台を一巡する所作で仕手の品位や勢威、内面心理を表現する囃子事もあり総称して「働事」と呼ばれている。 舞働(まいはたらき) 竜神などが勢威を示すための曲。太鼓物。 翔(かけり) 武人(修羅)や狂女が演じる曲。大小物。 狂言の舞踏も能と共有する技術が多く舞うというにふさわしいが、日常を描くことの多い狂言では当然日常的な所作や具体性を帯びた演技も多く、身体を上下に動かす所作もあり踊りに近い発想も見られる。狂言の舞と型の一例を演出用語として分類し下記する。 上げ足(あげあし) 足を膝を高く上げ、一歩一歩踏みしめるようにする歩き方。鬼や山伏の歩きかたを表現する。 安座(あんざ) あぐらをかくこと。 一巡(いちじゅん) 舞台を三角にひとまわりすること。道行く動作。 浮く(うく) 浮かれるようにする型。左右の足を交互に上下させながら上半身をやわらかにゆるがす。 三段之舞(さんだんのまい) 脇狂言や聟狂言などに用いられる舞の名称。 シャギリ(しゃぎり) 笛だけで演奏する曲で、車切・砂切の字をあてる。 連舞(つれまい) 二人以上の演者が同じ舞を舞うこと。 水鏡(みずかがみ) 水面に自分の姿を映すときの型。 三つ拍子(みつびょうし) 踏み込むように三つ踏む狂言特有の足拍子。 能における声楽部分である謡を謡曲と言い、大別するとシテ、ワキ、ツレなど劇中の登場人物と、「地謡(じうたい)」と呼ばれる8名(が標準だが、2名以上10名程度まで)のバックコーラスの人々である。劇中の登場人物の謡はそのまま登場人物の科白となる。一方、地謡は登場人物の心理描写や情景描写を担当しているが、場合によってはシテの感情を代弁してうたうこともあり、シテ・ワキ・ツレ・地謡が掛け合いをするケースもある。 地謡は地謡座で前後二列になり、舞台を向いて座る。各々扇を持っており、謡う際にはそれを構え、休みの際には下ろす。地謡は地頭(じがしら)と呼ばれる存在がコンサートマスターのような役割を果たしており、以前は一番左前に座していたが、全体を統率するために後列中央に位置するようになった。 能と違って、科白劇である狂言ではいつでも地謡や囃子方が登場するわけではない。必要な演目の必要な部分にだけ出演するという形を取る。また舞台後方に4人程度が並ぶことが多い。翁のときだけは囃子方の後方に座る。 新作能を除くと謡に用いられている言葉は室町期の日本語である。謡は節回しのある部分(フシ)と節回しのない部分(コトバ)とに分けることができる。節のある部分には拍子合と拍子不合がある。コトバは通常の科白、対話に相当し、候文体で語られ、役を演じる者(シテ、ワキ、ツレ)だけが発声する。コトバであっても、現代人の感覚からすればかなり大げさな抑揚がついており、しかもその抑揚が型として固定している点である。能におけるすべての言語表現には、いかにこれを発話・歌唱すべきかという楽譜(謡本)があらかじめ用意されているが、細かい点は師伝により習得される。地謡はかならず節のある謡をうたう。また役を演じる者同士の対話であっても、ある点までコトバのやりとりであったものが、役柄の感情の高潮によって途中から節のついた謡へと切替わることが少なくない。 謡とは、八世観世銕之亟によれば「七五調を基本にした長い詩」である。七五調で書かれた12文字を一行として、八拍子でうたわれる。ただし八拍子から外れたリズムで謡われる部分もある。「拍子合」(ひょうしあい)では、拍子に当たる文字と拍子に当たらない拍子の間の文字が交互にくるために、八拍子には16文字が入るわけであるが、標準的な七五調で2拍3文字(+1字分の「モチ」と呼ばれる伸ばした部分)で謡うのを「平ノリ」(ひらのり)、1拍2文字で文字が続いて(モチが減って)強弱のノリがつく部分を「中ノリ(修羅ノリ)」、1拍1文字で謡うのを「大ノリ」と呼ぶ。八拍子から外れているリズムの謡は「拍子不合」(ひょうしあわず)と呼ばれる。拍子不合の謡では、節回しを大きくたっぷり謡い、節の無いところはすらすら謡う。また拍子不合であっても、謡と囃子は全く無関係ではなく、おおよその寸法や位、雰囲気などにおいて絶妙な関係を保っている。 後述する「能の略式演奏」では、囃子方を伴わずに謡う場合も多く、そのときは拍子を意識しないでかなり自由に謡える。これを「素謡」といい、囃子にあわせて謡う「囃子謡(拍子謡)」と区別している。素謡では、いわゆる「モチ」を省いたり、拍子不合の謡のように節回しをやや大きく謡うことが行われている。仕舞謡では、足拍子のある部分を拍子謡で謡う以外は素謡として謡う。しかし囃子謡であっても、拍子の縛りの中でもなるべく節を大きく謡い、「モチ」はなるべく目立たないように謡うのが上手い謡い方とされている。また囃子の手の名称から、厳密にモチをつけて謡う「ツヅケ謡」と、モチを謡わなくても囃子が合わせられる「三地謡(みつじうたい)」に区別されている。 能の発声法は、もちろん演者により様々な個性があるが、分厚い声を出すことや子音を長く謡おうとするところに特徴がある。「上の声と下の声を同時に出す」といわれ、音階は上の声で表現するが、下の声で声の厚みや迫力、安定感を表現する。謡は場面によって「弱吟」(よわぎん)と「強吟」(つよぎん)の2種類に分かれている。同じく八世観世銕之亟によると、「弱吟」は細かい音階をもつメロディアスな表現、「強吟」は音の迫力を強調した表現とされる。「弱吟」と言っても弱く謡うわけでない。室町時代の能は弱吟のみで演奏されていたが、江戸時代になって音階が簡素化され、強吟の謡い方が考え出された。弱吟では、上音・中音・下音という基本音、上音の上にクリ音、甲グリ音(かんぐりおん)、下音の下に呂音があり、上音・中音にはウキ(浮き)音、中音・下音には崩し(くずし)音、このように様々な音階とそれを組み合わせた節がある。強吟では上音・中音と中音の崩(下の中音)・下音とが同音階になって、ウキ音が無くなるなど簡略化されているが、独特のはねあげるような節がある。 能楽囃子に用いられる楽器は、笛(能管)、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおつづみ、おおかわ、大皮とも称する)、太鼓(たいこ、締太鼓)の4種である。これを「四拍子」(しびょうし)という。雛祭りで飾られる五人囃子は、雅楽の場合もあるが、能の場合の5人は、能舞台を見るときと同じで、左から「太鼓」「大鼓」「小鼓」「笛」「謡(扇を持っている)」である。小鼓、大鼓、太鼓はこれを演奏する場合には掛け声をかけながら打つ。掛け声もまた重要な音楽的要素であり品位や気合の表現で、流派によってもいろいろであるが、「ヤ声」(ヨーと聞こえる)は主に第1拍と第5拍を示すために使われ、それ以外の拍は「ハ声」(ホーと聞こえる)を用いる。「イヤ」は段落を取るときと掛け声を強調するときに奇数拍で使われ、「ヨイ」は段落を取る直前の合図と掛け声を強調するときに主として第3拍で使われる。 一曲のうちには、「謡のみによって構成される場面」「謡と囃子がともに奏される場面」「囃子のみが奏される場面(登場人物が出てくるときの登場楽や、上記の「舞」や「働」である)」の3つが複雑に入り組んでいる。概していえば囃子が謡とともに奏される場合には謡の伴奏的な役割をはたす。また現在では能が始まる合図として、橋がかりの奥にある「鏡の間」で囃子方が音出しを行う「お調べ」が用いられている。 狂言では囃子は常に登場するわけではなく、狂言アシライという言葉もあるように音量的に柔らかく控え目に囃し、舞台の邪魔にならないような心配りもある。 笛(能管) 能管は、竹製の横笛で、歌口(息を吹きこむ穴)と指穴(7つ)を持ち、表面を桜樺・漆で覆っている。同じ指押さえで吹き方を変える事により、低めの「呂の音」と、高めの「甲(かん)の音」を出す事が出来る。歌口と指穴の間の管の内にノドと呼ばれる細竹を嵌めこんであり、これによって龍笛・篠笛など他の横笛とは異色の、能楽独特の高音(「ヒシギ」)を容易に発することができる。またこのノドの存在により、能管は安定した調律を持たない。これもまた能管の大きな特徴となっている。 能管は「四拍子」のなかでは唯一の旋律楽器であるが、基本としては打楽器的な奏法を主としている。つまり拍子にあったところで節やアクセントをつける吹き方をする。囃子のみによる舞(序之舞、中之舞など)の演奏の場合には拍子にあった旋律を吹くが、謡にあわせるときや登場楽の多くには拍子に合わないメロディーを吹く。これを謡につきあうという意味で「アシライ」という。 小鼓(こつづみ) 小鼓は、桜製の砂時計型の胴に、表裏2枚の革(馬革を鉄製の輪に張ってある)を置き、麻紐(「調緒(しらべお)」という)で締めあげた楽器である。左手で調緒を持ち、右肩にかついで右手で打ち、調緒のしぼり方、革を打つ位置、打ち方の強弱によって音階を出すことが出来るが、能では4種類の音(チ、タ、プ、ポ、という名前がつけられている)を打ちわける。演奏にはつねに適度な湿気が必要で、革に息をかけたり、裏革に張ってある調子紙(和紙の小片)を唾でぬらしたりして調節する。「翁」を演じるときには3名の連調となる。 大鼓(おおつづみ) 大鼓は、小鼓と区別するために大皮(おおかわ)とも呼ばれるが、材質、構造はほぼ小鼓に等しく、全体的にひとまわり大きい。左手で持って左膝に置き、右手を横に差し出して強く打ちこむ。小鼓と違い左手で調緒の調節をしないために、音色の種類は、右手の打ち方によって分けている。右腕を大きく上げて強く打つ音(チョン)、弱く打つ音(ツ)、抑える打ち方(ドン)。チョンとツの中間に「チン」がある流派もある。型ぶりに反して全体に小鼓より高く澄んだ音を出す。 湿気を極度に嫌うので、革は演奏の前に炭火にかざして乾燥させる必要がある。太く長い調緒を使って張りつめた皮を素手で打つのは大変痛い(元来は素手で打つべきとの主張もある)ので、中指や薬指に「指皮」をはめ、掌(てのひら)に「当て皮」をつける。。大鼓の流儀は小鼓のそれから派生したもので、同流の小鼓が打ちやすいように手(譜)が考慮されている 太鼓 太鼓は、いわゆる締太鼓のことで、構造は基本的に鼓とかわらない。革は牛革で、撥の当たる部分に補強用の鹿革を貼ることが多い。撥は2本で、太鼓を台に載せて床に置き(この台を又右衛門台という)、正座した体の前で打つ。音は響かせない小さな音(押さえる撥・ツクツク)と響かせる大きな音(小の撥、中の撥、大の撥、肩の撥・テンテン)の2種で、四拍子のリズムを主導する役割を担う。 太鼓が入るのは基本的に死者の霊や鬼畜の登場する怪異的な内容の曲のみで、そのほかの場合には笛と大小の鼓のみで演じる(この場合には大鼓がリズムの主導役を担う)。前者を「太鼓物(太鼓入りもの、四拍子もの)」、後者を「大小物」と呼んで区別する。 以上のほかに、舞台上でシテが鉦鼓(しょうこ)を鳴らす場合もある(『隅田川』『三井寺』)。多くは鐘の音や念仏の鉦鼓の音を表現するためだが、この場合もやみくもに打つのではなく、決まった譜がある。また新作能においては、これら囃子方以外の音楽家が背景音楽の演奏に加わることもある(「伽羅沙」でのキリスト教の賛美歌やパイプオルガンなど)。 能面は「のうめん」と読むが、面とだけ書けば「おもて」と読むのが普通。様々な種類がある。超自然的なものを題材とした能では面をつけることが多いが、面をつけない直面物もある。狂言では、登場する人物は現世の人間であり通常は面はつけず仮面劇とは言えないが、人間以外のものを演ずる場合などでは面をつける。 今日では装束も様式化され、使用法が厳格に定められている。例えば色においても、白は高貴なもの、紅は若い女性を示す。また中世や近世から能楽師の家に伝わる装束も多い。なお、能の装束が現在のように絹の色糸をふんだんに使った豪華なものとなったのは江戸期である。その背景には、江戸期における織物技術の発達、将軍家をはじめとする為政者の潤沢な資金の流入がある。一方狂言の装束は麻が中心である。 舞台に乗せる道具類で、予め作って保管しておくものを「小道具」、演能の度に作る物を「作リ物」と呼ぶ。作リ物は比較的大きな物が多く、舟、車、塚、屋台等を表す。作リ物は極端なまでに簡略化され、例えば「舟」は竹ヒゴ製模型飛行機の主翼を大きくしたようなものに過ぎないが、能楽にはこれで十分である。大きな作リ物としては、『道成寺』の鐘がある。これは中でシテが装束を替えられるだけの大きさがある。かつてはこれら作リ物類を製作する「作物師」という専門の役割があったが、現在はシテ方の担当になっている。 能楽を演ずる者には能楽協会に所属する職業人としての能楽師(いわば玄人)の他、特定の地域や特定の神社の氏子集団において保持されている土着の能・狂言・式三番を演じる人々、能楽協会会員に月謝を払って技術を学ぶ素人(アマチュア)の愛好家、学生(大学・高校)能サークルが存在する。アマチュアの愛好家の中には能楽を職業とする、いわゆる玄人に転ずる者も見られる。 能楽協会会員、すなわち能楽を職業とする能楽師およびアマチュアの彼らの弟子たちの職掌は、「シテ方」「ワキ方」「囃子方」「狂言方」の4種類に分けられる。「囃子方」の中には更に「笛方」「小鼓方」「大鼓方」「太鼓方」の4種類の技能集団がある。「ワキ方」「囃子方」「狂言方」は「三役」と呼ばれる。これらの技術は歴史的に数多くの流派を生み出してきたが、現在までに廃絶した流派も存在している。通常、ある流派を学んでいる人が他の流派に移ることは無いが、ごく稀に例外として分派独立を許される者(江戸期における喜多流の分派)や、各流派の宗家の了承を得て移籍を果たす者(観世栄夫;観世榮夫、喜多流時には後藤榮夫)も見られる。 各流派の最高指導者は宗家と呼ばれる。宗家は他の伝統芸能における家元に相当する。また各流派には宗家以外にも江戸期に各地の大名家に仕えて能楽の技術指導を行ってきた由緒ある家柄が存在しているが、こうした家を職分家と呼ぶ。宗家の権力は強大であるが、時に職分家集団によって無力化されることがあり、近年では喜多流の職分家集団が一斉に喜多流宗家の主宰する「喜多会」を離脱し、喜多流職分会として事実上喜多流を運営しているし、和泉流においても十九世宗家の和泉元秀の嫡男である和泉元彌の宗家継承が認められず、最終的に能楽協会退会に追い込まれる事態となった。 何らかの事情で宗家が存在しなくなった場合には、一門中の有力者が「宗家預り」として宗家の代行を務める。また宗家が何らかの事情で宗家としての仕事を遂行出来なくなった場合には、「宗家代理」が立てられることもある。 能楽は、俳優(「シテ(仕手/為手)」)の歌舞を中心に、ツレやワキ、アイ狂言を配役として、伴奏である地謡や囃子などを伴って構成された音楽劇・仮面劇である。舞と謡を担当し、実際に演技を行うのがシテ方、ワキ方および狂言方であり、伴奏音楽を担当するのが囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方)である。 能では、シテ方が中心的存在であり権限も大きいが、シテ方やワキ方だけでは実際の演奏はできず、囃子方、狂言方の協力が不可欠である。通常、ワキ方、囃子方、狂言方を総称した呼び方の「三役」に、シテ方より役目の依頼をかける。 能の主人公は「シテ(為手、仕手)」と呼ばれる。多くの場合、シテが演じるのは神や亡霊、天狗、鬼など超自然的な存在であるが、生身の人間を演じることもある(『安宅』における弁慶など)。シテが超自然的な存在を演じる曲を夢幻能、シテが現実の人間を演じる曲を現在能と呼ぶ。 シテを演じるための訓練を専門的に積んでいる能楽師をシテ方と呼ぶ。シテ方が演じるのはシテの他、ツレ、トモである。また、一般に子方はシテ方としての訓練を受けている最中の子供が演じる。これら能の登場人物の他、地謡と後見もシテ方の担当である。 シテにかかわりのある登場人物のうち、主だったものをツレ、物語の筋に深く関係を持たない端役的なものをトモ、トモのうち単に大人数を舞台に出すことを目的として登場する役を立衆(たちしゅう)と呼ぶ。このうちツレには『蝉丸』『大原御幸(おはらごこう)』のように、ごくまれに仕手とほぼ同格と言える重要な役割を持つものがあり、このような能を「両ジテもの」と称する。ツレ以下が存在しない能もある。 能のシテ方は、狂言には参加しない。 シテとともに能に不可欠な登場人物がワキである。ワキを演じる為の訓練を専門的に積んでいる能楽師をワキ方と呼ぶ。ワキはシテの思いを聞き出す役割を担う。その為、ワキは僧侶役であることが非常に多い。また、その役割は上記のとおり一方的にシテの言うところを受けとめるものなので、舞台上で華々しい活躍を見せることはめったにない。その役柄故、舞台上では坐っていることがほとんどなので、「ワキ僧は煙草盆でもほしげなり」という川柳も詠まれている。なお、ワキにつくツレを「ワキツレ(ワキヅレ)」という。多くの場合シテにおけるトモに近いものである。 ワキおよびワキツレはワキ方が演ずる。ワキ方はシテ方との対比上、硬質で剛直な芸風を求められるとするのが一般的な説である。 ワキは本来「脇の仕手」の略であり、古くはシテ方ワキ方の別はなかったとされる。一座の第二位の役者、もしくは第一位の役者(「太夫」と言う)の後見役にある役者がワキである。中世期、ワキが地謡の統率者(地頭)を兼ねており、その影響で、江戸時代に入ってシテ方とワキ方が分離した時期においても地謡はワキ方が担当することが多かった。時代が下るにつれてシテ方と交替し、あるいは過渡期的に「地謡方」という専門の役職ができたりして変遷をたどりながら現在のかたちに落ちついたとされ、現在のシテ方にも元地謡方、あるいはワキ方の家であったものは多く存在する。 能のワキ方は、狂言には参加しない。 狂言方が能の劇中に登場することも多い。狂言方が担当する役を「アイ」もしくは「間狂言(あいきょうげん)」と呼ぶ。能の登場人物として、シテもしくはワキのお供の者などの役柄としての「アシライアイ」もあるが、多くの場合は、中入り(能は前場と後場の2場面に分かれていることが多く、その間)でシテが装束を変える時間を利用し、その場をつなぐ目的で狂言方の役者が所の者(その土地の人)として能の物語にまつわる古伝承や来歴を語る「語りアイ」である。アイには一人で行うものと、多人数で行うものがある。また語りアイの中でも、坐って語るものを「居語アイ」、立って語るものを「立語アイ」と呼ぶ。まれに間狂言のない能も存在する。これに対して狂言方や囃子方のみで演じられる狂言を「本狂言」と呼んで、間狂言と区別する場合もある。 上手(舞台に向かって正面見所より見て右側)より笛、小鼓、大鼓(大革)、太鼓と並ぶ。能の場合小鼓方と大鼓方は床几を用いる(舞囃子では正座している)。狂言では床几は用いない。太鼓は獅子や鬼など超自然的威力のあるシテが現れる際に用いられる。太鼓なしの囃子を三拍子、太鼓を含むと四拍子と呼ぶ。笛(能管)は唯一の旋律楽器ではあるが上述したように打楽器的な奏法を主とする。囃子方の発する掛け声、気合、間、位(テンポ)などは能楽の重要な要素である。 能楽の流派は大和猿楽四座の系統の流派と、それ以外の日本各地の土着の能に分けられる。大和猿楽四座とは観世座、宝生座、金春座、金剛座であるが、更に江戸期に金剛座から分かれた喜多流の五つを併せて四座一流と呼ぶ。喜多流は金剛流より出、金春流の影響を受けつつ江戸期に生れた新興の一派であって、明治期にいたってほかの四流と同格とされた。喜多流は創流以来座付制度を取らず喜多座と呼ばれることはなかったので、五座ではなく四座一流となる。四座のうち奈良から京都に進出した観世、宝生を上掛りと呼び、引き続き奈良を根拠地とした金春、金剛を下掛りと呼ぶ。喜多は下掛りに含む。 大和猿楽四座は豊臣秀吉が政策的に他の猿楽の座(丹波猿楽三座など)を吸収させた為、江戸時代に入る頃には事実上、日本の猿楽の大半を傘下におさめていた。現在、四座一流の系統の能楽師たちは社団法人能楽協会を組織しており、能楽協会に加盟している者が職業人としての能楽師と位置づけられている。 一方、大和猿楽四座に統合されなかった能楽が残存している地域もあり、四座一流では演じられない曲目や、その地域独特の舞いを見ることが出来る。有名なものとしては、山形県の春日神社に伝わる黒川能、黒川能から分かれた新潟県の大須戸能などがある。 なお、能楽協会所属の能楽師によって上演される能楽においては、能楽全体の流儀はシテ方の流儀によって示される。また能に限り、家元を宗家と称する。これは江戸期に観世家に限り分家(現在の観世銕之亟家)を立て、これをほかの家元並みに扱うという特例が認められたことに基づくものである。分家に対し、本家が「宗家」と称したのがやがて「家元」の意味で用いられるようになったものである。現在では、同姓の分家との関係で用いられないかぎり、ほぼ「家元」の言いかえである。 江戸時代以前、猿楽の役者たちはいずれかの座に所属して活動していたため、現在のようにシテ方が自由に三役を好きな流派から選んで演能をすることはなかった。以下に江戸時代における各座の構成を示す。 観世流(観世座) ワキ 福王流、進藤流 笛 森田流、春日流 小鼓 観世流、幸清流 大鼓 葛野流 太鼓 観世流 狂言 鷺流 宝生流(宝生座) ワキ 下掛宝生流 笛 一噌流 小鼓 幸流 大鼓 観世流宝生錬三郎派、威徳流 狂言 大蔵流大蔵弥太夫派 金剛流(金剛座) ワキ 高安流 笛 春日流長命清左衛門派 大鼓 高安流 狂言 大蔵流大蔵八右衛門派 金春流(金春座) ワキ 春藤流 小鼓 幸流、大倉流 大鼓 大倉流 太鼓 金春流、金春三郎右衛門流 狂言 大蔵流 喜多流に座付はない (カッコ内は2005年の能楽協会名簿における所属の能楽師の数) シテ方(詳細は各記事を参照のこと) 観世流(561)、宝生流(270)、金剛流(100)、金春流(120)、喜多流(54) ワキ方 下掛宝生流(24)、福王流(20)、高安流(16) 進藤流(明治期に廃絶)、春藤流(明治期に廃絶) 狂言方 大蔵流(92)、和泉流(56) 鷺流(佐渡島、山口などに末流が存続しているが、能楽協会会員資格は認められていない) 囃子方(笛方) 森田流(48)、一噌流(17)、藤田流(4) 平岩流(明治期に廃絶)、春日流(戦後に廃絶) 囃子方(小鼓方) 幸流(31)、大倉流(18)、幸清流(9)、観世流(7) 囃子方(大鼓方) 高安流(13)、大倉流(13)、葛野流(12)、石井流(10)、観世流(1) 威徳流(明治期に廃絶)、金春流(明治期に廃絶) 囃子方(太鼓方) 金春流(25)、観世流(16) 能楽師の多くは何代も続く能楽師の家に生まれた者であり、幼少時から父親による訓練を受ける。彼らの中で最終的に能楽を職業とすることを決断をした者は、所属する流派の宗家の家に数年間住み込んで修行し(内弟子)、能楽を職業とするための初期訓練の仕上げを行う。職業として能楽を選び能楽協会会員となった後も、能楽師としての訓練は生涯続けられる。 しかし、代々能楽を職業とする家やアマチュアの入門者の数が相対的に多いシテ方は別に、三役(「ワキ方」「囃子方」「狂言方」)として能楽を職業とすることを目指す者の数は非常に少なく、上述のような伝統的な育成システムの行き詰まりは昭和期には明白となった。そこで開始されたのが、国立能楽堂に三役の技能を伝授する学校を設置し、代々能楽を職業とする家の子弟以外の人材を能楽界に取り込むという試みである。この制度は1984年6月に開始された。応募資格は中学卒業以上・経験不問・年齢上限ありというもので、研修期間は6年間である。 観世栄夫によると、能楽協会における暗黙の了解として能楽を職業とする者には平等に仕事を斡旋することとなっており、シテ方の場合は年間で30番程度の舞台をこなしているとされる。 また、能楽の三役は人手不足が深刻であり、一日に2件や3件の仕事を掛け持ちすることが常態化しているとされる。 なお、能楽を演じたり教えたりして報酬を得る行為は、能楽協会会員以外であっても法律上は可能であり、実際に和泉元彌は能楽協会から離れた後も狂言師として活動を続けているし、観世栄夫が能楽協会退会中に仕事として新劇俳優や学生に能を教えたり、国外で観世寿夫らとともに能を演じたりしたこともあった。しかし現状では、能楽協会会員以外の者が仕事として演能を依頼されることは、和泉のような極めて稀な事例を除き、日本国内ではまずあり得ない。観世栄夫が特例として能楽協会会員に混じって日本国内で能を演じたこともあったが、この時でも観世栄夫に支払われた報酬は出演料という形を取らなかった。 社団法人能楽協会は、各専門的役割を職能とする各流の能楽師たちの団体である。一方、社団法人日本能楽会は、重要無形文化財「能楽」の技能保持者として総合認定された能楽師を構成員とする団体である。 もともと能を演じるのは男性のみに許されていた。能面の使われ方として現在能の男性役には面を用いない(直面(ひためん))が、女性役の場合は女面を使って女性に扮しているが、女性能楽師が演じる場合でも女面をつけていることからも、その名残が残っている。 1948年(昭和23年)に女性の能楽協会への加入が認められた。2004年(平成16年)に日本能楽会への加入が認められた。 なお、前述の国立能楽堂養成事業は女性にも門戸が開かれており、これまでの所、女性の研修生の成績は男性のそれに見劣りしないという意見もある。 しかし、能の謡や鼓の掛け声などは低音を響かすことが大事とされており、気合や声域などが異なるための困難や違和感も見受けられる。 『翁』を冒頭に、能 5曲とその間に狂言 4曲を入れる「翁付き五番立」という番組編成が、江戸時代以来続いている能楽の正式な演じ方である。このなかで、能と狂言をどのような順序で上演するのか、序破急の概念を用いて決められていた。 具体的には、翁のほか能の曲を5種類、狂言の曲を4種類に分け、 翁(最初に翁を演じるのが正式な番組立であったが、現在は特別な催しでしか演じられない) 能の初番目物(神) 神が仕手となる。脇能や神事物とも。 狂言の初番目物 脇狂言とも。 能の二番目物(男) 武人が仕手となる。修羅物とも。ほとんどが負け戦(負修羅)である。勝修羅は三曲(田村・屋島・箙)。破の序。 狂言の二番目物 能の三番目物(女) 美人が仕手となる。鬘物とも。破の破。 狂言の三番目物 能の四番目物(狂) 狂女が仕手となる狂女物。狂とは精神が高ぶった状態を表すもので異常者ではない、それ以外にも様々なものがここに入る。雑能や現在物とも。破の急。 狂言の四番目物 止狂言とも。 能の五番目物(鬼) 鬼、天狗といった荒々しく威力のあるものが仕手となる。切能や鬼畜物とも。急。 の順で演じたが、1日がかりとなるこの編成で能楽を上演することは稀となり、今日では能、狂言各 1曲、あるいは能 2曲と狂言 1曲くらいの、2~3時間から半日程度で終わる上演形式が増えている。それでも五番立の順序は重視されている。例えば五番目物の能『石橋』の後に三番目物の能『井筒』を上演するようなことは稀である。 五番立で能楽を上演する際、五番目がめでたい曲(祝言能)ではなく暗い内容の能である場合は、『高砂』等、神能ものの後場のみを演じ(後半部分のみ演ずることを半能という)、めでたい気分で納めるのが建て前であった。さらに略して最後の一章のみを素謡で謡ってすますこともあった。「付祝言」と称するこの習慣は、演能時間が短くなった今日でも見られる。 能楽の番組面の例を右図にしめす。シテの演者名は演目の右肩に書かれ、ワキの演者名は演目の真下に書かれるのが慣例である。なお「小書」とは特殊演出を指す。 能一曲を演じるとおよそ1時間ほどかかることから、短い時間で鑑賞するため、あるいは稽古の過程として、略式の演奏形式が整えられている。 仕舞 舞手と地謡数名とが曲中のハイライトとなる舞を上演すること。5分~10分程度の長さ。仕手(舞手)は能装束ではなく紋付き袴を着る。また面はかけない。 「クセ」とは、曲舞という能以前にあった芸能で、観阿弥世阿弥親子が能の中心に取り入れ、長い平ノリの地謡にあわせて舞う部分、「キリ」は能の終わりの部分。「○之段」という印象的な名場面の名称もある。 舞囃子 仕舞に舞事や働事(上記参照)を加えて、一曲の主要部分を舞うこと。10分~20分程度の長さ。仕舞同様、仕手は装束・面を用いない。 半能 主に脇能または五番目曲の前場を短く省略して上演すること。詳細は半能参照。 素謡 地謡(および役謡)のみで一曲を上演すること。囃子方は伴わない。間狂言も省かれるのが普通。 囃子謡との対語として素謡という表現が用いられることがあり、能一曲を謡うことを特に「番謡」と称する場合もある。 連吟 素謡の形式で、曲のハイライトのみを謡う。 連調 謡(一名もしくは数名)と1種類の打楽器が数名で、能の一部分を演奏する形式。 一調 謡一名と1種類の打楽器が一名で、能の一部分を演奏する形式。一調用の替えの手を打つこともある。 一管 笛一名による演奏。普段の能では吹かない曲を演奏する場合もある。 一調一管 笛一名と1種類の打楽器が一名による演奏。一調用の替えの手を打つこともある。 素囃子 囃子方による演奏のみで上演すること。 番囃子 地謡と囃子方で一曲を上演すること。能の音声部分の上演。 居囃子 地謡と囃子方で曲のハイライトを上演すること。舞囃子から仕手の舞を取った形式。 能楽を上演する為の舞台を能舞台と呼ぶ。 以前は能舞台は神社等に作られ、舞台の屋根が青天井に晒されていた。そのため、照明は日光と白洲からの反射光によっていた。 変わった設置場所としては、江戸時代に徳川将軍が各藩邸に御成りをする際、能でもてなすことが一般化されたことから、大藩の江戸屋敷には庭園を挟んで能舞台が設置されていることがあった。 明治以降、能舞台と見所(客席)の全体を建物でくるむ形式が増え、これを「能楽堂」と呼ぶ。この場合、屋根の上に能楽堂の天井がある形式になる。 一方で、戦後「薪能」(本来の薪能は日中から演能を始め、夕暮れまで演じる形式だった)と称して夜間の野外能が盛んになり、この場合仮設の能舞台も用いられる。舞台の床と寸法が適当で、四方に柱があり、橋懸を用意できれば、能はいかなる場所でも演じられる。 1:鏡の間 シテの控え所。ここで装束をつけ、面をかけるために、専用の鏡(姿見)がある。また演能の前後に諸役と挨拶をかわし、上演の前には囃子のお調べが奏される。 2:橋懸 橋掛とも。歌舞伎の花道と同じように演技の場として重視される。舞台に対してだいたい110度前後の角度で取りつけられ、正面の客から見やすくなっている。 3:舞台 常寸京間三間四方(=ほぼ6m四方)。後方から正面に向けて縦に板を渡す。材は檜が多い。足拍子の響きをよくするために要所に甕を生けている。滑りをよくするためにおからや米ぬかで乾拭きをしてつやを出す。舞台に上る際にはどんな場合にも白足袋を履くことを求められる。 4-7:目付柱(角)、シテ柱、笛柱、脇柱(大臣柱) 面をつけると視野が非常に制限されるので、舞台上ではこれらの柱を目印(目付)にして舞う。従って柱は演能上必須の舞台機構であり省略することができない。また『道成寺』の鐘を吊るために、天井に滑車が、笛柱に金属製の環がとりつけられている。 8:地謡座 能の際、地謡が二列になって坐る位置。舞台と同じく板を縦に敷く。地謡座の奥には貴人口と呼ばれる扉がついているが、現在ではまったく使われない。また、かつては地謡座の後方に地裏と呼ばれる客席があったが、今では行われない。 9:横板 舞台とは違って板を横に渡しているところからこの名がある。囃子方が向かって右から笛、小鼓、大鼓、太鼓の順で坐るために、おのおのの部分を笛座、小鼓座といったりもする。能の場合、小鼓と大鼓は床几を用いる。 10:後見座 後見が坐るためにこの呼名がある。後見が通るために、横板は後半分をあけて囃子方が坐ることになっている。 11:狂言座 アイがここで中入りまで着座しているためにこの呼名がある。 12:階 三段の階段。現在では実用されていないが、江戸時代の正式の演能の際には、開演前に大目付がここから舞台上にのぼり、幕に向かって開演を告げた。今ではもっぱら舞台からシテが落ちたときに用いられている。 13:白洲 現在では簡略化されているが、能舞台が戸外にあった時代には客席と舞台との間に玉砂利を敷き詰めていた。(海)水を象徴する。 14-16:一の松、二の松、三の松 橋掛での演技の際の目印にする。橋掛の向こう側にも二本の松が植えられている。現在では照明の加減で造木であることが多い。 17:楽屋 18:幕口 五色の布を縫いあわせた揚幕がある。左右の幕番が竹を利用して幕をあげて(これを本幕という)、シテやワキが出入りし、曲趣に応じて幕のあげかたにも違いがもうけられている。囃子方や後見などが舞台に出入りする際には幕を上げずに、片側をめくって人を通す。これを片幕という。 19:切戸口 能の際の地謡や、能以外の上演形式の際に出入りする人が利用する小さな出入り口。舞台で切られた役がここから退場するので臆病口ともいう。後見やアイは揚幕から出入りするのが本来の形だが、現在では切戸口を使うことが普通である。切戸口のある面の板には竹が描かれている。 20:鏡板 大きな松の絵が描かれる。春日大社の影向の松がモデルであるとされる。神の依り代としての象徴的意味のほかに、囃子の音を共鳴させる反響版としての役割も果たしている。 21:貴人口 (地謡座参照) 能舞台の音響は、基本的にはPA/SRを行わない、自然なものである。鏡板や床が反響板として働いている。また、足拍子を踏む事がよくあるが、その音が響くよう舞台の床下には共鳴腔が設けられている。ただし、上記のような仮設の野外能ではある程度マイクロホンを用いる必要があり、面をつけている関係上拡声はなかなか難しい。 かつて能の客席は正面、脇正面(橋掛側。地謡と正対するかたちになる)、中正面(正面と脇正面との間。目付柱のほうを向く)、地裏(地謡座の背後。脇正面と相対する)の4か所に分けられ、舞台を三方から見ることができた。ただし、昭和になってからのほとんどの能楽堂では地裏は廃止されるようになった。 他の舞台芸術と同様に、実演を生で観るのが一番である。東京都には観世、宝生、喜多の各流が能楽堂を構え、国立能楽堂では金春、金剛を含んだ五流全ての能を楽しむことができる(金春は奈良、金剛は京都に能楽堂を構えている)。また大きな都市には能楽堂があり、身近に能に接することができる。 地方でも多目的ホールや野外に仮設の能舞台を用意し演能することがあり、決して観能の機会は少なくない。また、佐渡のように、大きな都市はなくとも歴史的に能が根付いた地域もある。神社の木々の中で楽しむ能も格別である。 地方によっては、黒川能のような五流から離れた郷土色豊かな能も見られる。 能楽師が行う(有料の)能演だけでなく、素人愛好家や玄人養成稽古会などには無料の会もあり、能楽堂やホームページなどで予定を広報しているので、そちらを鑑賞することもできる。 NHK-FMが「能楽鑑賞」と銘打って、毎週能の番組を放送している。素謡がほとんどである。またテレビ放送で能を放送することもある。 スカイパーフェクTV!(CSデジタルテレビ放送)の能番組は充実しており、「歌舞伎チャンネル」や「京都チャンネル」で度々能を録画放送している。 有線放送でも「謡曲」や「能(番囃子)」の専門チャンネルがあったが、廃止されてしまっている。 ^ 芝能楽堂は、日本初の能楽堂(能舞台を屋内に収めたもの)である。 ^ 西野春雄 羽田昶『新版 能・狂言事典』平凡社、2011年、ISBN 9784582126419、310ページ ^ 観世栄夫『華より幽へ』白水社、2007年 ^ 観世銕之丞『ようこそ能の世界へ』暮しの手帖社、2000年 ^ 横山太郎『天女舞の身体技法:カマエ成立以前の能の身体』『ZEAMI:中世の芸術と文化』1号、森話社、2002年収録 ^ 松岡心平『宴の身体:バサラから世阿弥へ』(岩波現代文庫)、225-229ページ ^ 型においても能と狂言では違いがあり、例えば泣くことを示す「シオリ」でも、能は手を顔に近づけるだけだが、狂言ではエーエーと泣き声を発する ^ 観世銕之亟『ようこそ能の世界へ』暮しの手帖社、2000年、37ページ ^ 井上由理子『能にアクセス』淡交社、2003年 ^ 小鼓が「ポン(ポ)」であれば大鼓は「カン」とした音調。 ^ IPA「教育用画像素材集サイト」[1] ^ 氷川まりこ・梅若六郎『能の新世紀』 ^ 観世前掲書 ^ ただしこうした伝統的制度には内部からの批判も存在する。観世栄夫によると、生前、観世寿夫はこうした家元制度を不要なものと考えていたとされる。(観世栄夫『華より幽へ 観世栄夫自伝』白水社、2007年) ^ 「宗家預り」「宗家代理」が宗家の代行を務めうることは能楽協会約款にも規定されている。能楽協会約款 ^ 子供の役もしくは非常に高貴な人物を象徴的に表現するために子供が演じることになっている役 ^ 適齢期にある三役の子供をシテ方が指導して使うこともある ^ 舞台上に待機し、舞台の進行を手助けする役目の人物。小道具や作り物の世話をする他、演じ手が何らかの理由で舞台を続けられなくなった場合には途中から代役を務めることもある。 ^ 観世左吉流ともいう ^ 現在の正式な名称は「独立行政法人日本芸術文化振興会養成事業・能楽三役研修生」である。 ^ 観世栄夫『華より幽へ 観世栄夫自伝』白水社、2007年 ^ 佐貫百合人『伝統芸能家になるには』ぺりかん社、2000年、82ページ ^ 佐貫前掲書、114-115ページ ^ 観世栄夫前掲書 ^ 同上 ^ 能楽協会|能楽協会について ^ 女性能楽師と2つの壁 ―能楽協会と日本能楽会入会― ^ 佐貫前掲書、118-119ページ ^ 三浦裕子著・山崎有一郎監修『能楽入門(1) 初めての能・狂言』小学館 1999年、ISBN 4093431132、15ページ ^ 江戸時代の大名生活・上屋敷と下屋敷 目白徳川黎明会(昭和五十年九月二十九日) 西野春雄 羽田昶『新版 能・狂言事典』平凡社、2011年、ISBN 978-4-582-12641-9 安田登 『能に学ぶ身体技法』 ベースボール・マガジン社 ISBN 4-583-03865-8 松岡心平 『宴の身体 バサラから世阿弥へ』 岩波書店 ISBN 4-00-600129-0 C0191 氷川まりこ・梅若六郎『能の新世紀』小学館、2002年 ISBN 4-09-343151-5 三浦裕子著・山崎有一郎監修『能楽入門(1) 初めての能・狂言』小学館 1999年、ISBN 4-09-343113-2 能楽 - ユネスコ無形遺産リスト(Intangible Cultural Heritage - ICH) 能楽 - 国指定文化財等データベース(文化庁) 独立行政法人 日本芸術文化振興会 国立能楽堂 公益社団法人 能楽協会 伝統芸能Live! 外国人の目に映った楽の明治維新 : 海外に伝えられた能狂言のイメージ - Petko Slavov, 大阪大学、2014年6月", "浄瑠璃(じょうるり)は、三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲・劇場音楽である。 詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物(かたりもの)と呼ぶ。 江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は義太夫節・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。 単独で素浄瑠璃として演じられるほか、流派によっては人形劇である人形浄瑠璃として(文楽など)、歌舞伎音楽として、日本舞踊の伴奏として演じられる(流派ごとの上演形態については後述)。 戦国時代ごろの御伽草子の一種『浄瑠璃十二段草子』。作者は「百家系譜」によれば小野阿通という織田信長に仕える侍女で、大病のため静養していた信長のために三味線を用いて語ったという説が江戸時代までは有力であったが、現在までに様々な学者により議論が進められ、享禄4年(1531年)の「宗長日記」には、少なくともそれ以前から浄瑠璃(十二段草紙)が存在していた、との記述があり、それを当道座に所属していた琵琶法師によって、平曲(平家物語を琵琶により伴奏して語ったもの)に次ぐ新たなものとして扱われ、滝野検校によって節づけがなされ、はじめ琵琶で演奏されていたものが、虎沢検校に師事した沢住検校によって三味線を用いて語るようになり、それを小野阿通が信長に聞かせたという説が一般的である。 浄瑠璃物語(浄瑠璃姫十二段草紙) 浄瑠璃御前(浄瑠璃姫、もしくは三河国矢矧宿の遊女)と牛若丸の情話に薬師如来など霊験譚をまじえたものを語って神仏の功徳を説いた芸能者にあるとするのが通説であり、「浄瑠璃」の名もここから生まれたものである。その内容はだいたいにおいて享禄年間(1528–32年)には完成していたと考えられる。最初期は平曲、謡曲、説経節などの節付けに学んで扇拍子を伴奏にしたようだが、永禄年間(1558–1570年)に琉球から三線が渡来し、これが三味線へと発達するにしたがって飛躍的な成熟を遂げることになる。三味線をいち早く音曲に取入れたのは上方の盲人であったが(上方地歌)、沢住検校が浄瑠璃と合体させ、さらに文禄年間(1593–1596年)にいたってこれが傀儡子(くぐつし)の伴奏として用いられるようになり、現在にまでいたる浄瑠璃音曲が完成してゆく。浄瑠璃姫十二段草紙の構成は下記のとおり。 一段 「申し子の段」 - 姫父母の素性。申し子すなわち神仏に子を願うこと。浄瑠璃の由来。 二段 「花そろえの段」 - 姫の庭に咲く美しい花の描写。 三段 「美人そろえの段」 - 姫の侍女たちの美を形容。 四段 「そとの管弦の段」 - 姫と侍女たちの管弦に、牛若丸が門外で笛を合わせる。 五段 「笛の段」 - 牛若の服装と容姿の美に侍女たちが騒ぐ。 六段 「使ひの段」 - 姫が使いを出し歌によって牛若の心を引き、謎かけをする。 七段 「忍びの段」 - 牛若が忍び入ろうと、故事を引き、姫の心をうかがう。 八段 「枕問答」 - 仏法になぞらえて姫に問い詰め、姫が負けて無言になる。 九段 「やまとことばの段」 - さらにやまとことばで問い続け、姫に口を開かせる。 十段 「御ざうつりの段」 - 一夜の契りの後、朝の別れ。 十一段 「吹上の段」 - 吹上の浦で牛若が奇病にかかり、姫が八幡山の知らせで駆けつける。 十二段 「御曹司東くだりの段」 - 両人は記念の品を交わし、牛若は奥州に下る。 浄瑠璃が本格的な芸術性を備えるようになるのは江戸時代に入ってからである。浄瑠璃に節づけをした滝野検校の門人である杉山丹後掾と、浄瑠璃に三味線をはじめて用いた沢住検校の門人の薩摩浄雲によって京から江戸へともたらされた浄瑠璃という三味線音楽は、彼らの門下によって多くの流派にわかれ、世人に大いに受入れられるようになっていった。 杉山丹後掾の門下からは、江戸肥前掾(肥前節)、近江大掾語斎(語斎節)、江戸半太夫(半太夫節)。薩摩浄雲の門下からは、桜井丹波少掾(金平節・金平浄瑠璃)、薩摩外記(外記節)、内匠土佐少掾(土佐節)、井上播磨掾(播磨節)、虎屋永閑(永閑節)、宇治加賀掾(嘉太夫節)、別系統で伊藤出羽掾(出羽節)、二代目岡本文弥(文弥節)など多くの古浄瑠璃太夫が現れ、掾号を受領した太夫も多かった。日本邦楽史では、近松門左衛門が竹本義太夫のために書いた『出世景清』(貞享3年/1686)が従前にはない物語性を持った革命的な浄瑠璃作品であることから、それ以前に出た浄瑠璃を「古浄瑠璃」、以後を「新浄瑠璃」あるいは「当流」といって区別している。古浄瑠璃からは説教節の影響も受けて説教浄瑠璃なども生まれた。古浄瑠璃時代の詞章(歌詞)や戯曲には未発達なものが多く、かならずしも文学的には高い評価を得るものではないが、これが現存する完成度の高い8つの浄瑠璃への橋渡しとなった。 貞享元年(1684年)ごろ、竹本義太夫(後に筑後掾)が道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を樹ててよりのちは、浄瑠璃に新たな時代が訪れる。名作者近松門左衛門と結ぶことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章の洗練が行われ、義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術性がたいへん優れていた。この新しい様式は上方の人士から熱狂的な支持を受け、義太夫節はそれ以前の古浄瑠璃を圧倒することになる。たとえば古浄瑠璃時代にはその人の名を付して何某節と呼ばれていたように、それがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかった(一節一太夫)が、義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、「義太夫節」という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられ続け、家元制をひいていないにもかかわらず、今日まで残っているのは、その象徴的な事例であろう。義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにある。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマを「語り」によって立体的に描きあげる構成力、そのいずれをとっても義太夫は浄瑠璃界にのこした功績は大きい。 一方、このころ竹本義太夫と同期の都太夫一中は京で一中節を創始し、その弟子宮古路豊後掾がさらに豊後節へと改めて、享保19年(1734年)これを江戸へもたらした。豊後節の特徴は義太夫節の豪壮な性格とは対照的に、一中節の上品な性格を生かしたやわらかで艶っぽい語り口にあり、江戸において歌舞伎の劇付随音楽として用いられたため、またたく間に大流行を見た。その人気は、心中ものの芝居にさかんに用いられたために江戸で心中が横行し、風俗紊乱を理由に豊後節の禁止が布告され、豊後掾が江戸を去らねばならなくなったほどであった(ただし、この豊後節禁止は河東節をはじめとする江戸浄瑠璃側の嫌がらせという説もある)。 しかし、この宮古路豊後掾に師事した宮古路文字太夫(のちの常磐津文字太夫)、宮古路加賀太夫(のちの富士松薩摩)、宮古路薗八らが、数年後にそれぞれ常磐津節、富士松節、薗八節を創始するにいたって、豊後節の伝統は江戸に根付き、大阪の義太夫節と共に、それ以前の古浄瑠璃の人気を奪いさってゆく。常磐津節は歌舞伎の伴奏用浄瑠璃として盛んに用いられ、豊後節のやわらかさと江戸古浄瑠璃の豪壮さを取混ぜた独特の風情を持っており、江戸らしい気風のよさを感じることができる。一方、富士松節からは鶴賀若狭掾、鶴賀新内という名人が輩出し、特に鶴賀新内は新内節を創始することにより、豊後節系浄瑠璃の新たな局面を開くことになる。新内節は一時期、歌舞伎にも用いられたことがあるが、江戸時代後期からは主として門付けを中心として行われ、豊後節の艶麗な部分を引継いで情緒纏綿たる世界をつくりあげてゆく。薗八節からは二代目宮古路薗八が出て、宮薗鸞鳳軒と称し宮薗節を創始した。 このような豊後節系浄瑠璃の展開は江戸中期以降にいたって新たな局面を見せる。常磐津文字太夫の門弟、富本豊前掾が一派を立てて富本節を称し、さらに二代目富本豊前太夫の門下から清元延寿太夫による清元節が生れる(文化11年、1814年)。これらはいずれも常磐津節の艶麗な芸風をさらにつよめた流儀で、むろん歌舞伎の劇付随音楽としても用いられたが、それだけにとどまらず、素人の習事、座敷音曲としての性格をも備えるようになってゆく。通常豊後節から見て、子、孫、曾孫になる常磐津節、富本節、清元節を「豊後三流」と称し、それぞれに微妙な性格の違いがある。常磐津節は艶麗さの反面、古い江戸浄瑠璃の名残を引いて豪壮な部分があり、歯切れのいい語り口をも兼ね備えている。それに対して、富本節と長唄の混交から生れた清元節には豪壮さがまったくなく、高音を多用した繊細で情緒的な浄瑠璃になっており、「語り」よりも「歌」の要素がきわめてつよい。常磐津節には素朴で豪放な部分があり、清元節にはそれを洗練させすぎたゆえの美しさともろさがある。そして富本節は艶麗さと古雅な味いを共存させ、寂びた風情には捨てがたいものがあるが、惜しむらくは常磐津節と清元節のあいだにあって独自性が発揮できなかったために、明治以降は衰微するに至った。 現在、義太夫節は人形浄瑠璃(文楽・結城座・淡路人形座)・歌舞伎音楽(文楽とは別流派となっている竹本連中)・素浄瑠璃、河東節は歌舞伎音楽(『助六』上演時)・素浄瑠璃、一中節は日本舞踊伴奏・素浄瑠璃、常磐津節は歌舞伎音楽・日本舞踊伴奏・素浄瑠璃、富本節は素浄瑠璃、清元節は歌舞伎音楽・日本舞踊伴奏・素浄瑠璃、新内節は素浄瑠璃として、それぞれ活動を続けている。 義太夫節 薩摩浄雲→虎屋源太夫→井上播磨掾(播磨節)→清水理兵衛→竹本義太夫(義太夫節創始) 河東節 杉山丹後掾→江戸肥前掾(肥前節)→江戸半太夫(半太夫節)→十寸見河東(河東節創始) 一中節 伊藤出羽掾(出羽節)→二代目岡本文弥(文弥節)→都万太夫(都越後掾)→都太夫一中(一中節創始) 常磐津節 都太夫一中(一中節)→宮古路豊後掾(豊後節)→常磐津文字太夫(常磐津節創始) 富本節 常磐津文字太夫(常磐津節)→富本豊前掾(富本節創始) 清元節 富本豊前掾(富本節)→初代富本斎宮太夫→清元延寿太夫(清元節創始) 新内節 宮古路豊後掾(豊後節)→富士松薩摩(富士松節)→鶴賀若狭掾→鶴賀新内(新内節創始) 宮薗節 宮古路豊後掾(豊後節)→宮古路薗八(薗八節)→宮薗鸞鳳軒(宮薗節創始) また、桜井丹波少掾(和泉太夫)の創始した金平浄瑠璃は、後に歌舞伎の荒事に影響を与えた。半太夫節は河東節、長唄、地唄に、外記節は河東節に面影が残り、大薩摩節は長唄に吸収されて残っている。 ^ 義太夫節は浄瑠璃の一流派であるが、上方では義太夫節以外の一中節・豊後節・宮薗節などが早くに廃れたため、「浄瑠璃」がもっぱら義太夫節を意味する場合がある。 根岸鎮衛 『耳嚢』 長谷川強校注、岩波書店〈岩波文庫〉、全3巻、1991年 - 江戸時代の随筆。浄瑠璃についての逸話を収録。 内山美樹子 『文楽 二十世紀後期の輝き —劇評と文楽考—』 早稲田大学出版部、2010年 伊藤りさ 『人形浄瑠璃のドラマツルギー — 近松以降の浄瑠璃作者と平家物語』 早稲田大学出版部〈早稲田大学学術叢書〉、2011年 吉川英史 『日本音楽の歴史』 1965年 若月保治 『古浄瑠璃の研究』 1943年 古曲 - 河東節・一中節・宮薗節、および歌い物である荻江節の総称。 近世邦楽 邦楽のジャンル一覧 芦屋道満大内鑑", "長唄(ながうた)は、近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄(えど ながうた)という。 またこれとは別に、地歌の一分類として上方長歌(かみがた ながうた)がある。 江戸長唄は義太夫節など語りを中心とした「語り物」とは異なり、唄を中心とした「歌い物」、「うたもの」である。演奏は基本的に複数人の唄と三味線で成り立っているが、曲目によっては小鼓、大鼓、太鼓、笛などで構成される「お囃子」が付くこともある。また、通常の三味線パートのほかに「上調子」と呼ばれる三味線パートを持つ曲も存在する。 また、元禄期に上方歌舞伎の劇中で演出として歌われた芝居歌が源流となり、享保以降に短めの長唄として江戸歌舞伎に伝わりメリヤスと呼ばれた。しんみりとした寂しい内容と節調であり、下座の中で一人、または二人で歌われた。宝暦期以降の歌舞伎の舞台演出で流行となり、新曲がいくつも作曲された。 代表的な作詞者・作曲者には、金井三笑、初代冨士田吉次、二代目冨士田吉次、初代櫻田治助、初代杵屋正次郎、三代目杵屋正次郎、九代目杵屋六左衛門、十代目杵屋六左衛門、三代目杵屋勘五郎、初代杵屋六翁、二代目杵屋勝三郎、二代目稀音家浄観、杵屋佐吉、吉住慈恭などが挙げられる。 秋色種(十代目杵屋六左衛門) 安宅勧進帳(三代目杵屋勘五郎) 安宅の松(初代富士田吉次) 安達ヶ原 あたま山 吾妻八景(初代杵屋六翁) 浦島(十代目杵屋六左衛門) 梅の栄(三代目杵屋正次郎) 越後獅子(九代目杵屋六左衛門) 老松(初代杵屋六翁) お七吉三 傀儡師(十代目杵屋六左衛門) 勝三郎連獅子(二代目杵屋勝三郎) 寒山拾得(坪内逍遥・吉住慈恭・二代目稀音家浄観) 官女 勧進帳(初代杵屋六翁) 神田祭(吉住慈恭・二代目稀音家浄観) 喜三の庭 菊づくし 岸の柳(三代目杵屋正次郎) 紀州道成寺(三代目杵屋勘五郎) 紀文大尽(吉住慈恭・稀音家浄観) 蜘蛛拍子舞(初代杵屋佐吉) 鞍馬山 黒塚(四代目杵屋佐吉) 傾城 外記猿(十代目杵屋六左衛門) 源氏十二段 元禄花見踊(三代目杵屋正次郎) 小鍛冶 胡蝶 五郎時致(十代目杵屋六左衛門) 鷺娘 五月雨(四代目杵屋佐吉) 汐汲 四季の山姥(十一代目杵屋六左衛門) 時雨西行 賤機帯 七福神 石橋(十代目杵屋六左衛門) 正次郎連獅子(三代目杵屋正次郎) 新曲浦島(坪内逍遥・五代目杵屋勘五郎・十三代目杵屋六左衛門) 末広がり 助六 高尾懺悔(杵屋新右衛門) 巽八景(十代目杵屋六左衛門) 多摩川 竹生島(十一代目杵屋六左衛門) 鶴亀(十代目杵屋六左衛門) 綱館(三代目杵屋勘五郎) 手習子(初代杵屋正次郎) 常磐の庭 鳥羽絵(十代目杵屋六左衛門) 鳥羽の恋塚(半井桃水・吉住慈恭) 供奴(十代目杵屋六左衛門) 楠公 二人椀久 橋弁慶(三代目杵屋勘五郎) 花の友 羽根の禿 雛鶴三番叟 船弁慶 藤娘 まかしょ(二代目杵屋佐吉) 松の緑(初代杵屋六翁) 都鳥 都風流(久保田万太郎・吉住慈恭・稀音家浄観) 娘道成寺(初代杵屋彌三郎) 娘七種 桃太郎 座頭 島の千歳(五代目杵屋勘五郎) 春興鏡獅子(三代目杵屋正次郎) 吉原雀 若菜摘 わらべ鶯 文化譜(赤譜とも) 研精会譜 又は小十郎譜とも。大正年間に四代目吉住小三郎の弟子、吉住小十郎によって開発された記譜法により編纂される。縦書き。1 - 7の数字を西洋音階のド - シに当てはめ、基本的に四分の二拍子で表記される。オクターブは数字の右(1オクターブ上)と左(1オクターブ下)に付く「・」で表す(最低音は・7)。 青柳譜 佐吉譜 杵勝譜 松永和風 二代目稀音家浄観 吉住慈恭 杵屋佐吉 十四代目杵屋六左衛門 七代目芳村伊十郎 八代目芳村伊十郎 芳村五郎治 杵屋栄蔵 杵屋栄二 杵屋栄次郎 三代目今藤長十郎 山田抄太郎 杵屋勝東治 杵屋勝太郎 松島庄三郎 松島寿三郎 柏 伊三郎 日吉小三八 杵屋佐登代 今藤綾子 上方長歌(上方長唄とも)は、地歌の楽式、曲種の一つ。江戸時代中期以降に上方を中心に行われている長編の三味線を伴奏とする三味線歌曲。地歌と箏曲や胡弓との不可分な結びつきにより、三曲合奏編成により演じられることも多い。地歌のみならず三味線音楽のもっとも古い形式である三味線組歌に次ぐものとして、長い歴史を有している。 もともと元禄の頃に江戸の浅利検校、佐山検校らによって作られ始めた。 組歌は、基本的に互いに脈絡のないいくつかの短い歌の組み合わせによって成り立っている。それに対し、長歌は終始一貫して筋を通した内容であり、それを最大の特徴とする。また、曲の途中で三味線の調弦を変えること、かなりまとまった間の手を持つことなどが特徴であるが、長歌の範疇に含められる曲は各流派、地域により多少違いがある。 その内容はさまざまだが、名所や器物、植物などの名を連ねた「尽し」や、劇的な内容を持つものもあり、詞章は雅文調ではあるが、部分的にくだけた文句が挿入されている曲も多い。 本来、地歌は盲人音楽家による純音楽で、劇場や舞踊とは比較的関係の薄いものであるが、虎沢検校が浄瑠璃を始めたこともあるように、決して関係がないわけではなく、地歌の長歌曲でも、元禄年間に活躍した京都の岸野次朗三は晴眼者で京阪の歌舞伎の三味線方として活躍した人物であり、彼の作品の多くは歌舞伎舞踊の伴奏用に作られたものである。 このような長歌から、舞台音楽の「江戸長唄」が分かれたと考えられている。 こののち、野川流の祖である大阪の野川検校の作品がおおいにもてはやされ、藤永検校や小野村検校らも長歌物の作曲を行い、さらに京流手事物の作曲で有名な、京都の松浦検校、菊岡検校らによっても長歌曲が作られている。 また長歌からは、歌よりも手事に重きを置く楽曲形式である「手事物」が生まれ、現在の地歌の主要な演目となっている。また手事物はのちに長唄にも影響を与え、「越後獅子」「秋色種」「吾妻八景」などの曲が生まれている。 つつじ(佐山検校) 桜尽し(佐山検校) 古松風(岸野次朗三) こんかい(岸野次朗三) 古道成寺(岸野次朗三) 松尽し(藤永検校) 江戸土産(津山検校) 竹生島(地歌)(菊岡検校) 老松(地歌)(菊岡検校) 近世邦楽 長唄研精会 日本舞踊 河東節 常磐津節 清元節 新内節 唱歌 (演奏法)(しょうが) 稀音家義丸 ^ 服部幸雄『歌舞伎ことば帖』岩波書店〈岩波新書〉1999年、ISBN 4004306116 pp.89-93.", "筑前琵琶(ちくぜんびわ)は、盲僧琵琶の系譜をひく語りもの音楽の一ジャンル。 日本中世に生まれた盲僧琵琶は、九州地方の薩摩国(鹿児島県)や筑前国(福岡県)を中心に伝えられたが、室町時代に薩摩盲僧から薩摩琵琶という武士の教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた。筑前琵琶は、それに対し、筑前盲僧琵琶から宗教性を脱していったもので、明治時代中期に女性を主たる対象とする家庭音楽として確立したものであり、近代琵琶楽の第一号にあたる。近代琵琶楽としての筑前琵琶の成立にあたっては、福岡藩藩士の娘であった吉田竹子の活躍が大きい。歴史的には、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶よりも古いが、芸術音楽としては、薩摩琵琶の方が筑前琵琶に先行している。 筑前琵琶の音楽は薩摩琵琶に比べ曲風が全体的におだやかであり、楽器、撥ともやや小ぶりである。胴の表板は桐に変わり、音色は薩摩琵琶に比べて軟らかい。調絃も三味線に準ずるようになった。薩摩琵琶では歌(語り)と楽器は交互に奏されるが、筑前琵琶の音楽には三味線音楽の要素が取り入れられており、歌いながら琵琶の伴奏を入れる部分がある。著名な曲としては「湖水渡」「道灌」「義士の本懐」「敦盛」「本能寺」「石堂丸」などがある。筑前琵琶の種類は四絃と、四絃より音域をより豊かにする為に初代橘旭翁とその実子である橘旭宗一世によって考案された五絃があり、五絃の方が全体にやや大きい。撥も五絃用のものの方がやや開きの幅が広く、いくらか薩摩のものに近い。柱はいずれも五柱(四絃五柱、五絃五柱)。この他、高音用の「小絃」、低音用の「大絃」も作られたが、一般的に普及はしていない。 筑前琵琶は、明治の中期に晴眼者で筑前盲僧琵琶の奏者であった初代 橘旭翁(たちばな きょくおう)(本名:橘智定(たちばなちてい)が薩摩で薩摩琵琶を研究して帰り、筑前盲僧琵琶を改良、新しい琵琶音楽として作り出された。琵琶奏者の鶴崎賢定(つるさきけんじょう)や吉田竹子がこの新しい琵琶音楽を広めるのに一役買った。 明治29年(1896年)、橘旭翁は東京へ進出し演奏活動を開始して注目を浴びた。そして雅号として「旭翁」と号し、筑前琵琶 橘流を創始、明治天皇の前で御前演奏をするなど急速に全国に広まったり、人気を評した。橘流は創始者である初代橘旭翁の没後、「橘会」と「旭会」の2派に分かれて現在に至っている。また吉田竹子の門下から高峰筑風(高峰三枝子の父)が出て一世を風靡したが、後継者がなくその芸風は途絶えた。 筑前琵琶は、女性奏者に人気があり、娘琵琶としても流行し、嫁入り前の女性の習い事として重視された。旧福岡市内には多い時で50人もの琵琶の師匠がいたといわれる。また、一時期は花柳界にも「琵琶芸者」なる演奏者があったほど琵琶熱が高く、大正時代末期の琵琶製造高は博多人形のそれに迫るほどであったという。 ^ 吉川英史は、筑前琵琶について、時代の影響もあって女子に開放されたものではあるが、決して柔弱な音楽ではないと述べ、また、優雅な曲ばかりではなく、勇壮な曲も多いことを指摘している。吉川(1990)p.42,p.48 ^ 吉川「語りもの」(1990)pp.42-43 ^ 吉川「琵琶」(1990)p.48 ^ 吉川「琵琶」(1990)pp.46-47 ^ a b 宮野弘樹「筑前の盲僧」(福岡市博物館) 吉川英史「語りもの」山川直治編集『日本音楽の流れ』音楽之友社、1990年7月。ISBN 4-276-13439-0 吉川英史「琵琶」山川直治編集『日本音楽の流れ』音楽之友社、1990年7月。ISBN 4-276-13439-0 琵琶 盲僧琵琶 薩摩琵琶 語りもの 日本琵琶楽協会公式HP 筑前琵琶 橘流「日本橘会」 宮野弘樹「筑前の盲僧」(福岡市博物館)", "仕舞(し-まい)とは能の一部を面・装束をつけず、紋服・袴のまま素で舞うこと。能における略式上演形態の一種。 広義にはいわゆる仕舞と舞囃子を含めたものを指すが、地謡と囃子とともに舞う舞囃子とは異り、一般的には囃子を伴わず、舞事・働事などの部分を略した短い素舞を仕舞という。舞囃子が一曲のうちシテの舞がかかわる部分の大半を上演するのに対して、仕舞においては謡のあるシテの舞を抜きだしたもので、場合によっては一曲の能から数番の仕舞が掲出されていることもある。たいていはクセ(舞グセ)およびこれに準ずるもの、キリ、段物などで、型は能のそれを基本とするが、始曲部分や終曲部分は収まりのよいように仕舞独自の型が付され、そのほかの部分でもあて振り的な要素のつよい型はこれを改めて全体的に象徴性をより高くする方向で型付が行われている。 伴奏は地謡のみによって行われ、装束・面は用いず、紋付袴か裃などで演ずる。演者は、本来の指定にかかわらず最初の一句を坐ったまま謡い、次に立ち上って舞い、最後に打ち込みと呼ばれる型を行って坐って一曲を終える。謡はほとんどを地謡が取るが、なかには演者との掛け合いになっているものもある。上演にあたっての時間はきわめて短く、平均で十分程度、長くても二十分ほどのものである。主としてシテ方が一人で行うが、なかには「小袖曾我」や「二人静」のように両ジテ的な相舞のもの、「龍虎」「舎利」のようにシテとツレが異なった舞をひとつの舞台で見せるものがあり、このような場合には演者が二人となる(「大蛇」のようにシテとワキの二人で舞う仕舞もある)。また「張良」「羅生門」のようにワキ方の仕舞もあり、狂言方においても小舞として仕舞に似た上演形態がある。 仕舞は鑑賞用としても上演されているが、能を演ずるための稽古の段階としても利用されている。 仕舞の基本は摺り足であるが、足裏を舞台面につけて踵をあげることなくすべるように歩む独特の運歩法で(特にこれをハコビと称する)、これを円滑に行うためには膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢をとる必要がある。すなわちこれが「構え」である。また能は、歌舞伎やそこから発生した日本舞踏が横長の舞台において正面の客に向って舞踏を見せることを前提とするのに対して、正方形の舞台の上で三方からの観客を意識しながら、円を描くようにして動く点にも特徴がある。 能舞台は音がよく反響するように作られており、演者が足で舞台を踏む(足拍子)ことも重要な表現要素である。 以下に主な仕舞の型の例を示す。 シカケ(サシコミ) すっと立ち、扇を持った右手をやや高く正面にだす。 ヒラキ  左足、右足、左足と三足(さんぞく)後退しながら、両腕を横に広げる。シカケとヒラキを連続させる型をシカケヒラキ(サシコミヒラキ)と呼ぶ。 左右(さゆう) 左手を掲げて左に一足ないし数足出た後、右手を掲げて右に一足ないし数足出る型。 サシ 右手の扇を横から上げて正面高くに掲げる型。 シオリ  目の前に手を差し出す。泣くことを示す。 枕扇 左手で扇を持って顔を隠し、寝ていることを示す。 これら種々の型の連続によって仕舞が構成される。柳田國男の論を受けた渡辺保によれば、「踊り」が飛躍や跳躍を含む語であるのに対し、「舞」は「まわる」つまり円運動を意味する語である。 能の舞の特徴は、極端な摺り足と独特の身体の構え、そして円運動である。 能の舞はきわめて静的であるという印象が一般的だが、序破急と呼ばれる緩急があり、ハコビにおいてもゆっくりと動き出して、徐々にテンポを早くし、ぴたっと止まるように演じられる。稀に激しい曲ではアクロバテックな演技(飛び返りや仏倒れなど)もある。しかし止まっている場合でもじっと休んでいるわけでなく、いろいろな力がつりあったために静止しているだけにすぎず、身体に極度の緊張を強いることで、内面から湧き上がる迫力や気合を表出させようとする特色も持っている。" ]
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[ "ナイト", "マールバラ伯爵", "準男爵", "連合王国貴族", "カナダの総督" ]
[ "ナイト(Knight)は、主にヨーロッパのキリスト教国家において勲章の授与に伴い王室または教皇から授与される、中世の騎士階級に由来した栄誉称号である。 特にイギリス(連合王国)の叙勲制度において王室より叙任されるものが有名。日本語では勲功爵、勲爵士、騎士爵、士爵などの訳が見られるほか、ナイト爵と片仮名で表記されることも多い。英国においてナイトは貴族の身分ではなく、世襲権を持たない準貴族である。また、称号としてのナイトを騎士号とも称する。本項では「ナイト」に統一し、「爵」ではなく「称号」と記述するが、伝統的な日本語訳である「勲爵士」を一部の括弧内に併記する。  現代国際法は、貴族称号またはナイトを授与する主体(羅: fons honorum)は主権を有する必要があると定めており、ナイトの授与を行えるのは主権国家、ローマ教皇、君主、そして一部の王位請求者に限られる。 イギリスにおいては、今日でも特定の勲章の授与時に王室から臣民にナイトが授与されることがあるが、これは英国君主としての「血の権利(iure sanguinis)による叙任権(Ius Collationis)」の行使の例である。さらに、既に国を持たない王家(王位請求者)であっても、国王の座にあった時に教皇から明示的に叙任権を認められていた王家に限り、引き続きナイトの叙任を行うことが教皇により認められている。こうして認められた叙任権の例としては旧イタリア王家サヴォイア家の聖マウリッツィオ・ラザロ騎士団がある。またマルタ騎士団は現在、独立国家として引き続きナイトの叙任を行っており、これも国際法で認められた主権による叙任である。 ローマ教皇は、教皇庁とバチカン市国の君主としての主権を以て、聖シルベストロ教皇騎士団等の勲章の受勲者に対しナイトの授与を行っている。これらのナイトは総称してPapal Knightsと呼ばれる。 さらに、君主制の国家ではないものの、政府として騎士号を授与する国もある。この場合、騎士の叙任の方法や叙任された騎士の地位は教会法ではなく、各国の国家法で定められる。従ってその効力が及ぶ範囲は、その国家に限定される。この例としては、共和国法第646号においてリサール騎士団の創設と騎士叙任を認めたフィリピン共和国の例がある。 さらに現代では、名誉称号としてナイトを授与する民間団体も増えているが、こうした事例は国際法上のナイトへの叙任には当たらない事に留意する必要がある。(鑑評騎士、名誉騎士など) イギリスにおいて授与される勲章にはOrder、Decoration、Cross、Medalの4種類が存在する。このうちOrderは、中世の騎士団制度に由来する栄典で、王室により設立された騎士団(勲爵士団)へ入団すること自体を栄誉とするものであり、勲章はその団員証である。すなわち、Orderを受勲するということは勲爵士団への入団を意味する。 イギリスには多くのOrderが存在するが、最も叙勲対象が広いものは大英帝国勲章である。大英帝国勲章は主に文化・学術・芸能・スポーツ面で著しい功績があった者に対し、首相の助言によって(外国籍の者に対しては外相が推薦する)君主(国王または女王、現在は女王である)が授与する栄典である。大英帝国勲章叙勲者は年に2度、新年と女王の誕生日に発表され、そのうち上位2等級の受勲者にナイトが授与される。 イギリスに存在する主な勲章と、ナイトが授与される等級を以下に示す。このうち黄色で示される等級が、受勲者がナイトに叙任される階級である。また、下表に示す以外にも騎士団への入団を伴わないナイトの叙任も行われており、こうしたナイトはKnight Bachelorと呼ばれる。 ナイトの授与に際しては、中世の騎士の叙任に対して主君が行っていたのと同じように、女王または王族の代理が自分の前に跪いた叙勲者の両肩を儀礼用の剣の平で触れる騎士叙任の儀式が行われる。ナイトの称号は1代限りで、世襲することは許されない。 ナイトの上の栄典としては、世襲が認められる準男爵(Baronet)や、世襲を行わないが世襲貴族と並んで貴族院議員となる一代貴族がある。 イギリス臣民でナイトに叙任された男性は Sir (サー)、その夫人は Lady (レディ)の敬称をつけて呼ばれる。また、女性でナイトに相当する叙勲を受けた者は Dame (デイム)の敬称をつけて呼ばれる。ただし、「サー」や「デイム」はサーネーム(姓、苗字)ではなく、名であるファーストネーム、またはフルネームの前につける敬称である。例えば、エドモンド・ヒラリーは「サー・エドモンド」または「サー・エドモンド・ヒラリー」とするのが正しく、「サー・ヒラリー」とするのは誤り。姓のみ呼ぶ場合は「ミスター・ヒラリー」。 男性ナイトの夫人はレディのあとにサーネームだけをつけられる。たとえばアン・スミスはレディ・スミスとなる。女性ナイトの夫には敬称はつかない。 ナイトの称号は英国国民以外では、イギリス連邦加盟国や旧イギリス領だった国の国民に与えられることが多く、先述のエドモンド・ヒラリーもニュージーランド人である。 (イギリス国王が君主である国々以外の)外国人で名誉ナイト号を受けた者が「サー」の敬称を用いることはない。「サー」の敬称をつけて呼ばれるのは騎士叙任の儀式を受けた者だけであり、彼らはこの儀式を受けないためである。また、イギリス人であっても聖職者も同様に騎士叙任の儀式を受けないため、「サー」の敬称をつけて呼ばれることはない。 なお、日本語では Sir の称号を冠する人物を表す際、姓に「卿」をつけて表記したものがしばしば見られる(「ヒラリー卿」、「コンラン卿」など)。しかし、姓に Sir の訳語としての「卿」をつけるのは本来の用法とは異なる。それに加え、「卿」はイギリスにおいて侯・伯・子・男の各爵位の保持者等に付される称号である Lord の訳語として定着しているので、 Sir に対して「卿」を用いるのは適切ではない。 ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク、ジンバブエのロバート・ムガベがナイトを剥奪された。 オーストラリアは自国の勲章制度からナイトをはじめデイムなどの称号を「時代遅れ」との理由から廃止している。 ブラッドリー・ウィギンス(自転車選手) フランク・ウィリアムズ(F1チーム代表) ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮者) マイケル・ガンボン(俳優) ベン・キングズレー(俳優) マイケル・ケイン(俳優) ジェームズ・ゴールウェイ(フルート奏者) ショーン・コネリー(俳優) テレンス・コンラン(インテリアデザイナー) ミック・ジャガー(ミュージシャン) トム・ジョーンズ(ミュージシャン) エルトン・ジョン(ミュージシャン) リドリー・スコット(映画監督) マイケル・スタウト(調教師) ロッド・スチュワート (ミュージシャン) ジャッキー・スチュワート(F1ワールドチャンピオン) パトリック・スチュワート(俳優) ハワード・ストリンガー(ソニー本社社長) ポール・スミス(ファッションデザイナー) ヘンリー・セシル(調教師) マーティン・ソレル(実業家) ボビー・チャールトン(サッカー選手) ドナルド・ツァン(香港行政長官) コリン・デイヴィス(指揮者) ダニエル・デイ=ルイス(俳優) ロジャー・ノリントン(指揮者) ティム・バーナーズ=リー(計算機科学者) アレックス・ファーガソン(サッカー監督) ニック・ファルド(プロゴルファー) ノーマン・フォスター(建築家 → のちフォスター男爵に叙され一代貴族に) リチャード・ブランソン(実業家・冒険家) クリス・ホイ(自転車選手) アンソニー・ホプキンス(俳優) ジョン・ボンド(en, 銀行家) ジョージ・マーティン(音楽プロデューサー) マイケル・マーモット(疫学者・公衆衛生学者) ポール・マッカートニー(ミュージシャン) イアン・マッケラン(俳優) アンディ・マリー(テニス選手) ネヴィル・マリナー(指揮者) ロジャー・ムーア(俳優) サルマン・ラシュディ(作家) サイモン・ラトル(指揮者) クリフ・リチャード(ミュージシャン) スティーヴ・レッドグレーヴ(ボート選手) アンドルー・ロイド・ウェバー(ミュージカル作曲家 → のちロイド=ウェバー男爵に叙され一代貴族に) ボビー・ロブソン(サッカー監督) カズオ・イシグロ(ノーベル賞作家) ジュリー・アンドリュース(女優) ヴィヴィアン・ウエストウッド(ファッションデザイナー) キリ・テ・カナワ(オペラ歌手) エヴェリン・グレニー(パーカッショニスト) ジョーン・コリンズ(女優) ギネス・ジョーンズ(オペラ歌手) マギー・スミス(女優) ジュディ・デンチ(女優) シャーリー・バッシー(歌手) エレン・マッカーサー(en, ヨットのソロセーラー、単独ヨット最速世界一周の功績により2005年最年少の28歳で叙勲) ヘレン・ミレン(女優) アンジェラ・ランズベリー(女優) 内田光子(ピアニスト) ボノ(ミュージシャン) ビル・ゲイツ - 実業家・篤志家 ルドルフ・ジュリアーニ - 元ニューヨーク市長 ノーマン・シュワルツコフ - 元中央軍司令官、湾岸戦争で多国籍軍を総指揮 アンジェリーナ・ジョリー - 女優 スティーヴン・スピルバーグ - 映画監督 コーリン・パウエル - 元国務長官 ジョージ・H・W・ブッシュ - 元大統領 ターチ・ヤマダ(山田忠孝) - 医師・教育者・実業家・篤志家、東京生まれの日系三世 ジェームズ・ワトソン - 分子生物学者 千野宜時 (大和証券名誉会長) 佐波正一 (東芝相談役) 豊田章一郎 (トヨタ自動車会長) 大庭浩 (川崎重工業社長) 松尾泰一郎 (丸紅相談役) 松下正治 (松下電器産業会長) 三宅一生(ファッションデザイナー) カルロス・ゴーン(元ルノー会長兼最高経営責任者、日産自動車最高経営責任者) ペレ(サッカー選手) ナイトが登場する作品ならびにナイトをモチーフにしたキャラクターやそのキャラクターが登場する作品一覧を記す。 騎士ガンダム - アニメ作品『機動戦士ガンダム』から派生したキャラクターであるSDガンダムの一つで、名のとおり騎士の風貌が特徴 騎士道物語 - 中世ヨーロッパに登場した騎士道をテーマとした作品が存在する アーサー王物語 アーサー王の死 ガウェイン卿と緑の騎士 聖杯伝説 トリスタンとイゾルデ ランスロまたは荷車の騎士 SDガンダム外伝 ナイトガンダム物語 - バンダイ発売。カテゴリーはRPG 黒騎士と白の魔王 - グラニ制作。スマホでプレイするゲームとして開発されており、カテゴリーはRPG ショベルナイト - ヨットクラブゲーム(英語版)社制作。シャベルを武器に戦う「ショベルナイト」が登場する。カテゴリーはアクションゲーム ドラゴンクエストシリーズ - スクウェア・エニックス(旧エニックス)発売。カテゴリーはRPG フォーオナー - ユービーアイソフト制作。作品内にナイトが登場する 魔界村 - カプコン制作。魔王にさらわれたプリンセスを奪還する為に冒険する騎士アーサーが主人公。カテゴリーはアクションゲーム マルディタ・カスティーラ(英語版) - 副題は『ドン・ラミロと呪われた大地』。カテゴリーはアクションゲーム。開発者はゲームクリエイターのlocomalitoとGryzor87の2人で、内容が魔界村シリーズに類似している。元はフリーゲームとして2012年に公開されたもの。 フォートナイト - エピックゲームズ制作。集めた素材で壁や坂を作るなど、クラフト要素のあるサードパーソン・シューティングゲーム。カテゴリーはアクションゲーム ^ Jesus D. Rodriguez-Velasco (2010). Order and Chivalry, Knighthood and Citizenship in Late Medieval Castille. University of Pennsylvania Press.  ^ Rajah Sir Sourindro Mohun Tagore (1884). The Orders of Knighthood, British and Foreign with a Brief Review of the Titles of Rank and Merit. Stanhope Press.  ^ Noel Cox (2009年). “The principles of international law governing the Sovereign authority for the creation and administration of Orders of Chivalry”. Chapter in Rory Stanley (ed.), Féil-Scríbhinn Liam Mhic Alasdair – Essays Presented to Liam Mac Alasdair, FGSI: 15-25.  ^ a b Peter Bander van Duren (1995). Orders of Knighthood and of Merit. Colin Smythe Limited.  ^ グレゴリウス13世 (1572年11月13日). 大勅書 Pro Commissa Nobis. 教皇庁.  ^ Peter Bander van Duren (1995). Orders of Knighthood and of Merit, The Pontifical, Religious and Secularised Catholic-founded Orders and their relationship to the Apostolic See. Colin Smythe.  ^ “Republic Act No. 646”. 2018年7月19日閲覧。 ^ “THE BRITISH HONOURS SYSTEM.”. The Churchill Society London.. 2018年7月22日閲覧。 ^ 小川賢治 (2009年3月). 勲章の社会学. 晃洋書房.  ^ “Types of honours and awards”. イギリス政府. 2018年7月22日閲覧。 ^ “The Monarchy Today > Queen and public > Honours > Knighthoods”. 2008年6月8日閲覧。 英王室公式ウェブサイトのナイトについての解説ページ(英語) ^ “BRITISH DECORATIONS.; What They Mean When Conferred Upon American Leaders”. The New York Times. (1918年8月15日). http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=2&res=940CE0D81739E13ABC4D52DFBE668383609EDE&oref=slogin&oref=slogin 2008年6月8日閲覧。  『ニューヨークタイムズ』紙の、アメリカ人がイギリス国王から叙勲された場合に「サー」の敬称をつけて呼ばれないことを解説した記事(英語、PDF) ^ Sir が「卿」と誤訳されるに至った経緯などは、植松靖夫「LordとSirの訳語をめぐって」『英語青年』2003年5月及び植松靖夫「『卿』とは何か——LordとSirの訳語をめぐって——」『東北学院大学論集』第92号 に詳しい。 ^ ナイトの称号、「時代遅れ」で廃止に オーストラリア CNN.co.jp ^ “ダニエル・デイ=ルイス ウィリアム王子からナイト爵を授けられる”. シネマトゥデイ. (2014年11月17日). http://www.cinematoday.jp/page/N0068228 2014年11月18日閲覧。  ^ “The Queen Awards Honorary Knighthood to Seattle Resident”. British Consulate-General, San Francisco. (2007年9月28日). http://www.britainusa.com/sf/articles_show_nt1.asp?i=41003&L1=36000&L2=36014&a=47067 2007年11月11日閲覧。  タダタカ・ヤマダのKBE叙任を伝える在サンフランシスコ英国領事館のプレスリリース(英語) 大英帝国勲章 Orders, decorations, and medals of the United Kingdom", "マールバラ伯爵(英語: Earl of Marlborough)は、イギリスの伯爵位。イングランド貴族。モールバラとも表記される。 過去に二回創設されており、第一期は1626年にジェイムズ・リー(英語版)が叙せられたのに始まるが、1679年に廃絶した。第二期は1689年にジョン・チャーチルが叙されたのに始まり、マールバラ公爵位の従属爵位として現存している。 庶民院議員や大蔵卿(英語版)や枢密院議長等を歴任したジェイムズ・リー(英語版)(1552-1629)は、1619年7月20日に準男爵位、1624年12月31日に「デヴォン州におけるリーのリー男爵(Baron Ley, of Ley in the County of Devon)」, 1626年2月5日に「マールバラ伯爵(Earl of Marlborough)」に叙せられた。しかしこの第1期のマールバラ伯は、第4代マールバラ伯ウィリアム・リー(1612-1679)が跡継ぎを残せなかったために1679年に絶えた ついで軍人のジョン・チャーチル(1650-1722)が戦功により1689年4月9日にイングランド貴族爵位「カウンティ・オブ・ウィルトシャーにおけるマールバラ伯(Earl of Marlborough, in the County of Wiltshire)」に叙された。彼にこの爵位が与えられたのは、彼の母がリー家と遠い縁戚関係にあったためだった。 彼はさらに1702年にマールバラ公爵に叙せられており、以降マールバラ伯爵位はマールバラ公爵位の従属爵位となって続いている。現在の爵位保有者は第12代マールバラ公爵・第12代マールバラ伯爵ジェイミー・スペンサー=チャーチルである。 以下マールバラ公爵参照 ^ a b Heraldic Media Limited. “Marlborough, Earl of (E, 1626 - 1679)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年12月10日閲覧。 ^ \"Ley, James (LY571J)\". A Cambridge Alumni Database. University of Cambridge.  ^ George Edward Cokayne Complete Baronetage Volume 1 1900 ^ a b 森(1987) p.249 ^ Heraldic Media Limited. “Marlborough, Duke of (E, 1702)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年12月10日閲覧。 森護 『英国の貴族 遅れてきた公爵』 大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。", "準男爵(准男爵、じゅんだんしゃく)、バロネット(baronet)は、イギリスの世襲称号の1つ、またそれを持つ者。男爵(baron)の下、ナイト(knight)の上に位置する。 準男爵は世襲称号の中では最下位で、貴族ではなく平民である。貴族院にも議席を有さない。敬称はナイトと同様であるが、一代限りのナイトと違って世襲の称号である。 女性形はバロネテス(baronetess)で、女準男爵と訳すことがある。これは女性が当主である場合である。準男爵の妻はレディ(lady)の敬称で呼ばれる。短縮形は、baronetはBtまたはBart、baronetessはBtss。 アイルランド征服・開拓のための資金を渇望していたイングランド王ジェームズ1世が集金目的で1611年5月22日の勅許で新しく創設した称号である。兵士30人を3年間養える費用(1,095ポンド)を献納した地主に与えられた。 当初は200人に限定するはずであったが、ジェームズ1世の治世末にはすでに200人を超えており、価格も1619年には700ポンド、1622年には220ポンドと急速に下落した。 1619年にはアイルランド準男爵、1622年にはスコットランド準男爵位が創設され、アイルランドとスコットランドでも売りに出された。1707年にイングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立するとグレートブリテン準男爵が創設され、1801年にアイルランドも合同して連合王国が成立すると連合王国准男爵が創設された。 男性の准男爵の敬称はサー(Sir)であり、「サー」はファーストネームあるいはファーストネーム+苗字とともに付けられ、苗字だけには付けられない。首相を務めた第2代準男爵サー・ロバート・ピールの場合で言えば、「サー・ロバート」あるいは「サー・ロバート・ピール」とは呼ばれても「サー・ピール」とは呼ばれない。 表記においては、名前の後に「Bart.」もしくは「Bt.」を付ける。たとえば、「Sir Robert Peel, Bt.」のように表記される。 男性の准男爵の配偶者の敬称はレディのあとに苗字だけをつけられる(例:レディ・ピール)。ただし2人以上が同じ敬称となる場合はファーストネームをつけられる(例:レディ・アン・ピールとレディ・ローズ・ピール)。 女准男爵の敬称はデイム(Dame)であり、「デイム」はファーストネームあるいはファーストネーム+苗字とともに付けられ、苗字だけには付けられない。たとえばデイジー・ダンバー准男爵の場合で言えば、「デイム・デイジー」あるいは「デイム・デイジー・ダンバー」とは呼ばれても「デイム・ダンバー」とは呼ばれない。 表記においては、名前の後に「Btss」を付ける。たとえばデイジー・ダンバー准男爵の場合、「Dame Daisy Dumber Btss」のように表記される。 女准男爵の配偶者には敬称は用いられない。 一代貴族の庶子の下、ナイトの上が席次である。 かつては商工業界の成功者には準男爵位を与えられることが多かったが、19世紀からはこうした層にも貴族の爵位が与えられることが増えていき、準男爵位の授与は減少した。20世紀半ばに一代貴族制度が誕生すると一層激減した。 1964年以降は叙任例がなくなっていたが、1991年にはデニス・サッチャー(マーガレット・サッチャーの夫)が妻を支えた功績から準男爵位に叙せられた。 ベンジャミン・ギネス - ビール・メーカー ジョン・エヴァレット・ミレー - 画家 ティモシー・シェリー - 詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの父親。 ロバート・ベーデン=パウエル - 軍人。ボーイスカウトの創立者。のちに初代ベーデン・パウエル男爵に叙される。 ジェームス・マシュー・バリー - 小説家、劇作家。『ピーターパン』の作者。 トーマス・ビーチャム - 指揮者 ジョージ・ケイリー - 航空学者 サミュエル・キュナード - 海運業 ハンフリー・デービー - 科学者 エドワード・エルガー - 作曲家 エドワード・バーン=ジョーンズ - 画家 ゴドフリー・ネラー - 画家 フレデリック・レイトン - 画家 チャールズ・ライエル - 地質学者 オズワルド・モズレー - 政治家 チャールズ・ヒューバート・パリー - 作曲家 ロバート・ピール - 政治家 エドワード・ポインター - 画家 ジョン・プリングル - 医師 アンソニー・ド・ロスチャイルド - 銀行家。彼の死後はロスチャイルド男爵位を有する英国ロスチャイルド家嫡流が男爵位とともに継承している。 ヘンリー・ロイス - ロールス・ロイスの創立者 ウォルター・スコット - 詩人、小説家 ジョージ・ガブリエル・ストークス - 数学者 Category:イギリスの準男爵も参照 小川賢治 『勲章の社会学』 晃洋書房、2009年(平成21年)。ISBN 978-4771020399。 君塚直隆 『女王陛下のブルーリボン ガーター勲章とイギリス外交』 NTT出版、2004年(平成16年)。ISBN 978-4757140738。 神戸史雄 『イギリス憲法読本』 丸善出版サービスセンター、2005年(平成17年)。ISBN 978-4896301793。 松村赳、富田虎男 『英米史辞典』 研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478。 ^ a b 君塚(2004) p.242 ^ 小川(2009) p.90 ^ 神戸(2005) p.100 ^ a b c 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 57. ^ 「Vanity Fairを馬車が行く」斎藤和夫 ^ 君塚(2004) p.241-242 ^ 小川(2009) p.100 ^ a b c d e 君塚(2004) p.243 ^ 小川(2009) p.91", "連合王国貴族(れんごうおうこくきぞく、Peerage of the United Kingdom)は、1801年に合同法によりグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立してから授爵された貴族の総称。新たな爵位はアイルランド貴族として創設され続けたが、1898年のカーゾン男爵の新設以後はいずれも創設されていない。 連合王国貴族は、公爵(Duke, Duchess)、侯爵(Marquess, Marchioness)、伯爵(Earl, Countess)、子爵(Viscount, Viscountess)、男爵(Baron, Baroness)で構成される。すべて世襲制だが、1958年の一代貴族法により男爵のみ世襲(Hereditary baron)と功労による一代限り(Life baron)とがある。なお、日本語で準男爵と一般的に訳されているbaronetは貴族(peerage)には含まれない。 王族でない公爵創設は1900年のファイフ公爵が最後であり、侯爵の創設は1926年のレディング侯爵が最後であった。1964年にハロルド・ウィルソンの労働党政権が成立後はほとんど授爵が絶えており、1984年にハロルド・マクミランがストックトン伯爵となってから創設がない。 1999年貴族院法が成立後、連合王国貴族を含めた世襲貴族の議席は92議席に限定された 貴族は尊称としてLordやLadyを名前の前に付けるが、個人名そのものをLordやLadyの付いたものに改名する偽貴族詐欺も横行している。 ウェリントン公爵(1814年)ウェルズリー家 サザーランド公爵(1833年)エジャートン家 ウェストミンスター公爵(1874年)グローヴナー家 ファイフ公爵(1900年)カーネギー家 エクセター侯爵(1801年)セシル家 ノーサンプトン侯爵(1812年)コンプトン家 カムデン侯爵(英語版)(1815年)パジェット家 チャムリー侯爵(1815年)チャムリー家 アリスバーリー侯爵(英語版)(1821年)ブルードネル=ブルース家 ブリストル侯爵(英語版)(1826年)ハーヴェイ家 エイルザ侯爵(英語版)(1831年)ケネディ家 ノーマンビー侯爵(1838年)フィップス家 アバーガヴェニー侯爵(1876年)ネヴィル家(英語版) ゼットランド侯爵(1892年)ダンダス家 リンリスゴー侯爵(1902年)ホープ家 アバディーン=テメイア侯爵(1916年)ゴードン家(英語版) ミルフォード・ヘイヴン侯爵(1917年)マウントバッテン家 レディング侯爵(1926年)アイザックス家 ロスリン伯爵(英語版)(1801年) : セント・クレアー=アースキン家 クレイヴン伯爵(英語版)(1801年) : クレイヴン家 オンズロー伯爵(1801年) : オンズロー家 ロムニー伯爵(英語版)(1801年) : マーシャム家 チチェスター伯爵(1801年) : ペラム家 ウィルトン伯爵(英語版)(1801年) : グローヴナー家 パウィス伯爵(英語版)(1804年) : ハーバート家(英語版) ネルソン伯爵(1805年) : ネルソン家 グレイ伯爵(1806年) : グレイ家 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: ゲイソン=ハーディ家 クローマー伯爵(1901年) : ベアリング家 プリマス伯爵(英語版)(1905年) : ウィンザー=クライヴ家 リヴァプール伯爵(1905年) : フォジャム家 セント・アルドウィン伯爵(1915年) : ヒックス=ビーチ家 ベイティ伯爵(英語版)(1919年) : ベイティ家 ヘイグ伯爵(英語版)(1919年) : ヘイグ家 アイヴァー伯爵(1919年) : ギネス家 バルフォア伯爵(1922年) : バルフォア家 オックスフォード=アスキス伯爵(1925年) : アスキス家(英語版) ジェリコー伯爵(英語版)(1925年) : ジェリコー家 インチケープ伯爵(1929年) : マッカイ家 ピール伯爵(1929年) : ピール家 ビュードリーのボールドウィン伯爵(英語版)(1937年) : ボールドウィン家 ハリファックス伯爵(1944年) : ウッド家 ゴーリー伯爵(英語版)(1945年) : ラスヴェン家(英語版) ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵(1945年) : ロイド・ジョージ家 ビルマのマウントバッテン伯爵(英語版)(1947年) : ナッチブル家 チュニスのアレグザンダー伯爵(1952年) : アレクサンダー家 スウィントン伯爵(1955年) : カンリフ=リスター家 アトリー伯爵(1955年) : アトリー家 ウォールトン伯爵(1956年) : マーキス家 スノードン伯爵(1961年) : アームストロング=ジョーンズ家 ストックトン伯爵(1984年) : マクミラン家 ※2015年現在、臣民に対して与えられた最後の世襲貴族爵位 ウェセックス伯爵(1999年) : 王族エドワード王子の爵位。 セント・ヴィンセント子爵(英語版) (1801) ジャービス家 メルヴィル子爵(英語版) (1802) ダンダス家 シドマス子爵 (1805年) アディントン家 エクスマウス子爵(英語版) (1816) ペルー家 コンバーミア子爵(英語版) (1827) ステイプルトン=コットン家 ヒル子爵(英語版) (1842) クレッグ=ヒル家 ハーディング子爵 (1846) ハーディング家 ゴフ子爵 (1849年) ゴフ家 ブリッドポート子爵(英語版) (1868) ネルソン・フッド家 ポートマン子爵(英語版) (1873) ポートマン家 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や1947年の勅許状等によって規定されている。実際に政治はカナダの連邦議会(国王、上院、下院)が立法権を持っている。行政権は首相及び内閣が担当している。 「イギリス国王」は「カナダ国王」を兼位しており、実際カナダ滞在中などにはカナダ国王として行動するが、ウエストミンスター憲章制定後はカナダ政府はイギリス政府から完全に独立している。イギリスとカナダの関係はあくまでも同君連合であるものの、国王が通常カナダ国外に滞在していることから前述のように、国王の名代として総督が任命されている。国王も特に個人的にカナダの内政に対して関与することはほとんどないが、カナダの総督を任命する権限を持っている(現実的にはカナダの首相の指名に基づいて行われる)。 形式的であるとはいえ「イギリス国王・女王(と同一人物であるカナダの君主)の名代」という性質から、長らくイギリス系の白人男性のみが総督となっていたが、1984年5月14日に女性として初めてフランス系カナダ人のジャンヌ・ソーベ(英語版)が第23代総督に就任した(フランス系人初のカナダ総督は19代目として1959年に就任したモントリオール出身のジョルジュ・ヴァニエ(英語版)という男性軍人)。その後も1999年と2005年に続けて2人の女性総督が誕生しているが、第26代総督エイドリアン・クラークソンは香港系カナダ人(アジア系)、第27代総督ミカエル・ジャンはハイチ系カナダ人(黒人系)と、現代では性別のみならず人種や民族などの多様性にも配慮した人選となっている。 現職は、2017年10月2日よりジュリー・ペイエット。 また各州には、それぞれの州におけるカナダ国王の代理として総督が任命する副総督が置かれている。 ^ 在日カナダ大使館. “カナダ総督の役割と責任”. 2016年7月19日閲覧。 ^ MacLeod, Kevin S. (2008). A Crown of Maples (1 ed.). Ottawa: Queen's Printer for Canada. p. 34. ISBN 978-0-662-46012-1. http://www.pch.gc.ca/pgm/ceem-cced/fr-rf/crnCdn/crn_mpls-eng.pdf.  カナダ総督の一覧 カナダの副総督 イギリス連邦 カナダ総督の役割と責任 在日カナダ大使館" ]
ABC01-02-0287
人道主義・理想主義を主張し、代表的な作家に武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎などがいる、明治末期から大正時代にかけての文学の一派をなんと言うでしょう?
白樺派
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[ "白樺派", "篠原温亭", "小説総論", "根岸短歌会", "日本派" ]
[ "白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮のひとつ。また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のことである。 大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。1910年(明治43年)刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した。 そのきっかけは1907年(明治40年)10月18日から神奈川県藤沢町鵠沼の旅館東屋で武者小路実篤と志賀直哉が発刊を話し合ったことだと志賀が日記に記している。学習院の学生で顔見知りの十数人が、1908年から月2円を拠出し、明治43年(1910年)春の刊行を期して雑誌刊行の準備を整えたという。同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも『白樺』以外にない。『白樺』は学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。彼らが例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発からである。さらには漢詩や俳諧などの東洋の文芸に関しても雅号・俳号の類を用いなかった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。また白樺派の作家には私小説的な作品も多い。写実的、生活密着的歌風を特徴とするアララギ派と対比されることもある。 白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路はその明るい性格と意志の強さから思想的な中心人物となったと考えられている。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。 彼らは恵まれた環境を自明とは考えず、人生への疑惑や社会の不合理への憤る正義感をすり減らさずに保ち得た人々であり、トルストイの影響を強く受けたことや有島武郎がその晩年に自分の財産を小作人に分かち与えたこと、武者小路の「新しい村」の実験に見られるような急進主義にもそうした傾向はよくあらわれている。 白樺文学館は、千葉県我孫子市緑の旧志賀直哉邸跡地前に、2001年(平成13年)1月に白樺派の作品を広く公開するために建設された文学館である。 コンセプト立案者および初代館長は武田康弘。また開館にあたっては日本オラクル初代社長の佐野力が資金提供した。 我孫子市には柳宗悦が1914年(大正3年)に移住し、彼に誘われる形で1915年(大正4年)には志賀直哉が移住して「城の崎にて」「和解」「暗夜行路(前篇のみ)」を同地にて執筆するなど、白樺派と深いつながりのある土地である。さらに1916年(大正5年)には武者小路実篤も居を構えており、彼らとの交流からバーナード・リーチが同地に窯を築くなど、明治後期から大正時代にかけて白樺派の拠点であった。 現在の山梨県北杜市長坂町中丸に所在する清春芸術村および清春白樺美術館は、武者小路実篤が『白樺』第8巻第10号に発表した「日記のかはり」の中で語った、新美術館建設の理想が元になっている。 武者小路や志賀直哉を敬愛し親交のあった銀座吉井画廊社長・吉井長三が、白樺派の理想を実現すべく、山梨県旧日野春村、旧秋田村、旧清春村の3村合併に伴い、1975年(昭和50年)に廃校となっていた旧清春小学校跡地を買い取り、1981年(昭和56年)に芸術村を建設した。 続いて1983年(昭和58年)には芸術村内に清春白樺美術館を建設。同美術館には白樺派同人の絵画や原稿などを中心とした諸資料が収蔵されている。美術館以外の施設としては、パリ・モンパルナスの集合アトリエ「ラ・リューシュ」を模した会員制貸しアトリエ、東京から移築された梅原龍三郎のアトリエ、ルオー礼拝堂、レストラン(ラ・パレット)などがある。 東京都調布市若葉町の武者小路実篤記念館は、実篤が1955年から1976年まで、晩年の20年間を過ごした邸宅(現:実篤公園)の隣接地に1985年10月に調布市が開館。 実篤の本、絵や書、原稿や手紙、実篤が集めていた美術品などを所蔵し、文学や美術などいろいろなテーマによって展覧会をほぼ5週間ごとに開催。閲覧室では、実篤の本、実篤が好きだった画家の画集、友人であった志賀直哉や岸田劉生らの本、雑誌『白樺』や日本近代文学の本などの閲覧も可能。 ^ 関川夏央 『白樺たちの大正』 文春文庫、2005年、102p。 ^ 関川夏央 『白樺たちの大正』 文春文庫、2005年、108p。 ^ 伊藤整 『近代日本の文学史』 光文社、1958年、154p。 ^ 中村光夫 『日本の近代小説』 岩波新書、1991年、174p。 ^ “帝京技術科学大学 きょう開学式”. 千葉日報 (千葉日報社): p. 朝刊 16. (2000年2月11日)  ^ “白樺文学館が開館 貴重な資料さまざま 我孫子”. 千葉日報 (千葉日報社): p. 朝刊 16. (2001年1月12日)  学習院 日本の近現代文学史 城崎町文芸館 白樺文学館 清春芸術村 清春白樺美術館 吉井画廊Web 調布市武者小路実篤記念館", "篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年2月1日) - 1926年(大正15年)9月2日)は、俳人、小説家。 1872年(明治5年)、熊本県宇土郡宇土町(現・宇土市)に生まれる。本名は英喜。別号に松濤、家巣など。父親は漢学塾長。京都本願寺文学寮(現・龍谷大学)に学んだのち上京し、徳富蘇峰が主宰する「國民新聞」に勤め活躍した。 その傍ら、ホトトギス同人となり、正岡子規、高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった。1922年(大正11年)、俳誌「土上(どじょう)」を嶋田青峰らと共に刊行した。俳句は「温籍高雅」の作風で、虚子編「新歳時記」には27句が採用されている。1926年(大正15年)、55歳で脳溢血により没した。墓所は東京武蔵野の深大寺にある。 著書は、小説「不知火」「二年越」「昔の宿」、随筆「その後」などがあり、没後に嶋田青峰により「温亭句集」が編纂・刊行された。 熊本県宇土市の旧城下町の面影を残す船場橋・通称眼鏡橋の端に、篠原の句碑がある。 新涼や水深くみて橋渡る ^ 熊本県高等学校教育研究会国語部会編 『くまもと文学紀行』 熊本県高等学校教育研究会、2005年、208頁 ^ a b 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、413頁 ^ 熊本日日新聞2015年9月7日読者文芸欄 ^ 日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト2007』、214頁 ^ 熊本日日新聞2015年9月7日読者文芸欄 篠原温亭(kotobank) 篠原温亭(くまもと文学・歴史館)", "『小説総論』(しょうせつそうろん)は、二葉亭四迷の文芸評論。1886年(明治19年)、「中央学術雑誌」に発表。 坪内逍遥に影響を受け、さらに批判的に内容を深め『小説神髄』の欠点を補う。非常に短いが日本の近代小説成立の上で『小説神髄』と並んで重要な評論。 形(フォーム)と意(アイデア)の2つの用語を使って小説を整理した。小説は浮世の様々な形を描くことで意を直接に表現すべきものであるとしてリアリズムを主張し、作為的に善悪の二極を設定する勧善懲悪の物語を批判した。また、いたずらに形のみを描いて意を描けていない小説は下手であるとして、形に対する意の優位を示している。 『小説総論』:新字新仮名 - 青空文庫", "根岸短歌会(ねぎし たんか かい)は、正岡子規が主催した短歌結社。名前は子規庵の住所(東京下谷上根岸)に由来し、子規庵での歌会から始まり、後にアララギ派に発展する。 当時の正岡子規は、闘病生活の傍ら新聞「日本」や俳誌「ホトトギス」「心の花」などで活動、俳句や短歌の改革を唱え、俳句の近代化に成功した。そして1898年(明治31年)に「歌よみに与ふる書」を発表、万葉への回帰と写生による短歌を提唱して、写実的な短歌の実践を試みる。 根岸短歌会は1899年(明治32年)3月14日に子規庵で正岡子規、岡麓、香取秀真、山本鹿洲、木村芳雨、黒井怒堂の6名で開かれた歌会を源流とし、同郷の後輩である高浜虚子や河東碧梧桐らにより結成され、伊藤左千夫や長塚節らも参加した。 子規の没後、1903年(明治36年)に機関誌「馬酔木」(1908年終刊)が発行され、根岸短歌会参加者に加え島木赤彦や斎藤茂吉らも参加し、これが歌誌「阿羅々木」(後のアララギ)へと発展していくことになる。 ^ 正岡子規が根岸短歌会を創始 - 草莽崛起-PRIDE OF JAPAN ^ 子規庵について | 子規庵", "「日本派」とは、新聞「日本」で活躍した俳人たちのこと。 正岡子規は1892年(明治25年)に陸羯南が主宰する新聞「日本」の社員となった。 当時のニューメディアである新聞を使って、子規は「俳句革新」を進めることができたといえよう。それが1892年に連載された「獺祭書屋俳話」であり、翌1893年の新聞文苑欄募集俳句の掲載であった。 その「日本」で活躍した俳人たちが「日本派」と呼ばれた。 それは高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・五百木飄亭らであった。 日本派に対して、秋声会、旧派と呼ばれる「派」もあった。 ひとびとの跫音(司馬遼太郎著)" ]
ABC01-02-0291
第二次大戦の激戦地アッツ島やキスカ島も含まれる、アメリカ・アラスカ州に属する約2700キロメートルの列島を何というでしょう?
アリューシャン列島
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[ "アリューシャン列島", "ニア諸島", "ケルゲレン諸島", "ウンボイ島", "フォー・マウンテンズ諸島" ]
[ "アリューシャン列島(アリューシャンれっとう、英語: Aleutian Islands [əˈluːʃən]; 「アレウトの島々」の意)は、北太平洋に弧状に連なり、アメリカ合衆国のアラスカ半島からロシアのカムチャツカ半島にかけて約1,930キロメートルにわたって延びる列島である。 アリューシャン列島はフォックス諸島、フォー・マウンテンズ諸島、アンドリアノフ諸島、ラット諸島、バルディア島、ニア諸島、コマンドルスキー諸島からなる。全島が北緯52度から55度、東経172度から西経163度に位置し、環太平洋火山帯の一部を構成する。大部分がアメリカ合衆国アラスカ州に属しているが、西端のコマンドルスキー諸島のみがロシア連邦カムチャッカ地方アレウト地区(ロシア語版)に属する。 フォックス諸島西端とフォー・マウンテンズ諸島東端の間の海域に西経169度30分線があり、フォックス諸島から東はアラスカ標準時(UTC-9)(夏の間はアラスカ夏時間(UTC-8))である。 フォーマウンテンズ諸島から西、ニア諸島の西端まではハワイ・アリューシャン標準時(UTC-10)(夏の間はハワイ・アリューシャン夏時間(UTC-9))となっている。 ニア諸島西端のアッツ島とコマンドルスキー諸島東端のメードヌイ島との間にアメリカ合衆国とロシア連邦の国境線と国際日付変更線があり、コマンドルスキー諸島から西は2013年以降カムチャツカ時間(ロシア第11標準時)(UTC+12)となっている。夏時間は2011年以降廃止されている。 国際日付変更線をまたぐため、ニア諸島とコマンドルスキー諸島の時差は2時間ではなく、22時間となっている。 アドゥガク島 エイクタック島 アクン島 アクタン島 アマク島 アマクナック島 アナングラ島 アヴァタナク島 ベイビー諸島 バード島 ボゴスロフ島 ブレッドローフ島 バック島 ケイトン島 チャグラク島 ディア島 ダービン島 ディシュコット島 エッグ島 エメラルド島 エクスペディション島 ファイヤー島 ガーゴイル諸島 ガル島 ホッグ島 カリカガン島 キガル島 クレニッツァン諸島 クディアコフ島 オーガンゲン島 オグチュル島 パンケーキ岩礁 ピーター島 ポア島 プストイ島 ルートク島 ラウンド島 サマルガ島 サナック島 セダンカ島 サスヒルノイ島 タンジク島 タンジナック島 ティガルダ島 ウガマク島 ウムナック島 ウナラスカ島 - ダッチハーバー ウナルガ島 ウニマク島 ブセビドフ島 ウィズロー島 アムクタ島(英語版) チャグラク島 チュギナダック島 カーライル島 ハーバート島 カガミル島 ウリアガ島(英語版) ユナスカ島 セグアム島 アムリア島 アトカ島 グレート・スキン島 カガラスカ島 アダック島 カナガ島 タナガ島 ガレロイ島 キスカ島 アムチトカ島 バルディア島 - バルディア山(英語版) アッツ島 アガッツ島 シェミア島 ベーリング島 メードヌイ島 アレウト族 アリューシャン地震 アリューシャン海溝 アリューシャン海流 ハワイ・アリューシャン標準時 アリューシャン方面の戦い 天皇海山群 - アリューシャン列島の南に位置する海山群。カムチャツカ半島からはどちらも南東方向に延びており、ほぼ並行しているが、天皇海山群はデトロイト海山から南南東へと向きを変えるのに対し、アリューシャン列島は弧を描くように東から東北東へと延びている。", "ニア諸島(Near Islands)とはアリューシャン列島のバルディア島とコマンドルスキー諸島の間に位置する諸島。 アリューシャン列島におけるアメリカ合衆国領の諸島では一番西に属する。 さらに西のコマンドルスキー諸島との間には、ロシア連邦との国境線と国際日付変更線がある。 アラスカ州に属する。面積は1,143.785 km2で人口は47人(2000年)。 主な島にアッツ島、アガッツ島、シェミア島などがある。 諸島名は18世紀にロシアの探検家によりアリューシャン列島で最もロシアに近いことからニア諸島と命名された。 1942年、第二次世界大戦で日本軍が占領し1943年アメリカ軍のアッツ島上陸によりアッツ島の戦いが勃発した。", "ケルゲレン諸島 (仏: les îles Kerguelen、英: Kerguelen Islands, Kerguelen Archipelago)は、南インド洋にあるフランス領南方・南極地域の島々。ケルゲレン島(La Grande Terre、英: Kerguelen Island)を中心に約300の島で構成される。気候は寒冷海洋性であるが、寒帯性ではない。風が強く、海は常に荒れている。 1772年、フランスのイヴ・ジョゼフ・ド・ケルゲレン・ド・トレマレック(フランス語版)により発見された。何度か定住が試みられてはいるが、永住居住者はいない。 島のアザラシは毛皮のために 18世紀ごろ、クジラなどの海獣類は 20世紀初頭までに捕獲し尽くされたが、保護の結果、動物の生息数は近年[いつ?]増加傾向にあり、海岸には新たに海鳥類(アホウドリ、ペンギン、ミズナギドリなど)ばかりでなく、アザラシやアシカ類の繁殖地が発生している。ケルゲレン諸島は領海も含めて自然保護区となっている。占有経済水域は、法定漁業海域となっている。 1950年に、フランスは、ポルトーフランセに観測基地を開設している。以降、基地は周年稼動させており、物資補給、研究・観測業務を60~100人の要員の交代勤務で実施している。2008年には、第58次観測隊が派遣されている。 ケルゲレン諸島は、南緯48°35'〜49°54'、東経68°43'〜70°35'に位置し、南極大陸海岸から約2000km、レユニオンから約3400km、オーストラリアから約4800km離れている。 最も近い島は次の通りである。 ハード島(オーストラリア) サンポール島(フランス) アムステルダム島(フランス) クローゼー島(フランス) プリンスエドワード諸島(南アフリカ) 総面積7215km2のケルゲレン諸島は、主島ラ・グランド・テールとそれにほとんど近接した(数百 mの距離にあるものが多い)周囲の300以上の島や衛星的小島から構成されているが、例外的に遠距離に離れた島として北にニュワジューズ群島およびレイゲ群島と、南方に孤立した幾つかの島がある。全体として海岸線の曲折が非常に激しく、幾つかの大きな湾や、二次的な入り江ならびに、奥行きのあるフィヨルドがある。最高標高地点は、ロス山(1850 m)である。 ラ・グランド・テール(主島)の面積は6675km2であり、コルシカ島の3/4の広さを持つ。当諸島総面積の92%を占め、東西方向の長さは約150kmである。最高点はロス山(1850m)であり、島の西側はクック氷冠に覆われている。 主島には次のような幾つかの半島がある。 東側:クールベ半島 東南側:ジャンヌダルク半島、その北側にロナルク半島 南側:ガリエニ半島、ロス山がそびえる 南西側:ラリエ・デュ・バティ半島が北に向かって伸び、エスタン岬が先端にある 北西側:ロランシェ半島 北側:地理学協会半島、そのさらに東にジョフル半島 主島以外で最も大きい島はフォック島で、中央北側に位置し、面積が200km2以上ある。 その他の島で主なものは次の通りである。 同様に主島中央北側にあるサンーランヌ・グラモン島、オウ島、マクマード島 ニュワジューズ諸島にあるロラン島およびクロイ島 レイゲ諸島にあるカストリ島 バレイニエ(捕鯨船)湾にあるポール島 モルビアン湾にあるロング島、オーストラリア島、オート(高い)島 南側にあるギャビイ島、アルタザン島、モナコ王子島 西海岸にあるウエスト(西)島 ケルゲレン諸島は約 220 万平方キロにも及ぶケルゲレン=ハード海台の海上部分を形成している。 諸島の地上部に見られる地質形態の主要部分は、トラップ(溶岩台地)型の噴出火山活動の特徴を有し、その海面上への出現は、3,500万年前から始まった。集積量は著しく、玄武岩質溶岩流の層の厚さは、それぞれ3~10mあり、互いに重なり合い、時には1200m以上の厚さとなることもある。このタイプの溶岩流出活動は、階段型またはピラミッド型の巨大な地形を形成する。 局部的には他の火山性の形態も存在する。特に、ロス山を形成するストロンボリ型火山と、ラリエデュバティ半島の深成岩複合火山がある。粗面岩、粗面岩フォノライト、フォノライトの様々な岩脈と溶岩噴出が島の各地に見られる。歴史上に記録された噴火はないが、主島南西部における噴煙活動は依然として活発である。 若干程度の褐炭層が玄武岩質溶岩流の層間に出現し、約1400万年前と推定されるアローカリア(ナンヨウスギ)科の化石が埋蔵されている。 最後に、氷河作用が、陥没と傾斜現象を発生させ、列島の北部と東部に湾を形成した。氷河と河川による浸食作用が、渓谷とフィヨルドを形作り、また礫岩の砕屑(さいせつ)複合地層と、クールベ半島平野を形成した。 ケルゲレン諸島は、ケルゲレン大陸と呼ばれるマイクロコンチネントが海に沈んだ一部である。マイクロコンチネントは1億年前から2千万年前にかけて3期間出現した。ケルゲレン大陸には熱帯性動植物の化石が存在すると思われる。現在は水面下1~2kmにある。ケルゲレンの堆積岩はオーストラリアとインドのものに似ており、これらが昔つながっていたことを示す。ケルゲレン大陸の調査により、オーストラリア、インド、南極が分裂した様子が分かると科学者は期待している。 ケルゲレン諸島の気候は海洋性であるが、寒冷で著しく頻繁に強い風が吹く。月平均気温が10°Cに達する月がないため、ケッペンの気候区分によれば、極地気候の一種でツンドラ気候(ET)に含まれることになる。しかしながら、その一方で平均気温が0°C以下に下がる月もなく、むしろ温帯性と言った方が適切とも思われる。チリのパタゴニア地方あるいはアイスランド、他の亜南極諸島(コルゼ諸島、フォークランド諸島等)に類似の気候が見られる。 ポルトーフランセの観測所のデータでは、以下のようになる(なお、同観測所の位置は、風から遮られた湾の沿岸にあり、気候的に見れば同島の中では最も恵まれている)。 年間平均気温は4.5°Cで変動幅は狭く、6°C程度となっている。最も温暖な月は1月、2月で平均気温7.9°C、最も寒い月は8月で2°Cである。最高気温が20°Cを超えることは稀であるが、海面の高さで-10°C以下の最低気温が観測されたことはない。降雨は頻繁にあり、年間を通して雪として降ることがある。ポルトーフランセでの年平均降水量は比較的少なく、820mmであるが、島の反対側の西海岸では、その3倍の降水量があると推定される。 山は雪で覆われることが多いものの、その雪は雨によってすぐに消える。永久氷河の中にはここ数十年で明らかに後退しているものもあり、最も小規模の氷河は完全に消失した。ケルゲレン諸島はいわゆる「狂う50度線」に位置しており、風が大変強い。西風がほとんど常時吹いており、風速は平均で35km/h 、しばしば150km/hに達し、時として200km/hを観測することもある。波の高さも12m~15mに至ることは普通であるが、島には複雑な入り江が多く、船舶の避難に適した場所が存在する。 ^ 南極地方で活動する科学者たち 在日フランス大使館 ^ KERGUELEN :58 ème Mission d'hivernage à Port-aux-Français, Kerguelen フランス極地研究所 ^ “Climate Normals for Port Aux Francais 1961-1990”. National Oceanic and Atmospheric Administration. 2013年2月28日閲覧。 ^ “Weatherbase: Historical Weather for Port-Aux-Francais, French Southern and Antarctic Lands”. Weatherbase. 2013年2月28日閲覧。 ^ “Weatherbase: Historical Weather for Port Aux Francais, France”. Weatherbase. 2013年2月28日閲覧。 南極周辺の島の一覧 Réserve Naturelle Nationale des Terres Australes Francaises | Ramsar", "ウンボイ島(ウンボイとう、英: Umboi Island)はパプアニューギニアのニューギニア島とニューブリテン島の間にある火山島。別名ルーク島(Rooke Island)。 島の北の海域はビスマルク海、南はソロモン海、東はダンピア海峡、西はヴィティアス海峡(英語版)となっている。 標高1548m、完新世紀の複合火山から成っており有史上の噴火の記録は無い。 住民の言語にはパプア諸語のコヴァイ語(英語版)、オーストロネシア語族のマンガップ語(英語版)、シアッシ語(英語版)(またはルケップ語)、バリム語(英語版)、ムトゥ語(英語版)がある。 幾人かの先住民とアメリカの研究者によれば、夜行性で魚を食べ、コウモリより大きく翼竜のように空を飛ぶ未確認生物、ローペン(イタリア語版)が棲息しているという。 ^ Lewis [et al.] (2015). Lewis, M. Paul, Gary F. Simons, & Charles D. Fennig, eds. (2015). Ethnologue: Languages of the World (18th ed.). Dallas, Texas: SIL International. CS1 maint: Uses editors parameter Global Volcanism Program: Umboi", "フォー・マウンテンズ諸島(Islands of Four Mountains)はアメリカ合衆国アラスカ州アリューシャン列島の諸島。西から東にアムクタ島(英語版)、チャグラク島、ユナスカ島、ハーバート島、カーライル島、チュギナダック島、ウリアガ島(英語版)、カガミル島がある。アムクタ・パス(英語版)とアンドリアノフ諸島の間に位置し、西にアンドリアノフ諸島、東にサマルガ・パスとフォックス諸島がある。総面積は545.596 km²で、定住者はいない。 最も大きい2つの島はユナスカ島とチュギナダック島である。チュギナダック島は殆どが活火山クリーブランド山で構成される。 名前は、\"Islands of Four Volcanoes\" (Sarichev, 1826, map 3)を意味するロシア語Четырехсопочные Острова (ラテン文字転写:Chyetyryekhsopochnyye Ostrova)から翻訳され、4つの著名な火山があることから、初期のロシアの探検家により、名づけられた。アレウト語名\"Unigun\" (Uniiĝun現代アレウト語正書法)はFather Veniaminovによって1940年に報告された。5つのうち4つのみが最も初期の地図や海図上にあるため、これらの島々の名前についての混乱があるようである。現在の名前は1894年にUSS Concord (PG-3)(英語版)のfield partyによりまとめられ、1895年に米海軍水路局(Chart 8)によって発表された。 ^ Islands of Four Mountains: Blocks 1080 thru 1082, Census Tract 1, Aleutians West Census Area, Alaska United States Census Bureau ^ Astronomy Picture of the Day: \"22 June 2010\" ^ Bergsland, K. (1994). Aleut Dictionary. Fairbanks: Alaska Native Language Center.  ^ \"Islands of Four Mountains\". Geographic Names Information System. U.S. Geological Survey. 2006年6月7日閲覧." ]
ABC01-02-0292
歯の検査で使われるアルファベットで、虫歯をあらわすのはCですが、歯槽膿漏をあらわすのは何でしょう?
P
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[ "P", "N", "H", "U", "O" ]
[ "Pは、ラテン文字(アルファベット)の 16 番目の文字。小文字は p 。ギリシャ文字のΠ π(パイ)に由来し、キリル文字のП пに相当する。ギリシャ文字のΡ ρ、キリル文字のР рは別字であり、どちらもラテン文字のRに相当する文字である。また、アイスランド語における文字 \"Þ\"(小文字\"þ\")も別字であり、これは英語に於ける\"th\"(但し、無声子音の方)に相当する。 大文字は、縦棒の上部右に右半円を付けた形である。 小文字はミーンラインより下に書かれるが、ベースラインを越えて下に突き出す。このため、実質的な大きさは大文字と同等である。半円は円で書かれることが多く、棒は接線となる。筆記体では縦棒を先に書き、折り返して丸を時計回りに書く。このため、棒の上部に前の字からの接続線が、円の下部に次の字への接続線が付く。このとき、丸の下部を棒まで戻さず、丸の下が空いたままにすることがある。 数式などで大文字のPを筆記する際は、棒の下にセリフを付けることで小文字と区別している。 亀甲文字では、 P   p {\\displaystyle {\\mathfrak {P\\ p}}} となる。 羅・独・蘭・イネ:ペー 仏・西:ペ 伊:ピ 英:ピー エス:ポー この文字が表す音素は、/p/ないしその類似音である。 フランス語では語末のpを黙字とする。次の単語が母音で始まれば、このpを発音する。 ギリシア文字・Π(ピー)の右足を曲げた形に由来する。この結果、現在のラテン文字のRに相当するΡと同形になってしまったため、そちらの文字には中央から右下にヒゲを付け加えて区別するようになった。 リンの元素記号。 アミノ酸の1つプロリンの1文字略号。 音楽記号のピアノ (piano)(弱;フォルテ<forte>の反対)。 P (計算複雑性理論) - 計算複雑性理論において、決定性チューリングマシンが多項式時間で解くことのできる決定問題のクラス。P≠NP予想など。 文献のページ (page) を示す。 電気的接点/極を表す(スイッチの DPDT など、コネクタの 36P など) プルスイッチ。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。スイッチの図記号に傍記。 片、Piece SI接頭辞 ペタ(1015)(大文字) ピコ(10−12)(小文字) CGS単位系における粘度の単位ポアズ 1g重を表すドイツの単位「ポント」(pond) 物理学で陽子(小文字)または運動量を表す(大小)。 光学で部分偏極状態の光の偏極度 (degree of polarization) を表す。通常大文字で記す。 化学でパラ (para) 位をp-で表す。 主に化学で、水素イオン指数や酸解離定数などで、負の常用対数 ( − log 10 {\\displaystyle -\\log _{10}} ) の略記として使われる。 圧力 (pressure) を表す。 数学で筆記体で用いて(あるいは p.v. として)積分がコーシーの主値 (principal value) であることを表す。 点を示す記号。(point) を表す。 素数を示す記号。(prime number) を表す。 nPm は順列 (permutation) の総数。 論理学では命題 (proposition) や述語 (predicate) を表す。 LISPでブール値を返す関数の名前は慣習的に p (predicate) で終わる。 確率ではある事象 E が起こる確率 (Probability) を P(E) と表記する。 per の略に使われ、「/」と書かれたり「毎」と訳されることがある。 例: mph(Miles per hour = マイル毎時 = 時速。アメリカやイギリスで用いられる) kph(Kilometres per hour = キロメートル毎時 = 時速 = km/h) dpi(dots per inch = ドッツパーインチ = 1 インチあたりのドット数) rpm(revolutions per minute = 1 分あたりの回転数。例えばレコード、ハードディスク、エンジンなどの回転速度の単位として使われる。) 顔文字で舌を出した口に使われる。例 :-P や :p (X)HTML で段落 (paragraph) を表す要素 計算機科学でセマフォ(プロセス同期のための仕組み)に対する基本操作 微量の 3 価元素を不純物として加えた半導体を表す(p 型半導体←positive)⇔N型半導体 地震波の第1波を示すP波の略 (Primary wave)。 遺伝学において、親世代を表す記号 (Parents)。 通貨の単位ペソの略 通貨の単位パタカの略、もしくはマカオの通貨の単位マカオ・パタカの略 パリ (Paris) の略 色彩学でいう、むらさき。紫 (Purple)。 古代ローマ人の個人名プブリウス (Publius) の略。 野球で投手(ピッチャー、英:Pitcher)を表す略称。 アメリカンフットボールでパンター。 歩兵を表すチェスの駒ポーン (Pawn) や将棋の歩兵の略号。 真空管の端子の1つ。プレート (Plate) テレビ・ラジオの放送業界や音楽業界などで、プロデューサー (Producer) の意味。 転じて、ニコニコ動画を中心に、Vocaloid等の音声合成ソフトを用いた曲を発表するミュージシャンの名称に○○Pという形で称号的に用いられる事がある。 さらに転じて、放送業界・音楽業界・ゲーム業界などのプロデューサーの愛称・称号として○○Pなどと呼称されることがある。 映像のプログレッシブ走査方式 (Progressive)。 ATS(自動列車停止装置)の一種で、パターン (Pattern) 型。 電機業界でパナソニック(旧社名:松下電器産業)を表す符丁 (P = Panasonic)。 日本の駅ナンバリング制度においては、大阪では大阪市高速電気軌道南港ポートタウン線、神戸では神戸新交通ポートアイランド線(三宮駅-神戸空港駅間)を表す。 保険業界で、保険料の意味に使われる。初回保険料を1P、2回目以降の保険料を2Pなど。 建物で塔屋 (penthouse) の略。P1、P2と数字の前に付ける。PHとする事もある。 Pマーク又はPマーク取得担当者 アメリカのロックバンド、「P」。ABBAの「ダンシング・クイーン」をカヴァーしていた。 playerの略(3P・4Pなど)。 エリトリアで第1級国道 (Primary national highway) を表す。 自動車に関するもの 昭和58年排出ガス規制の識別記号 駐車場を示す記号(🅟, 🅿)。parking を表す。 自動車のオートマチックトランスミッションのパーキング(駐車)位置。ここに合わせないとキーが抜けない。通称Pレンジ。 トヨタ車の形式名に於いて… パブリカ及び直接の後継車種、スターレットを意味する車種識別記号。(例:EP82) エンジン形式のハイフンのあとに付いた場合、LPG仕様であることを意味する。(例:3Y-PE) 日産車のエンジン形式でもLPG仕様を意味する。(例:RB20P) Ṕ - アキュート・アクセント Ṗ(中国語版) - ドット符号 Ᵽ(英語版) - ストローク符号 Ƥ(英語版) - フックつき文字 P̃(英語版) - チルダ", "Nは、ラテン文字(アルファベット)の14番目の文字。小文字は n。ギリシャ文字の Ν ν (ニュー) に由来し、キリル文字の Н н と同系の文字である。 2つの字形が使われる。 2本の縦棒と、それを結ぶ左上がりの線から成る。大文字は一般にこの字形による。 円の上半分の半円の2つの端から下に直線を延ばし、左の直線からさらに上にもまっすぐ延ばした形である。この直線の上端から左にセリフを出したり上端が左に曲がったりすることがある。右下は右に曲がったり、さらに上に折り返すことがある。小文字はこの字形である。大文字筆記体でこの字形を取ることがある。フラクトゥールはいずれもこの字形に基づき、 N   n {\\displaystyle {\\mathfrak {N\\ n}}} である。 羅・独・仏・英・蘭・イネ:エヌ(エン)  聞く[ヘルプ/ファイル] 西:エネ 伊:エンネ エス:ノー 越:エンノ この文字が表す音素は、「歯茎鼻音」/n/ ないしその類似音である。 鼻音を代表する子音字として用いられることも多く、後続の子音に同化した同器官的鼻音になりやすい。 フランス語では、同じ単語内の直前に母音があり、直後が母音(発音しない e は除く)か n でなければ、直前の母音を同化し鼻母音にする。このとき、/n/ は発音しない。 ただしリエゾン(「母音+n(語境界)母音」)の場合、/n/ は発音され、鼻母音化も保たれる。 「母音+nn+母音」で鼻母音化が起こるかどうかは語による。 これらの振る舞いは m と同様である。 英語では、軟口蓋音(k・g)に先行する場合、同化され [ŋ] となる。ただし ng は二重音字として2文字で [ŋ] を表すこともある。 日本語のローマ字表記では、な行の子音の他、「ん」の表記に用いる。日本語の「ん」には、後続する音によって[m], [n], [ŋ]などいくつかあるが、訓令式では全てnに統一、ヘボン式では[m]と発音されるもの(b、m、pの前)以外をnで表す。 朝鮮語のローマ字表記では、文化観光部2000年式、マッキューン=ライシャワー式共に初声、終声両方の「ㄴ」に用いられる。また、ngで終声の「ㅇ」を表す。 ng [ŋ](軟口蓋鼻音) : インドネシア語・ベトナム語など東南アジア諸言語や、英語・ドイツ語などのゲルマン諸語、中国語の拼音 gn [ɲ](硬口蓋鼻音) : フランス語・イタリア語 nh [ɲ](硬口蓋鼻音) : ポルトガル語・ベトナム語 自然数 (natural number) 通常は小文字斜体 n を使う 大文字太字の N あるいは N {\\displaystyle \\mathbb {N} } は自然数全体の集合 扱っている中で最も大きな整数、あるいは、非常に大きな整数。母集団の数、医学で被験者数などの場合は大文字を使う。 ドイツ語で主格 (Nominativ) 窒素 (nitrogen) の元素記号。 中性・中立 (neutral)。 単位 ニュートン (newton)。力の単位。 化学で規定度 (normality)。 ネナ (nena)。ジム・ブロワーズ (Jim Blowers) が私的に提案した接頭辞で1057。 解剖学・生理学で神経 (neuron)。 核子 (nucleon) 海王星 (Neptune) 正規化群 ティッツ系((B, N) 対)の N 中性/中立(ニュートラル、neutral) 負性/負極(ネガティブ、negative) 高圧ナトリウムランプ。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。 単5形乾電池。単4形よりも径が太く高さが低い。日本では単5形と呼ばれる乾電池の種類。 N値 - 建築・土木工事を始めるにあたって、予め地盤の強度を調査するための標準貫入試験に基づく指標。 自動車の国際識別記号では、ノルウェー (Norway)。 駅ナンバリングでの路線符号。 東京メトロ南北線 (Namboku) 大阪市高速電気軌道長堀鶴見緑地線 (Nagahori-Tsurumi ryokuchi) 札幌市営地下鉄南北線 (Namboku) JR四国鳴門線 (Naruto) フランス トランジリアンモンパルナス線。 南アフリカ共和国のナショナルロード (national road)。N1は1号線、など。 北 (north)。磁極の N 極も north による。対義語は南を表す S。 否定 (no, not)。Y の反対 テレビ番組表でニュース番組。「N」で表す。 自動車やオートバイのギアポジションのニュートラル。 新型・新形式 (new)。従来形式と同一の名称が使用される場合に、区別のため接頭もしくは接尾に付されることがある。 チェスの棋譜などでナイト(kNight)(Kはキング)。将棋でもナイトに相当する桂馬を表す。 性風俗業界で、生(なま)。 鉄道模型の規格名称、Nゲージ・Nスケール。軌間9mm、縮尺が1⁄148–1⁄160の鉄道模型の規格呼称。転じてN・Nスケールの名称は1⁄148–1⁄160の模型製品全般の縮尺呼称としても使われる。 イカロス出版のNゲージ専門誌『N(エヌ)』 ヌメロン(Numer0n) 日本における貸金業の登録番号で、出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律により特例で高金利が認められていた日賦金融業者(日掛け金融)・電話担保金融業者の登録回数を示す数字につけられる符号(グレーゾーン金利が廃止された2010年にこの特例も廃止)。 ZONEの3枚目のアルバム『N』。 田村直美の2枚目のアルバム『N'』。 ニンテンドーDS用ゲームソフト『ポケットモンスター ブラック・ホワイト』の登場人物。 漫画DEATH NOTEの登場人物ニアの別名。 自然数 (natural number) または整数。 名詞 (noun)。 ナノ (nano)。10−9(10億分の1)。 中性子 (neutron)。 体積密度。 電車等、鉄道車両(旅客車)の用途を表す副記号(サフィクス)で、寝台車。単独の n は通常は B 寝台車(A 寝台車は特別車の記号と組み合わせて sn)。 英語で and の略。rock’n’roll など。 文字 n の幅。nダッシュ (–)、nスペース ( ) など。幅の広い m に対する。 分(時間の)(miNute)。Visual Basic などで、月 (month) と区別するために使われる。 正午 (noon)。真夜中 (midnight) と対になる。 染色体の数を表す際に使用する。二倍体の場合は2n。=をつけ、その後ろに染色体の数を記す(例:ヒトの場合、2n=46)。 フラクトゥールでリー環のある主の部分環(三角分解 g = n− ⊕ h ⊕ n+) Ñ ñ - ティルデ Ń ń - アキュート・アクセント Ņ ņ(ドイツ語版) - セディーユ Ň ň - ハーチェク Ṇ ṇ(ドイツ語版) - サンスクリット N̂ n̂ - サーカムフレックス N̄ n̄ - マクロン Ɲ ɲ Ŋ ŋ", "H は、ラテン文字(アルファベット)の8番目の文字。小文字は h。 はじめの字形がある。 2本の縦棒とそれを中央で結ぶ横棒から成る。大文字は普通この字形である。 右の縦棒の上半分を欠く。右の角は丸まり、左の交点も同じ方向に丸まる。小文字はこの字形である。フラクトゥールは H   h {\\displaystyle {\\mathfrak {H\\ h}}} のように、大文字、小文字ともこの字形である。 ラテン語・ドイツ語・オランダ語・インドネシア語、スラヴ語: ハー フランス語: ache(アッシュ) イタリア語: acca(アッカ) スペイン語: hache(アチェ) 英語: aitch, eitch(エイチ)/eɪtʃ/ アイルランド英語/オーストラリア英語: haitch(ヘイチ)/heɪtʃ/ ポルトガル語: agá(アガー) エスペラント・フィンランド語・スウェーデン語・ノルウェー語、デンマーク語: ホー 越南語: ハ これらの呼称は ラテン語「ha」→後期ラテン語 \"aha\" → \"ahha\" → \"accha\" →イタリア語 \"acca\" →スペイン語 \"hache\" → フランス語 \"ache\" → 英語 \"aitch\" というような推移によるものと考えられている。 なお、英語名は、当初古いフランス語そのままにおおむね [aːtʃə] のごとく発音していたが、その後の規則的な変化(大母音遷移)により現在の音 [eɪtʃ] になっている。現在の英語では一般に単音節語の -aCe を [-eɪC] と発音する(ここで C は任意の子音とする)ものの、C にあたる位置に ch [tʃ] が立つ場合についてはほとんど例がないため、H [eɪtʃ] を ache と綴ることは通常行われない。ache という綴りは [eɪk] と発音する別の語彙に当てられている。 ドイツ語や英語では原則として無声声門摩擦音/h/ないしその類似音を表す。ドイツ語では語頭以外で前に母音、またはt,rを伴うhは発音されない(複合語中のhは元の単語の発音に準ずる)。また、その前の母音を長く伸ばすように作用し、英語でもそうなる場合があり、この場合hの文字そのものは発音されない。 ドイツ語ではiの前で無声硬口蓋摩擦音[ç]を表すこともある(例えばHitomiなど)。 ポーランド語や中国語のピンインでは無声軟口蓋摩擦音/x/を表す。 多くのロマンス語では発音されない。 フランス語では、「無音のh」と「有音のh」の2種類がある。両者とも単独では発音されることは無いが、有音のhで始まる単語はリエゾン・エリジオン・アンシェヌマンを起こさない(語頭以外のhはこの区別を考える必要は無い)。黙字#フランス語も参照のこと。 イタリア語では発音に関わらないhについては、英語のhaveに相当する動詞avereの活用、感嘆詞、外来語を除き、書かれなくなった。なお、hはcやgの後ろに置かれてcやgを/k/や/g/の発音に保つ働きを持つ。 例外的に、ルーマニア語では/h~x/で発音される。ch, ghはイタリア語と同じ。 多くの言語で、\"ch\", \"ph\" などのように他の子音字の後ろに置かれ、類似の別音を表す。摩擦音になることが多い。 他の子音字の後ろに置いて有気音を表すことがある。タイ語やヒンディー語などの有声無声の区別、有気無気の区別の両方がある言語のローマ字表記で使用される。 日本語のローマ字表記ではハ行の子音に用いる。但しヘボン式では「フ」の子音は他のハ行の子音と異なる為別の字 (F) を用いる。また、「ヒ」の子音も他のハ行の子音と異なるが、これには訓令式でもヘボン式でも他のハ行と同じHを用いる。長音の表記に使用する場合もある(佐藤='Satoh'という具合)。 朝鮮語のローマ字表記では初声の「ㅎ」に用いる。一般的ではないが、イェール式等、激音を示す為にも使用される表記法がある。 ギリシャ文字のΗ(エータ)に由来し、キリル文字のИとは共通の祖先を持つ文字である。現在のΗやИが母音字なのに対し、このHが/h/を表すのは、Ηの古い音韻(ヘータと呼ばれ、/h/を表した)に基づくものである。 任意の17<N≤20に対するN進数において、十七(十進数の17)を1桁(1文字)で表すのに用いる。 水素の元素記号。 インダクタンスのSI組立単位、ヘンリー(大文字)。 電磁気学における磁場(磁界)の意。 熱力学におけるエンタルピーの意。 解析力学におけるハミルトニアンの意。 天気図における高気圧 (High pressure area) の意。 洋楽の、ドイツ音名の1つ、「ハー」。イタリア式では「si」、日本式では「ロ」、英米式や中国式では「B」に相当。→ロ (音名) 音階の7番目の音であることから、音楽関係者の間で7を表す隠語として使われる。例:H(ハー)万=7万(円) 大文字太字のHあるいは H {\\displaystyle \\mathbb {H} } は、数学において四元数 (Hamilton) の全体を表す。 コンピュータプログラムで数値リテラルが十六進数 (Hexadecimal) であることを示す接頭辞または接尾辞。(例:マイクロソフト系BASICにおける「&HC9」、Z80のアセンブリ言語における「0C9H」) 接眼レンズの中で、ホイヘンス形式を表す。 真空管の端子の1つ。ヒータ (Heater) (コ)ホモロジー 高さ (height) の量記号 100倍を表すSI接頭辞ヘクト 時間(英: hour、仏: heure)を表す単位(小文字)。 例:1h23 = 1時23分。 熱力学における比エンタルピーの意。 量子力学でプランク定数。 (h = 6.6260693(11)×10-34 J·s) 。 C言語のヘッダファイル(ライブラリ)の拡張子。例 \"stdio.h\" = 標準入出力のライブラリ hパラメータ、h行列。 フラクトゥールでリー環、とくにカルタン部分環 コクセター数 平成の略記。 ドクターH - アニメ「チキチキマシン猛レース」の登場人物。 鉛筆の芯の硬さを表す記号。Hard の頭文字。Fより硬く、以降硬くなるに従って2H、3H…となり、一番硬いのは9H。 エッチの意(hentaiの頭字)。 高さ (Height)。⇔W(幅 Width)。 スリーサイズのうちのヒップ (Hip)。 湯 (Hot) を表す記号。 ホテル (hotel) を指す記号。 ハードル競走の略。「100mH」「110mH」など。 写植において、歯 (0.25mm) の略。 国鉄・JR等の機関車で、動軸を8軸有するものの形式に付される記号。EH10、EH500、EH200。 水銀灯。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。HID灯の図記号に傍記。 医用コンセント。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。コンセントの図記号に傍記。 位置表示灯内蔵スイッチ。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。スイッチの図記号に傍記。 電気業界で日立製作所を表す符丁。 auでも日立製作所製端末の略号。 東海道新幹線でも、開業当初は日立製の編成を「H編成」と称していた。 ホールド (hold) の略。 日本のプロ野球球団福岡ソフトバンクホークス (Hawks) の略号。 ケッペンの気候区分における、高山気候を表す。 日本の地下鉄における駅ナンバリング制度では、札幌では札幌市営地下鉄東豊線(ToHo、東西線がTを使うため)、東京では東京メトロ日比谷線 (Hibiya)、名古屋では名古屋市営地下鉄東山線 (Higashiyama) を表す。 JR西日本の近畿エリアの路線記号で、JR東西線・片町線(学研都市線)を表す。 水平対向エンジン (Horizontally Opposed Engine) の略。 石井竜也のオリジナルアルバム→H (石井竜也のアルバム)。 「H」又は「コミックH」は、株式会社ロッキング・オン (rockin'on) から出版された雑誌。 田中康夫の小説→H (小説)。 浜崎あゆみのシングル。H (シングル)。 フランスの自動車メーカーシトロエンが1947年から1981年まで発売していた貨物自動車→Hトラック(アッシュトラック)。 桜井まちこの漫画。→H-エイチ-。 きんこうじたまの漫画。→H (アッシュ)。 2002年公開の韓国映画。→H [エイチ]。 英語の疑問詞におけるHow。詳しくは記事「5W1H」を参照のこと。 韓国 (Hanguk) の略称に使われることがある。 ホームストレッチ (Homestretch) - 陸上競技場・競馬場・競輪場などで、決勝線のある側の略。HSとも。 Ĥ ĥ - サーカムフレックス Ħ ħ - ストローク Ḧ ḧ - トレマ Ḩ(ドイツ語版) ḩ - セディーユ Ȟ(ドイツ語版) ȟ - キャロン Ḣ(フランス語版) ḣ - ドット Һ һ - キリル文字", "Uは、ラテン文字(アルファベット)の 21 番目の文字。小文字は u 。V、W、Yとともにギリシャ文字のΥ(ウプシロン)に由来し、キリル文字のУに相当する。Υ(ウプシロン)の別形に由来するFとも同系といえる。元来のラテン語字母には存在しない文字であり、中世になって、それまで/u/と/w/の両方を表していたVから、/u/を表すために分離した文字である(V#歴史参照)。 Vの下部を丸めた形であり、下半円の両端から上にまっすぐ直線をのばした形である。小文字や大文字の筆記体では、右の直線を下にも延ばして、ベースラインに達する。その手前で右に曲がることがある。フラクトゥールは U   u {\\displaystyle {\\mathfrak {U\\ u}}} 。フラクトゥールの筆記体では、小文字の下部をとがらせるため、区別のためにŭのように上に下半円を書く。 [u](ウ): スペイン語・イタリア語・インドネシア語・ポーランド語・チェコ語・エスペラント [u˧](ウ): ベトナム語 [uː](ウー): ドイツ語 [y](ユ): フランス語・オランダ語 [juː](ユー): 英語 [jɯː](ユー): 日本語 この文字が表す音素は、おおむね/u/ないしその類似音である。しかしながら、稀に単独の子音を表す場合もある。 フランス語、オランダ語では唇を丸めてイと発音する音/y/(円唇前舌狭母音、ドイツ語のüとほぼ同じ)。フランス語は発音する母音の前ではその半母音/ɥ/(IPA) = /H/(X-SAMPA)である。/u/を表すには、フランス語はou, オランダ語はoeと表記する。フランス語の正書法に近づけた発音表記では、IPA の [y] をあらわすことがある。そのとき、IPA の [u] は /ɯ/ であらわされる。 フランス語・イタリア語・スペイン語では、[w]は/u/の異音である。 英語では大母音推移の結果、強勢(アクセント)が置かれる場合、長母音では「ユー」、短母音では鋭い「ア」(やや前進した非円唇後舌広半母音)となる。ただし後者は、読みにくさをさけるためにoと書かれるようになったものがある。唇音の直後では円唇後舌広め狭母音で読まれることが多い。また、まれに「イ」と読まれる。語末には出現しない。 日本語のローマ字表記では、訓令式、ヘボン式共にウ段の母音に使われる。 朝鮮語のローマ字表記の文化観光部2000年式では、母音ㅜを示す。また、ㅡ、ㅠ、ㅢもeu,yu,uiとuを含む綴りとなる。但し、人名や企業名等ではこの表記法に従わずㅓ、ㅕをu,yuで表していることもある。(例:삼성→Samsung) 中国語の漢語拼音では、介音 /u/ を含む韻母の表記に使われる。ただし、声母(頭子音)が付かない場合は、wになる。「五」「烏」など主母音、尾音無しで介音 /u/ のみの場合、発音は /u/ であり、半母音 /w/ が発音されるわけではないが、wu と表記する。そのためuで始まることは無い。 ドイツ語ではqとともに綴られるとき、なんとこの後ろのuがwと同じ [v] (有声唇歯摩擦音)の発音を表す。 ウラン (uranium) の元素記号。 ジム・ブロワーズによる非公式単位接頭辞 ウダ (uda)。1036。 フォントウェイト(線の太さ)が極太 (ultra bold)。例 : ゴナU、新ゴU UHFテレビ局。(例:独立U局) 数学記号 普遍集合 (universal set) ユニタリー (unitary) - ユニタリ行列、ユニタリ群 U統計量。 量記号 内部エネルギー 熱貫流係数 自動車排出ガス規制コード(平成元年(1989年)規制) 東京の駅ナンバリングでゆりかもめ東京臨海新交通臨海線(Yurikamome の2文字目)。 京浜急行電鉄で、京急本線の終着浦賀駅方向を向く車両の副記号。 人物 U (女性歌手)。 MCUの旧名。 U (男性歌手)。エイベックスより歌手としてメジャーデビュー。城田優の別名。 U (グラビアアイドル)。台湾出身のグラビアアイドルで金城武の長兄の娘。 音楽作品 U - DOUBLE (歌手)の曲。 U - スーパージュニアの曲。 19インチラックに収納されるように設計された機器の高さの単位。1U=1.75インチ (44.45mm) 。 かつてニコンから発売されていた35mm判一眼レフカメラ。 米空軍、航空自衛隊などでの汎用機(雑用機、多目的機とも)。連絡任務や捜索救難、飛行点検などに用いる機体が多い(U-125Aなど)。例外的にU-2は偽装のための符号で実際は汎用機ではない。ヘリコプターの場合はUHとなる。 以下 (under)。主に年齢を表す。U-17など。 Unicodeでは、U+ 4-8桁(足りなければ0詰め)、またはU-8桁の16進数でUnicode文字を示す。例:U+3042、U-00003042 未確認 (unidentified)。UFO、UMA等。 三菱UFJ銀行の旧UFJ店。U店とも称される。 東北新幹線E5系量産編成を表す。試作車はS11編成。 [U]は、英語の辞書などにおいて不可算名詞(uncountable noun)を表す記号。 ミクロネシア連邦ポンペイ州の行政区画の一つ、U(ウー)。ウー (ポンペイ州)を参照。 経済学で、効用(utility)より、効用関数を表す。 10−6 倍のSI接頭語 μ(マイクロ)の代用字。 ジム・ブロワーズによる非公式単位接頭辞 ウント (unto)。10−36。 冪単根基 (unipotent radical) 。 u = 1 3 {\\displaystyle u={\\sqrt[{3}]{1}}} など。 北海道旅客鉄道のuシート専用車両の副記号 統一原子質量単位 (unified atomic mass unit)。質量の単位。 英語で、you(あなた(達))の意味で用いることがある。例:4u = for you C言語、Java、C#などでUnicode符号を表すためのエスケープシーケンス。 Ù ù - グレイヴ・アクセント Ú ú - アキュート・アクセント Û û - サーカムフレックス Ü ü - ウムラウト - トレマ Ū ū - マクロン Ŭ ŭ - ブレーヴェ Ů ů - リング符号 Ű ű - ダブルアキュート Ų ų - オゴネク Ư ư - ホーン符号 Ũ(ドイツ語版) ũ - ティルデ Ü ü - ウラン", "Oは、ラテン文字(アルファベット)の15番目の文字。小文字は o 。ギリシャ文字の Ο(オミクロン)に由来し、キリル文字の О と同系の文字である。 円である。従って、アラビア数字の 0(ゼロ)と同じ形であり、タイプライターによっては 0(ゼロ)をこの字の大文字で代用することもあるが、現在のコンピューターでは別の文字として扱う。区別のために、0(ゼロ)に斜線を引いたり(斜線付きゼロ)、この字の大文字の上部に筆記体のようなヒゲを付けたりすることがある。 手で書く場合には円の頂点から反時計回りに円を描く。筆記体では、 小文字では円の上部で他の文字と接続する。単独で書く場合や語の最後の場合にも、円の上部から右方に、次の字に続くかのように線を書く。 大文字では、円を描いた後に円の上部内部に小さく円を描いて、外側の円の外に線を導く。 フラクトゥールでは、 O   o {\\displaystyle {\\mathfrak {O\\ o}}} である。 羅・独・蘭・イネ・日・エス:オー /oː/ 伊・仏・西・越:オ /o/ 英:オウ /oʊ/ この文字が表す音素は、/o/ ないしその類似音である。 イタリア語では、強勢位置では語によって円唇後舌狭半母音または円唇後舌広半母音、他の位置ではほぼその中間音で発音される。 英語では強勢が置かれる場合、大母音推移により、短音は /ɒ/、長音は /əʊ/ となる。強勢のない場合には曖昧母音化する。また、u の代わり(非円唇中舌狭め広母音)に用いられる。これは、綴字上縦に書かれる線(ミニム)の多かったものを、その見づらさを解消するために置き換えられたものである。 (例)luve→love, cume→come 酸素の元素記号 座標の原点を表す記号。 円の中心を表す記号。 ABO式血液型の1つ。O型。 文法で目的語 (object)。 数学で、大文字で用いて原点 (origin)、直交群 (orthogonal group)、零行列、小文字フラクトゥールで直交リー環、カリグラフ体などで代数体の整数環、正則関数の層、圏 O(英語版)、大文字太字 O で八元数の全体を表す。 計算複雑性理論や解析学で使われるランダウの記号(O 記法) 非SI接頭辞(ジム・ブロワーズ (Jim Blowers) の提案) オカ (ocha)(1054)(大文字) オトロ (otro)(10−54)(小文字) 化学で、オルト (ortho) 位を o- で表す。 O抗原 - 大腸菌の抗原のうち菌体抗原を指す。例・O157 電気業界で沖電気を表す符丁 Oゲージ鉄道模型またはOスケール - 1フィートを7mmとする縮尺1/43.5から、1フィートを1/4インチとする縮尺1/48までの模型の規格名称。 2001年のアメリカ映画→O (映画) 野球のテレビ中継画面や球場内電光掲示板における、アウトカウントの略表記 (Out)→アウト (野球) 日本のプロ野球チーム千葉ロッテマリーンズの前身球団「ロッテオリオンズ」の略号 (Orions)。 衣類のサイズ記号の1つ。L サイズより大きく、LL サイズと同義で使われる場合もある。 島みやえい子のアルバム。→O (島みやえい子のアルバム) ZONE のアルバム。→O (ZONEのアルバム) 大黒摩季のアルバム。→O (大黒摩季のアルバム) 音楽ユニット。→O [ou] アイルランド系の英語姓の接頭語。オブライエン (O'Brien) やオニール (O'Neill) など。元来は「-の孫」「-の子孫」という意味。例えばO'Brienはブライエンの子孫(孫)の意。 ウェブブラウザのOpera。CSS3のベンダープレフィックスでは\"-o-\"と記述する。 O は形が 0(ゼロ)とほぼ同じで紛らわしいため、略号としての使用は避けられることも多い。 電気抵抗の大きさの単位オームの記号は長音のOに対応するギリシャ文字であるΩとしている。 日本の鉄道における駅ナンバリング制度では、東京の都営地下鉄大江戸線の路線記号は頭文字の O でなく2番目の E を採用した。 ^ \"O\" Oxford English Dictionary, 2nd edition (1989); Chambers-Happap, \"oes\" op. cit. Oes is the plural of the name of the letter. The plural of the letter itself is rendered Os, O's, os, o's. Ò ò - グレイヴ・アクセント Ó ó - アキュート・アクセント Ô ô - サーカムフレックス Õ õ - ティルデ Ö ö - ウムラウト Ø ø - ストローク符号 Ő ő - ダブルアキュート Ơ ơ - ホーン符号 Ǫ ǫ - オゴネク Ō ō - マクロン Ǭ ǭ - オゴネク + マクロン Œ œ - 合字 Ɵ(英語版) ɵ º - 男性略語記号" ]
ABC01-02-0294
基本は1点1円の価値があり、集めた金額分の学校設備品を購入することが出来る、教育設備助成運動のマークを図柄からなんというでしょう?
ベルマーク運動
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[ "ベルマーク運動", "お花", "全国星空継続観察", "郵貯ラリー協会", "Yonda? CLUB" ]
[ "ベルマーク運動(ベルマークうんどう)は、学校をはじめとする教育施設や公民館をはじめとする生涯学習施設の教育環境整備への助成と、交通などの面でハンデキャップのある山間・離島(いわゆるへき地)の学校や特別支援学校、院内学級や被災校、発展途上国の教育に対する援助を組み合わせて行われる運動である。朝日新聞社創立80周年記念事業として1960年(昭和35年)に始まった。ベルの形は「国内外のお友達に“愛の鐘”を鳴り響かせよう」との意味合いがある。 商品の包装紙やパッケージにつけられた「ベルマーク」を切取り、学校・団体ごとに集めて財団に送ることにより、1点あたり1円がそれぞれの団体のベルマーク預金になり、貯まった預金で自分の学校・団体の設備品などを購入できる。貯まったポイントで商品と交換すると勘違いされることがあるが、あくまでも預金で購入するシステムである。さらに、この設備購入代金の1割がPTAからの寄付金となり、へき地学校などの援助に役立てられる。ベルマーク運動の変わらない仕組みである。 マークは協賛会社と呼ばれる企業の製品パッケージなどに印刷してあるが、使用済みインクカートリッジの回収やグリーンスタンプのように商品にマークがついているのではなく、「ベルマーク点数」と交換する仕組みのものもある。これらの商品には食品、文房具、日用品といった家庭品が多く、2000年以後は保険会社やエプソン、キヤノン、ブラザー販売が使用済みインクカートリッジ回収で協賛している。2011年には、紙容器のリサイクル回収で日本テトラパックが参加した。 ベルマーク運動への参加登録は、幼稚園、学校や公民館などに限られ、個人や企業での参加登録はできない。学校・団体ごとにマークを集めてベルマーク教育助成財団に送付すると、1点1円換算で預金化され、それぞれの口座に貯まる。貯まった預金を利用して協力会社(≠協賛会社)から自分の学校などの設備や教材を購入することができる。協力会社は楽器や自転車のメーカー・事務機器メーカー・書籍取次店・スポーツ用品メーカーなどで、参加学校・団体には年に2回、各社の主な取扱商品を掲載した「お買いものガイド」が送られる。以前は、消耗品が購入できないという規則があったが、今は協力会社が扱っている商品であれば何でも購入できる。 購入代金の10%が、協力会社からPTAなどに戻され、ベルマーク財団に寄付されるのもベルマーク運動の特徴である。これが「援助資金」としてプールされ、へき地学校や特別支援学校など、援助を必要としている子どもたちのために使われている。 1990年代後半から、バブル崩壊に加え、教育施設の設備の充実や少子化が進んだことから、協賛会社の撤退が相次ぎ、運動は弱体化したが、2007年から再びマークの年間集票点数は増える傾向にある。2006年には大学や短期大学などこれまでPTAがなかったため参加できなかった学校や、公民館や生涯学習センターなどの社会教育施設にも参加資格が拡大された。また点数収集についても、リサイクル教育を兼ねた方法として、エプソンやキヤノンのプリンターの使用済みインクカートリッジ等と交換でマークを付与したり、web店舗での商品購入などネット販売でマークを提供するスマイルピース(イーイーアイ、現在は脱退)が協賛し、広がりをみせている。一方、援助の面では1998年からベルマーク預金を直接援助資金に寄付することができる友愛援助の制度ができ、日本国外や災害も対象になっている。東日本大震災では「緊急友愛援助」の寄付呼びかけが行われている。 1957年 - 福島県の山村での赴任経験を持つ小学校教諭の渡辺ユキが、都市部と同等の義務教育を求めて、朝日新聞社に「へき地の子供たちの教育設備を充実してほしい」と支援を依頼。 1959年 2月12日 - 教育設備拡充協力会(後に教育設備助成会と改称)設立の第一回準備会。 4月16日 - 第二回準備会。 1960年(昭和35年)10月24日 - 教育設備助成会が設立される。 1965年2月10日 - 「教育設備助成会ニュース」創刊。 1970年 3月15日 - 助成会ニュースは「月刊ベルマーク」創刊のため65号で廃刊。 4月10日 - 「月刊ベルマーク」を創刊。 10月26日 - NHK朝のテレビとラジオニュースで「十周年を迎えたベルマーク運動」を放送。 1982年4月10日 - 「月刊ベルマーク」は現在の「ベルマーク新聞」に改題。 1997年6月 - ベルマーク教育助成財団(略称・ベルマーク財団)に改称。 2006年 - 大学(専門学校も含む)や公民館などの生涯学習施設の参加も可能に。 2010年3月 - ベルマーク預金での購入品の制限が撤廃、消耗品などもOKに。 2011年6月 - 公益財団法人に移行。 2013年8月 - 一般社団法人ウェブベルマーク協会が設立。ネットショッピングのアフィリエイトで支援金を生み出し、ベルマーク財団へ助成することで、東日本大震災の被災校支援に資することを目的として設立される。 幼稚園・保育所(保育園)・小学校・中学校・高等学校・特別支援学校(盲学校・聾学校・養護学校)・大学・公民館や福祉施設。当初の参加校は2263校であった。2016年(平成28年)現在は27,000校が参加している。小学校の参加率は全国平均で68%、中学校で62%。2015年(平成27年)現在、日本全国で累計1200万点を突破した学校は11校あり、うち9校が小学校である。 協賛会社は、商品にベルマークを付ける権利を持つ会社である。2014年12月現在60社。ただし協賛会社のすべての商品にマークがついているわけではない。協賛会社が脱退した場合は、契約により、脱退から6ヶ月間以内に財団に到着したマークのみ有効になる。価格競争の激化、互助意識の薄れ、不景気の影響などからマークを付ける商品を減らしたり、1960年(昭和35年)の運動初期から参加していたライオンが2008年3月限りで撤退したりしている一方で、あいおいニッセイ同和損害保険を皮切りに保険業界から3社が参入、ファミリーマート、キリンビバレッジが2006年、住友スリーエム(現・スリーエム ジャパン)が2009年から参加するなど、新たな動きもある。2014年からはイオントップバリュが参加。プライベートブランドとしては、初めての参加となる。 協賛のメリットとしては、まず、文部科学省お墨付きの教育助成活動に参加していることに意義を持ち、企業のブランド力、イメージを高められることが挙げられている。たとえば、創立当初から協賛している児童用シューズ製造の「ラッキーベル」などは、このベルマークが社名の由来となっているほどである。それから協賛企業の営業活動において、ベルマーク運動参加の参加団体から優先される点も大きい(それゆえ、学習用品の企業協賛が多かった)。また、市場調査費を計上することで、同時にマーケティングリサーチを行える点がある。これは設備の購入負担金を必要とする一方で、どのエリアからどれだけ購入、消費されたかを計る目安にもなる。 一方で、協賛会社は経費負担として分担金(運動の広報・宣伝費など)、市場調査費(自社の集票点数×1.25円)負担などが必要になる。市場調査費のうち、0.25円分が運動と財団の管理・運営費にあてられている。また万が一の時のための保証金などそれなりの金銭的費用を必要とする。 協賛会社には主として参加企業順に番号が付されるが、創立当初は3桁の番号であり、現在の番号順に振り直されたのは1970年代中期あたりである[要出典]。この番号は各参加団体が収集したマークを企業ごとに整理、集計する際などに役立っている。なお、脱退企業は脱退より半年を経過すると収集しても無効である。 以下は、協賛会社の一覧(番号順)である。なお、脱退したものも含む。 なお、新協賛企業は、脱退した企業の番号も利用可能となっており、企業が任意の番号を指定できる。ただし混乱を避けるため、前の企業が脱退してから相当な期間が過ぎた番号に限られる。 下記の企業は1986年(昭和61年)3月時点で市場調査費1億円を突破している(脱退企業も含む)。 下記の企業は1986年(昭和61年)3月時点で市場調査費1億円を突破している(脱退企業も含む)。 協力会社は、設備品購入を取り扱う会社であって、自社商品にベルマークを付ける協賛会社ではない(兼任もある)。協力会社が扱う商品は原則としてすべてベルマーク預金で「購入」することができる。 協力会社は下記のとおりである。 ベルマーク運動は、上記の通り学校や公民館などの団体以外は登録参加できないが、応援、支援はだれでもできる。最近は、個人や企業単位でマークや使用済みインクカートリッジを集めて、近くの運動参加校などに届けたり、ベルマーク財団に直接送ったりするケースも増えている。また地元の学校などの回収箱がスーパーや銀行に置いてあったり、朝日新聞販売所(ASA)の店舗では、個人で集めたマークを預かり、学校に届ける活動も広がっている。朝日新聞の会員制サイト、「アスパラクラブ」では、個人で集めたベルマークを寄贈することも可能である。会員は専用サイトにログイン後、専用の送付用紙をダウンロードして集計を行い、ベルマークの実物と共に送付する。会員種別(朝日新聞の購読の有無によって3つに分かれている)は問われないが、送付用紙には会員番号を記入しなければならず、この方法で寄贈できるのは会員のみである。 初期のベルマーク運動に対して、「学校設備の貧困は教育行政の貧困が根本で、その充実は本来行政の仕事だ。それをPTAや子どもたちに肩代わりさせるのは筋違いではないか」といった声が寄せられたが、「なんでもかんでも政府がやってくれるという考えは、いわば政府が主人公という発想。自分たちでできることはやろう」と説得して、運動の精神は徐々に浸透した。 愛知・岡崎の市民団体によれば、切手代より少ないベルマーク運動しか送れないながらも「これが私のいきがいになりそう」という方、「生活保護を受けている身なので、一度にたくさんは集められないが……」としながら30点分を送ってくれた72歳の老人、「ベルマーク集めは、生涯ボランティアだと思う。」として息長く続けていくつもりだという方などが運動をささえていた。 問題校として有名だった名古屋市立港南中学校は、ベルマーク運動を行うことによって、「荒れる中学」という汚名を返上して、非行はほとんどかげをひそめた。 宮城・石巻市立田代小学校の教員から「子供たちの喜ぶ顔を早くみたいのが教職員一同の切なる願い」という手紙を受け取ったベルマーク運動の運営団体は、全国から贈られたマークの一部を田代小へ送った。教員は子どもと共に「子供たちにとっては、手紙を書いた方々が、今までに知り合った一番遠くの人でした。マーク集めは亀の歩みより遅いけれど、運動から子供たちが感じとるこういう気持ちを大切にしたい」と喜びをかみしめた。 元・小学校長は、「体を動かさず、お金だけを出してすべてを解決するのでは、ひとに奉仕する心や自分で努力することの大切さはわからない。ベルマーク運動は本当に小さな努力だけど、皆で力を合わせれば大きなものになることを教えてくれるところが素晴らしい」と話している。 朝日新聞社の社長は「この世界に類のない運動を朝日新聞社としても二十一世紀へ向けて大きく育てていきたい」と述べた。 愛知県春日井市・主婦は、「このごろは「ベルマークちょうだい」と言ってくる子がいなくなりました」としながらも、「ベルマーク集めは、老いの暮らしの張りとなっているのです」と言う。 ベルマークの収集・整理は、高齢者の「居場所」になっている。 (財)ベルマーク教育助成財団は、中央防災会議において、ベルマークの収集・整理は、「作業が案外楽しい」、「手間暇のかかる作業を通じて、思いやりの心とか心の効用をつくり出すことができる」、「効率一遍がいいとは思っていない」と述べた。 中央防災会議の委員の京都大学教授によれば、「労働ボランティアの時間から考えると、その分を募金にした方が早い」が、「主婦労働は価格がタダだからいい」という議論がある。 埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)の主婦は、「PTAでベルマークの整理の手伝いをしたとき、こんなに手間ひまをかけるなら、パートの1時間分を寄付した方がお金になると思いました。」と述べた。 「どの学校も資金は欲しい。でも、マークを整理する段階になるとまいってしまうのでは」 「企業エゴで集計は繁雑」 「教育設備は公費で購入するのが本来の姿であり、ベルマークやPTA会費で購入するのは、決して教育のためにならないと思う。表面的には学校や子供たちの為になっているように見えるが、「義務教育は無償とする」という憲法の精神を活かす努力をすることなく、労力奉仕でまかなおうとするPTAの姿は、大きく後退した考えであろう。」 「ベルマーク運動の不振の原因は、手間がかかるわりに効果が上がらないからだ。」「1枚25銭や50銭のマークをせっせと集め、学校で取りまとめ、分類し、スポンサーに希望の品を贈ってもらう事務は、先生やPTAの労力奉仕がほとんどだ。物価高の現在、こんなわりの悪い仕事はあるまい。」「対費用効果が悪い」 「その手間ひまたるや大変なものです。」「私たち母親は、メーカー側にうまく利用されているのではないか」「教育設備助成運動そのものを、今や考え直す時期ではないかと思います。」 ベルマークを集めない理由は、「あまり良い品物がない」 高井ジロル『ベルマークのひみつ』(日本文芸社、2006年) ベルマーク25年 (非売品) 昭和61年9月刊行  発行 財団法人 教育設備助成会 ^ 昭和17年から24年に岩瀬郡湯本村(現:天栄村)の湯本小学校に勤務 ^ “「ベルマーク運動」の創始者とされる「渡辺ユキ」氏・・・]”. レファレンス共同データベース (2018年1月26日). 2018年1月28日閲覧。 ^ “ベル運動創設のきっかけをつくった 全へき連顧問・渡辺ユキさんご逝去”. ベルマーク財団 (2005年12月6日). 2017年11月11日閲覧。 ^ a b 関俊彦「ベルマーク1200万点突破 伊勢・小俣小 全国11校の一つ 地域と一体で収集」中日新聞2016年5月3日付朝刊、伊勢志摩版18ページ ^ 学習帳の一部が対象 ^ 現東洋紡と三菱レイヨンによる合弁事業。現在は前者・東洋紡により継承。 ^ 主に「バスボン」「サボンドール」の両ブランドが中心。 ^ 一部旧雪印ブランド分含む ^ 自社の経営危機によるもの(のちに倒産)。現在はエア・ウォーターグループの日本海水子会社。 ^ 但し参加商品のうち「おべんとクン ミートボール」等の一部商品は業務用として参加。 ^ a b c d 朝日新聞1985年10月22日朝刊p.15 ^ a b 朝日新聞1990年10月23日夕刊p.15 ^ 朝日新聞1995年10月25日朝刊p.29 ^ 2002年8月16日 朝刊p.10 ^ 毎日新聞2012年4月30日p.27 ^ a b 中央防災会議「災害被害を軽減する国民運動の推進に関する専門調査会」(第12回) 議事録 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/keigen/undousuishin/pdf/kokuun12-giji.pdf ^ 朝日新聞1988年09月30日朝刊p.16 ^ 読売新聞1978年10月30日朝刊p.5 ^ 読売新聞1978年11月8日朝刊p.4 ^ 読売新聞1977年9月17日朝刊p.5 ^ 「ベルマーク」は勘弁!母たちの切実な叫び PTAで今なお続く、途方もない手作業 東洋経済ON LINE 2015年7月2日 ^ 読売新聞1980年4月7日朝刊p.5 ^ 読売新聞1984年6月22日朝刊p.8 ソッポ向かれるベルマーク グリーンマーク キャンベル・スープ・カンパニー(アメリカ合衆国において、商品に添付のマークを集めることで教育支援を行う運動\"Labels for Education\"を行っている[1])。 General Mills(英語版) (1996年より上記と類似の運動 \" Box Tops For Education\"を行っている) エコキャップ運動 ロータスクーポン へき地教育 ベルマーク教育助成財団 セイコーエプソン:使用済みカートリッジ回収によるベルマーク運動 キヤノン:ベルマーク運動のご案内 主婦のベルマーク運動 ラッキーベル ベルマーク運動 エスビー食品 日本水産 キョクトウ キユーピー ファミリーマート キリンビバレッジ スミフル TOSHIBA 成田もやし ウェブベルマーク", "お花(おはな)とは、お祝いやお供えとして出される金品のこと。御花代とも。 祭礼行事においては、祭礼運営のために氏子地域から出される、或いはお願いして分けてもらう。地方や風習にもよるが、強制されたところもあったようだ。金額は地方によって相場が違う。また、商品券・ビール券などの金券や食事やお酒などを軒先でふるまう場合などもある。これらは風習とその世帯ごとの判断による。", "全国星空継続観察(ぜんこくほしぞらけいぞくかんさつ)は、環境省が、1988年から毎年夏と冬に全国の一般市民に参加を募り行っていた事業のこと。平成25年3月末で休止した。肉眼や双眼鏡使用など誰にでもできる方法によって星空を観測し、参加者が光害や大気汚染などの環境問題への関心を持ってもらおうと始められた。 現在では星空観察の推進や、デジタルカメラで撮影した星空を送ってもらい光害や大気汚染状況を観測する企画が行われている。 肉眼による観察 高度が違うはくちょう座、たて座及びいて座の付近を観察し、天の川が見えるかどうかを確認する。 双眼鏡による観察 こと座の1等星ベガ付近の星でつくる三角形の中を観測して何等星まで見えたかを記録する。 星空の写真撮影 カメラを使用し、天頂部分の夜空をで撮影する。 肉眼による観察 高度が違うペルセウス座、ふたご座及びいっかくじゅう座の付近を観察し、天の川が見えるかどうかを確認する。 双眼鏡による観察 プレアデス星団(すばる)のラケット形の中を観測して何等星まで見えたかを記録する。 星空の写真撮影 カメラを使用し、天頂部分の夜空をで撮影する。 定点観測団体のほかに、一般参加団体による星空の写真撮影から「夜空の明るさ(暗さ)」を数値化し(数値が大きいほど夜空が暗い)、数値の高かった上位団体を星の観察に適した場所として発表していた。参加は任意であり、全国を網羅したものではなかったが、高い数値を記録した場所としては、東京都小笠原村小港海岸(平成22年度25.1)、島根県津和野町日原天文台(同年24.6)、沖縄県竹富町波照間星空観測タワー(平成20年度24.5)、福井県大野市福井県自然保護センター観察棟(同年24.4)、岩手県一関市きらら室根山天文台(平成19年度24.4)などがあり、平成19年度に23.7で参加団体中最高点だった長野県阿智村は環境省認定の「日本一の星空」をキャッチフレーズに観光事業に応用している。 ^ 全国星空継続観察の休止について環境省 ^ 平成30年度 夏の星空観察 デジタルカメラによる夜空の明るさ調査の結果について - 環境省 ^ 過去の観察結果と環境省報道発表資料環境省 天体観測 光害 全国星空継続観察 - 環境省 「星空を見よう」星空観察情報サイト - 環境省", "郵貯ラリー協会(ゆうちょラリーきょうかい、以下協会)は、国際ボランティア貯金の普及を目的に「国際ボランティア貯金ラリー(以下ラリー)」などの事業を行う任意団体。 当初は「郵貯協会」と称した。 1988年に記念貯金(この場合は預金の一部を国際的なボランティアに寄付できる口座のこと)のために通帳を別口で所持できるよう国会に請願した。 1990年6月に国際ボランティア貯金法が参議院を通過した。 同年10月には郵貯ラリーの開始に伴い、成立当初名の「郵貯協会」から「郵貯ラリー協会」に改称した。 1990年12月、ラリーの根本となる「'91国際ボランティア貯金ラリー・ルールブック」が完成。翌年1月からの国際ボランティア貯金開始と共に、郵便貯金振興会等の後援でラリーが開始された。 当時は暦年1年間を期間としていた(後に年度制に変更)。 後援団体は省庁再編の関係で、郵便貯金振興会から郵政省、郵政事業庁(いずれも当時)と移り変わり、2006年度現在では日本郵政公社が後援している。 1990年代には、種村直樹の著作に取り上げられた旅行貯金がブームになったこともあり、参加者数が増えていった。 貯金(預入)した郵便局の単純な局数を競うだけではなく、例外規定、ボーナス的規定(後述)も含んでいたため、地方への旅行喚起にもつながった。 鈴木聰男代表は著名なアマチュア無線家でもあったことから、雑誌「CQ Ham radio」(CQ出版社)に「郵貯YOU」というコーナーを連載し、郵貯ラリーの広報に務めた。 ラリーのルールはアマチュア無線を参考としており(後述)、ラリー用語にハム用語が多いのは鈴木によるところが大きい。 当時加入者数が増えつつあったパソコン通信・NIFTY-Serveにも進出し、コレクターズフォーラム(FCOLLG)に郵便局情報の交換や局巡り記などの会議室を設け、コミュニティの醸成に務めた。 郵貯ラリー参加者やNIFTY-Serve出身者が自らインターネット上にウェブサイトや電子掲示板を設け、更なるコミュニティの隆盛に繋がった。 2002年には、協会の圧倒的な牽引力を誇り、カリスマ的存在であった鈴木聰男代表が亡くなり、初代協会は消滅した。 2002年8月、その意志を継ぐ者によって現協会が設立され、旧協会の代表代行であった鈴木の妻の了承を得て旧協会の事業を継承した。 これによって旧協会に強かったアマチュア無線色を減衰し(なくなった訳ではない)、新役員の集団指導体制が確立された。 基本的にポイントのルールはアマチュア無線で「コンテスト」と呼ばれる競技スタイルの交信大会に基づいている。(交信局数×地域数) 当該貯金口座で「国際ボランティア貯金」を契約していることが必須。 1人1口座のみ参加資格を有する(かつては曖昧だったが、現在では規則に明記されている)。 基本的にカウントは、1局につき1回のみ。 期間中に貯金した郵便局1局に付き1ポイント。但し郡部では1局に付き3ポイント。窓口でなくATMでも可。 郵便局ポイントの総計に、期間中に貯金したマルチ(郵便局の5桁「取扱局番」の内、上2桁。位置する県・地域を示すコード)の個数を乗じる。 以上とは別に、郵便局名の印に観光フレーズ、イラスト等(都道府県名・住所を除く)が含まれている「タカラ印」があれば、ボーナスとして1個1ポイント。 実施期間終了時の貯金残高やその結果としての寄付割合、実施期間中発生分の寄付額によってもボーナスポイントあり。 参加者は協会から「ルールブック」を取り寄せ、ルールブック内の申請書と当該年度の通帳コピーを返送する。申込期間は当該年度直後の4月中(消印有効)。 郵便局巡り - 郵貯ラリーの高ポイント者は年がら年中郵便局を巡る必要がある。 旅行貯金 - あくまで旅行のついでである旅行貯金では、郵貯ラリーの高ポイント獲得は期待できない。 スタンプラリー - ただし郵貯ラリーでは局名ゴム印は必須ではない。 メルパルク - 毎年の表彰式はメルパルク東京で行われる。 郵貯ラリー協会 郵貯YOU", "Yonda? CLUB(よんだくらぶ)は、新潮社によって1998年から2014年1月24日まで実施された、文庫の売り上げの増進のためのキャンペーンである。新潮文庫のカバーの末尾に付いている葡萄のマークを集めるとポイント(一冊=一点)に応じてもれなく景品を受け取ることができる(但し、古いカバーには葡萄マークが付いていないためそういった文庫が流通していることもありうる)という仕組みになっている。景品はYonda?君というジャイアントパンダのキャラクターをデザインに取り込んだものや、文豪の写真を印刷した小物などである。2003年9月、デザイナーに100%ORANGEを迎えYonda?君のデザインも含め景品が一新された。 新潮文庫のマスコットで、パンダの格好をしている。名称は「パンダ」と「読んだ?」の語呂合わせ。新潮社のサイト内でも表記が分かれ、単に「Yonda?」や、「Yonda?くん」とされているページもある。 スクリーンセーバーや壁紙なども配布されており、Yonda?CLUBの賞品のピンバッジやマグカップなどにもついている。 ほしい景品に応じた枚数の葡萄マークを集める。専用ページで応募用紙をダウンロードするか、書店で配布される景品のカタログには応募用のはがきが付いているのでそれに葡萄マークを貼り、新潮社新潮文庫Yonda? CLUB事務所に80円切手を貼り郵送する。その後大体4ヶ月で景品が送られてくる。 5点 Yonda? ぷっくりシール 10点 Yonda? ブックチャーム (2004年の夏の100冊キャンペーンで行った応募者全員サービスの特典、ブックチャームとは別物) Yonda? トランプ Yonda? ビデオ  20点 Yonda? マグカップ Yonda? キーチェーン Yonda? ブックカバー 30点 Yonda? キャラクター人形 Yonda? トートバッグ Yonda? 絵本『Z.Z.ZOO』 文豪リストウォッチ (夏目漱石,太宰治,川端康成の三種類) 50点 Yonda? リストウォッチ Yonda? クッション 100点 Yonda? ハーブティー&ポット Yonda? ぬいぐるみ 5点 Yonda? ピンバッジ 10点 Yonda? ヒーリングCD Yonda? DVD Yonda? ガムテープ 20点 Yonda? マグカップ&フリップブック Yonda? ブックカバー 30点 Yonda? キャンバスバッグ Yonda? キャラクター人形 Yonda? 絵本『Z.Z.ZOO』 文豪リストウォッチ (夏目漱石,太宰治,川端康成の三種類) 50点 Yonda? リストウォッチ 100点 Yonda? ぬいぐるみ 10点 Yonda? アニメーションDVD Yonda? ムービー『パンダが本を読んだお話』 20点 Yonda? マグカップ Yonda? ブックカバー 30点 Yonda? 絵本『Z.Z.ZOO』 50点 文豪リストウォッチ(二代目) 100点 リサ・ラーソン作 Yonda? 陶器人形 新潮社 新潮文庫 ^ “Yonda?CLUB|新潮文庫|新潮社”. 新潮社. 2013年2月14日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2018年11月25日閲覧。 公式サイト - ウェイバックマシン(2013年2月14日アーカイブ分)" ]
ABC01-02-0295
鎌倉時代や室町時代、武士や幕府の財政が逼迫した際に出された、すべての借金を棒引きにする政令は何でしょう?
徳政令
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[ "徳政令", "大犯三箇条", "永仁の徳政令", "本所法", "恩地" ]
[ "徳政令(とくせいれい)とは、日本の中世、鎌倉時代から室町時代にかけて、朝廷・幕府などが土倉などの債権者・金融業者に対して、債権放棄(債務免除)を命じた法令である。 「徳政(とくせい)」とは天人相関思想に基づき、為政者の代替わり、あるいは災害などに伴い改元が行われた際に、天皇が行う貧民救済活動や神事の興行(儀式遂行とその財源たる所領等の保障)、訴訟処理などの社会政策のことであり、「新制」とも呼ばれる。既売却地・質流れ地の無償返付、所領や債権債務についての訴訟(雑訴)の円滑処理などを行うことを通じて、旧体制へ復帰を図る目的があった。 鎌倉時代に入ると災害や戦乱などの社会的混乱が貴族社会にも及び始め、遂に承久の乱では朝廷軍が敗北して上皇の流罪が行われるなど、貴族社会が存続の危機に差し掛かっていることが明白となった。こうした中で、朝廷内では現実的な政治に目を向ける事で求心力を回復させて昔の権威を取り戻そうとする動きが盛んになった。「徳政」はその路線の上に推進された政策であり、徳政令はそうした政策の一つである(徳政≠徳政令)という事を留意する必要がある。 鎌倉幕府も朝廷政治の現状を状況を批判的に見る立場から朝廷に対して「徳政」推進を求めた。後嵯峨上皇の下で記録所が再建され、続く亀山上皇院政下の1286年(弘安9年)には、院評定を徳政沙汰(人事・寺社などの行政問題)と雑訴沙汰(所領・金銭などの一般的な訴訟)に分割するなどの改革を行い(「弘安徳政」)、1293年(正応6年・永仁元年)には伏見天皇(のち上皇)が記録所を徳政推進の機関として充実を図った(「永仁徳政」)。 当初、こうした政策は元寇などによって混乱する社会秩序の回復を図りたい鎌倉幕府の政策と軌を一にするもの(安達泰盛による幕政改革も「弘安徳政」と呼ばれている)であったが、やがて徳政の本格化とともに朝廷の威信回復の考えが旧体制(鎌倉幕府以前への)復帰を模索する動きに結び付けられるようになると、鎌倉幕府は皇位継承における両統迭立政策を名目とした政治介入を行い、亀山・伏見両上皇の院政停止を行った事から朝幕間に緊張状態を生み、やがて後醍醐天皇の親政に至ってついに鎌倉幕府に対する討幕運動へと転化することになったのである。 鎌倉時代の徳政令には、貧窮に苦しむ御家人保護の名目が強く、1297年(永仁5年)の永仁の徳政令が知られる。建武の新政期である1334年(建武元年)には後醍醐天皇が建武の徳政令を行っている。 室町時代になると惣の発達により、徳政令を求める土一揆、徳政一揆などが頻発した。また、一揆勢力や在地勢力が独自に行う私徳政なども行われた。これらの一揆は将軍の代替わり期に多く発生し、「代初めの徳政」を要求している。正長の土一揆では室町幕府から正式な徳政令は出なかったものの、嘉吉の徳政一揆に際しては幕府から正式に徳政令(嘉吉の徳政令)の発布が行われる。 当初は徳政令に慎重だった室町幕府は、1454年の土一揆を機に分一銭(ぶいちせん・分一徳政令(ぶいちとくせいれい)・徳政分一銭(とくせいぶいちせん)とも)を発布して、債権債務額の1割を一種の手数料として幕府に納めた紛争当事者に当該債権債務の存続を許す命令を出した。これは債務の1割が幕府の収入となったため、後に幕府財政再建のために濫用されることとなった。 戦国時代においては、相模国の戦国大名である北条氏康が大飢饉の発生に際して氏政への家督相続を行い、「代初めの徳政」を行った事例があるなど、「代初めの徳政」が定着していたことをうかがい知ることができる。 甲斐国の武田信虎は享禄元年(1528年)に甲斐一国を対象とした徳政令を発しており(『勝山記』)、これは東国の戦国大名が領国内に発令した徳政令であるほか、土一揆の勃発以前に発令されている点からも注目されている。 また、戦勝による徳政もあり、永禄5年(1562年)3月5日、畠山高政が久米田の戦いで三好氏に勝利したのち、翌6日に京に入った六角義賢は、8日に徳政令を出している。 ^ 黒田「享禄元年の徳政令」『山梨県史』通史編2中世第七章第一節三 笠松宏至 『徳政令』 岩波書店〈岩波新書〉、1983年。 黒田基樹 『戦国大名の危機管理』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2005年。ISBN 4642056009 黒田基樹 『百姓から見た戦国大名』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2006年。ISBN 4480063137 徳政一揆 徳政禁制 徳政文言 地徳政 棄捐令(江戸時代) 神領興行 寺社興行法 永代売 私徳政", "大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)とは、鎌倉幕府、室町幕府における守護の基本的権限。御成敗式目において成文化された。ただし、以下のように近年においては様々な異説が出されている。 その原型は平安時代に追捕の対象とされ、必要に応じて追捕使・押領使が任命・派遣された重犯(重科)の処断に由来する。鎌倉幕府の守護も元は追捕使・押領使の性格を受け継いでおり、「重犯」のことを「大犯」とも称した。通説としては、『御成敗式目』第3条本文が例示する3つを「大犯三箇条」と称したとされている。 守護には以下の3つの権限があった。 大番催促   謀反人の検断 殺害人の検断 その後、南北朝時代に京都大番役が廃れ、旧来の大犯三箇条の解釈が変わった。 謀叛人の検断 殺害人の検断 夜討強盗山賊海賊の検断 ただし、近年の研究においては様々な異説が出されている。 特に大番催促については、守護の検断権の対象ではあったものの、「大犯」として取り扱われていた実例が確認できないことを指摘されている。更に「大犯三箇条」の用語そのものが鎌倉時代には存在せず、用語の成立時期を南北朝時代とする説も唱えられるようになった。そもそも、夜討強盗山賊海賊の検断を大犯に加える考えは、『御成敗式目』第3条の付に既に守護の職権として掲げられているものである。また、「謀叛(人)・殺害(人)・刃傷(人)・夜討・強盗」を「重犯五箇条」とする考え方が鎌倉時代の段階で既に存在していたことが知られている。更に、六波羅探題と守護とのやりとりにおいて、大番催促・謀叛・殺害等の三箇条を指して「関東御下知三ヶ条」と称している事例があり、鎌倉時代における上記三箇条については「大犯三箇条」に代わってこの呼称を採用すべきであるとする見解もある。 ^ a b c 新田一郎「大犯三箇条」(『歴史学事典 9 法と秩序』(弘文堂、2002年) ISBN 978-4-335-21039-6) ^ 浅古弘・伊藤孝夫・植田信廣・神保文夫 編『日本法制史』(青林書院、2010年) ISBN 978-4-417-01517-8 P99(担当執筆者:西村安博) ^ 『但馬進美寺文書』所収 安貞2年6月4日但馬守護昌明請文集(『鎌倉遺文』6-3754号)・寛喜元年11月6年六波羅書状案(『鎌倉遺文』6-3887号) ^ 西田友広『鎌倉幕府の検断と国制』(吉川弘文館、2011年) ISBN 978-4-642-02902-5 P20 守護 大番役 御成敗式目", "永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)は、永仁5年(1297年)3月に鎌倉幕府の9代執権北条貞時が発令した、日本で最初の徳政令とされ、正確な条文は不明だが東寺に伝わる古文書(『東寺百合文書』)によって3か条が知られる。 内容は以下の通りである。 (1)越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。 (2-a)御家人所領の売買及び質入れの禁止。 (2-b)既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を続けよ。 (2-c)非御家人・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)の買得地は年限に関係なく元の領主が領有せよ。 (3)債権債務の争いに関する訴訟は受理しない。 永仁徳政令以前にも類似した政策は行われており、弘安7年(1284年)3月に幕府は越訴に関する訴訟を不受理とする法令を発令し、永仁6年には撤回している。 元寇での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽却地を無償で取り戻すことが目的と理解されてきたが、現在ではむしろ御家人所領の質入れ、売買の禁止、つまり3ヶ条の(2-a)所領処分権の抑圧が主であり、(2-b)はその前提として失った所領を回復させておくといった二次的な措置であり、それによる幕府の基盤御家人体制の維持に力点があったと理解されている。これは、御家人の所領の分散を阻止するために、惣領による悔返権の強化や他人和与の禁止を進めてきた鎌倉幕府の土地政策の延長上にあると言える。 このうち(1)と(2-a)は翌年に廃止されたが、(2-b)は再確認されており、それに基づく所領の取り戻しはそれ以降にも多く見られる。つまり付随的であったはずのものが一人歩きを始める。また、この法令を楯に所領を取り戻したのは御家人に止まらなかった。東寺に伝わる古文書自体が、東寺領山城国下久世荘(京都市南区)の百姓がこれに基づき売却地を取り戻したことに関する文書である。 貞時の政策は幕府の基盤である御家人体制の崩壊を強制的に堰き止めようとするものであったが、御家人の凋落は、元寇時の負担だけではなく、惣領制=分割相続制による中小御家人の零細化、そして貨幣経済の進展に翻弄された結果であり、そうした大きな流れを止めることは出来なかった。 ^ 岩波講座『日本通史 巻8 中世2』「通史」村井章介、p31 笠松宏至『徳政令』岩波書店〈岩波新書〉、1983年。", "本所法(ほんじょほう)とは、本所が自己が持つ荘園を支配するために荘務権の一環として制定・行使した法のこと。中世ヨーロッパにおいても成立した荘園の支配体制を維持するために存在し、こちらは一般に「荘園法(独: Hofrecht)」と呼ばれる。 一般に「荘園領主」と呼ばれる階層は複数の職による重層的支配の下に成立している。「本所」とは複数ある職のうち、荘園内において荘務すなわち、司法・行政・警察活動を行う権限を有して法的支配を行使した者を指す(領家・本家の別称としての「本所」という語も存在するが、本来の意味での使用ではない)。本所法には、荘務権を有する本所と称される権門が属する法体系に根源を持つものと荘園内部における慣習法が本所に容認されたものがある。更に、本所が地域の事情に応じて定めた法も存在する。 公地公民制が機能していた時代には、国衙を含めた官司が司法・行政の権限を独占的に有していたが、荘園が成立して不輸の権・不入の権が確立されると、官司の役人及び法的権限が荘園から排除されて代わりに本所が司法・行政権を獲得した。ただし、現実的には荘園を寄進した者あるいは荘園支配の実務を行った荘官の中には在庁官人を兼ねる者も多いなど、完全に国衙の影響力を排除した例は少なかった。更に本所になった権門の多くが国衙を含めた官司の運営の主体であった公家とその手厚い保護を受けていた寺社であった。このため、初期の本所法も本所である権門の出自に属する公家法や寺社法、それに現地の慣習法や国衙が定めた国例などの地域独自の規定に拘束される場合が多かった。更に本所が持つ荘園内での職の地位や本所自身の現地及び中央に対する影響力も荘園ごとに差が存在し、全ての荘園に共通する要素を見出すのは困難である。更に本所法の中には本所そのものの家政のために定めた家務法と荘園に対して直接適用する荘園法に分けられ(ただし、「荘園法」という呼称は公武権力が荘園に対して実施する法に対する呼称でもある)、両者が混合されている場合もある。それでも、荘園機構自体の存続、生産秩序や治安の維持、年貢・公事の安定的な確保を行うために本所法が制定され、本所側(公家の家司・政所や寺院の三綱など)と起請文・請文などを交わした荘官によって実施された。 鎌倉時代に入ると鎌倉幕府によって地頭が導入され、地頭による大犯三箇条や地頭請の遂行によって本所法の裁量の幅が縮小され、更に室町幕府が荘園の一円支配を認める権限を獲得したことで却ってその代行者である守護の荘園への介入の口実を作った。その結果、武家法の補完的意味合いを果たすに過ぎなくなり、荘園公領制の解体とともに行われなくなった。 中沢巷一「本所法」(『社会科学大事典 10』(鹿島研究所出版会、1969年) ISBN 978-4-306-09161-0) 古沢直人「本所法」(『国史大辞典 12』(吉川弘文館、1991年) ISBN 978-4-642-07721-7) 羽下徳彦「本所法」(『日本史大事典 6』(平凡社、1994年) ISBN 978-4-582-13106-2)", "恩地(おんち)とは、中世日本において、主従関係を結んだ主君が従者に恩給として新たに給与した所領・土地。恩領(おんりょう)とも称する。 戦功などの各種の奉公に対する御恩の一環として土地そのものあるいはその土地の所職を得分とともに与えられた。荘園公領制の強かった時代では土地の所職を与えることで土地の実質的な支配権を与える場合が多かったが、戦国時代に入ると土地そのものを与えることが一般化した。幕府と御家人だけでなく、武家社会一般の主従関係、荘園領主と荘官・荘民の間でも給田・土地の給付(御恩)と年貢・公事の納付(奉公)といった形で成立しえた(ただし、荘園で恩地の観念が成立するのは、武家社会の影響を受けた鎌倉時代中期以後とされている)。 恩地は主君によって第三者からの保護を厚く受けた反面、様々な規制が付けられており、更に主君の一方的な意思によって没収されることもあった。これは恩地は本来は主君のものであり、従者に対して仮に与えたものとする意識が強かったことによる。特に従者以外の第三者に恩地の権利が移ることは、「御恩と奉公」の関係を崩すことになり、主君の軍事的基盤を崩壊させる恐れがあったことから厳しく規制の対象とされた。 鎌倉幕府は当初は御家人への恩地を一代限りとしていたが、元久3年1月27日(建永元年:1206年3月8日)、大罪を犯した者以外に対しては子孫への相続を認めている(『吾妻鏡』)。御成敗式目(48条)によって私領(従者が元から所有していた土地)は売却を認める反面で恩地の売却を禁じるなど、恩領の売却や譲渡を処罰をもってたびたび禁じている。永仁の徳政令が御家人の恩地が凡下(庶民)に売られた場合、無償で御家人に返還しなければならないとされているのは、恩地の性格上、軍事的負担能力(器量・器用)のない凡下が所有することが許されない土地であるとする考えがあったことによる。室町幕府も原則的には同様の方針であったが、年期売や入質(質流れをしないことを条件とする)のように将来的には御家人に戻される一時的な権利移転は認めていた。戦国大名における恩地もこの路線上にあり、私領には軍役と城普請が課せられるのみであったが、恩地にはそれ以外の様々な負担が課され、分国法によって様々な規制が科されていた。例えば三好氏の新加制式や武田氏の甲州法度次第では、恩地は3か年以内の年期売に限って認めるなどの規制を設けている。 河合正治「恩地」(『国史大辞典 2』(吉川弘文館、1980年) ISBN 978-4-642-00502-9) 五味文彦「恩地」(『日本史大事典 1』(平凡社、1992年) ISBN 978-4-582-13101-7) 木内正廣「恩地」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2001年) ISBN 978-4-095-23001-6)" ]
ABC01-02-0296
大相撲で、平幕の力士が横綱を倒したときの勝星を何というでしょう?
金星
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[ "金星", "水星", "金星横断小惑星", "ベンヌ (小惑星)", "イダ (小惑星)" ]
[ "金星(きんせい、ラテン語: Venus 、英語: Venus )は、太陽系で太陽に近い方から2番目の惑星。また、地球に最も近い公転軌道を持つ惑星である。 地球型惑星であり、太陽系内で大きさと平均密度が最も地球に似た惑星であるため、「地球の姉妹惑星」と表現されることがある。また、太陽系の惑星の中で最も真円に近い公転軌道を持っている。 地球から見ると、金星は明け方と夕方にのみ観測でき、太陽、月についで明るく見える星であることから、明け方に見えるのが「明けの明星」、夕方に見えるのが「宵の明星」という。 金星には二酸化炭素を主成分とし、わずかに窒素を含む大気が存在する。大気圧は非常に高く地表で約90気圧ある(地球での水深900mに相当)。金星の厚い雲は太陽光の80%を宇宙空間へと反射するため、地表に届く日光そのものは地球よりも少なく、そのままであれば金星の地表温度は氷点下になるはずである。金星の有効温度は-46℃である。それが実際にそうならないのは、膨大な量の二酸化炭素によって大気中で温室効果が生じるためである。95気圧の二酸化炭素が510℃分の温室効果をもたらしている。金星の地表温度は平均で464℃、上限では 500℃に達する。温室効果のため、金星の地表は太陽により近い水星の表面温度(平均169℃)よりも高くなっている。金星は水星と比べ太陽からの距離が倍、太陽光の照射は75% (2,660 W/m2) である。金星の自転は非常にゆっくりなもの(自転と公転の回転の向きが逆なので金星の1日はおよそ地球の117日)であるが、熱による対流と大気の熱慣性のため、昼でも夜でも地表の温度にそれほどの差はない。大気の上層部の風が4日で金星を一周していることが、金星全体へ熱を分散するのをさらに助けている。 雲の最上部では時速350kmもの速度で風が吹いているが、地表では時速数kmの風が吹く程度である。しかし金星の大気圧が非常に高いため、地表の構造物に対して強力に風化作用が働く。さらに二酸化硫黄の雲から降る硫酸の雨が金星全体を覆っているが、この雨が地表に届くことはない。その雲の頂上部分の温度は−45℃であるが、地表の平均温度は464℃であり、わかっている限りでは地表温度が400℃を下回っていることはない。 2011年、ヨーロッパ宇宙機関 (ESA) の探査機「ビーナス・エクスプレス」が大気の上層からオゾン層を発見した。 2012年、ビーナス・エクスプレスの5年分のデータを解析した結果、上空125kmのところに、気温が-175℃の極低温の場所があることがわかった。この低温層は、2つの高温の層に挟まっており、夜の大気が優勢な部分が低温になっていると考えられている。この極低温から、二酸化炭素の氷が生じているとも考えられている。 金星大気の上層部には4日で金星を一周するような強い風が吹いている。この風は自転速度を超えて吹く風という意味でスーパーローテーションといわれる。風速は秒速100mに達し、金星の自転の60倍以上の速さを持っていることになる。このことが実際に確かめられるまでは、昼の面で暖められた大気が上昇して夜の面に向かい、そこで冷却して下降するという単純な循環の様式が予想されていた。この現象は多くの人々の興味を引くこととなり様々な理論が提示されてきたが、未だに解明には至っておらず、金星最大の謎の1つとされている。 金星の両極付近で巨大な渦が観測されている。北極の渦は1978年にアメリカ航空宇宙局 (NASA) の探査機「パイオニア・ヴィーナス」によって、南極の渦は2006年にヨーロッパ宇宙機関 (ESA) の探査機「ビーナス・エクスプレス」によって発見された。ビーナス・エクスプレスは南極の渦の観測を続け、2011年までにその詳細な構造を明らかにした。 一見したところ、金星大気と地球大気は全くの別物である。しかし両者とも、かつてはほとんど同じような大気から成っていたとする以下の説がある。 太古の地球と金星はどちらも現在の金星に似た濃厚な二酸化炭素の大気を持っていた。 惑星の形成段階が終わりに近づき大気が冷却されると、地球では海が形成されたため、そこに二酸化炭素が溶け込んだ。二酸化炭素はさらに炭酸塩として岩石に組み込まれ、地球大気中から二酸化炭素が取り除かれた。 金星では海が形成されなかったか、形成されたとしてもその後に蒸発し消滅した。そのため大気中の二酸化炭素が取り除かれず、現在のような大気になった。 もし地球の地殻に炭酸塩や炭素化合物として取り込まれた二酸化炭素をすべて大気に戻したとすると、地球の大気は約70気圧になると計算されている。また、その場合の大気の成分は主に二酸化炭素で、これに1.5%程度の窒素が含まれるものになる。これは現在の金星の大気にかなり似たものであり、この説を裏付ける材料になっている。 一方で、地球と金星の大気の違いは地球の月を形成したような巨大衝突の有無によるという考え方があるが、金星の地軸の傾きの原因は巨大衝突だという説もあるため、これらは両立しない。 地球の公転周期と金星の公転周期の比をとると、365.2425... : 224.701... で、13 : 8 という単純な整数比にかなり近い。そのためスピログラフのような「美しい図形」などと話題にされることがあるが、金星と地球は共鳴関係にない(「尽数関係」ではない)。そのため、百万年あるいは億年の単位で見ると、それぞれに変化している。 金星の赤道傾斜角は177度である。即ち、金星は自転軸がほぼ完全に倒立しているため、他の惑星と逆方向に自転していることになる。地球など金星以外の惑星では太陽が東から昇り西に沈むが、(天球の同じ側を金星における北であるとして、東西南北の方角の順を同じとした場合)金星では太陽は西から昇って東に沈む。金星の自転がなぜ逆回転をしているのかはわかっていないが、おそらく大きな星との衝突の結果と考えられている。また、逆算すると金星の赤道傾斜角は3度ぐらいしか傾いておらず、自転軸が倒立しているとは言え、軌道面に対してほぼ垂直になっていることになる。このため、地球などに見られるような、気象現象の季節変化はほとんどないと推測されている。 金星の自転速度は極めて遅く、地球の自転周期が1日であるのに対し、金星の自転周期は地球時間で243日、すなわち243日かけて一回転していることになる。 金星の自転周期は、地球との会合周期とほぼ一致している。そのため、最接近の際に地球からはいつも金星の同じ側しか見ることができない(会合周期は金星の5.001日にあたる)。これが何らかの共振のような現象によるものなのか、単なる偶然によるものなのかはよくわかっていない。 2012年、欧州宇宙機関 (ESA) の探査機ビーナス・エクスプレスから得られたデータにより、16年前より6.5分遅い周期で自転していることが判明した。 金星表面には地球にある大陸に似て大きな平野を持つ高地が3つ存在する。イシュタル大陸はオーストラリア大陸ほどの大きさで北側に位置する。この大陸には金星最高峰であり高さ11kmのマクスウェル山を含むラクシュミー高原などがある。南側の大陸はアフロディーテ大陸と呼ばれ、南アメリカ大陸ほどの大きさである。さらに南の南極地域にはラダ大陸(英語版)がある。高地の面積は金星表面の13%を占めるが、このほかに金星表面は中程度の高度を持つ平原(金星表面の60%を占める)、最も低い低地(金星表面の27%を占める)の、計3つの区分に分類されている。 金星には上記の大地形のほかに、コロナと呼ばれる円形に盛り上がった地域や、中心から放射状に盛り上がりを見せるノバ、パンケーキ状に丸くひろがった台地や、断層や褶曲が入り組むテセラなどの特徴的な小地形が数多く存在する。このうちコロナやノバ、パンケーキ状の地形は火山活動によって形成されたと考えられている。 金星が出来たのは約46億年前だが、表面の大半は数億年前に形成されたと見られており、過去に活発な火山活動があったことを示す地形が多く存在する。ヨーロッパ宇宙機関 (ESA) の金星探査機ビーナス・エクスプレスの観測により、比較的最近(数百年から250万年前)にも火山活動が起きていたことを示す証拠が得られた。 有名な金星表面の立体画像としてマゼランが観測したデータに基づくものがある。しかしこの画像は、レーダーによって観測された地形データに着色し起伏を10倍に強調したコンピューター画像で、実際の金星の地表の様子からかけ離れたものであるので注意が必要である。実際の金星の表面は地球や火星と比較するとむしろ起伏に乏しいとされる。 金星の地形には大陸、地域、平原、裂溝帯、峡谷、モザイク状の地形、断崖、丘、線状地形、火山、溶岩流、火口、山などがあり、主に各民族の神話における女神や精霊の名が冠せられている。例えばアフロディーテ大陸、メティス平原、フェーベ地域、ディオーネ地域、レダ平原、ニオベ平原、アルテミス谷(以上ギリシア神話)、ディアナ峡谷(ローマ神話)、イシュタル大陸(バビロニア神話)、ラクシュミー高原(インド神話)、セドナ平原(イヌイット神話)、ギネヴィア平原(アーサー王伝説の王妃)などがある。 日本神話やアイヌ神話、日本の民話などに由来するものとしては、ユキオンナ・テセラ(雪女)、ニンギョ・フルクトゥス(人魚)、ウズメ・フルクトゥス(天鈿女命)、ヤガミ・フルクトゥス(八上比売)、セオリツ・ファッラ(瀬織津姫)、ベンテン・コロナ(弁天)、イナリ・コロナ(稲荷神)、カヤヌヒメ・コロナ(鹿屋野比売)、オオゲツ・コロナ(大宜都比売)、トヨウケ・コロナ(豊受大神)、ウケモチ・コロナ(保食神)、イズミ・パテラ(和泉式部)、オタフク台地(お多福)、オトヒメ台地(説話浦島太郎の乙姫)、カムイフチ・コロナ(アイヌ神話の火の神カムイフチ)などがある。 クレーターには各国語の女性名が付けられている。日本語および日本人に由来するものとしては、晶子(与謝野晶子)、千代女(加賀千代女)、林(林芙美子)、卑弥呼、市川(市川房枝)、政子(北条政子)、吉岡(吉岡彌生)、ふきこ、ひろみ、いさこ、まりこ、なみこ、のりこ、れいこ、せいこ、やすこ、ようこ、などがある。ヴァリス(峡谷)には川に因む女神の名のほか各言語によるこの惑星の名が付けられており、日本語に因むものとしてキンセイ峡谷がある。 公転軌道が地球より内側にある金星は、天球上では太陽の近くに位置することが多い。地球から見た金星は、月のような満ち欠けが観測できる。これは内惑星共通の性質で、水星も同じである。内合の時に「新金星」、外合の時に「満金星」となる。なお、合とその前後は天球上で太陽に近すぎるため、太陽の強い光に紛れて肉眼で確認することは極めて困難である。 地球と金星の会合周期は583.92日(約1年7か月)であり、内合から外合までの約9か月半は日の出より早く金星が東の空に昇るため「明けの明星」となり、外合を過ぎると日没より遅く金星が西の空に沈むため「宵の明星」となる。その神秘的な明るい輝きは、古代より人々の心に強い印象を残していたようで、それぞれの民族における神話の中で象徴的な存在の名が与えられていることが多い。また地域によっては早くから、明けの明星と宵の明星が(金星という)同一の星であることも認識されていた。 地球から見ると、外合から東方最大離角を経て最大光度までは、徐々に明るくなり、最大光度から内合にかけては暗くなり、内合から最大光度までは明るくなり、最大光度から西方最大離角を経て外合までは徐々に暗くなってゆく。外合の時に視直径は最も小さく、内合の時に最も大きい。外合の時は満月、最大離角の時は半月、内合の時は新月、最大光度の時は三日月のような形に見える。 西方最大離角の時には日の出前に最も早く上り、東方最大離角の時には日没後に最も遅く沈む。 明けの明星の見かけ上の明るさが最も明るくなるのは内合から約5週間後である。そのときの離角は約40度、光度は-4.87等で、1等星の約170倍の明るさになり、明るくなりかけた空にあってもひときわ明るく輝いて見える。内合から約10週間後に西方最大離角(約47度)となる。 内合のときに完全に太陽と同じ方向に見える場合、金星の太陽面通過と呼ばれる現象がまれに起こる。 金星が最も明るく輝く時期には、金星の光による影ができることがある。オーストラリアの砂漠では地面に映る自分の影が見えたり、日本でも白い紙の上に手をかざすと影ができたりする。なお、過去には SN 1006 のような超新星が地球上の物体に影を生じさせた記録も残っているが、現在観測できるそれほど明るい天体は太陽、月、金星、天の川のみである。 欧米ではローマ神話よりウェヌス(ヴィーナス)と呼ばれている。メソポタミアでその美しさ(明るさ)故に美の女神イシュタル(アッカド語)、イナンナ(シュメール語)の名を得て以来、ギリシャではアフロディーテなど、世界各国で金星の名前には女性名が当てられていることが多い。 日本でも古くから知られており、日本書紀に出てくる天津甕星(あまつみかぼし)、別名香香背男(かがせお)と言う星神は、金星を神格化した神とされている。時代が下って、平安時代には宵の明星を「夕星(ゆうづつ / ゆうつづ)」と呼んでいた。清少納言の随筆「枕草子」第254段「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。」にあるように、夜を彩る美しい星の1つとしての名が残されている。 ヨーロッパでは、明けの明星の何にも勝る輝きを美と愛の女神アプロディーテーにたとえ、そのローマ名ウェヌス(ヴィーナス)が明けの明星すなわち金星を指す名となった。 キリスト教においては、ラテン語で「光をもたらす者」ひいては明けの明星(金星)を意味する言葉「ルシフェル」(Lucifer) は、他を圧倒する光と気高さから、唯一神に仕える最も高位の天使(そして後に地獄の闇に堕とされる堕天使の総帥)の名として与えられた。 聖書の黙示録中では、イエスの事が「輝く明けの明星」と呼ばれている。 仏教伝承では、釈迦は明けの明星が輝くのを見て真理を見つけたという。また弘法大師空海も明けの明星が口中に飛び込み悟りを開いたとされ、虚空蔵菩薩・明星天子は仏格化された金星の現れとされている。 アステカ神話では、ケツァルコアトルがテスカトリポカに敗れ、金星に姿を変えたとされている。 マヤ創世神話内では、金星は太陽と双子の英雄であるとされ、金星を「戦争の守護星」と位置付け、特定位置に達した時に戦を仕掛けると勝てると考えられた(一種の軍事占星術であり、金星の動きと戦争が繋がっていた)。 近代に入ると、金星の太陽面通過に大きな関心が寄せられるようになった。太陽系の大きさを測定する過程において、金星の太陽面通過で得られるデータは重要な役割を果たすと考えられたためである。1761年と1769年の太陽面通過観測は世界中に観測隊を派遣して行われたが、なかでも1768年から太平洋に派遣されたジェームズ・クックの探検隊は、太平洋各地で重要な地理的発見を行った。また、1874年の金星の太陽面通過においてはすでに産業化時代に入っていたこともあり、世界各国が各地に観測隊を派遣した。この時は日本も観測可能な地域に含まれており、フランス、アメリカ、メキシコの3ヵ国が日本に観測隊を派遣した。 金星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。 「金星」の名は中国で戦国時代 (中国)に起こった五行思想とかかわりがある。また、中国ではかつて金星を太白とも呼んだ。 西洋占星術では、金牛宮と天秤宮の支配星で、吉星である。妻・財産・愛・芸術を示し、恋愛、結婚、アクセサリーに当てはまる。 女性を象徴する手鏡を図案化したもの(通説の1つ)が、占星術・天文学を通して用いられる。また、転じて女性を示すシンボルとしても利用されている。 近代の科学者は、金星の姿を推測し続けた。ノーベル賞受賞者であるスヴァンテ・アレニウスは、金星は石炭紀の湿原のようであると主張した。これは当時、相当程度支持されたが、1920年代には、光学分析により金星の大気に大量の水が含まれてはいないことが明らかになった。それでもなお、石炭紀的な金星像を支持する学者も少なからずいた。こうした金星理解を背景に、金星への植民が構想された。たとえばカール・セーガンは、金星の雲の中に藍藻類を投下して金星の大気中の二酸化炭素を酸素に置き換える案を提案している。しかしこうした推測は、1960年代以降に金星探査機が続々と打ち上げられ、データが集積されて金星がとても人類の生息できる環境ではないことが判明するとともに姿を消していった。 それでもなお、重力が地球とほぼ同じである点や、高度50kmほどの上層大気においては地球と気圧や温度がほぼ同一となるなどの利点があるため、宇宙移民計画の一端として金星への植民計画はいくつか構想されている。こうした計画においては、地表部分の高熱や高い大気圧、大気の成分が人類の呼吸に適していないなどの難点を克服する必要があり、フローティングシティを上層大気に浮かべて居住地とする案や、金星の周囲にソーラーシールドを張り巡らせて強制的に気温を下げ、テラフォーミングを行うなどの案が提案されているが、いずれも21世紀の技術ではほぼ実現不可能な案であり、仮に可能となったとしても実現に数百年は要すると考えられている。 打ち上げ失敗など 命名無し - 1961年2月4日、打ち上げ失敗。 命名無し - 1962年8月25日、打ち上げ失敗。 命名無し - 1962年9月1日、打ち上げ失敗。 命名無し - 1962年9月12日、打ち上げ失敗。 コスモス21号 - 1963年11月11日打ち上げ。地球軌道離脱失敗。 命名無し - 1964年2月19日、打ち上げ失敗。 コスモス27号 - 1964年3月27日打ち上げ。地球軌道離脱失敗。 ゾンド1号 - 1964年4月2日打ち上げ、金星へ向かう途中で通信途絶。 コスモス96号 - 1965年11月23日打ち上げ。地球軌道離脱失敗。 コスモス167号 - 1967年6月17日打ち上げ。地球軌道離脱失敗。 コスモス359号 - 1970年8月22日打ち上げ。地球軌道離脱失敗。 コスモス482号 - 1972年3月31日打ち上げ。地球軌道離脱失敗。 ベネラ計画 ベネラ1号 - 1961年2月12日打ち上げ。金星へ向かう途中で通信途絶、5月19日に金星から10万km以内を通過と推定。 ベネラ2号 - 1965年11月12日打ち上げ。金星へ向かう途中で通信途絶、1966年2月27日に金星から24,000kmを通過と推定。 ベネラ3号 - 1965年11月16日打ち上げ。金星へ向かう途中で通信途絶、1966年3月1日に金星へ衝突と推定。 ベネラ4号 - 1967年6月12日打ち上げ。10月18日に金星へ着陸カプセルを投下、推定高度25kmで通信途絶。 ベネラ5号 - 1969年1月5日打ち上げ。5月16日に金星へ着陸カプセルを投下、推定高度18kmで通信途絶。 ベネラ6号 - 1969年1月10日打ち上げ。5月17日に金星へ着陸カプセルを投下、推定高度22kmで通信途絶。 ベネラ7号 - 1970年8月17日打ち上げ。12月15日に金星へ着陸カプセルを投下、地表到達から23分後に通信途絶。 ベネラ8号 - 1972年3月27日打ち上げ。7月22日に金星へ着陸カプセルを投下、地表到達から63分後に通信途絶。 ベネラ9号 - 1975年6月8日打ち上げ。着陸カプセルを切り離し後、母船は金星周回軌道へ投入。カプセルは10月22日に着陸、初めて金星の地表を撮影する。 ベネラ10号 - 1975年6月14日打ち上げ。着陸カプセルを切り離し後、母船は金星周回軌道へ投入。カプセルは10月25日に着陸、地表を撮影する。 ベネラ11号 - 1978年9月9日打ち上げ。着陸カプセルを切り離し後、母船は双曲線軌道へ移行。カプセルは12月25日に着陸したが、地表の撮影には失敗。 ベネラ12号 - 1978年9月14日打ち上げ。着陸カプセルを切り離し後、母船は双曲線軌道へ移行。カプセルは12月21日に着陸したが、地表の撮影には失敗。 ベネラ13号 - 1981年10月31日打ち上げ。着陸カプセルを切り離し後、母船は双曲線軌道へ移行。カプセルは1982年3月1日に着陸、地表の撮影や表土の分析を行う。 ベネラ14号 - 1981年11月4日打ち上げ。着陸カプセルを切り離し後、母船は双曲線軌道へ移行。カプセルは1982年3月5日に着陸、地表の撮影や表土の分析を行う。 ベネラ15号 - 1983年6月2日打ち上げ。10月10日に金星周回軌道へ投入、1984年7月まで稼動。 ベネラ16号 - 1983年6月7日打ち上げ。10月14日に金星周回軌道へ投入、1984年7月まで稼動。 ベガ計画 (欧州各国との共同プロジェクト) ベガ1号 - 1984年12月15日打ち上げ。着陸機と気球を収めたカプセルを切り離し後、母船は金星をフライバイしてハレー彗星へ向かう。カプセルは1985年6月11日に大気圏へ突入、着陸機は推定高度20kmで通信途絶。 ベガ2号 - 1984年12月21日打ち上げ。着陸機と気球を収めたカプセルを切り離し後、母船は金星をフライバイしてハレー彗星へ向かう。カプセルは1985年6月15日に大気圏へ突入、着陸機は地表到達から56分後に通信途絶。 マリナー計画 マリナー1号 - 1962年7月22日打ち上げ失敗。 マリナー2号 - 1962年8月27日打ち上げ、12月14日に金星から35,000kmの地点を通過。 マリナー5号 - 1967年6月14日打ち上げ、10月19日に金星から4,000kmの地点を通過。 マリナー10号 - 1973年11月3日打ち上げ、1974年2月5日に金星から5,768kmの地点を通過、水星へ向かう。 パイオニア・ヴィーナス計画 パイオニア・ヴィーナス1号- 1978年5月20日打ち上げ。12月4日に金星周回軌道へ投入、1992年8月まで稼動。 パイオニア・ヴィーナス2号- 1978年8月8日打ち上げ。本体と4機のプローブに別れ、12月9日に金星大気圏へ突入。本体は地表到達前に、プローブ3機は到達と同時に、残り1機は68分後に通信途絶。 ガリレオ - 1989年10月18日打ち上げ。1990年2月10日に金星から16,130kmの地点を通過、木星へ向かう。 マゼラン - 1990年5月4日打ち上げ。8月10日に金星周回軌道へ投入、1994年10月まで稼動。 カッシーニ - 1997年10月15日打ち上げ。1998年4月26日に金星から287.2kmの地点を、1999年6月24日に617kmの地点を通過、土星へ向かう。 メッセンジャー - 2004年8月3日打ち上げ。2006年10月24日に金星から2,992kmの地点を、2007年6月5日に338kmの地点を通過、水星へ向かう。 ビーナス・エクスプレス - 2005年11月9日打ち上げ。2006年5月7日に金星周回軌道へ投入。2014年11月28日に燃料枯渇で姿勢が保持できなくなり通信途絶。 あかつき - 2010年5月21日打ち上げ。2010年12月7日に金星周回軌道投入に失敗の後、2015年12月7日に再投入に成功。 IKAROS - あかつきの相乗りで打ち上げ。世界初のソーラーセイル。2010年12月8日に金星から約8万kmの地点を通過。 しんえん - あかつきの相乗りで打ち上げ。金星遷移軌道投入直後に通信途絶。 ヴィーナス・エントリー・プローブ(欧州) - 2013年打ち上げ予定。 ベピ・コロンボ(日本 / 欧州) - 2018年打ち上げ予定、金星をフライバイして水星へ向かう予定。 ベネラ-D(ロシア) - 2025年打ち上げ予定。 ^ 天王星も約98度の赤道傾斜角を持つため、太陽が西から昇って東に沈む ^ 天文年鑑2008年版 ^ “ビーナス・エクスプレス、大気圏に突入”. ナショナルジオグラフィック日本版. 日経ナショナルジオグラフィック (2014年6月20日). 2017年8月23日閲覧。 ^ デイヴィッド・ベイカー & トッド・ラトクリフ 2012, pp. 82-84. ^ a b 田近英一、『地球環境46億年の大変動史』p28ほか、株式会社化学同人、2009年5月30日、ISBN 978-4-7598-1324-1 ^ デイヴィッド・ベイカー & トッド・ラトクリフ 2012, p. 95. ^ AstroArts ビーナス・エクスプレス、金星大気にオゾン層を発見 ^ A curious cold layer in the 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が初めて水星へ接近し、地表の約40%ないし45%の地図が作られた。撮影された映像から、水星には多数のクレーターがあり、月と非常によく似た環境だと考えられた。依然として分からないことが多い惑星であるが、2008年に探査を始めたアメリカのメッセンジャーや2018年に打ち上げ予定の日欧共同プロジェクトベピ・コロンボなどによって、探査の進展が期待されている。 水星の公転周期は約88日である。その軌道離心率約0.21は太陽系惑星の中でもっとも大きく、近日点が 約0.31 au (46 ×106 km) で遠日点が 約0.47 au (70 ×106 km) という、太陽を焦点のひとつとする大きな楕円軌道を描いている。 公転面は地球の公転面(黄道)に対して7度の傾きがある。その結果、水星の太陽面通過は黄道に水星があるタイミングに限られ、平均7年に1度しか観測されない。 この軌道の近日点は太陽の周りを周回する形でゆっくりと移動している(水星の近日点移動)。この現象の大部分は他の惑星からの摂動など古典力学で説明できるものだったが、観測値は古典力学による計算値より100年あたり43秒大きく、この説明不可能だったずれは19世紀の天文学者を悩ませてきた。このため水星の内側にもう1つ惑星があるという説が現れた(バルカン参照)。このニュートン力学では説明できなかった43秒は、後にアインシュタインの一般相対性理論によって「太陽の重力により時空が歪んだ結果」として説明づけられた。一般相対性理論による計算値が、誤差の範囲で観測値の43秒と非常によく一致していたのである。 水星の自転周期は58日である。1965年にレーダー観測が行われるまで、水星の自転は地球の月や他の多くの衛星と同様に、太陽からの潮汐力によって公転と同期しており、常に太陽に同じ面を向けて1公転中に1回自転していると考えられていた。しかし実際には水星の自転と公転は 2:3 の共鳴関係にある。すなわち、太陽の周囲を2回公転する間に3回自転する。水星の公転軌道の離心率が比較的大きいため、この共鳴関係は安定して持続している。水星の自転と公転が同期していると考えられた元々の理由は、地球から見て水星が最も観測に適した位置にある時にはいつでも同じ面が見えたからであった。実際にはこれは 2:3 の共鳴の同じ位置にある時に観測していたためだった。この共鳴があるために、水星の恒星日(自転周期)は58.7日なのに対して、水星の太陽日(水星表面から見た太陽の子午線通過の間隔)は176日と、3倍になっている。誕生直後の水星は8時間程度の速さで自転していたが、太陽の潮汐力によって段々と遅くなり現在の同期状態になったと考えられるが、なぜ2:3の比となったのかは分っていない。 水星表面の特定の場所では、水星の1日において日の出の途中で太陽が逆行して一度沈み、その後再び上るという現象が見られる。これは、水星が近日点を通過する約4日前から水星の軌道速度と角度で測定した自転速度がちょうど等しくなるため、水星表面から見て太陽固有運動が止まって見えることに起因する。そこに、近日点である楕円型公転軌道の尖った部分(円弧と長辺の交点)を水星が通り過ぎるために公転による角速度が自転のそれを上回ることが重なり、太陽が逆に進むように見える。近日点通過の4日後には太陽は順行に戻る。 先述のとおり、水星は公転周期が約88日で、太陽日が約176日となっている。すなわち、「水星の1日」は「水星の2年」に等しい。言いかえれば、水星のある地点での正午から次の正午まで(ここでは逆行は考慮しないとする)の間に、水星は太陽の周りを2回公転する。 水星の赤道傾斜角(自転軸の傾き)は惑星の中で最も小さく、わずか 0.027度以下でしかない。これは2番目に傾斜が小さい木星の値(約3.1度)に比べても1/300と非常に小さい値である。このため、日の出の位置は2.1分以上ぶれない。 水星には半径 1,800 km 程度の核が存在する。これは惑星半径の3/4に相当し、水星全体では質量の約 70 % が鉄やニッケル等の金属、30 % がケイ酸塩で出来ている。 平均密度 5,430 kg/m3は地球と比べわずかに小さい。核の比率が大きい割に密度がそれほど高くないのは、地球は自重によって惑星の体積が圧縮され密度が高くなるのに対し、小さな水星は圧縮される割合が低いためである。地球中心部の圧力は366万気圧に達するのに対し、水星中心部は約25から40万気圧にとどまる。しかし、天体の大きさと平均密度の相関関係では、水星は唯一他の地球型惑星が示す傾向から60%程度重い方向に外れている。自重による圧縮を除外して計算された平均密度は、水星が 5,300 kg/m3、地球が 4,000-4,100 kg/m3となり、水星のほうが有意に高い値をとる。 水星の体積は地球の 5.5 % に相当する。しかし地球の金属核は 17 % にすぎないのに対し、水星の金属核はその 42 % を占める。核は地球の内核と外核のように、固体と液体に分離している可能性がある。核の周りは厚さ 600km 程度の岩石質マントルで覆われているが、これは他の岩石惑星と比べごく薄いためマントルの対流が小規模となり、惑星表面に特有の影響を及ぼした可能性が指摘されている。地殻は、マリナー10号の観測結果から厚さ 100-300km と推測されている。2007年、電波観測により、水星の中心核が液状であることを示す磁場が観測された。 水星は太陽系の他のどの天体よりも鉄の存在比が大きい。この高い金属存在量を説明するために、主に3つの理論が提唱されている。 1つ目は、水星は元々ありふれたコンドライト隕石と同程度の金属-珪酸塩比を持ち、その質量が現在よりも約2.25倍大きかったが、太陽系形成の初期に水星の 1/6 程度の質量を持つ原始惑星と衝突したために元々の地殻とマントルの大部分が吹き飛んで失われ、延性を持つ金属核は合体したために比率が高い現在の姿になったという理論である。これは地球の月の形成を説明するジャイアント・インパクト理論と同様なメカニズムであり、「巨大衝突説」と呼ばれる。また、このような現象は原始惑星形成時から起こり、水星軌道では選択的に金属が集まりやすかったという「選択集積説」も有力な仮説として唱えられている。 2つ目は、水星が原始太陽系星雲の歴史のごく初期の段階に形成され、その時には未だ太陽からのエネルギー放射が安定化していなかったことが原因という理論である。この理論では、当初水星は現在の約2倍の質量を持っていたが、原始星段階の太陽が収縮するにつれて活動が活発化してプラズマを放出し、このために水星付近の温度が 2,500 - 3,500 K、あるいは 10,000 K 近くにまで加熱された。表面の岩石がこの高温によって蒸発して岩石蒸気となり、これが原始太陽系星雲風によって吹き飛ばされたために地殻部分が痩せ細って薄くなったという。これは「蒸発説」と呼ばれる。 3つ目は、原始太陽系星雲からの太陽風が水星表面に付着していた軽い粒子に抗力を生じさせ、奪い去る現象が重なったという理論である。他にも、水星は地殻部分がコアとマントルの冷却よりも先に形成されたため、これが影響したという説もある。 これらの各仮説では、水星表面の構成に異なった影響を与えると考えられている。 探査機メッセンジャーと打ち上げが予定されているベピ・コロンボは、この課題を観測する目的を担う予定である。 当初、水星の地形は望遠鏡によるアルベドの計測で予想された。地域によって反射率に差異があり、これは月の高地のようなリンクルリッジ、山脈、平野、ルペス(英語版)(絶壁)、ヴァリス(英語版)(谷)などがあるためと推測された。 1975年のマリナー10号による観測で得た情報から基本的な部分が明らかになった。水星の地表は月の地表と似ており、その特徴は、数十億年単位時間を経て形成される月の海のような滑らかな面や、全球を覆うさまざまな大きさのクレーターが数多く存在していることにある。その中でも最も目に付くものは、惑星直径の1/4以上に相当する直径1,300kmほどのクレーター群から成るカロリス盆地である。これは、46億年前に水星が形成されて間もなく始まり38億年前まで続いた後期重爆撃期に、彗星や隕石が衝撃を和らげる大気が無い水星に衝突を繰り返すことでクレーターを形成し、当時まだ活発だった火山活動によって盆地がマグマで埋まり形成されたと考えられる。 水星の表面はおおまかにいって異なる時代にできた二つの表面によって覆われている。若い方の表面は溶岩が流れ出して形成された軽い地表であり、古い地表よりクレーターが少ない。このような二分化された地形は月の高地-海の関係に似ているが、水星に見られる新旧の地表の違いは月の場合ほど明確ではない。 水星の地表を特徴付けるもう一つの地形は、惑星の広い範囲に散在する高さ約2km、長いものでは500kmにもなる断崖(線構造)であり、リンクルリッジと呼ばれる。これは水星の内部が冷却され、半径が1-2kmほど縮む過程で形成された「しわ」であると考えられているが、太陽の潮汐力の影響という異説も存在する。断層のパターンについて詳細に分析できるようになれば、地形の正確な起源が明らかになると考えられている。また、太陽の潮汐力は地球が月に与える力の約17倍と推測され、そのために水星では赤道部分が膨らむ潮汐変形が起きている。 水星の表面には、鉄酸化物の存在量が他の地球型惑星と比較しても少なく重量比1-3%程度しか無い。これが反射率の高さに繋がっている。代わって、ナトリウム分が多い斜長石や鉄をあまり含まない輝石(頑火輝石)が主に占める。 水星は重力が小さいため、長く大気を留めておくことは難しい。しかし、ごく薄く分子同士の衝突がほとんど無い無衝突大気の存在が確認されている。水星の気圧は10-7 Pa (10−12気圧) 程度と推測され、その成分は水素、ヘリウムの主成分に加え、ナトリウム、カリウム、カルシウム、酸素などが検出されている。 この大気組成は一定しておらず、絶えず供給と散逸を繰り返している。水素やヘリウムは太陽風の粒子を水星磁場が捕捉したものと考えられ、やがて宇宙空間に拡散されてゆく。地殻で生じる放射性崩壊もひとつのヘリウム供給源であり、ナトリウムやカリウムも地殻起源である。水蒸気も存在しており、これは水星の表面が崩壊して生じたものと、太陽風の水素と岩石由来の酸素がスパッタリングを起こして生成されるもの、永久影にある水の氷が昇華して発生するものがある。探査機メッセンジャーによる水の存在に関連するO+、OH−、H2O+などのイオン発見は、驚きをもって受け止められた。これら発見されたイオンの量から、科学者らは水星の表面は太陽風に吹き晒されている状態にあると推測した。 大気中にナトリウム・カリウム・カルシウムがあることは1980-1990年代に発見され、当初は隕石衝突による地殻の蒸発がこれらを供給していると考えられた。さらに探査機メッセンジャーによってマグネシウムの存在が確認された。その時点での研究の結果、ナトリウムの供給領域は惑星磁場に対応する部分に絞られた。これは水星の表面と磁場が相互作用を起こしていることを示す。 表面の平均温度は 452K(179 ℃)であるが、温度変化は 90-100 K から 700 K におよぶ。水星は公転と自転が共鳴しているため、近日点において特定の2箇所が南中を迎え最高温度の700Kに達する。この場所は「熱極」と呼ばれ、カロリス盆地とその正反対側が当たる。遠日点では500K程度になる。日陰部の最低温度は平均110Kほどである。太陽光は地球の太陽定数の4.59-10.61倍に相当し、エネルギー総計では 3,566 W/m2 となる。 このような高温に晒されながら、水星には氷の存在が確認されている。極[要曖昧さ回避]に近く深いクレーターの中には太陽光が当たらない永久影となる部分があり、温度が102K以下に保たれている。これは1992年、ゴールドストーン深宇宙通信施設の70m電波望遠鏡と超大型干渉電波望遠鏡群 (VLA)が、水の氷による強いレーダー反射を観測して確認された。この反射現象は他にも原因を考えうるが、天文学者は水の氷が存在する可能性が最も高いと考えている。2012年6月、メッセンジャーが撮影した極地の画像により、氷が存在する可能性が裏付けられたと、ジョンズ・ホプキンズ大学などの研究チームが発表した。この氷の量は 10×1014 - 10×1015 kg 程度であり、レゴリスが覆うことで昇華から防がれていると考えられる。なお、地球の南極に存在する氷は4 ×1018kg、火星の南極には10×1016kg程度の水の氷があると言われる。水星の氷の起源は不明だが、彗星の衝突もしくは水星内部からの放出で生まれたという説が有力である。 水星は59日という遅い自転速度であるにもかかわらず、地球の磁気圏の約1.1%に相当する比較的強い4.9×10−12Tの磁気圏を持つことがマリナー10号の観測で発見された。この磁場は、地球と同じく双極子であるが、地球にみられるような磁場の軸と自転軸とのずれはほとんど無い。探査機マリナー10号とメッセンジャーの観測によって、この磁場は安定的なものであることが分かった。 詳しくは明らかにはなっていないが、この磁場は地球と同様に流体核の循環運動によるダイナモ効果で生まれている可能性がある。水星の核は純粋なニッケルや鉄が融解するほどの高温を維持していないと考えられているが、硫黄などの不純物が 0.2 - 5 % ほど核に混入すると融点が適度に低下し、地球と同様に固体の内核と液体の外核に分離する可能性がある。仮にこのメカニズムで磁場が発生しているならば、液体の外核はおよそ 500 km の厚さを持つと推定される。また、水星の公転軌道の離心率が高いことから、太陽が及ぼす潮汐力の影響も考えられる。他にも、核とマントルの境界で生じる熱電作用や、過去に起きていたダイナモ効果が消えてしまった後も名残の磁場が固体の磁性体物質に「凍結」しているという理論もある。後者では核が液体である必要はないが、水星磁場は現在も生み出されていると考えられているため、21世紀初頭の時点ではこの説はあまり支持されていない。 水星磁場は惑星の周囲で太陽風をそらして磁気圏をつくり、宇宙風化作用(英語版)に抵抗する程度には強力だが、それは地球の大きさに収まる位の範囲でしかない。マリナー10号の観測では、夜側の磁場圏でエネルギーが低いプラズマが観測され、高エネルギー粒子の噴出も見つかった。これは、惑星磁気圏の高い活動を示している。2008年10月6日にメッセンジャーが2度目のフライバイを行った際、惑星磁場と繋がったまま水星半径の1/3に相当する800kmの長さに伸びた竜巻のようにねじれた磁気の束と遭遇した。これは、水星磁場が「漏れやすい」性質を持つことを示す。この竜巻は、太陽風が運んだ磁場と惑星磁場が接触した際に発生する。太陽風の通過とともに繋がった磁場は引き出され、渦のようなねじれ構造を持つ。このような、惑星磁場の磁力管が太陽風によって引っぱり出される現象(磁束輸送事象(英語版))は、磁場の壁に穴を空けてしまい、そこから水星表面に影響を及ぼす太陽風が吹き込む事態を起こす。磁気再結合と呼ばれるこのような現象は珍しくなく、地球でも起こっている。ただし現在の観測では、これが生じる速度は地球よりも10倍も速く、水星が太陽に近いことでもこの速さの1/3程度しか説明できない。 水星の経度は自転方向に従い、西に向かって増えるよう設定されている(つまり、水星の惑星面経度はすべて西経で表示される)。水星では フン・カル という名の小さなクレーターの経度が西経20度として定義され、測定の基準点になっている。 水星について記述された最古の観測記録は、紀元前14世紀頃のアッシリア人によって作られたと考えられる星図表Mul.Apinである。この表における水星の楔形文字表記は、Udu.Idim.Gu\\u4.Ud(the jumping planet、「跳ぶ星」)と訳された。バビロニアにも紀元前1000年代の記録があり、彼らは神話に登場する伝達する神ナブーになぞらえた名称をつけていた。 古代ギリシアではヘーシオドス(紀元前700年頃?)の時代には知られ、Στίλβων(Stilbon、「微かな光」の意)やἙρμάων (Hermaon) と呼ばれていた。ヘラクレイトスは、水星と金星が地球でなく太陽の周りを回っていると考えるに値する観測を行った。古代ギリシア世界では、宵の水星にヘルメース、明けの水星にはアポローンを対応させていたが、やがてこの2つの星が同一のものであることに気づいた。その後、最内周惑星で運行が速いことから、ヘルメースと同一視されていた他の神々の使いである俊足の神メルクリウスの名があてられ、これが英語のマーキュリー(Mercury = 水星)の語源となった。 古代中国では水星は「辰星」の名で知られ、方角の「北」、五行思想の「水」と対比させていた。現代でも、中国、日本、大韓民国、ベトナムでは漢字で「水星」と書かれ、五行思想の反映が見られる。インド神話では、水星には水曜日を司る神ブダの名が与えられる。曜日との関連は、ゲルマン人の思想(英語版)でも神オーディンが水星と水曜日を司るという考えがある。 マヤ文明では水星はフクロウに喩えられ、1羽という時と、朝夕それぞれ2羽の計4羽と考えられることもあった。彼らは地下世界からの使者と考えられた。 中世イスラム世界では、11世紀にアンダルスの天文学者ザルカーリーが水星の公転軌道が卵や松の実のような楕円形だと主張した。ただし彼の天文学理論や計算に、この考えは反映されなかった。12世紀にはイブン・バーッジャが「太陽面にある2つの黒い点」を観察した。13世紀には、マラーゲ天文台(英語版)のクトゥブッディーン・シーラーズィー(英語版)が、これは水星か金星の太陽面通過またはその両方だと述べた。なお現代では、この種類の中世の報告は太陽黒点を見ていたものとも取り扱われる。 インドでは、15世紀にケーララ州のケーララ学派のニーラカンタ・ソーマヤージー(英語版)が、16世紀デンマークのティコ・ブラーエに先立ち、太陽の周囲を水星と地球が周回する太陽系モデルを構築した。 望遠鏡を用いた水星観測は17世紀初めにガリレオ・ガリレイが手がけたが、天体の相(英語版)を確認するには充分な機能を発揮しなかった。しかし1631年にはピエール・ガッサンディが、ヨハネス・ケプラーが予告した天体の通過を望遠鏡で観測した。1639年にはイタリアのジョヴァンニ・ズッピが望遠鏡を使って水星を観測し、金星や月と同様に満ち欠けがあることを発見した。これによって、水星が太陽の周りを回っていることが確実になった。惑星同士が交差する掩蔽は非常に稀な天体現象だが、1737年5月28日に水星と金星で起こった掩蔽はグリニッジ天文台のジョン・ベヴィスによって観察された。水星と金星が次に掩蔽を起こすのは2133年12月3日である。 水星は太陽に接近しているため、観測するのは非常に困難である。水星軌道周期の約半分に相当する期間は、太陽の光に埋もれてしまって見ることができない。またそれ以外の時期でも、朝か夕方のごく短い時間しか観測できない。ニコラウス・コペルニクスが水星を生涯見られなかったという逸話は有名である。 地球から見た水星にも、金星や月のような満ち欠けの相が見られる。内合の時に「新水星」、外合の時に「満水星」となるが、これらの時期には太陽と同時に上ったり沈んだりするために、見ることはできない。最大離角の時には半分欠けた形になる。西方最大離角の時には日の出前に最も早く上り、東方最大離角の時には日没後に最も遅く沈む。最大離角の値は、近日点ならば17.9度、遠日点ならば27.8度である。しかし金星とは異なり、最も明るくなるのは「半月」形と「満月」形の間の相である(金星では「新月」形と「半月」形の間で最も明るくなる)。この理由は各相にある時の地球からの距離による。水星では内合「新水星」と外合「満水星」の時の地球からの距離の差は3倍以下だが、金星では6.5倍にもなる。水星が内合になる周期は平均すると116日だが、軌道の離心率が大きいために実際には111日から121日まで変化する。同じ理由で、地球から見て逆行する期間も8日から15日まで変化する。 このような観測の難しさから、水星の理解は他の惑星と比べて遅れた。1800年、ヨハン・シュレーターは水星表面の観察を行い。高さ20kmの山脈が存在すると主張した。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルはシュレーターの観察結果から、自転時間を24時間、自転軸の傾斜が70度だという誤った見積もりを発表した。1880年代になって、ジョヴァンニ・スキアパレッリがより精確な惑星写像を取り、その結果から自転周期は88日であると示唆するとともに、公転も潮汐力から同期した状態にあると考えた。惑星写像への取り組みは引き続き行われ、1934年にはユジェーヌ・ミカエル・アントニアディが観測結果と地図を載せた本を出版した。そこには、数多いalbedo features(天体面の明暗模様)が反映され、「アントニアディ・マップ」と呼ばれた。 1962年6月、ウラジーミル・コテルニコフ率いるソヴィエト連邦科学アカデミー情報通信研究所 (Institute of Radio-engineering and Electronics) は、水星にレーダー信号を発信し反射を利用した観測を初めて行った。これはレーダーを利用した惑星観測の皮切りとなった。3年後に、アメリカのゴードン・ペッティンギル(英語版)らがプエルトリコのアレシボ天文台300m径電波望遠鏡を用いた観測を行い、最終的に水星の自転周期が59日であることを突き止めた。水星の自転は公転と同期していると広く考えられていたため、この発見は驚きをもって受け止められた。同期していれば常に影となる半球は非常に冷たくなるはずだが、電波計測の結果は、予想よりもはるかに高い温度を示していた。それでも天文学者の中には風のような熱を分配する何かしら強力な機構を想定するなど、同期説を簡単には手放さない者もいた。 公転と自転の比率が1対1ではないと提言したのはイタリアの天文学者ジュゼッペ・コロンボ(英語版)であり、彼は公転が自転周期の2/3に相当すると述べた。この証明は、マリナー10号から得られたデータで裏づけされた。これは、スキアパレッリとアントニアディの地図が正しいことを示すとともに、他の天文学者が観察した水星表面は2パターンある公転・自転関係のひとつだけを見ていたわけではなく、観測手段が未発達だったために彼らが目にした太陽方向に向けられた表面の違いをさしあたり無視していたことを示した。 地上からの観測は光を反射しない部分を知る手段に乏しく、水星の基本的な特性は探査機を打ち上げて初めて理解できた。しかしながら、20世紀末以降は技術的進歩が進み、地上観測からでも多くの情報を入手できるようになった。2000年、ウィルソン山天文台の1.5mヘール望遠鏡で高解像度のラッキーイメージング(英語版)観測が行われ、マリナー10号では得られなかった水星表面部分の画像撮影に成功した。後の解析で、そこにはカロリス盆地を越え、スキナカス盆地(英語版)の2倍に相当する大きさの巨大な二重クレーターが発見された。その後もアレシボ天文台による観測で、水星表面の大部分は5kmの解像度で撮影された。この中には、極にあり影に水の氷が存在する可能性を持つクレーターも含まれていた。 地球から水星に到達するためには高い技術的ハードルがある。水星の軌道は地球に比べて3倍も太陽に近いため、地球から打ち上げた宇宙機を水星重力に捕らえさせるためには、太陽の重力井戸を 9100万 km 以上も下らなくてはならない。単純に、ホーマン遷移軌道によって遷移するとしても、ΔVが他の惑星探査よりも大きいことが問題となる。 着陸や安定な水星周回軌道投入を実現するためには、水星に大気が存在しないために空力ブレーキを用いることができず、宇宙機のエンジンに頼らざるを得ない。なお、単純に力学的な比較として、水星への旅で必要なΔVとしては太陽系脱出速度のためのそれより大きい。これらが、水星探査機の実現回数が少ない理由である。 水星に向けられた初の探査機は、1973年に打ち上げたアメリカ航空宇宙局 (NASA) のマリナー10号であった。同機は1974年から1975年にかけて3回にわたって水星に接近。写真撮影や表面温度の観測を行い、惑星表面の特徴的な地形を数多く知らしめた。しかし探査可能時間が短いことから惑星の夜の部分は撮影ができず、情報は全球の45%以下に止まった。 2004年8月3日、アメリカ航空宇宙局のメッセンジャー が打ち上げられ、地球、金星をスイングバイ(フライバイ)しながら水星へ向かって航行し、2008年1月には水星での最初のスイングバイを行った。2011年3月18日に水星の周回軌道に入った。その結果、クレーターの縁や中心に穴があること、太陽系の内側には水が、ほぼ存在しなかったこと、南北の磁場が非対称なので、水星内部には薄い液体核しかないことが推測できるという。2015年5月1日に水星表面に落下してそのミッションを終了した。 ベピ・コロンボは宇宙航空研究開発機構 (JAXA) と欧州宇宙機関 (ESA) が共同で打ち上げを計画している探査機である。これは2機編成で、長楕円軌道には「水星磁気圏探査機 (MMO: Mercury Magnetospheric Orbiter)」を、低軌道には「水星表面探査機 (MPO: Mercury Planetary Orbiter)」を化学燃料ロケットで投入し、水星公転の数年に相当する期間をかけて探査を行う予定である。MPOは、メッセンジャーと同じく分光計を積載し、赤外線、紫外線、X線など複数の波長で惑星の調査を行う。当初は2013年には打ち上げられる予定であったが、ESAの開発遅れからスケジュールがたびたび延期されている。2014年時点では、2016年7月に打ち上げ、2024年に水星の周回軌道に入って観測をする計画であったが、2016年11月には2018年10月に打ち上げを延期し、水星到着が2025年12月になることがESAから発表されている。 ヘルメスの伝令杖「ケリュケイオン」(ラテン語でカドゥケウス、二匹の蛇の絡んだ杖)は、現在は商売、交通などのシンボルとして用いられているが、占星術・天文学では古くから、これを図案化したものが水星の記号として用いられる。錬金術では七つの金属が惑星によって象徴され、ヘルメス/メルクリウスは水銀と関連付けられたため、水星の惑星記号が水銀の記号として使われた。 水星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。西洋占星術では、双児宮と処女宮の支配星で、吉星である。流動性を示し、通信・交通、商売、旅行、兄弟に当てはまる。 ^ 以前最小の惑星だった冥王星は2006年に準惑星へ分類変更された。 ^ 楔形文字の翻訳には、「MUL」を伴った資料もある。ただしMULはシュメールにおいて「星」を意味し、固有名詞の一部とは考えられない。「4」は、シュメール語とアッカド語の翻訳法において、楔形文字の単語が持つ複数の音節のうちいずれかを指定するためにつけられた参照番号と考えられる。 ^ 天文年鑑2008年版より ^ a b c d e f g h i j “Solar System Exploration” (英語). 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A Day On Mercury flash animation Mercury articles in Planetary Science Research Discoveries ‘BepiColombo', ESA's Mercury Mission ‘Messenger', NASA's Mercury Mission", "金星横断小惑星(きんせいおうだんしょうわくせい、Venus-crosser asteroid)は、その軌道が金星と交叉する小惑星である。 以下にその主なものの一覧を示す。なお、「外」は金星外接小惑星、「水」は水星横断小惑星又は外接小惑星を表す。 (1566) イカルス : 水 (1862) アポロ (1864) ダイダロス (1865) ケルベルス (1981) ミダス (2063) バックス (2100) ラー・シャローム (2101) アドニス : 水 (2201) オルヤト (2212) ヘファイストス : 水 (2340) ハトホル : 水 (3200) ファエトン : 水 (3360) シリンクス (3362) クフ (3554) アムン (3753) クルースン (3838) エポナ : 水 (4034) ヴィシュヌ (4183) クーノ : 外 (4197) 1982 TA (4341) ポセイドン (4450) パン (4581) アスクレピウス (4769) カスタリア (4953) 1990 MU (5131) 1990 BG (5143) ヘラクレス : 水 (5381) セクメト (5590) 1990 VA (5604) 1992 FE (5660) 1974 MA : 水 (5693) 1993 EA (5786) タロス : 水 (5828) 1991 AM (6037) 1988 EG (6063) イアソン (6239) ミノス (8035) 1992 TB : 外 (8176) 1991 WA (8507) 1991 CB1 (9162) クウィーラ (9202) 1993 PB (10145) 1994 CK1 (10165) 1995 BL2 (11500) トマイヨウィット (16816) 1997 UF9 (16960) 1998 QS52 : 水 (17182) 1999 VU (22753) 1998 WT (24443) 2000 OG : 水 (26379) 1999 HZ1 (30997) 1995 UO5 (31662) 1999 HP11 : 外 (33342) 1998 WT24 : 水 (36284) 2000 DM8 (37655) イリャーパ : 水 (38086) ベオウルフ (40267) 1999 GJ4 : 水 (41429) 2000 GE2 (52750) 1998 KK17 (55532) 2001 WG2 (65679) 1989 UQ (65733) 1993 PC (65909) 1998 FH12 (66063) 1998 RO1 : 水 (66146) 1998 TU3 : 水 (66253) 1999 GT3 : 水 (66391) 1999 KW4 : 水 (66400) 1999 LT7 : 水 (67381) 2000 OL8 (68347) 2001 KB67 (68348) 2001 LO7 : 水 (68950) 2002 QF15 (69230) ヘルメス (85182) 1991 AQ (85713) 1998 SS49 (85770) 1998 UP1 (85953) 1999 FK21 : 水 (85989) 1999 JD6 : 水 (85990) 1999 JV6 (86450) 2000 CK33 (86667) 2000 FO10 : 水 (86829) 2000 GR146 (86878) 2000 HD24 (87025) 2000 JT66 (87309) 2000 QP : 水 (87684) 2000 SY2 : 水 (88213) 2001 AF2 : 水 (88254) 2001 FM129 : 水 (89958) 2002 LY45 : 水 (90367) 2003 LC5 (96315) 1997 AP10 (96536) 1998 SO10 (96590) 1998 XB (96744) 1999 OW3 : 水 (99907) 1989 VA (99935) 2002 AV4 (136818) セルケト (163693) アティラ 以下は2012年8月までに発見された金星横断小惑星の中で、際立った特徴を持つものである。 地球近傍小惑星 List Of Aten Minor Planets (by designation) List Of Apollo Minor Planets (by designation)", "ベンヌ (101955 Bennu) は、アポロ群に属する地球近傍小惑星。“ベヌー”とも。1999年にリンカーン地球近傍小惑星探査 (LINEAR) によって発見された。アレシボ天文台の天体レーダーとゴールドストーンのディープスペースネットワークによって詳細に観測されており、平均直径は560メートルである。 アメリカ航空宇宙局(NASA)が2016年9月に打ち上げた宇宙探査機「オシリス・レックス」が、2018年の到達と試料採取を目指して飛行。NASAは2018年12月4日、オシリス・レックスのベンヌ到達を発表した。 2009年にアンドレア・ミラニと共同研究者が報告した力学的研究によると、ベンヌは2169年から2199年までの間に8回地球に接近し、そのどれかで衝突する可能性があることが判明した。この小惑星を構成する物質が何であるかはほとんど分かっておらず、衝突の可能性もそれに左右されるが、衝突の確率は8回の可能性の合計でも最大0.07%であるという。ベンヌが地球に衝突する可能性をさらに精密に計算するには、この小惑星の形状をより正確に把握し、少なくとも複数年に及ぶレーダー観測と光学観測を続行してヤルコフスキー効果による影響がどの程度かを見極める必要がある。 地球からの探査機打ち上げ時に大きな加速 (Delta-V) を必要としないことから、ベンヌはオシリス・レックスを含む天体調査ミッションの調査対象として何度も候補になってきた。 2012年9月4日、NASAはオシリス・レックス計画でサンプルリターンミッションが予定されている、当時は (101955) 1999 RQ36と仮符号で呼ばれていたこの小惑星に付ける名前を全世界の18歳未満から募集すると発表した。締め切りは当初同年12月2日までの予定であったが、12月31日に延長された。そして2013年5月1日に、エジプト神話の不死鳥にちなんで「ベンヌ」(Bennu) と命名したことを発表した。 ^ “Bennu at 100 Pixels”. 2018年11月6日閲覧。 ^ “Goldstone Delay-Doppler Images of 1999 RQ36 work=Asteroid Radar Research”. 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ABC01-02-0297
正式な名前を「汗疱性白癬」という、足の指の間やつめなどにできる、かゆみを伴うただれのことを俗に何というでしょう?
足白癬
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[ "足白癬", "ケルズス禿瘡", "脂漏性湿疹", "自家感作性皮膚炎", "毛嚢炎" ]
[ "足白癬(あしはくせん)は、感染症の一種で、白癬菌(はくせんきん)が足の指や足の裏など皮膚の角質やその下の皮下組織を侵食することで、痒みや炎症などが起きる。一般的な通称は水虫(みずむし)。足白癬には2種類あり、足の裏の角質が肥厚して硬くなる角化型白癬(かくかがたはくせん)と、水疱や皮膚剥離(薄く皮が剥ける)が発生し、発赤や痛痒感などを伴う汗疱状白癬(かんぽうじょうはくせん)が存在する。 治療には抗真菌薬が使われ、外用薬の場合1986年には1日1回で済む薬剤が登場した。 白癬菌は角質内部へ侵食し定住する。この領域では白血球による駆逐も不可能である。また皮膚の新陳代謝以上のスピードで侵食するため、自然治癒は期待できない。 足白癬は、長らく通気の悪い革靴を長時間履いたままになりやすいサラリーマン男性に多かったため、社会的には成人男性の病気という風に理解されている面があるが、性別などは全く関係なく、女性でもブーツなど通気性の悪い靴を履くと感染しやすくなる。白癬菌自体は自然界に多く存在する真菌(カビ)である。至近に対策を行っていない感染者がいれば感染しうる機会は多くなるが、感染しやすさはあくまで湿度や足などの環境に大きく影響される。 予防は、水虫既感染者との特に足周りの直接・間接接触を避け、感染しうる機会を減らし、足を清潔に保ち長時間高湿度にならないようにすればよい。靴下をよく取り替え、通気性の良い靴にするなども足の湿度を下げることに効果がある。最近では五本指靴下があるので、それを履くことも予防に繋がる。足を清潔に保つことは、白癬菌が定住している垢が長時間付着することを防ぐことになる。既感染者が足拭きマットの共用を避ける、足を清潔に保ち垢の落下を防ぐなど、他者と接触させないようにするとともに、しっかりとした治療を行うことが、他者への感染を防止する。 顕微鏡で確認し、2-3回確認しても見つからない場合は他の疾患を考慮する。汗疱状湿疹、紅色陰癬、疥癬、かき壊し、外用薬部夜かぶれを考慮する。水虫を訴えて受診した者の13-33%が足白癬ではなく、その大部分は湿疹や皮膚炎だったというデータがある。 足白癬(水虫)のような症状を引き起こす、同じ白癬菌の感染によって感染症に以下があり、部位によって呼称が異なる。 田虫(たむし) - 皮膚。(掌、足、頭、太股の内側、陰部を除く) 陰金(いんきん) - 太股の内側や陰部。 白雲(しらくも) - 頭部。特に子供に起こりやすい。 体部白癬(たいぶはくせん)は、上記以外の場所に感染した場合。 病院では顕微鏡で菌が確認できない場合、ステロイド外用薬を使い、足白癬ではない皮膚炎の場合は治り、足白癬では菌が増えているので、1-2週間後に顕微鏡での再検査。真菌が確認されれば以下のようになる。 「疱型足」や「趾間型」では抗真菌薬の軟膏が使われる。糜爛がある場合には、これがなくなるまで酸化亜鉛の軟膏で内服の抗真菌薬を併用し、なくなったら抗真菌薬の軟膏に切り替える。細菌感染症がある場合、内服の抗菌薬と痛みがあれば内服の抗真菌薬を使用。外用の抗真菌薬は足底全体に塗り1か月続ける。 「角質増殖型」では1-2か月、内服の抗真菌薬を用いる。 2012年のシステマティックレビューで、外用薬の抗真菌薬でいずれかが優越しているということはなく、調査に含まれた薬剤はケトコナゾール、テルビナフィン、ブテナフィン、ビホナゾール(英語版)、 クロトリマゾール、ミコナゾール、エコナゾール(英語版)、オキシコナゾール(英語版)、セルタコナゾール(英語版)、チオコナゾール(英語版)、ナフチフィン(英語版)、シクロピロックス(英語版)。 日本では1986年より1日1回の塗布で済む外用の抗真菌薬が登場した。当初抗菌スペクトル(殺菌対象)を拡大し、次に使いやすい1日1度となり、その後は皮膚に残りやすい成分の開発へと移った。外用薬を使ったことによる症状の緩和によって中止すると、角質内に真菌が生存したままとなり再発しやすい。 一般的名称にていくつか列挙する。 外用抗真菌薬(1日1回使用のタイプ) ケトコナゾール テルビナフィン(ラミシール) ブテナフィン(ブテナロック) 1%ルリコナゾール(英語版)(ルリコン) ビホナゾール(英語版) ラノコナゾール 以下では、薬局で購入可能で足白癬(水虫)を効能として謳っている医薬品をいくつか列挙する。 抗真菌薬(1日1回使用のタイプ) ブテナフィン(ブテナロック、久光製薬) テルビナフィン(ラミシール、ノバルティスファーマ) ラノコナゾール(ピロエース、第一三共ヘルスケア) 殺菌剤 クロルヘキシジン+保湿成分など(オロナインH軟膏、大塚製薬工場) 硫黄製剤 イオウ(商品名アスター軟膏、丹平製薬、サリチル酸も配合) 40度以上の耐えられる温度で2時間温めるが、低温やけどの危険性もあるため補助で用いる。 ストーブや火気に患部を近づける、お湯をかけるなどの民間療法が存在する。作家の安部譲二は刑務所に服役中重症の水虫に苦しめられたが、服役仲間に教えられて1日2回、熱い蝋を患部に垂らし10日ほどで完治した体験を記録している。 民間療法に関しては統計的調査や検証が行われたものがほとんど見つからず、効果がどのくらいなのかや副作用にどのようなものがあるのかなど不明なものが多い。 日本薬局方の「イオウ」の適応に、頭部浅在性白癬が含まれ、薬効薬理には抗菌作用および角質軟化作用とある。 硫黄は古くからさまざまな皮膚病に適用されてきた歴史を持つ。 現在でもフケやニキビなどいくつかの皮膚病などに使用されることがあり、硫黄の入ったシャンプーや入浴剤、クリーム、石鹸などが国内外で販売されている。民間療法としては、硫黄粉を擦り込む方法や硫黄含有液を塗布・湿布・漬け置きするなどの方法が取られている。硫黄には角質の軟化・溶解作用がある。一部の温泉でも水虫を効能としてうたうところがある。また入浴剤に配合することで水虫の効能を謳えるようになるようである。 作用機序としては、硫黄と皮膚との反応により生成する硫化水素などにより抗菌作用や角質軟化作用が生じると考えられている。副作用としては、皮膚への刺激や発赤、皮膚炎などがある。 濃度の高いものや長期間使用する場合には十分な注意が必要となる。なお、硫黄は一部の金属に対して腐食作用があるので取り扱いには注意が必要である。 海外ではティーツリーオイルが使われることがある。治癒率は3割、6割との報告がある。 民間療法として、食酢を使用するものが存在する。 食酢を水で半分ほど希釈し、傷口に付けておく。これを毎日繰り返す。そうすると水虫の成長に最適なpH状況がなくなり、数日間で治るとされる。 民間療法として、木酢酸(もくさくさん)を使用するものが存在する。岡山大学の実験によると10%以上の濃度の木酢酸液に24時間漬けた白癬菌は発育を止めたという医学的効果をレポートされている。このレポートにおいては24時間木酢酸溶液に患部を浸けるという時間の短縮が検討項目であるとしている。ただし、患部を木酢酸で一度浸透させた場合、患部に残留する木酢酸の濃度は一定時間持続する。残留濃度の変化による白癬菌の発育抑制については未調査である。 ニンニクを利用した民間療法も存在する。 生のニンニクをすりおろしたものやガーリックオイルを患部へ適用する。経口投与を同時にする人もいる。ニンニク内のアリインからアリナーゼにより生成するアリシンがニンニク療法の有効成分と考えられている。なお、ニンニク適用ではまれに副作用がいくつかされている。ニンニク#悪影響も参照。 重曹を利用する民間療法も存在する。 ^ a b 日本皮膚科学会雑誌 2009, p. 853. ^ a b 日本皮膚科学会雑誌 2009, p. 854. ^ a b c d e 日本皮膚科学会雑誌 2009, p. 858. ^ Rotta I, Sanchez A, Gonçalves PR, Otuki MF, Correr CJ (2012年5月). “Efficacy and safety of topical antifungals in the treatment of dermatomycosis: a systematic review”. 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ABC01-02-0299
イヌイットが住まいとする、氷や雪のブロックを半球形に積み上げて作る家を何というでしょう?
イグルー
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[ "イグルー", "ゲジェコンドゥ", "ウィグワム", "アドベ", "フラスコ状土坑" ]
[ "イグルー(イヌクティトゥット語:iglu、英語:igloo)は、カナダ北端のマッケンジー河口付近からラブラドル半島にかけての地域で使用される、狩猟の旅先で圧雪ブロックを使って作る一時的なシェルターのこと。 イヌクティトゥット語の「イグルー」には、皮や石で作ったものや恒久的な建物も含まれるが、日本語や欧米の諸語においては、圧雪ブロックを使って作る一時的なシェルターのみを指す。 スノーハウス(英語: snowhouse 「雪の家」)とも呼ばれ、カナダ北端のマッケンジー河口付近からラブラドル半島にかけての地域で使用される。 古来からイヌイットは革製のテントに住み、魚や獣を求めての移動の多い生活を送っていた。一年の内のほとんどを雪と氷に閉ざされたツンドラ地帯で生活するイヌイット達の、暮らしの知恵から生み出された住居形態が、イグルーである。雪や氷はふんだんにあるため、どこでも作ることができ、移動しながらの生活が容易に可能となる。 かつては「エスキモーの家」として知られたイグルーだが、20世紀末以降イヌイットの遊動性は失われつつある。現在でもイグルーは一部のイヌイットが冬にアザラシ猟をする際に築かれるが、定住生活を行っている大部分のイヌイットは雪の家を作ることは無い。 また、積雪期における登山の際には、傾斜の少ない堅雪地でテントの代わりにも使用される。風に強いのがイグルーの優れた特徴ではあるが、反面、湿度が高く長期居住には適さない。そのため、圧雪ブロックのイグルーでの居住は一時的なものとなる。そしてまた、放棄されたイグルーをのちに通りかかった別人が流用するというケースも通常的にある。 イグルーは雪を1メートル×0.5メートル、厚さ30センチメートルのブロック状に切り出して、下から螺旋を描くように、ドーム状に積み上げていく。雪のブロックは、互い違いに積み上げることでかかる力を分散する事ができる。 入り口は風の吹き込みを避けるため、通路の軸線を避けた位置に付けられる。 ドーム型の形状は力学的に安定しており、強風を多方向に受け流し、自重や積雪の重量を建物全体に均等に分散して支えるため、単純かつ強固な構造となる。 基本的に半球状のドームを繋げた部屋が多いが、陸屋根のタイプもある。雪以外に流木や獣骨などの資材が手に入れば、それらも部材として利用する。 床から天井までの高さは2メートル弱であり、 外の寒気や風を遮断するため、内部は意外に暖かい。内部構造は、主屋と控えの間、通路、食用肉の貯蔵庫、衣類や道具の倉庫などに分かれている。 最奥の部屋を主屋とするのが一般的であり、床には寝台用に一段高い床を作る。寒気避けに床や壁にアザラシの毛皮などを敷き、火を使って煮炊きや暖房もできる。窓や換気用の小穴もある。 ^ a b c d 布野修司 2005, pp. 298-299. 布野修司編 『世界住居誌』 昭和堂、2005年。ISBN 4-8122-0443-7。  組積造 地下室 雪洞 / かまくら 「簡単イグルーの作り方!」 (PDF) 国立青少年教育振興機構 2017年8月2日閲覧。", "ゲジェコンドゥ(gecekondu)は、他人の私有地や公有地に許可を得ないまま建てられた不法建築のトルコにおける総称。ゲジェコンと略すこともまれにある。名称の由来は夜(gece)建築した(kondu)というもので、本来は文字通りの意味で、一夜にして建築したかのような非常に粗末なバラックを指すものであったが、現在では建築業者が施工した鉄筋コンクリート建ての建築物もごく普通に見られる。このためゲジェコンドゥの密集地域は、トルコ以外でのバラック集落やスラム街のようなものとはかなり様相が異なる。また、個人の住宅だけではなく、商業施設・工業施設もゲジェコンドゥの概念に含まれる。 そもそも違法建築であるので正確な統計・調査は存在しないが、1960年代以降農村から都市への人口移動により急激に増加したものと考えられている。1966年以降住居保護の観点から、代替住宅の準備なしにゲジェコンドゥの撤去は出来ないものとされたため、これを逆手に取り違法建築を公然と販売する業者が出現するなど、さらにゲジェコンドゥの増加が加速された。現在でもゲジェコンドゥの撤去は行われているが、全体から見ればきわめてごくわずかであり、大半はうやむやのうちに存在しつづけている。 ゲジェコンドゥの密集地域には当然のことながら都市計画などは存在せず、電気・ガス・上下水道などのライフラインや、降雨排水などに大きな問題を抱えている地域が多い。また、建築そのものにも耐震性など建築構造に問題があるものが多く、1999年のイズミット地震において人的被害増加の一因になった。 スプロール現象 スラム ファヴェーラ(ブラジルの不法建築スラム)", "ウィグワム(wigwam )は、アメリカインディアン部族の伝統的なドーム型の住居。 アメリカインディアンのうち、北東部から五大湖周辺の部族が伝統住居としたもの。テントと違って、中にかまどを切り、火を使うことが出来る。 その構造は、曲げた丈夫な木の枝を柱に、樹皮や布を重ねて乗せ、入口に蓆をかけて住居としたものである。組み立てが簡便で、東部森林地帯のインディアンは移動生活をしながら、先々でこれを建てていた。普段はティーピーを使って移動狩猟生活を行ってきた平原の部族は、秋になるとウィグワムの集落を用意し、「冬の村」として春の来るのを待った。 五大湖地方から白人によって南西部に追いやられたキカプー族には、現在もこの住居で暮らすものが多い。多くの部族では、「月経小屋」として、初潮を迎えた女子や月経の際には小型のウィグワムが作られ、ここで月経の終わるのを待つならわしだった。オジブワ族やアパッチ族など、現在も儀式の際の重要な場所として、ティピーと並んでこれを活用し続けている部族は多い。 ウィグワムは、アメリカ南西部では「ウィキアップ(wickiup 、wikiup)」と呼ばれる。 wiigiwaam(発音: wiigwaam): オジブワ語 gowąh : 西アパッチ語 guughą又は kuughą : チリカワ・アパッチ語 Opler, Morris E. (1941). An Apache life-way: The economic, social, and religious institutions of the Chiricahua Indians. Chicago: The University of Chicago Press. (Reprinted in 1962, Chicago: University of Chicago Press; 1965, New York: Cooper Square Publishers; 1965, Chicago: University of Chicago Press; & 1994, Lincoln: University of Nebraska Press, ISBN 0-8032-8610-4). ティピー Chiricahua wickiup (picture) making of a wickiup (including pictures) drawing of a wickiup Native American homes Modern wigwam construction", "アドベ(スペイン語: Adobe)またはアドービ(英語発音)とは、砂、砂質粘土とわらまたは他の有機素材で構成された天然建材である。これらの有機素材を木製の型枠を使って日なたで干すことでレンガの形にして使われ、ヨーロッパのコブ(英語版)や日干しレンガによく似ている。アドベの構築物は非常に耐久性に富み、地球上に現存している最古の建築物によく使われている。アドベ建築物は熱を吸収してから非常にゆっくりと放出するため、建築物の内部は涼しいままに保たれ、暑くて乾いた気候に適している。 日干しの土で作られた建築物は、中東や北アフリカ、そしてスペイン(通常ムデハル様式)で一般的だが、アドベは数百年もの間、アメリカ合衆国南西部(プエブロ)、中央アメリカ、そして南米のアンデス山脈の地域の、アメリカ大陸の先住民によって使われてきた(ただ、しばしば多量の石もプエブロの建築物の壁に使われている)。このレンガの製作法は、16世紀にメキシコとペルーを探険したスペイン人によって輸入された。通常のレンガのサイズのものから、大きいもので1、2ヤード(0.91~1.82m)の長さのものまであるのが特徴である。 アドベ(Adobe)という単語は、4000年間もの間発音と意味に驚くほど小さな変化をきたしながら伝えられている。紀元前2000年の中期エジプト語の単語\"dj-b-t\"が「泥の(または日干しの)レンガ」を意味し、中期エジプト語が後期エジプト語、民衆文字(デモティック)、最終的にはコプト・エジプト語(およそ紀元前600年)へと変化するにつれ、\"dj-b-t\"は「トベ」(\"tobe\"、「泥のレンガ」)になった。これはアラビア語の\"トゥーブ\"(طوب、\"レンガ\")に発展し、これにアラビア語の定冠詞「アル」(ال)をつけた「アットゥーブ」(الطوب)が古スペイン語に取り入れられ、\"泥のレンガ\"という意味のアドベ(adobe)となった。英語の語彙には、18世紀初めにスペイン語から導入されて現在に至っている。 現代の用法においては、用語\"アドベ\"は、北アメリカの砂漠気候地帯、とりわけニューメキシコ州でのプエブロの伝統建築を模倣した一般的な建築物のスタイルを意味するようになった。なお、アメリカ合衆国の南西部にはアドベ以外の素材に「スタッコ仕上げ」(stucco)を施してアドベ建築と外見を合わせた「にせアドービ」(fake adobe)も存在する。 アドベレンガは、水を混ぜた粘土(通常、砂を含む)と、わらか動物の糞などの有機素材で作られている。わらはレンガを固め、均等に乾燥させやすくする働きがある。糞も同じ利点があり、他に昆虫を退けるために加えられる。 アドベレンガはフタなしの枠で作られる。36cm(14インチ)×25cm(10インチ)が最適のサイズだが、他の使いやすいサイズも許容される。枠に土とわらや糞を混ぜたものを詰めて成形し、すぐに枠を取り外す。数時間乾燥させた後、レンガを立てて十分に乾燥させる。日陰でゆっくりと乾燥させると、アドベレンガにひびが入りにくい。 レンガの製作よりもわらを少なめにした同様の混合物は、内面と外壁のモルタルとしばしば漆喰のために使用される。いくつかの古代の文化では、雨の害から守るために漆喰用に石灰をベースにしたセメントが使用されている。 アドベ(レンガ)で作られたこれまでで最大の構造物はアルゲ・バムで、2003年12月26日の地震によって重大な被害(最大80%)を受けた。他の大きなアドベ構築物の例としては、ペルーの1億個のサインされたレンガを使って建造されたモチェ文化の神殿である太陽のワカ(Huaca del Sol)や、チャン・チャンとタンボ・コロラド(Tambo Colorado)の遺跡がある。 アドベ壁は、重要な蓄熱材として利用することができる。北半球では、南向きのアドベ壁は室内の加熱と冷却を加減するため非断熱のままにしておいてよい。アドベ壁は暑い日中の間は内部を十分に涼しいままにしておけるくらい厚いのが理想的だが、厚すぎると逆に夜間に壁を通して外に熱することが難しくなる。また熱を効率よく蓄えるため、外壁をガラスで覆っておくこともできる。受動的ソーラー建築設計(passive solar building design)では、このような壁はトロンブ壁(Trombe wall)と呼ばれている。アドベ壁は熱量を蓄える質量の密度が比較的高いため、このタイプの建築物は熱帯性の気候においてもっとも利便性がある。温帯気候の地域では地面と壁から熱が逃げるため、アドベ壁を使った温度調節はあまり効果的ではない。 The Natural Building Network - 天然建材を扱う建築家、天然建材の専門家、資料のサイト(英文) Earth Architecture - 現代の土を使った建築物についてのサイト(英文)。 Building With Awareness - アドービ壁の作り方と蓄熱壁としての使い方を説明したDVD。 Cal-Earth (The California Institute of Earth Art and Architecture) が開発し、特許を取得した「スーパーアドービ」: 安定させた土を詰めた袋を積み上げて有刺鉄線で固定し、地震、火事、水害に耐えられるようにした建築。(英文) '\"Kleiwerks'\"- 現在世界中で土を使った天然素材の建築についてユニークな貢献をしている国際機関。実際の経験を通して天然建材の普及をはかることを重視している。(英文) EARTHA : Earth Architecture and Conservation in East Anglia- 英国イースト・アングリア地方の、土を使った歴史的建築物の適切な維持と保存に関わる機関。経験豊富な専門家が同地方で定期的に実演を行っており、連絡を取ることもできる。(英文) Kerpic.org - 土を石膏で安定させた建材の研究に関わるサイト。(英文) プエブロ サンタフェ様式 アルゲ・バム チャン・チャン", "フラスコ状土坑(フラスコじょう どこう)とは土坑のうち、口が狭く、底が広くなって全体としてフラスコ(三角フラスコ)のような形状を呈する遺構のことである。フラスコ状ピットともいう。日本では、縄文時代の遺跡に多く見られ、こうした形状は温度を比較的一定に保つ効果があり、堆積土からはクリ・ドングリ・クルミなどが多く出土することから、貯蔵穴として使用されたものと考えられている。 日本における発掘調査の事例から推定すると、貯蔵穴としての役割を終えたあと、捨て場として利用されることが多かったと思われ、生活や祭祀に用いられるさまざまな遺物が堅果類の殻などとともに多く出土する。 メソアメリカでもこのような形状の土坑が確認される場合、人骨や供物として捧げられた土器が出土することが多いため、埋葬またはそれに関連する儀礼に使用された遺構と考えられている。 土坑 貯蔵穴 捨て場 土坑墓" ]
ABC01-02-0301
ウサマ・ビンラディン氏の肉声録音テープを独占放送するなど、数多くのスクープで知られる、カタールのアラビア語衛星テレビ局といえば何でしょう?
アルジャジーラ
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[ "アルジャジーラ", "ABCニュース (アメリカ)", "MSNBC", "FOXニュース", "Sky News" ]
[ "アルジャジーラ(アラビア語: الجزيرة‎、「アルジャジーラ衛星チャンネル」、قناة الجزيرة الفضائية‎)は、アラビア語と英語でニュース等を24時間放送している衛星テレビ局。本社はカタール・ドーハにある。タグラインは、「一つの意見があれば、もう一つの意見がある(the one opinion and the other opinion)」。 英語ではAl JazeeraもしくはAljazeeraと綴られる。JSCと表示されることもあるが、これはJazeera Satellite Channelの略である。 「ジャジーラ」はアラビア語で「島」を意味する。「アル」は定冠詞(英語のtheにあたる)であり、アラブ地域ではアル・ジャジーラとはアラビア半島を意味するのが一般的である。なお、サウジアラビアの新聞など、中東諸国にはこれ以外にも「アルジャジーラ」の名をもつ報道機関が存在するが、それらとの直接的な関係はなく、まったく別の組織である。 ロゴデザインはディーワーニー体(アラビア書道における書体のひとつで、日本の書道における草書体にあたる)で雫状に「アルジャジーラ」と書かれている。 1996年11月1日、カタール首長であるハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーより5億カタール・リヤル(1億3700万USドルに相当)の支援を受けて設立。独立を保った報道姿勢を保ちつつも、会長には首長の親戚であるハマド・ビン・サーメル・アール=サーニーが就任し、カタール政府を通じた経営という形がとられた(カタール政府以外にも、個人投資家達が加わっている)。 上記金額の支援は開設後5年間の経営を維持するものとして行われ、2001年までに広告収入などによる独立採算を達成することが期待されていた。しかし目標を完全に達成することはできず、ワシントンタイムズ紙によると、2004年時点でも年間3000万USドルの支援を受けていたという。 イギリス人ジャーナリスト ヒュー・マイルズ著「アルジャジーラ 報道の戦争」によると収益の多くを日本の日本放送協会(NHK)を中心とした海外メディアからの「映像使用料」が占め、特にNHKが払う金額が一番大きく、同局の大きな助けとなっている。また同著によると同じニュース専門局CNNと比較してCMの放送時間が少ないという。 長らくカタール政府の出資により経営が続けられていたが、2015年頃になると原油価格の下落などでカタールの財政状況が悪化。同年夏には、アルジャジーラの取締役会が会社経費の削減を検討し始めた。直接的な人員削減は2016年に入ると急速に始まり、同年1月12日にはアルジャジーラ・アメリカ(後述)の廃局が伝えられ約700人が解雇された。また、3月27日にはアルジャジーラ本体で500人前後の人員削減を発表している。人員整理が始まる前の職員数は約3,500人とされており、大部分が整理される見込み。 従来からの欧米(キリスト教文化圏)中心の視点とは異なるアラブ系メディアであり、アメリカのテレビがアメリカ社会、文化に偏向しているのと同様、アルジャジーラも当然アラブ社会(およびアラブ世界の一部を含むイスラーム世界)、文化に偏向しているが、これが直ちにアルジャジーラが反米メディアである事を意味しない。 カタールは、欧米諸国に対しては、イラク戦争では基地を提供する程度には比較的に穏健な姿勢であり、このアルジャジーラはカタール政府が西洋の近代的メディアを手本に創設したものである。また、パレスチナ自治政府の汚職などの問題を追及したり、イスラエル人が出演してヘブライ語で話すなど、他のアラブのメディアがやらなかったような事も積極的に取り上げる。 アルジャジーラは自らを「公正で政治的圧力を受けない、中東で唯一の報道機関である」と謳っている。実際に英国のIndex on Censorship(検閲に関する問題を扱う雑誌。1972年創刊)では、2005年に「アラブ諸国における自由な情報交換を促進し、検閲を拒否する勇気」の一例として紹介されているし、アメリカにおいても1999年のニューヨーク・タイムズ紙に「アラブ諸国で、最も自由で最も広い観点を持つテレビネットワーク」と評されている。ただし、カタールの内政には言及しないほか、ジャスミン革命に端を発する中東諸国の騒乱では、スンニ派のリビア・シリアの反体制派を擁護する一方で、バーレーンのシーア派反体制派には非擁護的な報道を行うなど、公正な報道に対して疑問を覚える視聴者も少なくない。 アナウンサーの出身国は、アラブ世界の広範囲にわたっており、本人達の宗教もイスラム教やキリスト教と多様である。服装面に関しては宗教色が強くなく、長らく「ヒジャブを着用するムスリマ女性アナウンサー」は見られなかったが、2003年アルジェリア出身の有名女性アナウンサーが開局以来初めての着用者として登場し話題となった。その後局上層部は露出が少なく慎ましいとみなされる服装を求める意向を強めていったらしく、2010年には服装ガイドラインを受け入れがたいとした女性アナウンサー達が集団で辞意を表明するという事件も起こった。 かつてサウジアラビアの衛星企業Orbit社とBBCとの間で、アラビア語ニュースチャンネル設立の準備が進められていた。BBCより技術・人材面での協力を受け、Orbitから資金が出るというものであった。Orbitは娯楽等チャンネルを有料契約にて提供するという業態をとっており、BBCのアラブ版はこれらのひとつとしてサービスに組み込まれる予定だった。 1994年3月、両者の間に10年契約が結ばれた。数ヶ月後1日あたり2時間の放送がウエスト・ロンドンにあるBBCスタジオより開始され、1994年末には8時間放送に移行した。 BBCのアラビア語版ニュースチャンネルに関して英国ではBBCがオイルマネーに屈したとの声も聞かれたというが、同チャンネルにとっての大きな障害は、他の英国版チャンネル同様の報道姿勢を貫こうとするBBCと、体制側にとって好ましくない内容の放送を望まないサウジアラビア側との間に生じた軋轢だった。 この問題は、BBCが英国に在住していたサウジアラビア出身の反体制イスラーム活動家の取材をしたり、サウジアラビアにおける人権蹂躙問題の報道をしたりしたことで決定的となっていった。そして1996年4月、Orbit側がアラビア語ニュースチャンネルの送信を中止することで、同プロジェクトは終焉を迎え、BBCによる訓練を受けた報道関係者らも職場を失った。 なおその後BBCのアラビア語テレビ放送(BBC Arabic)が2008年3月11日に改めて開局している。中東情勢が緊迫し、アラビア語によるニュースチャンネルの重要性が認識されていた頃の再出発であった。かつてOrbitと合同で進められたプロジェクトとは異なり、BBCにより放送されているワールドサービスのチャンネルという位置付けで、画面デザインや報道姿勢も英語版BBC放送に非常に近いものとなっている。 カタールを拠点とするアラビア語ニュース報道局の設立を計画していた首長ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーは、BBCとOrbitの合弁事業が頓挫したのを受けて、BBCにて訓練を受けた関係者を大量に雇い入れた。これがアルジャジーラ開局を支えた人材となった。 1996年11月1日に開局。放送機材はソニーが全て請け負った[要出典]。当初は6時間のみの放送で、1997年に12時間の半日放送となった。24時間放送に拡大したのは1999年のことである。 2001年アメリカのアフガニスタン侵攻の報道において、タイシール・アッルーニー特派員の活躍により、アルジャジーラの名が広く知られるようになる。アルカーイダから送付された、オサマ・ビンラディン容疑者のメッセージの映像を独占放映したり、アフガニスタン国内から戦争実況を中継したりなどの報道活動により一躍注目を集め、「中東のCNN」と形容された。 同年12月15日、アフガニスタンに入国しようとしたサミ・アルハジカメラマンが、パキスタンの入国管理で拘束され、アメリカ軍に引き渡された。アメリカ軍はアルハジの容疑を「ビンラーディンのビデオを撮影した」「アフガンにミサイルを買いに行った」「9.11テロ後、アルカーイダに資金援助していた」などコロコロ変えたが、いずれも立証することはできなかった。 しかし、アメリカ軍はアルハジカメラマンを「敵性戦闘員」と見なして裁判に掛けることなく、キューバのグアンタナモにある米軍基地に設けられたグアンタナモ湾収容キャンプに拘束し続けた。アルハジの弁護士によれば、彼が拘束されている罪状は全くの口実で、取り調べの内容は、アルジャジーラとアルカーイダの結びつきについて自白させようとするものであり、またアルジャジーラの内情をスパイとして提供するなら釈放すると持ちかけられたという。2008年5月2日、ようやく釈放され、アルハジは出身国のスーダンに帰国した。 2003年イラク戦争では、イラク市民の戦争被害やアメリカ兵の遺体映像などを流すなど、欧米メディアとは異なる視点のニュースを伝える姿勢は中東、ムスリム社会に於いて存在価値をますます高めている。この戦争では、アメリカ軍のミサイルがアルジャジーラのバグダード支局に命中し、特派員ターリク・アイユーブ(英語版、アラビア語版)が死亡している。 2005年6月、刷新開局。これまで使用してきたアラブ調のアイキャッチ等を一新した。 2006年11月1日、開局10周年を迎え、これまでの局の足跡を辿る番組のほか、子供と大人が討論する番組など、様々な特別記念番組を放送。また、これまでに殉職したスタッフに対して社員一同による黙祷を行った。この他、開局10周年にちなみ、多くの新しい企画が開始された。 2013年1月2日、アメリカ合衆国元副大統領アル・ゴアとジョエル・ハイアット(英語版)が設立したカレントTV(英語版)の買収を発表した。買収額は500億ドルのうち、ゴアへの譲渡額は100億円であった。これによって、ゴアは産油国カタールから巨額の利益を得たという批判があることを認めている。カレントTVは、アルジャジーラ・アメリカ(後述)として再始動した。 2001年9月11日以降、対テロ戦争を国策に掲げる際のアメリカ合衆国連邦政府においては、ビンラディンからのテロを正当化するメッセージをそのまま放送したことから、「敵対勢力(テロ組織)の主張を発信し、宣伝している」として問題視された。アルジャジーラ側は「あらゆる観点を取り上げているだけ」と反論したが、これによって、アルジャジーラとタイアップしていたCNNなど、いくつかの報道機関に政治的圧力が加えられ、その放送割り当て時間が削減された。 更には、2005年11月22日付のイギリスの大衆紙デイリー・ミラーによると、「アメリカのブッシュ大統領が、イラク戦争のファルージャ攻撃において、ドーハのアルジャジーラ本部にも空爆を意図していた」としている。これに伴い、アルジャジーラはスタッフやキャスト、あるいはその家族を揃えての批判キャンペーンを行った。 また、イラク戦争中に米兵の遺体を放映したことで、NYSE MKTへの立ち入りを禁止されたほか、最近ではチュニジアの反体制運動家へのインタビューが原因で、在カタールのチュニジア大使館員が全員引き上げるなど、報道内容が政治問題化してしまう事もしばしばある。 2011年エジプト騒乱では、エジプトでの取材許可を取り消されたほか衛星経由での伝送を妨害されるなどしたが、精力的な現地レポートを続け話題となった。 2017年5月、サウジアラビア、バーレーン、UAE、エジプトの各国は、アルジャジーラがイラン寄りの報道をしたことを理由に放送の遮断に踏み切った。翌月、各国はカタールとの国交断絶を表明(2017年カタール外交危機)し、受信の早期回復は絶望的な状況となった。また、断交した4か国は2017年6月24日までに、カタールに対しアルジャジーラの閉鎖を含む13項目にわたる要求を送付して圧力を加えている。 アルジャジーラのテレビ番組は報道だけではなく、時には出席者すべてが途中退席してしまうほど白熱する討論番組「反対方向(アラビア語: الاتجاه المعاكس‎)」、著名なイスラム法学者ユースフ・アル=カラダーウィーがクルアーンの知識にのっとり、法から性生活に至るまで、幅広い視聴者からの質問に回答する宗教番組「シャリーアと生活(アラビア語: الشريعة والحياة‎)」も高い評価を受けている。 カタールのドーハに本局を置くアルジャジーラの英語版チャンネル。当初はAl Jazeera Internationalという名称で試験放送を行っていたが、最終的にAl Jazeera Englishとして開局した。 2006年11月15日、英語による放送アルジャジーラ・イングリッシュの放送が当初の予定よりも遅れて開始された。開局にあたってはITN、BBC、アメリカABC、CNNといった海外メディアから記者を引き抜くなどし話題を呼んだ。リズ・カーンもこの時の移籍組である。なお、英語版で最初に報じられたニュースは千島列島でのM7.8の地震であった。 アラビア語版アルジャジーラチャンネルでは、日本留学経験があり、日本語や日本文化や日本事情に精通したスタッフが取材を行っている。これまでに時事ニュース・社会問題からポップカルチャーまでの広範囲にわたってカバーし、日本に関する情報を発信してきた。 時事ニュース以外については番組「مراسلو الجزيرة‎」(\"Al Jazeera correspondents\"、「アルジャジーラの特派員達」の意。)で放送されることが主である。この番組では、各国の特派員が政治・社会・文化について現地で取材したレポートが流される。取り上げる話題は日本のテレビでもあまり報じられない地方の社会問題や若者文化にまで及ぶこともあり、日本の知られざる一面をアラブ社会に紹介する一助となっている。 2003年12月、アルジャジーラの日本における支局開設準備が進んでいることが判明した。2004年5月2日、ドーハで開催された「アラブ・日本メディアシンポジウム」において、アルジャジーラ東京支局の開設が正式に発表された。同支局は北京支局に続いて2局目となるアジア地域の支局となった。2004年5月当時、スタッフは3名在籍しており、開局当初の3ヶ月間はNHKより技術支援を受ける予定であると報じられた。 初代局長は日本留学経験があり、開局当時で既に日本在住10年だったレズラジ・モスタファ(モロッコ出身、東京大学学術博士。日本の大学院で博士号を取得した初のモロッコ人だという情報もある。)が務めた。同氏は2001年よりアルジャジーラのアドバイザーをしており、そのまま局長に就任した形となった。 東京支局開局当時より、日本からの報道を伝える特派員の一人として、ファディ・サラメが挙げられる。同氏はシリア出身。ダマスカス医科大学卒業後に来日し、東京医科歯科大学にて内視鏡外科術を研究していた。最終的には消化器系に関する博士号を取得している。一方医学を学ぶ傍らでジャーナリズム分野での活動を行い、フリーランスのリポーター、NHKのNHKワールド・ラジオ日本スタッフを務めた後、2004年にアルジャジーラ東京支局の特派員として加わった。 2016年8月時点でも在日本特派員としてアルジャジーラに登場している。2011年3月11日に発生した東日本大震災においても、アルジャジーラを通じて日本からアラブ世界に向けて情報を発信した。 2001年11月9日、日本のスカイパーフェクTV!で一部時間帯における日本語解説を含むアルジャジーラ放送が無料にて放送開始となった。別途チャンネル契約のいらないプロモチャンネル(202ch)として終日提供されていたが、試験放送のまま1年後の2002年9月30日に放送終了することが発表された。 スカパーでの提供終了後、普通の衛星チューナーとテレビで気軽に視聴できるアルジャジーラ放送は、NHK BS1の『おはよう世界』においてのみとなった。世界各局テレビニュース『ワールドニュースアワー』のひとつとして枠が設けられ、日本語による時差通訳が付けられた。同番組はNHKのチャンネル改編後『ワールドWave』としてリニューアルした。アルジャジーラも以前同様に視聴することができる。 Al Jazeera Englishに関しては横浜にある衛星放送事業を専門とするハマーズ社が配信を手がけており、日本国内の東京ケーブルネットワーク等がプロジェクトパートナーとなっている。なお、東京ケーブルネットワークでの提供については、専門チャンネルラインナップの一つとなっており、法人(オフィス、ホテル、店舗、教育機関等)向けの映像配信サービスとしての扱いである。 2013年、アルジャジーラはアメリカ合衆国の既存のテレビ局、カレントTVを買収してアルジャジーラ・アメリカを発足させた。イスラムの視線に立ったアメリカ国内向けの報道と評論に力を入れてきたが、プライムタイムの視聴者数は平均して2-4万人にとどまるなど視聴率は伸び悩んだ。2016年、原油価格が低迷しアルジャジーラ本体の経営見直しが進むと、同年1月13日、社内会議で突然放送局の閉鎖が打ち出され、同年4月12日に放送は終了した。 同局の成功を見本として、ベネズエラ政府の主導のもと、キューバやアルゼンチンなどの政府が参加して同国の首都カラカスに2005年7月24日に設立されたTeleSURがある。 タイシール・アッルーニー:アフガニスタンやイラクの戦争報道で活躍した。 ハーフェズ・アルミラージ:ワシントン支局長。アメリカの要人などにインタビューを行った。 藤吉隆雄:アルジャジーラ・メディア訓練開発センターで4週間、講師として撮影技術などを現地スタッフに教えた。 ^ サウジアラビアで発刊されている新聞紙の場合はAl-Jazirahという英文綴りであるため区別はしやすい。 ^ http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/country_profiles/791921.stm ^ アルジャジーラ、500人を人員削減 原油価格下落の余波 CNN(2016年3月28日)2017年6月15日閲覧 ^ http://www.alwasatnews.com/2823/news/read/432077/1.html ^ “中東のアルジャジーラ、アル・ゴア氏経営の米テレビ局を買収”. 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- ウェイバックマシン(2014年12月29日アーカイブ分)(الجزيرة توك - AlJazeeraTalk.net) - ニュースブログ(アラビア語) アルジャジーラトーク - ウェイバックマシン(2008年11月13日アーカイブ分) (AlJazeeraTalk.net/english) (英語) 声なき人々の声、異なる見方を伝え、対話の架け橋をめざす独立報道機関アルジャジーラ 動画 日本語字幕付 (デモクラシーナウ!ジャパン 2010.03.31)", "ABCニュース (ABC News) は、アメリカ合衆国アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーのニュース番組制作子会社。 日本においてはNHKとフジテレビとそれぞれ提携関係にある。またイギリスBBCとも提携関係にある。 グッド・モーニング・アメリカ ABCワールドニューストゥナイト ナイトライン 20/20 (U.S. TV series) World News Now America This Morning ジス・ウィーク ジョージ・ステファノプロス クリスティアン・アマンプール デヴィッド・ミュアー 過去に在籍 ピーター・ジェニングス チャールズ・ギブソン バーバラ・ウォルターズ インターネットで「ナイトライン」などを視聴する有料サービスの実施や(現在は全て無料配信)、2004年には24時間放送「ABC News Now」がスタート(地上デジタル放送でも視聴可能)。 2005年からはポッドキャスティングサービスを開始、2006年からはビデオポッドキャストも開始した。 CBSニュース NBCニュース CNN FOXニュース NHK BS1 ABCニュースシャワー ABC News", "MSNBCは、1996年に開局したアメリカ合衆国向けのニュース専門放送局。放送ネットワークNBCとマイクロソフトが共同で設立したものであり、マイクロソフトのポータルサイト・MSNとNBCを組合せたものがチャンネル名となっている。 ニュースに関してはNBCが所有する取材源(NBCニュース、CNBC、全米のNBC加盟放送局など)やワシントン・ポスト、ニューズウィークと提携。 テレビ放送は2000年代後半から政治ニュースを扱う番組が中心になり、リベラル派キャスターの活躍が注目されている。速報性を重視し、主要ニュースに多くの時間を割く傾向は開始時から受け継がれる。視聴者数がCNNやFOXニュースチャンネルの後塵を拝し続け、長年に渡って採算が取れないのが課題となり、マイクロソフトは2005年末から2006年にかけてテレビ部門の株をNBCに売却した。 インターネットはマイクロソフトが運営するポータルサイトMSN(アメリカ英語版)のニュース部門として「msnbc.com」を開設。NBCを含むニュース番組のオンライン配信を行うなど、NBC・MSNのブランドを活かしたコンテンツ展開でCNNと肩を並べる存在となる。インターネット部門が好調なことから専門子会社に切り離す。 1996年7月開局。NBCが2年間続けていたケーブルチャンネル「America's Talking」(アメリカズ・トーキング)を閉鎖、全く新しいニュースチャンネルとして発足した。9月からはドン・アイマスがパーソナリティーを務める人気ラジオ番組「Imus in the Morning(アイマス・イン・ザ・モーニング)」の同時放送を開始。11月にはNBCが入居するロックフェラーセンターからニュージャージー州にある新社屋に移転。 1990年代後半はインターネット・電子メールで意見を募集したり、CGなどコンピューター技術を活かす番組に取り組む(「The Site」や「Feedback」など)。しかし、なかなか長続きする番組が揃わない状態が続く。1999年、NBCの「Today」を再編集した番組を放送。2000年からは週末を中心にドキュメンタリー番組の放送を開始。 2002年にブライアン・ウイリアムズの番組がCNBCに移動、後任にジョー・スカーボロ(Joe Scarborough「スカボロウ」とも表記)を起用、これでCNBCと完全に別番組を編成することになった。ライバルFOXのビル・オライリーが活躍する午後8時台にはトーク番組の重鎮・フィル・ドナヒューを起用したが、2003年のイラク戦争報道を前にキース・オルバーマンが担当することになる。しかし、視聴者数がCNNヘッドラインニュースに追いつかれて互角になるなど、未だに低迷が続いていた。 2005年にはCNNからタッカー・カールソンを起用するなど夜のニュース番組の数を増やしたが、2006年には縮小する。この時、法律/犯罪分野が消えて政治を専門とした番組が残った格好となり、キース・オルバーマンの「反ブッシュ」姿勢が顕著となる。 2007年4月11日、番組内でドン・アイマスが人種差別発言をしたことが全米中で問題となり、翌12日に放送がキャンセル。後継探しの結果、ジョー・スカーボロを起用。経費削減として編集セクションとスタジオをNBCニュースと共同化する為、ニュージャージーの社屋を閉鎖して、ロックフェラーセンターのGEビルに移転。 2008年、1年近くに渡るアメリカ大統領選挙報道を見据え、政治ニュースを提供するチャンネルだと強調する「The Place for Politics」をスローガンに。MSNBCのコメンテーターや臨時ホストを務めているリベラル派のレイチェル・マドーをキャスターに起用したところ、MSNBCが初めてラリー・キング・ライブに視聴者数で追い抜く躍進を見せる。プライムタイムで視聴者が1年間で61%増加し、20-54歳の年齢層ではFOXニュースやCNNと互角の状況となる。 2009年、4月にラジオパーソナリティーのエド・シュルツを起用。中道・リベラル寄りとされていて、左派の起用が目立つ格好となる。6月からHD放送を開始、昼間の6時間を改編したが大コケした。2010年、新番組にローレンス・オドネルを起用。 2011年1月21日、キース・オルバーマンが突然番組終了を発表。MSNBCのスポークスマンは契約途中終了を発表するのみで、その原因にはふれなかった。 CNNとプライムタイムの視聴率競争は2008年から本格化し、2009年通年ではCNNに軍配が上がるも、2010年はMSNBCが上回っている。一方でリバタリアンであるスカーボロの「Morning Joe」は党派に関係なく登場してCNNと互角の関係で時折上回る成績を残す。 Pew Research Centerによる米国における2013年のニュースメディアの現状を示す報告書によると、MSNBCの番組の85%がキャスター個人の論評や意見であり、事実を純粋に伝える報道が15%であるとされた。またSNL Kaganの試算によれば、2012年の番組制作費用は2億4000万ドルで、FOXやCNNより圧倒的に少ないものと見られている。 2018年12月27日週の総視聴者数で156万人を記録し18年間に渡り首位であったFOXニュースを破り初の首位に浮上した。 日中は\"MSNBC Live\"がメインだが、現在はそこから\"Up with Steve Kornacki\" \"Melissa Harris-Perry\" \"Weekends with Alex Witt\"などがスピンオフしている。早朝に\"Your Business\"が放送されており、夜間はドキュメンタリーが中心。 ^ MSNBC to Go HD in June ^ Msnbc to ‘lean forward’ in two-year brand campaign. MSNBC; October 05, 2010. ^ MSNBC Expands to South Africa. TVNEWSER. Published November 15, 2007. Retrieved August 24, 2008. ^ “Final Countdown: Keith Olbermann And MSNBC Announce They Are Parting Ways (VIDEO)” (English). ハフィントン・ポスト. (2011年1月21日). http://www.huffingtonpost.com/2011/01/21/keith-olbermann-countdown-over_n_812506.html 2011年1月23日閲覧。  ^ “Olbermann signs off msnbc” (English). MSNBC. (2011年1月22日). http://today.msnbc.msn.com/id/41201964 2011年1月23日閲覧。  ^ “Pew Study Finds MSNBC the Most Opinionated Cable News Channel By Far” (English). Forbes. (2013年3月18日). http://www.forbes.com/sites/jeffbercovici/2013/03/18/pew-study-finds-msnbc-the-most-opinionated-cable-news-channel-by-far/ 2014年6月8日閲覧。  ^ MSNBCはFOXニュースから18年ぶりに視聴者数首位を獲得 2018年12月28日配信 Onebox News NBCニュース CNBC MSNBC.com(英語版) XM Radio:MSNBC Info(英語版)", "FOXニュース(フォックスニュース、英称:FOX News Channel、略称:FNC)は、アメリカ合衆国のニュース専門放送局である。1996年にルパート・マードック所有のニューズ・コーポレーション(現21世紀フォックス)が、当時NBCの経営者ロジャー・アイレスを社長にして設立した。 1996年10月7日の放送開始時には1700万世帯という状態だったが、放送契約を結んだケーブルテレビに奨励金を支払うというキャンペーンを行い、視聴可能世帯を増やしていった。アメリカにて8000万のケーブルテレビと衛星放送加入者に視聴されており、海外でも視聴できる。2005年にラジオ局「Fox News Talk」を衛星ラジオで開始。2007年に経済ニュース「Fox Business Network」を立ち上げた。2008年からハイビジョン放送を開始した。 主にニューヨークのスタジオで制作されている。中立報道を心がけていると主張しており、Fair and Balanced(公平公正)と We report, You decide(我々は報道する、判断するのはあなた)をモットーにしている。トークラジオ形式の番組が人気となり1990年代末からCNNから視聴者を奪い始め、2000年からCNNと視聴者数で拮抗。2001年のアメリカ同時多発テロ事件を機に一気にCNNを引き離し、現在も視聴者数首位の座を守っている。 2010年の英ガーディアン社による世論調査では、「最も信頼できるニュース放送網は?」との問いかけに、米国民の過半数がFOXニュースを上げている(2位のCNNは39%)。 2017年、セクハラの口止め料として5人の女性に対して1300万ドルあまりを支払っていた問題で4月20日、FOXニュースの人気番組『オライリー・ファクター』の司会者であるビル・オライリーがFOXニュースに復帰しないことで合意したと親会社の21世紀フォックスが発表した。 2018年12月27日週の総視聴者数で154万人を記録し18年ぶりに首位から陥落、156万人のMSNBCに次ぐ二番手に後退した。 一時期NHK BS1で放送されていた。 1997年8月1日、パーフェクTV!(現スカパー!プレミアムサービス)でニューズ・コーポレーション(現21世紀フォックス)とソフトバンクが立ち上げた衛星放送プラットフォーム「JスカイB」系の番組供給会社・スカイエンターテイメント(現ジェイ・スポーツ)で放送開始。また、1998年6月1日にはニューズ・コーポレーションの子会社・ニューズ・ブロードキャスティング・ジャパン(現FOXインターナショナル・チャンネルズ)でも放送開始。2000年3月31日にスカイエンターテイメントで放送が終了するまで2つのチャンネルで放送されていた。 その後、2001年12月から2002年7月まではナショナルジオグラフィックチャンネルとの混合編成チャンネルとなったが、2002年8月に分離、再び単独チャンネルとなった。しかし、2004年7月31日をもって日本での放送を終了している。 FNCの報道について、保守的・共和党寄りであり、2000年代前半には視聴率競争でCNNを抜き、「FOX効果」が注目された。 ルパート・マードックの意向もあってアメリカ同時多発テロ事件を機に、愛国心一色の報道姿勢を明確にした。テレビ画面に放送局のロゴが表示されるが、終日星条旗を流し始めたのはFNC、および同時放送していた地上波のFOXテレビ(同じくニューズ・コーポレーション傘下)だった。アンカーはみな星条旗バッジを身に着けた。 イラク戦争でもテーマ曲を勇ましいマーチにしたり、米軍がイラク大統領官邸に突入する模様を独占中継に成功、退役軍人をコメンテーターに起用する(これはどこも同じ)などの姿勢を続けた。イラク戦争はFNCがCNNより多くの視聴者を獲得。一方でイラク戦争において、衛星中継車まで同行した従軍報道は連合軍の立場に沿った取材・中継となった事、CNNでアメリカにとって都合の悪いニュースを放送するにも細部のルールを用いて細心の注意を払っていた事が明らかになる、など一連の報道姿勢が注目された。これをFNCが9・11からの愛国色の強い報道姿勢に倣って継承していったとして、「FOX効果」と呼ばれた。 中立報道を掲げるスローガンと共に、保守的傾向があるとされる。実際にFNCのキャスターにビル・オライリー、ショーン・ハニティー、グレン・ベック、ニール・キャブートなど保守的傾向の強い人材が起用され、大統領候補争いで注目を浴びた共和党のマイク・ハッカビーも週末のトーク番組を担当している。共和党関係者ではサラ・ペイリンやカール・ローヴがFNCに専属コメンテーターとして出演している。スタジオでのトークやインタビューにおいて、キャスターのキャラクター(性格・個性・信条)が放送に大きく反映されている。それまでのアメリカメディアは大まかに「TVはリベラル、ラジオ(トークラジオ)は保守」という色分けがあり、その認識下では異色の存在として登場した格好となる。2004年、共和党の全国党大会の大統領候補による指名演説中継は全てのチャンネルで視聴者数トップになり、2008年度もトップに輝いた。FNCを「最も信頼するニュースソース」と答える人のほとんどが保守思想・共和党支持者である。一連の動向から、視聴者は個人の信条に合った番組にあわせて視聴する先有傾向が伺える。 マイケル・ムーア制作の映画「華氏911」では、2000年大統領選挙での偏向報道やイラク戦争を煽ったとして、同局をジョージ・W・ブッシュ政権のお抱えテレビ局として批判している。またドキュメンタリー映画『Outfoxed』は、FNCが共和党寄りに偏向していると指摘している。しかし、「偏向というならば他のテレビ局こそ民主党大統領候補者を賛美する一方、共和党候補者に対しては揶揄するような報道を繰り返しており、民主党寄りに偏向しているのであって、上記の批判は民主党系メディアの視点からの攻撃に過ぎない」との反論があるように、共和党支持者と民主党支持者の立場によって見方が変わる(共和党に有利なように報道し競争相手を潰しているのであり、リベラル派を陥れるようにしている訳ではない) 「Fox News Sunday」にて、司会のクリス・ウォレスはクリントン元大統領に「政権担当時、ビンラディンに対してなぜ何もしなかったのか」と質問し、クリントンは激怒して反論した(クリントンがビンラディンへの対策をすすめていた事実と異なる質問であったため)。地球温暖化対策を求めることをリベラルの「ヒステリー」だと決めつけ、国際的な合意であるとリベラル勢力の間では考えられている温室効果ガス排出規制の必要性に対して懐疑的な論者を持ち上げたり、『不都合な真実』で名を売ったアル・ゴア元米副大統領の自宅の高額な電気代を報じた。銃規制に対しても批判的であり、2007年のバージニア工科大学銃乱射事件直後の番組で、あるコメンテーターは「大学側が銃規制を行ったのが問題なのであり、学生が武装していれば犯人が32人も撃ち殺す前に射殺できた」と学生の銃所持を肯定する発言をした。 ブッシュ政権や共和党と強いつながりがあり、正・副大統領を含めブッシュ政権の閣僚などがよく出演しており、狩猟中に誤射事件を起こした副大統領リチャード・チェイニーが事故後最初に同ニュースにテレビ出演した。トニー・スノー元大統領報道官(en:Tony Snow)はFOXの元キャスターである。 バラク・オバマ政権発足後も視聴者数は伸びており、オバマ政権に対する批判の急先鋒を担う(MSNBCが2006年からブッシュ政権を批判したように)。これらについてオバマ政権のコミュニケーション担当責任者アニタ・ダンは2009年10月、「FNCは事実関係を無視し、ニュース報道を偽装した世論誘導を行っている」と非難した。 基本的には記者取材のほか、全米のFox加盟局、イギリスSky Newsなどと連携して速報体制を敷いている。しかし、キャスターやコメンテーターのキャラクターが前面に出ており、影が薄い。 情報の裏付けが乏しい伝聞やデマに対するチェック体制が甘い為に、他のメディアに比べ物議を醸す報道も多い。オバマ大統領がインドネシア時代に通っていた学校ではイスラム過激派の教育を行っていたという放送を行ったが、CNNがジャカルタの特派員に取材させたところ誤りであった事が判明し、「FOXは取材すべきだ」と苦言を呈された。 Fox & Friends America's Newsroom Your World Glenn Beck Special Report Fox Report The O'Reilly Factor(ビル・オライリー) Hannity On the Record 地上波ネットワークのFOX加盟局は大都市を中心に朝やプライムタイムにローカルニュースを放送したり、3大ネットワークと違って全国ニュース番組は無い。FNCは日曜朝の討論番組「Fox News Sunday」を配給し、FNCでも放送している。他に大統領選挙や一般教書演説などの重要時に特別番組を配給し、シェパード・スミスらがアンカーを務める。 FNCでお昼に放送していた「DaySide」の出演者による朝のトーク番組「The Morning Show」を2007年1月から2年半放送した(シンジケイションでの放送)。他にシンジケイション向けにヘラルド・リベラが司会を務める情報番組を制作したが、週末のFNCにての放送に切り替えた。2007年にはマイネットワークTVに向けた情報番組の制作が計画されていた。 メーガン・ケリー ウィリアム・クリストル ビル・オライリー マイク・ハッカビー - 2008年アメリカ合衆国大統領選挙の共和党候補者。2008年10月より、トークショー『Hackabee』のホストとして出演。 チャールズ・クラウトハマー - レギュラー出演者。『世界日報』の米コラムニスト オリバー・ノース ルパート・マードック ショーン・ハニティー ^ Fox most trusted news channel in US, poll showsguardian.co.uk, Wednesday 27 January 2010 18.40 GMT ^ 『ビル・オライリーはFOXニュースを去る』 2017年4月20日 Onebox News ^ MSNBCはFOXニュースから18年ぶりに視聴者数首位を獲得 2018年12月28日配信 Onebox News ^ http://www.ifc.com/static/img/series/mediaproject/mp_full_poll_results.pdf Survey Methodology -Zogby Interactive Adults ^ ホワイトハウス、フォックステレビに宣戦布告CNN、10月9日 Fox News Online", "Sky News(スカイ・ニュース)はスカイが運営するニュース専門局。同名のチャンネルがオーストラリアとニュージーランドにあるがこの項目ではイギリスについて記載する。 Sky Newsはロンドンに拠点を置く24時間ニュース専門チャンネルであり、1989年2月5日に開局した。Sky Newsは米CNNに対抗するために作ったとニューズ・コーポレーションのルパート・マードックが述べている。Channel Fiveのニュースの際にもSky Newsの映像提供を行っている。 1997年8月1日、パーフェクTV!(現スカパー!プレミアムサービス(標準画質))でニューズ・コーポレーションとソフトバンクが立ち上げた衛星放送プラットフォーム「JスカイB」系の番組供給会社・スカイエンターテイメント(現ジェイ・スポーツ)で放送開始。2000年3月31日、同社の再編に伴い放送終了している。前述の通り日本でのテレビ放送は約15年前に終了したが、YouTubeでsky NEWS Internationalをライブストリーミング視聴することが出来る。なお、このsky NEWS Internationalは権利の関係でCMやスポーツニュースが英国内向け版と差し替えられて放送されている。 ^ “Sky News: UK News, World News and Business News. The First for breaking global News!”. 2007年4月3日閲覧。 ^ “Sky News YouTube!”. 2015年1月10日閲覧。 公式ウェブサイト (携帯)" ]
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多くの中で最も優れていることを、花札の役から何というでしょう?
山室耕
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[ "山室耕", "高野由美 (女優)", "川村禾門", "石山龍児", "小島洋々" ]
[ "山室 耕(やまむろ こう、1907年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は西森 高茂(にしもり たかしげ)。旧芸名は村上 英二(むらかみ えいじ)、光 一(ひかり はじめ)。 1907年(明治40年)12月17日、高知県に生まれる。高知城東商業学校(現在の高知中学校・高等学校)を卒業。 1927年(昭和2年)、村上英二という芸名で日活大将軍撮影所(後に日活京都撮影所・日活太秦撮影所)に入社。一時期、本名の西森高茂名義で活動した時期もある。1933年(昭和8年)には日活多摩川撮影所現代劇に移籍。後に芸名も光一と改名して、1936年(昭和11年)公開の内田吐夢監督映画『人生劇場 青春篇』などに出演。1937年(昭和12年)、東宝に移り、黒澤明監督映画『姿三四郎』などの作品に出演し、戦争末期まで活躍する。 戦後は新東宝に移籍し、芸名も山室耕と改名して多くの作品に助演する。後にフリーとなり、東宝、東映の作品にも出演した。ところが、1956年(昭和31年)に公開された渡辺邦男監督映画『勤王? 佐幕? 女人曼陀羅』以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である。没年不詳。 日活データベースにおいて、実際に出演した作品と未出演作品の混同がみられる。 西森 高茂 (にしもり たかしげ) - 出生名・本名、日活太秦撮影所、日活京都撮影所(1930年 - 1934年) 村上 英二 (むらかみ えいじ) - 日活大将軍撮影所、日活太秦撮影所(1927年) 光 一 (ひかり はじめ) - 日活多摩川撮影所、東宝映画東京撮影所、東宝映画京都撮影所、東宝映画、東宝(1934年 - 1946年) 山室 耕 (やまむろ こう) - 新東宝、フリーランス(1947年 - 1956年) 全てサイレント映画、全て「村上英二」名義である。 『大久保彦左衛門』:監督池田富保、製作日活大将軍撮影所、配給日活、1927年4月15日公開 - 有馬屋三蔵 『忠次旅日記 御用篇』:監督伊藤大輔、製作日活太秦撮影所、配給日活、1927年12月27日公開 - 倅銀次郎 特筆以外、全て製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、特筆以外は全てサイレント映画、特筆以外は全て「西森高茂」名義である。 『佐渡おけさ』:監督木藤茂、1930年5月1日公開 - 郵便屋 『光は東より』:監督徳永フランク、1930年8月15日公開 - 健の乾分 『さらば東京』:監督熊谷久虎、1932年5月20日公開 - 浩の友 『萬太郎暴風雨』(『万太郎暴風雨』):監督辻吉郎、1933年3月15日公開 - 元の字 『真珠夫人』:監督畑本秋一、1933年4月6日公開 - 下男・清吉 『大学の歌』:監督牛原虚彦、1933年9月14日公開 - 陸上選手B ※トーキー 『東京祭』:監督牛原虚彦、1933年9月29日公開 - 西村の助手A ※トーキー 『若き日のなやみ』:監督大谷俊夫、1933年月日不明公開 - チャンそば屋辰三 『野の光』:監督伊賀山正徳、1934年5月3日公開 - 浪花節語り吉田京丸 『接吻市場』:監督田口哲、製作日活京都撮影所、1934年6月7日公開 - ベイちゃん 特筆以外、全て製作は「日活多摩川撮影所」、配給は「日活」、特筆以外は全てトーキー、全て「光一」名義である。 『花嫁寝台列車』:監督清瀬英次郎、1934年11月1日公開 - 運転手 『恋はバスに乗って』:監督伊賀山正徳、製作日活太秦撮影所、1934年月日不明公開 - アパートの受付 ※サイレント映画 『抱かれた恋人』:監督田口哲、1934年月日不明公開 - 勘太 ※サイレント映画 『うら街の交響楽』:監督渡辺邦男、1935年5月15日公開- 紙芝居の男 『男のまごゝろ』(『男のまごころ』):監督渡辺邦男、1935年8月22日公開 - 辰公 『軍國子守唄』:監督大谷俊夫、1935年12月1日公開 - 津田一等兵 『人生劇場 青春篇』:監督内田吐夢、1936年2月13日公開 - 新海 『恋は雨に濡れて』:監督千葉泰樹、1936年4月8日公開 - 羽田の同僚山口 『丸髷と文学』:監督清瀬英次郎、1936年4月29日公開 - 運転手 『生命の冠』:監督内田吐夢、1936年6月4日公開 - 漁夫 『慈悲心鳥』:監督渡辺邦男、1936年7月1日公開 - 芳川十一郎 『魂』:監督渡辺邦男、1936年8月14日公開 - ギャング 『僕の東京地図』:監督伊賀山正徳、1936年9月23日公開 - 乾分 『高橋是清自伝』:監督渡辺邦男、1936年11月9日公開 - 山田 『検事とその妹』:監督渡辺邦男、共作P.C.L.映画製作所・テイチクレコード、1937年1月14日公開 - 前田 『オリムピック横町』:監督春原政久、1937年1月21日公開 - 肉屋主人 『母校の花形』:監督千葉泰樹、1937年4月1日公開 『裸の町』:監督内田吐夢、1937年5月13日公開 - 古着屋 『美人賞』:監督水ケ江龍一、1937年5月27日公開 - 宣伝部長蜂須賀 特筆以外、全て製作は「東宝映画東京撮影所」、配給は「東宝映画」、以降全てトーキー、全て「光一」名義である。 『地熱』:監督滝沢英輔、1938年2月1日公開 - 現場監督 『鉄腕都市』:監督渡辺邦男、1939年2月20日公開 - 人事課長 『ドレミハ大学生』:監督矢倉茂雄、1938年3月1日公開、 - 細田君 『青春角力日記』:監督渡辺邦男、1938年5月21日公開 - 一の松 『愛情一路』:監督渡辺邦男、1938年7月1日公開 - 岩本 『家族日記 前篇』:監督山本薩夫、1938年9月29日公開 - 卯女の兄豊作 『家族日記 後篇』:監督山本薩夫、1938年9月29日公開 - 卯女の父 『エノケンの大陸突進 後篇 躍進また躍進の巻』:監督渡辺邦男、1938年11月13日公開 - 副隊長 『吾亦紅 前篇』:監督阿部豊、1938年11月20日公開 - 運転手堀田 『軍港の乙女達』:監督伏水修、1938年12月7日公開 - 小杉淳一 『吾亦紅 後篇 戦野に咲く』:監督阿部豊、1939年2月1日公開 - 運転手堀田 『裸の教科書』:監督渡辺邦男、1939年4月11日公開 - 柏澤一角 『忠臣蔵 前篇』:監督滝沢英輔、1939年4月21日公開 - 寺坂吉右衛門 『忠臣蔵 後篇』:監督山本嘉次郎、1939年4月21日公開 - 寺坂吉右衛門 『上海陸戦隊』:監督熊谷久虎、1939年5月20日公開 - 広岡一等水兵 『青春野球日記』:監督渡辺邦男、1939年6月10日公開 - キャプテン 『プロペラ親爺』:監督渡辺邦男、1939年7月11日(同年5月11日説もあり) - 乾物屋主人 『われ等が教官』:監督今井正、1939年8月1日公開 - 平田准尉 『暁の進発』:監督中川信夫、製作東宝映画京都撮影所、1941年1月24日公開 - 内田上等兵 『馬』:監督山本嘉次郎、共作合資会社映画科学研究所、1941年3月11日公開 - 博労 『長谷川・ロッパの家光と彦左』:監督マキノ正博、1941年3月26日公開 - 伊達政宗 『指導物語』:監督熊谷久虎、1941年10月4日公開 - 一等兵 『八十八年目の太陽』:監督滝沢英輔、1941年11月15日公開 - 菅原一平 特筆以外、全て製作・配給は「東宝映画」、特筆以外は全て「光一」名義である。 『男の花道』:監督マキノ正博、1941年12月30日公開、東宝映画 - 虎五郎の乾分 『武蔵坊弁慶』:監督、製作東宝映画東京撮影所、1942年1月7日公開 - 弥太六 『南海の花束』:監督渡辺邦男、1942年5月21日公開 - 乗務員 『ハワイ・マレー沖海戦』:監督山本嘉次郎、1942年12月3日公開 - 加藤一飛曹 『伊那の勘太郎』:監督滝沢英輔、1943年1月3日公開 - 浪人 『姿三四郎』:監督黒澤明、配給社団法人映画配給社、1943年3月25日公開 - 虎吉 ※「山室耕」名義 特筆以外、全て製作・配給は「東宝」、全て「光一」名義である。 『續姿三四郎』:監督黒澤明、配給社団法人映画配給社、1945年5月3日公開 - 関根嘉兵衛 『霧の夜ばなし』:監督萩原遼、1946年9月10日公開 - 地廻り平三 『わが青春に悔なし』:監督黒澤明、1946年10月29日公開 - 刑事 特筆以外、全て製作・配給は「新東宝」、以降全て「山室耕」名義である。 『かけ出し時代』:監督佐伯清、1947年7月15日公開 - 記者根本 『愛よ星と共に』:監督阿部豊、製作東宝、1947年9月24日公開 - 支配人 『銀座カンカン娘』:監督島耕二、1949年8月16日公開 - 映画監督 『鍋島怪猫伝』:監督渡辺邦男、製作東宝、1949年8月23日公開 - 足軽源助 『果しなき情熱』:監督市川崑、製作新世紀プロダクション、配給東宝、1949年9月27日公開 - 暴漢 『暁の脱走』:監督谷口千吉、製作東宝、1950年1月8日公開 - 桑島軍曹 『銀座三四郎』:監督市川崑、製作・配給新東宝、1950年4月29日公開(同年3月30日説もあり) - 鮫川 『いれずみ判官 桜花乱舞の巻』:監督渡辺邦男、製作東横映画、配給東京映画、1950年4月14日公開 『いれずみ判官 落花対決の巻』:監督渡辺邦男、製作東横映画、配給東京映画、1950年4月22日公開 『天保人気男 妻恋坂の決闘』:監督渡辺邦男、製作東横映画、配給東京映画、1950年7月11日公開 『暁の追跡』:監督市川崑、製作新東宝、配給東宝、1950年10月3日公開 - 刺青の男 『夜の緋牡丹』:監督千葉泰樹、製作・配給新東宝、1950年12月8日公開 - ゴロツキ伝 『エノケンの天一坊』:監督、製作・配給東宝、1950年12月30日公開、東宝 - 鬼瓦の五郎 『目下恋愛中』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1951年5月25日公開 - 小説家の弟子 『歌う野球小僧』:監督渡辺邦男、大映東京撮影所、配給大映、1951年7月27日公開 - 三田 『母は嘆かず』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1951年9月28日公開 - 甚公 『のど自慢三羽烏』:監督渡辺邦男、製作大映東京撮影所、配給大映、1951年11月16日公開 - 山田 『快傑鉄仮面』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1951年12月14日公開 - 月輪の藤次 『落下の舞』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1952年1月31日公開 - 庄六 『水戸黄門漫遊記 地獄谷の豪族』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1952年2月14日公開 - 三村大学 『水戸黄門漫遊記 伏魔殿の妖賊』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1952年3月6日公開 - 三村大学 『大当たり黄金狂時代』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1952年月日公開 - 向傷の辰(辰五郎) 『はだか大名 前篇』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1952年6月19日公開 『飛びっちょ判官』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1952年11月27日公開 - 浮草の安五郎 『唄祭り清水港』:監督渡辺邦男、製作松竹京都撮影所、配給松竹、1952年12月4日公開 - 小岩 『午前零時』:監督渡辺邦男、製作・配給東宝、1953年2月12日公開 - 野呂山武 『大菩薩峠 第一部 甲源一刀流』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1953年4月23日公開 - 芹沢鴨 『大菩薩峠 第二部 壬生と島原の巻』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1953年6月3日公開 - 芹沢鴨 『大菩薩峠 第三部 輪神杉の巻』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1953年6月3日公開 - 芹沢鴨 『白鳥の騎士』:監督組田彰道、製作・配給新東宝、1953年7月1日公開 - 大和ノ宗彦 『亭主の祭典』:監督渡辺邦男、製作・配給東宝、1953年7月14日公開 『さすらひの湖畔』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1953年7月22日公開 - 塚田 『片目の魔王』:監督佐々木康、製作東映京都撮影所、配給東映、1953年8月10日公開 - 広田三郎 『江戸の花道』:監督中川信夫、製作東映京都撮影所、配給東映、1953年8月19日公開 - からす金の弥三 『薔薇と拳銃』:監督志村敏夫、製作新生プロダクション、配給東映、1953年9月15日公開 - 『快傑黒頭巾』:監督河野寿一、製作東映京都撮影所、配給東映、1953年11月29日公開 - 芹沢鴨 『逆襲!鞍馬天狗』:監督萩原遼、製作東映京都撮影所、配給東映、1953年12月15日公開 - 八丁目の安 『べらんめえ獅子』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1953年12月29日公開 - 山路一角 『南国太平記 前篇』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年1月15日公開 - 碇山将曹 『続南国太平記 薩南の風』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年2月3日公開 - 碇山将曹 『ウッカリ夫人とチャッカリ夫人 やりくり算段の巻』:監督渡辺邦男、製作東宝、配給東京映画、1954年3月10日公開 『暁の三十八番斬り』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年3月31日公開 - 近藤登之助 『鳴門秘帖 前篇』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年5月10日公開 - 俵一八郎 『鳴門秘帖 後篇』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年5月31日公開 - 俵一八郎 『野ざらし姫 追撃の三十騎』:監督小沢茂弘、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年6月15日公開 - 雉子村剛助 『重盛君上京す』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年6月22日公開 - アロハの兄ちゃん 『とんち教室』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年7月13日公開 - 子分スペードの安 『犬神家の謎 悪魔は踊る』:監督渡辺邦男、製作東映東京撮影所、配給東映、1954年8月10日公開 - 猿蔵 『人生劇場 望郷篇 三州吉良港』:監督萩原遼、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年9月14日公開 - 綱谷 『お坊主天狗 前篇』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年9月21日公開 - 三次 『お坊主天狗 後篇』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年10月12日公開 - 三次 『旗本退屈男 謎の怪人屋敷』:監督渡辺邦男、製作東映京都撮影所、配給東映、1954年12月28日公開 - 溝口備後守 『岩見重太郎 決戦天の橋立』:監督渡辺邦男、製作東宝、配給宝塚映画、1954年12月29日公開 - 伊藤亘 『やんちゃ娘行状記』:監督渡辺邦男、製作・配給東宝、1955年1月9日公開 - 田中記者 『花嫁立候補』:監督渡辺邦男、製作・配給東宝、1955年1月22日公開 - 田中記者 『隠密若衆』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1955年2月20日公開 - 藪田助八 『長脇差大名』:監督加戸野五郎、製作・配給新東宝、1955年3月8日公開 - 親分勝五郎 『森繁の新入社員』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1955年3月21日公開 - 壮士風の男 『りゃんこの弥太郎』:監督マキノ雅弘、製作・配給新東宝、1955年6月13日公開 - 乾分長治 『森繁のやりくり社員』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1955年7月5日公開 - 山麓の百姓 『わが名はペテン師』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1955年8月14日公開 - 与太者A 『身代り紋三 地獄屋敷』:監督加戸野五郎、製作・配給新東宝、1955年10月11日公開 - 獄門の勘太 『あばれ行燈』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1956年1月3日公開 - 乾分久吉 『北海の叛乱』:監督渡辺邦男・毛利正樹、製作・配給新東宝、1956年1月8日公開 - 小谷 『びっくり捕物帖 女いれずみ百万両』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1956年2月18日公開 - 向う疵の伝造 『隠密七生記 剣雲碓氷峠の乱陣』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1956年3月27日公開 - 真鍋喬之進 『金語楼の兵隊さん』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1956年5月11日公開 - 上村一等兵 『怨霊佐倉大騒動』:監督渡辺邦男、製作・配給新東宝、1956年6月27日公開 - 伝蔵 『はりきり社長』:監督渡辺邦男、製作・配給東宝、1956年7月13日公開 - 工場長 『勤王? 佐幕? 女人曼陀羅』:監督渡辺邦男、製作・配給東宝、1956年8月14日公開 - 川越の安 ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優全集 男優篇』 キネマ旬報社、1979年、614頁。 ^ a b c d e f g h i j k l 『日本映画人改名・改称事典』国書刊行会、2004年。 ^ a b c 『日本人物レファレンス事典 芸能篇1 (映画・演劇・タレント)』 日外アソシエーツ、2014年、688頁。 ^ 1952年(昭和27年)に配布された「東宝映画宣傳資料」キャスト欄では光一と記載されている。 山室耕 - 日本映画データベース 山室耕 - allcinema 山室耕 - KINENOTE 山室耕 東宝資料室 光一に関するカテゴリ: 戦前の日活の俳優", "高野 由美(たかの ゆみ、1918年1月23日 - )は、日本の女優。本名は清水(旧姓:高野) まつ。夫は俳優の清水将夫。 青春のお通り 愛して泣いて突走れ!(南原菊野) あいつとの冒険(寿子) 青春のお通り(南原菊野) 青春前期 青い果実(千田郁子) 青春の裁き(古島浜枝) 若草物語 (1964年の映画)若草物語(野沢路子) うず潮(1964)(大杉ふゆ) 帝銀事件 死刑囚(志乃) 人生劇場(おみね) 光る海(野坂里子) 波浮の港(トヨ) 風が呼んでる旋風児 銀座無頼帖(妻美津子) 青春を返せ(須田きぬ) アカシアの雨がやむとき(大石明子) 愛と死のかたみ(田辺千世) しろばんば(たね) 惜別の歌(神戸マキ) 何もかも狂ってやがる(市子) 君恋し(宮坂ちか) 人間狩り(房井松江) 母ぁちゃん海が知ってるよ(スエノ) ママ恋人がほしいの(ムコの母) あいつと私(浅田まさ子) いのちの朝(吉元純子) 舞妓の上京(よね) 胸の中の火(きみ) 大暴れマドロス野郎(三宅夫人) 美しき抵抗(ゆき子) 善人残酷物語(松井ツル子) 竜巻小僧(和枝) あした晴れるか(矢巻多賀子) 海の情事に賭けろ(せつ) 地図のない町(笠間清乃) 雑草のような命(朝野光子) 無言の乱斗(しげ) 南国土佐を後にして(のぶ) 世界を賭ける恋(1959)(村岡潤子) 海は狂っている(牧夫の母) 俺は挑戦する(須貝芳江) 群集の中の太陽(武井由枝) 今日に生きる(城の母) 網走番外地(面接員) 祈るひと(佐々木教授夫人) 女を忘れろ(三木明子) 若い川の流れ(北岡かず子) 獣のいる街(一枝の母) 危険な群像(たか) 完全な遊戯(鉄太郎の母) 夜は俺のものだ(常子) 明日は明日の風が吹く(みつ) 麻薬3号(安代の女将) 嵐を呼ぶ男(福島愛子) 峠(小村てい) 危険な年齢(よし江) 殺したのは誰だ(房江) 今日のいのち(吉成雪子) 「廓」より 無法一代(キクノの母) 青春の抗議(茂木かね) 哀愁の園(信代) 川上哲治物語 背番号16(川上ツマ) 月蝕 飢える魂(味岡道代) われは海の子(スギ) 泣け、日本国民 最後の戦闘機(清水の叔母) 夜あけ朝あけ(中杉くに) 逆光線(石本澄江) 花の運河(木原のぶ) 姉さんのお嫁入り(吉本先生の母) 風船(1956)(村上房子) 狼(たみ) 東京の空の下には(三蔵の叔母) どぶ(よね) 美しい人(お千代) 夜明け前(お里の母) 母のない子と子のない母と(一郎のお母さん) 現代人(荻野靜) 原爆の子(早吉の妻・千代) 花荻先生と三太(三太の母) 限りなき情熱(お君) 殿様ホテル(ひろ子) 幸運の椅子 女優(戸塚京子) 音楽五人男(秋田露子) こちら社会部(1963年、TBS) ^ a b c 『日本映画俳優全集・女優編』 キネマ旬報社、1980年、398頁。 高野由美 - 日本映画データベース 高野由美 - インターネット・ムービー・データベース(英語)", "川村 禾門(かわむら かもん、1918年1月25日 - 1999年)は日本の俳優。別名義に川村 耽平がある。 東京生まれ。旧制中学卒後、日活多摩川(後に大映)入社。 1943年稲垣浩監督・阪東妻三郎主演『無法松の一生』で未亡人の息子(ぼんぼん)役で出演。同僚の女優・森下彰子と結婚、その直後の1944年7月朝鮮に出征。復員後、桜隊の一員として広島で被爆死した彰子の両親のもとを訪ね、遺骨と対面。遺族によれば一晩中遺骨の傍らで泣き明かしていたという。後に親戚の勧めで再婚し俳優生活も再開した。彰子については長年、極限られた俳優仲間以外には話さなかったが、1993年7月、当時白井佳夫(映画評論家)が催していた『無法松の一生』の朗読再現パフォーマンスに出席した際、観客の前で積年の想いを語った。晩年も映画のオーディションを受けてまわり幾本かの映画に出演している。 映画『無法松の一生』、『赤い鷹』など松竹を中心に多数の作品に出演した。 山参道(1942年、大映) 無法松の一生(1943年、大映) - 吉岡敏雄 役 現代人(1952年、松竹) 別離(1954年、松竹) - 組合員A 役 人妻椿(1956年、松竹) - 仕立家の親父 役 涙(1956年、松竹) - 養子鉄治 役 花ふたたび(1956年、松竹) - 西住の秘書 役 続禁男の砂(1958年)※川村耽平名義 彼岸花(1958年)※川村耽平名義 秋日和(1960年、松竹) 死闘の伝説(1963年) いいかげん馬鹿(1964年、松竹) なつかしい風来坊(1966年、松竹) - 林局長の秘書 役 赤い鷹(1966年、松竹) - 小田留三 役 宇宙大怪獣ギララ(1967年、松竹) - 変電所係員 役 スクラップ集団(1968年、松竹) 男はつらいよ 花も嵐も寅次郎(1982年、松竹) 二十世紀少年読本(1989年、CBSソニー) - ジャグラー吉田 役 遥かな時代の階段を(1995年) アトランタ・ブギ(1996年、アミューズ) - 篠原小三郎 役 ^ a b 『日本映画人名事典 男優篇上巻』キネマ旬報社、1996年、493頁。 ^ 『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』講談社、2017年 ^ 『白井佳夫〈「無法松の一生」完全復元パフォーマンス〉の批判的考察』京都大学 CineMagaziNet!-no.9 『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』(堀川惠子・著 講談社 2017年7月刊)ISBN 978-4062207027) 川村禾門 - 日本映画データベース 川村禾門 - allcinema 川村禾門 - Movie Walker", "石山 龍児(いしやま りゅうじ、1893年9月2日 - 1973年) は、昭和初期の日本映画の黎明期を中心に活躍した俳優。青森県出身。1944年まで松竹所属。清水宏監督作品などに主に脇役として多数出演した。出演作ごとに西山龍、石山隆嗣、石山竜児、石山竜次、石山竜二、石山龍嗣などと微妙に芸名を変えている。満80歳沒。墓所は東京・四谷のイグナチオ教会。本名は石山龍児。作家の井伏鱒二と若い頃から深い親交があり、井伏も「鶏肋集」などのエッセイに石山との親交について書き残している。 1921年 濁流  映画芸術協会 不滅の呪  松竹蒲田 1922年 神代の冒険  映画芸術協会 1923年 05.31 - 噫森訓導の死  松竹蒲田 07.27 - 実説国定忠治 雁の群  松竹蒲田 08.07 - お転婆娘  松竹蒲田 09.30 - 呪はれの日  松竹下加茂 1924年 04.13 - 感じの好い映画集 《星》  松竹蒲田 09.11 - 牛は牛づれ  松竹蒲田 10.01 - 小唄集 第三篇 籠の鳥  松竹蒲田 10.17 - 関の五本松  松竹蒲田 1925年 08.14 -すたれ者  松竹蒲田 11.07 - 青春  松竹蒲田 12.01 - 落武者  松竹蒲田 12.01 - 恋の捕縄  松竹蒲田 12.31 - 乃木大将伝  松竹蒲田 乃木勝典役 1926年 03.12 - 若き女の死  松竹蒲田 03.21 - 真紅の情熱  松竹蒲田 05.01 - お坊ちゃん  松竹蒲田 06.25 - 裏切られ者  松竹蒲田 07.15 - 秋の歌  松竹蒲田 09.01 - 愛  松竹蒲田 埋れたる青春  松竹蒲田 1927年 01.15 - 三人の娘  松竹蒲田 01.22 - お照とお雪  松竹蒲田 05.26 - やきもち  松竹蒲田 06.23 - 春の雨  松竹蒲田 10.14 - 炎の空  松竹蒲田 1928年 01.10 - 好きなればこそ  松竹蒲田 01.27 - 村の花嫁  松竹蒲田 長沼謙一役 02.25 - 愛欲変相図  松竹蒲田 花村の友人・滝口博役 06.01 - 富岡先生  松竹蒲田 12.20 - 美しき朋輩達  松竹蒲田 晴れ行く空  松竹蒲田 1929年 03.09 - あひる女  松竹蒲田 弁護士・花田久仁雄役 04.27 - ステッキガール  松竹蒲田 05.31 - 浮草娘旅風俗  松竹蒲田 1930年 02 - 生きる力  松竹蒲田 04.18 - 真実の愛  松竹蒲田 達彦の友人・平沢役 11.01 - 霧の中の曙  松竹蒲田 11.15 - 若者よなぜ泣くか  松竹蒲田 1931年 10.24 - 山村の光  松竹蒲田 1932年 01.14 - 夜はお静かに  松竹蒲田 04.01 - 人柱四勇士  松竹蒲田 08.05 - 愛の防風林  松竹蒲田 1933年 05.11 - 泣き濡れた春の女よ  松竹蒲田 船員・工藤役 07.20 - 恋愛一刀流  松竹蒲田 08.24 - 旅寝の夢  松竹蒲田 村医者・村井役 09.07 - 出来ごころ(小津安二郎・監督、松竹蒲田)・上役 1934年 10.06 - 与太者と花嫁  松竹蒲田 平岡万造役 10.11 - 都会の感傷  松竹蒲田 マスター村尾役 11.08 - 出臍の力  松竹蒲田 12.13 - 私の兄さん  松竹蒲田 運転手 古賀役 1935年 03.07 - 東京の英雄  松竹蒲田 06.15 - 春琴抄 お琴と佐助  松竹蒲田 1936年 01.30 - 若旦那 百万石  松竹蒲田 父・玄兵衛役 02.27 - 有りがたうさん(清水宏監督、松竹大船) 髭の紳士役 04.03 - 家族会議  松竹大船 08.13 - 君よ高らかに歌へ  松竹大船 女学校の男性教師役 08.29 - 男性対女性  松竹大船 渥見商会社員役 1937年 01.21 - 恋愛無敵艦隊  松竹大船 鯉幟りの長次役 06.10 - 金色夜叉  松竹大船 箕輪亮輔役 07.01 - 恋も忘れて  松竹大船 10.09 - 花形選手  松竹大船 11.11 - 風の中の子供(清水宏監督 松竹大船) 佐山役 1957年 02.27 - 風雲急なり大阪城 真田十勇死総進軍  新東宝 徳川家康役 04.30 - 東京暮色(小津安二郎・監督、松竹大船) 深夜喫茶の客役 06.05 - ひかげの娘  東京映画 老紳士役", "小島 洋々(こじま ようよう、1891年12月16日 - 没年不詳)は、日本の俳優、男性声優、元オペラ歌手である。本名は小島 正次(こじま まさじ)。浅草オペラ、新派を経て映画俳優に転向、戦前・戦中の新興キネマ、東宝映画東京撮影所、戦後の新東宝、東映東京撮影所で長く活躍したバイプレーヤーとして知られ、映画出演数は200本を超える。 1891年(明治24年)12月16日、東京府東京市下谷区御徒町(現在の東京都台東区)に生まれる。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)では、出生地は上記の通りだが、生年は「明治廿一年十二月十六日」(1888年12月16日)である旨が記されている。旧制埼玉県浦和中学校(現在の埼玉県立浦和高等学校)を経て旧制東京音楽学校(1952年廃止)に進学する。その影響もあって、この頃から旅芸人として各地を巡業していたといわれている。 1912年(明治45年)3月、同中学校卒業と共に帝国劇場洋劇部(歌劇部)第1期生として入り、日本のオペラ界に影響を与えたイタリアの演出家ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー(1867年 - 1940年)にオペラを師事する。1914年(大正3年)卒業後、2ヶ月間は三浦環、南部邦彦、7代目松本幸四郎と共演。1916年(大正5年)9月、舞台協会及び山本嘉一(1877年 - 1939年)と一座を結成、信州・東海地区・関西地区を巡業する。1918年(大正7年)、傑作座を創立し、大阪蘆邊倶楽部に半年だけ出演した後、石井漠、沢モリノと一座を結成して各地を巡演するなど活発な活動をした。また、同年8月には松旭斎天華一座に加入し、歌劇部主任を務めている。1920年(大正9年)に発行された『日本歌劇俳優写真名鑑』及び1921年(大正10年)に発行された『日本歌劇俳優名鑑』(活動倶楽部社)によれば、当時は東京府北豊島郡滝野川町(後の東京市滝野川区、現在の東京都北区滝野川)に住み、特技はバリトンである旨が記されている。 1920年(大正9年)12月、日活向島撮影所に入り、映画俳優に転向するとされている。1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、1922年(大正11年)10月に入社としている。ただし、日本映画データベースにおいて、小島の出演作品は確認出来ない。1923年(大正12年)4月、帝国キネマ芦屋撮影所に移り、松本泰輔、浜田格、高堂國典、里見明主演作品に多数出演する。ところが、1925年(大正14年)に帝国キネマは分裂、小島はアシヤ映画に移る。その後、再び合流して、新興キネマに改称後も引き続き在社した。『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』など一部の資料によれば、大阪府中河内郡布施町大字東足代(後の同府布施市、現在の同府東大阪市北西部)、大阪府大阪市住吉区天王寺町243番地(現在の同府阿倍野区天王寺町北)、京都府京都市右京区太秦前ノ田町と転々と住み、身長は5尺6寸(約169.7センチメートル)、体重は15貫500匁(約58.1キログラム)から後に15貫(56.3キログラム)となり、趣味は音楽、読書、ビリヤード、舞踊であり、中華料理、お酒が嗜好である旨が記されている。 1935年(昭和10年)、P.C.L.映画製作所に移り、1937年(昭和12年)9月10日の東宝合併後も在社し続け、戦争末期まで活躍する。戦後も東宝製作の作品に出演していたが、1948年(昭和23年)からは新東宝へ移り、更に1954年(昭和29年)には東映東京撮影所に移籍する。戦後の出演作品のほとんどが端役であったが、多くの作品で堅実な演技力を見せた。1961年(昭和36年)9月6日に公開されたニュー東映製作の村山新治監督映画『故郷は緑なりき』が最後の出演作品であるが、以後の消息は伝えられていない。出演作品は200本を超える。没年不詳。 親なき雀(1923年、帝キネ芦屋) - 情に冷たい家主 若き日の悦び(1923年、帝キネ芦屋) 山の力(1923年、帝キネ芦屋) 忍び寄る魂(1923年、帝キネ芦屋) 霰こむる夜(1923年、帝キネ芦屋) 流浪の旅(1924年、帝キネ芦屋) まだ見ぬ郷へ(1924年、帝キネ芦屋) 足跡(1924年、帝キネ芦屋) 大盗伝(帝キネ芦屋) 第一篇 青春篇(1924年) 第二篇 熱愛篇(1924年) 第三篇 争闘篇(1924年) 花に戯れ(1924年、帝キネ芦屋) 蕾の中に候(1924年、帝キネ芦屋) クレオパトラの指輪(1924年、帝キネ芦屋) 高原の処女(1924年、帝キネ芦屋) 星は流れ飛ぶ(1924年、帝キネ芦屋) - 舞踊家 石井漠 経文と友禅(1924年、帝キネ芦屋) 恋の勇者(1924年、帝キネ芦屋) 熱血を潜めて(1924年、帝キネ芦屋) - 河村東吉 海の哄笑(1924年、帝キネ芦屋) 男子怒らば(1924年、帝キネ芦屋) お不動さま(1925年、帝キネ芦屋) 絵巻金色夜叉(1925年、アシヤ映画) 琵琶歌(1925年、アシヤ映画) - 柳田特務曹長 二人の父(1925年、アシヤ映画) 乙女心(1925年、帝キネ芦屋) 大根は微笑む(1925年、アシヤ映画) 大自然の叫び(1925年、アシヤ映画) 流るる酒(1925年、アシヤ映画) 若返り薬(1925年、アシヤ映画) - 老医珍田 鮫竜横わる(1925年、アシヤ映画) 去り行く影(1925年、帝キネ芦屋) - その父 水郷の唄(1925年、帝キネ芦屋) - 五六兵衛 笑つて働らけ(1925年、帝キネ芦屋) - 勘次 松風村雨(1925年、帝キネ芦屋) - 柴田弥之助 失霊術(1925年、帝キネ芦屋) 恋は曲者(1925年、帝キネ芦屋) ダイヤの光(1925年、帝キネ芦屋) - 大塚と名乗る紳士 最後の一兵まで(1925年、帝キネ芦屋) - 岡野慶助 夕陽映す村(1925年、帝キネ芦屋) 婦人独身倶楽部(1926年、帝キネ芦屋) - その父 寒三 女神の像(1926年、帝キネ芦屋)梧舟の師 高橋笛舟 猛火を潜ぐりて(1926年、帝キネ芦屋) - 寛蔵 巡礼小唄(1926年、帝キネ芦屋) - 吉村輝彦 三ッの微笑(1926年、帝キネ芦屋) - 隣の巡査 女性のなやみ(1926年、帝キネ芦屋) 恋の往来(1926年、帝キネ芦屋) 和泉屋太物店(1926年、帝キネ芦屋) - 太物問屋清兵衛 怨の悲曲(1926年、帝キネ芦屋) - 村田繁樹 親子獅子(1926年、帝キネ芦屋) かたおもひ(帝キネ芦屋) - 高松国民 前篇(1926年) 後篇(1926年) 銀の雨(1926年、帝キネ芦屋) - 旅の六部 青春の歓喜(1926年、帝キネ芦屋) 神田つ子(1926年、帝キネ芦屋) 別れの浜唄(1926年、帝キネ芦屋) 娘でかした(1926年、帝キネ芦屋) 狂つた熊(1926年、帝キネ芦屋) 珍探偵(1926年、帝キネ芦屋) 孤島に咲く花(1926年、帝キネ芦屋) 男を喰ふ獣(1926年、帝キネ芦屋) 恋衣(1926年、帝キネ芦屋) 理髪屋騒動記(1927年、帝キネ芦屋) なまけもの(1927年、帝キネ芦屋) 果たしてどうなる(1927年、帝キネ芦屋) 街灯(1927年、帝キネ芦屋) 親心(1927年、帝キネ) 小鳥で儲けて(1927年、帝キネ芦屋) 村の巡査(1927年、帝キネ芦屋) あの山恋し(1927年、帝キネ芦屋) 笑恋(1927年、帝キネ) 緋鹿子草紙(1927年、帝キネ) 愚か者(1927年、帝キネ) 恋の裏町(帝キネ) 前篇(1927年) 後篇(1927年) 手折られし撫子(1927年、帝キネ芦屋) 当節三人娘(1927年、帝キネ芦屋) 美しき牢獄(1927年、帝キネ芦屋) 夜の魔(1927年、帝キネ芦屋) 花婿騒動(1928年、帝キネ) - 尾佐村君 新夫婦(1928年、帝キネ) 亭主関白(1928年、帝キネ) 寂しき人々(1928年、帝キネ) 女権拡張(1928年、帝キネ) 恵の郷(1928年、帝キネ) 子持芸者(1928年、帝キネ) 珍妙結婚記(1928年、帝キネ) 嵐の夜曲(1928年、帝キネ) - 鶴賀三平 串本音頭(1928年、帝キネ) 独身競走(1928年、帝キネ) 恋を握る(1928年、帝キネ) 粋な神様(1928年、帝キネ) 陣中の乃木将軍(1928年、帝キネ) 彼女の父(1928年、帝キネ) 真心(1928年、帝キネ) 日米親善(1928年、帝キネ) 浮気療法(1928年、帝キネ) 天の恵み(1928年、帝キネ芦屋) - 富豪 金井善造 愛の涙(1928年、帝キネ) 焼野きぎす(1928年、帝キネ) 涙の馬子唄(1928年、帝キネ) 試練への道(1928年、帝キネ) - 大淵銀五郎 大親分(1929年、帝キネ) のんき者(1929年、帝キネ) 拾った老爺(1929年、帝キネ) 波浮の港(1929年、帝キネ長瀬) 糸の乱れ(1929年、帝キネ) ぼうだら日記(1929年、帝キネ長瀬) 故郷の家(1929年、帝キネ長瀬) 踊る奥様(1929年、帝キネ) 春雨草紙(1929年、帝キネ長瀬) 探偵児(1929年、帝キネ) 食客奮闘記(1929年、帝キネ) 朧月(1929年、帝キネ長瀬) 荒尾譲介(1929年、帝キネ長瀬) 愛の目醒(1929年、帝キネ) 恋のしがらみ(1929年、帝キネ) 彼の日記(1929年、帝キネ) 恋の筏師(1929年、帝キネ長瀬) 盲ひの小鳩(1929年、帝キネ) 凸凹二人組(1929年、帝キネ) 夜光珠怪異(1929年、帝キネ) - 聖僧ラゴラ あの山越へて(1930年、帝キネ 何が彼女をさうさせたか(1930年、帝キネ長瀬) - 阪本佐平 カフェーの女(1930年、帝キネ) 緑の城(1930年、帝キネ) 明暗三世相 前篇(1932年、新興キネマ) - 会津藩主 松平容保 渦巻(1932年、新興キネマ) - 東大路正胤 姿なき怪盗 後篇(1932年、新興キネマ) - 警察署長 白蓮(1932年、入江プロ) - 青柳伯爵 栄え行く道(1933年、新興キネマ) - 河野 ふらんす人形(1933年、新興キネマ) - 達三の父 多吉 銃後の勝利(1933年、新興キネマ) - 校長先生 世界の戦漂国防篇 日本若し空襲を受くれば(1933年、新興キネマ) - 藤村子爵 女夫浪(1933年、新興キネマ) - 政務次官 日頭武則 後の生さぬ仲(1933年、新興キネマ) - 日下部正七 間貫一(1933年、新興キネマ) - 鴫沢隆三 モデルの女(1933年、新興キネマ) - パトロン 藤村圭吉 街の灯(1933年、新興キネマ) - 主人 新女性線(1933年、新興キネマ) - 礼子の父 われ等若し戦はば(1933年、新興キネマ) - 宮崎の父 徳平 昭和人生案内(1933年、新興キネマ) - 紹介所所長 侠艶録(1933年、新興キネマ) - 富士雄の父 やどり木(1933年、新興キネマ) - 昭子の兄 信輝 猿飛薩摩飛脚(1934年、新興キネマ) - 家康公 青空三羽鴉(1934年、新興キネマ) - 幕府の重臣夫 馬石見守 女心双情記(1934年、新興キネマ) - 人夫頭平太 肥後の駒下駄(1934年、新興キネマ) - 松山秀之進 巨人街(1934年、新興キネマ) - 禎次の恩師 西井博士 地獄往来(1934年、新興キネマ) - 内藤主膳 帰去来峠(1934年、新興キネマ) - 伊勢崎成政 狼隊の少年(1934年、新興キネマ) - 老僕 春雪白日夢(1935年、新興キネマ) - 御隠居 福寿草(1935年、新興キネマ) - 校長 恋愛ホテル(1935年、新興キネマ) - その父 泰治 稽古扇(1935年、新興キネマ) - 信夫の父 信造 男三十前(1935年、高田プロ) - 警察署長 竜涎香(1935年、高田プロ) - お咲の父 木曾情話(1935年、新興キネマ) - 綾子の父 徳平 都会の怪異七時三分(1935年、P.C.L.) - 夕刊売りの老人、運転手B、強盗、電話をかける男、競馬場の客A【5役】 処女花園(1936年、P.C.L.) 彦六大いに笑ふ(1936年、P.C.L.) - 鉄造 武士道朗らかなりし頃(1936年、P.C.L.) 戦国群盗伝(P.C.L.) 前篇 虎狼(1937年) 後篇 暁の前進(1937年) からゆきさん(1937年、P.C.L.・入江プロ) - 二重廻しの男 見世物王國(1937年、P.C.L.) 北支の空を衝く(1937年、P.C.L.) - 女学校の校長 ドレミハ大学生(1938年、東宝映画) - ライオン食堂主人 ロッパのガラマサどん(1938年、東宝映画) - 部長 藤十郎の恋(1938年、東宝映画) - 伏見屋五郎吉 裸の教科書(1939年、東宝映画) 忠臣蔵(東宝映画) - 藤井又左衛門 前篇(1939年) 後篇(1939年) 白蘭の歌 前篇・後篇(1939年、東宝映画・満映) - 満鉄総裁 エノケンの弥次喜多(1939年、東宝映画) - 居酒屋の亭主 東遊記(1940年、東宝映画・満映) - 化粧品会社社長 蛇姫様(1940年、東宝映画) - 師直役者 金語楼のむすめ物語(1940年、東宝映画) - 川島氏 嵐に咲く花(1940年、東宝映画) - 増水正左衛門 小島の春(1940年、東京発声) - 校長 続・蛇姫様(1940年、東宝映画) - 刺抜屋 六兵衛 閣下(1940年、東宝映画) - 軍太夫(温泉宿の主人) 熱砂の誓ひ(1940年、東宝映画) - 柳田先生 兄の花嫁(1941年、東宝映画) - 山本家親族 白鷺(1941年、東宝映画) - 紳士 闘魚(1941年、東宝映画) - 笙子の父 八十八年目の太陽(1941年、東宝映画) - 海老原次郎 川中島合戦(1941年、東宝映画) - 新沢丹後守 武蔵坊弁慶(1942年、東宝映画) - 深栖十郎 緑の大地(1942年、東宝映画) - 劉校長 ハワイ・マレー沖海戦(1942年、東宝映画) - 徳田副長 ハナ子さん(1943年、東宝映画) - 大熊さん 霧の夜ばなし(1946年、東宝) - 山形屋 民衆の敵(1946年、東宝) - 大東総本社部長 麗人(1946年、東宝) - 菊小路家の家令本橋 生きている画像(1948年、新東宝) - 医者 歌うエノケン捕物帳(1948年、新東宝) - 隠居 私刑 リンチ(1949年、新東宝) 石中先生行状記(1950年、新東宝) - 貞作の父 右門捕物帖 伊豆の旅日記(1950年、新東宝) - 砂子屋太兵衛 夜の緋牡丹(1950年、新東宝) - 佐々木編集長 生きる(1952年、東宝) - 総務課長 悲劇の将軍 山下泰文(1953年、東映) - 梅津参謀総長 晴れ姿 伊豆の佐太郎(1953年、新東宝) - 天城屋平左衛門 早稲田大学(1953年、東映) 叛乱(1954年、東宝) - 深尾男爵 花と龍 第二部 愛憎流転(1954年、東映) 続々魚河岸の石松 大阪罷り通る(1954年、東映) - 竹虎 坊ちゃん社員(1954年、東宝) - 高村監査役 放浪記(1954年、東映) - 秋彦の父 快傑まぼろし頭巾(1954年、東映) - 香川春山 あゝ洞爺丸(1954年、東映東京) - 二等船客老紳士 姿三四郎 第一部・第二部(1955年、東映) - 南小路光康 忍術三四郎(1955年、東映東京) - 執事 まぼろし怪盗団(東映) 第一部 まぼろし怪盗団(1955年、東映) - 執事木下 第二部 魔王の蜜使(1955年、東映) - 執事木下 第三部 悪魔の王冠(1955年、東映) - 執事木下 流星空手打ち(1956年、東映) - 木村巳之助 権三と助十 かごや太平記(1956年、東映) - 嘉右衛門 愛の翼 お母さん行ってきます(1956年、東映) - 農家のおじいさん 怒れ!力道山(1956年、東映) - 米川 とんちんかん八百八町(1957年、東映) - 易者 こけし子守唄 夕やけ鴉(1957年、東映) - 医者 どたんば(1957年、東映) - 油井嘉一 警視庁物語 夜の野獣(1957年、東映) - 紳士風のスリ 多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ(1960年、東映) - 戸田老人 故郷は緑なりき(1961年、ニュー東映) - 守衛 子供の時間:日本放送協会 『三つの風船のお話』:1953年5月22日放映 - 主演 『三人の旅役者と代官様』:日本放送協会、1953年6月3日放映 - 名主古川九右衛門 『美しき下界』:日本放送協会、1953年8月5日放映 - 武田康之 影絵劇:日本放送協会 『清流 河童譚』:1953年8月21日放映 - 語り手 『学校放送 小学校低学年』:日本放送協会 『おとぎのへや こだぬきのいたずら』:1953年10月12日放映 『ミュージカル・ショウ』:日本放送協会 『節分の夜の夢』:監督加藤好雄、1954年2月3日 『山のひだ』:監督梅本重信、日本放送協会、1956年6月9日放映 - 近藤 村上元三アワー:日本テレビ 『春風数えうた』:監督松本紀彦、1956年12月5日 - 1957年2月27日放映 『七色仮面』:日本教育テレビ 第2部『キング・ローズ』:1959年8月27日 - 1959年10月1日放映 - 本物の野毛村 ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本映画俳優全集 男優篇』 キネマ旬報社、1979年、211頁。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、174頁。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『新撰 芸能人物事典 明治〜平成』 日外アソシエーツ、2010年、185頁。 ^ a b c d e f g h 『日本歌劇俳優写真名鑑』 歌舞雑誌社、1920年、87頁。 ^ a b c d e f g h 『日本歌劇俳優名鑑』 活動倶楽部社、1921年、51頁。 ^ a b c d e f g h i j k 『裸にした映画女優』 日本映画研究会、1921年、125-126頁。 ^ a b c d e f g h 『日本映画年鑑 大正13年・14年』 東京朝日新聞発行所、1925年、199頁。 ^ a b c d e 『日本映画年鑑 大正13年・14年』 東京・大阪朝日新聞社、1930年、158-159頁。 ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』 映画世界社、1928年、88-89頁。 ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』 映画世界社、1929年、116-117頁。 ^ a b c d e f g h i j k l 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』 映画世界社、1934年、114頁。 小島洋々 - 日本映画データベース 小島洋々 - allcinema 小島洋々 - KINENOTE 小島洋々 東宝資料室 小島洋々 テレビドラマデータベース" ]
ABC01-02-0303
「木曽路はすべて山の中である」という一文で始まる、島崎藤村の小説は何でしょう?
夜明け前
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[ "夜明け前", "女の一生 (山本有三)", "幼年時代 (室生犀星)", "女の決闘", "瘋癲老人日記" ]
[ "『夜明け前』(よあけまえ)は、島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。 日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている。 米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公・青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。青山半蔵のモデルは、旧家に生まれて国学を学び、役人となるが発狂して座敷牢内で没した藤村の父親・島崎正樹である。 『中央公論』誌上に、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで断続的に掲載され、第1部は1932年1月、第2部は1935年11月、新潮社から刊行された。 1934年11月10日 村山知義脚色、久保栄演出「夜明け前」(三幕十場)が新協劇団により築地小劇場で初演される。 1953年に「夜明け前」として、新藤兼人脚色、吉村公三郎監督により映画化。 中仙道木曾馬籠宿で17代続いた本陣・庄屋の当主青山半蔵は、平田派の国学を学び、王政復古に陶酔。山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。 半蔵は下層の人々への同情心が強く、新しい時代の到来を待っており、明治維新に強い希望を持つ。しかし、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と政府による人々への更なる圧迫など、半蔵の希望とは違う物であった。更に山林の国有化により、一切の伐採が禁じられる。半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。また、嫁入り前の娘・お粂が自殺未遂を起こすなど、家運にも暗い影が差してきていた。 村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は、意を決して上京。自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕する。しかし、同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動に。その後、飛騨にある神社の宮司になるも数年で郷里へと戻る。 半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で、四十歳ほどで隠居することに。読書をしつつ、地元の子供たちに読み書きを教える生活を送る。だが、次第に酒浸りの生活になっていく。 維新後、青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚たちは「この責任は半蔵にある」と半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させると共に、親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。温厚な半蔵もこれには激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけるのだった。 そして半蔵は、国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満や、期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男・和助が半蔵の思いに反し英学校への進学を希望したことなどへの落胆から、精神を蝕まれる。そして、自分を襲おうとしている『敵』がいると口走るなど奇行に走っていく。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁されてしまう。 当初は静かに読書に励んでいたが、徐々に獄中で衰弱していく。最後には自らの排泄物を見境なく人に投げつける廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死してしまった。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬したのだった。 1953年公開。近代映画協会が劇団民藝と共に製作し、民藝の俳優が総出演している。配給は新東宝。第8回毎日映画コンクール撮影賞を受賞(宮島義勇)。 製作:新藤兼人 協力製作:絲屋寿雄、山田典吾、能登節雄 監督:吉村公三郎 脚色:新藤兼人 撮影:宮島義勇 美術:丸茂孝 音楽:大澤寿人 青山吉左衛門:伊達信 おまん:細川ちか子 青山半蔵:滝沢修 お民:小夜福子 お粂:乙羽信子 謙吉・解説:宇野重吉 利三郎:殿山泰司 宗太:山内明 寿平次:清水将夫 お里:日高澄子 金兵衛:菅井一郎 おふき:北林谷栄 徳右衛門:日野道夫 お里の母:高野由美 蜂谷香蔵:松下達夫 暮田正香:芦田伸介 宮川寛斎:岡倉士朗 水品春樹 大町文夫 佐野浅夫 原ひさ子 垂水悟郎 寺島貢 下元勉 内藤武敏 鈴木瑞穂 大森義夫 鶴丸睦彦 寺島雄作 山形勲 大滝秀治 庄司永健 明石潮 望月伸光 田中敬子 斎藤美和 佐々木すみ江 ^ 篠田一士は自著『二十世紀の十大小説』の中で、日本語で書かれた作品として唯一これを選んでいる ^ 作者・島崎藤村がモデル ^ 青山半蔵 あおやま はんぞうコトバンク ^ 島崎正樹 しまざき まさきコトバンク 西部邁、佐高信 「島崎藤村『夜明け前』」『西部邁と佐高信の快著快読』 光文社、2012年10月20日、47-81頁。ISBN 978-4-334-97716-0。 入会地 コモンズの悲劇、森林破壊 - 半蔵の望みが叶ったとしたら起きていたであろう悲劇。藩が山林の利用を制限していた理由の一つでもある。 『夜明け前 01 第一部上』:新字新仮名(青空文庫) 『夜明け前 02 第一部下』:新字新仮名(青空文庫) 『夜明け前 03 第二部上』:新字新仮名(青空文庫) 『夜明け前 04 第二部下』:新字新仮名(青空文庫) 夜明け前 - allcinema 夜明け前 - KINENOTE 島崎藤村の『夜明け前』を読む : 木曽の山林事件(法史学への旅立ち・補遺) 石川 一三夫、中京大学、中亰法學、2000-03-10 島崎藤村『夜明け前』における木曽山林事件の虚実 林業経済史の立場から 西川善介、専修大学社会科学年報第40号、2006", "『女の一生』(おんなのいっしょう)は、『朝日新聞』において1932年10月20日から1933年6月6日まで連載された山本有三による小説である。同名で映画化もされている。 第一部 物語は大正2年(1913年)ころから始まる。ヒロインの御木允子(まさこ)は地方の家の末っ子で、東京の女学校へ進む。兄の大介、その友人で東京外国語学校の江波昌二郎、友達の加賀美弓子、D大の糸野和哉などと、日光へ行ったり歌舞伎座へ行ったりして遊ぶ。允子は昌二郎が好きだが、糸野は弓子が好きだ。昌二郎が外交官試験に受かったら結婚しようと楽しみにしていると、昌二郎が弓子と婚約したと聞き、ショックを受ける。允子になじられても、弓子は傲然たる姿勢を崩さない。 允子は父の反対を押し切って医学校に進む。3年ほどたち、同窓の吉尾澄子と伊豆大島へ出かけると、ドイツ語教師の公荘徹爾と知り合い、三原山で遭難しそうになったことから公荘と親しくなり、允子が結婚制度に疑問を持っていると言うと、公荘も同意する。その後、2人で筑波山へ登った時に肉体関係をもってしまい、そのうち允子は妊娠する。公荘は堕胎を勧めるが、実は公荘には病弱な妻がいた。公荘が体面を気にしていると気づいた允子は、1人で産んで育てる決心をする。兄からは罵られるが、母だけが理解してくれ、母と2人で大森の家に住んで、男児を産み落とす。 第二部 子供は允男と名づけられる。允子は町医者の助手として勤め始めるが、それが堕胎をする悪徳医師であった。そこへ、昌二郎と結婚したが、その海外赴任中にほかの男の子を妊娠してしまった弓子が来て、允子は堕胎を手伝わされる。これが警察にばれるが、弓子は、允子は手を出していないと証言したため、允子は無罪となる。 そこへ公荘が、妻が死んだと言って現れ、允子と結婚して允男を育てていくが、そこにもさまざまな困難が待ち受けていた。 「同伴者作家」と言われ、左翼的とされた山本が、女性の人生についてかなりリベラルな立場で書いたもので、題名はモーパッサンの長編小説 La Vie を広津和郎が『女の一生』と訳したものからとっている。 中央公論社 1933年 『山本有三全集 第5巻 (女の一生)』岩波書店 1940年 『山本有三文庫 [第1,2巻]』新潮社 1948年 新潮文庫 1951年 『山本有三作品集 第2巻 (女の一生)』創元社 1953年 『山本有三全集 第7巻 定本版』新潮社 1976年 三鷹市山本有三記念館文庫 2001年 1955年公開。松竹大船配給。 御木允子:淡島千景 公荘:上原謙 加賀見弓子:草笛光子 江波昌二郎:菅佐原英一 允男:田浦正巳 父:小林十九二 母:浦辺粂子 兄・大介:須賀不二夫 澄子:小林トシ子 青島:鈴木彰三 青島の妹・みどり:野添ひとみ 青島の母:村瀬幸子 沢井:明石潮 院長:信欣三 警部補:加東大介、稲川忠完 刑事:浜田寅彦、諸角啓二郎 若者:永井達郎 監督:中村登 脚色:水木洋子 撮影:生方俊夫 美術:浜田辰雄 音楽:黛敏郎", "『幼年時代』(ようねんじだい)は、1919年(大正8年)に発表された室生犀星の短編小説で、室生の処女作である。 幼い頃の犀星自身の体験が描かれた自伝的小説である。 『幼年時代』:新字新仮名 - 青空文庫", "「女の決闘」(おんなのけっとう)は、太宰治の小説。 本文の一部は妻美知子の口述筆記によって書かれている。 本文のはじめに作者(太宰)はこう記している。「こゝに、鷗外の全集があります。(中略) 翻訳篇、第十六巻を、ひらいてみませう。いゝ短篇小説が、たくさん在ります」 本作品は、『鷗外全集』に収録されたヘルベルト・オイレンベルクの「女の決闘」をもとに書かれた小説である。筑摩書房刊行の太宰治全集は、校訂にあたって『鷗外全集 第十六巻』(鷗外全集刊行会、1924年5月30日)を参照している。 ^ a b 『太宰治全集 第3巻』筑摩書房、1989年10月25日、433-438頁。解題(山内祥史)より。 ^ 太宰は本文でオイレンベルクを「HERBERT EULENBERG」と表記している。 ^ 『太宰治全集 3』ちくま文庫、1988年10月25日、458頁。解題(関井光男)より。 女の決闘 (短編集) 森鴎外 『女の決闘』:新字新仮名(青空文庫)", "『瘋癲老人日記』(ふうてんろうじんにっき)は、谷崎潤一郎の長編小説。息子の嫁に性欲を覚える不能老人の性倒錯(脚フェティシズム)が身辺雑記の日記形式で綴られた作品。 『中央公論』1961年(昭和36年)11月から1962年(昭和37年)5月まで連載。1962年(昭和37年)5月に中央公論社から刊行され、毎日芸術賞大賞を受賞した、谷崎晩年の代表作。単行本は棟方志功の装幀。 77歳の老人・卯木督助のかたかな書きの日記の体裁をとっており、歌舞伎の「助六」を観に行く場面から始まる。督助は息子の妻の颯子に性的魅力を感じているが、颯子は夫のいとこの春久と遊びまわっている。督助は颯子の足に踏まれたいというフット・フェティシズムとマゾヒズムの欲望を抱いており、颯子に猫目石を買ってやり、その代償のように颯子の足に頬ずりし、その足の型で仏足石を作るが、血圧が高くなり入院する。最後は周囲の人々による手記でしめくくられる。 老人の日記は歴史的かなづかい、看護婦の手記は新かなづかいと、書き分けられている(文庫版ではいずれも新かなづかいにされている)。 老人の性を描いたものとして、『鍵』、および川端康成『眠れる美女』と併称される。のち、谷崎の最後の妻谷崎松子の連れ子である渡辺清治の妻・渡辺千萬子との往復書簡が公開され、千萬子が颯子のモデルであることがはっきりし、また当時の谷崎の生活をかなりそのまま用いており、看護婦の手記も実際にあったものであることが分かった。 『瘋癲老人日記』中公文庫、1977 (解説・吉行淳之介) 『鍵・瘋癲老人日記』新潮文庫、1968(解説・山本健吉、注解・細江光) ハワード・ヒベット Diary of a Mad Old Man 1965 ジョルジュ・ルノンドー(フランス語)Journal d'un vieux fou 1965 セシル・坂井 Journal d'un vieux fou 須賀敦子(イタリア語) Diario di un vecchio pazzo 1965 1962年 『瘋癲老人日記』 製作:大映、木村恵吾脚本・監督、出演:山村聰、若尾文子、東山千栄子、川崎敬三 1987年 『Dagboek van een oude dwaas』 オランダ映画、監督:Lili Rademakers ^ 「谷崎潤一郎作品案内」(夢ムック 2015, pp. 245-261) 谷崎潤一郎 『鍵・瘋癲老人日記』 (改版) 新潮文庫、2001年6月。ISBN 978-4-10-100515-7。  初版1968年10月 谷崎潤一郎; 渡辺千萬子 『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』 中公文庫、2006年1月。ISBN 978-4122046344。  ハードカバー版(中央公論新社)は2001年2月 伊吹和子 『われよりほかに――谷崎潤一郎最後の十二年』 講談社文芸文庫、2001年10月。ISBN 978-4061982789。  ハードカバー版(講談社)は1994年2月 笠原伸夫編 『新潮日本文学アルバム7 谷崎潤一郎』 新潮社、1985年1月。ISBN 978-4-10-620607-8。  『文藝別冊 谷崎潤一郎――没後五十年、文学の奇蹟』 河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2015年2月。ISBN 978-4309978550。  『瘋癲老人日記』:新字新仮名 - 青空文庫" ]
ABC01-02-0304
テニスの発祥地はイギリスですが、ソフトテニスの発祥地はどこでしょう?
日本
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[ "日本", "朝鮮民族", "日韓協約", "朝鮮半島", "中華人民共和国" ]
[ "日本国 日本国 国の標語:特に無し 国歌:君が代 ^ 現在も使用されている日本の国璽(国家の表徴として押す印章)には「大日本國璽」(大日本国璽)と\"大\"が冠されている。 ^ 日本の公用語を日本語と定める法令は存在しない。詳しくは日本#言語および日本語#分布を参照。 ^ 日本の首都を東京都と定める法令は現存しない。詳しくは日本の首都を参照。 ^ 東京都にある特別区の集合体は地方自治法による地方公共団体ではない。 ^ “平成27年国勢調査人口速報統計 結果の概要”. 総務省統計局. 2016年4月27日閲覧。 ^ a b c d >Data and Statistics>World Economic Outlook Databases>By Countrise>Japan ^ #建国をめぐる議論の節も参照。 日本国(にほんこく、にっぽんこく)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国。議会制民主主義国家である。首都は東京都。 「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するのではないかとされる。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」または「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。[疑問点 – ノート]ただし、日本工業規格 (Japanese Industrial Standard) では日本国、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格 (ISO) では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、日本国外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊 を提示している。法令で日本を指し示す表記には統一されておらず日本、日本国、本邦、わが国、などが混在している。 「にっぽん」、「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている。 7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。 室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。 近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、日本放送協会(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし、『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした。 その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は、「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している。 現在、通商や交流の点で自国外と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)ているほか、NHK、日本テレビ、ニッポン放送、日本武道館、全日本空輸、近畿日本鉄道、西日本鉄道、日本体育大学、日本郵便、NEXCO東日本・NEXCO中日本・NEXCO西日本、日本電気、日本電信電話、日本郵船、日本通運、NTT東日本・NTT西日本などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学、日本航空、日本経済新聞、日本たばこ産業、JR東日本・JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本交通、日本オリンピック委員会、NTT東日本、などがある。日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている。なお、日本国憲法の読みについて、内閣法制局は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている。憲法制定の際、読みについての議論で担当の金森徳次郎国務大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかにはされなかった。 日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の『JAPAN』としているが、1912年の初参加となったストックホルムオリンピックの選手団のみ『NIPPON』の表記を使っていた。 東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京(及び旧江戸)の日本橋は\"にほんばし\"、大阪の日本橋は\"にっぽんばし\"とそれぞれ読む。 日本の政党名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。 「ニッポン」 日本社会党 (1945-1996)、日本自由党 (1953-1954)、新党日本 (2005-2015)、たちあがれ日本 (2010-2012)、日本維新の会 (2012-2014)、日本未来の党 (2012)、日本を元気にする会 (2015-)、日本のこころを大切にする党(2015-2018)、日本維新の会 (2016-) 「ニホン」 日本共産党 (1922-)、日本労農党 (1926-1928)、日本自由党 (1945-1948)、日本進歩党 (1945-1947)、日本協同党 (1945-1946)、日本農民党 (1947-1949)、日本民主党 (1954-1955)、日本新党 (1992-1994) 今上天皇は、一貫して「にほん」と読んでいる。 古くから多様である。 和語 あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。 「秋津島」 「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として) 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代) あしはらなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。 「葦原中国」(あしはらのなかつくに)(『古事記』、『日本書紀』神代) 「豊葦原(とよあしはら)」 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』) 「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代) うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。 「浦安国」(日本書紀・神武記) おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。 「大八島」「太八島」 「大八洲」(『養老令』) 「大八洲国」(『日本書紀』神代) くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。 「細矛千足国」(日本書紀・神武記) しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。 「師木島」(『古事記』) 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』) 「敷島」 たまかきうちのくに 「玉牆内国」(日本書紀・神武記) 「玉垣内国」(『神皇正統記』) ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの 「日出処」(隋書) ひのもと - 雅語でこう読むこともある。 ほつまのくに 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武記) みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。 「瑞穂国」 やまと - 大和国(奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。 漢語 「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される。このほかにも、「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。 「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代の儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後、\"empire\"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後、「大日本帝国」の他、「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる。 倭漢通用 江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』 に、倭漢通用の国称が掲載されている。 「倭国」 「和面国」 「和人国」 「野馬台国」、「耶摩堆」 「姫氏国」、「女王国」 「扶桑国」 「君子国」 「日本国」 英語での公式な表記は、Japan(ジャパン)。形容詞はJapanese(ジャパニーズ)。略記は、JPNが用いられる。JAP(ジャップ)は、侮蔑的な意味があるので注意が必要である。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。 その他、各国語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(愛: an tSeapáin)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ヤパン(蘭: Japan)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ(露: Япония)、イープン(泰: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング (Xipangu/Zipang/Zipangu) ないしジャパング (Japangu) を語源とすると考えられる。 漢字文化圏においては、ジーペン(中: Rìběn;日本)、イルボン(朝: 일본;日本)、ニャッバーン(越: Nhật Bản;日本) など、「日本」をそのまま自国語の発音で読んでいる。 欧州発行の古地図上での表記 「CIPANGU」1300年頃 「IAPAM」1560年頃 「IAPAN」1567年頃 「IAPAM」1568年頃 「JAPAN」発行年不明 「IAPONIAE」1595年 「IAPONIA」1595年 「IAPONIÆ」1595年 「IAPONIA」1598年 「IAPONIA」1598年 「IAPAO」1628年 「Iapan」1632年 「IAPONIA」1655年 「IAPON」発行年不明 「Iapan」1657年 「IAPONIA」1660年頃 「NIPHON」1694年頃 「JAPAM」1628年 「YAPAN」1628年 「IAPON」17世紀 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃 「IAPONIA」18世紀初 「IAPON」1720-30年 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃 「JAPANIÆ REGNVM」1739年 日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国や朝鮮は日本を「倭」と呼んできた。石上神宮の七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗の広開土王の碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった。 しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している。また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。 この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである。 『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。 『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする。 「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。 具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。 (1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する。 (2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている。ただし、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている。 8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』 にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。 これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる。 『旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている。 『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある。 通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている。 時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとがある。 (1) 考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。 一方、(2) 歴史学上は、古代(古墳時代から・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治維新から1945年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である。 日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3.5万年前に始まったとされる。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。 紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀・2世紀前後に各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。 朝鮮半島における覇権争いがヤマト王権の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済や新羅に対して、度重なる出兵を行い任那に日本領を築くなど、朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「日本」国号と「天皇」称号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。 日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした。武家政権成立後も、13世紀の元寇、16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。 成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。 9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く桓武平氏と清和源氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長し、やがて政権を巡って対立することとなる。 また、中央政治においては11世紀に藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇が治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が生前譲位し、太上天皇となって、政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。 10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に武士の清和源氏や北条氏が実権を掌握する鎌倉幕府が王朝・貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した(荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、「日本」や「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている。1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は古代の天皇親政に回帰する建武の新政を行ったがほどなく失敗し、1336年に成立した足利氏の室町幕府がその後の南北朝時代の騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。この室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ(道南十二館)。また、15世紀には足利義満による日明貿易が行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国の明朝から冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。 14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、応仁の乱による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に豊臣秀吉によって日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島・硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩藩の島津氏は琉球王国に侵攻して、かつて北条氏の得宗領であり、鎌倉幕府滅亡後島津氏の支配下に入った千竈氏の采配地であった奄美群島を直轄地とし、沖縄諸島および先島諸島(宮古列島および八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた が、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に清朝)両属の状態に置かれた。 一方、豊臣秀吉が李氏朝鮮に侵攻した文禄・慶長の役の失敗後、1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は薩摩を通じた琉球侵攻以外はおおむね消極的な外交政策をとり、後に「鎖国」とも称される海禁政策によって外国文物の流入が強く制限された。18世紀末以降、江戸幕府は千島列島などでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化が課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境画定は「開国」後まで行われなかった。幕藩体制の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。一方、17世紀以降に発展した国学は日本の伝統宗教である神道の復権をもたらし、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。 19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。 1853年に起きたアメリカ合衆国のマシュー・ペリーによる黒船来航以来、江戸幕府は「開国」政策に転換したが、不平等条約による経済危機や尊王攘夷による討幕運動に抗しきれず、1867年(慶応3年)に大政奉還を行って自ら幕を下ろした。1868年以降、明治天皇を戴きながら長州藩や薩摩藩出身の中下級武士が実権を掌握した新政府の元で明治維新が遂行され、近代化・欧米化路線による国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年に樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876年に小笠原諸島の領有を宣言 し、また、琉球処分を行うとともに1885年に大東諸島、1895年に尖閣諸島を編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。 自由民権運動を経て1885年に内閣制度を確立し、1889年に大日本帝国憲法を制定し、1890年に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法と議会とを持つ、近代的な立憲国家となった。(正確には、オスマン帝国で1876年に制定されたミドハト憲法の方が先であるが、短期間で停止された) 19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。日露戦争の勝因として1902年イギリスと日英同盟を締結したことが大きかった。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州の租借権を獲得した。その後、1910年に韓国併合が実施された。 1914年、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、日本は日英同盟に基づいて連合国側について参戦し、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告した。ドイツの租借地であった青島やドイツ領ニューギニアを攻略した。青島占領の後、日本は対華21ヶ条要求を袁世凱政府に提示し、中国側の反発を招いた。日本は戦勝国として1919年のパリ講和会議に参加し人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟において常任理事国となり、旧ドイツ領の南洋群島を委任統治することとなった。一方、このパリ講和会議に際してアメリカから出された十四か条の平和原則は日本が併合した朝鮮で三・一運動を誘発した。時を同じくして大正デモクラシーが起こり、本格的な政党政治や男子普通選挙が実現した。一方で日本はロシアでの社会主義革命成功を強く警戒し、ロシア内戦に乗じたシベリア出兵では極東ロシア地域や北樺太などを一時占領した。1925年、男子普通選挙の成立と同時に制定された治安維持法は設立間もない日本共産党や社会主義勢力、後には自由主義なども広く弾圧した治安機関、特別高等警察の法的根拠となった。 1926年に昭和天皇が即位すると、翌1927年に昭和金融恐慌、1929年には世界恐慌が起き、日本経済は大きな打撃を受けた。世界恐慌以後、植民地を「持てる国」である英米仏などがブロック経済化を進めて、日独伊などの「持たざる国」を締め出す動きを強めると、日本国内では対外進出によって、状況を打破しようとする動きが強まった。対支一撃論を主張する関東軍は日本が権益を持つ満洲(中国東北部)への侵略を強め、1934年に満洲国を建国して一定の支配権を得るに至った。若槻礼次郎内閣は不拡大方針を打ち出し事態の収拾を図ったが、対外強硬的な世論を背景とする軍部の台頭を抑えきれなくなった。若槻内閣が総辞職すると、犬養毅に組閣の大命が下り、引き続き経済状況の打開と満州事変の処理にあたったが、五・一五事件で過激派海軍青年士官達によって暗殺された。これによって、憲政の常道は幕を下ろした。 1937年に盧溝橋にて日本軍と蒋介石の国民革命軍が衝突すると(盧溝橋事件)、双方の軍事行動により支那事変 (日中戦争) へと発展した。1938年には、新体制運動を主導する近衛文麿首相のもと、国家総動員法が制定され議会は有名無実化した。1940年の日独伊三国同盟締結で特にナチス・ドイツとの協力関係を強め、第二次世界大戦において枢軸国陣営への参加を明確にした日本の対外志向は、特にアメリカとイギリスを筆頭とする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、1941年にはイギリス領マレーおよびアメリカ自治領ハワイ準州(真珠湾)以下各地を攻撃し(南方作戦)、太平洋戦争(大東亜戦争)へ突入した。一時期は北は満洲とアリューシャン列島の一部、西は中国内陸部やビルマ、南はニューギニアの一部やソロモン諸島、東はギルバート諸島まで広がる地域まで進出・占領したものの、1942年半ば以後は敗走を重ね、最終的に1945年に沖縄戦による沖縄本島の喪失、東京大空襲をはじめとした全国各地への空襲に続いて、8月には広島・長崎に原子力爆弾による攻撃、さらには日ソ中立条約の残存期間中に対日戦を開始したソビエト連邦による対日宣戦布告を受けて帝国政府は戦争継続を断念し、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。一連の戦争で約300万人の日本人が亡くなり、国民経済の破綻と社会の混乱はその後にも深刻な影響を与えた。対外的にもアジア諸国との信頼関係回復や戦時賠償問題が戦後の深刻な問題として残された。 アメリカ・イギリスなどの連合国により、日本は史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領土・権益の総てを失った。日本の占領統治は大日本帝国憲法下における日本政府に対して連合国総司令部(GHQ/SCAP)が指令を発布し、日本政府がその指令に沿って統治するという仕組みで行われ、中央政府が有効に存続したため、中央政府不在を宣言され国家の消滅が確認されたドイツ国とは異なり、戦前と戦後とで同一の国家としての継続性が認められており、帝国憲法下で制定された法体系が戦後においても有効に存続している。連合国の指令のもと、国制の改革が進められ、大日本帝国憲法の改正手続きによって日本国憲法を制定し、1947年発効の同憲法によって「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三大原則を確立した。一方、昭和天皇の戦争責任論は法的には棚上げされ、天皇は「国民統合の象徴」と規定されて政治上の実権を失いながらその地位を維持した。 国共内戦における中国共産党の優勢が明らかになると、アメリカは対日政策を転換させ、東アジアにおける友好国とする政策を採るようになった。一方で、急激なインフレを抑制するべく実施された超均衡財政政策であるドッジ・ラインの強行により、中小企業の倒産が増大するなど深刻な不況に陥ったが、1950年に勃発した朝鮮戦争は戦場の後背地である日本で朝鮮特需を生み、経済復興への足がかりとなった。同時にレッドパージが実施されて共産党が衰退し、親米・反共主義を掲げる吉田茂首相を中心とした保守勢力が政権を独占し、戦前の政治・経済指導者も次々と公職追放から復帰した。1952年、サンフランシスコ平和条約発効によって日本は全権を回復し、資本主義陣営(西側諸国)の一角として国際社会に復帰したが、同時に成立した日米安全保障条約によって日本への在日米軍駐留は継続された。1955年に講和条約への対応を巡り分裂していた社会党の再統一が実現すると、財界の強い要望を背景として、保守合同により、自由民主党が成立した。これにより形式的に二大政党制が実現したが、その後の日本社会党の弱体化や多党化にも助けられた自由民主党優位の政治体制はその後も続いた(55年体制)。1956年、日ソ共同宣言によりソビエト連邦との国交を回復し、同年国際連合に加盟した。対ソ国交回復では1945年にソ連が占領した地域の一部返還を求めた日本側の要求が実現せず、その後も北方領土問題として両国関係の改善を阻害した。一方、1960年に岸信介首相は日米安全保障条約の改定を実現させたが、目標としていた日本国憲法の改定は果たせずに退任し、その後の自民党政権は池田勇人による所得倍増計画に象徴される「経済中心路線」を採った。一方、東京通信工業(現在のソニー)によるトランジスタラジオ対米輸出の大成功などは「安くて粗悪」というかつての日本製品の海外イメージを払拭し、外需拡大は経済成長をさらに加速させた。 戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ(高度経済成長#日本の高度経済成長)、日本は世界有数の経済大国となった。1964年には経済協力開発機構(OECD)に加盟すると1968年には西ドイツを抜いて世界第2位の国民総生産(GNP)を計上し、アジアでは唯一の先進国として特に経済面で大きな影響を世界に与え、多くの開発途上国(発展途上国)から経済建設の先行モデルとされるようになった。1964年には東京オリンピックが開催され、1970年には日本万国博覧会が大阪府で催された。交通網の整備も急速に進み、1964年には東海道新幹線が開通、1965年に名神高速道路、1969年には東名高速道路が完成した。マイカーブームの到来により、モータリーゼーションを迎えるとともに、トヨタ自動車や日産自動車など国産自動車メーカーの品質が向上し、先進国への輸出もなされるようになったが、大幅な貿易黒字を背景としてアメリカなどとの間で貿易摩擦も生じた。第一次産業の比率が下がり第二次産業や第三次産業の比率が拡大する産業構造の高度化が見られ、国際競争力を持てない農山漁村地域やエネルギー革命に直撃された産炭地域での急速な過疎化と、大規模製造業の存在と都市化による商業活動の急拡大が連動した三大都市圏での過密化も進行した。自民党政権は全国総合開発計画や新産業都市政策で重工業拠点の全国展開を進め、経済格差の是正をめざした。農村部でも多くの工場が建設され、一方で公害問題の拡大が深刻となり、住民運動の高まりも見られた。一連の高度成長は1973年のオイルショックで終止符が打たれ、日本経済は低成長時代へと移行した。 1952年から1953年にかけてトカラ列島や奄美群島、1968年に小笠原諸島、1972年に沖縄県の施政権がそれぞれアメリカから返還された(本土復帰、沖縄返還)。アメリカ施政下の日本領土は解消されたが、ソビエト連邦との北方領土問題は解決の目処が立たず、冷戦を背景とした両国間の厳しい対立は続いた。朝鮮半島に対しては、1965年に南部の大韓民国との間に日韓基本条約が締結されて国交が回復したが、経済関係の強化とは裏腹に竹島問題は解消されなかった。また、北部の朝鮮民主主義人民共和国との間では国交回復交渉が難航し、在日韓国・朝鮮人の地位や権利の確認、さらには後に発覚した北朝鮮による日本人拉致問題などもあり、両国関係は改善しなかった。1972年の日中国交正常化で国家承認をした中華人民共和国とは1978年に日中平和友好条約を締結し、緊密な外交・経済協力関係を結んだが、日華平和条約を終了した後も実務関係を維持した中華民国(台湾)との関係や、1970年代から中国側が領土主張を始めた尖閣諸島問題は、戦争についての歴史認識問題などと合わせて日中間の懸案として残った。 21世紀に至り、少子高齢化社会に伴う人口減少、国内産業の空洞化など先進国特有の問題が生じている。自動車に続く電子工学(エレクトロニクス)産業の繁栄や、1980年代後半のバブル景気で暴騰した株価・不動産価格より過熱した日本経済は1990年代初頭のバブル崩壊で大きな痛手を受け、その後は「失われた20年」とも言われる深刻な長期不況に陥った。この間、1979年以降の改革開放路線を皮切りに中国経済は急成長を続け、2010年に日本は中国に抜かれてGNPで世界3位に落ちた。経済力を背景にした中国の対外進出は尖閣諸島問題の激化を招き、日中関係はかつての「蜜月」から大きく様変わりした。さらには情報工学(IT)分野におけるアメリカ産業の復活や韓国・台湾企業のシェア拡大、インド・ブラジルをはじめとする新興大国の政治的・経済的台頭のなか、日本は相対的に不利な立場に立たされている。1995年の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災などの巨大地震の発生は福島第一原子力発電所事故を含む甚大な被害をもたらしており、防災・減災行政の整備は目下緊急の課題となっている。情報通信技術の急速な発展によるインターネットや携帯電話の普及に伴うユビキタス社会の到来やグローバル化の進展は、新たな需要を創出するとともに、人々の生活に大きな変化を生じさせつつある。 1993年から1994年にかけて史上初の下野を経験した後に与党へ返り咲き、2001年に首相となった小泉純一郎が進めた新自由主義政策によりその経済政策を大きく変えた自民党は2009年に民主党に政権を奪われたが、2012年に安倍晋三によって公明党との連立政権を復活させた。安倍は自らの名を冠したアベノミクスによる経済再生を掲げ、憲法改正の意欲も強く示しているが、経済格差の拡大を指摘し、集団的自衛権の容認などにも反対する国民も多く、政権の是非を巡る議論や対立が続いている。そんな中、2020年に行われる東京オリンピックを目標とした新たな技術やサービスの開発も各分野で進められている。現在、日本は列強と見なされている。 国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)となっている。 『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、古代以来、これが日本建国の画期と広く考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された。 公的には、この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった。しかし1966年建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国されたという事象そのものを記念する日」として「建国記念の日」が定められた。神武天皇の存在については実在論もあり、議論は続いている。戦後、皇紀の使用は、一部を除きほとんど見られなくなった。 建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。しかし、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。 日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは比較法学の観点では特殊なものであった。島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が主要な法規範を形成している。 日本の領土は、6,852の島(本土5島+離島6,847島)からなる。 アジア・東アジアの中でも東方にあり、ユーラシアの東端近くにあたるため、東洋や極東などと呼ばれる地域に含まれる。領土の大部分が、島弧をなす日本列島である。これは本州・北海道・九州・四国などからなる。このほか、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)、および北東に位置する北方四島(北方領土)なども有する。 領土面積は約37.8万km2(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。国土の約70%が山岳地域であり、森林率は約67%である。 埋立地は古くから造成されてきたが、その多くは港湾を形成・整備することが目的であった。これによる埋立地がポートアイランド、六甲アイランド、神戸空港などである。最近では関西国際空港、横浜八景島や和歌山マリーナシティなどがあり、総面積は国土の約0.5%に相当する。また、諫早湾干拓事業と八郎潟のような大規模事業のような例もある。 最東端 東京都小笠原村 南鳥島 (北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒) 最西端 沖縄県八重山郡与那国町 与那国島西崎 (北緯24度26分58秒・東経122度56分01秒) 「日本の最〜端」のなかで唯一、公共交通機関で訪れることができる場所である。 最南端 東京都小笠原村 沖ノ鳥島 (北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒) 最北端 北海道稚内市 弁天島 (北緯45度31分35秒、東経141度55分09秒)(日本政府の実効支配下にある領域の最北端) 北海道蘂取郡蘂取村 択捉島カモイワッカ岬 (北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)(日本政府が領有権を主張する領域の最北端) 周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は瀬戸内海と呼ばれる。陸上の国境線が無く、ロシア、北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流の日本海流(黒潮)、対馬海流、寒流の千島海流(親潮)、リマン海流が流れる。 領土問題のある地域が数箇所存在する。 北方領土 竹島 尖閣諸島 自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・環太平洋火山帯・環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。温泉が多いことも火山の恵みと言える。一方で日本史では大きな噴火活動が何度も記録され、さらに近年の地質学研究によって先史時代に何度かの破局噴火が起きていたことが分かっている。   山岳は、最高峰は富士山(標高3,776m)の他、南アルプス、北アルプスなど、2500m超えの山が本州中央に集中している。他、大雪山、磐梯山、阿蘇山などが有名である。富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。 河川は、利根川・最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、海抜高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。集中豪雨が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。 周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は約43万km2である。 日本政府が主張する日本の排他的経済水域 (EEZ) は領土面積の約12倍である約405万km2、領海とEEZを合計すると約447万km2であり世界では第6位となる。ただし日本が領有権を主張しているが韓国に不法占拠されている竹島と日本が実効支配しているが近年になって中国が領有権を主張している尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。 EEZとは別に国連海洋法条約において排他的な海底資源権益が与えられる法的な大陸棚については、2012年4月に国連大陸棚限界委員会が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した。 気候 ケッペンの気候区分によると、本州以南沖縄諸島大東諸島以北の大半が温帯多雨夏高温気候 (Cfa)、 宮古諸島・八重山列島(石垣島・西表島・与那国島・波照間島)・沖大東島などでは熱帯雨林気候 (Af))に属する一方、北海道などが亜寒帯湿潤夏冷涼気候 (Dfb) を示す。モンスーンの影響を受け四季の変化がはっきりしているものの、全般的には海洋性気候のため大陸と比較して冬の寒さはそれほど厳しくなく温和な気候である。飛び地や海外領土などを別にすれば、一国の領土内に熱帯から亜寒帯までを含む国家は珍しい。北半球では他にアメリカ合衆国と中華人民共和国ぐらいである。(標高の高さによる寒冷地域は除く) 冬季は、シベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海で暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため、日本海側を中心に国土の約52%が世界でも有数の豪雪地帯となる。太平洋側では、空気が乾燥した晴天の日が多い。 夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。台風も多い。但し、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。 比較的、降水量の多い地域である。主な要因は、日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・奄美地方は5・6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。年間降水量は、約1,700mmで地域差が大きい。南鳥島を除く日本全域がモンスーン地域で、山がちな日本列島の西岸および南岸の周りを暖流が流れている為に雲が発達しやすく、日照時間は約1800時間程度と世界の他の温帯地域と比べても少なめである。 生態系 南北に長く、また、森林限界を越える高山帯や広い海洋、四季の変化により、面積の広さに比べ、生息する動物や植物の種類が豊富である。津軽海峡以北の北海道の生態系は沿海州の生態系に似ており、ブラキストン線という境界が提唱されている。屋久島と南西諸島の間には、温帯と亜熱帯の生態系の分布境界線である渡瀬線が提唱されている。このほか海峡を主に複数の分布境界線が提唱されている。 四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低かった。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や南西諸島は、古くから本土と比べて孤立した生態系を築いてきたため、その島に固有の動植物が多く生息している。小笠原諸島は、「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。南西諸島でも、西表島のイリオモテヤマネコ、奄美大島・徳之島のアマミノクロウサギをはじめ、固有生物が島ごとに生息している例がある。だが、近年の開発や人間が持ち込んだ外来生物により、生態系は激変し、固有の動植物の生息が脅かされている場所が多い。 植物・森林 熱帯のものから亜寒帯のもの、さらには高山ツンドラに生育する高山植物に至るまで植物の種類が豊富で多様性に富む。降水に恵まれ、高湿度に適した植物が多く分布している。コケ植物やシダ植物などが特に豊富。大陸から離れた地形から、スギなどの日本固有種が広く分布する。慣習的に桜と菊が国花と同等の扱いを受ける。この他、各自治体でも独自の木や花を制定している。 陸地の約3分の2が森林(森林率66%・森林面積:2,512万ha・2009年現在)である。亜熱帯から亜寒帯に渡る、どの地域でも年間の雨量が十分で、森林の成立が可能である。平地の植生は、南の約3分の2が常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林という型であり、北の約3分の1が落葉広葉樹林、ブナ林を代表とする森林である。標高の高い地域では、更に常緑針葉樹林、一部に落葉針葉樹林がある。南西諸島の一部は熱帯に属し、沿海の干潟にはマングローブが発達する。 この森林面積の内訳は、天然林が53%(1,335万ha)、人工林が41%(1,036万ha)、その他(標高などの条件で未生育の森林など)が6%、となっている。内、人工林は、第二次世界大戦後の拡大造林の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ha)を占める。これは、高度経済成長期に木材需要の逼迫から大量の天然林が伐採され、木材の生産効率のみを考えたスギ・ヒノキ林に更新されたためである。その後海外からの輸入量が急増し、一転して木材の価格が暴落した結果、採算の取れない人工林の多くが取り残される結果となった。放棄されたスギ林では、下層植生が発達せず貧弱な生態系となり、防災や水源涵養の面でも問題が多い。また、スギやヒノキの大量植樹は時に「国民病」とも呼ばれる花粉症の蔓延を招いている。 春の桜(福島県三春町 三春滝桜) 与那覇前浜(沖縄県宮古島市) 秋の紅葉(京都府京都市 嵐山・宝厳院) 冬の樹氷(山形県山形市) 動物 哺乳類 100種強が生息し、その内、固有種が3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州との間にあるブラキストン線、また、南西諸島のうち、トカラ列島と奄美群島との間にある渡瀬線で区切られ、これらを境に異なる動物群が生息している。 大型哺乳類では、北海道のヒグマ、エゾシカ、本州のツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどがいる。 固有種であるニホンザルのうち、下北半島に住む個体群は、世界で最も北方に棲息するサルである。ニホンオオカミ、エゾオオカミ、ニホンアシカ、日本のラッコ個体群、および、ニホンカワウソは絶滅。 鳥類 500種を越える鳥類が観察される。四方の海に加え、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲む水鳥の種類が豊富である。日本列島はシベリアで繁殖する鳥の越冬地であり、東南アジアなど南方で越冬した鳥が繁殖する地であり、さらに北方から南方に渡る渡り鳥が通過する中継地としても重要で、季節によって多彩な渡り鳥を観察することができる。近年、乱開発による干潟の減少や、東南アジアの森林の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。水鳥の生息地として国際的に重要な37の湿地が、ラムサール条約に登録され保護されている。 渡りをしない留鳥としては、国鳥のキジなどがあげられる。人家の近くには、カラス、スズメ、ハト、ツバメ、ハクセキレイなどが生息し、古来より文化の中で親しまれてきた。最近ではヒヨドリやムクドリが人家周辺に多い。 固有種は、メグロなどがある。トキの個体群は、絶滅。現在、佐渡市で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。 爬虫類・両生類 いずれも亜熱帯に種類が多く、南西諸島に半分以上の種が集中する。これは、島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土における島ごとの種分化は、さほど見られない。例外は、サンショウウオ類で、南西諸島に見られないが、本土の各地方での種分化が進み、多くの種を産することで世界的にも知られる。また、現存する世界最大の両生類であるオオサンショウウオは、日本を代表する両生類として世界的に知られる。 魚類 近海の魚類は、種類、数、共に豊かで、三陸海岸沖から千島列島に掛けてが世界三大漁場の一つに数えられる。近海を暖流と寒流とが流れ、これらの接点である潮境でプランクトンが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な海岸を持つこと、などが好条件となっている。淡水魚の種は、大陸に比べて河川の規模が小さいため、多くない。古代湖である琵琶湖などに多彩な種が棲息するものの、アユなど食用に供される種の人為的な放流や外来魚の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に汽水域が出来やすく、貝類も豊富である。 また、2010年に海洋生物センサス (Census of Marine Life) が出した報告により、日本近海は、世界25箇所の代表的な海の中で最多となる、約3万3000種の海洋生物が生息していることが明らかとなった。これは日本の気候が南北に渡って非常に多彩であり、同時に大きな海流に恵まれ、海水が多くの栄養を持っていることを示している。例えば北海道は流氷の南限であるのに対し、南西諸島および小笠原諸島はサンゴ生育の北限である。 昆虫 亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で多様性に富む。森林が多いため、数も多い。都市部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にトンボの種類が多い。また、カブトムシなど里山に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化と共に少なくなった。江戸時代頃からスズムシやコオロギの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は、世界的にも珍しい。オオムラサキが国蝶。 1950-60年代、四大公害病に代表される大規模な公害の発生から、1967年の公害対策基本法を始めに水質汚濁や大気汚染などの規制法が相次いで成立した。これを受け、日本企業は、オイルショックのためにマイナス成長下にあった1973年-1976年の前後に集中して公害の防止への投資を行い、1970年代以降、大規模な公害の件数が急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため、「日本は公害対策と経済成長を両立させた」と言われる。 しかし、日本列島改造論が叫ばれた1970年代以降、地域振興を名目に道路建設や圃場整備などの公共事業、リゾート開発などの大型開発が盛んに行われ、日本固有の風致や生態系は大きく損われてしまった。また、ゴミ問題のために富士山の世界遺産登録を断念したことに象徴されるように、環境管理においても多くの課題を抱える。人工林の荒廃やダム建設などによって河川や山林の生態系が衰退していることにより、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど、人間の生活への影響も出ている。 高度経済成長期以降、日本人の食卓の変化や、海外の農産品の輸入増加、東京一極集中、天然林の伐採、地域振興における公共事業偏重など様々な要因により、農山村や農林水産業が衰退した。これに伴い、耕作放棄地の増加、人工林の荒廃、水産資源の減少などの問題が発生している。 都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、それよりも広域の地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。都道府県の内部には、市町村や、町村をまとめた郡、特別区等がある(日本の地方公共団体一覧参照)。一部の市は、行政上、別途政令指定都市、中核市、施行時特例市に定められている。 北海道地方 1.北海道 東北地方 2.青森県 - 3.岩手県 - 4.宮城県 - 5.秋田県 - 6.山形県 - 7.福島県 関東地方 8.茨城県 - 9.栃木県 - 10.群馬県 - 11.埼玉県 - 12.千葉県 - 13.東京都 - 14.神奈川県 上記は「一都六県」。「首都圏」はこれに山梨県を、「広域関東圏」には関東地方1都6県に親不知浜名湖線以東の新潟・山梨・長野・静岡の4県を、それぞれ加える。 中部地方 北陸地方 15.新潟県 - 16.富山県 - 17.石川県 - 18.福井県 福井県嶺南地域を近畿地方に含める場合がある。 新潟県を北陸地方に含めず、長野県、山梨県とともに甲信越と称する場合も多い。 東山地方 19.山梨県 - 20.長野県 中央高地 ともいう。岐阜県飛騨地域を加える場合もある。 東海地方 21.岐阜県 - 22.静岡県 - 23.愛知県 普通、「東海3県」というと、静岡県ではなく三重県を含めることが多い。なお、静岡県については関東甲信越各県と併せて広域関東圏とする場合も多い。 近畿地方 24.三重県 - 25.滋賀県 - 26.京都府 - 27.大阪府 - 28.兵庫県 - 29.奈良県 - 30.和歌山県 但し、三重県は近畿地方に含めず中部地方もしくは東海地方に含まれることも多い。なお、近畿地方のことを「関西地方」と呼ぶ場合は通常、三重県を除く2府4県のことを指す(場合によっては三重県のうち伊賀地域を加えることもある)。 中国地方 31.鳥取県 - 32.島根県 - 33.岡山県 - 34.広島県 - 35.山口県 鳥取県と島根県、そして場合によっては山口県の一部や兵庫県・京都府の一部をも含む地域を、山陰と呼ぶ。岡山県と広島県に山口県の多くを含めた地域を、山陽と呼ぶ(兵庫県の一部を含むこともある)。また、山口県を九州地方と併せて九州・山口地方とする場合もある。 四国地方 36.徳島県 - 37.香川県 - 38.愛媛県 - 39.高知県 四国山地より北を北四国、南を南四国とする。また、中国地方とあわせて中国・四国地方(中四国地方)とする場合もある。その場合、山陽と北四国とをあわせて瀬戸内と呼ぶ。 九州地方 40.福岡県 - 41.佐賀県 - 42.長崎県 - 43.熊本県 - 44.大分県 - 45.宮崎県 - 46.鹿児島県 山口県とあわせて九州・山口地方とする場合や、沖縄県とあわせて九州・沖縄地方とする場合もある。 奄美群島は、歴史・文化・自然等の面において九州よりも沖縄に近い ため、奄美群島を沖縄県とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。 沖縄地方 47.沖縄県 沖縄県は九州地方に含む場合もある。九州地方に含める場合は九州・沖縄地方と呼称することもある。 沖縄県は奄美群島と文化的、自然的に近い ため、奄美群島とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。 日本国憲法上、同憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例など、各種の法令が定められる。この他、日本国憲法改正以前の勅令や大日本帝国憲法以前の太政官布告・太政官達は新たに制定されることはなくなったが、憲法に違反しない限り有効である[要出典]。憲法上、裁判所は、全ての法令や行政行為などが憲法に適合するか否かを最終的に判断する違憲法令審査権を有し、最高裁判所を終審裁判所とする。もっとも、いわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えられることが多い。 日本国憲法は、現在の日本の国家形態および統治の組織・作用を規定している憲法。1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。ブルジョア憲法(資本主義憲法)の一種。 形式的には大日本帝国憲法第73条の適用により、大日本帝国憲法(通称:明治憲法)の改正の形をとって制定された。以降、2018年4月現在に至るまで、改正されたことは一度もない。硬性憲法に分類される。 日本国憲法の目的に関しては、諸説あるが、一説には第13条「個人の尊厳」の確保をその最大の目的として、以下の三つを三大原理とするものがある。 基本的人権尊重主義(自由主義) ― 国民の基本的権利保持と平等の両立を目指す。 民主主義(国民主権主義)― 主権が国民に由来する。 平和主義 ― 戦争の放棄(交戦権の放棄)、戦力(軍隊)の不保持を規定する。 統治機構は、憲法上、立法権を国会に、司法権を裁判所に、行政権を内閣に、それぞれ分配する権力分立制(三権分立)を採る。また、内閣が国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用する。41条は、国会を「国権の最高機関」と定めるが、この意味につき学説は分かれ、国政の中心的位置を占める機関であることを強調する政治的美称であるとする説(政治的美称説)、「国家諸機関の権能および相互関係を解釈する際の解釈準則となる」とする説(総合調整機能説) が有力である。 長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた第9条と自衛隊の存在意義などを巡って憲法改正論議が行われている。なお、一部には、現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして日本国憲法自体の無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。 「天皇」は、日本国憲法第1条に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人で、現行憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と記載されている。大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には天皇を元首とする旨の規定はない。 『日本大百科全書』は、天皇には通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている。 『岩波 日本史辞典』によると、「日本の君主制」は「天皇制」という。戦後に「社会科学用語として定着」したとされる。憲法で天皇を「象徴」と称することから、「象徴天皇制」ともいう。「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされる。 憲法学者の野中俊彦、中村睦男、高橋和之、高見勝利の共同著作『憲法I』(第5版)によれば、「象徴にすぎなくなった天皇は君主といえるか」という問題は、君主の定義による。民主主義の浸透後は、君主制が維持された国でも、君主権は名目化した。こうなると、君主制か共和制かの区別は無意味に等しい。天皇が君主かどうかは、憲法学上「ほとんど議論の実益のない問題」とされている。 東洋史学者岡田英弘の『倭国』および『日本史の誕生』によると、720年に完成した日本最古の史書『日本書紀』では、「高天原」より日向(宮崎県)の高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神アマテラスの孫ニニギノミコトの孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる。『百科事典マイペディア』によると、神武天皇は「もとより史実ではない」とされている。また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「両統迭立」、皇統が分裂抗争した「南北朝時代」という語が存在している。『NEWSポストセブン』では、「現存する世界最古の王室としてギネスブックに登録される日本の皇室」と記述されている。 日本国憲法に「日本国の元首」についての規定がないため、現在元首については様々な見解がある。政治学者の田中浩、憲法学者の芦部信喜、総合政策学者の長野和夫によると学説の多数は、権限を持つ内閣または内閣総理大臣を元首としている(内閣・内閣総理大臣元首説)。また、現行憲法施行後も変わらず天皇が元首であるとする説(天皇元首説)、国権の最高機関たる国会の長である衆議院議長を元首とする説(衆議院議長元首説)や、そもそも日本には元首が存在しないという説さえある。 日本は単一国家であり、その政治体制としては、おもに「象徴天皇制」(天皇を君主とすれば「立憲君主制」)・「議会民主主義制」・「議院内閣制」を採るとされる。 国会は、衆議院(下院)と参議院(上院)との二院から構成される二院制の議会(立法府)である。「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)により選出された国会議員(衆議院議員・参議院議員)によって組織される。ただし、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院に参議院よりも強度な権限が付与されている(衆議院の優越)。これは、衆議院解散があり、任期も短期間であるため、より民意を反映しているため、と説明される。 行政府である内閣は、その首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣から構成される合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。なお、日本国憲法施行以来、慣例として衆議院議員が内閣総理大臣に指名されている。国会から指名された人物は、天皇により国事行為として、儀礼的・形式的に内閣総理大臣に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣、その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、衆議院の実質的な解散権(解散決定権)を持つとする見解が多数説となっている(日本国憲法7条3項および69条を参照のこと)。 国会では、国会議員のみが法案提出権を保持する。国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する内閣提出法案(政府立法、閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない。政府提出法案は、内閣の下に設置される省庁が国会議席の多数を占める与党との調整を経て作成するため、省庁の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力が強い。選挙には地盤・看板(知名度)・カバン(選挙資金)の「3バン」が必要とされることから、世襲政治家が多い。1970年代以降は中曽根康弘や小泉純一郎といった例外を除いて、内閣総理大臣の任期はせいぜい2年にとどまり、2006年(平成18年)以降は1年前後の任期が続いた。 55年体制とその後 国会では、1955年(昭和30年)に結党された自由民主党(通称:自民党)が、一貫して最多の議席を占めていた。同年に統一された日本社会党(通称:社会党、現在の社会民主党)と共に、両政党が結党した西暦年の下2桁をとって「55年体制」と呼ばれる政治体制を形作った。この体制は、自民党が与党として党の総裁(党首)を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組織し、社会党が野党として自民党と対立・協調しながら、国政を運営するものである。新自由クラブと連立政権を組んだ1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの一時期を除き、1993年(平成5年)までの約40年間、自民党の単独政権が続いた。 1993年(平成5年)に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産連立政権である細川内閣(細川護熙首相)が成立したことで自民党が政権を離脱し、これをもって戦後長年の日本政治を構築してきた「55年体制」が崩壊した。翌1994年(平成6年)6月に自民党・社会党・新党さきがけの自社さ連立政権である村山内閣(村山富市首相)が成立して自民党が政権に復帰した。次の橋本内閣(橋本龍太郎首相)以後、自民党は連立相手を組み替えながら総裁が内閣総理大臣に就任する時代が再度継続されたが、2009年(平成21年)8月の衆議院議員総選挙で大敗、衆議院第1党から転落し、翌9月に民主党・社会民主党・国民新党からなる民社国連立政権、鳩山由紀夫内閣(鳩山由紀夫首相)が成立。民主党を中心とする連立政権は野田第3次改造内閣(野田佳彦首相)を最後に2012年(平成24年)12月の衆議院議員総選挙での敗北で終焉を迎え、自民党と公明党の両党が再び政権に復帰し、自公連立政権が復活した。 日本国憲法により、司法権は裁判所(最高裁判所及び法律に定めるところの下級裁判所)が行使する。各地方公共団体には司法府は存在せず、各地に設置される下級裁判所(高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所、簡易裁判所)が裁判を行う。また、日本国憲法により特別裁判所(皇室裁判所や軍法会議など)の設置は禁止されている。 司法制度として、刑事裁判に市民感覚を反映させる陪審制と参審制を折衷した制度である裁判員制度や、検察官の公訴権に民意を反映する検察審査会制度などがある。 国会(立法府) 内閣(行政府) 最高裁判所(司法府) 地方自治は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、地方公共団体が担う。 市区町村 市が795、町が743、村が183、合計1718。北海道と沖縄、および一部の離島地域を除く日本国内では1889年(明治22年)にこの市町村制が施行された。他に、特別地方公共団体として、2016年10月10日現在、東京都に23の特別区(東京都区部)が設置されており、市に準じた権限を持つ(地方自治法第281条第2項・第283条)。かつては1万を超えた市町村数は、1950年代後半の昭和の大合併と2000年代の平成の大合併によって激減し、市町村の再編が進んだ。 執行機関たる市町村長、議決機関たる市町村議会 が置かれ、いずれも住民から選挙される。 財産を管理し、地域の事務を取り扱い、行政を執行する。法律の範囲内で条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、農林水産行政に関する権能などを除いて都道府県並みの権限を有する。 「市」は「し」と読まれるが、「町」は「まち」・「ちょう」、「村」は「むら」・「そん」の読みが混在している。 都道府県 都が1、道が1、府が2、県が43、合計47都道府県。1871年(明治4年)の廃藩置県により当初は導入された。市町村と異なり、県自体の合併・分立は1888年(明治21年)を最後に行われていない。 都は特別区に関する一定の調整機能を有するが、府県の間には法律上の違いはなく、名称の差異は歴史的なものである。道も地方自治法上は府県と同格であるが、特別法に道について若干の特例を定める(警察組織につき警察法第46条・51条など)。 執行機関たる都道府県知事、議決機関たる都道府県議会が置かれ、いずれも住民から選挙される。 市町村を包括し、より広域的な行政を行う。法律の範囲内で条例を定める。 現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。また、大阪都や中京都のように特別区をつくる運動もある(大都市地域特別区設置法)。 明治維新以来、信託等一部の民法の規定を除き、大陸法系(特にドイツ法及びフランス法)を基礎としているが、立憲君主制や議院内閣制に英国法、最高裁判所以下司法についての規定につき米国法の影響を強く受けているなど、憲法を中心として英米法の影響も見られる。日本国憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法を総称して六法と称する。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。商法のうち、企業に関する定めの多くは、会社法に分けられた。刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料、没収が刑罰として定められている。私法分野においては一定の範囲内で慣習法は効力を有するが(法適用通則法3条)、刑法については罪刑法定主義を採り、慣習法を排除する。 死刑制度のあり方を巡っては、憲法制定の当時から議論がある(死刑存廃問題#日本での動きを参照)。ただし、判例は死刑制度を合憲としており(死刑制度合憲判決事件)、いわゆる「永山基準」を「死刑選択の許される基準」としている。2009年より、刑事事件につき重大な犯罪について裁判員制度が導入されている。 戦後、憲法によって表現の自由・報道の自由が保障され、建前上、報道に関する政府からの介入は存在しない。 記者クラブ制度によって加盟しているマスメディアのみが記者会見を独占し政府や行政機関などからの情報を受けるメリットを享受している。記者クラブが開催している会見は、加盟マスコミ以外を排除しており、報道の自由を侵害しているとフリージャーナリストや外国メディアなどからの批判が多い。テレビ放送・ラジオ放送については放送法により、中立な内容が義務付けられており、政府が発行する免許が必要である。総務省所掌の公共放送である日本放送協会(通称:NHK)の予算は、国会の承認が必要である。新聞については、再販制度の存廃など、様々な形で事実上の介入が行われている。また、収入源の広告料収入を大企業に頼る大手マスメディアは、スポンサーとなりうる大企業を批判することに慎重であり、また中国をはじめ経済的に大企業が依存する国家に対しても慎重な態度を取る。一方、一部団体の抗議の対象になるのを避けるため、「放送禁止用語」や「出版禁止用語」を定めて差別的な表現や下品な表現を「自粛」・「自主規制」することが行われている。また、現在進行中の誘拐事件など人命に関わる場合などにも「自主規制」の対象になる。 なお、近年に発生した報道機関を狙ったテロとしては、未だ解決に至っていない赤報隊事件がある。国境なき記者団が作成する報道の自由度を示すランキングでは、調査対象国180ヶ国中、第61位(2015年)である。各国を5段階に分けた分類では、上から3番目の『顕著な問題のある国』にカテゴライズされる。国境なき記者団は日本における課題として、記者クラブ制度により外国人ジャーナリストやフリージャーナリストによる情報のアクセスが妨げられていること、「東日本大震災で発生した津波や原発事故に関しての過剰な報道規制」などを挙げている。また2007年度の調査では「過激なナショナリストによる報道機関への襲撃の減少が見られる」と述べていた。また、2018年には放送法第4条(政治的公正・事実の報道・多角的な報道について規定されている)の撤廃が検討されている。 現在、世界の195か国に日本の大使館が設けられており、155か国が日本に大使館を設け38の国際機関が日本に事務所を設けている。 2018年10月には日本からビザなしで渡航できる国の数が世界一位となった。これまで、日本はシンガポールと並び、ビザを取得しなくても189ヵ国に渡航することができたが、ミャンマーが日本に対してビザを免除したため日本はビザ無しで190ヵ国に渡航出来ることになり、単独1位となった。調査対象となった199の国と地域の中で最多だった。 唯一の軍事同盟国であり、国内に軍隊の駐留(在日米軍)をさせているアメリカ合衆国との関係を最も重視し、世界中の国と友好関係を築いているといわれている。外交の基軸として国際連合(通称:国連、UN)を中心に各国と幅広い外交を展開し、援助や貿易を実施している。伝統的に地理的に近距離にある東アジア各国と強い関係を保持してきた。更に、第二次世界大戦敗戦後から日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)締結・発効までに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)として日本の間接的占領統治を担った主要国で、その解除後も軍隊の駐留継続をはじめとして多大な影響力が行使されるアメリカ合衆国(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)を最重視している。その他、アジア太平洋経済協力(APEC)の参加国の一国として、東南アジアのASEAN(東南アジア諸国連合)諸国やオーストラリア、かつての冷戦下の西側諸国の一員として西ヨーロッパ各国、欧州連合(EU)主要構成国との関係も深い。また、日本はG7、G8、G20、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO) 加盟国であり、いわゆる列強に数えられる国家の一つである。 国際連合:日本はかつて第一次世界大戦の戦勝国である連合国の一国として、国際連盟(League of Nations)の原加盟国ならびに安全保障理事会常任理事国を務めていたが、やがて脱退し、連合国(現在の国際連合の前身) (United Nations) を相手に枢軸国の一国として第二次世界大戦を戦い敗れたという経緯がある。国際連合は戦後も継続し、日本は敵国条項によって現在もあくまで「敵国」の位置づけである。1956年(昭和31年)にソ連との国交を回復し加盟を果たした。これまでに国際連合安全保障理事会の非常任理事国として最多選出されている。また敵国の位置づけにありながら世界第2位の国連分担金を拠出するという矛盾した状態になっていたが、2018年に決定された2019年からの国際分担金比率は中華人民共和国に抜かされ世界第3位の位置付けになった。しかしながら、敵国の位置付けにありながら高い国連分担金を負担している現状に変わりはない。国連改革の一環としてドイツ、インド、ブラジルなどのG4諸国と常任理事国入りを訴えているが中国や韓国の反対で実現していない。また、国連では約800人の日本人専門職員が働いているが、G7諸国は職員数が1000人以上なのを踏まえると日本人職員の数は少ない。事務局では望ましい職員数の197名に対し事務局で働く日本人職員数は79名となっている。日本の知識層の多くは多大な貢献に比べ、恩恵や評価を受ける以前に敵国条項すら削除されないと指摘している。 長く国連の武力行使を支持しても、経済援助のみに関与するという慎重姿勢を取り、湾岸戦争でも巨額の戦費負担をしたが戦力を出さなかった。しかし近年、PKO協力法などの成立に始まり、課題を残しつつも法的根拠が整った。イラク戦争終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなどの機会も増えている。 東アジアでは、古来地理的に近距離で隣接する中国や朝鮮などを中心に外交が行われていた。日本は儒教・漢字文化圏の一角であり、伝統的な文化の中には、雅楽、水墨画、陶磁器、禅宗、書道など、東アジアをルーツに持つ物が多い。明治期以降、文明開化により西洋文化を採用して発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した。欧米を始めとする世界中との外交が盛んになるのは、明治維新以降である。かつて日本領であった台湾(中華民国)や韓国(大韓民国)は(日本統治時代の台湾・日本統治時代の朝鮮)、現在でも重要な貿易相手である。北朝鮮(正式国名:朝鮮民主主義人民共和国)に対しては、日本は国家承認しておらず、国交も存在せず経済制裁を実施している。日本、韓国、台湾は、それぞれアメリカ軍と同盟関係・安全保障関係にあり、相互に緩やかな協力関係にある。一方、建国由来から朝鮮戦争以降、北朝鮮と中国(中華人民共和国)とは同盟関係にあり、中国とロシア(旧ソビエト連邦)も協力関係にある。 中華人民共和国:日本は1972年(昭和47年)の日中共同声明および1978年(昭和53年)日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した。改革開放政策の後、経済成長を達成して数多くの日系企業が生産拠点を移転させ、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった。靖国神社問題に関連して関係が悪化した。日本では、2005年の中国における反日活動なども盛んに報道され、また、2008年6月、アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。また、日本人の中国への旅行者も減少した。一方、中国では、前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての国際緊急援助隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もある。2010年以降、GDPで日本を抜いて、無視できない存在となっている。 軍事面では日本全土を射程に収める核弾頭を搭載可能な弾道ミサイル東風21型を推定100発、精密攻撃が可能な巡航ミサイル東海10型・長剣10型を推定600発保有しており日本の脅威となっている。 北朝鮮:現在、国交は存在しない。北朝鮮は、韓国併合(旧李氏朝鮮・大韓帝国の大日本帝国への併合)に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本国政府は、日韓基本条約に基づいて大韓民国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場である。また、賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、日本が北朝鮮へ経済協力を実施する方法で合意したと発表されたが、その後、国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題や不審船事件などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。日本は、現在これらを受けて経済制裁を北朝鮮に実施している。北朝鮮は、核カードを使ってアメリカからテロ支援国家指定の解除を引き出した。2012年(平成24年)4月、北朝鮮は自国憲法(朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法)に核保有国と明記した。軍事面では西日本を射程に収める短距離弾道ミサイルのスカッドERを推定350発、日本のほぼ全域を射程に収めるノドンミサイルを推定200発保有しており、日本の安全保障上深刻な脅威となっている。 大韓民国:建国当初より一般国民における反日感情が強く、朝鮮戦争中には韓国を支援するために警察予備隊(現在の自衛隊の前身組織)の掃海部隊や港湾労働者を韓国に派遣するとともに日本国内での韓国軍(大韓民国国軍)の軍事訓練を受け入れるなどしたが、1952年(昭和27年)には韓国が一方的に李承晩ラインを宣言し竹島を占拠したことによって多くの日本人漁師が殺害・拿捕され、竹島問題が発生した。また、日本に潜入した工作員によって新潟日赤センター爆破未遂事件や金大中拉致事件などの事件が起こされている。四月革命により李承晩独裁政権を打倒し軍事政権を樹立した朴正煕は国民多数の反発を押しきって日韓基本条約を締結し、日本との国交を樹立、日本から得た賠償金を経済成長の原資としたが、これを国民に隠蔽していたために後に日本統治下の植民地支配の賠償をめぐる紛争が起きる原因となった。韓国では近年まで日本の大衆文化禁止政策が実施されていたが、金大中政権で日本の大衆文化の自由化が進められ、日本への親近感を抱く人々の増加も見られた。盧武鉉政権では当初は日本との融和姿勢を見せたものの、間もなく強硬な外交方針に転じ、日本との領土問題や歴史問題にも強硬姿勢で臨んだ。2005年(平成17年)、盧武鉉大統領はアメリカ政府に対して日本を仮想敵国として想定するように提案した。政権時代後半には竹島問題などで「対日外交戦争」を公言し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝などもあって日韓関係は冷え切っていた。李明博政権では、前政権で悪化した近隣諸国との関係を修復し、日本にも比較的穏健な姿勢で臨む方針を当初は見せたが、今上天皇への謝罪要求や知的財産や漁業権の侵害や竹島問題など根本的な改善の兆しは見られなかった。韓国軍は日本全土を射程に収める巡航ミサイル玄武-3ミサイルを配備している。これに伴い韓国での日本大衆文化の流入制限も徐々に制限を緩和しつつある。2010年(平成22年)9月、日本の女性アイドルグループであるSKE48が日本語で歌唱する姿が韓国の地上波テレビで初めて生放送された。両国間で日韓犯罪人引き渡し条約を締結しているが、靖国神社に放火した犯人を政治犯として釈放したことについて、安倍晋三内閣総理大臣は「条約を無視する行為である」と述べ韓国側の対応を批判した。 中華民国:台湾(中華民国)は、日清戦争で大日本帝国に割譲されて以来第二次世界大戦終結まで50年間の日本統治時代を経験している。第二次世界大戦後は国共内戦で中国共産党軍(現在の中国人民解放軍)に敗北した中国国民党が1990年代まで独裁政治を敷いてきた。かつて日本は中華民国を中国の代表政権と見なしていたが、1970年代の日中国交正常化の際、日本は中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮し台湾を独立した国家とはみないことを約束した。日本政府は現在までこの中華人民共和国優先政策を対中台外交の基本姿勢としている。2011年現在も台湾を国家として承認しておらず、双方ともに大使館を配置しない代わりに民間の利益代表部を置く。1996年に国民党一党独裁が解消され、その後は国民党と民主進歩党との二大政党である。日本統治時代を経験した多数派の本省人が親日的傾向が強いのに対し、政治的実権を握っていた少数派の外省人は、反日姿勢が強いと言われていたが、1990年代には本省人である李登輝が総統に就任するなど融和が進展した。安全保障面において台湾は、台湾関係法などを背景にアメリカ軍と密接な関係にあり、日米安保体制を維持する日本とも間接的な協力関係にある。1970年代以降、日台間でも尖閣諸島の領有問題があり係争も勃発したが、深刻な対立に至っていない。人的・経済的な交流は、一貫して盛んで、特に近年は李登輝政権以降の台湾本土化運動の結果として国民の親日姿勢が強まる傾向にある。2011年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震・東日本大震災では、台湾から世界最多となる200億円超の義援金が日本に送金された。また、交通面において海外で初めて日本の新幹線システムの一部を採用した。 歴史的には日本と東南アジア地域との関係は朱印船貿易が盛んだった16世紀末から17世紀ごろまでさかのぼる。日本が鎖国をした江戸時代の間に、タイ王国を除けば東南アジア地域は欧米列強(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス)の植民地になっていった。第二次世界大戦では日本と同地域を植民地支配する欧米列強との交戦地となったために同地域の住民にも多数の犠牲を出した。しかし第二次世界大戦後に独立を果たした各国は日本と国交を結び、良好な友好関係を構築し、それを堅持している。タイ、フィリピン、マレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。また、日本は、これら各国との経済関係を1970年代ごろからASEAN()を通じて深めており、1997年からASEAN+3に参加している。また自由貿易協定 (FTA) の締結を模索している。自衛隊のPKOとしての派遣も、初の派遣がカンボジアへ、また東ティモールへも派遣された。東南アジア諸国連合 (ASEAN) 諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。また、この海域(特にマラッカ海峡)は、中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没する。その対策として、海上保安庁が各国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っている。天皇皇后がタイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピンを訪問している。 タイ:タイ王室と皇室との関係も良好で、日本とタイの貿易結合度は第一位となっており、世界とタイとの平均的な結合度の4倍となっている。 フィリピン:フィリピンの主要貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は中国や韓国との貿易も増えている。在日フィリピン人は、在日外国人として国籍別で第4位の人口を有する。16世紀にはスペインが当時の領有地だったフィリピンを対日貿易の拠点とし、日本を追放された高山右近も受け入れたが、江戸幕府の鎖国政策による外交関係の断絶とともに日本との交流は途絶えた。太平洋戦争(大東亜戦争)では当時アメリカ自治領だったフィリピンに日本軍が侵攻し、現地住民を巻き込んで激戦地となった経緯があり(フィリピンの戦い)、戦後のフィリピンでは対日感情が悪かったが、経済支援などによって徐々に改善が進められた。  ベトナム:1905年(明治38年)、フランス領インドシナとしてのフランス統治に反発するベトナム民族運動家達は日露戦争勝利後の日本に留学する東遊運動を行ったが、日本政府は1907年(明治40年)締結の日仏協約によって運動家を追放した。第二次世界大戦でフランス第三共和政が崩壊した後、日本は日中戦争(支那事変)の一環として1940年(昭和15年)に仏印進駐を北部に、1941年(昭和16年)には南部に実施したが、特に南部仏印進駐は同年12月の日米開戦を強く促した。1945年(昭和20年)3月にベトナム帝国を成立させてフランスを排除した日本が同年9月に降伏すると、北ベトナムとして成立したベトナム民主共和国、現在のベトナム社会主義共和国は、ベトナム戦争において日本と安全保障面で協力関係にあるアメリカ合衆国と交戦したベトナム共産党による独裁政権であるが、同戦争では日本は直接参戦を行わなかった。ベトナム戦争終結前、まだ南ベトナム政府が残留していた1973年(昭和48年)には日本との国交を樹立し、日本はベトナムに多額の開発援助を続けてきた。近年も日本の国際連合安全保障理事会(通称:国連安保理)への常任理事国参入をどのような圧力を受けたとしても支持すると表明するなど日本に協力的である。一方、1975年のベトナム統一後に社会主義政策を嫌ってボートピープルとなったベトナム難民(インドシナ難民)の一部を日本は受け入れている。 シンガポール:イギリス領マラヤの中心都市だったシンガポールは1942年(昭和17年)にシンガポールの戦いによってイギリス軍を破った日本軍が占領すると昭南島と改称され(日本占領時期のシンガポール)、1945年(昭和20年)の日本の降伏まで軍事占領と華僑系を中心とした住民の抵抗が続いた。1966年(昭和41年)にシンガポールがマレーシアから追放されて分離独立すると日本は直ちに承認し、友好関係を維持した。2002年(平成14年)には日本・シンガポール新時代経済連携協定を結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国である。 カンボジア:旧フランス植民地のカンボジアでは、日本からは経済面での支援や地雷撤去の活動なども精力的に行われている。また、文化面でもクメール・ルージュによって破壊・弾圧された仏教の施設や信仰の復興に、日本の仏教界が大きく貢献している。カンボジアは日本の常任理事国参入について不変の支持を行っている。一党独裁化を強め欧米から批判を受け支援を打ち切られているカンボジアに対し日本だけが支援をしており日本は経済支援と民主化の同時進行を促す立場をとっている。しかし日本がカンボジアに選挙の資金援助した2018年の選挙ではカンボジア政府が最大野党の解体を決定、全議席が与党のものとなり民主化は逆行している。  インドネシア:旧オランダ植民地で、独立の際に一部の日本人が関与したこともあり、親日派もいた一方、1960年代の政局の混乱のなか共産党勢力の台頭に伴い中国等へ接近したが、1966年以降のスハルト体制は再び日本との関係を強めた。2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。そのためロシアや中国との関係強化をすすめ、多極外交を展開している。日本との関係は良好で、LNG貿易をはじめ日系企業も多数進出し、また日本の政府開発援助 (ODA) はハードインフラ整備に加え、市民警察活動促進計画 など統治能力支援(ガバナンス支援)や法整備支援 などソフトインフラ整備の支援も近年行っている。スマトラ島沖地震では、金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、更にアチェ州へ海上自衛隊の艦艇を派遣した。防災システムの構築にも支援を行っている。 アメリカ合衆国:軍事・経済・政治すべてにおいて緊密な関係にある。黒船来航から始まる経済関係は、アメリカ合衆国の経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。大東亜戦争(当時の日本側呼称、第二次世界大戦戦線の一部)では、東アジア・西太平洋地域で4年間戦闘に至った末に降伏し、米軍を中心とした連合軍に占領された。アメリカ合衆国はGHQ(SCAP)を通して7年の占領統治で中心的な役割を果たした。日本はサンフランシスコ講和条約にもとづき1952年(昭和27年)4月28日に主権が回復するが、依然として在日米軍に自国の安全保障の大部分を依存している関係は続き、翌年には日米安全保障条約が締結されいわゆる「日米同盟」が成立した。アメリカ合衆国にとっても本土から遠距離にある極東地域に軍事基地用地を提供し、日本においては思いやり予算とも呼ばれる多額の軍隊駐留費用を負担する同盟国の存在は重要なものであり、強固な同盟関係が続いている。これについて反対運動、特に基地の地元住民の米軍基地反対運動と基地移転問題が外交問題に発展することもある。日米関係は親密であるがゆえに時として摩擦も大きくなることがあり、ジャパンバッシングのような現象が起きることがある。そしてアメリカ合衆国政府の意向は、対日要望書などの形を通して日本政府に伝えられ、日本の政策決定に影響力を与える「外圧」となっているとされる。また、犯罪人引渡し条約を締結する数少ない国の一つである。 オセアニアの中でも南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。ミクロネシア連邦では、日系人のトシオ・ナカヤマやマニー・モリが大統領に選ばれている。パラオは、かつて日系のクニオ・ナカムラが大統領に就任し、一部の自治体で日本語が国の公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用しているわけでなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。 オーストラリア:オセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、経済、軍事、外交などで共同歩調を取る。2007年(平成19年)3月には、自衛隊とオーストラリア軍とが国際連合平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動、津波など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた安全保障協力に関する日豪共同宣言に調印した。これにより、日本にとって安全保障分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。 日本とロシアとの関係は1792年にアダム・ラクスマンが当時のロシア帝国の使節として根室(現在の北海道根室市)に来航したときにはじまる。江戸時代末期・幕末に江戸幕府との間で択捉島と得撫島の間を国境とする『日露和親条約』が締結された(日本ではこの条約を「北方領土」の固有性の根拠としている)。ラクスマン来航のときにすでにロシアは南下政策をとっており、中央アジアやコーカサス地域も征服しており社会主義革命でソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が成立してからもこれら地域はソ連の構成国として維持された。そのために、中央アジアの西トルキスタン諸国やコーカサス地方の国々との関係は1991年のソ連崩壊後に本格化した。1997年(平成9年)に橋本政権が「ユーラシア外交」が提案されのちの政権も継承されることになった。しかし、2001年9月11日の米国ニューヨークでの同時多発テロ以降は低調である。経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から、一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある。ただ、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は活発である。 ロシア:日露関係は断続的に関係が深まる時期をはさみつつも、対立の時期が長い。これはかつての帝政ロシアが伝統的に南下政策を取り、太平洋への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があるからである。満州(現在の中国東北部)・朝鮮半島の支配権をめぐって1904年(明治37年)に勃発した日露戦争や、1917年(大正6年)に起こったロシア革命に日本などの諸国が干渉して起こしたシベリア出兵、第二次世界大戦終戦直前にソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本支配地域に侵攻したソ連対日参戦などが起こってきた。日本のポツダム宣言受諾(日本の降伏)による終戦後も南樺太と千島列島への侵攻を続け併合し、日本軍兵士を捕虜として連行してシベリア抑留をするなどの行為が日本の人々の反感を生み、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で一応国交が回復した後も、冷戦の中で緊張関係が続いてきた。1986年(昭和61年)以降に関係の改善が進み、1991年のソ連崩壊によりその外交権を継承したロシア連邦も比較的友好的な対日政策を取った。現在の日露両国の間では、経済的な交流も盛んだが、領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2を参照)なども生じており、その関係は円滑ではない。 南アジア各国とは友好関係を維持している。6世紀とされる仏教公伝以来、日本の宗教・文化・政治に深く根ざした仏教(大乗仏教)の発祥地として古代インドは「天竺」の名で広く知られ、サンスクリット(梵語)で書かれた仏教経典や哲学思想が広く流入した。また、16世紀後半からの南蛮貿易ではポルトガルがインド西海岸のゴアに築いていたポルトガル領インド植民地が重要な中継点となっていたが、南アジア諸国と日本の正式な外交関係は第二次世界大戦後の各国独立と日本の主権回復後に始められた。日本は「戦争による唯一の被爆国」であるということから(日本への原子爆弾投下)、核実験を実施したインドやパキスタンと距離を置いていた時期もあったが、近年、両国との関係が重視されるようになり、2006年(平成18年)に外務省アジア大洋州局に南部アジア部を新設した。宗教的な対立要因が存在していないため、両国間では特に厳しい対立関係にあるインド・パキスタン双方を含め、各国民の対日感情は比較的良好とされる。 一方、間に巨大な中国文化圏が存在し、7世紀以降に西アジアで広く信仰されたイスラム教の日本伝播が20世紀まで非常に希で、政治・経済面でも戦前の日本が英仏統治下の西アジアに入る余地はなかったため、日本と西アジア地域はトルコやペルシア(1935年からイラン)との小規模ながら友好的な外交関係を除くと希薄なままだった。しかし、1950年代に日本がペルシア湾周辺の油田についてイラン・サウジアラビア・クウェートなどの湾岸諸国と相次いで協定を結び、1960年代以降は原油輸入元の大半を中東諸国が占めるに至って、日本経済の根幹に関わる「エネルギー外交」で中東諸国との関係が死活的に重要となった。近年では日本の自衛隊が中東地域での活動を行い、一方では日本人が犠牲になった殺害事件も起こるなど、西アジア諸国との関係は新たな段階に入っている。 インド:19世紀後半以降、日本とイギリス領インド帝国は綿織物市場で激しい国際競争を続けたが、日露戦争での日本の勝利はインドの民族運動家に「アジアの解放」という希望を与えた。その後の日本が帝国主義政策を進めると、ジャワハルラール・ネルーはこれを批判したが、スバス・チャンドラ・ボースはその後も日本に期待し、第二次世界大戦で日英が開戦すると日本は「大東亜共栄圏」の一員としてボースによる自由インド仮政府設立を支援し、インパール作戦でインド侵攻を目指したが敗退した。しかし、日本の軍事行動がイギリスのインド統治に打撃を与えた事もあり、ネルー首相の下で1947年に独立したインド共和国は「非同盟運動」を掲げながらも敗戦国日本への融和と支援を続けた。 その後はインド国民会議派政権が非同盟を掲げながらソ連との軍事協力を重視し、国内でも国家統制や計画経済を基本とした「インド型社会主義体制」を取り、さらには1974年に核実験を実施した影響で、日本とインドの関係は知名度や距離の割には強くなかったが、1990年代のインド経済の市場化やインド人民党による政権交代などで、日本の経済進出が加速した。また、巨大化する中国を東西から挟む地政学的な理由もあり、今後関係が特に親密になると期待されている国のひとつで、近年の著しい経済発展や、情報技術での実績が注目されている。日本とインドはG4として共に行動する立場であり、2008年10月には、両国首脳が日印安全保障協力共同宣言(日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言)に署名し、日本にとって、アメリカ、オーストラリアに次いで、安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった。さらに2011年、日本とインドは関税を段階的に撤廃するFTA(自由貿易協定)を柱としたEPA(経済連携 協定)が発効。これが達成されれば、日本からインドへの輸出の約90%、インドから日本への輸出では約97%に相当する物品で、10年以内に関税がゼロになる。  パキスタン:1998年の地下核実験から2005年4月まで援助を停止していた。しかし、自衛隊イラク派遣などで、安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相が訪問したのを機に有償資金援助を再開した。 バングラデシュ:1973年の独立以来世界最貧国の一つとも言われ、日本は、経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている。また、日本と比べると非常に安い製造費での出荷が可能という点が着目され、アパレル産業を中心とした日系企業の進出が続いている。近年はバングラデシュの高度経済成長が続いているが、その労働条件の劣悪さが非難される事もある。 アフガニスタン:日本は、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の修復などに多額の援助を行っている。アメリカ合衆国が行った武力攻撃を支持したが、部隊の派遣は、自衛隊インド洋派遣に留めている。 イラン:日本と共に古代から続く領域国家で、8世紀に収められた奈良の「正倉院」の宝物庫にはサーサーン朝ペルシアの影響を受けた文物も収められている。正式な国交樹立はパフラヴィー朝成立後の1926年まで遅れ、第二次世界大戦末期の1945年2月には英ソ両国に占領されたイランが対日宣戦を布告したが、1953年の国交回復後は石油輸入元の確保を求める日本側とイギリスからの石油利権奪回を狙うイラン側の利益が一致し、油田開発や反共主義外交で両国間の関係は緊密になった。1979年にイラン革命が成功してイスラム教による国家統治と強烈な反米主義を掲げるイラン・イスラム共和国が発足した後も両国は友好関係の維持を求めたが、続くイラン・イラク戦争やアメリカによる対イラン経済制裁の影響を受けてイラン・ジャパン石油化学(IJPC)プロジェクトが中止され、その後もイランの核開発問題などが災いして、両国間の経済関係は現在でも双方の期待ほどには進展していない。 イラク:イラク戦争の後、自衛隊イラク派遣を行った。 イスラエル:日本は、中東和平やパレスチナ問題に関して中立の立場であり、政府高官が訪問する際には、イスラエル・パレスチナ自治政府の双方と会談が設定される等、バランスが図られている。 トルコ:親日国の代表として紹介される国である。オスマン帝国末期の1890年のエルトゥールル号遭難事件が友好関係の起源としてしばしば取り上げられる。経済技術面での交流では日本の建設会社によってボスポラス海峡にファーティフ・スルタン・メフメト橋を建設したことが挙げられる。 日本が明治維新において近代化の模範としたのがロシアを含むヨーロッパ、よりわけ西欧諸国であり、『脱亜入欧』(福沢諭吉)の造語にあるように、明治時代以降に日本が留学生の派遣、お雇い外国人の使用などで積極的に学問、技術、文化の摂取に努めた。第二次世界大戦以降、西ヨーロッパを中心とする北大西洋条約機構(NATO)諸国と間接的な同盟関係にある。また、皇室は、イギリス王室をはじめ、オランダ、スウェーデン、ベルギーなどのヨーロッパ各国の王室と深い友好関係を築いている。一方、特にオランダなどには、第二次大戦で交戦したことによる悪感情が一部に残っているとも言われる。冷戦の終結によって「鉄のカーテン」が撤去されると社会主義陣営に属していた旧東欧諸国やバルト三国との交流も活発となり、今上天皇・皇后美智子が2002年(平成年)にポーランド、ハンガリー、チェコを、2007年にエストニア、ラトビア、リトアニアを訪問している(立ち寄りもふくむ)。 フランス:日仏関係は、幕末には江戸幕府がフランスの軍制を採用するなど、交流が始まり、明治期には法制面で影響を受けた。政治・経済面よりも文化面での交流が深い点に特徴がある。江戸時代の日本の文化は「ジャポニズム」として印象派美術などフランス文化に影響を与えた。またフランス文化は、美術、音楽、食文化、文芸などの面で日本の近代化に大きな影響を与えた。近年ではサブカルチュアーの分野での交流が盛んである。 ドイツ:日独関係は、日本が近代化を進めるにあたって、イギリスおよびアメリカ合衆国との関係に次いで重要な役割を果たした。科学技術・音楽・法律・文芸などにおけるドイツの影響は、現在の日本にも色濃く残っている。第一次世界大戦で日本と当時の帝政ドイツは交戦国となり、勝利した日本はアジア・太平洋地域におけるドイツの利権を獲得する。第二次世界大戦で日本とナチス・ドイツは対ソ連を意識して日独伊三国軍事同盟を締結したが、同盟はついに実効的なものとはなり得ず、両国は互いに不本意ながら米英を敵に回し敗北するという結末となった。戦後は、共に焼け野原から奇跡の復興を果たした経済大国として平和的な関係となり、重要なパートナーとしてイギリスやフランスを凌ぐヨーロッパ最大の貿易相手国となった。さらに、政治の面でも共に常任理事国参入を目指すG4のパートナーとして行動する。 イギリス:日英関係は、江戸時代前期の三浦按針に始まり、途中日本の鎖国や第二次世界大戦による中断をはさみながら長く続いている。特に強調されるのは19世紀後半から20世紀初頭の日本の近代化に果たしたイギリスの役割であり、イギリスは経済・文化・学術・政治・軍事のあらゆる面において日本に最も強い影響力があった。1902年(明治35年)、両国はロシアへの対抗として日英同盟を締結し、日露戦争や第一次世界大戦、シベリア出兵において相互に支援を行った。しかし、日中戦争(支那事変)と日独伊三国同盟によって両国は敵対することとなり、第二次世界大戦において交戦国となった。終戦後、イギリスは連合国の日本占領に参加した。占領終了後は、日本の皇室とイギリス王室の交流をはじめ、経済・文化面でも深い関係を築いている。  ブルガリア:日本とブルガリアの関係は、ジフコフ国家評議会議長が二度来日するなど、社会主義時代から交流があった。大阪万博でブルガリア館がヨーグルトを展示して以降、日本ではヨーグルトの国として有名であり、明治ブルガリアヨーグルトはブルガリア政府から許可を得て国名が使用されている。 総じてラテンアメリカと呼ばれる地域とほぼ一致するアメリカ大陸の中南部は、日本が西欧諸国との接触を持った16世紀には既にスペインやポルトガルの支配下にあった。スペインは現在の中米諸国やフィリピンを含むヌエバ・エスパーニャを統治し、ここを通じて対日貿易の展開や慶長遣欧使節の受入などを行ったが、使節団の帰国時には江戸幕府の鎖国政策が強化されており、日本と同地域との交流は17世紀前半に一度途絶した。 19世紀後半に日本が開国し、続いて明治維新が起きた時、ラテンアメリカ地域は既にほとんどが独立していた。明治政府は江戸幕府がアメリカ合衆国や西欧諸国との間で結んだ「不平等条約」の解消に苦心する中、ラテンアメリカ諸国との平等条約締結による外交実績の強化に動き、メキシコを皮切りに次々と外交関係を樹立した。中南米諸国も農業労働力の確保に利点を見いだし、19世紀末から日本人移民の受入を開始した。ただし、この地域はモンロー主義以来、アメリカ合衆国が強い関心と影響力を維持しており、真珠湾攻撃で1941年に日本とアメリカが第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入するとメキシコ以外の中米諸国は即座に、それ以外の国も1942年のブラジル・メキシコから1945年までに全て対日宣戦布告を行って、一部では日系人の強制収容やアメリカ合衆国への国外追放も実施した。戦後は日本がアメリカの強い影響下に入った事もあり、両地域の交流は再び強化され、日本企業の進出や日系人労働者の日本移入なども行われた。また、東南アジアの経済発展も取り込む環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に日本やメキシコ、ペルー、チリなどが参加し、同協定に不参加となったアメリカ合衆国を抜きにした独自の協力強化も進められている。 中央アメリカ(中米)諸国とは、人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。また、キューバなどの社会主義国とも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、ペルー日本大使公邸占拠事件でも日本の要請を受けたキューバがゲリラの亡命受け入れを受諾するなど協力した。 南アメリカ(南米)は、地理的に地球の真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からペルーやアルゼンチンと深い友好関係を有する。また、かつて日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。貿易関係では、チリとの関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやパラグアイといった親日的な国も多い。 バハマ:1973年7月10日の独立から二日後の同27日に独立承認。1975年から外交関係が設立される。2011年に「脱税の防止のための情報の交換及び個人の所得についての課税権の配分に関する日本国政府とバハマ国政府との間の協定」が結ばれたが2017年1月に改定することが両国で実質合意した。(バハマはタックス・ヘイブンとして知られている) メキシコ:中米諸国の中で最も関係が深い。幕末~明治期の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約は、それまで列強各国の不平等条約に苦難を強いられた日本にとって、初めての平等条約である。その関係で、数ある諸外国の大使館の中でも国政の中枢地区ともいえる東京都千代田区・永田町に所在するのは、メキシコ大使館のみである。第二次世界大戦では1942年にメキシコが対日宣戦布告を行い、フィリピン戦線では日本軍とメキシコ軍が交戦したが、メキシコ政府は国内の日系人に対する強制収容は見送った。戦後の両国間の関係は良好で、多数の日本企業が進出するなど経済的な関係も深い。特に自動車産業はメキシコと接するアメリカ合衆国への輸出も盛んで、1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)の恩恵も受けたが、自国産業や労働力の保護をアメリカ政府が取るとその影響を受ける環境にもある。 ペルー:1872年(明治5年)にマリア・ルス号事件をきっかけに修交が始まった。多くの移民が渡航し、ラテンアメリカ(中南米)で2番目に日系人口が多く、第二次世界大戦では日系人の逮捕とアメリカ合衆国への国外追放がラテンアメリカ諸国で最も多く行われた。1990年代に日系人であるアルベルト・フジモリ(スペイン語で「フヒモリ」)が大統領に就任して急速に関係が緊密化し、在ペルー日本大使公邸占拠事件の強行解決にも成功したが、失脚の後、日本に亡命した。フジモリは出生時の日本国籍所持が有効と認められて参議院議員選挙に立候補した後にペルーに帰国して有罪判決を受けたが、娘のケイコ・フジモリは2度にわたり大統領選挙で惜敗するなど、日本及び日系人の存在感は今でも強い。フジモリ派と近いペドロ・パブロ・クチンスキ政権はTPP参加を決めるなど、日本との関係を重視している。 アルゼンチン:1898年(明治31年)、当時のロシア帝国との戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ春日、日進として購入し、それらが日露戦争で活躍したことなどから本格的な関係が開始された。また、フォークランド諸島の領有権を巡って勃発したイギリス対アルゼンチンのマルビナス戦争(フォークランド紛争)の最中、アメリカ政府やイギリス政府などからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を実施しないなどの日本の独自外交は、アルゼンチンの知日家から高く評価される。 ブラジル:約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり(日系ブラジル人)、政治・経済面のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を維持している。特に、Jリーグが開催し始めて以降、ブラジル人選手が最多数の外国人選手であり続けている。また、G4として共に国連安保理常任理事国参入を目指していることもあり、国際政治上で連携することも多い。 アフリカ諸国は、日本とは歴史的に関係が少なかった。主に日本からアフリカ諸国への開発援助と、アフリカ諸国からの地下資源や農水産物の輸入と日本からの工業製品の輸出という貿易関係が多い。 1993年から、ODAなどの経済支援を含む経済的・人的な交流を深める目的で、日本、国際連合、アフリカのためのグローバル連合、世界銀行が共催し、アフリカ開発会議 (TICAD:Tokyo International Conference on African Development) を開始した。 近年、アフリカ諸国に大使館を増設するなど関係強化に乗り出している。 サッカーなどスポーツの分野においては、アフリカ諸国の選手団を日本に招待した試合が行われており、良好な関係を築いている。  南アフリカ共和国:アパルトヘイト(人種隔離政策)で世界から孤立していた時代にも、多数の日本企業が進出して比較的密接な関係を築いていた。このため、国際社会から厳しい非難を浴びていた時期に、日本人は同国から「名誉白人」(国連から非難決議を受けた)の扱いを受けていた。 イギリスの公共放送BBCによる国際世論調査では、好ましい国の上位に挙げられている。2013年実施の調査結果では好ましい国の4位となっているが、大韓民国、中華人民共和国からの評価は低い。 以下の領有を巡る領土問題等を抱える。 日本政府が「解決すべき領土問題」と認識して国際的な了承を得ているもの 北方地域 第二次世界大戦の終結が決定的となる日本によるポツダム宣言の受諾(1945年8月14日)後、1945年8月28日から9月5日にかけ、大戦前から日本が領有していた千島列島(ロシア名:クリル諸島)に日ソ中立条約の破棄を通告したソ連軍が侵攻し占領した。以後、ソ連を承継したロシア連邦が現在に至るまで実効支配している。 ロシア(ソ連)は、戦争で獲得した領土と主張する。一方、日本は、北方地域(歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島)をその固有の領土として返還を求めている。ロシアは、歯舞群島・色丹島について日ソ共同宣言を根拠に日本への将来の返還を示唆している。日本は、択捉島・国後島を含む4島の一括返還を求め、これを拒否する。また、日本は、択捉島と得撫島との間での国境の確定にロシアが同意すれば、引き続きロシアによる統治を認める旨を提示したが、ロシアが拒否した。2007年にロシアが「面積二分割」案を提示した。現在、解決の目処が立っていない。樺太・千島列島を日本領と主張する有識者、団体も存在し、日本共産党は、千島列島の全域を日本の領土と主張する(ソ連による千島の占領がカイロ宣言等で示された連合国の「領土不拡大」原則に反し、違法であるとの理由から)ほか、一部では南樺太ないし樺太(全域)(サハリン)の返還も主張される。日本側は南樺太と千島全島はロシアとの間に領有権未定だと主張している。 相手国政府は「領土問題」はないと認識しているが、日本政府が「解決すべき領土問題」と認識しているもの 竹島(韓国・朝鮮名:独島) 日本の島根県・隠岐島から北西約157km、大韓民国の慶尚北道・鬱陵島から約92kmに位置する、2つの岩礁からなる小島である。日韓が領有を主張(韓国を朝鮮民主主義人民共和国も支持)して対立する。 韓国併合以前、大日本帝国と大韓帝国と、どちらの領土だったかを巡る議論に帰する。日本の国内法上、1905年の閣議決定・島根県告示によって編入された。これについて韓国は、「秘密裏に、また強制的に行われたものであり、法的根拠は持たず無効である。」と主張するが、日本は、「国際法に則った適法な手続きがなされたものであり、また新聞などでも報道されており秘密裏に行われたとの指摘は当たらない」と主張する。韓国は、独立から間もなく李承晩ラインを一方的に設定し、その内に入った日本の漁船・漁民を拿捕して釜山収容所に抑留したのみならず、第一大邦丸事件など漁船を相次いで銃撃し、多数の死傷者を出した。その後の日韓国交正常化交渉で李承晩ラインの不当性や竹島の領有を日本が強く主張し、1965年に李承晩ラインが廃止された。 1954年7月に韓国海軍が占拠し、現在、独島警備隊が引き継いで駐屯する。これに対して日本は、韓国による不法占拠として抗議し続け、また、1954年と1962年に国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国は、これに同意しない。 韓国民にとって独立の象徴と考えられていること、周辺の海域が豊かな漁場であること、また、莫大なメタンハイドレートや海底油田の埋蔵が推測されること、などが解決を難しくしている。 1965年の日韓基本条約の締結の際には日韓の実力者交渉で「竹島爆破」による領土問題の解消も囁かれたものの至らず、条約締結以降は外交的配慮で日本側からの提訴は控えられ、民主党政権では政府見解から「不法占拠」の表現が曖昧になるなど引け目になっていたが、2012年に李明博大統領による韓国トップとしては初の竹島上陸が強行されたことに対する世論の批判を受けた形で3度目の提訴が予定されている。 日本政府は「領土問題はない」と認識しているが、外国から領有権の主張がなされているもの。 尖閣諸島 尖閣諸島(中国名:釣魚台列島など) 1895年(明治28年)に、当時の第2次伊藤内閣(伊藤博文首相)が「尖閣諸島を日本の領土に編入すること」を閣議決定している。第二次世界大戦後は、沖縄県(琉球諸島および大東諸島))の一部としてアメリカ合衆国の施政権の下にあった。沖縄返還時に、施政権が日本に返還されて以降、現在まで日本が実効支配するが、その他に中華人民共和国(中国)政府および中華民国(台湾)政府がそれぞれ自国の領有を主張する。日本政府は「日本固有の領土にして統治されている尖閣諸島に領土問題は存在しない」という見解を示している。上の経済水域の問題や中台間の問題も絡み、複雑化の様相を呈する。アメリカ合衆国との沖縄返還交渉および1970年代初頭の東シナ海における天然ガス発見を機に、表面化した。中台に対抗し、度々、日本の右翼団体が上陸して灯台を建設(現在、日本政府が管理)するなどした。2005年、台湾の漁民が海上保安庁による取締に対して海上で抗議デモを行った。2002年からは政府が私有地を借りる形で管理し2012年には国有化されており、許可なく民間人の立ち入りが出来ない状況であるが、近年の中国人活動家による領海侵犯・不法上陸に対する政府の対応の甘さを指摘する世論の反発を受けている。 その他 領土問題に準じる、いくつかの問題がある。 日中間の排他的経済水域 中華人民共和国(中国)との間における、東シナ海で両国が主張する排他的経済水域の範囲の違いに起因する。日本は、両国の国境の中間線を境界線として主張し、中国は、ユーラシア大陸の大陸棚部分を自国の領域と主張する。国際的には、日本の主張が優勢であるが、中国と同様の主張をする国も存在し、現在、平行線を辿る。 近年、この問題が重要化したのは、この海域の地下に豊富な天然ガスの存在が明らかになったためである。中国は、天然ガスを採掘するプラント(春暁ガス田)を日本が主張する境界の近辺(中国側)に建設するなど強硬な姿勢を取る。これに対して日本は、日本側の資源も採掘される可能性があるとして抗議し、また、この海域での試掘権を設定し、日本の企業が取得した。日本が国際司法裁判所に判断を委ねようとする立場なのに対し、これに同意しない中国は、両国での共同開発を提示するが、日本は、これを中国に有利な条件と認識するなど、依然、解決の糸口が見えない。 沖ノ鳥島 サンフランシスコ講和条約においては沖ノ鳥島の存在が明記されているため、締結国と日本の間に問題は存在しない。日韓基本条約はサンフランシスコ講和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と規定されているが、韓国政府は2009年(平成21年)以降沖ノ鳥島を岩だと主張している。 日本政府は1931年(昭和6年)7月の第2次若槻内閣(若槻禮次郎首相)での内務省告示以来、沖ノ鳥島を島として支配しそれを継続していること、また、国連海洋法条約において島の定義が存在しないことを理由として、沖ノ鳥島を「島」であるとしている。それに対して中国政府および韓国政府は、沖ノ鳥島に関する日本の権利を容認しながらも[要出典]、国連海洋法条約121条3項における「岩礁」の定義に基づいて沖ノ鳥島は岩礁であると主張しており、沖ノ鳥島を起点に設定される日本の排他的経済水域(EEZ)については容認していない。 日本海の呼称 与那国島上空の防空識別圏 与那国島の西2/3が、沖縄のアメリカ統治期に東経123度線に沿って設置された防空識別圏(ADIZ、アディズ)を引き継いでいるため、中華民国(台湾)政府の管理下にある。現在、両国の関係が良好であるために情報の交換もスムーズだが、台湾有事において防衛上の重要な問題となる可能性が高い。2005年末から2006年にかけて台湾が防空識別圏から与那国島を除外して運用していたことも判明しているが、特に両国で取り決められたわけでもなく、曖昧なままである。 2010年(平成22年)6月25日、日本は菅内閣(菅直人首相)下で「防衛省訓令改正」により防空識別圏を与那国島上空にも拡大した。台湾には外交ルートを通じて説明した が、台湾の外交部は「事前に我々と十分な連絡をとらなかった」として遺憾の意を表明、日本の決定を受け入れないとしている。 南樺太・千島列島の放棄後帰属問題 南樺太および千島列島は、大日本帝国時代、いわゆる「内地」であったが、サンフランシスコ講和条約で日本は領土を放棄した。しかし、ソ連・ロシアとは北方領土問題のみ解決などから領有権を認めず、「未帰属」後として扱った。しかし、ロシアが実効支配しており、マスコミでも日本語名称は使用されなくなりつつある。(樺太→サハリン、豊原→ユジノサハリンスク、等) 当時ソ連の対日宣戦布告が違法とする立場や、ソ連(ロシア)がサンフランシスコ講和条約を批准していないことを根拠に、「主権残留説」も出ており、一部の論者はこれらの地域の領有権を主張している。また、それとは別に日本共産党が「千島列島返還」を主張している。維新政党・新風は南樺太と千島列島の全域が日本領であるとしている。 日本政府はこれらの問題について、「未帰属」(=未解決)としており、ロシアとの平和条約が締結された後で解決するとしている。 台湾の放棄後帰属問題 日本は台湾の領有権を放棄したが、いまだに中華人民共和国の領土とは、認めていない。一時は中華民国に割譲したが、今の日本政府は中華民国を「合法政府」とは認識しておらず、台湾の地位については、「発言する立場にない」としている。 台湾の主権が日本に残留している、あるいは、台湾の帰属は台湾住民の意思によって決定するべきである、という意見もある。 韓国の反日過激派による対馬の領有権主張問題 大韓民国には、対馬は韓国領であると主張する、一部の過激派が存在する。 しかし、韓国政府もそのような主張は、決して承認しておらず、日韓の右派団体同士による衝突を除けば、国際問題にはなっていない。 安全 近年、海外への渡航の増加に伴い、犯罪に巻き込まれるケースも増えている。特にアメリカ同時多発テロ事件以降、爆破や拉致・監禁事件なども多発し、有名な例としては、イラク日本人人質事件、アフガニスタン日本人拉致事件、アルジェリア人質事件では武装勢力に殺害される事件も2013年に起きた。また、2002年にニューカレドニアのリゾート地で現地の風習・文化をよく知らずに聖地とされる場所に無断で侵入したために地元民に殺害される事件も発生した。 世界的に最も良い方である日本の治安、例えば殺人の発生率が低い順に第3位(2000年〔平成12年〕)であることなど、日本人が日本での治安の感覚と同じように海外で行動すると、その感覚の大きな隔たりから犯罪に巻き込まれることがある。 マナー 米最大手の旅行ウェブサイトであるエクスペディアが行ったアンケート調査で、「行儀がいい」、「礼儀正しい」、「物静かで慎ましい」、「クレーム・不平が少ない」の各分野で1位を獲得するなど、2位のアメリカ人を大きく引き離して1位となった。 一方、以下のような事例も存在する。 2008年11月26日、北海道栄高等学校の生徒21名(当時)が修学旅行中に立ち寄った米国カリフォルニア州・ロサンゼルスの空港内にある免税店で高級ブランド品の集団万引きを行い、アメリカのメディアで大きく報道された。 国内の治安維持は、主に警察が担う。警察の機構は、内閣府の一機関たる国家公安委員会・警察庁、そして各都道府県の公安委員会・警察本部による二層構造であり、後者の下部組織たる警察署、更に日本から発祥の交番の存在が地域の安全を担う。交番は地域に根ざして、小ブロックの担当地域を効率的かつ濃密に警備できる。日本の警察はSAT等をも擁する文民警察である。 他に、沿岸警備隊たる海上保安庁が国土交通省の外局として、また、国境警備隊たる機能の一部を担う法務省入国管理局(入国警備官)や財務省の税関(税関職員)、あるいは、特に薬物犯罪を専門に管轄する厚生労働省の各地方厚生局麻薬取締部(麻薬取締官)などが、それぞれ設置されている。 銃砲刀剣類所持等取締法により、銃・刀剣などの武器の所持を厳しく規制している。国連薬物犯罪事務所の統計によれば、国連加盟192国の内、犯罪・刑事司法の統計を報告している国の中で、殺人、誘拐、強姦、強盗などの暴力犯罪の発生率が著しく低い。その理由については、制度的な要素、社会的な要素、日本人の遵法意識の高さなど諸説あるが、その一つとして厳しい銃規制も挙げられる。但し、イギリスの銃規制に見られるように日本と同等ないし罰則だけなら日本よりも厳しいのにもかかわらず、殺人事件に占める銃の使用される比率が日本の倍を超える国が存在するなど、銃規制のみが治安維持に貢献しているわけではない。 刑務所および拘置所は法務省が管理し、刑務官が実務を担う。 日本の防衛組織として自衛隊が存在する。自衛隊は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ために設置され、事実上の軍隊として機能し、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊から構成され、内閣総理大臣と防衛大臣による文民統制の下、防衛省によって管理される。また、事実上の準軍事組織として沿岸警備隊たる海上保安庁が存在するが、海上保安庁での対処が困難な事態が発生した場合、主に海上自衛隊が担当する。 大日本帝国憲法の統帥権を根拠に旧日本軍が政治に深く関与したことへの反省から、自衛隊法第7条により、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つと規定され、文民統制に注意が払われている。また、同じく戦前への反省から自衛隊海外派遣は長らく行われてこなかったが、自衛隊ペルシャ湾派遣や自衛隊カンボジア派遣を契機に開始された。現在では、海外派遣任務は自衛隊の主要任務となっている。 第二次世界大戦後、日本の部隊は、その所属にかかわらず、一切の直接の戦闘を経験していない。連合国軍の占領下にあった1950年、朝鮮戦争で海上保安庁の機雷掃海部隊(特別掃海隊)が派遣されたことがあり、死傷者も出している。富士総合火力演習やその他の公開演習などを通じて高い練度を評価されることも多いが、他国の軍隊や民兵組織と交戦に至った経験はなく、実際の戦闘においての能力は、未知数である。 日米安全保障条約に基づき、在日米軍が駐留する。 (イギリスの経済紙・エコノミストの調査部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニットが平和の指標として24項目を数値化する)「世界平和度指数」の2009年度版によると、戦争・内戦・テロ、それによる死傷者が無く、軍事費のGDP比が低く、犯罪率が低いことなどから、ニュージーランド、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、オーストリア、スウェーデンに次いで7位に評価され、2010年には3位とされている。ただ、この指標にはアメリカに防衛を依存している日本などに対し有利な計算方法との指摘が出ている。 陸上自衛隊 海上自衛隊 航空自衛隊 以下のような政策・傾向を継続している。 防衛費の絶対額では世界上位。しかし、国の経済力に対する防衛費の割合は、著しく低水準に抑えられている。 兵員・戦車・作戦機・軍艦の数などに見られる規模の小ささを、質の向上や同盟国(アメリカ合衆国)の能力によって補完する。 近年は財政状況の悪化により、仮想敵国や周辺諸国との協調的な軍縮でなく、単独で一方的・自主的に軍縮する。 ストックホルム国際平和研究所 (SIPRI) の統計によると、以下の通りである。 国内総生産 (GDP) に対する軍事費の割合ランキングは、世界の150位前後である(これは、アメリカ中央情報局 (CIA) の発行する CIA World Factbook の統計においても同様である)。 2008年度の防衛に関連する予算の総額は、為替レートベースで463億(アメリカ)ドルであり、1位のアメリカ合衆国、2位の中華人民共和国、3位のフランス、4位のイギリス、5位のロシア、6位のドイツに次ぎ、世界7位である。 1999年 - 2008年の10年間の軍事費の増減率は、中国が194%増、ロシアが173%増、韓国が51.5%増、日本が1.7%減であり、周辺諸国に対して相対的に低下している(これについてはアメリカからも懸念が示されている)。 このように GDP に対する割合の順位(世界の150位前後)に比べてドル換算した絶対額の順位(世界7位)の方が格段に高い理由として、以下が挙げられる。 GDP そのものが大きく、国力が高い。 円が強い通貨である。 広大な領海・EEZと長大なシーレーンを抱える。 周囲を軍事大国に囲まれる。 規模が相対的に小さい故に、質の高い要員・装備を目指しているため、装備調達や訓練にコストがかかる傾向にある。 人件費が高く、予算の大きな部分を占める。 装備の国産化を指向するにもかかわらず、武器輸出三原則で輸出を自粛していたため、購入単価が下がらない(しかし、2014年4月第二次安倍内閣によって防衛装備移転三原則へと移行したため改善する可能性もある。)。 要員 2017年における自衛官の定員(千人未満を四捨五入)は、陸自が約15万人、海自が約4万5千人、空自が約4万7千人、統合幕僚監部等が4千人、合計24万7千人、実数は、陸自が約13万5千人、海自が約4万2千人、空自が約4万3千人、統合幕僚監部等が4千人、合計22万4千人である。 特徴として、予備役に相当する予備自衛官等が約4万8千人であり、現役と比べての割合が非常に少ない(通常、予備役の数は現役の数を超える)。 防衛省の文官は、約2万1千人である。 徴兵制度は第二次大戦以降、廃止されている。 装備 定評ある海外製の兵器や、それと同等ないしさらに高性能と見られる国産装備を多く保有する。高い基礎工業力を生かし、車両や艦船の多く、そして航空機の一部が独自開発である。ただし、それらの輸出は武器輸出三原則によって自粛してきた。また、他国の製品であってもライセンス生産を行うなど、可能な限り、国内で調達する傾向がある。これによって、自衛隊の調達する兵器の多くは海外の同等のものよりも高コストとなっているが、他国の意志に左右されず兵器本体および保守部品の生産ができ、兵器の製造ノウハウを蓄積することによって、保守・運用の効率を高め、ひいては稼働率を高く保つことを狙っている。 予算 かつては防衛費をGNPの1%以下に抑える防衛費1%枠という閣議決定があり、現在は撤廃されているが、現在でもこの割合が基本となっている。 2014年のGDPに対する防衛費の割合は、SIPRI の統計による世界全体の GDP に対する軍事費の割合2.4%に対し、1.0%である。 2009年度の防衛に関連する予算の総額は、4兆7741億円(本体予算4兆7028億円+沖縄に関する特別行動委員会費112億円+米軍再編関係費602億円)、前年比で55億円 (0.1%) 減で、2002年度をピークに2003年度から2009年度まで7年連続で微減傾向である。2012年に民主党政権から自民党政権へ政権が交代され尖閣諸島問題など緊迫する情勢から2013年度防衛予算ではおよそ11年ぶりである300億円の増額が決定された。また自衛隊員の増員も検討されているが、今のところ目途は立っていない。 冷戦の時代、ソビエト連邦が最大の仮想敵国であり、自衛隊の部隊も北海道など北方に重点が置いて配置されていた。冷戦はソ連崩壊によって終結し、現在は軍拡を続ける中国、水際外交や国家犯罪を繰り返す北朝鮮の脅威の方が増している、これらへの対抗から部隊の西方への移転が進められている。防衛白書も、近年は中国・北朝鮮に対する脅威を主張している。しかし、根拠地の移転には広大な敷地や大規模な工事が必要なこともあり、あまり進んでいない。 アメリカ以外との安全保障協力 2007年3月にオーストラリアとの間で安全保障協力に関する日豪共同宣言が、続けて2008年10月にインドとの間で日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言が、それぞれ調印された。 核抑止 日本はアメリカ軍の広島・長崎への原爆投下によって無辜の一般市民が大量虐殺された経験や唯一の被爆国としての立場から、国民レベルでは核抑止論に対する抵抗・反発の感情が強い。しかし日本政府は「非核三原則」を標榜しつつも非核地帯宣言はせず、事実上の核抑止論の立場に立っており、アメリカの「核の傘」に頼っている。周辺諸国ではアメリカ、ロシア、中国が核兵器の大量保有国である上、北朝鮮が核兵器の開発の成功を発表している。それらに対し、独自の核保有もしくはアメリカとのニュークリア・シェアリングを検討すべきという民間レベルの議論もあるものの、政府および国会に議席を持つ全ての政党が核兵器の開発・保有に反対している。 シーレーン防衛 日本は、第二次大戦中に連合軍の通商破壊戦によってシーレーンを遮断され、物資が極度に窮乏する状況に追い込まれた。さらに1980年代より日本の海洋国家論の高まりと同時に、軍事のみならず、経済・食糧・エネルギー・環境などの総合安全保障の概念が認識されるようになった。漁業の安全や世界中との貿易での立国を維持する上でシーレーンの防衛(海戦や通商破壊などの危険回避)が重要であるものの、グローバルに広がるシーレーンの全ての防衛を独力で完遂することは、現実的にも困難であり、憲法第9条の制約もある。よって、同じく海洋国家として「海洋の自由」を標榜し、グローバルに軍事展開するアメリカと協力することで、コストを抑制しての有効な海洋の安全を図っている。一方で、マラッカ海峡などの海賊やテロも、東アジア全域のみならず、グローバルな共通の危機となり、非対称戦争に対応した国際的な警察力の強化、紛争予防も重要な課題となっている。 中華人民共和国 2001年から一貫して国防費の成長という急速な軍拡を続け、軍事力の近代化を進めている。その実態や将来像、意思決定の過程が不透明であることが脅威である 上に、文民統制が不十分で軍部の暴発すら心配される。日本とは海を挟んで接しているが、中国は外洋艦隊の建設によって海洋権益を拡張する姿勢を強めており、周辺国と係争や紛争を行っている。中でも台湾の併合(台湾回収)は国是 となっており、独立の動きがあれば武力侵攻することを示唆している。しかも中国の主張によれば台湾には沖縄県尖閣諸島が含まれており、中国の領有を主張している。さらには、中国の論壇にみられる沖縄県の独立もしくは併合(琉球回収)の主張に対して、一部の軍人が同調する発言すらみられる。今後は南西諸島ないしは太平洋北西部(フィリピン海)に中国人民解放軍海軍が強い影響力を及ぼすことが懸念される。このような情勢の下で日本は、中国との対話を続ける一方で、中国の軍事力に対抗する抑止力を整備し、日米安全保障態勢の維持・強化を図る。 日本は、修正資本主義・市場経済を採用する工業国であり、2016年時点で、国内総生産 (GDP) がUSドル時価換算の為替レートで世界第3位(購買力平価 (PPP) で世界第3位)に位置する経済大国である。一人当たり GDP は2015年時点で、USドル時価換算で世界第26位、購買力平価 (PPP) で世界第31位である。 通貨である円 (¥, yen, JPY) は、高い信認を有する国際通貨の一つである。日本人は、その信認の高さから現金決済や貯蓄を好む傾向がある。1964年に経済協力開発機構 (OECD) に加盟し、サミット(主要国首脳会議・当時のG5・後にG7・G8)にも1975年の第1回から参加している。 明治以来、西欧型の民法典を導入し、財産権を基礎とした資本主義を経済の基本とする。第二次世界大戦時の戦時体制を経験した後、物価統制令や傾斜生産方式、外貨準備に伴う割当制など、通産省や大蔵省が主導する護送船団方式により、製造業を軸に高度経済成長を果たした。1968年、国民総生産 (GNP) ベースでアメリカ合衆国に次いで第2位の規模の資本主義国となった。他の資本主義諸国と比較して失業率も低く、「最も成功した社会主義国家」と言われた時代もあった。1974年のオイルショックを機に安定成長期に入り、自動車、電化製品、コンピュータなどの軽薄短小産業(ハイテク産業)が急成長する産業構造の転換が進んだ。円高が進む中、比較劣位の産業のいくつかは、競争力を喪失して衰退し、自動車産業など、比較優位で競争力の高い輸出産業は、円高の波を乗り切り、基幹産業として世界でも最高水準の競争力を持つに至った。しかし、製造業では生産拠点が海外に流出する空洞化が進行している。1990年代前半にバブル景気が崩壊したことによる不況で、「失われた10年」と呼ばれる長期不況に苦しんだ。日本の経済成長率は、高度成長期はもちろんのこと、安定成長期にも欧米を上回っていたが、1990年代以降は欧米や東アジア諸国を大幅に下回っている(1991年から2009年までの日本の平均経済成長率は0.8%)。日本は継続的にアメリカ国債を購入し、2012年3月時点で1兆830億ドル分を保有し中国に次ぐ世界第二位の保有量となっているが、近年のドル安で約40兆円の為替差損が発生している。アメリカ国債からは毎年14.5兆円が償還されるが、償還金をアメリカ国債再購入に充てている。 所得 高度経済成長を遂げた日本では、「国民総中流」と呼ばれる貧困層が存在しないかのような意識が浸透していたが、近年、貧困層の存在が広く知られ、貧富の差が拡大しているという意識が広まった。経済協力開発機構 (OECD) の統計によれば、2005年度の貧困率は、OECD加盟国(30ヶ国のうち、貧困率を統計する17ヶ国)の内の第2位、15.3%である。この原因としては、高齢化社会による年金生活者や賃金の低い非正規雇用の増加が挙げられる。 雇用 戦後の日本企業では1980年代までは長期継続雇用が主流だったので、社会構造の変化による衰退産業・衰退企業や、経営破たん企業による、解雇や人員削減以外には、失業が社会問題化することは例外であり、経済成長率が高く、成長産業・成長企業による求人が豊富だったので、失業者も再就職による職業や生活の立て直しは困難ではなかった。1990年代以後のグローバル化の進行、GDPのゼロ成長、デフレ、非正規雇用の増大により、不安定雇用、低所得、貧富の格差の拡大、失業、再就職の困難などが社会問題化した。また、2008年以降の世界金融危機によって完全失業率は戦後最悪水準の5.0%にまで悪化していたが2015年は3.4%まで回復した。2016年10月時の完全失業率は3.0%である。 債務 1990年代以降における財政政策により、公的債務(国・地方の合計)が1100兆円以上となっているが、そのほとんどは国内で消化しており、外国に対する債務は5%程度と低い。 政府 OECD調査によれば、日本は人口に占める公務員の比率はOECD諸国平均よりも低く、経済に占める公営企業の規模も小さい。なお、GDPあたりの租税負担率においては、日本は28.6%であり、OECD諸国平均以下である(2011年)。 農業 他国と比較して生産量が多い農産物は、生糸、キャベツ、イネ(米)、サツマイモ、タロイモ(主にサトイモ)、茶、ホップなどである。 米は、日本人の主食であるが、他に米を主食とする諸国も多いため、780万トン世界5番目の生産量に止まる。 キャベツ、タロイモ栽培は、世界第5位である。 畜産業(畜産)では、養鶏が盛んであり、鶏卵の採取量は、世界第3位である。 林業 1970年以降の木材の輸入自由化により競争力を喪失し、一部のブランド木材の産地を除き、既に壊滅状態に追い込まれている。 水産業・漁業 漁獲高は、2015年時点で世界第7位(466万トン)である。 漁獲量制限などの措置は行っているが漁師の反発から徹底しておらず乱獲 の結果漁獲枠オーバー、漁業資源の枯渇が相次いでいる。西太平洋など公海を対象とした日本主導の漁獲量制限には当事者が守っていない、日本の割当の割合が多い と批判されている。 貿易(輸入・輸出) 食料自給率は、60%を世界各地からの輸入に頼るため、約40%と低い。近年、食の安全への関心の高まりから国産ブランドの需要が回復し、一部の農産物は、高級食材として輸出される。また、中国での魚介類を消費する習慣の広がりにより、水産物の輸出が急増している。 従事者 高齢化が進み、将来の人材の育成が課題とされている。 鉱業 地下資源は、全体としての産出量が概して少ないものの、埋蔵される鉱物の種類が非常に豊富で、俗に「鉱物の博物館」 と呼ばれる。鉱業の中心を占めるのは、世界第5位(2001年〔平成13年〕)の320万トンを産出する硫黄、そして、世界第2位(2005年〔平成17年〕)の6500トンを産出するヨウ素である。その他、産出量では、天然ガスの101千兆ジュールや石炭の302万トンが目立つ。少量ながら、原油をも産出する(約37万キロリットル・2001年時点)。金属資源は、亜鉛の4万3000トンを筆頭に、鉛、銅を産出する。この3金属は、いずれも非鉄金属として非常に重要である。しかし、いずれも国内消費量の4%、6.8%、0.02%しか賄えない。かつて大量に産出していた金や銀も採掘されるが、現在いずれも世界的なシェアが0.5%以下(金8.6トン・銀81トン)である。国内需要を賄うだけの産出量がある地下資源は、石灰岩(セメント原料)、珪石(水晶/ガラス・レンズ・光ファイバー・建築材料の原料)など、ごく僅かである。 現在、あまり資源として活用されていないが、メタンハイドレートが近海に多く眠ることが分かっている。これは、採掘の手法が未だ確立していないが、将来的に石油が枯渇した際における新エネルギーとして注目を浴びている。近年では、都市鉱山という考え方も普及し、日本に蓄積される貴金属やレアメタルの埋蔵量が世界有数であるとの研究があり、廃棄される家電や電子機器などから、これらをリサイクルする事業活動も広がりを見せる。 工業 基幹産業であり、特に素材・金属加工・造船・土木工学・機械工学・電気工学・電子工学などの製造業は、世界最高水準の技術を維持する。原油・ゴム・鉄鉱石などの原材料を輸入して自動車、電気製品、電子機器、電子部品、化学製品などの工業製品を輸出する加工貿易が特徴であるが、近年、大韓民国や中華民国からの電子部品や電子機器などの半製品の輸入も増大し、輸出品、輸入品、共に電子機器が最大である。 トヨタ自動車や日産自動車、本田技研工業などを筆頭に世界有数の自動車産業を擁し、世界第3位の新車販売、世界第2位の保有台数を記録する。 一方、航空宇宙産業(航空宇宙工学)・医薬品化学・バイオテクノロジー・情報技術などの新しい産業の分野においては、最高水準と言えず、また、全体としての製造業は、中国や韓国、台湾などの新興国の成長に押され、1980年代をピークに収益率も下落を続ける。そのため、ナノテクノロジーや民生用のロボット工学、生物工学、金融工学、情報技術などに活路を見出そうとしている。 現在の日本工業の中核は上記のような重工業だが、1870年代以降に明治政府が進めた工業化政策の中心は繊維工業だった。それ自体も重要な輸出品だった生糸を利用した絹織物、次いで外国からの輸入綿花を利用した綿織物は日本の輸出を支えたが、1960年代以降は東南アジア諸国や中国での安価な大量生産に押されて構造不況に陥った。現在では国内市場の多くを輸入品に譲っているが、「アパレル産業」とも呼ばれるようになった同業界は高い付加価値がつく伝統工芸品の生産などにも活路も見いだしている。 2017年時点の主要な輸出相手国・地域は、1位:アメリカ合衆国(19.3%)、2位:中華人民共和国(19%)、3位:大韓民国(7.6%)、4位:台湾(5.8%)、5位:香港(5%)、6位:タイ王国(4.2%)、7位:シンガポール(3.2%)、8位:ドイツ(2.7%)、9位:オーストラリア(2.2%)、10位:ベトナム(2.1%)であり、アジアへの輸出だけで約55%を占める。輸入相手国・地域は、1位:中華人民共和国(24.4%)、2位:アメリカ合衆国(10.7%)、3位:オーストラリア(5.7%)、4位:大韓民国(4.1%)、5位:サウジアラビア(4%)、6位:台湾(3.7%)、7位:ドイツ(3.4%)、8位:タイ王国(3.3%)、9位:アラブ首長国連邦(3%)、10位:インドネシア(2.9%)であり、アジアだけで約49%を占める。貿易収支は、黒字(2018年に約3兆円)である。主要な輸出品は、金額ベースで自動車(15.1%)、半導体等電子部品(5.1%)、自動車の部品(5%)、鉄鋼(4.2%)、原動機(3.5%)、半導体製造装置(3.3%)、プラスチック(3.2%)、科学光学機器(3.1%)、電気回路等の機器(2.6%)、有機化合物(2.5%)の順である。主な輸入品は、原油及び粗油(9.5%)、LNG(5.2%)、衣類及び同付属品(4.1%)、通信機(4%)、半導体等電子部品(3.7%)、医薬品(3.5%)、石炭(3.4%)、周辺機器を含む電算機器(2.6%)、非鉄金属(2.3%)、科学光学機器(2.2%)である。 日本の産業は、発展の過程で間接金融による資金調達を広く用いたため、銀行が経済に与える影響が大きい。銀行は、融資で土地資産を担保に取ることが多かったため、土地が経済に与える影響も大きい。しかし、バブル景気の崩壊後は、直接金融や市場型間接金融への転換が進められている。金融機関では、バブル時期の焦げ付き、いわゆる不良債権問題が長引き、1990年代初頭に金融危機を引き起こした。しかし、政府主導で大合併が行われて公的資金を注入しての強引な解決が図られ、その後は、超低金利政策の下、高収益を上げるようになった。日本銀行は、2006年にゼロ金利を解除したが、未だ金利の水準が低く推移し、個人消費の伸びも見られないなど、経済回復が明確でなく、2007年現在、それ以上の金利引き上げに至っていない。 また、継続的な経常黒字により、世界最大の債権国であり、世界経済からの配当や利子の受け取りが次第に増大している。2017年末時点で、日本の対外資産残高は1012兆4310億円、対外負債残高は683兆9840億円で、差し引き対外純資産残高は27年連続世界最大の328兆4470億円である。 日本としては世界最大の黒字国であるが、日本政府は歳入の47.9%が公債で賄われている状況である(平成23年度一般会計予算)。しかしながら、日本国債のほとんどは国内保有であり、日本国内の資産となっている。 古くから北太平洋および北東アジアの交通の要所として海運や航空において重要な位置を占め、世界的に有数の規模の海運会社や航空会社が存在し、各国を結ぶ。また、アジアにおいて最も早く鉄道を導入した国の一つであり、世界初の高速鉄道である新幹線を導入し、私鉄による鉄道網が全国を網羅している。また、高度経済成長以降、モータリゼーションが進み、道路網・高速自動車専用道路網が発達している。しかし2016年では高度経済成長時代に作られたインフラが老朽化するなど問題も起きている。 鉄道 明治維新以降、1872年10月14日の新橋駅(のちの汐留駅) - 横浜駅(現・桜木町駅)間の開通を皮切りに、国策として全国に鉄道網が急速に敷設され、日本国有鉄道(国鉄)や他の数多くの私鉄へと発展した。1942年には世界初の海底鉄道トンネルである関門鉄道トンネルが開通した。1970年代までに私鉄、国鉄ともに多くの路線が電化され、世界に例を見ない規模で分刻み・秒単位のスケジュールで運行され、その規模、技術、運営ノウハウ共に世界最高水準と言われる。 1964年に日本国有鉄道(現在のJR)によって導入された新幹線は、都市間を結ぶ世界初の高速鉄道として空路に並ぶ地位を築いた。英語では「Super Express」や「Shinkansen」と表記する。道路標識では「Shinkansen Line」と表記される。 戦後に東海道本線の輸送がひっ迫した事が東海道新幹線計画の契機となった。 なお、新幹線は秒単位という世界に類を見ない正確さで運行されている。2016年度は年間13万本が運行して、1列車あたりの平均遅延時間は24秒だった。これは、地震や豪雨、大雪などの自然災害による遅延も含めたもので、平常時は秒単位での定時運行が実現されている。在来線と規格が異なるので全国を網羅はしていないが、北海道・北陸・九州の各地で整備が続く。 日本の新幹線 東海道新幹線 山陽新幹線 九州新幹線 北海道新幹線 東北新幹線 上越新幹線 長野新幹線 北陸新幹線 山形新幹線 秋田新幹線 (建設中)リニア中央新幹線、長崎新幹線 都市圏では、これら普通鉄道に地下鉄やモノレールが加わる。更に、近年の環境問題の意識から路面電車が見直され、富山県などでライトレールが導入されている。 2003年8月の沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の開通によって全ての都道府県に広がり、2004年の時点での全国における総全長は、23,577 kmである。 2016年にはJR留萌線が廃線になるなど地方の鉄道が人口減少に伴い採算が取れなくなり、消滅し始めている。 航空 戦前にはごく限られた利用しかなかった日本の航空・空運業は敗戦直後に占領軍が出した航空活動禁止指令により完全に機能を停止したが、独立を回復して航空活動も復活した1950年代以降、日本航空が日本のフラッグ・キャリアとして国内外に路線を広げ、アフリカを除く全大陸へ就航し、現在もアジアのみならず世界でも有数の規模を誇る航空会社として知られていたが、2010年、会社更生法の適用を受けた。また、1980年代まで国内線のみを運航した全日本空輸 (ANA) は現在、アジア圏を中心に日本航空(JAL)と共に欧米へ国際線を運航する。 1990年代以降の規制緩和を受け、スカイマークや北海道国際航空(エア・ドゥ)、スカイネットアジア航空などが新規参入し、国内航空運賃の引き下げに寄与した。 歴代の国土開発計画が「高速交通サービス空白地帯の解消」を重要課題の一つに掲げたこともあり、地方を中心に空港インフラが充実し、国内に98もの空港を有する。東京国際空港(羽田空港)と北海道(札幌都市圏)の新千歳空港、東京と福岡空港を結ぶ2路線は年間800万人を輸送する世界屈指の大幹線に成長した。 羽田空港は2014年、スカイトラックスが実施した「Global Airport Ranking 2014」において日本の空港として初めて世界最高水準の5つ星を獲得した 2018年3月、スカイトラックスは、世界の空港ランキングでは2017年の第2位から順位を落として第3位として選出したものの、世界で最も清潔な空港では第1位として選出した。 鹿児島・沖縄両県の南西諸島をはじめとした離島に整備された空港は輸送量は小さいが、住民の日常生活を支えている。一方、騒音問題や用地確保などによって都市部における空港インフラは整備途上で慢性的な容量不足であり、航空網充実の足かせとなっている。また、一部の地方空港では採算面の課題も浮上している。 世界有数の航空網を整備した空運業に対し、戦後の航空活動禁止令で解体された航空機製造はその国内需要を全く満たしていない。1964年に正式出荷を始めたYS-11は東京オリンピックでオリンピック聖火を輸送したが1973年に製造を中止し、2006年に民間航空路線から完全に撤退した。YS-11開発の中核だった三菱重工業は2015年に新たな国産旅客機のMRJを初飛行させ、商業生産への準備を進めている。一方、本田技研工業はアメリカの子会社工場でHondaJetの開発に成功し、2016年から日本国外での販売を開始した。 日本航空 全日本空輸 スカイマーク 道路 高度経済成長以降、自動車産業の保護を目的に、国内における陸運の主力をトラックにする政策が採用されたことなどから、全国的に道路・高速道路の整備が進められた。しかし、近年、都市部を中心に慢性化した渋滞や通行料の高さ、駐車スペース確保の困難さ、環境問題への対策として、鉄道や航空機などの公共輸送、船舶輸送などが見直されている。また、高速道路の一部はアジアハイウェイ1号線(AH1)に指定されている。 2016年4月時点での舗装された道路の全長は、1,278,183.5 km である。 海運 四方を海に囲まれ、日本には欠かせない運送手段であり、沿岸部に工業地域・工業地帯や人口が集中する理由でもある。日本郵船や商船三井などの世界有数の規模を持つ船会社が19世紀の後半から各国との間に貨物船や旅客船を運航してきた。現在、中東や東南アジアから石油や天然ガスなどの資源が輸入され、ヨーロッパやアメリカ合衆国へ電化製品や自動車などが輸出される。さらに、大小の船会社によって多数の貨客フェリーや高速船が運航される。また、造船分野においても、その技術力の高さから世界有数の規模を保つ。 日本は東アジアに位置しており、現在の中国や朝鮮半島など近隣の地域から様々な文化的要素を取り入れてきた。一方で海洋によって大陸から隔てられた島国であることや、遣唐使の停止や鎖国なども伴い、独自の文化も発展させてきた。現在では情報通信の発達に伴い、世界規模で様々な文化の影響を受けつつ、日本独自の文化の発信も行われている。 日本では伝統的な被服は和服であったが、現在では洋服が広く普及している。三宅一生や川久保玲など世界的に展開するファッションデザイナーも居る。 日本の国土は大部分が温帯に属し、南北に長く、海洋に囲まれているため、四季がはっきりしており降水量も多い。そのため、魚介類や海藻、野菜や山菜、果物など様々な食品が自然の恵みとして得られる。また、稲作の導入、仏教や鉄砲の伝来、鎖国や文明開化、第二次世界大戦などを経て、様々な異なる食文化の影響を取捨選択した独自の食文化が成り立っている。日本の伝統的な食文化である和食はユネスコの無形文化遺産に登録された。現在の日本では貿易や情報通信などの発展に伴い、伝統的な日本の食文化だけでなく、世界中の食品や料理、風習などを伴う食文化に接することができる。 四季があり降水量が多いため、米を含む穀物、野菜や山菜などの種類が豊富である。また暖流と寒流が交わる海洋に囲まれているため、魚介類や海藻などの種類も豊富である。これらの食品は、多く採れかつ味の良くなる旬を大事にする形で利用されてきた。一方で、ウシやニワトリなどの肉食が禁止されたことがあることなどの影響から、食肉や乳製品はあまり普及しなかった。現在では食肉や乳製品も一般的に利用されており、また小麦や大豆など輸入が多い食品もある。食料自給率は高くない。 一汁三菜など飯を中心としたメニュー、献立が多い。また様々な食品と豊富な水を利用した「だし」によるうま味も特徴として挙げられる。 伝統的な食事は、比較的に栄養バランスに優れ低カロリーという特徴がある。一方で凶作や戦争、貧困などによる栄養失調や生活習慣病もある。 食事の際の挨拶や、食器を手に持つことが許され、音をたてて食事をすることに寛容など、独自の作法がある。 食品の貯蔵や調理に用いた縄文土器や、食器に用いる漆器や陶磁器、調理に用いる包丁など、様々な道具が用いられてきた。 日本は山林が多く、木造建築が伝統的に用いられてきた。現在では都市を中心として高層建築物も立ち並ぶ。ゼネコンなど世界的に展開する企業もある。 新倉山浅間公園と富士山 姫路城 虎ノ門ヒルズ OECD各国のGDPにおける社会的支出割合(%、種類別) 日本の社会保障拠出負担の推移。青はGDPに占める比率(%)、橙は総税収に占める比率(%) 日本の社会的支出(兆円)。緑は医療、赤は年金、紫はその他 日本における租税と再分配(2009年, 年齢別) 橙は納税額、青は給付額、緑はトータル再分配額。 日本の社会的支出は高齢者に集中している。少子高齢化による医療費負担の増大に伴い、財政の逼迫した健康保険組合が増え、組合管掌健保や協会けんぽの保険料率や国庫負担率の引き上げが議論される 。現在、毎年のように国民年金保険料や厚生年金の社会保険負担率が引き上げられて現役世代への負担が増し、公的年金の世代間格差が問題になっている。 戦前 主に家族や地域社会における相互扶助によるものとされたが、軍人をはじめ公務員に特有の恩給制度があった。1942年に戦費の調達を目的に発足した労働者年金保険が、日本の社会保障制度の始まりである。1944年に厚生年金保険法が制定されたのを契機に民間労働者の厚生年金も普及した。並行して民間企業における熟練労働者の長期雇用、年功賃金、企業年金、退職金といった、戦後の日本型福祉社会を担う企業福祉も普及した。 戦後 日本国憲法第25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、すなわち生存権の実現を目指した。政府は、「最低限度の生活を営む」ための児童保育、学校教育、職業訓練、雇用保険(1974年までの失業保険を継承)、障害者介護・自立支援、生活保護といった福祉サービスを提供しつつ、企業福祉を充実させる社会政策を採用した。その過程で被用者保険から外れた対象を救済するため、1958年に官庁や企業に組織化されない対象のために地域保険となる国民健康保険制度が発足し、1961年以降、ほぼ国民皆保険(ユニバーサルヘルスケア)が実現した。また、1959年に企業年金や職域年金から外れた対象のために国民年金も発足した。 近年から現在に至る課題 人口の4割をカバーする国民健康保険は、2009年には保険料未納率が12%まで達している。また前年に健康問題を指摘された人のうち26%は費用を惜しんで医療を受診しておらず、この傾向は低所得層のほうがより高い。 生活保護制度も数々の生活保護問題を抱えている。当初より不正受給などの問題があったが、不況の長期化により受給者が増加し続けており財政負担が無視できないものになっている。またデフレの進行に伴う賃金の低下や非正規雇用の増加は、相対的に生活保護の生活水準を引き上げることになった。これにより国民年金のみや低賃金労働で生活するよりも、生活保護を受けたほうが良い暮らしをできるという可能性が、自立を目指さないというモラルハザードを生むのではないかという批判を強めることになった。 社会保険方式によるユニバーサルヘルスケアが達成されているが、GDP増加を上回るペースで医療費が増加している。2009年のOECD対日審査では医療制度改革に一節が割かれ、老人医療費の上昇に対して若者世代の負担を抑えながら対応するかが鍵であるとOECDは報告している。 平均余命 2015年度の平均寿命は、男性80.79歳、女性87.05歳である。また、例年、女性の平均の長寿は世界第1位であったが、今年は2位に転落し、香港が1位となった。男性も昨年4位から8位に下がった。これは2011年に起こった東日本大震災が原因と考えられる。また、健康寿命では、男性72.3歳、女性77.7歳(2001年〔平成13年〕)と、世界一の長寿である。 主な死因 終戦直後まで結核などの感染症が多かったが、平成27年現在では、一に悪性新生物(癌)、二に心疾患、三に肺炎と、生活習慣病を中心とする慢性疾患が主である。 保健(健康)への支出 GDP に占める比率が7.8%、政府が負担する比率が81.3%で、一人当たりの GDP が20,000ドル以上の国々の中における標準的な水準である。公費負担率はOECD平均より1割ほど上回っている。 急速に進む出生率の低下・労働世代人口の減少・高齢化社会への対応として、公的医療保険料の増額、医療費自己負担分の増加、後期高齢者医療制度の導入など、一連の医療制度改革により、負担が増加する傾向にある。 医療供給体制 医療従事者の人数は、2013年統計では医師が人口1000人あたり2.2(OECD平均は3.2)であり、一方で看護師は人口1000人あたり10.0(OECD平均は8.8)であった。 一方で病床数では供給過剰が指摘されており、人口あたりの病床数は世界1位でOECD平均の2倍以上、また患者の平均入院日数もOECD各国中で1位であった。そのため社会的入院などの問題が指摘されている。 過剰診療 過剰診療が指摘されており、人口一人あたりの受診回数はOECD平均の2倍(OECD各国で2位)、医師一人あたりの診療回数についてはOECD各国で2位であり、そのため患者から寄せられる共通した苦情は「3時間待ちの3分診療」であった。 検疫など 近年、大学の医学教育や基礎医学研究の場における感染症や寄生虫症の扱いが後退し、麻疹の輸出国として非難されている。また、海外からの病原体の移入や海外旅行者が帰国した後の感染症・寄生虫症などの発症に対しての態勢にも危惧が抱かれている。 OECD諸国の中で最も少子高齢化が進んでいる。高齢社会白書では「我が国は世界のどの国も経験したことのない高齢社会を迎えている」と述べられている。約50年後の2050年には65歳以上の高齢者が人口の約4割を占め、高齢者1人を1.3人で支える超高齢社会となる。 少子化・育児・子育て 一時は、明治以降の近代化の過程で、乳児の死亡率の低下や国力の上昇によって人口の激増が起こった他、戦後のベビーブーム(団塊の世代)により、若年層ほど多いピラミッド状の構成となった。しかし、高度経済成長以降、一人の女性が生涯に産む数(合計特殊出生率)も世界最少レベルの1.3近くまで低下した。その原因として、以下などの複合的な要因が指摘される。 医学・医療の向上による、死亡率の減少。 教育水準の向上による、学費負担の増大。 公的な育児支援の不足。 長時間労働による育児のための時間の不足や、仕事と育児との両立の困難さ。 核家族化による、祖父母からの扶助の減少。 地域社会における相互扶助の希薄化。 低所得者層の増大。 政府は、出生率の低下を深刻な問題とし、現在の人口を維持できる2.0〜2.1前後までの増加を理想とするが、有効な対策が成らず、その見通しも立たない。2010年4月より、子ども手当法が施行されたばかりである。 高齢化社会・介護 経済的に豊かになったことや医学・医療の向上により、平均寿命・平均健康寿命が世界で最も高い国になったが、同時に、介護が必要な高齢者人口の増加にも至った。(育児と同様、)時間の不足や仕事との両立の困難さ、核家族化による祖父母の世代との別居や高齢者のみ(夫婦2人や1人)世帯の増加、地域社会における相互扶助の希薄化などが複合的な要因となり、伝統的に行われてきた家族による高齢者の介護が困難となったことから、2000年に介護保険が創設され、家族・行政・地域社会の協力による政策に転換した。 自殺は主要な死因の一つである。自殺率はOECD諸国において韓国、ハンガリーに次いで第3位であり、OECD平均と比べ未だ高い数値であるため明らかに要注意であるとOECDは勧告している。世界保健機関 (WHO) の2010年統計によると、WHOに自殺統計を報告する104か国の中における自殺率の順位は高い方から第6位である(国の自殺率順リスト)。 自殺の原因については、宗教・死生観など日本人の様々な精神性が仮説として提示されるが、依然として解明されていない。政府は、先進国でも極めて高いこの自殺率を重要な問題と認識し、2006年に自殺対策基本法を制定したが、基本的な枠組みを規定するにとどまった。OECDは精神保健政策の緊急の高度を要する課題を指摘している。 根拠法として教育基本法が制定されており、文部科学省が所管している。1990年時点の識字率は、99.8%(男99.9%、女99.7%)。 日本国籍を有する6歳から15歳までの9年間(学齢)を対象とする義務教育が実施される。一般には、小学校6年間、中学校3年間。特別支援学校については、小学部6年間、中学部3年間。中等教育学校については、前期課程3年間。なお、中学校を卒業した内の約96%が高等学校に進学する。 国民の25-64歳人口について、その53%がISCED-3レベル以上の中等教育を修了している。なお第3期の教育の修了者については、タイプBが20%、タイプAが26%であった。 世界的にも多くの分野で高水準のテクノロジーを有する。国際特許の出願数は、中国、アメリカ合衆国に次ぐ世界第3位、特許収入もアメリカに次ぐ世界第2位の黒字国である。 環境・エネルギーに関連する技術 世界的にも高水準の技術を有する。ディーゼルエンジンの特許の出願数は、世界第1位である。原子力発電システムを独自開発する技術を持つ国のひとつ。世界的に最も高水準の二次電池技術を有し、ハイブリッドカーや高性能な携帯情報機器の基盤となっている。バイオ燃料や燃料電池、太陽光発電など新エネルギーの研究も盛んだが、普及面で言えば諸外国に立ち遅れている。 情報技術 マイクロプロセッサ設計に関しては高水準の技術を有し、マイクロコントローラ開発ではアメリカ合衆国に次ぐ開発拠点となっている。日本企業は半導体デバイスの製造装置で高いシェアを有するが、ハードディスクドライブ (HDD)、フラッシュメモリや液晶ディスプレイの生産では、近年の円高により韓国や台湾に押されている。電子機器分野などでは中国・韓国などの技術者の引き抜きもこの要因となっている。光ファイバーや結晶引上技術など素材に関する研究に厚みがあり、その基礎技術は、依然として優位である。ソフトウェア分野では、業務に関するシステムエンジニアや組み込みシステムの技術者の人数が特に多い。日本製ソフトウェアの世界的シェアは低く、オープンソースソフトウェアへの貢献も少ない。世界的に次の産業革命を引き起こすと期待されている人工知能技術に関しても、先進国の中では遅れを取っている現状がある。 原材料・ナノテクノロジー 特殊鋼、合成繊維、セラミックスなど幅広い分野で世界的にも高水準の技術を有している。特に複合材料を得意とし、自動車産業・造船・航空宇宙・防衛産業などを支える。 先端計測技術 磁力や近接場マイクロ波、中性子の利用技術、複合計測技術などは、高い水準にあるが、イオンやレーザー利用技術などは、低水準である。 ライフサイエンス(生命科学) アメリカ合衆国、そしてヨーロッパ全体に次ぐ3番手の位置にある。幹細胞に関連する技術についても人工多能性幹細胞(iPS細胞)の技術で世界を先行するが、幹細胞に関連する技術の全体で言えば、特許の出願数の半分以上がアメリカ合衆国で、以下、EU、日本と続く。 宇宙開発 1970年に糸川英夫率いる東京大学宇宙航空研究所(現在の宇宙科学研究所の前身)が日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げ、日本はソ米仏に続き世界で4番目に衛星を自力で打ち上げた国となった。以来世界有数の衛星打ち上げ国であり、現在ではH-IIA・H-IIBロケットやM-Vロケットなどの純国産化に成功したロケットの打ち上げがされている。2013年夏にはM-Vロケットの後継機となる新型の固体ロケットイプシロンロケットの打ち上げが予定されている。近年では2010年に小惑星探査機はやぶさが世界初となる月以外の天体からのサンプルリターンに成功し国内外から多くの注目を集めた。自国による有人宇宙飛行はまだ実現しておらず諸外国には立ち遅れている一方、毛利衛宇宙飛行士が1992年にスペースシャトルで宇宙に旅立って以来8名の宇宙飛行士が宇宙へ飛んでいる。国際宇宙ステーション計画には日本がアジアで唯一参加しており、独自の研究棟を保有している。宇宙ステーション補給機の開発・運用により宇宙ステーションへの物資運送の一翼を担っており、宇宙開発分野における国際貢献が進んでいる。 スポーツが盛んであり、野球は大衆の娯楽となっており、日本のみならず大リーグで活躍する日本人選手もいる。また、相撲は古来から続く日本の国技である。 近年はサッカーも盛り上がりを見せており、1993年にJリーグが開始された他、2018年のワールドカップではベスト16入りを果たした。 日本でのオリンピック開催回数(4回、2020年の東京オリンピックを含む)はアメリカ(8回)・フランス(5回)に次いで世界で3番目に多い。1964年の東京オリンピックは日本初のオリンピックであると同時にアジア初のオリンピック、さらには有色人種国家初のオリンピック開催となった。 1964年の東京オリンピック・1972年の札幌冬季オリンピック・1998年の長野冬季オリンピックが開催されており、2020年にはオリンピックが再び開催される予定である。 日本は1950年以降急速な少子化、高齢化が進行している。そして、1970年に高齢化社会(65歳以上の人口割合が7%から14%)に、1994年に高齢社会(65歳以上の人口割合が14%から21%)になり、2007年には超高齢社会(65歳以上の人口割合が21%以上)となった。2015年の国勢調査では前回と比べ約93万3千人減少しており統計開始以来初めて人口が減少した。 127,110,347人(国勢調査 2015年10月1日) 約126,860,000人(総務省統計局「人口推計月報」2017年〔平成29年〕1月1日確定値) 126,702,133人 (CIAワールドファクトブック、2016年1月) 約128,100,000人(2010年〔平成22年〕6月現在) 128,066,211(総務省による住民基本台帳に基づく人口の調査 2016年1月1日) 日本国籍を持つ者の割合:98.3%(2016年〔平成28年〕1月現在) 外国人住人:2,174,469人(2016年1月時点) 年齢5歳階級別人口 2017年1月1日現在推計人口 総計 [単位 万人] 年齢5歳階級別人口 2017年1月1日現在推計人口 男女別 [単位 万人] データ出典:平成29年1月報 (平成28年8月確定値,平成29年1月概算値) (総務省統計局) 日本の各地方の人口は次の通りである。2015年10月1日に実施された国勢調査の速報値による。 北海道地方:5,383,579人 北海道、(北方四島) 東北地方:8,982,080人 青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県 北関東地方:6,866,004人 茨城県、栃木県、群馬県 南関東地方:36,126,355人 埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県 北陸地方:5,313,423人 新潟県、富山県、石川県、福井県 東海・東山地方:17,968,559人 山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県 関西地方:20,728,079人 滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県 中国地方:7,622,402人 鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県 四国地方:3,847,120人 徳島県、香川県、愛媛県、高知県 九州・沖縄地方:14,454,861人 福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県 100万人規模以上の人口を有する大都市が各地方に点在している。国民の多くは、これらの大都市、または、その周辺部で生活する。国土全体を対象とした人口密度調査においても領域国家として世界有数の高さを示すが、沿岸の平野部に都市部が集中していて、国土の1割に人口の9割が住む。また、日本海側に比べて太平洋側に人口が集中している。中でも特に東京を中心とした南関東の人口は、日本の人口の約4分の1を超え、世界最大の都市圏を構成する。そのため、都心部では土地の値段が高騰化し、ドーナツ化現象などの問題も起きている。しかし近年では、特に首都圏では、東京都心部の土地の値段が下落し都心回帰の現象も見られる。 2015年10月1日に行われた国勢調査の速報数を集計した結果、人口総数が500万人を超過する上位9都道府県は次の通りである。 東京都:13,513,734人(6,168.1人/km2) 神奈川県:9,127,323人(3,778.2人/km2) 大阪府: 8,838,908人(4,639.9人/km2) 愛知県:7,484,094人(1,446.9人/km2) 埼玉県:7,261,271人(1,912.0人/km2) 千葉県:6,224,027人(1,206.8人/km2) 兵庫県:5,536,989人(659.1人/km2) 北海道:5,383,579人(68.6人/km2) 福岡県:5,102,871人(1,023.4人/km2) 少子化のため、2040年には全国市区町村のうち約半数(896自治体)の存続が難しくなり、かつ523の自治体は人口1万人以下になるとの推定がなされている(限界集落)。 ヤマト王権の側から書かれた古代史には、九州地方に熊襲、東日本に蝦夷など、文化を異にする部族がいたという記録がある。彼らは、徐々に大和朝廷に臣従しながら大和民族と同化していったとされる。アイヌ語と日本語との比較言語学的な関連が見出せないことから、アイヌと大和民族との関連について様々な議論があるが、遺伝学や考古学的証拠から大和民族との関係を重視する学説が有力になり、大和民族に同化しきらなかった蝦夷が、オホーツク文化などの影響を受けつつ、徐々に中世頃から分化したものと考えられている。 2017年末時点で256万人の外国人がおり日本在住人口の約2.02%を〆ている。2017年時点で中国籍、韓国籍、ベトナム国籍、フィリピン国籍、ブラジル国籍の順に多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。近年[いつ?]の外国籍の増加の背景には、1990年の入管法改正でブラジルなどに移民した日本人の子孫の日本での就労が自由化されたことが大きく、更に結婚の国際化などもある。 全人口の98.5%が日本民族とされるが、日本政府は日本国籍を有する者を日本民族としてみなしているため、アメリカ合衆国やイギリス、カナダなど移民の多い国で一般的に調査される、民族・人種調査は国勢調査では行われていない。そのため、アイヌ人などの少数民族、渡来人や亡命ロシア人の子孫、外国からの帰化人や国際結婚の配偶者、さらにはその子どもなども98.5%の日本民族という項目に含まれている。これらの政策が単一民族国家的な価値観に基づいた同化主義であるという見方もある。 韓国籍、朝鮮籍、および台湾籍については、戦前の旧・日本領の出身者、および両親のうちいずれか(あるいは両方)がその出身である者の子孫が多く、中国残留孤児や家族の永住帰国もいる。更に、韓国籍、朝鮮籍に関しては、戦後になってから朝鮮戦争や貧困・圧政から逃れて渡来してきた難民 が一部含まれている。 1895年に台湾を、1910年に朝鮮半島を併合後、第二次世界大戦敗戦まで日本の一部として、台湾人、朝鮮人にも日本国籍を与えていたため、これらの地域にルーツを持つ人々が多く、順次、経済的に豊かであった本土に移住してきた者も少なくない。明治の日本は西欧人の居住や移動、営業に関しては領事裁判権を認める代わりとして居留地制による制限を設けていたが、朝鮮人や中国人については制限がなく、日本国内の各地での雑居が認められていた。1899年に西欧各国との領事裁判権の撤廃が成り、居留地制度は一律に廃止され(内地雑居)たが、中国(清・中華民国:支那)人を含む外国人労働者には居住・就労の制限が設けられた(勅令第352号)。これはおもに華人(支那人)を規制する目的のもので朝鮮人には実質的に適用されなかったとされる。台湾人もまた併合後は帝国臣民であり居住に制限はなかったが、台湾・朝鮮とも戸籍(台湾戸籍、朝鮮戸籍)の離脱は認められず、あくまで内地での寄留であった。台湾人の移住は戦前は少なく、日本在住の台湾人は総じて学歴があり、華人(支那人)や朝鮮人とはことなりオランダや明遺臣、清朝の植民支配の歴史的経験があり、民族的な屈託がなく日本語(や外国語)に通暁しよく働くので厚遇された。華人(支那人)は三刀(料理人・理髪師・仕立屋)が、朝鮮人は労働者が中心で、移住規模も多かった。 朝鮮人労働者の日本内地への移動は日韓併合の1910年に2600人であった移動者が1923年には13万人あまりと増加傾向にあり、1919年4月の「朝鮮人の旅行取締に関する件」(警務総覧部第3号)により朝鮮人の日本渡航への直接規制(旅行証明書制度)に転換し、移動制限を口実に実質的な居住規制に方針が転換された。朝鮮半島領域では実施されていなかった参政権も普通選挙法(1925年)施行後の内地では認められており、希望を持ち移動し定住した者も多かったが生活は決して恵まれたものではなかった。大戦中には軍人・軍属、あるいは就業目的として渡海した。また徴用労働者として800名以上が渡海した。 終戦の後、彼らの多くが祖国へ引き上げたが、各人の判断や事情によって日本に留まった者もいる。また、戦後相当の数の朝鮮人が祖国の混乱(朝鮮戦争)(国連による難民認定がされている)や韓国軍による虐殺(済州島四・三事件、保導連盟事件など)を逃れて日本に渡った。その後、サンフランシスコ平和条約締結によって彼らは日本国籍を喪失し朝鮮籍となったが、そのまま特別永住者として日本に在住し続けた。現在では、日本生まれが多数派であり、帰化して日本国籍を取得する者も多く、在日コリアンは減少を続けている。近年では朝鮮籍から韓国籍に登録を変更する者が多数となっている。 アイデンティティと国籍の問題は明治の開国以来、日本が否応なく直面することになった人権問題であり、戦前から華僑・印僑の人々や様々な移住者、戦後ながらくは台湾・中国系日本人コミュニティの間で葛藤を生んできた。1990年代以降、ブラジルなどの日系移民2世3世の出稼ぎ労働や、東南アジア・中国からの「研修労働者」、不法入国(滞在)労働者の人権問題などが発生している。 日本人の起源は、ユーラシア大陸から弥生時代以降に複数回にわたって移住した人々弥生人と、縄文時代以前から定住していた人々縄文人が融合して形成されたものである。移住してきた経路は時代によって異なる。主な経路としては、サハリンなどの北方経路、朝鮮半島を基点とする日本海経路、南西諸島を経由する南シナ海経路である。最も古い系列は、モンゴロイドのグレイト・ジャーニーの時期に北方経路で大型獣を追ってやってきたと推測される。[要出典] 最初に主流になったのは、沖縄・南九州・東北地方に多い縄文人である。この時期、日本海経路で小規模ながら交易がおこなわれていたことが出土品から証明されている。その後、稲作文化とともに大陸からやってきた人々が、北九州から中部地方に多い弥生人の基盤となった。日本列島に移住してきた経路や、規模、時期の詳細については、定かでない部分が多く、諸説ある。縄文系と弥生系では身体的特徴に違いがある。縄文系は古モンゴロイドに属し、目が大きい、彫りが深い、骨太で筋肉質、二重まぶた、歯は短い、耳垢が湿っている、体毛が濃い、などの特徴を持つ場合が多い。弥生系は新モンゴロイドに属し、目が細い、彫りが薄い、長身ですらっとした体格、歯が長い、耳垢が乾いている、などの特徴を持つ場合が多い。 島国という地理的な特性から、小規模な移住が何度も繰り返された結果として、複数の民族が互いに混血し、文化を取り込みながら発展したと推測される。それらの中から最大勢力として発展してきたのが自称として「和人」、あるいは近代的な民族意識の下で「大和民族」あるいは「日本民族」である。 なお、アイヌ民族は、和人との交流の中で、中世から近世にかけて成立したとされるが、成立の詳細な過程については不明な点が多い(詳細はアイヌを参照)。 古墳時代、北東北地方を除く本州・四国・北九州の人々は、大和盆地を本拠地とするヤマト王権のもとに連合し、倭人(和人)としての文化を形成する。飛鳥時代の律令国家の確立に伴い、和人の文化的一体性が確立された。その後、朝廷の支配下に入るのが遅れた北東北(蝦夷)・南九州(熊襲)の人々を同化しながら文化圏の拡大を続け、平安時代までに本州・四国・九州の全域が和人の生活範囲となった。江戸時代には、薩摩藩による琉球への侵攻、松前藩のアイヌ支配の確立により、北海道・南西諸島を含む日本列島の全域が和人の勢力圏に置かれた。 「蝦夷地」と総称された現在の北海道・千島列島・樺太南部に居住したアイヌや、琉球王国を樹立した南西諸島の人々は、弥生時代以降、本土と交流を持ち続けつつも、江戸時代まで政治的には本土の政権の支配下には入らず異なる歴史を歩んだ経緯がある。現在、アイヌ語を第一母語とする人々は極めて少ないが、アイヌ文化振興法が制定されてアイヌ文化の保存・再興が図られている。なお、アイヌと共に南樺太にいたウィルタやニヴフの多くは、ソビエトの侵攻・占領の後、北海道や本州へ移住した。 また、小笠原諸島には、19世紀初頭にハワイからの移民団が史上初めて定住し、欧米系島民(ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人)による小規模なコロニーが形成されたが、明治維新の後に日本による領有が確定すると順次、彼らも日本国籍を取得して日本人社会に溶け込んでいった。 日本には公用語を明示する法令が存在しない が、日本語がほぼ全ての国民の母語であり、慣習に基づく事実上の公用語である。全土で均質化された日本語による義務教育が行われている。識字率は極めて高い。日本に定住する外国人も多くは日本語を理解する。国会では、アイヌ語などが使用された例もある が、憲法や法律は、日本語で記したものが正文である。世界中の多くの言語が、他の言語からの派生を繰り返して生み出されてきたが、日本語に関しては派生元の言語が明らかになっていない孤立した言語とされるか、琉球語を別言語とみなし日本語とともに日本語族を成すとされる。 近代以前の日本語は、文語と口語との乖離が大きかった。口語では京都方言(江戸時代中期以前)および江戸方言(江戸時代後期以降)が中央語と意識され広く通用したが、地域や階層による方言差が大きかった。明治維新による近代的な国民国家の創設に伴って言文一致運動が起こり、口語に近い文章語の確立が朝野の双方から推し進められた。東京方言を基盤に整えられた新しい文語や口語(標準語・共通語)は、教育・報道・行政・軍隊などを通じて国民に広く浸透し、国民的一体感の形成に寄与した。共通語の浸透に伴い各地の方言は衰退・変容を余儀なくされた。近年、地域文化・アイデンティティーとして見直す機運が高まり、教育現場においても共存が図られるようになった。 日本は漢字文化圏に属し、日本語の表記には漢字とそれから派生した仮名を主に使用する。第二次世界大戦後、GHQの指導などもあって、政府は漢字の全廃を決定し、全廃まで当面使用できる漢字をまとめた「当用漢字表」を告示して漢字の使用を制限した。しかしその後、当用漢字よりも緩やかな「目安」として「常用漢字表」が制定され、漢字全廃の方針は撤回された。そうしたなかで、一部の漢字は正字体(旧字体)から新字体に簡略化された。固有名詞は別扱いであることから、人名・地名などでは旧字体や異体字の使用が続いており、異体字の扱いは現在もしばしば問題となる。仮名の正書法に関しても、終戦後、従来の歴史的仮名遣から現代仮名遣いに変更された。近年、コンピュータの普及や文字コードの拡張などに伴い、漢字の使用に関する制限は緩められる傾向にある。 日本語以外には、アイヌが用いるアイヌ語や、樺太から移住した少数住民が用いたニヴフ語・ウィルタ語がある。現在ではニヴフ語・ウィルタ語の母語話者によるコミュニティは消滅し、アイヌ語も母語話者が10人以下に限られる危機に瀕する言語であるが、アイヌ語再興の取り組みも活発である。琉球列島の伝統的な言葉は本土方言と違いが大きく、本土方言とともに日本語の二大方言の一つである琉球方言か、日本語とは系統の同じ姉妹語(「琉球語」)か、その位置づけには議論がある。琉球方言(「琉球語」)内部でも地域差が大きく、複数の言語の集合として「琉球語派」や「琉球諸語」と位置づける場合がある。 その他の言語は、日本語に単語として取り入れられた外来語を除き、日本人同士の意思疎通にはほとんど用いられず、高等教育の教授言語としても常用されない。日本人にとって最も身近な外国語は国際語のひとつである英語であり、実務上での便益や諸外国人への配慮から、国際取引や学術研究の場で使用が奨励されることがある。義務教育の中学校の必修科目である外国語科では英語を扱うことが圧倒的に多く、それ以降の高等教育機関でも多くの日本人が英語を学ぶ。とはいえ、多くの日本人にとって、日本語から遠い系統の言語であるため習得が難しく、また日常生活や職務上での必要性が低いことなどから、帰国子女など特殊な例を除き、英語に堪能な者は少ない。 大学で学ぶ第二外国語としては、主にドイツ語・フランス語が選択されてきたが、近年は中国の経済発展に伴って中国語の選択が増えた。朝鮮語(韓国語)は日本人にとって比較的習得が容易な言語であるが、韓国朝鮮系の住民を除いて学習者は多くなかった。近年、韓国の大衆文化が盛んに輸入されていることに伴い、学習者が増加傾向にある。ロシア語の学習者は多くないが、冷戦崩壊後、極東ロシアとの貿易が活発化しているため、北海道や日本海側の都市で外国語表記に取り入れられるなどしている。安全保障上の理由から学ばれている言語は、米軍との意思疎通を図るための英語と、仮想敵のロシア語・中国語・朝鮮語が主である(予備自衛官補の語学技能枠で一般公募もされている)。 外国籍の住民および帰化外国人、日本に定住する外国人が用いる主な言語には、在日韓国・朝鮮人の一部が用いる朝鮮語(在日朝鮮語)、在日中国人・在日台湾人を中心に約60万人が用いる中国語・台湾語、日系ブラジル人を中心に約30万人が用いるポルトガル語、フィリピン人・欧米人を中心に約25万人が用いる英語などがある。 ^ 広辞苑第5版 ^ 松村明ほか 『デジタル大辞泉』 小学館、2013。松村明ほか 『大辞林 第三版』 三省堂、2006。加藤周一ほか 『世界大百科事典』、日立ソリューションズ・ビジネス、1998。 ^ 吉村武彦 『古代天皇の誕生』(角川書店、1998) ^ 外務省によると、1920年の国際交通制度改良会議で、パスポートの表紙に国章を記すように採択されたが、当時の日本に法定の国章がなかったため、1926年からデザイン化した菊の紋章が採用されたという。外務省 外交史料 Q&A その他 より。 ^ a b 第171回国会 質問第570号 日本国号に関する質問主意書 衆議院公式サイト ^ 岩崎小弥太 『日本の国号』(吉川弘文館、1970)、吉田孝 『前掲書』。 ^ 吉田東朔「国号」節(「日本」項 『国史大辞典』、吉川弘文館、1990) ^ 小池清治 『日本語は悪魔の言語か? - ことばに関する十の話』 角川書店、2003。 ^ a b c 「ニホン」と「ニッポン」 浦部法穂の憲法雑記帳第4回、法学館 ^ a b c 会社登記上の読みおよび英字愛称。日本語での愛称は「にほん」を用いる。 ^ 英字社名。日本語での社名では「にほん」を用いる。 ^ ニホンvsニッポン? 力強さで「ニッポン」派増加 日本経済新聞 2016年6月17日 ^ ニホンVSニッポン 「日本」の読み方、どっちが優勢? 日本経済新聞 2012年1月4日 ^ JOC - ストックホルム1912 オリンピックコラム ^ 万葉集で枕詞「日の本の」は「大和(やまと)」にかかる枕詞。日の本の大和の国の鎮(しずめ)ともいます神かも(goo辞書「ひのもと-の」)。日の出る本の意味から日本の異名。「ひのもとの末の世に生まれ給ひつらむ(源氏物語)」(goo辞書「ひのもと」)。また「日の本の国」は日の本に同じ。「日の本の国に忍辱(にんにく)の父母あり(宇津保物語)」横浜市歌(森鴎外作詞)に「わが日の本は島國よ」の歌詞あり。 ^ a b   (漢文) 『日本書紀』巻第一 神代上. - ウィキソース. \"日本、此云耶麻騰。下皆效此(日本、ここにはヤマトと云ふ。下は皆これに傚(なら)へ)\"  ^ 寺島良安『和漢三才図会』 ^ 宮崎正勝「海からの世界史」角川選書、68頁。瀛州は、蓬莱や方丈ともに東方三神山のひとつである。 ^ 「有漢、皇魏、聖晋、大宋」等。例外として「大元・大明・大清」があり、この3例のみ二文字で正式国名。 ^ 日本国の公印である「国璽」では、明治時代に作製された「大日本國璽」が使用され続けている。 ^ 『日本書紀神代講述』早稲田大学図書館蔵 ^ 一方、ドイツ語やポーランド語などでは侮蔑的な意味を込めずに「JAP」が日本の略称として広く用いられ、両国語版のウィキペディアでも使用されている。 ^ ロシア語のЯпонияでは「о」にアクセントがあるが、「Я」音はアクセントが無い場合に発音が「/ja/」から「/ji/」に変化する場合がある。ソビエト連邦時代に事実上の標準語として連邦全土で定着したモスクワ方言ではこの傾向が顕著で、綴りに忠実な前者「ヤポーニヤ」よりも後者「イポーニヤ」の発音になる(語尾変化による格の形を明確にするために後の「я」は「/ja/」のまま)。後者の場合、ポーランド語のラテン文字表記とロシア語のキリル文字表記との相互置換が完全に一致していても、双方の間に発音のずれが生じる。 ^ 「Rìběn」表記は中国標準語(または北京語)の場合。なお、中国語のアルファベット表記にはさまざまな形式があり、この場合の「rì(日)」も形式によって「rih」「jih」などとも表記される(en:Bopomofo#Comparisonを参照)。つまり、この子音は「r」にも「j」にも似た音であり、特に巻き舌をしない地域(台湾南部など)では「j」や「z」に発音が近い。一方、第2音節の「b」は「p」の無気音で、いわゆる濁音の「b」とは異なるが、アルファベットにはそれに相当する文字がないため、「b」が用いられる。「ě」はシュワーだが、英語などの曖昧母音とは性格が異なる、1つの独立した母音(「エ」と「オ」の中間のような音)である。この「bě」に相当する日本語の文字がないため、ここでは便宜上、「ベ」としてある。ただしeの後にnが続いた鼻母音enは、日本語や英語のそれに近い発音になるため、「リ(ジ)ーベン」という転写も間違いではない。 ^ ベトナムは、フランスの植民地になるまで漢字を使用していたときの名残。ベトナム語大辞典 などで実際の発音を確認できる。 ^ Marco Polo, (英語) “Cipangu’s landlocked isles”. The Japan Times. 2018年8月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月25日閲覧。 ^ ハンティントン ライブラリー図書館所蔵「HM44」-2 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-3 ^ カサ・ド・アルバ財団所蔵「1994:139」 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-4 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-5 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-6 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-7 ^ カサ・ド・アルバ財団所蔵「1994:171」 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-8 ^ カサ・ド・アルバ財団所蔵「1994:201」 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-9 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-10 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-11 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-13 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-14 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-22 ^ 1851年に発表された小説『白鯨』では海図を確認する場面で『Niphon』の表記が登場する。 ^ カサ・ド・アルバ財団所蔵「1994:243」 ^ カサ・ド・アルバ財団所蔵「1994:197」 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-23 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-24[リンク切れ] ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-25 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-26 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-27 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-28 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-29 ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-31 ^ 下中直人編 『世界大百科事典 21』 平凡社、387頁。 ^ 前掲 『世界大百科事典』 387頁。 ^ 前掲 『世界大百科事典』 387-388頁。 ^ 前掲 『世界大百科事典』 388頁。 ^ 熊谷公男 『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社、2001年)、吉田孝 『日本誕生』(岩波新書、1997年)など ^ 吉田孝 『日本の誕生』(岩波新書、1997年) ^ 天武天皇は、飛鳥浄御原令が成立する以前の686年に没している。 ^ 神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005年) ^ 古田東朔「国号」節(「日本」項、『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1990年) ^ 『続日本紀』慶雲元年(704年)七月条に、粟田真人を執節使とする遣唐使が唐(大周)から帰国したとの記述がある:“秋七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人自唐國至。初至唐時、有人來問曰:「何處使人?」答曰:「日本國使。」…問答畧了、唐人謂我使曰:「亟聞、海東有大倭國、謂之君子國、人民豐樂、禮義敦行。今看使人、儀容大淨、豈不信乎?」語畢而去。” ^   (漢文) 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷. - ウィキソース. \"倭國者、古倭奴國也。…日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。(倭国は、古の倭奴国なり。…日本国は、倭国の別種なり。其の国、以って日辺に在り。故に日本を以って名と為す。或は曰う:倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為すと。或は云う:日本は旧(もと)小国にして、倭国の地を併せたりと。)\"  ^ 『旧唐書』には倭・日本伝があり、「日辺にあるゆえに日本をもって名となす」(日本国者、倭国之別種也、以其国在日辺、故以日本為名)とあり、これを「ニッペン」「ニッポン」の語源と推理する史家もいる。『律令時代の日本』今井欣一(PDF-P.194) ^   (漢文) 『新唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷. - ウィキソース. \"日本、古倭奴也。…後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以爲名。或云日本乃小國、為倭所幷、故冒其號。(日本は、古の倭奴なり。…後に稍(やや)夏音を習い、倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日出ずる所に近き、以って名と為すと。或は云う、日本は乃ち小国、倭の并す所と為す。故に其の号を冒すと。)\"  ^ これらの記述は、天武天皇が大友皇子の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を示すとする説がある。 ^ 井真成墓誌は、中華人民共和国の陝西省西安市内工事現場で発見されたと、2004年10月に発表された。 ^ 「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見 - 文化 - 朝日新聞 2011年10月22日 Archived 2012年7月18日, at Archive.is ^ 網野善彦『「日本」とは何か』(講談社、2000年)、神野志前掲書など。 ^ 神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、故に日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。 ^ 東野治之『遣唐使と正倉院』(岩波書店、1992年)や神野志前掲書など。 ^ 網野善彦『「日本」とは何か 日本の歴史00』(講談社、2000)など ^ 「広辞苑」(岩波書店、2008年1月第6版発行)によれば、「近代」とは「広義には近世と同義で、一般には封建制社会のあとをうけた資本主義社会についていう。日本史では明治維新から太平洋戦争の終結までとするのが通説。」と、「現代」とは「日本史では太平洋戦争の敗戦以後または保守合同の1955年以降、世界史では19世紀末の帝国主義成立期以後、ロシア革命と第一次世界大戦以後、第二次世界大戦後など、さまざまな区分が行われている。」とそれぞれ定義されている。 ^ 現生人類の到達は3.5万年前。それ以前の遺跡はデニソワ人などの旧人が遺したものである。 ^ 近年の研究では氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきている。 ^ 山形県において紀元前10世紀頃の青銅器(刀子)が出土しているが生産は紀元前2世紀頃から始まる。横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信『山形県の歴史』p.21-22 ^ 網野善彦 『前掲書』。 ^ 高柳光寿・竹内理三編『角川日本史辞典 第二版』(角川書店、1974年12月発行)の「琉球王国」の項目によれば、「1609(慶長14)薩摩藩が大軍をもって征服し、以後薩摩は琉球の王国体制を温存し、琉球王国に貢納を課し、那覇に在番奉行を置いた。」と記されている。 ^ 前掲の「小笠原諸島」によれば、「1827(文政10)イギリス軍艦が探検、占領。その後アメリカ人が移住。」と記載されている。 ^ 『歴史、未来をみつめて』教育出版 ^ 高柳光寿・竹内理三編『角川日本史辞典 第二版』(角川書店、1974年12月発行)の「満州事変」の項目によれば、「1931年9月18日の柳条湖事件によって開始された日本の満州(中国東北部)侵略戦争。」と記されている。 ^ 日中韓3国共通歴史教材委員会編『日本・中国・韓国共同編集 未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史』(高文研、2005年5月発行)の「第3章 侵略戦争と民衆の被害」の「1節 日本の中国東北地方への侵略」の「1 満州事変」の105ページの左上に掲載されている「リットン調査書(一部)」によれば、「満州の主権は中国に属する。日本軍の軍事行動は正当なる自衛行動とは認められない。(満州国)政府の指導者は名目上満州人であるが、実権は日本の官僚と顧問が掌握している。現地の中国人の目には、日本人の道具になっていると映っている。」と記載されている。 ^ この手続きについては異論もある。憲法無効論を参照。 ^ Peter Howard, B.A., B.S., M.A., Ph.D. Assistant Professor, School of International Service, American University. (2008). “Great Powers”. エンカルタ. MSN. http://www.webcitation.org/5kwqEr8pe 2008年12月20日閲覧。.  ^ 那珂通世は、『緯書』の鄭玄注に、1260年に一度(干支一運の60年(「1元」)×21元=「1蔀」)の辛酉年には大革命が起こるとあり、これをもって推古天皇9年(601年)の辛酉年から1260年前で当たる紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を唱えた。なお、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命したことをもって日本の建国とする古文書・古文献(『中尊寺文書』、『平泉雑記』など)が東北地方に伝わる。 ^ 一部の現行法では有効。「閏年ニ関スル件」(明治31年勅令第90号)などの法律文書に記載されている ^ 日本の憲法体系では、新旧憲法ともに領土規定が存在せず、比較法学の観点ではこれは異例である。明治憲法には領土規定がなく、ロエスレル案の段階においては、領土は自明のものであり、また国体に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり、日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。この事情は明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた。*「憲法における領土」石村修(法制理論39pp158-185.2007-03.新潟大学法学会ISSN-0286-1577)“アーカイブされたコピー”. 2011年7月22日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年5月17日閲覧。[1]*「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)“アーカイブされたコピー”. 2011年8月29日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年5月17日閲覧。 ^ 国土交通省サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識)“アーカイブされたコピー”. 2007年11月13日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年8月22日閲覧。 ^ 海上保安庁海洋情報部. “日本の領海等概念図”. 2007年9月13日閲覧。 ^ “海上保安庁パンフレット”. 海上保安庁. 2012年4月28日閲覧。 ^ “日本の大陸棚拡張、国連が認定 沖ノ鳥島周辺など”. 日経新聞. 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Line〈略称:MDL〉)を境に分断されている。北側は北朝鮮で、南側は韓国である。どちらも国際連合に加盟し、半島唯一の主権国家であると主張している。実際は内戦の休戦中という建前のもとに、冷戦時代から続くアメリカとロシアの覇権争いの極東地域の緩衝のために分断されている半島である。軍事境界線は常に監視されており、不適切と判断される越境に対して取締りを行っている。 文化的には、中国からの影響を強く受けながら、近年になり改良を加えられたチマチョゴリなどの服飾文化、キムチ、朝鮮式焼肉などの食文化(朝鮮料理)やパンソリ、タルチュムなどに独特の特徴が見られる。多くがハングルを使用する。 先史時代の朝鮮半島は櫛目文土器(ウラル語族に関連)を有する遼河文明圏に属していた。このウラル系民族が、朝鮮民族の基層にある可能性が高い。古代の朝鮮半島は現代と比べ人口も少なく諸種族が点在しており、半島北部には沃沮(よくそ)、濊(わい)、扶余(ふよ)などの濊貊(わいはく)系、挹婁、扶余、には半島北部を中心に定住していた。 その中の夫余から発展した高句麗が南下しながら半島に勢力を拡大し、これに連動するように半島中部で北部の馬韓諸国を統合した百済、半島東南部では辰韓諸国を統合した新羅が成立し、3国が鼎立するに至った。三韓時代を代表する百済、新羅、高句麗の各国はそれぞれ種族の偏りはあれど国である。その後、半島東南部を根拠地とする三韓系の国家である新羅が、百済・高句麗などの扶余、濊貊系国家を打ち破って半島中南部を占拠し、半島北部と満州をつなぐ扶余系国家はなくなった。統一新羅の時代に新羅は旧百済や高句麗の一部の領域を支配し、これを治めていたが、住民の旧国家への帰属意識は依然と残り、新羅が滅び後三国時代に入る。高句麗系住民が建国した渤海と対立したが、渤海の滅亡以後、新しく建国された高麗が帰順してきた一部の流民を受け入れた。こういったながれの中で、現在の民族意識の確立は13世紀頃とみられる。三国時代(新羅・高句麗・百済を指す)から民族集団としての歴史は受け継がれたとされるが、モンゴルに支配された13世紀に入り『三国史記』の編纂や民族の啓発や統合が活発となり、13世紀後半に、現在の民族としての自己独自性の熟成と遺伝子的な一致がほぼ完成されたとみられる。 朝鮮民族の成立に影響した域外民族に漢族と満州族がある。朝鮮半島では古来、中国からの渡来人により征服(箕氏朝鮮)・植民され、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避し渡来した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」とある。また衛氏朝鮮の滅亡後、漢四郡がおかれ、漢によって半島北部が直接支配に入ることで漢人の流入があり、後に土着化する。また、高麗時代初期に異民族が23万8000人余りも帰化した。あるいは契丹が滅亡した後に、高麗に渡来した契丹人は100万に達するという記録もある。したがって、祖先が中国から渡来した帰化人が数多くいる。 南部においては、前方後円墳等の倭人の居住痕が今も残されている。 東北部には、女真人など、ツングース民族の流入・渡来が相次いだ。 現在の朝鮮民族が持つY染色体ハプログループの大まかな分類では、割合の多い順に、O2-M122(東アジア全域に多い)、O1b2-M176系統(琉球を含む日本列島及び朝鮮半島に多い)、C2-M217(北アジアに多い)、である。 最も多い O2-M122 系統は朝鮮民族で約41%の割合で確認されており、中国人など東アジアで多く見られる。 次に多い O1b2-M176 系統は約31%の割合でそれに続く。サブクレード(細分岐)まで分類すると朝鮮民族と、日本人(琉球民族を含む)には特徴的な違いがあり、朝鮮民族では約22%:約9%の割合で確認さるものが、日本国内では約8%:約24%の割合で確認されており比率がほぼ逆転する。 三番目に多い C2-M217 系統は約14%の割合で確認されている。この系統は中央アジア及び北アジアのカザフ人、モンゴル人、ブリヤート人、エヴェンキ人、ニヴフ人、コリャーク人や北アメリカのナ・デネ語族などに多く、漢民族や京(ベトナム)民族など、東アジアでは広域にわたって約10%の割合で確認されている。日本列島では北海道・日高のアイヌ民族と九州の住民がそれに準じ、日本全国では3%〜6%ほどである。なお、C2-M217保有の朝鮮民族男性のほとんど(84/89 = 94.4%)が東アジアに多いC-Z1338に属し、北アジアおよび北アメリカに多いC-L1373に属すものはC2-M217保有者の5.6%(5/89)に止まる。 その他に、少数ながらも朝鮮民族男性はフィン人、リトアニア人、ヤクート人など、極北ユーラシアに多いN-M231(約4%)、台湾の先住民である高砂族やその他の東南アジア島嶼部に多いO1a-M119(約3%)、東アジア広域にわたり低頻度で見つかっているO1b-P31(xM95, M176)(約2%)、アメリカ大陸の先住民やインド、ヨーロッパなどに多いP-M45(約2%)、そして日本人固有のD1b (D-M64.1)系統(日本列島起源、日本では約35%存在)の保持が2%ほどの割合で確認されている。このD1b (D-M64.1) は、中国の正史「三国志」「後漢書」に登場する狗邪韓国や新羅時代に活躍した日本人の一部がそのまま帰化したものとみられる。その他の少数ハプログループについては、東アジア乃至北アジアが起源と考えられており、朝鮮民族以外の民族でも同じ頻度以上で確認されているので、とりわけ朝鮮民族を特徴づけるものと言い難い。 カトリック医学大学のキム・ドンウック[要曖昧さ回避]教授と慶応大学の岡本真一郎教授がHLA(ヒト白血球型抗原)を分析した結果、日本人と比較すると遺伝的な同質性が低いという結果が出ている。大阪医科大学名誉教授松本秀雄は著書『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』で、「朝鮮民族は強く漢民族などの影響(混血)を受けており、これは中国と朝鮮との間の、相互移民や侵入などによって、北方少数民族や漢民族との混血の機会が多く、これが民族の形成に影響した」と述べている。HLA遺伝子による調査で朝鮮民族は満州族や中国東北部の漢民族と近い。HLAハプロタイプは、満州や日本の日本海沿岸に特徴的なB44-DR13、B7-DR1がよく見られる。 朝鮮民族の居住が最も多く集中する地域は朝鮮半島、すなわち韓国および北朝鮮である。一つの民族が2つ以上の国家に跨って分布することは、世界的にはありふれているが、両国の国民はともに朝鮮民族・韓民族による国民国家という自意識を共有しており、並立する2国家の国民が互いを別民族と認識することはほとんどない。もっとも、北朝鮮、特に韓国にも民族成立前・後に渡来した少数民族は存在しており、厳密に言えば単一民族国家ではなく多民族国家である。沙也可のように文禄・慶長の役の際に帰化した日本人もいたとされる。 両国における朝鮮民族の人口は、韓国・北朝鮮は国内に少数民族をほとんど抱えていないので、それぞれの総人口にほぼ一致し、韓国に5,000万人、北朝鮮に2,300万人ほどである。 韓国・北朝鮮の国外では、中国・北朝鮮国境に近い中国東北地区の吉林省周辺に朝鮮族がおよそ200万人ほど居住し、中国55少数民族の一つと見なされている。 かつては北朝鮮・中国吉林省と境を接するロシアの沿海州にも居住していたが、第二次世界大戦中に中央アジアに集団追放され、そのまま中央アジアに住み続けている者もいる。そのうちウズベキスタンに住む朝鮮系の人口は110万人ほどで、同国の人口の5%近くを占める。ロシア語では朝鮮民族のことを英語のコリアンと同じように、「高麗」に由来する「コレイツィ(корейцы, korejtsy')」という呼称を用い、中央アジアの朝鮮民族は「コリョサラム」(「高麗人」の意)と自称する。 世界各地にも、朝鮮系の人々がいる。日本には併合前の難民や、併合後及び戦時中の本土への出稼ぎ、戦後の本土在留、正規の入管手続きを経ない入国者・移民である在日韓国・朝鮮人、アメリカ合衆国にはコリアンアメリカン、カナダにはコリアンカナディアンと呼ばれるそれぞれ数十万から百数十万の朝鮮系の人々が居住しており、一定の民族意識を保って暮らしている。こうした在外の朝鮮系の人々が集住して暮らす町は「コリア・タウン」と呼ばれ、世界各地に点在する。 韓国人は、海外移住や海外留学を希望する者が多く、ソウル大学校が行った調査では、2005年の調査では「機会があれば外国に移住する」と回答した者が全体の46.1%、「子どもを早期留学させようと考えている」と回答した者は全体の69.8%となっている。2015年にはこの割合は減っているが、それでも「外国に移住」は30.3%、「早期留学」も50.9%となっている。中央日報が大学生800人に対して行った調査では、回答者の70.4%が「韓国を離れて移住したいと考えたことがある」と答えた。 習俗・習慣の面では、李氏朝鮮時代に民衆に浸透した儒教の影響が、しばしば指摘され、アニミズムを背景としたシャーマニズム的な信仰と儒教との混合形態による先祖崇拝が根付いている。なお、先祖崇拝は東アジア地域共通の特徴なので、その起源がどこにあるかを求めるのは難しい。 これに加えて、仏教信仰がある。仏教は高麗時代に国教とされるなどかつては隆盛を誇っていたが、李氏朝鮮が儒教を国教と定めて仏教を弾圧したので、現在では少数派になっている。 近代には西洋からもたらされたキリスト教が急速に広まった。特に北部ではキリスト教が深く浸透した。また、こうした新しい外来宗教に刺激される形で朝鮮民族独自の宗教である天道教が興った。第二次世界大戦後は、特に韓国においてキリスト教が強い影響力をもつに至っている。韓国社会におけるキリスト教の浸透はかなり深く、戦後、布教が停止状態にある北朝鮮においても根強く信仰が残っていると見られている。 近現代のディアスポラや植民地支配、南北分断などの経緯に加え、徴兵制度が存在する事から民族への帰属意識は高いが、一方で地方の郷土意識も根強く残っている(韓国の地域対立)。特に慶尚道と全羅道との対立は、朴正煕以降、長く慶尚道がエリートのリクルートや資源の配分において優遇されたことが背景となっており、それ以前にどの程度の対立・差別が存在していたのかはつまびらかではない。西北差別については、南北分断によって実態がわかりにくくなっている。 ^ [1] ^ CIA Factbook - North Korea ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 재외동포 다수거주 국가, Overseas Korean Foundation, (2007), 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127.000", "中華人民共和国 簡体字: 中华人民共和国 国の標語:なし 国歌:义勇军进行曲(中国語) 義勇軍進行曲 ^ 中国における「行政区分としての市」(直轄市、または地級市)と「市区」の違いについては、中華人民共和国の都市を参照のこと。 ^ 中華人民共和国の政策決定について最終決定権を行使した人物。 ^ 中国共産党が中華人民共和国を指導していくことが謳われているため、総書記は共産党と国家の最高指導者とされる。 ^ 王岐山副主席の序列は韓正副首相に次ぐ第8位。 註1: 人口、及び各種GDPの数値には、香港、マカオ、及び台湾を含まない。 註2: 中華人民共和国と、面積順位第3位とされるがアメリカ合衆国の面積は非常に近く、それぞれの国土の定義によっては、順位が入れ替わることがある。 中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、簡体字: 中华人民共和国、繁体字: 中華人民共和國、拼音: Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó、英語: People's Republic of China, PRC)、通称中国(ちゅうごく、拼音: Zhōngguó、英語: China)は、東アジアに位置する主権国家。首都・北京市を政庁所在地とし、13億8千万人以上の人口で世界一人口が多い国でもある。 中華人民共和国憲法第一条で社会主義国家であることを明言しており、政治は中国共産党が指導的地位を有するヘゲモニー政党制を採用している。 中華人民共和国は、中華民国統治下の中国で1921年に結党された中国共産党が、ソビエト連邦の支援を受けながら国共合作・抗日戦争(八路軍・新四軍)・国共内戦を経て国民政府を台湾島へ放逐し、1949年10月1日に北京市で建国式典(中華人民共和国開国大典(中国語版))を開催したことで成立した。 同国は国共内戦の延長で1954年に「台湾解放宣言」を出し、第一次台湾海峡危機(1954年~1955年)と金門砲戦(1958年~1979年)を起こしたが武力による台湾占領には至らなかった。同国は2010年代に入ると一つの中国による台湾問題の解決を「(自国の)核心的利益の一つ」と規定するようになり、基本的には九二共識の合意に基づいた平和的な中国統一(中国語版)を目指しているが、一方で人民解放軍の武力による台湾制圧の可能性も指摘されている。 計測方法によるが、同国は陸地面積では世界第2位、総面積では世界第3位又は第4位である。同国の地形は、乾燥した北の森林ステップ、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠から、多湿な南の亜熱帯の森林まで広大かつ多様である。ヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、パミール高原、天山山脈により、同国は南及び中央アジアから切り離されている。長さ世界第3位の長江及び同世界第6位の黄河は、チベット高原から人口密度の高い東の沿岸地域に流れ、古代には黄河文明や長江文明を興してきた。同国の太平洋に沿った海岸線は14,500kmの長さで、渤海、黄海、東シナ海、南シナ海に囲まれている。同国の国土は、22省級行政区、5自治区、北京市・天津市・上海市・重慶市の4直轄市、大部分が自治的な香港・マカオの2特別行政区によって構成されている。 中国は、繁栄と衰退の繰り返しだと考えられる過去2000年間の大部分で世界最大かつ最も複雑な経済を有した。1978年における改革開放の導入以来、外資流入の勢いが増してゆき、産業構造が政策から転換して、中国は世界で最も成長率が高い主要経済大国の1つになった(#経済)。ソ連の純粋な社会主義体制と距離をとり、「経済面は有限な資本主義、政治面は一党独裁を守る」のような国家形態に変更したのである(中国特色社会主義)。 2016年時点で、同国は名目GDP及び貿易輸入額のいずれにおいても世界第2位であり(2014年には国際通貨基金・世界銀行・CIAワールドファクトブックによると購買力平価は世界最大のGDPとなった)、購買力平価GDPと貿易輸出額は世界一位である。同国は核保有国に認められ、世界第2位の防衛予算で世界最大の常備軍を有する。中華人民共和国は1971年以来国際連合加盟国であり、中華民国の後任として安全保障理事会常任理事国である。中国は多数の公式及び非公式の多国間機構加盟国であり、WTO、APEC、BRICs、上海協力機構、BCIM、G20がこれに該当する。中国はアジアの地域大国であり、多数の解説者により潜在的な超大国として特徴付けられてきた。なお2017年7月現在、中華人民共和国の世界遺産はイタリアについで52件ある。国内には文化遺産が22件、自然遺産が4件、複合遺産が4件存在する。 現在の公式国名は、中華人民共和国 (簡体字: 中华人民共和国; 拼音: Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó)  発音[ヘルプ/ファイル]である。一般国名は、中国 (簡体字: 中国; 拼音: Zhōngguó) 及び中華 (簡体字: 中华; 拼音: Zhōnghuá) である。 「中国」という言葉は、紀元前6世紀の書経・詩経で既に記述されており、中華帝国以前の時代には華夏族を四夷と区別するため、文化的概念として頻繁に用いられた。その後、中華帝国の変遷と共に様々な古文書で用いられる「中国」の意味も変化して行ったが、近代的な主権国家全体の名称として用いられるようになったは19世紀半ばからである(詳細は「中国」の項目参照のこと)。 中国と同義で用いられる支那は、帝国主義のイメージと結びついて中華人民共和国では侮蔑的な呼称と認識されているが、その原型が古くから印欧語族の諸国で用いられてきたために派生形が多く残っている。たとえば英名の\"China\"は、サンスクリット語のCīna (चीन) を由来とするペルシア語のChīn (چین)が由来と考えられる。\"China\"という言葉は、ポルトガルの探検家Duarte Barbosaの日誌において1516年に初めて記録された。1555年、同日誌はイングランドにおいて翻訳及び出版された。17世紀にマルティノ・マルティニにより提唱された伝統的理論では、Cīnaは周において中国最西の国である\"Qin\" (秦) が由来である。また、Cīnaはマハーバーラタ (紀元前5世紀) 及びマヌ法典 (紀元前2世紀) を含む初期のヒンドゥー教の聖典において用いられていた。 古代から続く中国の歴史は、中華人民共和国のあり方を文化面から規定している。このことは、中華人民共和国憲法前文でも言及されている。文化は生活を意味し、国民生活は経済的裏づけをもって成り立つ。憲法前文は「革命的伝統」も強調している。国共内戦もふくめ、革命は政治的断絶を意味する。中華民国からの連続は、経済を中心として理解される。 1840年~1949年(清・中華民国時代)の中国では外資が中国の近代化を推進した。19世紀末には香港上海銀行(イギリス)や露清銀行(ロシア)、インドシナ銀行(フランス)といった欧州資本が進出してきたが、20世紀に入ると門戸開放政策によってアメリカ資本も参入してきた。このアメリカ資本とは、例えば第一次世界大戦中に来中してきたJPモルガンのフランク・ヴァンダーリップ(Frank A. Vanderlip)であり、または世界大戦直後に中国人向けの保険を初めて販売したAAU(American Asiatic Underwriters、後のAIU保険)である。一方の中国側も、蒋介石政権が対米関係を重視して四大家族がアメリカ政府へのロビー活動(チャイナ・ロビー)を働きかけ、米中関係は政治・経済面でより親密なものとなっていった。このようなアメリカとの経済的な結びつきは、米中国交樹立(1979年)後の改革開放政策で再び強まった。 国共内戦の結果にも触れておく。中華人民共和国が樹立された時点で、蒋介石率いる中華民国政府は未だ中国大陸の華南三省と西南部三省の多数の地域を統治していた。だが、中国人民解放軍の攻勢によって同年12月に国民党は進駐中であった台湾に逃れ、人民解放軍は翌1950年5月までに福建省・浙江省の一部島嶼を除く中国大陸と海南島をした。ただし、台湾に政府機能を移転した中華民国政府は1950年以降も台湾国民政府として存続し、台湾とその他島嶼からなる地域(台湾地区)は2018年現在に至るまで中華民国政府の実効支配下にある。中華人民共和国とは政治が独立している。 毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。中華人民共和国の建国後、毛沢東は毛沢東思想に基づき、中国共産党を軸にした世界革命路線を推進した。ソビエト連邦と中華民国間で締結された中ソ友好同盟条約(1945年8月)によって、ソ連が中華民国から租借していた旅順港・大連港・南満州鉄道について、1950年の中ソ友好同盟相互援助条約と同日締結した協定により中華人民共和国へ編入。1952年には朝鮮戦争に介入し、韓国軍と、アメリカ軍を主体とする国連軍を阻止した。1954年9月の第1期全国人民代表大会において、ソ連のスターリン憲法を範とする「中華人民共和国憲法」(略称:54年憲法)を採択し、それまでの人民民主統一戦線体制の「共同綱領」ではなく一党独裁制へ移行した。このような力は必ずしも政治だけのものではなかった。三反五反運動が体制を浄化することに成功したことも忘れてはならない。中華人民共和国は、毛沢東の指導の下で大躍進政策と核開発を行った。1959年のチベット蜂起を鎮圧し、1962年にはインドと武力衝突した(中印国境紛争)。 1949年の中華人民共和国成立後、「向ソ一辺倒」の下で中ソ両国は友好関係を保っていたが、1956年のフルシチョフ第一書記によるスターリン批判後、西側諸国との平和共存路線を図るソ連と自由主義世界との妥協を拒否する中華人民共和国との間で中ソ対立が生じ、中国を支持したエンヴェル・ホッジャが指導するアルバニアと共にソ連から世界の共産主義運動の主導権を奪おうとし、1969年には両国の国境地帯に位置した珍宝島/ダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争が勃発した。また、内政では大躍進政策の失敗によって失脚していた毛沢東が、1966年より経済の立て直しを巡る対立からプロレタリア文化大革命(文革)を発動し、官僚化した中国共産党を打倒しようと呼びかけた毛沢東の訴えに紅衛兵が呼応したため、「造反有理」、「革命無罪」の呼号の下、宗教関係者などの「反革命」派と目された人々の多くがつるし上げや殺害を受け、国内は内乱状態となった。内モンゴルの先住民族に対しては内モンゴル人民革命党粛清事件などの粛清を行った。 外交では1971年の第26回国際連合総会にて採択されたアルバニア決議の結果、それまで国際連合常任理事国だった中華民国に代わって国連安全保障理事会常任理事国となった。また、ソ連との関係では中ソ対立が継続していたため、1972年2月21日のリチャード・ニクソン大統領訪中を契機にソビエトと対立するアメリカ合衆国との関係が緩和され、同年9月29日には日本の田中角栄首相と日中国交正常化を果たし、ソ連の影響から離れて資本主義諸国との関係を改善した。以後、西側諸国から経済支援を受け、国際社会に強い影響力を持つことに成功した。1974年には南シナ海に侵攻し、当時の南ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)。文化大革命は1976年の毛沢東の死と共に終結した。その後、「二つのすべて」を掲げた華国鋒が毛沢東の後を継いだが、1978年12月の第11期3中全会で鄧小平が実権を掌握した。 1978年より始まる鄧小平時代以降の中華人民共和国は、鄧小平理論に基づいて政治体制は中国共産党による一党体制を堅持しつつも、市場経済導入などの改革開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた(中国特色社会主義)。中ソ対立の文脈の中で、1978年12月にカンボジア・ベトナム戦争によってカンプチア救国民族統一戦線とベトナム人民軍が民主カンプチアに侵攻し、1979年1月に中国が支援するカンボジアのポル・ポト政権を打倒すると、1979年2月には親中派の民主カンプチアを打倒した親ソ派のベトナムに侵攻した(中越戦争)。その後もソ連派のベトナムとの関係は悪く、1984年には再びベトナムと中越国境紛争を戦い、1988年にベトナム支配下のジョンソン南礁を制圧した(南沙諸島海戦)。 1980年代以来の経済の改革開放の進展により、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長した。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢を取り続けている。1989年の六四天安門事件での対応などはその一例である。当時のソビエト連邦(ソ連)ではミハイル・ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカにより、経済の自由化のみならず、政治の自由化まで推し進められようとされていたが、鄧小平の自由化は、経済に限定されていた。1985年にゴルバチョフが北京を訪れた際、世界はゴルバチョフを賞賛するとともに、鄧小平の改革開放路線を中途半端なものとして批判した。この空気は、国内にもくすぶり、共産党員の中にも「政治開放が必要」との声も上がるほどであったが、その延長線上で民主化要求の大規模な政治運動である六四天安門事件が起こる。なお、フランス流学歴のある鄧小平は、包玉剛を通じて香港上海銀行と関係していた。 天安門事件から江沢民が台頭した。1992年、それまで「従業員と企業が保険料を社会統括基金に全額上納していた」年金制度を改め、上納先に個人口座が加えられた。1998年に投資信託制度が開始された。2001年に国内の資産運用会社は社会保障基金の運用管理業務を認められた。2002年、中国は適格海外機関投資家に対して上海・深圳市場でのA株売買を認めた。2005年、資産運用会社は企業年金の運用管理業を認められた。2006年、適格海外機関投資家の国内証券市場投資がルール化された。 2007-8年、資産運用会社は投信運用管理業務と一般法人投資顧問業を認められた。2009年、適格海外機関投資家のトップ10は、首位からUBS、シティグループ、フォルティスグループ、クレディ・スイス、日興アセットマネジメント、ドイツ銀行、モルガン・スタンレー、HSBC、野村證券、INGグループである。全部で85機関が認定されており(同年7月現在)、アビバのような保険会社もふくまれている。中国の人口、すなわち年金市場は、国家支配を脱却したまでは良かったが、適格海外機関投資家をふくむ資産運用会社が大衆貯蓄をシャドー・バンキング・システムに振り向ける構造へ変わった。人口の高齢化は企業の抱える年金債務を増やしたので、官民挙げて一人っ子政策を緩和し保険料収入の増加に努めている。 2012年11月15日、習近平が中国共産党中央委員会総書記、中央軍事委員会主席に選ばれた。このとき中国は大きな不正会計事件で世界の注目を浴びていた。1月に破綻したチャイナ・メディカル・テクノロジーズ(China Medical Technologies)は、2004年にケイマン諸島で発足するも中国を拠点として、先端技術により体外診断用医療機器を開発・製造・販売する企業であり、会社とCEOは株主から集団訴訟を提起された。主席の決まった11月、清算人が香港警察とFBIに不服を申し立て、会社の発行した株と社債で募集された4億ドルが行方不明になっており、また、CEOの妻が相当な額をカジノへ費やしたことを主張した。 2013年、日本人の関心は東南アジアから中国の沿岸地域で発生するPM2.5に向けられていた。もっとも、専門家はシャドー・バンキング・システムの急激な伸張を観測していた。先の不正会計事件は世界金融危機時の状況までさかのぼって調べられた。2014年、シャドー・バンキング・システムに頼らないで済むよう、地方自治体が債券を発行できるようになった。 2017年9月、中国科学院傘下のレジェンド・コンツェルン(Legend Holdings)は、ルクセンブルクのBIL銀行を買収した。老舗銀行の売主はカタール王族らの投資機関プレシジョン・キャピタルであった。11月10日、中国当局は、外国企業が国内の証券会社と資産運用会社の過半数株式を保有することを認めると発表した。外資の出資比率の上限を現在の49%から51%に引き上げ、3年後に上限を撤廃する予定だ。商業銀行に対する外資出資比率も上限を廃止する。2018年3月30日のロイター報道によると、KPMGがチャイナ・メディカル・テクノロジーズの不正会計事件をめぐり香港高裁で苦戦している。9月4日の国内メディア報道によると、政府は地方債を銀行が全額購入できるよう規制を緩和した。シャドー・バンキングを封じるための地方債は、結局レポ取引で活用されることになったのである。 中華人民共和国はアジア大陸の東部、太平洋の西海岸に位置し、国土は9,634,057km²とロシアとカナダに次ぐ面積であり、世界第3の大きさである。領土は北は漠河以北の黒竜江(アムール川)の中軸線から、南は南沙諸島の一部まで。東は黒竜江とウスリー川の合流する地点から、西はパミール高原まで広がっている。主要河川として黄河や長江があり、それぞれ黄河文明、長江文明を育んだ自然の恵みでもある。陸地の国境線は2万2800キロで、東は朝鮮民主主義人民共和国、北はモンゴル、北東はロシア、北西はカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、西と南西はアフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、南はミャンマー、ラオス、ベトナムと接している。 東部と東南部は韓国、日本、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、インドネシアと海を挟んで接している。海岸線は約1万8000キロで、中国大陸の東部は渤海、黄海、東シナ海に、南部は南シナ海に臨んでいる。海域には5,400の島が点在する。これらの島嶼では南沙諸島や西沙諸島、台湾、フィリピンのミスチーフ環礁、マレーシアのラヤンラヤン島の領有権も主張している。その一部は既に武力支配され、周辺国から反感を買い警戒されている。島嶼以外ではチベット、ウイグルの独立問題の他、インドのアクサイチン、アルナーチャル・プラデーシュ州、日本の沖縄県の領有も主張している。 中国の交通は運河と海路を長大な歴史にわたり活用し発展してきた。満州は現代史の一定期間だけ自転車天国だったかもしれないが、中国全体の交通事情をそのように想像するのは大きな誤解となる。中華人民共和国の鉄道の一部は列強による中国分割の途中に敷設されたものがある。国有化されても影響は残るものである。それはロシアの鉄道にフランス資本が注入されたケースに共通する。中国にもフランス資本は直接・間接に導入された。自動車道も鉄道沿線に網を張った。中国の国道は経済格差を反映し東部で密に整備されている。中華人民共和国の高速道路は外資がなだれこんだ2003年から整備が進んだ。 民国期(1912年-1949年)のチベットは、アムド地方(=青海省,甘粛省の西南部など )を抑える馬一族の回族政権、カム地方の東部(=西康省)を抑える劉文輝政権、中央チベット(=西蔵,ウー・ツアン地方とカム地方西部)を抑えるガンデンポタンなどが割拠する状況であった。馬歩芳は人民解放軍に逐われて1949年8月に地盤の甘粛・青海を放棄し、重慶・香港経由でサウジアラビアに亡命、劉文輝は、「建国」後の1949年12月に中華人民共和国に投降した。 1950年に中国政府は人民解放軍を中央チベットに向けて派兵、チャムド戦役を経て同年中にカム地方西部を制圧、翌1951年、残るウーツァン地方も制圧、ガンデンポタンとの間にいわゆる「十七ヶ条協定」を締結(「西蔵和平解放」)、この協定のもと、ガンデンポタンは「西蔵地方政府」と位置付けられた。 この協定では、「西蔵には改革を強制しない」と規定されていたが、「西蔵」の外部(=ガンデンポタンの管轄外)に設置された青海省・甘粛省の甘南州・四川省のガパ州(=アムド地方)、四川省のカンゼ州・雲南省のデチェン州(=カム地方の東部)などでは「民主改革」とよばれる土地制度をはじめとする各種の社会制度改革が1955年より開始された。世襲の領主制、一部名望家による大規模な土地所有、牧畜群所有などに対する改革は民衆の歓迎をうけたが、寺院財産に手が付けられるに及び中国統治への反感は一挙にたかまり、1956年より、アムド地方・カム地方における一斉蜂起がはじまった。この蜂起により、中国の統治機構は一時的に青海省その他のチベット東部地方各地から一層されたが、中国人民解放軍による反撃がただちに開始され、チベット東部地方の旧指導層や民衆は、難民となって、ガンデンポタンのもとまだ平穏をたもっていた「西蔵」に逃げ込んだ。 1959年に「農奴制革」に反発したチベット人貴族・僧侶「農奴制革」が蜂起(=「チベット動乱」)した。しかし中国軍の強力な反撃により弾圧され、ダライ・ラマ14世は多数の元貴族と共にインドへ脱出して、亡命政府を樹立した。現在ダライ・ラマ率いるチベット亡命政府が中国共産党に対してチベットの独立を要求している。 2008年3月14日には、チベット自治区ラサで、中国政府に対する僧侶を含む多数の一般市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察(中国人民武装警察部隊)などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。チベット亡命政府によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表された。それと同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた。 アメリカのバラク・オバマ大統領は、チベット仏教の最高指導者の一つであるダライ・ラマ14世と4回にわたって会談を行っており、2016年6月15日には中国外務省がチベットの分離独立を後押しするダライ・ラマ14世の主張に正統性を与えかねないとしてアメリカ政府を厳しく批判した。6月26日には、レディ・ガガがダライ・ラマ14世と意見交換をし、中国政府は不快感を表明した。 新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)の分離・独立を目指す組織勢力が国内外に多数存在しており、アメリカで東トルキスタン亡命政府を樹立するなど活動を行っている。2009年ウイグル騒乱では、約200人の住民(新華社によると主に漢族)が殺害された。ウイグル独立団体の主張によると、2014年7月に発生した暴動でも、ウイグル人が大量に殺害されている当局は情報統制を敷いており事件の真相は不明だが、当局側は59人の射殺を認めている。2015年12月1日には、政府系メディアなどが対ウイグル族政策で批判的記事を書いた外国人記者に対して個人攻撃をおこなったことについて、中国外国人記者会が深い懸念を表明した(12月26日には、この外国人記者が国外退去処分となった)。 2015年7月9日、 タイ政府が中国からの保護を求めて2014年3月に入国した300人以上のウイグル人のうち約100人を中国に強制送還したことが国際問題となった。保護を求めたウイグル人は、タイやマレーシアなどを経由してトルコへ渡ることを目指しており、国連はタイ政府の対応を非難。亡命したウイグル人が多く暮らすトルコでは、イスタンブールで抗議デモが発生した。また、米国政府は中国に対して「国際的な人権基準に基づいて適切に対応するよう求める」と牽制した。また、エジプトでもウイグル族の中国への強制送還が相次いでることも問題となっている。 中華人民共和国は憲法前文で、孫文が指揮する辛亥革命と中華民国創立の意義は認めつつ、中華民国が帝国主義と封建主義に反対する任務を達成できなかった為に、中国の諸民族人民を率いる中国共産党が新民主主義革命によって官僚資本主義の支配(蒋介石政権)を覆し、同国を建国したとしている。そのため同国は、中国旧来の政治的実体である中華民国が1955年(大陳島撤退)以降も引き続き残存している台湾(台湾島、澎湖諸島、金門島、馬祖島及びその他島々)も「中華人民共和国の神聖な領土の一部」とみなし、台湾を実効支配下に置くこと(祖国統一(中国語版))を「台湾の同胞を含む全中国人民の神聖な責務」であると憲法前文で規定している。 憲法より上位の存在である中国共産党と憲法を拠り所とするその衛星政党(「民主党派」)以外の政党は認められておらず、国民には結党の自由がない。 立法機関として全国人民代表大会が置かれ、行政機関として、国務院が、司法機関として、最高人民法院と最高人民検察院が存在する。法律上は全国人民代表大会に権限が集中する。この他に衛星政党や各団体、各界の代表なども参加する中国人民政治協商会議が存在するが、「国政助言機関」であって法律の制定権などは持っていない。三権分立の相互抑制メカニズムは存在しない(民主集中制)。 実際には国政を動かすのは中国共産党であり、共産党の最高指導集団である中央政治局常務委員会が権力を掌握する構造となっている。最近では法治を重視する政策の下、一定の役割を果すようになってきている。 2017年10月現在の最高指導グループである第19期の中国共産党中央政治局常務委員は以下の通り。 習近平 - 序列第1位 党総書記、国家主席、中央軍事委員会主席、国家軍事委員会主席 李克強 - 序列第2位 国務院総理(首相) 栗戦書 - 序列第3位 全人代常務委員長(国会議長) 汪 洋 - 序列第4位 全国政協主席 王滬寧 - 序列第5位 党中央書記処書記 趙楽際 - 序列第6位 党中央規律検査委員会書記 韓 正 - 序列第7位 国務院副総理(副首相) 王岐山 - 序列第8位 国家副主席(副大統領) 1997年にイギリス統治から返還された香港、1999年にポルトガル統治から返還されたマカオは、一国二制度(一国両制)の下、特別行政区として高度な自治権を有する。香港基本法により、高度な自治、独自の行政、経済および法制度を持ち、本土の法律は一部を除いて適用されない。間接選挙であるが、行政長官選挙が行われ、立法会では一部議員を直接選挙で選出している。さらに、参加資格を主権国家に限定していない国際組織への加盟や国際会議への参加も可能である。 2017年現在、中華人民共和国の行政区分は台湾省を含む23の省、5つの自治区、4つの直轄市、及び2つの特別行政区から成る。中国政府は地方政府独自の旗を禁止しており特別行政区の香港、マカオを除き独自の旗を持っていない。 公安部 武装警察部隊 その他 中国共産党中央弁公庁警衛局 - 共産党による中国版シークレット・サービス 国家安全部 中国人民解放軍 中国人民解放軍総政治部連絡部 - 傘下組織に中国国際友好連絡会(友連会) 中国人民解放軍総参謀部 中国人民解放軍総参謀部第二部(総参謀部情報部) - ヒューミント系の情報活動 中国人民解放軍総参謀部第三部(総参謀部技術偵察部) - シギント系の情報活動 中国人民解放軍総参謀部第四部(総参謀部電子部) - ハッカー攻撃など 公安部 公安部一局(国内安全保衛局) 公安部十一局(公共信息網絡安全監察局) 網絡警察 網絡警察 - インターネット・ポリス(国家安全部と公安部の合同機関) 共産党 中国共産党中央対外連絡部 中国共産党中央統一戦線工作部 中国共産党中央政法委員会 610弁公室 国務院 新華社通信 - 国務院直属の通信社 中華人民共和国憲法によれば、形式的には、国家中央軍事委員会は中国人民解放軍(現役部隊、予備役部隊)、中国人民武装警察部隊、中国民兵など全国の武力を指導するとある。しかし現実は、中国共産党の党中央軍事委員会がほぼ国家中央軍事委員会のメンバーを兼ねており、実質的には中国共産党の指導の下、軍・警察を支配しており「中国共産党傘下の軍隊」となっている。 軍隊近代化のため、兵力20万人削減を、2015年9月3日の「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典」で習近平が表明し、総兵力は約150万人となった。 チャイナネットによれば中華人民共和国には兵役制度が存在しており、選抜徴兵制と呼ばれている。青年らは何らかの形で武装警察、あるいは現役の正規軍に任務につき、任務後は民兵の任務に就くことが可能である。こうした準軍事組織は150万人の武装警察、600万人の民兵があり、削減された解放軍兵士の受け皿にもなっている。 中国人民解放軍 - 事実上、党が所有する軍隊 陸軍 海軍(蘭州級駆逐艦保有) 中国人民解放軍海軍陸戦隊 空軍(J-10保有) ロケット軍 - 戦略ミサイル部隊兼宇宙軍 戦略支援部隊 武装警察部隊 - 党所有の準軍事組織 中国民兵 - 党所有の準軍事組織 また、中華人民共和国は核兵器を保有している。 軍事費 ストックホルム国際平和研究所の統計によると、2008年度の中華人民共和国の軍事費は為替レートベースで849億ドルで、アメリカ合衆国に次いで世界で2位(世界シェア5.8%)であり、1999年〜2008年の10年間で194%増加した。 中華人民共和国の軍事費の増加をアメリカ合衆国が非難をしており、中華人民共和国は「中国の国防は防御的なものであるし、今までの歴史に他国を侵略したこともない」と覇権目的ではないと反論している。 中華人民共和国は湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などで、アメリカ合衆国軍の軍事兵器や軍事システムや戦闘スタイルの革新による軍事的成果に影響されて、軍事兵器や軍事システムや戦闘スタイルの革新に力を入れている。 軍備近代化を印象付ける出来事として2007年1月18日、中華人民共和国が過去に打ち上げ廃棄処分となっていた人工衛星を弾道ミサイルによって破壊する実験を行い成功した。この実験に対しアメリカ航空宇宙局は、宇宙開発への危険性は無いものの、スペースデブリが発生するこの手の実験に関する懸念を表明した。2007年2月21日には、国際連合の宇宙空間平和利用委員会で、宇宙空間での人工衛星破壊を禁止する法案が採択された。 国防白書から核先制不使用記述の削除 2011年までの中国国防白書には「中国は、いつ、いかなる状況下であっても、核兵器を先制的に使用しない」と核保有国で唯一核の先制不使用を表明していたが、2013年から記述が削除された。 中華人民共和国の国際関係において特筆すべきことは、同国政府が中華民国政府と同時に自らを「『中国』の正統な政府」であると主張している点である。 中華人民共和国は、冷戦構造の下、建国当初は完全に東側陣営に組み込まれていた(向ソ一辺倒)。しかし、1956年のスターリン批判後の中ソ対立で決裂した。このころの中華人民共和国は、アジア・アフリカ会議や非同盟運動に関わるなど第三世界と連携した。 東側諸国や第三世界の支持も集めた国際連合総会に於けるアルバニア決議によって国連安保理の常任理事国となって中華民国を国連から追放させることに成功し、さらにアルバニア決議に反対した日米にも接近して1972年のニクソン大統領の中国訪問と日中共同声明採択によってアメリカ合衆国と日本を始めとする西側諸国との関係の回復を果たした。 また、3つの世界論を掲げて冷戦下における西側諸国と東側諸国との微妙なバランスをとりつつ、「中国を代表する正当な政府は中華民国ではなく、中華人民共和国である」とする一つの中国政策を東側だけでなく、西側諸国の多くに確認させることも成功を収めた。 1978年から始まる改革開放路線以降、経済面での資本主義諸国との関係も強め、2001年には世界貿易機関(WTO)にも加盟した。冷戦終結後は北大西洋条約機構に対抗してロシア、中央アジア諸国と連携を強化し(上海協力機構、SCO)、また、東南アジア諸国ともASEAN自由貿易地域でFTAを締結、かつては戦火を交えた大韓民国やさらには中華民国ともFTAを締結するなど、経済活動を絡めた積極的な地域外交を展開している。韓国とともに同じASEAN+3でもある日本に対しては胡錦涛政権は、対日新思考を打ち出した。 区分としては開発途上国に含まれるため、国際会議等で「開発途上国の代表」と表現されることはあるも、G77では中華人民共和国はG77の支持国を自任してるため、公式声明や国連の決議文書などでGroup 77 and China(G77プラス中国)を使用してきた。また、開発途上国であることを理由に、日本などの先進国から長年に渡り膨大な開発援助を受けているが、一方で他のさらに貧しい国に対して、国際的影響力を確保することを目的として開発援助を行っている。例えば、アフリカ連合本部は中国政府の全額負担で建設された。 急速な経済成長を遂げ、中国人民解放軍の軍備拡張を続ける中華人民共和国に対して、周辺諸国やアメリカは警戒感を持ち(中国脅威論)、また、人権問題・両岸問題・国境問題など、中華人民共和国の国際関係は緊張をはらむ側面もある。 中国はアメリカを最大の諜報活動の対象としているとみられ、国家安全省の他に中国共産党や中国人民解放軍、国有企業もその活動に加わることがある。米国政府の国家情報会議のジョエル・ブレナー(Joel F. Brenner)専門官は「米国を標的として活動する140カ国ほどの諜報機関でも、中国が最も活発」と述べた。また中国のスパイ活動研究の権威として知られるデービッド・ワイズは、軍事面でも超大国を目指す中国はアメリカを追い越すために軍事機密を標的にしていると指摘し、近年ではF-35戦闘機の機密や核弾頭の軽量化技術を奪取したと述べた。また、2005年7月、中国人民解放軍の朱成虎少将は、「米国が台湾海峡での武力紛争に介入し中国を攻撃した場合、中国は対米核攻撃に踏み切る用意がある」と発言した。 2015年5月、中国が南沙諸島で建設中の人工島を米偵察機が偵察した。この事件をめぐって、両国は2001年4月に米中両軍機が南シナ海上空で衝突して以来の緊張状態となった。米政府は、スプラトリー諸島(南沙諸島)の12海里以内に米軍機を進入させる可能性を表明しており、中国外務省は「言動を慎むよう求める。私たちは関係地域に対する監視を密にし、必要に応じて適切な措置を取る」と反発した。なお、7月末にマレーシア航空370便墜落事故の残骸の一部が発見された。 以前はパナマは台湾と外交関係があり中国とは国交がなかったが、中国は、米国の「裏庭」ともいわれるカリブ海に出ることを念頭に国交を樹立し、パナマ最大のマルゲリータ島港を99年租借する契約を交わした。 「両岸」とは台湾海峡を挟んだ中国本土と台湾の海岸を指しており、そこから「両岸関係」は台湾を実効支配する中華民国と中華人民共和国との関係を指す言葉となっている(二つの中国)。 1946年から激化した国共内戦に勝利した中国共産党が1949年に中華人民共和国を中国に建国、同年中に国民政府は、日本が領有権を放棄した後に実効支配した台湾に移った。それ以来、中華人民共和国は中華民国と「中国における正統政府」の座を巡って対立し、両国共に互いの統治する地域の支配権を主張して譲らなかった(台湾問題)。 そのために、中華人民共和国政府は国際連合における「中国」代表権を求めて諸外国に外交的に働きかけた他、「中華民国政府が実効統治している台湾を中華人民共和国の領土」と見なして領有権を主張し、「台湾解放」の名の元に金門島への砲撃を度々行った。その後、冷戦下におけるアメリカとソ連の間の対立や、ソ連と中華人民共和国の対立の激化などの政治バランスの変化に伴い、中華民国が国連の「中国」代表権を喪失して国際的に孤立し、中華人民共和国も改革・開放を推進するようになると、中華人民共和国政府は「一国二制度」といった統一の枠組みの提案や「三通政策」といった穏健的な統一政策を通じて両岸関係の改善を図った。1992年には両国政府関係者が「一国共識、各自表述(「一つの中国」を共通認識とするが、解釈はそれぞれが行う)」の統一原則を確認するまでに至った。 だが、1990年代に入ると、中華民国では李登輝中華民国総統による政治体制の民主化が進められ、それに伴い中華民国では、中華民国とは別個の「台湾」という国家を創り上げる台湾独立運動(台独運動)が活発化し始めた。このような動きに対し、中華人民共和国は総統選挙(1996年から実施)における台独派(泛緑連盟)候補者の当選阻止を目指して軍事演習で威嚇するなど強硬姿勢をとった。しかし、いずれの選挙においても阻止するには至らなかった。 このことを教訓としてか、2005年3月14日には中華人民共和国で反国家分裂法が成立した。この法律は中華人民共和国による中華民国の武力併合に法的根拠を与えることを名目とする。こうした経緯で、今日の中華民国と中華人民共和国の関係は、台湾問題として東アジア地域の不安定要素と見る見方も一部で存在する。中華民国にも「台独」に反対する「中国派」の人々(泛藍連盟)が存在している。こうした動きにおいては、中国国民党が有力な存在である。国民党党首・連戦は、2005年4月26日〜5月3日にかけて中華人民共和国を訪問、共産党党首・胡錦濤と60年ぶりの国共首脳会談を実施した。 2010年に台湾との間で両岸経済協力枠組協議(ECFA)が締結されたが、サービス貿易協定は4年後批准を拒まれた(ひまわり学生運動)。 日中関係史は古代からのものであるが、現在の日本国と中華人民共和国の外交は1972年9月29日の日中共同声明に始まる。その後両国は1978年8月12日、日中平和友好条約を締結した。日本国と中華人民共和国はサンフランシスコ条約に署名していないため日中平和友好条約が両国にとってのはじめての条約締結となる。 両岸関係がシーレーンの安否に関わる。中国産食品の安全性は輸入量と後述の環境汚染と関係して問題となる。 インドとブータンを除く12カ国(ロシアなど)とは陸上国境の画定が完了しているものの、島嶼部を巡っては中国の海洋進出に伴い、領土問題を複数抱えている。 台湾本島・澎湖諸島・金門島・馬祖島・烏キュウ郷・東沙諸島(中華民国) 西沙諸島(パラセル諸島)(ベトナム、中華民国) 南沙諸島(スプラトリー諸島)(中華民国、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ) マクマホンライン(アルナーチャル・プラデーシュ州)(インド) カシミール(アクサイチン)(インド) 間島・蘇岩礁(離於島)(韓国) 国際通貨基金の統計によると、2011年の中国のGDPは7兆2981億ドルであり、アメリカに次ぐ世界第2位である。2014年はIMF・世銀・CIAによると、購買力平価換算でアメリカを超えて世界最大のGDPとなり、2015年には購買力平価で欧州連合を超えて世界初の20兆ドル以上のGDPに達した国となった。一方、2017年時点で一人当たりのGDPは購買力平価換算で世界平均に近い1万6676ドルであり、為替レートベースでは同じBRICsのブラジルやロシアと大差ないものになってきている。億万長者は568人で中流層は約1億900万人と何れも世界最多だが、1日2ドル未満で暮らす貧困層は1億人前後と推計されており、世界銀行によって発展途上国に分類されている。人民元改革のとき証券化で生じた過剰流動性が、中国版シャドー・バンキング・システムと呼べるような金融系統を発達させた。そして実際の資金運用が、不動産や株式といった金融資産の市場価格を乱高下させたり、財源を中央政府に独占された自治体をして償還の目途が立たない地方債を発行させたり、福祉制度の破綻を救わずに宇宙産業や通信産業を振興したりしている。これら市場の混乱、地方債リスク、傾斜した産業構造といった社会問題は、預金を国外へ流出させたり、あるいは国外証券を買わせたりしており、国際経済に影響を出している。 国家成立後、1970年代中半までの経済は大躍進政策の失敗や文化大革命によって立ち遅れていた。農業を志向した社会主義経済の非効率性も経済発展の障害となっていた。このため、鄧小平の主導によって1978年に「改革開放」政策が採用され、社会主義市場経済の導入、国営企業の民営化や不採算企業の閉鎖、人民公社の廃止と生産責任制の実施、外資導入など、経済政策の方針を、市場経済原理による資本主義体制を大幅に取り入れたものに転換した。その結果、1980年代以降の経済は経済特区を中心として長年にわたり成長を持続している。特に香港へ人材が流出し、また経済格差も広がった。これを象徴するのがハチソン・ワンポアの隆盛であった。それまで中国人民銀行によるモノバンク体制であった中国は、1984年に四大商業銀行体制(中国銀行・中国建設銀行・中国農業銀行・中国工商銀行)を形式上整備した。依然として国有銀行だったので、融資は中国共産党の計算で行われ、不良債権を積み上げた。これを公債市場の開放につなげるため、中央と地方の税収を分けた(中国1994年分税制改革, 2018年3月から再統合開始)。すると歳入に占める中央政府と全自治体の割合がほぼ半々になった。この比率は現在まで維持されている。そしてこの改革以降は自治体が歳出の8割以上を負担している。地方債は公認の有無に関係なく発行された。現在もそれは変わらない。闇での発行はシャドー・バンキングによっていた。21世紀に入ると、他に経済成長の著しいブラジル、ロシア、インド、南アフリカとともに、ゴールドマン・サックスからBRICSと呼ばれた。2010年のGDP成長率は3年ぶりに2桁増の10.3%となり、「世界第2位の経済大国」となった。それまで極東の債券市場が日米欧金融機関の結集により整備されてきたが、2015年アジアインフラ投資銀行発足につながった。 建国以来、中国の金融機関は中国人民銀行だけであって、仕事も間接金融が主流であった。その本店が支店に対して強制的な指標を提示して、地方ごとに、また業界ごとに貸出額・貸出先・預金等をコントロールしていた。 1965-1971年に、中国はモーリタニア、イエメン、カナダ、赤道ギニア、イタリア、エチオピア、チリ、ナイジェリア、クウェート、カメルーン、サンマリノ、オーストリアと国交を樹立し、国際連合加盟も果した。翌年には日中共同声明を発した。世界の機関投資家は、当時の中国史に刻まれない高みから外堀をうめていったのである。このようなとき文化大革命が社会保険制度を破壊した。1969年、財政省が「国営企業財務管理制度における改革意見書(草案)」を公表し、国営企業における社会保険給付を一律停止して、企業が保険費用を負担するようになった。企業間で社会保険の支給格差が生じた。 もはや中国人民銀行だけでは資金需給の変化に対応しきれなくなった。そこで1979年に金融制度改革がスタートした。まずは同行に集中されていた各種金融機能が専門銀行に分割された(中国工商銀行・中国農業銀行・中国建設銀行・中国銀行など)。中国人民銀行の支配対象がフローだけとなり、その分行は決められたフローの範囲内で間接金融を担った。1979年は郷鎮企業が社債発行を認められた。民間では闇で株式類似証書による直接金融も行われた。1981年、政府米等の購入が響き48億6600万元の赤字国債を発行した。12月に中国投資銀行が新設された。これを通じて世銀などから借款を受けた。1983年、銀行に利潤留保制度が導入された。1985年、各専門銀行が貸付計画の中に組み込まれ、そこで節約された貸付額の穴埋めとして専門銀行間の銀行間取引市場が整備された。1988年、オーバーローンを廃して、代わりに政策金利設定や公開市場操作といった方法がとられるようになった。貸付をしぶったせいで景気低迷が起こった。それまで中国の証券業は純粋に発行市場だけであったが、不況下で資本調達を可能とするため流通市場が育成されていった。1990年までに発行国債は604億元に達したが、それは半ば強制的に消化されていた。財政部からトップダウンで各自治体の企業に割り当て、各企業が社員の給料から天引きして購入させていたのである。 1991年11月、中国人民銀行は、上海真空電子部品株式会社(1987年から民営化)が外国人向けの人民元特殊株式(いわゆるB株式)を発行することを初めて認め、これが翌年1月に発行された。額面総額は1億元(100万株)で、そのうち80%はサンフンカイ、ソロモン・ブラザーズ、スイス銀行コーポレイションが国外で販売することになった。売買・利子・売却益の計算はUSドルで行われた。1992年後半から中国経済は加熱したので、10月に国務院証券管理委員会が設置された。1993年4月、米証券取引委員会がアメリカの機関投資家に対してB株式への直接投資を許可した。同年の中国では株式上場が多く、相応の資金が吸収された。同年、中国人民銀行が全支店を直轄し金融引き締めを断行した(日本の高目放置にあたる機関化からの防衛措置)。1993年12月、第8期全国人民代表大会常務委員会第5回会議で「中華人民共和国会社法」が採択された(翌年7月施行)。外国人投資家を保護するために闇株を駆逐することになったのである。もっとも、国の受権する投資機構が保有する株式は、ちがう法律または行政法規で制限された。1994年初頭の調査によると、全国371社の株式会社を対象とした株式保有状況は、国家株が33.8%、法人化株が45.2%、個人株が19.4%、外資株が1.6%であった。 1993年9月には財政部が300億円のユーロ円債を発行していた。1994年1月1日から二重為替相場制が一本化され、4月に全国的な為替スワップ市場が上海にオープンした。同年のUSドル売買高は520億ドルであった。1995年2月末時点で308会員があり、22郡市がオンライン接続した。3月からは日本円の取引ができるようになった。 香港返還までに当地の経済はダイナミズムを示した。まず本土企業が香港企業を買収し上場させるという「借殻上市」あるいは裏口上場が進んだ。1992年7月、海虹集団(現招商局港口控股)が香港で上場した。これをはじめとして本土企業が次々と香港で上場するようになった。これは中国証券監督管理委員会と香港証券取引所との合意によるものである。1993年7月に青島ビールがH株上場第1号となった。翌月には広船国際、11月には馬鞍山鋼鉄が1次で上場した。2次の上場予定は往時で武漢鋼鉄、中国南方航空、華能国際電力、大唐国際発電等。このような中国化と並行し、脱英国化が進んだ。ジャーディン・マセソンの系列企業5社は機関化防衛措置が証券先物取引委員会に認められなかったので香港上場を廃止した。さらに第2上場先をシンガポールに切り替えた。香港上海銀行はロンドンへ移転した(もろに機関化)。この脱イギリス化に並行してUSドル連動化も進んだ。前節の上海真空電子部品株が一例となるが、香港の場合1994年1USドル=7.80香港ドルでリンクしていた。 香港の中国化・脱英化・USドル連動化は、総合すると機関化である。安い人件費と膨大な人口を背景にした潜在消費需要を当て込んだ外資が中国に投入された。機関化された中国産業は、安い人件費を強みとして安価な製品輸出を拡大した。中国は「世界の工場」と呼ばれるようになった。世界貿易機関(WTO)の発表によれば、2003年の対中直接投資は535億ドルとなり、アメリカ合衆国を抜いて実質的に世界最大の直接投資受入国となった(ルクセンブルクの特例を除く)。輸出については、FTA相手国の日本、韓国、東南アジア諸国、アメリカなどへの輸出拡大が目覚しく、大幅な貿易黒字を記録している。一方で内陸の貧困が放置されており、個人消費の割合が20世紀から低いままである。このことが、投資効率性低下や資源浪費、環境破壊そして過剰貯蓄を通じて貿易摩擦に繋がっている。2006年に入ってからは個人消費と内需による経済成長を図る方針へ転換した。しかしこれは外資の計算だったのである。3年後に労働力が不足するなどという楽観的観測もなされた。世界金融危機がおこると理由をつけて資本が逃避するのであった。それが「チャイナリスク」であった。著名な例では、多国籍企業のグーグル社が中国のネット検閲を理由に撤退した。外資だけでなく、国有企業に対する民間の活力が小さいという産業構造の問題もある(国進民退)。 香港返還の前後(1994年から2002年まで)に、政府は銀行の基本的なルールや規制を作った。銀行業の商業化をさらに進め、1997年から不良債権処理にも取り組み始めた。1998年、政府は四大商業銀行の不良債権比率を32%としていたが、実際は50%近いとみられていた。政府は同年、四大商業銀行に合計2700億元の公的資金を投入した。1999年には四大銀行の不良債権のうち1.4兆元分を不良債権の管理会社に移した。2003年以降はコーポレート・ガバナンスが見直され、銀行システムが再構築された。同年末、中国銀行と中国建設銀行に、外貨準備を活用して合計450億ドルを注入し、健全化をうながした。 政府は2000年頃から西部大開発や振興東北老工業基地を重点政策とし、これら後発地域の開発に乗り出した。しかし、沿海部と内陸部との格差は解消されず、依然として内陸部よりも沿海部の方が経済成長率が高く、格差は拡大している。胡錦濤は格差の解消を政策目標の一つに掲げたが、目に見える成果を出せなかった。 2003年4月シティグループが上海浦東発展銀行と戦略提携。2004年HSBCが交通銀行に出資した。2005年3月、INGグループが北京銀行へ2.15億ドルを出資、19.9%を支配した。同年6月16日、バンカメが中国建設銀行株を9%取得すると発表。同年7月21日より中国は管理フロート制と通貨バスケット制を採用した(人民元改革)。同年8月18日、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド、メリルリンチ、李嘉誠基金が中国銀行に31億ドル(10%)を出資することが明らかとなった。同年10月17日、ドイツ銀行がオッペンハイム(Sal. Oppenheim)と共同で首鋼集団から華夏銀行株2.7億ユーロ(議決権14%)を買い入れた。同年から政府は中国建設銀行などを香港市場に上場させた。2006年1月27日、ゴールドマン・サックス、アリアンツ、アメリカン・エキスプレスが中国工商銀行へ出資して、やはり10%を支配することとなった。同年10月、モルガン・スタンレーが南通銀行を買収したことを発表した。それまで南通銀行は、広東省の珠海市を地盤とする、中国銀行の完全子会社であった。2007年8月インテーザ・サンパオロが山東省の青島市商業銀行に1.35億ドルを出資して19.9%を支配した。イタリア資本で初めて中国の銀行へ資本参加した。 変化は華南事情や金融制度にとどまらなかった。このころ内モンゴル自治区のバヤンオボー鉱区と電解精錬にレアアースの生産元がしぼられていった。そして2006年に政府が資源保護計画を発表した。 世界金融危機は突然におこったのではなく、HSBCは2003年に買収したハウスホールドのサブプライムローン関連ビジネスの不振を知っていた。証券の暴落が見えているとき、アフリカの地下資源に目が行くのは当然であった。しかし、このHSBCをふくめ中国経済は機関化される側であったので、アフリカに直接投資ができるほどに立場が強いわけではなかった。 中国は機関化に対して気前よく人民元を払い続けたので、2004年末に外貨準備高は6000億USドルを突破した。中国の為替介入は2005年だけで1000億ドルに迫る勢いで、増えた外貨準備を米国債へ向けているが(同年7月末で2400億ドル強)、実は国際決済銀行が通常業務として運用している。そして、保有する外貨準備はUSドルだけでなかった。 2007年、中国国家開発銀行がバークレイズへ24億ユーロを出資した。中国国家開発銀行は、バークレイズがABNアムロ銀行を買収することができた場合に、先の出資額を最大で98億ユーロまで拡大することを約束した。バークレイズは帝国主義の時代からアフリカでのビジネスに強かったので、出資により開発銀行のアフリカ進出にバークレイズから便宜を図ってもらおうという腹であった。2007年10月25日、中国工商銀行はスタンダードチャータード銀行株を20%も取得し、役員を派遣し、業務提携を進めた。この目的は開発銀行がバークレイズへ出資したのと全く同じである。 こういうのは出資方向と関係なく、主導権は外資が握っているのである。その証拠に中国民生銀行はサンフランシスコのUCBH(United Commercial Bank)を破綻時に買収しようとして連邦準備制度から断られた。 2008年、中国銀行はエドモンド・ロスチャイルド銀行へ20%資本参加すると発表した。 2009年9月、中国工商銀行はタイのACL銀行の株式公開買付を実施すると発表した。ACLはバンコクを拠点とする中堅銀行だが、大株主にバンコク銀行やタイ財務省がいる。工商銀行はバンコク銀行から19.3%を買い入れることで合意し、さらに全株取得をめざしていた。工商銀行はアセアン地域での金融業務展開をねらっていた。 人民元改革は改革というよりも、海外機関投資家の巨額取引による人民元高である。これを受けた為替介入で外貨準備は増加した。それが特別目的事業体で証券化されて、具体的には海外機関投資家の人民元を借りるときの担保になって、公共事業等に用いられた(4兆元規模のマネタリーベース機関化)。世界金融危機の2008年7月以降は1USドル=6.83人民元あたりへ実質的に固定した(為替介入)。2008-2009年で国有商業銀行の貸出残高は4.6倍となった(17兆3200億元)。これを借りて商業銀行は投資銀行化した。有価証券投資は同期間に5.3倍となった(9兆2200億元)。欧州通貨で機関化された国内産業は資金と為替の両面から保護された。その一方で為替介入へ回る人民元は尽きていった。2010年6月19日、中国人民銀行が為替レートの弾力性を高めると発表した。再び人民元高を加速させたのである。以下は資産インフレと為替相場のもたらした惨状である。 習近平総書記率いる新指導部が発足したばかりの2012年11月、中国で最も貧しい省の一つ貴州省畢節市で炭で暖をとろうとした少年5人が一酸化中毒によりゴミ箱で死亡した事件は、急速な経済成長により数億円のマンションを一棟買いするような富裕層が出現した一方で、農村部の国民が貧困にあえいでいるという格差社会の象徴と言われた。 華南等では大気や土壌における環境問題が深刻化している。そのため、国務院は環境保護部(国務院の「部」は他国政府でいう「省」に相当)を設立して、更なる環境問題への取り組みに乗り出している。2013年初頭からは通称「PM2.5」と呼ばれる深刻な大気汚染が中国国内のみならず、日本にも影響を及ぼす事態となっている。中国の水供給と衛生状態も決してよくなかったが、先の大気汚染をきっかけに調査がすすみ、水銀の垂れ流しが日本側で指摘されるようになった。 2014年、阿里巴巴集団がロスチャイルドを財務アドバイザーに起用してニューヨーク証券取引所に上場した。その準備段階でフィデリティ・インベストメンツを自社の金融仲介に参加させ、ファンドマネージャーに不当な利益をもたらした問題をロイターが大きく報じた。この投信会社は米大統領とも関係しており、米中の緊密な政治経済関係を表現した。 中国は原子力発電を推進しているが、作業員の質などの問題が存在する。インフラ輸出拡大を念頭に、イギリスなどとの原子力分野での協力をすすめている。日本でも安倍晋三首相がイギリスとの提携を公言している。 世界金融危機での4兆元もの巨額の景気対策や不動産バブルもあり(シャドーバンキング問題)、2015年から不良債権が前年比で50%増のペースで急増しており、国際通貨基金の発表によると230兆円に達している。 そこで政府はデレバレッジを進めてきたが、複合企業の海航集団は影響を受けて2017年ごろから資金繰りを悪化させており、ドイツ銀行の大株主となるなど国際展開により状況の打開を試み、幹部の王健を派遣先フランスの事故で失ってしまった。 2008年1月1日から法人税は国内企業と外資企業の基本法人税率が共に25%に統一された。税制は国際化されたのである。国税には関税、消費税、国営企業の企業所得税などがあり、地方税は営業税、地方企業の企業所得税などがある。資源税や証券印紙税から構成される「国・地方共通税」は、国と地方で税収が75%:25%に配分される。この配分比は1994年の「分税制改革」による。地方財政の窮乏は地方債の濫発、ひいてはシャドー・バンキング・システムの輸入へつながっていた。 主な間接税には消費税、増値税、営業税の3種類がある。消費税は特定の嗜好品や贅沢品にのみ工場出荷時か輸入時に一度だけ品目によって3%〜45%が課税され、その後の流通段階ではあらゆる商品と役務提供に対して増値税が基本税率17%が適用されて各流通段階で課税される。各流通段階ではインボイスに当たる「増値税専用領収書」によってそれまでの増値税額が控除を受けることでそれぞれの付加価値に対して課税されることになる。ただし、贅沢からは縁遠い、穀物、食用油、水道などの特定の品目への増値税には低減税率13%が適用される。営業税は交通運送業、建設業、金融保険業、郵便電気通信業、文化体育業、サービス業、不動産販売業、無形資産の譲渡に対して3%〜5%、娯楽業は5%〜20%の税率で営業利益から規定額が控除された額に課税されていた。 増値税は常に外税表示であり、消費税と営業税はその性質上、内税であるため、増値税が日本での消費税に相当すると理解できる。 2016年5月1日、中国政府は国内景気の下支えと産業高度化のため、減税規模5000億元(約8兆2000億円)超の減税を行った。1994年の税制改正後、モノには増値税、サービスには営業税を課してきたが、似た2つの税金が並立してわかりにくく、モノとサービスの境目が曖昧であるため、2012年から増値税を課する対象を広げてきていた。さらに2016年には増値税を課する対象に不動産、建設、サービスを加えて、営業税を廃止した。不動産にあっては、これまで営業税3パーセントの税率が増値税11パーセントにかわり、金融にあっては営業税5パーセントが増値税6パーセントにかわる。しかし、課税対象が売り上げから粗利(売上から仕入れを引いた額)にかわるため実質的な税負担は減額となる。これまで営業税は生産、流通、販売の各段階で売り上げに課税され、取引回数が多いほど税負担が重くなり、外部取引より社内調達の方が有利になり、分業化や専門化を妨げていた。増値税は仕入れの税負担が控除されるため、外部の専門業者による高度なサービスを利用することを促し、製造業の専門化などにつながる。 香港は一国二制度が継続されており、基本的には返還以前の税制が維持されて中国本土側の税制とは異なっている。 ただし、本土・香港の実態経済が無差別・不可分に機関化されているのは既に書いたとおりである。 2018年に入ってから中国国債市場で、阿里巴巴のユエバオ(余額宝)といった海外機関投資家は、国内銀に代わって主なマージナルプレーヤーとなっている。世界的に国債が不足し国際的にレポ市場が干上がっており、投資家だけでなくBNYメロンのような清算銀行も中国へ市場を求めている。国債価格を支える税収の行方が注目される。 1970年代以降から活発に長征ロケットシリーズを開発していたが、その後の開発は順調に進み、2003年には有人宇宙船神舟5号によって楊利偉中佐を乗せ、初の有人宇宙飛行を行った。2008年の神舟7号では3人の宇宙飛行士を乗せて、ソ連、米国に続いて世界で三番目、中国としては初の宇宙空間での船外作業(飛行士1名)を行った。 今後の動向として、月面探査プロジェクト「嫦娥計画」や、2020年の宇宙ステーション計画等がある。 現在中国は自力で宇宙開発技術を向上させている。 成果は中国における携帯電話サービスが充実したことに現れている。 日本の独立行政法人宇宙航空研究開発機構では、中国の宇宙開発を「国家の経済発展と国民の生活水準向上に貢献することを主要な目的とする実益重視型」と評価している。 地方政府の役人(共産党員に限らず)の腐敗や職権の濫用が多いことが問題となっている。地方政府の対応に不満を持った農民や労働者は中央政府へ訴え出たり、場合によっては暴動を起こしたりしており、大きな社会問題となっている。また、政府高官でも汚職を行った者に対しては死刑が適用・執行されており、2000年には成克傑(元全国人民代表大会常務副委員長)が収賄罪で、2007年には鄭篠萸(元国家食品薬品監督管理局長)が収賄罪でそれぞれ死刑が執行されている。 改革開放が進んで以降の中国ではアメリカ合衆国に勝るとも劣らない拝金主義、物質主義が進行しているという指摘が多くある。たとえば、大規模な工場を建設する際に、周囲の住民の意見には聞く耳も持たず、「金にならない」というだけで工場の存在から出るリスク(汚水、悪臭、排煙など)を無視しているケースが散見される。また、食品製造では、安全性よりコストを優先するがゆえに無視し、危険な食品であっても生産するケースもある。また、多国籍企業の下請けになっている中国企業では、従業員を過酷な労働環境かつ安い賃金で使い、末端従業員の過労死、過労自殺を引き起こしている。そういったことを本来取り締まるべきなのは政府役人だが、金によって腐敗している者も少なくない。こうした問題の深刻な実態は2010年代に入って以降、国内外の調査団体や有志の調査により表面化しつつある。 中華人民共和国の司法に関してはいくつかの問題が内外から指摘されている。控訴する権利は与えられてはいるものの実際に控訴で逆転できるパターンはわずかである。 テロの首謀者から汚職といった他人に暴力を振るったり生命の危機に直面させない罪などでも、死刑判決即決行に該当する。人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルでの報告によると、2004年で全世界で執行された死刑囚の数の9割以上(約3400人)が中華人民共和国であり、同団体に非難されている。最近は新たな死刑施行方法を取り入れて、薬物で麻酔した上で銃殺するケースも増えてきた。 特に地方の人民法院の裁判官について、質に難があるという指摘がある。賄賂を要求することも多く、断ったら会社の設備を破壊され営業不能となった上、押収品を勝手に他者に渡す、といった事例まである[リンク切れ]。 2013年8月には、上海市高級人民法院の裁判官3名が集団売春した容疑で、懲戒免職処分になった事件が起こっている。 2015年12月、中国のグローバル企業である復星集団の会長で支配株主でもある郭広昌が当局から身柄拘束を拘束された。中国では党幹部や政府高官、国営企業のトップなど広範囲で取り締まりが強化されており、12月下旬には、言論の自由を擁護する活動家である弁護士も有罪判決を受けた。 中国では食品の安全性の悪さが大きな社会問題になっている。 中華人民共和国では、報道は新華社通信、人民日報、環球時報、中国中央電視台『新聞聯播』などの報道機関が世界的に知られている。改革開放以後は新聞はタブロイド紙が爆発的に増え、テレビは地方局が多数開設された(キー局は中国中央電視台だけである)。そのため中国共産党の喉舌『御用報道機関』である、上記の4大報道機関の影響力は相対的に低下している。一方、新興報道機関は中小多数で熾烈な報道合戦を展開している。そのため、大衆の好奇心を刺激する論評で大衆の関心の高い事柄を報道するが、そのうち政府への批判的な報道は当局から「整頓」と呼ばれる修正を命じられることが多い。そのため、「上と下を見つつ報道」しているといわれる。 中華人民共和国政府は、検閲での情報操作(一国二制度適用の香港・マカオは除く)を行っている。共産党・政府に対して、マイナスと認識した報道を規制している。 2015年9月3日の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典において、国際刑事裁判所(ICC)から虐殺などの疑いで逮捕状が出ているスーダン大統領のオマル・アル=バシールが招待されることもあった。 中国の憲法には第33条に「国家は人権を尊重し、保障する」と書き込まれている。六四天安門事件に対して、国際世論の風当たりが強まったことから2004年に付け加えられた。第37条には「公民の人身の自由は、侵犯を受けない」ともある。 中国国内では、インターネット上のウェブページで、反政府や同盟国の北朝鮮を中傷するページを閉鎖、または回線を切断させたりしていることが多い(中国のネット検閲)。 2004年11月には検閲されていない違法なインターネットカフェ1600店余りを摘発し、更にはネット上で政府を非難する自国人を逮捕しメールの文章も検閲内容として規制されている。Yahoo!などのアメリカ企業も政府の検閲に協力している。こうした企業に対しては、国際的に多くの人々が、中華人民共和国国内での言論の自由を奪っていると非難している。 こうしたネット文化の進展に伴い、中華人民共和国政府はネット規制システム「金盾」をバージョンアップさせた。傲游など検閲、規制を回避するためのシステムも一部で配布されていると見られている。 2018年時点で北京や上海で公立教師は平均的に月給6000元(約10万円)で、内陸部はその半分以下である。そのため、2018年4月から5月末にかけて内陸部の陝西省、湖南省、安徽省などで教師待遇の地域格差・未払賃金を理由に教師たちのデモがあったが鎮圧された。中国では都市と農村の格差が依然として問題であり、景気停滞によって地方政府の財政難が背景にあって、賃上げに対応出来ない理由がある。 中国の出身地差別は大きく分けて3つ。「都市在住者から農村在住者」「省内出身者(地元民)から省外出身者(地方出身者)」「首都出身者からその他地域の出身者」への差別である。中国青年報社会調査センターの最近の調査によると、回答者の30%が「自分の生活圏には何らかの出身地差別がある」と回答している 。 最大の民族集団は漢族で人口の92%を占め、その他の55の少数民族が残りの8%を占める。少数民族のなかではチワン族(1,600万人)、満族(1,000万人)、回族(900万人)、ミャオ族(800万人)、ウイグル族(700万人)、イ族(700万人)、モンゴル族(500万人)、チベット族(500万人)、プイ族(300万人)、朝鮮族(200万人)が比較的大きな民族集団である。中華人民共和国では、漢民族だけでなく、これらの中華人民共和国国内に居住する少数民族を含む全ての民族を「中華民族」と規定し、中華民族は一体であるという意味合いを持たせている。 中華人民共和国の民族の分類は、中華人民共和国政府が実施する「民族識別工作」によって決定される。また、「未識別民族」も存在している。 中国中央政府の成立後、急激な人口増加が進んだことにより、食糧問題、エネルギー問題などが発生した。人口増加に危機感を抱いた政府は、対策として1979年から一人っ子政策を実施し、出生率の統制による人口抑制を展開した結果、人口増加率は低下した。 しかし一方で、戸籍上は子供を一人しか持たないようにするため、出産しても届出を行わないことによって黒孩子(ヘイハイズ)と呼ばれる戸籍を持たない子供が激増したり、貧乏な農家の子供たちが人身売買のバイヤー経由で裕福な家庭に売られるなど、新たな問題が発生した。また、統計上では総人口は約13億人であるが、黒孩子や盲民と言われる浮浪民の存在のため、潜在的な人口は15億人を超えているとも言われる。また、清水美和東京新聞論説委員によると、10年ごとに行われている国勢調査では、2000年度調査は統計は13億人だったが、実際は15億人だったという。 また、急激な出産制限は全人口に占める若年層の割合を低下させた。そのため、将来少子高齢化が問題になると指摘されている。その状況に対し、政府は2015に行った第18期5中全会で、一人っ子政策を廃止した。 2019年度中国の人口はピークを迎え14億に達する見込みである。その後も増加傾向が見られるが2050年頃再び14億を割る見込みである。2019年1月3日、中国社会科学院は、人口の予想を発表した。それによれば、中国の人口は2027年にもピークを迎えたあと、減少に入り、2065年には11億7200万人まで落ち込むと発表している。 また、中国の人口統計は、1990年代から正確性に疑問があり、大幅に水増しされているという研究がある。ウィスコンシン大学の人口学者である易富賢は、2018年時点で、中国は、出生数が死亡数を下回る人口減少時代に入ったという研究を発表している。易の研究によれば、2018年、中国の出生数は前年より250万人減少し、死者数は1158万人で、総人口は127万人減少しているという。 国内では、沿岸部など経済発展の著しい地域と、内陸部の発展に取り残された地域との格差が拡大しているため、沿岸の都市部に出稼ぎするために流入する農民(民工)が増え、その数は2017年時点で2億8652万人。2017年の農民工の平均月収は3485元(約6万131円)である。 北中国の言語に代表される北方語を基礎として若干の改訂を加えた普通話を標準語としている。同じ中国語であっても、呉語、粤語、閩語などの異なる言語があり、かけ離れているため、かつては北京人と広東人では会話が通じなかった。しかし、建国以来の教育および放送等の普及により、若年層には普通話を話せない者は少なくなった。更に、深圳、珠海などの経済特区では省外からの人口流入が激しく、広東語が解らない者が多数派になりつつある。 なお、イギリスの植民地であった香港では、北京語と共に広東語および英語も公用語となっている。実際現在も北京語を使用するものは少なく、その上に1990年代初頭頃迄は大陸から移住したものを除いては北京語のできる者はほとんどいなかった。1997年の主権返還をきっかけに北京語熱が高まっている。また澳門では広東語のほかに、ポルトガル語も使われる。 チベット、ウイグルなどの各少数民族はそれぞれの固有の言語も使用しているが公用語は北京語である。政府は少数民族の言語を尊重する姿勢を示しながら、中学校以上の高等教育は原則として少数民族の言語は使用せず、北京語のみで教育を行うことや、ウイグル人に対しては子供を漢民族地域に居住させて北京語で教育することなどにより、北京語を普及させる政策を取っている。 義務教育期間は9年間で、一般に小学6年と日本の中学校に当たる初級中学(初中)3年(地域によって小学5年・初級中学4年)からなる。高等学校に当たる高級中学(高中)は3年。学年は9月に始まる。 また、2006年6月から陝西省呉起県で十二年義務教育(小学校から高校三年生まで)が実施し、2007年には広東省の珠海市、深圳市でも実施しはじまった。また、2010年10月17日には福州の馬尾区をはじめとして12年義務教育を本格的に実行させ、2012年には内モンゴル自治区では12年義務教育がすでに全自治区範囲内に普及された。それ以外は陝西省のように13年義務教育を実行している地域もある。義務教育の期間は市、區によって異なっている。 高等教育に関しては、2016年時点で中国の大学進学率は42.7%に達し、過去最高を記録した。中国の学問の中心の一つとして国内外に名を知られる国家重点大学に北京大学がある。現在では、清華大学が国内のトップ大学であるとする評価が定着しており、北京大学は2番目の位置づけとなっている。清華大学は朱鎔基前総理、胡錦濤党総書記、習近平党総書記の出身校でもあり、2万5000人の学生が理学部、工学部、文学部、法学部、経済学部、経営管理学部、芸術学部などに学ぶ。 国教はなく、主な宗教は仏教、道教、イスラム教、キリスト教である。 宗教信者は総計1億人余り、宗教活動場所85,000か所、宗教団体3,000余りといわれる。欧米では国民の多くは宗教信者であるが、現在の中華人民共和国の宗教信者数の1億人余りは総人口12億人に比して非常に少ない。これは中国大陸における宗教の歴史と中国共産党政府による宗教弾圧の影響が大きい。 国民の大半を占める漢人は現世利益的である。道教は漢民族固有の宗教である。信者数の統計はなく、道宮・道観(寺院)が1500余カ所、道士と道姑が2万5000余人といわれる。漢人は、複数の宗教の良いところをそれなりに信仰する傾向がある。改革開放以降、「紅白産業」と呼ばれる「冠婚葬祭業」が飛躍的に発展した。 イスラム教は、回族、ウイグル族、カザフ族など主に少数民族の間で信仰されている。信仰者数は1,800万人、イマーム、アホン(回教布教師)が4万余人。中華人民共和国のイスラム教徒はスンニー派に属している。今日アセアン地域やオセアニアの華僑が現代中国に大きな経済地位を占める。イスラム教は古代から中国にとり経済と切り離せない存在である。 仏教に関しては仏教の寺院が1万3000余カ所、僧と尼は約20万人といわれる。「漢民族仏教」、「チベット仏教(ラマ教)」、「南仏教(巴利語系)」の3種類がある。「漢民族仏教」の信徒数の統計はない。「チベット仏教」の信徒数は、チベット族やモンゴル族などの900万人、ラマ僧、尼僧は約12万人、活仏は1700余人、寺院は3000余カ所。「南仏教」はタイ族などの100万人、比丘、長老は1万人近く、寺院が1600余カ所といわれる。 文化大革命の時期に徹底的な弾圧を受けたチベット仏教はかなり復興したとはいえ、まだ最盛期にはほど遠く寺院数は10分の1以下に激減している。また、現在も中華人民共和国政府によるチベット仏教への弾圧は続いており、僧院には、中華人民共和国当局の「工作隊」が駐在し、強制的に、僧や尼僧に政治的・宗教的信念の「愛国再教育」を行っている。1996年から1998年の間に、中華人民共和国当局による「厳打」キャンペーンにより約500名の僧尼が逮捕され、約1万人が僧籍を剥奪されたといわれる。2007年、中華人民共和国政府は輪廻転生を続けるとされるチベットの高僧(活仏)が転生する際、政府の許可なしの転生は認めないことを決定した(国営新華社通信)。 儒教は共産主義や毛沢東思想に真っ向から敵対するものとして文化大革命時に徹底弾圧され、熊十力などの新儒家の名士が自殺に追い込まれるなど徹底的に迫害され宗教としては事実上絶滅した。しかし、孔子生誕2555周年となった2004年以降、毎年9月28日に孔子の生誕を祝う祝典「孔子祭」が国家行事として執り行われ、『論語』を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。 孔子の故郷の山東省の曲阜三孔(孔府、孔廟、孔林)の古建築群はユネスコの世界遺産に登録されている。文化大革命期に破壊された儒教関連の史跡及び施設(夫子廟など)も近年になって修復作業が急ピッチで行われている。また、北京オリンピックの開会式では『論語』が取り上げられた。 キリスト教のうち、カトリック教会は1958年から本来ローマ教皇だけに認められている主教・司祭ら聖職者任命を中国共産党傘下の中国天主教愛国会が任命することから中国政府の統制下にあるため、聖座(バチカン市国)との国交は断絶している。 プロテスタントは、信徒は約1000万人、聖職者が1万8000人おり、教会堂が1万2000カ所、簡素な宗教活動の場所(会所)が2万5000カ所ある。 中国には、上記のほか多数の地下教会信者がいるとされており、ブリタニカ国際年鑑の最新データによると、現代の中国のキリスト教徒は、当局の監督下にある国家公認教会信徒と地下教会信徒を合わせ9100-9750万人程度と記録されている。 習近平政権になって以降、キリスト教への抑圧が強まっており、2016年2月には浙江省でキリスト教教会の屋根に取り付けられた十字架を強制撤去したり、撤去に抗議する信徒を相次ぎ拘束する事件が発生した。 チベット地域ではボン教も広く信仰されている。ただし、現在のボン教はチベット仏教の体系を広く取り入れており、一見しただけではチベット仏教との区別がつきにくいが、マニ車を反時計回りに回すなどの相違がある。 民間信仰には、民衆道教、シャーマン・シャーマニズム的信仰、アニミズム的信仰がある。また幾つかの新宗教が存在し、1999年7月には法輪功が天安門広場で信者の集団的焼身自殺事件を起こした(天安門焼身自殺事件)。同教団は政府に邪教認定され、一切の活動を禁止された。 中華街 - 孔子文化賞 - 孔子平和賞 - 孔子学院 - 中国の漫画 - 華人 - 華僑 書聖として王羲之、顔真卿、北宋の徽宗帝の名が挙げられる。 漢から唐の陶淵明を代表とする「漢詩」・李白、杜甫、白居易を代表とする「唐詩」、宋の「詞」、元の「曲」、明と清の「小説」(白話小説、武侠小説など)が存在する。辛亥革命後の20世紀前半には日本に留学した経験を持ち、『故郷』、『阿Q正伝』、『狂人日記』、『藤野先生』で知られる魯迅が活躍した。また、毛沢東も『沁園春・長沙』などの漢詩を残している。 代表的な中国文学の作品 『史記』 『三国志演義』 『水滸伝』 『紅楼夢』 『封神演義』 『金瓶梅』 『聊斎志異』 中華思想 諸子百家 玄学 朱子学 陽明学 考証学 三民主義 毛沢東思想 鄧小平理論 絵画 山水画 花鳥画 年画 陶芸 唐三彩 宋磁(青磁、白磁) 七宝 万暦赤絵 華南三彩 対人関係に於いて「自己人」(自分の味方)、「熟人」(知り合う人)、「外人」という独特の概念が中国にあり、日本では中国人との国際結婚などでトラブルになるケースが多い。 ポルノの規制は厳しく、ポルノ雑誌の類は販売されておらず、隠語を使った官能小説のみ販売している。インターネットのポルノサイトも同様で、2007年に行った反ポルノキャンペーンで44000件のサイトを取り締った。また、サイト運営者が終身刑になったケースもある。家庭用ゲーム機の販売も2000年から禁止されてきたが、2015年に完全に解禁され、ハードウェアではソニー・インタラクティブエンタテインメントとマイクロソフトが進出しているが、任天堂は進出していない。家庭用ゲームソフトの販売も、ソフトウェアメーカーが検閲(中国にはコンピュータゲームのレイティングシステムは存在しない)を受けた上で販売することになる。 少数民族の祝祭(例えば、上記の開斎節、宰牲節)はその地方人民政府によって制定されている。香港特別行政区の休暇期間はその関連法規に規定されている。 伝統的スポーツ 中国武術(少林拳、太極拳、洪家拳、詠春拳など) 角力、鍵子 近代的スポーツ 1995年に国家プロジェクト「全民健身計画」が打ち出されたことやスポーツの多様化に伴い中国のスポーツ市場は数年で急激に拡大し、2005年には500億ドルに、競技人口は4億人にも達した。 北米プロバスケットボールリーグNBAに所属する姚明の活躍を受け、特にバスケットボールの人気が高まり競技人口は3億人まで増加したと言われている。 その他にはサッカー、バレーボール、卓球、バドミントン、体操、陸上競技、競泳、飛込競技、柔道、アーティスティックスイミング、トランポリン、射撃、重量挙げ、フィギュアスケート、ショートトラックスピードスケート、カーリング、エアリアルの人気も高い。近年では、国内リーグが発足されてワールド・ベースボール・クラシックにも参加している野球や熊朝忠が世界王座についたボクシングも人気が高まりつつある。 2008年8月8日から8月24日にかけて首都の北京で中国初の北京オリンピックが開催された。また、2022年には同じく北京で中国初の冬季オリンピックの開催も予定されている(→詳細は、2022年冬季オリンピックの項目を参照されたい。)。これは、史上初の夏・冬のオリンピックの同一都市での開催となる。 ^ 国家数据>年度数据>(中華人民共和国国家統計局(中国語版)の統計) ^ a b IMF>Data and Statistics>World 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ABC01-02-0305
現代建築に大きな影響を与えた、1919年、グロピウスらによってワイマールに設立された国立総合造形学校を何というでしょう?
バウハウス
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[ "バウハウス", "ロシア構成主義", "キュビスム", "表現主義", "ヴァルター・グロピウス" ]
[ "バウハウス(ドイツ語: Bauhaus)は、1919年、ヴァイマル共和政期ドイツのヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校。また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでの14年間であるが、その活動は現代美術に大きな影響を与えた(モダニズム建築、20世紀美術の項を参照)。 バウハウスはドイツ語で「建築の家」を意味する。中世の建築職人組合であるバウヒュッテ (Bauhütte, 建築の小屋) という語をヴァルター・グロピウスが現代風に表現したものである。 バウハウスの歴史はわずかな期間であるが、この間に運営方法は大きく変わった。 ヴァイマル大公ヴィルヘルム・エルンストは、ベルギーの建築家でアール・ヌーヴォーに造詣の深いアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデをヴァイマルに招聘した。1902年、ヴェルデは私設の「工芸ゼミナール」を設立し、1908年「大公立美術工芸学校」に発展した。1911年には、ヴェルデ設計による工芸学校の校舎が建てられた。 ヴァン・デ・ヴェルデはケルンでのドイツ工作連盟展(ドイツ語版、英語版)(1914年)で、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受け、規格化を重視したドイツ工作連盟のヘルマン・ムテジウスと衝突し(ドイツ語: Typenstreit、規格化論争)1915年にドイツを去らざるを得なくなり、工芸学校をヴァルター・グロピウスに託した。 第一次世界大戦後にドイツ革命(1918年11月3日 - 1919年8月11日)が勃発、ドイツ帝国が崩壊して大公の統治が終わり、ヴァイマル共和国が成立。1919年、工芸学校と美術学校が合併して「国立バウハウス・ヴァイマル」設立(ヴェルデ設計の旧工芸学校の校舎を使用)。初代校長にグロピウスが就任し、同年にバウハウス創立宣言が出された(ちなみに宣言の表紙はリオネル・ファイニンガーの「社会主義の大聖堂」)。 予備課程を担当していたヨハネス・イッテン の方針から、初期の教育内容は、合理主義的(機能主義的)なものと表現主義的(神秘主義・精神主義的、芸術的、手工業的)なものとを混合していた。 1922年にソ連の高等芸術学校ヴフテマス(1920年 - 1930年)から招聘したワシリー・カンディンスキーがロシア・アヴァンギャルドの構成主義的な造形教育を開始した後、グロピウスはオランダのデ・ステイル(ピエト・モンドリアンによる新造形主義や、テオ・ファン・ドゥースブルフによる要素主義)の影響を受け、より合理主義的・機能主義的な考え方をとるようになった。やがて、グロピウスとヨハネス・イッテンとの間に対立が生じ、1923年にイッテンがバウハウスを去り、後継者にはハンガリーを亡命したモホリ=ナジ・ラースローが就任、予備課程を担当した。その結果、合理主義・機能主義が、バウハウスの中心的な教育傾向となっていった。これは工業デザインや大量生産に合致するものであった。 ヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転し、「市立バウハウス・デッサウ」となった。デッサウの校舎はグロピウスの設計によるもので、モダニズム建築の代表作として各国に紹介された。グロピウスは1928年に校長を退き、グロピウスの後継者にはハンネス・マイヤーが指名された。 ムテジウスの系譜に連なるマイヤーは唯物論の立場から「バウエン」(Bauen, 建築、構築)を唱え、全てを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視させた。これによりドイツ表現主義的な審美性は無くなり、造形の呼称は「美」に代わって「形成」 (Gestaltung) とされた。マイヤーの手腕でバウハウスは初めて黒字を生み、国際的な評価が高まり、同校のデザイン活動は最高潮に達していた。1929年6月にマイヤーの後援でバウハウス内に「ドイツ共産党細胞」という同好会が結成された。マイヤーが公然たる共産主義者であったこともあり、さらにバウハウスはナチスら右翼勢力に敵視されるようになる。 1930年にマイヤーは解任され、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが校長に就任した。 1932年にデッサウ校は閉鎖し、ベルリンへ移転して私立学校になった。ミース・ファン・デル・ローエの方針はマイヤーの「バウエン」を継承しつつも、政治色を払拭するものだった。 1933年にはナチスにより閉校される前にミース・ファン・デル・ローエにより解散された。 (出典、Magdalena Droste\"Bauhaus\", Taschen) ミース・ファン・デル・ローエは 米国に亡命、モホリ=ナジ・ラースローも国外に移動しているなど、国外に活動の場は移動されることとなった。 モホリ=ナジはシカゴ芸術産業協会に招かれ、ニュー・バウハウスを設立した(1937年)。財政難のため1年ほどで閉鎖されたが、1939年に School of Design Chicago として再開、1944年には拡大し The Institute of Design となった。シカゴの活動では特に写真の分野が有名である。モホリ=ナジの教育方式は、1949年にイリノイ工科大学(IIT)に引き継がれた。 ヴァイマル校舎は、旧東ドイツの時代は建築・土木工科大学 (Hochschule für Architektur und Bauwesen Weimar) として機能していたが、東西併合後にバウハウスの流れを汲む国立の総合芸術大学としての再編が計画され、1996年に建築、土木工学、アート & デザイン、メディアの四領域を有するバウハウス大学(ドイツ語版、英語版)として、改めてバウハウスの名を掲げることとなった。その中でも、大学院修士課程 (MFA) のみのコースとして設置された \"Public Art and New Artistic Strategies\" は、バウハウス大学の全領域を横断しながら新しい芸術を探求する実験的なコースとして注目されている。 1999年9月、「バウハウス・デッサウ財団(ドイツ語版、英語版)」管理のデッサウ校舎において理事長を務めるオマー・アクバー(ドイツ語版)が、実験的教育機関「バウハウス・コレーグ」を立ち上げた。対象は大卒や専門課程既卒者でクラスは英語で行われる。履修期間は一年(三期)で、一学期のみの履修もできる。私設学校であるため公的な卒業資格は得られない。往来のバウハウスが掲げていた「全ては建築に収束する」でなく、テーマは「都市」。メディア、建築、アート、デザインなどの専門知識を持った 20 人前後の学生たちで成り立つ。バウハウスブランドを利用しているという批判もあるが、21世紀のバウハウスを見据えた実験的試みが行われている。 バウハウスへの日本人留学者は、水谷武彦(東京美術学校助教授)と山脇巌・道子夫妻がいる。 山脇巌『バウハウスの人々 近代建築家7』彰国社、1954年。各・回想記 山脇道子『バウハウスと茶の湯』新潮社、1995年 水谷らは帰国後は美術学校でバウハウス流の造形教育を行った。 新建築工芸学院(1932年 - 1938年) 日本の高等芸術学校。水谷武彦、山脇巌・道子夫妻が講師として参加。 山脇巌はバウハウス閉鎖後に帰国し、バウハウスで学んだフォトコラージュによる作品「バウハウスへの打撃」(ナチスの突撃隊とバウハウスの写真などを組み合わせた)を制作した。戦後山脇は、日本大学芸術学部教授に就き、バウハウスの経験をもとにカリキュラムを作成する。これが日本で初の大学におけるデザイン教育となる。(当時は美術学科の中にあるデザイン専攻。現在はデザイン学科として独立) 「ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」は、1996年に世界遺産(文化遺産)に登録された。〈バウハウス叢書〉の刊行も含め、後世の美術芸術・美術思想・美術教育等に与えた影響は大きい。 ミース・ファン・デル・ローエ ヴァルター・グロピウス パウル・クレー ヨゼフ・アルバース ヨハネス・イッテン テオ・ファン・ドゥースブルフ モホリ=ナジ・ラースロー ワシリー・カンディンスキー リオネル・ファイニンガー ヘルベルト・バイヤー オスカー・シュレンマー ピエト・モンドリアン マルセル・ブロイヤー 1924年竣工の大阪市立工芸高等学校本館 (竣工時は旧制の大阪市立工芸学校) はアール・ヌーヴォー風の建物で、ヴァン・デ・ヴェルデのヴァイマル・バウハウス校舎に影響を受けたと言われている。本館校舎は2000年12月12日に、大阪市指定有形文化財に指定されている。また2008年には日本の産業近代化を支えた技術者教育の歩みを知る事が出来る施設として、近代化産業遺産に認定されている。 創立間もない頃、山口正城がドイツのバウハウスの教育を取り入れた。戦前、国内でバウハウス式教育を実践していたのは同校と東京の新建築工芸学院だけだった。 原典 \"バウハウス叢書\"の邦訳は全14巻で出版。中央公論美術出版、1991-99 年。 『バウハウスとその周辺』(叢書別巻1・2) 利光功、宮島久雄、貞包博幸編、1996-99年。 『バウハウスの人々 回想と告白』エッカート・ノイマン編/向井周太郎・相沢千加子・山下仁訳、みすず書房、2018年 図録 利光功編 『ヴァイマルの国立バウハウス 1919-1923』 中央公論美術出版。2009年、創立90年記念出版 2008年4月から09年3月に『バウハウス・デッサウ展』が四ヶ所(東京、浜松、新潟、宇都宮)で催され「展覧会図録」が産経新聞社(島津京・細谷誠ほか編)で刊行された。 概説書 70年代に刊行 『バウハウス 歴史と理念』利光功、美術出版社 『バウハウス その建築造形理念』杉本俊多、鹿島出版会 『バウハウス 近代デザイン運動の軌跡』ギリアン・ネイラー、利光功訳、PARCO 出版局 写真集 2000年代に刊行 『バウハウス 1919-1933』 タッシェン・ジャパン、建築デザインシリーズ マグダレーナ・ドロステ、Mariko Nakano訳 タッシェン、新版2009 『ヴァルター・グロピウス バウハウス1925-26、ファグス工場1911-25』 <GAグローバル・アーキテクチュア70>A.D.A.Edita Tokyo/二川幸夫企画・撮影/デニス・シャープ文 『特集バウハウス 1919-1999』 大口晃央ほか <10+1 = Ten plus one No.17>INAX出版、 1999年 『誰にでもわかる20世紀建築の3大巨匠+バウハウス』 マガジンハウスムック、2006年 学術書 『バウハウスと戦後ドイツ芸術大学改革』 鈴木幹雄、長谷川哲哉編著 風間書房 2009年 『ナチス時代のバウハウス・モデルネ』 ヴィンフリート・ネルディンガー編、清水光二訳 岡山:大学教育出版、2002年 ^ “大ガラスのある白い箱 三岸アトリエ”. TOTO. 2018年6月24日閲覧。 モダニズム建築", "ロシア構成主義(ロシアこうせいしゅぎ、ロシア語: Конструктивизм、英語: Constructivism)とは、キュビスムやシュプレマティスムの影響を受け、1910年代半ばにはじまった、ソ連における芸術運動。絵画、彫刻、建築、写真等、多岐にわたる。 1917年のロシア革命のもと、新しい社会主義国家の建設への動きと連動して大きく展開した。1922年のアレクセイ・ガン(Aleksei Gan)の『構成主義』が理論的基盤をもたらした。その特徴は、抽象性(非対象性・幾何学的形態)、革新性、象徴性等である。平面作品にとどまらず、立体的な作品が多いことも、特徴の1つである。構成主義という言葉は、ナウム・ガボ(Naum Gabo, Наум Габо, 1890年-1977年)とアントワーヌ・ペヴスナー(Antoine Pevsner, Антуан ПевзнерまたはНатан Певзнер, 1886年-1962年)が、最初に使ったとされる。 ロシア構成主義に属するとされる主要な作家は、上記2名の他に以下のとおり。 ウラジーミル・タトリン(Vladimir Tatlin, Владимир Татлин, 1885年-1953年) アレクサンドル・ロトチェンコ(Aleksandr Rodchenko, Александр Родченко, 1891年-1956年) エル・リシツキー(El Lissitzky, Эль Лисицкий, 1890年-1941年) リューボフ・ポポーワ(Liubov S. Popova, Любовь Попова, 1889年-1924年) アレクサンドラ・エクステル(Alexandra Exter, Александра Экстер, 1882年-1949年) イワン・プーニー(Ivan Puni, Иван Пуни, 1892年-1956年) グスタフ・クルーツィス(Gustav Klutsis, Густав Густавович Клуцис) コンスタンチン・メーリニコフ(Konstantin Stepanovitch Melnikov, Константин Степанович Мельников), 1890年-1974年) 1920年代後半には、スターリンの下でソ連政府が保守化し、社会主義リアリズムが重視されて、ロシア構成主義は衰退した。これに伴って、一部の作家がソ連から西欧やアメリカ合衆国へ逃れたこともあり、遅くとも1930年代には、ロシア構成主義は、国際的に広まった。この段階においては、「国際的構成主義」と呼ばれることもある。また、1930年代の抽象絵画に与えた影響も大きい。 ロシア構成主義に関係して、いくつかの団体・組織や教育機関が設立されている。主たるものは、次のとおりである。 ヴフテマス(Vkhutemas (VKhUTEMAS)、VhutemasまたはVchutemas, 国立高等美術工芸工房または国立高等芸術技術工房:BXУTEMAC, Bxyтeмac, \"Выcшие Государственные Художественнo-Texническиe Macтepcкиe\"):1920年に、スヴォマス(Svomas, 国立自由美術工房、国立自由芸術工房または国立自由芸術スタジオ:CBOMAC, Cвoмac, \"Свободные Государственные Художественные Мастерские\")が改組されてモスクワに設立される。のち、1927年にヴフテイン(Vkhutein (VKhUTEIN) またはVhutein, 国立高等美術工芸研究所または国立高等芸術技術学校:BXУTEИH, Bxyтeин, Выcший, \"Гocyдapcтвенный Художественнo-Texнический Институт\")に改称するも1930年に閉鎖。基礎過程や建築を重視する、バウハウス的な総合的美術教育をソ連に導入した。 教官の中には、ロドチェンコやタトリンをはじめとして、リシツキー、ガボ、マレーヴィチ、ポポーヴァ、ヴェスニン兄弟、イワン・レオニドフ、クリュンなども含まれており、初期にはバウハウスに向う前のカンディンスキーも加わっていた。 インフク(InkhukまたはInhuk, 芸術文化研究所:ИНXУK, Инхук ,\"Институт Художественной Культуры\") ウノヴィス(Unovis, 「新しい芸術の主張者」:УHOBИC, Уновис, \"Утвердители нового искусства\") オブモフ(ObmokhuまたはObmohu, 「若い芸術家による会」:OБМОХУ, Oбмoxy, \"Oбщество Moлoдыx Xyдoжников\") (注)「:」より後のロシア語表記は、「大文字のみによる略語, 小文字入り略語, \"略されていない正式名称\"」の順に記載 ^ 外部リンク ロシア・アヴァンギャルド レイヨニスム ミニマリズム 構成主義 美術 ソ連邦建設", "キュビスム(仏: Cubisme; 英: Cubism「キュビズム、キュービズム」、立体派)は、20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めた。 キュビスムの出発点は、ピカソが1907年秋に描き上げた『アビニヨンの娘たち』(Les demoiselles d’Avignon)である。この絵をピカソはごく一部の友人にだけ見せたが、反応は芳しいものではなかった。アンリ・マティスは腹を立て、ブラックは「三度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われたようものだ」と言い、アンドレ・ドランはピカソがそのうち首を吊るのではないかと心配したという。 しかしブラックはピカソの仕事の重要性にすぐに気づき、ひそかに『大きな裸婦』(1908年)を描いてそのあとを追った。そしてポール・セザンヌゆかりのエスタック地方に旅し、『エスタックの家』をはじめとする7点の「セザンヌ的キュビスム」の風景画を描き、1908年秋にダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの画廊で公開した。これを見た批評家のルイ・ヴォークセルが『ジル・ブラス』紙上で「ブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する」と書いた。これがキュビスムの名の起こりと言われている。もっともこの言葉は、サロン・ドートンヌの審査の席でマティスが先に使っている(ブラックはこの展覧会に7点の作品を持ち込んだが5点の展示を拒否され、これを不服として全作品を引き上げている)。「キュビスト」という言葉は1909年の『フィガロ』誌が初出である。 翌1909年からピカソとブラックは共同でキュビスム追究を始めた。1911年ごろの作品はどちらに帰属するのか判別しがたいほどよく似ている。このころ、ふたりはほとんど作品を公開していない。ピカソとブラックの共同作業は、ブラックが第一次世界大戦でフランス陸軍に召集される1914年まで続いた。 キュビスムがはじめて世に知られることになった契機は、1911年の第27回アンデパンダン展である。ピカソとブラックの仕事に影響を受けたピュトー・グループの画家たちが会場の一室を占拠し、キュビスムの一大デモンストレーションを行った。観衆はそれらの「醜い作品」を見て衝撃を受け、口々に非難を浴びせた。この事件は、詩人で批評家のギョーム・アポリネール、アンドレ・サルモン、ロジェ・アラールが意図的に仕掛けたもので、その呼びかけに応じて参加した画家はアンリ・ル・フォーコニエ、フェルナン・レジェ、ロベール・ドローネー、ジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、マリー・ローランサン、マルセル・デュシャン、ロジェ・ド・ラ・フレネー、フランティセック・クプカ、フランシス・ピカビア、そして彫刻家のアルキペンコらである。彼らはこれに続き、サロン・ドートンヌ、翌1912年の第28回アンデパンダン展、ボエティー画廊における「セクション・ドール(黄金分割)」展と波状的に示威活動を行った。この年、フランス下院で「キュビスム非難演説」が行われた。 ピュトー・グループの活動は短く、才能に恵まれた何人かの画家はすぐに別の道を歩み始めた。ドローネー、ピカビアは抽象絵画、マルセル・デュシャンは『自転車の車輪』などのレディ・メイドでダダイスムの先駆者となる。 シャルル・エドゥアール・ジャンヌレとアメデエ・オザンファンによる『キュビスム以降』 (Après le Cubisme) は、1918年に刊行されている。 ルネサンス以来の「単一焦点による遠近法」の放棄(すなわち、複数の視点による対象の把握と画面上の再構成) 形態上の極端な解体・単純化・抽象化 を主な特徴とする。 フォーヴィスムが色彩の革命であるのに対して、キュビスムは形態の革命である、という言い方をされることもある。 キュビスムの美術の分野における影響は大きく、絵画にとどまらず、彫刻、デザイン、建築、写真にまでその影響は及んでいる。特に、未来派、ロシア構成主義、抽象絵画への影響は大きい。また、パピエ・コレ (papier collé) は、のちのコラージュ (collage)、アッサンブラージュ (assemblage) へとつながっていく。 理論的な難解さの一方で、視覚的には新奇で人目をひくため、多くの画家の好みに合致したところがあり、キュビスムはかなりの追随者を生んだ。 なお、キュビスムの経験はピカソ自身にとっても大きく、「キュビスムの時代」を終えたあともしばしばピカソの作品の中にキュビスム的なイメージが現れている。 ピカソもブラックも、キュビスムから抽象に向かうことはなく、具象にとどまった。 フランス語ではキュビスム (cubisme) と、「ス」が澄んだ発音であるが、英語ではキュビズム(キュービズム) (cubism) と、「ズ」と濁った発音になる。 日本語では、「立体派」と訳され、現在でも一部の文献(例えば、高校の世界史の教科書など)ではこの訳が用いられている。しかし、正確に訳すのであれば、「立方体派」とすべきであり、このことから「立体派」という呼び方は誤解を生むので避けるべきであるという意見がある。 パブロ・ピカソ ジョルジュ・ブラック フェルナン・レジェ フアン・グリス アンドレ・ロート ロベール・ドローネー アルベール・グレーズ ジャン・メッツァンジェ ピュトー・グループ(セクション・ドール) 坂田一男 方幹民 以下の時代区分は、ピカソとブラックのキュビスムについてであり、その他の作家たちについては必ずしもあてはまらない。 セザンヌ的キュビスム(原始的キュビスム/プロトキュビスム) 『アヴィニョンの娘たち』以降、ピカソとブラックの作品は、人物、静物、風景のいかんに関わらず、立方体のような単純な形に還元されてゆく。ちなみにこの時期を次の「分析的キュビスム」に含める考え方もある。 分析的キュビスム (Analytical Cubism) 1909年夏頃以降、対象の分析・解体が進み、作品は平面に近づく。何が描かれているか判別がつきにくいという意味では、最も難解な時期といえる。代表作としては、「ウーデの肖像」(1910年)、「カーンワイラーの肖像」(1910年)(いずれもピカソ)がある。 総合的キュビスム (Synthetic Cubism) 1912年春頃以降、形態の分析・解体が一段落し、揺り戻しが始まる。この時期の特徴として挙げられるのはパピエ・コレ、文字の導入、シェイプト・キャンバス、色彩の復活である。 ロココ的キュビスム 1914年頃、ピカソの作品に緑色を基調とした装飾性に富む作品が現れる。その優雅な装飾性から、ロココ的キュビスムと呼ばれる。この時期の代表作として「若い娘の肖像」(1914年)がある。 キュビスムは写真に対しても大きな影響を与えているが、未来派、ダダ、シュルレアリスムのように、キュビストそのものが、キュビスム的な写真作品を残しているということはまずない。たとえば、ピカソが、写真作品を多く制作しているのは有名だが、キュビスムの写真作品と呼べるようなものではない。 一般に、「キュビスムの写真」と呼ばれるような作品は、キュビスムの影響を受けた作品のことで、人物、風景(自然のもの、人工的なものを問わず)等を撮影していながら、光と影の対比、幾何学的な形態(まる、三角、四角、水平線、垂直線、対角線など)の重視、対称の構成的な配置等に、強い特徴をもった作品であり、構成主義的な写真へと直結するような位置にある。キュビスムの写真への影響は、むしろ、ストレートフォトグラフィにおいて、顕著だといわれることが多いようであるが、実際にはそれにとどまらず、ピクトリアリスム、未来派、ダダ、シュルレアリスムそれぞれの写真作品にもその跡は見て取ることができ、いわゆる「バウハウスの写真」にも大きな影響を与えている。 この範疇に含まれる具体的な写真家としては、ヨーロッパでは、アンドレ・ケルテス、アレクサンドル・ロトチェンコ、フランティセック・ドルティコルなど、アメリカでは、ベレニス・アボット、イモージン・カニンガム、エドワード・ウェストン、ポール・アウターブリッジ・ジュニア、ポール・ストランドなど、日本では淵上白陽を中心としたいわゆる「構成派」の写真家たち(松尾才五郎、高田皆義、津坂淳、西亀久二など)が挙げられる。特に日本では、静物でも人物像でも、単なる影響にとどまらず、「キュビスムそのもの」というような作品すらあり、また、黒と白の効果的な使い方も顕著に見られる。 チュビスム(tubisme, tubism チュービズム) 1910年代前半のレジェのキュビスムの作品を、チュビスムと呼ぶことがある。特に人物画において、チューブ状の物体に解体された作品が多く、この呼び名の由来となっている。 オルフィスム ピュリスム クボフトゥリズム シンクロミズム(Synchromism、サンクロミスム) キュビスムの影響を受けて、1913年に、パリにおいて、スタントン・マクドナルド=ライト(Stanton MacDonald-Wright; 1890年 - 1973年)とモーガン・ラッセル(Morgan Russel; 1886年 - 1953年)の2人のアメリカ人により主張された絵画形式。基本的にはキュビスムの影響により抽象性が増した作品だが、色彩豊かな作品で、オルフィスムに近い。抽象性が徹底している作品ばかりではなく、再現的な作品もあり、その点でも、オルフィスムに近い。短命であり、1918年ごろには、ほとんど具象作品に回帰した。やはりパリにいた、パトリック・ヘンリー・ブルース(Patric Henry Bruce; 1880年 - 1937年)とアーサー・バーデット・フロスト(Arthur Burdett Frost; 1851年 - 1928年)の2人のアメリカ人の同時期の作品を含めて考える場合もある。また、シンクロミズム自体を、オルフィスムに含めてしまう考え方もある。 ワイリー・サイファー(河村錠一郎監訳)『ロココからキュビスムへ : 18〜20世紀における文学・美術の変貌』(河出書房新社、1988)ISBN 4309230040 John Pultz and Catherine B. Scallen, Cubism and American photography 1910-1930, The Sterling and Francine Clark Art Institute, 1984. ISBN 0931103045 ピエール・カバンヌ(中村隆夫訳)『ピカソの世紀 : キュビスム誕生から変容の時代へ : 1881-1937』(西村書店、2008)ISBN 9784890136056 ニール・コックス(田中正之訳)『キュビスム(岩波世界の美術)』(岩波書店、2003)ISBN 4000089714 乾由明ほか編『キュビスムと抽象美術』(『世界美術大全集 西洋編』第28巻、小学館、1996) ISBN 4096010286 アルベール・グレーズ(貞包博幸訳)『キュービスム』(利光功ほか編『バウハウス叢書』第13巻、中央公論美術出版、1993)ISBN 4805502339 モーリス・セリュラス(西沢信弥訳)『キュビスム』(白水社〈文庫クセジュ〉、1964) 【画集・作品集】 フィリップ・クーパー(中村隆夫訳)『キュビスム』(西村書店、1999)ISBN 4890135561 高階秀爾ほか編『世界の名画:18 ブラックとキュビスム 新装版』(中央公論社、1995)ISBN 4124031203 【論文】 花澤 志「マルセル・デュシャンのキュビスム期における独自性 : 〈第四の次元〉の概念を中心に」(『美學』55(3), pp. 14-27, 2004) 田淵 晉也「近代個人主義世界観の変容 : アヴァンギャルド芸術を読む」(『Artes(宝塚造形芸術大学紀要)』15, pp. 117-132, 2001) Tate Modern - Cubism (英テート美術館収蔵のキュビスム作品) Cubism - Metropolitan Museum of Art(米メトロポリタン美術館によるキュビスム解説) アジアのキュビスム ― 境界なき対話(東京国立近代美術館、同名の展覧会の特設サイト) チェコ・キュビスム 美術 ル・コルビュジエ", "表現主義(ひょうげんしゅぎ)または表現派(ひょうげんは)とは、様々な芸術分野(絵画、文学、映像、建築など)において、一般に、感情を作品中に反映させて表現する傾向のことを指す。狭い意味の表現主義は、20世紀初頭にドイツにおいて生まれた芸術運動であるドイツ表現主義(またはドイツ表現派)および、その影響を受けて様々に発展した20世紀以降の芸術家やその作品について使われる。これには、抽象表現主義などが含まれる。 なお、日本語に翻訳してしまうとわからなくなってしまうが、英語では、「表現主義」(英: Expressionism)の語は「印象主義」(英: Impressionism)の語と語形の上でも対立している。 ドイツ表現主義は、20世紀初頭にドイツで起こった一大芸術運動である。この感情表現を中心とする手法は、当時、他のヨーロッパの国々で盛んであった印象派(物事の外面的な特徴を描写する)とは対極に位置する。表現主義は、第一次世界大戦後すぐに、他の運動へと受け継がれていった。例えば、構成主義、新即物主義、そして後の抽象表現主義、超写実主義である。 ドイツ表現主義の作品において、よく扱われるテーマは、生活の矛盾(性的なもの、家族間のものなど)から、革命、戦争、社会の矛盾など、いわば既存の秩序や市民生活に対する反逆を目指したものが多い。ドイツ表現主義においては、伝統的な芸術の様式は破壊され、また自然主義とは正反対の立場をとる。表現主義者は、ニーチェに思想的な影響を受けているとされる。 20世紀のドイツ表現主義の画家に直接的な影響を与えたのは、ファン・ゴッホであった。20世紀初頭のドイツには、青騎士やブリュッケなど、いくつかの表現主義の画家のグループがあった。 ドイツ表現主義の画家には、 マリアンネ・フォン・ヴェレフキン (Marianne von Werefkin, 1860 - 1938)(青)(en, de) ワシリー・カンディンスキー (Wassily Kandinsky, 1866 - 1944)(青) ハインリヒ・カンペンドンク (Heinrich Campendonk, 1889 - 1957)(ラ)(de) エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー (Ernst Ludwig Kirchner, 1880 - 1938)(ブ) - 彫塑作品でも知られる ジョージ・グロス (George Grosz, 1893 - 1959) (en, de) オスカー・ココシュカ (Oskar Kokoschka, 1886 - 1980) - 著作もある カール・シュミット=ロットルフ (Karl Schmidt-Rottluff, 1884-1976)(ブ)(de) エゴン・シーレ (Egon Schiele, 1890 - 1918) オットー・ディクス (Otto Dix, 1891 - 1969) (de) - 後にノイエ・ザッハリッヒカイトへ エミール・ノルデ (Emil Nolde, 1867 - 1956)(北) リオネル・ファイニンガー (Lyonel Feininger, 1871 - 1956) (de) - 風刺画家としても知られる コンラート・フェリクスミュラー (Conrad Felixmüller, 1897 - 1977) (de) - 後に新即物主義へ マックス・ベックマン (Max Beckmann, 1884 - 1950) (de) エーリッヒ・ヘッケル (Erich Heckel, 1883 - 1970) (ブ) (de) マックス・ペヒシュタイン (Max Pechstein, 1881 - 1955)(ブ)(de) ルートヴィッヒ・マイトナー (Ludwig Meidner, 1884 - 1966) (de) - 詩人としても知られる アウグスト・マッケ (August Macke, 1887 - 1914)(ラ)(de) フランツ・マルク (Franz Marc, 1880 - 1916)(青) ガブリエーレ・ミュンター (Gabriele Münter, 1877 - 1962)(青)(de) オットー・ミュラー (Otto Mueller, 1874 - 1930)(ブ) (de) パウラ・モーダーゾーン=ベッカー (Paula Modersohn-Becker, 1876 - 1907)(北) (de) ヴィルヘルム・モルグナー (Wilhelm Morgner, 1891 - 1917)(ラ)(de) アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー (Alexej von Jawlensky, 1864 - 1941)(青) (de) クリスティアン・ロールフス (Christian Rohlfs, 1849 - 1938)(北)(de) がいる。(青:「青騎士」に所属、ブ:「ブリュッケ」に所属、北:北ドイツ表現派、ラ:ライン地方 表現派) また、主な活動の場がドイツ以外であり、ドイツ表現主義には含められていないが、同時代、表現主義の画家として知られているのは、 ハイム・スーチン (Chaim Soutine, 1894 - 1944) - パリで活躍 エドヴァルド・ムンク (Edvard Munch, 1863 - 1944) - ノルウェー中心 などである。 音楽では、新ウィーン楽派の3人の作曲家 アルノルト・シェーンベルク アルバン・ベルク アントン・ウェーベルン の自由な無調の時代の作品が表現主義とされる。 他にも、 バルトーク・ベーラ パウル・ヒンデミット の第一次世界大戦前の作品や、 エルンスト・クルシェネク の若き日の作品などに表現主義の傾向が見られるほか、新ウィーン楽派よりも上の世代の作曲家では リヒャルト・シュトラウス アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー なども表現主義の傾向を持った作品を残している。 エルンスト・シュタードラー (Ernst Stadler) エルゼ・ラスカー=シューラー (Else Lasker-Schüler) ゲオルク・ハイム (Georg Heym) ゲオルク・トラークル (Georg Trakl) ゴットフリート・ベン (Gottfried Benn) ブラス ドイブラー Däubler ファン・ホディス van Hoddis エートシュミット Edschmid フランツ・カフカ (Franz Kafka) アウグスト・シュトラム (August Stramm) ヴァルター・ハーゼンクレーヴァー (Walter Hasenclever) 演劇の分野では、20世紀初頭、ゲオルグ・カイザー、エルンスト・トラーらを中心としたドイツ演劇で盛んであった。 表現主義 (建築)(Expressionist architecture)はまず多分野にわたる表現主義運動の一環として1910年 - 1925年ごろのドイツ語圏で始まったが、同時期にオランダでもアムステルダム派が生まれていた。そのスタイルを特徴づけるのは初期の近代主義者の採択した新しい材料や形式の革新、そして社会の大衆化であり、レンガや鉄、そしてとりわけガラスの大量生産によってもたらされた新しい技術的な可能性から少なからず着想を得ている。これらの動向は、映画などの視覚芸術におけるドイツ表現主義運動と並行して発達した。当時の経済状態から建築の依頼は限られていたので、ブルーノ・タウトの『アルプス建築』(\"Alpine Architecture\"、1917年[1])やヘルマン・フィンステルリン(英: Hermann Finsterlin)の\"Formspiels\"のように設計されたきり建てられることのなかった作品や、短期間しか展示されなかった建物も非常に多かったが、建築学史的にはきわめて重要なものである。しかし演劇や映画から遠近図法を駆使した舞台セットの需要があったため、表現主義の建築家たちはイマジネーションを膨らませ、古い伝統に挑戦することで財布も膨らませることができた。 表現主義建築の歴史において特筆に値する出来事としては、1914年にケルンで行われた第1回ドイツ工作連盟展、1919年のベルリン大劇場(英: Großes Schauspielhaus)(ハンス・ペルツィヒ設計)の落成と上演活動、ブルーノ・タウトを中心とした建築家たちによる往復書簡「ガラスの鎖」、そしてオランダのアムステルダム派の運動などが挙げられる。 表現主義の建築家にとって永遠の目標となっているエーリヒ・メンデルゾーン作のアインシュタイン・タワー(ポツダム)が建てられたのは1921年のことである。しかし、1925年までにタウトやメンデルゾーン、ペルツィヒなどの主な表現主義建築家たちは、視覚芸術における表現主義芸術家たちとともに新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト)の運動へと転じていった。これはより実際的・実務的な方法論に基づくもので、初期の実験を捨て去ったといってもよいほどの方向転換であり、ハンス・シャロウンのように表現主義の作風を守ったのは少数派であった。1933年にドイツでナチスが政権を獲得して以降、表現主義は「退廃芸術」として非合法化され、運動それ自体は終息へ向かうが、多岐にわたる運動の残した遺産は今日にいたっても多くの芸術家にインスピレーションを与えている。 個人主義的であった表現主義建築は、さまざまな点において美学的ドグマを避けつつも、その運動自体の展開とコンセプトの深化は美学的規範の発展に大きく寄与することとなった。表現主義建築の作品はヴァラエティと差異に富んでいるが、それらの作品群において反復されていることがある程度明らかに見て取れる共通点もいくつかある。 心理的な効果をもたらすために採られるいびつな形態。 リアリズムより優先される、内的経験の象徴的ないし様式的な表現。 新しく、オリジナルで、しかも幻想的なものの達成を支える潜勢的な効果。 実際に完成した作品よりも重要な設計思想を発見し提示する大量の設計図と模型。 個々のコンセプトへ分割不可能な混交的解決の多用。 洞窟や山、稲妻、水晶や岩石の地層などをモチーフとしたロマンティックな自然現象というテーマ(ただし、比較的時代も近く鉄やガラスといった素材への偏愛という共通点のあるアール・ヌーヴォーのように華麗で有機的なものではなく、むしろ素朴かつ無機的である)。 職人的技巧を極める努力に対する創作力の傾注。 古典主義様式よりはむしろゴシック様式、あるいはロマネスク様式やロココ様式への志向。 ローマやギリシアからばかりでなく、ムーア人やムスリムやエジプト人、はてはインド人の芸術や建築からも受け継いだ遺産(ヨーロッパでも特に東欧で盛んであった表現主義は西洋の血と東洋の血を分け持っているのである)。 「芸術作品としての建築」という概念の導入。 表現主義建築の背景にあるのは政治的、経済的、芸術的な変容である。ドイツの戦争、共産主義、社会主義、内戦、それにともなう混乱といったことの全てが、ユートピアの実現を目指した表現主義の発展に寄与することとなった。社会民主主義や、第一次世界大戦後の疲弊に順応しつつあったドイツ国民に支えられたワイマール共和国の目的は、新しい表現形式の発展を受けて戦前からある事業計画の推進を鼓舞するどころか、むしろ停滞させる気風しか生まなかった。皇帝ヴィルヘルム2世退位後の社会再建も同様である。そこで知識人の左翼的な発想はロシア革命(それはロシア・アヴァンギャルドと並走していた)に似た変革を求めた。ハイコストで壮大なベルリン大劇場の改築は、戦時中の経費や戦後の不景気よりも戦前の帝国を想起させるものだった。 表現主義建築に先行しながら同時代まで存続していた、共通点のある芸術運動にはアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォー、ドイツのユーゲント・シュティールなどがある。デザイナーと職人の統一は、表現主義建築にもつながるアーツ・アンド・クラフツ運動の主要な特徴であった。アール・ヌーヴォーにおいてしばしば見られる(ロマン主義においても一般的であった)自然主義的な題材も継続していたが、その華々しさは鳴りをひそめ、より現世的に方向転換をした。フィンスターリンは自然科学者エルンスト・ヘッケル(著書『自然の芸術』(独: Kunstformen der Natur)の挿絵をみずから描いている)と知り合い、その生態学から自然物の形態というインスピレーションの源を見いだした。 イタリアの未来派やロシア構成主義、そしてダダイスムは表現主義の時代に姿を現わし、類似点もしばしば見られた。ブルーノ・タウトの雑誌『Frülicht』の記事には、ウラジーミル・タトリンによる第三インターナショナル記念碑(タトリンの塔、英: Tatlin's Tower)のような構成主義の成果も含まれていた。ただし、未来派と構成主義が強調した機械工業化と都市化傾向がドイツでも支配的になるまでには新即物主義の時代を待たなければならない。メンデルゾーンは未来派と構成主義の境界線上で仕事をした特例であり、彼のスケッチにおけるダイナミックで溢れ返らんばかりのエネルギーという特質は、未来派のアントニオ・サンテリアのスケッチ上にも存在する。ダダの芸術家クルト・シュヴィッタースによるメルツバウにも、その角ばった抽象的な形態など、表現主義的な特徴が散見される。 フランク・ロイド・ライトとアントニ・ガウディのような個人主義者の影響も、表現主義建築の背景となる文脈を提供した。というのも、ライトの作品集はメンデルゾーンの講義に用いられて彼の周囲で広く知られるようになっており、またガウディの仕事とベルリンでの動向は相互に影響を与え合っていたからである。例えば1926年にベルリンで結成された建築家たちのサークル\"der Ring\"も、ドイツで出版したりフィンスターリンと文通していたガウディについては知っていた。ただしガウディについて補足すると、バルセロナではアール・ヌーヴォーの建築と20世紀初頭の建築(ユーゲント・シュティールと対立した)とが急速に断絶するには至らなかったため、ガウディの仕事はブルーノ・タウトが主張するようなものよりはむしろアール・ヌーヴォー的な要素の方が多く含まれてはいる。 表現主義建築のより大きな背景としては、スコットランドのチャールズ・レニー・マッキントッシュの仕事について言及しなければならない。彼が制作したヒル・ハウスのような建物やイングラムチェアは一概にアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーとしては分類しにくく、表現主義的な色合いがある。彼の仕事は1900年にウィーン分離派展に出展されていたので大陸でも知られていた。表現主義は衰退するが、日本ではウィーン分離派に影響されて1920年に分離派建築会が作られた。 表現主義建築は多くの作家からその思想的な素地を得ている。表現主義の建築家にとってとりわけ重要な哲学的源泉は、ニーチェ、キェルケゴール、そしてベルクソンらの著書である。ブルーノ・タウトのスケッチではニーチェの著作、とりわけ『ツァラトゥストラはかく語りき』が頻繁に引用される。なぜなら、その主人公こそ表現主義者の求める自由――ブルジョア的世界を拒否する自由、歴史からの自由、個人主義的な孤独に生きる精神の力強さ――の体現者だからである。タウトの『アルプス建築』もツァラトゥストラの下山からインスピレーションを得て構想されたものである。またアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデもニーチェの強い影響下にあり、みずから『この人を見よ』の扉ページのイラストを描いている。またフランツ・カフカの『変身』における形態の変容も、表現主義建築の特徴である素材の不定と照応している。タウトの最もよく知られた建築作品の一つであるグラス・パヴィリオン(第1回ドイツ工作連盟展にて公開)は、彼のサークルに関わっていた詩人パウル・シェーアバルトの著作『ガラス建築』からヒントを得たものである。 フロイトやユングらの精神分析学の登場は、表現主義にとって重要だった。形態と空間の与える心理的効果に関する調査が、建築や研究や映画の中で建築家によって行われた。タウトは、「オブジェが俳優の感情や所作を反映するという心理的な役割を果たす」という舞台背景のデザインがもつ心理学的な可能性に注意した。夢と無意識についての研究はまた、形態に関するフィンスターリンの探求にも材料を提供した。 表現主義者たちの思考の精髄は、『芸術における精神的なものについて』(\"Concerning the Spiritual in Art\"、1912年)や『点と線から面へ』(\"Point and Line to Plane\"、1922年)などカンディンスキーの芸術論に見て取ることができる。 表現主義建築の形態は、先行するアール・ヌーヴォーやユーゲント・シュティールから分離することによって表現主義建築を定義する役割を果たした。アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデは、装飾や当時の同傾向のものから個人主義的で象徴的な形態概念へと自分の建築を移行させることができた。アール・ヌーヴォーは装飾に関して構成的な自由を保持していたが、表現主義の建築家たちは部分的にではなく建築全体の形態を自由に解放するべく努めた。実際に建てられたものばかりでなく図面上の作品からもそれは明らかである。フィンスターリンの\"Formspiels\"は不定形な構成要素の集積へと転じた建造物の形態を例示している。またブルーノ・タウトの『アルプス建築』は、その全ての骨格が結晶構造に変えられた冷ややかに光る建造物として構想されている。 表現主義建築の斬新な形式の例としては、メンデルゾーンのアインシュタイン・タワーがある。相対性理論を証明する天文学の実験のために制作されたこの塔は、相対的かつ変動的な幾何学的見地を示している。実用的な装飾は排され、形態と空間は設計者およびビルの名前の由来となった人物の考えを表現するために(メンデルゾーンは「アインシュタインの宇宙をめぐる神秘から」この塔を設計したと語っている)生コンクリートで建造された(ただし実際上の困難からすべてコンクリートを用いて作ることはできず、部分的にはレンガの上に漆喰を塗り重ねることとなった)。 アインシュタイン・タワーばかりでなく大量の図面において示されるように、メンデルゾーンの形態に関するセンスは非常に強力なものだった。芸術史学者ヴォルフガング・ペーントは「メンデルゾーンはその設計図(どこからも依頼を受けたものではなかった)においてもっぱら容積について考えており、機能は二の次であった」、同時代の表現主義建築家ガウディは「論理的な形式の表現として現れる巨大な彫刻の集まり」を作るためにアール・ヌーヴォーの装飾的な自然から逃れえたのだと語っている。 曲線的な幾何学的配置を多用したため、表現主義建築ではドーム型の建物が多く作られた。曲線的な建築は当然ながら曲線的な屋根を必要とするためである。ベルリン大劇場の内部も半球形をしていた。フィンスターリンのFormspielsは、非対称で擬人化されたドームである。グラス・パヴィリオンやヴォルプスヴェーデの\"Käseglocke\"(「チーズカバー」の愛称で呼ばれる小屋?)など、ブルーノタウトの作品の多くもまたドーム型であった。タウトの『アルプス建築』はコールリッジの詩『クーブラカーン』に登場するドーム型宮殿のようなエキゾチックな魅力をもっている。 曲面だけでなく、水平面および垂直面の劇的な強調も表現主義建築の意匠として挙げることができる。法的な事情から表現主義的な形態がもたらされるようになった例であるが、1916年、ニューヨーク市は都市計画に関連して建造物一棟あたりの面積を制限する条例を発布した(当然それぞれのビルは上へ伸びてゆかざるをえず、これが摩天楼の発展を促すこととなった)。この条例によって建築物はどのように進化してゆくこととなるかを示したヒュー・フェリス作成の立体図は、照明の強いコントラストが形態を浮き上がらせるのに用いられていることなどから、表現主義の映画の影響を受けていることが見て取れる。それらの図版は1926年にドイツの雑誌『Baukunst』において発表され、のち1929年にフェリスの著書『The Metropolis of Tommorrow』(この本のタイトルも、1927年の映画『メトロポリス』から取られたものと見られている)へ収録された。 表現主義建築のモダニズムへの寄与にあたっては、形式主義の傾向が誘因となった。1912年にカンディンスキーは「形式こそが内容を表現するのであり、しかも多くの例においては形式そのものが内容となっている」という説を提唱した。のちに新即物主義へと転じる表現主義者たちの仕事は形式を出発点としたが、細部で歪みをもたせるにとどまっていた。ペーター・ベーレンス、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエらは(若干の例外はあるにせよ)規範的な形態に則り、幾何学の秩序に依拠して新たな建築概念を提示するために直角的な幾何学構造を用いた。 形態と並んで、表現主義建築家にとって永遠の課題となるのが素材である。1919年ベルリンのパウル・カッシーラーのギャラリーで行われたメンデルゾーンのスケッチ展のタイトルは『鉄とコンクリートによる建築』であった。建物を画一的にするために材料を統一するという意図がしばしば見られた。ブルーノ・タウトと詩人ポール・シェーアバルトのガラス建築がその例である。彼らはガラス建築の可能性に関する主張を文書として発表し、実際に1914年の第1回ドイツ工作連盟展でグラス・パヴィリオンを造った。ドームの土台周辺には素材に関するシェーアバルトのアフォリズムが刻まれた。 「色ガラスは憎しみを破壊する」「ガラスの宮殿なしに生きることは重荷である」「ガラスは我々に新時代をもたらした。レンガでの建築は我々に危害しかもたらさない」 ―― パウル・シェーアバルト、グラス・パヴィリオンへの刻銘 表現主義の素材の統一に関するもう一つの例はメンデルゾーンによるアインシュタイン・タワーである。ここで塔に冠された人物名に関するシャレ(ein stein = 一個の石)を見逃すことはできない。一繋がりの型にコンクリートを流し込んで造ったわけではないが(前述の通り、技術的限界からレンガと化粧漆喰が部分的に使用された)、少なくともメンデルゾーンは当初そのようなものとして構想しており、型へ流し込まれる前のコンクリートの流動性を表す効果がこの塔には見られる。 表現主義建築家の誰もがシェーアバルトのようにレンガを拒絶したわけではなく、素材の性質を表現するという同じ目的でレンガを使用した者もおり、ヨーゼフ・フランケは1920年代の初頭にベルリンほか各地で表現主義様式の教会を数多く建立している。またグラス・パヴィリオンの設計者ブルーノ・タウト本人も「住宅団地カール・レーギエン」(Carl Legien Housing Estate)で質感・量感と反復を表現する方法としてレンガを使った。アーツ・アンド・クラフツ運動の場合のように、ポピュリズムや自然主義などさまざまな議論がレンガの使用のために関連付けられた。その色彩と点描によってレンガが表現主義に対して果たした役割は、化粧漆喰が国際的なスタイルにおいて果たしたのと同じものだった。 映像における表現主義は、1920年代にドイツで発展した。第1次世界大戦後の復興期にドイツ映画はブームを迎えたが、豪華で贅沢なハリウッド映画に太刀打ちするのは経済的な状況から難しかった。ドイツの映画制作会社UFAスタジオは、予算不足を補うため、映画に象徴的な演出を施し、ある種のムードや意味を付与する試みが行われた。最初の表現主義的な映画として、 『カリガリ博士』(1919年) - 『Das Cabinet des Dr. Caligari』 『巨人ゴーレム』(1920年) - 『Der Golem』(cf.ゴーレム) 『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年) - 『Nosferatu』 などが挙げられる。これらの映画では、ストーリーが非常に象徴的に、故意に超現実主義的に描写されている。1920年代前半の芸術界は、ダダが席巻しており、ヨーロッパ文化の各方面は、新しい思想や芸術スタイルの実験を通して未来を展望する変革を受け入れていた。これら最初の表現主義的な映画のセットには十分な予算がつぎ込まれた。セットデザインは、でたらめで現実味がなく、幾何学的に狂っていて、また壁面や床には光や影などを表す塗装が施された。表現主義の映画では、狂気、精神異常、背信、などの「知的な」テーマが取り扱われた。 表現主義的な、こうした極端な非現実的な映画の短い流行は、ダダと共に数年で廃れていった。しかし、表現主義映画のテーマは、1920年代、1930年代の映画において、雰囲気を強調するための背景・ライティング・影の配置の芸術的なコントロールの形で受け継がれた。この映画製作の流れは、ナチスの勢力拡大とともにアメリカにも伝わり、数多くのドイツの映画製作者がハリウッドに移り、アメリカの映画界に受け入れられた。特に表現主義の映画に大きな影響を受けたのは、ホラー映画とフィルム・ノワールであった。例えば、カール・レムリとユニバーサルスタジオは、ロン・チェイニー主演『オペラ座の怪人』(『The Phantom of the Opera』)で有名になり、『魔人ドラキュラ』(1931年, 『Dracula』)の撮影をしたドイツ移民のカール・フロイントは、暗く芸術的にデザインされたセットで、1930年代のユニバーサル映画の怪物のスタイルを築き、後の世代のホラー映画に多大な影響を与えた。また、フリッツ・ラングやマイケル・カーティスは、1940年代の犯罪ものに表現主義的手法を取り入れ、この路線の映画に影響を与えた。 ドイツ表現主義 芸術 文化 ^ 五十嵐太郎『おかしな建築の歴史』(エクスナレッジ 2013年)p.199によれば「1912年に美術史家アドルフ・ベーネが表現主義建築を提唱し、既存の枠組みにとらわれない自由なフォルムを特徴とするユートピア的な建築案がおもにドローイングで数多く発表」されたという。 表現主義年譜(リンク切れ)", "ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グローピウス(Walter Adolph Georg Gropius, 1883年5月18日 - 1969年7月5日)は、モダニズムを代表するドイツの建築家。 近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人とされる。世界的に知られた教育機関(学校)である「バウハウス」の創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。 1883年5月18日、ベルリンに生まれる。カルル・フリードリッヒ・シンケルの弟子であったマルティン・グロピウスの大甥に当たる。 1903年-1907年にミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学んだ。卒業後、ペーター・ベーレンスの事務所に入り(1908年-1910年)、そこでミース・ファン・デル・ローエと出会っている。ドイツ工作連盟にも参加した。1911年の作品、『ファグスの靴型工場』は、後のバウハウス校舎を思わせる鉄とガラスを用いた初期モダニズム建築であった。同年、アルマ・マーラーと結婚。1915年、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデからヴァイマルの工芸学校を託された。1919年に統合され国立バウハウスが開校すると、グロピウスは初代校長となった。当初は総合芸術としての建築教育を目指すものであったが、カンディンスキーらのアヴァンギャルドな造形教育の場となった。『ヴァイマル・バウハウス校長室のインテリア』(1923年)は、モダンデザインによって統一された空間であり、記念碑的作品とされる。 やがてヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転、デッサウ市立バウハウスとなった。『デッサウの校舎』(1926年)はグロピウスの設計によるもの で、著書『国際建築』(1925年、バウハウス叢書第1巻)とともにモダニズム建築の代表作として世界中に知られるようになった。また、デッサウ市の依頼で、郊外に集合住宅(ジードルング)を建設した(1926年-1928年)。グロピウスはハンネス・マイヤーを後任に指名し、1928年に校長を退いた。1929年に離婚。1930年頃にはベルリンの集合住宅建設に当たった。バウハウス閉鎖後、事務所にいた山口文象とともにドイツを脱出、自身は1934年イギリスに亡命する。日本生まれのカナダ人建築家、ウェルズ・コーツ(Wells Coates)が設計したロンドンにあるモダニズム建築のアパート「アイソコン・ビル(Isokon Building)」にマルセル・ブロイヤーらとともに住んでいた。 1937年、ハーバード大学に招かれ、アメリカに赴いた。ここでI.M.ペイ、フィリップ・ジョンソンらを育てた。また、共同設計事務所TAC(The Architects Collaborative)を設立。超高層ビルのパンナムビル(1958年、現メットライフビル。ピエトロ・ベルスキらと共同設計)などを設計した 第二次大戦後の母国ドイツにおいても、設計を行う機会を得ている。まず1952年にはベルリンのハンザ地区で行われた国際建築展に参加し、高層住宅を実現させている。さらに、1960年代に、ベルリン南部のノイケルン地区に、グロピウス・シュタット(de)と呼ばれる、集合住宅が建ち並ぶ広さ266haと大規模な郊外住宅地を設計している。 1969年7月5日、マサチューセッツ州ケンブリッジにて86歳で死去。 ベルリンのハンザ地区に建つ高層住宅 グロピウス・ハウス(マサチューセッツ州リンカーン) メットライフビル グロピウスは著書『国際建築』(1925年)で、造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすと主張した。1926年の「バウハウス校舎」は、まさにその実例となることを意図して設計された。1932年にフィリップ・ジョンソンの企画によりニューヨーク近代美術館でインターナショナル・スタイル(国際様式)の展覧会を企画し、建築界の主流になっていった。 アメリカ移住後のグロピウスの実作はそれほど多くないが、大学教育を通じてアメリカにおけるモダニズム建築の普及に影響力を持った。超高層ビルにおけるインターナショナル・スタイルの普及は、ミース・ファン・デル・ローエやSOMの手にゆだねられた。 ハーバード大学建築科長として活躍したが、アルマ・マーラーとのスキャンダルでも知られた。 『国際建築』 貞包博幸訳、中央公論美術出版〈バウハウス叢書1〉、1991年 『バウハウス工房の新製品』 宮島久雄訳、中央公論美術出版〈バウハウス叢書7〉、1991年 『デッサウのバウハウス建築』 利光功訳、中央公論美術出版〈バウハウス叢書12〉、1995年 『生活空間の創造』 蔵田周忠・戸川敬一共訳、彰国社、1958年-講義録を元にしている。 『デモクラシーのアポロン 建築家の文化的責任』 桐敷眞次郎訳、彰国社、1972年/ちくま学芸文庫(新版)、2013年-遺著の評論集。 ^ 写真集 『ヴァルター・グロピウス バウハウス1925-26、ファグス工場1911-25』 二川幸夫企画・撮影、デニス・シャープ解説(GAグローバル・アーキテクチュア.70、A.D.A.EDITA Tokyo、1994年)。にも詳しい。 ^ 主な作品紹介に、『ヴァルター・グロピウス』 ギルベルト・ルプファー、パウル・ジーゲル、TASCHEN(タッシェン・ジャパン)、2010年。がある 建築・建築史 ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群(世界遺産) ベルリンのモダニズム集合住宅群(世界遺産) アールフェルトのファグス靴工場(世界遺産) モダニズム建築 ソビエト宮殿 建築と活字 ヴァルター・グロピウス『建築はどうあるべきか』(日本語)" ]
ABC01-02-0306
需要と供給のバランスによる自動的な価格の調整を「神の見えざる手」と表現したイギリスの経済学者は誰でしょう?
アダム・スミス
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[ "アダム・スミス", "デヴィッド・リカード", "フランソワ・ケネー", "トマス・ホッブズ", "ポール=アンリ・ティリ・ドルバック" ]
[ "アダム・スミス(Adam Smith、1723年6月5日 - 1790年7月17日)は、イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者である。スコットランド生まれ。主著に倫理学書『道徳感情論』(1759年)と経済学書『国富論』(1776年)がある。 スミスが生きた18世紀のイギリス社会は政治の民主化、近代西欧科学の普及と技術革新、経済の発展といった「啓蒙の世紀」であった一方で、格差と貧困、財政難と戦争といった深刻な社会問題を抱えた世紀でもあった。光と闇の両側面を持つ18世紀イギリス社会はアダム・スミスの思想に大きく影響したとされる。 アダム・スミスは1723年にスコットランドの海沿いの町カコーディに生まれた。 スミスはグラスゴー大学でスコットランド啓蒙の中心人物であった哲学者フランシス・ハッチソン(1694 - 1746)の下で道徳哲学を学んでいる。ハチソンはフーゴー・グロティウス(1683 - 1645)やサミュエル・プーフェンドルフ(1632] - 1694)らの自然法思想を継承する道徳哲学者であり、スミスもこれらの思想的潮流から大きな影響を受けている。 グラスゴー大学卒業後、オックスフォード大学に進んだが中退し、1748年にエディンバラ大学で文学と法学の講義を始めた。1751年にはグラスゴー大学の論理学教授に就任し、翌年道徳哲学教授に転任した。スミスは1750年頃に哲学者ヒュームと出会い、ヒュームが他界する1776年まで親交を続け、『人間本性論』に代表されるヒュームの啓蒙思想からも大きな影響を受けている。1759年には主著『道徳感情論』を出版している。 1763年にグラスゴー大学を辞職すると、スコットランド貴族ヘンリー・スコットの家庭教師としておよそ3年間フランスやスイスを旅行した。この間スミスは、ヴォルテール(1715 - 1771)、ケネー(1694 - 177])、テュルゴー(1727 - 1781)などのフランス啓蒙思想の重鎮とも交流を持った。 イギリス帰国後は執筆活動に専念し、1776年に主著『国富論』を出版した。その後1778年にはスコットランド関税委員に任命され、1787年にはグラスゴー大学名誉総長に就任した。 1790年にエディンバラで67歳で病死した。スミスは生前「法と統治の一般原理と歴史」に関する書物を出す計画があったが、死の数日前に友人に命じてほぼ全ての草稿を焼却させてしまった。焼却されずに残った草稿はスミスの死後、『哲学論文集』(1795)として出版された。また、1895年にはグラスゴー大学時代の学生がとった講義ノートが見つかっており、『法学講義』として後に公刊された。 1723年 スコットランドカコーディに生まれる 1740年[要出典] オックスフォード大学に入学 1746年[要出典] オックスフォード大学を退学 1748年 エディンバラ大学で文学と法学の講義を始める 1750年 哲学者デイヴィッド・ヒュームとの親交が始まる 1751年 グラスゴー大学論理学教授に就任 1752年 同大道徳哲学教授に転任 1759年 『道徳感情論』を出版 1763年 グラスゴー大学を辞職 1763年 - 1766年 貴族に家庭教師として同行しフランスやスイスを遊学 1776年 『国富論』を出版 1778年 スコットランド関税委員に就任 1787年 グラスゴー大学名誉総長に就任 1790年 エディンバラで病死、遺言によりほぼ全ての草稿は焼却される 1795年 焼却されずに残った草稿が『哲学論文集』として出版 1895年 グラスゴー大学時代にスミスの講義を受講した学生のノートが発見される 『道徳感情論』は、スミスがグラスゴー大学の教壇に立っていた時期に書かれた本であり、1759年に出版された。スミスは生涯に『道徳感情論』と『国富論』という2冊しか書物を遺していないが、『国富論』が経済学に属する本であるのに対して『道徳感情論』は倫理学に関する本とされる。 今日のような秩序だった社会において人々は法の下で安心して安全な生活を送ることができるが、その根幹には人間のどのような本性があるのだろうか。『道徳感情論』において、スミスはこの問題に応えようと試みた。スミスの師であるフランシス・ハッチソンがこうした社会秩序が人間のひとつの特殊な感情に起因すると考えたのに対し、スミスは社会秩序が人間のさまざまな感情が作用し合った結果として形成されると考えていた。『道徳感情論』の原題The Theory of Moral SentimentsのSentimentsが単数形ではなく複数形であるのも、こうしたスミスの思想が反影されている。 『道徳感情論』においてスミスが社会秩序の要因と考えた感情とは、端的に言えば同感(英: symphathy)である。スミスが重要視した同感とは、他人の感情および行為の適切性(英: property)を評価する能力であり、こうしたスミスの思想は現代の神経科学者や行動経済学者からも注目されている。 スミスは、同感を通じて人々が自身の感情や行為が評価されていることを意識し、是認されることを望み否認されることを嫌っていると考えた。しかし、現実社会にはしばしば他人の間にも利害対立があるから、人々が自身の感情や行為の適切性を測るためには利害対立から独立した中立的な基準が必要である。スミスはこの基準を公平な観察者(英: impartial spectator)と呼び、人々が具体的な誰かの視線ではなく胸中の公平な観察者の視線を意識しながら行動していると考えた。 ただし、偶然(英: fortune)の下では、公平な観察者の評価と世間の評価とが異なる場合がある。スミスはこのような不規則性(英: irregularity)が社会的に重要な意味があると考え、偶然の下で公平な観察者の評価を重視する行為者を賢人(英: wise man)、世間の評価を重視する行為者を弱い人(英: weal man)と呼んだ。人間は自己統制(英: self-command)によって胸中の公平な観察者の声に従おうとするが、激しい情念の下では自己欺瞞によって公平な観察者の声を無視しようとする矛盾した存在である。 『道徳感情論』は自愛心を主張するものとしてグラスゴー大学におけるスミスの後任者トマス・リードなどによって非難され、かつてはスミスの主著として読まれることも少なかった。 スミスは前著『道徳感情論』(1759年)の巻末で、次の著作「法と統治の一般理論」に関するものだと宣言していたが、それを部分的に実行したのが『国富論』(1776年)である。 「天文学の歴史により例証された哲学的論究を指導し方向づける諸原理」とはスミスの初期の著作である。スミスの死後発見され、青年時代に完成されたものとして『哲学論文集』に所収された。 スミスは当時の自然哲学ないし自然科学の頂点にあったニュートンの力学や天文学に深い関心と造詣を示しており、本論文において自然科学と道徳哲学の間の類推を行っている。 ^ 洗礼日。 ^ 原題はAn Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations。『富国論』、『諸国民の富』などとも訳される(ex. 大河内一男監訳『国富論III』中公文庫、p.465)。 ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年1月28日閲覧。 ^ a b c d 堂目 2008, p. i. ^ 堂目 2008, pp. 3-15. ^ a b c d e f g h i j k 堂目 2008, p. 16. ^ 堂目 2008, pp. 17-18. ^ a b c d 根岸 1983, p. 33. ^ a b 堂目 2008, pp. 18-19. ^ 堂目 2008, p. 19. ^ a b 堂目 2008, pp. 19-20. ^ a b 堂目 2008, p. 20. ^ a b アダム・スミス 2005, p. 3-4. ^ 堂目 2008, p. 25. ^ 堂目 2008, p. 26. ^ 堂目 2008, pp. 26-27. ^ 堂目 2008, pp. 288-289. ^ 堂目 2008, p. 32. ^ 堂目 2008, pp. 34-36. ^ 堂目 2008, pp. 44-51. ^ 堂目 2008, pp. 54-55. ^ アダム・スミス & 訳序, p. ii. ^ アダム・スミス & 訳者解説, p. 419. ^ アダム・スミス, 2012 & 訳者解説, p. 430. アダム・スミス 『法学講義』 水田洋訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2005年。ISBN 978-4003410585。 アダム・スミス 『アダム・スミス法学講義』 アダム・スミスの会訳、名古屋大学出版会、2012年。ISBN 978-4-8158-0699-6。 堂目卓生 『アダム・スミス-『道徳感情論』と『国富論』の世界』 中央公論新社〈中公新書〉、2008年。ISBN 978-4121019363。  根岸隆 『経済学の歴史』 東洋経済新報社〈スタンダード経済学シリーズ〉、1983年。ISBN 978-4492814529。  道徳情操論(道徳感情論) 国富論 絶対優位 - アダム・スミスによって提唱された。[要出典] 貨幣経済 古典派経済学 近代経済学 オックスフォード大学の人物一覧 石川暎作 - 日本での最初の『国富論』全訳に着手した(cf. 大河内一男監訳『国富論III』中公文庫、pp.455-458)。 アダム・スミス大学 The Theory of Moral Semtiments (PDF) (英語) 「道徳情操論」原文 An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations (PDF) (英語) 「国富論」原文 Adam Smith (1723–1790). Library of Economics and Liberty (2nd ed.). Liberty Fund. (2008). http://www.econlib.org/library/Enc/bios/Smith.html.  Adam Smith at the Adam Smith Institute アダム・スミスの著作 - インターネットアーカイブ内のオープンライブラリ(英語) アダム・スミス - DMOZ Adam Smithの作品 - プロジェクト・グーテンベルク Adam Smithに関連する著作物 - インターネットアーカイブ アダム・スミスの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック) Contains The Theory of Moral Sentiments, slightly modified for easier reading Adam Smith Awards at Treasury Today Wealth of Nations lecture by Economist Tyler Cowen, May 2013 References to Adam Smith in historic European newspapers", "デヴィッド・リカード(英: David Ricardo、1772年4月19日 - 1823年9月11日)は、自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出することで経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。スミス、マルクス、ケインズと並ぶ経済学の黎明期の重要人物とされるが、その中でもリカードは特に「近代経済学の創始者」として評価されている。 リカードは17人兄弟の3番目としてロンドンで生まれた。彼の家はスペイン系およびポルトガル系のユダヤ人で、彼が生まれるほんの少し前に、オランダからイギリスへ移住して来た。14歳のとき、リカードはロンドン証券取引所で父親エイブラハム・リカードの仕事に加わった。21歳のとき、リカードは家族の正統派ユダヤ教の信仰を拒絶し、クエーカー教徒のプリシラ・アン・ウィルキンソンと駆け落ちする。これによって父親から勘当されることになり、ケンブリッジ大学を中退して、自ら株式仲買人として独立することになった。その後リカードはユニテリアン派の教徒となっている。 リカードの証券取引所での成功は彼を裕福にし、42歳となった1814年に仕事を引退。グロスター州のギャトコム・パーク(英語版)に邸宅を購入し、生涯の住処とした。1819年にはアイルランドの都市選挙区であるポーターリングトンから庶民院(下院)に出馬、当選して代議士として自由貿易を主張し、また、穀物法の廃止を主張した。1821年にはトーマス・トゥックやジェームズ・ミル、トマス・ロバート・マルサスやジェレミ・ベンサムなど著名な経済学者とともに、政治経済クラブ(英語版)の設立に尽力した。 1823年、耳の伝染病のため51歳で急逝、遺産として7500万ポンド(約150億円)を残した。 リカードは、ジェームズ・ミルの親友であり、ミルは彼に政治への大志や経済学の著述を勧めた。他の著名な友人の中にマルサスやベンサムがいる。死の10日前、論敵でもあったマルサスに対して手紙で「議論が私たちの友情を決して傷つけなかった。君が私の説に賛成してくれたとしても、そのことで今以上にあなたを好きになることはありません」と記している。 リカードは、1799年にアダム・スミスの『国富論』を読み、経済学に興味を持つようになった。その少し前の1797年にイングランド銀行が金本位制を停止し不換紙幣の増発からインフレーションを招来することになったが、これについて1810年にリカードは『地金の価格高騰について--紙幣暴落の証明』という小論を発表、貨幣数量説に立って金本位制への復帰を主張した。 リカードは、『経済学および課税の原理』の第7章で比較優位理論による自由貿易の利益を論証した。また、リカードは『経済学および課税の原理』の第3版の第31章「機械について」で、固定資本(機械)が導入されることによって労働者が失業する可能性はあるかという問題を取り上げた。リカードは、『経済学および課税の原理』の第2版まで、機械の導入による失業の可能性はなく、機械の導入は労働者にとって利益になると考えていたが、1821年に刊行した『経済学および課税の原理』の第3版では、短期的には失業の可能性を認めている。 リカードで特に有名なのが、穀物法をめぐるマルサスとの論争から生まれた自由貿易の主張と地代論であり、自由貿易による利潤蓄積の増大→国富の増進と労働価値説に拠った収穫逓減による結果としての地代の形成を『経済学および課税の原理』で主張した。ただ、論争する点が多かったマルサスの主張についても、彼が『人口論』で言及した人口に対する見解については同意し、『経済学および課税の原理』の議論で前提としている。 リカードの等価命題 - 国債の発行は将来の増税を予想させるため、人々はこれを織り込み、消費を抑制するため、財政支出による経済効果は現時点で増税することと変わらないとする仮説。ロバート・バローの提起によって有名になったことから、「リカード=バローの中立命題(等価命題、等価原理、等価定理)」とも呼ばれる。 賃金の鉄則 - 賃金を上げようとするいかなる試みにもかかわらず、労働者の実質賃金は生活できる最低のレベルの金額にとどまるだろう、という主張。フェルディナント・ラッサールによる。 労働価値説 日本を代表する経済学者である森嶋通夫は経済学史における「特別な巨人」としてアダム・スミス、リカード、カール・マルクス、ケインズの四人を挙げているが、特にリカードを「近代経済学の父」として評価している。 リカードの学説はマルクスとワルラスによって後世の経済学に影響を与えている。リカードの労働価値説はマルクスの経済学の中心的枠組みになっており、ヒルファディングやローザ・ルクセンブルクなどのマルクス主義者によって発展させられた。また、リカードの差額地代論は希少性理論としてワルラスによって発展させられ、後の新古典派経済学に貢献した。 『The High Price of Bullion, a Proof of the Depreciation of Bank Notes』(1810年)、金属通貨の採用を提唱した。 『Essay on the Influence of a Low Price of Corn on the Profits of Stock』(1815年)、穀物法の廃止が、社会の生産的構成員に、より多くの富を分配するだろうと主張した。 農業保護政策批判 地代論 大川一司訳 岩波文庫、1948年 農業経済論集 服部一馬訳 春秋社 1950 『Principles of Political Economy and Taxation』(1817年、『経済学および課税の原理』)、地代が人口増加につれて成長すると結論付けた分析。また、ある国がすべての財の生産においてその貿易相手国ほど効率的でなかったとしても、すべての国が自由貿易から利益を得ることができる、ということを示す「比較生産費説」を明確に展開した。 経済学及課税之原理 小泉信三訳 岩波文庫、1928年 経済学及び課税の原理 竹内謙二訳 東大出版会 1973年 経済学および課税の原理 羽鳥卓也、吉沢芳樹訳 岩波文庫、1987年 マルサスへの手紙 中野正訳 岩波文庫、1949年 リカアドオのマカロックへの手紙 中野正訳 岩波文庫、1949年 リカアドオのトラワアへの手紙 ジェイムズ・ボナア、ジェイコブ・H.ホランダア編 中野正訳 岩波文庫、1955年 デイヴィド・リカードウ全集 全11巻 雄松堂書店 1971 - 1999年 第1巻 経済学および課税の原理 堀経夫訳 第2巻 マルサス経済学原理評注 鈴木鴻一郎訳 ^ a b 森嶋 1994, p. 3. ^ 中矢俊博 『やさしい経済学史』 日本経済評論社、2012年、30頁。 ^ 日本経済新聞社編 『経済学をつくった巨人たち-先駆者の理論・時代・思想』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、52頁。 ^ 英: The High Price of Bullion, a Proof of the Depreciation of Bank Notes ^ a b c 経済学史の窓から 第8回 リカードウは技術的失業の予言者か? 書斎の窓 ^ 日本経済新聞社編著 『経済学をつくった巨人たち-先駆者の理論・時代・思想』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、51頁。 ^ a b 森嶋 1994, p. 4. 森嶋通夫 『思想としての近代経済学』 岩波書店〈岩波新書〉、1994年。ISBN 978-004303213。  リカード デイヴィッド:作家別作品リスト - 青空文庫 経済学及び課税の原理 (PDF) (日本語) 「経済学及び課税の原理」翻訳(小笠原誠治)文 On The Principles of Political Economy and Taxation (PDF) (英語) 「経済学及び課税の原理」原文 リカード - 金融大学", "フランソワ・ケネー(François Quesnay、1694年6月4日 - 1774年12月16日)は、フランスの医師・重農主義(フィジオクラシー)の経済学者。 1758年に、重農主義の考え方の基礎を提供した\"Tableau économique\"(『経済表』)を出版したことで知られる。これは、分析的手法で経済活動についての説明を試みる、恐らくは最初の活動であり、経済思想への最初の重要な貢献の1つと見ることができる。 1718年外科医となり、1749年からは宮廷医師としてヴェルサイユ宮殿で暮らした。1752年貴族に列せられるが、50歳代で経済学の研究を志し、土地所有者の資金を農業に投入し、その生産力を高めることが重要であるという観点から『経済表』を発表し、重農主義経済学の祖と仰がれた。ケネーの経済表のアプローチは、マルクスの再生産表式、ワルラスの一般均衡理論、ケインズの有効需要の原理、レオンチェフの産業連関表、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツの貨幣供給理論に受け継がれた。 ケネーはパリ近郊、今日のウール県にあるメレ(英語版)の農家に生まれた。16歳で外科医に弟子入りすると間もなくパリへ行き、そこで内科と外科を学んで外科医長の資格を得ると、マントで開業した。1737年にフランソワ・ジゴ・ド・ラ・ペロニーにより設立された外科アカデミーの終身事務局長に任命され、国王の常勤外科医となった。1744年に薬学博士の免状を得た。彼は国王の常勤内科医となり、その後1749年にルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の侍医となって、ヴェルサイユ宮殿で暮らした。彼の部屋は中二階にあり、「中二階の会」(Réunions de l'entresol)はその名を取ったものである。ルイ15世はケネーをとても尊敬し、ケネーを自分の思想家と呼んでいたものである。ケネーを貴族に叙したとき、国王はケネーの腕に3本のパンジー(フランス語で思想を意味するパンセ(pensée)からの派生)を、ラテン語の標語である\"Propter ex cogitationem mentis\"を添えて与えた。 その後ケネーは、主に経済学の研究に専念したが、1756年『百科全書』第6巻に「明証性(Évidence)」「定額小作農(Fermiers)」の2つの記事を執筆した頃から、周囲に、後に重農主義と呼ばれる学派が形成されていった。このなかで、ケネーに最初に帰依した人物として知られるのはミラボー侯爵である。彼は、ケネーと並行して経済問題に高い関心をもっていたヴァンサン・ド・グルネーをケネーに引き合わせた。テュルゴーなど、グルネーの信奉者たちは、1759年のグルネー没後にケネーの学派に加わった。 1758年末、ケネーは、ポンパドゥール夫人の援助で、彼の考えを図示しそれに簡単な注意(説明)をつけた冊子を『経済表』として発表した(原表)。この豪華な版は、1758年に国王直接の監督下にあったヴェルサイユ宮殿で印刷され、その数枚は国王の手で手刷りされたと言われている。しかしこれは小部数しか印刷されなかったため、1767年にはすでに流通から消えてしまった。またケネーはこの初版を改訂して、翌年、2度再版したが、これらも部数が少なく、それほどは出回らなかった。これを広く知られるようにしたのはミラボーである。 しかしこの前後から、ケネーの支持者はさらに増えていった。ニコラ・ボードー、ギョーム=フランソワ・ル・トローヌ(『社会秩序』(1777年)の著者)、アンドレ・モルレ(小麦粉戦争の間、穀物取引の自由についてフェルディナンド・ガリアーニと交わした論争で知られる)、ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、デュ・ポン・ド・ヌムールらである。彼らによって、『経済表』の重要性が広まっていった。 また1764年から1766年にアダム・スミスが第3代バクルー公爵ヘンリー・スコットの家庭教師として大陸を旅行し、1765年10月から1766年10月にかけてパリに滞在した際、ケネーやその信奉者達はスミスと面識を持った。スミスはケネー没後に出版した『諸国民の富』のなかでケネーらの科学的応対に高い敬意を払った。 ケネーは1774年12月16日に死去したが、穀物取引の自由化などの政策は、同年8月に財務総監となったテュルゴーによって実現された。 ケネーは1718年に結婚して、息子と娘がいた。前者による孫息子は最初の立法議会のメンバーとなった。 ケネーが彼の体系について著述した主な著作は次の通りである。ディドロとダランベールが編集した『百科全書』(1756年、1757年)の、「定額小作農」と「穀物」に関する2つの記事。『農業王国の経済的政府の一般的方針』(1758年)、そして同時に出版された『経済表とその説明、またはシュリによる国王の経済の要約』(有名な標語、「貧しい農民は貧しい王国。貧しい王国は貧しい国王。」とともに)、そしてデュ・ポン・ド・ヌムールが編集していた『農業・商業・財政雑誌』に寄稿した「自然法論」「商業についての対話」「職人の労働についての対話」。 『経済表』はその無味乾燥さと抽象的形態のため、世間一般の支持はほとんど得られなかったが、学派の主要な宣言書とみなせるかもしれない。それはケネーの信奉者によって、人類の知恵による主要な生産物に列し得ると考えられた。アダム・スミスに引用されたところでは、文字と貨幣と並ぶ、国家社会の安定に最も寄与した3つの偉大な発明品の1つであると大ミラボーが述べている。 その目的は、完全に自由な状態において、富の唯一の源泉である農業の成果が社会の複数の階級(土地所有者および耕作者からなる生産階級、そして職人と商人を含む不生産階級)に分配される方法をある定式によって示すこと、そして他の定式によって、政府による束縛と規制のシステム(=重商主義)の下での分配方法を、自然の秩序の妨害の程度に応じて社会全体にもたらされる悪い結果で描くことである。ケネーの理論的な観点によれば、実践的なエコノミストと政治家が配慮してしかるべきことは、純生産物の増加ということになる。そして彼はまた、まったく同じ背景からではないが、後にスミスが断じたように、地主の利害は厳密かつ堅固に社会の一般的利害に関連していると推論する。 井上泰夫によれば、「経済表はフランス絶体王政の行き詰まりを打開するための理論的柱である点で、この時代に固有のフランス社会経済に直接関わっていると同時に、他方では、市場経済・資本主義経済の年々の再生産がどう進行するか、という普遍的な理論的問題を投げかけている」。このため『経済表』は、19世紀半ばに、マルクスに『資本論』第Ⅱ巻の回転・循環過程分析で「再生産表式」を結実させた。また20世紀半ばに、レオンチェフがアメリカ経済の経済表を書くべく、「産業関連表」を作成した。このように、ケネーの『経済表』は長期にわたって理論的に継承され続けている。 ケネーの経済理論の記述は通常、今日の主流である新古典派理論の観点から読まれるテキストに基づいている。同時代の古典派経済理論の歴史的背景と観点の中で理解すると、これらのテキストは異なった内容を明らかにする。ケネーの考えは1628年にウィリアム・ハーヴェイによって再発見された血液の体系的循環で形成されている。ケネーは解剖学の銅板を刻むことで勉学の資金を調達していたため、彼は内科医が何について話しているかを理解していた。当時内科医はガレノスに従って瀉血を説明した。感染は、感染から離れた適切な場所の血圧を下げることにより回復することができる。ケネーはチューブのシステムを用いて、圧力を減少させるためには場所が無関係であることを実演した。外科医により提出されたこの証拠は、内科医の社会的地位を全く低下させ、内科医たちをいらだたせた。しかし、それは1749年にポンパドゥール夫人のかかりつけの内科医になった国家外科医のケネーに名声を与えた。 この論争は些細なものではなかった。それは医学のパラダイムの衝突だった。瀉血は、ガレノス(紀元前129年 - 紀元前200年)によって推奨された。彼の理論は千年以上にわたって西洋医学を支配したが、西欧医師達が触れることができる彼の本来のテキストは、唯一ルネサンス初期のギリシア語からラテン語への翻訳のみとなった。ガレノスによれば、血液には心臓から血液が消費される器官までの一方的な流れがある。ケネーの主張はウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)によって1628年に再発見された血液の体系的循環に基づいていたが、この説は1661年にマルピーギが毛細血管を発見したときに唯一決定的なものになった。そのためケネーの主張では、ガレノスの体系では理解できないが、血液が再生されたと推測した。それは耳が聞こえない者同士の議論だった。しかし、経済理論には興味深い類推がある。ガレノスによれば、心臓から出る動脈血と肝臓から出る静脈血はすべての器官によって消費されるが、ハーヴェイによれば、血液は再生される。同様に新古典派経済学によれば、商品には個人の効用を生産することで破壊されるための一方的な流れがあるが、古典派経済学によれば、少なくとも「生産的」な労働の出力は次の経済循環の入力となる。 ケネーの経済学への興味は、フランスが財政破綻に直面したことを突きつけられた1750年頃に生じた。肺の役割がまだ理解されなかったとき、彼は商品の経済循環が肺循環を省いた血液循環と同様であると考えた。ラヴォアジエの酸素に関する実験は、少し後で始まった。ケネーは心臓が器官のために特別な重要性を持っているのと同様に、農業が社会と経済の制度に特別な重要性を持っていると考えた。 歴史的に、フランス国王は貴族達に対して弱い位置にあった。彼の独立性を高めるため、国王は貴族達が宮廷にいて贅沢さを互いに競うことを強制し、彼等の資産を軽視することで、貴族達を疲弊させた。ヴェルサイユ宮殿はこの伝統で造られた。人口の0.5%(ゲルマン征服者とキリスト教会から伝わる高い威厳を誇り、貴族と暮らす)が国の純所得のほとんどを受領していた。そのため、職人と工業的サービスへの需要のほとんど全部が、循環的な経済の流れに全く入力しない社会的部門から来ていた。そして、もし貴族と聖職者が経済の再生産と無関係であったとすれば、そのために働いている者は、職人だった。 アダム・スミスからジョン・スチュアート・ミルまでの古典派経済学は、「非生産的労働」に関するケネーの議論を、その中心的主張と捉えた。彼の『経済表』の中でケネーは、地主階級(貴族と僧職)は農業と工業のサービスを得るが、土地を農民に賃貸することは別として何も生産することなく、職人は自分が生産したものと同じだけのものを農業と他の職人に支払い、唯一農民だけが、生産費を補充し、地主階級と職人達に供給した後で純利益を保有したことを示している。 無論ケネーは、地主階級とそれらのために働くすべてが寄生体であったと公然と表明することはできなかった。彼は、彼が守ろうとした体制を批判することはできなかった。同じことを言う政治的に正しい方法は、職人と製造業者を「不生産階級」と表明することだった。そのためケネーは、職人と農民の仕事の間には違いがあると断言する。工業製品の価格は、再生産の費用で決定する。競争は高目の価格をこの「自然な」基準に平準化するだろう。農産物価格は再生産の価格を超えているので、他の部門が単に再生産的であるのに対し、唯一農業だけが富を生産する。増加する農産物供給が価格を下げない理由の1つは、無制限に近い需要である。 「原材料の結合を経た増加および1世代でのこの種の増加の前から存在した物への消費の拡大と、再生された富の更新と真の成長によって形作られる富の創造とは、区別しなければならない。」 ケネーによる農業と工業の価格の区別は、これらの部門のイギリスの非常に異なった区別により理解できる。デヴィッド・リカードは、より少ない生産性の高い土地が耕されるため、農業生産の増加は物価を上昇させると説明している。しかし工業製品の増産は、1つ当たりの生産費を下げ、それにより価格を引き下げるだろう。ケネーにとって、これはもう一つの循環路と、歴史的に全く正しい。 市場の拡大が生産の増加と単価の減少を引き起こすというアダム・スミスの有名な主張は、労働力の分割の深化と誘発される発明により、大量生産にのみ言及している。しかし、フランスの職人には、オーダーメイドの生産があった。通常、高級品の生産は規模の経済を全く提供しない。ケネーは経済循環について議論するため、アダム・スミスをパリで指導し、スミスはケネーが亡くなる前に『諸国民の富』をケネーに捧げようとした。しかし富の分配に明らかに影響する、イギリスと非常に異なったフランスの状況に対する彼らの特別な関係のため、スミスでさえもいくつかの重農主義の考えは理解できなかった。 中国の発明品を採用した農業革命によって、イギリスの産業革命は先行した。--無論受け入れられている訳ではないが。イギリスの系列に続いて、フランス北部で既に資本主義的農業の例が見られた。フランス全体に対してイギリスモデルを採用することは、将来の工業開発の前提条件として、生産性の高まりを約束した。フランスの未来は農業開発の中にあり、現在の産業構造の拡大の中には無いというケネーの主張は、等しくない分析的なマスターピースである。 工業製品のためのこの将来の資本主義的農業に対する需要は、フランス工業に新しい市場を提供する。この市場が供給されると、出力が次の経済循環の入力となるため、フランスの工業と貿易は「生産的に」なるだろう。そしてこの工業生産は「費用逓減」を示すだろう。それゆえ工業と工芸を「不産階級」と呼ぶことは一般的には誤りだが、この歴史的状況においてのみ正しいと言えよう。 「財務総監」のテュルゴーとともに、1774年に重農主義プログラムの第一歩が実施された。しかし多くの名士やグループが先の財政的混乱から自分達の利益を上げたことで、テュルゴーの改革に対する抵抗が噴出した。フランスにおける穀物の関税を廃止することで、固定額を国王に支払ってその3倍以上を集めていた多くの貴族の税収者達に打撃を与えた。1774年の不作は小麦価格を上昇させた。そして税収者達は、自由貿易で今や国王までもが小麦粉投機で利益を得ているという噂を広めた。人々はヴェルサイユの宮門へ行進した。1776年にテュルゴーが、すべての特権を廃止するための第一歩として農村の賦役と都市のギルドを撤廃するよう提案したとき、国王は彼の敵に同調し、テュルゴーの辞職を求めた。彼の敵のジャック・ネッケルが財務長官になり、ネッケル夫人が主宰していたパリ市民のサロンではすぐに、重農主義的考えはすべての重要性を失った。フランスの負債とアメリカ独立革命へのフランスの関与に資金を供給するために増税することよりむしろ、さらに多くの借金がフランス革命への道を開いた。 中国の思想と概念がケネーに与えた影響を忘れるべきではない。生前彼はヨーロッパの孔子として知られていた。レッセフェールの教義とその名前さえもが中国の無為の概念に啓発されたものかもしれない。 『経済表』(平田清明・井上泰夫訳、岩波書店<岩波文庫>、2013年) ISBN 978-4-00-341021-9 彼の経済学上の著作は、19世紀中ごろに、ユジェーヌ・デールによる序文と注釈をつけて、パリのギョーマン社から発行された『主要経済学者』の第2巻に集められた。また彼の『経済学と哲学の著作集』は、アウグスト・オンケンの序論と注釈をつけて集められた(フランクフルト、1888)。『経済表』の元の原稿からのファクシミリ復刻は、イギリス経済協会から発行された(ロンドン、1895)。彼の他の著作は、『百科全書』の「明証性」という記事と、1773年の『幾何学の新しい要素の草案』を伴った『幾何学的真実の証拠の探究』であった。グランジャン・ド・フシーによるケネーの追悼文は、科学アカデミーの紀要に掲載された(アカデミーの選集、1774年、134頁参照)。またF.J.マルモンテルの『回想録』、デュ・オセ夫人の『回想録』、H.ヒッグズの『重農主義』(ロンドン、1897)を参照のこと。 『Memoires de Madame du Hausset』(ニコル・デュ・オセ著、Baudouin Freres、1824年) リプリント版(Hachette Livre) ISBN 9782012587144 『Quesnay et la Phisiocratie』(Yves Guiyot、1896年) 新版(Institut Coppet、2014年) ISBN 9781502973757 『Vincent de Gournay』(ギュスターヴ・シェル著、Guillaumin et cie、1897年) リプリント版(Forgotten Books) ISBN 978-0-259-87026-5 『創設者の経済学 ペティー・カンティロン・ケネー研究』(渡辺輝雄著、未来社、1961年) 『F・ケーネー 生涯と思想』(関未代策著、文雅堂銀行研究社、1973年) 『フランス政治経済学の生成 経済・政治・財政の諸範疇をめぐって』(木崎喜代治著、未来社、1976年) Hobson, John M. (2004), The Eastern Origins of Western Civilization, Cambridge University Press, ISBN 0521547245 ^ Cutler J. Cleveland, \"Biophysical economics\", Encyclopedia of Earth, Last updated: September 14, 2006. ^ (井上泰夫、岩波文庫版『経済表』解説、280頁) ^ 関未代策『F・ケーネー 生涯と思想』40-41頁 ^ Guyot『Quesnay et la Phisiocratie』(新版12頁) ^ シェル『Vincent de Gournay』222-223頁 ^ 関未代策『F・ケーネー 生涯と思想』49-51頁 ^ a b Smith, Adam, 1937, The Wealth of Nations, N. Y.: Random House, p. 643; first published 1776. ^ (井上泰夫、岩波文庫版『経済表』解説、279頁) ^ (井上泰夫、岩波文庫版『経済表』解説、280頁) ^ (井上泰夫、岩波文庫版『経済表』解説、280頁) ^ Traité de la suppuration, 1764, http://gallica2.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k281948s ^ Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus published in Frankfurt. ^ Sraffa, P., 1960, p. 93: \"It is of course in Quesnay's Tableau Économique that is found the original picture of the system of production and consumption as a circular process, and it stands in striking contrast to the view presented by modern theory, of a one-way avenue that leads from 'Factors of production' to 'Consumption goods'\". ^ Schvarzer, J., El modelo Japonés, Buenos Aires: Ciencia Nueva, p. 7 ^ »Sur les travaux des Artisans – Second Dialogue», pp. 526-554 in: «Œuvres Économiques et Philosophiques de F. Quesnay», edited by A. Oncken, Francfort/Paris 1888, page 531; http://visualiseur.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k72832q.pdf. ^ Dugald Stewart, Preface to: Essays on Philosophical Subjects by The late Adam Smith, LL. D., Fellow of the Royal Societies of London and Edinburgh, Basil, Printed for the Editor of the Collection of English Classics, Sold by James Decker, 1799. ^ John M. Hobson: The Eastern Origins of Western Civilisation, Cambridge University Press, 2004, pp. 201-6. ^ FORERUNNERS OF HENRY GEORGE by Samuel Milliken, Online source ^ \"Wu-Wei in Europe\" by Christian Gerlach ^ \"The Eastern Origins of Western Civilization\", John M. Hobson, p.196 自由主義 経済思想史", "トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes、1588年4月5日 - 1679年12月4日)は、イングランドの哲学者。17世紀の近世哲学にあって、ルネ・デカルトなどと共に機械論的世界観の先駆的哲学者の一人であり、バールーフ・デ・スピノザなどとともに唯物論の先駆的思索を行った哲学者の一人である。政治哲学者として側面は広く周知され、人工的国家論の提唱と社会契約説により近代的な政治哲学理論を基礎づけた人物として一般的に知られる。イングランド王チャールズ1世王太子の家庭教師。 イングランド国教会の聖職者の子として生まれる。1588年、スペインの無敵艦隊襲来というニュースにショックを受けた母親は産気づき、予定より早く出産した。このため「恐怖と共に生まれた」といわれる。オックスフォード大学を卒業した後、デヴォンシャー伯爵家(のちのデヴォンシャー公家)に家庭教師として仕える。ピューリタン革命前の1640年に絶対王政の支持者とみなされフランスへ亡命し、のちに国王となったチャールズ2世の家庭教師を務める。もっともよく知られる著作『リヴァイアサン』は亡命中に執筆し、1651年帰国の年に刊行された。ベーコンやガリレオ、デカルトらと交友があった。 1655年に円積問題の解を見つけたと公表し、数学者のジョン・ウォリスとの論争に発展した。ホッブズは、終始この問題の本質を理解することができず、自分の解の誤りを認識できずに死ぬまで激しい論争を続けた[要出典]。 形而上学においては唯物論の立場に立ち、その考えは『物体論』において展開された。また、デカルトから『省察』の批判を書くよう頼まれた時はその立場から批判をおこなったが(デカルトは他の哲学者や神学者にも批判を頼み、ホッブズのそれは第三論駁と呼ばれる)、自身の哲学への不理解と解したデカルトからの反応は冷淡であった[要出典]。 1588年 - 4月5日ウィルトシャー州マームズベリー近郊のウェストポートにて、国教会牧師トーマス・ホッブズの次男として誕生 1592年 - ウェストポートの教会学校入学 1600年 - 父の死に伴って叔父フランシス・ホッブズに引き取られる。ロバート・ラティマーの私立学校に入学 1603年 - オックスフォード大学入学 1608年 - 2月5日オックスフォード大学卒業。第2代デヴォンシャー伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの家庭教師となる 1620年 - ベーコンの助手として彼の口述筆記をしたり、著作をラテン語に訳したりする 1629年 - 自身の手によるトゥキディデスの『戦史』の翻訳を公表 1631年 - 第3代デヴォンシャー伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの家庭教師となる 1636年 - ガリレオを訪問 1637年 - 感覚についての『小論文 Little Treatise』発表 1640年 - 5月9日『法学原理 The Elements of Law』発表。短期議会(4月13日 - 5月5日)の進展に伴ってイングランド内の政情が不安定化したため、パリへ亡命 1642年 - 『市民論 De Cive』を匿名で発表 1645年 - イングランド王太子(のちのチャールズ2世)パリに亡命。ホッブズが彼の数学教師となる 1647年 - ホッブズ、イングランド国教会の洗礼を受ける 1651年 - 『リヴァイアサン』を出版 1655年 - 『物体論 De Corpore』を出版 1656年 - 『自由、必然、偶然に関する諸問題』を発表 1658年 - 『人間論 De Hormine』を出版 1668年 - 『ビヒモス Behemoth』を出版 1674年 - 『イリアス』と『オデュッセイア』の翻訳を発表 1679年 - 12月4日死去。 『リヴァイアサン』は、ホッブズの代表的な著作であり、17世紀ヨーロッパにおける国家理論の白眉である。この著作によって、同時代の王党派からは無神論者であるとされ、共和派からは専制政治擁護者と見られた。現代に至るまでホッブズの評価は屈折しており、相反する立場から全く異なったホッブズ観が提示されている。 この著作は、権威(Authority)を「いかなる行為でもなしうる権利」と定義づけており、国家の権威主義(独裁主義、専制主義、全体主義)を擁護した論説であるという側面がある。 ホッブズは前提として、人間の自然状態は闘争状態にあると規定する。彼はまず、生物一般の生命活動の根元を自己保存の本能とする。その上で、人間固有のものとして将来を予見する理性を措定する。理性は、その予見的な性格から、現在の自己保存を未来の自己保存の予見から導く。これは、現在ある食料などの資源に対する無限の欲望という形になる。なぜなら、人間以外の動物は、自己保存の予見ができないから、生命の危険にさらされたときだけ自己保存を考えるからである。ところが人間は、未来の自己保存について予見できるから、つねに自己保存のために他者より優位に立とうとする。この優位は相対的なものであるから、際限がなく、これを求めることはすなわち無限の欲望である。しかし自然世界の資源は有限であるため、無限の欲望は満たされることがない。人は、それを理性により予見しているから、限られた資源を未来の自己保存のためにつねに争うことになる。またこの争いに実力での決着はつかない。なぜならホッブズにおいては個人の実力差は他人を服従させることができるほど決定的ではないからである。これがホッブズのいう「万人は万人に対して狼」、「万人の万人に対する闘争」である。ただしこの前提は、友枝高彦らの批判もある(#批判を参照)。 ホッブズにおいて自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは、自然権として善悪以前に肯定される。ところで自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ他人の暴力による死である。この他人の暴力は、他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾があきらかになる。そのため理性の予見は、各自の自然権を制限せよという自然法を導く。自然法に従って人びとは、各自の自然権をただ一人の主権者に委ねることを契約する。だが、この契約は、自己保存の放棄でもその手段としての暴力の放棄でもない。自然権を委ねるとは、自然権の判断すなわち理性を委ねることである。ホッブズにおいて主権は、第一義的に国家理性なのである。また以上のことからあきらかなように、自然状態では自然法は貫徹されていないと考えられている。 ホッブズが展開した国家理論は、キリスト教会社会のカルヴァン主義のそれに似た自然状態を想定し、そこから人工的に国家モデルをつくりあげたという点では近代国家理論のさきがけであった。前提の自然状態を措定した上に契約神学が設定されたように、現実の国家社会との間に社会契約を設定するという理論が発展する。このことはホッブズ以前の社会契約が既成国家の説明原理にとどまり、基本的に「支配=服従契約」と見ているのに対し、平等な個人間の社会契約による国家形成という新しい視点を開いた。またこのような社会契約の要因として、人間の自然理性を重視していることから啓蒙主義的な国家理論であるということができる。 ホッブズの理論を批判的に継承したのは、ロックとルソー(社会契約論)であるが、両者とホッブズとの決定的な違いは、ホッブズが自然状態において自然法が不完全であるとするのに対し、両者は自然状態においてすでに自然法が貫徹されていると想定していることである。 このホッブズの政治理論の性格および歴史的意義については、現在4つの主要な解釈がある。 絶対主義の政治理論説 - 以下の3点を主要な根拠として、ホッブズの政治理論が絶対主義王政を支持するものであるとする説。 ホッブズが社会契約を服従とみなしていること。 主権者が一者であり、主権が国家理性であること。 主権者が国内の宗教を含めてあらゆる国内的、国際的政策を統制できるとしていること。 近代的政治理論説 - 以下の2点を主要な根拠として、ホッブズの政治理論が近代的で民主主義的な国家理論であるとする説。 無神論的、唯物論的世界観、また理性主義に基づく平等思想を唱えていること。 分析的に導き出したアトム的人間から構成的に人工の国家を導き出すという科学的手法をとっていること。 伝統的政治理論説 - 以下の2点を根拠として、ホッブズの政治理論が伝統的なキリスト教倫理思想にのっとっているとする説。 ホッブズの自然法思想がデカルト思想に影響される前からすでに形成されていたこと。 宗教に対する言及が、無神論的立場ではなく信仰によっていると考えられること。 自然状態的政治理論説 - 以下の2点を根拠として、ホッブズの政治理論が究極的に自然状態の理論であり、闘争の政治理論であるとする説。 自然法が個人規模での闘争を止揚して国家規模の闘争を導いているにすぎず、本質的に闘争状態であることが変わっていないこと。 国家状態が自然法に基づくとされていること。 この中で、1.と2.の見方が古典的で、現在でも有力な説である。 邦訳 (選集)『世界の名著28 ホッブズ』、永井道雄編、中公バックス、1979年。 (選集)『世界の大思想13 リヴァイアサン 国家論』、水田洋・田中浩訳、河出書房新社、1966年。 『リヴァイアサン』全4巻、水田洋訳、岩波文庫、1992年。 『哲学原本』(『哲学原論』とも訳される、ラテン語:Elementa Philosophiae、英語:Elements of Philosophy) 『物体論』、『人間論』、『市民論』、本田裕志訳、京都大学学術出版会、2015年、2012年、2008年。 完訳であり、『哲学原本』の第一部「物体論」、第二部「人間論」、第三部「市民論」、それぞれ個別の単行本としての出版。すべて、ラテン語原文に基づく初めての完訳である。 『哲学原論/自然法および国家法の原理』、伊藤宏之、渡部秀和訳、柏書房、2012年。 同じく完訳。ただし、原文はラテン語であるが、こちらの用語表現は英語版の用語表現を基準に翻訳されている。 『ホッブズの弁明/異端』、水田洋訳、未来社、2011年。 『哲学者と法学徒との対話』、田中浩、新井明、重森臣広訳、岩波文庫、2002年。 『ビヒモス』、山田園子訳、岩波文庫、2014年。 イギリスの思想家でケンブリッジ大学教授のアクトン卿(1834 - 1902)は、「偉大な人物を悪者に変貌させる極めて有害なエネルギーが権力である」とし、「権力の重要性を強調する論説には非常に長い系譜があるが、政治思想史から見れば、マキャベリまたはホッブスの説の焼き直しの域を出ない」、と批判している。 日本の倫理学者で東京高等師範学校教授・東京帝国大学助教授の友枝高彦(1876 - 1957)は、「正義といい人類愛といい、人類の間の最も望ましい美徳であることは、昔から宗教でも道徳の方でも高調されているところである。…この事実に対する解説として自然性論というべき一派がある。それは人類は本来利己的であって同胞と協同するも親和するも畢竟利己の為に外ならないようにいうのである。…人類は互いに狼であるとホッブスのいったのは、全く利己的見地から解釈するのであって、国際間には道徳なく、ただ欺瞞、暴力あるのみと考えたマキャベリも同じ考であるといわねばならぬ」として、ホッブズの説を拒んだ。 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの機関誌エコノミカは1929年、『現代のホッブス批評家たち』を特集した号を出版した。 アメリカの政治学者でハーバード大学教授カール・ヨアヒム・フリードリッヒ(1901-1984)は、ホッブズ自身は『リヴァイアサン』で権威を「いかなる行為でもなしうる権利」と定義づけたが、その後にさらに「いかなる人も自分がその当事者でない契約には縛られない」と付け加えていることを指摘し、その権威の捉え方は、政治の基礎としての権力をあまりに強調しすぎた点に限界があったとしている。 哲学者でフロリダ国際大学名誉教授B. W. Hauptliは、『ホッブズと倫理的利己主義に対する批判集』を編纂している。 ^ \"Hobbes, Thomas (HBS608T)\". A Cambridge Alumni Database. University of Cambridge.  ^ 福田歓一『政治学史』p.322、レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』p.12-13 ^ Load Acton Essays on Freedom and Power, p.p. 47.. The Beacon Press/The Free Press,.1949. ^ 『國際的精神の養成』。国際連盟協会『震災に関する諸名士の所感』、1923年。 ^ J. A. Thomas, https://www.jstor.org/stable/2548202. Jstor. ^ カール・ヨアヒム・フリードリッヒ『伝統と権威 権力と正当性と権威』三辺博之訳、p.p. 145。福村出版、1976年。Carl J. Friedrich, Tradition and Authority. Phaidon, London, 1972. ^ B W. Hauptli,Selected Criticisms of Hobbes and Ethical Egoism. Florida International University, 2013. ウィキメディア・コモンズには、トマス・ホッブズ(カテゴリ)に関するメディアがあります。 自然権 社会契約論 万人の万人に対する闘争 機械論 唯物論 啓蒙主義 法実証主義 ハンス・ケルゼン レオ・シュトラウス 福田歓一 長尾龍一 メイフラワー誓約 田中浩著『ホッブズ研究序説―近代国家論の生誕』改訂増補版、御茶の水書房、1994年。ISBN 9784275015600。 田中浩著『ホッブズ』イギリス思想叢書、研究社出版、1998年。ISBN 9784327352134。 田中浩著『ホッブズ』Century books 人と思想、清水書院、2006年。ISBN 9784389410490。 長尾龍一著『リヴァイアサン―近代国家の思想と歴史』講談社学術文庫、1994年。ISBN 9784061591400。 長尾龍一著『争う神々』信山社叢書、1998年。ISBN 9784797251012。 長尾龍一著『法哲学批判』信山社叢書、1999年。ISBN 9784797251043。 福田歓一著「ホッブズにおける近代政治理論の形成」(『福田歓一著作集 第一巻』所収)、岩波書店、1998年。ISBN 9784000921411。 福田歓一著「近代政治原理成立史序説」(『福田歓一著作集 第二巻』所収)、岩波書店、1998年。ISBN 9784000921428。 福田歓一著『政治学史』東京大学出版会、1985年。ISBN 9784130320207。 レオ・シュトラウス著、添谷育志ら訳『ホッブズの政治学』みすず書房、1990年。ISBN 9784622036418。 量義治著『西洋近世哲学史』講談社学術文庫、2005年。ISBN 9784061597372。 ビデオ『POLITICAL THEORY - Thomas Hobbes』- The School of Life", "ポール=アンリ・ティリ・ドルバック男爵(Paul-Henri Thiry, baron d'Holbach, 1723年12月8日 - 1789年1月21日)は、フランスに渡り主にフランス語で著作活動をしたドイツ出身の哲学者である。ドイツ時代の名前はパウル・ハインリヒ・ディートリヒ・フォン・ホルバッハ(Paul Heinrich Dietrich von Holbach)。爵位の「ドルバック男爵」は、母の旧姓にちなむ。 プファルツ選帝侯領エデスハイム(ドイツの現在で言うラインラント=プファルツ州に位置する)の裕福なカトリック教徒だったワイン農家の家庭に生まれる。幼少からフランス語で教育を受けた。パリで証券取引所を営んでいた叔父の経済援助を得て、オランダのライデン大学で法学を学んだ後、1749年からパリに居を定め、以降フランス人として生涯を送る。 従妹のバジル・デーヌと結婚したが早くに死別。その後バジルの妹であるシャルロット=シュザンヌ・デーヌ(1814年6月16日死亡、81歳)と結婚した。当時の教会法ではこの結婚は原則的に許されなかったが、赦免を得るために寄進し、結婚できた。2人の息子と2人の娘をもうける。息子のうち兄は高等法院裁判官に、弟は軍人になった。娘はそれぞれシャストネー侯爵、ノリヴォス公爵と結婚。 デーヌ家の財産があったため裕福であり、各国の自然科学書や哲学書を濫読。ドイツの自然科学書の仏訳や、イギリスの自由思想家の著書の仏訳も手がけている。 ドルバックは知識人として当時から有名であり、ベルリン・アカデミー(1752年)、マンハイム・アカデミー(1766年)、サンクトペテルブルク・アカデミー(1780年)など様々な都市のアカデミーに在外会員として招かれている。 毎週木曜と日曜にサロンを開催。妻のデーヌ夫人のもてなしのおかげもあって、毎回たくさんの出席者を得た。例えば、ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン、ジャン・ル・ロン・ダランベール、ジャン=ジャック・ルソー, クロード=アドリアン・エルヴェシウス, ルイ=セバスティアン・メルシエ、ジャック=アンドレ・ネジョン(ドルバックの秘書)、ジャン=フランソワ・マルモンテル、フレデリック=セザール・ド・ラ・アルプ、マリー=テレーズ・ロデ・ジョフラン、ルイーズ・デピネ、ソフィー・ラリーヴ・ド・ベルガルドなど。また外国人では、メルシオール・グリム、アダム・スミス、デイヴィッド・ヒューム、ローレンス・スターン、フェルディナンド・ガリアーニ、ベッカリーア、ジョゼフ・プリーストリー、ホレス・ウォルポール、エドワード・ギボン、デイヴィッド・ガリックなどが参加したことがある(大半が1820年版『自然の体系』に付された「略歴」で挙げられているもの)。『百科全書』の記事の一部はこうした会合の席で書かれた。ドルバック自身も376個の記事を書いている。 1751年からディドロとダランベールの『百科全書』の企画に参加、冶金、地質学、医学、鉱物学、化学といった記事を執筆した。『百科全書』の出版許可が取り消されてからも、地下に潜って協力を続けた。 1760年から自ら哲学的著作を書き始める。反教権的な文章や、反キリスト教的な文章、あるいはあからさまに無神論、唯物論、運命論を唱える文章が多かったため、弾圧を恐れて多くは故人の名前を借りたり変名で書かれている(例えばジャン=バティスト・ミラボー、ベルニエ神父、ブーランジェ、等)。ドルバックは、ヴォルテール流の理神論や汎神論ではなく、もっとも早い時期に無神論を唱えた思想家の一人である。おそらくドルバックに先行するのは、ジャン・メリエただ独りである。 ドルバックの自然観の根底には、人間は理性的な存在であるという確信がある。全ての宗教的な原理から道徳を切り離し、自然的原理だけに道徳を還元するというのが彼の目論見であった。主著『自然の体系』あらゆる宗教的観念や理神論的観念を排して、無神論と唯物論と運命論(科学的決定論)を説くものである。 ドルバックの執筆活動には多くの著名人が協力している。いくつかの本はディドロが校正した。例えば『自然の体系』は、ディドロが目を通した後、注釈を付けており、このディドロの注釈は「自然法典概説」という題名のもとでこの書物自体の最終章として付け加えられている。さらにディドロは『自然の体系』の各章について詳細な概要をまとめた「『自然の体系』の真意」という題名の本を書いている(1820年公刊)。 『自然の体系』が出版されるとたいへんな騒ぎになった。政府から高等法院に提訴があり、審理の結果、1770年8月18日にこの書物を焚書にするよう命令が下された。この時Contagion sacréeなど5冊も同時に焚書にされている。『自然の体系』刊行直後から反論書がいくつも出版された。代表的なものは、 神学者ニコラ・ベルジエによる『唯物論吟味あるいは『自然の体系』反駁』(1771年) J・ド・カスティロン(サルヴェミニ・ダ・カスティリオーネ)『著作『自然の体系』論』(1771年) ギヨーム・デュボワ・ド・ロシュフォール『唯物論者の体系に反対する諸論考』(1771年) J・H・オラン『『自然の体系』の哲学的考察』2巻、1773年。 ドネル(Denesle)による『古今の哲学者による人間の魂についての偏見』(1775年) ジャン=バティスト・デュヴォワザンは3冊の著書をそれぞれ1775年、1778年、1780年に出版し、『自然の体系』論駁に努めた。 ルイ=クロード・ド・サン=マルタン『誤謬と心理』(1775年)。 ヴォルテールによる批判には曖昧なところがある。彼は『自然の体系』を賞賛しているが、その文体を批判している。また、『哲学辞典』の2項目(「神」と「文体」)でも批判をしているが、運命論には反対していない。 1789年1月、パリで死亡。ドルバックは啓蒙時代の精神を明らかにする代表的人物の一人であるが、バスティーユ襲撃の数か月前に亡くなった。遺体はパリのサン・ロック教会に墓石もなく葬られたが、フランス革命の最中に持ち去られたという[1]。 1820年版『自然の体系』に付された著作目録によるとドルバックの作品として50冊が挙げられており、さらにレーナル神父の『インド哲学史』に協力したとされている。50冊中には、哲学作品やキリスト教批判の作品に加えて、化学(『硫黄について』)、冶金、地質学(『鉱山技術』と翻訳書『地層の自然史』)の作品、また政治学や法学の作品(『普遍的法制度の諸原則』)も含まれている。 ルソーの著書『新エロイーズ』は、ドルバックをモデルにしたといわれている。 匿名での著作が主だが、以下がドルバックの著作であると推定されている。 1761年 Le Christianisme dévoilé, ou Examen des principes & des effets de la religion chrétienne 野沢協訳『キリスト教暴露』現代思潮社、1968年 1768年 La Contagion sacrée, ou Histoire naturelle de la superstition 1768年 Lettres à Eugénie, ou Préservatif contre les préjugés 1768年 Théologie Portative, ou Dictionnaire abrégé de la religion chrétienne 1770年 Essai sur les préjugés, ou De l’influence des opinions sur les mœurs & le bonheur des hommes 1770年 Système de la Nature, ou Des lois du monde physique & du monde moral 高橋安光、三宅徳嘉訳『自然の体系』日本評論社、1950年(現在では法政大学出版局から高橋と鶴野陵の訳による全2巻が入手できる) 1770年 Histoire critique de Jésus-Christ, ou Analyse raisonnée des évangiles 1770年 Tableau des Saints, ou Examen de l’esprit, de la conduite, des maximes & du mérite des personnages que le christianisme révère & propose pour modèles 1772年 Le Bon Sens, ou Idées naturelles opposées aux idées surnaturelles 1773年 Politique Naturelle, ou Discours sur les vrais principes du Gouvernement 1773年 Système Social, ou Principes naturels de la morale et de la Politique, avec un examen de l’influence du gouvernement sur les mœurs 1776年 Éthocratie, ou Le gouvernement fondé sur la morale 1776年 La Morale Universelle, ou Les devoirs de l’homme fondés sur la Nature 1790年 Éléments de morale universelle, ou Catéchisme de la Nature フランス国立図書館の電子テクストサイトGallica[2]に以下の電子テクストがある(フランス語原文)。 La morale universelle ou Les devoirs de l'homme fondés sur sa nature Le christianisme dévoilé, ou Examen des principes et des effets de la religion chrétienne Système de la nature ou des loix du monde physique et du monde moral Théologie portative, ou Dictionnaire abrégé de la religion chrétienne グーテンベルクプロジェクトのサイト[3]に以下の電子テクストがある(英訳)。 Good Sense The System of Nature Max Pearson Cushingによる研究Baron D'Holbach: A Study of Eighteenth Century Radicalism in France Baron d'Holbach (英語) - スタンフォード哲学百科事典「ポール=アンリ・ティリ・ドルバック」の項目。" ]
ABC01-02-0307
東京があるのは関東平野ですが、名古屋があるのは何平野でしょう?
濃尾平野
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[ "濃尾平野", "田方平野", "諏訪盆地", "御器所台地", "静岡平野" ]
[ "Clip 濃尾平野周辺 濃尾平野(のうびへいや)は、岐阜県(美濃)南西部から愛知県(尾張)北西部と三重県北部の一部にかけて広がる平野である。地質学的には木曽三川(木曾川・長良川・揖斐川)により形成された沖積平野であり、その土壌は肥沃である。西は伊吹山地と養老山地、東は尾張丘陵、北は両白山地に囲まれ、南は伊勢湾に面する。南西部の木曽三川の河口付近で伊勢平野とつながっている。 木曽三川下流では後背湿地が広がり、海抜0m以下の地域もある。有史以来、水害がしばしば起こったため、集落全体を堤防で囲った輪中が鎌倉時代以降作られた。この地方にだけ見られる独特の構造物であったが、明治時代に入って木曽川、長良川及び揖斐川の三川の大規模な治水事業により水害は激減したため輪中の必要性は薄くなり逆に道路交通に支障をきたすとして多くが削り取られたり取り壊されたりした。また戦争中の食糧難によって比較的上流にある輪中は次々に田畑にされ、現在は殆ど残っていない。 津島、名古屋、熱田等の旧市街地は小高い台地の上にあり水害に遭いにくいが水運に恵まれた場所が古来より栄えていた。 濃尾平野の地形は、大別して北東部の美濃加茂市等に見られる木曽川河岸段丘群、各務原市等にみられる扇状地地域、濃尾平野中央部の氾濫原地域及び伊勢湾沿岸の三角州(干拓デルタを含む)地域に分けられる。 濃尾平野の西端には養老-桑名-四日市断層帯があり、この断層を境に西側は隆起して養老山地となり、東側は沈降して木曽三川が流れている。これにより、濃尾平野の地下には西側にむかって傾斜する構造が見られる。このような現象を濃尾傾動運動と呼ぶ。 東濃丘陵から流れ出る木曽川、郡上の谷から流れ出る長良川は、濃尾平野に出るとこの傾斜により、西に流れを変え、養老断層際の揖斐川へ向かって流れる。水量の多い三川が平野の西側に集中し、水害が多くなる要因となっている。 1891年(明治24年)10月28日に濃尾地方で発生した、日本史上最大の内陸地殻内地震である濃尾地震では平野部で甚大な被害が発生している。 夏は高温多湿で非常に蒸し暑い。全国でも有数の酷暑地帯として有名。 冬は乾燥した晴天の日が多く、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹く。このため体感温度が北日本並みに急激に低下する日も珍しくない。 一方で、日本海側と太平洋側を分ける伊吹山地と鈴鹿山脈が濃尾平野北西の関ケ原町~近江盆地北東部の米原市付近で途切れているため、強い冬型の気圧配置になると雪雲がそこから濃尾平野に流入し岐阜県南西部や愛知県北西部などでしばしば局地的な大雪に見舞われることがある。都市部で20cmを超える積雪を記録する事もあり、2005年12月19日には平成18年豪雪により、名古屋市で1947年2月3日以来、58年ぶりとなる23cmの積雪を記録。さらに、2014年12月18日にも23cmの積雪を記録した。ちなみに名古屋市の最も多い積雪量は、1945年12月19日に降った49㎝である。 愛知県 名古屋市⁂、一宮市*、春日井市*、小牧市、犬山市、江南市、岩倉市、稲沢市、あま市、津島市、愛西市、弥富市など 岐阜県 岐阜市⁑、大垣市、各務原市、関市、美濃加茂市、可児市、羽島市など 三重県 桑名市長島地区、木曽岬町の一部地域 (太字は県庁所在地、⁂ は政令指定都市、⁑ は中核市、* は施行時特例市) 古くから畿内と東国を結ぶ東西の要所として重要な交通路が通過している。また、内陸部への重要な交通路の基点ともなっている。 中世 - 東海道、東山道 近世 - 東海道、中山道、美濃路、下街道 近代以降 鉄道 - 東海道本線、中央本線、関西本線、高山本線、東海道新幹線 国道 - 国道1号、国道19号、国道21号、国道22号、国道23号、国道41号 高速道路 - 東名高速道路、名神高速道路、中央自動車道、東名阪自動車道、東海北陸自動車道、伊勢湾岸自動車道、名古屋第二環状自動車道 木曽三川下流の愛西市や海津市には輪中地帯には水田が広がり、稲作が盛ん。木曽川中流域の洪積台地や東部の丘陵地帯では、花き、野菜などの近郊農業が盛ん。北西部の本巣市付近では柿などの果樹栽培が盛ん。 濃尾平野全域が中京工業地帯の一部である。名古屋市南部の臨海地区は、石油化学工業、製鉄業、機械工業などの工場地帯となっている。一宮市や大垣市周辺では繊維工業が盛ん。各務原市や小牧市周辺には航空機・宇宙関連産業が立地している。 名古屋市都心部(名駅・栄周辺)は、中部地方随一の繁華街で、地下街が発達し、百貨店が立ち並ぶ。岐阜市中心部(柳ヶ瀬周辺)や一宮市中心部には、百貨店と大規模な商店街がある。春日井市中心部は近年、郊外型の大規模商業施設が増加している。 ^ 岐阜大学 輪中の歴史(郷土を開く) 木曽三川 庄内川 中京工業地帯 各務原台地 濃尾地震", "田方平野(たがたへいや)は、静岡県の東部、伊豆半島の付け根に位置する沖積平野である。 平野は愛鷹山、箱根山、静浦山地(沼津アルプス)、丹那山地に囲まれ、狩野川とその支流である黄瀬川と大場川などが流れる。北部では古くから東海道の宿場町として商業と住宅地が発達。南部では水田が広がり、一部ではイチゴの促成栽培も盛んである。 約6,000年前の縄文時代には、完新世の気候最温暖期による縄文海進のため、海面が現在よりも数m高くなり、沼津市から黄瀬川下流、伊豆の国市の旧伊豆長岡町付近までは入江で、古狩野湾を形成していた。その後、海面が低下し、狩野川とその支流が運ぶ土砂が堆積し現在の姿となった。 北部には古くから、東西に東海道が、南北には下田街道が発達していた。それらが現在では自動車社会に合わせた整備によって多少位置が変わり、国道1号・国道136号となってこの地域の交通を支える。また、南北には伊豆箱根鉄道駿豆線も敷かれ、沿線住民の足となっている。 この地域では、1930年(昭和5年)に現函南町の丹那盆地付近で起こった北伊豆地震によって多くの死者を出した。また、古くから狩野川の氾濫によって何度も浸水し、1958年(昭和33年)には狩野川台風によって甚大な被害を受けた。 沼津市 三島市 清水町 函南町 伊豆の国市 ^ a b 国土交通省 河川整備基本方針 狩野川水系「狩野川水系流域及び河川の概要」 田方郡 - 田方平野周辺の自治体が置かれたが、現在は函南町のみ。", "諏訪盆地(すわぼんち)は、長野県中部の盆地。時計などの精密機械工業が発達し、「東洋のスイス」との別名も持つ。 諏訪盆地の標高は750mから900m。日本の盆地の中でも、高所の一つにあたる。約150-120万年前からの糸魚川-静岡構造線断層帯の左横ずれ運動によって形成されたプルアパート盆地とされており、現在もその活動は続いていると考えられている。岡谷市、諏訪市、茅野市および諏訪郡の地域に相当し、盆地の中央に諏訪湖がある。周辺には八ヶ岳など、数多くの山々に囲まれている。国道20号、JR中央本線、中央自動車道・長野自動車道が地域を通過し、東京方面、名古屋方面、長野・北陸方面の3方面へ交通の便がよい。 明治時代、国の富国強兵政策の主要産業であった製糸業で栄えた。諏訪湖など水が豊富であったためと思われる。戦時中は、それまでに廃れてしまっていた製糸業の倉庫などに、都会から疎開してきた軍需工場が多く入居した。戦後多くの軍需工場は出て行ったが、いくつかの工場が残り精密機械産業が発展している。その背景に、諏訪盆地の空気は湿気の少なく、きれいな空気であることから、精密機械を製造する場所に向いていることや、原料・製品が小型かつ軽量のため、交通の不便な中央高地でも輸送が容易にできることなどが挙げられる。 ^ 藤森孝俊 (1991年). “活断層からみたプルアパートベイズンとしての諏訪盆地の形成”. 地理学評論 Ser. A 64 (10): 665-696. doi:10.4157/grj1984a.64.10_665. https://doi.org/10.4157/grj1984a.64.10_665 2016年10月27日閲覧。.", "御器所台地(ごきそだいち)は、愛知県名古屋市の地形。 北は名古屋市千種区鍋屋上野町から南は瑞穂区井戸田町に至るまでの台地を指す名称。うち、鶴舞公園東方に位置する谷を境に、北側を千種台、南を御器所台と称することもある。台地の西側は精進川低地、東側は八事丘陵に接する。洪積層の段丘であり、規模は南北に約7.5キロメートル・東西に約2キロメートル・高さは5メートルから30メートルで、東から西に向かって低くなっている。 ^ a b 尾関武夫 1976, p. 317. ^ 尾関武夫 1976, pp. 317-318. ^ 尾関武夫 1976, p. 318. 尾関武夫 「御器所台地」『愛知百科事典』 中日新聞社、1976年(日本語)。", "静岡平野(しずおかへいや)とは、静岡県中部(静岡市葵区・駿河区)に広がる平野である。地質学的には安倍川とその支流の藁科川により形成された沖積平野である。西は高草山、東は日本平(有度山)、北は竜爪山などに囲まれ、南は駿河湾に面する。北東部で清水平野とつながっている。 静岡平野は、古くは駿河湾から入り込んだ入り江であった。賤機山や有度山、谷津山などは入り江に浮かぶ半島や島であった。その入り江に流れ込んでいた安倍川および藁科川の堆積作用により、静岡平野が形成された。 古くから東西の要所として重要な交通路が通過している。 中世・近世 - 東海道 近代以降 鉄道 - 東海道本線・東海道新幹線 国道 - 国道1号 高速道路 - 東名高速道路・新東名高速道路 登呂遺跡 駿府城" ]
ABC01-02-0308
犬の種類で、ブル、エアデール、ヨークシャーといえば、後ろにつく共通の言葉は何でしょう?
テリア
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[ "テリア", "コリー", "ジャーマン・ピンシャー", "スパニエル", "ボーダー・コリー" ]
[ "テリア(Terrier)は犬の種別である。国際畜犬連盟の犬種分類では第3グループとされる。 主に地中に生息する小動物を狩るために改良された品種である。「テリア」とはフランス語に由来し、語源はラテン語のterra(地)による。体格は平均して小さいが、勇敢で体力もあり、非常に活発な性格である。多くの品種がイギリスで開発され、キツネ、ネズミ、アナグマ、カワウソなどを狩った。しかし、「テリア」の名を持つ犬種には、闘犬のための犬種(ブル・テリア)や愛玩犬(日本テリア等)もいる。そのため、「テリア」という犬の分類そのものが無効とするものもいる。 類似する概念に、地中に生息する小動物を狩る犬をまとめたアース・ドッグ(Earth dog)があり、ここにはダックスフンドや一部のピンシャーも含まれる。デズモンド・モリスによれば、アース・ドッグの作業手法は、狩猟対象の巣穴に入り込んで直接、捕獲・殺害する、対象を巣穴から追い出す(捕獲等は行わない)、追い出された対象を捕獲・殺害するのいずれかに該当する。また、狩猟対象によって、多目的、ネズミ狩り、アナグマ狩り、ウサギ狩り、キツネ狩り、カワウソ狩りの6種に分類できるという。 アイリッシュ・ソフトコーテッド・ウィートン・テリア Soft-Coated Wheaten Terrier アイリッシュ・テリア Irish Terrier アメリカン・スタッフォードシャー・テリア American Staffordshire Terrier アメリカン・トイ・テリア American Toy Terrier アメリカン・ピット・ブル・テリア American Pit Bull Terrier アメリカン・ヘアレス・テリア American Hairless Terrier ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア West Highland White Terrier ウェルシュ・テリア Welsh Terrier エアデール・テリア Airedale Terrier オーストラリアン・シルキー・テリア Australian Silky Terrier オーストラリアン・テリア Australian Terrier カウレイー・テリア Cowley Terrier キャンタブ・テリア Cantab Terrier クライズデール・テリア Clydesdale Terrier グレン・オブ・イマール・テリア Glen of Imaal Terrier ケアーン・テリア(または ケアン・テリア)Cairn Terrier ケリー・ブルー・テリア Kerry Blue Terrier シーリハム・テリア Sealyham Terrier ジャーマン・ハンティング・テリア German Hunting Terrier ジャック・ラッセル・テリア Jack Russell Terrier ショートヘアード・テリア Short-haired Terrier スカイ・テリア Skye Terrier スコティッシュ・テリア Scottish Terrier スタッフォードシャー・ブル・テリア Staffordshire Bull Terrier スムース・フォックス・テリア Fox Terrier (Smooth) ソフトコーティッド・ウィートン・テリア Soft-Coated Wheaten Terrier ダンディ・ディンモント・テリア Dandie Dinmont Terrier チェシャ・テリア Cheshire Terrier チェスキー・テリア Cesky Terrier チベタン・テリア Tibetan Terrier テディ・ルーズベルト・テリア Teddy Roosevelt Terrier テンタフィールド・テリア Tenterfield Terrier トイ・マンチェスター・テリア Toy Manchester Terrier トランピントン・テリア Trumpington Terrier 日本テリア Japanese Terrier ノーフォーク・テリア Norfolk Terrier ノーリッチ・テリア Norwich Terrier パーソン・ジャック・ラッセル・テリア → パーソン・ラッセル・テリア パーソン・ラッセル・テリア Parson Russell Terrier パタデール・テリア Patterdale Terrier フォックス・テリア Fox Terrier ブラジリアン・テリア Brazilian Terrier ブラック・アンド・タン・テリア Black and Tan Terrier ブラック・ロシアン・テリア Black Russian Terrier プラマー・テリア Plummer Terrier ブル・アンド・テリア Bull and Terrier ブル・テリア Bull Terrier ベドリントン・テリア Bedlington Terrier ボーダー・テリア Border Terrier ボストン・テリア Boston Terrier ホワイト・イングリッシュ・テリア White English Terrier マンチェスター・テリア Manchester Terrier ミニチュア・フォックス・テリア Miniature Fox Terrier ミニチュア・ブル・テリア Bull Terrier (Miniature) モスコー・ロングヘアード・トイ・テリア Moscow Long-haired Toy Terrier ヤークトテリア → ジャーマン・ハンティング・テリア German Hunting Terrier ヨークシャー・テリア Yorkshire Terrier ラット・テリア Rat Terrier ルーカス・テリア Lucas Terrier レークランド・テリア Lakeland Terrier ワイヤー・フォックス・テリア Fox Terrier (Wire) ^ a b c デズモンド・モリス著、福山英也監修『デズモンド・モリスの犬種事典』誠文堂新光社、2007年、142ページ 犬の品種一覧 JKC > 世界の犬 > 第3グループ 3rd.Group [テリア]", "コリー(Collie)は、主にスコットランド原産とされる犬種。牧羊犬である。「コリー」の名称の起源は定かでないが、黒または石炭を意味する古英語、あるいは顔の黒い羊の一品種から来るという説が有力。また、ゲール語の「役立つ」という言葉に由来するものとする説もある。 紀元前50年ローマ侵略軍とイギリスへ上陸、スコットランドの犬と交配後、ボルゾイと交配し誕生した。毛色はセーブル、トライカラー、ホワイト、ブルーマールである。 股関節形成不全、進行性網膜萎縮症にかかりやすい。 単にコリーと言った場合ラフ・コリーを指すことが多いが、英国の地方ではボーダー・コリーを指す場合がある。 ラフ・コリー スムース・コリー ボーダー・コリー アイリッシュ・コリー ビアデッド・コリー ファーム・コリー 名犬ラッシー 「シンプソンズ」には「ラディー」というコリーが登場する。 犬の品種一覧 ^ a b 大修館書店 『ジーニアス英和辞典(第4版)』 382頁", "ジャーマン・ピンシャー(英:German Pinscher)とは、ドイツ原産のピンシャー犬種の一つである。単にピンシャーと呼ばれることもあり、ドイツ語読みでジャーマン・ピンシェルと呼ばれることもある。別名はスタンダード・ピンシャー(英:Standard Pinscher)、レー・ピンシャー(英:Reh Pinscher)。 「ピンシャー」という犬種名は、隣国のフランス語等で「つまみ捕らえる」といった意味を持っている単語である。 生い立ちはよく分かっていないが、少なくとも1884年には犬種として存在していた。スタンダード・シュナウザーとは兄弟関係がある。主にネズミを駆除するのが本種の役割で、狩猟能力の高さから広く使役犬として人気があった。古くから存在する犬種ではあるが、英国などの原産国外で犬種として認められたのは19世紀のことである。 ジャーマン・ピンシャーはミニチュア・ピンシャーとドーベルマンの先祖にもなった犬種である。尚、時に本種はミニチュア・ドーベルマン・ピンシャーと呼ばれることもあるが、これは大きな誤りである。なぜなら、犬種にサイズ階級の名前をつけるときは、先に生まれた品種、つまり原種の方を基準として子孫種のサイズを比較した名前をつけることがルールとなっているためである。それゆえ、実際のところはドーベルマンの方が本種から生まれた子孫であるため、そちらをジャイアント・ピンシャーと呼ぶ方が理にかなっている、ともいうことが出来る。ただし、ドーベルマンをその名で呼ぶものは誰も居らず、あくまでジャーマン・ピンシャーをミニチュア・ドーベルマン・ピンシャーと呼ぶのがおかしい、ということを示すためのことであるので、本当の別名だと思って混同しないよう注意が必要である。 第二次世界大戦が起こった際には戦禍を大きく被って頭数が激減し、ほぼ絶滅の状態に陥った。しかし、1958年になると西ドイツで再生プロジェクトが発足し、4頭のオーバーサイズのミニチュア・ピンシャーと、クラブのメンバーが東ドイツから命がけで密輸した1頭の純血のジャーマン・ピンシャーの計5頭を基礎として交配させることで犬種として復活することが出来た。現在のジャーマン・ピンシャーは全てこの5頭の血筋である。 現在ジャーマン・ピンシャーは目立った人気が出ることも無く、又、見放されることも無く、安定した人気を保っている。頭数は世界的には少ないが、ドイツ以外でも使役犬やショードッグ、ペットとして飼育されている。日本でもほぼ毎年国内登録が行われているが、たいてい登録頭数順位は最下位である。 無駄の無い筋肉質で引き締まった体つきをしている。サイトハウンドほどではないが、マズル・首・脚・尾が長い。もともとの使役柄によりアゴの力は強靭で仔犬の頃はよく甘噛みをするが、他の多くの犬種と同様に成犬になれば噛み癖も自然と直るのであまり噛み付き犬になる心配は無い。額には少ししわが寄っていて、耳は半垂れ耳、尾は飾り毛のない先細りの垂れ尾。しかし、耳は断耳して立たせ、尾は短く断尾されることもある。これはもともとショードッグとして外見を整えるためにでなく、ネズミに噛まれたり、傷口が膿んで感染症にかかることを防ぐために行われていた処置の名残である。コートはつややかなスムースコートで、毛色はブラック・アンド・タン、イザベラ(栗毛)・アンド・タン、タンの単色。ドーベルマンと同じく、稀にブルー・アンド・タンやフォーン・アンド・タンの仔犬も生まれるが、あまり犬種基準としては好ましくないとされる。ただし、ペットや実用犬として飼う分には、全く問題が無い。体高45〜50cm、体重11〜16kgの中型犬で、性格は陽気で従順、遊ぶことが大好きである。家族には優しく慣れっこく、それ以外の人や犬も、家族に対して友好的な態度をとる者であれば仲良く接する。ただし、シャギーコート(むく毛)の小型犬や齧歯目の動物を見ると狩猟本能の引き鉄を引かれるので、一緒にするべきではない。寒さにはあまり強くないので、寒い日や冬季の散歩の際には洋服を着せることが推薦される。運動量は多めで、かかりやすい病気は運動のし過ぎによる関節系の疾患などがある。 『犬のカタログ2004』(学研)中島眞理 監督・写真 『日本と世界の愛犬図鑑2007』(辰巳出版)佐草一優監修 『デズモンド・モリスの犬種事典』デズモンド・モリス著書、福山英也、大木卓訳 誠文堂新光社、2007年 『日本と世界の愛犬図鑑2009』(辰巳出版)藤原尚太郎編・著 『日本と世界の愛犬図鑑2010』(辰巳出版)藤原尚太郎編・著 ミニチュア・ピンシャー - これの小型種。ドーベルマンより100年以上先に作出。 ドーベルマン - 19世紀に生まれた犬種。 スタンダード・シュナウザー - もとコート違いの兄弟種。 犬の品種一覧 ドッグ・ガイド - ジャーマン・ピンシャー", "スパニエル (Spaniel) は、犬種のグループの一種である。 本来スパニエル犬種は特定の鳥猟犬のことを指しているが、一部の犬は鳥猟犬でもなく、本グループと全くかかわりがないにもかかわらずスパニエルの名がつけられた犬種も存在する。 利口で外見が洗練された犬が多く、実猟用に開発された種類でも、現在は多くがペットやショードッグとして飼育されている。 一口に猟犬といっても、ウサギ狩りが得意なビーグル、アナグマ狩り専門のダックスフント、獲物の位置を特定するポインティング・ドック(ポインター)、獲物を回収するレトリバーなど獲物や猟の形式にあわせてさまざまな犬が参加する。 キジなどの猟では最も狙いがつけやすい鳥が地面から飛び上がる瞬間を狙って発砲するので、狙い通りの位置に茂みにいる鳥を追い立てる役が必要となる。 スパニエルは主人の命令をよく理解し運動量が多く、大声で鳴き立てながら鳥を追い立てる役割を担っているため、ほとんどは小柄で柔らかな毛並みをしている。 その主人の命令を忠実に実行することのできる洞察力と利口さ、チームワークを大事にする温和さなどが評価されて現在はそのほとんどが家庭犬となっているが、ブリタニー・スパニエルなど数種はフラッシュのみでなくポイント・フラッシュ・回収の3役をこなし、多くは家庭犬としてではなく実猟犬として今でも猟の愛好家の間で使われている。 かかりやすい病気は犬種によってさまざまであるが、主に耳が垂れている為、外耳炎になりやすい。この他、皮膚アレルギー、骨折(小型種のみ)、股関節形成不全(大型種のみ)なりやすい傾向にある。利潤目的に乱繁殖された犬は遺伝的疾患にかかる確率が高いため、注意が必要である。トラブルを防ぐため、入手の際はブリーダーや譲り主の信頼性や入手する犬の家系病(その家系でかかりやすい傾向にある病気)などをしっかり調べておくことが重要となる。 以下の品種はスパニエルではないが、スパニエルに似ているなどの理由で名前が付けられている。 これらは鳥猟などに使われる、実猟用に開発されたスパニエルである。 ブリタニー・スパニエル - (フレンチ・ブリタニー・スパニエル、アメリカン・ブリタニー・スパニエル) アメリカン・コッカー・スパニエル イングリッシュ・コッカー・スパニエル ウォーター・スパニエル(※これは特定犬種ではなく、ひとつのグループである) …など これらは実猟用のスパニエルを愛玩用に改良し、作出されたタイプのスパニエルである。 キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル キング・チャールズ・スパニエル カムファター† グレディン・スパニエル† トイ・トローラー・スパニエル† パピヨン ファーレーヌ …など これらはスパニエル犬種でないものの、犬種名もしくは別名に「スパニエル」の名が付いた犬種である。 括弧でくくられたものが本来の犬種グループである。 チベタン・スパニエル(トイグループ、短吻愛玩種) 狆 - 旧英名が「ジャパニーズ・スパニエル」だった(トイグループ、短吻愛玩種) ペキニーズ - 英名「チャイニーズ・スパニエル」としても知られる(トイグループ、短吻愛玩種) マニラ・スパニエル†(トイグループ、ビション系種) …など ^ Fogle (2006): p. 152 ^ Palika (2007): p. 131 ^ “Blue Picardy Spaniel - Breed Description and Information”. Canada's Guide to Dogs. 2009年11月21日閲覧。 ^ Fogle (2006): p. 230 ^ Palika (2007): p. 172 ^ Coile, D. Caroline (2008). Cavalier King Charles Spaniels (2nd ed.). Barron's Educational Series. p. 11. ISBN 978-0-7641-3771-6.  ^ Smith (2002): p. 128 ^ Cunliffe, Juliette (1999). The Encyclopedia of Dog Breeds. Parragon. p. 323. ISBN 0-7525-8018-3.  ^ Lambert, Cathy. Getting to Know English Cockers. Animalinfo Publications. p. 20. ISBN 978-1-921537-15-8.  ^ Smith (2002): p. 134 ^ Palika (2007): p. 237 ^ “French Spaniel - Breed Description and Information”. Canada's Guide to Dogs. 2009年11月21日閲覧。 ^ Fogle (2006): p. 344 ^ Palika (2007): p. 269 ^ Palika (2007): p. 232 ^ Larkin, Peter (2003). The Essential Dog Book. Anness Publishing. p. 135. ISBN 978-0-681-86485-6.  ^ Smith (2002): p. 166 ^ Hungerland, Jacklyn E. (2003). Papillons. Barron's Educational Series. p. 11. ISBN 978-0-7641-2419-8.  ^ Palika (2007): p. 311 ^ “Breed Information: Phalene”. Purina Care: Pet Health Library. 2009年11月21日閲覧。 ^ “Picardy Spaniel Information”. Sarah's Dogs. 2009年11月21日閲覧。 ^ Cunliffe, Juliette (2005). The Encyclopedia of Dog Breeds (2nd ed.). Whitecap Books. p. 310. ISBN 978-0-7641-5700-4.  ^ Wilcox, Bonnie; Walkowicz, Chris (1995). Atlas of Dog Breeds of the World (5th ed.). TFH Publications. p. 383. ISBN 978-0-7938-1284-4.  ^ Cunliffe, Juliette (1999). The Encyclopedia of Dog Breeds. Parragon. p. 347. ISBN 0-7525-8018-3.  ^ Smith (2002): p. 174 ^ [1] ^ Spiotta-DiMare, Loren (1999). The Sporting Spaniel Handbook. Barron's Educational Series. p. 122. ISBN 978-0-7641-0884-6.  ^ Smith (2002): p. 122 ^ Fogle (2006): p. 67 ^ Drury, W.D. (1903). “Chapter LVIII. Chinese Spaniels, Chinese Pugs or Pekinese Spaniels, Pekinese Pugs”. British Dogs, Their Points, Selection, And Show Preparation. Charles Scribner's Sons. http://chestofbooks.com/animals/dogs/British-Dog-Shows/Chapter-LVIII-Chinese-Spaniels-Chinese-Pugs-or-Pekinese-Spaniels-Pekinese-Pug.html 2010年3月7日閲覧。.  ^ Palika (2007): p. 315 ^ “FCI-Standard N° 231 / 11. 05. 1998 / GB Tibetan Spaniel”. Fédération Cynologique Internationale. 2012年8月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月16日閲覧。 ^ Palika (2007): p. 375", "ボーダー・コリー(Border Collie)は、イギリス原産の犬種である。「ボーダー」の名称は、原産地がイングランドとスコットランド、イングランドとウェールズの国境(ボーダー)地域であることに由来する。 ブリティッシュコロンビア大学の研究によると全犬種で最も知能が高いとされる犬種である。 近年、特性や能力について十分学ばずに飼育し、扱いや飼育困難から手離される犬が増えている。 牧羊犬として世界でもっとも使われている犬種と言われている。オーストラリアやニュージーランドでは牧羊が国の主要な産業となっており、当犬種は多大な貢献をしている。運動・訓練性能の良さを買われて、アジリティ、ディスクドッグ競技、フライボール、ドッグダンスなどの様々なドッグスポーツを一緒に楽しめる犬種でもある。ショー・ドッグや家庭犬としても認知が進んでいる。 8世紀後半から11世紀にかけて、ヴァイキングがスカンディナヴィア半島からイギリスへ持ち込んだトナカイ用の牧畜犬が、ボーダー・コリーのルーツになったと考えられている。 その後、イギリス在来犬種と交雑しつつ、牧羊犬として、イギリスの羊毛生産を支える重要な役割を果たした。一部はオーストラリアやニュージーランドに持ち込まれ、イギリスと同じく牧羊犬に用いられた。 19世紀後半以降、王侯貴族の寵愛を受け、華やかなショー・ドッグの道を歩んだ他のコリー種とは対照的に、牧羊犬としての作業能力が最重視されたボーダー・コリーは、外観やサイズの統一性に欠け、畜犬団体の公認は遅れた。本国イギリスのケネルクラブによる公認は1976年に、国際畜犬連盟(FCI)の公認は1987年になってからである。 中型犬 稀に、背中に天使の羽根の形をした白い毛が生えている個体がいる 従順、機敏、利口。特に運動性能の良さや性格の活発さから、その様は「ハイパーアクティブ(超活動的)」と言われる。犬の中では知能がもっとも高いとも言われている 体高:オス53 cm、メス53 cmよりやや低い 体長:オスメスとも体高よりやや長い 体重:14 - 22 kg 毛色・毛質 ブラックアンドホワイトが基本であるが、レッド、チョコレート、ブルー、ブルーマール、セーブル他と多種多様である。有色部分が体の50 %以上を占める。アイリッシュスポット(四肢先端部、ネックおよび頭部の白い部分)があり、その部分にぶち模様が入ることもある。毛質は長毛のダブルコート(ラフコート)が基本であるが短毛(スムースコート)もある。ストレートの個体もややうねったカールの毛を持つものもいる。 寿命:12 - 15歳(ただし飼育環境や個体差、遺伝などによって差がある) ボーダー・コリーに認められる好発遺伝性疾患。 股関節形成不全、肘関節異形性、セロイドリポフスチン症(CL病)、グレーコリー症候群、コリーアイ異常(CEA)、停留睾丸など。 セロイドリポフスチン症(CL病)は発症すれば死に至る病気である。クリア(遺伝子を持たない)、キャリア(遺伝子を持つが発症しない)、発症の3種類が犬に負担をかけないDNA検査(口腔内をブラシでこすり唾液を採取する)で判明し、クリア同士の交配で確実に無くしていける疾患であるため、繁殖前の検査、キャリアおよび発症と判明した犬を繁殖しないことが、これからの健康なボーダー・コリーを保守するために強く求められる。 股関節形成不全、肘関節異形性は本犬種に頻発する。ほとんどが遺伝性によるものであり、若干が飼育環境や若年齢での過度な運動により発症する。これら2つはJAHDでの診断結果(グレード)がJKCの血統証明書に希望すれば記載される。 検査方法・検査機関は外部リンクを参照。 本犬種に限らず、コリー、シェットランド・シープドッグ、ビアデッド・コリーなどコリー系の犬種は主にフィラリアの予防薬として使われるイベルメクチンの使用が危険とされる。フィラリアの予防薬程度の投与なら問題ないという説もあるが、可能性を重視するならばフィラリアの予防薬の薬剤名(商品名ではない)を獣医師に確認すること。[1] イギリス、オーストラリア、ニュージーランドでは、牧羊犬の働きを競技として体系化したシープドッグトライアルが盛んに行われており、一部はメディアで放送されている。出場犬種のほとんどがボーダーコリーである。 日本では2007年(平成19年)10月23日、全てのボーダーコリーが幸せになる事を目的とした、非営利のネットワークボランティア団体「ボーダーコリーレスキューネットワーク」設立、詳細に関しては外部リンクを参照のこと。 愛犬の友編集部編『ボーダー・コリー』 誠文堂新光社、2004年 佐草一優『人気犬種166カタログ』 グラスウインド、2004年 「ボーダー・コリー」『世界の犬』ジャパンケネルクラブ ^ スタンレー・コレン (ブリティッシュコロンビア大学教授) 『デキのいい犬、わるい犬—あなたの犬の偏差値は?』 木村博江訳 文藝春秋 1994年(参照:犬のIQランキング) カンバーランド・シープドッグ -本種の原種 コリー オーストラリアン・シェパード シェットランド・シープドッグ ボーダーコリーレスキューネットワーク(BCRN) J.C.C:社団法人日本コリークラブ ドッグ・ガイド - ボーダー・コリー International Sheep Dog Society(ISDS) Japan Sheep Dog Society(ISDS公認、日本のシープドッグ協会)" ]
ABC01-02-0309
心の憩いになる場所のことを、砂漠に水が湧き、草木が生える場所にちなんで何というでしょう?
オアシス
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[ "オアシス", "シリア砂漠", "東部砂漠", "ナフサ山地", "ダハブ" ]
[ "オアシス(英語:Oasis)とは砂漠・ステップなど乾燥地域における緑地。英語読みはオウエイスィス。 直接的な語源は古代ギリシア語にあり(ὄασις Oasis)、ヘロドトスの「歴史」(第3巻 26節)に見られる。ここでは、リビア砂漠に存在した諸都市(オアシス都市)の名とされている。この語は、さらに溯って、恐らくは古代エジプト語(wḥʾt 「オアシス」「オアシス地域」)が転訛したものと考えられている。 オアシスには、泉性(地下水によるもの)だけでなく、河川や雪解け水を水源とするオアシスもあり、後者の方が大規模なオアシスを形成する。さらに井戸などによる人工的なオアシスも存在する。農業が可能となり、集落が形成されることがあるほか、通商路の経由地ともなる。 隊商は水と食料を補給するためにオアシスを経由しなければならない。オアシスの政治的、軍事的支配は、多くの場合商業の支配をも意味してきた。例えば、現在のリビアに位置するガダミス、クフラなどのオアシス都市は、サハラ砂漠の南北および東西交易(サハラ交易)において重要であったし、中国とヨーロッパを結んだシルクロードのルート上にも多くのオアシス都市国家が存在し覇を競った。 世界最大のオアシスはナイル川の河谷およびナイル川デルタ地帯であり、22,000平方キロメートルある。 転じて「憩いの場所」を意味する。 地下水は地表面からの蒸発と、植物体からの蒸散によって大気中へ放出され、同時に蒸発の潜熱が失われる。熱源は気温および地表の温度であることから、蒸発量が多ければ多いほど気温と地表温度は低下することになる。すなわち、オアシスの水量が豊富なところほど、オアシス周辺は涼しくなる。ここで等温線を引けば、中心部を最も低温とし、オアシス周辺を同心円状に取り巻く形をとることから、高温の乾燥地帯に島のように涼しい地帯が浮かんで見える。これをクールアイランドという。クールアイランドの効果は、天然のものでも人工のものでも同じである。 Safsaf,シワ,ハルガ,El Tour, シナイ半島(エジプト) w:Tabas(イラン) トルファン,コルラ,カシュガル,ホータン,楼蘭(中国) 都市緑化機構が緑の取り組み評価として設定した認定制度であるSEGES(シージェス)のうち、快適で安全な都市緑地を提供する取り組みを認定する制度として「都市のオアシス」を認定している。 おもな認定サイト なんばセントラルプラザ リバーガーデン(大阪府 大阪市, リバー産業 (2018〜 ) 赤坂インターシティAIR(東京都 港区, 新日鉄興和不動産、赤坂インターシティマネジメント (2018〜 ) 「新・里山」「希望の壁」(大阪市北区, 積水ハウス (2015〜 ) 大阪ステーションシティ(大阪市北区, 西日本旅客鉄道、大阪ターミナルビル (2015〜 ) 京王リトナード永福町 ふくにわ(東京都杉並区, 京王電鉄 (2015〜 ) 玉川髙島屋ショッピングセンター(東京都世田谷区, 東神開発 (2015〜 ) 大手町タワー 大手町の森(東京都千代田区, 東京建物 (2015〜 ) 恵比寿ガーデンプレイス(東京都 渋谷区, サッポロ不動産開発 (2015〜 ) 深川ギャザリア(東京都江東区, フジクラ (2015〜) 品川シーズンテラス(東京都 港区, NTT都市開発、大成建設、ヒューリック、東京都市開発 (2017〜) 虎ノ門ヒルズ(東京都 港区, 森ビル (2017〜) サンシャインシティ サンシャイン広場(東京都 豊島区, サンシャインシティ (2017〜) 新ダイビル 堂島の杜(大阪市 北区, ダイビル (2017〜) GINZA SIX ガ-デン(東京都 中央区, GINZA SIX 管理組合、JFRサ-ビス (2017〜) 順天堂大学医学部附属浦安病院ポケットパーク(千葉県 浦安市, 順天堂大学 (2017〜) 京橋エドグラン(東京都 中央区, 京橋二丁目西地区市街地再開発組合、管理者は日本土地建物 (2017〜) ザ・プリンスパークタワー東京 プリンス芝公園(東京都 港区, プリンスホテル (2017〜) BRANCH茅ヶ崎(神奈川県 茅ヶ崎市, 大和リース (2017〜) コピス吉祥寺 吉祥空園 sora(東京都武蔵野市, 武蔵野市開発公社 (2014〜) JPタワーKITTEガーデン(東京都千代田区, 日本郵便 (2014〜) 新宿マルイ 本館 屋上庭園 Q-COURT(東京都新宿区, 丸井グループ (2014〜) 代々木VILLAGE by kurkku(東京都渋谷区, VILLAGE (2014〜) メディカルハーブガーデン 薬香草園(埼玉県飯能市, 生活の木 (2014〜) サカタのタネ本社(横浜市都筑区, サカタのタネ (2014〜) なんばパークス パークスガーデン(大阪市浪速区, 南海電気鉄道、髙島屋 (2014〜) キャナルシティ博多(福岡市博多区, 福岡地所 (2014〜) ノリタケの森(名古屋市西区, ノリタケの森 (2016〜) 三越銀座店 銀座テラス(東京都中央区, 三越伊勢丹 (2016〜) コクーンシティ(さいたま市大宮区, 片倉工業 (2016〜) 西武池袋本店 9階屋上 食と緑の空中庭園(東京都豊島区, そごう・西武 (2016〜) 東京スクエアガーデン 京橋の丘(東京都中央区, 東京建物 (2016〜) グランツリー武蔵小杉 ぐらんぐりんガーデン(川崎市中原区, イトーヨーカ堂、モール・エスシー開発 (2016〜) Tri-Seven Roppongi(東京都港区, Tri-Seven Roppongi特定目的会社、ペンブローク・リアルエステート・ジャパン・LLC開発 (2016〜) 東急プラザ銀座 KIRIKO TERRACE(東京都中央区, 東急不動産 (2016〜) 昭島昭和の森 モリパークアウトドアヴィレッジ(東京都昭島市, 昭和飛行機工業、昭和の森綜合サービス (2016〜) 東京ガーデンテラス紀尾井町(東京都千代田区, 西武プロパティーズ (2016〜) キリンビール横浜工場(横浜市鶴見区, キリンビール (2016〜) 伊勢丹新宿本店 アイ・ガーデン(東京都新宿区, 三越伊勢丹 (2013〜) 晴海アイランドトリトンスクエア(東京都 中央区, 統一管理者は晴海コーポレーション (2013〜) 三井住友海上火災保険 駿河台ビル/駿河台新館/ECOM駿河台(東京都千代田区, 三井住友海上火災保険 (2013〜) ThinkPark Forest(東京都品川区, 世界貿易センタービルディング、明電舎 (2013〜) 新宿タカシマヤタイムズスクエア(東京都 新宿区, 東神開発 (2013〜) アークヒルズ(東京都港区, 森ビル (2013〜) 六本木ヒルズ(東京都港区, 森ビル (2013〜) 東京ミッドタウン(東京都港区, 東京ミッドタウンマネジメント (2013〜) Granpark (グランパーク)(東京都港区, 三井住友信託銀行、日通商事 (2013〜) 中野マルイ 四季の庭・水辺の庭(東京都中野区, 丸井グループ (2013〜) ^ http://dictionary.reference.com/browse/oasis ^ 関口(1983):102ページ ^ 関口(1983):102 - 103ページ ^ a b c d 関口(1983):103ページ 関口武『気象と文化』東洋経済新報社、1983年. 地形学 オアシス地域研究会報 オアシス - Yahoo!百科事典", "シリア砂漠(シリアさばく、Syrian Desert、アラビア語:بادية الشام, badiyah ash sham, 別名シリア・アラビア砂漠 Syro-Arabian desert)はシリア、ヨルダン、イラク各国の内陸部にまたがる砂漠地帯。ステップと砂漠の複合した植生の荒地である。西はシリアのオロンテス川渓谷、東はシリアからイラクへ流れるユーフラテス川渓谷に及ぶ。北はシリア北部の肥沃な草原・森林へ至り、南はネフド砂漠などアラビア半島内陸の砂漠へとつながる。 砂漠の中にはパルミラ(タドモル)をはじめ多くのオアシスがあり、砂漠を横切る隊商の中継地となってきた。シリアの首都ダマスカスも、シリア砂漠のオアシス都市である。シリア砂漠の多くは高原地帯で、東のユーフラテス川に向かってなだらかに低くなっており、その中に多くのワジが谷を作る。砂漠の北方にはアッ=ルワーク山脈(Jabal ar-Ruwaq)、ラシード山脈(Jabal Rasid)、アブ=ルジマイン山脈(Jabal Abu Rujmayn)、ビシュリ山脈(Jabal Bishri)など低い山並みがユーフラテスのある北東方向へ並行に連なる。特徴的な地形には、シリア南部のエッドゥルーズ山地(Jebel Druze)にある古い火山からの溶岩流が作った地形がある。これらの山地の南方にはハマード高原という砂漠地帯がサウジ内陸へ続く。ホムスの東、南のルワーク山脈と北のラシード山脈に挟まれた盆地はホムス砂漠と呼ばれる荒地であり、その先の谷間にパルミラのオアシスがある。 シリア砂漠は遊牧民であるベドウィン諸部族が古くから住んでおり、多くの部族が今もこの地域の街やオアシス周辺に作られた定住地に住む。また伝統的な遊牧生活を今も続ける部族もある。ベドウィンが書いたSafaiticと呼ばれる初期のアラビア語の碑文がシリア砂漠の各地に見つかり、多くは紀元前1世紀から4世紀に遡る。イラク戦争以後、シリア砂漠を通りイラクとシリア・ヨルダンを結ぶ道は、イラクから逃れる難民やイラクに入る民兵、イラクから出入りする物資や武器の密輸ルートとなっており、シリア砂漠に接するイラク西部のアンバール県を拠点とするスンニ派民兵がおさえている。", "東部砂漠(とうぶさばく、英語: Eastern Desert)はアフリカ大陸・ナイル川東岸に広がる砂漠。北はエジプトから南はエリトリアまで続き、エチオピアおよびスーダンにも広がっている。 ラシャイダ人", "ナフサ山地(ジュベル・ナフサ)は、リビア北西部、トリポリタニア北部に位置する山地。標高はそれほど高くないが、地中海からの季節風がナフサ山地にぶつかって雨を降らせるため、山地以北には農地が広がり、トリポリやフムスなどの都市が形成されている。山地自体は石灰岩性である。山地には荒野が広がっているものの、冬にまとまった降雨があり、その水の集まる山の中腹にいくつかのオアシス都市が連なっている。山地の中心都市は、東部のガリヤンと西部のナールートである。いっぽう、山地以南はサハラ砂漠であり、完全な砂漠地帯となっている。 ^ 「図説大百科世界の地理16 北アフリカ」p2176 朝倉書店 1997年3月1日初版第1刷", "ダハブ(アラビア語: دهب‎、Dahab)は、エジプト東部、シナイ半島の東部に位置する村。リゾート地およびダイビングスポットとして名高く、毎年多くの観光客が訪れる。以前はベドウィンの住む小さな漁村に過ぎなかったが、シャルム・エル・シェイクの北東80kmと手ごろな距離にあり、6日間戦争によってシナイ半島がイスラエルに占領されると観光開発がすすめられた。1982年にイスラエル・エジプト平和条約によってシナイ半島がエジプトに返還され平和が訪れると、外国資本が流入し開発がさらに進んだ。 ダハブは3つの地区に分かれている。一番北が旧来のダハブであるベドウィン村アサーラを含むMasbat地区で、バックパッカー向けのキャンプやレストランが多い。その南のMashrabaはやや大きなホテルが林立する地区である。最も南西にあるLaguna地区はウィンドサーフィンのメッカとなっている。 ダハブ観光で最も人気のあるのはマリンスポーツであり、とくにウィンドサーフィンとダイビングでは世界的な名声を得ている。シュノーケリングを楽しむ観光客も多い。陸上では、ラクダや馬に乗ったり、ジープの運転が楽しめる。またここからシナイ山へは車で2時間であり、世界遺産である聖カタリナ修道院へ向かう観光客も多い。 いっぽうで、ビーチの女性をはじめとする欧米観光客の流入は地域の文化とはなじんでいるとはいえない.。 ダハブの気候は非常に乾燥しており、晴天が続く。この気候が観光地としての発展の一因となった。夏は非常に暑いが、冬、特に夜間は穏やかな気候である。 ^ Contested landscapes : movement, exile and place ; [World Archaeological Congress ... Cape Town, South Africa]. Oxford [u.a.]: Berg. (2001). ISBN 1859734677." ]
ABC01-02-0310
チェスで、ゲーム開始時に4つの隅に置かれている駒は何でしょう?
ルーク
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[ "ルーク", "玉将", "風馬", "ビショップ", "ポーン" ]
[ "ルーク (Rook、♖♜) はチェスの駒の一種。塔または城のような形をしている。城、戦車を表している。 英語では、「rook」の発音は /ɹʊk/ であり、母音は短い。そのため「ルック」と表記される場合もある。また駒の形から castle と呼ぶ人もいるがルール上の正式名称ではない。 サンスクリットでは「ratha」(戦車)と呼ばれた。シャンチーの車もこの系統と思われる。現在のインドではゾウや船を意味するさまざまな名前で呼ばれる。 ペルシャ語では رخ (rokh)、アラビア語でも rukh と呼ばれ、英語の rook や、ドイツ語でキャスリングを意味する Rochade ロッハーデ はこれが語源である。ペルシア語も「戦車」を意味していたらしいが、本来の意味は早くにわからなくなった。 ドイツ語「Turm」、フランス語「Tour」、スペイン語「Torre」などは、いずれも「塔」を意味する。駒も塔の形をしている。戦車から塔になった理由ははっきりしないが、アラビア語の rukh とイタリア語で「砦」を意味する rocca が結びつけられたためという説がある。 ロシア語 ладья ラディヤー、ベンガル語 নৌকা ノウカ、タイ語 เรือ ルア は、いずれも「船」を意味する。 白ルークはa1とh1、黒ルークはa8とh8に配置する。 棋譜上ではRで表される。 キャスリングについては、ルークの動きではなくキングの動きとされている。 動きの基本 縦・横の方向の、任意のマス(どこでも好きなマス)に移動できる。 図1 : 移動できるマスに敵の駒がある場合、その駒を取る事ができる。 取った後は、その駒があったマスに移動する。 図2 : 味方の駒のいるマスには移動できない。 図3 : (敵味方に関係なく)他の駒を飛び越える事はできない。 この評価は一般的なものであるが、絶対的なものではない。チェスの局面によって駒の価値は変動する。 ルークは、クイーンとともに「大駒」とされている。 ルークはチェスの序盤戦では、通常あまり活躍できない。しかし中盤戦および終盤戦では、次第にその存在感を増していく。特に終盤戦では、(キングを除く駒の中で)ポーンとルークが残る確率が非常に高い。 敵のポーンのプロモーションを防ぐ最後の砦も、大抵の場合は味方のルークである。 ルークは時に、単独で敵のキングをチェックメイトできる。これは「バックランク・メイト」と呼ばれ、実戦でも数多く見かけられる。 8 セブンスランク・ルーク ルークを敵陣の7ランクに侵入させると、中盤戦や終盤戦で非常に優位になる。この形は「セブンスランク・ルーク(seventh rank rook)」と呼ばれている。特にルークを2つ侵入させた形は、理想的な攻撃形態の一つである。 黒側であれば、ルークを2ランクに侵入させる形になる。 ^ a b Jean-Louis Cazaux (2012年1月10日). “Indian Chess Sets”. History of Chess. 2015年8月8日閲覧。 ^ a b Remke Kruk (2001年). “Of Rukhs and Rooks, Camels and Castles”. Oriens 36: 288-298. JSTOR 1580487.  ^ 英語ではメジャー・ピース (major pieces) 、またはヘビー・ピース (heavy pieces) となる。 チェス用語一覧 飛車 - 駒の動きが同じで、英語でもRookと訳される。", "玉将(ぎょくしょう)・王将(おうしょう)は、将棋の駒の種類の一つ。本将棋・平安将棋・平安大将棋・小将棋・中将棋・大将棋・天竺大将棋・大大将棋、大局将棋・摩訶大大将棋に存在する。本将棋の玉将の動きは、チェスのキング、どうぶつしょうぎのライオン、マークルックのクンと同様の動きとなる。英語でもkingと訳され、略号はK。 通称は「玉」。本将棋の場合、次の自分の手番で相手の玉将を取れることが確定すると(詰み)その時点で勝利となる。またこのため、玉将を実際に取ることはせずに決着する。本将棋では、王手をかけられていてそれを放置した場合や、玉を敵駒の利いているマスに移動させた場合、また玉以外の駒を移動させた結果、玉が敵の飛車(竜)・角(馬)・香車の利きに晒されるようにした場合は、「王手放置」の反則となる。 小将棋など、太子または王子が登場する(成駒として存在する、あるいはもともと存在する)将棋類については、相手がこれらを盤面に有する場合、玉将にこれらを加えたうちの最後の1枚を詰めた時点で勝ちが決まるため、途中で玉将を取る場合も存在する。 玉将における格言は非常に多いので、ここでは3言のみ取り上げる。 居玉は避けよ…玉が初期位置のままだと、左右どちらから攻められても近い上に王手飛車取りもかけられやすいので、なるべく移動した方がよいということ。 中段玉は寄せにくし…上部にいる玉は狙われやすい一方で捕まりにくい。防戦一方なとき、中段へ逃げることで逆転できることがある。対義語は「玉は下段に落とせ」。 角筋の玉受け難し…角筋とは角の利き(攻撃範囲)のことである。敵の角筋に玉を置いていると、じり貧になりやすいので注意せよということ。 玉の手筋としては、自玉が詰み筋に入ったり厳しい攻めが来たりする前にあらかじめ安全な場所に逃げる「早逃げ」がまず挙げられる。また相手の攻めが細い場合など、玉が周囲全方向に動けることを利用して、「顔面受け」といって、玉を直接受け駒として使って受けることもある。一方、玉は詰まされると負けなので、基本的には攻撃に用いるような駒ではない。ただ玉頭戦の超乱戦などで、両者の玉が1マス空けただけの至近距離となったような場合などは、一方の玉が相手の玉の逃げ道を塞ぐという意味で攻撃駒の1つとなるケースも稀にある。 玉将は歴史的にはチャトランガの王に相当する駒である。海外の将棋系ゲームでは日本将棋の玉将に相当する位置に、チャトランガの王に相当する駒が配置されている。チェスではキング、シャンチーでは将・帥、チャンギでは将(楚・漢)、マークルックではクンが将棋の玉将およびチャトランガの王に相当する駒であり、いずれも詰まされると負けになる。 将棋駒にはもともと「玉将」しかなかったようである。平安将棋には「玉将」はあるが「王将」はない。また、11世紀半ばと推定され、最古の将棋駒とされる興福寺境内跡からの出土品には「玉将」が3枚含まれているが、「王将」は含まれていない。 しかし、字体の類似も相まっていつの間にか「王将」も使うようになったと言われている。「王将」と「玉将」には実質的には違いはないが、「天に二日なく、地に二王なし」との言葉に基づき「王将」は1枚とし、上位者(後手または上手)が「王将」を使い、下位者(先手または下手)が「玉将」を使うのが慣例となっている。 詰将棋では玉将を用いるのが一般的で、双玉詰将棋(攻め方の玉将も配置する詰将棋)の攻め方に王将を用いることがある。 玉は金、銀、桂、香などと同じように宝物の名称に基づくものである。よって、意味からすると、王将を「王様」と言うのは本来間違いである。しかし、チェスでは玉将に相当するのは「キング」であり、また「王手」とは言うが「玉手」というと将棋とは無関係な別の意味になってしまう。反対に符号は一般的には「玉」は用いるが「王」は用いない。そのため、玉将を表すのに「王」と「玉」のどちらの言葉を使用しても問題ないと考えられ、問題にしている人もほとんどいない。 駒の書体の表現においては、玉将と王将の違いは、通常は点の有無だけであるが、中には明らかにそれだけの違いでないものもある。例えば巻菱湖の玉将と王将は、点の有無以外にも、細部にわたり表現の差異がみられる。 本将棋・小将棋・中将棋では玉または王と略す。成ることはできない。中将棋では、詰ますのではなくこれを取ると勝ちになる。 成駒は自在天王。 太子の成駒。成ることはできない。 ^ 増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』(集英社新書、2000年、ISBN 4-08-720019-1、12ページ)や木村義徳『持駒使用の謎』(日本将棋連盟、2001年、ISBN 4-8197-0067-7、102ページ)などを参照。 ^ 『象棋六種之図式』では大大将棋に王将(玉将ではなく、王将を採用している。読みも「わうしよう(おうしょう)」となっている)の動きが記されており、前に2マス、後ろ・横・斜めに1マス動ける(通常の玉将の動きに、前に2マス動ける動きを追加したもの)としている。 梅林勲・岡野伸共著『改訂版 世界の将棋・古代から現代まで』(将棋天国社、2000年) 入玉 将棋類の一覧 将棋類の駒の一覧", "風馬(ふうま)は、将棋の駒の一つ。本将棋にはなく、和将棋・大局将棋に存在する。 和将棋では成ると天馬。 大局将棋では成ると天馬。 将棋類の一覧 将棋類の駒の一覧 梅林勲・岡野伸共著『改訂版 世界の将棋・古代から現代まで』(将棋天国社、2000年)", "ビショップ (Bishop、♗♝)は、チェスの駒の一種。僧正(もしくは象)を表す。 英語のビショップはキリスト教の聖職者である「僧正」を意味する。駒の形が司教冠に似ているためであろうという。 この駒は、サンスクリットでハスティン、ペルシア語でピールと呼ばれ、いずれもゾウを意味した。アラビア語はペルシア語を借用してフィールと呼んだ。現在のスペイン語の名称 alfil はアラビア語の借用である。また、ロシア語の слон スローン もゾウを意味する。シャンチーでも「象」と呼ばれる。ただし、現在のヒンディー語で हाथी ハーティー(ゾウ)と呼ばれるのはルークであり、ビショップは ऊँट ウント(ラクダ)と呼ぶ。 他の西洋の言語ではさまざまな名称で呼ばれる。ドイツ語 Läufer(走者)・イタリア語 alfiere(副官)・フランス語 fou(道化)など。 インドでのこの駒の動きには、以下のいくつかの変種があったが、いずれも現在のビショップとは異なっていた。 斜めに2歩ずつ動く(シャンチーの「象」に類似) 縦横に2歩ずつ動く 斜めまたは前に1歩ずつ動く(将棋の銀将の動き) このうち第一のものがアラビアや西洋に伝えられた。現在のビショップの動きは15世紀末の文献に見られる。ビショップはクイーンと並んで、西洋で大きく動きの変更された駒になった。 白ビショップはc1とf1、黒ビショップはc8とf8に配置する。 棋譜上ではBで表される。 白側にも黒側にも、白マスのビショップと黒マスのビショップがある。 動きの基本 ビショップは斜め方向に何マスでも移動できる。 白マスのビショップと黒マスのビショップの動き方は、全く同じである。 しかし(その性質上)この2つが同じ色のマスに移動する事は絶対にない。 図1 : 移動できるマスに敵の駒がある場合、その駒を取る事ができる。取った後は、その駒があったマスに移動する。 図2 : 味方の駒がいるマスには移動できない。 図3 : (敵味方に関係なく)他の駒を飛び越える事はできない。 この評価は一般的なものであり、絶対的なものではない。チェスの局面によって駒の価値は変動する。 ビショップが2個ともある場合の価値は、3+3=6より大きい。 ビショップは「小駒」と呼ばれている。 ビショップは他の駒とは異なり、(何手かけても)チェスボードの半分しか移動する事ができない。白マスのビショップは白マスだけに、黒マスのビショップは黒マスだけに移動する。ポーンのアンダープロモーションによって新たにビショップが発生しない限り、同じ色のマスにビショップが2個(以上)存在することは決してない。その意味で、初期配置では「ビショップという同じ駒が2個ある」というよりも「(動きは同一ながら)白マスのビショップと黒マスのビショップという別々の駒が1個ずつある」と考えたほうがよい[要出典]。 ビショップ特有の用語としては、「グッド・ビショップ」と「バッド・ビショップ」がある。 グッド・ビショップ: 自分と同じマスの色の味方のポーンに邪魔されず、行動範囲が広いビショップ。 バッド・ビショップ: 自分と同じマスの色の味方のポーンに邪魔されて、身動きが取りにくいビショップ。 ^ カトリック教会では司教、正教会や聖公会では主教と訳す。 ^ Fergus Duniho; Hans Bodlaender (2001年12月15日). “Piececlopedia: Bishop”. chessvariants.org. 2015年8月9日閲覧。 ^ a b c “Indian Chess Sets”. History of Chess (2012年10月1日). 2015年8月9日閲覧。 ^ hasty と書かれているのは母音に続くときの形 ^ Jean-Louis Cazaux (2009年12月28日). “Chatrang or Chaturanga, the oldest Chess”. History of Chess. 2015年8月9日閲覧。 ^ 増川宏一 『チェス』 法政大学出版社〈ものと人間の文化史 110〉、2003年、104ff。 ^ 厳密に表現すれば、明色マスのビショップ(light square bishop)と暗色マスのビショップ(dark square bishop)になる。 ^ 英語ではマイナー・ピース(minor piece)、またはライト・ピース(light piece)となる。 ^ それぞれの用語を、「優良ビショップ」「不良ビショップ」と訳している文献もある。 『チェス戦略大全 Ⅰ』 ルディック・パッハマン 小笠誠一 訳 評言社 ISBN 978-4-8282-0534-2 チェス用語一覧 角行 - 駒の動きが同じで、英語でもBishopと訳される。 アルフィル - ビショップの元になった駒", "ポーン (Pawn、♙♟) はチェスの駒の一種で、歩兵を表している。 白ポーンはチェスボードの2ランク、黒ポーンは7ランクのマスに配置する。 厳密にいえば、各ポーンには名前がついている。 aとhのポーン : ルーク・ポーン(Rook’s Pawn) bとgのポーン : ナイト・ポーン(Knight’s Pawn) cとfのポーン : ビショップ・ポーン(Bishop’s Pawn) dのポーン : クイーン・ポーン(Queen’s Pawn) eのポーン : キング・ポーン(King’s Pawn) 記述式の棋譜を扱うのでなければ、あまり気にする必要はない。 ただし両端のルーク・ポーンについては、終盤戦で注意を要する場合もある。 チェスの駒の中で、ポーンだけは動かし方と敵の駒の取り方が違っている。将棋の歩とも性質が大きく異なるため、特に注意が必要とされている。 前方(相手側)に1マスずつ進む事ができる。後戻りはできない。 直前のマスに味方の駒がある場合、前へ進む事ができない。 直前のマスに敵の駒がある場合、取る事も進む事もできない。 スタート地点にいるポーンは、(そのポーンの)初手に限り前方へ2マス進む事ができる。 2マスではなく、あえて最初から1マスずつ動いても問題はない。 スタート地点にいる場合でも、味方や敵の駒を飛び越える事はできない。 2マス先に敵の駒がいる場合は、直前に敵の駒がいる場合と同じく、取ることができない。 斜め前方に敵の駒があった場合、駒を取ってそのマスに進む事ができる。 斜め前方に敵の駒がなければ、ポーンは斜めに進む事ができない。 両方の斜め前に敵の駒がある場合は、どちらを取るか選ぶ事ができる。 ただし、同時に両方とも取る事はできない。 駒を両方とも取らずに、その間を通過させる事もできる。 その他 「アンパッサン」についてはアンパッサンを、「プロモーション」については次節を参照。 ポーンの動きは前方に進むだけで、後方に戻ることはできない。相手側の最終ランクに到達したポーンは、それ以上動けなくなってしまう。そのため、プロモーション(昇格・成る)と呼ばれるルールが決められている。 相手側の最終列に達したポーンは、同色(味方)のクイーン、ビショップ、ナイト、ルークのどれか好きな駒に昇格させなくてはならない。以前はこれらの駒への昇格だけでなく、敵駒への昇格や、昇格させずにポーンのままでいることも禁じられていなかった。しかし現在では、同色駒への昇格のみが公式規定で決められている。ポーンを到達させたプレイヤーは、同じ1手の一部としてポーンを昇格する駒に取り換える。取り換えたい駒が物理的に余っていない場合の対策は後述の通り。将棋の「成り」に似ているが、チェスの駒の中でプロモーションできるのはポーンだけである。 b7ポーンをb8に進め、クイーンに昇格させる場合、白はポーンをb8から取り去り、代わりにクイーンを置く。 その場合、棋譜は「b8=Q」または「b8Q」となる。 後述のアンダープロモーションの場合は、ポーンを昇格させたい駒に取り換える。 ほとんどの場合、ポーンはクイーンに昇格する。仮に8個のポーン全部がクイーンに昇格したとしても、チェスのルール上は特に問題ない。しかし通常の駒のセットでは、クイーンは白黒それぞれ1個ずつしか用意されていない(別に昇格用として予備のクイーンが1個ずつ入っている駒のセットもある)。そのため一般的には、以下の方法でプロモーションに対応している。 クイーンがすでに取られている(もしくは予備のクイーンがある)場合には、それと昇格したポーンを交換して使用する(アンダープロモーションの場合はビショップ、ナイトあるいはルークと昇格したポーンを交換する)。 すでに取られた(もしくは予備の)クイーンがなく、ルークがすでに取られていれば、それを上下逆さまにして使用する。 クイーンも上下逆さまのルークも使えない場合は、ポーンを1つのマスに2個置いて使用する。 それもかなわない時には、目印となるありあわせの物体を付け加える(このようなケースは実戦ではほぼありえないと考えられる)。 大会等では、他のチェス駒のセットからクイーン等を借りるという方法もある。 ※ただし、これらは公式なルールではない。 ポーンは最も強力なクイーンに昇格させるのが一般的だが、(ごく稀に)それ以外の駒を選んだ方が良いケースもある。 これはアンダープロモーションと呼ばれ、チェスの戦術の一つとされている。 あえてクイーンを選ばない理由には以下のようなものがある。 クイーンに成った時のステイルメイト発生を解消するため(ルーク・ビショップに成る場合) ナイトの特殊な動きを利用するため(ナイトに成る場合) 自らをステイルメイトに入れるため(このケースは実戦でよりも作局で発生する) 上図はアンダープロモーションの一例。白ポーンをクイーンに昇格させてしまうと、黒キングは現在の場所から動けなくなり指し手がなくなってしまう。この結果ステイルメイトが成立し、(白が圧倒的有利な状況にもかかわらず)ゲームは引き分けに終わる。この場合、白はポーンをルークに昇格させればステイルメイトを回避できる。 ポーンは単体では最も弱い駒、価値の低い駒である。 しかしチェスの駒の半数はポーンが占めており、欠かすことのできない駒でもある。 これらの評価は一般的なものであり、絶対的なものではない。チェスの局面によって駒の価値は変動する。 特にポーンにはプロモーションがあるため、その直前の場所のポーンは価値が跳ね上がる。 「ポーンはチェスの魂」と言われているように、ポーンは非常に重要な駒である。その形についても様々なケースがあり、重要な物には名前がついている。 パスポーン (Passed Pawn) :敵のポーンが正面と両隣りのファイルからなくなり、前進しやすくなったポーン。 ダブル・ポーン (Doubled Pawns) :味方同士で縦に2つ重なったポーン。3つの場合は「トリプル・ポーン」と呼ばれている。 バックワード・ポーン (Backward Pawn) :出遅れた後方のポーン。 アイソレイティッド・ポーン (Isolated Pawn) :孤立したポーン。 ポーン・チェーン (Pawn Chain) :ポーンが斜めに連なった状態。 フィックスド・ポーン (Fixed Pawns) :お互いの動きを止めあっているポーン。 ^ ルーク・ポーンは「呪われたポーン」とされていて、パスポーンであってもプロモーションが難しいケースが比較的多い。 ^ この「プロモーション」の訳語に関しては、日本チェス協会(JCA)が日本チェス規約の中で定めている用語に準拠した。 ^ 詳細については「フィリドール」を参照 『Chess Training』 Nigel Povah 著 CADOGAN Chess ISBN 1-85744-170-2 『WEAPONS OF CHESS』 Bruce Pandolfini 著 A Fireside Book ISBN 0-671-65972-3 『Best Lessons of a Chess Coach』 Sunil Weeramantry and Ed Eusebi 共著 David McKay Company ISBN 0-8129-2265-4 『はじめてのチェス』 渡井美代子 著 成美堂出版 ISBN 4-415-02549-8 チェス用語一覧 歩兵 (将棋) - 英語でPawnと訳される将棋の駒だが、動きが異なる。" ]
ABC01-02-0311
子供のころから女性の足の指を折り曲げ、固定することによって大きくならないようにする、中国の古い風習のことを何というでしょう?
纏足
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[ "纏足", "房中術", "髪フェティシズム", "板引", "唐人髷" ]
[ "纏足(てんそく)は、幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習をいう。より具体的には、足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛ることで足の整形(変形)を行うことを指す。纏足の習慣は唐の末期に始まった。清の時代には不健康かつ不衛生でもあることから皇帝がたびたび禁止令を発したが、既に浸透した文化であったために効果はなかった。辛亥革命以降急速に行われなくなった。 中国大陸からの移住者が多く住んでいた台湾でも纏足は行われていたが、日本統治時代初期に台湾総督府が辮髪・アヘンとならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため廃れた。なお、客家人の女性は働くことが奨励されていたため纏足をせず、「大足女」と揶揄されていた。 纏足文化ができた原因は、小さい足の女性の方が美しいと考えられたからである。当時の文化人は纏足を「金のハス」とも呼称し、セクシャリティーの象徴として高められていた。小さく美しく装飾を施された靴を纏足の女性に履かせ、その美しさや歩き方などの仕草を楽しんだようである。纏足の女性はうまく歩けないことから、女性支配の手段にもなっていたと考えられる。[要出典]また、バランスをとるために、内股の筋肉が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると考えられていた。 纏足は男性の性欲を駆り立てるものであり、女性は夫や恋人以外の男性には纏足を決して見せることはなかった。男性は纏足女性の足の指の間にアーモンドをはさんで食べたり、足の指の間にはさんだ器の酒を飲んだりした。 このようなことから、蒙昧な時代には纏足を施していない女性には嫁の貰い手がなかったという。 一説では南斉から纏足が行われたとも言われているが、一般には南唐の李煜が足の細い女性を好んだことから始まったとする説も有力である。その南唐を滅ぼし、一応の全国統一を果たした北宋以降、徐々に普及が始まった。元末明初に記された『輟耕録』(てっこうろく)の巻10に、「如熙寧元豊以前人猶為者少。近年則人人相効、以不為者為恥也」(訳:「熙寧(きねい、北宋神宗の年号、1068年 - 1077年)、元豊(げんぽう、同じく北宋神宗の年号、1078年 - 1085年)以前は少なかったが、近年では人々が互いに(纏足の習慣を)真似しあうようになり、そうでないのを恥とする」)と書かれている。その他の資料や、アラブ人や西洋人の見聞録などから、北宋より流行しだし、元末明初に盛んになったようである。流行しだした頃は、漢民族にとっては異民族の侵入などで民族主義的な儒教が発達した時期でもあった。北宋の后が始めたとの説があるが、華南よりは華北によりその傾向があり、次第に農村部にまで拡大したようである。少数民族や女真族(満州族)にはその傾向がなかったものの、まれに見られた。 女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。 女の子が3歳から4歳になると木綿の布で足を縛り、発達を抑えるようになる。発熱するため、施術は秋に行われるのが多かった。親指を除く4本の指は内側に曲がり夜も寝られないほどの苦痛を伴いながらも、縛りなおすときを除き、ほとんど縛りっぱなしで決して親はそれを緩めようとはせず、足のサイズは10cm前後が金蓮と呼ばれた。第1段階では親指以外の4本の指を内側に曲げ、第2段階で足の甲を前に伸ばさず縦に曲げていく。約2年かけるので、足のやわらかい幼少の頃に変形させるのである。その後も縛り続け、3日に1度消毒することなどが生涯にわたって行われ、その形状はハイヒールによく似た形となった。 纏足の流行の理由には、足の小さいのが女性の魅力、女性美、との考えがあったことは間違いない。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱々しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと、足が小さいがために踏ん張らなければならず、そこに足の魅力を性的に感じさせやすくした、など多くのことが考えられる。しかし、いずれも決定的にこれと言えるほどの理由ではなく、やはり習慣の一つとして続けられていたと言えよう。 纏足で走行不能となったことで、災害時には男性より死亡率が高かった。また、早めに夫をなくし困難の中で子育てに励む母親の苦労は大変なものだったという。 纏足ほど極端なものではないが、ヨーロッパでも、大きな足は労働者階級のものという認識があり、貴族階級では小さな足が好まれた。特に17世紀、ヨーロッパでバレエが流行・定着して以降は、きついバレエシューズによって小さくなった足は、貴族の証となっていく。人によっては、冷水に足を浸けて小さい靴に無理矢理足を入れていた。 岡本隆三『纏足物語』東方書店<東方選書>、1986年6月。ISBN 4497861635 桑原隲蔵『東洋文明史論』平凡社<東洋文庫>、1988年6月。ISBN 4582804853 東田雅博『纏足の発見-ある英国女性と清末の中国』大修館書店<あじあブックス>、2004年11月。ISBN 4469232009 ドロシー・コウ著、小野和子・小野啓子訳『纏足の靴-小さな足の文化史』平凡社、2005年11月。ISBN 4582472303 高洪興 著、鈴木博訳『図説 纏足の歴史』原書房、2009年4月。ISBN 4562042508 ^ a b c 「てん足」に魅了され、靴コレクションは5000足 台湾 AFP 2009年06月05日 身体改造 コルセット 纏足をほどこした女たち 三寸金蓮-纏足", "房中術(ぼうちゅうじゅつ)とは、中国古来の養生術の一種。房事すなわち性生活における技法で、男女和合の道である。 房中術は古代中国から続く養生術の1つである。中国の宇宙観を表す『易経』の繋辞上伝には「易に太極あり。太極から両儀が生じた」とあり、宇宙の根源である太極から両儀(陰陽)が生じたとしている。「易」という漢字は日(陽)と月(陰)を組み合わせた会意文字で、昼と夜の移り変わり、変化を表すとともに陰陽も象徴している。陰陽は陰あっての陽、陽あっての陰、一対であり両儀(連れ合い)で切り離すことができないとされる。繋辞下伝には、「男女(陰陽)の精が一つになって万物が生まれ出る」と書かれており、万物の生成論を説いている。 中国の自然哲学である陰陽思想と五行思想が一体化した陰陽五行思想は、宇宙の森羅万象のあらゆる現象は陰と陽の結びつきによって成り立つと説明する。陰陽が平衡を欠けば消長盛衰し、調和すれば秩序が保たれる。天地万物の一つである人間もまた同じ陰陽の原理に従っている。一箇の人間もその中に陰陽があり、陰陽の調和があれば秩序ある生活ができ、平衡を欠けば病となる。男女においては男を陽に女を陰とする。天地万物の陰陽が調和して万物が生成されるのと同様に、男女の交わりが陰陽の規律にのっとることは、自然の理にかなうと考えられた。 『漢書』「芸文志」方技略に付されている房中の解説に、房中術の要点が記されている。「楽しみに節度があれば、心は穏やかで長生きできる。おぼれて顧みなくなれば病が生じ、いのちが損なわれる」。房中術には様々な性行為の技法が含まれているが、女性が十分に興奮した状態で交わること、男性は快楽に身を任せず精(精液のことではなく気の一種)を漏らさないように交わることが随所で説かれている。 本来の房中術は、性という人間の必須の行為に対して節制を保ち、おぼれることなく適度な楽しみとし、無用に精をもらさないことで身体を保養し、男女の身心の和合を目指すものであった。 1973年、中国湖南省長沙市の郊外、馬王堆三号漢墓から、大半の書名すら現代に伝わっていなかった貴重な文献が発掘された。その中には、房中術と性医学を主題にした書物が六点含まれていた。『十問』、『合陰陽』、『天下至道談』、『胎産書』、『養生方』、『雑療法』である。馬王堆から出土した文物類には、戦国の七雄、楚の特色が見られる。このため馬王堆文献の成立年代は、埋葬当時の前漢初期より古く、戦国時代と推定されているが、更にさかのぼり春秋前期(前700年頃)、あるいはそれ以前かもしれないと言われている。 房中術は後漢末の張道陵の五斗米道(天師道)に取り込まれ、唐代編纂の『隋書』「経籍志」に経典が道経に属するものとされた。以降、道教の不老長生のための養生術の一つにされた。 古代中国の性典のほとんどは中国では散逸したが、日本で編纂された平安時代の医書『医心方』「房内篇」には『素女経』『洞玄子』『玉房秘訣』などの中国の房中書が引かれている。葉徳輝はそれらの房中書の復元を試み、1907年に『双梅景闇叢書』として刊行した。オランダのファン・フーリックは中国古代の房中・性医学の文献をまとめ1951年に『秘戯図考』、1971年に『中国古代房内考』を出版した。海外の研究や馬王堆漢墓からの古代資料の発見などを契機として、中国での学術的研究が始まったのは比較的近年のことである。 『漢書』「芸文志」の「方技略」には房中八家の書、八種類が挙げられている。『容成陰道』、『務成(堯の師)子陰道』、『堯舜(堯・舜は儒家の聖人天子)陰道』、『湯・盤庚(湯は殷の初代天子、盤庚は同十九代天子)陰道』、『天老(黄帝の七輔の一人)雑子(雑多な諸子)陰道』、『天一(天乙に同じ、湯王のこと)陰道』、『黄帝(上古の聖人天子)三王(夏の禹王・殷の湯王・周の文王)養陽方』、『三家(三皇か、三皇は天皇・地皇・人皇ほか諸説あり)内房有子方』。これらの書名には人名を冠しており、そのほとんどが儒家の理想とする聖人である。 道徳的な印象の強い儒家において、房中術が結びつくのは儒家の「孝」の論理からである。『孟子』「離婁上篇」に「不幸に三あり。後(のち)無きを大となす」(親不孝には三つある。そのうち子孫がないというのが最も重大な不孝である)とある。儒家は子孫が絶えることは、祖先に対する祭祀が絶えることであり、父母への孝養が尽くせなくなることを意味する。そうならないためには、子をもうけることが大切であるとされ、房中術は儒家において本来は否定されるものではないとされた。古代から現在に至る中国の人間関係と社会組織の基盤をなす宗族制においても、健全な嫡子を生むことが宗族のなお一層の繁栄につながることも房中術の存在する根拠の一つであった。 宋代になると、儒家に理学(朱子学)という新しい哲学大系が生まれ、宇宙(天)の原理と人間の本性を究明しようとした。ところがこの理学の「存天理、滅人欲」(天の理にしたがい、人の欲をなくす)の思想は、房中術を誨淫の書とみなすようになり、それまで存在した房中書の大半は散佚していった。房中術は単に快楽だけを求める淫猥な性の技巧だと誤解を受けるようになり、一般に知られる房中術は実際にそのように変化していき、世間から影を潜めた。本来の房中術は道教のいくつかの流派に秘術として受け継がれるだけになった。理学のこの思想の社会的影響は現在にまで続き、中国ではみだらな文物に対する厳しい目が存在する。 『漢書』「芸文志」では医術と神仙術の中間に位置するものとして房中術は一家をなしていたが、そのあとを受け継ぐ図書目録である『隋書』「経籍志」では一家を立てておらず、付録されている道教書の解説「道経」に「房中十三部、三十八巻」と記載されており、後漢末の頃から次第に房中術を含む方術は、道教に属するものとみなされるようになっていった。道教における房中術は長生術のひとつである。その目的は精を愛(お)しみ気を蓄えることで延年益寿・不老長寿を目指すことにあった。 後漢から三国・晋にかけて房中術は方術の一つとして流行しており、『後漢書』には方士の伝記が集められている。そこにみられる左慈は『全三國文』(『典論』)8巻論郄儉等事、曹植の『弁道論』においては房中術をよくしたとされている。方士は初期道教が成立すると次第にそこに受け入れられることとなった。後漢末には最初の道教教団である太平道と五斗米道が興り、太平道はすぐに滅びたが五斗米道は方術による教化をはかった。五斗米道では房中術は黄赤の道とも呼ばれ、入信儀礼であると同時に男女陰陽の気の交流と天地の気を交わらせることによる一種の救済儀礼でもあった。東晋の葛洪は『抱朴子』で不老長生の術を著し、外丹の服用に最上の価値を置いた。行気や房中術は外丹には及ばないが治病長生の効果があるとした。房中術については、人は陰陽の交わりを絶ってはならず、陰陽が交わらなくなると気が滞り病気になりやすく長生できなくなると、その効果を説いている。『抱朴子』に引かれている十種類の房中書は散佚してしまったが、その一部が馬王堆文献や日本の『医心方』と六朝期の道士である陶弘景の養生書『養性延命録』に引用されている。唐代の医家・道士の孫思邈が百九歳の時に書いたとされる医薬養生書『千金要方』は薬の処方や養生術を説いており、房中については特に四十歳以上の人には欠かせないものだとしている。その要点は、淫蕩に耽って快楽を追い求めるようなことはせず、節制して養生と体力の強化に努め、交わるには女性を心ゆくまで楽しませ補益することであると書かれている。 道教内では新天師道を創始した北魏の寇謙之は房中術を否定するなど、その扱いは一様ではなく、本来の意図から外れて淫猥に流れやすいことから実際にそのような行動を起こすこともあったらしく、肉体を不浄として性欲に否定的な仏教側からの批判や宋代の儒家の認識の変化などの社会情勢によって、房中術は道教でも表立って行われなくなっていき一部に秘術として残るだけになっていった。 唐代以降、行気や存思などの道教の養生術から、従来の煉丹術である外丹術とは異なる内丹術という修行法が発達したが、これと房中術の還精補脳の技法との関連性を指摘する研究者もいる。房中術は陰丹とも呼ばれた。 後代の内丹法は、清修派と双修派の丹法に大別される。「禁欲的」で一人で行う単修法が「清修派」で、中国の修行者のほとんどはこの丹法である。そして「房中術」を取り入れたのが、男女の二人で修行する「双修派」の丹法である。双修派の丹法は、その接触形態から二つに分かれる。男女が「肉体的」に交接することで気を循環させる「体交法」と、肉体の交接をせず「神(意識)」のみで行う「神交法」である。 「体交法」は、「肉体的」交接により気のやりとりを行い、気の循環を図る。気のやりとりの無いものは通常の性的行為であり、内丹法としての房中術ではないとされる。体交法は、交接により男女の「双方」で気のやりとりを行うが、効果を出すためには双方ともみだりに精を漏らしてはならないとする。他に、男女の片方が一方的に気を奪い取る「玉女採戦」があるが、奪われる側は体をひどく損ねるとされ問題視された。 「神交法」は、隔体神交法とも呼び、肉体での交わりはせずに離れた所から互いに「神(意識)」だけで気のやりとりを行う。要点は、男は衣をゆるめず、女は帯をとかず「男不寛衣、女不解帯」。神明のごとく敬い、父母のごとく愛せ「敬如神明、愛如父母」。つまり、厳粛実直の気持ちで、相手に対し父母に対するがごとく淫念を持たず愛し、相手から離れて静かに向かい合って意識で気を交わらせる、とされ体交法よりも効果が高いという。 歴史的に、金代の王重陽に始まる北宗は、禁欲を説く清修派の丹法である。北宋の張伯端に始まる南宗は、清修派を主流とし双修派神交法の系統もある。明清代の双修派の丹法は陸西星の東派、李西月の西派が代表的であり、神交法である。その他に、男性のみが一方的に女性の気で自らを補う単修法の房中術もある。この玉女採戦の技法は三峯採戦の術とも呼ばれた房中術の方法と結びつけられ、三峯派と称される。三峯派の開祖は張三峯とされるが、太極拳の創始者に仮託された張三丰とは別人だという。 歴史的に道教と関連しながら発展してきた中医学は現代医学とは異なる生命観、医療観を持っている。病気を治療する「治療医学」に加えて、病になる前の段階で治療すべきであるという予防を主体とした「未病を治す」医学思想を主張してその特徴の一つに挙げている。それは養生(生を養う)を行うことで自然と調和した生活を送り、年齢に見合わない老化を防ぎ寿命を全うすることを目的とする。具体的方法は、一つ目は医食同源という言葉のある「食養生」で、食物から得られるものは、精になり気となって体を巡りながら身心を形づくり保養するため、この食事の摂り方を改善するものである。二つ目は「気功」であり、一定の動作を伴った功法などによって気血の流れを改善し身心の好調を保つ方法である。そして三つ目が「性養生」で、中医学では性生活と健康との関係を重視しており、理にかなった性生活は身心を健康に保つが、誤った性生活は精を浪費し、気を消耗して、健康を大きく損ねるとされる。それを防ぐための技法や精の衰えを防ぐ漢方薬などの手段を持っている。 ^ 繋辞上伝「易有太極、是生兩儀」。本田済 『易』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1997年。 ^ 繋辞下伝「男女構精、萬物化生」。本田済 『易』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1997年。 ^ a b c d e f 土屋英明 『道教の房中術』 文藝春秋〈文春新書〉、2003年。 ^ a b c d e 坂出祥伸 『道教とはなにか』 中央公論新社〈中公叢書〉、2005年。 ^ 天師道と房中術 Tianshi-dao and the Sexual Art ^ ファン・フーリック 『古代中国の性生活』 せりか書房、1988年。 ^ 離婁上篇「孟子曰、不孝有三、無後爲大」。小林勝人・訳注 『孟子 (下)』 岩波書店〈岩波文庫〉、1979年。 ^ 大形徹 『不老不死 仙人の誕生と神仙術』 講談社〈講談社現代新書 1108〉、1992年。 ^ a b 野口鐵郎、坂出祥伸、福井文雅、山田利明 『道教事典』 平河出版社、1994年。 ^  曹丕. 全三國文/卷8#.E8.AB.96.E9.83.A4.E5.84.89.E7.AD.89.E4.BA.8B. - ウィキソース.  ^  曹植. 曹子建集/卷十#.E8.BE.AF.E9.81.93.E8.AB.96. - ウィキソース.  ^ a b 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髪フェティシズムは古くから知られる存在であり、ヨーロッパではクラフト=エビングなどの多くの性科学者が研究対象としている。例えば「コレクターは分別が付いてから始めることが多いが、フェティシストは分別が付く前や青年期など、かなり早い時期からその性向を示す」とはフロイトが提唱しているものであるが、髪フェティシズムを研究する性科学者の多くもこれを支持しているという。ほかにも「コレクターが1本1本集めるのに対し、フェティシストは束で集める」などの研究結果があるという。 重度のフェティシストの中には、その抑えがたい性的執着心ゆえに、長い髪の女性を付け狙って切り取るという者も19世紀から20世紀半ばには多く存在したという。そのような者は1日に何度も髪を切る行為を行うことも少なくなく、デパート前の雑踏の中で髪を切り取るという行為を5回に渡って行い、そうして得られた髪を詰めた大きなビニール袋を持っているところを見つかって逮捕されたケースや、マグヌス・ヒルシュフェルトが発表した、女性のポニーテールを1日で24回切ったケースなども存在する。ただし、このような奇行を行う者が出回っていたのは1960年ごろまでの話であり、それ以降はほとんど見られなくなったという。その主要因は、「切る」髪フェティシストの対象であったお下げ髪やポニーテールに変わってショートカットが登場するといったヘアスタイルの流行の変化だと言われている。ヨーロッパ各国の首都では2002年時点で、逮捕される「切る」髪フェティシストは年間2 - 3人程度と見られているという。 「切る」以外の重度の髪フェティシストには、埋葬してすぐの死体を掘り起こして毛を剥ぎ取るケース、頭頂部を剃られた頭だけが見つかったという刑事事件のケースなどがあったことも、ヨーロッパ各国の公式発表に挙げられている。また、バスなどの混雑した場で「キスをする」髪フェティシストなども存在し、性科学者のハヴロック・エリスは、「キスをする」髪フェティシストはアップスタイルを好むという研究結果を発表している。ほかにはテッド・バンディは「真ん中分けを好む」髪フェティシストとして知られている。 「触る」フェティシストの究極系に「床屋」フェティシストの存在がある。クラフト=エビングはドイツの性科学者グラノフの研究を引用しており、そこでは「床屋」フェティシストの抑圧が語られている。 第1次世界大戦に赴く兵士や武勲詩『ファイエルの貴婦人とクシー氏』のクシーなどに見られるように、最愛の人の髪を身につける行為などにも、その性的嗜好が見られるという。 「性的フェティシズムの対象」となり得る身体の器官や部位の順位としては、足とその付属物(靴やストッキングなど)に次いで2位に挙げられ、尻や胸やその付属物(パンティ、ブラジャー、ガーターなど)を大きく引き離しているとする調査結果もある。 松苗あけみの漫画『HUSH!』の冒頭でヒロインが美容院で長い髪を切り落とされているのを目撃した男主人公が「女の子が髪を切る姿はゾクゾクしないか?」と言ったように女性の断髪シーンは性的興奮を伴うものである。 相手の同意を得ない形での断髪フェチの歴史は古く、19世紀から20世紀半ばにかけて、ヨーロッパで横行していたことは前述の通りである。異端の断髪フェチとして、1954年にアメリカの雑誌『セクソロジー』で紹介された、女性に女性自身で断髪してもらうという断髪フェチも存在するという。 断髪系のフェチになると多くの断髪シーンを見ることを望むようになる。しかし、漫画やドラマ、アニメにせよ断髪シーンが出てくる作品は少ないので、断髪シーンだけを取り上げた映像作品が多く作られるようになる。生産しているのはおもに欧米や東南アジアなどで、おもにインターネットの業者やサークルのサイトで購入するか、あるいはダウンロードするという形になる。いずれも腰を超える長髪からツルツルに剃り上げたスキンヘッドにまでエスカレートする傾向にある。日本でも断髪ビデオをインターネット販売しているところがあるが、外国物よりもコストが高い。また、最近ではYoutubeなどで断髪動画を集めるといった楽しみもある。 断髪や剃髪の場面が出てくる「断髪小説」を執筆し、発表しているサイトも見られる。 ^ 大塚 (2005) p.375 ^ 大塚 (2005) p.382 ^ 大塚 (2005) p.380 ^ 大塚 (2005) p.376 ^ 大塚 (2005) p.383 Monestier, Martin 『図説毛全書』 大塚宏子、原書房、2005年3月9日。ISBN 4-562-03868-3。 - 「22. 毛のフェティシズム」 TBSラジオ 『夜な夜なニュースいぢり X-Radio バツラジ』 アスキー・メディアワークス、2008年9月12日。ISBN 978-4-04-867363-1。 - 「髪を切るだけのフェチビデオが売れてるってホント?」 北原童夢 『フェティシズムの修辞学』 青弓社、1989年7月。ISBN 9784787210067。 - 「1-1. 乱れ髪のコスモロジー」 性的倒錯 フェティシズム", "板引(いたびき)とは、平安時代に日本で考案された布地の加工法。 砧打ちの手間を省くために、蝋などの植物性の混合物で生地をコートして艶と張りを持たせる。大正御大礼の後一旦技法が断絶するが、現代一部の装束業者の努力によって復活し細々と皇室の調度品などに行われている。 漆塗りの一丈近い板に、糊が張り付くのを予防するのと生地に滑らかさを与える目的で胡桃油を塗る。 ついで滑らかさと耐久性を与える木蝋を塗る。 姫糊(原料はコメ)で張りを持たせた生地を板に貼り付けて完成。 加工に使う材料は、全て天然由来の植物加工品である。 打衣 袿", "唐人髷(とうじんまげ)とは明治ごろ流行した少女の髷。 幕末ごろ、吉原の遊女が結ったものが一般に結われるようになったもの。 同じく銀杏返しの派生として登場した桃割れと結い方がよく似るが、丸く形作った髷の上部のみくっついている桃割れとは違い髷の上下が開いているのと、やや根が高い髷の中央部に髪を襷がけにするのが特徴。 桃割れ同様に二つに分けた髪を∞型に輪にして髷を作り、髷の中に手絡を掛ける。 桃割れを結う少女よりもやや年上の裕福な家庭の少女がよく結った。 谷崎潤一郎の「少年」という作品内で、主人公の友人の姉で大金持ちの娘の光子が唐人髷を結ったシーンが出ている。" ]
ABC01-02-0314
2004年に発行される予定の新千円札に肖像画が描かれる細菌学者は誰でしょう?
野口英世
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[ "野口英世", "勝沼精蔵", "山極勝三郎", "秦佐八郎", "矢崎芳夫" ]
[ "野口 英世(のぐち ひでよ、1876年(明治9年)11月9日 - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の医師、細菌学者。福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。 高等小学校を卒業して上京し、ほぼ独学のみで医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手の職に就き、研究者としての名声を得てからロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。 栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。キリスト者。 妻はメリー・ロレッタ・ダージス。 1876年(明治9年) 11月9日 - 福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)に父・野口佐代助と母・シカの長男として生まれ、清作(せいさく)と名付けられる(後述の理由により22歳で英世と改名した)。 1878年(明治11年)4月 清作は1歳の時に囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負う。 1883年(明治16年) 三ッ和小学校に入学。左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される。小学校の頃は、左手に大火傷をしていたので、「てんぼう」と言われていじめられていた。 1889年(明治22年)4月 猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する。 1892年(明治25年)10月 左手の障害を嘆く清作の作文が小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、清作の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。清作はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなった。 1893年(明治26年) 3月 - 清作は猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。細菌学を知ったのもこの頃であったという。この間に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(東京歯科大学の前身)の講師・6歳年長の血脇守之助と知り合う。 1896年(明治29年) 9月 - 清作は小林らから40円もの大金を借りて上京し、医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格するも、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。その後、掃除や雑用をしながら学僕となる。同年、ドイツ語の学習を目的としてエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を得たいと考え、血脇に相談するが、月給4円の血脇には捻出できないため、血脇に策を与え院長に昇給を交渉させる。その結果、血脇の給与は月額7円となり、ここから学費を得ることができた。後期試験(臨床試験)は実際の患者を相手に診断をするもので、独学では合格不可能であったため、医術開業試験予備校の済生学舎(日本医科大学の前身)へ通う資金を得るために、再び血脇に秘策を与えて院長と交渉させる。その結果、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、彼自身は血脇から月額15円もの援助を受けることに成功し、済世学舎に通うことが可能となった。済生学舎の近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿する。 1897年(明治30年) 臨床試験で必須の打診ができないことから、血脇の計らいで帝国大学外科学教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受ける。その結果、打診が可能になり、10月、後期試験にも合格。21歳で医師免許を取得した。医師免許は取得したものの、開業資金がなく、また左手を患者に見られたくないという理由から臨床医の道を断念し、基礎医学研究者の道を歩むことを決心する。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。 1898年(明治31年) 10月 - 順天堂(現在の順天堂大学医学部)の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み込み、順天堂医院長・佐藤進の紹介という形で、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める。研究に携わることはなかったが、語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当した。同年8月、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ており、また彼自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があったことから強い衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し改名を決意する。郷里の小林に相談した結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられた。本来、戸籍名の変更は法的に困難であるが、英世は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段により、戸籍名を改名することに成功した。 1899年(明治32年) 4月 - 伝染病研究所渉外係の業務の一環として、アメリカから志賀潔の赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診。 5月 - 伝染病研究所の蔵書が、英世経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚した。英世はこの事件を理由に研究所内勤務から外されたが、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補となる。 9月 - 横浜港に入港した“亜米利加丸”の船内でペスト患者を発見・診断した。 10月 - 検疫官補の仕事ぶりが認められ、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省から要請のあった、国際防疫班に選ばれる。しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航。清国では牛荘を中心に一般的な病気の治療にあたった。半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受けて残留。国際的な業務を体験し、翌年5月にフレクスナー宛にアメリカ留学を希望する手紙を出す(ロックフェラー大学・noguchi-paper)。この時期は大変な高給に恵まれたが、放蕩で使い果たしてしまったため、渡航のための資金を得ることはできなかった。 1900年(明治33年) 6月 - 義和団の乱により清国の社会情勢が悪化。 7月 - 日本へ帰国。開通したばかりの岩越鉄道線(現・磐越西線)で福島県に帰郷。小林に留学資金の融通を要請するも、「いつまでも他人の金に頼るな」と諭され拒否される。再び神田・東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻る。 12月5日 - 箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄の姪で医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航。北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとでペンシルベニア大学医学部での助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられ、研究の成果を論文にまとめる。この蛇毒の研究は、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル[要曖昧さ回避]博士からも絶賛され、英世はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなる。 1901年(明治34年) ロックフェラー医学研究所が設立される。この研究所の設立にあたっては、フレクスナーが組織構成を任されていた。 キューバの眼科医カルロス・フィンレーとアメリカの軍医、ウォルター・リード大佐が人体実験により黄熱が蚊により伝染することを突き止める。また黄熱患者の血清を細菌濾過器に通過させることにより、黄熱病病原体が血液中にあり、それが濾過性のウイルスであることを証明する(英世は後年の南米での黄熱研究でこの証明を受け入れていない)。 1903年(明治36年) 10月 - フレクスナーの指示によりデンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学。血清学の研究を続け、物理学者アーレニウス・マドセンとの連名でいくつかの論文を執筆する。 1904年(明治37年) 10月 - アメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍。 1905年(明治38年) 血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済し、斉藤ます子との婚約を破棄。 1911年(明治44年) 8月 - 「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られることとなる(ただし継代培養された野口株は病原性を失い、また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は現在でも追試に成功した者がいない。試験管内での病原性梅毒スピロヘータの培養はニコルズI株について1981年以降に成功が複数報告されているが、その培養条件は英世の報告とは異なり、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている)。京都帝国大学病理学教室に論文を提出し、医学博士の学位を授与される。 4月10日 - 34歳で、同じ年のアメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚する。妻との間に子供はなく、養子縁組の時期など、詳細は不明だが甥(姉・イヌの長男)を養子にしたとされ、夫人は福島の義姉に仕送りを欠かさなかったと言う。妻は戦後間もない1947年に71歳で亡くなり、姉のイヌも明治、大正、昭和の激動の時代を生き、1963年、90歳の天寿を全うした。 1913年(大正2年) 梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したものであった。小児麻痺の病原体特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表(ただし、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)。 1914年(大正3年) 4月 ‐ 東京大学より理学博士の学位を授与される。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。この年のノーベル医学賞候補となった。 1915年(大正4年) 9月5日 - 英世は年老いた母との再会を果たすため、15年振りに日本に帰国する。帝国学士院より恩賜賞を授けられる。また、この際にワイル病スピロヘータを発見した稲田龍吉・井戸泰の研究および伊東徹太のワイル病スピロヘータの純粋培養に関する研究を視察している。この帰国の時、恩師の小林栄と血脇守之助、古くからの親友の八子弥壽平には懐中時計を贈っている。10月には、母、小林先生と共に、講演旅行をし、三重、大阪、京都などを見物する。11月4日に日本を離れる。以後、英世は日本に帰国していない。2度目のノーベル医学賞候補となった。 1918年(大正7年) 6月 - 英世はロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。その頃に開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。英世に黄熱の臨床経験はなかったが、患者の症状がワイル病に酷似していたことから試験的にワイル病病原体培養法を適用し、9日後(日数については諸説あり)には病原体を特定することに成功し、これをレプトスピラ・イクテロイデスと命名。この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる(ただし、1901年のウォルター・リードの研究結果との乖離から、当時より野口説に対する反論があり、特にワイル病との混同が指摘されていた。後年アフリカの研究で英世は黄熱病原がリードの主張同様濾過性であることを認めている)。この成果により、英世はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がった。このとき、英世の母のシカがスペインかぜにより11月10日に65歳で死去している。 1919年(大正8年) 12月 - 黄熱病の研究と撲滅のための医師団としてロックフェラー医学研究所からメキシコへ派遣。 1920年(大正9年) 4月 - ペルー訪問。国立サン・マルコス大学医学部より名誉博士号授与。リマ市滞在4日間にオロヤ熱およびペルー疣という2つの風土病の情報を入手。 1923年(大正12年) 7月 - 英世の父・佐代助が72歳で死去した。 11月 - 日本の帝国学士院会員となる。 ジャマイカ・キングストン「熱帯病会議」で鞭毛虫研究、黄熱病研究の発表を行う。ここでキューバの研究医アグラモンテから黄熱病病原体とされているイクテロイデスはワイル病病原体と菌株が違うのみではないかと指摘を受ける。会議後アグラモンテを招き、自らの研究結果を見せて説得を試みる。 1924年(大正13年) 7月 - アフリカ・セネガルにて黄熱病が発生。イギリス、フランスの研究施設より野口ワクチンが効果を見せずイクテロイデスが発見されない旨の報告を受ける。ロックフェラー国際衛生局がナイジェリアのラゴスに黄熱病対策組織として医学研究所本部を設置し、英世の部下であるイギリス出身の医学者エイドリアン・ストークス博士を派遣するも同様の研究結果となる。 1926年(大正15年) ペルー疣とオロヤ熱が同一病原であることは1885年にペルーの医学生、ダニエル・アルシデス・カリオンが証明していたが、アメリカの学会の一部で否定されていた。これを病原であるバルトネージャ菌分離と猿による実験で証明し、論争に終止符を打つ。 南アフリカ出身の医学者マックス・タイラーらが、黄熱ウイルスの単離に成功。黄熱病についての野口説(イクテロイデスが病原であること)を反証する。 1927年(昭和2年) トラコーマ病原体を発表する(ただし、後年クラミジアが発見され否定される)。 ロックフェラー医学研究所ラゴス本部で黄熱病研究を継続していたストークス博士が黄熱病で9月に死亡。 10月23日 - アフリカへ黄熱病研究のため出張。 11月16日 - 英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラに到着、野口説に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を望まない英世に対し、イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士が(ロックフェラーの組織外の)研究施設を貸与し研究を開始。現地で黄熱病が収束し、ラゴス本部からは病原体を含む血液を提供されず、病原体が入手できないため研究が進められない状況が続く。 12月26日 - ウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの報告を受け、血液を採取に行く。 1928年(昭和3年) 1月2日 - 英世自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し、入院(ただし、別の医師にはアメーバ赤痢と診断されており、この時の症状は黄熱病ではなかったと考えられる)。 1月7日 - 回復し退院、研究を再開する。 3月末、フレクスナー宛にイクテロイデスとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できた旨の電報を出す。秘書への手紙に濾過性微生物(ウイルス)が病原であると言及しそれまでの自説を否定。 4月 - フレクスナー宛にアメリカで研究を継続したいため、5月19日にアクラを発つと打電。 5月11日 - ラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、体調が悪化する。 5月13日 - 黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。見舞いに来たヤング博士に「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、英世は(終生免疫が続くはずの黄熱病に再度罹患したのを不可思議に思いながら)「どうも私には分からない」と発言。この言葉が最後の言葉とされている。 5月16日 - 回復し、空腹を訴える程食欲も戻る。その旨はフレクスナーにも打電される。 5月18日 - 病状が再度悪化。 5月21日 - 昼頃、病室で死去。51歳だった。英世の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、英世の死因が黄熱病であることが確認された(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)。 6月15日 - アメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。 1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士 1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授 1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士 1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士 1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士 1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク) 1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン) 1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章 1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア) 1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス) 1925年(大正15年)12月15日 - 正五位 同年 - コーベル賞牌 1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス) 英世は貧しい農家に生まれ、1歳で左手に大火傷を負ったハンディキャップを克服してほぼ独学のみで医師となり、さらには細菌学者として世界的な名声を得た。21世紀の現在に至るまで、日本では子供向けの偉人伝が多数刊行され続けており、医学研究者としては非常に知名度が高い。2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっている。 趣味は浪花節、将棋、囲碁、油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンには英世自身が設計した別荘があり、油絵の多くはここで描かれた(画家でもある堀市郎に師事)。 アメリカ合衆国・ニューヨークにあるロックフェラー大学の図書館入り口には、ロックフェラーとロシア人彫刻家カニョンコフが制作した英世の胸像がある。この胸像はロックフェラー財団からの贈呈により、福島県の猪苗代町にある野口英世記念館と東京都にある野口英世記念会館にも設置されている。また長野県佐久市にある川村吾蔵記念館には彫塑家川村吾蔵が制作した英世の胸像がある。さらに東京、上野恩賜公園の国立科学博物館前にも英世の銅像がある。 英世は細菌学の研究者として著名であるが、研究スタイルは膨大な実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえる。想定される実験パターンを全て完璧に実行し、なおかつその作業は驚異的なスピードと正確さをもって行われた。この特異な研究姿勢から、当時のアメリカ医学界では英世を指して「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄する声もあったという。この評価は英世本人も少なからず気にしていたようで、英世は晩年になってから同僚に「自分のような古いスタイルの研究者は、不要になる時代がもうすぐ来るだろう」と語っていたと伝えられている。1919年春、訪米した知人の医師・畑嘉聞に「十分とはいえない段階の論文であっても研究所に急かされ、結果、発表したものが賞賛されて責任が圧し掛かり内心、忸怩たる気持ちになるが、その賞賛の声を発奮材料に研究に打ち込む」といった旨を明かしている。現在でも評価が高い研究は、顕微鏡観察による病理学・血清学的研究である。 英世の最初の業績は、蛇毒によって引き起こされた溶血性変化に関するもので、血管の内皮にもたらされた傷害により出血と浮腫が引き起こされる機構についての最初の詳細な病理学的記述である。これは、その後のガラガラヘビ蛇毒の血清をヤギで作製することの基礎研究につながった。 細菌学の分野では、梅毒スピロヘータを運動失調症、関節障害に至る末期神経梅毒患者(脊髄癆)の脳標本で発見したことが著名である(抗生剤の大量投与が必要であり、多発性硬化症、脊髄変性症との鑑別が重要である)。当時の顕微鏡で数万枚にもおよぶ病理組織標本の観察により確認に至ったもので、神経性疾患と感染症との関連を明らかにした最初期の業績として評価が特に高い。1920年代、精神科病棟での入院患者の半数が第3期以降の梅毒患者であり、その原因を明らかにしたことが評価される。 また、サシチョウバエにより媒介されるペルー疣(四肢に数センチに達する疣ができる)と溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱が同じカリオン氏病(バルトネラ症)であることを証明した。これについては1885年ペルーの医学生ダニエル・カリオン(英語版)が、それまでペルーの医師の間で唱えられてきた説を自らの身体を実験体として示したものであり、ペルー国内では認められたものの、アメリカのハーバード大学により否定されていた。英世の業績はカリオンの報告を科学的に証明したもので、その成否についてハーバード大学と大変な議論を経た後に英世の成果が正しいとされた。このため南アメリカでの英世の評価は高く、同地域の後進の医学研究者への影響は大きい。 他には、血清学的ヘルペドモナド HERPETOMONADS とリーシュマニア LEISHMANIAS の分類(1926年サイエンス誌)などがある。 一方で、のちに否定された研究業績として挙げられるのが病原性梅毒スピロヘータの純粋培養と黄熱病の研究である。急性灰白髄炎(小児麻痺)病原体、狂犬病病原体、黄熱病病原体等の発見特定の業績に関しても、のちにウイルスが病原体であることが判明していることから否定されており、現代において微生物学の分野で評価できるものは全体の仕事のうちの一部に留まることになる。これは、英世の研究時期において、濾過性病原体としてのウイルスの存在はすでに示唆されており、光学顕微鏡下で観察可能なスピロヘータの研究方法にこだわったこと、培養方法などに技術的限界があったことが考えられる。また、発表された200本あまりの論文の大部分を掲載したJournal of Experimental Medicineは、ロックフェラー医学研究所外の研究者による査読を免れており、フレクスナーの推薦があれば掲載されるなど、査読システムの不備も指摘されている。 前記の通り、英世はノーベル賞に何度も推薦を受けているが、英世自身は1926年のノーベル医学・生理学賞に、バクテリオファージ研究者であるフェリックス・デレーユを推薦している。 英世の父の佐代助は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いが、佐代助本人は特に悪人というわけでもなく、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言われる。後年、英世が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの英世の要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも佐代助から受け継いだ才能であったと言われている。 ただし英世は、酒好き放蕩好きな浪費家という佐代助の欠点をも受け継いでいるが、伝記では伏せられることが多い。 英世の母のシカは農作業のかたわらで副業として産婆を営むようになる。1899年、産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、シカは文字の読み書きができなかったが、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯に2000件近くの出産に貢献した。英世は渡米後、母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。これは母親が大変字が下手な事を考慮して送ったものである。前記の通り、英世の母のシカはもともと文字の読み書きができず、正式な産婆の免許を取得するために苦労して一から読み書きを学んだ事情がある。1912年にシカが英世に宛てて書いた手紙が1通現存しており、当て字の漢字(「勉強」を「べん京」)が混じったり、会津弁の表現・発音がそのまま出たりした(共通語なら「に」と書く助詞を「さ」、「え」となる箇所を「い(イ)」と書いたり、「写真」を「さしん」と書くなど)文章に、筆記の苦労がうかがわれる内容となっている。一度の帰国は母親からの手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。 少年期の英世は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。高野川のほとりでの以下ような口論があった旨、姉の野口イヌの後年の回想にある。イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」清作「俺は継ぎたくない。姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。清作「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」(野口英世記念会「野口英世-少年期」) 英世は会津若松の書生時代に洗礼を受けた日本基督教団若松栄町教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送る。しかし女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。その後、東京の済生学舎で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。1899年(明治32年)清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には英世と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで、下宿の主婦に依頼して以降の面会を拒否した。その後、山内は1902年(明治35年)に20歳で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚。会津若松で三省堂医院を開業する。英世は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚したことを知り、「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」との一文を菊地に送っている。英世が日本に帰郷した際の記念写真には山内の姿がある。 渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の英世の悩みの種となった。血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。血脇は破談を薦めるが、英世は自ら破談にすることはなく、先方から破談されるよう策していた。現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃すことを恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、英世からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。 英世は貧乏育ちのためか金銭感覚が疎く、金遣いが荒かったことが知られる。留学前に血脇守之助からもらった当時500円という大金を遊興で使い切ってしまった時には、血脇もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったといわれる。それでも血脇は英世の才能を信じて金貸しへ行き、英世のために再び留学資金を準備した。このことに英世は涙を流したと言われている。1922年(大正11年)、血脇がアメリカを訪れたとき、英世は大喜びして何日間も朝から夜まで付きっきりで案内してまわった。血脇が講演するときには通訳を買って出て、「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまで会わせた。別れ際、血脇は「君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。これでお相子だな」と言ったが、英世は「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいか知れません」と言葉を返した。 フレクスナーに渡した履歴書には1893年(明治26年)5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨が記載されている。実際には1893年(明治26年)には会津若松で書生をしており、その後も医術開業試験予備校である済生学舎にも、僅か数か月しか通っていない。またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人程度しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった(もっとも済生学舎は当時、「東京専門学校済生学舎」と称しており、医師免許取得とともに卒業を認定したので、東京専門学校済生学舎の卒業生であること自体は事実である。ただし半年で卒業しているので3年も在籍はしていない。またMDは医師免許と同義語であり、医学博士Ph.D.とは異なる。現在でも日本の医師は、医学士BMBSであっても米国ではMDと称している)。1927年(昭和2年)に友人の堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために英世が大学を卒業していないことを語ったところ憤慨し、電報で取り消しを求めた。 英世がロックフェラー研究所に勤めていた頃、日本からの留学生と一緒に住んでいた時期がある。1年ほどの月日が経ったある日の夜、英世は留学生に「君もここへ来てから色々と勉強したことだろう。そろそろ論文を発表したらどうだい」と勧めたが、「英語が拙いため書けない」と拒まれてしまう。すると、「それならば、君が日本語で話したことを、僕が英文に直してあげよう」と言って、共同で執筆することにした。完成後、英世は「すぐにポストへ出して来なさい」と申告したが、留学生は「流石にもう遅いから明日にしましょう」と言い返した。これに対して英世は、「それでは駄目だ。今すぐ入れてきなさい。君と同じ研究を誰かがやっているかもしれないんだ。もし1日でも発表が遅れたら、君の発表じゃなくなってしまう。全てが無駄になるんだ」と強く言い聞かせた。留学生は強く感銘を受け、暗い夜道を走って論文を提出し、無事に帰国したという。 ニューヨークでの将棋の相手は絵の師でもある写真家の堀市郎であり、囲碁の相手は彫塑家の川村吾蔵があたった。「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。 1904年(明治37年)、英世が24歳の時に作家の星新一の父である事業家星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。のちにお互いが千円紙幣の肖像に採用されることになる。 台湾医学界の重鎮であった杜聡明が京都大学の学生時代、ニューヨーク、ロックフェラー研究所にいる英世を訪ねた。研究所の食堂で英世と杜が日本語で歓談していると、食堂内に米国人が入ってきた。その途端、英世はさっと会話を日本語から英語に切り替えたという。杜聡明は、「これが真の国際マナーであり、国際人というものか」と感嘆した、と自らの書で野口英世について語っている(「中国名医列伝」・中公新書)。 志を得ざれば再び此の地を踏まず(青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉) 人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。 努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。 絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。 人は能力だけではこの世に立つことはできない。能力と共に徳義を持つことが必要である。 模倣から出発して独創にまで伸びてゆくのが、日本人の優れた性質である。それは逞しい能力でもある。 ナポレオンは三時間しか寝なかった(口語) 偉ぐなるのが敵討(ガタキウ)ちだ(口語) 教えに来たのではありません。習いに来たのです。(ブラジルを訪れた時) 自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。 私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきた。 学問は一種のギャンブルである。 障害者であることは、学問においては問題にならない。 名誉のためなら危ない橋でも渡る。 過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ。 忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。(原典フランス語) 英雄却相親(星一との写真に添え書き) 人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである。 まて己 咲かで散りなば 何が梅(順天堂医院の助手の頃に詠んだもの) 正直であることが最高の手段だ。 「偉人伝」としては、戦前からよく取上げられる人物であった。 野口英世記念医学賞 - 財団法人野口英世記念会が優れた医学研究に贈る賞(1957年創設) 2004年11月1日に発行された千円紙幣(日本銀行券E券)の肖像画になっている。 2004年9月13日、野口英世の出身地に因んで、福島県耶麻郡猪苗代町の翁島郵便局が野口英世の里郵便局と改称された。 野口英世アフリカ賞 - 日本で開催されるアフリカ開発会議で表彰される賞。医学者が主な受賞対象となる。 野口家 清太郎━━岩吉==善之助(渡部氏)==佐代助(小檜山氏)━━清作(英世) 戸田純子(埼玉県立皆野高等学校教諭。戦国時代の連歌師である猪苗代兼載を研究している)によると、父である佐代助の実家「小檜山氏」は、猪苗代兼載にゆかりがある家柄。 サイモン・フレキス子ル、野口英世、蛇毒ノ血球溶解作用抗細菌溶解作用及毒性ニ就キテ 細菌學雜誌 1902年 1902巻 76号 p.193-222, doi:10.14828/jsb1895.1902.193 サイモン・フレキス子ル、野口英世、【原著】蛇毒ノ血球溶解作用抗細菌溶解作用及毒性ニ就キテ 順天堂医学 1902年 M35巻 352号 p.259-290, doi:10.14789/pjmj.M35.259 野口英世、黄熱病病原ニ關スル研究 実験医学雑誌 1919年 3巻 1号 p.59-60, doi:10.3412/jsb1917.3.1_59 野口英世 - 大日本雄弁会講談社の絵本。 遠き落日(渡辺淳一) - 小説。後に映画化。 ノグチの母 野口英世物語(新藤兼人) - 小説。 人間野口英世(池田貞武) - 小説。 帰国(渡辺祐一) - 小説。 野口英世最後のたたかい(中山達郎) - ノンフィクション。 Dr.NOGUCHI(むつ利之) - 漫画(全17巻)。 野口英世(馬場正男・浜野卓也) - ポプラ社の伝記。 野口英世の少年時代 - 映画 この他、児童向けの伝記や学習漫画などにも取り上げられている。 ^ 野口家は代々貧農の家系であった。清作の母のシカは勤勉で真面目な性格であり、その性格が清作にも受け継がれたと言われる。一方、母の奉公先の二瓶家の紹介で婿入りした父の佐代助は、酒好きの怠け者で野口家の貧困に拍車をかけていたと言われ、清作の放蕩で多額の借金を重ねる悪癖は父親譲りであったとも言われている。しかし、父・佐代助は寺子屋に通って読み書きを習得しており、25年間にわたって逓送人(郵便配達人)を務めていた。また妻のシカは「おとっつあは天神様を背負ってきたんだべ」と言っており、清作の師・小林栄は著書の『博士の父』の中で「多くの人は父(佐代助)が酒飲みで家人に難儀をさせたことを悪く言うが、それではあまりにも気の毒だと思う。父上は決して悪い人ではない。まことにさっぱりとした良い人で無邪気な人である。手先の器用な人で、農業などしても巧者な人であった。」と評している(http://www.minyu-net.com/serial/isei/isei34.html 野口英世の父・佐代助])。 ^ この当時、医者といえば内科的漢方医が主流で、また農村においては医療と法術祈祷の境界も明確ならざる認識であり、祈祷師による医学的根拠のない民間治療に頼る以外に方法はなく、その結果、清作の左手の指は癒着してしまった。また、明治政府は新しく医師免許法を敷き西洋医を都市部へ導入しようとしていた段階で、三ッ和村には外科手術が可能な西洋医はおらず、仮にいたとしても野口家の経済状態では治療費を払うこともできなかったと思われる。また、たとえ治療費を払えるだけの経済力が野口家にあったとしても、当時の医療技術では、清作の左手を元通りにできるような治療が可能であったとは考えにくい。 ^ 当時、義務教育制度はなかったが、小学校の学費は無料で、しかも小学校は野口家の向かい、母のシカが奉公していた二瓶家の敷地内にあり、当主の二瓶橘吾は公式に学務委員を務めていた。当時、多くの学童が一里〜二里の道程を歩いて学校に通っていた状況に鑑みると、清作が勉学を行うには恵まれた環境であったと言える。 ^ 当時、半数以上の学童が様々な事情で退学していく中、家の手伝いなどで勉強が疎かになり落第したこともあったものの、上級生の時の成績は優秀で小学校卒業時の成績は首席であった。 ^ 当時、高等小学校に通うことができたのは一部の裕福な家庭の子息だけであったが、小林は清作のために自ら学費を援助しており、当時の清作に対する小林の期待の大きさがうかがえる。また、清作自身も母や小林らの期待によく応え、高等小学校でも体操以外の成績はすべて首席であった。清作は左手が不自由なために、体操だけは苦手であったと言われている。また、現存する清作の4年間の成績表の体操の項目には点数が入っておらず、体操は学業評価の対象ではなかったと考えられる。なお、清作は右手で箸を持ちながら左手で弁当箱を持つことができなかったため、清作が学校に持って行く弁当は箸を使わずに右手だけで食べられるよう、いつも握り飯だったと言われている。 ^ 清作に15円を全額渡すと即座に放蕩してしまい、学費が払えなくなることが分かったため、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すようになったという逸話がある。 ^ 伝染病研究所では学閥により冷遇されており、後に清作が研究所を辞めてアメリカへ渡る原因になったと言われるが、所長の北里柴三郎はその後も清作に対して便宜を図っており、また清作もアメリカから北里に宛てて多くの論文を送っていることから、清作と北里の関係は険悪であったとは考えにくく、この説に疑問を唱える意見もある。もともと、伝染病研究所は北里と帝国大学医学部との対立を発端として設立されており、研究所内における学閥的な風潮はそれほど強くはなかったと思われる。ただし、当時の研究員が平均28歳前後で大学を卒業し入所していた事情を考慮すると、22歳で紹介入所した清作が若輩扱いされていたのは年功序列的に致し方のない面もある。また、清作は当時、研究所勤務と同時に順天堂の雑誌編集と高山高等歯科医学院の講師も継続兼務しており、研究のための十分な時間を確保できず、研究所に在籍した8ヶ月の間に清作は一切研究に関わることはできなかったため、研究所内においては医学者としての実績・評価はない。 ^ 「当世書生気質」が発刊されたのは1885年(明治18年)であり、当時まだ9歳であった英世の年齢を考慮しても主人公の名前と野口清作との間に直接の関係はない。しかし、逍遙は後に「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったと知り、光栄に思う」との旨を語っている。 ^ 斉藤ます子との結婚を前提とした婚約持参金の他に、小林夫人が内職で作った金、旧友から借りた金など計500円もの大金を渡航費として準備したが、横浜の遊郭でほとんどが使い果たされてしまった。結局、出航直前に血脇が高利貸しから借りた300円の金が渡航費となった。 ^ ミッチェル博士はもともと彼の父親から受け継いだ蛇毒の研究に生涯をかけて取り組んでいたが、ミッチェル博士は英世の作成した論文を読んで、「私と父が親子二代にわたって取り組んできた長年の研究が、一人の日本人青年の協力によってようやく完成を迎えた」と賞賛し、研究の成果はミッチェル・フレクスナー・英世の連名で正式に学会で発表された。 ^ a b c 同時期に同じ研究室で仕事をしていたハンス・ジンサー(Hans Zinsser)は、英世の方法により繰り返し純粋培養された野口株が病原性を失い、非病原性の梅毒スピロヘータの混入により変成した可能性があると報告した。((a) Zinsser, H.; Hopkins, J. G.; Gilbert R. \"NOTES ON THE CULTIVATION OF TREPONEMA PALLIDUM\" J. Exp. Med. 1915, 21(3), 213-221. (b) Zinsser, H.; Hopkins, J. G. \"ANTIBODY FORMING AGAINST TREPONEMA PALLIDUM-AGGLUTINATION\" J. Exp. Med. 1915, 21(6), 576-582.)。一方、英世の報告に遅れて単離されたニコルズI株は、純粋培養には失敗したものの病原性を有し(Nichols, H. J.; Hough, W. H. \"Demonstration of Sprochaeta pallida in the cerebrospinal fluid from a patient with nervous relapse following the use of salvarsan\" J. Am. Med. Assoc. 1913, 60, 108-110.)、生きた動物の睾丸を介して継代培養されて来た。試験管内でのニコルズI株の培養は、1981年にハワード・フィールドスティールらによって成功が報告され、別のグループによって独立に追試されたが、死んだウサギの睾丸の組織を培地としており、現在でも完全な純粋培養の報告例はない((a) Fieldsteel, A. H.; Cox, D. L.; Moeckli, R. A. \"Cultivation of Virulent Treponema pallidum in Tissue Culture\" Infect. Immun. 1981, 32(2), 908-915.(b) Norris, S. J. \"In Vitro Cultivation of Treponema pallidum: Independent Confirmation\" Infect. Immun. 1982, 36(1), 437-439. )。今日野口株として保存されている標本の遺伝子の型は、病原性のTreponema pallidumではなく、非病原性のTreponema refrigensという別種のものであり、両者ともに1905年にドイツのフリッツ・シャウディン(Fritz Schaudinn)とエーリヒ・ホフマン(Erich Hoffmann)らのグループによって梅毒患者から単離と新種記載を報告された梅毒スピロヘータである。非病原性の梅毒スピロヘータであるTreponema refrigensと、英世本人が1912年に新種記載と純粋培養を報告した別の非病原性の梅毒スピロヘータであるTreponema phagedenis (Noguchi, T. \"PURE CULTIVATION OF SPIROCHÆTA PHAGEDENIS (NEW SPECIES), A SPIRAL ORGANISM FOUND IN PHAGEDENIC LESIONS ON HUMAN EXTERNAL GENITALIA\" J. Exp. Med. 1912, 16(3), 216-268.)とは、英世の純粋培養の報告と前後して他に5例の純粋培養が報告されており、英世が最初ではない。また一般に非病原性梅毒スピロヘータを含むトレポネマ属は嫌気性細菌であり、英世も病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には酸素の完全な除去が必須であると強調し、独自の酸素除去の実験項を含めて論文に報告したが、後に病原性梅毒スピロヘータであるTreponema pallidumがトレポネマ属としては例外的に酸素を必要とする微好気性細菌であることが判明し、フィールドスティールらのニコルズI株の試験管培養も1.5%の酸素濃度下で成功しており、病原性梅毒スピロヘータの培養には酸素濃度のコントロールが重要であった。英世が報告した方法では病原性梅毒スピロヘータの増殖が困難であることから、現在では英世は病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には成功していなかったと考えられている。 ^ 1930年に黄熱ワクチンを完成させ、1951年にその功績でノーベル医学賞を受賞する。 ^ 英世の業績の中では黄熱病の研究が一般的には有名だが、現在、南アメリカの「黄熱病」で英世が発見したと報告した病原菌「レプトスピラ・イクテロイデス」は、黄熱病と類似した黄疸、発熱をきたすワイル病(黄疸出血性レプトスピラ症)の病原体と同一であることが黄熱病ウイルスの発見およびワクチンの開発によりノーベル賞を受賞したマックス・タイラー博士により示された。また死去直前の秘書宛書簡にて英世は黄熱病原が濾過性病原体であることを認めている。1920年の論文(LEPTOSPIRA ICTEROIDES AND YELLOW FEVER、アメリカ科学アカデミー紀要PNAS 1920 Mar;6(3):110-1.)において英世は結論において「But until the finding of Leptospira icteroides is confirmed by the investigation of cases of yellow fever in still other places, its standing as the inciting agent of yellow fever will have to be regarded as not yet certainly established.(「しかし、Leptospira icteroidesの発見はさらに他の場所において黄熱の症例の調査によって確認されるまで、その黄熱病の原因としてのその地位は確実に確立されたものと見なすべきものではない」)」と述べている。またこの前後にThe journal of experimental medicineにおいて黄熱病の論文を発表している。この中で南アメリカ、アフリカの黄熱病の差異に関する直接的記載は明らかではなく、当時の研究状況などをふまえ、今後英世の黄熱病の業績に関しては科学史上十分に検討され客観的な記載が必要であろう。なおこのレプトスピラは1914年に稲田龍吉によって日本黄疸出血性スピロヘーター症の病原体として発見され1918年のエクアドルにおける英世の発見は正確には南アメリカの黄疸出血性レプトスピラ症の再発見およびワクチンの作製の可能性といえるかもしれない。 ^ これは英世による唯一のノーベル賞推薦であった。 ^ a b c d 野口英世記念財団 ^ a b c 会津若松市 野口英世について ^ 『官報』第8302号、明治44年2月27日、pp.672-673 ^ 『官報』第632号、大正3年9月8日、p.163 ^ 帝国学士院編『授賞審査要旨 大正4年』帝国学士院、1915年、pp.1-4 国立国会図書館デジタルコレクション ^ 『官報』第4030号「叙任及辞令」1926年2月2日。 ^ (a) Noguchi, H.; Moore, J. W. \"A DEMONSTRAION OF TREPONEMA PALLIDUM IN THE BRAIN IN CASES OF GENERAL PARALYSIS\" J. Exp. Med. 1913, 17(2), 232-238. (b) Noguchi, H. \"The Transmission of treponema pallidum from the brains of paretics to the rabbit\" J. Am. Med. Assoc. 1913, 61, 85. ^ 1926年 - 1928年サイエンス誌数編を含む17編 ^ 『背信の科学者たち』、Noguchi and His Patrons ^ Hideyo Noguchi - Nomination Database(ノーベル財団) ^ 図書館だより 第148号 - 福島県立図書館(2004年8月6日) ^ 野口英世記念医学賞 ^ 野口英世の里郵便局 ^ 戸田純子(埼玉県立皆野高等学校教諭) (2009年10月7日). “野口英世の父・佐代助 ”天才”の血受け継ぐ人物?”. 福島民友. 2018年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月20日閲覧。 『野口英世 知られざる軌跡 メリー・ロレッタ・ダージズとの出会い』 山本厚子 山手書房新社 ISBN 4841300430 (1992年) 『野口英世の妻』飯沼信子 新人物往来社 ISBN 4404018940 (1992年) 『遠き落日』 ISBN 4041307147、ISBN 4041307155 (角川文庫) - 渡辺淳一による伝記的小説 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 化学同人 ISBN 475980160X (1988年) 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 講談社 ISBN 4062575353 (2006年) - 上の書籍の新書版 『正伝 野口英世』北篤 毎日新聞社 ISBN 9784620316154 (2003年) \"Noguchi and His Patrons\" by Isabel Rosanoff Plesset, Fairleigh Dickinson Univ Press, ISBN 0838623476 (1980年) 『朝日選書389 野口英世 』 中山茂著 朝日新聞社 ISBN 4022594896 (1989年) 『医聖 野口英世を育てた人々』小桧山六郎 福島民友新聞社 ISBN 978-4897577043 (2008年) 『野口英世―少年期』野口英世記念会 (1980年) 『当世書生気質』坪内 逍遙 岩波文庫 ISBN 978-4003100424 『野口英世 [改稿]』小泉 丹 岩波新書 (1939年) 『野口英世』イザベル・R・プレセット著、翻訳 中井久夫、枡矢好弘 星和書店 ISBN 4791101545 (1987年2月) 宮島幹之助、野口英世君逝く 細菌學雜誌 1928年 1928巻 387号 p.a1-a3, doi:10.14828/jsb1895.1928.387_a1 済生学舎 日本医科大学 ペンシルベニア大学 野口英世記念館 猪苗代氏 細菌学 梅毒 黄熱病 福島県 火傷 野口英世青春通り 小林栄 渡部鼎 血脇守之助 サイモン・フレクスナー 星一 石塚三郎 川村吾蔵 長谷川泰 北里柴三郎 ジョン・ロックフェラー イサム・ノグチ - イサムの父・米次郎と親交があり、若い頃のイサムに芸術の道へ進む事を薦めている。名字は同じだが親戚関係はない[1]。 岡田満 藤生金六 藤沢武夫 Hiro T.A Sheene 中島知久平 野口英世記念館 会津若松市 野口英世 米国財団法人 野口医学研究所 野口英世|近代日本人の肖像 横浜市 野口英世記念公園内 旧細菌検査室 野口英世記念会館 野口英世の里郵便局 野口英世青春館・会津壹番館 みんゆうNet 野口英世の父・野口佐代助について 日本ポータル 福島県ポータル 歴史ポータル 医学と医療ポータル 人物伝ポータル", "勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年(明治19年)8月28日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、兵庫県神戸市生まれの医学者。医学博士。専門は血液学、神経病学。 名古屋帝国大学医学部教授、第三代目名古屋大学総長、第三代目国立名古屋病院院長を務めた。 生前、1953年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 1911年(明治44年) 東京帝国大学医学部を卒業。(当時は東京帝大医科大学) 1912年(明治45年) 東京帝国大学の三浦謹之助の三浦内科に入局。 1913年(大正2年) 病理学教室に勤務 1918年(大正7年) フランスに留学 1919年(大正8年) 愛知県立医学専門学校教授に就任。パリ講和会議に参加した西園寺公望と同行した。 1923年(大正12年) 愛知医科大学教授に就任 1931年(昭和6年) 名古屋医科大学教授に就任 1932年(昭和7年) 名古屋医科大学付属病院院長 1938年(昭和13年) 第一回日本血液学会会長。 1949年(昭和24年) 名古屋大学総長 1954年(昭和29年) 文化勲章受章 脳の電気活動記録を指す \"Electroencephalogram\" の訳語として「脳波」を提唱した。 県立静岡中学卒業生 第一高等学校卒業生 西園寺公望が亡くなるまで主治医を務めた 献体団体である不老会の設立を助言したのも彼である。 1926年 - 「オキシダーゼの組織学的研究」で学士院賞を受賞。 1943年 - 脳波研究の重要性を認め、日本において研究班を組織した。(この研究班はのち本川弘一に引き継がれ、1947年に脳波研究委員会、1952年に日本脳波学会となった。同学会は1971年に日本筋電図学会と合同して日本脳波・筋電図学会となり、さらに2000年に改称して日本臨床神経生理学会となった。) 1954年11月3日 - 文化勲章を受章。 没後の1963年11月10日勲一等旭日大綬章を追贈され、従二位に叙された。 墓所は豊島区駒込の染井霊園。 息子の勝沼晴雄は東京大学医学部公衆衛生学教授・医学部長、杏林大学副学長を務めた。 甥の勝沼信彦は医学者で徳島文理大学学長などを歴任した。 1920年(大正9年)9月7日 - 勲六等単光旭日章 ^ Nomination Database ^ 日本血液学の歩み日本血液学会 ^ a b 時実利彦・藤森聞一・島薗安雄・佐野圭司 『新脳波入門』 南山堂、東京、1959年、2頁。 ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。", "山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(文久3年2月23日) - 1930年(昭和5年)3月2日)は、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。 信濃国上田城下(現在の長野県上田市)に上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれる。後に同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。1880年に東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝大医学部)に入学し、卒業時は首席という成績を残す。1891年に東京帝大医学部助教授となる。1892年からドイツに留学し、コッホ、フィルヒョウに師事。帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。特に癌研究では日本の第一人者であった。1899年には肺結核を患うものの療養を続けながら研究を行う。1915年には世界ではじめて化学物質による人工癌の発生に成功。1919年に帝国学士院賞を受賞。1923年には帝大を定年退官。1928年にドイツからノルドホフ・ユング賞を受賞。1930年、肺炎で逝去する。 三男に帯広畜産大学学長・北大元教授の山極三郎がいる。三郎は北大農学部比較病理学教室で、東大における勝三郎の助手(正確には北大院から東大に内地留学させられた特別研究生)で、勝三郎と学士院賞を共同受賞していた市川厚一に学び、市川のポストを継ぐ。外孫に作曲家の別宮貞雄、英文学者で上智大学教授の別宮貞徳がいる。また京都大学総長の山極寿一は遠縁にあたる。 彼は人工癌の研究以前に胃癌の発生、および肝臓細胞癌についての研究を行っていた。そこで彼は「環境がガン細胞を作る」と言い、特定の癌化する細胞があるのではないと述べている。 当時、癌の発生原因は不明であり、主たる説に「刺激説」「素因説」などが存在していた。山極は煙突掃除夫に皮膚癌の罹患が多いことに着目して刺激説を採り、実験を開始する。その実験はひたすらウサギの耳にコールタールを塗擦(塗布ではない)し続けるという地道なもので、山極は、助手の市川厚一と共に、実に3年以上に渡って反復実験を行い、1915年にはついに人工癌の発生に成功する。 これはコールタールを扱う職人の手、顔、頭などに癌を生じる事があるという既知の臨床学的事実に基づくものであり、すでに多くの学者が失敗していたものであった。小さな腫瘍的なものを生じても、悪性のものは作れなかったのである。しかし、彼は信念を持って継続し、とうとうこの発見にたどり着いた。なお、彼が成功した原因としては、モデル生物として兎を選んだ点も上げられる。ラットでは同様の方法での癌発生率はきわめて低いことが知られている。 彼はこの後に癌の免疫に関する研究に方向を変え、そちらでは大きな成果を上げることは出来なかった。 1920年代において、山極による人工癌の発生に先駆けて、デンマークのヨハネス・フィビゲルが寄生虫による人工癌発生に成功したとされていた。当時からフィビゲルの研究は一般的なものではなく、山極の研究こそが癌研究の発展に貢献するものではないかという意見が存在していたにもかかわらず、1926年にはフィビゲルにノーベル生理学・医学賞が与えられた。 しかし1952年アメリカのヒッチコックとベルは、フィビゲルの観察した病変はビタミンA欠乏症のラットに寄生虫が感染した際に起こる変化であり、癌ではないことを証明した。フィビゲルの残した標本を再検討しても、癌と呼べるものではなく、彼の診断基準自体に誤りがあったことが判明した。現在、人工癌の発生、それによる癌の研究は山極の業績に拠るといえる。 山極は1925年、1926年、1928年と没後の1936年の4度、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされている。1925年と1936年は日本人からの推薦のみであったが、1926年と1928年はいずれも海外からで、フィビゲルとの連名での推薦であった。 この中で最も受賞の可能性が高かったのは、フィビゲルが受賞した1926年である。ノーベル財団所蔵の資料によると、同年の選考過程は以下のようなものであった。 ノーベル委員会は、フォルケ・ヘンシェン(Folke Henschen、1881 - 1977)とヒルディング・バーグストランド(Hilding Bergstrand、1886 - 1967)の2人のスウェーデン人医学者に、フィビゲルと山極についての審査を依頼した。ヘンシェンは過去にフィビゲルを推薦したことがあり、当初作成した報告書ではフィビゲルと山極の両方に高い評価を与え、「人工癌はノーベル賞に値し、もし寄生虫による発見者であるフィビゲルと、タールによる発見者である山極の両名で賞を分けるとすればそれは当然である」と述べた。バーグストランドは人工癌の意義は認めたものの、すでに知られていた煙突清掃員や放射線科医の職業癌を例に出し、それらの事実を追認したに過ぎず、癌の起源に関しては少しも新たな事実に光を当てていないとした。彼は新しい知識や手法の価値は、長期間にわたる臨床的な事実による知見でのみ実験的に確認されると考えていた。バーグストランドはオットー・ワールブルク(1931年受賞)による癌組織の嫌気性代謝に関する研究(ワールブルク効果も参照)の方が将来の癌研究には重要であるという立場から、フィビゲルと山極の人工癌の研究はノーベル賞には値しないと結論づけた。一方で、バーグストランドはバクテリオファージ研究者のフェリックス・デレーユを強く推薦し、この点を巡ってもデレーユの研究の独創性を疑問視するヘンシェンとの間で対立した。ノーベル委員会はデレーユについて別の専門家に助言を依頼し、ヘンシェンの意見が認められた。しかし、バーグストランドが人工癌への授賞に反対していたため、ヘンシェンは「フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として、共同受賞という当初の意見を変更し、フィビゲルについてのみ受賞に賛成する新たな報告書をノーベル委員会に提出した。これらを受けてノーベル委員会は受賞者を決定した。 ヘンシェンは、1966年10月に東京で開かれた国際癌会議の際に行った講演で「私はノーベル医学賞を山極博士に贈ることを強力に提唱したものです。不幸にして力足らず、実現しなかったことは日本国民のみなさんに申しわけがない」と述べた。また、選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々と為されていたことも明かしている。「東洋人」を理由とする意見はほかにもあるが、科学ジャーナリストの馬場錬成はその著書『ノーベル賞の100年』(中公新書)の中で、3回にわたるノーベル財団への取材経験から、ノーベル賞選考における日本人差別は「100パーセントないだろう」と指摘している。前記の選考過程を検証した文書An analysis of a Wrong Nobel Prize - Johannes Fibiger,1926:A Study in the Nobel Archivesにおいても、人種的な差別については言及されていない。 位階 1891年(明治24年)12月21日 - 正八位 1895年(明治28年)6月 - 従七位 1896年(明治29年)1月 - 正七位 1898年(明治31年)3月 - 従六位 1900年(明治33年)2月 - 正六位 1902年(明治35年)4月 - 従五位 1904年(明治37年)10月 - 正五位 1910年(明治43年)1月31日 - 従四位 1915年(大正4年)3月 - 正四位 1920年(大正9年)6月 - 従三位 1923年(大正12年)10月 - 正三位 勲章等 1899年(明治32年) - 勲五等双光旭日章 1905年(明治38年)6月24日 - 勲四等瑞宝章 1909年(明治42年)6月 - 勲三等瑞宝章 1916年(大正5年) - 勲二等瑞宝章 1930年(昭和5年)3月2日 - 勲一等瑞宝章 彼は短歌や発句をたしなみ、出身地の千曲川にちなんで曲川という号を持っていた。作品集に「曲川句集」があり、そこには以下のような人工癌に関する句も含まれている。 癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩 兎耳見せつ 鼻高々と 市川氏 人工癌を確認した際に詠んだ句。 ひとはいざ如何に見んとも我等のは 古今未曾有の兎耳の癌なり 転移なく移植ならねどなにかせん 組織増あり破壊性あり 当初に広く認められず、癌ではないとの意見も出たことに対する反発を詠んだもの。 その後に 二わの兎に転移出来 この次に 移植のなるは無論なり 癌であることの確認と、その後の予想を詠んだ句。それも確認された。 ^ 富樫康『日本の作曲家』p.275 ^ 『朝日新聞』2015年11月7日、長野全県第2地方面。「山極勝三郎博士 人工癌(がん)実験成功100周年記念講演会」として勝三郎の菩提寺にて山極寿一が講演を行ったことに関する記事において。 ^ 中原(1955)、p.76-77 ^ 中原(1955)、p.81 ^ 中原(1955)、p.81 ^ ノーベル財団ウェブサイトの候補者リストによる[1] ^ a b Carl-Magnus stolt,George Klein,and Alfred T.R. Jansson, An analysis of a Wrong Nobel Prize - Johannes Fibiger,1926:A Study in the Nobel Archives \"Advances In Cancer Research\"vol.92(Academic Press) 2004[2] ^ 「『ガンの山極博士』たたえる」 読売新聞1 966年10月25日 15頁 ^ 朝日新聞社編 『100人の20世紀(上)』 朝日文庫 p237-「山極勝三郎」 ^ 福田眞人、「北里柴三郎:内務省衛生局時代とドイツ留学への道」21頁。ただし、この文章においてはこの内容の出典が明確に記されていない。 ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。 ^ 『官報』第7980号「叙任及辞令」1910年2月1日。 ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。 ^ 中原(1955)、p.80 中原和郎『癌』(1955)、岩波書店(岩波文庫) 劇場映画「うさぎ追いし - 山極勝三郎物語 -」(配給:新日本映画社、2016年12月17日一般公開) 癌研究会 発癌性 市川厚一 栄光なき天才たち 寿製薬 - 自社のテレビCMで長年、山極の人工癌研究の功績を紹介して讃えている。 歴史秘話ヒストリア (NHK 2018年10月10日放送)- 「まぼろしのノーベル賞 世界初!がんを作った男」 - 番組公式サイトバックナンバー 意気昂然と二歩三歩 山極勝三郎博士の生涯と業績", "秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年3月23日 - 1938年11月22日)は島根県美濃郡都茂村(現益田市)出身の細菌学者。学位は医学博士。当時難病であった梅毒の特効薬サルヴァルサン(砒素化合物製剤606号)をドイツのパウル・エールリヒ(1908年ノーベル生理学・医学賞受賞)と共に開発し、多くの患者を救ったことで知られる。 生前、1911年にノーベル化学賞と1912年・1913年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 島根県美濃郡都茂村(現益田市)に豪農・山根道恭とヒデの十四人兄弟の八男として生まれる。14歳の時に姻戚である秦家より養子に迎えられた。代々医師の家系であった秦家には当時一人娘しかいなかった為に、兄弟の中で成績が優秀であった佐八郎に白羽の矢がたったのである。その際、秦家より「岡山で勉強が出来る」と言われたのも少年であった佐八郎が養子に行く決心をした理由の一つであろう。 佐八郎は悪戯好きの少年であり、すぐ上の兄で2歳年上の藤七とよく遊んだが、乱暴狼藉が過ぎると、空いている大きな酒づくりの樽に放り込まれた。食事時になっても2人は容易に樽の中から引き上げてもらえなかったという。母ヒデから「さあさん、ちょっと来てやんさい」と土蔵に呼ばれ、諭された逸話は地元では有名。 養子になった佐八郎は1891年私立岡山薬学校(現:関西高等学校)を卒業後、第三高等中学校医学部(現:岡山大学医学部)に入学する。高等中学校では大変優秀であり、他の学生や教師からも一目置かれる存在であった。 1895年(明治28年)、医学部卒業、8月、22歳で秦徳太の長女チヨと結婚した。同年、一年志願兵として東京近衛一連隊入隊。 1年間の兵役を終えた後、1897年(明治30年)岡山県病院助手になり、その後1898年伝染病研究所に入所した。岡山県病院では井上善次郎から内科学、荒木寅三郎からは医化学を学んだ記録が残っている。その頃佐八郎は東京で医学の勉強をするべく上京を考えていた。そして1898年(明治31年)8月に荒木寅三郎の推薦により、単身上京して大日本私立衛生会経営の伝染病研究所に入所、そこで北里柴三郎に学ぶこととなった。翌年、研究所は官立となり、同 研究所の助手、臨時ペスト予防液製造事務取扱、および臨時検疫事務官を兼務する。 この時から秦のペスト研究が始まり、ヨーロッパ留学に旅立つ1907年(明治40年)まで続いた。8年間にわたる研究の中、防疫の実務(1899年11月、日本最初のペストが発生)に携わると共に、ペストに関する十数篇の論文を著わし、柴山五郎作と共に「ペスト予防法」を策定している。後に、エールリッヒが難題の梅毒化学療法の共同研究者として秦を選んだのも、秦が長年に渡って危険極まりないペストの研究と防疫に当たってきた実績を買ったからだった。エールリッヒは「注意深き精緻正確なる君の輝かしい実験なくしては、この好結果を挙げ得なかったであろう。君の協力に対して私は深く感謝するものである」と深甚の謝意を表している。 秦は1903年(明治36年)には国立血清薬院部長を兼任しつつ、同研究所には10年間在籍していた。その間、1904年4月日露戦争で軍医として従軍し、南満州各地の野戦病院で伝染病患者の治療に当たる。1905年似島検疫所設置のため召還され、検疫にあたる。大阪の陸軍予備病院で伝染病室及び細菌検査室に勤務。同年10月除隊。11月に伝染病研究所技師に戻る。この間の働きが認められて1907年からドイツに留学することとなる。 1907年(明治40年)国立伝染病研究所第三部長となる。 ドイツ留学、ベルリンのロベルト・コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch)細菌研究所でワッセルマンの下、免疫の研究をして1年を過ごした。その後、モアビット(Moabit)市立病院に移ってヤコビー博士の下で数ヶ月間研究する。ヤコビー博士もエールリッヒの弟子だったので、彼を通じてエールリッヒが所長を務めるフランクフルトの国立実験治療研究所へ移れるように頼んでもらった。ヤコビー博士の二度の手紙では芳しい結果が得られなかったため、秦は自ら手紙を書き、ベルリンを出発。10日間ほど南ドイツの大学を回った後、荷物を駅に預けたままでフランクフルトの研究所へ直行した。エールリッヒのもとに案内されると、彼は次のように語ったという。 「あなたの研究室もあなたを助けてくれる助手もすで用意してある。今日から研究に取りかかるのだ」 1909年6月、科学者ベルトハイムが合成した砒素製剤606号と名付けられた試料(ヒ素化合物ジオキン・ジアミド・アルゼノベンゾール)の効果と急性毒性を、秦は動物実験し、その卓れた効果が確認された。エールリッヒは6月10日にこの薬の製造特許を申請し、同日発行された。1910年4月、第27回ドイツ内科学会で、エールリッヒは新しい砒素化合物製剤606号の梅毒に対する化学療法の総論を、秦は動物実験を、シライバーおよびホッペは梅毒患者への臨床治験の成績を共同して発表した。1910年にエールリッヒ、秦共著のドイツ語書『スピロヘーターの実験化学療法』がベルリンで刊行された。 1910年にドイツの製薬会社ヘキスト(Höchst)は、この薬をサルバルサン(ラテン語でSalvareは「救う」の意味)と名づけ、製造販売した。同年5月27日、秦はロベルト・コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch)の臨終に立会い、その後日本に帰国した。当初、日本はこの薬をドイツから輸入していた。 1912年(明治45年)7月12日、医学博士の学位を受ける。論文「螺旋菌病のヘモテラピー」。 1913年(大正2年)、国産のサルバルサンを製造することになり、協力する。 1913年(大正2年)、日本結核予防協会設立に参画する。 1914年(大正3年)11月5日、伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立される。秦は設立に参画しており、部長となる。 1915年(大正4年)5月、欧州大戦勃発に伴い ほとんど輸入に頼っていたドイツからの医療品が途絶えたことから、日本の医薬産業の育成と医薬品の国産化を目的とした「染料医薬品製造奨励法案」が第三十六議会を通過、10月14日施行。 1915年(大正4年)、国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功。アルサミノールの名で販売した。 1920年(大正9年)、慶應義塾大学医学部教授に就任。細菌学、免疫学を講じる。 慶應義塾大学医学部教授時代の医学部では学生をグループ分けして教授に受け持たせ、一学期に一、二回親しく会合して、学生を善導しようという「補導会」が設けられていた。その折、秦は学生を自宅に招いて、手塩にかけて育てた大菊、小菊の観菊会を催して言った。「菊を仕立てるには保護をしたり、春先、芽が伸びる頃にはいじめてやらねばならない。諸君は今、養分のたくさん要る時だ。御馳走はないけれども、みな平らげてくれ給え。それで補導会終わり」と。 1921年(大正10年)6月、極東熱帯医学会に出席のためインドネシア・ジャワ・バタビヤに出張。 1923年(大正12年)2月、アメリカ・ロックフェラー財団の招きで同国とカナダの医事衛生視察。 1926年(大正15年)、ドイツ帝国自然科学院会員に推される。 1928年(昭和3年)、ドイツで開催された国際連盟主催、サルバルサン標準国際会議に出席。 1931年(昭和6年)、恩師北里柴三郎博士死去。6月、北里研究所副所長に就任。 1933年(昭和8年)1月、帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける。 1938年(昭和13年)7月、脳軟化症のため慶應義塾大学付属病院入院、同病院で11月22日死去。医学に全てを捧げた65年の人生に幕を閉じた。青山斎場にて北里研究所葬。多磨霊園に御墓がある。 現在、秦佐八郎博士の業績を称え後世に永くその名を伝える事を目的として、社団法人日本化学療法学会では「志賀 潔・秦 佐八郎記念賞」を設けている。 注釈 出典 ^ Nomination Database - Physiology or Medicine 「難病に取り組み医学を発展させた人たち」著:竹内均 発行:ニュートンプレス 「医学史ものがたり2 医人の探索」著:井上清恒 発行:内田老鶴圃) 「増補北里柴三郎とその一門」著:長木大三 発行:慶應義塾大学出版会) 「秦佐八郎傳」著:秦八千代 発行:北里研究所) 「サルバルサン戦記 秦佐八郎 世界初の抗生物質を作った男」著:岩田 健太郎 光文社新書) 北里柴三郎 「秦佐八郎博士の偉大な人生を紹介」 - 益田市(美都総合支所) 志賀 潔・秦 佐八郎記念賞 - 日本化学療法学会", "矢崎 芳夫(やざき よしお、1894年4月14日 - 1972年3月9日)は日本の医師、医学者、衛生学者。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)生まれ。旧制東京慈恵医院医学専門学校卒業。1922年からドイツのフライブルク大学に留学し、細菌衛生学を学ぶ。帰国後の1925年に東京慈恵会医科大学教授となり、衛生学教室を創設。1956年には学長に就任した。 研究では特に、生物発光に関する研究、日光紫外線に関する研究で知られ、郷里の諏訪湖産のヌカエビの発光の本態が淡水棲発光バクテリアの感染によるものであることを発見、また各種魚類における共棲発光の実例を実証した。戦後は日本で最初に蛍光顕微鏡を開発し、結核菌の検出などの実績を上げた。 『故矢崎芳夫先生〔含略歴〕』東京慈恵会医科大学雑誌" ]
ABC01-02-0315
ロシアのウスチ・クートからコムソモリスク・ナ・アムーレまで続く、「第2シベリア鉄道」とも呼ばれる鉄道を、「バイカル・アムール鉄道」を略して何というでしょう?
バイカル・アムール鉄道
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[ "バイカル・アムール鉄道", "トランス・アラル鉄道", "トルキスタン・シベリア鉄道", "カスピ海横断鉄道", "アブハジア鉄道" ]
[ "バイカル・アムール鉄道(バイカル・アムールてつどう、露:Байкало-Амурская магистраль)は、ロシア連邦東部のシベリア地方にある鉄道路線。略称バム鉄道(БАМ)。シベリア鉄道との分岐点イルクーツク州タイシェトからバイカル湖の北を通り、日本海沿岸のソビエツカヤ・ガバニへ至る約4,324kmを結ぶ。先に開業していたシベリア鉄道よりも600kmから700km北を並行するルートを進むため、第2シベリア鉄道とも呼ばれる。 バム鉄道の西の始点はシベリア鉄道との分岐点イルクーツク州タイシェトである。ブラーツクでアンガラ川を、ウスチ=クートでレナ川を渡る。ウスチ=クートは1951年に鉄道が達して以来1970年代に建設が再開されるまでの長い間バム鉄道の終点であり、レナ川本流で唯一鉄道の通る街でもあったため鉄道と水運の積み替え港として重要であった。バム鉄道はブリヤート共和国のセヴェロバイカリスクでバイカル湖の北端を周る。 シベリア鉄道上のバモフスカヤ(7,272km)からサハ共和国方面へ向かうアムール・ヤクーツク鉄道(将来はヤクーツクへ延伸される計画がある)が交わるティンダを経てアムール川流域へ入り、コムソモリスク・ナ・アムーレでアムール川下流を横断する。山を越え、間宮海峡南側の日本海に面したワニノを通りソヴィエツカヤ・ガヴァニの港へ至る。ワニノからはサハリンのホルムスク(真岡)に向かう鉄道連絡船がある。 全線のうち、タイシェトからタクシモまでの1,469kmが電化されている。複線は一部区間だけで、多くの区間は単線である。またセヴェロムイスキー・トンネルをはじめ21か所のトンネルがあり、その総延長は47kmに及ぶ。橋の数は4,200か所以上あり総延長は400kmである。沿線の土壌は永久凍土が多いため線路は特に頑丈につくられた。 シベリア鉄道との間にはハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレを結ぶヴォロチャーエフカ・ジョムギ鉄道があり、旅客列車は1日2便運行されている。 1880年代にシベリア鉄道が計画された時、バイカル湖の北を通る現在のバム鉄道に近いルートも候補に挙がったが、この時は最終的に候補から外れている。 元々バム鉄道の計画は、満州事変が起こった翌年の1932年にはソビエト連邦により極東の防衛に備える目的で既に立てられており、さらには東西両端から建設が始められていた。しかし、第二次世界大戦の独ソ戦が勃発するとそちらの方へ全力を注ぐため一時建設が凍結され、戦局がソビエト連邦優位に転じたところで日本との戦争に備えるべく建設を再開、対日参戦の直前となる1945年7月末には東部のコムソモリスク・ナ・アムーレからワニノ港までの一部区間で運行を開始した。西部区間でも1947年にはタイシェト~ブラーツク間の輸送を開始している。また、バム鉄道の建設にはシベリア抑留で捕らえられた日本人も多く使われ、犠牲者も多かったという。 しかし、ヨシフ・スターリンが1953年に没すると建設工事は中止され、その後はソビエト連邦の投資方針が変わったこともあって残りの部分は長らく建設されないままであった。建設が再開されるのは、中ソ対立によりダマンスキー島事件(珍宝島事件)などが起こり再び極東の軍事強化が必要とみなされるようになった、1960年代後半のことである。特に中国国境に近いシベリア鉄道の代替路線として戦略的に重視された。 経済が停滞しつつあった1984年9月にはようやく本線の全線が開通したが西側諸国のメディアは式典に招かれず、その後もバム鉄道のうち一般の旅客・貨物用に供されたのは全線の3分の1ほどで、残りはもっぱら軍用に用いられた。ソビエト連邦が崩壊してロシア連邦など独立国家共同体(CIS)が発足した後は、それまで軍事路線であることを理由に外国人の乗車が禁じられていたバム鉄道も解放され、現在ではツアー旅行などで同鉄道に乗車する企画も多く登場するようになっている。 バム鉄道建設時、労働条件は悪く現場に水道がないなどの不手際も多かった。建設作業用に60か所以上の集落ができたが、完成した後はほとんどが放棄されている。現在も線形の改良は進められており、2001年にはブリヤート共和国北部の区間に長さ15.3kmのセヴェロムイスキー・トンネルが開通し2003年に列車が走るようになった。それまでの同区間はトンネル完成までの仮の経路であり、距離が長く雪崩が多い上、急勾配を重連運転で越える難所であった。2012年12月25日にはワニノ港の近くに新クズネツキートンネルが開通した。 このほか、ウスチ=クート - ヤクーツク - オホーツク - マガダン - ペトロパブロフスク・カムチャツキーを結ぶレナ・カムチャツカ鉄道を建設する計画も存在する。 ^ a b c 正式な区間はレナ・ボストーチナ駅(ウスチ・クート)を起点としてコムソモリスク・ナ・アムーレ駅に至るまでの約3,075kmの区間。タイシェト駅~レナ・ボストーチナ駅間は正式には東シベリア鉄道支社の一部であり、コムソモリスク・ナ・アムーレ~ソビエツカヤ・ガバニ間はハバロフスク地方におけるシベリア鉄道の支線の一部である(杉内 信三・佐川 篤男・小泉 光市2005年「ロシア・東シベリア以東の石炭輸送インフラの現状と将来」(日本エネルギー経済研究所HP掲載)。 ^ Kuznetsovsk tunnel shortens the BAM corridor http://www.bam-portal.de/searchExpert.do?action=search&query=Baikal-Amur-Magistrale http://bam.railways.ru/eng/ http://www.globrailer.de/reiseberichte-transsib+bam-1995-07-30.htm 辻久子、ドミトリー・セルガチョフ『改革を進めるロシア鉄道の概要と極東における展開―シベリア鉄道、バム鉄道と中国への連結―』 - ERINA REPORT《archive》", "トランス・アラル鉄道(英語:Trans-Aral Railway)は、オレンブルクとタシュケントを結ぶ鉄道。タシュケント鉄道(ロシア語:Ташкентская железная дорога)とも呼ばれる。周辺地域をロシア帝国が治めていた1906年に完成し、20世紀初頭では、中央アジアとヨーロッパ・ロシアを結ぶ唯一の鉄道であった。軌間はロシア式の広軌で1520mm。 オレンブルクとタシュケントを結ぶ鉄道の構想は1874年に持ち上がったが、建設が始まったのは1900年秋からである。工事は双方から同時に開始された。開通は1906年1月、カスピ海横断鉄道とも繋がった。 ロシア革命後のロシア内戦時には、オレンブルク・コサック軍アタマンのA・I・ドゥートフ将軍に率いられた白軍派コサックが沿線を支配した。内戦で産業活動が停止し、また交通も途絶えたことからトルキスタン総督府管区は深刻な飢饉に陥った。トランス・アラル鉄道が機能しなくなったことから、タシュケントのソヴィエトはモスクワとの連絡が途絶え、ボリシェヴィキが奪還すると報復的大虐殺(死者5,000人から14,000人)が発生した。 沿線は、アラル、クズロルダ、テュルキスタンなどカザフスタンの都市を経てタシュケントに至る。タシュケント北方のアルスでアルマトイや東カザフスタン、南シベリアに向かうトルキスタン・シベリア鉄道と接続している。 005/006列車(ウズベキスタン号、モスクワ - タシケント)停車駅を掲載 オレンブルク - イレツク - (ロシア・カザフスタン国境) - ジャイサン - アクトベ - カンディアガシュ - ジェム - シャルカル - サクサウルスカヤ - アラル - カザリンスク - バイコヌール (チュラタム) - ジョサリ - クズロルダ - チーリ - ジャナコルガン(ヤニ・クルガン) - テュルキスタン - ティムール - アルス - サリアガシュ - (カザフスタン・ウズベキスタン国境) - ケレス - タシュケント ^ Route 006Ф «Uzbekistan» Moskva (all stations) → Tashkent", "トルキスタン・シベリア鉄道(ロシア語: Туркестано-Сибирская магистраль)は、中央アジアとシベリアを結ぶ鉄道。トゥルクシブ(Турксиб)と略される。軌間はロシア式の広軌で1,520mm。ウズベキスタンのタシュケントとシベリアのノヴォシビルスクを結ぶ。 タシュケント北方のアルス(アルィーシ)で、トランス・アラル鉄道から分岐して、北東に進み、シムケント、タラズ、キルギスの首都ビシュケク、カザフスタン最大の都市・アルマトイを経て北に転じ、セメイを過ぎてロシアに入りバルナウルを経てノヴォシビルスクに至る路線。ノヴォシビルスクでシベリア鉄道に接続する。建設工事の多くは1926年から行われた。 シベリアとトルキスタン総督府を結ぶ鉄道構想は1886年には打ち出されたが、タシュケントとウラル山脈の都市・オレンブルクを結ぶトランス・アラル鉄道の建設に取って代わられた。その後、アルマトイのドゥーマは1896年に、トルキスタン・シベリア鉄道の建設の是非を調査する委員会を立ち上げた。その結果、トルキスタンの綿花をシベリアに輸送し、シベリアの穀物をフェルガナ盆地に輸送するのに有効で、中国との国境付近に軍隊を移動させるのにも有用なことが判明。1906年、帝政ロシアはバルナウルとタシュケント北部のアルスを結ぶ建設を決定した。ロシア人技術者は、ステップや半砂漠地帯に鉄道を敷設する研究を進めた。1915年にはノヴォシビルスクとセミパラチンスク(今日のセメイ)を結ぶ区間が「アルタイ鉄道」として着工される。残りの区間はフランスの資金提供でロシアの民間企業が建設する予定であったが、第一次世界大戦で計画は中断。十月革命以降、10年間以上、工事は中断される。またアレクサンドル・コルチャーク指揮下の白軍が1918年から1919年建設した140kmの区間は破壊された。 残っていた1、442kmの全線が完成したのは第一次五ヶ年計画の期間中の1930年で、鉄道建設を描いたドキュメンタリー映画「トゥルクシブ」が製作されるなど華々しく宣伝された。 工事は、イングリアを追放されたエストニア人やフィンランド人などスターリンによってグラグに収容された人々の手による。タシュケントからセミパラチンスクへの最初の機関車は、アルマトイに保存されている。 トルキスタン・シベリア鉄道開通後、シュで合流するカザフスタンの南北の幹線(カラガンダ、アスタナ、ペトロパブルなどを結ぶ)が開通した。 1990年には、アルマトイとセメイの間のアクトガイ駅に新線が接続した。ここから東に向かうと、ドストゥク(ドルージュバ)から中国に入り新疆ウイグル自治区の阿拉山口駅に至り、北疆線に繋がる。一方、西に向かうとカザフスタンのバルハシやカラガンダに至る。 (主要駅のみ掲載) 本線:ノヴォシビルスク - ベルツク - イスキチム - チェレパノヴォ - ノヴォアルタイスク - バルナウル - アレイスク - ルプツォフスク - ロコチ - (ロシア・カザフスタン国境) - セメイ - チャルスク - アヤゴズ - アクトガイ - アクバルィク - ウシュトベ - コクス - アイナ・ブラク - サリ・オゼク - カプチャガイ - ジェティゲン - アルマトイ1駅 (→アルマトイ2駅) - オタル - シュ - ルゴヴォイ - タラズ - シムケント - アルス - (カザフスタン・ウズベキスタン国境) - タシュケント ドストゥク支線:アクトガイ - ベスコリ - ドストゥク - (カザフスタン・中国国境) - 阿拉山口(→北疆線) アルティンコリ支線:ジェティゲン - チリク - アルティンコリ - (カザフスタン・中国国境) - コルガス(→精伊霍線) ビシュケク支線(de:Bahnstrecke Lugowoi–Bischkek):ルゴヴォイ - メルケ - (カザフスタン・キルギス国境) - カインディ - カラバルタ - ベロヴォドスコエ - ビシュケク ビシュケク・バルイクチ支線(de:Bahnstrecke Bischkek–Balyktschy):ビシュケク - カント - トクマク - バルイクチ ロシア鉄道 カザフスタン鉄道 ウズベキスタン鉄道 キルギス鉄道 K9795/9796次列車 K9797/9798次列車 北疆線 精伊霍線", "カスピ海横断鉄道(英語:Trans-Caspian railway、別名:Central Asian Railway、ロシア語: Среднеазиатская железная дорога)は、中央アジア西部をシルクロードに沿うような形で伸びる鉄道。トランス・カスピ海鉄道、中央アジア鉄道、ザカスピ鉄道とも呼ばれる。19世紀に中央アジアに領土を拡大したロシア帝国によって建設された。 建設工事は1879年に開始され、コーカンドでロシア軍が敗北を喫すると、ロシア軍がこの地帯での反乱鎮圧のための軍を展開するために建設の主眼が置かれた。 大英帝国のインド副王であったジョージ・カーゾンは、この鉄道がアジアでのイギリスの脅威になると述べている。 ミハイル・スコベレフによってロシア軍がザカスピを征服すると、カスピ海に近い内陸都市 キジル・アルバト(Kyzyl-Arvat、現在のトルクメニスタンのセルダル)とロシア帝国・ザカスピ州を結ぶ鉄道が1879年に狭軌として建設された。すぐにロシア式の広軌に改められ、1886年にはアシガバートやメルブ(現在のマル)まで伸びた。 1888年にはブハラを経てサマルカンドまで完成。また、カスピ海側の起点はカスピ海の港町クラスノボツク(現在のトルクメンバシ)に変更された。 1898年、タシュケントやアンディジャンまで完成する。1901年まではアムダリヤ川を渡る堅固な橋は完成しておらず、カスピ海横断鉄道は木製の貧弱な橋を通っていたため、何度も洪水で流された。 1905年にはトルクメンバシからバクーへカスピ海を連絡する鉄道連絡船が登場した。1906年にはトランス・アラル鉄道(オレンブルク-タシュケント間)が完成し、トルクメンバシからオレンブルクまで繋がる。 ロシア革命では鉄道の建設作業員が革命の中心勢力となり、タシュケントのソビエト設立の中心的役割を果たした。また、鉄道も赤軍の軍事拠点となり、英印軍との戦闘が行われた。この鉄道の開通でタシュケントは赤軍の重要な軍事拠点となった。 カスピ海に面したトルクメニスタンのトルクメンバシを起点に、南東に鉄道は延びる。カラクム砂漠の外縁部に沿って進んだ後で、カラクーム運河に平行してトルクメニスタンの首都・アシガバートに達する。そこから南東に向かい山岳地帯の麓を進み、テジェンに至る。テジェンからは、イランのマシュハドに繋がる鉄道が1990年代に完成した。カスピ海横断鉄道は、テジェンからは北東に向かい、マル (Mary) に至る。ここからアフガニスタン国境のクシカ (Guşgy、Gushgy、Kushka) への支線は早くも1890年代に完成した。 カスピ海横断鉄道はさらにテュルクメナバート(かつてのチャルジョウ)でウズベキスタンのウルゲンチなどに達する支線を分岐し、ウズベキスタンのブハラではタジキスタンの首都・ドゥシャンベやテルメズに向かう支線を分岐する。最後にカスピ海横断鉄道は、ウズベキスタンのサマルカンドを経て、ウズベキスタンの首都・タシュケントに至り、ここが終点となる。 途中、シルダリヤ (Sirdaryo) でアンディジャンなどフェルガナ盆地に向かう支線がある。タシュケントでは、キルギスの首都ビシュケクやカザフスタン最大の都市・アルマトイ(かつてのアルマアタ)を経てシベリヤのノヴォシビルスクに至るトルキスタン・シベリア鉄道や、ロシアのオレンブルクに至るトランス・アラル鉄道、カザフスタンの首都・アスタナに向かう鉄道など各線と連絡している。 ^ Military power, conflict, and trade by Michael P. Gerace, Routledge, 2004 p182 ^ Russian colonial Society in Tashkent, 1865-1923, by Jeff Sahedeo, Indiana university Press, 2007, p. 190 ^ On Secret Service East of Constantinople, by Peter Hopkirk, John Murray 1994 G.N. Curzon Russia in Central Asia (London) 1889 Mikhail Annenkov. Ахал-Техинский Оазис и пути к Индии (Санкт-Петербург) 1881 George Dobson. Russia's Railway Advance Into Central Asia. W. H. Allen & Co, 1890.", "アブハジア鉄道(アブハズ語: Аҧсны Аихамҩа, ロシア語: Абхазская железная дорога)はアブハジアにおいて鉄道を運行する事業者であり、ロシア鉄道により管理されている。 全長は101kmであり、黒海沿岸に線路を有する。軌間は1,520mmであり、ロシア鉄道北カフカース鉄道支社に接続する。アブハジア紛争が深刻化する1992年まではグルジア方面にも接続していた。 2016年時点ではモスクワとスフミを結ぶ長距離列車のほか、アドレル - ガグラ間にも近郊列車が運行されている。 ソビエト連邦の解体によりコーカサス地方の鉄道網は各国に分割され、イングリ川以西の区間はアブハジア鉄道の管理下となった。イングリ川に架かる橋梁は1992年8月14日に爆破され、グルジアとの間の鉄路は寸断された。また、1990年代を通してロシアとの間の列車運行も休止されたことからアブハジアの鉄道網は孤立するに至った。 2002年12月25日にソチ - スフミ間の列車の運行が再開され、グルジア政府から非難の声が挙がった。ロシアからの観光客増加の影響もあり、プソウ川 - スフミ間の線路がロシア主導で修復され、2004年9月10日にはモスクワ - スフミ間を結ぶ直通列車の運行が再開された。 1993年時点ではオチャムチラ - スフミ、ソチ - スフミ、トゥクヴァルチェリ - スフミ、グダウタ - スフミ間などにエレクトリーチカが運行されていたが、2007年までに運行が休止された。アドレル - ガグラ間の列車は2010年6月26日に運行が再開された。 2016年現在、モスクワ - スフミ間の列車は夏季は1日1便、冬季は週2便である。夏季にはこのほかベルゴロドおよびサンクトペテルブルクからの列車も運行される。 ロシア鉄道 グルジア鉄道 ^ АБХАЗСКАЯ ЖЕЛЕЗНАЯ ДОРОГА: общие сведения ^ Официальный визит Председателя Парламента Грузии Нино Бурджанадзе в Российскую Федерацию ^ https://rasp.yandex.ru/station/9620203?span=schedule 公式ホームページ" ]