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ABC01-02-0035
約600gを1とする、食パンの重さの単位としてよく用いられる重量の単位は何でしょう?
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[ "斤", "升", "粟 (単位)", "デシメートル", "俵 (単位)" ]
[ "斤(きん)は、尺貫法の質量の単位である。伝統的には1斤は16両と定義されるが、その値は時代と地域により異なる。 マレー語ではカティ (kati) という。これは英語に入りカティー (catty) となり、各国の斤を表す。 日本では、通常は1斤=16両=160匁とされる。 明治4年(1871年)5月、新貨条例公布の際、当初は1戔(匁)=3.756 574グラムとされたが、同年9月に訂正されて、1戔(匁)=3.756 521グラムと定められた。この換算値は度量衡取締条例(明治8年(1875年)8月5日太政官第135号達)にも引き継がれた。その後、1891年(明治24年)3月24日(法律第3號)公布の度量衡法第5條において、換算の便宜のため、1匁=(正確に)3.75グラムとされた。したがって、1斤 = 160匁 = (正確に)600グラムとなった。 これとは別に、計量するものによって各種の「斤」が使用され、別名があった。 舶来品に対しては、1ポンド(453.6グラム)に値が近い120匁(450グラム)を1斤とし、これを英斤(えいきん)と呼んだ。 現在の日本では「斤」は、食パンの計量の単位としてのみ使われている。これはパンが英斤を単位として売買された歴史に由来する。ただし、1斤として売られたパンの質量は時代とともに少なくなった。現在、公正競争規約は、食パンの1斤=340グラム(以上)と定めている。 漢代の斤は、現在よりずっと少なく、226.67グラムと推定されている。鈞を参考のこと。 南北朝時代には南朝では変化が少なかったのに対し、北朝で1両の質量が増大した。隋唐代には、従来の両と、その3倍の両の2種類が定義され、のちに前者を小称両、後者を大称両と呼んだ。唐代以降は大称両のみが使われた。1斤 = 16両の関係は変わらなかったので、1斤の質量も増大した。唐の1斤は、西安市何家村出土の質量を記した金銀器から、約680gと推定されている。 清朝の標準とされた庫平両は清滅亡後の1915年に596.816グラムと定義された。国民革命後の1929年に定められた市制では、メートル法を元に1斤(市斤)=500グラムという切りのいい数値に改められた。 中華人民共和国は1959年、従来の1斤(市斤)=16両を1斤=10両に十進化したが、1斤=500グラムの換算は保たれた。 近代の中国ではキログラムにも「斤」の字を宛てたため、市制の斤(市斤)と区別するために「公斤」という。 台湾では、日本統治時代があったことから日本の尺貫法の影響を受け、単位名称以外は日本と同じ換算をする台制が広まっている(全てが台制ではない)。台制の斤を特に台斤と呼び、1斤(台斤)=600グラムである。 香港とマカオでは「司馬斤」と呼ばれる604.78982グラムの斤が使用されている。これは、清代に外国との貿易のために各国と結んだ単位についての協定における定義がそのまま使われているもので、元はヤード・ポンド法で1 1⁄3ポンドと定義されていた。 シンガポールでは「斤」と呼ばれる0.6048キロの斤が使用されている。これは、香港と同じで、清代に外国との貿易のために各国と結んだ単位についての協定における定義がそのまま使われているもので、もとはヤード・ポンド法で1 1⁄3ポンドと定義されていた。 マレーシアも、シンガポールと同様である。 ^ 農林水産省「食パンの一斤の定義はどのように決められているのですか。」2008年 ^ 小泉袈裟勝 『歴史の中の単位』、p.254、総合科学出版、1974年11月10日発行 ^ “素面双耳提梁銀鍋”. 中国考古(中国社会科学院考古研究所). 2014年10月1日閲覧。 (中国語) ^ 度量衡令 付表", "升(しょう)とは、尺貫法における体積(容積)の基準となる単位である。10合(ごう)が1升、10升が1斗(と)となる。その量は時代や地域により異なる。日本では、メートル法採用後の1891年(明治24年)に、立方メートル(立米、m3)を基準にして1升を 2401/1 331 000 立方メートルと定めた(後述)。これは、約 1.803 906 837 リットル (L) に当たる。 中華人民共和国では、1 升 = 1 リットルと定義し、また、SI単位としてのリットルにも「升」の字を宛てている。一応区別のために、前者を市升、後者を公升と称するが、同じ値であることから単に升と呼ばれることが多い(市制も参照)。 升は元々は両手で掬った量に由来する身体尺であった。当時の升は 200 ミリリットル程度、現在の升の10分の1程度であった。それが時代とともに大きくなっていき、現在は元々の量の10倍程度になっている。 「升」という文字は柄杓の中に物を入れた形をかたどったものである。そこから量を量る「ます」の意味、およびそれによって量られる容積の単位を意味するようになった(これとは別に、柄杓で物を掬い上げることから「のぼる」の意味もある)。後に容器の方は「升」に木篇をつけて「枡」と書き分けるようになったが、実際にはあまり区別されていなかったようである。上述のように、1升という量があってそれを量る枡が作られたのではなく、先に物を量る枡が定められ、その量が「升」と定められた。 新の嘉量の測定により、当時の 1 升は約 200 cm3 であったと推定されている。隋・唐になると旧来とほぼ同じ 200 cm3 程度の小升と、その3倍の大升が定義された。唐以降は小量升は使われなくなった。 唐以降も1升あたりの体積は増大し、明・清には1Lあまりになっていた。1929年に制定された市制では、1升は正確に1Lに等しいと定義され、この値が現在も使われている。 日本において「升」という単位は大宝律令にまず見られる。日本では、当時の唐の升を導入し、大升を約0.71リットル(新京升の約 0.4 倍)、その3分の1の小升を約 0.24 リットル(同 0.1 倍)としたとの説がある。 以上を含め奈良時代の升量については、江戸時代の学者によるものをはじめ各種の説があるが、いずれも律や令の記述と中国の度量衡制度からの推定に過ぎなかった。しかし、澤田吾一は、奈良時代の穀倉の大きさから割り出し、当時の1石として2,800立方寸を得た。当時使われていた尺度から現在の升量に換算すると、当時の1升は現升の0.4升に当たる(澤田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』、復刻柏書房)。現在、最も信憑性の高いと信じられている升量である。 律令制の崩壊につれ、各国、後に各地の荘園で勝手な升が使われるようになった。後三条天皇は荘園整理を断行し、その一環として1072年、後に延久宣旨枡(せんじます)と呼ばれる公定の升を定めた。この量についてもよく分かっていない。文献的には現升の 0.6270(『伊呂波字類抄』)、0.8223(『東盛義所領注文案裏書』)、0.4932(『潤背』)とする記録が残されている(寶月圭吾『中世量制史の研究』、昭和36年、吉川弘文館)。寶月はこのうち『伊呂波字類抄』による 0.6270 を最も信憑性の高い数値としている。縦横4寸、深さ2寸(32立方寸)の枡で、0.81 リットル、新京枡の 0.45 倍の容積とするのは、鎌倉末期に成立した『潤背』によるものであり、これは本文で「寛治宣旨」となっており、延久年間に宣旨升が出されたことに明らかに反しており、信用できないとする。ただ、古制を復古したはずだとする説によってこれを採用する研究者もいる(小泉袈裟勝『図解単位の歴史辞典』、柏書房)。ただ、寶月による 0.6270 も尺度を中世に普遍的に使われた曲尺として計算しているが、『伊呂波字類抄』は遅くとも平安末期には成立していたので、律令尺は、曲尺の0.97に当たるので現升の 0.5722 升に当たるものと推定される。平安時代末期から鎌倉時代末期ごろまで、京都から関東、九州まで宣旨升による文献が見いだされているが、どの程度普及したかは明かではない。 南北朝時代以降は宣旨枡の検定がほとんど行われなくなり、各地でその地域だけで通用する升が作られた。しかし、商業の活発化は、自ずと市場で共通する升を生み出すこととなった。これが見世升とか町枡といわれる商業升であり、これは新京升よりやや小さく、古京升に近い量をもっていたと考えられる(寶月圭吾『前掲書』)。奈良においては、興福寺が標準となる升を公定していたため、新京枡の0.8程度の升が市場で使われていた(『多聞院日記』)。これは、奈良における状況を示したものであり、これを京都もしくは全国にまで広げるのは誤りである。 織田信長から豊臣秀吉へという全国統一の流れの中で、納める年貢の量に直結する「升」を量るための枡を全国共通のものにする必要が生じた。織田信長は、当時使われていた十合升を公定して標準的取引升とした。元亀二年に「判枡」(発行者の花押を書いた枡)を利用する記述が初めて現れ、これ以降「十合枡」の記述が急減していくことから信長による升の公定が裏付けられる。天正14年10月、豊臣秀吉の代官中坊源五は、旧来奈良で使われていた升の使用を一切禁止し、新たな升の使用を義務づけた。この新たな枡は、京都を中心に使われていた升であったことから京枡(きょうます)と呼ばれた。後の新京枡と区別するために古京枡ともいう。古京枡は縦横5寸、深さ2寸5分で、62.5 立方寸、容積は 1.74 リットル、新京升の 0.964 倍であった。 1669年、江戸幕府は、江戸を中心に使われていた江戸枡(古京枡と同じ量)を廃止し、古京枡より少し大きい新京升の採用を命じた。新京升は縦横4寸9分、深さ2寸7分、約 1.8039 リットルであった。一説には、縦横が1分減り、深さが2分増えたのだから体積は変わらないと思わせて、実は体積が約 3.7 % 増えているという策略であるとも言われる。江戸幕府は江戸と京都に「枡座」を置いて枡の大きさを厳密に統制したので、江戸時代の約300年間大きさの統一が保たれた。 新京升による1升は縦横49分、深さ27分であるので、49分×49分×27分 = 74 × 33 立方分 = 64827 立方分となる。この数字は「武者鮒」「虫や鮒」と語呂合わせで覚えられていた。 1875年(明治8年)、明治政府は新京升の体積を公定の升の体積と定めた。メートル条約批准後に制定された度量衡法で、メートル法に基づいて1尺は 10/33 メートルと定められ、分は尺の 100 分の 1 であるので、 1 分 = (10/33) × (1/100) m = 1/(11 × 3 × 10) m 新京升の体積は、前項のとおり、74 × 33 立方分であるので、 1升 = 74 × 33 / (113 × 33 × 103) m3 = 74/(113 × 103) m3 = 2401/1 331 000 m3 = 2401/1331 リットル = 約 0.001 803 906 837 (m3) = 約 1.803 906 837 リットル となった。 1959年、計量法の施行により同法の規定する以外の単位の使用は規制され、升は公式には使用されなくなった。ただし、今日でも日本酒などの一部の酒類は 1.8 リットル単位で取り引きされている。約 1.8 リットルの液体が入る瓶は「一升瓶」と呼ばれている。 一方で米の取引はキロが主体となったが、白米 1 合が 150 g であるので、米一升は 1.5 キログラムである。米 1 kg は約 6.6 合強、スーパーなどでよく売られている 5 kg 詰めの米袋は、約 3.3 升である。 上記のとおり、「升」は「ます」と訓ずる。また、5合は2分の1升に当たるため、「二升五合」を「ますますはんじょう(益々繁盛)」と判じ読みを行う。しばしば、湯飲みなどに「春夏 二升五合 冬」と書いて、「商い(秋無い)益々繁盛」の縁起物とされる。また、1斗が5升の倍に当たることから、「一斗二升五合」と書き「五升倍 升升 半升」と解して「御商売 益々 繁盛」と洒落として読むこともある。 ^ 度量衡法、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、第三條 量、升の項に、「六萬四千八百二十七立方分」とある。 ^ 度量衡法、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、第二條、「長サ三十三分ノ十ヲ尺トシ」 ^ 度量衡法、明治二十四年(1891年)三月二十四日法律第三號、第三條の度、分の項に、「尺ノ百分ノ一」とある。 ^ 計量法施行法(1951年6月7日法律第208号 廃止:1993年11月1日)第4条第4号による定義 体積の比較", "粟(ぞく)は、日本の尺貫法および中国における歴史上の体積の単位である。 「粟」の漢字はアワを意味する。日本の尺貫法では『塵劫記』により圭の10分の1と定義され、したがって1粟は1勺の1万分の1、メートル法に換算して約1.8039µLとなる。一方、中国の『孫子算経』では圭の6分の1となっている。その下の単位は粒(一説に「顆」)である。", "デシメートル(記号dm)は、国際単位系の長さの単位で、1/10メートル(m)。漢字では「粉」と表記する。 1 dm = 10 cm = 3.937 in 1 dm3 = 1 L センチメートル ≪ デシメートル ≪ メートル ^ 竹林佐介 『度量衡制度詳解』 自治館、1899年2月4日、45頁。doi:10.11501/802044。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/802044/28。  長さの比較 1 E-1 m : 1 dm - 10 dm ( 10 cm - 1 m ) 単位一覧 単位の換算一覧", "俵(ひょう)は、米穀などの産品の取引や流通のために使用される単位である。尺貫法の体系から独立した特殊単位で、具体的な量は対象品目ごとに異なる。 米以外にも雑穀、木炭、食塩、綿花など、かつて俵(たわら)で流通したさまざまな産物に適用された。元来は1つの俵に入れる体積の単位であったが、現在は質量の単位である。 1952年(昭和26年)の計量法においては尺貫法と同様に、同法で規定されていない非法定計量単位として使用が禁止され、法的根拠を喪失した。そのため現在は、俵の量目は取引慣行により定められる。 現在の米穀取引の実務における1俵は60 kgとされている。 かつて米の計量は枡を基準とし、体積で計量され流通したため、俵は体積を表す単位だった。文献で最初に記載されている俵についての記述は、平安時代のもので5斗で1俵とするという規定が残っている。この時代の斗量は現在とは異なり、現在の定説では、当時の1斗は現在の0.4斗である。したがって、当時の1俵は約30 kgである。戦国時代から江戸時代の1俵はおおむね2斗から5斗の間で時代・土地ごとに異なり、例えば幕府は1俵を3斗5升としたが、加賀藩の1俵は5斗であった。またそもそも俵自体にも、四斗俵や六斗俵などいろいろなサイズがあって、規格が一定していなかった。 俵が単位として統一されたのは明治時代である。ただし全国的な法規はなく、根拠法規は各県ほぼ共通する内容の「○○県米穀検査規則」という県令である。同規則の中で各県の検査機関が行う米穀検査に使う俵の容量は「4斗」と定められ、同時に俵の寸法や構造が標準化された。未検査の米は流通が禁じられていたので、以後は一俵 = 4斗が事実上の統一基準になった。1斗はメートル法換算で18.039リットルと法定されていたので、明治時代の一俵は72.156リットルである。米1斗の質量は約15 kgなので、1俵は約60 kgとなる。 かつては60 kgの米俵を担ぎあげて運ぶことができれば、一人前の労働者とみなされた(世界大百科事典)。1俵は労働者一人が担いで運ぶ量であり、2俵は馬一匹の積載量であったため、米の出荷・保管・輸送に便利であった。タイなど海外ではいまだに60キロ袋が米の流通に使用されているが、重労働に慣れない現代日本人には60 kgの米俵を扱うことは難しくなり、出荷流通の米袋は「半俵」の30kg入りの紙袋包装が普通となった。 「石」と「俵」はどちらも米の量であるが、一石は兵一人が一年に食べる量とされて軍事動員力を示す石高制の基礎単位、俵は単に米を流通のため包装する単位で、そもそも性格が異なる。江戸時代の武士の収入には「石」と「俵・扶持」の表記があるが、領地を与えられ、そこから収納する石高の年貢を収入とする建前の上・中級階層が「石」、領地を持たず、米の現物支給を受ける軽輩の収入が「俵・扶持」で表されたのである(蔵米知行)。知行の換算は、 米1俵 = 1石 = 金1両(名目レート)また蔵米5俵 = 1人扶持(1日5合換算の端数切り上げによる)であった。 なお、幕府の御家人の知行1石が蔵米1俵に相当するのは、以下の通りの計算である。 天領の税率が四公六民なので、知行1石からは武士に対しては4斗の収益となる。これを精米することにより約3斗5升となり、蔵米の精米1俵分とほぼ同等となる。 大豆や小麦は米と同様に60 kg、馬鈴薯や大麦は50 kg、ソバは45 kgが1俵である。また木炭の1俵は15 kgである。 木炭の例では、北海道胆振地方においては、木炭の等級別に一俵当たりの重量が異なっていた。最上級品が四貫目詰め(約15kg)、上物は十貫目詰め(37.5kg)、さらに下の等級ではむしろで丸めた八貫目詰め(30kg)とされていた。 英語で綿花や羊毛など繊維原料の取引単位を示す「Bale(ベイル)」の訳語には「俵」が当てられ、国内でも取引の基準単位とされる。1ベイルの量は対象品目や産出国によって異なる。一例としてアメリカ綿1俵は500ポンド、約226.8 kgである。 ^ 小泉袈裟勝監修、単位の辞典、改訂4版、p.246、ラテイス、1981年7月31日 ^ 米1俵はメートル法に換算すると何kgになるか 福岡県立図書館、レファレンス事例詳細、レファレンス協同データベース、2013年5月16日  ^ (『延喜式』雑式) ^ (澤田吾一『奈良時代民政経済の数的研究』) ^ ただしこれは舂米(ついた米)の場合であって、当時米は穀(もみがらがついた米)の状態で保存されていたので、この場合の質量は、約20kgである。 ^ 「一俵ノ容量ハ四斗トスルコト」富山県米穀検査規則第四条ノ四、茨城県米穀検査規則第八条ノ五 等 ^ 菅原昭二 『穂別高齢者の語り聞き史(昭和編)大地を踏みしめて 上  十四歳の丸太馬搬と畳屋半世紀の話 』 穂別高齢者の語りを聞く会、2014年、p271。" ]
ABC01-02-0038
江戸時代、大名や将軍のお抱えの医者のことを何といったでしょう?
御典医
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[ "御典医", "新宮凉庭", "松本良甫", "多紀元堅", "坪井信道" ]
[ "御典医(ごてんい)とは、典薬寮に所属する医師のことであり、単に典医ともいう。転じて、江戸時代には将軍家や大名に仕えた医師もこの名称で呼ぶようになった。この場合、御殿医と表記することもある。 典薬寮医師という意味での御典医は、名誉職であった典薬頭を除き、実際に天皇の治療に携わる医師のことを指した。近世では優秀な民間医が典医に登用されると同時に官位を与えられ、地下人の身分となるケースがほとんどを占めた。 一方、武家の御典医は、将軍や藩主と身近に接する立場で、武士に準ずる身分であった。なお、幕府の御典医は奥医師、藩のは藩医と呼ばれていた。 桂川甫周 桂川家は将軍の御典医。蘭学でも知られる。 松本良順(松本順) 将軍の御典医。長崎でオランダ軍医ポンペに医学を学ぶ。のち陸軍に入り、初代の軍医総監になった。 森鴎外 津和野藩内科医の御典医であった森静夫の嫡男。鴎外は陸軍医。 西周 津和野藩外科医の御典医の家に生まれた。 栗本鋤雲", "新宮 凉庭(しんぐう りょうてい、天明7年3月13日(1787年4月30日) - 嘉永7年1月9日(1854年2月6日))は、江戸時代の蘭方医。丹後国由良(現・京都府宮津市)出身。漢方医学を学んだあと、長崎で蘭学を学び、京都で医学校「順正書院」を創立し、多くの医師を育てた。翻訳書も含め、医学書も多数著した。名は碩(せき)、号は鬼国、駆豎斎。凉庭は字。 1787年に丹後の由良に生まれる。家が貧しかったため、漢方医の叔父の元で育つ。幼いころから記憶力に優れた秀才で、漢学を修める。16歳で福知山藩の江戸藩邸に詰め、18歳のときに故郷で漢方医として開業する。 21歳のとき、蘭方医の宇田川玄随が著した「西説内科撰要」を読み、西洋医学を学ぶことを決心し、1810年に長崎に向かって旅立つ。道中、各地の医学者を訪ねては交流して学び、3年後の1813年に長崎へ到着。カピタンのヘンドリック・ドゥーフに気に入られ、出島の商館医との交流が許され、自らも医師として商館で働いた。 1818年に故郷に戻り、1819年に京都で開業、多くの弟子を育てた。名医の誉れ高く、経済的にも成功し、1839年に医学学校と文化サロンを兼ねた「順正書院」を南禅寺の隣に建てた。経済にも明るく、諸藩の財政指導や融資を行なう一方、経済書も著した。 1854年、68歳で死去。順正書院は、息子の凉民、凉閣、凉介が跡を継いだが、明治時代に閉めた。 順正書院の跡地は現在、湯豆腐店の「順正」が店舗として使用している。 『西遊日記』 1836年 - 長崎留学記 『但泉紀行』 1846年 - 城崎温泉逗留記 『破レ家ノツヅクリ話』 1847年 - 経済論 新宮貞亮『順正書院記』 1869年 新宮凉閣『鬼国先生言行録』 1885年 山本四郎『新宮凉庭傳』(ミネルヴァ書房) 1968年 ^ 「京都の蘭方医学者 ~新宮凉庭」木村専太郎クリニック ^ kotobank ^ 松本仁介氏医学振興基金古医書コレクション[リンク切れ] 『鬼国先生言行録』デジタル・アーカイブ 愛媛大学図書館鈴鹿文庫 新宮凉園", "松本 良甫(まつもと りょうほ、文化3年(1806年) - 明治10年(1877年)2月6日)は、幕末から明治初期の蘭方医師。祖父は幕府奥医師の松本善甫、父は町医師の松本良甫。松本良順の養父。 幕府奥医師であった祖父善甫が天明6年(1786年)改易され、以来民間にあったが、弘化3年(1846年)8月3日、再び幕府に召出され60年ぶり松本家再興、家禄100俵を与えられ小普請医師となる。嘉永2年(1849年)12月16日、寄合医師に進む。安政5年(1858年)大槻俊斎ら江戸在住の有力蘭方医83名による、お玉が池種痘所設立に醵金・参画する。同年10月16日、伊東玄朴の上申により、吉田収庵とともに奥詰医師に進み製薬所掛となる。同日、転科を許され本道(内科)となる。(松本家は代々口科(歯科)を業としていた)。文久3年(1863年)11月9日、奥医師に進む。文久4年(1864年)2月18日、法眼に叙せられる。松本家の墓所は芝伊皿子・大円寺であったが、谷中霊園に移されている。", "多紀 元堅(たき げんけん/もとかた、寛政7年(1795年) - 安政4年2月13日(1857年3月8日))は、江戸時代末期の幕府医官。名は元堅、号は茝庭(さいてい)、通称は安叔(あんしゅく)。幕府医学館考証派を代表する漢方医。子に同じく幕府医官の多紀元琰がいる。 江戸時代後期、医学館総裁を務めた多紀氏の分家・矢の倉多紀氏の初代。医学館総裁多紀元簡(号は桂山)の第5子として生まれる。はじめ町医者として市中で開業していたが、天保6年(1835年)12月16日、幕府に召し出されて一家を興し、奥詰医師に任命される。翌7年(1836年)11月19日、奥医師に任命され、同年12月16日、法眼に叙せられる。同11年(1840年)12月16日、法印に昇進し、楽真院と称した。のちに、将軍徳川家慶の諡号「慎徳院」の「慎」と「真」の類似からこれを避け、楽春院と改称した。その後没するまで、家斉・家慶・家定の3代に仕えた。 考証派の学風は、古典医学書の収集・復元に努めるもので、その成果は中国のそれを凌駕するといわれる。元堅自身も『傷寒論述義』をはじめとする多くの医書を著したほか、原坦山・佐藤元萇・蒲生重章などの門弟多数を教育した。幕末から明治初期にかけての医師には「多紀楽春院の門人」と称する者がきわめて多い。森鴎外の史伝「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」にも元堅が登場する。 身分の上下にかかわらず診療し、貧困の者には金を与えることもあったという。 島津斉彬も患者のひとりで、天璋院の入輿にも一定の関与をしている。 将軍家定の臨終の場に元堅がいたというのは小説の虚構であり、事実ではない。元堅の死去は安政4年、家定の死去は安政5年である。 元堅らが松本良順の考査を行なったのは、良順が蘭方医の子弟であったからではなく、幕府医官に養子が入る際には才学を確かめるという医学館の通常の職務を執行したにすぎない。 森潤三郎『多紀氏の事績』 思文閣出版、1931年。 小曾戸洋「多紀元堅」 『朝日日本歴史人物事典』 朝日新聞出版、1994年。 城官寺(東京都北区上中里) - 東京都指定史跡「多紀桂山一族墓所」 元堅自身の墓所が同史跡に含まれるかどうかは不明。", "坪井 信道(つぼい しんどう、寛政7年1月2日(1795年2月20日)- 嘉永元年11月8日(1848年12月3日))は、江戸時代後期の蘭医。父は坪井信行。美濃国池田郡脛永村(現・岐阜県揖斐郡揖斐川町)の出身。家伝に岐阜中納言織田秀信の5世の孫、織田信長の7世の孫という。 幼くして両親をなくし、各地を巡ってはじめは東洋医学を学んだが、文政3年(1820年)に江戸へ出て宇田川榛斎に蘭医学(西洋医学)を学んだ。文政12年(1829年)、江戸深川に安懐堂、天保3年(1832年)に江戸冬木町に日習堂という家塾を開いた。天保8年(1837年)には長州藩の藩医に登用されている。 著書に『診侯大概』、翻訳書に『製煉発蒙』、『万病治準』、『扶歇蘭杜神経熱論』がある。実子に二世信道となった信友、養子に幕府奥医師・信良がある。門下生には、緒方洪庵・青木周弼・川本幸民・杉田成卿・黒川良安らがいる。 坪井信良(1823年 - 1904年):蘭方医、幕府奥医師。お玉ケ池種痘所の開設に携わる。信道の女婿。 坪井正五郎(1863年 - 1913年):人類学者、考古学者。信良の長男で信道の孫。妻は蘭学者・箕作秋坪の長女。 坪井誠太郎(1893年 - 1986年):地質学者、岩石学者。正五郎の長男で信道の曾孫。妻は天文学者・平山信の長女。 坪井忠二(1902年 - 1982年):地球物理学者、地震学者。正五郎の次男で信道の曾孫。妻は医学者・島薗順次郎の長女。 坪井正道(1925年 - ):物理化学者。誠太郎の長男で信道の玄孫。妻は法学者・中川善之助の次女。" ]
ABC01-02-0040
つくしの茎に間隔をおいて生えているギザギザした葉のことを、ある和服にちなんで何というでしょう?
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[ "袴", "裳", "束帯", "水干", "表衣" ]
[ "袴(はかま)とは、日本で下半身に着用する伝統的な衣類の一つ。 現代流通している袴は地域での祭りなど特定行事における衣装や、冠婚葬祭や成人式など公式的な場における正装、特定の職業における制服や衣類、特定の活動における稽古着や作業着、私服におけるさまざまな利用などが上げられ、近代以降は洋服の影響および産業の発達から用途目的に適するよう改良した様式から、比較的伝統的な様式など双方が活用されている。 幅広い形式を「はかま(又は(語彙)袴)など」と称し、都市部から農村部、神社の活動、御所における装束、武士など多岐にわたる人々が公私において使用したボトムスのため、多種多様な形態と内容を持つが、概括的には下半身にはく和服のことである。 現代における一般的な袴(馬乗袴)は、前後二枚の台形状の布の斜辺の下半分を縫いあわせ、さらに膝より下の部分がキュロットスカート状になるように縫製した構造になっている。足を入れても充分に余裕があり、布は裾にゆくほど大きくあまる構造になっている。 前布には襞(ひだ/ひだめ)を取り、通常外側から順に一の襞、二の襞、三の襞と呼ぶ。後布は左右に分かれており、襞は取らない。後布はその上辺に板や厚紙を入れた小台形の部分を持ち、これを腰板と呼ぶ。後布は前布より腰板の分だけ長くなる。 前布、後布には、それぞれ最上部(後布の場合には腰板の底辺)の辺の左右から一本ずつ、合計四本の紐(実際には幅七分程度の細長い布状のもの)が出ており、これで袴を腰に固定する。前布より出るものを前紐、後布より出るものを後紐という。前紐は後紐の二倍程度の長さがある。 袴は普通左足から穿くものとされる(左から動作を起すのは日本の伝統的な作法)。両足を袴のなかに入れた後、前布、後布の順番で紐を腰に結びつけ、袴を固定する。前布の紐は後(帯の結び目)で一度交差させて前に出し、前布の下5cmから10cmを紐が通るように按配して(かりにこれを(a)とする)、もういちど交差させ(二度目に紐をどこで交差させるかは、右腰、左腰、前布の中央などさまざまなやり方があるが、一般的には右腰であることが多い)、後で紐を結ぶ。 次に後布の腰板を背中に密着するように按配しながら、帯の結び目の上に置く(腰板にヘラがついていれば帯のなかに差込んで固定させる)。そののち後布の紐を前に回し、上記(a)の紐の中央の部分で結ぶ。結び方は、後紐の一方(これをかりに(b)とする)が上になるようにして前紐(a)の中央部分に重ね、もう一本の後紐(これをかりに(c)とする)をさらにその上に重ねる。下から(a)→(b)→(c)の順で重ねられたら、(c)の後紐を(a)の下にくぐらせ、(a)(b)(c)三本が重なった部分に垂れかぶさるように(a)の紐の上に出す。その後(b)の紐を逆の方向に折返し(たとえば(b)が左後方から右前方に伸びる後紐だとすれば、結び目から折りかえすようにして、右前方に伸びる部分を左に引く)、もういちど(c)の紐を巻くようにして一回転させる。 次にあまった後紐を結んで始末する。袴の紐の結びかたには主なものとして以下のようなものがある。 十文字 もっとも一般的な結びかたで、礼装の場合にも用いられる。上記(c)の紐を5cm程度の幅に折りたたんで横の「一」とし、その中央部を結び目にあわせて(b)の紐で何度も(a)に巻きつけ、最後に縦の「|」が(a)の下から出るように按配する。 一文字 十文字の変形。礼装などに用いられるほか、能装束の大口袴は一文字に結ぶ。十文字の縦の「|」を作らず、(b)の紐を端まで結び目に巻きつける。 結びきり 書生結びともいい、動きやすく結び目がゆるみにくいので、武道などでもちいられるが、袴のはきかたとしては略式。(b)(c)をこま結びにした後、残った紐を(a)に重ね、適当なところで紐にはさんで始末する。紐の生地が薄くやわらかい袴でないとできない。明治時代の書生はこま結びにした残りのたれを始末せず、前にたらす穿きかたを好んだが、これはだらしないと顰蹙を買うことが多かった。 蝶結び 衣冠束帯などの指貫に用いられる。能のシテ方金春流でも仕舞袴を蝶結びにして穿く。(b)(c)を蝶結びにしたあと、輪と垂れを(a)にはさんで始末する。また女物の袴では、蝶結びもしくは輪結びをしたあと、垂れを長く出して装飾的に穿くことが多い。 なお、袴の前布は帯が多少見える程度に穿くのが望ましいとされることもあるが、本来の穿きかたではない。もっとも正式には帯が見えないように着付けるのがただしい。 袴の下に着る長着の裾を端折ったり、袴用にひざ丈の長着をあつらえたりすることもある。 表袴(うえのはかま) 束帯を着用する際、大口袴の上に着用した。また童女の汗衫の際には長袴の上に着用した。かえり襠の袴。 指貫(さしぬき) 裾を紐で指し貫いて絞れるようにした袴。公家装束においては、衣冠束帯、狩袴、小袴、直垂の袴、水干の袴などにも用いた。 水干袴 水干着用時に用いる袴 狩袴 狩衣着用時に用いる袴 緋袴(ひのはかま) 広義では赤系統の色をした袴を指し、狭義では主に宮廷において女性が下衣として着用した袴や巫女装束の袴を指す。腰ひもに特徴があり、通常の袴は後ろ紐と前紐があるが、この袴では左脇の部分が輪になって後ろ紐と前紐がつながっている状態である。現在では十二単で着用する後ろに長く引きずる「長袴」と袿袴装束で着用する足首までの長さの切り袴の2種類がある。 襲の袴 鎌倉時代頃に一部の高貴な女性(女院となった皇女などか)の間で着用された。詳細は不明だが、白い薄手のもので、松等の絵が描かれいわゆる緋袴の上に重ねた(鈴木敬三『日本の服装』)。当時の女神像や高貴な女性歌人の絵などにそれらしきものが描かれている。なお季節によって緋袴を重ねたり、袴そのものが合わせ仕立て、単仕立て といったことは平安時代から既にあった。 座敷袴は作業着であった山袴(襠がある襠有袴)の対義であるが、明治以降に紋付羽織と組み合わせて男子の礼装に使用すようになった馬乗袴は用途から例外とされ、正装など改まった席で着用する袴を意味する。 馬乗(うまのり)袴 名称通り乗馬するために襠を高くし、裾が邪魔にならないようやや広く仕立てた野袴の一種である。身分制度があった江戸時代までは使う反物が地位によって異なり、大名は絹を用い、下級武士は縞模様が入った木綿が多かった。いずれにしても、野袴の特徴である裾に黒色のビロードなどで裾縁を施すことを常としたが、木綿製では縁どりを省略する例もあった。近代においては仙台平などの縞の絹地で作った場合には、紋付羽織と合せて体裁を整え礼装とする新しい方法もできた。 女袴・行灯袴 明治中期頃から女学生が着用していた袴を、裾さばきのしやすさから後に男子も略式として使用するようになった。筒状のスカートの形状になっているが、外見上は襠有袴と同じとなっている。男女用で前後の襞の数が違う。女学生の制服から発達したことにより女袴と呼ぶこともある。 四幅袴・四布袴 丈が短い膝丈くらいの半ズボン型の袴で裾がやや狭くなっている、前後各2布の計4布で仕立てる。用途によって露出している膝から下を脚絆などで保護し、中間男や小者などの下級武士が鎌倉時代以降に着用した。菖蒲革などなめし革、またはそれに似せた布地で作った菊綴を付けた類いもあった。 立付・裁付・裁着 布製の脚絆やガマ、イグサ、イチイ、藁などで編んだ脛巾を四幅袴や股引に縫合したり、露出している脛に巻いて固定した。袴の生地は皮革、藤布、麻を用いたが、明治以降は木綿が主流となった。歩行に便利であるため地方武士が狩猟の際に使用し、戦国時代以降は機能性から一般化し作業着として活用する人々が増えた。江戸時代に伊賀衆が使っていた裁付は別称で伊賀袴とも呼んだ。 軽衫(かるさん) 16世紀 - 17世紀にスペインを中心にヨーロッパにおいてズボンに詰物を入れ、大きく膨らませた短い半ズボン(トランクホーズ)が流行し、南蛮貿易の関係からその様式が日本にも伝播した袴である。尻回りをゆったりと仕立てた短い膝丈の袴に、膝から脚絆か筒状の布を縫合した形状となっている。語源はポルトガル語の「カルソン - calção(半ズボンの意味)」に由来し、漢字は当て字である。キリスト教徒や侍の間で好まれ、経年により町人風俗へと浸透した。形態は風俗屏風や『歌舞伎草紙絵巻』などで見ることができる。 武道袴 馬乗り袴のうち、武道用に各部位に工夫がなされたもの(襞の内側からステッチが入り皺が取れにくいもの、受け身が取りやすいよう腰板がゴム製になっているものなど)を武道袴と呼ぶことがあるが、明確な定義はない。 雪袴 雪袴は積雪寒冷地または山岳地帯で用いた作業着および防寒着で、雪沓の着脱や歩行のために両脚の裾をすぼめる括るなどをした襠有袴。近代以前は麻製が多かった。 もんぺ 農山村で発達した作業着とする襠有袴。寒冷地では防寒着を兼ね、農山村では男女共に着用したが、一般的に女性が用いた労働用の袴を言う。第2次世界大戦中は女性の標準服として過度に奨励した歴史がある。 女袴 明治時代から昭和初期には女学生の制服として多く着用された。現在でも卒業式における女性教員、女子大生の定番の服装で、一部では小学校卒業式に出席する女児が着用する例がある。このほか一部神社の巫女や現代の女性皇族、雅楽舞踊の演者などには、男性同様の脚を通す部分が二つに分かれたタイプの着用も見られる。 舞袴 日本舞踊や剣舞などで使う袴。仕舞袴よりもふつうの袴に近い外見を持つが、立居の際に皺や襞ができないような工夫がされている。 仕舞袴 能楽師が仕舞や舞囃子の際に用いる特殊な袴。該項参照。なお「馬乗袴」の言換えとして仕舞袴の語が用いられることもある。 旧日本陸海軍において、軍服であるズボンを明治建軍から昭和の解体に至るまで一貫して「袴(こ)」と称していた。「軍袴」と称す場合、広義には「軍服であるズボン」を、狭義(正式)には「軍服である冬用のズボン」を意味した。 短袴(たんこ) 乗馬ズボンの和名なので、厳密には袴ではない。 長袴(ちょうこ) スラックスの和名なので、厳密には袴ではない。 半袴(はんこ) 半ズボン・短パンの和名なので、厳密には袴ではない。 ^ 1.おすい、おすひ。古代、衣服の上から着た外套のようなもの。元は男女とも用いたが、のちに主として神事をおこなう女性が用いた。一説では幅広の布であると。goo辞書「襲(おすい」[1] 2.おそい、おそひ。動詞「おそう」から上を覆うもの、覆い。(馬を覆う物の意味から)鞍。goo辞書「襲(おそい)」[2] ^ 日本大百科全書「山袴(やまばかま)」 小学館 2018年01月10日閲覧 ^ a b 世界大百科事典「袴(馬乗袴)」 平凡社 2018年01月10日閲覧 ^ a b 日本大百科全書「野袴」 小学館 2018年01月10日閲覧 ^ デジタル大辞泉「襠無し袴」 小学館 2018年01月10日閲覧 ^ a b 大辞林「四幅袴(よの-ばかま)」 三省堂 2018年01月11日閲覧 ^ 世界大百科事典「四幅袴/四布袴」 平凡社 2018年01月11日閲覧 ^ a b 百科事典マイペディア「裁付(たっつけ)」 平凡社 2018年01月11日閲覧 ^ 世界大百科事典 第2版「裁付(たっつけ)」 平凡社 2018年01月11日閲覧 ^ a b c 世界大百科事典 第2版「軽衫(かるさん)」 平凡社 2018年01月11日閲覧 ^ 世界大百科事典 第2版「雪の民俗」 平凡社 2018年01月11日閲覧 ^ 映画化された漫画『ちはやふる』の影響が指摘されている。批判的な意見を示す保護者や、自粛を求める学校もある。『日本経済新聞』夕刊2018年3月22日「小学校の卒業式<はかま>ブーム、漫画が火付け役に/予約急増、半数超す学校も」(社会面)参照。 ^ 『陸軍服制』・『海軍服制』 ^ (昭和13年制式以前の)『陸軍服制』および、『海軍服制』では「軍衣袴」はいわゆる「冬服上下」を指す。 紋付羽織袴 - 男性の第一礼装。 緋袴 大口袴 仕舞袴 埴輪 合気道 - 膝の動きを相手に悟られないために袴を着用する。 La structure secrète du hakama", "裳(も)は十二単を構成する着物の一つである。 腰のベルトとなる二本の小腰、袴の腰板のような大腰、後ろに引きずる紐のような二本の引腰とプリーツスカートのような裳の本体で構成される。 現在の着用法では唐衣を羽織ってから最後に腰に結ぶ。大腰を唐衣に当てるようにして固定し、小腰を前に回して形よく結ぶ。単、袿、打衣、表衣を固定するベルトとしての役割がある。 平安時代は裳を着用してから唐衣を羽織っていたらしい。 日本に昔からあった女性の下着である腰巻と、中国・朝鮮半島から伝わった褶(ひらみ)が一体化した物という説がある。 『延喜式』によると、季節によって単の裳と袷の裳があり、また表裳と下裳と2種類の裳を着用するよう定められたが、律令制の崩壊と国風文化の興隆により単の裳だけになっていったと見られる。また、本来巻スカートの様にして着用していたが、後ろに長く引きずるようになったのは平安中期からである。 この頃の裳は八幅の生地(八枚の細長い生地)を横についで作り、頒幅(あがちの)という短い生地がその左右につく形になっていた。これはかつて裳を巻スカートのように着用していた時代に、長い裳の裾を踏まないようにした名残とされる。ただし下仕の裳には頒幅をつけない例であった。頒幅は鎌倉時代には廃れてしまい、伊勢神宮や熱田神宮の御神宝にだけその形式が残った。 裳は平安時代十二単の中で一番ポイントとなる物であり、自分より身分の高い人、或いは目上の者の前に出る場合は裳は必ず着用せねばならなかった。『枕草子』では急な一条天皇のお出ましに略装でくつろいでいた女房が慌てて唐衣や裳を着用するというエピソードがあり、『源氏物語』「若菜上」では明石の御方が他の源氏の妻達に遠慮して唯一裳をまとって登場する場面がある。 上記で述べた頒幅の形骸化に見えるように鎌倉時代には裳の簡略化が進んでいった。宮中でも通常は五衣などの重ね袿に代えて上臈女房なら二衣、その他は薄衣といったものを羽織るのが一般化し、唐衣は天皇・東宮の御所では略さなかったものの、裳は使用しないことが増えた。そして鎌倉後期には、着脱が容易なように腰で結ぶ小腰をゆるく結んで肩にかける、いわゆる掛帯(懸帯)式の裳が成立していたことが絵画史料から知られる(奈良国立博物館蔵普賢菩薩十羅刹女像・時代不同歌合絵巻ほか)。しかしこの時点では着用方法の変化は顕著ながら、仕立てなどはそれまでと大きくはかわらない緩慢な変化であった。 ところが応仁の乱が勃発、これによって公家が離散し宮中の祭儀が行われなくなったことで、裳の形式や扱い方が伝承されなくなってしまった。 徳川和子の後水尾天皇入内をきっかけとして十二単の着用に関して研究が進められたが、その結果出来た物は以前の物とは異なり、裳の長さは極端に短くなり、床すれすれの長さであった。また纐纈裳(こうけちのも)という束帯の別裾のような裳を更に着用することになったのもこの前後からとされる。これらの裳は掛帯という裳についた2本のサスペンダーのような物を肩から掛け、胸の辺りでしばることで着用した。この掛帯も鎌倉時代のそれが小腰の形式のままであったのに対し、近世のものは幅が広く、着用者の身分により異なる刺繍をくわえた。生地は必ず唐衣と同じものを使用する例になっている。近世の掛帯式の裳は本体がとても短いのに比して引腰は極端に長く、一箇所をたるませて仮止めし、輪を作るという慣習があった。 この装束を作る一連の有職故実の「復興」は「寛永のご再興」と言われたが、平安時代の貴族文化最盛期の形式には遙か及ばない物であった。その後、何回かの修正を経て天保12年に現在の形式に落ち着いた。この様式は鎌倉時代の「春日権現験記」絵巻を主な資料とし、もっぱらその再現を意図したものである。ただし『山科言成卿記』では天保の末年の記事に再興の裳の調進は記されず、弘化二年に調進されたのが最初のようである。 裳を構成する重要な装飾である「小腰」は時代により用法が大きく変化した。 現在の着用法では小腰で腰に裳をしばり、引腰は後ろに引きずるようにしているが、元来は小腰は存在せず、引腰で裳を腰にしばったのである。引腰は装飾的な裙帯であったが、装飾性が高まった結果、結びやすい小腰を別につけることになったのであろう。小腰は「源氏物語絵巻」などによると、現在の形式のように直接に縫い付けたものでなく、大腰の端に小さな輪をつけ、引腰をむすびつけていたことがわかる。つまり取り外し可能な仮の物だったのである[要出典]。この取り付け方は奈良国立博物館蔵普賢菩薩十羅刹女像に見える初期の掛帯式の裳でもかわらず、さらに近世の掛帯式の裳でも同じであった。皮肉なことに、天保の復古様式の「再興」により伝統的な取り付け方が絶えて、現行の縫い付け式になったのである。「再興」は古式の復活であると同時に、細部に残されていた伝統を断絶させてしまうこともあったという一例である。 鎌倉時代以降、室町中期の記録で裳を略すことを「小腰をかけず」と表記する(雲居の御法)ことで表されるように裳の小腰が「腰で結ぶ」ものから「肩に掛ける」ものになっても、依然「小腰」の呼称は失われなかった。 小腰の素材については古くはほとんど記録が無い。絵画資料による限り、平安・鎌倉時代の小腰は組紐でなかったかと思われる表現が普通である。北山院(足利義満夫人・後小松天皇准母)の入内(正式参内)の記録によると供奉の多くの女房の小腰が唐衣と同じ色と記されており、この頃から小腰が注目され始め、同時に唐衣と配色をあわせる風習が成立しはじめていたことをうかがわせる。 なお、平安後期の雑仕(下仕よりも下の下女)の盛装に懸帯というものがあるが、裳の掛帯とは別のようである。このほか物詣の女性が首からかける赤い守り紐も「かけおび」というがやはり別のものである。 中世を舞台にした大河ドラマでしばしば庶民の女性が着物の上にプリーツスカートのような物を着用しているが、これは「しびらだつ物」「裳袴」と言われる物で、裳と起源は同じ物とされる。ちなみにこの「しびらだつ物」を着るのがこの時代の庶民の女性の礼装であった。 また、明治18(1885)年9月の華族女学校開校時に、女子教員と生徒が裳袴をはいたのをきっかけとして、裳袴はその後女子教師・女生徒の制服として広まった。華族女学校で裳袴を採用した理由は、頻繁に来校する皇后に対して袴なしでは礼容を欠くためと、体操や椅子の腰掛けには袴がないと不便であるというものだった。裳袴の形の源泉は宮中の緋袴で、その色を変えて紐を二本にし、利便性から襠(まち)を除いてひだを多くし、古代の裳の作り方を参考にしたという。このような襠なし袴は江戸諸城門番士の下番が袴を軽くするために襠を除いたとあり、江戸時代の労働着の一つとしてすでにはかれていたが、宮中のイメージが加わることにより新しい袴として流行した。裳袴は行燈袴、まち無し袴とも呼ばれた。 栗原澄子『被服史から見た御神宝装束の基礎的研究』ブレーン出版 ISBN 4-89242-784-5 ^ 実際は四幅(=四枚)の生地を、少し斜めに半分に裁って、幅の狭い側を上に、広い側を下にして継いで、腰まわりが狭く、裾まわりが広くなるように工夫していた ^ “しもづかえ”、殿中で雑役に従う女子。一般女房とは区別された ^ 『とはずがたり』、『竹向が記』ほかから窺われる ^ 桐・鳳凰が最高で、その下に花唐草などがあった ^ 「玉葉」・「玉蘂」の女御入内前の着裳の儀の記事によると、鎌倉初期でも正式には(儀礼的に特殊な場合であるが)引腰で結んだことがわかる ^ 裙はスカート ^ a b c d e 明治後期小学校女子教師の服装について : 裳袴・筒袖を中心にして岩崎雅美 (日本家政学会, 1993-01-15) 日本家政学会誌. 44(1)", "束帯(そくたい)は、平安時代以降の、天皇以下公家の正装(平安装束)。衣冠を「宿直(とのい)装束」と呼ぶのに対し、束帯は「昼(ひの)装束」と呼ばれる。 束帯の構成は下から、単(ひとえ)・袙(あこめ)・下襲(したがさね)・半臂(はんぴ)・袍(ほう)を着用、袍の上から腰の部位に革製のベルトである石帯(せきたい)を当てる。袴(はかま)は大口袴・表袴の2種類あり、大口を履き、その上に表袴を重ねて履く。冠を被り、足には襪(しとうず)を履く。帖紙(たとう)と檜扇(ひおうぎ)を懐中し、笏(しゃく)を持つ。公卿、殿上人は魚袋(ぎょたい)と呼ばれる装飾物を腰に提げた。 なお、束帯には文官・武官による区別があり、文官と三位以上の武官は、縫腋袍(ほうえきほう)を用い、冠は垂纓とした。四位以下の武官は、闕腋袍(けってきほう)を用い、冠は巻纓とした。さらに、武官・中務省の官人、勅許を得た参議以上の文官は、大刀を佩用した。その場合、大刀は平緒(ひらお)で括り、腰に結びつけた。 下襲の後ろ身頃(背部)は長くできており、着用時は長く尾を引くように引き擦った。この部位を「裾(きょ)」と呼び、束帯姿の大きな特徴である。また、裾の長さによって身分が表されるようになると、下襲自体が長大になった為、下襲と裾が分離するようになった(別裾)。その場合、下襲を着た後に腰に裾を当て、裾から伸びる帯を前に回して結びつけた。しかしながら、天皇と皇太子が着用するものに関しては下襲と裾が続くものとされている。また、纔著(さいじゃく)と言われる丈の短い裾もあり、地下官人の束帯に用いられた。 文官は冬期は半臂を廃して着用していた。これは文官の用いる縫腋袍は脇が縫われているので、着用の有無を外見から判別出来ない為である。夏期は半臂が透ける(袍の布地が薄い為)ので着用されていたが、近世に入ってからは夏期も廃された。なお、『今鏡』には、冬期にくだけた場面で袍を肩脱ぎした際、皆下襲が露わになる中で藤原教通のみがきちんと半臂を着用しており、周囲がいたく自らを恥じた、という伝承が残されている。この事から、本来は冬期も半臂を着用する制であったことが窺える。天皇に関しては半臂を略さないとされる。 衣冠は本来、宮中に於ける宿直用の装束(とのいぎぬ)であったが、宮中での勤務服として定着するにつれ、束帯は儀式に用いる儀礼的な服となった。このため、両者をまとめて「衣冠束帯」とも呼ぶ。 黄櫨染御袍 有職故実 位階 日本の官制 ドレスコード 佐多芳彦 「公武服制の成立と展開(「朝服」と「束帯」―用例からみた平安初期公家服制)」 『服制と儀式の有職故実』 吉川弘文館 津田大輔 「平安時代前期服飾復元の可能性--考証の方法と男子装束の復元」 古代文化研究16 島根県古代文化センター 2008年 風俗博物館", "水干(すいかん)は、男子の平安装束の一つ。名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴雨両用に便利なため(『続深窓秘抄』)ともいうが、いずれにせよ簡素な服飾であることからの命名のようである。 狩衣に似て盤領(丸えり)の一つ身(背縫いがない)仕立てである。ただし襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端につけられた紐で結んで止める。胸元と袖には総菊綴(ふさきくとじ)の装飾がある。袖口部分には袖括りがあり、刺し貫いた長部分を「大針」、短部分を「小針」と言い、下に出た余り部分を「露」と称した。 平安時代末期の絵巻では、都の庶民の多くが水干を着ている様子が見られる。生地は絹や麻布など一定しない。庶民は麻を染めたり摺ったりして色や文様を表した生地を用いていたようであるし、貴族が着る場合は高級な生地を多用した。また鎌倉時代から室町時代には公武の童形(元服前)の礼装として多用される。白拍子の水干も、童形水干と発想がつながるものであろう。 着装は通常袴に籠めて着装するが、寺院の稚児などには掛水干といって狩衣のように袴の上に着て帯を締める着装も行われた。襟の紐は普通に結ぶほか、襟を折って胸前で結ぶなどさまざまな着方が行われ、近世武家故実においては諸説がおこなわれた。 貴族の着装の機会は、院政期から鎌倉時代に、上皇が宇治などの遠所に御幸するときに供奉の貴族が用いた例などを挙げることができ、鎌倉時代後期の「春日権現験記絵」や「なよ竹物語絵巻」では貴族が家庭内での略装として黄色い無文水干を用いている図が見られる。しかし、室町時代に入ると貴族にも直垂が広まり、武家も直垂を多用したので、童水干などを除いて着装機会は減少した。近世では新井白石像に水干着装図が見られるなどしばしば用いられたが、幕府の服飾制度からは脱落している。公家社会では、白生平絹や白精好地に白い紐、黒い袖括りと菊綴をつけ、同じ生地で黒い菊綴を着けた「長絹」という水干が童形の礼装として多用された。またしばしば公家の従者の装束としても使用されている。 女子用としては白拍子が用いたことが良く知られている。第二次世界大戦後は女子神職の略装として掛水干が用いられたが、平成に入って女子神職の装束が新たに制定されて、神社本庁の服制からも脱落することとなった。なお、出雲大社では平成28年の規則改訂後も女性の水干使用が認められている。 ^ 近藤良和、平凡社新書『装束の日本史』(初版発行2007年1月11日)P164-174。 ^ 『出雲大社教教規』発行出雲大社教教務本庁昭和27年9月1日発行平成13年改訂33頁 括り緒の袴", "表衣(うわぎ・ひょうい・うえのきぬ)は身体上部の外層に着用する衣服。「うえのきぬ」は特に袍、また「うわぎ」は女房装束を構成する衣の一つを称する。女房装束における表衣は、五衣(数枚以上袿を重ねたもの)と打衣の上に着用する。形は単や袿と変わらないが、目に留まるため、二陪織物(ふたえおりもの)などの豪華な生地から調製することもある。 女性神職装束の表衣は、正絹固地綾無双織、三重欅向蝶、井桁花菱四ツ華文、亀甲向蝶などを用いる。 ^ 『神祭具便覧40巻』民俗工芸平成28年9月発行全438頁80頁" ]
ABC01-02-0041
人を奮い立たせる、という意味の言葉で、「檄」は「飛ばす」と言いますが、「発破」はどうする、というでしょう?
乗法
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[ "乗法", "逐次積分", "テトレーション", "除法", "整数の合同" ]
[ "算術における乗法 (じょうほう、英: multiplication) は、算術の四則と呼ばれるものの一つで、整数では、一方の数 (被乗数、ひじょうすう、英: multiplicand) に対して他方の数 (乗数、じょうすう、英: multiplier) の回数だけ繰り返し和をとる(これを掛けるまたは乗じるという。)ことにより定義できる演算である。掛け算(かけざん)、乗算(じょうざん)とも呼ばれる。代数学においては、変数の前の乗数(例えば 3y の 3)は係数(けいすう、英: coefficient)と呼ばれる。 逆の演算として除法をもつ。乗法の結果を積 (せき、英: product) と呼ぶ。 乗法は、有理数、実数、複素数に対しても拡張定義される。また、抽象代数学においては、一般に可換とは限らない二項演算に対して、それを乗法、積などと呼称する(演算が可換である場合はしばしば加法、和などと呼ぶ)。 (いずれも 0 でない)自然数 m (被乗数)と n (乗数)に対して、m を n 個分加えた数 m + m + ⋯ + m ⏞ n  times {\\displaystyle \\overbrace {m+m+\\cdots +m} ^{n{\\text{ times}}}} を m × n, m · n, mn などのように書いて m に n を掛けた数とか m に n を乗じた数とか m と n の積、m 掛ける n などという。言語によってはその自然な語順から、同じく m を n 個分加えた数を n × m, n · m, nm などのように上と逆順に記す場合もある(たとえば英語では n × m を普通 n times m すなわち n 回の m と読む。n multiplied by m、すなわち、m を乗じた n と読むこともある。)。 カメラのレンズ倍率やCDの倍速表示などは、英語のtimes表記である。言語の表記の都合による、こういった順序であるが、数値の乗算においては、この演算について交換法則が成り立つ(後述)という性質によって、どちらも同一視する[要出典]。 n = 0 のときは、n × m = 0 × m は 0 であると約束する。 さらに整数同士の乗法は、負の整数を掛けるという事を以下のように定める: 整数 m と自然数 n に対して m × (−n) := (−m) × n すなわち、「負の整数 −n を掛ける」ということを、「対応する正の整数 n の数だけ符号を反転した整数(ここでは −m)を加える」という演算として定義する。 算術において、乗法はしばしば、記号 \"×\" を項の間に用いることで書かれる。すなわち、中置記法である。例えば、 2 × 3 = 6 {\\displaystyle 2\\times 3=6}  (2かける3は6、2かける3いこーる6、にさんがろく、等と読む) 3 × 4 = 12 {\\displaystyle 3\\times 4=12} 2 × 3 × 5 = 6 × 5 = 30 {\\displaystyle 2\\times 3\\times 5=6\\times 5=30} 2 × 2 × 2 × 2 × 2 = 32 {\\displaystyle 2\\times 2\\times 2\\times 2\\times 2=32} この記号は Unicode で U+00D7 × multiplication sign (HTML: &#215; &times;) でエンコードされている。 乗法には他の数学的表記(英語版)もある。 乗法はドット記号によっても表される。通常位置は真ん中であるが、ピリオドとすることもある。 5 ⋅ 2 or 5 . 2 {\\displaystyle 5\\cdot 2\\quad {\\text{or}}\\quad 5\\,.\\,2} ミドルドットの記法は、Unicode では U+22C5 ⋅ dot operator としてエンコードされていて、日本やアメリカ、イギリスでは標準的であり、ピリオドが小数点として用いられるその他の国々でも標準的である。ドット演算子の文字が利用可能でない時は、中黒 (·) が用いられる。小数点としてコンマを用いるフランス等の国々では、ピリオドもミドルドットも乗法に用いられる[要出典]。 代数学において、変数を含む乗法はしばしば並置として書かれる(例えば、x 掛ける y の意味で xy や、5 掛ける x の意味で 5x など)。この表記はかっこで囲まれた量に対して用いることもできる(例えば、5 掛ける 2 の意味で、5(2) あるいは (5)(2) など)。乗法の記号を省略することは、その部分の変数が他の変数の名前と一致してしまうときや、かっこの前の変数名が関数名と混同されるとき、あるいは演算の優先順位の正しい決定において、曖昧さを引き起こすことがある。 行列の乗法[疑問点 – ノート]においては、クロス記号とドット記号の間には明確な違いがある。クロス記号は一般に2つのベクトルのクロス積を表し、その演算結果はベクトルであるが、ドット記号は、2つのベクトルのドット積を表し、演算結果はスカラーである。 コンピュータープログラミングにおいては、(5*2 のように)アスタリスクを用いて書くのが最も一般的である。これは歴史的事情によるもので、多くのコンピュータは(ASCII や EBCDIC のように)文字集合が小さく制限されていて(• や × のような)乗法記号を持っておらず、しかしアスタリスクはすべてのキーボードに存在した。この使用法の起源は FORTRAN プログラミング言語である。 (有限あるいは無限)数列の積は、ギリシャ文字パイの大文字 Π を用いて書かれる。詳細は総乗を参照。 n と m が自然数であるとき、n を m 個加えたものと m を n 個加えたものは同じ数である。すなわち 交換法則: n × m = m × n が成り立つ。また、回帰的に複数回の乗法を行ったものは積をとる順序によらない。すなわち 結合法則: (n × m) × l = n × (m × l) が成り立つ。3 つの数の積は n × m × l := (n × m) × l = n × (m × l) とする(4 つ以上の数の積も同様である)。ただし無限個の数の積についてはこの限りではない(詳細は総乗の項を参照されたい)。 積と和の間には次の法則が成り立つ: 分配法則: n × (m + l) = n × m + n × l この性質は、乗法の一般化において重要な手がかりとなる。 掛け算は割り算を統合する。すなわち、「q で割る」という除法の計算を「q の逆数 1/q を掛ける」という操作とみなす。 x × (p / q) := (x × p) ÷ q. p q × r s := p × r q × s {\\displaystyle {\\frac {p}{q}}\\times {\\frac {r}{s}}:={\\frac {p\\times r}{q\\times s}}} この定義は、割合の計算を考えることにより意味づけすることができる。 分配法則が成り立つものとして多項式同士の積が定義できる。 自然数や整数における上記の積の定義を再考すれば、加えられる対象である m は自然数や整数に限らずともよいことがわかる。実際、x として有理数や実数など和が定義できるものを考えれば、x を繰り返し加えることとして自然数を掛けることができる。また整数を掛けるためには、数 x は加法的逆元(マイナスの数)が定義できるものであれば何でも良い。すなわち x をあるアーベル群の元とするとき、n が整数であれば n x = { x + x + ⋯ + x ⏞ n   t i m e s n > 0 0 n = 0 ( − x ) + ( − x ) + ⋯ + ( − x ) ⏟ | n |   t i m e s n < 0 {\\displaystyle nx={\\begin{cases}\\overbrace {x+x+\\cdots +x} ^{n{\\rm {\\ times}}}&n>0\\\\0&n=0\\\\\\underbrace {(-x)+(-x)+\\cdots +(-x)} _{|n|{\\rm {\\ times}}}&n<0\\end{cases}}} として n を掛ける操作を定義できる。このことを「整数全体の集合はアーベル群に自然に作用する」と言い表す。 紀元前2700年から紀元前2300年にかけてのシュメールでアバカスが使われ、楔形文字で記された粘土板の乗算表が発見されている。紀元前2世紀には算盤が中国に伝えられた。算盤には乗法を素早く計算する技法が発達していた。 日本の記録では『日本風土記』(1570年代)に「そおはん」という呼称で出てくるのが初出である。現在も、新頭乗法、頭乗法、尾乗法などの乗算アルゴリズムが使われている。 ジョン・ネイピアは、科学で必要な計算を簡単にするべく計算技術として対数の概念を導入し、対数表(英語版)(1598年)を発表した。古くから A B = e log ⁡ A + log ⁡ B {\\displaystyle AB=\\mathrm {e} ^{\\log {}A+\\log {}B}} という等式を利用する乗算の方法が知られており、対数表によって積の計算を和の計算に置き換えて近似値を求めることが出来るようになった。対数の導入によって、ヨハネス・ケプラーの天体軌道計算などの科学計算が可能となり、科学の急激な発展をもたらした。 エドマンド・ガンターが対数尺(1620年)を、ウィリアム・オートレッドが2つの対数尺を組み合わせた計算尺(1632年)を発明し、電卓が普及する1980年代まで使用された。 科学の急激な発展と共に、より精度の高い対数表に対する需要が大きくなった。 マルティン・ヴィーベリは、1875年に対数表を作成することが出来る階差機関に似た機構を持つ機械を発明した。 アナログ乗算器でも対数を用いた A B = e log ⁡ A + log ⁡ B {\\displaystyle AB=\\mathrm {e} ^{\\log {}A+\\log {}B}} という等式を利用する方法が用いられていた。 ENIACの開発において、アーサー・バークスが初めてデジタル乗算器を開発した。 デジタル乗算器では、ブースの乗算アルゴリズムと呼ばれる方法が開発された。加算よりも高速なビット演算の算術シフトを利用して高速化している。 カラツバ法(1960年) en:Toom–Cook multiplication(1963年)カラツバ法はToom-3の特別な場合である。 ショーンハーゲ・ストラッセン法(1971年)1965年に高速フーリエ変換/離散フーリエ変換のCooley-Tukey型FFTアルゴリズム(英語版)が発見され、FFTを使う方法が開発された。ショーンハーゲ・ストラッセン法は、カラツバ法やToom-3より高速なアルゴリズムである。 en:Fürer's algorithm(2007年)Schönhage–Strassenより高速。 シュトラッセンのアルゴリズム(1969年) × 総乗 倍 かけ算の順序問題 Boyer, Carl B. (revised by Merzbach, Uta C.) (1991). History of Mathematics. John Wiley and Sons, Inc.. ISBN 0-471-54397-7.  Multiplication and Arithmetic Operations In Various Number Systems at en:cut-the-knot Modern Chinese Multiplication Techniques on an Abacus", "数学の微分積分学周辺分野における逐次積分(ちくじせきぶん、英: iterated integral; 累次積分、反復積分)または繰り返し積分 (repeated integral) とは、複数の変数を持つ函数に対して、そのいくつかの変数を任意定数と看做すことによって得られる複数の積分を繰り返し適用して得られる積分のことである。例えば二変数函数 f(x, y) に対して、y は定数(あるいは助変数)と看做して x に関する積分 ∫ f(x, y)dx を考えることができて、これは y の函数をあたえるから、さらに y に関して積分して、逐次積分 ∫ ( ∫ f ( x , y ) d x ) d y {\\displaystyle \\int \\left(\\int f(x,y)dx\\right)dy} が得られる。逐次積分の概念を考えるに当たり一つ重要な点としては、これは多重積分 ∬ f ( x , y ) d x d y {\\displaystyle \\iint f(x,y)\\,dx\\,dy} とは原則として異なる概念であるということが挙げられる。すなわち、一般にはこの二つは異なるのであるけれども、それでも十分緩やかな条件下でこれらが一致することを主張するフビニの定理が知られている。 括弧を省いて表記を簡素化する ∫ d y ∫ f ( x , y ) d x {\\displaystyle \\int dy\\int f(x,y)\\,dx} のような記法も慣習的によく用いられるが、これを ∫dy と ∫f(x)dx との積と混同してはならない。 逐次積分は、括弧などで指定された演算順序に従って計算していくことになるが、内側から順に逐次外側へ向かって計算するのが自然である。 逐次積分 ∫ ( ∫ ( x + y ) d x ) d y {\\displaystyle \\int \\left(\\int (x+y)\\,dx\\right)dy} の計算については、内側の x に関する積分が y を定数とみて ∫ ( x + y ) d x = x 2 2 + y x {\\displaystyle \\int (x+y)\\,dx={\\frac {x^{2}}{2}}+yx} と計算できるから、これを y に関して積分して ∫ ( x 2 2 + y x ) d y = y x 2 2 + x y 2 2 {\\displaystyle \\int {\\Bigl (}{\\frac {x^{2}}{2}}+yx{\\Bigr )}dy={\\frac {yx^{2}}{2}}+{\\frac {xy^{2}}{2}}} を得る。ただし、この計算の過程で現れるはずの積分定数については省略した。注意すべきは、最初に内側の積分を行ったときに現れる積分定数とは、x に関して言う限りにおいて「定数」なのであって、これは厳密に言えば y を含む函数となることである。これは、積分函数を x に関して(偏)微分するならば、もともとの被積分函数が何であるかとは無関係に y のみを含む項はすべて消えることに起因する。同様に、二度目の積分では y に関する積分をするから、「積分定数」として x の函数が加えられる。このような事情から、多変数函数に対する不定積分というものはそれほど明確な意味を持つものとはならない。一変数函数の原始函数が高々定数の違いしか持たないのに対して、多変数函数の原始函数に変数を含む未知項が現れることは函数の振る舞いを劇的に変えてしまうのである。 逐次積分において、どの順番で積分を計算するかは重要なことである。例えば、計算順序が変われば結果も変わるということが、少し複雑な函数に対しては普通に起きる。 正数からなる単調増加数列 0 < a0 < a2 < … が an → 1 を満たすとし、連続函数 gn が開区間 (an, an+1) で 0 でなく、それ以外では常に 0 となるものとして、さらに任意の n について ∫1 0 gn = 1 が満たされるならば、 f ( x , y ) = ∑ n = 0 ∞ ( g n ( x ) − g n + 1 ( x ) ) g n ( y ) {\\displaystyle f(x,y)=\\sum _{n=0}^{\\infty }(g_{n}(x)-g_{n+1}(x))g_{n}(y)} なる和によって函数 f(x, y) を定義することができる。これは各 (x, y) を決めるごとに 0 でない項は高々ひとつしかないことに注意すれば、 ∫ 0 1 ( ∫ 0 1 f ( x , y ) d y ) d x = 1 ≠ 0 = ∫ 0 1 ( ∫ 0 1 f ( x , y ) d x ) d y {\\displaystyle \\int _{0}^{1}\\left(\\int _{0}^{1}f(x,y)\\,dy\\right)dx=1\\neq 0=\\int _{0}^{1}\\left(\\int _{0}^{1}f(x,y)\\,dx\\right)dy} なることが確かめられる(Rudin 1970)。 W., Rudin (1987). Real and complex analysis (3rd. ed.). McGraw-Hill. ISBN 0-07-054234-1.  高木貞治 『解析概論』 岩波書店、改訂第三版。 河野俊丈 『反復積分の幾何学』 シュプリンガージャパン〈シュプリンガー現代数学シリーズ〉、2009年。ISBN 978-4431706694。 Weisstein, Eric W. \"Repeated Integral\". MathWorld(英語). CS1 maint: Multiple names: authors list integral over plane region - PlanetMath.(英語)", "テトレーション(英: tetration)とは、冪乗の次の 4 番目のハイパー演算である。つまり、自らの冪乗を指定された回数反復する二項演算である。超冪(ちょうべき)ともいうが、この語は n ≥ 4 番目の一般のハイパー演算を総称するために用いられることもある。 第1から第4のハイパー演算は次のとおり。 加算 (hyper1) a + b = a + 1 + 1 + ⋯ + 1 ⏟ b {\\displaystyle a+b=a+\\underbrace {1+1+\\cdots +1} _{b}} 乗算 (hyper2) a × b = a + a + ⋯ + a ⏟ b {\\displaystyle a\\times b=\\underbrace {a+a+\\cdots +a} _{b}} 冪乗 (hyper3) a b = a ↑ b = a × a × ⋯ × a ⏟ b {\\displaystyle a^{b}=a\\uparrow b=\\underbrace {a\\times a\\times \\cdots \\times a} _{b}} テトレーション (hyper4) b a = a ↑↑ b = a ↑ a ↑ ⋯ ↑ a ⏟ b = a a ⋅ ⋅ a ⏟ b {\\displaystyle {}^{b}a=a\\uparrow \\uparrow b=\\underbrace {a\\uparrow a\\uparrow \\cdots \\uparrow a} _{b}=\\underbrace {a^{a^{\\cdot ^{\\cdot ^{a}}}}} _{b}} 最初の 3 つ(加算、乗算、冪乗)は正則な複素関数へと一般化できるが、テトレーションは正則な複素関数への一般化が確立できず、また初等関数とも見なせない。 テトレーションは b を固定するごとに初等帰納的関数であるが、 b を変数と見なすと初等的ではない。 a を底(てい)、b を高さという。 任意の正の実数 a > 0 および非負整数 n ≥ 0 に対し、次のようにテトレーション na を再帰的に定める。 n a := { 1 if  n = 0 a [ ( n − 1 ) a ] if  n > 0 {\\displaystyle {}^{n}a:={\\begin{cases}1&{\\text{if }}n=0\\\\a^{\\left[{}^{(n-1)}a\\right]}&{\\text{if }}n>0\\end{cases}}} この定義から明らかなように、冪の計算は右側(指数タワー表示における右上)から行われる。これはプログラミングにおける右結合に相当する。 4 2 = 2 2 2 2 = 2 [ 2 ( 2 2 ) ] = 2 ( 2 4 ) = 2 16 = 65536 {\\displaystyle {}^{4}2=2^{2^{2^{2}}}=2^{\\left[2^{\\left(2^{2}\\right)}\\right]}=2^{\\left(2^{4}\\right)}=2^{16}=65536} 冪は結合法則を満たさないため、計算の順序を変えると値が変わってしまう。 4 2 = 2 2 2 2 ≠ [ ( 2 2 ) 2 ] 2 = 2 2 ⋅ 2 ⋅ 2 = 2 8 = 256 {\\displaystyle {}^{4}2=2^{2^{2^{2}}}\\neq \\left[{\\left(2^{2}\\right)}^{2}\\right]^{2}=2^{2\\cdot 2\\cdot 2}=2^{8}=256} a と 10 が互いに素であるとき、na の最後の d 桁がオイラーの定理から求められる。 テトレーションには多数の表記が存在する。テトレーションに使われる表記の中にはペンテーションやヘキセーションなど、より高次のハイパー演算の表記にも使用できるものもいくつかある。 上の表にある反復指数関数は、一般に次のように定義されるものである。 exp a n ⁡ ( x ) = a a ⋅ ⋅ a x {\\displaystyle \\exp _{a}^{n}(x)=a^{a^{\\cdot ^{\\cdot ^{a^{x}}}}}} (n 個の a の上に x が乗っている) 反復指数関数の表記のうち幾つかを以下に列挙する。 以下の表では、大部分の値が指数表記による表記すら困難なほど巨大であるため、それらの表記には底を 10 とした反復指数関数を用いた。なお小数部を持つ値はすべて近似値である。 任意の正の整数 n に対し、 nx の微分は次のようになる。 d d x n x = 1 x ∑ k = 1 n ( ln ⁡ x ) k − 1 ∏ j = n − k n j x {\\displaystyle {\\frac {\\mathrm {d} }{{\\mathrm {d} }x}}{}^{n}x={\\frac {1}{x}}\\sum _{k=1}^{n}(\\ln x)^{k-1}\\prod _{j=n-k}^{n}{}^{j}x} 1/2x、 2x の 0 から 1 までの定積分は二年生の夢と呼ばれる。 ∫ 0 1 1 2 x d x = ∑ n = 1 ∞ 1 2 n ( = 1.29128599706266354040728259059560054149861936827 … ) ∫ 0 1 2 x d x = − ∑ n = 1 ∞ 2 ( − n ) ( = 0.78343051071213440705926438652697546940768199014 … ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\int _{0}^{1}{\\frac {1}{{}^{2}x}}\\mathrm {d} x&=\\quad \\sum _{n=1}^{\\infty }{\\frac {1}{{}^{2}n}}&{\\scriptstyle (=1.29128599706266354040728259059560054149861936827\\dots )}\\\\\\int _{0}^{1}{{}^{2}x}\\,\\mathrm {d} x&=-\\sum _{n=1}^{\\infty }{{}^{2}(-n)}&{\\scriptstyle (=0.78343051071213440705926438652697546940768199014\\dots )}\\end{aligned}}} 任意の正の整数 n に対し、nx の不定積分は次のようになる。 ∫ n x d x = ∑ j = 0 n ( − 1 ) j ( j + 1 ) j − 1 j ! b j ( x ) + ∑ j = n + 1 ∞ ( − 1 ) j a n , j b j ( x ) + C {\\displaystyle \\int {}^{n}x{\\mathrm {d} }x=\\sum _{j=0}^{n}{\\frac {(-1)^{j}(j+1)^{j-1}}{j!}}b_{j}(x)+\\sum _{j=n+1}^{\\infty }(-1)^{j}a_{n,j}b_{j}(x)+C} ここで aj,k は a j , k = { 1 if  k = 0 1 k ! if  j = 0 1 k ∑ l = 1 k l a j , k − l a j − 1 , l − 1 otherwise {\\displaystyle a_{j,k}={\\begin{cases}1&{\\text{if }}k=0\\\\{\\frac {1}{k!}}&{\\text{if }}j=0\\\\{\\frac {1}{k}}\\sum _{l=1}^{k}la_{j,k-l}a_{j-1,l-1}&{\\text{otherwise}}\\end{cases}}} で与えられる有理数であり、 bj (x) は第2種不完全ガンマ関数を用いて b j ( x ) = Γ ( j + 1 , ln ⁡ x ) {\\displaystyle b_{j}(x)=\\Gamma \\left(j+1,\\ln x\\right)} で与えられる。 テトレーションは、高さが正の整数以外の場合に拡張できる。 0の0乗が単純には定義できないため、 k0 は直接定義できないが、極限が lim n → 0 + k n = { 1 k ∈ 2 Z 0 k ∈ 2 Z + 1 {\\displaystyle \\lim _{n\\to 0+}{}^{k}n={\\begin{cases}1&k\\in 2\\mathbb {Z} \\\\0&k\\in 2\\mathbb {Z} +1\\end{cases}}} と収束するため、 k 0 = { 1 k ∈ 2 Z 0 k ∈ 2 Z + 1 {\\displaystyle {}^{k}0={\\begin{cases}1&k\\in 2\\mathbb {Z} \\\\0&k\\in 2\\mathbb {Z} +1\\end{cases}}} と定義する。(ここで、 2Z 、 2Z+1 はそれぞれ偶数、奇数の集合を表す。) なお、ここで 00 が一意に決まらないにもかかわらず 20 (= 00) が定義できるのは、 ab の a と b が等しいという条件下で極限を取ったからである。 複素数の累乗が可能なことから、テトレーションは複素数の底に対しても定義できる。 例えばテトレーション ni は対数関数の主枝を用いて定められる。このときオイラーの公式から次の式が得られる。 i a + b i = e 1 2 π i ( a + b i ) = e − 1 2 π b ( cos ⁡ π a 2 + i sin ⁡ π a 2 ) {\\displaystyle i^{a+bi}=e^{{\\frac {1}{2}}\\pi i(a+bi)}=e^{-{\\frac {1}{2}}\\pi b}\\left(\\cos {\\frac {\\pi a}{2}}+i\\sin {\\frac {\\pi a}{2}}\\right)} 従って任意の ni = a + bi に対して n + 1i = a′ + b′i が次のように再帰的に定義できる。 a ′ = e − 1 2 π b cos ⁡ π a 2 b ′ = e − 1 2 π b sin ⁡ π a 2 {\\displaystyle {\\begin{aligned}a'&=e^{-{\\frac {1}{2}}{\\pi b}}\\cos {\\frac {\\pi a}{2}}\\\\b'&=e^{-{\\frac {1}{2}}{\\pi b}}\\sin {\\frac {\\pi a}{2}}\\end{aligned}}} ここから以下の近似値が導かれる。 同様に値を逆向きに求めていくことで 0i = 1、 −1i = 0 が得られる。 ni の値を複素平面上にプロットすると、点列は渦巻状に極限値 0.4383 + 0.3606i へと近づく。この値は n→∞ のときと解釈できる。 このようなテトレーションの列に関する研究はオイラーの時代から続けられてきているものの、そのカオス的な振る舞いのために不明な所が多い。これまでに発表された研究のほとんどは、無限反復指数関数の収束について焦点を当てたものである。現在の研究は高性能のコンピュータを用いたフラクタルと数式処理システムの出現に大きな恩恵を受けている。テトレーションについて分かっていることの多くは、複素力学系の一般的な知識と、指数写像の専門的な研究によるものである。 ある範囲の底 a に対して limn→∞ na は有限の値に収束するので、この範囲においてテトレーションは高さ無限大の場合へ拡張できる。例えば limn→∞ n(√2) は収束して、その値は 2 であるから、 ∞(√2) = 2 であると言える。 一般に無限反復指数関数 x x ⋅ ⋅ ⋅ {\\displaystyle x^{x^{\\cdot ^{\\cdot ^{\\cdot }}}}} は、 n が無限大に向かうときの nx の極限として定義される。これが e−e ≤ x ≤ e1/e (およそ 0.066 から 1.44)の範囲で収束することはオイラーによって示された。 極限値 ∞x が存在するとき、これは方程式 ∞ x = x ∞ x {\\displaystyle {}^{\\infty }x=x^{{}^{\\infty }x}} (1) を満たす正の実数に等しい。 式(1)より x = (∞x)1/∞x であり、このとき右辺の最大値が e1/e であることから、 x > e1/e については極限値が存在しないことがわかる。また x ↦ ∞ x {\\displaystyle x\\mapsto {}^{\\infty }x} は y ↦ y 1 / y {\\displaystyle y\\mapsto y^{1/y}} の逆関数(の分岐の下部)であることがわかる。 式(1)から、極限値 ∞z をランベルトのW関数 W を用いて次のように定義することで複素数の底 z に対しても拡張される。 ∞ z = z z ⋅ ⋅ ⋅ = W ( − ln ⁡ z ) − ln ⁡ z {\\displaystyle {}^{\\infty }z=z^{z^{\\cdot ^{\\cdot ^{\\cdot }}}}={\\frac {\\mathrm {W} (-\\ln {z})}{-\\ln {z}}}} (2) 定義より k n = log n ⁡ { ( k + 1 ) n } {\\displaystyle {}^{k}n=\\log _{n}\\left\\{{}^{(k+1)}n\\right\\}} が成り立つので、この関係を k ≤ 0 に対しても帰納的に拡張し 1 n = log n ⁡ ( 2 n ) = log n ⁡ ( n n ) = n log n ⁡ n = n 0 n = log n ⁡ ( 1 n ) = log n ⁡ n = 1 − 1 n = log n ⁡ ( 0 n ) = log n ⁡ 1 = 0 {\\displaystyle {\\begin{array}{rclclcccc}{}^{1}n&=&\\log _{n}\\left({}^{2}n\\right)&=&\\log _{n}\\left(n^{n}\\right)&=&n\\log _{n}n&=&n\\\\{}^{0}n&=&\\log _{n}\\left({}^{1}n\\right)&=&\\log _{n}n&&&=&1\\\\{}^{-1}n&=&\\log _{n}\\left({}^{0}n\\right)&=&\\log _{n}1&&&=&0\\end{array}}} と定義する。 ただし、定義できるのは k = −1 までで、log 0 が存在しないため k = −2 に対しては定義できず、したがって k ≤ −2 に対して拡張できない。 テトレーションを高さ実数または複素数へ拡張する、という一般的な問題への広く受け入れられた解答は今のところ存在しない。いくつかのアプローチについて以下で述べる。 一般にこの問題は任意の実数 a > 0 に対し、実数 x > −2 で定義され、次の条件を満たす超指数関数 f (x) = xa を求めるものである。 f (0) = 1、 f (−1) = 0 任意の実数 x > −1 に対し f (x) = a↑↑(f (x−1)) 三つ目の条件は通常次の中のどれかである。 連続性(通常は x > 0 における a、 x についての連続性) 微分可能性(x についての 1、 2、 k 回または無限回微分可能性) 正則性(x についての 2 階微分可能性を含む) 任意の実数 x > 0 に対して d 2 d x 2 f ( x ) > 0 {\\displaystyle \\displaystyle {{\\frac {\\mathrm {d} ^{2}}{\\mathrm {d} x^{2}}}f(x)>0}} が成立する。 三つ目の条件は著者およびアプローチによって異なる。実数高さへの拡張には二つの主要なアプローチが存在し、一つは正則性、もう一つは微分可能性に基づいたものである。これらの二つのアプローチは、相反する結果を導くことから互いに大きく異なるとされ、調和は難しいと考えられている。 長さ 1 の区間で xa が定義されれば、任意の x >−2 に対し容易に拡張される。 一次近似(連続性のもと微分可能性を近似)は次のように与えられる。 x a ≈ { log a ⁡ ( x + 1 a ) x ≤ − 1 1 + x − 1 < x ≤ 0 a ( x − 1 a ) 0 < x {\\displaystyle {}^{x}a\\approx {\\begin{cases}\\log _{a}({}^{x+1}a)&x\\leq -1\\\\1+x&-1<x\\leq 0\\\\a^{\\left({}^{x-1}a\\right)}&0<x\\end{cases}}} ゆえに と以下続く。但しこの微分可能性はあくまで区分的なものである。整数 x を境に微分係数が ln a 倍されるため、(a = e の場合を除いて)整数 x において微分不可能となる。 以下は値の計算例である。 π / 2 e ≈ 5.868... − 4.3 0.5 ≈ 4.03335... − 5.264 0.6 ≈ − 5.35997... 3.1 0.7 ≈ 0.7580... {\\displaystyle {\\begin{aligned}{}^{\\pi /2}e&\\approx 5.868...\\\\{}^{-4.3}{0.5}&\\approx 4.03335...\\\\{}^{-5.264}{0.6}&\\approx -5.35997...\\\\{}^{3.1}{0.7}&\\approx 0.7580...\\end{aligned}}} フーシュマンドは ultra exponential function という関数を導入した。 これはテトレーションの一次近似を表し、 uxpa (x) と表記される。 uxpa は、次の定理によって一意に定められる。 定理 ―  0 < a ≠ 1 {\\displaystyle 0<a\\neq 1} に対し、連続な関数 f : ( − 2 , + ∞ ) → R {\\displaystyle f\\colon (-2,+\\infty )\\to {\\mathbb {R} }} が条件 任意の実数 x > − 1 {\\displaystyle x>-1} に対し f ( x ) = a f ( x − 1 ) {\\displaystyle f(x)=a^{f(x-1)}} f ( 0 ) = 1 {\\displaystyle f(0)=1} f {\\displaystyle f} は ( − 1 , 0 ) {\\displaystyle (-1,0)} で微分可能 f ′ {\\displaystyle f'} は ( − 1 , 0 ) {\\displaystyle (-1,0)} で広義単調増加か広義単調減少 lim x → 0 + f ′ ( x ) = ( ln ⁡ a ) lim x → 0 − f ′ ( x ) {\\displaystyle \\lim _{x\\to 0+}f'(x)=(\\ln a)\\lim _{x\\to 0-}f'(x)} を満たすとき、 f {\\displaystyle f} は次の方程式によって一意に定まる。 f ( x ) = exp a [ x ] ⁡ ( a { x } ) = exp a [ x + 1 ] ⁡ ( { x } ) {\\displaystyle f(x)=\\exp _{a}^{[x]}\\left(a^{\\lbrace {x}\\rbrace }\\right)=\\exp _{a}^{[x+1]}\\left(\\lbrace {x}\\rbrace \\right)} 但し [ x ] {\\displaystyle [x]} はガウス記号であり、また { x } = x − [ x ] {\\displaystyle \\lbrace {x}\\rbrace =x-[x]} である。 証明は、三番目から五番目の条件より f が [−1, 0] で線型となることから従う。 フーシュマンドはさらに次のような一意性定理を導いた。 定理 ―  連続な関数 f : ( − 2 , + ∞ ) → R {\\displaystyle f\\colon (-2,+\\infty )\\to {\\mathbb {R} }} が条件 任意の x > − 1 {\\displaystyle x>-1} に対し f ( x ) = e f ( x − 1 ) {\\displaystyle f(x)=e^{f(x-1)}} f ( 0 ) = 1 {\\displaystyle f(0)=1} f {\\displaystyle f} は ( − 1 , 0 ) {\\displaystyle (-1,0)} で下に凸 lim x → 0 − f ′ ( x ) ≤ lim x → 0 + f ′ ( x ) {\\displaystyle \\lim _{x\\to 0-}f'(x)\\leq \\lim _{x\\to 0+}f'(x)} を満たすとき、 f {\\displaystyle f} は u x p ( = u x p e ) {\\displaystyle \\mathrm {uxp} (=\\mathrm {uxp} _{e})} に等しい。 証明は先とほぼ同様である。漸化式より lim x → − 1 + 0 f ′ ( x ) = lim x → + 0 f ′ ( x ) {\\displaystyle \\lim _{x\\to -1+0}f'(x)=\\lim _{x\\to +0}f'(x)} となること、三番目の条件より f が (−1, 0) で線型となることから従う。 定理より、 x >−1 に対し f (x) = exp (f (x−1)) および f (0) = 1 であって、かつ (−1, +∞) で下に凸であるような関数 f は唯一 uxp のみである。f が十分微分可能であるためには (−1, 0) で極値を持つ必要がある。 (微分可能性についての)二次近似は次のように与えられる。 x a ≈ { log a ⁡ ( x + 1 a ) x ≤ − 1 1 + 2 ln ⁡ ( a ) 1 + ln ⁡ ( a ) x − 1 − ln ⁡ ( a ) 1 + ln ⁡ ( a ) x 2 − 1 < x ≤ 0 a ( x − 1 a ) 0 < x {\\displaystyle {}^{x}a\\approx {\\begin{cases}\\log _{a}({}^{x+1}a)&x\\leq -1\\\\1+{\\frac {2\\ln(a)}{1+\\ln(a)}}x-{\\frac {1-\\ln(a)}{1+\\ln(a)}}x^{2}&-1<x\\leq 0\\\\a^{\\left({}^{x-1}a\\right)}&0<x\\end{cases}}} これは任意の x > 0 について微分可能であるが二階微分可能でない。a = e のときこれは一次近似に等しくなる。 三次近似および高次への一般化は次のように与えられる。 次の条件を満たす関数 F が一意に定まる事が証明されている 。 F (z + 1) = exp (F (x)) F (0) = 1 z→±i∞ のとき F (z) が対数関数の不動点(およそ 0.318 ± 1.337i )に近づく 実数 z < −2 を除く複素平面全域で正則 この関数 F を右図に示す。また、底が e ではない場合についても、底が e 1 / e {\\displaystyle e^{1/e}} よりも大きい場合については同様に証明されている。倍精度浮動小数点数近似はオンラインで公開されている。 テトレーションを一意に定めるためには正則性の条件が重要となる。いま、関数 F に対し関数 S を次のように構成する。 A ( z ) = ∑ n = 1 ∞ sin ⁡ ( 2 π n z ) α n B ( z ) = ∑ n = 1 ∞ ( 1 − cos ⁡ ( 2 π n z ) ) β n S ( z ) = F ( z + A ( z ) + B ( z ) ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}A(z)&=\\sum _{n=1}^{\\infty }\\sin(2\\pi nz)\\alpha _{n}\\\\B(z)&=\\sum _{n=1}^{\\infty }{\\bigl (}1-\\cos(2\\pi nz){\\bigr )}\\beta _{n}\\\\S(z)&=F\\left(z+A(z)+B(z)\\right)\\end{aligned}}} ここで αn、 βn は十分速く減衰する実数列であり、少なくとも実軸の近くで A (z)、 B (z) を収束させるとする。 この関数 S は F と同様に最初の二つの条件 S (z + 1) = exp (S (z))、 S (0) = 1 を満たす。また αn、 βn が十分速く 0 に近づくとき、S は正の実軸近傍で解析的となる。しかし αn、 βn が全て 0 でない場合、S は新たに大量の特異点と不連続線を複素平面上に持つことになる。これは sin (z)、 cos (z) が虚軸に沿って指数関数的に増大するためである。これらの特異点は αn、 βn が小さければ小さいほど実軸から離れていくため、 S が正則であるためには全ての αn、 βn が 0となる、即ち S = F であればよい。 実解析上のテトレーションは一意的に定まらないので、複素平面への拡張は一意性に必要である。 nπ, ne が整数になるような正の整数 n は存在するか。特に 4π は整数か。 与えられた正の整数 n と正の(整数でない)有理数 q に対し、nq は整数か。 特に 4x = 2 の正の解 x は有理数か。 冪は冪根と対数の二つの逆関係を持つ。これに倣って、以下テトレーションの逆関係をそれぞれ超冪根(英: super-root)と超対数(英: super-logarithm)と呼ぶ。 超冪根はテトレーションの底に関する逆関係である。 超平方根(英: super square root)は 2x の逆であり、二つの等価な表記 ssrt(x), √xs を持つ。 この関数は次のようなランベルトのW関数による表示を持つ。 s s r t ( x ) = e W ( l n ( x ) ) = l n ( x ) W ( l n ( x ) ) {\\displaystyle \\mathrm {ssrt} (x)=e^{W(\\mathrm {ln} (x))}={\\frac {\\mathrm {ln} (x)}{W(\\mathrm {ln} (x))}}} またこの関数により、冪根と対数の間の鏡映的な関係が表れる。次の方程式は y = ssrt x のときに真となる。 x y = log y ⁡ x {\\displaystyle {\\sqrt[{y}]{x}}=\\log _{y}x} 平方根と同様に超平方根は一つとは限らない。ただし、平方根と異なり超平方根の個数を決定するのは容易とは言えない。一般に、e−1/e < x < 1 のとき x は二つの正の超平方根を 0 と 1 の間に持ち、1 < x のとき x は 1 より大きい一つの正の超平方根を持ち、0 < x < e−1/e のとき x は超平方根を実数の範囲で持たない。しかし上の式より、任意の x (≠ 1) は可算無限個の超平方根を複素数の範囲で持つことが従う。 超平方根はネットワークのクラスタサイズを決定するのに使用される。 任意の整数 n > 2 に対して nx は定義され、x ≥ 1 のとき増加となり n1 = 1 を満たす。従って x ≥ 1 のとき n√xs は存在する。しかし上述した一次近似を用いた場合、−1 < y ≤ 0 のとき yx は x によらず y + 1 となり、従ってこの場合 x = y√y + 1s は存在しない。 超平方根のほか n 次の超冪根も同様の記号を用いて n√xs と表すことができる。 超冪根は高さが無限大の場合へと拡張することができ、これは 1/e ≤ x ≤ e の場合に限り問題なく定義される(#高さが無限大を参照)。∞x が存在するとき ∞x = x∞x が成り立つことから、無限次の超冪根は初等関数によって ∞√xs = x1/x と表すことができる。例えば ∞√2s = 21/2 = √2 となる。 n を任意の正の整数とするとゲルフォント=シュナイダーの定理より、超平方根 √ns は整数または超越数となり、超立方根 3√ns は整数または無理数(これが超越数かどうかは知られていない)となる。 超対数はテトレーションの高さに関する逆関係である。 テトレーション xa を x に関して連続的に増加するものとして定義すると、任意の実数 x に対し超対数 sloga x (a > 1) が定義される。 この関数 sloga x は以下の式を満たす。 slog a ⁡ x a = x slog a ⁡ a x = 1 + slog a ⁡ x slog a ⁡ x = 1 + slog a ⁡ log a ⁡ x slog a ⁡ x > − 2 {\\displaystyle {\\begin{array}{lcl}\\operatorname {slog} _{a}{^{x}a}&=&x\\\\\\operatorname {slog} _{a}a^{x}&=&1+\\operatorname {slog} _{a}x\\\\\\operatorname {slog} _{a}x&=&1+\\operatorname {slog} _{a}\\log _{a}x\\\\\\operatorname {slog} _{a}x&>&-2\\end{array}}} アッカーマン関数 二重指数関数(英語版) ハイパー演算 ペンテーション 反復対数(英語版) en:Symmetric level-index arithmetic ^ Exploding Array Function ^ 配列表記(巨大数研究 Wiki) ^ Ioannis Galidakis. On Extending hyper4 and Knuth’s Up-arrow Notation to the Reals ^ “Power Verb”. J Vocabulary. J Software. 2011年10月28日閲覧。 ^ Edward Drake Roe, Jr. (1898年). “68”. The American Mathematical Monthly 5: 110. doi:10.2307/2971013. http://www.jstor.org/stable/2971013.  ^ I. N. Galidakis, (2004年). “On an Application of Lambert’s W Function to Infinite Exponentials”. Complex Variables Th. Appl. 49: 759–780. doi:10.1080/02781070412331298796. ISSN 0278-1077. http://www.math.usm.edu/lee/InfiniteExponentials.pdf.  ^ Euler, L., \"De serie Lambertina Plurimisque eius insignibus proprietatibus.\" Acta Acad. Scient. Petropol. 2, 29–51, 1783. Reprinted in Euler, L. Opera Omnia, Series Prima, Vol. 6: Commentationes Algebraicae. Leipzig, Germany: Teubner, pp. 350–369, 1921. (facsimile) ^ M. H. Hooshmand, (2006年). “Ultra power and ultra exponential functions”. Integral Transforms and Special Functions(英語版) 17 (8): 549–558. doi:10.1080/10652460500422247.  ^ Andrew Robbins. Solving for the Analytic Piecewise Extension of Tetration and the Super-logarithm ^ W. Paulsen and S. Cowgill (2017年3月). “Solving F ( z + 1 ) = b F ( z ) {\\displaystyle F(z+1)=b^{F(z)}} in the complex plane”. Advances in Computational Mathematics: 1-22. doi:10.1007/s10444-017-9524-1. http://link.springer.com/article/10.1007/s10444-017-9524-1.  ^ テトレーションおよびその導関数を計算・描画するMathematicaコード ^ Marshall, Ash J., and Tan, Yiren, \"A rational number of the form aa with a irrational\", Mathematical Gazette 96, March 2012, pp. 106-109. ^ a b Corless, R. M.; Gonnet, G. H.; Hare, D. E. G.; Jeffrey, D. J.; Knuth, D. E. (1996年). “On the Lambert W function” (PostScript). 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となる。これらの商および剰余を求める最も原始的な方法は、引けるだけ引き算を行うことである。つまり、13 を 4 で割る例では、13 から 4 を 1 回ずつ引いていき(13 − 4 = 9, 9 − 4 = 5, 5 − 4 = 1 < 4)、引かれる数が 4 より小さくなるまで引き算を行ったら、その結果を剰余、引き算した回数を商とする。これは自然数の乗法を足し算によって行うことと逆の関係にある。 剰余を与える演算に % などの記号を用いる場合がある。 剰余 = 被除数 % 除数 除数が 0 である場合、除数と商の積は必ず 0 になるため商を一意に定めることができない。従ってそのような数 0 を除数とする除法の商は未定義となる(ゼロ除算を参照)。 有理数やそれを拡張した実数、複素数における除法では、整数や自然数の除法と異なり剰余は用いられず、 商 × 除数 = 被除数 という関係が除数が 0 の場合を除いて常に成り立つ。この関係は次のようにも表すことができる。 被除数 ÷ 除数 = 商 実数などにおける定義から離れると、除法は乗法を持つ代数的構造について「乗法の逆元を掛けること」として一般化することができる。一般の乗法は交換法則が必ずしも成り立たないため、除法も左右 2 通り考えられる。 整数 m と n に対して、 m = qn を満たす整数 q が唯一つ定まるとき、m ÷ n = q によって除算を定める。m は被除数(ひじょすう、英: dividend)あるいは実(じつ)と呼ばれ、n は除数(じょすう、英: divisor)あるいは法(ほう、英: modulus)と呼ばれる。また q は m を n で割った商(しょう、英: quotient)と呼ばれる。商 q は他に「m の n を法とする商」「法 n に関する商 (英: quotient modulo n)」 などとも言う。 またこのとき、m は n で整除(せいじょ)される、割り切れる(わりきれる、英: divisible)あるいは n は m を整除する、割り切るなどと表現される。このことはしばしば記号的に n | m と書き表される。 除数 n が 0 である場合を考えると、除数 0 と任意の整数 q の積は 0 となり、被除数 m が 0 なら任意の整数 q が方程式を満たすため、商は一意に定まらない。同様に被除数 m が 0 以外の場合にはどのような整数 q も方程式を満たさないため、商は定まらない。 整数の範囲では上述のような整数 q が定まる保証はなく、たとえば被除数 m が 7 の場合を考えると除数 n が 1, 7, −1, −7 のいずれかでない限り商 q は整数の範囲で定まらない。整数の範囲で商が必ず定まるようにするには、剰余(じょうよ、英: remainder, residue)を導入して除法を拡張する必要がある。つまり、方程式 m = qn + r を満たすような q, r をそれぞれ商と剰余として与える。このような方程式を満たす整数 q, r は複数存在するが(たとえばある q, r に対して q − 1 と n + r の組は同様に上記の方程式を満たす)、剰余 r の取り得る値に制限を与えることで一意に商 q と剰余 r の組を定めることができる。よく用いられる方法は剰余 r を除数 n より絶対値が小さな非負の数と定めることである。このような除法はユークリッド除法と呼ばれる。 m = qn + r かつ 0 ≤ r < |n| これは、感覚的には被除数から除数を引けるだけ引いた残りを剰余と定めているということである。こうして定められる剰余はしばしば「m の n を法とする剰余」「m の法 n に関する剰余 (英: residue modulo \"n\") 」などと言い表される。 剰余 r が 0 でないことはしばしば「m は n で割り切れない」と表現され、記号的に n ł m と表される。 ユークリッド除法による計算例は以下の通りである。以下では除数を 4, −4, 被除数を 22, −22 としている。 0 ≤ r < |n| 22 = 5 × 4 + 2:商 5, 剰余 2 22 = (−5) × (−4) + 2:商 −5, 剰余 2 −22 = (−6) × 4 + 2:商 −6, 剰余 2 −22 = 6 × (−4) + 2:商 6, 剰余 2 「割り切れない」という用語はしばしば「小数点以下が無限に続く」の意で用いられることがあるが、これは誤用である。 他の剰余に対する制限の方法として、剰余の絶対値が最小となるように商を定める方法がある。この方法では、 −|n|/2 < r ≤ |n|/2 あるいは −|n|/2 ≤ r < |n|/2 の範囲に剰余 r が含まれる。この場合、ユークリッド除法と異なり r は負の値を取り得る。このようにして定められる剰余を絶対的最小剰余 (絶対値最小剰余とも。英: least absolute remainder, absolutely least residue, minimal residue) と呼ぶ。 絶対的最小剰余を用いる場合の計算例は以下の通りである。以下では除数を 4, −4, 被除数を 22, −22 としている。 −|n|/2 < r ≤ |n|/2 22 = 5 × 4 + 2:商 5, 剰余 2 22 = (−5) × (−4) + 2:商 −5, 剰余 2 −22 = (−6) × 4 + 2:商 −6, 剰余 2 −22 = 6 × (−4) + 2:商 6, 剰余 2 −|n|/2 ≤ r < |n|/2 22 = 6 × 4 − 2:商 6, 剰余 −2 22 = (−6) × (−4) − 2:商 −6, 剰余 −2 −22 = (−5) × 4 − 2:商 −5, 剰余 −2 −22 = 5 × (−4) − 2:商 5, 剰余 −2 いずれの方法であっても、除数 n が 0 の場合、剰余 r は 0 でなければならず、被除数 m がどのような数であっても商 q を一意に定めることはできない。 絶対的最小剰余とユークリッド除法によって定められる最小非負剰余、あるいは別の方法のいずれを用いるかは自由であり、与えられる剰余がそのいずれかであるかは予め決められた規約に従う。この規約は、計算する対象や計算機の機種、あるいはプログラミング言語により、まちまちである。簡単な分析とサーベイが \"Division and Modulus for Computer Scientists\" という文献にまとめられている。 整数の除法では考えている数(自然数もしくは整数)の範囲内で商を取り直し剰余を定義することにより、除法をその数の範囲全体で定義することができることを述べた。しかしよく知られているように、数の範囲を有理数まで拡張し、商のとり方に有理数を許すことにより、剰余の概念は取り除かれ、有理数の全体で四則演算が自由に行えるようになる。 任意の被除数 a と 0 でない除数が b について、それらの除算は有理数 c を唯一つ与える。 a ÷ b = c . {\\displaystyle a\\div b=c.} この有理数 c は c × b = b × c = a {\\displaystyle c\\times b=b\\times c=a} を満たす。また、除法は除数の逆数の乗算に置き換えることができる。 a ÷ b = a × 1 b . {\\displaystyle a\\div b=a\\times {\\frac {1}{b}}.} 従って除算および乗算の順序は入れ替えることができる。 ( a ÷ b ) × c = ( a × 1 b ) × c = ( a × c ) × 1 b = ( a × c ) ÷ b , ( a ÷ b ) ÷ c = ( a × 1 b ) × 1 c = ( a × 1 c ) × 1 b = ( a ÷ c ) ÷ b . {\\displaystyle {\\begin{aligned}(a\\div b)\\times c&=\\left(a\\times {\\frac {1}{b}}\\right)\\times c=(a\\times c)\\times {\\frac {1}{b}}=(a\\times c)\\div b,\\\\(a\\div b)\\div c&=\\left(a\\times {\\frac {1}{b}}\\right)\\times {\\frac {1}{c}}=\\left(a\\times {\\frac {1}{c}}\\right)\\times {\\frac {1}{b}}=(a\\div c)\\div b.\\end{aligned}}} また、2 つの除算は乗法を用いてまとめることができる。 ( a ÷ b ) ÷ c = a ÷ ( b × c ) . {\\displaystyle (a\\div b)\\div c=a\\div (b\\times c).} しかし、除数と被除数を入れ替えることはできない。 a ÷ b ≠ b ÷ a , {\\displaystyle a\\div b\\neq b\\div a,} ( a ÷ b ) ÷ c ≠ a ÷ ( b ÷ c ) . {\\displaystyle (a\\div b)\\div c\\neq a\\div (b\\div c).} 2つ目の例のように括弧の位置を変えると計算結果が変わってしまうので、 a ÷ b ÷ c {\\displaystyle a\\div b\\div c} と書かれた場合には特別な解釈を与える必要がある。一般的には左側の演算が優先され、下に示す右辺の意味に解釈される。 a ÷ b ÷ c = ( a ÷ b ) ÷ c . {\\displaystyle a\\div b\\div c=(a\\div b)\\div c.} 有理数の除法について、除数を被除数に対して分配することができる。 ( a + b ) ÷ c = a ÷ c + b ÷ c {\\displaystyle (a+b)\\div c=a\\div c+b\\div c} ただし被除数を除数に対して分配することはできない。 a ÷ ( b + c ) ≠ a ÷ b + a ÷ c {\\displaystyle a\\div (b+c)\\neq a\\div b+a\\div c} 有理数の除算の結果は分数を用いて表すことができる。 a ÷ b = a b . {\\displaystyle a\\div b={\\frac {a}{b}}.} ある有理数に対応する分数の表し方は無数に存在する。たとえば 0 でない有理数 c を用いて、 a ÷ b = a c b c = a c b c {\\displaystyle a\\div b={\\frac {ac}{bc}}={\\frac {\\frac {a}{c}}{\\frac {b}{c}}}} と表してもよい。 また有理数は分母と分子がともに整数である分数を用いて表すことができる。2 つの有理数 a, b をそれぞれ整数 p, q, r, s を用いて分数表記する。 a = p q ,   b = r s {\\displaystyle a={\\frac {p}{q}},~b={\\frac {r}{s}}} すると、それらの除算は次のように計算することができる。 p q ÷ r s = p q × s r = p × s q × r = p s q r . {\\displaystyle {\\frac {p}{q}}\\div {\\frac {r}{s}}={\\frac {p}{q}}\\times {\\frac {s}{r}}={\\frac {p\\times s}{q\\times r}}={\\frac {ps}{qr}}.} この表示から明らかなように有理数を有理数で割った商はまた有理数である。あるいは次のように計算してもよい。 p q ÷ r s = p ÷ r q ÷ s = p r q s . {\\displaystyle {\\frac {p}{q}}\\div {\\frac {r}{s}}={\\frac {p\\div r}{q\\div s}}={\\frac {\\frac {p}{r}}{\\frac {q}{s}}}.} このような意味で四則演算が自由に行える集合の抽象化として体の概念が現れる。すなわち、有理数の全体が作る集合 Q は体である。 実数は有理数の極限として表され、それによって有理数の演算から実数の演算が矛盾なく定義される。すなわち、任意の実数 x, y (y ≠ 0) に対し xn → x, yn → y (n → ∞) を満たす有理数の列 {xn}n ∈ N, {yn}n ∈ N(例えば、x, y の小数表示を第 n 桁までで打ち切ったものを xn, yn とするような数列)が与えられたとき x / y := lim n → ∞ x n / y n {\\displaystyle x/y:=\\lim _{n\\to \\infty }x_{n}/y_{n}} と定めると、この値は極限値が x, y である限りにおいて数列のとり方によらずに一定の値をとる。これを実数の商として定めるのである。 実数の除法を用いれば複素数の除法が、被除数が 0 の場合を除いた任意の 2 つの複素数について定義できる。 2 つの複素数 z, w について、w の共役複素数 w を用いれば、複素数の除法 z/w は次のように計算できる(ただし除数 w は 0 でないとする)。 z w = z w w ¯ w ¯ = z w ¯ | w | 2 . {\\displaystyle {\\frac {z}{w}}={\\frac {z}{w}}{\\frac {\\overline {w}}{\\overline {w}}}={\\frac {z{\\overline {w}}}{\\left|w\\right|^{2}}}.} また、複素数 z, w の実部と虚部を 4 つの実数 Re z, Im z, Re w, Im w を用いて z = Re z + i Im z, w = Re w + i Im w と表せば、複素数の除法 z/w は次のように表せる。 z w = Re ⁡ z + i Im ⁡ z Re ⁡ w + i Im ⁡ w = Re ⁡ z Re ⁡ w + Im ⁡ z Im ⁡ w ( Re ⁡ w ) 2 + ( Im ⁡ w ) 2 + i Re ⁡ z Im ⁡ w − Im ⁡ z Re ⁡ w ( Re ⁡ w ) 2 + ( Im ⁡ w ) 2 . {\\displaystyle {\\frac {z}{w}}={\\frac {\\operatorname {Re} z+i\\operatorname {Im} z}{\\operatorname {Re} w+i\\operatorname {Im} w}}={\\frac {\\operatorname {Re} z\\operatorname {Re} w+\\operatorname {Im} z\\operatorname {Im} w}{(\\operatorname {Re} w)^{2}+(\\operatorname {Im} w)^{2}}}+i\\,{\\frac {\\operatorname {Re} z\\operatorname {Im} w-\\operatorname {Im} z\\operatorname {Re} w}{(\\operatorname {Re} w)^{2}+(\\operatorname {Im} w)^{2}}}.} 極形式では z w = | z | e i arg ⁡ z | w | e i arg ⁡ w = | z | | w | e i ( arg ⁡ z − arg ⁡ w ) {\\displaystyle {\\frac {z}{w}}={\\frac {|z|e^{i\\arg z}}{|w|e^{i\\arg w}}}={\\frac {|z|}{|w|}}e^{i(\\arg z-\\arg w)}} と書ける。やはり |w| = 0 つまり w = 0 のところでは定義できない。 代数的には、除法は乗法の逆の演算として定義される。つまり a を b で割るという除法は a ÷ b = x ⟺ a = b × x {\\displaystyle a\\div b=x\\iff a=b\\times x} を満たす唯一つの x を与える演算でなければならない。ここで、唯一つというのは簡約律 b x = b y ⇒ x = y {\\displaystyle bx=by\\Rightarrow x=y} が成立するということを意味する。この簡約律が成立しないということは、bx = by という条件だけからは x = y という情報を得たことにはならないということであり、そのような条件下で強いて除法を定義したとしても益が無いのである。 実数の乗法において、簡約が不能な一つの特徴的な例として b = 0 である場合、つまり「0 で割る」という操作を挙げることができる。実際、b = 0 であるとき a = bx によって除法 a ÷ b を定めようとすると、もちろん a = 0 である場合に限られるが、いかなる x, y についても 0x = 0 = 0y が成立してしまって x の値は定まらない。無論、a ≠ 0 ならば a = 0x なる x は存在せず a ÷ b は定義不能である。つまり、実数の持つ代数的な構造と 0 による除算は両立しない。 割算天下一を名乗った毛利重能の著書「割算書」によれば、割算の起源は以下のように記されている。 夫割算と云は、寿天屋辺連と云所に智恵万徳を備はれる名木有。此木に百味之含霊の菓、一生一切人間の初、夫婦二人有故、是を其時二に割初より此方、割算と云事有 — 鳴海風、小説になる江戸時代の数学者 ^ Leijen 2003 ^ 鳴海 2007 鳴海風 (2007年3月31日). “小説になる江戸時代の数学者 (PDF)”. 日本数学会. 2016年11月13日閲覧。 Daan Leijen (2003年6月1日). “Division and Modulus for Computer Scientists (PDF)” (英語). Microsoft. 2013年11月13日閲覧。 足立恒雄 『数 体系と歴史』 朝倉書店、2002年1月20日。ISBN 978-4-254-11088-3。 彌永昌吉 『数の体系』上、岩波書店〈岩波新書(青版) 815〉、1972年3月25日。ISBN 978-4-00-416001-4。 彌永昌吉 『数の体系』下、岩波書店〈岩波新書(黄版) 43〉、1978年4月20日。ISBN 978-4-00-420043-7。 島内剛一 『数学の基礎』 日本評論社〈日評数学選書〉、2008年12月(原著1971年3月30日)。ISBN 978-4-535-60106-2。 - 1971年3月に「日評数学選書」の1冊として刊行された旧著を、2008年12月に復刊。 高木貞治 『新式算術講義』 高瀬正仁 解説、筑摩書房〈ちくま学芸文庫 タ27-1 Math & Science〉、2008年5月20日(原著1904年6月28日)。ISBN 978-4-480-09146-8。 - 1904年(明治37年)に博文館から発行された旧著の復刊。 高木貞治 『数の概念』 岩波書店、1970年(原著1949年8月20日)、改版。ISBN 978-4-00-005153-8。 エトムント・ランダウ 『数の体系 解析の基礎』 蟹江幸博、丸善出版〈数学クラシックス 28〉、2014年1月30日。ISBN 978-4-621-08713-8。 算法 除法の原理 素数 体論 ユークリッド整域 ユークリッドの補題 Weisstein, Eric W. \"Divide\". MathWorld(英語). CS1 maint: Multiple names: authors list Weisstein, Eric W. \"Division\". MathWorld(英語). CS1 maint: Multiple names: authors list Weisstein, Eric W. \"Division by Zero\". MathWorld(英語). CS1 maint: Multiple names: authors list Weisstein, Eric W. \"Minimal Residue\". MathWorld(英語). CS1 maint: Multiple names: authors list", "整数の合同(ごうどう、英: congruence)は、数学において二つの整数の間に定められる関係である。初めてこれを構造として研究したのはドイツの数学者ガウスで、1801年に発表された著書『Disquisitiones Arithmeticae』でも扱われている。今日では整数の合同は、数論や一般代数学あるいは暗号理論などに広く用いられる。 整数の合同に基づく数学の分野は合同算術 (modular arithmetic) と呼ばれる。これは整数そのものを直接的に扱うのではなく、何らかの整数(法と呼ばれる、以下本項では n で表す)で割った剰余を代表元として扱う算術である。合同算術の歴史や道具立てあるいはその応用については合同算術の項を参照。また、より包括的で堅苦しくない説明は剰余類環 (Z/nZ) の項へ譲る。 合同算術は整数の算術体系を、特定の値に決められた「法」を用いて修正したものである。 一つの例として、時計の針の指し示す時刻の「足し算」を記述する「時計算」を挙げる。具体的に、9時をスタートとして4時間を加えると(普通に足せば)13時になるはずだが、実際には1時になる。同様に、0時をスタートとして7時間の3倍経つと(21時ではなく)9時になる。 基本的に 12 に到達するごとに 0 に戻るのであって、これは法 12 で考えているということになる。先の例では 9 と 21 は法 12 に関して合同であると言う。より一般に 9, 21, 33, 45, …etc. は法 12 のもとで等しいものと考える。 文字盤に任意個数の整数の書かれた時計を想像すれば、一般化は容易であり、計算もできる。 n が 2 以上の整数として、「二つの整数 a, b が法 n に関して合同である」とは、以下の同値な条件のいずれか(したがってすべて)を満足する場合を指す: それらの差が n で整除される(つまり、適当な整数 k が存在して a – b = kn); a を n で割った剰余a mod nが b を n で割った剰余b mod nと等しい; a – b ∈ nZ: n で割り切れる整数全体の成すイデアル 二つの整数が合同であることを表すのに ≡ が記号として用いられる。 a と b とが法 n に関して合同であることを表すのに、以下のような表記がある。 a ≡ b (mod n) a ≡ b mod n a ≡ b (n) a ≡ b [n] a ≡n b どれも同様に「a と b とは法 n に関して合同である」などと読む。法が n であることは「n を法として」「法 n のもとで」「法 n で」などと適宜表現される。 法 n に関する合同という関係は以下の性質を満たす: 反射律: 任意の整数 a に関して a ≡ a (n); 対称律: 任意の整数の対 a, b に関して a ≡ b (n) ⇔ b ≡ a (n); 推移律: 任意の整数の組 a, b, c に関して a ≡ b (n) かつ b ≡ c (n) ならば a ≡ c (n). 即ち法 n に関する合同という関係は同値関係である。 特に踏まえておくべき代数学的性質は、a1 ≡ b1 (n) かつ a2 ≡ b2 (n) ならば a1 + a2 ≡ b1 + b2 (n), a1a2 ≡ b1b2 (n) が成り立つことである。ここから a ≡ b (n) ならば任意の整数 c に対して ac ≡ bc (n) であること、および正整数 q > 0 に対して aq ≡ bq (n) であることが容易に導ける。 これは法 n に関する合同関係がある意味で整数の加法および乗法と「両立する」ことを示すものであり、「法 n に関する合同は環 (Z, +, ∗) の構造と両立する」と言い表す。これにより商集合 Z/nZ に合同算術の環を定義することができるようになる。 先述の代数的性質は、法 n に関する加法と乗法において、加えたり掛けたりする数を法 n で合同な別の数に置き換えてもよいことを示している。これはつまり、法 n で合同な数すべてを一つのあつまり(同値類、合同類、剰余類)として扱えば、法 n に関する加法と乗法がこの類の代表元の取り方に依らずに定まるということになる。同じ類に属する整数は法 n で割った剰余がみな同じであるようなものたちであり、法 n で割った剰余のみに注目するのが自然である。つまり、集合 Zn あるいは Z/nZ を法 n で割った余りからなる n-元集合 { 1, 2, …, n − 1 } (あるいは単に 1, 2, …, n − 1} とも書く)として、加法と乗法をこの集合上で考えるのがよい。この集合を法 n に関する合同類環、剰余環あるいは商環と呼ぶ。 この集合上での加法と乗法は、整数に関する加法と乗法と同様に定義される: 加法: 二つの剰余類 a, b に対して剰余類 a + b modulo n を割り当てる。理論的には整数の加法と異なる和であるから別の記号で表すべきであるかもしれないが、簡便さを保つために整数の和と同じ記号 \"+\" をそのまま使うことも多い。 例えば法 6 に関する合同類環では 3 + 2 = 5 が整数の加法同様に成り立つが、4 + 2 は 6 で割った剰余が 0 に等しいから 4 + 2 = 0 が成り立つ。 乗法: 二つの剰余類 a, b に対し、剰余類 a × b modulo n を割り当てる。これも同様に整数の乗算記号\"×\"をそのまま流用する。 法 6 に関する合同類環では、整数の乗法同様に 2 × 2 = 4 が成り立つが、2 × 5 = 4(2 × 5 を 6 で割った剰余は 4 に等しい)や 2 × 3 = 0 などが成り立つ。 法 6 に関する加法と乗法を以下のような表にまとめることができる: これら加法と乗法は、整数の集合 Z における加法と乗法に良く似た性質を持つ: 加法は可換(足す順番を入れ替えられる)、結合的(三項の和は前二項を先に足してもあと二項を先に対しても結果は変わらない)で、単位元を持つ(0 を加えても変わらない)、各元が反数を持つ。 Z の加法と比べて異なる点もある。Z の加法では a の逆元 –a は a + (–a) = 0 を満たす元だが、法 n の合同類環では a + (n – a) = 0(a と n − a の和を n で割った剰余は 0)だから a の逆元は n – a である。ただし、法 n に関する合同において –a と n – a は同じ類に入る。–a でなく n – a を選ぶのは、合同類の代表元を 0 から n − 1 の間の整数から常に選ぶことができるという利点があるからである。 乗法も可換、結合的で、単位元を持つ(1 を掛けても変わらない)。また剰余類の加法に関して分配的である。 これらの性質を満足する集合は(単位的)環と呼ばれる。 Z では常に正当であるにも拘らず、合同類環 Z/nZ では必ずしも正当化されない操作の一つに、簡約(消約)がある。 実際、等式 2a = 4 を Z で考えれば明らかに両辺を 2 で簡約して a = 2 が得られるが、法 6 で考えれば 2a = 4 は 2a を 6 で割った剰余が 4 であるということだから、a は 3 で割った剰余が 2 に等しいような類である。そのような a は 6 で割った剰余類の中では類 2 または類 5 が満たす。従って、2×2 ≡ 2×5 だがそれを簡約した 2 ≡ 5 は成立しない。 同様に、整数の演算では常に成り立っているのに Z/nZ 上では必ずしも成り立たない性質として、零積性質(英語版)「積が 0 に等しいならばいずれかの数が 0 に等しい」というものがある。 実際、法 6 で 2 × 3 ≡ 0 だが 2 も 3 も 0 でない。つまり、環 Z/6Z は整域でない。 こういった理由により、乗法を含む方程式を解くのは少々厄介である。 方程式 x + 2 = 1 を Z/6Z 上で考えるなら、両辺に同じ量 4 を加えて x = 5 とすればよい (2 + 4 ≡ 0 [6] に注意); 方程式 3x = 2 を Z/10Z 上で考えるとき、7 × 3 ≡ 1 に注意すれば 3x = 2 と x = 7 × 2 が同値であることが分かる(一方から他方へはそれぞれ両辺に 7 あるいは 3 を掛ければ変形できる)。故に方程式の解は 4(7 × 2 を 10 で割った剰余は 4)である。; 方程式 2x = 3 は Z/10Z 上で解を持たない。また方程式 2x = 6 は二つの解 (3 と 8) を持つ。 未知数(フランス語版) x の方程式 ax = b が Z/nZ 上で一意な解を持つための必要十分条件は、a と n とが互いに素であることである。 x2 ≡ a (mod n) の形の方程式の解は a および n の値に依存して 0 個、1 個、2 個の何れかになる。さらに詳細な結果が平方剰余の研究によって得られており、平方剰余の相互法則として知られている。 合同類環 Z/nZ の構成は環のイデアルによる商構成である。環 Z/nZ の代数的性質に関しては合同類環の項へ譲る。 Z/nZ に乗法が定まるから、反復乗法としての冪を考察するのはまた自然である。剰余は n − 1 種類しかないのだから、自然数冪 ak の値もその n − 1 種類以外に取り得ず、何度も同じ値を取らねばならない。つまり、自然数 k および m でak および am が法 n に関して同じ値となるようなものが存在する。冪 ak は再帰的に定められるから、剰余の値が既知のものとなれば直ちに、それ以降の値は循環的に同じ値をとるものと分かり、それ以上調べる必要は無くなる。 上記のように Z/7Z および Z/15Z での冪を書きならべてみると、前者に関してどの a に対しても7番目の a6 で全てが法 7 に関して 1 に合同となることが分かる。後者に関しては冪の値が 1 となることが 15 と互いに素であることに関係してくる。整数 8 は 15 と互いに素であり、15 と互いに素な a に対して a8 が法 15 に関して 1 と合同であることに注目せよ。 これら二つの例はそれぞれ以下の二つの定理に対応する: フェルマーの小定理: 任意の素数 p と、 p と互いに素な整数 a に対し、ap−1 ≡ 1 (mod p); オイラーの定理: フェルマーの小定理の拡張。2 以上の整数 n と n と互いに素な整数 a に対して、aφ(n) ≡ 1 (mod n) が成り立つ。ただし、φ(n) はオイラーの φ-函数(1 から n までの整数のうち n と互いに素なものの数)である。 ^ 「法に関して」を意味する modulo はラテン語で「測り」を意味する名詞 modulus の奪格である。\"modulo 12\" と書けば、法 12 に準じて考えるという意味になる。ガウスは羅: secundum modulum という語を用いた。また、羅: Congru は一致するという意味の動詞 congruere の過去分詞形である。 ^ 修飾語「剰余」(residual) は「余りの」という意味である ^ 「商」(quotient) は同値関係による商集合を指して用いられている 合同関係: より一般の代数系における合同 初等算術(フランス語版) 整除性の判定法(フランス語版) 整除判定法の一覧(フランス語版) ツェラー合同 (日付の決定) Weisstein, Eric W. \"Congruence\". MathWorld(英語). CS1 maint: Multiple names: authors list Weisstein, Eric W. \"Congruence Equation\". MathWorld(英語). CS1 maint: Multiple names: authors list" ]
ABC01-02-0042
多くの船や飛行機が行方不明になっている北大西洋西部の三角海域を、ある島の名を使って何というでしょう?
バミューダトライアングル
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[ "バミューダトライアングル", "フー・ファイター", "神の杖", "磁石の山", "ロズウェル事件" ]
[ "バミューダトライアングル(Bermuda Triangle)は、フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域。昔から船や飛行機、もしくは、その乗務員のみが消えてしまうという伝説がある。この伝説に基づいて、多くのフィクション小説、映画、漫画などが製作されている。 超常現象を取り扱う雑誌や書籍やテレビ番組の報道によると、通過中の船舶や飛行機が突如何の痕跡も残さず消息を絶つ海域とされる。消息を絶つ直前にコンパスや計器の異常等の兆候があるとされる。100年以上前から100を超える船や飛行機、1000以上の人が消息不明となっているとされる。「魔の三角地帯(または三角海域、三角水域)」とも呼ばれている。 バミューダトライアングルが魔の三角海域として知れわたったのは、チャールズ・ベルリッツ著書『The Bermuda Triangle』(1974年、日本語題『謎のバミューダ海域』)からである。同書は世界20か国語に翻訳され、総発行部数500万部以上の世界的ベストセラーとなり、この伝説が人々の間に広く知られることとなった。 しかしアリゾナ州立大学図書館の司書であるローレンス・D・クシュ(英語版)は著書『Bermuda triangle mystery solved』(1975年、日本語題『魔の三角海域』)で、ベルリッツが書いた36件中少なくとも23件は事実の誤認・歪曲・誇張・創作によるもの、バミューダトライアングルの伝説は要するに故意に作られたもので、それはまず杜撰な調査に始まり、ついで誤った概念や間違った推理、あるいは人々の興味や関心を煽ろうとする作家・超常現象としての支持者たちによって故意にあるいは無意識的に作られたものに過ぎないと主張しており、以下のような指摘をしている。 「事件」について書かれた記事を引用する際に勝手に内容を改変し、単なる遭難事故を「怪事件」に仕立て上げてしまう例や、関連書籍等で事例として取り上げられた遭難事故の記録が存在しない、完全な作り話である例もあるという(『トンデモ超常現象99の真相』などを参照)。また、ある種の特異な事例(完全な晴天時に乗組員のみが消えてしまうなど)のほとんどは事実を誇張、または歪曲したものであることが分かっている(下記関連書籍参照)。また、下記関連書籍でも調査の結果指摘されているように、バミューダトライアングルの「伝説」が広く知られるようになるにつれ、来福丸転覆事故やシティ・オブ・グラスゴー号遭難事件、ベラ号遭難事件のように大西洋上の異なる海域(数百キロ、あるいは1000キロ以上離れた場所)で起きた事故や遭難もバミューダトライアングルで遭難したかのように語り継がれることが増え、実際にこの地域で起きた事故を遙かに上回る数の遭難が関連付けられる事となった(中には1902年のフレヤ号遭難事件(発生場所:メキシコ西岸沖)や1950年のグローブマスター機爆発事件(発生場所:アイルランド沖)のように、発生現場が遠く離れた太平洋や北海近くの北大西洋であるにも関わらずこの事例に入れられたものも存在する。また1840年のロザリー号事件や1962年のパイパー・アパッチ機事件の様に該当する事件や船舶・飛行機自体がそもそも存在していなかったり、1969年のビル・ヴェリティ事件の様にバミューダ海域で忽然と姿を消したとされた人物がその後もヨットで航海をしていたり、1950年のサンドラ号遭難事件の様に来福丸転覆事件同様に都合の悪い部分を改竄して、さも謎の消失をしたかの様に装ったりするなど明らかに捏造故事付けの類のものが存在する。中には1972年のV・A・フォッグ爆沈事件の様に、発生場所がメキシコ湾奥のテキサス州ガルヴェストン沖であり、様々な調査から原因などが判明し、乗組員の遺体も何体か収容されている事などから、バミューダトライアングルの肯定者の多くですら謎の消失事件としていないものでさえ、如何にもミステリーな事件であるかの様に改竄して謎の消失事件であると主張するものすら存在する。)。その結果ますます「伝説」の信憑性が増すという悪循環を引き起こす事になる。 多くの場合はハリケーンなどの悪天候時に起こったものや操縦ミス、計器の確認ミスであり、船や飛行機などの遭難件数が他の一般的な海域よりも多いという事実はない。この地域はハリケーンや霧の多発地帯として有名であり、ハリケーンに遭遇して遭難したと証明されている案件も多い。また、周辺に目印となる島や構造物も無いため遭難しても救助されにくい。特にこの海域は強力なメキシコ湾流が流れており、短時間で航空機や船舶の残骸が遠くに流されるという事も考えられる。 一例として、1945年12月5日にアメリカ海軍のアヴェンジャー雷撃機5機が訓練飛行中に消息を絶った事件について、バミューダ・トライアングルの典型的な飛行機消滅の超常現象として長期にわたり出版、報道されている。このエピソードの紹介の際に語られることが多い「どっちが西かも分からない。何もかもが変だ……方向が掴めない。海さえ普通じゃない」「白い水に突入」などの隊員の台詞は、実際の通信記録には存在しない。また当日(1945年12月5日)午後7時4分にマイアミ管制塔の管制官が「FT……FT……」と言う内容の遠い、はるかに遠い、かすかな無電を傍受していて、『FT』はこの消息を絶った5機のコールサインであり、しかも傍受されたのは燃料切れになった筈の時刻から2時間も経っていたとする話もあるが、午後7時半~8時位までは飛行出来るだけの燃料を積んでおり、この時点では燃料切れは起こしておらず、通信記録からこれは訓練生のボッシ少尉(コールサイン:FT3)から飛行教官のテイラー中尉(コールサイン:FT28)への呼びかけである事が分かっている。 上記捏造説が一般化するまでは様々な説が唱えられたことがあり、現在においても当時の説が繰り返し出版報道されている。それらの主なものは以下のとおりである。 バミューダ海域には宇宙で見られるようなブラックホールが密かに存在し異世界と通じていて、それに飲み込まれてしまうと戻れなくなるのだろうという説。確かに残骸が残ることはないだろうが、そもそも周囲の海水はおろか大気すらも際限なく吸い込まれてしまうと考えられるため、少なくとも現代の科学で証明できるような証拠は存在していない。 宇宙人がUFOを使い、航空機や船舶そのものや乗客・乗員をさらったという説もUFOブームが起きた1940年代後半以降一時盛んに取り沙汰されていたが、これを証明するような証拠が何もない上に、もし本当に宇宙人やUFOが実存していたとしてもなぜこの場所でさらう必要があるのか証明されていないばかりか、さらわれたはずの航空機の残骸と搭乗員の遺体が発見されるなど、辻褄が合わないことがほとんどである。ワーナー・ブラザース・スタジオのアトラクションで再現されている。 リチャード・マッカイバー博士により唱えられ、また、オーストラリアのメルボルンにあるモナシュ大学ジョセフ・モナガン教授、学生デヴィッド・メイによって2003年9月にアメリカの物理学雑誌に発表された説である。 船舶の沈没 - メタンハイドレートによってメタンの泡が大量に瞬時に発生しそれによって船の浮力を失わせる(海水とは密度が異なるので)。海中で爆発が起き、大きな穴が開きそれで、船が吸い込まれる。 航空機の墜落 - エンジンがメタンを吸い込み酸欠によって不完全燃焼を起こし、出力低下から揚力を失い墜落する。この現象はレシプロ、タービン共説明可能。爆発が起きたときに電磁波を発するため、それでレーダーやコンパスがおかしくなり、制御不能となり、墜落。 航空機や船舶の残骸が発見されない理由 - 航空機や船舶の残骸が発見されない理由はメタンガスの放出により舞い上がった土砂が放出が止む際に沈んだ残骸の上に堆積してしまうため残骸が発見されないとも考えられている。強い海流によっても流されてしまうため。 バミューダトライアングルでメタンガスが発生する理由 - この海域は世界でも最大級の暖流が流れ込んでおり、メタンハイドレートは多少の水温の変化でメタンガスを放出するので、この暖流によってメタンガスが放出されやすいとも考えられる。 しかし、実際には航空機や船舶の残骸が発見されているほか、メタンハイドレートが発生したことと遭難の因果関係を証明する事案は1件も確認されていない。だが、コンパスがおかしくなったりすることもある。 冷気の塊が海面に落下し、バースト(破裂)したように強風を引き起こす現象という説。これは従来のレーダーに捉えられず、短期間で収まるため、消滅事件の原因として注目された。ただし、マイクロバーストは低空でしか発生しないため、高空を飛行する飛行機で事故が発生する理由は説明できない。 2006年3月16日にフジテレビ系で放送された『奇跡体験!アンビリバボー』内において、「電子雲」なるものが原因ではないかとされる考察が特集されていた。この説はワームホールができる事によって、この近辺を飛行する航空機、航行する船舶が「タイムスリップ」することが、残骸を残さず行方不明になる事故を起こしていると考えるものである。なお、電子雲は原子核の「周辺を回っている」としばしば形容される電子が、量子論的には確率的にぼんやりと存在するものであることを比喩的に表現したミクロの世界の用語であり、水蒸気から細かい水滴が発生することで見える通常の雲のようにふわふわとその辺りに浮かんでいるといったようなものではない。 近世以降探検家たちに恐れられた粘りつく海、サルガッソ海は、この海域にあり、海難事故がそれによって起こると考えられる(詳細はサルガッソ海参照のこと)。 30年ほど前に消えた旅客機と戦闘機がまったく同じ状態で中の人間のみがミイラ化、または白骨化した状態で見つかったという奇談もあり、日本のバラエティ番組などで真実であるかのように語られている。これらが作り話であったことは証明済みである(サンチアゴ航空513便事件を参照)。 太平洋の、千葉県野島埼、小笠原諸島、グアムを結んだ三角形海域を、チャールズ・バーリッツなどのアメリカの超常現象研究家はバミューダトライアングルになぞらえ、「ドラゴントライアングル」(ないし日本の「魔の海域」)と呼んでいる。これは明神礁での調査船遭難事故や、ヴァリグ・ブラジル航空機遭難事故がゆがんだ形で海外に伝わったことで発生したものである。 1984年、ブラジル、サンパウロ市で発行されている「フォリャ・デ・サンパウロ」(Folha de S.Paulo)新聞は、「ブラジルのバミューダトライアングル」と題する記事を一面張り出して出版した。この三角形はリオデジャネイロ市の中心部のカリオカ広場(Largo de Carioca)付近に存在する三つの巨大高層ビルに囲まれる領域である。これらは政府系企業の本社ビルであり、公費の合法的な無駄使いが多いことで有名であった。あまりにも巨大すぎる無駄使いを象徴するために、「ブラジルのバミューダトライアングル」という表現を用いた。この三角形内では、飛行機や船は消滅しないが(車や財布はしばしば消えてなくなる)、お金が際限なく消失するからである。お金は晴天下良好な天候の下でも消失し、しかも消失の過程がまったく不明であるという例え話である。 ローレンス・D・クシュ(英語版) 『魔の三角海域 その伝説の謎を解く』 角川文庫、1975年 ^ 来福丸はバミューダ諸島よりも北に位置するボストンで小麦を積み、ドイツのハンブルグに向かう予定だった。つまりボストンからさらに北へ向かって航行するのであり、態々ボストンより南にあるバミューダトライアングルに向かう理由がない。その為後に来福丸はボストン出港後ではなくパナマ運河を抜けボストンに向かう途中で謎の通信を残して消滅したと言う話に変えられている。しかしこの来福丸事件は嵐の中荒れる海に船体が飲み込まる様を撮影した写真が残っており(救助を要請する無電を傍受して駆けつけたホワイト・スター汽船ホメリック号に乗った人物が撮影した。)、その事からも謎の消滅事件ではない事が分かる。来福丸からのものとされる「まるで短刀(匕首としている場合がある)みたいだ!はやく来てくれ!」「たのむから来てくれ、とても逃げられない」と言う狂気じみた声の謎の通信は全くの捏造であると言える。 ^ 『魔の三角海域』の著者であるクシュはヴェリティ本人と電話で話している ^ この事件は全長185Ft(約56.4m)の小型貨物船がハリケーンが齎す強い嵐に見舞われて沈没したのが真相なのだが、あくまで謎の消失事件にする為に全長が350Ft(約106.7m)と倍近い数字にされ、しかも好天の中で消失した事にする為に出港日を1950年4月5日から6月に変えられている。さらに謎の消失事件である事を印象付ける為か、「講釈師観てきた様な嘘を言い」を地で行く如何にも長閑な船内の様子が附加されてさえいる。 ^ 船体は発見されたが38名の乗組員の行方は杳としてしれないとか、船長の遺体が船長室で椅子に座りコーヒーカップを手にしたままの姿で発見されたなど。実際は数名の乗組員の遺体が収容されているし、船長の遺体は海図室で上を向いて浮いた状態で発見されている。 ^ 飛行教官であるテイラー中尉の搭乗機はコンパスが故障していたうえに、テイラー中尉自身が時計を所持していなかった。しかも彼はフォートローダーデール海軍基地に配属されてまだ2週間程であった為にフロリダ東岸やバハマ諸島及び付近の海域の地理に不案内であり、離陸時は好天だったが訓練飛行中に天候が荒れ太陽も雲に隠れてしまった状態では方向を見失い西がどちらなのか分からなくなるのも無理はない。事実バハマ諸島からフロリダ半島にかけての珊瑚礁群を、彼はフロリダ半島南岸沖のキールと呼ばれる珊瑚礁などで構成される小群島と誤認しそちらに誤って飛行してしまったと思い込んだ可能性が高い。また当時天候がかなり荒れていた為通信記録にはないものの海は確かに普通の状態ではなかった。ただ、コンパスの故障は地理に不案内なテイラー中尉がそう思い込んだだけである可能性も捨てきれない。 ^ このアヴェンジャー雷撃機5機のパイロット9名のうち飛行教官であるテイラー中尉を除く8名は、VTBタイプ機における高等空中戦闘訓練を受けていた訓練生だった。つまり<伝説>にある様なベテランパイロット揃いではそもそも無かった。 ^ この頃(1970年代中頃~後半にかけて)の角川文庫は“超自然の謎シリーズ”としてオカルト物(実際はデニケンの『未来の記憶』、シャトランの『神々の遺産』、ムーニィの『失われた古代文明』などの所謂\"宇宙考古学(古代宇宙飛行士説、超古代文明説の事)\"関連の著作が多かった。)を盛んに出版していた。その多くが日本語版翻訳権独占の形を取っており、区分が『白』であった事から「角川文庫の白版」と俗称されていた。他にもエドワーズの『超自然の謎』、トレンチの『地球内部からの円盤』、アダムスキーの『UFO同乗記』といったUFO・超能力関連の著作が出版されていた。それら一連の出版物の中で超常現象を否定する立場の著作はこの『魔の三角海域』一書だけである。 ^ “大辞林 第三版の解説”. コトバンク. 2018年3月3日閲覧。 ^ a b “チャールズ・ベルリッツさん死去”. 朝日新聞 東京朝刊 (朝日新聞社): p. 35. (2003年12月31日)  ^ a b c 本城達也オフィシャルブログ「バミューダ海域の謎」より(2015年5月10日閲覧) ^ 羽仁礼 『超常現象大事典 永久保存版』 成甲書房、2001年、212頁。ISBN 978-4-88086-115-9。 ^ 山本弘他 『トンデモ超常現象99の真相』 洋泉社、1997年、323-332頁。ISBN 978-4-89691-251-7。 ^ 『ナショナル・ジオグラフィックチャンネル 都市伝説〜超常現象を解明せよ!バミューダ・トライアングル』 ^ The Disappearance of Flight 19 bermuda-triangle.org ^ D. A. May and J. J. Monaghan, \"Can a single bubble sink a ship?,\" Am. J. Phys. 71, 842-849 (2003). ^ 魔の三角海域 : その伝説の謎を解く (角川書店): 1975|書誌詳細|国立国会図書館サーチ メアリー・セレスト号 - 遭難位置はバミューダ・トライアングルからは遠い。 アトランティス ポコノ・レースウェイ - 三角形のトラック形状と、そのトリッキー加減から「バミューダ・トライアングル」の異名が付いているオーバルトラック。 サルガッソ海", "フー・ファイター(foo fighter)とは、第二次世界大戦中の連合国軍のパイロット(または水兵や地上兵)たちが、ヨーロッパや太平洋の上空で目撃した未確認飛行物体や空中の奇怪な光球などを指した用語である。同様の物体は日本軍やドイツ軍にも目撃されている。 当時の目撃者たちは「フー・ファイター」を敵軍の秘密兵器と考え恐れたが、その恐れに反し「フー・ファイター」が人間に害を与えたり害を与えようとしたりした事例は報告されていない。連合軍パイロットによるフー・ファイターの写真はいくらか撮影されているが、普通これらは光や砲火の反射と思われている。これ以外の現象の報告も時に「フー・ファイター」として扱われることがある。また、同じような現象は日本軍やドイツ軍も目撃し、その撮影した写真の中にもフー・ファイターらしきものが認められている。目撃者は戦時中の極度の緊張状態にあり、長期にわたりそれが続くという背景があった。 一般的な語源は、アメリカで第2次大戦前から戦後にかけて(1935年~1973年)連載され、特に1930年代後半に最も人気を博したナンセンスな漫画『スモーキー・ストーヴァー(Smokey Stover)』に由来するとされる。消防士の主人公・スモーキーの口癖は「Where there's foo, there's fire(フーのあるところ火あり)」というもので、その他作品のあちこちに「フー」という言葉が登場し流行語となった(「フー」はおそらくフランス語で火を意味する「feu」から来ている)。スモーキーを「ファイアーファイター(消防士)」ではなく「フーファイター」と書いた漫画単行本も戦前には出版されている。 「フー・ファイター」は米軍俗語の「フー」(FUBAR、「Fucked Up Beyond All Repair 修理不可能なほど滅茶苦茶」に由来)とあわさって、日本軍のパイロットに対する侮蔑語にもなった(常軌を逸した飛び方と、曲芸すれすれの過激な操縦のため)。そこから、動きが速く不規則な動きをする飛行物体を表現するのに「フー・ファイター」という言葉が流用された。 「フー・ファイター」は大戦中、世界の各地で目撃された。それらは光の球や金属板のような形状に見え、群れを成して飛び、密着するように戦闘機などを追尾し、戦場を監視するように飛び回った。その有名な例をいくつか挙げる。 1941年9月、インド洋で夜間に目撃された物体が、後の「フー・ファイター」の報告に酷似している。イギリス軍部隊を運ぶポーランド商船「S.S.プラスキ」のデッキで、二人の水兵が「緑色に光る奇妙な球体が、満月の半分にまで大きくなりながら、われわれの前に現れた」と報告している。彼らは士官に警告したが、彼らが見ている中、球体は船とともに1時間以上動き続けた。 1942年、アメリカ海兵隊のスティーブン・J・ブリックナーが南太平洋・ソロモン諸島での怪物体目撃を報告している。空襲警報に続いて、ブリックナーと他の兵士たちは150ほどの物体が10〜12個ずつ列を為しながら飛んでいるのを見た。ブリックナーは、「震えながら」動くように見える物体群は磨いた銀色に似ており、通常の日本軍の航空機よりも若干速く感じたという。彼は目撃したときのことを、「まったく、今までの人生で見た中で、一番畏敬の念を起こさせるもので、一番おそるべきスペクタクルだった」と述べている。 「フー・ファイター」の報告はマスメディアでも報道された。1945年の『タイム』誌の記事は次のようであった。「もしそれがデマや目の錯覚でなければ、連合軍兵士が直面したもっとも謎めいた秘密兵器に違いない。先週、フランスに基地をおく米軍の夜間戦闘機パイロットたちは、ドイツ上空で夜間、1ヶ月以上にわたり彼らの戦闘機の後をつける『火の玉』についての奇妙な話を語った。誰もその火の玉(何であれ)が何を目的としているのかは分からない。それを心理学的な新兵器だと推測するパイロットたちは、火の玉に『フー・ファイター』と名づけた。・・・その出現の仕方に関する彼らの記述はさまざまだが、不思議なゆらめきが戦闘機のすぐそばに張り付き、速いスピードでどこまでも付いて来るように見えたという点では一致している。あるパイロットは、翼の先端から離れたところに赤い球のような形で出現するフー・ファイターの群れがぴたりとついて来て、時速360マイル(時速580km)に加速すると赤い球は空の中に急上昇していった、という。」 1952年にCIAが未確認飛行物体を調査するため発足させたロバートソン委員会はフー・ファイターの報告に触れ、その振る舞いは脅威ではないと記述した。興味深いことに、ロバートソン委員会報告は、多くのフー・ファイターは金属的で円盤の形をしているように描かれていると述べ、「もし1943年から1945年の頃に『空飛ぶ円盤』という言葉がポピュラーになっていれば、これらの物体はそう呼ばれただろう」と示唆している。 この現象は、ドイツ空軍の標準作業手順書にあった行動のうち、ドイツ軍飛行場のそばに配置された対空砲台の中の選ばれたものに対し、色の付いた砲火のパターンをある間隔で発射し、視覚による指示を与えてドイツ空軍機の夜間戦闘を支援させたものを、連合軍パイロットがカラフルな光球と誤解したことに原因を求める説がある。 航空機の翼で起こるある種の放電現象(セントエルモの火参照)がフー・ファイターズの正体だという説がある。 パイロットは球電(Ball Lightning)を見たのだ、とする説もある。 しかし上記の3説は、昼間に金属製らしき複数の制御された飛び方をする飛行物体を目撃したという多くのケースに対しては当てはまらない。 UFOが地球外生命の乗り物であるという仮説を支持する人々は、フー・ファイターを地球外生命の地球来訪の証拠とみてきた。しかし同時に地球外生命体の姿を確認したという目撃例はない。 フー・ファイターはドイツ空軍の開発した円盤型の飛行物体でドイツ側に「Feuerfighter(フューアーファイター、火の戦闘機)」とあだ名された秘密兵器だという説もあったが、この名前はドイツ語と英語のナンセンスな混合であり信憑性がなく、このような戦闘機が開発された記録も発見されておらず、都市伝説に等しい説といえる。 同様に、フー・ファイターの目撃者はロケット戦闘機・メッサーシュミット Me163を夜間に目撃したのだろうという説もあるがこれも誤った説である。Me163は数分間の燃料しかなく、レーダーも積載せず、夜間に敵機と戦闘を交えるには適さない機体であった。またエンジンが切れた後のグライダー状の飛行と着陸のために必須となる夜間飛行用の機材もなかったため、夜間の作戦行動には向かなかった。 ロサンゼルスの戦い 太平洋戦争中、日本軍空襲を誤認したアメリカ陸軍が対空砲火によって迎撃戦を行った事件。誤認された何者かの正体は今もよくわかっていない。 ゴースト・ロケット(英語版) 第二次世界大戦の終結直後、スウェーデンなどスカンジナビア半島で目撃された謎の飛行物体。 矢追純一 - UFO(フー・ファイター)のジャーナリスト。 滝沢聖峰 太平洋戦争末期に、日本陸軍空中勤務員が未確認飛行物体と遭遇するコミック作品「WHO FIGHTER」(2004年刊)がある。 フー・ファイターズ アメリカのロックバンド。名称の由来は本項目から。 ^ Jerome Clark『The Ufo Book: Encyclopedia of the Extraterrestrial』(Visible Ink, 1998, ISBN 1578590299)の230ページより ^ http://ufos.about.com/library/weekly/aa060397.htm ^ http://www.project1947.com/fig/1945a.htm#foo ^ http://www.ufoevidence.org/documents/doc1419.htm Foo Fighter Documents", "神の杖(かみのつえ)または神からの杖(かみからのつえ、英:Rods from God)は、アメリカ空軍が開発中だとされている宇宙兵器(軍事衛星)。Kinetic bombardment(運動エネルギー爆撃)とも呼ばれる。 核兵器に代わる戦略兵器として計画されている兵器で、タングステンやチタン、ウランからなる全長6.1m、直径30cm、重量100kgの金属棒に小型推進ロケットを取り付け、高度1,000kmの低軌道上に配備された宇宙プラットホームから発射し、地上へ投下するというもの。極めて大規模であるが、一種の運動エネルギー弾であると言える。落下中の速度は11,587km/h(約マッハ9.5)にも達し、激突による破壊力は核爆弾に匹敵するだけではなく、地下数百メートルにある目標を破壊可能だとされている。 金属棒の誘導は他の衛星によって行われ、地球全域を攻撃することが可能。また、即応性や命中率も高いばかりか、電磁波を放出しないため探知することが難しく、迎撃は極めて困難だという。 柳田理科雄は、寸法通りの金属棒だと重量はタングステンで8.3t、チタンで2tに及んでしまい、さらに、100kgの物体が11,587km/hで落下しても威力は広島型原爆の12万分の1にしかならないなどとして、神の杖の存在に否定的な見解を示している。また、米国科学者連盟(en)のジョン・E・パイク(de)は、金属棒が大気の断熱圧縮により融解してしまう事を指摘している。 なお、神の杖のような宇宙兵器の保有は宇宙条約によって禁止されている。 米が宇宙兵器「神の杖」を研究開発 衛星の誘導で地上攻撃 - 中国網日本版(2012年2月29日) 米SF兵器「神からの杖」構想とは - web R25(2013年4月3日) Rods from God - Popular Science(2004年6月1日、英語) 空想科学 図書館通信 第270号(2013年6月24日) コンベンショナル・ストライク・ミサイル Falcon HTV2 戦略防衛構想 SR-91 オーロラ 2013年チェリャビンスク州の隕石落下 - 落下したのは隕石ではなく神の杖だとする陰謀論が存在する。 ストラトフォー - この民間情報機関の設立者、ジョージ・フリードマンの著した「100年予測」にて著者が「バトルスター」と呼び、神の杖が将来的に戦場に投入されることを記している。 コール オブ デューティ ゴースト - 神の杖をモデルにした兵器が登場。マルチプレイでもキルストリークとして登場する。", "磁石の山(じしゃくのやま)あるいは磁石山とは、磁力によって鉄を引き寄せるといわれていた山。近くを通る船を引き付けたり、羅針盤の向きを変えたりすると考えられていた。磁石の島(磁石島)と呼ばれることもある。 磁石が鉄を引きつけることは古代から知られていたが、磁石の山の伝説もまた、古代から伝えられている。古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは、著書『博物誌』第2巻において、次のように記している。 インダス河の近くに2つの山があって、そのひとつは鉄を引きつける性質があり、いまひとつは鉄を退ける性質がある。したがって人が釘を打った靴を履いていると、一方の山の上では一歩毎に足を地面から引き離すことができないし、いま一方の上では足を地面につけることができない。 また、クラウディオス・プトレマイオスの著書『地理学』においても、Ⅶ(インド)・2において、 なお人の話によれば、マニオライと呼ばれる、十余りの隣接する島々があり、おそらくヘラクレスの石を産するためであろう、鉄釘をつけた船は引き寄せられるということだ。またそこでは人びとは木釘で船を作っている。 と述べられている。ここに登場する「マニオライ」とはモルディブ諸島を指すという説もあるが、具体的な位置ははっきりしていない。さらに、『太清金液神丹経』などによれば、呉の万震が著した『南州異物志』(現存しない)には、句稚国の北東にある漲海は水が浅く磁石が多いため、船が磁石に行く手を阻まれるといった記述があるという。 このような話が伝わった理由の1つとして、インド洋では鉄を使わない船(ダウ船)が実際に使われていたことがあげられる。たとえば1世紀に書かれた『エリュトゥラー海案内記』には、マダラタという鉄を使わない船が紹介されている。こうした船を見て奇異に思った航海者たちによって、磁石の山の話が作られ広まったと考えられている。 時代は下って、10世紀後半にブズルク・ブン・シャフリヤールが編纂した『インドの驚異譚』では、小中国の主都ハーンフーと大中国の首都フムダーンの間を流れる川には幾つもの磁石の山々があり、鉄を積んだ船を吸い寄せるという記述がある。また、1356年に書かれたジョン・マンデヴィルの『東方旅行記』には、インドの皇帝プレスター・ジョンの領海には巨大な磁石の岩があり、さらにそこから離れたケルメスという島にも海中に磁石の岩があるので、船を造るのに釘や鉄のたがを使わないと記載されている。さらに、15世紀にドイツ大衆の間で広く読まれていた『聖ブランダン航海譚』にも、「粘りつく魔の海」には磁石があって、近づく鉄をことごとく引き付けると述べられている。この時代の書物はフィクションとノンフィクションの境があいまいなため、どこまでが事実として書かれているかはっきりしないが、当時の人々はこれらの話を事実として信じていた。 1492年にマルティン・ベハイムによって作られた現存する世界最古の地球儀では、ジャワ島の北東にプトレマイオスが語ったマニオライ諸島が描かれ、「磁石があるために、鉄をもつ船は近くを航行することはできない」と書かれている。しかし1498年、ヴァスコ・ダ・ガマによってインド航路が開拓され、インド洋海域の知識が得られるようになると、インド近海における磁石の山は地図から姿を消した。 磁石、および磁石で擦った鉄は南北方向を指す。この事実を記した最古の文献は、宋の沈括が1088年ごろに書いた『夢渓筆談』である。ヨーロッパでは、12世紀末には磁石で擦られた鉄が航海で使われていた。 そして大航海時代に入る頃になると、磁石の山があるとされる場所は、インド周辺から北極圏へと移動した。たとえばヨハン・ルイシュによって1508年に作られた世界地図では、北極圏に磁石の山が描かれ、「そこでは羅針儀は役に立たず、鉄製の船は戻ることができない」と記されている。さらにルイシュの地図には、磁石の山に向かって沈み込むような海流が描かれている。磁石の山の近くで海流が渦巻いている描写や記述は他の著者の作品にも見られる。これは、古くから知られていた船の難所であるロフォーテン諸島の渦潮が元になっていると考えられ、渦潮が船を引き寄せることと、磁石が鉄を引き寄せることが結びついたのではないかと推測されている。 他にも、オラウス・マグヌスが1555年の著書『北方民族文化誌』で、「極北には、それによって海の方位が決まる磁石の山がある」と書いており、ジローラモ・フラカストロやフランキスクス・マウロリクス(英語版)も北極圏にある磁石の山について述べている。 この時代の人々が磁石の山の存在を信じた大きな理由の1つが、前述の、磁石は南北方向を指すという事実だった。つまり、方位磁針が北を指すのは北極圏にある磁石の山に引っ張られているからだ、ということなのであるが、実のところ、15世紀以前には「磁石の力は天の極から来ている」あるいは「磁石の力は北極星から来ている」などと主張されていたため、磁石を引きつける源を磁石の山のような地球上の点に位置付けることは、それ自体が磁力への認識を転換させるものであった。 磁石の山の伝説はゲラルドゥス・メルカトルによって大きな発見をとげた。メルカトルは、当時研究されていた磁気偏角(方位磁針の指す向きが、場所によって真北からずれること)に着目した。そして、もし磁石が天の極や北極星を指しているのであれば、地球の日周運動によって磁気偏角は変化していなければならないが、実際には同一地点での磁気偏角は常に一定であるとして、磁石の指し示す地点は、天ではなく地球上にあると考えた。メルカトルは磁気偏角の観測値からこの地点を求め、1587年と1595年に自らが作成した地図に描き、「磁極(polus magnetis)」と記した。この磁極は山のような形で描かれているが、これまで信じられていた磁石の山や磁石の島のように、航海の際に危険になるという記述は無い。 このメルカトルの研究によって、伝説的だった磁石の山は、地球科学的な磁極へと生まれ変わったと考えられている。メルカトルの研究は、発表当時はさほど受け入れられなかったが、磁極の発見はやがて、地球は1つの大きな磁石であるというウィリアム・ギルバートの理論へとつながることになる。 磁石の山はフィクションにおいてもしばしば取り上げられている。『千夜一夜物語』では、「荷かつぎ人足と乙女たちとの物語」の中の「第三の托鉢僧の話」(第14夜)で、次のように描かれている。 明日になると、私どもは「磁石の山」と呼ばれる黒い岩の山に着くことでございましょう。そして潮は否応なく私どもをその山の方にひっぱって行って、やがて私どもの船は微塵に粉砕されてしまうでしょう。なぜかと申しますると、船の釘が全部、磁石の山に引き寄せられて飛び去り、山の腹に吸いついてしまうのです。というのは、至高のアッラーはこの磁石の山に秘かな効験を授けたまい、こうしてこの山はおよそ鉄で出来ているあらゆるものをみな自分の方に引きつけてしまうからでございます! このほか、12世紀のペトラルカの詩にも、インドにあるという磁石の山の記述がある。また、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが1774年に発表した『若きウェルテルの悩み』にも、主人公が、祖母に聞かされた、船が近づくと金具や釘が吸われてしまうという磁石の山の話を思い出す場面があるが、この山がある場所については言及されていない。ジュール・ヴェルヌの『氷のスフィンクス』にも磁石の山が登場するが、場所は南極大陸となっている。これは、南極が当時残された数少ない未知の世界だったからだと考えられる。 ルペス・ニグラ(英語版) マグネティック島(英語版) ^ この指摘自体は、メルカトル以前にマルティン・コルテス(英語版)によって語られていた。しかし、コルテスは磁石の指す方向を地球上とは考えなかった(山本2(2003) pp.403-406)。 ^ ただし現在では、磁気偏角は常に一定ではなく、年月とともに変化することが明らかになっている。 ^ 山本1(2003) p.116 ^ 山田(1996) p.158 ^ 織田(1998) pp.275-276 ^ 野間(1941) p.1019 ^ 山田(1996) pp.157-158 ^ 織田(1998) p.278 ^ 村川訳注(1993) p.208 ^ シャフリヤール(2011) pp.282-283 ^ 山本2(2003) p.376 ^ 織田(1998) p.276 ^ 藤代(1999) p.14 ^ 山本2(2003) pp.376-377 ^ 山本2(2003) p.377 ^ a b 織田(1998) p.280 ^ a b 山本2(2003) p.379 ^ 山本1(2003) pp.179,187-188 ^ 山本1(2003) pp.186 ^ 山本2(2003) p.380 ^ a b c 山本2(2003) p.378 ^ 織田(1998) p.282 ^ 織田(1998) pp.282-283,293-294 ^ 山本2(2003) pp.379-380 ^ 山本2(2003) pp.407-408 ^ a b c 山本2(2003) p.410 ^ 織田(1998) p.288 ^ 山本2(2003) p.411 ^ 野間(1941) p.1018 ^ 豊島他訳(1988) p.197 ^ 織田(1998) pp.276-277 ^ 山本2(2003) p.373 ^ ゲーテ(1951) p.67 ^ 山本2(2003) p.377-378 ^ ヴェルヌ(1994) p.520 ^ 山本2(2003) p.379 ジュール・ヴェルヌ 『氷のスフィンクス』 古田幸男訳、集英社、1994年1月。ISBN 978-4087602302。 織田武雄 『古地図の博物誌』 古今書院、1998年11月。ISBN 978-4772216845。 『紀元二千六百年記念史学論文集』 京都帝国大学文学部史学科編、内外出版印刷、1941年。 野間三郎 『磁石島小考』、pp.1018-1035。 ゲーテ 『若きウェルテルの悩み』 高橋義孝訳、新潮社、1951年3月。ISBN 978-4102015018。 ブズルク・ブン・シャフリヤール 『インドの驚異譚1―10世紀<海のアジア>の説話集』 家島彦一訳、平凡社、2011年10月。ISBN 978-4582808131。 『完訳 千一夜物語1』 豊島与志雄,佐藤正彰,渡辺一夫,岡部正孝訳、岩波書店、1998年7月。ISBN 978-4003278017。 藤代幸一 『聖ブランダン航海譚―中世のベストセラーを読む』 法政大学出版局、1999年3月。ISBN 978-4588276170。 『エリュトゥラー海案内記』 村川堅太郎訳注、中央公論社、1993年10月。ISBN 978-4122020412。 山田慶児「錬金術者のユートピア 偽葛洪の夢と幻想の地理的世界像」、『日本研究』第14号、人間文化研究機構国際日本文化研究センター、1996年7月、 pp.147-196、 ISSN 0915-0900。 山本義隆 『磁力と重力の発見1 古代・中世』 みすず書房、2003年5月。ISBN 978-4622080312。 山本義隆 『磁力と重力の発見2 ルネサンス』 みすず書房、2003年5月。ISBN 978-4622080329。", "ロズウェル事件(ロズウェルじけん、Roswell Incident)は、1947年7月アメリカ合衆国ニューメキシコ州ロズウェル付近で墜落したUFOが米軍によって回収されたとして有名になった事件。ロズウェルUFO事件(Roswell UFO Incident)とも呼ばれる。なお、付近といってもロズウェルからは70マイル離れていたが、ロズウェル陸軍飛行場(のちの ウォーカー空軍基地(1967年に閉鎖))が深く関わったため、ロズウェル事件と呼ばれる。世界で最も有名なUFO事件といわれている。 本事件に関する情報はきわめて多数あり大変混乱しており、本当に何か不可思議な事件が起きたのか、はたまた町おこしのための壮大なネタなのか、詳しいことは判明していない。本稿では超常現象を主張するWebや書物の内容を中心に紹介する。 この事件の発端となったのは、1947年7月8日にロズウェル陸軍飛行場(RAAF)が発表したプレスリリースである。このプレスリリースの中で、軍は「 第509爆撃航空群の職員がロズウェル付近の牧場から潰れた「空飛ぶ円盤(flying disc)」を回収した」と発表した。しかしその数時間後、第8航空軍司令官はこのプレスリリースを訂正し、「RAAF職員が回収したものは「空飛ぶ円盤(flying saucer)」ではなく、気象観測用気球であったと述べた。 墜落現場については、1ヶ所である説と2ヶ所である説や、場所についてもWebなどに複数あり特定されている状態ではなく、はっきりしていないようである。ここでは、現在有力と思われる2ヶ所説をもとに墜落現場の候補を記載する。 ● 第1墜落現場  ・候補① ー 地図  ・候補② ー ● 第2墜落現場  ・候補① ー 地図  ・候補② ー この出来事はすぐに忘れさられたが、30年以上後に、突如注目を浴びることになった。 1978年、UFO研究家のスタントン・T・フリードマンは、1947年の事件発生当時、問題の残骸の回収に関わったジェシー・マーセル少佐Jesse Marcelにインタビューを行い、「軍は異星人の乗り物を極秘裏に回収した」と発表した。フリードマンの主張はテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられることとなった。 1980年2月、タブロイド紙の「ナショナル・エンクワイアラー」紙(The National Enquirer) がマーセルのインタビュー記事を掲載し、ロズウェル事件は全世界の注目を集めることとなった。 それ以降、この事件は世界中で様々な憶測や噂、研究、調査などの対象となっており、それは現在になってもなお進行中である。 アメリカ政府の公式見解は1997年6月24日にアメリカ空軍総司令部が提出した報告書としてまとめられており、それによると、1947年に回収された物は極秘の調査気球であり、また「宇宙人の死体の回収と解剖」とは、1956年6月26日に発生したKC97航空機の墜落事故との記憶混同であるとされる。 1947年7月8日、「空飛ぶ円盤(flying disc)」が回収されたという報告がロズウェル陸軍飛行場から起こった。以下の歴史的な話は、最初のニュース報告と幾つかの当時のテレックスに記述され報告されたとおりに、出来事の年表を復元したものである。 6月14日、農家ウィリアム・\"マック\"・ブレイゼルWilliam \"Mac\" Brazelは、フォスター牧場で働いている間に奇妙な残骸があることに気づいた。この牧場はロズウェルの北約70マイルにある、J・B・フォスターが所有する牧場で、ブレイゼルはその管理を任されていた。彼が残骸を発見した日の正確な日付(別の話では7月8日の「約3週間前」)は議論の的となっている。 しかし6月14日の日付は、数件の最初の話に繰り返し出てくる日付である。特に、ブレイゼルを引用する話と、話が知らされた数時間後に送られたジョージ・ウィルコックス保安官Sheriff George Wilcox(ブレイゼルが最初に連絡した人)を引用するテレックスの中に、この日付が出てくる。ロズウェル陸軍飛行場からの最初の報告によるとこの発見は「先週のいつか」であったが、その記述はブレイゼルが実際に言ったことの四次のまた聞き話であったらしく、保安官を発見について彼らに連絡した人物として言及している。ブレイゼルはロズウェル・デイリー・レコード紙Roswell Daily Recordに、彼と彼の息子が「広い範囲にゴムひも、スズ箔、いくぶん頑丈な紙、棒によって作られた輝いた残骸がある」のを見た、と話した。彼はそれに少ししか注意を払わなかったが、7月4日に彼の息子、妻、娘とともに戻って物体をかき集めた。もっと前にブレイゼルは物体の一部を収集しており、一緒にして包み、それをある藪の下に隠していた、と一部の話は叙述している。 次の日、ブレイゼルは「空飛ぶ円盤」についての報告を聞き、彼が拾い上げていた物がそれかも知れないと思った。7月7日、ブレイゼルはウィルコックス保安官と会い、彼が空飛ぶ円盤を見つけたかも知れないことを「秘密を打ち明けるように耳打ち」した。別の話はウィルコックスを引用してブレイゼルが物体を7月6日に報告したと言ったとしている。 ウィルコックス保安官はロズウェル陸軍飛行場に連絡した。ジェシー・マーセル少佐Major Jesse Marcelと「私服の男」がブレイゼルに同行して牧場へと戻りそこでさらなる破片が拾い上げられた。「\"我々\"は気象デバイスのさらなる部分を探すのに月曜\"7月7日\"の午後の2時間を費やした。我々は気象デバイスのスズ箔とゴムのパッチをもう少しだけ見つけた」、とマーセルは言った。。彼らは次に対象を再組み立てしようと試みた。しかしブレイゼルによると彼らはそれができなかった。翌朝マーセルは残骸をロズウェル陸軍飛行場へと持って行った。 「ロズウェル・デイリー・レコード」紙の1947年7月9日版は以下のように記述する。 テキサス州ダラスにあるFBI事務所からあるFBI事務所へ送られたテレックスは、7月8日に第8航空軍の一少佐を引用する: 7月8日火曜日の早い時間、ロズウェル陸軍飛行場の報道官ウォルター・G・ハウト中尉(Lt. Walter G. Haut)はプレスリリースを発表しそれはすぐに多数のニュース特約社によって取り上げられた: 第509爆撃航空群の指揮官、ウィリアム・H・ブランチャード大佐(Colonel en:William H. Blanchard)は、テキサス州フォートワースにある第8航空軍のロジャー・M・レイミー准将General Roger M. Rameyにコンタクトを取り、レイミーは物体をフォートワース陸軍飛行場へと航空輸送するよう命令した。この基地で、アーヴィング・ニュートン准尉Warrant Officer Irving Newtonは、物体を気象観測用気球およびその「凧」であると同定するという、レイミーの予備的意見を承認した。「凧」は地上から気球を追跡するのに使われたレーダー反射板へのニックネームである。物体が「気象観測用気球」であったと記述する、もう一つのニュースリリースが、こんどはフォートワース基地から発表された。 フォートワースでは、物体に由来すると言われる残骸の数枚のニュース写真がその日に撮られた。残骸は凧をつけた気象観測用気球の一般的記述と一致した。レイミー、トマス・J・デュボーズ大佐Col. Thomas J. Dubose、マーセルの三人は物体とともにポーズを取っていた。ブレイゼルは、その日のロズウェル・デイリー・レコード紙とAP通信によるインタビューの中で、「気象観測用気球」であるとする軍の断定をはねつけた。以前に牧場で彼が回収していた数個の他の気象観測用気球の例を出して、彼はこう言った。「私は自分が見つけたものはいかなる気象観測用気球でもないと確信している」。この事件はすぐに忘れ去られた。 1978年以降、数年の間に「11の地点で、異星人の乗り物と異星人を回収することを目的とした大きな軍事作戦があった」など、新たな証言が現れた。 1989年には、元葬儀屋のグレン・デニス(en:Glenn Dennis)が、「ロズウェル基地でロズウェル異星人死体解剖が行われていた」との証言を行った(App.C)。 これらの証言を受け、ロズウェルのあるニューメキシコ州選出の下院議員スティーヴン・シフは空軍に対する会計監査を要求。これを受けて 会計検査院は調査を開始し、空軍長官室に内部調査を行うよう指示した。その結果は『ロズウェル・リポート』と題された二つの報告にまとめられた。 最初の報告書は1995年に発表された。それによると、「1947年に回収された物体はモーグル計画(Project Mogul)と呼ばれる秘密の政府計画に由来する残骸である可能性が高い」とのことであった。 第二の報告書は1997年に発表された。それによると、「回収された異星人の死体についての報告は、1956年6月26日に発生したKC97航空機の墜落事故の記憶や、1950年代に行われたハイダイヴ計画(Project High Dive)などの擬人ダミー回収の記憶が無意識のうちに変質したものであり、またそれらをもとにしてUFOマニアが創作した捏造であろう」とのことであった。最初の事件と航空機墜落事故との日付の違いについては、心理学的に説明可能な現象であるとされた。 1978年、元核物理学者で作家のスタントン・T・フリードマンはジェシー・マーセルにインタビューした。マーセルは、回収された場所からフォートワースまでロズウェルの残骸に同行したと知られる唯一の人物である。それからほぼ15年のあいだ、彼や他の関係者はロズウェル事件についての話をもたらし、これらの話はロズウェルを忘れられた事件から、たぶん全ての時代の中で最も有名なUFO事例へと押し上げることとなった。 1990年代初頭までに、フリードマン、ウィリアム・ムーア、カール・フロック、ケヴィン・ランドルとドン・シュミットのチーム、といったUFO研究家たちは1947年のロズウェルでの出来事に関係を持つ、あるいは持つと主張する、数百人の人々にインタビューした。さらに、何百もの文書が情報公開法に基づく請求を通して得られた。これらの文書の一部は、疑わしい「マジェスティック12」文書のように一見内部の者によってリークされたかのように装われた。 彼らの結論は、少なくとも一機の異星人の乗り物がロズウェル近辺に墜落したこと、異星人が回収されその一部はまだ生存していた可能性もあること、事件についてのあらゆる知識に対する大規模な隠蔽が行われたこと、であった。 多数の本、記事、テレビ特集、さらにはテレビ映画までもが1947年の事件に名声と悪評をもたらした。1990年中ごろまでに、1997年のCNN/Time のものをはじめとする複数の世論調査で、異星人が地球を訪れたこと、特にロズウェルに異星人が着陸し、政府がその事実を隠蔽したことを信じる者が大多数だったほどである。 1947年に報告された話と大きく食い違う一つの新しい物語が出現した。1980年にロズウェルについての最初の本が出版されてからの数年のあいだに、多くの新しい目撃者と報告が出現するとともに、この物語は進化していった。これらの話のある程度は事件が有名になったことによって出てきたという面もあるだろう。懐疑論者はこれらの話のもっともらしさに対して多くの反論を出したが、事件についての最初の空軍報告が発表され、異星人が存在することへの強い反論が広く知らしめられたのは1994年になってのことであった。 これらの著者たちが本当の出来事の推移であると思っていたことはそれぞれ違い、多数のシナリオが彼らの手によって出現した。それは、どの目撃談を採用しどれを無視するか、文書の証拠が示しているものを何とするか、によって違うものとなった。これは特に異星人の乗り物の墜落地点および回収地点として主張されたさまざまな場所に関して本当だった。さまざまな著者たちがこれらの出来事に対して別々の目撃者と別々の位置を記したのである。 ところが、以下のケヴィン・D・ランドルKevin D. Randleとドナルド・R・シュミットDonald R. SchmittによるUFO Crash at Roswell (1991)からの一般的輪郭はこれらの話のほとんどに共通である: 以下のものは対象について出版された一部の主要な本に書かれた出来事の推移についての話である。 ロズウェルUFO事件についての最初の本は、チャールズ・バーリッツ(en:Charles Berlitz)とウィリアム・L・ムーア(William L. Moore)によるThe Roswell Incident(邦訳:『ニューメキシコに墜ちた宇宙船―謎のロズウェル事件』、『ロズウェルUFO回収事件』)であり、1980年に出版された。その当時の著者たちによると、彼らは90人を超える目撃者たちにインタビューした。著者に名前を連ねていないが、スタントン・フリードマンがこの本のための実質的な調査を行っていた。この本はジェシー・マーセルによって叙述された残骸の話を「この地球上で作られた何ものでもない」として注目した(p.28)。さらなる話が、マーセルが回収した物体が超高強度を持ち、ほかの特質も知られている地球起源のどんな性質とも結びつかず、これが確実に「気象観測用気球」に関連するものでないことを示した。この本はまた、フォスター牧場でマーセルによって回収された残骸が、気象観測用デバイスに由来する残骸に取って代わられ、隠蔽の一部をなしたという主張を紹介した(p.33; pp.67-69)。マーセルは本物の残骸と一緒にポーズを取り、そして物体はすり替えられ、他の者たちはすり替えられた残骸と一緒にポーズを取っていた。牧場から回収された本物の残骸―著者たちが墜落したUFOに由来するものと主張するもの―は報道による綿密な調査を許可されなかった。「空飛ぶ円盤に対するどんどん沸き上がる興奮状態」の信用性を失墜させ沈静化させるための、軍による取り組みがあったことも記述された(p.42)。さらに、目撃者の脅迫があったというさまざまな話が含まれていた。特に、そもそも最初に残骸を報告した人物である、マック・ブレイゼルが監禁されていたという報告があった。 この本はバーニー・バーネットBarney Barnettによる異星人の話も紹介した。彼は出版の数年前に死亡している。友人たちによると、彼は数多くの機会で、フォスター牧場の約150マイル(240 km)西の、ソコロ地域で空飛ぶ円盤が墜落し異星人の死体が回収されたことを叙述していた。彼とその近辺にたまたまいた考古学者たちの一団は異星人の乗り物とその乗員に偶然に出くわしたが、軍隊員によってそこからつれ出されてしまった(p.53-62)。さらなる話が、これらの異星人たちと彼らの乗り物がカリフォルニア州ミューロック陸軍飛行場へと輸送されたことを示した(Ch.5)。この本は墜落した乗り物が二つあったか、バーネットが叙述していた乗り物からの残骸が爆発の後にフォスター牧場へと着地していたか、のどちらかであることを示唆した(p.62)。 この本で紹介された新しい年表は、少なくとも最初の話の一部が示していた年表と重要な違いを持っていた。新しい年表は、残骸の発見は7月初旬であり、マック・ブレイゼルを引用する文章において述べられている6月中旬の日付ではなかったとする。6月中旬とする文章は、残骸が気象観測用気球に由来することを示した話であった。マーセルの叙述によると、ブレイゼル(彼は出版の数年前に死んでいた)は、彼が残骸を見つけたのは7月7日の数日前の、彼が「奇妙な爆発」を聞いた後の朝になってからだったと言っていた(p.64)。もう一つの話が叙述するところでは、7月2日に地元のカップルが「大きな輝く物体」がこの領域を越えて飛んでいくのを見たとし―当時のニュース報告において言及された話―(p.21)、そしてバーネットの物語は7月3日に起こったとされた(p.53)。 マーセルと「キャヴィット」(シェリダン・キャヴィットSheridan Cavitt、マーセルは彼のファーストネームを思い出せなかった)が残骸を見に行ったのが正確にはいつであるかは明確でない。彼は「我々は7月7日にそれについて聞いた」と言っているからである(p.63)。しかし彼が接触を受けたのは、その前の日だと言っているように思われる。彼によると「7月6日日曜日に、ブレイゼルは街へ行きこれを誰かに報告したほうがいいと決心した」。そしてこのブレイゼルの話を聞いた者がこんどはマーセルに電話をかけた(p.65)。1947年には、マーセルは7月7日月曜日に彼が牧場に訪れたと言ったと引用されていた。 マーセルは7月7日の午後にロズウェルに戻ったが、空飛ぶ円盤の発見のニュースがリークされていることを発見するだけだったと叙述している。複数の電話が彼の家へかけられ、一人のリポーターの訪問もあったが、彼は報告を確認できなかった。「翌朝、その書かれたプレスリリースが発表され、その後にことは本当に大騒動になった」(p.67)。 この本は軍がブレイゼルの証言を周到に用意し、話をありふれた物体が牧場に着地したかのように見えるものにしたことを示した。ただし、この本は軍がブレイゼルに彼が発見した日付を6月中旬にするよう指示したとはっきりとは言っていない。六月中旬の日付については本の中では言及されていない。「ブレイゼルは…大きな平原へと行き、新聞記者たちに、彼が空軍に指示されてどのようにして彼が残骸を発見しそれがどのような物だったかについて言わされた様子を正確に話した」(p.40)。 1991年、10年に渡って事件について宣伝されたことによる恩恵と多数の新しい目撃者インタビューを得て、ケヴィン・D・ランドルとドナルド・R・シュミットはUFO Crash at Roswellを出版した。ここで、新しい目撃者たちは一般的にもっと詳しい話をつけ加えたが、それらはThe Roswell Incident に見られる話を補強する傾向にあった。それらの話には、回収された残骸の非地球的特質についてのさらなる話、物体のすり替えと隠蔽があったことを示すトマス・デュボーズ大佐へのインタビュー、マック・ブレイゼルのような目撃者の脅迫についての新しい話が含まれていた。マーセルは、この本の中では、もはや本物の残骸と一緒にポーズを取っておらず、それは報道の目に触れる前にすり替えられたことにされた。 年表はわずかに変えられた。ブレイゼルが残骸を報告しマーセルが牧場に行った日付は7月6日日曜日とされた。この日付は、もともとの話の一部は次の日を示し、The Roswell Incident ではあいまいなままにされていた。さらに、マーセルと名前不詳の対諜報活動員がその夜を牧場で費やしたことは、それまでに言及されていなかったことだ。彼らは月曜日に物体をかき集め、そして7月8日火曜日の早い時間にマーセルはロズウェル基地への道中で彼の家に立ち寄った。 かなりの数の新しい詳細情報が出現した。それらには牧場での「400〜500フィートに伸びる...衝突溝」の話(p.200)と入念な非常線と回収作戦の記述が含まれていた。The Roswell Incident では、数人の目撃者たちが武装した憲兵によってフォスター牧場から追い返されたと叙述したが、もっと広範囲の叙述は欠けていた。 バーネットの話も触れられたが、日付と場所はThe Roswell Incident に見られる話から変更されていた。この新しい話では、ブレイゼルは牧場の第二の墜落現場へと陸軍を導き、陸軍は「\"バーネットを含む\"一般人がすでにそこにいたことを見つけてぞっとしていた」と叙述されている(p.206)。 新しい目撃談は実質的に異星人と彼らの回収の報告へとつけ加えるものだった。グレン・デニスは、1989年にNBCの番組「Unsolved Mysteries」のある回がロズウェル事件を取り上げたときにホットラインに電話をし、その後に重要な目撃者として出現していた。彼のロズウェル異星人解剖の叙述は異星人の死体をロズウェル陸軍航空基地に位置させる最初のものだった。 ロズウェル異星人と彼らの乗り物がエドワーズ空軍基地へと輸送されたとするThe Roswell Incident に見られる主張についての言及は、ついでの記述を除いて、なされなかった。この本は次のような出来事の鎖を構築した。最初に異星人の死体は墜落現場で見られ、彼らの死体はデニスによって目撃された場所であるロズウェル基地へと輸送され、次いでフォートワース基地へと航空輸送され、最後にオハイオ州デイトンにあるライト・パターソン空軍基地に届けられた。ここが最後の知られている死体の場所である。これは、ある程度の部分がフランク・カウフマンとO・W・\"パピー\"・ヘンダーソン大尉Capt. O. W. \"Pappy\" Hendersonの証言から集成された話である。 この本はアーサー・E・エクソン准将General Arthur E. Exonによる話も紹介した。彼は回収された物体が置かれていたと主張される最後の場所に配置されていた将校であった。彼は、彼が邪悪な13人(Unholy Thirteen)と呼ぶ得体の知れないグループがあったと主張した。このグループは回収されたすべての物をコントロールしそれにアクセスしていた(p.231-234)。彼は後に言っている: スタントン・フリードマンの1992年の本、Crash at Corona(ドン・バーリナーDon Berlinerた文書に基づき、UFO回収について高レベルの隠蔽があったことを示した。これらの文書は1984年にあるUFO研究家の家に匿名で投函されたもので、後に大統領となるドワイト・アイゼンハワーへ提出された1952年の簡潔な報告書であると主張されている。その文書は、高レベルの政府機関を記述しており、彼らの目的はロズウェルで回収された異星人を調査ンはThe Roswell Incident のための調査のほとんどをやっており、Crash at Corona はその調査の上に組み立てられた。コロナは地理的にフォスター牧場の墜落現場に近いため、ロズウェルの代わりに題名にされた(p.ix)。 年表はそれまでのものと多くが同じであり、マーセルとキャヴィットは7月6日日曜日に牧場へ訪れたとされる。しかしこの本によると、ブレイゼルは「約一週間におよんで収監され」、7月10日にロズウェル・デイリー・レコード紙の事務所へと護送された。そこで彼は政府によって話せと命じられた話を話した(p.79-80)。 さまざまな研究家のあいだの論争の火蓋が切られた。フリードマンとバーリナーがバーネットの話をソコロ近くへと戻し、ジェラルド・アンダーソンGerald Andersonによる地点の新しい目撃談を紹介したのである。アンダーソンは落ちた異星人の乗り物と四人の異星人の生き生きとした叙述をもたらした。四人のうちの少なくとも一人は生存していた(p.90-97)。Crash at Corona が基礎とした証拠のほとんどは、UFO Crash at Roswell では「確かな論拠に基づかずに」無視されている、と著者たちは記している(p.206)。また「アンダーソンとランドルのあいだでの個性の衝突」はフリードマンがアンダーソンの主張を調査した著者であったことを意味するとも記している(p.89)。ところが、この本はUFO Crash at Roswell による出来事の推移から多くを採用している。そこでは、デニスの話に基づいて、まず異星人はロズウェル陸軍飛行場で見られ、そしてフォートワースへと輸送され、次いでライト基地へと輸送されたとされる。 この本は八人の異星人死体が二ヶ所の墜落現場から回収され、フォスター牧場から三人が死亡、一人がたぶん生存したまま回収されており、他に三人の死亡者と一人の生存者がソコロ地点から回収されていたことを示唆している(p.129)。 1994年、ランドルとシュミットは第二の本、The Truth about the UFO Crash at Roswell(邦訳:『ロズウェルに堕ちたUFO』)を出版した。彼らの前の本UFO Crash at Roswell に詳しく説明されていた事例の多くを再び述べているが、新しいより発展した異星人の話が含まれており、異星人が回収された新しい位置が詳細に説明されていた。さらに、出来事の推移に関してほとんど完全に新しいシナリオを詳しく説明した。 最初に、物体が墜落した日付は、それまでの全ての本での7月2日水曜日ではなく、7月4日金曜日であったとされた。もう一つの重要な違いは、ブレイゼルがフォスター牧場の残骸についての知らせを受けてロズウェルへと行く前に異星人の回収がすでに進行中であった断定したことであった。実際に、一つの物体が墜落する前に数日にわたってこの近辺でいくつかの物体がレーダーによって追跡されていた。全てのそれまでの話では、軍はブレイゼルが申し出るまで異星人の墜落と主張されるものに気づいていなかったことになっていた。さらに、ブレイゼルは7月9日に記者会見を開いたとされ、彼の記者会見と「空飛ぶ円盤」の発見を宣言する最初のニュースリリースは全て「真の」墜落現場から注意をそらすための入念な策略の一部だったとされた。 この本は異星人の乗り物と異星人たちを述べるジム・ラグズデイルJim Ragsdaleによる新しい目撃談を取り上げた。ラグズデイルの話の場所は、フォスター牧場の中のコロナ近くではなく、ロズウェルのすぐ北の新しい地点である。補強証拠は考古学者たちの一団による話によって与えられた。五人の異星人の死体が見られた(p.3-11)。フォスター牧場も残骸の起源であったが、そこでは死体は回収されなかった。 デニスとカウフマンからは発展した話がもたらされた。そしてルーベン・アナヤRuben Anayaによる新しい話では、ニューメキシコ州副知事ジョゼフ・モントーヤJoseph Montoyaがロズウェル基地で異星人の死体を見たと主張していると叙述されていた。 ロズウェル研究家たちのあいだの不一致はほかにもこの本の中に露呈している。一つの章の全てが、Crash at Corona とThe Roswell Incident の中心部分である、ソコロにおけるバーネットとアンダーソンの話を退けることに捧げられている。「...バーネットの話は、実際には、\"ソコロの近くのサン・アグスティン\"平原シナリオであり、信用を破棄されなくてはいけない」と、著者たちは言う(p.155)。一つの付録が、Crash at Corona のもう一つの中心的部分である、マジェスティック12文書を「でっち上げ」として記述することに捧げられている(p.187)。 ランドルとシュミットによる二冊の本はUFOコミュニティの中で大きな影響を残しており、彼らのインタヴューと結論はウェブサイト上で広く再生産されている。ランドルとシュミットは彼らのロズウェルについての調査のあいだに「500人を超える人々に2000回を超えるインタビューを行った」と主張している。 1994年のThe Truth About the UFO Crash at Roswell の出版によって、真の出来事の推移と異星人の墜落現場と主張される場所について、UFOコミュニティのあいだに深刻な分裂が発生した(p.24)。CUFOS (Center for UFO Studies)とMUFON (Mutual UFO Network)は二つの主要なUFO組織であるが、ランドル/シュミットとフリードマン/バーリナーによって提示されたさまざまなシナリオをめぐって対立していた。食い違いを解決しようと試みるために数回の会議が開かれたほどである。議論の下にある問題の一つはバーネットが彼が遭遇したとされる異星人の乗り物を見たときに彼が、正確には、どこにいたのか、ということである。1992年の会議はCrash at Corona とUFO Crash at Roswell に描写されるさまざまなシナリオの中で共通見解に達しようと試みた。しかし、1994年のThe Truth About the UFO Crash at Roswell の出版はバーネット問題を単純に彼を無視し、異星人の乗り物が回収されたところに新しい場所を引用することによって「解決した」。そこには、バーネットの話が引き合いに出していた考古学者たちとは接点のない、新しい考古学者たちの一団が含まれていた(p.25)。 この墜落現場と主張される場所をめぐる根本的な不一致は今日でもなおUFOコミュニティのあいだに存在する。 1990年代中ごろ、アメリカ空軍は『ロズウェル・リポート』と題した二つの報告が発表された。その報告は、1947年に見つけられ報告された残骸の原因を説明するものと、後に異星人を回収したとする報告が起こった原因を説明するものであり、発見された残骸はモーグル計画と呼ばれる極秘の政府実験に由来するものであるとしている。この計画には、一連のソビエトの核実験と弾道ミサイルを検知するためのマイクロフォンとラジオトランスミッターを積んだ気球が関与する。異星人の話は、擬人ダミーを使った軍の実験と軍隊員に怪我人と死亡者を出した事故を、誤認したことに起因するとして説明された。 空軍報告は、異星人の回収について多くの著者たちがしている主張に懐疑論者たちが返答する際の基礎を形づくった。ただし、フィリップ・J・クラスPhilip J. Klassとロバート・トッドRobert Toddなどの、懐疑論者の研究家はすでに数年にわたって記事を発表していて、空軍がその結論を発表する前に異星人の話について疑いを提起していた。 1990年代までの新しい報告はロズウェル事件について単なる気象観測用気球の回収だけではなく、もっと更なることがあったことを示唆すると思われた。けれども、懐疑論者たちと、さらに一部の社会人類学者たちは、そういった見かたをする代わりに、話の精巧さが増していくことを、ひとつの神話が構築されている証拠として理解した。1990年代中ごろの空軍報告の発表の後、1997年に出版されたカル・K・コーフKal K. Korffの本をはじめとする数冊の本が、この報告に提出された証拠に基づいて「地球外の宇宙船の遺物が関与していたとする信頼できる証拠はない」と結論づけた。 批評家たちは、ロズウェル事件が異星人と何も関係なかったという彼らの主張の理由をいくつか確認した。 1947年、アメリカはソビエト連邦との冷戦の開始段階にあった。その結果、ソビエトについての、特に彼らの核計画についての情報を得るための、多数の秘密の軍計画が実行されるところとなった。ニューメキシコ州で当時行われた軍の実験の一つは、高高度気球の放球を通してソビエトの核実験を検知するよう設計された、モーグル計画だった。これらの気球実験はアラモゴードから上空に送られた。1947年6月と7月、いくつかの気球隊列が失われている。同時期に、UFOの報告は著しく突出しており、それらの報道も激増した。一つの報告の勘定は6月と7月に853件を数えている。空軍(p.3)をはじめとする一部の人々は、これらの「空飛ぶ円盤」の目撃の多くが実際には気象観測用気球の誤認であると推測している。 B・\"デューク\"・ギルデンバーグB. \"Duke\" Gidenbergをはじめとする懐疑論者たちは、最初に1947年に報告された通りの一連の出来事が本質的には正確だったと考えていた: 気象観測用気球かそれに似たデバイスが牧場から回収され、それまでにそういった装備を見たことがなかった隊員がそれがメディアに報告されている「空飛ぶ円盤」の一つかも知れないと考えた。気球実験とそれらの装備を見た経験のある隊員が物体を見たとき、誤認が明らかになり、そして訂正がメディアに発表された。 モーグル計画の実験が空軍報告の中に完全に記述され、それに続いて計画当事者たち、特にチャールズ・B・ムーアCharles B. Mooreによって飛行の再現がなされて(Ch.3)、コーフをはじめとする批評家たちは、目撃者たちが実際にはこの実験の一部を叙述していたことを示した。「疑問はいまやどのタイプの空想上の「地球外の」空飛ぶ円盤が、凧棒、その上に貼られたシンボルが印刷されたテープ、アルミフォイルでできているか?というものになった。答えはおそらくそんなものない、というものだ。しかしこれらはモーグル計画のデバイスの正確な構成要素である!」(p.155)。 プロのUFO本の一部は、ロズウェル航空基地で高度に訓練された軍隊員、特にマーセルがありふれた気球の残骸を「この世界に存在しない」何かと取り違えることなどありえないことを示している。The Roswell Filesウェブサイトの人たちのような批評家たちは次のような指摘をする。「空飛ぶ円盤」という用語が創られたその時から、対象がどのような外見である「べき」かについての可能性がなくなった。そして「空飛ぶ円盤」と呼ばれる対象は当時回収されたが、その記述と類似性を持たなかった。トッドとプリンティも1947年にはレーダーが比較的革新的であったこと、そしてロズウェル基地は惑星上で唯一の核配備基地であったけれども、そこはまだレーダーを配備していなかったことを指摘した。目撃者たちによって叙述された残骸の一部はレーダー関連の装置と一致する。さらに、モーグル気球隊列に使われた特定のレーダー標的は革新的で当時アメリカで一般的に使われていたものではなかった(p.164)。ジェシー・マーセルの軍の記録に、気球隊列に使われた物体に触れる何らかの体験があったという証拠はない。マーセルがレーダー「凧」デバイスであるように見える物体を自分が回収した物の一部として認めたことから、この種の装置を単純によく知らなかっただけだと後に認めるのは彼にとって恥ずかしすぎたのだろう、と批評家たちは主張する。 何百人もの目撃者たちがさまざまな研究家たちによってインタビューされた。これは印象的な数字だ。しかし実際に残骸または異星人を見たと主張する真の「目撃者」たちの少なさは同じぐらい印象的である、と批評家たちは指摘する。ほとんどの「目撃者」たちは実際には他人の主張を繰り返していて、彼らの証言はアメリカの裁判所では認められない伝聞証拠となるであろう、とコーフは言う(p.29)。コーフによると、The Roswell Incident のためにインタビューされたと主張されている90人の目撃者のうち、25人の証言だけが本の中に現れ、7人だけが実際に残骸を見ていた。これらのうち、5人が残骸に触れている。 最近のカール・T・フロックKarl T. Pflockは、彼の2001年の本の中で、ランドルとシュミットのUFO Crash at Roswellについて同様の指摘をしている。約271人の人々が本書のために「接触されインタビューされた」人として本の中にリストされており、この数は匿名のままを選択した人たち、その他、を含んでいないため300人以上の「目撃者」たちがインタビューされたことを意味する。著者たちが頻繁に引き合いに出すとフロックが言う数字がこれである(p.176)。フロックによると、これらの300人強の個人のうち、41人だけが「ロズウェルまたはフォートワース陸軍飛行場の中または周りで出来事を真性に直接にまたは間接に目撃したと考えられ」、23人だけが「フォスター牧場から回収された残骸、物理的証拠を見ていたと筋を通って考えられる」。フロックによると、これらのうち7人だけが残骸がこの世のものとは思えない起源を持つとの何らかの示唆を断言している(p.177)。 異星人を見たと主張する人たちからのいくつかの話について、批評家たちはこれらの話に次のような問題を認めている。また聞きの話の信頼性(パピー・ヘンダーソン、エクソン准将、その他)から、明白に偽の主張をするまたは複数の矛盾した話を作る目撃者たちについての深刻な信用性の問題(ジェラルド・アンダーソン、グレン・デニス、フランク・カウフマン、ジム・ラグズデイル)、疑わしい死の床での「告白」や高齢で明らかに混乱した目撃者(エドウィン・イーズリー少佐Maj. Edwin Easley、ルイス・リケットLewis Rickett)からの話まで(ch.3)。 フロックは2001年の手記で、異星人の死体の直接の知識を持ちロズウェルの著者たちによってインタビューされて認められたのは以下の四人だけの人々である、と記した: フランク・カウフマン; ジム・ラグズデイル; アルバート・ラヴジョイ・デュラン中佐Lt. Col. Albert Lovejoy Duran; ジェラルド・アンダーソン(p.118)。デュランDuranはThe Truth About the UFO Crash at Roswell の簡潔な脚注の中で言及されてから再び言及されたことはないが、フロックによると、他の3人は全員深刻な信用性の問題を持つ。 さらに、特定の著者たちが自分が支持するシナリオに合わない話を採用している、とフロックは指摘する。たとえば、フランキー・ロウFrankie Roweの話は、消防士だった彼女の父と彼のクルーが異星人の墜落現場に出動したと言う。しかし同じ本は極秘の軍に率いられた作戦を叙述する他の話を採用する。「\"これらの話は\"壁に全てのものを投げて何がくっつくか見る、というようなアプローチの一部として含まれるものと思われる…」(p.63)。 全ての目撃談にある基本的な問題は、それらが全て問題の事件の少なくとも31年後にもたらされ、多くの事例では事実の40年以上後に詳しく話された、ということである、と批評家たちは非難する。これだけ古い記憶は信頼性が疑わしいだけでなく、それらは彼らがそれまで聞いてきた他の話からの混入も受けやすかった、と批評家たちは言う。 最後に、1947年に回収したものが「この世界のものではない」と最初に疑ってこの事件への興味をスパークさせたジェシー・マーセルと、父がフォスター牧場で残骸を発見したビル・ブレイゼル・Jrという、二人の主張が転換されたことは、彼らの主張の信頼性に深刻な疑いを投げかける。 ティモシー・プリンティTimothy Printyは、マーセルはフォートワースで撮られた写真に彼と一緒に写る物体が彼が回収した残骸の一部であることを明確に認めている、と指摘する。この残骸については懐疑論者たちもUFO擁護者たちも気球デバイスからの残骸であると合意している。 マーセルはThe Roswell Incident の中でこう言っている。「実際は、この物体はスズ箔とバルサ材に似ていたようだが(強調は原文)、しかし類似性はそこで終わっていた」。そして、「彼らは何らかの面白くない金属製の残骸を支える床の上で私の一枚の写真を撮った...その一枚の写真の中の材料は我々が見つけた実際の材料の破片だった。それは上演された写真ではなかった」。 彼は一緒にポーズを取っていた物体が気球隊列の物体であるという指摘を受けた後、その物体は自分が回収したものでなかったと言うように話を変えてきた。ロバート・G・トッドRobert G. Toddのような懐疑論者たちは、マーセルが、一人のパイロットであったと主張したり五つのエアメダルを受け取っていたりと、潤色と誇張の歴史を持っていたと主張する。そして彼の発展していくロズウェルの話はこれのもう一つの実例であった。 マーセルと同様、ビル・ブレイゼル・Jrには彼の最初の話を潤色した罪がある、とプリンティは責める。マーセルと同様、彼は最初は、後に他の者からの話で言及された、地面にある溝のようなものには何ら言及をしていなかった。しかし後の話が深い溝を出現させてそこから異星人と彼らの乗り物が回収されたと主張するにつれ、ブレイゼルの話も変わっていき、1980年代後期にはこう言っていたほどである:「このことはそこを通るすごいわだちを作った。そのせいで牧草が戻って回復するのに1年か2年かかった」。 ギルデンバーグのような懐疑論者にとって、隠蔽と目撃者の脅迫の話は迷惑な証言、特にマック・ブレイゼルの証言を言い逃れる試みでたくらまれた。彼の1947年からの話は、額面通りに受け取れば、誤認定された気球の残骸を示す、と彼らは言う。 UFO研究家は、残骸が単なる「気象観測用気球」だったとする報告に信用を与えるために、ブレイゼルが回収した残骸についての叙述を変えるように彼が脅迫された、と主張する。多数の目撃者の陳述は軍に拘置されたブレイゼルを叙述する。しかし、何十年も後からの目撃者の報告とは対照的に、懐疑論者たちは次のように主張する。当時の話によると、マック・ブレイゼルが記者会見に到着したとき、軍の護衛者と一緒ではなく、リポーターW・E・ホィットモアW. E. Whitmoreと一緒だった。ブレイゼルと一緒にいるホィットモアの存在は多くの他の目撃者たちによって確認されている。目撃者の中には、ブレイゼルが彼の父の家で一晩泊まっていたのを見たと思い出しているホィットモアの息子(p.154)と、ホィットモアは記者会見に出席し、そこで彼は「ほかの報道関係者からブレイゼルを遠ざけるのに彼のベストを尽くし」、そのため彼のインタビューが「スクープ」のままであったのだろう(p.170)、と言う記者ジェイソン・ケラヒンJason Kellahinも含まれる。ブレイゼルが脅迫されていたことを示すのに使われる一つの目撃談は、ロズウェル・デイリー・リコード紙の編集者ポール・マケヴォイPaul McEvoyがもたらしたものである。彼はブレイゼルが軍の護衛者と一緒に到着したと言っている。しかし彼の自身の新聞がブレイゼルはホィットモアを伴って到着したと言っていることから、マケヴォイは隠蔽の一部を担っていたことにならなくてはいけないと思われる、とプリンティは指摘する。 威嚇と脅迫があったとする他の主張については、フロックによると「五つの話がある、五人―そういった断言をする人たち」(p.171)。フロックによると、これらの話はどれも「単純に信頼できない」ものであり、特にウィルコックス保安官とその妻イネスInezの孫、バーバラ・ダガーBarbara Duggerからの話は信頼性に欠ける。バーバラは問題の出来事の数十年後に彼女の祖母が、事件について誰かに話したら死があると軍によって夫妻が脅された、と彼女に話したと主張した。しかしダガーの母、父、おばは、三人とも軍が彼女の祖父母を訪れた時にそこにいたのに、誰も死の脅迫について何も言っていない。 軍はメディアの販売店の捜索をし「それの出来事に関するあらゆることについて書かれた新聞の全てのスクラップ」を除去したということが主張されている。しかしフロックによると、その主張は一つの情報源―リポーターフランク・ジョイスFrank Joyce―からのものであり、他のメディア職員―この話を報じたKSWSラジオの局長、ジョージ・ウォルシュGeorge Walshを含む―は誰もいかなるそういった捜索についても思い出していない(p.173)。 トマス・デュボーズ大佐がUFOの残骸が気象観測用気球の物体にすり替えられたことを認めていると思われるもう一つの「隠蔽」の主張についても、コーフのような懐疑論者たちは疑わしいところを見つけている。 デュボーズは1947年にフォートワースで残骸とともにポーズを取っていた人の一人である。プリンティによると、彼が署名した陳述は「隠蔽」を認めるけれども、この陳述は物体がすり替えられたことは示さない。デュボーズにとっては、隠す話があったことは自明であると思われた―しかし何か別の秘密の軍の計画(たとえばモーグル計画)を保護するよう意図されたのであって、異星人の乗り物を回収したことの証拠を隠すためではなかった。プリンティは、研究家たちが正確には何が「隠蔽」されていたのかを彼に直接訊ねないことによって、異星人の物体と残骸がすり替えられたことの隠蔽があったことをデュボーズが確認したと信じるように読者を誤った方向に導いたとして非難する。後にデュボーズは、UFO研究家ジェミー・シャンデラJamie Shanderaに残骸がすり替えられたのかを直接問いただされ、彼はすり替えが行われたことを強く否定した。 ギルデンバーグ、プリンティおよび多くの他の懐疑論者たちによってなされた隠蔽に反対するもう一つの主張は、まさに軍が隠蔽しようと試みたと推測される「空飛ぶ円盤」そのものを公表するプレスリリースを軍が発表したという事実である。 非常に多様な墜落した飛行物の主張があることは何年にも及ぶ出来事が一つの出来事へと組み込まれていったことを示すこと(p.66)、そして多くの著者たちが異星人を示すあらゆる事がらを、話が互いに矛盾する時でさえ、無批判に採用していること、を批評家は指摘する。ロズウェル異星人事件のかつての擁護者である、カール・フロックは言った: 「ロズウェルの事例は量が質に打ち勝つことの古典的な例である。墜落した円盤の話の擁護者たちは...単純に彼らの見かたを支持すると思われる全ての事がらを「証拠」というしるしをつけた箱の中へと放り込んで、「分かるかい?全てのこの資料を見たまえ。我々は正しくなくてはいけない 」(強調は原文)と言う。矛盾について何も考えない。独立な支持する事実の欠如について何も考えない。露骨な不条理について何も考えない」(p.223)。 カル・コーフは、多くの研究家は有能な仕事をしていないのに、一部の者にとってロズウェル異星人の考えを促進することには明確な刺激があることを示した: 「UFOの分野は他人、特にお金を払う大衆、の騙されやすさを利用しようとする人々によって構成される。歯に衣を着せずに言わせてもらうと: ロズウェルUFO神話はUFOグループ、出版社、ハリウッド、ロズウェルの町、メディア、そしてUFO学...、にとって非常に良いビジネスなのである。科学とその訓練された手法を駆使する研究家の数はぞっとするほど小さい」(p.248)。 ギルデンバーグたちによると、合計11地点の異星人回収現場が報告されており、これらの回収物は1947年に最初に報告された出来事と限られた類似性しか持っていないか、最初の目撃者たちによって後に数えなおされたものである。これらの新しい話の一部は、1948-50年に近辺で起こった四つの軍飛行機墜落からの怪我人および死亡者を回収したいくつかの知られている事件と混同した話であろう。他は、空軍報告の中で示されているように、テストダミーの回収であろう。 チャールズ・ジーグラーはロズウェルの物語は全て伝統的な民俗説話、物語的意味での現代の神話、のホールマークを持っていると主張した(p.1,34)。彼はThe Roswell Incident (1980)に始まり物語作家による伝達の過程を経た、六つの別個の物語を同定した。核となる話は、さまざまな目撃談から創造され、グループ(UFOコミュニティ)の伝統を維持する人たちによって形成され整形された。他の話は核となる物語を拡張するために探し出されてきた。核となる信念のラインにない話を与える人たちのものは「門番」たちによって拒否されたか脱落させられた(p.37)。他の話はこの物語を新しい形で再び語り、この過程は繰り返すのだろう。 サブカルチャー(UFOコミュニティ)の特定の信念はそのままである(政府は異星人来訪の証拠を一般に出さないよう陰謀をたくらんでいる、異星人は小型のヒューマノイドに似ている、etc.)ことに注意しつつ、特定の他の信念は、神話の共著者としてふるまうサブカルチャーとコミュニティのあいだの変化を反映して改められている。「たとえば、ロズウェル神話の各バージョンの中でバーネットと考古学者たちが(ソコロ近くの)サンアグスティン平原の墜落現場に出くわしたときの部分(バージョン1に紹介された)が三ステップの変化を受けたところにおいてそういった改変が起こった: バージョン3では、バーネットと考古学者たちはフォスター牧場の墜落現場にでくわす; バージョン5では、バーネットと考古学者たちは抹消されるが、しかし「ロズウェルの35マイル北」の墜落現場に出くわす新しい考古学者たちが導入される; そしてバージョン6では、サブプロット全体が抹消される」(p.39)。 残骸が気象観測用気球にすぎないと考えていた、シェリダン・キャヴィットによる証言のほとんど全体が脱落していることは、神話構築のさらなる証拠である。彼の話がサブカルチャーの物語と食い違っていて、そのため「門番」たちによって脱落させられ拒否されたのだ。ジーグラーはこう言った。「これらのバージョン(Crash at Corona と二冊のランドル/シュミットの本)におけるキャヴィットによる陳述の欠落は彼の近づきがたさのせいだったのではないと思われる…むしろ、彼の陳述のほとんどが無視されたように見える…この件についての彼の陳述はそれらが「好ましくない」―すなわち、それらが伝統的な慣習とUFOコミュニティの信念に反する―からロズウェル神話のさまざまなバージョンから脱落させられたと推測するのが妥当である」。(p.45) ロズウェルUFO事件についての空軍報告がすぐさまもたらした成果の一つは、一部の著名なUFO研究家たちがロズウェル事件にいかなる異星人の乗り物も関わっていなかったと考えるよう決めたことであった。 最初の空軍報告はこれへの主要な理由であったが、もう一つは1948年の秘密文書の公開であった。その文書は、トップの空軍役人がメディアに報告されていたUFO物体が何であるのかを知らなかったことと、それらがソビエトのスパイビークルであるかもしれないと彼らが疑っていたことを示している。 1997年1月、著名なプロUFO研究家の一人である、カール・T・フロックはこう言った。「私の調査と他の者の調査に基づき、ロズウェルの一般的な近辺においてあるいは1947年にサンアグスティン平原の上に、単数または複数の空飛ぶ円盤がなかったとする絶対的証拠がないとこともありうる、ということ私は確信している。マック・ブレイゼルによって見つけられた残骸は…、極秘のモーグル計画からの確かな何かのほかはみな、非常に地球的な何かの遺物であった…。かつて極秘扱いだった1940年代中盤から1950年代初期までを通じて空飛ぶ円盤の謎を解く責任があった空軍上位幹部たちのあいだの通信と議論の記録がある。これは、彼らはいかなる墜落した円盤の残骸や円盤の乗組員の死体も持っていなかったが、しかし彼らはそういった証拠を得る見込みがなかったことを明白にしている…」[要出典]。 ビル・クリントン大統領に、ロズウェル事件についてのあらゆる政府の情報を機密解除する大統領命令を発行するよう求める請願を組織したケント・ジェフリーKent Jeffreyも、同様に異星人は関わっていなかったらしいと結論付けた。 もう一人の著名な著者、ウィリアム・L・ムーアは、1997年にこう言った: 「ロズウェルに関する最近の発展を深く注意深く考慮した結果...私はもはやこの出来事にとって地球外の説明が最良の説明であるという意見を持たない」。ムーアはロズウェルについての最初の本、The Roswell Incident の共著者であった[要出典]。 同じころに、二人の著名なロズウェルの著者の間に深刻な亀裂が生じていった。ケヴィン・D・ランドルとドナルド・R・シュミットは対象についての数冊の本を共著で出し、スタントン・フリードマンと並んで、ロズウェル事件への指導的研究家として、一般的に認められていた。事件についての空軍報告が示すところでは、行われたと主張される基本的な調査が行われていなかった。これは1995年のオムニ誌の記事で立証された事実である。さらに、シュミットは彼が学士号、修士号を持っていて犯罪学の博士課程に従事している途中であると主張していた。彼は医学画家であるとも主張していた。検査が行われたとき、実際は彼はウィスコンシン州ハートフォードの郵便集配人であり、知られている学術的な資格を何も持っていなかった。同時に、ランドルは公的にはシュミットおよび彼の調査から距離を置くことにした。目撃者デニスによるロズウェル基地での消えた看護師の話についてのシュミットの調査を引き合いに出して、彼は言った: 「看護師への調査は彼(シュミット)があらゆることについて嘘をつくことを証明する。彼はあらゆる人に嘘をつく…。彼は自分が虚言癖の持ち主であることを明らかにする…。私はもう彼と何かするということはない」。 さらに、数人の顕著な目撃者たちがでっちあげを犯している、あるいは犯していると疑われていることが示された。フランク・カウフマンは1994年のランドルとシュミットの本The Truth About the UFO Crash at Roswell における異星人の報告の主要な情報源であり、彼の証言は空軍報告が編纂されたときに彼らによって「無視」された。しかし、彼が2001年に死亡した後、彼が文書を偽造しロズウェルでの彼の役割を膨らませていたことが示された。ランドルとマーク・ロドガーMark Rodeghierは2002年の二つの記事の中でカウフマンの信用性を否定した。 ロズウェル異星人の死体解剖がロズウェル基地で行われたことと彼と他の者たちが脅しを受けたことを証言した、グレン・デニスも疑われている。1998年にランドルはデニスを「最後の信用できる」ロズウェルの目撃者の一人だと考えた。ランドルとシュミットの1991年の本UFO Crash at Roswell の中で、デニスの話は目立って取り上げられていた。しかし、ランドルはデニスが「我々が看護師が存在しないことを証明するやいなや彼女の名前を変えてきた」ために信用できないと言っている。デニスの話は研究家フロックによっても疑われている[要出典]。 UFO研究家デヴィッド・ルディアックDavid Rudiakは、1947年の残骸を撮った写真の一つに写っている一片の紙が異星人が回収されたことを認める文章を含んでいると主張した。彼らは拡大したとき、レイミー准将が彼の手の中に握る紙の上の文章が「残骸の犠牲者victims of the wreck」の語を含み、他の句は墜落した乗り物の回収という文脈であるように思われると主張する。ところが、この文書の解釈は文字と語が不明瞭なために疑わしい。 2002年、アメリカのケーブルテレビen:Sci-Fi Channelは、ブレイゼルの現場で軍が収集し損ねた未回収のあらゆる見過ごされた残骸を探す発掘の資金を提供した。これらの結果は今のところ失敗であるけれども、ニューメキシコ大学の考古学者チームは、一部の目撃者たちが彼らが長い、線形の衝突溝を見たと言った正確な地点で最近土壌の擾乱があったことを立証した。クリントン大統領の下でアメリカ合衆国エネルギー省の長官を務めた、ニューメキシコ州のビル・リチャードソン知事は見たところこの結果を刺激的に受け取ったようだ。2004年、彼はThe Roswell Dig Diariesの前文に、「この墜落にまつわる謎は適切に説明されたことがない―独立した研究者によっても、合衆国政府によっても」と書いた。 2002年10月にSci Fi Channelはロズウェルのドキュメンタリーを放送したが、その前に彼らはワシントンUFOニュース会議を開いた。クリントン大統領の首席補佐官ジョン・ポデスタJohn Podestaは、政府にこの対象についての文書を公開させるのを助けるためにSci-Fiによって雇われた広報活動会社のメンバーとして現れた。ポデスタはこう言った、「政府が25年以上古い記録の機密解除しこの事象の本当の性質を決定するのを助けるデータを科学者たちに提供するときがきた」。 2005年9月9日のインタビューの中で、前大統領ビル・クリントンは彼の任期でロズウェル事件へ関心を持っていたことを控えめに述べた。彼によると、彼らがそれを調査したのは事実だが、それは理性的な説明のつくものであると信じていてそれが起こったとは考えなかった。ところが、彼が下役やキャリア官僚たちによって欺かれた可能性があるという警告を彼はつけ加えた。もしそれが事実だとしたら、嘘をつかれていたあるいは決定的な情報を隠されていたアメリカ大統領は自分が最初ではなかっただろう、と彼は言った。 2005年2月、ABCテレビネットワークはニューズアンカー、ピーター・ジェニングスが司会を務めるUFOスペシャルを放送した。ジェニングスはロズウェルの事例を「少しも証拠がない」「神話」であるとして非難した。ABCは事件が単にモーグル計画の気球の墜落から起こったという空軍の説明を支持した。 2005年11月、アメリカ国防情報局(DIA)の中の高レベルグループの人々に属すると主張する匿名の情報源は、サーポ計画に関すると主張される情報を流し始めた。この流された情報は1947年7月にニューメキシコ州に墜落した二機の地球外UFOがあったことを認めると主張されている。サーポ計画はさらに一体の生き残った異星人の実在があったという主張を流す。主張によると、この異星人およびその故郷世界とのあいだに意思疎通が確立された。その異星人は5年に渡って生き続け1952年に死んだ。意思疎通は、レティクル座ゼータ星系にあると主張される故郷世界と続けられ、それは1965年と1978年の間の交換プログラムの合意を導いた。 スタントン・T・フリードマンは、回収された異星人についての情報を隠す機密の政府機関を記述する、マジェスティック12文書が本物であるという彼の見解を守り続けている。彼の本Top Secret / Majic (初版は1996年出版)の新版への2005年5月の日付がついた後書きの中で、彼は文書の有効性についての最近の疑問に応えて「私はなおロズウェルが本当に起こったのだと確信しており、アイゼンハワー情報文書(即ち、\"マジェスティック12\"…及び\"他の文書\")はこれまで公にリークされた中で最も重要な機密文書である」と結んでいる。 本の大部分でこの文書を詳細に議論しながら、ソコロの近くのバーネットの異星人地点を言及している(p.43)。フリードマンは2003年に異星人がその地点とフォスター牧場の二番目の地点で回収されたという彼の見解を守る記事を自費出版しており、それはCrash at Corona において詳述されているのと同じ地点と思われる。 2007年、ドナルド・シュミットと彼の新しい調査の相方であるトム・キャリーTom Careyは彼らが二人でなした最初の主要な仕事、\"Witness to Roswell\"を出版した。この本の中で、著者たちは「引き続き増加していっている600人を超えるロズウェルでの出来事に直接または間接に関係する人々が最初の話―空飛ぶ円盤が回収されたという最初の主張―を支持している」と主張する(p.38)。 謎めいた物体の墜落について新しい日付が示された―1947年7月3日木曜日の午後(p.21, 127)。そして、以前の本とは違って、ブレイゼルは残骸をコロナの街へと持っていき、その街の地元の酒場、金物屋、およびその他の場所で彼は人々に断片を見せ、南のキャピタンでは物体の一部は7月の第四回ロデオで置かれることになる(p.48-9)。ブレイゼルが7月6日に最後にロズウェルへ行って発見を報告する前に多数の人々が残骸の牧草地を訪れ記念品を持ち出したと記述されている。いったん軍が残骸に気づくと、それらの記念品を回収するのに広範囲の努力がかたむけられた: 「牧場の家々がくまなく捜された。家畜小屋の木製の床は板を次々に剥がされて覗き込まれ、地下フルーツ冷蔵室は全てのそれらの中身をカラにされた」(p.51)。 その後の出来事の推移はそれ以前に記述された出来事と似ているけれども、この本は異星人が回収された場所をフォスター牧場へと戻した。そこは1991年のUFO Crash at Roswell で言及されたのと同じ場所である。しかし、この時点でバーネットと考古学者たちはいないことになっている。シュミットと以前の相方ランドルが1994年のThe Truth about the UFO Crash at Roswell においてバーネットの主張を否定させる原因となった、バーネットの話にあった「大きな問題点」に触れながら、新しい本は1994年の本で言及されたロズウェル付近の地点は「いんちきということになった。それが一人の目撃者だと主張する人\"フランク・カウフマン\"の証言に基づいており、彼自身が偽情報の調達人であったことが後に発見されたからだ」とも記している(p.126-7)。1994年の本の冒頭で、彼による異星人の話が取り上げられ、一部の考古学者たちと一緒にいたと主張されていたジム・ラグズデイルは、新しい本では言及されていない。 この本によると、ブレイゼルは全ての本に記述がある残骸があった牧草地の近くで「二人か三人の異星人の死体」を見つけたとし、壊れた異星人の乗り物の他の部分およびそれと一緒にいる乗組員の残りを記述する。それはロズウェルの北北西40マイルに墜落する前に約30マイルほど飛んだままだった。著者たちは2005年にこの最終墜落現場を特定したと主張する。そこは「さらなる二人か三人の死んだ異星人と一人の生きた異星人が民間の考古学者たちによって発見された」場所でもあった(p.127-128)。この本はこの「新しい」墜落現場についてこれ以上は触れていない。この本は複数の新しい話を提示し、異星人がフォスター牧場にいたこと、さまざまな格納庫にいたこと、および謎めいた状況の下で輸送されたコンテナの中にいたことを示した。 1947年に「空飛ぶ円盤」を公表するプレスリリースを発表した人物である、ロズウェル基地の元報道官ウォルター・ホート大尉は、隠蔽があったことと彼が基地の格納庫で異星人の死体を直接見たことを記述する宣誓供述書に署名していた。この宣誓供述書は2002年に署名され、2005年に彼が死んだ後に発表された(p.215-7)。イライアス・ベンジャミンElias Benjaminによる新しい直接の目撃談は、ロズウェル基地の病院へと運ばれる担架の上の異星人を叙述する(p.136-140)。もう一つの目撃談は、異星人の死体が担架の上に安置された調査室へと連れて行かれた人物と言われていた、ロズウェル基地の書記官ミリアム・ブッシュMiriam Bushによってもたらされた(Ch. 12)。20年近く前のグレン・デニスの話と同様に、ブッシュの話は異星人がロズウェル基地にいたとする。この本はデニスについて、彼は嘘を話していたことが判明しており、従って信用できない証言の供給者であるのだが、それにもかかわらず彼が事件のほかの関係者と話をしたは、ロズウェル事件が異星人と結び付けられていく70年代後期よりずっと前である、とも記している(p.135)。 人々の関心と想像力をかきたてることになったロズウェル事件は、アメリカだけでなく、世界各国のサイエンスフィクション映画、テレビシリーズ、ビデオゲーム、本、および音楽のありふれた対象となった。 ケヴィン・D・ランドルとドナルド・R・シュミットの1991年のノンフィクション本UFO Crash at Roswell は1994年のアメリカのテレビ映画Roswell をもたらし、それにはマーティン・シーンとカイル・マクラクランが出演した。この作品はゴールデングローブ賞の作品賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)のノミネートを受けたが、受賞はしなかった。1999年から2002年までにはRoswell (邦題:「ロズウェル 星の恋人たち」)と呼ばれるアメリカのテレビシリーズが、元々はen:The WB Televison Network上で後にen:UPN上で、放送された。日本ではディズニー・チャンネルにて2010年10月3日から放送されている。 en:Melinda Metzのen:Roswell High という子供向けの本のシリーズに基づき、この番組はロズウェルの墜落で生き残り人類の若者の容姿を帯びる4人の地球外生命体を追った。配給された子供向けアニメ、en:Roswell Conspiracies: Aliens, Myths and Legends (1999-2000)は、en:Bohbot Kids Networdによって数ヶ国に配信され同タイトルの2001年のプレイステーションのビデオゲームをもたらした。 ロズウェル事件はアメリカのサイエンスフィクションテレビ番組ダークスカイ (1996-1997)、en:Seven Days (1998-2001)、Xファイル (1993-2002)、TAKEN (2000)、スタートレック:ディープ・スペース・ナイン (1993-1999)、およびスターゲイト SG-1 (1997-2007)でも突出した役割を演じた。 アニメシリーズフューチュラマ もエミー賞を受賞したエピソードen:Roswell That Ends Well において目立ってロズウェルUFO事件を取り上げた。そこではプラネット・エクスプレスのクルーが1947年に行くことになり、事故で粉々になったベンダーがUFOと間違われ、空飛ぶ円盤へと再び組み立てられてしまうが、1995年の偽物のロズウェル異星人解剖フィルムのそれと似た、異星人の死体解剖が、ドクター・ゾイドバーグによって行われる。 イギリスのSFテレビシリーズドクター・フー では、'Dalek'というエピソードが、ロズウェルの宇宙船の走行距離計を含む、異星人の人工遺物の博物館を取り上げた; 博物館の館長はブロードバンドがロズウェル墜落現場で見つけられた技術から発展したということも明らかにした。ロズウェルに関係する映画はウィル・スミスとビル・プルマンが出演するインディペンデンス・デイ とen:Norman Lovettが出演するRoswell 1847 を含む。日本のアニメシリーズserial experiments lain もロズウェル事件を用いるエピソードを含む。 数冊の小説がロズウェル事件について書いており、en:Whitley StrieberのMajestic(1989)、Kevin D. RandleのOperation Roswell(2004)、およびen:Sonny Whitelawのen:Stargate SG-1: Roswell (2007)などがある。ユーモラスなen:Bongo Comicsシリーズのen:Roswell, Little Green Man は、1996年から1999年まで連載され乗り物から回収された地球外生命体の事故死を追った。Grant Morrisonによる、漫画本シリーズen:The Invisibles (1994-2000)は、その第二巻においてロズウェル事件の広範囲な使用をしている。ロズウェルの異星人と残骸はMario Acevedoの低俗シリーズフィクションとヴァンパイアとなった退役兵がヴァンパイアハンターと地球外の異星人の謎めいた技術のかけらに束縛されるファンタジー小説The Nymphos of Rocky Flats でも重要な役割を演じた。 米国のヘヴィ・メタル(HM)バンド、メガデスは1990年にロズウェル事件を題材にした楽曲 \"Hangar 18\" および、同曲に関するビデオ作品を発表した。同曲を収録したアルバム(ラスト・イン・ピース)と、シングル・カットされた同曲は1991年および1992年のグラミー賞の個別部門にノミネートされ、米国内外での知名度も高い。 米国のHMバンド、フー・ファイターズは彼らのレコードレーベルをRoswell Recordsと命名し、2005年にロズウェル空軍基地の場所でコンサートを開いた。 スウェーデンのデスメタルバンドHypocrisyは楽曲 \"Roswell 47\" を発表した。 Area 51: The Roswell Incidentという環境音楽集CDが1997年にリリースされ、カナダのSynæsthesia、英国のHawkwind、およびドイツのタンジェリン・ドリームといったグループを取り上げた。エリア51の名前は他のUFO陰謀説に関連するネヴァダ州南部の空軍基地にちなむ。 Pitchshifterも\"Hangar 84\"と題されたロズウェル事件についての曲を出している。 さらに、ロズウェルはコンソールゲームトニー・ホーク プロスケーターの最終レベルであったし1996年のPCアドヴェンチャーゲームen:The Pandora Directiveはロズウェルと異星人をゲームプロットのキーパーツとして取り上げた。デストロイ オール ヒューマンズ!では、プレイヤーは異星人クリプトとなってロックウェル(明らかにロズウェルのもじり)と呼ばれる街に訪れる。 ^ 事件は、1947年9月18日にアメリカ陸軍航空隊が陸軍から独立してアメリカ空軍となる前の話であることに注意。 ^ 2002年にアメリカのテレビ局であるThe Sci Fi Channel(現 Syfy)が、ニューメキシコ大学の考古学者と共に墜落現場を調査してテレビ映画「The Roswell Crash : Startling New Evidence」を制作し記念碑を建立した。 その記念碑の場所。 (すぐ横には高さ数mの積石がある) ^ Googleストリートビューに、この場所の「360°パノラマ写真」あり。 ^ 英語版ウィキペディアの「Roswell UFO incident」などに記載してある座標に対して、西南西の方向に直線距離で約7km離れた場所。 ^ 1991年10月に日本テレビ系列の木曜スペシャルで放送された「矢追純一 UFOスペシャル第4弾 生きた宇宙人がつかまった!?」で第2墜落現場として紹介された場所。 ^ ブレイゼルが見つけた物体が実際に6月14日またはその前後に最初に見られたのであれば、異星人の乗り物の回収を示す著者たちによって示される多くのシナリオが妥当でないだろう。これらのシナリオのほとんどが6月の初旬の日々に地球へと落ちた物体を見たあるいは聞いた人たちからの目撃言及をもたらすからである。正確な日付の問題はモーグル計画のデバイスが残骸の起源と示す人たちには問題にならない。最も頻繁に引用された残骸の気球隊列の起源は6月初旬に放球され、その後に見つかったいかなる残骸もそれに由来しうるからである。 ^ United States General Accounting Office (1995年7月28日). “Results of a Search for Records Concerning the 1947 Crash Near Roswell, New Mexico (GAO/NSIAD-95-187)”. Federation of American Scientists (Republished by). 2007年9月27日閲覧。 ^ a b c d e f g h i j Gildenberg, B. \"D.\" (2003年). “A Roswell Requiem”. Skeptic (Skeptics Society) 10 (1): 60-73. http://www.skeptic.de/index.php?action=magazine&articleno=0143.  ^ a b “United Press Teletype Messages”. Roswell Proof (Republished by). 2007年9月27日閲覧。 ^ a b Printy, T. (1999年). “A mystery on a ranch”. 2007年9月27日閲覧。 ^ a b “Associated Press Main Roswell Story”. Roswell Proof (Republished by) (1947年6月9日). 2007年9月27日閲覧。 ^ “Fort Worth Star-Telegram”. Roswell Proof (Republished by) (1947年6月9日). 2007年9月27日閲覧。 ^ a b “Harassed Rancher who Located Saucer Sorry He Told About It”. Roswell Daily Record. (1947年7月9日). http://www.angelfire.com/indie/anna_jones1/daily_record02.html 2007年9月27日閲覧。  ^ a b c d e Printy, T. (1999年). “A Deflating Experience”. 2007年9月27日閲覧。 ^ a b Printy, T. (1999年). “Exciting Times for Roswell”. 2007年9月27日閲覧。 ^ a b McAndrews, J. (1997) (pdf). The Roswell Report: Case Closed. 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Pflock, Roswell: Inconvenient Facts and the Will to Believe, Prometheus Books, 2003, ISBN 1-57392-894-1 ロズウェル事件の目撃談 ロズウェル・リポート プロジェクト・セルポ レッド・ロズウェル 宇宙人解剖フィルム 未確認飛行物体(UFO) 空飛ぶ円盤 異星人 オーロラUFO墜落事件(本事件の50年前に発生した類似した事件) ロサンゼルスの戦い(本事件の5年前に発生した事件) アズテックUFO事件(本事件の1年後に発生した事件) ワシントンUFO乱舞事件(本事件の5年後に発生した事件) ロズウェル事件入門 Roswell 1947 - The Complete Story UFO Crash At Roswell:An Audio Documentary Information on Roswell, and other UFO Cases (Flash) 1994 USAF Executive Summary of their first Roswell report, The Roswell Report Fact vs. Fiction in the New Mexico Desert USAF Executive Summaries of 1994 and 1997 reports Link to GAO report Complete 1995 Air Force Roswell report (pdf)、ほとんどが古いモーグル計画のファイルであり、1000ページ以上ある(非常に大きなファイル) An answer to the Case Closed statement シカゴのUFO研究センターの所長である、マーク・ロドガー博士による、1997年のアメリカ空軍による「Case Closed」または「墜落したダミー」の報告への批判 Criticism of the Air Force Roswell reports from Roswell researcher Stanton T. Friedman Sci Fi network website on Roswell incident; トム・キャリーとドン・シュミットによる事例の長大な要約を含む The Skeptic's Dictionary entry for Roswell (他の事実誤認した記事と本へのリンクを含む事実誤認集) Skeptical Inquirer article on Mogul explanation 物理学者/数学者のデイヴ・トーマスによる懐疑論 Roswell UFO web page by physicist/mathematician Dave Thomas デイヴ・トーマス Roswell in pictures Stalking the Elusive Crash-Retrieval Aircraft Accident Sites and Their Implications for Roswell カーティス・ピーブルズによる Video Interview with Colonel Corso - witness of bodies Critically acclaimed independent film about the lore of UFOs and Nex Mexico Unclassified Government Report of Civilian UFO Observation at Roswell Roswell article Roswell aliens theory revived by deathbed confession - 2007年1月1日 Myth of Roswell Incident (日本語) X51.ORG 北米視察編:ロズウェル事件 ー 寡黙なる神話の中心(2) (日本語) Roswellに堕ちたUFOミステリー(日本語)" ]
ABC01-02-0043
竹で作られ、長さが「一尺八寸」であることからその名が付いた楽器といったら何でしょう?
尺八
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[ "尺八", "箏", "笙", "神楽笛", "胡弓" ]
[ "尺八(しゃくはち)は日本の木管楽器の一種である。リードのないエアリード楽器に分類される。中国の唐を起源とし、日本に伝来したが、その後空白期間を経て、鎌倉時代から江戸時代頃に現在の形の祖形が成立した。 名称は、標準の管長が一尺八寸(約54.5cm)であることに由来する。語源に関する有力な説は、『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、7世紀はじめの唐の楽人である呂才が、筒音を十二律にあわせた縦笛を作った際、中国の標準音の黄鐘(日本の十二律では壱越:西洋音階のD)の音を出すものが一尺八寸であったためと伝えられている。演奏者のあいだでは単に竹とも呼ばれる。英語ではshakuhachiあるいは、Bamboo Fluteとも呼ばれる。 真竹の根元を使い、7個の竹の節を含むようにして作るものが一般的である。上部の歌口に息を吹きつけて音を出す。一般的に手孔は前面に4つ、背面に1つある。 尺八に似た楽器として、西洋のフルートや南米のケーナがある。これらは、フィップル(ブロック)を持たないエアリード楽器である。 尺八の起源として有力な説は、前述した『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、唐初期の貞観年間(627年 - 649年)に呂才(600年 - 665年)が考案したというものである。 日本には雅楽楽器として、7世紀末から8世紀はじめに伝来した。東大寺の正倉院には六孔三節の尺八が八管収められている。 その後中国では、歌口の傾斜が管の外側にあるタイプの縦笛は断絶し、日本でも雅楽の楽器としての尺八は使われなくなった。 歴史上の空白期間ののち、鎌倉時代になると一節切と呼ばれる縦笛があらわれた。これは、五孔一節で真竹の中間部を用いたものである。また、この一節切は武士の嗜みの一つとして大いに武家社会で流行し、北条幻庵などもその名手の一人として知られ、所蔵の一節切が残っている。田楽法師などの遊芸人の中にこれを吹いて物乞いをする集団が現れた。薦僧と呼ばれる集団がそれで、後に普化宗と結びつき虚無僧となっていく。 一節切は、室町時代に中国から日本に渡った禅僧・蘆安がもたらしたもので、名手といわれた大森宗勲(1570年 - 1625年)が出たのち、急速に広まった。一節切は17世紀後半に全盛を迎えたが、その後急速に衰退した。 江戸時代には、尺八は法器(楽器というよりも法具の意味合い)として普化宗に属する虚無僧のみが演奏するものとされ、それを幕府の法度によって保障されていた。建前上は一般の者は吹いてはならなかったが、実際には尺八をたしなむ者はいた。明治時代以降には、普化宗が廃止されたことにより虚無僧以外の者も演奏するようになった。 普化宗は政府により1871年に解体され、虚無僧は尺八の師匠などに転じた。普化宗廃止後の尺八界の混乱期に活躍した人物に2代 荒木古童(竹翁、1823-1908)がいる。荒木は虚無僧修行中に琴古流豊田古童に師事し、普化宗廃止後も尺八の普及に尽力し、琴古流中興の祖となった。尺八の指孔位置や歌口を改良したことでも知られ、東京を中心に全国に普及させた。その門下である初代川瀬順輔(1870-1959)は近代尺八の祖のひとりと言われ、2代荒木古童や東京音楽学校教授の上原六四郎に師事し、1902年に東京で道場を開いた。 関西では、琴、三味線との合奏である三曲合奏(外曲とも称す)の先駆と言われる近藤宗悦(1821-1867)の宗悦流(現存せず)の中から初世中尾都山が1896年に大阪で都山流を創始した。中尾は独自の工夫新作により自流の曲目を増やし、記譜法、教授法、合奏形式などにも新機軸を打ち出し、近代的な家元制度を整えて短年月のうちに西日本で門弟を増やし、琴古流に並ぶ尺八界の二大流派のひとつに育てた。 1920年代には、箏曲家の宮城道雄と尺八家の吉田晴風(1891-1950)によって、洋楽の要素を取り入れた新しい邦楽を目指す新日本音楽運動が興り、音楽研究家の田辺尚雄,町田佳聲らも同調し、尺八では中尾都山、福田蘭童、野村景久らが参加して邦楽の近代化に寄与した。野村は新進気鋭の尺八奏者・作曲家として古賀正男はじめさまざまな音楽家との共演やラジオ出演、執筆などで注目されたが、1933年に一家四人を殺して金を奪う事件を起こして死刑となり、虚無僧の怪しさから来る悪いイメージを払拭し近代化を進めてきた尺八界を揺るがせ、かつて「法器」であった尺八の精神性を見直す気運を生んだ。 基本的には2オクターブ強である。用いられる頻度は少ないが、倍音を用いてその上の約1オクターブの音を出すことができる。 シンプルな運指においては、陽音階や律音階となる。基本的な運指において、西洋の12音音階すべての演奏が可能である。 現行の尺八は、真竹の根元を使用して作る五孔三節のものである。 古くは一本の竹を切断せずに延管(のべかん)を作っていたが、現在では一本の竹を中間部で上下に切断してジョイントできるように加工したものが主流である。これは製造時に中の構造をより細密に調整できるとの理由からだが、結果として持ち運びにも便利になった。 材質は真竹であるが、木製の木管尺八やプラスチックなどの合成樹脂でできた安価な尺八が開発され、おもに初心者の普及用などの用途で使用されている。 尺八の音色と材質は科学的には無関係とされているが、関係があるとする論争もあった。 尺八の歌口は、外側に向かって傾斜がついている。現行の尺八には、歌口に、水牛の角・象牙・エボナイトなどの素材を埋め込んである。 明治時代以降の西洋音楽の影響により、七孔、九孔の尺八が開発された。このうち、七孔のものは、五孔の尺八に比べれば主流ではないものの使用されている。既存の五孔の尺八に孔を開けることでの改造が可能である。 現行の尺八の管の内部は、管の内側に残った節を削り取り、漆の地(じ)を塗り重ねることで管の内径を精密に調整する。これにより音が大きくなり、正確な音程が得られる。 これに対し「古管」あるいは「地無し管」と呼ぶ古いタイプの尺八は、管の内側に節による突起を残し、漆地も塗らない。正確な音程が得られないため、奏者が音程の補正をする必要がある。古典的な本曲の吹奏では、このひとつひとつの尺八のもつ個性もその魅力となっている。 尺八の手孔をすべて塞いだときの音を筒音と呼ぶ。これはその尺八で出すことのできる最低音である。標準の尺八は、日本の十二律で壱越(D4)の筒音を持つ一尺八寸管である。次いで、春の海などで使用される一尺六寸管(筒音: E4)や、二尺四寸管(筒音: A3)などが使用される。長さのバリエーションは、半音ぶんずつ寸刻みで一尺一寸管から二尺四寸管も存在するが、標準的なものにくらべ使用頻度ははるかにすくない。 尺八はフルートと同じく、奏者が自らの口形(アンブシュア)によって吹き込む空気の束を調整しなければならない。リコーダー(いわゆる「縦笛」)は歌口の構造(フィップル、ブロック)によって初心者でも簡単に音が出せるが、尺八・フルートで音を出すには熟練が必要である。尺八は手孔(指孔)が5個しか存在しないため、都節音階、7音音階や12半音を出すために手孔(指孔)を半開したり、メリ、カリと呼ばれる技法を多用する。唇と歌口の鋭角部(エッジ)との距離を変化させることで、音高(音程)を変化させる。音高を下げることをメリ、上げることをカリと呼ぶ。メリ、カリの範囲は開放管(指で手孔を押さえない)の状態に近いほど広くなり、メリでは最大で半音4個ぶん以上になる。通常の演奏に用いる範囲はメリで2半音、カリで1半音程度)。奏者の動作としては楽器と下顎(下唇よりやや下)との接点を支点にして顎を引く(沈める)と「メリ」になり、顎を浮かせると「カリ」になる。 メリ、カリ、つまり顎の上下動(縦ユリ)、あるいは首を横に振る動作(横ユリ)によって、一種のビブラートをかけることができる。この動作をユリ(ユリ、あごユリ)と呼ぶ。フルートなどの息の流量変化によるビブラートとは異なり、独特の艶を持つ奏法である。 フルートと同じく息の流量変化によるビブラートも使用される。息ユリと呼ぶ。 手孔を、閉 - 半開 - 開 動作を滑らかに行い、さらに、メリ、カリを併用することにより、滑らかなポルタメントが可能である。これをスリアゲ、スリサゲと呼ぶ。音高の上下を細かく繰り返すコロコロというものもある。 口腔内の形状変化や流量変化等により、倍音構成はよく通る音色や丸く柔らかいものなど、適宜変化させることができる。 尺八の吹奏人口についての本格的な調査はされておらず、正確な人口は不明である。推定では3万人程度といわれている。 琴古流は、江戸時代に初代黒沢琴古(1710年 - 1771年)によって創始された。初代は俗名を幸八といい黒田藩の藩士であったが浪人となり、江戸へ出て一月寺、鈴法寺の吹合指南役となった。尺八曲の整理を行い、全36曲の琴古流本曲を制定した。黒沢琴古の名は3代で途絶えたが、琴古流はその後、吉田一調、荒木古童らにより隆盛を築いていく。 琴古流は大小いくつもの組織の総体であり琴古流として統一した組織をもつものではない。 都山流は明治期に初代中尾都山が創始した流派であり、普化宗とは直接のつながりを持たない。宮城道雄と提携し、宮城作曲の尺八譜の公刊を独占したこと、評議員制の導入など中央集権的な組織作りを行ったことなど都山流は尺八界最大の組織となった。昭和50年前後に3派に分裂している。 上田流は、都山流を除名された上田芳憧が1917年に創始した流派である。上田は、五線譜。七孔尺八などを導入し、尺八の近代化につとめた。また、長唄に多く手付けを行った。五線譜の採用は途中で断念したものの、七孔尺八に関しては上田創案のものが現在でも使用されている。 現在は上田流尺八道と称している。 竹保流は、酒井竹保が1917年に創始した流派である。宗悦流の流れを汲み、譜にロツレチではなく、フホウエヤイを用いるフホウ譜を用いている。 尺八で演奏される楽曲は多岐にわたっている。尺八の楽曲分類で大きなウエイトを占めるのは、本曲と外曲という対概念である 。本曲は、「その楽器のみによる楽器本来の楽曲」を意味し、外曲は、「他種目の旋律をその楽器用に編曲した楽曲」を意味する。 もともとの本曲は、普化宗で吹禅に使われた曲を指していたが、1871年の普化宗廃止後は宗教音楽とは無縁な尺八のみの独奏曲や重奏曲も本曲と呼ばれるようになった。これらの比較的新しい本曲と普化宗で吹奏された狭義の本曲を区別するため、後者を特に古典本曲と呼ぶことがある。 江戸時代に虚無僧が吹いた本曲は、琴古流本曲をふくめ、150曲あまりが伝承されている。これらは宗教音楽として成立し、作者、作曲年代ともに基本的に不詳である。弘前の根笹派錦風流、浜松の普大寺の流れをくむ名古屋の西園流、京都の明暗寺の明暗真法流と明暗対山流、博多一朝軒、越後明暗寺、東北地方の布袋軒、松巖軒などの伝承である。 これらの本曲は、托鉢のため諸国を往来した虚無僧により伝播された。全国の寺院で伝承される本曲には同名異曲が多くある。『鈴慕』『三谷』『鶴の巣籠』などは本曲の代表的な曲名であるが、曲によっては10種類以上の旋律の異なるものが伝承されている。 宗教音楽としての本曲は、各地の本曲を収集した黒沢琴古の琴古流本曲、西園流を学び明治期に明暗対山流を興し、明暗教会の再興に尽力した樋口対山(1856年 - 1915年)の系統をはじめ、各地において明治維新後も伝承されたものが現代においても血脈を保っている。 琴古流本曲は、琴古流の始祖である初代黒沢琴古が日本各地の虚無僧寺に伝わる楽曲をまとめ、本曲として制定した36曲である。吹合所の指南役であった初代琴古は、これらの曲の譜字や習曲順の整理を行い、宗教音楽をはなれた琴古流の基礎を築いた。 代表的な楽曲には「一二三鉢返調(ひふみはちがえしのしらべ)」、「鹿の遠音(とおね)」、「巣鶴鈴慕(そうかくれいぼ)」(鶴の巣籠りともいう)などがある。山口五郎によって演奏された本曲「巣鶴鈴慕」は日本の楽曲としては唯一ボイジャーのゴールデンレコードに収録され、ボイジャー探査機に搭載されている。 中尾都山らが作曲した現代曲、尺八独奏曲または尺八二重奏曲をさす。 江戸時代の地歌では三絃(三味線)・箏・胡弓の合奏が行われた。これが三曲合奏である。明治維新以降、胡弓の代わりに尺八が加わることが多くなり、現在では尺八入り三曲合奏の方が一般的に普通に行われる。一部の著述では胡弓入り三曲合奏が無くなったような記述も見られるが、それは全く根拠のない発言であり、現在でも胡弓入り三曲合奏は少なからず行われている。江戸時代にも尺八と箏や三味線の合奏は行われていたと考えられるが、尺八が普化宗の手から離れ合奏が解禁となったのは普化宗廃止後のことである。現在では通常は三曲合奏といえば尺八が入るものを指す。古典的な三曲合奏では、尺八の手付けは三絃の手をベタ付けで尺八向けに編曲したものであった。 こうした三曲の一員としての尺八は、西洋音楽の影響を受けた明治新曲や、春の海で知られる宮城道雄などの新日本音楽を経て、現代邦楽と呼ばれるジャンルを形成するに至った。 三曲系の演奏者のあいだでは、古典的な地歌箏曲を古曲、宮城道雄などの明治期から戦前までの楽曲を新曲、それ以降の楽曲を現代曲と呼ぶこともある。 多くの民謡の伴奏に尺八が使用される。特に追分、馬子唄の伴奏には尺八が多用される。江差追分では、尺八の伴奏が必須となっている。 1960年代から尺八はクラシック音楽の現代音楽で使用されるようになった。1964年にニューヨーク・フィルハーモニックと尺八の横山勝也、薩摩琵琶の流れをくむ鶴田流の琵琶奏者鶴田錦史のために作曲された武満徹のノヴェンバー・ステップスは反響を呼んだ。 1963年村岡実、横山勝也、宮田耕八朗によって作られた、東京尺八三重奏団の第2回演奏会で演奏された三木稔作曲「くるだんど」-奄美の旋律によるカンタータ―を契機として東京尺八三重奏団を発展的に解消し「日本音楽集団」が結成された。創立メンバー、三木稔、長澤勝俊、(作曲)田村拓男(指揮、打楽器)、村岡実、横山勝也、宮田耕八朗(尺八)坂井敏子、宮本幸子(箏)杉浦弘和(三味線)など14名である。1964年に結成された。その後、野坂恵子が入団し三木稔とそれまでの13弦箏を発展させた20弦箏(その後21弦となる)を作り現代邦楽の可能性を広げていった。またこの頃より楽器改良が進み、宮田耕八朗を中心に多孔式尺八(主として7孔)が作られ普及していった。 1964年には山本邦山、横山勝也、青木鈴慕らによって尺八三本会が結成され、「鼎」、「風動」、「尺八三重奏曲」など、多くの尺八合奏曲が委嘱作曲された。 尺八の大衆化を目指し邦楽の世界を離れて歌謡界に進出した村岡実が先駆け、美空ひばりの「柔」、北島三郎の「与作」などの歌謡曲のヒットで尺八が脚光を浴びることになった。 尺八奏者の山本邦山はジャズなど別ジャンルとのセッションも数多く試みた。 現在では、藤原道山、ZAN、中村仁樹、遠TONE音、神永大輔、大山貴善、山口整萌などのアーティストが活躍している。 尺八を製作することを製管といい。尺八の製作者のことを一般的に製管師とよぶ。昔は、尺八は吹くこと・作ることが出来て初めて一人前とされ免状が手渡されていたが、明治頃より次第に専業の尺八製管師が現れだした。専業の製管師のほかにも、尺八奏者がみずから尺八を製作し、本人や弟子が吹く吹料にする場合もある。製管師のなかには、出身流派や師匠と結びついている者もあり、その流派専属の製管師もいる。尺八奏者のなかには、この製管を趣味とするものもいる。 尺八は竹でできているため、気候や室内の乾燥によって割れることがある。また、竹材の採集時期が悪かったもの、油抜きの未熟なもの、天日干しが不十分なもの、保管が劣悪であるものなどは、チビタケナガシンクイムシやカミキリムシなどの虫被害に見舞われることがある。 ^ a b 月渓恒子 「第16章 尺八楽」『日本の伝統芸能講座』 国立劇場・小島美子、淡交社、2008年、384ページ。ISBN 978-4473034892。 ^ 久保田敏子 『よくわかる箏曲地歌の基礎知識』 当道音楽会、白水社、1990年、212ページ。ISBN 9784560036846。 ^ a b 月渓恒子 「第16章 尺八楽」『日本の伝統芸能講座』 国立劇場・小島美子、淡交社、2008年。ISBN 978-4473034892。 ^ 宮内庁. “尺八”. 2008年11月24日閲覧。 ^ 宮内庁. “彫石尺八”. 2008年11月24日閲覧。 ^ 宮内庁. “玉尺八”. 2008年11月24日閲覧。 ^ 宮内庁. “樺纒尺八”. 2008年11月24日閲覧。 ^ 宮内庁. “刻彫尺八”. 2008年11月24日閲覧。 ^ 久保田敏子 『よくわかる箏曲地歌の基礎知識』 当道音楽会、白水社、1990年、213ページ。ISBN 9784560036846。 ^ a b c d 荒木古童(読み)アラキコドウコトバンク ^ a b c 『1933年を聴く:戦前日本の音風景』齋藤桂 エヌティティ出版 (2017)、第1章「尺八奏者・野村景久による殺人 音楽の合理化と精神論」p16-45 ^ 川瀬順輔(初代)歴史が眠る多磨霊園 ^ 中尾都山(読み)ナカオトザンコトバンク ^ 新日本音楽(読み)しんにほんおんがくコトバンク ^ 大橋鯛山. “尺八の物理”. 2008年11月24日閲覧。 ^ 泉州尺八工房. “歌口研究2”. 2008年11月24日閲覧。 ^ 大橋鯛山 (2008年7月18日). “尺八人口”. 2008年11月24日閲覧。 ^ 上参郷祐康「琴古流の始祖 黒沢琴古」、『季刊邦楽』第10号、邦楽社、 12頁。 ^ “尺八 都山流 分裂記録 : 1ページ目 - 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1636年)により、中国、在来の独奏箏曲、雅楽の箏曲をまとめて「筑紫箏(つくしごと)」が起こった。 雅楽の「楽箏」に対し、近世の箏曲は「俗箏(「ぞくそう」または「ぞくごと」)」と呼ぶ。 前述の筑紫箏を基本として、楽器としての箏および箏曲の基礎を大成させたのが、江戸時代初期に活躍した八橋検校(やつはし・けんぎょう、1614年 - 1685年)であり、特に重要なのは、箏の調弦をそれまでの律音階から、当時民間で一般的になりつつあった都節音階にもとづくものに変えたことである。また多数の作曲をして、ここで現在の箏曲の基本形が整った(一説には、箏曲の基本形の一つである「段もの」と呼ばれるいわゆる変奏曲に類似した形式は、八橋検校が何らかの形で西洋音楽、特にチェンバロの変奏曲に接触したことによって生まれたという)。独奏曲としての箏という楽器を代表する楽曲「六段」(の調べ)は、この八橋検校の作曲によると伝えられる。ちなみに「検校(けんぎょう)」という言葉は当時の盲人音楽家が作る組合制度「当道座」の中で与えられる最高位の名前である。八橋検校の没年となった1685年は、西洋音楽における大きな存在であるバッハや、ヘンデル、ドメニコ・スカルラッティの生年でもある。八橋検校の名は京都の菓子「八ツ橋」の名としても残っており、(生ではなく焼いた、本来の)八ツ橋の形は箏を模している。 八橋検校以降、江戸時代中期の特に重要な箏曲家としては、生田検校と山田検校が挙げられる。まず京都の生田検校が元禄頃、箏の楽器法(調弦および奏法や爪の改良)や楽曲を大きく発展させたといわれる。この流れが現在の生田流系諸派であるが、実際には当時上方にはいくつもの新流派が生まれ、それぞれ独自に爪の改良や楽曲の作曲を行なっていた。現在ではこれらをひっくるめて「生田流」と呼んでいる。生田検校は三味線(地歌)と箏を合奏させた功績が大きいと言われて来たが、これも実際には諸流派でも行なわれたらしい。それからしばらくの間、箏曲は上方を中心に栄えていたが、18世紀後半に山田検校が江戸で浄瑠璃風の歌ものを中心とした楽曲の作曲や楽器の改良を行い、山田流の始祖となった。山田流は江戸を中心に東日本に広まった。こうして幕末までには、西日本では生田流系が、東日本では山田流が盛んに行なわれていた。その他、八橋検校の直接の流れである八橋流が一部に伝えられていた。その他江戸時代の重要な箏曲家として、初期では八橋検校の弟子で生田検校の師匠である北島検校、中期では組歌の作曲で有名な三橋検校、安村検校、後期では京流手事物の地歌曲に複音楽的な箏の手付をした浦崎検校、八重崎検校、光崎検校、また幕末の吉沢検校らがいる。 また江戸時代において、箏は当道制度、つまり盲人音楽家の専売特許であったため、一般人がプロの職業として箏の演奏家になることは認められなかった。このため地歌以外の三味線音楽が歌舞伎や人形浄瑠璃などの視覚的要素を伴う伴奏音楽として発展したのに対し、箏曲は劇場とは関係のない純音楽として発展した。その中心となるものは箏の伴奏付き歌曲である「組歌」と、器楽独奏曲である「段物」であった。そして地歌に合奏することで、多くの地歌曲、ことに手事物をレパートリーとして、大いに発展した。また三味線音楽が遊里との結びつきも持っていて、どちらかといえば三味線が庶民の楽器として普及したのに対し、箏曲は王朝文学に取材したものが多いなど高雅な精神性を持ち、このため武家では「高尚な音楽」として、箏は武家の娘のたしなみ(アマチュア)としてもてはやされた。 明治時代以降は当道制度が廃止され、盲人以外の一般にも箏の演奏が職業として認められた。この頃作曲された作品を「明治新曲」と呼ぶが、西洋音楽の影響はまだ少なく、また当時流行していた明清楽の影響も見られる。ただし国民思潮全般が維新による革新的思想であふれていた時代であり、また盲人以外にも広く箏曲が解放され多数の人間が箏曲界へ参入したこともあって、多くの曲がこの頃作られた。特に大阪において非常に盛んであり、これらを「明治新曲」と総称している。しかしこの頃のレパートリーは現在の奏者にとって満足できるレベルで作曲された楽曲は少ないとされる。ただこの時期独特の清新な雰囲気もあり、西山徳茂都(とくもいち)の『秋の言の葉』、松坂春栄の『楓の花』、菊末検校の『嵯峨の秋』、菊塚与一の『明治松竹梅』などは現在でも良く演奏される。また寺島花野の作品『白菊』など、現在では忘れられかけている佳曲も少なくない。山田流においても『都の春』などの曲が作られている。 大正時代および昭和初期の箏曲には、宮城道雄の名がまずもって挙げられる。西洋音楽の要素を導入した新日本音楽の中心的存在に立ち、箏のみならず邦楽全般の活性化につとめた。特に代表作「春の海」は、尺八(正確には一尺六寸という、尺八より小さい同属楽器)との合奏において、それまでのヘテロフォニックな邦楽の合奏には見られなかった和声的伴奏を駆使し、さらに尺八と交代して主旋律も奏でるといった、邦楽の語法として新しく楽器の性能も十分に駆使した書法により、現在でも箏という楽器を代表する曲の位置を占める。尺八の代わりにヴァイオリンやフルートなどでも演奏される。特にヴァイオリンとの演奏はフランスの女性ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーにより広く演奏され、作品はもちろん宮城道雄の名と箏という楽器を世界的に紹介した。また楽器改良や作品の開拓だけでなく、古典作品の復刻や教育活動にも力を注ぎ、それまで主に口承に拠る稽古が主な伝承であったのに対し、楽譜(五線譜、および弦名譜=タブラチュア譜の一種)の普及にもつとめた。宮城道雄は生田流に属する。 この流れは宮城に留まらず三曲界全体の主潮流となり、中村双葉や山田流系の久本玄智、中能島欣一をはじめ、多くの箏曲家が宮城の影響を受けた作品を多数残し、また箏曲家以外でも町田佳聲や高森高山らによって、多くの和楽器を合奏させる作品が多数作られた。 現代の箏は伝統的な流派の伝承(草の根の稽古も含む)はもちろん、クラシック音楽との交流も行われている。具体的には1964年ごろより現代音楽の作曲家の間での「邦楽器ブーム」により、現代音楽に箏を含む邦楽器が広く用いられるようになった。これらの多くは邦楽本来の楽器および演奏法の特色の長所をなるべく活かす形で使われており、このブーム以前の西洋音楽における邦楽器の使われ方として多かった「別に箏でなくてもピアノやハープでも代用できる西洋音楽の書法」とは一線を画する。それに先立って1957年に結成された邦楽四人の会、邦楽器ブーム初期の1964年より活動を続けている日本音楽集団の活動も、現代音楽における重要な邦楽活動として挙げられる。ただし大正・昭和初期の新日本音楽における邦楽界の西洋音楽受容が、和声的な書法で作曲しやすい箏を中心としたのに対し、1960年代の現代音楽界の邦楽受容においては箏は必ずしも主役ではなく、むしろノイズ的書法で作曲しやすい尺八が中心となった。また、吉崎克彦、水野利彦、沢井比河流と言ったような、箏曲演奏家出身の作曲家も人気が高い。 箏とオーケストラのための作品 湯浅譲二 「(八面の)箏とオーケストラのためのプロジェクション・花鳥風月」(1967年) 三木稔 「鳳凰三連・破の曲」「春琴抄・序曲と春鶯囀(しゅんおうでん)」「松の協奏曲」「箏協奏曲第五番」(以上は洋楽器オーケストラとの協奏曲)「コンチェルト・レクイエム」(邦楽器オーケストラとの協奏曲) 伊福部昭 「二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ」(1982年) ソフィア・グバイドゥーリナ In the shadow of the tree 一人の奏者の三面の箏とオーケストラのための(1999年) 西村朗「樹海-二十絃箏とオーケストラのための協奏曲」(2002年) 坂本龍一「箏とオーケストラのための協奏曲」(2010年) 箏独奏のための作品 下総皖一 「箏独奏のためのソナタ」(1938年)西洋音楽系作曲家初の箏独奏曲 三木稔 「天如」(1969年)二十絃箏初の独奏曲 細川俊夫 「箏歌(ことうた)」 望月京 Intermezzi II 箏と室内楽(邦楽器および洋楽器)のための作品 榎戸二幸 「天の恵〜あまのめぐみ〜」(2011年)salzburgでの演奏会(2012年) その他 Kagrra,:日本のロックバンド。和の世界観を基調にしており、メンバーの一人が箏を演奏している。箏を取り入れた楽曲が複数ある。 沢井比河流:上昇の彼方(2003年) 和楽器バンド、華風月、蓮-REN:筝奏者のいぶくろ聖志が所属している。 この音とまれ! - 高校の箏曲部を舞台とした漫画。作中に登場するオリジナル箏曲は作者の身内が主に作曲した(作者のアミューは箏教室を主宰する家庭で育ち、実姉はプロとして活動している)。それらの楽曲を収録したアルバムは、平成29年度(第72回)文化庁芸術祭賞・レコード部門最優秀賞、第32回日本ゴールドディスク大賞・純邦楽・アルバム・オブ・ザ・イヤー優秀賞を獲得している。 主に生田流(いくたりゅう)と山田流(やまだりゅう)がある。外見上の目立った違いは爪の形および楽器を構える姿勢であり、生田流は角爪を用い、この角を有効に使うため楽器に対し左斜め約45度に構える。山田流は丸爪を用い正面に構える。 レパートリーについては、双方の流派が双方のレパートリーを広く扱うため、あまり差異は無い。相対的な比較としては山田流が生田流よりも「歌もの」を多く扱い、生田流は独奏曲において技巧が発達している。楽器の形状(長さ、楽器の膨らみ、音穴、細部の装飾など)は生田流の箏は楽箏(雅楽の箏)の形をかなり残していて、俗箏として改良を加えられた山田流式の方が音量が大きく豊かな音色である為、現在製作されている箏は一部を除いてほとんどが山田流式の箏である。 ただ沖縄、または沖縄の文化を伝えている地域では、八橋流の流れをくむ独自の琉球箏曲が発展・継承されていて、そちらは現在でも生田流式の箏を使っている。それ以外は生田流の奏者でもほとんど山田流式の箏を使用している。調子(調弦)において、一部の調子の名が双方の流派で異なるため注意を要する。(例:生田流の中空調子=山田流の曙調子、生田流の曙調子=山田流の二重中空調子、など) その他ごく少数ではあるが、八橋検校の当時の演奏様式を伝える八橋流、筑紫箏の様式を伝える筑紫流がある。 箏は、前後にアーチのかかった横に細長い板状で内部が中空の胴に、13本の絃を渡して柱(じ)を用いて張り音程を調節し、奏者の右手に嵌めた爪(義甲)によって絃をはじいて音を出し演奏する楽器である。 長さは生田流の本間(ほんげん)と呼ばれる高級なものが6尺3寸(約190cm)、山田流が約6尺(約182cm)である。その他これに前後する長さのものが多数あったが、現在では学校教育用の箏を除けば大部分が山田流の箏である。 正倉院にも箏の残欠が保存されているが、現在のものと造りが異なっており、四枚の板を箱状に張り合わせて作られており、各板はかなり薄い。現代の箏は上面と両側面は一つの材をくり抜いて作り、下面だけ別材を張り合わせる構造であり、このような方法になったのは平安時代と思われる。その後山田検校により改良されたのが、基本的に現在の主流を成す「山田箏」である。本体は桐で作るが、製法により「ベタ」と「刳甲(くりこう)」とがあり、後者が高級品である。かつては富裕層のステイタスとして蒔絵や木画などで美しく装飾されるものが多かったが、やはり山田検校以来、装飾は最低限に抑え、音色を重視するシンプルなものが次第に多くなった。ただし良い音の出る楽器と木目の美しさにはかなり密接な関係がある。 楽器の各部分には、「龍角」「劉眼」「龍手」など、箏を竜に見立てた名称がつけられている。これを題材に書かれた推理小説が島田荘司の龍臥亭事件である。 雅楽の楽箏は両絃と呼ばれるもののうちの一つ(もう一つは楽琵琶)で、管絃や催馬楽で用いられる(舞楽では通常用いられない)。 和楽器では普通絃とは呼ばず「糸」と称する。通常の箏は十三本の糸を有し、奈良時代より変わらないが、江戸時代には更に多絃の箏が作られたこともある。また明治時代以降、十七絃箏をはじめ、種々の多絃箏が作られている。十三本の糸には名称があり、演奏する側の反対側から一、二、三、四と数え、十以降の糸は斗(と)、為(い)、巾(きん)と呼ぶが、筑紫箏では別の呼び方もある。太さには色々なサイズがあり、以前は黄色く染色したものが普通で、稀に青や赤に染めることもあったが、現在では生成りの白が好まれている。糸の構造は他の多くの和楽器糸と同じく、単糸を更に四本撚り合わせ、糊で固めたもの。材質は本来は絹製であるが、俗箏では現在はテトロン製が主流になっている。テトロンは張力が強く、強く張ると余韻が長く、いい音色がでるからである。また、演奏中に切れる心配が無いこと、絹製に比較するとかなり安価であることも普及している要因である。しかし、絹糸の独特の響きを気に入っている奏者も多く、特に擦り爪におけるシュッという音色ははるかに絹の方が良い。楽箏では今でも絹糸が主流である。 爪(義甲)は右手の親指、人差し指、中指の3本の指の腹側に嵌める(人間の手の爪の側ではないことに注意)。雅楽の爪は丸くて小さい。生田流は角爪と呼ばれ、先が広く四角い形をしている。山田流は丸爪と呼ばれ、尖頭の丸形である。この形状の差異により音色が微妙に異なる。この他歴史的に、先の広がった四角形など多少の差異がある。厚みは戦後に移るにしたがって徐々に薄くなってきている。材質は(雅楽を除き)象牙でつくられているが、最近は絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)により象牙の入手が困難のため高騰してはいるが、代用樹脂は学校教育用などに限られている。 柱(じ)は他の弦楽器でいう駒、ブリッジで、糸を支え音高を定め、振動を胴に伝える部品である。楽箏のものは小さく低いが、大音量を求める近代のものは大型になっている。補助的に小型の柱や、最高音弦用の脚部に変化を加えた柱、その他倒れにくくしたりするために工夫が施された特殊な柱なども種々使用される。材質は古くは唐木が多かったが、現在では象牙製が最高とされる。しかし大変に高価であるので、現在は合成樹脂製のものが広く用いられている。その他、以前は鯨骨製のものもしばしば使用された。古いものでは美しい蒔絵が施されたものもある。 単に「新箏」と言った場合、二十絃箏を指す場合が多いが、近年において開発された箏全般を新箏と言う。 宮城道雄の開発した十七絃箏がもっとも有名であり、既に一般化している。合奏で用いられるように特に低音部が良く鳴るように拡張されており、宮城以降の楽曲では広く用いられる。宮城道雄が開発した楽器はほかにも教育用普及楽器の短箏(たんごと)、試験的に作られた超大型楽器八十絃がある。 このほか、現代において作られた箏として1969年に作曲家三木稔と箏曲家野坂恵子が共同開発した二十絃箏(実際は21本の絃がある)、それから二十五絃箏、三十絃箏、三十二絃箏などがある。それぞれ現代の(邦楽系の「現代邦楽」および西洋音楽系の「現代音楽」双方の分野の)作曲家によって新しい音楽作品を作る試みが行われている。特に二十絃箏は多く用いられ、徐々に一般化しつつある。 ちなみに大正琴は発音原理が琴(きん)に属する楽器のため、ここで扱う箏とは基本的分類において異なる。 広島県福山市(全国生産量の7割を生産) 中国の撥弦楽器のうちツィター属のものだけでも時代、地方、様式により多くの種類がある。一般的には(zhēngチェン)と呼ばれる楽器が箏を指す。(字は同じ「箏」の字,但し、簡体字では、「筝」) 現在、伝統音楽に広く使用される物は、古箏(古筝グーチェン)とよばれる。また、琴柱のない古琴(gŭqínグーチン)という楽器も広くつかわれている。 朝鮮には伽耶琴(カヤグム)と呼ばれる12弦の箏があり、前部を膝に乗せ指頭で弾奏する。正倉院に伝わる「新羅琴」はその初期の頃のものと言われる。また、6本の弦と固定フレットを持ち棒(匙)で弾奏する玄琴(コムンゴ)がある。他にレンギョウの枝で擦って奏する7弦の牙箏(アジェン)がある。 箏は楽器分類上ツィター属に含まれることもあり、ヨーロッパでの類似楽器としてはツィターが挙げられる。ツィターはヨーロッパの楽器としては一般的なほうではなく、アルプス地方の民俗楽器(特にオーストリア)として扱われている。他に、フィンランドの民俗楽器カンテレも類似楽器の一つに挙げられる。 箏曲 - 文化庁 日本の伝統音楽:楽器編 - 文化デジタルライブラリー (独立行政法人日本芸術文化振興会) 箏 - 伝統音楽デジタルライブラリー (洗足学園音楽大学) 箏曲とは - 社団法人日本三曲協会 財団法人正派邦楽会 世界で一つだけの文化-筝 筝奏者榎戸二幸のページ ^ “「この音とまれ!」CDが第72回文化庁芸術祭賞のレコード部門優秀賞に”. コミックナタリー (2017年12月27日). 2018年6月1日閲覧。 ^ “FGOサントラと「この音とまれ!」アルバムが日本ゴールドディスク大賞受賞”. コミックナタリー (2018年2月27日). 2018年6月1日閲覧。 ^ “第32回日本ゴールドディスク大賞「純邦楽・アルバム・オブ・ザ・イヤー」”. THE GOLD DISC. 2018年6月1日閲覧。", "笙(しょう)とは、雅楽などで使う管楽器の1つ。フリーリード類に属する。同様の楽器が東アジア各地に見られる。中国名・ション (Sheng)。 日本には奈良時代ごろに雅楽とともに伝わってきたと考えられている。雅楽で用いられる笙は、その形を翼を立てて休んでいる鳳凰に見立てられ、鳳笙(ほうしょう)とも呼ばれる。匏(ほう) と呼ばれる部分の上に17本の細い竹管を円形に配置し、竹管に空けられた指穴を押さえ、匏の横側に空けられた吹口より息を吸ったり吐いたりして、17本のうち15本の竹管の下部に付けられた金属製の簧(した:リード)を振動させて音を出す。 音程は簧の固有振動数によって決定し、竹管で共鳴させて発音する。パイプオルガンのリード管と同じ原理である。いくつかの竹管には屏上(びょうじょう)と呼ばれる長方形の穴があり、共鳴管としての管長は全長ではなくこの穴で決まる。そのため見かけの竹管の長さと音程の並びは一致しない。屏上は表の場合と裏の場合があるが、表の場合は装飾が施されている。指穴を押さえていない管で音が出ないのは、共鳴しない位置に指穴が開けられているためである。 ハーモニカと異なり、吸っても吹いても同じ音が出せるので、他の吹奏楽器のような息継ぎが不要であり、同じ音をずっと鳴らし続けることも出来る(呼吸を替える時に瞬間的に音量が低下するのみ)。押さえる穴の組み合わせを変えることで11種類の合竹(あいたけ)と呼ばれる和音を出すことができる。通常の唐楽では基本の合竹による奏法が中心であるが、調子、音取、催馬楽、朗詠では一竹(いっちく:単音で旋律を奏すること)や特殊な合竹も用いる。高麗楽では用いられない。 その音色は天から差し込む光を表すといわれている。 構造上、呼気によって内部が結露しやすく、そのまま演奏し続けると簧に水滴が付いて音高が狂い、やがて音そのものが出なくなる。そのため、火鉢やコンロなどで演奏前や間に楽器を暖めることが必要である。 なお、平安時代の「基経」を笙の「楽祖」とする。「基経」とは、『続群書類従』管弦部所蔵の「鳳笙師伝相承」によれば、藤原基経のことで、その後楽人である豊原家に継承されるが豊原時延・時光父子が源頼義及び息子の源義家・義光に伝授され、後に義光が時光の嫡男である時元に返り伝授されたことが記されている。それを意識したのか、足利尊氏も若い頃から笙を習得し、観応の擾乱後に尊氏に擁立された後光厳天皇も尊氏に倣って尊氏の師である豊原龍秋から笙を取得し、その後歴代天皇の間でも笙を演奏するようになった。 現代では雅楽だけでなく、クラシック音楽の作曲家によって管弦楽や室内楽のなかで、あるいは声楽の伴奏楽器として活用されることもある。 笙より1オクターブ低い音域が鳴る竽(う)という楽器もある。これは雅楽の伝統では一度断絶したものの、正倉院の宝物等を参考に、戦後になって復元された楽器の一つである。現代において蘇演(復曲)された作品や、新作の現代雅楽、例えば黛敏郎の「昭和天平楽」などで用いられている。 中国には北京語でション(shēng)、広東語でサンという、同じ「笙」の字を書く楽器がある。これは日本の笙より大型で、音域は日本の笙の倍以上あり、素早い動きにも対応している。もともと奈良時代に日本に伝わった時点では、日本の笙もパイプのような吹き口が付属していたが、現在ではそれをはずし、直接胴に口をあてて演奏する形に変わっている。 笙は八音では「匏」に属する。 ラオス、タイ王国北東部では笙と同じ原理のケーン(英語版)という楽器があり、一説では、これが中国の笙の原型であると言われる。 音程は竹の長さとは無関係で、吹き口から向かって右側から時計回りに、以下の通りとなる。竹の長さの順位と押さえる指も併せて示す。 竹の長さの順位は、1(最長)・2・3・4・5(最短)と長い順に数字で示している。正倉院の笙には、比も短くして千・也・言と同じ長さにしたものもある。 押さえる指は、L(左手)・R(右手)、1(親指)・2(人差し指)・3(中指)・4(薬指)で示している。右手人差し指は千・比の竹の間の隙間に入れ、下・乙は内側から押さえ、比は指の裏で押さえる。 也・毛は、正倉院の笙(奈良時代の笙)では簧(した)が付けられていたが、現行の笙では通常簧が付けられておらず無音であり、外観を整えるために竹が残されている。この也・毛から「野暮」という言葉が発生したという説もある。伝来当初は也はG6、毛はD#5であったが、現代音楽等では也をA#5、毛をF5として簧を付けた特別仕様の笙が使われることもある。 伝統曲で使われる笙の和音を合竹といい、全部で11種類ある。 「十(双調)」は双調の曲のみに用いられる。「十(双調)」と「行」は5音で構成され、他は6音で構成されている。「十」と「比」を除き、構成音のうち最も低い音の管名が合竹名となっている。行と七の音は全ての合竹で用いられ、逆に言(C#6)の音はどの合竹にも入っていない。乞・一・凢・乙・行・十(双調)の6種は協和音的であり、工・下・十・美・比の5種は不協和音的であるといわれている。 現行の雅楽の演奏では、合竹を変える際には全部の指を一度に移し替えるのではなく「手移り」と呼ばれる一定の順序に従って行われる。 林哲至(外部リンク) 真鍋尚之 宮田まゆみ カニササレアヤコ(外部リンク) タレント 鈴木治夫 - 東京で唯一の笙職人 ^ 『神社有職故実』100頁昭和26年(1951年)7月15日神社本庁発行 ^ 豊永聡美「後光厳天皇と音楽」(初出:『日本歴史』567号(1998年)/所収:豊永『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P130-151) ^ ぶらり途中下車NTV, 2008年8月9日 ^ 第63回 笙職人 鈴木工房 鈴木治夫フロンティアーズ、2010.0904 簫 笙のページ 至淵境 笙について 雅楽・笙奏者 真鍋尚之のページ 第114回 多摩探検隊「笙職人~3000年の音色をつなぐ~ 」 中央大学FLPジャーナリズムプログラム・松野良一ゼミ", "神楽笛(かぐらぶえ)は、雅楽の御神楽、一部の近代神楽で使われる日本古来の横笛。吹き物。管楽器に分類される。大和笛(やまとぶえ)、太笛(ふとぶえ)とも。 竹の管で作られ、全長は約46cm。6つの指孔がある。 音域はD5~C7、音の高さは龍笛より長二度低い。 御神楽 雅楽 和楽器", "胡弓(こきゅう)は日本の擦弦楽器。概説1および歴史以下に説明する。 胡弓 (くーちょー) は沖縄の擦弦楽器。概説2に説明する。 胡弓 (こきゅう) は広義として擦弦楽器の総称。ことにアジアの擦弦楽器の総称として使われることがある。概説3に説明する。 和楽器であり、多くのものは3本の弦を持ち(4本のものなどもある)、ほぼ三味線を小型にした形をしている。素材も三味線とほぼ同じで、現在では棹に紅木 (こうき) 、紫檀 (したん) 、普及品には花梨 (かりん)が使われ、胴は花梨で、皮は猫または犬、弦 (糸) は絹製である。三味線と大きく異なるのは駒で、設置する位置も全く違うが、作りや材質も大きく異なっている。弓は紫檀、花梨、竹などを用い、漆が塗られることもある。弓の棹は中央部が毛側に向けてやや湾曲し、つまり内向きにわずかに反っているものが多い。これは弓に弾力を持たせるためで、現代のヴァイオリンと同じである。たいていは中央部で二つに分解できるようになっている。細部の仕様は流派、個人により異なる。毛は円筒状に束ねた馬尾毛である。これは取り外しができ、手元側に紐が付けられ、それを弓の棹に取り付けられた金属の小さな輪に結わえて留める。三曲系で使われる弓は長いものが多く、毛の長さ70センチメートル、全長1メートルを超えるものも珍しくない。また毛の量も非常に多く、それを緩やかに張るのが特徴である。流派によっては手元に大きな絹製の房をつける。いっぽう民謡系で使用される弓は非常に短く、棹も細い。毛の量もごくわずかであり、世界的に見ても同じ楽器で種目によりこれほど弓に大きな差があるものは珍しい。音楽としては、胡弓楽、地歌、義太夫節などで用いられる。「三曲」のひとつであり、三曲合奏の構成楽器の一つ。また日本の民謡で、特に北陸から関西にかけて使用されるほか、各地の民俗芸能や一部の宗教において演奏される。特徴として、弾く弦を変えるために弓ではなく本体を回す。 琉球の擦弦楽器で、胡弓と書いてクーチョーと読む。本体は黒木(黒檀)やユシギ(イスの木)で作られ、胴は内地の胡弓と異なって椀型になっており(古くは椰子の実を二つに割って胴にした)、三線と同様にニシキヘビの皮を張る。弦は三線と同じく本来3本であったが、古典音楽の譜には三弦胡弓の最低音より低い音がある為、三線の名工で胡弓演奏家としても著名であった又吉真栄が低音用の弦を新たに設けた四弦胡弓を開発し、普及させた(三弦胡弓では1オクターブ上の音を弾いて代用していた)。また、棹の形状も三線と同じくいくつかの型に分けられるが、弦が4本になり糸倉を長く取る必要が生じたので、元々糸倉の長い型である与那城型(ユナグシク型)で製作されることが多い。奏法については内地の胡弓と同じく、弓ではなく本体を回転させて弦を移動し演奏する。楽譜は三線と同様の工工四(クンクンシー)に押し弓弾き・引き弓弾きの指示を加えたものが用いられる。その起源や、内地の胡弓との関連については不明。ただし東南アジアに類似楽器が多く、琉球がさかんに貿易をしていた15世紀頃にシャムやマラッカから原型が渡来した可能性がある。主に琉球古典音楽や琉球舞踊の演奏に伴奏楽器として用いられるが、ごく稀に民謡の伴奏にも用いられる。 広義として、擦弦楽器を総称する時に「胡弓」の語を用いることがある。明治初期にはヴァイオリンも胡弓と呼ばれたことがある。一般的にはアジアの擦弦楽器を総称する時に使われることがあるが、定義は曖昧である。そのためもあり特に、中国の擦弦楽器である二胡、高胡などを俗に胡弓と呼ぶことすらある。現代では単に胡弓といった場合、むしろこれらを指すことも多い。しかしこれは明らかに誤用であり、そのために本来の胡弓との間に混同が生じており、問題化している(中国の擦弦楽器との区別のため和楽器の胡弓が「和胡弓」「大和胡弓」「日本胡弓」といった名称で呼ばれることもある)。このため、一部の胡弓関係者、二胡関係者により、正しい呼称の使用が呼びかけられている。 以下は和楽器の胡弓についてである。 胡弓が最初に文献に現れるのは江戸時代初期であり、三味線と比較するとやや遅い。その起源は諸説があり定かではない。中国の二胡など胡琴系楽器とはやや縁が遠く、むしろ東南アジアの楽器に近いのではないかという説や、南蛮貿易によりもたらされたヨーロッパのレベックやヴィオールに起源を求める説もある。当初は門付(かどつけ)などの民俗音楽に用いられていたようだが、一説によると三味線音楽の祖である石村検校も胡弓の名手だったという。また、八橋検校と親交のあった藤本箕山が1678年に著した『色道大鑑』には、八橋検校によって胡弓の弓が改良され音色が著しく変わったことが書かれている。このように、地歌・箏曲の成立とほぼ同時に当道座の盲人音楽家たちによって胡弓が演奏されていたことが分かる。また、初期の胡弓は胴が丸形をしており、三味線とは異なった形をしていたが、江戸時代中期までにはほぼ三味線と同形となり、形が定まった。 その後、胡弓音楽は三味線 (三弦) の音楽である地歌、箏の音楽である箏曲と同時に発展し、これらを総称して「三曲」といい、相互に深くかかわり合って来た。また地歌や箏曲に加わり他の楽器と合奏することも多くなり、特に三曲すべてを合わせる三曲合奏の形式が出来上がっていった。江戸時代を通じて三曲合奏が盛んであり、このようにして、胡弓音楽は当道座の盲人音楽家たちによって作られ、今に至るまで伝承されてきた。今日、マスコミなどでは民謡の胡弓が取り上げられることが多く、一般にも知られているが、しかし胡弓音楽の主体は歴史的、内容的に見ても三曲にあり、現在でも新しい曲が作られ、演奏活動や伝承も行なわれている。 胡弓の種類については、通常の三弦のもののほかに、江戸時代中期に江戸において藤植検校が藤植流を創始し、四弦の胡弓が伝承されている。明治以降には宮城道雄が、通常使われている胡弓を大型にした大胡弓を開発し、この楽器を用いた楽曲を作曲している。他に、大正時代に音楽学者田辺尚雄が考案した「玲琴」がある。これは三本弦だが胡弓のように皮張りではなく板張りの台形胴を持ち、外見はモンゴルの馬頭琴に類似しており、はじめは民謡の一形態である「追分」の伴奏に使われていたが、やがて当時盛んになっていた「新日本音楽」に取り入れられ、様々な合奏で使われた。主に低音部を受け持ったが、戦後はほとんど使用されなくなった。また平成になって胡弓演奏家の原一男により低音域を拡張させた五弦胡弓が考案されている。 江戸時代中期には盲人音楽家たちにより芸術音楽化が進み、胡弓独自の流派が立てられ、胡弓専門の音楽がつくられた。これを後世「胡弓楽」と呼ぶ。これに、同じく盲人音楽家たちの専門である地歌・箏曲を合わせて三曲と呼ぶ。胡弓専用の曲のほか、これら地歌曲の多くや箏曲の一部に胡弓を合奏することも盛んになり、ことに三曲の楽器すべてを合奏することを三曲合奏といい、盛んに行なわれた。こうして独奏楽器として、また三味線・胡弓合奏、箏・胡弓合奏、三曲合奏の1パートとして胡弓楽のジャンルが広がり発展することになる。ただし、特に江戸時代後半となると、胡弓楽と地歌、箏曲は交流が著しくほとんど一体化してしまっているので、胡弓楽という言葉はあまり使われない。また明治時代になると、三曲合奏は胡弓の代わりに尺八を用いることが多くなり、胡弓の演奏は減少したが、多くの地歌・箏曲の伝承流派は現在も胡弓の曲を伝承している。ただし胡弓楽は地歌、箏曲とは半ば独立した伝承系統を持っていることもあり、流派としては、地歌や箏曲の生田流に対応するものは流派を名乗っていないが大きく分けて大阪系、京都系、九州系、名古屋系があり、山田流箏曲に対応するものとして藤植流、松翁流がある。ほかに、大阪の政島検校(18世紀中頃)の創始による政島流があり、幕末に伝承が絶えてしまったが、現在の大阪系と関係があると思われる。また19世紀初頭に京都で活躍した名手腕崎検校の流れである腕崎流が存在したとも言われ、現在の京都系もそう名乗っているが、確かなことは分かっていない。その他品川検校による品川流があったとも伝えられるが、これについてはまったくわかっていない。名古屋系はもっともよく胡弓の伝承を守っており、吉沢派、寺島派に分けられる。吉沢派は幕末に活躍した吉沢検校の流れである。地歌曲や箏曲に胡弓を合奏させる場合、多くはほとんどユニゾンで目立ち過ぎぬように合わせるが、吉沢は胡弓に独自の旋律を与え、非常に技巧的な作曲、編曲をしており、作品のひとつ「千鳥の曲」は胡弓の本曲として、また箏の曲として名高い。また、たとえば箏曲「六段の調」に、吉沢の手付による胡弓パートが合奏される場合、特別に「長崎六段」と呼ばれるほど独自で技巧的な手付になっている。大阪系でも明治以降に菊原琴治などが独自の手付を残している。 地歌・箏曲とともに発展し、当道座の盲人音楽家によって伝承されてきた胡弓音楽を胡弓楽と呼ぶ。胡弓楽としてみた場合、その音楽は「本曲」と「外曲」に分けられる。本曲は本手組とも呼ばれ、胡弓本来のために作られた曲であり、各流派がほぼ独自の本曲を持っている(一部本曲のない流派もある)。曲によっては『鶴の巣籠』のように尺八楽との交流によって生まれたものもあるし、先の『千鳥の曲』のように箏との二重奏曲的性格の強いものもある。このほか、有名な胡弓本曲に『蝉の曲 (名古屋系・吉沢検校作曲)』、『岡安砧』 (藤植流・作曲者不詳) などがある。特に藤植流には多くの本曲が伝えられており、また幕末に断絶してしまった政島流には更に多くの本曲があった。外曲は箏曲、地歌曲を指し、きわめて多くの曲がある。ただし胡弓演奏家はほとんどが地歌、箏曲演奏家でもあるので、本曲でも伴奏として箏や三味線が入ったり、また地歌や箏曲に取り入れられたりしている曲もあり、このような分け方は尺八ほど厳密ではない。また宮城道雄以降、今に至るまで胡弓のための新作曲も多くはないながら作られている。 義太夫節は上方で盛んだったためか、三曲の影響を色濃く受けている側面があり、そのひとつが胡弓を使う演奏といえる。特に『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責の段」では、頼朝を仇と狙い姿を消した、悪七兵衛景清の馴染みの傾城、阿古屋が景清の行方を詮議され、琴(箏)、三味線 (地歌三味線)、胡弓を見事に弾いて、その旋律に迷いがないことから、景清の行方を知っているのではないかという疑いを晴らすという場面で、胡弓が用いられることが有名である。この3つの楽器を用いている点も三曲の影響といえる。ちなみに、この演目が歌舞伎で上演される場合は、阿古屋を演ずる女形が3つの楽器を実際に演奏することが通例となっている。そのほかの曲でも『生写朝顔話』など義太夫節では胡弓が用いられる曲は少なくない。 民謡における胡弓としては富山県富山市八尾地区のおわら風の盆で演奏される「越中おわら節」などで使用されるのが有名である。ただし胡弓が加わるようになったのは明治以降である。おわら用とされている胡弓には近年、通常のものよりもやや棹が長く作られたものがある。これは野外での演奏のため、弦長を大きくして張力を高め、音量の増大をはかったものと思われる。弓は古典系のものよりもかなり短く、ただし湾曲部より先はむしろ長めにしてあり、つまり手元から先に向けての棹と毛の離角が大きい。毛量は少なく弛みを持たせずに張られている。また富山県の民謡には「麦屋節」、「せり込み蝶六」など胡弓を使用するものが多い。 その他、胡弓が使われる音楽として次のものがある。 歌舞伎の下座音楽として、哀切な場面に胡弓が使われることがある。 地方の人形芝居や祭りの囃子など民俗芸能に使われることもあり、かつて地方によっては農民の冬の副業として、また瞽女(ごぜ)によって、門付として演奏されることもあった。 天理教及びその傍系宗教において、儀礼音楽の中で他の楽器と共に演奏される。この場合、「初瀬琴」と呼ばれる弓奏のツィター属弦楽器が使われたことがあるが、現在ではほとんど使用されず、もっぱら胡弓を使用するようである。 三味線を小型にしたような形を持つ胡弓は、三味線と同様の調弦が可能である。主なものとして、本調子、二上がり、三下がりがある。胡弓楽、地歌、箏曲の胡弓は圧倒的に三下がりが多い。義太夫節や民謡では二上がりの調弦を用いる曲も少なくない。 三曲 三曲合奏 地歌 箏曲 吉沢検校 千鳥の曲 擦弦楽器 弦楽器 おわら風の盆 鶴崎踊 萬歳 ワンワンニャオニャオ 日本音楽集団 坂田古典音楽研究所 胡弓に関する史料年表―16~17世紀京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター" ]
ABC01-02-0044
映画の撮影が始まることをクランクインというのに対し、すべての撮影が終わることを何というでしょう?
撮影
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[ "撮影", "工事カメラ", "画像", "ラティチュード", "レジストレーション (印刷・映像)" ]
[ "撮影(さつえい)とはカメラ(撮影機)によって静止画(スチル写真)や動画(映画、テレビ、ビデオ等)を記録する行為のこと[要出典]。メディアは元々感光材料(感材)で、スチルでは湿板→乾板→フィルム、ムービーではフィルムから磁気テープへと進化してきたが、最近はデジタル技術の進歩に伴い、光ディスク、メモリーカード/メモリースティックなどの媒体が使われる。 撮像ともいい、特に天体の像を記録する場合に使う(「撮像観測」などと使われる)。 撮影上必要となる技術は、構図や露出(ISO感度、シャッター速度、絞りによって決まる)、光線状態/照明が中心になる。普通はいわゆる適正露出を目指すが、表現意図によりオーバー気味(ハイキー)、アンダー気味(ローキー)の露出を敢えて選ぶこともある。 またレンズの選択も重要な役割を果たす。レンズは焦点距離の長い順から大まかに望遠レンズ、標準レンズ、広角レンズに分けられ、また接写に適したマクロレンズ、焦点距離を変えられるズームレンズ、歪んだ像の得られる魚眼レンズなどの特殊なレンズが存在し、撮影者は撮影意図に最も適したレンズを選択して撮影する必要がある。また、表現意図によってカラーにするか、モノクロで撮影するか判断しなければならない。 焦点距離は被写界深度とも相関関係があり、望遠レンズでは浅く、広角レンズでは深くなる。被写界深度は絞り値によってもコントロールでき、絞り込む(F値を大きくする)と深くなる、つまり近くから遠くまでピントがあった写真(パンフォーカス)になる。また、その逆をすれば浅くなり、主たる被写体の背景や前景がぼけることになる(ボケ表現)。 シャッター速度が遅くなるとブレが生じるので、普通は三脚や照明を用いることにより、できるだけこれを避けるのが普通だが、特殊な表現意図があるときにはあえてブレ(モーションブラー)を生じさせることもある。 また、カラー撮影の場合は感材の乳剤番号(製造ロット)や相反則不軌、光源の色温度によってカラーバランスが崩れることがあるので、フィルターや光源別のフィルムを使用し、露光量も調節するなどの「補正」が必要となる。デジタルカメラの場合はホワイトバランスの設定などにより色調を調節する。 映画やテレビドラマの撮影において、撮影開始を「クランクイン」、撮影終了を「クランクアップ」と呼ぶ。これは、カメラが手回し式だった頃の、手回しハンドル(クランク)に由来するとされる。 スタジオ内の撮影を「スタジオ撮影」「セット撮影」などと呼び、撮影所の外の屋外での撮影は「ロケーション撮影」または「オープン撮影」と呼ぶ。また、VFXを用いる映画ではブルーバック撮影(緑色を使う場合はグリーンバックと呼ばれる)などがある。 映画やビデオカメラの撮影においてはスチル写真にはない動きを伴うカメラワーク(パン、トラッキング、ドリー、クレーン、ズーミング、ピント送りなど)による表現が可能になり、また、多くの場合、音声の録音も必要とされてくる。また、撮影が終わった後で映像や音声の編集が必要である。編集にあたってはモンタージュの技法や、ナレーションの付加により、映像に一定の意味が与えられる。 シネマトグラフィ(英: Cinematography)及び、ビデオグラフィ(英: Videography)とは、映像学、映像技術、映像撮影、動画学、動画技術、動画撮影、映画学、映画技術、映画撮影などを意味する言葉で、この頁では映像撮影技術または、動画撮影技術、映画撮影技術を指す。フォトグラフィ(英: photography)とは、写真学、写真技術、写真撮影などを意味する言葉で、この頁では写真撮影技術を指す。 デジタル式映画撮影(でじたるしきえいがさつえい、デジタルシネマトグラフィ、英: Digital cinematography)とは、映画の撮影の段階で従来の銀塩式フィルムを使用せずに、光を電気信号に変換する撮像素子を使用して磁気テープやハードディスク等の記録媒体に記録する撮影である。 ^ 『明鏡国語辞典』第二版 アカデミー撮影賞 撮影監督 撮影技師 写真家 アナモルフィック・レンズ 写メール Wikipedia:百科事典向け写真撮影のガイド/がんばっても無理", "工事カメラ (こうじかめら) とは工事現場の撮影に特化したカメラのこと。 工事カメラとして販売されているものの多くは、屋外での過酷な使用を想定し、防水性、防塵性、耐衝撃性、信頼性に優れた設計となっており、建設関係者のみならずスキーなどのアウトドアスポーツ愛好家の間でも利用者が多い。ただし重量的には重く、デザインもごつく男性的なものが多いが、近年では操作性に劣るが小型・軽量設計で携帯性を重視した工事カメラも販売されている。 撮影機能の特徴としては、工事現場での撮影を考慮し、鉄筋のような長尺の資材や、空間全体を撮影する必要があるため広角レンズが搭載されている。また、トンネルの坑道内など低照度下で明るい画像を得るために、強力な内蔵フラッシュを搭載したり、デジタル工事カメラでは標準設定で高感度撮影モードにセットされるなど、一般のスナップ撮影を目的としたカメラとは異なる仕様が施されている。 右のカメラは、ISO感度100でのガイドナンバーが17.5という非常に強力なフラッシュを搭載している。 過酷な現場で使われる事を想定し、さまざまな特徴が持たされている。 軍手など手袋をしたままでも操作・撮影できるシャッターボタン・グリップ 景色全景を収めるためにあらかじめ広角寄りに設計されたレンズ・ズーム 強力なフラッシュを装備 耐衝撃性を持たせた硬質プラスチックとゴム製のボディ、レンズ部を完全に覆うカバー部 防滴・防沫・防塵構造 フィルム等記録メディアの交換・装填が手袋をしていても容易・かつ確実に記録メディアを密閉できる機構 また、工事現場での使用を考慮したアクセサリーがカメラに標準付属している。例えば、幅広のネックストラップやシリコン製カメラカバー、チョーク入れなど。 現在、官公庁等向けの工事写真に関しては電子納品の基準(案)が国土交通省によって定められており、国が発注する工事の現場においてはデジタルの工事カメラが使われる場合がほとんどある。今後電子納品の対象工事の範囲が更に拡大される事がほぼ確定しており、銀塩カメラの利用は困難になることから、現在ではフィルムの工事カメラは販売されていない。 デジタルでの撮影・提出が主流となったため銀塩カメラと異なり、撮影者によって故意に撮影画像が加工される、撮影画像の改竄(かいざん)するケースが出てきた。この傾向に対して国土交通省の「デジタル写真管理情報基準(案)」も改竄防止に重きがおかれた改定がなされている。また、オリジナルの撮影画像に対して加工の有無を検出する機能を持たせた工事カメラも出現してきた。 ^ 35mmフィルム換算で35mmまたは28mm相当 ^ 通常のコンパクトカメラの内蔵フラッシュのガイドナンバーは7~11、一眼レフカメラの内蔵フラッシュでも12~14程度が多数である。またこれらの内蔵フラッシュの多くが28mmの画角をカバーできない。", "画像(がぞう)とは、事象を視覚的に媒体に定着させたもので、そこから発展した文字は含まない(例:文字と画像、書画)。定着される媒体は主に2次元平面の紙であるが、金属、石、木、竹、布、樹脂や、モニター・プロジェクター等の出力装置がある。また、3次元の貼り絵、ホログラフィー等も含まれる。 現存する古い画像は後期旧石器時代の洞窟壁画(スペインの《アルタミラ洞窟壁画》(全文:La Cueva de Altamira(Museo de Altamira)や、フランス《ラスコー洞窟壁画》(書影:三浦定俊(2008))。)等)である。これらの画像すなわち、岩面画から抽象化が行われ、画像に属するピクトグラム(絵文字)、さらに文字に属する象形文字が生まれた。 画の語源は「界」(田は四つの境界)や、「形」である(書影:『康煕字典網上版』p.763)。 像の語源は、形象、音像である(書影:『康煕字典網上版』p.116)。 同義語に図、絵(画)、図像があり、限定表現である図形、影像、映像等がある。 様式や精神的な形象には「図」(英語のImage)や「絵(画)」を使用している(例:心象図、物語絵、肖像画、「絵になる」)。 点・線・面など幾何学的な表現にグラフや図形が使用されている。 定着する方法による区分:直接描く描画、一時的定着である鏡や水面の反射やカメラオブスキュラ、版を作り転写する版画、カメラや望遠鏡、顕微鏡等の光学デバイスを利用した写真、印刷、モニター入出力等がある。写真で出力した画像は「影像」という。映画やテレビ等に映した画像は「映像」という。デジタルカメラの普及でアナログ画像とデジタル画像の用語も一般化した。 時間を基準とすると、静止画、動画に分類され、静止画動画はモーションピクチャーという。画像は一般に静止画像をいうことが多い。 色数からはモノクローム、カラーに分類される。 オリジナル画像を原画、原図といい、版として定着した画像を図版、電子媒体に定着したものを電子画像、電子影像(図書の影像は書影)という。 粗密や解像度からは、あいまい表現だが、精密画像、高精細画像、低解像度画像等が使用される。 コンピュータグラフィックスのファイル形式 ビットマップ画像(ラスターグラフィックス)とジャギーのないベクターグラフィックスに分類され、ベクターグラフィックは用語「図形」を使用する場合が多い。 標準画像ファイルフォーマット 多数の画像ファイル形式があるが、W3Cが推奨したラスター形式にはJPEGやPNG等があり、ベクター形式にはXMLベースのテキスト形式で表現できるSVGがある。また、アドビシステムズのベクター形式ドキュメントファイルPDFも国際規格ISO 32000-1:2008となった。 コンピュータで扱う画像データの最少単位を画素という。物理的な点情報をドットといい、1インチあたりのドット密度をdpiという。 画像の要素 明度、彩度、輝度、透過度等がある。 色の表現 異なるデバイスで色表現が異ならないよう、カラーマネージメントシステムで各デバイスを制御する必要がある。 色の合成方法には加法混合(透過光の三原色、例:モニター画面のRGB値)、減法混合(反射光の三原色、例:カラー印刷などのCMYK)などいくつかがある。 画像圧縮 Web画像は通信速度をあげるため、一般に画像圧縮したり、画像サイズを縮小したカタログ用のサムネイルやプログレッシブJPEGを使用する場合が多い。 ^ Museo_de_Altamira ^ 三浦定俊「ラスコー洞窟壁画の保存状況」(高松塚古墳壁画劣化原因調査検討会(第5回)資料/文化庁 所収) ^ 『康煕字典網上版』763頁 ^ 『康煕字典網上版』116頁 ^ Document management -- Portable document format / ISO Store 映像革命CG―コンピュータ・グラフィックスで社会、芸術、産業が変わる ISBN 978-4872463040 ラスターグラフィックスエディタ ベクターグラフィックスエディタ デジタル画像 2次元コンピュータグラフィックス Category:コンピュータグラフィックス ビットマップ画像 ベクターイメージ 画像ファイルフォーマット 画像編集 画像処理 データ圧縮 動画 イメージ フォトグラフィー", "ラティチュード、ラチチュード、ラティテュード (latitude) は、一般的に日本では写真用語であり、音響学・信号処理分野で言うところの「ダイナミックレンジ」に相当する。感光材料(写真フィルムなど)が、画像(階調の集まり)として再現できる露光の範囲、寛容度を表すことに使われる。露光寛容度、露出寛容度とも言う。英語ではexposure latitude。 写真撮影(露光)において、感光材料に対し適正より少ない露光量(露出アンダー、画像が暗く階調がつぶれるおそれがある)や、反対に適正より多い露光量(露出オーバー、画像が明るく階調が飛ぶおそれがある)であっても階調が無くならず、画像として成立するような特性(露光許容量が大きい)を「ラティチュードが広い」と表現する。このような特性の場合、暗い部分(シャドウ)から明るい部分(ハイライト)までなだらかな階調が再現できる反面、画像がフラット(眠たい調子)になりやすい。 反対に、再現できる露光の範囲が狭い特性を「ラティチュードが狭い」と表現する。この場合、露出オーバーやアンダーに対して白とびや黒つぶれを起こしやすいが、メリハリのあるコントラストが高い画像を得ることが出来る。 一般的にネガフィルムはラティチュードが広く、リバーサル(ポジ)フイルムや固体撮像素子を用いるデジタルカメラのラティチュードは狭い。撮影においては、ラティチュードが広い方が扱いやすい。 特に、ラティチュードが狭いフィルムを用いる時や階調再現を重視する際は、被写体各部の必要露光量を確認しカメラの露出補正機能(または手動設定)を使って最も適切な露光を与えると共に、光源と被写体とカメラの相互位置を変えてみる、デーライトシンクロなど補助光を使用する、強い光をディフューズする、レフ板でシャドー部を起こす、などの明暗比を小さくする処置が有効となる。 またそのような場合、適正露光で撮影できているかどうかが不安な場合は、露光量を変化させて複数枚を撮影することである程度の露光ミスの予防が可能である。一部の機種には、これを自動で行うオートブラケット機構を有するものもある。また、デジタルカメラは撮影直後、即時に撮影した画像の確認が可能なうえ、デジタル一眼レフカメラやミラーレスカメラなど高級機を中心に撮影した画像のヒストグラム表示が可能な機種が多い(さらに近年では、撮影時にハイダイナミックレンジ合成をカメラ内部で行える機種もある)。 ^ ネガフィルムの場合、規定露光量よりやや露光オーバー目にしたほうがシャドウ部の階調再現性が良く、全体の明るさはプリントの際に調整できる。 露出 (写真) 露出計 ISO感度 絞り (光学) シャッター速度 相反則不軌 RAW画像 ガンマ値", "レジストレーション (registration) は、カラー印刷、両面印刷、カラー表示などで、各色や表裏などのずれをなくすこと。 レジストレーションが不完全でずれがあることを、ミスレジストレーション、レジストレーションずれなどという。 カラー印刷では、全版100%(CYMKではC:100%、Y:100%、M:100%、K:100%)の色(レジストレーションカラー)で、マークや文字(レジストレーションマーク)を印刷し、それがずれないようにすることで色版ごとのずれをなくす。 カラーテレビ、カラーディスプレイ、カラービデオカメラなどでも、カラー印刷と同様にレジストレーションは必要になる。 カラーテレビやカラーディスプレイでは、表示原理によっては、原理的になくすことができない微細なミスレジストレーションが残る。サブピクセルレンダリング(メイリオのClearTypeはその例)は、そのミスレジストレーションを積極的に利用して、解像度を高める技術である。 別の手段で、あるいは別の時期に撮影・作成された複数の画像を合成して表示する際にも、レジストレーションは必要になる。 たとえば、X線写真と通常の写真、空中写真と地図など。 トンボ (印刷)" ]
ABC01-02-0047
1891年にアメリカのネイスミスによって考案された、日本では「篭球」というスポーツは何でしょう?
バスケットボール
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[ "バスケットボール", "ソフトテニス", "アイスホッケー", "アメリカンフットボール", "タッチ・フットボール" ]
[ "バスケットボール(basketball 音声[ヘルプ/ファイル])は、1891年にアメリカで考案されたスポーツ。5人対5人の2チームが、一つのボールを手で扱い、長方形のコート上の両端に設置された高さ305cm(10ft)、直径45cm(18in)のリング状のバスケットにボールを上方から通すこと(ゴール)で得点を競う球技である。公式試合は屋内競技として行われる。狭義では、この競技に使用する専用のボールのことを指す。籠球(ろうきゅう)とも訳される。開催される国・地域、年齢や性別によってルールは調整される。 バスケットボールゲームの特徴は、 ボールを保持したまま基本的に移動できないこと 連続して移動する場合は床面でボールをバウンドさせるドリブル(球運び)を行い、このドリブルはプレーヤーの一連のプレーで1回のみ許されること ボールに対して下半身を使えないこと 対人接触に関しての規定が比較的多くあり、故意に接触すること、相手の身体や衣服を掴むことが禁止されていること ゴールはショットが放たれた位置によって得点が異なること 攻撃と守備の流れは流動的で、試合中の多くの状況で起こり得ること 試合の経過を滞らせないためにほとんどのプレーで制限時間があること などが挙げられる。 歴史にもあるようにルールを一人の考案者で作った事と、NBAなどプロスポーツと共に発展してきた事に起因して、見せるスポーツとしての側面も併せ持っているため、ルールが複雑なスポーツの一つである。その一方、楽しむスポーツという点では、ゴールリングとボールがあれば1人からプレーを楽しむことができ、1オン1(1対1)や、3オン3(3対3)で本格的にゲームをすることもできる。アメリカでは、公園など公共の場所にリングが設置されており、ゴールリングを指す俗称から転じて「hoop」とも呼ばれ親しまれている。 バスケットボールのゴールとなるバスケットは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。競技年齢や設備環境により、設置高さなど各種寸法は異なる。 このバスケット(リング)に正規の方法でボールを上方から下方に通過させることによってゴールが成立し得点が記録される。攻撃側(オフェンス)チームは、定められた方法で、プレーヤーがドリブルでボールを運んだり、プレーヤー間でパス(送球)を行いながら、得点となるバスケットのあるフロントコートへボールを運びつつ、ゴールチャンスをうかがい、一定時間内(ショットクロックが0になるまで)にショットを放ち、ゴール成立によるポイント(得点)を狙う。また一旦フロントコートへ運ばれたボールをバックコートに戻すことは出来ない。攻撃権のない守備側(ディフェンス)チームは、規定された方法でゴールを阻止し、攻撃権を奪うような防御プレーを行う。ボールポゼッション(攻撃権)は、得点があった場合、ヴァイオレイション(ゲーム運用における違反)またはファウル(主に相手チームやオフィシャルに対して犯される反則)があった場合、ピリオド(試合進行中の区切り)開始時などに、決まりに従い、チーム間で移動する。試合中のフィールドゴールは、ショットを放った位置によって、1回の成功で、ツーポイント(2点)あるいはスリーポイント(3点)が記録される。ファウル、あるいはヴァイオレイションに対するペナルティ(罰則)により与えられるフリースローでは、事例によって投数がワンスロー〜スリースロー(1〜3投)の間で決められ、一投成功につき1点が記録される。試合時間終了時点で、より多い得点を得たチームが勝利となる。基本的には、引き分けはなく、通常ピリオドの半分程度の時間のオーバータイム(OT)を、勝敗が決するまで繰り返し行う。 ネイスミスの考案 バスケットボールは、一人の人物によって考案され広まった数少ない競技のひとつである。考案者はアメリカ、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクール(現・スプリングフィールド・カレッジ)の体育部教官を務めていたカナダ人のジェームズ・ネイスミスで、1891年に彼の考え出したルールが現在のバスケットボールの原型になっている。 1891年夏、国際YMCAトレーニングスクールでは体育・スポーツ指導者の講習会が開かれたが、当時、全米各州のYMCAでは冬季の屋内における体操中心のプログラムについて学生の意欲が低いとして既存のプログラムに対する不満があり、レクリエーション的で競技的要素を含んだプログラムが求められていた。同年秋、体育部主事のL.H.ギューリックは5人の体育指導教官を集めて数回にわたり検討した結果、新しいスポーツを創り出すほかはないとの結論に達した。体育教官であったネイスミスはアメリカンフットボールやサッカー、ラクロスなどを屋内ゲームとして取り入れようとしたが失敗に終わる。そこで、ネイスミスは各ゲームの要素を取り出すこととし、ボールを使用すること、ラフプレーを取り除く必要からタックルをなくすためボールを保持したまま走ってはいけないこととした。また、ゲーム中の安全性を高めるため競技者間の身体接触を少なくすることが考えられたが、これにはネイスミスが少年時代を過ごしたカナダ・オンタリオ州の雄鴨落し(Duck on the Rock)という的当て遊びにヒントを得てゴールをプレーヤーの頭上に水平に設置することとした。 ネイスミスが最初に考案した13のルールは現在では約250にまでなっているが、ゲームの形式は基本的にほとんどかわっていない。 初めての試合 1891年12月21日、国際YMCAトレーニングスクールで18人の学生を9人ずつに分け初めての試合が行われた。初めての試合のボールにはサッカーボールが用いられた。ネイスミスはゴールについては45cm四方の箱を想定していたが、それは用意できなかったため、代わりに桃を入れる籠(かご)を体育館のバルコニーに取り付けることとなった。このときのゴールの高さ10フィート(3.05m)は以後変更されることなく現在に至っている。また、フロアの広さはおよそ11m×15mの大きさであったという。この世界最初の試合の18人の中には日本人・石川源三郎が含まれていた。最初の試合ではトスアップから1時間ほどたって1年生W・R・チェイスのショットが決まって点が入りゲーム終了となっている。このスポーツの名称について初めての試合が行われるに先立ってネイスミスと学生フランク・マーンとの間で話題になり桃の籠を用いたことから「バスケットボール」と名付けられた。 その後、YMCAトレーニングスクール広報誌「ザ・トライアングル」(1892年1月15日号)に紹介され、1892年1月になって正式に「バスケットボール」という名称に定まった。また、当初、英語での表記は「Basket ball」であったが、1921年に公式に「Basketball」となった。 プレーヤー人数 ネイスミスは両チームが同人数であれば何人であってもよいと考えていたため13条のルールの中にチーム人数を規定していなかった。コーネル大学では50人対50人で試合が行われたが、この試合について担任のE・ヒッチコックは「体育館が破壊されかねない」などと述べるなど逸話となっている。プレーヤー人数については、その後次第に制限され、1894年にプレーヤー人数についてはフロア面積に合わせて5人、7人、9人とされることになった。コートの大きさやプレーヤー人数が現在のように確定したのは1897年になってからのことである。 コート上のプレイヤーは、限られたタイミングで交代することができ、反則やケガで欠員が出ても交代として補充することができる。交代の回数に制限は無いので、1人のプレイヤーが何度も交代することができる。 ゴールの形状 ゴールについては考案当初、シュートが決まるたびに梯子や棒を用いて取り出していた。ゴールの桃の籠は壊れやすかったためすぐに金属製の円筒形ゴールにかわっている。ゴールの形状はその後少しずつ変化し、一説によればネット状で底が切れている現在のようなゴールの形状になったのは1912年から1913年にかけてであるとされる。なお、リングの内径45cmは最初の試合の時から全く変わっていない。 バックボード バスケットボールは熱狂的な人気を博すようになったが、観客が体育館上の手すりや欄干から足や手を伸ばして妨害することが頻発したため遮蔽物が設けられることになった。これがのちのバックボードで当初は金網であったが、1904年から1.8cm以上の木板が用いられるようになった。ところが、観客から見えないことになったため後に透明なプラスチック板が用いられるようになっている。バックボードの位置については当初エンドライン上にあったが、ゴールが61cmコート内側に移動することとなった際にバックボードもそれに伴ってゴールと一体となってエンドラインより内側に配置されることとなった。 FIBAの結成 バスケットボールは当初から人気があり、スミス大学の体育教師を務めていたセンダ・ベレンソンによって女子バスケットボールが始められるなど、その年のうちにアメリカ国内のあちこちで競技されるようになり、YMCAを通じ世界各国へ急速に広まった。このような背景もあり、1904年のセントルイスオリンピックではデモンストレーションスポーツとして開催された(1904年から1924年までオリンピックの公開競技として実施)。1932年6月には国際バスケットボール連盟(FIBA)が結成され、1936年のベルリンオリンピックから男子オリンピック正式種目に採用された。また、1976年のモントリオールオリンピックから女子正式種目にも採用された。 プロリーグの創設と発展 アメリカ国内では、1946年に男子プロバスケットボールリーグBAAが創設され、3年後NBLと合併しNBAが誕生した。1967年に、対抗するリーグABAが設立され地位を脅かしたが、1976年にABAは消滅し、NBAは現在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けている。 ドリームチームの時代 NBAには、ジョージ・マイカン、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、カリーム・アブドゥル=ジャバー、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなどのスター選手が所属し、1992年のバルセロナオリンピックでは「ドリームチーム」を結成、圧倒的な強さで優勝を果たした。 また、1996年には女子プロバスケットボールリーグWNBAが設立され、シェリル・スウープス、リサ・レスリー、ローレン・ジャクソンなどのスター選手が台頭した。 国際化 NBAやオリンピックの活性化に伴い、近年バスケットボールの国際化が急速に進んでおり、FIBA発表では1998年時点で世界の競技人口は4億5000万人、FIBAに加盟した国と地域は2006年8月時点で213まで増加した。 日本にバスケットボールが伝わったのは1908年で、YMCAの訓練校を卒業した大森兵蔵が東京YMCAで初めて紹介したとするのが現在の定説である。そして1913年にYMCA体育主事のF.H.ブラウンが来日し、関東、関西で競技の指導に尽力し普及していった。 なお、1891年にスプリングフィールドのYMCAの訓練校で行われた世界初の試合に参加した石川源三郎がもたらしたのではないかとする異説もある。ただ、1910年代の日本ではいまだスポーツ施設が少なく競技用具も粗末であるなど本格的に受容するだけの受け皿がなかったとされ、石川がバスケットボールを日本で紹介・指導した記録は見つかっていない。 1924年には、早稲田大学、立教大学、東京商科大学が全日本学生籠球連合を結成。全国各地で対抗戦が行われていった。そして、1930年に日本バスケットボール協会(JABBA)が設立され、普及と発展及び競技レベルの向上に努めている。 2005年には日本初のプロリーグbjリーグが発足したが、日本のバスケ全体の発展・強化が遅く、アジアの各大会で苦戦を強いられている。日本代表は、女子が2004年のアテネオリンピックに3度目の出場を果たしたが、男子は1976年のモントリオールオリンピックを最後に出場は途切れている。 2014年11月27日、日本バスケットボール協会(JBA)はFIBA(国際バスケットボール連盟)より勧告を受けていた『国内男子トップリーグの統合』、『ガバナンス能力に欠けるJBAの改革』『日本代表の長期的な強化策』の問題が解決されず、FIBAから資格停止処分を受けた。 2015年6月19日、FIBA(国際バスケットボール連盟)が、スイスで常務理事会を開き、2014年11月27日に日本協会に科した、無期限の国際試合出場停止処分の解除を決めた。 2016年9月、NBLとbjリーグが統合した新リーグ「ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)」が開幕。 現代の日本では多くの学校や企業で部活動やサークルとしての活動があり、それぞれ全国規模の大会が毎年行われている。多くの学校や公園には簡易的なバスケットゴールが設置されているが、試合ができる環境が整っている場所は多くない。 また、ほとんどのスポーツ用品店でバスケット用品を扱っており、国民の認知度はかなり高いスポーツとなっている。 しかしながらオリンピックを始めとする世界大会や、世界一のレベルと言われるNBAではまだ日本の認知度は低くなっている。 天然皮革、合成皮革、ゴムなどで作られたボールが使われる。公式ボールとしては検定球が使われる。一般(男子)用及び中学生用(男子)には7号球(周囲75 - 78cm、重量600 - 650g)が、一般(女子)及び中学生用(女子)には、6号球(周囲72 - 74cm、重量500 - 540g)が、小学生用には、5号球(周囲69 - 71cm、重量470 - 500g)が使われる。なお、ボールの下端が1.8mの高さから落とした際、上端が1.2 - 1.4mの範囲ではずむ様に空気圧が調整される。 また、2004年のFIBA(国際バスケットボール連盟)の規格改定により従来の茶色の8枚パネルから茶色とクリーム色2色の合計12枚パネルのボールが認められ、選手や観客にとってボールの軌道や回転など視認性が高まった。海外では、スポルディングやアディダス、ナイキ、ウィルソンなどが、日本では、モルテン、ミカサ、タチカラなどが製造販売している。 NBAでは、協会公認で、コミッショナーの認定、使用するホームチーム名などが刻印されたスポルディング社製天然皮革ボールを使用している。2006-2007年シーズンに、合成皮革で二面張りのユニークなボールに一旦は変更したが、選手間での評価が悪く元に戻している。 縦 28m、横15mのコートが使われ、幅5cmの白線で区画が設定される。長辺をサイドライン、短辺をエンドラインと呼ぶ。エンドラインとサイドラインで区画された区域がインバウンズ(コート内)となり、サイドラインとエンドライン上とその外側がアウト・オブ・バウンズ(コート外)となる。コート内には中央でコートを2分するセンターラインや、センターサークル、フリースローレーン、フリースローサークル、3ポイントライン、ノーチャージセミサークルなど様々なラインがマーキングされている。攻撃するバスケットがあるコートの半分をフロントコート、もう一方のバスケットのあるコートの半分をバックコートと呼ぶ。FIBAとNBAではコートサイズや区画などが異なっているが、FIBAでは2010年に変更があり、フリースローレーン(ペイントエリア)が台形から長方形になり、ノーチャージセミサークルが追加され、3ポイントラインも拡張され、NBAの仕様に近づいている。 バスケットに於ける境界線は、ライン上は、ラインを越えた事と同じであると言う考え方が原則である。例えば、3ポイントラインを踏んでのショットは、3ポイント境界線を越えたと見なしゴールしても2ポイントである。ただし、ボールをフロントコートに進めることについては、ボールとボール保持したプレイヤーの両足とがフロントコートに入った段階で成立する。 また、空中でのプレーに関しては最後に触れたコートの部分が適用されるため、ラインのコート内から跳んだ場合は、着地点がコート外だとしても着地するまではプレーを継続でき、シュートをした場合は跳んだ部分での点数が適用される。 バスケットボールのゴールは、FIBA公式ルールでは、高さ305cmに水平に設置された内径45cmのリング(リム)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な約45cmのネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから120cm内側の上方に、平行に設置された幅180cm高さ105cmの長方形で平らなバックボードに、リングは、15.1cmのフランジを介して取り付けられている。 NBAでは、高さ305cm(10ft)に水平に設置された内径45.72cm(18in)のNBA認定リング(ダンクショットの際に安全なように可動式となっている)とそれに取り付けられた白い紐で編まれた下方へボールが通過可能な38〜45cm(15〜18in)のネットで構成される。コート面に垂直、エンドラインから122cm(4ft)内側の上方に、平行に設置された幅183cm(6ft)高さ 107cm(3.5ft)の長方形で平らなバックボードに、リングは、15.24cm(6in)のフランジを介して取り付けられている。 FIBAでは、フロントコートにあるバスケットは対戦相手のバスケットと呼ぶが、NBAではフロントコートにあるバスケットは自チームのバスケットで、バックコートにあるのが相手のバスケットと定義している。いずれの場合もフロントコートにあるバスケットにボールを入れると得点となる点は同じである。NBAでは自分たちのバスケットにショットを入れることから、ゴールをマネーと表現することがあり、バンクショットのバンクを銀行に掛けて表現することもある。 ミニバスケット(小学生)では、高さが260cmであるなど、競技をする人の年齢や設備環境により、各種寸法は異なる。 ユニフォーム(チーム・ジャージ) ユニフォームはシャツとパンツを言う。シャツはノースリーブやショートスリーブ、ランニングなどを主に着用する。シャツとパンツはチームメンバー全員が同じデザインの色、形のものを着用し、前と後ろは同じ色でなければならない。パンツは必ずしもシャツと同色でなくても良い。一方のチームは 濃い色、他方は淡い色(白が望ましい)のものを着用する。対戦表の先に記載されたチーム、またはホームチームが淡色のユニフォーム、後に記載されたチームまたはビジター(アウェイ)チームが濃色を着用する。両チームの話し合いで入れ替えてもよい。ユニフォームには番号を胸と背中に付ける。この番号は、原則4 - 15まで、または大会主催者により2桁までの番号を付ける事が決められている。これは得点があった場合などの審判のジェスチャーは指を1から3本立てて表現するものが多くあり、番号との混同を避けるためである[要出典]。「0」「00」という番号の使用も大会規定により認めることが可能であるが、同一チーム内に「0」と「00」を同時に使用することは認められず、「07」のような番号も認められない。背番号も参照のこと。他の球技と同様、チームのロゴやエンブレム、広告などを大会主催者の許可のもとで付ける事もあるが、番号との距離などが厳格に定められている。形状は時代と共に変化し、特にパンツは過去には陸上競技並の短かさだったものが、現在では膝丈近くにまで伸びゆったりしたものとなっている。ユニフォーム下は、許可された範囲で、アンダーシャツ、スパッツなどの着用も可能である。他には、ヘッドバンド、アームスリーブ、リストバンド、脛当て、サポーターも着用される場合がある。 シューズ、ソックス バスケットボールをプレーするためには、素早くダッシュし、方向転換したり、瞬時に止まったりジャンプしたりと動きが激しいので、滑りにくく、ジャンプや着地時のショックを和らげるクッション性が高いシューズが必要であり、専用に用意されている。合成樹脂技術の進歩に伴い軽量化が進んだが、1960年代頃までは、厚いゴム底の、スポーツシューズとしては重いものであった。また、ソックスも登山用のような厚手のウールソックスを履くこともあった。また、1970年代にNBAの影響でハイソックスが流行したが、現在では、NBAでも一部のプレーヤーや、復刻ジャージでのゲームで着用されるのに留まっている。 NBAの場合、ゲーム時にはウォームアップウェア、チーム・ジャージと呼ばれるユニフォームから、サポーター、ソックス、ヘッドバンドに至るまで、NBA指定メーカーロゴとNBAロゴ、チームロゴのみが許可されており、唯一、選手が自ら選んで身につけられるのはバスケットシューズのみである。従って選手は、それぞれのシューズメーカーと契約している。スタープレーヤーには、プレーヤーモデルのバスケットシューズが提供されると共に、同型の市販品が作られ販売される。 主なルールの改定を以下にまとめた。 創造から 1932年 バックパスルール設定。シューティングファウルに対するフリースローが現在の数に。 1933年 交代しコートから退いたプレイヤーは、その後さらに2度まではプレーに参加できるように。ユニフォームの背番号は算用数字を使用するよう奨励。 1935年 3秒ルールが現在に近い形に。 1938年 フィールド・ゴール成功後、センター・ジャンプで再開する規定がなくなり、エンド・ライン外からのスローインに。 1946年 バックボードをコート内側の現在位置に移動。交替出場回数に制限がなくなる。5ファウルで退場となる。フリースローを放棄し、アウトからのスロー・インを選ぶ権利が与えられた。 1954年 NBAがショットクロック(24秒ルール)導入。 1956年 ショットクロック(30秒ルール)導入し、バックパスルール廃止。 1957年 フリースローを放棄できなくなる。 ローマ・オリンピック後に国際ルールに沿った規則となって以降。 1965年 一般男女と高校男子の試合を20分ハーフにし、使用ボールを7号ボールに。 1973年 バックパスルール、10秒ルールの復活。 1974年 バスケット・カウント・ワンスローが復活。 1979年 2個のフリースローのうち、1個でも入らないときさらにもう1個を与える「スリー・フォー・ツー・ルール」設定。 1985年 3ポイントルールの採用、チームファール罰則が7ファールに スリーフォーツーの廃止。 1991年 フリースローをせずにセンター・ラインのアウトからのスロー・インを選べる「選択の権利」が廃止。背番号が4番からに。 1995年 アリウープがリーガル・プレイに シューティングファウルがシューターが床に着くまでに拡大。インテンショナル・ファウルが「アンスポーツマンライク・ファウル」改名。 1999年 後半の最後と各延長時限最後の2分間にフィールド・ゴール 成功時はゲーム・クロックを停止。 2000年 20分ハーフを10分クオーター制に。 2001年 30秒ルールから24秒ルールへの変更。 2010年 制限区域が台形から長方形に、3ポイントラインが拡大。ノーチャージエリアの設定。ショットクロックの14秒リセット導入。 2012年 オフェンス・リバウンド時もショットクロックが14秒リセットに。 2014年 プレイヤーのテクニカル・ファウルが2回で失格・退場に。テクニカル・ファウルの罰則のフリースローを1本に。 2018年 ボールを保持すると同時についた足を0ステップとした。 レイアップ時のトラベリングが大幅に減った 以下に記すのは主に国際バスケットボール連盟(FIBA) 及び日本バスケットボール協会(JBA)のオフィシャルルールによる。 日本プロバスケットボールリーグと、北米のプロリーグであるNBAはそれぞれ独自のルールを規定している。 また、小学生が行うミニバスケットボールも、独自のルールが規定されている。 5人対5人で試合を行う。3人対3人の3 on 3(スリー・オン・スリー)もある。 10分のピリオドを4回行う。第1第2ピリオドを前半、第3第4ピリオドを後半という。 第4ピリオドが終わったとき両チームの得点が同じだった場合は、1回5分の延長時限を必要な回数だけ行う。 ボールは手で扱わなければならない。ボールを保持したまま3歩以上歩くこと(トラベリング)、故意に足または腿で蹴ったり止めたりすること、拳で叩くことなど、からだの触れ合いおよびスポーツマンらしくない行為以外の規則に対する違反をヴァイオレイションという(詳細はヴァイオレイションの項を参照のこと)。 相手チームのプレイヤーとの不当なからだの接触やスポーツマンらしくない行為をファウルという(詳細はファウルの項を参照のこと)。 相手チームのバスケットにライブのボールを上から通過させるか、バスケットの中にとどまること(シュート、ショット)によりゴールとなり、規定の得点が認められる。2ポイントエリア(攻撃するバスケット側の3ポイント・ライン以内のエリア)からのフィールドゴールは2点、3ポイント・ラインより外側(3ポイントエリア)でのフィールドゴールは3点が認められる。フリースローによるゴールは1点である。 シュート動作中に守備側からファウルを受けるとフリースローが与えられる。そのショットが成功した場合は得点は認められ(バスケットカウント)、さらに1本のフリースローが与えられる。ショットが失敗した場合は、2ポイントエリアからのショットの場合は2個、3ポイントエリアからのショットの場合は3個のフリースローが与えられる。 プレイヤーがコート内でライブのボールをコントロールした場合、そのチームはコントロール開始から24秒以内にショットをしなければならない(24秒ルール)。 ゲームはセンターサークルで両チームのプレイヤーによりジャンプボールで始められる。前半は相手チームのベンチ側にある相手チームのバスケットを攻め、後半は攻めるバスケットを入れ替える。延長時限は後半と同じバスケットを攻撃する。 第2ピリオド(試合時間を参照)からは、オルタネイティング・ポゼション・ルールにより、オフィシャルズテーブルから遠いほうのセンターラインの外側からのスローインで始まる。 第一ピリオドは各チームのキャプテンが出場しなくてはならない。 審判(オフィシャルズ)は2人もしくは3人で行う。これは主催者により選択される。 このほかに、審判を補佐し、得点を記録するなどの仕事を行うテーブルオフィシャルズ(TO)が4名いる。 10分を1ピリオドとし、第1ピリオドから第4ピリオドまでの4つのピリオド、計40分間で行なわれる。試合時間は、残り時間として電光掲示板や得点板に表示される。 以下の状況では、試合時間(ゲームクロック)が一時停止する。 ファウルやヴァイオレイションの判定の瞬間から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで タイムアウトの開始から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 審判が必要と判断した状況から、フリースローやスローインの後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 第4ピリオドと延長ピリオドの終了2分を切った(ゲームクロックが2:00を表示した)後は、全てのフィールドゴール成功時からスローイン後、コート内のプレイヤーがボールに触れるまで 残り時間が0.0秒になるとともに各ピリオドは終了し、サッカーやラグビーにおけるロスタイムの概念はない。 各ピリオド間では、第1と第2及び第3と第4の各ピリオドの間に2分間、第2と第3ピリオド間のハーフタイムに10分間のインターバル(インタヴァル、インターヴァルとも)がそれぞれ与えられる。ただし、これは大会の主催者によって変更されることもしばしばある。以前は20分の前半・後半(ハーフ)、ハーフタイム10分だった。その後NBAのルールと同じく4ピリオド制となった。いわゆる引き分けはなく、同点の場合5分単位での延長ピリオドを決着がつくまで繰り返し実施する。延長ピリオドは第4ピリオドの延長とみなされ、チームファウルは第4ピリオドと合わせて数えられる。 中学生の試合では、8分のピリオドを4回行う。延長は3分となる。 小学生の試合では、5 - 6分のピリオドを4回行い、前半10人の選手を1人5 - 6分出場させ、第1ピリオドから1人の選手が3ピリオド連続で出場できない。延長は3分となる。 身体の触れ合いを伴わない、あるいはスポーツマンらしくない振る舞い以外の規則に関する違反のこと。バイオレーション、ヴァイオレーションとも。相手チームによるスローインからのリスタートとなる。 規則に反する違反のうち、不当なからだの触れあいおよびスポーツマンらしくない行為をファウル、またはファールと呼ぶ。 パーソナル・ファウル、テクニカル・ファウル、アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクオリファイング・ファウルの種類がある。 選手個人に課されるファウルがほとんどであるが、コーチやアシスタント・コーチ、チームに課されるファウルもある(チームに課されるファウルはコーチのファウルとして記録される)。 1人のプレイヤーにすべてのファウルを合わせて5回(NBAでは6つ)のプレイヤー・ファウルが宣せられた場合、審判によりその事実が告げられ直ちに交代しなければならず(ファウルアウト、俗に退場とも)、以後そのゲームには出場できない(以下の選手交代も参照)。サッカーとは異なり、退場しても自チームのベンチに座り、コート上へ交代選手を入れることが可能であり、通常は以降の試合の出場に関するペナルティはない。 ただし、2回のアンスポーツマンライク・ファウルや2回のテクニカル・ファウルで失格・退場となった場合や、ディスクオリファイング・ファウルにより失格・退場となった場合は、自チームの更衣室(ロッカールーム、控室)にいるか、コートのある建物の外に出なければならない。 パーソナル・ファウルに対しては、ファウルを宣せられたチームの反対チームにスローインが与えられる。ファウルは主にディフェンス側のプレイヤーに対して宣せられることが多いが、オフェンス側のプレイヤーがディフェンス側のプレイヤーの行動を妨げた場合には、オフェンス側にファウルが宣せられる。 ショットの動作中のプレイヤーに対するファウル(テクニカル・ファウル以外)は、そのショットが成功した場合、2ポイントないし3ポイントの得点が認められ、追加として1個のフリースローが与えられる。ショットが成功しなかった場合は、そのショットに応じて、2個ないしは3個のフリースローが与えられる。 アンスポーツマンライク・ファウル、ディスクォリファイング・ファウルの場合は、ショット動作中以外の場合でも2本のフリースローが、テクニカル・ファウルの場合はいずれの場合でも1本のフリースローが与えられる。 プレイヤーのファウルは、各ピリオドごとにチームファウルとして記録される。チームに4回のファウルが記録された後は、次のようなチーム・ファウルの罰則が適用される。自チームがボールをコントロールしていない場合にファウルを犯した時は、相手チームに2つのフリースローが与えられ、自チームがボールをコントロールしている場合にファウルを犯した時は、相手チームにスローインが与えられる。 ゲーム開始前の10分間や各ピリオド間にファウルが生じた場合は次に続くピリオド中に起こったものとして処理する。延長時限中のファウルは、第4ピリオドのファウルとして扱い、継続してチーム・ファウルに数えられる。 各チームは、タイムアウトを取ることができる。タイムアウトは1分である。各チームはこの間に作戦を練る、選手を休ませるなどしてゲームの流れを変えている。タイムアウトの請求ができるのはコーチまたはアシスタントコーチである。ただし、請求してすぐに認められるわけではなく、ゲームクロックが止まった場合に認められる。前半2つのピリオドで2回、後半2つのピリオドで3回まで取ることができる。したがって、1チームが1試合で使えるタイムアウトは合計5回である。前半2つのピリオドで使わなかったタイムアウトは後半のピリオドに持ち越せない。オーバータイム(延長戦)突入時は1回のオーバータイム(5分)につき1回取れる。 2010年のルール改訂により、4ピリオド残り2:00以降にボールをコントロールするチームがタイムアウトを取った場合、バックコートからスローインするときはフロントコートのスローインラインのアウトからのスローインとなる。 小学生では第4クォーター、延長戦では両チーム交代できる。 NBAのタイムアウトは1試合につき1分を6回(ただし第4クォーターで使える回数は3回まで)、前半もしくは後半2クォーター(1ハーフ)につき20秒を1回(1試合合計2回)取れる。また、オーバータイム1回(5分)につき1分を3回取れる。タイムアウトの請求はコーチだけでなく、攻撃中のチームの選手も可能である。 ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(Bリーグ)のタイムアウトには、通常のタイムアウトに加えて、第2・第4クォーターの残り5分を切った最初のボールデッド時に行われる90秒のオフィシャルタイムアウトがある。 コート上にいる選手はプレイヤー、ベンチにいる選手は交代要員として区別される。FIBAが管理する大会では各チームでベンチ入りできる選手は最大12人で、プレイヤーが5人、交代要員が最大7人である。国内の大会では主催者が大会要項で規定し、12名または15名が一般的である。 選手交代が認められるのは、ゲームクロックが止められている時である。フリースローの時はそのフリースローの1投目のボールが渡される前か、最後のフリースローが成功した時に認められる。また、交代はどちらのチームにも認められるが、第4ピリオドの終了前2分間は得点したチームにはショット成功時の交代は出来ない。但し、得点されたチームが交代を行った際には、得点したチームも交代することが可能である。 交代要員は何度でもプレイヤーとしてゲームに復帰できる。ただし、ファウルを5つ犯した場合や悪質なファウル(ディスクオリファイング・ファウル)などで失格・退場になった場合は、再びプレイヤーとしてゲームに復帰することはできない。 ポイントガード(PG) ボールを運び、パスをしたり指示を出したりするチームの司令塔、ゲームメーカー。 シューティングガード(SG) 長距離からのシュートやペネトレイションで得点を稼ぐ。また、ポイントガードの補助をしたり、スモールフォワードのように攻めたりする。 スモールフォワード(SF) 柔軟なプレイを求められる万能的ポジション。シュータータイプからインサイド型まで様々なプレースタイルが存在する。 パワーフォワード(PF) リバウンド、スクリーン、ゴール付近からのシュートビッグマン対応のディフェンスを担当する。 センター(C) 高い身長とパワーが必要とされる。リバウンド、スクリーン、ゴール下での得点とディフェンスでチームを引っ張る。 ポジションは上から順に、1番(PG)、2番(SG)、3番(SF)、4番(PF)、5番(C)という呼ばれ方もする。 バスケットボールにおいてポジションはサッカーのゴールキーパーや野球の投手のようなルール上の規定はなく、厳密に定められているものではない。また、各プレイヤーが多くの役割をこなすことが理想である。そのため、ユーティリティ・プレイヤーも多く、ポイントガードとシューティングガードを兼任できる選手を「コンボガード」、ガードとフォワードを兼任できる選手を「ガード・フォワード(GF)」や「スウィングマン」、またフォワードとセンターを兼任できる選手を「センターフォワード(CF)」あるいは「フォワードセンター(FC)」と呼ぶことがある。パワーフォワードとセンターはポストプレーを行うことからポストプレイヤーとも呼ばれる。NBAでは、本来のポジションがフォワードでありながらポイントガードの働きをする選手も少なくない。そのような選手は稀ではあるが「ポイントフォワード」と呼ばれる。ポイントフォワードの選手には、マジック・ジョンソン(特に現役復帰後)、アンソニー・メイソン、レブロン・ジェームズ、ラマー・オドムらがいる 。NBAプレーヤーで、フランス代表でも有るボリス・ディアウは、ガード、フォワード、センター、全てのポジションをカバーできる稀有なプレーヤーである。 ガード2人を合わせてバックコート、フォワード2人とセンターを合わせてフロントコートなどとも呼ぶ。 パス(Pass)とは、ボールを保持したプレーヤーが、ボールを他のプレーヤーに投げ渡すプレー。投げ方や方向などに規則はない。 バスケットボールでは、ボールを手に掴んだ状態で移動する行為が禁止されているため、進行方向の地面にボールを上から掌を使って叩きつけて跳ねさせ、これを連続的に行ってボールとともに選手が移動する。保持したとみなされた場合反則となる。 自チームが得点するためにバスケットの上からボールを通すことあるいはそのための動作、ボールがバスケットへ至るまでの一連の流れのこと。シュートと呼ばれることが多いが、これは通称であり、ルール(日本バスケットボール競技規則)上では全てショットと称される。 敵・味方関係なく、ショットミスしたボールを取ることを、リバウンドと呼ぶ。リバウンドを取るために有利なポジションを取る行動をスクリーンアウトまたはボックスアウトという。 相手の放ったショットをリング、バックボードに到達する前にボールが上昇中に阻止するプレー。ショットされたボールがリングに向けて下降中、もしくはバックボートに当たりリングに向かっている途中に触れるとゴールテンディングまたはバスケット・インターフェアとなる。 相手のパスをインターセプトしたり、ピボット、ドリブルなどでコントロールしているボールを奪い取るプレー。 ボールが無い場所で、相手選手の移動を制限する位置に立つこと。身体の接触があるためタックルの様な動きは反則となり、その場に停止している必要がある。 攻撃の基点、中継点となるポジションを確保し、スクリーンとして機能したり、攻撃を展開するパスを出したり、ペネトレイトあるいはショットに持ち込むプレー。位置により、バックボード近辺をローポスト、フリースローサークル近辺をハイポスト、それらの中間をミドルポストと呼ぶ。足幅を充分に取り、ディフェンダーを背にして、パスカットされない位置へ手を伸ばして立ち、パスを受ける。アイソレーションを得意とするプレーヤーはミドルポストに立ちパスを待つ場合が多い。 デッドとなったボールをライブに戻し、ゲームを再開するために、攻撃権を持ったチームのプレーヤーが、アウト・オブ・バウンズ からインバウンズにパスをすること。 フリースロー(Free Throw:自由投)とは、一方のチームがファウル、あるいは、特定のヴァイオレイションを 犯した場合に、相手チームに認められるペナルティの一つである。フリースローサークル内のフリースローライン手前から、どのプレーヤにも防御される事無く ショットを放つ事が出来る。ペナルティーの種類によって、1投から3投までの間で、連続でスローされ、フリースロー1投がゴールすれば1得点が与えられる。最終投がスローされた後のプレーの再開方法には、数種類の場合が存在する。又、1996年と1997年の両年にはこのフリースローの全国大会が開催された。 フットワークは、プレーヤーの足運びのこと。バスケットボールは前後左右への素早い動きが要求されるので、すべてのプレーに関わる重要な基本動作である。オフェンスでは、歩数制限があり、その後ジャンプすることも必要である事から正確かつ俊敏な足運びが要求される。また、ダッシュからのサドン・ストップやピボットもオフェンスの重要なフットワークである。通常、ランニングショットの場合は、右手では左足踏切。左手では右足踏み切りとなる。ディフェンスでは、マークするプレーヤの動きに素早く反応して振り切られないよう移動する必要があるため、様々な方向への動きが要求される。サイドステップ、バックステップ、クロスステップなど様々な足捌きができなければならない。 基本ステップ サイドステップ:両足を開いた状態から、足を交差することなく横方向へ行うステップ。 バックステップ:前を向いたままで後方へ走るステップ。 クロスステップ:足を前方、あるいは後方で交差させながら、前後方斜めあるいは横に進むステップ。 ボールキャッチ時のステップ 両足着地状態でキャッチ:自由にピボットフットを決めステップすることが許される。その後次のプレーへ。 空中でボールをキャッチした場合。 片足ずつ着地:先に接地した足がピボットフットとなり、後に接地した足は、ピボットを使って自由にステップ可能。 片足でステップ後、ジャンプし次のステップで着地:浮かせた足を接地することは許されない。この状態からのドリブルも許されない。そのままの状態でボールを保持するかあるいは放す、2歩目で踏切りジャンプした後、ボールを放すこと(ショット、パス)以外は許されない。 一歩目片足でジャンプ次に両足同時に着地:これ以上のステップは許されない。そのままの状態でドリブルを開始するか、ジャンプしてボールを放すこと(ショット、パス)は許される。 ピボットは、着地した状態で、ボールキープを行う時に使用するステップである。片足を軸足(ピボット・フット)にしてコートの同じ場所で接地し、もう片足を前後左右にステップして体の軸を動かし、相手を翻弄、動揺させたり、リズムを崩し、自分のパス、ショット、ドリブルなど次のプレーを容易にする。接地場所を移動することは出来ないが、その場所で回転することは許される。 両足接地の状態でボールを得た場合は、任意の足をピボットフットにすることが出来る。 片足ずつ着地してから行う場合、先に着地した足のみ軸足にすることが出来る。 一歩目を片足、2歩目を両足で着地した場合は、ピボットを行うことは出来ず、そのままジャンプしてボールを離すか、両足を着地した状態でドリブルを開始しなければならない。 これらに違反してステップするとトラベリングとなる。 ボールを保持していない選手については、ステップに関する規制はない。 テンポによる分類 方式による分類 方式による分類 ゾーンプレス = ゾーン+プレス ゾーンマンツー = ゾーン+マンツーマン 陣形による分類 数字はディフェンスの数を示し、フロントコートに近い側からバックコートに近い側の順に記載する。 2-2-1以下の4陣形は通常、ゾーンプレスの場合にしか使われない。1-3-1、1-2-2は通常のゾーンディフェンスとゾーンプレスの両方で使われる。 範囲による分類 バスケットボールリーグ一覧 1990年から週刊少年ジャンプでバスケットボールを扱った漫画『スラムダンク』が連載開始、1996年の連載終了後も売れ続けて1億部を超える大ヒットとなり、バスケットボールの競技人口を押し上げ、2005年には、日本バスケットボール協会への登録者数だけで600万を超えるなど、日本バスケットボール界に大きな影響を残している。またその功績から原作者の井上雄彦は、日本バスケットボール協会から特別表彰されている。バスケットボールは漫画編集者の間ではひとつのタブー(ヒットしない)とされていたが、スラムダンクの後には『あひるの空』『黒子のバスケ』『ロウきゅーぶ!』など様々なヒット作も出るようになった。 ^ FIBA公式サイト(英語)We are Basketball. ^ a b NBA公式サイト(英語)NBA.com ^ a b c d “Official Basketball Rules”. FIBA.com (2017年1月25日). 201170-01-26閲覧。 ^ 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.126 1984年 ^ a b 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.2 1982年 ^ a b c d e “JOC - 競技紹介:バスケットボール”. 2014年10月3日閲覧。 ^ a b c d e 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.127 1984年 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.33 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.34-35 2011年 大修館書店 ^ a b c 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.3 1982年 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.37 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.39 2011年 大修館書店 ^ 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.3-4 1982年 ^ a b c d e f g 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』 p.128 1984年 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.9 2011年 大修館書店 ^ a b c 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.10 2011年 大修館書店 ^ a b 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.44 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.11 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.45 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.70 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.71 2011年 大修館書店 ^ a b c d 『現代スポーツコーチ実践講座(5)バスケットボール』 p.4 1982年 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.82 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.83-84 2011年 大修館書店 ^ a b c 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85 2011年 大修館書店 ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.85-86 2011年 大修館書店 ^ WNBA公式サイト(英語) ^ 『現代体育・スポーツ体系(26)バレーボール、バスケットボール、ハンドボール』1984年(p.128)では定説に対する異説として紹介している ^ 水谷豊 『バスケットボール物語』 p.14-18 2011年 大修館書店 ^ 『社会人のための英語百科』(大谷泰照、堀内勝昭監修)84ページに、アフリカ系アメリカ人の若者について「そこら辺のプレイグラウンドの連中でも、全日本の選手をはるかにしのぐレベル」と記述されており、日本とアメリカを比べるとバスケのレベルに極めて大きな差があるという主張が為されている。 ^ “[http://sports.yahoo.co.jp/sports/basket/all/2014/columndtl/201411270002-spnavi JBA、FIBAより資格停止処分受ける 丸尾会長代行「早期の制裁解除が使命」]”. Yahoo.com (2014年11月27日). 2015年5月31日閲覧。 ^ 国際バスケ連盟が日本の処分解除、改革の成果を評価 ^ a b c d ひとめでわかるミニバスケットボール のルール (PDF) (日本ミニバスケットボール連盟) ^ NBA Introduces New Game Ball - NBA.com ^ a b “Official Rules of the National Basketball Association”. NBA.com (2008年9月8日). 2012年3月29日閲覧。 ^ ストライプは規定に沿ったものであれば認められる ^ バスケットボールルールの変遷Ⅰ NPO法人 日本バスケットボール振興会 ^ バスケットボールルールの変遷Ⅱ NPO法人 日本バスケットボール振興会 ^ JBAオフィシャルグッズ ^ bjリーグ・競技ルール ^ Official Rules of the NBA(英語)最新版 ^ 3ポイントか2ポイントかは、シュートを行った位置で決定される。3ポイントエリアからジャンプし、シュート後に2ポイントエリアに着地しても3ポイントシュートとなる。 ^ ジャンプボールシチュエーションでは、オルタネイティング・ポゼション・ルールによるスローインでゲームを再開するので、ジャンプボールは試合開始の1回しか行わない。 ^ NBAやBリーグなどではピリオドではなく、クォーターで表される。(例)第1ピリオド=第1クォーター ^ NBAの場合の試合時間は12分4クォーター、計48分間で行われる。NCAAは前後半各20分ずつ。 ^ 電光掲示板の場合、試合時間は、残り1分までは10:00、9:59、と秒単位で表示され、残り1分以後では59.9、59.8、と10分の1秒単位で表示される。得点板の場合9、8と1分ごとに残り時間を表示し、残り1分以後では1/2と1/4と30秒単位、15秒単位で表示するものが多い。 ^ 試合ではこのルールを活かし、残り時間を有効に活用する。とりわけ接戦における第4ピリオドの終盤では、オフェンスファウルやディフェンスファウル、タイムアウトによる試合時間の停止の利用が、勝負に重要な影響をもたらすことがある。これにより試合のクライマックスが形作られる ^ 残り時間0.0秒後の得点は、審判が判定する。残り時間0.0秒以前にシュートしたプレイヤーの手からボールが離れていると判定されれば、得点となる。ただし、残り時間0.3秒以上の時スローインをした場合は、ボールキャッチ後のシュートは認められるが、0.3秒未満の場合は、直接ダンクシュートまたは直接タップシュートした場合のみ得点が認められる。 ^ ファイティングは、チームベンチ・パーソネル(ベンチメンバー)に対して宣せられる。 著しくスポーツマンシップに欠ける行為に関しては、大会主催者や所属連盟の判断により、以降の試合への出場停止が命じられる場合もある。 ^ DID YOU KNOW about NBA? ゲーム編(NBA公式サイトによるポジションの解説) ^ 佐々木クリス. “[コラム]佐々木クリスが語る『リーグNo.1のバックコートコンビは!?』”. NBA Japan. http://www.nba.co.jp/nba/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0no1%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%81%AF/trwzablnrky51e0qbk72ndl34 2015年1月26日閲覧。  ^ 2000 - 2001シーズンまではNBAではゾーンディフェンスそのものが禁止され、違反した場合にはイリーガルディフェンスというヴァイオレーションをとられていた。現在のNBAでは、オフェンスプレイヤーにマークマンとしてついていないディフェンダーに対して、ゴール下のペイントゾーンに3秒以上留まっていてはいけない、というヴァイオレーションが適用されている。 ^ 公益財団法人 日本バスケットボール協会 登録者数推移 ^ マンガの力(1)スラムダンク奨学金(上)、朝日新聞、2007年11月8日。 ^ スラムダンク作者を特別表彰=バスケット協会、時事通信、2010年9月12日。[リンク切れ] ^ 井上雄彦『スラムダンク』第31巻 後書きより。 バスケットボールの日 - 12月21日、バスケットボールの誕生日とされる", "ソフトテニス(英語: Soft Tennis)は、2対2(計4人)または1対1(計2人)となりプレイヤー同士がゴム製の柔らかいボールをネット越しにラケットで打ち合うテニス(硬式テニス)から発展した球技。2対2(ダブルス)が主流で、主に日本を中心としたアジア圏の一部でプレーされる。軟式庭球、軟式テニスと呼ばれていた。正式名称は、1992年の全面的なルール改定の際にソフトテニスとなった。 ソフトテニスは日本を中心とした東アジア(韓国、台湾、中国大陸、モンゴルなど)で主に競技される。硬式テニスと同サイズのコートを使用し、似た形状の道具を用いるが、ほぼダブルス中心の競技として発展してきたのがラケットスポーツとしては特異な点である。ダブルス中心での発展の過程でポジションの専門性が高くなったが、近年、オールラウンドプレーがおもに海外から流入し、多様化が進んでいる。 ローンテニスがイギリスで発生したのは1874年(明治7年)であり日本への伝播は早くて1878年(明治11年)といわれるが諸説が存在する。表孟宏編による『テニスの源流を求めて』には数々の説が紹介されているが、どれが事実なのかは特定できていない。なかでは明治政府の招きで来日したリーランド博士がアメリカから用具をとりいれて、赴任校である体操伝習所(1879年創設)で教えたという説が一般に広く知られている。がこれとてそれを決定づける確たる証拠はないとされる(前書参照)。ただ遅くとも体操伝習所が廃校になる1886年頃にはゴムボールをつかったテニスが普及しつつあった。これはローンテニスのボールの国産が難しく、また輸入品も高価であったために、比較的安価であったゴムボールを代用した、と伝えられる。ゴムボールも当初は輸入品であったが、1900年に国産化に成功している。 1885年に坪井玄道・田中盛業編集による『戸外遊戯法』という本が出版されているが、これが日本語によるテニスのルールの最初のものとされる。 体操伝習所は廃校になったが、高等師範学校に体育専科がおかれ、『戸外遊戯法』の編者である坪井玄道が教師に赴任、テニスの指導をおこなう一方で、三田土ゴム(のちのアカエム)に委嘱してゴムボールを製造させ、普及に尽力した。 三田土ゴムは1890年(明治23年)に製造を開始。日本国産球が完成したのが1900年。1908年には特許を取得している。 東京高等師範体育専科の卒業生は1887年頃から全国に教員として赴任していくが、ボールの国産化はそれと同時に進行していき、ゴムボールをつかったテニスは全国に普及していくこととなった。 1904年(明治37年)、東京高等師範学校(後の東京教育大 現筑波大)、東京高等商業学校(一橋大)、早稲田、慶応の4校の代表が集まりルールを制定。まだまだ不備な点が多々あったものの、これが日本人が制定したソフトテニスルールの最初のものとされる。これ以前は翻訳ルールをそのまま流用していた。 1970年代『軟式テニスは中、高校ではもっとも人気のあるスポーツである』とされていた。現在は、日本において約60万人の競技人口(登録者)と推定700万人の愛好者がいると日本ソフトテニス連盟は主張している。 しかしながら、一般的にも愛好者の意識のなかでもマイナー感が極めて強いのもまた事実である。原因としては、オリンピック種目ではないこと、日本国内にプロ選手が存在しないこと、学校体育(中学、高校)が中心であると認識されていること、1980年代から急速に大衆化したテニス(硬式テニス、ローンテニス)の影響等が考えられる。 ダブルスとシングルスがある。ダブルスが主流である。 試合に先立ってトスを行う。 サーバーはコートより外側、センターマークとサイドラインの仮想延長線の間から、ネットより向こう側、相手コートの対角線上のサービスエリアでバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールが2回バウンドする前に相手コートに打ち返し、お互いにラリーを続ける。次のようなときに相手に1点が入る。 サーブを二回連続でフォルト(ミス)したとき(ダブルフォルト) サーブされたボールがバウンドする前にレシーバーが触れたとき(ダイレクト、レシーバー側の失点) 相手の打ったボールが自分のコートで連続2回バウンドしたとき(ツーバウンズ) 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、相手のコート外だったとき(アウト) 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、自分のコート内だったとき ラケット以外の部位がボールに触れたとき(ボディータッチ) 打ったボールがアンパイヤーに命中したとき 相手コート内でボールに触れたとき(ネットオーバー) ラケットが手から離れてボールに当たったとき ボールがネットにかかったとき(ネットの裂目や隙間をすり抜けた場合を除き、ネットに触れた後に相手コートにバウンドするのは認められる。) プレー中に体かラケットがネットに触れたとき(ネットタッチ)(プレーヤーが身に着けていたものが地面に落ちる前に触れた場合も含む) プレー中に体かラケットが審判台、アンパイヤーに触れたとき(タッチ) ボールがラケットのフレームに当たったとき(チップ) 得点は、ゼロ、ワン、ツー…と数える。先に4点を取った方が1ゲームを取得する。ただし、ポイントが3-3になるとデュースとなり、その場合にゲームを得るには、相手に2点差をつける必要がある。デュースの後の数え方は、サーブ側がポイントを取るとアドバンテージ・サーバー、レシーブ側がポイントを取るとアドバンテージ・レシーバーとなる。カウントコールはサーバー側が先となる。2-2等両者の得点が同じ場合は、3-3以前までは「○○オール」と言う数え方をする。3-3以降は前記の通り。但し2回目のデュースでは「デュース アゲイン」と言うコールをする。 総ゲーム数の過半数ゲーム(5ゲームマッチなら3ゲーム、7ゲームマッチなら4ゲーム、9ゲームマッチなら5ゲーム)先取すると勝ちとなる。ゲームカウントが2-2(5ゲームマッチの第5ゲーム)3-3(7ゲームマッチの第7ゲーム)あるいは4-4(9ゲームマッチの第9ゲーム)になったときは、7ポイント先取のファイナルゲームを行う。ポイントが6-6の場合はデュースとなり、相手に2点差をつけると、そのマッチの勝者となる。偶数ポイント目の決着後にコートサイドやサーブ(サーバーペア)を交代する。(最初の2ポイントでサイドとサーブを交代し、以降4ポイント毎にサイド、2ポイント毎にサーブを交代) シングルスは1993年より正式に導入された。このとき採用されたルールは現在のそれとはおおきく異なり、コートの左右半面を使用するというもの。発足当初から疑問の声があがっていたが、2003年の世界選手権よりルールが改定。硬式テニスのシングルスと同サイズのコートで競技されることになった。ネットの高さなどはダブルスと同様である。 ダブルスのルールは1993年に大きな変更が見られた。1993年のルール改定では、主に「ポジションの制約」というルールが加えられた。レシーバー以外のプレーヤーはインプレー前にコートに入ってはいけない、とするもの。加えて、2ポイント毎にペア同士でサーバーを交代することとなった。またファイナルゲームでのタイブレークシステムが採用。当然サービスサイドの交代もとりいれられ、永年の不公平がようやく解消された。 2004年にはマイナーチェンジがあり、サービス時のポジションの制約がなくなった。 日本国内で日本ソフトテニス連盟主催の大会(あるいはそれに準ずる大会)に出場するには基本的に日本ソフトテニス連盟公認用具を使用しなければならない。(公認用具はラケット、ボール、ウエア(ユニフォーム)、ストリングス、シューズ) 棒状のグリップの先が輪になっており、そこ(フレーム)にストリングを張り使用する。長さ約70センチ前後、重さは200〜320グラム程度。また、硬式のラケットと違いソフトテニスのラケットはグリップの形が正八角形になっていたり、シャフト(グリップと面の間)が長いという違いがある。 空気の入ったゴム製のボールを使用する。色は原則として白色又は黄色で、直径は6.6センチメートル、重さは30グラム〜31グラム。コート内において、ボールの下端が1.5メートルの高さから落として、70〜80センチメートルバウンドするもの。 ボールの空気圧を調整するためのもの。これを使いバウンドの調整を行う。 ソフトテニスコートの規格について、日本ソフトテニス連盟は次のように定めている。 縦23.77メートル、横10.97メートルの長方形とし、区画するラインの外側を境界とし、中央をネットポストで支えられたネットで二分する。競技規則第5条 コートのラインは原則として白色で、幅は5センチメートル以上、6センチメートル以内。ただしベースラインの幅は5センチメートル以上、10センチメートル以内。競技規則第7条 ネットポストの高さは1.07メートル競技規則第10条。ネットの高さは1.07メートル。これを張ったときの高さはサイドライン上から1.07メートルで、水平に張る。競技規則第12条 コートのサーフェス(表面)は、屋外コートではクレー(土、含アンツーカー)、砂入り人工芝、ハード(全天候型ケミカル)等。屋内コートでは、木板(フローリング)、砂入り人工芝、硬質ラバー、ケミカル等がある。 原則1.07メートルのネットを使用する。硬式テニスのネットとは違い、ストラップは使用しない。 クロス コート対角線のこと。右対角線を正クロス(順クロス)、左対角線を逆クロスという。単にクロスという場合は正クロス(順クロス)を指すことがおおい。 ミドル コートのセンターマークからセンターサービスラインにかけてのコースを指す。 ストレート サイドラインの平行線となるコースを指す。いわゆるダウンザライン。 グリップ ラケットのハンドル部分の呼称だが、単にグリップと言う時、慣例的にその握り方を指すことがほとんど。 ウエスタングリップ 地面と水平に置いたラケットを真上から握って持ち上げた握り方。ソフトテニスの基本的なグリップになる。 イースタングリップ ラケットフェースを地面と直角になるようにセットし、握手するように握る。あるいはラケットフェースに手のひらをあてそのままグリップ位置までずらし握る。ラケットフェースと手のひらの角度が同じになる コンチネンタルグリップ ラケットエッジを刃に見立てた、いわゆる、包丁握り。サービスやスマッシュ、あるいは難球処理等で用いる。 グラウンドストローク ワンバウンドで打つストローク。バックハンドとフォアハンドがある。 トップ打ち(トップストローク或いは単にトップと呼んだりもする) グラウンドストロークにおいて高い打点から打ち込む打法。 ネットプレー 前陣、つまりコート半ばからネット際でのボールの処理。ノーバウンドでのプレーが多くなる。攻撃の要。 ボレー ボールがバウンドする前に直接打つこと。 スマッシュ ボールを上から叩き込むように強く打つこと。語源は「打ち砕く」。 サービス プレーをはじめるにあたっての第一打。一度ミス(フォルト)してももう一度打つ事ができる。(セカンドサービス) ダブルフォルト サーブを一度ミスすることをフォルトという。そして、もう一度サーブを打ってミスすることをダブルフォルトという。ダブルフォルトをすると、失点となり相手の点となる。 フラットサービス 回転(スピン)をかけずに打ち込むサービス。最も速いサービス。 トップスピンサービス ボールに順回転(トップスピン)をあたえて打つサービス。フラットサーブに比して威力は減じるがスピンをあたえることでコントロール性が高くなる。 リバースサービス ボールに左回転をあたえて打つサービス。 スライスサービス ボールに右回転をあたえて打つサービス。打点の高さによりトップスライスサーブ、サイドスライスサービスと区別される場合がある。 カットサービス ボールに鋭角にラケットフェースを当て、切る(カット)ように打たれるサーブ。ファーストサーブとして強烈に打たれるものから、セカンドサーブとして用いられる比較的ゆるいサーブまでさまざまなバリエーションがある。 スピン ボールの回転のこと。 トップスピン 順回転のこと。 アンダースピン。 逆回転のこと。 サイドスピン 横回転のこと。 ベースラインプレー 後陣、つまりベースライン付近でのボールの処理。グラウンドストロークが中心。 ロビング 主にグラウンドストロークにおいて高い軌道をとる打球のこと。ロブともいう。 中ロブ ロビングとシュートの中間の打球。 シュート コートとほぼ平行で、ネットすれすれの高さに飛ぶボールのこと。シュートボールともいう。強く打つため、攻撃的なボール。 ドライブ ソフトテニスではトップスピン(順回転)をかける意味。 レディ(ready) マッチ開始前の練習をやめさせ、プレーヤーを位置につかせるコール プレーボール(play ball) マッチ開始を告げるコール チェンジサイズ 奇数ゲームが終了した時、サイドを交代し、サービスを相手方と交代することを命ずるコール(競技規則第32条) チェンジサービス 偶数ゲームが終了した時、サービスの交代を命ずるコール(競技規則第32条) インターフェア インプレー中において、明らかにゲームの妨害、反則になる行動もしくは発言あったときコールされる。失点並びにイエローカードとなる。 世界ソフトテニス選手権 アジアソフトテニス選手権 アジア競技大会 「東アジア競技大会」 全日本ソフトテニス選手権大会 全日本シングルスソフトテニス選手権 全日本インドアソフトテニス選手権 国民体育大会(国体) 東日本ソフトテニス選手権 西日本ソフトテニス選手権 社会人 全日本実業団ソフトテニス選手権 ソフトテニス日本リーグ 全日本社会人ソフトテニス選手権 全日本シニアソフトテニス選手権 全日本クラブ選手権 大学 全日本学生ソフトテニス選手権(インカレ) 全日本大学ソフトテニス王座決定戦 全日本学生インドア大会 高校 全国高等学校総合体育大会(インターハイ) 全日本高等学校選抜ソフトテニス大会 アゼリアカップ国際大会 ハイスクールジャパンカップ 中学校 都道府県対抗全日本中学生ソフトテニス大会 全国中学校ソフトテニス大会 小学生 全国小学生ソフトテニス大会 東アジア競技大会 亜細亜軟式庭球選手権大会 1955年から1973年までほぼ隔年毎に9回開催された日本、韓国、中華民国(台灣)による3カ国対抗。国際ソフトテニス連盟の設立にあわせて発展的に解消された。 アジア学生選手権 1982年から1997年まで隔年毎に3回開催された中華民国(台灣)韓国、日本。による3カ国対抗による学生大会。プロケネックス社のスポンサードを得て台灣主導で起ち上がった。。 1955年に日本・韓国・台湾の3か国によって「アジア軟式庭球連盟」が設立。同連盟により1956年-1973年に3か国対抗によるアジア選手権を開催。 1970年日米軟式庭球普及連絡協議会発足。これはアメリカンスクールとの連絡機関であり、中学生の日米親善試合を実現。 1972年にはアメリカ合衆国ハワイ州にハワイ軟式庭球連盟が設立。同時に州選手権を開催。ハワイ州公立高校の学校体育正科種目として採用。 ハワイ軟式庭球連盟が設立の前後、台湾(中華民国網球協会)の尽力により香港軟式網球協会が発足。ブラジル、ベネズエラでも軟式庭球協会が設立。 1974年に国際軟式庭球連盟が創立される(創立時の加盟国 日本、韓国、中華民国(台湾)、アメリカ、ベネズエラ、ブラジル、香港)。 1975年、第1回世界選手権が国際軟式庭球連盟主催、日本軟式庭球連盟主管のもと、アメリカ合衆国ハワイ州にて開催された。ハワイ開催となったのはハワイ軟式庭球連盟の設立を記念してという名目があったが、田中角栄の中国訪問による日中国交正常化の影響、それは中華民国(台湾)との断交を意味し、日本国内開催が困難となったためである。 1970年代後半には欧州およびアフリカ大陸(ザイール等)への普及活動が開始された。 1979年、ナショナルチームが渡米しカリフォルニアでデモンストレーションを行った。 欧州への普及活動が21世紀に入って行われている。ヨーロッパソフトテニス連盟も設立され、ハンガリー、チェコ、ポーランド等で定期的にトーナメントが開催されている[要出典]。 現在、4年毎に開催される世界選手権は2015年で15回を数え、2007年9月に韓国・安城で開催された第13回世界選手権には42か国に及ぶ国と地域からの参加があった。 アジア競技大会種目入りを目標として、韓国・台湾以外のアジア諸国への普及活動が1980年代に行われ、1988年には新生アジア選手権が名古屋で開催されている。1990年アジア競技大会(北京)に公開種目として初参加。 1994年からアジア競技大会(ASIAN GAMES)の正式競技。以降、1994年も含めて7大会連続で正式種目として競技されている。 1997年から東アジア競技大会の正式競技。 2009年にはユースのための年齢別国際大会である国際ジュニアソフトテニス大会(INTERNATIONAL JUNIOR SOFT TENNIS TOURNAMENT)がスタート。第1回大会が四日市市で12月に開催された 2011年東南アジアのオリンピックである東南アジア競技大会に正式競技として参加(第26回東南アジア競技大会SEA GAMES)。 2014年11月、第2回世界ジュニア選手権がインドで開催。 ^ 英語表記では1992年以前もsoft-tennis。また中国語圏(中国、台湾等)では現在でも軟式の文字が使われている(軟式網球) ^ 後衛、前衛 ^ シングルスは1990年代半ばになって正式採用された国際大会においては1992年にジャカルタで開催された第二回アジア選手権において個人戦シングルスが行われたのが最初となる。翌1993年の東アジア競技大会(上海)では団体戦にも採用(上海大会には公開種目として参加)。国内では1994年に第一回の全日本シングルス選手権が天皇賜杯・皇后賜杯全日本ソフトテニス選手権(ダブルス)と同時開催された。日本学生連盟ではそれ以前も独自ルールでシングルス選手権を開催してきている。 ^ 『戸外遊戯法』は1883年にイギリスで出版された『アウトドアゲームス』(FWストレンジ)の翻訳といわれている。 ^ ボール製作会社は明治30年頃には2社、明治40年代には7社。 ^ 1978,6.28朝日新聞東京版。文部省(当時)がおこなった調査に基づく記事。 ^ 日本ソフトテニス連盟発行「ソフトテニスコーチ教本』他による ^ ソフトテニスはその普及の過程で東京高師(現筑波大学)の(教員となった)卒業生たちの手によって全国に広く分布普及していった歴史的背景、経緯 がある。 ^ 第二次テニスブーム ^ 歴史的にダブルス中心で発展し、現在もダブルスが主流だが、1992年のアジアソフトテニス選手権においてシングルス(個人戦)が採用、1993年の東アジア競技大会では団体戦においてシングルスを導入し3ダブルス2シングルスの形式で競技され、以後、団体戦にシングルスを組み込むことが慣例となった(2003年世界選手権より2ダブルス1シングルス)。1994年には全日本シングルス選手権が創設、以後、急速に普及が進んでいる。 ^ ラケットあるいはコインを使用する。じゃんけんが併用される場合もある。 ^ コート上でマッチの直前に行われる場合、入場前に行われる場合がある。 ^ トスとは、選択権を得たプレイヤーが第1ゲームのサーブ・レシーブ、又はコートサイドを選び、もう一方のプレイヤーは残った方を選ぶもの。 ^ ベースライン中央にある ^ ダブルスの場合、2ポイント毎にペア内でサーバーを交代する ^ 1-1ワンオール、2-2ツーオール ^ ストリング(ス)---俗に『ガット』ともいわれるが、厳密には『ガット』はナチュラルストリングスを指す。ソフトテニスにおいてナチュラルストリングスといえば鯨筋を指すが、現在はあまり用いられない ^ 日本ソフトテニス連盟の規定では、フレームに使われる材質や重量、または寸法・形状などに関する規定は無いが、両面のプレー特性が同一になるように設計されたもの、打球面は平面のもの、と定められている(競技規則第14条) ^ 現在日本国内では白、黄、青、赤、黒が販売されているが、白、黄以外は日本ソフトテニス連盟公認球ではない。なお公式戦では白色球が使用されることがほとんどである。 ^ 日本における公式戦では日本ソフトテニス連盟公認球が使用される。2015年現在、公認球は3種(三社、以前は数種(数社)あった)のみ。マッチにおけるボールの選択にはトスによる任意選択制、主催者の指定の二通りがある。 ^ 砂入り人工芝の通称として用いられる「オムニコート」は、SRIハイブリッド社の登録商標である。 ^ イースタングリップにはフォアハンドイースタンとバンクハンドイースタンがあるが、ソフトテニスにおいてイースタングリップというとき、ほとんどに場合フォアハンドイースタンを指す ^ 古くはイングリッシュグリップともいわれる。 ^ オーバーヘッドで打球される。 ^ ショルダーカットサーブとほぼ同様の低い打点でのサーブ。セカンドサーブで用いられる。 ^ 日本ソフトテニス連盟発行の教程 ^ 現在、国際大会のトップクラスではこれが主流である。 ^ 国内においてはマッチ開始前の練習は1分以内であることが多い。進行状況によっては省略されることもある。 ^ 1993年上海大会では公開競技、1997年釜山大会、2001年大阪大会、2005年マカオ大会では正式種目、2009年香港大会では正式種目から外れた。2013年天津大会では正式種目として復帰。同大会はその2013年天津大会をもって終了予定、東アジアユースゲームズとして再スタートすることが決まっている。 ^ 天皇賜杯(男子)、皇后賜杯(女子) ^ 旧全日本総合選手権 ^ 最古の室内大会、第一回より大阪で固定開催されている。開催年度のランキング上位ペアが出場(2015年現在で12組。 ^ 少年男子、少年女子、成年男子、成年女子の4カテゴリ毎の団体戦。2014年までは3ダブルスの点取り戦、2015年より2ダブルス、1シングルスの点取り戦。 ^ 一般(フリー)、成年(35歳以上)、シニア(45歳以上)の各種目がある、シニアは5歳刻みで数種目あり。 ^ 企業対抗の団体戦(3ダブルス点取り)。国体のリハーサル大会を兼ねる。 ^ 2ダブルス、1シングルスの点取り戦 ^ 下部リーグとして日本リーグ入れ替え戦、全日本実業団リーグ、各地区リーグがある ^ 一般男子、一般女子、成年男子(35歳以上)、成年女子(35歳以上)の4種目 ^ 全日本社会人より独立。45歳以上5歳区切りの各カテゴリーがある。 ^ 文部大臣杯大学対抗団体戦、三笠宮杯(ダブルス)、全日本学生シングルスの3トーナメントから成る。 ^ 各地区春季リーグ戦の優勝校が出場。近年は台湾、韓国代表大学も出場。 ^ 総理大臣杯 ^ 団体戦(3ダブルス点取り戦と個人戦ダブルス 男女計3種目から成る_ ^ 学校対抗の3ダブルス点取りによる団体戦。毎年度末に名古屋で開催される。 ^ 毎年2月に高松市で開催 ^ 3ダブルス点取り団体戦。韓国、台湾からも参加あり。 ^ 毎年6月に北海道で開催 ^ ダブルス、シングルス ^ 年度末に三重県伊勢市で固定開催 ^ 男子団体、女子団体、男子ダブルス、女子ダブルスの4種目 ^ 世界ソフトテニス選手権にグレードアップ ^ 第一回は台南市(クレー)、第二回はテグ市(クレー)、第三回は東京駒沢体育館で開催。 ^ 男子団体、女子団体、男子ダブルス、女子ダブルスの4種目。団体戦は3ダブルス総当たり9対戦という独特の形式。 ^ 亜細亜軟式庭球選手権大会。日本、韓国、中華民国(台湾)の3か国対抗、男子団体戦、女子団体戦、男子ダブルス、女子ダブルスの4種目。現在の世界選手権の前身となった。 ^ ソフトテニスセミナー主宰の宮本行夫氏の尽力による。 ^ 参考 日本庭球史 第1編軟式庭球概史 第6章 5.海外の軟式庭球 ^ ドイツ、イタリア、フランス、チェコ、ハンガリー、オーストリア、ポーランド等 ^ 第12回世界ソフトテニス選手権大会(2003年・広島)には全大陸よりエントリーがあった[要出典]。 ^ 1988名古屋、1992ジャカルタ、1996バンコク、2000佐賀、2004チェンマイ、2008ムンギョン、2012嘉義(台湾)、2016千葉で開催された。 ^ 1990年北京大会には公開競技として参加 ^ 1993年上海大会には公開競技として参加 ^ 男女それぞれにU21、U18、U15の3つのカテゴリーがあり、それぞれダブルス、シングルスが競技された。 ^ 国際ジュニアソフトテニス大会 主催-アジアソフトテニス連盟 ^ 2年毎の開催予定だったが、第二回大会は世界ジュニア選手権としてグレードアップして2014年にインドで開催された。 ^ タイ、フィリピン、インドネシアではナショナルゲーム(国体)の正式種目として定着 ^ 旧国際ジュニアソフトテニス選手権 テニス(硬式テニス) 日本ソフトテニス連盟 体育 公立学校 日本のスポーツ アジアのスポーツ 公益財団法人 日本ソフトテニス連盟 Soft tennis Homepage 日本学生ソフトテニス連盟", "アイスホッケー(英: ice hockey)は、天然または人工氷のスケートリンク上で、スケート靴を履いて行う団体スポーツ競技である。陸上で行われるホッケーの形式を氷上に持ち込んだものである。2チームが長方形(楕円形)をしたリンクの中で、スティック (Ice hockey stick) (長い柄の先端部分に角度をつけ湾曲させた杖状の用具)を用いて硬質ゴムでできた扁平な円柱状の パックを打ち合い、相手方のゴール (Goal (ice hockey)) に入れることでその得点を競うゲームである。『氷上の格闘技』とも呼ばれている。漢字を当てて氷球(ひょうきゅう)と表記される。 スケートを用いるため、グラウンド上の同種競技と比べ格段に早いスピードが出てゲームをスリリングなものにするが、接触等による危険が高いため全身に防具を装着してプレーを行うことが義務づけられている。 アイスホッケーが盛んな国として、世界ではカナダ、アメリカ合衆国、ロシア、スウェーデン、フィンランド、チェコ、スロバキア(1993年以前、前2国はチェコスロバキア)、ベラルーシ、ラトビア、スイスなどを挙げることができる。冬季オリンピックなどでこの競技を統括する国際アイスホッケー連盟(IIHF)の加盟国(または地域)は2015年現在で74カ国に及ぶ。 アイスホッケーの起源については、さまざまな説がある。 16世紀のオランダの絵画(例えば、Romeyn de Hooghe や Hendrick Avercamp の作品)には凍結した運河の上で、市民がホッケーに似たようなスポーツを行っている光景が描かれている。もっとも、これらの絵画で描かれているスポーツは、ホッケーというよりはむしろゴルフやポロに近いとする説もある。 スコットランド発祥のシンティ(Shinty)、アイルランド発祥のハーリング(Hurling)、ネイティブアメリカンのチペア族のプレイしたバゲタウェイ(Baggataway)などのスポーツが起源であると考える説もある。これらのスポーツについて近代的なアイスホッケーとの主な相違点を挙げると、シニーやハーリングにあってはゴーリーが不在、スケート靴を履かない点があり、バゲタウェイにあっては出場選手の数が多い点などがある[1]。このほかにもホッケーの原型に当たる競技として、イングランドのバンディ(Bandy)やフィールドホッケー(Field Hockey)、カナダのシニー(Shinny)やリケット(ricket、ノバスコシア)、米国のアイス・ポロ(Ice polo)などが挙げられる。 1763年にフランスからカナダ領土を勝ち取ったイギリス人兵士達は、フィールドホッケーの経験と、ノヴァスコシアの原住民が行っていた競技、ラクロスを組み合わせ、凍結した河川、湖、池などでカナダの長い冬の慰みとしたと伝えられる。フィールドホッケーのボールは余りにも飛びすぎて危険だったため、ボールを小さめにして飛ばないように工夫をされたという。またサッカーやフィールドホッケーと同じくゴールの代わりとして氷柱を代用したり、また両チームが均等な人数ならば試合が可能とされていた時代もあった。 近代的なアイスホッケーの起源のみに限定しても、カナダのモントリオールとする説の他、キングストン、ウインザー、ノヴァスコシアなどもその発祥地として名乗りを上げている。 今日行われるような屋内でのアイスホッケーのルーツは19世紀、カナダでフィールドホッケーを氷上で行った遊びにあるとされている(モントリオール市の公報には、1875年3月3日に初の屋内試合が行われたとの記録がある)。 1877年には、マギル大学の学生であった、ジェームス・クライトン、ヘンリー・ジョセフ、リチャード・F・スミス、W.F.ロバートソン、W.L.マリー、フランク・パトリック、レスター・パトリックらが、乱雑であった試合に意味を持たせるためラグビーなどのルールを参考にして7つのルールを整備し、地方紙上で発表した[2]。ルール整備によってゲームが洗練されると、アイスホッケーの人気は高まり1883年にはモントリオールの冬祭り(Winter Carnival)の行事に組み込まれるようになった。 この前後からアイスホッケーはカナダ各地で実施されるようになり、1887年にはオンタリオ州でアイスホッケーのリーグ戦も開催された。さらに1896年にはアメリカでも公式戦が開催され、1897年にはカナダ・モントリオールで現在のルールが制定されるなど、アイスホッケーは北米を代表するウィンタースポーツとしての地位を確立した。 1888年に時のカナダ総督スタンレー卿は、この冬祭りを見物した折にこの競技に感銘を受けて、ベストチームに優勝杯を贈ろうと考えたとする説がある(もっとも、彼の妻や子供達の方がこの競技に熱心であったという説も有力である。)。これが今もNHLの優勝チームに授与されるスタンレー・カップの起源とされる。なお、スタンレー卿の子供が本国のイギリスにアイスホッケーに関する知見を持ち帰って、そこからヨーロッパにこの競技が広がったといわれる。 世界初のプロ選手によるリーグ戦ナショナルホッケーリーグ(NHL)は1917年度からカナダで開始され、以来毎年11月から翌年6月にかけてアメリカ、カナダの各地で氷上の格闘技といわれる激戦の数々を開催してきた。また1997年のシーズン開幕戦は初めての海外興行として日本の東京(代々木第1体育館)で「バンクーバー・カナックス vs マイティーダックス・オブ・アナハイム」の試合が開催された。 オリンピックで初めてアイスホッケー競技が実施されたのは、1920年のアントウェルペン(アントワープ)大会。当時はまだ、冬季オリンピックが実施されておらず、夏季オリンピックで実施された。次の1924年大会から冬季オリンピックが開催されたため、アントワープオリンピックのアイスホッケー競技は、夏季オリンピックで実施された唯一の大会である。 第18回長野冬季オリンピックからプロ選手の出場が認められており、現在でも冬季オリンピックの大会中でもメイン競技のひとつに挙げられている。 試合は、ホッケーリンクと呼ばれる表面に氷を張った専用の競技場で行われる。 リンクには、中央の赤いセンターライン(またはレッドライン)とそれをはさんだ2本の青いブルーライン(またはオフサイドライン)という3本の太い線があり、他にゴールラインという赤の細い線もある。ブルーラインを境界として、敵ゴール側をアタッキングゾーン、味方ゴール側をディフェンディングゾーン、中間をニュートラルゾーンという。 フェイスオフ・スポットは、リンク中央の他に、オフサイドライン手前、アタッキングゾーン、ディフェンディングゾーンでそれぞれ左右に設けられ、全部で9箇所ある。オフサイド、アイシング・ザ・パック、センターラインパスの判定は、この線を基準に行われる。なお、専用リンクの外周はボードと言われるフェンス状の囲いで覆われており、このボードをパックが越えない限りアウトオブバウンズとはならないので、プレーをいたずらに中断させることがなく、またボードの反発を利用したパスを行うことも可能である。 アイスホッケーにおいては、ゴールの裏側においてもプレイ可能であり、他の競技にはない大きな特徴となっている。攻防の要衝となる非常に重要なエリアである。 氷上に一度に出ることができる選手は、各チーム6名(キーパー1人を含む)までと決められている。その際、選手はスケート靴を着用する。また、危険を伴う競技のため、防具は正しく装着されていなければ出場できない(なお、近代的なアイスホッケーのルールが整備された19世紀後半においては、プレーヤーの人数は当初、各チーム9人であった。1884年にモントリオールでフィギュアスケートの選手からの「あまりホッケーの人数が多いとリンクが痛みやすく危険である」との声を受けて7人に減少し、その後6人となった経緯がある)。 1チームは通常、氷上およびベンチ入りの選手を合わせ、2人のゴールキーパーを含めた18名から23名程度のロスター(登録)選手で構成される場合が多い。控え選手 (Substitute) 、コーチ、監督は、リンクサイドのボックスに入る。運動量が多く疲労がたまりやすいので、攻撃陣、守備陣(ゴールキーパーを除く)は、あらかじめセット・ユニット・ラインと呼ばれる組を編成する。競技の特性から長い時間プレーを連続することが難しいため、おおむね1分程度で組を随時交代しながら試合を行う。 審判は基本的にレフェリー2名、ラインズマン2名の4審で行いこの他にリンク外のゴール真後ろにあるボックスにゴールジャッジが1人ずつ配置され6人でされる。レフェリーとラインズマンは黒と白の縦縞のセーターと黒のヘルメットを着用する。レフェリーのみ袖にオレンジの腕章を着用する。基本的にペナルティを取るのはレフェリーの権限である。ベンチの反対側には反則選手を収容するペナルティボックスがあり、ペナルティベンチアテンダントが入口の開閉や反則時間の管理を行う。その中間にはオフィシャルボックスがあり、タイムキーパー・スコアラー・アナウンサーが任に就く。オフィシャルボックスとゴールジャッジボックスは、通常透明なアクリル板などの壁と屋根で密閉されている。これは主に防寒のためである。 選手交代は、いつ、何人でも、何回でもかまわない。その際に審判に知らせる必要はない。 プレー中の選手交代は通常相手チームに攻め込まれている時に行うことはなく、パックを確保しているチームが選手交代を行うか否かを実質的に決めることになる。選手交代のプロセスは、パックを確保したチーム側の選手が自陣ゴールキーパーの後ろに陣取りパックを守っている間に、パックを確保した側から選手交代を始め、その選手交代が始まったことを見て相手側も選手交代を始めるのが普通である。なお、選手交代といえどもプレー継続中であるので、油断していたり選手交代に手間取っていたりすると相手側が攻撃してくる可能性があり、互いに相手の動きを監視しながら素早く選手交代を終わらせることとなる。 時計が止まっていればこの制約はなく、選手交代を審判に知らせることで交代完了まで待ってもらえる。 ただしビジターチームはホームチームよりも先に交代を終えなければならない。 反則を犯した選手やチームには反則の重さに準じて以下のペナルティが適用される。複数の反則が同時に起きた場合、一人の選手に複数のペナルティを課したり両チームにペナルティを課すこともある。レフェリーは、反則を犯した選手を退場させペナルティボックスに収容する。退場時間は以下の通り。 マイナーペナルティ 2分 - 普通はこれが適用されるので最も多く見かける。 ダブルマイナーペナルティ 4分 メジャーペナルティ 5分 - 2回適用されると自動的にミスコンダクト。 ミスコンダクトペナルティ 10分 - 代わりの選手を投入できる。2回適用されると自動的にゲームミスコンダクト。 ゲームミスコンダクトペナルティ 試合終了まで - ベンチからも退場。ただし代わりの選手を投入できる。 マッチペナルティ 試合終了まで - ベンチからも退場。5分間代わりの選手の投入禁止。公式戦の場合関係当局による処分決定まで出場停止。 ミスコンダクトペナルティやゲームミスコンダクトペナルティ、マッチペナルティの場合同時にマイナーペナルティやメジャーペナルティを課せられることが多い。その場合には別の選手が代わりにペナルティボックスに入る。(代行消化) ペナルティボックスに入るのは反則を犯した当人だが、ベンチペナルティと呼ばれるチーム全体に課される反則の場合は、ゴールキーパー以外の誰が入ってもよい。また、ゴールキーパーの反則の場合も別の選手が代わりにペナルティボックスに入る。ただしゲームミスコンダクトペナルティ以上の反則の場合はゴールキーパーは退場する。代えのゴールキーパーがいない場合、任意の選手が防具を着替えて(10分間の着替え時間が与えられる)ゴールキーパーを務める。 マイナーペナルティに限り以下のルールがある。 失点時に1名ずつペナルティボックスから解放される 反則行為があっても審判が警笛を吹く前に相手側が得点した場合はペナルティボックス収容を適用しない またペナルティが複数課せられた場合でもリンク上でプレイできる選手が3人以下になることはない。もし同一チームが3人以上の退場者を出した場合は、最初に起きたペナルティから順番に消化し最初の1名のペナルティが終わった時点で、未消化のペナルティが適用開始となる。そのためペナルティの状況によってはマイナーペナルティでもペナルティベンチに2分以上入っていることになる。 他にゴール近くで、もしくはシュートモーション中の選手に対してGKが反則により攻撃を妨害した場合(守備側の選手がペナルティとなった場合にも)、ペナルティーショット (PS) になることがある。PSは攻撃側は任意の1選手(キャプテンが指名)、守備側はGK(反則退場していても代理のGKがいない場合は出場可)を残して全員がベンチに引き上げる。センターフェイスオフスポットにパックを置き審判のホイッスルにより攻撃側の選手がゴールにパックを運びシュートを行う。打てるのは1回だけでGKがはじいたパックを打ち直すことは不可。またシュートを打たないままゴールラインを割ったときも失敗となる。ゴールを成功した場合は1点が追加される。試合途中の場合成否に関係なくセンターフェイスオフスポットでのフェイスオフとなる。 ペナルティには多くの種類がありそれぞれに対応した審判のジェスチャーがある。ペナルティの種類ごとに適用される退場時間が設定されているが故意であると判断された場合や相手を負傷させた場合は1ランク上(特に悪質性が高いと判定されれば2ランク以上のことも)の退場時間が適用される。 ファイティング 手を使った戦い。 トリッピング 相手の足にスティックのブレードもしくは足を引っ掛ける。 ダイビング トリッピングやフッキングに対するオーバーリアクション(わざと転ぶ)。 エルボーイング 肱をぶつける。チェックの際に当たる体勢によっては適用されやすくなる。 ニーイング 膝をぶつける。 ホールディング 相手の身体、ユニフォームなどをつかんだり(ホールディング・アン・オポーネント)、スティックをつかむ。(ホールディング・ザ・スティック) フッキング スティックのブレードで相手を引掛ける。 スラッシング スティックで相手選手の体を叩いたり、相手のスティックを強く叩いたりする。実際に当てていなくても相手を怯ませる目的でスティックを振り回しても適用される。乱闘の最中に振り回した場合はゲームアウト。 ボーディング チェックなどにより相手選手をフェンスに叩き付ける。フェンスとの間に挟むようにチェックすると適用されやすい。 ハイスティッキング スティックのブレードを肩より高く上げる行為。チェックの際に行うとペナルティになる。相手選手が近くにいないとペナルティにはならないが、高く上げたスティックでパックに触れるとゲームを中断し不利な位置からのフェイスオフとなる。 バットエンディング スティックの端(ブレードのとは反対)をぶつける。正しくスティックを持っている限り発生しない。小児のアイスホッケーではすぐ成長するとの理由から長いスティックを持たせることが多いため発生しやすい。行おうとしただけでもダブルマイナー。実際に行った場合はゲームアウト。 スピアリング スティックのブレードの先で相手プレイヤーを突く。ダブルマイナーペナルティ。 チャージング ジャンプもしくは勢いをつけてチェック。パックを保持していない選手へのチェックはチャージングかインターフェアランスになる。 クロスチェッキング スティックを相手にぶつけるようにチェックする。チェックする際にスティックを相手と反対に向けるようにすれば防げる。 インターフェアランス パックを保持していない選手の動きを妨害する。ゴーリー(ゴールキーパー)を妨害することをゴーリーインターフェアレンスという。 クリッピング 相手の前にスライディングするなどして妨害する。パックを保持している選手に対して行うと適用されやすい。 チェッキングフロムビハインド 背面からのチェック。 フィフティカフスまたはラッフィング 必要以上に強い力で、あるいは非常に荒っぽく相手をチェックする。乱闘の際に相手を殴ったときにも適用される。殴り合いのためグローブを外した場合はミスコンダクト。自発的に殴った場合はマッチペナルティ。最初にそれに加勢した選手にもゲームミスコンダクト。反撃した場合はマイナーペナルティだが乱闘しながらリンク外にでるとミスコンダクト。 ツゥーメニープレイヤーズ 6人より多いプレイヤーがリンク上に出ている反則。メンバー交代中に不測の事態が起って混乱すると起こる反則。唯一ラインズマンも取ることができるペナルティ。 アンスポーツマンライクコンダクト 相手選手や審判、あるいは観客などに対して、暴言を吐いたりスポーツマンらしからぬ言動をしたときに適用される。口汚い言葉を使った場合はミスコンダクト。ヘイトスピーチを行った場合はゲームミスコンダクト。審判に暴力を振るった場合はマッチペナルティ。 ディレードザゲーム 遅延行為。デフェンディングゾーンからベンチ上以外へのアウトオブバウンズなどがあたる。 ヘッドバッティング 頭突きをする行為。マッチペナルティ。 キッキング 相手を蹴る行為。スケート靴には刃がついているため極めて危険。マッチペナルティ。 反則によるペナルティーボックスでどちらか一方の人数が少ない場合、人数の多いチームの攻撃を一般にパワープレーと言い、大きな得点チャンスとなる。特に相手が2人少ない場合をツー・メン・アドバンテージと呼び、最大の得点チャンスとなる。またこの時、人数の少ないほうのチームの状態をペナルティキリング(キルプレイ)と言い、通常は守備に徹することとなる。以前は、ショートハンドと称したが短腕症を連想させる等の理由でそう呼ばれなくなった。 反則により選手が退場し選手の少ないチームにはアイシングが適用されない。このため、ペナルティを受け不利な状況にあるチームは、防禦と時間稼ぎをかねてパックを敵側に大きく打ち出す作戦が頻繁に用いられる。一方相手と同じ人数なら双方ともアイシングは適用され退場選手がいてもリンク上の選手が多い側のチームにはアイシングを適用する。 パワープレイの間に得点することを「パワープレイゴール」と呼び、パワープレイゴールが多いと勝ちに繋がりやすい。またペナルティキリングの状態であっても攻撃することは可能で、相手のミスなどからカウンター攻撃で得点することが稀にある。以前は「ショートハンドゴール」と呼んだが最近では前述の理由から「キルプレイゴール」などと呼ばれる。 ペナルティによる退場の時間が残ったままピリオドが終了した選手は、インターバルの間はベンチに戻れるが、次のピリオド開始時にはペナルティボックスに戻り、出場までの残り時間はそのまま持ち越す。 6人の選手のポジションの構成は、攻撃陣に左右2人のフォワードと守備陣にディフェンス2人、攻撃と守備の両方を行うセンター1名と、重装備に身を固めたゴールキーパー1人という配置が一般的であり、チームが反則を犯すと人数が減り攻撃の可能性が低くなるため、フォワードのポジションを1名ずつ欠いて守備重視にして行く布陣をとる場合が多い。ただし、ゴールキーパーをベンチに下げて、代わりに攻撃用の選手を投入する、エンプティ(6人による攻撃)もルール上認められており、ゲーム終盤に得点で負けているチームが、追撃の可能性を高めるために行うことが多い。 ゴールは常に1点、基本的にスティックを使ってパックをゴールに入れることが必要とされるが、自殺点はこれ以外でも認められることもある。パックを直接ゴールに入れるのでなければ、手を使って空中にあるパックを叩き落とすことや、スケート靴でパックを蹴ることも認められている。 試合は、正式にはピリオドと呼ばれる20分の単位を計3回行う。各ピリオドの間には、休憩時間として15分のインターミッションがある。インターバルの間には、プレーで荒れたリンクの表面を整備するための整氷車両、通称「ザンボニー」が登場することがある。 各ピリオドは、両チームのセンター同士が向き合い、ビジターチーム、ホームチームの順にスティックを 氷面につけた後、審判が落下させるパックをスティックで弾き合うフェイスオフによって開始される。またフェイスオフは、得点、反則などがあった場合は特定のフェイスオフ・スポットで行われるが、稀にフェンスを飛び越えてパックがリンクから出た場合(アウトオブバウンズ)はフェイスオフ・スポット以外で行われる場合もある。さらにゴールキーパーがパックを押さえ込んだり、選手の防具にパックが挟まったりした場合も、フェイスオフを行う。 第3ピリオドが終了して同点の場合は、延長戦に突入する。 第3ピリオド終了時で同点の場合に延長戦に入る。延長戦はオーバータイムやエクストラピリオドとも呼ばれる。第3ピリオドとオーバータイムの間にインターミッションはなく(NHLでは1分、アジアリーグやIIHFルールでの試合では3分間ベンチで休憩)、リンクの整備も行わない。 延長戦は基本的に5分間、先に得点を入れたほうが勝ちとなるサドンデス(いわゆるゴールデンゴール(Vゴール)方式)を採用する。アジアリーグのレギュラーリーグではオーバータイムではゴールキーパーを除き4人対4人(俗に言う 4on4)の状態で行う。5分間を終えて両チームとも無得点の場合、規定により引き分け、再延長、ゲームウィニングショットのいずれかが適用される。 NHLのプレーオフやアジアリーグのプレイオフでは、再延長として15分のインターミッション後に20分の延長ピリオドが行われる。どちらかのチームが得点を入れるまでこれが繰り返される。そのため最初の20分間で決着がつかない場合、第2延長ピリオド、第3延長ピリオドと続くことになる。 延長戦で決着がつかない場合はゲームウイニングショット(GWS)を行い、勝利チームを決める。NHLではシュートアウトとも呼ぶ。GWSはペナルティーショットとほぼ同じ要領で、両チーム3回のチャンスが与えられる。3回のチャンスでゴールが決まった数が多い方に得点が1与えられ勝利となる。そのためGWSが行われた試合はGWSでの点差にかかわらず必ず1点差ゲームになる。ゲームウィニングショットの参加選手、そして順番は各チームの申告で行われる。 3回のチャンスで同じゴール数の場合は1名ずつのサドンデス方式となる。この場合はゴールキーパーを除き、最初の3回に出場した選手は1度だけ再出場できる。 試合中に防具が破壊された(もしくは外れた)場合や負傷者が出た場合は、危険防止のため直ちに試合を停止する。二次的な危険を防ぐため防具の破片などを全て回収するまで再開はしない。 プレー中にスティックが折れた場合は、手元に残ったささくれだった柄の部分をただちに手離さなくてはならない。危険を回避するためであり、従わない場合はペナルティーとなる。なお、その際、新たなスティックをベンチから手渡される形で使用することが可能である。 キャプテンは、ユニフォームの左胸(チームによっては右胸)にCのマークを装着する。また、キャプテン代行(オルタネイト<Alternate>キャプテン)はAのマークを装着する。審判の判定に対するクレームは、原則としてキャプテンのみに与えられた権利とされるが、キャプテンが氷上にいない場合にはキャプテン代行がこの権利を代行して行う。NHLにおいてはローテーション制のキャプテン(かつてのミネソタ・ワイルド)、アルタネートキャプテン3人(現在のモントリオール・カナディアンズやトロント・メープルリーフス)も認められている。 得点、反則などが無効になる場合、審判は野球のセーフのような動作を行う。これはワッシュアウトという。「セーフ」と口に出す場合もある。 相手に体当たりして弾き飛ばすことをチェックという。基本的に、パックを保持している選手に対してのみ行うことが許され(保持している選手が相手を弾き返すのは可)、保持していない選手に行うとペナルティ(後述)になる。肩、上腕および臀部で当たることになっている。肘から下や脚を使うことは認められない。ボードにあまり近い場所で行うとペナルティをとられやすい。 他の競技でホームチームが有利な点は地元の声援など間接的な部分のみであるが、アイスホッケーではセット出しやフェイスオフの構えなど、ルールとしてホームチームが有利になっている。これは他の競技には見られない独特なものである。 ルールには、メジャーなものとしていわゆる国際ルール[3]とNHLルール[4][リンク切れ]の2つが存在しており、細部にさまざまな相違点が認められる。 オフサイド アタッキングゾーンにパックが入り込まないうちに攻撃側選手が入り込む、もしくはそこにいる攻撃側選手がパックに触れた場合オフサイドになる。パックを保持したままラインを踏み越しても(踏むだけならワッシュアウト、後述)オフサイド適用。もしパックがニュートラルゾーンに出た場合攻撃側の選手全員がニュートラルゾーンに出る前に攻撃側選手の手によってパックがアタッキングゾーンに運ばれた場合にも適用される。ライン手前のフェイスオフスポットでフェイスオフを行い試合再開。ラインが固定されているので防ぐのは比較的容易だが守備側が作戦として利用することもできる。パスオフサイドの場合パスの出された地点でのフェイスオフ。 アイシング・ザ・パック アイシングと略されることも多い。センターラインの手前から相手ゴール側に向けてパックを放ちそれが誰の手にも触れずにゴールラインを越えた場合を言う。自陣に攻められている側のチームがパックを取り戻した際、敵陣に向かってパックを放り飛ばして危機を脱する行為を防ぐルールである。 また自陣が攻められ続け、守備側の選手の疲労が大きい場合に、取り戻したパックを故意に敵陣まで放り飛ばしてアイシングを取り、その間に選手を交代させる行為もしばしば見られる。NHLの場合、このような試合の中断をなくすために、アイシングを発生させた側のチームは選手を交代させることが出来ない。 アイシングが発生すると試合は中断し、アイシングを発生させた側のディフェンシングゾーンのフェイスオフスポットまで戻されて試合が再開するため、相手方の攻勢となり失点(相手側では得点)の機会となる。 ペナルティ・キリング(キルプレイ)にあるチームについてはアイシングは適用されず、自陣ゴールに迫ったパックを敵陣深くに打ち出し時間稼ぎができる。 アイシングには「オートマチック」と「ワンタッチ」の2種類が混在しており、例えば国際ルールはオートマチックだがNHLではワンタッチとなる。違いは、クリアされたパックがゴールラインを超えた瞬間無条件でアイシングになるのがオートマチック。これに対してクリアされたパックにクリアしたチームのプレーヤーがタッチした場合はアイシング無効になり、クリアされたチームの選手がタッチをした瞬間アイシングコールされるものがワンタッチとされる。つまりワンタッチの場合はクリアしたパックが相手ゴールラインまで誰も触らずに超えたとしても、そのパックをダンプインとして先に自分のチームが触ればアイシングをクリアでき、そのままプレー続行となる。ワンタッチの場合でも触れたのがゴールキーパーの場合はアイシングにならない。 相手選手がパックに触れることが可能でありながらわざと触れずに避けたと判定されればワッシュアウトとなりアイシングは適用されない。ただしゴールキーパーだけは明らかに間に合う場合でもゴールクリーズから出なければ届かない場合には触れなくてよい。 パックがゴールクリーズに入った場合はアイシングを適用せずプレイ続行(クリーズのラインも含む、ほんの一瞬かすめるのみでもよい)。もっともこれはゴールにパックが入る可能性を意味するので6人攻撃でゴールキーパーがいない時を除けば発生は考えられない(通常であれば間違い無くゴールキーパーが止めて打ち返す)。 ラインパス センターラインパス、ツーラインパスとも呼ばれる。敵ゴール方向へ向けて前述の太いラインを2本以上またいでパスが成立すると適用される。パスの出された場所でフェイスオフを行い試合再開。国際ルールでは適用されておらず、NHL傘下の北米のホッケーリーグでのみ採用されていたが、2005-2006シーズン以降、廃止された。 インクリース 国際ルールではゴールの前にはクリース(またはゴールクリース)と呼ばれる長方形または半円の部分にゴールキーパー以外の選手は入ることができない。攻撃側の選手が入った状態でのゴールは無効になる。守備側が入って攻撃側のショットを防いだ場合はペナルティショット。NHLルールでは、かつては適用されていたこともあるが、判定を巡るトラブルがあって以降、適用されていない。ちなみにインクリーズ適用の有無に関係無く、ゴールキーパーはクリーズに入った攻撃側選手を排除する行為が認められており、よほど悪質な方法でない限り反則を取られない。一方で攻撃側がこれを防いだり反撃したりすることは認められず、行なえばペナルティ適用の対象となる。 アウトオブバウンズ パックがフェンスを飛び越えてリンク外部に飛び出した場合即座に時計を止めて近くのスポットと呼ばれるところから試合が再開される。DFゾーン内でクリアのときに故意にパックを出すと、試合を遅らせたということで、マイナーペナルティー、2分間の退場となる。 アイスホッケーを行うためには、さまざまな用具が必要となる。なおアイスホッケー用のスケート靴・防具類はアイスクロスでも使用される。 スティックはブレード湾曲の向きによって右利き用と左利き用がある。GK用のスティックはブレード部分の高さが高いなど形状がかなり異なっている。 ボールに相当するパックは硬質ゴム製で薄い円柱形をしている。直径7.62cm、高さ2.54cm、重さ156-170g。試合の際にはあらかじめ冷却し、試合中も氷上に置かれるため非常に固くなり、生身に当たると骨折等の危険がある。NHLの試合では2002年3月16日、オハイオ州コロンバスで行われたコロンバス・ブルージャケッツ対カルガリー・フレームス戦において、エスペン・クヌートセンが放ったシュートがアウトオブバウンズになり、パックが観客席に飛び込んで観客の少女を直撃、頭蓋骨骨折で死亡するという事故も起きている。 靴はラフなプレイから足や足首を護るように頑丈にできている。スピードより耐久性や小回りの利きの方が重要なため短く厚い刃が装着される。GK用の靴は脛に装着する防具があるためあまり目に見えないがプレイヤー用とは異なる。他のスケート靴に比べ怪我をしにくいようにできているがその分どうしても重くなる。しかし危険を減らすという性質が最も強く初心者でも悪い癖は比較的つきにくいのでスケートの練習には適している。 アイスホッケー用以外の靴を競技に用いるのは危険なため禁止されている。磨耗したり錆びたりした刃はプレイに不利なうえに危険なので定期的に研ぐ必要がある。錆の防止法は刃を乾燥させることが基本。研ぎ方を間違うと悪い癖のある靴になる。稀に新品などでも悪い研ぎ方をしていることがあるので、靴を変えた時はいきなり試合などに使わず、まず試しに滑走してみてから使うべきである。 かつてのプロリーグなどではヘルメットを着用せずプレーする選手が多く、前歯を欠損した選手の写真なども残っているが、ルールの項にもある通り競技には危険が伴うので必ず防具を装着する必要がある。無論事故や怪我の防止が目的であるため、プレイする上で有利になることを優先して選ぶべきではない。防具にはヘルメット(目を保護するためにバイザーがついているものもある)、肩周りや腰周りのパットなどがある。また、靴も足と足首における防具の役割を担っている。粗悪な防具ではかえって負傷の危険が増す場合もあるので信頼できるものを選ぶことが大切である。 GKは顔面を保護する機能のあるヘルメットを被り、手の甲や足に特殊なパッドを装着し、スティックを持たない方の手にはパックをキャッチするためのグローブをはめる(野球で用いられるファーストミットに似ているが、サイズはこれよりも大きい)。基本的に防具も靴もGK用のほうが頑丈に作られているが、背中を見せることのないGKの性質上、後部はプレイヤー用のほうが強固に作られている。 アイスホッケーは、スポーツ競技の中でも女性の間に最も急速に普及した競技のひとつともといわれている。男子ホッケーに見られるような、体系的なリーグ組織の編成までには至らないものの、最高レベルの1999年に創立されたNWHL  (National Women's Hockey League) やオリンピックチームからレクリエーション目的のチーム等が見られる。 女子と男子の競技における相違点としては、前者ではボディー・チェックが認められていないことがある。これについては、1990年の女子世界選手権以後、各国の参加選手の体格差に配意してこれを禁止する措置が採られたといわれているが、フィジカル・コンタクトというアイスホッケーの醍醐味を失わせるものと批判する意見もある。 ところで、女子選手では Manon Rheaume が NHLのプレシーズン・マッチでタンパベイ・ライトニングのゴールを守ったという記録が残されている(対戦相手はセントルイス・ブルース)。また、2003年にはHayley Wickenheiser が、フィンランドのSuomi-sarjaリーグにおいてKirkkonummi Salamatと契約し、男子選手に混じってリーグに参戦したことがある。 日本では北海道の苫小牧市、釧路市で特にアイスホッケーが盛んであり、日本のアイスホッケー選手の大多数が両市の出身となっている。その他、帯広市、札幌市、八戸市、日光市なども盛んな地域である。 2000年ごろから不況により社会人チームの廃部が相次いでいる。 本大会出場回数は男子8回、女子3回(2018年平昌オリンピックまで)。 ※女子は長野オリンピックから公式競技 日本のアイスホッケーのトップリーグとして日本アイスホッケーリーグが1966年から2004年まで存在していた。 2003 - 2004年シーズンからは日本リーグとは別に韓国のチーム、ハルラ・ウィニアを加えた5チーム(4回総当たり)で「アジアリーグアイスホッケー」を開催した。北米2カ国(アメリカとカナダ)をまたぐNHLを範にとり、アジア各国の強豪チームを集結させた大会を目指しており、2004 - 2005年シーズンからアジアリーグに3チームが新規加盟し規模が拡大されたことにより日本リーグは休止となった。 2009 - 2010年シーズン現在は日本からは王子イーグルス、日本製紙クレインズ、HC日光アイスバックス、東北フリーブレイズが参戦している。 詳しくはアジアリーグアイスホッケーの項目を参照。 2005 - 2006年シーズンより、日本アイスホッケーリーグは北海道と西日本の地方リーグとして復活した。 日本アイスホッケーリーグ北海道(通称:J-ice North)には札幌アイスホッケークラブ(旧札幌ポラリス)、釧路厚生社、タダノアイスホッケークラブ、05-06シーズンのみYONH.COM(ヨンエイチドットコム)06-07シーズンからセトルブレイズの4チームが加盟した。05-06シーズンは1回総当たり、06-07シーズンはホーム&アウェーの2回戦総当りのリーグ戦である。 また、日本アイスホッケーリーグ西日本(通称:J-ice West)には香川アイスフェローズ(旧サーパス穴吹→サーパス香川)、兵庫県選抜、福岡県選抜の3チームが加盟。05-06シーズンは2回戦総当たり、06-07シーズンは主催団体の使途不明金疑惑に伴い縮小され1回戦総当りで、このリーグ戦の優勝チームは日本のトップディヴィジョンであるアジアリーグで2006-07年までダブルフランチャイズながらも関西圏から参加した日光(神戸)アイスバックスと対戦できた。現在は経費などの都合で行われていない。 2015 - 2016年シーズン現在では、全国を6つのディビジョンに分割したリーグ戦と、ディビジョンの優勝チームで争われるJアイス・プレーオフが開催されている。 その他、各都府県における社会人リーグも存在する。 大学におけるアイスホッケーリーグは各都道府県連盟に加盟する大学チームを地域に編成して行われている。 大学日本一を決定する大会は1926年より開始された日本学生氷上競技選手権大会である。 この大会以外では各地域ごとにリーグ戦やトーナメント戦が開催されている。しかし、日本学生氷上競技選手権大会でほぼ毎年関東の大学が優勝していることから関東大学アイスホッケーリーグ戦(1部リーグ)と関東大学アイスホッケー選手権大会(Aグループ)は実質的に大学日本一決定戦となっている。日本学生氷上競技選手権大会・関東大学アイスホッケーリーグ戦(1部リーグ)・関東大学アイスホッケー選手権大会(Aグループ)の3大会で優勝するとスポーツ新聞では「大学三冠」と報道されることが多い。 大学男子アイスホッケーは黎明期から早稲田大学と明治大学が中心として動いており、この二強の牙城は高く、他の大学は崩せない状況が続いた。この早明2強体制に対して、1960年代後半から法政大学が頭角を現し、早明法の3強へ移行、1996年から東洋大学が日本学生氷上競技選手権大会6連覇を達成すると4強体制となっている。現在は早明法洋に加え中央大学の5強が群を抜いている。これを追って第二グループに頭一つリードして日大、以下慶應・日体大・専大・大東大などの大学が続き覇権(日本一)を争っている。2015年度の結果は優勝中央大学 準優勝日本体育大学 第3位明治大学 第4位東洋大学であった。 関西の有力校は、同志社大学・立命大・関西大学・関西学院大学・京産大・龍谷大などがあり、なかでも関西大学は2005年に同志社大学を21年ぶりに破りリーグ制覇し、2006年に大学としては日本初の屋内アイスアリーナを高槻キャンパスに建設するなど、全国の注目を集めている。 長野オリンピックから女子の正式種目として加えられスマイルジャパン(女子日本代表)で注目されている女子(大学女子)のアイスホッケーにおいても、2013年から日本学生女子アイスホッケー大会(インカレ)が開催され、初代優勝校は東京女子体育大学準優勝が日本体育大学であった。16校の地区代表校が参戦し競技人口も増えつつある。 野球やサッカーに比べ年少者の競技人口が少なく、大学で始める者も多い。このため高須克弥は「経験者が少ないスポーツでなら、一番が狙えるのではないか」と考え昭和大学にアイスホッケー部を新設し初代主将に就任した。 各リーグとは別に全日本アイスホッケー選手権が開催されている。この大会はオープン大会でアジアリーグに参戦する4チームの他に大学チームやクラブチーム、高校チームがトーナメント形式で参加し優勝を競う大会である。 日本では全国大会として、以下の大会が行われている。 リーグ戦  女子日本アイスホッケーリーグ (2012年開始) カップ戦  全日本女子アイスホッケー選手権大会 (1982年開始) 予選リーグ後トーナメント  日本学生女子アイスホッケー大会 (2013年開始) この他に、各地方・都道府県大会が行われている。 女子チームとしては道路建設ペリグリン、SEIBUプリンセス ラビッツ、釧路ベアーズ、バックスレディース、GANBAX神戸などが名門として知られている。    大学女子チームとしては、2018年現在 日本体育大学、東京女子体育大学の二強時代である。 行け!!南国アイスホッケー部 (久米田康治、『週刊少年サンデー』1991年 - 1996年)(全23巻だがアイスホッケーを行うのは単行本第4巻程度まで) スピナマラダ! (野田サトル、『週刊ヤングジャンプ』2011年 - 2012年、全6巻) 88 (並木洋美、『月刊少年マガジン』2009年 - 2010年、全4巻) GO AHEAD (樋口大輔、『月刊少年ジャンプ』2005年 - 2006年、全4巻) アイスマン (くじらいいく子、『週刊ヤングサンデー』1996年 - 1997年、全4巻) 鉄腕ブレイク (篠原知宏、『週刊少年マガジン』2008年、全2巻) トリックスター (原作:末田雄一郎、作画:高梨みどり、『週刊プレイボーイ』、1994年頃、全2巻) METAL FINISH (鶴岡伸寿、『週刊少年ジャンプ』1990年 - 1991年、全2巻) 氷の国の王子様 (小野ハルカ、『週刊少年サンデーS』、2012年 - 2013年、全3巻) 氷球姫×常磐木監督の過剰な愛情 (小野ハルカ、『週刊少年サンデー』、2013年‐連載中) ホッケーウルフ (原作:竹山洋、作画:小林辰禎、『週刊少年サンデー』1980年、既刊なし) その他 火の玉ボーイ (石渡治)(単行本第8巻、第9巻で主人公がアイスホッケーに挑戦する描写が一部掲載された。) スクラッチタイム (五十嵐浩一)(単行本第2巻の一部に描写がある。) さわやか万太郎 (本宮ひろ志)(おそらく最初にアイスホッケーを扱った作品、主人公はGK。) 「ママたちが戦争を始めた!」(女子アイスホッケー)1985年 日本テレビ 「プライド」 2004年 フジテレビ 北米ではメジャーなスポーツであるためアイスホッケーを題材とした映画が多く作られている。日本国内でソフトが入手可能な主な作品を紹介する。 「スラップショット」 (Slap Shot (film)) (1977年) 「The Sweater」 (The Hockey Sweater)  「スラップショット2」 (Slap Shot 2: Breaking the Ice)  「栄光のエンブレム」 「飛べないアヒル 原題: THE MIGHTY DUCKS (CHAMPIONS)」 (The Mighty Ducks) (1992年) 「D2 マイティ・ダック 原題: D2:THE MIGHTY DUCKS」 (D2: The Mighty Ducks) (1994年) 「D3 マイティ・ダックス 飛べないアヒル3 原題: D3:THE MIGHTY DUCKS」(1996年) 「ミステリー、アラスカ」 (Mystery, Alaska)  「The Rhino Brothers」 「ミラクル」 (2004年) ※ 1980年 レークプラシッド冬季オリンピック大会、大学生を中心に構成された米国代表チームが、4連覇中のソ連代表チームに挑んだ実話。 「ラフ・ショット」 (2004年) 「スマイル 聖夜の奇跡」(2007年) ※監督 陣内孝則 スラップショット (アバロンヒル) アイスホッケーのチームの監督となり、リーグ優勝を目指すカードゲーム。日本語版も発売された。 氷上の怪人 (ホワイトウィンド) 上記の「スラップショット」が絶版になった後に、改良を加え版元を変えて発売されたもの。 パワープレイ (アミーゴ de:Amigo) 上記の「氷上の怪人」が絶版になった後に、改良を加え版元を変えて発売されたもの。 DS・wii マリオ&ソニック AT バンクーバーオリンピック 2010年に開催されたバンクーバーオリンピックのゲームである。 なお、通常のアイスホッケーとは違い人数が4人となっている「DS版は3人」 また、ドリーム競技版「フィーバーホッケー」がある「不思議なマシンにパックを入れるとアイテムが出たり、得点が変わるなどがある」 SG-1000 チャンピオンアイスホッケー(セガ) ファミリーコンピュータ いけいけ熱血ホッケー部(テクノスジャパン) USA ICE HOCKEY in FC(ジャレコ) スティックハンター(ケイ・アミューズメントリース) アイスホッケー(任天堂)(ファミリーコンピュータ ディスクシステム用ソフト) ゲームボーイ ワールドアイスホッケー(アテナ) コナミックスアイスホッケー(コナミ) メガドライブ プロホッケー(エレクトロニック・アーツ・ビクター) PCエンジン ヒット・ジ・アイス(タイトー) TVスポーツ アイスホッケー(ビクター音楽産業) スーパーファミコン USAアイスホッケー(ジャレコ) スーパースラップショット(アルトロン) スーパーホッケー'94(ヨネザワ) NHL プロホッケー'94(エレクトロニック・アーツ・ビクター) セガサターン NHLパワープレイ'96(ヴァージンインタラクティブエンターテインメント) NHL 97(ヴァージンインタラクティブエンターテインメント) PlayStation アクチュア・アイスホッケー(コナミデジタルエンタテインメント) NHL POWERPLAY'96(ヴァージンインタラクティブエンターテインメント) NHL 97(エレクトロニック・アーツ・ビクター) NHL Blades of Steel 2000(コナミデジタルエンタテインメント) NINTENDO64 ウェイン・グレツキー 3Dホッケー(ゲームバンク) オリンピックホッケー ナガノ98(コナミ) ドリームキャスト NHL 2K2(セガ) PlayStation 2 NHL 2002(エレクトロニック・アーツ) PlayStation 3 NHL 2K9(スパイク) NHL 2K10(スパイク) Xbox360 NHL 2K10(スパイク) アーケードゲーム ホッケーTV(セガ) ブルファイター(セガ、アルファ電子) ファイティングアイスホッケー(データイースト) フェイスオフ(バンダイナムコゲームス)(Wii(バーチャルコンソールアーケード)) その他 NHLシリーズ(エレクトロニック・アーツ) Gretzky NHL(SONY) ^ 氷上の格闘技は本当だった!アイスホッケー衝撃の事実 | SPORTS STORY - NHK ^ 「ザンボニー」とは整氷車販売シェア世界一であるメーカーザンボニー (Zamboni) 社から、製氷車自体を一般名詞化したものである。 ^ サッカーでいうPK戦。 ^ 折れたスティックを交換のためにベンチに渡すことは可能 ^ 一発勝負の試合などではホームアイスアドバンテージを適用しない場合もある。 ^ なお、アイスホッケー靴によるスピード競技も存在するといわれる。 ^ ちなみに高校生以下の試合では、フルフェイス(顔の前面全てに保護をつけること)が義務付けられている。 ^ アイスホッケー 日本製紙クレインズ 今季かぎりで廃部へ - NHK ^ 空手、アイスホッケー、山の診療所。毎日が新たな体験の日々だった。 - 高須克弥記念財団 フォワード (アイスホッケー) ディフェンス (アイスホッケー) ゴールキーパー (アイスホッケー) アイススレッジホッケー スノーホッケー 長靴ホッケー ビアリーグ(草アイスホッケー) アイスホッケー選手一覧 アイスホッケー日本代表 アイスホッケー女子日本代表 パック (アイスホッケー) スティック (アイスホッケー) NHL 国際アイスホッケー連盟公式サイト 日本アイスホッケー連盟 アジアリーグ公式サイト アイスホッケー日本代表チームファンサイト Hockey Arena", "アメリカンフットボール(英語: American football)は、フットボールの一種であり、楕円形のボールを用いて2つのチームで得点を競い合うスポーツ(球技)。略称はアメフトまたはアメフット。米式蹴球あるいは鎧球(がいきゅう)とも。 その名の通り、アメリカで盛んに行われているフットボールであり、アメリカやカナダで単に「フットボール」というときは、アメリカンフットボールのことを指すことが一般的である。北米以外の地域では、サッカーなど他のフットボールと混同を避けるために、略さずアメリカンフットボールと呼ぶことが多い。オーストラリアでは、グリディロン・フットボールとも呼ばれている。 日本では、一般的にアメフトと略されることが多いがアメフットも使われており、同じ報道機関でも統一されていない。過去にはアメラグ(アメリカンラグビーの略)や アメリカン とも呼ばれており、希に使われる。日本語表記では、アメリカンフットボールを直訳した米式蹴球、または、鎧(よろい)を髣髴させる装備をしていることから鎧球(がいきゅう)と表記される。なお、混同されやすいが「ア式蹴球」はアソシエーション・フットボール(サッカー)を指す。 アメリカンフットボールは、ボールを蹴り込んで得点するフットボールに分類され、特に楕円形のボールを使う、タックルにより相手の前進を止めるなど、古いラグビーを源流としているため共通する要素を持つが、互いにルールが何度も変更されているため現代では、基本的な競技特性が異なる競技となっている。 特徴や他のスポーツとの比較は以下に示す。具体的なルールについては、試合とルールの項で詳述する。 2チームがそれぞれ、ボールを確保する攻撃側(オフェンス)と、守備側(ディフェンス)に明確に分かれゲームが進行する。特殊な場合を除き、得点する機会は攻撃側だけにある。 自由交替制を採用しており、一度交替した選手でも再びプレーに参加することができるため、オフェンスとディフェンスで選手を大幅に入れ替えることができる。 ラグビーと同じく基本的に体格の大きな選手が有利であるが、上記の理由でよりポジションに応じたパワー、スピード、スタミナ、捕球力などの役割、適性が明確であり、選手はほぼ自分の役割に特化した専門選手である。 基本的にすべてのプレーがセットプレーであり、両チームが向かい合った静止状態からひとつのプレーが始まり、タックルなどによりボールの前進が止まったときにプレーが終了する。1プレイはだいたい10秒以内で終了し、また仕切り直して次のプレーを開始する。このような短いプレーの積み重ねによりゲームが進行する。 試合全体で時間が決まっており(正規で60分)、カウントダウンする計時方式を採用し、同じフットボールであるサッカーやラグビーのようなロスタイムがない。時間を流す・止めるルールが細かく決まっており、時計と勝負するスポーツとも言われる。プレーせずに時間を流すこともあり、勝ち越しているチーム(を応援する観客)がカウントダウン・コールをする場面がある。 激しいコンタクトが多い。当初はラグビーと同様にジャージでプレーしていたが安全に配慮してヘルメットやプロテクターなどの防具を装備することが義務づけられている。それでも脳震盪やCTE(慢性外傷性脳症)を発症する選手が続出していることから、危険性の認識、また適切な処置を求め、NFLと元選手約4000人が係争中である。 ビデオ判定が導入されており、NFLなどでは判定に不服がある場合、コーチ(監督)が審判団にビデオ判定を求めることができるチャレンジや一部の選手との無線通信が許可されているなど、技術革新に対して柔軟である。ただし、日本ではチャレンジシステムや無線は採用されていない。 アメリカでは不動の一番人気スポーツである。歴史的に人気が高かった野球に取って代わり、アメリカの“国技”、“国民的娯楽”であるという意見が主流を占めるまでに至った。 アメリカの大手世論調査会社ギャラップが2017年12月に調査した結果によると、「最も観戦するのが好きなスポーツ」では1位はアメリカンフットボール(37%)である。2位にバスケットボール(11%)、3位に野球(9%)、4位にサッカー(7%)が続いた。また、アメリカのワシントン・ポストが2017年に発表した人気スポーツの世論調査によると、 「最も観戦するのが好きなスポーツ」では1位はアメリカンフットボール(37%)である。2位にバスケットボール(11%)、3位に野球(10%)、4位にサッカー(8%)が続いた。アメリカ大手世論調査会社ハリス・インタラクティブの2015年12月時点での調査によると、最も好きなスポーツのトップはプロアメリカンフットボール(33%)であり、2位に野球(15%)、3位に大学アメリカンフットボール(10%)が続いた。プロと大学を合計した場合、アメリカンフットボールは43%であり、15%の野球に対して圧倒的な差をつける結果となった。この調査は1985年から開始されており、1985年時点ではプロアメリカンフットボール(24%)と野球(23%)は僅差であったが、それ以降その差は広がる傾向にある。 プロリーグであるNFL(ナショナルフットボールリーグ)は、北米4大プロスポーツリーグの中で最も人気のあるリーグであり、1試合の平均観客動員数が6万7000人を超えている。経済的に世界最大のプロスポーツリーグでもあり、2014年シーズンの収益は120億ドルを記録した。NFL王座決定戦であるスーパーボウルは、アメリカ最大のスポーツイベントであり、全米テレビ番組史上視聴者数トップ10のほとんどを占めている。レギュラーシーズンの視聴率も非常に高く、数多くの試合がワールドシリーズやNBAファイナルの視聴率を上回る。2013年の全米視聴率ランキングにおいても、上位10番組の中でNFLが9つを占めた。また、同年のスポーツ番組の全米視聴者数トップ50の中でNFLの試合が46を占めた。 大学リーグであるカレッジフットボールも非常に人気が高い。ESPNの調査によると、熱狂的なファンの数はメジャーリーグベースボールなどを上回り、NFLに次ぐ2位のスポーツリーグである。特に大学生を中心とした若年層やハーバード大学など多くの名門大学も参加することから、高学歴層の関心が高い。シーズンの観客動員数は約5000万人であり、ミシガン大学のスタジアムが200試合連続で10万人以上の観客動員数を記録するなど、多くの強豪チームが1試合平均8万人以上の観客動員数を誇る。1月に行われるカレッジフットボールの全米王座決定戦も視聴率が非常に高く、ワールドシリーズやNBAファイナルの視聴率を上回る場合がほとんどであり、2013年はNFLを除いて全米で最も視聴者数の多いスポーツコンテンツであった。 一方、アメリカンフットボールの競技人口は2006年の1010万人をピークに900万人(2011年)へと減少に転じており、バスケットボール(2610万人)や野球(1230万人)よりも少ない。ただし、男子高校生や男子大学生のカテゴリでは2010年時点で最も競技人口が多い。 スーパーボウルをはじめとしたNFLの主要ゲームや、国内でも学生・社会人のチャンピオンシップ戦である甲子園ボウルやジャパンXボウル、日本一のチームを決定するライスボウルといったボウルゲームでは地上波やBSで中継がある。またその他のNFL、社会人のXリーグ、関西学生リーグ、高校選手権クリスマスボウルのCS中継、関西ローカルで学生・社会人の地上波TV中継も一部ある。国内試合は伝統的に関西地区での人気が高く、80年代の京都大学ギャングスターズの全国制覇以後は、秋期の関西地区の主要ゲームには万単位の観客が集まっている。 アメリカに初めて英国のフットボールが紹介されたのは、1867年であるとされている。始めたのはプリンストン大学で、サッカールールのゲームであったが、プレーヤーの数は各チーム25人の計50人だった。続いてラトガーズ大学でも、やはりサッカータイプのフットボールを始めたのだが、プリンストン大学とはルールが異なっていた。 アメリカにおける最初のフットボールの大学対抗試合(インターカレッジ・フットボール)は、やはりサッカータイプのゲームで、プリンストン大学とラトガーズ大学の間で、1869年にニュージャージー州のニューブランズウィックで行われた。1チーム25人ずつのプレーヤーによるゲームで、キックかヘディングによりゴール数を競い、先に6点取った方が勝ちというゲームだったことが記録に残されている。しかし、この時点ではまだボールは丸いサッカーボールで、ボールを持って走ったり、投げたりすることは認められていなかった。そして、コロンビア大学、プリンストン大学、ラトガーズ大学、およびエール大学から成るインターカレッジエイト・(サッカー)フットボール・アソシエーションが、ルールを標準化するために1873年に作られた。 一方、ハーバード大学はこのグループに参加することを拒否。他の相手を求めてカナダのモントリオールのマギル大学からの挑戦を受け、1874年5月14日、ラグビールールの試合を行った。そしてその後も2校は、ラグビールールの下で、1874年から1875年にかけてシリーズ戦を行った。ラグビータイプのゲームはまもなく他の学校にも流行り始め、その後十年以内にアメリカンフットボール特有のゲーム形式が発展して行った。そして19世紀後半以降、アメリカンフットボールは、大学のスポーツとして人気を博すことになる。 現在の形式のアメリカンフットボールは、1874年に行われたハーバード大学とマギル大学の試合に由来する。当初は原始フットボールのルールで行われていたが、ボールの所有権の曖昧さなどから、アメリカ独自のフットボール開発の気運が高まった。 1876年、ラグビー選手として活躍していた、のちに「アメリカンフットボールの父」と呼ばれるエール大のウォルター・キャンプ(英語版)の呼びかけによりマサソイト会議(コネチカット州)が開かれ、基礎的なルールが決められた。この時に制定されたルールの内、現存するのは、 フィールドでプレーするのは1チーム11人ずつ。 第4ダウンの攻撃で10ヤード進めなければ攻撃権を失う。 センターからクォーターバックにボールをスナップして攻撃が始まる。 などである。 その後もウォルター・キャンプを中心に、ラグビーでの「スクラム」から「スクリメージ」への革命的な変更(1880年)、ボール所有権の明確化、「ダウン」制の導入(1882年)などのルールの改革が行われ、初期のアメリカンフットボールが形作られた。そして1885年9月3日には最初のプロフェッショナル・フットボールゲームがプレーされた。しかし、1888年にひざ下へのタックルが合法化されたことでフットボールは血みどろの闘争競技と化し、ついには初のゲーム中の死亡者を出すことになる。 20世紀に入ると、このスポーツでの負傷や事故の多さ(死亡事故も含む)が社会的問題となった。時には「殺人ゲーム」と呼ばれるほど粗野で野蛮なゲームであったため、次第に世間からの非難の声が高まっていった。1905年10月、この事態に時のセオドア・ルーズベルト大統領はホワイトハウスにエール大、ハーバード大、プリンストン大の各責任者を招集してフットボールの健全化を要求、この競技をもっと安全でクリーンなものにするか、さもなければ禁止するよう意見した。事実、コロンビア大学は、もっと安全になるまで事態をうかがうということで10年間活動を中止、ノースウェスタン大学は1年間棄権、スタンフォード大学とカリフォルニア大学はラグビーに転向してしまった。さらに悪いことに、その年の暮れにシカゴ・トリビューン紙によってフットボールの試合で18人が死亡し、154人以上が重傷を負っていることが報道され、競技への非難は頂点に達した。議会では廃止論が叫ばれ、コンタクトが少なく安全なサッカーに転向すべきだという意見が噴出した。1906年1月21日、関係者たちはさっそくルールを改正すべく集まりを持った。ウォルター・キャンプを中心としたこのルール委員会は、フォワード・パスを認め、ニュートラル・ゾーンを設け、これまで3rdダウンで5ヤードを10ヤードに変更、試合時間も70分から60分に減らした。その後、1912年までの間にさらにルールは変わっていった。フィールド・ゴールによる得点は4点から3点に、タッチダウンは5点から6点に変更、フライング・タックルや不正な手や腕及び体の使用の禁止、スクリメイジライン上に7人の選手が位置することの義務付けなどが行われ、これらの改革によって集団で襲いかかるような野蛮な行為は影をひそめ、現在のルールの基本が出来上がった。安全面に配慮したルール改定に加え、負傷軽減のための防具の整備も行われた。 1913年、アメリカ陸軍士官学校対ノートルダム大学戦において、ノートルダム大学のガズ・ドライズ(英語版)とヌート・ロックニー(英語版)がパスプレーを繰り出し、ランプレーと効果的に織り交ぜ、それまでほとんどランプレーだけだったアメリカンフットボールの戦術において革命を起こした。40ヤードのタッチダウンパスを皮切りに、ノートルダム大学が得た5TDはすべてパスプレーによるもので、35-13で圧勝した。パスプレー(1回のみ前方にパスができるルール)自体は1906年から認可されていたが、それまでは限定的にしか使用されていなかった。 競技が普及するにつれて、各地のアスレチック・クラブでプレーする選手たちは次第に報酬をもらうようになって行った。1892年、エール大出身のウィリアム・ヘッフェルフィンガーが1試合500ドルの報酬で最初のプロ選手となり、1893年には年間契約のプロ選手が誕生している。1895年に16歳のジョン・ブラリアーが1試合10ドルでプロに転向することを初めて公表。1896年にはいくつかの試合をプロだけで構成されたチームで戦うクラブが現れ、1889年、ついにカージナルスがプロチームとして誕生した。 20世紀に入ると選手の報酬は急騰し、1915年には第5回夏季オリンピック(1912年、ストックホルム)で2個の金メダルを獲得したジム・ソープが1試合250ドルの報酬を得た。すると、より良い待遇や契約条件を求めて選手がチームを渡り歩くためにチーム力が安定しないという問題が起こり始め、挙句の果てにはチームが大学生をプロ選手としてプレーさせるような事態が続発した。 1920年、上記のような問題を管理・統括するために、現在のNFLの前身となるAPFAが11チームで結成された。加盟費は各チーム100ドルであった。1922年にAPFAはNFLと改名、参加チームは18チームだった。 日本では、岡部平太が1917年留学先のシカゴ大学でスタッグ教授よりバスケット・水泳・陸上競技と共にアメリカンフットボールを学んだ。実際に岡部は大学や近くのクラブチームでプレーを経験した。 岡部は1920年に帰国すると、陸上競技コーチに就任した第一高等学校 (旧制)の「陸上運動部」や、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の学生らにアメリカンフットボールを教えた。3チームが結成され、練習試合も多く行われたらしいが、翌年に岡部が新設の水戸高等学校 (旧制)に赴任したことや、当時は国内にボール製造メーカーが無く、輸入も難しかったこともあり、本格的な継続活動には至らなかった。また、岡部は1925年出版の自著「世界の運動界」の中で、日本で最初と思われるアメリカンフットボール解説を書いている。 1934年になって、立教大学教授ポール・ラッシュと明治大学教授松本瀧藏ら、日本に留学した日系二世が中心となり、立教大学・明治大学・早稲田大学が参加した「東京学生米式蹴球競技連盟」(のち「東京学生アメリカンフットボール連盟」を経て現在の日本アメリカンフットボール協会)を設立。同年11月29日には明治神宮外苑競技場にて、学生選抜軍と横浜外人チームによる、日本で最初の公式戦が行われた。公式にはこれが日本に紹介された嚆矢とされている。ライスボウルで最優秀選手に贈られる「ポール・ラッシュ杯」はラッシュにちなむ。 第二次世界大戦の影響で一時国内競技が中断された時期もあったが、戦後復活して現在に至る。日本はアメリカンフットボールの強豪国であり、1999年にイタリアで行われた第1回ワールドカップイタリア大会で優勝、2003年の第2回ドイツ大会でも優勝、2007年の第3回日本大会でも準優勝を飾っている。2011年の第4回オーストリア大会では、初参加のカナダにシーソーゲームの接戦で敗れ、三位決定戦でメキシコに辛勝し3位を確保している(優勝:USA)。 これら日本での発展の記録は、立教大学アメリカンフットボール部の選手であった服部慎吾が手記として残しており、日本アメリカンフットボール協会のサイトで公開されている。 1946年の第1回国民体育大会で1度だけ採用されたこともある。 アメリカンフットボールの試合は、NCAAが定める公式規則(NCAAルール)を基本として行われる。団体の年代や地域事情などを考慮して、ローカルルールが採用される場合もある。NFLでは、プロの試合としての面白みを加えるための独自ルール(NFLルール)が採用されている。主な違いは、アメリカンフットボール・NFLとNCAAのルールの差異を参照。 この節では、NCAAルールを基本として、NFLルールについても併記する。なお、反則については反則の項に詳述する。 なお、アメリカンフットボールでは長さの単位としてヤード、フィート、インチが用いられる。1ヤード=91.44cm=3フィート=36インチ、1フィート=30.48cm=12インチ、1インチ=2.54cmである。 フィールドの大きさ アメリカンフットボールのフィールドは、長辺120ヤード(約109.73m)のサイドラインと、短辺160フィート(160フィート、約48.78m)のエンドラインで囲まれた長方形である。 エンドゾーン エンドラインから10ヤード中央寄りに、エンドラインと平行してゴールラインが引かれる。サイドライン、エンドライン、ゴールラインで囲まれた、フィールド両端の領域をエンドゾーンという(図の濃緑部分)。 ゴールポスト 両方のエンドラインの中央には、高さ10フィート (3m) のクロスバーで連結された、幅18.5フィート (5.6 m) のゴールポストが設置される。 フィールド上のライン アメリカンフットボールは、ボールや選手の位置について、目視ながら厳密さをこだわる競技のため、ゴールラインとサイドラインの内側に多くのラインが引かれている。 両サイドラインの内側に1ヤードごとに24インチ(61cm)のエンドラインに平行な白線を引く(ヤードライン)。5ヤードごとにサイドラインを結ぶように白線を引く。 両サイドラインから内側60フィート (18.29m)の位置に、ハッシュマークと呼ばれる24インチ(61cm)の白線を引く。 両サイドラインから内側9ヤード (8.23m) の位置に10ヤードごとに、9ヤードマークと呼ばれる12インチ(30cm)の白線を引く。 可能であれば、9ヤードマークを上端とするように、ゴールまでのヤード距離の数字を表示する。 フィールドの区別 エンドラインとサイドラインに囲まれた内側の領域をインバウンズと呼び、外側の領域をアウト・オブ・バウンズと呼ぶ。ライン上はアウト・オブ・バウンズである。 フィールドは、中央のヤードライン50ヤードライン(しばしばハーフウェーラインと呼ばれるが、50ヤードラインと呼ぶのが正しい)で二つの陣地(エンド)に区切られ、それぞれ自陣と敵陣(または○○チーム陣)に区別される。フィールド上のボールの位置は、「陣地+その陣のゴールまでの距離」(○○陣△ヤード)と表される。 両サイドラインの外側に、両25ヤードラインの間に、2つの選手の待機場所(チームエリア)が設置される。 両チームが分かれて、試合を通じて1つずつチームエリアを使用する。 試合時間(ゲームクロック)は、60分であり、カウントダウン形式で計時する。15分ずつの節に分ける。各節をクォーター (quarter、4分の1)と呼び、Qと表記することがあり、4つの節それぞれを1Q、2Q、3Q、4Qと表記することがある。また、「1Qと2Q」で前半、「3Qと4Q」後半と呼ぶ。 1Qと2Qの間、3Qと4Qとの間はクォータータイムと呼ばれる1分から数分程度の休憩が、前半と後半の間は15分程度の休憩(ハーフタイム)がある。加えてプレーの結果によってしばしば計時が止まることもあるため、ゲームクロックは60分であるが、実際の時間は2時間半から3時間程度になる。 日本の場合、選手の体力保全や会場運営のスケジュール上の都合を考慮して、大学生のリーグ戦では、1クォーター12分で、試合全体では48分で実施する。高校生の場合は1クォーター10分で行われる。社会人(Xリーグ)では2016年ごろからジャパンXボウルを含めて、1クォーター12分で実施している。甲子園ボウルや、ライスボウルといったボウルゲームでは1クォーター15分の計時で行なわれる。 4Q終了時点で、得点を多く挙げたチームが勝利チームとする。4Q終了時に同点の場合、原則、引き分けとする。勝敗を決める必要がある場合には、延長戦を行う。 NFLでは、15分間のオーバータイム(延長戦)を行い、先攻チームがタッチダウンをすれば、即勝利となり、フィールドゴールによる得点ならば後攻チームに攻撃権が与えられる、この時、後攻側がフィールドゴールを決めればもう一度先攻の攻撃、タッチダウンを決めれば逆転勝利となる。プレーオフなど、必ず勝敗を決める必要がある場合には、さらに延長戦を行うことが定められている。 NCAAルールでは、「タイブレーク」という特殊なルールにより勝利チームを決定する。 1回のプレーの間に参加できる選手数は、各チーム最大11人、計22人である。 ただし、プレーとプレーの間であれば、一度に何人でも交替できる。一度プレーから外れた選手が再びプレーに参加することも可能である。このため、選手の専門化が著しく、オフェンスチーム、ディフェンスチーム、スペシャルチーム(キッキングチーム)の選手に分かれることが多い。場合によっては1人の選手が複数のポジションを兼ねることもある。 NFLにおいては、チームに53人が登録でき、出場可能な選手は、1試合ごとに46人である。 日本のXリーグは、1チーム最大65人の選手を登録できる。日本の大学や高校ではベンチ入り人数に上限は無い。同時にフィールドに出ていなければ、同じ背番号の選手がいてもかまわない。交代起用回数・人数ともに制限はない。 チームエリアには、選手以外にコーチ、トレーニングスタッフ、医師ほかスタッフが最大60人入ることが出来る。 審判 (オフィシャル) の人数は、最低で4人最大で7人で運営する。7人構成の場合、レフリー、アンパイア、ヘッド・ラインズマン、ライン・ジャッジ、バック・ジャッジ、フィールド・ジャッジ および、サイド・ジャッジで対応する。 レフリーが審判団を代表するが、他の審判も判定の権限は平等に持っている。判定で違いなどがあれば、協議した上で決定する。 試合前には、試合開始予定3分前にセレモニーを開催する。セレモニーでは、レフリーとアンパイアが立ち会いのもと、両チームのキャプテンと審判がフィールド中央に集合する。他の選手はチームエリアで待機する。 両チームのキャプテン(1名以上4名以内)がフィールド中央に集合し、審判から試合上の諸注意を受けた後に、コイントスを行う。ボウルゲームや交流戦などでは、両チームの記念品(ペナントなど)の交換が行われることもある。 コイントスは、試合開始時にボールと、陣地の所有権を決める。以下の手順で行う。 通常、コイントスの勝者は、先に攻撃権を得るため、前半のレシーブを選択する。ただし、守備に自信があったり、後半からの巻き返しを想定したりした場合、後半を選択する。 ビジター側のキャプテンが、審判が持つコインの裏表を選択する。 審判がコインが回転しながら落下するように投げる(ボウルゲームなどでは、特別のゲストにコインを投げる役割を与えることもある)。 結果が当たった(コイントスの勝者)チームは、前半もしくは後半のいずれかのハーフを選択する。 コイントスの敗者は、勝者が選択しなかったハーフを選択する。 コイントス勝者が、後半を選択(前半を辞退)した場合、審判はその旨をコールする。 各ハーフを選択したチームは、そのハーフが始まる前に以下のいずれかを選択し、対戦チームは残りの選択をする。通常は、レシーブを選択し、対戦チームは、陣地を指定する。 レシーブまたはキック 陣地 コイントスの手続きが完了すると、各チームのキャプテンが守るべきゴールライン側に並ぶように回転し、審判はどちらのチームが前半のレシーブであるかを試合会場に通告するのが通例である。前半のキックのチームによるフリーキック(キックオフ)により試合が開始する。 アメリカンフットボールでは、プレーをダウンと呼ばれる概念で区切る。 ダウンには、スナップで始まるスクリメージ・ダウン、フリーキックで始まるフリーキック・ダウン、フェアキャッチ・キックで始まるフェアキャッチ・キック・ダウン(NCAAルールではフェアキャッチ・キックはない)に分けられる。 ダウンは、審判がプレーの開始(レディ・フォー・プレイ)を宣告してから終了(ボールデッド)を宣告するまでの単位であり、ダウンが終わったら、仕切り直して次のプレーを開始する。これがアメリカンフットボールを見慣れない人にとって、「アメリカンフットボールは良く止まる」としばしば違和感を覚えるところである。 フリーキックとは、前後半・延長戦の開始時、及び得点後の試合再開のために行われる特殊なプレーである。 キックオフは、フリーキックの1種で、前後半・延長戦開始、またはトライ、フィールドゴールの後のフリーキックを言う。セイフティという得点の後のフリーキックは、キックオフではない。ただし、セイフティというプレー結果自体がまれなため、普段は、キックオフとフリーキックが同じとみても良い。 前後半・延長戦を開始するフリーキックは、コイントスの結果に基づく。 トライ後のフリーキックは、タッチダウンした側が行う。 フィールドゴール後のフリーキックは、フィールドゴールをした側が行う。 セイフティ後のフリーキックは、セイフティを献上したチーム(失点したチーム)が行う。 キックオフでは、キック側のチーム(キッキングチーム)陣35ヤード、セイフティ後のフリーキックではキッキングチーム陣20ヤードで行う。 ボールが蹴られるまで、キック側の選手はボールの後方にいなければならない。 また、キッカーを除いて全員がボールの位置から5ヤードの間にいなければならない(片足が5ヤード以内であればOK)。 レシーブ側の選手はボールの位置から10ヤード以上自陣側にいなければならない。 フリーキックは、通常、ボールを地面(またはキッキングティー)において蹴るプレースキックを行う。 ルール上、地面に落としてはずんだ直後に蹴るドロップキックで行うこともできる。ただし、安定して蹴れないドロップキックを用いることは稀なため、ボールを置いて蹴るプレースキックが一般的である。 セイフティ後のフリーキックの場合は、さらにパントも認められている。ただし、日本では練習量の問題からプレースキックで行うことが多い。NFLではキッキングティーの使用が認められないこともあり、パントを採用する。 風が強い場合などはボールが倒れやすいため、キック側のチームの選手がホルダーとしてボールを支えても構わない。また、審判がキックチームに指示する場合がある。キッキングティーは、プレーの終了後、キック側のチームが回収(NFLでは専門の係員、スタジアムが用意した動物などが回収)する。 ボールを敵陣に向けて蹴ることにより、フリーキックのプレーが開始する。その後、レシーブ側の選手が捕球(レシーブ)し、キック陣に向けボールを持って走る(キックオフ・リターン)。キックチームのタックルで止まったり、サイドラインを割ったりすれば、フリーキックのプレーが終了する。 リターンにより相手のエンドゾーンに到達すれば、タッチダウンが成立する(キックオフ・リターン・タッチダウン、フリーキック・リターン・タッチダウン)。 タッチダウンに至らなかった場合、ボールを確保したチームに攻撃権が与えられ、スクリメージ・ダウンに移行する。 フリーキックのボールは、原則、キックしたチームの相手チーム(レシーブチーム)に確保する権利がある。 ただし、キックした位置から10ヤードを超えたり、レシーブチームの選手が触れたりすると どちらのチームも確保することができ(フリーボール)、確保したチームが攻撃権を得ることができる。 蹴ってから地面につく前、または、1回だけついてバウンドしている間(いわゆるノーバウンドまたはワンバウンドの)ボールは、レシーブチームの選手に優先して確保する権利があり、キックチームが、その邪魔をすると反則である。 キックされたボールが、ゴールラインより手前で、他の選手に触れられることなくアウト・オブ・バウンズとなった場合は、キック側の反則となる。(反則の項で詳述) キック側が攻撃権の確保を狙って、わざと短く蹴るプレーをオンサイドキックと言う。 オンサイドキックを行う場合、キッカーはボールを弾ませるようにサイドライン方向に目掛けて蹴る場合が多い。これは、不規則なバウンドによりレシーブ側が取り難くなることと、キック側がボールに到達する時間を稼ぐねらいがある。 ただし、オンサイドキックの意図はレシーブ側も察知しやすいうえ、ボールがキック側の意図する動きをするとは限らないので、成功率はかなり低い。さらに、オンサイドキックのボールをレシーブ側が確保した場合は、キック側は通常のフリーキックよりも不利な地点から守備を行わなければならないことが多い。これらのことから、オンサイドキックは非常にリスクの高いプレーであるが、キック側が負けていて、残り時間が少ないが、逆転を狙う必要がある場合などに行われる。 スクリメージ・ダウンとは、フリーキック、フェアキャッチ・キック以外のすべてのダウンであり、アメリカンフットボールのほとんどのダウンはスクリメージ・ダウンである。 スクリメージ・ダウンでは、開始前に審判によってボールをサイドラインに平行に置かれ、審判により開始が宣告される。 攻撃側のスナップ(地面に置かれたボールを後方の味方選手に渡すこと)により開始する。 ボールの両端には仮想のライン(スクリメージ・ライン、英語ではLine Of Scrimage)が存在し、この間をニュートラルゾーンと呼ぶ。 スナップ前には、両チームの選手は自陣に近いスクリメージ・ラインより手前に位置しなければならない。 スナップ後、攻撃チームは敵陣方向に進めることを目指し、守備チームはその前進を阻み、逆に後退させたり、ボールを奪ったりすることを目指す。 ボールを持った選手がサイドラインの外に出たり、倒れたりするとプレーが終了する。 攻撃権を得たチームは、当初4回連続のプレーを行う権利(シリーズ)が与えられる。 この4つのダウンを順にファーストダウン、セカンドダウン、サードダウン、フォースダウンという。 攻撃権を得た地点からスナップし、その地点から敵陣方向10ヤード先にシリーズ獲得線が設定される。 4回のダウンの間にシリーズ獲得線に到達するか越えれば(10ヤード以上前進すれば)新たなシリーズが与えられ、再びファーストダウンとなり改めて4回の攻撃権を保持する。これを「ファーストダウンの獲得」あるいは「ファーストダウンの更新」という(日本ではフレッシュと呼ぶことがあるが、和製英語である)。 逆に、シリーズ獲得線に到達できなければ(10ヤード前進できなければ)、攻守交替でありプレー終了地点で相手チームが攻撃権を獲得する。 攻撃側のチームは、攻撃権を維持したままプレーを繰り返し、最終的にはタッチダウンなどによる得点を目指す。 攻撃側には4回のダウンが与えられるが、フォースダウンになった場合には、ファーストダウンの獲得をあきらめてフィールドゴールまたはパントを行うことが多い。 ダウンを継続し攻撃権を得てから得点する、あるいは攻撃権を失うまでの一連をドライブと呼ぶ。 なお、ドライブのことをシリーズと呼ぶこともある。シリーズは、上述の通り、4回連続の攻撃ダウンとしてルールで定義されているが、実況の用語としてはドライブと同様の意味として使用される。 ボールを前進させる方法は、主にランプレーとパスプレーに大別される。それぞれのプレーにおいて、選手は予め決められた動き方(アサイメント)に従って動く。通常、どのチームでも複数のプレーにおけるアサイメントを用意しており、状況に応じて使い分ける。このアサイメントをまとめた戦術書をプレーブックと言う。 通常、スクリメージ・プレーの前には、両チームの選手はそれぞれ集合し、次のプレーの戦術確認を行う。これをハドルと呼ぶ。ハドルでは、コーチからの指示を確認したチームリーダー(攻撃側では主にクォーターバック、守備側ではそれぞれ決められたチームリーダー)が状況を判断し、他の選手にアサイメントを伝達する(プレイコール)。 コーチからの指示には、交代選手を伝令とする・チームエリアからサインを送る、などの方法がある。NFLでは、無線通信によりリーダーに直接伝達する方法がとられる場合がある。 攻撃側の状況は、ダウン数とシリーズ獲得線までの必要な距離(ダウン・アンド・ディスタンス)で表される。テレビ放送やスタジアム内のスコアボードなどでも表示される。 攻撃権を新たに獲得したり、新たなシリーズを獲得したりした場合には「1st Down&10 To Go(ファーストダウン・アンド・テン・トゥ・ゴー)」と表示される。これは「現在ファーストダウンで、シリーズ獲得線までの残り距離は10ヤード」であることを意味する。なお、ここでいう残り距離は実測ではなく目分量であり、インチ単位は切り上げられる。 ただし、この表記は長いので通常同様に、「1st&10」と略記することが多い(ファースト・ダウン・アンド・テン、またはさらに&も省略してファーストダウン・テンと読む)。同様に「2nd&7(セカンド・ダウン・アンド・セブン)」、「3rd&2(サード・ダウン・アンド・トゥー)」と表示された場合は、それぞれ「セカンドダウンで残り7ヤード」「サードダウンで残り2ヤード」という意味である。 直前のプレーで後退してしまったような場合には、「2nd&15」など、10ヤードを超える残り距離が示されることもある。このように10ヤードを超える距離が残っている場合には大まかに「2nd&Long」という表現を用いることがある。 逆に残り距離が1ヤードに満たない場合には、「2nd&Inches」ないしは「2nd&Short」などと表されることもある。 なお、エンドゾーンまでの残り距離が10ヤード(約9.144メートル)に満たなくなった場合には「1st&Goal」などと表されることが多い。「ゴールまで残りXヤード (X yards to goal)」という表示もある。 なお、フィールド上ではチェーンによってダウン・アンド・ディスタンスが表される。チェーンとは、新たなシリーズの開始位置と更新線の位置を示す目印であり、長さ10ヤードの鎖であり、その両端にポール(棒)をつけた器具全体をさすこともである。チェーンは、ビジター側のサイドライン外側のアウト・オブ・バウンズに設置する。先端にダウン数を示す数字の板をつけた棒である、インジケーター(ダウンボックス)とセットで使う。 いずれかのチームが新たなシリーズを獲得したときに、フィールド上のボールの位置からエンドラインと平行な線とサイドラインとの交点に、プレー開始地点のライン上(サイドライン際)にインジケーターを設置する。 インジケーターの地点にチェーンの片方のポールを設置し、他方のポールはチェーンをぴんと張った状態で攻撃方向10ヤード先に設置する。この一端が、次のファーストダウン獲得地点(シリーズ獲得線)の目印となる。 インジケーターとチェーンの位置が確定したら、プレーの邪魔にならないようにやや外側に離れる。(設置した位置がずれないようにチェーンの1ヶ所に目印をつけることが多い) インジケーターは、プレー終了の都度、プレー終了地点(次のプレーの開始地点)のライン上に設置される。新たなシリーズを獲得したときには、インジケーターとチェーンをあらためて設置しなおす。 シリーズ獲得線に到達したかが微妙なときには、審判の判断あるいはチームからの要求により、メジャーメントを行う。メジャーメントとは、チェーンをサイドラインからボールのある地点まで移動し、実測によりシリーズ獲得線に到達したか判定することである。チェーンが10ヤードであり、ポールの内側を少しでも越えれば、到達したと見なされる。 ここまでの説明でも分かるとおり、チェーンの長さ自体は10ヤードと厳密だが、新たにシリーズを獲得したときのボールの置く位置、そこからインジゲーターやチェーンを設置する位置、プレー終了後のボールの置く位置はすべて審判の目測である。 チェーンとインジケーターの保持、移動、操作を行う係員をチェーンクルーと呼ぶ。 ランプレーとは、ボールを受けた選手(ボール・キャリアまたはランナー)が、走って前進を狙うプレーである。比較的短い距離を確実に前進するために行われることが多い。 通常、ランナーになるのはランニングバックである。また、パスプレーを企図したクォーターバックが、適切なパスの受け手が見つからずに、自らボールを持ったままランプレーによる前進を図ることもある(スクランブルと呼ばれる)。 多くの場合、ランナーはプレーによってチームの作戦で決まったコースを走り、ランナー以外の攻撃側の選手は、ランナーの走路を確保するため、守備の選手をブロックしたり、他のプレーを行っているように装ったりする。 ランナーがサイドラインに出たり、倒れたりなどすれば、プレーが終了しデッドと宣告される。デッドとなった時点のボールの位置を次のダウンの開始位置とする(ランナーの位置ではない)。 守備選手に押し返されて下がった場合は、もっとも進んだ地点でデッドとする。逆にランナーが自らの意志で下がったり、バックパスで下がったりした場合は下がった地点でデッドと判断される。 デッドとなる前にボールを落とした場合(ファンブル)、守備選手もボールを確保しても構わない。ファンブルでなくても力ずくで奪っても構わない。守備選手がボールを確保すれば、その時点で攻守交替(ターンオーバー)である。奪った選手は、デッドとなるまで相手方のエンドゾーンに向けて前進(リターン)することができる。デッド後、ボールを確保したチームが攻撃権を得る。リターンした選手がデッドの前に直接敵陣のエンドゾーンに入った場合には、そのままタッチダウンが認められる。これを、特にファンブル・リカバー・リターン・タッチダウンという。 パスプレーとは、前方へのパスを使ったプレーである。アメリカンフットボールで断り無く「パス」と言った場合は、前方へのパス(フォワード・パス)を意味する。フォワード・パスは、1つのスクリメージ・ダウンにつき1回のみ、スクリメージ・ラインの手前から行うことが認められている(パスの受け手はスクリメージ・ラインの前方でも、後方でも構わない)。 パスが前方か後方かは、スクリメージラインを超えたかどうか、投げた側と受けた側の身体の位置は関係なく、ボール自体が前方に進む軌道であったかで決まる。 パスプレーは、投げられたボールを攻撃側の選手がノーバウンドで捕球したときに成立する。ボールの位置がフィールド外であっても、インバウンズに片足(NFLでは両足)が着地すればパス成功となる。 捕球した選手は、ボールを持ったままさらに前進することができる(ラン・アフター・キャッチ)。パスキャッチ後は、ランプレーと同様のルールに切り替わる。 投げられたボールが、誰にも捕球されずに地面に落下した場合は、接地した時点でプレーが終了し(インコンプリート、パス不成功)、同時に計時も止まる。たとえ空中で選手がボールに触れたとしても、捕球されずに接地した場合はパス不成功となる。またパス不成功の時は、攻撃側は全く前進できずに、スナップした元の位置(プレビアス・スポット)から次のダウンとなる。 通常、パスを投げるのはクォーターバック、パスを受けるのはワイドレシーバーである。スナップ後、ワイドレシーバーはプレーによって定められたコースを走る。クォーターバックは、守備の状況を判断して、捕球可能と判断したワイドレシーバーにパスを投げる。 パスが成功するには、適切なスピード・距離・タイミングでパスが投げられることと、ワイドレシーバーの捕球技術が必要である。その他の選手は、クォーターバックがタックルを受けないように、またパスを投げるまでに必要な時間を稼ぐために、数人の攻撃側の選手が、クォーターバックの周りを取り囲むようにして、守備選手の侵入を防ぐ。特に、オフェンスラインの選手は、ルール上、パスを受けることができず、またパスが投げられるまではスクリメージラインを超えることが出来ず、パスプレーではクォーターバックを守ることに専念する。 また、パスされたボールは守備側の選手も捕球でき、守備選手が捕球することをインターセプトと言う。インターセプトが発生した瞬間に攻守交替(ターンオーバー)となり、捕球した選手は、ボールデッドとなるまで相手方のエンドゾーンに向けて前進(リターン)することができる。ボールデッド後、リターンしたチームが攻撃権を得る。リターンした選手がボールデッドの前に直接敵陣のエンドゾーンに入った場合には、そのままタッチダウンが認められる。これを、特にインターセプト・リターン・タッチダウンという。 パスプレーは、ランプレーと比べると確実性は低く、インターセプトの危険性もあるが、長距離の前進が期待できる。 スクリメージ・ダウンでは、キックすることもできる。 フリーキックに対し、パントとフィールドゴールを総称してスクリメージキックと呼ぶ(各項参照)。 パントとは、ボールを持った選手がボールを落とし、地面につく前に蹴るキックである。 スクリメージ・ダウンでパントを行うと、攻撃権を失う代わりに、大きくボールを前進させることができる。 4thダウンになって、シリーズの更新もフィールドゴールのプレーを行うも距離が遠い場合は、相手の攻撃をできるだけ不利な位置(自陣エンドゾーンから離れたところ)から開始させるため、パントを選択することが多い。 パントを行う場合、攻撃側(キッキング・チーム、またはパント・カバー・チーム)、守備側(レシービング・チーム、パント・リターン・チーム)ともにスペシャルチームと呼ばれるパント専用のユニットがフィールドに出る。 パントを行う攻撃側は、スクリメージライン後方約15ヤードの地点にパントを行うパンターと呼ばれる選手が立ち、その数ヤード前にパンターを守るための選手1〜3名が配置されるほかは全員がスクリメージライン上に1列にセットする。スナップを行うのは通常のセンターではなく、ロングスナッパーと呼ばれる専門の選手である。 一方、守備側もパントに備えた陣形を敷き、パントされたボールを捕球するパント・リターナーを後方に配置する。 パントのダウンは、ロングスナッパーがパンターに対しボールをスナップして開始される。パンターはボールを受け取ると軽く助走しながら前方に向かってパントする。パンター以外の選手はパンターを守るため相手選手の侵入をブロックし、パントの後はリターナーのタックルに向かう(NFLではエンドの2名を除いてはボールが蹴られるまでスクリメージラインを超えることはできない)。 守備側の選手は、スナップと同時にパンターに突進してプレッシャーをかける。一方で、パントを装った奇襲攻撃(フェイク・パント)の可能性もあることに注意する。リターナーはボールを捕球した後はボールを持って前進(リターン)することができ、リターン終了地点でファーストダウンを獲得する。リターンの結果、相手側のエンドゾーンに達すればタッチダウンとなる(パントリターン・タッチダウン)。また、リターンせずにフェアキャッチを選択することもできる。 パントされたボールに守備側が誰も触れなかった場合は、ボールが止まった地点、またはアウト・オブ・バウンズの地点でレシービング・チームが攻撃権を獲得する。 パントされたボールにキッキング・チームが触れた場合は、ボールが止まった地点か、触れた地点を比較して自陣寄りの地点でレシービング・チームが攻撃権を獲得する。 ボールがエンドゾーンに入った場合はタッチバックとよび、レシービング・チームがの20ヤード地点で攻撃権を獲得する。 パンターは単に遠くへ飛ばすだけでなく、高く蹴って滞空時間(ハングタイム)を伸ばすことで味方選手がリターナーに近づく時間を稼ぐ必要がある。また、パントされたボールがエンドゾーンに入った場合はタッチバックとなるため、状況によっては蹴る距離を調節する技術も求められる。 ここまでの内容と一部重複するが、プレーの終了(デッド)となる場合を以下に示す。 得点が成立したとき。 ボールを持った選手が倒れたとき。 厳密には、足の裏および手のひら以外が地面に触れたとき。フィールドゴールのホールダーには適用されない。 なおNFLルールでは、相手チームの選手の接触により倒れた場合(ダウン・バイ・コンタクト)のみボールデッドとして扱い、ボールを持った選手が自ら転倒したような場合は、相手チームの選手と接触せずに再び起き上がれば、プレーは続行する。 ボールを持った選手が他の選手に取り囲まれて密集状態となり、それ以上前進できないと審判が判断したとき。 ボールを持った選手またはボールがサイドラインの外に出たとき(アウト・オブ・バウンズ)。 前方へのパスが失敗したとき。 ボールが誰にも確保されず、静止したとき ここまでの内容と一部重複するが、以下に攻守交替となるケースをまとめて示す。 シリーズ更新に失敗したとき。具体的には、4thダウンが終了し10ヤード前進が達成できなかった。 守備側が攻撃権を獲得したとき。 シリーズ中にファンブル・リカバーやインターセプトが発生し、守備側がボールを確保してプレーが終了した場合。 フィールドゴールを失敗したとき。 パントを行い、レシーブ・チームがボールを確保してプレーが終了したとき。 なお、タッチダウン後のポイントアフタータッチダウンのプレーが終了したとき、またはフィールドゴールにより得点したときは、次のプレーは得点したチームのフリーキックとなるため、事実上、攻守交替となる。 得点は6点。ランナーがボールを持って敵陣エンドゾーンに入る、または、敵陣エンドゾーン内で味方からのパスを捕球する。とにかく敵陣エンドゾーンまでボールを運べば成立する。 さらに、トライの権利が与えられる。 ラグビーと異なり、ボールを接地させる必要はない。ルール上、ゴールラインそのもの及びその上空はエンドゾーンであり、プレイ中に、選手に確保されているボールがエンドゾーンに一瞬でも接触すればタッチダウンが認められることになる。そのため、選手の体のほとんどはエンドゾーンの外にあるが、ボールを持った手だけがエンドゾーンに入ってタッチダウンというシーンも見受けられる。 タッチダウン後、敵陣ゴール前3ヤード(NFLでは2ヤード、キックで得点を狙う場合は15ヤード)の地点から、1回のみの攻撃権が与えられる。ポイント・アフター・タッチダウン、トライ・フォー・ポイントまたはエクストラ・ポイントとも呼ばれることもある。ポイント・アフター・タッチダウンを略して、PAT と表記されることも多い。(ルール上の用語は トライ) フィールドゴールおよびセイフティは1点、タッチダウン(ツーポイント・コンバージョン)なら2点が与えられる。 一般に、ツーポイント・コンバージョンに比べ、キックの方が成功の確率が高いため、通常はキックによる1点を狙うことが多い。ツーポイント・コンバージョンは比較的リスクが高いプレーであるが、リスクをとってももう1点追加したいケースに選択される。試合終盤にリードを許している場合や、得点差を調整したい場合がこれにあたる。 以下の例であれば、ツーポイント・コンバージョンを狙うことが多い。残り時間などを鑑みキックにすることもあるし、その他の場合でもツーポイント・コンバージョンを狙うこともある。 なお、トライ中のプレーで、インターセプトまたは守備側によるファンブルのリカバーが発生し、守備側がリターンして攻撃側のエンドゾーンに到達すると、守備側に2点が与えられる。ただし、次のフリーキックはタッチダウンしたチーム側が行う。 得点は3点。スナップされたボールを地面、あるいは、キッキングティーに置いてキック(プレースキック)し、敵陣のゴールポストの間、かつクロスバーの上方に通す。また、滅多に行われないが、スナップされたボールを地面に弾ませた後に蹴ってポストを通す(ドロップゴール)ことでも得点が認められる(地面に接触させずに蹴るのはパントであり、これによってポストを通しても得点は無効)。 フィールドゴールを狙うプレーにおいては、スクリメージライン上にロングスナッパーと呼ばれる選手、後方約7ヤードにホルダーと呼ばれる選手、さらに後方にキッカーと呼ばれる選手がセットする。その他の攻撃選手は、ロングスナッパーを挟んでスクリメージライン上に一列にセットする。 ロングスナッパーがホルダーに対しボールをスナップすることによりプレーが開始される。ホルダーは受け取ったボールを素早く、蹴りやすいように地面に立てる。スナップと同時に助走を始めたキッカーがタイミングよくこのボールを蹴る。残りの選手はスクリメージライン付近でブロックを行い、ホルダーやキッカーを保護するとともに、キックまでの時間稼ぎを行う。相手チームの選手はキッカーに対しプレッシャーをかけると同時に、蹴られたボールに直接触れることでフィールドゴールを失敗させること(フィールドゴール・ブロック)を狙う。 フィールドゴールに失敗し、そのままボールがデッドになったときは、ゴールラインから20ヤード以上の地点からスナップした(NFLでは蹴った)場合はその地点から、20ヤード未満の場合は20ヤードラインから相手側の攻撃となる。エンドライン手前で捕球できればリターンすることも可能である。 フィールドゴールのNFL最長距離記録は、2013年12月8日にデンバー・ブロンコスのマット・プレーターが記録した64ヤードである。 この記録は、1970年11月8日にトム・デンプシーが記録した63ヤードを43年ぶりに塗り替えた。 NCAAでは、ラッセル・アークスレーベン(テキサス大学、1977年10月1日)、スティーブ・リトル(アーカンソー大学、1977年10月15日)、ジョー・ウィリアムス(ウィチタ州立大学、1978年10月21日) が 67 ヤードを、マーティン・グラマティカ(カンザス州立大学、1998年9月12日) がキッキングティーを使わずに 65 ヤードを成功させている。 なお、記録上のフィールドゴールの距離は、蹴った地点からゴールポストまでの距離で表される。すなわち、ゴールラインからスクリメージラインまでの距離に、スクリメージラインからキック地点までの7ヤードおよびゴールラインからゴールポストまでの10ヤード、合計17ヤードを加算したものとなる。 トリックプレーの一つとして、フィールドゴールを蹴ると見せかけてランやパスプレーに転換する戦術もある(フェイク・フィールドゴール)。この場合、ロングスナッパーからのボールを受け取ったホルダーが、キッカーや別の選手にボールを渡して攻撃権の更新やタッチダウンを狙うことになる。 2点が与えられる。自殺点ともいえる、守備側に得点が入る特殊な得点。 またセイフティ後は、得点を与えた側による自陣20ヤードからのフリーキックで試合再開となる。つまり攻撃側は、相手に得点を与えてしまう上に攻撃権を失う。 セイフティとなる要件は以下の通りである。 ボールが片方のゴールラインの後方でデッドとなり ボールを保持しているのがゴールラインを守る側の選手であるか、ルースボールの状態であり、 ボールがゴールライン後方に移動した原動力がその(ゴールラインを)守る側にある。 上記の1から3の要件について具体的な事例は、以下の場合である。 ボール・キャリアが自ら下がって、エンドゾーンの側方、後方へアウト・オブ・バウンズに出る。 スナップしたボールが、キャッチされず、ゴールライン後方からアウト・オブ・バウンズに出る。 ファンブルしたボールが、誰に押さえられることもなく、ゴールライン後方からアウト・オブ・バウンズに出る。 「原動力」は分かりづらいが、以下の場合、自チーム(攻撃側)の原動力となってゴールライン後方に移動したと判断される。 ボールを持った選手(ボール・キャリア)が自らの意志でエンドゾーンに入った場合 スナップやバックワードパスを受けた選手がゴールラインを超える(インフィールドに入る)ことなくボールデッドになった場合。 自チーム(攻撃側)の選手がファンブルして、誰にも確保されないまま、エンドゾーンに入った場合。 パントやフィールドゴールをブロックされて、跳ね返った勢いでエンドゾーンに入った場合。 以下の場合、「原動力」は相手チームと見なされ、プレー結果は異なる判断がされる。 インバウンズにいるボール・キャリアが相手選手に押し返されて、エンドゾーンに入ってデッド →もっとも前進した位置でデッド。 ゴールライン前方で、インターセプトなどで相手ボールになり、(攻撃に切替わった)相手がファンブルしたボールを確保したりしてその勢いで(自陣の)エンドゾーンに入りデッド。 →確保した位置でデッド。 相手のパスを(自陣の)エンドゾーンでインターセプトして、膝をついた。 →タッチバック。 相手がファンブルしたボールが誰にも確保されないまま、自チームのエンドゾーンまで転がり、自チームの選手がエンドゾーンで押さえた。 →タッチバック。 相手チームのキックオフやパントを(リターンチームの選手が)タッチしたが、取り損なって(確保していないのでファンブルではない)、(リターンチームの)エンドゾーンまで転がり、 キックしたチームが確保して、デッド。 →タッチダウン。リターンチームの選手が触れた時点でフリーボールとなるため。 誰も確保できないままエンドゾーンの外へ出るか、タッチした(リターン)チームが確保して、デッド。 →タッチバック。選手が触れているが、エンドゾーンに入った原動力はキックである。 また、攻撃側の反則によるセイフティの具体例は次の場合がある。 攻撃側が、ボールが自陣エンドゾーンにある状態で、ホールディングなど反則を犯す。 パッサーがエンドゾーンにいて、インテンショナル・グラウンディングの反則を犯す。 これだけをみるとセイフティは、発生したくないところだが、故意に行う「インテンショナル・セイフティ」という戦術もある。 2点を相手チームに献上するが、以下のメリットもあり、天秤にはかって問題なければ「インテンショナル・セイフティ」を選択する。 変に(無理に)プレーしていれば、インターセプトやファンブルをリターンされてTDで7点前後を与えていた可能性があるところ、2点で済む。 パントなどをすれば相手にブロックされる危険はあったが、セイフティの次はフリーキックであり、ブロックされずに安全にキックできる。 プレーすることで数秒でも時間を費やせる。ボールキャリアーが相手選手が近づくまでインバウンズでうろうろすることがある。 エンドゾーンやその手前で蹴っていたところを、自陣20ヤードでフリーキックできる。 試合終了間際に十分な点差で勝ち越しているチームが2点を与えても、ゲームの状況に影響がないとき。 試合終了間際に負け越しているチームが、2点を与えても8点以内の1ポゼッション差でとどまり、次の相手攻撃を止めて次のシリーズで逆転できると判断したとき。 タッチバックとは、ボールが相手チームが原因で自チームのゴールラインを超えて、相手チームがボールを確保していない状況でエンドゾーンまたはエンドライン後方でボールデッドとなることである。 タッチバックが成立すると、次のプレーはゴールラインを守備している側のチームに、自陣20ヤードからのファーストダウンが与えられる。 ただし、フリーキックのプレーでタッチバックとなった場合は、自陣25ヤードからのファーストダウンが与えられる。 タッチバックが成立するケースは、以下のとおり。 パントまたはフリーキックのボールが、レシーブ側のゴールラインを超えてボールデッドとなる。具体的には、捕球した選手がエンドゾーンでタックルを受ける、ニーダウンをする、ゴールライン後方でアウト・オブ・バウンズとなる。パントに限っては、レシーブ側の選手が触れないままエンドゾーン内でボールが静止したり、キック側の選手が触れた場合。 攻撃側がファンブルしたボールが、守備側が触れることなく、守備側のゴールラインを超えて、守備側の選手がリカバーしてボールデッドとなる、またはアウト・オブ・バウンズとなる。 エンドゾーン内でインターセプトしたプレーヤーが、守備側のゴールライン手前でボールデッドとなる。 アメリカンフットボールの計時は、プレーの開始時に始まる。原則として、プレー開始後は、下記に示す場合を除き、計時は止まらない(ランニングタイム)。残り時間が無くなった時点でクォーターは終了するが、プレーが開始しているときは、そのプレーは有効となる。また、ロスタイムの概念はないが、第2または第4クォーター終了時のプレーで、守備側に反則があった場合は、攻撃側はもう1プレーを行う権利がある(超過節)。 前後半・延長戦の開始時は、キックオフのボールを受けたリターナーが走り始めた時から計時が開始される。 下記の場合、計時を停止し、規定のタイミングで計時が再開される。 直後のフリーキックで、リターンを開始した時点で計時を再開するもの。 得点が成立したとき。なお、ポイントアフタータッチダウンのプレー中は、計時は停止したままである。 次のプレーのスナップと同時に計時を再開するもの。 反則が起きたとき。 クォーターが終了したとき。 チーム・タイムアウトを取得したとき。 攻守交替のとき。 ボールを持った選手がサイドラインの外(アウト・オブ・バウンズ)に出たとき。ファンブルしたボールがサイドラインの外に出た場合も同様。 パス不成功のとき。 フリーキックのプレーが終了したとき。 上記の計時の停止条件に該当しない限り、レディー・フォー・プレーと同時に計時を再開するもの。 レフリー・タイムアウトを取得したとき。 なお、キックオフ、フリーキックで、フェアキャッチやタッチバックが成立した際は、時計は動かない。 チーム・タイムアウト(タイムアウト)とは、いずれかのチームにより申告される計時の停止である。両チームは前後半それぞれ3回ずつのタイムアウトの権利を有している。これらのタイムアウトは選手またはコーチが審判に申告し、申告が認められた時点で計時が止まる。タイムアウトの時間は90秒である。 タイムアウトの時間中、選手は水分補給や、コーチと戦術の確認を行うことが出来る。 レフリー・タイムアウトとは、審判が試合の続行に支障があると判断した場合に、審判の権限で計時を停止することである。審判は試合の再開が可能と判断するまで、任意の時間、計時を停止することが出来る。 レフリー・タイムアウトが取得される主な場合を、以下に示す。 攻撃側が連続してファーストダウンを獲得したとき(NCAAルールのみ)。チェーンを設置し直す必要があることから。 反則が発生したとき。反則の結果、次のプレーの地点が確定するまで、計時を停止する。 インバウンズにおいて負傷者が発生したとき。負傷者がアウト・オブ・バウンズの安全な位置まで移動するまで、計時を停止する。 メジャーメントを行う必要があると判断したとき。メジャーメントの結果が確定するまで、計時を停止する。 NFLには、テレビ広告が終了するまで計時を停止する CM タイムアウト、ディレクター・タイムアウトがある。ツーミニッツウォーニングもその一つ。 タイムマネジメントとは、時間を消費し、あるいは停止することにより、自チームに有利となるように試合の残り時間をコントロールすることである。アメリカンフットボールでは、得点差と残り時間の兼ね合いを常に意識しながら、タイムマネジメントを行う。 一般的に、リードしているチームが攻撃権を有している場合には、相手の攻撃時間を極力減らすために、計時が止まらないプレーを主に選択する。具体的には、インバウンズでプレーが終了するよう、確実なランプレーや成功率の高いパスを中心に選択する。サイドライン際ではアウト・オブ・バウンズに出ないよう、わざとボールデッドにすることもある。さらに、終了間際、攻撃側がリードしている場合などは、スナップを受けたクォーターバックがその場に膝をついて(ニーダウン)プレーを終了させる場面(イート・ザ・ボール)がある。前進しなくても、ファンブルなどの危険を冒さずに時計を進めるためのプレーである。場合によってはディレイ・オブ・ザ・ゲームの反則を行ない、罰退を受けてでも時計を進めることも行われる。 逆に、攻撃側がリードを許している場合には、攻撃の時間を確保するために、タイムアウトも消費しながら、計時を有効に止めるプレーを選択する。具体的には、サイドライン際へのランプレーやパスプレーで、成功後すぐにアウト・オブ・バウンズに出るなどである。タイムアウトを使い切っており、なおかつ計時を止めたい場合には、スナップを受けたクォーターバックが、すぐにボールを地面にたたきつける(スパイク)ことがある。スパイクした場合はパス不成功として扱われプレー終了となり、計時は止まる。もちろん1回のダウンは消費するが、ハドルや選手交代の時間を確保するために行われる。 特に、逆転可能の差でリードを許すチームが後半の終了間際に逆転を行うためにはタイムマネジメントが不可欠であり、このパターンが試合終了まで最も緊張感のあるゲーム展開が楽しめるものであり、これがアメリカンフットボールの醍醐味の一つにもなっている。 第2及び第4クォーターの残り時間が2分になると、自動的に(プレー中の場合はプレー終了と同時に)試合時間が止められ中断させられる。これがツー・ミニッツ・ウォーニングであり、NFLにおける特徴的なシステムの一つである。 このルールは、クライマックスの直前に広告を入れたいがために、テレビメディアの要請により採用されたものの、試合の最終局面においてタイムアウトを消費せずに作戦を立てることができるため大変重宝されている。なお、ツー・ミニッツ・ウォーニング後、クォーターが終了するまでは、チャレンジはできない。 カレッジフットボールでも、各チームは終盤に逆転を目指すための戦術を用意している。ツー・ミニッツ・オフェンス、ツー・ミニッツ・ドリルと呼ばれ、同様に「残り2分」が重要視されている。 インスタント・リプレイとは、直前のプレーの結果について、審判が下した判定をビデオ判定によって再考するシステムのことである。インスタント・リプレイは、NFLで1999年に導入された。また、日本でも2017年の第31回ジャパンXボウルから、一部の試合で導入されている。なお、1980年代後半から1990年初頭にもNFLにはビデオ判定制度は存在していた。だが、その頃は回数や判定対象の制限が緩く、ビデオの解像度も悪く、試合時間が延びる問題が顕著となり、一時的に中止された。 インスタント・リプレイは、レフリーがフィールド脇に設置されたリプレイ・モニターの映像を見ることによってなされ、特設室のリプレイ・アシスタントと無線で交信しながら慎重に検討される。最終的な判定はフィールドにいるレフリーが下す。判定を覆すに足る明確な証拠があると認められれば判定が覆るが、明確な証拠がない限りは当初の判定が優先される。 インスタント・リプレイが試合の遅延となることを防ぐため、NFLでは、2007年シーズンからは、判定にかける時間が90秒から60秒に短縮された。また、リプレイの確認にハイビジョン映像が導入され、より鮮明に証拠の有無を確認できるようにしている。 NFLおよびアメリカの大学リーグ特有のルール。日本では2017年の第31回ジャパンXボウルから一部試合で導入。 審判のジャッジに不服がある場合、ヘッドコーチが次のプレーが始まるまでに、赤いフラッグをフィールドに投げ入れて“異議”をアピールし、インスタント・リプレイを要求することができる。これをチャレンジあるいはコーチ・チャレンジとも言う。チャレンジは、得点やターンオーバーなど、試合を決定付ける重要な場面で行われることが多い。日本ではタイムアウトをコールしたあとにチャレンジを申請する。 チャレンジの対象は、プレーの成否に関わるいくつかの事項(得点、ターンオーバー、パスの成功・不成功など)についてのみ認められており、反則の有無そのものについてチャレンジを行うことはできない。 チャレンジは1試合につき3回(大学の場合は2回)まで行うことができる。ただし、3回目の権利はそれ以前に2回続けてチャレンジに成功しないと与えられない。判定が覆らなかった場合はチャレンジ失敗となり、タイムアウトの権利を1回分失う。つまり、チャレンジはタイムアウトの権利を賭けて行うものなので、タイムアウトを使い切った状態では行うことはできない。 なお、チャレンジはツー・ミニッツ・ウォーニング以降、およびオーバータイム中には行うことが出来ない。また、NFLでは2011年より得点プレーについてもできない。ただし、このような時期に疑義のあるプレーが発生した場合、特設室にいるリプレイ・アシスタントと呼ばれる専門の審判がビデオ映像を検証し、インスタント・リプレイが必要かどうかレフリーに指示することがある。これをオフィシャル・レビューという。この場合でも、最終判断は、レフリーが行う。 2012年より、スタジアムの観客にも審判団と同じリプレイ映像が提供されることとなった。 アメリカンフットボールにおけるコンタクトとは、身体の接触を行うことである。アメリカンフットボールのコンタクトは非常に激しく、直ちに負傷につながるおそれがある。このため、安全確保を目的として、コンタクトには厳しい規制がある。 コンタクトはタックルとブロックに大別される。しばしば混同されるが、アメリカンフットボールにおけるタックルとは、ボールを保持する選手(ボール・キャリア)の前進を止めるために体やジャージをつかむことであり、ブロックとは、相手選手の体やジャージをつかむことなく、自らの体を使って相手の進路を妨害する(前に立ち塞がる)ことである。状況により、手を開いて相手を押すことはブロックとして認められる。 原則として、ボールを持っていない選手に対するタックルは認められない。ボールを持っていない選手の体やジャージをつかむと反則(ホールディング)となる(例外的に、守備の選手が、タックルのために他の選手を払いのける目的でつかむことは許されている)。 なお、蹴る・殴るなどのラフプレイ、暴力行為は当然禁止されている。 アメリカンフットボールの装具とは、防具とユニフォームに大別される。このうち防具は、選手の負傷軽減を目的として装着するものであり、様々な改良を積み重ねながら現在に至っている。「間違いやすいジャッジがひと目でわかる!アメリカンフットボールのルールとスコアのつけ方」(笹田英次 監修)によれば、全ての防具の重さを合計すると、スパイクを含んで5kgほどにもなる。 装着が義務付けられた装具に不備があると反則となるので、全ての選手は正しく装具を装着しなければならない。装着が義務付けられた装具は以下のとおりである。 ヘルメット 頭部を保護する。表面はプラスチックで、中にウレタン製のパッドと、ゴムチューブが内蔵されており、ゴムチューブ内の空気圧の調整により、フィット感を向上させる。また、顔面を保護するフェイスマスク(またはフェイスガード。格子の形はポジションにより数種類ある)と、顎に当ててヘルメットを固定するチンストラップ(頚部へのベルトではなく顎そのもので固定する「チンカップ」がある)が必須である。ヘルメットは1平方cm当たり1トンもの衝撃に耐えるとされている。 ショルダーパッド(プロテクター) 胸、背中および肩を保護する。各部位を保護するパッドを、プラスチックのカバーで覆ってつなぎ合せたもので、ポジションごとに形状が異なる(例えばクォーターバックやワイドレシーバーなど、パスに関与するポジションでは、肩の稼動域が広く、軽くて薄いが、ラインポジションではその逆など)。 ニーパッド・サイパッド・ヒップパッド それぞれ、膝、太腿前面、尻を保護するパッド。ユニフォームのパンツの下に装着。 マウスピース 頭部への衝撃を緩和するために装着。スナップする直前に口に入れて噛み締める。プレーしていない時は会話に差し障りがあるのでフェイスマスクにストラップで吊ってある。過去、マウスピースを使用せずに頭部でコンタクトを行った結果、頸椎損傷などの重大事故が発生し、死亡したケースもあるため、着用を義務付ける規定が年々厳しくなっている。 ユニフォーム 上半身を覆うジャージと、下半身を覆うパンツに分かれる。ジャージは、各チームとも、チームカラーを基調とするカラージャージと、白を基調とするホワイトジャージの2種類用意し、ホームチームがカラージャージ、ビジターチームがホワイトジャージの着用を原則とする。両チーム、審判の事前の了解があれば、カラー/ホワイトを入れ替えて着用することもある。また、対照的な色であれば、カラージャージ同士の着用もありうる。ジャージもパンツも、防具の上から着込み、体にぴったりとフィットするよう、現在では非常に伸縮性に富んだ素材を使用する。 主にクォーターバックなどはこの他に、フォーメーションを一覧にした図を腕にリストバンドで着けることがある。 アメリカンフットボールは、激しいコンタクトの伴うスポーツであるが、相手を怪我させてしまうような行為は、反則として扱われる。 また、片方に極端に有利になるような行為についても、反則として扱われる。 反則を犯した場合、反則の内容ごとに決まった距離(5ヤード、10ヤード、15ヤードの3種類)だけ、犯したチーム側にボールの位置をずらす罰則(ペナルティー)を施行して、次のプレーを開始する。ボールの位置が自チームにとって不利な方にずれるため、罰退(ばったい)と呼ばれる。アメリカンフットボールがプレーを1つ1つ区切り、次のプレーを開始する位置を決めていく特性に合わせた罰則であり、他のスポーツではあまり見かけないルールである。 距離による罰則とは別に、あまりにひどい反則を犯した場合、反則した選手が退場(ルールの用語上、資格没収)となることもある。 審判が反則と疑われる行為を見つけた場合、おもり付きの黄色い布(イエローフラッグ)を、反則の発生箇所に向かって投げる。 プレー開始前、プレー終了後、プレーとプレーの間、すなわちデッドボール中に反則(デッドボール・ファウル)が発生したと判断したときは、フラッグを投下後、笛を吹き、可能であればボールを抑えて、選手にプレーをさせないようにする。 気づかずにプレーを開始した場合は、笛を吹き続け、ボール所有者の近くに寄って強制的に中断させる。 プレー中の反則(ライブボール・ファウル)については、フラッグを投げた後プレーを続行させて、プレーがデッドになるまで待つ。 イエローフラッグを投げたのち(ライブボール・ファウルはプレー終了後)、審判が集まり協議する。どんな反則が発生したと判断したか、その反則が成立する要件を満たしているか、他に反則はないか、反則の罰則はどうなっているかなど、複数の審判の視点から判断する。協議した結果はレフリーを通じて、両チームおよび試合会場に通告される。 協議の結果、反則ではないと結論が出たときは、イエローフラッグを頭上で横に振るジェスチャーをして、その旨を通告する。 反則があったと結論が出たときは、反則の内容を示すジェスチャーをし、反則を犯したチームにどちらのチームに反則があったかを示す。その後、ボールの位置をずらして次のダウンの数やファーストダウンの確認を行う。 反則があったとき、デッドボール・ファウルの場合、罰則を施行する。 ライブボール・ファウルの場合、反則を受けたチームが罰則を施行するか、プレーの結果を活かすか選択できる。他のスポーツにおけるアドバンテージと似たような措置である。 罰則を施行した場合、ボールの位置をずらした後、原則として同じダウンを繰り返す。 ただし、反則によっては、罰則を施行した上でダウンを1つ失わせる場合がある。 また、守備側が反則を犯した場合、守備側にボールをずらしたことによって更新線を越えた場合、攻撃側に新たなファーストダウンを与える。さらに守備の反則は、軽度の反則を除きボールの位置を問わず攻撃側にファーストダウンが与える(オートマティック・ファーストダウン)。 ライブボール・ファウルで罰則を辞退し(ディクライン)、プレーの結果を活かした場合、ダウンは1つ消費される。 罰則を施行するかは、ダウンの消費、プレーの結果(獲得距離や得点)と罰則による獲得距離から自チームにとって有利と思う方を選択し、ヘッドコーチがフィールド上のキャプテンを通じて、審判に伝える。 たとえば、長い距離を獲得するプレー(ロングパスなど)が成功したとき、そのプレーで守備側が反則した場合、罰則で進める距離が短ければ、攻撃側は辞退してプレー結果を活かすことが多い。 プレーの獲得距離がそれほど長くない場合、プレーを選択すればダウンを1つ消費するため、距離が多少短くても罰則を受諾し、ダウン消費を免れる場合もある。 反則位置がゴールラインに近く、罰則の距離がゴールラインまでの距離の半分を越えてしまう場合、一部の反則を除いては「ゴールラインまでの距離の半分」で罰退を留める(ハーフディスタンス)。 一つのダウン中に複数の反則が発生した場合、デッドボール・ファウルとライブボール・ファウルでは対処が異なる。 反則が発生した順に、罰則を施行する。ただし、両チームの選手がスポーツマンらしからぬ行為またはパーソナル・ファウルを犯した場合は、相殺される。 片方のチームが15ヤードの罰退となる反則を2つ犯せば、15ヤードの罰退を2回施行し、結果として30ヤードの罰退になる。 両方のチームが反則を犯した場合、発生順序で罰則を施行する。たとえば守備側が5ヤードの反則を犯し、その後、攻撃側が15ヤードの反則を犯した場合、差し引き10ヤードを攻撃側にずらすのではなく、一旦、守備側に5ヤードの罰則を施行した後、攻撃側に15ヤードの罰則を施行する。 この時系列で処理することで、個々の罰則で攻撃側がファーストダウンを獲得したか、ハーフディスタンスを適用すべきか判断する。 片方のチームだけが複数の反則を犯した場合は、相手チームはどれか1つの罰則を受諾するか、プレーの結果か、いずれかを選択する。 発生したすべての反則の罰則すべてを受諾できない。 両チームが反則を犯した場合は、反則の軽重、回数を問わず、相殺(オフセッティング・ファウル)され、次のプレーは同じダウンを繰り返し、同じ位置からスナップする。 つまり、攻撃側が5ヤードの反則を犯し、守備が15ヤードの反則を犯したとしても相殺される。また、攻撃側の反則が1つで、守備側の反則が2つであっても相殺される。 ただし、ボールの所有権が変わるプレー(ターンオーバーやキック)だった場合、最後にボールを所有したチームが、ボール所有が変わる前に反則を犯していなければ、相殺を辞退し、自身の反則の罰則を認めることで、プレー結果を活かしてボールを確保できる。 1つのダウンのプレーでライブボール中に反則が発生し、そのデッド後に別の反則が発生した場合、相殺せずに発生した順序で罰則を施行する。 反則を犯し「資格没収」と判断された選手は、相手チームが罰則を辞退しても、また、相殺になっても、当該選手は資格を没収(退場)される。 ナショナルフットボールリーグ (NFL) カレッジフットボール (NCAA) XFL アリーナフットボールリーグ (AFL) レジェンズ・フットボール・リーグ (LFL) Xリーグ 関東学生アメリカンフットボール連盟 関西学生アメリカンフットボール連盟 東海学生アメリカンフットボール連盟 九州学生アメリカンフットボール連盟 プライベートリーグ NFLヨーロッパ (NFL Europa)2007年に終了 ジャーマン・フットボール・リーグ - ドイツ (GFL) ワールドカップ IVY・サムライボウル JAPAN-USAボウル ワールドゲームズ スーパーボウル(NFL決勝戦) 以下は主要学生リーグにおけるボウルゲーム ローズボウル シュガーボウル オレンジボウル フィエスタボウル コットンボウル 社会人・大学対抗 ライスボウル(アメリカンフットボール日本選手権試合) えびすボウル(関西学生、Xリーグ西地区選抜チームによる対抗戦) ヨコハマボウル(休止) 神戸ボウル(社会人・大学単独チームによる交流戦) 社会人対抗 JAPAN X ボウル(Xリーグ優勝決定戦) パールボウル(東日本社会人選手権=春季) グリーンボウル(西日本社会人選手権=春季) 大学対抗 全日本大学アメリカンフットボール選手権 甲子園ボウル(決勝) シトロンボウル(休止)→パインボウル(北海道・東北地区対抗) クラッシュボウル→あずまボウル(休止)→東日本地区代表決定戦 西日本地区代表決定戦(ウエスタンジャパンボウル) ウエスタンボウル(休止)→平和台ボウル(中国・四国・九州地区対抗) 大学交流戦など TOKYO BOWL(大学単独チームによる交流戦・普通は関東2位校とウエスタンジャパンボウル敗退校で争われる) カレッジボウル(関東1部リーグオールスター対抗戦) 四日市ボウル(東海・北陸オールスター対抗戦) 西宮ボウル(東西オールスター対抗戦 休止) バーシティーボウル(東西下部リーグオールスター対抗戦) シャープカップ平成ボウル→NEW ERA BOWL(ニューエラボウル)(関西オールスター対全米体育協会オールスター対抗戦) 高校対抗 クリスマスボウル(全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会決勝戦) 中学世代対抗 日本中学生アメリカンフットボール選手権(中学世代日本一決定戦) 邦画 エレキの若大将(1965年、東宝) - フットボールの描写は必ずしも正確ではない。 がんばれ!若大将(1975年、東宝) - 主役である三代目若大将役は草刈正雄。 マイフェニックス(1989年、東宝) - 日本大学フェニックスをモデルにした日本大学創立100周年記念映画。 洋画 栄光のタッチダウン フランク・カヴァーノ物語(1943年) ブライアンズ・ソング(1971年) ロンゲスト・ヤード(1974年) パニック・イン・スタジアム(1976年) ジョーイ(1977年) ブラック・サンデー(1977年) 天国から来たチャンピオン(1978年) ノース・ダラス40(1979年) 勝利へのタッチダウン(1980年) トム・クルーズ/栄光の彼方に(1983年) クォーターバック・プリンセス(1983年) ワイルドキャッツ(1986年) キャント・バイ・ミー・ラブ(1987年) ジョニー・ビー・グッド(1988年) 熱き瞳のままに/炎のタッチダウン(1988年) 熱き愛に時は流れて(1988年) スーパー・タッチダウン(1991年) ラスト・ボーイスカウト(1991年) 青春の輝き(1992年) ルディ/涙のウイニング・ラン(1993年) クォーターバック(1993年) フォレスト・ガンプ/一期一会(1994年) リトル・ジャイアンツ(1994年) ライズ&ウォーク(1994年) どんな時も(1995年) ザ・エージェント(1996年) エンジェルス2(1997年) ウォーターボーイ(1998年) メリーに首ったけ(1998年) バーシティ・ブルース(1999年) エア・バディ2(1999年) タイタンズを忘れない(2000年) リプレイスメント(2000年) エニイ・ギブン・サンデー(2001年) ジム・ブラウン オールアメリカン(2002年) 僕はラジオ(2003年) プライド 栄光への絆(2004年) トゥー・フォー・ザ・マネー(2005年) マーシャルの奇跡(2006年) インヴィンシブル/栄光へのタッチダウン(2006年) ギャングスターズ 明日へのタッチダウン(2006年) フェイシング・ザ・ジャイアント(2006年) ロンゲスト・ヤード(2006年) 鉄板スポーツ伝説(2007年) ゲーム・プラン(2007年) かけひきは、恋のはじまり(2008年) ロングショト(2008年) エクスプレス 負けざる男たち(2008年) しあわせの隠れ場所(2009年) Lombardi(2010年) 5thクォーター(2011年) ドラフト・デイ(2014年) アイシールド21(村田雄介・稲垣理一郎、集英社) グーフィーのアメリカンフットボール教室(ディズニー) フットボール鷹(川崎のぼる、講談社) ノーハドル(西山優里子、講談社) 5ヤーダー(小堀洋・守谷哲巳、秋田書店) チャージマン研!(ナック)- 第4話『謎の美少年』 明日へキックオフ(梶原一騎・前田俊夫、少年画報社) ※数字、アルファベット、五十音順 4th and Inches (Accolade、1987年) A.G. Football (Alvin G. and Co.、1992年) All American Football (Peo Manufacturing Co.、1985年) All American Football (Leland、1989年) All-Star Football (Chicago Coin、1972年) Arena Football (independent、1988年) Arena Football シリーズ (EA Sports、2006年) Atari Football (Atari、1978年) Backyard Football シリーズ (Atari、1999年 - 2000年) Black College Football:BCFX:The Xperience(Aspyr Media、2009年) Blood Bowl (MicroLeague、1995年) Bradshaw Football 98 (H+a、1998年) Brutal Sports Football (Gremlin Graphics、1993年) Bud Light Quarterback Challenge (Intermark Amusements、1989年) Capcom's MVP Football (カプコン、1993年) CFL Football '99 (Wintervalley Software、1999年) Classic Football NFL(Namco、2003年) College Football(Gottlieb, D. & Co.、1936年) College Football 15 (College Football PC、2014年) College Football's National Championship (セガ、1994年) College Football's National Championship II (セガ、1995年) Computer Football Strategy (Avalon Hill、1983年) Dada football (日本トランステクノロジー、2001年) EA Sports Active NFL Training Camp (EA Sports、2010年) Computer Quarterback (Strategic Simulations、1981年) Draft Edge Fantasy Football (Cokem International、2004年) Electronic Quarterback (Coleco、1978年) Email Games:NFL Football (Hasbro Interactive) Emmitt Smith Football(JVC、1995年) Family Fun Football (Tecmo、2009年) Flipper Football (Flipper Football、1996年) Football Frenzy SNK 1992 (SNK、1992年) Football (Intellivision game) (Mattel Electronics、1980年) Football Made EZ (MADE EASY SOFTWARE、199x年) Football Manager (Simply Media、199x年) Football Mogul シリーズ (Atari) Front Page Sports Footballシリーズ(Dynamix、1992年 - 2000年) Football Star (Meunier、1920年) Football Type 1 (B. Madorsky Co.、1930年) Football Type 2 (B. Madorsky Co.、1930年) Front Office Football シリーズ(Electronic Arts、- 2007年) High Impact Football (Williams Electronic Games, Inc.、1990年) Jerry Rice & Nitus' Dog Football (Judobaby、2011年) John Elway's Quarterback (Virgin Games/Tradewest、1987年) Kurt Warner's Arena Football Unleashed (Midway、2006年) Full Team Football (Full Team Football Co.、1925年) Madden NFL Football Tackles Arcades (Global VR、2004年) Maximum-Football (Matrix Games、2006年) My Football Game (VTree LLC、20xx年) NCAA Football シリーズ(エレクトロニック・アーツ/EAスポーツ) NFL シリーズ(Gameloft、2009年 - 2013年) NFL 2K シリーズ(セガ/2K Games、1999年 - 2004年) NFL Blitz シリーズ (1997年 - 2012年) NFL Fever シリーズ (Microsoft Game Studios、1999年-2003年) NFL Football (Bally Midway、1983年) NFL Football (Atari、1992年) NFL GameDay シリーズ(989 Sports、1995年 - 2004) NFL Street シリーズ(Electronic Arts、2004年 - ) NFL Tour (EA Sports Big、2008年) NFL Xtreme (SCEA、1998年) NES Play Action Football (Nintendo、2007年) On-Field Football (Gamestar、1983年) Pro-Football (Gottlieb, D. & Co.、1973年) Quarterback (Genco Corp.、1957年) Realsports Football (Atari、1982年) Season Ticket Football 2003 (Infogrames、2002年) Sterling Sharpe:End 2 End (ジャレコ、1995年) Super Action Football (Coleco、1984年) Super Challenge Football (M-Network、1982年) Super Football (Atari、1988年) Super Play Action Football (任天堂、1992年) Super Pro Football (INTV Corporation、1986年) Total Control Football (Philips、199x年) Touchdown Football (Atari、1988年) Troy Aikman NFL Football (Tradewest、1994年) UB QB II Football Challenge (Skee Ball Co.、1996年) Ultimate Football '95 (MicroProse Software, Inc、200x年) Unnecessary Roughness '95 (Accolade、1994年) Who Wants to Be a Millionaire:Sports Edition (Disney Interactive) XS Junior League Football (XS Games, LLC、2003年) 10ヤードファイト (アイレム、1983年) ABCマンデーナイトフットボール (データイースト、1989年、1990年、1991年) NFLクォーターバッククラブ シリーズ(アクレイムジャパン、1993年 - 2002年) NFLフットボール(コナミ、1993年) NFLプロフットボール'94(エレクトロニック・アーツ・ビクター、1993年) TVスポーツフットボール(ビクター音楽産業、1991年) アイシールド21 シリーズ(コナミ/任天堂) アメリカンフットボール タッチダウンフィーバー(ケイアミューズメントリース、1988年) ウルティメイトフットボール(サミー、1992年) エレクトリック・フットボール(マギー・トイズ) オールアメリカンフットボール (テクモ、1987年) クォーターバックスクランブル(ポニーキャニオン、1989年) グレートフットボール(セガ、1987年) サイバーボール シリーズ(Atari Games、1988年-1989年) ジョー・モンタナ フットボール シリーズ(セガ) スーパーハイインパクト(アクレイムジャパン、1993年) スポーツコネクション (UBISOFT、2012年) タッチダウン(ウィンキーソフト、1984年) ディズニースポーツ:アメリカンフットボール(コナミ、2002年) テクモボウル シリーズ(テクモ) テクモスーパーボウル シリーズ(テクモ) バックブレーカー(505 Games、2010年) フットボールフレンジー(SNK、1992年) プレイメーカー・フットボール(Broderbund、1990年) プロフットボール(イマジニア、1992年 - ) プロフットボール'93(エレクトロニックアーツビクター、1993年) マッデンNFL シリーズ (エレクトロニック・アーツ、1988年 - ) ミュータントリーグ・フットボール(エレクトロニック・アーツ・ビクター、1993年) レッスルボール(ナムコ、1992年) アメリカンフットボールのポジション アメリカンフットボールの用語集 アメリカンフットボール選手一覧 アメリカンフットボールの戦術 アメリカンフットボールの反則 アメリカンフットボール・NFLとNCAAのルールの差異 ^ ただし、カナダでの場合はカナディアンフットボールを含む。 ^ 英: 。「グリディロン」とは焼き網という意。フィールドのラインがそのように見えることから。 ^ NFL以外ではアカデミー賞授賞式中継番組が唯一トップ10にランクイン。 ^ ラグビーに限りなく近かったが、これが事実上、初めてのアメリカン・フットボールの試合だったと言えるのかもしれない。 ^ このルール委員会が後のNCAA(全米大学体育協会)に発展し、大学スポーツの管理が始まった。 ^ プロテクター類。初期のものは薄手で軽いものだったが、時代とともに頑丈になって行った。 ^ この歴史的ゲームは陸軍士官学校を舞台とした映画「長い灰色の線」の中で、当時最強チームの陸軍士官学校が無名のノートルダム大学に、まさに見たこともない新戦術によって大敗して呆然とするというエピソードで取り上げられている。 ^ シカゴの地元新聞に顔写真付きの記事がある。 ^ チャレンジのインスタント・リプレイ中に副次的に反則の有無に関する証拠が発見された場合は、反則の有無の判定が覆る。たとえば、ライン際のパスの成否に対してチャレンジを行い、ボールをキャッチした選手がボールに触る前にアウト・オブ・バウンズに出ていたことが発見された場合、イリーガル・タッチが適用され5ヤードの罰退でプレイが再開される。逆に言えば、審判が反則を見逃してもそれ自体に対してチャレンジはできないが、関連するプレイに対するチャレンジ(先ほどの例で言えば「パスの成否に対するチャレンジ」)という形でなら、間接的に反則の有無に対してチャレンジすることができる。 ^ 英: American Football ^ アメフット:関学監督と選手父コメント 日大選手会見受け - 毎日新聞 ^ 川淵氏、悪質タックルに嘆き「なんと愚かな日大アメラグ選手の行為か」 - デイリースポーツ ^ スポーツ庁が異例の調査へ 日大のアメラグ反則プレー - 教育新聞 ^ Concussion Watch|FRONTLINE ^ Coll, Steve, \"Is Chaos a Friend of the N.F.L.?\", The New Yorker, December 26, 2012. Citing the Times. ^ a b c Football Still Americans' Favorite Sport to Watch Gallup.com 2018年1月16日閲覧。 ^ America’s National Sport:Baseball or Football? Move Over, Baseball:Bloomberg Politics Poll Shows 67% of Americans Now Say Football Is National PastimeBloomberg 2015年11月21日閲覧。 ^ America’s National Sport:Baseball or Football?PRRI 2015年11月21日閲覧。 ^ Q:What is your favorite sport to watch? Washington Post 2017年9月7日閲覧。 ^ a b ハリス・インタラクティブによるアメリカでの人気スポーツの世論調査(2016年1月公表) ^ NFL revenue:Here comes another record seasonCNN 2015年11月21日閲覧。 ^ Top 10 TV Programs of 2013 nielsen.com 2014年1月13日閲覧。 ^ a b The 50 Most-Watched Sporting Events of 2013sportsmediawatch.com 2014年1月13日閲覧。 ^ College football wins more fans and ad dollars ^ カレッジフットボールの観客動員数のデータ ^ Chris Jenkins,\"SHOULD PARENTS LET THEIR KIDS PLAY FOOTBALL?\",NBC Sports,May 26,2012 Citing Associated Press ^ NSGA 2011 Sports Participation ^ Participation in High School Athletic Programs by Sex ^ Participation in NCAA Sports by Sex:2007 to 2008 ^ a b c d e タック牧田「フットボールのルーツ」、『FOOTBAALL LOVE CALL』、南雲堂、1992年8月、 70-71頁。 ^ 英: Intercollegiate Football Association ^ a b c d e f g h i 久保田薫「1. アメリカのNo.1スポーツはサッカーだった?」、『改定新版 パーフェクトアメリカン・フットボール』、南雲堂、1989年1月、 293-294頁。 ^ a b 種子田穣 『史上最も成功したスポーツビジネス』 毎日新聞社、2002年、51-58頁。ISBN 4-620-31578-8。 ^ a b c d 久保田薫「Chapter 9 プロスポーツの王者、NFLの世界」、『改定新版 パーフェクトアメリカン・フットボール』、南雲堂、1989年1月、 225-233頁。 ^ 英: National Football League ^ 英: American Proffessional Football Association ^ 「限りなき前進 日本アメリカンフットボール五十年史」(1984年9月)日本アメリカンフットボール協会、32、33、74、75、90頁 「1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実」井尻俊之、白石孝次共著、ベースボール・マガジン社、1994年、21、41-43、50-58、97、98、107頁 山梨県清里高原 キープ協会|日本アメリカンフットボールの殿堂 |日本アメリカンフットボールの熱き継承 関東学生アメリカンフットボール連盟:75周年記念特集[リンク切れ] 川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代 スポーツ発展のカギとなった人物 - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評 歴史が眠る多磨霊園 小川徳治 ^ NCAA football 2011 and 2012 rules, FR-118, Field Diagrams。NFLでは数字の下端がサイドラインから12ヤード(2012 Official Playing Rules, iv, Plan of the Playing Field)。 ^ 英: ball on ○○, △yards ^ 英: official ^ 英: referee ^ 英: umpire ^ 英: head linesman ^ 英: line judge ^ 英: back judge ^ 英: field judge ^ 英: side judge ^ NCAA rule 2 section 7, NFL rule 3 Section 7 ^ 助走距離を短くして相手選手にぶつかるスピードを下げて、怪我する危険性を下げる狙い ^ 英: 1st down ^ 英: 2nd down ^ 英: 3rd down ^ 英: 4th down ^ 英: chain crew ^ 英: previous spot ^ point after touchdown ^ ブロンコスのKプレーター、64ヤードFG成功でリーグ最長記録 ^ 2009 Official NCAA Division I Records Book, 23頁 Longest Field Goal Made ^ 2009 Official NCAA Division I Records Book, 24頁 Longest Field Goal Made without use of a kicking tee ^ シーホークスのフェイクFG、成功の鍵はパッカーズのLBジョーンズ - アメフトNewsJapan・2015年1月20日 ^ “NFL、スタジアムの観客に審判と同じリプレイ映像提供”. NFL JAPAN (2012年7月6日). 2012年7月14日閲覧。 ^ 英: decline NFL カナディアンフットボール - アメリカンフットボールに酷似したスポーツ アリーナフットボール - 室内版アメリカンフットボール 日本アメリカンフットボール協会 Xリーグ 日本学生アメリカンフットボール協会 関東学生アメリカンフットボール連盟 関西学生アメリカンフットボール連盟 日本高等学校アメリカンフットボール連盟 女子アメリカンフットボール ジョック アメリカンフットボール・NFLとNCAAのルールの差異 タッチ・フットボール - タックルをタッチに置き換えたスポーツ フラッグフットボール - タックルを「フラッグ」を取ることに置き換えたスポーツ 公式 IFAF - 国際アメリカンフットボール連盟 (英語) JAFA - 日本アメリカンフットボール協会 (日本語) リーグ NFL JAPAN - ナショナル・フットボール・リーグ (日本語) Xリーグ (日本語) 入門 超初心者向けアメフトルール (日本語)", "タッチ・フットボール は、アメリカンフットボールを基にした、主に年少者/初心者向けの球技の一つ。 危険度の高いタックルを、ボール保持者の胴体に両手で触れる「タッチ」に置き換え、年齢や性別、経験に関わらずプレイ出来る(このタックルの危険性を避けることなどで間口を広げるという点で「タッチラグビー」と共通している)。 日本ではアメリカンフットボールやラグビーの入門スポーツ、女子大学生のスポーツとして行われている。 1946年米国進駐軍により紹介され、後の高等学校アメリカンフットボールへと発展した11人制によるタッチフットボールである。これは、ヘルメットやショルダーパッド等防具一式を装着し、攻撃側ボール保持者を止める手段として、タックルではなくタッチを用いていた。その経緯より、タッチフットボールという呼称で、主に旧制奈良中学(現奈良高等学校)や、大阪府立池田中学(現池田高等学校)、豊中中学(現豊中高等学校)で競技が行われていたものである。 これとは別に1990年に慶応義塾大学環境情報学部の冨田勝教授によるものが考えられる。冨田は、自身のアメリカ留学時代の経験より、6人制タッチフットボールを、新しい大学女子競技スポーツの一環として日本に紹介した。 地域やルール等によって、「変種」が多数存在するがアメリカンフットボールから派生したルールが多い。 さくらボウル(大学女王と社会人女王の一発勝負による、冬の日本女王決定戦)、シュガーボウル(大学・社会人ともに参加可能な、春の全日本女王決定戦と全日本オープン選手権)、プリンセスボウル(秋の大学女王決定戦)、ファイルタッチ(秋の社会人女王決定戦)など大学生女子の大会が開催されている。 トイレ休憩の場合のみプリンセスカードの使用によりトイレ休憩に行く者×100のダメージを相手に与えられる、 フラッグフットボール - タッチではなく『フラッグ』と呼ばれるヒモを取る行為に置き換えている。 オージー・ルールズ・タッチフットボール - オーストラリアンフットボールから派生 タッチラグビー - ラグビーから派生。オーストラリア等では「タッチ・フッティ」等と呼ばれている。 タグラグビー - ラグビーから派生。タックルを『タグ』と呼ばれるヒモを取る行為に置き換えている。 スーパータッチボール - ラグビーから派生。主に室内で行われる ビーチフットボール(現ビーチラグビー) - タッチラグビー及びアメリカンフットボールから派生。ビーチで行う 日本タッチアンドフラッグフットボール協会(JTFA)" ]
ABC01-02-0048
自動車で、タイヤの左右の間隔をトレッドといいますが、前後の間隔のことを何というでしょう?
ホイールベース
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[ "ホイールベース", "ボール・ナット", "ハブ径", "最低地上高", "ダブルタイヤ" ]
[ "ホイールベース(英: wheelbase)とは、車両において、前輪軸と後輪軸との距離を表すもので、日本語で「最遠軸距」、または単に「軸距」と表記される。ホイールベースの単位は mmやインチ で表示されることが多い(バスなどはmで表示されることもある)。 自動車ではトレッドが等しい場合、ホイールベースの数値を大きくすると車体の前後方向の揺れ(ピッチング)と蛇行(ヨーイング)が抑えられ、居住空間が拡大できるという利点がある反面、サスペンションからの入力に対する車体剛性の確保が難しくなる、小回りが効かなくなるなどの傾向が出る。この数値を小さくすると小回りに優れるものの、ピッチングやヨーイングが大きくなる傾向が出る。誤解を招きやすいが、ホイールベースが長い=コーナーリングが苦手となるわけではない。 ホイールベースの外側、つまり車輪軸から車両端部までの距離をオーバーハングといい、前輪軸から前端部までの距離をフロントオーバーハング、後輪軸から後端部までの距離をリアオーバーハングという。この3つの寸法は自動車の操縦安定性やハンドリングをも左右する要素となる(このほかに、左右輪の中心から外側のサイドオーバーハングとトレッド幅も関係する。)。乗用車においては、最近は、ホイールベースをなるべく大きく設定することで操縦安定性と居住性を確保する設計が主流となっている。ただし、運動性(回頭性)を重視するスポーツカーはこの限りではない(トレッドに対しホイールベースが短い)。また、前ドアの幅やドライブトレインのレイアウトによりオーバーハングの寸法が決定される大型バスでは、ホイールベースが車体長と収容能力に影響する。 バスのホイールベースは「尺」とも呼ばれる。「L尺」・「N尺」・「Q尺」などの通称は、各車種においてホイールベースごとに形式の末尾を割り当てていることに由来する。 鉄道車両でも輪軸の間隔をホイールベースと呼ぶ。ただし軸距、あるいは固定軸距という表現の方がよく用いられる。二軸車では自動車と同様に車軸の間隔が軸距である。一方ボギー台車を装備した車両(ボギー車)では、1つの台車に装備されている車軸の間隔を軸距と呼び、その台車同士の間隔を台車間隔あるいはボギーセンター間距離と呼ぶ。 二軸車、ボギー台車ともに、通常は同一車両(同一台車)の車軸は向きが固定されており、自動車のようにカーブの内側を向けることはできないため、軸距が長くなると線路に掛かる圧力(横圧)が大きくなり、線路の歪みを引き起こして保線作業に手間が掛かるなどの悪影響が出てくる。横圧が大きくなりすぎると脱線をもたらす事もあるため、軸距を大きく取りすぎることはできない。一方、軸距を小さくしすぎると蛇行動を引き起こす要因となる。脱線と蛇行動を抑止して高速走行を実現するためには、軸距と軸箱の支持剛性、車輪の踏面形状などの間に適切な関係を見つける必要がある。 ボギー車では、台車間の距離を長くすることで軸距を伸ばすことなく車体を長くできる。しかしながら、いたずらに拡大すると曲線部で車体中央やオーバーハングが建築限界に抵触する恐れがある。また、カーブしている駅のプラットホームにおいて特に車両中央部のドアとホームとの間隔が開きすぎて乗降に支障をきたす。さらに分岐器の通過に際しあまりにも長い台車間隔だと脱線のおそれもあるため、ボギーセンター(台車中心間距離)の長さは規制される。 ^ 例としていすゞ・エルガのモデルの一種では、QPG-LV234L3(ホイールベース4.8m)、QPG-LV234N3(同5.3m)、QPG-LV234Q3(同5.8m)と形式が付与されている。 ^ 本文以外の理由にもキハ50形のように長大な台車間距離ゆえに分岐器の通過時に両台車の内側車輪がともに轍叉桿(Detector Bar:分岐器通過中に誤転換が発生しないようにするためのメカニカルストッパーによる保安装置)を跨ぎ越してしまう問題がある。詳しくは当該記事を参照のこと。 トレッド (輪距 = 左右車軸間の距離) シャシ (自動車) フレーム形式 (自動車) サスペンション オーバーハング (自動車用語) ホイール・アライメント 最小回転半径 車両限界 (鉄道)", "ボール・ナット(ball nut)とは歯車の一種で、回転力を直線の動きに変換する。リサーキュレーティング・ボール(recirculating ball)またはウォーム・アンド・セクター(worm and sector)と呼ばれることもある。 現在ではラック・アンド・ピニオンに取って代わられた機構であるが、ハンドルが軽く、戻りも良く、耐久性も高いというメリットがあるため、初期のパワーステアリング機構やトラックなどで一般的に使用されていた。現在ではクライスラー、ゼネラルモーターズ、メルセデス・ベンツなどが一部の車種で採用している。 ボール・ナットの機構は、ステアリングシャフトにウォームギアが直接刻まれ、多数のボールベアリングを内蔵した「ボールナット(雌ねじ)ラック」に差し込まれている。このラックには、内部にウォームギアに合わせた雌ねじが刻まれ、外部にはピットマンアームを動かすセクターギヤ(扇型ギア)に噛み合うように歯が刻まれている。 ステアリングを切ると、ボールベアリングを介してボールナットラックが上下し、セクターギアを駆動することで車輪の向きを変える。 ボール・ナットに使用されるウォームギアはボールねじと同様のものである。ウォームギアがボールナットラック内部で回転する時、ボールベアリングがウォームギアとラックギアの間を移動することで、ギア同士の摩擦を減らし、ステアリング操作を軽くする効果を発揮する。ボールベアリングはウォームギアとラックギアの隙間に合わせて精密に加工されており、ウォームギアの回転に合わせてラック内部を動き回る。ボールベアリングはラック終端まで移動すると、ラックに設けられた外部への通路を通ってギア噛み合い部分から排出され、反対側の通路から再びラック内部へ戻ってくる。この循環する動きにより「リサーキュレーティング・ボール」(ボール循環式)と呼ばれる。 パワーステアリングが普及する以前はボールベアリングによる操作力軽減効果が大きかったため、多数の車種でボール・ナットが採用されたが、反面ダイレクトな操作感が得られにくいというデメリットもあり、スポーツ車種を中心にラック・アンド・ピニオンが徐々に普及していき、パワーステアリングの普及と共にラック・アンド・ピニオンに取って代わられることとなった。 ボール・ナットのパワーステアリングはラック・アンド・ピニオンとほぼ同様の物で、高圧のパワーステアリングフルードをボールナットラックに供給することによってボールベアリングに圧力を掛け、パワーアシストを行う。日本車においては、80年代の三菱自動車工業の車種で、ボール・ナット式パワーステアリングの車種が散見された。", "ハブ径(ハブけい)は車のホイールの中心にある穴の直径。センターボアとも呼ばれる。 ハブ径は、例えば車のホイールを交換するときなどに重要となり、交換するホイールのハブ径より車のハブ径が小さくないと装着できない。また、交換するホイールのハブ径と車のハブ径を合わせることにより高い精度で回転中心を出すことができる。特に2pcラグボルトを使用している輸入車ではハブ径を合わせないと高速走行時等にハンドルのブレや振動が発生する場合があるので注意が必要である。 メーカーによってハブ径は異なる。スバルの56mm、フォルクスワーゲンとアウディの57mm、メルセデスベンツの66.5mm、ポルシェの71.6mm、BMWの72.6mm等である。また、同じ自動車メーカーでも車種によってハブ径が異なる場合がある。トヨタの54mmと60mm、ホンダの56mmと64mm、日産の59mmと60mmと66mm、マツダの54mmと67mm、三菱の56mmと67mm等である。 多くの社外品ホイールのハブ径は73mmから75mmという大きな値に設定されており、あらゆる車に装着出来るようになっている。またハブセントリックリング(略称ハブリング)と呼ばれるパーツを装着する事により、より高い精度で回転中心を出すことができる。 54.0mm トヨタ: EP71型(3代目)以降のトヨタ・スターレットおよびL20型(2代目)以降のターセル系、ヴィッツ系、MR-S、E80型(5代目)以降のカローラ/スプリンターシリーズ、初代MR2、初代プリウスなど。 マツダ: マツダ・デミオ系など 56.0mm ホンダ: フィット系、インサイト、シビック(タイプRを除く2代目~7代目)、インテグラ(5ナンバー車のタイプR以外)、プレリュード(AB/BA1.4.5.7)など 三菱: 三菱・コルト系など 58.0mm アルファロメオ フィアット 59.0mm 日産:N14・N15型パルサー、B12・B13・B14系サニー・NXクーペ・ルキノ、Y10・Y11系ウイングロードおよびADバン、K10系初代マーチ、Be-1、パオ、フィガロ、K11型2代目マーチ、Z10型キューブ スバル: 550cc~660cc自社生産軽自動車の全て(レックス、サンバー、ヴィヴィオ、プレオ、R2、R1、ステラ)、軽自動車派生普通車(ジャスティ、ドミンゴ) 60.0mm トヨタ: KP61型スターレットおよびAE85/86型カローラレビン/スプリンタートレノを含むE20~E70型までのカローラ/スプリンターシリーズ(E20型のみ13インチホイール装着車に限る)、トヨタ・タウンエースノア/ライトエースノアの一部グレード、X70型までのマークII/チェイサー/クレスタ、A60型までのセリカなど 日産Bプラットフォーム全車: K12系以降マーチおよびマイクラC+C、Z11系以降キューブおよびキューブキュービック、E11型以降ノート、Y12系ウイングロードおよびAD、C11系ティーダおよびティーダラティオ、G11型2代目ブルーバードシルフィ ルノー 64.0mm ホンダ: ホンダ・プレリュード(BA8.9/BB1.4)、インテグラ(95年から98年1月までのタイプR)、アコードワゴン(CF4/5/6/7) 65.1mm プジョー・シトロエン 66.0mm 日産:R32型/R33型(8代目/9代目)の一部を含むR31型(7代目)までの日産・スカイライン、S13型(5代目)までのシルビア/180SX、S14型(6代目)シルビアの一部グレード、C34型(7代目)までのローレル、P310型(初代)を除くブルーバード、B12~B14を除くサニー、N10~N12型(初代/2代目)までのパルサー、アベニール、G10型(初代)ブルーバードシルフィなど 67.0mm 三菱:ギャランΣ/ギャランΛ、ランサーエボリューションⅠ~Ⅲ、ミニカ・ダンガンZZ-4、ブラボーなど マツダ: マツダ・3代目カペラ、5代目/6代目マツダ・ファミリア、エチュード、2代目キャロル、AZ-1など 56.0mm スバル:スバル・インプレッサ、レガシィ/いすゞ・アスカCX、フォレスター 57.0mm フォルクスワーゲン アウディ ポルシェ:マカン 60.0mm トヨタ:一部を除く多くのFR車が該当するほか、FF車に於いてもこのサイズを採用する車種が増えてきている。トヨタ・センチュリーおよびRS30型(初代)を除くクラウン系、マークX、カムリ系、2代目MR2、アルテッツァ/レクサス・IS、ヴォクシー/ノア、キャミ、ラッシュ、アイシス、ハリアー/レクサス・RX、RAV4、ヴァンガード、オーリス、ブレイド、カローラルミオン、SAI/レクサス・HS、レクサスLS460など。 マツダ: マツダ・RX-7(FC3S) 63.4mm ボルボ ランドローバー:フリーランダー2、レンジローバーイヴォーク 64.0mm ホンダ:レジェンド、オデッセイ、ステップワゴンなど。 66.0mm 日産:R32型/R33型の一部を含むR34型(10代目)以降のスカイライン、C35型(8代目)ローレル、ステージア、セレナ、P12型(3代目)プリメーラ、A32/A33型(2代目/3代目)セフィーロ、ティアナ、キックス 66.5mm メルセデス・ベンツ ベントレー:コンチネンタルGT アウディ:A4(B8/2008年~)/A5(2008年~)/A6(C7/2011年~)/A8(2010年~)/Q5(2009年~) 67.0mm トヨタ: S14#系(9代目)以前のクラウン、ハイエースなど 三菱:ランサーエボリューションⅣ~Ⅸ、FTO、アウトランダー、ギャランフォルティス、パジェロミニなど。 ダイハツ:アルティス、テリオス、テリオスキッド、ビーゴ 70.3mm ランドローバー:2代目レンジローバー、2代目ディスカバリー 71.6mm ポルシェ(マカンを除く) 72.6mm BMW:4代目5シリーズ(E39)を除く ランドローバー:3代目レンジローバー、レンジローバースポーツ、ディスカバリー3 73.0mm 日産:旧日産車 74mm BMW:4代目5シリーズ(E39) 100mm 日産:E50系エルグランド 106mm トヨタ: 200系ハイエース 164mm 中型・大型トラック・バス: JIS方式17.5インチホイール、JIS方式19.5インチホイール 221.2mm 中型・大型トラック・バス: 新ISO方式19.5インチホイール、JIS方式19.5インチホイール、JIS方式22.5インチホイール 176mm トレーラー: 新ISO方式17.5インチホイール 281.2mm 中型・大型トラック・バス: 新ISO方式22.5インチホイール トレーラー: 新ISO方式22.5インチホイール 車輪 ハブ (機械) ナット座ピッチ直径", "最低地上高(さいていちじょうこう)とは高さの要素の一つを表す自動車用語で、水平な地表面から車体の一番低い箇所までの垂直距離を指す。ロードクリアランスとも称す。 英語圏ではminimum ride heightやminimum ground clearanceと呼ばれる。 車体の一番低い箇所は車両によってまちまちで、マフラーのサイレンサーやエンジンのオイルパン、エアロパーツなどで最低地上高が決まる。最低地上高が高いほど凹凸が大きい路面で車体下部に配置される部品が損傷する危険性を回避でき、そうした路面を走行することを考慮した車種では最低地上高が比較的高く設計されている。一方、スポーツカーなどは重心を下げたり、高速走行時の空力特性を重視したりといった理由で最低地上高が比較的低い。 日本の保安基準では普通乗用車を含む分類の自動車に対して、最低地上高は9センチメートル以上(小数点以下切り捨て)と定められており、下記にあげられる部品は測定対象外とされる。 タイヤと連動して上下するブレーキ・ドラムの下端、緩衝装置のうちのロア・アーム等の下端 自由度を有するゴム製の部品 マッド・ガード、エアダム・スカート、エア・カット・フラップ等であって樹脂製のもの 装甲戦闘車両(AFV)や農作業用の車両は、極めて凹凸の激しい地形を進んだり、敵軍により仕掛けられた障害物や農作物をまたいで進む必要があるため、一般的な車両とは異なる構造を用いて高い最低地上高を確保したものもある。その一つがハブリダクションによるポータルアクスル(門型アクスル)という構造である。 ユーザーが任意に車高を調節できる機構を備えたサスペンション部品や自動的に車高を調整するサスペンション部品も製品化されて、市販車両に搭載されるようになった。エアサスペンションやハイドロニューマチック、アクティブサスペンション、セミアクティブサスペンションなどを装備する車両では、空気圧や油圧を変化させて車高を変化させる物がある。アウディ・オールロードクワトロなどの近代的な車両では、道路条件を自動的に判断して車高を調整するシステムが装備されているものもある。 より簡素な構造の車高調整式ショックアブソーバーも製品化されている。 改造によって意図的に最低地上高を下げることはシャコタンあるいはローダウンなどと呼ばる場合がある。スプリングやショックアブソーバーなどのサスペンション部品の交換が主な改造手段であるが、極端な例ではコイルスプリングを切除したり、極端に小径なタイヤを装着して車高を下げる改造例もある。 オフロード車などで見られる、最低地上高を上げる改造はリフトアップなどと呼ばれる場合がある。サスペンション部品の交換や大径タイヤの装着が主な手法であるが、ボディとフレームの間にスペーサーを挿入する手法がとられる例も少なくない。 北米で用いられる大型トレーラーのなかには、ホイールベースが10mを超えるものもあり、なおかつ、重機を積載するために低床化したフラットベッドと呼ばれるトレーラーは最低地上高が低いため、緩やかな道路の起伏でも車体中央部の底面が路面に接触して進行できなくなる場合がある。特に踏切部分は前後の道路よりも盛り上がった形で作られることが多く、踏切上で大型トレーラーが身動きできなくなると重大な踏切事故につながる危険性があることから、アメリカの踏切には低床大型トレーラーに対する警告標識が設置されている場合がある(日本でも、真ん中が盛り上がった踏切は「かまぼこ型」と呼ばれ、踏切上で立ち往生して事故となることもある)。 バス車両、特にワンステップバスやノンステップバスでは出入口の段差や床面が低くなっているため、その分最低地上高も低い傾向となっている。 オートバイの場合はフレームの最も低い部分、エンジンのクランクケース部分、カウルあるいはフェアリングの最も低い部分などが該当することが多い。オートバイの場合にも、オンロードバイクの場合には最低地上高は低め、オフロードバイクの場合には高めに設定されることが多い。しかし、オートバイは旋回時に車体をバンクさせる必要があったり、車体の一部が路面に接触することは転倒へつながる恐れがあることから、レース用の車両でも路面に擦るほどまで最低地上高を下げる例はあまりない。極端に最低地上高を高くする例も、足つき性が悪くなるなどの問題が発生するために行われない。旋回時に車体をバンクさせないサイドカーでは小径のタイヤへ交換することで全体の最低地上高を下げて、低重心化が行われることがある。 ^ みんなの素朴な疑問 【車高調編】 Archived 2010年3月1日, at the Wayback Machine. ^ 道路運送車両の保安基準の細目を定める告示【2003.09.26】〈第二節〉第85条(最低地上高) ^ “かまぼこ型の踏切で立ち往生し、列車と衝突”. Response.. (2009年7月16日). http://response.jp/article/2009/07/16/127349.html 2014年12月2日閲覧。  サスペンション ショックアブソーバー ハブリダクション シャコタン ローダウン リフトアップ", "ダブルタイヤ (Double tire) とは、主にトラックやバスなどの大型自動車で用いられるタイヤの装着形態の一種である。ツインタイヤ (Twin tire) やデュアルタイヤ (Dual tire) と呼ばれることもあり、アメリカ製のピックアップトラックではDRW(Dual Rear Wheelの略) やデューリー(Dually)と表記されることもある。 一義的には後軸(駆動軸)のホイールを並列に2本並べ、1輪につき同サイズのタイヤを2本使用する形態を指す。これに対して一つの車輪に1本のタイヤとホイールを使用するものはシングルタイヤと呼ばれる。ダブルタイヤ採用の目的は車体用途や設計によりいくつかに分類されるが、一般的にはタイヤ1輪当たりの荷重をダブルタイヤ構成で分散することによって、耐荷重性能を確保する目的が多い。 前軸と後軸の2軸を持つ車両で後軸にダブルタイヤを採用している場合、物理的にはタイヤを6本使用していることになるが、4×4(四輪駆動)や4×2(二輪駆動)といった表記でその車両の駆動方式と輪数を示す場合には、ダブルタイヤの2本のタイヤは1つの車輪として数え上げることが一般的である。例えば後輪2軸ダブルタイヤの車両の場合、タイヤの物理的な本数は2x4x4となるが、駆動方式の表記としては6×2(後1軸駆動)、6×4(後2軸駆動)、6×6(六輪駆動)という形で表される。 ダブルタイヤに用いられるホイールは凸型の断面形状を持っており、車軸の内側は凸面を外側に向け外側は凸面を内側に向けて、両ホイールを向かい合わせた状態でホイールスタッドへ共締めする。基本的には同じ形のホイールの向きを変えて取り付けるため、ダブルタイヤを構成するタイヤのうちどちらか片方がパンクした場合でも、スペアタイヤを1本用意しておけば内側、外側双方に供用することが可能である。 ダブルタイヤ構成を採る場合、構成するタイヤのうち片方がパンク・バーストした場合でも他方のタイヤである程度走行を続けることが可能である。後輪1軸車両の場合、シングルタイヤと異なりパンクによって直ちに走行不能に陥ることがないため、必然的にその車両の冗長性向上に寄与する。ただし、パンクに気づかなかったり、すぐに修理を行えない事情があったりして走行を継続した場合、摩擦熱などにより発火する可能性があるので注意を要する。 シングルタイヤに比して以下の利点と欠点を持つ。 利点 後輪のパンク、バーストに対する走行性能の冗長化が図れる。 小型トラックにおいては、あるサイズのダブルタイヤに対し同一外径・同一耐荷重性能の幅広シングルタイヤが存在する場合があり、幅広シングルタイヤに比べてダブルタイヤの幅の細いタイヤは単価が安い場合が多いため、バーストなどにより1輪のみ交換する際の費用は安くなりやすい。 欠点 車軸当たりのばね下重量(ホイールとタイヤの重量)が増すために乗り心地や積荷への振動が悪化しやすい。 ホイール総数が増えるために、タイヤの消耗により全数を一度に交換する場合においては、交換工賃がシングルタイヤより高騰しがちになる。 タイヤには限界となる耐荷重性能(ロードインデックス)が定められており、車両の重量が最大となる値(一般にいう車両総重量)を用いた場合の1車軸あたりの荷重が、装着されているタイヤ毎の耐荷重性能x装着本数を超える(装着されているタイヤの耐荷重量が、車両総重量の車軸あたり重量を下回る)車両は禁じられている。 その車軸に掛かる重量が、タイヤが左右各1本では耐荷重性能を超える場合、左右各2本、1軸あたり4本のダブルタイヤ構成とすることで、容易にタイヤ1輪当たりの荷重を半分に減らすことができる。また、車軸数を増やすことなく荷台の許容積載量をより大きくすることができる。 主に貨物車用とされているタイヤの側面に記載されているロードインデックスが「93/91」である場合、シングルタイヤとして使用する場合は93(許容輪荷重650kg、許容軸重1300kg)、ダブルタイヤとして使用する場合は91(許容輪荷重615kg x2 = 1230kg、許容軸重2460kg)であることを示している。 このような目的でダブルタイヤとする場合には、前輪と後輪の外径がほぼ同一のタイヤが選択されることが多い。特に平ボディー型牽引自動車のように積・空の重量差が大きい車両では、空荷時に軸数を減らし、高速道路料金の節約等の目的でエアリフトアクスルを装備するものも存在する。車軸総数の多いトレーラーの場合にはタイヤの総数も多くなるため、空荷時の無用なタイヤの消耗を押さえる意味でもこのような構造が重要となる。 荷台の高さを低くする低床化の目的で後軸にダブルタイヤを採用する例がある。この場合には後軸のダブルタイヤには前軸よりも小径のタイヤが装着される。このような車両の場合には前後のタイヤを共用することが出来ないために、二つのサイズのスペアタイヤを車両に搭載しなければならないデメリットがある。 小型トラックにおいては、近年のタイヤ製造技術向上により、小径・低偏平ワイドタイヤでも必要な耐荷重性能を満たせるようになったため、小径リアホイールに低偏平ワイドタイヤを採用してシングルタイヤ構成で済ませている車両も増えてきている。 ダブルタイヤ構成は農業機械のトラクターでも用いられる。この場合は車軸当たりのタイヤ接地面積をダブルタイヤ構成で拡大することによって、不整地での接地圧を低減して走破性を高める目的で用いられる。そのため舗装路を走行する貨物自動車でのダブルタイヤとは異なり、操舵軸である前軸も含めた全ての車輪がダブルタイヤ化されることも多い。 タイヤ 重量の増加に対して主脚のダブルタイヤ化で対処できなかった例 深山 (航空機) He 177 (航空機)" ]
ABC01-02-0049
古代ローマの将軍ファビウスにちなんで名付けられた、イギリスの漸進的社会主義団体は何でしょう?
フェビアン協会
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[ "フェビアン協会", "ニコラ・ボムバッチ", "独立労働党", "インポッシビリズム", "第二半インターナショナル" ]
[ "フェビアン協会(フェビアンきょうかい、Fabian Society)は、19世紀後半に創設された、最もよく知られているイギリスの社会主義知識人による運動。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを設立する際の母体となった。なお、労働党の基盤の団体として、現在も存在している。 古代ローマの軍人である、クィントゥス・ファビウス・マクシムスにちなんで、フェビアン協会と名づけられた。これは、フェビアン協会を設立した知識人の一人、フランク・ポドモアの提案によるものである。クィントゥス・ファビウス・マクシムスは、カルタゴのハンニバルを持久戦で破った名将である。 1884年1月4日、フェビアン協会はロンドンで設立された。1883年にトーマス・デヴィッドソンがロンドンに新生活友愛会をつくり、詩人のエドワード・カーペンター、ジョン・デヴィッドソン、性科学者のヘイヴロック・エリス、エドワード・R・ピースら約9人がメンバーとなっており、この団体の支会として設立された。新生活友愛会は、清潔で単純化された生活の模範を示すことで、社会を変革しようとしていた。しかし、個人の精神生活に籠ろうとするグループと、社会改革に携わろうとするグループがあり、後者のメンバーがより政治的な団体を別に作ろうとした結果、フェビアン協会の創設が決定された。その中心になったのが、フランク・ポドモアである。その後も、全メンバーは自由に両方に関わることができた。1890年代の初めに新生活友愛会は解散されたが、フェビアン協会はヴィクトリア朝末期からエドワード朝の時代のイギリスで、卓越した知識人の協会になった。1896年には第二インターナショナルのロンドン会議にも参加している。 設立後すぐに、ジョージ・バーナード・ショー、シドニー・ウェッブ、ベアトリス・ウェッブ、アニー・ベサント、グレーアム・ウォーラス、ヒューバート・ブランド、イーディス・ネズビット、H・G・ウェルズ、シドニー・オリヴィエ、エミリン・パンクハーストら社会主義に魅力を感じた多くの知識人を引きつけた。その後、バートランド・ラッセルもメンバーになった。このグループは革命的ではなく、むしろ緩やかな変革を志向(社会改良主義)していた。このように、漸進的な社会変革によって教条主義的マルクス主義に対抗し、暴力革命を抑止する思想や運動をフェビアン主義(フェビアニズム)と呼ぶ。 1887年に協会の理念規定書である「基礎」が改訂され、土地と産業資本の共有化を目指すなど社会主義団体としての綱領を明確にした。そして、フェビアン社会主義の理論構築をすすめ、1889年に『フェビアン社会主義論集』が出版された。フェビアン社会主義の特色には、まずひとつにレント(地代)論がある。これはリカードの比較優位理論の骨子を援用し、土地・資本・技能における比較優位から得られる超過利潤は社会的に共有されるべき、という主張だった。他の特色として、社会主義は階級闘争ではなく、社会諸制度の人為的変革によって人類が進歩する過程で出現するという「歴史の制度的な解釈」という理論がある。『フェビアン社会主義論集』は刊行後の3年間で2万部以上を売り上げ、フェビアン協会は社会的に認知され会員数も急増していった。1890年代にはフェビアン社会主義に共鳴する組織が国内外に相次いで組織された。 なお、社会主義と心霊主義はともに理想社会(世俗的千年王国)をこの世に到来させようとする点で一致しており、両者は密接な関係にあった。そのため、ポドモアやベザントなどの初期のメンバーには、心霊主義の傾向が強い者が少なからずいた。 フェビアンは当初、国内問題に主な関心があり、ロンドンだけが活動範囲であったが、ボーア戦争が始まる1900年頃には、対外問題も議論するようになる。フェビアンは自由帝国主義を唱えるローズベリーを支持し、「国民的効率」を目指す新党結成を計画する。その中で、ウェッブ夫妻は新党を準備するためのブレーン・トラストとして、「効率懇話会」を結成する。また、多くのフェビアン(フェビアン協会のメンバー)が、1900年の労働党の前身となる労働代表委員会結成に参加した。 こうした動きにも関わらず、協会の影響力は衰え、1903年にはH・G・ウェルズが加入すると他のメンバーと内輪もめを起こし、協会内は混乱することになる。 しかし、1907年~08年にかけて、オックスフォードやケンブリッジの学生達がフェビアン主義に興味を抱き、協会は第2のブームを迎える。 2つの世界大戦の期間には、第2世代のフェビアンであるR・H・トーニー、G・D・H・コール、ハロルド・ラスキが、社会民主主義思想に大きな影響を与えつづけていた。 組織が拡充する一方で、圧力団体として行政による市民への保障を重視するウェッブなど古参会員と、労働組合を媒介した民主的統治を重視するコールなど若手のギルド社会主義者との軋轢が表面化するようになる。対立の溝は埋めがたく、1915年にはコールがフェビアン協会を離脱している。 1914年に第一次世界大戦が始まると戦時下での労働者保護を目的として、労働党の党首アーサー・ヘンダーソンを委員長とする連合団体「戦時労働者全国委員会」が組織され、多くのフェビアン協会員が委員として参加した。この活動を通して労働党とフェビアン協会の連携が強まり、1915年にはシドニー・ウェッブがフェビアン協会代表として労働党執行部に加わった。1918年に労働党の新綱領が採択されるとともに、シドニー・ウェッブが執筆した政策宣言『労働党と新社会秩序』の表明によって、労働党の社会主義へのコミットメントが明確となった。翌1919年にはフェビアン協会の「基礎」も大きく改訂され、フェビアン協会が労働党の構成団体であることを明確化した。また、従来のプロパガンダ活動に加え、政策研究集団としての活動を打ち出した。 この時期、第三世界の将来のリーダーとなる多くの者がフェビアン思想に感化された。特に、インドのネールは、フェビアンの社会民主主義に基づき、独立後のインドで混合経済体制を運営した。 1928年にフェビアン協会に再合流したコールが、ヒュー・ドルトン、ハーバード・モリソン、クレメント・アトリー、ハロルド・ラスキなどとともに「新フェビアン調査局」を組織し社会主義的な政策研究を進めた。1939年に調査局がフェビアン協会に吸収されることによって、フェビアン協会が労働党のシンクタンクとして実質的に稼働するようになる。 1930年代にはその他にも、ガルブレイス、ビーヴァーブルック、バートランド・ラッセル、スチュアート・チェース、ヘンリー・ウォラスが活躍することになる。 20世紀を通して労働党に常に影響力をもっており、21世紀に入ってもそれは続いている。労働党の党首およびイギリスの首相となったラムゼイ・マクドナルド、クレメント・アトリー、アンソニー・クロスランド、リチャード・クロスマン、トニー・ベン、ハロルド・ウィルソン、トニー・ブレアらがフェビアン協会のメンバーであった。ゴードン・ブラウンもその一員である。 日本でもイギリスのフェビアン協会にならい、1924年4月27日、「日本フェビアン協会」が創立された。発起人には菊池寛、秋田雨雀、安部磯雄、島中雄三ら9人が名を連ねた。綱領で「社会主義が空想として扱われた時代は過ぎた。人類は今、社会主義が主張する提案の採否をすべき時機に臨んでいる」と立脚点を説明。創立当初は28人しかいなかった会員が、年末には87人に達したという。下中弥三郎、小川未明なども加わったが、結局仲間割れの形で1年もたたずに姿を消してしまった。 ^ a b c d e 光永 2005, pp. 150-162. ^ 吉村正和 著 『心霊の文化史—スピリチュアルな英国近代』河出書房新社、2010年 ^ 「綱領」(安部磯雄『普通選挙と無産政党(日本フェビアン協会パンフレット第2)』日本フェビアン協会、1925年) 光永雅明、川北稔(編)、2005、「社会主義運動の結社」、『結社のイギリス史:クラブから帝国まで』、山川出版社〈結社の世界史〉 ISBN 4634444402 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス - フェビアン協会のメンバーが中心になって創設 バウ・グループ(英語版) - 保守党のシンクタンク Official website The History of the Fabian Society by Edward R. Pease, its secretary for 25 years; from Project Gutenberg", "ニコラ・ボムバッチ(Nicola Bombacci、1879年10月24日 - 1945年4月28日)は、イタリアの政治家、政治学者、教師。 イタリア社会党時代からのベニト・ムッソリーニの旧友であり、共産主義者でありながらファシズムに関わる人生を歩んだ。ソ連滞在中、画家のイサーク・ブロツキーが書いたスケッチが残されている。 1879年10月24日、イタリア中部に位置するエミリア=ロマーニャ州のフォルリに生まれる。師範学校を経て小学校教師として働きつつ、政治家としてイタリア社会党(PSI)の党支部書記長などを務めた。社会党では改良主義や社会民主主義の否定を掲げる最大綱領派の一員としてアントニオ・グラムシ、パルミーロ・トリアッティらと行動を共にしたが、同郷出身で教師出身という似た境遇を持つベニート・ムッソリーニとも親友の間柄だった。彼はムッソリーニが第一次世界大戦への不参加を主張した党を民族主義の観点から批判し、除名された後も交流を続けた社会党時代の友人の一人だった。 1919年11月16日、同年の総選挙(1919年イタリア総選挙)でイタリア社会党の最大綱領派から出馬、当選して下院議員となった。しかし自身も既存の社会党組織に不満を持っており、最大綱領派によるイタリア共産党(PCI)の結党に参加して社会党を離党した。イタリア共産党はソヴィエト連邦共産党を中心とするコミンテルンに加盟し、古巣のイタリア社会党のみならず、自分達と同じく分派したジャコモ・マッテオッティのイタリア統一社会党(PSU)やムッソリーニの国家ファシスト党(PNF)とも対峙した。しかし敵ではなく味方に裏切られる形で党内の政治闘争に敗れ、1925年に下院議員を退いた後は政治の表舞台から遠ざかった。 一方、旧社会党勢力の内部分裂を制したのはムッソリーニのファシズム運動であった。ローマ進軍でサヴォイア家の後見を取り付け、マッテオッティ暗殺事件後に独裁権も獲得したムッソリーニは反ファシストから下院議席を剥奪する議案を制定するなど一党制を推し進めた。やがて共産党も壊滅状態に追い込まれ、グラムシは逮捕、トリアッティはソ連に亡命した。自身は政治から離れてソ連との貿易業を営んでいたので直接的な影響はなかったが、ソ連がスターリン時代の鎖国的な経済体制に突入すると困窮した生活に追い込まれた。そんな苦境に影から金銭を援助して助けたのがムッソリーニであり、後に事実を知って深く感謝したという。 戦争が二度目の大戦に向かう中で両者の交流は再開され、政治理論についての文通を重ねている。そして国家ファシスト党内での反独クーデターにムッソリーニが直面すると、二人は青年時代の政治的盟友へと回帰した。1936年に社会主義や共産主義を通過点とした上で、ファシズムをその完成点として位置づけている。ナチスのアドルフ・ヒトラーから救出されたムッソリーニが共和制におけるファシズムの完成を掲げて共和ファシスト党(PFR)を設立すると、これに協力してイタリア社会共和国(RSI)の経済顧問となり、大企業の完全国有化などを押し進めている。1945年にはジェノヴァでの演説で「スターリンは決して社会主義を作り出すことはない」とソ連型社会主義を批判している。 ドイツのC軍集団とRSI軍が連合軍に最終的敗北を喫すると、ファシズムに殉じる覚悟であったムッソリーニは武装した党員や義勇兵を連れてミラノからコモ湖を抜けてアルプス山脈沿いのヴァルテリーナの要塞へと向かった。自らも「最後まで彼に付いていこう」と決めてロドルフォ・グラツィアーニ陸軍元帥、アレッサンドロ・パヴォリニーニPFR書記長、アキーレ・スタラーチェPNF元書記長らRSI政府の要人らとヴァルテリーナへ同行した。途中で連合軍との交渉を求めたグラツィアーニが一行から外れ、残った面々はドイツ軍部隊と行動中にパルチザン、レジスタンス組織に拘束された。トリアッティが影響力を持つ親ソ派パルチザンからは裏切り者の扱いであった事から即時死刑が言い渡され、1945年4月28日に銃殺された。 彼にとってはムッソリーニこそがマルクスやレーニンの後継者であった。処刑場ではかつての仲間である共産主義者達に毅然と向き合い、「ムッソリーニ万歳!社会主義万歳!」(Viva Mussolini! Viva il Socialismo!)と高らかに叫んだという。死後、遺体はジュリーノ・ディ・メッゼグラで処刑されたムッソリーニと共にロレート市場で吊るされた。 ^ Mack Smith, Denis (1994). Mussolini. London: Phoenix. p. 312. ISBN 1-85799-240-7.  ^ Norling, Erik (2011), Revolutionary Fascism, Lisbon, Portugal: Finis Mundi Press, p. 30  ^ Petacco, Arrigo (1996), Il comunista in camicia nera: Nicola Bombacci tra Lenin e Mussolini, Milan, p. 115  ^ Smith, Denis Mack (1983). Vintage. p. 317. ISBN 0-394-71658-2.  ^ Bosworth, R.J.B (2011), Mussolini, New York: Bloomsbury Academic, p. 511  ^ Muravchik, Joshua (2002), Heaven on Earth: The Rise and Fall of Socialism, New York: Encounter Books, p. 171  ^ Steve Cole (2009年8月5日). “The Execution of Mussolini”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。 経済の社会化 ジャック・ドリオ(フランス共産党からナチズムに転向した政治家) 『ムッソリーニ 一イタリア人の物語』 中公叢書 ロマノ・ヴルピッタ 著", "独立労働党(どくりつろうどうとう、Independent Labour Party、略称:ILP)は、かつてイギリスに存在した社会主義政党。1893年設立。1906年から1932年まで労働党と合流しており、1947年に3名の議会議員が同党へ移籍。1975年には独立労働パブリケーションとして同党へ再加入を果たしている。 19世紀後半以降、労働者階級の代表者を政治の場に送り出すのが、多くのイギリス人にとって最大の関心事となった。この目的を果たすための主たる手段として、イギリス議会では自由党にその役割を見出した者は多い。例えば1869年には早くも、独立代表同盟が自由党候補支援のため労働者を動員。 また、多くの労働組合も自らの目標を達成すべく、議会に代表を得るのに関心を持っていた。1870年代以降、労働組合から資金面での援助を受けている労働者階級の候補が、自由党の支援も受けるようになる。 多くの革新系知識人、就中キリスト教社会主義や、社会の再構築という倫理的義務を帯びた同様の概念の影響を受けた者も、自由党を労働者階級の代表を得るための最良の手段と見做した。漸進主義組織のフェビアン協会も1884年の設立から暫くの間、自由党の政策へ公式に関与。 その後、所謂「リブ・ラブ協定」の候補で、労働組合及び自由党内の急進派知識人との共闘により、議員に当選を果たした者は多い。 しかし、議会に労働者階級の代表を送り出すため、中産階級に属する自由党と共闘するという考えが、広く受け入れられた訳では無かった。 労働者階級と資本家階級との間に階級闘争があると信ずるマルクス主義者は、議会から得られるほんの僅かな慈善と引き換えに、小ブルジョアの自由党と手を組むのを拒否。 イギリスの古典的マルクス主義者は1881年、社会民主同盟(SDF)を結成するに至る。続く1886年には、国内の労働組合の連合体である労働組合会議(TUC)が、選挙母体として結成された。 階級闘争に与しない革新系知識人も、自由党のイデオロギーや組織形態の他、労働者階級を二の次にするような施策に不満を抱く。こうした考えや行動の中から、ケア・ハーディを筆頭とする新世代の活動家が生まれる事となる。 ハーディはウィリアム・グラッドストン率いる自由党員で、ランカシャーの炭鉱にて労働組合のオルグに携わっていたが、独立した労働者政党を欲するスコットランド人であった。 1888年、ヘンリー・ハイド・チャンピオンやトム・マンら社会民主同盟の党員と協力しながら、スコットランド労働党の設立に尽力。 1890年には、アメリカ合衆国が外国産の布に対し関税を掛けた事により、国内の織物業全般が賃金カットに見舞われる。これを受け、ブラッドフォードのマニンガム製作所でストライキが発生するが、副産物として如何なる主要政党からも独立した組織ブラッドフォード労働組合が誕生。労働者階級が自由党から離反する動きが、力を持ちつつある事が示された出来事であった。 新党結成への議論がロバート・ブラッチフォードの新聞クラリオン(1891年創刊)や、ジョセフ・バージェスの編集するワークマンズ・タイムズでも見られるようになった。後者は、既存の政治団体から独立した労働者政党の設立を支持する署名を、3500筆程度集めた事でも知られる。 1892年7月に行われたイギリス総選挙では、3名の労働者(ケア・ハーディ、ジョン・バーンズ、ジョセフ・ハヴロック・ウィルソン)が自由党から支援を受けずに当選。 同年9月にはTUCの席上、独立した労働組織の支持者による会合を求める声明を出す。準備委員会設置を経て、翌年1月にブラッドフォードで党大会が開かれた。ウィリアム・ヘンリー・ドリューが議長を務めたこの党大会にて、独立労働党の結党が示され、ケア・ハーディが初代議長に就任。 党名こそ「社会党」ではなく「労働党」としたものの、党是を「生産や流通、取引手段の集団的、公的所有を目指す」事が、圧倒的に受け入れられた。また綱領では、以下に掲げる進歩主義的な社会改革を実行に移すとしている。 大学まで教育の無償化及び世俗化を実施 児童に対する医療や教育の充実 住宅改革 失業手当や最低賃金法など労働政策の確立 孤児、寡婦、高齢者、障害者及び病人に対する福祉の充実 児童労働や超過勤務、単価仕事の根絶と8時間労働の確立 党大会では新党の母体も設立。各地方組織の代議員から成る月例総会が「党の最高かつ執行機関」とされ、書記は全国管理委員会(NAC)が直接統制下に置く事とした。このNACは支部会議で出された指示に従って、理論上行動を制限された地方の代議員から構成。 新党は大いなる希望と期待を背負って結成されたものの、最初の数年間は困難に満ち溢れていた。党や指導、組織の方向性を巡って論争が絶えなかったため、期待された程選挙で躍進しなかったのである。 国民の信を問うて臨んだ1895年の総選挙では惨敗。NACが党の論争を纏め上げる上で主導権を握り、ILP公認候補が28名しかいない中での選挙であった。 個人的人気がある党首のケア・ハーディでさえ、保守党と直接対決すれば負けるであろうとされ、全員落選。なお、この選挙では「リブ・ラブ派」に転向し、自由党急進派の支援を受けたバーンズが議席を維持。何れにせよ、1895年の選挙における大敗は、とめど無い楽観論が党内を覆う事になる。 このように、ILPは当初より決して一枚岩の組織ではなく、寧ろ労働者階級の「包括政党」を目指しており、不明確かつ無定形の社会主義的なアジェンダを主張。歴史家のロバート・E・ドーズは次のように述べている。 ILPは当初より労働者階級の政党として、労働組合に影響を与えようとしていた。ヘンリー・ペイリンが述べたように、「議会で権力を握るため、労働組合から資金を得て、労働組合との連携」 を模索していたのである。ILPの社会主義は、この目標に達する上での理想であった。如何に理論的な基礎を欠いていようが、労働組合員の要求に事実上応える事が出来た。具体的には禁酒運動、スコットランド民族主義、メソジスト、マルクス主義、フェビアン主義そしてバーク流の保守主義さえ、問題無く包含していたのである。こうした多様性は奇妙ではあるが、教条主義に基づき如何なる者をも排除しないという計り知れない利点があり、当時の事情を考えても軽視する事は出来ない。 勿論緩やかかつ多様な考えを擁する党であるが故、組織の本性なり計画を巡っては論争が絶えなかった。党組織の決定は当初は厳格な民主主義に基づいており、党大会が1895年の総選挙に際しての政策を決めるために開かれたように、こうした議論が幾許かの強い影響を与えている。 にも関わらず、NACは選挙に纏わる決定や他党との関係といった、重大な問題に大きく関与するなど、党活動に相当の権力を保持するようになった。1895年の総選挙における敗北を契機に、中央集権化や反民主的な行為を加速させる事となる。 19世紀末のNACにおいて、党首ケア・ハーディに加え、党指導部において向こう20年間の方向性を共有する4名の人物が登場。1897年NACに選出され、1900年にハーディの後継として議長に就いたスコットランド人ブルース・グレーシャー、福音派社会主義者のフィリップ・スノーデン、労働組合員としての出馬を拒絶された事から、自由党への幻滅を味わったラムゼイ・マクドナルドである。 4人の間にはかなりの個人的な確執があったものの、党がマルクス主義を標榜する社会民主同盟のようなイデオロギーに基づく統一体というよりは寧ろ、労働組合との連携を模索すべきとする基本的な見解は共有していた。 1895年の総選挙における敗北以後、党執行部は選挙戦を通じての党勢拡大を断念。1898年までには、出来るだけ多くの候補を擁立して党の露出を最大限まで図り、得票率を最大限にまで積み重ねるよりは寧ろ、候補の擁立を公式に控えるに至る。 労働組合との関係もまた問題が多かった。1890年代においては労働組合との連携が上手くいかず、労働組合員の入党が成ったものの、党役員との関係が希薄となってゆく。 1900年には労働代表委員会の結成に中心的な役割を果たし、労働党が1906年に結党された際は直ちに合流。派閥の形成や党の存続が許される見返りに、結党から数年間は労働党の活動基盤を提供する事となる。 SDFやその分派である社会主義労働党、イギリス社会党とは対照的に、ILPは新参者を比較的容易に惹き付ける傾向にあった。 ヴィクター・グレイソンは1906年、特定の政治問題に触れる事無く、「信仰復興運動のように」キャンペーンを行った事を誇らしげに回想。後に議長を務める フェンナー・ブロックウェイも後年、1907年に開かれたILPの地方支部の集会の様子について、次のように述べている。 日曜日の夜になると、集会が労働教会運動のような様相を呈していた。我々はボランティアでちょっとしたオーケストラを組み、労働歌や演説が殆ど福音主義的で、不正義を告発する気概に溢れ、新たな社会への期待を抱かせる物であった。 社会主義を人道的に必要と位置付ける事で、ある種の世俗宗教なり、日常生活にキリスト教を適用する手段として用いられる一方で、非論理的であるが故に相当浅薄になるという、重大な弱点を抱えていた。 歴史家のジョン・キャラハンは社会主義がハーディ、グレーシャー、スノーデンやマクドナルドの手に掛かると、「不正義に対して漠然とした抗議」しかしないようになったという。 その後、ILPと労働党との関係はゴタゴタが続く。労働党が社会改良に及び腰であったり、結党から数年で社会主義的なビジョンから距離を置くようになったと見做すILPの党員は多かったのである。1912年 にはILPの多くの支部がヘンリー・ハインドマン率いるSDFとの合流を選択し、イギリス社会党を設立。 1914年4月11日、ブラッドフォードで設立21周年を祝う党大会を開く。ここ10年で党勢は急成長し、党員数は約3万人となった。執行部のみならず一般党員も今や平和主義者となり、戦争を「悪」とする風が強くなる。 同年8月の第一次世界大戦勃発は、国内の革新系組織に衝撃を与えた。ある歴史家が後年述べたように、「ハインドマンやカニンガム・グラハム、ウィル・ソーンやジョン・ロバート・クラインスは和平を模索したが、一旦戦争が始まると、社会主義者や労働組合員も他者と同様、その成り行きを見守った」という。 労働党に関しては、40名の議会議員の殆どと同様、党役員の大半が大戦に向けて徴兵キャンペーンを打つ事となる。ただし、独立労働党のみが超然とした態度を取った。 ILPは軍国主義や戦争にあくまで反対の立場を貫いたものの、こうした姿勢に対してジョージ・ニコル・バーンズ、ジョン・ロバート・クラインス、ジェームズ・パーカー、ジョージ・ワードルそしてジョージ・ヘンリー・ロバーツといった古参議員の主流派が離党。 一方で平和主義者のラムゼイ・マクドナルドは、開戦直後に労働党議長を辞職。ケア・ハーディ、フィリップ・スノーデン、ウィリアム・クロウフォード・アンダーソンの他、急進的平和主義を志向するグループも、政府や戦争を支持する労働党に断固とした立場を貫いた。 なお、大戦中の1917年6月にリーズで開かれたロシア革命会議は、アイルランドやインド、エジプトの完全独立を要求。 第一次世界大戦が1918年11月に終結すると、第二インターナショナルが事実上再結成。ILPがこの再建された第二インターナショナルと手を組むか、他の国際組織と連携するかで問題となった。 翌年1月にはモスクワから第三インターナショナル結成の呼び掛けがなされ、ILPの急進派に対して大きく訴える所となる。ただしILPの党員の大半は、旧第二インターナショナルが第一次世界大戦支持を鮮明にした事で失望しており、ILP自体も1920年春、公式に脱退した。 またILP執行部、就中ラムゼイ・マクドナルドやフィリップ・スノーデンも、コミンテルン加入に難色を示している。しかしILPの急進派はコミンテルンに加入すべく、ILP左派と呼ばれる党派を立ち上げた。同派はグラスゴーにて、4ページ組の隔週刊紙『インターナショナル』の発行を開始。 第二インターナショナルとの関係を絶った事に加え、1920年に開かれたILPの年次総会では、包括的な国際組織の樹立を視野に入れ、スイス社会党との関係を深める。 同年5月21日には、ILP議長のリチャード・ウォールヘッド及び国民評議会のメンバーであるクリフォード・アレンが、コミンテルン宛に質問状を送付。コミンテルン執行委員会(ECCI) はプロレタリアート独裁及びソビエト体制のイギリスへの適用についての立場や、普遍的な原理としての軍事力の必要性に関する見解を求められた。 同年7月のコミンテルンからの返答は明白であった。組織内に共産主義者がいる事は認識しているが、「フェビアン協会やラムゼイ・マクドナルド、フィリップ・スノーデン」のように、嘗て「議会制民主主義という古臭い概念」を活用したり、労働運動で「低劣な譲歩や妥協」を行った者とは連携しないというのである。返答は以下の通り。 これらの指導者は広範な未熟練労働者や、粉骨砕身して働く貧困層との連携をせず、資本家の搾取及びプロレタリアートの革命的目標が明白となっている。彼らにとっては、資本家が労働者を取引相手と同様に扱っているため、労働者階級も資本と同等の権利を確保したように思えただろう。また、自身の社会的立場も安泰で、物質的にも恵まれているため、平和的な中流階級の生活という、薔薇色の展望を通じて世界を見ている。プロレタリアートの革命的な闘争によってブルジョアジーとの平和的な取引に乱れが生じているため、プロレタリアートの革命的目標の敵なのである。 ECCIは「独立労働党内の共産主義者」に直接訴える事とし、「イギリスの革命勢力は独立労働党から離れ」、イギリス社会党や社会主義労働党の共産主義者や、ウェールズ及びスコットランドの急進派と連携するよう忠告。「イギリスひいては全世界の労働者階級の解放は、単一の共産党を形成するイギリスの共産主義者に掛かっている」と締め括った。 ILP年次総会におけるコミンテルン加入の呼び掛けは、1921年に頂点を迎えるものの、党支部による投票の結果、圧倒的多数で否決されている。この過程で経済学者のエミール・バーンズやジャーナリストのラジャニ・パーム・ダット、議会議員のシャプルジ・サクラトヴァラら急進派が脱党、1920年8月にイギリス共産党(CPGB)を立ち上げる事となる。 第二インターナショナルの社会改良主義政策と、コミンテルンの革命的政策との間に位置していたILPの「中道主義」により、1921年から1923年にかけて、ヨーロッパの多くの社会主義団体が第二半インターナショナルへ加入。なお、ILP自体は1923年から1933年までの間、労働社会主義インターナショナルの加盟政党であった。 1922年の総選挙では、後に議長となるジェームズ・マクストンらILP系候補が複数当選し、党勢拡大が成っている。労働党の勝利にも貢献しているが、初の労働党政権には大いに失望。政権構想を整えていたものの、労働党執行部がこれを拒否したためである。 1929年から1931年にかけての第二次労働党政権では、37名の労働党議員がILPから支援を受け、労働党の指導体制に左派の立場から批判する事となる。この間、1930年に開かれたILPの会合では、政策が労働党とは異なる以上、議会議員は党を割ってまでILPの政策を支持すべきとの決定が下された。 ILPは1928年、「我々の時代における社会主義」なる綱領を作成し、以下の計画の中に具体化している。 生活賃金を一部実施 失業手当の大幅な引き上げ 銀行の国有化を一部実施 原料の大量購入 食料品の大量購入 電力の国有化 輸送機関の国有化 土地の国有化 これら8項目のうち、生活賃金や失業手当、銀行の国有化や原料、食料品の大量購入はILPの主たる関心事であった。 失業手当の増額や大量購入への切り替えは合意により実施される事となるが、生活賃金の支払い方法については、労働党の政策と食い違いを見せる。ILPは1924年から実施されている、雇用者の貯蓄の中から支払う方法を「大陸的」と批判。高額所得者への課税強化を通じて、手当の費用に充てるべきとした。 銀行の国有化は経済政策に抜本的な改革を迫る物であり、労働党の方針とは一切無縁であった。また、労働党政権が行う銀行や金融機関への立入調査も支持。この立入調査の目的は、イングランド銀行に端を発し主要銀行へと拡大した、大蔵省やイングランド銀行によるデフレ政策の終結である。 立入調査はイングランド銀行の国有化と銀行法改正に向けた、詳細な計画を準備する事となる。また、債権者を調査し金の保有を処分する事で、「信用の管理を大手金融グループではなく国家が行う」のを保証する物であった。 労働党との対立が明白となる中、1931年のILPスコットランド党大会で、同党との連携を未だ続けるべきかが議論となり、結局は連携の存続が決定。 1931年の総選挙ではILP系候補が議会労働党の指示を受け入れず、同党への支援を公式に取り止める事となる。ILPの党員5名が労働党外でILPのグループを結成。1932年には特別会議を開き、投票の結果、労働党との連携解消を打ち出す。 同年、左翼社会主義政党の「ロンドン支部」を共同で設立。後に国際革命的マルクス主義センター(第三半インターナショナル)と呼ばれるこの組織は、ILPが運営し同党のフェンナー・ブロックウェイが議長を務める事となる。 労働党左派に属するエナイリン・ベヴァンはILPの連携解消を「高潔ではあるが無意味」な決定と評するが、暫くして労働党外でのILPの政治的影響力が衰微すると、その批判が的中。なお、労働党内に留まる事を選択したILPの党員もおり、社会主義同盟創設の際、重要な役割を果たした。 連携解消はILPの党勢に壊滅的な影響を与える事となる。1932年に16773名を数えた党員は、1935年に4392名となり、ほんの3年間で党員の75%が離党するに至っている。1934年には独立社会党結党のため、離党が相次ぐ。 残った党員は若く急進的となる傾向にあった。就中スペイン内戦では25名の党員とジョージ・オーウェルらそのシンパが、共和国側を支持して参戦。 1939年には労働党の政策に「良心的に反対」しているにも関わらず、同党へ再合流を求める私信を出す。労働党はこれを一蹴し、再合流の条件はILPによって撤回され得るとした。 第一次世界大戦時と同様、第二次世界大戦に倫理的観点から反対。戦時中にあっても、選挙で積極的に候補を擁立している。 終戦時においては幾許かの力を有していたが、その直後危機が訪れた。1945年の総選挙においてグラスゴーで3議席を保持したものの、うち1人が労働党に寝返ったのである(党会議は労働党への再合流を拒否)。 1946年には党内きってのスポークスマンであるジェームズ・マクストンが死去。その後の補欠選挙で労働党候補に辛勝するが、翌年全議会議員が労働党に鞍替え、補欠選挙でも惨敗を喫する。なお、これ以後総選挙で当選者を出していない。 こうした不運にもめげずILPは生き永らえ、1950年代から1960年代初頭にかけて反核運動を主導。脱植民地化キャンペーンのみならず、関連組織との関係は細々としながらも続いた。 1970年代に労働党に関する見解を発表、1975年には独立労働パブリケーションと名を改め、労働党主流派内の圧力団体となる。 1894年 - 1900年:ケア・ハーディ 1900年 - 1903年:ブルース・グレーシャー 1903年 - 1906年:フィリップ・スノーデン 1906年 - 1909年:ラムゼイ・マクドナルド 1909年 - 1910年:フレデリック・ウィリアム・ ジョウェット 1910年 - 1913年:ウィリアム・クロウフォード・アンダーソン 1913年 - 1914年:ケア・ハーディ 1914年 - 1917年:フレデリック・ウィリアム・ ジョウェット 1917年 - 1920年:フィリップ・スノーデン 1920年 - 1923年:リチャード・ウォールヘッド 1923年 - 1926年:クリフォード・アレン 1926年 - 1931年:ジェームズ・マクストン 1931年 - 1934年:フェンナー・ブロックウェイ 1934年 - 1939年:ジェームズ・マクストン 1939年 - 1941年:C・A・スミス 1941年 - 1943年:ジョン・マクガバン 1943年 - 1948年:ロバート・エドワーズ 1948年 - 1951年:デイヴィッド・ギブソン 1951年 - 1953年:フレッド・バートン 1953年 - 1958年:アニー・マクストン 1958年 -1961年:フレッド・モレル 1962年 - 1971年:エムリス・トマス 1971年 - 1975年:不明 ^ Henry Pelling, The Origins of the Labour Party. 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Kingsleyによってブリティッシュコロンビア州で広まった。彼の何人かのメンバーによるカナダ社会党は、1901年から1910年の期間の州議会で当選した。 またインポッシビリズムは、イギリス社会党 (SPGB)はじめとする世界社会主義運動の理論や実践の基礎ともなった。 ^ Marxists.org, Enclopedia of Marxism: Impossibilism 社会主義 左翼共産主義 Larry Gambone, \"The Impossibilists, A short history of Canadian Impossibilism, with selections from the press of the Socialist Party of Canada and the One Big Union, 1906-1938, Red Lion Press, 1995 The Impossibilists by Larry Gambone - Socialist History Project Leadership or Impossibilism?", "第二半インターナショナル (だいにはんインターナショナル、2½ International)は、第一次世界大戦後に第二インターナショナルとコミンテルン(第三インターナショナル)の統合をめざして結成された社会主義者の国際組織である。 正式には「国際社会党(行動)同盟」(International Working Union of Socialist Parties / 「社会主義諸政党国際協働体」とも)と称し、一般には「第二半インターナショナル」「ウィーン・インターナショナル」(ウィーン連合)という通称でより知られている。なお「第二半」という表現はコミンテルン側からの貶称である。 1920年4月にイギリス独立労働党は、すべてを包括したインターナショナルの再興計画に関して、スイス社会民主党に打診したことがあった。一年にわたる協議の結果、この目的は達成されなかったが、1921年2月にウィーンで開かれた会議で、オーストリア社会民主党を中心にしてもう一つの「インターナショナル」が創設された。しかし、これは第2・第3の両インターナショナルによって同じようにボイコットされた。第二半インターナショナルは、革命的祖国敗北主義と社会革命との完全な関連を承認することを拒んでレーニンの激しい攻撃の的となった「ツィンメルヴァルト多数派」(ツィンメルヴァルト会議で多数を占めた右派)の後継者であった。このグループは、善意の平和主義と、抗争しているインターナショナルの中間を行こうとする意思の他なにも綱領らしきものを持たなかった。 1922年初めに、世界の労働者組織の一般会議を提案したところが、統一戦線の政策を採っていたコミンテルン側に熱心に受け容れられ、2月にコミンテルン執行委員会は「労働者大衆の統一行動は」「政治的見解での原則の相違にかかわらず」ただちに実現できる、と明言した。第2インターナショナル側ははるかに慎重であったが、それでも4月2日に3つのインターナショナルはベルリンの国会議事堂 (ドイツ)で会議を開く。このときの第二半インターナショナルの代表は、オーストリアは社会民主党左派(オーストロ=マルクス主義派)のフリードリヒ・アドラーとオットー・バウアー、フランスからはジャン・ロンゲ、ロシアのメンシェヴィキであるユーリー・マルトフとアブラモヴィッチ、イギリス独立労働党のウォールヘッドなどであった。決議はなされたものの、レーニンの反対は強く、5月23日にフランス・イギリス・ベルギーの諸党が開いたインターナショナル再統合のための組織委員会から、コミンテルン側は脱退した。その年の終わりに、ドイツ独立社会民主党の残党がドイツ社会民主党に合流した結果として、第二半インターナショナルは労働社会主義インターナショナルに平穏に吸収された。 「国際社会党行動同盟」 『新編西洋史辞典』 東京創元社、1983年" ]
ABC01-02-0050
五千円札の裏に描かれている「逆さ富士」が写っているのは、何という湖でしょう?
本栖湖
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[ "本栖湖", "河口湖", "田貫湖", "浮島沼", "西湖 (富士五湖)" ]
[ "本栖湖(もとすこ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町及び南巨摩郡身延町に跨いで存在する湖。富士山の北西山麓にあり、富士五湖の一つで、最西端に位置する。最大水深121.6mは、富士五湖の中で最も深い。 千円紙幣E号券、五千円紙幣D号券の裏面に描かれる逆さ富士のモデルとして有名である。 湖岸は山梨県南都留郡富士河口湖町(旧西八代郡上九一色村)及び南巨摩郡身延町(旧西八代郡下部町)に属するが、湖面は境界未定である。旧上九一色村(現・甲府市および富士河口湖町)では、湖面全てが村に属すると主張していた。最大水深は富士五湖で最も深く、面積は3番目の大きさである。富士箱根伊豆国立公園の特別地域内にある。 流入・流出河川はないが、同じ富士五湖の西湖や精進湖とは透水性が高いスコリア層などを通して地下水が行き来しているとみられる。湖面の高さは海抜約900mで、降雨などがあっても水位がほぼ連動して変化する。これは、3湖が平安時代初期まで剗の海と呼ばれた一つの湖で、富士山の延暦2年(800年)噴火による溶岩流で本栖湖が分かれ、さらに貞観大噴火(864年)で残った部分が西湖と精進湖に分断されたためである。 こうした地理的条件や歴史から、火山灰などの湖底堆積物から富士山の噴火史を推測する研究・分析の対象となっている 本栖湖と西湖の間で、溶岩流の上に形成された森林が今日の青木が原樹海である。なお、この三湖及び流入河川は海に面していない内陸県では唯一の二級水系となっている。 湖岸のうち、富士河口湖町側は「本栖」地区、身延町側は「中ノ倉」および「釜額」地区に属するが、身延町側には人家はほとんどない。本栖地区の人口は134人(2017年9月1日時点)。 湖水の透明度は、『理科年表』平成24年 85冊では 11.2m が採用されている。季節変動があり、最小値はプランクトンの増加する7月、最大値は9月、従って調査を行った時期と組織により異なった値が示されている。しかし、好条件であれば、20mを超える透明度を観測することもあり、本州では実質的に最高透明度の湖であるが、栄養塩類の増加に伴い透明度が低下しているとされている。 近年では水の透明度が低下していたが、2001年から毎年6月の第一土曜日に本栖湖クリーンアップを開催。2006年3月から水上オートバイやモーターボート等の動力船の使用を禁止するなど水質が綺麗になってきている。 2013年(平成25年)6月22日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産(富士山域)の一つとして、世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。 ウィンドサーフィンのメッカであり、夏季には多くのウィンドサーファーが訪れる。風光明媚なため湖畔周辺にはホテルや企業の研修所が並ぶほか、レジャーの場として活用されている。観光船による遊覧や、ブラウントラウトやニジマスなどを狙うフィッシングも盛ん。ヒメマスの釣り場としても知られる。静岡大学教育学部附属静岡中学校の生徒・教員が毎年7月に、湖畔でキャンプを行う。 1966年から2001年まで、全国モーターボート競走会連合会(現・日本モーターボート競走会)が運営する本栖研修所や競艇の育成センターがあり、湖面を使って練習が行われていた(2001年以降は福岡県柳川市に「やまと競艇学校(現:ボートレーサー養成所)」として移転)。競艇界では「本栖」という言葉が、やまと移転前の競艇研修所のことを指す隠語として使われていた。 1973年の東宝怪獣映画『ゴジラ対メガロ』で、冒頭のイルカの乗り物のシーンが撮影された。渦巻く湖と怪しい光と干上がる湖は特撮である。 前述のヒメマス、ニジマス、ブラウントラウトのほか鯉、オイカワ、ウナギ、ワカサギなどが棲息している 外来生物法の特定外来生物であるコクチバス、オオクチバスが1990年代に密放流され、在来生態系への影響が懸念されていたが、1997年から地元漁協や山梨県による駆除活動の結果 2004年以降 2012年まで確認情報が無いことからコクチバスに関しては根絶されたと考えられる(オオクチバスに関しては2014年時点も生息している)。 夜明け前の本栖湖 本栖湖の日の出 逆さ富士 本栖湖 本栖湖のランドサット画像 本栖湖北岸からの日の出 ボート上からの富士山 五千円紙幣D号券の裏面 ^ a b 国土地理院 (2015年3月6日). “平成26年全国都道府県市区町村別面積調 湖沼面積 (PDF)”. 2015年3月24日閲覧。 ^ a b c 湖沼湿原調査 国土地理院 ^ 環境庁 1989年調査 ^ “富士箱根伊豆国立公園の区域図 (PDF)”. 環境省. 2012年2月1日閲覧。 ^ 竹内邦良、切石史子、今村英之、「富士五湖の水位変動機構」『水工学論文集』1995年 39巻 p.31-36, doi:10.2208/prohe.39.31 ^ 「富士山、未知の噴火2度?秋田大など 本栖湖の固定調査」『日本経済新聞』朝刊2018年10月11日(社会面)2018年10月19日閲覧。 ^ 富士河口湖町ホームページ ^ a b 大八木英夫、濱田浩美、富士山周辺の湖沼における透明度の長期的変動 日本地理学会発表要旨集 発表要旨資料集 2013年度日本地理学会春季学術大会 セッションID:201 , doi:10.14866/ajg.2013s.0_1 ^ 濱田浩美、勝又大樹、大八木英夫、本栖湖の水温・水質の季節変化と水収支 千葉大学教育学部研究紀要 第60巻 p.459-468 (2012) ^ 本栖湖の釣り(2017年4月2日)FTUJIYAMA NAVI、2018年10月19日閲覧。 ^ 大浜秀規:本栖湖に密放流されたコクチバス Micropterus dolomieu の根絶 『日本水産学会誌』 Vol.79 (2013) No.4 p.617, doi:10.2331/suisan.79.617 日本の湖沼一覧 富士五湖 本栖湖(地図閲覧サービス) (国土地理院) 富士五湖のデータ比較 山梨日日新聞社 YBS山梨放送 山梨県内水源池及び湖沼の水質特性と富栄養度 『日本水処理生物学会誌』 Vol.31 (1995) No.3 P175-184, doi:10.2521/jswtb.31.175", "河口湖(かわぐちこ)は、本州の中部、富士山の近くに存在する、富士五湖の1つに数えられる相模川水系の湖である。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。富士五湖の中で最も長い湖岸線を持ち、最も低い標高地点にある。面積は富士五湖では2番目の大きさで、最大水深は精進湖とほぼ同じで 14.6m の深さ。 湖の中央に鵜の島(鸕鷀島)と呼ばれる小さな島がある。また、産屋ヶ崎は富士山展望の好適地とされているほか、乳ヶ崎、小曲岬(子轉ヶ崎)、長崎(胞ヶ崎)などの景勝も存在する。 「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。 富士五湖の中で最も北に位置し、全体が山梨県南東部の南都留郡富士河口湖町に属する。 河口湖には天然の流出口がないため、古来より大雨により増水し、湖岸の村々に洪水被害を出した。一方で、山を挟んだ東の新倉村(現・富士吉田市新倉)では透水性の溶岩台地が広がり、水利に乏しく、湖水を新倉方面へ通水させる用水路の開発が求められていた。新倉掘抜は江戸時代初期から工事が行われ、曲折を経て、江戸後期の1865年に完成し、新倉村は河口湖の水利権を保持している。1911年には新たなトンネルが掘削されたため、それ以降、新倉掘抜は利用されていない。 現在は、1917年に竣工した第二嘯川(東京電力の放水路)と1994年に完成した嘯治水トンネルを合わせた、嘯(うそぶき)川から構成される放水路により、宮川に放水される。この宮川は桂川(=相模川)の支流であるため、河口湖は相模川水系に属している。 湖の東には三つ峠、北には御坂山地の黒岳、節刀ヶ岳が連なり、さらに西には十二ヶ岳がそびえる。南側は開け、そこに富士山が山容を見せ、湖面に写る逆さ富士は、湖の優れた景勝である。 富士五湖のうち、もっとも早く観光開発された。平成になってから温泉が掘削され、富士河口湖温泉郷として東岸に温泉街が形成されている。湖畔にはオルゴールの森、天上山へのアクセスとなるカチカチ山ロープウェイ、河口湖遊覧船、河口湖猿まわし劇場、キャンプ場、そして多くのホテル・旅館、飲食店、物産店などがある。また、山梨県内で唯一の漕艇場があり、河口湖漕艇場として北岸側に艇庫・桟橋が整備されている。シーズン中は1000m×6コースが岸に対して斜めに張られており、斜めであるため、競技観戦の際には注意を要する。元々は河口湖大橋の北側付近に艇庫・桟橋があったものの、1986年の山梨国体の開催が決まった際、その大会規模に対して当時の設備が小さすぎることから、現在の場所に移転・拡大された。 ブラックバスが遊漁の対象として公的に認められている湖であり、マス類の放流もバスと共に盛んであるため、周囲には貸しボート店や釣具屋が多く、さらにはコンビニにまで釣り具が置いてある。全国的にもバスフィッシングのメッカとして知られており、連日多くの釣り人が訪れる。ただし、湖底にソフトルアーが大量に残されていることが問題視され、2007年に、芦ノ湖に次いでソフトルアー使用禁止の湖となった。 2013年6月22日には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つとして世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。 2013年、水位が低下した状態が半年以上継続。通常は水上に浮いて見えるお堂の「六角堂」まで歩いていける状態となり話題を呼んだ。2015年にもまた水位が低下し、六角堂が再び陸続きとなった。 天上山公園カチカチ山ロープウェイ 河口湖遊覧船 河口湖ハーブ館 山梨宝石博物館・河口湖 河口湖美術館 河口湖オルゴールの森美術館 河口湖猿まわし劇場 河口湖木ノ花美術館 久保田一竹美術館 河口湖自然生活館 河口湖体験工房クラフトパーク 富士大石 ハナテラス 864年 - 剣丸尾溶岩流によって剗の海の排水河が堰き止められて河口湖ができる 1274年 - 船津溶岩で礎石を作り、川窪寺屋敷建設 1469年 - 筒口が塞がれる 1559年 - 川窪寺屋敷消失 小説家の谷崎潤一郎(1886年 - 1965年)の代表作『細雪』には河口湖が登場する。「細雪」は第1回及び第2回が1943年1月と3月の『中央公論』に掲載されたものの、陸軍報道部の命令により以降の連載が中止となった。終戦後、1946年8月に『細雪』上巻が、1947年2月に中巻が中央公論社から刊行された後、同年3月から1948年10月まで「婦人公論」に下巻に相当する部分が連載された後、1948年12月に下巻が中央公論社から刊行されている。 『細雪』は大阪船場の旧家・蒔岡家の四姉妹の物語であるが、作中の次女・幸子と貞之助夫妻が旧婚旅行で河口湖に滞在する場面が描かれている。谷崎は1942年9月25日に南都留郡勝山村(現在の富士河口湖町勝山)の富士ビューホテルに滞在しており、滞在中に谷崎が妻松子の妹である渡辺重子にあてた1942年9月26日消印の葉書には、「翌日27日の午後5時27分に新宿駅に着く」旨が記されている。 1996年5月30日には富士ビューホテルからすぐ目の前に臨む河口湖湖畔に『細雪』の一節を刻んだ文学碑が建てられ除幕式が行われている。 中央自動車道:河口湖IC 国道137号 国道139号(富士パノラマライン) 富士急行河口湖線:河口湖駅 ^ 国土地理院 (2015年3月6日). “平成26年全国都道府県市区町村別面積調 湖沼面積 (PDF)”. 2015年3月24日閲覧。 ^ a b 湖沼の概要 (PDF) 山梨県 ^ 新撰名勝地誌: 東海道西部 (Google Books) ^ 甲斐志料集成: 地理部 1 (Google Books) ^ 南都留郡誌 (Google Books) ^ 上流での洪水被害とその対策について 相模川水系 (PDF) - 国土交通省 第71回河川整備基本方針検討小委員会提出補足説明資料1-1 平成19年7月11日 ^ “カラカラ河口湖、湖底露出はや半年 観光人気は衰えず”. 朝日新聞. (2013年8月16日). http://www.asahi.com/national/update/0815/TKY201308150385.html 2013年8月16日閲覧。  ^ “河口湖の水位が低下 「湖上のお堂」徒歩で行けるように”. 朝日新聞. (2013年3月24日). http://www.asahi.com/eco/articles/TKY201303230047.html 2013年8月16日閲覧。  ^ 河口湖に浮かぶ「浮島」が陸続きに 降水量は平年値のおよそ半分 富士山経済新聞 2015年5月25日閲覧 ^ 富士山火山の歴史(有史の富士山) 日本の湖沼一覧 富士五湖 美しい日本の歩きたくなるみち500選", "田貫湖(たぬきこ)は、静岡県富士宮市にある湖。断層活動により隆起した古富士泥流の窪地を拡大させて形成された人造湖で、富士山の西麓・朝霧高原の一角に位置する。 元々は狸沼あるいは田貫沼と呼ばれていた小さな沼地であったが、1923年に発生した関東大震災の影響で、周辺の水の供給を賄っていた芝川の水量が減少したことから、農業用水を確保するために1935年(昭和10年)から狸沼に堤防を建設し始め、沼を人工的に拡張。これにより706,000m3の貯水ができる人造湖となった。その後も水の需要増加に応じて堤防の拡張工事を行い、東西1km、南北0.5kmの大きさになり、貯水量が1,200,000m3にまで増えた。 湖の周辺は自然と触れ合える場所として整備され、自転車で湖を1周することができる道路のほか、宿泊施設やキャンプ場、レストハウスなどがある。長者ヶ岳への登山道も整備されている。 周辺にはボート乗り場があり、ヘラブナ釣りも盛んに行われている。北岸では4月中旬~5月中旬に多くのレンゲツツジ・ヤマツツジが姿を見せる。各種の野鳥やホタルの観測スポットとしても知られる。レンタル自転車があり、湖を1周20分~30分位で楽しむことができる。 田貫湖は富士山の大沢崩れのほぼ正面方向にあたり、富士山の険しい山容を望める適地である。 4月20日と8月20日頃の天気の良い早朝に、湖畔にある休暇村富士の正面からダイヤモンド富士を見ることができ、多くのカメラマンで賑わう。 キャンプ場も設けられているため、キャンプを間に入れた富士山観光も可能である。 田貫湖ふれあい自然塾(環境省の運営する施設) 休暇村富士(宿泊施設、温泉) 田貫湖キャンプ場(バンガロー、テントサイト) 田貫湖畔荘 駐車場(無料。レストハウスに200台、田貫湖ふれあい自然塾に82台、田貫湖畔荘に50台、その他数カ所あり) 小田貫湿原 田貫神社 テラス・桟橋 サイクリングロード トイレ、コインシャワー、売店など 1km以内に下記設備もある。 天子の森キャンプ場 ラ・フォンテーヌ・バカンス 自動車 東名高速道路富士インターチェンジから西富士道路および国道139号を経由し約50分。 中央自動車道河口湖IC→国道139号→静岡県道414号富士富士宮線 バス JR富士宮駅より富士急静岡バス「休暇村富士」行きで45分。バス停は、「田貫湖南」「田貫湖キャンプ場」「休暇村富士」など。 東京駅より高速バス「富士宮~東京線(ヤキソバEXPRESS)」にて3時間18分(1日1便)。 富士箱根伊豆国立公園 小田貫湿原 長者ヶ岳 陣馬の滝  小田急花鳥山脈  日本の人造湖一覧 田貫 (小惑星) ロボット8ちゃん 第40話「夏だ!キャンプだ!青春だ!!」で、田貫湖のバンガローでロケーションが行われた。 DOORS 2006 TBS系列で2006年9月24日に放送された。当番組で行われたアトラクションの一つ「ウォーターバイク」のロケ地として使用された。 田貫湖ふれあい自然塾 - 環境省 田貫湖 - 富士宮市観光課 田貫湖案内 - 田貫湖キャンプ場", "浮島沼(うきしまぬま)とは、静岡県沼津市と富士市に跨る湿地帯に存在した沼群の総称。 かつては富士市の須津地区を中心として、浮島地区や沼津市の原地区にわたる湿地に大小の沼が点在しており、これらを総称して浮島沼と呼んだ。柏原沼、須津沼、富士沼、大沼、広沼などとも呼ばれていた。沼の周囲には浮島ヶ原と呼ばれる、湿田やヨシ、マコモが茂る低湿地帯が広がっていた。中里地区の「西の池」とともに須津湖として富士講における内八海の1つに数えられたが、江戸時代は陸化が進み内八海から外された。 ここでは、海面との標高差が少なく、大雨や高潮が襲うと冠水するため新田開発が困難であり、江戸時代を通して潮除堤(しおよけつづみ)が盛んに築かれてきた。しかし、これが逆に排水を困難にさせ被害が増大することもあった。昭和30年代まで湿田農耕が続けられ、腰や胸まで浸かって田植えをしなけらばならない湿田も多く、ナンバやオオアシ、タブネなどの独自の農具が発達し、浮島沼周辺の農耕生産用具152点が静岡県指定の有形民俗文化財となっている。 現在では治水事業により一般的な水田となり、年々、宅地・商業地・工場用地として開発が進み、水田も徐々に減っている。地盤が脆弱であるため、東海道新幹線や東名高速道路は浮島沼を避け、愛鷹山の裾野に建設された。浮島ヶ原の東西には沼川が流れている。 完新世の初期には駿河湾の一部であったが、徐々に狩野川、富士川、愛鷹山から流出した砂礫が沖積し砂州を造り、やがて潟湖になり、浮島ヶ原の湿地帯となった。 鎌倉時代の書物、「東関紀行」には「此の原、昔は海上に浮かび、蓬莱の三つの島の如く在りけるに依りて浮島と名付けたり」とある。[要出典] 「沼のばんばあ」という、増水によって亡くなったおばあさんと子供の昔話が残っている。 沼津市によって最終処分場や屎尿処理場が建設され、富士市によって「浮島ヶ原自然公園」や自然の沼を活かした「浮島沼つり場公園」が整備されている。 足利竹若丸 父の足利尊氏が鎌倉幕府に叛乱し、上洛途中に浮島ヶ原で幕府の追手の刺客の手に倒れた。 ^ a b c d e f g 浮島ヶ原自然公園の解説版より ^ 富士市文化財関係資料 ^ 【広報ふじ昭和59年】ふるさとの昔話 浮島ヶ原自然公園 浮島村 (静岡県) 日本の湖沼一覧 座標: 北緯35度08分55秒 東経138度43分57秒 / 北緯35.148688度 東経138.732605度 / 35.148688; 138.732605", "西湖(さいこ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町にある湖。富士五湖の一つ。 山梨県南部、富士河口湖町の中央付近に位置する。富士山の火山活動によって生じた堰止湖。面積は富士五湖では4番目の大きさで、最大水深は2番目の深さで 71.7m。山梨県指定天然記念物フジマリモの群落地である。富士箱根伊豆国立公園の特別地域内にある。 かつて富士山北麓には、剗の海という広大な湖があった。やがてその西部に溶岩流が流れ込んで分断され、本栖湖が生まれた。さらに平安時代初期の貞観6年(864年)に富士山が大噴火(貞観大噴火)を引き起こし、流れ出た膨大な量の溶岩流によって剗の海は大半が埋め尽くされた。この時に埋め残された東端が現在の西湖で、精進湖は北側の湾の一つである。現在でも雨水による増水時に、それぞれの湖で水位が一定して同じく推移するため、3つの湖は地下でつながっていると考えられている。 西湖には本来、自然排水による河川が存在していなかったが、近年人工的に河口湖に放流する排水路が完成し、標高差を利用した発電も行われている。1981年(昭和56年)には湖中から中世の丸木舟が発見され、山梨県指定有形文化財となっている。 2013年(平成25年)6月22日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産(富士山域)の一つとして、世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。 火山性堰止湖によくあるように、もともと西湖は魚の棲む湖ではなかったが、近代以降漁業目的で魚が放流されるようになり、1913年(大正2年)にはヒメマスが放流され、今日では漁業だけではなく、ヒメマス釣りは西湖でのレジャーのひとつとなっている。 1935年(昭和10年)には同じ富士五湖の本栖湖とともに、秋田県の田沢湖にのみ生息していた固有種であるクニマスの受精卵十万粒が送られ、ふ化後放流されたが、その後の西湖での生息は長年にわたり不明であった。元々の生息地である田沢湖では電源開発に伴う酸性水の流入により絶滅してしまったため、1990年代になって関係者により西湖を含めた過去の移植放流先の探索調査が行われたが、クニマスを見つけることは出来なかった。しかし、2010年(平成22年)京都大学研究チームの調査で、約70年ぶりに西湖での生息が確認された。 クニマスは環境庁レッドリストによる分類では絶滅種であったが、絶滅種の再発見は魚類としては日本国内における初の事例である。 この発見がきっかけとなって、2011年(平成23年)11月に田沢湖との姉妹湖提携が行なわれた。 1977年4月29日に公開された東映京都撮影所製作の特撮映画『恐竜・怪鳥の伝説』の舞台になっている。 西湖の南側には青木ヶ原樹海が広がる。湖岸には「西湖民宿村」と「根場(ねんば)民宿村」があり、ほかに閑静なキャンプ場等が点在するが、富士五湖の中では最も観光化が進んでいない。2つの民宿村やキャンプ場は、小・中学校の林間学校やスポーツ、音楽等のサークルの合宿などによく利用されており、そのための設備(小体育館やテニスコート、音楽室など)を備えた民宿も多い。なお、この二つの民宿村は、1966年(昭和41年)の台風26号による土石流災害で集落が壊滅したのを受け、住民が集団移転して形成されたものである。かつての根場集落があった場所には2006年(平成18年)、集落を復元した観光施設「西湖いやしの里根場」がオープンした。 ^ 国土地理院 (2015年3月6日). “平成26年全国都道府県市区町村別面積調 湖沼面積 (PDF)”. 2015年3月24日閲覧。 ^ a b c “富士五湖”. 山梨県. 2012年2月1日閲覧。 ^ 湖沼の概要 (PDF) 山梨県 ^ “富士箱根伊豆国立公園の区域図 (PDF)”. 環境省. 2012年2月1日閲覧。 ^ ■幻の魚クニマス 田沢湖に生命を育む会 ^ 絶滅種クニマス、70年ぶり確認=秋田・田沢湖の固有種、山梨・西湖で-京大教授ら 時事ドットコム、2010年12月15日 ^ 絶滅クニマス西湖にいた、田沢湖産と遺伝子一致70年ぶり確認『山梨日日新聞』2010年12月16日付朝刊、第2版、第1面及び21面。 ^ “クニマスの縁…田沢湖と西湖が姉妹湖提携”. 読売新聞社 (2011年11月2日). 2011年11月4日閲覧。 日本の湖沼一覧 富士五湖 西湖いやしの里根場 西湖蝙蝠穴およびコウモリ 富士山マラソン 西湖(地図閲覧サービス)(国土地理院) 西湖観光協会 西湖漁業協同組合" ]
ABC01-02-0051
おおいぬ座のアルファ星はシリウスですが、こいぬ座のアルファ星は何でしょう?
プロキオン
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[ "プロキオン", "シリウス", "オリオン座U星", "かじき座S星", "はくちょう座P星" ]
[ "プロキオン(Procyon)は、こいぬ座α星、こいぬ座で最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ。おおいぬ座のシリウス、オリオン座のベテルギウスともに、冬の大三角を形成している。また、冬のダイヤモンドを形成する恒星の1つでもある。 薄黄色の恒星で、距離は11.46光年と太陽系に非常に近い。実視連星だが、伴星が白色矮星であまりにも暗いため小望遠鏡では分離できない。同様に白色矮星の伴星を連れているシリウスと比較するとやや低温 (6,650K) で、一回り大きい(プロキオンの直径は太陽の2.048倍、シリウスは1.68倍)。 アストロメトリー的手法によって1861年には伴星の存在が明らかになっていたが、初めて直接観測に成功したのは1896年だった。 プロキオンはシリウスより質量が小さいが直径は大きく、温度の割に明るい。これは、主系列星の段階が終わりに近づいているためと考えられている。 0.1 - 1億年以内にはプロキオンは赤色巨星へと進化すると思われる。この段階では、水素の核融合反応により生じたヘリウムが中心核にたまっており、水素の核融合はその周囲で継続しているが、ヘリウムの芯は大きな密度と重力で圧縮されて温度が1億度にも達し、それまで水素の核融合で生じた「灰」であったヘリウムの核融合が始まる為だと思われる。それに従って星の外層は膨張し、大きさは現在の80 - 150倍(半径 0.7 - 1.3 AU)に達する。一方で表面温度は低下するので、赤っぽく見えるようになる。 ヘリウムの核融合は炭素や酸素の原子核を生成するが、プロキオンは質量が小さいため(太陽の1.5倍程度)、それらが核融合を起こす温度には至らず、外層部の水素を大量に放出して惑星状星雲を形成し、残された中心核は白色矮星となって一生を終えると考えられる。 学名はα Canis Minoris (略称は α CMi) 。固有名のプロキオン (Procyon) は、ギリシア語の Προκύων をラテン語表記したもので、「犬に先立つもの」を意味する。これは、犬の星とされるシリウスが東の地平線から昇ってくる少し前に、プロキオンが姿を現すことに由来する。2016年6月30日に国際天文学連合の恒星の命名に関するワーキンググループ (Working Group on Star Names, WGSN) は、Procyon をこいぬ座α星Aの固有名として承認した。 アラビア語では、「北のシリウス」を意味する「アッ=シアラー・アッ=シャーミヤ (الشعرى الشامية, aš-ši‘ra aš-šamiyah) 」と呼ばれた。これもまたシリウスが「南のシリウス」を意味する「アッ=シアラー・アル=ヤマーニヤ (aš-ši‘ra al-yamāniya) 」と呼ばれたのに対して命名されたものである。 日本では、島根県地方で「色白 (いろしろ) 」と呼ばれる。これに対してシリウスは「南の色白」と呼ばれている。 ^ a b パーセクは1 ÷ 年周視差(秒)より計算、光年は1÷年周視差(秒)×3.2615638より計算 ^ a b 視等級 + 5 + 5×log(年周視差(秒))より計算。小数第1位まで表記 ^ Pro (~の前) + cyon (犬) ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s “SIMBAD Astronomical Database”. 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Twissによって、ジョドレルバンク天文台の強度干渉計を使い、初めて測定された。一方、シリウスBは2005年にハッブル宇宙望遠鏡を使って測定された。その結果、直径は約12,000kmで、地球の98%であるとされた。 西暦150年頃の古代ローマの天文学者トレミーは、先述の通り、著書アルマゲストにおいて、シリウスをベテルギウス、アンタレス、アルデバラン、アークトゥルス、ポルックスと共に「赤く」輝く恒星と表現している。しかし、実際のシリウスは青白く発光している。この不一致は、イギリスのラトランドにあるLyndon村のアマチュア天文家Thomas Barkerによって最初に指摘され、1760年、ロンドンにある王立協会で行われた会議で発表された。1839年、ジョン・ハーシェルは2年前に見たりゅうこつ座η星の影響をおそらく受けて、改めてシリウスの色について指摘した。1892年、トーマス・シーはこれに関するいくつかの論文を出版し、1926年に最終的な要旨が発表され、赤いシリウスに関する議論が再び行われるようになった。なおシーはトレミーだけでなく詩人アラトスや雄弁家キケロ、将軍ゲルマニクスの文章も引用しているが、彼ら3人は天文学者ではなく、キケロとゲルマニクスはアラトスの著書『現象 (Phaenomena) 』を翻訳・引用しているに過ぎない。ローマ帝国の政治家ルキウス・アンナエウス・セネカもシリウスは火星よりも赤いと記述している。しかし、全ての古代の記述において、シリウスが赤いとされている訳ではない。1世紀の詩人マルクス・マニリウスは、4世紀のAvienusと同様にシリウスを「海の青」と表現している。また古代中国では、紀元前2世紀から7世紀までの複数の記録全てにおいてシリウスの色が「白」と表現されている。 1985年、ドイツの天文学者シュロッサーとベルクマンは、8世紀のイタリアロンバルディア州の写本を出版した。内容はトゥールのグレゴリウスが書いたDe cursu stellarum ratioである。このラテン語で記された文章には、恒星の位置から、夜間に参拝を行う時間を求める手法などが記されている。そして、ここでもシリウスは「赤い」と表現されている。出版した2人は、伴星のシリウスBが赤色巨星であったため、シリウスが赤く見えたのではという仮説を唱えた。シリウスBが赤色巨星だったとすれば赤く見える可能性もあるが、わずか数千年でシリウスBが白色矮星になることは、恒星の進化を考えてもあり得ず、他の天文学者からは否定されている。また、この赤い恒星はアークトゥルスを指しているという反論も出されている。また、過去数千年間に赤色巨星化したシリウスBからガスが放出された兆候を示す観測結果は得られておらず、恒星系にそのような変化は無かったとされている。 別の説として、まだ発見されていない第3の天体によって赤く見えたのではという説も提唱されている。 他にも、実際にシリウスが赤いという訳ではなく単なる比喩表現であるという説もある。また、シリウスが地平線の近くにあると、レイリー散乱と呼ばれる、大気の影響で色が赤、白、青と変化する場合がある。 見かけの視等級は-1.46等。先述の通り、太陽以外の恒星では、全天で一番明るい恒星で、2番目に明るいカノープスのほぼ2倍の明るさである。しかし、月や金星、木星ほど明るくなく、時によっては水星と火星もシリウスよりも明るくなる。シリウスは地球のほぼ全球で見る事が出来るが、北緯73度以北の地域では観測する事は出来ない。北半球高緯度の都市では、シリウスは地平線のすぐ近くにしか見えない。例えば、ロシアのサンクトペテルブルクでは地平線の上、わずか13度までしか昇らない。シリウスは、北半球から見ると、ベテルギウスとプロキオンと共に冬の大三角を成している。シリウスの赤緯が約-17度のため、南緯73度以南の地域では周極星になる。地球の歳差運動のため、シリウスはさらに南に移動していくとされている。西暦9000年にはヨーロッパの広範囲で観測する事は出来なくなり、西暦14000年には、赤緯は-67度になり、南アフリカとオーストラリアのほとんどの地域で周極星となる。 シリウスは、条件が揃えば、昼間でも観測する事が出来るが、そのためには空がとても澄んでいないといけない。太陽の高度が低くなるように、高地での観測が望まれる。また、シリウスの赤緯がマイナスのため、南半球の方が観測しやすい。 シリウス系の2つの恒星は、地球から見ると3秒角から11秒角離れて見える。この2つの恒星を分離して観測するには、とても澄んだ夜空で、少なくとも口径12インチ(300mm)の望遠鏡を用意する必要がある。1994年にシリウスBは近点を通過した。その後、シリウスBはシリウスAから離れており、分離がしやすくなっている。 シリウスとの距離は約8.6光年(2.6パーセク)で、これは太陽を除けば5番目に近い恒星である。光度は太陽の25倍で、リゲルやベテルギウス、カノープスなどの超巨星と比較すると、とても暗い。しかし、 地球に最も近い恒星ケンタウルス座α星の約2倍しか離れていないため、肉眼では、それらの恒星よりも明るく見える。シリウスに最も近い恒星はプロキオンで、5.24光年(1.61パーセク)離れている。1977年に木星から海王星までを探査したボイジャー2号は約29万6000年後に、シリウスから4.3光年以内の領域を通過するとされている。 シリウスは太陽系では太陽-天王星間の距離に値する、約20au離れた、50.1年で公転している伴星を持つ連星である。主星のシリウスAは太陽よりも大きいA型主系列星で、推定される表面温度は9,940Kである。伴星のシリウスBは主系列星の段階を終えた白色矮星となっている。現在のシリウスBは、可視光領域では太陽の1万分の1の光度しかないが、かつてはシリウスAよりも質量が大きかった。シリウス星系の年齢は約2億3000万年で、シリウスBが主系列星だった頃は約9.1年で公転しあう2つの青白色の恒星から成る連星系だったと考えられている。赤外線天文衛星IRASによって、シリウスの周辺に塵などが存在していることを示す赤外超過が観測された。連星系内において、赤外超過が観測される事例は珍しいと考えられている。X線天文衛星チャンドラが撮影した画像では、より表面温度が高く、大量のX線を放出している伴星シリウスBの方が明るく見える。 2015年、Viganらの研究チームによって、超大型望遠鏡VLTを使って、シリウスAから0.5au内の距離に木星質量の11倍以上、1-2auの距離に木星質量の6-7倍以上、10au内の距離に木星質量の4倍以上の天体は存在しない事が判明した。 主星のシリウスAは、太陽の約2倍の質量を持つ。半径は天体干渉計によって測定され、その結果、角直径は5.936±0.016ミリ秒と測定された。自転速度は、16km/sと比較的遅く、形状はほぼ球形である。これは、大きさが似通ったベガとは対照的で、ベガは274km/sという高速で自転しており、遠心力によって赤道が膨れた回転楕円体となっている。シリウスAの表面では弱い磁場が検出されている。 シリウスAは誕生から約10億年後に、核融合反応に不可欠な、中心部にある水素を全て使い切ってしまうと考えられている。この時点で、シリウスAは赤色巨星となり、そしてその後、白色矮星へ進化するとされている。 シリウスAのスペクトルに鉄などの重元素の吸収線が強く見られることから、シリウスAはAm星に分類されている。水素と鉄の質量比で表されるシリウスAの金属量は [ Fe H ] = 0.5 {\\displaystyle \\textstyle \\left[{\\frac {{\\ce {Fe}}}{{\\ce {H}}}}\\right]=0.5} で、これは金属量が太陽の100.5倍、すなわち太陽の大気と比べて316%の鉄があることを示している。恒星表面の金属量が高いことは、恒星全体が同じくそうであることを示す訳ではない。鉄や重元素は、恒星中心からの放射圧によって表面へと浮揚されたものである。 伴星シリウスBの質量は太陽とほぼ同じ(太陽質量の0.98倍)で、比較的大きな白色矮星の一つだが、大きさは地球とほぼ同じである。現在の表面温度は25,200K。しかし、内部に核融合反応のような熱源を持たないため、今後20億年以上かけてゆっくりと冷えていくとされている。 白色矮星は、恒星が寿命を迎えた後に残される天体であり、シリウスBは約1億2000万年前に寿命を迎えたと考えられている。主系列星だった頃は、太陽の約5倍の質量を持つ、B型主系列星(スペクトル型B4-B5程度)であったと推測されている。シリウスBが赤色巨星だった時、現在のシリウスAに豊富な金属をもたらしたかもしれない。 シリウスBはヘリウムの核融合反応で生成された炭素と酸素の化合物で構成されている。表面の重力が強いため、周囲の物質は、質量によって分布している領域が異なる。したがって、最も軽い元素である水素のほとんどは、シリウスBの外層を形成している。実際に、シリウスBのスペクトルからは水素以外の物質の吸収線は見られない。 シリウスが星団の一員であるという説は、1909年にアイナー・ヘルツシュプルングによって初めて提唱された。ヘルツシュプルングは、天球上でのシリウス星系の固有運動の観測から、シリウスがおおぐま座運動星団の一員であるとした。おおぐま座運動星団は固有運動を同じくする220の恒星からなり、かつては散開星団であったが現在は互いの重力に束縛されていないグループである。しかしながら、2003年と2005年にかけての研究では、シリウスがこの集団の一員である可能性は疑問視されている。おおぐま座運動星団は5±1億歳程度と見積もられているが、シリウスはこの半分程度の年齢でしかなく、この集団の一員としては若過ぎるためである。これとは別にオリン・エッゲンによって、ぎょしゃ座β星、かんむり座α星、コップ座β星、エリダヌス座β星、へび座β星からなる Sirius Supercluster の一員であるという説が提唱されている。この星団は太陽系から500光年以内に位置する3つの大きな星団のうちの1つである。他の2つはヒアデス星団とプレアデス星団で、いずれも数百の恒星により構成されている。 バイエル符号における名称はα Canis Majoris、略称はα CMa。シリウスは、ギリシャ語で「焼き焦がすもの」「光り輝くもの」を意味する「セイリオス(Σείριος, Seirios)」に由来するが、ギリシャ語自体が、古代以前に他の場所から伝来した可能性がある。古代エジプトの神オシリスとの関連も示唆されている。シリウスの名称は紀元前7世紀頃の詩人ヘーシオドスの仕事と日にて初めて記録されている。2016年、国際天文学連合(IAU)は、恒星の固有名に関するワーキンググループ(Working Group on Star Names, WGSN)を組織した。2016年6月30日にワーキンググループは、Sirius をおおいぬ座α星Aの固有名として公式に承認した。 和名は大星(おおぼし)や青星(あおぼし)、英語では別名Dog Star、中国語では天狼(星) (Tiānláng (xīng)) と呼ばれる。 シリウスには、知られているだけで50以上の名称がある。ジェフリー・チョーサーのエッセイ、A Treatise on the Astrolabe(英語版)に、シリウスは猟犬の頭とされ、Alhadorと記載されている。この名前は西欧のアストロラーベによく使用されている。サンスクリット語では、Mrgavyadha(鹿の狩人)、またはLubdhaka(狩人)と呼ばれた。Mrgavyadhaは、ルドラあるいはシヴァを表しているとしている。マラヤーラム語では、Makarajyotiと呼ばれた。 明るい恒星は、太平洋の多くの島や環礁間を移動する古代ポリネシア人にとってはとても重要な存在だった。古代ポリネシア人は地平線の近くにある、高度が低い恒星を、目的地への航路を決めるコンパス代わりにしていた。また、そのような恒星は目印としても役立たれた。シリウスの場合、赤緯は約-17度であり、これはフィジーの緯度とほぼ同じである。したがって、シリウスは毎晩、島の上を通過していく。シリウスは「大きな鳥」を意味するManuと呼ばれる星座の体を構成している。ちなみに、プロキオンは北側の翼端、カノープスは南側の翼端を成しており、ポリネシアの夜空を2つの半球に分けている。古代ギリシアで朝空のシリウスが夏の到来を示すように、ニュージーランドの先住民族マオリはシリウスを「冬」を意味する Takuruaと呼んで冬の到来を告げる恒星とした。ハワイでは、シリウスは「天国の女王」、Ka'uluaとされ、冬至の日に祝いの対象とされた。他のポリネシア人の間でも、シリウスはいくつかの名称で呼ばれてきた。マルキーズ諸島ではTau-ua、ニュージーランドではRehua、タヒチ島ではTa'urua-fau-papa、あるいはTa'urua-e-hiti-i-te-tara-te-feiaiと呼ばれた。ハワイでは、シリウスには多数の呼び方があり、Aa、Hoku-kauopae、Kau-ano-meha(Kaulanomehaとも)、Hiki-kaueliaまたはHiki-kauilia、Hiki-kau-lono-meha、Kaulua(Kaulua-ihai-mohaiとも)、Hiki-kauelia、Hoku-hoo-kele-waa、Kaulua-lenaなどがある。ソシエテ諸島では、Taurua-fau-papa、Taurua-nui-te-amo-aha、Taurua-e-hiti-i-tara-te-feiaiと呼ばれていた。シリウスの名称として、他にもPalolo-mua(フツナ島)、Mere(マンガイア島)、Apura(マニヒキ島)、Taku-ua(マルギース諸島)、Tokiva(プカプカ島)がある。トゥアモトゥ諸島でも、シリウスに複数の名称があり、Takurua-te-upuupu、Te Kaha、Te Upuupu、Taranga、Vero-ma-torutoruがある。 オーストラリアビクトリア州北西部に居住している先住民族ボロン族はシリウスをWarepilと呼んだ。 ^ a b パーセクは1 ÷ 年周視差(秒)より計算、光年は1÷年周視差(秒)×3.2615638より計算 ^ a b 視等級 + 5 + 5×log(年周視差(秒))より計算。小数第1位まで表記 ^ エリダヌス座ο2星の方が発見が1783年、白色矮星と判明したのも1910年なので早い。 ^ 実際にシリウスと同じスペクトルA型(白)のカノープスは昔の東アジアでは緯度の関係で地平線に赤く見えることが多く、赤ら顔の南極老人の姿で描かれていた例がある。 ^ Two full 50.09-year orbits following the periastron epoch of 1894.13 gives a date of 1994.31. ^ 軌道長半径(天文単位) = 軌道長半径(角度) / 年周視差 = 7.56″ / 0.37921 = 19.8 au; 離心率を0.6とすると、距離は40%~160%、およそ8~32auの間で変動する。 ^ “The Dog Star, Sirius, and its Tiny Companio”. 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Yale University Press.  近い恒星の一覧 明るい恒星の一覧 シリウス - Wikisky: DSS2、SDSS、GALEX、IRAS、Hα、X線、天体写真、天体地図、記事と写真 座標: 06h 45m 08.91728s, −16° 42′ 58.0171″", "オリオン座U星(オリオンざUせい)は、オリオン座の脈動変光星。 ミラ型変光星で、368.3日の周期で4.8等と13.0等の間を変光する。変光に伴いスペクトル型がM6eからM9.5eまで変化する赤色巨星である。U星は2002年9月現在変光星総合カタログ (GCVS) にミラ型変光星として登録されている6712個の星の中では極大等級が7番目に明るく、U星より極大等級が明るいミラ型変光星はミラ(くじら座ο星)(331.96日の周期で2.0等と10.1等の間を変光)、はくちょう座χ星(408.05日の周期で3.3等と14.2等の間を変光)、うみへび座R星(388.87日の周期で3.5等と10.9等の間を変光)、しし座R星(309.95日の周期で4.4等と11.3等の間を変光)、とけい座R星(407.6日の周期で4.7等と14.3等の間を変光)、カシオペヤ座R星(430.46日の周期で4.7等と13.5等の間を変光)だけである。 オリオン座U星は名前通りオリオン座の星であるが、オリオン座の北端で輝いているためオリオンの鼓星の並びから探すのはとても大変な場所にある。だがおうし座から探せば楽に導入することが可能であり、すぐ脇には特徴的な星の並びがあるため、他の星と見間違えることはない。まずおうし座ζ星を導入する。そこから少し東にオリオン座χ1星と2つの6等星及び2つの7等星からなる台形に尾が付いた星の並びが見える。その台形のすぐ脇、詳しくいえばχ1星の東隣にU星が輝いている。 学名はU Orionis(略称:U Ori)、ボン掃天星表での番号はBD+20°1171、ヘンリー・ドレイパーカタログの番号はHD 51725。 ^ 但し常にGCVSに記載されている極大等級まで明るくなるわけではなく、それより暗い極大に終わることもある。これはU星に限らず他のミラ型変光星にも同じことがいえる。 ^ a b 天文観測年表編集委員会 編『2008年 天文観測年表』地人書館、2007年11月20日初版第1刷発行、ISBN 978-4-8052-0789-5、176頁。 ^ a b c d VSX : Detail for U Ori - アメリカ変光星観測者協会公式サイト内のページ。 ^ a b c d e f g h 渡辺努「OBSERVER'S GUIDE 変光星」、『月刊天文』2002年9月号、地人書館、98頁。 ^ a b c d e 『初級変光星図 Ver.1.10』大学天文連盟変光星分科会、1993年5月15日、28頁。 ^ a b c 『初級変光星図 Ver.1.10』大学天文連盟変光星分科会、1993年5月15日、28-29頁。 オリオン座S星 - オリオン座U星同様オリオン座にあるミラ型変光星。但しU星と異なり極大等級は7.2等である。 日本変光星研究会オリオン座U星の星図 日本変光星研究会おうし座SU星の星図 - オリオン座U星の星図も掲載されている。", "かじき座S星は、大マゼラン雲に存在する極超巨星。学名はS Doradus。2011年現在知られている恒星の中では特に光度が大きいものの一つ(その絶対等級は時に、-10等よりも明るく輝く)だが、距離がとても離れているため肉眼では観察できない。 爆発型変光星の一種である「高光度青色変光星」の別名「かじき座S型変光星」の由来となった恒星でもある。この恒星は長く遅いスパンで明るさが変わっていき、変化の際はときどき爆発が発生する。 NGC 1910 直径の大きい恒星の一覧 光度の大きい恒星の一覧 ^ a b c d Lamers, H. 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Bibcode 1995ASPC...83..176L. http://adsabs.harvard.edu/abs/1995aasp.conf..176L 2009年3月25日閲覧。.  S Doradus - The Encyclopedia of Science S DORADUS TYPE ; HUBBLE-SANDAGE VARIABLES S Doradus", "はくちょう座P星 (P Cygni) は、はくちょう座の方向にある爆発型変光星である。巨大な高光度青色変光星 (LBV) で、スペクトル分類はB1Ia+(青色超巨星)であり、銀河系で最も光度の大きい恒星の1つである。 地球からは5,000光年から6,000光年離れているが、5等星なので空が暗い場所なら肉眼で見ることができる。16世紀末に突然明るく輝きだして3等星になるまでは知られていなかった。1600年8月18日にオランダの地図製作者ウィレム・ブラウが初めて観測し、新星としてバイエル符号のPが付与された。6年後から徐々に減光し、1626年には肉眼では見えない程暗くなった。1655年に再び増光し1662年に減光、1665年に再度増光した後、光度変化が繰り返され、1715年以降は5等星として安定し、小さい変動が続く一方、100年で0.15等級前後とわずかずつ増光しているとの報告がある。21世紀初頭における明るさは4.8等級で、数日程度の短い周期で0.1等級未満の不規則な変光を示し、より長い時間軸では0.2等級程度の振幅で不規則に変動している。。 2018年8月には東京大学のグループにより、1600年の増光時に放出されたガスによって生じた半径約2兆kmの衝撃波とは別に、半径約7000万kmの衝撃波が存在するという研究結果が発表された。この衝撃波は、従来知られていた外側の衝撃波と異なり、定常的な恒星からのガスの放出によって生じたものであると考えられている。 はくちょう座P星はかつて、「永遠の新星」と呼ばれていた。スペクトルの類似やガスの放出、そして新星が爆発型変光星と混同されていたことがあるためだが、現在は新星とは別種の天体であることが明らかとなっている。 はくちょう座P星のような明るい高光度青色変光星は、極めて珍しく、寿命も短い。このような星は、銀河の中で星の誕生が激しく続いている場所にしか現れない。高光度青色変光星は質量とエネルギーが非常に大きいため(典型的なものは太陽の50倍の質量、1万倍の光度を持つ)、核融合燃料の水素をすぐに使い尽くしてしまう。このような恒星はわずか数百万年輝いた後、超新星となって爆発する。2006年に観測された超新星SN 2006gyは、銀河系から2億3800万光年離れた位置にあった、はくちょう座P星のような高光度青色変光星の最後の姿だと考えられている。 はくちょう座P星の場合、主系列を離れて間もない水素殻燃焼を起こしている段階で、赤色超巨星への進化の途上にあると考えられ、最後はIIb型超新星として一生を終えると予想される。 分光学的な観測では、単一スペクトル線のプロファイル中に輝線と吸収線の両方が観測され、恒星から離れた位置にまで広がった膨張するガスの外層の存在が示唆された。スペクトル線本来の波長と比べると、恒星に近い高温の領域から放射される輝線は、高い熱運動速度と全方位への膨張によって大きなドップラー幅を持つ一方、より恒星から離れた位置でできる吸収線は、恒星の光を遮る方向でのみ生じ、その方向に膨張するガスは観測者に向かって接近するため青方偏移する。このようなプロファイルは、はくちょう座P星で初めて発見されたのではくちょう座P型プロファイルと呼ばれ、様々なタイプの恒星の恒星風を研究するのに役立つ。 ^ a b c d “P Cyg”. SIMBAD. 2016年12月8日閲覧。 ^ a b de Groot, Mart (March 1988), “The most luminous stars in the universe”, Irish Astronomical Journal 18: 163-170, ISSN 0021-1052, http://articles.adsabs.harvard.edu/full/1988IrAJ...18..163D  ^ de Groot, Mart J.H.; Lamers, Henny J.G.L.M. (30 January 1992), “Observation of gradual brightening of P Cygni due to stellar evolution”, Nature 355: 422-423, doi:10.1038/355422a0, http://www.nature.com/nature/journal/v355/n6359/abs/355422a0.html  ^ “P Cygni”. AAVSO. 2016年12月8日閲覧。 ^ a b “死にゆく大質量星が星のごく近くに作る衝撃波を発見”. AstroArts (2018年9月14日). 2018年9月16日閲覧。 ^ a b Mizumoto, Misaki et al. (2018年8月). “A newly identified emission-line region around P Cygni”. Monthly Notices of the Royal Astronomical Society 481 (1): 793-805. arXiv:1808.04622. Bibcode 2018MNRAS.tmp.2139M. doi:10.1093/mnras/sty2239. ISSN 0035-8711.  ^ Smith, Nathan (2007年). “SN 2006gy: Discovery of the most luminous supernova ever recorded, powered by the death of an extremely massive star like Eta Carinae” (English). arXiv preprint. 2007年4月28日閲覧。 P-CYGNI LINES P Cyg - James B. Kaler P Cygni - ウェイバックマシン(2016年5月27日アーカイブ分)" ]
ABC01-02-0052
いつまでも結論の出ない会議のことを、北条氏が豊臣秀吉に攻められた際の故事から何というでしょう?
小田原評定
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[ "小田原評定", "飯富道悦", "中島豊後守", "三職推任問題", "佐久間軍記" ]
[ "小田原評定(おだわらひょうじょう)は、戦国大名の後北条氏における重臣会議のこと。月2回開かれ、諸事を決した行政機構である。 相模国小田原城(現在の神奈川県小田原市)に本拠を構える戦国大名北条氏に仕える評定衆による合議政治の典型であり、五代にわたって家臣・国人の裏切りが皆無に近い後北条家の強さの裏付けと考えられている。 評定衆は家老クラスの奉行人・重臣による輪番制を採っていたとみられ、多くは印判状の奏者でもあったと推察できるが、詳細については不明である。 小田原合戦時のこと、戦術をめぐる評議における論争で、老臣松田憲秀は籠城を主張したのに対し、北条氏康の四男である北条氏邦は箱根に出撃する野戦を主張して意見が分かれ、また降伏に際しても仲介ルートの選択で結論が出るまで意見が分裂したと言われている通説である。 この故事から、現在では小田原評定という言葉は「いつになっても結論の出ない会議や相談」という意味での比喩表現として使われる。 この故事の小田原評定は臨時評定であり、史料で確認できるものとしては、天保8年(1841年)成立の『改正三河後風土記』があり、前年天正17年11月付けの秀吉からの宣戦布告を受けての 天正18年(1590年)1月 - 「籠城」か「出撃」か。 天正18年(1590年)6月 - 「降伏」か「決戦」か。 であって、それぞれに大勢があって落着し、その後の仕儀になった。 一般的イメージや風説で流布しているような、いつまでも結論が出ないという意味での使用は、享保11年(1726年)成立の『関八州古戦録』で、19世紀初頭の小山田与清『松屋筆記』、『管窺武鑑(越後史集 上杉三代軍記集成)』などがあり、この三巻をもって故事のような通説が浸透していったとみられている。このような通説が成り立った理由として、戦国大名に強い独裁権があったとした上で、その滅亡の理由を、大名個人の性質によるものとする「滅亡の論理」の明解さを求める心理が根底にあるという説がある。 ^ a b 小和田哲男「行政機構としての評定衆」『小田原評定』 ^ 山口博「氏康・氏政と虎印状奏者」『定本・北条氏康』p79 ^ 週刊ダイヤモンド編集部 (2010年3月19日). “全国で唯一の「コンドーム販売規制」長崎県の少年保護育成条例改正が紛糾”. 週刊ダイヤモンド (ダイヤモンド社). http://diamond.jp/articles/-/7651 2016年8月12日閲覧。  ^ 同様の状況をあらわす言い回しに「会議は踊る、されど進まず」(Der Kongress tanzt, aber er geht nicht weiter)があるが、これはウィーン会議にちなんだものである。 ^ a b 小和田哲男「秀吉の小田原攻めと小田原評定」『小田原評定』p.22。 小和田哲男『小田原評定』名著出版(小田原文庫9)、1979年。 下山治久『小田原合戦』角川書店(角川選書)、1996年。 藤木久志・黒田基樹編『定本・北条氏康』高志書院、2004年。", "飯富 道悦(おぶ どうえつ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣。 戦国時代の甲斐国では守護・武田氏と有力国衆との抗争が繰り広げられたが、『勝山記』によれば、永正12年(1515年)10月17日に武田信虎は西郡の国人である大井信達・信業を攻め、大井氏の本拠である富田城を囲んだ。武田方は深田に馬を乗り入れて、道悦・源四郎や今井信房、於曽備州、小山田大和守、甘利衆らが戦死したという。 道悦は信虎・晴信父子に仕えた飯富虎昌・昌景の実父、もしくは近親者とされる。この謀反の際に飯富源四郎という人物も戦死しており、この名は昌景の仮名と一致する。このため、この飯富源四郎が虎昌・昌景兄弟の父親にあたる可能性が指摘される。ただしこの場合、昌景の生年をかなり繰り上げる必要性があり、疑問も残されている。 『一蓮寺過去帳』によれば法名は「宣阿弥陀仏」。山梨県甲斐市亀沢には飯富氏の菩提寺である天沢寺が所在し、『甲斐国志』によればかつて飯富虎昌の位牌が伝来していたという。この位牌には「笑岳悦公居士」と記され、「悦」の一字が共通することから道悦のものであるとも考えられている。 ^ 南アルプス市戸田。 ^ 『山梨県史 通史編2 中世』p.267 ^ 『山梨県史 通史編2 中世』p.267 ^ 丸島(2015)、p.217 ^ a b 柴辻俊六 著『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.194 ^ 丸島(2015)、p.217 ^ 丸島(2015)、p.217 ^ 丸島(2015)、p.217 ^ 丸島(2015)、p.217 書籍 柴辻俊六『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年 丸島和洋「飯富道悦」『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年 史料 『一蓮寺過去帳』", "中島豊後守(なかじま ぶんごのかみ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。諱は不詳。織田氏に仕えた。 初め犬山城主織田信清の家老として、小口城主を務める。信清の敵対により信長が永禄4年(1561年)6月小口城を攻めると、これを撃退。しかし、信長が間近に小牧山城を築くと、城を明け渡して犬山城に退散する。その後、丹羽長秀の調略により、同じ信清家老の和田定利とともに信長方の兵を引き入れ、信清は甲斐に逃亡した。 以後は信長に仕え、永禄12年(1569年)の大河内城の戦い、元亀2年(1571年)の長島一向一揆攻め、天正2年(1574年)には織田信忠に従い長島攻めに参加するが、和田はこの戦いで討ち死にし、中島豊後守も以後史料に登場しなくなる。同戦いで豊後守の次に交名がある中島勝太は、子で継嗣との推測がある。 ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「お久地惣構へ破りの事」 ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「二宮山御こしあるべきの事」 ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「犬山両おとな御忠節の事」 ^ 太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」 ^ 太田牛一 『信長公記』 巻四 「大田口合戦の事」 ^ 太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」 ^ 『寛政重修諸家譜』 ^ 谷口克広 「中島豊後守」『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、2010年、第2版、313頁。ISBN 9784642014571。 ^ 谷口克広 「中島勝太」『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、2010年、第2版、313頁。ISBN 9784642014571。", "三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい、さんしきすいにんもんだい)とは、天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)の記事の解釈を巡る問題と、その論を立脚点とした織田政権の将来構想や本能寺の変の背景に対する考察を含む、日本の歴史学上の論争である。 織田信長は尾張時代には上総介を自称し、今川義元を破った後は尾張守を称していたものの、朝廷より直接任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って備後守や三河守の官を得た父の織田信秀とは対照的である。 信長は将軍・足利義昭を奉じて上洛した後も、弾正少忠や弾正大弼といった比較的低い官に甘んじている。しかし、足利義昭の追放後、急激に信長の官位は上昇した。天正2年(1574年)に参議に任官して以降、わずか3年で従二位右大臣に昇進している。これは武家としては源実朝以来の右大臣任官であり、また信長以前にこれより上位の官職に生前任官した武家も、平清盛(太政大臣)・足利義満(太政大臣)・足利義教(左大臣)・足利義政(左大臣)の4人しかいなかった。しかし信長は天正6年(1578年)4月に右大臣兼右近衛大将を辞した後は官職に就かず、以後4年の長きに渡って散位のままだった。 こののち2度にわたって信長の任官が問題となった。先ずは、天正9年3月、朝廷より左大臣就任を求められるが、信長は正親町天皇の譲位を条件と返答するものの、結局のところ実現はなされなかった。2度目の天正10年4月から5月という時期は、その直前の3月に信長が甲州征伐で甲斐武田氏を滅ぼし、北条氏も実質的に信長に従属したことから、朝廷では当時、これをもって信長が関東を平定したものと解釈していたからである。 5月には武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代・村井貞勝の邸を訪れ、ふたりの間で信長の任官について話し合いが持たれた。勧修寺晴豊はこの件について、日記『晴豊公記』に書き記している。この話し合いのなかで、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することが、朝廷側もしくは信長側から提案された。 三職推任問題とは、この任官を提案したのが朝廷側だったのか信長側だったのかという問題である。 信長が将来的に朝廷をどのように扱おうと考えていたのかを考察する上での貴重な資料となりえる重大な問題だが、信長からの正式な回答が判明する前に本能寺の変が起こったため、信長自身がどのような構想を持っていたのかは永遠の謎となってしまった。 (4月) 廿五日 天晴。 村井所へ参候。 安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候。 その由申入候。 (5月) 四日(中略) のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし申候。 関東打はたされ珎重間、将軍ニなさるへきよしと申候へハ、又御らんもつて御書ある也。 長庵御使にて、上らう御局へ御目かかり可申ふんなから、御返事申入候ハて御目かかり申候儀、いかヽにて御座候間、余に心え可申候由。 いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候。(後略) 五日 大雨降。 今日も御けさんいまたなし。 なひきよりハ、御けさんあるへきよし被申候間まち申候。 はう ゝ より御きけんよく □ □ 候。 あすハ御けさんあるへく候よし候。 六日 天晴。 今日又上ろうより文被遣候。 せひとも御けさんあるへきよし申候へハ、御けさんあるへきよし候てまち申候。 □ん分候。 やかて ゝ 御けさん也。 それ夕かた舟三そう申付られ六日のほり申候。 上ろうきぬ三ひき、見きよせう一そく、あちこつゝき五たん、大御ちの人への同前。 七日 よへより夜舟にて大津へつき申候。 坂本見物申候。 大津にてひるのやすミ。 それよりのほり申候。 上ろう局よりゑちこつゝき御すそわけと候て給候。 いなか一かまきはむ持候て御礼ニ参候。 村井ニ安土よりの返事。 鯉五ツ禁裏より下候。 信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。谷口克広は、各説を以下のように分類している。 対立説…秋田裕毅、朝尾直弘、池享、今谷明、奥野高廣、立花京子、藤木久志、藤田達生 融和説…桐野作人、谷口克広、橋本政宣、堀新、三鬼清一郎、山本博文、脇田修、高澤等 三職推任問題については、対立説(秋田、朝尾、今谷、藤木ら)では、信長が三職推任に明確に反応しなかったのは、朝廷離れの姿勢、もしくは朝廷への圧迫を示したものとする。秋田は、「天皇を自分の権力機構に組み込もうとするため」と見、朝尾は「官位制度の枠外に立つことで朝廷の枠組みから解放されようとした」とし、今谷は「官職就任を天皇の譲位と交換条件にしたため」としている。融和説(谷口、橋本、堀、脇田ら)では、朝廷離れの姿勢を示したものではないとされる。谷口は、左近衛中将の足利義昭への対抗として右近衛大将に任官した以上、信長にとって官位は不要だったとする。ほか、宮廷儀礼から解放されるため(脇田説)、織田家当主とした信忠の方の官位昇進を望んだため(堀、谷口の説)、非公式に太政大臣就任を了承していた(橋本、脇田説)などの見方がある。高澤は「御湯殿上日記」に、信長は二度目の馬揃えの後に誠仁親王の即位の時に官位を受けると明言した記事があることを指摘し、単に時期的なもので問題というほどのものではないとする。 三職推任問題については、双方の説も朝廷主導と見るのが有力であったが、立花京子が信長の意思であるとの新説を提唱し、論争となった(下記)。なお、三職推任問題については、条件提示が本能寺の変直前であったために時間がなくて返答できなかったとも考えられている。 従来伝承されていた『晴豊公記』は、天正10年4月分から同年9月分が欠けていたが、1968年(昭和43年)岩沢愿彦が内閣文庫(現国立公文書館)にあった『天正十年夏記』が『晴豊公記』断簡であることを発表した。岩沢の解釈では、「太政大臣、関白、将軍の三職いずれかに推任するのがよい」と言った主体を(正親町天皇の意向を受けた)晴豊としており、以後もこの解釈を受け、信長はこの天皇の意向を突っぱねたとする説が通説化していた。 ところが、歴史研究家の立花京子が晴豊の日記全体の「被申候」使用例を分析した結果、村井貞勝の言葉と解釈し、独断専行を嫌う信長に無断で貞勝が発言するはずがないとし、信長の将軍任官の意向を踏まえたものであったと主張したことにより、歴史学者の間で賛否両論の論争となった。また立花説では、5月4日付けの記事にある「将軍になるべき」との晴豊の言葉を朝廷公式の意向であったとし、「御らん」(森蘭丸)を派遣した信長の意図を真意を隠しわざと当惑して見せたものとする。立花はこの解釈に基づき、三職推任を信長の勝利と位置づけ、朝廷が拒めなかったものとした。 今谷明は立花説の解釈に立脚しながら、信長は朝廷の権威に屈服し中世的権力関係を指向せざるをえなかったとしている。 この論争は現在も継続しており、いまだ定説と見なされる見解は確定していない。 根拠 信長が平氏を自称し、平清盛と同じ旗印を用いていること 2月に太政大臣に就任したばかりである近衛前久が、5月になって急に辞任していること 本能寺の変後の7月17日、羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙において、秀吉が信長のことを「大相国」と呼んでいること 10月、朝廷において、信長に対する太政大臣贈官が論じられたこと その結果、朝廷から出された贈官の宣命には「重而太政大臣」の語句があり、これを太政大臣の辞令が出されたのが2度目であると解釈するなら、1度目の辞令は三職推任問題の時に既に太政大臣就任の内諾を信長から得た時、非公式に出されていたと解釈できること。 根拠 晴豊が「将軍になさるべき」と書いていること 小和田哲男などが賛同している。 一方、堀新は同日記の5月4日付けの記事や、『誠仁親王消息』などの資料から、三職いずれかなどという曖昧な推任をしたのは誰も信長の真意を理解していなかったための行動であり、貞勝と信長との間にこの件に関する打ち合わせをした形跡がないことなどから、三職推任は信長の意向とは言えず、5月4日の晴豊の言葉も晴豊個人の見解であると反論している。 なお、三職推任問題を直接扱った論考ではないが、この当時の征夷大将軍は足利氏の家職であり、「足利氏(この場合は足利義昭またはその子弟)以外の将軍はありえない」という認識が社会に定着していたことを朝廷が一貫して足利義昭の将軍解任に踏み切らなかった理由と捉え、例え信長が将軍に就任しても反信長勢力がこれを認めず義昭を将軍として認め続ければ意味がない(明応の政変で将軍を解任された足利義稙は彼を支持する大名から将軍として認められ続け、遂には上洛・復権を果たしている)以上、信長が将軍就任を希望するメリットは乏しいとする木下昌規の指摘がある。 根拠 「御両御所へ御返事被出候」=信長は正親町天皇と誠仁親王に返事をすると言い、村井に返事が行ったにも関わらず、以降、朝廷に信長任官のための動きが何も見られないこと 信長が以前に右大臣兼右近衛大将を辞官したとき、「まさに万国安寧四海平均の時、重ねて登用の勅命に応じ~」と言っており、まだ万国安寧四海平均=日本を統一する前に任官する理由がないこと 堀新、谷口克広、藤井譲治などがこの説をとっている。 もっともこの説は、天下統一後になんらかの官職に任官したか、無官のままか、それとも天皇よりも上を目指したかなど、その後の信長がとったであろう動きにもさまざまな見解がある。 ^ 当初は上総守を自称していたが、上総国は親王任国であり人臣が上総守に就くことはない。そのため上総介に改称したと見られている。 ^ 以降、出典:谷口克広 『検証本能寺の変』 138-139頁、ISBN 978-4642056328 ^ 右近衛大将は源頼朝ゆかりの官職である。 ^ 本能寺の変直後の7月17日に出された羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙には信長を「大相国」と呼んでいるが、太政大臣贈官が宮中で論じられたのは3ヵ月後の事であり、さらにその贈官の宣命には「重而太政大臣」の一文があり二度太政大臣の辞令が出されたと解される事、変の直前の近衛前久の太政大臣辞任が急に決まった事を根拠としている。 ^ 岩沢愿彦「本能寺の変拾遺」、『歴史地理』第91巻第4号、1968年。/所収:藤木久志編 『織田政権の研究』 吉川弘文館〈戦国大名論集17〉、1985年。  ^ 立花京子title=本能寺の変拾遺『歴史評論』497号、1991年。/所収:立花京子 『信長権力と朝廷』 岩田書院、2000年。ISBN 487294187X。 ^ 今谷明 1992年 ^ 橋本政宣 2002年 ^ 小和田哲男『明智光秀』 PHP研究所、1998年。 ^ 堀新「織田信長と三職推任」、『戦国史研究』34号、1997年。 ^ 木下昌規「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」、『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。 ^ 堀新「織豊期王権論」、『人民の歴史学』145号、2000年。 ^ 同人の「信長の天下所司代」 ^ 同人の「天皇と天下人」 今谷明 『信長と天皇』 講談社、1992年 ISBN 406159561X 小和田哲男 『明智光秀』 PHP研究所、1998年 ISBN 456960109X 今谷明 『戦国大名と天皇』 講談社、2001年 ISBN 4061594710 橋本政宣 『近世公家社会の研究』 吉川弘文館、2002年 ISBN 4642033785 岩澤愿彦 「三職推任覚書」 『織豊期研究』4号、2002年 桐野作人 「信長への三職推任・贈官位の再検討」、『歴史評論』665号、2005年 高澤等 『新・信長公記』ブイツーソリューション、2011年 ISBN 9784434156250 谷口克広 「信長の天下所司代 筆頭吏僚 村井貞勝」 藤井譲治 「天皇の歴史05 天皇と天下人」 織田政権 本能寺の変", "佐久間軍記(さくまぐんき)は、戦国時代から江戸時代にかけての佐久間氏の働きを記録した軍記物のひとつで、続群書類従第20輯下 合戦部16に所収されている。 著者は佐久間常関(または常閑)となっているが、この人物について詳しいことはわかっていない。 書かれた時期は、内容から江戸初期(大坂の陣以後)と考えられる。 内容としては織田信長の家督相続のころから始まり、佐久間盛重や佐久間信盛の活躍が描かれ、後に佐久間盛次の四人の子(盛政、安政、勝政、勝之)の記述に移っていく。 以下、原文の目録より。原文ママ。 序 信長公御家督 尾州名塚城攻 今川義元討死 美濃退治 御上洛 義昭公御任官 京軍付勢州御働 越前御発向 野州河原合戦付姉川 貝涸塚合戦 叡山合戦 信玄遠州出張 信玄病死付槇島合戦事 朝倉浅井滅亡 鯰江若江城攻 奈良御社参付河州合戦 勝家授越前 茶磨山戦場付阿部野合戦 花堂合戦 松永謀叛 大坂門跡和睦 佐久間玄蕃戦功 武田勝頼滅亡 信長公御生害 明智光秀被討 勝家尾州清洲参向 勝家祝言 秀吉公上洛 中川清秀討死 柳瀬合戦付秀吉府中 勝家自害 玄蕃允被生捕 玄蕃生害 国見山戦場付長久手 秀吉公越中働 北条家滅亡 保田佐々改佐久間 氏郷奥州入付一揆 九戸謀叛 奥州国替 秀吉公薨御 関ヶ原合戦 駿府御移 大坂乱 「序」には以下のとおり記述されている。 夫佐久間氏、柴田氏者、英于近代。 織田信長公之世、武功冠諸将。 以其十之一、雖載信長記、虚説相接、漏脱亦多。 寔可為遺憾。 予聞其古老少有識胸中者。 仍今合書於斯。備将来之遺失者也。 佐久間氏と柴田氏とは近年における英傑である。 織田信長公の時代にあってその武功は諸将に冠たるものであった。 その十に一つくらいは信長記に記載されてはいるが、虚実ごちゃ混ぜであり、漏れや逸脱も多い。 本当にたいへん遺憾に思うところである。 そこで私は古老のうち当時を知る者に話を聞き、それを一冊の書物としてここに合わせた。 これは将来の逸失に備えるためである。 注目すべき記事として以下のようなものがある。 佐久間盛重は強力(ごうりき)で知られていたという記述がある。 佐久間信盛の追放劇について、だれかの讒言があったと思われる、という記述がある。 本能寺の変の際、通説として織田信長の死を知らせる使いが毛利氏側にたどり着かないよう、羽柴秀吉は厳重に警戒体制を取り、そのため毛利氏には知られないうちに講和したことになっている。しかし佐久間軍記の記述では、毛利氏(小早川隆景)はすでに織田信長の死を知っており、「信長が討たれたなら、次の天下人は秀吉であろうから、今のうちに恩を売っておいたほうが得策である」として講和に応じたとなっている。なお、太閤記の記述も佐久間軍記と同様の説を採用している。 同じく本能寺の変後、堺に少数の供回りのみで滞在していた徳川家康が三河まで逃げ帰ったいわゆる「神君伊賀越え」の際、偶然行き合わせた勝之が伊勢まで同行し、このとき家康は勝之に恩義を感じたと書かれている。その後の動向において確かに安政、勝之の兄弟は家康から優遇されたり助けられたりしている観はあるものの、事実関係としては不明である。 安政と勝之の兄弟が蒲生氏郷にしたがって奥州にあった折、葛西大崎一揆の鎮圧のため転戦したが、そのとき伊達政宗が一計を案じ、氏郷を酒席に招いて暗殺しようとしたところ、勝之がこれを見破って氏郷を逃した、という他の史料では語られていない事件の記述がある。 佐久間大学允盛重 佐久間右衛門尉信盛 佐久間甚九郎信勝(信栄、正勝) 佐久間久六、久右衛門盛次 柴田権六、修理亮勝家 佐久間玄蕃允盛政 保田久六、久右衛門、佐久間久右衛門、備前守安政 柴田三左衛門勝政 柴田源六、佐々源六、佐久間源六、大膳亮勝之 佐久間氏 続群書類従" ]
ABC01-02-0053
コップの下に敷くのはコースターですが、湯呑み茶碗に敷くものは何というでしょう?
茶托
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[ "茶托", "茶櫃", "ボーフラ", "涼炉", "湯冷まし" ]
[ "茶托(ちゃたく)は、湯茶の入る茶碗の下に敷く受け皿。もっとも、茶を飲む時に絶対に必要なものというものではないため、庶民の日常生活においては使われないこともある。逆に、客を接待する際には相手に対する敬意を表すための礼儀として用いられることが多い。また、抹茶を飲む茶碗にも使わない。但し、茶道では天目台という茶托に似た道具がある。 紅茶、コーヒーなどヨーロッパ式の茶を飲む道具では、茶托に類する、カップと同柄のカップソーサーが使われる。 流派によっては「托子」「茶台」「茶托子」「納敬(のうけい)」などと呼ばれる。 明から伝来した煎茶法を起源とする日本の煎茶道では、元々茶托に当たる物はなかったと考えられている。茶碗はすべて盆にのせられ、客は銘々茶碗をとって飲用するという作法だったと推測されている。江戸時代中期に清から杯と杯台が輸入されるようになるが、日本の煎茶法でこの杯を茶碗に転用する際に、杯台が茶托に転じた物と考えられる。輸入杯台は錫製が大半であり、結果、日本の煎茶道では現在に至るまで錫製の茶托を最上とするようになった。その後、木製茶托も生産されるようになった。 現在では、材質は陶器や磁器、ステンレス、鉄、銅、ピューター、真鍮、アルミ、合成樹脂などの多様に存在するようになった。 材質で大別すると 金属製 錫 金 銀 銅 木製 生成 漆器 藤・竹製 形状でわけると 円形 楕円形 木瓜形 船形 などとなる。 錫製の茶托は煎茶、玉露などの高級茶を入れる小さめの茶碗に。木製の茶碗は番茶など普段用の茶を入れる大きめの茶碗に合わせるのが正当とされる。最も、木製の茶托でも輪島塗や鎌倉彫など錫製の茶托より遙かに高価な物も少なくない。 錫製の茶托については、煎茶道では年代を経て黒ずんでいる物の方が価値が高いとされる。また楕円形より円形の方がいいとされている。中国製では「張星栄造」「肖天泰」「乾茂号造」などの銘が入っている物、国産では泰造六作成の物は高価で取り引きされている。 煎茶道の流派により様々だが、茶を飲み終わった後は茶碗を茶托に伏せるのを推奨する流派と、茶托に茶渋が付くとして厳禁する流派がある。 唐時代に喫茶の風習が始まった中国では、熱湯を入れた茶碗を直接持たなくてもいいように茶托にあたる物があったとされる。しかし茶の飲用方の変化によりその後廃絶、近年の茶芸によって復活した。 形式には、茶杯だけをのせる円形の物、茶杯と聞香杯をのせられる長方形・楕円形の物がある。材質は木製、金属製、陶磁器製など。 煎茶の茶托は茶碗の高台に合わせた円形のくぼみが付いていることが多いが、中国茶の茶托は単なる小さい皿か盆のような形状をしている物が多い。 『煎茶の世界 しつらいと文化』(雄山閣、ISBN 4-639-01424-4) 『煎茶の心得』(世界文化社 ISBN 4-418-06304-8) ^ 意匠分類定義カード(C5) 特許庁 cha-bliss中国茶の歴史[リンク切れ] コースター (食器)", "茶櫃(ちゃびつ、あるいはちゃひつ)は煎茶道具一式を入れて置く蓋付きの容器。 形状は高さの低い円筒形。蓋は盆としても使用できる。本来「櫃」は蓋付きの大きな木箱一般を指す。近年はプラスチック製もある。 かつては家庭に一台はあった物で、少し前のホームドラマではちゃぶ台の横に置いてあった小道具として欠かせない存在であった。しかし、ペットボトル入りのお茶の普及などで一般家庭からは急速にその姿を消しつつある。古い民宿や旅館などでは今でも時折見かけることが出来る。 煎茶道各流派ではこの茶櫃を使ったお手前を入門編として設定していることが多い。その場合は茶道具として本来の木製のものが使用される。 千歳盆 提籃 器局", "ボーフラは、湯沸かし道具の一つで、土瓶の一種。主に煎茶道の手前で使う。 流派によって「保夫良」「保宇夫良」の当て字を使ったり、また「湯缶」「湯瓶」「湯沸」とも言う。「ボーブラ」という流派もある。 この名称は、形状がカボチャの実と似ていたために、元々はポルトガル語で「カボチャ」を意味していた単語「abobora」が転用されたという説が有力である。 見た目は急須に似ているが、胴が張り出しまるまるとしているのが特徴である。また、直接火に掛ける道具のため、材質は素焼きの陶器であり磁器製はない。 大別して 上手式:持ち手が上についている物 横手式:持ち手が横について射る物 に分けられる。上手式は大型の物が多く瓶掛(小型火鉢)に、横手式は涼炉に合わせることが多い。 茶道では釜あるいは鉄瓶など、金属製の湯沸かしを使うことがほとんどだが、煎茶道では「金属製の湯沸かしは茶の味が壊れる」として極力避ける傾向があり、土瓶、とくにボーフラを使って沸かした湯を尊重する。起源となった中国茶では現在もっぱら金属製(主にステンレス製)や耐熱ガラス製やかんを使うのとは対照的である。 煎茶の他の道具と同様中国伝来の道具であり、現在でも明・清時代に渡来した伝世品は高値で取り引きされ、珍重されている。特に文政年間に輸入された物は「文政渡」と称され、珍品とされる。「文政渡」の物は土質が良いためか、非常に薄く、まるで紙で作ったやかんを持っているかのようであるという。また表面も素焼きと思えないほど艶があるという。 ボーフラも他の煎茶器同様に国産化されたが、土質の関係で分厚く重い物が多く、渡来品に比べて安物とされる。 『煎茶の世界 しつらいと文化』(雄山閣、ISBN 4-639-01424-4)", "涼炉(りょうろ)は煎茶道で使用する湯を沸かす道具の一つ。「焜炉」「茶炉」「風炉」とも言われる。 元々は中国で茶の野点用に野外で火をおこすために考えられた携帯湯沸かし器であり、古くなったり、使い終わった後は廃棄されるのが慣例であった。そのため手の掛かった彫刻や造形を施された物はほとんどない。 江戸時代に日本に煎茶法が伝わったときに涼炉も一緒に伝来したが、舶来物であること、素焼きという素朴さが文人達の心を捕らえて、珍重されるようになった。その後、清時代中期には中国本土でも凝った作りのものが生産されるようになり、また日本でも注文に応じて装飾に富んだ物が生産されるようになった。 伝世品としては 明時代:「引動清風」「楊名合利」「翁梅亭」 ※この時代の物はほとんど残っていない 清時代:二重風門、二重胴、人参手 江戸時代:「風神炉」「煙霞幽賞」「子母炉」(以上、青木木米作)、「鬼面白泥涼炉」(以上、仁阿弥道八作) がある。但し、火を入れて使う物のため、破損しやすく、良作の伝世品は少ない。 仕組みは七輪と全く同じである。正面に風を送り込むための穴「風門」、上部に炭を入れ、ボーフラを載せる穴「火袋」がある。 外見は、四角形や六角柱形など様々だが、円筒形がよく好まれている。 形式は 三峰炉:上辺の爪と爪の間が低くなっている物 一文字炉:上辺の爪と爪の間が一直線になっている物 に大別される。 火をつけ、湯を沸かす為の道具なので、高温に耐えられる素焼き製の物がほとんどである。近年装飾性に富んだ磁器製の物も作られるようになったが、火をくべる火袋部分だけは素焼きの別の部品がはめ込んであることが多い。 近年は炭を熾す手間の問題や、特に公共団体が運営する茶室で屋内での火気の使用が制限されるケースが増えていることなどから、火袋部分を電熱器などに置き換えたものを使用することも多い。 『煎茶の世界 しつらいと文化』(雄山閣、ISBN 4-639-01424-4)", "湯冷まし(ゆざまし)は煎茶道における茶道具の一つ。茶を入れるための湯を冷ます道具である。 形状はピッチャーから取っ手を外したものである。湯の温度を効率よく下げるため、底より口を大きく作ってあることが多い。 この道具は日本独特の茶である玉露抽出のための道具である。玉露を抽出するには60度前後の湯が適温とされる。ボーフラややかんで沸かしたばかりの湯は熱いため、一旦冷まして温度を下げる必要がある。 紅茶や中国茶等の外国の茶道具に類例の道具は存在しない。但し、中国茶には「茶海」という形状の類似した道具が存在する。この茶海は湯温を下げる道具ではなく、適度な濃度に抽出された茶を急須(「茶壺」という)から一旦移しておく道具である。 通常、湯冷ましのみが単独で売られていることは少なく、同じデザインの急須あるいは宝瓶(泡瓶)と茶碗数個とセットになって販売されていることが多い。" ]
ABC01-02-0054
弥生時代から古墳時代にかけて大陸から日本に渡り、さまざまな技術や文化をわが国にもたらした人々のことを何というでしょう?
渡来人
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[ "渡来人", "秦氏", "弓削氏", "東漢氏", "平群氏" ]
[ "渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多い。帰化人との違いについては下記節を参照。 渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しても、黄河流域 - 山東半島、揚子江流域、満洲 - 朝鮮半島など様々である。 揚子江流域などから伝わった(水稲)作に始まり、後には漢字、仏教や寺院建築技術などを日本に持ち込み、古代日本における文化・政権形成に大きな役割を演じたと考えられている。 陸稲は約1万2000年前の仙人洞・吊桶環遺跡のものが確認されているが、散播による陸稲よりも手間はかかるが多くの収穫を見込める水稲栽培が普及し(彭頭山文化の関連遺跡で推定約6000年前のものが確認されている)やがて日本にも水稲がもたらされたとされる。この時期について、かつては弥生時代の開始にあたる春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けた難民の流入とする説があったが、後の水稲や関連文化の相次ぐ発見によって、さらにさかのぼる殷や周の時代の政変混乱によるものとする説も浮上し、水稲は縄文時代末期から時間をかけて日本列島に普及した過程を考えることができるようになった。この流入は、大陸を北上して朝鮮半島を南下する経路ではなく、海洋を東進して直接日本に入ったと見られている。 4世紀末 - 6世紀、古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者や亡命者として中国大陸や朝鮮半島から人々が渡来した。4世紀後半から5世紀にかけて、ヤマト王権は百済と連携しつつ朝鮮半島南部の領土と支配権維持のために繰り返し出兵するなど大陸で活動しており、このことは高句麗が遺した広開土王碑にも記録されている。大王を中心とするヤマト王権において重要な位置を占めた者や文化の発展に寄与した者がいた。また、日本から朝鮮半島の方向に人・物が動いた事例もあり、後の狗邪韓国や任那に該当する地域では紀元前4 - 3世紀になると、それ以前の九州北部との交易から更に進んで朝鮮半島南部への移住・入植とそれに伴う弥生土器の急激な増加が確認されている、また光州、木浦近辺などに分布する前方後円墳はヤマト王権に関係する遺跡とされ、現地で製作されたと考えられる円筒埴輪、ベンガラ(酸化鉄)を塗った横穴式石室が確認されている(韓国調査報告)。墳墓に埋葬された人物の身元については諸説ある。 ヤマト王権に仕えた渡来人としては、秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみうじ) が代表的であり、他に渡来人系の人物として鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体朝・敏達朝)、鞍部多須奈(用明朝)、鞍作止利仏師(推古朝)、高向玄理(高向氏)、南淵請安(南淵漢人)、旻(日文、新漢人)、鑑真などがいる。朝鮮半島ではなく中国大陸にルーツを持つ人物が多い。 2世紀 - 7世紀頃において、日本から主に朝鮮半島に移住した倭人(倭族・大和民族)であっても、日本に亡命・帰還した際は渡来人と呼称されている。 また飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来した。中でも最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、百済系氏族の代表的な存在となった。 さらに奈良時代末期から平安時代初期にかけて、鑑真に同伴したコーカソイドに属するソグド系とされる僧侶の如宝も広義的には渡来人に含まれる。 日本史の歴史用語としては、「帰化人」という呼び名がかつて学会の主流であったが、1970年代、戦前の皇国史観への反省と植民地統治の是非をめぐる政治的な論争を背景に、「帰化人」という語には、日本中心的な意味合いを含むなどとされてから不適切な用語であるとされ、金達寿や上田正昭らにより「渡来人」の呼称が提唱され、学界の主流となった。 このような、一部の主体を中心に他を扱っていた歴史用語の変更は、「地理上の発見」を大航海時代と変更するなど、国際交流が盛んになった20世紀以降にしばしば起こっている。 帰はもと歸であり、もといた場所に戻る意味のほかに、従い服従すること、とつぎ嫁に行くなどの意。帰化は他国の国籍に入りその臣民となること、臣服すること(魏志鄧艾傳「発使告以利害、呉必歸化可不征而定也」。あるいは教化に服し従うこと(高僧伝「感徳歸化者、十有七八焉」)。一方で渡という用語は水(江)や海を渡る意義であり、大陸間での移動は移(うつしかえること)をもっぱら用いた。「移住」。また「定居(定住すること)」。「移民」は人の少ない場所に民をうつし住ませること。「遷」は上下関係の中での移動を特にさす。「遷移」「遷都」。現代中国語でも渡来は海などを渡り来ること、舶来の意味であり、西域人や北方人が陸地沿いに「渡来」するなどは奇妙な語感となる。域外から来ることは「外来」。 「帰化」という語句の本来の意味は、「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」(後漢書童恢伝)で、歴史学的な定義としては、以下のものがある。 1.化外(けがい)の国々から、その国の王の徳治を慕い、自ら王法の圏内に投じ、王化に帰附すること 2.その国の王も、一定の政治的意思にもとづいて、これを受け入れ、衣料供給・国郡安置・編貫戸籍という内民化の手続きを経て、その国の礼・法の秩序に帰属させる一連の行為ないし現象のこと 平野邦雄によれば、『日本書紀』の用法において、「帰化」「来帰」「投下」「化来」はいずれもオノヅカラモウク、マウクと読み、概念に違いはない。また古事記では三例とも「参渡来」と記し、マイワタリツ、マウクと訓む。 これに対して、「貢」「献」「上送」「貢献」「遣」はタテマツル、オクルとメス、モトムと読み、一般に朝鮮三国の王が、倭王に対して、救軍援助などの政治的な理由によって、物品や知識人や職人また他国の俘虜などを「贈与」したという意味で使用されている。つまり、「貢」「献」等の語が、当該王の政治的意思または命令強制によって他律的に贈与される意味であるのに対して、「帰化」は、同族集団の意思または勧誘などによって自律的に渡来(来倭)したことを指す語である。 なお、古代朝鮮の史書『三国史記』における用法では、「来投」「亡人」が多く、「投亡」「流入」「亡人」「走人」などと記されている。これらは戦乱または飢饉などによって緊急避難的な人々の流出、つまり他律的な移動を指す。 朝鮮においては、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した(『魏志』東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」と記されるように、多様な経路からの移住民が多く、また、朝鮮半島中・西北部は楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の植民地漢四郡が置かれ、漢の植民地だった時期に漢族が移住して土着化し、北部から中部にかけてを高句麗人が数世紀に渡って支配、流入した時期もある、東北部は渤海人、女真人などのツングース民族の流入が相次ぐなど、古代より中国をはじめ、東北アジア諸地域などより、多様な経路から移住民が多い(朝鮮の歴史参照)。 高麗時代前時期における、流入した異民族の数は23万8000人余りに達する。定住した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて官僚にたくさん進出した。流入した渤海人は契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、江南地方出身流入人である。また流入した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。 京仁教育大学校の朴チョルヒ教授は、韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述され、これら流入者の存在と文化的影響に対し教科書は沈黙し、女真族との友好的な内容は教科書で探せない、と女真族を朝鮮民族を困らせる報復の対象にだけ描写していると批判している。 孫氏:『朝鮮氏族統譜』によると約1000年前に中国の宋から戦乱を避け高麗に流入した荀凝が、高麗顕宗時代(1009年-1031年)に、顕宗の諱「詢」と同音になるのを避け「孫」姓を賜り改姓した「孫凝」を始祖とし、「一直孫氏(安東孫氏)」と呼ばれたという一族がある。孫凝からは高麗朝の将軍である「孫幹」や一直君に封ぜられた「孫元裕」が出て繁栄し、後裔の「孫処訥」は秀吉の朝鮮出兵の時に義兵将となり日本軍との戦いに功があったという。この一族の出身者からは他に、丁卯胡乱の際に義兵将となって活躍した「孫遴」や同知中樞府事となった「孫必億」がおり、ソフトバンク社長の孫正義も末裔であると主張している。 ^ 水稲には中国大陸から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から朝鮮半島南部を経由して日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。国立歴史民俗博物館の研究プロジェクトによると弥生時代の開始年代は紀元前10世紀であり、日本における水稲稲作の開始時期は朝鮮半島に先行する。 ^ この時代の日本は、『漢書』には倭人が季節ごとに楽浪郡に使者を遣わしてくるとあり(『漢書』地理志 「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」)、『後漢書』には倭国王帥升が107年の入貢の際に160人もの人(生口、奴隷のこと)を送ったと記録されている(『後漢書』 安帝紀 永初元年(107年)「倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)。また卑弥呼や台与(壹與)の時代にも生口を送っている記録があり、日本側からも人を送っていたことが見受けられる。また、『三国史記』新羅本紀は新羅の4代王「脱解尼師今(だっかい・にしきん、生没年不詳)」は倭人である(「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里。」)と伝えている。 ^ 5世紀後半~6世紀に朝鮮半島から移住した技術をもった人々を『日本書紀』では「古渡才伎(こわたりのてひと)」に対して「今来才伎(いまきのてひと)」と呼んでいる。『日本書紀』「雄略紀」によれば今来才伎は百済から献上された人々である(雄略天皇七年「集聚百済所貢今来才伎於大嶋中」)。 ^ 孫正義のTwitterでの発言より [1]。約1000年前に中国南朝の宋から戦乱を避け高麗へ流入した一族の末裔とのことである。 ^ 佐藤洋一郎 『DNAが語る稲作文明』 NHKブックス 1996年7月 ^ 破斯清通#文献記録におけるペルシャ人および李密翳を参照。 ^ 森公章「『帰化人と古代国家を読む』、平野前掲書解説pp.312-313 ^ 平野邦雄『帰化人と古代国家』(吉川弘文館 2007年)pp.1-10 ^ a b c 平野邦雄『帰化人と古代国家』(吉川弘文館 2007年) p.2 ^ 平野邦雄『帰化人と古代国家』(吉川弘文館 2007年) p.4 ^ a b c d 初等教科書、高麗の時「23万流入」言及もしない『京郷新聞』2007年8月21日 ヤマト王権 日本民族 日本人 日鮮同祖論", "秦氏(はたうじ)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。 『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって、真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。 秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)。 新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である(平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)。 百済系渡来氏族。「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する(笠井倭人・佐伯有清)。 中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す(田辺尚雄)。 五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族の系統とする説[要出典]。 景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。平安京は碁盤の目のような十字路で構成されているために景教と関連がある、とも言われている[要出典](佐伯好郎)。 『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており、これを秦氏と結び付ける説もある。 本居宣長や新井白石は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』に依ってハタでなく韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読むとした。 日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)説話のある地域は秦氏の居住地域と一致するという平野邦雄の指摘もある。難波津の西成・東成郡には秦氏、三宅氏、吉氏など新羅系の渡来人が多く住み、百済郡には百済系の渡来人が住んだ。 山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしいとされる[要出典]。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した。 秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5〜6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ[要出典]、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある[要出典]。伝秦河勝墓はこの地にある。また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される[要出典]。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される[要出典]。 山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった[要出典]。 関東にも渡来人がかなり入ってきたようであり、秦氏は相模原にも上陸し、現在の秦野市の地域に入植してその名を現在に留めている。 天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸のほかに公・宿禰などを称する家系があった。 平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、荷田家、西大路家、大西家、森家などは伏見稲荷大社の社家となった。なお中世になり社家を継いだ羽倉家については、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒したことが疑われている。 日本最古の戸籍半布里戸籍にも記されている(富加町)。 神社 松尾大社 伏見稲荷大社 木嶋坐天照御魂神社(蚕の社) 大避神社 - 兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る。対岸の生島には秦河勝の墓がある。 敢国神社 寺院 広隆寺 弓月君 秦河勝 - 聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。村上天皇の日記には「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、平安京への遷都や造成に深く関わっていたことが記紀の記述からも読み取れる。またほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻がいる。 大生部多 (おおふべのおお) - 駿河国の不尽河(富士川)で虫を常世神とする新興宗教を唱えた。秦河勝に討伐されたが、大生部多も秦氏の系統といわれる。 朴市秦造田来津 - 白村江の戦いで戦死。 秦吾寺 - 蘇我倉山田石川麻呂の謀反計画に連座し処刑。 藤原葛野麻呂 - 母方の祖父が秦嶋麻呂で、秦氏は藤原北家と婚姻関係を持った。 弁正 - 秦牛万呂の子で、次男が秦朝元。秦朝元の娘は藤原清成の室(妻)となり、藤原種継を生んだ。 道昌 - 俗姓は秦氏。法輪寺を再興した僧侶で、恒貞親王に密教を教えた。 慧達 - 法相宗の僧侶。美濃出身で俗姓は秦氏。 賀美能親王 - 秦氏で、嵯峨天皇の乳母。 法然(母が秦氏) 秦公春 平城京跡出土の木簡に記述されている秦氏 秦老人 - 備前国。 秦忍山 - 備前国。 秦大丸 - 備前国。 秦勝小国 - 備前国。 秦部得丸 - 備前国。 秦部(犬)養 - 備前国。 秦部得万呂 - 備前国。 末裔・枝氏は60ほどあるとされる。 秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓。 勝氏、忌寸氏、部氏。 朴市秦氏(えちはた) - 近江国愛知(えち)郡。 内蔵氏、大蔵朝臣(漢氏と共通)。 朝原氏、太秦氏、長蔵氏、長田氏 惟宗氏 薩摩島津氏 - 惟宗朝臣からの派生氏族。島津氏自体は当初は藤原氏末裔、後に清和源氏末裔を自称。 宗氏 - 惟宗氏からの派生氏族。宗氏自体は桓武平氏末裔を自称。 執印氏 (鹿児島氏) - 薩摩国一宮新田八幡宮社家。 神保氏、安芸氏、市来氏、川原氏、河俣氏なども惟宗氏の出とされる。 長宗我部氏 - 信濃秦氏の秦能俊が土佐国長岡郡宗部郷の地頭となったため改姓。 川勝氏 赤松氏 東儀家 松下氏 - 松下氏自体は宇多源氏(近江源氏)六角氏の末裔を自称。庶家に花井氏がある。 松尾氏は、秦氏の末裔。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。 荷田春満 つのだじろう - 秦氏の末裔と自称して漫画『うしろの始皇帝』を発表。 羽田貞義 - 羽田武嗣郎 - 羽田孜 - 羽田雄一郎 - 羽田家は秦氏の末裔と伝えられる。 安田朗 ^ 『新撰姓氏録』左京諸蕃 ^ 上田[1965: 71] ^ 太田[1963: 4716] ^ 太田[1963: 4713-4716] ^ 上田[1965: 140] ^ 平野邦雄「秦氏の研究」『史学雑誌』第70編第3・4号、1961年 ^ 直木[1988: 45,53] ^ 上田[1965: 71-72] ^ 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」『考古学論考』『古代の日朝関係と日本書紀』所収 ^ [佐伯:1994 369] ^ 田辺尚雄『日本文化史体系』「奈良文化」章 ^ a b 関[1966: 96-97] ^ 佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)を論ず」( 喜田貞吉主宰『地理歴史 百号』明治41年1月収載) ^ 「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」) ^ 大和岩雄『日本にあった朝鮮王国』白水社 ^ 平野邦雄『大化前代政治過程の研究』吉川弘文館、1985年。中屋宗寿『民衆救済と仏教の歴史 中』郁朋社、2012年、261-262頁 ^ 直木[1988: 45] ^ 太田[1974: 1016] ^ 太田[1974: 1017] ^ 稲荷神の由来となった秦伊侶具の出自について、『稲荷社神主家大西氏系図』に「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」とある。 ^ 西田長男『神道史の研究』第2巻、p86。雄山閣、1943年。 ^ 上田[1965: 143] ^ 上田[1965: 20] ^ 上田[1965: 20-21] ^ a b 大江[2007: 271] ^ kotobank,デジタル版 日本人名大辞典+Plus。大江[2007: 222] ^ a b c d e f g 豊田武『苗字の歴史』中央公論社、34頁 ^ 関晃[1966: 103] ^ 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)」名古屋大学『言語文化論集』 v.26, n.2, 2005, 8頁 ^ 『古語拾遺』。関[1966: 105] ^ 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』 続群書類従完成会、1981年、150頁 ^ 『川勝家文書』 東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年、437 - 438頁 ^ 太田[1963: 36] ^ “日前首相羽田爱穿中山装”. 中国国際放送 (2007年11月20日). 2018年4月19日閲覧。 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年 平野邦雄「秦氏の研究」(『史学雑誌』第70編第3・4号、1961年、『大化前代社会組織の研究』吉川弘文館、1969年所収) 上田正昭『帰化人』中公新書、1965年 関晃『帰化人』至文堂、1966年 豊田武『苗字の歴史』中央公論社、1971年 太田亮著、丹羽基二編『新編 姓氏家系辞書』秋田書店、1974年 司馬遼太郎、上田正昭、金達寿編『日本の渡来文化』中央公論社〈中公文庫〉、1975年 直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫、1988年 大和岩雄『秦氏の研究』大和書房、1993年 佐伯有清編『日本古代氏族事典』雄山閣出版、1994年 中村修也『秦氏とカモ氏』臨川書店、1994年 加藤謙吉『秦氏とその民』白水社、1998年 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」『古代の日朝関係と日本書紀』吉川弘文館、2000年 大江篤『日本古代の神と霊』臨川書店、2007年 波多氏 (古代) 太秦 秦王国 東漢氏 漢氏 襖 稲荷神 日ユ同祖論(ユダヤ人) 秦氏考 (日本語) 「日ユ同祖論 の謎」 (「ヘブライ人渡来説」の研究) (日本語)", "弓削氏(ゆげうじ)は、「弓削」を氏の名とする氏族。 古代の日本で弓を製作する弓削部を統率した氏族で、祖先伝承や根拠地域が異なる複数系統がある。物部氏と関係が深く、一部の系統はその傍系とも称した。 複数の氏族があり、各時代に現れる人物がどの系統に連なるかを捉えることは難しいが、9世紀初めの『新撰姓氏録』に基づくと主に以下3つの系統があったとされる。 天神系 高魂尊の後裔天日鷲翔矢命(天毘和志可気流夜命)の子孫を称した、弓削部の総領的伴造。姓は連であったが、嫡流は天武朝において朝臣に改姓。雄略朝の弓削豊穂、6世紀頃の弓削倭古、持統朝の弓削元宝がこの系統の氏人とされる。 天孫系(物部流) 物部氏の一族で、物部守屋が母姓を仮冒して弓削大連と称して以降、その子孫が弓削氏を称したとされる。この系統に属する氏人に道鏡、その弟弓削浄人がいるが、道鏡が孝謙上皇(称徳天皇)の信任を得て、この兄弟の一族は著しく優遇され、大納言に昇った弓削浄人を筆頭に、五位以上の者が男女あわせて10人に達した。これまで、姓は連であったが、浄人らが弓削御浄朝臣、その他は弓削朝臣、弓削宿禰に改められた。道鏡の失脚とともに、姓は元の連などに戻され、一部の者のみ弓削宿禰のまま五位にとどまって官職を歴任したが、その位を次代に引き継ぐことはできなかった。 また、9世紀後半の播磨国飾磨郡の陰陽師で陰陽頭に任ぜられた弓削是雄もこの系統に属するとされる。是雄の姓は連であったが、のちに宿禰姓を賜与された。 地祇系 天押穂根命が手を洗った水から生まれたとされる禰伎都麻を祖とする。 河内を本拠とした弓削氏は物部氏の本拠と地理的に近く、職掌からも近い関係にあったと考えられるが、学説には物部氏とは別の一族だとする説と、物部氏の傍系とする説がある。 平安時代初めの『先代旧事本紀』では物部尾輿が弓削連の祖である倭古連の女子、阿佐姫と加波流姫を妻としたとある。また尾輿と阿佐姫の子守屋は弓削大連と名乗った。『日本書紀』でも守屋は随所で物部弓削守屋と呼ばれており、その理由として母方の氏の名をとったとするのは自然である。 しかし、孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に出した宣命では、道鏡が先祖の大臣の地位を継ごうとしているから退けよと言われたと語る所がある。この大臣は大連であった物部守屋であろう。ここでは河内の弓削氏が物部守屋の子孫だと考えられている。 『日本書紀』によれば、物部守屋が滅亡したとき、守屋の子は逃げ散り、奴婢の半数と宅は四天王寺に与えられた。10世紀頃成立と思われる『四天王寺古縁起』にその内容が記され、領地の中に弓削なる地名があり、守屋の子孫従類が弓削5村に住んだとある。これも守屋の子孫が弓削氏に連なるという説を傍証するものである。 備前には、饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫・物部氏が関係する、素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣を収めたという石上布都魂神社がある。この近隣には様々な職能集団が形成され、その中の一つに岡山県久米郡久米南町の「弓削」がある。浄土宗の開祖・法然の両親が参籠したといわれる、美咲町の本山寺を天永元年(1110年)に開いた人物として、「弓削師古」の記述が見られる。久米南町の蓮久寺は菩提寺として建立されたと伝わる。 現在の大阪府八尾市に、大和川の旧河道をはさんで旧志紀郡に弓削、旧若江郡に東弓削の地名がある。江戸時代に大和川が付け替えられたため、現在は長瀬川とされるが、古代にはこちらが大和川本流であった。対応して、川をはさんで二つの弓削神社が現存する。奈良時代には弓削寺もあって称徳天皇が参拝したが、今はなく、位置も不明である。 道鏡の弟弓削浄人は河内国若江郡の人であったが、弓削氏は河内国内でもう少し広く分布していたようである。天平宝字8年(764年)に渋川郡加美郷に弓削広足、伯麻呂なる人がおり、神護景雲3年(769年)10月30日に称徳天皇が下した恩恵では、大県郡と若江郡の田祖が全免、安宿郡と志紀郡が半免と差があった。 ^ a b 『新撰姓氏録』左京神別 ^ 『新撰姓氏録』河内神別 ^ 横田健一『道鏡』39頁。 ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月2日条 ^ a b 太田亮『姓氏家系大辞典』6407頁 ^ 『先代旧事本紀』「天孫本紀」では弓削連の祖とする。 ^ 宝賀 1986, p. 936. ^ 鈴木真年『百家系図稿』巻2、弓削宿禰。 ^ 『新撰姓氏録』左京神別で「弓削宿禰。石上同祖」とする。 ^ 読みは「ゆげのみきよ」 ^ 『日本三代実録』仁和元年4月27日 ^ 横田健一『道鏡』41-42頁。 ^ 瀧川政次郎「弓削道鏡」、『人物新日本史』193-194頁。 ^ 『先代旧事本紀』巻5 天孫本紀。 ^ 敏達天皇元年(572年)4月条など。 ^ 横田健一『道鏡』36頁。 ^ 横田健一『道鏡』35頁。 ^ 崇峻天皇即位前紀。 ^ 横田健一『道鏡』39-40頁。 ^ 横田健一『道鏡』31頁。 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年 佐伯有清・編『日本古代氏族事典』、雄山閣、1994年。「弓削」の項の執筆は中村英重による 瀧川政次郎「弓削道鏡」、『人物新日本史』、明治書院、1953年 宝賀寿男 『古代氏族系譜集成』 古代氏族研究会、1986年4月。 NCID BN00924708。  横田健一『道鏡』(人物叢書)、吉川弘文館、新装版1988年。初版は1959年 史料 『新撰姓氏録』 『日本書紀』 『先代旧事本紀』 『日本三代実録』", "東漢氏(やまとのあやうじ)は、「東漢」を氏の名とする氏族。倭漢氏とも記述される。 『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。東漢氏は集団の総称とされ、門脇禎二は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。 『日本書紀』応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。 また『続日本紀』延暦4年(785年)6月条によれば、阿智王は七姓(朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓漢人)と共に渡来した。 また、『古事記』応神天皇の件に、「秦造の祖、漢直の祖、が渡来してきた」とある。 漢氏 (あやうじ)は東漢氏(倭漢氏、やまとのあや)と西漢氏(河内漢氏、かわちのあやうじ)の両系にわかれる。西漢氏は王仁の後裔を称し、東漢氏とは同族であるが、氏は異なる。 その後に渡来した今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)も加えられる。 阿知使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点とした。大和に居住する漢氏は東漢氏(東文氏)となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏(西文氏・西書氏)となった。織物工芸に長けていたため、両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませている。 東漢氏の「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している。『続日本紀』延暦四年(785年)6月条は東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたことを記している。系譜などから判断すれば、東漢氏は漢王朝との関係を創作したものと思われる。 東漢氏と直接の関係は無いが百済から五経博士「漢高安茂」という人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段楊爾」と替えたいと百済は申し出ている。 東漢氏は、先来の秦氏と同じく漢土由来の製鉄技術をもたらしたと考えられている。また、記紀などの記録から土木建築技術や織物の技術者が居たことをうかがい知れる。東漢氏の一族に東文氏があり、7世紀から8世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を出している。 また、東漢氏は軍事力にも秀で、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。『肥前国風土記』によれば、602年の新羅征討計画の際には兵器の製作を担当した。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒(東漢直駒)が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂(たもと)を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の坂上苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。 阿智使主の直系の子孫は天武天皇より「忌寸」の姓を賜り、他の氏族とは姓で区別がなされることとなった。 「掬」の代に東漢直姓を賜った。 東漢氏は坂上氏、書(ふみ)氏(文氏)、民氏、池辺氏、荒田井氏などの直姓氏族に分かれた。八色の姓では忌寸姓に改められている。8世紀から9世紀には坂上氏が台頭し、宿禰・大宿禰を賜った。 東漢氏の宗家ともいえる系統は坂上直姓初代坂上直志拏の兄で東漢直山木である。しかし、曾孫である東漢駒が、蘇我馬子の指図もあって崇峻天皇を暗殺し、その後天皇の妃である河上姫と不倫関係となったので、東漢氏の宗家は没落した。そのため、東漢氏の宗家は次男の志拏の系統である分家坂上氏にもたらされたという。 ただし、東漢直駒に関しては不明な点も多く、東漢直駒は坂上氏初代とされる志拏の子で坂上宿禰田村麻呂の直系の先祖にあたる坂上直駒子に比定する説もあり、その説によると、坂上氏が蘇我氏と袂を分かった理由は、蘇我馬子の命令を忠実に果たした坂上駒子を蘇我馬子が口封じに殺害したために坂上氏が蘇我氏に対して恨みを含んだからだとしている。 坂上氏は東漢氏の宗家ではなく、東漢氏は末弟の東漢直爾波伎が継ぎ、東漢直角古、東漢直久爾、東漢直福因と続き、東漢直福因(倭漢直福因)は608年の小野妹子の遣隋使の際に留学生として同行、623年に帰国し、「唐国に留まる学者は皆学びて成業したので帰国せしむるべきであり、大唐国は法式備わり定れる国であるゆえ、常に通交すべきである」と朝廷に奏上した。 坂上氏のほかに東漢氏から出た諸氏には、平田氏、内蔵氏、大蔵氏、丹波氏、調氏、文部氏、谷氏、佐太氏、井上氏などがある。 ^ 東漢直山木の孫、東漢直磐井の子の東漢直駒。 ^ a b c kotobank-倭漢氏・東漢氏. ^ 伊藤 2005, p. 9. ^ a b c d e kotobank-漢氏. ^ 上田 1965, pp. 76-77. ^ 竹内 1978a, pp. 5-6. ^ 『日本書紀』継体条 ^ 上田 1965, p. 125. ^ 『日本書紀』 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1) (PDF) 」 、『言語文化論集』第26巻第2号、名古屋大学、2005年、 3-40頁、 doi:10.18999/stulc.26.2.3。 上田正昭 『帰化人 : 古代国家の成立をめぐって』上巻 中央公論社〈中公新書, 70〉、1965年6月。ISBN 4121000706。  笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」(『古代の日朝関係と日本書紀』吉川弘文館、2000年) 大辞林 第三版. “倭漢氏・東漢氏”. コトバンク. 2018年10月28日閲覧。 世界大百科事典 第2版. “漢氏”. コトバンク. 2018年10月28日閲覧。 関晃『帰化人』至文堂、1966年。 竹内理三 『古代から中世へ』上巻 吉川弘文館、1978年2月。 NCID BN00388791。  竹内理三、「古代帰化人の問題−漢氏についての覚え書き」 『古代から中世へ』上巻 吉川弘文館、1978年2月。 (初出:1948年) 豊田武『苗字の歴史』中央公論社、1971年。 『日本の渡来文化』中央公論社、1975(中公文庫、1982年)。 史料 『日本書紀』 東漢氏考(含西漢氏・西文氏)", "平群氏(へぐりうじ)は、「平群」を氏の名とする氏族。 武内宿禰の後裔と伝えられ、大和国平群郡平群郷(現在の奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ。姓は臣(おみ)、後に朝臣。 『日本書紀』の所伝によると、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになった。葛城氏没落後の雄略朝以降、木菟の子の真鳥(まとり)が「大臣」を歴任して一族の興隆を極めた。しかし、仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。 これ以後、平群氏の氏人はしばらく『書紀』から姿を消すが、用明天皇2年(587年)の物部討伐将軍として神手(かみて)の名が見え、この頃までに大夫選任氏族としての地位を得ていた。同13年(684年)10月の八色の姓施行に伴い、改めて朝臣姓を賜る。奈良時代には広成などの官人を輩出したが、その後は没落した。 一部推定。 考古学的な見地からは、平群氏の奥津城とされる平群谷古墳群(平群町に所在)の変遷を考えると、同氏の台頭は6世紀中期以前には遡れないという。このことから、平群氏を6世紀後半の神手以降の新興在地豪族と見る説が有力である。従って、真鳥が大臣に就任して専権を振るったという『書紀』の叙述は史実として認められず、平群氏が自氏と同じく武内宿禰の後裔氏族である蘇我氏への対抗意識から故意に作り上げたのだと説明されている。天武天皇10年(681年)の帝紀・上古諸事の記定事業に平群子首(こびと)が参画していること、持統天皇5年(691年)に「墓記(纂記)」上進を命じられた諸氏族に平群氏が含まれることは、同氏伝承の成立とも関わって留意されよう。 ^ 鈴木真年編 『百家系図稿』巻2「日根野」(宝賀寿男編著 『古代氏族系譜集成 上巻』 古代氏族研究会、1986年) 平群広成 平群町 平永盛 - 平群氏出身。" ]
ABC01-02-0055
高校野球で、春の選抜大会の主催は毎日新聞社ですが、夏の選手権大会を主催する新聞社はどこでしょう?
朝日新聞社
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[ "朝日新聞社", "中日新聞社", "朝日新聞北海道支社", "神戸新聞社", "東京新聞社" ]
[ "株式会社朝日新聞社(あさひしんぶんしゃ、英語:The Asahi Shimbun Company)は、全国紙『朝日新聞』を発行する日本の新聞社である。新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演、スポーツ大会の開催などの事業活動も行う。 新聞販売店の名称は「ASA」(朝日新聞サービスアンカー, Asahi Shimbun Service Anchor)であり、日本全国で約3000か所、従業員数約7万8,000人を擁する。日本ABC協会の調査によると海外を含む 2018年11月の総販売部数は朝刊約570万部で日本二位。 創立は1879年(明治12年)1月8日、日本国内の本支社数は5社、取材拠点は293か所、印刷拠点は24か所であり、日本国外機関は34拠点存在する。 2016年6月24日現在 村山美知子(社主) 飯田真也(代表取締役会長) 渡辺雅隆(代表取締役社長) 後藤尚雄(常務取締役:大阪本社代表・大阪中之島プロジェクト担当) 西村陽一(常務取締役:編集担当) 藤井龍也(取締役:メディアビジネス/顧客データベース/不動産担当)) 末本利樹(取締役:技術統括(CTO)/システム・製作担当) 町田智子(取締役:企画事業/女性プロジェクト担当) 小倉一彦(取締役:東京本社代表/管理・労務・WLB/コンプライアンス担当) 高田覚(取締役:社長室長/メディアラボ担当) 小西勝英(取締役:財務担当兼財務本部長) 梅田正行(取締役:経営企画/グループ政策/電波ネットワーク/出版担当) 小林剛(取締役:販売/次世代顧客開発/ASA新事業担当) 藤ノ木正哉(社外取締役) 小畑和敏(常勤監査役) 岩崎直子(常勤監査役) 安田隆二(監査役) 金子圭子(監査役) 足立直樹(監査役) 大西弘美(執行役員:デジタル/国際/教育事業担当) 福地献一(執行役員:知的財産/Reライフプロジェクト/オリンピック パラリンピック・スポーツ戦略担当) 坂本弘子(執行役員:名古屋本社代表) 千葉光宏(執行役員:広報/ブランド推進/環境担当) 橋本仁(執行役員:西部本社代表) 池内清(北海道支社長) 根本清樹(役員待遇:論説主幹) 社長人事 政治部出身者が二代続けて社長となった秋山耿太郎・木村伊量までは、政治部出身者と経済部出身者が交互に社長になることが5回続いていた。社会部出身者からは現社長の渡辺雅隆が、村山事件を受けて社長に就任した美土路昌一以来の社長となった。経済部出身の広岡知男社長の後任の社長レースは、同じく経済部出身の渡辺誠毅副社長と社会部出身の田代喜久雄専務が争って渡辺副社長が勝ち、渡辺社長の後任の社長レースは、政治部出身の一柳東一郎副社長(元田代専務派)と社会部出身の伊藤牧夫専務(渡辺社長派)が争って一柳副社長が勝った。このことから、政治部内では社会部のことを「朝日の参議院」と呼んでいる。2005年(平成17年)、経済部出身の箱島信一社長が武富士広告費問題で辞任。後任には専務三人のうち経済部出身の君和田正夫は別として残り2人の内海紀雄、坂東愛彦、さらに常務筆頭の小林泰宏といった社会部出身からは選ばれず、常務第三席で政治部出身の秋山耿太郎が5人抜きで昇格した。さらに、秋山は就任後ただちに社内を再編成し、社会部を解体した。[要出典] 大阪本社(登記上の本店) 大阪府大阪市北区中之島2-3-18(中之島フェスティバルタワー) 東京本社 東京都中央区築地5-3-2 北海道支社 北海道札幌市中央区北2条西1-1-1 名古屋本社 愛知県名古屋市中区栄1-3-3(名古屋朝日会館) 西部本社 福岡県北九州市小倉北区室町1-1-1(リバーウォーク北九州) 福岡本部 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1(福岡朝日ビル) 東京都中央区築地にある朝日新聞東京本社 札幌市中央区にある朝日新聞北海道支社 名古屋市中区栄にある朝日新聞名古屋本社 北九州市小倉北区リバーウォーク北九州にある朝日新聞西部本社 福岡市博多区博多駅前にある朝日新聞福岡本部 国内 44都府県庁所在地には「総局」、都道府県内主要都市には246ヶ所の「支局」を置いている。なお、総局が置かれていない3道府県庁所在地については、当該の本社・支社内に愛知県と北海道には「報道センター」、大阪府には「社会部大阪版」が置かれ、総局の機能を担っている。 海外 ワシントンDC(アメリカ)、ロンドン(ヨーロッパ)、カイロ(中東・アフリカ)、バンコク(アジア)、北京(中国)には括弧内の名称の総局を置いている。また、総局の配下には29の支局が主要都市に置かれ、重大事件の際は総局・支局が協力して対応する。国際版の印刷拠点はメヘレン、ニューヨーク、ロサンゼルス、シンガポール、香港の5ヶ所である。 ヨーロッパ総局(ロンドン) パリ支局 ベルリン支局 ブリュッセル支局 ジュネーブ支局 ウィーン支局 ローマ支局 モスクワ支局 ウラジオストク支局 中東アフリカ総局(カイロ) エルサレム支局 テヘラン支局 ナイロビ支局 バグダッド支局 ドバイ支局 アジア総局(バンコク) シンガポール支局 ジャカルタ支局 マニラ支局 ニューデリー支局 イスラマバード支局 ソウル支局 ハノイ支局 中国総局(北京) 上海支局 広州支局 瀋陽支局 台北支局 香港支局 アメリカ総局(ワシントン) ニューヨーク支局 ロサンゼルス支局 サンパウロ支局 ハバナ支局 社旗・社章とも同じデザインである。 白地に赤く朝日を表したもの。朝日の部分に題字と同じ書体で白く「朝」の文字が入る。左から昇る朝日(北海道支社、東京本社)と右から昇る朝日(名古屋本社、大阪本社、西部本社)の2種類がある。 朝日新聞社社章(同社ホーロー看板より) 朝日新聞社社旗(西日本版) 創業家の村山家と上野家の保有割合が多いのが特徴。 2008年(平成20年)6月6日、社主の一人である村山美知子は自身の保有する株式のうち38万株(11.88%)をテレビ朝日に、31万9千株を自身が理事長を務める財団法人香雪美術館に譲渡した。 2009年(平成21年)5月、朝日新聞社従業員持株会が筆頭株主となる。 主要株主(2011年3月31日現在) 朝日新聞社従業員持株会 16.91% 株式会社テレビ朝日ホールディングス 11.88% 村山美知子 11.02% 上野尚一 11.02% 財団法人香雪美術館 10.00% 村山恭平 5.00% 村山富美子 3.57% 凸版印刷株式会社 3.13% 上野克二 2.44% 朝日放送株式会社 2.31% 1879年(明治12年)1月8日 - 木村平八・木村騰の親子によって大阪・江戸堀(現在の大阪市西区の一部)に於いて朝日新聞社創立。同年1月25日に朝日新聞が創刊する。「朝日」の由来は、「旭日昇天 万象惟明」を基に、編集主幹だった津田貞の提案「毎朝、早く配達され、何よりも早く人が手にするもの」から。 1881年(明治14年)1月 - 村山龍平が木村親子より朝日新聞社の経営権を譲り受け、上野理一と共に経営に着手。 1882年(明治15年) - 政府と三井銀行から極秘裡に経営資金援助を受け始め、経営基盤を固める。 1885年(明治18年) - 大阪四ツ橋筋の旧宇和島藩蔵屋敷の建屋に本社を移す。 1888年(明治21年)7月10日 - 「めさまし新聞」を買収し、東京に進出(同紙は「東京朝日新聞」に改題し、それに伴い、大阪は翌年1月3日「大阪朝日新聞」に改題)。 1893年(明治26年)8月1日 - 美術雑誌『国華』(1889年創刊)の編集・経営に進出。 1895年(明治28年)10月 - 大阪本社を村山合名大阪朝日新聞会社、東京本社を村山合名東京朝日新聞会社にそれぞれ改組。 1908年(明治41年)10月1日 - 大阪及び東京の両社が合併し、朝日新聞合資会社に改組。 1915年(大正4年)8月18日 - 大阪朝日新聞が第1回全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会)を大阪府豊中村(当時)の豊中球場で開催。 1916年(大正5年) - 四ツ橋筋を挟んだ地に新社屋が完成。 1919年(大正8年)7月31日 - 株式会社朝日新聞社に改組。 1922年(大正11年)2月25日 - 『旬刊朝日』創刊。4月2日発売号より週刊化し『週刊朝日』に。 1923年(大正12年)1月11日 - 東京〜大阪間に定期航空路を就航。 同年 1月25日 - 『アサヒグラフ』創刊(2000年休刊)。 同年 3月 - 『アサヒスポーツ』創刊(1956年休刊)。 同年 11月 - 『コドモアサヒ』創刊(現朝日小学生新聞)。 1924年(大正13年)10月5日 - 『朝日年鑑』を初めて市販(2000年休刊)。10月に『婦人』創刊。 1926年(大正15年) - 航空部を発足。 同年4月1日 - 『アサヒカメラ』創刊。 1927年(昭和2年)3月20日 - 東京朝日新聞社の新社屋が有楽町に移転。 1929年(昭和4年)1月1日 - 「朝日賞」を創設。第1回朝日賞に坪内逍遥、前田青邨らが選ばれる。 1933年(昭和8年)11月24日 - 村山龍平社長が死去。後任は上野社主家2代目の上野精一(12月6日付)。 1934年(昭和9年)4月18日 - 主筆制を敷く。大阪朝日主筆高原操、東京朝日主筆緒方竹虎。 1935年(昭和10年) - 朝鮮、台湾、満州国在住の読者向けに「外地版」の制作に着手(1945年日本の敗戦で廃刊)。 同年2月 - 門司支局を「九州支社」に昇格(現・西部本社)。 同年10月 - 「名古屋支社」を設立(現・名古屋本社)。 1936年(昭和11年)2月26日 - 二・二六事件で反乱軍が東京朝日新聞の社屋を襲撃。 1936年(昭和11年)5月21日 - 大阪と東京の主筆を一本化し、緒方竹虎が主筆に。緒方は5月25日付で代表取締役にも就任。 1937年(昭和12年) - 社有機「神風」が訪欧飛行し、94時間17分56秒の世界新記録を樹立。 1940年(昭和15年)5月25日 - 村山社主家2代目の村山長挙が社長就任。 同年9月1日 - 東京本社、大阪本社、西部本社、中部本社(現・名古屋本社)の4本社体制をとり、東京・大阪に分かれていた題号を現在の『朝日新聞』に統一。 1941年(昭和16年)11月1日 - 『科学朝日』創刊(後に『サイアス』と改称、2000年休刊)。 1942年(昭和17年) - ゾルゲ事件で東京本社政治経済部長田中慎次郎(3月15日)、同部員磯野清(4月28日)が検挙。この事件で緒方竹虎主筆は編集責任担当者を解かれ、大阪本社派の西部本社代表(代表取締役専務取締役)原田譲二が後任に(6月15日付)。反緒方勢力台頭のきっかけとなる。 1943年(昭和18年)12月27日 - 村山長挙社長が緒方竹虎主筆を解任し、副社長に棚上げする。 1944年(昭和19年)7月22日 - 緒方竹虎副社長が退社し、小磯内閣国務大臣兼情報局総裁に就任。 1945年(昭和20年)4月7日 - 鈴木貫太郎内閣成立で、元副社長下村宏が国務大臣兼情報局総裁に就任。 1945年(昭和20年)8月17日 - 東久邇宮内閣成立で、元副社長緒方竹虎が国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任。翌18日には元論説委員前田多門が文相就任。首相秘書官に論説委員太田照彦、緒方の秘書官に記者中村正吾、内閣参与に元記者田村真作と、「朝日新聞内閣」の観を呈する。 1945年(昭和20年)11月5日 - 戦争責任明確化のため、村山長挙社長以下幹部が辞任。東京非常対策本部長(元東京本社編集局長・ジャワ新聞社長)野村秀雄が代表取締役就任。 1947年(昭和22年)6月23日 - 東京本社代表兼論説委員室主幹長谷部忠が会長就任。長谷部は同年11月25日付で代表取締役にも就任。 1947年(昭和22年)11月1日 - 公職追放で、村山長挙と上野精一が社主から追放。 1949年(昭和24年)11月25日 - 長谷部忠会長が社長に就任。 1951年(昭和26年)8月8日 - 村山長挙と上野精一が社主に復帰。 1951年(昭和26年)11月30日 - 長谷部忠社長退陣。村山長挙が会長就任、東京本社編集局長信夫韓一郎を代表取締役とする。 1952年(昭和27年)9月1日 - 現行の「朝日新聞綱領」を制定。 1954年(昭和29年)1月20日 - 英字紙『ASAHI EVENING NEWS』創刊(後にヘラルド朝日と改称、2011年休刊)。 1959年(昭和34年)2月14日 - 「北海道支社」を設立(同年6月1日よりファクシミリによる現地印刷・発行を開始)。 同年3月15日 - 『朝日ジャーナル』創刊(1992年休刊)。 同年9月9日 - ソノシート雑誌発行のため、朝日ソノプレス設立(1966年9月9日に朝日ソノラマに社名変更)。 1960年(昭和35年)6月29日 - 村山長挙会長が社長に、上野精一社主が会長に復帰。翌30日付で信夫韓一郎が代表取締役専務取締役を辞任。 1961年(昭和36年)5月1日 - 東京本社で伝書鳩廃止(1959年に名古屋本社において廃止、大阪本社は最後まで伝書鳩が残っていたが1966年8月31日に廃止)。 1963年(昭和38年)12月24日 - 村山社主家が常務取締役東京本社業務局長の永井大三を解任。社内紛争「村山事件」が始まる。 1964年(昭和39年)1月20日 - 村山長挙社長、上野精一会長辞任。西部本社代表に左遷されていた広岡知男ら4人が代表取締役就任。 同年(昭和39年)11月17日 - 元常務取締役の美土路昌一顧問が社長就任。 1967年(昭和42年)7月21日 - 美土路昌一社長退任。後任に代表取締役専務取締役広岡知男が就任。 1971年(昭和46年)7月21日 - 緒方竹虎の主筆解任以来空席となっていた主筆を、広岡知男社長が兼任。社長と主筆の兼務は朝日新聞社史上初。 1977年(昭和52年)12月21日 ‐ 広岡知男社長兼主筆が会長に。後任社長に代表取締役副社長渡辺誠毅、主筆は空席。 1979年(昭和54年)1月25日 ‐ 大阪本社創刊100周年。 同年11月18日 - 第1回東京国際女子マラソン大会を開催。 1980年(昭和55年)3月21日 - 広岡知男会長失脚。 1980年(昭和55年)4月23日 - 東京本社が東京都中央区築地に新築移転。鉛活字を使わない電算写植新聞制作システム『ネルソン』導入。 1987年(昭和62年)5月3日 - 兵庫県西宮市の阪神支局で記者殺傷事件が発生、「赤報隊」と名乗る者から犯行声明(未解決のまま2003年に時効成立)。 1988年(昭和63年)5月17日 - 『AERA』創刊。 同年6月 - 大阪本社を最後に、鉛活字による新聞制作が終了。全本社が『ネルソン』に完全移行。 同年7月10日 - 東京本社創刊100周年。 同年10月14日 - 『ASAHIパソコン』創刊(2006年3月15日号をもって休刊)、ASAHIパソコンネット(現ASAHIネット)サービス開始。 1989年(平成元年) - 『知恵蔵』創刊(2006年11月発売の2007年版をもって休刊)。 同年 - 西部本社管轄の福岡総局(福岡市博多区博多駅前福岡朝日ビル)が「福岡本部」に格上げ。 同年9月 - 富山県の管轄が大阪本社から東京本社に変更される。 同年10月1日 - 朝日新聞社、日刊スポーツ新聞社、テレビ朝日(当時の登記上正式社名「全国朝日放送」)、朝日放送(ABC)が中心となって「株式会社衛星チャンネル」設立。通信衛星を利用したケーブルテレビ向けコンテンツ「衛星チャンネル(現・朝日ニュースター)」の番組配信を開始(1993年にスカイポートTVでの放送事業に昇格。1997年にパーフェクTV向けのデジタル放送開始)。 1993年(平成5年)10月20日 - 東京本社社長応接室内で拳銃使用自殺事件。 1994年(平成6年)4月1日 - 東京本社拳銃発砲人質立てこもり事件。 1996年(平成8年) - 西部本社の編集・新聞制作機能が福岡本部に移転。 2001年(平成13年)1月1日 - 「報道と人権委員会」が発足。 同年4月2日 - ヘラルド朝日創刊。 2003年(平成15年)6月 - 西部本社が北九州市小倉北区砂津の旧社屋から同区室町のリバーウォーク北九州内に新築移転。 2004年(平成16年)10月1日 - 無料会員サービス『アスパラクラブ』開始。 同年1月1日 - 南極支局を開設。 2005年(平成17年)4月16日 - コンピュータ製作による新聞製作システムをメーンフレームの「ネルソン」から新メディア系システムに移行、経営営業系システム等と統合へ。 2006年(平成18年)10月1日 - ジャーナリスト学校発足。 2007年(平成19年)4月 - 大阪本社のビル3棟(朝日新聞社と朝日ビルディングが所有)を建て替える「大阪中之島プロジェクト」を発表。2009年に新朝日ビルディングを解体し、大阪本社新社屋やフェスティバルホールが入居する新ビルを建設し、2013年頃を目処にオープンさせる。大阪朝日ビル、朝日新聞社ビルに関しても、2010年代後半を目処にオフィスビルとして建設する。 同年6月26日 - 秋山耿太郎社長の改革路線で、30年間空席となっていた主筆に船橋洋一を起用。 同年9月末 - 解散した朝日ソノラマの出版物・事業・商標・債務を引き継ぐ。 同年10月1日 - 朝日新聞社と読売新聞グループ本社、日本経済新聞社の3社がインターネット分野における共同事業及び販売事業における業務提携、システム障害と災害時における新聞発行の相互援助協定を締結することを発表。 2008年(平成20年)3月31日 - 島根県西部(石見地方)の管轄が西部本社から大阪本社に変更される。島根県内では元々大阪本社管轄であった県東部(出雲・隠岐地方)と合わせ、全県が大阪本社管轄となる。 同年4月 - 出版部門を分社し、株式会社朝日新聞出版を設立。 同年6月6日 - テレビ朝日が村山美知子から発行済株式の11.8%を取得して第4位の株主となり、朝日新聞社・テレビ朝日相互間での持ち合い関係を確立したと発表。同時に持ち合いによる議決権の相殺を防ぐため、朝日新聞社の保有するテレビ朝日株式を売却し、9月末までに保有比率を25%未満にすることが発表された。 同年11月 - 2008年9月中間連結決算の最終損益が103億円の赤字に転落したと発表。2000年に中間決算公表を開始した後は初めてのこと。 2009年(平成21年)5月 - 2009年3月期連結決算の最終損益が139億円の赤字に転落したと発表。1919年に株式会社化した後は初めてのこと。 同年6月 - アカウント名「asahi」でTwitterへの投稿を開始。 同年9月1日 - 朝日インタラクティブ株式会社を設立し、株式会社シーネットネットワークスジャパンが運営してきたCNET Japan、ZDNet Japanなどのサイト運営事業を継承。 同年10月14日 - 中日新聞社と2011年春を目処に新聞の印刷で相互委託し合うことで提携したと発表。 2010年(平成22年)1月18日 - 和歌山県の夕刊紙である紀伊民報から記事の配信を受ける業務提携(同年4月1日から開始)に合意したと発表。 同年3月31日 - 西部本社が大分県と佐賀県の一部地域で行っていた朝夕刊セット制を廃止。これにより、西部本社管内に於いての朝夕刊セット地域は福岡県全域と山口県西部の一部のみとなった。 同年5月27日 - ソニー、KDDI、凸版印刷、朝日新聞社の4社共同で電子書籍の事業企画会社を設立すると発表。7月1日に電子書籍配信事業準備として発足し、11月24日に電子書籍配信事業会社「ブックリスタ」となった。 2011年(平成23年)4月1日 - 富山県の管轄が、東京本社から大阪本社に変更され、21年半ぶりに大阪発行に戻る。 2011年(平成23年)5月18日 - 電子新聞「朝日新聞デジタル」創刊。 2012年(平成24年)3月31日 - 朝日ニュースターの事業をテレビ朝日直営に一本化するため、運営会社「株式会社衛星チャンネル」の法人格消滅。これにより、朝日新聞社制作・提供番組は大幅削減される。 同日 - 西部本社が福岡県と山口県の大部分で行っていた朝夕刊セット制を廃止、同本社の夕刊発行エリアは福岡市と北九州市及び山口県下関市の一部のみとなる。 2012年(平成24年)10月13日 - 名古屋本社が土曜日付の夕刊を廃止。 2014年(平成26年)8月5日・6日 - 32年前の1982年9月2日大阪本社版朝刊社会面に初掲載した吉田清治の証言にもとづき1990年代初めまでの計16回掲載した、慰安婦に関する記事は裏付けが得られず虚偽であったと特集報道。 同年9月11日 - 木村伊量社長や取締役編集担当らが同年5月20日記事の吉田調書に関して作業員は撤退と報じた事は誤報であったと訂正し謝罪会見。また同年8月5日慰安婦に関する吉田清治の証言を虚偽と訂正を報じた後、謝罪会見がないとの指摘があったが、この会見で付随して謝罪した。また、二日後13日付け社説や1面コラムでも謝罪した。 同年10月9日 - 朝日新聞の慰安婦報道の第三者委員会初会合。中込秀樹委員長、岡本行夫、北岡伸一、田原総一朗、波多野澄雄、林香里東京大学大学院情報学環教授、保阪正康の委員計7名。 同年10月11日 - 第三者機関「報道と人権委員会」(2001年発足)に吉田調書報道の審査・見解を求めた。 同年10月14日 - 「信頼回復と再生のための委員会」発足。吉田証言、吉田調書、新聞ななめ読み掲載見合わせなど一連の問題うけた委員会。委員は江川紹子、国広正弁護士、志賀俊之、古市憲寿、社内委員は上席執行役員飯田真也委員長ほか3名計8名。 同年10月15日 - 第67回新聞大会で木村伊量社長は吉田調書記事の取り消しほか、吉田証言や新聞ななめ読み連載中止問題など一連の混乱を招き、新聞業界全体の信頼を大きく損なわせたと詫び謝罪した。 同年12月5日 - 臨時株主総会と臨時取締役会を開き、従軍慰安婦報道や吉田調書記事などの責任をとり木村伊量社長の辞任を決定。飯田真也が社長就任。 2015年(平成27年)1月9日 - PC17台がコンピュータウイルスに感染し、社外との電子メールが漏洩したことが判明。 2017年(平成29年)12月25日 - 「徹底検証『森友・加計事件』 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」の記述を巡り文芸評論家小川榮太郎と出版元の飛鳥新社を名誉毀損として提訴した。 新聞以外の雑誌・定期刊行物・書籍に関しては、2008年(平成20年)4月1日付で新会社「朝日新聞出版」を設立し、業務を移管した。 また、朝日小学生新聞と朝日中高生新聞(旧『朝日中学生ウイークリー』)については、子会社の「朝日学生新聞社」が発行している。 朝日新聞(朝日新聞デジタル) 対象エリア 東京本社版:東北地方、関東地方、甲信越地方、静岡県(名古屋本社エリアを除く) 北海道支社版:北海道 名古屋本社版:静岡県西部地方の一部(浜松市・湖西市)、愛知県、岐阜県、三重県(伊賀市・名張市・熊野市・南牟婁郡を除く) 大阪本社版:富山県、石川県、福井県、三重県伊賀市・名張市・熊野市・南牟婁郡、近畿地方、岡山県、鳥取県、島根県、広島県、四国地方 西部本社版:九州地方(沖縄県を含む)、山口県 朝日ウィークリー 朝日新聞国際衛星版 International Herald Tribune/The Asahi Shimbun(略称「ヘラルド朝日」、2011年2月28日付をもって休刊 但し「インターナショナルヘラルドトリビューン」の日本国内向けの受託発行・印刷は継続) 朝日新聞縮刷版 週刊朝日 AERA ジュニアエラ 朝日小学生新聞 朝日中高生新聞 週刊分冊シリーズ 世界100都市 日本の歴史 週刊しゃかぽん ASAHIパソコン(2006年3月15日号をもって休刊) アサヒカメラ 週刊マンガ日本史 朝日ビジネスPASO(2003年9月24日号をもってムックに移行) アサヒグラフperson 月刊Asahi(1994年3月号をもって休刊) 科学朝日(後のサイアス、2000年12月号をもって休刊) 朝日ジャーナル(1992年5月29日号をもって休刊) 論座(2008年4月号をもって休刊) 俳句朝日(2007年6月号をもって休刊) 短歌朝日 朝日年鑑(2000年度版をもって休刊) 朝日学習年鑑 知恵蔵(紙媒体は2007年版をもって休刊し、用語解説サイト『みんなの知恵蔵』および『kotobank』へ移行) 朝日キーワード JAPAN ALMANAC 民力 メディカル朝日 SEVEN(2001年11月6日号をもって休刊) 世界の車窓からDVDブック(静岡県、広島県のみ3巻を先行発売) ちなみに、週刊アサヒ芸能は同社ではなく、徳間書店の雑誌である(同誌の旧名は徳間の由来にあたる新聞「アサヒ芸能新聞」)。 朝日選書 朝日新書 朝日文庫(かつての朝日文芸文庫も含む、100人の20世紀など) 2018年2月現在 株式会社朝日学生新聞社 株式会社朝日新聞メディアプロダクション(略称・Aプロ社。2016年4月1日に株式会社朝日マリオン21から改称) 株式会社アサヒ・ファミリー・ニュース社 株式会社日刊スポーツ新聞社 - 日刊スポーツ東日本版 株式会社日刊スポーツ新聞西日本 - 日刊スポーツ西日本版 日刊スポーツ新聞大阪本社 日刊スポーツ新聞名古屋本社 日刊スポーツ新聞西部本社 株式会社北海道日刊スポーツ新聞社 - 日刊スポーツ北海道版 株式会社朝日新聞出版 ザ・ハフィントン・ポスト・ジャパン - ハフポスト日本版発行元 サムライト株式会社 株式会社朝日ネット(インターネットサービスプロバイダのASAHIネットを運営、2000年にMBOを実施し独立したが2013年12月に業務・資本提携を締結) 朝日インタラクティブ株式会社(ITニュースサイトのCNET JapanやZDNet Japan、CNNの日本版Webサイトなどを運営) 株式会社朝日カルチャーセンター 株式会社朝日広告社 株式会社朝日エージェンシー 株式会社朝日アドテック 株式会社関東朝日広告社 株式会社東日本朝日広告社 株式会社三和広告社 株式会社朝日エリア・アド 株式会社大阪朝日広告社 株式会社朝日広告社 (福岡県) 株式会社中部朝日広告 株式会社朝日オリコミ 株式会社朝日オリコミ大阪 株式会社朝日オリコミ西部 株式会社朝日オリコミ名古屋 株式会社朝日サービス 朝日プリンテック トッパンメディアプリンテック東京 トッパンメディアプリンテック関西 日刊スポーツ印刷社 北海道日刊スポーツ印刷社 朝日産業 朝日新聞販売サービス株式会社 株式会社朝日新聞販売サービス名古屋 株式会社朝日販売サービスセンター 株式会社朝日販売サービス 大阪朝日販売開発株式会社 朝日トップス株式会社 株式会社新販 北海道テレビ放送株式会社 青森朝日放送株式会社 株式会社岩手朝日テレビ 株式会社東日本放送 秋田朝日放送株式会社 株式会社山形テレビ 株式会社福島放送 株式会社テレビ朝日ホールディングス 株式会社テレビ朝日 株式会社ビーエス朝日 株式会社テレビ朝日メディアプレックス 株式会社シーエス・ワンテン 株式会社日本ケーブルテレビジョン(JCTV) 株式会社新潟テレビ21 長野朝日放送株式会社 株式会社静岡朝日テレビ 北陸朝日放送株式会社 名古屋テレビ放送株式会社 朝日放送グループホールディングス株式会社 朝日放送ラジオ株式会社 朝日放送テレビ株式会社 株式会社スカイ・エー 株式会社広島ホームテレビ 山口朝日放送株式会社 株式会社瀬戸内海放送 株式会社愛媛朝日テレビ 九州朝日放送株式会社 長崎文化放送株式会社 熊本朝日放送株式会社 大分朝日放送株式会社 株式会社鹿児島放送 琉球朝日放送株式会社 株式会社全関西ケーブルテレビジョン Asahi Shimbun International Inc. (ニューヨーク社) Asahi Shimbun International Pte.Ltd. (シンガポール社) 株式会社朝日旅行(朝日サンツアーズ) 株式会社朝日ビルディング 朝日建物管理株式会社 株式会社朝日新聞リアルエステート 有楽町センタービル管理株式会社 千里朝日阪急ビル管理株式会社 朝日新聞総合サービス株式会社 株式会社宮本商行 朝日メディアラボベンチャーズ 株式会社朝日エアポートサービス グループ会社を除く(括弧内の数字は、2006年3月31日現在の発行済株式総数に対する所有株式数の割合を示す)。 株式会社博報堂DYホールディングス (2.88%) - 傘下の大広の大株主でもあった。 株式会社WOWOW (1.92%) 全日本空輸株式会社 (1.26%) マスメディア集中排除原則において「支配」に当たる10%を超える議決権を有しているものとして公表されている地上基幹放送事業者 北海道テレビ放送株式会社 青森朝日放送株式会社 株式会社岩手朝日テレビ 株式会社東日本放送 秋田朝日放送株式会社 株式会社山形テレビ 株式会社福島放送 株式会社茨城放送 株式会社新潟テレビ21 長野朝日放送株式会社 北陸朝日放送株式会社 株式会社静岡朝日テレビ 名古屋テレビ放送株式会社 株式会社広島ホームテレビ 山口朝日放送株式会社 株式会社愛媛朝日テレビ 九州朝日放送株式会社 長崎文化放送株式会社 熊本朝日放送株式会社 大分朝日放送株式会社 株式会社エフエム宮崎 株式会社鹿児島放送 琉球朝日放送株式会社 全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会) 職業野球東西対抗戦(1949年大会をもって、オールスターゲームに発展解消) 日本プロサッカーリーグ(2003年からJリーグ百年構想パートナー) 全日本実業団サッカー選手権大会(1964年大会をもって、日本サッカーリーグおよび全国社会人サッカー選手権大会へ発展解消) 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会(2010年大会をもって、高円宮杯U-18サッカーリーグへ発展解消) 全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会(ウィンターカップ) 全日本大学バスケットボール選手権大会 全国ミニバスケットボール大会 全日本バレーボール大学男女選手権大会 全国ママさんバレーボール大会 ツアー・オブ・ジャパン(旧称国際サイクルロードレース) 全国社会人ラグビーフットボール大会(2003〜2004年シーズンからジャパンラグビートップリーグへ発展解消) ジャパンラグビートップリーグ(マイクロソフトカップ) ライスボウル 朝日駅伝(2011年大会をもって廃止) 東京国際女子マラソン(2008年大会をもって廃止) 福岡国際マラソン 横浜国際女子マラソン(2014年大会をもって廃止) 全日本大学駅伝対校選手権大会 全日本大学女子駅伝対校選手権大会(2004年まで主催、2005年から読売新聞社が主催となった) 朝日ウオーキンググランプリ 日本スリーデーマーチ 朝日レガッタ 東京優駿(日本ダービー)(優勝騎手に社賞授与) 菊花賞 朝日杯フューチュリティステークス セントライト記念 朝日新聞社杯競輪祭 名人戦 (将棋) 順位戦 朝日オープン将棋選手権(2006年度をもって、朝日杯将棋オープン戦へ発展解消) 朝日杯将棋オープン戦 名人戦 (囲碁) 朝日アマ囲碁名人戦(旧称朝日アマ囲碁十傑戦) 日中名人戦(1994年度をもって廃止) 朝日賞 朝日広告賞 朝日スポーツ賞 朝日のびのび教育賞 朝日国際児童図書普及賞 朝日作曲賞 (吹奏楽) 朝日作曲賞 (合唱) 朝日社会福祉賞(2008年度をもって廃止) 朝日舞台芸術賞 朝日企業市民賞(2008年度をもって廃止) 朝日農業賞(1998年度をもって廃止) 朝日森林文化賞(1998年度をもって廃止) 企業の社会貢献賞(2003年度をもって廃止) 明日への環境賞 木村伊兵衛写真賞 大佛次郎賞 大佛次郎論壇賞 手塚治虫文化賞 朝日新人文学賞(2008年度をもって廃止) 横浜トリエンナーレ 朝日ベストテン映画祭 全日本吹奏楽コンクール(吹奏楽の甲子園) 全日本合唱コンクール 全日本アンサンブルコンテスト 全日本マーチングコンテスト 全日本おかあさんコーラス大会 全日本小学校バンドフェスティバル 国際コミュニケーション英語能力テスト(TOEIC) 全国国公立・有名私大相談会 朝日就職フェア 大英博物館朝日新聞ディスプレイ 40才以上の出会い会員サービス「Meeting Terrace」の運営 米国 AP通信社 英国 ロイター通信社 フランス AFP通信社 ロシア イタルタス通信社 日本 共同通信社 時事通信社 ラヂオプレス 新亜通信社(韓国系通信社) 朝鮮通信社(北朝鮮朝鮮中央通信の日本総代理店) 中国通信社(中国新華社の日本総代理店) 米国 ニューヨーク・タイムズ 英国 タイムズ サンデー・タイムズ フランス ル・モンド インターナショナル・ヘラルド・トリビューン 韓国 東亜日報 中国 人民日報 スペイン エルパイス イタリア コリエレ・デラ・セラ タイ バンコク・ポスト シンガポール ストレーツ・タイムズ 聯合早報 インド ザ・タイムズ・オブ・インディア ロシア 論拠と事実 ノーボエ・ブレーミャ ニェザビシマヤ・ガゼータ ドイツ ジュート・ドイッチェ・ツァイトゥング 朝日新聞社はここ数年、全国の地方新聞社や、同じく全国紙を発行する読売新聞社・日本経済新聞社と新聞印刷業務で相互委託契約を結んでおり、下記に示すとおり、遠隔地の新聞輸送の時間短縮・コスト削減に務める傾向にある。 特に北陸地方は、2011年3月31日付以前は輸送距離の都合上、富山県は東京管轄(印刷は北名古屋市の名古屋本社の工場)で、石川県・福井県は大阪管轄(印刷は京都市の大阪本社の工場)という変則的なものだったが、同年4月1日から富山・石川版は金沢市の北陸中日新聞工場への委託印刷が開始(福井はこれまで通り京都工場製作)され、管轄も大阪本社に統一された。逆に、中日新聞系の東京新聞・東京中日スポーツについて、神奈川県川崎市周辺地域向けの新聞を関連会社の朝日プリンテックの工場で印刷するようになった。 新s 読売新聞グループ本社(関東・北陸・四国で相互印刷委託、鹿児島県の取材で連携) 日本経済新聞社(茨城県の朝日新聞を印刷委託) 十勝毎日新聞社(十勝管内の朝日新聞を印刷委託) 釧路新聞社(記事配信契約) 米沢新聞社(記事配信契約) 河北新報社(2011年11月から東北地方の朝日新聞を印刷委託する予定) 桐生タイムス社(記事配信契約) 神奈川新聞社(かつてのグループ企業) 新潟日報社(2011年5月より、新潟県上越・下越地域向けの朝日新聞を印刷受託。共同輸送も実施) 中日新聞社(2011年春から相互印刷委託する) 東京新聞(朝日新聞系「朝日プリンテック」川崎工場で東京新聞の印刷を受託) 北陸中日新聞(2011年4月より、富山県・石川県向けの新聞印刷を委託。これに伴い富山県の管轄が東京本社から大阪本社に変更) 岐阜新聞社(ニュース情報の相互提供、緊急時の印刷提携、販売・企画・祭事協力) 信濃毎日新聞社(取材協力関係) 紀伊民報社(和歌山県の取材で連携) 岡山日日新聞社(記事配信契約) 中国新聞社(広島県の朝日新聞を印刷委託) みなと山口合同新聞社(山口県の朝日新聞を印刷委託) 南日本新聞社(鹿児島県の朝日新聞を印刷委託) 沖縄タイムス社(取材協力関係) KDDI(テレビ朝日と協同で、au携帯電話向けにEZニュースEXを配信) CNET(事業継承とパートナーシップの樹立) ベネッセコーポレーション(教育事業の提携) はてな(asahi.comとはてなブックマークの連動機能) 東京大学(連携して度々シンポジウムや世論調査などを行っている) 多くの報道機関では報道用航空機の運用は朝日航洋などの航空事業者に委託しているが、朝日新聞社では1926年に自前の航空部を発足させており、現在でもヘリコプター4機(MD902やAW109 SPなど)とビジネスジェット1機(セスナ サイテーション)を羽田空港、伊丹空港、福岡空港に待機させている。なおパイロット自社の養成は行っておらず、有資格者を採用している。 全国高等学校野球選手権大会開幕試合の始球式でボールを投下するのも自社のヘリコプターである。 事業は報道のみで旅客や貨物の輸送は行わないが、朝日カルチャーセンターの企画などで格納庫の見学会を開いている。 記事の捏造・誤報については「朝日新聞#報道と取材の事例」を参照。 1941年(昭和16年)10月14日にゾルゲ事件の首謀者の一人として逮捕された記者の尾崎秀実は、絞首刑に処されている。ソ連のスパイとして働いた功績により、ソ連政府から勲章と表彰状を受けたとされる。 2004年(平成16年)4月、私立医科大の補助金流用問題で、社会部記者と生活部記者が関係者を取材した。この際、「録音しない」と約束しながら、社会部記者がミニディスクに無断録音し、後日録音内容を関係者に批判的な別の取材先に渡したことが発覚した。朝日新聞社は社会部記者を退社処分、生活部記者を減給処分とした。 2007年(平成19年)9月12日付のJ-CASTニュースで、朝日新聞社内部(asahi-np.co.jp)からウィキペディア日本語版の筑紫哲也など約820件の記事項目が大量に修正されていた事が報道され、その後9月11日に朝日新聞全社員に対して注意喚起が行われた。なお、J-CAST側が朝日新聞社の広報担当者に取材したところ、「社内規定で社内のネットワーク(社内LAN)の業務外使用をかねてより禁止している」と返答した。 2009年(平成21年)3月31日、前日に2ちゃんねる運営が朝日新聞社のドメイン(asahi-np.co.jp)からの書き込みを規制していた事が発覚した。同掲示板の鉄道路線・車両板のスレッドにおいて、意味不明の連続書き込みによって2ちゃんねるの運営を妨害したのが主な理由であった。また、その書き込みには精神障害者や経済的弱者、被差別部落民らに対する差別を助長する書き込みも多数含まれていた。この事件について、朝日新聞社が調査を行い、東京本社編集局の校閲センター員(当時49歳)が行ったことを突き止め、厳正な処分を行うと発表した。 2012年(平成24年)11月4日、朝日新聞中国語版の公式微博アカウントで、石原慎太郎の写真と共に「要骂请骂"小鬼子"」とコメントがなされた。これは「細野豪志大臣の『日本を小日本と罵らないように』という中国への要望」に対するコメントであり、日本語に訳すると「小鬼子と呼んでほしい」という意味である。「日本鬼子」が日本人に対する最大級の蔑称とされる事もあり、翌日11月5日に同アカウントで「我々のコメントは石原慎太郎氏とは何の関係もありませんし、悪意もありません」との表明を行い、「(小鬼子という言葉は)中国本土では現在は、若い世代を中心に批判的なニュアンスが以前より薄れています。(中略)ただ、批判的なニュアンスが弱いとはいえ、『小鬼子』という言葉を使ったことは、軽率でした」と釈明した。 2013年(平成25年)5月13日、保守系団体「沖縄対策本部」が議員会館で「沖縄県祖国復帰41周年記念議員会館学習会」を開いた際、会場にて何者かが許可無く勝手に「ヨクキク強力除鮮液チョンキール」「日韓断交」などとデザインされたステッカー を持ち込んで販売しようとした。会場内での物品の販売は禁止されており販売は差し止められたが、朝日新聞社会部の石橋英昭記者がツイッターで、会議室を借りた世話人の西銘恒三郎議員がこのような行為を推奨しているかのようなツイートをしたため、西銘の事務所に多数の抗議が寄せられた。「沖縄対策本部」の代表は事実誤認であるとして朝日新聞社に強く抗議し、朝日新聞社からの西銘に対する公式な謝罪を要求。その後、石橋は問題のツイートを削除し「誤解を招く表現があり、関係者にご迷惑をおかけした」と謝罪ツイートした。また、朝日新聞社は石橋の上司から西銘の事務所に謝罪の電話を入れた。 2013年(平成25年)6月25日、パソコン遠隔操作事件において朝日新聞社と共同通信社の複数の記者が、「真犯人」を名乗る人物が犯行予告などを送信するのに使ったフリーメールのサーバーに、パスワードなどを不正に入力してアクセスしたとして、不正アクセス禁止法で書類送検されることが分かった。共同通信社は同年4月時点でアクセス行為を認め、「真犯人に近づく目的だったが、取材上、行き過ぎがあった」としていた。また、警察発表後、「形の上では法律に抵触する可能性がありますが、事件の真相に迫るための取材行為だったことを捜査当局に説明し、理解してもらえたと思います」とした。朝日新聞社は「正当な取材の一環で、法律上も報道倫理上も問題ないと考えます。手続き上、書類送検されることになりますが、本社は弁護士を通じ、正当な業務だったとする見解を警視庁に伝えています」とした。本件はその後、起訴猶予処分が下され、不起訴となった。 2013年(平成25年)7月20日にニコニコ生放送で放映された「維新なチャンネル 〜橋下徹代表も出演〜 投票前夜スペシャル 」の放送中、出演していた橋本徹と松井一郎は、放送前日の7月19日に京都市役所前で行われた日本維新の会の選挙演説中、京都総局の政治記者が警備スタッフに対し、街宣車への接近を要求した上で、朝日新聞の名称を出して恫喝していたと主張している。 2015年(平成27年)8月2日、冨永格特別編集委員が自身のツイッターに、インターネット上に流れていたナチス・ドイツの旗や旭日旗を掲げたデモの写真とともに「東京での日本人のナショナリストによるデモ。彼らは、安倍首相と彼の保守的な政権を支持している」と英語とフランス語で書き込んだ。その後、冨永はツイートを削除し、「嫌韓デモに参加する人たちには安倍首相の支持者が多いという趣旨でしたが、英語ツイートに『一般的に』の言葉が抜けていましたので、彼らがこぞって首相を支持しているかの印象を与えるツイートになってしまいました。失礼しました」と釈明、謝罪した。また、朝日新聞社からの指示で改めておわびをツイートした。朝日新聞社は8月5日の朝刊におわび記事を掲載するとともに、冨永を「公認記者」(社名などを名乗ってツイッターを利用できる)及びコラム「日曜に想う」執筆者から外すことを表明した。 社会福祉法人こどもの国協会 (こどもの国) 財団法人ベルマーク教育助成財団 財団法人森林文化協会 財団法人日本対がん協会 財団法人朝日新聞文化財団 社会福祉法人朝日新聞厚生文化事業団 社団法人全日本合唱連盟 社団法人全日本吹奏楽連盟 安藤正純(元文部大臣) 池辺三山(元東京朝日新聞社主筆) 石井光次郎(元朝日新聞社代表取締役専務取締役・衆議院議長) 石川啄木(歌人) 伊豆富人(元熊本日日新聞社社長) 伊藤邦男(元朝日新聞名古屋本社代表、元テレビ朝日社長) 稲垣えみ子(元編集委員、元論説委員) 入江徳郎(ジャーナリスト、ニュースキャスター、エッセイスト) 上野精一(元朝日新聞社社長) 上野理一(元朝日新聞社社長) うつみ宮土理(タレント、作家) 江森陽弘(ジャーナリスト) 扇谷正造(評論家) 大谷晃一(作家、評論家、元帝塚山学院大学学長・名誉教授) 緒方竹虎(元朝日新聞社副社長・自由党総裁・自由民主党総裁代行委員) 荻野博司(元朝日新聞社論説副主幹) 奥田教久(元論説委員、朝日カルチャーセンター社長) 尾崎秀実(元朝日新聞社記者・内閣嘱託・満鉄調査部嘱託職員、ゾルゲ事件で処刑) 織田幹雄(陸上選手、日本人初のオリンピック金メダリスト) 川本三郎(評論家) 河野一郎(元農林大臣・建設大臣) 聴濤克巳(元全日本産業別労働組合会議議長) 桑田弘一郎(元テレビ朝日社長) 小坂徳三郎(元経済企画庁長官・運輸大臣) 後藤基夫(元朝日新聞社常務取締役) 佐々弘雄(元参議院議員・熊本日日新聞社社長) 志賀健次郎(元防衛庁長官) 篠田弘作(元自治大臣) 信夫韓一郎(元朝日新聞社代表取締役専務取締役) 下村宏(元国務大臣兼内閣情報局総裁・NHK会長) 白石凡(元朝日新聞社企画部顧問) 杉村楚人冠(随筆家、俳人) 鈴木正文(元労働大臣) 田岡俊次(ジャーナリスト、軍事評論家) 田川誠一(元新自由クラブ代表・自治大臣) 竹内謙(元鎌倉市長) 田代喜久雄(元テレビ朝日社長) 田中慎次郎(ジャーナリスト、元総理府原子力委員会参与、ゾルゲ事件で逮捕) 筑紫哲也(ジャーナリスト、ニュースキャスター) 百目鬼恭三郎(文芸評論家) 永井道雄(元文部大臣) 中江利忠(元朝日新聞社社長) 中野正剛(元衆議院議員・東方会会長) 中村鋭一(朝日放送より出向→社会部記者歴任。のち、フリーアナウンサー、政治家、政治評論家) 夏目漱石(小説家) 新延修三(随筆家) 野田武夫(元自治大臣) 野村秀雄(元朝日新聞社代表取締役・NHK会長・熊本日日新聞社社長) 箱島信一(元朝日新聞社社長) 橋本登美三郎(元建設大臣・官房長官・運輸大臣) 長谷川如是閑(ジャーナリスト、文明評論家) 長谷部忠(元朝日新聞社社長) 秦正流(元朝日新聞社専務取締役・日本ジャーナリスト会議代表委員) 羽田武嗣郎(元衆議院議員、元内閣総理大臣羽田孜の父) 服部敬雄(元山形新聞社社長) 一柳東一郎(元朝日新聞社社長) 広岡知男(元朝日新聞社社長・日本学生野球協会会長) 広瀬道貞(テレビ朝日顧問・元社長) 藤井丙午(元新日本製鐵副社長・参議院議員) 二葉亭四迷(小説家) 船橋洋一(元朝日新聞社主筆) 古垣鉄郎(元NHK会長) 細川護熙(元内閣総理大臣) 堀江政生(朝日放送より出向→東京本社政治グループ記者→朝日放送→朝日放送テレビアナウンサー・記者) 本多勝一(ジャーナリスト) 前田多門(元文部大臣、初代ソニー社長) 前田寿(元上智大学国際関係研究所長) 前田義徳(元NHK会長) 升田幸三(元将棋名人) 松井やより(ジャーナリスト) 松下宗之(元朝日新聞社社長) 松島みどり(自由民主党衆議院議員) 松本清張(作家) 美土路昌一(初代全日本空輸社長、元朝日新聞社社長) 村山長挙(元朝日新聞社社長) 村山龍平(元朝日新聞社社長) 山下真(奈良県生駒市長) 横山宏章(政治史学者、元明治学院大学教授) ラナン・ルリー(朝日新聞名誉客員、ジャーナリスト、風刺漫画家) 笠信太郎(元朝日新聞社常務取締役・論説主幹) 若宮啓文(元朝日新聞論説主幹、朝日新聞社主筆) 渡辺誠毅(元朝日新聞社社長) 関係のある主要な写真家 大久保好六(1900 - 1936) 島田謹介(1900 - 1994) 田中幸太郎(1901 - 1995) 影山光洋(1907 - 1981) 小久保善吉(1910 - 1993) 浜野嘉夫(1911? - 1937) 大束元(1912 - 1992) 松本栄一(1915 - 2004) 吉岡専造(1916 - 2005) 船山克(1923 - 2012) 秋元啓一(1930 - 1979) 富山治夫(英語版)(1935 - 2016)※嘱託 石川文洋(1938 - ) 秋山亮二(1942 - ) 山根敏郎(1953 - ) ^ a b c d e f g 1951年3月15日に朝日放送(ABC)として会社設立。同11月11日にラジオ単営局として開局。1959年6月に大阪テレビ放送(OTV)を合併しラジオ・テレビ兼営局となる。2018年4月に朝日放送グループホールディングスへと社名変更・放送持株会社化し、ラジオ放送業務は朝日放送ラジオ(ABCラジオ)、テレビ放送業務は朝日放送テレビ(ABCテレビ)としてそれぞれ子会社の運営に移行。アナウンサーの配属先はABCテレビに移行した。 ^ a b c d e f 各社屋1階の道路沿いに新聞掲示板常設 ^ 1919年(大正8年)に株式会社化して以来、「村山家」(初代当主 村山龍平:紀州藩出身の士族だが、娘の藤子の結婚相手として、岸和田藩藩主の岡部家(子爵)から村山長挙を婿養子にした。その岡部家に連なるのが、三菱財閥創業家「岩崎家」である。長挙の実兄は、創業者、岩崎弥太郎の娘婿の加藤高明の娘と結婚、さらに末弟は岩崎本家直系と結婚した。村山家を裏から支えてきた岡部家の当主、岡部長職は、鳩山和夫(鳩山家初代当主)とともに、1875年(明治8年)、第一回官費留学生としてイェール大学(ブッシュ親子の母校であり、二人が入会していた秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」がある)に留学している。岡部と鳩山が同大学で学んでいたのは、アメリカ憲法と国際関係法だった)で4割強、「上野家」(初代当主 上野理一:実兄が豊田善右衛門といい、三井財閥で、当時の主力輸出商品、生糸を生産する三井系店の当主(社長)をしていた)で2割強、合わせて7割近くの株が両家によって保有されてきた。 ^ 資本金150万円。株主は村上龍平/藤子、上野理一/清一などで、村山家が全体の58%、上野家が30%、そして社員が12%を所有していた。 定款22条「株主総会は本社発行の新聞紙の記事論説に干渉することを得ざるものとす」は、白虹事件を機会に書かれたもので、現在にも継承されている。 奥村宏 『徹底検証 日本の五大新聞』 七つ森書館 2009年3月 P 38-39 ^ 輸送上の問題による。ただし、2011年4月から中日新聞北陸本社が石川・富山両県で発行される分の印刷を受け持つことになった(いわゆる、受託印刷。なお、福井県で発行される分については2011年4月以降も京都工場で印刷)関係から大阪本社管轄に戻った。 ^ 野村秋介 ^ なお、石見地区に発送される大阪本社発行版は2008年4月1日以降も従来通り、西部本社管轄の朝日プリンテック北九州工場で印刷されていたが、2010年4月5日からは広島県廿日市市の中国新聞社広島制作センターでの印刷に変更された。 ^ この時点での株保有状況を括弧内の2007年3月時点のものと併記する。 村上美知子 - 14.61% (36.46%) 上野尚一 - 12.82% (12.82%) 朝日新聞社従業員持株会 - 12.67% (12.03%) テレビ朝日 - 11.88% (0%) 香雪美術館 - 9.97% (0%) この増加は美知子氏からの寄付。 これに対しテレビ朝日の株主構成は下記の通りである。株式持ち合いをするようになったのが分かる。 朝日新聞社 - 28.85% (33.85%) 東映 - 16.09% (16.09%) 香雪美術館 - 5.00% (0%) みずほ信託退職給付信託大日本印刷口 - 4.01% (4.01%) 九州朝日放送 - 3.20% (3.20%) 奥村宏 『徹底検証 日本の五大新聞』 七つ森書館 2009年3月 P 40 ^ 富山県・石川県の新聞を石川県金沢市にある北陸中日新聞の工場に委託印刷されることによるもの。 ^ 1989年9月〜2011年3月までは東京本社管轄 ^ フランスのインターナショナル・ヘラルド・トリビューンと提携した英字紙。 ^ [1] ^ [2] ^ [3] ^ 前身の日本ヘリコプター輸送発足時に出資) ^ 1950年から1976年まで朝日新聞社単独主催、その後毎日新聞社単独主催を経て、2007年からは毎日新聞社との共催となった。 ^ ただし、中日新聞社との提携が発表された当初は、福井県向けの新聞についても印刷を委託させる予定だった(福井県向けの印刷委託が見送られた理由については不明) ^ 大日本除虫菊・キンチョールのホーロー看板のコラージュ ^ 岩瀬達哉『新聞が面白くない理由』講談社、1998年。 ^ ベンジャミン・フルフォード『ステルス・ウォー』 講談社 2010年 ISBN 9784062161244 ^ 本社とテレ朝、新たな提携枠組み合意 株式相互持ち合い - asahi.com 2008年6月6日(2008年6月7日時点のアーカイブ) ^ 朝日新聞百年史編修委員会 『朝日新聞社史 昭和戦後編』 朝日新聞社、1994年、257頁。  ^ 朝日新聞百年史編修委員会 『朝日新聞社史 昭和戦後編』 朝日新聞社、1994年、257-259頁。  ^ a b 朝日新聞百年史編修委員会 『朝日新聞社史 昭和戦後編』 朝日新聞社、1994年、322頁。  ^ 朝日新聞名古屋本社五十年史編修委員会 編 『朝日新聞名古屋本社五十年史』 朝日新聞名古屋本社、1985年、419頁。  ^ 報道と人権委員会 朝日新聞、朝日新聞社インフォメーション > 朝日新聞社CSR報告書・会社案内 > 報道と人権 > 報道と人権委員会/国連グローバル・コンパクト ^ 朝日新聞社からのお知らせ 2007年4月2日(2007年4月21日時点のアーカイブ) ^ 朝日新聞社が「Twitter」開始、日本対カタール戦を中継 ^ 中日新聞社と相互委託印刷で提携します 2009年10月15日(2009年10月18日時点のアーカイブ) ^ 朝日新聞社が紀伊民報と業務提携 2010年1月18日(2010年1月19日時点のアーカイブ) ^ 「電子書籍のオープンプラットフォーム構築へ」 ソニー、KDDI、凸版、朝日新聞が新会社 iPad、Kindle対応の可能性も ^ ソニー・KDDI陣営の電子書籍配信事業会社 「ブックリスタ」発足 ^ 朝日新聞2014年8月5日13版1面、16面・17面、6日12版16面・17面、7日7面 ^ 読売新聞2014年9月12日13S2・3・4・6・38・38面 ^ 読売新聞夕刊2014年9月13日3版12面 ^ 朝日新聞の慰安婦報道 第三者委初会合 2014年10月10日 ^ 報道と人権委員会、朝日新聞報道を審理へ 吉田調書 2014年9月12日 ^ 信頼回復と再生のための委員会発足 社外から4氏 2014年10月14日 ^ 読売新聞2014年10月16日13S版38面 ^ 読売新聞2014年12月6日13S版1面 ^ 朝日新聞のPCがウイルス感染 メール一部流出(ANN) ^ “森友・加計問題の著書巡り文芸評論家らを提訴 朝日新聞”. 朝日新聞デジタル. 2017年12月25日閲覧。 ^ “小川榮太郎氏ならびに飛鳥新社に対する訴訟提起について”. 朝日新聞社. 2017年12月25日閲覧。 ^ “<お知らせ>Aプロ社に社名変更 朝日マリオン21”. 朝日新聞. (2016年4月1日). http://www.asahi.com/articles/DA3S12288499.html 2016年4月1日閲覧。  ^ 地上系放送事業者 マスメディア集中排除原則について(総務省電波利用ホームページ) ^ 朝日新聞社長 木村伊量氏に名誉大英勲章CBE GOV.UK - 2014年10月21日 ^ 東大・朝日シンポジウム ^ 東大・朝日共同調査(2009年12月13日時点のアーカイブ) ^ 2016年 報道パイロット採用募集要項 ^ 全国高校野球開幕 本社ヘリからボール投下 第94回全国高校野球選手権大会の開幕試合 朝日新聞デジタル 2012-08-09 ^ 朝日新聞社航空部格納庫見学ツアー | 特集ページ | 朝日カルチャーセンター ^ 裏切りの朝日記者…内部告発を無断録音 - ZAKZAK 2004年8月6日(2004年10月12日時点のアーカイブ) ^ 「朝日新聞社記者を退社処分 取材の録音外部に流す」 『朝日新聞』 2004年08月06日朝刊 ^ 朝日からウィキペディア修正820件! 厚労省の8倍の仰天事実 - Jcastニュース 2007年9月12日 ^ 朝日新聞、意味不明の連続書き込みで2ちゃんねるの運営を妨害 Technobahn 2009年3月31日[リンク切れ] ^ 朝日新聞社員 2ちゃんねるに差別表現の書き込み - Jcastニュース2009年4月1日 ^ 本社編集局員、差別表現をネットに投稿 - asahi.com 2009年3月31日23時4分(2009年4月3日時点のアーカイブ) ^ 朝日新聞中国版ツイッターが謝罪 石原氏関連記事に「小鬼子」で炎上 j-cast news 2012年11月6日 ^ 「日本人をジャップと呼んで」とつぶやいた朝日新聞の説明 ^ 実物画像 ^ 韓国人差別ステッカーを議員会館で販売 自民議員側は関係否定して困惑顔 ジェイ・キャスト2013年5月14日 ^ 沖縄対策本部■【緊急報告】朝日新聞社会部、西銘事務所へ謝罪、石橋英昭記者注意、ツイッター削除 ^ “共同、朝日記者ら書類送検へ=メール不正アクセス容疑-PC遠隔操作取材で・警視庁”. 時事通信. (2013年6月25日). http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013062500123 2013年6月25日閲覧。  ^ 共同、朝日記者を起訴猶予 取材でサーバーにアクセス ^ YouTube「維新なチャンネル 〜橋下徹代表も出演〜 投票前夜スペシャル」 24:40秒より。 ^ 朝日編集委員、首相にレッテル「ナチ支援者は安倍支持者」 ツイート削除し謝罪 ^ 朝日記者ツイート:カギ十字写真に「安倍政権の支持者」 ^ 朝日新聞 2015年8月5日朝刊 朝日新聞デジタル 朝日新聞のニュースサイト(旧「asahi.com」) 朝日新聞社インフォメーション 朝日新聞社の企業サイト アピタル 朝日新聞の医療サイト 朝日新聞の公式ツイッターアカウント一覧 朝日新聞社 - Google+ Channel ASAHI - 公式YouTubeチャンネル", "株式会社中日新聞社(ちゅうにちしんぶんしゃ)は、愛知県名古屋市中区に本社を置く日本の新聞社であり、中日新聞・中日スポーツの発行元でもある。 名古屋の他、東京都千代田区に東京本社(東京新聞・東京中日スポーツを発行)、石川県金沢市に北陸本社(北陸中日新聞・日刊県民福井を発行)、静岡県浜松市東区に東海本社を置いており、名古屋の本社は総本部に当たる。 プロ野球・中日ドラゴンズの親会社である。 戦前の愛知県の二大新聞社であった新愛知新聞社(しんあいちしんぶんしゃ)と名古屋新聞社(なごやしんぶんしゃ)が、戦時下による新聞社の統廃合命令に伴って1942年に合併し、中部日本新聞社(ちゅうぶにっぽんしんぶんしゃ)として設立された。 その後、1954年に「中日スポーツ」を創刊、1956年には東京に進出して東京中日新聞(現・東京中日スポーツ)を創刊、そして1960年には北陸新聞社を買収して北陸中日新聞を創刊。1965年に題字を「中日新聞」に改題。1963年に東京新聞を発行する東京新聞社(都新聞と、新愛知新聞社系列の国民新聞が合併してできた新聞社)の経営に加わり、1967年10月に東京新聞の編集と発行を東京新聞社から継承した。1993年には経営が悪化していた日刊福井を傘下に置き、日刊県民福井とした。1971年には社名を中部日本新聞社から中日新聞社に変更し、現在に至っている。2011年8月からは小学生向けの週刊新聞である「中日こどもウイークリー」が創刊された。発行部数は三大紙の毎日新聞(300万部)や、日本経済新聞(277万部)・産経新聞の全国紙より多い。朝刊296万部、夕刊57万部、スポーツ紙51万部。日本の新聞の発行部数としては、中日新聞グループの一般4紙合計では参考ながら全国4位相当になる。 現在掲げられている社旗は1962年9月に作られ、上半分が赤、下半分が紺色になっている。上半分の左側には中日新聞社の社章(後述)、下半分の右側には「中日」の文字が白抜きで染め抜かれている。なお、赤は燃える情熱、紺色は無限の発展と冷静さ、白は公正・中立を意味している。東京本社で使う物では「中日」の部分を「東京新聞」に差し替えている。この社旗は、当初は1956年、東京中日新聞(現:東京中日スポーツ)が創刊された当時に東京支社(現:東京本社)限定の社旗として使われていたものを1962年に中日新聞社全体で使うようになった。なおバリエーションとしては、紺色部分の「中日」の部分を、東京本社で使う物では「東京新聞」に、北陸本社で使う物では「北陸中日」に、日刊県民福井(福井支社)で使う物は「日刊県民福井」に、中日スポーツで使用する物は「中日スポーツ」のロゴ、東京中日スポーツで使う物は「東京中日スポーツ」のロゴとそれぞれ差し替えている。 ちなみに、中日新聞が親会社を務めるドラゴンズの球団旗はこれをアレンジしたものが使われる(社章の部分が筆記体「Dragons」ロゴになっているもの)。 それ以前の社旗は赤色に白抜きで中日新聞社の社章が大きく染め抜かれ、社章の下部に白抜きで「中部日本新聞」と染め抜かれていた。 社章は中央に「中」の文字をあしらったもので、その両端にはそれぞれ2本のやや太い線が出ている。社章は翼をイメージしたもので、同社の発展を象徴化したものである。社章そのものは前身の中部日本新聞時代からあったものだが(1942年9月制定)、社章の規格が厳密に定められたのは、前述した現在の社旗が定められた時と同じ1962年9月である。なお、社章が中日新聞グループに登場するようになったのは1999年2月1日付の朝刊からである。また、この社章はかつてドラゴンズのユニホームの袖部分にワッペンとして縫い付けられていたこともある。 中日新聞 - 東海地方の一部(愛知県、岐阜県、三重県、静岡県西部・中部)、及び長野県、滋賀県、和歌山県(新宮市、東牟婁郡那智勝浦町・太地町)、福井県(一部地域) 東京新聞 - 関東地方(東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、栃木県、群馬県)及び静岡県東部・伊豆・中部 北陸中日新聞 - 石川県、富山県 日刊県民福井 - 福井県(一部地域では中日新聞と併売している) 静岡県では、東部・中部が中日新聞(東海本社版)と東京新聞の併売(ただし、静岡市など一部の地域では東京新聞は宅配のみ)となっているが、浜松市など西部地域は中日新聞のみの販売となっている。 中日新聞・東京新聞発行エリアに囲まれている山梨県は両新聞とも発行されていない。 中日スポーツ 愛三岐・静岡・長野および北陸3県・滋賀エリアで販売。 東京中日スポーツ 関東・西部を除く静岡県・山梨県の一部エリアで販売。 なお、静岡県の中部・東部においては中日スポーツと東京中日スポーツが併売されている。また、新潟県は一般紙・スポーツ紙合わせて中部地方で唯一販売エリア外となっている。 中日新聞・北陸中日新聞:中日春秋(ちゅうにちしゅんじゅう) 東京新聞:筆洗(ひっせん) 日刊県民福井:緑風(りょくふう) ※「筆洗」は、通常は「中日春秋」と同一内容だが、日によって独自のものになることもある。 ※ 夕刊のコラムは中日・北陸中日・東京共通で、「夕歩道」(原則1面)と「紙つぶて」(原則中面)である。 名古屋本社 愛知県名古屋市中区三の丸一丁目6番1号 東海本社  静岡県浜松市東区薬新町45番地 東京本社 東京都千代田区内幸町二丁目1番4号 北陸本社  石川県金沢市駅西本町二丁目12番30号 大阪支社 大阪府大阪市北区堂島二丁目1番43号 紀陽銀行大阪ビル 岐阜支社 岐阜県岐阜市柳ヶ瀬通一丁目12番地 岐阜中日ビル 福井支社 福井県福井市大手三丁目1番8号 豊橋総局(旧・豊橋支局) 愛知県豊橋市八町通4-52-1 一宮総局(旧・一宮支局) 愛知県一宮市大江1-13-13 三重総局 三重県津市鳥居町227-2 静岡総局 静岡県静岡市葵区呉服町一丁目2番地 三井住友海上ビル 総局以外に支局・通信局・通信部がある(静岡を含めた東海4県に関しては、「○×市」と名の付く行政区分には、総局が設置されているところを除き、総局以下の取材拠点のうち、多くの拠点が設置されている)。なお中日新聞朝刊の各地方版には、地域のニュース・話題などの提供の連絡先として、それぞれ総局・支局・通信局・通信部の連絡先が記載されている。 金城工場 愛知県名古屋市北区金城4丁目3−19 辻町工場 愛知県名古屋市北区辻町2丁目1-1 豊田工場 愛知県豊田市美山町3丁目34-34 岐阜工場 岐阜県岐阜市六条大溝3丁目2-20 東濃工場 岐阜県中津川市茄子川1642-167 浜松都田工場 静岡県浜松市北区新都田1-3-4 幸工場 石川県金沢市北安江3丁目10-30 埼京工場 埼玉県戸田市上戸田1丁目22−6 塩浜工場 元々は東京タイムズの印刷工場だったが、現在は東京都内で物流倉庫などを運営するアサガミのグループ企業である「アサガミプレスセンター」が運営。同工場では東京新聞・東京中日スポーツを受託印刷する他、読売新聞の受託印刷も行っている。 川崎工場 朝日新聞社系の朝日プリンテック川崎工場で2011年4月から東京新聞を受託印刷。なお中日新聞社の幸工場では朝日新聞の富山県・石川県向け(大阪本社版)の受託印刷を同じ時期に開始している。 座間工場 朝日新聞座間工場(凸版印刷系のトッパンメディアプリンテック東京が運営)で2010年から東京新聞夕刊の印刷を開始。 越中島工場 毎日新聞社系の東日印刷本社工場。東京新聞を受託印刷。 瀬谷工場 東京新聞の神奈川県・静岡県向けを印刷していたが、2011年3月末で閉鎖。現在は朝日プリンテック川崎工場での受託印刷になっている。 朝日新聞(朝日新聞大阪本社発行の富山県・石川県向け紙面を、2011年4月より金沢市の幸工場にて委託印刷。なお福井県は距離的な観点から京都市にある朝日新聞・東洋紙業合弁の関連会社「トーシプリンティングサービス」に委託) 毎日新聞・スポーツニッポン(毎日新聞中部本社発行の東海3県向け紙面、並びに毎日新聞東京本社発行の静岡県西部(概ね浜松市・磐田市など、天竜川以西)向け夕刊を名古屋市の本部工場にて委託印刷) 聖教新聞・公明新聞(同上) 中日新聞社は、書籍・雑誌などの出版事業を名古屋本社と東京本社でそれぞれ別の部署で行っている。 名古屋本社 「中日新聞社出版開発局」(出版者記号8062)が行い、中日新聞・中日スポーツなどに連載されたエッセイ・ドキュメント・コラムなどの単行本の発行・販売や、中日新聞縮刷版、中日ドラゴンズの情報誌「月刊ドラゴンズ」、名古屋グランパスエイトの情報誌「月刊グラン」を発行している。 東京本社 「東京新聞出版局」(出版者記号8083)の名称で出版事業を行い、東京新聞・東京中日スポーツなどに連載された小説・エッセイなどの単行本を発行。過去には登山専門誌「岳人」を発行していたが、2014年9月号から発行元がアウトドア用品の製造・販売で知られる「モンベル」(本社:大阪府大阪市)のグループ会社「ネイチュアエンタープライズ」に移管された。 備考 名古屋、東京両本社が発行した出版物は、中日新聞・東京新聞・北陸中日新聞の販売店でも取り扱っている。中日新聞縮刷版は、関東地方では東京新聞販売店に申し込めば購入できる。ちなみに、東京新聞は縮刷版を発行していない。 中日資本のテレビ局はフジテレビ系列(FNN・FNS)との結びつきが強い(*印のついている局)。 中日新聞 - CBCテレビ、東海テレビ放送(THK)*、CBCラジオ、東海ラジオ放送(SF) 、テレビ愛知 (TVA) 、ZIP-FM、三重テレビ放送(MTV)、三重エフエム放送、岐阜エフエム放送、テレビ静岡(SUT)* 、静岡エフエム放送、びわ湖放送(BBC) 、エフエム滋賀、長野放送(NBS)* 北陸中日新聞 - 石川テレビ放送(ITC)* 、エフエム石川、富山テレビ放送(BBT)* 日刊県民福井 - 福井テレビジョン放送(FTB、ただし毎日夕方放送のニュースは日刊県民福井ではなく『中日新聞ニュース』として放送している)* 東京新聞 - TOKYO MX、千葉テレビ放送(チバテレビ・CTC)、テレビ埼玉(テレ玉・TVS)、テレビ神奈川(tvk) 総務省 電波利用ホームページによると、2017年1月1日現在、エフエム北海道(AIR-G')の株式17.0%を保有する筆頭株主となっている。 また、開局時の経緯から静岡朝日テレビ(SATV)の株式も11.5%保有している。テレビ朝日系列局の株式を中日が(大株主として)保有する唯一の例である。 コミュニティ放送でも、浜松エフエム放送、飛騨高山テレ・エフエム、エフエムたじみ、シティエフエムぎふにニュース配信している。かつては葛飾エフエム放送にも配信していた。 ブロック紙としては、北海道新聞・西日本新聞同様に地元の複数の放送局の株主になっているが、特に中日の場合はそれが顕著で、東海三県の民放テレビ局全7局のうち4局の大株主(間接的な例を含む)となっている。そのため、2004年にマスメディア集中排除原則の上限を超えて放送局に出資していたとされる事例が多数報道されたことを契機として総務省が行った調査[1]では、違反事例が数多くみられた。 中日は東海ラジオ株式の35.8%を保有しているため、同一エリア内にある中部日本放送(CBC、放送持株会社)、ZIP-FM、三重エフエム放送、岐阜エフエム放送(いずれもFM局)の10%を超える株式保有が違反とされた。 CBCは元々中日新聞社がバックアップして開局した局であり、1951年に開局した日も中日新聞発足日の「9月1日」に拘ったとされる。その後、同局は中日出身者の代表者・小嶋源作が採った「新聞と放送は別個の物」とした方策から東海テレビほど中日色が強くないと言われてきた。しかし、同局の一部の個人株主等が実は名義のみで実態は中日が保有していたことが明らかになった。現在、CBCの中日の出資比率は9.85%と発表されている。 三重エフエム放送、ZIP-FMについては、以前は中日がそれぞれ40%、30.58%の株式を保有していたが、現在は両社とも中日の出資比率は10.0%となっている。 岐阜エフエム放送については、中日が23.29%、岐阜新聞が19.25%を保有、両社とも同一エリアに10%を超えて出資する中波ラジオ局がある(岐阜新聞は岐阜放送)ため10%を超える出資は違反であるが、2008年3月31日現在でも出資比率はそのままだった。その後経営破綻し、2014年に新旧分離で発足した「株式会社エフエム岐阜」は、TOKYO FM・JFNC・FM AICHIを中心とした経営となり、新聞社との直接的な出資関係がなくなった。 東海テレビは東海ラジオの子会社であった(これ自体は違反ではない)ため、中日によるテレビ愛知、三重テレビに対しては10%、石川テレビに対しては20%を超える出資も違反とされた(石川テレビについては隣接区域への出資比率規制緩和(1/5→1/3)により結果的に解消された)。なお、東海ラジオが東海テレビ株の一部を売却して同局への出資比率を下げ、現在は子会社ではなくなっている。 テレビ愛知は日本経済新聞社との合弁。最後発ながらこの資本関係が強みを生かし、中日ドラゴンズ主催試合の中継権を持っている(先発局のメ〜テレ・中京テレビは中日が出資していないため持つことができない。また、以前は中日資本であってもサービスエリアの問題などもあり、テレビ愛知での中継が出来なかった)。 また、東海テレビ自体も複数の放送局の大株主となっていた件が違反とされ、石川テレビ・富山テレビについては出資比率規制緩和により解消されたが、三重テレビについては中日ともども出資比率を10%以下に下げ、2007年5月1日現在、ナゴヤドームが32.79%(中日・東海テレビの超過分に相当)を保有する筆頭株主となっている。 また、石川テレビ株式の23.45%を保有(現在は30.8%まで出資比率を引き上げている)していたため、同一エリアのエフエム石川に対する10%を超える出資も違反とされた。 東京都唯一の独立局(放送大学を除く)であるTOKYO MXの第2位の主要株主である。 地元の地方新聞である岐阜新聞とは岐阜県におけるシェアを巡り犬猿の仲であると言われる。かつて中日ドラゴンズの監督交代を巡る騒動の中で、中日側が岐阜県内の拡販を狙って岐阜県出身者の高木守道の登用を強く促したと言われるほどの特異性を持つ(他社マスコミによって報じられた)。 岐阜県域独立局である岐阜放送(ぎふチャン)のテレビ電波送信は、名古屋市内の大半で受信困難なほどに名古屋方向へのスピルオーバーを抑えている。一方、同じ独立局である、中日傘下の三重テレビ放送はスピルオーバーをほとんど制限していないため、名古屋市内をはじめ、愛知県内の多くの地域でも視聴が可能である。 また、ぎふチャンラジオでは、中日ドラゴンズの試合結果を放送するときに、一般的な「中日対巨人」などという言い方ではなく「ドラゴンズ対巨人」などと言い換えている。ぎふチャンテレビでの中日戦中継はビジター戦のみである。 ただし、岐阜新聞・岐阜放送の公式webサイト上の文章では、「中日」を使用している。 またビジター戦の内、東京ヤクルトスワローズ主催ゲームについては、中日新聞東京本社(東京新聞)と関係が深いTOKYO MXの制作である。また、以前放送されていた横浜ベイスターズ主催ゲームを制作していた(現在は完全自社製作からTBSからの映像購入と独自映像挿入に移行したため、独立局へのネットが制限された)tvkも、中日新聞社が主要株主である。 1980年代末期には、CBCで放送できない場合に、CBC制作でぎふチャンテレビで放送された例があった。この時期の中日新聞の経営陣は、岐阜新聞との関係が険悪でなかった大島派(後述)だった模様。その後は、放映権が広島球団側にある長良川球場での広島主催中日戦でこの形態での放送が行われた。 なお、ぎふチャンラジオは在中京AM(中波)・FMの民放ラジオ全8局中、長らく唯一中日資本が直接・間接共にない局であった。このためか、2010年9月30日までは、愛知県内では中日新聞のみ極小サイズで番組が掲載されていた。 2010年代に入り、中日新聞が岐阜放送に資本参加し、2015年3月31日現在では12,000株(2.00%)の株式を保有している。 毎年夏に開催されている長良川の花火大会が中日新聞主催の全国選抜長良川中日花火大会と岐阜新聞主催の長良川全国花火大会と2つ存在するのも対抗意識の表れと言われる。ちなみに開催回数については岐阜新聞主催の方が多いが、開催日については例年、中日新聞主催の方が先行する。 中日成立前の前身である名古屋新聞(小山家)・新愛知(大島家)と岐阜新聞の前身・岐阜日日新聞との関係は、愛知県西部や岐阜・三重県を主な地盤とした前者とは競合関係で犬猿の仲だった一方、後者は三河地域を中心とした愛知県東部が地盤で、直接の競合が少なかったためか良好だったとされる。 また、現在も前述の通り一部で共同で行っている事業があるほか、東京本社(東京新聞)との関係は直接競合しないためか険悪ではない模様。連載小説「親鸞 激動編」や共同通信の連載「仮面の家」(後に同名で単行本化)など、岐阜新聞と東京新聞とでデイリーニュース以外で共通の配信があることもある。 一部の放送局とともに中日ハウジングセンター(住宅展示場)を東海地方の各地に展開している。 中日新聞社自体のCMは、ZIP-FM、岐阜エフエム放送(同社の冠番組が存在する)、テレビ愛知(1社提供の番組がある)、三重テレビ以外の放送局では放送されていないが、中日ハウジングセンターのCMは、東海テレビ・東海ラジオ・岐阜エフエム放送・三重テレビ・三重エフエム放送で放送されている。 なお中日新聞東京本社(東京新聞)のCMは、TBSテレビ・フジテレビ・テレビ東京・TBSラジオ・ニッポン放送・TOKYO MX・テレ玉・チバテレビ・tvkで放送されている。 北陸中日新聞のCMは、石川テレビ放送・テレビ金沢・北陸朝日放送・富山テレビ放送・エフエム石川で放送されている。2005年頃までは北陸放送(テレビ・ラジオとも)でも放送されていた。 日刊県民福井のCMは福井県内の民放テレビ・ラジオで放送されている。 CMキャラクターには2017年3月から遼河はるひ(元宝塚歌劇団。愛知県出身)、杉咲花を起用している。(過去には又吉直樹(ピース)、高橋尚子、吉瀬美智子、米倉涼子などを起用していた。) 北陸中日新聞は2018年2月から石川県能美市出身の中日ドラゴンズ・京田陽太選手をCMに起用している。 大相撲名古屋場所を日本相撲協会と共同で開催している。東京・大阪・福岡の5場所が相撲協会単独主催となっているのとは対照的である。なお、いずれも中日新聞社の社長経験者である加藤巳一郎(1988年3月~1995年6月)、大島宏彦(現・最高顧問)(1997年3月~2007年1月)、大島寅夫(2007年3月~)の3人が横綱審議委員会の委員を務めている。 2010年11月現在、中日新聞等のグループ内の一般紙の記事中の数字表記は一部を除いて、漢数字表記のままである。これは特に2001年以降、これまで漢数字表記のままだった一般紙、経済紙のほとんどがアラビア文字表記に変更されていった中で、特異な例である。なお、中日スポーツ、東京中日スポーツは他のスポーツ紙同様、早い時期からアラビア文字表記となっている。また、販売エリア内の三重県で発行されている伊勢新聞も漢数字表記となっている。 静岡県では地元紙の静岡新聞との競合関係になっている。 Jリーグ・清水エスパルスの旧運営会社だった株式会社エスラップ・コミュニケーションズ(テレビ静岡が中心)には中日新聞東海本社が出資していたが、経営が鈴与系の株式会社エスパルスに譲渡されて以降は中日との関係が薄れ、代わって静岡新聞と資本関係を結んでいる。なお、静岡新聞はジュビロ磐田の大株主でもある。 2012年に名古屋国税局の税務調査を受け、取材費や会議費などとして申告していた費用について「交際費」と認定され、約2億8,600万円の申告漏れを指摘されている。 2018年の日米野球は、毎日新聞社に代わって読売新聞社と共同で主催を行うことになった。 2018年、中日新聞社の男性記者が、知り合いの元暴力団組員の男に対し、愛知県警が報道機関に提供する発表文を撮影し、複数回送っていたことが明らかになり、暴力団との関係が指摘された。 草野武志(中日スポーツ総局) 長年競馬の本紙予想を担当、『KEIBA BEAT』東海テレビ版の解説者。 高橋尚子(マラソン選手) 本社客員。 ※印はフジテレビ系列(FNN・FNS)、★印はニュース配信局。 また、記載の比率は総株式発行数に対する出資比率(2010年3月31日時点)で、太字は筆頭株主を表す。 東海地方 中部日本放送(3.25%)★ 東海テレビ放送(5.38%)★※ テレビ愛知(10.0%)★ 三重テレビ放送(9.9%)★ テレビ静岡(5.4%)★※ 静岡朝日テレビ(11.5%) 東海ラジオ放送(3.7%)★ エフエム愛知 ZIP-FM(10.0%)★ 三重エフエム放送(10.0%)★ 岐阜エフエム放送(23.29%)★ 静岡エフエム放送(3.1%)★ 滋賀県 びわ湖放送(8.7%) エフエム滋賀(3.6%)★ 関東地方 東京メトロポリタンテレビジョン(7.32%) テレビ神奈川(3.9%) テレビ埼玉(3.3%) 千葉テレビ放送(10.6%) 群馬テレビ とちぎテレビ 北信越地方 福井テレビジョン放送(15.8%)★※ 石川テレビ放送(19.9%)★※ 北陸朝日放送(5.0%) 富山テレビ放送(19.9%)★※ 長野放送※ 福井エフエム放送(7.0%)★ エフエム石川(10.0%)★ 富山エフエム放送(4.62%)★ 北海道 テレビ北海道(3.3%) エフエム北海道(17.0%) 東海地方 岐阜放送(2.0%) 北信越地方 テレビ金沢(3.0%) チューリップテレビ(3.3%) 長野朝日放送(3.0%) 長野エフエム放送(3.5%) 関東地方 J-WAVE(4.65%) エフエムナックファイブ(6.0%) ベイエフエム(4.0%) エフエム栃木(3.0%) 中日映画社 社団法人 名古屋タイムズ社 中日カントリークラブ 中日出版社(独立) 愛知県郷土資料刊行会 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム ^ ただし、近隣の都市に支局が設置されている場合や、比較的大きくない市の場合は、人員が多い事などを考慮してか、通信局や通信部を設置しない場合もある。 ^ 富山県のみ、1989年4月から2011年3月までは朝日新聞東京本社の紙面を朝日新聞名古屋本社で印刷・輸送、さらに石川県と福井県、及び1989年3月までの富山県は京都市内(現在のものとは別)の朝日新聞直営の工場を使用していたが、中日新聞との相互提携の実現により、2011年4月から現在の形となった。 ^ a b 2013年3月まではテレビ・ラジオ兼営局だったが、同年4月に子会社のCBCラジオにラジオ放送事業と放送免許を譲渡・継承。2014年4月に子会社のCBCテレビにテレビ放送事業と放送免許を譲渡・継承し、放送持株会社となる。 ^ エフエム岐阜は、旧社(岐阜エフエム放送)時代は中日新聞・岐阜新聞の両紙が出資していたが、新社(エフエム岐阜)には中日新聞はエフエム愛知を通じた間接的な関係となり、岐阜新聞は出資しなかった。また、一時期中日が出資していた愛知国際放送(RADIO-i)が経営破綻し(末期は中日が資本を引き揚げて興和の完全子会社だった)、その実質的後継として東京都に本社を置くInterFMが名古屋支社を設置してRadio NEOを開局させたが(2016年2月に株式会社Radio NEOとして分社化)、こちらは木下工務店グループであり中日新聞との関係が一切ない。 ^ 1980年代まで、朝刊の愛知・三重版ではぎふチャンラジオ(当時岐阜ラジオ)の番組は夕方~深夜(当時24:30終了)までしか収録されていなかった。テレビについては中日系の三重テレビと同列でハーフサイズにて収録されていた。また同地域の夕刊には岐阜テレビ・ラジオの番組表は収録されていなかった ^ 単行本あとがきによると、全国43紙で連載とある。 ^ 1973年までは九州場所も開催会場運営会社の福岡スポーツセンター(西鉄グループ)との共催だった。1974年に単独主催に移行する際に、開催会場も九電記念体育館に移転した。 ^ a b c d e “会社概要”. 中日新聞社 (2015年7月1日). 2016年1月25日閲覧。 ^ 中日新聞:会社概要:中日新聞社から(CHUNICHI Web) 2014年4月1日 ^ 2011年2月26日の「中日新聞」朝刊15面(学ぶ)『しんぶんのヒ・ミ・ツ』(Newspaper In Education内)より。 ^ 出典:日本民間放送連盟 『日本民間放送年鑑2015』 コーケン出版、2015年11月20日、355-356頁。 ^ 中日新聞、2億8600万円申告漏れ…国税指摘 読売新聞 2012年6月29日[リンク切れ] ^ CBCテレビ 記者が警察発表文を元組員に複数回提供‥「記者倫理に反する」中日新聞社 } ^ 『日本民間放送年鑑 2010』 - 日本民間放送連盟編(コーケン出版、2010年) 杉原千畝 中日新聞杯 中日新聞社", "朝日新聞社 > 朝日新聞東京本社 > 朝日新聞北海道支社 朝日新聞北海道支社(あさひしんぶんほっかいどうししゃ)は北海道向けの朝日新聞を印刷・発行する朝日新聞東京本社の支社である。 北海道全域を対象エリアとしており、通常の総局ではなく「報道センター」が置かれている。 北海道内の朝日新聞は、道内での現地印刷当初から一貫して東京本社で制作された紙面を基とした内容(東京からファクシミリ送信)となっている。ただし高校野球や選挙の結果によっては一面であっても北海道支社で独自に差し替えを行うこともある。 なお夕刊も発行する「セット版」は道央の上川、空知、石狩、後志、胆振各管内のみで、それ以外は朝刊のみの「統合版」である。夕刊では1面題字横に「北海道 Evening」と表記されている。 1959年(昭和34年)2月14日 - 「北海道支社」を設立し、東京本社の管轄下に置く。 1959年(昭和34年)6月1日 - ファクシミリ方式による現地印刷・発行を開始。日刊紙が本格的にファクシミリ方式を採用したのは世界初であった。 1980年(昭和55年)6月2日 - 新社屋が竣工し、7月21日から業務開始。旧社屋跡地には日本生命との共同ビルを建て、キーテナントとしてホテルニューオータニ札幌が入った。 2018年(平成30年)5月7日:さっぽろ創世スクエアの高層棟9階に移転。系列民放テレビ局であるHTBより先行して移る形となった。 北海道支社 2018年に移転した現社屋には、系列民放テレビ・HTBも同年中豊平区平岸から低層棟へ移転。 北海道札幌市中央区北1条西1-6 さっぽろ創世スクエア9階 〒060-8602 旧所在地: 北海道札幌市中央区北2条西1-1-1 〒060-8602 対象エリア 北海道 社員数 男: 76人 女: 6人 合計: 82人 印刷工場 北海道北広島市 - 北海道日刊スポーツ印刷社、道新総合印刷本社工場 北海道音更町 - 道新総合印刷帯広工場 かちまい印刷(十勝毎日新聞社の子会社、帯広市)での印刷は2018年1月限りで終了した。 英字略称表記は青地に白抜きで表示される。 フルサイズ NHK総合、NHK Eテレ(デジタルサブチャンネル編成は番組表の末尾に掲載)、HTB、STV、HBC、UHB、TVH ハーフサイズ NHK BS1、NHK BSプレミアム(以上解説欄中央付近) クォーターサイズ BS日テレ、BS朝日、BS-TBS、BSテレ東、BSフジ 以上各放送局は2009年3月29日までは全部中面に載せていたが、3月30日以後最終面に移設した。 ラジオの周波数については「ラジオ・テレビ」と書かれたコーナータイトル(左端)にまとめて掲載してある。なお、2009年3月から4月ぐらいは周波数の掲載が省略されていたが読者からの不評を買っていた(北海道版と同じく東京版を現地印刷する名古屋版でも同様)。 ラジオのフルサイズ掲載 NHK第1、NHK第2、NHK-FM ラジオのハーフ・クォーターサイズ掲載 STV、HBC、RAB、ラジオNIKKEI、AIR-G'、NORTH WAVE、FM青森 テレビのクォーター・極小サイズ 放送大学、WOWOWプライム・ライブ・シネマ、スターチャンネル1、BS11、TwellV、テレ朝チャンネル2、sky・A、テレ朝チャンネル1、CNNj 朝日新聞東京本社 北海道日刊スポーツ新聞社 北海道テレビ放送(HTB) - 系列の放送局。岩澤コンツェルンの経営問題を機に資本強化。 札幌テレビ放送(STV) - 1959年の開局時に経営参加。読売新聞との関係が強化された1973年以降は希薄化されたものの、現在も資本は僅少ながら残っている。 テレビ北海道 - テレビ東京系列のテレビ局であるが、朝日新聞社も出資。 エフエム北海道 - 北海道新聞系列であるが朝日新聞社も出資。 エフエム・ノースウェーブ - 資本関係あり。 ^ 朝日新聞百年史編修委員会 『朝日新聞社史 昭和戦後編』 朝日新聞社、1994年、257頁。  ^ 朝日新聞百年史編修委員会 『朝日新聞社史 昭和戦後編』 朝日新聞社、1994年、257-259頁。  ^ 朝日新聞百年史編修委員会 『朝日新聞社史 昭和戦後編』 朝日新聞社、1994年、712-713頁。  ^ 朝日新聞北海道支社あす移転2018年5月6日 ^ “地域の取材網”. 朝日新聞社. 2018年5月19日閲覧。 ^ “朝日新聞北海道支社あす移転”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2018年5月6日). https://digital.asahi.com/articles/DA3S13481674.html/ 2018年5月19日閲覧。  ^ “朝日が北海道に印刷委託 朝刊7万部、18年春から”. 日本新聞協会 (2012年2月23日). 2018年5月19日閲覧。 ^ “道新で朝日新聞の委託印刷開始”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2018年3月26日). https://digital.asahi.com/articles/DA3S13420497.html/ 2018年5月19日閲覧。  ^ “朝日新聞の受託印刷開始(本社工場)”. 道新総合印刷. 2018年5月19日閲覧。 ^ a b “道新帯広工場に印刷委託 十勝毎日との契約満了 朝日”. 日本新聞協会 (2018年1月31日). 2018年5月19日閲覧。 asahi.com(朝日新聞社):マイタウン北海道 - 朝日新聞地域情報", "株式会社神戸新聞社(こうべしんぶんしゃ)は、兵庫県神戸市中央区に本社を置く日本の新聞社である。 神戸新聞(2006年度の発行部数は朝刊約56万部、夕刊約25万部)とデイリースポーツを発行する。また会社設立の10日後1898年2月11日に神戸新聞が創刊された。 京都新聞社とは災害時の”新聞発行協定”を締結している。 1898年(明治31年)2月11日 - 川崎正蔵によって神戸新聞が創刊(神戸新聞社発足は同年2月1日)。 1899年(明治32年)2月11日 - 松方幸次郎(株式会社川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)社長)が神戸新聞社初代社長に就任、2代目社主に川崎芳太郎。 1918年(大正7年)8月12日 - 米騒動で鈴木商店とともに本社が焼き打ちに遭って全焼するが、翌8月13日付新聞を関連会社の「神戸社」で代行印刷し、無休刊発行を維持した。 1920年(大正9年)11月1日 - 神戸川崎財閥から脱退して株式会社化。 1931年(昭和6年)8月1日 - 神戸新聞、京都日日新聞、大阪時事新報が統合され、三都合同新聞社が発足。 1933年(昭和8年)12月21日 - 京都日日新聞を分離。 1935年(昭和10年)7月22日 - 大阪時事新報を分離。社名を再び株式会社神戸新聞社とする。 1939年(昭和14年)6月18日 - 東川崎町に神戸新聞新社屋完成。 1945年(昭和20年) 3月17日 - 神戸大空襲で東川崎町の本社全焼(死傷者有)。 3月18日 - この日から10月14日付までの新聞を朝日新聞社で委託印刷(無休刊)。 10月14日 - 兵庫区湊町一丁目(新開地)に本社社屋を再建。自力印刷再開。 1948年(昭和23年)8月1日 - デイリースポーツを創刊。 1952年(昭和27年)4月1日 - 神戸放送(通称ラジオ神戸、現ラジオ関西)を開局。 1955年(昭和30年)2月1日 - 株式会社デイリースポーツ社設立。 1956年(昭和31年)5月3日 - 本社を新開地から国鉄(現在のJR西日本)三ノ宮駅前の神戸新聞会館に移転。 1958年(昭和33年)11月22日 - 共同出資により、関西テレビ放送を開局。 1969年(昭和44年)5月1日 - サンテレビジョンを開局。 1976年(昭和51年)5月15日 - 神戸まつり事件で取材中のカメラマン1名が死亡。 1988年(昭和63年)6月1日 - 電算写植システム「六甲」運用開始。 1994年(平成6年)1月1日 - 京都新聞社との間に「緊急事態発生時における新聞発行援助協定」を締結。 1995年(平成7年) 1月17日 - 阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)で、神戸新聞会館が「全壊」判定を受ける。電算写植「六甲」も損害を受け使用不能となる。緊急援助協定を発動し、京都新聞の協力で無休刊で発行。震災の生々しい現状を伝えた(#阪神・淡路大震災当時)。 1月23日 - 神戸ハーバーランドの「ダイヤニッセイビル」の空きフロアに暫定社屋をオープンさせる。ただし登記上本部は印刷所「神戸新聞総合印刷西神印刷センター」のある西区室谷に置いていた。 1996年(平成8年)7月1日 - 神戸ハーバーランドの神戸情報文化ビル(エコール・マリン)に神戸新聞社新社屋が完成。 1997年(平成9年)6月4日 - 神戸連続児童殺傷事件。少年Aから犯行声明が郵送された。 1998年(平成10年)2月1日 - 会社設立100周年。 2006年11月26日 - パチンコ店において携帯電話のカメラ機能で女性店員のスカート内部を撮影したとして、編集局写真部員が兵庫県迷惑防止条例違反の現行犯で逮捕された。なお、容疑者は容疑を否認した。 2007年 (平成19年) 阪急タクシーを使い販売店への新聞配送を違法に行っていたとして、京都府警の家宅捜索を受ける。 9月22日 - 電算写植が再びダウン。同日付の夕刊(約25万6000部発行)と23日付朝刊(約56万部)の制作を、「援助協定」に基づき京都新聞社に依頼して発行、翌23日未明にシステムは復旧。データベースを提供した日本オラクルとNECが不具合を発表した。 2008年(平成20年)2月より新ロゴマーク制定(新聞の題字変更なし)。 2010年(平成22年)3月 - デイリースポーツ社を吸収合併。取締役会の下にデイリースポーツ事業本部・編集局・販売局・広告事業局・管理部を設置。 2014年(平成26年)7月7日 - 地域課題の解決に向け、神戸大学と連携協定を締結。 2015年(平成27年)6月2日 - スポーツを通じた地域振興に向け、ヴィッセル神戸と連携協定を締結。 2016年(平成28年)6月25日 - 甲南大学と連携協定締結。地域振興・防災・減災など6分野で協力。 1931年から1935年にかけて存在した新聞トラスト。神戸新聞社が京都日日新聞・大阪時事新報を相次いで買収して合併。神戸新聞社を三都合同新聞社に改組して本店を大阪市に、支店を京都市・神戸市に設置し、それぞれに編集発行拠点を置いて三紙の題号をそのまま継承して発行した。 京都日日新聞は京都府の地方紙として京都日出新聞(現:京都新聞)に次ぐ存在であり、これに大阪の大阪朝日新聞(現:朝日新聞)や大阪毎日新聞(現:毎日新聞)、名古屋市の新愛知(現:中日新聞)などが加わり熾烈な部数競争を行っていた。また大阪時事新報は、大阪府下では大阪朝日・大阪毎日に次ぐ存在でありながら両者に大きく水をあけられ、後発の夕刊大阪新聞(後の大阪新聞。現:産経新聞)にも追い上げられていた。 神戸新聞社はこれら二紙を買収して部数の立て直しを図ったが、なかなか統合効果が現れなかった。特に大阪時事新報の経営が思わしくなかったため、三紙の協調が崩れた。まず、京都日日新聞を分離し、次いで大阪時事新報を分離。商号を神戸新聞社に、本店を神戸市にそれぞれ戻し、神戸新聞の編集発行のみに戻った。 1995年1月17日、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)が発生。当時神戸新聞本社があった新聞会館も被災。ビルの全壊という被害が発生した。この当時、神戸新聞・デイリースポーツの新聞印刷機能については神戸市西区の西神ニュータウンに建設された「神戸新聞製作センター」に移動していたが、編集部門・制作部門など新聞発行の心臓部ともいえるCTSホストコンピュータシステムの機器破損および高圧受電盤が損傷し、自社での原版製作が不可能となった。 しかし1994年に京都新聞との「緊急事態発生時における新聞発行援助協定」を結んでいたことから、通常よりも頁数が大幅に削減されたものの、この日に発行の夕刊から無休で新聞の発行を続け、震災発生当時の神戸の惨状を的確に伝えた。その後、惨状を知った共同通信社の協力で京都市けいはんなプラザからのヘリコプターによる原版空輸が開始され、大日本スクリーンの協力により他社に出荷予定の特殊カメラを緊急調達してFAX送信された原版を特殊カメラで撮影して新聞印刷用フィルムにするシステムが立ち上がり時間短縮になった。 当時、神戸新聞社はラジオ関西と合同で神戸ハーバーランドに自社新社屋ビル「神戸情報文化ビル・エコールマリン」が建設中で、1996年8月に完成するまで同ビルに近い「ダイヤニッセイビル」の空きフロアを暫定の社屋とし(ただし、登記上での本社所在地は同期間中、西区室谷の製作センターに移していた)、他にも、神戸市の都心部に第二本社を設置して、速いペースでほぼ通常と同じ30頁前後の紙面発行まで復旧することができた。富士通が全面協力し、日本全国の新聞社が予備機材を提供してくれたため、システムの緊急構築に成功した。 また、デイリースポーツも日本経済新聞や販売提携先の地方新聞社との連携で無休発行をするが、カラー印刷が出来なかったり頁数の削減などで、通常の発行に復旧するまでに2か月以上を要した。 デイリースポーツは、原版作製が不可能になったため、休刊を覚悟していたとされるが、日経印刷の全面協力により、同社のシステムを使用して原版製作に着手。日本経済新聞社の協力も得て紙面製作に成功した。神戸本社印刷工場には、日本経済新聞の紙面送信装置を使用して大阪経由で原版を送信。その後聖教新聞の協力で、神戸新聞印刷工場への直接送信も実施され発行に至った。 これらの過程は、震災発生から満15年の前日、2010年1月16日にフジテレビジョン系列ノンフィクションドラマ『神戸新聞の7日間』として放送された。 吉本興業の中田カウスが脅迫された事件において、神戸新聞およびデイリースポーツはコメディNo.1の前田五郎(本名・前田邦弘)が真犯人であるかのような報道を行った。前田はこれに対し、名誉を傷つけられたとして、約1100万円の損害賠償を求め神戸新聞を提訴。2010年10月19日、大阪地方裁判所(裁判長・村岡寛)は「(記事は)大阪府警から一定の嫌疑をかけられているとの印象を与え、社会的評価を低下させた」と神戸新聞社のメディア・パニッシュメントを認定、280万円の賠償を命じた。 神戸新聞(兵庫県域新聞) デイリースポーツ(中部地方を除く本州各地・四国地方に発売する「準全国紙」 中国・四国地方は2012年11月30日付まで関連会社の「中四国デイリースポーツ」より発行。法人としての「デイリースポーツ社」一度2010年3月1日に神戸新聞社に合併されていたが、編集部門と中四国デイリーの事業統合により2012年12月1日に「デイリースポーツ」として再分社化) デイリー馬三郎(競馬新聞。神戸新聞社発祥地の西日本でも一時期発売されていたが、現在は東日本のみ) 日本経済新聞(兵庫県向けの新聞を神戸新聞総合印刷阪神印刷センター<西宮市>で受託印刷。またデイリースポーツも関東向けの紙面を江東区にある日経東京製作センター<旧・千代田総業>に委託印刷したり、デイリー提供の写真を一部日経のスポーツ面に掲載するなどの提携関係がある。なお日経東京製作センターのうち、新木場工場は2006年1月に日経新聞からの譲渡を受け、デイリースポーツプレスセンターとして直営工場化された) 京都新聞(災害協定締結) デイリースポーツの販売・委託印刷などによる提携(特記がないものは販売委託のみ) 河北新報 山陽新聞 中国新聞(広島・山口版印刷委託) 徳島新聞 愛媛新聞(四国・瀬戸<岡山県・鳥取県・島根県>版印刷委託) 高知新聞 ※首都圏・大阪府・奈良県・和歌山県・鳥取県では日経・朝日・毎日、また関東では読売、関西では産経の新聞販売店(一部は除く)に販売を委託 旧・デイリースポーツ社(現・株式会社デイリースポーツ)が発行したものも含む。 回顧五十年 神戸新聞ものがたり(神戸新聞社・編) 1948年発行、83ページ。 神戸新聞五十五年史(社史編纂委員会・編集) 1953年7月発行、424ページ。 神戸新聞社七十年史(神戸新聞社史編纂委員会・編纂) 1968年発行、554ページ。 神戸新聞社史(神戸新聞社史編纂委員会・編)1978年2月発行、208ページ。 デイリースポーツ三十年史(社史編纂委員会 編) 1978年2月発行、191ページ。 神戸新聞社九十年史(編纂・神戸新聞社史編纂委員会) 1988年2月11日発行、310ページ(後半101ページはデイリースポーツ四十年史)。 デイリースポーツ50年史(デイリースポーツ社史編修委員会・編纂) 1998年3月発行、261ページ。 神戸新聞百年史(神戸新聞創刊百周年記念委員会社史編修部会・編修) 1998年11月発行、745ページ。 神戸新聞百年史 資料編(神戸新聞創刊百周年記念委員会社史編修部会・編修) 1998年11月発行、207ページ。 神戸新聞百十年史(神戸新聞百十年史、デイリースポーツ六十年史編纂委員会) 2008年2月発行、377ページ(後半139ページはデイリースポーツ六十年史)。 兵庫県神戸市中央区東川崎町一丁目5番7号(神戸情報文化ビル、〒650-8571) 東京・大阪・東播(加古川市)・姫路 阪神(西宮市)・北摂(三田市)・明石・北播(加東市)・淡路(洲本市)・但馬(豊岡市)・丹波 相生・赤穂・伊丹・佐用・高砂・浜坂・三木・小野・加西・香住・神崎・篠山・宍粟・宝塚・たつの・津名・西脇・南あわじ・養父・朝来・北神・西神・尼崎・西播磨中央(たつの市) 株式会社ラジオ関西 株式会社デイリースポーツ 株式会社サンテレビジョン 株式会社神戸新聞事業社 株式会社神戸新聞総合印刷 ^ 2011年度有価証券報告書 ^ 会社案内 ^ “神戸新聞カメラマンを盗撮容疑で逮捕”. J-CASTニュース. 2006年11月27日閲覧。 ^ 倒壊は免れたものの、専門家の診断で全壊と判定された。 ^ 17日付夕刊は4ページ、翌18日付朝刊は8ページだった。 ^ 京都新聞へ電話での読み上げやワープロ通信で記事を送り、京都新聞の紙面制作システムで神戸新聞の紙面を組み上げて神戸の製作センターで印刷した。頁数の削減に加え、被災当初は京都から神戸まで印刷用フィルムをバイクや自動車で運搬したことから原稿締め切り時間の大幅繰上げや配達の遅れが生じるなど、他紙に比べ大きなハンデを背負った中での報道であった。 ^ 西区の製作センターに急遽、CTS一式を再構築し、1月27日から稼動させた。本来受注生産の特殊なシステムであり、わずか10日での再構築は奇跡とされる。 ^ 1992年8月に関東地区での創刊以来の印刷・販売委託先だった東京タイムズが廃刊し、その後日経新聞東京本社に委託先を変更し、同社直営関連会社である「千代田総業(現・日経東京製作センター)」の江東区(2か所)などの印刷所に紙面印刷を委託した ^ 日経は自社工場のほか、地方都市の場合は多くの地方新聞社と古くから委託印刷の提携を結んでおり、特に西日本地区では日経・デイリースポーツとも委託印刷する新聞社もある(中国新聞・愛媛新聞他) ^ 前田五郎さんが勝訴 神戸新聞社に280万円賠償命令 大阪地裁 ^ 存続会社は中四国デイリー ^ NSK ニュースブレチン オンライン「日経は兵庫県向けの印刷を神戸新聞に委託」(2015年9月15日閲覧) 神戸新聞杯 - 神戸新聞社が優勝杯を提供する競馬の競走。 ミント神戸 - 旧神戸新聞会館跡地の自社所有ビル。正式名称は現在も「神戸新聞会館ビル」である。 日本経済新聞 - 兵庫県向け新聞を西宮市の「神戸新聞阪神印刷センター」で委託印刷している他、デイリースポーツの関東版を「日経東京印刷センター」に委託して印刷している。またデイリースポーツ提供の記事・写真を日経のスポーツ面に掲載するなどわずかだが協力関係を持っている。 いまいち萌えない娘 - 兵庫県の緊急雇用創出事業に基づく神戸新聞社のサブカルチャー系記事編集・Web制作アルバイトの求人広告に掲載されたキャラクター。 神戸新聞NEXT", "東京新聞社(とうきょうしんぶんしゃ)は、かつて日本に存在した新聞社。1942年、戦時体制下に東京府(現在の東京都)を拠点とする都新聞社と國民新聞社が合併して誕生した新聞社である。都新聞社の存続会社として発足し『東京新聞』を発行していた。当初は社団法人組織であったが、1961年に株式会社へ改組。 1963年、深刻な経営難に陥り、東京エリアで『東京中日新聞』(現在の『東京中日スポーツ』)を発行していた中部日本新聞社(現在の中日新聞社)より支援を受ける。1967年10月1日、中部日本新聞社に『東京新聞』の営業・発行権を譲渡し、活動を停止した。なお、主力紙であった『東京新聞』は現在も中日新聞東京本社が発行する日刊一般紙として発行されている。『東京新聞』に関する現業の大半は中日新聞東京本社が行っており、中日新聞グループ内に現存する株式会社東京新聞社は単に商号保全を目的として存在するだけで事実上の休眠会社状態となっている点が同じ中日新聞社傘下で中日新聞福井支社が発行する『日刊県民福井』の記事取材を業務として存続している株式会社日刊県民福井とは異なっている。 なお、前身の一つである國民新聞社は、中日新聞の前身紙の一つである『新愛知』の発行元・新愛知新聞社の傘下であった。 青木正久(元衆議院議員) 安藤鶴夫(演芸評論家、第50回直木賞受賞) 石一郎(山岳小説家) 牛木素吉郎(サッカージャーナリスト、2011年サッカー殿堂入り) 尾崎宏次(演劇評論家) 小田仁二郎(作家、瀬戸内寂聴の元夫) 上之郷利昭(ノンフィクション作家) 唐島基智三(政治評論家) 神崎武雄(作家、第16回直木三十五賞受賞) 近藤唯之(野球評論家) 坂井米夫(ジャーナリスト。在籍中の1955年にボーン・上田記念国際記者賞を受賞) 佐怒賀三夫(放送評論家) 須田栄(コラムニスト) 高丘季昭(元西友会長、経団連代表幹事) 千葉敦子(ジャーナリスト) 中川鋭之助(元劇団四季副社長、舞踊評論家、画家中川一政の長男) 日色恵(将棋観戦記者・演芸評論家、女優日色ともゑの父) 土方正巳(人形劇団プーク創立メンバー、評論家、『都新聞史』を著す) 藤島泰輔(作家、メリー喜多川の夫、ジャニー喜多川の義兄) 御手洗辰雄(政治評論家) 森本哲郎(評論家、元NHKアナウンサー・フリーアナウンサー森本毅郎の実兄) 東京新聞 中日新聞東京本社 中日新聞:グループ企業・関連団体:中日新聞社から(CHUNICHI Web) ここに「東京新聞社」の名がある。" ]
ABC01-02-0056
冬至の日に太陽が通ることから「冬至線」とも呼ばれる、地球上の南緯23度27分の地点を連ねた線を何というでしょう?
南回帰線
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[ "南回帰線", "赤道", "北回帰線", "環流", "天の赤道" ]
[ "南回帰線(みなみかいきせん、英: Tropic of Capricorn、西: Trópico de Capricornio、葡: Trópico de Capricórnio)は、惑星や衛星の南半球に位置する回帰線である。本項では地球の南回帰線について述べる。 南緯23度26分22秒に位置しているが、地球の軌道系の変化に伴って毎年微妙な誤差がある。 英語などヨーロッパの言語の多くで南回帰線のことをCapricornと呼ぶが、これは、西洋占星術の磨羯宮(黄経270°~300°)が冬至点から始まることによる。 経度180°から東回りに並べる。 トンガ フランス領ポリネシア チリ アルゼンチン パラグアイ ブラジル ナミビア ボツワナ 南アフリカ モザンビーク マダガスカル オーストラリア オーストラリア領コーラル・シー諸島 アリススプリングス(オーストラリア) アントファガスタ(チリ) サンパウロ(ブラジル) トゥリアラ(マダガスカル) 北回帰線 赤道 極圏 極点", "0° 赤道(せきどう、英語: Equator、スペイン語: Ecuador、ポルトガル語: Equador)は、自転する天体の重心を通り、天体の自転軸に垂直な平面が天体表面を切断する、理論上の線。緯度の基準の一つであり、緯度0度を示す。緯線の中で唯一の大円である。赤道より北を北半球、南を南半球という。また、天文学では赤道がつくる面(赤道面)と天球が交わってできる円のことを赤道(天の赤道)と呼ぶ。天の赤道は恒星や惑星の天球上の位置(赤緯、赤経)を決める基準となる。 以下、特に断らないかぎり地球の赤道について述べる。 「赤道」という言葉は、古代中国の天文学において太陽が真上を通るとされる地点を天球図で表現する際に赤い線を用いたことが由来である。 赤道の全周長は約40,075km。春分と秋分の年2回、太陽が真上にくる。 赤道は世界で唯一、太陽が天頂から天底までまっすぐに沈む場所である。そしてそのような場所は理論上、昼の長さと夜の長さが、共に一年を通じて12時間である。しかし実際は大気が太陽光を屈折させるので、2、3分のずれが出る。 かなり厳密に言うと、赤道は理論通りの位置にきっちり固定されているわけではない。実際の赤道面は常に必ず地球の自転軸に垂直をなしているものである。自転軸は、“比較的”安定であるが、極運動という現象によって、自転軸は一年かけて半径約9メートルの円を描く。このため、赤道面も赤道もわずかながら動く。しかし、この移動は繊細な科学調査にのみ関係する程度の、わずかな移動である。 地球で最も気温の高い地域を熱赤道という。熱赤道は季節によって移動する。北半球が冬のときは赤道付近にあるものの、夏になると北緯20度付近にまで移動する。 航海中に赤道を通過する際には「赤道祭」(せきどうさい)と呼ばれる祭りが船上で行われる。 赤道上は年間を通じた日射量(面積あたりの日射量)が最も大きい。そのため温暖で、強い上昇気流を生じている。この上昇気流のため低気圧地帯(熱帯収束帯)を生じ、雨量の豊富な熱帯の気候を形成している。 また、赤道付近の上昇気流は激しい渦巻き気流を伴った熱帯低気圧となり、台風やサイクロン、ハリケーンなどとして温帯地域へ波及することがある。 赤道の近くは宇宙機を東向きに打上げるロケットの射場に向いている。赤道は地球の自転によって地球上で一番速く東向きに動いており、東へと打ち上げる場合には、その速度を利用することによって、静止軌道に投下する静止衛星の打ち上げ燃料が節約できる。赤道に近い位置に射場を建設した例として、フランス領ギアナのギアナ宇宙センター(北緯5度3分)や鹿児島県の種子島宇宙センター(北緯30度24分、計画当時日本の最南端に近かった)等が挙げられる。 比較的高い軌道で、かつ大型の商業衛星の需要が多いため、高性能な商業ロケットの最適化対象である静止軌道の周辺、あるいは特に種別を問わず、衛星軌道に上げたいといった場合には、赤道付近からの打ち上げに優位性がある。逆に、軌道傾斜角の大きな軌道向けた打上げには優位性が薄い。偵察衛星や地球観測衛星に用いられる軌道傾斜角が90度より大きい太陽同期軌道や、赤道傾斜角の約23.4度ほど傾いた惑星の公転面に合わせる惑星間軌道への投入には、両極付近や中緯度の射場が適している。 赤道は、本初子午線から東に向かって以下の場所を通っている。 以下の14か国は領土(領海)に赤道が通る。赤道直下の国とも表現する。首都が赤道から緯度1度未満の国は5か国あり、その中でエクアドルのキトが赤道に最も近く南緯0度19分(距離にして40km未満)である。 サントメ・プリンシペ ガボン コンゴ共和国 コンゴ民主共和国 ウガンダ ケニア ソマリア インドネシア エクアドル(スペイン語で「赤道」という意味) コロンビア ブラジル モルディブ キリバス アメリカ合衆国(合衆国領有小離島のジャーヴィス島が赤道のすぐ南にある) 赤道ギニアはその名前にもかかわらず赤道が通らないが、赤道を挟んでアンノボン島も領土である。 下記の国は、赤道が海上の国境となっている。 ミクロネシア連邦(国境の南端) ナウル(国境の北端) 赤道に近い首都を以下に一覧する (北緯・南緯とも2度以内)。緯度1度は60分で約111kmである。 ^ “コトバンク/赤道祭 (日本大百科全書)”. 2018年2月22日閲覧。 北赤道海流・南赤道海流・赤道反流 赤道座標系 赤道祭 北緯1度線 南緯1度線 赤道記念碑 赤道記念碑 (エクアドル) 赤道に近い首都の一覧", "北回帰線(きたかいきせん、英: Tropic of Cancer)は、惑星や衛星の北半球に位置する回帰線である。本項では地球の北回帰線について述べる。 北緯23度26分22秒に位置しているが、地球の軌道系の変化に伴って毎年微妙な誤差がある。 国際航空連盟がスカイスポーツの正確な競技記録のために規定している規則では、北回帰線の長さは36787.559kmとされている。しかし、毎年の変動を考慮すれば、これは正確な値ではない(正確な値を定めることができないともいえる)。 英語などヨーロッパの言語の多くでは、北回帰線のことを Tropic of Cancer と呼ぶ。これは、西洋占星術の巨蟹宮(黄経90°~120°)が夏至点から始まることによる。 経度180°から、東回りに並べる。 アメリカ合衆国ハワイ州(ニホア島とネッカー島の間) メキシコ バハマ 西サハラ モーリタニア マリ共和国 アルジェリア ニジェール リビア チャド エジプト サウジアラビア アラブ首長国連邦 オマーン インド バングラデシュ ミャンマー 中華人民共和国 台湾(中華民国) 日本(南硫黄島と沖ノ鳥島の間) 台湾には花蓮県の瑞穂郷と豊浜郷に北回帰線が通っている。また嘉義市、嘉義県水上郷にも北回帰線が通っており、日本統治時代より北回帰線駅という貨物駅があった。その駅の隣には北回帰線の記念碑がある。 中華人民共和国広東省汕頭市の北部、汕頭大学から206国道沿いに北約5kmの、鶏籠山麓にも北回帰線の位置を示す「北回帰線標志塔」がある。塔には小さな穴の開いた直径5mの地球儀があり、夏至の日の正午にはこの穴を通って真下に日光が差す様子が見られる。また、北回帰線を示す線をまたいで、片足は熱帯、片足は温帯という状態で記念写真を撮る人が多い。 ハバナ( キューバ) ダフラ(西サハラ) ラーンチー( インド) マスカット( オマーン) ダッカ( バングラデシュ) 梧州市( 中華人民共和国) 広州市( 中華人民共和国) 汕頭市( 中華人民共和国) 嘉義市( 中華民国) 南回帰線 赤道 極圏 エラトステネス", "環流(かんりゅう、英: gyre)は、広域にわたって環のようにめぐり流れること、もしくはその流れ。具体的には海流や大気の大きな循環系を指す。環流はコリオリの力によって引き起こされる。 海洋の主な環流をあげる。 北大西洋亜寒帯循環(North Atlantic Subpolar Gyre) 北太平洋亜寒帯循環(North Pacific Subpolar Gyre) アラスカ環流を含む 北大西洋亜熱帯循環(North Atlantic Subtropical Gyre) メキシコ湾流、ラブラドル海流、東グリーンランド海流、西グリーンランド海流、北大西洋海流、北大西洋赤道海流によって構成される。サルガッソー海を囲んでいる。 北太平洋亜熱帯循環(North Pacific Subtropical Gyre)- 北太平洋環流(North Pacific Gyre)とも呼ばれる。北太平洋旋廻。 この環流は北太平洋の大部分から成る。赤道と北緯50度の間に位置し、約3400万km2もの面積を持つ。北太平洋環流は時計回りに循環し、4つの優勢な海流によって構成される。すなわち、北太平洋海流、カリフォルニア海流、北赤道海流、および黒潮である。漂流ゴミがこの環流内で蓄積されることが知られている(太平洋ゴミベルト)。 南大西洋亜熱帯循環(South Atlantic Subtropical Gyre) ブラジル海流系を含む。 南太平洋亜熱帯循環(South Pacific Subtropical Gyre) 東オーストラリア海流系を含む。 インド洋亜熱帯循環(Indian Ocean Subtropical Gyre)-南半球 アガラス海流系を含む。 南極環流(Antarctic Circumpolar Current) ウェッデル海亜寒帯循環 (Weddell Sea Subpolar Gyre)-南極海 ロス海亜寒帯循環(Ross Sea Subpolar Gyre) 熱帯循環は統合されにくく、南北より東西に広がる傾向がある。 大西洋赤道海流系(Atlantic Equatorial Current System)-two counter-rotating circulations 太平洋赤道海流系(Pacific Equatorial/Tropical Current System) インド季節風循環(Indian Monsoon Gyres) -インド洋北部、two counter-rotating circulations 亜熱帯循環の中心は高気圧帯で、コリオリの力によりその高気圧帯の周りを北半球では時計回りに、南半球では反時計回りに循環している。 中心の高気圧は環流の北側で西へ風が吹き、環流の南側で東へ貿易風が吹くことが原因である。これらの風の摩擦により環流の中心に向かう表面の流れが引き起こされ、中心に盛り上がった海水が赤道方向の流れを作る。この流れはその後西岸境界流となり、極方向へと戻っていく。 各循環で西岸境界流に相当するものは、メキシコ湾流(北大西洋亜熱帯循環)、黒潮(北太平洋亜熱帯循環)、ブラジル海流(北大西洋亜熱帯循環)、東オストラリア海流(北太平洋亜熱帯循環)、アガラス海流(インド洋亜熱帯循環)。 亜寒帯循環は高緯度(約60度)で形成される。表層の風や海水の循環は北半球では反時計回りで、中心に低気圧系が存在する(アリューシャン低気圧とアイスランド低気圧のように)。表面の海流は一般的にその循環系の中心から外へ向かって流れる。これはエクマン輸送によるもので、深海の栄養素に富んだ海水が湧昇する。 南半球における亜寒帯循環は南極環流のみが優勢である。これは南極海を分断する陸地が少ないためである。ほかにはウェッデル海亜寒帯循環やロス海亜寒帯循環といった時計回りの小さな循環が存在する。 ^ Heinemann, B. and the Open University (1998) Ocean circulation, Oxford University Press: Page 98 ^ a b PowerPoint Presentation ^ “New 'battle of Midway' over plastic”. BBC News (2008年3月26日). 2008年4月1日閲覧。 ^ http://www.mar.dfo-mpo.gc.ca/science/ocean/BedfordBasin/Papers/Longhurst1998/Provinces/BGCP_table.htm ^ Wind Driven Surface Currents: Gyres 流体力学 渦 渦巻 メイルストロム Wind Driven Surface Currents: Gyres SIO 210: Introduction to Physical Oceanography - Global circulation SIO 210: Introduction to Physical Oceanography - Wind-forced circulation notes SIO 210: Introduction to Physical Oceanography - Lecture 6 Physical Geography - Surface and Subsurface Ocean Currents North Pacific Gyre Oscillation — Georgia Institute of Technology", "天の赤道(てんのせきどう)は、地球の赤道面を天球にまで延長し、天球上に交わってできる大円のこと。恒星や惑星の天球上の位置を決める基準となる。天球上の緯度を設定するため、天の赤道を0度とし(赤緯)、天球上の経度を設定するため、天の赤道に対して黄道が南から北へと交わる点、春分点を0時とした(赤経)。赤緯は0度から90度(-90度)で表され、赤経は24時までの数字で時、分、秒で表される。 天球を固定したものと考えると、地球の自転軸は極運動や歳差、章動によって動いているので、天の赤道は星の位置に対して常に変動することになる。そこで、こういった変動の平均をとったものを平均赤道といい、見かけ上の赤道を視赤道と呼んでいる。 黄道 天の北極 天の南極" ]
ABC01-02-0057
閣議に関する事項のまとめ役であり、同時に総理大臣のスポークスマンを務める内閣のポストは何でしょう?
内閣官房長官
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[ "内閣官房長官", "民間人閣僚", "郵政民営化担当大臣", "内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)", "法務大臣" ]
[ "内閣官房長官(ないかくかんぼうちょうかん、英語: Chief Cabinet Secretary)は、内閣法に基づき内閣に置かれる内閣官房の長。現任は菅義偉。 国務大臣をもって充てることとされ、内閣を構成する閣僚の一員でもある。 内閣官房長官は、内閣官房の事務を統轄し、所部の職員の服務につき、これを統督する(内閣法13条)。ただし、内閣官房の内閣法上の主任の大臣は内閣総理大臣である(内閣法25条)。 内閣官房の事務は行政府のほとんどすべての領域に及びうる為、それを統括する官房長官の職務も極めて広範に渡りうる。今日の官房長官が果たしている特に重要な機能として、以下のようなものが挙げられる。 内閣の諸案件について行政各部の調整役。 同じく諸案件について、国会各会派(特に与党)との調整役。 日本国政府(内閣)の取り扱う重要事項や、様々な事態に対する政府としての公式見解などを発表する「政府報道官」(スポークスパーソン)としての役割。 執務室は総理大臣官邸5階にあり、特別職の国家公務員である国務大臣秘書官1人が割り当てられている。また希望に応じて特別職の大臣補佐官1人を補佐に当たらせることが出来る。閣議では進行係を務める。 このほか、内閣府(大臣委員会及び特命担当大臣の所掌部署を除く)の事務の総括整理も担当することとされており(内閣府設置法8条)、具体的には大臣官房、賞勲局、迎賓館、官民人材交流センター、再就職等監視委員会、国際平和協力本部、宮内庁、公正取引委員会などを所管する。 総理大臣官邸の敷地内に官房長官公邸が2002年(平成14年)3月から設置されており、緊急事態が発生した場合に官房長官が宿泊して迅速に対応する場合等に活用してきた例はあるが、常住施設としては使われたことがない。 マスコミ報道等では内閣総理大臣と並んで国民に対する露出度(認知度)が高い重要ポストであり、実務的にも、中央省庁の再編や、その後逐次進んでいった官邸機能の強化によって、権限がその都度強まっている。重大な懸案の解決に当たっては官房長官の調整能力が成否を分けるとされ、内閣の要といわれる。 現憲法下では当初、天皇の認証対象とならない非認証官であったが、1963年(昭和38年)に当時の池田勇人首相が、首相の意を受けて大臣に指示するには、大臣と同格にする必要があると判断し、第2次池田内閣 (第2次改造)時代の同年6月11日から認証官となった。それまでは大臣より格下ポストだったのが、ようやくここで大臣待遇となった。以降、テレビを通じて露出が顕著になり、毎日の記者会見がテレビを通じて伝えられ、「政権」の顔として話題となっていく。近年はかつてに比べ、中堅よりも重量級の党重鎮が就任するケースが増え、現在では実質的内閣ナンバー2と見なされる事も多い。 将来の首相候補者の登龍門的なポストとして若手の有望株を充てることもあれば、政策調整能力を重視してベテランの大物政治家が就任することもある。いずれにせよ、首相と近い政治家が就任するのが通例で、首相の懐刀あるいは女房役ともいわれる。自由民主党政権の場合は総裁派閥(首相の出身派閥)から任命される事例が多い。 報道において、「政府首脳」という言葉は慣例的に内閣官房長官を指す。これは取材記者との懇談など公式ではない発言(オフレコ)などについて用いられる表現である。また、国政の運営上必要な場合、内閣官房報償費を内閣官房長官の判断で支出できる。 2000年(平成12年)4月以降は内閣総理大臣臨時代理予定者を5名指定する慣例があるが、内閣官房長官は第1位もしくは第2位に指定されている。内閣官房長官以外の国務大臣が第1位に指定された場合、その国務大臣は副総理と呼ばれるが、内閣官房長官の場合は特に副総理とは呼ばれない。なおそれ以前の内閣総理大臣臨時代理予定者を必ずしも指定しなかった時代において指定された者は、内閣官房長官であっても副総理と呼ばれていた。 海外を含めた出張の多い首相に代わり危機管理を担当するため、呼び出しを受けてから1時間以内に官邸入りできる体制が望ましいとされており、国外への出張がほとんどできない。また、内閣官房長官が東京から離れる場合には、行政府の最高責任者である内閣総理大臣が東京にいることが望ましいとされている。 内閣官房長官を補佐する職として次のような官職が置かれている。括弧内は根拠条文、内閣法を法と略称。 内閣官房副長官3人(法第14条)※認証官 国家安全保障局長(法第17条第3項) 内閣危機管理監(法第15条) 内閣情報通信政策監(法第15条) 内閣官房副長官補3人(法第18条) 内閣広報官(法第19条) 内閣情報官(法第20条) 内閣総務官(内閣官房組織令第2条第2項) 内閣府大臣補佐官1人(内閣官房長官は内閣府の事務の総括整理も担うことから希望に応じて設置できる。) 1879年(明治12年)3月12日 - 太政官の「内閣」に内閣官房長官の前身である内閣書記官長が初めて設置され、下僚として大書記官・少書記官が置かれる。 1885年(明治18年)12月22日 - 内閣制度の発足とともに正式の常設職となる。 1890年(明治23年)6月30日 - 内閣所属職員官制の公布により、内閣所属の勅任官とされ、職掌が定められる。当時の職掌は「命ヲ内閣総理大臣ニ承ケ機密ノ文書ヲ管掌シ閣内ノ庶務ヲ統理シ及属以下ノ任免ヲ専行ス(内閣総理大臣の命令により機密文書を管理し、内閣の事務を監督し、内閣所属の判任以下の職員の人事権を執行する)」ものとされた。 1898年(明治31年)10月22日 - 内閣所属各局の局長に対する書記官長の指揮権が命令権に改められる。 1924年(大正13年)12月20日 - 内閣所属職員官制が全面改正され、書記官長直属の部局が内閣官房に改組。また、職掌に「内閣総理大臣ヲ佐ケ」が加わり、内閣総理大臣の補佐が明文化される。 1947年(昭和22年)5月3日 - 日本国憲法の施行に伴い、それまでの内閣書記官長を廃し、後継の職として、行政官庁法に基づく内閣官房長官が設置される。国務大臣の補職ではなかったため、国務大臣である者を内閣官房長官とする場合は「内閣官房長官に兼ねて任命する」との辞令表記となる。国務大臣でない者の場合の辞令は「内閣官房長官に任命する」。 1949年(昭和24年)6月1日 - 行政官庁法の失効に伴い、内閣法に基づく職となる。国務大臣をもって充てることができる旨が同法に明記されたため、その場合は「内閣官房長官を命ずる」との辞令表記となる。国務大臣でない者の場合は以前と同様「内閣官房長官に任命する」。 1963年(昭和38年)6月11日 - 当時の池田勇人首相の指示により、内閣法が一部改正され、条件付きの認証官となる。国務大臣である者が内閣官房長官となる場合は国務大臣としての認証を受け、国務大臣でない者が内閣官房長官となる場合は内閣官房長官としての認証を受ける。 1966年(昭和41年)6月28日 - 内閣法の一部改正により、内閣官房長官は国務大臣をもって充てることとなる(単独の認証官ではなくなった)。 1984年(昭和59年)7月1日 - 総務庁の設置に伴い、内閣官房に加えて総理府(大臣庁等を除く)の総括整理をも担当することとなる。 2000年(平成12年)4月5日 - 複数の発令方法があり不備が指摘されていた内閣総理大臣臨時代理予定者の指定が、組閣時に第5順位まであらかじめ発令する方式に改められ、原則として内閣官房長官たる国務大臣がその第1順位に指定されることとなる。 2001年(平成13年)1月6日 - 中央省庁再編に伴い、総理府に引き続き内閣府(大臣庁等を除く)の総括整理を担当することとなる。 「歴代の内閣官房長官」を参照。 内閣官房長官は内閣官房の所管する業務に対する国民の功労に対して「内閣官房長官表彰」((内閣官房長官賞・内閣官房長官感謝状を含む))を行っている。これは「内閣総理大臣表彰」に準ずるもので男女共同参画や青少年健全育成に関する功労者などに授与されている。また、交通安全協会の標語やコンテストなどで内閣官房が共催・後援しているものについては内閣官房長官賞を授与している。また、これ以外に世界で活躍したオリンピック選手などに「内閣官房長官感謝状」を贈呈するなどの例もある。 最長在任記録:菅義偉(2208日間・現職) 最年少就任記録:石田博英(42歳11日) ^ このほか、各省庁からの出向者が秘書官事務取扱として複数名割り当てられる。 ^ 内閣官房長官の外遊の例としては野坂浩賢の1995年(平成7年)9月の外遊、福田康夫の2003年(平成15年)9月の外遊、菅義偉の2015年(平成27年)10月の外遊の例がある。 ^ 衆議院議員浅野貴博君提出内閣官房長官公邸の必要性に関する質問に対する答弁書 ^ a b c d e 星浩 『官房長官 側近の政治学』 朝日新聞出版〈朝日選書921〉、2014年、16–18頁。ISBN 9784022630216。 内閣総理大臣臨時代理 内閣官房副長官 報償費 懇談会 オフレコ#オフレコにおける肩書き 内閣制度と歴代内閣 - 首相官邸 内閣官房長官記者会見", "民間人閣僚(みんかんじんかくりょう)とは、任命時において国会議員ではない国務大臣を指す。ただし、議員でない軍人が陸海軍大臣たることが制度化されていた大日本帝国憲法下ではこの語はほとんど用いられず、一般的には議院内閣制を明記する日本国憲法施行後に成立した内閣におけるものを指す。なお、衆議院解散などにより任命後に国会議員の身分を失っている国務大臣は民間人閣僚とは呼ばれない。 日本国憲法第68条において、「その(国務大臣の)過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない」とされている。逆にいえば、半数未満であればその人数には制約がないことになる。現在、閣僚は最大19人任命できるため、9人までは民間人でもよいことになる。 例として、岸内閣の藤山愛一郎や小泉内閣の竹中平蔵など著名人の起用例で、藤山・竹中や川口順子などのちに国会議員に選出された者もいる。 また、竹下内閣の高辻正己法務大臣の場合は、直前に発生したリクルート事件で違法性のない政治献金でも大臣辞任に追い込まれるようになり、前任者の長谷川峻もリクルートからの政治献金を受けたことにより法相就任4日で大臣辞任の憂き目に遭い、内閣法制局長官や最高裁判所裁判官などを歴任した高辻が起用された。 国会議員たる国務大臣が改選時に落選したり引退しても、任命時に国会議員であった以上は憲法第68条による制限を受けないが、衆院選後の組閣又は内閣改造によって更迭されることが多く、民間人閣僚として在任し続ける例は少ない。 官僚、大学教員、実業家、地方公共団体首長などで、実績のある人物が任命されることが多い。 ここでは任命時に国会議員経験がない閣僚について記載する。 「※」は大臣在任中に国会議員となったことをしめし、国会議員となった時点で民間人閣僚の期間を終了としている。 前職などに関しては、任命直前についていた職を除き、「前」は職を辞してから大臣任命まで短期間であり、その間主要な職についていない場合、「元」は職を辞してから大臣任命まである程度期間があり、その間、他の職についている場合を示す。 佐藤栄作は、国会議員初当選前(官僚であったころ)、第2次吉田内閣で当時国務大臣の充て職ポストではなかった内閣官房長官に任命されたことがある。 1965年7月の任期満了まで参議院議員を2期務めた宮沢喜一は衆議院議員への鞍替え出馬予定のため国会議員でなかった時期の1966年12月3日に経済企画庁長官に就任している。翌1967年2月17日に衆院選当選を果たした。 参議院議員の閣僚が改選時に落選したり引退したりするなどしたが次の組閣や内閣改造までに大臣に一定期間留任して形式上民間人閣僚になった事例は、1953年の第4次吉田内閣の林屋亀次郎国務大臣(19日間)、1995年の村山内閣の浜本万三労働大臣(16日間)、1998年の第2次橋本内閣の大木浩環境庁長官(5日間)、2004年の第2次小泉内閣の野沢太三法務大臣(64日間)、2010年の菅内閣の千葉景子法務大臣(49日間)の例がある。 第2次小泉改造内閣の農林水産副大臣岩永峯一(衆議院議員)は、2005年8月8日の衆議院解散にともない、議員の地位を失いつつも引き続き同副大臣を務めていたが、当該解散に反対して罷免された農林水産大臣島村宜伸に代わり自ら同大臣を兼任していた内閣総理大臣小泉純一郎の後任として、同月11日農林水産大臣に就任し形式上の民間人閣僚となった。岩永は翌9月11日の衆院選で当選した。 歴代の内閣において民間人閣僚の割合が最多なのは第1次小泉内閣のうち2002年1月30日-2月7日の期間。首相を含めた閣僚17人に対し、民間人閣僚は3人(川口順子・遠山敦子・竹中平蔵)で17.6%(議員任期満了または衆議院解散により途中から形式的に民間人閣僚となった事例は除く)。 「民間人閣僚」とはいっても純然たる民間出身者(民間企業のみでの職歴を持つ者や大学等での研究者など)は少数であり、官僚出身者が目立つことがわかる。野田内閣までに全24人存在する「民間人閣僚」中、中央省庁での官僚経験を持つものは13人と半数を超えている(中央官庁官僚経験者は検事経験がある木村篤太郎や日本銀行出身の一萬田尚登を除く。なお、左記の2名のほか、研究者出身5名、民間企業出身4名となっている)。 民間人", "郵政民営化担当大臣(ゆうせいみんえいかたんとうだいじん)は、日本の国務大臣のうち郵政民営化を担当するものとして内閣総理大臣から職務の辞令を受けた大臣である。鳩山由紀夫内閣から野田第1次改造内閣までは郵政改革担当大臣(ゆうせいかいかくたんとうだいじん)と表記されていた。 辞令上の正式な職務の名称は「郵政民営化を政府一体となって円滑に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整担当」又は「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整担当」及び「新たな郵政民営化法等に基づく郵政事業の改革を政府一体となって円滑に推進するため行政各部の所管する事務の調整担当」である。行政官の職名としては「郵政民営化担当大臣」は略称、俗称となるが、郵政民営化法において「郵政民営化担当大臣」の呼称が規定されているため、同法の適用範囲内においては正式な呼称としての意味合いを持つ[要出典]。 郵政民営化法が2005年(平成17年)11月10日に部分施行され、同法第10条により、郵政民営化に関する施策で重要なものの企画に関する審議及びその施策の実施を推進するため、内閣に郵政民営化推進本部が置かれ、同法第13条により本部長は内閣総理大臣が、第14条により副本部長は内閣官房長官、郵政民営化担当大臣、内閣府特命担当大臣、総務大臣、財務大臣、国土交通大臣が充てられる。同本部は内閣直属であって内閣府隷下でないため、郵政民営化担当大臣の発令は内閣府特命担当大臣としてではなく国務大臣の特命事項の職務辞令(内閣の担当大臣)として発令される。 主任の大臣のように継続して常設されるものではないため、通常は代数の表記は行わないが、本表では見やすさを考慮し代数の欄を設けた。主任の大臣同様に、辞令のある再任は代として数え、辞令のない留任は数えない。 郵政民営化法に基づく「郵政民営化担当大臣」の呼称は2005年11月10日からであるが、竹中平蔵に対する「郵政民営化を政府一体となって円滑に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整担当」の辞令そのものは法施行前に発令されている。 ^ 「人事異動」『官報』特別号外29号、国立印刷局、2012年10月1日、1面 ^ 郵政民営化法の一部の施行期日を定める政令(平成17年11月9日政令第338号) ^ 金融庁 (2012年9月11日). “安住財務大臣・内閣府特命担当大臣事務代理閣議後記者会見の概要” (日本語). 2017年8月28日閲覧。 郵政民営化 郵政民営化法 内閣府特命担当大臣 内閣府特命担当大臣(地方創生担当)", "内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)(ないかくふとくめいたんとうだいじん げんしりょくそんがいばいしょうしえんきこうたんとう、英語: Minister of State for the Corporation in Support of Compensation for Nuclear Damage)は、日本の廃止された国務大臣。内閣府特命担当大臣の一つであった。 日本の内閣府に置かれる内閣府特命担当大臣の一つである。主として原子力事故の損害賠償に関する行政を所管する国務大臣である。 原子力事故発生に際し、原子力損害の賠償に関する法律に基づく事業者の賠償額を賠償法に基づく賠償措置額が超えた場合、原子力損害賠償支援機構は事業者に対して必要な資金を交付する。内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)は、これらの業務を担当する。 内閣府にて原子力事故の損賠賠償に関する行政を司る組織としては、内閣府の内部部局である原子力損害賠償支援機構担当室などが挙げられる。内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)は、これらの組織を担当する。また、内閣府は、原子力事故の損賠賠償に関してだけでなく、広く一般的な原子力行政も担っている。 内閣府特命担当大臣のうち、沖縄及び北方対策担当、金融担当、消費者及び食品安全担当の3大臣は、内閣府設置法により必置とされている。それに対して、他の内閣府特命担当大臣は必置とはされておらず、担当する諸課題により柔軟に設置できる。そのため、政権により増減や変動があり、その役職名は必ずしも一致しない。 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、東北地方を中心に甚大な被害をもたらした。この地震により福島県双葉郡大熊町・双葉町に立地する東京電力福島第一原子力発電所も被災したことから、福島第一原子力発電所事故が発生した。 2011年8月10日、原子力損害賠償支援機構法が公布・施行された。それにともない、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)が設置され、内閣府特命担当大臣が任命された。同時に、内閣府の内部部局として、政策統括官(科学技術政策・イノベーション担当)の下に原子力損害賠償支援機構担当室が設置された。2014年8月、原子力損害賠償支援機構が原子力損害賠償・廃炉等支援機構へと改組されるのに合わせ、第2次安倍内閣にて廃止された。最後に大臣を務めたのは茂木敏充、経済産業大臣との兼務であった。後継の役職として内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構担当)が設置され、茂木が横滑りで着任している。 任命・補職は3段階で行われており、まず「国務大臣に任命する」との官記が出され、次いで当該の国務大臣に対して「内閣府特命担当大臣を命ずる」との辞令が出され、さらに当該の内閣府特命担当大臣に対して「原子力損害賠償支援機構を担当させる」と命ぜられる。これらの辞令は『官報』に掲載されるため、その記載に基づき「内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)」と表記される。たとえば、2011年9月22日付の『官報』には「内閣府特命担当大臣細野豪志海外出張不在中内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)事務代理を命ずる」との記載が見られる。新聞などの報道では、簡略化して「原発担当大臣」「原発担当相」「原発大臣」「原発相」と表記されることも多い。英語での呼称については「Minister of State for the Corporation in support of Compensation for Nuclear Damage」とされている。 内閣府特命担当大臣は複数名を任命することがあるため、通常は代数の表記は行わない。ただし、本表ではわかりやすさに配慮し、代数の欄を便宜上設けた。 辞令のある再任は就任日を記載し、辞令のない留任は就任日を記載しない。 党派の欄は、就任時、または、内閣発足時の所属政党を記載した。 ^ 内閣府設置法第10条。 ^ 内閣府設置法第11条。 ^ 内閣府設置法第11条の2。 ^ a b 「原子力損害賠償支援機構法の公布、施行について」『官房長官記者発表 平成23年8月10日(水)午前|首相官邸ホームページ』内閣官房内閣広報室、2011年8月10日。 ^ 「幹部名簿」『幹部名簿 - 内閣府』内閣府、2011年9月7日。 ^ a b c d 「人事異動」『官報』号外特43号、国立印刷局、2011年9月2日、1面。 ^ 「人事異動」『官報』5645号、国立印刷局、2011年9月22日、11面。 ^ \"Ministers\", List of Ministers, Senior Vice-Ministers and Parliamentary Secretaries, Cabinet Office. 国務大臣 内閣府特命担当大臣 内閣府副大臣 内閣府大臣政務官 内閣府 原子力委員会 原子力安全委員会 文部科学省 原子力損害賠償紛争審査会 原子力損害賠償紛争解決センター 内閣府ホームページ - 内閣府の公式サイト 大臣・副大臣・大臣政務官 - 内閣府 - 内閣府特命担当大臣らを紹介する内閣府のページ 原子力発電所事故による経済被害について(METI/経済産業省) - 原子力発電所事故の損害賠償について紹介する経済産業省のページ", "法務大臣(ほうむだいじん、英語: Minister of Justice)は、法務省の長である国務大臣。略称は法相(ほうしょう)。 国民生活に直結する職務が少なく、華やかさも乏しいことから、やや一線から外れた衆議院議員や参議院議員(参議院枠)の任命が多い。戦後、法務大臣経験者で総理大臣に就任した人物は皆無である。ただし、閣僚名簿で首相・(副総理)・総務大臣の次に並べられ、席次もそのようになる。中央省庁再編前は、首相・副総理の次位であった。閣内の重石として後藤田正晴・鳩山邦夫・江田五月・谷垣禎一など重鎮クラスの就任例もある。 司法を司る閣僚は、英米法や大陸法の諸国では政府の法解釈助言者という位置づけであり、法曹資格者が就任することが多いのに対し、日本では政府への法解釈助言は内閣法制局長官が担当する。そのため、日本の法務大臣に法曹資格者が選ばれるケースは少なく、大臣就任まで司法行政の経験が皆無な人物が多い。さらに出身大学も法学部でない者も多い。 いわゆる指揮権との関係で政治家への捜査に影響力を及ぼしうる立場であるため、田中角栄がロッキード事件の収賄罪で起訴された刑事被告人ながら闇将軍に君臨していた頃は、田中派に近い政治家が就任することが多かった。またロッキード事件の捜査段階では当時の法務大臣が田中派と関係が深くない稲葉修であったことが、積極的な捜査につながったとの見方もあった。 大日本帝国憲法下(司法省)における前身は司法大臣であり、裁判所の人事権まで掌握していたが、敗戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって、司法省は段階的に解体・廃止され、代わりに法務庁(後に法務府)が設置され、長はアメリカ合衆国司法長官をモデルとする法務総裁(法務庁、法務府の長)となった。主権回復後、法務府から内閣法制局を分離して法務省が設置されたが、法務省の長である法務大臣の位置づけは、両者の折衷である。 国を当事者又は参加人とする訴訟については、法務大臣が、国を代表する(国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律(昭和22年法律第194号)第1条)。 外国人の在留許可、永住許可、帰化。 死刑執行命令を発する権限と義務 刑事訴訟法によれば、死刑執行の命令は判決が確定してから6か月以内に行わなければならない(第475条2項)が、再審請求などの期間はこれに含まれない。また、大臣によって決裁の頻度は異なり、賀屋興宣、左藤恵、杉浦正健等、在任中に発令の署名をしなかった大臣の例もある。判決確定から6か月という規定は、日本国憲法制定後に、「今までのように死刑執行まで時間がかかりすぎるのは、死刑執行を待つ恐怖が長く続くことになって残酷であり、新憲法の趣旨にも反する」という理由で作られたもので、「犯罪者に対する厳正な処罰のために、6か月で執行しなければならない」とする解釈は、本来の趣旨ではない。 判決確定から6か月以内に執行されていないのが現状となっており、実効性のない規定になっている。 2007年から2016年まで、10年間の死刑囚の執行について、確定から執行までの期間が最短だったのは1年4か月、最長は18年5カ月、平均では約5年だった。 個々の事件の取調べ又は処分について検事総長に対する指揮権(ただし、発動されることは極めて稀である)。 司法書士への認定業務の付与や司法書士試験の実施、日本司法書士会連合会からの建議・答申、会則変更の認可など司法書士法に数多くの業務が規定されている。 国の利害又は公共の福祉に重大な関係のある訴訟において、裁判所の許可を得て、裁判所に対して意見を述べることができる(国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律(昭和22年法律第194号)第4条)。 過去に実際に意見を述べたのは、1987年の森林法共有林事件(1987年4月22日違憲判決)と、2017年のNHK受信料訴訟(2017年12月6日合憲判決)の2件のみである。いずれも最高裁大法廷に対して「合憲」の意見書を提出した。 法律上は審議会等。 司法試験委員会 法制審議会 臨時代理は、大臣不在の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。 兼任は、他の大臣が同時に務めることをいい、臨時代理とは異なる。 同一代数で複数の就任日の記載があるもの(内閣改造等による)について、2度目以降に関しては辞令は出されていない(再任でなく留任扱い)。 司法大臣・法務総裁・法務大臣には、法曹資格や法曹経歴を有する者が任命されることがある。なお、下表に挙げた者以外にも、初期の司法大臣の内、第3代の河野敏鎌、第6・9・11代の清浦奎吾、第8代の大東義徹、第12代の波多野敬直も司法官としての経歴を有している。 特に、大日本帝国憲法下では、各大臣にはその省の官僚出身者が就任することも多く、司法省もその例外ではなく、判検事出身者が司法大臣に就任することが多かった。 また、法曹有資格者以外にも、第34代法務大臣の稲葉修は法学博士であった。 ^ 第2回国会 参議院司法委員会議事録 1948年6月28日 ^ 平成に入って以降では、死刑判決から執行までの期間が最短だった死刑囚は、附属池田小事件の死刑囚・宅間守(大阪地裁で死刑判決後、控訴取り下げ)の1年0カ月だった。なお、最高裁判所で死刑が確定した死刑囚としては、ファミレス2人射殺事件の死刑囚(イニシャルH)・大阪連続強盗殺人事件の死刑囚(イニシャルK)の、いずれも1年4カ月だった(日本における被死刑執行者の一覧を参照)。 ^ a b 政治部記者・黒川明紘 (2017年12月27日). “死刑執行はどう決められる?”. NHK NEWS WEB (日本放送協会). オリジナルの2018年2月6日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180206145455/https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2017_1227.html 2018年2月6日閲覧。  ^ 法相、最高裁で意見陳述へ…NHK受信料訴訟(読売新聞電子版 2017年4月10日) ^ NHK受信料訴訟、支払い義務づけは合憲 法相が意見書(朝日新聞電子版 2017年4月12日) ^ 農商務大臣兼任(1892年6月23日-7月14日)、内務大臣兼任(1892年7月14日 - 8月8日)。 ^ 臨時兼任(内閣総理大臣兼任)。 ^ 1894年(明治27年)8月29日 - 同年10月3日、文部大臣を臨時兼任 1896年(明治29年)2月3日 - 同年4月14日、内務大臣を兼任。 ^ 1903年(明治36年)7月17日 - 同年9月22日、農商務大臣を兼任 ^ 1908年(明治41年)1月14日 - 同年7月14日、大蔵大臣を兼任 ^ 内閣総理大臣兼任 ^ 農商務大臣との臨時兼任 ^ 内閣総理大臣兼任。 ^ 司法大臣臨時代理(内閣総理大臣) ^ 法務総裁臨時代理(内閣総理大臣) ^ 行政管理庁長官兼任(同年11月10日まで) ^ 任期途中に法務庁から法務府へ改称(同年6月1日) ^ 法務大臣臨時代理(内閣総理大臣) ^ 自治大臣兼任 ^ 1993年(平成5年)4月8日以降、副総理兼任 ^ 法務大臣臨時代理(内閣総理大臣) ^ (2010年7月26日-) ^ 拉致問題担当 ^ 内閣官房長官兼任 拉致問題担当 ^ 2011年(平成23年)6月27日以降、環境大臣兼任 ^ 拉致問題担当 ^ 法務大臣臨時代理(国家公安委員会委員長) ^ 法務大臣臨時代理(国家公安委員会委員長) ^ (2016年7月26日~) ^ 退任後の1997年に参議院比例代表で繰り上げ当選し、参議院議員を翌年まで務めた ^ 保坂展人 (2007年8月23日). “「長勢法相・11カ月で10人の死刑執行」に抗議する”. 2013年4月26日閲覧。 ^ 社会民主党OfficialWeb/福島みずほ (2008年9月11日). “死刑執行に強く抗議する”. 2013年4月26日閲覧。 ^ 日本国民救援会 (2009年7月29日). “森英介法相による三度の死刑執行に抗議する”. 2013年4月26日閲覧。 ^ 現職法務大臣として臨んだ第22回参議院議員通常選挙(2010年7月25日任期満了・2010年7月11日投開票)で落選。 ^ 衆議院 (2010年7月30日). “千葉景子法務大臣による死刑執行に関する質問主意書/質問本文情報/提出者:鈴木宗男”. 2013年4月26日閲覧。 ^ 柳田稔の舌禍辞任の後、内閣官房長官仙谷由人が法務大臣を兼任。 ^ 環境大臣兼防災担当大臣だった松本龍が復興対策担当大臣に転任した後、法務大臣江田五月が環境大臣を兼任。 ^ 日本国民救援会 (2012年3月30日). “小川敏夫法相による死刑執行に抗議する”. 2013年4月26日閲覧。 ^ 東京弁護士会 (2012年9月28日). “死刑執行に関する会長声明”. 2013年4月26日閲覧。 ^ “元組長ら2人の死刑を執行 谷垣法相で2回目”. 日テレNEWS24. (2013年4月26日). http://www.news24.jp/sp/articles/2013/04/26/07227511.html 2013年4月26日閲覧。  ^ “2人の死刑執行 安倍政権に交代後4度目、計8人”. 日本経済新聞. (2013年12月12日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1201I_S3A211C1CC0000/ 2013年12月12日閲覧。  ^ “1人の死刑を執行 平成19年の香川3人殺害の川崎死刑囚”. 産経新聞. (2014年6月26日). http://www.sankei.com/smp/affairs/news/140626/afr1406260028-s.html 2014年6月26日閲覧。  ^ 現職法務大臣として臨んだ第24回参議院議員通常選挙(2016年7月25日任期満了・2016年7月10日投開票)で落選。 ^ “岡崎一明死刑囚ら残る6人の刑執行 四半世紀経て事件終結”. 産経新聞. (2018年7月26日). https://www.sankei.com/affairs/news/180726/afr1807260007-n1.html 2018年8月11日閲覧。  ^ 司法試験に合格するも司法修習を経ないまま弁護士法第5条の特例措置によって法曹資格を取得。 造船疑獄 日本における死刑 法務副大臣 法務大臣政務官 法務省:大臣・副大臣・大臣政務官の紹介" ]
ABC01-02-0058
大西洋と地中海を結ぶ海峡は何海峡でしょう?
ジブラルタル海峡
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[ "ジブラルタル海峡", "アルボラン海", "インド洋", "リンカーン海", "デービス海" ]
[ "ジブラルタル海峡(ジブラルタルかいきょう、英: Strait of Gibraltar、西: Estrecho de Gibraltar)は、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を隔てる海峡。 ジブラルタル海峡は、北はイベリア半島のスペイン、およびイギリス領ジブラルタル、南はモロッコであり、西の大西洋と東の地中海をつなぐ出入り口としても軍事上・海上交通上、きわめて重要な位置を占めてきた。東はアルボラン海に接する。 幅は、イベリア半島最南端のタリファ岬からモロッコのアルカサル・エ・セリルまでが最も狭く14キロメートル、西端のトラファルガー岬〜スパルテル岬の間が最も広く45キロメートルとなる。水深はスパルテル岬沖が最も浅く345メートル、ジブラルタル〜セウタ間が最も深く942メートルとなる。西から東へ毎時4キロメートルの表面潮流があり、塩分濃度の濃い反対流が下層にある。 地中海側の両岸の岩山は、古代より「ヘラクレスの柱」として知られてきた。ゲルマン民族の大移動、ハンニバルの侵攻、ウマイヤ朝の支配、イギリスの植民地化など、古から戦略的に重要な位置づけにあった。現在、北岸のジブラルタルにはイギリス軍が、南岸のセウタにはスペイン軍が駐屯し、それぞれは軍港として機能している。現代[いつ?]においては麻薬密輸ルートとしての機能が指摘されている。2003年以降、この海峡の底を通るジブラルタルトンネルが計画中である。 国際水路機関はジブラルタル海峡の範囲を次のように定義している。 西側:トラファルガー岬(スペイン)とスパルテル岬(モロッコ)を結ぶ線 東側:エウローパ岬(ジブラルタル)とアルミナ岬(セウタ)を結ぶ線 かつて地中海(テチス海)と大西洋は、現在のジブラルタル海峡の北側もしくは南側で連絡しており、ジブラルタル海峡の一帯は陸地であった。約600万年前、何らかの変化により両海の連絡ができなくなり、地中海の塩湖化(メッシニアン塩分危機)が進んだ。それが533万年前に解消された際に、一番低地であった場所が、ジブラルタル海峡であると考えられている。 宇宙空間から見たジブラルタル海峡(左下) ジブラルタル海峡のヘラクレスの柱 ^ a b 『世界大百科事典』第12巻、平凡社、2007年、改訂新版、pp.511-512。 ^ a b c d e f 『日本大百科全書』第11巻、小学館、1994年、第2版、pp.147-148。 グアダレーテ河畔の戦い - ジブラルタルの名前の由来。 U・ボート (映画) - 海峡を突破する指令が下される。 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城 - ジブラルタル海峡を冠したアトラクションがある。 座標: 北緯35度58分18秒 西経5度29分09秒 / 北緯35.97167度 西経5.48583度 / 35.97167; -5.48583", "アルボラン海(アルボランかい)は地中海西部の海。東西に伸びた海域であり、北にスペイン、南にモロッコが位置する。東は地中海主要部であり、西はジブラルタル海峡につながっている。 アルボラン海は国際水路機関の定義では以下のようになっている。 西端:ジブラルタル南端のエウローパ岬とセウタのアルミナ半島先端を結ぶ線。 東端:スペインのアンダルシア州ガタ岬とアルジェリアのフェガロ岬(北緯35度36分 西経1度12分 / 北緯35.600度 西経1.200度 / 35.600; -1.200 (フェガロ岬))を結ぶ線。 海域内にはスペイン領のアルボラン島などがある。海流は、表層は東方向への流れであるが、深層は西方向へと流れている。 ^ “Limits of Oceans and Seas, 3rd edition”. International Hydrographic Organization (1953年). 2010年2月7日閲覧。 ジブラルタル海峡 地中海 座標: 北緯36度0分 西経3度0分 / 北緯36.000度 西経3.000度 / 36.000; -3.000", "インド洋(印度洋、インドよう、英:Indian Ocean、羅:Oceanus Indicus オーケアヌス・インディクス)は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7355万平方kmである。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。インド洋の推定水量は292131000km³である。「インド洋」の名はインドに由来する。 北はインド、パキスタン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカから、西はアラビア半島およびアフリカに接し、紅海とつながる。東はマレー半島、スマトラ島、ジャワ島の線、およびオーストラリア西岸および南岸、南は遠く南極海に囲まれた海洋である。大西洋との境界はアガラス岬から延びる東経20度線、太平洋との境界は東経146度55分線である。インド洋で最も北の場所はペルシャ湾にあり、およそ北緯30度である。 インド洋上にはほかマダガスカル島、コモロ諸島、マスカリン諸島、セーシェル諸島、チャゴス諸島、ソコトラ島、モルジブ諸島、セイロン島、アンダマン・ニコバル諸島、ココス諸島、クリスマス島などがある(Category:インド洋の島参照)。 深さは平均3,890メートル。最深部はディアマンティナ断裂帯のディアマンティナ海淵で水深8,047 mである。 主なチョークポイントは、バブ・エル・マンデブ海峡、ホルムズ海峡、マラッカ海峡、スエズ運河の南側入り口、ロンボク海峡。インド洋にはアンダマン海、アラビア海、ベンガル湾、グレートオーストラリア湾、アデン湾、オマーン湾、ラッカディブ海、モザンビーク海峡、ペルシャ湾、紅海を含む。 大西洋のハリケーン、太平洋の台風に対し、インド洋で発生する熱帯低気圧はサイクロンと呼ばれる。サイクロンが多く発生するのはベンガル湾付近であり、4月から5月と10月から11月に多く発生する。サイクロンが北上してバングラデシュやインドを襲った場合、多くの死傷者が出ることがある。なかでもバングラデシュはほぼ全域がガンジス川のデルタの上にできた国であり、標高が低く無数の河川が網の目のように走っているため、サイクロンによる高潮、洪水、強風、および高潮による塩害はしばしば大被害をもたらす。 インド洋の海底には、ほぼ東西に走る南西インド洋海嶺と南東インド洋海嶺、南北に走る中央インド洋海嶺の3つの海嶺が存在する。これらの海嶺はモーリシャス領であるロドリゲス島の沖にあるロドリゲス三重点にてつながっている。南西インド洋海嶺の北はアフリカプレート、南は南極プレートであり、南極プレートは南東インド洋海嶺の南にも続いている。南東インド洋海嶺の北はオーストラリアプレートである。中央インド洋海嶺の西はアフリカプレート、東はオーストラリアプレートならびにインドプレートとなっている。オーストラリアプレートとインドプレートは同一のプレートでインド・オーストラリアプレートと称されるが、このプレートは2つに分裂しつつあるとされ、2012年4月のスマトラ島沖地震はこのプレートの分裂過程において引き起こされたとの研究もある。上記の3海嶺は新しい地殻の生み出される場所であり、これらの働きによってインド洋は徐々に拡大する傾向にある。また、東経90度海嶺は南北に直線状に発達する特徴的な海底地形で、白亜紀からのインド亜大陸北上が形成したと考えられる。 他の海洋と同じように、インド洋においても流入河川からのシルトが陸地沿岸で大量に堆積している。最もシルト流入量が大きいのはガンジス川であり、年に32億トンものシルトが流入する。これは世界の全河川の中で最大で、ベンガル湾には厚い陸源堆積層がある。 太平洋や大西洋と同じく、インド洋にも環流・南赤道海流・赤道反流・北赤道海流といった3海域共通の海流は存在する。太平洋や大西洋との違いは、インド洋には北半球に属する部分が非常に小さいため、環流が南半球のインド洋亜熱帯循環ひとつしかないことである。このインド洋亜熱帯循環は、オーストラリア沿岸から赤道の南をアフリカ東岸やマダガスカル近くまで流れる暖流の南赤道海流、アフリカ東岸やマダガスカルから南下しアフリカ大陸南端近くのアガラス岬付近まで流れる暖流のアガラス海流、アフリカ南端から南極環流の北縁を西に流れオーストラリア西部に達する寒流の南インド洋海流、そしてオーストラリア西岸を北上する寒流の西オーストラリア海流からなる。南半球の環流であるので、コリオリの力に伴いこの環流は反時計回りとなっている。 もう一つのインド洋の海流の特徴は、季節風が非常に強いために季節によって海流の流れが異なる地域があることである。インド洋の北部海域がそれに当たり、夏は南西から北東に、冬は北東から南西に風が吹くのにともなって、海流もその方向に流れる。このため、冬季には東から西に流れる北赤道海流が存在するのに対し、夏季にはその海流が消滅してしまう。そのかわり、夏季には南西から北東に季節風海流が流れる。赤道反流は冬季には北赤道海流と並行して流れるが、夏季にはアフリカ東岸でソマリ海流となって北へ向けて流れ、季節風海流につながって反転する。季節風によって形成される海流はほかの海域にも存在するが、海流自体が季節によって消滅し反転することはインド洋海域の著しい特徴である。 こういった表層の海流のほかに、深層で起こる熱塩循環と表層で起こる風成循環のあわさった、いわゆる海洋大循環もインド洋を通過している。北大西洋で沈み込んだ北大西洋深層水は大西洋を南下してインド洋へと入り、インド洋南部から南極海を西から東へと流れる。このうち一部は北上して海面に浮上し、温められて表層水となる。深層水の主流は太平洋で浮上して表層水となり、今度は東から西へと流れ、そのままインド洋を通過して大西洋へと入り、北大西洋で冷やされてまた沈み込む。 インド洋にはガンジス川をはじめ、エーヤワディー川、ナルマダ川、インダス川、チグリス川とユーフラテス川をあわせたシャットゥルアラブ川、ジュバ川、ザンベジ川、リンポポ川などの多くの河川が流れ込む。なかでももっとも水量および土砂の量が多いのはガンジス川であり、このためにガンジス川の流れこむベンガル湾北部の塩分濃度は3.1%とかなり低いものになっている。逆にシャットゥルアラブ川以外に大きな河川の流れ込まないペルシャ湾の塩分濃度は3.65%とやや高く、ほとんど流入河川が存在しないうえに高温乾燥地帯にあり、さらに非常に狭く浅いバブ・エル・マンデブ海峡でしか外海との接点のない紅海の塩分濃度は4.06%と非常に高くなっている。この高い塩分濃度のため、紅海から流れ出た海水はインド洋本体部に入ってもほかの海水とは容易にはまじりあわず、比重が重いために3000m付近にまで沈み込み、紅海中層水という水塊を形成する。 インド洋から西太平洋の低緯度海域は、共通の生物が多く生息しており、生物学的にはある程度の共通性を持つ海域となっている。そのため、この海域を指す「インド太平洋」という言葉が海洋学や海洋生物学などの自然科学分野でしばしば用いられる。 インド洋はスエズ運河によって地中海と通じてヨーロッパと、マラッカ海峡から太平洋を通じて東アジアやアメリカ大陸とつながっているため、東西両洋を結ぶ主要な交易路となっている。単に東アジアとヨーロッパ間の交易路としても非常に重要性が高いうえ、インド洋沿岸のペルシャ湾やインドネシアからの石油および石油製品の運送路としても重要なうえ、近年の東南アジアやインドといった沿海地域の経済発展によってインド洋航路の重要性は増している。1967年には第三次中東戦争によってスエズ運河が封鎖されたが、スエズ運河経由の東西交易は喜望峰回りでインド洋中央部を通過するようになり、インド洋の重要性は変化しなかった。1975年にスエズ運河が再開されると、航路は再びインド洋北部を通過するものに戻った。 またサウジアラビア、イラン、インド、西オーストラリア沿岸部には豊富な石油・天然ガスの埋蔵が確認されている。世界の海上石油生産の約40%はインド洋で行われている。 インド洋沿海諸都市・諸港のうち特に大きなものは、ミャンマーのヤンゴン、バングラデシュのチッタゴン、インドのムンバイやチェンナイ、コルカタ、スリランカのコロンボ、パキスタンのカラチ、アラブ首長国連邦のドバイやアブダビ、オマーンのマスカット、イエメンのアデン、ジブチのジブチ市、ソマリアのモガディシュ、ケニアのモンバサ、タンザニアのダルエスサラームやザンジバルシティ、モザンビークのマプト、南アフリカ共和国のダーバンやイーストロンドン、ポートエリザベス、モーリシャスのポートルイス、そしてオーストラリアのパースの外港であるフリーマントルなどがある。マラッカ海峡の東端に位置するシンガポールは、太平洋とインド洋とを結ぶ結節点として重要な港湾都市である。また、縁海である紅海の北端にはスエズの街があるが、ここはスエズ運河の南端に位置し、運河の入り口となる要衝である。 ゴンドワナ大陸が分裂し始めた2億年前にテチス海が存在した。インド亜大陸がアフリカから分裂、北上し、ユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成したプレート運動で、インド洋が形成され始め、海嶺が形成されると共に海底が拡大し、アフリカ、アラビア、インド、オーストラリアなどのプレートが現在の形になっていった。 インド洋北部は、モンスーン(季節風)の影響が強く、夏は南西から北東に(東アフリカ方面からアラビア・インド方面に)、冬は北東から南西に風が吹く。海流も季節風の影響を強く受けて、夏は時計回りに、冬は反時計回りに海流が生まれる。 この時期によって一定の方向へ向かう風と海流は帆船の航行に向いていた。さらに、季節によって方向が変わるので、ある季節に出かけた船は、風向きが変わる季節に帰ってくることができる。この季節風の性質を利用して、東アフリカ・アラビア・インド間で紀元前から交易が行われてきた。 まず最初にインド洋で貿易が始まったのは、メソポタミア文明とインダス文明の間においてだった。ウルなどメソポタミア文明の諸都市からは、船によって運ばれたハラッパー製の人工物が発掘されている。紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によってアラビア半島からインダス川の探検が行われ、さらにアケメネス朝を征服したアレクサンドロス大王もインダス川からユーフラテス川までのインド洋をネアルコスに航海させている。こうした探検の結果、インド洋交易は盛んになっていった。 このころまではインド洋交易は大陸沿岸に沿って進むものであったが、紀元前120年から紀元前110年の間に、キュジコスのオイドクサスという航海者が紅海から大陸沿岸を経由せず直接インドへと向かう航路を開発し、以後この沖乗り航路が有力な航路となっていく。紀元1、2世紀ごろに書かれた『周遊記』によれば、ギリシアの商人ヒッパルスがインド洋の季節風を利用し、アラビアからインドへ沖合を航海したことから、南西風をヒッパルスの風と呼んでいたとされる。 そして、紀元後40年から70年ごろに『エリュトゥラー海案内記』が書かれる。この本には当時ローマ帝国領であったエジプトの紅海沿岸からアラビア半島、インド西海岸にいたる紅海ルートと貿易港が記載され、当時季節風を利用したローマ帝国と南インドのサータヴァーハナ朝などの諸王朝との交易の実態を示している。他にもアラビアのモカ(イエメン)の港から、多数の船が東アフリカに向かっていたこと、インド、マレー半島、中国の記述がある。 インドからマレー半島へと向かうベンガル湾の航路、およびそこから中国へと向かう航路もほどなくして確立され、ここに「海のシルクロード」と呼ばれる東西通商路が完成した。166年には大秦国王安敦(ローマ皇帝アントニヌス・ピウス、またはマルクス・アウレリウス・アントニヌスに比定される)からの使者と称するものが後漢王朝最南端の地である日南郡(現在のベトナム・フエ周辺)に到着したとの記述が後漢書にあり、この時までにはインド洋の横断交易ルートは確立していたことがうかがえる。 5世紀初頭には法顕が、セイロン島からの帰路に海路を取り、ベンガル湾から広東へとたどりついた。671年には義浄が広東からシュリーヴィジャヤを通り、インドのナーランダー僧院で仏典を学んだ後シュリーヴィジャヤ経由で帰国し、『南海寄帰内法伝』や『大唐西域求法高僧伝』を著した。また、この航路によりインドから東南アジアにヒンドゥー教や仏教が伝わった。 一方、1世紀ごろからは、インドネシア中部のボルネオ島のマレー系の人々がインド洋中南部を突っ切り、インド洋西端のマダガスカル島への移民が行われるようになった。沿岸諸地域にマレー系民族の上陸した痕跡がないため、ボルネオの人々はジャワ島やスマトラ島で補給を行った後、南東貿易風に乗って一気にインド洋を直航したと考えられている。この移住は数百年間続き、マダガスカル全島はほぼマレー系によって支配された。のちにインド洋交易によってやってきたアラブ人や対岸のモザンビーク付近から移住したバントゥー系諸民族がマダガスカルにやってきたものの、マダガスカルの基層文化はこのマレー人移住によって形成され、現在でも言語・文化・民族など多くの面でインドネシアやマレーシアといったマレー系民族の国家と多くの共通点を持っている。 アッバース朝以降には、ダウ船と呼ばれた木製の帆船により、インドの香辛料だけではなく中国の絹や陶磁器が西へ運ばれた。西の東アフリカからは象牙・犀の角・鼈甲が、北はヨーロッパやオリエントからガラス製品・葡萄酒が交易されていた。内陸部の交易路シルクロードに対して、海上交易路を海の道、あるいは海のシルクロードと呼んでいる。インド洋はその海の道の主要部を成していた。 アッバース朝はバグダードを首都としたので、首都に近いペルシア湾を中心に交易が発達した。しかし、アッバース朝の衰退・滅亡や、エジプトのファーティマ朝やマムルーク朝の繁栄にともない、紅海を中心に帆船が行き来するようになった。これらのイスラム諸王朝を起点として多くのアラブ人商人がインド洋交易を担うようになり、10世紀以降徐々にアフリカの東海岸においてイスラム教が勢力を拡大していき、15世紀ごろまでには東アフリカの諸都市はほぼイスラム化されていた。このイスラム化を基に、沿岸諸都市にはスワヒリと呼ばれるイスラムの影響の強いバントゥー系文化が成立しはじめた。アフリカのインド洋交易の南端はザンベジ川河口にほど近いソファラであり、それ以南においては海上交易ルートは到達していなかった。 一方インド洋東部においては、7世紀ごろにスマトラ島に成立したシュリーヴィジャヤ王国がマラッカ海峡を押さえ、中国とインドの間の交易を押さえて繁栄した。しかしシュリーヴィジャヤ王国は、インド南部に本拠を置くチョーラ朝と対立するようになり、1025年にはチョーラ朝のラージェーンドラ1世が海軍を遠征させてシュリーヴィジャヤを占領し、以後インド洋東部の制海権はチョーラ朝が握ることとなった。チョーラ朝は強力な海軍を持っており、ベンガル湾やモルディブ諸島にまで影響力を拡大させていた。チョーラ朝は13世紀に滅亡するが、以後もパーンディヤ朝やヴィジャヤナガル王国など南インドに勢力を持った諸王朝は積極的にインド洋交易をおこなった。13世紀末以降、インドネシアやマレーシアにはイスラム教が伝わるようになり、やがて仏教やヒンドゥー教に代わってこの地域の支配的な宗教となっていった。 13世紀にはモンゴル帝国がユーラシア大陸中央部をほぼ制圧するが、これによってユーラシア全域の交流が盛んになり、インド洋交易もさらに隆盛に向かった。モンゴル帝国自体も海路をよく使用し、マルコ・ポーロも元王朝の使者に随伴して中国から海路インドを経由しイランのイル・ハン国へ向かい、ここからヴェネツィアへと帰還している。1331年以降、イブン・バットゥータも東アフリカ沿岸やモルディブ諸島、インド、中国など各地を歴訪し、「三大陸周遊記」に多くの記述が残されている。 中国明朝の永楽帝は、朝貢貿易の再開を目的に1405年以降、7回にわたって鄭和に数十隻の艦隊を与え、東南アジアからインド洋に派遣した。鄭和の艦隊は第3回航海まではインドのカリカット(コーリコード)までしか来なかったが、第4回以降はアラビア半島まで航海し、別働隊は東アフリカまで来航した。この航海によって中国とインド洋沿岸諸国との交流は一時増大したが、鄭和没後は明は海禁政策を取ったためこのような大艦隊を派遣することはなくなり、交流は再び縮小していった。 1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルのリスボンを出発した。ガマの艦隊は喜望峰を回り、1498年4月13日にマリンディに到着した。マリンディで雇った水先案内人に導かれ、5月20日にカリカットに到着した。この航海により喜望峰回り航路を確立したポルトガルは、以後積極的に艦隊をインドへと送り、急速にインド洋での地歩を確立していった。それまでインド洋交易を握っていたイスラム諸国はこれに危機感を抱き、アラビア湾を支配するオスマン帝国やインド洋交易西端の要衝エジプトを支配するマムルーク朝、それにインドのグジャラート・スルタン国が連合艦隊を組織したものの、1509年のディーウ沖海戦でこの連合艦隊はポルトガルに敗れ、ポルトガルはインド洋の制海権を確立した。以降ポルトガルは積極的にインド洋沿いの要衝の攻略を進め、ゴア(インド)、マラッカ(マレーシア)、モンバサ(ケニア)、ホルムズ(イラン)などを支配下に置き、インド洋交易を支配した。このポルトガル支配はアラブ人商人の影響力を一時的に減退させ、東アフリカにおいてはそれまで交易用言語として使用されていたアラビア語に代わり、ザンジバル周辺で成立していたスワヒリ語が使用されるようになり、やがて東アフリカ全体の交易用言語となっていった。しかし、ポルトガルは16世紀を通じてインド洋交易で優位を保ったものの、完全に統制下に置くことまではできなかった。ポルトガル本国の人口が少なく、広大なインド洋諸海域の隅々にまで目を光らせることができなかったうえ、1513年に要衝アデンを攻略することに失敗したため、紅海を通じてのエジプト・オスマン帝国への交易ルートを掌握することに失敗したためである。このルートを通じて地中海に到達する従来の交易ルートは1530年ごろには復活し、以後は喜望峰ルートと紅海ルートの2ルートが併存する形となった。 日本人のインド洋航海で氏名がはっきりしている最初のものは、1582年にキリシタン大名大友宗麟・有馬晴信・大村純忠らが派遣した天正遣欧使節である。伊東マンショ・千々石ミゲルら4人の使節団は、インド洋を横断し、1585年にローマに着いた。なお、これより早く1549年にスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが日本人ヤジロウを伴い、インドのゴアを出発し日本へ向かった。 1580年にポルトガルがいったんスペインに併合され、さらに1600年にイギリスがイギリス東インド会社を、1602年にオランダがオランダ東インド会社を設立してインド洋への進出を本格化させると、ポルトガルのインド洋への影響力は衰退していった。ポルトガルに代わってインド洋交易を支配したのはオランダで、1617年に建設されたバタヴィア(現ジャカルタ)を拠点として勢力を拡大していった。1640年にポルトガルは再独立するものの衰運は挽回できず、1641年にはマラッカを押さえ、17世紀のほぼ1世紀にわたってオランダの時代が続いた。この時期はオランダ、イギリスのほか、ややおくれてデンマークが1612年に設立したデンマーク東インド会社や、フランスが実質的には1664年に設立したフランス東インド会社など、複数のヨーロッパ諸国の東インド会社がインド洋貿易に進出した。 17世紀初頭にはオマーンにヤアーリバ朝が成立し、1650年にはオマーンの出入り口にあたる良港マスカット(マスカト)からポルトガルを追い出した。その後、オマーンはマスカットを拠点としてインド洋交易に乗り出し、ポルトガルと激しく争うようになった。特にオマーンが目標としたのは東アフリカの交易諸都市であり、各都市では両国の戦闘がしばしばおこるようになった。 1698年にポルトガルの支配拠点であったモンバサの要塞フォート・ジーザスがオマーンの攻撃により陥落し、オマーンによるアラビアから東アフリカまでの交易支配権が確立するかに見えた。しかし、1720年代にオマーンで内戦が始まり、その勢力は一時弱まった。モンバサをはじめとするスワヒリ諸港はオマーン貴族のもと独立していったが、ザンジバルのみはオマーン本国の元にとどまり続けた。 やがてブーサイード族のアフマド・ブン・サイードがオマーンの支配権を確立し、ブーサイード朝を創設した。ブーサイード朝の第5代スルタンであるサイイド・サイードの時代に、オマーンは東アフリカに再び進出を開始する。1828年には親征を行って東アフリカ諸港を屈服させ、1830年代には東アフリカの覇権を確立した。1840年にはサイードはザンジバル(タンザニア)にストーン・タウンを建設して居を移し、ザンジバルシティがオマーンの首都となった。しかし1856年にはサイードの死によって国はオマーンとザンジバル・スルタン国に分割され、さらに帆船の時代から蒸気船の時代へ移ると共にイギリスの勢力が強くなり、オマーン・ザンジバル両国ともに船団を失うとともにイギリスの保護国となっていった。これに伴い、インド洋交易は完全に西洋勢力の手に握られることとなった。 18世紀に入ると、オランダの国力衰退に乗じてイギリスがこの地域での勢力を拡大していく。1700年にイギリスはインドから現在のカルカッタ(コルカタ)の元となる地域を得て、しばしばインドの政治に介入した。一方、1661年にポルトガルからイギリスに割譲されたボンベイには、イギリス東インド会社海軍の根拠地が置かれ、この海軍がイギリスの勢力増大とともに強力なものとなっていく。1757年プラッシーの戦いでフランスを追い出し、1820年ごろにはインドのほぼ全域を支配下においた。また、このインドへのルートを確保するため、1814年にはモーリシャス島とセイシェル諸島を、1815年にはケープ植民地を、それぞれ正式にイギリスは獲得する。19世紀に入るとイギリス東インド会社はインド洋地域における貿易独占権を喪失し、P&O社などによる汽船航路網が整備されていったが、この汽船航路においてもイギリスは圧倒的な強さを誇っていた。1869年11月17日にスエズ運河が開通したことにより、イギリスのインド洋での覇権はさらに強まった。スエズ運河の開通はヨーロッパとアジアの距離を半分近くにまで縮めたため、インドやマレー半島などインド洋沿岸地域の貿易が活発化した。しかし、第二次世界大戦後、イギリスはインドを始めとする植民地を失い、イギリスは覇権を失った。 イギリスに代わってこの地域の覇権を握ったのはアメリカ合衆国であり、ソヴィエト連邦との冷戦に備えるべくディエゴガルシア島などの各地に基地を置いた。1990年代以降、ソマリア政府の崩壊とそれに続くソマリア内戦によって地域の秩序が崩壊し、ソマリア沖を中心とするインド洋北東部においてソマリア沖の海賊が猛威を振るうようになった。これに対処するため、2008年以降世界各国が共同してこの海域に艦船を派遣し、海賊の取り締まりを行っている。 インド洋沿岸諸国は、地域内での貿易と投資の活性化を目指して1995年に環インド洋地域協力連合を設立した。この組織は2013年に環インド洋連合へと改称された。インド洋南西部にある島嶼国と地域は、1979年以降数年おき(2003年以降は4年おき)にインド洋諸島ゲームズと呼ばれる総合スポーツ大会を開催している。2011年には、この大会にはマダガスカル、レユニオン、モーリシャス、セーシェル、コモロ、マヨット、モルディブの7か国が参加した。 2004年12月26日、スマトラ島北西沖のインド洋でマグニチュード 9.3 の地震が発生した。これにより起こった津波はインド洋沿岸各国で甚大な被害を出した。死者は翌2005年1月19日までに合計で226,566人、また被災者は500万人に達している。これほど被害が大きくなった原因は 太平洋には整備されている津波警報国際ネットワークが、インド洋にはなかったこと マングローブが減っていたこと 津波に対する経験と知識が不足していたこと などが挙げられる。 太平洋で発生するエルニーニョに似た大気海洋相互作用現象で、発生海域名称を冠しインド洋ダイポールモード現象(IOD)とも呼ばれる。アフリカとインドネシアの気候に大きな影響を与えている。 インド洋に接する国々は、南アフリカ共和国よりおおむね時計回りに次のとおりである。  南アフリカ共和国 モザンビーク マダガスカル フランス領南方・南極地域 (フランス領) フランス レユニオン (フランス領) モーリシャス イギリス領インド洋地域 (イギリス領) マヨット (フランス領) コモロ タンザニア セーシェル  ケニア ソマリア ジブチ エリトリア スーダン  エジプト イスラエル ヨルダン サウジアラビア イエメン  オマーン アラブ首長国連邦 カタール バーレーン クウェート イラク イラン  パキスタン インド モルディブ スリランカ バングラデシュ ビルマ タイ マレーシア シンガポール  インドネシア ココス諸島 (オーストラリア領) 東ティモール アシュモア・カルティエ諸島 (オーストラリア領) オーストラリア ハード島とマクドナルド諸島 (オーストラリア領) フランス領南方・南極地域 (フランス領) ^ Earth's Oceans. 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Davis)にちなんで命名している。" ]
ABC01-02-0059
海底において、沈んでくるプランクトンの死骸がかすかな光に照らされて白く見える現象を、ある天気のように見えることから何というでしょう?
マリンスノー
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[ "マリンスノー", "岩塩氷河", "硫黄循環", "異クマムシ綱", "間帯土壌" ]
[ "マリンスノー(英: Marine snow)は、肉眼で観察可能な海中懸濁物のことである。海中の様子を撮影した映像、写真等で雪のように見える白い粒子がマリンスノーである。マリンスノーは海中を沈んでいき、やがて海底に降り注ぎ堆積する。地上に降る雪とは異なり、マリンスノーは様々な形、大きさをしたものが同時に存在する。球状、彗星状、糸状、平板状など様々な形をしたものがあって、大きいものは10cmを超すものもある。これらのマリンスノーは世界中の海洋で見ることができる。 1950年代、北海道大学の研究者達は潜水球「くろしお号」に乗り込み、海中の調査を行っていた。その際、海中の懸濁物がライトの光に照らされ、雪のように白く見えたことから、彼らはマリンスノー(海に降る雪)と名付けた。現在では世界中でこの言葉が使われている。 マリンスノーの正体はプランクトンの排出物、死骸、またはそれらが分解されたもの、もしくは物理的に作られた粒子である。言い換えると肉眼的大きさで水中を漂うデトリタスである。 よってプランクトンなどが少なく透明度の高い熱帯の海中よりもプランクトンが多く魚などがたくさん棲息する温帯や寒帯の海中の方が多く見ることができる。また、駿河湾や相模湾など、沿岸部で急激に深くなっている海域では、川や都市から流れてくる有機物によってプランクトンが多く発生し、そのため沢山のマリンスノーを見ることができる。 マリンスノーは1日に数十mから数百mの速さで沈んでいき、やがて深海に生息する生物の餌となる。深海は太陽の光も届かないため、浅い海に比べて生息する生物の数が極端に少なくなるので、深海に生息する生物にとっては貴重な栄養源となる。 また、マリンスノーの主な成分は炭素である。海洋全体を浮遊しているということを考えると、それらは膨大な量の炭素を保有していると考えられるので、地球における炭素循環において無視できない。 マリンスノウ (音楽作品)", "岩塩氷河(がんえんひょうが、salt glacier)は塩(典型的には岩塩)の流れである。地下深くの岩塩ダイアピルが地表まで隆起して岩塩ドームを形成し水分を含むことで麓に流れ出すもの。通常の氷河と同様に、岩塩氷河は重力によって近傍の谷底へと流れてゆく。塩の強度は水分含量に決定的に依存するため、塩が水分を含みがちな冬季に流れやすい。クレバスのような裂溝で区切られた弓形の隆線の繰り返しと、急勾配の側面および前面を持って舌状に展開した岩塩氷河は、時に数キロメートルにも及ぶ。塩が粘土を取り込むと、岩塩氷河は暗色を呈する。 “Iran's Salt Glaciers”. NASA Earth Observatory. 2006年10月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年4月27日閲覧。 Talbot CJ, Rogers EA (1980年). “Seasonal movements in a salt glacier in Iran.”. Science 208 (4442): 395-7.  Urai JL, Spiers CJ, Zwart HJ, Lister GS (1986年). “Weakening of rock salt by water during long term creep”. Nature 324: 554-7.", "硫黄循環(いおうじゅんかん)とは生物地球化学的循環の一種であり、元素としての硫黄が様々な化合物の一部となることで化学種を変えながら、生態系内を循環することである。硫黄は大気、土壌、水域に存在するので、硫黄は空間的にも地球全体を循環している。 微生物にとって欠かせない役割を持ち、様々な生化学的物質に硫黄が存在している。酵素、たんぱく質、ビタミン、ホルモンなどを作るには硫黄が重要な元素である。 生物地球化学的循環", "異クマムシ綱(いクマムシこう、Heterotardigrada)は、体前端に突起を持ち、足に4つの離れた爪を持つ緩歩動物門の綱である。444種が記載されている。 クマムシの分類には、生殖器官の形態が重要である。異クマムシ綱は、肛門前方の生殖孔を通じて生殖輸管が外に開いているのが特徴である。これに対して真クマムシ綱では、生殖輸管は直腸に繋がっている。(もう1つの中クマムシ綱は、1種のみからなるが、その模式標本が地震で破壊されてしまったため、生殖器官については詳しく調べられていない。) 異クマムシ綱のいくつかの目は海や土中に住むが、活動のために少なくとも1層の水分が周りに無ければならないという点では、全て水生である。ただし、生息環境が乾いた時には休眠状態(クリプトビオシス)で生き延びることができる。 ^ Zhang, Z.-Q. (2011年). “Animal biodiversity: An introduction to higher-level classification and taxonomic richness”. Zootaxa 3148: 7–12. http://mapress.com/zootaxa/2011/f/zt03148p012.pdf.  Heterotardigrada, ITIS, http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=155167 2014年1月11日閲覧。  Arthrotardigrada, ITIS, http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=155168 2014年1月11日閲覧。  Echiniscoidea, ITIS, http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=155299 2014年1月11日閲覧。", "間帯土壌(かんたいどじょう)とは、気候帯に関係なく地形・地下水・岩石などの特性に支配され、局地的に分布する土壌のこと。成帯土壌と対になる概念。 レグール レス(黄土) テラローシャ テラロッサ ケッペンの気候区分" ]
ABC01-02-0061
葉がカラスのように黒く、龍のつめのように曲がっていることから名がついた中国茶の一種は何でしょう?
烏龍茶
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[ "烏龍茶", "白茶", "黒茶", "醸造酒", "緑茶" ]
[ "烏龍茶(ウーロンちゃ)は、中国茶のうち青茶(せいちゃ、あおちゃ)に分類され、茶葉の発酵途中で加熱することで発酵を止めた、半発酵茶である。淹れた茶の水色(すいしょく)は黄褐色。 中国茶は、1978年に中国安徽省の安徽農業大学の陳椽教授によって緑茶、白茶、黄茶、黒茶、青茶、紅茶の6種(六大茶類)に区分され、これにジャスミン茶など花茶を加えた7種が現在最も一般的な分類方法として知られている(区分について、詳しくは中国茶の項目を参照のこと)。 中国語でいう「青」は「黒っぽい藍色」を指す。青茶に対して、緑茶は茶葉を摘んだ直後に加熱するため発酵の過程がなく、紅茶や黒茶は完全に発酵させて乾燥させたものである。 一説によれば烏龍茶という名前は中国広東省で製茶されたお茶の形状や色が烏のように黒く、龍のように曲がりくねっているため名付けられたという。 広東省東部の潮州市潮安県で製茶されている「石古坪」や鳳凰山周辺で生産される「鳳凰単欉」が、現在の烏龍茶の祖であると推測されている。 実際の生産量では福建省がトップで、台湾がこれに続く。福建省北部にある武夷山市の武夷岩茶が烏龍茶の代表的銘茶として知られているが、日本においては、福建省中部の泉州市安渓県で作られる「鉄観音」が、香港においては「水仙」の知名度が高い。台湾産では南投県鹿谷郷の凍頂烏龍茶、台湾中央山脈の梨山、阿里山、杉林渓など標高1000m以上の茶園で生産される高山茶、首都台北市郊外で生産される文山包種が質の高い烏龍茶の銘柄として有名。 現在の烏龍茶は福建省と広東省、台湾などの、いわゆる華南文化圏が主な産地であるが、近年は台湾の製茶技師などの指導によってベトナムやタイの山岳地帯、また独自のタイプの青茶がインドのダージリン地方などでも少量が商業的に生産されている。 日本でも一部で生産されているが、生産量はわずかである。 凍頂烏龍茶(とうちょうウーロンちゃ)は台湾・南投県鹿谷郷東部の山腹で栽培される烏龍茶の名称。現在では台湾の広範囲において栽培されており、台湾を代表する烏龍茶として認知されている。味は緑茶に近いが、殺青(茶葉の加熱処理)の方法が日本茶とは異なるため、独特の爽やかな香りがする。 東方美人茶(とうほうびじんちゃ)は、台湾中西部の新竹県峨眉郷などで採れる。ウンカが葉を食うことで、独特の香りと味わいが生まれる。しばらくしてヨーロッパに輸出されたが、実際に人気が出始めるのは19世紀末から20世紀に入ってからで、英国で名付けられた「オリエンタル・ビューティ(Oriental beauty)」(現在、ビクトリア女王が名付けたという説が巷に広がっているが、年代的におかしい)の訳語として、東洋では響きの美しい「東方美人」が定着した。清代・日本統治時代の頃から台湾の重要な輸出産品であったが、近年では台湾国内でも消費量が増えている。 福建省武夷山市の武夷岩茶(ぶいがんちゃ)は烏龍茶の代表的銘茶として、また英国人によるインド産紅茶の原型となったお茶としても名高く、その中でも大紅袍(だいこうほう)は、国が管理する茶樹で国賓待遇の客に提供される。白鶏冠・水金亀・半天腰・鉄羅漢などが四大岩茶として知られている。 鉄観音(てっかんのん)は福建省南部の安渓県が産地。台湾や広東省でも作られている。生産量は烏龍茶全体の5%ほどの割合を占める。名の由来には諸説ある。日本でも有名な烏龍茶である。 水仙(すいせん)は福建省と広東省で生産される。香港では有名な烏龍茶で多くの中国料理のレストランで出されているが、烏龍茶という総称では分かってもらえず、「水仙」(広東語:ソユシン)と言って注文しないと烏龍茶が飲めない場合がある。 鳳凰單欉(ほうおうたんそう)は、広東省潮州市の銘茶で、広東省の烏龍茶を代表する銘柄。鳳凰山周辺で生産され、現在の烏龍茶の祖といわれる。 淹れる湯の温度は80度以上の高温が適し、二煎目以降を飲む。 最初に茶壷(急須)へ茶葉を入れ、熱湯を注ぐが、一度目に湯を入れる目的は、(1)茶器を温め、(2)茶葉を開かせ、(3)茶葉のほこりなどを洗い落とすためである。このため、一煎目は時間を置かず、さっと茶海か湯呑に湯を移し、暖めたら捨てる。一煎目は短時間しか茶葉に触れないため、決して美味ではなく、飲まない。 二煎目は茶葉の性質に応じて30秒から1分程度の時間をかけて成分を抽出してから、最後まで茶海か湯呑に移しきる。二煎目では聞香杯を使い、香りを楽しんでもよい。茶葉にもよるが四、五煎目まで美味しく楽しめる。煎じる回数が増えるごとに蒸らす時間を約10秒ずつ長くするとよい。 もっともこれらは正式な場で出す茶の淹れ方としての一例であり、家庭で飲まれるものは各人の好み、各家庭、地域によって方法が異なる。 ウーロン茶重合ポリフェノール(Oolong Tea Polymerized Polyphenols;OTPP)という烏龍茶特有のポリフェノールが含まれており、これは脂肪の吸収を抑え、脂肪分解を促進する働きがあるため、ダイエットによいとされる。近年ではその効果が注目され、健康食品としても飲用される。サントリーは2006年に特定保健用食品として黒烏龍茶を発売した。カフェインが含まれるため興奮作用や利尿作用がある。他にも消化を助けるほか、体を温める作用があり、冷え性対策にも有効とされる。 また、飲む以外に、烏龍茶が油を分解する効果をつかって、車のガラスの油膜取りなどの用途にも使うことができる。 日本においては、1895年に下関条約で台湾が清から日本に割譲され、事業等で現地を訪れた人々に烏龍茶の存在が知られるようになった。大正時代には銀座に烏龍茶の喫茶販売店ができて輸入も行われ、通の人たちに利用されるようになった。 しかし、日本における本格的な普及は1970年代に痩身や美容に効果があると伝聞されたことに始まる。当時爆発的な人気があったアイドルデュオピンク・レディーが、美容のために愛飲していることが1978~79年頃に話題となったことから脚光を浴びて、年間輸入量が2トンから280トンに急増し、第1次ブームとなる。この時期の烏龍茶は湯で淹れた飲み方が主流であり、茶葉を用いる屋内使用であった。その後、粗悪品が出回りブームは下火になる。 1979年に伊藤園が中国土産畜産進出口総公司と輸入代理店契約を締結。1981年2月に伊藤園が世界初の缶入りウーロン茶として商品化。同年12月、サントリーが缶入り烏龍茶を発売し、油分の多い料理に適し、飲み口もさっぱりして後を引かないというキャッチフレーズと併せて、冷やしても美味しく手軽に飲むことができるとする日本独自のスタイルが生まれて屋外市場の展開が始まる。1983年にポッカコーポレーションが缶入りの宇治の露製茶とほうじ茶を、1985年に伊藤園が缶入りの緑茶を発売したこともあり、烏龍茶は清涼飲料水としての市民権を得た。 酒税法の改正に影響を与えたチューハイブームのピークである1985年には、焼酎を烏龍茶で割ったウーロン割りが現れ、1991年にはレゲエパンチが生まれ、需要が更に伸びる。この時期が烏龍茶の第2次ブームとなった。 缶入り烏龍茶のトップブランドのサントリーは、飲食料品の製造販売会社の永谷園と共同開発した夏季限定商品として冷やした烏龍茶を用いた茶漬けを2005年5月から8月にかけて発売し、永谷園は2002年から販売している冷やし茶漬けのイメージの定着を、サントリーは消費のさらなる拡大を図る。 2005年現在における烏龍茶を含む茶系飲料水の消費量は、社団法人 全国清涼飲料工業会(全清飲)のソフトドリンクの品目別生産量の推移[2]によると炭酸飲料・コーヒー飲料が横ばいに推移し、果汁飲料が下降線を示している中で茶系飲料は徐々に上昇しており、全清飲の『平成十年清涼飲料総合調査』では好きな清涼飲料水の1位になっている。 本場中国では、烏龍茶は福建省、広東省という限られた地域で飲まれているものであり、かつ熱い茶を自分でいれて飲むことしか考えられなかったが、1990年代後半にサントリーが上海でペットボトル入りの烏龍茶発売を検討した際、上海では加糖タイプの台湾系烏龍茶が販売活動を開始しておりサントリーもそれに倣って加糖、無糖2種のペットボトル入り烏龍茶を発売した。 その後台湾大手の統一食品もペットボトル入りに参入、現在は地元中国のメーカーも類似の清涼飲料水を発売している。当初中国での主流は砂糖を加えたものであり、無糖のものを探すのには骨が折れる状態であったが、2011年時点では無糖の烏龍茶も普及し、コンビニエンスストアー、スーパーマーケットなどで手軽に無糖の烏龍茶も買うことができる。 2007年、2008年に殺虫剤が混入させられた中国製冷凍餃子が流通し、中国産食品の安全性に不安を感じる消費者が急増、烏龍茶の消費にも影響を及ぼした。中国以外の代替地が求められたが、烏龍茶を作る茶の木は日本の緑茶などの茶の木と根本的に同一植物であるため、2015年に入ると日本国内産茶葉を加工した烏龍茶を原料とした烏龍茶飲料が発売されるに至った。 ^ 文部科学省 「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 楊品瑜 (1999). 台湾茶の楽しみ方とおいしい料理. 三心堂出版社. ISBN 4883423131.  34p ^ 松下智、『茶の民族誌―製茶文化の源流』、1998年、雄山閣出版 ^ 栄養情報/栄養事典/ウーロン茶ポリフェノール 日本医療栄養センター ^ 『太極拳 カラダも心も美しくなる!』54頁。 ^ 兒島新平、「臺灣烏龍茶は斯くの如くの人が始めた」『三府及近郊名所名物案内』pp77-78、1918年、東京、日本名所案内社 [1] ^ 彼女らの出身地は日本茶の産地でも有名な静岡県であった。 ^ サントリー烏龍茶 秘話(男の浪漫伝説 Vol.86) | ドリームメール ^ 伊藤園ウーロン茶 伊藤園 ^ サントリー烏龍茶 サントリー ^ お~いお茶 緑茶 伊藤園 東方美人茶 中国茶", "白茶(はくちゃ、しろちゃ、パイチャ)は、主に中国の福建省で生産されている中国茶。製法(発酵度)による中国茶の分類(六大茶類)の一つである。弱発酵茶。 茶葉の芽に白い産毛がびっしりと生えていることが、名前の由来である。そのような特徴を持つ茶葉を白毫(はくごう、パイハオ)と呼ぶが、白毫のある茶葉がすべて白茶に用いられる訳ではない。 摘まれた茶葉を、萎凋(いちょう、放置して萎れさせ、発酵を進めるとともに水分を飛ばすこと)した後に、火入れして乾燥させるだけという、中国茶の中では特に簡素な工程となっている。六大茶類の中では、唯一白茶だけが「揉捻」を施さない。 萎凋は地域により、屋外での日光萎凋をする場合と室内萎凋をする場合がある。いずれも送風機を用いたり、揉む、揺らすなど人為的な発酵の促進はしないため、発酵はゆっくりと進む。発酵と言っても、黒茶(プーアル茶等)の微生物による発酵を施した茶とは異なり、茶葉が元々もつ酸化酵素による酸化発酵が中心となるもので、黒茶以外の他の発酵茶と同様である。この段階で水分の9割ほどは蒸発している。萎凋が完了した茶葉は「烘籠」と呼ばれる竹で出来たバスケットに入れられ、とろ火にかけて乾燥、これにより酵素発酵が止められる。白豪銀針は、茶葉が未だ熱い内に紙袋に入れられる。この目的は、茶葉が熱く柔らかい内に袋に詰める事で破損を防ぐためと、数日間意図的に蒸れさせることで、更なる熟成を促すためである。但し、この工程は非常に熟練の技を必要とし、多くの白茶は「ムレ臭」を伴う。最高品質の白茶にはムレ臭がなく、色も均一なヒスイ色をしている。灰色や褐色化した白茶は、萎凋の際に層が厚すぎたり、取り扱いが乱雑だったことを示している。 多くの中国茶とは異なり、揉みこむ工程(揉捻)がないために茶葉そのままの姿で出荷される。そのため茶葉が揺れ動く様を楽しめるように、淹れる際には耐熱ガラスに90度前後のお湯を注いで飲むのが一般的。こうする事で、茶葉がまるで「笹の葉」のように、ゆらゆらと揺れ動く様子を楽しむことができる。また、冷たい水で淹れても美味しく飲める。 香り・味わい・水色ともに上品で後味がとても甘い。また、白茶には宿酔い、夏ばてに効くといった効能や解熱作用があると言われている。 主なものに「白毫銀針」「白牡丹」「寿眉」などがある。 日本ではあまり飲まれない珍しいお茶だが、『アサヒ 白茶』(アサヒ飲料、2005年)、『本茶房 白いお茶』(大塚ベバレジ、2006年)、『アサヒ 白烏龍』(アサヒ飲料、2009年、白茶と烏龍茶のブレンド)などのペットボトル飲料も発売されている。なお、インドやスリランカでもここ数年、差別化・ブランド化の一環として白茶生産を開始する事例が出てきた。 ^ 「アサヒ 白茶 PET500ml」新発売 - アサヒ飲料ニュースリリース、2005年1月6日。 ^ 『本茶房 白いお茶』280mlペットボトル- 4月3日(月)より全国新発売 - 大塚ベバレジニュースリリース、2006年3月10日。 ^ 『アサヒ 白烏龍』新発売 - アサヒ飲料ニュースリリース、2009年7月9日。 菊地和男 『中国茶入門 : 香り高き中国茶を愉しむ』 講談社、1998年、ISBN 978-4-062-09232-6 工藤佳治ほか 『中国茶事典』 勉誠出版、2007年、ISBN 978-4-585-06057-4", "黒茶(こくちゃ、くろちゃ)は、中国茶のうち、麹菌により数ヶ月以上発酵させる後発酵製法により作られる茶をいう。プーアル茶など。 一般に茶(中国茶)は製法の違いにより青茶・緑茶・白茶・黄茶・黒茶・紅茶の6種類に分類される。この内、黒茶と紅茶が発酵茶であるが、紅茶とは発酵方法が異なる。 中国 雲南省西双版納傣族自治州 普洱茶 黒茶の中でも有名。「普洱」は集散地の地名による。 広西チワン族自治区六堡郷 六堡茶 高温高湿のトンネルなどで発酵。 四川省 唐磚茶 湖南省 茯磚茶などがある。 タイ北部、ミャンマー北部 ラペソーと称する後発酵製法を経た茶を、食用にしている。 ミエンという後発酵製法による噛み茶も作られている。 日本でもわずかではあるが黒茶は製造されており、四国が主な生産地である。 徳島県では「阿波番茶」と呼ばれた茶が黒茶であり、緑茶である番茶と全く製法が異なるため、現在では阿波晩茶と表記されるようになってきている。 高知県では「碁石茶」と呼ばれる物が作られており、これは文字通りに碁石状の形をしている。ただし、地元ではほとんど飲まれず、瀬戸内海の島々で作られる茶粥の材料として出荷される。希少品であり、予約生産にほぼ限られている。これは、18世紀から土佐藩の参勤交代の道が北山道に変更されたことで、土佐の大名行列が伊予国、讃岐国を通ることになり、それによって碁石茶を知った讃岐仁尾の商人が販売権を買って、瀬戸内海辺りに仁尾茶の名前で売りだしたことによる。近世中期には18人の仁尾商人が碁石茶を扱うようになった。。 愛媛県では石鎚黒茶が作られていたが生産者が1軒だけになり、地元の生活研究グループが技術を継承し商品化したものが天狗黒茶である。 富山県朝日町ではバタバタ茶が作られ、富山県北部~新潟県糸魚川地方で飲まれている。 黒茶は、次の製造工程を踏まえ生産される。 殺青 茶葉を加熱する。茶葉に含まれる酵素の働きを止め、酸化を抑制する。 初揉 揉捻。茶葉を揉む。茶葉の組織細胞を壊し、茶の成分浸出を良くする。 堆積 茶葉を積み重ね、発酵させる。黒茶の風味を引き出す。 復揉 揉捻。茶葉を再び揉む。 乾燥 乾燥させる。保存性を高め、香りを良くする。 産地周辺で消費される以外に、雲南省のプーアル茶は香港やマカオで好まれ、以前から出荷されているほか、近年は韓国などの外国でも近年消費が伸びている。湖南省の茯茶は、新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区、甘粛省などの少数民族がビタミン補給のための生活必需品として消費されているが、近年は日本にも輸入されるようになっている。 大きく分けて、茶葉そのままの形状である散茶と、茶葉を発酵させる前に圧縮して固めてある緊圧茶の2種類がある。 ^ 小柳, 田村 (2007) p.291 ^ a b 加藤 (1996) p.45 ^ 大石貞男著作集1 日本茶業発達史 農山漁村文化協会 2004.3 ISBN 4-540-03162-7 p.108 ^ 参勤交代と日本の文化コンスタンティン・ノミコス・ヴァポリス(メリーランド大学準教授)日文研フォーラム、第169回pp.1 - 29 , 2004-10 , 国際日本文化研究センター ^ 日本人と参勤交代 コンスタンチン ヴァポリス 柏書房 2010.6 ISBN 978-4-7601-3821-0 p.377 小柳淳, 田村早苗 (2007). 現代の香港を知るキーワード888. 三修社. ISBN 4384011989.  加藤みゆき (1996). 健康を食べる―お茶. 保育社. ISBN 4586508868.  プーアル茶 緊圧茶", "醸造酒(じょうぞうしゅ)とは、原料を酵母によりアルコール発酵させて作られた酒。蒸留などの作業を経ずに、基本的にアルコール発酵させたままの状態で飲まれるものをいう。 一般に、蒸留酒に比べアルコール度数は低い。これは、アルコール発酵を行う微生物が、自らが作り出したアルコールによって活動を阻害されてしまうことに由来する。 醸造酒は、大きく分けて、単発酵酒と複発酵酒に分けられる。さらに複発酵酒は、単行複発酵酒と並行複発酵酒に分けられる。 原料が糖分を多く含む場合、酵母さえあればそのままアルコール発酵させることができる。この種の酒を単発酵酒という。糖分を含む果実などを原料にした酒、例えばワイン(ブドウ酒)やシードル(リンゴ酒)、馬乳酒などがこれに含まれる。 これに対し、原料がコメ、麦などの穀類の場合、原料の穀物等のデンプンをまず糖に変え、その後にアルコール発酵させることになる。糊化(アルファ化)したデンプンをコウジカビなどによって糖化する場合と、穀物を発芽させて(麦芽に変えて)デンプンを糖化する場合の2種類がある。この、糖化とアルコール発酵の2つの工程により作られる酒を複発酵酒という。ビールや日本酒などがこれに含まれる。 デンプンを糖化した工程の後に発酵を行って作られる複発酵酒。ビールなどがこれに該当する。 デンプンの糖化とアルコール発酵の2つの工程を同時進行させて作られる複発酵酒。日本酒がこれに該当する。 アルコール飲料 リキュール", "緑茶(りょくちゃ 拼音: lǜchá)は、チャノキの葉から作った茶のうち、摘み取った茶葉を加熱処理して発酵を妨げたもの。もしくはそれに湯を注ぎ、成分を抽出した飲料のこと。 日本においては日本茶と同意に使われることが多い。日本茶(煎茶、ほうじ茶、抹茶など)はその多くが緑茶であり、日本でもっとも良く飲まれている茶である。中国茶もジャスミン茶として飲まれるものを含め緑茶に分類される物が主流で、中国や台湾で最も飲まれているのも緑茶である。烏龍茶やプーアル茶などは比較的特殊な部類に入り、産地を離れると余り飲まれず、日本人にとっての玉露や抹茶のような扱いになる。 日本では寿司や菓子とともに、あるいは食後に熱い茶を飲むのが一般的だった。近年、ペットボトル入りの緑茶の普及と健康志向の高まりで、水やジュースなどと同じ感覚で屋外や運動中に冷えた茶を飲む例が増えている。飲料メーカーは「ノンカロリー」「カテキン効果」などを宣伝文句に販売し、欧米やアジア諸国でも緑茶ブームが起きている。また、静岡では焼酎などを緑茶で割って「お茶割り」という名前で飲むことがあり、これを「静岡割り」として普及させようという動きもある。 日本式の緑茶の製造は以下の工程からなる。 生産(栽培、収穫) ⇒ 蒸熱 ⇒ 粗揉 ⇒ 揉捻 ⇒ 中揉 ⇒ 精捻 ⇒ 乾燥 ⇒ 篩分と切断⇒ 木茎分離(⇒ 抽出) 簡単に言うと、収穫した茶葉を蒸して揉み潰し、茶葉の型を整えつつ乾燥する、という工程の並びになる。 緑茶の製法は日本と中国では主流となっている方法がやや異なり、風味も異なる。日本では発酵を止めるため上記のように蒸すのに対し、中国では釜炒りを行うのが主流である。なお、日本国内でも佐賀県の嬉野茶(うれしのちゃ)や宮崎県・熊本県県境付近の青柳茶(あおやぎちゃ)の様に釜炒りの製法を取っているものがある。未選別の中間加工品、茎・芽・硬葉等を含んだ茶葉(生葉)を蒸熱、揉み操作、乾燥等の加工処理を経て製造され仕上げ茶として再製する以前の、いわゆる荒茶をそのまま販売する際に「青柳」と称する場合もあるので区別の必要なことがある。 緑茶のように茶葉収穫後に加熱処理を加え、茶葉自身に含まれる酵素による酸化発酵を極力抑えた物を不発酵茶という。この場合の加熱処理を殺青(さっせい、シャーチン、shāqīng)と呼び、また、これを蒸製により行なった場合を特に蒸青(じょうせい、チェンチン、zhēngqīng)と呼ぶ。日本においては蒸製により殺青を行なうものが主流だが、世界的に見るとこれはかなり特殊な部類に入り、現在では日本固有のものといえる。ただし、緑茶の消費は中国と日本が主であり、古来は中国においても殺青は盛んに行なわれていた。この他、炒製(釜炒り)、煮製(番茶類)、焼製、晒青(日光に曝す)などによる方法がある。 緑茶同様に茶葉を処理した後、微生物の作用をもって発酵させた後発酵茶(黒茶)と呼ばれる一群の茶飲料が存在する。阿波番茶(あわばんちゃ)や碁石茶(ごいしちゃ)やプーアル茶がその例である。これらは特殊茶のなかの漬物茶に分類される。ジャスミン茶は、緑茶にジャスミンが開花する時に放出される香りを付けたもので、分類上は花茶、着香茶に入る。 緑茶は成人が適切な量を飲む分には安全であるが、含まれるカフェインの作用により不眠、不安、いらだち、胃腸不良、吐き気などを起こしえる。さらに少量のビタミンKを含むため、ワルファリン服用者は注意が必要である。 またある種のがんについて、緑茶はそれを予防し進行を遅らせる効果があるであろう(may help)とアメリカ国立補完統合衛生センターは述べている。 試験では、体重減量のエビデンスがあるとは確認できなかった。 抹茶(挽茶)(→茶道) - 碾茶を石臼を用いて微細な粉末に仕立てたもの。 粉末茶 - 抽出した液体を粉末にしたフリーズドライのものと、茶を粉末にしたものがある。ティーバッグ又は湯で溶いて飲用する他、食品加工用の原料にする。茶を粉末にしたものは抹茶よりも荒いものが多い。 煎茶(広義)(→煎茶道) 玉露 - 福岡県八女市が最も生産量が多い。 かぶせ茶 煎茶(狭義)- 日本で最も一般的。 番茶 出物のお茶 茎茶(棒茶・白折) 芽茶 粉茶 ほうじ茶 - 緑茶に含めないこともある。 玄米茶 豆茶 釜炒り茶 玉緑茶 釜炒り茶の番茶 漬物茶(発酵茶) - 「黒茶」として緑茶に含めないこともある。 六安瓜片(ろくあんかへん) - 安徽省六安市産 龍井茶(ロンジンちゃ) - 浙江省杭州市産 黄山毛峰(こうざんもうほう) - 安徽省歙県産 廬山雲霧(ろざんうんむ) - 江西省九江市産 竹葉青(ちくようせい) - 四川省峨眉山市産 信陽毛尖(しんようもうせん) - 河南省信陽市産 都匀毛尖(といんもうせん) - 貴州省都匀市産 洞庭碧螺春(どうていへきらしゅん) - 江蘇省蘇州市産 滇緑(てんりょく) - 雲南省保山市ほか産 日本では比較的人気のある飲み物で、多くの飲料メーカーが手がけており、紙パック、缶、ペットボトルの緑茶飲料も多く発売されている。 伊藤園 - お〜いお茶(ペットボトル緑茶の火付け役) キリンビバレッジ - 生茶 サントリー - 伊右衛門 アサヒ飲料 - 匠屋 コカコーラ - 綾鷹 ポッカサッポロ - 玉露入りお茶 ダイドードリンコ - 葉の茶 サンガリア - おいしいお茶 玉露入り JT(日本たばこ産業)- 辻利 中国や台湾でもペットボトル等に入れた緑茶飲料が販売されているが、蜂蜜や砂糖を加えた商品が主流で、レモン果汁を加えたものもある。このため、タイ向けの生茶は砂糖入りである。タイでは生茶のほかにも現地企業の Oishi Group Public Company Limited などのペットボトル緑茶も数多く売り出されているが、どれも砂糖入りである。日本でも、コカ・コーラやリプトンなどから蜂蜜や砂糖を加えた緑茶飲料が発売されている。 オーストリアでも健康ブームの中で緑茶がクローズアップされているが、アジア諸国同様に砂糖などを加えた日本の紅茶飲料に近い形態で販売されている。 アメリカでは近年、健康ブームの一環で、緑茶が人気がある。その緑茶というのは、大半が日本の抹茶( Matcha )である。このことは Amazon USA の人気順でわかる。 アメリカなどでは緑茶だけだと味が薄く感じられるということで、フレーバーを混ぜて楽しむこともある。一般的にはアリゾナ社が発売している 500ml 缶入りの砂糖入り緑茶 (Green Tea) が広く出回っており、ラベルには漢字で「緑茶」と記載されている。 朝鮮半島では10世紀頃から茶の木が栽培されていたが、李氏朝鮮の時代に仏教を排斥したのに伴い茶の栽培は下火になり、極一部でしか栽培されなくなった。1989年になってようやく韓国政府が茶の栽培に補助金を出すようになった。その為、韓国で茶の木の栽培が本格的に行われるようになったのは1990年代以降である。また、高麗茶道と称して茶をたしなむ文化も存在するが、これは京都の在日韓国人が戦後に起こした茶道であり、朝鮮半島古来の文化・作法ではない。 茶漬け - 米飯に茶をかけたもの。 茶飯 - 米を緑茶で炊いたもの。 緑茶の茶葉を食べる料理がある。 新茶葉の天ぷら 緑茶のかき揚げ 緑茶のごま和え、お浸し。玉露や質の高い煎茶を用い、抽出後の茶葉に醤油とごま、またはポン酢と鰹節等で味付けをし食す 龍井蝦仁 - 浙江省杭州市の料理で、川えびの殻を剥いて、龍井茶の若葉と炒めたもの 航空元気食 - 日本陸軍で開発・採用された、航空勤務者向けの栄養補助食品。緑茶粉末・ビタミンB1等を米粉に練り込み、ゼリー菓子状に成形したもの。 抹茶は蕎麦に加えて茶そばにしたり、塩と合わせて天麩羅の味付けに使われたりする。菓子にもよく使われ、代表的な洋菓子のほとんどに抹茶風味のものが存在する。 茶葉に含まれる苦味成分テオフィリン(キサンチン誘導体に分類されるアルカロイドの一種)は、気管支拡張剤の原料となる。 緑茶はさっぱりとした香気を持っているため入浴剤や制汗剤、石鹸など清涼感を求められる製品に使用される。 緑茶に多く含まれるカテキンは抗菌、抗ウイルス作用があるため石鹸、シャンプーなど洗剤類やタオル、寝具などに使用される。 ^ a b Herbs at glance - Green Tea (Report). アメリカ国立補完統合衛生センター. (2016-07-21). https://nccih.nih.gov/health/greentea.  ^ “Green tea for weight loss and weight maintenance in overweight or obese adults”. Cochrane Database Syst Rev 12: CD008650. (2012年). doi:10.1002/14651858.CD008650.pub2. PMID 23235664.  ^ ただし無糖のものがまったく売られていないわけではなく、台湾では「日式緑茶」と称された無糖の緑茶飲料が販売されている。 ^ Matcha については、英語版 Wikipedia の green tea の項目を参照。 ^ 毎日放送「ちちんぷいぷい」2012年6月27日16時30分頃放送 日本茶 茶道 紅茶 茶碗 発酵の方法・程度による分類 世界緑茶協会 (社)日本茶業中央会 全国茶生産団体連合会 (社)鹿児島県茶生産協会 Herbs at glance - Green Tea - NIH" ]
ABC01-02-0062
ベレスフォード夫妻、バトル警視、アリアドニ・オリヴァ夫人、パーカー・パイン、ミス・マープル、エルキュール・ポアロといえば、誰の書いたミステリー小説に登場する探偵でしょう?
アガサ・クリスティ
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[ "アガサ・クリスティ", "エドワード・D・ホック", "アーサー・モリスン", "ダシール・ハメット", "ジョセフィン・テイ" ]
[ "アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie, DBE、旧姓:ミラー (Miller)、1890年9月15日 - 1976年1月12日)は、イギリス生まれの推理作家である。発表された推理小説の多くは世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの第4代会長。メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名義の小説が6作品ある。日本語表記は「クリスティ」「クリスティー」がある。 1890年、フレデリック・アルヴァ・ミラーとクララ・ベーマーの次女としてイギリス南西部のデヴォンシャーに生まれる。3人姉弟の末っ子で、10歳近く年の離れた姉と兄がいた。しかし年頃の姉マーガレットは寄宿学校におり、長兄モンタントはパブリックスクールを退校して軍に入隊していたために幼少期を共にする機会が少なく、もっぱら両親や使用人たちと過ごした。父フレデリックはアメリカ人の事業家だったが商才に乏しく、祖父の残した遺産を投資家に預けて、自身は働かずに暮らしていた。母クララは父の従妹で、少々変わった価値観を持つ「変わり者」として知られていた。母の特異な性格はアガサや家族の運命に少なからぬ影響を与えたが、フレデリックは奔放な妻を生涯愛し続け、アガサも母を尊敬し続けた。 少女時代のアガサは兄や姉のように正規の学校で学ぶことを禁じられ、母親によって直接教育を受けた。母クララの教育に対する不思議な信念は大きな影響を幼いアガサに与えた。例えばクララは「7歳になるまでは字が書けない方が良い」となぜか信じており、アガサに字を教えなかった。それによりアガサは一般の子供より識字が遅く、父がこっそり手紙を書く手伝いをさせるまで満足に文字を書けなかった。変則的な教育は、字を覚えた後も独特の癖をアガサに残してしまい、現存している子供時代の手紙はスペルミスが非常に多い。 同年代の子供がパブリックスクールで教育を受ける間、アガサは学校に入ることを許されなかった。同年代の友人のいないアガサは使用人やメイドと遊んだり、家の庭園で空想上の友人との一人遊びをしたりして過ごし、内気な少女に育っていった。一方で、父の書斎で様々な書籍を読みふけって過ごし、様々な事象に対する幅広い知識を得て、教養深さを養うことが出来た。また、事情から一家が短期間フランスに移住した時、礼儀作法を教える私学校に入って演劇や音楽を学んだ。結局、母は最後まで正規の教育を学ぶことは許さなかったが、アガサ自身は自らが受けた教育について誇りを持っていたという。 父の破産と病死、自身の結婚と離婚など様々な出来事を乗り越えながらも、アガサは小説家として活動していった。第一次世界大戦中は薬剤師の助手として奉仕活動に従事していたが、終戦後に『スタイルズ荘の怪事件』で推理作家としてデビューした。 1909年、自身初の長編小説『砂漠の雪』を書き、作家イーデン・フィルポッツの指導を受ける。私生活では1914年にアーチボルド・クリスティ大尉と結婚し、1919年に娘ロザリンド・ヒックスを出産する。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として勤務し、そこで毒薬の知識を得る。 1920年、数々の出版社で不採用にされたのち、ようやく『スタイルズ荘の怪事件』を出版し、ミステリ作家としてデビューする。1926年に発表した『アクロイド殺し』における大胆なトリックと意外な真犯人を巡って、フェアかアンフェアかの大論争がミステリ・ファンの間で起き、一躍有名となる。また、この年には母が死去しており、アガサは謎の失踪事件を起こす。1928年にアーチボルドと離婚するが、1930年の中東旅行で出会った、14歳年下の考古学者のマックス・マローワン(1904年5月6日 - 1978年8月19日)とその年の9月11日に再婚する。 この結婚について「クリスティはなぜ彼と結婚したかと問われて『だって考古学者なら、古いものほど価値を見出してくれるから』と答えた」という逸話がある。一説によると誰かが流した心ないジョークで、クリスティは作者を殺してやるといきまいていたとも言われるが(ハヤカワ・ミステリの解説より)、孫のマシュー・プリチャードはクリスティ自身が冗談めかしてこのように語ったとしている(『オリエント急行殺人事件』DVD特典インタビューより)。 1943年に『カーテン』および『スリーピング・マーダー』を執筆。死後出版の契約を結ぶ。私生活では孫マシュー・プリチャードが誕生している。 1973年に『運命の裏木戸(英語版)』を発表。これが最後に執筆されたミステリ作品となった。 1976年1月12日 高齢のため風邪をこじらせ静養先のイギリス、ウォリングフォードの自宅で死去。死後『スリーピングマーダー』が発表される。遺骸は、イギリスのチョルシーにあるセント・メアリ教会の墓地に埋葬された。 1890年9月15日 イギリスの保養地デヴォンシャーのトーキーにて、フレデリック・アルヴァ・ミラーと妻クララの次女、アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラーとして生まれる。正規の学校教育は受けず母親から教育を受ける。 1901年 父が死去。この頃から詩や短編小説を投稿し始める。ちなみに、詩や小説を書くことになった理由は、インフルエンザにかかり、読む本がなかったからだという。 1909年 自身初の長編小説『砂漠の雪』を書き、作家イーデン・フィルポッツの指導を受ける。 1914年 アーチボルド・クリスティ大尉と結婚。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として勤務し、そこで毒薬の知識を得る。 1919年 娘ロザリンド・ヒックスが誕生。 1920年 数々の出版社で不採用にされたのち、ようやく『スタイルズ荘の怪事件』を出版、ミステリ作家としてデビューする。 1926年 『アクロイド殺し』を発表。大胆なトリックと意外な真犯人をめぐって、フェアかアンフェアかの大論争がミステリ・ファンの間で起き、一躍有名に。また、母が死去する。この年アガサは謎の失踪事件を起こす。 1928年 アーチボルドと離婚。アーチボルドは愛人と再婚。 1930年 中東に旅行した折に、14歳年下の考古学者のマックス・マローワン(1904年5月6日 - 1978年8月19日)と出会い、9月11日再婚する。 1938年 グリーンウェイの別荘を購入。以後、毎年夏の休暇をここで過ごす。 1943年 『カーテン』および『スリーピング・マーダー』を執筆。死後出版の契約を結ぶ。 同年 孫マシュー・プリチャードが誕生。 1952年 書き下ろしの戯曲『ねずみとり』の世界最長ロングラン公演(1952年11月25日 - )始まる。 1955年 MWA賞巨匠賞 受賞。 1956年 大英勲章第3位 (CBE) 叙勲。 1971年 大英勲章第2位 (DBE) 叙勲。 1973年 『運命の裏木戸(英語版)』を発表。最後に執筆されたミステリ作品となる。 1975年 『カーテン』の発表を許可する。 1976年1月12日 高齢のため風邪をこじらせ静養先のイギリス、ウォリングフォードの自宅で死去。死後『スリーピングマーダー』が発表される。遺骸は、イギリスのチョルシーにあるセント・メアリ教会の墓地に埋葬された。 2009年には『犬のボール』など未発表短編2篇が発見され、創作ノート『アガサ・クリスティの秘密ノート(上・下)』とともに公刊された。 アガサ・クリスティ失踪事件とは、ロンドン近郊の田園都市サニングデールに住んでいたアガサ・クリスティ(当時36歳)が1926年12月3日、自宅を出たまま行方不明となった事件を指す。警察は行方を探す一方、事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて捜査をした。後述するようにアガサと夫のアーチーは問題を抱えていたことからアーチーの犯行という推論も出た。 有名人の失踪、複雑な背景は結果として新聞の興味を掻き立て、報道により事件を知った大衆から多数の目撃情報が寄せられた。その検証のために大勢の人間が動いた。捜査機関を含む関係筋から動員されたのは、延べ人数で数千人に及んだとされる。マスコミの盛り上がりによりドロシー・L・セイヤーズやアーサー・コナン・ドイルもコメントを出した。 11日後、保養地のホテルに別人名義(夫の愛人のテレサ・ニール)で宿泊していた彼女が家族の確認の上で保護されることで決着した。そのため、Agatha Eleven Missing と呼ばれる。 当時のクリスティは、ロンドンの金融街で働いていた夫のアーチー、一人娘のロザリンド(当時7歳)と田舎の大邸宅で暮らしていた。アーチーは休日はゴルフに熱中していたが、妻はゴルフはせず家事はメイドを雇い、仕事に関しては秘書のシャーロットを住まわせていた(シャーロットはクリスティの信頼を得て、長く彼女の側で勤めることになる)。 キャリアにおいては、『アクロイド殺し』(1926年)によりベストセラー作家の仲間入りを果たす一方で、事件の前には最愛の母親を亡くし、また夫には別に恋人がいた事実に傷つけられていた。事件の起きた日、クリスティは住み込みのメイドに行き先は告げずに外出すると伝え、当時は珍しかった自動車を自ら運転して一人で出かけている。その際に彼女は秘書のシャーロットと夫に手紙を残している。 なぜ失踪したのかについては諸説あり、伝記作家の間でもこの件については、心身が耗弱していた、意図的な行動であった等、意見が分かれているが、自伝では事件について触れていない。しかし、事件の結果としてマスコミや世間の好奇の対象とされたクリスティが心に傷を負った点、そしてこれ以降の彼女の内面世界が徐々に変化を見せた点に関しては諸説一致している。 この失踪事件を題材に、独自の解釈でアガサ・クリスティをめぐる人間模様を描いた映画『アガサ 愛の失踪事件』が1979年に公開された。 1920年のデビューから85歳で亡くなるまで長編小説66作、中短編を156作、戯曲15作、メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名義の小説6作、アガサ・クリスティ・マローワン名義の作品2作、その他3作を執筆。ほとんどが生前に発表されている。中でも『アクロイド殺し』(1926年)・『オリエント急行の殺人』(1934年)・『ABC殺人事件』(1936年)・『そして誰もいなくなった』(1939年)等は世紀をまたいで版を重ねており、世界的知名度も高い。 推理の謎解きをするエルキュール・ポアロ、ミス・マープル、トミーとタペンスといった名探偵の産みの親でもある。 アガサの推理小説は旅から生まれた(とりわけ離婚後のオリエント急行でのイスタンブールやバグダードへの一人旅は大きな影響を与えたといわれている)。 アガサの推理小説の魅力は、殺人のトリックの奇抜さと併せ、旅から得た様々な知識が背景描写に使われていることとされる。オリエント急行でのイスタンブール行きは、38歳の離婚後、友人の家に招待されたときに聞いた話がきっかけとなった。1928年10月のことである。 初期の作品は、『ビッグ4』や『秘密機関』など国際情勢をテーマにした作品があったり、ドイツや日本が関係する作品があったりするなど国際情勢に関する話が多い。冷戦時代はソ連のスパイも話題に上っている。 知日家という話はないが、多くの長編小説でわずかに日本について触れられており、ストーリーにはほとんど関係のない物ばかりだが「着物」(『オリエント急行の殺人』)や「力士」(『ゴルフ場殺人事件』)などの単語や、第二次世界大戦前の緊張気味の日本の様子などがたびたび登場する。 そのファンからなるアガサ・クリスティ協会によると、彼女の作品は英語圏を越えて、全世界で10億部以上出版されている。聖書とシェイクスピアの次によく読まれているという説もあり、ユネスコの文化統計年鑑(1993年)では「最高頻度で翻訳された著者」のトップに位置している。ギネスブックは「史上最高のベストセラー作家」に認定している。日本でも早くから紹介され、早川書房はクリスティー文庫としてほぼ全ての作品を翻訳している。 クリスティが作品を発表した20世紀初めのイギリスは、保守的な風潮が世間に残っており、トリックに対するフェア・アンフェア論争が起こったり、犯人の正体がモラルの面から批判の的になったりするなど是非が論じられていた。同時にラジオや映画といったメディアが発達していたことで、作品が広く知られることにもつながった。クリスティは人見知りの傾向を持ち、失踪事件(1926年)でマスコミの餌食とされたこともあり、意識的に表舞台から離れるようになったが、これが神秘的なミステリの女王伝説につながっていった面がある。 エルキュール・ポアロ(相棒としてアーサー・ヘイスティングズ) ミス・ジェーン・マープル パーカー・パイン ハーリ・クィン(レギュラーとしてサタースウェイト) バトル警視 トミーとタペンス 長編小説66作、中短編小説156作、戯曲15作の他、メアリ・ウェストマコット名義のロマンス小説や、自伝など数作ある。また生前中に刊行されなかった作品や死後に見つかった未発表作、小説作品の戯曲化、あるいはその逆など細かい物を含めればまだ数点増える。 アガサ・クリスティー賞 - アガサ・クリスティの生誕120周年を記念して創設された新人賞。株式会社早川書房ほか主宰。 アガサ賞 - アガサ・クリスティに敬意を表して創設された文学賞。アメリカ合衆国の推理小説ファン団体マリス・ドメスティック主宰。 延原謙 - クリスティ作品の最初期の日本語翻訳者(1925年) 久里子亭 - 市川崑と和田夏十、または市川と日高真也との脚本執筆の際に使用されたペンネーム。市川が敬愛するクリスティの名前に由来する。 山村美紗 - 日本のアガサ・クリスティと称えられている。 阿笠博士 - 『名探偵コナン』の登場人物。クリスティの名前に由来する。 ^ 早川書房においてはクリスティー表記で統一しているため、アガサ・クリスティー賞、クリスティー文庫という表記になっている。かつては「クリスティ」「クリスティー」以外に「クリスチィ」「クリスチイ」「クリスチー」と表記されていたことがある。創元推理文庫の旧版では「クリスチィ」、平凡社の『世界探偵小説全集』では「クリスチイ」と表記されており、東都書房からは『世界推理小説大系 13 クリスチー』(1962年)が出版されていた。江戸川乱歩の「クリスチー略伝」や横溝正史の「クリスチー礼賛」というエッセイもある。 ^ ほかに、クリスティ著ではないが、クリスティ財団が公認したポアロもの長編『モノグラム殺人事件』 -The Monogram Murder(ソフィー・ハナ作)が、早川書房(クリスティー文庫)から刊行されている。 ^ CiNii 図書 - アクロイド殺し ^ 『別冊宝石55号』「世界探偵小説全集第18巻 アガサ・クリスティ篇(第二集)」(1956年)に所収。 ^ 角川文庫『横溝正史読本』に所収。 All About Agatha Christie アガサクリスティ日本オフィシャルサイト (リンク切れ) Agatha Christie: The Official Online Home Delicious Death", "エドワード・デンティンジャー・ホック(Edward Dentinger Hoch、1930年2月22日 - 2008年1月17日)はアメリカのミステリー作家。多作家で、数多くの短編推理小説を書いたことで知られる。長編は数冊のみ。ニューヨーク州ロチェスターの生まれ。 ホックは古典的推理小説の名人で、サスペンスやアクションより謎と推理を重視する。『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン(以下:EQMM )』は、そのような彼のことを「古典的犯人当てミステリーの王様」 (The King of the Classical Whodunit) と呼ぶ。ホックの書く話は緻密に構築されたパズルのようで、物理的・心理的な手掛かりを注意深く公平に提示してみせる。特に“不可能犯罪もの”が好きで、ジョン・ディクスン・カー等によって広められた“密室もの”については、いくつものバリエーションを発明した(不可能犯罪ものとは、“どう見ても犯罪を成し遂げることが不可能に見える”という状況を扱う推理小説のこと。殺人事件が多い)。例えば、『有蓋橋の謎』では、一人きりで有蓋橋に入っていった男が消え失せ、死体となって別の場所で発見される。 ホックの執筆活動は1950年代に始まった。1955年に最初の作品を『フェイマス・ディテクティヴ・ストーリーズ』に発表し、続けて『セイント・ミステリ・マガジン(英語版)』に作品を発表し始めた。1962年1月には『アルフレッド・ヒッチコック・ミステリ・マガジン(英語版)』にも発表するようになった。1962年12月には『EQMM』に初めて作品を発表した。その年以降、全作品数の約半数にあたる450編以上を『EQMM』に発表することになる。1973年5月からは『EQMM』に毎月ホックの作品が掲載されるようになった。2004年5月で31年を迎えたが、一回も欠けることなく掲載され続けていた。 ホックは、スティーヴン・デンティンジャー、R・L・スティーヴンズ、パット・マクマーン、アンソニー・サーカス、ミスターXといった別名を使って、雑誌に作品を発表することがある。そういうときには、同時に同じ雑誌にホック名義でも作品を発表していることが多い。 2001年にアメリカ探偵作家クラブ 巨匠賞を受賞した。短編主体の作家が受賞したのは初めてである。 日本では、1960年代にミステリー雑誌に登場し始める。1976年に日本での初めての単行本が出版され、1983年までに10冊ほどの単行本が出版された。それから10年以上にわたってホック単独の単行本は出版されなかったが、1999年から再び短編集が出版されるようになった。ホックの作品は、早川書房の『ミステリ・マガジン』や、光文社の『EQ』(1999年に休刊)および『ジャーロ』などの雑誌に頻繁に掲載される。海外ミステリーのアンソロジーにもよく収録される。 日本を舞台にした作品をいくつか書いており、2003年に出版された阪神タイガースをテーマにしたミステリー・アンソロジー『新本格猛虎会の冒険』 (ISBN 4488023762) に唯一の外国人として作品を寄稿した。 ホックの名前は“ホック”と表記されることがほとんどだが、稀に“ホウク”と表記される。Wikipedia 英語版では、発音はhokeだと説明されている。 ホックの作品には非常にたくさんのシリーズ・キャラクターが登場する。シリーズは全部で20以上、『EQMM』だけをとってみても1ダース以上のシリーズを発表している。レオポルド警部シリーズは100話を越える。 ニック・ヴェルヴェット (Nick Velvet) はプロの雇われ泥棒である。一定の料金さえ支払われれば、あまり価値のなさそうな、他のプロが手を出さないような物に限り何でも盗む。初登場は1966年の『EQMM』。盗んだものを挙げると、古いクモの巣や、古い新聞、使用済みのティーバッグなどがある。料金は始めは2万ドルだったが、長年一緒にいる恋人グロリアに言われて1980年に2万5千ドルに上げた(この2人は、1965年にニックがグロリアの住むニューヨークのアパートに盗みに入ったときに出会った)。21世紀になって料金は3万ドルに上がった。多くの架空の泥棒と違い、ニックは一人で仕事をすることが多い。実際、1979年までは、グロリアはニックが泥棒だと気付かず、アメリカ政府のために働いているのだと思っていた。後にライバルの女怪盗サンドラ・パリスが登場する。 ニック・シリーズのストーリーは、どのように盗むのか、そして、依頼人はなぜ価値のなさそうなものに2万ドルも払うのか、という2つの部分が合わさっている。ニックは盗む物の価値に興味がなさそうに見えるが、たいていは状況が変わって依頼人の真の動機を探ることになり、探偵のような活動もする。ニック・シリーズはユーモアのある軽快なトーンのものが多く、レスリー・チャータリスの「サイモン・テンプラー」シリーズの初期を思わせる。ニックの仕事には不法行為が付き物だが、探偵活動の成果を刑事に提供するのと引き換えに、何度も見逃してもらっている。 1973年5月から『EQMM』に毎月作品を掲載するようになったが、その第1回はニック・シリーズの『ポスターを盗め』であった。1998年1月の『12月のブックショップ』では、ニューヨーク市に実在するミステリー専門書店と、その店のオーナーであるオットー・ペンズラー(英語版)(エドガー賞の受賞経験がある出版者・編集者)を登場させた。1998年5月の『グロリアの赤いコート』ではニックとグロリアの出会いをグロリアの一人称で描いた(他のすべてのニック・シリーズ及び多くのホック作品は三人称で語られる)。 レオポルド警部 (Captain Leopold) は刑事で、コネチカット州の名もない街の警察の凶悪犯罪班のリーダー。レオポルト警部はホックが最もよく使うキャラクターである。同僚にフレッチャー警部補とコニー・トレント巡査部長がいる。レオポルド・シリーズは表面的には警察もので、犯罪を調査する警官たちのやり取りが描かれるが、犯罪そのものが一風変わっていて、プロットと手掛かりの与え方にホックの手腕が発揮されている。警察の活動よりも、レオポルドと仲間の推理力によって結末を迎えることが多い。時々、不可能犯罪や密室が扱われる。 レオポルド・シリーズを見れば、ホックのシリーズ物の魅力のひとつがよく分かる。キャラクターが現実の時の進みに合わせて年をとり、変化していくのである。シリーズが進むなかで、レオポルドは離婚し、再婚し、引退し、仕事に復帰し、再び引退する。フレッチャー警部補はレオポルドに代わって警部に昇進し、コニー・トレントは警部補に昇進する。フレッチャーとトレントに焦点を合わせ、レオポルドは人望厚い相談役としてのみ登場する話も書かれるようになった。 レオポルドは補助的なキャラクターとして1957年に初登場した。1991年3月の『レオポルド警部のバッジを盗め』ではニック・ヴェルヴェットと共演した。ほとんどのレオポルド・シリーズは『EQMM』で発表されたが、『アルフレッド・ヒッチコック・ミステリ・マガジン』でもたくさん発表されている。 サム・ホーソーン医師 (Dr. Sam Hawthorne) は引退した一般開業医で、不可能犯罪のスペシャリストである。このシリーズは、若き日のサムが小さな町で開業医をしていた1920年代から1940年代の頃の回想として語られる。医学校を出たばかりのサム・ホーソーンはニューイングランドの架空の田舎町ノースモントに、静かに暮らそうと思って引っ越してきたが、彼の行くところ必ず誰かが不可解な死に方をする。 初登場したのは1974年。このシリーズは歴史的な事柄を丁寧に調査して書かれており、サムの自動車や、当時の医療、政治、服装などに活かされている。サムは陽気な人間で、ユーモアを交えて話をする。しかし、彼の一人称で語られることで、調査中の殺人事件へのサムの悲嘆と遺族への同情を、読者は間近で見ることになる。ほとんどの話が一つの田舎町を舞台にしているので、端役の人物が再登場することが普通よりも多い。 シリーズ初期には、変わった趣向があった。各話の終わりに次の話の中心となるパズルのヒントが語られ、そして、次の話は前回のヒントを受けて始められるのだ。このような趣向は、アンソロジーなら各話のつながりを良くするために使われることがあるが、一話完結のシリーズ物で雑誌掲載時に初めからこのような趣向がこらされるのは珍しい。シリーズが中盤を経ると作者の執筆ペースが年3作から2作になり、半年毎に書く事件のトリックをその前作の執筆中から考えておかなければならなくなるため、この趣向は消えている。 サイモン・アーク (Simon Ark) はホックのデビュー作の主人公である。2000歳に近いコプト教徒で、悪(はっきり言うとサタン)を探して世界中を旅している、と自称している。超常現象によって引き起こされたような事件が発生するが、最後には必ず、超常現象ではなかったことが判明する。 ベン・スノウ ベン・スノウ (Ben Snow) は早撃ちのガンマンである。このシリーズは20世紀の変わり目のアメリカ旧西部を舞台にしている。サム・ホーソーン医師シリーズのように、歴史的な事柄を丁寧に調査して書かれており、ブッチ・キャッシディのような実在の歴史的人物が時々登場する。このシリーズは1961年に『セイント・ミステリ・マガジン』で初登場し、『EQMM』で続いている。 ジェフリー・ランド ジェフリー・ランド (Jeffery Rand) は暗号解読の専門家で、イギリス諜報部極秘部門秘密伝達局の局長である。このシリーズは、世界中のエキゾチックな場所を舞台にして、秘密のメッセージや暗号を扱うことが多い。 コンピューター検察局 コンピューター検察局のカール・クレイダーとアール・ジャジーンが活躍する。21世紀のコンピューター社会を舞台にしたSFミステリー。このシリーズのうち3編は長編として発表された。 バーニイ・ハメット バーニイ・ハメット (Barney Hamet) はミステリー作家で、彼がミステリー小説の集会に参加すると、実際にミステリーに遭遇してしまう。ハメットはホックが1969年に発表した処女長編『大鴉殺人事件』で初登場する。 インターポール インターポール(国際刑事警察機構)の2人の捜査官セバスチャン・ブルーとローラ・シャルムがヨーロッパの国際犯罪を捜査する。このシリーズは1970年代と1980年代に書かれたが、それ以降は書かれていない。 サー・ギデオン・パロ サー・ギデオン・パロ (Sir Gideon Parrot) は、アガサ・クリスティのエルキュール・ポアロやジョン・ディクスン・カーのギデオン・フェルといったミステリー黄金期の有名探偵への、ユーモアの込められた賛辞である。ストーリーは、使われ過ぎて陳腐になってしまった古典的手法の、上品なパロディになっている。 スーザン・ホルト スーザン・ホルト (Susan Holt) はデパート・チェーンのプロモーション担当で、出張先の各地で事件に遭遇する。 ミハイ・ブラド ミハイ・ブラド (Michael Vlado) はルーマニアに定住しているロマの部族(ジプシー)のリーダーである。首長からすべての権限を譲渡されたので、村の争いを裁く役目と、抑圧的な共産体制下でしかも反ロマ感情が強い外部社会との折衝役としての役割がある。 アレグザンダー・スウィフト アレグザンダー・スウィフト (Alexander Swift) は、アメリカ独立戦争時のジョージ・ワシントン将軍直属のスパイである。ストーリーはシリーズ物というより、続き物に近い構成である。ベネディクト・アーノルド将軍が指揮するウェストポイント(陸軍士官学校)の砦には裏切り者がいてイギリス軍に内通している、という噂を調査していたスウィフトはどんどん深みに入っていく。 1992年 The Night, My Friend 『夜はわが友』 2001年、東京創元社 ISBN 978-4-488-20103-6 (さまざまな短編を収録) 2001年 The Night People 『夜の冒険』 2010年、早川書房 ISBN 978-4-15-178258-9(ノンシリーズ短編20編を収録) 2008年 The Sherlock Holmes Stories of Edward D. Hoch 『エドワード・D・ホックのシャーロック・ホームズ・ストーリーズ』 2012年、原書房 ISBN 978-4-562-04846-5 (ゲアリ・ラヴィシ編によるホックのホームズ・パロディ及びパスティーシュ作品集) 2016年 The Future is Ours, The Science Fiction Stories of Edward D. Hoch(Steven Steinbock編によるホックのSF作品集) 下記の他、さまざまなアンソロジーにホックの作品が収録されている。 怪盗ニック登場 1976年 ISBN 978-4-15-001256-4 (2003年に文庫化 ISBN 978-4-15-073503-6) 怪盗ニックを盗め 1979年 ISBN 978-4-15-001342-4 (2003年に文庫化 ISBN 978-4-15-073504-3) 怪盗ニックの事件簿 1983年 ISBN 978-4-15-001411-7 (2003年に文庫化 ISBN 978-4-15-073505-0) 怪盗ニック対女盗賊サンドラ 2004年 ISBN 978-4-15-073506-7 怪盗ニック全仕事〈1〉 2014年 ISBN 978-4-488-20114-2 (全短編を発表順に収録した文庫版全集) 怪盗ニック全仕事〈2〉 2015年 ISBN 978-4-488-20115-9 怪盗ニック全仕事〈3〉 2016年 ISBN 978-4-488-20116-6 怪盗ニック全仕事〈4〉 2017年 ISBN 978-4-488-20117-3 怪盗ニック全仕事〈5〉 2018年 ISBN 978-4-488-20118-0 サム・ホーソーンの事件簿 I 2000年 ISBN 978-4-488-20102-9 サム・ホーソーンの事件簿 II 2002年 ISBN 978-4-488-20104-3 サム・ホーソーンの事件簿 III 2004年 ISBN 978-4-488-20105-0 サム・ホーソーンの事件簿 IV 2006年 ISBN 978-4-488-20106-7 サム・ホーソーンの事件簿 V 2007年 ISBN 978-4-488-20107-4 サム・ホーソーンの事件簿 VI 2009年 ISBN 978-4-488-20109-8 サイモン・アークの事件簿 I 2008年 ISBN 978-4-488-20108-1 サイモン・アークの事件簿 II 2010年 ISBN 978-4-488-20110-4 サイモン・アークの事件簿 III 2011年 ISBN 978-4-488-20111-1 サイモン・アークの事件簿 IV 2012年 ISBN 978-4-488-20112-8 サイモン・アークの事件簿 V 2014年 ISBN 978-4-488-20113-5 こちら殺人課! 1981年 ISBN 978-4-06-137257-3 (レオポルド・シリーズの短編集) ホックと13人の仲間たち 1978年 ISBN 978-4-15-001298-4 (13個のシリーズから1話ずつ収録) 密室への招待 1981年 ISBN 978-4-15-001378-3 (ホックの作品から密室ものだけを選んで収録) 革服の男 1999年 ISBN 978-4-334-76112-7 (さまざまな短編を収録) 年刊ミステリ傑作選は、一年間に発表された短編推理小説から優れたものを選んで収録したアンソロジーである。アメリカ探偵作家クラブが創設された1945年の翌年、1946年から毎年出版されている。ホックは1976年から1995年まで編纂者を務めた。日本では1976年版から1978年版までが出版された。 風味豊かな犯罪―年刊ミステリ傑作選'76 1980年 ISBN 978-4-488-20001-5 今月のペテン師―年刊ミステリ傑作選'77 1980年 ISBN 978-4-488-20002-2 最後のチャンス―年刊ミステリ傑作選'78 1982年 ISBN 978-4-488-20003-9 1968年 エドガー賞 短編部門:「長方形の部屋」(『セイント・ミステリ・マガジン』1967年7月) 1998年 アンソニー賞:「マダガスカルの殺意」(『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』1997年11月 2001年 アンソニー賞:「消えた南京錠の鍵」(『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』2000年7月) 2000年 アメリカ私立探偵作家クラブ 功労賞 2001年 アメリカ探偵作家クラブ 巨匠賞 2001年 バウチャーコン 功労賞 作品リスト Edward D. Hoch bibliography index(英語) 翻訳作品集成 - エドワード・D・ホック(日本語)", "アーサー・ジョージ・モリスン(Arthur George Morrison, 1863年11月1日 - 1945年12月4日)は、イギリスのジャーナリスト・作家・推理作家・東洋美術蒐集家。 1863年ロンドンのイースト・エンドで生まれる。少年時代や教育については詳しいことは分かっていない。1886年から1890年まで事務員として働いた後、新聞界に身を転じ、『ナショナル・オブザーヴァー』に籍を置いた。彼はここで様々な寄稿をするとともにロンドンのスラム街を描いた作品を発表、本として出版して評判を得た。以後スラムの生活を描いた小説などを多く発表し作家として名声を得た。東洋美術の第一人者としても著名で、蒐集した美術品は現在大英博物館に収蔵されている。 1894年にシャーロック・ホームズが『最後の事件』によって連載終了になると、その穴を埋めるべく『ストランド・マガジン』はモリスンに新しい推理小説の連載を依頼した。こうして1894年から1903年まで、探偵マーチン・ヒューイットの登場する推理小説が連載されることになる。マーチン・ヒューイットは決して超人的ではない平凡な探偵だが、ロンドンの風俗描写やシドニー・パジェットの挿絵などでなかなかの人気を博した。後年ヴァン・ダインやその他の評論家からも高く評価されている。 1894年 Tales of Mean Streets 1894年 Martin Hewitt, Investigator* 1895年 The Chronicles of Martin Hewitt* 1896年 The Adventures of Martin Hewitt* 1896年 A Child of the Jago 1897年 The Dorrington Deed Box 1899年 To London Town 1900年 Cunning Murrell 1902年 The Hole in the Wall 1903年 The Red Triangle* 1904年 『緑のダイヤ』(The Green Eye of Goona) * はヒューイットの登場する短編集 イギリス文学", "サミュエル・ダシール・ハメット(Samuel Dashiell Hammett、1894年5月27日 - 1961年1月10日) は、アメリカのミステリ作家。推理小説の世界にいわゆるハードボイルドスタイルを確立した代表的な人物である。代表作は『血の収穫』『マルタの鷹』。サム・スペードやコンチネンタル・オプなどの探偵を創造した。 ハメットは最高の推理作家の1人とされており、『ニューヨーク・タイムズ』の死亡記事では「ハードボイルド派探偵小説界の長老」と評され、『タイム』誌では1923年から2005年までの英語の小説ベスト100に『血の収穫』を選んでいる。 国際推理作家協会はハメットの業績を称え、ダシール・ハメット国際推理小説賞を制定し、スペイン語で書かれた最も優れた推理小説の表彰を行っている。また、同協会の北米支部は独自に「ハメット賞(The Hammett Prize)」を制定し、1992年より毎年、アメリカもしくはカナダ人作家を対象としてノミネートされた作品から最優秀1作を選定している。ほかに、北欧支部のスカンジナヴィア推理作家協会でも、ハメットの作品タイトルにちなんだガラスの鍵賞を制定し、北欧の最優秀作品を毎年選定している。 メリーランド州セントメリー郡にあった Hopewell and Aim という農場で生まれる。父はリチャード・トーマス・ハメット、母はアン・ボンド・ダシールである。母はメリーランドの旧家出身で、フランスの姓である de Chiel を英語化した姓を名乗っていた。ハメットは洗礼を受けてカトリック教徒となり、フィラデルフィアとボルチモアで育った。通称はサム (Sam) で、13歳で学校を離れていくつかの職を転々とし、アメリカ屈指の探偵会社であるピンカートン探偵社にたどり着いた。1915年から1922年2月までピンカートンで探偵として働いたが、一時期第一次世界大戦で休職している。ピンカートン探偵社はこのころ「スト破り」を請け負っており、そのことで探偵という職業に抱いていた幻想を捨てることになった。 1918年にはアメリカ陸軍に所属しており、衛生隊で働いた。しかしスペインかぜに罹り、結核を患うことになった。そのため陸軍では大部分をワシントン州タコマの病院で患者として過ごすことになった。その病院でジョセフィン・ドランという看護婦と出会い、後に結婚している。 ドランと結婚し、2人の娘メアリー・ジェーン(1921年10月15日生まれ)とジョセフィン(1926年生まれ)をもうけた。次女が生まれた直後、結核が乳幼児に感染する可能性があると指摘され、家族と同居できなくなった。そこで妻ジョセフィンがサンフランシスコに家を借りて住み、ハメットが週末に訪問するという形をとった。この結婚生活はうまくいかず、間もなく破綻することになったが、ハメットは執筆で得た収入から養育費を払い続けた。 ピンカートンでの探偵としての経験を生かした真に迫った描写で知られている。ハメットは「全ての登場人物は私が個人的に知っている人々をベースにしている」と述べている。 広告の仕事のかたわら、1922年から推理小説雑誌『ブラック・マスク』誌に短編推理小説の執筆を開始。同誌の看板作家の一人となって、専業作家となった。彼の作品の大部分は1920年代、サンフランシスコに住んでいたころに書かれており、サンフランシスコの通りや地名がよく出てくる。「報告書のように簡潔な」筆致で、登場人物の行動を描く彼のハードボイルドスタイルは、この頃に確立されている。当時の初期作品にしばしば登場したのが、小太りのコンチネンタル探偵社社員「コンチネンタル・オプ」である。 1929年には『血の収穫』、続いて『デイン家の呪い』とコンチネンタル・オプものの長編を送り出した。特に『血の収穫』は壮絶なバイオレンスドラマで、その後のアクション小説・映画に多大な影響を与えた。 1929年に『ブラック・マスク』誌に連載され、翌年単行本となった『マルタの鷹』は、ハメットのもっとも有名な作品である。サンフランシスコの私立探偵サム・スペードが真相追求のために行動する姿を完全客観のカメラアイスタイルで描き、後続のハードボイルド作家の範とされる。 また、1931年の長編『ガラスの鍵』は、賭博師ネド・ボーモントを主人公に錯綜した事件を描いた作品で、やはり厳しい客観筆致で描かれており、もっとも好きな自作であった。この2作はとりわけ後世の評価が高い。 1934年には、やや通俗的なタッチで夫婦探偵の活躍を描いた『影なき男』を書き、これは大衆からも人気を博した。 1929年から1930年にかけて、女流推理作家ネル・マーティン(英語版)と付き合っている。『ガラスの鍵』は献辞でネル・マーティンに捧げられており、ネル・マーティンの Lovers Should Marry という作品はハメットに捧げられている。 1931年、劇作家リリアン・ヘルマンと出会い、その後30年間を共に過ごすことになった。その関係は映画『ジュリア』で描かれており、ハメットはジェイソン・ロバーズ(アカデミー助演男優賞受賞)、ヘルマンはジェーン・フォンダが演じている。 その後のハメットは、自作の映画化で収入が得られるようになったこともあってか、創作意欲は衰えている(ただし、後半生を共に過ごしたリリアン・ヘルマンはこの一般的な見解に対して否定的である。彼女によると、執筆活動はずっと続けていたが、作品を完成させることができなかった。何故、完成させられなかったのかは分からないと、自らの自伝で述べている)。 1934年に最後の長編を書き、その後は左翼の積極行動主義に生涯を捧げることになった。労働者の実態をよく知るが故に、ハメットは労働運動にも強い共感を持っていた。1930年代を通して反ファシズムの立場をとり、1937年にはアメリカ共産党に参加している。アメリカ作家連盟(英語版)の一員として(1941年には会長を務めた)、独ソ不可侵条約が結ばれていた1940年1月に同連盟に設置された Keep America Out of War Committee の委員を務めた。しかし1941年夏にドイツがソ連に侵攻すると、同連盟は反戦の姿勢を改めた。 真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発後の1942年、彼は陸軍に志願した。第一次世界大戦で結核を患った犠牲者であり、共産主義者だったが、従軍が認められるよう働きかけた。戦時中のほとんどをアリューシャン列島で陸軍の新聞を作る下士官(軍曹)として過ごした。1943年、上官の命で伍長ロバート・コロドニーと共に The Battle of the Aleutians を執筆した。その後肺気腫で除隊している。 戦後は政治活動に戻ったが、かつてほど熱心ではなかった。1946年6月5日、公民権議会 (Civil Rights Congress)  (CRC) の議長に選ばれ、その後はCRCの活動に注力するようになった。1946年、CRCは政治犯被告の釈放のための保釈基金を創設。1947年4月3日、大統領ハリー・S・トルーマンの命により司法長官がCRCを共産主義団体に指定した。 1949年11月4日、CRCの保釈基金がアメリカ合衆国連邦政府の転覆を図ったとして共謀罪で捕らえられた11人の保釈に使われたことで、アメリカ中の注目を集める事態となる。1951年7月2日、弁護側の敗訴が濃厚になると、被告のうち4人が逃亡。裁判所は逃亡者への召喚状をCRCの評議員に送った。1951年7月9日、ハメットは裁判所に出廷して証言した。ハメットに質問したのはタイム誌が「共産主義者を狩りたてるアメリカ一の法律家」と評した検事 Irving Saypol だった。このとき政府側は保釈基金に寄付した人々が逃亡者をかくまっている可能性があるとして、そのリストを提出することを要求したが、ハメットはそれを拒み続けた。ハメットはアメリカ合衆国憲法修正第5条を盾に質問に答えることを拒否し、CRCの文書にある彼の署名やイニシャルを識別することさえ断わった。その結果、法廷侮辱罪で訴えられ、有罪の判決が下された。ハメットはウェストバージニア連邦刑務所で服役し、リリアン・ヘルマンによればトイレ掃除をさせられたという。 1950年代には、上院議員ジョセフ・マッカーシーによる共産主義のアメリカ社会と政治への影響を調査する試みの一環として、議会に調査された。1953年3月26日、上院の委員会で証言させられたが、委員会への協力を拒んだためブラックリストに載せられることになった。 第一次世界大戦で感染した結核は、その後の飲酒と喫煙で悪化していった。ヘルマンによれば、服役でさらにやせ細って病気が悪化したという。Tulip と題した長編にとりかかったものの、病状が悪化していったため完成させることはできなかった。 ヘルマンによれば、1950年代には「隠者」のような生活を送っていた。最終的には1人で生活することが困難になり、最晩年の4年間はヘルマンが同居して世話をした。1961年1月10日、ニューヨークの病院で肺癌のため亡くなった。癌と判明してからわずか2カ月後のことだった。2つの世界大戦で従軍した退役軍人として、アーリントン国立墓地に埋葬された。 『影なき男』以外の長編は、雑誌に3回から5回に分けて連載されたものである。 血の収穫(赤い収穫、Red Harvest, 1929年) デイン家の呪い(デイン家の呪、The Dain Curse, 1929年) マルタの鷹(The Maltese Falcon, 1930年) ガラスの鍵(The Glass Key, 1931年) 闇の中から来た女(Woman in the Dark, 1933年) 影なき男(The Thin Man, 1934年) 70以上の短編があり、多くの短編集が刊行されている。 探偵コンティネンタル・オプ(1957年) - 日本独自編集 悪夢の街(Nightmare Town, 1948年) - 日本語版は1961年 ハメット傑作集1 -フェアウェルの殺人 - 日本独自編集(1972年) ハメット傑作集2 -スペイドという男 - 日本独自編集(1976年) コンチネンタル・オプ(The Continental Op, 1974年) - 日本語版は1978年 ハメット 死刑は一回でたくさん - 日本独自編集(1979年) ブラッド・マネー - 日本独自編集(1988年) コンチネンタル・オプの事件簿 - 日本独自編集(1994年) コンチネンタル・オプ - 日本独自編集(1997年) 血の収穫 - 日本独自編集(2005年) チューリップ - 草思社(2015年) Creeps by Night; Chills and Thrills (編纂した怪奇小説のアンソロジー、1931年) Secret Agent X-9 (原作を書いた新聞連載漫画の単行本化、1934年) ハメットの長編小説は、1930年代から1940年代にかけて映画化されている。 マルタの鷹 ワーナー・ブラザースが映画化権を取り、1931年と1936年の2度にわたって映画化したがヒットしなかった。 ワーナー社は1941年に3度目の映画化を行った。ジョン・ヒューストンの初監督作品で、公式には、ハンフリー・ボガートの初主演作である。ボガート扮するスペードの厳しい演技、ヒューストンの原作に忠実な脚本と切れ味の鋭い演出、そして多彩な脇役陣とが相まって、歴史に残る名作となった。 このヒューストン版があまりに傑出していたため、以後『マルタの鷹』は映画化されていない。 ガラスの鍵 1942年のリメイク版が有名。スチュアート・ヘイスラーが監督、脚本は『ブラック・マスク』出身の推理作家でハメットとも親交のあったジョナサン・ラティマー。主演アラン・ラッド、共演ヴェロニカ・レイク。 影なき男 1934年にW・S・ヴァン・ダイクJr監督で映画化。ウィリアム・パウエルとマーナ・ロイがおしどり探偵役で主演し、続編が作られるほどのヒット作となった。 黒澤明の映画『用心棒』(1962年)は、モチーフを『血の収穫』から得ている。 1983年の映画『ハメット』は、ヴィム・ヴェンダースの監督作品で、原作はハメットファンの作家ジョー・ゴアズ。ダシール・ハメットその人を探偵役に異様な物語が展開される。ハメット役のフレデリック・フォレストは、ハメットそっくりに扮して出演。 ^ Layman 1981, p. 239 ^ Layman, Richard & Bruccoli, Matthew J. (2002). Hardboiled Mystery Writers: A Literary Reference. Carroll & Graf. p. 225. ISBN 0-7867-1029-2.  ^ Lev Grossman; Richard Lacayo (2005年10月31日). “TIME's Critics pick the 100 Best Novels 1923 to the Present”. Time. http://www.time.com/time/2005/100books/ 2008年10月19日閲覧。  ^ Shoemaker, Sandy. Tobacco to Tomcats: St. Mary's County since the Revolution. StreamLine Enterprises, Leonardtown, Maryland. pp. 160. http://maryland.lib.overdrive.com/E217782A-A9BE-4151-992F-E7FBF6903D39/10/50/en/ContentDetails.htm?id=54E71221-9997-4245-9112-BABCC4FCFFAB 2008年1月1日閲覧。.  ^ Gores 2005, p. 197 ^ Heise, Thomas, \"'Going blood-simple like the natives': Contagious Urban Spaces and Modern Power in Dashiell Hammett's Red Harvest\" (paid access only), Modern Fiction Studies 51, no. 3 (Fall 2005) 506. なおリンク先には無料の抄録があるが、抄録には出典となるような記述はない。 ^ Layman, Richard with Rivett, Julie M. (2001). \"Review\" of Selected Letters of Dashiell Hammett 1921-1960, Retrieved on 2009-06-02 ^ Gores 2005, pp. 240, 336 ^ Gores 2005, pp. 18-24 ^ Chandler, Nightmare Town], p. iii, ISBN 0-375-70102-8, ISBN 978-0-375-70102-3 ^ “FAQ at the CPUSA site”. Cpusa.org. 2009年6月18日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年7月19日閲覧。 ^ Franklin Folsom, Days of Anger, Days of Hope, University Press of Colorado, 1994, ISBN 0-87081-332-3 ^ a b Layman 1981, p. 206 ^ a b c d e f Layman 1981, pp. 219-223 ^ Enid Nemy (2000年2月7日). “Frederick Vanderbilt Field, Wealthy Leftist, Dies at 94”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C04E0D9163EF934A35751C0A9669C8B63&n=Top/Reference/Times%20Topics/People/N/Nemy,%20Enid 2007年11月27日閲覧。  ^ Metress 1994 ^ Johnson 1983 ^ Petri Liukkonen. “Dashiell Hammett”. Books and Writers. 2006年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年11月27日閲覧。 ^ Hellman 1962, pp. vii-viii ^ Hellman 1962, pp. xi-xii ^ Hellman 1962, pp. xi-xii ^ Hellman 1962, p. viii ^ Hellman 1962, p. xx ^ Hellman 1962, p. xxvi ^ Checklist of Dashiell Hammett Fiction Checklist of Dashiell Hammett Fiction Mundell, E.H. A List of the Original Appearances of Dashiell Hammett's Magazine Work, 1968, The Kent State University, Ohio. Layman, Richard. Dashiell Hammett: A Descriptive Bibliography, 1979, Pittsburgh Series in Bibliography, University of Pittsburgh Press. Lovisi, Gary. Dashiell Hammett and Raymond Chandler: A Checklist and Bibliography of Their Paperback Appearances, 1994, Gryphon Books. Nolan, William F. Dashiell Hammett: A Casebook, 1969, McNally & Lofin, Santa Barbara. Fechheimer, David, editor. City of San Francisco: Dashiell Hammett Issue, 4 November 1975, City Publishing, San Francisco. Braun, Martin. 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Dashiell Hammett: Parcours d'une oeuvre, 1997, Encrage Edition, Amiens. Gale, Robert L. A Dashiell Hammett Companion, 2000, Greenwood Press, Westport, Connecticut. Layman, Richard. Literary Masters, Volume 3: Dashiell Hammett, 2000, Gale Group, Detroit. Hammett, Jo. Dashiell Hammett: A Daughter Remembers, 2001, Carroll and Graf Publishers. Panek, Leroy Lad. Reading Early Hammett: A Critical Study of the Fiction Prior to The Maltese Falcon, 2004, McFarland, Jefferson, North Carolina. Lopez, Jesus Angel Gonzalez. La Narrativa Popular de Dashiell Hammett: Pulps, Cine, Y Comics, 2004, Biblioteca Javier Coy d'Estudis Nord-Americans, Universitat de Valencia. Layman, Richard, guest editor. Clues: A Journal of Detection; Theme Issue: Dashiell Hammett, Winter 2005, Heldref Publications, Washington DC. Thompson, George J. \"Rhino\". Hammett's Moral Vision, 2007, Vince Emery Productions, San Francisco. Herron, Don. The Dashiell Hammett Tour: Thirtieth Anniversary Guidebook, 2009, Vince Emery Productions, San Francisco. Lillian Hellman's three volumes of memoir, An Unfinished Woman, Pentimento, and Scoundrel Time contain much Hammett-related material. Dashiell, Hammett; Lilian, Hellman (1962), “Introduction”, The Big Knockover: Selected Stories and Short Novels, Houghton Mifflin  ハメットの死後出版された短編集で、リリアン・ヘルマンが序文を書いている。 Gores, Joe (2005), “Introduction”, in Emery, Vince, Dashiell Hammett: Lost Stories, San Francisco: Vince Emery Productions  こちらも死後編集された短編集の序文 レイモンド・チャンドラー リリアン・ヘルマン ハリウッド・ブラックリスト マッカーシズム 戯曲 - 大久保康雄訳の『ガラスの鍵』巻末の解説によると、戯曲を書く野心を持っていたという。 The Apartment of Dashiell Hammett and Sam Spade Library of Congress lecture by Hammett estate trustee and biographer Richard Layman on the 75th anniversary of The Maltese Falcon Checklist 全作品リスト The Lazy Gink's Guide to a Complete Hammett Collection PBS American Masters portrait of Hammett Dashiell Hammett Collection at the Harry Ransom Center at the University of Texas at Austin The Case of Dashiell Hammett - インターネット・ムービー・データベース(英語) (KQED-TV, San Francisco, 1982)", "ジョセフィン・テイ(Josephine Tey, 1896年7月25日 - 1952年2月13日)は、イギリスの推理作家である。スコットランド北西部インヴァネス出身。別名ゴードン・ダヴィオット(Gordon Daviot)、本名はエリザベス・マッキントッシュ(Elizabeth Mackintosh)。 芸術を志し、エディンバラの王立アカデミーに学ぶが、家庭の事情により断念する。その後バーミンガムの体育学校に学び、卒業後は体育教師となったが、父親の看病をするため3年で辞職する。その後、詩・小説を書き始め、1929年にゴードン・ダヴィオット名義でロンドン警視庁の警部アラン・グラントを主人公とした長編『列のなかの男』を発表した。以後、同警部を主人公にした6作の長編シリーズを発表している。中でも第5作『時の娘』は歴史ミステリ、ベッド・ディティクティヴの分野における嚆矢的存在として著者の代表作となっており、英米だけでなく、日本のミステリー作家にも影響を与えている。また、グラント物の第3作『フランチャイズ事件』をレイモンド・チャンドラーは気に入っているという。 また、1933年には史劇『ボルドーのリチャード』を書いて名を知られ、多くの戯曲・ラジオドラマも執筆している。 The Man in the Queue (or Killer in the Crowd) (1929) [as Gordon Daviot] 列のなかの男 A Shilling for Candles (1936) ロウソクのために一シリングを The Franchise Affair (1948) フランチャイズ事件 To Love and Be Wise (1950) 美の秘密 The Daughter of Time (1951) 時の娘 The Singing Sands (1952) 歌う砂―グラント警部最後の事件 Miss Pym Disposes (1946) [as Josephine Tey] 裁かれる花園 Brat Farrar (or Come and Kill Me) (1949) 魔性の馬 Kif: An Unvarnished History (1929) [as Gordon Daviot] The Expensive Halo: A Fable without Moral (1931) [as Gordon Daviot] The Privateer (1952) Claverhouse (1937) [as Gordon Daviot] (a life of the 17th-century cavalry leader John Graham of Claverhouse, 1st Viscount Dundee) Richard of Bordeaux (1932) The Laughing Woman (1934) Queen of Scots (1934) The Stars Bow Down (1939) Cornelia (1946) [as F. Craigie Howe] The Little Dry Thorn (1946) Rahab (1947) Leith Sands (1947) Valerius (1948) The Balwhinnie Bomb (1949) Sara (1951) Dickon (1955) ^ \"About the Author\" in Tey, Josephine, The Man in the Queue. Scribner Paperback Fiction, 1995, p. 255. ^ a b c \"About the Author\" in Tey, Josephine, The Daughter of Time. Touchstone, 1995, pp. 207. ^ Henderson, Jennifer Morag (2015). A Life: Josephine Tey. Dingwall: Sandstone. pp. 240-46. ISBN 978-1-910985-37-3." ]
ABC01-02-0063
郵便物を送るとき、宛名に書かれた本人に開けてもらいたいときに使う言葉を何というでしょう?
親展
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[ "親展", "打ち消し線", "郵便事故", "料金別納", "貯蔵品" ]
[ "親展(しんてん)(英語: confidential letter; private)とは、封書において、宛名となっている本人が自分で封を切って読んでほしいという意味、またはそのような扱いのことである。 親展扱いとなる手紙としては、宛名本人のプライバシーに関わる書面(請求書や督促状や診断書)や、査定や評価を行う際の資料となる調査書などが挙げられる。 親展とされる手紙は普通、宛名本人以外の者に読まれないよう、中が透けて見えない封筒などに入れて厳封され、「親展」の外脇付が明示される。 また、一度でも封を切ると、開封されたことが分かるように、封の上から「緘」(かん)などの印を押したり、剥がすと跡が残るようなシールを用いたり、圧着して中身が読めないようにした葉書を用いたりする事もある。 このような工夫がされる手紙は、特に開封の事実があったかどうかが重要なものが多い。例えば、宛名本人以外の者が開封した場合は無効となる書面(入学試験の際の調査書や犯罪経歴証明書など)や開封によって効力が発生する物などである。 ヨーロッパなどでは「緘」などの代わりに蝋(シーリングワックス)を溶かして落とし、または金箔銀箔のシールを貼り、紋章の型(シーリングスタンプ)を捺して付ける場合もある。これを封蝋(ふうろう)という。 ただし、封蝋を用いた郵便物が、郵便区分機を通された場合、封蝋が割れてしまうことが多いため、定形郵便物への使用は不向きである。 『郵便法』(昭和22年12月12日法律第165号) 『郵便規則』(昭和22年12月29日逓信省令第34号) 『国際電子郵便の取扱いに関する省令』(昭和59年11月21日郵政省令第44号) 書留郵便(書留郵便#本人限定受取 - 宛名本人のみに手交する郵便サービス) 秘密を侵す罪(信書開封罪)", "打ち消し線(うちけしせん)もしくは取り消し線(とりけしせん)は、文字の中央に横断する形で引く線である。横書きの場合は横線、縦書きの場合は縦線が引かれる。おもに該当の記述を削除する目的で使用される。 ただし、打ち消し線自体は視覚上および記録上「削除」するわけではなく、打ち消し線をかけられた内容自体は線越しに読み取ることができる。このため、値札などで旧価格に打ち消し線をかぶせ割引などを実施した価格と併記する、などといった用法もみられる。 文字を打ち消すのに用いられる。日本語の場合は文字の中央を横断する形で使用する。 通常の線だけでなく、二重線や三重線や波線も用いられる。 打ち消される文字 英語の打ち消し線については、en:Strikethrough#Computer_representationsを参照。 書式 ストローク符号", "郵便事故(ゆうびんじこ)とは、郵便物が取り扱われている際に発生した不測の事態(事故)を指す言葉。 郵便事故は、一般的には誤配達、遅延、毀損、汚損(雨濡れなど)の不着や亡失・落失する事故をいう。また、予定日を過ぎて配達される遅配も郵便事故として扱われることがある。郵便事故に遭遇した郵便物はクラッシュカバーなどと呼ばれる。 日本においては、郵便番号を含めた宛名が正しく書かれていないことによって不着となったり、郵便事業に従事する職員による故意あるいは過失により毀損あるいは汚損することがある。また、台風などの天災や、輸送手段自体の遅延などで遅配・不着となるケースもある。 主な郵便事故 1954年 - 洞爺丸事故により青函連絡船洞爺丸が沈没。洞爺丸には北海道から本州方面への郵便物が積載されており、沈没によって多くの郵便物が損壊、亡失。 日本においては、配達員などの郵便事業に従事する関係者が郵便物を隠匿したり、宛先に届けずに廃棄することは郵便法に違反する(第77条違反)。こうした関係者による故意に発生した郵便事故は、日本郵便四国支社で2015年に発覚した約3万通の不配達、東北支社管内で2018年に発覚した約3万7千通の不配達などがある。 ^ “郵便局員が3万通の「郵便物」を配達せず”. 弁護士ドットコムニュース (2015年11月11日). 2018年4月22日閲覧。 ^ “郵便未配達疑いで契約社員逮捕3万7千通か 宮城”. 7産経新聞社 (2018年8月30日). 2018年9月18日閲覧。 クラッシュカバー 取り戻し請求", "料金別納(りょうきんべつのう)は、郵便料金の支払い方法(サービス)のひとつ。 同時に10通(個)以上の郵便物、荷物を差し出す際に利用できる支払い方法で、切手を貼り付けない。通常は、金額が印字された証紙を貼り付ける形となる[要出典]。消印がされないため、発送日が不明。ゆうパックやレタックス、EMSなどは、1通からでも料金別納とすることができる。 民営化に伴い、「料金別納郵便」という表示が郵便物に限られ、いわゆる荷物(ゆうパック・ゆうメール等)は「料金別納」という表示になっている。なお、ゆうパックで、集荷で切手払をしなかったケースとコンビニや取扱店で差し出したケースの場合は料金別納として扱われ(料金別納の印が押されることがある。かつてのCラベルには、切手貼付欄にあらかじめ料金別納の印型が表示されていた)、郵便局の窓口での現金払いでの差出の場合は、料金別納ではなく、金額分の証紙が貼り付けられる(ゆうゆう窓口設置局の一部など、貼付が省略される場合もある)。 郵便物は、郵便ポストに投函できず、郵便局へ持ち込む。事前に差出票に記載する必要がある。切手を貼付しない代わりに、別納の表示が必要になる(表示形式は決まっている)。なお、一部を除くゆうパックラベルには、切手帖付欄にあらかじめ「料金別納」の印型があらかじめ印刷されている。このため、印字のないゆうパックラベルを利用して、料金別納の扱いの差出(集荷扱いないしはコンビニを含む取扱店での差出)となった場合は、受付局にて、「○○局/料金別納」の印が帖付欄にスタンプされる。 料金は現金や料金分の切手、郵便料金計器の証紙で納付することができる。ただし郵便料金計器の証紙で納付する場合は、料金計器承認局又は他局・差出承認を受けている郵便局に限られる。 料金後納 料金計器別納 - メータースタンプ 料金受取人払 着払い 料金別納 - 郵便事業 郵便局が指定した料金計器 - ピツニーボウズ", "貯蔵品(ちょぞうひん、stores/supplies)は、勘定科目の一つ。流動資産に区分される。 販売目的ではなく、社内で使用するための切手(通信費)、印紙(租税公課)、消耗品費などは購入時にいったん費用として計上するが、期末までに使用されずに残ったものについては、当期の費用とはせず、資産に計上して次期に繰り越す必要がある。その際、戻入れするための資産科目である。 建設目的で購入した資材だが、他の用途に使うかもしれないものや、科目設定のはっきりしないものも貯蔵品とする。 ただし、社内で継続的に使用しているものについては、切手や印紙等を除き貯蔵品計上しなくてもよいとされている。(法人税基本通達2-2-15) 2-2-15 消耗品費等(法人税方基本通達) 消耗品その他これに準ずる棚卸資産の取得に要した費用の額は、当該棚卸資産を消費した日の属する事業年度の損金の額に算入するのであるが、法人が事務用消耗品、作業用消耗品、包装材料、広告宣伝用印刷物、見本品その他これらに準ずる棚卸資産(各事業年度ごとにおおむね一定数量を取得し、かつ、経常的に消費するものに限る。)の取得に要した費用の額を継続してその取得をした日の属する事業年度の損金の額に算入している場合には、これを認める。 (注) この取扱いにより損金の額に算入する金額が製品の製造等のために要する費用としての性質を有する場合には、当該金額は製造原価に算入するのであるから留意する。 (購入時) (期末時)未使用分4,000円を戻入れ (翌期首)振戻し" ]
ABC01-02-0066
日本海と瀬戸内海の両方に面している県といえば、山口県とどこでしょう?
兵庫県
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[ "兵庫県", "多可郡", "武庫郡", "美嚢郡", "明石郡" ]
[ "兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。 南北に長い県域を持ち、近畿地方の府県で最大の面積を持つ。北は日本海、南は瀬戸内海の2つの海に接している県である。2つの海に接している県は、本州の両端である青森県や山口県を除けば兵庫県のみである。本州を青森県から山口県まで陸路で縦断しようとすると、必ず本県を通ることになる。 ほぼ中央を日本標準時子午線(東経135度)が南北に通過し、明石市にはこれに因む明石市立天文科学館がある。県中央部には中国山地が東西に横たわり、交通の難所ともなっている。 南部の瀬戸内海沿岸は阪神工業地帯や播磨臨海工業地帯といった日本有数の重化学工業の集積地となっており、近畿圏最多の工場立地数となっている。一方で、中部から北部にかけては農林水産業が主な産業であり、過疎地や豪雪地帯も抱える。これら過密と過疎を平均した県単位の産業活動指数は全国平均であることから、日本の縮図といわれることがある。また、南東部の阪神間はベッドタウンとしての性質があり、神戸市(国内の大都市人口6位)と阪神地方で全人口の約6割を占める。なお、兵庫県の人口は国内7位であり、兵庫県の人口密度は国内8位である。 令制国では、摂津国と丹波国の各西半分および但馬国と播磨国と淡路国の各全域に当たるが、僅かながら美作国と備前国の各一部も含んでおり、計7か国にまたがっている。旧国名において7か国にまたがる都府県は当県のみであり、11か国からなる北海道に次ぐものである。加えて、五畿八道のうち畿内、山陰道、山陽道、南海道と最多の4地方にまたがり、古来の行政区分をほとんど無視する形で成立している。便宜的に、播磨国は山陽地方、但馬国は山陰地方に含める場合もあり、地図帳等では中国地方のページに掲載されているものもある。 外貨獲得を急務とした明治政府は、但馬の生糸の輸出に摂津の神戸港を活用するため、大久保利通の指示の元、櫻井努が策定した案を基に1876年(明治9年)第三次兵庫県の区域を確定した。神戸を発展させるための財源として、豊かな農業国であった播磨・但馬などからの税収を充てたのである。 江戸時代に置かれた藩は摂津国に尼崎藩・三田藩、丹波国に篠山藩・柏原藩、但馬国に出石藩・豊岡藩があり、播磨国に姫路藩・林田藩・明石藩・龍野藩・赤穂藩・三日月藩・小野藩・三草藩・安志藩・山崎藩が、淡路国に阿波藩(阿波徳島藩)の洲本城代の稲田家、旗本(交代寄合)の山名家の村岡陣屋、交代寄合の池田家の福本陣屋が存在した。 後述のように、兵庫県は「7つの県境、6つの方言、5つの旧国、4つの新幹線駅、3つの空港、2つの海を持つ、1つの県」という多様性を内包した県であり、「7つの国境(隣国、不安)、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ、1つの連邦国家(1人のチトー)」と形容されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国になぞらえてヒョーゴスラビアと呼ばれることがある。 国土地理院地理情報によると兵庫県の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは111.13km、南北の長さは168.50kmである。 大阪湾に面した南部は平野部だが、中部・北部の大半は山地・丘陵地帯となっている。人口は南部に集中している。 山地・山 中国山地:氷ノ山、鉢伏山、扇ノ山、妙見山、蘇武岳、瀞川山、日名倉山、三室山、後山、雪彦山、七種山、段ヶ峰、千ヶ峰、笠形山、西光寺山、明神山 丹後山地:東床尾山 丹生山系:丹生山、帝釈山 東播磨丘陵地:高御位山、笠松山、善防山、三木山、雄岡山 六甲山地:六甲山、摩耶山、再度山、鉢伏山、東お多福山、西お多福山、甲山 諭鶴羽山地:諭鶴羽山、柏原山 多紀連山:御嶽、西ヶ嶽、小金ヶ嶽 氷ノ山 (県下最高峰) 鉢伏山 雪彦山 高原 鉢伏高原、神鍋高原、瀞川平、兎和野高原、上山高原、杉ヶ沢高原、柤岡高原、美原高原、美方高原、砥峰高原、峰山高原 瀞川平 砥峰高原 峰山高原 平野・盆地 大阪平野、播磨平野、洲本平野、三原平野、豊岡盆地、篠山盆地、三田盆地、多田盆地 カルデラ 照来(てらぎ)カルデラ 渓谷・峡谷 瀞川渓谷、霧ヶ滝渓谷、小又川渓谷、赤滝渓谷、阿瀬渓谷、音水渓谷、天滝渓谷、糸井渓谷、福知渓谷、猪名川渓谷、横行渓谷、熊波渓谷、小代渓谷、赤西渓谷、板馬見渓谷、山田渓谷、直谷渓谷、蓬莱峡、立雲峡 音水渓谷 天滝渓谷 蓬莱峡 滝 原不動滝、猿尾滝、天滝、布引の滝、霧ヶ滝、七種の滝、羊ヶ滝、扁妙の滝、布滝、瀞川不動滝、赤滝、黒岩の滝 原不動滝 猿尾滝 布引の滝 湖沼 つくはら湖(呑吐ダム)、東条湖(鴨川ダム)、千丈寺湖(青野ダム)、知明湖(一庫ダム)、昭和池(昭和池ダム)、銀山湖(生野ダム)、多々良木ダム貯水池、翠明湖(糀屋ダム)、 河川 加古川水系:加古川、美嚢川、杉原川 円山川水系:円山川、出石川、大屋川、八木川 揖保川水系:揖保川、林田川、福知川、公文川 淀川水系支川:神崎川、猪名川 その他水系:武庫川、市川、千種川、明石川、夢前川、洲本川、三原川、矢田川、岸田川等 揖保川 武庫川 市川 海 日本海 瀬戸内海:大阪湾、明石海峡、播磨灘、紀淡海峡、鳴門海峡、紀伊水道 自然島 淡路島、成ヶ島、沼島 家島諸島(家島、坊勢島、男鹿島他) 生島 日生諸島 取揚島(島内に岡山県との県境がある) その他 ため池の数が日本一多い。 県内では、淡路市の13301か所が最も多く、洲本市の7014か所、神戸市の6305ヶ所と続く。淡路島全体で県の約半分を占める。 2009年4月1日時点 溜池の数ランキング 1位 兵庫県 43,245 2位 広島県 20,183 3位 香川県 14,619 4位 大阪府 11,105 5位 山口県 10.636 国立公園 瀬戸内海国立公園、山陰海岸国立公園 国定公園 氷ノ山後山那岐山国定公園 国営公園 国営明石海峡公園 県立自然公園 多紀連山県立自然公園、猪名川渓谷県立自然公園、清水東条湖立杭県立自然公園、朝来群山県立自然公園、音水ちくさ県立自然公園、但馬山岳県立自然公園、西播丘陵県立自然公園、出石糸井県立自然公園、播磨中部丘陵県立自然公園、雪彦峰山県立自然公園、笠形山千ヶ峰県立自然公園 鳴門海峡(名勝、瀬戸内海国立公園) 竹野浜 (山陰海岸国立公園) 国営明石海峡公園 北部は日本海側気候、南部は瀬戸内海式気候で、北部の自治体は豪雪地帯に指定されている。 冬季は瀬戸内海側の沿岸部を除いて1月平均気温は3℃台以下と温暖とは言えず、同標高で比較しても北関東より低いところもある。内陸部では冬日が続く。 北部では北西の季節風の影響で降水日数ならびに降雪量が多くなる。日本海寒帯気団収束帯の影響を受けると半日から数日の短時間でまとまった積雪となり易く、豊岡市街地や香住などの平地でも50cmから1m前後の大雪となることもある。南部内陸部でも、南部の沿岸部・平野部と比較すると降水日数がやや多くなり、日本海から活発な雪雲が南下してきた場合は20cm前後の大雪となることもある。南部の沿岸部でも、小雨やみぞれが降る日もあり、積雪も一冬に1〜2回程度は起こるが、多くても5~10cm程度であり、関東地方に比べると南岸低気圧による降雪は少ない。南部では、日本海からの雲が比較的標高の低い中国山地や丹後高地の山々を越えてくる影響で冬から春に掛けては快晴(雲量1.5未満)の日は関東地方に比べると少ないものの、晴天日数そのものは比較的多い。 太平洋高気圧に覆われる夏季には、北部や内陸部を中心にフェーン現象による猛暑日が発生することがしばしばあり、また、南部の沿岸部では熱帯夜になることが多くなる。 県内には29市と12町がある。なお、町の読み方はすべて「ちょう」である。また、村は1962年に消滅している。 以下は、県が地域ごとに設置している総合出先機関である7の「県民局」と3の「県民センター」ごとに記述している。「県民局」と「県民センター」の違いは、管内に政令市・中核市を擁し県から多くの業務が移譲されている地域は「県民センター」として「県民局」よりも組織がスリム化されている。なお、推計人口は2018年10月1日現在の統計である。 神戸県民センター管内には、以下の1市(9区)が属しており、管内の推計人口は1,527,407人である。 神戸市 (東灘区・灘区・兵庫区・長田区・須磨区・垂水区・北区・中央区・西区) 阪神南県民センター管内には、以下の3市が属しており、管内の推計人口は1,033,949人である。 尼崎市 西宮市 芦屋市 阪神北県民局管内には、以下の4市と1町が属しており、管内の推計人口は719,220人である。 伊丹市 宝塚市 川西市 三田市 川辺郡猪名川町 東播磨県民局管内には、以下の3市と2町が属しており、推計人口は714,726人である。 明石市 加古川市 高砂市 加古郡稲美町 加古郡播磨町 北播磨県民局管内には、以下の5市と1町が属しており、推計人口は267,560人である。 西脇市 三木市 小野市 加西市 加東市 多可郡多可町 中播磨県民センター管内には、以下の1市と3町が属しており、推計人口は573,389人である。 姫路市 神崎郡神河町 神崎郡市川町 神崎郡福崎町 西播磨県民局管内には、以下の4市と3町が属しており、推計人口は251,697人である。 相生市 たつの市 赤穂市 宍粟市 揖保郡太子町 赤穂郡上郡町 佐用郡佐用町 丹波県民局管内には、以下の2市が属しており、推計人口は102,875人である。 篠山市 丹波市 但馬県民局管内には、以下の3市と2町が属しており、推計人口は162,791人である。 豊岡市 養父市 朝来市 美方郡香美町 美方郡新温泉町 淡路県民局管内には、以下の3市が属しており、推計人口は129,836人である。 洲本市 南あわじ市 淡路市 神戸地域 神戸市(東灘区、灘区、兵庫区、長田区、須磨区、垂水区、北区、中央区、西区) 阪神南地域 尼崎市、西宮市、芦屋市 阪神北地域 伊丹市、宝塚市、川西市、三田市、川辺郡猪名川町 東播磨地域 明石市、加古川市、高砂市、加古郡稲美町、加古郡播磨町 北播磨地域 西脇市、三木市、小野市、加西市、加東市、多可郡多可町 中播磨地域 姫路市、神崎郡神河町、神崎郡市川町、神崎郡福崎町 西播磨地域 相生市、赤穂市、宍粟市、たつの市、揖保郡太子町、赤穂郡上郡町、佐用郡佐用町 但馬地域 豊岡市、養父市、朝来市、美方郡香美町、美方郡新温泉町 丹波地域 丹波市、篠山市 淡路地域 洲本市、淡路市、南あわじ市 兵庫県の名は、現在の神戸市兵庫区(兵庫城)に役所が置かれたことに因る。ここにある兵庫港(旧称は大輪田泊、現在の神戸港の一部)が古くから国際貿易港として開港していたためである。 「兵庫」の由来は、天智天皇の治世に兵の武器の倉庫の意味である「つわものぐら(兵庫)」があったことからも由来する。 県域は播磨国全域、但馬国全域、淡路国全域、摂津国有馬郡、川辺郡、武庫郡、菟原郡、八部郡、丹波国多紀郡、氷上郡に跨る。また、畿内・山陰・山陽・南海の四道にまたがっている。 1896年(明治29年)美作国に属している岡山県吉野郡石井村と讃甘村の一部が兵庫県佐用郡に越県編入される。また、1963年(昭和38年)には備前国に属している兵庫県赤穂市福浦が岡山県和気郡日生町(現・備前市)より越県編入された。それは、同地の備前福河駅に名残を残す。 古墳18,351ヵ所は日本第1位、遺跡28,882ヵ所は日本第2位であり、上古より拓けていた地が多いとされる。 著名な延喜式大社としては播磨国明石郡の海神社、揖保郡の粒坐天照神社、宍粟郡の伊和坐大名持御魂神社、淡路国津名郡の伊弉諾神宮、三原郡の大和大国魂神社、摂津国武庫郡の廣田神社、伊和志津神社、八部郡の生田神社、長田神社、有馬郡の温泉神社、丹波国多紀郡の櫛石窓神社等がある。 慶応4年/明治元年(1868年) 1月22日(2月15日) - 兵庫鎮台を設置。 2月2日(2月24日) - 兵庫鎮台を兵庫裁判所に改める。谷町代官所が管轄していた摂津国185村(八部郡39村・菟原郡34村・武庫郡10村・川辺郡93村・有馬郡9村)および播磨国209村(美嚢郡28村・印南郡1村・加東郡31村・多可郡61村・加西郡42村・神東郡2村・飾西郡1村・揖西郡1村・宍粟郡42村)の幕府領と、摂津国26村(八部郡8村・菟原郡1村・武庫郡14村・有馬郡3村)および播磨国108村(美嚢郡22村・加東郡24村・加西郡6村・神東郡3村・神西郡11村・揖東郡8村・赤穂郡13村・佐用郡21村)の旗本領を管轄。 5月23日(7月12日) - 兵庫裁判所を廃止し、兵庫県を設置。 明治2年(1869年) 8月2日(9月7日) - 摂津国北部の幕府領・旗本領を管轄した豊崎県を編入。 9月21日(10月25日) - 旧豊崎県のうち摂津国西成郡・東成郡・住吉郡を大阪府に移管。 明治4年(1871年) 5月(6月18日 - 7月17日) - 徳島藩の稲田氏知行地である淡路島津名郡43か村浦を編入。 7月14日(8月29日) - 第1次府県統合により摂津国西部の3県が統合され、改めて兵庫県が発足。播磨国10県が統合され姫路県を設置。 11月9日(12月20日) - 姫路県が飾磨県に改称。 11月15日(12月26日) - 淡路島全島を名東県に編入。 1876年(明治9年) 8月21日 - 第2次府県統合により兵庫県・飾磨県が統合され、改めて兵庫県が発足。豊岡県より但馬国および丹波国氷上郡・多紀郡を、名東県より淡路島全域を移管され現在の県域が確定。 3世紀後半 - 西求女塚古墳が築かれる 4世紀 - 東求女塚古墳、処女塚古墳が築かれる 4世紀末〜5世紀初頭 - 五色塚古墳、小壷古墳、宮山古墳、壇場山古墳が築かれる 欽明天皇13年(552年?) - 百済聖王(聖明王)の太子である恵(僧名:童男行者)により明要寺(丹生寺)が創建される 崇峻天皇2年(589年?) - 聖徳太子により刀田山四天王寺聖霊院(鶴林寺)が創建される 推古天皇11年(603年) - 7月6日当麻皇子の妃舎人皇女が死去、赤石桧笠岡(吉田王塚古墳)に葬られる 舒明天皇3年(631年) - 9月19日舒明天皇、有間温泉(有馬温泉)にて入湯する 皇極天皇4年/大化元年(645年) - 孝徳天皇の勅願により伽耶院、如意寺、忉利天上寺(大化2年(646年))、一乗寺(大化6年/白雉元年(650年))が創建される 白雉2年(651年) - 法道仙人により朝光寺と石峯寺開創 弘仁3年(716年) - 元正天皇の勅願により太山寺が創建される 延暦24年(805年) - 伝教大師・最澄により日本最初の密教教化霊場である能福護国密寺(能福寺)が神戸市兵庫区に創建される 霊亀2年(812年) - 大輪田泊が修築される 天長10年(833年) - 淳和天皇の勅願寺として鷲林寺が空海によって開創される 仁和2年(886年) - 光孝天皇の勅願により須磨寺が創建される 延喜14年(914年) - 三善清行による大輪田泊修築 康保3年(966年) - 性空上人により圓教寺開創 承安4年(1174年) - 平清盛が大輪田泊に経が島(経ヶ島)を築く 治承4年(1180年) - 平清盛による福原京の造営。 治承8年/寿永3年(1184年) - 一ノ谷の戦い 建久7年(1196年) - 重源の奏上による大輪田泊修築 建久9年(1198年) - 重源により浄土寺が創建される 元弘3年/正慶2年(1333年) - 鎌倉幕府滅亡。播磨の赤松円心、後醍醐天皇に味方する 建武3年/延元元年(1336年) - 湊川の戦いで楠正成討死 興国5年/康永3年(1344年) - 足利尊氏により福海寺開創 興国7年/貞和2年(1346年) - 赤松貞範が姫路城を築城 嘉吉元年(1441年) - 嘉吉の乱で赤松満祐滅亡 寛正7年/文正元年(1466年) - 但馬に本拠を持つ山名宗全(山名持豊)が細川氏と争う(応仁の乱) 天正7年(1579年) 明智光秀に最後まで抵抗した波多野氏・赤井氏が滅ぼされる 荒木村重の有岡城が落城 天正8年(1580年) - 羽柴秀吉(豊臣秀吉)に攻められて三木城落城、別所長治滅亡 天正17年(1589年) - 豊臣秀吉が花隈城を築城 慶長14年(1609年) - 池田輝政が姫路城を改修 元禄14年(1701年) - 赤穂藩浅野長矩が江戸城中で吉良義央を斬りつけて切腹改易。翌年、赤穂浪士討入 慶応3年12月7日(1868年1月1日) - 兵庫港開港、管理運営等の為に兵庫県を設置。 慶応4年5月23日(1868年7月12日)初代知事に伊藤博文が任命される。 明治3年(1870年) - 庚午事変 1874年(明治7年) - 神戸-大阪間に鉄道が開通。神戸外国人居留地にガス灯が灯る。 1876年(明治9年) - 飾磨県(播磨)・豊岡県(但馬・丹波)・名東県(淡路)を併合。ほぼ現在の範囲になる。当時の人口(約135万人)は、東京府・大阪府をしのいでいた。 1886年(明治19年) - 明治天皇の御用邸が神戸港の弁天浜(現・神戸ハーバーランド)にもうけられる 1889年(明治22年) - 神戸市、姫路市誕生。 1897年(明治30年) - 姫路に第10師団設置(1919年(大正8年)まで) 1903年(明治36年) - 日本初のゴルフ場が六甲山に開場。 1905年(明治38年) - 阪神電気鉄道が神戸(三宮)〜大阪(出入橋)で開業。阪神間モダニズムの時代。(1940年(昭和15年)まで) 1910年(明治43年) - 箕面有馬電気軌道宝塚本線(宝塚〜梅田間)が開業。 1913年(大正2年) - 宝塚唱歌隊(現・宝塚音楽学校)を組織。 1914年(大正3年) - 宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)初公演。神戸市須磨に皇室の離宮、武庫離宮(現・須磨離宮公園)が設けられる 1916年(大正5年) - 尼崎市誕生。 1919年(大正8年) - 明石市誕生。 1920年(大正9年) - 阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)神戸本線、伊丹線開業 1924年(大正13年) - 阪神甲子園球場竣工。阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)甲陽線開業。フランク・ロイド・ライトが設計した山邑邸(旧山邑家住宅)が竣工。 1925年(大正14年) - 西宮が市制施行。 1927年(昭和2年) - 阪神国道が開通。 1932年(昭和7年) - C・H・アリソン設計の広野ゴルフ倶楽部が開場 1940年(昭和15年) - 洲本、芦屋、伊丹が市制施行。 1942年(昭和17年) - 相生が市制施行。 1945年(昭和20年) - 尼崎、神戸、姫路、西宮などが米軍機の空襲を受ける。 1949年(昭和24年) - 神戸大学が発足。 1950年(昭和25年) - 加古川、豊岡が市制施行。神戸市東灘区誕生。 1952年(昭和27年) - 西脇市誕生。 1954年(昭和29年) - 高砂、小野、三木、宝塚、川西が市制施行。 1956年(昭和31年) - 第11回国民体育大会開催。 1958年(昭和33年) - 三田市誕生。 1962年(昭和37年) - 阿閇(あえ)村が町制施行で播磨町となり、全国初の村のない県となる。 1966年(昭和41年) - ポートアイランド着工。 1967年(昭和42年) - 加西市誕生。 1981年(昭和56年) - ポートアイランド完成。神戸ポートアイランド博覧会開催。 1985年(昭和60年) - 大鳴門橋開通。第3回全国都市緑化フェア(コウベグリーンエキスポ'85)開催。ユニバーシアード神戸大会開催。 1986年(昭和61年) - 明石海峡大橋起工。 1988年(昭和63年) - 全国高等学校総合体育大会(63総体)開催。 1991年(平成3年) - 芦屋市で全国初の女性市長誕生。 1993年(平成5年) - 姫路城がユネスコ・世界遺産に登録。 1994年(平成6年) - 但馬飛行場開設。大阪空港への定期便の運航開始。 1995年(平成7年) - 阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)発生 1998年(平成10年) - 明石海峡大橋開通。 1999年(平成11年) - 篠山が市制施行。 2000年(平成12年) - 淡路島で国際園芸・造園博「ジャパンフローラ2000」(淡路花博)開催。 2004年(平成16年) - 丹波市、養父市誕生。 2005年(平成17年) - 南あわじ市、朝来市、淡路市、宍粟市、たつの市、多可郡多可町、神崎郡神河町、美方郡香美町・新温泉町誕生。その他、町・市への編入。 2006年(平成18年) - 神戸空港(マリンエア)開港。加東市誕生。その他、町の市への編入。のじぎく兵庫国体開催。 2009年(平成21年) - 阪神なんば線(阪神西大阪線を改称)開業。 \"兵庫県の歴史ギャラリー\" 鶴林寺太子堂(国宝)  太山寺本堂(国宝)  宝塚少女歌劇団初公演「ドンブラコ」(1914年4月1日)  阪神甲子園球場  明石海峡大橋  兵庫県内市別人口ランキング(2008年(平成20年)現在) 神戸市(153万人) 姫路市(54万人) 西宮市(48万人) 尼崎市(46万人) 明石市(29万人) 兵庫県内市別人口密度ランキング(2008年(平成20年)現在) 尼崎市(9,260人/km2) 伊丹市(7,800人/km2) 明石市(5,930人/km2) 芦屋市(5,300人/km2) 西宮市(4,780人/km2) 2018年7月1日現在兵庫県の人口は、5487990人となっている。 衆議院の小選挙区が12。参議院では、全県で1区を構成。 財政力指数 0.59 Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)17自治体中9位 財政力指数 0.53 Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)16自治体中14位 標準財政規模 9461億円 一般会計歳入 2兆0397億円 一般会計歳出 2兆0358億円 人口1人当たり人件費・物件費等決算額 11万5275円 (都道府県平均 12万4759円) 人口100.000人当たり職員数 1,044.75人 (都道府県平均 1,173.11人) 2000年(平成12年)から2007年(平成19年)に一般行政部門で1,134人 (12.0%) の削減を実施。2008年(平成20年)から2018年(平成30年)にむけて一般行政部門等では約30%の削減を行う ラスパイレス指数 100.9 (都道府県平均 99.6) 実質公債費比率 19.6%(3カ年平均、都道府県平均 14.7) ※起債に許可が必要になる18%を超えている 人口一人当たり地方債現在高 65万9471円 (都道府県平均 62万2416円) 地方債の残高 普通会計分の地方債現在高 3兆6801億円 上記以外の特別会計分の地方債現在高 4306億円 地域整備事業会計分 1172億円、流域下水道会計分 1240億円、など。他に第3セクターなど(51法人)への債務保証残高などがある。 主な債務保証:兵庫みどり公社 187億円、兵庫産業活性化センター 143億円、兵庫住宅供給公社 203億円、兵庫道路公社 161億円 財政力指数:0.49 IIグループ(財政力指数0.4以上、0.5未満)8自治体中1位 財政力指数:0.47 IIグループ(財政力指数0.4以上、0.5未満)10自治体中4位 アシックス(神戸市) イカリソース(西宮市) 石原ケミカル(神戸市) 伊藤ハム(西宮市) イトメン(たつの市) SRIスポーツ(神戸市) エスフーズ(西宮市) エルアンドジー(加古川市) オイシス(神戸市) 大阪チタニウムテクノロジーズ(尼崎市) 大関(西宮市) 大月真珠(神戸市) オフテクス(神戸市) オリバーソース(神戸市) カネテツデリカフーズ(神戸市) 上組(神戸市) 加美乃素本舗(神戸市) 川崎重工業(神戸市) 川西倉庫(神戸市) カワムラサイクル(神戸市) 関西住宅販売(姫路市) 菊正宗酒造(神戸市) キクヤ図書販売(神戸市) キムラタン(神戸市) 共進牧場(神戸市) 極東開発工業(西宮市) キンキサイン(姫路市) キング醸造(稲美町) グローリー(姫路市) ケンミン食品(神戸市) 好日山荘(神戸市) 神戸新聞社(神戸市) 神戸製鋼所(神戸市) 神戸電鉄(神戸市) 神戸風月堂(神戸市) 神戸物産(稲美町) ケーニヒスクローネ(神戸市) 御座候(姫路市) 小西酒造(伊丹市) 沢の鶴(神戸市) 春日井製菓相生(相生市) サンテレビジョン(神戸市) 山陽電気鉄道(神戸市) 山陽特殊製鋼(姫路市) 山陽百貨店(姫路市) JFEアドバンテック(西宮市) シスメックス(神戸市) シャルレ(神戸市) ショーワグローブ(姫路市) 神栄(神戸市) 神姫バス(姫路市) JCRファーマ(芦屋市) 新明和工業(宝塚市) 住友ゴム工業(神戸市) 生活協同組合コープこうべ(神戸市) セイバン(たつの市) ダイイチ(小野市) 多木化学 (加古川市) タクマ(尼崎市) 但馬屋食品(伊丹市) TASAKI(神戸市) 辰馬本家酒造(西宮市) WDBホールディングス(姫路市) TUNE GUITAR MANIAC(尼崎市) 帝国電機製作所(たつの市) デイリースポーツ(神戸市) DXアンテナ(神戸市) デービー精工(姫路市) TOA(神戸市) デット・ノルスケ・ベリタス日本(神戸市) トーカロ(神戸市) ドンク(神戸市) トーホー(神戸市) トーラク(神戸市) 東リ(伊丹市) トリドールホールディングス(神戸市) トレーディア(神戸市) 内外ゴム(明石市) スウィフト・エックスアイ株式会社(神戸市) 西松屋(姫路市) ニチリン(神戸市) 日工(明石市) 日本イーライリリー(神戸市) 日本盛(西宮市) 日本ジャイアントタイヤ(たつの市) 日本電子材料(尼崎市) 日本山村硝子(尼崎市) 日本丸天醤油(たつの市) ネスレ日本(神戸市) ノエビア(神戸市) ノザワ(神戸市) 能勢電鉄(川西市) ノーリツ(神戸市) ハイレックスコーポレーション(宝塚市) ハウジングタイホー(姫路市) 白鶴酒造(神戸市) 播磨屋本店(朝来市) バンドー化学(神戸市) ビオフェルミン製薬(神戸市) ヒガシマル醤油(たつの市) 兵庫エフエム放送(Kiss FM KOBE・神戸市) 兵庫県手延素麺協同組合(たつの市) 日和山観光(かに道楽の親会社・豊岡市) ヒラキ(神戸市) ファミリア(神戸市) フェリシモ(神戸市) 富久娘酒造(神戸市) フジッコ(神戸市) フジプレアム(姫路市) プロクター・アンド・ギャンブル・ジャパン (P&G)(神戸市) デンソーテン(神戸市) ブンセン(たつの市) 北星社(豊岡市) ポケット(三田市) 本家かまどや(神戸市) 増田製粉所(神戸市) まねき食品(姫路市) 丸尾カルシウム(明石市) マルヤナギ小倉屋柳本(神戸市) 三ツ星ベルト(神戸市) MORESCO(神戸市) モロゾフ(神戸市) ヤマサ蒲鉾(姫路市) ヤマト住建(神戸市) ヤマトヤシキ(姫路市) 大和製衡(明石市) UCC上島珈琲(神戸市) ユーハイム(神戸市) 吉永建設(川西市) ラジオ関西(神戸市) 寄神建設(神戸市) ロックフィールド(神戸市) 六甲バター(神戸市) ワールド(神戸市) 和田興産(神戸市) 福井建設(養父市) ハヤブサ(三木市) アサヒ飲料(明石市) アサヒ軽金属工業(加西市) アース製薬(赤穂市) IHI(相生市) ウシオ電機(姫路市、高砂市) AGC(尼崎市、高砂市) エースコック(たつの市、加東市) 江崎グリコ(神戸市西区、三木市) カネカ(高砂市) 黄桜(篠山市) キッコーマン(高砂市) キャタピラージャパン(明石市) キリンビール(神戸市北区) サントリー(高砂市) 三洋電機(加西市、洲本市) 新日鐵住金(尼崎市、姫路市) 扇雀飴本舗(姫路市) 積水化学工業(尼崎市) ダイセル(尼崎市、姫路市、たつの市) 宝酒造(神戸市) タキロンシーアイ(たつの市、姫路市) ダントーホールディングス(南あわじ市) 椿本チエイン(加西市) 東芝(姫路市、太子町) 東洋合成工業(淡路市) 東洋水産(神戸市) 凸版印刷(福崎町) ナリス化粧品(三木市) ニッカウヰスキー(西宮市) 日本毛織(加古川市) 日本ハム(小野市、加古川市) パナソニック(尼崎市、加東市、姫路市、神戸市西区) 森永製菓(尼崎市) 三菱重工業(高砂市、神戸市兵庫区) 三菱製紙(高砂市) 三菱電機(尼崎市、三田市、神戸市兵庫区、伊丹市、姫路市、赤穂市) 富士通(明石市) 藤本食品(小野市) マンダム(福崎町) 明星食品(神戸市) モリタ(三田市) 山本光学(淡路市) ヤンマー(尼崎市) ユニチカ(赤穂市) ライオン(明石市) リンテック(たつの市) 兵庫県警察 県内の連絡 西日本旅客鉄道(JR西日本) 加古川線、播但線 北条鉄道 北条線 阪急電鉄 今津線、伊丹線、甲陽線、神戸高速線 阪神電気鉄道 武庫川線、神戸高速線 山陽電気鉄道 本線、網干線 神戸電鉄 有馬線、三田線、粟生線、公園都市線、神戸高速線 北神急行電鉄 北神線 能勢電鉄 日生線 神戸新交通 ポートアイランド線、六甲アイランド線 神戸市営地下鉄 近隣府県との連絡 西日本旅客鉄道 福知山線、JR東西線、赤穂線、姫新線 WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)宮津線 智頭急行 智頭線 阪急電鉄 神戸本線、宝塚本線 阪神電気鉄道 本線、阪神なんば線 能勢電鉄 妙見線 広域的連絡 西日本旅客鉄道 山陽新幹線、東海道本線、山陽本線、山陰本線 有料道路 高速自動車国道 名神高速道路 中国自動車道 山陽自動車道 舞鶴若狭自動車道 播磨自動車道 新名神高速道路 自動車専用道路 神戸淡路鳴門自動車道 西神自動車道 北近畿豊岡自動車道(一部) 播但連絡道路 阪神高速道路 第二神明道路 その他の有料道路 六甲北有料道路 六甲山トンネル 山麓バイパス 新神戸トンネル有料道路(2012年に阪神高速へ移管) 西宮北道路 遠阪トンネル有料道路 芦有ドライブウェイ 無料道路 山陰近畿自動車道(鳥取豊岡宮津自動車道) 国道 国道2号 国道9号 国道28号 国道29号 国道43号 国道171号 国道173号 国道174号 国道175号 国道176号 国道178号 国道179号 国道250号 国道312号 国道372号 国道373号 国道426号 国道427号 国道428号 国道429号 国道436号 国道477号 国道482号 国道483号 県道 兵庫県の県道一覧 その他 山手幹線 神戸市および阪神間、播磨、但馬、淡路島で概ね事業者は分かれるが、神戸市は明石海峡大橋の開業で淡路島や四国への高速バスが発達し、また鉄道だけではカバーしきれない地域などに多くの路線が伸びる。都市型の阪神間に対し、但馬などでは過疎路線も少なくない。公営事業者も少なくなかったが、姫路市営バス、明石市交通部、尼崎市交通局が撤退し民間委譲されている。主な事業者は下記。 阪神間・神戸市・明石市 神戸市交通局 阪急バス(本社は大阪府) 阪神バス 神姫バス 山陽バス 神鉄バス 伊丹市交通局 西日本ジェイアールバス(高速バスのみ、本社は大阪府) 播磨地方 神姫バス 但馬地方 全但バス 淡路島 淡路交通 本四海峡バス 四国方面 本四海峡バス 西日本ジェイアールバス 神姫バス 山陽バス ジェイアール四国バス 徳島バス 伊予鉄バス とさでん交通 大川バス 四国高速バス 大阪国際空港(伊丹空港、大阪空港) 神戸空港(マリンエア・神戸市管理) 但馬飛行場(コウノトリ但馬空港・兵庫県管理) 中枢国際港湾:神戸港(神戸市) 特定重要港湾:神戸港(神戸市)・姫路港(姫路市) 重要港湾:尼崎西宮芦屋港(尼崎市・西宮市・芦屋市)・東播磨港(明石市・播磨町・加古川市・高砂市) その他の港湾:兵庫港・長田港・垂水港(神戸市)・明石港・江井ヶ島港・二見港(明石市)・相生港(相生市)・赤穂港(赤穂市)・浜坂港(新温泉町)・香住港(香美町)・津居山港(豊岡市)・岩屋港・津名港・洲本港・由良港(洲本市)・福良港・室津港・坂越港・富島港・沼島港 かつては淡路島や四国への連絡航路が多数発着していたが、明石海峡大橋の開通でその多くが役目を終えた。しかし長距離の国内外へ向かうフェリーなどが今も神戸港を発着する。下記航路のうち特記なきものはフェリー。 国内近距離航路 神戸空港 - 関西国際空港(神戸-関空ベイ・シャトル、高速艇) 明石港 - 淡路島(岩屋港)(淡路ジェノバライン、高速艇) 姫路港 - 家島諸島(高速いえしまなど、旅客船) 姫路港 - 小豆島(福田港)(小豆島急行フェリー) 国内中長距離航路 神戸港 - 高松港(ジャンボフェリー、一部小豆島坂手港寄港) 神戸港 - 新門司港(阪九フェリー) 神戸港 - 大分港(フェリーさんふらわあ) 神戸港・大阪南港 - 奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島・那覇港(マルエーフェリー) 国際航路 神戸港 - 上海(中日国際輪渡) 神戸港 - 天津(チャイナエクスプレスライン) 災害拠点病院 兵庫県災害拠点病院 保育所 兵庫県保育所一覧 兵庫県は、昔から教育に関して他自治体と異なる特色を持っている。 校長の監督を受け、円滑な学校運営の推進、教員等の資質及び能力の向上を司る「主幹教諭」の職階を設置している。 県内の小中学生に、提示すると県内の対象施設が無料になる「ひょうごっ子ココロンカード」を配布している。 自然学校(林間・臨海学校)を県が小学校5年生を対象に推進している。補助金を市町に交付して6日間実施している。(2010年度からは5日間) トライやる・ウィークを中学生対象に職業体験を1週間行う。他県と比べても長期である。 公立高校の入試方法が他教育委員会と異なっているために「兵庫方式」と呼ばれている。 国公立大学 神戸大学 兵庫教育大学 兵庫県立大学 神戸市外国語大学 神戸市看護大学 天津中医薬大学日本校 私立大学 芦屋大学 大阪青山大学 大手前大学 関西看護医療大学 関西国際大学 関西福祉大学 関西学院大学 吉備国際大学 甲子園大学 甲南大学 神戸医療福祉大学 神戸学院大学 神戸芸術工科大学 神戸国際大学 神戸情報大学院大学 神戸薬科大学 神戸山手大学 宝塚大学 姫路大学 姫路獨協大学 兵庫医科大学 兵庫医療大学 兵庫大学 流通科学大学 女子大学・短期大学 園田学園女子大学 武庫川女子大学 神戸女学院大学 甲南女子大学 神戸松蔭女子学院大学 神戸海星女子学院大学 神戸親和女子大学 神戸女子大学 大阪青山短期大学 湊川短期大学 東洋食品工業短期大学 大手前短期大学 大阪芸術大学短期大学部 産業技術短期大学 甲子園短期大学 夙川学院短期大学 聖和短期大学 頌栄短期大学 神戸女子短期大学 神戸常盤大学短期大学部 兵庫大学短期大学部 姫路日ノ本短期大学 豊岡短期大学 高等専門学校 明石工業高等専門学校 神戸市立工業高等専門学校 専修学校 兵庫県専修学校一覧 特別支援学校 兵庫県特別支援学校一覧 高等学校 兵庫県高等学校一覧 中学校 兵庫県中学校一覧 小学校 兵庫県小学校一覧 幼稚園 兵庫県幼稚園一覧 神戸新聞 デイリースポーツ(本部がある。2010年3月に神戸新聞に会社が吸収されるまで、西日本向け紙面の1面には神戸本部ではなく大阪本社の住所が記載されていたが、現在は神戸本部の住所が記載されている) 日本海新聞 新温泉町に支社を持っていて但馬地域向けに新聞を発行している。なお、2000年(平成12年)4月には姫路市に支社を開設して播磨版を発行したが、大阪日日新聞が同社傘下(2008年(平成20年)2月1日にザ・プレス大阪と合併して日本海の大阪本社となる)の朝刊紙となった関係で同年9月に閉鎖された。この姫路支社(播磨版)の編集に携わった人たちが大阪日日との経営統合に関わったという説がある。現在は大阪日日新聞が神戸市・尼崎市など、京阪神通勤圏で即売が売られている。 放送区域は近畿広域圏に属する。 以下は兵庫県域放送局 NHK神戸放送局総合(リモコンキーID1ch) 教育テレビはNHK大阪放送局(リモコンキーID2ch)の放送対象地域となっている。 サンテレビジョン(リモコンキーID3ch) 独立局である。大阪湾・大阪平野を伝って大阪府の大半の地域で視聴可能なほか、ケーブルテレビの区域外再放送によって、かなり広範囲に視聴可能。 備考 大阪府域局のテレビ大阪(TXN系)は尼崎市や伊丹市を中心とした阪神地域や神戸市の一部地域などで直接受信が可能であるが、基本的にテレビ大阪の兵庫県内での放送は現行の法律では認められていない上に、県域放送局であるサンテレビでは諸事情によりTXN系の番組が放送できないため、46都道府県の地上波では普通に放送されているTXN系列の番組が兵庫県内に限っては視聴できないという問題が生じている。TXN系列については、播磨地区を中心にテレビせとうちが視聴できることもあるが、気象状況等により映らなくなるリスクも少なくない。県内の半数以上のケーブルテレビ局でテレビ大阪の区域外再放送されてはいるものの、豊岡市や新温泉町など県北部では地形的な問題から再放送対象外となっているほか、宍粟市など県南西部の一部でも再放送は見送られている。 播磨灘沿いの県南西部の一部では、岡山県・香川県の各放送局が受信できる地域が存在する。これらの地域では1969年(昭和44年)までNHK岡山放送局、西日本放送、山陽放送)しか受信できなかった。 北部(美方郡新温泉町、香美町など)の一部では、鳥取県・島根県のテレビ局(日本海テレビ、NHK鳥取放送局、山陰放送、山陰中央テレビ)が受信できる地域が存在する。この地域も1968年(昭和43年)まではNHK鳥取放送局と日本海テレビしか受信できなかった。宍粟市波賀町戸倉峠の一部では、鳥取県・島根県の民放のうち、山陰放送が受信できる地域が存在する。そのため、これらの地区では同系列の近畿圏広域局がネットしていない番組を視聴することができる。 他に、和歌山県のNHK和歌山総合とテレビ和歌山は神戸市、淡路島の各一部などで受信可能、淡路島南部(南あわじ市)では、徳島県の放送局(四国放送とNHK徳島放送局)が受信できる所がある。また、県東部と丹波市の一部ではNHK京都総合とKBS京都が受信できる所がある。 ケーブルテレビ 兵庫県のケーブルテレビ局を参照。 放送区域は近畿広域圏に属するが、在阪民放3局(MBSラジオ・ABCラジオ・ラジオ大阪)は北部に関して中継局がないために受信状態が良くない。 南部も特に播磨地区では受信状態は芳しくない。ただ南部を中心に徳島県の四国放送の良好な受信が可能。 地域は限られるが、南部では岡山県の山陽放送、香川県の西日本放送および、和歌山県の和歌山放送、北部では島根県・鳥取県の山陰放送の受信が可能。 FM OSAKAおよび、FM802の受信は西や北へ行くほど困難となる。また西脇市および周辺地域では、Kiss FM KOBEの受信状態が良くないが、受信自体は可能。 北部(新温泉町・香美町)の一部では、島根県・鳥取県のV-airが受信できる地域がある。阪神間や丹波市、豊岡市では京都府のα-STATIONが聴取可能な地域も多い。 なお、radikoの運用開始により在阪民放AM・FM各3局、ラジオ関西、Kiss FM KOBEは電波の受信が不可能でも県内全域でインターネット経由での聴取が可能になった。 AM放送局 ラジオ関西 独立局。radikoは大阪府・京都府も配信エリアに含める。 FM放送局 Kiss FM KOBE JFN系列。radikoは関西全域に配信。 FM COCOLO 県内の外国語放送実施地域(公式なエリア)は神戸市、尼崎市のみ。ただし、周辺でも聴取は可能。radikoは関西全域に配信。 NHK神戸放送局 NHKラジオ第1放送・第2放送は南部は大阪から受信する。北部は中継局(豊岡市・香美町・新温泉町)がある(ただし、香住・新温泉は第1放送のみ)。 各コミュニティFM ラジネットひょうごを参照。 従来、兵庫県を放送対象地域とする民間放送局は、中波 (AM)、超短波 (FM)、テレビジョン (TV) の3つ全てが独立放送局であったが、2003年(平成15年)に Kiss-FM KOBEがJFNに加盟。これに伴い、3つ全てが独立放送局である都道府県は神奈川県のみとなった。Kiss-FM KOBEは大阪府の大部分でも聴取可能な他、いまだに民放FM局がない奈良県など、県外のリスナーも多い。 兵庫県は異なる歴史を持つ地域の寄せ集めであり、地域によって風俗や習慣に違いが見られる。兵庫県民としての連帯感はそれほど強くなく、神戸市、姫路市、豊岡市、阪神地域に隣接する大阪市など、各エリアの中心となる都市圏に帰属意識を持つ。そのため、自らを「兵庫県民」と称することが少ない。実際、県人会も県内の出身各地方で別々となっている(東京淡路会、大阪但馬人会、関東氷上・多紀郡郷友会など)。 方言の違いも多彩である。県南部では近畿方言(関西弁)が使われるが、県北部では中国方言である但馬弁が使われる。県南部の方言も、中国方言の影響を受けた播磨地域の播州弁、大阪弁の流れを汲む阪神地域の摂津弁、播州弁と摂津弁の中間的な方言で神戸市を中心に使われる神戸弁、京言葉の流れを汲む丹波弁、阿波弁などともつながりがある淡路島の淡路弁、と細かく分かれる。 郷土料理 経済産業大臣指定伝統的工芸品 丹波立杭焼(陶磁器、1978年) 出石焼(陶磁器、1980年) 大阪唐木指物(木工品、1977年) 豊岡杞柳細工(木工品、1992年) 播州三木打刃物(金工品、1996年) 播州そろばん(文具、1976年) 播州毛鉤(その他工芸品、1987年) 伝統工芸品 野球 阪神タイガース(西宮市:プロ野球セントラル・リーグ) 兵庫ブルーサンダーズ(三田市:関西独立リーグ) 三菱重工神戸・高砂硬式野球部(神戸市:社会人野球) 新日鐵住金広畑硬式野球部(姫路市:同上) 全播磨硬式野球団(播磨町:同上) サッカー ヴィッセル神戸(神戸市:Jリーグ) パナソニックエナジー洲本サッカー部(洲本市:関西サッカーリーグ) バンディオンセ加古川(加古川市:同上) 神戸フットボールクラブ(神戸市:同上) エストレラ姫路(姫路市) INAC神戸レオネッサ(神戸市:日本女子サッカーリーグ) ASハリマ アルビオン(姫路市:同上) アルベロ神戸(神戸市:関西女子サッカーリーグ) ラグビー 神戸製鋼コベルコスティーラーズ(神戸市:トップリーグ) JR西日本レイラーズ(神戸市:トップウェスト) 六甲ファイティングブル(関西クラブリーグ) アメリカンフットボール エレコム神戸ファイニーズ(神戸市:Xリーグ) アサヒ飲料チャレンジャーズ(尼崎市:同上) ゴールデンファイターズ(神戸市:X2リーグ) バレーボール JTマーヴェラス(西宮市:女子Vリーグ) 加盟は大阪府バレーボール協会。 久光製薬スプリングス(神戸市・佐賀県鳥栖市:同上) 加盟は久光製薬の本社がある佐賀県バレーボール協会。チームの練習拠点は、ダイエーオレンジアタッカーズの本拠であった神戸市西区にある。 兵庫デルフィーノ(尼崎市:男子) その他 西宮ストークス(西宮市:プロバスケットジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ) デウソン神戸(神戸市:フットサルFリーグ) ノーリツ女子陸上競技部(神戸市) 宝塚サニー新体操クラブ(宝塚市) 過去に兵庫県を本拠地としていたスポーツクラブ オリックス・バファローズ(プロ野球) 阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス時代は西宮市に、オリックス・ブルーウェーブ時代は神戸市にそれぞれ本拠を置いていた。大阪近鉄バファローズと合併して現在のオリックス・バファローズとなってからの2005年(平成17年)から3年間は、暫定処置として大阪府=大阪ドーム(京セラドーム大阪)とのダブルフランチャイズだったが、2008年(平成20年)(実質は2007年(平成19年))以後は大阪に一本化された。しかし、神戸を含む兵庫県のファン確保のため、年20試合程度は兵庫県内で準本拠地として開催。また、二軍も2016年まで神戸市北区に本拠地を置いていた。 神戸9クルーズ(神戸市:関西独立リーグ (初代)) 選手は兵庫ブルーサンダーズに移籍し、リーグ参加権は横浜市のフォレストホームに譲渡され神戸サンズとなった。 明石レッドソルジャーズ(明石市:同上) 神戸サンズ(神戸市・淡路島:同上) 姫路GoToWORLD(姫路市:BASEBALL FIRST LEAGUE) 上記3球団は正式には活動休止中である。 山陽クラウンズ(姫路市:プロ野球) 山陽電気鉄道が母体のプロ野球チームで、史上唯一の一軍を持たない独立した二軍球団だった。 ワールドファイティングブル(神戸市:ラグビートップリーグ) 2009年に休部した後、六甲シャークスが選手を受け入れて六甲ファイティングブルとして活動を再開するがトップウェスト残留は許可されなかった。 TASAKIペルーレFC(神戸市:女子サッカー) 神戸FCの女子部門が母体で、後に田崎真珠へ経営が移管され日本女子サッカーリーグに参加。2008年(平成20年)、田崎真珠の経営悪化によりリーグからの脱退と選手の移籍をもって解散した。 オレンジアタッカーズ(神戸市:女子バレーボール) 久光製薬鳥栖スプリングスと統合され久光製薬スプリングスとなった。 日光・神戸アイスバックス(神戸市:アイスホッケー) 栃木県日光市とともに、2005年度より神戸市をサブホームタウンとしていたが、運営会社の交代で2007年(平成19年)に神戸から撤退し、日光アイスバックスに戻る。しかし神戸での開催は継続されている。 兵庫県指定文化財一覧、近畿の史跡一覧#兵庫県も参照。 世界遺産 姫路城 国宝 姫路城 - 大天守、乾小天守、西小天守、東小天守、イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 一乗寺 - 三重塔 鶴林寺 - 太子堂、本堂 浄土寺 - 浄土堂 太山寺 - 本堂 朝光寺 - 本堂 一乗寺三重塔(国宝) 鶴林寺本堂(国宝) 浄土寺浄土堂(国宝) 朝光寺本堂 重要伝統的建造物群保存地区 北野町山本通(神戸市) 篠山(篠山市) 福住(篠山市) 出石(豊岡市) 北野町山本通 篠山 出石 景観形成地区 広域景観形成地域 星空景観形成地域 景観形成重要建造物等 景観形成地区(口銀谷) 景観形成重要建造物等(平福) 兵庫県公館(旧兵庫県本庁舎)(神戸市) 兵庫県立淡路島公園(淡路市) 兵庫県立淡路夢舞台国際会議場(淡路市) 兵庫県立有馬富士公園(三田市) 兵庫県立嬉野台生涯教育センター(加東市) 兵庫県立兎和野高原野外教育センター(香美町) 兵庫県立木の殿堂(香美町) 兵庫県立但馬やまびこの郷(朝来市) 兵庫県立総合体育館(西宮市) 兵庫県立文化体育館(神戸市) 兵庫県立海洋体育館(芦屋市) 兵庫県立芸術文化センター(西宮市) 兵庫県立尼崎青少年創造劇場「ピッコロシアター」(尼崎市) 兵庫県立こどもの館(姫路市) 兵庫県立但馬ドーム(豊岡市) 兵庫年輪の里(丹波市) 兵庫陶芸美術館(篠山市) 兵庫県立図書館(明石市) 兵庫県立いえしま自然体験センター(姫路市) 兵庫県立美術館(神戸市) 兵庫県立美術館 原田の森ギャラリー(神戸市) 人と防災未来センター(神戸市) 兵庫県立人と自然の博物館(三田市) 兵庫県立歴史博物館(姫路市) 兵庫県立武道館(姫路市) 兵庫県立六甲山自然保護センター(神戸市) 兵庫県立フラワーセンター(加西市) 兵庫県立西はりま天文台(佐用町) 兵庫県立西はりま天文台公園(佐用町) 兵庫県立明石公園(明石市) 兵庫県立明石西公園(明石市) 兵庫県立赤穂海浜公園(赤穂市) 兵庫県立高砂海浜公園(高砂市) 兵庫県立甲山森林公園(西宮市) 兵庫県立三木山森林公園(三木市) 兵庫県立コウノトリの郷公園(豊岡市) 兵庫県立一庫公園(川西市) 兵庫県立淡路香りの公園(淡路市) 兵庫県立但馬牧場公園(新温泉町) 兵庫県立播磨中央公園(加東市) 兵庫県立北播磨余暇村公園(多可町) 兵庫県立淡路佐野運動公園(淡路市) 兵庫県立考古博物館(播磨町) 兵庫県立三木総合防災公園(三木市) 兵庫県公館 兵庫県立美術館 兵庫県立赤穂海浜公園 兵庫県立三木総合防災公園(ビーンズドーム) 兵庫県は様々な景色を持つため、多くの映像産業に積極的に協力している。 サヨナラ(1957年、アメリカ) - 神戸港・大阪国際空港 隠し砦の三悪人(1958年) - 西宮市蓬莱峡 007は二度死ぬ(1967年、イギリス) - 神戸港・姫路城 影武者(1980年) - 姫路城 乱(1985年) - 姫路城 ブラック・レイン(1989年) - 神戸 べっぴんの町(1989年) - 神戸・芦屋 兜 KABUTO(1991年、アメリカ) - 姫路城 She's Rain(1993年) - 神戸〜芦屋〜西宮、主に阪急沿線 ミスター・ルーキー(2002年) - 阪神甲子園球場 リターナー(2002年) - 神戸大橋・関西電力姫路発電所他 ラストサムライ(2003年、アメリカ) - 書写山圓教寺 風のファイター(2004年、韓国) - 姫路城 ゴジラ FINAL WARS(2004年) - 神戸空港 交渉人 真下正義(2005年) - 神戸市営地下鉄 ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟(2006年)- 神戸空港・六甲山牧場・神戸市立須磨海浜水族園・布引ハーブ園、他 火垂るの墓(2008年)- 県内各地 ゾンビチャイルド(2009年) - 神戸 阪急電車(2011年)-宝塚市〜西宮市 (宝塚市において製作された映画作品については、以下も参照のこと) 宝塚映画制作所(東宝グループ):宝塚市(1938年 - 1983年)(宝塚映画制作所・制作作品一覧) 宝塚映像:宝塚市(1983年 - ) (西宮市、芦屋市において大正時代から戦前にかけて製作された作品については、以下も参照のこと) 甲陽撮影所:西宮市(1918年 - 1937年)(甲陽キネマ-東亜キネマ-極東映画-甲陽映画)(フィルモグラフィ) アシヤ映画製作所:芦屋市(1925年)(フィルモグラフィ) 夢千代日記(1980年代、NHK)-湯村温泉 大奥〜華の乱〜(2005年、フジテレビ) - 姫路城 時代劇などでは「姫路城」の映像を「江戸城」に見立てて使用している場合も多い。 優子と達也の阪神沿線物語(2014年) 阪神電気鉄道のテレビCMである。 ^ ただし、現在は全く演奏されておらず県では2014年までこの県民歌を制定した事実そのものを否定していた。2006年以降は非公式楽曲として主に「ふるさと兵庫」が演奏されている。 ^ ただし、美作国に該当する地域は吉野郡(美作国・岡山県)から佐用郡(播磨国・兵庫県)への転属という形を取っており、以降は播磨国に含むとする見解もある。 ^ 空港敷地の大半が兵庫県伊丹市に属している。 ^ TXN系列のない府県でも番組販売により放送されている『開運!なんでも鑑定団』、『ポケットモンスター』、『妖怪ウォッチ』など。 ^ “布く新憲法 ゆくては明かるし…幻の兵庫県民歌”. 神戸新聞. (2015年1月1日). http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201501/0007625977.shtml 2015年1月9日閲覧。 [リンク切れ] ^ “兵庫ってヒョーゴスラビア連邦 SNS投稿に反響”. 神戸新聞NEXT (神戸新聞社). (2018年8月25日). https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201808/0011576140.shtml 2018年10月13日閲覧。  ^ “ひょうごのため池”. 2014-03-17閲覧。 ^ “兵庫県の農業用ため池数は?”. 2014-03-17閲覧。 ^ 県民局・県民センター情報 - 兵庫県(2014年5月15日閲覧) ※自治体の記述序列は当該サイトに準拠。 ^ 推計人口 - 兵庫県 ^ 救急医療機関地図検索 - 兵庫県広域災害・救急医療情報システム ^ 『県別日本人気質』河出書房新社刊、1983年刊。 ^ 兵庫県/景観ガイドライン(2015年5月30日閲覧) 兵庫県出身の人物一覧 兵庫県を舞台にした作品 兵庫県高等学校一覧 はばタン - 兵庫県のPRマスコット 兵庫県の建築物・観光名所 兵庫県の自然景勝地 ふるさと兵庫50山 ひょうごの森百選 近畿の史跡一覧#兵庫県 兵庫県指定文化財一覧 兵庫県の城 日本の地理、日本の地域 行政 兵庫県ホームページ 観光 ひょうごツーリズムガイド", "令制国一覧 > 山陽道 > 播磨国 > 多可郡 日本 > 近畿地方 > 兵庫県 > 多可郡 多可郡(たかぐん)は、兵庫県(播磨国)の郡。 人口20,114人、面積185.19km²、人口密度109人/km²。(2018年10月1日、推計人口) 以下の1町を含む。 多可町 (たかちょう) 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 西脇市の大部分(明楽寺町・水尾町・落方町・上王子町・合山町・出会町・八坂町・岡崎町を除く) 多可町の大部分(八千代区大和を除く) 神崎郡神河町の一部(岩屋・越知・大畑・作畑・新田・杉・大山・猪篠) 風土記には託賀郡とある。 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地が存在。幕府領は谷町代官所・生野代官所が管轄。(4町120村) 幕末の知行  慶応4年 2月2日(1868年2月24日) - 京都守護職役知・幕府領の一部(下記8村を除く)が兵庫裁判所の管轄となる。 4月19日(1868年5月11日) - 幕府領の残部(大山中村・大山下村・猪篠村・岩屋村・越知村・大畑村・作畑村・福田新田村)が府中裁判所の管轄となる。 5月23日(1868年7月12日) - 兵庫裁判所の管轄地域が兵庫県の管轄となる。 7月29日(1868年9月15日) - 府中裁判所の管轄地域が久美浜県の管轄となる。 明治2年8月10日(1869年9月15日) - 久美浜県の管轄地域が生野県の管轄となる。 明治3年(1870年) 11月 - 生野県の管轄地域が兵庫県の管轄となる。 田安徳川家領・一橋徳川家領が兵庫県の管轄となる。 明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が古河県、尼崎県、三草県、忍県の管轄となる。 11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により、全域が姫路県の管轄となる。 11月9日(1871年12月20日) - 飾磨県の管轄となる。 明治5年(1872年)(4町117村) 岩屋村・越知村が合併して越岩村となる。 大畑村・作畑村・福田新田村が合併して福畑村となる。 明治8年(1875年)(4町113村) 岩座神村・多棚釜村・多田村が合併して多神村となる。 上村・用村・平野村が合併して富吉村となる。 西仙寺が西田井村に合併。 明治9年(1876年)(4町102村) 8月21日 - 第2次府県統合により兵庫県の管轄となる。 下三原村・下三原村・仕出原村・下野間村・中野間村が合併して貴船村となる。 坂本村(現・多可町天船)・中村・横屋村・下村が合併して豊谷村となる。 門田村・赤坂村・俵田村が合併して豊谷村となる。 大山中村・大山下村が合併して大山村となる。 別所村が比延村に合併。 明治10年(1877年)(4町101村) 岩鼻新田村が上比延村に合併。 塚口新田村が塚口村に、西林寺が坂本村(現・西脇市)にそれぞれ改称。 明治11年(1878年) - 奥荒田村・的場村・寺内村(現・多可町)・西脇村(現・多可町)・山野部村が合併して福原村となる。(4町97村) 明治12年(1879年)1月8日 - 郡区町村編制法の兵庫県での施行により、行政区画としての多可郡が発足。郡役所が中村町に設置。 明治13年(1880年)(4町86村) 奥豊部村・杉原村が合併して杉部村となる。 門村・三谷村・市原村が合併して門三原村となる。 西山村・轟村・山口村・丹治村が合併して大河村となる。 山寄上村・鳥羽村・清水村が合併して清島村となる。 大袋村・箸荷村・中島新村・観音寺村が合併して大箸村となる。 明治15年(1882年) - 大山村・猪篠村の所属郡が神東郡に変更。(4町84村) 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。郡役所の所在地が中村となる。(10村) 中村 ← 中村町、茂利村、奥中村、徳畑村、森本村、坂本村、安坂村、下曽我井村、西安田村、中安田村、東安田村、糀屋村、間子村、岸上村、鍛冶屋村、田野口村、牧野新町、天田村、東山村、高岸村、安楽田町、門前村(現・多可町) 松井庄村 ← 福原村、熊野部村、豊部村、多神村(現・多可町) 杉原谷村 ← 大河村、大箸村、門三原村、杉部村、清島村(現・多可町) 野間谷村 ← 貴船村、天船村、豊谷村、大屋村(現・多可町) 日野村 ← 西田井村、富田村、郷之瀬村、小坂村、大木村、前島村、市原村、羽山村、富吉村、上野中村(現・西脇市) 重春村 ← 野村、板波村、平野新田村、谷村、高田井村、和田村、高松山村、和布新田村(現・西脇市) 津万村 ← 津万町、大垣内村、蒲江村、寺内村、島村、大野村、坂本村、上戸田村、下戸田村、上野村、西脇村、西島村(現・西脇市) 比延庄村 ← 比延村、上比延村、下比延村、堀村、塚口村、中畑村、奥畑村、高島村(現・西脇市) 黒田庄村 ← 喜多村、大門村、津万井村、岡村、福地村、大伏村、門柳村、前坂村、黒田村、小苗村、船町村、田高村、石原村(現・西脇市) 越知谷村 ← 越岩村、福畑村(現・神崎郡神河町) 明治29年(1896年) 4月1日 - 郡制の施行のため、越知谷村の所属郡が神崎郡に変更。(9村) 7月1日 - 郡制を施行。 大正6年(1917年)11月1日 - 津万村が町制施行・改称して西脇町となる。(1町8村) 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 大正13年(1924年)4月1日 - 中村が町制施行して中町となる。(2町7村) 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 昭和27年(1952年)4月1日 - 西脇町・日野村・重春村・比延庄村が合併して西脇市が発足し、郡より離脱。(1町4村) 昭和29年(1954年)3月25日 - 野間谷村が加西郡大和村と合併して八千代村が発足。 昭和30年(1955年)1月1日 - 松井庄村・杉原谷村が合併して加美村が発足。(1町3村) 昭和35年(1960年)1月1日(4町) 加美村が町制施行して加美町となる。 八千代村が町制施行して八千代町となる。 黒田庄村が町制施行して黒田庄町となる。 平成17年(2005年) 10月1日 - 黒田庄町が西脇市と合併し、改めて西脇市が発足、郡より離脱。(3町) 11月1日 - 中町・加美町・八千代町が合併して多可町が発足。(1町) 自治体の変遷  ^ 領主から年貢免除の特権を与えられた土地。 ^ 右記のほか篠原新田が記載されているが詳細不明。本項では村数に数えない。 ^ 記載は「杉原・市原村」。 ^ a b c 記載は天船を冠称。 角川日本地名大辞典 28 兵庫県 旧高旧領取調帳データベース 『多可郡誌』 兵庫県多可郡教育会、1923年。", "令制国一覧 > 畿内 > 摂津国 > 武庫郡 日本 > 近畿地方 > 兵庫県 > 武庫郡 武庫郡(むこぐん)は兵庫県(摂津国)にあった郡。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね下記の区域にあたる。 尼崎市の一部(東海道本線以南の蓬川以西、南武庫之荘十二丁目、同十一丁目、同四丁目、同五丁目、同一丁目、武庫之荘東一丁目、武庫之荘本町以西および武庫之荘三丁目・水堂町四丁目・西立花二丁目・同三丁目の各一部) 西宮市の大部分(山口町各町・塩瀬町各町および内包する各町を除く) 宝塚市の一部(武庫川以南) 『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領は谷町代官所が管轄。(1町49村) 慶応4年 2月2日(1868年2月24日) - 幕府領が兵庫裁判所の管轄となる。 5月23日(1868年7月12日) - 兵庫裁判所の管轄地域が兵庫県の管轄となる。 明治3年(1870年)3月 - 名古屋藩領が兵庫県の管轄となる。 明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が尼崎県、篠山県の管轄となる。 11月20日(1871年12月31日) - 第1次府県統合により、全域が兵庫県の管轄となる。 明治初年 - 平左衛門新田が鳴尾村に合併。(1町48村) 明治5年(1872年) - 神尾村の旧・旗本領(通称・神呪村)と旧・篠山藩領が統合して神呪寺村となる。 明治12年(1879年)1月8日 - 郡区町村編制法の兵庫県での施行により、行政区画としての武庫郡が発足。郡役所が西宮鞍掛町に設置。 明治13年(1880年)9月 - 郡役所が菟原郡役所と統合のうえ改称して「武庫菟原郡役所」となる。 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。▲は飛地を除く。△は飛地のみ。特記以外は現・西宮市。(1町9村) 西宮町 ← 西宮町、△芝村、△中村、△越水村、△守具村、△越木岩新田、△津門村 今津村 ← 今津村、▲津門村、△西宮町 鳴尾村 ← 鳴尾村、小松村、小曽根村、上田新田 大庄村 ← 西新田村、東新田村、道意新田、中浜新田、又兵衛新田、西大島村、東大島村、浜田村、今北村(現・尼崎市) 武庫村 ← 常吉村、常松村、▲時友村、友行村、東武庫村、西武庫村、生津村、西富松村、守部村、▲西昆陽村、武庫庄村、川辺郡△寺本村(現・尼崎市) 良元村 ← 小林村、伊孑志村、蔵人村、鹿塩村(現・宝塚市) 甲東村 ← ▲門戸村、上ヶ原新田村、段上村、上大市村、下大市村、樋口新田、神呪寺村、△広田村 大社村 ← ▲中村、▲広田村、▲越水村、▲守具村、▲越木岩新田、鷲林寺新田、柏堂新田、△門戸村、△芝村、△西宮町 瓦木村 ← 上瓦林村、下瓦林村、瓦林村、高木村、荒木新田、助兵衛新田、下新田村、五郎右衛門新田村 芝村 ← ▲芝村、△西宮町、△越水村、△広田村、△中村 川面村・見佐村が川辺郡小浜村の、時友村・西昆陽村の各飛地が川辺郡稲野村のそれぞれ一部となる。 明治29年(1896年) 4月1日 - 郡制の施行のため、武庫郡・菟原郡・八部郡の区域をもって、改めて武庫郡が発足。下記の町村が本郡の所属となる。(2町19村) 旧・菟原郡(1町8村) - 精道村(現・芦屋市)、本庄村、本山村、魚崎村(現・神戸市東灘区)、住吉村(現・神戸市東灘区、北区)、御影町(現・神戸市東灘区)、六甲村(現・神戸市灘区、北区)、都賀浜村、西灘村(現・神戸市灘区) 旧・八部郡(2村) - 須磨村(概ね現・神戸市須磨区)、山田村(現・神戸市北区) 7月1日 - 郡制を施行。 明治45年(1912年)4月1日 - 須磨村が町制施行して須磨町となる。(3町18村) 大正3年(1914年) 5月1日 - 魚崎村が町制施行して魚崎町となる。(4町17村) 7月1日 - 都賀浜村が町制施行・改称して西郷町となる。(5町16村) 大正9年(1920年)4月1日 - 須磨町が神戸市に編入。(4町16村) 大正10年(1921年)9月1日 - 今津村が町制施行して今津町となる。(5町15村) 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 大正14年(1925年)4月1日 - 西宮町が市制施行して西宮市となり、郡より離脱。(4町15村) 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 昭和4年(1929年)4月1日(3町13村) 六甲村の一部(高羽の一部)が御影町に、残部(八幡・新生・水車新田・徳井・篠原および高羽の残部)が神戸市に編入。 西郷町・西灘村が神戸市に編入。 昭和8年(1933年)4月1日 - 今津町・芝村・大社村が西宮市に編入。(2町11村) 昭和10年(1935年)時点での当郡の面積は193.66平方km、人口は182,979人(男91,135人・女91,844人)。 昭和15年(1940年)11月10日 - 精道村が市制施行・改称して芦屋市となり、郡より離脱。(2町10村) 昭和16年(1941年)2月1日 - 甲東村が西宮市に編入。(2町9村) 昭和17年(1942年) 2月1日 - 大庄村・武庫村が尼崎市に編入。(2町7村) 5月5日 - 瓦木村が西宮市に編入。(2町6村) 昭和22年(1947年)3月1日 - 山田村が神戸市(兵庫区)に編入。(2町5村) 昭和25年(1950年) 4月1日 - 御影町・魚崎町・住吉村が神戸市に編入。同区域をもって東灘区が発足。(4村) 10月10日 - 本山村・本庄村が神戸市(東灘区)に編入。(2村) 昭和26年(1951年)4月1日 - 鳴尾村が西宮市に編入。(1村) 昭和29年(1954年)4月1日 - 良元村が川辺郡宝塚町と合併して宝塚市となり、郡より離脱。同日武庫郡消滅。 自治体の変遷  ^ 西宮町・《西宮/町方/浜田》立会に分かれて記載。 ^ 家老石河氏領。 ^ この時点では西宮鞍掛町、西宮浜久保町、西宮社家町、西宮浜ノ町、西宮図子町、西宮釘貫町、西宮馬場町、西宮浜脇町、西宮浦ノ町、西宮久保町、西宮宮武町、西宮今在家町、西宮浜鞍掛町、西宮中ノ町、西宮石在町、西宮浜東ノ町一丁目、西宮浜東ノ町二丁目、西宮浜東ノ町三丁目、西宮東町、西宮与古道町、西宮浜石才町、西宮市庭町が存在。 ^ a b c 西新田村のうち。本項では村数に数えない。 ^ a b 西宮町のうち。本項では村数に数えない。 ^ a b 上瓦林村のうち。本項では村数に数えない。 ^ 昭和10年国勢調査による。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。 角川日本地名大辞典 28 兵庫県 旧高旧領取調帳データベース 消滅した郡の一覧 武庫川", "令制国一覧 > 山陽道 > 播磨国 > 美嚢郡 日本 > 近畿地方 > 兵庫県 > 美嚢郡 美囊郡(みのうぐん)は兵庫県(播磨国)にあった郡。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、三木市および神戸市北区の一部(淡河町各町)にあたる。 地名の由来は履中天皇が志深(志染)を訪れた際に「川の流れ(水流=みながれ)が大変美しい」と言ったことから「みなぎ」と名付けられた(『播磨国風土記』)とも、神功皇后が君が峰で休憩した際、地元から壺に入れた酒を献上したことから美壺(みつぼ)が変じて美囊(みのう)となったとも伝えられている。近世までは「みなぎ」と呼ばれた。 現在の市名と同じく三木郡と称することもある。 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地が存在。幕府領は谷町代官所が管轄。(2町147村) 幕末の知行  慶応4年 2月2日(1868年2月24日) - 幕府領・京都守護職役知・旗本領の一部(久留氏知行の門前村・古市村・山崎村・熊谷村・畑枝村・安場村・二瀬川村)が兵庫裁判所の管轄となる。 5月23日(1868年7月12日) - 兵庫裁判所の管轄地域が兵庫県の管轄となる。 明治元年 9月23日(1868年11月7日) - 遠江浜松藩が上総鶴舞藩に転封。 明治2年(1869年) - 旗本領の残部(一柳氏知行)が兵庫県の管轄となる。 明治初年(2町147村) 高篠村の一部(高篠新田)が分立して高畑村となる。 佐野村・大柿村が合併して豊地村となる。 明治3年(1870年)(2町145村) 中石野村・上石野村が合併して石野村となる。 行力村が桃坂村に合併。 明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が明石県、壬生県、古河県、鶴舞県、三草県の管轄となる。 11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により、全域が姫路県の管轄となる。 11月9日(1871年12月20日) - 飾磨県の管轄となる。 明治5年(1872年) - 下記の各村の統合が行われる。(2町124村) 豊岡村 ← 奈良井村、沖村新田、沖村 福吉村 ← 小屋寺村、門前村 垂穂村 ← 鍛冶分村、谷口村、上芝原村、下芝原村、法輪寺 中里村 ← 原坂村、下南村、荻谷村 瑞穂村 ← 上南村、入野村、小二谷村、大二谷村 渡瀬村 ← 下渡瀬村、上渡瀬村 西奥村 ← 西畑村、奥畑村 米田村 ← 箱木村、箕畑村 大沢村 ← 南大沢村、西大沢村 稲田村 ← 竹原村、宮脇村 金会村 ← 桃尾村、二瀬川村 吉安村 ← 吉谷村、安場村 楠原村 ← 早田村、永門前村 水上村 ← 栃谷村、北大門村 東畑村(現・三木市)が改称して東田村となる。 明治9年(1876年)(2町116村) 8月21日 - 第2次府県統合により兵庫県の管轄となる。 志殿村・北畑村(現・三木市)が合併して殿畑村となる。 上和田村・四合谷村が合併して細目村となる。 高男寺村・池野村が合併して窟屋村となる。 上村・大谷山村が合併して御坂村となる。 大戸田村・小戸田村が合併して戸田村となる。 西山村が久次村に、大殿林村・中島村が大島村にそれぞれ合併。 明治12年(1879年)(2町107村) 1月8日 - 郡区町村編制法の兵庫県での施行により、行政区画としての美囊郡が発足。郡役所が三木町に設置。 西下村・東下村が合併して下村となる。 南萩原村・北萩原村が合併して萩原村となる。 石峰寺村・撫石村が合併して神影村となる。 中村が淡河町に合併。 明治16年(1883年)(2町111村) 野呂谷新田村・武士山新田が合併して新田村となる。 山口新田村・山崎村・熊谷村・西浦村が合併して富岡村となる。 宮村・吉田村(現・三木市吉川町前田)・脇田村が合併して前田村となる。 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。特記以外は全域が現・三木市。(1町10村) 三木町(単独町制) 別所村 ← 小林新田、興治新田、高木村、東這田村、西這田村、花尻村、石野村、下石野村、正法寺村、和田村、近藤新田 久留美村 ← 鳥町村、大村、平田村、加佐村、跡部村、久留美村、平井村、長屋村、宿原村、与呂木村 志染村 ← 吉田村、細目村、安福田村、窟屋村、志染中村、井上村、御坂村、三津田村、戸田村、広野新開 淡河村 ← 下村、淡河町、萩原村、木津村、南僧尾村、北僧尾村(現・神戸市北区) 上淡河村 ← 行原村、東畑村、北畑村、中山村、野瀬村、神田村、神影村(現・神戸市北区) 奥吉川村 ← 稲田村、奥谷村、市野瀬村、金会村、福吉村、豊岡村、東田村、楠原村、水上村、毘沙門村 中吉川村 ← 上松村、長谷村、田谷村、湯谷村、法光寺、山上村、渡瀬村、米田村、貸潮村、鍛冶屋村、大沢村、大畑村、吉安村、西奥村 北谷村 ← 上中村、富岡村、古市村、有安村、実楽村、福井村、畑枝村、上荒川村、新田村、古川村、前田村 口吉川村 ← 桃坂村、蓮花寺、西中村、東中村、馬場村、東村、保木村、桾原村、殿畑村、南畑村、善祥寺村、久次村、里脇村、大島村、笹原村、槇村、吉祥寺 細川村 ← 脇川村、豊地村、金屋村、高篠村、桃津村、増田村、垂穂村、中里村、瑞穂村、高畑村、西村、細川中村 明治29年(1896年)7月1日 - 郡制を施行。 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 昭和26年(1951年)3月15日 - 三木町が久留美村を編入。(1町9村) 昭和29年(1954年) 6月1日 - 三木町・口吉川村・別所村・細川村が合併して三木市が発足し、郡より離脱。(6村) 7月1日 - 志染村が三木市と合併し、改めて三木市が発足。(5村) 昭和30年(1955年)7月1日 - 奥吉川村・中吉川村・北谷村が合併して吉川町が発足。(1町2村) 昭和32年(1957年)7月1日 - 淡河村・上淡河村が合併し、改めて淡河村が発足。(1町1村) 昭和33年(1958年)2月1日 - 淡河村が神戸市(兵庫区)に編入。(1町) 平成17年(2005年)10月24日 - 吉川町が三木市に編入。同日美囊郡消滅。 自治体の変遷  ^ 領主から年貢免除の特権を与えられた土地。 ^ 記載は小屋村。 ^ a b c 「旧高旧領取調帳」には記載なし。 ^ a b 「旧高旧領取調帳」では兵庫県と記載されているため「角川」による。ただし「角川」では西中村も含むが、「旧高旧領」では旗本領となっており、詳細は不明。 ^ 記載は大谷山領。 ^ a b 記載は淡河を冠称。 ^ 記載は石峰寺。 ^ 記載は竹原町。 ^ 記載は上吉川を冠称。 ^ 高木町(旗本領)・大村町・○前田町・●平田町・加佐町・前田町侍屋敷・●平山町・平山町侍屋敷・長屋町・●○大塚町・大塚町侍屋敷(明石藩領)に分かれて記載。平田町には「三木町免税」との記載もあり。 ^ この時点では三木福井町、三木府内町、三木大塚町が存在。 角川日本地名大辞典 28 兵庫県 旧高旧領取調帳データベース 消滅した郡の一覧", "令制国一覧 > 山陽道 > 播磨国 > 明石郡 日本 > 近畿地方 > 兵庫県 > 明石郡 明石郡(あかしぐん)は兵庫県(播磨国)にあった郡。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 神戸市 垂水区、西区の全域 須磨区の一部(菅の台・西落合・神の谷・弥栄台・緑台および竜が台・友が丘・北落合の各一部) 明石市の大部分(二見町各町を除く) 明治初年時点で、全域が播磨明石藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている村は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地が存在。(1町144村) 明石、塩屋村、下畑村、●滑村、東名村、西名村、東垂水村、○西垂水村、山田村、○大蔵谷村、●中庄村、●大明石村、井出村、生田村、漆山新田村、●多聞村、長坂村、小寺村、●中山村、奥畑村、布施畑村、●門前村、東皆発村、下皆発村、脇村、吹上新田村、永井村、○池上村、北別府村、南別府村、白水村、東河原村、新方村、池野村、西河原村、今津村、二屋村、高津橋村、水谷村、松本村、菅野村、谷口村、●如意寺、栃木村、長谷村、池谷村、友清村、福谷村、○寺谷村、木見村、木津村、小村、栄村、押部村、●福住村、西村、○細田村、●性海寺、●近江寺、高和村、養田村、鴨谷村、金屋村、繁田村、大畑村、宮前村、下村、●福中村、●芝崎村、向井村、慶明村、大野村、田中村、中村、居住村、●小山村、新村、上津橋村、下津橋村、吉田村、森友村、○王子村、●○船上村、○林村、東松江村、西松江村、藤江村、○谷八木村、八木村、東江井村、西江井村、東島村、西島村、森村、○中尾村、浜谷村、●西岡村、山川村、清水新田村、清水村、長池村、浜西村、●長坂寺村、金ヶ崎村、福田村、大久保町、大久保町新田村、森田村、小久保村、○和坂村、和坂新田村、鳥羽村、鳥羽新田村、松陰村、松陰新田村、○大窪村、山下村、西脇村、秋田村、福吉村、竜ヶ岡村、赤坂村、野中下村、境新村、野中上村、天ヶ岡村、印路村、西戸田村、常本村、黒田村、和田村、南村、●東村、田井村、神納村、古新田村、新々田村、池田村、池下村、吉生村、広谷村、北村、山西村、小神村、五百蔵新村、勝成新村 明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により明石県の管轄となる。 11月2日(1871年12月13日) - 姫路県の管轄となる。 11月9日(1871年12月20日) - 飾磨県の管轄となる。 明治初年(2町133村) 滑村・東名村・西名村・中山村・奥畑村が合併して名谷村となる。 東松江村・西松江村が合併して松江村となる。 浜谷村・山川村が西岡村に、長池村が長坂寺村に、清水新田村・浜西村が清水村に、大久保町新田村が大久保町にそれぞれ合併。 池野村が改称して上池村となる。 明治8年(1875年)(2町129村) 東江井村・西江井村・東島村が合併して江井島村となる。 西島村・森村が合併して魚住村となる。 山下村が大窪村に合併。 明治9年(1876年) 8月21日 - 第2次府県統合により兵庫県の管轄となる。 印南野の原野より小束野村が起立。(2町130村) 明治10年頃 - 下記の村の統合等が行われる。(2町109村) 潤和村 ← 井出村、白水村、東河原村 有瀬村 ← 生田村、漆山新田村 前開村 ← 門前村、東皆発村、下皆発村 上脇村 ← 脇村、池上村 井吹村 ← 吹上新田村、永井村 別府村 ← 北別府村、南別府村 堅田村 ← 鴨谷村、金屋村 中津村 ← 中村、上津橋村 古郷村 ← 秋田村、福吉村、竜ヶ岡村、境新村 岩岡村 ← 赤坂村、野中上村、天ヶ岡村、古新田村[南古新田村] 宝勢村 ← 神納村、新々田村、古新田村[北古新田村] 紫合村 ← 池下村、吉生村 如意寺が谷口村に合併。 性海寺が高和村に合併。 山西村が広谷村に合併。 近江寺が改称して近江村となる。 明治12年(1879年)1月8日 - 郡区町村編制法の兵庫県での施行により、行政区画としての明石郡が発足。郡役所が明石に設置。 明治15年頃 - この頃までに和坂新田村が和坂村に、鳥羽新田村が鳥羽村にそれぞれ合併。(2町107村) 明治10年代 - 中庄村が改称して当津村となる。 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。特記以外は全域が現・神戸市西区。(1町11村) 明石町 ← 明石、当津村、王子村、大明石村、大蔵谷村(現・明石市) 垂水村 ← 東垂水村、山田村、西垂水村、多聞村、塩屋村、下畑村(現・神戸市垂水区)、名谷村(現・神戸市須磨区、垂水区) 伊川谷村 ← 前開村、小寺村、布施畑村、別府村、潤和村、有瀬村、井吹村、上脇村、長坂村 玉津村 ← 高津橋村、今津村、水谷村、西河原村、新方村、上池村、下津橋村、田中村、居住村、小山村、新村、二屋村、吉田村、森友村 櫨谷村 ← 長谷村、寺谷村、池谷村、友清村、栃木村、福谷村、谷口村、菅野村、松本村 押部谷村 ← 福住村、木津村、木見村、小村、押部村、栄村、近江村、西村、細田村、高和村、養田村、和田村 平野村 ← 下村、常本村、西戸田村、印路村[一部]、宮前村、大畑村、福中村、向井村、芝崎村、大野村、慶明村、中津村、堅田村、繁田村、黒田村 神出村 ← 田井村、小神村、五百蔵新村、勝成新村、東村、南村、北村、小束野村、広谷村、紫合村、池田村、宝勢村 岩岡村 ← 岩岡村、古郷村、野中下村、印路村[一部]、西脇村[一部] 魚住村 ← 中尾村、西岡村、長坂寺村、清水村、金ヶ崎村(現・明石市) 大久保村 ← 魚住村、江井島村、大久保町、福田村、大窪村、松陰村、松陰新田村、森田村、八木村、谷八木村、西脇村[一部](現・明石市) 林崎村 ← 松江村、藤江村、林村、鳥羽村、小久保村、和坂村、船上村(現・明石市) 明治29年(1896年)7月1日 - 郡制を施行。 大正8年(1919年) 11月1日 - 明石町が市制施行して明石市が発足し、郡より離脱。(11村) 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 昭和3年(1928年) 11月1日 - 垂水村が町制施行して垂水町が発足。(1町10村) 昭和13年(1938年)4月1日 - 大久保村が町制施行して大久保町が発足。(2町9村) 昭和16年(1941年)7月11日 - 垂水町が神戸市(須磨区)に編入。(1町9村) 昭和17年(1942年)2月1日 - 林崎村が明石市に編入。(1町8村) 昭和22年(1947年)3月1日 - 伊川谷村・櫨谷村・押部谷村・玉津村・平野村・神出村・岩岡村が神戸市(垂水区)に編入。(1町1村) 昭和26年(1951年)1月10日 - 大久保町・魚住村が明石市に編入。同日明石郡消滅。兵庫県内では1896年の郡の再編以来、初の郡消滅となった。 自治体の変遷  ^ 領主から年貢免除の特権を与えられた土地。 ^ 明石城下各町の総称。無高のため「旧高旧領取調帳」には記載なし。本項では便宜的に1町として数える。 ^ a b c d e 記載は神出を冠称。 ^ この時点では明石西本町、明石東本町、明石中町、明石西魚町、明石東魚町、明石材木町、明石樽屋町、明石細工町、明石相生町、明石鍛冶屋町、明石船町、明石戎町、明石新浜、明石西新町が存在。 角川日本地名大辞典 28 兵庫県 旧高旧領取調帳データベース 消滅した郡の一覧" ]
ABC01-02-0067
英語では「JET RUG」という、海外旅行に行ったときによく起こる症状を、一般に「何ボケ」というでしょう?
時差ぼけ
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[ "時差ぼけ", "睡眠不足", "睡眠日誌", "アパシー", "入眠潜時" ]
[ "時差ぼけ(じさぼけ、英語: jet lag)とは、数時間以上の時差がある地域間を飛行機などで短時間で移動した際に起こる、心身の不調状態を称する一般通称。それが著しい苦痛や体調不良を伴う場合は時差症候群または非同期症候群と呼ぶ。 人間の身体は外的刺激(光の明暗、社会的な刺激)により生活リズムを刻んでいるが、旅行・出張などによる長距離移動を短時間に行った際、周囲で発生している外因性リズムと身体に刻まれている生活リズム(内因性リズム)に同期のずれが生じる。この同期のずれが修正されるまでの期間、身体に発生する不調状態を総じて「時差ぼけ」と呼ぶ。 時差ぼけが解消されるまでの期間(同期のずれが修正されるまでの期間)は個人差・地域差があり、一般的に年齢が若く、体力のある者の方が解消までの期間は短い。また、人間の体内時計(概日リズム)は24時間よりも長いリズムに対応する傾向があるため、一日が伸びる東から西(例:日本からヨーロッパ)へ移動した場合、一日が短くなる西から東(例:日本からアメリカ)へ移動する場合に比べ、約20%早く時差ぼけが解消される。 睡眠障害 - 約1週間程度で解消されるのが一般的 胃腸障害 昼夜逆転生活 疲労による集中力・判断力の低下 吐き気 頭痛 通常の睡眠パターンとなるために4-6日を要し、食事、午前中3時間の明るい光、メラトニンが用いられている。有用だという証拠はないが、旅行者は現地での夕方に0.5mgのメラトニンが役立つといい、5mgでは睡眠を促す。食事ではカフェイン、疲労回復のための栄養、眠気を強めるためのLトリプトファンの服用などだが、その有効性を裏付けるデータは非常に限られている。 別のレビューは、時差ぼけによる睡眠の位相の防止に対するメラトニンの使用のための弱い推奨を見出しており、2014年時点での証拠からは推奨には至らず、さらなる長期のランダム化比較試験が必要である。 ^ a b c Cingi C, Emre IE, Muluk NB (2018年5月). “Jetlag related sleep problems and its management: A review”. Travel Med Infect Dis. doi:10.1016/j.tmaid.2018.05.008. PMID 29787851.  ^ Costello RB, Lentino CV, Boyd CC, et al. (2014年11月). “The effectiveness of melatonin for promoting healthy sleep: a rapid evidence assessment of the literature”. Nutr J: 106. doi:10.1186/1475-2891-13-106. PMC 4273450. PMID 25380732. https://doi.org/10.1186/1475-2891-13-106.  時差ぼけのメカニズム Lufthansa - 時差ぼけ", "睡眠不足(すいみんぶそく、Sleep deprivation)とは、充分な睡眠をとれていない状態であり、慢性、急性の両者が存在する。慢性的な睡眠不足は、疲労、日中の眠気、作業精度低下、体重減少もしくは増加を引き起こしえる。これは脳や認知機能に影響を起こしえる。しかし睡眠不足は逆説的には、エネルギーを増加させ覚醒を促すため、うつ病の治療法としても用いられる(断眠療法)。 急性睡眠不足と、慢性睡眠不足の影響を比較した研究はわずかである。長期間にわたる睡眠の完全な欠如は、ヒトでは確認されていない(致死性家族性不眠症を除く)。マイクロスリープは避けられないようである。動物実験では、長期間の睡眠不足は死を引き起こしえる。 一般的に、睡眠不足は以下をもたらす 筋肉の痛み 混乱、記憶喪失、記憶欠如 抑うつ 偽りの記憶の形成 手の振戦 頭痛 倦怠感 麦粒腫 眼孔周囲の膨らみ(俗に\"bags under eyes\"、eye bags) 血圧増加 ストレスホルモンの増加 糖尿病リスクの増加 線維筋痛症リスクの増加 いらだち 眼球振盪 (意識しない眼球の急速運動) 肥満 てんかん 子供のかんしゃく 暴力行動 あくび 躁病 以下に類似した症状 ADHD 精神病 離人パーソナリティ障害 睡眠不足の運転への危険性は、全米睡眠医学学会のレポートによれば、重大な自動車傷害のうちの、5つに1つは運転手の疲労に関連しているとされ、毎日80,000人の運転手が居眠りし、毎年睡眠に関連して25万件の事故が起こり、米国国道交通安全局は、関連する交通事故は10万件近くと推定している。同局は、道を下りて、眠気を緩和するための15分または20分の昼寝を推奨している。 睡眠不足は尋問の手段として使用することができ、この手段は拷問とみなされるか否かについては、裁判となったことがある。 帝政ロシアにおいては政治犯の拷問手段として用いられ、ロシア革命後のソ連にも受け継がれた。 研究においては、睡眠不足はうつ病の治療の可能性を秘めている。 うつ病患者は、レム睡眠が発生する前に急速眼球運動が起こっている傾向があるため、レム睡眠発生中に脳波をモニタリングし、その最中に起床させることで、抑うつ効果を緩和する治療効果があるようであった。断眠療法をすることで、患者の60%においては即座に回復したが、ほとんどの場合は翌日に再発している。この効果は 脳由来神経栄養因子(BNDF)の増加と関連してる。これはクロノタイプが、人々の睡眠不足の気分への影響と関係しているとされており、すなわち、睡眠不足により朝を好む人はよりうつ病になり、一方、夜が好みの者は気分の改善を示す。2014年のヒトへの代謝総合評価によれば、断眠療法によって、27個の代謝産物は起床後24時間後に増加し、さらにセロトニン、トリプトファン、タウリンらは抗うつ効果に寄与されうることが見いだされた 再発率は、断眠療法と投薬を組み合わせることによって減少できる。多くの三環系抗うつ薬は、レム睡眠を抑制するため、気分と睡眠との関連しうる証拠がある。同様にトラニルシプロミンは、充分な用量でレム睡眠を抑制することが強く示されている。 いくつかの一般的な睡眠障害は、不眠症に対する認知行動療法(CBT-I)に反応することが示されている。これは睡眠ホメオタシスを回復させ、正常な睡眠効率(sleep efficiency)を促進するために、睡眠制限(sleep restriction)のプログラムが組み込まれている。 6種の睡眠異常の1つである不眠症は、成人人口の21-37%に影響している。 その症状は、日中の過度の眠気、睡眠についての不満や心配、注意・集中・記憶に関する問題、極端な気分の変化または過敏性、 エネルギーやモチベーション欠如、学校や職場におけるパフォーマンスの低下、緊張性頭痛や腹痛などが認識されている。 不眠症は、一次および二次、または併存した不眠症に分類することができる。 原発性不眠症(Primary insomnia)とは、医学的、精神的、環境的原因に起因しない睡眠障害である 原発性不眠症は主に3つに分類され、精神生理学的、特発性不眠症、睡眠状態誤認(逆説的不眠症)が挙げられる。精神生理学的不眠症とは、不安誘発性のものである。特発性不眠症とは、一般的に小児期に始まり、生涯続くものである。その原因は、睡眠覚醒サイクルを制御する脳の一部における神経化学的問題であり、睡眠不足信号または過活動性覚醒信号のどちらが生じていることが示唆されている。睡眠状態誤認(Sleep state misperception)とは、診断上は充分な睡眠を取っているのだが、睡眠が不充分であると誤って認識する状態である。 二次不眠症(Secondary insomnia)または併存不眠症は、他の医学的、神経学的、心理的および精神医学的状態と同時に起こる。原因は必ずしも判明しているとは限らない。 睡眠喪失と精神障害の症状との因果関係については、気分障害患者において最も広く研究されている。双極性障害患者が躁に移行する際には、しばしば不眠症状の期間が先行するため、睡眠不足は彼らを躁状態に誘発することが示されている。睡眠不足は、躁病の発生における最終的な共通経路である可能性がある。また睡眠喪失は、躁状態の沈静化および補強因子の両方であるとされる。 米国睡眠財団は、カレッジとユニバーシティの学生らは毎晩の睡眠は平均6時間以下であるという1996年の論文を取り上げている。この研究では、70.6%の学生は8時間未満しか睡眠を得ておらず、27%の学生については少なくとも1回の睡眠障害のリスクがあると報告している。睡眠不足は、大学生のストレスや社会活動に適応が求められる、初年度の大学生に共通している。 台湾国立中正大学の心理学科が実施した調査では、新入生はその週に最低限の睡眠しか取っていなかったことを結論付けている。 1997年のミネソタ大学の研究では、午前7時15分に登校した学生と午前8時40分に登校した学生を比較した。それによれば8時40分に登校した学生は、より早く登校した学生よりも成績がよく、また平日の夜により長く眠っていることが分かった。米国の高校生の4人に1人は、最低でも週に1回は授業中に眠っていると認めている。 人間の思春期には典型的に、概日リズムと、それに従って睡眠パターンが著しく変化することが知られている。脳波研究によれば思春期では、ノンレム睡眠における深い睡眠(ステージ4)の50%減少と、デルタ波のピーク振幅の75%減少が示された。学校のスケジュールは、しばしば、睡眠ステージの対応する遅れと相容れないため、大多数の青年にとって最適な睡眠よりも少ない睡眠を引き起こす。 注意力を高めることで睡眠不足の影響を打ち消そうとする試みには、いくつかの共通する戦略がある。急性睡眠不足においては、覚醒状態を改善するために短期間カフェインが使用されることが多い。しかし、カフェインは日常的に服用されると有効性が低くなる。 米国睡眠医学会が推奨する他の戦略には、予防的な睡眠、昼寝、他の覚醒物質、およびそれらの組み合わせなどがある。しかし睡眠不足と戦う唯一の確実かつ安全な方法は、夜間の睡眠時間を増やすことである。 認知機能の回復は、慢性で部分的な睡眠不足後よりも、急性で完全な睡眠不足後のほうがより迅速である。慢性睡眠不足は日常生活においてより一般的である。一晩の回復睡眠は、全睡眠不足の悪影響を逆転させることがある。回復睡眠は、通常の睡眠よりも効率的であり、入眠潜時はより短くなり、深くてREMの睡眠が増加する。 ^ Taheri S, Lin L, Austin D, Young T, Mignot E; Lin; Austin; Young; Mignot (2004年12月). “Short Sleep Duration Is Associated with Reduced Leptin, Elevated Ghrelin, and Increased Body Mass Index”. PLoS Med. 1 (3): e62. doi:10.1371/journal.pmed.0010062. PMC 535701. PMID 15602591. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC535701/.  ^ a b c Alhola, Paula; Päivi Polo-Kantola (2007年10月). “Sleep deprivation: Impact on cognitive performance”. Neuropsychiatr. Dis. Treat. 3 (5): 553–567. PMC 2656292. PMID 19300585. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2656292/. \"Although both conditions [total and partial SD] induce several negative effects including impairments in cognitive performance, the underlying mechanisms seem to be somewhat different.\"  ^ Nykamp K, Rosenthal L, Folkerts M, Roehrs T, Guido P, Roth, T; Rosenthal; Folkerts; Roehrs; Guido; Roth (1998年9月). “The effects of REM sleep deprivation on the level of sleepiness/alertness”. Sleep 21 (6): 609–614. PMID 9779520.  ^ a b Riemann D, Berger M, Voderholzer U; Berger; Voderholzer (July–August 2001). “Sleep and depression - results from psychobiological studies: an overview”. 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Dinges, Scholarpedia, 2(8):2433. doi:10.4249/scholarpedia.2433", "睡眠日誌(すいみんにっし、Sleep diary)、睡眠手帳(すいみんてちょう)とは、個人の入眠時刻と起床時刻を、関係する情報と共に記録するものであり、これは数週間にわたって実施される。記録者は自己申告である場合も、看護者によってなされることもある。 睡眠日誌は、医師と患者の睡眠状態に関するコミュニケーションの手段である。とりわけ概日リズム睡眠障害の診断と治療に効果を発揮し、また他の睡眠障害の治療結果のモニタリングにも役立つ。 睡眠日誌は、アクチグラフ装置によるモニタリングと合わせて用いることができる。 睡眠日誌は、医師にとっては睡眠問題の診断に有用なツールであるだけでなく、患者自身が睡眠に影響を及ぼす特徴をより認識できるようになることにも役立つ(患者教育)。 このデータ単独であっても、自分が良い睡眠を取るためには何をすべきか自己診断するのに役立つ。 睡眠日誌に含まれる情報には、以下のものがある。 起床したいと思っていた、または起床を予定していた時刻 実際に起床した時刻 自発的に起床したか、あるいは目覚時計や、他の外部要因か ベッドから出た時刻 日中の気分はどうであったか(気分、眠気など)。しばしば1-5の尺度や主な原因を記載。 昼間の昼寝と運動ついて、開始と終了時間 使用されている薬物(薬、睡眠補助剤、カフェイン、アルコールなど)の名称、投与量、時間 夕食の時間、種類/重量 就寝1時間前以降の活動(瞑想、テレビ、ビデオゲーム) 就寝前のストレスレベル。しばしば1-5の尺度や主な原因を記載。 入眠時刻 本人が入眠したと考えている時刻 上記2つの時点における活動(目を閉じた、瞑想したなど) 夜間の目覚め、活動についての推定原因、回数、時間、長さ 睡眠の質 良い夢か悪い夢かを思い出し、その快適さのレベル 睡眠日誌は、通常はグラフ用紙に手書きで1ページに1週間分として描かれる。 専用のソフトウエアもあり、スプレッドシートやデータベースソフトもある。オンラインサービスとしても提供されている。 ^ Michael L Perlis; Carla Jungquist; Michael T Smith; Donn Posner (2005). The Cognitive Behavioral Treatment of Insomnia: A Session-by-session Guide. Springer-Verlag New York Inc. pp. 33, 50. ISBN 978-0-387-22252-3.  ^ Morin, C.M. (1996). Insomnia: Psychological Assessment and Management (Treatment Manuals for Practitioners). Guilford Publications. pp. 61. ISBN 978-1-57230-120-7.  ^ Charles M. Morin and Colin A. Espie (2003). Insomnia: A Clinician's Guide to Assessment and Treatment. Kluwer Academic / Plenum Publishers. p. 30. ISBN 978-0-306-47750-8.  睡眠衛生 セルフケア 患者教育 Trinitas Regional Medical Center – hours horizontal, with shading Circadian Sleep Disorders Association – days run horizontal [1] – days run horizontal, basic outline Sleeplessness and Circadian Rhythm Disorder — synopsis by Mary E. Cataletto, MD on eMedicine, August 2008 Charts and analyses of sleep conditions — Dr Piotr Wozniak and Prof. Edward Gorzelanczyk, with link to SleepChart application (Windows)", "アパシー(Apathy)とは感情 (pathy)がなくなった状態 (接頭辞a)を指す。 通常のヒトであれば何らかの感情がわく対象に対して、感情がわかなくなった状態を指す。うつ病の主要な症状ではあるが、アルツハイマー病、脳血管性認知症、パーキンソン病などでも生じる。 治療には原病の治療に加え、L-ドーパやロチゴチン などのドーパミン神経系賦活薬、ドネペジルやガランタミンなどのアセチルコリン神経系賦活薬、メチルフェニデートが有効であるという報告がされている。 アルツハイマー病においては、患者の50-70%ほどに確認される。アパシーはアルツハイマー病の機能障害に関連するの精神神経症状である。その原因は2つが解明されている。一つは、脳の前頭前野系の機能不全が、アパシー発症のための重要な神経生物学的基礎であるということである。 もう一つは、認知症による神経病理学的変化は、またアパシーを引き起こすと考えられている。 コリンエステラーゼ阻害剤は、認知症に起因する認知症状の治療にファーストライン使用されており、アパシーを含む行動障害に対してある程度の効果を示している。 メチルフェニデートもまた、認知症によるアパシー治療のために最も広く研究されている薬物である。メチルフェニデートを用いた催眠症状の管理は、アルツハイマー病患者のプラセボ対照RCTにおいて有望であることが示されている。アパシー治療のためのメチルフェニデートのフェーズⅢ多中心プラセボ対照RCTが現在進行中であり、2020年8月に完了する予定。 しばしばアパシーは、戦争において死亡または傷害といった恐ろしい出来事を目撃した人々において起こり得、それにはPTSDなどが挙げられる。それ以外にも、多々の精神医学的症候群であることが知られており、たとえばCADASIL症候群、うつ病、アルツハイマー病、シャーガス病、クロイツフェルト・ヤコブ病、認知症(アルツハイマー型、、血管性認知症、前頭側頭型認知症)、コルサコフ症候群、過度のビタミンD、甲状腺機能低下症、甲状腺機能亢進症、全身倦怠感、ハンチントン病、ピック病、進行性核上性麻痺(PSP)、脳損傷、統合失調症、統合失調型パーソナリティ障害、双極性障害、自閉症、ADHD、アスペルガー症候群などがある。 国民の政治への無関心や、消極的志向、ときには否定的態度をも意味する現代社会用語。医学におけるアパシーとは異なり、病的な状態を指す訳ではない。 ^ Csikszentmihalyi, M., Finding Flow, 1997. ^ Malloy, Paul F. 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ABC01-02-0068
春です。木偏に春と書く木は「ツバキ」ですが、魚偏に春と書く魚は何でしょう?
サワラ
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[ "サワラ", "コマイ", "スズキ (魚)", "メバル", "マイワシ" ]
[ "サワラ(鰆)、学名 Scomberomorus niphonius は、スズキ目・サバ科に属する海水魚の一種。細長い体の大型肉食魚で、食用に漁獲される。 成長するに従ってサゴシ(青箭魚)(サゴチとも・40-50cm)、ナギ(50-60cm)、サワラ(60cm以上)と呼び名が変わる出世魚でもある。体長が細長く「狭い腹」から「狭腹(サワラ)」と呼ばれるようになったとする説がある。他の地方名にはサーラ(各地)、ヤナギ(若魚:近畿・四国)などがある。なお、石川県の方言では「サワラ」はカジキを指す。 最大では全長115cm・体重12kgの記録がある。また、メスの方がオスよりも大型になる。近縁種も含めサバ科の仲間でも特に前後に細長い体型で、左右に平たい。地方名のサゴシは「狭腰」、サワラは「狭腹」の意である。 口は大きく、顎には鋭い歯がある。側線は波打ち、枝分かれが多い。第二背鰭・尻鰭と尾鰭の間には小離鰭が並ぶ。また、体内には浮力を調整する鰾(うきぶくろ)がなく、鰓耙もごく少ない。体色は背側が青灰色、腹側が銀白色で、体側には黒っぽい斑点列が縦方向に7列前後並ぶ。 北海道南部・沿海地方から東シナ海まで、東アジアの亜熱帯域・温帯域に分布する。これらは日本海南部・黄海・東シナ海に分布する系群と、瀬戸内海から西日本太平沿岸に分布する系群の二つに分けられる。前者は黄海、後者は瀬戸内海を産卵場としている。 春から秋にかけては沿岸の表層を群れで遊泳するが、冬は深場に移る。食性は肉食性で、おもにカタクチイワシやイカナゴ等の小魚を捕食する。 産卵期は春から初夏で、何回かに分けて産卵を行う。仔魚は当初から鋭い歯をもち、自分と同じくらいの大きさの他魚を貪欲に捕食する。生後1年で46cmほどに成長し、以後は2歳68cm、3歳78cm、4歳84cmほどとなる。成長は温暖な時期に顕著で、冬は成長しない。寿命はオス6年、メス8年ほどである。 身の見た目はさほど赤くなく白身魚として取り扱われる事も多いが、成分から見ると赤身魚である。日本では一般に焼き魚、西京味噌を使った「西京焼き」、唐揚げ(竜田揚げ)などで食べられる。身が軟らかく崩れやすいので煮物には向かないと言われることもある。岡山県周辺では鮮度の良いものを刺身で食べる。香川県などではサワラの卵巣を使ってカラスミをつくる。まだ脂分が少ない年齢のサゴシは、出汁をとるための煮干しとして近年商品化されている。 刺し網、定置網、引き縄(トローリング)などの沿岸漁業で漁獲される。春が旬の魚とイメージされているが、本当に味が良いのは秋・冬である。特に冬は脂が乗り、「寒鰆」と呼ばれて珍重されるが、この季節には活動が鈍るため漁獲量も減る。サワラの漢字は魚偏に春で「鰆」と書くが、これは春に産卵のために沿岸へ寄るため人目に付きやすいことから、「春を告げる魚」というのが字源となった。 20世紀後半には漁獲量の減少が顕著だったが、漁業規制と種苗放流、更に日本近海の水温上昇(レジームシフト)、それに伴うカタクチイワシの増加が重なり、漁獲量は低位ながら回復傾向にある。なお種苗生産においては稚魚の共食いが激しく、資源維持に向けての課題となっている。 日本における2002年度の主な陸揚げ漁港 第1位 - 博多漁港(福岡県) 第2位 - 長崎漁港(長崎県) 第3位 - 浜田漁港(島根県) 第4位 - 舞鶴漁港(京都府) 第5位 - 橋立漁港(石川県) 日本近海で水揚げされたものは高価で、韓国などから輸入した加工済みの製品も多く流通する。安いサワラの切り身は「オキサワラ」などと呼ばれるが、カマスサワラなどの近縁種である。 中国では「鮁魚(ba yu)」、「藍点馬鮫(landian majiao)」などといい、蒸し魚、煮魚などにする他、青島などでは餃子の具にもする。台湾では蒸し魚などの他、切り身を天麩羅にしたり、その天麩羅をとろみスープに入れたりする。 サワラ属 Scomberomorus は全世界で約18種が含まれ、日本近海ではサワラの他に4種が見られる。なお、カマスサワラ Acanthocybium solandri はサワラ類とよく似ていて、和名にも「サワラ」とあるが属が異なる。 ヨコシマサワラ(横縞鰆) Narrow-barred Spanish mackerel S. commerson (Lacepède,1800) 全長2mを超える大型種。体型はサワラに似ているが、和名通り体側に黒っぽい横しま模様が多数走る。日本近海を含むインド太平洋の熱帯・温帯海域に広く分布し、沿岸の表層を大群で遊泳する。日本ではサワラに次いで漁獲量が多い。地方名にヨコスジサワラ、クロザワラ(富山)、イノーサワラ(沖縄)などがある。 ヒラサワラ(平鰆) S. koreanus (Kishinouye,1915) 全長1.5m。体側の模様はサワラによく似るが、和名通りサワラより平たい体型で体高が高い。インド太平洋の熱帯・温帯海域に広く分布する。別名:韓国鯖(かんこくさば)。 ウシサワラ(牛鰆) S. sinensis (Lacepède,1800) 全長2mに達する大型種。胸鰭の先端が円いことで他種と区別できる。他にもサワラより口が前に突き出ていること、額がわずかにくぼむことなども区別点となる。秋田県・千葉県から南シナ海まで分布する。地方名はホテイサワラ(秋田)、クサモチ、ハサワラ(神奈川)、オキザワラ(九州)などがある。別名:中国鯖(ちゅうごくさば) タイワンサワラ(台湾鰆) S. guttatus (Bloch et Schneider,1801) 全長70cmほどで、日本産サワラ類では小型種。インド太平洋の熱帯域に分布するが、若狭湾での記録もある。別名:インド太平洋オオサバ ヨコシマサワラ ヒラサワラ ウシサワラ タイワンサワラ オーストラリアン・スポッティド・マカレル(Australian spotted mackerel) S. munroi Collette et Russo,1980 オーストラリア近海の固有種。オーストラリアサワラとも呼ばれる。 キング・マカレル(King mackerel) S.cavalla (Cuvier,1829) 体長1.8mに達し、オオサワラとも呼ばれる。大西洋西岸の熱帯・亜熱帯域に分布する。なお、アメリカのFDAは、有機水銀が蓄積されている可能性が高いとして2003年に妊婦や授乳中の女性および子供はキング・マカレルを摂取しないよう勧告を行っている)。 スパニッシュ・マカレル(Spanish mackerel) S. maculatus (Mitchill,1815) メキシコ湾から北アメリカ大西洋岸の熱帯・温帯域に分布する。 Fishbase-Scombridae(サバ科のページ・英語) 永井達樹『シリーズ : 瀬戸内海のさかなたち 第1回 サワラ』水産総合研究センター『おさかな瓦版』No.21 2008年2月発行 岡村収監修 山渓カラー名鑑『日本の海水魚』(サバ科執筆者 : 中村泉)ISBN 4-635-09027-2 藍澤正宏ほか『新装版 詳細図鑑 さかなの見分け方』講談社 ISBN 4-06-211280-9 檜山義夫監修 『野外観察図鑑4 魚』改訂版 旺文社 ISBN 4-01-072424-2 永岡書店編集部『釣った魚が必ずわかるカラー図鑑』 ISBN 4-522-21372-7 内田亨監修『学生版 日本動物図鑑』北隆館 ISBN 4-8326-0042-7 ^ 日本初のだし商品化!京都府産“さわら煮干し”使用「京都仕込み 京さわらの旨味だし」発売~生産、一次加工、製造のすべてを京都府内企業の連携により商品化~京都府農林水産部流通・ブランド戦略課(2016年9月20日)2018年4月19日閲覧 ^ 鰆(サゴシ)コツ出汁入り濃厚カニ味噌汁の開発/鳥取県産業技術センター『日刊工業新聞』2017年8月30日(素材・ヘルスケア・環境) ^ What You Need to Know About Mercury in Fish and Shellfish,2004 EPA and FDA Advice For: Women Who Might Become Pregnant, Women Who are Pregnant, Nursing Mothers, Young Children.", "コマイ(氷下魚、学名 Eleginus gracilis、英語: Saffron cod)は、タラ目タラ科に属する魚類。カンカイ(寒海)とも呼ばれる。マダラ・スケトウダラと並び、日本近海に生息するタラ類の1つ。 体長によってゴタッペ(幼魚)、コマイ、オオマイ(大型魚)と呼び名を変える場合もある。熟字訓氷下魚の由来は厳冬期に氷を割って漁獲(氷下待ち網漁)したことから。 アイヌ語ではコマイ(komay)またはカンカイ(kankay)、ニヴフ語ではカンギ(qaηi)と呼ばれる。ロシア語ではвахня(ヴァフニャ)などと呼ばれる。 黄海、日本海、オホーツク海、ベーリング海を含む北太平洋に分布し、水深200mより浅い海に生息する。 記録では、最大のもので全長55cm・体重1,300g。3基の背鰭と2基の臀鰭を持つタラの仲間だが、下顎より上顎が前に突き出ていて、下顎にあるひげが短いことでマダラやスケトウダラと区別できる。 夜行性で群を作る。 12月後半から2月下旬が旬だが、夏にも釣る事が可能である。日本では主に北海道で漁獲され、干物や魚肉練り製品の材料となる。もっぱら干物にはやや小さめのものを用い、頭とワタだけ取った1匹丸ごとのものと、開いたものがある。稀に生のものが流通している。 干物はそのまま酒肴として、または軽くあぶってマヨネーズ、醤油、七味唐辛子などをつけて食べる。また、金槌で叩いておくと食べやすいという。ただし匂いに少々癖がある。1匹ものはかなり硬いのが通例で、皮と骨をむしり取った身をよく噛めば美味であるが、歯が丈夫でない人はそのまま食すのは避けた方が無難。身や骨が指先に刺さり、血が出ることもしばしばある。一晩水に浸け、そのまま軽く沸騰させて(蓋は開けて干物臭を煮飛ばす)から焼けば、かなり食べやすくなる。水には出汁が出るので、味噌汁などに使う。 最近では、一夜干し・生干にして食べやすくしたものも作られている。北海道のコンビニエンス・ストアでは調味料と共にパックされ、販売されており、また、通販でも売られている。干物は骨まで食べられるが、一夜干しの骨は少し硬い。 ^ FishBase_Eleginus gracilis 魚の一覧 「とっとNET北海道」(水産試験場)", "スズキ(鱸、学名:Lateolabrax japonicus) は、スズキ目・スズキ亜目・スズキ科に属する魚。海岸近くや河川に生息する大型の肉食魚で、食用や釣りの対象魚として人気がある。成長につれて呼び名が変わる出世魚である。秋の季語。 「スズキ」の名の由来については諸説ある。 ススミ説(出世魚で出世に進むことに由来するとの説) スサマジグチ説(口が凄まじく大きいことに由来するとの説) ススケ説(鱗がすすけた色であることに由来するとの説) ススギ説(鱗がすすいだように白いことに由来するとの説) ススジ説(すずしく清らかな身であることに由来するとの説) スズキはいわゆる出世魚で、成長とともに呼び名が変わる。ただし、地方によって呼び名は様々に異なり、統一的な定義はない。 例として関東では1年ものと2年もので全長 20-30cm 程度までのものを「セイゴ」(鮬)、2、3年目以降の魚で全長 40-60cm 程度までを「フッコ」、それ以上の大きさの通常4-5年もの以降程度の成熟魚を「スズキ」と呼んでいる。関西では「フッコ」の代わりに「ハネ」という呼称が使われている。東海地方では、60cm程度までを一律に「セイゴ」、それ以上の大きさの成熟魚を「マダカ」と呼んで二分することが多い。宮城県周辺では小型のものを「セッパ」とも呼ぶ。有明海産は地元の人からは「ハクラ」と呼ばれている。 全長は最大で1mを超える。体は細長くて平たい(側扁する)。口は大きく、下あごが上あごより前に出る。体色は背中側が緑黒色-灰緑色、体側から腹部にかけて銀白色をしている。尾びれはハート型に切れこむ。若い個体の中には背側や背びれに小黒点が散在する個体もあり、成長とともに消えるが、背びれの黒点は大きくなっても残ることがある。 北海道南部から九州までの日本列島沿岸と、朝鮮半島東・南部、沿海州に分布する。冬は湾口部や河口など外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行ない、春から秋には内湾や河川内で暮らすという比較的規則的な回遊を行なう。昼間はあまり動かないが夜になると動きだす。食性は肉食性で、小魚や甲殻類などを大きな口で捕食する。 産卵期は大体10月から3月で、盛期は日本の多くの場所で12月から1月である。上記の海域において直径約1.3mmの卵を生む。卵は単独で海中を漂い(分離浮性卵)、仔魚は成長に伴い湾奥や河口近くに集合する。冬から春に湾奥(干潟、アマモ場、ガラモ場、砂浜海岸)や河口付近、河川内の各浅所で仔稚魚が見られる。一部は体長2cmほどの仔稚魚期から純淡水域まで遡上する。この際、遡上前の成長がより悪い個体ほど河川に遡上する傾向がある。仔稚魚は遊泳力が非常に弱いため、潮汐の大きな有明海では上げ潮を利用して、潮汐の非常に小さい日本海では塩水遡上を利用して河川を遡上する。若狭湾で、耳石の微量元素を指標にして調べた結果によれば純淡水域を利用する個体の割合は3割強に上る。仔稚魚はカイアシ類や枝角類などの小型の生物から、アミ類、端脚類などの比較的大型の生物へとを主食を変化させながら成長する。夏になると河川に遡上した個体の一部が5cmほどになり海に下る。 春〜秋にかけての水温の高い時期は浸透圧調整機能も高いため、成魚期以降も少なからぬ個体が河川の純淡水域のかなり上流まで遡上する。かつて堰やダムのなかったころは琵琶湖まで遡上する個体もいたと言われる。現在でも利根川(100km以上)をはじめ多くの河川で遡上が見られる。さいたま水族館(公益財団法人埼玉県公園緑地協会)は飼育水温を常時23度以上に維持することで、多数のスズキを淡水魚として周年、終生、生体展示することに成功している。 一方で、内湾にも多くの個体が存在するが、それらの数と河川の個体の数との比や、相互の移動などについてはよくわかっていない。 背側 腹側 スズキ属の上の区分「科」の分類は、見解が分かれることがある。日本での代表種であるスズキの名をつけて、和名では「スズキ科」という名を用いる場合が多いが、これの意味するところは場合により異なる。 ペルキクティス類(温帯性スズキ類)と呼ばれる主にペルキクティス属(Percichthys)などを含むオーストラリアやアジア大陸産のケツギョ、スズキ類と一緒にして、スズキ科(ペルキクティス科 Percichthyidae)と呼ぶ場合 モロネ類(温帯性シーバス類)と呼ばれるモロネ属(Morone)などを含むヨーロッパやアメリカ大陸産のシーバス、スズキ類と一緒にして、スズキ科(モロネ科 Moronidae)と呼ぶ場合 スズキ属(Lateolabrax)だけを含む単独のスズキ科(Lateolabracidae) を設定する場合 があるが、現在では、スズキ属(Lateolabrax)は、スズキ科 Lateolabracidaeに含まれ、ペルキクティス科 Percichthyidaeにもモロネ科 Moronidae にも含まれていないため、Lateolabracidaeがスズキ科とされている。スズキ亜目にも関連記事。 スズキ属魚類の分布は東アジアに限られ、スズキの他に近縁な2種および交雑個体群に由来する集団が知られる。いずれも食用や遊漁の対象として有用である。 ヒラスズキ Lateolabrax latus 英: Blackfin seabass (Katayama, 1957) 全長は最大で1mを超える。スズキによく似ているが和名のとおり体高がより高くて平たい体型をしている。他には吻がやや長くて下あごの下面に鱗があること(無いものもある)、尾びれのつけ根が太くて切れこみも浅いこと、側線下方鱗や背鰭軟条数などで他の2種と区別できる。また、頭に対し目が大きい。房総半島および能登半島から屋久島までの太平洋側および日本海側の沿岸、朝鮮半島南岸に分布する。沖縄にも生息するらしい。成魚は外洋に面した岩礁域に主に生息する。大きな内湾にはあまり侵入しないが,外洋に面した河口域には稚魚や若魚を中心に普通にみられる。産卵期は11月から4月頃と考えられるが、年によってあるいは海域によって異なるようである。土佐湾では1月ごろから仔稚魚が砂浜海岸などの沿岸浅所に出現し、河川のかなり塩分の低い(1ppt以下)水域にも進入する。種子島では10cm程の個体がスズキのように純淡水域まで遡上した記録がある。生態・生理など不明な部分が多い魚である。水産資源としてはスズキより少なく、美味とされ価格も高めである。 タイリクスズキ Lateolabrax maculatus (McClelland, 1844) 全長1mほど。日本記録は1.38m(拓寸)。近年までスズキと同種とされていた。鰓杷数、脊椎骨数および側線鱗数で区別できる。スズキと異なり成魚でも多くの個体で黒点が目立つため「ホシスズキ」とも呼ばれるが、黒点の全くない個体もある。もとは中国沿岸、台湾、朝鮮半島西岸に分布し、日本沿岸には分布していなかったが、養殖用に輸入された個体が逃げ出して野生化した外来種である。日本で再生産を行なっているのかについては不明である。産卵期は渤海では8月から11月ごろ、上海近海および台湾では1月ごろである。淡水中での繁殖も可能であり、実際に台湾では行われている。中国では河口から400km上流まで遡上する個体もいる。天然水域での生態についてはほとんどわかっていない。 有明海産スズキ 成魚になっても体側に黒点がみられる個体がいること等,形態から日本のスズキL. japonicusと中国のスズキとの中間的な特徴が指摘されていた.仔稚魚期にも色素胞が少ないなど、日本の他地域のスズキとの違いがみられ,有明海のいくつかの魚類のように大陸遺存の可能性が指摘された.アイソザイムやDNAのAFLP解析の結果、スズキとタイリクスズキとの交雑個体群に由来する独特な集団であることが示された。 定置網、刺し網などの沿岸漁業で多く漁獲される。東京湾、伊勢湾、瀬戸内海(大阪湾含む)、有明海(別個体群)などの内湾が主な漁場である。最も漁獲量が多いのは千葉県で、兵庫県が次ぐ。また、養殖は昔から採捕種苗を用いて少量ながら行われていたが、1990年ごろから愛媛県などで主にタイリクスズキを用いた養殖が盛んになった。現在はかつてほど盛んではない。普通のエサ釣りは勿論、海のルアーフィッシングの対象魚としても人気が高い。ルアーフィッシングではスズキによく似たヨーロッパスズキ(スズキ亜目を参照)の英語名からとった「シーバス」(Seabass) の名が定着している。釣りジャーナリストの西山徹がこの名を使用しはじめたといわれる。観賞用等に飼育することも可能であるが、相応の設備が必要である。 身は血合いがほとんどない白身で、「スズキ」という和名が「すすぎ洗いしたようなきれいな身」に由来するとする説もあるほど。身の質はタイに似て、柔らかくて癖もなくあっさりしている。関東よりも関西でよく食べられる。 産卵期である冬に、内湾に産卵回遊した大型のスズキが多獲されて多く市場に出回り、そのためにスズキの旬が冬とされることがあるが、この時期には生殖腺に栄養が多く要求されるために体は痩せて肉質は非常に悪い。スズキの肉質がよくなるのは夏で、夏のスズキはよく太って非常に美味である。旬の定義をその魚が最もおいしい時期とするならば、スズキの旬は夏である。生息場所が沿岸であることから水質のよくない河川や工場排水の流れ込む場所で捕獲されるスズキは臭みがあり敬遠されることがある。河川によっては食用に耐えない臭いのする個体もいるので注意。 良好な水質に生息する個体は、魚肉やアラのみならず、肝臓や心臓はソテー、腸は吸い物や煮物、刺身で余った皮は炙り焼き、骨は出汁とり等々、捨てる部分がほとんどなく無駄なく食べられる。 しかし、透明度が高く一見きれいな水域であっても、とくに臓器に長期間滞留するとされるダイオキシンやポリ塩化ビフェニル(PCB)、重金属などで汚染された水域や、良好でない水域で捕獲した個体の内臓を食べることは避けるべきであり、これらの水域で捕獲した個体は魚肉であっても継続的な摂取は避けるほうが無難である。環境省が毎年発行している「化学物質と環境」(年次報告書)にはスズキのPCB等の内分泌攪乱物質濃度が公開されており、東京湾におけるスズキのPCB濃度が高くなっているので、妊婦が摂食する場合には専門家に相談することが望ましい。 生きたものを調理あるいは活け締めする場合、暴れる上、鰓蓋が非常に鋭く危険であるので、頭部をたたいて失神させてから行うとよい。または、脊椎を切断しなくとも鰓の周囲を包丁でさぐり、尾の付け根の血管も切断して血がにじみ出るのを確認してからしばらく海水中に置けば締められる。 特に捕獲してすぐに頭部の付け根付近の脊椎を切断、尾の付け根の血管も切断して活け締めにし、手早く薄造りにしたものを氷を入れた日本酒、または氷水で身が白濁するまで余分な脂肪分を落とした洗いが、日本料理では最も美味だとする食通、料理研究家や識者の評価が多い。 大部分の魚類同様、目の周囲の脂身は眼球を動かす筋肉と旨みが凝縮された脂肪分(DHAなどヒトの健康に有益とされる栄養素を多量に含む)を堪能でき、カマや胸鰭の付け根などのアラも筋肉質で身が締まっており、煮ても焼いても美味である。 旬以外でも年間を通して癖のない白身は高級食材としてフランス料理にも多用され、カルパッチョ、ムニエル、ポワレ、にも重宝されている。 新鮮なものは刺身にするが、昆布じめ、膾、寿司ネタなど、刺身に手を加えて味や歯ざわりを楽しめるようにした料理もよく作られる。他にタタキ、揚げ物、炒め物、塩焼き、奉書焼、煮付、鍋物など、和洋中を問わず多種多様な料理に利用される。 変わったところでは、燻製も美味である。 ^ Froese, Rainer, and Daniel Pauly, eds. (2013). \"Lateolabracidae\" in FishBase. October 2013 version. ^ 広辞苑第5版 ^ 『俳句歳時記 第4版』角川学芸出版、2008年、ISBN 978-4-04-621167-5 ^ a b c d e おさかな雑学研究会 『頭がよくなる おさかな雑学大事典』 幻冬舎〈幻冬舎文庫〉、2002年11月、280頁。ISBN 4344402944。(諸説の中の一説として紹介) ^ Hibino M, Ohta T, Isoda T, Nakayama K, Tanaka M (2006年). “Diel and tidal changes in the distribution and feeding habits of Japanese temperate bass Lateolabrax japonicus juveniles in the surf zone of Ariake Bay”. Ichthyol Res 53: 129-136.  ^ Fujita S, Kinoshita I, Takahashi I, Azuma K (1988年). “Seasonal occurrence and food habits of larvae and juveniles of two temperate basses in the Shimanto Estuary, Japan”. Jpn J Ichthyol 35: 365-370.  ^ 岩本 有司, 森田 拓真, 小路 淳 (2010年). “太田川河口域周辺におけるスズキ仔稚魚の出現と食性”. 日本水産学会誌 76: 841-848.  ^ Fuji Taiki, Kasai Akihide, Suzuki W Keita, Ueno Masahiro, Yamashita Yoh (2010年). “Freshwater migration and feeding habits of juvenile temperate seabass Lateolabrax japonicus in the stratified Yura River estuary, the Sea of Japan”. Fisheries Science 76: 643-652.  ^ Fuji Taiki, Kasai Akihide, Ueno Masahiro, Yamashita Yoh (2014年). “Growth and migration patterns of juvenile temperate seabass Lateolabrax japonicus in the Yura River estuary, Japan—combination of stable isotope ratio and otolith microstructure analyses”. Environmental Biology of Fishes 97: 1221-1232.  ^ Islam MS, Hibino M, Tanaka M (2007年). “Tidal and diurnal variations in larval fish abundance in an estuarine inlet in Ariake Bay, Japan: implication for selective tidal stream transport.”. Ecol Res 22: 165-171.  ^ Fuji T, Kasai A, Yamashita Yoh (2018年). “Upstream migration mechanisms of juvenile temperate sea bass Lateolabrax japonicus in the stratified Yura River estuary”. Fisheries Science 84: 163-172.  ^ Fuji Taiki, Kasai Akihide, Ueno Masahiro, Yamashita Yoh (2016年). “Importance of estuarine nursery areas for the adult population of the temperate seabass Lateolabrax japonicus, as revealed by otolith Sr:Ca ratios”. Fisheries Oceanography 25: 448-456.  ^ Fuji Taiki, Kasai Akihide, Ueno Masahiro, Yamashita Yoh (2016年). “The Importance of Estuarine Production of Large Prey for the Growth of Juvenile Temperate Seabass (Lateolabrax japonicus)”. Estuaries and Coasts 39: 1208-1220.  ^ Suzuki KW, Kasai A, Ohta T, Nakayama K and Tanaka M (2008年). “Migration of Japanese temperate bass Lateolabrax japonicus juveniles within the Chikugo River estuary revealed by d13C analysis”. Marine Ecology Progress Series 358: 254-256.  ^ Fuji Taiki, Kasai Akihide, Suzuki W Keita, Ueno Masahiro, Yamashita Yoh (2011年). “Migration ecology of juvenile temperate seabass Lateolabrax japonicus: a carbon stable-isotope approach”. Journal of Fish Biology 78: 2010-2025.  ^ Froese, Rainer, and Daniel Pauly, eds. (2013). \"Lateolabracidae\" in FishBase. October 2013 version. ^ Froese, Rainer, and Daniel Pauly, eds. (2014). \"Percichthyidae\" in FishBase. February 2014 version. ^ Froese, Rainer, and Daniel Pauly, eds. (2013). \"Moronidae\" in FishBase. December 2013 version. ナイルパーチ (白スズキと銘打って流通されるが全くの別種) 魚の一覧 「鱸」曖昧さ回避 神奈川水総研 スズキ 日本産スズキと中国産“スズキ”の形態的および遺伝的差(魚類学雑誌)(pdfファイル)", "メバル(鮴、眼張、眼張魚 学名:Sebastes inermis, Sebastes cheni, Sebastes ventricosus の3種)は、条鰭綱- カサゴ目- フサカサゴ科 (en) (あるいはメバル科)のメバル属に分類される海棲硬骨魚のうち、人為分類によって日本で古来「メバル」と呼ばれてきた3種の総称(2008年以前にはメバル属中の1種と見なされていた)。日本の北海道から九州にかけての沿岸の岩礁域に多く棲息する。 日本語では春告げ魚(はるつげうお)との雅称でも呼ばれる。 メバルは古くは、ヨーロッパの個体を元にキュヴィエの記載したアカメバルと、シーボルトが日本からオランダに持ち帰った個体を元にシュレーゲルが記載したクロメバルが、種として認められてきた。 しかし、1935年に松原喜代松が、メバルは1種であると主張し、命名が古い方のアカメバルの学名 Sebastes inermis がメバルの学名となった。 しかし再び、1985年に陳楽才(チェン)はメバルが数種に分かれると主張し、1988年にバルスコフと陳が第3の種シロメバルを記載した。2008年8月に日本魚類学会の英文機関誌 \"Ichthyological Research\" で、これまで同じ種とされてきた「メバル」は、DNA解析によると3種に分類できることが発表された。これに伴い、本項は日本語で「メバル」と総称される人為分類群を扱うものとなっている。元の学名 Sebastes inermis を踏襲したのは「アカメバル」であり、他の2種「シロメバル」と「クロメバル」は近縁の異種である。 表記内容は左から順に、標準和名とそれに対応する漢字表記、学名。 シロメバル(白眼張・白鮴) Sebastes cheni Barsukov, 1988  釣魚としての日本語俗称は「青(あお)」「青地(あおじ)」。 アカメバル(赤眼張・赤鮴) Sebastes inermis Cuvier et Valenciennes, 1829 釣魚としての日本語俗称は「赤(あか)」「金(きん)」、および、「沖メバル(おきメバル)」。 クロメバル(黒眼張・黒鮴) Sebastes ventricosus Temminck et Schlegel, 1843 釣魚としての日本語俗称(呼び分け)は「黒(くろ)」。 シロメバル アカメバル クロメバル 全長は30cmから20cmほど。体はカサゴよりも幅が薄く、体高が高い。全身は黒褐色で、数本のぼんやりとした黒い横縞がある。口と眼が大きく、「メバル」という和名も大きく張り出した眼に由来する(■右の画像を参照のこと)。 日本の北海道南部から九州、朝鮮半島南部に到る海域に分布し、海岸近くの海藻が多い岩礁域に群れをなして棲息する。カサゴのように底にとどまらず、岩礁付近を群れて泳ぎ回るが、垂直に切り立った岩場に沿ってホバーリングするように立ち泳ぎすることもある。岩礁の間から温泉が湧き出ている海域では、温泉の上に集まって立ち泳ぎする姿も見られる。食性は肉食で、貝類、多毛類、小型の甲殻類、小魚などを捕食する。 カサゴと同じく卵胎生で、冬に交尾したメスは体内で卵を受精・発生させ、交尾の1ヶ月後くらいに数千匹の稚魚を産む。稚魚は成長するまで海藻の間などに大群を作って生活する。 旬は冬から春で、船、磯、防波堤での釣りや籠漁などで漁獲される。磯、防波堤で釣れるのは黒メバル、水深のある沖合いの船から釣れるのは赤メバル(沖メバルとも称)と呼ばれる。保護色による違いと考えられていたが、上述のように別種である。 動くものに襲いかかる習性があるため、釣り餌として、生きたスジエビなどがよく使われる。ルアーや擬似餌でも釣ることができる。他に7センチ前後のイワシやサッパ、カタクチイワシ、イカナゴ、ドジョウなどの小魚活き餌を使っての泳がせ釣りやゴカイなどの生き餌を餌にしたウキ釣り (float fishing) が知られる。メバルは群れで行動する習性があるため、いったん釣れ始めると同じ場所で続けて釣れることが多い。このため、道糸に、多数の針をつけた胴つき仕掛けがよく用いられる。 また、カサゴとは異なり、視力がよいため、細いハリスが用いられる。オニオコゼのような強い毒こそ無いが、東北地方では毒魚として知られ、不用意に握ると刺された部位はわずかに腫れる。鰓蓋(さいがい、えらぶた)や背鰭(せびれ)の棘(とげ)が鋭いため、扱う際は手袋やタオルなどの使用が薦められる。なお、瀬戸内海や東京湾では一般に棘に毒は無いとされている。 脂肪が少なく淡白な白身魚である。内臓を除いただけのものを味噌汁や煮付けなどにし、熱いうちに食べると美味。ただし、料亭などでは内臓にこそ旨味があるとしてこれを活かした調理法を執る。その他の料理法として、塩焼き・唐揚げ・刺身などがある。台湾においても、「平鮋」と称して蒸し魚などにされる。 タケノコメバル Sebastes oblongus Günther,1877 ウスメバル Sebastes thompsoni Jordan and Hubbs, 1925 トゴットメバル Sebastes joyneri Günther 1878 キツネメバル Sebastes vulpes Doderlein,1884 ^ Froese, Rainer, and Daniel Pauly, eds. (2012). \"Sebastidae\" in FishBase. December 2012 version. ^ 『食彩の王国』 テレビ朝日、2010年4月4日放映回「メバル」より。 魚の一覧 根魚 カサゴ", "マイワシ(真鰯・真鰮)、学名 Sardinops melanostictus は、ニシン目・ニシン科に分類される魚の一種。東アジア沿岸域に分布する海水魚である。カリフォルニアマイワシ(S. sagax)の亜種とされることもある。 日本ではいわゆる「イワシ」の一種として、食用や各種産業に利用される重要な水産資源である。別名はイワシ、ユワシ(各地)、ナナツボシ(七つ星 : 各地)、シラス、マシラス(稚魚)、カエリ、アオコ、ヒラゴ(数cm程度の若魚)、コバ(小羽 : 10cm前後)、チュウバ(中羽 : 15cm前後)、オオバ(大羽 : 20cm前後)など地域によってさまざまな呼び名がある。また、大きさによって呼び名が変わる出世魚でもある。 成魚の全長は30cmに達するが、20cmくらいまでの個体が多い。体は上面が青緑色、側面から腹にかけては銀白色をしている。また、体側に黒い斑点が1列に並ぶ。ただし個体によっては2列あるもの、2列の下に更に不明瞭な3列目があるもの、逆に斑点が全く無いものもいる。別名「ナナツボシ」(七つ星)はこの斑点列に由来する。 体は前後に細長く、腹部が側扁していて、断面は逆三角形に近い紡錘形をしている。下顎が上顎よりわずかに前に突き出る。鱗は薄い円鱗で剥がれ易い。縦列の鱗の数は45枚前後で体の割りには大きい。側線はない。 同じイワシとして括られるカタクチイワシやウルメイワシとは、体側に黒点列があること、体の断面が比較的左右に平たいことなどで区別できる。 樺太から南シナ海までの東アジア沿岸域に分布する。 海岸近くから沖合いまでの海面近くに生息し、大群を作って遊泳する。春から夏にかけて北上、秋から冬には南下という季節的な回遊を行うが、中には回遊をせず一定の海域に留まる群れもある。 成魚は海中を浮遊する珪藻などの植物プランクトンを主な餌とする。口と鰓蓋を大きく開けながら泳ぎ、鰓弓についた鰓耙(さいは)でプランクトンを濾過摂食する。一方、天敵はイカ、アジ、サバ、カツオ、サメ、海鳥類、イルカ、クジラなど多岐にわたる。天敵に襲われた場合は密集隊形を作り、一斉に同調して泳いで敵の攻撃をかわす。 産卵期は12月から7月までと長いが、南のものほど早く、2月から5月頃に最盛期となる。産卵は夕方から深夜までに水深数十mで行われ、メスは数回に分けて4万-12万粒の卵を産む。ただし卵を保護する習性はないので大部分が他の動物に捕食され、成魚まで成長できるのはごくわずかである。 受精卵は直径1.23-1.44mmの分離浮性卵で、卵黄に網目模様がある。受精卵は海中を漂いながら発生し、2-3日で孵化する。稚魚(シラス)は主に橈脚類の卵や幼生を捕食しながら成長する。やがて橈脚類やアミ類などの動物プランクトンを捕食するようになるが、成長して鰓耙の発達が進むと植物プランクトンを濾過摂食するようになる。1-3年で性成熟し、寿命は5-6年ほどだが、8年ほど生きるものもいる。 日本では食用にされ、青魚・大衆魚として馴染み深いが、実際は食用より飼料や肥料への利用が多い。 巻き網、引き網、定置網などで漁獲される。サビキを利用した釣りで漁獲されることもあり、群れに遭遇すると続けて釣れる。飼・肥料としての利用が多いため、漁獲量減少の影響は水産業に留まらず畜産業、農業などにも及ぶ。食用としての流通も減るので、21世紀初頭にはマイワシの鮮魚が「高級魚」として扱われるようにもなっている。 漁獲量減少の原因は、巻き網漁による過剰な捕獲によるものである。日本沿岸でのマイワシの漁獲量は、60-80年周期で大きく波打つような数値を示し、水産業における研究課題ともなっている。例えば1965年の漁獲量は1万t を割ったがその後回復し、1988年には日本の総漁獲量の40% を占める450万t が漁獲された。しかしその後は21世紀初頭まで減少を続けている。(マイワシの増減については青魚#魚種交替も参照) 身は柔らかくて小骨が多い。大型個体では皮下脂肪がよく発達する。食用での用途はちりめんじゃこ(シラス干し)、干物(目刺、丸干し、開き)、塩焼き、煮付け、缶詰、酢の物、刺身、たたき、魚肉練り製品(つみれ、蒲鉾、竹輪)など非常に幅広い。 ただし水揚げされた後は傷みが早く、すぐに臭みが出るため、刺身や塩焼きにできるほど新鮮なものは流通が限られる。薬味にはショウガがよく用いられる。刺身はショウガ醤油や酢味噌で食べられる。 栄養素面ではドコサヘキサエン酸などの不飽和脂肪酸やビタミンDを多く含むことが報告されている。このため20世紀末頃からはいわゆる体に良い食材として再評価も進んでいる。 岡村収監修(ニシン科執筆者 : 佐藤陽一)山渓カラー名鑑『日本の海水魚』 ISBN 4-635-09027-2 藍澤正宏ほか『新装版 詳細図鑑 さかなの見分け方』講談社 ISBN 4-06-211280-9 檜山義夫監修 『野外観察図鑑4 魚』改訂版 旺文社 ISBN 4-01-072424-2 永岡書店編集部『釣った魚が必ずわかるカラー図鑑』 ISBN 4-522-21372-7 内田亨監修『学生版 日本動物図鑑』北隆館 ISBN 4-8326-0042-7 岩井保『魚学入門』恒星社厚生閣 ISBN 4-7699-1012-6 ^ 文部科学省 「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 厚生労働省 「日本人の食事摂取基準(2015年版)」 ^ 五訂増補日本食品標準成分表 ^ 五訂増補日本食品標準成分表 脂肪酸成分表編 ^ マイワシはなぜ高い? -資源量激減の2つの局面-東京大学大気海洋研究所" ]
ABC01-02-0070
美術史の飛鳥文化、白鳳文化、天平文化のうち、最も古い文化はどれでしょう?
飛鳥文化
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[ "飛鳥文化", "大和時代", "桃山文化", "五山版", "院政期文化" ]
[ "飛鳥文化(あすかぶんか)は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。 朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。 仏教の百済からの公伝は、538年(宣化天皇3年)または552年(欽明天皇13年)とされている。『日本書紀』は欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が金銅釈迦仏像、経典などを天皇に献上したと記す。一方、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺縁起』はこれを欽明天皇7年の戊午年(538年)のこととする。『書紀』と『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』とでは天皇の在位年代が異なっており、上記の戊午年は『書紀』では宣化天皇3年にあたる。現在では仏教公伝を538年とする説が一般的だが、異説もある(詳細は「仏教公伝」の項を参照)。 当時仏教受容の先頭を切ったのは蘇我稲目であり、百済の聖王が日本の朝廷の伝えてきた金銅釈迦像・経典若干卷のうちの仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置し、さらに向原(むくはら)の家を清めて向原寺(こうげんじ)とした(『日本書紀』)。 仏教の摂取と流布に大いに貢献した蘇我氏とこれに反対する物部氏との対立(崇仏論争)はのちに蘇我馬子と物部守屋との間での戦乱を招く。これに勝利した蘇我氏と蘇我氏系大王のもと、王権の本拠地である飛鳥京を中心に仏教文化が発展する。 飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられていた。595年(推古3)に高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聰が来朝・帰化し、翌年には飛鳥寺に住まうようになる。 7世紀後半になると、中央政府が、地方の豪族への寺院建築を奨励したために、全国的に寺院の建築が活発化する。 日本最古の本格的寺院である飛鳥寺や四天王寺は、氏寺として創建されたが、後には官寺(天皇が発願し、国家が維持する寺院)に準ずる扱いを受けた。造寺・造仏の技術者は主として朝鮮からの渡来人やその子孫達であった。また、594年(推古2)に仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の祖先一族のために競って私寺(氏寺)を造り始めた。 四天王寺 難波(大阪)。『日本書紀』によれば聖徳太子の発願により593年(推古天皇元年)に建て始められた。飛鳥寺とともに、日本最古の本格的仏教寺院の1つである。 飛鳥寺(法興寺) 崇峻朝の588年(崇峻天皇元年)に着工され、596年(推古天皇4年)に完成した。蘇我馬子が造営の中心になった。寺司(てらのつかさ)は馬子の長子・善徳。日本で最初の本格的な寺院で、氏寺であるが、蘇我系王族の強い支援のもと、官寺としての性格が強い。 伽藍は南北の中軸線上に南から南門・中門・塔・金堂・講堂が一直線上に並ぶが、塔の東西にも金堂が置かれる三金堂式である。中門から出ている回廊はその外側を通って、金堂の背後で閉じている。現在の安居院本堂は創建時の飛鳥寺中金堂の位置にあり、鞍作止利作とされる金銅仏・飛鳥大仏が安置されている。 593年(推古元)塔の心礎に仏舎利を安置したという(『日本書紀』)。これ以後の皇居(宮)もほぼこの飛鳥寺を中心にした飛鳥に置かれた。飛鳥寺の中軸線と天智朝の末年か天武初年に建てられた川原寺の中軸線との中心線(中道)は、天武朝の藤原京の設定の一基準となり、両中軸の間隔はまた、飛鳥の方格地割りの基準となった。 百済大寺 舒明天皇により639年(舒明天皇11年)に建立され、舒明の没後、妻の皇極天皇、子の天智天皇によって継承された、最初の天皇家発願の仏教寺院である。桜井市吉備の吉備池廃寺が寺跡に比定されている。完成時には、蘇我氏発願の飛鳥寺を遙かに凌ぎ、九重の塔がそびえ建ち、高さは法隆寺の五重塔の二倍もあり、現代の25階ビルに相当し、当時の東アジアでも超一級の寺院であった。この寺は高市大寺、大官大寺と改称・移転を繰り返し、平城京に移転して大安寺となった。 法隆寺(斑鳩寺) 用明天皇により発願され、その遺志を継いだ聖徳太子と推古天皇により607年(推古天皇15年)に創建された(金堂薬師如来像光背銘による)。創建伽藍は670年(天智天皇9年)に焼失し(『書紀』)、現存する西院伽藍はその後の再建であるが、日本最古の木造建築である。 広隆寺(蜂岡寺、秦公寺)…秦氏の氏寺。 善光寺(定額山 善光寺) 皇極天皇元年(642年)に三国渡来の一光三尊阿弥陀如来が現在の地に遷座、皇極天皇3年(644年)皇極天皇の勅願により本堂を創建。皇極天皇の命により、聖徳太子妃であり、蘇我馬子の娘である刀自古郎女が出家し、尊光上人を名乗り、善光寺の開山上人となる。白雉5年(654年)より本尊が秘仏となる。開山上人から現在に至る約1400年間、皇室・公家から出家した歴代の尼公上人により、その篤い信仰と平和への祈りは綿々と継承されている。 渋川廃寺…物部氏(大連守屋)、大阪府八尾市渋川町。物部氏も仏教を受容していた。崇仏、排仏論争は蘇我氏が語り伝えたもので、馬子と守屋の政治権力闘争であった。 坂田寺…南淵(みなみぶち、明日香村)。奈良時代の建物基壇などが発掘されているが、飛鳥時代の遺構は見つかっていない。 豊浦寺(とゆらじ)…蘇我蝦夷 仏像の材質は木造(ほとんどがクスノキ材)と金銅造(銅製鍍金)がある。代表的遺品として下記がある。 飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏) - 鞍作止利の作(頭部と指の一部が現存) 法隆寺金堂釈迦三尊像 - 鞍作止利の作 法隆寺夢殿救世観音像 法隆寺百済観音像 広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像 中宮寺半跏思惟像(弥勒菩薩・寺伝は如意輪観音) 飛鳥寺本尊、法隆寺金堂釈迦三尊像などに代表される様式を止利式といい、杏仁形の眼、仰月形の鋭い唇、アルカイック・スマイル、左右対称の幾何学衣文、正面観照性の強い造形などを特徴とする。かつては、止利式の仏像が北魏様式、法隆寺百済観音像などにみられる様式が南梁様式(南朝様式)とされたこともあった。しかし、南朝の仏像の現存するものが少ないこと、日本へ仏教を伝えた百済と北魏とは相互交流が乏しかったことなどから、止利式を北魏様式、百済観音を南朝様式、と明快に割り切ることは疑問視されている。 三経義疏(御物) - 仏教に深く傾倒した聖徳太子の著作・自筆といわれている。 天寿国繍帳(中宮寺蔵) - 銘文中の「世間虚仮、唯仏是真」(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)という言葉は、聖徳太子の晩年の心境をよく窺うことが出来るとされている。 染織品 - 繍仏、錦などが伝世している。 飛鳥の石造物 - 飛鳥地方に存在する猿石、酒船石、亀石、橘寺の二面石などと呼ばれる石造物。信仰関連の遺物と考えられている。 百済の僧・観勒が暦本と天文・地理の書を献じた。 高句麗の僧・曇徴が来朝した。絵具や紙、墨を作ったとされるが、日本における創製者かどうかは定かでない。 豊浦宮 - 蘇我氏の氏寺であった豊浦寺を改修して宮とした。推古天皇 小墾田宮 - 後の宮殿の原型となる。603年、推古天皇遷る。 飛鳥板葺宮 - 643年、皇極天皇即位 645年、大化の改新 後飛鳥岡本宮 - 壬申の乱の直後に天武天皇遷宮、斉明天皇 飛鳥浄御原宮 - 内郭・外郭を持ち、内郭が北・南区画に分かれ、北区画に宮殿、南区に朝堂と南門を持つ。 ^ 久野健『仏像の歴史』(山川出版社、1987)pp.17 - 22, 47 - 48 法隆寺 遣隋使 遣唐使 聖徳太子 白鳳文化", "大和時代(やまとじだい)は日本の歴史の文献上における時代区分の一つである。南九州から畿内に渡ってきた初代神武天皇即位から平城京遷都までの時代を指す。かつて大和朝廷(ヤマト王権)が支配した時代が大和時代と一義的に捉えられていたが、その後の研究の進展によって「大和」「朝廷」などの語彙、認識や定義は改められつつある。このため近年では同時代を3世紀半ばから始まる「古墳時代」と呼称するのが一般的である。 大和時代は古墳時代と飛鳥時代を合わせた時代と言い換えることもできる。厳密には大和時代は弥生時代末期を含み、また飛鳥時代は古墳時代末期でもある。日本書紀などの文献による神武天皇即位年は紀元前660年だが大和時代の天皇には異常な長寿が多数見られる。日本書紀に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。 大和朝廷による古代国家の基礎が整えられた時期にあたる。日本書紀、古事記ではまず初代神武天皇による建国経緯が語られる。具体的な国家事業は第十代崇神天皇による四道将軍の派遣、課税の開始などから始まる。続いて垂仁天皇による灌漑事業、景行天皇と日本武尊による九州や関東への遠征、成務天皇による国造の制定、神功皇后による三韓征伐といった国家の発展が語られる。 応神天皇の治世では多くの渡来人の来朝があり儒教と漢字が伝わり、ここから日本列島外との交流が深まる。応神天皇の子の仁徳天皇は課税を三年間止めた後で大規模な灌漑事業を実施した善政が知られる。仁徳天皇の孫の雄略天皇は専制的な統治で朝鮮半島への干渉や中国(南朝)への遣使を盛んに行った。しかし雄略天皇が崩御すると天皇(大王)の権力も衰え大伴・物部・蘇我の各豪族が先後して実権を握っていった。6世紀前半には仏教が伝来する(日本の仏教の項を参照)。 推古天皇以降の時代は飛鳥時代ともいう。中国からの外圧が強くなると再び中央集権化志向が高まり聖徳太子の法律(十七条憲法)・官制改革(冠位十二階)を経て大化の改新(645年)後、天皇中心の政治が法体制的に確立していった。さらに遣隋使・遣唐使の派遣もあって農業・鍛鉄・建築など多方面にわたって技術が発展し、なかでも仏教美術は発達した。 乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱といった動乱を経て大和朝廷はさらなる改革に踏み切った。それまでの氏姓制度を改め公地公民制や統一的税制(租庸調制など)を施行し地方行政機構を改組して中央集権化するなど律令制の導入を図った。末期の701年には大宝律令が定められた。710年の平城京遷都をもって大和時代は終わり律令国家としての時代が始まる。律令制は10世紀初めに崩壊したが名目的には19世紀の明治維新まで維持された。 日本書紀では天皇の在位年数で年代を表している。しかし大和時代の天皇には異常な長寿が多いので日本書紀の年代は正確と言い難い。そこで系図については信用する前提で1世代を30年として年代を単純計算する方法がある。飛鳥時代の年代に不自然な点はなく概ね信頼できるので、ここから逆算していく。なお考古学上の実在が想定されうる天皇は5世紀末の金錯銘鉄剣銘による雄略天皇までである。 飛鳥時代の始まりである推古天皇即位が593年なので7世代前の応神天皇即位は古墳時代中ごろの4世紀後半になる。応神天皇陵、仁徳天皇陵に治定されている誉田御廟山古墳、大仙陵古墳は考古学的にも5世紀前半の築造とされている。また日本書紀で応神天皇や仁徳天皇の治世に在位したと記される百済王は朝鮮半島の正史である三国史記において4世紀後半から5世紀初めの王である。年代は一致している。 なお日本書紀の年代と三国史記の年代は応仁天皇期で120年ずれている。日本書紀の年代を機械的に当てはめれば応神天皇即位は3世紀後半、その母親の神功皇后は3世紀中ごろの人物となる。3世紀中ごろは魏志倭人伝に記される邪馬台国の卑弥呼や台与がいた時代であり日本書紀の神功皇后摂政39年、40年、43年、66年に魏志倭人伝からの引用文がある。ただし書紀に邪馬台国や卑弥呼・台与の名は無く「倭の女王」とだけ書かれている。神功皇后と倭の女王を同じとする記述もない。 応神天皇を4世紀後半の人物としてさらに遡ると、その5世代前にあたる崇神天皇即位は3世紀中ごろとなる。古墳時代の開始期であり天皇陵が大規模な前方後円墳に治定されるのも崇神天皇以降である。崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇の陵に治定される行燈山古墳、宝来山古墳、渋谷向山古墳、佐紀石塚山古墳は考古学的にも3世紀後半から4世紀前半の築造である。 また3世紀中ごろは前述したように邪馬台国の卑弥呼の時代であり、崇神天皇期の巫女である倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼と同一視する説が根強い。百襲姫の墓に治定される箸墓古墳は卑弥呼の死期と重なる3世紀中頃の築造とされ卑弥呼の墓との説がある。その近くにある纒向遺跡もまた邪馬台国の中心地として有力視される。なお日本書紀の年代を機械的に当てはめれば崇神天皇即位は紀元前97年である。 崇神天皇を3世紀中ごろの大王だとしてさらに遡ると歴史学的な証明は困難になる。大規模な埋葬文化の無い弥生時代末期になるため考古学的な考証に耐えうる陵墓も無くなる。日本書紀や古事記でも初代神武天皇から十代崇神天皇の間の八代については系譜しか記録がないため実在性が乏しい(欠史八代)。 それでも敢えて年代を想定してみると神武天皇から崇神天皇は十代に渡って親子間での皇位継承なので神武天皇即位は前1世紀ごろになる。ただし先代旧事本紀の地祇本紀、天孫本紀に書かれた豪族の系図からは神武天皇から崇神天皇までおよそ7~8世代ということが示唆されている。これを考慮に入れるならば神武天皇即位は1世紀ごろとなる。後漢の光武帝から倭奴国に金印(漢委奴国王印?)が授けられた頃である。 いずれにしても神武天皇は一世紀前後の人物ということになる。あくまでも実在すればということであり神話的色彩が強い神武天皇は伝説的人物とみなされるのが一般的である。なお日本書紀の年代では神武天皇即位は紀元前660年であり明治時代になって神武天皇即位紀元(皇紀)の元年とされた。戦時中の1940年(昭和15年)には紀元二千六百年記念行事が催され国威発揚に利用された。 実際の歴史に基づいているとすれば弥生時代末期の話と思われるが神話的修飾が極めて強い。 はるか昔、葦原中国と呼ばれた地上を統治するために天上(高天原)から天照大神の孫である天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)が日向国(南九州)へ降臨したと言われる。瓊瓊杵尊が山の神の娘である鹿葦津姫を娶って生まれた子が海幸彦と山幸彦である。山幸彦が海の神の娘である豊玉姫を娶って生まれた子が彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(なぎさたけうがやふきあえずのみこと)である。 鸕鶿草葺不合尊の子が神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)、後に神武天皇と呼ばれる初代天皇である。こうして天と山と海の神の血を引く存在が生まれたとされる。 神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)、後の神武天皇は東に美しい国があると聞いて東征に出た。日向を出発し筑紫(北九州)へ向かい宇佐、安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)、浪速国(大阪市)を経て河内国草香邑(大阪府東大阪市)へ至る。河内国北部にあたる現在の大阪府東部は古代には河内湖という湖であり、ここまで船で来ることができた。 さらに生駒山を超えて大和国へ入ったが、大和国の指導者長髄彦の抵抗にあって撤退を余儀なくされた。紀伊半島を回っている間に新宮市付近で嵐にあって船は大破、磐余彦は三人の兄をすべて失う。北上を余儀なくされた一行は熊野地方の豪族を下しながら大和国に再侵攻した。その途中では病を薙ぎ払う神剣布都御魂、神の使いである八咫烏などの助けがあったという。 最終的に長髄彦を殺して、大和国の征服に成功した磐余彦は橿原宮で初代天皇として即位する(神武天皇)。しかしその後の天皇については八代にわたって具体的な実績の記録がなく初期天皇の実在は疑われている(欠史八代を参照)。 なお神武天皇が実在したなら弥生時代後期のため当時瀬戸内海に多数あった高地性集落を海から見ながら東征したことになる。 以下、日本書紀、古事記における記述からなるべく神話的修飾を除いて記載する。 第十代天皇の御間城入彦(ミマキイリヒコ、崇神天皇)については3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。御間城入彦は大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。また初めて戸口を調査して課役を科した。天下平穏となり御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称えられる。この頃、朝鮮半島南端の任那(加羅)から蘇那曷叱知が派遣されたという。 第十一代天皇の活目入彦(イクメイリヒコ、垂仁天皇)は諸国に多くの池溝を開いて農業を盛んにした。相撲や埴輪の起源もこの頃とされている。 第十二代天皇の大足彦(オオタラシヒコ、景行天皇)は大規模な征服事業を行った。日本書紀によると大足彦は自ら九州に遠征して土蜘蛛や熊襲を征伐した。子の日本武尊(ヤマトタケル)の伝説的な活躍もよく知られ熊襲征伐に続いて東の蝦夷討伐も行った。しかし日本武尊は皇位を継ぐことなく遠征中に早世してしまう。 第十三代天皇の稚足彦(ワカタラシヒコ、成務天皇)は地方行政機構の整備を図った。諸国に命じて行政区画である国郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命した。さらに山河をもって国県を定めた。これは古事記序文でも触れられている。 第十四代天皇の足仲彦(タラシナカツヒコ、仲哀天皇)は日本武尊の子であり父と同様に熊襲征伐を行った。しかし道半ばで崩御してしまう。天皇の遺志を継いだ皇后の気長足姫尊(オキナガタラシヒメ、神功皇后)は熊襲を完全に屈服させ、続いて海を渡って朝鮮半島へも侵攻した。朝鮮半島南部の百済、新羅は日本へ朝貢するようになり高句麗の好太王碑にも「倭(日本)が百済・加羅・新羅を破り臣民にしてしまった」とある。 第十五代天皇の誉田別(ホムタワケ、応神天皇)は足仲彦天皇と気長足姫尊の子である。誉田別の治世では多くの渡来人が来朝した。阿直伎師、王仁、弓月君、阿知使主といった面々である。この頃に論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったと言われる。 第十六代天皇の大鷦鷯(オオサザキ、仁徳天皇)は難波堀江の開削、茨田堤の築造、山背栗隈県の灌漑用水設置、和珥池や横野堤の築造、感玖大溝(こむくのおおみぞ)の掘削を行って広大な田地を開拓した。疲弊した国の実情を察して三年間課税を止めた善政も有名である。また呉(中国南朝)に遣いを送り縫製の女工を求めてもいる。これは倭王「讃」の朝貢に比定されている。 第十九代天皇の雄朝津間(オアサヅマ、允恭天皇)は大鷦鷯の四男であり諸氏族の氏姓の乱れを正す改革を断行した。 第二十一代天皇の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル、雄略天皇)は雄朝津間の五男であり即位に際して対立候補となる皇族を殺しつくして専制的な統治を行った。金錯銘鉄剣に記された大王「獲加多支鹵」(ワカタケル)と想定されており5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈されている。国内では吉備氏の反乱を制し養蚕を推奨した。国外では高句麗に滅ぼされた百済を復興し反抗的な新羅へ攻め込んだりもした。呉へ二度遣いを送って縫製の女工を求め、これが倭王「武」の朝貢に比定されている。 その後は皇族の少なさが祟り第二十五代天皇である小泊瀬稚鷦鷯(オハツセワカサザキ、武烈天皇)の崩御をもって大鷦鷯(仁徳天皇)以来の男系が絶えてしまう。 第二十六代天皇として群臣が選んだのは誉田別(応神天皇)の5世孫である越前の男大迹(オホド)王だった(継体天皇)。この頃、朝鮮半島南部では新羅が勢力を拡大し圧迫を受けた加羅(任那諸国の1つ)は日本に救援を求めた。しかし新羅と結んだ筑紫君磐井が反乱を起こす。磐井の乱が鎮圧されると任那には近江毛野が派遣されたが傲慢で稚拙な交渉がさらなる混乱を招いた。 第二十九代の磯城島天皇(欽明天皇)は男大迹天皇の三男である。この頃にも任那を巡る様々な交渉が任那日本府を介して行われた。百済からの仏教公伝はこの一環である。しかし百済、任那諸国、日本府はお互いの思惑が一致せず、これに乗じた新羅は562年に任那を滅ぼしてしまう。激怒した天皇は新羅に対して討伐軍を送るが敵の罠にかかってしまい退却する。天皇は任那奪還を託して崩御した。 第三十代の他田天皇(敏達天皇)が父の跡を継いだが百済から伝わった仏教を巡って物部氏と蘇我氏が対立する事態になった。醜い争いが続いた末、天皇は崩御直前に仏教を禁じた。 第三十一代の橘豊日天皇(用明天皇)は他田天皇の異母弟である。この天皇は先帝の方針を覆して仏教に帰依した。しかしその治世はわずか1年半だった。天皇が崩御すると直接的な武力抗争が起き崇仏派の蘇我氏が勝利して廃仏派の物部氏は滅ぼされた(丁未の乱)。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。 第三十二代の天皇に据えられた泊瀬部皇子は他田天皇と橘豊日天皇の異母弟である(崇峻天皇)。しかし蘇我馬子と不和になった天皇は592年に暗殺されてしまった。臣下に直接殺された唯一の天皇である。しかし特に混乱も起きず蘇我馬子は他田天皇の皇后だった額田部皇女を第三十三代天皇に推戴した。日本初の女帝となる炊屋姫天皇(推古天皇)である。 第三十三代天皇の炊屋姫天皇(推古天皇)は593年に橘豊日天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立てて摂政とした。聖徳太子は603年に冠位十二階、604年に十七条憲法を制定し仏教の興隆に力を注いで天皇中心の国家体制作りを行った。607年には小野妹子らを大唐国(隋)に遣わして皇帝に上表文(国書)を送った。620年には蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。天皇は628年に崩御した。 第三十四代天皇として即位したのは他田天皇の孫の田村皇子だった(舒明天皇)。このとき厩戸皇子の子の山背大兄王と皇位争いが起きかけた。同じころに蘇我氏も馬子の子の蝦夷、孫の入鹿に代替わりした。初の遣唐使が送られたのはこの頃である。しかし唐からの遣いである高表仁は大変無礼で天皇への謁見が適わなかったと言われる。天皇は643年に崩御した。 第三十五代天皇として即位したのは皇后の宝皇女だった(皇極天皇)。この頃に蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼすなどの事件が起き、蘇我氏の専横が目立つようになった。これに不満を持った中大兄皇子(葛城皇子)・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自殺に追いやった。645年の乙巳の変である。こうして蘇我氏に権力が集中する半世紀続いた体制は崩れたが同時に天皇もまた退位を余儀なくされた。 第三十六代天皇として新たに即位した先帝の弟の軽皇子(孝徳天皇)は646年に改新の詔を出して難波宮で次々と改革を進めていった(大化の改新)。大臣が左大臣・右大臣・内大臣の3人に増員されたのもこの時期である。しかし中大兄皇子と不和になった天皇は孤立し、臣下がいなくなった難波宮で654年に寂しく亡くなった。 第三十七代天皇となったのは重祚した宝皇女だった(斉明天皇)。多くの土木工事を行った天皇だったが大鷦鷯天皇の頃とは違って民衆の負担にしかならず悪評を残すことになった。中大兄皇子の主導で百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵する途中で天皇は崩御、残された中大兄皇子は白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。このことで各地に城が築かれ都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。 第三十八代天皇として668年に即位した中大兄皇子(天智天皇)は全国的な戸籍(庚午年籍)を作って人民を把握する国内政策を推進した。天皇が崩御すると子の大友皇子が跡を継いだが、すぐに先帝の弟の大海人皇子が反乱を起こした。672年の壬申の乱である。敗北して自害した大友皇子に即位の事実は確認されないが現在は第三十九代弘文天皇と見なされている。 第四十代天皇に即位した大海人皇子(天武天皇)は都を宮を飛鳥浄御原宮に移して中央集権的な国家体制の整備に努めた。681年には律令の編纂を開始した。天皇の称号が実際に用いられ始めたのもこの時代だと言われている。しかし強権的な政治を行った天皇も寿命には勝てず制度の確立を待たずして686年に崩御した。 第四十一代天皇に即位したのは皇后の鸕野讚良皇女である(持統天皇)。先帝の事業を引き継いだ女帝は689年に飛鳥浄御原令を制定、690年には庚寅年籍が造られ、692年には公地公民制を基礎とした班田収授法を実施。694年には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。697年に孫の珂瑠皇子に譲位した。 第四十二代天皇となった珂瑠皇子(文武天皇)は701年に大宝律令を制定。天皇を頂点とした貴族・官僚による中央集権支配体制を完成させた。しかしこの天皇は短命で707年に崩御した。 第四十三代天皇となったのは先帝の母の阿閇皇女だった(元明天皇)。そして710年に平城京遷都が実施されて大和時代は終わった。 ^ 広瀬和雄『前方後円墳国家』角川書店<角川選書>、2003年7月。ISBN 4-04-703355-3 ^ 白石太一郎『古墳とヤマト政権』文藝春秋<文春新書>、1999年4月。ISBN 4-166-60036-2 ^ 直木孝次郎 『日本神話と古代国家』 講談社〈講談社学術文庫〉、1990年6月。ISBN 4-06-158928-8 ^ 山尾幸久「日本国家の形成」岩波新書、1977年 ^ 『詳説 日本史図録 第5版』山川出版社、2011年、p. 29。 古墳時代 飛鳥時代 日本の歴史 日本史時代区分表 神武東征 三韓征伐 渡来人 任那日本府 邪馬台国 倭の五王", "桃山文化(ももやまぶんか)または安土桃山文化(あづちももやまぶんか)は、織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められていた安土桃山時代の日本の文化である。この時代、戦乱の世の終結と天下統一の気運、新興大名・豪商の出現、さかんな海外交渉などを背景とした、豪壮・華麗な文化が花ひらいた。 なお、「桃山文化」の呼称は、主として美術史の分野において多用される時期区分であり、その場合は徳川家康による江戸幕府開幕後の17世紀初頭も含めることが多い。本項でも、この時期区分に準じ、16世紀後半から17世紀初めにかけての文化事象について、その概略を述べる。 「天下布武」を掲げて日本の国内再統一事業を推し進めた織田信長、その後継者として統一を実現した豊臣秀吉の時期を、日本史上では、2人の居城の地名にちなんで「安土桃山時代」と称し、この時代の文化を一般に「桃山文化」と呼んでいる。「桃山」の名は、秀吉がその晩年にきずいて本営を設けた伏見城の跡地で、廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植林され、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったという、京都市伏見区の桃山丘陵に由来している。 この時代、約100年におよんだ戦国時代の争乱をおさめて権力と富を集中させた統一政権のもと、そのひらかれた時代感覚が、雄大・壮麗にして豪華・絢爛、かつ溌剌として新鮮味にあふれた桃山文化を生み出した。この文化には、戦国の世を戦い抜いて新たに地域の支配者となった新興の大名や、戦争や貿易などを通じて大きな富をきずいた都市在住の豪商の気風や経済力が色濃く反映されている。 また、古代や中世の文化が神仏中心の傾向が強かったのに対し、この文化が人間中心主義的な性格を傾斜させたことも大きな特色となっている。それまで長きにわたって各方面の文化を支えになってきた寺院勢力は、信長や秀吉らの政策によって弱められ、かつ、多くは没落していったため、文化の面においても仏教色が薄められ、世俗的・現実的かつ力感のある作品が数多く生み出されたのである。 統一政権の出現によって、文化の地域的な広がりや庶民への浸透もいっそう進み、京都・大坂・堺・博多などの都市で活動する商工業者(町衆)が新たな文化のにない手として台頭した。この時代の文化は、中世以来の来世主義が後退し、現世享楽主義的な要素が強まったが、それには、このような町衆の台頭も背景のひとつとなっている。 一方、ポルトガル人の来航を機にヨーロッパ文化との接触がはじまった。また、後期倭寇に代表されるように、日本人自身のかつてないほどの活発な海外進出の影響も相まって、この時代の文化は多彩なものとなり、異国趣味を加えて世界性をもつようになった。新来の焼き物や楽器を通じ、朝鮮文化や琉球文化からも影響を受けた。 さらに、従来多岐にわたって文化をになってきた禅僧社会は大名らの文化顧問のような役割をにない、文化における公家社会の発言力も相応の経済的安定のもとに一定の高まりをみせるなど、一種の古典復興時代ともいうべき状況が現出した。安土桃山時代は、武家文化・町人文化を基軸としながらも王朝文化や東山文化の系譜も継承してこれらを融合させ、国民文化の形成に大きな一歩を踏み出した時代ともいえるのであり、後続する江戸時代の文化につながる要素がきわめて大きい。 なお、尾藤正英(日本近世史・近世思想史)は、桃山文化の特色として、 城郭の石垣のように、実用的・機能的であることが、かえって新たな美を生んでいる点 回遊式庭園の構造にみられるように、静的な鑑賞の対象ではなく、行動することによって現出される美を追求している点 前代からの会所の伝統が継承されており、個人的な空間ではなく、対話や社交・儀礼など集団的な活動の場において美が営まれている点 の3点を指摘している。 桃山文化を象徴するのが城郭建築である。城郭は本来的には軍事施設でありながら日本特有の建築様式のひとつともなっている。 この時代には、中世にきずかれた山城から次第に小高い丘の上や台地の縁辺に築く平山城や平地に築く平城へと変遷し、多重に堀を配し堅牢な石垣を積み、重層構造の天守や櫓を建築する城郭に発展した。 「天守」の語が初めて文献に見えるのは、16世紀前半の畿内の戦乱を描いた軍記物『細川両家記』における、16世紀初頭頃の摂津国伊丹城(兵庫県伊丹市)の天守であるといわれている。ただし、同時代にあっては「天守」の語は必ずしも一般的ではなく、江戸時代以前の文献資料ではむしろ「殿守」「殿主」の表記が多い。従来の寺院建築にも仏塔や山門など多層建築が存在したものの、これらは多かれ少なかれ大陸の様式の影響を受けたものであった。それに対し、天守は全く日本人の創意から生まれた多層建築であったといえる。また、高い天守を備えた「本丸」の外側に土塁や深い濠で囲まれた複数の郭(曲輪)を配して、「二の丸」「三の丸」「西の丸」「北の丸」などと称し、各郭を連ねる構造が採られるようになり、さらに、城の内部には書院造をとり入れた居館や邸宅が設けられた。 野面積みの石垣も濠も、本来的には実用を旨とする防禦設備ではあったが、そこにも美が追求された。これには、城そのものが単なる要塞ではなく、地域の政治的な中心として住民から仰ぎみられる権威の象徴となったことも作用している。 城郭建築に革命をもたらしたのが、織田信長が天正4年(1576年)より起工した近江国の安土城(滋賀県近江八幡市)である。信長は、琵琶湖東岸に京都・奈良・堺の職人を動員してつくった五層七階(地上6階・地下1階)の楼閣を好んで「天主」と称した。この命名については、キリスト教における天主(デウス)に由来するという説、あるいは仏教の帝釈天に由来するという説がある一方、信長がみずからを天道の体現者である、ないし天下における中心であると自認したことによるものという指摘もなされている。ルイス・フロイスは、この城について「その構造の堅固さ、財宝の華麗さは、ヨーロッパの壮大な城と同じである」と記録しているが、安土城は天正10年(1582年)、山崎の戦いののち天守(「天主」)と本丸を焼亡した。 天正11年(1583年)9月頃、豊臣秀吉は一向一揆の拠点であった石山本願寺の跡地に大坂城築城を開始した。大坂城は、外観五層・内部八ないし十階の大天守がそびえ、本丸と山里丸を中心として二の丸、三の丸の4つの郭から成る広大な城郭であった。そして、規模と豪壮華麗さにおいて安土城をはるかに上回るものであったが、その一方ではひなびた山里の情趣も含んでいた。 その後、秀吉は近江八幡城(滋賀県近江八幡市)、大和郡山城(奈良県大和郡山市)、淀城(京都市伏見区)、聚楽第(京都市上京区)、伏見城(京都市伏見区)を築いた。それに対し、徳川家康は二条城(京都市中京区)、駿府城(静岡市葵区)、名古屋城(名古屋市中区・北区)、江戸城(東京都千代田区)などを築いている。その他、天正から寛永にかけては多くの城郭が各地に築かれたが、わけても関ヶ原の戦いののちは、現在みられるような本格的な城郭建築が全国的に続々とつくられた。天守・櫓・門・塀など、城郭を構成する建築物が防火のため土や漆喰で塗り込められるようになったのは、関ヶ原以降のことである。 現存する城郭建築の最高峰と称されているのが、池田輝政による播磨国姫路城(兵庫県姫路市)である。五層七階(地上6階・地下1階)の大天守と3つの小天守、合わせて4つの天守からなる連立式天守の構造をもち、全体を漆喰で白く塗った総塗籠造の優美な姿は「白鷺城」の別名で知られ、世界遺産にも登録されている。また、その建物の配置はあたかも迷路のようであり、「行動性にともなう美」という桃山文化の一面をうかがわせている。 天正15年(1587年)完成の聚楽第や天正20年(1592年)築の伏見城、創建当時の大坂城など、いずれもこの時代の代表的な城郭で、天下一統の勢威を示す、雄大かつ華麗な建築であった。ただし、すぐれて軍事的・政治的建造物であり、都市のランドマークでもあった城郭建築が、明治維新後の廃城令や太平洋戦争での連合国軍の空爆を経た現在、創建当時そのままの遺構がのこっている例は必ずしも多くない。 現存する天守としては、いわゆる「現存天守(現存十二天守)」が有名であり、うち国宝に指定されているのは、姫路城・犬山城・松本城・彦根城の4城である。以下に、桃山期から江戸初期にかけての主要な城郭建築について略述する。 姫路城(兵庫県姫路市) 上掲のとおり、現存城郭建築の最高峰と称され、近世城郭の最盛期を伝えるものとして国宝・特別史跡などに指定され世界遺産にも登録されている。播磨平野中央の姫山を利用した平山城で、元々は赤松貞範が築城。豊臣秀吉が三重の天守を築き、慶長年間、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功によって城主に任じられ、現在のように拡張して大改築をほどこした。天守は後期望楼型である。慶長19年(1614年)ころの完成と考えられている。 犬山城(愛知県犬山市) 三階四層の天守を有する平山城で、1層目の存在感が大きく、上方ほど大きく逓減する望楼型を呈する。信長の叔父織田信康が城郭を造営して、慶長6年(1601年)に再建後、尾張藩付家老の成瀬正成が入城し、現在のようなかたちになったのは17世紀中葉といわれる。20世紀まで成瀬氏の所有であったが、現在は財団法人の所有で、犬山市が管理している。天守は国宝に指定されている。 松本城(長野県松本市) 天正10年(1582年)、徳川氏の配下となった小笠原貞慶が深志城を松本城と改めて入城、天正18年(1590年)に家康の関東入部にともない小笠原氏も転封となり、その後にはいった石川数正・石川康長の父子が五層六階の天守を築いた。典型的な平城で「烏城」とも呼ばれている。層塔型の特徴をもつ天守は、国宝に指定されている。 彦根城(滋賀県彦根市) 井伊直勝が慶長8年(1603年)築城に着手した平山城で、天守は大津城(滋賀県大津市)天守を移したものといわれる。天下普請として徳川家康が諸大名に手伝普請を命じて完成し、来たるべき豊臣氏との決戦にそなえるためにつくられた。以後、幕末まで譜代大名筆頭の井伊家の居城となった。国宝の天守・附櫓・多聞櫓のほか、櫓や門・馬屋など多くの遺構がのこり、うち5棟は重要文化財に指定されている。 丸岡城(福井県坂井市) 独立式望楼型二重三階の天守で、現存天守最古と考えられている。天正4年(1576年)、柴田勝家の甥の柴田勝豊の築城によると伝えられ、のちに丹羽長秀の家臣だった青山宗勝が城主となった。天守は国の重要文化財に指定されている。 松江城(島根県松江市) 堀尾忠氏が慶長12年(1607年)に築城に着手した平山城で複合式望楼型五重六階の天守を有する。天守は現存12天守のひとつで、重要文化財に指定されている。 二条城(京都市中京区) 伏見城に代わる徳川家康の京都における居城として造営され、のちに将軍上洛のさいの宿所となった。二の丸の中心的な建物が二の丸御殿で桃山様式を今日に伝えており、うぐいす張りの廊下も有名である。二の丸御殿のみが国宝に指定されている。 なお、天守の形状の2つのタイプ(望楼型と層塔型)については、かつては望楼型から層塔型へと変遷したと考えられてきたが、両者の創建年代がたがいに重複することが明らかになってきたため、単純な時代による変化なのではなく、16世紀末葉から17世紀初頭にかけての短い時期に各様式が一斉に開花したと見なされるようになった。丸岡城や犬山城など望楼型天守の場合は物見櫓の要素を多分に含み、城主が周囲を「見る」という軍事的要素に力点が置かれているのに対し、姫路城や松本城などにおいては、物見台を設けず、緩やかな層塔型が採用されており、周囲から「見られる」という政治的側面が重視されているのである。 室町時代後半期において、高貴な客を応接したり、高位の主人が来客を接待したりという対面儀礼は、上級武家住宅に求められる重要な機能であり、天下一統を果たした豊臣秀吉は、ことのほかこの対面儀礼とその場を重視した。そして、そうした場を演出するのにきわめて好適であったのが書院造という建築様式である。それは、角柱を用い、部屋に畳を敷きつめ、杉戸・襖・障子などの建具を用いることなどを特色とする様式であるが、床の間や違棚・付書院などを作りつけて内部空間そのものに身分や格式の表現をともなっていた点で対面儀礼の場にふさわしいものであった。 こうしたなかで、大広間は、中央の柱列によって南北が区画され、かつ従来の主殿の4倍もの空間を擁しており、身分差を誇示しつつ多数の人間を収容しうる目的にかなう部屋であった。江戸幕府大棟梁となった平内政信(初代)の執筆した『匠明』によれば、秀吉が聚楽第造営に際し、従来の主屋建築である「主殿」の規模を拡大してつくったのが広間建築のはじまりであるという。いっぽう、『匠明』収載の図面の検討からは、武家住宅の主屋建物の名称が「主殿」から「広間」にかわったのは17世紀初頭であったと推定されている。 『匠明』収載の指図と現存建築を総合的に検討した結果、慶長5年(1600年)の園城寺勧学院客殿(滋賀県大津市)や慶長6年(1601年)頃の園城寺光浄院客殿(滋賀県大津市)など近世初期の書院造においては、「広間」をともないながらも、外観は基本的に室町期の書院造を継承し、中門や蔀、正面車寄せの妻戸などの点において寝殿造の名残をとどめていることが指摘されている。ここでは内装も華美になりすぎず、装飾性も抑えられており、むしろ接客空間の細分化と充実が顕著である。 これが、慶長18年(1613年)上棟の名古屋城本丸御殿表書院(戦災で焼失)においては、中門と蔀が消え去って、書院造における従来の寝殿造的な要素は完全に払拭されている。しかし、金碧濃彩の障壁画は小壁に達しておらず、細部装飾の華麗さについても二条城二の丸御殿の内装にはおよばない。 慶長8年(1603年)造営の二条城二の丸御殿群や元和年間(1615年-1624年)造営と推定される西本願寺書院はいずれも寛永年間(1624年-1645年)に大改造をおこなっているが、ここにおいて内部意匠が頂点をきわめ、近世独自の書院造が完成し、諸大名もこれにならい華美を競うようになった。また、両者とも建物・庭園が一体となっており、座観式の庭園が建物外部に展開される(庭園については後述)。こうして寛永以降、近世的な書院造が全国的に広がっていくのである。 聚楽第は、16世紀末葉豊臣秀吉が京都における居城として造営したもので、瓦葺・塗籠の城郭群と檜皮葺の屋根をもつ居館群から成っており、天正16年(1588年)には後陽成天皇の行幸を受けている。居館群の中心建物は上述の「大広間」であり、諸大名との対面儀礼の場として用いられた。広間は、身分差を示しながら多数の人間を収容しうる部屋として重視され、以後、近世を通じて普及していく。 伏見城は当初、秀吉の隠居屋敷として天正19年(1591年)に伏見の指月にて造営がはじまり、慶長伏見地震を経て場所を木幡山(現在の桃山丘陵)に移し、慶長2年(1597年)に完成した城郭である。秀吉死後の慶長4年(1599年)、家康が留守居役として入城したが、翌年の関ヶ原前哨戦となった伏見城の戦いで石田三成の軍によって秀吉時代の主要建築がほとんど焼亡させられ、いったんは徳川氏により修復されたものの元和9年(1623年)に破却された。 以下に、伝聚楽第・伝伏見城の各遺構を記す。 大徳寺唐門(京都市北区) 臨済宗寺院の大徳寺に所在するが、聚楽第の遺構といわれる。前後に軒唐破風のついた切妻造・檜皮葺の四脚門であり、各部に華麗な装飾彫刻がほどこされている。唐門とは、四脚門の一種で屋根の破風(棟と直交する側の軒先を隠す板)が唐破風(弓形の曲線を有する破風)になっている門のことである。桃山様式を示す代表的な建築のひとつとして著名である。 西本願寺飛雲閣(京都市下京区) 浄土真宗本願寺派本山の西本願寺に所在し、聚楽第の遺構と伝えられてきたが、異説もある。三層の楼閣で数寄屋風の書院造の建物で左右非対称をなし、各階の屋根は入母屋・寄棟など変化に富み、唐破風をともなう。2層目の廻縁、3層目の花頭窓がはなやかな印象をあたえているが、内部もきわめて独特で斬新な意匠がほどこされている。 西本願寺唐門(京都市下京区) 西本願寺に所在し、伏見城の遺構と伝えられている。唐破風をともない、各所にほどこされた精巧な彫刻は華麗に彩色されており、一日見飽きないところから「日暮門」と称されることもある。 西本願寺書院・北能舞台(京都市下京区) 伏見城遺構と伝えられてきた西本願寺書院は、「鴻の間」と通称される対面所と白書院などから構成される入母屋造、本瓦葺の建物である。「鴻の間」は37畳半の上段をふくめ全体で203畳もの広さをもっており、桃山時代に大成された大広間の形式を今日に伝えている。書院の造営年代については、昭和30年代より寛永新建説が唱えられたが、解体修理の際「元和4年卯月24日」銘の丸瓦が発見され、寛永説は否定された。 また、書院対面所に面して庭内に建つ北能舞台は、能舞台としては全国唯一の国宝指定建造物である。解体修理の際に天正9年(1581年)の墨書が発見されている。ただし、この墨書は部材自体ではなく、貼付された紙に書かれていること、西本願寺が現在地に移ったのは天正19年であることなどから、この墨書の紀年がただちに建立年を指すものではない。 西教寺客殿(滋賀県大津市) 近江坂本の西教寺はもともと京都岡崎の法勝寺の末寺であったが、法勝寺が荒廃して廃寺となったことから、後陽成天皇が天正18年(1590年)に法勝寺の西教寺への統合を命じる綸旨を発した。法勝寺の寺籍は西教寺に継承され、法勝寺に伝承されてきた仏像・仏具の類も西教寺に移された。西教寺の客殿は伏見城遺構と伝わっており、障壁は水墨画で飾られている。同客殿は造作も華麗すぎることなく、落ち着いたたたずまいを示しており、慶長2年(1597年)ないしその翌年ころの移築と考えられる。 戦国の動乱にあって、永禄10年(1567年)、東大寺大仏殿が松永久秀軍の手にかかって焼亡、元亀2年(1571年)には比叡山延暦寺が信長によって焼き討ちされた。各地の戦国大名は寺社に対し政治的・経済的な圧迫を加え、これを統制しようとする一方、寺社が自らの支配に従属し、支配体制の強化に資する場合にはその復興をはかった。毛利元就による永禄2年の厳島神社復興、長宗我部元親による元亀2年の土佐神社の復興、武田信玄による甲斐善光寺の創建などがそれにあたる。信長自身も熱田神宮(名古屋市熱田区)に築地塀を奉納したり、伊勢神宮(三重県伊勢市)の遷宮を支援している。豊臣秀吉もまた、日吉大社(滋賀県大津市)、比叡山延暦寺(大津市)、大徳寺、醍醐寺(京都市伏見区)、妙心寺(京都市右京区)、東寺(京都市南区などの復興に尽力し、子の豊臣秀頼は法華寺(奈良県奈良市)を再興した。これらの多くはいずれも前代までの伝統的な様式の再現であった。天下人や大名たちによる寺社造営事業には、このような復古性とともに工事の迅速性に特徴がある。 このなかで東寺金堂は、内陣と外陣の区別を取り払って床を土間仕上げにした古代的な要素と、構造面においては鎌倉時代以来長らく途絶えていた大仏様の技法の応用という中世的な要素の両方が志向された建物である。また、このことにより新しい様式が創造された事例に属し、通柱によって一気に屋根の重みを支える手法は、後世の大型建築の工法にも影響をあたえ、その明快な構造と豪壮な意匠は同時代の城郭建築に通じるものがある。 豊臣秀吉は、慶長3年(1598年)、真言宗醍醐寺金剛輪院を中心に有名な「醍醐の花見」を催しているが、金剛輪院の義演を厚く信頼した秀吉は、金堂を紀伊国より移築し、五重塔を改修している。このとき、金剛輪院もまた醍醐寺三宝院として復興された。その唐門と表書院は国宝に指定されており、庭園も有名である。 奈良の東大寺大仏殿は戦火により焼失してしまったが、秀吉は京都に方広寺大仏殿を建設した。方広寺は、大仏造立を発願した秀吉が盧舎那仏を安置するため創建した寺であり、これまで地震や火災によって何度か焼亡し、現在は当時の状態をとどめない。ただし、方広寺鐘銘事件で有名な梵鐘は現在ものこっており、重要文化財に指定されている。 霊廟建築としては豊国廟がある。慶長4年(1599年)、亡き豊臣秀吉を祀るため京都東山の阿弥陀ヶ峰の山麓に建てられた豊国廟は、壁面から軒まわりが彫刻と彩色で彩られ、屋根には唐破風や千鳥破風を設け、豪壮華麗できわめて変化に富む構成が採られていたと伝えられる。慶長9年(1604年)の祭礼のようすを描いた『豊国祭礼図屏風』によれば、権現造の本社以下、多くの建物をしたがえた壮大な神社であったことが知られている。豊国廟は、元和元年(1615年)に徳川氏の破却によって廃絶されてしまったものの、その遺構として伝承されているのが、琵琶湖の竹生島(滋賀県長浜市)に所在する宝厳寺唐門と都久夫須麻神社本殿・唐門である。なお、現在の豊国神社(京都市東山区)は明治時代に再興されたものである。 同じく霊廟建築として京都東山に建てられた高台寺霊屋は、宝形造・檜皮葺で、秀吉正室高台院(北政所)の墓廟である。厨子が3基あり、それぞれに大随求菩薩、高台院、秀吉の木像が安置されており、内陣のいたるところに施された「高台寺蒔絵」で有名である。内陣には蒔絵のほか狩野派の絵画なども描かれており、当時の工芸技術の粋が集められている。こうした霊廟建築の流れは、やがて寛永期の日光東照宮(栃木県日光市)へとつながっていく。 地方では、兵庫県丹波市の柏原八幡神社では、秀吉によって社殿造営を命じられた堀尾吉晴が本殿・拝殿の複合社殿を再建しており、国の重要文化財に指定されている。 徳川家康は慶長9年(1604年)に富士山本宮浅間大社の本殿を造営した。二重の楼閣造となる珍しい形式であり、「浅間造」と称される。 東北地方では、奥羽の大名伊達政宗が慶長9年(1604年)に紀伊国の大工を仙台に招き、軒下部分に極彩色の彫刻をほどこして正面には千鳥破風と唐破風を重ねた権現造の大崎八幡宮社殿(仙台市青葉区)を建立した。複雑な屋根形式と豊かな装飾性に特徴があり、国宝に指定されている。 松江城天守 弘前城天守 松山城天守 高知城天守 姫路城の連立式天守(本丸より撮影) 彦根城二の丸佐和口多聞櫓と堀 彦根城天秤櫓 二条城唐門 二条城二の丸御殿の天井 伏見城跡出土の金箔瓦(軒丸瓦と軒平瓦) 名古屋城復興天守 下から2層目は比翼千鳥破風、第3層は大千鳥破風、第4層は軒唐破風。 大徳寺唐門(伝聚楽第遺構) 西本願寺唐門(伝伏見城遺構) 西本願寺「鴻の間」(伝伏見城遺構) 「鴻の間」上段 西本願寺「北能舞台」(伝伏見城遺構) 西教寺客殿(左、伝伏見城遺構) 都久夫須麻神社本殿(伝豊国廟遺構) 豊国神社(京都市東山区)唐門 高台寺霊屋 醍醐寺三宝院大玄関 醍醐寺三宝院唐門 柏原八幡神社の複合社殿 柏原八幡神社の唐破風 茶の湯は、安土桃山時代になると大名や豪商だけでなく、町人の間へも広がった。堺の商人出身で、武野紹鷗に師事した千利休(千宗易、本姓は田中)は、茶堂として信長に仕え、独特の茶道具や懐石を考案して茶の湯の儀礼を定めて茶道を確立し、さらに秀吉にも重用された。利休は、村田珠光や武野紹鷗によってすでに始められていた侘び茶を大成した。 茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて のむばかりなることと知るべし — 千利休 利休が求めたものは、豪華な書院の茶ではなく、簡素な無一物の美を希求する草庵での侘び茶であった。禅の影響を受け、「和敬清寂」をその根本精神とし、簡素と閑寂を旨とした侘び茶は、華やかさの目立つ桃山文化のなかで異彩を放っている。しかし、天正19年(1591年)、利休は秀吉の不興を買い、自刃している。 茶の湯は、一方では、いわば生活教養文化として既成文化を包含・統合するかたちで成立したものであり、連歌や謡曲、能狂言などといった寄合の文化とも共存し、人びとに社交の場を提供するものとして歓迎された。秀吉は、家康との講和後の大徳寺茶会、武家関白の権威を高めた禁中茶会につづいて天正15年(1587年)10月1日、京都の北野神社で大規模な茶会(北野大茶湯)をもよおした。そこには秀吉自慢の「黄金の茶室」が持ちこまれ、秀吉・千利休・今井宗久・津田宗及の4人を茶堂とする茶席が設けられた。4人の茶席には、貧富・貴賤の別なく愛好者の参加をゆるした。参加者は8人ずつ入場させて各人にクジをひかせて2人組4組に分け、それぞれの茶堂の点前で茶をいただくという趣向となっていた。1日803名もの拝服者があり、その内訳は公卿・大名から百姓・町人にいたるまであらゆる階層におよんだという。茶会は当初10月1日から10日間の予定であったが、結局は1日だけとなった。北野神社では9月25日から800余もの茶屋座敷の造営がはじまり、当日は経堂から松梅院までぎっしりと建ち並び、その数1,500以上におよんだといわれている。 今井宗久も津田宗及もともに堺の豪商出身であった。この2人に利休を加えて「天下三宗匠」と称された。山上宗二も堺の商人出身で利休に20年師事し、秘伝書『山上宗二記』をのこした。博多の豪商、島井宗室と神谷宗湛もまた茶人としても有名である。宗室はとくに豊後国の大名大友宗麟との関係が密接であり、また、信長自刃の前日には本能寺に同宿して信長の収集した茶道具を見ており、宗湛はまた、北野大茶湯に博多からかけつけた際、秀吉に大名以上の待遇で厚く迎えられたといわれている。 諸大名もさかんに茶会をもよおした。茶の湯が武士や大名の間であまねく広まっていった功労者としては織田信長が挙げられる。信長は義昭を奉じて入京したのち、堺の町衆に対し「名物狩(強制買い上げ)」をおこない、また、家臣に対しては茶の湯を功績ある者に対する許可制とした(「茶の湯御政道」)。茶をたしなむことは、武人にとって一種の威信になったのである。こうして利休に師事した武将には蒲生氏郷、芝山宗綱(監物)、細川忠興(三斎)、高山右近(南坊)などがおり、「利休七哲」などと称されることがある。 また、茶道史において特に重要な武人としては、織田有楽斎(長益)、古田織部(重然)、小堀遠州(政一)が挙げられる。織田有楽斎は信長の弟で、かれがつくった茶室も有名である。古田織部も信長・秀吉に仕え、武士好みの茶風として知られる織部流を創始した。織部焼(後述)はかれの名にちなむ。関ヶ原合戦以後は、徳川秀忠の茶道師範として活躍したが、大坂の役で末子が豊臣秀頼方についたため、内応を疑われ、非業の死を遂げている。利休が自然の侘びを求めたのに対し、織部は、普通ならば窯のなかで打ち捨てられるような「へうげもの」銘の茶碗を愛したように、人工の侘びを見いだしたと評される。織部に師事した小堀遠州は、武家茶道のひとつ遠州流の祖となった人物で、将軍の茶の湯師範となったほか、作庭でも有名で、幕府関係の作事奉行として多くの名園を造作した。 なお、茶道の隆盛にともない、茶入や茶壺、茶器、茶釜など茶道具にもすぐれたものがつくられている。茶入「九十九髪茄子」や茶釜「古天明平蜘蛛」は、利休七種茶碗や秀吉が所持したといわれる高麗物の井戸茶碗などとともに、「名物」といわれた。 武野紹鷗の茶室は4畳半で書院造風の端正なつくりであったと考えられている。それに対し、千利休唯一の遺作といわれる、山崎天王山の麓の妙喜庵(京都府大山崎町)内の「待庵」は、当時の上流階級で愛された山荘や茶屋、あるいはその原形となった民家建築をベースにした、わずか2畳敷の草庵であり、世俗的な身分差を解消する手立てとして「躙口(にじりぐち)」をともなっている。ここでは、にじり口と土庇、そして露地(路地)によって庭と室内の一体化が図られており、一見質素で狭隘にみえながらも、天井の複雑な構成や窓の自在な配置、床内の入隅柱、天井を土壁で覆った室床など細部にいたるまで吟味と配慮が行き届き、驚くばかりの拡がりを見せている。天正10年(1582年)の山崎の戦いののち、秀吉はしばしば利休らと茶会をもよおしているが、待庵もこれに用いられた可能性がある。 利休にかかわる茶室としては他に、大徳寺龍光院書院内に設けられた茶室「密庵席(みったんせき)」がある。密庵席の名は、中国・宋代の禅僧密庵咸傑の現存唯一の墨跡に由来している。墨跡は禅宗寺院はもとより利休はじめ多くの茶人より厚く尊崇され、密庵席にはこの一幅だけを飾るために密庵床(みったんどこ)が設けられている。密庵の墨跡は利休の添状とともに国宝指定されている。 利休はまた、紹鷗の示した4畳半茶室の草庵化も進めた。これは、裏千家の茶室「又隠(ゆういん)」(京都市上京区)に伝わっている。 織田有楽斎、古田織部、小堀遠州ら大名茶人も茶室をつくった。これには草庵風のものもあれば書院風のものもある。 織田有楽斎が京都建仁寺正伝院につくった茶室如庵は、建仁寺から東京の三井家、神奈川県大磯の三井家別荘へと移築を繰り返し、現在は愛知県犬山市の有楽苑に所在する。壁の腰張りに暦が張ってあるところから「暦張りの席」とも呼ばれ、国宝に指定されている。古田織部の好みを最も残すといわれる燕庵(京都市下京区)は、織部が大坂の陣に際して京屋敷の茶室を義弟にあたる藪内流の剣仲紹智に与えたものと伝えられている。如庵と燕庵は、いずれも草庵風茶室の空間に格式を創出したところに特徴がある。いっぽう、大徳寺孤篷庵に設けられた「忘筌(ぼうせん)」は小堀遠州がつくり、18世紀末に松江藩の藩主松平治郷が再建した茶室で、書院造を基本としているが草庵風の意匠も採用されている。 このように、茶室建築は茶人の精神すなわち「数寄」が表現されたもので、「数寄屋」の呼称もこれに由来するが、上述『匠明』に数寄屋が収載されていることは、17世紀初頭の段階で上層武家の接客施設として茶室がすでに定着していたことを示している。 秀吉は、大坂城内に豪華な茶室をつくり、また、折りたたみ可能な「黄金の茶室」を千利休につくらせ、各地に運んで茶会をひらいた。「黄金の茶室」は京都御所や肥前名護屋城(佐賀県唐津市)にも運び込まれ、また、北野大茶湯でも披露されている。これらは、秀吉の派手好み・成金趣味の現れと評されることも多いが、秀吉自身はそれよりも「山里」と名づけられた、木立によって俗塵を遮断した静寂な茶室での侘茶を好んだといわれる。 なお、高台寺境内において伏見城遺構と伝承される2つの茶亭「時雨亭」「傘亭」について、堀内家出身の堀内他次郎(宗完)は、これが伏見城に秀吉が設けたとされる学問所の高堂と草堂ではなかったかと指摘している。 茶室建築はのちの住宅建築にも影響をあたえた。住まいに数寄屋(茶室)の要素を採り入れた「数寄屋造り」がそれである。 伏見桃山城内に復元された「黄金の茶室」 高台寺遺芳庵 イエズス会の修道士ルイス・アルメイダは、松永久秀の信貴山城(奈良県平群町)庭園を見聞したときの感想として「これ以上優雅なものはありえない」と記しているが、このことは、戦国大名が自らの権威を誇示するために競って作庭したことを物語っており、その発達は壮麗な城郭建築の発展と不可分の関係にあった。 桃山時代には、不老不死を祈念する鶴・亀や蓬莱などを表現する石組みと書院造の邸宅が調和する書院式庭園(書院造庭園)が多く造られた。ただし、「書院式庭園(書院造庭園)」の語は庭園様式ではなく、西本願寺書院の庭園が枯山水であるのに対し、二条城二の丸庭園は池泉式であるように、建物との関係にもとづいた分類呼称である。 智積院大書院庭園は、秀吉が建立した祥雲禅寺の時代に原形が造られた利休好みの庭園で、築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれている。智積院になってのち、17世紀後葉に第7世化主となった運敞が庭園を修復して「東山随一の庭」と称されるようになった。 広壮な書院造建築と林泉とが調和する醍醐寺三宝院庭園は、慶長3年(1598年)3月の「醍醐の花見」に際して、秀吉自らが基本設計を行った池泉回遊式の庭園である。作庭は花見の終わった同年の4月より開始され、同年8月の秀吉の他界後は醍醐寺の義演が差配した。正面の「藤戸石」はもともと管領家細川氏の京屋敷にあった由緒ある石で、阿弥陀三尊をあらわすといわれ、秀吉が聚楽第から運ばせたものである。秀吉の死によって当初の予定よりも規模を縮小させることを余儀なくされたが、義演は秀吉の構想を発展させ20数年にわたって改修を重ね、また、「天下一の石組の名手」といわれた賢庭など当代一流の庭師を集めて、大ぶりの石をふんだんに用いて贅をこらした池庭をつくりあげた。庭園内の池には「亀島」「鶴島」が配され、橋が架けられ、庭の南東には茶室「枕流亭」がある。開放的で躍動感あふれる構成で知られる三宝院庭園は、国の特別史跡・特別名勝に指定されている。 二条城二の丸庭園は、小堀遠州の代表作として挙げられる池泉式の書院造庭園で、出入りの多い複雑な平面形をもつ中央の大池には「蓬莱島」「亀島」「鶴島」の3つの島が配されている。この庭園は、「八陣の庭」とも呼ばれ、神仙蓬莱の世界を表現しているといわれ、慶長年間に二条城造営とともに作庭された。上述のように書院造建築は、対面儀礼の場として重視されたが、これら対面所では、建物内での固定された着座位置からの視線がことのほか重視された。二の丸御殿は、寛永3年(1626年)の後水尾上皇行幸に際し改修が加えられ、それに合わせて庭園南側に御幸御殿が新造されている。これにより、庭園もまた御幸御殿からの視線を意識したものに変えられていることは、その石組みや景石などからも充分にうかがわれる。この庭園は、醍醐寺三宝院庭園同様、覇者の庭としての美意識を示す遺構であり、国の特別名勝に指定されている。 高台寺庭園も小堀遠州の作で、しだれ桜と萩の名所となっており、国の史跡および名勝に指定されている。 茶の湯の隆盛によって、それに沿うかたちでの庭園の造営もさかんになった。書院式庭園における大スケールの開放的な空間に対し、茶室に至る露地(露地庭)はあたかも「閉じられた空間」の様相を呈し、好対照をなしている。渡り用の飛石、心身を清める蹲(つくばい)、露地の灯りである灯籠がすえられる露地庭の様式はまた「茶庭」とも呼ばれている。 露地の萌芽的形態とみられるのが、『山上宗二記』に収載された図面のなかの、武野紹鷗の茶座敷にかかわる「脇坪ノ内」である。図面には茶座敷前面にスノコ縁があり、その前面に「面坪ノ内」、側面に「脇坪ノ内」の一画が設けられるが、そのしつらえの詳細は不明である。 利休の侘び茶は「市中の山居」を追究するものであり、延段(石敷きの園路)、飛石、つくばい、石灯籠などから構成される露地庭の成立も利休時代に至ってのことと推定される。利休はここにおいて「わたり六分、景気四分」を唱導した。利休は、「わたり」(すなわち「歩きやすさ」)という実用性を「景気」という「見栄えのよさ」よりも重視したのであった。そして、庭における植栽もカシやヒサカキなど花や実の目立たない常緑広葉樹、また、マツなどのような山里の風趣を感じさせる樹木を推奨した。 それに対して古田織部は、飛石の布石を「わたり四分に景気六分」と述べて美観を重視し、植栽においてもヤマモモ(楊梅)やビワなど果実をつける木も一本のみなら許容し、ソテツやシュロなど異国情緒を感じさせる唐木を推奨した。 小堀遠州は、細部のデザインに直線を取り込み、飛石や敷いたマツの葉にもこまやかな注意を払う「きれいさび」を好み、これをめざした。植栽においても、香りや彩りによって季節感を演出できるモクセイやモッコク(木斛)を用い、飛石として握りこぶし大ほどの丸石を「栗石」と称して被覆した。このように、露地は茶室建築と調和したものであったとともに茶人の好みを強く反映するものであった。 湯殿跡庭園(一乗谷朝倉氏庭園、福井県福井市) 智積院庭園のバチ形の刈り込み 二条城二の丸庭園 右側手前が亀島。左が蓬莱島 松花堂(京都府八幡市)の露地 東福寺常楽庵(開山堂前庭園)のつくばい 壁や襖に描かれる絵を「障壁画」という。屏風絵をそれに含めることもあるが、含めないこともある。また、含めることを明示した「障屏画」という用語もある。 桃山時代、城郭や寺院内部の壁、襖、屏風ないし天井には、金箔の地の上に青や緑の雄渾な線で彩色していく濃絵(だみえ)の手法による豪華な障壁画(障屏画)が描かれた。濃絵は、本来的には彩色絵画一般を指し、墨絵に対する語である。濃絵のなかで全面に金箔が押され「碧」すなわち青色系統で濃彩したものは、「金碧画」と称され、室町時代に端を発している。障壁画には、濃絵(金碧画)と水墨画の2種類あったが、一般に、金碧障壁画は建築内部において表座敷や客間など公的な空間で飾られ、私的空間の装飾には水墨画が愛された。 天下統一の活気あふれる時代にあっては、ことに黄金が好まれ、濃密な色彩とともに力強い絵画が求められた。城郭は新しい権威の象徴であったが、その内部にも権威が示されなくてはならず、黄金の輝きはそうした効果を発揮させるにはきわめて有効な手だてとなった。そして、金色への志向は、その豪華さが単に天下人や大名らの美意識を満足させたからばかりではなく、十分な灯火の得られない当時の座敷において相当の照明効果をもたらしたからでもあった。そこでは、花鳥風月など日本的な画題や唐獅子・竜虎など漢画(宋元画)風の画題が好まれた。金雲や金地が大画面のなかの風景を仕切り、画題となる対象を実物大に描くことで、真にせまった迫力を得ようとしたのである。 金碧障壁画の中心となったのは狩野派であった。狩野派は前代より日本古来の大和絵の色彩主義と室町時代にさかんになった水墨画の構成主義を総合しようとしてきた。狩野元信の孫にあたる狩野永徳はそれを受け継ぎ、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図を特色とする新しい装飾画を大成した。永徳は信長と秀吉に仕えたが、かれの絵は主殿や広間などといった大空間において、天下人とその家臣たちが、居ながらにして絵画のなかの自然と一体化し、互いに共通の時間を生きる演出をになった。その意味で、障壁画はすぐれて政治的な要素も持ち合わせていた。永徳は、雌雄一対の獅子を描いた『唐獅子図屏風』や信長から上杉謙信に贈ったことで知られる『源氏物語屏風』『洛中洛外図屏風』、あるいはまた『檜図屏風』『花鳥図』など多くの傑作を手がけ、狩野派全盛の基礎を築いた。永徳とその門下の絵師たちは安土城、大坂城、聚楽第の障壁画を任されたものの、永徳自身の遺筆は必ずしも多くない。永徳が安土城天守閣の二層から七層のそれぞれに描いた障壁画の画題の記録がのこっているが、その数は膨大であり仏画の範疇に属するもの、儒教的な画題もあり、また、それ以上に人物や花鳥、鳳凰・龍虎・獅子などの霊獣を題材にしたものが多かった。 秀吉の小姓から永徳の門人になった狩野山楽は永徳の養子となり、その画風を継承した。山楽の作品としては、装飾性の高い金碧障壁画である『牡丹図』や水墨画の『松鷹図』がとくに著名で、いずれも大覚寺所蔵である。永徳の後継者のうち江戸幕府に仕えた狩野派が江戸狩野と称されたのに対し、京にのこった山楽の系統は京狩野と呼ばれた。 狩野派の躍進に対し、大和絵の名門であった土佐派は公家の衰微もてつだって16世紀中葉以降、著しく凋落した。土佐派は、天下人の支援を受けた狩野派の宮廷への進出に対抗することができず、足利義昭邸の障壁画を描いた土佐光茂は、その晩年、京を去って堺に移り住んだ。また、その子の土佐光元が秀吉に従軍して戦死したこともあって、土佐派は宮廷絵所職の地位を失った。 狩野派による中央画壇の独占的な支配のなかから、漢画系の海北派・長谷川派・雲谷派・曽我派などの諸派が勃興してきたのも桃山時代であった。 海北派の祖として知られる海北友松は、北近江の戦国大名浅井氏の重臣海北氏の出身である。信長の小谷城攻めによって海北氏一族は滅んだが、若年より出家して京の東福寺にあった友松のみが生き残り、中国の梁楷や顔輝、室町時代の水墨画、狩野永徳などから画風を学んだ。友松は濃彩の装飾的作品とともに特に水墨画において個性的ですぐれた作品を多数生みだしている。建仁寺大方丈に水墨画『山水図』を描いたほか、建仁寺には『竹林七賢図』『琴棋書画図』『雲龍図』『花鳥図』などの膨大な諸作品をのこしており、妙心寺もまた『花卉図』『三酸・寒山拾得図』『琴棋書画図』などの友松作品を所蔵している。なお、2代海北友雪以降の海北派は禁裏の御用絵師となった。 長谷川派の祖長谷川等伯もまた、その子長谷川久蔵との共作によって祥雲禅寺(現智積院)の金碧画(『桜図』『楓図』『松と葵の図』『松に秋草図』)を描いた。代表作『楓図』は、楓の巨木の下から湧きあがるように咲く花々など、狩野派ではあるいは切り捨てられていたであろう丹念な細部表現、金箔を効果的に用いての空間処理、余韻を持たせた背景の描写など様々な表現技法を駆使した傑作である。能登国に生まれ、堺の町衆文化と接触して京で水墨画の技量を学んだ等伯もまたすぐれた水墨画を多くのこしている。智積院襖絵に相前後する時期に描かれたと推定される『松林図屏風』は、豪壮をほこる桃山絵画のなかにあって静寂瀟洒な味わいをもつ水墨画の傑作であり、きわめて高い造形的な結晶度とあふれる詩情はつとに名高い。雪舟弟子の等春に学んだ等伯は、晩年に自分の作品に「雪舟五代」と記し、みずからの水墨画が雪舟に連なるものであることを主張した。なお、等伯は聚楽第の内部装飾について狩野派と制作を分担したが、狩野派の人びとと衝突して永徳を非難したため、以後、宮廷の造営においては永徳らによって疎んじられ、しりぞけられた。 水墨画では毛利氏に仕えた武人画家雲谷等顔も名高い。等顔の本姓は原で、肥前国藤津郡能古見(佐賀県鹿島市)の城主で松浦氏に仕えた原直家の次男として生まれた。父の戦死後、毛利輝元に引き取られ、そこで雪舟等楊筆『山水長巻』の模写をおこなったが、そのできばえには輝元は驚き、文禄2年(1593年)、輝元は等顔に禄100石と長巻をあたえ、山口における雪舟の居宅兼アトリエであった雲谷庵を委ねた。等顔はみずから「雪舟末孫」と称して雪舟流の正統を主張、長谷川等伯と張り合った。代表作に大徳寺黄梅院障壁画や東福寺普門院障壁画がある。また、等顔筆と伝わる『梅に鴉図』(京都国立博物館蔵)は墨と金だけを主調色とする大胆な表現で知られる。等顔の後継者(雲谷派)は毛利氏の御用絵師として活躍し、江戸時代を通じて中国地方から北九州地方にかけての画壇に影響力を有した。 曽我派では、戦国時代に越前国の大名朝倉氏の庇護を受けた曽我紹仙の系統から曽我直庵があらわれた。高野山宝亀院の『鶏図』、高野山遍照光院の『商山四皓及虎渓三笑図』などが代表作である。なお、曽我二直菴など直庵以降の曽我派は活躍の場を堺にうつしている。 この時代、それまでの宗教画から解放され、都市や庶民の生活・風俗などを題材に、洛中洛外図や職人尽絵、祭礼図などの風俗画もさかんに描かれ、南蛮人を画題とする南蛮屏風もつくられた。広義の風俗画は古代から存在しているが、近代的な意味での風俗画の嚆矢として後述の「観楓図」が挙げられることがある。 風俗を描いた絵画の源流は大和絵にあり、手法においても大和絵に由来する俯瞰表現が多く用いられる。画題においては、室町時代後期から、「月次風俗図」など画中の添景ではなく独立した主題として風俗そのものが描かれるようになった。桃山時代にあっては、花鳥画などでも自然から切り離して花や鳥、物だけを画題とするようになり、また、人物画でも従来のような高尚な人ばかりではなく、野郎・若衆・湯女など庶民にとって身近な人びとが描かれるようになった。江戸時代に入ると、背景をほとんど描かずに人物だけを描くような作品(「彦根屏風」「松浦屏風」「本多平八郎姿絵」など)も現れた。 「洛中洛外図屏風」は、大永5年(1525年)の歴博甲本(国立歴史民俗博物館所蔵、三条本、町田本とも)を最古に約60種70点余あり、多くの作者によって安土桃山時代を通じて江戸時代初期まで描かれた。そのうち、16世紀中に制作されたのは歴博甲本・上杉本ふくめ3点しかない。歴博甲本では右隻に東山の景観、左隻に北山から西の景観が描かれており、左右の景観は連続しないが、時代が下ると、屏風左右の画面が連続するものが現れる。上杉本は、織田信長が天正2年(1574年)に上杉謙信に送った狩野永徳筆によるもので、洛中洛外図のなかでも特に有名である。そこに描かれた人物は2,500人におよび、当時の四条河原には多くの見世物小屋が立ち並んでいたことなども記されている。上杉本は国宝に指定されており、現在、山形県米沢市の上杉博物館が所蔵している。この図は、一定の期間、何種類も描かれたため、その景観から制作年代が推定でき、また、この図から画題を切り取るかたちで野外遊楽図や賀茂競馬図屏風、祇園祭礼図などが派生していった。 「職人尽図屏風」は各種職人の活動や風俗を描いたもので、狩野派の絵師も多くの作品をのこしている。武蔵国川越(埼玉県川越市)喜多院の狩野吉信作のものがとくに知られているが、産業史・技術史の図像資料としても重要である。 16世紀の制作である『月次風俗図屏風』(東京国立博物館所蔵)は、公家・武家・庶民の生活を12ヶ月の行事に分け、活き活きと描いた八曲一双の屏風絵である。とくに田植の場面は第3曲・第4曲に大々的に描かれ、俯瞰表現がなされている。大和絵の本流からはやや離れた絵師の作品と推定されている。 狩野元信の次男狩野秀頼の作となる『高雄観楓図屏風』は遊楽図の一種で、紅葉で有名な京都の高雄で紅葉見物など秋に遊ぶ人びとを描いた屏風絵である。狩野派の風俗画を描くようになった初期の作品として重要であるが、時代的には足利将軍家の衰亡著しい時期に重なっている。 永徳の末弟で御用絵師であった狩野長信の筆になる『花下遊楽図屏風』は、祇園社と上賀茂神社の境内にある桜の花の下で貴人と供の男女が風流踊りなどで遊楽するさまを描いた六曲二双の屏風絵である。背景に金碧ではなく水墨画の技法を生かしている点が特徴的で、桃山時代の風俗をよくあらわした優雅な作品である。これは、長信の現存する唯一の作品である。 狩野内膳の筆になる『豊国祭礼図屏風』は豊国神社における慶長9年(1604年)8月の秀吉七回忌にともなう臨時の祭礼のようすを描いた六曲の屏風絵である。そのなかでは風流踊りが禁中に向かって繰り広げられるさまが描かれている。内膳はまた南蛮屏風の作者としても有名である。 阿国のかぶき踊り(詳細後述)のようすを描いた『阿国歌舞伎図屏風』も風俗画の一種で、野郎・若衆・遊女など庶民に身近な人物が描かれている。 風俗図は、支持層の要望に応えて様々な画面形式での制作がなされたものの、圧倒的に多かったのは屏風形式であった。屏風形式は、襖や壁に描かれたものとは異なり、基本的には調度の一種であり、持ち運び可能で、自由にしつらえることができ、簡便に撤収することもできることから、必要が生じたとき即妙に歓談の場を設けることができた。この時代、屏風絵は遊興や社交のツールとして重宝したのである。 この時代の風俗画には狩野派の絵師も参入し、多くの作品を手がけた。室町時代後期にあって京都の町衆の多くは法華宗(日蓮宗)の信者であったが、狩野派や長谷川派の絵師もまた法華信者であった。法華宗を通じて町衆と桃山画壇とはたがいに結びついていたのである。しかし、江戸時代に入って狩野派が御用絵師としての地位を確実なものにしていくと、風俗画は次第に町絵師の手にうつっていった。 狩野永徳『花鳥図』(京都・大徳寺聚光院) 狩野永徳『仙人高士図』(京都国立博物館) 狩野永徳『洛中洛外図』右隻(上杉博物館) 伝狩野永徳『四季花鳥図』(白鶴美術館) 狩野永徳『玄宗楊貴妃遊園図屏風』 狩野永徳『柳図襖』(醍醐寺三宝院) 狩野永徳『許由巣父図』のうち巣父図(東京国立博物館) 狩野山楽『牡丹図襖』(大覚寺宸殿) 狩野山楽『紅梅図襖』(大覚寺宸殿) 狩野山楽『龍虎図屏風』(妙心寺) 海北友松『竹林の七賢』(一部、妙心寺) 海北友松『花鳥図』(建仁寺) 海北友松『達磨図』 長谷川等伯『楓図』(部分、智積院) 長谷川等伯『松に秋草図』(部分、智積院) 長谷川等伯『松林図屏風』左隻(東京国立博物館) 長谷川等伯『松林図屏風』右隻(東京国立博物館) 狩野松栄『絹本著色益田元祥像』(島根県蔵) 狩野長信『花下遊楽図屏風』右隻(東京国立博物館) 方広寺鐘楼の天井絵 彫刻では、仏像彫刻がおとろえて亭館の門扉や欄間への彫刻がさかんになった。欄間とは、戸や障子を支える横木(鴨居)と天井のあいだの空間に、採光や通風のため、はめ込まれた板である。城郭や居館の内部を飾った欄間彫刻には透し彫の手法も用いられた。また、建物外観を飾る破風にもさまざまな形態上の工夫や彫刻がほどこされた。現実性や効用を重んじる桃山時代において、彫刻は天平文化や鎌倉文化においてみられたような独立作品には必ずしもつながらなかった。そこでは亭館の付属物としての位置づけが明瞭であって、日常生活に最も密着した彫刻作品が生まれたのである。 安土桃山時代にあっては、施釉陶器の産地であった瀬戸窯や美濃窯を中心として、無釉焼き締め陶器の産地として発展してきた備前、信楽、丹波、伊賀の各窯、少し遅れて唐津で、この時代を代表する陶磁器がつくられた。 これは、従来の貴人による書院の茶で好まれたのが天目茶碗や青磁茶碗といった、いわゆる「唐物」であったのに対し、侘び茶の流行により、茶道が単なる遊興ではなく禅と一体化して人間形成をめざすものとなったとき、茶器もまた地味で不完全な「粗相の美」のあるものがよしとされたことによる。 16世紀後半にあっては、とくに美濃窯(岐阜県土岐市・多治見市ほか)の発展が著しく、器種が増え、色彩感覚に富んだ作品や鉄絵文様を描いた作品などがみられるようになる。なかでも長石だけで白釉をつくりあげた志野焼は他の色を加えることに様々に変化し、器面の装飾や色合いによって無地志野、絵志野、練上志野、鼠志野、朱志野、紅志野などの種類に分けられ、この時代を象徴する陶磁といえる。織部焼もまた美濃窯から生まれた陶磁で、茶人古田織部の好みで焼かれたものである。織部は、型作り法を用い、歪んだ形をとり、筆で絵付けするという、当時としては新種類の陶器で、色彩は濃緑色を特色としている。志野と織部はともに茶器の優品を多く産み出したが、美濃焼全体を通してみた場合、日常生活用の陶磁を大量に生産しており、むしろ、そのことによって美濃窯は支えられていた。 黄瀬戸と瀬戸黒は、ともに瀬戸窯(愛知県瀬戸市)および美濃窯で焼成された。黄瀬戸は16世紀後半に焼成が始まり、従来瀬戸窯で使用されていた灰釉を基礎とする淡黄色の釉薬をかけた陶磁で、鈍い光沢のざらざらした肌触りのものは茶人によって愛好された。黄瀬戸は食器を主とし、向付、小鉢、皿、盤などを多く産し、都市や城館に販売されたとみられる。瀬戸黒は16世紀末葉から焼成された鉄釉の黒茶碗で、焼成年代より「天正黒」とも呼ばれ、茶人におおいに愛好された。 備前(岡山県備前市)、信楽(滋賀県甲賀市)、丹波(兵庫県篠山市)、伊賀(三重県伊賀市)など無釉陶器の産地として発展してきた各窯も日常生活用品のほか茶陶を焼成した。焼き締め陶器に共通の土の匂いや温かみのある質感が茶人に愛されたためであった。また、茶道において、「侘び茶」の求める地味で不完全な「粗相の美」を備えた焼き物として愛好されたためでもあった。 そしてたとえば、備前焼の擂鉢は水指として用いられて「擂盆水指」と呼称され、信楽焼の苧桶が水指に、種壺が花入に見立てられるなど、日常雑器が茶の湯に取り入れられ、新しい美的価値の発見の契機となった。 楽焼は最も古い京焼のひとつで、桃山時代に京都の陶工、長次郎によってはじめられた低火度の茶陶である。長次郎とその後継者常慶が秀吉に賞されて「樂」の字をあたえられ、家号(樂吉左衛門)となった。楽焼は、「今焼」とも称され、日本中世の伝統的な高火度の陶磁とも中国の陶磁とも異なる独特の焼き物で、もっぱら茶の湯とその周辺用途を目的に造形され、日常雑器はつくられない。茶碗の他には、香台、花入、水指などがつくられる。 この時代、従来の日本になかった地上式の連房式登窯でつくられた施釉陶器が肥前の唐津焼である。唐津焼は絵唐津、三島唐津、斑唐津、黒唐津、黄唐津、影唐津、瀬戸唐津、奥高麗など多くの種類があることで知られる。16世紀後半にはじまり、主として日常生活用品を生産し、茶陶も比較的多い唐津焼であるが、その起こりについては従来、秀吉の朝鮮侵略によって朝鮮半島より捕虜として連行した陶工によってもたらされた製陶技術によるといわれてきた。しかし、窯跡の発掘調査、消費地における遺跡での出土状況、文献記録等からみると、唐津焼は文禄・慶長の役の始まった1592年以前に現れ、1580年代にはすでに製造が始まっていたことがわかる。また、唐津の窯の窯体構造や藁灰を使用した白濁釉は朝鮮にはみられないものであり、初期の唐津焼は朝鮮半島というよりは中国南方の窯の技術によって焼成が始められたものと考えられるようになった。 17世紀初め、日本で初めて磁器がつくられる。それが肥前の伊万里焼(産地は佐賀県有田町など)であり、素地に粘土ではなく、陶石(磁石)が用いられ、白色で吸水性の少ない硬質の焼き物となる。肥前有田の泉山で陶石が発見され、元禄期に肥後で発見された天草陶石以前は唯一の陶石採掘場であったが、この発見にも朝鮮人陶工がかかわっている。伝承では李参平が泉山の発見者とされており、「陶祖」と称される。寛永15年(1638年)の『毛吹草』に「今利(いまり)ノ焼物」と見え、近世には有田、三河内、波佐見などの肥前の磁器を、積出港(佐賀藩領の伊万里港)の名から「伊万里焼」と称していた。有田産のものを「有田焼」、伊万里産のものを「伊万里焼」と区別するようになったのは、鉄道による輸送が普及した明治以降のことである。いずれにせよ、伊万里焼は、江戸時代にはヨーロッパ向けの重要な輸出品となっていた。 朝鮮陶工を連れ帰った西国各地では、茶の湯の隆盛もあって窯業がさかんとなった。有田のほか、肥前国(松浦鎮信)の平戸焼、筑前国(黒田長政)の高取焼、豊前国(細川忠興)の上野焼、薩摩国(島津義弘)の薩摩焼、長門国(毛利輝元)の萩焼などはこの時代に創業され、これらは大名の領国で焼かれた陶器という意味で「お国焼」と総称され、各藩の専売品・特産品となった。 黒楽茶碗(桃山時代、銘「尼寺」、東京国立博物館) 織部の角皿(サンフランシスコ、アジア美術館) 織部の水注(17世紀前半) 志野の茶碗 信楽焼(桃山時代の作品) 伊万里焼色絵(柿右衛門様式)の蓋付小鉢(1640年代) 志野水注 シカゴ美術館 鼠志野草花文四方向付 サンフランシスコ、アジア美術館 蒔絵をほどこした家具調度品においても装飾性の強い作品がつくられている。秀吉の正室北政所(高台院)が草創した高台寺が所蔵する蒔絵(「高台寺蒔絵」)は桃山時代を代表する蒔絵群であり、なかでも『竹秋草蒔絵文庫』は蒔絵の工芸品として著名である。秋草表現における叙情性、画面構成のおおらかさ、平明ながら洗練されたモチーフの描写、力強さとしなやかさをあらわす描線など、高台寺蒔絵は同時代の絵画に通じる諸特徴を有し、革新性とともに強い絵画性をもっている。 高台寺にあっては、秀吉夫妻をまつる内陣や須弥壇・柱およびその周辺、建物の飾り金具、あるいはまた厨子などに対しても、黒漆に花筏や楽器を散らし、あるいはまた秋草などの図柄を表現した蒔絵がほどこされ、壮観である。 服飾の多くを占める繊維製品は、糸を染めてから織って生地にする場合と、染めていない糸を織り上げてから生地を染める場合があるが、通常は前者を織りの作品(織物)、後者を染めの作品(染物)と称している。なお、前者を「先染め」、後者を「後染め」と称することもある。 織物では、明の織法の影響を受けた堺において、錦や唐織、金襴、紗、紋紗、金紋紗、緞子、縮緬などの制作がさかんとなったが、秀吉が京都の西陣織を保護したことから、こののち西陣が大発展を遂げた。西陣の金襴・緞子や南蛮渡来のビロード・更紗などはことのほか珍重され、武将上杉謙信が着用したといわれるビロード・マントは現存している(現在は山形県米沢市の上杉博物館に保管されている)。 16世紀半ば(室町時代末頃)から、日本の染織工芸は海外の染織品の影響を受けて、その素材や技法を多様化させていった。中国から輸入された刺繍作品から影響を受けて、日本でも小袖などに精巧な刺繍が施されるようになり、刺繍と金箔を併用した「縫箔」という加飾法も現れた。こうしたなか「辻ヶ花」と呼ばれる絞り染を主とする一連の染物が登場し、一世を風靡した。これは、戦国期から江戸期初頭までの短期間に隆盛し、そののち急速に途絶えたもので、現存遺品数も300点足らずと少ないこともあって、しばしば「幻の染め物」と称される。当時の記録では「辻ヶ花」の語は帷子(かたびら)と結びついていた。しかし、現存するものに帷子はほとんどなく、今日では縫い絞りを主体とする文様染を「辻ヶ花」と呼称している。「辻ヶ花」は、縫い締め絞りを主体として、これに描絵、刺繍、摺箔などの加飾をほどこしたものであり、地はこの時代に特有な練貫地(生糸を経糸、練糸(精錬した絹糸)を緯糸に用いて織った地)が多く、製品の種別としては小袖および胴服が大部分を占める。桃山時代にあっては、前代の散らし風の文様よりも、いっそう密度の濃い充填的な文様が増加し、絞り以上に墨による描絵や摺箔が重要な役割を果たした。当初は女性や若衆が愛着した「辻ヶ花」であったが、やがて成人男性さらには戦国武将の小袖・胴服・羽織として制作されるようになった。 現存品として、上杉謙信・豊臣秀吉・徳川家康らの遺品があり、武田信玄や信長の妹(浅井長政夫人、お市の方)については肖像画のなかで着姿が確認できる。特に家康の辻ヶ花の遺品は質・量共に他を圧倒しており、『慶長板坂卜斎記』にも家康が家臣へ数多くの小袖(年間に9から14・15領)を下賜した結果、天正末から文禄に掛けて小袖が天下に広まったとして、日本衣装が結構な事は家康に始まるとして、日本建築が結構な事は秀吉に始まると対比させている。 「能の大衆化と式楽化」 節もあわせて参照 能面では、豊臣秀吉によって「天下一」の称号を許された面打の名人出目是閑吉満が越前に現れた。「天下一」の称号は、秀吉が部下の武将の戦功の際、当初は千利休に鑑定させた茶器を与えていたが、のちには能面を賞として与えるようになったものであり、京都醍醐寺角坊の仏師光盛および光増は、是閑吉満に先だって「天下一」称号が与えられている。この時代、是閑ら以外でも、孫次郎や河内家重など「名人」と呼ばれる面打師が輩出し、現在のような能面の基本構成が確立し、さらに能面自体が芸術性の高い工芸作品として昇華していった。 能装束もまた時代の好みを反映して華麗なもの、きらびやかなものが現れた。濃淡の紅が駆使されるようになったが、ただし文様の配置は未だ並列的で金銀糸の使用も行われておらず、江戸時代にはいっそう華麗さを増していく。一方で、用いられる役柄等に応じて多種類の装束がつくられ、その加飾方法や文様もさまざまであった。上半身を覆う衣服には表着(うわぎ)と着付があり、着付は表着と肌着の間に着用された。また、表着には女役の着用する唐織(からおり)、男役の狩衣(かりぎぬ)などがあり、着付には女役の摺箔(すりはく)、男役の厚板(あついた)、さらに男女兼用の縫箔(ぬいはく)などがあった。直垂(ひたたれ)、狩衣、直衣などでは、能装束と通常の衣服のあいだで共通の名称が用いられているが、長絹(ちょうけん)や水衣(みずごろも)のように、能装束特有の名称もあった。また、唐織、摺箔、縫箔などは、染織技法の名称がそのまま装束名となっている。中国の唐織物の技術は日本で定着し、「唐織」は織物の名称というよりは装束の名称となったのであった。形態的には、唐織、摺箔、厚板、縫箔などは小袖形であるが、長絹、水衣、狩衣などは広袖形を呈する。なお、桃山時代の唐織の小袖は、身幅にくらべて袖の幅が極端に狭いことを特徴としている。 能装束が基本的に「織りの作品」であったのに対し、狂言装束は「染めの作品」が中心であった。その意味では、「織り」と「染め」のあいだには、上で説明したような、単純な工程上の違いのみに還元されない、芸能の格式における上下関係も確認できる。素材もまた、能装束が絹糸ならではの光沢が重視され、全体として重厚さや繊細さが求められたのに対し、狂言では、麻の平織に染色のなされる肩衣(かたぎぬ)の装束が中心であり、衣装においても軽妙洒脱・自由闊達な味わいを旨とした。このような衣装は、召人・従者の階層に属して当時の庶民を代表する「太郎冠者」が主人公として登場し、権威の座にある大名や僧侶らの思いもよらぬ俗悪さ加減や無教養ぶりを暴露するなど大いに活躍し、そこに拍手喝采し、また滑稽と諧謔を味わおうという「狂言」という演劇にまことにふさわしいものであった。 南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。鉄砲に対抗するため甲冑が強化され、大規模な合戦が増えたため、刀剣も長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先のものが現われた。これが天下一統後の豪壮な「慶長新刀」を生み出す土台となっている。一方で、大軍のなかで自分を識別させるための変わり兜が武将のあいだで流行したのも、この時代であった。 甲冑の分野では、鉄砲の使用と戦法の変化に対応するため、より動きやすく、簡便、軽量かつ強固なものが求められた。こうして成立した近世初期以降の甲冑を当世具足という。室町時代までの伝統的な甲冑は、小札(こざね、鉄製または革製の短冊形の小板)で構成されていたが、当世具足では、小札を横に繋げるかわりに、1枚の細長い鉄板を帯状に打ち出して作った板札(いたざね)が使われるようになった。板札を糸で威した(= 縦方向に連結した)もののほか、板札を鋲でカラクリ留めしたもの、板札を用いずに、胴の正面と背面をそれぞれ1枚の大きな鉄板から打ち出したものなどもある。また、着脱を容易にするため、要所に蝶番を設けた胴が現れた。これは蝶番の数によって「五枚胴」「二枚胴」などと呼ばれる。当世具足は構造形式によって細かく分類され、さまざまな名称がつけられている。代表的なものに最上胴、仙台胴(雪ノ下胴)、桶側胴、仏胴などがあり、輸入された西洋甲冑を日本式に改造した「南蛮胴具足」もある。こうした新式の胴に、兜、頬当、喉輪、籠手、佩盾(はいだて、下半身の膝から上を護る)、臑当(すねあて)などを着用して防御性を高めた。 また、当時の武将は「変わり兜」と称する奇抜なデザインの兜を好んで着用した。これは対戦相手を威嚇するとともに、集団戦において個人を識別できるようにする意味もあった。一の谷兜のほか、鯰尾形、愛染明王、三宝荒神などの奇抜なものがある。これらは鉄製の頭形兜(ずなりかぶと)の上に和紙を漆で張り固めるなどの方法でさまざまな形象をつくったものである。変わり兜は、国立歴史民俗博物館など日本国内の博物館にも多く所蔵されているが、個人所有も多く、また、日本国外にも収集家が多い。 刀剣においては、鎌倉時代以来長きにわたって数多くの名刀を生んできた備前長船の一派が、たび重なる吉井川の氾濫により天正年間(1573年-1592年)を通じて衰退し、天正末期には壊滅に近い状態となった。そのため多くの大名は、量産体制が確立していた美濃国の刀鍛冶をお抱え刀工に採用している。こうしたなか、「慶長新刀」と呼ばれる刀剣群が現れたが、従来の「古刀」との主たる相違点は地鉄にあった。それまでの刀剣は各々の地域で生産された鋼を使用していたため、地方色が濃厚で品質もさまざまであったが、天下一統後はある程度均質な鋼が全国的に流通するようになったため、良質な地鉄の刀が出回るようになったのである。新刀の祖は山城国の名工埋忠明寿といわれており、その弟子に肥前国忠吉がいる。美濃の刀工は、京都、近江、越前、尾張、大坂などへ移り住んだが、そのなかでも京都に入った兼道一族は、全国を転々として京都堀川に居を定めた国広一派とのあいだに技術交流を進め、ともに新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛冶は、多くの場合は兼道・国広のいずれかに入門し、そこで得た技術を故郷に持ち帰ったことで、全国的に比較的均質な製品が生産された。こうして美濃伝における「鎬地に柾目が流れる」という特徴は新刀に継承された。家康は越前下坂康継をお抱え工としているが、康継もまた美濃伝を受け継いでいる。 金工では、前代につづいて刀剣・甲冑はもとより釜や灯籠など様々な作品がつくられたが、とくに和鏡の名品として「桐竹鏡」(東京国立博物館)が知られる。径22.1センチメートルの白銅鋳製で、裏面の外区下部に「天下一青家次天正十六」と鋳出された銘があり、天正16年(1588年)に青家次によって鋳造された作であることがわかり、名人による優品であるのみならず、資料的価値も高い作品である。家次を当主とした青家は、代々京都の寺町一条に住み、禁裏御用鏡師を務めた家であった。鈕は、大振りの亀甲から尾頭手足を六方にのばしたものとなっており、文様は、それを中心に枝桐と竹を全体に散らしている。鋳出の肉取りが高く鋭角的できわめて立体感に富む名品との評価があり、後陽成天皇の所持品と伝わっている。 秋草蒔絵角盥(16-17世紀、東京国立博物館) 変わり兜(金茶糸素懸威波頭形兜、桃山時代、個人蔵・東京国立博物館寄託) 変わり兜(鮑打出兜、アン・アンド・ガブリエル・バービー=ミュラー博物館) 変わり兜(アン・アンド・ガブリエル・バービー=ミュラー博物館) 変わり兜(栄螺形兜、マサチューセッツ州のヒギンズ甲冑博物館(英語版)) 『三十二番職人歌合』のうち「桂女」 ——言葉としての「辻ヶ花」の初出といわれる。 能面「小飛出」 出目是閑吉満作(ベルリン国立東洋美術館) 豊臣秀吉は伏見城の一画に「学問所」という名の施設を設けた。学問所の中心には茶がすえられ、喫茶の仲間が御伽衆・御噺衆として秀吉の側近として近侍することとなった。茶の世界は学問に通じていたのである。そこでは和漢の古事が語られる「夜噺」の場が展開したのであるが、こうした生活は、すでに大坂や肥前名護屋城(佐賀県唐津市)における「山里の茶屋」でもみられたものであった。そしてまた、こうした古今の話は集約され、その後さかんに刊行される見聞記録へとつながっていった。 秀吉・家康に儒学を講じたといわれるのが藤原惺窩である。惺窩はもと相国寺の禅僧であったが、慶長の役に際して連行された朝鮮儒学の大家姜沆より直接朱子学を学んだ。惺窩の門人林羅山も当初は京都五山で禅宗を学んだが、やがてそこから儒学の独立を果たし、朱子学を奉じた。羅山の後継者は代々江戸幕府に仕え、江戸時代における儒学隆盛の基礎となった。 一方、仏教や神道では、教学面における新しい展開はみられなかった。 宗祇の門人として知られる牡丹花肖柏は、戦乱の京都を避けて堺に移住したため、堺は連歌がさかんとなり、また、師より伝授された『古今和歌集』、『源氏物語』の秘伝を堺の町人たちに伝えて「堺伝授」の祖となった。宗祇はまた、公家の三条西実隆にも伝授をおこなったが、これが信長・秀吉に仕えた細川幽斎(藤孝)に伝授された。この系統を「御所伝授」といい、関ヶ原戦役における田辺城の戦いでは、朝廷は幽斎が戦死することを怖れて幽斎生還を条件に田辺城の開城を勧告したという逸話がある。さらに牡丹花肖柏が、林宗二(饅頭屋宗二)にも古今伝授をおこない、この系統は「奈良伝授」と呼ばれた。林宗二は国語辞書『節用集』の改訂と出版でも知られている。 庶民のなかからあらわれた連歌師で、当代一流といわれたのが里村紹巴である。俳諧連歌をすすめた紹巴は、天正10年の本能寺の変直前、明智光秀がひらいた愛宕百韻に参加したことでも知られる。紹巴は天正13年(1585年)に連歌論書として『連歌至宝抄』を著し、また『源氏物語』の注釈書として『紹巴抄』をのこした。紹巴の門人に秀吉の右筆となった松永貞徳がおり、その一門は貞門派とよばれて俳諧連歌を大成した。 散文では室町時代から引き続いて仮名草子がつくられ、彩色の奈良絵本として普及した。慶長末期に成立した『恨の介』では、かぶき者であった恨の介の恋した相手が謀反人豊臣秀次謀臣の忘れ形見であるという設定で、叶わぬ恋愛の苦悩とその結末を描いた作品である。また、清少納言『枕草子』のパロディである『犬枕』は、左大臣近衛信尹ほかの合作と推定され、慶長初年の成立である。 見聞記録としては、牢人の三浦浄心による『慶長見聞集』がある。浄心は、民衆の生活をいきいきと伝えるとともに、みずからの生きた時代を「弥勒の世」と呼んだ。また、『当代記』は桃山時代の世相を書き留めた一級の史料であり、阿国のかぶき踊りのことも記している。 医師としては曲直瀬道三(正盛)が知られる。足利学校に学んだ道三は、田代三喜より中国の金・元の李朱医学(当時、明より伝えられた李東垣・朱丹渓の流れを汲む漢方医学)を学び、三好長慶・松永久秀・毛利元就・織田信長・正親町天皇などの診療・診察をおこなう一方、京都に啓迪院(けいてきいん)という医学校を創建して医学中興の祖と称された。道三はまた、『啓迪集』をはじめとして『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『指南鍼灸集』『『弁証配剤医灯』など多数の医学書を著し、かれの学統は、近世の蘭方・古医方とならぶ一主流となっている。 また、この時代には、後述のように南蛮医学ももたらされた。 日本には古くから「百万塔陀羅尼」のような木版印刷の伝統があったが、天正18年(1590年)の天正遣欧使節の帰国とともに金属製の活字による洋式の活字印刷術がアレッサンドロ・ヴァリニャーノによって伝えられ、肥後国の天草や肥前の島原半島の加津佐で日本最初の活版印刷が始まった(詳細後述)。これら洋式活版印刷による印刷物は「キリシタン版」と称された。 一方、文禄の役のとき、朝鮮から銅活字と印刷術が伝わり、これを用いた書籍が出版された。慶長年間には後陽成天皇の勅命で、朝鮮伝来の印刷法と木製の活字により、『日本書紀神代巻』『職原抄』、また、中国古典の「四書」はじめ数種の書物が出版された。これを慶長勅版と呼称している。また、家康も木活字(伏見版)、銅活字(駿河版)による出版を行っている。 このようにして最初の活字本が開版されたものの、重版の必要が生まれると多くの活字を必要とする活字印刷は市場に対応できず、それよりも木版印刷の方がいっそう経済的だったため、活字印刷は廃れ、重版のないものに限られた。 後柏原天皇の皇子であった尊鎮法親王は青蓮院門跡の門主を務め、能書家としても知られていたが、天文19年(1550年)に死去するまで、その周囲に連歌や茶・花・香にたずさわる人びと(文人三条西実隆、連歌師の宗長、茶の村田宗珠・武野紹鷗、華道の池坊専応・池坊専慶、香道の相阿弥・文阿弥)が寄り集まってサロンを形成し、「数寄の要」と称されるべき存在となった。尊鎮法親王はまた、歴代の青蓮院門主同様浄土真宗(本願寺教団)と朝廷のパイプ役を果たしており、このサロンが、当時の文芸や芸道にあたえた影響は大きかった。ここに、寄合の芸能として連歌・茶・花・香が共通の美意識のもと渾然一体の総合芸術となり、教養ある人びとにたしなまれて地方・庶民へと裾野を広げ、次世代へと引き継がれたのである。 絵画・連歌・能・狂言などに比較すれば、建武の新政以降の書道は概してきわめて低調だったといえる。 書家としては、尊円流(青蓮院流)から伏見宮邦輔親王の第6王子尊朝法親王があらわれ、尊鎮法親王亡きあとの青蓮院門主を務め、尊円流の分流である尊朝流の創始者となった。この流れを汲む書家に、松花堂昭乗や清原重吉、尊純法親王などがおり、この尊朝流の書流がのちに隆盛して武家の公式文書に採用され、「御家流」と称された。なお、尊円流の書流は青蓮院の門主によって代々継承されたが、門主による書風を相互も区別して、「尊応流」(尊応准后)・「尊鎮流」(尊鎮法親王)・「尊朝流」(上述、尊朝法親王)・「尊純流」(尊純法親王)などと称せられている。 一方で藤原行成を祖とする和様の書流である世尊寺流は、享禄2年(1529年)の世尊寺行季の死によって断絶したが、それを惜しんだ後奈良天皇が持明院基春に命じて書流の継承と発展を命じた。これが持明院流とよばれる書流である。 他に、この時代の能書家としては正親町天皇、千利休、織田信長、豊臣秀吉、細川ガラシャなどが知られる。なお、上述『犬枕』作者のひとりと推定される近衛信尹、尊朝流の流れを汲む松花堂昭乗、および本阿弥光悦をあわせて「寛永の三筆」と称することがある。本阿弥光悦が近衛信尹より「いま天下の能書といえば誰か」と問われたとき、「まずは私(光悦)、次いで貴方(信尹)、次に松花堂昭乗」と答えたという逸話がのこる。 平安時代から鎌倉時代に書かれた仮名(かな)の名筆を「古筆」と称している。古筆が茶人にも愛好されるようになったのは、16世紀中葉、武野紹鷗が藤原定家『小倉色紙』を茶室の床掛け(茶掛け)として用いたのが最初といわれる。やがて古筆愛好の風潮は民間にも波及した。古筆は元来、完全な巻物や帖になっていたが、古筆愛好家や茶人がそれぞれ一部分を切り取って収集することが多くなり、その断片を「古筆切」と称するようになった。古筆切はアルバム状の台帳に貼り込んで鑑賞することがあり、そのような台帳を「古筆手鑑」と称した。また、古筆の鑑定家としては、関白豊臣秀次により「古筆」に改姓を命じられた古筆了佐(平沢弥四郎)が著名であり、代々その生業を継承した。 一方、室町時代にあっては、禅およびその影響を受けた書画(水墨画・禅林墨跡)が、大徳寺の一休宗純や上述した尊鎮法親王などの活動によって、茶道と深く結びつき、室町時代末葉には茶掛けとして尊ばれるようになった。墨跡とは高徳の禅僧による書であり、一般には中国の宋・元時代のものと日本の鎌倉・南北朝時代のものを指す場合が多いが、特に南宋の虚堂智愚の書いた『法語』は人びとの尊崇を集めた。村田珠光が一休から与えられた圜悟克勤の墨跡『与虎丘紹隆印可状』(流れ圜悟)を床に掛けたことをもって茶道と墨跡の結びつきの嚆矢とする伝承もあるが、実際の記録には、それよりも古い茶掛けの例がある。いずれにせよ、その表装は宋元画と同様、贅をつくしたものになっていった。桃山時代に入ると、茶の湯の普及にともなって宗峰妙超や一休ら日本の墨跡、あるいは上述の密庵咸傑の墨跡が珍重された。その内容は、印可状、餞別語、法語、字号、問答語、古詩文など多岐にわたっている。 時代の権力者であった秀吉もまた、茶室の装飾品として墨跡・古筆を愛好し、これを保護した。なお、桃山期から江戸初期にかけて墨跡をのこした禅僧には、愚堂東寔(関山派)、古渓宗陳・玉甫紹琮・賢谷宗良・清巌宗渭・春屋宗園・江月宗玩・一凍紹滴・沢庵宗彭(いずれも徹翁派)がいる。 茶の湯の隆盛にともなって花道(華道)や香道も発達した。 香道では、名香を歌合の様式で競う「名香合(めいこうあわせ)」は文亀元年(1501年)に志野家でおこなわれた記録がのこっている。茶の十種の闘茶会同様、香においても十炷香の会がもたれた。その最古の記録は天文2年(1533年)のものである。香道において、戦国時代に相阿弥・文阿弥らが尊鎮法親王と交流し、永正13年(1516年)にはすでに現在の源氏香に似た聞香もおこなわれていた。 桃山時代にあっては、建部隆勝『香道秘伝書』および蜂谷宗悟『香道軌範』の両古典書が編まれたが、ともに天正年間(1573年-1592年)の編纂である。 また、織田信長が天下の名香として知られていた東大寺正倉院収蔵の蘭奢待を切り取り、これを愛したことはよく知られており、医師の曲直瀬道三も信長より蘭奢待を賜っている。奥羽の武将伊達政宗もまた香道をきわめようとした人物であり、伊達家の家宝として名香「柴舟」が知られる。家康も東南アジアに宛てた国書で伽羅を所望しており、遺品として多くの香木が伝来している。 花道(華道)は、直接的には15世紀中葉に書院造の住宅様式が完成したところから、座敷に床や違い棚が設けられ、そこに飾る花のいけ方に創意工夫をほどこしたことに端を発している。ただし、この芸道は、それ以前からの長い伝統である、四季折々の花を愛でる日本の諸風俗を背景としている。 室町幕府は、時宗信者であることを示す「阿弥」を付した名を名乗る遁世者を幕府同朋衆に任じたが、かれらは連歌や絵画、また芸能に通じた者が多く、なかには花をたてることを得意とするものがあった。このような同朋衆として、毎阿弥・能阿弥・芸阿弥・相阿弥の名が知られ、阿弥派の花の第一人者としては立阿弥、および初代文阿弥・2代目文阿弥が知られる。 武家の花は、こうして初代文阿弥へと伝えられ、彼は『文阿弥花伝書』として2代目文阿弥へと伝え、天文9年にはさらにその門弟へと引きつがれた。 それに対し、公家の花道を伝承していったのが池坊である。 戦国時代に現れた池坊専応の口伝書『専応口伝』では有名な花論が述べられ、専応を継承した専栄はその伝書のなかで「立花骨法図」を伝える一方、当時の押板飾りを貼付した『立花図屏風』をのこしている。桃山時代の31世池坊専好(初代)は後継者の2代専好(32世)とともに池坊立花を大成、城郭や大名居館でおこなわれる各種催しや茶の席などで活躍した。なかでも文禄3年(1594年)、31世専好が秀吉饗応のため前田利家邸の大広間の4間床に立てた大砂物は、その雄大さで称賛され「池坊一代の出来物」といわれた。また、慶長4年(1599年)には京都大雲院で百瓶華会を催している。 囲碁・将棋は武将間で流行した。大徳寺龍源院には、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝わる、蒔絵をほどこした豪華な碁盤と両家の家紋入り碁筒がのこされている。 囲碁の名人として織田信長に仕えたのが京都寂光寺の塔頭本因坊にあった日蓮宗僧侶の日海(俗名加納輿三郎)であった。日海は信長より名人の称をあたえられ、秀吉のときに碁所を創始した。のちに家康に招かれて幕府の碁所を担当して「本因坊算砂」を称した。 碁打ち、将棋指し衆の統括者的な地位にあった算砂は両芸にわたる名人であった。本因坊算砂は将棋の第一人者であった京都の大橋宗桂(初代)に将棋所を譲り、宗桂は家康より50石五人扶持の俸禄を受けた。宗桂の長男大橋宗古が父の死後家禄を相続したことにより「将棋家元」の制度が確立した。なお、いわゆる「詰将棋」は大橋宗桂(初代)の献上図式を嚆矢としている。 上述のごとく、室町時代からの能(猿楽能)は、大名・公家はもとより庶民にも愛好され、その装束や調度も、時代の傾向を反映して華麗なものになっていった。 音楽では、戦国大名のなかにはキリシタン音楽に興味を示す者もあり、その一方で古くからの一節切(尺八の源流になったとされる笛)を愛好する者もいた。地域に根ざした音楽として、筑紫箏曲が肥前国佐賀ではじまり、また、平家琵琶とは異なる盲僧琵琶が薩摩国の晴眼者、しかも武士のあいだではじまった。公家を中心に伝承されてきた雅楽では、16世紀後半に三方楽所が成立し、京都、奈良、大坂の四天王寺の楽人によって演奏されるようになった。なお、新しい身分社会がかたちづくられていった近世の音楽では、雅楽が公家、能楽(謡曲)は武家、歌舞伎や人形浄瑠璃は庶民などというように、各自の所属身分と音楽ジャンルの対応関係が指摘されている。その一方で、各身分相互の交流がきわめて活発なものであったことも事実である。 この時代、歌舞伎や人形浄瑠璃など音楽・演劇・舞踊がたがいに結びついた新しい芸能もはじまり、江戸時代に大発展を遂げることとなった。その際、伴奏楽器として重要な役割を果たしたのが、三弦(三味線)であった。さらに、御伽衆として秀吉に仕えた曽呂利新左衛門はしばしば「落語の祖」と称されており、話芸も新しい展開をみせた。 この時代、大陸から琉球を経て三線(蛇皮線)が渡来し、それを改良して三味線がつくられた。永禄年間(1558年-1570年)に堺に伝わった三弦を日本で初めて演奏したのは琵琶法師と推定される。それ以前は、当時の流行歌である小歌や語りもの音楽の一ジャンルであった浄瑠璃(古浄瑠璃)の伴奏には琵琶が用いられてきたが、三味線は琵琶よりも音域の幅が広く、フレットがないことから自由に音程を調節することができたため、あらゆる音楽に多大な影響をおよぼした。 庶民の娯楽としては、従来の能楽に加え、17世紀初め、出雲大社の巫女とも伝えられる出雲阿国が京都ではじめたかぶき踊りがある。彼女は、天正以来「ややこ踊り」で注目されていた女性芸能者であったが、念仏踊りや茶屋遊びなど簡単な狂言をおこなったうえで、官能的な要素を採り入れたかぶき踊りでしめくくるという斬新な演出をほどこして一連の歌舞を発表し、大評判となった。これが阿国歌舞伎であり、やがてこれが多くの追随者を生んで女歌舞伎が流行した。「かぶき」は、本来「傾(かぶ)く」という語から派生した言葉であり、異様な姿で歩きまわる者を称して当時は「かぶき者」といった。徳川黎明館所蔵の『歌舞伎図巻』には、男装して首にクルスをかけ、「かぶき者」に扮した「采女」が茶屋の女と戯れる寸劇が描かれている。 阿国の時代には三味線は用いられず、笛、鼓、鉦を伴奏としたが、女歌舞伎の時代ころから次第に三味線が使われるようになった。女歌舞伎は、従来の念仏踊りに特徴的な宗教的要素を脱却し、官能的な演劇舞踊として人びとにもてはやされ、洛中洛外図にも描かれたが、江戸幕府はのちに風紀紊乱の理由でこれを禁止している。 浄瑠璃(浄瑠璃節)は、室町時代中葉におこった語りもの音楽であり、当初は琵琶や扇拍子を伴奏楽器であった。この時代に伝えられた三味線は当時の先端風俗であり、やがて、浄瑠璃はそれに合わせて語られる音楽ジャンルとなった。浄瑠璃は、古代以来の操り人形を動かす傀儡子の人形芝居と結びつき、人形浄瑠璃となった。 他の語りもの音楽としては、ささらという楽器を用いた説経節があり、内容としては庶民の悲運の物語が多かった。 堺の商人出身で日蓮宗の僧となり、のち再び還俗した高三隆達は、当時流行していた小歌に今様や謡曲を組み合わせて独特の節づけをおこない、自ら作詞もおこなって隆達節(隆達小歌)をあみだした。隆達節は人びとからの厚い支持を受けたが、その詩章の多くは恋愛賛美・現世礼賛を歌ったものであり、そこには阿国のかぶき踊り同様、現世享楽主義的な精神が横溢している。 月よ花よと 暮らせただ 程はないもの うき世は 泣いても笑うても 月よ花よと 遊べただ — 隆達小歌 隆達節にはまた、よく時代語が用いられており、当時としては清新味のある歌詞で人びとの心をつかんだ。 悋気心か 枕な投げそ 枕に咎は よもあらじ — 隆達小歌 従来寺社や公家の邸宅で催されてきた猿楽能に対し、桃山時代には、庶民を対象に、路傍に囲いを設けて能楽をおこなう辻能という興業が一般化した。また、これに先立ち、能の詞章を囃子の伴奏なしに謡曲として楽しむ謡(うたい)が身分の別なく普及しはじめた。能の大衆化が進むと同時に狂言のスタイルも整えられていった。 その一方で、戦国大名や桃山時代の大名のなかには、能を手厚く保護し、自ら演じたり、楽器を演奏したりする者が少なくなかった。信長も能に対してはきわめて好意的であったが、秀吉も熱心な愛好者であった。文禄の役開始以降能を習いはじめた秀吉は、文禄2年(1593年)10月に禁裏で能の会をもよおした際、前田利家や徳川家康らとともに自身も演じている。また、御伽衆の大村由己に命じて『芳野花見』『高野参詣』『明智』『柴田』『北条』という、自身の事績をテーマにした新作の能をつくらせるほどの熱の入れ方であった。利休もまた能の愛好者で、勧進能のたびに見物に出かけたといわれる。利休は茶の湯を能楽師の宮王道三に指南し、道三から謡曲を学んだ。 家康もまた能に親しみ、秀吉の保護策を継承した。なお、江戸時代には、四座一流(宝生座・金剛座・金春座・観世座と喜多流)が幕府の式楽(儀式用の芸能)を担当するようになり、諸藩もそれに倣って武家が能の役者に扶持や所領をあたえて生活保障する体制を築いていった。各大名家は競って豪奢な能楽堂を建設し、また、華麗な能装束をととのえていったが、しかし一方で能の式楽化は能を一般庶民から縁遠いものにしてしまうという結果ももたらした。 軍記物語の一節に合わせて踊る曲舞は、桃井直詮(幼名幸若丸)によって大成されたため、幸若舞と呼ばれるようになったといわれている。武将に好まれ、織田信長が平家物の『敦盛』を好んだことはよく知られている。判官物・曾我物が多く、これらの詞章は「舞の本」と呼んだ。 都市民衆の娯楽としては、戦国時代以来の風流踊りがさかんであった。上述した『豊国祭礼図屏風』や『花下遊楽図屏風』には風流踊りのようすが描かれている。また、風流踊りの流れを汲み、念仏踊りの要素を融合させて盆踊りが成立し、各地でさかんにおこなわれるようになった。 織田信長は万事派手好みであったといわれるが、この時代は武士から庶民にいたるまで風俗も華美なものが多くなり、織物や染色の技術も普及した。とくに上述の「辻ヶ花」という模様染は流行し、戦国大名のなかにも普及した。 衣服は、ひとことでいえば、今日の「きもの」の原形である小袖への一元化が進展したが、現象面においては複雑な様相を呈する。すなわち、既存の小袖様の衣服は、宮廷をはじめとする上層階級にあっては下着であったのに対し、庶民階級にあっては働き着・日常着だったのであり、たがいに異質なものが上着化し、融合させられての一元化であった。そして、この融合は応仁の乱ののち進展したものであった。 男性は袴を身につけることが多く、肩衣とあわせて用いた裃(従来の略装)は略礼服・訪問着となった。礼服は、室町時代以来の素襖に烏帽子であったが、家紋を付けることが多くなり、その場合は大紋と呼ばれた。女性は小袖の着流しがふつうになり、礼服は小袖の上に打掛をまとい、肩衣にして腰に巻いた腰巻が用いられるようになった。腰巻の着用例として信長の妹お市の方(浅井長政夫人)を描いた画像がある。 室町時代における小袖は、織物が中心であったが、桃山時代にあっては絞り染や刺繍・摺箔・描絵などの加飾が一般的となった。上述した辻ヶ花と縫箔とは、これらの技法を組み合わせた複合的加飾法であったといえる。小袖の着流しは、現代和服の源流ともいえる身なりであるが、当時の帯は、細いものを下腹にしめるスタイルが普通であった。江戸時代の『松浦屏風』(『婦女遊楽図』)には女性の美しい小袖姿がふんだんに描かれている。小袖の意匠は草花や動物、あるいは幾何学的な文様が多く、慶長小袖や寛文小袖などでしばしば見られるような、文学的な内容を暗示するようなものはあらわれない。布地としては、綿布が多用されるようになったので各地で木綿の生産が進んだ。綿は、温かいうえに伸縮性があり、染めやすいことから人気の繊維素材となった。 髪型は男女ともにたらし髪がなくなり結髪が一般化した。女子の髪型は特に多岐に富んでいたが、男子は茶筅まげが流行した。 食事も朝夕2回が3回になり、うどん・そうめん・もち類・菓子など間食の風習もはじまった。公家や武士は日常の食事に米を用いたが、多くの庶民は雑穀を常食としていた。副食では魚や鳥が食べられるようになったが、羊や豚、牛などは避けられた。ジャン・クラッセ(英語版)『日本西教史』には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれている。しかし、宣教師のなかには信者に牛肉を勧めるものがあり、弘治3年(1557年)の復活祭では牝牛を殺して飯に炊き込み信者に振舞ったという記録がある。戦国時代末期には阿波国では商業捕鯨が始まっており、獣肉食は地方にあって一定の広がりをみせた。また、調味料としては、従来の味噌・塩・酢のほか、醤油と砂糖があらわれた。 日本酒では従来、新酒よりも古酒の方が高級・高価とされてきたが、密閉された壺や甕に保管される古酒は持ち運びや遠方への輸送に不便であり、それに対し、この時代、樽で輸送される新酒がおおいに流通したため、人びとの酒に対する嗜好も変化して新酒が愛好されるようになった。また、技術革新によって従来の濁酒から清酒への転換が全面的に進んだのもこの時代である。16世紀中葉、蒸留の技術が琉球王国から九州地方に伝えられ、焼酎が造られはじめた。これらも「芋酒(いもざけ)」などと称して京都などでも愛飲された。天下一統時代の酒は、活発な国際交易の影響もあって、多様かつ国際色豊かなものであった。琉球の泡盛、中国・朝鮮の珍酒・薬草酒、さらにヨーロッパからはワイン(葡萄酒)ももたらされた。 菓子の広がりは、茶道の普及がおおいにあずかっていた。そのなかには南蛮貿易によってもたらされた南蛮菓子もあった。 住居は、農村においては従来からの萱葺屋根の平屋がふつうであったが、京都・大坂などの都市では二階建ての住居も建てられ、従来の板葺屋根のほか瓦屋根の住居も増えた。 『婦女遊楽図』(『松浦屏風』左隻、国宝、大和文華館) 『婦女遊楽図』(『松浦屏風』右隻、国宝、大和文華館) 『彦根屏風』(一部) 天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエルの来日と伝道ののち、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイス、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ、アレッサンドロ・ヴァリニャーノなど、多くのカトリック宣教師による布教が活発化した。宣教師の来日や南蛮貿易の隆盛にともない庶民のなかにも南蛮風の衣服を身につけるものが現れた。また、一神教の教義やヨーロッパにおける一夫一婦制などは、多神教と汎神論しかなじみのなかったそれまでの日本人には強い衝撃をあたえた。オルガンティノは永禄10年(1576年)、京都に教会堂として南蛮寺を建て、また安土には神学校(セミナリオ)を建てている。宣教師たちは、セミナリオやコレジオ(大学)で、神学・哲学・ラテン語・音楽・絵画を教授したほか、天文学や暦学、数学、地理学、航海術、医学(南蛮流外科)など実用的な知識を日本に伝えた。また、教会の典礼音楽としてグレゴリオ聖歌が歌われた。 文物としては、鉄砲、油絵、銅版画、地球儀、時計、眼鏡、西洋楽器(オルガン、クラヴォ、ヴィオラ)などがもたらされた。やがて、日本人の手によって「南蛮屏風」も描かれた。上に掲げた狩野内膳も南蛮屏風を描いている。南蛮屏風は、西洋画の影響を受けながらも基本的には日本の画法で描かれており、商人や宣教師にまじって黒人奴隷や虎、アラビア馬、洋犬、象なども描かれている。「世界地図屏風」や『泰西王侯騎馬図』も広義には「南蛮屏風」の範疇に属するが、それに対し、日本人が日本画の材料を用い西洋の風俗画を模写した作品も知られており、なかでも『洋人奏楽図屏風』は有名である。また、上述のルイス・アルメイダは豊後国府内でハンセン病患者のための救療院や孤児院を設立し、これを機に南蛮医学が急速に広がった。 上述したように、金属製の活字による活版印刷術は、イエズス会の宣教師ヴァリニャーノによってもたらされ、印刷機も輸入されて、ローマ字によるキリスト教文学・宗教書の翻訳、日本語辞書・日本古典の出版などもおこなわれた。これがキリシタン版であり、出版された土地の名をとって天草版、長崎版などと呼ばれる。特に1592年の天草版『平家物語』や1593年の天草版『伊曽保物語(イソップ物語)』、1603年の長崎版『日葡辞書』などはポルトガル式ローマ字体で出版されたため、当時の日本語の音韻を忠実に記した貴重な資料となっており、国語学的見地からも価値が高い。宗教書には、キリスト教の教理問答を解説した1592年の天草版『ドチリナ・キリシタン』や勧善の教訓を漢字・ひらがなまじりの日本文で記した1599年の長崎版『ぎゃ・ど・ぺかどる(罪人を善に導くの儀也)』、『コンテムツス・ムンジ』などがある。 南蛮人・南蛮文化の渡来は、ただ新しい科学的な道具や珍奇な物品・文物をもたらしただけではなく、それまで日本人の視野や精神になかった地域との遭遇でもあった。そして、古代以来の「インド・中国・日本」という三国をもととした世界観は打ち破られた。 衣食・医療のほか音楽などの面でも南蛮文化は意外なほど浸透しており、今日、最も日本的な文化のひとつとされる茶の湯も、当時にあっては多分に異国趣味の要素を含むものと見なされていた。南蛮文化そのものは江戸幕府の貿易統制策(いわゆる「鎖国政策」)のために短命に終ったが、カルタやタバコはその後も広く普及し、パン・カステラ・カッパ・コンペイトウ・シャボン・ラシャ・ジュバンなどのポルトガル語も日常的に用いられ、現代の日本語にも単語として残っている。 「南蛮屏風」(一部)。黒人もまじる南蛮人 「南蛮屏風」(一部)。南蛮寺のようす 「南蛮屏風」(一部)。南蛮船と南蛮人 「南蛮屏風」(一部)。上陸したカピタンの行列 「南蛮屏風」(一部)。象に乗るカピタンと従者 ルイス・フロイス『日本史』目次 南蛮兜(ダラスのアン・アンド・ガブリエル・バービー=ミュラー博物館) 火縄銃(「種子島」) うんすんカルタ 日本人制作の現存最古の地球儀(渋川春海作、1695年) ^ 『唐獅子図屏風』は、天正10年、織田軍の羽柴秀吉が毛利氏と戦った中国攻めの際に陣屋屏風として携え、本能寺の変により講和する際、毛利輝元に贈ったといわれる。明治維新後、毛利公爵家が明治天皇に献上したところから御物となった武田(1969)p.135。昭和天皇崩御後は御物(皇室所有品)ではなく国有(三の丸尚蔵館保管)となっている。 ^ 家永三郎は、文化史のうえでは、寛永年間(1624年-1644年)ころまでを桃山時代として扱うのが適切であるとしている。家永(1982)pp.163-164 ^ 信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしてもなお罪の意識うすかったことや、秀吉が信仰目的というよりは自らの権勢の誇示のために方広寺大仏(盧舎那仏)を建造し、しかも大仏が地震で倒壊した際には仏がいかに無力であることか嘲笑したなどのエピソードにも、この時代の世俗的・脱宗教的ないし反宗教的な時代精神がうかがわれる。芳賀(1979)p.122 ^ 堺の町人のなかには「債権と俗世の名望を棄てねばならぬなら、天国へなどは行きたくない」と豪語する者があり、博多の町人には「後生願ひ無用に候」と遺言する者があった。さらに「今こそ弥勒の世なりけれ」と現世を強く肯定する民衆もあった。芳賀(1979)p.122 ^ ドイツ文学者の西尾幹二は、17世紀から19世紀にかけてヨーロッパ諸国でギリシャ・ローマの古典古代文献学が一斉に開花し、そこで得られた方法論を用いて各国民国家の民族文化史が検証されていったのと同様の現象が同時期の日本においても起こったことを指摘している。西尾によれば、伊藤仁斎、荻生徂徠らによる漢学における古代言語文化の再生の営みののち契沖、賀茂真淵、本居宣長らによって国学が大成されていったのであり、これはヨーロッパにおける人文科学の思潮の展開とほぼ軌を一にしている。西尾(1999)pp.14-17 ^ 『細川両家記』の永正17年正月の伊丹但馬守と野間豊前守が伊丹城で自害する場面の記述に「我等二人は此の城の中にて腹切らんと、四方の城戸をさし、家々へ火をかけ、天守にて腹切りぬ」という文がある。神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター《細川両家記を読む(永正16年~17年)》 ^ 中世の城は防塞的性格の濃い山城が多かったが、この時代の城は領国支配の利便をも考慮して平山城や平城が多くなり、その役割も、軍事施設としての機能のみならず城主の居館・政庁としての機能を兼備するものに変化した。 ^ 石垣施工を専門におこなった技術者集団として近江国坂本の穴太衆が有名である。穴太衆のなかには、土佐藩の北川豊後のように家臣として召し抱えられる者もあった。伊藤(1969)p.119 ^ 天守の外からみる層数と内部の階数が一致しないことがあり、とくに望楼型天守では大きな入母屋屋根の内部に隠れた階のあることが多い。一般には、層は外観の屋根の重なり、階とは内部の床の重なりを指す。五味・野呂(2006)pp.12 ^ 安土城は、地階の石蔵に仏教建築の宝塔を置き、一階から三階までは御殿で腰は羽目板とし、教会建築を模した南蛮風の吹き抜けを設け、二階空間に張り出し舞台、三階に渡り橋を設けて、宝塔や舞台を見下ろす構造となっていたという説もある。五階は正八角形平面で内側は金、外側が朱で彩色がほどこされ、六階は金閣のような唐様仏堂形式で内外ともに金色に塗られていたと推定される。藤田・古賀編(1999)p.107 ^ 左官にたずさわってきた壁塗工は従来は賤民的な扱いを受けてきたが、左官工事量の増加にともなって地位を上昇させ、その境遇から脱することができた。伊藤(1969)p.119 ^ 秀吉は、京都から大坂に都を遷す構想があったとみられ、それによれば、天満に御所や公家屋敷を移し、平野町の両側に五山をはじめとする京都の寺院を移す計画だったと考えられている。藤田・古賀編(1999)pp.106-107 ^ 十二天守のなかの「丸亀城天守」は、当初「御三階櫓」として建設されたものである。 ^ 秀吉の利休の信任ぶりは、大友宗麟によれば「内々の儀は宗易(利休)、公儀のことは宰相(豊臣秀長)存じ候」と評されるほどであった。池上(2002)p.285 ^ 芳賀幸四郎は、この時代の文化について、物質的な巨大性・豪奢性を志向しながらも、その一方で、それとは反対の方向性すなわち「侘び茶」にみられるような精神的な収斂性・簡素性を志向する側面があり、こうした「対立的統一」も桃山文化ならではの特質であると指摘している。芳賀(1979)p.122 ^ 利休の死については、いのちを賭けた武将・武士の戦功が側近文化人の政治的発言で左右される不合理に憤りの声が高まったことに対する豊臣政権の粛清工作の一環として生じた犠牲という意味をもつとの指摘がある。永島(1969)p.149。また、それまでのキリシタン・商人ネットワークに依存する体制を脱却し、近臣や吏僚直臣による支配体制を強化する立場からは、利休の求道的態度や教養・能力の高さ、また、当時の豪商たちが共通にもっていた自主自尊の精神はむしろ桎梏となった、いわば「商と士の相剋」から悲劇が生じたという見解もある。池上(2002)pp.286-287 ^ 「利休」の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会に参内するために千宗易が正親町天皇より与えられた居士号であった。また、禁中茶会を秀吉に勧めたのは利休であったといわれる。永島(1969)p.148 ^ 徳川氏からあたえられた織田長益の江戸屋敷跡がのちに有楽町とよばれるようになった。 ^ 他の茶器・茶道具には、茶碗、茶杓、茶筅、水指、建水があり、香炉・香合・花入なども茶の湯の場では多く用いられた。田中(2009)pp.122 ^ 待庵は、山崎の戦いののち、秀吉が利休に命じてつくらせたといわれ、利休が造作にかかわったことが確実視されている。『わびと黄金』(1969)p.6 ^ 秀吉は信長の葬儀を終えた天正10年11月に山崎で利休(宗易)・宗及・宗久および山上宗二とともに茶会をひらいている。林屋(1974)pp.352-353。また、賤ヶ岳の戦いの前に、前田利家が寄親であった柴田勝家の使者として山崎の地を訪れているが、秀吉・利家の会合にも待庵が使用された可能性がある。熱田(1992)p.256 ^ 才色兼備をうたわれた吉野太夫の夫が太夫を偲んで建てたといわれる。 ^ 細川藤賢の屋敷にあった藤戸石は、信長入京後、信長が足利義昭の居城として二条城を造営する際、二条城に運び込まれた。その後、秀吉が聚楽第に運び、さらに醍醐の花見に際して醍醐寺に持ち込まれたものである。 ^ 古来、彩色することを「彩(た)む」といい、「彩む絵」の音韻変化したものが「濃絵」である。絵の具には、紺青・緑青・群青・朱・丹・臙脂・胡粉・黄土があって必ずしも青系統に限らない。また、特殊な材料として金銀泥、金銀箔、墨、雲母などがあった。五味・野呂(2006)p.14 ^ これらの霊獣は、武田氏の「丸に龍」、北条氏の「虎」、上杉氏の「獅子」といった信長の好敵手であった各氏の印章を意識したものでもあり、そこに「天下」を意識した統一的な精神をみてとることができる。林屋(1969)p.110 ^ 建仁寺の友松作品は、現在その多くが掛軸になおされて保存されている。 ^ 祥雲禅寺は、秀吉が夭折した長子棄丸の冥福を祈り、建立された寺であった。武田(1969)p.129 ^ 永徳の急死により祥雲禅寺(現智積院)の襖絵は等伯一派にまかされることとなった。辻(1969)p.174 ^ 「洛中洛外図」を制作時期に着目して分類すると、第1期から第4期まで分けられる。第1期は町田本・上杉本などで応仁の乱後約50年の京都の復興ぶりが描かれ、第2期は聚楽第が京都の象徴として登場、第3期は慶長初年ころの様相を示し、二条城と方広寺大仏が描かれる。第4期は江戸初期の情景を示し、二条城とともに祇園会のようすが描かれる。なお寛永以降は風俗画としての生命を失い、単に京都名所図となっていく。五味・野呂(2006)p.15 ^ 中央2扇は修理のさなか1923年(大正12年)の関東大震災により焼失した。 ^ そのため、秀吉の朝鮮出兵を別名「焼きもの戦争」と称することがある。 ^ たとえば、慶長8年(1603年)の『日葡辞書』の「ツジガハナ」の項には「赤やその他の色の木の葉模様や紋様で彩色してある帷子。また、その模様、または絵そのもの」とあり、ある種の文様染めの施された帷子、ないしその文様が本来的な意味での「辻ヶ花」であった。河上(1993)p.88 ^ 充填的なデザインの一方で白地を活用した新しいデザインも試みられた。河上(1993)p.90 ^ 「辻ヶ花」初出の絵画資料ではあるが、図像にみえる白い表着は今日でいう辻ヶ花染ではなく、麻地の絞り染めとみられている。 ^ 『節用集』天正18年版については、国語学者山田忠雄による研究がある。 ^ 近衛信尹は、織田信長より一字(「信」)を賜り、関白相論により二条昭実と関白位を争ったこともあるが、書画・芸能に通じた文化人であった。 ^ 毎阿弥と能阿弥の関係は不明であるが、能阿弥・芸阿弥・相阿弥の3代は世襲である。伊藤『いけばな』(1991)p.47 ^ 初代文阿弥の高弟として宣阿弥と正阿弥の2名が知られ、たがいに名声を競っていた。2代目文阿弥はこの2名のいずれかであった可能性もあるが、詳細は不明である。伊藤『いけばな』(1991)p.53 ^ 2004年(平成16年)に一度盗難にあったことがある。日本経済新聞社 e-碁サロン「碁界ニュース(2004年4月29日):秀吉と家康対局の碁盤盗難・京都の大徳寺」 ^ 日海(本因坊算砂)は本能寺の変の前夜、本能寺において信長の御前で日蓮宗僧侶の利玄と碁を打ったといわれている。 ^ ピックを用いて演奏する中国の三弦に対し、三味線の演奏には撥が用いられるが、これは琵琶法師が琵琶と同じ方法でこの楽器を弾いたためといわれる。小塩(2010)p.35 ^ 采女を阿国の別称とする説・後継者とする説両方があり、制作年代も慶長・元和・寛永など諸説がある。作者も狩野派・長谷川派両方考えられる。土居次義(美学美術史)は、慶長10年・長谷川派説を採っている。『日本絵画館6』(1969)p.144 ^ 女歌舞伎についで少年が演じる若衆歌舞伎がさかんになったが、これも禁じられ、17世紀半ば以降は成人男子のみからなる野郎歌舞伎となった。 ^ 天正9年(1581年)、妻に先立たれた利休に対し、宮王道三は弟三郎の未亡人宗恩の親代わりとなって利休・宗恩の縁組をすすめた。種田(2002)p.49 ^ 2代将軍徳川秀忠は北七大夫長能を格段の演者として厚遇した。喜多流は金剛家の分家格の待遇で元和年中に創設を認められ、七大夫四男の十大夫のころ、一座として公認されて一流を樹立した。吉村(2001)p.31 ^ 戦国時代末期の日本語を収録した『日葡辞書』には「Cacho ブタ」と記されており、地方によっては豚(家猪)が飼われていたものとみられる。 ^ 『細川家御家譜』という文献には、キリシタン大名の高山右近が小田原攻めの際、蒲生氏郷や細川忠興に対し牛肉料理を振舞ったことが記録されている。 ^ 桑酒、生姜酒、黄精酒(おうせいしゅ)、八珍酒、長命酒、忍冬酒(にんどうしゅ)、地黄酒(じおうしゅ)、五加皮酒(うこぎしゅ)、豆淋酒(とうりんしゅ)などがある ^ 天正13年(1585年)、天正遣欧使節は安土城の風景をえがいた狩野派の屏風絵をローマ教皇に贈呈している。家永(1982)p.178 ^ とくに鉄砲玉をぬきとるような外科手術は従来の日本の医術にはみられないものであった。 ^ a b c d e f g h 尾藤(2000)pp.150-151 ^ “伏見・桃山は江戸時代のタウンページで使われ定着した名称 歴史研究グループが発表”. 伏見経済新聞 (2016年11月19日). 2017年12月16日閲覧。 ^ a b c d e f g h i j k l m n 芳賀(1979)pp.122-123 ^ a b c d e f g h i j 家永(1982)pp.163-172 ^ a b c d 五味・野呂(2006)p.12 ^ a b c d e f g h 林屋(1969)pp.107-117 ^ a b c 林屋(1974)pp.335-337 ^ a b c d e f 藤田・古賀編(1999)p.107 ^ a b 伊藤(1969)pp.118-119 ^ a b c d e f g h i j k l m 光井(1999)pp.89-108 ^ a b c d e f g h i j 小野(2009)pp.34-35 ^ a b c d e 藤田・古賀編(1999)pp.152-155 ^ a b c d e f g h i j k l m n o 大野(1999)pp.109-128 ^ a b c d e f 五味・野呂(2006)pp.10-11 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国指定文化財等データベース 文化遺産オンライン e国寶", "五山版(ござんばん)は、宋元時代の禅籍の出版隆盛の影響を受け、五山を中心として寺院で開版された刊本のことである。京都の五山が出版の中心であったが、鎌倉円覚寺の続灯庵などでも出版された。 中世日本では、禅文化が盛んとなり、漢文学としての五山文学が興隆した。それに付随する形で自然と出版文化も起こることとなったのである。その多くは、日本に伝来した宋版や元版(宋元版)を底本として覆刻されたものであったため、木版印刷の古様を伝えるものが多く、書誌学的な資料価値が非常に高いものが多く存在する。 1287年、建長寺で『禅門宝訓』が開版される。 1288年、山城国(京都府)三聖寺で東山湛照が『虎丘隆和尚語録』等を刊行する。 1329年以後、元よりの渡来僧、竺仙梵僊が『拾遺偈頌集』を出版する。 1340年 - 1370年代、春屋妙葩らにより禅籍多数が出版される。 『圜悟心要』(1341年) 『夢中問答集』(1344年) 『景徳傳燈録』(1348年) 『輔教編』(1351年) 『禅源諸詮集都序』(1358年) 『蒲室集』(1359年) 『五灯会元』(1368年) 『仏鑑禅師語録』(1370年) 『仏光国師語録』(1370年) 『宗鏡録』(1371年) 『元亨釈書』(1377年) 『初祖三論』(1387年) 『少室六門』 その他にも、『論語』、『論語集解』、『毛詩鄭箋』、『大学章句』、『古文真宝』等の外典も出版された。だが、応永中(1394年 - 1428年)あたりから往時の盛行が影をひそめ、応仁の乱より後は、全く刊行されなくなってしまった。", "院政期文化(いんせいきぶんか)または平安末期文化(へいあんまっきぶんか)とは、平安時代末葉の11世紀後半から鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化。院政期は、日本社会史上、貴族勢力の衰退と武士勢力の伸長という過渡期に位置しており、文化の面でもこのような時代の気風を反映した新しい動きがみられた。 院政期は、治天の君による日本仏教保護政策などによって寺社の世俗化のおおいに進展した時期であったが、その反面では、こうした寺社の世俗化をきらって特定の寺院に属さない「聖」や「上人」とよばれる民間布教者があらわれ、とくに浄土教の教えを京の都はもとより地方へも広めていった時期である。 京と琵琶湖岸の要津坂本とをつなぐ白河の地には六勝寺が建ち並び、北野神社とその周辺、さらにまた、多くの離宮が建てられた鳥羽周辺の京都南郊もまた宇治川や淀川と結びついて新たな都市的空間となりつつあった。当時の京都は、このように全体として新都市の様相を呈しており、そこでは王権の強化にともなう各種の美術品の創作がみられた。院は、古代国家の復活を願ったところから、その芸術には復古的な傾向がうかがわれ、離宮や御所の宝蔵には国内外の宝物が集められ、王権はさまざまな形で表現された。地方の文物はかつてないほど都に流入していったのである。 中央の文化も広く地方へ伝播していった。それはおもに奥州平泉の中尊寺金色堂、陸奥の白水阿弥陀堂、伯耆の三仏寺投入堂、豊後の富貴寺大堂など、寺院建築の遺構にその傾向が顕著にうかがえる。また平清盛ゆかりの安芸の厳島神社も当時の地方の文化水準の高さを物語る。 没落しつつある貴族層の関心が、庶民や新興階級である武士に向かったのも院政期であった。それは、軍記物の執筆や説話集の編纂、また、新しい絵画ジャンルである絵巻物の画題などにもよくあらわれている。さらに、後白河法皇による『梁塵秘抄』の編纂や、芸能化され貴賤問わず大流行した田楽のように、貴族と庶民の文化交流も広汎にみられた。その一方で『栄花物語』など懐古的傾向をもつ歴史物語もつくられた。和歌にも新傾向がみられる。 日本語の上でも平安中期とは違いが見られる。山田孝雄は平安時代のうちから院政期を分け、むしろ鎌倉時代と違いがないとし、「院政鎌倉時代」という言語上の時代区分を設け、それは現在広く受け入れられている。日本の国語教育の「古文」で教えられる古典文法の活用体系や係り結びの法則、47文字の仮名の区別は平安中期のものを基準としているが、院政期はこれらが崩れてくる時期ととらえられる。「お」と「を」の間に音韻上の区別がなくなったのも11世紀末頃と考えられている。 院政期文化は総じて、貴族の文化的関心が都での現実生活から、地方、庶民、過去(歴史)へと向かう傾向が顕著であり、また、武士・庶民文化の萌芽もみられる点を大きな特色としている。 仏教では釈迦の没後を、正法・像法・末法の3時代に区分している。末法思想とは、こうした時代区分にもとづく仏法衰滅を説く宿命的歴史観であり、平安時代中葉には、日本仏教で正法・像法各千年説が有力となって永承7年(1052年)が末法の初年と考えられた。 当時、武士の台頭や僧兵の横暴、公家勢力の後退などによる社会不安、天変地異・疫病・火災などの自然災害を経験した人びとは、はっきりと末法を意識するようになり、無常観や厭世観がかき立てられていった。こうしたなか、西方極楽浄土への往生を願う浄土教が盛行し、末法思想の流行に拍車をかけた。 末法の時代が近づくにつれ、釈迦入滅後56億7000万年を経たのちに弥勒菩薩が地上に下って衆生を救済するという弥勒信仰が広まり、また、弥勒の再生に備えて経典を埋納して保存しようという人びとの思いはやがて経塚の築造という行為を生むにいたった。 現在知られる経塚の最古は、藤原道長が外面に願文を書き、なかに紺紙金字経を収めた銅製の経筒を大和の金峰山山頂に埋納した例とされており、経筒に寛弘4年(1007年)の紀年銘を有する。以後、経塚はさかんに造られるようになり、11世紀後半から12世紀全般にかけては全国各地でさかんに築造された。当初は弥勒信仰にもとづく仏典保存を目的としていたが、やがて極楽往生や現世利益などの動機も早い段階から複合していった。 なお、経を納める容器には、銅筒のほか陶製の壺や甕、竹製、石製の容器も用いられた。銅製の経筒には、円形の筒のほか、六角形や八角形の筒もあり、さらに石製の外容器をともなう場合があった。 摂関期の天皇は二所宗廟とされた伊勢神宮と石清水八幡宮をはじめ、賀茂社や松尾社などの神社に奉幣したり行幸したりして権威を高めたが、院政期には白河、鳥羽、後白河の3上皇がみずから出家して法皇となり、仏教によって権威を高めた。白河天皇の建立した法勝寺をはじめとする六勝寺が鴨川の東、白河の地にあいついで造営された。また、洛南の鳥羽に多数建てられた阿弥陀堂はじめ数多くの堂塔や仏像がつくられて盛大な法会をひらき、しばしば紀伊へ熊野詣や高野詣を繰り返した。また、後白河法皇は平清盛とともに蓮華王院本堂をつくり、その宝蔵には古今東西の宝物をおさめた。 院政期には、「南都北嶺」などの大寺院が上述のような仏教保護政策に乗じて、荘園領主として世俗権力化していった。寺社は、自領の荘民や下級僧侶を大衆(のちに僧兵と呼称される)として多数かかえて武装化し、強訴によって自らの要求を押し通そうとする状況さえ生まれた。また、「奈良法師」と称された南都と北嶺とはお互い激しく対立したが、天台座主をめぐっては山門派と寺門派が同じ天台宗のなかでその地位を競った。永保元年(1081年)以降は延暦寺の僧兵による園城寺焼き討ち事件が起こっている。 こうした寺社権力の世俗化に対し、人びとはかえってそこに末法を感じて内面的な救済を求めることも多かった。寺社に属さない僧侶である聖の教えが広く普及する背景がそこにあった。 仏教による護国思想がいきわたるなかで、神は仏の化身であるという本地垂迹説がいっそう広がった。賀茂社や春日社などに仏塔が建てられたのも12世紀のことであった。 藤原氏の氏神である春日社は、神仏習合の進展により、氏寺である興福寺と一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がしばしば行われるようになったが、寛治7年(1093年)以降、春日社の神霊を移した神木(榊)を奉じて上洛する「神木動座」もたびたび行われた。一方、延暦寺の僧兵たちが日吉社の神輿を奉じて強訴する「神輿動座」は嘉保2年(1095年)にはじまった。 修験道はいっそうさかんとなった。紀伊の熊野三山はじめ、大和国の葛城山・金峰山・大峰山、出羽国の出羽三山などは特にその中心として、修験の活動の場となった。 末法思想は多くの貴族の心を深くとらえ、阿弥陀堂が各地に造営されたが、こうした浄土教の普及に力があったのは、むしろ既成の教団や寺院から離れ、山林に入り、あるいは遍歴して独自の活動を展開した聖、あるいは上人とよばれた求道者であった。 聖は、寺院において学問をむねとする学徒に対し、寺院経済を支える禅徒の立場にあり、既成の寺院から離れて別所と呼ばれる地をその活動拠点とすることが多かった。そのなかで高野山を別所としたのが高野聖である。 聖たちは、山林修行や諸国遊行を主としながらも造寺・造塔、写経、供養、鋳鐘、架橋や道路・港湾建設の勧進などの多彩な活動を通じて、民衆からの尊崇と支持を獲得していった。 それまでの加持祈祷や学問中心の仏教から、内面的な深まりを持ちながら、庶民など広い階層を対象とする新しい仏教への変化が胎動していった。 はじめ天台宗の教学を学んだ法然は、承安5年(1175年)、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖とあおがれて鎌倉新仏教の嚆矢とされた。 法然の教えは摂関家の九条兼実ら中央の貴族をはじめ、地方の武士や庶民にまで広まった。その弟子は、浄土真宗を開いた親鸞はじめ、きわめて多きにわたっている。また、女性に初めて布教をおこなったのも法然であった。 浄土教の全国的な広がりを端的に示すものに、阿弥陀堂建築がある。阿弥陀堂とは、その名のとおり阿弥陀仏を安置する仏堂で、摂関時代以降にさかんにつくられた。一般的な形式は「一間四面堂」と称される、方三間から五間の方形の堂で、中央の方一間に阿弥陀如来を安置し、その周囲に庇をめぐらすタイプで中尊寺金色堂はじめ白水阿弥陀堂、富貴寺大堂など全国各地で多数つくられた。鳳凰堂タイプは『阿弥陀浄土変相図』に描かれた極楽宮殿を模した建築で摂関期の平等院鳳凰堂のほか、藤原秀衡が平泉に創建した無量光院にも同様の仏堂が建てられた。いま一つは、九体阿弥陀像を安置する長方形の「九躰堂」であり、浄瑠璃寺本堂が唯一の遺構である。なお、院政期において、国風文化期に中央で開花した阿弥陀堂建築が地方へ伝わり、貴族文化を地方在地領主が受け止め、消化した。これらの背景として浄土教の広がり、また地方反乱鎮圧のための押領使などの地方遠征などが挙げられる。 中尊寺金色堂(岩手県平泉町、国宝) 中尊寺に所在する、奥州藤原氏三代の栄華を示す方三間の阿弥陀堂建築であり、「光堂」(ひかりどう)とも称する。単層、宝形造で、阿弥陀堂に墓堂を兼ねている。堂内の装飾に黒漆をぬり、螺鈿をちりばめ、金箔をはったのでこの名がある。藤原清衡が天治元年(1124年)に創建したもので、須弥壇の下には清衡・基衡・秀衡のミイラ化した遺骸を納めている。平泉には他に、2代基衡の建てた毛越寺境内遺跡、基衡の妻の建てた観自在王院跡などが遺跡としてのこっている。 白水阿弥陀堂(福島県いわき市、国宝) 正式には願成寺阿弥陀堂。土地の豪族岩城則道の夫人徳尼(藤原秀衡の妹)が夫の菩提を弔うため、永暦元年(1160年)に建立した阿弥陀堂で、単層、三間四方の宝形造である。北・東・西の三方は山に囲まれ、南側前面の浄土庭園は広大な苑池をともない、建築を取り巻く環境が見事で、考古資料としての価値も高い。白水の名は平泉の「泉」の字を二分してつけられた。 富貴寺大堂(大分県豊後高田市、国宝) 豊後の豪族の修復になる方三間の阿弥陀堂建築で、保元3年(1158年)ころ創建された、現存する九州最古の木造建築物である。堂内には定朝様の阿弥陀仏が安置され、壁や柱には華麗な来迎図が描かれている。富貴寺阿弥陀堂とも。九州唯一の阿弥陀堂の遺構である。 往生極楽院(京都市左京区、重要文化財) 三千院境内に建つ。高松中納言藤原実衡の妻である真如房尼が亡き夫の菩提のために大原に建立した阿弥陀堂で、久安4年(1148年)の建立である。浄土教の建築としても独特の内部空間をもっている。本来は三千院とは別の寺院であった。 浄瑠璃寺本堂(京都市木津川市、国宝) 嘉承2年(1107年)に建立された九躰堂で、9体の阿弥陀如来像を横一列に配置するため横に細長い形状となっている。緑濃い山中に営まれた境内には池を中心とした浄土庭園があり、本堂と三重塔が当時の遺構として今日まで伝わっている。この堂は、当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂として唯一残った遺構として貴重である。 なお、国風文化においての阿弥陀堂建築としては以下のものが挙げられる。 無量寿院 浄土教の流行を反映した阿弥陀堂建築の登場から、藤原道長は無量寿院を建立した。この寺は、金堂を拡充したときに、法成寺と称された。この寺の九体堂にちなんで藤原道長は「御堂関白」と呼ばれるようになった。 平等院鳳凰堂(京都市宇治市) 藤原頼通が父道長より伝領された別荘の宇治院を末法初年に寺院に改め、翌年に阿弥陀堂を建立した。これが平等院鳳凰堂である。頼通が「宇治殿」と呼ばれたのはこの所以である。阿弥陀堂は中堂、左右の翼部、尾廊からなり、棟に金銅の鳳凰をあげている。また建築全体の形状が翼を広げた鳥の姿を思わせることから、江戸時代以降鳳凰堂の名で呼ばれるようになった。 醍醐寺五重塔(951年、国宝) 承平元年(931年)醍醐天皇の冥福を祈り、子の朱雀天皇が建立を開始し、村上天皇が即位した後の天暦5年(951年)に完成した。内部の壁に両界曼荼羅や真言八祖像が描かれていることで有名であり、これが日本密教絵画の源流をなすとも言われている。 法界寺阿弥陀堂 日野資業が建立。個人としては方三間の比較的小さい形式が主流だったにもかかわらず、法界寺阿弥陀堂では阿弥陀像を五体設置しており、方五間の身舎の周りに庇状の吹放ちの裳階を付けていた。 白水阿弥陀堂(福島県)、富貴寺大堂(大分県) これらはともに、宇治の平等院鳳凰堂とともに「三大阿弥陀堂」と称されることがある。 斜面や崖に張り出して造られ、床の一部が長い柱で支えられた建物を懸造と呼び、江戸時代初期の清水寺本堂が有名であるが、この特異な形式が生まれるにあたっては神仏習合、なかでも山岳仏教より生まれた修験道の影響が甚大である。院政期にあっては、三仏寺投入堂がことに著名である。 蓮華王院本堂(通称三十三間堂)は横に長く、千一体の千手観音像を安置したもので、阿弥陀堂ではないが大型化した九躰堂タイプと見なしてよい。 三仏寺奥院(鳥取県三朝町、国宝) 三仏寺投入堂ないし三仏寺蔵王堂として知られる。天仁元年(1108年)ころに建造された天台宗三仏寺の奥の院にあたり、断崖のくぼみのなかに足場を組んだ懸造の小規模な堂である。中国山地につらなる三徳山山腹の岩窟内に位置し、従前より修験道の祖とされる役小角(役の行者)が、空中から建築資材を投げ入れて造ったと伝承されてきたため、「投入堂」の呼称がある。堂内には修験の生んだ日本独自の尊像である蔵王権現を祀っている。 蓮華王院本堂(三十三間堂)(京都市東山区、国宝) 平治の乱ののち、平清盛は後白河上皇の信任を得て、法住寺御所の近くに蓮華王院を造営し、その本堂(三十三間堂)に千一体の千手観音像を安置するとともに宝蔵には古今東西の宝物を納めた。ここには、多くの絵巻物の制作や今様の蒐集など芸能の中心に立ち続けた後白河法皇の膨大なコレクションも納められていた。 當麻寺本堂(奈良県葛城市、国宝) 當麻寺曼荼羅堂とも。寄棟造、本瓦葺。棟木の墨書銘から永暦2年(1161年)の建造であることが判明した(ただし、それ以前の前身堂の部材も再用されている)。『当麻曼荼羅』を祀っている。 鶴林寺太子堂(兵庫県加古川市、国宝) 鶴林寺は聖徳太子創建と伝えられる天台宗寺院であり、太子堂は当初法華堂として建造された。宝形造の檜皮葺で、屋根板の墨書より天永3年(1112年)の建造であることが判明した。念仏三昧を修する常行堂も平安時代末期の建造とみられ、重要文化財に指定されている。 平安時代の塔建築では、最初に宝塔や大塔といった新形式の導入がみられたが、現存する遺構は層塔形式のみである。層塔建築では、従来は心柱を地下もしくは地上に据えていたものが、浄瑠璃寺三重塔・一乗寺三重塔以降の三重塔では、心柱はすべて初重天井上の梁から立つようになる。これは初重の内部空間を広く使うためと考えられる。 浄瑠璃寺三重塔(京都府木津川市、国宝) 浄瑠璃寺は、山城・大和の境をなす山中にあり、上述「九体阿弥陀堂」で知られている。三重塔は治承2年(1178年)に京都の一条大宮から現在地に移されたもので、三間三重塔婆、檜皮葺で、本堂と池をはさんで建っている。初層内は扉の釈迦八相、四隅の十六羅漢図などが装飾文様とともに壁面を埋めている。 一乗寺三重塔(兵庫県加西市、国宝) 一乗寺は播磨国北東の山間部に所在し、多くの堂塔が重要文化財に指定されている。三重塔は、頂部の伏鉢(ふくばち)の銘より承安元年(1171年)の建造であることが判明した。心柱が初層の天井裏で止まり、板床となるその上には中央方一間に仏壇を構えており、四面に縁をめぐらした平面の形状および構造は鎌倉期以降の三間仏堂を思わせる。これは、平安中期までにはみられなかった特色である。 現存する平安時代以前の神社建築には、上述した山岳宗教の遺構「三仏寺投入堂」と宇治上神社本殿があるのみである。 宇治上神社本殿(京都府宇治市、国宝) 切妻造・平入の屋根を葺きおろし、身舎の前方に庇を付けて前側の流れを長くした形式である流造によって建造されており、平等院の鎮守とされた神社である。建築材の年輪年代測定によって、康平3年(1060年)ころに建造されたことが判明した、現存する最古の神社建築である。 厳島神社社殿(広島県廿日市市、国宝) 安芸国の一の宮であり、市杵島姫命(いちきしまひめみこと)を祀り、航海の守護神とされた。安芸守だった平清盛の崇敬を受け、院政期には平氏一門の氏神のように遇され、長寛2年(1164年)には『平家納経』全33巻が納められた。中心となる両流造の社殿は後世に再建されたものだが、平氏の時代の様式を残しており、現在のように満潮時には拝殿下まで海水が入る特殊な建築様式で構え直されたものである。潮が満ちると社殿や鳥居が海中に浮かぶ景観は美しく、国の特別名勝にも指定され、「宮島」とも称されて日本三景のひとつとして名高い。1996年(平成8年)、世界遺産のなかの文化遺産に登録された。 なお、神社建築様式のうえでは、今日、流造とともに神社本殿の普遍的な形式となっている春日造が平安時代末期には成立していたとみられる。春日造は、切妻造・妻入で、やはり身舎の正面に庇を付けた春日社本殿にみられる形式で、庇を疎垂木(まばらだるき)として身舎より軽く扱う庇本来のあり方を示す。この形式は、定期造替ののちの旧殿分与によってその後畿内各地に広がったとみられる。 また、春日造の一種とみられる隅木入春日造(熊野造)は、熊野信仰の伝播により中世以降、日本全国に広まった。 庭園としては、浄土教の広まりとともに、上述した白水阿弥陀堂境域はじめ浄土庭園に特筆すべきものが多い。 なかでも、奥州藤原氏2代目当主の藤原基衡が久安6年(1150年)から久寿3年(1156年)にかけて大規模な伽藍を建立したことで知られる毛越寺は、基衡夫妻およびその子秀衡によって整備され、壮麗な堂塔禅坊を誇り、往時の規模は中尊寺を上まわるほどであったが、嘉禄2年(1226年)の火災、さらには天正元年(1573年)に兵火により焼失してしまった。 しかし、見事な浄土庭園を今日に伝えており、苑池も橋脚をのこして中島・庭石については旧態をよく示しており、「曲水の宴」が行われたといわれる遣水は平安時代の遺構としては日本唯一のものとして学術上の価値も高いことから、「毛越寺浄土庭園」として国の特別史跡および特別名勝に指定されている。 毛越寺に関しては、基衡が本尊の薬師如来像の制作を莫大な礼物をもって京在住の仏師運慶に依頼したことが知られており、その見事な出来栄えに驚嘆した鳥羽法皇が奥州下りを禁じたという逸話ものこっている。 中尊寺一字金輪像(岩手県平泉町、重要文化財) 嘉応2年(1170年)頃に制作された寄木造、玉眼の仏像で、大日如来の説いた真言の一字を人格化した仏である。別名一字金輪仏頂。像高は75センチメートルで、智拳印を結んでいる。俗に「人肌大日」とも呼称される。 臼杵の石仏群(大分県臼杵市、国宝) 凝灰岩に刻まれた62体の磨崖仏が谷をめぐって4箇所に広がっており、大半が11世紀から12世紀にかけて刻まれた、日本の代表的な石仏群である。 伝乗寺真木大堂仏像(大分県豊後高田市、重要文化財) 六郷満山のひとつである馬城山伝乗寺にある仏像群で、木造阿弥陀如来坐像、四天王像など9体が現存している。 蓮華王院千手観音像(京都市東山区、重要文化財) 等身大の千手観音立像が1,001体ならぶ。各像は頭上に11の顔をもち、42手をもつ通形であり、寄木造で漆箔が施されている。124体が平安末期のもので、のこりは鎌倉時代にはいって16年かけて再興された像である。本尊(中尊)の丈六の千手観音坐像(国宝)は像高3メートル余で鎌倉時代の制作である。 浄瑠璃寺九体阿弥陀如来像(京都府木津川市、国宝) 現存する唯一の九体仏であり、下品下生、下品中生、下品上生から上品上生に至るまで九つの往生の段階があるという「九品往生」の考えから、九体の如来をまつった。中尊は丈六像で来迎印、他の八体は半丈六像で定印を結んでいる。いずれも寄木造で漆箔が施されている。 往生極楽院阿弥陀如来像・両脇侍像(京都市左京区、国宝) 三千院境内にある往生極楽院の本尊で、阿弥陀如来像は来迎印を結び、観世音菩薩、勢至菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊坐像である。両脇侍像が跪座している点が特徴であり、勢至菩薩像内の銘文から久安4年(1148年)作であることが判明した。12世紀前半の定朝様式に属する。 円成寺大日如来坐像(奈良県奈良市、国宝) 奈良仏師運慶の現存する最古の作品である。台座の銘によって安元2年(1176年)の制作であることがわかる。像高約99センチメートルの寄木造で智拳印を結んでおり、漆箔で仕上げている。均整の取れた引き締まった体躯表現や張りのある表情に慶派の特色がよくあらわれている。 他にこの時代の代表作として下記が挙げられる。 東京・大倉集古館 普賢菩薩騎象像(国宝) 京都・峰定寺 千手観音坐像、不動明王二童子立像、毘沙門天立像(各重要文化財)久寿元年(1154年) 京都・大覚寺 五大明王像(重要文化財)安元2年(1176年)明円作 京都・法金剛院 阿弥陀如来坐像(重要文化財)大治5年(1130年)頃 奈良・興福寺 板彫十二神将立像(国宝) 鳥取・大山寺 木造阿弥陀如来及び両脇侍像(重要文化財) 天承元年(1131年)良円作 絵画では、物語や説話を題材に、詞書(ことばがき)を織り交ぜながら場面を展開していく絵巻物という独自の手法があみだされて隆盛した。大和絵の手法によって描かれた絵と詞書とを交互につらね、異時同図法によってあたかも映画を見るようにつぎつぎに展開する画面の連続は、世界の絵画史においても他にほとんど類例をみないきわめて日本的な形態である。 『源氏物語絵巻』は、12世紀前半ころの藤原隆能の筆と伝えられる平安時代の代表的絵巻で、20図が現存している。斜め上方から見下ろした俯瞰描写が多くみられ、「吹抜屋台」「引目鉤鼻」の手法が用いられている。物語の挿絵にとどまらず、人物の心意や場面の情趣をも描いた物語絵巻の傑作である。 『年中行事絵巻』は後白河法皇が『伴大納言絵巻』とともに常盤光長に描かせたと伝わる絵巻物で、藤原基房らも製作にたずさわった行事絵の典型である。信西(藤原通憲)が主導した保元年間の大内裏復興、朝儀再興の気運の下に製作が開始されたともいわれている。朝廷の年中行事のほか、鴨川の川原で繰り広げられる飛礫合戦、広場での闘鶏、稲荷祭や今宮祭など当時の庶民の姿も活写している。原本は失われ、江戸時代の住吉如慶の模写がのこる。 後白河法皇が常盤光長に命じて12世紀後半に完成させた『伴大納言絵巻』は、応天門炎上をめぐる説話を的確な風俗表現で描いた絵巻である。「伴大納言」とは応天門の変にかかわった9世紀の人物伴善男をさしているが、この絵巻は、当時、都でおきた実際の火事に取材しており、院政の舞台となった京都の姿が描写されている。連続的な画面構成と動的な表現に優れる。 12世紀後半の作と考えられる『信貴山縁起絵巻』(奈良県生駒郡、朝護孫子寺蔵)は寺院の創建にまつわる話を絵巻としたもので、信貴山中興の祖とされる命蓮という聖の物語が中心となっている。山崎長者の巻、延喜加持の巻、尼公の巻より成る。命蓮が「飛鉢の法」によって鉢をとばして長者の米倉を信貴山まで運び、人びとが驚いた逸話が特に知られており、動的な線描で庶民の生活や風俗が描かれ、大和絵の特色をよく示している。 12世紀に描かれた、大和文華館(奈良県奈良市)所蔵の『寝覚物語絵巻』は、悲恋の物語を描いたとされる銀箔の美しい絵巻であり、国宝に指定されている。 『地獄草紙』(東博本、奈良博本、ともに国宝)、『餓鬼草紙』(京博本、東博本、ともに国宝)、『病草紙』(京博本=国宝ほか)は、それぞれ、末法思想にもとづいて、地獄の様相や餓鬼のあり様、飢えや病の苦しみを扱った絵巻物である。仏教によれば、人は死ぬと現世の行いにより、天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道のいずれかを輪廻転生するという。餓鬼道、地獄道がどのようなものかを描いた絵巻が、『餓鬼草紙』であり、『地獄草紙』であった。『病草紙』ふくめ、いずれも12世紀後半の作であり、やはり後白河の宮廷から生まれたものといわれている。MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市)蔵の『沙門地獄草紙』の「解身地獄」は動物を殺し、食した僧が墜ちる地獄で、僧が切り刻まれ、鬼に食われるという、延々と続く地獄を表している。 奈良国立博物館所蔵の『辟邪絵』(へきじゃえ)は、罪人ではなく鬼が責め苦にあう絵巻物で12世紀後半の作である。鍾馗や牛頭天王、毘沙門天などの神々が鬼を懲らしめるもので、そこには中国における悪魔払いの信仰の影響がある。かつては、その怖ろしい描写が地獄を描いた絵巻だと長い間考えられてきた。 これらのなかで、とくに『伴大納言絵巻』と『信貴山縁起絵巻』の両絵巻は都の庶民のみならず地方農村の庶民生活をいきいきと描いており、時代の空気がよく示されている。12世紀の『粉河寺縁起絵巻』もまた、地方社会に生きる人びとが描かれた絵巻である。日本の美術作品で民衆の暮らしぶりが描かれるのは、院政期に始まったこれら絵巻物が最初であり、その意味でも画期的である。 『鳥獣人物戯画』全4巻は、京都市右京区の高山寺に伝わる絵巻で、全編、詞書のない白描画であり、うち甲巻と乙巻は、かえる、うさぎ、さる、きつねなどの動物を擬人化して描き、軽妙な筆致で末法の世相を風刺した異色の絵巻物である。鳥羽僧正覚猷の筆と伝えられてきたが、作風の相違から複数の人物により12世紀中葉から13世紀前葉にかけて作成されたとみられる。「日本最古の漫画」と評価されることも多い。この絵巻からも、遊戯や神事、祭礼や法会など、当時の庶民の生活ぶりや風俗がうかがえる。 『吉備大臣入唐絵巻』は、現在はアメリカのボストン美術館に所蔵されているが、その成立は、平安時代後半の12世紀末頃と考えられ、後白河院のもとで製作された絵巻の一つとされている。 平安後期に流行した文字と絵を組み合わせた装飾的絵模様の一種に芦手絵(あしでえ)がある。 紙本墨書の『芦手絵和漢朗詠集抄』全2巻(京都国立博物館所蔵)は、芦手絵を描いた料紙に『和漢朗詠集』を書写したもので、下巻の奥に「永暦元年四月二日、右筆黷之、司農少卿伊行」とあるところから、永暦元年(1160年)に世尊寺伊行によって書写されたことがわかる。料紙下絵には、群青、緑青、代赭、銀泥などの絵の具を用いて、葦、水鳥、飛鳥、岩、片輪車などの芦手絵が描かれている。 院政期には、浄土教の広がりや末法思想の影響によって人びとは極楽往生を願い、善美を尽くした装飾経が競って作成された。この時代の代表作として、大治元年(1126年)に藤原清衡が発願して作成した『紺紙金銀泥一切経』や平氏一門が厳島神社に奉納した『平家納経』がある。 「扇面古写経」(扇面法華経冊子)は、12世紀末葉に流行した装飾経のひとつで、自然や風俗をえがいた扇形の紙面(扇面型料紙)に法華経を写したものである。大阪市の四天王寺や東京国立博物館などに所蔵されている。中央でおりたたみ、扇形半分の表紙が前後につけられている。その下絵には京都における民衆の生活が大和絵の手法によって生き生きと描き出されている。 『平家納経』は、長寛2年(1164年)、平清盛・重盛らが平氏一族の繁栄を願って安芸の厳島神社に奉納した33巻の装飾経である。一族が分担して奉納し、各巻とも水晶に金銀透彫りの金具をほどこした軸首や金銀の砂子(すなご)・切箔(きりはく)などを多用した料紙、あるいはまた紐などに当時の工芸技術を伝えている。また、金銀で彩色された表紙や見返しには唐絵や大和絵の手法によって装飾画が描かれている。経典の内訳は『法華経』30巻、『阿弥陀経』1巻、『般若心経』1巻、平清盛自筆の願文1巻であり、さらに経箱・唐櫃をともなう。平氏の貴族的一面をあらわす遺物であるとの評価もある。 『紺紙金銀泥一切経(紺紙金銀字交書一切経)』は、紺紙に銀で罫線を引き、金泥と銀泥で一行ごとに交互に経文を書いた装飾経である。藤原清衡の発願によって書写された「中尊寺経」と呼ばれる経巻のひとつで、永久5年(1117年)より8年かけて完成した。見返しには金銀泥で釈迦説法図や経意を表している。「一切経」とは仏教における全経典(大蔵経)を意味しており、もとは5,300巻前後にもおよんだと考えられるが、その多くは安土桃山時代に高野山に移り、現在では15巻のみが中尊寺に、4,296巻が高野山金剛峯寺にそれぞれ伝わっている。 『久能寺経』は現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。静岡市の久能寺(現在は鉄舟寺)に伝来したもので、久能寺が所有しているものは東京国立博物館に寄託してある。永治2年(1142年)待賢門院の出家に際して、鳥羽法皇や美福門院をはじめ、近臣や女房らが加わった、逆修供養のために結縁書写された。元は法華経二十八品に開教と結経を加えた三十巻か、或いは更に『阿弥陀経』『般若心経』を加えた三十二巻本だったと想定される。鉄舟寺にはそのうち17巻分伝わっており、他に五島美術館に2巻(重文)、東京国立博物館に3巻(重文)、個人に4巻(国宝[1])の計26巻が現存している。鉄舟寺所蔵品の員数は19巻だが、そのうち陀羅尼品第二十六と普賢菩薩勧発品第二十八の2巻は補配本と見なされる。 大治4年(1129年)に白河法皇が没したとき、院の発願で制作された仏像仏画の数は、丈六像・半丈六像合わせて193体、等身像3,150体、仏画5,470余におよんだとの記録があるように、院政期は仏教絵画も多数描かれた時代であった。 院政期仏画の特色としては、描写が繊細で豊かな色彩をもつ傾向があり、截金(切金)はじめ様々な工芸手法を用いたり、貴金属をちりばめたものが多く、きわめて装飾的な表現で描かれたものが少なくないことが挙げられる。総じて優美で繊細な傾向を有する。前代の密教絵画を流れを引き継いだものも多いが、浄土教の隆盛を反映して阿弥陀如来を描いたものも多い。 密教絵画では、京都市東山区青蓮院の『不動明王二童子像』(絹本着色 、通称「青不動」、国宝)があり、「不動十九観」に依拠する現存最古の画像であり、11世紀の製作である。感得画として名高い園城寺「黄不動」を模した京都曼殊院の「黄不動」は12世紀前半の作であり、国宝に指定されている。滋賀県大津市の石山寺に伝承する『不動明王二童子像』(紙本白描)は12世紀の作で重要文化財に指定されている。なだらかな曲線と優美な色彩、精緻な截金文様で知られる東京国立博物館所蔵の『孔雀明王像』(国宝)は12世紀中葉の作である。大阪府藤田美術館所蔵の国宝『両部大経感得図』は、密教の重要経典『大日経』と『金剛頂経』がインドで感得されたという場面を描いている。奈良県天理市の内山永久寺にあったもので、藤原宗弘が保延2年(1136年)に描いたものである。 曼荼羅には、保元元年(1156年)に平清盛が自らの血を用いて描いたと伝承される「両界曼荼羅」(金剛峯寺蔵、重要文化財)があり、「血曼荼羅」と称される。法隆寺や久米田寺(大阪府岸和田市)に伝わる「星曼荼羅」はともに12世紀の作(いずれも重要文化財)である。 ボストン美術館蔵の「千手観音像」「馬頭観音像」「如意輪観音像」は、いずれもフェノロサ・ウェルドコレクションで12世紀の作である。3作とも絹本着色で、それぞれ多様な工芸的手法を用いた装飾味豊かな絵画であり、描写は繊細、彩色や文様は優雅ななかに清新さもみえる傑作である。和歌山県金剛峯寺蔵「善女龍王像」は久安元年(1145年)の定智(じょうち)筆の仏画であり、国宝に指定されている。 仏伝図としては、金剛峯寺蔵の「仏涅槃図」(国宝、「応徳涅槃図」)が知られる。仏涅槃図は釈迦がいっさいの煩悩がことごとく消滅した涅槃の境地に達した様子を描いたもので、平安後期から鎌倉・室町期にかけて宗派を問わずさかんに製作され、涅槃会に際して懸用された。金剛峯寺蔵品は応徳3年(1086年)4月7日の銘があり、日本最古の仏涅槃図の作例であるのみならず、在銘仏画としては最古のものとしても知られる。慈愛に満ちた明るい涅槃図であり、平安仏画の代表作と称されるほどの素晴らしい出来映えを示している。これと双璧をなす傑作が、京都国立博物館所蔵で11世紀後半の『釈迦金棺出現図』(国宝)である。釈迦が入滅して金の棺に納められたあと、嘆き悲しむ摩耶夫人のために釈迦が棺の蓋を開けて復活し、夫人はじめ人びとに最後の説法をして諭す場面を描いたものである。金棺は手前が短い逆遠近法で表されており、画面が求心的でしかも動的に構成され、きわめて表現性に富んでいる。 西方極楽浄土より往生者を迎えに来るようすを描いた絵画が「来迎図」である。名品が多いなかでとくに傑作とされるのが、12世紀後半に制作された高野山有志八幡講十八箇院『阿弥陀聖衆来迎図』(国宝、高野山霊宝館保管)である。阿弥陀如来と29体の菩薩が大画面いっぱいに広がり、いずれも正面向きの坐像で描かれる。中央の阿弥陀如来はとりわけ大きく、肉身部分に金泥、着衣部分には截金文様が施されており、全体が金色に輝いている。 他にこの時代の代表作として下記が挙げられる(いずれも国宝)。 東京国立博物館 普賢菩薩像 東京国立博物館 虚空蔵菩薩像 岐阜・来振寺 五大尊像 寛治4年(1090年) 京都・神護寺 釈迦如来像 京都・東寺 五大尊像 大治2年(1127年) 京都国立博物館(東寺伝来)十二天像 大治2年(1127年) 京都・松尾寺 普賢延命菩薩像 広島・持光寺 普賢延命菩薩像仁平3年(1153年) 日本陶磁史において、12世紀は一大変動の起こった時期である。従来律令体制と連動してきた尾張国の瓷器生産地猿投窯が、11世紀以後、購買層を支配者層から庶民層へと移し、実用的な無釉の山茶碗の生産を開始した。そうして猿投窯が周辺地域に拡散し、多数作られた山茶碗窯の中から、12世紀前半、知多半島の常滑焼と渥美半島の渥美焼が現れ、大量の山茶碗のほか粘土紐巻き上げ成形による大形の壺を生産しはじめ、これが東北地方北部から九州地方に至る広い範囲に流通した。常滑では三筋文壺が特徴的であるのに対し、渥美ではヘラによる各種の線彫り文様が特徴であり、川崎市南加瀬より出土の『自然釉秋草文壺』(慶應義塾大学所蔵)は国宝に指定されている。ともに分焔柱をともなう窖窯で製作された。なお、分焔柱は日本人の考案によっている。 一方、須恵器系統からは、能登国において珠洲焼がやはり12世紀前半にはあらわれて、その製品は北海道から京都府にかけて、主として日本海沿岸部に流通する。ここでも、壺が多作され、従来のロクロ成形を重んじながらも、胴部から肩部にかけては粘土紐巻き上げでロクロ成形の口部と接合するという技法が採用されている。焼成時の割れを防ぐため、叩き具が考案され、とくに内面にはタタキシメの文様が多くのこる。 これら須恵器系の窯には、大畑窯(秋田県)、泉谷地窯・新溜窯(山形県)、飯坂窯(福島県)、金井窯(群馬県)、神出窯・魚住窯(兵庫県)、亀山窯(岡山県)、十瓶山窯(香川県)、樺番丈窯(熊本県)があり、いずれも分焔柱をともなわない窖窯で壺、鉢はじめ庶民のための無釉の生活用具が多数製作された。 東海系陶器においても、その影響の下で地方窯(じかたよう)がひらかれた。12世紀後半には宮城県石巻市に水沼窯、兵庫県西脇市に緑風台窯が築かれ、12世紀末葉には常滑焼の技術を受けて福井県丹生郡越前町で越前焼の生産が開始した。以後、13世紀にかけて信楽焼、丹波焼など常滑の影響を受けて開窯し、ここに中世陶器の時代がはじまる。 漆器には、東京国立博物館所蔵で国宝の『片輪車蒔絵螺鈿手箱』(かたわぐるままきえらでんてばこ)がある。平安時代の工芸を代表する蒔絵の名品であり、表面は金・青金の研出蒔絵(とぎだしまきえ)や螺鈿を用いて流水に半分浸された多数の車輪を描き、内面には金と銀の研出蒔絵で草花や飛鳥が描かれている。いずれも、当時は料紙装飾などで多用された文様である。なお、今日では手箱と称されているものの、当時は装飾経を収める経箱として造られたものである可能性が高いとみられている。 大阪府河内長野市の金剛寺所蔵の『野辺雀蒔絵手箱』は12世紀の作で、重要文化財に指定されている。親雀が子に餌を与えるすがたは、宋画における定形の図様を借用しているとの指摘があり、また、野辺に雑草を描くのも北宋の影響とみられる。 大形のものとしては、『中尊寺金色堂須弥壇』が特に知られる。黒漆に金蒔絵と螺鈿を施した壇であり、框と束は金銅の薄板でおおわれ、格狭間には伝説の鳥である鳳凰などの装飾が施されている。壮麗な壇として知られ、壇上に阿弥陀三尊・六地蔵・二天が安置される。壇下に奥州藤原氏3代の遺体を納めている。 鋳造品では、中尊寺円乗院所蔵品として神仏習合思想を端的に示す『金銅釈迦如来像御正体』(重要文化財)、金色堂内陣長押に掛けられた『金銅華鬘』(国宝。金色院蔵)がある。前者は平安時代の懸仏の代表作といわれる名品であり、後者もまた日本の華鬘のなかでも最高傑作といわれる。 秋田県大仙市豊川の水神社所蔵『線刻千手観音等鏡像』は11世紀に鏡面に線刻が施されたとみられる銅鏡である。鏡面にタガネで千手観音の立像と侍立する眷属を彫り、背面には中央に宝相華文、四方に蝶や鳥を配した図柄の八稜鏡であり、国宝に指定されている。 当時、鏡は姿見として上流階級には普及していたが、一方では悪いものを寄せ付けない「辟邪」の威力をもつものとも信じられており、経とともに経塚に埋納される例もみられる。出羽三山のひとつ羽黒山(山形県鶴岡市)の通称「鏡ヶ池」からは、平安時代末期から江戸時代のものまで600面におよぶ鏡が出土している。これは、「羽黒鏡」と総称され、花鳥を題材とした伸びやかで優雅な文様を特色としており、和鏡の研究に欠かせない資料となっている。 平家納経を納めた経箱「金銀荘雲龍文銅製経箱」は、厳島神社の社宝として伝わった12世紀後半の作で、国宝に指定されている。黒光りする銅板の上に金銀鍍金の雲龍文の金物を鋲(びょう)で留めている。他に、平氏一門に属する人びとが厳島神社に奉納したものには舞楽面、獅子・狛犬などがある。 当時の貴族は祝宴や法会、祭礼などの席で人びとを驚かせる豪華な造り物を競って飾った。今日、春日大社に「春日大社若宮御料古神宝」として12世紀制作の「金鶴及び銀樹枝」「銀鶴及び磯形」が伝わっており、いずれも国宝に指定されている。 折りたたみ扇は日本で発明され、平安時代には貴族の必携品となった。神社では巫女が神を招く呪具として用いられた。檜扇とくに彩絵檜扇も各地に伝わっており、厳島神社所蔵の12世紀後半の彩絵檜扇は国宝、島根県松江市の佐太神社所蔵の12世紀のものは重要文化財に指定されている。これら扇は、日宋貿易における日本の重要な輸出品の一つでもあった。 また、武士の台頭を反映して刀剣や甲冑もさかんにつくられた。伊予国大三島(現今治市)の大山祇神社所蔵の源義経奉納と伝わる「赤糸威鎧」(あかいとおどしよろい)、源頼朝奉納と伝わる「紫綾威鎧」、源義仲奉納と伝わる「熏紫韋威胴丸」(ふすべむらさきがわおどしどうまる)はいずれも12世紀の作とみられ、前二者は国宝、後者は重要文化財にそれぞれ指定されている。 この頃制作された書道作品としては、『西本願寺本三十六人家集』(国宝)が知られる。天永3年(1112年)の制作と言われている。破り継ぎ、金銀の切箔・砂子、墨流しなどさまざまな料紙装飾を施した華麗な冊子に三十六歌仙の和歌を散らし書きにしたものである。約20種類の和様の筆跡が確認されており、12世紀前半の約半世紀は仮名のあらゆる美しさが追求された時期であるといわれる。 また前代に成立した作品を書写したものとしては、既述の『源氏物語絵巻』などの絵巻の詞書や、『平家納経』などの経典のほか、『古今和歌集』には元永本(国宝)があり、元永3年(1120年)の奥書を有し、完本である。『万葉集』には元暦校本(国宝)などがあり、元暦元年(1184年)に校合の奥書があるが、全巻は揃っていない。ともに平安時代末期の書写である。 なお、扇面古写経もまた異色の書跡資料といえるが、そこでは和様の使い手数名の筆跡が確認されている。 重ね書きの手法も用いて『源氏物語絵巻』の詞書を書いた12世紀前半の藤原伊房(世尊寺伊房)、上述の『芦手絵和漢朗詠集抄』を書写した12世紀後半の藤原伊行(世尊寺伊行)はともに世尊寺家の出身で、三跡のひとりで和様を大成した藤原行成から数えて3代目と6代目にあたる。ともに宮廷において最も権威のある、流麗典雅な書法とされた世尊寺流に属している。なお、6代伊行は日本最初の書論書『夜鶴庭訓抄』を、7代伊経も藤原教長から授かった秘伝をまとめた書論書『才葉抄』を著している。 保元の乱の当事者のひとりで、「法性寺殿」「法性寺関白」といわれた藤原忠通も能書家として知られた。その書風を法性寺流といい、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて流行した。世尊寺流の書風をもとに力強さと豪放さを加えた男性的な書を特徴としている。法性寺流の書法は子の九条兼実、その子良経らに受け継がれ、当時の書法の人気を世尊寺流とのあいだで二分した。 院政期文化の主たる担い手は依然貴族層や僧侶であったが、新興勢力である武士や庶民の生活にも目が向けられるようになり、そこに文化的関心が寄せられたのもこの時代の特徴であった。承平天慶の乱における平将門の東国での反乱を描いた『将門記』、陸奥における前九年の役の経過を記した『陸奥話記』はともに地方の合戦に取材したもので、地方武士の様相がよく描かれている。軍記物のさきがけをなすものとして文学史上の意義も大きく、いずれも日本風の漢文で書かれている。 院政期に入ると、人びとは虚構の世界よりも事実への関心に目覚めた。院政期から中世の前半にかけての数百年間、上級貴族から中・下級の官人あるいは出家した人びとによって、説話を集めて、説話集を編むという文学行為が流行する。 天竺(インド)・震丹(中国)・本朝(日本)の3国にわたる古今の仏教説話や世俗説話1000あまりを集大成したのが『今昔物語集』である。書名は、それぞれの物語が「今ハ昔」の書き出しではじまることに由来する。12世紀はじめに片仮名まじりの和漢混淆文体で書かれたもので、源隆国編纂と伝えられる。とくにその「本朝部世俗編」では転換期をたくましく生きる武士や民衆(下衆)の生活がいきいきと描き出されている。芥川龍之介の作品はじめ近代日本文学にも数多く題材を提供していることでも知られる。 説話には、仏教説話、世俗説話のほか、貴族社会の有職故実や宮廷の裏話を語るものがあり、貴族説話と呼ばれる。その代表に後三条天皇、白河上皇に仕えた大江匡房が撰し、藤原実兼が筆録した『江談抄』があり、12世紀前半に書かれた。 以後も長承3年(1134年)に仏教説話を集めて説法の手控えとした『打聞集』、12世紀前半の『古本説話集』、治承3年(1179年)に平康頼によって著された『宝物集』などの説話集が成立し、説話文学の大きな流れは次代に継承されていく。 社会が変貌するなかで、貴族はもはや自己の現実生活のなかから題材をみいだすことが難しくなり、『源氏物語』ののちは創作物語にはこれをしのぐものがなかった。その一方で、時代が転換期を迎えたことを多くの人びとが感じとり、そのなかで歴史を冷静にみつめる視点が育まれて『栄花物語』や『大鏡』などの歴史物語があらわれた。 11世紀の赤染衛門作と伝えられる『栄花物語(栄華物語)』正編(巻1-30)は、六国史のような中国風の正史とは異なり、日本独自の物語というかたちで歴史をまとめたものである。藤原道長の一生を描き、摂関時代に古きよき時代を見いだしており、全体的に事実を列挙する叙述に終始し、歴史的批判精神には乏しい。しかし、過去の栄光をしのびながらも、歴史を扱った書としてはじめて仮名書き、編年体で書かれており、また、人物の容姿描写、年中行事、儀式、服飾、物忌に関する記述などはすぐれた歴史資料となっている。寛治6年(1092年)には『栄花物語』の続編(巻31-40)が執筆され、筆者は出羽弁とみられている。 『大鏡』は物語が190歳の大宅世継と180歳の夏山繁樹の2人の翁の対話で展開することから『世継物語』とも呼ばれている。文徳天皇から後一条天皇の万寿2年(1025年)に至る14代の歴史を紀伝体で叙述し、戯曲風に構成しており、12世紀初めの成立とみられる。藤原氏全盛の時代を回顧しながらも藤原氏の栄華を客観的に叙述し、貴族社会を反省する視点がうかがわれる。また、座談や問答を採り入れて叙述するなど、これまでの歴史書にない斬新さがみられ、その鋭い叙述は、後世の歴史叙述に強い影響をあたえた。 『大鏡』のあとを受けた伝記・逸話集の『今鏡』は嘉応2年(1170年)成立とみられる。万寿2年から高倉天皇の嘉応2年までの13代145年間を扱い、『続世継』ともよばれ、いわゆる四鏡(鏡物)の2番目にあたる。筆者は藤原為経(寂超)である。 院政期の物語文学は、『源氏物語』の圧倒的な評価と影響のもとにうまれた。物語を書こうとした多くの作者は『源氏物語』の愛読者でもあった。そのひとりが『更級日記』の作者菅原孝標女であり、御物本『更級日記』に藤原定家が付した奥書には『浜松中納言物語』『夜半の寝覚』も彼女の作と書かれている。いずれも『源氏物語』の模倣であるとか、非現実的な題材を扱っているなどと評されるが、それぞれ固有の主題と新しい傾向をみせているとの評価もあり、近年見直しが進んでいる。 11世紀後半の物語群のなかで最も高い評価を受けてきたのは、六条斎院宣旨作と考えられる『狭衣物語』である。主人公の男性狭衣大将の追い求めて充足されない恋の遍歴が情感豊かに描かれている。 12世紀に入ると、新しい主題を求めて趣向をこらす傾向が現れる。『とりかへばや物語』が有名で、男女の性格が正反対の兄妹が、父によって男女入れ替えて育てられ、それぞれの人生を切りひらこうとする物語で、現代のジェンダーに通じる主題を扱っている。 この他、10編の短編を集めた『堤中納言物語』が伝わっている。作者不詳で天喜3年(1055年)の成立とされる。説話的な語り口で人生の断面が垣間見られる佳品で知られ、なかでも「虫めづる姫君」は風変わりな題材を扱い、後世、人びとに読みつがれてきた。 少女時代から、名のみ聞く『源氏物語』に限りない憧れを抱いて成人した菅原孝標女の日記『更級日記』が有名である。康平3年(1060年)頃の成立とみられ、関東から京への旅、『源氏物語』とのめぐり会い、結婚から晩年に至るまでを記した生涯の回想日記である。『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母は、彼女の叔母にあたり、その影響が指摘されている。 他の日記には、女流作家による『成尋阿闍梨母集』(成尋阿闍梨母)、『讃岐典侍日記』(藤原長子)、男性による『厳島御幸記』(源通親)がある。 和歌では、『後拾遺和歌集』、『金葉和歌集』、『詞花和歌集』、『千載和歌集』の勅撰和歌集が編纂された。これらは、八代集の第四から第七にあたる。おもな歌人として藤原俊成や武士出身の西行(俗名:佐藤義清)があらわれ、『新古今和歌集』の新風形成に影響を与え、中世和歌の形成に大きな役割を果たした。俊成は治承2年(1178年)に『長秋詠草』、西行は建久元年(1190年)に『山家集』と称した私家集をそれぞれ編纂している。 国風文化の時代の和歌の隆盛は歌学の発展を促し、『古今和歌集』の紀貫之「仮名序」がその先駆けをなすといわれ、藤原公任の『新撰髄脳』などの自覚的な著作もあらわれるに至ったが、院政期に入ると、永久3年(1115年)に源俊頼によって『俊頼髄脳』、保元3年(1158年)に藤原清輔によって『袋草紙』が書かれている。なお、「髄脳」とは「和歌の本質を説いた書物」の意であり、歌論書を示す普通名詞である。 芸能では、貴族層は前代以来の歌謡である催馬楽(さいばら)や神楽歌、漢詩や和歌の名句を吟ずる朗詠を楽しんだ。 催馬楽は、日本古来の民謡や和歌を唐楽風に編曲したもので、和琴などを伴奏として、貴族の正式な宴の後のくつろいだ席などで歌われた。男女の相聞歌(恋歌)のような歌も多い。 催馬楽 東屋(あづまや)の 真屋(まや)のあまりの その雨(あま)そそき 我(われ)立ち濡れぬ 殿戸(とのど)開かせ 鎹(かすがい)も 錠(どざし)もあらばこそ その殿戸 我鎖(さ)さめ おし開いて来ませ 我や人妻 いで我(あ)が駒 早く行きこせ 真土山(まつちやま) あはれ 真土山 はれ 真土山 待つらむ人を 行きて早 あはれ 行きて早見む 朗詠 嘉辰令月(かしんれいげつ)歓無極(かんぶきょく)、万歳千秋(ばんざいせんしゅう) 楽未央(らくびよう) 嘉辰令月、よろこびは極まりなし、万歳千秋、楽しみは未だ央(なか)ばならず 留春不用関城固、花落随風鳥入雲 春を留むるには用ゐず関城の固めをも、花は落ちて風に随ひ鳥は雲に入る 朗詠は、貴族の正式な宴をはじめ様々な場面で歌われた。「嘉辰」は朗詠の代表的な楽曲で、「嘉辰」以外は歌詞を訓読するが、「嘉辰」のみはすべて音読された。保安年間(1120年-1125年)に藤原基俊が『新撰朗詠集』を著している。 当時民間の娯楽として人気のあった猿楽は滑稽を主とした雑芸・歌曲であったが、貴族社会においても注目されるようになった。11世紀後半には『新猿楽記』が著されており、藤原明衡の晩年の手になるものではないかと考えられている。 本来は豊作を祈る田遊びの芸能に由来する地方農村の労働歌舞であり、笛・鼓・ささらなどの囃しにあわせて踊る田楽も同様に貴族の関心をひくようになり、やがて京都や奈良にはいって芸能化されると、宮廷にも流れ込んでいった。なかでも松尾社(京都市西京区)の「松尾祭の田楽」や、永長元年(1096年)の夏に爆発的に流行した「永長の大田楽」は有名で、乱舞した人びとが宮中に入り、「一城の人、皆狂うがごとし」との記録がある。 当時の民間の流行歌謡であり、白拍子という女性芸人(しばしば遊女を兼ねた)のうたう七五調四句を基調とする今様も貴族社会でもてはやされた。後白河院もみずから10代の頃より美濃国の青墓の傀儡子を師として厳しく今様を修練している。 院政期最大の文化人大江匡房にも『傀儡子記』や『遊女記』、『洛陽田楽記』などの著作がある。大江匡房はまた、源義家に兵法を授け、それによって義家は後三年の役において雁行の乱れによって伏兵を知ることができたとの逸話がのこる。 このように、院をはじめとする貴族社会と武士・庶民の間の文化交流にはかなりの広がりが見られた。これは、院政が摂関家を牽制するため、受領層を主な支持基盤としていたこととも無縁ではない。 これらのほか、仏教音楽としては声明、また法華経を読む読経もさかんであった。 後白河法皇は、みずから今様や催馬楽を集めて分類し、治承3年(1179年)、『梁塵秘抄』を編纂した。法皇は、男装した女性が今様を歌いながら舞う白拍子や、歌に合わせて操り人形を躍らせる芸などを演ずる傀儡(傀儡子)などの芸人とも交流をもち、みずから歌を教えたり、未知の歌を教わったりしている。これらの歌には一部に形式化の傾向もみられた当時の和歌とは異なり、庶民の生活感情がよくあらわれているといわれ、貴族の遊宴のみならず、祇園祭などの御霊会や大寺院の法会などでもしばしば演じられるようになった。 今様(『梁塵秘抄』より) 遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぶ)れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺(ゆる)がるれ 舞ゑ舞ゑ蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に 蹴(く)ゑさせてん踏み破(わ)らせてん 真に愛(うつく)しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん 鷲(わし)の棲(す)む深山(みやま)には なべての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや 仏は常に在(いま)せども 現(うつつ)ならぬぞ あはれなる 人の音せぬ暁に 仄(ほのか)に夢に見えたまふ 我等は何して 老いぬらむ 思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の 弥陀(みだ)の誓ひを 念ずべし 極楽浄土のめでたさは 一つもあだなることぞなき 吹く風 立つ波 鳥もみな 妙(たへ)なる法(のり)をぞ唱(とな)ふなる このごろ都に流行(はや)るもの 肩当(かたあて) 腰当(こしあて) 烏帽子止(えぼしとどめ) 襟の立つ型 錆(さび)烏帽子 布打(ぬのうち)の下の袴(はかま) 四幅(よの)の指貫(さしぬき) このごろ都に流行るもの わうたい髪々 えせ蔓(かづら) しほゆき 近江女(おうみめ) 女冠者(おんなかじゃ) 長刀(なぎなた)持たぬ尼ぞなき 『梁塵秘抄』は、「梁の塵(ちり)が舞うほどの美しい歌い方の秘伝・秘密を語った抄本」という意味をもち、そのなかには、極楽を歌った極楽歌もあって、浄土教の広まりを示している。また、建武新政期の『二条河原落書』の原型となるような戯れ歌が既にみられることも注目に価する。 漢文を訓読する際に訓点を記入することは、奈良時代末期から見られるが、院政期にはヲコト点をはじめ訓法が流派ごとに固定してくる。代表的な訓点資料として『大慈恩寺三蔵法師伝』(興福寺本=重要文化財、ほか)などがある。 日本語を記した辞書として10世紀末ごろには既に『和名類聚抄』が作られていたが、院政期にも新たな動きがあった。撰者未詳の図書寮本『類聚名義抄』(1100年頃)と、橘忠兼の『色葉字類抄』(2巻本1163年-1165年頃成立、3巻本1182年-1184年頃成立)がそれである。前者は部首別に分類された漢字の読みや意味を出典とともに掲げたものであり、鎌倉時代に入ったのちは大幅に改編され、観智院本が作られた。後者はイロハ別・意義分野別に分類された語の読みから漢字を引くものであり、こちらも増補されて10巻本『伊呂波字類抄』が作られた。ともに後世の国語辞書に与えた影響が大きい。 また明覚によって漢字や梵字の発音の研究も行われた。明覚には、『反音作法』『梵字形音義』『悉曇要訣』などの著作がある。 院政期は、六国史のような官撰の歴史書が編まれなくなった一方、上述のように歴史物語がさかんに著された時代であった。この時期の歴史書には『扶桑略記』、『本朝世紀』がある。 『扶桑略記』は寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧皇円が編纂したとされる私撰の歴史書である。六国史の抄本的役割を担っており、後世に与えた影響が大きい。 『本朝世紀』は鳥羽上皇の命により、信西(藤原通憲)が編纂した歴史書である。成立したのは久安6年(1150年)以降で、平治の乱によって信西が死んだことにより未定稿であるうえ、散逸も著しい。しかし、平安時代後期の朝廷と政治の好史料となっている。 朝廷でおこなわれる儀式次第を定めたのが儀式書である。院政期には大江匡房があらわれて『江家次第』を編録し、前代の藤原公任『北山抄』、藤原実資『小野宮年中行事』と合わせ、王朝儀式書の鏡として重用された。このほか、院政期には藤原為房『撰集秘記』や源有仁の『叙位抄』『秋玉秘抄』など部門別儀式書や儀式分類記的な著作が編まれるようになった。 当時の中国では印刷術が発達し、日本でも「摺本(すりほん)」と称して好学の人びとが中国の印刷本を珍重した。そうしたなかで特に著名なのが、『太平御覧』である。『太平御覧』は、宋代の初期に成立した類書の一つで、古くからのあらゆる書を引用し、55部門に分類編集した千巻におよぶ一種の大百科全書である。瀬戸内航路の確保、大宰府の対外交渉権の接収、摂津国大輪田泊の修築・宋船入港許可などによって日宋貿易を拡大した平清盛は、治承3年(1179年)に太平御覧を購入して書写させ、写本は手元において、摺本を高倉天皇に献上している。 貴族の装束がそれまでの柔らかなシルエットの萎装束(なえしょうぞく)より、大振りで角が切り立ったかのような強装束(こわしょうぞく)へと移り変わっていったのもこの頃である。 摂関期の頃の公家の着用した萎装束は全体的にゆったりと出来ており、服の生地自体も薄く柔らかなものであった。しかし院政期に入ると、厚い生地に強く糊をかけ、強張った印象へと変化していった。冠も漆を塗って硬化させ、従来、後部に垂れ下がって風が吹くとたなびいていた纓(えい)も、一旦上に上げてから下に垂らすようになった。全体として、優美さを見せることよりも、威儀を正すことへの推移がみてとれ、こうした変化は武士階級の台頭と無関係ではないと考えられる。 ^ a b 網野『日本社会の歴史(中)』(1997)。 ^ 五味文彦「院政期の美術」『日本美術館』(1997)。 ^ 山田孝雄『奈良朝文法史』宝文館出版、1912年。 ^ 馬淵和夫『国語音韻論』笠間書院、1971年。 ^ 天皇家の御願寺。法勝寺のほか、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺があり、寺号にすべて「勝」の字があるので、このように総称される。 ^ とくに後白河法皇は信仰篤く、その参詣は34回におよんだという。 ^ 南都とは奈良の興福寺、春日大社、北嶺とは延暦寺と現日吉大社を指している。 ^ 正暦4年(993年)の分派以来、園城寺の戒壇設立をめぐって延暦寺を支持する山門派と園城寺の側に立つ寺門派は対立抗争をつづけていた。 ^ 白河上皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話が『平家物語』に収められている。ここでいう「山法師」とは比叡山延暦寺の僧兵のことであった。 ^ a b c 藤田・古賀『日本建築史』(1999)の分類による。 ^ 出家以前は徳姫と称され、藤原清衡の養女となった女性である。 ^ a b 富貴寺大堂や伝乗寺の真木大堂などにみられる国東半島の仏教文化は、九州全体に荘園を領有していた宇佐八幡宮やその神宮寺である弥勒寺の勢力によってうみ出されたものであった。 ^ 藤田・古賀『日本建築史』(1999)。 ^ 大阪府金剛寺の多宝塔は、豊臣秀頼による大修理を経ているものの、12世紀頃の建築とされている。 ^ 濱島(1996)。 ^ 身舎の前後に庇をつけた形式。16世紀の遺構として松尾大社本殿(京都府)がある。17世紀末の香取神宮本殿(千葉県香取市)は両側に庇がつくものの、屋根流れの長さが前後で大きく異なるため流造としている。 ^ 藤原宗忠の日記『中右記』による。 ^ a b 日本三大不動画のひとつ。 ^ 矢部『日本やきもの史入門』(1992)。 ^ 中野編『和鏡』(1969)。 ^ 承安3年(1173年)の銘のあるものは平氏奉納とみられている。重要文化財に指定されている。 ^ 武将の寄進が多い神社で、日本の武具甲冑の国宝・重要文化財のうち約4割を所蔵する。 ^ その他書写年代がはっきりせず、11世紀の高野切と同時期とも言われる伝藤原公任筆本もある。 ^ 釈迦の伝記や僧侶たちの行状を題材として仏教の教えを具体的に語る説話。 ^ 一般庶民や貴族社会に語り広められた珍しい話題を、その場に居合わせた人びとが目撃談として語る日常の生活説話。 ^ 元来は主として近畿地方で歌われた民謡。神楽歌同様の伴奏によって歌われるが、より素朴ではつらつとしていた。 ^ 宮廷の祭祀に演奏される歌舞にともなった歌謡。和琴などを伴奏とした。 ^ 奈良時代に伝来した大陸の民間音楽劇散楽の流れを受けたといわれる。 ^ 入間田『武者の世に』(1991)。 ^ 男装した女性が今様を歌いながら舞うもので、歌舞そのものを指す場合もある。白い水干を着たところから「白拍子」の名が起こったという。 ^ 催馬楽など古風に対して「当世風」の意。 ^ のちの平曲・謡曲・民謡・浄瑠璃などに影響をあたえたとされる。 平安時代 日本の文化 日本の中古文学史 王朝国家 院政 平氏政権 奥州藤原氏 六郷満山 野上毅編集『朝日百科日本の歴史 3古代から中世へ』朝日新聞社、1989年。 野上毅編集『朝日百科日本の歴史 4中世I』朝日新聞社、1989年。 網野善彦『日本社会の歴史 (中)』岩波書店<岩波文庫>、1997年7月。ISBN 4-00-430501-2 入間田宣夫『日本の歴史7 武者の世に』集英社<集英社版日本の歴史>、1991年12月。ISBN 4-08-195007-5 柳町敬直ほか編集『日本美術館』小学館、1997年11月。ISBN 4-09-699701-3 濱島正士『寺社建築の鑑賞基礎知識』至文堂、1996年2月。ISBN 4-7843-0113-5 太田博太郎監修『日本建築様式史』美術出版社、1999年8月。ISBN 4-568-40050-3 矢部良明監修『日本やきもの史』美術出版社、1999年9月。4-568-40048-1 矢部良明『日本やきもの史入門』新潮社<とんぼの本>、1992年9月。ISBN 4-10-602009-2 藤田勝也・古賀秀策『日本建築史』昭和堂、1999年4月。ISBN 4-8122-9805-9 守屋正彦著『すぐわかる日本の絵画』東京美術、2002年3月。ISBN 4-8087-0716-0 泉武夫監修『週間日本の美をめぐるno.48 地獄草紙と餓鬼草紙』小学館<小学館ウィークリーブック>、1993年。 東京国立博物館ほか『ボストン美術館東洋美術名品展 1972』東京国立博物館、1972年4月。 東京書籍編集『ビジュアルワイド図説日本史』東京書籍、1997年。ISBN 4-487-36247-4 文化庁ほか監修『日本の美術NO.292 経塚とその遺物』至文堂、1990年9月。 文化庁ほか監修、中野政樹編『日本の美術NO.42 和鏡』至文堂、1969年11月。 文化庁ほか監修、久保智康『日本の美術NO.394 中世・近世の鏡』至文堂、1999年3月。ISBN 4-7843-3394-0 浜島書店編集『新詳日本史』浜島書店、2006年10月。ISBN 978-4-8343-2032-9 中尊寺黄金秘宝展実行委員会編集『中尊寺黄金秘宝展-奥州平泉文化の全貌-』中尊寺黄金秘宝展実行委員会、1993年8月。 岩手県立博物館編集『岩手の経塚』岩手県文化振興事業団、2000年3月。 榎克朗校注『梁塵秘抄』新潮社<新潮日本古典集成31>1979年10月。 保田與重郎『日本の文学史』新潮社、1972年。 阿部猛ほか編『日本古代史研究事典』東京堂出版、1995年9月。ISBN 4-490-10396-4 日本歴史大辞典編纂委員会編『日本歴史大辞典』河出書房新社、1979年11月。 日本古典文学大辞典編集委員会編集『日本古典文学大辞典 簡約版』岩波書店、1986年。 古田東朔・築島裕『国語学史』東京大学出版会、1972年。 飛田良文編集主幹『日本語学研究事典』明治書院、2007年。 美麗 院政期の絵画(奈良国立博物館) 国指定文化財等データベース e国寶" ]
ABC01-02-0072
三角形の三辺の長さから面積を求める公式のことを、ギリシャの数学者の名前をとって何というでしょう?
ヘロンの公式
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[ "ヘロンの公式", "2-形式", "三斜法", "高さ函数", "円分多項式" ]
[ "ヘロンの公式(ヘロンのこうしき、英:Heron's formula)は任意の三角形の3辺a, b, c の長さから面積 S を求める公式。アレクサンドリアのヘロンが彼の著書『Metrica』の中で証明を与えていることから彼に帰せられる。 この公式はアレクサンドリアのヘロンが彼の著書『Metrica』の中で証明を与えていることから彼に帰せられるが、現代ではこれ自体はシラクサのアルキメデスにも既知であったと考えられていて、さらにそれ以前から知られていた可能性もある。 一般化として、円に内接する四角形の面積を辺の長さから求めるブラーマグプタの公式があり、さらには円に内接するという条件を外し、角度も用いて四角形の面積を求めるブレートシュナイダーの公式がある。ヘロンの公式はこれらの公式の特別な場合となっている。 しかし、円に内接するn角形について面積をその辺の長さから求める代数的な公式は n ≥ 5 では存在しない事が知られている。[要出典] ヘロンの公式 ― 3辺の長さが a, b, c である三角形の面積 S は S = s ( s − a ) ( s − b ) ( s − c ) . {\\displaystyle S={\\sqrt {s(s-a)(s-b)(s-c)}}.} ただし、 s = a + b + c 2 . {\\displaystyle s={\\frac {a+b+c}{2}}.} また、以下のような s を用いない表記もある。 S = ( a + b + c ) ( − a + b + c ) ( a − b + c ) ( a + b − c ) 4 {\\displaystyle S={\\frac {\\sqrt {(a+b+c)(-a+b+c)(a-b+c)(a+b-c)}}{4}}} S = 2 ( a 2 b 2 + a 2 c 2 + b 2 c 2 ) − ( a 4 + b 4 + c 4 ) 4 {\\displaystyle S={\\frac {\\sqrt {2(a^{2}b^{2}+a^{2}c^{2}+b^{2}c^{2})-(a^{4}+b^{4}+c^{4})}}{4}}} S = ( a 2 + b 2 + c 2 ) 2 − 2 ( a 4 + b 4 + c 4 ) 4 . {\\displaystyle S={\\frac {\\sqrt {(a^{2}+b^{2}+c^{2})^{2}-2(a^{4}+b^{4}+c^{4})}}{4}}.} 三角比、余弦定理、因数分解を用いた証明。 △ABC において、A, B, C の対辺 BC, CA, AB の長さをそれぞれ a, b, c とし、A から辺 BC に下ろした垂線の長さを h とする。 このとき△ABCの面積を S とすると、 S = a h 2 = a b 2 sin ⁡ C = a b 2 1 − cos 2 ⁡ C = a b 2 ( 1 + cos ⁡ C ) ( 1 − cos ⁡ C ) = a b 2 ( 1 + a 2 + b 2 − c 2 2 a b ) ( 1 − a 2 + b 2 − c 2 2 a b ) = a b 2 a 2 + 2 a b + b 2 − c 2 2 a b × − ( a 2 − 2 a b + b 2 − c 2 ) 2 a b = a b 2 ( a + b ) 2 − c 2 2 a b × − { ( a − b ) 2 − c 2 } 2 a b = a b 2 ( a + b + c ) ( a + b − c ) 2 a b × − ( a − b + c ) ( a − b − c ) 2 a b = a b 2 ( a + b + c ) ( a + b − c ) 2 a b × ( a − b + c ) ( − a + b + c ) 2 a b = a b 2 ( a + b + c ) { ( a + b + c ) − 2 c } { ( a + b + c ) − 2 b } { ( a + b + c ) − 2 a } 4 a 2 b 2 = a 2 b 2 4 × ( a + b + c ) { ( a + b + c ) − 2 a } { ( a + b + c ) − 2 b } { ( a + b + c ) − 2 c } 4 a 2 b 2 = ( a + b + c ) { ( a + b + c ) − 2 a } { ( a + b + c ) − 2 b } { ( a + b + c ) − 2 c } 16 = a + b + c 2 × ( a + b + c ) − 2 a 2 × ( a + b + c ) − 2 b 2 × ( a + b + c ) − 2 c 2 = a + b + c 2 ( a + b + c 2 − a ) ( a + b + c 2 − b ) ( a + b + c 2 − c ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}S&={\\frac {ah}{2}}={\\frac {ab}{2}}\\sin C={\\frac {ab}{2}}{\\sqrt {1-\\cos ^{2}C}}\\\\&={\\frac {ab}{2}}{\\sqrt {(1+\\cos C)(1-\\cos C)}}\\\\&={\\frac {ab}{2}}{\\sqrt {\\left(1+{\\frac {a^{2}+b^{2}-c^{2}}{2ab}}\\right)\\left(1-{\\frac {a^{2}+b^{2}-c^{2}}{2ab}}\\right)}}\\\\&={\\frac {ab}{2}}{\\sqrt {{\\frac {a^{2}+2ab+b^{2}-c^{2}}{2ab}}\\times {\\frac {-(a^{2}-2ab+b^{2}-c^{2})}{2ab}}}}\\\\&={\\frac {ab}{2}}{\\sqrt {{\\frac {(a+b)^{2}-c^{2}}{2ab}}\\times {\\frac {-\\{(a-b)^{2}-c^{2}\\}}{2ab}}}}\\\\&={\\frac {ab}{2}}{\\sqrt {{\\frac {(a+b+c)(a+b-c)}{2ab}}\\times {\\frac {-(a-b+c)(a-b-c)}{2ab}}}}\\\\&={\\frac {ab}{2}}{\\sqrt {{\\frac {(a+b+c)(a+b-c)}{2ab}}\\times {\\frac {(a-b+c)(-a+b+c)}{2ab}}}}\\\\&={\\frac {ab}{2}}{\\sqrt {\\frac {(a+b+c)\\{(a+b+c)-2c\\}\\{(a+b+c)-2b\\}\\{(a+b+c)-2a\\}}{4a^{2}b^{2}}}}\\\\&={\\sqrt {{\\frac {a^{2}b^{2}}{4}}\\times {\\frac {(a+b+c)\\{(a+b+c)-2a\\}\\{(a+b+c)-2b\\}\\{(a+b+c)-2c\\}}{4a^{2}b^{2}}}}}\\\\&={\\sqrt {\\frac {(a+b+c)\\{(a+b+c)-2a\\}\\{(a+b+c)-2b\\}\\{(a+b+c)-2c\\}}{16}}}\\\\&={\\sqrt {{\\frac {a+b+c}{2}}\\times {\\frac {(a+b+c)-2a}{2}}\\times {\\frac {(a+b+c)-2b}{2}}\\times {\\frac {(a+b+c)-2c}{2}}}}\\\\&={\\sqrt {{\\frac {a+b+c}{2}}\\left({\\frac {a+b+c}{2}}-a\\right)\\left({\\frac {a+b+c}{2}}-b\\right)\\left({\\frac {a+b+c}{2}}-c\\right)}}\\\\\\end{aligned}}} となる。ここで、 s = a + b + c 2 {\\displaystyle s={\\frac {a+b+c}{2}}} とすると、 S = s ( s − a ) ( s − b ) ( s − c ) {\\displaystyle S={\\sqrt {s(s-a)(s-b)(s-c)}}} が得られる。 △ABC において、A, B, C の対辺 BC, CA, AB の長さをそれぞれ a, b, c とし、A から辺 BC に下ろした垂線 AH の長さを h とする。 この時△ABC の面積を S とすると h は、 1 2 a h = S {\\displaystyle {{\\text{1}} \\over {\\text{2}}}ah=S} なので、 h = 2 S a {\\displaystyle h={2S \\over a}} (1) と表せる。 適当な符号で、 ± C H ± B H = a {\\displaystyle \\pm CH\\pm BH=a} (2) は自明であり、 (±は鈍角三角形と鋭角三角形の場合分けを省くためである。) ピタゴラスの定理より、 C H = b 2 − h 2 {\\displaystyle CH={\\sqrt {b^{2}-h^{2}}}} (3) B H = c 2 − h 2 {\\displaystyle BH={\\sqrt {c^{2}-h^{2}}}} (4) と表せるので、(3)(4)の式に(1)を代入し、(2)の式に(3)(4)を代入すると、 ± b 2 − ( 2 S a ) 2 ± c 2 − ( 2 S a ) 2 = a {\\displaystyle \\pm {\\sqrt {b^{2}-\\left({\\frac {2S}{a}}\\right)^{2}}}\\pm {\\sqrt {c^{2}-\\left({\\frac {2S}{a}}\\right)^{2}}}=a} となる。 この式を S について解いた正の方が解である。 ヘロンの公式の3次元版として,四面体の体積を6辺の長さから求める公式を紹介する。 3次元版ヘロンの公式 ― 6辺の長さが l 1 , l 2 , … , l 6 {\\displaystyle l_{1},l_{2},\\ldots ,l_{6}} である四面体の体積 V {\\displaystyle V} は V 2 = 1 144 { l 1 2 l 5 2 ( − l 1 2 + l 2 2 + l 3 2 + l 4 2 − l 5 2 + l 6 2 ) + l 2 2 l 6 2 ( l 1 2 − l 2 2 + l 3 2 + l 4 2 + l 5 2 − l 6 2 ) + l 3 2 l 4 2 ( l 1 2 + l 2 2 − l 3 2 − l 4 2 + l 5 2 + l 6 2 ) − l 1 2 l 2 2 l 4 2 − l 2 2 l 3 2 l 5 2 − l 1 2 l 3 2 l 6 2 − l 4 2 l 5 2 l 6 2 } . {\\displaystyle {\\begin{aligned}V^{2}=&{\\frac {1}{144}}\\{l_{1}^{2}l_{5}^{2}(-l_{1}^{2}+l_{2}^{2}+l_{3}^{2}+l_{4}^{2}-l_{5}^{2}+l_{6}^{2})+l_{2}^{2}l_{6}^{2}(l_{1}^{2}-l_{2}^{2}+l_{3}^{2}+l_{4}^{2}+l_{5}^{2}-l_{6}^{2})\\\\&+l_{3}^{2}l_{4}^{2}(l_{1}^{2}+l_{2}^{2}-l_{3}^{2}-l_{4}^{2}+l_{5}^{2}+l_{6}^{2})-l_{1}^{2}l_{2}^{2}l_{4}^{2}-l_{2}^{2}l_{3}^{2}l_{5}^{2}-l_{1}^{2}l_{3}^{2}l_{6}^{2}-l_{4}^{2}l_{5}^{2}l_{6}^{2}\\}.\\end{aligned}}} ただし、四面体の頂点を O A B C {\\displaystyle OABC} とすると, l 1 = | O A | {\\displaystyle l_{1}=|OA|} , l 2 = | O B | {\\displaystyle l_{2}=|OB|} , l 3 = | O C | {\\displaystyle l_{3}=|OC|} , l 4 = | A B | {\\displaystyle l_{4}=|AB|} , l 5 = | B C | {\\displaystyle l_{5}=|BC|} , l 6 = | C A | {\\displaystyle l_{6}=|CA|} . ヘロンの公式のn次元版はCayley-Menger Determinantとして知られている。 。 n次元版ヘロンの公式(Cayley-Menger Determinant) ― n次元単体 (数学)の体積 V {\\displaystyle V} は, n ( n + 1 ) / 2 {\\displaystyle n(n+1)/2} 辺の長さによって次のように書かれる。 V 2 = ( − 1 ) n + 1 2 n ( n ! ) 2 | 0 d 12 2 ⋯ d 1 ( n + 1 ) 2 1 d 21 2 0 ⋯ d 2 ( n + 1 ) 2 1 ⋯ d ( n + 1 ) 1 2 d ( n + 1 ) 2 2 ⋯ 0 1 1 1 ⋯ 1 0 | . {\\displaystyle V^{2}={\\frac {(-1)^{n+1}}{2^{n}(n!)^{2}}}\\left|{\\begin{array}{ccccc}0&d_{12}^{2}&\\cdots &d_{1(n+1)}^{2}&1\\\\d_{21}^{2}&0&\\cdots &d_{2(n+1)}^{2}&1\\\\&&\\cdots &&\\\\d_{(n+1)1}^{2}&d_{(n+1)2}^{2}&\\cdots &0&1\\\\1&1&\\cdots &1&0\\end{array}}\\right|.} ただし, d i j {\\displaystyle d_{ij}} は頂点 i = 1 , 2 , … , n + 1 {\\displaystyle i=1,2,\\ldots ,n+1} と頂点 j = 1 , 2 , … , n + 1 {\\displaystyle j=1,2,\\ldots ,n+1} を結ぶ辺の長さ。 ^ “Fórmula de Herón para calcular el área de cualquier triángulo” (Spanish). 2012年6月30日閲覧。 ^ Sabitov, I. (1998年). “The Volume as a Metric Invariant of Polyhedra”. Discrete Comput Geom 20: 405. doi:10.1007/PL00009393.  ^ “Cayley-Menger Determinant” (English). 2018年6月19日閲覧。 T・L・ヒース著、平田寛他訳『ギリシア数学史』共立出版、1998年5月。ISBN 4-320-01588-6 アレクサンドリアのヘロン 三斜法 ブラーマグプタの公式 ブレートシュナイダーの公式 ヘロンの三角形 竹之内脩『ヘロンの公式』 - コトバンク 『ヘロンの公式の証明と使用例』 - 高校数学の美しい物語. Weisstein, Eric W. \"Heron's Formula\". MathWorld(英語). CS1 maint: Multiple names: authors list", "線型代数学において、2-形式 (two-form) は双線型形式の別名であり、典型的にはインフォーマルな議論で使われるが、双線型形式が歪対称であることを指し示すために使われることもある。 微分幾何学において、2-形式 (two-form) は 2 次の微分形式を意味する。言い換えると、2-形式はの歪対称2階共変テンソル場である。 与えられたベクトル場に対して、2-形式全体の空間は基底 1-形式のウェッジ積によって張られる。微分形式 (differential form) を参照。 混テンソル(英語版) 計量テンソル(英語版)", "三斜法(さんしゃほう)とは、測量における用語の一つであり、土地の面積の計算方法の一つ。 多角形からなる土地を最小単位の多角形である三角形に分割し、それぞれの三角形について底辺×高さによって面積を求め、それらの三角形の面積の合計によって目的とする土地全体の面積を求めるものである。 また、土地を三斜法によって求積することを俗に「三斜を切る」「三斜で切る」と呼ぶ。 三辺法 座標法", "ディオファントス幾何学の高さ函数とは、ディオファントス方程式の解のサイズを測る函数である。古典的あるいはナイーブな高さは、斉次座標上通常の絶対値によって定義される。しかし、ディオファントス幾何学での高さは、対数のスケールで測り、すなわち、高さは『代数的複雑さ』や点を記述することに必要なビットの数に比例するものとなる。 高さ函数は最初、アンドレ・ヴェイユ (André Weil) とノースコット (D. G. Northcott) により開拓された。1960年頃の大きな進展がネロン・テイトの高さであり、代数幾何学での豊富なラインバンドルの方法で、射影的な表現と関連付けられ、現在では、数論幾何学の重要な考え方となっている。 楕円曲線 E の場合には、E(Q) 上の点 P に対して、高さ函数 h(P) を次のように定義する。 無限遠点 P0 の高さ h ( P 0 ) = 0 {\\displaystyle h(P_{0})=0} とする。 E(Q) 上の有理点であるような P に対して、 h ( P ) = 0 {\\displaystyle h(P)=0} とする。 上記以外の E(Q) の点 P に対して、P の有理数の横軸座標(abscissa) x が p と q は互いに素な整数として p⁄q と表せるときに、 h ( P ) = log ⁡ max ( | p | , | q | ) {\\displaystyle h(P)=\\log \\max(|p|,|q|)} と定義する。 このように高さ函数 h を定義すると、h(mP) が m の平方根の増加度を持つという性質を持つ。この定義により E 上にはある定数よりも小さな高さを持つ点は有限個しか存在しないことが分かる。以上の定義を、一般のアーベル多様体へ拡張することもできる。 ネロン・テイトの高さ(標準的高さ) Height function(元となる英文) ^ * Lang, Serge (1997). Survey of Diophantine Geometry. Springer-Verlag. ISBN 3-540-61223-8. Zbl 0869.11051.  pp.43–67 ^ * Bombieri, Enrico; Gubler, Walter (2006). Heights in Diophantine Geometry. New Mathematical Monographs. 4. Cambridge University Press. doi:10.2277/0521846153. ISBN 978-0-521-71229-3. Zbl 1130.11034.  pp.15–21", "円分多項式(えんぶんたこうしき、英: cyclotomic polynomial, 独: Kreisteilungspolynom)とは1の冪根に関連のある多項式である。具体的には次の式で定義される多項式 Φn(x) を指す。 Φ n ( x ) = ∏ gcd ⁡ ( k , n ) = 1 1 ≤ k ≤ n ( x − e 2 π i k / n ) . {\\displaystyle \\Phi _{n}\\left(x\\right)=\\prod _{\\stackrel {1\\leq k\\leq n}{\\operatorname {gcd} \\left(k,n\\right)=1}}\\left(x-e^{2\\pi ik/n}\\right).} この定義からは明らかではないが、これは整数を係数に持つ多項式で、さらに有理数体上の既約多項式である。多項式 xn − 1 は次のように円分多項式の積として既約分解される。 x n − 1 = ∏ d ∣ n Φ d ( x ) . {\\displaystyle x^{n}-1=\\prod _{d\\mid n}\\Phi _{d}\\left(x\\right).\\,} 一般に n 次方程式は代数的閉体において、重根を含め n 個の根を持つ。特に、複素数体は代数的閉体であるから、方程式 xn − 1 = 0 は複素数の範囲で n 個の根を持つ。 実際 e2πik/n は k を 1 から n まで変化させると方程式 xn − 1 = 0 の n 個の異なる根をすべて与える。複素平面上にあるこれらの根は単位円の弧を n 等分する。これが円分多項式と呼ばれる所以である。 例えば、x4 − 1 = 0 は i, −1, −i, 1 の4つの根を持ち、k = 1, 2, 3, 4 に対応する。1 と −1 は2乗すると 1 になるので、x2 − 1 = 0 の根でもある。一方、i, −i は4乗しなければ 1 とならない。この2つを根に持つ方程式が Φ4(x) = x2 + 1 である。このように n 乗して初めて 1 となる複素数(1 の原始 n 乗根)全てを根に持ち、最高次数の項の係数が 1 である多項式が円分多項式 Φn(x) である。 n 乗して初めて 1 になる条件は k と n が互いに素なことであるため、冒頭の定義が与えられる。定義からすぐに得られる帰納的関係式 Φ n ( x ) = x n − 1 ∏ d ∣ n ,   d ≠ n Φ d ( x ) {\\displaystyle \\Phi _{n}(x)={\\frac {x^{n}-1}{\\prod _{d\\mid n,\\ d\\neq n}\\Phi _{d}(x)}}} またはメビウスの反転公式により得られる Φ n ( x ) = ∏ d ∣ n ( x n / d − 1 ) μ ( d ) {\\displaystyle \\Phi _{n}(x)=\\prod _{d\\mid n}(x^{n/d}-1)^{\\mu (d)}\\,} が計算上は有用である。 実際に円分多項式を計算すると以下のようになる。 Φ 1 = x − 1 Φ 2 = ( x 2 − 1 ) / Φ 1 = x + 1 Φ 3 = ( x 3 − 1 ) / Φ 1 = x 2 + x + 1 Φ 4 = ( x 4 − 1 ) / Φ 1 Φ 2 = x 2 + 1 Φ 5 = ( x 5 − 1 ) / Φ 1 = x 4 + x 3 + x 2 + x + 1 Φ 6 = ( x 6 − 1 ) / Φ 1 Φ 2 Φ 3 = x 2 − x + 1 Φ 7 = ( x 7 − 1 ) / Φ 1 = x 6 + x 5 + x 4 + x 3 + x 2 + x + 1 Φ 8 = ( x 8 − 1 ) / Φ 1 Φ 2 Φ 4 = x 4 + 1 Φ 9 = ( x 9 − 1 ) / Φ 1 Φ 3 = x 6 + x 3 + 1 Φ 10 = ( x 10 − 1 ) / Φ 1 Φ 2 Φ 5 = x 4 − x 3 + x 2 − x + 1 Φ 11 = ( x 11 − 1 ) / Φ 1 = x 10 + x 9 + x 8 + x 7 + x 6 + x 5 + x 4 + x 3 + x 2 + x + 1 Φ 12 = ( x 12 − 1 ) / Φ 1 Φ 2 Φ 3 Φ 4 Φ 6 = x 4 − x 2 + 1 {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\Phi _{1}&&&=x-1\\\\\\Phi _{2}&=(x^{2}-1)/\\Phi _{1}&&=x+1\\\\\\Phi _{3}&=(x^{3}-1)/\\Phi _{1}&&=x^{2}+x+1\\\\\\Phi _{4}&=(x^{4}-1)/\\Phi _{1}\\Phi _{2}&&=x^{2}+1\\\\\\Phi _{5}&=(x^{5}-1)/\\Phi _{1}&&=x^{4}+x^{3}+x^{2}+x+1\\\\\\Phi _{6}&=(x^{6}-1)/\\Phi _{1}\\Phi _{2}\\Phi _{3}&&=x^{2}-x+1\\\\\\Phi _{7}&=(x^{7}-1)/\\Phi _{1}&&=x^{6}+x^{5}+x^{4}+x^{3}+x^{2}+x+1\\\\\\Phi _{8}&=(x^{8}-1)/\\Phi _{1}\\Phi _{2}\\Phi _{4}&&=x^{4}+1\\\\\\Phi _{9}&=(x^{9}-1)/\\Phi _{1}\\Phi _{3}&&=x^{6}+x^{3}+1\\\\\\Phi _{10}&=(x^{10}-1)/\\Phi _{1}\\Phi _{2}\\Phi _{5}&&=x^{4}-x^{3}+x^{2}-x+1\\\\\\Phi _{11}&=(x^{11}-1)/\\Phi _{1}&&=x^{10}+x^{9}+x^{8}+x^{7}+x^{6}+x^{5}+x^{4}+x^{3}+x^{2}+x+1\\\\\\Phi _{12}&=(x^{12}-1)/\\Phi _{1}\\Phi _{2}\\Phi _{3}\\Phi _{4}\\Phi _{6}&&=x^{4}-x^{2}+1\\\\\\end{aligned}}} 円分多項式の次数はその性質上オイラーの φ 関数を用いれば φ(n) に等しい。また、上記の例では係数が 1, −1, 0 しか現れないが、必ずそうなるわけではない。実際 Φ105(x) がそうでない最小の例で係数に −2 が現れる。 円分多項式の係数の大きさについて知られている最良の結果は次のものである。 Φ n ( x ) = ∑ m = 0 φ ( n ) a n m x m {\\displaystyle \\Phi _{n}(x)=\\sum _{m=0}^{\\varphi (n)}a_{nm}x^{m}} とおく。このとき、定数 c2 > c1 > 0 が存在して、十分大きい m に対して、 c 1 m 1 / 2 ( log ⁡ m ) − 1 / 4 < log ⁡ max n | a n m | < c 2 m 1 / 2 ( log ⁡ m ) − 1 / 4 {\\displaystyle c_{1}m^{1/2}(\\log m)^{-1/4}<\\log \\max _{n}\\vert a_{nm}\\vert <c_{2}m^{1/2}(\\log m)^{-1/4}} を満たす。 n が素数のときは係数が全て 1 の n − 1 次の多項式となる。 任意の円分多項式の全ての根は、いくつかの有理数から出発して四則と冪根を繰り返すことにより表せることが知られている。実際、Φn(x) のガロア群は Z/nZ の乗法群である。特に n がフェルマー素数のときは、冪根として平方根を用いるだけで表すことが可能であるため、長さ 1 の線分が与えられれば、定規とコンパスを使用して半径 1 の円弧を n 等分する線分が作図可能である。 a を整数とし、g を a の p を法とする位数とするとき、p が Φn(a) の素因数であることは n = gpe (e ≥ 0) と書けることと同値である。よって、Φn(a) の素因数は n の約数であるか、または n を法として 1 と合同である。このことから、任意の整数 n に対して、n を法として 1 と合同である素数が無限に多く存在することが導かれる。これはディリクレの算術級数定理の特別な場合である。 Φn(a) は少数の例外を除いて必ず n を法として 1 と合同である素因数を持つ。実際、 Φ n ( x , y ) = ∑ m = 0 φ ( n ) a n m x m y φ ( n ) − m {\\displaystyle \\Phi _{n}(x,y)=\\sum _{m=0}^{\\varphi (n)}a_{nm}x^{m}y^{\\varphi (n)-m}} とおくと、次のことが知られている。 a , b を p と互いに素な整数とし、g を p が ag − bg を割り切る最小の g とするとき、p が Φn(a, b) の素因数であることは n = gpe (e ≥ 0) と書けることと同値である。 a > b を p と互いに素な正の整数とする。Φn(a, b) は Φ6(2, 1) = 3, Φ1(a, a − 1) = 1, Φ2(a, b) = a + b, (最後の場合において、a, b は奇数で a + b は2の冪)となる場合を除いて、必ず n を法として 1 と合同である素因数を持つ。 なお、この場合には、そのような素因数を p とし、n = gpe (e ≥ 0) とおくと、p > n より e = 0, すなわち g = n でなければならない。すなわち、n は p が an − bn を割り切る最小の n である。この結果はさらに一般化される(リュカ数列を参照)。 ^ H. L. Montgomery and R. C. Vaughan, The order of magnitude of the m th coefficients of cyclotomic polynomials, Glasgow Math. J. 27 (1985), 143–159. ^ Zsigmondy 1892, Carmichael 1913, Kanold 1950など、多くの数学者がこの証明を発表している。 R. D. Carmichael, On the numerical factors of the arithmetic forms α n ± β n {\\displaystyle \\alpha ^{n}\\pm \\beta ^{n}} , Ann. of Math. 15 (1913), 30–70. H.-J. Kanold, Sätze über Kreisteilungspolynome und ihre Anwendungen auf einige zahlentheoretische Probleme I, J. reine angew. Math. 187(1950), 169–182. K. Zsigmondy, Zur Theorie der Potenzreste, Monatsh. Math. 3(1892), 265–284." ]
ABC01-02-0074
世界的な観光名所で、オペラ座があるのはパリですが、オペラハウスがある都市はどこでしょう?
シドニー
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[ "シドニー", "ダニーデン", "ジーロング", "バララット", "ゴールドコースト (クイーンズランド州)" ]
[ "シドニー(Sydney)は、オーストラリア南東部、タスマン海に面するニューサウスウェールズ州の州都である。 オーストラリア最大の人口を有し、南半球を代表する世界都市及び金融センターである。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界16位の都市と評価されており、同国及び南半球の都市として首位である。 人口は2016年時点で500万人を超えている。都市圏人口は410万人であり、世界104位、オセアニアでは首位である。オセアニアを代表する国際的な観光都市でもあり、海に臨むオペラハウスなどが著名で、世界で最も美しいといわれる都市のひとつである。 300km南西に特別区である首都キャンベラが所在するが、経済や文化の規模ではシドニーの方が活発である。それもあってか、シドニーがオーストラリアの首都であると誤解する者も少なくない。2000年には夏季オリンピックである「シドニーオリンピック」の開催地となった。 シドニー湾沿岸には少なくとも4万年前からアボリジニが定住していた。 ヨーロッパ人の関心がこの地域に向かうのは、1770年のジェームズ・クックによるポート・ジャクソン湾の望見の後である。イギリス人による最初の入植は1788年1月20日で、アーサー・フィリップ総督によってこの「小川に近い、入り江の湾頭」はオーストラリア最初の植民地として定められた。フィリップは当初この地をアルビオンと呼ぶ意向であったが、シドニー入江に由来する「シドニー」が一般的に用いられるようになった。シドニー入江はクックの命名で、彼の後援者であったシドニー卿(シドニー子爵)トマス・タウンゼントにちなんだものである。このことは植民地開設の特許状がシドニー卿の斡旋で交付されたことに由来すると思われる。 新植民地の初期の人口は1000人を超える程度で、当地は流刑植民地であったことからその大部分は囚人であった。1822年にはすでに銀行、市場、発達した道路網、警察隊を備えた町となった。1833年、町の行政は3人の行政官の手に委ねられ、1842年には自治体となった。1847年には囚人が人口にしめる割合はわずか3.2%にまで低下した。当時シドニーにはヨーロッパより週ごとに船が来航し、イギリスや他のヨーロッパからの移民が到着した。囚人の人口が減少するにつれ、商業活動が活発化した。1850年にはオーストラリア初の大学であるシドニー大学が創設され、さらに1855年にはシドニーと西郊のパラマタとを結ぶ鉄道が開通した。1883年にはシドニー及びメルボルンを結ぶ鉄道路線が開通したものの、両植民地の鉄道軌間は異なっており、直通路線の開通は1962年まで待たねばならなかった。当初、煉瓦製造と製材に限られていた第二次産業の発展は、ニューサウスウェールズ州の自由貿易政策が現地工業の確立を阻害したため遅々としていた。1901年の連邦成立後、自由貿易政策は否定され、各州間の緊密な連携のもとに州間交易が著しい進展を示した。 シドニーは、19世紀前半まではオーストラリアの6つのイギリス植民地の中心として、名実ともに最大の都市であった。1851年にニューサウスウェールズ州およびビクトリア州で金が発見され最初のゴールドラッシュが起こると、シドニーの人口は急激に増加し、急速に工業化が進んだ。だが、ゴールドラッシュおよびイギリス本国との間の大圏航路においてメルボルンのほうが好位置であったことも加わって、メルボルンが発達の速度を速め、19世紀後半にはシドニーは第2位に後退した。この頃からシドニーとメルボルンとの間で伝統的な敵対関係が存在し、メルボルンはオーストラリアの最大都市かつ最も裕福な都市となっていた。 1901年にオーストラリア大陸の6植民地が連合してオーストラリア連邦が成立すると首都は最大都市メルボルンに置かれたものの、この頃からシドニーは再び勢いを増していき、20世紀初頭になるとシドニーはメルボルンを人口で追い越し、それ以来現在に至るまでシドニーは国内最大の都市に君臨し続けている。1970〜80年代、オーストラリア準備銀行やオーストラリア証券取引所と共に、シドニーのCBDは明らかに国内最大の金融都市となってメルボルンを追い抜いた。都市圏の拡大とともに人口の郊外化が進み、都市圏の西端は都心から60km以上も離れたブルーマウンテンの麓にまで達している。20世紀全体を通して見ると、第二次世界大戦後の10年間を特に顕著とし、ヨーロッパやその後のアジアからの移民が増えるにつれてシドニーの都市圏は拡大を続けた。シドニーの特徴である多様で国際的な雰囲気は、移民によってもたらされた文化が主な要因である。 シドニーは、オーストラリア大陸南東岸のポート・ジャクソン湾(シドニー港)及びボタニー湾に面し、カンバーランド又はシドニー盆地と呼ばれる皿状の凹地の東縁に位置する。 オーストラリア全般に見られる人口分布型の一特徴として、少数の大都市及びその周辺に人口が極端に集中することを挙げられる。シドニーの場合、大陸最初の植民地として重要性が高く、港湾や倉庫といったインフラ整備が国内の他都市に先駆けて行われたことに起因している。シドニーは主たる港湾都市として国内経済の中心となったのに伴い、行政の中心ともなった。 シドニーの市街地はポート・ジャクソン湾南岸を起源とし、主たる商工業地区もこの地域一帯に広がる。市街地の大部分は丘陵上に発達し、特に湾に面した地域では、短く急な坂道が多い。シドニーの海岸線は低木の茂る険しい岬及び三日月形の砂浜が交互に連なり、岩石台地、潟湖、砂嘴、陸繋島などが特徴を添えている。 四方は壮大な大自然に囲まれており、東に太平洋、西にブルーマウンテン、北にホークスベリ川、南にロイヤル・ナショナルパークがある。多数の入江や海岸も存在し、ボンダイビーチは特に著名である。市街に面するポート・ジャクソン湾はリアス式海岸であり、世界最大の天然の入江とされる。近年はシドニーの沿岸に棲息するクジラやイルカの数も増え、湾内で出産や滞在をしたり、オペラハウスの真横など湾奥で確認される事も増えてきている。 自然災害である地震は、人体では感知できない無感地震を除いてほとんど無い。 ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属し、年間平均気温18.2 ℃、降雨は一年を通じてある。トロピカル・サイクロンを受けることはない。旱魃と森林火災が発生した場合や、反対に嵐や洪水が発生した場合、エルニーニョ・南方振動の影響を受ける。 冬季は温暖で日中でも15℃前後まで上がる。朝晩は5度以下まで下がることは稀であり、観測史上最低気温は1932年6月22日の2.1 ℃と高い。しかし、内陸部はより冷え込み霜が降りる気温まで下がることもある。夏季は沿岸部では日中でも26度前後、朝晩は18度前後と下がり、温和であるが、内陸部は時に内陸部の砂漠地帯からのフェーン現象による影響で酷暑となることがあり、シドニー郊外の内陸にあるペンリスでは1月の平均最高気温はシドニーより4度も高い30.8℃となっている。近年は、酷暑となることが多くなっており、2018年1月7日の気温は47.3度を記録。1939年に記録した47.8度に次ぐ暑さとなった。 シドニーは、商工業、金融及び交通の中心都市であり、2008年時点の域内GDPは2130億米ドルであり、世界第28位であった。2017年の調査によると、世界8位の金融センターであり、南半球の都市では1位である。 オーストラリア証券取引所(ASX)やオーストラリア準備銀行(RBA)、多数の国内大企業の本社が所在する。国内最大の雇用を生み、GDPのうちシドニーは25%を計上し、その経済規模は国内最大である。平均家計所得は国内諸都市のうち最も多く、失業率は2004年時点で4.9%である。 シドニー(ポート・ジャクソン)港はニューサウスウェールズ州の貿易の大部分を担っている。主要輸出品目は羊毛、小麦、小麦粉、羊皮及び肉類で、輸入品は機械類が最も多い品目である。国内や州内からの主たる移入品は、石炭、木材及び砂糖である。シドニーは世界最大の原毛市場であり、ニューサウスウェールズ州の羊毛の3分の2はシドニー港から積出される。同港は造船・修理の中心でもあり、大型船舶も収容可能なドックを有する。 オーストラリアの産業界においてメルボルンとともにシドニーが突出している理由として、原材料調達の容易性を一因として挙げられる。シドニーは消費財を中心に、ニューサウスウェールズ州の工業生産高のうち約半数を生産しており、製材、造船、化学、農業土木機械、電気機械及び石油精製といった工業が発達している。 2006年国勢調査によれば、シドニー都市圏の人口は3,641,422人で、シドニー統計区域の人口は4,119,190人であった。統計区域は成長を加減して算出された推計値を基にしたため、都市圏よりも人口が大きくなっている。シドニー市内の人口密度は、4,023人/km²で国内最大である。市民は一般的に「シドニーサイダー」と呼ばれる。2006年国勢調査によれば、シドニー居住の民族としては主に、イングランド系、アイルランド系、スコットランド系及び中国系であった。また、先住民アボリジニは全体のうち2%、海外出生者数は同じく31.7%であった。 主たる移民の出身国は、イギリス、中華人民共和国及びニュージーランドである。また、ベトナム、パキスタン、レバノン、イタリア、インド及びフィリピンからの移住者数も多い。英語を第一又は第二言語としている市民が多いが、アラビア語(レバノン系が優勢)、中国語(ほとんどが北京官話、上海語、広東語)、イタリア語話者も多い。シドニーは、世界でも高度な多文化都市であるロンドンやパリよりも海外からの移住者が多く、移住者数は世界第7位である。宗教は2006年国勢調査によると、調査対象者のうち64%はキリスト教徒、14.1%は無宗教、10.4%は無回答、3.9%はムスリム、3.7%は仏教徒、1.7%はヒンドゥー教徒、0.9%はユダヤ教徒であった。 また、住民の平均年齢は34歳と若く、65歳以上の高齢者層は全体の12%であった。 シドニーでは、多くの異色な祭典や、オーストラリア最大の社会・文化的なイベントが催される。例えば、毎年1月に開催される国内最大の芸術祭であるシドニー・フェスティバル(Sydney Festival)や1973年以来続く現代アートの祭典であるビエンナーレ・オブ・シドニー(Biennale of Sydney)、ロックフェスティバルのビッグ・デイ・アウト、オックスフォード・ストリートのゲイ・アンド・レズビアン・マルディ・グラ(Sydney Gay and Lesbian Mardi Gras)、シドニー・フィルム・フェスティバル(Sydney Film Festival)を始めとする多くの映画祭、シドニー・オリンピック公園のシドニー・ロイヤル・イースター・ショウ(Sydney Royal Easter Show)、オペラハウスにて開催のオーストラリアンアイドル決勝戦、毎年4、5月に開催されるオーストラリアン・ファッション・ウィーク(Australian Fashion Week)がある。また、大晦日やオーストラリアの日(Australia Day)の祝典は国内最大である。 シドニーにおいて、文化における重要性が高いのがスポーツである。中でも、イングランド伝来のラグビーリーグは最も人気の高いスポーツである。オーストラリア及びニュージーランドのリーグ戦であるナショナル・ラグビー・リーグに参加する国内16チームのうち、9チームがシドニーを本拠地とする。他にもシドニーを本拠地とするプロチームとして、バスケットボール、ネットボール、ラグビー・ユニオン及びクリケットのチームが存在し、各界においてシドニーは「シドニー・スピリット」と表現される。この他、オーストラリアの国技であるオージーフットボールやサッカーのプロチームもシドニーに所在する。 ナショナル・ラグビー・リーグを始めとする大規模なスポーツイベントは、シドニーオリンピックのメインスタジアムであったANZスタジアムで通常開催される。他にも、ヨットレースのシドニー・トゥ・ホバート・ヨット・レース(Sydney to Hobart Yacht Race)、競馬のゴールデン・スリッパー・ステイクス(Golden Slipper Stakes)、マラソンのシティ・トゥ・サーフ(City to Surf)といったイベントもシドニーで開催される。 クリケットの国際試合を多数開催し、オーストラリアン・フットボールのシドニースワンズの本拠地でもあるシドニークリケットグラウンドは、長らくシドニー最大の競技場であった。しかし、2000年のシドニーオリンピック大会のメイン会場としてシドニー・オリンピック公園に建築された、当時国内最大のANZスタジアム(名称はネーミングライツによる。杮落とし当時は\"スタジアム・オーストラリア\")にその座を取って代わられた。プロテニスシドニー国際も開催される。 シドニーの主な日刊紙には、シドニー・モーニング・ヘラルド及びザ・デイリー・テレグラフ(The Daily Telegraph)の2紙がある。前者は高級紙であり、報道内容は国内外のニュース、文化及びビジネスと広範囲に渡る。現存する国内最古の新聞であり、1831年以来発行を続けている。後者はニューズ・コーポレーション傘下のタブロイドである。 テレビ放送局は、公共放送及び民間の放送ネットワークに大別できる。公共放送は、ABC及びSBSの2局がある。民間では、Seven Network、Nine Network、Network Ten及びTVSの4ネットワークがある。 シドニーで最も有名な歴史的建築物は、ともに世界的知名度を誇るハーバー・ブリッジ及びシドニー・オペラハウスである。その他、南半球で2番目に高いシドニータワー、シティ中心部にあるクイーン・ヴィクトリア・ビルディング(略称QVB)などが有名。ダーリングハーバーも人気の観光地である。中心部から南に8kmはなれたボンダイビーチはシドニーで最も有名なビーチであり、特にサーフィンのメッカとして知られる。 ハーバーブリッジ(Sydney Harbour Bridge) シドニー・オペラハウス(Sydney Opera House) ルナ・パーク・シドニー(Luna Park Sydney) チャイナタウン(Sydney Chinatown) シドニー・セント・メアリー大聖堂(St Mary's Cathedral) シドニー・ミント(Sydney Mint) シドニー・タワー(Sydney Tower)(別名:AMPタワー、AMPセンターポイントタワー、センターポイントタワー、センターポイント) シドニー水族館(Sydney Aquarium) タロンガ動物園(Taronga Zoo) コアラパーク・サンクチュアリ(Koala Park Sanctuary) ボンダイビーチ(Bondi Beach) クージービーチ(Coogee, New South Wales) ロイヤルランドウィック競馬場(Randwick Racecourse) IMAXシアター(IMAX Theater) クイーン・ヴィクトリア・ビルディング(Queen Victoria Building)(略称:QVB) ロイヤル・ボタニック・ガーデンズ(Royal Botanic Gardens) ポート・ジャクソン湾(Port Jackson) ダーリングハーバー(Darling Harbour) FOXスタジオ・オーストラリア(Fox Studios Australia) シドニー市庁舎(Sydney Town Hall) ザ・ロックス(The Rocks) シドニー中心業務地区(Sydney central business district) シドニー天文台(Sydney Observatory) キングス・クロス(Kings Cross, New South Wales) シドニー・オリンピック公園(Sydney Olympic Park) シドニー・クリケット・グラウンド(Sydney Cricket Ground) シドニー・フットボール・スタジアム(Sydney Football Stadium) ブルー・マウンテンズ(Greater Blue Mountains Area) ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館(Art Gallery of New South Wales) オーストラリア博物館(Australian Museum) オーストラリア国立海洋博物館(Australian National Maritime Museum) マークレイ博物館(Macleay Museum) パワーハウス博物館(Powerhouse Museum) シドニー・ユダヤ博物館(Sydney Jewish Museum) シドニー博物館(Museum of Sydney) シドニー・トラムウェイ博物館(Sydney Tramway Museum) 現代美術館(Museum of Contemporary Art) 一般的に単一都市として理解されることが多いシドニー大都市圏(metropolitan area)は、統計上の範囲として設定されているものであり、それ自体は自治体ではない。基礎自治体は大都市圏内に38ある地方行政区(LGAs: Local Government Areas)であり、個々の地方行政区は歴史的経緯を踏まえ、しばしば「市 City」と称する。こうした地方行政区の一つである「シドニー市 City of Sydney」は、シドニー湾に面した高層ビルが集中するCBD周辺の都心だけが市域である。観光地ともなっているシドニー市庁舎「タウン・ホール」は、広域のシドニー大都市圏ではなく、この「シドニー市」の市庁舎である。ただし、この「シドニー市」の市長は、オリンピックのようなイベントの際には、儀礼上、大都市圏全体を代表するような役回りを果たすことがある。 一般的にシドニー所在だと認知されている施設のうち、都心にあるもの以外は、「シドニー市」ではなく別の地方行政区に所在するものである。例えば、タロンガ動物園はモスマン、シドニー・オリンピックの主会場はオーバーン、ボンダイビーチはウェーバリー、シドニー国際空港はターミナルがボタニー・ベイ市、滑走路の先端はロックデール市にある。ここでは、英語の正式名称にCityと冠する地方行政区だけを「市」と訳しているが、City ではなく、Council、Municipal Council などと称する他の地方行政区も、一般的には「市」と訳されることが多い。 シドニー大都市圏全体に関わる行政は、公共交通機関の運営、主要道の整備、交通の制御、警察、中等教育以上の教育、主要な社会資本の整備計画など、ほとんどをニューサウスウェールズ州政府が管轄している。元来、州の人口の大部分がシドニー大都市圏に集中しており、州政府の行政機能も大部分がシドニー大都市圏に関わるものになっているため、州政府から分離した大都市圏を単位とする行政体の創出には、州政府が消極的である。 シドニーには複数の有名大学がある。1850年設立のオーストラリア初の大学であるシドニー大学に加え、オーストラリアカトリック大学、マコーリー大学、ニューサウスウェールズ大学、シドニー工科大学及び西シドニー大学の計6校が公立大学である。また、ノートルダムオーストラリア大学及びウロンゴン大学のキャンパスも市内にある。 オーストラリアには、中等後または第三次教育で一般的に職業教育を行う教育機関として、TAFEと呼ばれる教育システムが存在する。このうち複数のキャンパスを持つ公立校としては、4校がシドニーに所在する。 シドニーは、高速道路、鉄道及びフェリーの広範囲な交通網を有する。 市民の主な交通手段は自動車である。シドニー都市圏を環状に形成するメトロードは、交通の流れを円滑にし、都心部の渋滞を解消するため、特に重要な道路網である。 ニューサウスウェールズ州政府の公企業であるシティレールは、国内では他にメルボルンのみが持つ地下鉄を有する。ただし、これは純粋な地下鉄ではなく、都心部では地下を走り、近郊では地上を走る複合型の鉄道網である。都心部のCBD内では環状運転するため、「シティサークル」(City Circle)と呼ばれる。ただし厳密に言えば、東京のJR山手線のように同じ列車が何周もするわけではなく、各列車はシティサークルを経由する形で郊外と都心を結ぶ運行を行っている。 2000年のシドニーオリンピック以後、シティレールの業績は著しく低下してしまう。これに対処すべく、2005年にシティレールは時刻表を再編成し、列車の運転士の雇用を拡大した。シティレールの大規模なインフラ計画は、2010年に完了する予定である。 路面電車は1960年代に一度廃止されたが、1990年代にライトレールとして復活した。現在では市民の足として利用され、延伸計画もある。 バスは都市圏の大部分のエリアを網羅しており、大部分の路線は1961年以前の路面電車の運行ルートに沿って運行する。州内及び州外を結ぶ長距離列車(カントリーリンクやパース行きのインディアンパシフィック号)はセントラル駅(Central railway station)を発着駅とする。同駅構内には、高速バスターミナルが存在する。 シドニー港の中心となるのはポート・ジャクソン湾だが、南のボタニー湾にも重要な港湾設備がある。ポート・ジャクソン湾に面する都心近くのサーキュラー・キー(Circular Quay)には、国際旅客船ターミナルがある。 また、サーキュラー・キーからは、マンリー、タロンガ動物園、ダーリングハーバー、その他住宅街を結ぶフェリーが発着している。(ニューサウスウェールズ州が経営)また、マンリー、タロンガ動物園などに向かう便はシドニー・オペラハウスの目の前を通る。また、ダーリングハーバーや西部の住宅地に向かう便はハーバーブリッジの下をくぐる。写真を撮るのにももってこいだ。 国内最大の国際空港、キングスフォード・スミス国際空港(シドニー国際空港)は南部近郊のボタニーベイ市マスコットにあり、ボタニー湾の北岸に位置する。国際線・国内線を問わずほとんどの定期便が発着する。同空港はシティレールの路線が利用可能である。 姉妹都市一覧 サンフランシスコ(アメリカ合衆国 カリフォルニア州)- 1968年 ウェリントン(ニュージーランド国 ウェリントン地方)- 1983年 名古屋市(日本国 中部地方 愛知県)- 1980年 ポーツマス(イギリス連合王国 イングランド国 サウス・イースト・イングランド地方 ハンプシャー州)- 1984年 広州市(中華人民共和国 広東省)- 1985年 フィレンツェ(イタリア共和国 トスカーナ州)- 1993年 バンコク(タイ王国 バンコク首都圏 バンコク都)- 2007年 ^ “3218.0 - Regional Population Growth, Australia, 2010-11”. Australian Bureau of Statistics (2012年3月30日). 2012年4月13日閲覧。 ^ JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表 JLL 2017年10月25日閲覧。 ^ Demographia World Urban Areas Demographia 2017年4月更新時。 ^ 「世界の大都市(下)」p98 高野史男編 大明堂 昭和54年6月22日発行 ^ 「オセアニアを知る事典」平凡社 p127 1990年8月21日初版第1刷 ^ 豪シドニーで80年ぶり猛暑、気温47度超 火の使用禁止に CNN(2018年1月8日)2018年1月12日閲覧 ^ Global Financial Centres Index 21 Z/Yen Group 2017年4月5日閲覧。 ^ 1988年に開業したモノレールが主たる商業地区やダーリングハーバー周辺を環状に結んでいたが、2013年6月に再開発の為廃止された。 ^ City of Sydney: Sister City ^ http://www.city.nagoya.jp/shicho/page/0000006761.html 名古屋市 姉妹・友好都市2013年2月26日閲覧 公式 シドニー市公式サイト (英語)...地方行政区「シドニー市」のサイト Sydney Metropolitan Strategy (英語)..ニューサウスウェールズ州政府計画部門の公式サイト 日本政府 在シドニー総領事館 (日本語) 観光 シドニーの気候と服装|オーストラリア政府観光局 教育旅行公式サイト (日本語) シドニーの交通機関と地図|オーストラリア政府観光局 教育旅行公式サイト (日本語) 修学旅行のしおり|オーストラリア政府観光局 教育旅行公式サイト(日本語) NSW州政府観光局 - シドニー (日本語) オーストラリア政府観光局 - シドニー (日本語) その他 シドニー - DMOZ (英語) シドニーの地図 - ウィキマピア 地図 - Google マップ 座標: 南緯33度52分06秒 東経151度12分31秒 / 南緯33.86833度 東経151.20861度 / -33.86833; 151.20861", "ダニーデン(英: Dunedin [dʌˈniːdɪn] ( 音声ファイル)、マオリ語: Ōtepoti)は、ニュージーランド南島オタゴ地方に所在する街。人口は118,683人(2006年)。人口ではニュージーランドで5番目、南島で2番目の大きさ。オタゴ大学のある街として学園都市の機能を持つ。 1848年にスコットランド自由教会からの移民たちにより開拓されゲール語でエディンバラを意味するダニーデンと名付けられる。現在でも「南のエディンバラ」と言われるほどスコットランド文化を色濃く残す街として存在する。 1861年にダニーデン近郊ガブリエル渓谷で金脈が見つかりゴールドラッシュが起きる。アイルランド、フランス、ドイツ、イタリア、中国など、世界各地からの採掘者が訪れ、ダニーデンの人口は増加し、産業物流拠点として栄えた。ニュージーランド銀行(BNZ)はダニーデンに拠点を構え、世界各地への送金業務を担当するなど、金脈の発見ニュージーランドの経済に繁栄をもたらした。およそ10年でゴールドラッシュは終焉するも、経済的繁栄によりダニーデン市内にはビクトリア様式、エドワード様式の建物が数多く建造され繁栄の歴史は現在でも市内各所で見ることができる。冷凍食肉の技術を開発し、1882年にチャーマーズ港からイングランドへ向け輸出事業を開始。その後、冷凍食肉はオセアニア各国、南アメリカ各国へも輸出されダニーデンの経済およびニュージーランドの産業を成長させる。 現在の町並みはイングランドの面影を残すクライストチャーチとは異なり、スコットランドの面影を多く残す街として存在する。スコットランドからの移住者の子孫が現在も多く住んでいる。地域人口のおよそ15%は学生であり学園都市として有名な土地柄。地形の起伏が激しく坂が多い。 年間平均降水量は812mm、年間平均日照時間は1585時間。山間部では降水量が多い。夏季の平均気温は15℃、冬季の平均気温は8℃。冬季は霧雨の日が多い。山間部での積雪は見られるが、市内での積雪は少ない。とくに山間部では1日に4つの季節があると称されるほど寒暖の差が激しい。 ダニーデン市の中心部は、8角形に区画整備された「オクタゴン(Octagon)」と呼ばれる広場をもつ。ジョージ通りを中心に8角形に区画された広場周辺には、セント・ポール大聖堂(英国国教会大聖堂)、ダニーデン・パブリック・アートギャラリーなどがある。ラーナック城、ダニーデン鉄道駅、オタゴ男子高校 (英語版)、ファーストチャーチ(スコットランド長老派教会)などの観光名所へも向かえる。ギネスブックにも認定されている世界一急な坂「ボールドウィン・ストリート(Baldwin Street)」などがある。 オタゴ半島は海洋生物、野生生物の宝庫として有名な土地。鳥類ではシロアホウドリやウ科、キンメペンギンやコガタペンギン、ニュージーランドアシカやニュージーランドオットセイ、シャチをふくむイルカ類、イシヤモリ科などの生息地、繁殖保護区でもある。とくにアホウドリの場合、人間の生活圏に接近する繁殖地は世界でもここだけであり、アシカに関しても、本島で絶滅後にニュージーランドの亜南極諸島から別系統群が再定着した最初の場所でもある。エコツアーも開催され、野生動物の見学ツアーにも参加できる。マオリ族やヨーロッパ人の到着以前までは、モア、キンメペンギンより大型の近縁種のワイタハペンギン、セミクジラをはじめとする大型の鯨類、セッパリイルカ、ミナミゾウアザラシなども豊富にいた。とくにセミクジラは、オタゴ湾内でも頻繁に見られ、ヨーロッパ人と彼らに雇われたマオリ人による捕鯨産業の対象として注目された。ニュージーランドでも最大の捕鯨基地の一つとなった事によりダニーデンが開港され、「オタゴ」の地名の由来となった「オタコウ」はその捕鯨基地の一つであった。 半島の沖合20㎞にある海溝は、鯨類やサメ、ウミガメ、海鳥など様々な生物の生息地であり、カイコウラに匹敵する深海性の鯨類の生息地であることが判明した。あまり調査が進んでいないが、2016年には国内で初めてタスマニアクジラが観測された。 高速道路(無料の国道)を利用してクライストチャーチ、インバーカーギルなど、南島の各都市へ向かう高速バス、自動車が多い。クライストチャーチへの移動時間は5〜6時間、インバーカーギルへの移動時間は2.5〜3時間。フィヨルドランド国立公園へ向かう拠点ともなる。 ダニーデン国際空港からクライストチャーチ、オークランド、ウェリントンへの空路がある。国際線ではオーストラリアのブリスベン、メルボルン(季節便)、シドニー(季節便)への直行便または経由便が就航している。 オタゴ大学 オタゴポリテクニック アオラキポリテクニック(ダニーデンキャンパス) 小樽(日本) エディンバラ(スコットランド) 上海(中国) ポーツマス(アメリカ合衆国) ^ “Climate Data and Activities”. 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Otago Daily Times  ダニーデン公式サイト (英語)", "座標: 南緯38度09分 東経144度21分 / 南緯38.150度 東経144.350度 / -38.150; 144.350 ジーロング (Geelong) はオーストラリア大陸南東部、コライオ湾に面する港湾都市である。 ビクトリア州第二の規模の都市(人口205,000人)で、最大都市で州都のメルボルンからは約75キロメートル南西方にある。 羊毛その他農産物、金の輸出で栄えた。現在は自動車組立工場、石油精製工場がある。 メルボルンとは鉄道・道路で結ばれ、旅客列車・バスも運行されている。アバロン空港は25キロメートル東方にある。メルボルン空港は60キロメートル北東方にある。それぞれ連絡バンが運行されている。 ディーキン大学の主要なキャンパスがある。 日本プロ野球の千葉ロッテマリーンズが2006-2007年の春季キャンプを当地で行った。 世界選手権自転車競技大会の2010年大会が9月28日から10月3日の間の日程で、この地で開催される。 連雲港市、中華人民共和国 泉大津市、日本 Official Geelong Government Site", "バララット(英語: Ballarat)は、オーストラリアのビクトリア州にある都市である。州都メルボルンから105km北西にある。2006年の国勢調査では78,221人、ビクトリア州では3番目に人口が多い。その名はアボリジニの言葉「休憩所」にちなんでいる。かつてはBallaaratと綴られていたが、歴史の推移と共に変化した。日本で流通している地図帳ではバララトと表記されている場合もある。 1850年代に金が発見されたことから入植が殺到して繁栄したが、1854年には鉱山夫達による暴動が勃発、「ユーレカ砦の反乱」と呼ばれている。1930年代になると、オーストラリア空軍の基地が建設され、第二次世界大戦に参戦した。 戦争捕虜博物館があり、ボーア戦争や第二次世界大戦、ベトナム戦争に関する資料が展示されている。バララット・ファイン・アート・ギャラリーは美術館である。ヴィクトリア朝の歴史的建造物はオーストラリア国宝に指定されている。 気候の平均*: 1月の最高気温 — 25.1 °C 1月の最低気温 — 10.8 °C 7月の最高気温 — 10.0 °C 7月の最低気温 — 3.2 °C 年間降雨量 — 690.9mm 最も雨の多い月 — 8月 74.6mm 最も雨の少ない月 — 1月 38.1mm 高速道路がメルボルンからアデレードまで繋がっていて、バララットにも通っている。 ジェームズ・スカリン 第9代首相 ロバート・メンジーズ 第12代首相 ジャレド・タレント 2008年北京オリンピックの50km競歩銀メダリスト 猪名川町 日本 泰興市 中華人民共和国 ピーターバラ イギリス アイナロ 東ティモール バララット大学 オーストラリアカトリック大学 バララットにもキャンパスがある。 ボスコム渓谷の惨劇", "ゴールドコースト(Gold Coast)は、オーストラリア連邦クイーンズランド州南東部にある都市である。オーストラリア最大の観光保養地として世界的に有名。 高齢者向けの保養施設やコンドミニアム等があり、日本人滞在者も多い。 約23,000年ほど前からアボリジニ(先住民)の人々が暮らしていたと思われる。 1770年5月16日、エンデバー号に乗船したキャプテン・クックがヨーロッパ人としては初めて航海でこの地の海岸を通過している。しかしこの航海の主な目的はゴールドコースト南部、ニューサウスウェールズ州北部の河川地域を調べるためであったため上陸はしなかった。 1802年、マシュー・フリンダース はニューサウスウェールズより北の地域の測量を目的とした航海でこの地の海岸を通過している。 1823年、冒険家ジョン・オクスレイがヨーロッパ人としては初めて海岸(現在のマーメイド・ビーチ)に上陸し、入植を始めた。マーメイド・ビーチの名前の由来は彼が上陸した際に乗っていたボート、マーメイド号にちなんで名づけられた。 1800年代中期、内陸に生える建築材として最適なredceder(アカスギ)は林業に携わる多くの人々を惹き付け、内陸にある現在のネラング地区は林業を中心とする町として造られた。その後、近隣の谷や平野は牧場やサトウキビ農場、綿花畑として急速に開発が進んだ。 1885年、当時のクイーンズランド州知事であるマスグレーブが現在のサウスポート地区の北に別荘を建設した。この頃からゴールドコーストはブリスベンに住む上流階級の人々の静かなリゾート地として認識されるようになる。 1889年にはブリスベンとサウスポートを結ぶ鉄道が開通しホテルなどの宿泊施設が海岸沿いに建てられるようになる。 1925年にはブリスベンとサウスポートを結ぶ道路も開通した。同じ年にブリスベンのホテル王、ジム・キャヴィル (Jim Cavill) がサウスポート地区の南、エルストン地区にサーファーズパラダイスホテルを建設。これを境に観光が盛んになる。 自動車が普及し始めた1930年代にはブリスベンから多くの人が観光に訪れ、沢山の別荘やホテルがサウスポート地区からニューサウスウェールズ州境にかけての海岸沿いに建設された。 1933年、サーファーズパラダイスホテルが建っていたエルストン地区は名称をサーファーズパラダイス地区に改名した。ホテルは1936年に焼失するもすぐに建て替えられ、動物園などの施設を含むアール・デコ調の巨大な建物となった。 第二次世界大戦後、州南東部の海岸は帰還した兵士達の保養地として非常に高い人気を集めていた。この頃までこの地はサウス・コースト(南海岸)と呼ばれていたが、活発な不動産投資や物価の上昇が顕著になった1940年代後半あたりから不動産投機家やジャーナリスト達の間でこの地がゴールド・コースト(金の海岸)と呼ばれるようになった。この名称の起源は諸説があり現在も議論が続けられている。しかしこの頃から一般にもゴールドコーストという名称が定着するようになる。 1950年代にも観光業は発展を続け、1958年10月28日サウスコースト町は名称をゴールドコースト町に改名する。その後1年足らずで町は市へと昇格した。 この頃からイプスウィッチなどの州南東部の内陸に住む人々からも保養地として人気を集めるようになる。 1960年代、ゴールドコーストの社会基盤は非常に大きな発展を遂げた。高層マンションなどが次々と建てられるようになり、ゴールドコースト空港が開港する1981年頃にはこの地は巨大なリゾート地としてオーストラリア中で知られるようになる。 1980年代に入ると日本の不動産業者からの投資が活発に行われるようになりさらに多くの高層マンションが建てられるようになる。 これと同じ時期にドリームワールド、シーワールド、ムービーワールド、ウェット・ン・ワイルド等のテーマパークが次々と建てられるようになり、ゴールドコーストは海外から訪れる観光客にも知られるようになった。 1980年代後半、企業の非倫理的な活動が目立ち始め、加えて財政難に陥った州政府が州外や海外からゴールドコーストへの新規の不動産投資に対して特別料金を徴収する政策等を展開し、1990年代には観光地というより経済、不動産投資の場としての側面が強く現れるようになる。 1994年、ゴールドコースト市は近隣のアルバート地区と合併することを正式に決め、アルバート地区は市の一部となった。 1995年、合併に伴い選挙が行われ3月には合併後最初の議会が開催された。 ヨーロッパ人が19世紀始めに入植を開始した当初は林業や農業などの産業が主であったが、20世紀初頭に観光地としての地位が確立して以来、ゴールドコーストの歴史は不動産投資ブームとその影の部分が色濃く刻まれてきたといえる。2005年には高さ322.5mの超高層マンションQ1が建設され、不動産投資は活況を極めている。 ゴールドコースト市はクイーンズランド州の州都ブリスベンの南約78キロメートルに位置する。ローガン市ビーンリー地区が北に隣接し、市内南端のクーランガッタ地区ではニューサウスウェールズ州が南に隣接している。ゴールドコーストの北から南までは約60kmある。 内陸には世界遺産にも登録されているスプリングブルック国立公園がある。市の南にあるトゥイード・ヘッズ(ニューサウスウェールズ州トゥイード)や西のビューデザート(シーニック・リム)までがゴールドコーストの一部であると認識されることもあるが市には含まれていない。 この地にはネラング川という大きな川が流れており海岸から内陸にかけての広い地域に渡って湿地帯が広がっていたが現在は人工の水路が広範囲に渡って整備されており、水路沿いに住宅が建てられている。 市の東部は海岸線が北から南まで約57kmにわたって広がっており、オーストラリアでも非常に人気のあるサーフポイントがいくつかある。 主なビーチとサーフポイント サウス・ストラートブロークアイランド (South Stradbroke Island) ザ・スピット (The Spit) メインビーチ (Main Beach) サーファーズ・パラダイス (Surfers Paradise) ブロードビーチ (Broadbeach) マーメイドビーチ (Mermaid Beach) ノビー・ビーチ (Nobby Beach) マイアミ (Miami) バーレイ・ビーチ (Burleigh Beach) バーレイ・ヘッズ (Burleigh Heads) タレブッジェラ・ビーチ (Tallebudgera Beach) パーム・ビーチ (Palm Beach) カランビン・ビーチ (Curruminbin Beach) トゥガン (Tugun) ビリンガ (Bilinga) キラ (Kirra) クーランガッタ (Coolangatta) グリーンマウント (Greenmount) レインボー・ベイ (Rainbow Bay) スナッパー・ロックス (Snapper Rocks) フロッギーズ・ビーチ (Froggies Beach) 海岸の南にはデュランバー・ビーチ (Duranbah beach) というサーフポイントとしては世界的に有名なビーチがありゴールドコースト市の一部と認識されることも多いが実際にはニューサウスウェールズ州トゥイード・ヘッズ地区の一部である。 いくつかのビーチでは深刻な砂浜の侵食の被害が報告されている。1967年には11個のサイクロンがゴールドコーストを襲い複数のビーチで砂浜のほとんどが失われてしまった。これを重く見た州政府はオランダより専門家を招くなど対策に乗り出し、1971年には対策工事の概要が発表された。現在はほとんどのビーチで対策工事が施されている。 しかしいくつかのビーチでは不十分な所もあり、今後州政府は市やオーストラリア環境保護局、グリフィス大学などの研究機関と共同で新たな砂浜の管理計画を発表する予定である。 美しい砂浜が広がる一方で、海水浴には常に水の事故の危険が潜んでいる。このためゴールドコーストにはライフガードおよび世界最大のライフセービングサービスが提供されており海水浴客を守ると同時に地元地域に安全な遊泳を呼びかけている。 州政府はこの地でクイーンズランド・シャークコントロール・プログラム(SPC)を展開しており海水浴客に鮫の攻撃による被害が及ばないよう主要な砂浜には海中にネットを張りめぐらせるなどの対策を取っている。この結果、鮫による人への被害は激減したがごくまれに鮫が現れることもあり、この際ライフセーバーが危険があると判断した場合、海水浴客に海から上がるよう呼びかけることになっている。 市は遊泳者が安全に海水浴を楽しめるようゴールデン・ルールズ運動を推進している。 常にライフガードやライフセーバー監視区域は赤と黄色の2色旗で示されているので、その2本の間のエリアで泳ぐ。 常にビーチに設置してある旗や、安全サインの意味を読み取り、理解してから海に入る。 赤い旗は危険を意味し、海に入ることは禁止であることを示し、黄色い旗は注意をして海に入ることを指示している。 冬期の日本から、夏期のオーストラリアへ旅行する場合、日本よりも紫外線が強くなるため、日に当たりすぎると日焼けや皮膚がんを起こす可能性がある。腕や首も守れる襟のついた長袖、水泳用ベストやウェットスーツ、長縁の帽子、サングラスの着用が推奨されている。また、最低でもSPF15+以上の日焼け止めを使用することが強く勧められている。 亜熱帯性気候である。 1958年10月23日にゴールドコースト市役所が設置され、地方、州、連邦の3つのレベルの行政が布かれている。元市長には元オリンピック選手・銅メダリストの、ロン・クラークがいる(Ron Clarke)。 サウスポート裁判所が軽犯罪、2億5000万オーストラリアドルまでの民事問題を扱う。起訴犯罪、刑事事件の判決、2億5000万オーストラリア・ドル以上の民事事件はクイーンズランド州最高裁判所(ブリスベン、ジョージストリート)で扱う。補助的に下級判事裁判所がクーランガッタにある。 ヌミンバ矯正センター:内陸部のヌミンババレーにある刑務所の農園で、軽警備の施設で104人までの男性受刑者と、別棟で24人の女性受刑者が生活する。 年間GDP(2002年、クイーンズランド大学Centre for Economic Policy Modeling (CEPM) の試算):約89億オーストラリアドル(約7500億円) 主な産業:不動産、建設、小売業、ビジネスサービス、交通、観光(宿泊、飲食業)、金融、保険、医療、教育、卸売業、エンターテイメントなど 観光客数(年間) 海外の観光客:83万人以上 構成:日本とニュージーランドからが半数、インド、中東、中国からの観光客増加傾向 国内の観光客:約360万人 最大の産業で、経済効果はおよそ年間2,500億円といわれており、州最大の観光地である。 州内最大の映画産業の中心地であり、1990年以降州全体の映画産業の75%を占めており、国内ではシドニー、メルボルンに次いで3番目に大きい映画産業地である。 ワーナー・ブラザースが市の郊外に巨大な撮影スタジオ(ワーナーロードショウスタジオ)を構えており数多くの映画が撮影されている。同社が運営するテーマパーク、ワーナー・ブラザース・ムービーワールドに隣接する形で建てられており、8つの撮影用のステージ、プロダクションオフィス、編集室、衣裳部屋、セット建設工場やカフェテリアなどが設けられており、南半球では最も大きい映画スタジオの一つである。 州政府はパシフィック・フィルム・アンド・テレビジョンコミッションを通じて映画産業をサポートしている。 様々な種類の宿泊施設が提供されており、バックパッカー向けのホステルから五つ星ホテルまで総宿泊室数13,000室以上ある。最も一般的なのは3から4つ星のホテルである。 サーフィンのできる砂浜、内陸にある世界自然遺産にも登録されている国立公園、その他多数のテーマパークが建てられている。 主なテーマパークと自然公園 ドリームワールド シーワールド ウェット・ン・ワイルド ワーナー・ブラザース・ムービーワールド ホワイトウォーターワールド カランビン・ワイルドライフ・サンクチュアリ(カランビン野鳥園) - サーファーズ・パラダイスの南方 主な観光名所 Q1 2005年のオープン以来、観光客や地元の人たちに人気のあるスポットである。77階にある展望台は州で最も高く、360度広大な景色が見渡せる。また3つの高層マンションが特徴的なシェブロン・ルネッサンスも地元の名所である。 サーフィンはゴールドコーストで人気のあるスポーツの1つである。世界でも有数の素晴らしい波の立つポイントがあり、サンドパンピング・ジェティ、バーレイ、カランビン・アレイ、グリーンマウント、キラ、スナッパー・ロックスそしてデュランバー(厳密には州境のニューサウスウェールズ州側にある)などが有名である。その他のビーチでもサーフィンが楽しめる。 毎年、ゴールドコーストではサーフィンの世界選手権が開催されている。 釣りもゴールドコーストでは人気のあるアクティビティーの1つである。人気のある主な釣り場として、 ザ・スピット(the Spit)にあるサンドパンピング・ジェティ (Sandpumping Jetty) パーム・ビーチ (Palm Beach) のオフショア・リーフズ (Offshore reefs) ナローネック・リーフ (The Narrowneck Reef) ゴールドコースト・ブロードウォーター (The Gold Coast Broadwater) ジャンピンピン (Jumpinpin) クーメラ (Coomera) ローガン川とアルバート川 (Logan and Albert Rivers) カランビン・クリークとタレブッジェラ・クリーク (Currumbin and Tallebudgera Creeks) などがあげられる。また淡水の釣り場としてはロビーナ池 (Robina Lakes) やヒンズーダム (Hinze Dam) などがある。 ネラング・ヴェロドロームは356mのアスファルト、ナイト設備があるトラック。常設240席+臨時席150席の観客スタンド。600mのフラットサーキットと、900mと1,500mの200mの傾斜を含むサーキットがとれる。近接のネラング・ステイト・フォレストはマウンテンバイクが楽しめる。 公私50以上のゴルフコース。 Royal Pines Resort : オーストラリア・レディースマスターズ 開催コース(1992年以降) The Links Arundel Hills Golf Club Gainsborough Greens : 野生カンガルー生息地 Glades : グレッグ・ノーマン設計 Lakelands Golf Club : ジャック・ニクラウス設計 ナショナル・ラグビー・リーグのゴールドコースト・タイタンズ、およびサッカーAリーグのゴールドコースト・ユナイテッドが存在し、いずれもロビーナ地区に2008年に建てられたスキルド・パークをホームスタジアムとしている。 インディカー・シリーズ(2007年まではチャンプカー・ワールド・シリーズ)のレースである『ゴールドコースト インディ300』が、サーファーズ・パラダイス市街地コースにて毎年10月頃に開催されていた。レースではメインであるインディ300の他、V8スーパーカー選手権、ミス・インディ・コンペティションなどの催し物などが開催された。 このレースは2008年を最後に開催されていないが、コース自体はV8SC等の国内選手権で現在も使用されている。 ゴールドコースト・ターフ・クラブが毎週土曜昼12時からレースを開催している。入場料金は安く設定されており、施設にはブックメーカー(公認の賭博業者)のいるセクションや自動馬券売り場、飲食店などがある。 また毎年1月にはレースとサラブレッドのオークションが開かれており世界中の買い付け業者やファンで賑わう。 ゴールドコースト・ブレテン (Gold Coast Bulletin):地方紙、ニューズコーポレーション、日刊 ゴールドコースト・サン ゴールドコースト・メイル (Gold Coast Mail) ゴールドコーストはブリスベン(都市圏放送)と北ニューサウスウェールズ(地区放送)の両方が正式に送信されている珍しい地域である。 ブリスベンから送信している放送局:チャンネル・セブン、チャンネル・ナイン、チャンネル・テン 地方局:プライム・テレビジョン、NBNテレビジョン、サザンクロス・テン 国営放送:ABC、SBS 有料放送:フォックス・テル(ケーブルテレビ)、オースター(衛星放送)など。 主なFMラジオ放送局 88.0Mhz:ビーチFM(主に観光情報やTOP40ランキングなどを放送) 89.3Mhz:4CRB-FM(クリスチャン放送) 90.9Mhz:SEAFM(TOP40とポップス) 91.7Mhz:コーストFM(コンテンポラリー、ABCのローカルニュースなど) 92.5Mhz:92.5GOLD(1970、1980、1990年代とTOP40) 93.5Mhz:SBS 94.1Mhz:94.1ジャズラジオ(ジャズ、ブルースとスウィング) 97.7Mhz:JJJ Triple J(オルタナティブとチャートランキング) 102.9Mhz:ホット・トマト(TOP40、ポップス) 104.0Mhz:4MBSクラシック 105.7Mhz:ラジオ・メトロ(ダンス、ポップス、R&Bなど) 106.0Mhz:ABCクラシックFM 107.3Mhz:ライフFM(クリスチャン放送) これ以外にもブリスベンから送信されている様々なAM、FM放送を受信できる。 ボンド大学:ロビーナ地区にキャンパスがあるオーストラリアでは数少ない私立大学の1つ グリフィス大学ゴールドコーストキャンパス:サウスポート地区にキャンパスがあり、ゴールドコースト市立病院に隣接される形で医学部、歯学部と口腔学を運営している。本拠地はブリスベン、ネイザンキャンパス セントラルクイーンズランド大学:所在地 : サウスポート その他、4つのTAFEキャンパス、多数の公・私立学校がある。 サウスポート地区にある ゴールドコースト病院 は市内最大の病院であり州で3番目に大きい病院である。年間58,000件以上の症例を扱っており、また市内唯一の公立病院である。 その他いくつかの私立病院があり、サウスポート地区にある アマランダ私立病院 や、ベノワ地区にある ピンダラ病院、タガン地区にある ジョンフリン・ゴールドコースト私立病院 などが私立としては顕著な病院である。 ゴールドコースト空港:国内線・国際線 他にブリスベン空港も利用される。 サウス・イースト・クイーンズランド地方の鉄道駅一覧 ブリスベンからシティートレイン・ゴールドコーストラインで連絡する。ゴールドコースト・ラインと空港線(エアポート・ライン)は一体で運行されている。ほとんどの列車は、ゴールドコーストの北に隣接するビーンリー駅 (Beenleigh)とブリスベンのパーク・ロード駅の間には停車しない。およそ30分おきに運行されている。シドニー方面へ行く鉄道駅はゴールドコーストには無い。そのためカントリーリンクが運行する連絡バスにてニューサウスウエルス州北東部の街カジノ (Casino) まで行く必要がある。サーファーズパラダイスのコーチターミナルよりカジノまではおよそ3時間。 また市内北部のヘレンズベール駅(Helensvale)から、大学病院駅や市内中心部を経由してブロードビーチサウス駅(Broadbeach South)までLRTが運行されている。 ゴールドコースト市内の公共交通機関はサーファーズ・パラダイスを中心に整備されており、サーフサイド・バスラインにより運営されている。北部にある大型ショッピングセンターであるオーストラリア・フェアやアウトレット・ショッピング・モールのハーバータウン、北部内陸部のドリームワールドなどのテーマパーク、南部の大型ショッピングセンターであるパシフィック・フェア、ゴールドコースト空港、クーランガッタ、南部内陸部のロビーナなどへ路線が延びている。チケットを運転手から購入するか、ゴーカードを使用することにより最終目的地まで1枚の乗車券で行くことができる。またサーファーズ・パラダイスにあるトランジットセンターからゴールドコースト空港やブリスベン空港への送迎バス、グレイハウンド・オーストラリアやプレミアモーターなどの長距離バスなどが発着する。 ゴールドコースト・ブリスベン間を走るハイウェイはパシフィック・モーターウェイ(M1)と呼ばれ、ブリスベン南部のエイトマイル・プレーンズ付近で、更に北部へと行く一部有料道路ゲートウェイ・モーターウェイとブリスベン市内に行くサウス・イースト・フリーウェイへとなる。また、南部へは、パシフィック・ハイウェイがニューサウスウェールズ州との州境でパシフィック・ハイウェイとなる。ゴールドコースト中心地にはゴールドコースト・ハイウェイと呼ばれる道路が走り、北部のヘレンズベールでパシフィック・モーターウェイと接続している。この道路はゴールドコーストの海岸付近を通過し、南部のツイードヘッヅ(ニューサウスウェールズ州)でパシフィック・ハイウェイと接続する。 中国・広西チワン族自治区北海市 メキシコ・アカプルコ ブラジル・イタジャイ フランス領ニューカレドニア・ヌメア ギリシャ・コルフ コロンビア・アンティオキア県メデジン イスラエル・ネタニヤ 日本・神奈川県 日本・北海道鷹栖町 モンゴル・ウランバートル ニュージーランド・マナワテュ・ワンガヌイ地域 ホロフェヌア 中華民国(台湾)・台北市 中華民国(台湾)・台南市 アラブ首長国連邦・ドバイ アメリカ合衆国・フロリダ州フォートローダーデール Steele, J.G. (1983). Aboriginal Pathways in Southeast Queensland and the Richmond River(クインズランド州南東部とリッチモンド川地域のアボリジニーの道). U.Q.P.: University of Queensland Press, クイーンズランド大学出版.  O'Connor, Rory (1997). The Kombumerri: Aboriginal people of the Gold Coast(ゴールドコーストの先住民、アボリジニー): ngulli yahnbai gulli bahn bugal bugalehn: we are still here. No Publisher.  Barlow, Alex (1997). Kombumerri - saltwater people. Reed.  健康都市連合 公式 ゴールドコースト市役所 (英語) G:link (英語) 観光 公式ゴールドコースト観光情報 - Very GC (英語) ゴールドコースト観光局 (日本語) ゴールドコーストの気候と服装|オーストラリア政府観光局 教育旅行公式サイト(日本語) ゴールドコーストの交通機関と地図|オーストラリア政府観光局 教育旅行公式サイト(日本語) 日本政府 在ブリスベン総領事館 (日本語) 在オーストラリア日本国大使館 (英語) 日系機関 ゴールドコースト日本商工会議所 ゴールドコースト日本人会 ブリスベン日本商工会議所 ブリスベン日本人会 ゴールドコースト日本観光協会 その他 Dengon Net ゴールドコースト発行の日本語新聞 ABC Coast FM Radio TransLink, トランスリンク -バス、電車、フェリー Coastal Watch ウェブカメラ サーファーズパラダイスの航空写真 座標: 南緯28度10分 東経153度33分 / 南緯28.167度 東経153.550度 / -28.167; 153.550" ]
ABC01-02-0075
豊臣秀吉の義兄を父に持つ武将で、関ヶ原の戦いでは裏切りによって東軍勝利の立役者となったのは誰でしょう?
小早川秀秋
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[ "小早川秀秋", "大谷吉継", "豊臣秀吉", "浅野幸長", "藤堂高虎" ]
[ "小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。 天正10年(1582年)、木下家定(高台院の兄)の五男として近江国の長浜に生まれる。母は杉原家次の娘。幼名は辰之助といった。 天正13年(1585年)に義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少より高台院に育てられた。元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗った。天正16年(1588年)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸では内大臣・織田信雄以下6大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀俊)とされた。またこの際、秀吉の代理で天皇への誓いを受け取っている。 天正17年(1589年)、豊臣秀勝の領地であった丹波亀山城10万石を与えられた。天正19年(1591年)、豊臣姓が確認され、文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し、「丹波中納言」と呼ばれた。 諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ豊臣家の継承権保持者とも見られていた。 文禄2年(1593年)、秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれたことにより、秀吉幕下の黒田孝高から小早川隆景に「秀俊を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか」との話が持ち掛けられる。これを聞いた隆景は、弟・穂井田元清の嫡男である毛利秀元を毛利家の後継ぎとして秀吉に紹介した上で、秀俊を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められる。 文禄3年(1594年)、秀吉の命により秀俊は隆景と養子縁組させられ小早川秀俊となった。また、養子縁組を契機に隆景の官位は中納言にまで上昇し、結果小早川家の家格も上昇することになる。 文禄4年(1595年)、秀俊は秀次事件に連座して丹波亀山城を没収された。しかし、同年のうちに隆景が主な家臣を連れて備後国三原へ隠居した。秀俊はその所領30万7,000石を相続する形で筑前国(名島城)国主となった。小早川氏の家督相続にあたって付家老の山口宗永が隆景直臣の鵜飼元辰らから引き継ぎを受け、検地を実施して領内石高が定められた。なお、筑前東部の5万石については隆景の隠居領であり隆景の家臣が残っていたが、慶長2年(1597年)6月の隆景没後に、小早川家でも外様衆の村上氏・日野氏・草刈氏・清水氏が秀俊に仕官した。 慶長2年(1597年)2月21日に秀吉より発せられた軍令により秀俊の朝鮮半島への渡海が決定し、釜山浦にて、前線からの注進を取り次ぐ任が与えられた。 同年6月12日小早川隆景が没した。この日以降、朝鮮在陣中に名乗りを秀俊から秀秋へ改名している。 同年12月23日から翌慶長3年(1598年)1月4日にかけて行われた蔚山城の戦いに参加したとする史料もあるが、これは寛文12年(1672年)年成立の「朝鮮物語」を典拠としており、「黒田家文書」をはじめこの戦いに関する一次史料群に秀秋の参加を裏付けるものは確認されない。 秀秋は慶長2年(1597年)12月以前より再三秀吉からの帰国要請を受けており、慶長3年(1598年)1月29日ようやく帰国の途についた。秀秋帰国後も小早川勢は500人ほどの残留部隊が寺沢広高の指揮下で釜山の守備に就いたが、広高らも5月中には帰国している。4月20日には山口宗永が約700人規模の4部隊を日野景幸・清水景治・仁保民部少輔(仁保広慰か)・村上景親ら指揮のもと順次交替で西生浦に駐屯させ、指示に従わない者が出た場合は毛利吉成と相談のうえで成敗しても構わないとする命令を出している。 帰国した秀秋には秀吉より越前北ノ庄15万石への減封転封命令が下った。これにより筑前国の旧小早川領は太閤蔵入地となり、石田三成と浅野長政が代官になっている。この国内召還と転封は蔚山城の戦いにおける秀秋の軽率な行動が原因とされることが多いが、前項で述べた通り、秀秋の帰国日程は蔚山城の戦い以前にすでに決定されており、また蔚山城の戦いへの秀秋の参加を裏付ける史料も存在しないため、実際には無関係であると考えられる。この転封の際の大幅な減封により、秀秋家中は多くの家臣を解雇することとなり、長く付家老として秀秋を補佐してきた宗永もこの時、秀吉直臣の加賀大聖寺城主となって秀秋の元を離れている。隆景以来の旧小早川家家臣の高尾又兵衛や神保源右衛門らは、代官として派遣されてきた三成の家臣として吸収された。秀秋からの筑前没収は朝鮮出兵の長期化の中での日本国内の兵站補給拠点である博多を含めた筑前の直轄支配の一環とも考えられる。 慶長3年(1598年)8月秀吉が死去すると、その秀吉の遺命をもとに翌慶長4年(1599年)2月5日付で徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行され、筑前・筑後に復領。所領高も59万石と大幅に増加した。なお、この時に博多の町衆の意向を受けて、秀秋は山口宗永によって否定された博多への「守護不入」復活を約束している。 秀秋は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初、西軍として伏見城の戦いに参加した後、本戦では1万5,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山に陣を敷いていた伊藤盛正を追い出してそこに布陣した。 関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。度々使者を送ったにも関わらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていたといい、秀秋の陣へ鉄砲を撃ち掛けたとも言う。ただし、藤本正行は当時の信用できる史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする。また現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別できなかった可能性が高いことも指摘されている。更に近年では一次史料(「慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状」など)より、関ヶ原本戦開始は午前10時ごろで、秀秋の離反もその直後であった(傍観の事実も家康による催促の事実もない)とする見方も浮上している(詳細は関ヶ原の戦い#一次史料による合戦当日の記録参照のこと)。 こうしたやり取りはありながらも、秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。この際、小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得できなかった為、無断で撤退している。秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも平塚為広・戸田勝成とともによく戦って小早川勢を食い止めたが秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、吉継・為広・勝成の諸将は討死した。 これにより大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、三成は大坂城を目指し伊吹山中へ逃亡した。なお、翌日以降に行われた三成の居城佐和山城攻めなどでも秀秋は出陣している。 この秀秋の離反については、当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われており、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれた連書状が現存している。白川亨、三池純正らの、「高台院は西軍を支持していた」という異なる説やその他傍証もあり、この書状の内容について研究が待たれている(内容では北政所のために東軍につけとは直接言ってはいない)。また、本戦の開始前より離反することを長政を通じて家康に伝えており、長政は大久保猪之助、家康は奥平貞治を目付として派遣している。 一方で三成、吉継ら西軍首脳も秀秋の行動に不審を感じていたらしく、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2ヶ国の加増を約束して秀秋を慰留したとする史料もある。ただしその史料は正徳3年(1713年)成立の「関原軍記大成」に収録されている書状で原本は確認されておらず、また文体に不審な点があることから偽文書の可能性がある。また、松尾山は12日の時点で「中国勢を置く」との増田長盛宛石田三成書状が確認されており、それまで陣取りしていた大垣城主・伊藤盛正を追い出して着陣している。関ヶ原決戦が計画的なものでなく、突発的なものであったとする説では、三成は秀秋が松尾山に陣取ったことで腹背に脅威を得、大垣城を出ざるを得なかったとする。 理由はともあれ、合戦中に裏切りを行った秀秋に対する当時の世評は芳しいものではなく、豊臣家の養子として出世したにも関わらず裏切りに及んだことが卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた。 戦後の論功行賞では備前・美作・備中東半にまたがる、播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。なお、戦後まもなく秀秋から秀詮へと改名している。秀詮はこの国替えの際に前領地の筑前国より年貢を持ち去っている。 岡山城に入った秀詮は家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行う一方で、伊岐遠江守、林長吉ら側近勢力の拡充を図っている。慶長6年(1601年)に長年家老を勤めた重臣・稲葉正成が小早川家を出奔しているがこの背景には旧来の家臣団層と新たに台頭してきた側近層との対立が背景にあると考えられる。 関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)10月18日、秀詮は21歳で急死した。聖護院道澄の残した記録による上方から帰国の途上で行った鷹狩の最中に体調を崩し、その3日後に死去したと記されている。秀詮のこの早世に関しては、秀秋の裏切りによって討ち死した大谷吉継の祟りによるものとする逸話も残されているが、実際に残されている病歴からは酒色(アルコール依存症)による内臓疾患が死因として最有力となっている。 秀詮の死後、小早川家は無嗣断絶により改易された。これは徳川政権初の無嗣改易であった。秀詮の旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められたため仕官先がなかったなどと言われることがあるが、実際には最後まで秀詮に仕えた後に幕府に召し出され、大名となって立藩した平岡頼勝がいる他、前田家や紀伊徳川家の家臣となった者もいた。 秀秋死後、彼と親交の深かった近衛信尹が記した追悼文によると、少年時代は蹴鞠や舞など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったが、やがて酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、秀秋の保護者的立場にあった高台院(北政所)を悩ませるようになったという。このため、秀秋は肝硬変を患っていたとの説もある。また常楽会の場において乱暴を企てるなど素行に問題があったようである。 秀秋はその高台院から五百両にもおよぶ莫大な借金をしているが、それ以外にも客人への借金申し込みもしており、生活は奢侈なものであったようである。 正室である長寿院は毛利輝元の養女であり、文禄3年(1594年)秀秋の小早川家への養子入りにともなって結婚したものであるが、この結婚は毛利家にとって気苦労の多いものだったらしい。秀吉の死で情勢が変化したことにより、慶長4年(1598年)9月頃、秀秋と別の女性の間に子供が生まれ、これに家康が介入し江戸下向を勧めたことを契機として、同年中に離縁がまとまり実家に帰ったようである。秀秋生前の慶長7年(1602年)8月、興正寺18世・准尊に再嫁している。 明治になり毛利本家からの願い出により、小早川本家再興の勅命が下った。そして、毛利本家からの養子により、小早川本家は再興した。 東京国立博物館には秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」(しょうじょうひ らしゃじ ちがいがま もよう じんばおり)が所蔵されている。鮮やかな猩々緋地の羅紗の陣羽織で、背中いっぱいに「違い鎌」紋様を、敵をなぎ倒す尚武的意義と諏訪明神の神体として置布刺繍で貼付けてある。大胆な意匠が印象的な逸品で、当時の武将の戦陣装束をよく今に伝えている( → 画像)。 山口宗永 - 丹波以来の筆頭家老。越前減封時に加賀大聖寺の独立大名に取り立てられた。関ヶ原の戦いで討死。 松野重元 - 丹波以来の家臣。関ヶ原の戦いにおいて小早川勢より離脱。 稲葉正成(通政) - 岡山転封後に逐電。後妻は春日局であり、後に大名となった。 平岡頼勝 - 秀秋の死後浪人となり、家康に召しだされて大名となる。 長崎元家 西部和泉守 杉原重政- 岡山転封後に上意討ちに遭う。 伊藤重家- 雅楽頭。関ヶ原では筑前に在国。 国府忠重- 弥右衛門。関ヶ原では筑前に在国。岡山転封後は国府内蔵丞と名乗り、秀秋改易後は池田輝政に仕えた。 堀田正吉 志賀親次 - 関ヶ原後、福島家を経て肥後細川家に仕官。 溝江長氏 - 朝倉家家臣。主家滅亡後は織田信長に下り秀吉に属し、越前に領地を有す。秀秋の越前転封後に秀秋の配下となる。子に溝江長晴がいる。 波部又右衛門 - 丹波の土豪から家臣となり、筑前入部に従う。 木下延貞 - 秀秋の実兄で客分。慶長7年(1602年)10月の同年同月に弟の秀秋同様、謎の死を遂げた。 滝川辰政 - 滝川一益の子。岡山転封後、姫路藩池田家に仕官。 ドラマ 春の坂道(NHK大河ドラマ、1971年、演 : 石橋正次) 関ヶ原(TBS、1981年、演 : 国広富之) おんな太閤記(NHK大河ドラマ、1981年、演 : 大和田獏) 徳川家康(NHK大河ドラマ、1983年、演 : 堀内正美) 真田太平記(NHK、1985年、演 : 田代隆秀) 徳川家康 (1988年のテレビドラマ)(TBS、1988年、演 : 山本陽一) 春日局 (NHK大河ドラマ)(NHK大河ドラマ、1989年、演 : 香川照之) 影武者徳川家康(テレビ朝日、1998年、演 : 太田雅之) 葵 徳川三代(NHK大河ドラマ、2000年、演 : 鈴木一真) 功名が辻(NHK大河ドラマ、2006年、演 : 阪本浩之) 戦国自衛隊・関ヶ原の戦い(日本テレビ、2006年、演 : 藤原竜也) 徳川家康と三人の女(テレビ朝日、2008年、演 : 柄本佑) 寧々〜おんな太閤記(テレビ東京、2009年、演 : 尾上松也) 影武者徳川家康(テレビ東京、2014年、演 : 柄本時生) 天地人(NHK大河ドラマ、2009年、演 : 上地雄輔) 軍師官兵衛(NHK大河ドラマ、2014年、演 : 浅利陽介) 真田丸(2016年、NHK大河ドラマ、演:齋藤絢永→浅利陽介) ^ 「金吾」は官職の左衛門督の唐名「執金吾」が由来。 ^ 「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。 ^ 「黒田家文書」所収の慶長三年正月朔日付早川長政竹中隆重連署陣触写は蔚山城の戦いの陣立書であるが、そこに秀秋の名前は無い。 ^ 8,000とする資料もある。 ^ BS-TBS『にっぽん!歴史鑑定』(2015年7月13日放送)より。番組内で出演した若林利光(医師・若林医院院長)の研究にもよる。 ^ a b 矢部健太郎「小早川家の「清華成」と豊臣政権」、『国史学』196号、2008年。 ^ 村川浩平 『日本近世武家政権論』 近代文芸社、2000年、34頁。 ^ a b 中野等「小早川秀俊の家臣団について」、『戦国史研究』27号、2008年。 ^ a b 本多博之「小早川秀秋発給文書に関する一考」、『安田女子大学紀要』25号、1997年。 ^ 「宮窪町村上家文書」(『今治郷土史 資料編 古代・中世』今治市1989年639頁92-11号文書)西生浦在番人数帳。 ^ a b 本多博之「豊臣政権下の博多と町衆」、『西南地域史研究』11号、1996年。/所収:谷徹也編 『石田三成』 戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第七巻〉、2018年。ISBN 978-4-86403-277-3。  ^ 堀越祐一「知行充行状にみる「五大老」の性格」、『國學院大學紀要』48号、2010年。 ^ 旧参謀本部『日本戦史』 ^ 『関原軍記大成』、『改正三河後風土記』 ^ 『黒田家譜』による ^ 藤本正行「関ヶ原合戦で家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいない」、『歴史読本』特別増刊、1984年2月。 ^ 三池純正 『敗者から見た関ヶ原合戦』 洋泉社、2007年5月。ISBN 978-4862481467。 ^ 白峰旬『関ヶ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年) ^ 渡邊大門「関ヶ原合戦における小早川秀秋の動向」、『政治経済史学』599.600号、2016年。 ^ 「中臣祐範記」9月15日条 ^ 黒田基樹 「第四章 小早川秀詮の備前・美作支配」『戦国期 領域権力と地域社会』 岩田書院、2009年。 ^ a b 木下家古写『系図』 ^ 『関原軍記大成』 ^ 曲直瀬玄朔『医学天正記』 ^ 近世武家の世界・コラム ^ “小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?”. yomiDr.. (2016年6月27日). https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160627-OYTET50028/ 2016年6月27日閲覧。  ^ 大日本古文書家わけ第11(小早川家文書之1)514号文書 ^ 慶長7年4月20日付小早川秀秋印判状 ^ 西尾和美、「第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」、川岡勉; 古賀信幸編 『西国の権力と戦乱』 清文堂出版〈日本中世の西国社会1〉、2010年。  『小早川家文書』 『木下家譜』 『寛政重修諸家譜』 『岡山市史』 小早川秀秋陣跡 松尾山・小早川秀秋陣跡 関ケ原町地域振興課 歴代岡山城主 岡山市デジタルミュージアム 小早川秀秋(おかやま人物往来) - 岡山県立図書館", "大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。 永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとされてきたが、現在は6年後の永禄8年(1565年)を生年とする説が有力となりつつあり、その場合は享年も従来の42歳から36歳と改められることになる。 父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず、六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である。 『華頂要略』の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官・下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある。 母が大政所ないし高台院の縁故者であったことは、すでに作者不詳の『校合雑記』に記載があったが、『校交雑記』が引く『兼見卿記』の確認作業により、吉継の母は高台院の取次役であった東殿であることが確定した。 また『関原軍記大成』では東殿が高台院の生母の朝日殿の親族であったとも語られている。天正14年(1586年)4月6日、大坂城へ伺候した豊後国の大友義鎮が国元の家老へ送った書状に孝蔵主とともにあえて東殿と名指しでその存在を伝えており、すなわち秀吉のくつろぐ奥御殿の次ぎの間に東殿が控えており、かなりの政治力を有していたことがうかがえ、豊臣家中で重責を担っていたといえる。 兄弟姉妹が存在し、栗山林斉と祐玄(祐玄坊とも)の2人の甥が記録に見える。 天正始め頃に秀吉の小姓となった。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える。天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣したが、このときに吉継も従軍している。 その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねている。このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かでない。 天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している。しかし、ここまでの逸話の中で『武功夜話』が根拠となっている逸話については偽書説があるために信憑性について問題がある。 その2ヵ月後の6月2日に織田信長が本能寺の変で横死した。秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議で織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。 秀吉と織田家重臣である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍した。そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される手柄を立てた。 天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍し、最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されている。秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行している。文書の発給もこの頃から見え、称名寺へ寺領安堵状を「大谷紀之介」の名で発給している。 また7月以前に、キリスト教に改宗していたとされ、宣教師ガスパル・コエリョが秀吉を訪問した時には、安威了佐(あい りょうさ)と共にコエリョへ果物と干柿を持参している。 同年7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更したという。9月には秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行している。 天正14年(1586年)の九州征伐では、兵站奉行・石田三成の下、功績を立てた。同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。毛利輝元の著した『輝元上洛日記』には天正16年(1588年)に輝元が上洛した際、世話になったり挨拶周りをした豊臣家や諸大名の名とそれぞれへの献上品が細かく記されており、下巻に大谷の名も見える。この時点で奉行格に列していたことが分かる。 天正17年(1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となる。吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城(現在の敦賀市結城町、三島町)を改修したと伝わるが、吉継の前に豊臣秀勝が城主になっており、天守は秀勝時代に完成していた説もある。笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、町割を川西・川中・川東の三町に改めた。 天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当した。この時、蠣崎慶広と面会し、独立の承認と豊臣政権への臣従について助力を依頼されている。検地においては、配下の代官が抵抗する農民を斬ったことが発端となり一揆が発生したが、上杉景勝の支援を要請し鎮圧した。帰還後、南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、2万6,944石を加増され、このころにいわゆる「敦賀5万石」を領することとなる。 文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。同年6月には秀吉の命令で奉行衆の一人として長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海し、特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏めた。明との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田と共に一時帰国し、文禄2年(1593年)5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たした。その後、再度朝鮮へ渡海したが、6月に晋州城攻防戦で晋州城を攻略すると戦局は和平交渉により停滞し、閏9月上旬には帰国した。最終的に決裂した和平では、明国の秀吉冊封に際し、吉継は石田三成、小西行長、宇喜多秀家、増田長盛とともに大都督の官位を受けることになっていた。 文禄2年の朝鮮からの帰還に際し、9月吉日付けでに大宰府天満宮に一対の鶴亀文懸鏡を奉納しており、この鏡は現存している。一つの銘には吉継の名が、もう一方の銘には「東・小石・徳・小屋」という4人の女性名が列挙されている。この東は吉継の母親の東殿であり、小石・徳・小屋については諸説あるが、吉継の家族であろうと考えられる。 文禄3年(1594年)には草津に湯治に赴いており、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っている。慶長2年(1597年)9月24日、秀吉は徳川家康・富田知信・織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸に訪問した。吉継は豪勢な饗宴で出迎えた。慶長3年(1598年)6月16日の豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、秀吉から菓子を賜った。慶長4年(1599年)には神龍院梵舜と女能を見物しており、病状の好転がうかがえる。 慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している。また宇喜多家中の紛争の調停をしている。 慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、3,000の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した(※異説有り、後述)。8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、この後北国口の兵3万100の大将とされた。また大坂にいた真田昌幸の正室を預かるなど、西軍の一員としての行動を開始する。大谷氏は一族挙げて西軍につき、吉継の母・東殿は高台院の代理として宇喜多秀家が行った出陣式に出席している。 こうして西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前国・加賀国における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。)。 9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。そして9月15日(10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣する。陣中にはこの他、織田信長の子・織田信吉と長次の兄弟、蜂須賀家政の重臣・高木法斎らが加わっていた。吉継は病の影響で後方にあって軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦した。 正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、初めから小早川隊の謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。 しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害した。享年42もしくは36。吉継率いる大谷軍の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。西軍の諸将の多くが戦場を離脱したにもかかわらず自害をしたのは、高台院の甥である秀秋に討たれることで、高台院への恩義に報いようとした結果の討死にではないかといわれている。 自害した吉継の首は側近である湯浅隆貞の手により関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかった。異説では切腹した吉継の首を家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。現地には首塚も建てられている。吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、隆貞は藤堂隊に駆け行って討ち死にした。居城敦賀城は家臣・蜂谷将監が東軍に引き渡しを行った。また、関ヶ原の戦い直後に勅勘が許されて京都に帰還を許された山科言経と冷泉為満に与える屋敷地が公家町の中に用意できなかった徳川家康は没収していた原勝胤と吉継の母の屋敷地(公家町の北隣にあった)を両者に宛がっていることが知られる。 辞世は「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。 墓所は、居城のあった福井県敦賀町永賞寺に九輪の石塔、岐阜県関ケ原町にも湯浅隆貞の墓と隣接して石塔が設けられ、少なくとも2ヵ所に供養塔があり、また前述のように祐玄が首を持ちかえったとされる伝承に基づく首塚が滋賀県米原市下多良に残っている。 吉継の敦賀入封は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であった敦賀港を秀吉直系の家臣に掌握させることにあり、敦賀城改築の用材は秋田実季らが軍役として賦課されている。敦賀の地は吉継支配の下、北国から畿内への輸送の拠点、出兵時の物資の調達拠点として機能した。吉継は蜂屋頼隆時代から廻船屋を営む敦賀の川船座の頭分道川氏の一族・川舟兵衛三郎に間口19間、奥行10間の地子、諸役、舟三艘の役免除の特権を与えて支配体制に取り込み(天正20年2月、「道川文書」)流通を掌握した。 文禄3年(1594年)に伏見城(指月山伏見城)が築城された際の用材「太閤板」は、道川氏一族の道川兵二郎の船で秋田から敦賀経由で伏見へと送られ、同じく道川一族の越後屋兵太郎は吉継に船を提供している。この他、高嶋屋伝右衛門らの高嶋屋一族も特権を認められて吉継に協力し、慶長元年(1596年)に木幡山伏見城が築かれた際には高嶋屋久次が太閤板14間半、慶長2年(1597年)には高嶋屋良左衛門が50間を運んでいる。伏見城下においては現在の桃山町日向より北東に屋敷を構えた。 この他、慶長2年(1597年)2月に鍛冶屋の刀禰家へ地子本銭790貫文を永代免許したという記録が残り、地場産業の育成を図ったことが見て取れる。 水軍も編成され、後の関ヶ原の戦いで前田利長が小松城を攻撃した際には、「大谷水軍が金沢を攻撃する」との噂を流させ撤退に追い込んでいる。 西福寺に対し発給した禁制など、文書も相当数が現在に伝わっている。寺社への寄進も積極的に行い、秀吉の命を受けて常宮神社を再興、氣比神宮に朝鮮から持ち帰った戦利品の鐘を奉納した他、八幡神社に本殿の欄間飾りや鳥居、灯篭などを寄進している。 「蓋し、吉隆、平日家臣に対して慈心深く、義をもつて之を奨励せし故、皆命を致して、其の恩に報ぜりと云う」「北国を経略し、士卒を訓練すること臂の指を使うがごとし」と言われ、家中の統制も行き届いていた。 吉継が生まれる前、両親が子供が出来ないことに嘆き悲しんでおり、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。そこで神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という。 相州正宗の作、敦賀正宗を召料としていたという。 吉継は当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病と考えられているが、梅毒等の異説有り)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたとされるが、江戸中期頃までの逸話集にはこの描写は存在しない。『関ケ原合戦誌記』『関ケ原軍記大成』などの軍記がこのイメージを広めたようである。ただし、目を病んでいたのは確かなようで、病が重篤化したと推定される文禄3年10月朔日付けの直江兼続宛書状の追伸で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べている。 『絵本英雄美談』により、敦賀城主として剣豪・伊東一刀斎に一刀流の剣術を学んだという。一方で、婿である真田信繁も入門したとされる。 吉継は石田三成のように最初から徳川家康を敵視しておらず、むしろ親しかったという。 天正17年(1590年)、小田原征伐に赴く秀吉が駿府城に立ち寄ろうとしたとき、三成が「駿河大納言(家康)殿は北条左京(氏直)と縁戚であり、謀略があるやも知れず、入城を見合わせては」と述べた。しかし浅野長政と吉継は「大納言殿はそのようなことをされる方ではない」と反論して秀吉に入城を勧めたという。 慶長5年(1600年)諸大名の反対を押し切って会津征伐を決断した家康を「まさに天下の主ともなる人だけのことはある」と高く評価している(『改訂後三河風土記』)。 会津征伐に赴く際、近江佐和山城に立ち寄って石田三成から家康に対して挙兵に及ぶので共にしてほしいと誘われたときも、家康と三成の石高・兵力・物量の差から軍事経験の差、器量の差などを評して到底家康に勝てるわけがないと諌めている。 石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している。その理由として両名が同世代であり、出身も同じ近江国だったためという。また秀吉は三成・吉継を「計数の才」に長けた奉行として重用しており、一緒に行動する機会が多かったことから友情を培ったのではないかといわれている。 天正15年(1587年)6月、九州征伐を終え、筑前国筥崎に到着した秀吉の機嫌を損ねてしまった吉継は、筥崎にほど近い香椎村で蟄居していた。このとき秀吉主催の茶会があり、三成がひそかに神屋宗湛へ茶器を吉継に披露するように頼んだ。吉継はひそかに船で香椎より姪浜に渡り、興徳寺に宿を借りて茶器を鑑賞したという(『宗湛日記』)。 天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる)、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。 関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという。本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかる。他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告している。 自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「三年の間に必ずや祟りをなさん(三年の間に必ずや祟ってやる)」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して死亡に至ったという噂がある。 子の大谷吉治は関ヶ原の戦い後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では義兄弟に当たる真田信繁らとともに大坂城へ入城し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で福井藩主・松平忠直の軍勢と戦い、討死した。その子孫は帰農したが、後に直系は絶え、杉山家より養子を迎えて存続している。 大坂の陣よりのち、三男の泰重の子で吉継の孫にあたる大谷重政は越前松平家に仕官し、その子孫は福井藩家老の家格に列した。老中・土井利勝らはこのことを知ると、「家康公が知ったら喜んだだろう」と言ったという。 娘(妹、姪を養女としたという説もある)は真田信繁の室であるというが、学説として信頼できる史料は無い。関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り大坂の役で信繁が死去すると、石川貞清の嫡男・石川重正に嫁いだ娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。慶安2年(1649年)に死去。信繁の子のうち幸昌、守信、あくり、阿昌蒲、おかねが子とされている。なお、吉継の娘の名前は史料では確認されておらず、死後の法名・竹林院という号しか解っていない。 どの子の系統かは不明であるが、会津戦争に際して会津藩に組織された白虎隊士中2番隊の隊員で飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は吉継の子孫と言われる。津田家には吉継の甲冑が伝来し、逸話を父から聞かされた捨蔵は鎧を着用すると三度宙に躍り上がり敵の首を斬る動作をしたという。 湯浅隆貞(五助) - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。 湯浅十郎左衛門 - 隆貞の子。後高力家に仕官した。 三浦喜太夫 - 隆貞の従者。吉継の首を地中に埋めて隠した。 諸角余市 - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。 土屋守四郎 - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。 笠井慶秀 - 武田旧臣・笠井満秀の子。関ヶ原後、日頃目をかけられていた井伊直政に召し出され仕官した。 三位融盛 岩田五助 島信勝 -島清興の息子、軍奉行。名は清正とも。関ヶ原の戦いで藤堂隊と戦い討死。 蜂屋将監 - 敦賀城留守居役。関ヶ原敗戦後、東軍に城を引き渡した。後福島正則に仕えた。 蜂屋右京進 - 文禄5年(1596年)、秋田実季に対し「御橋板」受取状を発した。 高橋二郎兵衛 - 同上。 蜂屋市兵衛 - 老臣と目される。 下河原惣左衛門 - 老臣と目される。 佐久間与左衛門 岩間伝五郎 橋元久八 岡部小衛門 富永主膳 中田六兵衛 引塩伝右衛門 - 文禄3年(1594年)5月明の講和使節沈惟敬が来日した際「唐便萬事用所等承り、相調可申添奉行」を務めた。 小岩内膳 - 同上。 大滝源右衛門 本多政重 このほか、蜂屋頼隆旧臣で召抱えられた者も多いと思われる。 公認キャラクター 敦賀城主だった大谷吉継にちなんだ「よっしー」を、敦賀市は公認キャラクターとしている。もともとは2006年に敦賀市立博物館で開かれた企画展のイメージキャラクターだったが、二年後に市の公認キャラクターに昇格し、2011年7月には着ぐるみも披露された。 書籍 外岡慎一郎「大谷吉継と敦賀」(『敦賀論叢』15号、2000年) 外岡慎一郎「大谷吉継と関ヶ原」(『歴史読本』49巻11号、2004年) 外岡慎一郎「大谷吉継年譜と若干の考察 付・関係文書目録(稿)」(『敦賀市立博物館研究紀要』30号、2016年) 外岡慎一郎「二日酔いの大谷吉継」(『日本歴史』820号、2016年) 歴史読本編集部『炎の仁将 大谷吉継のすべて』(中経出版、2012年) 藤本正行「関ヶ原合戦の松尾山城と大谷吉継の陣営」(『中世城郭研究』29号、2015年) 井上泰至『関ケ原はいかに語られたか』(勉誠出版、2017年) 小説 南原幹雄『名将 大谷刑部』(角川書店、1996年) 野村敏雄『仁将—小説大谷吉継』(PHP研究所、1996年) 菅靖匡『小説大谷吉継』(学研M文庫、2006年) 山元泰生『大谷吉継』(学陽書房人物文庫、2009年) 富樫倫太郎『白頭の人』(潮出版社、2015年) ^ 慶松とも書く。 ^ 関ヶ原の戦いで西軍へ加担することを決めた際に、吉継では「(三好)義継」に音が通じて不吉であるという理由で吉隆に改名したという(安積澹泊『烈祖成績』)。 ^ 関ケ原町にある吉継の墓塔は「大谷吉隆墓」として国の史跡に指定されている(国の史跡「関ヶ原古戦場」の附指定)。陣跡を示す碑に「大谷吉隆陣所古址」、墓塔の案内板に「大谷吉隆(吉継)」とそれぞれ記されている。 ^ 業病とは前世の罪の報いとして発する病気という意味で、非常に治りにくい病気・あるいは不治の病の総称として使われたが、特に相貌に著しい病変を起こすハンセン病は近代になるまで業病の一種として忌み嫌われていた。吉継がハンセン病であったと断定されているわけではないが、『本願寺日記』には千人斬りで騒がれたのは吉継が癩病(らいびょう、ハンセン病のこと)の患者で人体のある部分を(食するために)必要としたのだとする説を載せている。その他の病名として組織壊死まで至った末期梅毒説もある。 ^ 宮本義己も2000年9月3日、歴史シンポジウム「大谷吉継の謎に迫る」(敦賀・プラザ万象)において永禄8年説を指摘し、染谷光廣の説を補強する。 ^ 兼見卿記天正二十年一月三日 「ひかし殿子息刑部少輔廿八才」(数え年。満年齢27歳の年である)このとき吉継の母である東殿は吉田神社の神主である吉田兼見に祈祷を頼んでおり(朝鮮出兵の戦勝祈願か)、この年齢も東殿の申告である可能性が高い ^ 太田亮の『姓氏家系大辞典』に「大谷刑部少輔吉隆は豊後の人にして」「子孫盛治の子吉隆、刑部少輔に任ぜらる」とある。『名将言行録』においても「吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ」とある。『国史大辞典』では「父は豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治であるといわれている」とある ^ 毛利氏に仕えた石見益田氏の家臣に平貞経を祖とする広瀬古土居城主・匹見大谷氏があり、この匹見大谷氏の初代に「盛」の字を持つ大谷盛胤がいること、16世紀半ばの当主に姓名官途とも同じ大谷吉隆がいることから、これとの混同が生じたものと思われる。この大谷氏は毛利氏の敵対勢力に内通した疑いで主家益田氏から族滅されているが、内通した勢力が大友氏であった場合、「大友氏の家臣だった大谷氏」との俗説には「毛利氏陪臣から大友氏家臣になった」ということで説明がつくが、吉継豊後出身説の証拠とはならない ^ 『淡海温故録』『輿地志略』で吉継は近江大谷村の出身としている ^ 『交合雑記』『挍合雑記』とも。国立国会図書館デジタルコレクション ^ 『淡海温故録』で「秀吉公長浜御在城の頃召出され」とある ^ 『一柳家記』では賤ヶ岳七本槍や石田三成らと14人と共に柴田軍1万5000人相手に無類の働きをしたとある。 ^ 洗礼名はシモン。安威弥四郎の子。 ^ なお、慶長3年(1598年)の太閤検地により3,000石近い加増をうけるが、その際に今立郡の領地は収公されている ^ 孫の一人に大坂の役に徳川方として参陣、功を賞されて家康から50石の加増を受けた大谷隆昌(隠岐、五右衛門)がおり、判明していない一族に徳川方についた者がいた可能性はある ^ 実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという。 ^ 吉継に関しては諸説があるが、『淡海温故録』は吉継を近江出身としている。尤もこの史料は吉継を若狭国小浜城主だったとしているなど信憑性が疑問視されている。 ^ 九州征伐では共に平坦奉行を務め、天正18年(1590年)の小田原征伐でも兵站奉行を、文禄の役でも「船奉行」を共に務めている。また太閤検地でも三成と検地奉行を担当しており、天正14年(1586年)に三成が堺奉行になった際には三成の補佐役に付された。天正13年(1585年)9月14日に秀吉が有馬温泉に湯治に出かけた際にも、三成や増田長盛とその供を務めている(『宇野主水日記』)。『甫庵太閤記』では「御扶持方渡し奉行」として三成と吉継、長束正家の3人を挙げている。 ^ 本郷和人によると、この逸話の典拠は不明で、江戸時代に遡ることが難しく、明治時代のジャーナリストであった福本日南が明治43年(1911年)に刊行した『英雄論』では、三成ではなく秀吉の話として載っていて、本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い。もし何かソースをご存じの方、ぜひご教示下さい」と述べている。 ^ 大道寺友山『落穂集』では、三成に対して「殊外へいくわい(横柄)に候とて、諸大名を始め末々の者迄も日比(頃)あしく取沙汰を仕る由也」とある。 ^ 『華頂要略』門主傳第二十四 ^ 『兼見卿記』文禄4年時点 ^ 花ヶ前盛明 2000, p.219 ^ 平野明夫「大谷吉継の発給文書」。 ^ 『知恵蔵2015』 - コトバンク ^ 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、61頁。  ^ 桑田忠親 『太閤家臣団』 新人物往来社、1971年、158頁。 ASIN B000J9GTRU ^ 岡本良一「武家の書状・大谷吉継」(『日本美術工芸』365号、1969年) ^ 染谷, 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978-4-7842-1795-3 P45 ^ 『常山紀談』による。花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, pp.48-49 ^ 福井県敦賀郡編、国立国会図書館デジタルコレクション 「大谷吉継の墓」 『敦賀郡誌』 福井県敦賀郡、1915年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950917/565 国立国会図書館デジタルコレクション。  ^ 『刀根市左衛門文書』 ^ 花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, p.11 ^ 温泉草津資料 ^ 伝真田信繁写本『源家訓閲集』 ^ 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」、花ヶ前盛明 2000, p.112 ^ 大道寺友山の『異本落穂集』 ^ 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」、花ヶ前盛明 2000, pp.118-119 ^ 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」、花ヶ前盛明 2000, pp.116-118 ^ 『慶長軍記』『校合雑記』 ^ 小和田哲男「大谷刑部と石田三成」、花ヶ前盛明 2000, pp.122-130 ^ 本郷和人『戦国武将の明暗』(新潮社、2015年)31-32頁 ^ 『常山紀談』より。花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, p.40 ^ 小和田哲男「大谷刑部と石田三成」、花ヶ前盛明 2000, p.132 ^ 花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, p.41 ^ 『慶長軍記』『関東軍記大成』 ^ “智と仁の将 敦賀城主 大谷吉継(中)”. 福井新聞 (2020年3月17日). 2011年8月24日閲覧。 ^ “敦賀PR「よっしー」に任せて 市公認キャラ着ぐるみ披露”. 福井新聞 (2011年7月22日). 2011年8月23日閲覧。 花ヶ前盛明編 『大谷刑部のすべて』 新人物往来社、2000年。ISBN 4404028571。  染谷光廣『教養講座シリーズ第50集 織田信長・豊臣秀吉』(ぎょうせい、1986年) 荻原勝「小瀬甫庵『太閤記』を中心とする大谷吉継の軌跡』(『敦賀論叢』2号、1987年) 宮本義己「関ヶ原合戦―西軍の孤塁を守り義に殉じた熱き闘将―」(『歴史読本』42巻7号、1997年) 外岡慎一郎「青蓮院坊官大谷家と大谷吉継―その系譜をめぐって―」(『敦賀論叢』17号、2002年) 石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」(『日本歴史』772号、2012年) 敦賀城主 大谷吉継 戦国武将「大谷吉継」ゆかりの地巡り 大谷吉継陣跡 関ケ原町地域振興課 大谷吉継の墓・湯淺五助の墓 関ケ原町地域振興課", "豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。 秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことは出来ていない。 太閤伝説の基本とされる『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なか(のちの大政所)の子として生まれたとされる。竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としているが、父親はともかく、二位尼君という高い官位に叙任されているところから大政所と呼ばれた人物が母親であろうことは推認できる。通俗説で父とされる木下弥右衛門や竹阿弥は、足軽または農民、同朋衆、さらにはその下の階層とも言われてはっきりしない。天野信景の『塩尻』では「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている。後述するように皇胤説もあるが、一般には下層階級の出身であったと考えられている。 生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。誕生日は1月1日、幼名は「日吉丸」となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている。 広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされる。江戸初期に成立した『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。しかし、『甫庵太閤記』では竹阿弥を秀吉の実父としている。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・ねねの母方の姓とする説もある。秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「武功夜話」)、大工・鍛冶などの技術者集団や行商人であったとする非農業民説、水野氏説、また漂泊民の山窩出身説、などがあるが、真相は不明である。 はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した。 なお、その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3,000石を与えられ、天正16年(1588年)には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。 天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える。 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していった。また、有名な逸話として信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は秀吉に大いに嘉(よみ)した。 永禄4年(1561年)8月、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚する。ねねの実母・朝日はこの結婚に反対したが、ねねは反対を押し切って嫁いだ。結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。桑田忠親は浅野長勝も秀吉も足軽組頭であり、同じ長屋で暮らしていたので、秀吉は浅野家の入り婿の形でねねと婚姻したのではないかとしている。 永禄7年(1564年)、美濃国の斎藤龍興との戦いの中で、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに誘降工作を行い成功させた。 秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)。このことは、秀吉が信長の有力部将の一人として認められていたことを示している。 永禄9年(1566年)に、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がある。また、この頃、蜂須賀正勝・前野長康らを配下に組み入れている。 永禄10年(1567年)の斎藤氏滅亡後、秀吉の要請により信長から竹中重治を、牧村利貞、丸毛兼利と共に与力として下に付けられている(『豊鑑』)。 永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている。同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。 永禄12年(1569年)5月に毛利元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲国奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して元就は信長に山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼し、これに応じた信長は同年8月1日、秀吉を大将とした軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。 元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に盟友であった北近江の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲した。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口)。 そして姉川の戦いの後には、奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事した(志賀の陣)。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげた。 元亀3年(1572年)8月頃、丹羽長秀、柴田勝家のような人物になりたいという希望から木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉)。 天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした。さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用した。天正2年(1574年)、筑前守に任官したと推測されている。 天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍する。天正4年(1576年)、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。 天正5年(1577年)、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。その後、勝家らは謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮したが、織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げた(信貴山城の戦い)。 天正5年(1577年)10月23日、信長に毛利輝元ら毛利氏の勢力下にある中国地方攻略を命ぜられ、秀吉は播磨国に出陣した。播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを従える。11月中に播磨は平定できると報告して、信長より、その働きを賞賛される朱印状を送られた。 秀吉は更に播磨国から但馬国に攻め入った。岩洲城を攻略し、太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させた。以前から交流のあった小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。播磨において一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。 天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名・宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許される。 天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。 同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた山名祐豊(嫡男の山名氏政は落城前に羽柴家に帰参)が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。自らは播磨経営に専念するために弟である羽柴秀長を有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。 山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより但馬の国人の反乱も起きず、羽柴秀長による但馬経営は円滑におこなわれた。秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。 天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国(但馬守護・山名氏政の一門)を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国地方西半を支配する毛利輝元との戦いは続いた。 同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。 天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。 このように中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮されている。 天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害した(本能寺の変)。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。 6月13日、秀吉は山崎において明智光秀と戦った。この戦いでは、池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は敗北し、光秀は落ち武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。 6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。織田家重臣の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師の後見人を信孝とするという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。 信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張国、織田信孝が美濃国、織田信包が北伊勢と伊賀国、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後国、筒井順慶は大和国、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江国の滋賀郡・高島郡15万石の加増、池田恒興は摂津国尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江国佐和山を与えられた。勝家も秀吉の領地であった長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国(公式には秀吉の養子で信長の四男の羽柴秀勝に与えられた)や山城国・河内国を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのである。 「山崎合戦之地」の石碑 秀吉の旗立松、山崎合戦時、天王山 宝寺城の本丸跡 秀吉は山崎に宝寺城を築城し、山崎と丹波国で検地を実施し、さらに私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったため、柴田勝家との対立が激しくなった。天正10年(1582年)10月、勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。10月15日、秀吉は養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行う。同年10月20日付堀秀政宛の秀吉書状の宛名には、羽柴の名字が使用されており、すでに秀吉による織田家臣の掌握が始まっていることが分かる。10月28日、秀吉と丹羽長秀、池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故にし、信雄を織田家当主として擁立し主従関係を結ぶ。ただし、これは三法師が成人するまでの暫定的なものであった。 12月、越前国の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入り、柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏し、秀吉は長浜城を獲得した。12月16日には美濃国に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。 天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興・山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢であった。 2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江国に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。 4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃国に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。 4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国、能登国、越中国も平定し、前田利家には元々の領地である能登国に加えて加賀国のうちの2郡を与え、佐々成政には越中国の支配をこれまで通り安堵した。5月2日(異説あり)には、織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。 こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を差配することになった。 天正11年(1583年)、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築く。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。 6月には、北条氏と徳川氏との婚姻成立に危機感を抱いた関東の領主たちから書状が送られ、関東の無事を求められる。10月末に、徳川家康に関東の無事が遅れていることについて書状で糺した。 天正12年(1584年)、織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友で、天正壬午の乱を経て東国における一大勢力となった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。 これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃国の池田恒興(勝入斎)をも、尾張国と三河国を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢国においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。 しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出て、羽黒に布陣していた森長可を破った(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。 そのような中、森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である羽柴信吉(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし作戦は失敗し、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死した(長久手の戦い)。 こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀野井城など、信雄の本領である美濃、北伊勢の諸城を次々と攻略してゆき、危機感を覚えた信雄は11月11日、秀吉と講和し、家康も次男を人質に提出して降伏した。こうして秀吉は、軍事的にも身分的にも織田信雄を超えることで、織田政権の一角から、豊臣政権の長へと君臨することになった この戦いの最中の10月15日、秀吉は初めて従五位下左近衛権少将に叙位任官された。 秀吉は官職でも、順次主家の織田家を凌駕することになり、信雄との和議後は自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなった。 なお、その後も家臣となった有力大名に対する「羽柴」の苗字下賜は続いており、例えば前田利家は天正14年(1586年)3月20日に左近衛権少将に任じられた時に秀吉から「羽柴」の苗字と「筑前守」の受領名を与えられており、秀吉のかつての名乗りであった「羽柴筑前守」が利家によって名乗られることになる。 天正12年(1584年)11月21日、従三位権大納言に叙任され、これにより公卿となった。この際、将軍任官を勧められたがこれを断る。 天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位内大臣に叙任された。そして3月21日には紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破っている(千石堀城の戦い)。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで紀伊国を平定した(紀州征伐)。 四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将、黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず、7月25日に降伏。元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め・四国平定)。 秀吉はこの四国討伐の最中、二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分して紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、近衛前久の猶子となり、7月11日には関白宣下を受けた。 関白辞令の宣旨 權大納言藤原朝臣淳光宣、奉勅、萬機巨細、宜令內大臣關白者 天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉 — 「足守木下家文書」               右の[表示]をクリックすると読み下し文を読むことができます → 権大納言藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまわ)るに、万機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣をして関白にせしむべし者(といえり)。 天正13年7月11日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉(うけたまわ)る 関白辞令の詔書 詔、以庸質當金鏡、妥政績於通三、以愚昧受瑤圖、增德耀於明一、夢不見良弼、誰能諫言、內大臣藤原朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、固禁闕之藩屛、忠信無私、居藤門之棟梁、奇才惟異、夫萬機巨細、百官惣己、皆先關白、然後奏下、一如舊典、庶歸五風十雨之舊日、專聽一天四海之艾寧、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、天正十三年七月十一日 — 「天正六年以來關白詔勅書」               右の[表示]をクリックすると読み下し文を読むことができます → 詔(みことのり)して、庸(ひととなり)を質(もち)いて金鏡に当て、政績(せいせき)通三(つうさん)に妥(やすん)ず、愚昧(ぐまい)を以て瑤図(ようず)を受け、徳耀(とくよう)明一を増す、夢良弼(りょうひつ)を見(あらわ)れざれば、誰か能く諫言を納れむ、内大臣藤原朝臣、名は朝(みかど)を翼翔(よくしょう)し、威霆(いてい)世に驚かす、禁闕の藩屛を固くし、忠信私無し、藤門の棟梁に居(すわ)りて、奇才惟(ただ)異にす、夫(そ)れ万機巨細、百官を己(みずから)惣(す)べ、皆先んじて関(あずか)り白(もう)す、然る後、奏下すること一(もっぱ)ら旧典の如く、庶(もろもろ)五風十雨の旧日に帰す、専ら一天四海の艾寧(がいねい)を聴(はか)り、遐邇(かじ)に布(し)き告げて朕の意を知ら俾(し)めよ、主者施行(しゅしゃしぎょう)せよ、天正13年7月11日 8月から前年の小牧・長久手の戦いを機に反旗を翻した越中国の佐々成政に対しても討伐を開始したが(富山の役)、ほとんど戦うことなくして成政は8月25日には剃髪して秀吉に降伏している。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。また年末、天正地震が中部を襲った。 閏8月末には、家康が真田領に侵攻したが、10月に秀吉が仲介に入り和睦した。 同年秋、秀吉は金山宗洗を奥羽の諸領主間の和睦と調査のために派遣した。宗洗はその後、天正14年(1586年)末から15年春と天正15年(1587年)末から16年秋の3回にわたって奥羽入りし奥羽諸領主との折衝に当たった。 この年に家臣の脇坂安治宛の書状で、追放した者を匿うことのないよう警告として「追放した者を少々隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」としている。 天正14年(1586年)9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任し、ここに豊臣政権を確立させた。 また、これより前に徳川家康に対しては融和策に転じており、同年5月に妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ、さらに9月には母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促した。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。だが、結果的には秀吉は家康を軍事的に服属させることには失敗して不完全な主従関係に止まり、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続した。家康は北条氏と秀吉の間では依然として中立の立場を保持する一方、秀吉は徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可が無い限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。そのため、秀吉は東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得ず、西国平定を優先する政策を採ることになった。 その頃、九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を伸ばしており、島津氏に圧迫された大友宗麟が大坂まで来て、秀吉に助けを求めた。秀吉は、島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令を発したが、九州制圧を目前にしていた島津氏はこれを無視したので、秀吉は島津を討伐することを決めた。 天正14年(1586年)12月、まず大友義統への増援として、仙石秀久を軍監とした長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保らの四国勢が派遣され、豊後戸次川(現在の大野川)において島津家久と交戦したが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして敗戦を喫した(戸次川の戦い)。 天正15年(1587年)、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長の軍勢が豊前小倉においた先着していた毛利輝元、宮部継潤、宇喜多秀家らの軍勢と合流し豊臣軍の総勢10万が九州に到着。 同年 4月17日に日向国根城坂で行なわれた豊臣秀長軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)においては、砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を守備。 九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で、博多においてバテレン追放令を発布した。しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。 同年10月1日には京都にある北野天満宮の境内と松原において千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催した(北野大茶湯)。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、会場では秀吉も参加して野点が行われた。また、黄金の茶室も披露されている。 12月、秀吉は伊達氏、最上氏、後北条氏など関東と奥羽の諸大名に惣無事令を発令した。 天正15年(1587年)、平安京大内裏跡(内野)に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え「聚楽第」と名付ける(『太閤記』、フロイス『日本史』)。 天正16年(1588年)4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。また、同年には毛利輝元が上洛し、完全に臣従した。さらに、刀狩令や海賊停止令を発布、全国的に施行した。 イエズス会の宣教師たちは、この天正16年の段階で「この暴君はいとも強大化し、全日本の比類ない絶対君主となった。」「この五百年もの間に日本の天下をとった諸侯がさまざま出たが、誰一人この完璧な支配に至った者はいなかったし、この暴君がかち得たほどの権力を握った者もいなかった。」と『イエズス会日本報告集』に記しており、秀吉は天正16年段階ですでに日本国の完璧な支配を達成していたとする。 後代の歴史家も同様の認識を示しており、池享は前年に九州を平定し、後陽成天皇の聚楽第行幸を成功させた天正16年に秀吉は「事実上の国王」になったとしている。また堀越祐一はそれまで秀吉直臣系や旧織田系の大名のみに与えられていた羽柴氏・豊臣姓の付与が天正16年頃から毛利氏、島津氏、大友氏、龍蔵寺氏ら秀吉に臣従した大名たちにも与えられるようになることを重要視し、この時期に豊臣政権は成立したとしている。奥羽仕置後に伊達氏。最上氏、宇都宮氏にも氏姓が与えられることになるが、これらはすでに確立していたシステムを東国に適用したに過ぎないとしている。 天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。同年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野名胡桃城を奪取したことをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に20万の大軍で関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。 後北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略され、本城である小田原城も3か月の篭城戦の後に開城された。秀吉は黒田孝高と織田信雄の家臣である滝川雄利を使者として遣わし、北条氏政・北条氏直父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となった。 秀吉が東国へ出陣すると最上義光、伊達政宗ら奥羽の大名も小田原に参陣し、奥羽両国の平定も大きく前進した。小田原開城後の7月26日、秀吉は下野宇都宮城に入り、奥羽の領主に対する仕置を行った。葛西氏・大崎氏など小田原に参陣しなかった領主は改易とされ、総無事令を無視して蘆名氏などを攻めた伊達政宗には減封の処分が下され、最上義光ら小田原に参陣した領主は所領を安堵された。政宗から召し上げた所領の内、旧蘆名領は蒲生氏郷に(蘆名義広は佐竹氏与力とされた)、葛西・大崎領は木村吉清に与えられた。 天正18年(1590年)、陸奥の葛西・大崎、和賀・稗貫、出羽の仙北・由利・庄内の国衆たちは豊臣政権の仕置に反発して一揆を起こした。このうち出羽の一揆は同年中に鎮圧され、津軽氏ら出羽の大小名らは上洛し、秀吉から領地安堵の下知を受けた。しかし陸奥の葛西大崎一揆は翌天正19年(1591年)になっても続き、更に南部信直との関係が悪化した九戸政実も武装蜂起し騒乱が収まることはなかった。 そのため豊臣秀吉は天正19年(1591年)6月、豊臣秀次を総大将とする総勢6万の大軍を奥羽に派遣し鎮圧に当たらせた。この再仕置軍は秀次を筆頭に徳川家康、蒲生氏郷、佐竹義重、上杉景勝、伊達政宗、宇都宮国綱らを主力とし、蠣崎氏も蝦夷から参陣した。蠣崎氏と蒲生氏の軍勢のなかには毒矢を射るアイヌ兵も含まれていた。奥羽に到着した再仕置軍は9月1日九戸攻撃を開始し4日には平定を完了させた。 全国を平定し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。しかし毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった有力大名を滅ぼすことはしなかった。徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった。 天正19年(1591年)、弟の豊臣秀長、後継者に指名していた鶴松が、相次いで病死した。そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。この年、重用してきた茶人・千利休に自害を命じている。利休の弟子である古田重然、細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説がある。 この年、京都の四周を取り囲む御土居を構築した。これは京都の防衛のためだったとも、或いは戦乱のために定かでなくなっていた洛中と洛外の境を明らかにするためだったともされる。 天正19年(1591年)8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始める。文禄元年(1592年)3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始された。 文禄2年(1593年)8月3日に側室の淀殿が秀頼(拾)を産んだ。秀吉は新築されたばかりの伏見城に母子を伴って移り住んだ。当初、秀吉は聚楽第に秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にあって仲を取り持つつもりであった。山科言経の『言経卿記』によると、9月4日、秀吉は日本を5つに分け、その内4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると言ったそうである。 また駒井重勝の『駒井日記』(10月1日)の記述によると、将来は前田利家夫妻を仲人として秀次の娘と秀頼を結婚させて舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせるのが、秀吉の考えであると木下吉隆が言ったという。ところが、秀頼誕生に焦った秀次は「関白の座を逐われるのではないか」との不安感で耗弱し、次第に情緒不安定となった。 文禄4年(1595年)6月、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。7月3日、聚楽第の秀次のもとへ石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白の5人が訪れ、謀反の疑いにより五箇条の詰問状を示して清洲城に蟄居することを促したが、秀次は出頭せず誓紙により逆心無きことを誓った。8日、再び使者が訪れ伏見に出頭するよう促され、秀次は伏見城へ赴くが、引見は許されず木下吉隆邸に留め置かれ、その夜に上使により剃髪を命じられて、高野山青巌寺に流罪・蟄居の身となった。15日、秀次の許へ上使の福島正則・池田秀雄・福原長堯が訪れ、賜死の命令が下ったことを伝えた。同日、秀次は切腹し、小姓や家臣らが殉死した。8月2日、三条河原において秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(4男1女)及び側室・侍女らおよそ29名が処刑された。 従来、これは秀頼の誕生により秀次を疎ましく思った秀吉が、秀次が関白職を明け渡すことに応じなかったため、これを除いたという説明がなされてきた。 しかし秀吉と秀次の確執については、三鬼清一郎が唱えた統治権の対立など様々な説があり、謀反の嫌疑が事実であったのかどうかも含めて切腹の真相を記した文書が存在しないために未だに定かではない部分がある。 史学者・渡辺世祐は謀反は秀次を陥れる口実であったとしている。 また、天皇の代わりに政治を行う関白の職にありながら、「殺生関白」と呼ばれるなど、秀次の素行に問題があったとする説は当時から存在した。太田牛一の『太閤様軍記の内』や『天正記』に見られる秀次の辻斬り乱行、ジャン・クラッセの『日本西教史』に見られる「自ら罪人の首を撥ね、これを娯楽にした」や妊婦の腹を裂いて中の子を見て楽しんだ等の悪行や同様の『モンタヌス日本誌』といった複数の記述が残っている。渡辺世祐は、秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は暴戻(ぼうれい)にして関白としてあるまじき行動が多かったがゆえに身を滅ぼしたとしている。小和田哲男は、秀次の暴虐を強調することは秀吉の一族誅殺を正当化するという側面もあり、多くの逸話は創作か誇張であるとして殺生関白の史実性を否定し、宮本義己も疑問視したうえで、宮本は秀次失脚の原因として、後陽成天皇の病の際に、その主治医をしていた曲直瀬玄朔を自宅によびよせた一件が、関白の地位の乱用を問われる越権行為と判断され失脚、切腹につながったのではないかと指摘している。 谷口克広は秀次の非行そのものは否定しないながらも、天道思想による因果応報の考えによってそれが針小棒大に語られている可能性を指摘し、『太閤記』で罪状のように扱われていることには懐疑的である。 文禄5年(1596年)10月に土佐国にスペイン船が漂着し、サン=フェリペ号事件が起きる。奉行・増田長盛らは船員たちに「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。 翌慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。 文禄5年(1596年)、明との間の講和交渉が決裂し、秀吉は作戦目標を「全羅道を悉く成敗し、忠清道・京畿道にもなるべく侵攻すること、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を定め、その他の諸将は帰国させる」として再出兵の号令を発した。 慶長2年(1597年)、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出後、日本軍は作戦目標通り南岸に撤収し文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いて城郭群を補強した。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受けたが、日本軍が明・朝鮮軍を大破する(第一次蔚山城の戦い)。城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を在番として拠点となる城郭群に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させ慶長の役の作戦目標は完了した。その後、第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いにおいても日本軍が防衛に成功した。 秀吉は慶長4年(1599年)にも再出兵による大規模な攻勢を計画しており、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった。秀吉の死後、五大老により、朝鮮半島在番の日本軍に帰国命令が発令された。 慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。この頃、洛中の屋敷として御所近くに京都新城を構えたが、参内の宿所として使用したのみでついに移居することはなかった。5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。秀吉は他に、自身を八幡神として神格化することや、遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した。 自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向けて京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。死因については現在も不明である(後述#死因も参照)。 秀吉の死はしばらくの間は秘密とされることとなったが、情報は早くから民衆の間に広まっていたと推察され、後に豊国社の社僧となる神龍院梵舜は『梵舜日記』8月18日条で秀吉の死を記している。秀吉の遺骸はしばらく伏見城中に置かれることになった。9月7日には高野山の木食応其によって方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に寺の鎮守と称して、八幡大菩薩堂と呼ばれる社が建築され始めた(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)。慶長4年(1599年)4月13日には伏見城から遺骸が運ばれ阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された(『義演准后日記』『戸田左門覚書』)。 4月18日に遷宮の儀が行われ、その際に「豊国神社」と改称された。これに先立つ4月16日、朝廷から「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えられた(『義演准后日記』)。これは日本の古名である「豊葦原瑞穂国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識したものとの見方がある。4月19日には正一位の神階が与えられた。神として祀られたために葬儀は行われなかった。 豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、五大老や五奉行がこれを補佐する体制が合意されている。また、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定された。当時、日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮軍に第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いなどで勝利していたが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び、全軍朝鮮から撤退した。秀吉の死は秘密にされたままであったが、その死は徐々に世間の知るところとなった。朝鮮半島での戦闘は、朝鮮の国土と軍民に大きな被害をもたらした。また、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊し、後に滅亡する一因となった。日本でも、征服軍の中心であった西国大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。 秀吉の父・弥右衛門は百姓だったというが、百姓 = 農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある。太田道灌や北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている。 『フロイス日本史』では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、『日本教会史』には、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また小説家の八切止夫は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとそのことを示す羽柴(=端柴)に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。小説家の井沢元彦は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている。 秀吉は他の大名と同様に側室を置いていたが、正室であるねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。秀吉との間に子供が出来なかった側室達には、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁あるいは死別し再婚してから子供が出来た者が幾人かいる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が大野治長など他の者と通じて成した子だとする説もある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があった。 秀吉は子宝に恵まれなかったが、実は長浜城主時代に1男1女を授かっていたという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名は石松丸、後に秀勝と言ったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、男子が生まれたことに喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりと伝えられている。石松丸秀勝は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝の名を与えている(於次秀勝・小吉秀勝)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像という子の肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子の方は名前その他の詳細は一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」という銘記があり、これは秀吉が天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている。ただし今日舎那院では、これが秀吉の母・大政所のために寄進されたものであると説明している。しかし『多聞院日記』によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で死去しているので年代に齟齬が生じる(「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が自然と思われる)。 秀吉は自身の御伽衆である大村由己に伝記『天正記』を書かせているが、大村由己による秀吉の素性の説明は、本毎に異なっている。大村は本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分として描いたが、『天正記』の中の関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述しており、天皇の落胤であることがほのめかされている。当時の公家に萩中納言という人物は見当たらず、関白就任を側面援護するために秀吉がそのように書けと云ったとみられている。 皇胤説は秀吉自身の意向で存命中に創られたと考えられており、松永貞徳が著した『載恩記』にも、秀吉公が「わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりか玉体に近づき奉りし事あり」と落胤を匂わせる発言をしたと記録されている。しかし、これらは事実とは考えられていない。 猿面 「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿から猿と呼ばれたことは有名である。『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。 秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。 禿げ鼠 「禿げ鼠」の呼び名は、信長がねねへ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが現存している(現在は個人蔵)。ただ、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。 六本指 秀吉は指が1本多い多指症だったという記録がある(『フロイス日本史』)。右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた(『国祖遺言』)。多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い。 なお『国祖遺言』のこのくだりを紹介した三上参次は、「又『國祖(前田利家)遺言』といふ書には、太閤には右の手の指が六本あったといふ説が載って居りますが、如何ですか、他に正確なる書にはまだ見當りませぬ。」と記載している。井沢元彦は自著の中で、『国祖遺言』の存在を初めて指摘したのは松田毅一であると記載しているが、松田が指摘するよりも前に三上が指摘をしている。さらに三上が指摘をした翌年には幸田成友も秀吉の多指症について言及しており、井沢は先行研究を把握していない。姜沆の『看羊録』にも秀吉の右手が六本指であったと記録されているが、この記録には秀吉が成長した時に自ら刀で指を切り落としたと記載されている。服部英雄は『国祖遺言』を活字化しており、以下の通りである。 大閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候、然時蒲生飛騨殿・肥前様・金森法印御三人しゆらくにて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御咄候、其時上様ほとの御成人か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ、左なく事ニ候、信長公大こう様ヲ異名に六ツめか、なとヽ、御意候由御物語共候、色々御物語然之事 その他 身長は小柄であったが、詳しい数字は不明。150cm以下から160cm余まで諸説ある。髭は薄かったため付け髭をしていたが、当時の武将は髭を蓄えるのが習慣であり、髭の薄い者は付け髭をすることもあった。 様々な説が唱えられており、脳梅毒、大腸癌、痢病(赤痢・疫痢の類)、尿毒症説、脚気説、腎虚、感冒で亡くなった(そのため藤堂高虎と同様、桔梗湯を処方された)説などがある。50代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁したこともあったと記録されている。沈惟敬による毒殺説もある。 人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を与え、また小田原征伐で遅参した伊達政宗に佩刀を預け石垣山の崖上で二人きりになった。両名とも隙だらけでありながら秀吉の度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかったという。他にも小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。また家康の片腕であり秀吉との折衝役であった石川数正が出奔した際、自らの配下とした。 賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(『賤ヶ岳合戦記』)。また賤ヶ岳の戦い後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。ほかにも関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという[要出典]。 小田原征伐の際、鎌倉の鶴岡八幡宮の白旗の宮を訪ね、源頼朝の木像に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は御門(みかど)の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという[要出典]。 秀吉は「大気者」だったともいわれているが、狭量な面もあり、世評を気にした。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。一方、聚楽第に自身を非難する落書が書かれた際は、犯人を探索し7人を鼻削ぎ耳切りにした上で倒磔に処したのち、老若男女63人を磔、最終的には130人に刑罰を下している(『鹿苑日録』)。人を殺すことを嫌う人物とされる秀吉であるが、実際には元亀2年(1571年)に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』『信長公記』)、天正5年(1577年)に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに、女は磔にして200人以上処刑している(同年12月5日の羽柴秀吉書状)。 母・大政所への孝養で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒したという。秀吉が自分が天皇の落胤である噂を広めようと、自分の母がかつて上洛した際に、当時の天皇が手を付けた事があり、その結果生まれたのが自分だと吹聴した事があったが、当の大政所が激怒したため、取りやめたという話もある。 戦国大名は主君と臣下の男色(衆道)を武士の嗜みとしていたが、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。男色傾向のなさを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたときも秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる。 ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については、 優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。 極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。 抜け目なき策略家であった。 彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。 ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。 などと記している。 上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げ、この無断撤退は信長の怒りを買った。また中国攻めでも、宇喜多直家の寝返り・所領安堵を勝手に許可してしまい、再び信長に怒られている。 人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加した。武将たちも通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。 文化的修養を積むことに努力し、古典文学を細川幽斎、連歌を里村紹巴、茶道を千利休、有識故実を今出川晴季、禅を西笑承兌、儒学を大村由己、能楽を金春太夫安照に学んだ。 能楽に熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じた。和歌もよく詠んだ。茶人としても独自の境地を切り開き、武家茶の湯の大成者は千利休でも古田重然でもなく、秀吉であるとする評価もある。一方で、著名な茶人の目利きによって、単なる雑器に過ぎないものが、価値ある茶器とされて高額で売買されていたのを快く思っていなかったとされ、千利休に切腹を命じた理由のひとつと推測されている。呂宋助左衛門が献上し、高額な茶器(茶入れ)として珍重されたルソン壷が、現地では便器として使われていると知り激怒したという逸話もある。 能筆家であった。北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。また、「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話がある(『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』)。 囲碁は、織田信長から名人という称号を許された日海(後の本因坊算砂)に指導を受けており、伊達政宗の家臣・鬼庭綱元との賭け碁や、龍造寺政家をとても巧妙に負かしたので政家は敗因を考え込んでしまい帰る秀吉の見送りをし忘れたなど、真偽はとにかくエピソードがいくつか残っているほど、かなり強かったらしい[要出典]。 本能寺の変で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕とする説もある。その根拠は、秀吉の信長に対する不要な援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴え援軍を要請。ところが当時の毛利氏が高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の15,000ほどでしかなく、救援は不要であった。信長は三職推任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため上洛していた。明智光秀はそこを狙って本能寺の変を起こしたが、軍勢を集める理由が問題であった。ところが秀吉の救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われることなく軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たす。光秀が近衛前久と内通していた説があるように、秀吉も大納言の勧修寺晴豊らと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、要請を行ったとされる。 また、秀吉の中国大返しに関しても、沼城から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収しており、秀吉が優秀だったとはいえ、事前に用意をしていなければ不可能なこと、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ、変を知らせる使者は本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、変後の毛利方との迅速な講和は事前に信長が討たれることを見越して秀吉が小早川隆景・安国寺恵瓊などへ根回しを行っていた結果なのか、など疑惑が持たれている。 上記の説についての反論には以下のものがある。 『信長公記』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。 『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した。 秀吉の援軍要請は、手柄を独占することによって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)ための保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する(『常山記談』)。 本能寺の変直後の6月3日には、江北周辺の武田元明、京極高次らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収し、同城には光秀の重臣である斎藤利三が入城している。また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難している(『言経卿記』『豊鑑』)。このことから、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。 もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそれを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合は不可能となり、光秀方に有利な情勢を作り出せた。 当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。 明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。 事前の用意については、 中国大返しは信長自身による援軍を迎えるための準備が、功を奏したもので、当時、中国大返しを疑問視した発言や記録はない。そもそも沼城から姫路城まで、わずか1日で70キロ走破とは、事前の準備があってもあり得ない。実際には1日で撤収したのは最初に姫路城に到着した騎馬武者であり、徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている(『天正記』「惟任謀叛記」)。 本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃することを主張したが、小早川隆景らの反対によって取り止めになっている。一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られたことにより大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険を謀略としてあえて意図したとは考えにくい。 また迅速な撤収も、沼城から姫路城までに限られており、それ以降の光秀との決戦までの行軍は常識的な速度である。姫路城までの迅速な撤収は毛利の追撃を恐れての行動であり、姫路城からは上方の情報収集や加勢を募っての行軍であった。これは、事前に用意した上での行動というよりは、予期せぬ事態への対処とみるのが妥当である。更に秀吉の撤退、毛利の追撃、いずれにしても、両勢力の境目にあり、備前・美作を支配する宇喜多氏の動向が不透明であったことも考慮する必要がある。 なお、「豊臣秀吉黒幕説」は、数多い「本能寺の変黒幕説」のひとつに過ぎない(黒幕候補は他にも存在する)し、また「本能寺の変黒幕説」そのものが、明智光秀の謀反の理由として推測されるひとつに過ぎないことは留意する必要がある。明智光秀の謀反の動機が不明で、現在に至るまで定説が確立していないことが、光秀自身以外に動機を求める「豊臣秀吉黒幕説」を含めた黒幕説を生み出す要因となっている。 秀吉は天皇・朝廷の権威を自身の支配のために利用した、というのが定説である。 秀吉は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、彼らを実質的に自分の家臣とした。織田家との主従関係はこれによって逆転している。また、天皇の名を使って惣無事令などの政策を実行し、これに従っていないということを理由として九州や関東以北を征服するなど、戦いの大義名分作りにも利用している。これらの手法は、かつて織田信長が足利義昭の将軍としての権威を様々に利用したことや、義昭と対立した際に朝廷と接近したことと共通するものである。 さらに秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を自身の配下たちに次々と与え、天皇を頂点とした体制に組み入れた。この方策・体制は「武家関白制」などと呼ばれる。 このように秀吉の地位は天皇の家臣であったが、実質的な日本の支配者は秀吉であったことが様々な史料から読み取れる。秀吉が事実上の権力者として政治を行っていることから、摂関政治の一種とも解釈されることがある。 天下統一をなしとげた上、天皇・朝廷の権威まで加わったので、秀吉の権力は絶大だったが、一方では天皇の権威を借りているために、政権に不安要素も抱えることになってしまった。後に豊臣秀頼が関白になれなかったことは、徳川家による政権奪取や豊臣家滅亡の一因となった。 また秀吉は、誠仁親王の第六王子・八条宮智仁親王を猶子とし、親王宣下を受けさせていた。智仁親王が天皇に即位すれば、秀吉は天皇家の外戚として権力を振るうことも可能なはずであった。しかし智仁親王の即位前に秀吉は没してしまい、その後、智仁親王の即位は徳川家康によって阻止された。 秀吉は惣無事令を出して大名間における私闘を禁じた。また、武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させることを全国単位で行う刀狩令、私的な武力行使を制御することを目的とした喧嘩停止令、海賊行為に対しても海賊停止令を発布し、国内における私的な武力抗争を抑制した。これらをまとめて豊臣平和令と呼ぶ場合がある。また、これらの私的な武力抗争の抑止は、あくまで関白として天皇の命令(勅定)によって私闘禁止(天下静謐)を指令するという立場を掲げて行われた。 各地方に対しては天下人として尺の統一を行った上で全国で検地が行われた。これは太閤検地と呼ばれている。同時に日本全国の税制を石高制に統一し、国家予算の算定と税制が定められた。また、楽市楽座等、関所の廃止等も継続して行い、調整を加えつつ全国的に広げていった。職業軍人と農民を分ける兵農分離、百姓の逃散禁止、朱印船貿易、貨幣鋳造なども進めた。 豊臣政権下では一般に、年貢は農民にとって過酷な二公一民(収穫の3分の2が年貢)とされていたといわれる。これは善政で知られた後北条氏の四公六民(収穫の5分の2が年貢)と比べて重いように思われるが、二公一民というのはあくまでも年貢納入をめぐる紛争の解決の際の損免規定の設定であり、年貢免率決定権は個々の領主が握って自主的に決めており、一律に定められていたわけではない。 秀吉の政策は江戸幕府に継承されていったため、江戸時代の基礎を築いたとも言われるが、「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」と言う研究者もいれば(脇田修・佐々木潤之介)、これに否定的な研究者もいる。鎌田道隆は織田政権と豊臣政権の間、あるいは豊臣政権と徳川政権の間に中世と近世の境があるのではなく、豊臣政権の途中で中世から近世に移行したとしている。ちなみに東京大学史料編纂所では、慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立から明治4年(1871年)の廃藩置県までを近世に分類している。 仏教勢力に対しては、木食応其を仲介役として高野山を降伏させたり、三井寺を闕所にしたり、根来寺を焼き討ちするなど、信長時代に引き続き武力によって統制した。一方で寺社造営を得意とする木食応其に命じて、京都に大仏を建立したり本願寺を再建したりもしている。ルイス・フロイスは伴天連追放令後の状況にあって「(秀吉は)偶像を以前にも増して悪しざまに扱い、仏僧たちを我ら以上に虐待している」と書いている。 キリシタンに対しては、当初は好意的であった。しかし宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人を奴隷商品として国外へ売却していたことなどを理由に、天正15年(1587年)に伴天連追放令(バテレン追放令)を出した。ただしこの時の布告は強制的な禁教を伴うものではなく、宣教師たちも依然として日本国内で布教活動を継続することが可能であった。秀吉が決定的に態度を硬化させるのは、慶長元年(1596年)に起きたサン=フェリペ号事件からのことである。幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は宣教師の行いを通じてスペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していたということが強調されている。イエズス会宣教師による日本征服計画があったのは確実であるが、スペインやポルトガル本国が宣教師たちの提案に賛同したかどうかは不明である。 織田信長は自らを神として信仰させようとしたが(異説あり)、秀吉もまた自らを神として祀らせようとした。信長は記録上それを行ったとされる時期のすぐ後に死亡してしまったため、詳しいことはあまり分かっていないが、秀吉は信長よりも具体的な記録が残っている。 秀吉は死に際して、方広寺の大仏の鎮守として新たな八幡として自らを祀るよう遺言した。これ以前に秀吉は、源頼朝の富士の巻狩りに倣い、尾張で壮大な巻狩りを行っており、ルイス・フロイスはこの巻狩りの目的の1つは「頼朝の巻狩りへの人々の回想を弱めしめることであった」と推測している。しかし秀吉の死後、八幡として祀られるという希望はかなえられず、「豊国大明神」という神号で祀られ、豊国社も別に神宮寺を置くこととなった。 元和元年(1615年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と仏式の戒名を与えられた。神社も徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる。)に遷された。慶応4年(1868年)閏4月、明治天皇の御沙汰書により、秀吉の社壇を再興することが命じられた。明治8年(1875年)、大明神号は復されて、方広寺大仏殿跡に豊国神社が再建された。 秀吉は大陸侵攻(唐入り)の準備をしつつ、周辺諸国やスペイン・ポルトガルの植民地に対し服属入貢を要求した。 秀吉における海外進出の構想は天正15年(1587年)の九州遠征の時期に行われたとみられ、5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もあることを示している。 同年6月1日付で顕如に宛てた朱印状のなかで「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している(本願寺文書)。「我朝之覚」とは先例のことを指しており、具体的には神功皇后の三韓征伐の際の三韓服従の誓約、あるいは天平勝宝2年(752年)の孝謙天皇による新羅国王への入朝命令などと考えられている。この先例に倣って高麗(朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した。 翌天正16年(1588年)には島津氏を介して琉球王国へ服属入貢を要求し、以後複数回要求を繰り返す。天正19年(1591年)7月25日にはポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。同年9月15日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求し、翌天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした。 秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インドのこと)征服のために寧波に移るとしていた。 文禄2年(1593年)には高山国へ服属入貢を要求した。 人事においては、石田三成や大谷吉継らを文治派、加藤清正や福島正則らを武断派として用いた。秀吉としては個人の能力に見合った仕事を与えることで両派を形成させたと思われるが、両派を分断したことは秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂を招くことにも繋がった。 織田信長が重臣の林秀貞や佐久間信盛らを追放したことは有名だが、秀吉も神子田正治や尾藤知宣らを追放している。これらの面々は信長時代から秀吉に仕えていた家臣であり、卑賤の身から出世したため譜代の家臣というものが存在しなかった豊臣家にとって、その代わりとなる人物だったため、その追放は豊臣家の衰退に繋がったと言っても過言ではない。 天下統一後の政権の中に、秀吉に縁の深い家臣団という一群と、外様大名という一群の二つの勢力が存在し、死後の政権争いの元となっている。 蒲生秀行・小早川秀秋ら諸大名を大した罪でもないのに若年などを理由に減封・移封したことは、関ヶ原の戦いで彼らを東軍(徳川方)に所属させる一因を成した。 土木事業や溜池築堤を得意とする木食応其は多くの高野衆や各地から集めた何百人もの大工を率いて寺社の大規模造営・整備にあたっていた。豊臣政権の行政機構の中に組み込まれていたわけではないが、実質上寺社造営における豊臣家の作事組織として機能していた。 多くの家臣たちに豊臣の本姓、羽柴の氏を与えた。 江戸時代においては、公には秀吉の神格化は否定されていたが、民間では豊国大明神を起請文の対象とするなど、一種の秀吉信仰も残存していた。 江戸時代初期の『太閤記』は広く読まれ、江戸時代後期に出現した読本『絵本太閤記』は庶民の間で大流行した。これを翻案した浄瑠璃・歌舞伎の『絵本太功記』は人気演目の一つであった。ちなみに『絵本太閤記』は幕府から何度か絶版を命じられている。 慶応4年(1868年)閏4月、明治天皇が大阪に行幸した際には、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお彼を寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛する沙汰書を下している。また大正4年(1915年)には秀吉に正一位の贈位が行われたが、この際には国家の平定、対外的な国威発揚、聚楽第行幸の際などの皇室への尊崇などが評価されている。 近現代にも秀吉を題材とした小説・映画などは数多く、それらフィクションで描かれる秀吉像は、武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされることが多い。 朝鮮半島・中国大陸では侵略者として否定的な印象を持たれている。当時の中国や朝鮮の史書では、秀吉が中国出身者だったという説が書かれたものがいくつかあるが、これは日本に滞在していた中国人らが広めたものと見られている。 実線は親子関係 点線は婚姻関係 正室:北政所(杉原定利の娘・寧々) 側室:南殿(一説に山名禅高の娘というが素性不明) または 於葉の方(浅井家祐筆・石田長楽庵の娘) 長男:羽柴秀勝(石松丸) 女(名前不詳) 側室:淀殿(浅井長政の娘・茶々) 二男:豊臣鶴松 三男:豊臣秀頼 側室:南の局(山名豊国の娘) 側室:松の丸殿(京極高吉の娘・竜子) 側室:加賀殿(前田利家娘・摩阿) 側室:甲斐姫(成田氏長の娘) 側室:三の丸殿(蒲生氏郷の養女、織田信長の娘) 側室:三条殿(蒲生賢秀の娘・とら) 側室:姫路殿(織田信包の娘) 側室:広沢局(名護屋経勝の娘) 側室:月桂院(足利頼純の娘・嶋子) 側室:香の前(高田次郎右衛門の娘・種。後に伊達政宗・茂庭綱元の側室となる) 側室:円融院(三浦能登守の娘・おふく(法鮮尼)。宇喜多秀家の母) 『絵本太閤記』・『新書太閤記』によると、秀吉は故郷の尾張を離れた後、遠江頭陀寺城主・松下之綱に仕えた。之綱は秀吉を気に入り、家臣の娘で美人のおきくという女性を選び、結婚させた。しかし、おきくは秀吉を嫌い、秀吉が尾張へ向かう際に離縁したといわれている。そのため、秀吉は高台院とは2度目の結婚であり、高台院の生母・朝日殿が結婚に反対した理由のひとつともいわれている。 羽柴秀勝(織田信長の四男・於次) 豊臣秀勝(姉・とも(日秀)と三好吉房の次男。羽柴秀勝を継ぐ) 豊臣秀次(姉・とも(日秀)と三好吉房の長男) 池田輝政(池田恒興の次男) 結城秀康(徳川家康の二男) 小早川秀秋(木下家定の五男。高台院の甥) 豪姫(前田利家の娘。宇喜多秀家正室) 摩阿姫(前田利家の娘。豊臣秀吉側室) 菊姫(前田利家の庶女。早世) 小姫(織田信雄の娘。徳川秀忠正室。早世) 竹林院(大谷吉継の娘。真田信繁正室) 大善院(豊臣秀長の娘。毛利秀元正室) 茶々(浅井長政の娘。 豊臣秀吉側室) 初(浅井長政の娘。京極高次正室) 江(浅井長政の娘。佐治一成正室→豊臣秀勝正室→徳川秀忠継室) 糸姫(蜂須賀正勝の娘。黒田長政正室) 宇喜多直家の娘(吉川広家正室) 宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子、養女の婿であり婿養子でもある) 智仁親王(誠仁親王第6皇子。後に八条宮を創設) 伊達秀宗(伊達政宗の庶子) 近衛前子(近衛前久の娘。後陽成天皇女御) 譜代の家臣を持たずに生まれ、天下人へと至った秀吉は、その生涯で多くの家臣を新たに得た。 織田信長に仕えた頃からの陪臣として浅野長政、堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏、竹中重治、樋口直房、脇坂安治、片桐且元、石田三成、黒田孝高、増田長盛などがおり、福島正則、加藤清正は幼少の頃から自身で養育する。親類縁者は当然のように総動員で取り立てられたが、農民から大名となり、あげくに追放された姉婿・三好吉房だけでなく、その子・豊臣秀次、やはり甥の小早川秀秋ら、環境の激変する中で不幸な生涯を終えた者が多い。 賤ヶ岳の戦いでは、抜群の功績を上げた正則、清正に加え加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元らが賤ヶ岳の七本槍として数えられる。ただし、誰を賤ヶ岳の七本槍とすべきかについては諸説ある。 山鹿素行の『武家事紀』にて初期の功臣として、宮田光次、神子田正治、尾藤知宣、戸田勝隆の4人を列挙している。このうち、神子田正治・尾藤知宣は秀吉に暴言を吐いたことで粛清された。 信長の後継者の座を得ると、その重臣である前田利家、丹羽長秀、蜂須賀正勝らも臣下に加えるが、彼らとは友人としての関係を保ったとも考えられている。 晩年には豊臣政権の職制として五大老、三中老、五奉行、十人衆を設けるが、譜代の家臣は武断派と文治派に分かれ死後関ヶ原の戦いで戦った。 五大老 徳川家康(筆頭)、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、上杉景勝(隆景死後)、前田利長(利家死後) 三中老 生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴 五奉行 浅野長政(筆頭)、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、(宮部継潤、富田一白) 十人衆 富田一白、寺西正勝、毛利吉成、堀田一継、佐々行政、石田正澄、片桐貞隆、石川光元、山中長俊、木下延重 参謀(両兵衛) 竹中重治、黒田孝高 一門衆 豊臣秀長、豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保、小早川秀秋、宇喜多秀家、木下家定、杉原家次、浅野長政、木下勝俊、青木一矩、杉原長房 賤ヶ岳の七本槍 福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元、(桜井家一、石川一光) 七将 福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政、(藤堂高虎、蜂須賀家政) 与力衆 宮部継潤、一柳直末、田中吉政、木村定重、小出吉政、亀井茲矩、谷衛友、寺沢広高、新庄直頼、斎村政広、別所重宗 信長親族 織田秀信、織田信包、織田長益、織田信秀、織田信高 信長旧臣 丹羽長秀、蜂須賀正勝、前野長康、蒲生氏郷、堀秀政、細川藤孝、細川忠興、蜂屋頼隆、京極高次、長谷川秀一、長谷川与次、日根野弘就、日根野盛就、長谷川宗仁、矢部家定、建部寿徳、稲葉一鉄、市橋長利、伊東長久、九鬼嘉隆、古田重然、堀内氏善、丸毛兼利、毛利秀頼、猪子一時 黄母衣衆 青木一重、伊木遠雄、石尾治一、伊東長実、井上道勝、小野木公郷、郡宗保、津田信任、戸田勝隆、友松盛保、中島氏種、中西守之、長原雲沢軒、野々村雅春、蜂須賀家政、服部一忠、速水守久、尾藤知宣、神子田正治、三好房一、毛利吉成、森可政、分部光嘉、一柳直末 七手組 速水守久、青木一重、伊東長実、堀田盛重(盛高)、中島氏種、真野助宗、野々村雅春、真野頼包(助宗死後)、郡宗保 その他子飼い・馬廻衆 小西行長、大谷吉継、仙石秀久、山内一豊、松浦秀任 死後、高野山の木食応其が法要を執り行い、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られて、豊国大明神として豊国神社に祀られた。しかし大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により方広寺の大仏の鎮守とするために豊国神社は廃絶され、廟も壊され、大仏殿裏手に遷されている。この時、神龍院梵舜の嘆願により、梵舜の神宮寺や内苑(本殿など)の建物は残された。なお、建造物の一部は片桐且元らによって宝厳寺や都久夫須麻神社に移築されたともされる。その後、残った建物も妙法院に移されることになり、以後は建物は荒廃していったとされる。明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社再建の機運が高まり、侯爵・黒田長成が音頭を取り阿弥陀ヶ峯に墓標が建立され豊国神社は再興された。 秀吉が主祭神として祀られている神社は、京都市以外には大阪、金沢、長浜、名古屋、小松島、福岡等にある。なお高野山奥の院に豊臣家墓所があるのは有名であるが、現存する墓碑の中に秀吉のものはない。その理由は不明。 名古屋市秀吉清正記念館 佐賀県立名護屋城博物館 絵画 豊臣期大阪図屏風 小説 『新書太閤記』吉川英治 『異本太閤記』山岡荘八 『新太閤記』海音寺潮五郎 『新史太閤記』司馬遼太郎 『妖説太閤記』山田風太郎 『夢のまた夢』津本陽 『秀吉-夢を超えた男』堺屋太一 『秀吉と利休』野上彌生子 『秀吉の枷』加藤廣 漫画 『豊臣秀吉』 横山光輝 『学習漫画 日本の伝記 豊臣秀吉』 久松文雄 『黄金太閤記』 小島剛夕(井沢元彦原作) 『豊臣秀吉』 樋口清之 『豊臣秀吉』 さいとう・たかを 『豊臣秀吉』 土山しげる 『豊臣秀吉勇将録 戦国武将列伝』 『戦国人物伝 豊臣秀吉』 瀧玲子(すぎたとおる原作) 映画 『絵本太閤記(太功記十段目)』(1908年、M パテー商会、撮影:男澤粛) 『豊太閤栄華物語』(1918年、演:尾上松之助) 『出世大閤日吉丸』(1919年、演:尾上松之助) 『木下藤吉郎』(1921年、演:澤村四郎五郎) 『太閤記』(1922年、演:尾上松之助) 『大功記十段目』(1922年、演:嵐璃徳) 『大功記十段目』(1923年、演:澤村四郎五郎) 『木下藤吉郎』(1924年、演:澤村四郎五郎) 『豆本太閤記』(1926年、演:松尾文人) 『羽柴筑後守』(1926年、演:片岡左衛門) 『木下藤吉郎』(1928年、演:実川延松) 『出世筑前守』(1928年、演:綾小路絃三郎) 『豊太閤』(1929年、演:河津清三郎) 『英傑秀吉』(1929年、演:河部五郎) 『太閤記 藤吉郎走卒の巻』(1935年、演:尾上栄五郎) 『太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻』(1936年、演:尾上栄五郎) 『怪童日吉丸』(1937年、演:井上琢也) 『出世太閤記』(1938年、演:嵐寛寿郎) 『祝言太閤記』(1940年、演:藤井貢) 『夫婦太閤記』(1940年、演:藤井貢) 『花婿太閤記』(1945年、演:嵐寛寿郎) 『凸凹太閤記』(1953年、大映、監督:加戸敏、演:森繁久彌) 『新書太閤記 流転日吉丸』(1953年、演:東宮秀樹→市川右太衛門) 『新書太閤記 急襲桶狭間』(1953年、演:市川右太衛門) 『俺は藤吉郎』(1955年、演:林成年) 『太閤記』(1958年、演:高田浩吉) 『ホラ吹き太閤記』(1964年、東宝、監督:古沢憲吾、演:植木等) 『清須会議』(2013年、東宝、監督:三谷幸喜、演:大泉洋) テレビドラマ 以下は豊臣秀吉が主人公の作品。重要な人物なので脇役や準主役となると作品も演じた役者も膨大な数にのぼる。 『太閤記』(1957年、日本テレビ、演:大川太郎) 『新書太閤記』(1959年、毎日放送、演:東宮秀樹→宮崎照男) 『珍版太閤記』(1960年、KRT、演:矢代和雄) 『あまから太閤記』(1967年、毎日放送、演:白木みのる) 『太閤記』(1965年、NHK大河ドラマ、演:石川秀樹[要曖昧さ回避]→緒形拳) 『青春太閤記 いまにみておれ!』(1970年、日本テレビ、演:なべおさみ) 『新書太閤記』(1973年、テレビ朝日、演:山口崇) 『太閤記』(1987年、TBS大型時代劇スペシャル、演:柴田恭兵) 『天下を獲った男 豊臣秀吉』(1993年、TBS大型時代劇スペシャル、演:柳葉敏郎) 『豊臣秀吉 天下を獲る!』(1995年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:中村勘九郎) 『秀吉』(1996年、NHK大河ドラマ、演:竹中直人) 『太閤記 サルと呼ばれた男』(2003年、フジテレビ、演:草彅剛) 『太閤記〜天下を獲った男・秀吉』(2006年、テレビ朝日、演:中村橋之助) ボードゲーム 『秀吉軍記』(ツクダホビー) コンピューターゲーム 『太閤立志伝』シリーズ(コーエー) 歌謡曲 俺は藤吉郎(三波春夫) ^ 生年は天文5年1月1日(1536年2月2日)とも伝わる。 ^ 『江源武鑑』によると六角義秀の偏諱で元吉から秀吉に改めたとあるが、『江源武鑑』は偽書とするのが一般的であり信憑性は薄い。 ^ 木綿のように使い勝手が良く、くたびれにくい、という意味。 ^ 秀吉の馬印を「千成瓢箪」とするのは誤伝。 ^ 『太閤素性記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて種子島に鉄砲が伝わったのが1543年8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている。 ^ 一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。 ^ この説を支持している代表的な人物として、歴史学者の石井進が挙げられる。また小和田哲男は、秀吉本人ではなく、その先祖や周囲の人々が非農業民だったのではないかとしている。 ^ 日本家紋研究会の高澤等は秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、水野氏説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を『歴史読本』に寄稿している。 ^ この説を唱えている代表的な人物として、作家の八切止夫や小林久三が挙げられる。歴史小説家加藤廣も、『秀吉の枷』と『空白の桶狭間』の中でこの説を採用している。 ^ 『太閤記』といった秀吉の伝記では、松下之綱が烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。 ^ 『太閤素性記』のように、朋輩に妬まれて虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出した、と書いてある史料が多い。藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする『甫庵太閤記』や『真書太閤記』などの説もあるが、いずれにせよ真偽は不明である。 ^ 仕官のいきさつについては、信長に直訴した(『太閤記』)、信長に仕えていた友人の紹介(『太閤素性記』)、信長の側室・吉乃の紹介(『武功夜話』)など諸説あり、真相は不明である。 ^ 『絵本太閤記』が初出。 ^ 『森家先代実録』によると、名古屋因幡守(名古屋山三郎の父)がねねの父を説得し、信長にも秀吉のことを執り成したという。因幡守の妻・養雲院がねねと接点があったためだという。そのため因幡守の死後、養雲院は秀吉から知行をもらい京都四条の屋敷で栄耀に暮らしたという。因幡守の娘(お岩)は弟・秀長の嫡男小一郎の正室となっている(その後、小一郎は夭折した)。[信頼性要検証] ^ 一夜城の逸話はよく知られたものであるが『絵本太閤記』『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく、江戸時代の創作であるとする説が強い。 ^ ともに川並衆とも言われるが、「川並衆」の記述がある文書は『武功夜話』のみの為、呼び名に関して創作説がある。 ^ 従来は『信長公記』や『三河物語』に書かれているように秀吉が殿軍を率いたとされてきたが、近年は当時の序列から考えて池田勝正が率いたのではないかともされる。 ^ 桑田忠親は、羽柴姓への改名は天正元年7月8日から9月7日の間としている。 ^ 反対した理由の一つに秀信の母が武田信玄の五女・松姫(信松尼)説の存在がある(『西山家文言覚書秘伝録』)。また、勝家が三法師の後継に反対したという話は『川角太閤記』の創作によるもので、事実ではないとする説もある。 ^ 当時としては他に類を見ない巨大な要塞だったが、大坂の陣で焼失した。現在の大阪城天守閣は、この秀吉の大坂城と後年江戸幕府によって再建された大坂城の姿を折衷したもので、昭和6年(1931年)に復元した鉄筋コンクリート製の「復興天守」である。 ^ のちに昇進のための辻褄合わせが行われ、従五位下左近権少将叙爵の綸旨は2年さかのぼった天正10年に発給されたことになっている。天正11年5月5日に従四位下参議と任官された文書もあるが、これも同様と見られている。 ^ 『多聞院日記』にある、天正12年10月頃朝廷から将軍になるよう勧められたが断ったという記述による。 ^ 家康は翌年7月にも真田領への侵攻を計画するが、秀吉が諫めたことで未遂に終わっている ^ これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は名字、「豊臣」は本姓であり、両者は性質が異なる。詳細は「豊臣氏」を参照。 ^ 『公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』には後陽成天皇の即位式当日、式に先立って任官が行われたと記されており、『公卿補任』はその事実を憚ったものと考えられている。 ^ 秀吉は征夷大将軍に就いて幕府を開くために足利義昭に自身を養子にするよう依頼したが断られたために関白を望むに至ったというのは今日では事実ではないと考えられている。林羅山の『豊臣秀吉系譜』や『後鏡』にそうした記述がみられるものの、これを裏付ける史料はない。これが後に武内確斎の『絵本太閤記』に採られて通説となった。 ^ このとき、井伊直政・榊原康政・大久保忠隣など多くの徳川家臣が豊臣姓で叙位任官されている。 ^ 秀吉の蔵入地222万石というのは多くの直臣に所領を分け与えた残りであり、一方の家康の250万石は直臣に分け与えた所領もあわせての数字であり、純粋な石高で家康が秀吉を上回る訳ではない。家康自身の蔵入地は約100万石であるので秀吉の方が大きい。 ^ 異説では、宮部継潤・前田玄以・中村一氏・堀尾吉晴(堀秀政)・山内一豊の5名。 ^ 高野山に秀次が送られた理由は「不慮之御覚悟」とあるのみで内容は明記されていない。断罪した側がその口実すら記さないという状態で、その他の文書でもぼかした表現のものしか存在しない。秀次が謀反を起こしたというのは『御湯殿上日記』や『伊達文書』という一次史料ではあるものの豊臣家の外の記録が根拠とされている。 ^ 事件後に使者となった奉行衆は加増されており、石田三成らは秀次の助命に動いたという説がある一方で、その逆に秀吉の意を汲んで秀次を亡き者にすべく謀反を捏造したという陰謀説もあり、相反する評価がある。 ^ 摂政関白をもじったもの。太田牛一『大かうさまくんきのうち』で初めて登場。正親町上皇が崩御の後に秀次は喪に服さずに鹿狩りをしたということから「院の御所に たむけのための 狩なれば これをせつせう 関白といふ」と落首が詠まれたという逸話から来ているが、この句自体は後世の作とされ、また鹿狩りをしたのは実際には秀次ではなく秀吉であったとする説もある。太田牛一の書いたものが小瀬甫庵の『太閤記』など他のほぼ全ての出典元となっているが、秀次と最も親しかった公家山科言経の日記に符合する記述がないことなどが指摘され、後述する史家はそもそも殺生関白と当時の人々に呼ばれていたのかに疑念を呈しており、議論がある。 ^ フランス生まれのイエズス会宣教師。秀次の逸話は実際に秀次と親しくしていたブロエー師の記述から得た話としている。 ^ 同書には、その後、秀次は悪行を止めたが、誓紙を交わすなどして味方を集めるなどして具体的に謀反を計画したと疑われ、最終的には謀反のかどで処罰されたという話になっている。 ^ 著者のアルノルドゥス・モンタヌス(宣教師兼歴史学者)はクラッセよりもさらに7年後に生まれた人物で、およそ1世紀後に文書記録を元にしてこの本をまとめている。 ^ 江戸時代前期の歴史学は儒学者を中心として行われ、儒学思想に基づいた解釈が強い影響を与えた。 ^ 現在、阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建っているが、この工事の時(明治30年)、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された。 ^ 秀吉の死の直後の8月22日に方広寺大仏境内三十三間堂を会場として大規模な千僧供養が実施されている。参会者にも知らされなかったが、これが実質的に仏式による供養(葬儀)であったと考えられる。事情を察してか前日には多くの民衆が大仏に集まったという。(『義演准后日記』) ^ 架空の葬儀として描かれた『豊太閤御葬式之図』が残っている。 ^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。 ^ これと次の任官は、『公卿補任』では天正10,11年のこととされているが、事実ではなく秀吉の急激な昇進を辻褄合わせするために書かれたものだと考えられている朝尾直弘『大系日本の歴史8天下一統』小学館ライブラリー、pp.199-201 ^ 当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例だった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。 ^ 井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層に見られた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。 ^ 『フロイス日本史』に「300名の側室を抱えていた」と記録がある。だが、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親も、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官も含めた数字とするのが自然である。また、大名から取った人質を愛人として囲っていると宣教師が誤認した可能性もある。 ^ 「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉。 ^ 前田利家の回想録 ^ 漫画『センゴク』『シグルイ』に登場する秀吉は六指である。 ^ 朝鮮の古文書『燃黎室記述』による。ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年(1596年)で、秀吉が死亡したのはその3年後である。 ^ 「伝源頼朝坐像」(重要文化財)、現在は東京国立博物館所蔵。「e国宝」に画像と解説あり。 ^ 秀吉が親孝行であったことは明治時代の国定教科書でも好意的に記述された。 ^ 織田信長と長谷川秀一、武田信玄と小姓・春日源助。 ^ 『信長公記』。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。 ^ 秀吉の和歌は、八条宮智仁親王によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された。 ^ 増川宏一は算砂が「信長に名人とされたこと」「秀吉に仕えたこと」、いずれも否定している。 ^ 相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続たちへの備えといった理由による。 ^ 『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報(誤報)が入っていた。仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている(谷口克広説など)。 ^ 織田信長も誠仁親王の第五王子の興意法親王を猶子としていた。 ^ 豊臣政権は座の撤廃も積極的に行った。大村由己の『秀吉事記』の「座を破らる」という記述から、研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者もいるが、実際にはこの記述がある1585年には秀吉はまだ前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書も発給していた。 ^ 秀吉は織田政権下ではまだ存在していた七口の関を廃止しているが、一方で徳川家康の領地の関所は廃止された形跡がなく、江戸時代までそのまま存続していた。 ^ 東京大学史料編纂所HP「近世史料部」参照。 ^ アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している。 ^ 当時は神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたし、また鎌倉時代の『曽我物語』(妙本寺本)においても日本の西の果てを「鬼界・高麗・硫黄嶋」と記している。秀吉のこうした振舞いは朝鮮を惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示している。 ^ 秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による ^ さらに南蛮つまりヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたとする説もある(佐藤信淵『宇内混同秘策』)。 ^ 当時、台湾に存在するとされた国 ^ 外苑部分は破却された。 ^ “特別展 三英傑と名古屋”. 名古屋市博物館. 2015年11月17日閲覧。 ^ 『信長・秀吉・家康―天下統一と戦国の三英傑』 学研〈歴史群像シリーズ〉、2006年。ISBN 978-4-056-04248-1。 ^ 小和田 1985, pp. 51-52. ^ a b c d 池上, pp. 147-149 ^ 小和田 1985, pp. 50-52. ^ 田端, p. 11. ^ 田端, p. 9. ^ 桑田忠親 『女性の名書簡』 東京堂出版、1993年。 ^ 『坪内系譜』 ^ 小和田 1985, p. 103. ^ 渡辺世祐 『豊太閤の私的生活』 講談社、1980年、47頁。 ^ a b 桑田忠親 『豊臣秀吉研究』 角川書店、1975年、148頁。 ^ 桑田忠親『太閤の手紙』31頁、天正元年十二月廿二日秀吉書状 ^ 太田牛一; 中川太古 『現代語訳 信長公記』 (Kindle版) 中経出版〈新人物文庫〉、2013年、182頁。 ASIN B00G6E8E7A ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp.32-39.) ^ 村川 2000, p. 11〜[要ページ番号] ^ a b 尾下成敏「清洲会議後の政治過程-豊臣政権の始期をめぐって-」、『愛知県史研究』10号、2006年。 ^ 谷口央 2011, pp. 15-18. ^ 谷口央 2011, p. 7. ^ 松下浩 『織田信長 その虚像と実像』 サンライズ出版、2014年、116頁。 ^ 四宮美帆子、「豊臣政権下の鷹図」、早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊, 日本語日本文学 演劇映像学 美術史学 表象・メディア論 現代文芸 58, 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よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。紀伊和歌山藩初代藩主。浅野氏15代当主。 天正4年(1576年)、近江国滋賀郡坂本で浅野長政(長吉)の長男として生まれる。童名を長満(ちょうみつ)。初名を長慶(ながよし)といった。 父・長政は安井重継と長勝の姉との間に生まれた子で、跡継ぎが夭折した長勝の養子となった。母・やや(長生院)の出生には二説あり、豊臣秀吉の正室・ねね(高台院 / 北政所)の実妹で叔母・七曲殿(長勝の後妻)の養女になったとも、長勝と樋口美濃守の娘(長勝の最初の妻)との間にできた実子とも言う。ねねも長勝の養女であったことから、長政とは義兄妹の関係であり、何れにしても、幸長は甥にあたる。 天正17年(1589年)4月、従五位下・左京大夫に叙任される。 天正18年(1590年)、小田原の役で父に付き従って初陣。当時わずか15歳。5月、岩槻城を攻めに参加して、20日、本多忠政と共に大手口を破り、力戦した。戦功を秀吉に激賞され、滝川忠征を遣わしてのしつきの刀、脇差しを与えられた。 文禄元年(1592年)、文禄の役では、肥前名護屋城に陣した。しかし渡海する前に、6月に肥後国葦北郡佐敷で梅北国兼が梅北一揆が起こしたので、秀吉は激怒してこの鎮圧を(肥後国人一揆の際に)案内役だった長政に命じ、鎮圧部隊の大将に幸長を指名した。また、秀吉は徳川家康に要請して副将に陪臣である本多忠勝を付けさせた。ところが、現地に到着する前に一揆は鎮圧されていたので、幸長は途中で来た道を戻って、朝鮮に渡海することになった。長政は奉行として一揆の沙汰を行った。 幸長は朝鮮国都表出勢衆の一つとして兵3,000を率いた。伊達政宗は在陣衆とされてまだ出征を命じられていなかったが、長政と懇意にしていたので、幸長の後見人として同行したいと自発的な出征を秀吉に申し出て許可された。幸長・政宗は共に釜山浦で諸将と合流し、西生浦に築かれた倭城に在番した。その後は加藤清正隊と合流して各地を転戦した。 文禄2年(1593年)11月20日、秀吉は、五奉行の1人であった長政を呼んで、(加藤光泰が同年8月に朝鮮で陣没したため)長政・幸長父子に(若狭国から移封して)甲斐国府中22万5,000石を与えると伝えた。配分も、幸長に16万石、長政に5万5,000石と、1万石は公料(蔵入地)と定められた。この頃、幸長は出征中だが、甲斐府中城主とされた。 文禄4年(1595年)に日明間で和議が成立したため帰国。しかし7月に関白豊臣秀次の切腹事件が発生し、幸長は相婿の関係にあった秀次を弁護したことで秀吉の逆鱗に触れ、連座して能登国津向に配流された。ただし前田利家・徳川家康の取り成しもあり、まもなくして恩赦された。 慶長2年(1597年)、再出兵で慶長の役が始まると、渡海して西生浦に着陣した。 日本軍は全羅道・忠清道に進撃して明・朝鮮軍を破り、朝鮮南部に帰還し、さらに多くの倭城の築城を開始したが、これが諸将の怠慢であると秀吉の怒りを買って出撃を催促されたので、幸長・毛利秀元・黒田長政等は再び北上した。幸長は彦陽に進んで前哨となり、加藤清正は10里離れた場所に蔚山城を築き始めた。12月21日夜、突如、明軍が浅野勢の歩哨を急襲した。幸長は翌日に反撃を試みるが、明軍は数万の軍勢であったので苦戦に陥り、幸長自身も負傷、馬印を奪われた。家臣亀田高綱が敵将を斬って混乱した隙に、蔚山城に撤退した。この時、清正は不在で、加藤清兵衛(直政)らが防戦したが、明・朝鮮軍は外郭を突破したため、諸将は手分けして曲輪を防衛しなければならなかった。幸長は太田一吉・(毛利家臣)宍戸元続らと二の丸・本丸を守った。23日、明将李如梅・楊登山が大手口に陣取って、明・朝鮮軍は四方から城を包囲した。急を聞きつけた清正が機張から500騎を率いて戻ってきたので、城兵の士気は上がったが、築城途中で城内に食糧備蓄がほとんどなく、すぐに兵糧が尽きたため、雑兵が夜に城を出て死人の腰兵糧を漁るほどであった。慶長3年(1598年)1月3日、日本軍の救援部隊が到着し、明将楊鎬は慶州への撤退を決定するが、4日、城内からも打って出て明・朝鮮軍は撃破された。 戦後、幸長は西生浦に戻り、8月の秀吉の死去に伴い、10月に帰国した。同年冬頃から奉行衆筆頭で文治派の石田三成と激しく対立し、幸長・細川忠興・加藤清正・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・蜂須賀至鎮ら七人衆(七将)で徒党をなし、武断派と称され、五大老筆頭・徳川家康に与した。 慶長4年(1599年)、三成と家康の争いの中では、幸長は家康の伏見屋敷を警備していた。閏3月3日に前田利家が亡くなると、翌4日に武断派の七将が三成の大坂屋敷を襲撃するという噂が流れて、三成は宇喜多秀家の屋敷に隠れ、前田玄以が城番を務める伏見城へ逃れた。七将も伏見へ押しかけて(伏見屋敷の)家康に三成追討の許可を得ようとしたが、家康は同調せず、調停すると称して、10日、三成を結城秀康を伴わせ、三成を佐和山城へ送って蟄居とした。13日、替わって家康が伏見城の西の丸に入城したので、人々は家康が「天下殿になられ候」と噂したという。 慶長5年(1600年)、家康が会津征伐へ出立するとこれに長政・幸長親子で従軍。下野国小山で三成が謀反を起こしたとの情報が入って数日滞陣している時、軍議の席で幸長は進み出て、上方の妻子が人質に取られているといって疑念を持たないでもらいたいと言って、家康と同盟を新たにして、先鋒の一つに任命された。 東海道を進んで、8月22日、木曽川渡河に際して幸長・池田輝政は西軍の押さえとなり、西軍が攻撃してくると新加納川を渡って木造長政らを撃破した。23日、石田三成家臣・柏原彦左衛門の籠もる瑞龍寺山砦を攻撃し、彦左衛門の首を獲り、敵兵500余を討ち取った。 9月14日、家康が赤坂岡山に着陣すると、南宮山の毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家ら西軍勢に備えとして、池田と共に垂井一里塚付近に陣を構えた。このため終日対峙したままで終わり、本戦には加わらなかった。 戦後、福島・池田等と京都に行って禁裏を守護した。諸国の制札でも福島・池田・浅野三人の連署の判形を出して洛中洛外の暴虐の者を禁じた。21日、井伊直政と共に大坂城へ向かい、西の丸に籠もっていた毛利輝元との和議を仲介した。24日、輝元が退出すると、代わって幸長が西の丸に入り、家康をここで迎え入れた。10月、軍功を賞されて、紀伊国で37万6,560石を与えられ、和歌山城主となった。 慶長6年(1601年)、従四位下・紀伊守に叙任された。慶長8年(1603年)、豊臣姓が確認される。同年7月28日、豊臣秀頼と千姫の婚儀のために大坂城へ登城した。 慶長13年(1608年)、幸長の娘・春姫(高原院)が家康の9男・尾張大納言徳川義直と婚約した。翌慶長14年(1609年)、その義直の居城となる名古屋城普請(所謂、天下普請)に、幸長・加藤清正・福島正則・池田輝政等、20大名が携わった。慶長15年(1612年)に両者の縁組が公表されたが、義直の病気などのために婚儀は順延となった。 慶長16年(1611年)、秀頼の二条城登城において、親族の福島正則・加藤清正・幸長が警護役に指名されるが、正則が罹患を理由に辞退したため、清正と幸長の二人で、家康と秀頼の対面を実現させ、警備を行った。 慶長18年(1613年)8月25日、和歌山で病死した。享年38。幸長には男子が無かったため、死後、次弟・長晟が家督を継いだ。晩年は病気平癒を願ってキリスト教を信奉していたという。春姫にも洗礼名があった。 慶長20年(1615年)2月15日、尾張藩より成瀬正成・竹腰正信が使いとして浅野家に来て、幸長の死で破談になったと噂されていた春姫と義直の祝言を4月に行うと告げた。しかし3月1日に祝言は6月に延期するという知らせが駿府の家康のもとから来た。ところが、やはり4月に行うということになって、4月12日に婚儀が執り行われた。白銀2,000両等が家康への持参金として支払われ、驚くほど豪華な婚儀であった。また14日には豊臣秀頼も祝儀として刀・呉服などを下賜した。これは大坂夏の陣が始まる直前であり、戦端が開かれる前に婚儀を行うか、後のするか揉めたわけである。ひと月も経たぬ、5月8日に大坂城は落城して豊臣家は滅亡したが、徳川家の親族に鞍替えした浅野家は末永く存続した。 砲術家稲富一夢に師事し、「天下一」と称されるほどの鉄砲の名手だった。 『当代記』では、幸長は数年前に疱瘡を患って養生していたが、その甲斐無く亡くなったとし、死因を「偏ニ好色故之、虚ノ病ト云々」として、死の5年前の酉年(1609年)に「葛城」という名の遊女を買取り、「當春又無右衛門尉」という傾城の美女を召し置いて慰んでいたが、これがもとで早世したとしている。これは腎虚を引き起こして、唐瘡(梅毒の末期症状)へ至った花柳病(性病)による死であろうという意味である。 前田利家の五女・与免と婚約したが、彼女は嫁ぐ前の文禄2年(1593年)に早世した。 武勇に優れた歴戦の勇将であり、その武勇には諸大名も一目置いたといわれる。また、学問にも熱心で、藤原惺窩・堀正意らに師事した。 加藤清正、福島正則、黒田長政らと共に石田三成とは不仲で、武断派の中心人物である。 加藤清正と同じく徳川家康の天下を認めつつも、終生にわたって豊臣氏に忠誠を誓い続けた。そのため、警戒した徳川氏によって暗殺されたとする説もある。 徳川家康のために、赤坂見附御門とともに江戸城外堀として堰堤によって溜池を築造した。実際には家臣・矢島長雲にあたらせた。矢島は甲州人。 ^ a b c d e f g h i j k 堀田 1923, p. 697. ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, p. 49. ^ 長勝の弟・長継の娘。 ^ 杉原長房の娘。 ^ a b 桑田 1971, p. 138. ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, pp. 48-49. ^ 堀田 1923, pp. 695-697. ^ ただし、4年後の文禄5年には政宗は長政と絶交している。 ^ 堀田 1923, pp. 696-697. ^ a b c 堀田 1923, p. 696. ^ 14万石の軍役は3,500人で、2万石は無役。 ^ 4万5,000石の軍役は1,000人で、1万石は無役。 ^ a b 高柳 & 松平 1981, p. 11. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典-浅野幸長』 - コトバンク ^ 堀田 1923, pp. 697-698. ^ a b c d e f g h i j 堀田 1923, p. 698. ^ 小和田泰経; 小和田哲男(監修) 『関ケ原の戦い : 勝者の研究・敗者の研究』 学研パブリッシング、2014年、26-27頁。ISBN 9784054060364。  ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年 ^ a b 浅野史蹟顕彰会 1917, p. 108. ^ 『浅野考譜』では慶長15年、『経年大略』『柳営譜略』では慶長14年とる。 ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, pp. 102-108. ^ a b 浅野史蹟顕彰会 1917, p. 110. ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, pp. 108-109. ^ 桑田 1971, p. 139. ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, pp. 110-117. ^ 「傾城」は、君主の寵愛を受けて(城 を滅ぼすほどほどの美女の意味で、転じて遊女をさす表現。男性名のようであるが、男娼ならば「男傾城」と書かれるはずであり、女性の仮名であろう。 ^ 徳富猪一郎 国立国会図書館デジタルコレクション 『家康時代 中巻 大阪役己篇』第12巻 民友社〈近世日本国民史〉、1946年、104頁。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223807/72 国立国会図書館デジタルコレクション。  堀田正敦、国立国会図書館デジタルコレクション 「浅野氏」 『寛政重脩諸家譜. 第2輯』 國民圖書、1923年、697-699頁。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082719/358 国立国会図書館デジタルコレクション。  桑田忠親 『太閤家臣団』 新人物往来社、1971年、138-139頁。 ASIN B000J9GTRU 浅野史蹟顕彰会編 国立国会図書館デジタルコレクション 『浅野荘と浅野氏』 浅野史蹟顕彰会、1917年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926969/41 国立国会図書館デジタルコレクション。  高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、11頁。", "藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。 弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄・高則は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって没落しており、農民にまで身を落としていた。幼名を与吉と名乗った。 はじめ近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ、長政から感状を受ける。天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きしなかった。このように仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っている。 天正4年(1576年)に信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長(後の豊臣秀長)に300石で仕える。天正9年(1581年)には但馬国の土豪を討った功績により3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となった。秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増された。 天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し、10月に湯川直晴を降伏させ、山本主膳を斬った。また秀長の命令で雑賀党の鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。同年の四国攻めにも功績が有り、秀吉から5,400石をさらに加増され、1万石の大名となった。方広寺大仏殿建設の際には材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられている。 天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することになった徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は作事奉行として高虎を指名した。高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとする。のちに家康に引見され、設計図と違う点を尋ねられると、「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」と返した。家康は高虎の心遣いに感謝したという。 天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂の戦いで島津軍に攻められた宮部継潤を救援する活躍を見せて2万石に加増される。この戦功により、秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任する。天正17年(1589年)、北山一揆の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城した。また高虎によって、多数の農民が田平子峠で斬首された。当地では「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌となって残っている。 天正19年(1591年)に秀長が死去すると、甥で養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年(1595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる。 慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦いと鳴梁海戦にも参加し、帰国後に大洲城1万石を加増されて8万石となる。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・姜沆を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。 慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去直前から、徳川家康に接近する。高虎は元々家康と親交を有しており、豊臣氏の家臣団が武断派・文治派に分裂すると、高虎は徳川家康側に与した。 慶長5年(1600年)、家康による会津征伐に従軍し、その後の河渡川の戦いに参戦する。9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継を相手に戦闘を行った。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。 戦後、これらの軍功により家康からはこれまでの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となった。これにより、高虎は新たな居城を今治城に定めて改築を行い、宇和島城には高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれた。 その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封で今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国内10万石、並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増移封され、津藩主となる。今治城は高虎の養子であった藤堂高吉を城代として治めさせた。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石になり、同年閏6月には従四位下に昇任した。しかし、この戦いで独断専行を行った家臣の渡辺了と衝突、決別している。 高虎はこの戦いの戦没者供養のため、南禅寺三門を再建(創建当時の三門は文安4年(1295年)に焼失していた)釈迦三尊像及び十六羅漢像を造営・安置している。梅原猛によれば、この釈迦如来像は岩座に坐し、宝冠をかぶった異形の像であり、高虎若しくは主君である徳川家康の威厳を象徴しているのではないかという(釈迦如来像は蓮華座に坐し飾りをつけないのが通例)。また、常光寺の居間の縁側で八尾の戦いの首実検を行ったため、縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、血天井として現存している。 家康死去の際には枕元に侍ることを許され、家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えた。 元和3年(1617年)新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、弟正高が下総国で拝領していた3000石を津藩領に編入し、これで津藩の石高は計32万3000石となった。 なお、田丸5万石は元和5年(1619年)に和歌山城に徳川頼宣が移封されてくると紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国と山城国に5万石が与えられた。 元和6年(1620年)に秀忠の五女・和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという(およつ御寮人事件)。寛永4年(1627年)には自分の敷地内に上野東照宮を建立している。 一方で内政にも取り組み、上野城と津城の城下町建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で陸奥会津藩と讃岐高松藩、肥後熊本藩の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。 元和9年(1623年)ころから眼病を患っており、寛永7年(1630年)についに失明してしまった。同年10月5日に江戸の藤堂藩邸にて死去。享年75。死因は不明だが、普請の際に水に浸かったため、喉を痛め下痢をしていた、それで桔梗湯を煎じて飲ませたというカルテが残っている。後を長男の高次が継いだ。養子の高吉は高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封、分家を興した(名張藤堂家)。 墓は東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院。また、三重県津市の高山神社に祀られている。屋敷は東京都千代田区神田和泉町他にあった(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。 身長は6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。 高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている。 高虎は8度も主君を変えた苦労人のため人情に厚く、家臣を持つことに余り頓着せず、暇を願い出る者があるときは「明朝、茶を振る舞ってやろう」と言ってもてなして自分の刀を与え「行く先がもしも思わしくなければいつでも帰ってくるが良いぞ」と少しも意に介しなかった。そしてその者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという(江村専斎の『老人雑話』)。この高虎の行為に家臣が反発すると「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と述べたと伝わる。 戦国時代並びに江戸時代初期、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材であるためだった。そこで国元において箱を書院に置き、「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」と命じた。開けてみると40人余の札があり、続いて駿府屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪ね、「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいます。皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」と嘆願し、家康も了承した。高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意である事を伝えた上で、「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。家康公の厳命に背いてはならぬ。殉死は絶対に許さぬ」と自分の死後は腹を切らずに切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように命じた。この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。彼は合戦で右腕を失っており、生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。しかし高虎は許さず、家康もこれを聞かされて「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」と厳命したため、その者も生きる事に同意したという。 江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」である。つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている。 慶長の役において加藤嘉明と功を競い、仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。別の話もある。陸奥会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという(『高山公言行録』『勢免夫話草』)。 高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし室町時代では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。 高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。幕末の鳥羽・伏見の戦いで、藤堂氏の津藩は彦根藩と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。そのため幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世に仮託して皮肉られたという。だが一方、寝返った藤堂家は官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。この津藩の寝返りが藤堂高虎の悪評を決定づけてしまったため、高虎にはありもしない悪評がつきまとうようになったと羽生道英は著書『藤堂高虎』の後書きで弁じている。 家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せた。高虎について「神祖(家康)の神慮にかなっていただけでなく、今の大御所(秀忠)も世に頼もしく思い、家光公も御父君に仰せられる事の多くを、この人(高虎)に仰せになった」とあるほど、徳川3代の将軍に信任を受けていた。 関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。 高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをしてほしいと家康に申し出た。家康が理由を訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち(前述)に守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという。 秀忠がある日開いた夜話会で、高虎は泰平のときの主の第一の用務は家臣らの器量を見抜き、適材適所につけて十分に働かせることと述べた。次に人を疑わないことが大切で、上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、勇者・智者の善人を失うであろうと語った。家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動したという。 元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うとその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した。 武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。 三大築城名人の1人と言われるほどの城郭建築の名人として知られる。慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し、幕府の天下普請で伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。 講談、浪曲『藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎(当時は与右衛門)が空腹のあまり、三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、そのことを店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪した。だが彦兵衛に「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。 高虎は死去する5年前に嫡子の高次に対して遺言を遺している。わかりやすくいえば「仁義礼智信、1つでも欠ければ諸々の道は成就しがたい」である。高虎は人の上に立つ人間には五徳が絶対不可欠であり、これを心に戒めて高次に文武両道に励むように求めた。ただ当時は既に泰平の世であるため、戦国を経験した者から詳しく聞いて指針にするように述べている。他に奉公の道に油断なく励む事、人の意見はよく聞いて常に良き友人と語り合い意見してもらい、身分の上下を問わずに良き意見は用いる事、人をもてなす場に遅刻しない事、長酒はしてはならない事を述べている。特に奉公の道は厳しく説いており、「主君がお尋ねの折には、直ちに参上せよ。虚病と偽るなどはもってのほかで、気ままな心持ちであってはならぬ」と戒めている。他には「年貢に携わる代官の報告もよく聞き、懇ろに召し使う事、戦いにおいて兵糧、玉薬が続かなければ長陣もかなわないので、侍と実務の代官は車の両輪のように思え」「武家として鉄砲・弓・馬以下の家職を忘れてはならず、諸侍には憐憫の情をかける事」などを諭している。その上で最後に「自分は小者から苦労して今の地位を得た事を考えれば、これくらいの遺訓を守る事は苦労ではなかろう」と高次に釘を刺している。 小説 徳永真一郎『影の人藤堂高虎』(毎日新聞社1987年、のちPHP文庫1990年) 村上元三『藤堂高虎』(徳間文庫1992年、のち学陽書房人物文庫2008年) 高野澄『藤堂高虎』(学研M文庫2002年) 火坂雅志『虎の城』(祥伝社2004年、のち文庫2007年) 羽生道英『藤堂高虎』(PHP文庫2005年) 横山高治『藤堂高虎』(創元社2008年) 安部龍太郎『下天を謀る』(新潮社2009年) 楽曲 高虎歌年譜(歌:真山隼人) ^ 寒松院は公園隣接地に移転したが、墓所は動物園内に残る(関係者のみ立ち入り可能) ^ a b c d e 楠戸義昭『戦国武将名言録』P72 ^ a b c 楠戸義昭『戦国武将名言録』P73 ^ a b c 桜木謙堂『高山公』P18 ^ 新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社、1996年) ISBN 4404023340 P168、桜木『高山公』P18では1万石加増とする。 ^ 『豊臣秀長のすべて』P169-170 ^ 『高山公実録』 ^ 『新七郎家乗』 ^ 『日本城郭大系』第10巻(新人物往来社、1980年)P187-188 ^ 『三重県の歴史散歩』P271 ^ 桜木『高山公』P23 ^ 桜木『高山公』P31に引く6月23日付けの秀吉朱印状による。尚、桜木は6月26日付けで海船総督に任じられ、幔幕と軍艦を下賜されたとする。桜木『高山公』P32には、斎藤拙堂の書を引いて日本丸を与えられたのも加増時だとしている。 ^ 桜木『高山公』P35。この頃から高虎は儒者の三宅亡羊に資治通鑑を講義させており、中国の歴史に感激していたという。桜木は、高虎は趙普のようだと述べている。 ^ 曲直瀬玄朔『医学天正記』。BS-TBS『にっぽん!歴史鑑定』(2015年7月13日放送)でも紹介された。 ^ 藤田達生『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―』(講談社現代新書、2006年)P28 ^ 『平尾留書』 ^ a b c 朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P664 ^ 楠戸義昭『戦国武将名言録』P124 ^ 『武将感状記』 ^ 楠戸義昭『戦国武将名言録』P125 ^ 『高虎遺書禄二百ヶ条』 ^ 『忠勤録』 ^ 『徳川実紀』 ^ 山鹿素行『武家事紀』 ^ 『武将感状記』 ^ 古賀桐庵『良将達徳鎖』 ^ 『西嶋八兵衛留書』 ^ a b c d 楠戸義昭『戦国武将名言録』P49 ^ 茶の湯は秀長に仕えていた時に千利休との交流があったとされる(藤田(2006)P17) ^ 数々の築城は大坂城の豊臣秀頼と西国の豊臣恩顧大名に対する包囲網を築くためとしている。また、高虎の伊勢転封と筒井定次の改易、脇坂安治の淡路洲本藩から伊予大洲藩への転封もこの政策の一環としている(藤田(2006)P86 - P102)。 ^ 藤堂藩家老の中川蔵人の日記には「餅を土産として渡された」とある。 ^ 楠戸義昭『戦国武将名言録』P48 書籍 『高山公実録』上巻、上野市古文献刊行会、清文堂〈清文堂史料叢書 ; 第98刊〉、1998年。ISBN 4-7924-0437-1。 『高山公実録』下巻、上野市古文献刊行会、清文堂〈清文堂史料叢書 ; 第99刊〉、1998年。ISBN 4-7924-0438-X。 桜木謙堂(謙二)『高山公』伊勢新聞社活版部、大正二年(近代デジタルライブラリー所収) 『三重県史』 『加茂町史』 朝尾直弘「「元和六年案紙」について」、『京都大學文學部研究紀要』第16巻、京都大学、1976年3月31日、 23-83頁、 ISSN 0452-9774。 久保文武 『藤堂高虎文書の研究』 清文堂、2005年。ISBN 4-7924-0593-9。 藤田達生 『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―』 講談社〈講談社現代新書〉、2006年。ISBN 4-06-149830-4。 楠戸義昭『戦国武将名言録』PHP研究所、2006年。 林泉『藤堂姓諸家等家譜集』 1985年。 史料 『徳川実紀』 『武将感状記』 『武家事紀』 『高虎遺書禄二百ヶ条』(佐伯惟直著) 『高山公実録』 『新七郎家乗』 『忠勤録』 北山一揆 筒井騒動 生駒騒動 愛媛縣護國神社 藤堂とらまる - 高虎をモチーフにしたゆるキャラ。 藤堂里香 - 競艇選手。高虎の末裔(戦国武将・藤堂高虎の末裔、色白美人の藤堂里香が復帰戦へ手応え - スポーツ報知 2017年1月31日16時3分発信、2018年1月3日閲覧。)。 とっぴんぱらりの風太郎 - 万城目学の小説。高虎に仕えていた忍者が主人公。 津藩祖 藤堂高虎 津市ホームページ 藤堂高虎・京極高知陣跡 関ケ原町地域振興課 藤堂高虎とその家臣" ]
ABC01-02-0076
木管楽器のサキソフォンに名を残すアドルフ・サックスはどこの国の人でしょう?
ベルギー
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[ "ベルギー", "フィンランド", "リヒテンシュタイン", "ポルトガル", "ルーマニア" ]
[ "ベルギー王国 Koninkrijk België(オランダ語) Royaume de Belgique(フランス語) Königreich Belgien(ドイツ語) 国の標語: L'union fait la force(フランス語) Eendracht maakt macht(オランダ語) Einigkeit macht stark(ドイツ語) (日本語訳: 団結は力なり) 国歌:La Brabançonne(フランス語) De Brabançonne(オランダ語) Das Lied von Brabant(ドイツ語) ブラバントの歌 ^ ベルギーで用いられるオランダ語はフラマン語とも呼ばれる。 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ 1999年までの通貨はベルギー・フラン。 ^ ベルギーのユーロ硬貨も参照。 ベルギー王国(ベルギーおうこく)、通称ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。首都ブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため、\"EUの首都\"とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は、19の基礎自治体から成るブリュッセル首都圏の自治体の一つ、ブリュッセル市である。 19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語の地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフランデレン地域とワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。 正式名称は、 オランダ語:  Koninkrijk België[ヘルプ/ファイル](オランダ語発音: [ˈbɛlxiə] コーニンクレイク・ベルヒエ) フランス語 Royaume de Belgique(フランス語発音: [rwajom də bɛlʒik] ロワイヨーム・ドゥ・ベルジック) ドイツ語 Königreich Belgien(ドイツ語発音: [ˈkøːnɪçraɪç ˈbɛlɡiən] ケーニヒライヒ・ベルギエン) 公式の英語表記は、Kingdom of Belgium(英語発音: [kɪ´ŋdəm ɔ´v be´ldʒəm] キングダム・オブ・ベルジャム)で形容詞は Belgian(ベルジャン)。ラテン語表記も Belgium(ベルギウム)である。 日本語の表記はベルギー王国。通称はベルギー。漢字による当て字で白耳義と表記され、白と略される。 日本語で言う「ベルギー」はオランダ語の België(ベルヒエ)に由来する。また、ベルギーという名称はガリアに住んでいたベルガエ人から取られたといわれている。 ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる。新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住をはじめ、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした。こうした民族と文化の移入は紀元前1000年頃まで続き、社会的組織の構築や金・銅・錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる。また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている。紀元前6世紀ごろになるとケルト人がライン川を渡って到来し、移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた。 紀元前後になるとローマ人との接触がはじまり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ。 ベルガエ族は多数の部族に分かれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となった。ローマはその版図をライン川まで広げてゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンヘレン、トゥルネー、アルロンといった植民都市が築かれた。 アウグストゥスの時代にベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれたが、ドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた。 3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住をはじめた。これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入をはじめ、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュとケルンを結ぶ軍用道路線まで後退した。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、その結果生まれた境界線は以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった。フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、358年、サリ族のトクサンドリア定着を認めた。 481年、次第に勢力を強めるサリ族の王に即位したクロヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国した。クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族(ドイツ語版、英語版)、ルクセンブルク南部のアレマン族、ブルグンド王国、西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した。しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ。 7世紀中盤ごろになるとアウストラシアの宮宰としてピピン2世が頭角を現し始めた。687年、テルトリーの戦いでネウストリアに勝利すると、フランク王国における支配権を確立した。732年、カール・マルテルの時代にトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利、751年にはピピン3世がクーデターを断行し、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝が興った。754年、ランゴバルド王国を討伐して獲得したラヴェンナを教皇に寄進することにより宗教的後ろ盾を得ることとなり、フランク王国は宗教的国家という特色を持つようになった。カール大帝の時代になるとフランク王国は今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、東ローマ帝国を凌ぐ大国となった。800年、サン・ピエトロ大聖堂においてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した。 カール大帝が没し、ルートヴィヒ1世の治世が終わった843年、ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国、西フランク王国とロタリンギアに分けられた。さらに870年のメルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収された。この結果ベルギー地方はスヘルデ川を境として分裂することとなった。また、9世紀初頭よりはじまったノルマン人襲来の脅威から身を守るため、各地で地主や司教たちを中心としてフランドル伯領、ブラバント伯領、リエージュ伯領、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルク伯領、ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した。なかでもフランドル伯領は、リンネルの交易によって「ヨーロッパの工場」としての地位を築き上げ、ブルッヘやヘントといった都市を中心に繁栄を誇った。 10世紀に入ると城や砦に隣接して誕生した居住地(ブルグス)の住民は共同体を形成するようになり、キヴェスやブルゲンセスといった呼称で統一的に呼ばれるようになった。特にブルゲンセスは何らかの特権を賦与された住民層を示す語となり、外来者や下層民らと自身を区別する意識を持つようになった。彼らは土地の所有など一定の条件を満たす者同士で宣誓共同体(コミューン)を結成して法人格を持つグループを構成した。コミューンを通して領主との双務的契約の締結がなされるようになり、コミューンは金銭の支払いや領主への奉仕を交換条件として税の免除や一定の自治権の取得といった特権を獲得していった。こうして都市は領主と一部の特権階級者によって支配されるようになり、一般市民との対立を招く結果となった。 1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランド王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブルッヘが征服されてしまう。この結果フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなった。 フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った。飛び地の解消を目指してフランス王国へと積極的な介入を見せたが、シャルル突進公の1477年、ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を受けることとなった。シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家のマクシミリアン大公(のちの神聖ローマ皇帝)に救援を要請し、結婚した。ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれることとなった。 ハプスブルク君主国本家からスペイン・ハプスブルク朝が分かれて、フランドルはスペイン領となった。スペイン王のカルロス1世が皇帝に即位し、ゲルデルン公国とズトフェン伯爵領を併合した。こうしてネーデルラント17州が誕生した。ブルゴーニュ公国にならい、皇帝はネーデルラント総督府に軍事・立法・財務の各職掌に評議院を設けた。また、ネーデルラントへは全国三部会と別に地方三部会も置いた。1548年、アウクスブルク仮信条協定でルイ11世が占領できなかったフランシュ=コンテを17州を同一の行政単位に統合した。スヘルデ川が独仏国境としての役割を終えた。翌年、皇帝が17州の分割相続を禁じた。日の沈まぬ国を船と郵便で駆け巡る人々が往来し、アントウェルペンはコスモポリスと化した。フェリペ2世のスペイン的圧政に17州が八十年戦争を仕掛けた。長い戦争の間にカルヴァン派の北部が豊かになり、カトリックの南部が貧しくなった。17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペインの支配下に留まった。このスペイン領南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。ここからアムステルダムへ夥しい悪貨が流入した。これは南部にとってはやむない悪鋳であった。ヴェストファーレン条約はスヘルデ川を閉鎖してアントウェルペンを機能不全にしてしまったからである。南部が爪に火を灯しているあいだに、これ以上ないカトリック勢力のルイ14世が、オランダ侵略戦争とフォンテーヌブローの勅令を試練として北部へ突きつけた。 スペイン・ハプスブルク朝の断絶により生じたスペイン継承戦争(1701年 - 1714年)の結果、ラシュタット条約でスペイン領南ネーデルランドがオーストリアに割譲され、オーストリア領ネーデルラントが成立する。1715年はカトリックの厄年であった。ルイ14世が死んで、墺土戦争が起こった。そしてオーストリアは屈辱的な「障壁条約」を英蘭に飲まされた。これは、オランダをフランスから守るために、フランスがユトレヒト条約で切り取っていったベルギー領などを奪回し防壁となすという軍事同盟であった。これにより南ネーデルラントは歳入から50万エキュを天引きされた。その金は英蘭両軍の維持費用に充当された。酷いことに、この条約はスヘルデ川閉鎖に釘を刺した。オーストリアの弱体化を意図していたことは明確であった。1723年、カール6世がオーストリア東インド会社(英語版)を認可した。このアントウェルペン資本によるベンチャー企業はインドや中国まで行った。しかし英仏蘭を相手に権益を争うことができずに1727年に解散した。仕方なしに余力資本がプロイセン王国やスウェーデンの企業へ流れた。 1740年オーストリア継承戦争ではフランスが再度ベルギーを占領した。しかしアーヘンの和約によりマリア・テレジアに返された。ボッタ・アドルノ(Antoniotto Botta Adorno)、コーベンツル(Johann Karl Philipp von Cobenzl)、スタレンベルク(Georg Adam, Prince of Starhemberg)の三人がベルギーを全面的に復興させた。このときの人口増加率は欧州で最高を記録した。 1778年と1784年の二度にわたり、カール・テオドールが、自身の領国バイエルン選帝侯領をオーストリア領ネーデルラントと交換しようと画策した。これは、1778年の方がバイエルン継承戦争の結果として、また1784年の方はウッツシュナイダーらによる反発で、いずれも失敗した。ウッツシュナイダーらはマクシミリアン・フォン・モンジュラと「啓明団」に所属していたが、領土交換を阻もうとするとき脱退して、古巣の啓明団を攻撃し公職から追放した。 1789年にハプスブルク=ロートリンゲン家の支配に対してブラバント革命が起こり、1790年には独立国家であるベルギー合衆国が建国されたが、短期間で滅ぼされた。ベルギー(およびルクセンブルク)は、オーストリア領ネーデルラントとして再びハプスブルク家の支配下に戻った。 フランス革命戦争勃発後、ジャコバン派がフランス革命国民義勇軍を主導したが、その国民義勇軍の将軍ジュールダンと公安委員カルノーはベルギー戦線で、ロベスピエールの恐怖政治中の1793年10月、オーストリア軍を殲滅した。翌1794年6月、ジュールダン将軍とベルナドット将軍は再度ベルギー戦線でオーストリア軍を殲滅した。この後、フランス革命総裁政府のフランス軍は南ネーデルランドを占領した。総裁政府の軍司令官ナポレオン将軍(当時28歳、第一統領就任以前)とオーストリアは、1797年10月にカンポ・フォルミオ条約を結んだ。南ネーデルランドはその中で、リエージュ司教領と共にフランスに併合された。 ナポレオン戦争の終結後、1815年のウィーン議定書によって現在のオランダと共にネーデルラント連合王国として再編された。また、同年にルクセンブルク大公国はネーデルラント連合王国の一部ながらドイツ連邦に加盟した。1830年にネーデルラント国王ウィレム1世の支配に対して独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。1831年にはドイツの領邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。この年にランベール銀行(現グループ・ブリュッセル・ランバート)が創設された。 同年に制定された憲法は、主たる納税者であったブルジョワジー(財産家・資本家)男子による二院制と、国王の行政や軍事など最高の国家行為には首相の承認(副署)を要することを規定した。ベルギー憲法の、その首相副署主義は新しい立憲的制度であった。これはカトリックのベルギーが、外から迎えるプロテスタントの国王、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド1世(在位:1831年 - 1865年)に対抗するためのものであった。レオポルドは、ナポレオン戦争中はロシア帝国軍の傭兵士官として戦い、戦争後の1816年にイギリスに帰化して摂政王太子(のちの国王ジョージ4世)の王女シャーロットの婿になったこともあった。また、1837年に即位することになる女王ヴィクトリアの母はレオポルドの姉であった。なお、1837年はベルギー総合会社がロスチャイルドと共同でフランス=ベルギー石炭水運会社Société charbonnière et de navigation franco-belge を設立した年でもあった。 1839年、オランダとベルギーとの平和条約(ロンドン条約)が締結された。そこにはオランダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは永世中立国の宣言をせよということになっていた。これはプロテスタント国家オランダにとって、カトリック国家フランスとベルギーとの同盟による軍事的脅威をなくすものであった。しかし、オーストリアとの経済関係まで分断する効果はなかった。後の三国同盟結成期にベルギーは確かにカトリック勢力圏であった。 新興のベルギー王家は、イギリスやフランスと関係が深かった。レオポルド1世の後妻にはフランス国王ルイ・フイリップの王女ルイーズ・マリーが迎えられ、その間の息子レオポルド2世が王位を継いだ(在位:1865年 - 1909年)。彼とイギリス女王ヴィクトリア、その王配アルバートとは従姉弟の関係にあたる。次代の国王アルベール1世(在位:1909年 - 1934年)の治世で、ベルギーは第一次世界大戦に遭遇したが、その際、アルベール1世がドイツ軍に徹底抗戦したのはこのような関係が一因であった。 つまりベルギーの経済関係はカトリックであったが、王族関係がプロテスタントでねじれていた。 ベルギーは大陸ヨーロッパで最も早く産業革命が始まった。その勢いは外資企業が支えた。フランス由来ではソシエテ・ジェネラルやオタンゲ、ドイツ由来のシャフハウゼン、そして当時グローバルなロスチャイルドが、独立まもないベルギーの資本調達に携わった。1846年、チャールズ・ホイートストンとウィリアム・クックに電信敷設を許可した。1850年頃から政府は彼らの回線を買収していった。政府は鉄道に沿って回線網を拡大し、1851年には商業利用が認可された。一方、1840年代にドイツ関税同盟加入に失敗しながらも同盟の鉄関税を50%引き下げることに成功していたため、1850年には同盟鉄輸入量の2/3すなわち7万6千トンを供給した。リエージュ、シャルルロワなどにおける石炭の産出が増加し、製鉄や機械工業が発達した。そしてこの年にベルギー国立銀行ができた。1857年、フランスと相互に、相手国法人を内国企業と原則的に対等とする協定が結ばれた。さらに同様の協定が英仏間で1862年に締結された。1865年、ベルギーはラテン通貨同盟の原加盟国となり、資本の自由化は加速した。すなわち、普仏戦争におけるベルギーは表向き中立を貫いたが、実はラテン通貨同盟を主導するフランス資本に支配されていた。 述べたように英仏と経済的に結びついていたベルギーであったが、三国同盟の結成からドイツ帝国がベルギーの利権に参加してくるようになり、アフリカ分割を主催するまでにもなった。これに対抗して露仏同盟が結ばれると、各国の膨大な資本がベルギーを経由して、およそ10年間ロシアに投下され続けた。合衆国資本も誘致された(#植民地支配)。 第一次世界大戦ではドイツ軍によってほぼ全土を占領された。戦後はドイツの脅威に対抗するためフランスと軍事協定を結んだ。すなわち産業資本家のヴァンデルや金融資本家のシュネーデルが働きかけた。実際にルール占領などでは共同で軍事行動を起こしていたが、1936年にはこれを破棄して中立政策へと回帰した。そのため第二次世界大戦では再びドイツ軍によって国土を占領された。ロンドンに亡命政権が立てられたが、国内に残った国王レオポルド3世は亡命政府の意向を無視してドイツに降伏し、立憲君主制下にある国王の権限を逸脱するものとして戦後に問題視されることとなった。 1926年にラテン通貨同盟を脱退する一方、ルクセンブルクとの通貨同盟は維持した(ルクセンブルク・フラン#歴史)。 第二次世界大戦後のベルギーは、1951年の欧州石炭鉄鋼共同体参加以来、ヨーロッパ統合において中心的な役割を果たしてきた。首相としてヨーロッパ統合を推進したポール=アンリ・スパークは欧州連合の父の一人に数えられている。ベルギーが参加してから後、共同体は数回の外債を発行している。1958年7月(4500万ドル)、1960年10月(3800万ドル)、1962年4月(2500万ドル)に関するかぎり、大口引受はクーン・ローブ、ラザード、ファースト・ボストン(現クレディ・スイス。ロックフェラー系)であった。この頃共同体と発行額が同規模のベルギー債は幹事のモルガン・スタンレーなどが引き受けていた。 1885年に第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカにコンゴ自由国を領有する。コンゴ自由国はレオポルド王の極めて残忍な統治で徹底的に搾取され、コンゴの人口は2500万人から1500万人に激減したと推定されている。コンゴの植民地化以降、アントウェルペンには世界からダイヤモンド原石の約70%が送られるようになり、当地の伝統技術でカット・研磨された。コンゴ自由国は1908年にベルギーの国家的所有に移されて、ベルギー領コンゴとして1960年まで支配された。 1906年、ジョン・モルガンとジョン・ロックフェラーだけでなく、鉱山王ダニエル・グッゲンハイム(Daniel Guggenheim)にタバコ王トーマス・ライアン(Thomas Fortune Ryan)を加えた四人を、レオポルド2世がブリュッセルへ招待し、彼の植民地企業の株式を共同保有するよう誘った。ライアンとグッゲンハイムは、ダイヤモンド開発を担うフォルミニエール(Forminière)に1/4ずつ参加した。モルガン・ギャランティ・トラストは、誘致からしばらくして、「ベルギー領コンゴ政府における伝統的な財政支援者」となった。ロックフェラー・グループもベルギー所有の植民地企業へ資本参加した。 1908年には、セシル・ローズが生前から要求していた鉄道の延長に関する交渉も再開されていた。暫定合意の結果、ブロークンヒルからカタンガ州に延伸する目的でローデシア=カタンガ接続鉄道鉱物会社が設立された。カタンガは1906年からユニオン・ミニエールが大規模に採掘していた。同年設立のジェネラル・キャリアは現在でも操業している。 第一次世界大戦では、1914年にドイツ帝国により中立を犯されて占領されるが、1919年のヴェルサイユ条約によりドイツ帝国の植民地であった現在のルワンダとブルンジを獲得した。 第二次世界大戦で、コンゴのウランがマンハッタン計画に寄与した。フランス領コンゴでも同様であった。 1960年にコンゴ民主共和国がベルギーから独立したが、独立に際してのベルギーの対応はコンゴ動乱やモブツ体制の確立など、コンゴの不安定化を大きく助長した。1958年4月にベルギー領コンゴの発行した1500万ドルの外債は、幹事のディロン・リード(150)を筆頭に、ラザード(60)、ゴールドマン・サックス(60)、メリル・リンチ(60)など40社が引受けた(括弧内は単位万ドルの引受額)。 1986年、イギリスとの間に初の国際光海底ケーブルが敷設された。現在、首都ブリュッセルは欧州委員会などの欧州連合の主要な機関が置かれており、欧州連合の「首都」に当たる性格を帯びている。ブリュッセルは2014年、ビジネス、人材、文化、政治、識字率などを総合評価した世界都市ランキングにおいて、特に「政治的関与」が高く評価され、世界11位の都市と評価された。 ベルギーは国民的立憲君主制を採用している。国家元首である国王は、立法権を連邦議会と共に行使し、行政執行権を憲法に基づき行使する。1990年に妊娠中絶が合法化される際に、当時の国王ボードゥアン1世は自身の信念に基づき中絶法案への署名を拒否したが、一時的に国王を「統治不能」状態として内閣が代行する事により、立憲君主制の原則を守ったという出来事があった。 連邦議会は両院制である。上院である元老院は、地域議会及び言語共同体議会を通じた間接選挙で選出される50議席と、間接選挙議員によって指名される10議席、国王の子女に割当てられる3議席からなる。下院である代議院の議席数は150で、比例代表選挙により選出する。いずれも任期は4年で、同日に投票が行われる。 連邦政府の長である首相は、議会の総選挙後に国王から指名された人物が組閣責任者となり、最大15名からなる内閣を組閣する(議院内閣制)。組閣責任者は必ずしも第1党から選任されるとは限らない。もしも、この後に下院の承認を得られない場合は、国王に対して辞表を提出することになる。 1995年3月23日にホロコースト否認を公式見解として非合法化する法律を制定している。しかし国内にはVrij Historisch Onderzoe​​k(ドイツ語版) のような否認主義組織も存在する。 前回の総選挙は2010年6月に行われ、12の政党が議席を獲得した。しかし北部のオランダ語圏と南部のフランス語圏の対立を背景とした連立交渉は難航を極め、正式な政権が541日も存在しないという事態となった。これは正式な政権が存在しない世界最長記録である。この政治空白の間の首相職は、総選挙で敗退したキリスト教民主フランデレン党のイヴ・ルテルムが引き続き暫定的に務めた。 2011年11月26日、新政権樹立の連立協議で、主要6政党が2012年予算案で合意に達した。当時の国王アルベール2世は、ワロン系社会党のエリオ・ディルポ党首に組閣を指示。12月5日、ディルポを新首相に任命し、政権は12月6日に発足した。 自由党、社会党、キリスト教民主党、環境政党がオランダ語系(フラマン系)とフランス語系(ワロン系)に分離するなど、地域で政党が分かれているのがベルギーの政党の特徴である。 オランダ語系政党 キリスト教民主フラームス(フラマン系キリスト教民主党) フラームス自由民主(フラマン系自由党) フラームス・ベランフ(移民排斥を掲げる極右政党) 社会党・別(フラマン系社会党) 新フラームス同盟 リスト・デデッケル フルン(フラマン系環境政党) フランス語系政党 改革運動(ワロン系自由党) 社会党(ワロン系社会党) 民主人道主義中道派(ワロン系キリスト教民主党) エコロ(ワロン系環境政党) 国民戦線(移民排斥を掲げる極右政党) 1949年以降、ベルギーは中立主義を放棄し、北大西洋条約機構に加盟し、集団安全保障体制を構築している。軍は2002年に単一の統合軍に再編成されており、その下に陸上部隊COMOPSLAND(ベルギー陸軍)・海上部隊COMOPSNAV(ベルギー海軍)・航空部隊COMOPSAIR(ベルギー空軍)・医療部隊COMOPSMED(ベルギー医療部隊)の4部隊が編成されている。冷戦期までは徴兵制が敷かれていたが、それは廃止された。現在の兵力は現役約4万人、予備役約10万人。アメリカとニュークリア・シェアリングをしており、独自の核戦力は保持していないが核抑止力をもっている。 ベルギーは1993年の憲法改正により連邦制に移行した。連邦は、ブリュッセル首都圏地域、フランデレン地域、ワロン地域の3つの地域と、フラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の2層、計6つの組織で構成される。そして、フランデレン地域とワロン地域の2つの地域は、それぞれ5つの州に分かれている。 ただし、フラマン語共同体とフランデレン地域については、ブリュッセル首都圏を除き領域が完全に重なるので、現行憲法が施行されてまもなく、フラマン語共同体政府がフランデレン地域政府を吸収する形で統合された。統合された自治体は単にフランデレンと呼ばれている。つまり、現在のベルギーには連邦構成主体は憲法上は6つ存在するが、実際上は5つしか存在しない。 フランデレン地域とワロン地域の境界線は、国土のほぼ中央を東西に横切っており、言語境界線と呼ばれる。 フラマン語共同体 フランス語共同体 ドイツ語共同体 ブリュッセル首都圏地域 -フランス語、オランダ語両言語併用 フランデレン地域 -オランダ語圏 アントウェルペン州 ウェスト=フランデレン州 オースト=フランデレン州 フラームス=ブラバント州 リンブルフ州 ワロン地域 - フランス語圏、一部ドイツ語圏 エノー州 ナミュール州 ブラバン・ワロン州 リエージュ州 リュクサンブール州 一般的に北部のフランデレン地域は平野が広がっているのに対し、南部のワロン地域はアルデンヌ高地を中心に丘陵地帯が多い。北部は豊かな土壌が広がり、野菜や果実等の都市近郊型農業や、農耕飼料を必要とする養豚・養鶏業等が営まれているのに対し、南部はアルデンヌ高地を中心に冷涼な気候で、酸性土壌も多く、肉牛、乳牛等の放牧による畜産業や、ビート栽培等が主流である。最高地点は東部ドイツ国境付近のボトランジュで、海抜693メートルに達している。 ケッペンの気候区分による温帯(Cfb)に属する。これは暖流の北大西洋海流による。晴天の続く夏期でも最高気温が20度を上回ることは多くない。面積の小さな国だが、内陸になるほど、大陸性気候の特徴が現れる。すなわち、夏の気温が上がり、冬期は寒くなる。さらに降水量の年変動が大きくなる。 首都ブリュッセル (ブリュッセル首都圏地域内のイクル、北緯50度42分、東経4度21分、標高100m)の年平均気温は10.2度、最寒月は1月(平均気温3.1度)、最暖月は7月(同17.9度)。相対湿度の年平均値は81.6%(40年平均値)、最も湿潤なのは12月 (88.4%)、最も乾燥しているのは5月 (75.2%)。年平均降水量は823.0mm、最も雨の多いのは11月 (79.5mm)、最も雨が少ないのは2月 (53.1mm) である。 2013年のベルギーのGDPは約5065億ドルであり、日本の九州とほぼ同等の経済規模である。同年の一人当たりのGDPは45,383ドルであり世界的に上位に位置する。2016年の一人当たり国民総所得(GNI)は4万1860ドルでイギリスに次ぐ世界第18位となっている。 製造業を中心に豊かな資本力を誇るものの、小国であるため貿易への依存傾向が強く、経済が安定しているとまでは言い切れない。1990年代は、上昇傾向にあったが、21世紀に入って停滞状態になった。物価は低水準安定。また、景気に左右されず、失業率は概して高い。 日本では、チョコレートやベルギーワッフル等、加工菓子の産地として知られているが、ルーヴェンにある世界最大のビール会社であるアンハイザー・ブッシュ・インベブや化学会社のソルベー、製薬会社のヤンセン ファーマなども有名である。 松方正義はベルギー国立銀行をモデルとして日本銀行を立ち上げた。明治憲法はプロイセン憲法を原案としているが、そのプロイセン憲法はベルギー憲法の貧弱な国王大権を拡大したものであった。ブリュッセル金融網の発展に伴い、ベルギー憲法は断続的に改正された。 日本との経済的関係は、地理的問題(2001年から2015年まで空路の直行便が無かった、など)や、文化的交流が少ない等の理由により、その存在は日本では一部企業を除きそれほど注目されておらず、特に銀行はバブル崩壊によりその多くが撤退した。ただし、確かな技術力を持つ企業が多いこと、またコーディネーションセンターに代表される外国企業に対する優遇税制措置が設けられていること、物流拠点としても立地が最適であること、かつ英独仏の主要国に近いこと、EUの本部所在地であること等から大手自動車メーカーなどが欧州統括本社等を置いており、2015年10月時点で240-250社がベルギーに進出している。在留届を提出している邦人は6,000人近くに達し、在留日本人の総数は欧州の中でも上位に位置する。 ベルギーは人口規模、面積とも小さい国(世界人口の0.1%、陸地面積の0.02%)であるが、中世に起源を持つ繊維産業や石炭の採炭と関連して長くヨーロッパ域内で最も工業の進んだ地域であった。第二次世界大戦以前から鉄鋼業、機械工業、石油化学工業がよく発達していた。しかしながら、石炭産業の斜陽化に従い、1980年代前半まで、長期的な低迷傾向が見られた。その後、EC域内貿易の発展や財政再建によって再び工業が興隆し、石油化学工業、非鉄金属工業、自動車、食品工業を中心とした発展が見られる。ベルギー工業は輸入原料を加工し、半製品、製品として輸出する加工工業が中核となっている。貿易依存度は輸出87.1%、輸入81.1%に達し、ヨーロッパ域内で最も貿易に依存した経済であるといえる。 主な工業都市は、アントウェルペン(石油化学工業、工業用ダイヤモンド製造業)、シャルルロワ、リエージュ(製鉄業)、テムス(造船業)、クルトレ、ブルッヘ、ブリュッセル、ヴェルヴィエ、ヘント、メヘレン(繊維業)、ヴァルサンランベール(クリスタルガラス工業)である。 世界シェアの高い工業製品は、世界第7位のプラスチック(670万トン、世界シェア3.3%)、同第8位のスズ(8900トン、2.9%)である。世界シェア1%を超える品目を一覧すると、石油化学、非鉄金属、自動車、繊維、食品といった様々な分野においてバランスの取れた発展を見せていることが分かる。 石油化学 軽油(1246万トン、世界シェア1.2%)、重油(760万トン、1.3%)、ナフサ(205万トン、1.1%) 非鉄金属 亜鉛(26万トン、2.6%)、銅(38万トン、2.4%) 自動車製造業 自動車(90万台、1.4%) 繊維 毛糸(1.3万トン、1.3%) 食品 バター(12万トン、1.5%)、ビール(17億リットル、1.1%)、豚肉(101万トン、1.0%) その他 苛性ソーダ(水酸化ナトリウム、54万トン、1.2%) 石炭採掘の歴史は古く、既に12世紀から採掘が始まっていた。現在でも石炭は埋蔵されているが、品質面で国外の石炭と競争できないため、生産が急速に落ち込んでいる。1973年の採掘量は880万トンだったが、2002年時には17万トンまで下がっている。 工業・サービス業が発達した北部のフランデレン地域と、石炭・鉄鋼業が衰退した南部のワロン地域では失業率に2倍以上の開きがある(後者の方が失業率が高い)。労働者の需給にギャップが生じても、ワロン地域はフランス語以外話せない住民が多数であるため、ワロン人がフランデレン地域で就労することが困難であり、失業率の格差が縮まらない一因となっている。またブリュッセルは移民が多く、低技能労働者が多いことから、失業率はやはり高い。 また、南北の経済格差も深刻で、フラマン系の裕福な北部と、比較的貧しい南部という図式が定着している。ベルギー建国時は、この図式は逆であり、南部のフランス語圏が工業地帯として発展しており裕福で、北部が貧しかった。しかし、今や北部のフラマン地域が裕福であり、北部が南部を見下している状態にある。 住民はオランダ語のベルギー方言とも言うべきフラマン語を話すフラマン人が58%、フランス語を話すワロン人が31%、その他混血などが11%である。特に首都ブリュッセルは中東系を中心とした移民が多く、近年ではアラブ系の「Mohammed」がブリュッセルで生まれる男子でもっとも多く名付けられる名前となっている。 ベルギーの国土は、使用言語により、3つの言語共同体に分かれており、それぞれに地方公用語がある。 北部のフランデレン地域はフラマン語共同体 (en) に属し、フラマン語(オランダ語)が公用語である。また、フローネン、ネーメン、コミーヌなどはフランス語地域である。しかし、フランデレン地域の大抵のフラマン人は、老若男女を問わずフラマン語(オランダ語)以外にもフランス語と英語を習得している。 南部のワロン地域は大部分がフランス語共同体に属し、フランス語が公用語である。ベルギーのフランス語は発音・語彙に若干の特徴があるが、フランスの標準フランス語とほとんど同じである。ただし、標準フランス語のほかにワロン語、ピカルディ語、シャンパーニュ語、ロレーヌ語と、フランス語のいくつかの方言も広く話されている。フランス語の諸方言は主にフランス国境地域で話されている。また、南東部のルクセンブルク国境地域ではルクセンブルク語が話されている。ワロン地域の住民で、オランダ語や英語を話す者は非常に少ない。また、ワロン地域では英語がほとんど通じない。 ワロン地域の北東ごく一部のドイツ国境地域(オイペン、ザンクト・フィート付近)は、ドイツ語共同体に属し、ドイツ語が公用語である。 ただし、それぞれの話者の割合は均等でなく、オランダ語が60%程度、フランス語が40%程度、ドイツ語が1%未満である。なお、首都ブリュッセルはオランダ語の使われるフランデレン地域に囲まれているが、フランス語話者が8割以上を占めていて、フラマン語共同体とフランス語共同体の双方が自治権を持っている。 フランデレン地域の人々とワロン地域の人々の間には、「言語戦争」とまで呼ばれる対立関係が存在する。2006年12月13日、ベルギーの公共放送RTBFが「フランデレン地域が独立を宣言して前国王アルベール2世がコンゴ民主共和国(旧ベルギー植民地)に亡命した」という架空ニュースを流した(後に、議論を喚起する目的があったと説明された)ところ、一時国内が大混乱に陥り、地域間の溝の存在を露呈する結果となった。 ベルギー国民が信仰する宗教は、ローマ・カトリックが75%、プロテスタントが25%である。1994年の統計では、イスラム教が3%となっている。この他に、ユダヤ教等を信仰する者もいる。 日本でも西日本を中心に布教活動をしているカトリック教会の淳心会は、ベルギー・ブリュッセル郊外のスクートで設立された(スクート会とも呼ばれる)。 ベルギー出身またはベルギーで活躍している著名人については、ベルギー人の一覧を参照。 ベルギー料理 ベルギービール 婚姻の際に姓が変わることはなく、夫婦別姓である。また、同性同士の結婚(同性婚)も2003年より可能となった。 ベルギー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が9件ある。 備考欄の※は、祝日ではないが、官庁、公共機関、学校などの施設は休みとなる日。 祝祭日が土曜または日曜と重なった場合、翌月曜日が振替休日となる。 ベルギーではサッカーが人気である。サッカーベルギー代表は過去に13回FIFAワールドカップに出場しており、2018年ロシア大会では最高位となる3位の成績を残した。また、UEFA欧州選手権には4回出場しており、1980年イタリア大会では準優勝となっている。代表的な現役選手としては、イングランドのチェルシーFCで活躍するエデン・アザールや同じくイングランドのマンチェスター・シティFCで活躍するケヴィン・デ・ブルイネなどがいる。 ベルギーでは自転車競技が盛んで、国技として挙げられることもある。主要なレースとして、ロンド・ファン・フラーンデレン、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュがある。また代表的な選手として、引退した選手では、エディ・メルクス、ヨハン・ムセウ、トム・ボーネン、現役の選手では、フィリップ・ジルベールがいる。 モトクロスも盛んに競技が行われており、ベルギーはモトクロスグランプリの発祥の地と言われる。モトクロス世界選手権(FIM World Championship)はすでに50年以上の歴史を有している。世界的有名ライダーが数多く出現している。 小川秀樹 『ベルギー - ヨーロッパが見える国』 新潮選書、1994年。ISBN 4106004542。 小川秀樹編 『ベルギーを知るための52章』 明石書店、2009年。ISBN 9784750329246。 栗原福也編 『オランダ・ベルギー』 新潮社、1995年。ISBN 4106018411。 長坂寿久編 『オランダを知るための60章』 明石書店、2007年。ISBN 9784750325187。 森田安一編 『スイス・ベネルクス史』 山川出版社、1998年。ISBN 4634414406。 小島健(2004年). “ベネルクス関税同盟の設立” (日本語). 2010年1月19日閲覧。 小島健(2005年). “ベルギーにおける連邦制の成立過程” (日本語). 2010年1月19日閲覧。 正躰朝香(2006年). “ベルギーの連邦化改革をめぐる国内政治過程(1) - 言語問題の政治化と国家再編への緒” (日本語). 2010年1月19日閲覧。 正躰朝香(2006年). “ベルギーの連邦化改革をめぐる国内政治過程(2) - 二種類の連邦構成主体の創出と連邦制への移行” (日本語). 2010年1月19日閲覧。 若林広(2007年). “ベルギー国家の再編 - 政党政治の変容期における最近の展開” (日本語). 2010年1月19日閲覧。 ベルギー観光局 ワロン・ブリュッセル. “ベルギーの基本情報 - 歴史” (日本語). 2010年1月20日閲覧。 ^ Duden Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). 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首都ヘルシンキは露仏同盟以来、ロシアの主要都市であるサンクトペテルブルク方面へ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となってきた。同じく直近の旧領ヴィボルグはサイマー運河の出口であったが、現在はロシア領で、ノルド・ストリームの経由地となっている。ロシアと欧州諸国の間にある地政学的な重要性から、勢力争いの舞台や戦場にも度々なってきた。 典型的な加工貿易国だが、面しているバルト海を通じて船は使用しにくい。[要出典]中立的外交の裏では、外交・安全保障やエネルギー政策を巡り東西の綱引きが行われている。国内には原子力発電所があり、オンカロ処分場は2020年に開設されれば世界初の使用済み核燃料の最終処分場となる。情報産業も政治と関係しており、公職経歴者が民間企業の幹部になる例として、エスコ・アホという首相経験者がノキア取締役を務めているようなことがある。 人口や経済規模は小さいが、一人当たりGDPなどを見ると豊かで自由な民主主義国として知られている。フィンランドはOECDレビューにおいて「世界で最も競争的であり、かつ市民は人生に満足している国の一つである」と2014年には報告された。フィンランドは収入、雇用と所得、住居、ワークライフバランス、保健状態、教育と技能、社会的結びつき、市民契約、環境の質、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っている。 フィンランドは、「フィン人の国」という意味で、スオミはフィン人の自称である。「スオミ」の語源については多くの説が提唱されており定説はないが、同じウラル系の「サーミ」や「サーミッド」(サモエード)と同源とする見方がある。「フィン」についてはタキトゥスが残した「北方に住む貧しいフェンニ人」の記述が最古のものである。「スオミ」については古くはフィンランド南西端、バルト海沿岸にある都市トゥルクを中心とする限られた地域を指す単語であったのが、後に国土全体を指す単語に変容し、そこに住んでいたスオミ族の名が後にフィンランド語の名称になった。トゥルク周辺は現在では「本来のスオミ(Varsinais-Suomi)」と呼ばれている。 正式名称は、フィンランド語では Suomen tasavalta(スオメン・タサヴァルタ)、通称 Suomi(スオミ)。形容詞はsuomalainen(スオマライネン)。スウェーデン語では Republiken Finland(レプブリケン・フィンランド)、通称 Finland(フィンランド)。形容詞はfinsk(フィンスク)。公用語はフィンランド語とスウェーデン語。 日本語の表記は フィンランド共和国、通称 フィンランド。漢字による当て字では芬蘭(古くは芬蘭土とも)と表記し、芬と略す。 英語表記は国名が「Finland」、国民が「Finn(s)」、形容詞は「Finnish」。 通常は先史時代(〜1155年)、スウェーデン時代(1155年〜1809年)、ロシアによる大公国(フィンランド大公国)時代(1809年〜1917年)、独立後の現代(フィンランド王国時代を含む、1917年〜)の四つの区分に分かれる。 現在のフィンランドの土地には、旧石器時代から人が居住した。南には農業や航海を生業とするフィン人が居住し、後にトナカイの放牧狩猟をするサーミ人が、北方に生活を営むようになった。400年代にノルマン人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始、居住域を拡大していった。 1155年にはスウェーデン王エーリク9世が北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し、同時にキリスト教(カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。16世紀の宗教改革でスウェーデンのグスタフ1世がルター派を受け入れたため、フィンランドもルター派が広まることになった。カトリックの承認を得ずに司教となったアグリコラが聖書翻訳を進めたことで、フィンランドは新教国としての性格を決定的にした。 1581年にはフィンランドの独立が模索された結果、ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」(後にフィンランド大公となった)\"となり、スウェーデン王国が宗主国となる形でフィンランド公国建国が宣言された。しかしこれは、フィンランドに植民したスウェーデン人が中心で長くは続かなかった。この時代のフィンランドはスウェーデン=フィンランドと呼称されており、スウェーデンによる大国時代を形成していた。 1700年から始まった大北方戦争の結果の1721年のニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)がロシア帝国に割譲された。ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後スウェーデンは戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンに戻らず、ロシアに留め置かれた。 19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し、『カレワラ』の編纂など独自の歴史研究がなされた。その一方でロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まった。 1899年には、ニコライ2世が署名した二月詔書には、高揚するロシア・ナショナリズムに配慮して、フィンランドの自治権廃止宣言(フィンランド語版、英語版)が含まれていることがフィンランド人に発覚したためフィンランドで暴動が発生している。1904年6月17日にはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマン(フィンランド語版、英語版)によるロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事にいたり、ついに1905年には「自治権廃止」は撤回された。 第一次世界大戦末期の1917年にはロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言した。1918年に共産化し、オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立した。その後、敗戦国となったドイツ軍など外国の介入もあり、フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され、1919年にはフィンランド共和国憲法が制定された(フィンランド内戦)。 独立後のフィンランドの政情や国際情勢は不安定で、1921年にスウェーデンとオーランド諸島の領土問題で争ったが、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造による「新渡戸裁定」で解決をみた。さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土(382,801km²)の10分の1を失った。喪失した地域は主に人口と産業密度の高い南東部で、ヴィープリ州には最も要となる港湾があった。ペツァモ州にはニッケル鉱床と国内唯一の不凍港と北極海への出入り口があった。これらが失われた上、サイマー運河も両断された。 第二次世界大戦(継続戦争)ではソ連と対抗するためにナチス・ドイツやイタリア王国などの枢軸国側に付いて戦い、一時は冬戦争前の領土を回復した。その後、ソ連軍の反攻によって押し戻され、1944年にソ連と休戦し、休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦った(ラップランド戦争)。日本や独伊と同様に敗戦国になったものの、フィンランド軍はソ連軍に大損害を与えて進撃を遅らせ、ナチス・ドイツ降伏前に休戦へ漕ぎ着けた。このため、バルト三国のようにソ連へ併合されたり、ソ連に占領された東ヨーロッパ諸国(東側諸国)のように完全な衛星国化や社会主義化をされたりすることなく、冷戦終結による東欧革命も経た現在に至っている。 戦後はソ連の影響下に置かれ、ソ連の意向により西側陣営のアメリカによるマーシャル・プランを受けられず、北大西洋条約機構(NATO)にもECにも加盟しなかった。自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわら、外交・国防の面では共産圏に近かったが、ワルシャワ条約機構には加盟しなかった(ノルディックバランス、フィンランド化)。この微妙な舵取りのもと、現在に至るまで独立と平和を維持した。ソ連崩壊後には西側陣営に接近し、1994年にはEU加盟に合意。2000年には欧州共通通貨ユーロを北欧諸国の中で初めて自国通貨として導入した。 2010年代にクリミア・東部ウクライナ紛争などでロシアの脅威が高まったため、西側への接近を加速している。2017年にはスウェーデンとともにイギリス主導でNATOや国際連合に協力する合同派遣軍への参加を決めた。 国家元首である大統領の任期は6年で、国民の直接選挙によって選ばれる。 2015年5月29日、議会は、第1党・中央党の党首ユハ・シピラを首相に選出した。サウリ・ニーニスト大統領は、同日、同首相就任を承認した。同首相は、中央党を中心とする新連立内閣を発足させた。 議会制民主主義国家であり、議会が国権の最高機関である。政治形態は独立以降、半大統領制の様な状態で大統領には現在より強大な権力があったが、ポスト冷戦期への移行が重なった1990年代以降になって議院内閣制への移行を目的とした憲法改正が数度行われ、行政権の比重は大統領から首相(内閣)に傾いた。 議会は一院制でエドゥスクンタ(Eduskunta)と呼ばれる。200議席を15の選挙区に分け、比例代表制選挙で選出され、政党助成金制度が存在する。任期は4年だが、途中で解散される場合もある。前回の投票は、2015年4月19日に行われた。政党別の獲得議席数は、次の通り。 中央党(Kesk)49 真のフィンランド人(PS)38 国民連合党(Kok)37 社会民主党(SDP)34 緑の同盟(VIHR)15 左翼同盟(VAR)12 スウェーデン人民党(SFP)9 キリスト教民主党(KD)5 その他 1 行政府の長である首相は、副首相や閣僚と共に内閣を構成する。各閣僚は議会に対して責任を負う。首相は、総選挙後に各党代表の交渉結果に従って大統領が首相候補者を指名し、議会で過半数の賛成を得た後、大統領による任命を経て就任する。他の閣僚は、首相の選任に基づき大統領が任命する。 内政面においては先進的な北欧型の福祉国家という印象が強いが、戦後は敗戦国の地位にもあって賠償金などの支払もあり国政面での労働者の権利拡充は後回しされ、労働無きコーポラティズムとして日本に近い社会であった。その後は急速に福祉国家建設へと邁進し北欧型の社会に近づく。 また、世界で最も政治家による汚職の少ない国の一つとも評価されている。2008年の民間活動団体「トランスペアレンシー・インターナショナル」による政治の腐敗認識指数調査では、2004年まで1位(世界で最も汚職が少ない)だったが、2009年時点では6位に転落している。 常備軍 - 16,500人 職業軍人 - 8,700人 最大可能動員数 - 34,700人 陸軍 - 27,300人 海軍 - 3,000人 空軍 - 4,400人 軍事費 - GDPの1.4% 三軍の他に国境警備隊(3,000人)があり、内務省の指揮下にあるが、有事の際には軍隊に統合される。 6〜12ヶ月の徴兵制を実施している(対象は18歳以上の男子。女子は志願制、例外として宗教法人エホバの証人の信者は良心的兵役拒否の下で免除されている)。100人あたりの小型武器の所有率は、2007年においてアメリカ軍、イエメン軍に次いで世界第3位である。 冷戦時代には、ソ連製のMiG-21戦闘機やAKライフル、T-54/55およびT-72戦車と中立国のスウェーデン製サーブ 35 ドラケン戦闘機などを有していた。冷戦終結後は西側からの調達が主となり、アメリカ製F-18戦闘機、ドイツ製レオパルト2戦車を装備している。 第二次世界大戦後、軍事勢力バランスの上でソビエト連邦の勢力圏に入りながら資本主義体制を維持するというジレンマ(外交面では反ソ連路線でありながら内政面では社会主義体制を敷いたユーゴスラビアなどの逆パターンとも言える)に置かれたため、外交のみならず国内的にもソビエト批判をタブーとする空気に支配されるという\"フィンランド化\"状況が続いた。フィンランドの外交を「フィンランド外交とは西側にあまり尻を出しすぎぬほどにロシアに頭を下げることである」との風刺が存在するほどであった。日本では、中曽根首相が「ソ連は、日本をフィンランド化しようとしている」と演説で述べ、ソ連が日本をフィンランドの様なソ連に逆らわない隣国にしようとしている、と言う懸念を述べた事があったが、この演説は駐日大使を通じてフィンランド政府による抗議を受けている。 しかしながらその立場を逆用し、東西貿易の窓口として栄え、国民の生活水準は世界一にもなった。現在ではNATOには参加することなく北欧理事会を中心とする北欧主義(Nordicism)、EUを中心とする欧州への参加、国連を中心とする世界秩序の構築が国是となっている。 フィンランドは、19の県 (maakunta、マークンタ) に分かれる。2009年までは県の上位行政区画として州が存在し、6つの州 (lääni、レーニ) に区分されていたが、2010年1月1日に廃止された。また、2010年までは東ウーシマー県が存在し、県の数は20であったが2011年1月1日に東ウーシマー県とウーシマー県とが合併し、新たなウーシマー県が発足したため、東ウーシマー県は消滅し、県の数は19となった。 OECDは、フィンランドは世界で最も地方分権が進んでいる国の一つだと評している。 ヨーロッパ北東部に位置し、北欧ないし北東欧と呼ばれる。北側はノルウェー、西側はスウェーデンと国境を接する。西はボスニア湾、南西はバルト海、南はフィンランド湾に面する。ボスニア湾の対岸はスウェーデン、フィンランド湾の対岸はエストニアである。東から南東にかけてはロシアと陸上で国境を接する。なお、スカンジナビア半島には含まれない。 国土の大半は平坦な地形で、氷河に削られて形成された湖が無数に点在する。植生はタイガと地衣類が多い。また森林には粘菌が多様に生息する。 首都のヘルシンキは国の最南部に位置し、フィンランド湾に面する。国土の大半が寒冷な気候であることから、ヘルシンキを始めとする規模の大きな都市はその多くが国の南部に偏在している。 フィンランドにある大きめの湖は以下の通り。 ネシ湖 パイエンネ湖 サイマー湖 オリ湖 ピエリネン湖 オウル湖 ロッカ湖 イナリ湖 人口とGDPの規模が日本の北海道とほぼ同じフィンランドは、1980年代以降、農業と林業中心の経済体制から、携帯電話の生産量が世界1位になるなどのハイテク産業を基幹とする工業先進国へと著しい変化を遂げることに成功した。特に、150年前からある老舗企業のノキア(NOKIA)やLinuxが有名である。高い教育水準なども影響した結果、ヨーロッパ内でも有数の経済大国となった。世界経済フォーラム(WEF)が毎年発表する国際経済競争力の順位では、2001年から2004年までと4年連続首位となった(2002年は一旦、2位と発表されたがその後の再評価で1位に修正された)。現在では付加価値ベースで71.2%をサービス業が占めている。フィンランドはOECDによるレビューにおいて、「世界で最も競争的であり、かつ市民は人生に満足している国の一つである」と2014年には報告された。フィンランドはOECD BetteLife Indexの多軸評価において、すべての点でOECD平均を上回っている。 ナショナル・フラッグ・キャリアはフィンランド航空だが、政府は既に株式の半数以上を売却している。 労・使・国の3者協議によるネオ・コーポラティズムを採用する。年間労働時間は平均で1672時間。タイムバンキング(英語版)という制度があり、多忙な時期に残業して、暇な時期に余計に休めるという制度が存在する。1994年に16.6%まで上昇した失業率は不況からの脱却とともに年々改善を続け、2012年には7.7%まで下がった。 労働年齢層の就業率は男性70.6%、女性68.2%(2012年)と、女性の労働力化が進んでおり、特に法律家・医師は女性が半数を占めている。企業で高い地位を占める女性も増えているが、男性に比べるとまだ少ない。女性は男性に比べ正社員として雇用されにくい傾向があり、若い世代の女性で契約期間付き雇用が多い(20代女性の4割が派遣社員)。 しかし、女性の労働力化によってGDPや購買力が増加する一方でロシア人やバルト三国から流入する女性労働者も増えており、特に売春などの性産業に従事する者が多い。2008年時点ではフィンランド国内に8,000人もの売春婦が存在しているとする見方もある。 フィンエアー(フィンランド航空) エア・オーランド トゥルク・エア フライビー・フィンランド ブルーワン VRグループ カレリアントレインズ フィンランド鉄道庁 ヘルシンキ近郊列車 ヘルシンキ地下鉄 ヘルシンキ・トラム 特徴的な事柄を挙げるとすれば、男女同権思想がある。生産性の低い土地に住んでいたためか、農業時代から女性も男性と同じくらい働き、発言権を持っていた。フィンランドで普通選挙が導入されたとき、ヨーロッパ初の女性参政権も当然のように付属していたのはフィンランドならではである。2015年現在も女性の社会進出は世界最高レベルで、労働市場における女性比率は40%に達するが、これはアファーマティヴ・アクション制やクオータ制のようなフェミニズムプログラム無しで達成している。 政治においては、フィンランドの国会議員は定数の3分の1以上に当たる76人の女性議員がいる(2015年現在)。しかし一方で兵役は男子のみの義務である(女子は志願制)。 また、俗説としてフィンランド人は「恥ずかしがりや」であり、サウナの様に集団で集まりやすい場を大切にし、顔を合わせずに会話の出来る電話や携帯電話の普及が速かったと言われる。ヨーロッパで「フィンランド人は無口で、話す時は独特の抑揚のない言語で不機嫌そうにしゃべる」というステレオタイプの印象が元になった。 民族比率は、フィン人が91.7%、スウェーデン人(スウェーデン系フィンランド人)が5.5%、サーミ人が0.1%、ロマ人が0.1%。2010年の統計によると、ドイツ系などの外国人は167,954人(2.7%)と少なく、大部分がロシア人とエストニア人である。そのため、他の北欧諸国に見られるような移民問題は比較的少なかったが、21世紀に入り難民等を積極的に受け入れており、ソマリア人、アルバニア人、イラク人、クルド人などがその中心となっており、ほとんどがヘルシンキ都市圏に在住している。なおこのような難民受け入れに対する反感も近年は根強くなっており「真のフィンランド人」のような安易な移民受け入れに反対する右派民族主義政党の躍進をもたらしている。 使用されている言語はフィンランド語が93.4%、スウェーデン語が5.9%で、この2言語が公用語である。1919年に制定された。サーミ人はサーミ語を使用し、1970年代にその地位は向上した。1999年の憲法改正により、準公用語と明記された。同時にロマ人その他の少数民族に対する配慮も加えられている。また、ロシア語を母語とするロシアからのいわゆる帰還者は最近増加しつつある。スウェーデン語は、すでにフィンランドに根を下ろしており、少数派とは言え、企業、産業界で影響力を持ち、政府にも主要政党を持っているため、公用語問題は歴史的な問題であった。これに対しロシア語は1世紀にわたり支配社会の上層部にのみ影響をあたえただけで、国民に浸透することはなかった。 宗教は、フィンランド福音ルター派教会が78%、フィンランド正教会が1.1%、他の宗教(ローマ・カトリック教会、ユダヤ教、イスラム教)と無宗教20%である。フィンランド福音ルター派教会とフィンランド正教会は国教として扱われており、政府が国民から直接税の形で集めた教会税によって資金的援助を受けている。しかし、近年では国民の信仰心の低下や政教分離の意見の高まりなどから、教会への支援は世論からの支持を受けなくなる傾向にあり、それにともない「教会税」も毎年減少傾向にある。 婚姻する際には夫婦別姓、夫婦同姓、相手の姓の付加(後置)、を選択することができ、2017年3月より同性結婚が合法化された。 ノルディックモデルの高負担高福祉国であり、GDPに占める税収比は43.9%と上位国のひとつである(2014年)。 OECDの人生満足度(Life Satisfaction)では第6位、国連世界幸福度報告では世界7位(2013年)、世界幸福地図では第6位、The Earth Institute(英語版)による国民総幸福量(GNH)では世界2位(2012年)であると報告された。 フィンランド人の平均寿命は、2015年では平均で80.77歳(男性77.82歳、女性83.86歳)であった。およそ市民307人あたり1人の医師がいる。 公営の保健センターが整備され、総合診療医(GP)によるプライマリケアが提供される。 GDPあたり保健支出は9.0%。医療費のおよそ18.9%は自己負担であり、76.6%は租税負担となる。近年のランセット誌の研究によれば、フィンランドは193ヶ国の中で死産率が最も低く、イギリス・フランス・ニュージーランドよりも低い。 課題としては、他のOECD諸国と同じように人口の高齢化があり、65歳以上が人口の18.5%を占めている(2012年)。GDPに占める保健・介護費用も伸び続けており、2000年代は約6%台であったが、2060年には13%に達すると推測されている。医療費の約55%は65歳以上人口が占めており、また認知症患者も増え続けている。 妊娠4か月以前に医者か地方自治体の妊婦向けクリニックで診療を受けたことがあり、かつ妊娠154日以上の全ての妊婦には妊婦パックが配られている。 学校教育ではフィンランド語、スウェーデン語が必修であり(ただし、オーランド諸島ではフィンランド語は必修ではない)、さらに英語やその他の言語の教育が行われている。本土のスウェーデン系国民は幼いころからテレビなどを通じて自然にフィンランド語を習得することが多いが、フィンランド系国民の多くは7年生(中学校の初年度)から学校でスウェーデン語の学習を始める。現在ではスウェーデン語より英語に重点がおかれており、小学3年生程度から英語の授業が始まる。さらに小学校高学年、また中学校でもその他の外国語を選択科目として履修できる。ただし外国語科目のカリキュラム等は自治体や学校により異なることがある。国民の外国語に対する関心も全般に高いため、4〜5ヶ国語を使いこなすフィンランド人も多い。 大学はすべて国立で無料であり、受験戦争はフランスや日本ほど厳しくはない。しかし、フィンランドの教育水準は世界トップで、教育における「フィンランドメソッド」が注目を集めている。生徒は競争による相対評価ではなく、達成度によって評価されるといわれている。ただし、これは学力の違いを無視した平等教育ではない。実際には高校入学は中学の成績に基づいて振り分けが行われている。また、中学校の教育に特筆されるのは三分の一の(成績の低い)生徒が特別学級に振り分けられるか、補習授業をうけていることである。このように学力による差別化および、低学力の生徒に対する個別の教育により落ちこぼれを学校ぐるみで防ぐ制度がフィンランドの教育の特徴である。 ユネスコの定義による高等教育機関(大学およびその他すべての高等教育機関・課程)の進学率は世界第二位の87パーセントである。(2004年度)2004年度に行われたOECD(経済協力開発機構)のPISA(学習到達度調査)では世界一である(ただし、OECDの調査自体には多くの問題点が指摘されている)。PISAは(1)読解力(2)数学リテラシー(3)科学リテラシーという三分野のみの調査を57カ国に対して行ったものである。 フィンランドの学校は週休二日制であり、教師は大学院卒が基本(ただし、これは特に教師に限ったことではない。また「大学院」の位置づけも日本とまったく同一とはいえない)、授業時間も日本よりかなり少なく、また「総合的な学習」に相当する時間は日本より多い。近年、日本で批判されている「ゆとり教育」に一見似ているが、家庭学習を重視し宿題が比較的多く、成績別教育により成績下位者への支援態勢が特に手厚くなっているなど、その実態はかなり異なる。制度的にも教育内容や教授方法への教育行政の指示が少なく、分権化が進んでいること、義務教育にも留年制度があること、小学校から大学まで多くの学校で学費が無料であることなどの違いがある。 1943年の法により、小中学校および後期中等教育学校・職業学校(日本でいう高等学校普通科と専門学科に近似)における給食は完全に無料である。 フィンランドには、NPOが約7-8万存在し国民の5人に4人がNPOに参加している。他の北欧諸国と同様に、世界で最も参加率の高い国の一つである。 未だに寛容な受け入れ対策をするスウェーデンとは違い、ノルウェーやデンマークと同様に安易な移民受け入れに反対する真のフィンランド人がエドゥスクンタ(国会)で第二党政党の連立与党として政権へ影響力を持っている。 フィンランド人の図書館利用率は世界有数であり、月に1回以上は図書館に行き、月に20冊以上の本やDVDを無料で借りている。 また、サウナは約200万あるとされ、フィンランド国民全員が入っても余裕があるという。フィンランド人にとってサウナは神聖な場所であり、「教会のように振る舞う」という格言がある。 ソーセージは国民食とされ、これによって女性の社会進出を後押しした。 またアルコールは国営企業による専売制である。キシリトールはフィンランドの大学の発見である。 19世紀にエリアス・リョンロートによって編纂された民族叙事詩『カレワラ』が存在する。 フィンランド人の音楽界での活躍は目覚しく、人口に比しても世界的な音楽家を数多く輩出している。ジャン・シベリウスに代表されるクラシック音楽や、ジャズ、ポップ、ロックやヘヴィメタルなどのポピュラー音楽が普及しており、少数民族サーミ人によるヨイクという民族音楽もある。 マリメッコは、ケネディ大統領夫人ジャクリーンがそのワンピースを着たことでも有名な、ファブリック・テキスタイルメーカー。 イッタラは、ガラス製品をはじめとするデザイン性の高いテーブルウェアの総合メーカー。 アラビア社は、ムーミンの陶器で名高い。アラビア社はイッタラグループの子会社でもある。 ノキアは、機能性の高さや使いやすさだけでなく、美しいデザインで知られる携帯電話メーカー。 HONKAは、世界No.1のログハウスメーカー。 どこの国にも地域おこしを兼ねた祭り的イベントは数多くあるが、フィンランドは名物やゆかりの行事などを競技化した奇妙な大会をいくつも開催している。様々な大会を「世界選手権」と銘打っていて、その中には世界的に有名となり各国から参加者が訪れる大会もある。 エア・ギター世界選手権(オウル州 オウル) 2006年と2007年にダイノジの大地洋輔が優勝、金剛地武志も入賞している。 奥様運び大会(東スオミ州北サヴォ県 ソンカヤルヴィ) 優勝者には、奥様の体重(最低49kg以上)と同じ量のビールが贈られる。 携帯電話投げ世界選手権(サイマー湖地方 サヴォンリンナ) 「この近代機器によってもたらされるすべてのフラストレーションや失望に返報するのが目的」で開催。優勝者には新しい携帯電話が贈られ、89m飛ばした選手もいる。 世界サウナ選手権 (南スオミ州ヘイノラ) サウナ我慢大会。2004年に笑福亭鶴瓶が挑戦した。優勝者にはモロッコのアガディールで過ごす1週間の旅が贈られる。 アヴァント水泳世界選手権; w:en:Avantouinti Ice Hole Swimming Championships (ラップランド州 ムオニオなど) 凍結した湖や海の表面に穴をあけて行う水泳競技。 国際雪合戦大会 International Snowball Fight Competitions(ラップランド州 ケミヤルヴィ) ケミヤルヴィの姉妹都市でもある北海道胆振支庁壮瞥町から紹介された\"Yukigassen\"が国際大会へと発展したもの。 コケモモ摘み世界選手権 The World Championships of Berry Picking (オウル州 スオムッサルミ) 1時間でどれだけのコケモモが摘めるかを競う競技。 泥サッカー世界選手権 Swamp Soccer World Championships(オウル州 カイヌー県 ヒリンサルミ) 沼地で行うサッカー大会。同じ場所で冬季には深雪サッカー選手権が行われる。 アクア・ジョギング世界選手権 Aquajogging World Championships (西スオミ州 ペタヤベシ) 水中でジョギングを行う競技。 フィンランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。 他の欧州諸国とは異なり、フィンランドにおいてサッカーは最も人気を集めるスポーツではなく、そのため弱小国の一つにすぎなかった。しかし近年は着実に力をつけており、最も直近の北欧選手権では初優勝を果たしている。個人ではヤリ・リトマネンやサミ・ヒーピアなどがスペイン、イングランドのトップクラブに所属するなどし、近年は欧州でも中堅の地位を堅めつつある。日本人選手でもアルビレックス新潟の田中亜土夢が2015年、HJKヘルシンキに移籍してきて活躍している。 フィンランド国民の関心ではサッカーよりもアイスホッケーが人気であり、トリノオリンピックではサク・コイブらの活躍で銀メダルを獲得している。また、1995年と2011年の世界選手権でも優勝している。 野球をサッカー場や陸上競技場でもできるように改良したペサパッロ(フィンランド野球)は国技である。 また、フィンランドは北国なのでウィンタースポーツも盛んである。特にスキーでは冬季オリンピックなどで多くの選手が活躍し、ジャンプ競技ではマッティ・ニッカネン、ヤンネ・アホネンなどの英雄を輩出している。ノルディック複合ではサンパ・ラユネン、ハンヌ・マンニネンが英雄である。また最近ではスノーボードも人気が出てきた。クロスカントリースキーやスキーオリエンテーリングも盛んで、アイスホッケーはNHLにプロ選手を送り出すほどの選手層の厚さを誇っている。トリノオリンピックでは歴史的に因縁のあるスウェーデンと初の北欧決勝対決を繰り広げ、第1ピリオドでは1-0でリードしながらも2-3で惜敗したものの、銀メダルを獲得している。フィギュアスケートでも、特に女子において近年世界トップレベルの選手が育ってきている。 注目すべきはモータースポーツの分野で、F1ではケケ・ロズベルグ、J.J.レート、ミカ・ハッキネン、ミカ・サロ、キミ・ライコネン、ヘイキ・コバライネン、WRCでは、アリ・バタネン、ヘンリ・トイボネン、ティモ・サロネン、ユハ・カンクネン、トミ・マキネン、マーカス・グロンホルム、ミッコ・ヒルボネン、ヤリ・マティ・ラトバラなどの優れたドライバーを多数輩出しており、世界チャンピオンも少なくない。このように速いドライバーの事を「フライング・フィン」と呼ぶほどである。このフライング・フィンは、陸上競技の長距離種目で活躍したハンネス・コーレマイネンやパーヴォ・ヌルミを称したのが始まりであるが、さまざまなスポーツの選手でこの愛称が使われている。最近では、F1の2007年世界チャンピオンにライコネンが輝いた。この様な事から、モータースポーツ界では「優勝したければ、フィン(フィンランド人)を雇え」という格言が存在する。 フィンランドは他の北欧諸国同様にオリエンテーリングも盛んであり、強豪国のひとつである。代表的な選手としては2010年にミンナ・カウッピがフィンランド年間最優秀スポーツ選手に選ばれている(en:Finnish_Sports_Personality_of_the_Year)。 オリンピックの開催経験もあり、1952年に首都ヘルシンキでヘルシンキオリンピックが行なわれた。 フィンランド人の一覧、スウェーデン系フィンランド人の一覧も参照。行頭の順位付けは、最も偉大なフィンランド人での順位。 1位 - カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(軍人、政治家、第二次世界大戦中のフィンランド軍最高司令官、元大統領) 2位 - リスト・ヘイッキ・リュティ(政治家、元大統領、継続戦争開戦を決断) 3位 - ウルホ・ケッコネン(政治家、元大統領) 5位 - タルヤ・ハロネン(政治家、前大統領) 7位 - ミカエル・アグリコラ(16世紀の宗教改革者、フィンランド語の表記法を確立したフィンランド文学の父) 8位 - ジャン・シベリウス(作曲家、国民的叙事詩「カレワラ」に影響を受けた曲を多数作曲) 9位 - アレクシス・キヴィ(フィンランド語文学および演劇の創始者) 10位 - エリアス・リョンロート(医師、叙事詩「カレワラ」編纂者) 11位 - マッティ・ニッカネン(元スキージャンプ世界王者、フィンランドの英雄) 13位 - ヴィッレ・ヴァロ(HIMのボーカリスト兼作曲家) 16位 - リーナス・トーバルズ(Linux開発者) 19位 - トーベ・ヤンソン(画家、作家、ムーミンシリーズ作者) 21位 - パーヴォ・ヌルミ(1920年代の長距離走者、五輪で9個の金メダルと3個の銀メダルを獲得) 23位 - ユホ・クスティ・パーシキヴィ(元大統領、対ソ友好関係を重視するパーシキヴィ路線を確立) 24位 - ユーハン・ヴィルヘルム・スネルマン(哲学者、思想家、政治家) 31位 - ミカ・ワルタリ(作家、歴史小説「エジプト人」の著者) 32位 - ミカ・ハッキネン(元F1ドライバー。1998年、1999年ワールド・チャンピオン) 33位 - アルヴァ・アールト(建築家、モダニズムに対する人間的なアプローチで知られる) 35位 - タピオ・ラウタヴァーラ(やり投の陸上競技選手、五輪で1個の金メダルを獲得、歌手、俳優) 38位 - オットー・クーシネン(政治家、モスクワに亡命した元フィンランド社会民主党議長) 42位 - ヤリ・リトマネン(サッカー選手、フィンランド代表の最多出場記録と最多得点記録を持つストライカー) 45位 - アンネリ・ヤーテンマキ(政治家、同国初の女性首相) 47位 - カールロ・ユホ・ストールベリ(元初代大統領) 48位 - マウノ・コイヴィスト(元大統領、フィンランド初の左派系大統領) 56位 - アクセリ・ガッレン=カッレラ(画家、叙事詩「カレワラ」に関連した絵画を数多く描いた) 58位 - キュオスティ・カッリオ(元大統領) 61位 - ラッセ・ビレン(陸上競技長距離選手、五輪で4個の金メダルを獲得) 64位 - アルトゥーリ・ヴィルタネン(化学者、糧秣の保存法の発見によりノーベル化学賞を受賞) 65位 - ニルス=アスラク・ヴァルケアパー(サーミ人ミュージシャン) 67位 - ペール・スヴィンヒュー(元大統領、フィンランド内戦において反革命勢力を組織) 68位 - アキ・カウリスマキ(映画監督、「パラダイスの夕暮れ」「過去のない男」で知られる) 70位 - パーヴォ・リッポネン(元首相、元フィンランド社会民主党の党首) 72位 - サカリ・トペリウス(歴史家、作家) 74位 - シモ・ヘイヘ(軍人、史上最多の確認戦果505名射殺の記録を残している狙撃手、白い死神と呼ばれた) 96位 - アクセル・アイロ(軍人、ラップランド戦争時、ドイツ軍に対する作戦の計画立案を指導) 政治 マルティ・アハティサーリ(10代大統領、外交官、2008年ノーベル平和賞受賞) エスコ・アホ(首相・政治家) サウリ・ニーニスト(フィンランド国会議長、元副首相) 文化 アレキシ・ライホ(チルドレン・オブ・ボドムのギタリスト兼ボーカリスト) エサ=ペッカ・サロネン(指揮者、作曲家) エルッキ・メラルティン(作曲家) サカリ・オラモ(クラシック指揮者、1999バーミンガム市交響楽団音楽監督、2003フィンランド放送交響楽団首席指揮者) セリム・パルムグレン(作曲家・ピアニスト。俗に「北欧のショパン」と呼ばれる) ターヤ・トゥルネン(歌手。元ナイトウィッシュ) タイナ・エルグ(Taina Elg)(女優。ハリウッド映画で活躍) マイケル・モンロー(ハノイ・ロックスのボーカリスト) カルツュー・ハタッカ(ワルタリのベーシスト) ミカ・カウリスマキ(映画監督) ヨハン・ルードヴィグ・リューネベリ(作家、詩人) トム・オブ・フィンランド(画家。本名はトウコ・ラークソネン) スポーツ キミ・ライコネン(F1ドライバー。2007年ワールド・チャンピオン。元WRCドライバー) ヘイキ・コバライネン(F1ドライバー) ケケ・ロズベルグ(元F1ドライバー。1982年ワールド・チャンピオン) サミ・ヒーピア(サッカー選手) アリ・バタネン(WRC、パリ・ダカール・ラリーなどで活躍したラリードライバー。後に政治家、欧州連合議員も務めた) トミ・マキネン(元WRCドライバー。1995〜1998年ドライバーズ・チャンピオン) マーカス・グロンホルム(WRCドライバー) ユハ・カンクネン(元WRCドライバー) ミッコ・ヒルボネン(WRCドライバー) ハリ・ロバンペラ(WRCドライバー) ヤリ=マティ・ラトバラ(WRCドライバー) トニ・ガルデマイスター(WRCドライバー) ヤンネ・アホネン(スキージャンパー) ヘンリ・トイボネン(WRCドライバー。1986年競技中事故死) マルク・アレン(元WRCドライバー) ミンナ・カウッピ(オリエンテーリング選手、2010年フィンランド年間最優秀スポーツ選手) キーラ・コルピ(女子フィギュアスケート選手 2006年トリノオリンピック出場) ラウラ・レピスト(女子フィギュアスケート選手 2009年ヨーロッパフィギュアスケート選手権優勝) ユシ・ヴァイカネン(自転車競技選手) キェル・カルストルム(自転車競技選手) テロ・ピトカマキ(陸上競技槍投げ) ^ a b c d e OECD 2014, p. 14. ^ 注:『ゲルマニア』における記述。 ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.41. ^ “Sweden and Finland join UK-led response force”. イギリス国防省ホームページ. 2017年7月7日閲覧。 ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.1. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.72. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.8. ^ “New regional administration model abolishes provinces in 2010”. 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Special education has a key part to play in improving equity and combating educational failure in Finnish schools.\"[3] ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.25. ^ a b イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.69. ^ 「北欧諸国への難民申請者数が減少、最も激減したのはノルウェー。ポピュリズム効果?」 ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.52. ^ a b イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.88. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.95. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.34. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.49. OECD Economic Surveys: Finland 2014, OECD, (2014), doi:10.1787/eco_surveys-fin-2014-en, ISBN 9789264219519  イルッカ・タイパレ 『フィンランドを世界一に導いた100の社会改革―フィンランドのソーシャル・イノベーション』 公人の友社、2008年8月。ISBN 978-4875555315。  駐日フィンランド大使館 フィンランド関係記事の一覧 ラップランド かもめ食堂 - フィンランドを舞台にした邦画 ベーシックインカム オープンダイアローグ - フィンランドで開発された精神療法 政府 フィンランド共和国政府 (フィンランド語)(スウェーデン語)(英語) フィンランド大統領府 (フィンランド語)(スウェーデン語)(英語) フィンランド首相府 (フィンランド語)(スウェーデン語)(英語) 在日フィンランド大使館 (英語)(日本語)(フィンランド語)(スウェーデン語) 駐日フィンランド大使館 (@FinEmbTokyo) - Twitter(日本語) 日本政府 日本外務省 - フィンランド (日本語) 在フィンランド日本大使館 (日本語) 観光 フィンランド政府観光局 (日本語) その他 JETRO - フィンランド (日本語) BetterLife Index Finalnd - OECD", "リヒテンシュタイン公国 Fürstentum Liechtenstein 国の標語:Für Gott, Fürst und Vaterland (ドイツ語:神・公・祖国のために) 国歌:若きライン川上流に リヒテンシュタイン公国(リヒテンシュタインこうこく)、通称リヒテンシュタインは、中央ヨーロッパに位置する君主制国家。スイスとオーストリアに囲まれたミニ国家の一つ。首都はファドゥーツ。欧州自由貿易連合(EFTA)加盟国。西欧に分類する見解もある。 正式名称は公用語のドイツ語でFürstentum Liechtenstein(ドイツ語発音: [ˈfʏʁstn̩tuːm ˈlɪçtn̩ʃtaɪn] フュルステントゥーム・リヒテンシュタイン)、Liechtensteinと表記する。公式の英語表記はPrincipality of Liechtenstein(プリンシパリティ・オヴ・リクテンスタイン)、略称、Liechtenstein。日本政府による公式の日本語表記はリヒテンシュタイン公国(リヒテンスタイン公国)、略称:リヒテンシュタイン(リヒテンスタイン)。「リヒテンシュタイン侯国」と表記することもある。なお、リヒテンシュタイン公国がある現地のアレマン語(リヒテンシュタイン方言)では、Förschtatum Liachtaschta(フェアシュタツーム・リアハタシュタ)と表記される。英語表記で国名・形容詞ともLiechtenstein、国民はLiechtensteiner。 元首であるリヒテンシュタイン家の当主の称号はドイツ語で„Fürst“(英語の\"prince\")であり、„Herzog“(公爵。英語の\"duke\")より一段下の爵位であるため、日本語では「公爵」ではなく「侯爵」と訳される場合もある。一方、リヒテンシュタイン家の当主の親族(男子)は„Prinz“(英語の\"prince\")である。 1699年 ヨハン・アダム・アンドレアスがシェレンベルク男爵領を購入。 1712年 ヨハン・アダム・アンドレアスがファドゥーツ伯爵領を購入。 1719年 神聖ローマ皇帝カール6世は、リヒテンシュタイン家が買収したファドゥーツ伯爵領とシェレンベルク男爵領とを併せてリヒテンシュタイン公(侯)領とすることを認可(リヒテンシュタインの始まり)。 1806年 神聖ローマ帝国の崩壊によって独立国となり、翌年にライン同盟に参加する。 1815年 ドイツ連邦に加わる。 1852年 オーストリア帝国との関税同盟を締結。 1866年 ドイツ連邦解体に伴い再独立する。 1867年 永世中立国となる。 1868年 軍隊を廃止。 1919年 オーストリアとの関税同盟を解消。 1921年 憲法制定。スイス・フランを通貨とする。 1923年 スイスと関税同盟を結ぶ。 1938年 ナチス・ドイツ政権が誕生した際、リヒテンシュタイン国内でもナチズム勢力が増大していたが、フランツ・ヨーゼフ2世は君主大権を行使して総選挙を無期限延期とし、リヒテンシュタインがナチズム化(人々を扇動する集会の禁止、ナチスの制服着用禁止等)するのを未然に防いだ。これにより、リヒテンシュタインは第二次世界大戦において併合されず中立を維持した。 1984年6月 女性参政権を認める。 1990年 国際連合に加盟する。 1991年 欧州自由貿易連合(EFTA)に加盟する。 1995年 欧州経済領域(EEA)に加盟する。 2003年 憲法を改正。 2011年 シェンゲン協定に加盟する。 元首はリヒテンシュタイン公(侯)で、リヒテンシュタイン家の当主による男子世襲制である。欧州の君主制国家の元首が象徴・儀礼的存在であるのに対して、公は政治的権限を有している。そのため統治形態としては絶対君主制であるといえるが、公の統治が能わざる時は執務を停止もしくは退位できる旨が憲法で定められており、また必要であれば国民投票によって君主制の存廃を決めることができるなど立憲政治、法の支配、議会民主制が確立されており、また国民の権利と自由も十分に保障されていることから、実質的に立憲君主制に分類される事が多い。現在の君主、ハンス・アダム2世は2004年に長男のアロイス公子を摂政に指名して統治権を譲り、自らは名目上の元首としての地位のみを有している。 議会は一院制で、「Landtag(国会)」と称する。議員定数25、任期4年、解散あり。選挙は、複数投票制と比例代表制を組み合わせた直接選挙で行われる。女性参政権が認められたのは、世界的に見ても遅い1984年である。 議院内閣制を採用している。行政府の長である首相は議会の第一党党首が公によって任命される。また、副首相には第二党の党首が任命される。政党はリヒテンシュタイン進歩市民党(ドイツ語版)(Fortschrittliche Bürgerpartei in Liechtenstein)と祖国連合 (リヒテンシュタイン)(ドイツ語版)(Vaterländische Union)が二大政党である。 歴史的経緯から、民法はオーストリアの民法が基本となっており、刑法はスイスの刑法を基本としている。死刑制度は廃止されている。 普墺戦争で当時密接な関係にあったオーストリアが敗北し、安全保障政策の見直しが必要となった。しかし自国の軍事力では近隣諸国に到底対抗できないため、1868年に軍を解体し非武装中立政策に転換する。 第一次世界大戦後、オーストリア=ハプスブルク帝国の崩壊後はスイスとの関係を強化、1923年に関税同盟を締結してからは実質的にスイスが安全保障を担っている。 また、100名ほどの国家警察は隣接する諸国(スイスおよびオーストリア)の軍と密接な関係を持っている。 1919年の合意に拠り、欧州評議会以外においてはスイスが利益代表を務める。 リヒテンシュタインはチェコ共和国とスロバキア共和国の国家承認を長年行っていなかった。これは第二次世界大戦終結直後の1945年に、当時のチェコスロバキア共和国政府が同国領内のドイツ系およびハンガリー系住民のチェコスロバキア国籍を剥奪のうえ、私有財産を没収した(ベネシュ布告)が、同国に領地を持っていたリヒテンシュタインはこの措置を違法行為とみなし、抗議したためである。その後、2009年にチェコとの間で外交関係を開設することが発表された。また、同年12月9日にはスロバキアとの間でも外交関係が開設されることも発表された。 全部で11の基礎自治体(Gemeinde、ゲマインデ)に分かれる。これらは旧ファドゥーツ伯爵領のオーバーラント(Oberland、高地)と旧シェレンベルク男爵領のウンターラント(Unterland、低地)に分けることができ、現在でも国政選挙の選挙区としてこの区分が残っている。 シャーン トリーゼン トリーゼンベルク バルザース ファドゥーツ プランケン エッシェン ガンプリン シェレンベルク マウレン ルッゲル 詳細はリヒテンシュタインの地理を参照 国境を接する全ての国が内陸国である「二重内陸国」(海に出るために少なくとも2つの国境を越えなければならない国のこと)である。面積は南北に25キロメートル、東西に6キロメートルと狭い。日本の小豆島とほぼ同じである。世界で6番目に小さい国。ドイツのシュヴェービッシュ・アルプスの延長線上に連なり、国土は山がち(最高地点2599m)だが南風が卓越し比較的温暖である。西はライン川に沿ってスイス(ザンクト・ガレン州・グラウビュンデン州)、東はオーストリア(フォアアールベルク州)と接している。 主要な産業は精密機械、牧畜と医療。ほかに観光、国際金融、切手発行もよく知られている。スイスとの関税同盟があり、郵便や電話の制度はスイスと共通となっている。 タックス・ヘイブンとしても知られ、税金免除を目的とした外国企業のペーパーカンパニーも集中しており、人口よりも法人企業数が多いと言われる。これら法人税が税収の40%に及び、この結果、一般の国民には直接税(所得税、相続税、贈与税)がない。 近年はEUとの課税に関する条約に調印し、EU市民の預金については利子課税がなされることになった。ただし、これらの税は、個々の預金者の情報を相手国に通知することなしに一括してリヒテンシュタインから各国に支払われるため、銀行の守秘義務そのものは維持されている(同様の銀行守秘義務を維持している国は、欧州ではスイス、モナコ、サンマリノがある)。 OECDが指名する「非協力的タックス・ヘイブン・リスト」(租税回避地)に掲載されている7カ国の1つであったが、2009年5月の時点で他の二カ国(アンドラ、モナコ)と共にリストから削除されている。 この国に拠点を持つ会社としては、薄膜コーティング装置の製造および、コーティングの受託加工のエリコンバルザース社、電動工具・鋲打機・墨出し機などのヒルティ社、プロ用オーディオコネクターのノイトリック社(ドイツ語版)、歯科材料のイボクラー社(ドイツ語版)などが有名。労働者の約半数はスイス、オーストリアから毎日越境している。 国内の主要な交通は路線バスであり、各所を結ぶ路線が頻繁に運転されている。黄色い車体のリヒテンシュタインバスをよく目にすることができる。主なバス停は郵便局の前であることが多い。バスはライン川対岸のスイスの鉄道駅(ザルガンスやブックス)のほか、オーストリアのフェルトキルヒ駅への路線もある。また、ユーロで運賃を支払うこともできる。 国内を鉄道が走っており、駅が4駅ある(主要駅はシャーン・ファドゥーツ駅)。運行をしているのはオーストリア国鉄である。オーストリアとスイスを結ぶ国際急行列車も通るが、リヒテンシュタイン国内の駅は全て通過する。 空港は存在しない。もっとも近い主要国際空港はスイスのチューリッヒ空港である。 住民はドイツ系が大半で、ゲルマン系のドイツ・アレマン人が86%、その他イタリア人、トルコ人などが14%である。 公用語は標準ドイツ語だが、現地住民は上部ドイツ語に属するアレマン語系最高地アレマン語(ドイツ語版)の一方言を使用し、その他にトリーゼンベルクではヴァリス語が使用される)。 宗教はローマ・カトリックが79.9%、プロテスタント(ルター派、カルヴァン派)が8.5%、その他にイスラムなどが5.4%存在する(2010年時点)。 チェコの作家カレル・チャペックの『山椒魚戦争』ではサンショウウオによる世界水没に対処するため、ファドゥーツで各国による国際会議が開かれた。 他の欧州諸国同様UEFAに加盟しているが、加盟する55の国と地域の中で唯一国内プロサッカーリーグを有しておらず、国内のサッカークラブはスイスのサッカーリーグに参加している。このため、UEFAチャンピオンズリーグの予選及び本大会に国内リーグの結果によって出場可能なチームが存在しない。カップ戦は開催されているためUEFAヨーロッパリーグには予選1回戦から出場可能であり、またスーパーリーグで優勝すればスイスの出場枠でのチャンピオンズリーグ出場は可能である。 リヒテンシュタインでは冬場でも水風呂に入る習慣がある。 欧州小国競技大会を開催、参加している。 ファドゥーツ城 ヨーゼフ・ラインベルガー - 作曲家・オルガン奏者 オットマール・ハスラー - 政治家、元首相 クラウス・チュッチャー - 政治家、前首相 ヴィリー・フロンメルト - アルペンスキー選手 パウル・フロンメルト - アルペンスキー選手 ハンニ・ウェンツェル - アルペンスキー選手 アンドレアス・ウェンツェル - アルペンスキー選手 マルコ・ビュッヘル - アルペンスキー選手 ウルズラ・コンツェット - アルペンスキー選手 マリオ・フリック - サッカー選手 ペーター・イェール - サッカー選手 エリス - バンド バラック・ライディヒベルク - 画家 ヨアヒム・スタンフォール - 物理学者 ^ ただし、他の地域(フランスやイギリスなど)においてはprinceはdukeよりも上位である。イギリスの侯爵(Marquess)に相当するドイツの爵位は辺境伯(Markgraf)であり、FürstはHerzogの下、Markgrafの上の爵位と解釈するのが正しい。各国によって爵位体系には違いがあるので、単純に日本語訳できないというのが正解である。 ^ 『地球の歩き方 2016〜17 スイス』 ダイヤモンド・ビッグ社、2016年、263頁。ISBN 978-4-478-04886-3。 ^ 2018年1月8日19時30分NHK総合放送「世界プリンス・プリンセス物語」 ^ NHK総合テレビ「世界プリンス・プリンセス物語」2018年1月8日放送 ^ 植田健嗣『ミニ国家「リヒテンシュタイン侯国」』(1999年 郁文堂)P131 ^ “Liechtenstein and the Czech Republic establish diplomatic relations (PDF)” (英語). Stabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit (2009年7月12日). 2011年5月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年10月18日閲覧。 ^ “Liechtenstein and the Slovak Republic establish diplomatic relations (PDF)” (英語). Stabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit (2009年12月9日). 2011年5月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年7月10日閲覧。 ^ 外務省 - OECD有害税制プロジェクト(非協力的タックス・ヘイブン・リストの公表) - 3. 上記2. の国・地域のうち、2005年末までの透明性の確保及び実効的税務情報交換の実施を約束せず、2002年4月18日に発表された「非協力的タックス・ヘイブン・リスト」には掲載された国である[1]。 ^ In May 2009, the Committee on Fiscal Affairs decided to remove all three remaining jurisdictions (Andorra, the Principality of Liechtenstein and the Principality of Monaco) from the list of uncooperative tax havens in the light of their commitments to implement the OECD standards of transparency and effective exchange of information and the timetable they set for the implementation. As a result, no jurisdiction is currently listed as an unco-operative tax haven by the Committee on Fiscal Affairs. [2] ^ 植田健嗣『ミニ国家「リヒテンシュタイン侯国」』(1999年 郁文堂)P171 リヒテンシュタイン家 LGTリヒテンシュタイン銀行 欧州自由貿易連合 ドイツ人 若きライン川上流に - リヒテンシュタインの国歌(作成者:ヤーコプ・ヤウホ) 軍隊を保有していない国家の一覧 二重内陸国 シェンゲン圏、シェンゲン協定 ファドゥーツ城 政府 リヒテンシュタイン公国政府(ドイツ語)(英語) 日本政府 日本外務省 - リヒテンシュタイン公国 在スイス日本国大使館 - 在リヒテンシュタイン大使館を兼轄する 観光 リヒテンシュタイン政府観光局(ドイツ語)(英語) - 日本語のページも少々ある", "ポルトガル共和国 República Portuguesa 国の標語:なし 国歌:A Portuguesa(ポルトガル語) ポルトガルの歌 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ 1999年以前の通貨はエスクード。 ^ ポルトガルのユーロ硬貨も参照。 ^ アソーレス諸島はUTC-1(DST: ±0)。 ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesa、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。 正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa[ʁɛˈpuβlikɐ puɾtuˈɣezɐ](レプーブリカ・プルトゥゲザ)。通称、Portugal [puɾtuˈɣaɫ](プルトゥガル)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。 日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル。漢字表記は葡萄牙で、 葡と略される。 英語表記はPortugal、国民・形容詞はPortuguese。 現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(英語版)(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年頃に新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年頃にイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年頃から断続的にケルト人が侵入を続けた。 紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人(英語版)はヴィリアトゥス(英語版)の指導の下でローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の平定が完了し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとガラエキア(英語版)に再編された。これ以降、「ローマの平和」の下でイベリア半島のラテン化が進んだ。 ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。 キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥ・カーレ(英語版)を解放し、ヴィマラ・ペレス(英語版)を最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。 ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約(英語版)が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。 ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約(ポルトガル語版)が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。 ディニス1世の下で最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化し、最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。 ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年-1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。 1492年にグラナダ戦争(スペイン語版、英語版)に勝利してレコンキスタが終結したスペインが、1494年にポルトガルとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は更に進み、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。 以後ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った。一方、1509年のディーウ沖の海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年~1543年には日本へもやってきた。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。 こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。 スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとしたポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部(英語版)にオランダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争(英語版))させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。 1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(英語版)(現アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。 1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とマドリード条約(英語版)を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。 広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。 1755年のリスボン大地震の後、ジョゼ1世の下で権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。 1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。 ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者達による独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争(ポルトガル語版)の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。 ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続いた後、1842年にブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制の下でロタティヴィズモ(ポルトガル語版)と呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義はカシキズモ(ポルトガル語版)(葡: Caciquismo)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。 また、19世紀になっても工業化が進まず、農業に於いても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋のポルトガル領アンゴラとインド洋のポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想が打ち出されたが、1890年にアフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域を巡って対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。その他にも1887年にマカオの統治権を清より獲得している。 1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって、1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は1916年にドイツ帝国に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の1917年にシドニオ・パイスがクーデターで政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく第一次世界大戦が終結した後も政治不安は続いた。 幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返した後、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領の下で財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された。 対外的にはナチス党政権下のドイツやファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。 第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルトガルの北大西洋条約機構や国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のウンベルト・デルガード(英語版)将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年のエンリケ・ガルヴァン(英語版)退役大尉が指導するイベリア解放革命運動(スペイン語版)によるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。 一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日に国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりアンゴラ独立戦争が始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴア、ディウ、ダマンのポルトガル植民地に侵攻し(インドのゴア軍事侵攻(英語版))、同植民地を喪失した。ギニアビサウでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってギニアビサウ独立戦争が始まり、モザンビークも1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった。 サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら植民地戦争の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相俟って1960年代には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、フランス、ルクセンブルクなどの西ヨーロッパ先進国に移住した。 1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「大尉運動(ポルトガル語版)」が結成された。翌1974年3月に大尉運動は全軍を包括する「国軍運動(英語版)」(MFA)に再編された。 1974年4月25日未明、国軍運動(英語版)(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血の内にカーネーション革命が達成された。革命後共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察PIDE(英語版)が廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのアントニオ・デ・スピノラ(英語版)将軍は革命を抑制する方針を採ったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス(英語版)、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョ(英語版)と結んだコスタ・ゴメス(英語版)将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制の下で急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことを以て革命は穏健路線に向かった。この間海外植民地では既に1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5ヶ国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を実質的に併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオもまた中華人民共和国から軍事侵攻を仄めかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけはポルトガル植民地として残った)、レトルナードス(ポルトガル語版)と呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。 1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にダ・コスタ(英語版)、モタ・ピント(英語版)、ピンタシルゴと三つの内閣が成立したが、何れも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、サー・カルネイロ(英語版)が首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は左派の社会党と右派の社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルトガルのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァの下で1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。 1990年代に入り経済が失速したことを受けて1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権の下では1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年にポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが形式的にも中華人民共和国に返還され、実質上植民地を全て手放した。2002年に名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールがインドネシアの占領・実効支配から独立を果たした。こうして1415年の大航海時代の始まりとともに生まれたポルトガル帝国は、21世紀の幕開けと同時にその歴史を終えて消滅した。 大統領を元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日のカーネーション革命(無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。 一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。 憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党・社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。 政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領(一回に限り再選が認められている)、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制の共和国議会からなる立法府、及び国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。 大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出等の権限を有するが、多分に名誉職的な性格が強く、ほとんどの行政権限は議会で多数得た政党から選ばれる首相が掌握している。 2005年の総選挙で、社会党が1976年の民主化以降初めて単独過半数を獲得。同年3月、社会党党首ジョゼ・ソクラテスが首相に就任。 2006年の大統領選挙で、社会民主党のアニーバル・カヴァコ・シルヴァが50.6%の得票率で当選。無所属で立候補した社会党のマヌエル・アレグレは20.7%、社会党のマリオ・ソアレスは14.3%、共産党のデ・ソウザは8.6%をそれぞれ獲得した。 2011年3月の大統領選でカヴァコ・シルヴァが再選。 2011年6月の総選挙にて社会党が敗北。社会民主党の党首ペドロ・パッソス・コエーリョが首相に就任。 2015年の総選挙で、財政緊縮政策を進めてきた社会民主党を中心とする連立与党が勝利。コエーリョが首相に再任されたが、連立与党の獲得議席は過半数を下回った。そのため、社会党が共産党などと野党連合を組み、過半数を確保。その結果、コエーリョ政権の政策方針は議会で否決され、事実上の内閣不信任決議となった。これをうけて、大統領のカヴァコ・シルヴァは社会党の書記長アントニオ・コスタに政権の樹立を要請し、社会党政権が発足した。 2016年の大統領選で、社会民主党の元党首マルセロ・レベロ・デ・ソウザが52%の得票率で当選。 ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、陸軍22,400人、海軍14,104人、空軍8,900人。他に国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。 2004年11月に徴兵制が廃止され、志願兵制度が導入された。 NATO、OECD、EFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとって最も重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。 旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。 EUとブラジル以外ではアンゴラやモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。 2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張している為、同国と対立している。しかし、一般的にはEU加盟後の国境開放もあって、隣国であり文化、価値観、言語の類似性を共有するスペインとの関係は概ね良好である。同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。 1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された。4年以上の歳月をかけて編纂され、中世の日本語とポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。 ポルトガル出身のイエズス会士ジョアン・ロドリゲスは、1577年に来日し、その後1620年にマカオで語学書「日本語小文典」を発行している。 岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のポルトガルの地理・歴史について記述した個所がある。 ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、欧州連合によるものが採用されている。 2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70%~90%(例えば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、アルバニアやセルビア、スロベニアなどのバルカン諸国である。 アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中で最も西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500km離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900km離れている。 ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえるピコ山 (Montanha do Pico) 。標高は2,351m。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置するエストレーラ山脈中のトーレの標高1,991m。エストレーラとは星を意味する。 東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少ない。主要河川であるテージョ川が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。ポルトには同国第二の河川であるドウロ川が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440km2にとどまる。また、沿岸部にはポルトガル海流が南西に流れている。 本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候 (Cs) に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200から1,500mmである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500から700mmである。南部は典型的な地中海性気候である。そのため、夏季の雨量が少なく年間降水量は500mmを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。 首都リスボン(北緯38度46分)の気候は、年平均気温が21℃、1月の平均気温が11.2℃、7月は22.8℃。年降水量は706mmである。冬季の雨量は100mm程度だが、夏季は数mmにとどまる。 2013年のポルトガルのGDPは約2199億ドルであり、日本の埼玉県よりやや大きい経済規模である。同年の一人当たりの名目GDPは20,727ドルで世界平均の約2倍だが、EU加盟国の中では平均を下回る。 1975年に植民地を一度に失ったため、石油を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。 1986年のヨーロッパ共同体 (EC) 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。一人当たり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。 主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛ん。オリーブ油の生産高は世界7位。ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)。森林 (36%) も多い。また、エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている。 鉱業資源には恵まれていないが、鉄、銅、錫、銀などを産する。特筆すべきは世界第5位のタングステン鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。主な鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。 2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易。主な輸出品目は、自動車 (16%)、電気機械 (12%)、衣類 (11%)。主な相手国は、スペイン(21%)、ドイツ(18%)、フランス(13%)。主な輸入品目は、自動車 (13%)、機械 (10%)、原油 (5%)。主な相手国は、スペイン(29%)、ドイツ(15%)、フランス(10%)。 2002年時点では、日本への輸出が1.7億ドル。主な品目は衣類(15%)、コンピュータ部品(15%)、コルク(11%)。日本が輸入するコルクの2/3はポルトガル産である。タングステンの輸入元としてはロシアについで2位。輸入が6.5億ドル。主な品目は乗用車 (20%)、トラック (10%)、自動車部品 (8%)である。 2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがある。 国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした高速道路網が整備されている。原則として有料である(一部無料)。 主な高速道路は以下のとおり。 A1 リスボン - ポルト A2 アルマダ - アルガルヴェ地方 リスボン市へはテージョ川を4月25日橋で渡る。 A3 ポルト - スペイン・ガリシア地方国境方面 A4 ポルト - アマランテ A5 リスボン - カスカイス A6 マラテカ - スペイン・バダホス国境方面 国境にてマドリッド方面のA-5に接続。 ポルトガル鉄道(CP) リスボンメトロ リスボン市 ポルトメトロ ポルト都市圏 リスボン、ポルト、ファロが主な国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。 TAPポルトガル航空 SATA Air Açores - ポルトガル のアソーレス諸島を中心とした航空会社 ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人(西ゴート族、スエビ族、ブーリ族)、ユダヤ人、ムーア人(大多数はベルベル人で一部はアラブ人)が混血した民族である。 かつてポルトガルは移民送出国であり、特にサンパウロ州でのコーヒー栽培のために、奴隷に代わる労働力を欲していたブラジルには1881年から1931年までの期間にかけて実に185万人が移住した。ブラジル以外にもベネスエラ、アルゼンチン、ウルグアイなどのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アンゴラやモサンビークなど、アフリカのポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住した。1960年代から1970年代にかけてはフランスやスイス、ルクセンブルクなど、西ヨーロッパの先進諸国への移民が増えた。 しかし、1973年のオイル・ショックによる先進国での不況や、カーネーション革命による植民地の放棄により多くの在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国への移住が行われるようになった。 このように移民送出国だったポルトガルも、近年ではブラジルをはじめ、ウクライナ、ルーマニア、カーボ・ヴェルデ(カーボベルデ系ポルトガル人)、アンゴラ、ロシア、ギニア・ビサウなど、旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入している。 言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)が公用語である。 1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。 また、ポルトガルの北に位置するスペインのガリシア地方の言語ガリシア語はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。 宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。 婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置、あるいは後置することを選択することが可能である。1977年の法改正で別姓を選択できるようになった。2011年の時点では、既婚女性の60%が婚前の姓をそのまま用いている。また、2010年からは、同性同士の婚姻(同性婚)が認められるようになった。 6歳から15歳までが基礎教育(義務教育)期間であり、6歳から10歳までが初等学校(初等教育。基礎教育第一期)、10歳から11歳まで(基礎教育第二期)、12歳から15歳(基礎教育第三期)までが二期に分けられる準備学校(前期中等教育)となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校(後期中等教育。日本における高等学校に相当)であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると高等教育への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。 主な高等教育機関としてはコインブラ大学(1290年)、リスボン大学(1911年)、ポルト大学(1911年)、リスボン工科大学(1930年)、ポルトガル・カトリカ大学(1966年)などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は93.3%(男性95.5%、女性91.3%)であり、ヨーロッパ諸国の中ではマルタに次いでセルビア・モンテネグロと並ぶ低さだった。なお、第一次世界大戦直前の識字率は約25%だった。 ポルトガルの文化は、イベリア半島にかつて居住していたケルト人、ローマ人、アラブ人等の影響を受けながら、カトリックを基盤にポルトガル人によって育まれてきた。政治や経済においてポルトガルはイギリスの強い影響を受けて来たが、文化面ではイギリスの文化の影響よりもフランスの文化の影響が強い。隣国スペインと同様に闘牛の文化もある。なお、ポルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に郷愁を表す「サウダージ」(Saudade)という言葉がある。 ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、イワシ、サバ、アンコウなどの多様な魚の中でも、特に干鱈(ほしだら、バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては小麦、トウモロコシ、ライ麦、米が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。他には豚肉が使われる。主な料理として、フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)、石のスープ、ガスパチョ、パステル・デ・ナタ、アルフェニンなどが挙げられる。 ポルトガルワイン(ポルトワイン、マデイラワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、ダンワイン)は古くから高い品質を保っている。 ポルトガル文学は12世紀末のガリシア=ポルトガル語でトゥルバドゥール(吟遊詩人)によって詠われた中世叙事詩にはじまった。 16世紀のルネサンス時代にはポルトガル演劇の父となったジル・ヴィセンテや、詩人のサー・ダ・ミランダなどが現れ、叙事詩『ウズ・ルジアダス』などの作品を残したルイス・デ・カモンイスは、特に国民的な詩人であるとされている。また、15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して紀行文学が栄え、ポルトガル人による西アフリカ探検と奴隷狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』のゴメス・エアネス・デ・アズララに始まり、ブラジルの「発見」を記録した『カミーニャの書簡』のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ、『東方諸国記』のトメ・ピレス、『東洋遍歴記』(1614)のフェルナン・メンデス・ピントなどが現れた。 17世紀、18世紀のポルトガル文学は不調だったが、19世紀に入ると1825年にアルメイダ・ガレットの『カモンイス』によってポルトガルに導入されたロマン主義は、ガレットとアレシャンドレ・エルクラーノによって発展させられ、第二世代の『破滅の恋』(1862)などで泥沼の恋愛関係を描いたカミーロ・カステロ・ブランコによって完成された。19世紀半ばからは写実主義のジュリオ・ディニス、エッサ・デ・ケイロス、テオフィロ・ブラガなどの小説家が活躍した。19世紀末から20世紀はじめにかけて、テイシェイラ・デ・パスコアイスはポルトガル独自のアイデンティティを「サウダージ」という言葉に見出し、このサウドディズモから『ポルトガルの海』を残した大詩人フェルナンド・ペソアが生まれた。この時期の日本との関わりにおいては、ヴェンセスラウ・デ・モラエスが特に言及される。 現代の著名な作家としては、『修道院回想録』(1982)や『白の闇』(1995)で知られ、1997年にノーベル文学賞を受賞した作家のジョゼ・サラマーゴや、ポルトガル近現代史を主なテーマにするアントニオ・ロボ・アントゥーネスなどの名が挙げられる。 カモンイスに因み、1988年にポルトガル、ブラジル両政府共同でポルトガル語圏の優れた作家に対して贈られるカモンイス賞が創設された。 ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれて来た。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。 ポルトガル発のポピュラー音楽(いわゆる民族音楽/ワールドミュージック)としては、特にファド(Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲス(1920-1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年ではドゥルス・ポンテスやマリーザなど、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。その他にも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手ジョゼ・アフォンソの名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になったマドレデウスの音楽はファドとは呼び難いが(アコーディオンは通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。 近年は、アンゴラからもたらされたキゾンバやクドゥーロのような音楽も人気を博し、ポルトガルからもブラカ・ソン・システマのようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。 また、ポルトガルは近来、デス/ブラック/シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、MOONSPELLはポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。 絵画においてはルネサンス時代にフランドル学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派のヴァスコ・フェルナンデスとリスボン派のジョルジェ・アフォンソの対立があり、『サン・ヴィセンテの祭壇画』を描いたヌーノ・ゴンサルヴェスが最も傑出した画家として知られている。17世紀には『聖ジェロニモ』のアヴェラール・レベロ、『リスボンの全景』のドミンゴス・ヴェイラの他に傑出した画家は生まれなかったが、18世紀になるとローマで学んだフランシスコ・ヴィエイラやバロックのドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラのような、ポルトガル美術史上最高峰の画家が現れた。19世紀に入ると、ロマン主義派のフランシスラコ・メトラスが活躍した。19世紀後半には絵画でもナショナリズムの称揚が目指され、写実主義の下にポルトガル北部の田園風景を描いたシルヴァ・ポルトや、『ファド』に見られるようにエリートから隔絶した民衆の世界を描いたジョゼ・マリョアが活躍した。 ポルトガルで発達した伝統工芸として、イスラーム文化の影響を受けたタイル・モザイクのアズレージョや、金泥木彫のターリャ・ドラダなどが存在する。 ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5ヶ月後にはポルトでアウレリオ・ダ・バス・ドス・レイスが自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグとイタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍した。 現代の映像作家としては『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタの名が挙げられる。 ポルトガル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在する。詳細は、ポルトガルの世界遺産を参照。 アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモ中心地区 - (1983年) リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔 - (1983年) バターリャ修道院 - (1983年) トマールのキリスト教修道院 - (1983年) エヴォラ歴史地区 - (1986年) アルコバッサ修道院 - (1989年) シントラの文化的景観 - (1995年) ポルト歴史地区 - (1996年) コア渓谷の先史時代の岩絵遺跡群 - (1998年) マデイラ島の照葉樹林 - (1999年) アルト・ドウロ・ワイン生産地域 - (2001年) ギマランイス歴史地区 - (2001年) ピコ島のブドウ畑の景観 - (2004年) サッカーが盛んであり、1934年に国内の1部リーグスーペル・リーガが創設され、主なプロクラブとしてSLベンフィカ、FCポルト、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルの名が挙げられる。 ポルトガル代表は初出場となった1966年のイングランド大会以降、1986年のメキシコ大会、2002年の日韓共同大会、2006年のドイツ大会、2010年の南アフリカ大会、2014年のブラジル大会と合計6回のワールドカップに出場している。クリスティアーノ・ロナウド、エウゼビオ、マヌエル・ルイ・コスタ、ルイス・フィーゴなどを筆頭に有名な選手を数々輩出している。 強豪国と言われながら、長い間国際タイトルには恵まれていなかったが(地元開催のEURO2004では準優勝、ワールドカップでは過去最高3位)、EURO2016の決勝で開催国のフランス代表を延長戦の末に下し、悲願の国際タイトル獲得を果たした。 陸上競技においては、1984年のロサンゼルスオリンピック男子マラソンで金メダルを獲得したカルロス・ロペスや、1988年のソウルオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得したロザ・モタなどの名を挙げることが出来る。 ポルトガルの闘牛はスペインとは異なり、基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯のバランコスではポルトガル全土で唯一牛を殺す闘牛が行われている。 王族以外のポルトガル出身者・関係者を挙げる。 アントニオ・サラザール - 元大学教授、元首相、大統領。独裁者。 ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ - 元首相、欧州連合の欧州委員会委員長。 マリア・デ・ルルデス・ピンタシルゴ - 同国初の女性首相。その後欧州議会議長。 ジョアン・ロドリゲス - イエズス会士、ならびに通訳士。 ルイス・フロイス - イエズス会士、『フロイス日本史』の著者。 ルイス・デ・カモンイス - 国民詩人、『ウズ・ルジアダス』の著者。 フェルナンド・ペソア - 詩人 ヴェンセスラウ・デ・モラエス - 海軍軍人、外交官、知日家 ジョゼ・サラマーゴ - ノーベル文学賞作家 ルイス・デ・フレイタス・ブランコ - 作曲家 アマリア・ロドリゲス - ファドの歌手 マリア・ジョアン・ピレシュ - ピアニスト ネリー・ファータド - ポルトガル系カナダ人歌手。両親がアソーレス諸島出身。 ファティマ・ロペス - ファッションデザイナー アルヴァロ・シザ - 建築家 マノエル・デ・オリヴェイラ - 映画監督 ジョゼ・モウリーニョ - プレミアリーグ・マンチェスターユナイテッド監督 ルイス・フィーゴ - サッカー選手 マヌエル・ルイ・コスタ - サッカー選手 クリスティアーノ・ロナウド - サッカー選手 デコ - サッカー選手。ブラジル生まれでポルトガル国籍を取得 エウゼビオ - サッカー選手。モザンビーク出身 ジョルジュ・メンデス - FIFA公認代理人。株式会社Gestifute代表。 ティアゴ・モンテイロ - F1ドライバー ペドロ・ラミー - 元・F1ドライバー セルジオ・パウリーニョ - 自転車ロードレース選手 ルイ・コスタ - 自転車ロードレース選手 ロザ・モタ - 女子マラソン選手 フェルナンダ・リベイロ - 元陸上選手 フェルナンド・マメーデ - 元陸上選手 ^ エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』大久保光夫訳 新評論 1986 ^ 日本では、明の寧波を目指し遭難した船が1543年(天文12年)8月25日に種子島の門倉岬に漂着した出来事を初のポルトガル人の来日であるとしているが、ポルトガル史料では1542年説が有力であるとしている。 またポルトガル共和国リスボン県リスボン市ベレン地区の発見のモニュメントでは1541年に豊後国に漂流したことを日本の発見と位置付けている。 ^ 金七紀男『ポルトガル史(増補版)』彩流社、2003年4月増補版。p.128 ^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳3 『ポルトガル3──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.36-40。 ^ サラザール政権は枢軸国にタングステンを売り、その取引に純金を利用していた。純金の出所はユダヤ人からの没収資産ということを知りつつ取引をおこなった。このときに保持した純金が戦後も独裁体制を維持する財政基盤となった。『朝日新聞GLOBE』2012年5月18日 ^ 意識不明の状態のまま辞任の手続きが取られ、2年後に覚醒したが本人には事故後の政局は全く伝えられることなく、事実上の軟禁状態のままサラザールは死去した。詳しくはアントニオ・サラザール#1968年の事故についてを参照のこと ^ a b 「ポルトガル共和国」『世界年鑑2016』(共同通信社、2016年)429頁。 ^ 土井忠生; 森田武, 長南実(編訳) (1980年). “邦訳日葡辞書”. 岩波書店. 2016年8月17日閲覧。 ^ ロドリゲス『日本語小文典(上)(下)』池上岑夫 訳、岩波書店(岩波文庫)1993年 ^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・5』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、140~145頁 ^ IMFによるGDP ^ 内閣府による県民経済計算 (PDF) ^ a b 「ポルトガル:「共産主義だった遠い国」からの脱皮」『日経ビジネスオンライン』日経BP社、2008年4月17日付配信 ^ “ポルトガルから旧植民地への「逆頭脳流出」”. JBPress. (2012年3月21日). http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34805  ^ ポルトガル語はアラビア語につぎ、世界第7位の話者人口を擁する。これはブラジルの存在による。同じポルトガル語でもブラジルポルトガル語とイベリアポルトガル語では発音や語彙にかなりの差がある。 ^ Majority of married women in Portugal keep maiden name、The Protugal News、 2011年8月20日。 ^ \"Majority of married women in Portugal keep maiden name\", News Online, August 20, 2011. ^ \"Does my surname change when I get married in?\", ELM Expertise, April 10, 2012 ^ Lei n.º 9/2010 de 31 de Maio Permite o casamento civil entre pessoas do mesmo sexo ^ Segunda-feira já vai ser possível celebrar casamentos entre pessoas do mesmo sexo ^ CIA World Factbook2009年3月30日閲覧。 ^ “The Lusiads”. World Digital Library (1800-1882). 2013年9月1日閲覧。 ^ 市之瀬敦『ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ』社会評論社、2000年12月。p.139 市之瀬敦 『ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ』 社会評論社、東京、2000年12月。ISBN 4-7845-0392-7。 エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』 新評論、東京、1986年9月。 金七紀男 『ポルトガル史(増補版)』 彩流社、東京、2003年4月増補版。ISBN 4-88202-810-7。 田所清克監修 『郷愁ポルトガル──地果て海始まるところ』 泰流社、1993年3月。 村上義和、池俊介編著 『ポルトガルを知るための50章』 明石書店〈エリア・スタディーズ〉、東京、2001年2月。ISBN 4-7503-1387-4。 ポルトガル関係記事の一覧 ポルトガル語諸国共同体 ポルトガル海上帝国 ポルトガルの都市 政府 ポルトガル共和国政府 (ポルトガル語)(英語) ポルトガル大統領府 (ポルトガル語)(英語) ポルトガル首相府 (ポルトガル語)(英語) 在日ポルトガル大使館 - 日本語版サイト 日本政府 日本外務省 - ポルトガル (日本語) 在ポルトガル日本国大使館 (日本語) 観光 ポルトガル政府観光局 - 日本語版サイト その他 ジェトロ - ポルトガル(日本語) 天気予報 \"Portugal\". The World Factbook. Central Intelligence Agency.  (英語) ポルトガル - DMOZ (英語) ポルトガルのウィキメディア地図 (英語) オープンストリートマップには、ポルトガルに関連する地理データがあります。", "ルーマニア România 国の標語:なし 国歌:Deșteaptă-te române!(ルーマニア語) 目覚めよ、ルーマニア人! ルーマニアは、東ヨーロッパに位置する共和制国家である。南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。首都はブカレスト。 国の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原をトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれる。 東欧では数少ないロマンス系の言語であるルーマニア語を公用語として採用している国家であるが、宗教的には東方教会系のルーマニア正教会が多数派である。いっぽう北西のポーランドはスラヴ語派のうち西スラヴ語群に属するポーランド語が主に話されているが、宗教的にはカトリック教会が支配的であり、ルーマニアとは好対照をなしている。 正式名称はルーマニア語で România [romɨˈni.a] ( 音声ファイル)。近似発音「ロムニア」。 マジャル語(ハンガリー語)の表記は Románia (ロマーニア)。 公式の英語表記は Romania [roʊˈmeɪniə] ( 音声ファイル)。かつてはドイツ語風の Rumania やフランス語風の Roumania という表記も存在した。 日本語の表記はルーマニア。漢字表記は羅馬尼亜で、羅と略される。 国名の由来は、ラテン語でローマ市民の意味。独立してからの正式名称は、以下のように変遷している。 1859年 - 1881年 ルーマニア公国(連合公国) 1881年 - 1947年 ルーマニア王国 1947年 - 1965年 ルーマニア人民共和国 1965年 - 1989年 ルーマニア社会主義共和国 1989年 - 現在 ルーマニア 現在では「共和国」などのような政体名を含まない国名が正式名称となっており、「ルーマニア共和国」という表記は誤りである。 古代にはゲタイ人(古代ギリシア語: Γέται)と呼ばれる民族が居住していた。紀元前513年、イストロス河(古代ギリシア語: Ἴστρος、現ドナウ川)南でゲタイ人の部族連合が、対スキタイ戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。 約600年後、ダキイ人(ラテン語: Daci)は、ローマ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスの2度の遠征(101年-106年)に敗れ、ローマ帝国の領土となった。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである。 238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。 271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いた後、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人、アヴァールがトランシルヴァニアを8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。この頃の史料には、ペチェネグ人、クマ人、ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国、ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。 中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアをロシア帝国に割譲した(パリ条約により1920年再合併)。北東部は1775年、オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった。 トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、後にハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。 1859年にワラキアとモルダヴィアの公主が統一され、1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立(ルーマニア公国)。1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行った。1878年ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立。第一次世界大戦でトランシルヴァニアを併合した。同じ1918年ベッサラビアを回復したが、これは1940年再びソビエト連邦に占領され、最終的に割譲することとなる(現在はモルドバ共和国、ウクライナ)。 1940年第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなど、ルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦した。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復した。しかしドイツ敗退により、再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させた後にチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。 戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、ソ連軍の圧力により共産化した。王制を廃止し、1947年にルーマニア人民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。しかし、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権の元、次第にソ連とは一線を画す一国共産主義を唱え始め西側との結びつきも強めた。1989年、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権がルーマニア革命によって打倒され、民主化された。 2007年1月1日に欧州連合 (EU) に加盟した。加盟に際しては、改革が不十分であるとして欧州理事会によって再審査されたが、加盟後も改革を続行するとして承認された。 政体は大統領を国家元首とする共和制国家であり、国民から直接選挙で選ばれる大統領と議会から選出される首相が行政を行う半大統領制を採用している。しかし、旧ルーマニア王家には特別の地位が与えられており、政府が公式に「陛下」や「殿下」といった敬称を用いて呼び、その住居・生計・活動費すべてが国庫で保証されているなど、共和制と君主制の折衷ともいえるやや特異な国家体制を採っている。現在の旧ルーマニア王家の家長はマルガレータ・ドゥタで、彼女にはルーマニア王冠の守護者という称号が与えられ、陛下の敬称の使用が認められている。 大統領は任期が5年である(2004年までは任期4年)。立法権は二院制の議会に属し、下院(代議院)は定数332人、上院(元老院)は定数137人で両院とも任期は4年。司法権は最高裁判所に属している。 2004年には北大西洋条約機構 (NATO) に参加。2007年1月に欧州連合に加盟した。2006年6月30日、ルーマニア最高国防評議会議長を兼任するバセスク大統領は、タリチェアヌ首相が29日イラク駐留部隊の年内撤退計画を発表したが、同評議会が同計画を拒否したことを明らかにした。同大統領は、熱烈な親米政治家として知られ、外交政策がある日突然変わってはならない、とタリチェアヌ首相を批判した。 2007年2月、選挙制度改革を進めようとする大統領と野党が対立。4月19日権力乱用を理由に大統領の職務停止案の投票が議会で行われ、賛成多数で可決された。4月20日ルーマニア憲法裁判所はバセスク大統領の職務停止を決定。バカロイウ上院議長が大統領代行に就任した。1か月後の5月20日にバセスクの弾劾の可否を問う国民投票が行われ、投票の結果は弾劾の否決。バセスクは大統領職に復帰した。これは、ルーマニア史上で大統領が議会に弾劾された最初のケースであり、大統領が国民投票で弾劾の可否を問われた最初のケースでもあり、さらに弾劾の否決の結果大統領が留任された最初のケースでもあった。 2016年2月、ヨハニス政権下の同国が隣国モルドバの政治危機に乗じて両国の統合を目指し、その為の働きかけを強めていることがコメルサントにより報道されている。 2017年、ルーマニア反政府運動(英語版)が起きた。 2010年2月4日、アメリカのクローリー国務次官補(広報担当)は、ルーマニア政府が地上発射型迎撃ミサイル SM3の配備に同意したことを明らかにした。これは、オバマ政権が進めているイランの弾道ミサイルの脅威に対処するための新たな欧州ミサイル防衛 (SD) 計画に参加したことになる。アメリカは南欧に広がったことを歓迎している。昨年10月には、ポーランド政府が新MD計画に参加する方針を表明している。 ルーマニアの地方行政は、41の県と首都ブカレストに区分されて行われている。 また、同国の県はコムーナ(comună)或いはムニチピウ(municipiu)などと呼ばれる小規模の自治体に分かれている。 西のセルビア、南のブルガリアとの間におけるルーマニアの国境は、基本的にドナウ川を境界としている。モルドバとの国境線であるプルト川もドナウ川と合流し、東に位置する黒海に注ぐ。ドナウ川の河口は三角州(ドナウ・デルタ)となっており、生物保護区となっている。 これらの自然国境はそれぞれの川の流路変更によって変化する。また、ドナウ・デルタは、年に2〜5 km2ずつ面積を増やすため、ルーマニアの領土面積はここ数十年、増加の傾向にある。1969年に237,500 km2だった総面積は2005年には238,319 km2となっている。 ルーマニアの地形は34%が山地、33%が丘陵地、33%が平地である。国の中央をカルパチア山脈が占め、トランシルヴァニア平原を取り囲んでいる。カルパチア山脈のうち14の山は2000m級であり、最高峰のモルドベアヌ山は 2,544 mである。カルパチア山脈は南の丘陵地帯に続き、さらにバラガン平野(英語版、ルーマニア語版)に至る。 IMFの統計によると、ルーマニアの2013年の国内総生産 (GDP) は約1,889億ドルである。2016年の一人当たりの名目GDPは11,859ドルで、世界平均より少し高いほどだが、バルカン半島の旧社会主義国ではクロアチアに次いで高い。 ルーマニアは伝統的に農業国であり、第一次産業人口が人口の42.3%を占める(2001年)。一方で、社会主義時代に計画経済のもと工業化が進められた結果、2014年現在では鉄鋼やアルミ、繊維産業といった業種も主要産業となっている。その他、17世紀から続くモレニ油田が知られるように、ルーマニアは産油国であるが、今日ではその規模は限られている。 住民は、ルーマニア人が89%、マジャル人(ハンガリー人)が6%、ロマ人が2%などである。その他にはセルビア人、ウクライナ人、ドイツ人、トルコ人、タタール人、スロヴァキア人、ブルガリア人、ロシア人、ユダヤ人、ノガイ族等が居住している。ルーマニア人は古代のダキア人と植民したローマ人の混血だとされているが、異論もある。マジャル人の多くはハンガリーとの領有権問題を抱えるトランシルヴァニアに居住している。 公用語はルーマニア語であり、東欧ではモルドバと共に数少ないロマンス系言語を公用語とする国家である。その他、ハンガリー語、ドイツ語、フランス語等も使われている。 2011年の調査によれば、宗教は、キリスト教正教会の一派ルーマニア正教会が81%、プロテスタントが6.2%、カトリックが5.1%、その他(その他のキリスト教、イスラム教(英語版)、エホバの証人、ユダヤ教)が1.2%、無宗教が0.2%、無効データが6.2%である。 7歳から14歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が義務教育であり、無償となっている。 主な高等教育機関としては、ブカレスト大学(1864年)などが挙げられる。 現在ルーマニアは深刻な野犬の問題に直面している。全国で推定200万匹が野放しになっている。2005年において同国内で2万人以上が犬に襲われる被害を受けている。当局は駆除に乗り出そうとしているが、動物保護団体の激しい反対に合い対策は進んでいない。 2006年1月7日、動物愛護活動家でもあるフランスの女優ブリジット・バルドーは声明を出して駆除計画に抗議、ルーマニア当局を非難した。同年1月29日、日本人男性がブカレストで野犬に噛まれ、失血死する事件が起きた。 TVR1 TVR2 ルーマニア・テレビ Actualităti Argeş Express Objectivargeşean Piteşti.ro Pro Argeş Zirarul Profit Curierul Zilei Journal de Argeş 有名な吸血鬼ドラキュラは、15世紀のワラキア公であったヴラド・ツェペシュがモデルになったとされている。 ウィッチクラフト(魔女文化)が数世紀の歴史を持ち、現在も「魔女」や「まじない師」「占い師」として生計を立てる人々が多く存在する。魔女たちからもほかの自営業者と同様に徴税するために2011年1月1日に労働法が改正され、魔女が「職業」として認められることとなった。魔女たちは以後は役所に営業許可を得て「魔女」として登録する必要があるほか、占いが外れると罰金が科されたり、逮捕されてしまうようになる可能性もあるという。 ルーマニア料理は、他のバルカン諸国の料理と比べ、トルコ料理の影響が小さい。 婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、相手の姓を用いる、相手の姓を付加する、のいずれかを選択できる。 19世紀に活躍した詩人として、ミハイ・エミネスクは特筆される。 地域ごとに様々な伝統音楽の形式が存在する。また、ロマ(ジプシー)の音楽も盛んである。 他のヨーロッパ各国同様、サッカーが盛んである。サッカールーマニア代表は強豪とは言えないが、強豪に強い「大物食い」として知られており、ゲオルゲ・ハジ、ゲオルゲ・ポペスク、クリスティアン・キヴ、アドリアン・ムトゥ、チプリアン・マリカなど名の知れた選手は多い(Category:ルーマニアのサッカー選手も参照)。 また女子体操競技においては、ナディア・コマネチ、シモナ・アマナール、アンドレーア・ラドゥカンなどの五輪金メダリストを多数輩出する世界屈指の強豪国である。ラグビールーマニア代表はワールドカップの第1回大会から8回連続出場中である。 なお、K-1で活躍中のダニエル・ギタもルーマニアの選手である。一方で伝統的な競技としてレスリング形式のスポーツの トレンタ(Trîntă)(ルーマニア語版) が開催されており、このスポーツは同国だけでなく類似する文化圏のモルドバでも支持されている。 ルーマニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。 ドナウ川三角州 - (1991年) トランシルヴァニア地方の要塞聖堂のある村落群 - (1993年、1999年拡大) ホレズ修道院 - (1993年) モルダヴィア北部の壁画教会群 - (1993年) マラムレシュの木造聖堂群 - (1999年) シギショアラ歴史地区 - (1999年) オラシュチエ山脈のダキア人の要塞群 - (1999年) この他、伝統的祭日として3月1日の三月祭 (Mărţişorul) がある。これはバレンタインデーに似た祭日である。花のほかに、ペンダント・ヘッドやブローチなどを、男性から女性に贈る。紅白の細い糸を縒って作った小さなリボンを、プレゼントに結び付けるのが慣わしとなっている。 ^ ドイツ語表記 Rumänien ^ フランス語表記 Roumanie ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2016年2月14日閲覧。 ^ ルーマニア史(出版社)文庫クセジュ6頁〜10頁 ^ ルーマニア史(出版社)文庫クセジュ18頁〜28頁 ^ 新潮社『foresight』(2003年6月号)より「饗宴外交の舞台裏(65):ルーマニア王子が日本外交に投げかけた難問」 ^ “Румыния форсирует Прут”. Коммерсантъ (2016年2月16日). 2016年8月20日閲覧。 ^ 米ミサイル防衛に参加=SM3配備に同意-ルーマニア 2010年2月5日 時事通信 ^ IMFの統計(欧州の非先進国に絞ったデータ) ^ “ルーマニア基礎データ”. 各国・地域情勢. 外務省 (2014年1月1日). 2014年11月19日閲覧。 ルーマニア関係記事の一覧 ベッサラビア、ブジャク モルダヴィア モルドバ ブコビナ ワラキア トランシルヴァニア 政府 ルーマニア政府 (ルーマニア語)(英語) ルーマニア大統領府 (ルーマニア語)(英語) 日本政府 日本外務省 - ルーマニア (日本語) 大使館 在日ルーマニア大使館 (日本語) 在ルーマニア日本国大使館 (日本語) 観光その他 ルーマニア政府観光局 (日本語) ルーマニア政府観光局 (@Romanian_Office) - Twitter(日本語) ルーマニア政府観光局 - Facebook(日本語) JETRO - ルーマニア (日本語) 日本ルーマニアビジネス協会 (日本語) 日本ルーマニア音楽協会 (日本語) Yokoso Romania(日本語) Your Online Portal to Romania(英語)" ]
ABC01-02-0077
人気兄弟お笑いコンビ・中川家の、兄の名前は中川剛ですが、弟の名前は何というでしょう?
中川礼二
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[ "中川礼二", "カンニング竹山", "宮迫博之", "インタビューマン山下", "桂三度" ]
[ "中川 礼二(なかがわ れいじ、1972年1月19日 - )は、日本のお笑い芸人。大阪府守口市出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー(東京本社)所属。吉本総合芸能学院(NSC)11期生。血液型はA型。身長171センチメートル、体重75キログラム。既婚。 実兄である中川剛とお笑いコンビ・中川家を組んでいる。 当時向陽台高等学校と提携していた近畿情報高等専修学校卒業(ラグビー部所属)。芸人になる前はリコーでサラリーマンをしており、「営業トップ賞」を受賞したこともあった。1992年、実兄中川剛と「中川家」を結成。このため、番組出演時の表記は「中川家 礼二」とされることも多い。 1998年に一般女性と結婚するも、後に離婚。2009年4月には、愛知県出身でピアノ講師の一般女性と再婚し、同年11月には第一子となる長女が誕生した。 大の鉄道ファン。特に京阪電鉄の全般に詳しく、幼い頃は同社に勤めることが夢だった。そのため地元である京阪線(主に淀屋橋停車中の急行出町柳行きの停車駅のアナウンス)、JRの車掌のモノマネなどを得意とする。高等学校時代は御殿山駅まで通学しており、好きな駅は森小路駅など。また、旧・京阪宇治交通のバスを同駅前で見るのも好きだった(京阪神エルマガジン社発行「まるごと京阪沿線」より)。 子供の頃、毎日車掌などのモノマネをしていたために母親に自宅から数駅の関西医科大学附属滝井病院に連れて行かれた事がある(漫才、コントでネタにされている)。 「出発進行」なる名義で、「鉄道漫談」という単独ネタがあった。 鉄道ファンを題材にしたドラマ『特急田中3号』第8 - 10話にゲスト出演した(旅行代理店「タイガートラベル」社長役)。また、鉄道運転士を描く映画『RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ』には主人公(演・三浦友和)の同僚運転士役で出演した。 山陽電鉄のCMに出演し、車掌のモノマネを演じている。 2008年5月、関西の大手私鉄を題材とした著書『笑う鉄道』(ワニブックス)を刊行。憧れだった京阪電車の制服・制帽を身にまとい、6000系とのツーショット(寝屋川車庫で撮影)で表紙を飾った。 『爆笑レッドシアター』のツッコミ選手権の、2010年9月1日放送の舞台が「新幹線」の回に出場し、鉄道ファンにしかわからないマニアックな部分(例:記念カードの広告写真に写っている車両の間違いなど)にまでツッコミを入れ、優勝したことがある。 杉ちゃん&鉄平のアルバム『電クラ3 〜線路は続くよどこまでも〜』の「パッヘル(発車)ベルのカンサイ」のアナウンスとして参加している。また、2015年9月発売のタッキー&翼「16.山手線内回り〜愛の迷路〜」にも参加している。 2011年8月20日、京阪電気鉄道・よしもとクリエイティブ・エージェンシー共同企画商品『中川家礼二の京阪電車音声キーホルダー』を限定発売。京阪電車5駅の駅名看板型キーホルダーのボタンを押すと、その駅の発車メロディ(祇園四条駅と出町柳駅は車内メロディ)とその駅にまつわる礼二のオリジナルアナウンスが流れる。 2011年8月30日、京阪電気鉄道・よしもとクリエイティブ・エージェンシ-・株式会社JTB西日本の共同企画、中川家礼二車掌がご案内『京阪特別列車&よしもと鉄道クラブ特別公演』を開催。普段乗車できない区間(車庫内等)を運行する特別列車に礼二が車掌に扮し、本人の車内放送を聞きながら乗車する企画だった。 「京阪電車寝屋川車両基地びわこ号復活プロジェクト」のプロジェクト・アドバイザーに就任。京阪電車寝屋川車両基地に保存されている往年の名車「びわこ号」を寝屋川市と京阪電気鉄道が市民参画で復活させる取組を応援した。2012年10月から2013年3月まで京阪がこのプロジェクトへの協力の一環として運行した「ギャラリートレイン」には、礼二の応援ポスターが掲示された。2014年11月9日に寝屋川車庫で実施された「びわこ号復活記念乗車会」にも京阪の乗務員制服を着用の上、ガイド役として出席した。 鉄道ものまねについては『電車でGO!』などで有名な立川真司から許可を取っているとのこと(礼二の方が有名になったため)。 毎日放送『痛快!明石家電視台』での明石家さんまとのカラミでは、「東大阪の岩本さん」という架空の人物を演じることがある。岩本さんは東大阪でネジ工場を経営しており、とても陽気で女好き。結構儲かっているらしく、社員旅行で沖縄へ行ったり、正月にスナックのママと海外旅行へ行っている。岩本さんは何故かさんまと仲が良く、「さんまちゃん」と呼び、毎回女の子の話をしている。ゴルフ中にさんまにつっこもうとして、側溝に片足をつっこみ転んだことがある。一度キャディー役で岩本さんの奥さんが登場した。演者は礼二で、典型的な大阪のオカン。さんまを見ると「やー! さんまちゃんやー!」と喜び、「触っとこ」とさんまに軽くタッチする。2004年12月、『リチャードホール』で「東大阪の岩本さん」を主人公としたコント「岩本さんクリスマスプレゼントを買いに行く」が中川家によって制作された。しかし「同番組でやっていた阪神タイガース私設応援団のコント『枚方はん』とキャラが被る」「尺が長すぎる(約40分あった)」との理由でお蔵入りとなり、岩本さんが登場する冒頭部分のみ放送された(DVD『リチャードホール同窓会 桔梗の間』に収録)。リチャードホールDVD『リチャードホール同窓会 菊の間』収録の中川家インタビューによるとコント内容は「岩本さんがクリスマスツリーを破壊する」というものだったという。東大阪の岩本さん登場10周年記念スペシャルとして、2014年8月18日放送の『痛快!明石家電視台』では明石家メンバーと岩本さんと従業員のカメラ好きの西村くん(=剛)とで東大阪を巡るツアーが放送された。 快傑えみちゃんねる(関西テレビ、関西ローカル、金19:00 - 19:57) 中川家礼二の鉄学の時間(鉄道チャンネル→MONDO TV) それゆけ!中川電鉄(鉄道チャンネル→TOKYO MX→MONDO TV) 中川家礼二の鉄活(TOKYO MX) PS純金(中京テレビ、中京ローカル) アメトーーク(テレビ朝日、不定期出演) ビットワールド(2017年4月7日 - 、NHK Eテレ) - 番組内コーナー「かわりに言ってよ!レイジー!」腹話術人形 レイジー役 愛の修羅バラ!(読売テレビ・中京テレビ、関西ローカル&中京ローカル、日11:40 - 12:35) 拝啓!!鉄道人(テレ朝チャンネル)2010スペシャル、#50、#51、2011スペシャル、#62、#63、ゲスト 三人衆の日本紀行 男の鉄学(鉄道チャンネル) ピラメキーノ(テレビ東京系、「クイズ鉄道キング」コーナー司会) 笑神様は突然に…(日本テレビ) - 礼二、宮川大輔ら4人で「鉄道マニアの旅」の企画で準レギュラー出演。 とんねるずのみなさんのおかげでした「2億4千万のものまねメドレー選手権」(フジテレビ) - 第2回、第4回、「仮面の舞踏会ものまねメドレー選手権」の、実質3回出場。 中川家礼二の美食鉄道 (2019年1月5日、東京MX) - 進行 グッド★コンビネーション(2001年1月8日 - 12日、NHK BS2、NHK) - 的場ヒロシ役 大河ドラマ 龍馬伝 (2010年11月28日、NHK総合) - 越前藩士・三岡八郎役 ラブコンプレックス(2000年10月12日 - 12月21日、フジテレビ) - パンチライン・ミノル役 特急田中3号 第8-10話(2007年6月1日 - 15日、TBS) - 鉄道マニアの旅行会社社長・島岡善蔵役 デカ 黒川鈴木 (2012年1月26日、読売テレビ) - 田口役 ひとつ星の恋〜天才漫才師 横山やすしと妻〜(2014年11月23日・11月30日、BSプレミアム) - 西川きよし役 黄昏流星群(2018年10月11日 - 12月13日、フジテレビ) - 川本保 役 孤独のグルメ大晦日スペシャル 京都・名古屋出張編 生放送でいただきます! (2018年12月31日、テレビ東京) - 中田 役 80デイズ(2004年、洋画吹き替え、ウィルバー・ライト役) さらば愛しの大統領(2010年、「礼二」名義) RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ(2011年、「中川家礼二」名義) まっすぐにいこう。(2003年、てんちょう役) 新幹線変形ロボ シンカリオン THE ANIMATION(2018年、車内アナウンス役) ポケモン・ザ・ムービーXY 破壊の繭とディアンシー (2014年、アルガス役) それいけ!アンパンマン おもちゃの星のナンダとルンダ(2016年、ナンダ 役) 2014年防犯キャンペーン「ATMおばちゃん」(2014年、ACジャパン) CoCo壱番屋(2015年4月 - ) 森永乳業「トリプルアタック」ヨーグルト・ドリンクヨーグルト(2018年、藤田弓子、あき竹城と共演) スカパー!プロ野球セット開幕直前野球番組対抗スペシャル(2017年3月28日、生放送、BSスカパー!) - MC・進行(倉持明日香と司会) プロ野球セットpresents プロ野球ワイド2017(BSスカパー!、2017年7月23日、8月6日、8月20日) - MC・進行(倉持明日香と司会) 『笑う鉄道』ワニブックス ISBN 4847017692 『笑う鉄道上京編 関東私鉄読本』ヨシモトブックス ISBN 978-4-8470-1844-2 『「鉄塾」~関東VS関西 教えて!都市鉄道のなんでやねん?~ 』ヨシモトブックス ISBN 978-4847019999 「京阪電車 新型車両3000系コンフォート・サルーン『快速急行』運転席展望」/「京阪電車 沿線散歩+α」(二枚組)京阪エージェンシー  沿線紹介コーナーでナビゲーションをしている。 『山手線内回り〜愛の迷路〜』タッキー&翼(2015年9月23日、フィーチャリングで参加) ^ a b c d “公式プロフィール”. 吉本興業. 2015年5月21日閲覧。 ^ a b “「中川家」弟・礼二が1年同棲後に結婚”. スポーツニッポン. (2009年4月10日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2009kekon/KFullNormal20090410056.html  ^ “本日「中川家礼二結婚披露宴」2時間SP放送”. お笑いナタリー. ナタリー (2010年9月1日). 2015年5月21日閲覧。 ^ “中川家礼二、鉄道への愛を語る”. 時事通信社 (2013年5月24日). 2015年4月26日閲覧。 ^ “タッキー&翼、中川礼二参加の「山手線内回り 〜愛の迷路〜」MV解禁。30人のサラリーマンと踊る”. BARKS (2015年8月26日). 2015年8月26日閲覧。 ^ 「びわこ号復活プロジェクト ギャラリートレイン」を運行します! 京阪電気鉄道発表資料(2012年10月10日) ^ 【動画】京阪電車「びわこ号」44年ぶり復活 ── 中川家 礼二も登場 - THE PAGE大阪(2014年11月17日) ^ “2014年8月18日(月)「痛快!明石家電視台」”. gooテレビ (2014年8月18日). 2015年4月27日閲覧。 ^ “ジャニーズWEST藤井流星、中山美穂と“禁断の恋” 佐々木蔵之介主演ドラマ「黄昏流星群」追加出演者発表<本人コメント>”. (2018年7月30日). https://mdpr.jp/news/detail/1782844 2018年8月20日閲覧。", "カンニング竹山(カンニングたけやま、1971年4月2日(戸籍上) - )は、日本のお笑いタレント、俳優、漫才師、コメンテーターである。 カンニングのボケ担当。本名・コンビ時の芸名、竹山 隆範(たけやま たかのり)、ただし探偵ナイトスクープとタモリ倶楽部でのみ本名で活動している。 福岡県福岡市城南区出身。福岡県立早良高等学校卒業。上京して大学卒業後に芸人になるつもりだったが大学を不合格になり、予備校に通う。1990年、浪人中だった小学校の同級生であるケン坊田中と、二人の通うそれぞれの予備校名から取ったお笑いコンビ「代々木くんと河合くん」を結成。予備校側からのNGにより「ター坊ケン坊」と改名した後、同年4月に開催されたTNCのオーディション番組「第1回激辛!? お笑いめんたい子」で優勝。同年5月、コンビとして福岡吉本第1期生として所属契約を結ぶ。 福岡吉本では博多華丸・大吉やコンバット満らが同期に当たる。しかし、竹山は「福岡で売れても意味がない」と、わずか1年で福岡吉本を辞めて上京。東京で、小学校の同級生中島忠幸と再会。 1992年、中島と組んで「カンニング」を結成し渡辺プロダクションに所属する。その後、元渡辺プロダクション関係者からの紹介でサンミュージックへ移籍。当時サンミュージックにはお笑い芸人3組が所属し、カンニングは2組目だった。その後フリーフォークス(MANZAI-Cの個人事務所)を経て、ぶっちゃあ(ブッチャーブラザーズ)の呼びかけでまたサンミュージックに出戻る。 2004年6月、日本テレビ系列のお笑い番組『エンタの神様』に初出演。いきなり「ウ◯コ」発言を繰り返す。同年7月の2度目の出演では、いきなりステージ上でズボンを脱いで脱糞しかけ、スタッフに強制退場させられる。その放送終了後、日本テレビに苦情やクレームの電話が殺到。同年8月、3度目の出演で相方の中島に説教され、ステージ上で土下座し謝罪した。(10年後の2014年7月28日、一回だけの約束で同番組に出演し、当時の模様を語っている。) 同年12月、中島が白血病のため入院。コンビ活動はできなくなったが、中島が元気に復帰したときにポジションがなくなっていないよう、ピンで芸能活動を続けた。2006年12月20日、療養中の中島が死去。中島の死後も、芸名に「カンニング」をつけて活動を行っている。 2005年、山崎邦正(現:月亭方正)とコンビを組み、「竹山崎」として第5回M-1グランプリに参加し、3回戦に進出した。 2007年3月30日、21歳の頃から付き合っていた2歳年上の彼女と結婚。竹山は本当は3月30日が誕生日であり、同学年より一年多く過ごせるという理由により、親に4月2日を誕生日にされたのだという。 2008年、役者として初の役名(藤井哲男役)付き映画となる『イエスタデイズ』に出演。単独ライブ『放送禁止』スタート。 父親が事業を行っており、9歳までは非常に裕福に育った。幼稚園へは運転手が運転する白いベンツで通っていたほど。リビングには、象牙や虎の敷物、火縄銃が飾られていた。 9歳の時に父親が経営する会社が倒産し、一転して借金取りに追われる生活となる。この時、子供心に「人はお金が絡むと豹変する。金を信用しちゃいけない」と思い、周りの大人たちが敵に変わっていくさまを痛感したという。 竹山が高校生の頃、バブル景気に便乗する形で父親の羽振りが再び良くなる。しかし、竹山が上京した後に再び父の会社の経営が傾き、返済計画を話し合う会議の途中に父親が脳出血で倒れ、そのまま死亡。父の死後、東京の竹山に裁判所から書類が届き、全く身に覚えのない13億円もの借金を背負わされていることが発覚(竹山の兄は20億円の借金を背負った)。結局、相続放棄をする形でその負債を免れた。父親がどんな会社を経営していたのか、竹山は全く知らない。「借金はするな、保証人にはなるな」が父の遺言のようなものだったという。 芸人として全く売れていない20代前半、相方の中島が原付で交通事故を起こし、その示談金50万円を工面するために消費者金融から借金した。この時に意外にも簡単に借りられると味をしめ、アルバイトもさぼって堕落生活になり、遊興費のために借金を重ねて450万円(利子だけで月15万)にまで膨らんだ。部屋に借金取りが押し寄せ、ネタ作りもままならない状態で舞台に臨んで、苦し紛れに生まれたのが「キレ芸」だった。キレ芸は「お笑いの形ばかり気にしていたことから、かっこつけるのを辞めて、自分たちが本当に面白いと思っていることを、テレビに全く映らなくてもいいから開き直って、思いっきりやってみよう」という思いから出来て、「電車の中や居酒屋で怒ったり説教したりするおじさんとか面白そう」という話になり、漫才の中に取り入れたら面白いんじゃないかということになったという。実際に本人が語ったところによると、ライブがあるのに借金取りが家の前に居て、窓から屋根伝いに逃げるようにライブ会場に到着し、「何で俺がこんな目に遭わんといかんのじゃー!!」とキレたのが始まりだったという。その芸は客受けは悪かったが、芸人仲間からは評価が高かったため、本格的にお笑いをすることを決意。450万円の借金は、特定調停を申し入れて債務整理をした。 2013年、当時予定していた主演ドラマが急遽立ち消えとなりスケジュールが空いたため、教習所に通い42歳で普通自動車運転免許を取得した。 2015年1月、フジテレビ系列のバラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画で、ハワイのマツモトシェイブアイスの経営権を購入。「竹山かき氷本舗(タケヤマシェイブアイス)」の店名で、同年4月14日から5月13日まで期間限定でかき氷やTシャツ等を販売した。1000万円の大台を超える売り上げだったものの、利益はほとんど残らなかったという。 額縁メガネをかけていて、誰かれかまわず(時には自虐的に)キレまくる。しかし、あまり暴走し過ぎると相方の中島に逆ギレされ、途端に落ち込むこともあった。暴走すると行う行動の1つに、コント中に他の芸人のネタをパクろうとしたり(『笑いの金メダル』では「パクリン」というキャラクターに扮してひたすら他の芸人のネタをぱくりまくっていた)、スタンドマイクから離れて大声を出したり、スタンドマイクを手に持ち客に突きつけたりする等の芸がある。数多くいる毒舌芸人やキレキャラクターの一人に数えられる。 逆に「いじられてキレる」パターンが定着しつつありリアクション芸人に近い芸風になっている。また、出始めた時に比べてキレる頻度はどんどん少なくなって来ており、むしろ真面目で温厚な素を前面に出して、他の芸人が暴走するのを抑える立場になることが多い。特に、CS放送などで所属事務所であるサンミュージック芸人のお目付役として、出演することも少なくない。本当は司会がやりたくて芸能界に入った。そして2006年からテレビ東京で本人初の冠番組『竹山先生。』が放送された。この番組は、2007年3月31日に終了した。 バラエティ番組だけでなく、『ビビット』でのコメンテーターとしての出演や、ドラマ・映画での俳優としての出演など、活動の幅も広い。 先輩のダチョウ倶楽部・上島竜兵と仲がよく竜兵会にも所属しており、上島と「キレキャラ」「いじられキャラ」の芸風が若干似ている。 幼少期、ヴァイオリンを3年間習っていたことがあり、その経験から朝日放送制作・テレビ朝日系『笑いの金メダル』では「バイオリン忍者ター坊」というキャラクターで登場していた時期がある。ネタのパターンは波田陽区の「ギター侍」のパロディで、ネタにした相手を斬るのではなく全て自虐ネタをオチとしている点が異なっており、最後は「残念でござる。ニンニン」で締めくくられていた。 大の女性アナウンサー好きとされ、「女子アナマニア」を自称する。「週刊プレイボーイ」に女子アナに関するコラムを連載しているほか、民放キー局のアナウンサー関連のバラエティ番組にはほとんどの番組に出演している。 航空ファンとしても知られ、乗るのも見るのも好きだという。本人のラジオにおける発言をきっかけに航空ファン向け雑誌「月刊エアライン」からアクションがあり、同誌に記事を連載している。 競馬ファンとしても知られ、グリーンチャンネルでも一時レギュラー番組を持っていた。また、一口馬主クラブ「サンデーレーシング」の会員でもあり、ブラックスピネル(2017年東京新聞杯優勝馬)に出資している。 プロ野球は地元福岡の福岡ソフトバンクホークスファンである。 喫煙者であり、1日に3箱ものたばこを吸うヘビースモーカーであったが、現在は加熱式たばこに変えている。2018年に制定された東京都の受動喫煙防止条例については「飲み屋で全面禁煙はきつい」などと不満を漏らしている。 レギュラー 直撃LIVE グッディ!(フジテレビ) - 水曜レギュラー・コメンテーター ノンストップ!(フジテレビ) - 金曜レギュラー 探偵!ナイトスクープ(朝日放送テレビ) - 本番組のみ本名の「竹山隆範」名義を継続している。 カンニングの恋愛中毒(GyaO) 白熱ライブ ビビット(2016年3月28日 - 、TBS) - 月曜日レギュラー カンニング竹山の土曜TheNIGHT(2017年1月13日 - 、AbemaTV) 準レギュラー そうだったのか!池上彰の学べるニュース(テレビ朝日) アッコにおまかせ!(TBS) 雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!(テレビ朝日) 金曜★ロンドンハーツ(テレビ朝日) 馬好王国〜UmazuKingdom〜(フジテレビ) 相葉マナブ(テレビ朝日 2013年4月21日 - 2015年12月6日)- サポートメンバーとして不定期で出演。 ためしてガッテン(NHK総合テレビ) 業界激震!?マジガチランキング(abemaTV、2017年4月 - 2017年9月) - MC カンニングのDAI安吉日!(BSフジ、2006年4月3日 - 2018年3月25日) みんなのニュース ワンダー(関西テレビ) - 木曜レギュラー 過去の レギュラー番組 虎の門 (テレビ朝日、2001年4月 - 2008年9月) 笑いの金メダル (朝日放送、2004年 - 2007年) お台場お笑い道 (フジテレビONE、2005年5月 - 2009年9月) - レギュラー 怒りオヤジ3 (テレビ東京、2005年10月 - 2009年3月) - MC おもいッきりイイ!!テレビ (日本テレビ) - 月曜レギュラー(2007年10月 - 2008年9月は木曜レギュラー) カンニング竹山の前向きコント!一本勝負(フジテレビ)/フジポッド 知っとく!なっ得! (テレビ朝日、2011年1月 - 2013年3月) 全力!銭ナール → カンニング竹山の銭ナール → カンニング竹山の銭ナール女学院 → カンニング竹山のゼニウスの夜 (毎日放送、2012年2月 - 2013年4月)冠番組 やじうまテレビ! (テレビ朝日)木曜日コメンテーター(2012年4月 - 2013年3月) 竹山のやりたい100のこと〜ザキヤマ&河本のイジリ旅〜(フジテレビONE、2012年5月 - 2013年2月)冠番組 世界制服!竹山塾(テレ朝チャンネル) ラストアイドル(テレビ朝日、2018年4月15日 - 9月30日) - MC 有吉弘行の脱ぬるま湯大作戦(2018年8月3日 - 24日、Amazonプライム・ビデオ) 過去の 準レギュラー番組 脳内エステ IQサプリ (フジテレビ、2004年4月 - 2009年3月) - 準レギュラー 中井正広のブラックバラエティ (日本テレビ、2004年7月 - 2013年3月) - 準レギュラー(一時期から、カブトムシさいとうと呼ばれるようになる。) 愛のエプロン (テレビ朝日、2006年) - 準レギュラー(ジャッジマン) お試しかっ!(テレビ朝日、2008年4月 - 2015年1月) - 準レギュラー 関ジャニの仕分け∞(テレビ朝日、2012年 - 2015年) - 仕分けホール支配人 不定期出演 うたばん(2004年10月28日・TBS) 解体新ショー (NHK) - 不定期出演 トンコツTV (2007年6月24日、NHK福岡) - 進行役 めざせ!会社の星「夢のオフィスツアー 大手航空会社を探検」 (2010年8月5日、NHK Eテレ) Shibuya Deep A (2013年7月21日、NHK) きょうの料理 (2013年8月、NHK Eテレ) - 共演:和田アキ子、安田美沙子 これぞ!ニッポン流! (テレビ朝日)(2014年4月13日未明[12日深夜]) タモリ倶楽部(テレビ朝日)- 不定期出演 坂上忍の成長マン!! - 不定期出演 コヤブガチピン写真館(2014年4月29日、フジテレビONE) きらっといきる(NHK教育テレビ) エンタの神様(日本テレビ)- キャッチコピーは「遅れてきた反抗期」(カンニングとして)→「永遠の反抗期」(竹山のみ)→「遅れてきた反抗期」(竹山のみ) とんねるずのみなさんのおかげでした(フジテレビ) オールスター赤面申告!ハプニング大賞(TBS) - レギュラー審査員 カンニング竹山のオレの映像買ってくれ!!(2006年、テレビ朝日)※関東ローカル お笑い芸人大忘年会(日本テレビ)※年末特番 ついていったらこうなった (フジテレビ、2007年 - 2011年)全11回出演 恐怖のアポなし訪問者 和田アキ子の今晩マジで泊まるぞコノヤロー!(2008年9月30日、TBS) FNSソフト工場「うそかまことか研究所」(2009年12月、テレビ宮崎) Oha!6 NEWS LIVE スペシャル(2011年12月29日、日本テレビ系列) やりすぎ都市伝説(テレビ東京) 大炎上生テレビ オレにも言わせろ!(2012年9月28日、TBS) 最近の若いもんは…イン・ザ・ワールド(テレビ朝日、2015年12月29日) サンバリュ(日本テレビ) 「クイズ!思い浮かベル!」(日本テレビ、2016年2月14日) 「トシにはトシの悩みがある」(日本テレビ、2016年4月10日) 日曜ファミリア「世界ベスト・オブ・映像ショー頂上リサーチ」(フジテレビ、2016年3月20日) 土曜プレミアム「有名人が初めて話します!とっておきランキング〜ここでしか聞けないヒミツの話30連発」(フジテレビ、2016年4月2日) 世界衝撃映像100連発 春の新着映像大放出SP(TBS、2016年4月13日) ジョッキー5周年記念2時間特別番組「イジラレ放題120分」(ニコジョッキー、2016年8月29日)出演:くじら、神宮寺しし丸、お侍ちゃん、開発くん、ねもよし(ユメマナコ)、大門与作 X The NIGHT 2周年記念SP(2018年4月29日、AbemaTV) 水曜プレミア「夜王」(TBS、2005年5月11日) - 高橋藤吉 役 FNS ALLSTARS あっつい25時間テレビやっぱ楽しくなければテレビじゃないもん!「THE WAVE!」(フジテレビ、2005年7月23日・24日) - 中西浩介 役 はるか17 第1話(2005年、テレビ朝日) - フリーター 役 翼の折れた天使たち 第2夜「ライブチャット」(2006年、フジテレビ) - ブラピ 役 下北サンデーズ(2006年、テレビ朝日) - レギュラーでサンボ現 役 お台場湾岸テレビ(2006年、フジテレビ) - 湾テレ美術 役 ユキポンのお仕事(2007年、テレビ東京) - 犬彦 役 四葉ノムコウ(2007年、日本テレビ) - さいとう 役(主役) ※『ブラックバラエティ』で放送された単発ドラマ 土曜ワイド劇場「刑事殺し 夫が自宅で射殺された!」(2007年、朝日放送〈現:朝日放送テレビ〉) - 阿部 役 真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎「私は貝になりたい」(2007年、日本テレビ) 怨み屋本舗スペシャル 家族の闇 モンスターファミリー(2008年、テレビ東京) - 白川タカヒコ 役 斉藤さん(2008年2月13日、日本テレビ) - 小鳩市役所職員 役 おちゃべり 第17話(2009年3月24日、毎日放送) - 飛田慎二 役〔写真のみ出演〕 誰かが嘘をついている(2009年10月6日、フジテレビ) - 結婚詐欺師 役 ねこタクシー(2010年、東名阪ネット6/札幌テレビ/TVQ九州放送ほか) - 間瀬垣勤 役(主演) 松本清張ドラマスペシャル・霧の旗(2010年3月16日、日本テレビ) - 柳田正夫 役 鉄の骨(2010年7月、NHK) - 西田吾郎 役 隠密秘帖(2011年1月1日、NHK) - 脇田寅之助 役 ひとりじゃない(2011年1月 - 2月、BSフジ) バーテンダー 第4話(2011年2月25日、テレビ朝日) - 北方 役 TAROの塔(2011年2月 - 3月、NHK) - 小松左京 役 さだまさしドラマスペシャル 故郷 〜娘の旅立ち〜(2011年7月5日、フジテレビ) - 高校の先生 役 よる★ドラ ビターシュガー(2011年10月 - 12月、NHK) - 五十嵐憲吾 役 ドキュメンタリードラマ・似顔絵捜査官001号(2012年3月11日、NHK BSプレミアム) - 戸島国雄(鑑識課員) 役 ドラマ10 はつ恋(2012年5月 - 7月、NHK) - 広瀬光二 役 信長のシェフ(2013年1月 - 3月、テレビ朝日) - 徳川家康 役 間違われちゃった男 第8話(2013年6月1日、フジテレビ) - 八幡山崇 役 ドラマ10 激流〜私を憶えていますか?〜(2013年6月 - 8月、NHK) - 大林隆之 役 あなたに似た誰か「記憶の海」(2013年8月20日、NHK BSプレミアム) - 杉原医師 役 花子とアン(2014年、NHK連続テレビ小説) - 徳丸甚之介 役 容疑者は8人の人気芸人(2015年4月18日、フジテレビ) - 黒田学刑事 役 美女と男子(2015年、NHK) - 藤原プロデューサー 役 刑事バレリーノ(2016年、日本テレビ) - 鬼山紋二郎 役 スペースポリス(日本出版販売・ケイエスエス、2004年発売) - ビデオ屋の店員 役 プラトニック・セックス(2001年、フジテレビ他) - サラリーマン 役 嫌われ松子の一生(2006年、東宝、TBS他) - 教頭 役 森のリトル・ギャング(日本語吹替版、2006年) - ヴァーミネーター 役 イエスタデイズ(2008年) - 藤井哲男 役 感染列島(2009年、東宝) - 鈴木浩介 役 守護天使(2009年) - 須賀啓一 役 なくもんか(2009年、東宝) - 山岸正徳 役 ねこタクシー(2010年) - 間瀬垣勤 役 BECK(2010年) - 斉藤研一 役 それでも花は咲いていく「ヒヤシンス」(2011年) - オッキー 役 DOG×POLICE 純白の絆(2011年) - 西村孝 役 おかえり、はやぶさ(2012年) ゴーストライターホテル(2012年) - 江戸川乱歩 役 ボクたちの交換日記(2013年) 今日子と修一の場合(2013年) 劇場版 タイムスクープハンター -安土城 最後の1日-(2013年) - 谷崎勉 役 ミュータント・タートルズ(日本語吹替版、2015年) - スプリンター 役 脳内ポイズンベリー (2015年) 先生と迷い猫 (2015年) ター坊ケン坊時代に九州朝日放送でラジオデビュー。 JUNK2木曜日「カンニング竹山 生はダメラジオ」(TBSラジオ、2006年4月6日 - 2008年9月25日) レコメン!(文化放送) - 水曜日 伊集院光 日曜日の秘密基地(TBSラジオ) - 不定期に日曜ゼミナール講師役、主にサブカルチャーを取り扱った ラジオドラマ「被取締役新入社員」(TBSラジオ) - 鈴木信男/羽ヶ口信男役 ニュース探究ラジオ Dig(TBSラジオ、2010年4月 - 2013年3月) - 月曜日コメンテーター おしゃべりやってま〜す(インターネットラジオK'z Station、2004年5月 - ) - 第6放送隔週レギュラー 赤江珠緒 たまむすび(TBSラジオ、2013年4月1日 - ) - 月曜パートナー おぎやはぎのメガネびいき(TBSラジオ、2014年6月6日) 六輔七転八倒九十分(TBSラジオ、2016年4月11日) いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口(TBSラジオ、2016年10月10日) uno(資生堂) おしゃべりピチュー(トミー) 悪魔の棲む家(2006年) 平塚競輪場(かつてカンニングとして出演していたが、現在は「応援団長」として竹山のみの出演。また「カンニング竹山杯」という自分の名前を冠したF2ナイター競走が開催されている) 福岡市選挙管理委員会(2006年11月19日に行われた福岡市長選挙のイメージキャラクター) アコム(2007年)木内晶子と共演 九州電力「やってみま省エネ」キャンペーン(2008年) チバビジョン(2009年2月)光浦靖子、くわばたりえと共演 ダマリングランデX(大正製薬)(2013年) レノアプラス・衣類の消臭専用デオドラントビーズ(P&Gジャパン)(2015年4月 - ) ニンテンドー3DS用ソフト「大逆転裁判 -成歩堂龍ノ介の冒險-」(カプコン)(2015年) 『高齢者詐欺被害の未然防止』啓発キャンペーンWeb限定動画「毎日話せば詐欺は防げる」編(2015年) - 息子 役 森永乳業「アロエステ」(2016年) 高山質店(2017年) カンニングの思い出づくり(2005年1月14日、BSフジ/ポニーキャニオン) 死球〜DEAD BALL〜vol.5(2005年8月25日、ビデオメーカー) 『カンニングの恋愛中毒』シリーズ カンニングの恋愛中毒 恋人達を襲うドエロ幽霊を追え!! in木更津(2006年5月26日、TLIP) カンニングの恋愛中毒 一人暮らしの美女を襲うドエロ・ストーカーを追え!!(2006年5月26日、TLIP) カンニングの恋愛中毒 カンニング竹山 VS 小沢仁志〜(2009年8月25日、電子公園) カンニングの恋愛中毒 「芸人面接」未放送映像SP(2012年10月17日、ポニーキャニオン) 『放送禁止』シリーズ カンニング竹山単独ライブ 放送禁止(2009年3月25日、Contents League) カンニング竹山単独ライブ 放送禁止Vol.2(2010年3月25日、Contents League) カンニング竹山単独ライブ 放送禁止Vol.3(2011年4月27日、Contents League) カンニング竹山単独LIVE「放送禁止2011」(2013年2月20日、ポニーキャニオン) カンニング竹山単独LIVE「放送禁止2012」(2013年2月20日、ポニーキャニオン) カンニング竹山単独LIVE「放送禁止2013」(2014年3月19日、ポニーキャニオン) 『お台場お笑い道』シリーズ お台場お笑い道ベストセレクション 1(2010年1月27日、フジテレビ映像企画部) お台場お笑い道ベストセレクション 2(2010年1月27日、フジテレビ映像企画部) 『ザキヤマ&河本のイジリ旅』シリーズ 竹山のやりたい100のこと〜ザキヤマ&河本のイジリ旅〜イジリ 1 俺がシャツって言ったらシャツなんだよ! の巻(2012年11月21日、ポニーキャニオン) 竹山のやりたい100のこと〜ザキヤマ&河本のイジリ旅〜イジリ 2 首はホントに持ってかれるぞ! の巻(2012年11月21日) 竹山のやりたい100のこと〜ザキヤマ&河本のイジリ旅〜イジリ 3 お前ら、性で遊ぶな! の巻(2012年11月21日) 竹山のやりたい100のこと〜ザキヤマ&河本のイジリ旅〜イジリ 4 マイクロは寝ろよ!の巻(2013年3月20日) 竹山のやりたい100のこと〜ザキヤマ&河本のイジリ旅〜イジリ 5 死んだらここに埋めれがいいが!の巻(2013年3月20日) 『ザキヤマ&河本のイジリ天国』シリーズ 竹山エンディングノート-ザキヤマ&河本のイジリ天国- 1(2013年11月20日、ポニーキャニオン) 竹山エンディングノート-ザキヤマ&河本のイジリ天国- 2(2013年11月20日、ポニーキャニオン) 竹山エンディングノート-ザキヤマ&河本のイジリ天国- 3(2013年11月20日、ポニーキャニオン) 竹山エンディングノート-ザキヤマ&河本のイジリ天国- 4(2014年3月19日、ポニーキャニオン) 竹山エンディングノート-ザキヤマ&河本のイジリ天国- 5(2014年3月19日、ポニーキャニオン) カンニングのヘイ・ユウ・ブルース No.1(2005年11月23日、ERJ)※U.N.O.BANDとして ココロ花 ※笑金オールスターズとして ショートカッツ-実写版- #18 黒坂先生(小学館マイクロムービーズ) カンニング竹山の「タケちゃんねる」(サンミュージックの公式YouTubeチャンネル内で前述のタイトルを始め複数動画が投稿されている) カンニング竹山の“踊るダメ人間!”(2005年6月、宝島社、ISBN 4796646418) 現代日本への警鐘(2007年1月、メディアファクトリー、ISBN 978-4840117838) 大阪人はなぜ振り込め詐欺に引っかからないのか(2007年2月、扶桑社、ISBN 4594052479) ^ “カンニング竹山”. 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舞草衆一郎 役 真夏のメリークリスマス(2000年10月9日) モナリザの微笑(2000年、フジテレビ) やまとなでしこ(2000年、フジテレビ) - ツネさん 役 ココだけの話(2001年、オムニバスドラマ、第6話出演) 史上最悪のデート 第19話(2001年、日本テレビ) 救命病棟24時 第2シリーズ(2001年、フジテレビ) - 馬場武蔵 役 ミスDJ殺しのリクエスト(2001年) 北条時宗(2001年、NHK大河ドラマ) - 北条義宗 役 反乱のボヤージュ(2001年、テレビ朝日) - 立花 役 HERO(2001年、第3話) - 宮川雅史 役 救命病棟24時スペシャル2002(2002年、フジテレビ) - 馬場武蔵 役 いま何待ち?(2002年、オムニバスドラマ、第14話、15話出演) 婚外恋愛(2002年、テレビ朝日) 春ランマン(2002年、関西テレビ・フジテレビ系) ソーム二課 電話オペレーターの事件簿(2002年、フジテレビ系) - 朝日奈健太郎 役 探偵家族(2002年、日本テレビ系) - 田中大介 役 初体験(2002年、フジテレビ、第1話) 夢のカリフォルニア(2002年、TBS) 天才柳沢教授の生活(2002年、フジテレビ、第4話) - 榎本(空き巣) 役 金曜エンタテイメント ソナギ〜雨上がりの殺意〜(2002年、フジテレビ) アシ!(2003年、テレビ朝日) 東京ラブ・シネマ(2003年、フジテレビ系) - 千葉吉成 役 離婚旅行(2003年) 太閤記 サルと呼ばれた男(2003年、フジテレビ系) - 明智光秀 役 アットホーム・ダッド(2004年、関西テレビ・フジテレビ系) - 杉尾優介 役 アットホーム・ダッド スペシャル(2004年、フジテレビ系)- 杉尾優介 役 日曜劇場 夫婦。(2004年、TBS) - 赤井 役 恋の時間(2005年10月 - 12月、TBS系) - 山田昌男 役 Happy!(2006年、TBS系) - 桜田純二 役 妖怪人間ベム(2006年、アニメ作品) - 第21話ドッペルゲンガー 役 だめんず・うぉ〜か〜(2006年10月 - 12月、テレビ朝日系) - 一ツ橋信 役 Happy!2(2006年12月26日、TBS系) - 桜田純二 役 しゃばけ(2007年11月24日、フジテレビ系) - 屏風覗き 役 笑顔をくれた君へ〜女医と道化師の挑戦〜(2008年3月14日、フジテレビ系) - クラウンK 役 うそうそ(2008年11月29日、フジテレビ系) - 屏風覗き 役 B型オンナが結婚する方法(2009年2月24日、フジテレビ系) - 保住暁彦 役 緊急スペシャル 救命病棟24時〜救命医・小島楓〜(2009年7月28日、フジテレビ系) - 馬場武蔵 役 龍馬伝(2010年、NHK大河ドラマ) - 平井収二郎 役 絶対零度 〜未解決事件特命捜査〜(2010年4月 - 6月、フジテレビ系) - 塚本圭吾 役 金曜プレステージ 絶対零度 〜未解決事件特命捜査〜 Special(2011年7月8日、フジテレビ系) - 塚本圭吾 役 絶対零度 〜特殊犯罪潜入捜査〜(2011年7月 - 9月、フジテレビ系) - 塚本圭吾 役※回想出演 夜行観覧車(2013年1月 - 3月、TBS系) - 遠藤啓介 役 ホワイト・ラボ〜警視庁特別科学捜査班〜(2014年4月 - 6月、TBS系) - 奥貫徹 役 容疑者は8人の人気芸人(2015年4月18日、フジテレビ系) - 本人 役 僕のヤバイ妻(2016年4月 - 6月、関西テレビ・フジテレビ系) - 横路正道 役 警視庁文書捜査官(2018年) ‐ 松河森次 ごんたくれ(1995年)※映画デビュー作 岸和田少年愚連隊(1996年) クロスファイア(2000年)- チンピラ 役 蛇イチゴ(2002年 初主演作) - 明智周治 役 13階段(2003年) - 寺田実 役 下妻物語(2004年) -桃子の父 役 CASSHERN(2004年) - アクボーン(新造人間) 役 Tokyo Tower(2005年) - 川野 役 姑獲鳥の夏(2005年) - 木場修太郎 役 妖怪大戦争(2005年) - 佐田 役 タナカヒロシのすべて(2005年) - 田辺 役 探偵事務所5 第二話「失楽園〜Paradise Lost〜」(2005年)- 探偵522役 大日本人(2007年) - スティウィズミー 役 YOSHIMOTO DIRECTORS 100「14階段」(2007年) - 法務省の役人 役 魍魎の匣(2007年12月公開) - 木場修太郎 役 純喫茶磯辺(2008年) - 磯辺裕次郎 役(主演) 20世紀少年(2008年) - ケロヨン(福田啓太郎) 役 THE CODE/暗号(2009年) - 探偵522 役 宇宙へ。(2009年)-日本語版ナレーション 笑う警官(2009年) - 津久井卓 役 大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE(2009年) - ウルトラマンベリアルの声 20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗(2010年) - ケロヨン(福田啓太郎) 役 さらば愛しの大統領(2010年) ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国(2010年) - カイザーベリアル/ アークベリアルの声 NMB48 げいにん!THE MOVIE お笑い青春ガールズ!(2013年) - 友情出演 NMB48 げいにん!THE MOVIE リターンズ 卒業!お笑い青春ガールズ!!新たなる旅立ち(2014年)友情出演 スキャナー 記憶のカケラをよむ男(2016年) - 丸山竜司 役 NODA MAP カノン(2000年4月1日 - 5月28日、シアターコクーン・近鉄劇場) 朗読劇 LOVE LETTERS(2005年4月3日、パルコ劇場) 舞台「空中ブランコ」(2008年4月20日 - 5月5日、東京芸術劇場中ホール)(主演) クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦(2002年) - 彦蔵 役 ピアノの森(2007年) - 阿字野壮介 役 豆富小僧(2011年) - 芝居者狸 役 クレヨンしんちゃん 襲来!!宇宙人シリリ(2017年) - シリリの父 役 劇場版 マジンガーZ / INFINITY - あしゅら男爵(男) 役 龍が如く3(2009年2月26日、PlayStation 3) - 神田強 役 龍が如く6 命の詩。(2016年12月8日発売、PlayStation 4) - 南雲剛 役 ヴァン・ヘルシング(2004年) - マリーシュカ〈ジョジー・マラン〉 役 ※劇場公開版 Mr.インクレディブル(2004年) - シンドローム 役 GOAL!(2006年) - ジネディーヌ・ジダン 役 マーベル・シネマティック・ユニバース - クリント・バートン / ホークアイ〈ジェレミー・レナー〉 役 アベンジャーズ(2012年) アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン(2015年) シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ(2016年) オールスター感謝祭(2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2012年、TBS系)※TBS系の番組、リンカーンからの出演 2000秋 2001秋 101位以下で発表されず 2005春 2005秋 2006春 98位 30問 2:26.70 2006秋 127位 28問 1:56.36 2007春 59位 35問 3:10.75 2007秋 167位 20問 1:23.34 2008春 20位 34問 2:26.00 2008秋 41位 31問 2:41.25 2009春 146位 17問 1:08.73 2010春 11位以下で発表されず 2010秋 177位 12問 0:56.07 2012秋 123位 19問 1:03.24 2014春 2016春 152位(最下位) 3P 0:02.10 噂の現場直行ドキュメン ガンミ!!(2013年9月6日 - 2015年3月28日、TBS系) 行列のできる法律相談所(日本テレビ系) - 司会(週替わり所長) 超ド級!世界のありえない映像烈伝(フジテレビ系) - 司会 松本家の休日(2014年10月10日 - 、朝日放送・関西ローカル) 歌のゴールデンヒット(2017年2月13日〈第1弾〉・2018年2月12日〈第3弾〉、TBS) - 堺正章と回ごとに異なる女優1名とで司会 ファミリーヒストリー 宮迫博之〜逆境に挑む 巨大台風・奇跡の救助〜(NHK総合) 金色☆メダル(2006年10月 - 、フジテレビ) Vメシ(フジテレビ) 沸騰都市(第5回 -、NHK) ルーツを歩こう(2009年10月 - 、KBCをキーとするANN系列九州7局) ACTION =2009 日本が動いた!報告SP(2009年10月12日、日本テレビ) マイケル・ジャクソン 愛と哀しみの真実(2009年12月16日、日本テレビ) 僕が世界で戦える理由〜変えるこだわり、変えないこだわり〜(2011年12月4日、フジテレビ) 世界一 イチバンに挑む人々〜イギリス・ギネス世界記録〜(2014年3月5日、NHK) てれび絵本「きょうはなんてうんがいいんだろう」(2012年12月10日、NHK教育) HITOSHI MATSUMOTO presents ドキュメンタル(2017年、Amazonプライム・ビデオ)- シーズン4出演 ハウス食品 さわやか吐息 アサヒ飲料 新若武者《ペットボトル緑茶》 スカルプD(アンファー) ダスキン ミスタードーナツ アメリカンファミリー生命保険会社(アフラック)「がん保険を、話そう。宮迫さん篇」(2014年) 2003年度 毎日映画コンクール・スポニチグランプリ 新人賞 第25回 ヨコハマ映画祭 最優秀新人賞 第28回 報知映画賞 最優秀助演男優賞 第18回 高崎映画祭 最優秀新人男優賞 出演作の受賞 2003年NHKハイビジョンスペシャル「いま裸にしたい男たち/宮迫が笑われなくなった日」第20回ATP賞・ドキュメンタリー部門優秀賞 ^ a b c 公式プロフィール ^ “輝く卒業生”. 金光大阪高等学校. 2012年11月22日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2007年3月5日閲覧。 ^ “さあW杯!胸躍るサッカーフリーク「雨上がり決死隊」宮迫博之 今大会イチ押しはアルゼンチンVSイングランドの”死のグループ”予選F組”. スポーツニッポン. 2015年4月13日閲覧。 ^ a b c d e 婦人公論 2005年8月7日 139-141ページでのインタビュー。 ^ 雨上がり宮迫、胃の3分の1以上を切除へ 入院は2~3週間の見通しオリコン 2012年12月7日 ^ “雨上がり決死隊 宮迫博之 退院について”. よしもとニュースセンター (よしもとクリエイティブ・エージェンシー). 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(2015年7月27日). http://natalie.mu/eiga/news/154984 2015年7月27日閲覧。  ^ 「マジンガーZ」あしゅら男爵は宮迫博之&朴ロ美、おかずクラブも出演(コメントあり / 動画あり),コミックナタリー,2017年11月10日 王シュレット事件 宮迫博之 (@motohage) - Twitter", "インタビューマン山下(インタビューマンやました、1968年10月29日 - )は日本の元お笑い芸人、芸能記者、飲食店経営者。本名:山下 栄緑(やました しげのり)。旧芸名:山下栄緑→山下しげのり→オモロー山下。 香川県高松市出身。お笑い芸人当時はよしもとクリエイティブエージェンシー(吉本興業)東京本社所属。吉本総合芸能学院(NSC)大阪校10期生。 1981年3月、高松市立太田南小学校を卒業。 1984年3月、高松市立太田中学校を卒業。 1987年3月、香川県大手前高松高等学校を卒業。 1991年3月、摂南大学外国語学部を卒業。 1991年4月、NSCに入学。 1991年11月、渡辺鐘(現・桂三度)と「山下・渡辺」を結成。 1992年5月、「山下・渡辺」から「ジャリズム」に改名。 1998年12月、ジャリズム解散。解散後、芸名を「山下栄緑」から「山下しげのり」に改めた上でピン芸人となり、ルミネtheよしもとの新喜劇などで活動する。 2001年、元「桧・友野」の友野英俊と「ガリッパナ」という漫才コンビ結成。2003年解散。 2003年、芸名を「山下しげのり」から「鼻油千右衛門時定 〜後の〜」に一時期だけ改名。日本タレント名鑑で唯一、芸名にサブタイトルの付く人物となった。その後も吉本新喜劇では鼻油名義で舞台に立っている。[要出典] 2004年2月、渡辺鐘と「ジャリズム」再結成。舞台公演のほか、『笑いの金メダル』などの番組に出演。 2004年11月、CBCテレビのバラエティ番組『ノブナガ』内で自身のコーナー「写真マラソン」がスタート。2006年3月19日放送分にてコーナー終了。 2008年7月5日、東京・新宿FACEのグラップリング大会DEEP X 03に参戦。女子プロレスラー闘牛・空に判定で勝利した。 2011年3月2日、相方の渡辺が桂三枝(現・六代目桂文枝)に弟子入りしたことに伴い、ジャリズムが再び解散。芸名をオモロー山下に改名。この時期、ファンタスタープロモーションでのタレントマネージメントを副業としていた。 2012年6月5日、東京都目黒にうどん屋「山下本気うどん」を開店。その際、今田耕司と宮迫博之よりそれぞれ500万円の出資を受けている。店名は堺正章が命名した。 2017年6月13日、芸人引退を宣言。「山下本気うどん」の経営は続けながら、『女性自身』の記者となる。同年12月、女性自身専属を離れフリーランスの記者となる。これを機にインタビューマン山下に改名する。 2丁目劇場時代には「名ツッコミ」「2丁目のプリンス」と呼ばれていたが、渡辺のボケとしてまた芸人としての力が上がっていくと対象的に山下のツッコミの力が衰えていき芸人としても全くウケない「スベリキャラ」「デリカシーゼロ」「金に汚い」といった醜態ぶりが定着している。 『めちゃ×2イケてるッ!』のコーナー『恋のかま騒ぎ』では、相方・世界のナベアツ(渡辺鐘、現・桂三度)から「お笑いオンチ」と呼ばれていることが明かされ、挙句の果てには「退化芸人」、宮迫博之には『アメトーーク』で「笑い吸い」(それまでウケてた空気や笑いを一瞬で吸い取るため)と呼ばれてしまう。 宮迫は山下を「(笑いのレベルを)高跳びでいえば、70cmをやっと飛べるかどうか。それなのに、いつも2mを飛ぼうとした挙句に『2m飛べない…』という。そんなの、当たり前じゃないか。自己最高記録が70cm程度なのに、2mが飛べるわけない」「バーの下を、全力で走ってくれれば、こっちもやり様があるんですよ。そういう笑いもありますから。でも、わざわざ手を挙げて、ちょんとそのバーを触る。それでバーを落としてしまう。手を出すな、ってことなんですよ」と語っている。 『芸人報道』ではあまりのトークの歯切れの悪さに宮迫に「お笑い下手やな」と言われた。 竹馬に乗れないため、ナベアツが企画した紫SHIKIBUに1度は落選。しかし、2ndシングル『イヲピにかえて』の発表会見時に新メンバーとして追加される。なお、乗れなかった竹馬は猛練習の結果メンバー内でナンバー2まで成長した。(ナベアツ談)[要出典] ジャリズム解散後、宮迫博之の元相方が出資し矢部美幸が代表を務めていた「ファンタスタープロモーション」(現・ヴィズミック)にてアルバイトで山崎真実らのマネージャーを行っていた。その後吉本の上層部にこの事が発覚した際、芸人を続けるか吉本を辞めて同社のマネージャーになるかを選ぶように迫られ一旦芸人廃業を決意するが、元相方のナベアツにジャリズム再結成をもちかけられ思いとどまった。その後は、2008年にもデスクワークのバイトを続けそこそこの給料を貰っていることが語られていた。 顔の前で両手を広げる「やましたパッカ〜」、その兄弟ギャグで開いた手を閉じる「パカしたやま」、ビートたけしのギャグであるコマネチよりも低い位置に手を添える「ヒクネチ」、「いないいないバァ」をアレンジした「いないいないパァ~」、「ぶっかぁけぇ」というギャグを持つ。 2008年からは「OMORO(オモロー)!」と言うギャグを使用していた。これは『今年も生だよ芸人集合 笑いっぱなし伝説』内で偶発的に生まれたギャグで、「アメリカで売れている福笑いの名前は?」という大喜利のお題に対しての答えであった。ただし、言い方はまったく違っており、現在のようなテンションをあげるギャグとしてアレンジしたのは次長課長の河本準一であった、桂三度が『世界のナベアツ』名義で活動していた時に使用した際もその言い方を踏襲しており、「OMORO!」を多用していた上にテレビ出演が多く知名度が高かった為、三度の代表的な持ちギャグとして認識され世間から発案者と思われた事から山下が「OMORO!」と言うと、「パクるな!」と周囲から言われたこともあった。 三度はこのことについて世間に誤った認識が広まった事から山下が発案者である事を改めて説明した上で「ギャグの生みの親なのに、一番『OMORO!』の使い方が下手」と語っていた、後にこのギャグは三度が落語家転身するにあたり山下本人に返還され女性自身記者転向後も使用している芸名として使われている。 鼻が大きく脂で表面がヌルヌルになるため、散々そのことを松本にネタにされている(曰く「日本鼻百選に選ばれろ」、「お前は鼻がでかいくせに鼻の穴がちっちゃいねん」)。 鼻の横をこすると人を悶絶させるほど臭いにおいを発する。周りの芸人から「ウンコの臭い」とまで呼ばれている。番組の収録中ににおいを嗅いだほしのあきは、あまりの臭さに驚いた直後失神した。 スーツににじむくらい腋汗をかく。 中2になるまで口呼吸しかしておらず、友人から鼻呼吸を教わって「こんなに楽だったのか!」とようやく気付いた。(それが鼻の穴が小さい理由だとしている)このエピソードを珍しいとまったく思っていなかったため、2008年まで渡辺に教えることがなかった。また、三度曰く「鼻で息をしないと脳に酸素が行き渡らずに脳が活性化しない。山下がアホなのは呼吸法が関係している」とのこと。 芸人仲間と山村に出かけた際に、帰りしなに自分達を追いかけてきた地元の女子学生に向かって「この、田舎もん!」と言い放った。以降、その村の住民から「来年から山下を連れて来るな」という運動が起こったという。当の山下は「ウケると思って言った」と証言しており、自分が悪いことをしたとは全く感じていない様子であった。 松本が千原ジュニアの引っ越し祝いに、ポイント還元のある家電量販店でテレビを買った時、会計の際に一緒にいた山下が物凄い勢いでジュニアを押しのけ、自分のポイントカードを差し出した。しかもそのポイントカードは、前に松本が買い物をした時に作ったカードを山下が持っていた物であった。 2010年12月5日放送の『ごちそうサマンサ』(フジテレビ)では、先輩は後輩にいくらまで食事をおごるのかというドッキリ企画でターゲットに選ばれた。サバンナとアンガールズ・田中がいろいろ高級なものを頼み、合計10万円近くになったものの、文句を言いつつ支払った。しかし番組の企画だとわかると、自腹で払う必要がないことをスタッフに確認していた。 2016年5月6日放送の『快傑えみちゃんねる』(関西テレビ)では、先輩は後輩に食事をおごるのが当然ということで、俳優の加藤晴彦を呼び出し、飲食代を払わせた。オンエアではピー音で名前はふせられていたが、ネットやツイッター等でばらされており、又、映像では名前を語られた際に、周りの芸人からは「やっぱりな…」と頷かれている。 格闘技が強く、道場にも通っている。その強さは本物で、前述された格闘技イベントで女子プロレスラーに判定勝ちし、やりすぎコージーの「やりすぎ格闘王決定戦」では負けた悔しさから、道場へ月1から週1のペースで通う様になるほど。第1回は準決勝進出、第2回は1回戦敗退したが、その際対戦相手のバッドボーイズ佐田が足を負傷したため復活し決勝進出、第3回は準決勝進出と好成績を残した。 バラエティ ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!(日本テレビ、2000年11月19・26日) - 「おちょこ松本セコセコ裁判」にて証人として出演 5時の魔法使い(東京MXテレビ、2002年7月 - 12月) - 司会 ノブナガ(CBCテレビ、2004年11月 - 2006年3月19日) - ロケコーナー「ヤッシーの写真マラソン」に出演 あらびき団(TBS、2008年1月23日) 爆笑レッドカーペット(フジテレビ、2009年5月30日)- 紫SHIKIBUのメンバーとして、コラボカーペット枠に登場。 オレワン(フジテレビ、2010年1月5日・19日) 芸人報道(日本テレビ) アニメ ガンバリスト!駿(日本テレビ) - 作業員A役 金田一少年の事件簿(日本テレビ) - 生徒役 CM プロミス(2005年) ^ “ジャリズムが“再”解散 ナベアツ「落語家転身」 相方は「オモロー山下」に改名” (2011年3月2日). 2011年3月2日閲覧。 ^ “日刊ゲンダイ”. 日刊ゲンダイ (2014年10月27日). 2015年10月12日閲覧。 ^ “「山下本気うどん」は喉越しが楽しい本気のうどんでした”. Retty. 2015年10月22日閲覧。 ^ “オモロー山下 芸人引退で女性自身記者に!異例の転身を告白”. 女性自身 (2017年6月13日). 2017年6月13日閲覧。 ^ “インタビューマン山下のうどん通イッター‏@yamashitaudontu”. twitter (2017年12月20日). 2018年2月13日閲覧。 ^ “岡村「どうでもいい。語呂も悪い」 インタビュアーマン山下の改名報告に苦笑”. SANSPO.COM (2017年12月22日). 2018年2月13日閲覧。 ^ 『雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!』2009年5月13日放送回。 ^ 『痛快!明石家電視台』2009年10月28日放送回。 ^ 『放送室』2008年2月9日放送回。 ジャリズム 桂三度 オモロー山下の「山下本気うどんブログ」 インタビューマン山下のうどん通イッター (@yamashitaudontu) - Twitter インタビューマン山下 (yamashitaudontu) - Instagram", "桂 三度(かつら さんど、本名:渡邊 鐘(わたなべ あつむ)、1969年8月27日 - )は、日本の落語家、お笑いタレント、放送作家。滋賀県高島郡安曇川町(高島市)出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。NSC大阪校10期生。 1991年より漫才コンビ、ジャリズムのボケ担当・渡辺 あつむ(わたなべ あつむ)として活動し、1998年のジャリズム解散以降は主に放送作家として活動。2004年のジャリズム再結成以降漫才師として復帰し、並行して「3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります」とするピン芸ネタを中心とした活動を世界のナベアツ(せかいのナベアツ)名義でも行う。2011年に再びジャリズムを解散させ、落語家に転身し現高座名に改名。上方落語協会会員。 1991年11月 - 山下しげのりと漫才コンビ『ジャリズム』を結成。 1998年 - ジャリズムを一度解散し放送作家としての活動を始める。 2003年10月 - 千原兄弟のコントライブ『プロペラを止めた、僕の声を聞くために。』に出演。 2004年2月 - ルミネtheよしもとにて「元ジャリズム祭り」を開催し再結成を宣言。『登龍門F』(フジテレビジョンで2004年5月4日放送)を皮切りにコンビ、ピン芸人としてもさまざまなテレビ番組に出演するようになる。 2007年12月17日放送の『爆笑レッドカーペット』にて第5回レッドカーペット賞を受賞。 2008年 - R-1ぐらんぷり決勝大会に進出。決勝3位となり、一気にブレイク。反対に山下は1回戦敗退だった。GQ MEN OF THE YEAR 2008を受賞 2009年2月11日 - 竹馬アイドルユニット・紫SHIKIBUとしてCDデビュー。 2011年2月 - 落語の修業に取り組むため、再びジャリズムを解散すると報じられる。 2011年3月2日 - 桂三枝(現・六代桂文枝)に弟子入りする。5月24日に発表された高座名は「桂三度」となった。 2012年1月3日 - 東京都港区の品川プリンスホテルにて開催された『新春! しながわ寄席』で落語家:桂三度として初高座に上がった。その一方で、落語家としての活動に専念するために、放送作家としての活動を同年末で休止している。 2013年 - 5年振りに出場したR-1グランプリで、「桂三度」名義では初めて、自身では2度目、落語家では大会史上10年振り・3人目の決勝進出。しかし、師匠の六代桂文枝が審査員に名を連ねていた決勝では、Bブロックの3位に終わった。 2018年10月22日 - NHK新人落語大賞を受賞。三度はこれが同大会四度目の決勝進出で、審査で入船亭小辰と同率一位になり決選投票までもつれ込んでの優勝だった。 身長174cm、血液型はB型。既婚。 ピン芸人(世界のナベアツ)と落語家(桂三度)の顔を合わせ持つマルチタレント。放送作家として携わった番組では本名の「渡辺鐘」をそのまま使うなど、キャリアに応じて名義を使い分けている。 ますだおかだの増田英彦とは同じ守口市立梶中学校の同級生。中学3年で引っ越しする。芸歴は増田の方が1年後輩であるが、同級生であるため、プライベートでも仕事場でも「あつむ」と呼ばれている。中川家も同じ中学校で、渡辺の弟は中川礼二と同級生。 もともとジャリズム結成前から夢中になっていた『スクール☆ウォーズ』(TBS)や『東京湾ブルース』(テレビ朝日)などのテレビドラマなどを、コントのネタにして書きためていた。放送作家時代にはコントを披露するバラエティ番組に携わる機会が多かったことから、「コント作家」とも呼ばれていた。 第1次ジャリズム時代は「声がデカい」ということで有名であったが、放送作家専業時代のラジオでは出演者に配慮してボソボソとしゃべることも多かった。兼業である現在は比較的自由に話していることが多く、長く関わっている『雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!』では第3の出演者といえるほどである。 コントでは声色を使い分けて多彩なキャラクターを演じている。素は芯のある声質で、それを活かしたネタも多い。例えばジャリズムの代表的なコント「葬式DJ」は、渡辺がリアリティ溢れるDJを違和感なく演じることで成立している。 上方落語に傾倒している。2011年3月2日、桂三枝(現・六代桂文枝)に18番目(廃業した弟子を含めると22番目)の弟子として入門し、同年秋から本格的に落語家として修業を始めることになった。本人によれば、落語家への転身という夢を10年間持ち続け、初監督映画『さらば愛しの大統領』公開後に桂三枝への弟子入りを決意したという。 落語家としての高座名「桂三度」は姓の渡辺の「渡」を三と度にバラしたもの。他の候補「桂三」は「ちょっと落語家らしくない」、ナベアツとしてのネタ「3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります」から「桂三乗」を考えたが桂二乗が既に存在している、「桂三〇九(サンマルク)」という案もあったが「サンマルクという顔ではない」として、いずれも名付けた三枝が没にした。吉本興業所属者がお笑い芸人から落語家に転身したのは2008年の月亭方正(山崎邦正)以来であった。 「金田一少年の事件簿」の「魔犬の森の殺人」にて本名で登場している。漫画では殺害されて、メロンでトマトを潰すというかなり難しいダイイングメッセージを残している。 KARAのファンである。 ジャリズム再結成後はシルバーのスーツにチョビ髭という出で立ちで登場するようになり、ネタ中に事あるごとに「世界のナベアツ」と自称するようになる。 この「世界のナベアツ」のキャラクターで2007年後半からネタ番組(「あらびき団」、「爆笑レッドカーペット」など)に出演するようになる。 なお、落語家転身後は髭を剃っているが、ギャグは封印していない。 3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります 最も代表的なネタ。Fizz Buzzと呼ばれる昔からある言葉遊びと同様の規則性で、1から順に数を数えながら3の倍数と3の付く数字では「さぁーん!」と奇声を発し、同時に「アホになる」顔芸をするもので、アホな顔の作り方は「自分の耳に噛み付くイメージ」をしているとの事。他にも以下のようなバリエーションがある。 3の倍数と3が付く数字だけアホになり、5の倍数だけ犬っぽくなります 3の倍数と3が付く数字だけアホになり、8の倍数だけ人探しをしてる感じになります 3の倍数と3が付く数字だけ憤りを感じます 3の倍数と3が付く数字だけアホになり、8の倍数だけ気持ちよくなります 3の倍数と3が付く数字だけアホになり、8の倍数だけ媚びへつらいます 3の倍数と3が付く数字だけアホになり、5の倍数だけナルシストになります 生身のナベアツがまず3の倍数と3が付く数字だけアホになり、モニターに映ったナベアツがそれ以外の数字でアホになります(擬似的なコンビ芸) 3の倍数と3が付く数字だけアホになり、8の倍数だけ青春します 3の倍数と3が付く数字だけアホになり、9の倍数で正気に戻ります 3の倍数と3が付く数字だけアホになり、8の倍数のときに寝起きドッキリになります 3の倍数と3が付く数字だけアホになり、8の倍数のときにクイズ番組に出てる感じになります など このネタが誕生したきっかけは、とある駅ビルの床のマスを1個1個数えながら歩いていたらそのマス目が3つおきにアホみたいな明るいどどめ色で、アホな色の時だけアホな声で数えてみたらネタに使えると採用され完成した。アホの声は初期は甲高い声だったが、後に子供みたいな声になった。 通常は40で終わるが、40以降も続く場合は「3の倍数と3が付く数字のときだけアホになり(**の倍数で**になって)xxまでいきます(例:3の倍数と3が付く数字だけアホになり、5の倍数だけ犬っぽくなって1000までいきます)」という。過去にはMBSテレビの関西ローカル情報番組『ちちんぷいぷい』の放送2,000回記念のVTR出演では2,000まで数えた[要出典]こともある。 2008年2月5日に関西テレビで放送された『オッチモ!』の「お笑い化学反応バラエティ ザ・ケミストリー」で、このネタが外国人に笑ってもらえるのか試す企画を行い、英語、フランス語、スペイン語の3か国語で披露した。 「桂三度」に改名後の2012年11月から担当している『パテナの神様!』(MBSテレビ)のナレーションでも、\"3\"が入った数字を紹介するたびに、「世界のナベアツ」時代の口調でその数字を強調している。 QUEENのフレディ・マーキュリーのものまねでものまねパブのオーディションを受ける男 T-BOLANを知らない子供達(ジローズの「戦争を知らない子供たち」の替え歌) 声カッター 犬の鳴き声のように甲高い声を出して風船を割ろうとするもの。最終的に鏡の反射を利用して割ろうとするが、当然成功しない。 ultra soulに助けてもらう 日常で起こりうる格好悪いシーンを演じ、格好悪い瞬間にultra soulサビ最後の「ウルトラソウル」のフレーズを流し助けてもらう。 正しく読まナイト モニターに映された様々にアレンジされた手書きの文字をアレンジされた通りに正しく演じ読む。 九九を熱演 泣いてるか笑ってるかクイズ など OMORO!(オモロー) 「面白い」と言う意味の「OMORO!」を、ネタの最初(「これから面白いこと、すなわちOMORO!なことをします」といって芸を始める)と最後に、決め台詞として発言していた。元々このセリフは相方の山下しげのり(現・オモロー山下)が最初に生み出したものである(山下しげのりを参照)。他のネタでウケが悪かったときに「ウケなかったけど、OMORO!」と無理やり締めることもあった、落語家転身の際このギャグは山下本人に返上する形で封印した。 ギャグ「ブッカーケ」 考案は山下の母親。 あらびき団(TBS) 爆笑レッドカーペット(フジテレビ)キャッチコピーは「お笑いワールドスタンダード」(特番時代)→「\"オモロー\"は地球を救う」(レギュラー化後) 「コラボカーペット」で、アントキの猪木(2008年5月28日)やたむらけんじや髭男爵(いずれも2009年1月1日)や自身がプロデュースした紫SHIKIBUのメンバー(雨上がり決死隊のみ(2009年2月4日)、ガレッジセールゴリを除いたメンバー(同年5月30日))やサバンナ高橋茂雄(2009年4月18日、IQ兄弟名義)と共演。 レッドカーペット賞3回受賞。 脳内エステ IQサプリ(フジテレビ) 「3の倍数と - 」を5人で行う「世界のナベアツサプリ」にコーナー司会として出演。 R-1ぐらんぷり(関西テレビ、2008年) タモリのボキャブラ天国 大復活祭スペシャル(フジテレビ、2008年9月28日)キャッチコピーは「ジャリズムからのスピンオフ」 なべあちっ!(フジテレビ、2008年4月14日 - ) クイズ!ヘキサゴンII(フジテレビ、2008年10月15日・11月5日) Y.A.P.P.Y. LAUGH COMPLEX(読売テレビ、2008年10月10日)世界のナベアツ名義で初司会 第59回NHK紅白歌合戦(NHK総合、2008年12月31日) エンタの神様(日本テレビ)キャッチコピーは「オモローな腕白主義」 熱血!!ゴルフ女子部(テレビ朝日、2009年4月 - ) 爆笑ホワイトカーペット(フジテレビ、2010年3月20日)サバンナ高橋とのユニット「IQ兄弟」として出演 密室謎解きバラエティー 脱出ゲームDERO!(日本テレビ、2010年8月11日) NHK番組たまご「ミュージックビデオバトル」(NHK総合、2010年8月20日) FNSソフト工場「行動実験バラエティー オモロ幸福論」(仙台放送、2010年10月25日)MC 以下の番組では、出演期間中に名義を「世界のナベアツ」から「桂三度」に変更。 上泉雄一のええなぁ!金曜パートナー(MBSラジオ、2009年4月 - )月に1回のペースで出演 IPPONグランプリ(フジテレビ)第1回-6回 パックンたまご(MBSラジオ、2010年12月3日 - 2014年3月27日) クルマッチョ! 〜みんなの社会CAR見学〜(TBS、2011年1月26日 - 6月29日) 以下の番組には、名義を「桂三度」に変更した後にレギュラーで出演。 プリプリ水曜日(MBSテレビ、2012年10月3日 - 2013年3月13日) パテナの神様!ナレーター(MBSテレビ、2012年11月7日 - 2013年9月25日) アッパレやってまーす!火曜日(MBSラジオ、2014年4月1日 - ) クリス松村のザ・ヒットスタジオ〜レッツゴーヤンヤン〜(MBSラジオ、2014年4月4日 - ) 坂上忍の勝たせてあげたいTV(日本テレビ、2014年 - 2017年)「自転車の神様」 ミスタードーナツ(2008年)店員役の相武紗季と共演。キャンペーンセール期間の日付にちなみ、「○○から××までの連続した数字だけアホになる」というギャグ(例:6月4日 - 6月8日なら「4-8まで」、7月9日 - 7月13日なら「9-13まで」)を披露した。 富士通 F906i(2008年)機種の特徴である「グーグルサーチキー」で「オモロー」と、共演者の木村拓哉(SMAP)が検索したときに出現。 スパワールド(2008年)関西ローカルのCM。プール内に設けられたバンジージャンプとトランポリンを組み合わせた遊具施設「バンバンジー」のキャラクター。「ナベアツとLOST編」と「ナベアツで大放出編」の2バージョン。 ジャンボカラオケ広場(2008年)関西ローカルのCM。夏限定「世界のナベアツのアホになるくらい笑いがとまらんキャンペーン」のイメージキャラクター。 スカイパーフェクト・コミュニケーションズ(2008年7月)「スカパー!」のチャンネルで見ることができるドラマのうち『24』のみアホになるというギャグを披露した。 ロート製薬 「ロートZi:ファイニュー」(2008年12月 - ) EDWIN「503」(2008年12月 - ) 任天堂「メイドイン俺」(2009年4月 - )CM出演時の自作ゲームをニンテンドーWi-Fiコネクションにて期間限定配信。 なんばウォーク(2010年1月)関西ローカルのCM。正月限定のCMで声のみの出演。 ほっともっと(2012年9月)師・桂文枝、兄弟子・桂三幸、桂三四郎、桂三語との共演。 サイコメトラーEIJI(1997年) ロト6で3億2千万円当てた男(2008年) 華麗なるスパイ(2009年)- 来栖健一役 日常〜恋の声〜(2007年) パパとママがふしあわせでありますように(2008年、「世界のナベアツ」名義) さらば愛しの大統領(2010年、「世界のナベアツ」名義) ゴーストライターホテル(2012年、「世界のナベアツ」名義) ガンバリスト!駿(読売テレビ)作業員B役 金田一少年の事件簿(読売テレビ)生徒役、再結成前のジャリズム時代 超機動伝説ダイナギガ(OVA)南郷良一 役 ヤッターマン(読売テレビ)第25話「ヤッターアンコウ登場だコロン!」、世界のナベアツ/ヤッターマン3号(本人)役 劇場版MAJOR メジャー 友情の一球(2008年)少年野球チーム・鹿児島リトルの監督役、アニメ映画声優デビュー作 ザスーラ(『金曜ロードショー』版)ロボットの声 FINE DAYS! 「桂三度のホトケの顔も三度まDAY!」(2016年8月 - 、東海ラジオ) - パーソナリティ 「都会サワー」 大阪公演(大阪府立上方演芸資料館、1999年8月22日) 東京公演(シアターモリエール、1999年8月25日) 「シャンプーハット の 負けられNight」※ゲスト出演(baseよしもと、1999年10月16日) 「うるとら・すちゅ〜ぴっど」 大阪公演(baseよしもと、2001年8月25日) 東京公演(本多劇場、2001年9月5日) 「プロペラを止めた、僕の声を聞くために。」※千原兄弟と共演(紀伊国屋サザンシアター、2003年10月18日) 「世界のナベアツ日本公演」※ゲスト有り(ルミネtheよしもと、2008年2月2日) 「けったいさん」(シアターモリエール、2010年3月14日) 世界のナベアツ写真集『3の倍数と3がつくページだけアホになります』(2008年6月13日、ワニブックス) NMB48 「純情U-19」 森田一義アワー 笑っていいとも!水曜日→金曜日→火曜日→金曜日→月曜日(フジテレビ、2008年9月22日まで) めちゃ2イケてるッ!(フジテレビ) 笑う犬シリーズ(フジテレビ) 感じるジャッカル(フジテレビ) ロバートホール水(フジテレビ) リチャードホール(フジテレビ) ワンナイR&R (フジテレビ) ポンキッキーズ 内「爆チュー問題の部屋」(フジテレビ) 働くおっさん劇場(フジテレビ) モーニングビッグ対談(フジテレビ) ウチムラ7(フジテレビ、2004年9月28日) FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!(フジテレビ) 美少女日記III 内「ことミック大辞典」→「燃えろ!マナー部」(テレビ東京) セクシー女塾→それゆけ!ゴロッキーズ(テレビ東京) JAPANロッケフェスティバル(フジテレビ)※ブレーン担当 空飛ぶ!爆チュー問題(フジテレビONE) 雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!(テレビ朝日、2012年末まで) JUNK水曜日 雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!(TBSラジオ) さらば愛しの大統領(2010年、「世界のナベアツ」名義で劇中にも出演) ^ 少年期を大阪府守口市で過ごす。 ^ “過去のMen of the Year受賞者たち【国内編】”. GQ JAPAN. 2014年11月21日閲覧。 ^ 世界のナベアツ、芸名も捨て落語家転身! - サンケイスポーツ 2011年2月28日 ^ “世界のナベアツさん、落語家転身 桂三枝さんに弟子入り”. 朝日新聞 (2011年3月2日). 2011年3月2日閲覧。 ^ 落語家転身 世界のナベアツ、高座名は「桂三度」に決定 - オリコンキャリア 2011年5月24日 ^ 「世界のナベアツ」改め桂三度が高座デビュー スポーツ報知 2012年1月3日閲覧 ^ 高座デビューを果たした桂三度に、三枝「見事だったと思います」 よしもとニュースセンター 2012年1月3日閲覧 ^ 2013年3月1日に『上泉雄一のええなぁ!』へ出演した際に初めて公表。 ^ 自身と同じく、ピン芸人から落語家に転身した三遊亭こうもり(旧名・末高斗夢)も同時に決勝大会へ進出。それ以前の決勝進出者は、第1回大会(2002年)の笑福亭三喬(現:笑福亭松喬)のみである。 ^ “元世界のナベアツ、NHK新人落語大賞 「精進したい」”. 朝日新聞 (2018年10月23日). 2018年10月23日閲覧。 ^ “世界のナベアツ 落語家転身!師匠は“三”枝”. スポーツニッポン (2011年3月3日). 2011年3月8日閲覧。 ^ a b お笑いナタリー-師匠・三枝が命名、世界のナベアツ高座名が桂三度に決定 ^ アメトークに「KARA大好き芸人」集合 彼らが語るKARAの魅力とは,model press,2011年11月17日 ^ 「あらびき団」初出演の時はまだ『ジャリズム渡辺鐘』名義で、2回目の出演から『世界のナベアツ』となった。 ^ 私生活では、QUEENばかり聞いている(〜ジョーデキ!POP COMPANY〜POP屋芸人マンションより) ^ フジテレビ トップページ→バラエティ→なべあちっ! トップページ→DVD・ビデオ→なべあちっ! ^ 坂上忍の勝たせてあげたいTV 全日本選抜競輪GⅠ|番組表|日本テレビ ^ “東海ラジオ:宮地佑紀生の後番組決まる 彦摩呂、桂三度、流れ星らが日替わりパーソナリティー”. MANTANWEB. (2016年7月20日). http://mantan-web.jp/2016/07/20/20160720dog00m200020000c.html 2016年7月21日閲覧。  ^ “満足度は「ひゃく\"さん\"じゅっぱ~!」 - 世界のナベアツ、初の写真集を出版”. マイナビニュース. 株式会社 マイナビ (2008年6月22日). 2015年8月29日閲覧。 吉本興業によるプロフィール 落語家・桂三度 公式サイト 公式ブログ 桂三度 (@katsurasando) - Twitter 元・世界のナベアツ (@shiganowatanabe) - Twitter(旧アカウント)" ]
ABC01-02-0080
気象用語で、降水量の単位はミリメートルですが、積雪量の単位は何でしょう?
センチメートル
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[ "センチメートル", "人馬宮", "おひつじ座", "双児宮", "磨羯宮" ]
[ "センチメートル(記号cm)は、国際単位系(SI)の長さの単位で、1⁄100メートル(m)に相当する。基本単位のメートルと1⁄100を表す接頭辞センチを組み合わせた単位である。 1 cm = 10 mm = 0.1 dm 1 cm3 = 1 cc = 1 ml ミリメートル ≪ センチメートル ≪ デシメートル ≪ メートル CGS単位系においては基本単位であった。多くの物理量では、ミリ(m)やキロ(k)などの係数が、3乗接頭辞の使用が技術者や科学者に好まれるが、日常的な測定においてはセンチメートルがよく使われる。メートル法では、センチメートルに限らず「百分の一」を意味する単位の頭には「センチ」が付くが、日本では、単に「センチ」というと「センチメートル」を指す例が見られる。 漢字(国字)では「糎」と表記する。\"cm\"は口頭では「センチメーター」とも読まれるが、この表記は日本の計量法上は認められない(メートル#日本語の表記を参照)。 CGS単位系では、センチメートルは静電容量の単位としても使用する。1センチメートルの静電容量は約6988111300000000000♠1.113×10−12ファラドに等しい。 Unicodeには、CJK互換用文字として上記の文字が収録されている。これは、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであり、使用は推奨されない。 ^ “Decimal multiples and submultiples of SI units”. Bureau International des Poids et Mesures (2014年). 2015年7月5日閲覧。 ^ Capacitance - from Eric Weisstein's World of Physics ^ “CJK Compatibility” (2015年). 2016年2月21日閲覧。 ^ “The Unicode Standard, Version 8.0.0”. Mountain View, CA: The Unicode Consortium (2015年). 2016年2月21日閲覧。 長さの比較 1 E-2 m : 1 cm - 10 cm 単位一覧 単位の換算一覧", "人馬宮(じんばきゅう)は、黄道十二宮の9番目である。 獣帯の黄経240度から270度までの領域で、だいたい11月22日(小雪)から12月22日(冬至)の間まで太陽が留まる(厳密には、太陽通過時期はその年ごとに異なる)。 四大元素の火に関係していて、白羊宮・獅子宮と一緒に火のサインに分類される。対極のサインは双児宮である。 アストロロジカルシンボル - ゾディアックシンボル - 半人半馬 標準的な期間 - 11月22日-12月21日、場合により、11月24日-12月22日 2区分 - 男性 3区分 - 変通 4区分 - 火 居住の座 - 木星。占星術師によってはキロンも人馬宮のルーラーにすることもある。 高揚の座 - なし。ただし、ドラゴンテール(降交点)とする場合もある。 障害の座 - 水星 転落の座 - なし。ただし、ドラゴンヘッド(昇交点)とする場合もある。 西洋占星術 サン・サイン ハウス (占星術)", "おひつじ座(牡羊座、Aries)は、黄道十二星座の1つ。トレミーの48星座の1つでもある。 おひつじ座の主な星は、α星と β星の2つ。以下の恒星には、国際天文学連合によって正式に固有名が定められている。 α星:ハマル (Hamal) は、おひつじ座で最も明るい恒星で、唯一の2等星。 β星:シェラタン (Sheratan) は、おひつじ座で2番目に明るい恒星で、3等星。 γ星は、ほぼ同じ明るさの2つの恒星からなる美しい二重星として知られ、γ2星の固有名はメサルティム (Mesarthim) 。 δ星:ボテイン (Botein) 39番星:「北のユリ」を意味するLilii Boreaという固有名を持つ。 41番星Aa:バラニー (Bharani) 固有名が付いていない星で特筆すべき星 おひつじ座TZ星 - 閃光星。 おひつじ座AN星 - SRS型に細分類される半規則型変光星。 おひつじ座AU星 - SRS型変光星の代表星。 おひつじ座AV星 - SRS型に細分類される半規則型変光星。 おひつじ座CN星 - SRS型に細分類される半規則型変光星。 BD +20°307 - 地球サイズの惑星同士が衝突して生じた塵の雲を持つ。 NGC 697:銀河。β星の北西。 NGC 772:渦巻銀河。β星の南東。 NGC 972:銀河。星座の北角。 NGC 1156:銀河。δ星の北西。 どれも暗く、望遠鏡でもかすかにしか見えない。 この星座の比較的明るい東側(向かって西側)のα星・β星・γ星でできる鉤型は、古代バビロニアでは「農夫」あるいは「雇夫」(麦播きの農繁期に雇われる日雇い農夫)だった。隣のうお座の中央が、彼が耕す農地である。「男」と「羊」が同音異義語 lu だったことから、羊と同一視されるようになった。 ギリシア神話によると、ボイオティア王アタマスの息子プリクソスと双子の妹ヘレが、継母イノの悪巧みによって生贄にされそうになったときに、ゼウスが遣わして二人を乗せて逃げた金の皮を持つ羊だという。妹は羊が走る途中に海に落ちおぼれて死んだ。プリクソスは逃亡先のコルキスでこの羊を生贄に捧げ、皮を当地の王アイエテスに贈った(現代の観点からすると恩知らずな行為に見えるが、古代においては神の遣わした獣は生贄として神に返す風習だった)。この羊の皮を手に入れるための冒険がアルゴー号(アルゴ座)の冒険、アルゴナウタイ神話である。 中国では二十八宿の婁宿であり、日本ではこれを「たたらぼし」と訓じていた。 ^ “SIMBAD Astronomical Database”. Results for NAME HAMAL. 2013年1月23日閲覧。 ^ 近藤二郎『わかってきた星座神話の起源 古代メソポタミアの星座』誠文堂新光社 2010年、ISBN 978-4-416-21024-6 ^ a b c d 長島晶裕/ORG 『星空の神々 全天88星座の神話・伝承』 新紀元社、2012年。ISBN 978-4-7753-1038-0。 座標: 03h 00m 00s, +20° 00′ 00″", "双児宮(そうじきゅう)は、黄道十二宮の3番目である。 獣帯の黄経60度から90度までの領域で、だいたい5月21日(小満)から6月21日(夏至)の間まで太陽が留まる(厳密には、太陽通過時期はその年ごとに異なる)。 四大元素の空気に関係していて、天秤宮・宝瓶宮と一緒に空気のサインに分類される。対極のサインは人馬宮である。 アストロロジカルシンボル - ゾディアックシンボル - 双子 標準的な期間 - 5月21日-6月20日 2区分 - 男性 3区分 - 柔軟 4区分 - 風 居住の座 - 水星 高揚の座 - なし。ただし、ドラゴンヘッド(昇交点)とする場合もある。 障害の座 - 木星 転落の座 - なし。ただし、ドラゴンテール(降交点)とする場合もある。 西洋占星術 サン・サイン ハウス (占星術)", "磨羯宮(まかつきゅう)は、黄道十二宮の10番目である。 トロピカル方式では、獣帯の黄経270度から300度までの領域を占める。つまり冬至から大寒の間、太陽はここに留まる。 磨羯宮は四大元素の土に関係していて、金牛宮・処女宮と一緒に地のサインに分類される。磨羯宮と対極のサインは巨蟹宮である。 アストロロジカルシンボル - ゾディアックシンボル - 山羊(下半身は魚) 標準的な期間 - 12月22日-1月19日、場合により、12月24日-1月20日 2区分 - 女性 3区分 - 活動 4区分 - 地 居住の座 - 土星 高揚の座 - 火星 障害の座 - 月 転落の座 - 木星。海王星も占星術師によっては磨羯宮の転落の座とすることもあるが、これについては様々な議論がある。 磨羯とはインド神話に登場する怪魚マカラのことであり、この磨羯宮という名称は既に平安時代の日本で宿曜道用語として用いられていた。 インドでは、ギリシアから西洋占星術が伝えられた際、その象徴である「上半身が山羊で下半身が魚」というイメージを二つに分けて、この宮をヤギで表す流派とマカラで表す流派の二つが生じた。 やがてインド占星術が成立するとこれが密教経典に取り入れられたが、この際にこの宮をマカラで表す説のみが採用され、「磨羯宮」と漢訳された。これが中国や日本などに伝えられ、後に伝わった西洋占星術でもこの名称が用いられるようになった。 西洋占星術 サン・サイン ハウス (占星術) やぎ座" ]
ABC01-02-0081
鎌倉時代の宗教家で、「正法眼蔵」を著したのは道元ですが、「立正安国論」を著したのは誰でしょう?
日蓮
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[ "日蓮", "道元", "弁長", "叡尊", "瑩山紹瑾" ]
[ "日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日 - 弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。 1222年(貞応元年)2月16日 (旧暦)(3月30日/4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。 1233年(天福元年)清澄寺の道善房に入門。 1238年(暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。 1245年(寛元3年)比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学した。 1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。 1248年(宝治2年)薬師寺、仁和寺へ遊学。 1248年(宝治2年)高野山・五坊寂静院へ遊学。 1250年(建長2年)天王寺、東寺へ遊学。 1253年(建長5年)清澄寺に帰山。 1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける。 1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。 1257年(正嘉元年)富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経(法華経)を奉納。 1258年(正嘉2年)所伝によれば、この年実相寺にて一切経を閲読。この頃、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房とする。 1260年(文応元年)7月16日(8月24日/8月31日)立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。 1261年(弘長元年)5月12日、幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流(伊豆法難)。 1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。 1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。 1269年(文永6年)富士山に経塚を築く。 1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。 10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である。 1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。「富木殿御書」「日蓮聖人註画讃」によれば、5月7日には身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延入)へ配流。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。 1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。 1277年(建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに龍の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。 1279年(弘安2年)9月21日、駿河熱原の神四郎等20人が滝泉寺行智等に讒せられ鎌倉に送らる。 1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。 1282年(弘安5年) 9月8日(10月10日/10月17日)、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮は病を得て地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。 10月8日(11月9日/11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。 10月13日(11月14日/11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。現在、大本山池上本門寺となっている。享年61(満60歳)。  10月25日、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮の遺骨が身延山に送られる。 日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、日興と日目と日常と日頂などの信徒や弟子達もこれを書写し大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片は600点を越える 。 守護国家論(しゅごこっかろん)1259年 災難興起由来(さいなんこうきゆらい)1260年 災難対治抄(さいなんたいじしょう)1260年 立正安国論(りっしょうあんこくろん)、1260年 顕謗法抄(けんほうぼうしょう)1262年 法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)1272年 八宗違目抄、1272年 開目抄(かいもくしょう)1272年 真言諸宗違目1272年 祈祷抄(きとうしょう)1272年 如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)1273年 顕仏未来記(けんぶつみらいき)1273年 小乗大乗分別抄、1273年 木絵二像開眼事、1273年 法華取要抄(ほっけしゅようしょう)1274年 神王国御書、1275年 種種御振舞御書、1275年 撰時抄(せんじしょう)1275年 報恩抄(ほうおんしょう)1276年 四信五品抄(ししんごほんしょう)1277年 諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)1280年 三大秘法禀承事(さんだいひほうほんしょうじ、さんだいひほうぼんじょうのこと)1282年(但し、真偽両説あり。) 唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう) 本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう) 兄弟抄 下山御消息(しもやまごしょうそく) 他四百余篇。 日蓮が文応元年(1260年)7月16日に得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論である。日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。 その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。 しかし、時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。 日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。 文永の役の際の元・高麗連合軍による対馬侵攻について、現在伝世されている日蓮の書簡のうち、建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮が接した当時の伝聞が伝えられている 。 この「一谷入道御書」は日蓮が佐渡配流中に世話になっていた一谷入道の女房に宛てて文永の役の翌々年に書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたものである。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたことかどうかは詳らかではない。 日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している。 例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し」と記している。 しかしながら、近年の研究によると、「一谷入道御書」以降の書簡では文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたのではないかという推測がされている。 日蓮は鎌倉に現れ辻説法と「諌暁八幡抄」などで他の仏教宗派を批判した際、四箇格言(しかかくげん)を述べた。真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊の四つを謂う。ただし、自身はこれを四箇格言とは命名していない。 自身は法華宗の僧と称していたが、一宗派を立てたという自覚に関しては有無両説ある。すなわち、有は「〔佐渡流罪時代に〕自身の純正法華宗を組織すべくも決意された」とする(勝呂信静 1967, p. 53)、無は「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず」(『妙密上人御消息』)を根拠とした(宮崎英修 2013, p. 30)、もしくは「法華宗は〔略〕久遠実成の本仏たる釈尊によって立てられた〔と日蓮は主張した〕」とする(金岡秀友 1979, p. 230)である。 日蓮門下における伝統宗教の系譜である。 教義:勝劣/一致派 a日蓮宗(1941- )→ d,o,pより 教義:一致派 b日蓮宗不受不施派(旧称:妙法華宗)(1946- ) → gから分離。eの系統 c不受不施日蓮講門宗(旧称:日蓮講門宗)(1946- ) → gから分離。fの系統 本化日蓮宗(1954- ) → aから分離。dの系統 d旧日蓮宗(1876-1941)→ o,pとともにaへ e旧日蓮宗不受不施派(1876-1941) → fとともにgへ f旧不受不施派講門派(1876-1941) → eとともにgへ g旧本化正宗(1941-1946) → f,eより。b,cに分裂 旧中山妙宗(1946-1972) → aより分離。aに復帰。dの系統。 旧最上稲荷教(1954-2009) → aより分離。aに復帰。dの系統。 教義:勝劣派 h日蓮正宗(旧称:日蓮宗富士派)(1900- ) → pより分離 本門佛立宗(1946- ) → tより分離。sの系統 i顕本法華宗(1950- ) → aより分離。oの系統 j日蓮本宗(1950- ) → aより分離。pの系統 k本門法華宗(1951- ) → tより分離。sの系統 l法華宗本門流(1951- ) → tより分離。sの系統 m法華宗陣門流(1951- ) → tより分離。rの系統 n法華宗真門流(1951- ) → tより分離。qの系統 本派日蓮宗(1957- ) → kより分離 法華宗興門流(1975- ) → aよりhに移籍。hより分離。pの系統 o旧顕本法華宗(1876-1941)→ d,pとともにaへ p旧本門宗(旧称:日蓮宗興門派)(1876-1941)→ d,oとともにaへ q旧本妙法華宗(旧称:法華宗本隆寺派)(1876-1941) → r,sとともにtへ r旧法華宗(旧称:法華宗本成寺派)(1876-1941) → q,sとともにtへ s旧本門法華宗(旧称:法華宗八品派)(1876-1941) → q,rとともにtへ t旧法華宗(1941-1951) → q,r,sより。k,l,m,nに分裂 旧大日蓮宗(1957-2006) → aより分離。aへ復帰。pの系統 門流名と教義の一覧表 門流 『日蓮聖人註画讃』 一般信徒に向けた日蓮の伝記や書簡の整理は教団の拡大が進展する室町時代頃から本格的に始まる。室町時代、応仁の乱以降に日蓮宗の教勢拡大とともに教団内外の要請に応える形で各種の日蓮の伝記集が成立した。このうち『元祖化導記』と『日蓮聖人註画讃』が後代まで模範となる主要な日蓮伝の双璧となった。日朝の『元祖化導記』は日蓮の書簡を主要典拠として正しい日蓮の歴史像を明示しようという学究性の高い伝記であった。『元祖化導記』と時期を同じくして成立した円明院日澄(1441年-1510年)『日蓮聖人註画讃』はとりわけ日蓮の各種書簡と伝世された祖師伝説とを合わせて成立した絵巻による伝記であり、全国的な日蓮宗の布教網の拡大に合わせ、当時の日蓮宗徒や巷間に流布していた「超人的で理想的な祖師像」に合致した内容でもあった。 『日蓮聖人註画讃』の第59段「蒙古来」は文永の役について「一谷入道御書」を主な典拠としており、「一谷入道御書」で日蓮が伝えた「手ヲトヲシテ船ニ結付」という文言はここでも現れている。特に『日蓮聖人註画讃』は室町時代から江戸時代にかけての一般的な(超人的な能力や神通力を具有する祖師としての)日蓮像の形成に強い影響を及ぼすことになる。 『日蓮聖人註画讃』は江戸時代に入って幾度も刊本として出版されており、江戸時代における蒙古襲来関係の研究書では、津田元貫(1734-1815)『参考蒙古入寇記』や群書類従の編者でもある塙保己一(1746年-1821年)の『螢蠅抄』、橘守部(1781年-1849年)『蒙古諸軍記弁疑』などで頻繁に引用されている。本来『日蓮聖人註画讃』は文永・弘安の役についての史料としては(日蓮の没後200年程たって成立したことからも明らかなように)二次的なものに過ぎないのだが、江戸時代における『日蓮聖人註画讃』の扱いは、橘守部が「日蓮画讃の如き実記」と述べているように「実記」として意識され、大抵は無批判に引用される傾向があった。 『日蓮聖人註画讃』の文永・弘安の役についての史料価値についての批判的研究は、明治時代、明治24年(1891年)になって小倉秀貫が『高祖遺文録』などにある日蓮書簡の詳細な分析を通さないうちは史料とはみなせない、と論じるまで待たねばならない。 明治期に入り、小倉と同じ1891年11月に山田安栄は日本内外の蒙古襲来関係の史料を収集した『伏敵編』を著した。『伏敵編』は『善隣国宝記』や『異称日本伝』、『螢蠅抄』、『蒙古諸軍記弁疑』、大橋訥庵『元寇紀略』など江戸時代やそれ以前から続く蒙古襲来史研究の成果を批判的に継承したもので、従来から引用されて来た諸史料をある程度吟味しながら引用やその資料的な批判を行っている。一方で、『伏敵編』の編纂は、当時、福岡警察署長の湯地丈雄の主導で長崎事件(1886年)を期に進められていた元寇記念碑建設運動との関係で行われたものであり、日清戦争への緊迫した情勢を反映して、江戸時代からの攘夷運動の流れを組みつつも自衛のための国家主義を標榜するという山田安栄の思想的な表明の書物でもあった。 山田安栄は『日蓮聖人註画讃』の「手ヲトヲシテ船ニ結付」についても論じており、『太平記』の記述「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」や、『日本書紀』と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と文言の解釈を行っている。さらに山田は、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)やり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としたうえで、この行為を蒙古というより高麗人によるとしている。 久保田正文 『日蓮聖人御伝』 大法輪閣、1967年10月10日。ISBN 4804610200。NCID BN07168578。OCLC 42782594。ASIN B000JA6X6Q。 日蓮と蒙古大襲来:1958年の映画(大映配給)。監督は渡辺邦男、主演は長谷川一夫。 日蓮:1979年の映画(松竹配給)。監督は中村登、主演は萬屋錦之介。 川口松太郎 『日蓮』 講談社、1967年4月。NCID BN11404266。OCLC 35851571。ASIN B000JA8LPM。 柿沼日明 『富士』 大成出版社、1974年5月。 山岡荘八 『日蓮』 講談社〈山岡荘八歴史文庫,4〉、1987年8月。ISBN 978-4061950047。NCID BA31234010。OCLC 674502999。 大佛次郎 『日蓮』 徳間書店、1988年。ISBN 978-4195985007。 湊邦三 『小説日蓮大聖人』 聖教新聞社出版局〈聖教文庫,32〉、1994年9月。ISBN 978-4412002838。 童門冬二 『国僧日蓮』 学習研究社、2000年10月。ISBN 4054010660。NCID BA5130706X。OCLC 166908380。 三田誠広 『日蓮』 作品社、2007年9月25日。ISBN 978-4861821523。NCID BA83428155。OCLC 212861469。 島田裕巳 『小説日蓮』 東京書籍、2012年8月。ISBN 978-4487804788。NCID BB10418282。OCLC 805927160。 (複数冊に分かれている作品の場合、出版年とISBNコードなどは、上巻もしくは第1巻のもの。) 立正大師、立正安国論に由来。 立正山大平和寺 立正山安国寺 立正山安國寺 立正山法常寺 立正山本行寺 立正山護國寺 立正山光妙寺 立正寺 ^ (宮崎英修 1978, p. 7)には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについては(宮崎英修 1978, p. 7)で「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。 ^ ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算は【換暦】暦変換ツールによる。 ^ 後に十三宗のひとつとなる。 ^ 『百家系図稿』巻2,三国真人 では、幼名を薬王丸、母を清原兼良の娘とする。 ^ 寺伝による。 ^ 寺伝による。 ^ この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。 ^ 刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。 ^ 日蓮正宗では、日興一人だけが後継者に定められたとしている。 ^ 死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられ、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える習わしとなっている。 ^ ユリウス暦で1260年8月24日。グレゴリオ暦では1260年8月31日。【換暦】暦変換ツールによる。 ^ 日道 1983, p. 236-但し、外部リンクでは、コマ番号135 ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 642. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 80-但し、「安房国長狭郡東条郷小湊」とあり、片海であることは除く。 ^ 宝賀寿男 1986. ^ 富士山頂上経ヶ岳霊場略縁起(村山浅間神社蔵) ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 516. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 649. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 179-但し、日興が弟子となり、伯耆房としたことのみ。 ^ 富士山頂上経ヶ岳霊場略縁起(村山浅間神社蔵) ^ 日蓮宗寺泊山法福寺サイト 「法福寺について 境内」 ^ 綾部恒雄 1991, p. 150. ^ 関戸堯海 2005, p. 219. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション - 立正安国論 ^ 日蓮 1976, pp. 1862-1866. ^ 日蓮 1994, pp. 1593-1595. ^ 日蓮宗宗務院教務部 1999, p. 53. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 129,130. ^ 中村元 2002, p. 394. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 130. ^ 日蓮 1998a, pp. 37-38. ^ 日蓮 1998b, p. 239. ^ 若江賢三 2006. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981. ^ 金岡秀友 1979, p. 229. ^ 日蓮 1976, p. 1165. ^ 新倉善之 1959. ^ 新倉善之 1959, pp. 110-111, 119. ^ 川添昭二 1977, pp. 70, 82, 89. ^ 川添昭二 1977, pp. 89. ^ 川添昭二 1977, pp. 134-135. ^ 小倉秀貫『史学雑誌』第2篇第10号、1891年 ^ 川添昭二 1977, pp. 111-122. ^ 川添昭二 1977, pp. 121-122. ^ a b 山田安栄 1891, pp. 11-12「〔按〕本書、徹手結舷ノ事。高祖遺文録王舎城ノ條ニハ(女ヲハ或いハ取集テ。手ヲトヲシテ船ニ結付。)太平記ニハ(掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ。)トアリ、索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。天智天皇二年紀ニ。(百濟王豐璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。)トアリ。以テ證スヘシ。北俗、人ヲ戮スルハ鷄豚ヲ屠ルヨリ易シ。殘酷脧削ノ事。往々又彼史乘ニ見ユ。又西洋書中ニモ。蠻方ノ風俗ヲ記シ。貫掌擒殺ノ事ヲ傳ルモノアリ。獷虜ノ習俗固リ恠ムニ足ラサルナリ。」 綾部恒雄 『総解説世界の宗教と経典』 飯田徳昭他23名、自由国民社、1991年11月、改訂版。ISBN 4426620066。NCID BN06966755。 『仏教宗派辞典』 金岡秀友、東京堂出版、1979年4月20日、10版。ISBN 978-4490100792。NCID BN01732338。OCLC 44805605。 川添昭二 『蒙古襲来研究史論』1、雄山閣出版〈中世史選書〉、1977年2月。NCID BN00376952。ASIN B000J8YQF8。 『日蓮正宗入門』 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会、阿部日顕(監修)、大石寺、2002年10月12日、第2版。ISBN 978-4904429778。NCID BA56841964。OCLC 675627893。2014年12月5日閲覧。(ISBNは、改訂版のもの。) 勝呂信静 『日蓮思想の根本問題』 株式会社 教育新潮社〈昭和仏教全集(第3部8)〉、1967年5月25日、第2刷。NCID BN15298783。OCLC 28448144。ASIN B000JAC6OO。 関戸堯海「日蓮聖人の書簡執筆についての統計」 (pdf) 、『印度學佛教學研究』第54巻第1号、日本印度学仏教学会、2005年12月20日、 219-224頁、 ISSN 00194344、 NAID 110004026808、2014年10月2日閲覧。 『岩波仏教辞典 第二版』 中村元・福永光司・田村芳朗・今野 達・末木文美士、岩波書店、2002年10月30日。ISBN 978-4000802055。NCID BA59264710。OCLC 51790441。 新倉善之「日蓮伝小考 : 『日蓮聖人註画讃』の成立とその系譜」 (pdf) 、『立正大学文学部論叢』第10号、立正大学、1959年1月、 110-144頁、 ISSN 0485215X、 NAID 110001179120、2014年10月2日閲覧。 日道 『御伝土代』 立正大学日蓮教学研究所、浅地康平(発行者)、山喜房仏書林〈日蓮宗宗学全書 第2巻 興尊全集 ; 興門集〉、1983年12月8日(原著1921年)、第2版。NCID BN13828831。OCLC 834960056。ASIN B000J6LQH6。2016年1月18日閲覧。(OCLCは1959年に日蓮宗宗学全書刊行会より刊行されたもの。ASINは全書のもの。外部リンクは1921年(大正10年)に日蓮宗宗学全書刊行会より発刊されたもの。) 日蓮 『一谷入道御書』古文書編、第16巻、竹内理三、東京堂出版〈鎌倉遺文〉、1998a(原著1275年5月8日)。ISBN 4490300476。NCID BN00095181。 日蓮 『三大秘法禀承事』 立正大学日蓮教学研究所、総本山身延久遠寺〈昭和定本日蓮聖人遺文 第2巻〉、1976年10月20日(原著1281年4月8日)、第4版。NCID BN02359750。OCLC 835289976。ASIN B000J9C2ZI。 日蓮 『三大秘法禀承事』(PDF) 平成新編日蓮大聖人御書編纂会、阿部日顕(監修)、大日蓮出版〈平成新編日蓮大聖人御書〉、富士宮、1994年(原著1282年4月8日)。ISBN 9784904429228。NCID BB09115884。OCLC 674739794。2015年9月19日閲覧。 日蓮 『妙密上人御消息』古文書編、第16巻、竹内理三、東京堂出版〈鎌倉遺文〉、1998b(原著1276年3月5日)。ISBN 4490300476。NCID BN00095181。 日蓮 『妙密上人御消息』 立正大学日蓮教学研究所、総本山身延久遠寺〈昭和定本日蓮聖人遺文 第2巻〉、1976年10月20日(原著1276年)、第4版、1162-1170頁。NCID BN02359750。OCLC 835289976。ASIN B000J9C2ZI。 『日蓮宗事典』 日蓮宗事典刊行委員会、日蓮宗宗務院、1981年10月13日。NCID BA61075492。OCLC 17071163。ASIN B000J7QTDQ。 『日蓮宗の教え:檀信徒版宗義大綱読本』 日蓮宗宗務院教務部、日蓮宗勧学院(監修)、日蓮宗新聞社、1999年2月16日、第1刷。ISBN 4890451277。NCID BA44996872。 『古代氏族系譜集成』 宝賀寿男、古代氏族研究会、1986年4月。NCID BN00924708。 『日蓮辞典』 宮崎英修、東京堂出版、1978年7月10日。ISBN 978-4490101096。NCID BN00793610。OCLC 5182140。 宮崎英修 (2013-11-10). 片桐海光. ed. 小松原法難と工藤吉隆 (Report). 工藤吉隆公と日澄寺. 宗門史跡明星山日澄寺 第48世片桐有而. pp. 29-57. OCLC 879618221.  『伏敵編』2、山田安栄、吉川半七、1891年11月。NCID BN06211467。2014年10月2日閲覧。 若江賢三「蒙古襲来の伝聞を巡って-日蓮遺文の系年研究」、『人文学論叢』第8号、愛媛大学人文学会、2006年、 67-77頁、 ISSN 13460331、 NAID 40015443442。 本尊 (日蓮正宗) 妙法蓮華経(法華経) 法 (仏教)、正法 題目 南無妙法蓮華経 木柾、団扇太鼓 誕生寺 池上本門寺 常圓寺日蓮仏教研究所 七面山 身延山 七面天女 元寇 六老僧 中老僧 創価学会 聖教新聞 - 聖教新聞社が発行している創価学会の機関紙である聖教新聞は、日蓮大聖人の教えから由来している。 創価大学 文教大学 身延山大学 立正大学 日蓮聖人の生涯(日蓮宗公式サイト内) 日蓮聖人のご生涯(法華宗本門流公式サイト内) 日蓮さまの御生涯(日蓮宗妙昌寺公式サイト内) 日蓮大聖人の御一生(日蓮正宗理境坊所属妙観講公式サイト内) 日蓮宗大本山小湊誕生寺", "道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた。 道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に生まれた。幼名は信子丸。両親が誰であるかについては諸説ある。 一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。だが、説の根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義があり、上記説の優位性が揺らいだ。これを受けて、上記説では養父とされていた、源通親の子である大納言・堀川通具を実父とする説も有力になった。いずれにせよ、上級貴族、公卿の家の生まれである。 四国地方には道元の出生に関して、「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承が残っている。これはキリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものであると考えられる。 伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったとも言われている。この時の逸話として残っているのが、誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を、その花に群がっていた虫ごとむしりとって食べはじめ、無言のうちにその申し出を拒否する意志を伝えたという話である。 建暦3年(1213年) 比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ねる。[要検証 – ノート] 建保2年(1214年) 天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。 建保3年(1215年) 園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める。 建保5年(1217年) 建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事。 貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り 南宋の宝慶1年(1225年)、天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いだ。曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。[要追加記述]その際の問答記録が『寶慶記』(題名は当時の年号に由来)である。 安貞2年(1228年) 帰国[要検証 – ノート]。帰国前夜『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある。(一夜碧巌) 天福元年(1233年) 京都深草に興聖寺を開く。 1234年 孤雲懐奘が入門。続いて、達磨宗からの入門が相次いだことが比叡山を刺激した。この頃、比叡山からの弾圧を受ける。 寛元元年(1243年)7月 越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来) 寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。 寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。 宝治2-3年(1248-49年)[要検証 – ノート]、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。 建長5年(1253年) 病により永平寺の住職を、弟子孤雲懐奘に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で[要出典]没す。享年54(満53歳没)。死因は瘍とされる。 ひたすら坐禅するところに悟りが顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる。道元のこの立場は修証一等や本証妙証と呼ばれ、そのような思想は75巻本の「正法眼蔵」に見えるものであるとされるが、晩年の12巻本「正法眼蔵」においては因果の重視や出家主義の強調がなされるようになった。 成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。 鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。 道元は易行道(浄土教教義の一つ)には、否定的な見解を述べている。 『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう、七十五巻本+十二巻本+補遺) 『正法眼蔵 正法眼蔵随聞記』 (日本古典文学大系81、岩波書店、初版1965年)  西尾実・鏡島元隆・酒井得元・水野弥穂子校注 『現代語訳正法眼蔵』(全12巻、西嶋和夫訳 金沢文庫、1970年) 『全巻現代訳正法眼蔵』(全2巻、高橋賢陳訳 理想社、1971年) 『正法眼蔵』(全4巻、水野弥穂子校注、岩波文庫、1990年-93年、ワイド版1993年) 『現代語訳 正法眼蔵』(石井恭二訓読・注釈・訳、河出書房新社、河出文庫(新版)、2004年) 『永平廣録』(えいへいこうろく、全十巻) 『永平廣録』(石井恭二訓読・注釈・訳、河出書房新社 上中下、2005年) 『永平廣録 道元禅師の語録』(篠原壽雄、大東出版社全3巻、1998年)  『永平廣録提唱』(西嶋和夫訳、金沢文庫11分冊、1997年) 『道元和尚廣録』(寺田透訳、筑摩書房 上下、1995年) 『道元禅師語録』(鏡島元隆編、講談社学術文庫、1990年)- 文庫判は各抄版 『道元「永平広録・上堂」選』(大谷哲夫全訳注、講談社学術文庫) 『道元「永平広録・頌古」』(大谷哲夫全訳注、同上) 『道元「永平広録 真賛・自賛・偈頌」』(大谷哲夫全訳注、同上、2005-2014年) 『普勧坐禅儀』-『永平広録』巻八 『道元「小参・法語・普勧坐禅儀」』(大谷哲夫全訳注、講談社学術文庫、2006年) 『永平清規 (典座教訓、対大己法、弁道法、知事清規、赴粥飯法、衆寮箴規)』 読みは(えいへいしんぎ(てんぞきょうくん、たいたいこほう、べんどうほう、ちじしんぎ、ふしゅくはんほう、しゅうりょうしんぎ)) 『永平清規 典座教訓提唱』、『赴粥飯法提唱』(各・西嶋和夫、金沢文庫、1991-92年) 『道元禅師の『典座教訓』を読む』(秋月龍珉、ちくま学芸文庫、2015年) 『道元・日々の生きかた 典座教訓・赴粥飯法・衆寮箴規』(佐藤達全、大法輪閣、2001年) 『典座教訓 赴粥飯法』(中村璋八ほか2名訳注、講談社学術文庫、1991年) 『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき) - 懐奘編で道元の言行録。 『正法眼蔵随聞記 新校註解』(大久保道舟校註 山喜房仏書林、1958年) 『正法眼蔵随聞記』(古田紹欽訳注 角川文庫、1960年) 『正法眼蔵随聞記』(和辻哲郎校訂・中村元改訂解説、岩波文庫、1982年(改版)、ワイド版1991年) 『正法眼蔵随聞記』(篠原壽雄訳著、大東出版社〈大東名著選〉、1987年) 『正法眼蔵随聞記』(水野弥穂子訳、ちくま学芸文庫(新版)、1992年) 『正法眼蔵随聞記 現代語訳』(池田魯参訳、大蔵出版、1993年) 『正法眼蔵随聞記』(山崎正一全訳注、講談社学術文庫(新版)、2003年) 『寶慶記』(ほうきょうき、在宋中の道元が師とかわした問答の記録) 『宝慶記-道元の入宋参学ノート』(池田魯参、大東出版社、1989年、新装版2004年) 『道元禅師 宝慶記 現代語訳・註』(水野弥穂子、大法輪閣、2012年) 『道元「宝慶記」全訳注』(大谷哲夫、講談社学術文庫、2017年) 『道元禅師全集 原文対照現代語訳』 (全17巻、鏡島元隆監修、水野弥穂子・石井修道・角田泰隆ほか訳註、春秋社、1999年‐2013年) ^ なお、ハイデガーに言及する論調もあるが、これを裏打ちする一次資料は見出されていない。ヤスパースについても同様である。 ^ 懐奘は『正法眼蔵随聞記』を記した。 ^ 「今人云はく、行じ易きの行を行ずべし、と。この言尤も非なり、太だ佛道に合はず。…好道の士は易行に志すことなかれ。若し易行を求むれば、定んで實地に達せず、必ず寶所に到らざるものか」。 ^ 1854年(嘉永7年)孝明天皇 ^ 1879年(明治12年) 明治天皇 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 中村元ほか(編) 『岩波仏教辞典』 岩波書店、2002年10月、第二版、752-753頁。 ^ 道元の父母については、中尾良信編『孤高の禅師 道元』(吉川弘文堂,2003)50頁以下参照。 ^ “正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年8月31日閲覧。 ^ 『永平初祖學道用心集』の「第六、参禅に知るべき事」より。 里見弴『道元禅師の話』(岩波書店/新版岩波文庫、1994年) 竹内道雄『道元 人物叢書』(吉川弘文館、1962年) 高橋新吉『道元禅師の生涯』(宝文館、1963年) 圭室諦成『道元』(新人物往来社、1971年) 今枝愛真『道元 坐禅ひとすじの沙門』(NHKブックス:日本放送出版協会、1976年) 菅沼晃『道元辞典』(東京堂出版、1977年) 平野雅章『道元の食事禅』〈日本料理探求全書第十三巻〉(東京書房社、1979年) (「典座教訓」と「赴粥飯法」の全文および現代語訳・解説) 鏡島元隆・玉城康四郎編『講座道元』(全6巻 春秋社、1979年-1981年) 水野弥穂子『道元禅師の人間像』〈岩波セミナーブックス〉(岩波書店、1995年) 玉城康四郎『道元』(上下 春秋社、1996年) 鏡島元隆『道元禅師』春秋社、1997年) 大谷哲夫『永平の風 道元の生涯』(文芸社 2001年) 立松和平『道元禅師』上・大宋国の空/下・永平寺への道(東京書籍、2007年/新潮文庫 上中下巻、2010年6月) 『道元禅師と永平寺〜CD版』(日本音声保存) Dogen \"Shobogenzo\" Ausgewaehlte Schriften. ロルフ・エルバーフェルト、大橋良介編でドイツ語訳 〈井筒ライブラリー・東洋哲学3〉(慶應義塾大学出版会、2006年) 「道元」(同所収)49-61頁 「山中の宗僧」(同所収)63-76頁。 「寶慶寺の雲水」(同所収)77-89頁。 「寂円の画像」(同所収)91-104頁。 道元 (小惑星) 栄西-明全 永平寺 總持寺 誕生寺 (京都市) 孤雲懐奘-徹通義介-瑩山紹瑾 禅 ZEN - 2009年公開の日本映画。道元の生涯を描く。中村勘太郎が演ずる。 曹洞禅ネット", "弁長(べんちょう、応保2年5月6日(1162年6月20日) - 嘉禎4年2月29日(1238年3月16日))は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての浄土宗の僧。鎮西義の祖。父は古川則茂。字は弁阿(べんな)。房号は聖光房。 筑前国香月(現福岡県北九州市八幡西区)の出身。現在の浄土宗での第二祖。謚号・大紹正宗国師が滅後600年の文政10年(1827年)に仁孝天皇より贈られている。 仁安3年(1168年)に出家して、安元元年(1175年)観世音寺の戒壇で受戒して天台系の僧となった。 寿永2年(1183年)、比叡山に登り観叡に師事し、後に証真に師事した。建久元年(1190年)、故郷に帰ると鎮西の聖地油山の学頭(その山に置ける統率者)となった。建久4年(1193年)、異母弟三明房の死に臨んで無常を感じ、浄土教に強く惹かれるようになった。そして、明星寺五重塔建設に際して、安置する本尊の建造にあたって注文の為、建久8年(1197年)に上洛する。当時、都中の話題となっていた称名念仏を説く法然を訪ねて、その日のうちに弟子となる。 弁長は都を離れた後に故郷筑前に戻り、筑後国・肥後国を中心に念仏の教えを弘めた。筑後国高良山の麓、厨寺(現・厨山聖光院安養寺)にて千日の不断念仏を勤め、あまたの奇瑞が現れて多くの念仏信者を得ることとなる。後に筑後国山本に善導寺を建立して九州における念仏の根本道場とし、肥後国白川に往生院を開いた。 弁長の流派を鎮西義という。現在の浄土宗である。 弟子に3祖の然阿良忠をはじめ、宗円・入阿など多数いる。 『浄土宗要集』 『末代念仏授手印』 『徹選択集』 など 『弁長 梶村昇、 隆寛 福原隆善』、詳しい解説   <浄土仏教の思想 第10巻>講談社、1992年 梶村昇 『聖光と良忠 浄土宗三代の物語』 (浄土選書35)浄土宗出版部、2008年 坂田良弘 『鎮西聖光上人の教学』 <浄土宗学研究叢書.祖師篇>国書刊行会、1984年-戦前刊の復刻版 ^ 良忠の同名の著書と区別して『西宗要』と呼ばれる。『浄土宗全書』10巻124頁以下 ^ 『浄土宗全書』10巻1頁以下 ^ 『浄土宗全書』7巻77頁以下 教えを広めた弟子たち-聖光房弁長", "叡尊(えいそん、えいぞん、建仁元年〈1201年〉 - 正応3年8月25日〈1290年9月29日〉)は、鎌倉時代中期の日本の人物で、真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧・慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市内)の生まれ。廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られる。 建保5年(ユリウス暦換算:以下同様:1217年) - 醍醐寺の阿闍梨・叡賢に師事して出家。 元仁元年(1224年) - 高野山に入り真言密教を学ぶ。 嘉禎元年(1235年) - 戒律の復興を志して西大寺宝塔院持斎僧となり、『四分律行事鈔』を学ぶ。 嘉禎2年(1236年) - 覚盛、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒。地頭の侵奪により西大寺が荒廃したために海龍王寺に移る。 暦仁元年(1238年) - 持戒のあり方をめぐり海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻る。西大寺の復興に努め、結界・布薩する。 仁治元年(1240年) - 西大寺に入寺した忍性の文殊菩薩信仰に大きな影響を受ける。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)を行い、近傍の非人に斎戒を授ける。 仁治2年(1241年) - 三輪宿で文殊供養を行う。 仁治3年(1242年) - 和爾宿・北山宿で文殊供養を行う。額安寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義を行う。奈良の獄屋の囚人に斎戒沐浴させる。 寛元元年(1243年) - 額安寺西宿・三輪宿で文殊供養を行う。 寛元2年(1244年) - 河内諸宿で文殊供養を行い、非人に施粥する。 寛元3年(1245年) - 家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)を受ける。法華寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義を行う。 寛元4年(1246年) - 道明寺で授戒を行う。 寛元5年/宝治元年(1247年) - 仏師・善円に念持仏・愛染明王坐像を造らせる。 建長元年(1249年) - 仏師・善慶に京都清凉寺釈迦如来像の模刻を造らせ、西大寺四王堂に安置する。 建長2年(1250年) - 絵師・堯尊に文殊菩薩画像・十六羅漢・十六尊者など21幅を描かせる。 建長6年(1254年) - 西琳寺で授戒をおこなう。『聖徳太子講式』執筆。太子講を始める(以後、毎年恒例となる)。 建長7年(1255年) - 円仁が唐の五台山から招来した『上宮太子勝鬘経疏義私鈔』を四天王寺で筆写し、法隆寺に奉納する。 正嘉2年(1258年) - 絵師・堯尊に金剛界曼荼羅を描かせる。 文応元年(1260年) - 絵師・堯尊に胎蔵界曼荼羅を描かせる。 弘長元年(1261年) - 浄住寺授戒と『四分律行事鈔』の講義を行う。北条実時の使者が訪れ関東への下向を懇請する。 弘長2年(1262年) - 太子講を諸所で行う。2月より関東へ下向し、新清凉寺(釈迦堂)に逗留。忍性、頼玄らの応援を得て授戒と『梵網経古迹記』の講義を行う。北条実時・北条時頼に拝謁し授戒する。7月に西大寺へ帰る。弟子の性海による『関東往還記』がその記録である。 文永元年(1264年) - 光明真言を導入し、密教化を進める。 文永3年(1266年) - 河内真福寺で非人救済を行う。 文永5年(1268年) - 般若寺再建のために文殊菩薩像(仏師の善慶、善春が造像)の開眼供養を行う。異国の難を払うため四天王寺で勤行をする。 文永6年(1269年) - 般若寺の落慶供養を行い、周辺で非人・癩者を救済する。紀伊の金剛宝寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義を行う。 文永10年(1273年) - 蒙古襲来(元寇)に際して伊勢神宮に参籠し、大般若経を転読する。 文永11年(1274年) - 蒙古襲来に際して四天王寺で亀山天皇の行幸を得て百座仁王会を修する。 文永12年/建治元年(1275年) - 伊勢神宮に参籠する。 建治2年(1276年) - 仏師・善春に大黒天像を造らせる。 弘安2年(1279年) - 亀山上皇以下公卿らに授戒と『梵網経古迹記』の講義を行う。 弘安3年(1280年) - 伊勢神宮に参籠する。弟子らが仏師善春に80歳を迎えた叡尊の姿を写した木製寿像を造らせる(西大寺蔵の興正菩薩坐像、2016年に国宝指定)。 弘安4年(1281年) - 蒙古襲来に際して亀山上皇の御幸を西大寺に迎え、石清水八幡宮で尊勝陀羅尼を読誦する。 弘安7年(1284年) - 宇治橋修造の朝命を受け、殺生禁断のために宇治川の網代を破却する。後深草上皇と公卿らに授戒を行う。宇治橋の修造に着手。 弘安8年(1285年) - 院宣により四天王寺別当に就任する。 弘安9年11月19日(1286年12月6日) - 宇治橋修造の竣工。橋の竣工に合わせて橋南方の浮島に浮島十三重石塔を造立。 正応3年 某月某日 - 勝宝山西大寺(南都西大寺)にて、病を発す。 8月25日(1290年9月29日) - 示寂する。 正安2年(1300年) - 伏見上皇の院宣により、行基菩薩の先例により興正菩薩の尊号が贈られる。 授戒を行ったほか、聖徳太子信仰や文殊信仰、真言密教(光明真言)などを広めた。殺生禁断、一部の仏教宗派が救済対象としなかった女性や貧者、ハンセン病患者などへの慈善、宇治橋の修繕といった社会事業にも尽くした。このため非人・癩病者から公家、鎌倉幕府執権、後嵯峨上皇・亀山上皇・後深草上皇などの皇族に至るまで、貴賎を問わず帰依を受けた。「興法利生」を唱えて在家信者を含めて10万人近くに戒律を授け、西大寺の末寺は全国で一時1500を超えた。 60歳になった弘長2年に、鎌倉幕府執権北条時頼に招かれ鎌倉に下り、広く戒を授け、また律を講じた(その時の記録が、随行の弟子・性海(しょうかい)による奈良から鎌倉への約半年間の旅・滞在記『関東往還記かんとうおうげんき、かんとうおうかんき』である)。国分寺や法華寺の再興にも務めて、長年閉ざされてきた尼への授戒を開いた。晩年の弘安5年(1282年)に、四天王寺別当の地位を巡って天台座主(延暦寺)の最源と園城寺長吏の隆弁が自派の候補を出し合って争った際には、朝廷の懇願を受け両者と利害関係のない叡尊が別当に就任している。著名な弟子に忍性・信空などが居る。 一般には戒律・律宗復興の業績で知られているが、叡尊の本来の意図は権力と結びつきすぎたことから生じた真言宗僧侶の堕落からの再生のために、まず仏教教学の根本である戒律及びその教学的研究である律宗の再興にあった。一方で叡尊自身も慈善活動の為とはいえ権力と関係を持ち、木戸銭などの徴収権を得ていたのも事実であり、戒律に対する考えの違いもあり日蓮から「律国賊」と批判された。 日本律宗の祖である鑑真が「四分律」を奉じたのに対して、叡尊は真言宗を開いた空海が重んじた「十誦律」を奉じている。同時に戒律復興と並行して真言密教の研究を重視しており、弟子の忍性が東国において、社会活動や布教に熱を入れすぎ、教学が疎かになっているのを「慈悲ニ過ギタ…」と窘(なだ)めたり、元寇に際しては西大寺や四天王寺などで、蒙古軍撃退の祈祷や鎮護国家の密教儀典を行っている。 著述に『感身学正記』『興正菩薩御教誡聴聞集』『表無表章詳体文集』『梵網経古迹記輔行文集』などがある。 ^ 「律学の研鑽は行なわれても、すでに戒師の存在は地を払って皆無の状態であったから、律宗復興の基本的な前提として、まず比丘僧と名づけることのできるものがどのようにして得られるか、そこに焦点がしぼられ、その唯一の方法として、『自誓』という手段が取られたものである。」(石田瑞麿、「叡尊の戒律について」、『重源・叡尊・忍性 日本名僧論集 第5巻』 吉川弘文館)に所収、なお他に5編の論考がある。 ^ 数年前から天変地異が頻発し飢饉疫病が流行していたが、それを祈祷により鎮めるべき役割を担う僧侶は鎌倉の地においては破戒念仏僧や他宗誹謗の法華僧らが横行していた。こうした仏法を是正するためには戒律によるしかないと鎌倉の為政者が考えたものと思われる。 ^ このとき北条時頼から西大寺援助のための布施や寺領寄進の申し出があったが決して受けず、断固として為政者の資縁を拒否し続けた。 ^ 当時、南宋の僧らによりモンゴル帝国の侵略について日本にも伝わっており、元寇の前段階としてモンゴル帝国も日本へ使者を派遣していた。 ^ 長年にわたり山門派と寺門派が別当職をめぐり争っていたが、鎌倉期、特に元寇を機に太子信仰が高まってくると、別当として「世一の僧」(最も勝れた僧)が求められるようになり、叡尊の就任に至ったと考えられる。 ^ 修理の際に宇治川の網代を破却して漁師に殺生を止めさせ、代わりに布を川に晒す作業を職業として与えたという。 ^ 忍性は師の叡尊が、当時の仏教観で救済されない非人救済に専念する余りに一般民衆への救済が疎かとなり、また救済に差をつける事で却って非人への差別観を助長することを危惧して、非人を含めた全ての階層救済を目指した。また、権力との距離に対する考え方にも違いがあったと言われている。 ^ 「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」『日本経済新聞』朝刊2017年4月8日 ^ 松尾編 『持戒の聖者叡尊・忍性 日本の名僧10』 (吉川弘文館、2004年)より 細川涼一訳注 『感身学正記 1 西大寺叡尊の自伝』 平凡社東洋文庫(全2巻)、1999年。※第2巻は未刊、刊行時期未定。 細川涼一訳注 『性海 関東往還記』 平凡社東洋文庫、2011年。校訂原文入り 田中久夫校注 「興正菩薩御教誡聴聞集」、『日本思想大系15 鎌倉旧仏教』 岩波書店、1971年、新装版「日本仏教の思想」、1995年 長谷川誠注解・訳 『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記』 西大寺刊、1990年。没後700年記念出版(現代語訳も収録)。 松尾剛次 『救済の思想 叡尊教団と鎌倉新仏教』 角川書店〈角川選書〉、1996年 松尾剛次編 『持戒の聖者 叡尊・忍性 日本の名僧10』 吉川弘文館、2004年。ISBN 4642078541 松尾剛次 『忍性 慈悲ニ過ギタ』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2004年。ISBN 9784623041503 和島芳男 『叡尊・忍性』 吉川弘文館〈人物叢書〉、初版1959年 新装版1988年 中尾堯、今井雅晴編 『重源 叡尊 忍性 日本名僧論集5』 吉川弘文館、1983年、論考6篇(執筆時期は上記初版前後)を収録 図録 『奈良西大寺展 興正菩薩叡尊七百年遠忌記念』(奈良国立博物館編。205頁、西大寺・日本経済新聞社共催、1990-91年) 図録 『興正菩薩叡尊 生誕八百年記念特別陳列』(47頁、奈良国立博物館で2001年12月に開催) 図録 『奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝』(288頁、2017年に大阪・東京・山口の三ヶ所で開催) 松尾剛次 『中世律宗と死の文化』(吉川弘文館、2010年) 松尾剛次 『中世叡尊教団の全国的展開』(法藏館、2017年) 追塩千尋 『中世の南都仏教』(吉川弘文館、1995年) 中尾堯 『中世の勧進聖と舎利信仰』(吉川弘文館、2001年) 蓑輪顕量 『中世初期南都戒律復興の研究』(法藏館、1999年) 奈良国立文化財研究所『西大寺叡尊傳記集成』(法藏館、第2版・2012年) 真言律宗 遁世僧 明恵 貞慶 良遍 凝然 忍性 称名寺(金沢文庫) 極楽寺(鎌倉市) 法華寺(奈良市) 鎌倉仏教 僧 西大寺ホームページ「彫刻」の項に叡尊木造の画像あり。 叡尊を慕う-奈良国立博物館学芸部長 西山厚", "瑩山紹瑾(けいざん じょうきん、諡号:佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師。文永5年10月8日(1268年11月21日) - 正中2年8月15日(1325年9月29日))は、日本の鎌倉時代の曹洞宗の僧侶。瑩山派(總持寺派)の派祖で、教団では第四祖とする。 一般には瑩山禅師と呼ばれ、教団内では日本曹洞宗開祖で永平寺派派祖の道元を高祖大師、瑩山派派祖の瑩山を太祖大師とする。 越前多禰(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生氏の長男として生まれる。幼名は行生(ぎょうしょう)。母親の熱心な帆山観音信仰の影響を受け、幼少時から信仰心に目覚める。 道元の建仁寺時代からの熱心な信者で、母方の祖母である明智優婆夷の影響で、8歳で永平寺に入り、徹通義介の下で沙弥となる。1280年、13歳の時、師の勧めで永平寺2世孤雲懐奘に就いて、その最後の弟子として出家得度。 1280年 孤雲懐奘について得度 1285年 諸国行脚に立つ。宝慶寺寂円などを訪ね、比叡山に上って天台教学を学ぶ 1286年 紀伊由良(現在の和歌山県日高郡由良町)の興国寺に心地覚心を訪ねる 1288年 宝慶寺寂円を再訪し、永平寺に帰山 1289年 三代相論により永平寺を下山した義介に従って加賀(現在の石川県金沢市)大乗寺に移る 1295年 阿波国海部郡司が開基した城満寺(現在の徳島県海部郡海陽町)に招かれ、同寺を開山、住職となる(1296年との説もある)。眼可鉄鏡をはじめ、70人余に授戒する。義介より嗣法する 1298年 義介に呼ばれ、加賀国大乗寺に戻る 1300年 義介の代理として大乗寺の修行僧に対し釈尊以来五十二祖の機縁を提唱(=講義)する。後に『伝光録』としてまとめられる 1302年 大乗寺2世となる 1311年 大乗寺を明峰素哲に譲り、加賀常住寺を開山する 1313年 能登(現在の石川県羽咋市)永光寺を開山する 1320年 後醍醐天皇より「十種の勅問」が下され、奉答したとされる 1321年 藤原行房の書による「總持寺」の勅額と紫衣(しえ)を天皇から賜り、能登總持寺を開山する。 1322年 後醍醐天皇より總持寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨が下される(元亨二年) 1324年 『瑩山清規』を著わす 1325年 永光寺にて示寂 毎年、亡くなった8月15日(新暦換算で9月29日)に、道元と共に両祖忌として法要が行われている。50年に一度ずつ遠忌が總持寺で開催される。 道元は祈祷や祭礼を否定はしなかったものの、その対象は永平寺の僧たちの安全祈願及び寺院周辺の天候回復などの祈願が主であり、晩年の1249年に『永平寺住侶利親』で「まさに諸方への護持僧参勤事を停止すべし」と命じたように、他の寺院が行なっている、寺院以外での加持祈祷は禁じていた。 これに対し、永平寺3世となった徹通義介は元に留学して密教の祈祷を学び、仏殿を建て礼仏を取り入れるなど積極的な改革を行った。こうした改革は寂円等の道元の遺風を慕う一派との対立を生み、「三代相論」とよばれる内紛に発展した。 瑩山は師僧義介の遺志を受け継ぎ、道元以来の出家修行に加えて密教的な加持、祈祷、祭礼などを取り入れ、永光寺を伝道の拠点として下級武士や商人に禅を伝え信徒を拡大した。これには瑩山が依拠した寺院が、白山系の天台寺院であったことや、兼修禅的傾向の強い法灯派の僧らと瑩山との密接な関係が影響したと考えられる。 門下には四哲と呼ばれる明峰素哲、無涯智洪、峨山韶碩、壺庵至簡をはじめとする俊英逸材が多数輩出し、曹洞宗興隆の基礎を固めた。また、晩年の道元は女性の出家修行に否定的であったが、瑩山は積極的に門下の女性を住職に登用し、女人成道を推し進めた。 2015年現在、日本伝統宗派最多の寺院数を持つ曹洞宗の隆盛は、瑩山とその門下によるものであり、全寺院の8割は元は總持寺系と言われる。このため、第4世でありながら、釈迦、道元と共に一仏両祖として尊崇されている。 『伝光録』 『坐禅用心記』 『瑩山清規』(『洞谷清規』) 『三根坐禅説』 『信心銘拈提』 『十種勅問』(『十種疑滞』) 『秘密正法眼蔵』 『洞谷記』 「洞谷山尽未来際置文」 『瑩山和尚語録』 「仏祖正伝菩薩戒教授文」 『常済大師全集』(孤峰智璨編、大本山總持寺、1967年) 『總持寺開山太祖略伝』 『瑩山禪師傳』(成田芳髄著、交友社、1948年) 『瑩山 日本の禅語録 第5巻』(田島柏堂訳著、講談社、1978年) 『瑩山 - 日本曹洞宗の母胎 瑩山紹瑾の人と思想』(佐橋法龍著、相川書房、1975年/『人間瑩山 第2版』(春秋社、1979年) 『太祖瑩山禅師』(東隆眞著、国書刊行会、1996年) 『總持寺の瑩山さま』(大本山總持寺出版部、1999年) 『瑩山紹瑾の生涯 - 曹洞宗太祖・常済大師 : 高祖道元の衣鉢を弘布した名僧』(百瀬明治著、毎日新聞社、2002年) 『瑩山 現代語訳洞門禅文学集』(飯田利行編訳、国書刊行会、2002年) 『瑩山禅師伝』(宮地清彦著、曹洞宗宗務庁、2011年) 『越前瑩山禅師ものがたり - 曹洞宗大本山總持寺開祖』(大浦和子著・発行、2013年) 『慈悲の人瑩山禅師を歩く』(百瀬明治、杉田博明、粟津征二郎共著、西山治朗撮影、学研パブリッシング、2014年) 『瑩山教学の総合的研究』(光地英学著、駒澤大学、1982年) 『瑩山禅師研究 - 瑩山禅師六百五十回大遠忌記念論文集』(瑩山禅師奉讃刊行会、1974年) 『瑩山禅』1-12(山喜房仏書林、1985年) 『瑩山禅師伝』(宮地清彦著、曹洞宗宗務庁、2011年) 『禅学大事典』536p(大修館書店、1979年) ^ 1772年(安永元年)11月29日、後桃園天皇 ^ 1909年(明治42年)明治天皇 ^ 生年には文永元年(1264年)説もある。 ^ 生地には福井県坂井市丸岡町説もある ^ 帆山にはそれを記念して「瑩山禅師御誕生地顕彰碑」「瑩山禅師父母孝養碑」「御誕生寺」が建立されている ^ 創作とする説が多い ^ 大村哲夫「仏に代わって祈りを聞くカミガミ」(『東北宗教学』X号、東北大学、2006年) 御誕生寺 總持寺>瑩山禅師について・太祖・瑩山紹瑾禅師について コトバンク>瑩山紹瑾" ]
ABC01-02-0082
明治2年1月1日に点灯が行われた、三浦半島にある日本初の洋式灯台は何でしょう?
観音埼灯台
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[ "観音埼灯台", "六連島灯台", "伊王島灯台", "潮岬灯台", "神子元島灯台" ]
[ "観音埼灯台(かんのんざきとうだい)は、日本の灯台。日本最古の洋式灯台として神奈川県横須賀市、三浦半島東端の観音崎に立っている。白色八角形の中型灯台で、日本の灯台50選に選ばれている。 東京湾、浦賀水道を照らし、東京湾海上交通センターとあわせ海上交通が輻輳する浦賀水道航路の安全に寄与している。また日本初の洋式灯台であり、この灯台の着工日を記念して11月1日が灯台記念日に指定された。初代の設計はレオンス・ヴェルニー等が担当したが、大正時代の地震により2度再建され、現在の灯台は3代目にあたる。周辺は県立観音崎公園となっており、自然環境が保護されている。 それまで浦賀水道を照らしていた西浦賀の燈明堂に代わり、1869年に点灯した。1866年(慶応2年)、アメリカ、イギリス、フランス、オランダと結んだ「改税条約」(江戸条約)によって建設を約束した8ヶ所の灯台(条約灯台)の1つで、最も早く完成・点灯した。 初代 建設当初は煉瓦造りの四角い洋館建てで、設計はレオンス・ヴェルニー等フランス人技師が担当した。屋上に灯塔を設けたフランス風白色八角形の煉瓦造灯台で、地上から灯火までの高さは 12.12 m 。フランス製の第3等フレネル式レンズ、3重心灯器を使用し、実効光度 1,750 cd 、光達距離は14海里(約 26 km)だった。 1868年11月1日(明治元年9月17日):着工。 1869年2月11日(明治2年1月1日):完成・初点灯。 1922年(大正11年)4月26日:地震のため大きな亀裂が発生(崩壊したとする資料もある)し、取り壊し。 2代 地震で被災した初代に代わりコンクリート造で再建されたが、関東地震(関東大震災)により、わずか半年ほどで崩壊した。 1923年(大正12年)3月15日:再建。 同年9月1日:関東地震により崩壊。 3代 関東地震の後にコンクリート造で再建され、現在まで使用されている。 1925年(大正14年)6月1日:再建。 1989年(平成元年)5月:遠隔監視に切り換えられ、無人化。 1998年(平成10年)11月1日:日本の灯台50選に指定。 内部の見学が可能な参観灯台である(参観料:大人200円、小人無料)。灯台からは浦賀水道を航行する船舶や対岸の房総半島が一望できる。 灯台資料展示室が併設されており、初代の灯台を造ったフランソワ・レオンス・ヴェルニーの胸像や灯台レンズ、灯台用ランプなどの貴重な資料が展示されている。 初代海上保安庁長官大久保武雄(橙青)の句碑「汽笛吹けば 霧笛答える 別れかな」 高浜虚子の句碑「霧いかに 深くとも嵐 強くとも」 京急本線浦賀駅・馬堀海岸駅より湘南京急バス観音崎線利用、「観音崎」下車徒歩20分 木下惠介監督、佐田啓二・高峰秀子主演の映画『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年松竹作品)のファーストシーンに登場し、ロケが行われた。 ^ a b 航路標識管理所「名だかい燈台 その1」(『官報』第3316号附録、大正12年8月18日、p.4) ^ 大正14年逓信省告示第763号(『官報』第3816号、大正14年5月15日、p.381.) 灯台記念日 日本初の一覧 浦賀水道航路", "六連島灯台(むつれしまとうだい)は山口県下関市の北西約5km、日本海(響灘)に浮かぶ六連島の北埼に建つ石造の灯台。関門航路・日本海側の重要なランドマーク。下関市指定文化財。 大政奉還により江戸幕府最後の年となった1867年(慶応3年4月)、兵庫開港に伴う外国船の安全航行を確保するため、幕府がイギリスとの間で締結した大坂約定(大坂条約)で設置を約束した5か所の灯台の1つである。明治新政府が事業を引き継ぎ、「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、1870年(明治3年10月)、関門海峡の北の日本海側響灘口に建設が開始され、1872年1月(明治4年11月21日)に点灯した。 1872年7月(明治5年6月12日)、明治天皇は、九州への地方巡幸の際に西郷隆盛らを従えて来島し、灯台行幸として初めて六連島灯台を訪れた。1936年(昭和11年)には、「明治天皇行幸所六連島燈臺」として史蹟名勝天然紀念物保存法による史蹟に指定された(1948年〈昭和23年〉6月29日解除)。 当初は石油灯であったが、1925年(大正14年)に高圧式アセチレンガス灯に改められる。その後、1952年(昭和27年)の電化による自家発電方式となり、1963年(昭和38年)には海底ケーブルで本土より送電されるようなった。1969年(昭和44年)4月に無人化される。1991年(平成3年)3月、光度・光達距離を変更。現在、灯質は単閃白光、毎3秒に1閃光となり、実効光度3,700cd、光達距離12.0海里、光源はLEDになっている。 1995年(平成7年)6月、下関市指定文化財に指定された。2004年(平成16年)4月、門司海上保安部の管理となる。 ^ a b c d e グレゴリオ暦への改暦前の太陰太陽暦天保暦の日付。 ^ 同じく大阪条約により南の瀬戸内海側周防灘口に建設されたものが部埼灯台。 ^ 『全国燈台と岬』 日本交通公社編、日本交通公社、1971年、206頁。 ^ a b c “標識名 六連島灯台”. 第七管区海上保安本部. 海上保安庁. 2017年5月21日閲覧。 ^ “明治期に建設された灯台25 六連島灯台”. 海の道しるべ. 日本航路標識協会 (2008年2月6日). 2017年5月21日閲覧。 ^ “六連島灯台 灯台カード(うら)”. 第七管区海上保安本部. 2017年6月10日閲覧。 六連島灯台 - 海上保安庁 第七管区海上保安本部 “六連島灯台(むつれしま)”. 第七管区海上保安本部 海洋情報部撮影 (2003年). 2004年3月7日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年5月21日閲覧。 門司海保の灯台(写真) 六連島灯台 灯台カード - 海上保安庁 ペーパークラフト (PDF) - 燈光会", "伊王島灯台(いおうじまとうだい)は、長崎県長崎市の伊王島にある灯台。 長崎港の入口、伊王島の北端に位置する。現在の灯台は白色、六角形の鉄筋コンクリート造りで、2003年(平成15年)に改築されたものだが、灯頂部のドームは1870年(明治3年)の建設当時のものがそのまま利用されている。 1866年(慶応2年)に江戸幕府が4カ国(アメリカ、イギリス、フランス、オランダ)との間で締結した江戸条約に基づき設置された全国八灯台(条約灯台)の中で、唯一九州に設置された。長崎に灯台が設置された理由としては、貿易で深い関りのあったオランダの要望があった。 灯台の設計はリチャード・ヘンリー・ブラントンで、1870年(明治3年)6月に完成し仮点灯を実施、翌1871年(明治4年)7月に日本最初の鉄造灯台として本点灯された。1945年(昭和20年)8月9日の原爆による爆風で大きく損傷を受け、1954年(昭和29年)9月に解体。同年12月に四角形、鉄筋コンクリート造の灯台が完成したが、ドーム部分はそのまま流用され、旧灯台の基礎部分も遺された。 1971年(昭和46年)4月には近隣の陰の尾・樺島両灯台と共に無人化された。 2003年(平成15年)には設置当初の六角形の姿に改築された。 伊王島灯台の傍らには、かつて灯台守の宿舎(吏員退息所)として利用されていた洋館が灯台資料館として開放されている。設計は灯台と同じくブラントンによるもので、1877年(明治10年)に完成した日本最古の無筋コンクリート構造である。1988年(昭和63年)に「伊王島灯台旧吏員退息所」として長崎県の有形文化財に登録された。 ^ a b c d e f g 岡 2015, p. 115. ^ “伊王島灯台公園”. 長崎市 (2013年3月1日). 2017年11月16日閲覧。 ^ a b 伊王島郷土誌, p. 274. ^ a b “伊王島灯台旧吏員退息所”. 長崎市 (2013年3月1日). 2018年3月23日閲覧。 ^ 伊王島郷土誌, p. 16. ^ a b 文化百選1, p. 18. 伊王島町教育委員会 『伊王島町郷土誌』 伊王島町、1972年10月1日。 長崎新聞社・制作 『長崎県文化百選 <1>みなと編』 長崎県・編、長崎県企画部文化推進室発行、1994年11月。 岡克己 『ニッポン灯台紀行』 世界文化社、2015年4月10日。 長崎県の灯台一覧 保存灯台 リチャード・ヘンリー・ブラントン 伊王島灯台 長崎市公式観光サイト『あっと!ながさき』 恋する灯台 伊王島灯台 日本財団", "潮岬灯台(しおのみさきとうだい)は、紀伊半島南端の和歌山県東牟婁郡串本町にある太平洋に突き出た潮岬に建つ白亜の灯台である。 この灯台は明治初期の江戸条約によって建設された8基の洋式灯台(条約灯台)の一つで、歴史的・文化的価値が高いAランクの保存灯台に指定されているほか、「日本の灯台50選」にも選ばれている。 参観灯台として資料展示室を併設し常時公開されており、本州最南端に位置する本灯台からは太平洋の風景が広がる。周辺一帯は南紀の景勝地で、吉野熊野国立公園に指定されている。 幕末の1866年(慶応2年)5月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税条約」(別名「江戸条約」)によって建設することを約束した8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つで、日本の「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが設計・指導して1869年(明治2年)4月に樫野埼灯台と共に着工した。 翌1870年(明治3年)6月10日に完成、仮点灯で業務を開始したが、当初の灯台は、八角形の木造で、我か国最初の洋式木造灯台だった。本当は建物の完成と共に本点灯する予定だったが、イギリスから灯台機械を運搬してきていた船が、東シナ海で沈没し、その代わりにアメリカから蒸気機関車のヘッドランプを輸入し、それを仮に使ったためであった。 本点灯は、仮点灯から3年以上遅れ、1873年(明治6年)9月15日と他の条約灯台と比べて遅くなった。しかし、この灯台の建設が急がれたのは、ここが古くから海上交通の要衝となっており、また沖合は流れが速く、風も強いため、航海の難所としても知られていたためである。 1878年(明治11年)4月 - 現在の石造灯台に改められる。 1929年(大正4年) - 第2等フレネル不動レンズ、石油蒸発白熱灯の灯器に交換される。 1938年(昭和3年) - 電化される。 1957年(昭和32年) - 90センチ回転式灯器に交換される。 2016年(平成28年) - 船舶気象通報廃止 無線方位信号所 - レーマークビーコン局 付帯業務 - 船舶気象通報 灯台資料展示室 灯台資料展示室が併設されていて、灯台の歴史、機能・役割などを学べ、2代目潮岬灯台レンズ(第2等フレネル不動レンズ)をはじめ、貴重な資料が多数展示されている。 JR紀勢本線(きのくに線)串本駅から、熊野交通バスで潮岬灯台下車、徒歩2分。 敷地入口 灯台入口 灯台内部 灯台内部 第2等フレネル不動レンズ 灯台資料展示室 旧官舎、ブラントンの設計 灯台からの眺望 灯台からの眺望 潮岬観光タワー 串本海中公園 樫野埼灯台 トルコ記念館 串本応挙芦雪館 海金剛 ^ 1870年7月8日から。明治3年4月5日第274 潮岬灯台布告(『法令全書 明治3年』内閣官報局、pp.167-168) ^ 海上保安庁が実施する情報提供業務の一部終了について(PDF) - 海上保安庁交通部 (2016年5月) ※茨城県水産試験場漁業無線局ホームページでの掲載(2016年7月12日閲覧)  ^ “潮岬灯台官舎 建造物の詳細”. 和歌山県教育センター学びの丘. 2015年6月8日閲覧。 保存灯台 吉野熊野国立公園 潮岬灯台 - 南紀串本観光協会", "神子元島灯台(みこもとしまとうだい)とは、下田港南沖11kmにある神子元島(みこもとしま)に建つ灯台である。 幕末に江戸幕府と列強との間で結ばれた改税約書(江戸条約)に基づき建設された、条約灯台と呼ばれる8基(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、劔埼、伊王島、佐多岬、潮岬)のうちのひとつ。竣工は明治3年11月11日(1871年1月1日)で、初点灯には三条実美、大久保利通、大隈重信ら明治の元勲と英国公使ハリー・パークスが来島し立ち会っている。灯台建設はスコットランド人のリチャード・ヘンリー・ブラントンの指揮のもとで、1869年春にコリン・アレクサンダー・マクヴェインとA.W. ブランデルの工事監督によって始まった。日本人石工200人を傭った離島での工事は難航を極め、そのことが原因でマクヴェインとブランデルは燈台掛を離れることになる。下田から切りだされた伊豆石を精緻に積み重ね、目地には日本初の速成セメントが使われている。石造灯台では日本最古の現役の灯台であり、国際航路標識協会(IALA)が選定した「世界歴史的灯台百選」のひとつでもある。また日本政府により史跡に指定されている。等級は第3等群。 速成セメントに経年および風波による劣化がみられたため、耐震補強を兼ねた工事が1982年と1995年に行われた。炭素繊維などを使って灯台全体を補強した。2007年から2008年にも電源設備を中心とした改修工事が行われた。 ^ “神子元島灯台”. 下田市. 2018年2月12日閲覧。 ^ 海上保安庁 (2010年3月31日). “神子元島灯台”. 2011年2月11日閲覧。 ^ a b 国際航路標識協会編纂 『世界の灯台』 海上保安庁交通部監修、成山堂書店、2004年。ISBN 4-425-35311-0。 87頁 ^ 初点灯が1870年7月8日(明治3年6月10日)である樫野埼灯台を最古とする場合もある。 海上保安庁 (2010年3月31日). “海の雑学”. 2011年2月11日閲覧。 神子元島灯台 - 燈光会による神子元島灯台の紹介 神子元島灯台 - ふじのくに文化資源データベース(静岡県文化・観光部文化政策課)" ]
ABC01-02-0083
山頂などで太陽を背にして立ったとき、前方の雲や霧に自分の影が大きく映る現象を、ドイツの山の名をとって何というでしょう?
ブロッケン現象
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[ "ブロッケン現象", "カーンアーク", "幻日環", "レンズ雲", "セントエルモの火" ]
[ "ブロッケン現象(ブロッケンげんしょう、英: Brocken spectre)とは、太陽などの光が背後からさしこみ、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光学現象。 光輪(グローリー、英語: glory)、ブロッケンの妖怪(または怪物、お化け)などともいう。 ブロッケン現象は、霧の中に伸びた影と、周りにできる虹色の輪(ブロッケンの虹)の二現象をまとめて指している。両者とも霧の中のいたるところで起こっており、霧が見る人の間近にあるとき、奥行きと巨大さを感じる場合がある。虹に比べて、見かけの大きさは10分の1程度と小さく、光の輪は何重にもなる場合がある。また、見る人の影が十分小さければ、中心点にも輝点が見られる。内側は青色で、外側は赤色。水滴が起こすミー散乱の後方散乱が、光の色(波長)によって異なる角度依存性を持つ事によっておこる。ミー散乱を起こす粒子は雨粒に比べて非常に小さい(虹は雨粒による屈折と内部反射によるものである)。 ブロッケン現象は山岳の気象現象として有名で、尾根の日陰側かつ風上側の急勾配の谷で山肌に沿って雲(霧)がゆっくり這い上がり、稜線で日光にあたって消える場合によく観察される。その他にも航空機から見下ろす雲や、平地の川霧等に現れることがある。航空機からブロッケン現象を撮影・観察しようとする場合は、席は太陽の逆の席を取るほうがいい。朝方か夕方がいいが昼でも見えることがある。稀であるが、飛行機のスクリーンに映しだされることもある。条件があえば、平地でも観察することができる。例えば福島県奥会津地方の只見町は標高500メートルの平地であるが、ダムがあるお陰で夏の朝、川霧が発生する晴れた午前6時から8時にかけ、ブロッケン現象がみられる。 雲(霧)が背景にされ、日光だけではなく、自動車の灯光でもブロッケン現象という大気光学現象が観察される。 ブロッケン(Brocken)の由来はドイツのハルツ山地の最高峰ブロッケン山(標高1,142m)でよく見られたことに由来する。この名称はドイツの自然科学者ヨハン・エサイアス・シルベルスラグが1780年の論文に記述したのが最初とされている。欧米ではブロッケン現象で出現する影を妖怪と捉えてブロッケンの妖怪とも称されている。 一方、日本では御来迎(ごらいごう)、山の後(御)光、仏の後(御)光、あるいは単に御光とも呼ばれる。日本ではこの現象で出現する影は阿弥陀如来と捉えられ、『観無量寿経』などで説かれる空中住立の姿を現したと考えられていた。前田直己山形大学客員教授はこの現象に世界で初めて名前(来迎)を付けたのは出羽三山の修験者であるとの説を2017年に発表している。御来迎については槍ヶ岳開山を果たした僧播隆の前に出現した話が有名である。 丹沢山地にて撮影 金門橋にて撮影 飛行機自体が作ったブロッケン現象(2008年7月) ブロッケン現象 ブロッケン山 虹 霧虹 ^ 菊池一郎. “ブロッケンの妖怪 | 随筆 | 医師会報 2003年3月号”. 沖縄県医師会. 2010年3月2日閲覧。 ^ “森の四季 Vol.4 (PDF)”. 福島県南会津郡只見町. 2011年7月19日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年9月25日閲覧。 ^ a b c d e “ブロッケン現象の呼び名、「来迎」が先 曽良の随行記から解釈”. 山形新聞. (2017年3月8日). オリジナルの2017年3月8日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170308052839/http://yamagata-np.jp/news/201703/08/kj_2017030800137.php 2017年3月10日閲覧。  ブロッケン現象の写真色々", "カーンアーク(Kern arc)とは、大気光学現象の1つ。天頂を中心とした円を描くアーク。 カーンアークの名前は、これを1895年に発見し最初に報告したオランダのH. F. A. Kernに由来する。 発生する位置は環天頂アークと同じで同時発生し、カーンアークの弧の一部分と環天頂アークは完全に一致する。カーンアークの部分は光が弱く、うっすらとしか見えない。 六角形氷晶のうち、正六角形ではなく、三角形の角が取れたような形の六角形をしたものが原因と考えられている。太陽光が六角形の面から入射・屈折した後、四角形の面で1回反射し、他の四角形の面で屈折・出射して起こると推定されている。また、環天頂アークと同じで、太陽高度が50度以下で無ければ出現しないと推定される。 観測数は非常に少なく、非常に稀な現象である。これまでに6例しか報告されていないとされ、写真で撮影された例は無かったようで、2007年11月17日にフィンランドのソトカモで撮影されたのが世界初だとされている。このときは、スキー場のスノーガンによって人工雪を降らせており、これに太陽光が当たったものをMarko Mikkiläが撮影した。気温は-15~18度だった。 Kern arc Atmospheric optics Mikkilä, Marko (2008年1月27日). “Kern arc photographed in Finland”. Halo Reports (blog). URSA. 2008年1月30日閲覧。 Kern Arc MikkiMake, Flickr - カーンアークの写真、色反転で分かりやすくしたものが[1]", "幻日環(げんじつかん、英語:parhelic circle)とは、天頂を中心として太陽を通る光の輪が見られる大気光学現象のことである。月でも同様の現象が見られることがあり、こちらは幻月環(げんげつかん)と呼ばれる。天頂を中心とした完全な輪になるものはきわめて稀にしか見られず、ほとんどの場合は太陽付近だけの弧として観察される。暈(かさ)、幻日などの他の大気光学現象と同時に見られることが多い。 幻日と関連しているような名前であるが、幻日が氷晶内での太陽光の屈折によって起こる現象であるのに対し、幻日環は氷晶の表面での太陽光の反射によって起こる現象であり、むしろ太陽柱と同類の現象である。 太陽柱が氷晶の地面に対して水平な面での反射で起こされるのに対し、幻日環は氷晶の地面に対して垂直な面での反射で起こされる。雲が長い六角柱状の氷晶からできており風が弱い場合、この氷晶は浮力によって六角形の面が地面に対して垂直の向きにそろう。また、雲が六角板状の結晶からできている場合、この氷晶は浮力によって六角形の面が地面に対して水平、つまり側面が地面に対して垂直の向きにそろう。これらの地面に対し垂直な面で太陽光が反射されると、太陽と同じ高度に太陽の虚像が見られることになる。 幻日環は反射によって起こる現象であるので暈などのように色がついて見えることはない。 『史記』鄒陽列伝に「白虹日を貫けり。太子畏ぢたり」とあるのは、幻日環を指すといわれている(暈#白虹貫日)。", "レンズ雲 (レンズうん、レンズぐも、Lenticularis)は、巻積雲、高積雲、層積雲に見られる雲種の1つ。凸レンズの様な形をした特徴的な雲。巻積雲の場合はレンズ状巻積雲、高積雲の場合はレンズ状高積雲、層積雲の場合はレンズ状層積雲とも呼ばれる。 学術名\"Lenticularis\"は、ラテン語で「小さなヒラマメ」を意味する。\"lentil\"(ヒラマメ)は\"lens\"(レンズ)の語源となった言葉であり、\"lenticular\"は英語で「レンズ状の」を意味する。 山や山脈において、風と地形の影響によって、山頂付近を湿った空気が昇る際に断熱冷却されてできる。傘雲、笠雲などは、この山のてっぺんにできるレンズ雲を指す呼び名である。 また、山から離れた場所でも発生する。これは山岳波が原因である。風が山を越えた際に、その上下運動が波となって、減衰しながらも形を保ったまま風下側に流れ、定在波となって山と同じ作用を及ぼす。吊し雲(つるし雲)と呼ばれることが多いほか、ロール雲、ローター雲、巻き雲などとも呼ばれる。山岳波は上空に向かって上昇することも多く、山の高さよりも高い所にできることがある。また、山の高さ付近を伝わる山岳波の振動が上空の気流にも影響して、上空に別のレンズ雲が現れ、時に二重のレンズ雲になることもある。この上空の雲だけを指す呼称として「レンズ雲」を用いる場合もある。 上空の風が強いときに発生することが多い。多くの場合、風が強く吹く前兆、あるいは天候が悪化する前兆だとされるが、これは強風がやってくるときは上空から現れやすいことや、低気圧や前線といった悪天候の要因に伴って強風が吹くことが多いことからも理屈が通る。世界各地でも悪天候を知らせる観天望気の1つとして知られている。ただ、同一地点のレンズ雲でもさまざまな形があり、中には好天の前兆とされているものもある。また、数十分~数時間持続することが多い。 笠雲や吊るし雲などは、乱気流の原因となる山岳波を視覚的に見ることができる数少ない証拠となる。そのため、航空分野でも危険な雲として知られている。 レンズ雲の多くは、雲の十種分類では高積雲にあたる。積雲の亜種とされるが、積雲ではなく、積雲のような構造をした雲である。 傘雲、笠雲などはレンズ雲である。また、積雲や積乱雲の頂上部にできる頭巾雲やベール雲にはレンズ雲と似たものもあるが異なる分類の雲である。 夕焼けに染まるレンズ雲 住宅街裏の丘が原因で発生した定在波性の大気波によるレンズ雲 縦長のレンズ雲 巻積雲のレンズ雲が重なった光景 にに.雲のいろいろな顔-見え方・形(種と変種)による細分類 石川県教育センター研究紀要「石川の自然」、第31集 地学編(14)第1章、pp.13-18. Spotlight on... Clouds 大気力学", "セントエルモの火(セントエルモのひ、英: St. Elmo's fire)は、悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象。 激しいときは指先や毛髪の先端が発光する。航空機の窓や機体表面にも発生することがある。 セントエルモの火の名は、船乗りの守護聖人である聖エルモ(エラスムス)に由来する。イタリア・ガエータの聖エラスモ大聖堂(it:Cattedrale dei Santi Erasmo e Marciano e di Santa Maria Assunta)でよく見られたためにこの名がついたというのは俗説である。 セントエルモの火は、カエサルの『アフリカ戦記』(De Bello Africo)、大プリニウスの『博物誌』(Naturalis Historia)、メルヴィルの『白鯨』、ダーウィンがヘンズローに送ったビーグル号での経験を書いた書簡、コールリッジの『老水夫行』(The Rime of the Ancient Mariner)、マゼランの世界周航に随行したピガフェッタの航海記、カモエンスの叙事詩『ルシアダス』などにおいて言及されている。 大プリニウスによれば、古典期のギリシアでは[要出典]、発光が一つの場合「ヘレナ」、二つの場合「カストルとポルックス」と呼んだ。アルゴー船の神話によると、同船に乗り組んでいたカストルとポルックスの頭上に光が灯ったところ嵐が静まったので、この双子は航海の守護神とあがめられ、船乗りの間ではセントエルモの火が二つ出現すると嵐が収まると信じられたという。 St. Elmo's light(セントエルモの光) ダーウィンによる。 カストルとポルックス/ヘレナ 上記のように、大プリニウスが『博物誌』においてギリシア古典期の呼称として記述している。 corposant(コルポサント) 英語での別名。ポルトガル語の「corpo santo」を仲立ちとしてラテン語「corpus sanctum」を語源としている。「聖体」を意味する。 檣頭電光(しょうとうでんこう) セントエルモの火は大気電磁現象の一種であり、学問的にはこのように呼ばれる。 尖った物体の先端で静電気などがコロナ放電を発生させ、青白い発光現象を引き起こしている。先端が負極の場合と正極の場合とでは、形状が異なる。雷による強い電界が船のマストの先端(檣頭)を発光させたり、飛行船に溜まった静電気でも起こることがある。放電によるシューという音を伴う場合がある。 1750年、ベンジャミン・フランクリンが、この現象と同じように、雷の嵐の際に先のとがった鉄棒の先端が発光することを明らかにした。 ^ しかしプリニウスはこうした発光現象と天の星を区別しておらず、これらの発光を星と呼んでいる ^ Letter 178 — Darwin, C. R. to Henslow, J. S., (23 July – ) 15 August (1832)(Darwin Correspondence Project) ^ Darwin, Charles R., (1839) Narrative of the surveying voyages of His Majesty's Ships Adventure and Beagle between the years 1826 and 1836, describing their examination of the southern shores of South America, and the Beagle's circumnavigation of the globe. Journal and remarks. 1832-1836., London: Henry Colburn, pp. 619. 44頁でダーウィンは、\"On a second night we witnessed a splendid scene of natural fireworks; the mast-head and yard-arm ends shone with St. Elmo's light; and the form of the vane could almost be traced, as if it had been rubbed with phosphorus.\" と述べている(強調:引用者)。 雷 放電 放電索 レッドスプライト ブリティッシュ・エアウェイズ9便エンジン故障事故 はぴエネ!「不思議な発光現象」 - 中京テレビ" ]
ABC01-02-0085
手形や小切手などを他人に渡すとき、その裏側に署名をすることを特に何というでしょう?
裏書
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[ "裏書", "債権譲渡", "代位弁済", "代物弁済", "除権決定" ]
[ "裏書(うらがき)とは法律用語、もしくは紙の裏に書かれた文字・文章を指す一般用語である。 法律用語としては、広義では、署名に基づく有価証券上の行為一般を指す。狭義では約束手形、為替手形、小切手又は民法上の指図証券の権利を法定の方式によって他人に移転させる特有の債権譲渡方式である。裏書譲渡ともいう。裏書譲渡をした者を裏書人、裏書譲渡により手形等を受け取った者を被裏書人という。 現在では、法律用語(後述)として使用される事が多いが、元来は、紙類などの裏側に文字や文章を書く事、あるいは書かれた文字・文章自体を指す言葉である。 派生用法として、後述の法律用語の他、以下のものがある。歴史文書の場合には、文書の標題を記した端裏書や表に書ききれなかった本文の続きを裏側に記す場合を例外とすれば、保証・証明・承認・指令などの法的効力を発生させるために権限者が記す場合が多い。 複数の紙を継ぎ接ぎして文書を書いた時に花押などの裏判とともに執筆者の名前や文書名を継目の裏側に記載した。継目裏書とも。 中世日本において証文に書かれた内容の証明・承認、変更が行われた際の保証、裏封とも。当該証文が謀書(偽文書)と発覚した場合の内容の否認のために奉行人などが文書の裏側にその事実を記載する場合もある。 中世日本において、奉行人が訴訟当事者双方の主張を書いた問注勘状の裏側に判決内容を記載したもの。 戦国時代の武家文書において、文書本体を包む封紙の裏側に差出人の苗字・官名を書いたもの(表側には名前を記す)。封紙裏書とも。なお、格式が高い人は裏書の記載を省略できた(裏書免除)。 江戸時代に訴状(目安)の裏に出廷する日や、刑罰・命令などを記したもの。目安裏書とも。 古美術品を鑑定した時に、その結果を裏側に記す事。 かつて日本において、巻物の裏に書く注釈の事。 証明された物事を、別の側面から証明する事。裏付けとほぼ同義。 民法の債権譲渡であれば、債権がその同一性を失うことなく譲受人に移転することから抗弁もその債権に付着したまま承継されるので、譲受人に対してその抗弁を主張できるのが原則である(民法468条2項)しかし、裏書譲渡は、手形などの有価証券の流通の強化という経済的目的のため、手形譲受人に対して抗弁の主張が原則として制限されることになる(手形法17条等)。 この他、裏書譲渡では、民法上の即時取得制度(192条)類似の善意取得(16条2項)が認められている。 なお、約束手形に関しては手形法77条により為替手形の規定が包括的に準用される。 方法 要件 単純なることを要すとされており、条件付の裏書や一部の裏書は無効である(手形法12条)。 方式 手形法13条に規定されている。裏書人の署名があれば足り、被裏書人を指定しなくても(白地式裏書)裏書の効力は発生する。 効力 権利移転効力(手形法14条) 債権譲渡である裏書の意思表示に基づく本体的効力である。 担保的効力(手形法15条) 裏書人として手形などに署名した者はその支払を担保する義務(遡求義務)を負う。この効力があるため、手形上の権利を取得することなく、手形債務を担保する目的のみで裏書を行う場合もある。裏書人の意思表示による効力であるのか、それとも取引安全の要請から法が特別に認めた効力であるのかについて解釈上争いがある。 資格授与的効力(手形法16条1項) 取立委任裏書(手形法18条) 「回収ノ為」「取立ノ為」などの文言を付された裏書。裏書人が自己の代わりに被裏書人に手形債務者への取立てをする権限を与える目的で行う。この場合、被裏書人(所持人)は裏書人と同じ手形より生ずる一切の権限を有する(1項)。手形債務者は、所持人に対して裏書人に主張しうる人的抗弁を主張することができるが、所持人(被裏書人)に対して主張しうる人的抗弁は主張できない(2項)。 文言を付さずに取立目的で通常の裏書がされることもあり、その場合の裏書を隠れた取立委任裏書という。 質入裏書(手形法19条) 「担保ノ為」「質入ノ為」などの文言が付された裏書。裏書人が被裏書人に対して、手形を担保に供する目的で行う。 期限後裏書(手形法20条、77条1号) 満期を過ぎて、正確には支払拒絶証書の作成後又は支払拒絶証書作成期間経過後になされた裏書。手形は満期に支払を受けることが前提になっているため、満期後は本来流通を予定しておらず、特別な保護を与える必要が無いことから、期限後裏書は指名債権の譲渡の効果しか有さない(20条1項)とされる。 保証裏書(手形法30条、31条) 手形上の債権の支払の全部又は一部を担保する裏書のこと。手形面上の単なる署名は保証とみなされる(手形法31条3項)。 戻裏書 既に裏書人として署名をした者を被裏書人として裏書譲渡がなされること。 民法上の混同(520条)の例外として認められるものである。 この場合、手形が第三者に裏書譲渡された場合は人的抗弁の切断があるが、もともと人的抗弁を主張されうる者が戻裏書により手形を再取得したとき、一旦切断されたはずの人的抗弁の主張を認めるのかが問題になる。通説は、人的抗弁はその人に付着するものであるとする属人性の理論(属人性説とは異なるので注意)によりこの問題を解決する。 小切手法14条から24条を参照。 すでに発券された航空券について、発券を行った航空会社から別の航空会社に変更する際、発券航空会社の承認を受ける手続きを指す。「裏書不可」(Non-Endorsable…NONENDと略されることが多い) とあれば、他社への変更ができないことを示す(主に、格安航空券など割引航空券に書かれていることが多い)。 船荷証券においては、証券面上のConsignee(荷受人)が当該船積貨物の権利を有するが、貨物の権利書としての性格も有する有価証券であるため、裏書譲渡が一般的に行われている。 Consigneeが輸入者・L/C発行銀行等の場合(Straight B/L) 輸出者は裏書不要。Consigneeが乙仲に作業依頼する場合や、転売する場合は裏書することで譲渡可能。 Consigneeが 'TO ORDER' 若しくは 'TO ORDER OF SHIPPER'の場合 Shipper欄に記載されている荷送人(輸出者)が裏書することで譲渡性が発生する。 Consigneeが'TO ORDER OF ○○'の場合 意味合いとしては「○○の指示による。」○○の裏書によって流通性が出てくる。信用状発行銀行が○○に表記されることが多い。 尚、有価証券ではないWAYBILLや、AIR WAYBILLは裏書譲渡不能のため、Consignee欄に'TO ORDER'ないし'TO ORDER OF ○○'の表記は原則として出来ない。 海上保険・航空保険においては、保険証券上のAssured(被保険者)の権利(保険求償権)を裏書によって譲渡する、という形式になる。通常、Assured欄は、保険を付保した輸出者が記載されているため、裏書が必要になる。 白地裏書 (Blank Endorsement) 証券の裏面に荷送人(Shipper)または指定された権利者が、次の受取人を指名しないで、自己の署名のみを行う事(譲渡先を特定しない)。 指図式裏書 (Endorsed to order of....) 権利の譲渡先(受取人)を指名する方式。裏書上部にTo order of...とタイプすることでカバーされる。 ^ a b c d e 松村明監修『大辞泉』(1998年、小学館) ^ a b c d e f g 『国史大辞典』第2巻(吉川弘文館、1980年)「裏書」(pp.171-172、執筆者:長澤規矩也・田中稔) ^ a b c 『日本史大事典』第1巻(平凡社、1992年)「裏書」(pp.794、執筆者:上島有) 手形割引 譲渡手形(裏書手形) 白地手形 保険追認書", "債権譲渡(さいけんじょうと)とは、債権の譲渡、すなわち、債権をその同一性を変えずに債権者の意思によって他人に移転させる ( durchgehen ) ことをいう。債権がいったん消滅せずに同一性を維持する点において、更改とは区別される。 歴史上、債権債務関係は債権者と債務者の間を結ぶ法鎖であり、債権者が債権を譲渡するということは認められていなかった(したがって更改によって債権者を変更するという手法が生み出された。)。 しかしながら、債権の実現を確実なものにするための法制度が整備され、債権それ自体が独立の財産的価値を有するものと認められるようになったことに伴い、債権を譲渡する社会的経済的必要性が生じ、これに応じて債権の譲渡が認められるようになった。 所有権等の物権と違って、わざわざ条文で自由譲渡の原則(466条1項本文)を宣言している理由はここにある。 債権譲渡の発生原因としては売買、贈与、代物弁済、譲渡担保、信託などがある。 債権譲渡自体は債権の帰属を変動させることを直接の目的とする法律行為であり、かかる譲渡を目的とする債権債務の発生を直接の目的とする売買等の債権契約とは観念的に区別される。物権契約に類似しているので準物権契約といわれる。 債権契約と準物権契約である債権譲渡の関係については、債権契約と物権契約(例えば所有権譲渡契約)の関係と同じような関係にある。すなわち、準物権行為の独自性の肯否や、債権の移転時期について、債権契約と物権契約の関係と同様に扱われる。 民法は、第3編第1章第4節「債権の譲渡」(第466条 - 第473条)において規定する。債権譲渡がされると、譲渡人(旧債権者、Zedent)は債権者の地位を失い、譲受人(新債権者、Zessionar)が新たな債権者となる。更改とは、債権の同一性を失わない点で異なる。 債権は原則として譲り渡すことができる(第466条1項本文)。指名債権の譲渡は、諾成・不要式の契約であり、新旧債権者間の合意(意思表示)のみによって成立し効力が生ずる。ただし次の例外がある。 債権の性質がこれを許さないとき(第466条1項但書) 当事者が反対の意思を表示した場合(第466条2項) 債権者と債務者の間に債権譲渡禁止特約がある場合、債権譲渡は効力を生じない(民法466条2項本文)。ただし、譲渡禁止特約を対抗できるのは悪意又は重過失の譲受人に対してだけであって、善意(軽過失ある場合を含む)の譲受人に対しては譲渡禁止特約を対抗できない(同項但書)。 この点について、譲渡禁止特約の効果(「対抗することができない」の意義)については争いがあるが、判例は、債権譲渡自体が効力を生じないという解釈に立っている(物権的効力説)。 譲渡禁止特約の存在、および譲受人が悪意又は重過失であることの立証責任は債務者の側にあると解されている。債権は譲渡自由が原則だからである。 譲渡禁止特約はもっぱら債務者保護のためにあるから、債務者の承諾があれば、債権譲渡は譲渡時点に遡って有効になる。ただし、民法116条の法意に従い、承諾以前に生じた第三者の権利を害することはできない。 債権譲渡の効果を債務者その他の第三者に対して主張するには、対抗要件を備えることを要する。 債務者その他の第三者に対する対抗要件 指名債権の譲渡は、譲渡人が債務者に通知をし、又は債務者が承諾をしなければ、債務者その他の第三者に対抗することができない(467条1項)。 債務者に対する対抗要件(この場合は譲り受けた債権を行使するための要件という意味)は、譲渡人から債務者への通知、または、債務者の承諾(467条1項)。 債務者以外の第三者に対する対抗要件 通知又は承諾は、確定日付のある証書によってしなければ、債務者以外の第三者に対抗することができない。 債務者以外の第三者に対する対抗要件(この場合は当該債権の譲渡を対抗するための要件という意味)は、確定日付ある証書による債務者への通知または債務者の承諾(同条2項)である。 (最高裁判例 昭和43年8月2日) 他人の債権を譲渡する契約をし、当該債権の債務者に対して確定日付ある譲渡通知をした者が、その後同債権を取得した場合には、何らの意思表示を要せず、譲受人は、当然に債権を取得し、これをもって第三者に対抗することができる。 (最高裁判例 昭和49年3月7日) 指名債権が二重に譲渡された場合、譲受人相互間の優劣は、確定日付ある債権譲渡通知が当該債権の債務者に到達した日時または、確定日付ある当該債権の債務者の承諾の日時の先後によって決定される。 (最高裁判例 昭和55年1月11日) 指名債権が二重に譲渡され、確定日付ある各債権譲渡通知が当該債権の債務者に同時に到達したときは、各譲受人は、当該債権の債務者に対しそれぞれの譲受債権全額の弁済を請求することができ、譲受人の一人から弁済の請求を受けた当該債権の債務者は、他の譲受人に対する弁済その他の債務消滅事由が存在しない限り、弁済の責を免れることはできない。…(当該債権の債務者が二重弁済の責を免れるためには、反対債権があれば相殺できるが、ない時は供託の方法しかない。) (最高裁判例 平成5年3月30日) 国税滞納処分としての債権差押をした者と同一債権の譲受人との間の優劣は、債権差押の通知が第三債務者(当該債権の債務者)に送達された日時と確定日付のある債権譲渡の通知が当該第三債務者に到達した日との先後によって決定すべきであるから、その到達の先後が不明の場合には、同時到達の場合と同様、相互に優先的地位を主張することができず、第三債務者が債権額を供託した時には、差押債権者と債権譲受人は、被差押債権額と譲受債権額に応じて供託金を按分した額の供託金還付請求権を分割取得する。 (最高裁判例 平成13年11月22日) 債務者(甲)が債権者(乙)に対する、金銭債務の担保として、甲の丙(第三債務者)に対する既発生債権および将来債権を一括して乙に譲渡し、乙が丙に対し担保権実行として取立ての通知をするまでは甲の取立てを許諾した債権譲渡契約は、いわゆる集合債権譲渡担保契約と解されるが、この場合、既発生債権および将来債権は甲から乙に確定的に譲渡されており、ただ、甲・乙間において、乙に帰属した債権の一部について甲に取立て権限が付与され、取り立てた金銭の乙への引渡しを要しないとの合意が付加されていると解すべきであるから、これを第三者に対抗するためには、指名債権譲渡の対抗要件の方法によることができ、丙に対して甲に付与された取立権への協力依頼があったとしても、その効力を妨げるものではない。「乙から丙に対し、譲渡担保権実行(書面又は口頭による)がされた場合は、この債権に対する弁済を乙にされたい。」という旨の記載があるが、この記載は、実行通知があるまで甲に支払うよう依頼する趣旨を包含するものと解すべきであって、この記載があるからといって、これを移転の通知と認めないとするのは失当であるとして原審(高裁判決)を破棄。 (最高裁判例 平成13年11月27日) 指名債権譲渡の予約につき確定日付ある証書により通知・承諾がなされても、債務者は、これによって予約完結権の行使により当該債権の帰属が将来変更する可能性を了知するに止まり、当該債権の帰属に変更が生じた事実を認識するものではないから、これをもって第三者に対抗することはできない。 法人が保有する債権を譲渡する場合には、譲受人との共同申請により債権譲渡登記をすることで、債務者以外の第三者に対する対抗要件を具備することができる(「動産及び債権の譲渡の対抗要件に関する民法の特例等に関する法律」(平成10年法律第104号))。但し、債権譲渡登記をすることによって譲受人が債権譲渡を対抗できるのは、あくまでも債務者以外の第三者に対してであって(同法4条1項)、債務者に対し譲受人が自分が新たな債権者であることを対抗するには、債権譲渡があったことと債権譲渡登記がされたことについて、登記事項証明書を交付して通知するか、又は債務者が承諾しなければならない。この通知については、譲渡人だけではなく、譲受人もすることができる(同法4条2項)。 例えば、A金融会社(法人)の有する、Bを債務者とする20万円の貸金債権がCに譲渡された場合、CがBに自分が債権者であるから自分に弁済せよと主張するには、Aと共に債権譲渡登記を具備するだけでは駄目で、Aから、自分が債権を譲り受けたことをBに対して通知してもらわなければならない。それゆえ、Bが通知を受け取る前に、BがAに債権を弁済してしまった場合には、AB間のみならず、BC間でもBの弁済は有効であり、CはBに20万円を自分に弁済するよう請求することは出来ない。 債権譲渡登記によって対抗可能な者から債務者が除外されたのは、ひとえに債務者の保護のためである。上の例で、例えばAからCに譲渡されたのと同じBに対する債権を譲り受けようとするDがいたとして、Dのような者はこれから債権を譲り受けようというわけであるから、Bに対する当該20万円の貸金債権について債権譲渡登記が具備されていないかを調査してから債権を譲り受けようとするだろう。このため債権譲渡登記によって、譲受人は第三者に譲渡の事実を対抗できるとしても何ら不合理なところはない。しかし、債務者は、履行期が到来した後は直ちに弁済しなければ、履行遅滞によって利息債務が増加するなどの不利益を負担することになるから、債務者に対して登記を確認してから弁済せよなどという悠長なことを言うわけにはいかない。また、債務者は消費者金融における個人債務者など、債権譲渡登記制度について知らない者が数多く含まれるであろうから、これらの者に、債権譲渡人(もともとの債権者)からの通知もないのに、ある日、突然、見知らぬ者が債権を譲り受けたので弁済せよ、しなければ遅延利息を支払えと命じることは、あまりに酷である。それゆえ、法は、債権譲渡登記だけでは債務者に対して債権譲渡を対抗できず、対抗するためには、債務者に登記事項証明書を交付して債権譲渡通知をするか、債務者の承諾を得ることを対抗要件としたのである(同法4条第2項)。 その他にも、以下のような特殊な対抗要件も定められている。 銀行の会社分割または事業譲渡の公告(銀行法36条) 事業譲渡の公告(農業協同組合法50条の2、水産業協同組合法54条の2、農林中央金庫及び特定農水産業協同組合等による信用事業の再編及び強化に関する法律28条、農業信用保証保険法48条の9) 保険契約の移転の公告(保険業法140条) 無尽会社の会社分割の公告(無尽業法21条の5) 特別経理会社が第二会社に債権を出資または譲渡した旨の公告(終戦に伴うもの。減額社債に対する措置等に関する法律9条) 金融機関の事業譲渡の公告(終戦に伴うもの。金融機関再建整備法施行令6条) 債務者が譲渡人に対抗することができた事由を譲受人に対抗できるかは第468条による。 異議をとどめない承諾 債務者が異議をとどめないで467条の承諾をしたときは、譲渡人に対抗することができた事由があっても、これをもって譲受人に対抗することができない(第468条1項前段)。 債務者がその債務を消滅させるために譲渡人に払い渡したものがあるときはこれを取り戻し、譲渡人に対して負担した債務があるときはこれを成立しないものとみなすことができる(第468条1項後段)。 異議をとどめた承諾・単なる譲渡の通知 譲渡人が譲渡の通知をしたにとどまるときは、債務者は、その通知を受けるまでに譲渡人に対して生じた事由をもって譲受人に対抗することができる(第468条2項)。異議をとどめて承諾した場合も同様である(第468条1項反対解釈)。 証券的債権の譲渡については、民法にも規定されているが(第469条 ~ 第473条)、商法、会社法、手形法、小切手法などに個別の有価証券に関する規定があるため、民法の規定が適用される実例はほとんどない。 指図債権の譲渡は、その証書に譲渡の裏書をして譲受人に交付しなければ、債務者その他の第三者に対抗することができない(第469条)。 指図債権の債務者は、その証書の所持人並びにその署名及び押印の真偽を調査する権利を有するが、その義務を負わない。ただし、債務者に悪意又は重過失があるときは、その弁済は無効とされる(第470条)。この規定は、債権に関する証書に債権者を指名する記載がされているが、その証書の所持人に弁済をすべき旨が付記されている場合について準用される(第471条) 指図債権の債務者は、その証書に記載した事項及びその証書の性質から当然に生ずる結果を除き、その指図債権の譲渡前の債権者に対抗することができた事由をもって善意の譲受人に対抗することができない(第472条)。 指図債権の典型である、手形・小切手は、証券の裏書・交付によって譲渡の効力が生じ、かつ、債務者その他第三者に対抗できる(手形法11条1項など)。 民法の第472条の規定は、無記名債権について準用される(第473条)。 無記名債権は動産とみなされるため、意思表示のみによって移転し、証券の引渡しが対抗要件となるように思われるが、通説によると、証券の交付が譲渡の要件である。したがって動産譲渡登記による対抗要件の具備を行うことはできないとされている。 電子記録債権の譲渡は、譲渡記録によって効力を生ずる(電子記録債権法17条)。譲渡記録は新旧債権者が共同で電子債権記録機関に請求し、電子債権記録機関が記録原簿に記録することによって行う(同法3条・5条)。 電子記録債権の債務者および保証人は、譲受人に対し、譲渡人に対する人的関係に基づく抗弁をもって対抗することができない(同法20条1項)。これは指名債権の場合と異なり、手形・小切手に類似する。ただし、発生記録等において同項の適用を排除する旨の記録がされている場合・債務者が個人(個人事業者である旨の記録がされている者を除く)である場合等はこの規定は適用されない(同条2項)。 債権譲渡がされる実例としては、以下のようなものがある。 資金を得るために弁済期前の債権を売却するケース(投下資本の回収) 第三者に対する債務を弁済する資金がないため債権で代物弁済するケース 信用強化のために債権を担保に供するケース(債権譲渡担保) 第三者に債権の取立をさせるために譲渡の形をとるケース 実例の4番目に挙げた取立のための債権譲渡を悪用した、架空請求詐欺(債権回収詐欺)が横行しており、国民生活センターや警察庁などの各機関が注意を呼びかけている。 その手口は、存在しない債権について、譲渡を受けたと称する者が、その支払いを文書(ハガキ・封書、FAX、電子メール)によって請求するものである。期限までに支払いがない場合は、自宅や勤務先まで直接取立てに行き、そのための交通費・手数料も上乗せして支払ってもらう、未成年者の場合はこれらに加え、親権者に未払い金額と利用内容を通知する。あるいは、個人信用情報機関に未払い情報を登録し、銀行口座やクレジットカードを利用停止するなどの脅し文句がついているのが通常。 そもそも存在しない債権を支払う必要がないのは勿論であるが、債権譲渡の面でも法的効果は認められない。まず第1に、存在しない債権を譲渡することはできない。第2に、債権の譲受人が新たな債権者として債務者に支払いを請求するためには、譲渡人からの譲渡の通知が必要であるが、これも欠いている。また、刑法上は、詐欺罪(または恐喝罪)に該当する。 ^ 大判大正4.4.1民録21-422 ^ 大判明治38.2.28民録11-278 ^ 最判昭和52.3.17民集31-2-308 債務引受 随伴性 更改 動産及び債権の譲渡の対抗要件に関する民法の特例等に関する法律 国民生活センター : 悪質な「利用した覚えのない請求」が横行しています", "代位弁済(だいいべんさい)とは、「弁済による代位」という法律効果を伴う弁済をすることをいう。 誤解されがちであるが、債務者以外の者が債務者に代わって弁済することすべてを指して代位弁済というのではない。第三者弁済には、代位が認められない場合もある。 民法は、以下で条数のみ記載する。 代位弁済の場合の代位とは、弁済者が債権者が有していた原債権を取得することをいう。 保証人が保証債務の履行を求められ、債務者に代わって弁済した場合には、債務者に対する求償権が発生し(459条・462条)、第三者が債務者に代わって第三者弁済をした場合には、弁済委託があれば民法第650条に基づき、弁済委託がなければ民法第702条に基づき求償権が発生する。代位弁済は、これらの請求権のほかに、債権者が有していた債務者に対する債権に、弁済者が代位することも認めるものである。 「弁済」には、狭義の弁済だけでなく、弁済とみなすことができる場合を含む。したがって、代物弁済・供託はもちろん、相殺、連帯債務者の一人または連帯保証人との混同においても代位が許される。さらには、債権者が担保権の実行などにより満足を得た場合にも代位が認められる(担保権の実行により所有権を失った物上保証人や抵当不動産の第三取得者が代位する)。 代位が発生すると、債権者が債務者に対する債権そのものを代位した者(弁済者)が行使することができるようになる。そのため、債権に抵当権等の物的担保や保証人(人的担保)がついている場合、担保付の状態で行使することができるようになるので、弁済者の求償権等の行使・満足を確保することができる(詳細は501条の各号を参照)。また、遅延損害金について、高利の約定が定められている場合は、その定めに基づく請求ができる。債権者が債務名義を有するときは、代位者は承継執行文の付与を受けてこれを行使することができる。 原債権と求償債権は別個独立の債権であり、別個の消滅時効にかかるが、前者は後者を確実なものとするために存在するという意味において、両者は主従の関係にある。そのため、一方の満足を受けることができれば、両方の債権が消滅すると解される。 法定代位(500条)・・・弁済者に正当な利益がある場合は、当然に代位の効果が発生する。 任意代位(499条)・・・債権者の承諾があれば、弁済と同時に代位の効果が発生する。 債務の弁済は保証人以外の第三者でもできるが、その債務の性質が許さない時、又は債務者の意思に反して弁済することはできない(474条1項、また、法律上の利害関係のない第三者が債務者の意思に反して弁済することはできない(474条2項))ので、それらの第三者が債務者の同意なくして弁済した場合においては、原則として、弁済という法律効果が発生しないため、その場合は代位という法律効果も発生しない。 以下の節では、代位弁済者が保証人である場合を中心に叙述する。 先取特権付債権、不動産質権付債権、抵当権付債権について保証人が代位弁済する時は、先取特権、不動産質権、抵当権の目的である不動産の第三取得者に対抗するためには、あらかじめ先取特権移転登記、不動産質権移転登記、抵当権移転登記を付記登記しておく必要がある(民法501条1号)。 確定前の根抵当権の被担保債権について代位弁済する場合には、弁済者は債権者に代位することはできない(b:民法第398条の71項後段)。根抵当権の確定後には随伴性があるので根抵当権設定者の承諾を得なくとも代位弁済による根抵当権移転登記ができるので、代位弁済する前に根抵当権を確定させて(根抵当権設定者の承諾を得て確定登記を行うか、承諾が得られない時は確定請求で確定登記を行う。)、確定後に代位弁済を行い、根抵当権移転登記を行うとよい。根抵当権の目的である不動産の第三取得者に対抗するためには、あらかじめ根抵当権移転登記を付記登記しておく必要がある(民法501条1号)。 債権者が他にも担保を持っている時には、その担保にも当然に代位するので、担保解除には注意を要する。 債権の一部について代位弁済の場合には、代位者は、その弁済をした価額に応じて債権者とともに行使する(b:民法第502条1項)。担保付債権の一部について代位弁済があると、その担保権について準共有の関係になる。ただし、解除権は債権者に留保される(民法502条2項)。 根抵当権付債権の一部について保証人が代位弁済を行う時には、根抵当権確定後に根抵当権一部移転登記を行うことになる。 求償権 内入弁済", "代物弁済 (だいぶつべんさい) とは、既存の債務で債務者が本来的に負担することとなっている給付に代えて他の給付をなすことで既存の債務を消滅させる債権者と債務者との契約(民法第482条)。 民法は、以下で条数のみ記載する。 当事者間に債務が存在すること 債権が存在しなかった場合には目的物移転の効果は発生せず非債弁済となる。 本来的に負担していた給付と異なる給付が現実になされること 代物弁済は要物契約である。目的物が不動産であるときは登記をして第三者に対する対抗要件を取得することを要する(大判大6・8・22民録23輯1293頁、最判昭39・11・26民集18巻9号1984頁)。 弁済に代えてなされること 旧債務の消滅とともに新債務が成立する場合は代物弁済ではなく更改となる。 債権者の承諾があること 債務者と債権者の契約という形で当事者間に合意があること。 代物弁済によって債務は消滅する。代物弁済は有償契約の一種であるから担保責任の規定(560条以下)の準用がある。 目的物に瑕疵があっても、いわゆる特定物ドグマにより、瑕疵のないものと交換することはできない。但し、瑕疵責任の準用により、損害賠償の請求、ないし契約の目的が達成できない場合には、代物弁済契約の解除をすることができる。 債務者によって既存債務の弁済がなされないときには担保とした目的物により代物弁済を行うものとする当事者間の予約を代物弁済予約といい、狭義には債権者が予約完結権を行使して担保とした目的物の所有権を取得するもののみを指す(556条・559条)。なお、広義には停止条件付代物弁済契約を含む。停止条件付代物弁済予約とは、既存債務の弁済期に弁済がなされない場合(これを停止条件として)、担保とした目的物の所有権が何ら意思表示を必要とせずに当然に債権者に移転する契約をいう。いずれも仮登記担保で用いられる。 ^ a b 遠藤浩編著 『基本法コンメンタール 債権総論 平成16年民法現代語化新条文対照補訂版』 日本評論社〈別冊法学セミナー〉、2005年7月、185頁 弁済 仮登記担保", "除権決定(じょけんけってい)とは、公示催告手続を経て裁判所が行う裁判であり、申立てにかかる権利の失権の効力を有する決定のこと。有価証券の盗難、紛失などによりその所持(形式的資格)を失った権利者の申立てに応じ、権利と証券との結合を分離し、真の権利者に形式的資格を回復させる場合や、単独で抹消登記を行う場合等に用いられる。 非訟事件手続法の第4編公示催告事件の規定(99条から113条)にしたがい、公示催告手続など一定の手続を踏まえた上で除権決定がなされる。 かつては除権判決と呼ばれていたが、法改正により公示催告手続が決定手続によることになったため、除権決定と名称が変更になった。 除権決定によって回復するのは形式的資格のみで、有価証券上の実質的権利までを回復させるものではないと解されており、除権決定前に手形等を善意取得した者が存在する場合においては、除権決定を得ても有価証券上の権利者としての地位までを回復することはできない。 善意取得 公示催告手続の見直しに関する中間取りまとめ" ]
ABC01-02-0086
日本で最初の女帝といえば何天皇でしょう?
推古天皇
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[ "推古天皇", "崇峻天皇", "継体天皇", "允恭天皇", "孝徳天皇" ]
[ "推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日(欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日) - 628年4月15日(推古天皇36年3月7日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代天皇(在位:593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日) - 628年4月15日(推古天皇36年3月7日))、在位期間は36年、『古事記』では 37年 とする)。(神功皇后を含まない)歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)である、また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。『古事記』ではこの天皇までを記している。 天皇号を初めて用いた日本の君主という説もあるが、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。また、容姿端麗であった。 第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣・蘇我稲目の女・堅塩媛。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。 『日本書紀』推古紀に「幼曰 額田部皇女 姿色端麗 進止軌制 年十八歳 立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后 卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩」とあり、「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)おり、18歳で異母兄の渟中倉太玉敷天皇(敏達天皇)皇后となり、34歳のとき渟中倉太玉敷天皇が崩御した。 『日本書紀』敏達紀では、欽明天皇32年(571年)に異母兄・渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、敏達天皇4年(575年)11月の皇后・広姫の崩御を承け、敏達天皇5年3月10日(576年4月23日)、皇后に立てられた。「敏達14年8月乙酉朔己亥」(8月15日)(585年9月15日)に敏達天皇が崩御した。 敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)、桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)ら2男5女を儲けた。 用明元年(586年)夏5月、敏達天皇の殯宮に異母弟の穴穂部皇子が侵入し、皇后を犯そうとした。寵臣・三輪逆に助けられたが、逆は穴穂部皇子に同調した物部守屋らに追い詰められ殺された。 その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月乙巳朔癸丑(4月9日)(587年5月21日)に崩御した後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで皇太后(額田部皇女)が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。しかし、5年後の祟峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年12月12日)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。 その背景には皇太后が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と皇太后がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく薨去した)。 推古天皇元年4月10日(593年5月15日)、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は用明天皇(推古天皇の同母兄)、母も異母妹の穴穂部間人皇女(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、これが竹田皇子亡き後において、天皇が厩戸を起用する背景になったと見られている。 推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩したことがなかった。ずっと後のことではあるが、推古天皇32年(624年)、馬子が倭の六県の一つである葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。 このように公正な女帝の治世のもと聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(推古天皇11年(603年))・十七条憲法(同12年(604年))を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣した。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていたが、初めて日本の独立を強調する目的で使節が派遣された。翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇2年(594年)に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。 推古天皇28年(620年)、聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上したが、2年後の同30年2月22日(622年4月8日)に太子が49歳で薨去し、更に4年後の同34年5月20日(626年6月19日)、蘇我馬子も亡くなった。 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子・山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。 陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定されている。子の竹田皇子との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は方丘。遺跡名は「山田高塚古墳」で、方墳または長方墳である。 『日本書紀』では推古天皇36年(628年)3月の崩御ののち、同年9月に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとするが、所在地・陵名に関する記載は無い。一方で『古事記』では、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が見えるが、こちらには竹田皇子との合葬に関する記載は無い。『延喜式』諸陵寮では、推古天皇陵は遠陵の「磯長山田陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で陵戸1烟・守戸4烟を毎年あてるとする。『扶桑略記』では康平3年(1060年)に「推古天皇山陵」で盗掘があったという。その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している。なお、現陵近くの二子塚古墳を真陵に比定する説もあるほか、改葬前の陵(大野岡上)については植山古墳(奈良県橿原市)に比定する説がある。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 在位年と西暦との対照表 ^ a b ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』) ^ 横田健一(著)『古代王権と女性たち』、吉川弘文館、1996年1月発行22頁引用ー『女帝・女王は当時の東アジア世界にはまだいなかった。新羅第二十七代の善徳女王が王位についたのが六三二年のことで、推古天皇崩後四年目のことである。』・・・。・ISBN 4-642-07408-2。 ^ 『古事記』推古天皇段には「妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき」(『古事記』)とある。小治田宮は奈良県高市郡。 ^ これを採用した場合には欽明天皇32年(敏達天皇即位の年)に皇后となったことになり、広姫立后の記事と矛盾することになり、広姫立后記事か推古の立后時の年齢のいずれかが誤りの可能性がある。 ^ 『古事記』分注では「甲辰年四月六日崩」 ^ 『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』20頁 ^ a b ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、79頁。 (第2章5『日本で最初の「天皇」』)。 ^ 実際には、俀国が推古天皇8年(600年)に遣隋使をおくっている。また、これは12年の誤差があり遣唐使の可能性もある。 ^ a b c d e 磯長山田陵(国史). 『国史大辞典』 吉川弘文館。 黛弘道 「推古天皇」、石田茂輔 「磯長山田陵」(推古天皇項目内)。 ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、講談社、2003年1月。ISBN 978-4062116756。 磯長山田陵 - 宮内庁 額田部皇女に関するカテゴリ: 日本の皇后 古墳時代以前の女性皇族 古墳時代の后妃", "崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明天皇14年(553年?) - 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日?))は、第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月9日?) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。 欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の女・小姉君で、敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。 妃:小手子(大伴糠手子の女) 蜂子皇子(波知乃子王、羽黒山の伝承では出羽三山開祖・能除大師と同一とされる) 錦代皇女(にしきてのひめみこ) 嬪:河上娘(蘇我馬子宿禰の女) 母不明 定世親王(さだよのしんのう、蜂子皇子の兄。近江国中原氏の祖先だという) 大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方大連の物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって逆に殺害されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。 物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)の造寺事業が行われた。しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった。 592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。近年、歴史学者の佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。 陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県桜井市大字倉橋にある倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。 『日本書紀』の崇峻天皇の五年十一月条に「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調を進る。』という。乃ち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。」とある。『延喜式』諸陵式に「無陵地幷無戸」とある。『陵墓要覧』では所在地を奈良県桜井市大字倉橋字金福寺跡(今、桜井市倉橋)とする。 現在、崇峻天皇陵は、倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた小字「天皇屋敷」(桜井市倉橋)にある。同地に、崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があったことから、陵地として決定したという。1876年(明治9年)、奈良県十市郡倉橋村にあった雀塚と呼ばれる古墳が一旦崇峻天皇陵として治定されたが、1889年(明治22年)に現在の陵に改定された。 ただし、根拠には乏しいといい、近年では、桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説もある。 皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 在位年と西暦との対照表 年代は『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えたもの。 ^ 『古事記』崇峻天皇段に、「弟(おと)、長谷部(はつせべ)の若雀(わかささぎ)天皇、倉橋(くらはし)の柴垣(しばかき)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、四歳(よとせ)なりき。(分注、壬子の年の十一月十三日に崩りたましき。)御陵は倉橋の岡の上にあり」とある。倉橋の柴垣宮は、奈良県磯城郡。 ^ 便宜上崇峻天皇の嬪とされることが多いが、日本書紀の記述では誰の嬪なのか不明瞭。聖徳太子の嬪とする説もある。 ^ 他には、配流先からの逃亡に失敗した直後に急逝した淳仁天皇や毒殺の疑いのある孝明天皇の例が未確定である。なお、安康天皇は眉輪王によって殺害されているが、史実性が低いので除外されることが多い。 ^ 佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:『国学院大学研究紀要』39号、2001年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6) ^ 坂本太郎他校注『日本書紀(四)』岩波書店 2002年 384頁下段 ^ 和田萃「飛鳥の諸宮と大藤原京」 和田萃・安田次郎・幡多鎌一弘・谷山正道・山上豊『奈良県の歴史』山川出版社 2003年 54頁 ^ 飛鳥資料館 - 蘇我氏の墓|崇峻天皇の墓 『古事記』 『日本書紀』 上宮王家滅亡 河堀稲生神社 倉橋部 倉梯岡陵 - 宮内庁", "継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。 『記紀』によれば、15代応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた。ところが25代武烈天皇は後嗣を残さずして崩御。そのため中央の有力豪族の推戴を受けて即位したとされる。 戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、5世王というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯に注目が集まり、元来はヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった。 しかしながら傍系王族の出身という『記紀』の記述を支持する声も多く、それまでの大王家との血縁関係については現在も議論が続いている(後述)。 『記紀』は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とも記している。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振姫の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。 『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明となってしまった。やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王を迎えようとしたものの、疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされる。翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。即位19年後の526年にして初めて大倭(後の大和国)に入り、都を定めた。翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、しかし新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している(詳細は磐井の乱を参照)。 対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するためにたびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『書紀』によれば継体6年(513年)に百済から任那四県の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定し、百済は返礼としてか翌年から梁より招いていた五経博士を遣わしている。 531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。崩年に関しては『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。『古事記』では没年齢は43歳、『日本書紀』では没年齢は82歳。 推定生年:『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年?)。 推定没年:『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる。 『日本書紀』では、注釈として『百済本記』(散逸)の辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったという記述(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して政変で継体以下が殺害された可能性を示唆しており、このことから継体の本来の後継者であった安閑・宣化と、即位後に世子とされた欽明との間に争いが起こったとする説がある。ただし「天皇」とは誰を指すのか不明であり、本来百済のことを書く歴史書の記述にどれほどの信頼を置いてよいかという疑問もある(詳細は継体・欽明朝の内乱を参照)。『上宮聖徳法王帝説』(弘仁年間成立)と『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』(天平19年成立)によると、「欽明天皇7年の戊午年」に百済の聖明王によって仏教が伝えられたと記されているが、『書紀』の年記によればこの年は宣化天皇3年(538年)であり、欽明朝に戊午年は存在しない。しかし仮に継体崩御の翌年に欽明が即位したとするとちょうど7年目が戊午年に当たることとなり、あるいはこの仮説を裏づける傍証となりうる。また、真の継体陵と目される今城塚古墳には三種類の石棺が埋葬されていたと推測されている(後述)。 一方で、この辛亥の年とは531年ではなく60年前の471年とする説もある。『記紀』によれば干支の一回り昔の辛亥の年には20代安康天皇が皇后の連れ子である眉輪王に殺害される事件があり、混乱に乗じた21代雄略天皇が兄や従兄弟を殺して大王位に即いている。「辛亥の年に日本で天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という伝聞情報のみを持っていた『百済本記』の編纂者が誤って531年のことと解釈し、『日本書紀』の編纂者も安康にまつわる話であることに気づかずに(「天皇」は安康、「太子」は後継者と目していた従兄弟の市辺押磐皇子、「皇子」はまま子の眉輪王か)継体に当てはめたとも考えられる。 『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王、母は11代垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』(『日本書紀』の注釈書)に引用された『上宮記』の逸文によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、文体の分析によって推古朝の遺文である可能性が指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの、原帝紀の編纂と同時期(6世紀中葉か)に系譜伝承が成立したものと考えられる。 皇后は21代雄略天皇の孫娘で、24代仁賢天皇の皇女であり、武烈天皇の妹(姉との説もある)の手白香皇女である。継体には大和に入る以前に複数の妃がいたものの、即位後には先帝の妹を皇后として迎えた。これは政略結婚であり、直系の手白香皇女を皇后にする事により、既存の大和の政治勢力との融和を図るとともに一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示しようとしたと考えられる。継体にはすでに多くの子もいたが、手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊(29代欽明天皇)を嫡男とした。欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹を母に持つ宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え、30代敏達天皇をもうけた。以上のように、大王家の傍系という自らの血の薄さを直系である皇后の血統により補填しようとした様子が窺える。その後は、欽明天皇の血筋が現在の皇室に至るまで続いている。 皇后:手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女) 天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと。欽明天皇) 妃:目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女) 勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ。安閑天皇) 檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ。宣化天皇) 妃:稚子媛(わかこひめ。三尾角折君の妹) 大郎皇子(おおいらつこのみこ) 出雲皇女(いずものひめみこ) 妃:広媛(ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女) 神前皇女(かむさきのひめみこ) 茨田皇女(まんたのひめみこ) 馬来田皇女(うまぐたのひめみこ) 妃:麻績娘子(おみのいらつめ、麻組郎女。息長真手王の女) 荳角皇女(ささげのひめみこ) 斎宮 妃:関媛(せきひめ。茨田連小望の女) 茨田大娘皇女(まんたのおおいらつめのひめみこ) 白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ) 小野稚娘皇女(おののわかいらつめのひめみこ、長石姫) 妃:倭媛(やまとひめ。三尾君堅楲の女) 大郎子皇女(おおいらつめのひめみこ、大郎女) 椀子皇子(まろこのみこ、丸高王) 三国公・三国真人の祖 耳皇子(みみのみこ) 赤姫皇女(あかひめのひめみこ) 妃:荑媛(はえひめ。和珥臣河内の女) 稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ) 円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ) 厚皇子(あつのみこ。阿豆王) 妃:広媛(ひろひめ。根王の女) 菟皇子(うさぎのみこ。記になし) 酒人公の祖(能楽の金剛流はこの子孫という) 中皇子(なかつみこ。記になし) 坂田公の祖 既述の通り、『記紀』によれば先代の武烈天皇に後嗣がなかったため越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体天皇が迎えられ即位したとされる。『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来るが(右図参照)、この特異な即位事情を巡っては種々の議論がある。 『記紀』の記述を信用するならば、継体を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。しかし戦後に天皇に関する自由な研究が認められることになり、継体はそれまでの大王家とは血縁関係のない新王朝の始祖であるとする説が提唱されるようになった。代表的な研究者である水野祐によればいわゆる万世一系は否定され、出自不明の26代継体天皇から新たな王朝が始まったことになり、この新王朝は継体の出身地から「越前王朝」と歴史学上呼称される(詳細は王朝交替説を参照。)。一方で、その出自を近江国坂田郡を本拠とする息長氏に求める説もあり、その根拠としては息長氏が応神天皇の孫の意富富杼王を祖とする皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)で、後の天武朝には八色の姓の最高位を賜るなど朝廷から格別な待遇を受けた氏族であり、継体自身も妃の一人を息長氏から迎えていることなどがあげられる。いずれにしても決め手となるような史料はなく、継体の出自に関しては結論は出ていない。 また、即位から大和に宮を定めるまで何故か19年もの時間がかかっていることも不可解で、そのため即位に反抗する勢力を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出た。継体が宮を構えたのはいずれも河川交通の要衝の地で、大伴氏など継体の即位を後押ししたとみられる豪族の土地も多く、それら支援豪族の力を借りながら漸進的に支配地域を広げていったようにも窺える。しかし大伴氏などは大和盆地に勢力を持っており、継体が宮を築くまで大和にまったく政治力を行使できなかったとは考えづらく、もしも反乱による武力闘争があったのであれば、大和遷都の翌年に起こった筑紫君磐井の乱のように『記紀』に記されていないのは不自然である。一方で、継体が育ったとされる越前、生まれた土地とされる近江、宮があったとされる山城・河内、陵墓が設けられた摂津は日本海−琵琶湖−宇治川−淀川−瀬戸内海の水上交通を中心とした交通路によって結び付いており、継体が地方豪族ながら大王位を継げた背景にはこうした交通路を掌握して強大な政治力・経済力を維持していたことにあるとし、本拠地を離れて大和入りする動機が弱いために敢えて大和に入らなかったとする見方もある。水谷千秋は武力闘争までには至らなかったものの継体の即位に反対する勢力は存在したとし、その中心となった氏族を葛城氏と推測している。その根拠としては、葛城氏は武烈までの仁徳天皇の王統と密接な関係があったこと、以降の時代に目立った活動が見られないこと、6世紀後半には拠点であった北葛城地方が大王家の領有となっていることを挙げている。さらに大和入りの後に安閑・宣化が蘇我氏の勢力圏に宮を造営していることから、葛城氏の支流とみられる蘇我氏は宗家と距離を置いて継体の即位を支援し、この時の働きが後の飛鳥朝における興盛のきっかけとなったとしている。また、考古学的な調査からもヤマト王権に従順ではなかったと窺える北部・中部の九州の首長達が中央の混乱に乗じて自立をする気配を見せ、そうした傾向に対する危機感が反目を繰り返していた中央豪族達を結束させ、継体の大和入りを実現させたとしている。大和入りの翌年に勃発した磐井の乱は、継体の下に新たに編成されたヤマト王権の試金石となり、この鎮圧に成功したことによって継体は自らの政権の礎を確固なものとしたと推測している。 近年では、5世紀の大王の地位は特定の血に固定されなかった(即ち王朝ではなかった)とする説もある。継体以前のヤマト王権は各地域国家の連合で、王統は一つに固定されていなかったという意味であり、武光誠は継体以前の大王は複数の有力豪族から選出されたとしている。既述の通り、近年では継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘され、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。すなわち『上宮記』逸文が載っている『釈日本紀』には「上宮記曰一伝」という記述があるが『上宮記』の作者は別史料を引用しており、それにはさらに古い資料に基づいた系譜が載っていたとされていることを根拠とする。 仮に継体新王朝説を採用した場合でも、現皇室は1500年の歴史を持ち、現存する王朝の中では世界最長である。それ以前の系譜は参考ないしは別系とするなどして「実在と系譜が明らかな期間に限っても」という条件下においてもこのように定義・認定されることから、皇室の歴史を讃える際などに、継体天皇の名前が引き合いに出されることが多い。 隅田八幡神社所蔵国宝「人物画像鏡」の銘文に『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」とある(判読・解釈には諸説あり)。 隅田八幡神社は859年の設立であるが、人物画像鏡の出土場所、出土年代は明らかにされておらず、「癸未」については443年説と503年説など論争がある。「癸未」を503年、「男弟王」を(おおと)=男大迹王つまり継体天皇と解釈すると、継体は癸未=武烈天皇5年8月10日(503年9月18日)の時点では、大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ、継体が畿内勢力の抵抗に遭って長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説が崩れる。503年説が正しければ、鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は、当時倭国と同盟関係にあった百済の武寧王(別名斯麻王)となる。 ただし「男弟」の読みは厳密には「ヲオト」であり、継体の「ヲホド」とは微妙に異なる(詳細はハ行転呼音、唇音退化を参照)。このことから、「男弟王」を「大王の弟の王族」と解釈し、妹の忍坂大中姫が允恭天皇に入内した意富富杼王であると考える説もある。その場合「癸未」は443年となり、鏡を作らせた「斯麻」は武寧王ではなく三嶋県主と考える。継体は三嶋の対岸に位置する樟葉宮で即位していることから、曽祖父である意富富杼王とも深い親交があったとしても不自然ではない。 ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった。男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、まず足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした。これが現在の足羽神社である。 次に地形を調査のうえ、大規模な治水を行い九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。このため越前平野は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。続いて港を開き水運を発展させ稲作、養蚕、採石、製紙など様々な産業を発達させた。 天皇即位のため越前を離れることになると、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としてあとを託したという。このような伝承から越前開闢の御祖神とされている。 能の「花筐」に登場する。あらすじ:継体帝が武烈帝の後継者に選ばれ、寵愛の照日(シテ)に手紙と花篭を形見として贈って上京した。照日は君を慕い、侍女とともに狂女の姿となって都へ追う。紅葉見物の行幸の列の前に現われた照日は、帝の従者(ワキ)に篭を打ち落されて狂い、漢の武帝と李夫人の物語を舞う。やがて帝は以前照日に渡した花篭であると気づき、再び召されて都に連れ帰った。後に二人の間の子が安閑天皇となる。 ※『日本書紀』に拠る。 507年2月?、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。 511年10月?、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。 518年3月?、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。 526年9月?、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。 上叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは晩年の5年のみである。 筒城宮伝承地碑(京都府京田辺市) 陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ:三島藍野陵)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「太田茶臼山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。しかし、本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。 一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)は6世紀前半の築造と考えられることから、歴史学界では同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。この古墳は被葬者の生前から造られ始めた寿陵であると考えられている。この古墳は宮内庁による治定の変更が行われていないために立ち入りが認められ、1997年からは発掘調査も行われている。2011年4月1日には高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカで復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。 同古墳ではこれまで家型石棺の破片と見られる石片が三種類確認されている。その内訳は、熊本県宇土市近辺の阿蘇溶結凝灰岩のピンク石、奈良県と大阪府の境に位置する二上山の溶結凝灰岩の白石、兵庫県高砂市の竜山石で、少なくとも三基の石棺が安置されていたことが推測できる。このうち、竜山石は大王家の棺材として多く用いられたものである。これらの石棺は、16世紀末の伏見大地震により破壊されたと見られる。2016年には、過去に付近で石橋に使われていた石材が今城塚古墳の石棺の一部であった可能性が発表された。 推定石棺片 また、皇居の皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに御霊が祀られている。 1847年、飛騨高山の国学者・田中大秀の起案を受けて門弟・橘曙覧、池田武万侶、山口春村、足羽神社神主・馬来田善包らにより継体天皇御世系碑が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。 これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命(御諡 応人天皇) ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子(亦名 意本杼王) ─ 宇斐王 ─ 汙斯王(書記云 彦主人王)─ 袁本杼命(書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇)」と彫り込まれている。 また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が三国を見下ろすように建っており、観光スポットとなっている。 在位年と西暦との対照表 年代は『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えたもの。 能『花筐』 『北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目』 (1988年、中央公論社) 黒岩重吾 『継体天皇、空を飛ぶ』(2007年、小学館)赤石路代 ^ 上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、全羅南道の南東部であるという説が存在する。 ^ 後の欽明朝初期にこの四県割譲が問題となり、責任を問われた金村が失脚している。 ^ この「凡牟都和希王」を「ホムツワケ」と読んで、応神天皇ではなく垂仁天皇の第一皇子である誉津別命(ほむつわけのみこと)とする説もある。しかし系譜上の始祖には天皇を据えるのが普通であり、母系の始祖には垂仁を据えているにも拘らず父系には書かないというのは不可解である。また父母が共に世代の異なる垂仁の子孫ということになるため、やはり不自然といえる。 ^ ただし、『書紀』は「一本に曰く、七年なりと」と注釈を付けている。 ^ 従前葛城氏は5世紀末の雄略朝に滅んだという説が通説であったが、近年ではこの時滅んだのは玉田宿禰系統の葛城氏であり、葦田宿禰系の葛城氏は衰弱しながらもそれなりの勢力を保って存続したと考える説が有力となっている。 ^ 現在は断絶している王朝、および伝説を含めるのであれば、メネリク1世からハイレ・セラシエ1世に至るエチオピアの皇朝が3000年続いたとされる。 ^ 銅鏡は長年東京国立博物館に寄託されているが、所有者は隅田八幡神社である。 ^ 「男弟王」の語は『魏志倭人伝』にも見られ、邪馬台国の女王卑弥呼を佐治した弟を指すために使われている。意富富杼王は忍坂大中姫の兄だが、允恭よりは年下なのでこう記したと考える。 ^ (井上 1973)P451 ^ (直木 2009)P4 ^ 田中 2009, p. 80. ^ (直木 2009)P197-198 ^ (高槻市教委 2008)P153-154 水野正好による論考。 ^ (安本 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4年9月、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。 5年7月、玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。 7年12月、皇后の妹・衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買い、藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる。 8年2月、衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。天皇は遊猟にかこつけて郎姫の許に行幸を続けたが、10年に皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。 24年6月、皇太子の木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚。(古事記に拠れば)木梨軽皇子を廃太子とし、伊予に配流(→衣通姫伝説)。 42年1月、崩御。新羅王はこれを悲しみ、弔使を送る。『古事記』『旧事紀』に78歳、『愚管抄』『神皇正統記』に80歳、北野本『日本書紀』に81歳(一本68歳)とする。 陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府藤井寺市国府1丁目にある惠我長野北陵(恵我長野北陵:えがのながののきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「市ノ山古墳(市野山古墳)」で、墳丘長228メートルの前方後円墳である。 上記とは別に、大阪府藤井寺市津堂にある宮内庁の藤井寺陵墓参考地(ふじいでらりょうぼさんこうち)では、允恭天皇が被葬候補者に想定されている。遺跡名は「津堂城山古墳」。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。 ^ 『古事記』では藤原琴節郎女(ふじわらのことふしのいらつめ)と同一人物とされる。 ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。 日本書紀 惠我長野北陵 - 宮内庁", "孝徳天皇(こうとくてんのう、596年(推古天皇4年) - 654年11月24日(白雉5年10月10日))は、日本の第36代天皇(在位:645年7月12日(孝徳天皇元年6月14日) - 654年11月24日(白雉5年10月10日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。 敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫で桜井皇子の王女、吉備姫王。皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父。姪・間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。他に子女は確認されていない。蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。 『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。また、蘇我入鹿を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(後の藤原鎌足)が軽皇子に接近していたことが知られる(『日本書紀』皇極天皇3年正月乙亥朔条)。 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。 14日の内に、皇極天皇から史上初めての譲位を受け、軽皇子は壇に登って即位した。立太子は経ていない。皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。僧旻と高向玄理を国博士とした。 孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15日とした。『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることが分かっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。 孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使を唐に派遣した。北の蝦夷に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。 孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって崩御した。 近年[いつ?]では、軽皇子が中大兄皇子を教唆して乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説を唱える歴史学者もいる。しかし、軽皇子が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。 皇極天皇4年(645年) 6月12日 - 中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害。 6月13日 - 蘇我蝦夷が自宅に火を放ち自殺する。 孝徳天皇元年(645年) 6月14日 - 皇極天皇の譲位を受け、即位した。中大兄皇子を皇太子とした。 大化元年(645年) 6月19日 - 史上初めて元号を立て、大化元年とした。 7月2日 - 皇后(間人皇女)と2人の妃を立てた。 7月10日 - 高句麗・百済・新羅の使者が朝貢した。任那の調を代行した百済の使者に対し、調の不足を叱責した。 7月14日 - 尾張国と美濃国に神に供える幣を課した。 8月5日 - 東国等の国司を任命し、戸籍の作成と田畑の検校などを命じた。朝廷に鐘を備え、訴訟の遅滞に抗議する者が撞くようにした。良民と奴婢の子の別を定めた。 8月8日 - 仏教の援助を約し、僧旻ら10人の僧を選び十師とした。 9月1日 - 使者を遣わして諸国の武器を治めさせた。 9月3日 - 古人皇子が謀反を企んだ。 9月12日 - 中大兄が古人皇子を討った(11月30日、11月とも)。 9月19日 - 土地の貸借を禁止した。 12月9日 - 都を難波長柄豊碕に遷した。 大化2年(646年) 1月1日 - 改新之詔を宣した。 1月 - 子代離宮に行った。諸国に兵庫を修営らせた。 2月15日 - 民の投書を受けるための櫃を設けた。 2月22日 - 子代離宮から帰った。高句麗・百済・任那・新羅の使が調賦を貢いだ。 3月2日 - 東国の国司に訓戒する詔を発した。 3月19日 - 東国の朝集使に対し、国司の失政を咎め、訓戒する詔を発した。 3月20日 - 中大兄皇子が自らの入部と屯倉を天皇に献じた。 3月22日 - 王臣と庶民の墓制を定め、殉死を禁止した。祓にまつわる諸々の愚俗を禁じた。上京の途上での馬の飼育請負を登録させ、不正を禁じた。市司と要路の渡守に田地を与え、渡し賃の徴収をやめさせた。 8月14日 - 品部を廃止し、旧職を廃して百官を設け、官位を叙する方針を詔した。 9月 - 高向玄理を新羅に遣わし、任那の調をやめさせた。蝦蟇行宮に行った。 大化3年(647年) 1月26日 - 高句麗と新羅の使が調賦を貢いだ。 4月26日 - 皇子・群臣・百姓に対して庸調を与える旨を詔した。 この年 小郡を壊して宮を造った。 有位の人の出仕の礼法を定めた。 荒田井比羅夫が誤って溝を掘って難波に引き、工事がやり直しになったことを諌める者があったので、即日に中止した。 10月11日 - 有馬温湯に行った。 12月30日 - 武庫行宮に行った。 この年 七色十三階の冠を制定した。 新羅が金春秋(後の武烈王)を遣わして高向玄理らを送った。金春秋は人質としてとどまった。 渟足柵を造り、柵戸を置いた。 大化4年(648年) 2月1日 - 三韓に学問僧を遣わした。 4月1日 - 古い冠を廃した。左右大臣はなお古い冠をかぶった。 この年 - 新羅が使を遣わして調を貢じた。 磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んで初めて柵戸を置いた。 大化5年(649年) 2月 冠十九階を制定した。 高向玄理と釈僧旻に命じて、八省百官を置いた。 3月17日 - 阿倍倉梯麻呂が死に、天皇は朱雀門に出て哀哭し、嘆いた。 3月24日 - 蘇我日向が皇太子に蘇我倉山田石川麻呂を讒言した。天皇が軍兵を起こしたため、石川麻呂は逃げた。 3月25日 - 蘇我倉山田石川麻呂が自殺した。 3月26日 - 追討した軍が蘇我倉山田石川麻呂の首を斬った。 4月20日 - 巨勢徳陀古を左大臣に、大伴長徳を右大臣にした。 5月1日 - 三輪色夫と掃部角麻呂を新羅に遣わした。 この年 - 新羅が金多遂を遣わして人質にした。 大化6年(650年) 1月1日 - 味経宮に行って賀正礼を行い、その日のうちに帰った。 2月9日 - 穴戸国司の草壁醜経が白い雉を献じた。 白雉元年(650年) 2月15日 - 白雉を観る儀式を行い、大赦し、白雉と改元し、穴戸国に鷹を放つことを禁じ、同国の調を3年間免除した。 4月 - 新羅が使を遣わして調を貢いだ。 10月 - 宮地にするために墓を壊されたり家を遷されたりした人に物を与え、荒田井比羅夫に宮の堺の標を建てさせた。 この年 山口大口が詔を受けて千仏の像を刻んだ。 安芸国に百済舶2隻を造らせた。 白雉2年(651年) 6月 - 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。 12月30日 - 大郡から新しい宮に遷り、そこを難波長柄豊碕宮と名づけた(大化元年12月9日に同趣旨の記事あり)。 この年 - 新羅の貢調使の知万が唐国の服を着て筑紫に着いたので、その変更を咎めて追い返した。 白雉3年(652年) 1月1日 - 元日礼を終えてから、大郡宮に行った。 ?月 - 班田を完了した。 3月 - 難波宮に帰った。 4月15日 - 僧恵隠を内裏に呼び、『無量寿経』を講じさせ、沙門恵資を論議者とし、沙門1000人を作聴衆にした。 4月20日 - 講じ終えた。 4月 - 戸籍を造った。 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。 9月 - 宮が完成した。 12月30日 - 天下の僧尼を内裏に呼び、設斎、大捨、燃明した。 白雉4年(653年) 5月12日 - 遣唐使を送った。一船の大使は吉士長丹、副使は吉士駒であった。別の一船の大使は高田根麻呂、副使は掃守小麻呂であった。 5月 - 病中の旻法師の部屋に見舞いに行き、直接優しい言葉をかけた(白雉5年7月とも)。 6月 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。 旻法師の死を知り、使を遣わして弔問し、贈り物をした。また、法師のために多くの仏像、菩薩像を造らせ、山田寺に安置した。 7月 - 難破した遣唐使船(高田根麻呂)の生存者5人の内、筏を作って助けを求めた門部金を褒め、その位を進め禄を授けた。 この年 - 皇太子(中大兄)が倭京に遷ることを請うたが、天皇は許さなかった。皇太子は、皇祖母尊(皇極前天皇)と皇后(間人)、皇弟を連れて倭飛鳥河辺行宮に行った。公卿大夫・百官の人らが皆随って遷った。天皇は恨んで皇位を去りたいと思い、宮を山碕に造らせ、歌を皇后に送った。 白雉5年(654年) 1月5日 - 中臣鎌足に紫冠を授け、封を増した。 2月 - 遣唐使を送った。押使は高向玄理、大使に河辺麻呂、副使に薬師恵日(5月とも)。 7月24日 - 西海使の吉士長丹らが、百済と新羅の送使と共に筑紫に着いた。 10月1日 - 天皇の病を聞き、皇太子が皇祖母尊・皇后・皇弟・公卿らを率いて難波宮に赴いた。 10月10日 - 崩御。元号「白雉」が使用されなくなった。 孝徳天皇10年(654年(但し孝徳天皇10年12月8日は、西暦655年1月20日)) 12月8日 - 大坂磯長陵に葬られた。 斉明天皇元年(655年) 1月3日 - 皇祖母尊が、飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)。 皇后:間人皇女‐舒明天皇皇女 妃:阿倍小足媛‐左大臣阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)女 皇子:有間皇子 妃:蘇我乳娘‐右大臣蘇我倉山田石川麻呂女 陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「山田上ノ山古墳」で、直径32メートルの円墳である。 『日本書紀』では天皇は白雉5年(654年)10月の崩御後、同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとする。『延喜式』諸陵寮では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 在位年と西暦との対照表 ^ 軽皇子の宮について、摂津有間(青木和夫「藤原鎌足」『日本古代の政治と人物』吉川弘文館、1977年)・摂津阿倍野(田村圓澄『藤原鎌足』塙書房、1966年)・和泉軽部郷(遠山美都男「〈乙巳の変〉の再構成-大化改新の新研究序説」『古代王権と大化改新 律令制国家成立前史』雄山閣、2005年)・摂津山崎(笹川尚紀「皇極朝の阿倍氏」『日本書紀成立史攷』塙書房、2016年)の諸説がある。 ^ a b c 大阪磯長陵(国史). 『国史大辞典』 吉川弘文館。 関晃 「孝徳天皇」、石田茂輔 「大阪磯長陵」(孝徳天皇項目内)。 大阪磯長陵 - 宮内庁" ]
ABC01-02-0087
日本の中央競馬で、史上初の天皇賞春秋連覇を達成した馬は何でしょう?
タマモクロス
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[ "タマモクロス", "ナリタハヤブサ", "シスタートウショウ", "シャダイカグラ", "ニッポーテイオー" ]
[ "タマモクロス(Tamamo Cross)とは、日本中央競馬会に登録されていた競走馬である。天皇賞(春・秋)、宝塚記念のGI競走などに優勝した。同じ芦毛馬であるオグリキャップとの芦毛頂上対決に多くの競馬ファンが沸いた。引退後は種牡馬となった。 現役時の主戦騎手は南井克巳。半妹にエリザベス女王杯を優勝したミヤマポピーがいる。 父・シービークロスが「白い稲妻」というニックネームで親しまれていたため、「稲妻2世」や「白い稲妻」とも呼ばれた。 ※馬齢は当時の表記(数え年)にて記載 タマモクロスの生産者であった錦野昌章は同馬を高く評価していたが、父シービークロスに対する世間の評価は低く、タマモクロス自身の線の細い外見もあいまって、下された評価額は500万円という安値であった。錦野はその低評価額で売ることを拒んだが、当時経営が逼迫していた同牧場の窮状をさらに強めることとなる。その後、タマモクロスの大成を見ずして、牧場は倒産した。 錦野はその後もあちこちを転々としながらも、タマモクロスを応援していた。しかし決して表に出ることはなかったという。そのためタマモクロス優勝時、表彰台の「生産者」の上には常に誰もいなかった。 3月1日に阪神競馬場での新馬戦で南井克巳騎乗でデビューするも7着といいところがなかった。「ダートのレースのほうがゆったりとした流れが多いからよいのでは」と判断されたため、3戦目のダート戦で初勝利を挙げるも、その次に出走したレースで落馬事故に巻き込まれた。その後は休養をはさみ札幌競馬場でダート戦に出走するも礼文特別の2着が最高で勝てず、中央場所に戻っても2戦連続3着という成績だった。陣営は「やはり芝の方が良いのではないか」と考え、「ここで結果が出なかったら少し考えよう」[要出典]という半ば諦めムードで10月18日の京都競馬場での400万下戦(芝2200メートル)に出走させた。すると、今までの不振が嘘のように7馬身差で勝利した。勝ちタイムは同日、同競馬場の同距離で行われた菊花賞トライアル京都新聞杯のそれより速かった。次に出走した藤森特別(芝2000メートル)では松永幹夫が騎乗したが、2着馬に8馬身差を付け勝利。この2走の勝ちっぷりから、一部マスコミから「菊花賞での関西の秘密兵器」と呼ばれたが、調教師の小原伊佐美は先を考えて「ここで無理をしたら絶対にダメになる」と菊花賞には出走させなかった[要出典]。続く年末のGII鳴尾記念では格上挑戦ながら単勝3番人気に支持され、レースでは前半最後方を進むも直線だけでメイショウエイカンに6馬身差、やや重馬場ながらレコードタイムで勝利し、翌年の中央競馬の主役と目されるようになった。なお、この日は中山競馬が雪のため途中で中止となった。大橋巨泉は東京スポーツ紙上にて発表していたフリーハンデでクラシック馬を上回る評価を与え、4歳馬の1位にランクした。 1988年は、前年の4歳クラシック組が精彩を欠く一方で、同期でクラシック不出走のタマモクロスは株を上げた。小原は天皇賞(春)を見据え、日経新春杯から阪神大賞典というローテーションを描いていたが、馬主サイドの「金杯は縁起のいいレースなので、ここを勝てれば活躍が約束される」という縁起担ぎを理由とした強い要望で、年明け初戦は1月5日、京都競馬場のGIII・金杯(現・京都金杯)になった。この金杯では一時行き場を失くしかけたものの、馬ごみを縫うように内埒から抜け出して際どく勝利。直線だけで15頭をごぼう抜きという内容であった。続くGII阪神大賞典でも最後の直線で内をつき、前がふさがりかけるも逃げ込みを図るダイナカーペンターとの叩き合いで12年ぶりの重賞での同着勝利となった。この2つが、連勝街道時代では最も苦戦したレースであった。そして、父・シービークロスが勝てなかったGI天皇賞(春)では1番人気に支持され、やはり後方から内側をついて抜け出し、ランニングフリーに3馬身差をつけ、初のGI勝利。この勝利は鞍上の南井にとっても初のGI制覇だった。続くGI宝塚記念は、前年の天皇賞(秋)を制したニッポーテイオーとの天皇賞優勝馬対決となった。1番人気はニッポーテイオーに譲ったものの、レースでは珍しく早めにインを前へ前へと進み、直線では外へ持ち出し、逃げ込みを図るニッポーテイオーを差し切り優勝した。 秋シーズンは、「カイ食いが細いタマモクロスなら、調教だけでも仕上がるだろう」という小原の考えによりぶっつけで臨んだ天皇賞(秋)で、地方競馬出身の雄・オグリキャップとの初対決となった。両馬とも当年は無敗であり、また2頭とも芦毛であることから、多くの競馬マスコミが「芦毛頂上決戦」(当時)と扱い大きな話題となった。オグリキャップは毎日王冠1着からの参戦であったのに対し、タマモクロスは東京競馬場ぶっつけ初出走、かつ2000mは距離が短いのではないかという前評判もあって、1番人気はオグリキャップに譲る形となった。レースでは、タマモクロスがこれまでと異なり、マイペースで逃げるレジェンドテイオーの直後につけるという先行策に打って出て場内を驚かせた。タマモクロスは、粘り込みを図るレジェンドテイオーを直線で交わすと、中団からの待機策を採ったオグリキャップの追い込みも1馬身4分の1に押さえこみ優勝、勝ち抜け制度がなくなった天皇賞において、史上初の天皇賞春秋連覇となり、また重賞連勝記録もそのオグリキャップとメジロラモーヌが記録していた「6」に並んだ。その後、日本代表として出走したジャパンカップでは1番人気に推された。後方から早めに上がっていき、直線では先頭に一度立ったものの、競り合いを避けて馬体を離したペイザバトラーを差し返すことができず2着に敗れた。3着はオグリキャップ。引退レースの第33回有馬記念では人気投票、単勝人気とも1番人気だったが、レース前にささやかれた調子の下落のためか、最後方から残り3ハロンのスパートだけに賭けた競馬となり、オグリキャップに半馬身及ばず2着に敗れた。結局、オグリキャップとは天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念で3度対決して2勝1敗。芦毛対決として昭和時代最後の競馬界を盛り上げた。この有馬記念を最後に引退した。同年のJRA賞において、年度代表馬・最優秀5歳以上牡馬・最優秀父内国産馬(部門名は当時)のタイトルを獲得した。 種牡馬として北海道静内町のアロースタッドに繋養された。中央競馬のGI馬こそいないものの、マイソールサウンド、カネツクロス、桜花賞で1番人気に推されたダンツシリウスなどの多数の重賞馬を輩出した。 2003年4月10日、腸捻転のためアロースタッド内で死亡。当時19歳であった。北海道新ひだか町の桜舞馬公園(オーマイホースパーク)に、タマモクロスの墓碑がある。死亡の翌年の2004年10月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「タマモクロスメモリアル」が同年の天皇賞(秋)施行日の東京競馬場にて行われた。 1991年産 カネツクロス(鳴尾記念、アメリカジョッキークラブカップ、エプソムカップ) 1993年産 シロキタクロス(神戸新聞杯) 1994年産 テイエムトッキュー(カブトヤマ記念) タマモイナズマ(ダイヤモンドステークス) マコトライデン(シリウスステークス) 1995年産 ダンツシリウス(シンザン記念、チューリップ賞) 1999年産 マイソールサウンド(阪神大賞典、京都記念、マイラーズカップ、京都金杯、中日新聞杯) 2000年産 ウインジェネラーレ(日経賞) 2003年産 タマモサポート(ラジオNIKKEI賞、京都金杯) 1990年産 ホワイトアリーナ(桜花賞、関東オークス) ブリッジテイオー(建依別賞) 1991年産 ブラッククロス(東北ダービー、不来方賞、ダービーグランプリ) 1995年産 ダンツクロス(九州王冠) 1997年産 コスモクロス(園田金盃、播磨賞) 2001年産 シノブホマレ(六甲盃) ヤマニンアラバスタ:父ゴールデンフェザント(2001年産 新潟記念、府中牝馬ステークス) マルモセーラ:父クロフネ(2008年産 ファンタジーステークス) ヒットザターゲット:父キングカメハメハ(2008年産 新潟大賞典、小倉大賞典、京都大賞典、目黒記念) 漫画『みどりのマキバオー』の主人公ミドリマキバオーのモデルはタマモクロスだと作者のつの丸が発言している[要ページ番号]。また、本作の続編である『たいようのマキバオー』の主人公であるヒノデマキバオーはタマモクロス産駒という設定である。 第8回ジャパンカップで2着に敗れたときに日本競馬のレベルアップが伺える記述として「(1983年の第3回で)キョウエイプロミスが2着に来た時は意外な好走と言うことで(競馬ファンが)大騒ぎしていたが、今年(1988年)はタマモクロスが2着に沈んだ。と言うことで(優勝できずに)口惜しがり、大騒ぎとなった」と書かれていた[要ページ番号]。 現役時から噛み付き癖があり、種牡馬入りしたあともそれは改善されなかった。そのためタマモクロスがいる牧場のパドック柵には「危険、噛み付きます」という注意書きの札が掛けられていた。[要出典] 半妹にミヤマポピー(エリザベス女王杯、父カブラヤオー)がいる。 ^ この影響で怖がりな性格になったという説がある。 ^ 当時、札幌競馬場には芝コースがなかった。 ^ 負けたら障害戦に転向することも考えられていた。 ^ 藤森特別から菊花賞へは連闘での出走が必要であった。 ^ 二冠馬サクラスターオーは第32回有馬記念で故障し、後に死亡。東京優駿(日本ダービー)優勝馬メリーナイスはセントライト記念勝利以降、勝利から遠のいていた。 ^ このJRA重賞連勝記録は1994年にヒシアマゾン、1998年にタイキシャトルも記録し、タイ記録に5頭が並ぶ状況となったが、2000年にテイエムオペラオーが重賞8連勝を記録したことで破られた後、2018年に障害競走重賞を9連勝したオジュウチョウサンによって再度更新されている。 ^ a b 月刊『優駿』2012年11月号 日本中央競馬会 ^ 「'92年に3歳馬がデビューする新種牡馬一覧表」『優駿』1992年7月号、日本中央競馬会、114頁 ^ “タマモクロスが死亡”. 競走馬のふるさと案内所 (2003年4月11日). 2017年10月29日閲覧。 ^ “桜舞馬公園(オーマイホースパーク)”. 競走馬のふるさと案内所. 2017年10月29日閲覧。 ^ “9R タマモクロスメモリアル 1000万下”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “カネツクロス”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “シロキタクロス”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “テイエムトッキュー”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “タマモイナズマ”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “マコトライデン”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “ダンツシリウス”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “マイソールサウンド”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “ウインジェネラーレ”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “タマモサポート”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “ホワイトアリーナ”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “ブリッジテイオー”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “ブラッククロス”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “ダンツクロス”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “コスモクロス”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “シノブホマレ”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “ヤマニンアラバスタ”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “マルモセーラ”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ “ヒットザターゲット”. JBISサーチ. 2017年10月29日閲覧。 ^ 『みどりのマキバオー大本命ブック』集英社(1997年9月) ^ 月刊『優駿』1989年1月号 日本中央競馬会 阿部珠樹「タマモクロスVSオグリキャップ 時代を分けた2頭の芦毛 1988(昭和63)年秋」『優駿 1995年12月号 サラブレッド・ヒーロー列伝<レース編>12』日本中央競馬会、1995年 競走馬成績と情報 netkeiba、Yahoo!スポーツ競馬、JBISサーチ、Racing Post タマモクロス - 競走馬のふるさと案内所", "ナリタハヤブサは、日本の競走馬、種牡馬。1990年代初期のダート戦線で活躍し、1991年のJRA賞最優秀ダートホースを受賞した。 ※馬齢は旧表記で統一する。 1989年9月にデビュー。しばらくは芝のレースに出走していたがなかなか勝ちきれず、皐月賞にも出走したものの12着と大敗している。 転機となったのは1990年12月のウインターステークス。初のダートレースへの出走だったが、カリブソングやオサイチブレベストといった当時のダートの強豪馬を相手にレコードで優勝。さらに年が明けた1991年1月のフェブラリーハンデキャップでもレコード勝ちを収め、ダートの強豪として認識されるようになる。年末のウインターステークスでは再びレコードで連覇、この年のJRA賞最優秀ダートホースを受賞した。 1992年には帝王賞でラシアンゴールドとの同着優勝となり、続く武蔵野ステークスで4回目のレコード勝ち。この時記録したダート1600mを60.5キロというトップハンデで1分34秒5というタイムは当時としては驚異的なものであり、2001年にクロフネに塗り替えられるまで日本レコードだった。 その後中央競馬では勝利を収めることはできず、現役晩年には新潟へと移籍した。 引退後は種牡馬となり門別町の三浦牧場で繋養されていたが、産駒のうち目立つのは中央で3勝を挙げたファルコンシチー、アンプルカット、地方ではアイアンハヤブサ程度で、活躍馬を出すことができなかった。2003年2月27日に左前脚を骨折、安楽死となった。なお母の父としては七夕賞勝ちのドモナラズを出している。 3歳時には芝の重賞競走であるペガサスステークス、スプリングステークスで2着、その他にも重賞でたびたび入着しており、もともとは芝路線での大成を期待されていた馬だった。しかし蹄が非常に脆かったために、芝に比べて負担のかからないダート路線へと転向せざるを得なかったという事情がある。本馬の装蹄はディープインパクトやエアグルーヴの装蹄も務めた西内荘が担当しており、西内は後に「今の自分の技術で装蹄することができたら、メジロマックイーンのライバルになれたかも知れない」との評価を送っている。 ナグルスキー産駒にはダート巧者が多く、本馬以外にもホクトベガなどの活躍馬がいる。祖母「健宝」は1962年の桜花賞優勝馬ケンホウであり、その従姉に史上屈指の名繁殖牝馬として知られるシラオキがいる。母系は1907年に小岩井農場が輸入した20頭の繁殖牝馬のうちの1頭、フロリースカップに遡る。 ^ 母は産駒の中でただ一頭繁殖入りしたアンプルカットである ^ a b 城崎哲『カリスマ装蹄師西内荘の競馬技術 - 空飛ぶ蹄鉄をいかにデザインするか』白夜書房 p.84 競走馬成績と情報 netkeiba、Yahoo!スポーツ競馬KEIBA.GO.JPJBISサーチ ナリタハヤブサ - 競走馬のふるさと案内所", "シスタートウショウは日本の競走馬、繁殖牝馬。1991年の桜花賞に優勝、同年のJRA賞最優秀4歳牝馬を受賞した。主戦騎手は角田晃一。同郷・同馬主である父トウショウボーイの種牡馬生活後期の傑作と言われる。また美しい馬体と愛らしい表情でも人気を博し、雑誌『優駿』は「最強・最美のトウショウボーイ牝馬」と評した。全弟に1998年の北九州記念優勝馬トウショウオリオンがいる。 ※馬齢は2000年以前に使用された旧表記 (数え年) で統一する。 父は競走馬時代に「天馬」と称され、種牡馬としても成功を収めていたトウショウボーイ。母コーニストウショウは未勝利馬だが、日本在来の名門牝系であるシラオキ系の出身馬である。良血の組み合わせであったが、トウショウ牧場生産のトウショウボーイ産駒は成績が芳しくなく、またシラオキ系牝馬もトウショウ牧場では成績が良くなかった。コーニストウショウも一時は整理の対象となっていたが、馬体が良かったために特別に牧場に残された。こうした状況下で1988年に誕生したシスタートウショウは、前後駆ともに発達した好馬体を持ち、「両親の良いところだけを受け継いだ馬」と大きな期待を受けた。 1990年12月、京都競馬場の新馬戦でデビュー。当時2年目の若手騎手であった角田晃一を鞍上に、初戦勝利を挙げる。年明けの条件戦福寿草特別ではスタートで出遅れながら2馬身差で勝利、桜花賞への前哨戦として出走したチューリップ賞(当時オープン特別競走)では先行策から抜け出し、重賞2勝のスカーレットブーケに2馬身半差を付けての勝利を挙げ、3戦3勝で桜花賞に臨んだ。 当年の桜花賞は、戦前から稀に見るハイレベルと評されており、中でも5戦5勝・うち重賞2勝のイソノルーブルを筆頭に、牡馬混合重賞2勝のノーザンドライバー、それぞれ重賞2勝のスカーレットブーケとミルフォードスルー、これにシスタートウショウを加えた「5強」の対決と言われた。当日の本馬は4番人気、1番人気にはイソノルーブルが支持されたが、競走前に同馬の左前脚に落鉄が発生、再装着に手間取り、結局裸足のまま発走というアクシデントが起こる。スタートが切られると先行勢が競り合いながら進み、1000m通過57秒5というハイペースとなる。この中でシスタートウショウは中団で落ち着いたレース運びを見せると、直線で早めに抜け出して後続を寄せ付けず勝利。重賞初制覇をクラシック桜花賞で果たした。稍重馬場での競走ながら、優勝タイム1分33秒8は、従来の記録を一挙に1秒短縮するレースレコード。鞍上の角田晃一にとっても初のGI競走勝利であり、またトウショウ牧場にとっては父トウショウボーイ以来、15年振りのクラシック勝利となった。 続く優駿牝馬(オークス)では1番人気に支持されたが、スタートで出遅れて最後方からのレースとなった。道中も前に行きたがる素振りを見せたが、角田は後方待機のまま折り合いに専念。最後の直線に入ると後方大外から追い込んで13頭を交わし、ゴール前では逃げ粘りを図るイソノルーブルと馬体を接したが、ハナ差捉えきれず2着となった。 競走後はトウショウ牧場で休養に入ったが、復帰調整中に屈腱炎を発症し、休養は1年半に及んだ。1992年12月にオープン特別競走で復帰するも、8着に終わる。以降は翌1993年の中山記念で2着、続く安田記念で4着と好走を見せるも、勝利には至らなかった。その後、同年秋の目標とした天皇賞への調整中に脚部不安を生じ、競走生活から退いた。 引退後は繁殖牝馬として期待を集めたが、重賞勝ち馬は出せなかった。また、子育てに熱心なタイプではなかった。メジロマックイーンとの間に産まれた初仔のシンディトウショウは、血統面から多大な期待を掛けられながらも、鶴留厩舎に入厩後に黒色腫(メラノーマ)に侵されていることが判明。デビュー前に死亡した。2003年、2005年、2006年に産んだ仔もそれぞれ生後間もなく死亡するなど、順調な繁殖生活ではなかった。唯一、2002年に産んだトウショウパワーズが5勝を挙げ、オープン馬となっている。2007年以降は種付けを行っておらず、トウショウ牧場で功労馬として繋養されていた。 2015年3月3日、老衰により死亡。 全姉エナジートウショウの仔には2007年の日本ダービーを64年ぶりに牝馬で優勝したウオッカの母タニノシスター、京王杯スプリングカップ2着馬スカイアンドリュウ、ガーネットステークスの勝ち馬スリーアベニューがおり、半妹ジェーントウショウの仔にはCBC賞2勝など短距離重賞5勝を挙げたシーイズトウショウ、母の姉グレイトウショウの孫には菊花賞馬マチカネフクキタルがいる。 ^ 例年この時期は阪神開催であったが、当年は阪神競馬場が改修のため京都で代替開催。翌年の桜花賞も京都で開催、チューリップ賞は中京競馬場で開催されている。 ^ 例年は阪神開催であるが、本競走は京都開催。以後、2004年にダンスインザムードに破られるまで13年間保持された。 ^ 『優駿』1993年12月号(日本中央競馬会、1993年) p.58 ^ a b 『優駿』1991年8月号(日本中央競馬会、1991年)p.23 ^ 市丸博司『サラブレッド怪物伝説・平成版』(廣済堂出版、1997年)p.187 ^ a b 『優駿』1999年4月号、日本中央競馬会、30頁 ^ “桜花賞馬シスタートウショウ死す 27歳老衰”. スポーツ報知. 2015年3月4日閲覧。 イソノルーブル落鉄事件 競走馬成績と情報 netkeiba、Yahoo!スポーツ競馬JBISサーチ シスタートウショウ - 競走馬のふるさと案内所", "シャダイカグラは、日本の競走馬、繁殖牝馬。おもな勝ち鞍は1989年の桜花賞、ローズステークス、ペガサスステークス。同年のJRA賞最優秀4歳牝馬を受賞。主戦騎手は武豊。武に初の牝馬クラシック優勝をもたらし、「ユタカの恋人」とも呼ばれた。 1986年、北海道門別町の野島牧場で生まれる。父は後にリーディングサイアーを獲得するリアルシャダイ。母ミリーバードは中央競馬で3勝を挙げている。両馬は調教師の伊藤雄二の考案で交配が行われた。幼駒の頃からしっかりとした身体を備え、また人間に対しては利口な性格ながら、仲間の馬に対しては強い闘争心を見せ、早くより将来を嘱望された。 その後、伊藤と親交のあった米田茂に800万円で購買され、競走年齢に達した1988年5月、「シャダイカグラ」と命名されて伊藤雄二厩舎に入った。馬名「シャダイ」は父名の一部、「カグラ」は1969年の桜花賞にも出走した米田の初所有馬・ミスカグラにあやかったものである。 6月13日、札幌競馬場の新馬戦で、柴田政人を鞍上に初出走を迎える。初戦は太め残りの馬体もあって2着に終わったが、20kg減で臨んだ 2戦目で初勝利を挙げる。その後骨膜炎(ソエ)を発症して休養、復帰緒戦の条件戦から、デビュー3年目の武豊を鞍上に迎えた。この競走で2勝目を挙げると、続く京都3歳ステークスでは、この次走で関西の3歳王者となるラッキーゲランに4馬身差を付けて勝利した。次走のラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークスで重賞に初出走、当日は1番人気の支持を受けたが、逃げたタニノターゲットをクビ差捉えきれず、2着と敗れた。 翌4歳シーズンはエルフィンステークスから始動、2着ライトカラーに5馬身差を付けて圧勝する。続くペガサスステークスも連勝し、重賞を初制覇。本命馬として牝馬クラシック初戦・桜花賞に臨んだ。 4歳以降は出走2戦でいずれも単枠指定を受け、桜花賞でも同様の措置が取られた。しかし競走2日前の発走枠順抽選において陣営は大外枠の8枠を引き、単枠指定馬の規定により、シャダイカグラは自動的に出走大外となる18番に振り分けられた。桜花賞が行われる阪神競馬場の芝1600mは、そのコース形態から外枠は圧倒的不利とされており、特に大外は「最内と比べて0.5秒は不利」と言われていた。それでも桜花賞当日は単勝2.2倍の1番人気に支持されたが、発走前から激しい焦れ込みを見せる。迎えたレースでは、スタートで出遅れ、最後方からの運びとなった。しかし武は後方のままシャダイカグラを最内まで移動させると、道中で埒沿いの最短距離を通りながら先団に進出、最終コーナーでは先頭から5、6馬身の位置に付けた。最後の直線では抜け出したホクトビーナスを急追、ゴール直前で同馬をアタマ差交わし、大外、出遅れの不利を克服しての優勝を果たした。武の冷静沈着な騎乗は高い評価を受け、「武は大外の不利を帳消しにするため、わざと出遅れた」との風評も広まった(#桜花賞の出遅れについて)。 次走はクラシック二冠を目指し優駿牝馬(オークス)に出走。直線で一旦抜け出したものの、シャダイカグラを終始マークしたライトカラーとの競り合いに敗れ、2着に終わった。 夏は休養に充て、秋はローズステークスで復帰。これに勝利すると、次走・エリザベス女王杯をもっての引退・繁殖入りが発表される。以後女王杯に向けての調教が積まれていたが、この頃より両前脚にバンテージが巻かれていたことから、脚部に不安を抱え始め、強い調教ができない状態となっていた。しかし陣営は女王杯出走を強行、不安説も流れたが、当日は1番人気に支持された。しかしレース中の第3コーナーでバランスを崩すと、そのまま馬群から置かれていき、ゴール前では右前脚を引きずりながら大差の最下位で入線。競走後に右前脚の繋靱帯断裂が判明し、伊藤は「大丈夫と思って使ったが、こんな結果になってしまいファンに申し訳ない」と謝罪した。 怪我は重傷であったが予後不良による安楽死は免れ、当初の予定通りそのまま引退。故郷・野島牧場で繁殖入りした。 繁殖牝馬としては、第2仔にエイブルカグラ(父ジェイドロバリー)を送り出した。同馬はデビュー戦でレコードタイムを記録し、3歳時から「クラシック最有力候補」と注目を集めたが、故障のため1戦のみで引退した。以後は仔出しが芳しくなく、全部で6頭の産駒を出産するに留まった。2002年より平取町のびらとり牧場に移動した後、2005年4月4日に同場において動脈瘤破裂を発症し死亡した。 前述の通り、桜花賞で大外枠・出遅れを克服して優勝した際、「武は意図的に出遅れた」との憶測が流れた。これについて武はしばらく明確な言及を避けていたため、騎乗の「伝説化」に拍車が掛かった。しかし後に江夏豊との対談において、「意図的じゃなく、本当の出遅れ。でも、言えなくなっちゃって」と述べ、「もしポンとスタートを切ってから下げたなら、もっと楽に勝っていたと思う」と語った。 競走当日、シャダイカグラが激しく焦れ込む様子を見て、武は「良いスタートは切れないだろう」と予想を立てており、ゲート入りした時点で無理に先行させることを諦め、後方待機策を決めていた。こうした事前の覚悟が、出遅れからの冷静な騎乗に繋がったものであった。 半妹タイセイカグラ(父モーニングフローリック)の産駒にオースミブライト(神戸新聞杯、京成杯)、オースミコスモ(関屋記念、中山牝馬ステークス、福島牝馬ステークス)、タイセイカグラの曾孫にストレイトガール(ヴィクトリアマイル、スプリンターズステークス)がいる。 祖母ラバテラの産駒にカシマウイング(GII3勝)がいる。 ^ 当時の社台グループ総帥吉田善哉が所有馬に「シャダイ」という冠名を使用(父のリアルシャダイはこれに含まれる)し、また米田が使用する勝負服が吉田のものと似ていたため、シャダイカグラは社台グループ関係馬と誤解する者もいた。 ^ 武は最終調教後、「9割方勝てると思う」と語っていたが、「大外枠を引いたりしなければ」という但し付きであった。(島田 1997、p.45) ^ a b 『優駿』1993年7月号 p.64 ^ a b 『優駿』1993年7月号 p.65 ^ 『優駿』1993年7月号 p.66 ^ a b 『優駿』1993年7月号 p.68 ^ 『武豊対談集』 p.116 ^ 島田 (1997) pp.47-49 島田明宏『「武豊」の瞬間 - 希代の天才騎手10年の歩み』(集英社、1997年) 武豊、島田明宏『頂上を駆ける - 武豊対談集』(ザ・マサダ、2000年) 横尾一彦「桜下に舞う - シャダイカグラ」(『優駿』1993年7月号〈日本中央競馬会、1993年〉所収) 競走馬成績と情報 netkeiba、Yahoo!スポーツ競馬JBISサーチ シャダイカグラ - 競走馬のふるさと案内所", "ニッポーテイオーは日本の競走馬。ニホンピロウイナーに続く、昭和末期の名マイラーである。1986年に優駿賞最優秀スプリンター、1987年にJRA賞最優秀スプリンターおよびJRA賞最優秀5歳以上牡馬を受賞。半妹にエリザベス女王杯を勝ったタレンティドガールがいる。 ※馬齢は旧表記で統一する。 新馬戦でいきなり大差勝ちしたが、気性の荒さが災いしてかなかなか2勝目を挙げられなかった。皐月賞に出走するも21頭立て12番人気で8着に敗れ、次走のNHK杯でも8着に敗れると、陣営は東京優駿(日本ダービー)を諦め、マイル〜中距離路線へと方針を変える。ニュージーランドトロフィ4歳ステークスを勝利すると、ラジオたんぱ賞では皐月賞優勝馬ダイナコスモスの2着、函館記念でレコード勝ち、毎日王冠ではサクラユタカオーの2着、スワンステークスでは1番人気に応え勝利し、マイルチャンピオンシップに臨んだ。しかし、1番人気に支持されたものの、タカラスチールの2着に敗れた。 5歳となり、京王杯スプリングカップを勝って臨んだ安田記念では、圧倒的人気を得るもフレッシュボイスの2着に敗れた。その後は宝塚記念で2着、毎日王冠も3着と敗れるが、天皇賞(秋)では、5馬身差で勝利すると、続くマイルチャンピオンシップも5馬身差で勝利した。 6歳も前年と同様に京王杯スプリングカップから始動するが、前年の2着馬ダイナアクトレスにアタマ差敗れた。しかし、次走の安田記念では1馬身差で勝利した。そして宝塚記念では、タマモクロスと対決することとなり、マイラーのニッポーテイオーと長距離が得意なタマモクロスではこの距離ならどちらが強いのかと競馬ファンの興味をひいた。単勝はニッポーテイオーが1番人気だったが、結果は2馬身半差の2着に敗れ、このレースを最後に引退。1988年10月9日、東京競馬場で引退式が行われた。 引退後はレックススタッドで種牡馬入り。初年度産駒からクラシック戦線で活躍し、重賞を2勝したインターマイウェイを送り出すも、その後は散発的に重賞勝ち馬や入着馬を数頭出すにとどまった。また、連戦連敗ながらアイドルホースとなったハルウララの父でもある。2000年の種付けシーズン後に種牡馬を引退し、北海道浦河町のうらかわ優駿ビレッジAERUで余生を送っていた。 2016年8月16日、けい養先のうらかわ優駿ビレッジAERUにて老衰のため死没。 インターマイウェイ(大阪杯 (G2) 、函館記念 (G3) ) ダイタクテイオー(毎日杯 (G3) ) ヤスノテイオー(秋陽ジャンプS、イルミネーションジャンプステークス、阪神スプリングジャンプ (G2) 3着) カズノシラオキ(セントウルステークス (G3) 3着) プラントテイオー(中津・荒尾交流サラブレッドグランプリ) ハルウララ(113連敗) 母の父として、スプリングゲント(中山グランドジャンプ (G1) 、東京ハイジャンプ (G2) 、京都ハイジャンプ (G2) 、京都ジャンプステークス (G3) )や、トップコーリング(牛若丸ジャンプS)など障害競走で活躍する馬を何頭も輩出している。 ※祖母の妹はエリザベス女王杯勝ちのビクトリアクラウン。 競走馬成績と情報 netkeiba、Yahoo!スポーツ競馬JBISサーチ ニッポーテイオー - 競走馬のふるさと案内所 ニッポーテイオー - 引退名馬(名馬.jp)" ]
ABC01-02-0088
「当て布」という意味がある、既に出来上がっているプログラムに修正を加えることを何というでしょう?
パッチ
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[ "パッチ", "翻訳メモリ", "クローズドソース", "ウェブスタンダードプロジェクト", "CRUD" ]
[ "パッチ(英: Patch)とは、コンピュータにおいてプログラムの一部分を更新してバグ修正や機能変更を行うためのデータのこと。「修正プログラム」や「アップデート(プログラム)」などとも呼ばれる。実際に変更を施す際は「パッチを当てる」、「パッチを適用する」と言う。同名のUNIXコマンドpatchのことも指す。 コンピュータネットワークがまだ低速だった時代、プログラムの一部を変更するために全体を再度ダウンロードすることは非常に効率が悪かった。そこで、部分的な変更を施すために必要な部分のみを差分データとして抽出し配布するパッチ形式が慣習となった。プログラム全体をダウンロードすれば何時間も要するが、必要部分だけであれば数分程度でダウンロードを完了することができる。これは前述のとおりネットワークがまだまだ低速であったことのほか、常時接続環境がまだ普及しておらず、ダウンロード時間が長時間に及ぶことで回線使用料がかさむのを避けるという面においても有用であった。なお、差分の抽出やそれを使用してのプログラム更新には専用のソフトウェアを必要とする。また、手動で更新を行う際には元のプログラムのバージョンを確認し、専用のパッチを適用しなければ不具合を生じる場合がある。 今日においては、ネットワークのブロードバンド化や常時接続環境の普及に伴い、数十メガバイト単位のコンパイル済みアプリケーションであっても更新時にはその都度全体を再度ダウンロードする形態が多く見られる。しかし、商用ソフトやOSのバグ修正、オープンソースのソフトウェアで変更点をポストする際には依然としてパッチが利用される。また、主に UNIX コミュニティで、個々の環境に合わせてソースコードを調整するような場合もパッチ形式が一般的である。これは、常時接続環境が普及した現在においても、サーバの転送量を軽減し、全体としてのダウンロード時間を軽減する目的には変わりない。 バイナリファイルのパッチは、オンラインゲームのバージョンアップ、オンラインソフトウェアの日本語化などで広く使われている。 バイナリファイルのパッチには、テキストファイルとは別のアルゴリズムで作ることにより、より効率化する。bsdiff の作者によると、bsdiff の作成するパッチは xdelta よりも 50 % - 80 % 小さく、RTPatch よりも 15 % 小さい。 バイナリパッチ用のソフトウェア bsdiff, bspatch RTPatch Xdelta 初期のコンピュータでプログラムが紙テープに記録されていた時代にプログラムを修正する時に穴をパッチ(あて布)で塞いでいたことに由来する。 右の写真はハーバード大学自然史博物館に展示されている1940年代に使われていたHarvard Mark I用の紙テープで、写真上部の水色で260と書かれた数字の上下の穴を灰色のパッチで塞いだ上で別の穴を開けている様子が分かる。 ソフトウェア保守 モンキーパッチ ^ GIGAZINE (2017年1月16日). “ソフトウェアの修正プログラムのことをなぜ「パッチ(当て布)」と呼ぶのか?”. BBC. http://gigazine.net/news/20170116-why-patch/ 2017年1月17日閲覧。", "翻訳メモリ(ほんやくメモリ、英語: translation memory)は、原文と翻訳文を一対としてデータベース化し、その内容を自動的に繰り返し利用することで翻訳を支援する翻訳支援ツールである。 翻訳メモリは、翻訳を仕事とする人の業務の効率化と質の向上を支援するためのソフトウェアである。「翻訳メモリ」は厳密には原文と訳文のデータベースを指し、それを利用するソフトウェアは「翻訳メモリ ツール」と呼ばれる。「翻訳メモリ ツール」のことを「翻訳メモリ」と呼ぶことも多い。 従来型の翻訳メモリには、通常翻訳ソフトのような構文解析機能はない。したがって、翻訳メモリ ツールを使用することによって、原文が自動的に翻訳されることはない。翻訳自体はあくまでも翻訳者が行う。ただし、近年では翻訳メモリ ツールと翻訳ソフトを統合することにより、さらに効率の良い翻訳支援環境が実用化されている。 翻訳メモリの主な機能は 翻訳者によって書き起こされた翻訳を、その原文とともに、専用のデータベースに登録すること 過去にデータベースに登録された翻訳を、同じまたは類似の原文が出てきたときに自動的に引用すること である。 これらの機能によって、 同じ文章を繰り返し翻訳する 文章を手作業で複製し貼り付ける などのこれまで翻訳者に任されていた単純作業を自動化し、さらに 同じ文章や類似した文章の翻訳における表現の統一 も自動化されるため、文書全体としての翻訳品質の向上も期待できる。 翻訳メモリには、次のような追加機能を持っているものが多い。 用語辞書作成・引用 原文のレイアウト維持または再現 仕事としての翻訳を支援する機能 翻訳分量の算出 スペルチェック 複数の翻訳者が1つの文書を分担する場合の共同作業の支援 翻訳メモリは、翻訳ソフトへの幻滅から生まれたといわれている。しかし、現在では以前よりも翻訳ソフトやそれが動作するハードの性能が向上し、また翻訳ソフトの利点が見直されている。翻訳メモリでは、本来パソコンにできるような単純作業まで、人間がしなくてはならない手間があるからである。 翻訳ソフトに翻訳メモリ機能が含まれていることや、逆に翻訳ソフト機能を持つ翻訳メモリもあるが、どちらの機能もそれぞれ単体の製品には及ばない。 アップル製のmacOS用翻訳メモリ。無料で配布されている。 特定のソフトと連動するのではなく、独立したソフトとして機能する。Microsoft Word・Excel・PowerPointなどのMicrosoft Officeアプリケーション、RTF、MIF、HTML、XML、SGML、Javaのプロパティファイルなどに対応している。TMX規格に準拠した翻訳メモリも使用することができる。 Microsoft Word・Excel・PowerPointのアドインとして機能する。原稿ファイルを直接上書きして翻訳を行う。HTMLファイルはTagAssistという独立したWYSWYGエディタを使用して作業する。 Web上で扱える翻訳メモリであり、Googleのサービスと連動する。翻訳メモリと機械翻訳を組み合わせて翻訳を行なう。翻訳メモリはGoogleの本社に格納されるグローバル共有TMと、機密事項を扱う際のプライベートTMに切り替えて使うことができる。翻訳検索結果を5段階に分けて評価することにより、精度を高められる仕組みになっている。 ウェブページ、ウィキペディアの記事、Knolの記事を直接取り込むことが可能。ローカルファイルではAdWords Editorアーカイブ (.aea)、HTML (.html)、 Microsoft Word(.doc)、OpenDocument テキスト (.odt)、 テキスト形式(.txt)、RTF (.rtf)、 SubRip (.srt)、SubViewer (.sub) を翻訳可能。TMX規格の翻訳メモリが使用可能になっている。 ウェブブラウザ上で機能する。他の翻訳メモリツールで作成されるTMX規格に準拠した翻訳メモリもインポートし使用することができる。Microsoft Word・Excel・PowerPointファイルなどに対応している。 クラウドSaaSベースでの翻訳メモリの共有が可能。エディタは直感的なインターフェイスにより習得に時間がかからない。翻訳メモリはTMXまたはMicrosoft Excelの形でインポート・エクスポート可能。他の翻訳メモリツールで作成されるTMX規格に準拠した翻訳メモリもインポートし使用することができる。各種フォーマットに対応。 特定のソフトと連動するのではなく、独立したソフトとして機能する。直感的なインターフェイスにより数時間でツールを使いこなすことが可能。翻訳メモリはTMXで保存され、エクスポートも可能。他の翻訳メモリツールで作成されるTMX規格に準拠した翻訳メモリもインポートし使用することができる。Microsoft Word、Excel、PowerPoint、HTML、CSV、TXT、RTF、TradosTag(TTX; モノリンガル; 全ての文字セット)、XML (.xml) 、Adobe Framemaker (.MIF) 、Adobe InDesign (.INX) ファイルなどに対応している。 Windows用、有料。 独立したソフトとして機能する。OmegaTは自由に使えるソフトである (GPL)。プラットフォーム非依存性の高いJavaで実装。Windows、macOSやLinux向けには起動用アプリケーションが存在し、各プラットフォームへの統合を前提とした成果物が個別に配布されているにもかかわらず、Javaさえあれば使えるパッケージも配布されている。 Microsoft Office 2007以降の.docxや.xlsxなどのExtensible Markup Language|XML形式なら直接対応している。それ以前のバージョン (.doc、.xls、.ppt) をOffice 2007形式やODF形式に変換してから対応している。HTML、DocBook XML、Javaのプロパティファイルなどにも対応している。TMX規格に準拠した翻訳メモリも使用することができる。 OmegaTの機能を継承するかたちで開発されるフリーソフトウェアであるがOmegaTの翻訳プロジェクトと互換性のないようにできている。作業の進捗状況や、稼働状況を知らせる表示領域が設けられるなど、OmegaTにはないいくつかのユーザインタフェースレベルの機能が追加されているが、OmegaT 1.4.4以降のソースコードを基本的には再利用しない方針で、根本な機能の開発と公開はOmegaTよりは遅れている。 特定のソフトと連動するのではなく、独立したソフトとして機能する。SDLはTradosを買収した。 専用エディタを使用して作業する。元データがRTFおよびDocのファイル形式の場合は、Microsoft Wordと連携して作業することが多い。 特定のソフトと連動するのではなく、独立したソフトとして機能する。元データのファイル形式に関係なく、すべてのファイルは専用のテキストファイルに変換される。 ライオンブリッジが2010年4月にGeoworkz.com上にてSaaSとしてリリース。従来のデスクトップベースでの翻訳メモリの利用ではなく、サーバーベースでの翻訳メモリの共有を可能にした。 オンプレミスまたはクラウドSaaSベースでの翻訳メモリの共有が可能。 特定のソフトと連動するのではなく、独立したソフトとして機能する。翻訳メモリはタブ区切りテキスト形式(拡張子TSV)で保存されるので、通常のテキストエディタや表計算ソフトで編集が可能。Windows用、有料。 詳細は「Wordfast」を参照 独立したソフトとしてではなく、Microsoft Wordのマクロとして機能する。操作はWord上で行う。操作方法や文節の切り方はTRADOSに類似している。翻訳メモリはテキスト形式で保存されるので、通常のテキストエディタ(Unicode対応)で編集が可能。TRADOS、DéjàVu、Star Transit、SDLXなどで作成されるTMX規格に準拠した翻訳メモリも使用することができる。 情報通信研究機構言語翻訳グループと東京大学図書館情報学研究室による共同プロジェクト。翻訳支援エディタ「QRedit」は登録すればフル機能が使用可能になる。三省堂グランドコンサイス英和辞典の参照、共同翻訳機能、掲示板、用語登録が使用可能。 IBMのTM/2に由来するオープンソースでエンタープライズレベルの翻訳環境を提供する。Windows XPがサポートOSだがVistaや7でも動作する。HTML、OpenOffice、XHTML、XLIFF、XML、Javaのプロパティファイルなどにも対応している。 TMX規格に準拠した翻訳メモリも使用することができる。翻訳メモリの共有機能については1.0 Releaseを目指し調整中。 オープンソースの翻訳管理システム。ワークフロー管理、翻訳メモリの集中管理が可能。Microsoft Word、RTF、Microsoft PowerPoint、Microsoft Excel、XML、HTML、Javascript、PHP、ASP、JSP、Java Properties、FrameMaker、InDesign、RESX、Portable Object、Passolo 2011などにも対応している。 アプリケーションサーバのオペレーティングシステム (OS) としてWindows Server 2003、64-bit Windows Server 2008、Ubuntu Linux Serverをサポートする。JBoss、Javaも必要。データベースサーバはアプリケーションサーバと兼ねる事も可能だが、別の専用サーバを用意する事が奨励されている。データベースとしてMySQLをサポートする。 前出のOmegaTと連携可能で、オフラインエディタとしては公式にOmegaTが推奨されている。 クラウド型 (SaaS) で提供されており、直感的なインタフェースによりすぐに使えることが特徴。特定のソフトウェア連動するのではなく、独立したソフトウェアとして機能する。各種オフィスファイルに対応。個人が無料で利用できるパーソナルプランと複数人でメモリを共有できる法人向けのカンパニープラン(有料)がある。 ^ Google翻訳者ツールキットを使ってみる「すべてのユーザーと共有しないように」 Google ^ みんなの翻訳 - 初めての方へ ^ 翻訳支援エディタ「QRedit」体験版 ^ 「みんなの翻訳」マニュアル (PDF) ^ opentm2 ^ Frequently Asked Questions ^ Committee Meeting Minutes ^ GlobalSight - テクノロジ - Welocalize 翻訳 ^ About GlobalSight ^ System requirements ^ About GlobalSight ^ ヤラクゼン - プランと価格 Déjà Vuのサイト Felixのサイト ライオンブリッジ社のTranslationWorkspaceのサイト OmegaTのサイト OmegaT+のサイト SDLXのサイト TRADOS社のサイト Isometryのサイト Memsourceのサイト MemoQのサイト Transitの日本サイト TraToolのサイト Wordfastのサイト OpenTM2 opentm2 SourceForge.JP The OpenTM2 Wiki GlobalSight GlobalSight SourceForge.JP ヤラクゼンのサイト", "クローズドソース(closed source)は、オープンソースの定義を満たさないライセンスに対して使用される語句である。一般に、プログラムのバイナリのみが配布され、ソースコードへのアクセスが許可されていないことを意味する。このため、実用的な目的でソフトウェアに変更を加えることが技術的に不可能になる。このようなプログラムのソースコードは通常企業秘密とみなされる。秘密保持契約などを結ぶことで、第三者がソースコードにアクセスできるようになる場合もある。 クローズドソースという語句には後述するような曖昧性があるため、この語句を使用する際には注意が必要である。 「クローズドソース」という語句は、プログラムのソースコードにアクセスすることができないということを暗示している。しかしこの語句を「オープンソース」の対義語として解釈すると(オープンソースの定義を満たさないソフトウェアを指すとすると)、わずかに意味が変わってくる。 マイクロソフトのシェアードソースはソースコードにアクセスすることが可能でありながらオープンソースでないものの例である。もしクローズドソースを「オープンソースの定義を満たさないもの」とすると、シェアードソースはクローズドソースに含まれることになる。逆に、「ソースコードにアクセスすることができないもの」とすると、含まれないことになる。 ソースコードの守秘義務を課してソースコードを提供するライセンス体系をソースコードライセンスと呼ぶ。プロプライエタリ・ソフトウェアの開発を支援する製品群という性格を与え、オープンソースの要件を満たさない。 たとえば、カーネルやミドルウェアなどをユーザが設計したプラットフォームへ移植 (ソフトウェア)を行う場合(ポートライセンスとも呼ぶ)や、高度な安定性を必要とするユーザ自身による詳細な検証を必要とされる場合など、特殊な場合にソースコードライセンスによる販売が行われる。多くの場合に、ユーザが翻案したソースコードにも守秘義務があり、一次財産権への帰属が求められている。ユーザが製作したバイナリコードの配布にはロイヤリティが設定されている。またソースコードライセンスには、不正な取扱いによる競合会社へ流出、GPL汚染といった知的財産権の侵害や、顧客が翻案したコードの帰属権によってバージョン管理に対するコストが嵩むといった問題点がある。 オープンソース フリーソフトウェア プロプライエタリ・ソフトウェア ^ Andy-Singleton (2005年6月24日). “敬遠されるソースコードライセンス”. ITmedia エンタープライズ. 2012年7月8日閲覧。", "ウェブスタンダードプロジェクト(The Web Standards Project 略称:WaSP)とは、ウェブサイトをウェブ標準に則って制作することを推進する団体。1998年創立。 インターネット上に日々公開される全てのウェブサイトがアクセスしやすい、長期的な運用が可能、ウェブ製作に対する費用と複雑さを減らす試みを行っている。 段落を意味するp要素を1行スペースを空けるために使用したり、引用を意味するblockquote要素をコンテンツの左右にマージンを取るために使用したりといったように、要素の持つ本来の意味とは無関係に見た目を調整するためだけにマークアップを行う人々が大半である時代があった。HTMLの仕様では、見た目を調整するためにはスタイルシートを使うべきであったが、当時のウェブブラウザのスタイルシートの対応度が不十分であったため、本来の要素の意味を無視してマークアップを行っていた。ウェブブラウザを供給する企業は、ウェブ標準に沿ったソフトウェアを世に送るよりも、ブラウザシェアを拡大し企業利益を獲得しようとすることに重点を置いていた(ブラウザ戦争)こともこのような状況を後押しした。 インターネットが普及し始めると、ウェブデザイナーは美しくレイアウトされ、目を奪われるような綺麗な画像を多く含んだ注目を受けるウェブサイトを開発するようになる。ただし、紙とWWWのメディアの特性の違いを無視し、WWWにもグリッドレイアウトによる手法を持ち込んでしまった。それは、ウェブサイトの見た目を細かく指定するためにtable要素を用いる手法である。これはテーブルレイアウトと呼ばれている。また、WYSIWYGでデザインできるWebオーサリングツールが生成するHTML文書もテーブルレイアウトの手法を用いたものであることが大半であった。 テーブルレイアウトにより美しくレイアウトされ、目を引き付ける画像を含んだウェブサイトは世界中からのアクセスが増えるとともに、ウェブサイトが置かれたサーバの転送制限やディスク容量不足のための追加費用など、サーバ会社に余計な出費を強いられるようになる。また、ウェブサイトにボタンをたった1つ追加するために複雑になったテーブルレイアウトを解読し、画像をスライスするウェブデザイナーの手を煩わせている。 ウェブスタンダードプロジェクトは、ウェブ標準を基礎にウェブサイトを構築することで様々な要因を解決しようとしている。 ウェブスタンダードプロジェクトは、ウェブブラウザのレンダリングエンジンがW3Cの勧告等を適切に実装しているか否かを検証するためのテストケースAcid2を作成している。 World Wide Web Consortium ウェブ標準 Acid2 Acid3 The Webstandards Project Web標準Blog - The Webstandards Project に投稿される記事の和訳を非定期に公開している Web標準普及プロジェクト", "CRUD(クラッド)とは、ほとんど全てのコンピュータソフトウェアが持つ永続性の4つの基本機能のイニシャルを並べた用語。その4つとは、Create(生成)、Read(読み取り)、Update(更新)、Delete(削除)である。ユーザインタフェースが備えるべき機能(情報の参照/検索/更新)を指す用語としても使われる。 CRUDの代わりに次のような単語のイニシャルを並べたもの、あるいは頭字語が使われることもある。 ABCD: add(追加)、browse(走査)、change(変更)、delete(削除) ACID: add(追加)、change(変更)、inquire(問合せ)、delete(削除)— トランザクション分野で使われるACIDと混同されやすい。 BREAD: browse(走査)、read(読み取り)、edit(編集)、add(追加)、delete(削除) VADE(R): view(参照)、add(追加)、delete(削除)、edit(編集)(トランザクション処理に関しては、さらに restore(復元)) CRUD は関係データベースアプリケーションやRESTfulなWebアプリケーションで実装する必要のある主な機能を列挙したものと見ることができる。各文字は標準のSQL文に次のようにマッピング可能である。 関係データベースはアプリケーションにとっての典型的な永続性層であるが、それ以外にも様々なものがある。CRUD は、オブジェクトデータベース、XMLデータベース、フラットファイルデータベース、特定のファイル形式などにも実装可能である。 Google Scholar では、CRUD を最初に使った論文として Kilov, H (1990) を挙げている。その概念は Kilov (1998) でも詳述されている。 CRUD は、多くのアプリケーションのユーザインタフェースにも当てはまる。例えば、住所録(電話帳)ソフトでは、基本的な記録単位は個々の連絡先である。最も素朴なものでも、次のようなことが可能でなければならない。 新たな連絡先情報を追加/生成できる。 既存の連絡先情報を検索/表示できる。 既存の連絡先情報を編集/更新できる。 既存の連絡先情報を削除できる。 少なくともこれら4つの操作ができないと、そのソフトは完全とは言えない。これら機能は非常に基本的であるため、ひとまとめに解説されることが多い(「連絡先管理」など)。 ^ REST and CRUD: the Impedance Mismatch InfoWorld、2007年1月29日 ^ Kilov, H (1990) From semantic to object-oriented data modeling、First International Conference on System Integration, 1990. 385 - 393. ^ Haim Kilov (1998) Business Specifications: The Key to Successful Software Engineering、Prentice Hall、ISBN 0-13-079844-4" ]
ABC01-02-0092
火災に見舞われた超高層ビルに挑む消防隊長をスティーブ・マックイーンが演じた、パニックムービーの大傑作といえば何でしょう?
タワーリング・インフェルノ
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[ "タワーリング・インフェルノ", "ミッドナイトクロス", "大陸横断超特急", "夜の大捜査線", "タイトロープ (映画)" ]
[ "『タワーリング・インフェルノ』(原題: The Towering Inferno )は、1974年のアメリカ映画。パニック映画。ポール・ニューマン、スティーブ・マックイーン主演。ワーナー・ブラザース・20世紀フォックス共同製作・提供作品。日本では1975年に公開された。 超高層ビル火災を描いた映画。本作品は1970年代中盤期のいわゆる、「パニック映画ブーム」の中でも最高傑作と評されている。1974年度のアカデミー撮影賞、編集賞、歌曲賞を受賞。 地上550メートル・138階、サンフランシスコにそびえ立つ世界最大の超高層ビルが、その落成式の日に地下の発電機の故障から火災を発し、やがて数百人の生命を飲み込む炎の地獄と化して燃え上がる。その大惨事を中心に、直面した人々のドラマを描く映画である。 製作は、当時にパニック映画『ポセイドン・アドベンチャー』をヒットさせたアーウィン・アレン。監督は『レマゲン鉄橋』『ハイジャック』のジョン・ギラーミン。出演は、スティーブ・マックイーン、ポール・ニューマンを中心に、ウィリアム・ホールデン、フレッド・アステア、フェイ・ダナウェイ、ジェニファー・ジョーンズ、ロバート・ワグナー、リチャード・チェンバレン、ロバート・ヴォーン、O・J・シンプソンなど豪華な顔ぶれで、音楽はジョン・ウィリアムズである。世界的に大ヒットしたことから、経営難であった20世紀フォックスを立て直した存在となった。 題名の「タワーリング・インフェルノ」とは、英語で「そびえ立つ地獄」という意味である。元の原作が2本あり、リチャード・マーチン・スターン原作の『ザ・タワー』とトーマス・N・スコーティアとフランク・M・ロビンソンが書いた『ザ・グラス・インフェルノ(ガラスの地獄)』の原作小説2つを、スターリング・シリファントが1本のシナリオにまとめたものである。 現在ではメジャー映画会社同士の合作は珍しくないが、その先鞭を付けた作品といえる。マックイーンとニューマンの2人を含めて数多くの有名俳優が出演した本作は、『ポセイドン・アドベンチャー』『大地震』に続くパニック映画の極めつけの作品として、公開以前から話題となっていた。 1975年6月28日から、東京では丸の内ピカデリー・パンテオンなど6館、その他全国72館でロードショー公開されて、その後全国117館に拡大されて、当時は初めてと言われた全国拡大興行を展開した。このうち8大都市23館でのオープニング成績は2日間で計入場者数20万3,225名、都内6館の初日・2日目の成績は興行収入が前年大ヒットの「エクソシスト」の153パーセントと言われて、全国の配給収入が公開7週間で24億円、最終的には37億2,500万円を記録して、「ゴッドファーザー」「エクソシスト」を破り洋画ヒット作の最高を記録した。 アメリカ・サンフランシスコの新名所、138階建のグラスタワーが落成式を迎えた。ビルの設計者ダグ・ロバーツ(ポール・ニューマン)とオーナーのジェームズ・ダンカン(ウィリアム・ホールデン)は、屋上に立って眼下に広がる市の光景を見下ろしていた。 135階の会場に300名の来賓を招いた落成式が始まる頃、ビル地下室の発電機が故障したため、主任技師らは予備の発電機を始動させた。その頃、50階にある中央保安室の保安係主任ハリー・ジャーニガン(O・J・シンプソン)は、災害探知装置を監視していたが、警報装置が作動していないのに、異常な反応があったのに気が付く。そして、ビル内のどこかで火災が発生しているのではと考え、愕然となった。実はこの時、予備の発電機を動かしたことで小さな火花が走り配線に移ると同時に、81階にある物置室の配電盤のヒューズが火を発し、燃えながら床に落ちた絶縁体の破片が、マットをくすぶらせ始めたのである。 ハリーの報告を受けて地下に走ったロバーツは、配線工事が自分の設計通りに行われておらず、配線の規格も設計したものより細いことに気付き憤然となった。ダンカンの娘婿で、ビル建設の責任者のロジャー・シモンズ(リチャード・チェンバレン)が、予算を減らすために行った電気系統工事の手抜きと配線の規格落ちが原因となり、81階の物置室でボヤ火災が発生していたのである。危険を感じたロバーツは、急遽広報部長のダン・ビグロー(ロバート・ワグナー)に連絡したが、愛人と部屋にこもっている状態でラチがあかない。ロバーツはロジャーに工事の手抜きを責めたが、ロジャーは建築法の規定範囲内で問題ないと突っぱねた。ロジャーは、経費の切り詰めを義父のオーナーから迫られて、高層ビルでは大きな規格の配線でないと熱が生じることに配慮せず、電気配線で手抜きをしたのであった。ロバーツはダンカンに、火災の危険が迫っているので落成式を直ちに中止して避難するよう進言するが、ダンカンは全く耳を貸さなかった。 落成式には、ゲイリー・パーカー上院議員(ロバート・ヴォーン)、ロバート・ラムジー市長(ジャック・コリンズ)を初めとする各界の要人や、ビルの80階より上の住居部分の住人である、株専門の詐欺師だったハーリー・クレイボーン(フレッド・アステア)や、富豪の未亡人のリゾレット・ミュラー(ジェニファー・ジョーンズ)も招かれ、135階のプロムナードホールへ集まっていた。ハーリーとリゾレットは、お互いに惹かれて行く。 81階の物置室は火の海となり、煙が充満して室外に煙が流れ出していた。そこへ駆けつけた警備員が扉を不用意に開けたため、火が一気に広がり、扉を開けた警備員を助けようとしたウィル・ギディングズは、火ダルマとなって致命傷を負った。現場に駆けつけたロバーツは、火災の状況をみてダンカンに電話し、ただちに式典を中止してビルからの退去を要請したが、ダンカンは、既に出動していた消防隊により鎮火出来ると頑強に信じて応じようとはしなかった。 やがて消防隊が到着した。チーフのマイケル・オハラハン(スティーブ・マックイーン)は、現場の状況を見て火事の酷さを悟り、ただちに79階に司令センターを設置するとともに、消火ホースだけでは81階の火災は抑えられないとして、135階のプロムナードホールへ行き、ダンカンに300人の客の緊急避難を命じた。反発したダンカンであったが、しぶしぶ承知してパーティー会場を1階に移すと招待客に説明して、エレベーターで下に降りるように案内したが、招待客らは、ダンカンの指示に従うような雰囲気では無くなっていった。オハラハンは、81階の火事の状況から、ビル内部のエレベーターがその階を通過する時に、ショートで停止して扉が開くのではと考え、ダンカンに内部エレベーターの使用停止を進言したが、エレベーターは既に招待客を乗せて降下した後だった。オハラハンが恐れていたとおり、エレベーターは81階で自動的に扉が開き、火が中に入っていってしまった。再び最上階に上がっていったエレベーターの扉が開くと、火ダルマとなった男が出てきて倒れた。招待客らがパニックに陥る中、ハーリーは、身動きしなくなった男に、着ていたタキシードを掛けるのであった。 リゾレットは、友人のオルブライト夫人とその家族が階下に取り残されているのに気付く。ロバーツやハリーの助けもあって、幸い夫人らは間一髪炎から逃れる事が出来た。オルブライト夫人を1階に避難させるハリーに続こうとしたロバーツたちだが、途中で爆発によって階段が破損しハリーたちと分断されてしまったため、リゾレットと子供たちを連れてプロムナードホールを目指す。何とか苦境を脱して135階までたどり着いたが、今度はホールに続く非常口がコンクリート塊で塞がれていた。ロバーツは、オハラハンに状況を説明し、1階からやって来た消防士がドアを爆破してようやくホールに戻ることが出来た。 各階に延焼して断続的に爆発が起こり、もはや地上からの救援活動では間に合わないと考えたオハラハンは、アメリカ海軍のヘリコプターによる空からの救援を要請した。しかし風が強い為、ビル屋上への着陸は困難であった。少し風が収まり、辛うじて近づいたヘリコプターだったが、屋上で風に煽られ、墜落炎上してしまった。ヘリコプターによる救助も難しいと知ったオハラハンは、隣接するビルから、救命籠を使う方式での救助を行う事とした。 やがて予備の発電機が火を吹き、ビル全体が停電した。最上階からの唯一の避難経路だった、壁面を使って昇降する外部エレベーターも動かなくなったが、ロバーツは、ブレーキを掛けながらの1度だけの降下なら可能だと考え、リゾレットやオルブライト夫人の家族ら12人を乗せて外部エレベーターを降下させる。しかし降下中に爆発に巻き込まれてエレベーターが傾き、姿勢を崩したリゾレットは、割れたガラスの隙間から落下していった。エレベーターはそのまま宙吊り状態になったが、オハラハンの決死の活躍で無事に地上に降りることが出来た。 隣りのビルに繋げたロープで救命籠を動かしての避難によって、女性は全員避難を終了した。次は男性の順番であったが、延焼速度から全員の救命籠による避難が間に合わないことが明らかとなり、ロジャーが予め決まっていた順番を無視して先に逃げようとした。それを制止しようとした上院議員らが救命籠にしがみついたが、やがてロープが切れ、救命籠もろとも地上へ落下していった。 オハラハンは、副消防署長から最後の手段として屋上にある巨大な貯水槽を一気に爆破し、その水で消火する作戦を知らされる。誰も助からないかも知れない危険な作戦であったが、他に方法が無い事を悟ったオハラハンは、耐火服に身をかためて屋上に赴く。ロバーツは、最上階に残った人々に作戦を伝え、水流に耐えるために身体を柱や固定物に縛り付ける様に指示し、オハラハンに協力して爆弾の設置を行った。やがて大規模な爆発が起き、瓦礫とともに百万ガロンの水の奔流がビル最上階に流れてきた。瓦礫の下敷きや、水に流されて多くの人々が命を落とし、その中には最後まで留まった市長も含まれていたが、火災はようやく鎮火していった。 しばらくして、救助されたハーリーはリゾレットを探すが、エレベーターに乗っていた消防士から彼女の死を知らされる。保安係主任のハリーからリゾレットの飼い猫を渡され、悲しみにくれた。オハラハンとロバーツはお互いを労りながらも、オハラハンは高層ビルを作る人間の驕りを戒めるのであった。 マイケル・オハラハン - スティーブ・マックイーン 本作の主人公の一人で、消防隊のチーフを務める。いくつかの場面で危険な任務に携わる。 ダグ・ロバーツ - ポール・ニューマン グラスタワービルの設計者。出火したことが判明した時、オーナーであるダンカンにパーティの中止、招待客の避難を助言した。その後、オハラハンと共に、避難誘導・消火などの手助けをする。 ジェームズ・ダンカン - ウィリアム・ホールデン グラスタワーのオーナー。利益優先と最新鋭のビルへの過信、自身のプライドを守ろうとしたことが、結果として大惨事を起こした。 終盤では己の犯した間違いの責任を果たすため、ビル火災の元凶となったロジャーと共に、招待客全員が救助されるまで残ると宣言する。最後まで生き残り、ロジャーの死を悲しむパティを慰める。 スーザン・フランクリン - フェイ・ダナウェイ ダグの妻。外部エレベーターでの避難に成功し、生存する。 ハーリー・クレイボーン - フレッド・アステア アナハイム電力の偽造株券を所持し、未亡人のリゾレットに購入を持ちかけた詐欺師。 性根が優しいため詐欺師としては三流であり、リゾレットに対しても好意を抱いたことから罪悪感に耐え切れず、プロムナードホールで再会した彼女に自らの正体を打ち明け謝罪する。外部エレベーターで避難するリゾレットと再会を約束し、最後まで生き残るが、彼女の死を知り悲しみに打ちひしがれる。 パティ・シモンズ - スーザン・ブレイクリー ダンカンの娘でロジャー・シモンズの妻。ロジャーが自分の行為が引き起こした予想外の大惨事に精神的に追い詰められていることを慮り、厳しい言葉をかけながらも彼に寄り添おうとするが、受け入れられることはなかった。 ロジャー・シモンズ - リチャード・チェンバレン パティの夫でダンカンの娘婿。今回の工事で、義父であるダンカンの予算削減の求めに乗じて私腹を肥やそうと不正な電線工事を行い、事故の原因を作った。救命籠での避難が間に合わないことを知り事前のくじ引きで決まった順番を無視して避難しようとし、救命籠ごと落下し命を落とす。 リゾレット・ミュラー - ジェニファー・ジョーンズ 友人であるオルブライト夫人の子供の面倒を見ている。火災が起きた時に、ダグたちが救出した子供たちと共に危険な避難を試みている。爆発の煽りを受けてガラスの割れた展望用外部エレベーターから投げ出されてしまい、外部エレベーターでの脱出を図った12人のうち唯一の犠牲者となる。 ハリー・ジャーニガン - O・J・シンプソン 警備員で保安係主任。ダグと共にオルブライト夫人らを救出し、リゾレットの飼い猫を保護する。 ゲイリー・パーカー上院議員 - ロバート・ヴォーン 来賓の一人。我先に救命籠に乗ろうとするロジャーの暴挙を止めようとした結果、彼諸共転落する。 ダン・ビグロー - ロバート・ワグナー 広報部長で、元短距離の選手。落成式の間、65階の一室で秘書のローリーとの情事に耽っていたため、部屋に取り残される。 ローリー - スーザン・フラネリー ダンの秘書で愛人。広報部長との情事がやがて悲劇を生んだ。 ポーラ・ラムジー市長夫人 - シーラ・アレン 展望用エレベーターで他の女性客と共に救出される。 ウィル・ギディングズ - ノーマン・バートン 81階の火元の倉庫のドアを開けようとした警備員の身代わりになって炎に巻き込まれ、最初の人的被害となった。 ロバート・ラムジー市長 - ジャック・コリンズ ダンカンの友人。ダンカンはボブと呼んでいた。貯水タンク爆破の際に身体を固定していたロープが解けてしまい、水流に押し流されて転落死する。 カピー - ドン・ゴードン スコット消防士 - フェルトン・ペリー カルロス - グレゴリー・シーラ プロムナードルームでバーテンの仕事をしていた。貯水タンク爆破の際に倒れた石像に胸を押し潰され息絶える。 マーク・パワーズ消防士 - アーニー・F・オルサッティ 消防署副署長#1 - ダブニー・コールマン 最終手段として、上階の貯水タンクの爆破して消火することを提案する。 救助される女性 - エリザベス・ロジャース フレイカー - ノーマン・グラボウスキー 消防署副署長#2 - ロス・エリオット ジョンソン - オラン・ソウル アンジェラ・オールブライト - カリーナ・ガワー フィリップの妹。兄の奥の部屋で炎に怯えていた。兄と共に展望用エレベーターでの避難に成功する。 フィリップ・オールブライト - マイク・ルッキンランド アンジェラの兄。ヘッドホンの大音量で避難誘導に気付かず家族と共に逃げ遅れるが、ハリーたちによって救助され、その後展望用エレベーターでの避難に成功する。 オールブライト夫人 - キャロル・マケヴォイ フィリップとアンジェラの母親。聴覚が不自由であるため電話での避難誘導に気付かず、子供たちと共に逃げ遅れてしまう。その後はハリーによって運ばれ子供たちより先に避難に成功することとなった。 若い消防士 - スコット・ニューマン ティム - ポール・コミ ジャック - ジョージ・ウォレス 技術者 - ウィリアム・バセット キャラハン - ジョン・クロウフォード 地下機械室の主任。 ウェス - エリック・L・ネルソン 歌手 - モーリン・マクガヴァン 警備員 - ジョン・モイオ 秘書ジャネット - ジェニファー・ローズ 制御室警備員ビル - ウィリアム・トレイラー なおBSジャパン版はフジテレビ版の翻訳を流用、改変したものを採用している。 BSジャパン版以外の吹替では「グラス・タワー」を「タワービル」と呼称されている。 最初のフジテレビ版の吹替では、「プロムナードルーム」を「スカイルーム」、「オハラハンチーフ」を「オハラチーフ」といった固有名詞の変更があった。 フジテレビ版は他局での放送経歴がなく、フジテレビでも1980年代前半に深夜枠(関東ローカル)での放送以後は放送されていない。 テレビ放送時、オープニングのテロップが流れる際、フジテレビ版では城達也、日本テレビ版では矢島正明による読み上げがあった。但し、後者はBlu-ray未収録。 監督 - ジョン・ギラーミン 製作・アクションシーン監督 - アーウィン・アレン 原作 - リチャード・マーティン・スターン(『そびえ立つ地獄』早川書房) 原作 - トーマス・N・スコーシア、フランク・M・ロビンスン(『タワーリングインフェルノ』早川書房) 脚色 - スターリング・シリファント 撮影 - フレッド・J・コーネカンプ 音楽 - ジョン・ウィリアムズ 主題歌 - モーリン・マクガヴァン 「We May Never Love Like This Again」 提供 - ワーナー・ブラザース、20世紀フォックス この映画は、史上初めてアメリカの大手映画会社「ワーナー・ブラザース」と「20世紀フォックス」が共同で製作・配給した作品である。もとはそれぞれ異なる小説で、「ザ・タワー」をワーナーが買い取り、「ザ・グラス・インフェルノ」を20世紀フォックスが買い取って、最初はそれぞれ映画化される予定だったが、内容が似通っていて、ともにビル火災をテーマにしているため製作予算が巨額になることなどから、両社は企画をまとめて共同製作にすることになった。 製作費は折半されたが配給権は、米国内では20世紀フォックスが、米国外ではワーナー・ブラザースが持った。 製作のアーウィン・アレンを初め、スタッフの多くが、2年前の『ポセイドン・アドベンチャー』製作にも携わっており、その際の特撮技術を同作品に応用した。 火災の舞台となるグラスタワーは、全高30mにも及ぶ長大なミニチュアセットが作られた。内部にガス管が配管され、ここからガスに着火して火を吹き出させることによって火災を表現した。クライマックスでの鎮火シーンでも、高圧水管を用いて実際に大量の水を放水している。 主としてワーナーの映画に出演していたスティーブ・マックイーンと、主として20世紀フォックスの映画に出演していたポール・ニューマンの顔合わせが実現した。マックイーンはニューマンと同じ量のセリフを要求した。高層ビルの設計者役のニューマンは映画冒頭から登場するが、消防士役のマックイーンは40分を過ぎたあたりから登場している。 オープニング・クレジットでマックイーン、ニューマンのどちらの名が最初に表示されるか注目されたが、画面の左側にマックイーン、右側にニューマンの名が配された。欧米の書式では先に読む左側のマックイーンが一見すると上位になるが、文字が配置される「縦位置」ではニューマンの方が高くなっており、結局はどちらが優位か分かりにくい表示になっている。この奇妙な配置は共に主役を務める二大スターに優劣をつけず名前を出すための苦肉の策である。他に映画タイトル前のクレジットで登場するのはホールデン、ダナウェイのみとなっている。日本ではパンフレットのキャスト欄やテレビ欄などでは大半がマックイーンを先頭においている。 以下、冒頭で主要助演としてタイトルされる人数が多く、アステア、ブレークリー、チェンバレン、ジョーンズ、シンプソン、ヴォーン、ワグナーの順に独立に、フランネリー、マシューズ、バートン、コリンズ、ゴードン、ペリー、シエラ、オルサッティ、コールマンがまとめて表示されるなどキャストの豪華さを伺わせている。 主題歌はモーリン・マクガヴァンの「We May Never Love Like This Again」で初登場10位内を記録。劇中でもマクガヴァンはカメオ出演して、主題歌を披露している。 日本では中沢厚子によるカバー曲が同時期に発売された。現在CD化はされていない。後年、尾崎紀世彦によるカバー曲も発売された。 2001年4月1日にアメリカのFilm Score Monthly レーベルから3000枚限定でサウンドトラックCDがリリースされている。 2009年12月9日にスペシャルエディションDVDとBlu-ray盤が発売。日本テレビ版吹替収録で、本編の他に数多くの映像特典が収録されている。なお、2010年にはレンタルも開始され、収録内容はセル盤と全く同様である。 2017年6月7日にワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント発売の「吹替の力」シリーズ『タワーリング・インフェルノ 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ』には従来のブルーレイに収録されている日本テレビ版に加え、ノーカットのフジテレビ版の吹き替え版が収録。 リチャード・M・スターン『そびえたつ地獄(原題:The Tower)1973』井坂 清訳、〈Hayakawa Novels〉早川書房、1975年。ISBN 4150401993 ワーナー・ブラザースが映画化しようとした小説。日本発売時の表紙は映画のワンシーンの写真を使用。 T.N・スコーシア、F.M.ロビンソン『タワーリング・インフェルノ(原題:The Glass Inferno)1974』〈Hayakawa Novels〉早川書房、1975年。ISBN 4150402043 20世紀フォックスが映画化しようとした小説。日本発売時の表紙は映画のポスターにも使用された絵を使用。 日本では両者とも、炎の出ているビルと、映画とほぼ同じTHE TOWERING INFERNOのロゴをあしらった表紙の四六版で出版され、タイトルが似ているのと合わせて非常にまぎらわしい物であった(上記のISBNは文庫版のものである)。 グラスタワーのモデルとなったのは、サンフランシスコに実在するバンクオブアメリカタワー(英語版)といわれている。この建物は火災を起こしたことはない。 全米公開の年と同じ、1974年の2月1日に、ブラジルのサンパウロにあるジョエルマビルの火災が本作と同じように、空調室外機の電気系統のショートに伴い発生し、多くの犠牲者を出した。 全米公開後の1975年2月13日、ワールドトレードセンターで火災が発生。11階のオフィスから出火して隣の電話交換室へと延焼し、さらにケーブルダクトの電線を伝って9階から11階まで燃え移るという、映画の内容に酷似した被害を発生させている。 1975年公開の松竹映画『おれの行く道』(田中絹代、西城秀樹主演)の劇中でタワーリング・インフェルノを公開中の劇場、川崎グランド(2012年現在:川崎チネチッタ)の映像が写るシーンがある。 ウィル・ギディングズが最初の犠牲者として火ダルマになる場面において、カーテンを引きちぎってギディングスに纏わる炎を消すシーンがあるが、撮影中に想定通りに火が消えず、消火器にて撮影スタッフが消火するハプニングがあった。 グラスタワーの外観の一部はサンフランシスコにある実在のビルで撮影が行われた。1階外観や広場部分はトリプルファイブ(旧バンクオブアメリカセンター)、1階内部のロビーや展望エレベーターはハイアットホテルが使用された。 続編「タワーリングインフェルノ2」の製作企画が有ったが スティーブ・マックイーンの死去により企画は中止された。 藤子・F・不二雄著『キテレツ大百科』の「ボール紙の町」で主人公のキテレツたちが小人になってボール紙で作った箱庭の町で遊び、同じく超高層ビルの展望台で楽しんでいたところ通行人のタバコのポイ捨てによって下が大火事となり、キテレツが「わぁっ、タワーリングインフェルノ!」と叫ぶ場面がある。 藤子・F・不二雄著『のび太の宇宙開拓史』の敵役は、本作監督の名前と同じギラーミンとなっている。 藤子不二雄A著『オヤジ坊太郎』の「燃える!超高層!!」で、主人公の坊太郎の同級生で金持ちのキザオが都内一の高層ホテルであるゼブラホテルに宿泊している事を自慢していたが、映画『タワーリング・インフェルノ』を鑑賞後、坊太郎や同級生のドラゴン、出羽たちが「すごかったね」と興奮しているのをよそに自分が宿泊しているホテルが火事にならないか不安に思っている様子が描かれている。 コンタロウ著『1・2のアッホ!!』の「タワーリングインフェルノ!の巻」で日本教育界の注目の的である地上100階の超高層学習塾が開講して教え子である定岡たちの陣中訪問に来た主人公のカントクがメシにするために火を起こそうとしたことから大火災となる挿話が描かれている。後にこの学習塾の塾長はインフェルノ氏の名称で「夢の世界 二周パックの巻」でインチキツアーのコーディネーターとして登場する。 ^ 日本語吹替音声追加収録版ブルーレイディスクに収録。 ^ スペシャル・エディション版DVD、ブルーレイディスクに収録。 ^ a b “The Towering Inferno (1974)” (英語). Box Office Mojo. 2010年4月5日閲覧。 ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)332頁 ^ 1975年日本公開当時、地方の劇場では「ワーナ自然動物公園」という短編ドキュメンタリー映画が併映された。 ^ 「映画を知るための教科書 1912~1979年」204~205P参照 斉藤守彦 著 洋泉社 ^ 1975年初公開時のパンフレットのストーリーを参照。 ^ [1] ^ “2月5日(火)夜9時 タワーリング・インフェルノ”. BSジャパン シネマポータブル. 2013年1月13日閲覧。 ^ そのため、2012年現在も日本ではワーナー・ホーム・ビデオからDVDが発売されている。 ^ 1956年の『傷だらけの栄光』でポール・ニューマンが主演、スティーブ・マックイーンが端役として一応の共演はしている。 ^ ベニヤ板とボール紙で作ったこの学習塾では、最上階100階では天才教育、80階付近では秀才教育、50階あたりでは凡才教育、1階ではどうでもいい教育(生徒は本作のレギュラーである定岡、波目、金子の3人のみ)システムとなっており、50階付近の幅が異常に広くなっているいびつな形をした建物となっている。 タワーリング・インフェルノ - allcinema タワーリング・インフェルノ - KINENOTE タワーリング・インフェルノのチラシ - ぴあ The Towering Inferno - オールムービー(英語) The Towering Inferno - インターネット・ムービー・データベース(英語)", "『ミッドナイトクロス』(Blow Out)は、1981年にアメリカ合衆国で公開されたサスペンス映画。 ブライアン・デ・パルマ監督がミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品『欲望』にインスパイアされて製作した作品。『欲望』の主人公が写真家であったのに対し、本作の主人公は後述の通り音響効果マンである。 フィラデルフィアに住む音響効果マンのジャックは、低予算のエクスプロイテーション映画で使う効果音を収録するために川のほとりを訪れていたが、その途中で自動車事故を目撃してしまう。ジャックが事故車に乗っていた女性サリーを救出して病院に搬送するも同乗していた男性は亡くなり、病院にて物々しい雰囲気に包まれたうえ、ある人物からはこの事故のことは忘れるようにと口止めされ、疑問に感じ始める。 ジャックが録音していたテープには銃声が入っていた。同じく偶然、近場から事故を撮影したカメラマンのカープから連続写真を入手し、写真のスライド化を経て録音テープの音声を重ねた結果、事故を誘発するための狙撃と確信したジャックは、何が原因で何が隠されているのか独自に調査を開始する。ところが、事故で死亡した同乗者は大統領選挙の有力候補者であり、すべてを闇に葬るための隠蔽工作の手がジャックの周囲に伸び始めていた。買収や暴力など政府関係に渦巻く欲望と隠蔽体質の事実を突き止めながら、証人として重要なサリーの命まで守れるのか、ぎりぎりの攻防が繰り広げられる。 ジャック・テリー 音響効果マン。安い映画の監督へ総合的アドバイスもするやり手。元は私服警官だったが、自分が作り上げた盗聴器を仕込んでおとり捜査に向かった同僚が回路の短絡による発熱で正体が発覚し殺害されたという過去を持っている。 サリー 事故の車に乗っていた若い女性。コールガール。 バーク 殺し屋。ジャックとサリーを付け狙う狡猾な頭脳を持つが、快楽殺人鬼の犯行に偽装するために無関係の人間を殺すことも躊躇わない。 マニー・カープ 事件を目撃したカメラマン。一攫千金を同じように狙っているが・・・。 フランク・ドナヒュー ニュースキャスター。ジャックが録音したテープとスライド写真を託そうとした相手。 TBS版:初回放送1983年11月14日『月曜ロードショー』 テレビ朝日版:初回放送1991年9月15日『日曜洋画劇場』 ソフト版:1998年7月25日にハピネット・ピクチャーズから発売された旧盤DVDに初収録。その後20世紀フォックスから発売された新盤DVDには未収録。 ※ 2018年11月2日発売のBlu-ray Discには3種類の日本語吹替を全て収録。 監督・脚本:ブライアン・デ・パルマ 製作:ジョージ・リットー 製作総指揮:フレッド・カルーソ 撮影:ヴィルモス・スィグモンド 編集:ポール・ハーシュ 音楽:ピノ・ドナッジオ ミッドナイトクロス - allcinema ミッドナイトクロス - KINENOTE Blow Out - オールムービー(英語) Blow Out - インターネット・ムービー・データベース(英語)", "『大陸横断超特急』(たいりくおうだんちょうとっきゅう、原題:Silver Streak)は、1976年のアメリカ映画。 ロサンゼルス発シカゴ行きの豪華旅客列車シルバー・ストリーク号に乗り込んだ出版業者ジョージ・コールドウェルは、車内で知り合った乗客ボブの助言で、美術史家シュライナー教授の秘書ヒリー・バーンズと知り合い一夜を共にするが、窓の外に頭部を撃たれた乗客が落下する場面を目撃する。翌日、ジョージは目撃した乗客がシュライナーだと気付きヒリーに伝えるが、彼女は信じようとしなかった。ジョージはシュライナーの客室に向かうが、そこには見知らぬ男がおり、彼の指示を受けた大男によって列車から放り出されてしまう。 線路沿いに住む夫人の飛行機に乗って列車に追い着いたジョージはヒリーを探すが、彼女は美術商のデヴローと食事をしていた。デヴローは「ジョージを放り出したのは部下のホワイニーとリースの誤解だった」として彼に謝罪する。ジョージはシュライナーが殺害されたことを話すが、そこにシュライナーが現れる。酒に酔って幻覚を見たと考えたジョージはその場を離れるが、彼から話を聞いたボブはシュライナーが殺害されたのは事実だと答える。ボブは自分の正体はFBI捜査官だと告げ、シュライナーはレンブラントの贋作をめぐる事件に巻き込まれ、密売人であるデヴローに殺害されたと話す。二人は客室に戻り、ヒリーの所持品の中からデヴローの悪事の証拠品を見つけ出すが、列車がトンネルに入った際にボブが射殺されてしまう。ボブはジョージに証拠品と拳銃を託して息絶えるが、そこに乗務員のラルストンが現れ、ジョージを殺人犯と誤認してしまう。ジョージが生きていることに気付いたホワイニーはリースを差し向ける。ジョージは屋根の上に逃げてリースを返り討ちにするが、誤って列車から放り出されてしまう。 ジョージは近くの町に向かい保安官のオリヴァーに助けを求めるが、オリヴァーはジョージの話を全く聞かず、さらにジョージが殺人犯として指名手配されていることを知り逮捕しようとする。怒ったジョージは拳銃を奪ったうえにパトカーを強奪し、偶然パトカーに乗っていたスリのグローヴァーに事情を話して一緒に列車に乗り込む。別行動を取ったジョージはヒリーを見付け出すがホワイニーに捕まり、デヴローの前に突き出される。デヴローはシュライナーを殺害したこと、ジョージの前に現れたシュライナーは彼に変装した部下だったことを告げ、ジョージとヒリーを殺そうとするが、そこにグローヴァーが現れ形勢が逆転し、ジョージたちは証拠品がある荷物車に向かう。しかし、そこでヒリーを人質にしたホワイニーと銃撃戦になりグローヴァーと共に列車から飛び降りる。 ジョージとグローヴァーは警察に連行されるが、デヴローの悪事を知っていたドナルドソン警部は二人に「保護するために指名手配した」と告げ、デヴローを逮捕するためジョージを連れて列車に向かう。列車を停止させたドナルドソンたち警官隊はデヴロー一味と銃撃戦となり、デヴローは運転士を脅して列車を走らせる。ドナルドソンはヘリコプターで追跡を開始し、ジョージとグローヴァーは列車に乗り込みヒリーを救出する。一方、ドナルドソンはデヴローを射殺するが、デヴローは逃げ出そうとした運転士を射殺していたため、列車はジョージたちを乗せたままシカゴ駅に向かって暴走を始め…… 日本テレビ版:初回放送1979年10月24日21:00-22:54 『水曜ロードショー/大陸横断超特急 ~空前!暴走列車シカゴ駅構内へ・ブレーキ大突入!!』(再放送:1982年5月21日 フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』ほか。) DVD収録。放送時に吹き替えられた一部の台詞が自主規制により字幕対応となっている。 その他声の出演:高橋和枝/上田敏也/片岡富枝/峰恵研/野島昭生/大久保正信/佐藤由美子/亀井三郎 演出:田島荘三、翻訳:大野隆一、効果:スリーサウンド、調整:遠西勝三、スタジオ:コスモスタジオ、制作:コスモプロモーション、解説:水野晴郎 テレビ朝日版:初回放送1990年8月26日21:02-22:54 『日曜洋画劇場』 その他声の出演:石森達幸/峰恵研/磯部万沙子/曽我部和恭/井上喜久子/種田文子/幹本雄之/左直千恵子 演出:福永莞爾、翻訳:たかしまちせこ、効果:河合直/南部満治/大橋勝次、調整:金谷和美、制作:ニュージャパンフィルム、プロデューサー:山田ゆみ子、解説:淀川長治 監督:アーサー・ヒラー 製作総指揮:フランク・ヤブランス/マーティン・ランソホフ 製作:エドワード・K・ミルキス/トーマス・L・ミラー 脚本:コリン・ヒギンズ 音楽:ヘンリー・マンシーニ 撮影:デイヴィッド・M・ウォルシュ 編集:デヴィッド・ブレサートン 美術:アルフレッド・スイーニー 提供:フランク・ヤブランス・プロダクションズ/20世紀フォックス 本作のアイデアは『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』を書いた脚本家コリン・ヒギンズが、1974年にロサンゼルスからシカゴまで実際に列車で旅をし、あまりに退屈だったためあれこれ想像して作り上げたものであった。ヒギンズはこのアイデアをパラマウント・テレビでプロデューサーをしていたエドワード・K・ミルキスとトーマス・L・ミラーと相談して脚本化し、『シンシナティ・キッド』や『いそしぎ』のプロデューサーであるマーティン・ランソホフと共に独立プロを設立した、元パラマウント映画の社長フランク・ヤブランスに持ち込んで、20世紀フォックスによる映画化に漕ぎ着けた。監督は『ある愛の詩』で知られたアーサー・ヒラー、音楽を担当したのは『ティファニーで朝食を』でアカデミー音楽賞と歌曲賞、『酒とバラの日々』で歌曲賞を受賞していたヘンリー・マンシーニであった。 出演者は、主演のジーン・ワイルダーを初め、後に『結婚しない女』や『結婚ゲーム』でアカデミー助演女優賞にノミネートされるジル・クレイバーグや、アフリカ系コメディ俳優リチャード・プライヤー、『プリズナーNo.6』で知られるパトリック・マクグーハンなど多彩な俳優が競演。『007 私を愛したスパイ』でブレイクする前のリチャード・キールも、後の『ジョーズ』を彷彿させる役柄で登場している。 列車のロケはカナディアン・パシフィック鉄道の協力で行われ、シルバーストリーク号から落とされたジョージが列車を追いかけるのに使った飛行機は、俳優クリフ・ロバートソン所有のものであった。クライマックスで先頭部のFP7形ディーゼル機関車がシカゴ駅に突っ込むシーンは、カリフォルニア州バーバンクにあったロッキード飛行機製作所の格納庫に組まれた実物大のセットで行われた。わずか14秒のシーンに、50万ドルの費用をかけたという。 本作は1976年の映画の世界興行成績で、第7位を記録した。また、アカデミー音響賞にノミネートされ、ジーン・ワイルダーはゴールデングローブ賞主演男優賞にノミネートされた。 ^ “Silver Streak (1976)” (英語). Box Office Mojo. Amazon.com. 2013年4月30日閲覧。 ^ a b 『大陸横断超特急 劇場用パンフレット』 東宝株式会社事業部、1977年4月29日。 ^ “List movies by worldwide gross” (英語). WorldwideBoxoffice.com. 2009年8月26日閲覧。 Silver Streak on Soundtrack.net[リンク切れ](英語) 大陸横断超特急 - allcinema 大陸横断超特急 - KINENOTE Silver Streak - オールムービー(英語) Silver Streak - インターネット・ムービー・データベース(英語)", "『夜の大捜査線』(よるのだいそうさせん、原題:In the Heat of the Night)は1967年公開のアメリカ合衆国のサスペンス映画。 第40回アカデミー賞作品賞、主演男優賞(ロッド・スタイガー)、脚色賞(スターリング・シリファント)、音響賞(サミュエル・ゴールドウィン撮影所サウンド部)、編集賞(ハル・アシュビー)を受賞した。また2002年にアメリカ国会図書館が、アメリカ国立フィルム登録簿に新規登記した作品である。 原作はジョン・ボールの小説『夜の熱気の中で(英語版)』(アメリカ探偵作家クラブ新人賞受賞作)よりスターリング・シリファントが脚色。 当時盛り上がっていた公民権運動を背景に、タイミング良く制作されたこの作品は、キャスト・スタッフ共々自発的に参加して作り上げた作品である。人種差別が厳しいミシシッピ州にある小さな町で起きた殺人事件と偶然捜査に参加するようになった腕利きの黒人刑事、そしてことごとく捜査に対立する白人の人種差別的な町の警察署長と、その捜査の様子を白い目で見ている住民たちの緊迫した対立の関係には当時の公民権運動の緊迫感をも感じ取ることができる。 音楽監督はクインシー・ジョーンズ。主題歌は映画の題名と同じタイトル\"IN THE HEAT OF THE NIGHT\"であり、レイ・チャールズのヒット・ナンバーである。両者の功績が大きかったため60年代後半からのdetective storyのカテゴリーは今日に至るも多旋律が主流であり日本の刑事物も例外ではない。編集のハル・アシュビーは後に映画監督になって活躍する。 この作品は非常に好評だったので、主人公の黒人刑事ヴァージル・ティッブスのキャラクターのみを活かした『続・夜の大捜査線』(1970)、『夜の大捜査線 霧のストレンジャー』(1971)が作られ、またテレビ映画化もされている。 アメリカ南部の小さな駅に夜行列車からひとりの黒人(シドニー・ポワティエ)が降り立った。町では折しも有力者の殺人事件が発生。パトカーの警官がうだるような熱帯夜のなかを巡回していた。人種偏見の強い地方であるために、駅の待合室にいた「よそ者」の黒人は、巡回中の警官(ウォーレン・オーツ)によって容疑者として連行され、署長(ロッド・スタイガー)の前に突き出されてしまう。しかし、あからさまな侮蔑と嫌悪にさらされているこの黒人の男は、ペンシルベニア州フィラデルフィア市警の殺人課、敏腕刑事ヴァージル・ティッブスだった。 滅多にない殺人事件に手を焼く田舎町の警察は、地元市長からの圧力もあって、屈辱感を覚えつつも都会のベテラン刑事ティッブスに捜査協力を依頼する。 白人署長はもともと頑固な差別主義であったが、次第にティッブスの刑事としての能力に一目置くようになる。ただし、人種偏見が根強い町であるために、捜査には困難が常につきまとう。 事件はようやく解決し、ティッブスと署長との間には奇妙な友情のようなものが生まれていた。ティッブスが町を去る日、駅には彼を晴れやかな表情で見送る署長の姿があった。 NET版:初回放送1972年11月5日『日曜洋画劇場』 21:00-22:55 演出:内池望博、翻訳:木原たけし、制作:東北新社 日本テレビ版:初回放送1981年2月4日『水曜ロードショー』21:02-22:54 TBS版:初回放送1983年5月5日『SONY PRESENTS 名作洋画ノーカット10週』23:48-25:48 プロデューサー:熊谷国雄(TBS)、演出:伊達康将、翻訳:木原たけし、効果:遠藤堯雄/桜井俊哉、調整:前田仁信、製作:東北新社/TBS BDにはNET版とTBS版が収録 In the Heat of the Night  歌:レイ・チャールズ 作曲:クインシー・ジョーンズ 作詞:マリリン・バーグマン/アラン・バーグマン 冒頭の有名な列車のロングショットは、撮影監督ハスケル・ウェクスラーが本屋で立ち読みしていた家庭用のカメラ撮影用の本からヒントを受け、金物屋から網戸の網を買ってきて、カメラに装着し、助手と2人きりで撮影した。 人種差別のひどい南部をシドニー・ポワティエは拒否していた。実際に映画に出て来るカーチェイスの様に、何度も嫌がらせを受けた。撮影はイリノイ州でロケ撮影を行ったが、広大な綿畑の場面はテネシー州において撮影した。温室での場面も実在している温室を利用し、植えられていたランは15000ドルの価値があった。 州境の橋の場面では、映画史上初めてズームレンズを装着して撮影した。 実力者の未亡人役だったリー・グラントは赤狩りによって映画界を干されて、この作品が復帰第1作目となった(彼女は赤狩りの最中に本当に夫を失っている)。 警察署長役のロッド・スタイガーは絶えずガムを噛み続けることを訝しがった。最初は嫌がっていたが、そのアイディアが良かったので噛み続けることにした。結局撮影中263箱分のガムを噛み続けていた。 警察署長宅でのシドニー・ポワティエとロッド・スタイガーとの会話の場面はすべてアドリブで撮影された。 ロッド・スタイガーが演じた警察署長役は、現在でも一般的になったカルト的な偶像になっている。この南部を代表とするステレオタイプ的な役柄は、広告などにも利用されている。 「みんな私をミスター・ティッブスと呼んでいる!(They call me Mister Tibbs!)」という台詞は、アメリカ映画の名セリフベスト100で第16位にランクインしている。 シドニー・ポワティエ自身が一番大好きな映画の1本である。 映画ではヴァージルはペンシルべニア州フィラデルフィア市警から派遣されて来ているが、ボールの原作ではヴァージルが所属するのはカリフォルニア州パサディナ市警察。パサディナ市警察では、作品を記念して“極秘の公務により出張中、帰署時期不明”の扱いでヴァージルを署員として登録しているという。 物語の終幕は、原作では署長が握手をしようか迷ったまま結局出来ずに刑事を送り出すが、映画では二人が握手をして別れるハッピーエンドに変更されている。 ^ 『アカデミー賞のすべて』 共同通信社、2007年4月9日発行。 ^ a b c d e f g DVD『夜の大捜査線』解説音声より 夜の大捜査線 - allcinema 夜の大捜査線 - KINENOTE In the Heat of the Night - オールムービー(英語) In the Heat of the Night - インターネット・ムービー・データベース(英語)", "『タイトロープ』(原題:Tightrope)は、1984年制作のアメリカ合衆国のサスペンス・スリラー映画。 クリント・イーストウッド主演兼製作。彼が主演した『アルカトラズからの脱出』の脚本を手掛けたリチャード・タッグル(Richard Tuggle)が脚本兼監督(初監督作品)。クリントの実の娘、アリソン・イーストウッド(当時12歳)が彼が扮する主人公の娘役で父子共演している。 娼婦連続殺人事件を追ってニューオーリンズの歓楽街に潜入する刑事。異常な快楽にのめり込んでいく刑事の行き着く先は!?異色のサイコサスペンス。 ニューオリンズ 市警殺人課のウェス・ブロック刑事は離婚後、アマンダとペニーという2人の娘と暮らしていた。歓楽街フレンチ・クォーターで働く赤毛の娼婦が殺された。娼婦は手錠をはめられ、前後から犯された上、赤いリボンで首をしめられていた。美女殺人の2人目の犠牲者だった。レイプ・センターのベリルという女性が面会にきて、捜査の手ぬるさをなじられる。夜、聞き込み捜査を再開し、ある娼婦の挑発に乗る。ネクタイを忘れて出てきた刑事をスニーカーの男が見つめていた。第3の犠牲者。ブロックは聞き込み先の娼婦に手錠をかけてセックスし、快感を覚える。元妻は結婚して子どもを引き取るという。第4の犠牲者はブロックと寝た娼婦だった。アスレチック・クラブでベリルに再会し、ミシシッピ川の遊覧船で食事をし、互いに心が通じあう。届いた殺人予告にタイプされた名刺をたよりにサムの店へ行くとプラリーヌの店へ行けといわれる。近寄ってきたゲイの1人が倉庫で犯人と会うという。約束の時間に倉庫に着き、ゲイの死体を発見。続いて2人の犠牲者。同僚から「犠牲者たちを知っているのか」といわれて嘘をつく。第7の犠牲者の近くの像にブロックのネクタイが結んであった。次の夜、ブロックは娘2人、ベリルと一緒に カーニヴァル を楽しむ。4人をスニーカーをはいたピエロ姿の風船売りがじっと見つめていた。犯人像がしぼられ、ビール工場を訪ねる。夜、ブロックが帰宅するとアマンダは両手に手錠をはめられ犯されていた。家政婦が殺されていた。背後から襲われ、抵抗すると犯人は逃げ出した。ビール工場に勤めるロルフという男が浮上。元警官で2人の少女をレイプしてブロックに逮捕された男だった。警察はベリルの家を見張るが、ロルフは見張りの刑事を殺して侵入し、ベリルを殺そうとするが抵抗。駆けつけたブロックが長い追跡の末に墓場から鉄道の線路で追いつく。乱闘のところに列車が通過。ブロックが立ち上がると、ロルフの手首だけが残っていた。 テレビ朝日版がBDに収録 ^ Tightrope (1984) - Box Office Mojo ^ 彼女のデビュー作品である。 タイトロープ - allcinema タイトロープ - KINENOTE Tightrope - オールムービー(英語) Tightrope - インターネット・ムービー・データベース(英語)" ]
ABC01-02-0094
少年ネロと愛犬パトラッシュの心温まる物語「フランダースの犬」の作者は誰でしょう?
ウィーダ
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[ "ウィーダ", "エレナ・ホグマン・ポーター", "エドモンド・デ・アミーチス", "ワルデマル・ボンゼルス", "ルイーザ・メイ・オルコット" ]
[ "ウィーダ(Ouida, 1839年1月1日 - 1908年1月25日)は、イギリス・サフォーク州ベリー・セント・エドマンズ(英語版)出身の女性作家。ウィーダはペンネームで、彼女が幼児の頃、本名「ルイーズ」 (Louise) をそう発音していたことに由来する。本名は、マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー (Marie Louise de la Ramée) という。日本では1872年発表の『フランダースの犬』で知られる。 フランス人の父ルイ・ラメーとイギリス人の母スーザン・サットンとの次女。姉については一切が不詳。20歳ごろより小説を書き始め、1863年にデビュー作となる『囚れの身となって』 (Held in Bondage) を発表して作家活動に入る。代表作に1867年『二つの旗の下に』 (Under Two Flags) 等がある。これは出世作になっており、後に映画化されている。その他、生涯に『ストラスモー』(Strathmore 1865年)、『ニュールンベルクのストーブ』(The Nürnbergstove 1882年、\"Stories for Children\"に収録)、『銀色のキリスト』(The Silver Christ 1894年)をはじめ40冊以上の物語を執筆している。1870年ごろ、父が没したためイタリア王国のフィレンツェに移住した。犬好きで動物愛護協会設立に尽力し、晩年は多数の犬と暮らした。『フランダースの犬』執筆当初は売れっ子作家であり上流階級のサロンに出入りするなど人気の絶頂期にあったが、晩年には多額のペットの飼育費が生活費を圧迫し住む家も失うなど困窮を極める。1908年、肺炎でヴィアレッジョに没し、バーニ・ディ・ルッカのイギリス人墓地に葬られる。一度は結婚していたが離婚しており、その後は独身だった。墓標は本人の遺した文学を愛する読者により寄贈されたもので、生家の残る現在の英国のベリー・セント・エドマンズでは記念碑が建っている。 村岡花子 訳 『フランダースの犬 改版』新潮文庫 新潮社 ISBN 4-10-205401-4 『ニュールンベルクのストーブ』、『二つの旗の下に』、『銀色のキリスト』併録 雨沢泰 訳 『フランダースの犬 完訳版』偕成社文庫 偕成社 ISBN 978-4-03-652700-7 『ウルビーノの子ども』、『黒い絵の具』併録 作者:ウィーダについて ド・ラ・ラメー マリー・ルイーズ:作家別作品リスト - 青空文庫", "エレナ・エミリー・ホグマン・ポーター(Eleanor Emily Hodgman Porter、1868年12月19日 - 1920年5月21日)はアメリカ合衆国の小説家。ニューハンプシャー州リトルトン出身。多くの恋愛小説・家族小説・ギャグ小説を手がけ、中でも「ポリアンナ」シリーズは最大のヒット作になった。 生まれながらに病弱で、高校を中退。療養後に歌手を目指してボストンのニューイングランド音楽院に入学するが結局挫折。 24歳でジョン・ライマン・ポーターと結婚してマサチューセッツ州に移り住み、小説を書き始める。 34歳で『金髪のマーガレット』で小説家デビュー。「ミス・ビリー」シリーズで恋愛小説家としてブレイクする。が、2年後に出版した「ポリアンナ」シリーズで児童小説家として空前のヒットを飛ばし、「ミス・ビリー」シリーズは一気に過去の物となった。 半自伝的小説『スウ姉さん』を出版した1920年、マサチューセッツ州ケンブリッジの自宅で51歳でこの世を去る。遺体は同地のマウント・オーバーン墓地に埋葬され、墓石には『著作を通して幾百万もの人々の人生に光をもたらした人 Who by her writings brought sunshine into the lives of millions』と刻まれた。 1907年「金髪のマーガレット(\"Cross Currents\")」(偕成社) デビュー作で、シリアスな家族小説。 大都会で母と生き別れたマーガレットは、貧民街で荒んだ生活を送り心を閉ざしてしまうが、様々な体験から強く成長する。一方母も、娘を失くした事で心を病むが、孤児への慈善事業を通して豊かな生活の中で見失っていた物を見つけていく。引き裂かれた親子が再び出会う事はあるのか…。 1908年「\"Turn of the Tide\"」 「金髪のマーガレット」の続編。未翻訳。 1911年「花ひらくビリー(\"Miss Billy\")」 恋愛小説。初のヒット作。 1912年「ビリーの決心(\"Miss Billy's Decision\")」 1914年「ビリーの結婚(\"Miss Billy Married\")」 1913年「少女パレアナ」/「少女ポリアンナ(\"Pollyanna\")」(角川書店ほか) コメディ調の家族小説。クリスチャンヘラルド誌で週刊連載されていた。 両親を一度に亡くし叔母の家に引き取られた少女ポリアンナが、父との約束である「よかった探し」を通してベルディングスビル(架空)の町を明るく変えていく。 町に住む変わり者達を通して、かつて母親達の世代に起こった事件を解き明かしていく、謎解き的な面白さも特徴。 1915年「パレアナの青春」/「ポリアンナの青春(\"Pollyanna Grows Up\")」(角川書店ほか) 「少女パレアナ」の続編。大幅にギャグ要素が追加された恋愛小説。 前半こそ前作の焼き直しなのだが、パレアナが大人に成長した後半では突飛なギャグで複雑な恋愛模様を笑わせてくれる。 1916年「ぼく、デイヴィッド(\"Just David\")」(岩波少年文庫) バイオリン弾きの少年が周囲の人々を変えて行く。 1920年「スウ姉さん(\"Sister Sue\")」(角川書店) 死の翌年に出版された絶筆。「ポリアンナ」シリーズのアンチテーゼ的な作品。 苦労人のスウ姉さんが、屈折の人生を通して本当の愛を見つけていく。 作者の皮肉っぽい毒舌とギャグセンスが光る作品。登場人物の自分勝手な振る舞いが大いに笑わせてくれる。 作者であるエレナ自身による作品は2作のみであるが、大ヒットしディズニーで実写映画化された。また作者の死後に数多くのアンソロジーが発表された(「牧場のポリアンナ」、「ポリアンナと金貨」など)。日本でも多くの出版社から翻訳され、『愛少女ポリアンナ物語』としてアニメ化されたことでヒットした。日本語訳で比較的簡単に入手できるのは角川文庫クラシックス版である(岩波文庫・偕成社文庫版は大きな書店でしか扱われていない事がある)。 日本語訳タイトルにの表記にはパレアナ(1930年の村岡花子訳など)とポリアンナ(1960年のディズニー映画で広まった呼び方)が混在しているが、これは原題Pollyannaの発音が、日本語で表記するにはあいまいで捉えにくい音であるためと考えられる(厳密に発音を分析すれば、Pollyannaのpoはポとパの中間ぐらいの音、llyはリとレの中間ぐらいの音である。またannaは、アナまたはアーナとでも表記すべきところで、アンナというローマ字読みの表記は、英語としては本来正しくない。したがって、原音に忠実な表記としては、パレアナ、パレアーナ、ポリアナ、ポリアーナなどが適切と考えられる。また、パリアナ、ポレアナなどと表記しても、間違いとは言えない)。 主人公の名前「Pollyanna」は、当時アメリカ中の店やホテルの名前になる等のブームになり、ウェブスター英語辞書などに「喜悦」という意味の言葉として掲載されるなど、国際的な単語・心理用語になった。 なお、谷村まち子著の『七色の虹』(昭和30年、ポプラ社)は Pollyanna の翻案小説である。 ヒロインは美知子で、“喜びごっこ”をする。父は貧しい牧師。両親をなくした美知子を叔母がひきとる。195ページからの章「思わぬ災難」で、美知子は自動車にはねられる。 原作 日本基督教興文協会版 パレアナ 中央公論社版 喜びの本 角川書店版 少女パレアナ パレアナの青春 偕成社版 少女ポリアンナ ポリアンナの青春 岩波書店版 少女ポリアンナ ポリアンナの青春 アニメ版 竹書房文庫版 愛少女ポリアンナ物語 角川書店版 世界名作アニメ全集4巻 愛少女ポリアンナ物語 秋田書店版 TVアニメ名作コミックス 愛少女ポリアンナ物語 ぎょうせい版 絵本アニメ 世界名作劇場愛少女ポリアンナ物語 映画 1920年 青春の夢 無声映画。 ポール・パウエル監督、メアリー・ピックフォード主演。 1960年 ポリアンナ デビッド・スウィフト監督、ヘイリー・ミルズ主演。 ディズニー映画。ポリアンナの事故の原因が「木から落下」になるなど、変更点あり。 TVドラマ 1982年 ポリアンナの冒険 アメリカでTVドラマ化。 2003年 ポリアンナ イギリスでTVドラマ化。 TVアニメ 1986年 愛少女ポリアンナ物語 日本でTVアニメ化。 ポリアンナ症候群 ポリアンナ効果 エレナ・ホグマン・ポーターの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック) Eleanor H. Porterの作品 - プロジェクト・グーテンベルク PBS biography Papers at Dartmouth Eleanor H. Porter - インターネット・ムービー・データベース(英語) Eleanor H. Porter - http://www.online-literature.com/ エレナ・ホグマン・ポーター - Find a Grave", "エドモンド・デ・アミーチス(Edmondo De Amicis, 1846年10月21日 - 1908年3月11日)は、イタリア王国の作家。イタリア北西部(当時サルデーニャ王国領)の町オネッリア(1923年よりインペリア市の一部)で生まれる。イタリア統一運動の時代に育ったアミーチスは1860年、14歳のときに、ジュゼッペ・ガリバルディの千人隊(赤シャツ隊)に志願したほどの愛国者であった(幼少として断わられる)。 代表作に、統一イタリアの子供の教育用に書いた愛国小説『クオーレ』 (Cuore) がある。この作品の中の挿話短編「アペンニーノ山脈からアンデス山脈まで」 (Dagli Appennini alle Ande) が、日本では『母をたずねて三千里』のタイトルで知られている。『クオーレ』を初めて日本語訳したのは教育者の三浦修吾で、アミーチスが「愛の学校」というサブタイトルをつけた。 アミーチス エドモンド・デ:作家別作品リスト - 青空文庫", "ワルデマル・ボンゼルス(Waldemar Bonsels、1881年2月21日 - 1952年7月31日)は、ドイツ・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州内の、ハンブルクに接するシュトルマルン郡(en:Stormarn、de:Stormarn)の一都市アーレンスブルク(en:Ahrensburg、de:Ahrensburg)生まれの作家、児童文学作家。ワルデマール、ワイデマール、ウァイデマル、ヴァルデマールの表記もある。 若い頃からヨーロッパ各地やインド・エジプト等へ旅し、各地の植物・動物を観察し、作品にまとめていった。独特の感性と深い愛情に基づいた自然観察と、宗教的敬虔に裏打ちされた神秘的な世界とが織り成す作品は、ドイツ新ロマン主義文学の傑作の一つとして多くの読者を得た。しかし、晩年の世界観を詠った哲学的な詩作品は、そのような成功には至らなかった。 武田忠哉は世界文藝大辭典(1937年)にこう記している。 1952年7月31日、バイエルン州オーバーバイエルン県バート・テルツ=ヴォルフラーツハウゼン郡(en:Bad Tölz-Wolfratshausen、de:Bad Tölz-Wolfratshausen)にある、シュタルンベルク湖畔のミュンジング市(en:Münsing、de:Münsing)アンバッハ(de:Ambach)で没した。 『蜜蜂マーヤとその冒険』“Die Biene Maja und ihre Abenteuer”(The Adventures of Maya the Bee) (1912年) 『天上の人々』“Himmelsvolk”(People in the sky) (1915年) 『インド紀行』“Indienfahrt”(Voyage in India) (1916年) 『死の故郷』“Die Heimat des Todes”(The Homeland of Death) (1916年) 『楽しい幼年時代』“Fröhliche Tage der Kindheit”(Happy Days of Childhood) (1931年) 『マリオと動物たち』“Mario und die Tiere”(Mario and the Animals) (1928年) テレビアニメ『みつばちマーヤの冒険』 実吉捷郎訳 『蜜蜂マアヤ』 岩波書店〈岩波文庫〉、1937年、ISBN 4-00-324591-1。 篠田一士ほか編 『集英社 世界文学大事典』4 集英社、1997年、ISBN 4-08-143004-7。 吉江喬松編 『世界文芸大辞典』第6巻 日本図書センター、2004年、ISBN 4-82-058961-X。 ^ 実吉捷郎訳『蜜蜂マアヤ』(1937年、岩波文庫)の「附記」参照。 ^ 利用した版は上述の「参考文献」欄に記したもの。 ^ 武田忠哉は1944年に亡くなっているため、現在、著作権の保護期間を満了している。よって、全文をここに録して広く供することにした。 ^ 邦訳多数。邦題には、「みつばちマーヤの冒険」「みつばちマーヤ」「みつばちマーヤのぼうけん」「蜜蜂マアヤ」「ミツバチ・マアヤの冒険」などがある。 ^ 吉村博次訳『大空の種族―花と動物と神の童話』(創文社〈アルプ選書〉、1960年)として邦訳がある。 ^ 実吉捷郎訳になる邦訳(岩波文庫、上:1943年、ISBN 4-00-324592-X/下:1945年、ISBN 4-00-324593-8)がある。 ^ 鈴木正治(すずきまさじ)訳・木下公男絵になる邦訳(白水社、1964年)がある。 ^ 吉江喬松編『世界文藝大辭典』(中央公論社、1937年)の復刻版。 ワルデマル・ボンゼルス(Waldemar Bonsels) - 邦訳リスト(翻訳作品集成(Japanese Translation List))。", "ルイーザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcott, 1832年11月29日 - 1888年3月6日)は、アメリカの小説家。1868年に書かれた『若草物語』(Little Women)で知られる。 ルイーザ・メイ・オルコットは、著名な超越主義者(Transcendentalist)であるエイモス・ブロンソン・オルコット(Amos Bronson Alcott)とアビー・メイ(Abby May)の娘であり、現在のペンシルベニア州フィラデルフィアの一部であるジャーマンタウン(Germantown)に生まれた。一家は1844年にボストンへ移住し、そこで彼女の父は実験学校を設立し、またラルフ・ウォルドー・エマソンやヘンリー・デイヴィッド・ソローらと共に超越主義者クラブに参加している。 幼少期から成人期初期にかけての間、オルコットは家族の貧困と、超越主義の考えを分かち合っていた。1840年にいくつかの学校設立の試みが挫折した後には、彼女の家族はマサチューセッツ州コンコードのコンコード川(Concord River)沿いにある広さ2エーカーの土地に建つ小屋に移り住んだ。1843年 - 1844年にかけてのわずかな期間には、ユートピア的な共同体であるフルーツランズに移住し、そこが瓦解した後は貸家に住み、さらにその後は母親の遺産とエマソンの援助で購入したコンコードの家「オーチャード・ハウス」(Orchard House)に移住した。オルコット姉妹の幼少期の教育は、自然主義者であるソローも関わったが主に父親によるもので、現代の基準に照らしてもなお非常に独創的かつ革新的なものであった。彼女はまた、家族の友人であるエマソンやナサニエル・ホーソーン、マーガレット・フラーなどの作家・教育者達からも教育を受けた。後にオルコットは新聞に掲載した短編『超越的な烏麦』(Transcendental Wild Oats)の中でオルコット一家がフルーツランズでの「質素な生活と高度な思考」の試みの中で経験したことについて書き、短編集『銀の水さし』(Silver Pitchers, 1876年)の中に収録している。 成長するにつれて、オルコットは奴隷制廃止論者、フェミニストとなっていった。1847年に一家は一週間ほど逃亡奴隷の家に住み、1848年にオルコットはセネカ・フォールズ会議(Seneca Falls Convention)によって出版された女性の権利に関する書物『感情宣言』(Declaration of Sentiments)を読み、賞賛している。家族の貧困のため、彼女は若い頃から臨時採用の教師、針子、家庭教師、家事手伝い、そして作家として仕事をしていた。彼女の書いた最初の本は、エマソンの娘エレン・エマソンのために書かれた『花のおとぎ話』(Flower Fables, 1854年)である。 1860年にオルコットは「ジ・アトランティック・マンスリー」(The Atlantic Monthly)誌に作品を書き始め、また1862年から1863年にかけて六週間ほど、ワシントンD.C.のジョージタウンにある合衆国病院で看護婦を務めている。「コモンウェルス」紙上に掲載され、『病院スケッチ』(Hospital Sketches, 1863年, 1869年再版)に納められた家族宛の手紙には、彼女の観察と気質による批評が蓄えられている。小説『ムーズ』(Moods, 1864年)もまた、考え抜かれた有望な作品である。 彼女の作品の中であまり知られていない分野として、たいていA・M・バーナードの筆名で書いていた熱情的な小説・物語がある。『愛の果ての物語』(A Long Fatal Love Chase)や『ポーリーンの情熱と罰』(Pauline's Passion and Punishment)といったこれらの作品は、ヴィクトリア朝の時代において「ポットボイラーズ(沸騰もの)」あるいは「血と雷の物語」などとして知られ、後にオルコット自身が『若草物語』で「小さな心には危険なもの」として言及している。こうした作品の主人公は、自分の目的の追求(しばしば、彼らを妨害したり屈辱を与えたりした人々に対する復讐が含まれる)のためにはあくまで信念を曲げず、執拗である。これらの作品は直ちに商業的な成功を収め、今日の読者にとっても非常に興味深い作品である。 それとは対照的に、オルコットは子供向けの道徳的・健全な物語も発表した。そして、半ば自伝的な物語『労働』(Work, 1873年)や、ジュリアン・ホーソーン(Julian Hawthorne)の作品ではないかと疑われた匿名出版の中篇『現代のメフィストフェレス』(A Modern Mephistopheles, 1877年)などの例外を除いて、彼女は大人向け作品の執筆に戻ることはなかった。 ルイーザ・メイ・オルコットの大成功は、『若草物語』(Little Women: or Meg, Jo, Beth and Amy, 1868年)の第1部が掲載された時から始まった。この物語は、彼女が姉妹達と一緒にコンコードで過ごした少女時代をもとにした半自伝的な話である。続編である『続・若草物語』(Good Wives, 1869年)では、主人公であるマーチ姉妹の大人時代と、それぞれの結婚について描かれている。『第三若草物語』(Little Men, 1871年)では、コンコードのオーチャード・ハウスで共に暮らした彼女の甥たちの人物と行動について記している。『第四若草物語』(Jo's Boys, 1886年)は、「マーチ家物語」の完結作である。彼女の後半生の作品は、『昔気質の一少女』(An Old-Fashioned Girl, 1870年)、『ジョーおばさんのお話かご』(全6巻、1871年 - 1879年)、『8人のいとこ』(Eight Cousins)とその続編『花ざかりのローズ』(Rose in Bloom, 1876年)など、その大部分が、彼女の多くの支持者達の間で有名であり続けた『若草物語』と同じ路線をとっている。 『若草物語』においてはジョーのキャラクターがオルコット自身をモデルにしたものであったにもかかわらず、オルコットはジョーと異なり、生涯結婚しなかった。1879年に彼女の妹のメイが亡くなり、彼女は当時2歳のメイの娘を引き取った。 後半生において、オルコットは女性参政権の主張者となり、コンコードで初めての投票権をもつ女性となった。 健康状態の悪化に反して、オルコットは残りの生涯も物語を書き続け、最後には南北戦争中の労働時に発症した水銀中毒の後遺症で倒れた(彼女は腸チフス患者の治療のためにカロメルを使用していた)。ルイーザ・メイ・オルコットは1888年3月6日、死の床に伏していた父を見舞った2日後にボストンで逝去した。満55歳没。 オルコットの生涯と活動の物語は最初にエドナ・D・チェニーの『ルイーザ・メイ・オルコット:その生涯、手紙、日記』(Louisa May Alcott: Her Life, Letters and Journals, 1889年)、続いてマデリーン・B・スターンの独創的な伝記『ルイーザ・メイ・オルコット』(Louisa May Alcott, 1950年)に記された。 花のおとぎ話(Flower Fables, 1855年) 病院スケッチ (1863年) ローズ一家 (The Rose Family: A Fairy Tale, 1864年) ムーズ (Moods, 1865年、再編集版1882年) 3つの教訓物語 (1868年) 若草物語 (Little Women, 1868年) 続・若草物語 (Little Women Married, or Good Wives, 1869年) 昔気質の一少女 (An Old-fashioned Girl, 1870年) 第三若草物語 (Little Men, 1871年) ジョーおばさんのお話かご (Aunt Jo's Scrap-Bag, 1872年 - 1882年) 労働:経験物語 (Work: A Story of Experience, 1873年) 8人のいとこ (Eight cousins, 1875年) 銀の水さし (1876年) 花ざかりのローズ (Rose in Bloom: A Sequel to \"Eight Cousins\", 1876年) 現代のメフィストフェレス (A Modern Mephistopheles, 1877年) ライラックの花の下 (Under the Lilacs, 1877年) ジャックとジル (Jack and Jill: A Village Story, 1880年) 第四若草物語 (Jo's Boys, 1886年) ルルのお話集 (Lulu's Library, 1886年 - 1889年) 花物語 (A Garland for Girls, 1888年) 喜悲劇 (Comic Tragedies Written by Jo and Meg and Acted by the 'Little Women' , 1893年) Shealy, Daniel, Editor. \"Alcott in Her Own Time: A Biographical Chronicle of Her Life, Drawn from Recollections, Interviews, and Memoirs by Family, Friends and Associates.\" University of Iowa Press, Iowa City, Iowa, 2005. ISBN 0-87745-938-X. 愛の若草物語 - 『若草物語』のアニメ化作品。 若草物語 ナンとジョー先生 - 『第三若草物語』のアニメ化作品。   オルコット ルイーザ・メイ:作家別作品リスト - 青空文庫 オールコット著 小さな大人達 - 物語倶楽部のインターネットアーカイブ。 Louisa May Alcottの作品 - プロジェクト・グーテンベルク" ]
ABC01-02-0095
芸能界のキムタクはスマップに所属していますが、プロ野球界のキムタクこと木村拓也選手が所属している球団はどこでしょう?
広島東洋カープ
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[ "広島東洋カープ", "オリックス・バファローズ (ファーム)", "阪神タイガース", "北海道日本ハムファイターズ", "東北楽天ゴールデンイーグルス" ]
[ "広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英語: Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。 広島県を保護地域とし、同県広島市南区にある広島市民球場であるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。 特定の親会社を持たない市民球団を源流としており、他球団と比較して特異な歴史を有する。地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており 親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない。その一方で、マツダ創業家である松田家一族の所有株式を全て合わせるとマツダの所有比率を上回り、議決権ベースでは過半数に達する。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同族経営を行っているという見方もある。市民が直接株式を保有するという意味での市民球団ではないが、特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせているという意味では今なお市民球団のイメージを有する。 1949年 正力松太郎の二リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた。広島は戦前から広島商や広陵高、呉港高といった名門校があり、鶴岡一人や白石勝巳、藤村富美男などの名選手が輩出した野球どころという下地があった。 正力の二リーグ構想が公に出た4月から、4ヶ月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた。四人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と四人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり、三人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島二区選出の衆議院議員・谷川昇と金鯱軍代表の広島県人・山口勲が訪ねてきて、「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と話した。谷川は当時公職追放中で公務からは外されていた。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが、山口に助力を要請され、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った。ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した。 9月28日、中国新聞紙上に初めて「広島カープ (Hiroshima Carp)」という五文字が一般にお目見得した。「チーム名は\"鯉\" 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球クラブ・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏連名をもって正式に日本野球連盟に届け出が行われた」と書かれた。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた。河口が早稲田大学出身のため、早大OBの伊達正男に監督を依頼するつもりでいたが、中国新聞の記事を読んだ大陽ロビンスの監督・石本秀一が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ、郷土チームにうってつけの監督と、一も二もなく12月3日、初代カープ監督に石本の就任が決定した。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので、チーム作りは石本に一任した。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる。設立資金は、広島県と広島市、福山市など県内の各市で出すことにした。本拠地は広島総合球場とした。 核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが松竹と改称して松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた灰山元治、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章ら23人を入団選手として発表した。 1950年 1月15日、寒風吹きすさび、砂塵が舞い上がる西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)のただの野原でチーム結成披露式が行われ、ファン約1万人が押し寄せた。カープ選手紹介の前に、カープ創設に努力したお偉方の祝辞が3時間以上続いた。人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着していなかったので石本監督が一番有名であった。選手は総勢20人にも満たない。当初遠目にながめていた人たちも選手がお披露目のキャッチボールを始めるとその周囲をグルリと取り囲んだ。続いてトスバッティングを演じたところ、大受け。こうして熱烈歓迎を受けて、空前絶後の\"貧乏チーム\"が誕生した。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる。16日から合宿に入り合宿所は、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業広島製作所、広島市西区観音新町)の社員寮を借りた。暖かいキャンプ地に行けるはずもないので、合宿所近くの広島総合球場を県の計らいで無料で2月1日からキャンプを張った。石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、白石勝巳助監督が事実上の指揮官であった。決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ、4月に合宿所は皆実町(現・南区)の「御幸荘」に引っ越す。 3月10日に福岡市の平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5対6で敗れている。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど惨憺(さんたん)たるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ。さらに勝率3割に到達できなかったチームは両リーグ通じて広島だけ(勝率.299)だった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。 この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた。そのため当初1100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した。当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。このため「株式会社広島野球クラブ」が設立できたのは1950年9月までずれ込んだ。 こうして開幕から僅か3ヵ月で経営危機説が流れるようになった。5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、2軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。130~140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させた。 6月25日、セリーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた2軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている。さらに7月12日に竹原市出身の池田勇人大蔵大臣に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。セリーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった。 12月7日、カープ選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。 1951年 年明け早々、セリーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二が、日刊スポーツ1月9日付け紙上で、二年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープと西日本パイレーツに対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。だから広島は大洋の傘下に入って\"広島\"とか\"カープ\"の名を残せばいい。西日本は今年どうしてもやっていけないなら\"一年間休めばいい\"」などと猛烈に批判した。 球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずは寿屋サントリーに相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣池田勇人に許可を求めたが「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。続いて専売公社に話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった。 こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められた。白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まり、その日のNHKラジオが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた。「ついにその瞬間がきた」、合宿所でこのニュースを聞いたカープ選手の中には涙を流す者さえいた。しかし役員会に遅れて参加した石本監督らの説得で合併方針は撤回され、ファンに協力を求め危機打開を図ることになった。何とか3月15日にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に無事出発。しかし今度は旅館代がなく、選手は甲子園のアルプススタンド下の薄暗い部屋で雑魚寝した。 石本監督は3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴え、3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表、広島県民の心を動かした。こうした動きに連盟も折れ、3月23日、鈴木竜二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定し、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対阪神戦となった。 石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回り辻説法、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた。また石本や白石は試合後に選手を連れてあっちの町内、こっちの町内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる\"カープ鉛筆\"を売ったりした。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地広島総合球場前での酒樽の中にカンパする「樽募金」も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時)。カープはこの年130万円の黒字を計上し、球界のみならず日本中を驚かせた。この一件は、通称昭和の樽募金と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。 しかし、シーズン途中に前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約でもめ、巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった。 12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する。これは当時、12月15日までに球団は選手に対して、契約更改を書類で申し込む規則になっていたのだが、印刷会社の手違いにより、名古屋に里帰りしていた長谷川には、期日までに書類が届かなかったことに端を発する。だが翌年3月10日のコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている。 1952年 開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いであった。 こうして迎えた1952年シーズン、開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈んでいた。だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた。長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。 なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。 10月15日、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。またこれら動きとは別に、シーズン終了後の代表者会議で勝率3割を割った松竹に合併を申し入れたが拒否されている(最終的には松竹ロビンスは大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなった)。 1953年 松竹から赤嶺昌志一派(小鶴誠・金山次郎・三村勲)が集団で移籍した。小鶴は3月1日の午前2時48分に広島駅に到着したが、既に200人のファンが待ち構えており、小鶴をトランペットで盛大に祝っている。小鶴・金山に続いて外国人選手を獲得するため、後援会は更に400万円を集め、その結果、日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)・光吉勉が入団した。6月19日に銭村らは広島入りしたが、その際に盛大なパレードが挙行され、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。 さらにオールスターのファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。 なお5月1日、球団役員会にて、球団と後援会を1本化し、石本監督は「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念し、助監督の白石が選手兼任で監督に昇格することが決定。5月3日の国鉄戦が石本の最後の指揮となった(試合は7-1で勝利)。 また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。 1954年 この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。また、発足したばかりの新日本リーグに、二軍(広島グリーンズ)が参加した。 この頃になると、給料の遅配はなくなったように球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった。 新婚旅行のため来日していたジョー・ディマジオとマリリン・モンロー夫妻が2月11日広島入りし、広島に4日間滞在。宮島口(現:廿日市市)の一茶苑と広島市内の三瀧荘に宿泊し、広島平和記念公園やABCC(現:放射線影響研究所)などを訪問。12日から2日間にわたり、ディマジオ、ボビーブラウン、フランク・オドールが広島県総合球場でカープナインに野球指導を行った。 シーズンは、開幕試合の4月3日中日戦から7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。 1955年 この年から助監督に門前真佐人、2軍監督に野崎泰一が就任する。 2月28日、カープの産みの親である谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら脳出血のため急逝する。 3月11日、入団したばかりの日系2世平山智が広島入りし、市内パレードに10万人が押し寄せる。シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。 また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった。そこで東洋工業社長の松田恒次の提案により、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定。12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議する。同日、中国新聞東京支社にいた球団代表の河口豪はスポーツ紙記者から「広島からカープは解散したと通信があったが事実か」と問われた際、「そんなバカげたことはない。新球場の設計が9分どおり出来ているのに解散はありえない」と芝居を打って広島市民球場 (初代)の設計図を公表している。 その結果、12月19日の第1回新会社発起人会を経て「株式会社広島カープ」(初代社長は広島電鉄の伊藤信之)が発足した。資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。 なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」、「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」とパ・リーグから非難の声が上がるが、河口は既にセ・リーグ会長の鈴木竜二と話をつけており、またセ・リーグ理事は6人中4人が河口と同様に新聞出身者であり同情的であったことから、最終的に「会社の名称変更にすぎない」と押し切っている。 1956年 開幕から4連敗を喫するなど序盤戦から低迷し、5位(45勝82敗3分)に終わる。 5月20日、広島総合球場で開催された対読売ジャイアンツ戦で木戸美摸投手負傷事件が起こる。 7月17日、地元政官界の六者会談を経て、広島市民球場 (初代)の建設地が「旧二部隊営庭跡地」(現在の広島電鉄原爆ドーム前停留場横)に正式決定する。 1957年 1月14日、地元10社が広島市民球場の建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れ、2月22日に「旧二部隊営庭跡地」にて、新球場起工式が行われる。 7月22日、広島市民球場の完工式が行われ、引き続いて行われた点灯式にはファン1万5千人が詰めかける。7月24日に行われた新球場開幕試合の阪神戦では、初ナイターで集まった大観衆を前にして、緊張のため選手が皆固くなってしまい1-15で大敗している。 シーズンは、白石監督の「闘志無き者は去れ」のスローガンの元、キャンプから猛練習を行った成果が出て、オールスター戦までは32勝26敗と健闘したものの、後半に入って失速し、最終的には54勝75敗1分の5位に終わっている。 1958年 広島市民球場が完成した結果、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来たこともあって大補強を敢行する。その結果、古葉毅、森永勝治、小坂佳隆、鵜狩道夫、拝藤宣雄、大和田明ら、1960年代のチームを支える人材が一斉入団した。一方で「立教三羽烏」とうたわれた長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の獲得にも動いたが、彼らは入団の意志は見せなかった。 また、1950年の灰島元章以来、8年ぶりにコーチを置いた(ヘッドコーチに門前真佐人、コーチに野崎泰一、藤村隆男)。7月10日には、総工費1,700万円をかけた自前の選手寮「三省寮」が完成する。同月29日には、広島では初となるオールスター戦が開かれた。 シーズンは、4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど前半戦の不調がたたって、5位(54勝68敗8分)に終わった。シーズン終了後の12月26日、小鶴誠がチーム若返り策により引退を表明する。 1959年 この年は、新人とトレードを合わせて19人もの補強を敢行する。その結果、チームの平均年齢が21.9歳と、当時12球団で最も若いチームとなった。また広島市民球場(初代)で行われた春のキャンプでは、球団初のピッチングマシンを導入している。 2月19日、新しい球団旗を発表。この球団旗は以降、変更されていない。 5月7日の対阪神タイガース戦で球団通算500勝を達成。8月には二軍がウエスタン・リーグ初優勝達成。 シーズンは、前年に引き続き5位に終わったものの、勝敗は59勝64敗7分であり、勝率.481は過去最高であった。主軸に座った大和田明は、樋笠一夫の持つ球団記録21本塁打を塗り替える23本塁打を放っている。またこの年の観客動員数は862,965人と、12球団中、巨人に次ぐ2位の集客力を見せた。 1960年 1月11日、河口豪球団代表が辞任、後任は山本正房中国新聞社社長。 この年、球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)する。大石清が球団3人目となるシーズン20勝超え(26勝13敗)し、興津立雄は打率2割6分8厘・21本塁打・64打点の成績を残してチーム3冠王となった。1953年以来7年間指揮をとった白石監督はシーズン終了直後の10月6日に、「チームの地固めは出来た」として退任を発表。 1962年 門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。 前年に現役を引退した上田利治がコーチに就任。専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で就任している。 1963年 門前に代わる新監督として小鶴誠を招聘しようとするが球団役員の意志統一が出来なかったため、球団社長:伊藤信之が辞任。後任に東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が就任し、白石勝巳が再び監督となる。 1964年 5月5日の対巨人戦(後楽園)において、巨人の王貞治を抑え込む作戦として白石監督考案の王シフトが初めて使われる。 1965年 5月1日、対大洋戦(川崎)に勝利し、球団初の単独首位に立つが、翌日には首位陥落で一日天下に終わり、このシーズンは首位巨人と31ゲーム差の5位で終わる。 1966年 6月5日、広島総合球場で開催された対阪神戦で山本一義が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。 1963年から1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。 1968年 東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となりオーナーに就任。松田耕平がオーナー代行に就任。球団名を広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとしつつ、大半の株を松田家が持つ同族経営球団となる。根本陸夫が監督に就任。根本はトレードでベテランの山内一弘を獲得する。大打者であった山内を選手たちに見せることで、チームを活性化させるのが狙いだった。 阪神との開幕3連戦に連勝し首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。しかし6月には首位に返り咲き、12連敗がスタートする7月初めまで守った。外木場義郎・安仁屋宗八両投手、野手では山内の活躍もあって3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは、当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録。なおシーズン中に12連敗してのAクラスはプロ野球史上唯一。 1969年 前年とは一転し、8月に11連敗するなどで最下位に終わる。根本時代は、当時巨人がV9時代を迎えていることもあり、成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄と山本浩二のYK砲に水谷実雄ら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した。 シーズン後、当時の監督である根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から上田利治コーチが退団している。 1970年、1971年 2年連続でシーズンを勝ち越し4位と健闘。1970年10月19日より衣笠祥雄の連続試合出場が始まっている。11月15日に松田恒次オーナーが死去、後任オーナーには、オーナー代行の松田耕平が就任。 1972年 開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、森永勝也打撃コーチが代行を務める。この年は、最下位に終わる。 1973年 別当薫が監督に就任する。開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し最下位。しかし、結果的にリーグ優勝しV9を達成した巨人と最下位の広島までのゲーム差が6という大混戦だった。 1974年 チームは最下位に終わるも金城基泰が最多勝・最多奪三振を獲得。しかし、10月12日に交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・ジョー・ルーツの次期監督就任を発表。 1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年に、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。 1975年 球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になった。 しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。この時、重松良典球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日古葉竹識がコーチから監督に就任。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二と衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど、「赤ヘル旋風」を巻き起こした。 中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、9月10日の対中日戦(広島市民)では乱闘事件があったものの、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝達成した。この時の先発は外木場義郎で、ウイニングボールを捕ったのはレフトの水谷。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝の外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した。またこの年は春に山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている。 経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。 1976年 池谷公二郎が20勝を挙げ最多勝と沢村賞。巨人・阪神との優勝争いに加われず当初は山本浩二の不振もあって低迷。9月は11連敗も記録。最後はかろうじて3位に。 1977年 5位に終わった。胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。12月23日、江夏豊が南海ホークスより移籍。南海の監督だった野村克也(古葉は南海でプレーし野村と親交があった)が古葉に「「江夏は)まだ使えるよ」と太鼓判を押したという。高橋里が20勝。3年連続同一チームから最多勝投手を輩出。セでは以降なし。一方前年の最多勝池谷投手はシーズン最多被本塁打48(歴代1位)の記録も。 1978年 カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。44本の山本浩二や、40本のヘンリー・ギャレット、33本のジム・ライトル、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した。また打点692、得点713は、ラビットボールを使用して本塁打の増えた1948年から1950年を除いてのプロ野球最多得点であった。しかし前半戦は苦戦が続き、首位巨人に10.5ゲーム差をつけられ、5位に沈む。後半戦は投打がかみ合い、31勝13敗7分と驚異的な追い上げを見せるも、巨人を逆転して優勝したヤクルトスワローズと5ゲーム差で、何とか3位を確保するにとどまった。 1979年 開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、高橋慶彦の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。第7戦では、江夏がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く(江夏の21球)。 1980年 この年は前年とは打って変わり序盤から首位を独走し続け、2位以下に大差をつけて球団初の連覇を達成。勢いそのままに、近鉄を4勝3敗で下し、日本シリーズ2連覇を成し遂げた。同年オフ、江夏豊と日本ハムのエース高橋直樹との大型トレードが成立。 1981年 この年は、序盤から苦戦が続き、期待の高橋直樹がわずか2勝、一時は最下位に沈むなど、8月終了時点で46勝48敗6分の4位と、首位巨人に12.5ゲーム差をつけられる。9月に15勝3敗と驚異的な追い上げを見せるも、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃す。 1982年 山本が無冠に終わるなど打線が振るわず、結果は4位に終わる(1980年代唯一のBクラス)。オフにテコ入れとして福士敬章、内田順三、金田留広らに戦力外通告、水沼四郎を中日へトレード、水谷実雄と阪急ブレーブス・加藤英司との大型トレードを敢行するなどV戦士放出を敢行。北別府学が初の最多勝、津田恒美が活躍し、球団初の新人王を獲得。 1983年 7月終了時点まで巨人と首位争いを演じるも、8月に4連敗を2度喫するなど5勝14敗1分と失速、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わる。 1984年 4月に12連勝を記録するなど、14勝2敗2分と開幕ダッシュに成功する。その後、中日の猛追にあい、首位を明け渡すと、8月終了時点で中日と1ゲーム差の2位となる。しかし、9月6日の阪神戦に勝利し、首位に返り咲くと、そのまま逃げ切り、4年ぶりのリーグ優勝。山本、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍。この年75勝を挙げたが、これは2016年に更新されるまで球団シーズン最多勝記録だった。西武から復帰の小林誠二が最優秀防御率。小早川毅彦が新人王。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦し、4勝3敗で3度目の日本一。 1985年 サウスポーの高木宣宏がブレイクしオールスター前までに9勝を挙げるも後半不調に陥る。2年目の川端順が新人王。高橋慶彦が5年ぶり3度目の盗塁王。8月まで阪神、巨人と優勝争いを演じていたが、9月に阪神との直接対決に連敗し、7連敗を喫するなど失速し、最終的には優勝した阪神と7ゲーム差の2位に終わる。この年優勝した阪神には15勝11敗、同じく優勝争いをした巨人にも14勝12敗と勝ち越したものの、阪神が17勝6敗3分と大きく勝ち越した大洋に対し10勝14敗2分と負け越したのが響いた。古葉がこの年限りで監督を勇退した。同年、松田元がオーナー代行に就任している。 1986年 阿南準郎が監督となり、阿南は「『山本浩二監督』実現までのつなぎ」と言われたが、就任1年目にリーグ優勝を果たす。レギュラーが固定され不動のオーダーと言われた。北別府が投手部門のタイトルを総なめ。長冨浩志が新人王。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦し初戦引き分けの後3連勝するも、第5戦で津田が投手の工藤公康にサヨナラタイムリーを打たれて敗れたのをきっかけに流れが変わり、第8戦まで縺れ込んだものの3勝4敗1分で敗退となった。 前年とこの年はチームに外国人選手は在籍しておらず、スターティングメンバーも「純国産打線」であった。また、この年限りで長年チームの4番を務めてきた山本が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。 1987年 6月13日、衣笠がルー・ゲーリッグの2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新、衣笠はこの年の最終戦までに2215まで記録を伸ばし現役を引退した。4番打者は5月末まではランス、その後小早川、もしくは片岡光宏が務めた。正田耕三が首位打者、ランスが本塁打王を獲得するも3位に終わる。 1988年 2年連続の3位に終わる。正田が2年連続の首位打者、大野が防御率1.70で最優秀防御率と沢村賞を受賞、阿南が監督を退任した。同年オフ、山本浩二が監督に就任。 1989年 新外国人のロッド・アレン、ウェイド・ロードンが加入。アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、西田真二もしくは長内孝でクリーンナップを形成した。津田が最優秀救援投手に輝いたが優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。 1990年 野村謙二郎がトップバッターに定着し盗塁王に輝く。2年目のアレンが好調も新加入のマイク・ヤング、高沢秀昭が奮わず開幕直後から巨人に独走を許し、結果的に優勝した巨人と22ゲーム差離され2年連続の2位に終わった。 1991年 この年リリーフ強化のために山本監督は津田と大野のダブルストッパー構想を打ち出した。しかし、4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る。津田の穴を埋めるべく大野が一人抑えとしてリリーフを支える。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを牽引(けんいん)。しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤の11本)の中、勝負強い西田真二や山崎隆造などが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の前田智徳がレギュラーに定着、江藤智も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。投手陣は2年目の佐々岡真司がMVP、最多勝、最優秀防御率、沢村賞に川口和久が最多奪三振、北別府が最高勝率となった。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。投打にわたりチームのほとんどの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。日本シリーズでは西武と対戦し、川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退した。チームはこの年以降、2016年まで優勝から遠ざかることとなった。 1992年 この年はヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差と例年に見ぬ大混戦で、優勝争いはヤクルト・巨人・阪神との四つ巴となった。優勝したヤクルトとはわずか3ゲーム差であったが、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずの4位 となったため、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。北別府が200勝を達成、達川光男が引退した。 1993年 7月20日、津田が脳腫瘍のため32歳で死去した。序盤は開幕6連勝するなど好調だったが、津田の死にショックを受けたチームは[要出典]その後急降下した。江藤智が初の本塁打王を獲得するも、前年97試合本塁を守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響から捕手陣と投手陣がかみ合わず崩壊。9月には25年ぶりの12連敗を喫しチームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、山本監督は責任を取って辞任した。山崎が引退、山本の後任監督には三村敏之が就任した。 1994年 新任の三村監督は前年崩壊した投手陣を再編し主に中継ぎ投手だった紀藤真琴、近藤芳久を先発に抜擢し、紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得した。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝を挙げている。野手陣では控えだった金本知憲、緒方孝市、音重鎮等を積極的に起用、一定の成果を残した。前年苦しんだ捕手も西山秀二がゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得する活躍をみせた。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わった。オフに川口和久が巨人にFA移籍、北別府が引退した。 1995年 この年のドラフト1位山内泰幸とカープアカデミー出身ロビンソン・チェコが大活躍した。しかし、主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我を負い、抑えの大野も不調でシーズン途中先発に回り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。チェコが15勝、山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁(最多安打のタイトルも取った)のトリプルスリーを達成した。江藤が2年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながら怪我人や不調者が相次ぎ駒不足故に勝負どころで勝てず、首位ヤクルトの独走を許し6.0ゲーム差の2位に終わった。 1996年 チーム打率.281の打線とダイエーからテスト入団した加藤伸一、5年目の山崎健が大活躍で前半戦を首位で折り返すも、後半戦主砲の江藤が負傷でシーズン復帰が絶望、エース紀藤が後半6連続先発失敗と前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終えた。江藤が最高出塁率、緒方が2年連続の盗塁王、ルイス・ロペスが打点王を獲得した。 1997年 野手陣では江藤が前年の大怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手の西山も開幕早々怪我でリタイアした。緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わった(山崎は未勝利)が、代わりにこの年のドラフト1位の澤崎俊和、ドラフト2位の黒田博樹、3年目の横山竜士、8年目の高橋英樹が奮闘した。澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田が6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を挙げた。大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得したものの順位は3位ながら貯金は作れず、この後貯金を作ってのAクラス入りは2014年まで達成できなかった。 1998年 新外国人のネイサン・ミンチー、この年のドラフト4位の小林幹英が活躍。前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、5月頭までは好調だったがゴールデンウィークが終わる頃にはここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我人が出だし選手層の薄さから負けが込みだし、最終的には借金15で5位に終わった。また、この年は神宮球場での試合は9戦全敗に終わった。 シーズン後に三村監督が退任、三村の後任監督は達川晃豊が就任した。この年限りで大野、正田が引退した。 伝統の猛練習でチームの底上げを図るも慢性的な戦力不足の結果、99年は6月になるも13連敗その後も連敗を繰り返し、佐々岡以外全滅状態の投手陣、金本が自己最多本塁打を記録するも全体的に低調の打線、5位に終わり、チーム防御率は3年連続リーグ最下位だった。99年オフに江藤智はFAで巨人に移籍した。また、引退直後から就任していた大野投手コーチと正田守備走塁コーチ、8年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチも1年限りで辞任した。00年も5位に終わり達川監督はわずか2年で辞任した。 :山本が8年ぶりに監督として復帰した。しかし、チーム成績は2001年は勝率3位ながら勝利数で横浜を下回り4位に終わった。2002年、2代目オーナー松田耕平が死去し、3代目オーナーにオーナー代行の松田元が就任する。2002年から2004年まで3年連続の5位。元大洋4番・松原誠をチーフコーチに招聘し、新井貴浩が中軸打者に成長する。一方で金本知憲が2002年オフにはFAで阪神に移籍する。2003年では阪神が18年ぶりの優勝を果たしたため、広島は2003年から2015年までセ・リーグの中で最も優勝から遠ざっているチームとなった。2004年には嶋重宣が首位打者・最多安打・ベストナインを獲得している。 2005年には投手陣再生の切り札として安仁屋宗八コーチを招聘、新井が本塁打王を獲得し、エース格のジョン・ベイルを抑えに転向させるも初めての交流戦での失速や投手陣の不調が響いて最下位に転落した。この年のシーズン終了後に山本監督が辞任、2000本安打を達成した野村も現役を引退した。 2006年 ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強はチームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹が就任。 開幕戦から4月11日の巨人戦まで1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。しかし、その後も波に乗れず、黒田以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし5位に終わった。 2007年 キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田であった。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度(クライマックスシリーズ)が導入され、進出を目指したが、交流戦で最下位に沈み優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。 課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。この年の日本シリーズでは中日(セ・リーグ2位からCSを突破)が53年ぶりに日本一となったため、広島は2013年で初めて日本一となった東北楽天ゴールデンイーグルスを含む12球団の中で最も日本一から遠ざっているチームとなった。シーズンオフに新井と黒田がFA宣言し新井は阪神に、黒田は大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースに移籍した。 投打の柱を失った広島は思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。 2008年 苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。 延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。 2009年 この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も旧・広島市民球場から「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)(通称・マツダスタジアム)」に変更した。 オープン戦の最中に栗原健太のWBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。 シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では13連敗で球団記録を59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位に終わる。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した。この年、緒方孝市が現役引退している。ブラウンの後任にOBの野村謙二郎が監督に就任した。チーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団した。 メディアを再生する 2010年 シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなどチーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き11連敗記録するなど8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され1度も3位争いに加われずに2年連続の5位となった。 2011年 東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のブライアン・バリントンとデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたがその交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙し、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦を5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したがチームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落した。10月8日にはBクラスが確定され、結果は3年連続の5位に終わる。 2012年 中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で4月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦で前田健がノーヒットノーランを達成するなど投手陣が球団新記録となる39回無失点 もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原が離脱するなど故障者が続出、交流戦は10勝11敗3分の6位とし7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す。8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど6勝17敗1分と負け越し、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れたことで、Bクラスが確定している。最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6.5ゲーム差の4位で終わっている。 2013年 3月、オーナー代行に松田一宏が就任。開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく。4月13日に、前田健太がナゴヤドームでは2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど 必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位。中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ5位で折り返す。後半戦は8月13日に3位に浮上 してからも、引き続き中日、DeNAとの3位争いとなるが、9月10日から9月17日にかけて4年ぶりの7連勝を記録 し、下位との差を広げた。なお、この連勝中の9月16日に4位中日の自力CSの可能性が消滅した。9月24日、対中日戦(ナゴヤドーム)に勝利し、CSクリンチナンバーを2 として迎えた翌9月25日の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、16年ぶりのAクラスと球団史上初のクライマックスシリーズ進出が決定、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続シーズン負け越しとレギュラーシーズン3位が確定した。2位の阪神とのCSファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めた が、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定 した。前田智徳、菊地原毅が現役を引退した。 2014年 前年に続き巨人と阪神との優勝争いとなるが、9月26日の対阪神戦(マツダ)に敗れ、巨人の優勝が決まったが同時に広島の2年連続クライマックスシリーズ進出も決定した。その後、阪神との2位争いとなったが、10月6日のシーズン最終戦の対巨人戦(マツダ)に敗れ、2年連続3位が確定した(なお貯金を作ってのシーズン終了は2001年以来13年ぶり、貯金を作ってのAクラス入りは1996年以来18年ぶりである)。10月8日、野村謙二郎が監督辞任を球団に申し入れ、了承された。阪神とのCSファーストステージ(甲子園)では、第2戦で延長12回表に0対0とされた時点で阪神の勝ち上がりが決定し、0勝1敗1分でCS敗退が決定。10月15日に野村の後任に野手総合コーチの緒方孝市の就任が発表された。11月14日に阪神から自由契約となった新井貴浩、12月27日にヤンキースからFAとなった黒田博樹 が広島に復帰した。 2015年 序盤は一時最下位に沈むなどBクラスに低迷、特にリリーフ陣の救援失敗が多発した。 6月19日、対DeNA戦に3-1で勝ち、球団通算4000勝を達成、交流戦は9勝9敗で7位に終わった。交流戦明けには一時Aクラスの3位に立つも、結局5位で前半戦をターン、それでもこの年のセ・リーグは混戦だったこともあり、首位のDeNAとは2ゲーム差であった。後半戦は巨人・阪神・ヤクルトを追い、9月15日には借金を完済して勝率を5割まで上げるものの、その後も貯金を作ることはできず9月24日の対巨人戦に敗れたことでリーグ優勝の可能性が消滅した。その後は阪神とのCS進出争いとなったが、10月7日、勝てばCS進出となる対中日戦(シーズン最終戦)に敗北したことで3年ぶりのBクラス(4位)が確定した。尚、先発投手の勝ち星はリーグトップの57勝を挙げ勝率でもトップだったが、救援勝敗は12勝20敗でこれはセ・リーグの救援勝率では最下位であり、12球団でも11位の成績で課題の残るシーズンとなった。オフに前田健太が沢村賞を受賞した後、ポスティングシステムでロサンゼルス・ドジャースへ移籍。今期加入した外国人はクリス・ジョンソンの他はパッとせず全員が退団。このうち、マイク・ザガースキーは2016年途中にDeNAに移籍している。中日を自由契約となったエクトル・ルナを獲得した。 2016年 リーグ序盤から首位を走り、交流戦は3位でセ・リーグ唯一の勝ち越し。6月以降は首位を独走し、9月10日の対巨人戦に勝利して25年ぶりのリーグ優勝を達成した。クライマックスシリーズでは初進出(3位)のDeNAと対戦。4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で日本シリーズ出場権を獲得した。しかし、日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し2勝4敗で破れ、32年ぶりの日本一とはならなかった。黒田博樹、廣瀬純、倉義和が現役を引退した。 2017年 前々年の2015年がBクラス(4位)であったため当年に開幕権はなかったが、開幕権を保有していた阪神が返上したため開幕戦をマツダスタジアムで迎えることとなった。その開幕戦こそ落としたものの、その翌日から10連勝(1分けを挟む)。5月6日の阪神戦で9点リードした状態からの逆転負けを喫した。交流戦はソフトバンクと並ぶ勝率1位で、ソフトバンクとの直接対戦成績が1勝2敗であったことにより2位。公式戦は5月に2位となるものの6月以降は首位を独走。9月18日に甲子園球場で阪神に勝ちリーグ優勝を決めた。なお、2軍も9月26日に鳴尾浜球場で阪神に勝利しウ・リーグ優勝を決めた。 2年連続でリーグ優勝を収めたが、クライマックスシリーズではレギュラーシーズンで唯一負け越していたDeNAに2勝4敗(アドバンテージ1勝を含む)で敗退し、日本シリーズ進出はならなかった。 2018年 今季も開幕カード3連勝と好スタートを切ると4月24日以降は一度も首位を譲ることなく独走した。5、6月の交流戦こそ負け越したが、リーグ戦再開後も好調を維持し続けた。9月5日にベテランの新井が今季限りでの引退を表明した後に6連敗するなど一時調子を落としたが優位は変わらず、9月26日に球団史上初のリーグ3連覇、9度目の優勝を達成した。セ・リーグの3連覇は巨人に次いで史上2球団目。本拠地での優勝は1991年以来27年ぶり、2009年開場のマツダスタジアムでは初となった。 クライマックスシリーズではシーズン3位の巨人と対戦。4勝0敗(アドバンテージ1勝を含む)で昨年の雪辱を果たし日本シリーズ出場権を獲得した。福岡ソフトバンクとの日本シリーズでは甲斐拓也に6度も盗塁を阻止されるなど機動力を完璧に封じられ敗退した。新井貴浩、天谷宗一郎が現役を引退。丸佳浩がFA宣言し5年25億円の大型契約を用意した巨人へ移籍、福井優也が菊池保則との交換トレードで楽天へ移籍した。外国人選手では来日7年目となり、外国人選手在籍年数の球団記録を更新したブラッド・エルドレッド、入団から3年間セットアッパーとして活躍したジェイ・ジャクソン、制球難に苦しみ、一軍での登板がわずか1試合に終わった来日1年目のレオネル・カンポスと契約を更新せず、退団となった。 リーグ優勝:9回 (1975年、1979年 - 1980年、1984年、1986年、1991年、2016年 - 2018年) クライマックスシリーズ優勝:2回 (2016年、2018年) 日本シリーズ優勝:3回 (1979年、1980年、1984年) Aクラス:25回 (1968年、1975年 - 1976年、1978年 - 1981年、1983年 - 1991年、1994年 - 1997年、2013年 - 2014年、2016年 - 2018年) Bクラス:44回 (1950年 - 1967年、1969年 - 1974年、1977年、1982年、1992年 - 1993年、1998年 - 2012年、2015年) 最下位:10回(1950年 - 1951年、1963年、1967年、1969年、1972年 - 1974年、1993年、2005年) 最多勝:89勝(2016年) 最多敗:96敗(1950年) 最多引分:18分(1978年) 最高勝率:.633(2017年) 最低勝率:.299(1950年) チーム最多連敗:13(1950年11月3日 - 11月14日、1999年6月25日 - 7月13日) 連続Aクラス入り最長記録:9年(1983年 - 1991年) 連続Bクラス最長記録:18年(1950年 - 1967年、南海ホークス・福岡ダイエーホークスにおける1978年 - 1997年の20年に次ぐ日本プロ野球史上第2位) 最小ゲーム差 3.0ゲーム(1992年) 最大ゲーム差 59.0ゲーム(1950年) 最多本塁打 205本(1978年) 最少本塁打 29本(1952年) 最高打率 .284(1978年) 最低打率 .213(1956年) 最高防御率 2.62(1959年) 最低防御率 5.20(1950年) 1イニング最多四死球10四球(1978年7月6日、対読売ジャイアンツ戦2回表に記録)内訳:山本浩二、エイドリアン・ギャレット、衣笠祥雄各2四球、水沼四郎、北別府学、正垣泰祐、水谷実雄各1四球 50イニング連続無得点(2011年5月26日、対埼玉西武ライオンズの5回 - 6月3日、対オリックス・バファローズの6回)セ・リーグ記録 1イニング最多失点 15得点 (2009年6月11日対千葉ロッテマリーンズ6回裏)プロ野球記録 3 衣笠祥雄(1988年 - ) 8 山本浩二(1987年 - )※広島球団史上初の永久欠番 15 黒田博樹(2017年 - )※黒田不在期間の2008年~2014年は、黒田に誠意を示すため空き番としていた。 カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。 20(1995年 - 2002年) 前任者は北別府学。2002年のドラフト自由枠で入団した永川勝浩に与えられた。 7(2006年 - 2012年) 前任者は野村謙二郎。堂林翔太に与えられた(背番号13から変更)。なお、野村は2010年シーズンからの監督就任に際し、背番号は「77」とした。 9(2010年 - 2013年) 1996年から2009年まで緒方孝市が着用。2013年のシーズン終了後に丸佳浩に与えられ(背番号63から変更)、2018年まで着用した。丸がFA移籍した2019年以降は再び空き番となる。 1(2014年 - 2018年)前任者は前田智徳。前田智は引退時に背番号1の後継者はいるかと尋ねられた際、「しばらくはこの背番号を休ませてやってほしい」と語っていた。2018年のシーズン終了後、前田智の了承を得た上で鈴木誠也の背番号が51から1に変更されることが発表され、5年ぶりに復活することになった。 25(2019年 - )前任者は新井貴浩。新井は背番号25の後継者について、一つだけ条件を挙げ、「一生懸命やる選手。センスがあったり、技術的に高い選手じゃなくていい。チームのことを第一に考えて行動できる、プレーできる選手につけてほしい」と希望した。 現在使用者が不在の番号 18(2016年 - )前任者は前田健太。黒田の「背番号15」とは状況が異なり、付けるに相応しい投手が台頭してきた、もしくはドラフトにて獲得出来た場合は与えるとのこと。 9(2019年 - )前任者は丸佳浩。前述の通り、丸が2018年のシーズン終了後に巨人へFA移籍したため、2019年以降は付けるに相応しい選手が台頭するまで空き番として扱われることになった。 11(2019年 - )前任者は福井優也。福井が2018年のシーズン終了後に楽天へ移籍したため、2019年以降は付けるに相応しい投手が台頭するまで空き番として扱われることになった。 1950年 - 1953年 : 石本秀一 1953年 - 1960年 : 白石勝巳 (第1次) 1961年 - 1962年 : 門前眞佐人 1963年 - 1965年 : 白石勝巳 (第2次) 1966年 - 1967年 : 長谷川良平 1968年 - 1972年 : 根本陸夫 1973年 : 別当薫 1974年 : 森永勝也 1975年 : ジョー・ルーツ 1975年 - 1985年 : 古葉竹識 1986年 - 1988年 : 阿南準郎 1989年 - 1993年 : 山本浩二 (第1次) 1994年 - 1998年 : 三村敏之 1999年 - 2000年 : 達川光男 2001年 - 2005年 : 山本浩二 (第2次) 2006年 - 2009年 : マーティ・ブラウン 2010年 - 2014年 : 野村謙二郎 2015年 - :緒方孝市 ※太字は優勝達成監督 ^ 1953年は5月3日まで指揮。 ^ 1965年は7月15日まで指揮、残り試合は長谷川良平が代行。 ^ ここから広島東洋カープ ^ 1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行。 ^ 1975年は4月30日まで指揮、5月3日までは野崎泰一が代行。 ^ 登録名は達川晃豊。 ^ 2008年8月19日 - 21日はジェフ・リブジーが代行。 ^ 2011年6月28日 - 29日は高信二が代行。 オーナー オーナー代行 広島東洋カープ由宇練習場(山口県岩国市由宇町) - 二軍本拠地球場、練習施設 広島東洋カープ屋内練習場(広島市南区南蟹屋三丁目) - マツダスタジアムに隣接する屋内練習場 広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮(広島県廿日市市宮島口西1丁目) - 屋内練習場・若手選手専用合宿所 大州寮(広島市南区大州五丁目)- レギュラー選手専用合宿所 1958年から2011年まで独身選手用の寮「三省寮」(広島市西区三篠町3丁目)が存在した。二軍選手寮の「大野寮」がまだないため、独身選手は主力選手でもここに入る決まりだった。この大野の施設が出来るまで、二軍は専用グラウンドがなく、施設の整った広陵高校のグラウンドを借りた。放課後は広陵の野球部がグラウンドを使うため、生徒が授業を受けている間で、大下剛史が二軍守備・走塁コーチだった時期には、大下の怒声が広陵のグラウンドに響いた。老朽化のため大州寮に機能を移し解体。跡地ではMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島用の補修用芝を栽培している。 合宿所は一軍と二軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1か所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後佐伯郡大野町(現廿日市市)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に二軍の合宿所を建設。三篠寮は一軍選手専用となった。この大野の施設が出来る。 カープベースボールギャラリー(カルピオ・広島市中区八丁堀)- 入場券販売所・ギャラリー カープアカデミー(ドミニカ共和国) - MLBのアカデミーを参考に作られた施設。 本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島には、球団の本部のほかに公式グッズを販売する売店なども整備されている。 MAZDA_Zoom-Zoom_スタジアム広島 広島東洋カープ由宇練習場 広島東洋カープ屋内練習場 広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮 カープベースボールギャラリー(カルピオ) 大州寮 三省寮跡 ニックネームの「カープ」は「鯉」の英語「Carp」に由来。名付け親は政治家の谷川昇(公職追放指定を受けたため球団経営には参画せず)。このニックネームになった経緯は以下の通り。 広島市を流れる太田川が鯉の産地であること。 広島城が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であること、また当時、太平洋戦争での広島市への原子爆弾投下の後に生まれたチームであることから滝を登る鯉の姿に広島の復興の想いを込めようとしたこと。 谷川の発言「文献によると、鯉は諸魚の長となす。形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。また己斐(広島市西区の地名)は鯉から転化したものであり、恋にも通ずる」から 当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された二軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また「アトムズ」はその後1966年から1973年にサンケイ→ヤクルトが、フジテレビジョンのアニメ『鉄腕アトム』に由来する名称として採用していた。なお、現在のプロ野球12球団でチーム名が複数形のsのス、ズ、ツで終わらない唯一のチームである。 メディアなどで一文字の略称を用いる場合、漢字では「広」、アルファベットでは「C」で表記される。また、一般的な略称は「広島」であって「広島東洋」の略称を使うのはドラフト会議などに限られている。渡邉恒雄が松田元に「広島東洋をやめて広島マツダカープに変えればいい」と言ったら、「東洋工業に愛着がある」と話していたという。 テレビやラジオのプロ野球中継などでは単に「広島カープ」または「カープ」と呼ばれることが比較的多い[要出典]。 チームをイメージさせるカラーとして赤が知られている。1958年にユニフォームのロゴ・袖口・襟周りに赤い縁取りがなされ、1975年には当時のジョー・ルーツ監督のアイディア で帽子を赤一色に変えたのがその由来で(前述)、1977年以降はホーム用ユニフォームに赤と白を基調としたデザインが用いられている。ただし、球団旗は1967年以来紺地の中央に白文字で「H」が描かれたシンプルなデザイン(5代目)であり、赤が用いられたのは創設期の「CARP」の文字(1955年まで)と1958年の鯉の絵(3代目)のみである。 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には白石勝巳、門前眞佐人といった、他球団から選手として移籍してきた広島県出身者を中心とした選手が(選手兼任で、あるいは引退後に)監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。基本的に広島の監督・コーチは生え抜きか、外様でも広島での選手経験者を優先し、純粋な外様(広島での選手経験無し)は少ないが、2001年には松原誠(一軍チーフ兼打撃コーチ)が、2012年オフには新井宏昌(一軍打撃コーチ)が純粋な外様として入団している。 他球団が外国人選手を採用しても、平山智らのような日系人や、形式的に外国人登録がなされた場合でも日本人選手と同様に扱われていた在日韓国・朝鮮人の他は、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にMLB・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるソイロ・ベルサイエスが日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後も、リッチー・シェーン、ゲイル・ホプキンス、ジム・ライトル、マイク・デュプリー、ルイス・ロペス、エディ・ディアス、ネイサン・ミンチー、アンディ・シーツ、コルビー・ルイスといった外国人選手が顕著な活躍を残している。しかしカープ在籍中に活躍したにも関わらずシーズンオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず、外国人選手が他球団に移籍する事例が後を絶たない。近年ではネイサン・ミンチー(2001年にロッテに移籍)が代表例である。また、戦力外になった選手の移籍後の活躍も近年目立ち、アンディ・シーツ(2005年に阪神に移籍)トム・デイビー(2006年にオリックスに移籍)グレッグ・ラロッカ(2006年にヤクルトに移籍 → のちオリックス)などの例が見られる。 1963年春から、宮崎県日南市で春・秋キャンプを行っているが、1966年に日南市が巨人からキャンプのオファーを受けたこともあり、巨人キャンプ誘致を検討されたことがあった。しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島のキャンプ地として知られる。 現存する日本プロ野球チームの中で、一度たりとも正式に企業の傘下に入らず独立採算制を貫く唯一の市民球団である。このため資金が豊富ではないこともあって、フリーエージェント(FA)制度やドラフト希望枠での選手の獲得の活用には消極的(あるいは否定的)である。現在まで他球団のFA宣言選手の獲得も行っておらず、2005年までは所属選手のFA宣言をしての残留(一般的には再契約金が発生する)も認めていなかったが、2006年以降はFA宣言選手の残留も認め、希望枠選手の獲得も行っている。FAに関しては2006年に資格を取得した黒田博樹に対して球団として初めて宣言後の残留交渉を行うこととしていたが、結果的にその年は黒田は宣言せず、複数年契約(後述)を結んだ。2007年には阪神にFAで移籍した新井貴浩の人的補償として赤松真人を獲得した。希望枠選手の獲得は2006年の社会人・大学生ドラフトでの宮崎充登がある。また、2008年オフに相川亮二がFA宣言し横浜からヤクルトに移籍したことにより、セリーグでは唯一FA宣言した選手を獲得したことのないチームとなった。ただし、2010年オフに横浜からFAを宣言した内川聖一の獲得に乗り出したことがある(結果的に内川はソフトバンクへ移籍)。 1958年以降、シーズン前に広島護国神社へチーム全員が参拝必勝祈願することが恒例となっている。旧広島市民球場が開場した1957年、カープはオールスター戦まで32勝26敗と健闘したが、オールスター戦後は、7月22日に球場が開場したにも関わらず22勝49敗と大幅に負け越してしまった。これについて当時の球団代表の河口豪が、知り合いの神職から「この球場の左翼あたりは原爆により多数の市民が爆死した場所だから、その霊を慰めるよう神に祈願をかけなさい」とアドバイスされたことに由来する。 かつてはセ・リーグの中では他球団に比べ、地方球場での主催試合が多かった。上記の倉敷、福山以外にも、尾道しまなみ球場、米子市民球場、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)など、中国・四国地方の球場で多くの主催試合が開催された。また、ビジター球団が地域保護権を有する自治体に程近い地域や、ビジター球団のファンが多い地域で主催試合を行うケースも多く、1989年には群馬県前橋市の群馬県立敷島公園野球場と新潟県新潟市の鳥屋野運動公園野球場で対ヤクルト戦を、1990年から1997年にかけては岐阜市の長良川球場で対中日戦を開催しており、さらに近年は北陸地方(福井県営球場、石川県立野球場、富山市民球場アルペンスタジアム、ハードオフ・エコスタジアム新潟)で対阪神戦を開催した。このほか、他球団の地方主催試合の対戦相手となることも多かった。 1980年代後半から1990年代前半は、地方開催でもとりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場(福島県営あづま球場、宮城球場、岩手県営野球場、秋田市八橋運動公園硬式野球場など)でデーゲームを開催していた。バブル経済全盛期には二軍の拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。 一方で、近年はセ・パ交流戦の影響や新本拠地での観客動員数の大幅増加もあり、地方開催は大幅に縮小されている。地方開催は2003年頃までは概ね10 - 13試合程度あったものの、2010年では4試合に減り、特に2016年以降は三次と呉・尾道いずかで広島県下での2試合のみとなり、2019年では三次のみ僅か1試合のみとなった。 新規竣工、もしくは大規模改修が竣工した地方球場で主催試合を開催するケースも多い。広島県内では1993年に呉市二河野球場で改修後初のプロ公式戦を開催した他、2009年には竣工したばかりのみよし運動公園野球場(三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。また県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、2003年には秋田県立野球場(こまちスタジアム)で、2009年にはハードオフエコスタジアム新潟でそれぞれ球場開きを飾った他、2000年8月21日に長野オリンピックスタジアム初のセ・リーグ公式戦(ヤクルト戦)を開催している。 1995年から2005年まで、広島市民球場でのナイターの試合開始時間は18時20分だった。これは広島市の日照時間が日本一長いための措置。1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、さらには球場周辺の滞在時間増加を見込むなどの方針見直しに伴い、2006年よりナイターは全試合とも18時試合開始に変更している。 市民球団として早くから広島地域に根付いた活動をしていたことから私設応援団が多数存在していたため、公式ファンクラブが結成されたのは2007年で、12球団では最後の結成であった。 巨人(1990年 - 1992年)、西武(1992年)が撤退して以降、三軍という区分けを公式に用いたチームとしては、1996年に設立されて以降2010年まで唯一だった。ただしカープの三軍は、若手選手の基礎体力の育成を中心とした1992年までの巨人や西武と異なり、2013年までは故障者のリハビリが専門で、2014年以降はそれに成績不振選手の強化部門が加わったもの。後から設置された他球団の三軍と異なり、三軍単体での試合(社会人野球や独立リーグチームが相手)は基本的に行なっていない。 2012年6月21日にテレビ朝日系『アメトーーク!』で「広島カープ芸人」が放送され、深夜枠ながら高視聴率を記録し大きな反響を呼んだ。以降マスメディアで取り上げられる機会が増えて、カープの特集本が多数刊行された。 広島に所属した日本人選手がメジャーリーグへ移籍してプレーしたのは高橋建・黒田博樹・前田健太の3名である(2016年終了時点)。 2015年シーズン終了時点では1984年に挙げた75勝が球団史上シーズン最多勝記録であり、消滅した近鉄(2001年の78勝が最多)と共にシーズン80勝に到達したことがなく、これは現存する12球団では唯一であったが、2016年9月1日の対DeNA戦で76勝目を挙げ、32年ぶりに球団史上シーズン最多勝記録を更新。そして、2016年9月7日の対中日戦に勝利したことで球団初の80勝に到達したため、この未到達記録に終止符を打った。結果的に当シーズンは従来の最多勝記録を大幅に更新する89勝を挙げ、勝率でもそれまでの最高記録だった1984年の.625を上回る.631となったため、チームの最高勝率記録も更新した。また、2017年には88勝52敗4引き分けと前年度より勝利数は落としたものの、勝率では、.633を記録し球団最高勝率を更新した。 球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスはセ・リーグワースト記録である。これは1996年に福岡ダイエーホークスに抜かれるまで日本プロ野球ワースト記録であった。 2018年時点で最後に日本一となったのは1984年(1984年)であり、現存する12球団では最も日本一から遠ざかっている。また、現存する12球団で平成時代に日本一になれなかったのは広島のほか阪神だけある。 2016年に札幌ドームで北海道日本ハムファイターズと対戦するまでは日本シリーズでナイトゲームを行った経験がなく、名称に「ドーム」と付く球場で日本シリーズを戦ったことがなかった。 1950年 - 1952年 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。 1952年 - 1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、左袖にフマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。 1954年 - 1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用を南十字星がイメージし、「Hiroshima」の「i」の字の上部を「☆」にしている。帽子のマークに現在のデザインに似た「C」を採用。 1958年 - 1962年 当時のボストン・レッドソックスを参考にしたユニフォームが登場。この時初めて胸文字及びラインに「赤」が取り入れられる。帽子マークは小文字の「c」と「h」を並べたデザインに変更。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、ドジャース型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体ロゴの原型が登場する。(スペルはHirosima)。また、胸番号も登場。 1963年 - 1972年 白石勝巳監督就任時より、やや緑のかかった紺色一色になり、首、袖、ベルトループに紺色のラインが入る。帽子のマークは「HIROSHIMA」のHマークになる。日本のプロ野球チームで自治体の名前を入れた唯一の例ともいわれた。Hマークは現在の球団旗にも使われている。 ビジター用はグレー地で、胸ロゴは花文字書体のHIROSHIMA。胸番号は無く、左袖に番号が付く。 1968年より、根本陸夫監督就任に伴い、袖、ベルトループのラインが太くなり、ビジター用の番号が袖から右胸につく。この年から「広島東洋カープ」と名称変更したことにより、ビジター用の右袖に東洋工業(現:マツダ)の「TOYO」の文字が入る。 1971年より、袖、首、パンツ、ベルトループの紺ラインをオレンジで挟むラインとなり、胸ロゴ(ホーム用のCARP、ビジター用のHIROSHIMA)、背番号、胸番号、袖襟・ズボンのラインが紺にオレンジの縁取り、帽子のHマークがオレンジになる。また、ビジターの胸番号がホーム同様左側に統一される。 1973年 - 1974年 別当薫監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、プルオーバーとなる。背番号、胸ロゴ、胸番号が赤の縁取り、袖と首周りに紺と赤のツートンライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークがHから、シンシナティ・レッズと同じ形状のC(赤に白の縁取り)に変わる。 ビジター用は、ブルーグレー地になり、1960年 - 1963年にかけて使用されていた筆記体ロゴが「Hiroshima」にスペルを変更の上で復活する。 1975年 - 1976年 ジョー・ルーツ監督就任に伴い、帽子の色が赤に、Cマークが紺に白の縁取りとなる。さらに首周りがVネックとなる。また、ズボンの縦ラインが紺・赤・紺のストライプから赤・紺・赤のストライプに変更。 1977年 - 1988年 背番号、胸ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ=赤が完全に定着する。袖、腰ラインの紺と赤とが逆転し、外側に移動した袖の紺ラインが細くなる。また、スパイクが白地に赤のラインとなる。 ビジター用は、ブルーグレーから鮮やかなスカイブルー地になり、胸ロゴ、背番号、胸番号が光る素材のものになる。スパイクもスカイブルー地に赤のラインとなる。 1978年より、背番号の上に選手名が入る、 1988年のみ、ベルトレスからベルト式になる。 このデザインは12年の長きに渡り使用され、1979年、1980年、1984年の3度の日本一(1986年はリーグ優勝)を果たした。ちなみにビジターユニフォームは広島刑務所に寄贈され、受刑者がソフトボール大会で着用していた。 1989年 - 1995年 山本浩二監督就任に伴い、ユニフォームを一新。当時のシンシナティ・レッズを意識したデザインになる。左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。帽子のCマークが白一色になり、シンシナティ・レッズと全く同じデザインとなる。 ビジター用は上下グレー。ホーム、ビジター共スパイクも白地に赤ラインとなる。プルオーバーから現在のボタン式(但し、第3ボタンまでがボタン脱着式で、あとは飾りボタン)に変更される。 なお1994年のみ、左袖に同年広島で開催されたアジア大会広島大会をPRするマークが入る。 1996年 - 2001年 胸ロゴが正面に、胸番号が左胸に戻る。赤の前立てラインがつき、袖のラインが消え、パンツのラインが赤の細ラインになる。 ホーム用は、「CARP」の花文字が復活。 ビジター用は、「HIROSHIMA」(1963年 - 1972年使用)のロゴが復活する。1999年のみ、左袖に球団創設50周年のマークが入る。 この時代のユニフォームの背番号のサイズはホーム、ビジター共にそれまでのものより若干大きめだった。 2002年 - 2008年 球団創設期に使われていた縦縞を復活。ロゴを花文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はブロック体に変更。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。 この時のビジターユニフォームは両袖の部分が赤色でアナハイム・エンゼルス(当時)に似たデザインで一見ノースリーブのように見えるデザインだった。 2003年より、背番号の上の選手名の書体が変わる。 2005年からホーム用のみ、袖とヘルメットにスポンサー・マツダの広告が入るようになった。同年からスパイクの色が赤地に白ラインとなる。 2006年、ブラウン監督の発案により、投手および野手のキャプテン選手(野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹)の右袖に黄色の「C」が入る。 2007年より、ビジター用ユニフォームの胸ロゴが70 - 80年代に使われた「Hiroshima」の筆記体書体になる。また炎のボールマークからキャッチフレーズのALL-INのロゴに変わってそれが入る。 2009年 - 本拠地のマツダスタジアム移転に伴い、ユニフォームを一新。縦縞が消え、創設時より採用されていた紺色が21年ぶりに復活する。帽子のCマークに紺色の縁取りが入り、パンツには赤と紺の細いラインが入る。 ホーム用は上下白を基調とし、赤い胸ロゴ、背番号、胸番号に紺の縁取り、袖に赤と紺の細いライン、左袖に「Hiroshima」の赤い筆記体ロゴに紺の縁取りが入る。 ビジター用は上着が赤、パンツは白。チーム史上初めてツートンカラーを採用。上着に紺の前立てライン、胸には「Hiroshima」の白いロゴに紺の縁取り、袖に紺の細いライン、左袖に「Carp」ロゴ、背番号と胸番号は白に紺の縁取りが入る。 2013年公式戦よりヘルメットに、マツダが日本ペイントと共同開発した自動車塗装色「ソウルレッドプレミアムメタリック」をイメージした特別な赤色を採用。これは3代目マツダ・アテンザの発表会を訪れた松田オーナーが展示車に使用されていた「ソウルレッドプレミアムメタリック」に興味を示し、居合わせたマツダ副社長から提案を受けて実現したもの。ちなみにヘルメットの色の配合などはマツダの車両担当が行っている。 2017年 - 前年度セントラルリーグ優勝を記念し、左袖にチャンピオン・エンブレムが付けられる。 ホームユニフォーム(2017年) ビジターユニフォーム(2018年) 2002年~2008年のホームユニフォーム 2007年~2008年のビジターユニフォーム かつては全12球団で唯一、公式戦での球団指定メーカー(ミズノ、アシックス、エスエスケイ)以外のスパイクの使用が認められていなかったが、2014年頃より各自での使用が認められるようになった。 2008年9月23日 - 25日の3日間の対巨人戦で、1977年 - 1988年のホーム用の復刻モデルを使用。背ネーム付・カバー付ベルト仕様の1988年モデルを採用。ただしヘルメットは通常デザインのものを使用。 2010年8月に行われたセ・リーグ主催の「オールド・ユニフォーム・シリーズ」では1989年 - 1995年のホーム用の復刻モデルを使用。 2011年8月23日 - 25日の対横浜戦と同月26日 - 28日の対巨人戦で、1977年 - 1988年のビジター用の復刻モデルを使用し、背ネーム付・カバー付ベルト仕様の1988年のビジター用の復刻モデルを採用。2008年と異なりヘルメットも当時のものを復刻。 2012年8月 - 9月に行われたセ・リーグ主催の「レジェンド・ユニフォーム・シリーズ」では球団史上初のリーグ優勝を飾った1975年のビジター用の復刻モデルを使用。 ※復刻版にはホームゲーム時に限りユニフォームの袖やヘルメットに「MAZDA」の広告が張り付けられている。 2013年、「デニムデザインユニフォーム」を発表。ユニホーム上下及び帽子にデニム柄を採用。デニムのさわやかなブルーに、チームカラーである「赤」のステッチを施しアクセントにすることで、強さと勝利への執念を表現。8月23日からのヤクルト3連戦(マツダスタジアム)で着用する。背ネームはオミットされている。ヘルメットは通常デザインのものを使用。 2014年、「赤道直火ユニフォーム」を発表。全身を赤色のユニフォームとしたが、通常ビジター用と若干違う「モロッコの赤」をモチーフにしている 。キャップの鍔やマーク、チームロゴ、アンダーシャツ、ベルト、ストッキングは黒。 2015年の「ピースナイター」(後述)試合限定で、監督、コーチ、選手全員が8月6日にちなんだ背番号「86」のユニホームを着用。セ・リーグ公式戦でチーム全員が統一した背番号のユニホームで戦うのは初めて。デザインは、胸に「Carp」ではなく「PEACE」(平和)、背中に個々の名前ではなく「HIROSHIMA」のロゴが入り、背番号・胸番号は監督、コーチ、選手全員が「86」。左袖のワッペンには原爆で犠牲になった29万2325人(昨年8月6日時点)の数字を、帽子の右側頭部には平和を象徴する「白いハト」のデザインをあしらった。 2015年、8月25日からの阪神3連戦(マツダスタジアム)限定で、赤と紺のチームカラーをメインに白のストライプ柄の「常昇魂ユニホーム」を着用することを発表。今季のキャッチフレーズ「常昇魂」をモチーフに、頂点へ上り詰めるイメージとした。赤と紺色のチームカラーに、「セ界の頂点へ昇る」という意味を込めたストライプが特徴。なお、広島のユニホームにストライプ柄が採用されるのは、2008年までのホーム用ユニホーム以来。 赤地に白のストライプが入ったデザインで、アンダーシャツは紺色。 2016年、8月30日からのDeNA3連戦限定で、今季のデザインはキャッチフレーズ「真赤激」にかけて、赤地に緑色でチーム名が入り、左胸付近には唐辛子の刺しゅうが施されている「真赤激ユニフォーム」を着用。 2017年3月18日の日本ハムとのオープン戦(マツダスタジアム)は黒田博樹の引退特別試合となり、この試合限定で「黒田博樹特別ユニホーム」が使用される。デザイン自体は黒田がカープに入団した1997年当時のものがベースで、文字に金色の縁取りが入り、左胸にはメモリアルマークが付けられる。試合ではカープナイン全員が黒田の背番号「15」を付けてプレーする。なおこの試合の始球式を務めた黒田はユニフォームを着用せず、スーツでこれに臨んだ。 球団の歴史、ユニフォームの変遷の節にもあるように、1952年から1953年の2年間はユニフォームの左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。 2005年から、ヘルメット、ユニフォーム袖にマツダがホームゲーム限定のスポンサーとなる。ヘルメットはマツダ製の自動車のブランドロゴを入れる。(当初はマツダの新型車発売と連動して広告の車種が変更されていたが、2015年以降はスローガンの「Be Driver」に固定されている) この関係で、2009年に加入した異競技連携組織「トップス広島」のロゴマークを掲示するスペースがない(他競技のチームはロゴを掲出している)。 1950年 - 1955年:白地に12本の青ストライプと赤文字でCarpの文字。 1956年 - 1957年:白地に3本の横青ストライプと青文字で大きなCの中にCarpのロゴ。 1958年:紫地に白文字でCARP。Cの部分に鯉のイラストが覆い被さるデザイン。 1959年 - 1966年:白地と紫地を斜めで分け、前のデザインの鯉のイラストを大きなピンク色のCの文字で再現。 1967年 - :紺色地に白文字でH。 球団マスコットは以下の2人。詳細はその項を参照。 カープ坊や - 1975年デビュー。球団ペットマークとして現在も使用。 スラィリー - 1995年デビュー。 球団創立からカープ坊やデビューまでは、丸に鯉のペットマークを使用。当時のジャンパーにワッペンが張りつけられていた。また、1989年には、当時広島県内で開催された海と島の博覧会の公式マスコットのアビ丸を広島市民球場での「ホームランガール」として起用した。 宮崎県日南市:日南市天福球場、東光寺球場 沖縄県沖縄市:コザしんきんスタジアム 1953年 闘志なき者は去れ 1973年 スピードとスリルある野球 1974年 HOTTER BASEBALL! 1975年 100%の努力(ルーツ)/ハッスルプレーでスリルあるエキサイトしたゲームを(古葉) 1976年 CHALLENGE '76CARP BASEBALL V2 DO ONE'S BEST 1977年 LET'S GO TO CHAMPIONSHIP 1978年 ALL MEN DASH! 1979年 LET'S SPARK! 1980年 3S BASEBALL (SUSPENCE SPEED START) 1981年 3A BASEBALL (ACTIVE ACTION APPEAL) 1982年 BIG JUMP HOT BASEBALL 1983年 START FROM ZERO 1984年 BLAZING BASEBALL 1985年 CHALLENGE TO FRESH BASEBALL 1986年 CONSISTENT CONCENTRATION (一貫した集中力) 1987年 3C (COMMUNICATION COMBINATION CONCENTRATION) 1988年 RETURN TO FUNDAMENTALS (基本に帰れ) 1989年 WINNING SMILE 1990年 STRIKING AVNEW (新たなる爆発) 1991年 WILL TO VICTORY 1992年 VALUE OF VICTORY 1993年 RED CHARGE 1994年 TOTAL BASEBALL 1995年 TOTAL BASEBALL II FORWARD EVER 1996年 TOTAL BASEBALL III OVER THE TOP 1997年 TOTAL BASEBALL R S REALIZAR SUENO (夢の実現) 1998年 TENGA CONFIANZA (己を信じて) 1999年 YES, WE CAN 2000年 START FROM ZERO ZERO 2001年 レッドアタック「攻めろ!!」 2002年 レッドパワー「燃えろ!!」 2003年 ライジングハート「たかぶるハートで」 2004年 WILL TO VICTORY 2005年 REBORN TO WIN「赤ヘル再生」 2006年・2007年 ALL-IN 2008年 ALL-IN激 2009年 ALL-IN烈 2010年 We're Gonna Win 俺たちは勝つ 2011年 STRIKIN'BACK 逆襲 2012年 GROUND BREAKERS 破天荒 2013年 RALLYING TO ATTACK!剣砥挑来 2014年 赤道直火 RED ALL THE WAY 赤く、熱く、真直ぐに 2015年 常昇魂 RED RISING 2016年 真赤激! Burn it up! 2017年 カ舞吼!−Kabuku− 2018年 ℃℃℃ ドドドォー 2010年まで広島市への原子爆弾投下が行われた8月6日に広島の主催試合が編成された場合は、旧広島市民球場(マツダスタジアムも同様)は使用せず、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、福山市民球場などで行っていた。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためであった。また旧市民球場は広島平和記念公園に近いため、当日の記念式典などによる参拝・参列者が多数訪れ、交通機関も混雑することも考慮した上での措置であった。旧市民球場が閉場となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、実現しなかった。 2011年は、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で対巨人戦が開催され、以来マツダスタジアムで開催される試合は毎年生協ひろしま等の共催による「ピースナイター」としている。2015年の試合では限定ユニフォームも着用された。 カープは当初、「広島野球倶楽部」として、広島県、広島市、呉市、中国新聞社、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方の山口県下関市を本拠地としていた大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から資金集めを行う後援会が設立され、創成期のカープの運営を支えていくことになる。また「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り、これは1960年代まで続いた。 しかし1955年には「広島野球倶楽部」の負債額は莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任している。 1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、2代目社長の松田恒次がそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。 1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次は球団オーナーとなったが、これは当時、長期低迷するチーム成績に加えて広島市民球場 (初代)フィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減(1959年:862,965人 → 1967年:622,100人)していたことを受けて、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。 現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%(22万1616株)を保有しており、運営会社はマツダグループに名を連ねている。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出され、さらに2013年からは新型マツダ・アテンザに採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。 経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっている。特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録した。 ただしこの売上高の内訳については、2004年(65億円)が、放映権料収入(28億円)、入場料収入(20億円)、販売・広告料収入(12億円)で大半が占められていたのに対して、2009年(117億円)は、入場料収入48億円、グッズ販売20億円、飲食収入20億円とその構成比が大きく変わっている点に留意する必要がある。特にグッズ販売に関しては、2010年・2011年が14億円、2012年は16億5,000万円、2013年は19億5,000万円と、2009年以降も好調な売り上げを記録しており、売上高全体の約2割を占めるまでに成長した。これは2004年の球界再編を契機にセ・パ交流戦が実現。その影響で巨人戦を中心とした放映権料収入の激減が予想されたため、強い危機感を抱いた球団は、この時期からグッズ開発の強化、週末試合をナイターからデーゲームへ切り替えるなど、これまでの放映権料収入中心のビジネススタイルからの脱却を図っており、それが2009年以降に大きな成果となって現れている。 2009年に球場内の球団専用施設へ22億円を出資したことに続いて、2010年は1軍寮の建設(2億円)、2012年はクリーニング工場の建設、2014年は2軍選手送迎バスの更新(5,000万円)、マツダスタジアム横の屋内練習場建設(16億円) 等、新球場完成後は設備投資も増えている。またドミニカ共和国のカープアカデミーは、2005年から球団の経費削減の一環として運営費が縮小されたため、投手の育成しか行っていなかったが、2013年から野手育成を再開している。 その一方、年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下である。 これは、1993年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8900万円に達したものの、2003年以降はドラフトで獲得した選手の伸び悩み、江藤智、金本知憲、新井貴浩、アンディ・シーツ、グレッグ・ラロッカと相次いだ主力打者の流出もあったため球団成績は低迷、結果として年俸総額が徐々に低下したことによる。ただしマツダスタジアムが完成した2009年以降は外国人選手を多数獲得してきた影響もあって徐々にではあるが年俸総額が高まっており、2014年度は20億8585万円となった[要出典]。 このように経営状態は良好であるものの、球団の財務指標は公開されていないため、明確な支出状況は一切不明である。そのため、市民への一般公開を求める意見も存在している。 広島カープの特徴を挙げるとき、よく評されるのが「巧みなスカウティングと育成能力」である。特に1975年半ばから1980年代半ばの赤ヘル黄金時代には、広島を中心とした中国地方選手の育成・活躍もあり、広島経済の好調さなどの要因が相まって観客動員数を増加させた。つまり、好調な広島経済→地元選手を育成する地域密着→スカウティングによる補強→カープの活躍→観客動員の増加→球団経営の健全化→チーム強化への再投資→連覇という好循環が作用した。1979年~1980年シーズンの連続日本一は、この項環境が築き上げた金字塔といえる。これは広島で黄金時代の基礎となる選手を育てた根本陸夫が、その後チーム作りに関わった西武ライオンズや福岡ソフトバンクホークスでも同様のプロセスで球団の改革を行っている。またホークスが1993年に導入された新ドラフト制度(逆指名制度)やFA制度をフル活用した手法は、地元九州出身選手を獲得していく広島カープで見られた地域密着→チームの活躍→再投資という好循環のメカニズムを新たに発展させたものとする論調もある。またオリックス・ブルーウェーブが1995年の阪神・淡路大震災という負の遺産を背景として、一時的に地域密着効果を生み、観客動員を増加させたのは、広島カープに見られた観客動員数の増加→補強の充実→チームの活躍→再投資というメカニズムが見られたとも論じられる。 1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、導入当初の広島はFA権の行使後の残留(FA残留)は一切認めず、また他球団のFA宣言選手の獲得も見送っていた。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。浅井樹(当時選手会長)や金本知憲などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められず、行使した金本は残留の選択肢がないため阪神へ移籍した。 そんな中、2006年オフにエースの黒田博樹がFA宣言を示唆する発言をした(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)。投手陣が弱体化している球団にとって、唯一安定成績の投手である黒田の流出はチームの死活問題となるので、今回ばかりは一転してFA残留を認める方針を掲げた(結局、黒田はこの年は行使せず残留したが、翌2007年オフにロサンゼルス・ドジャーズにFA移籍した後、2015年より広島に復帰)。この一件を経た現在では、球団はFA残留を認めていないわけではない。2007年オフに新井貴浩が、2008年オフに東出輝裕がFA権を取得した際、球団はそれぞれの選手のFA残留を認める方針であった事を明らかにしている(新井はFA移籍で阪神へ移籍後2015年に広島に復帰、東出は行使せず残留)。ただし行使後に残留が認められた実例は未だに無く、中には2015年オフの木村昇吾のように、FA宣言するも獲得に乗り出す球団が現れず、広島との再契約も認められなかったため、FA選手で初めて他球団の入団テストを受ける事態となった例も存在する(木村はその後入団テストに合格して西武入りが決まったが、手続き上はあくまで「FAの行使による移籍」として扱われている)。 他球団のFA宣言選手の獲得については、2009年に日本ハムからFA宣言した藤井秀悟について調査し、2010年に横浜からFA宣言した内川聖一の獲得に参入していた。しかし、いずれも他球団へ入団したため(藤井は巨人、内川はソフトバンク)未だに獲得の実例はなく、2008年に東京ヤクルトスワローズと東北楽天ゴールデンイーグルスが球団史上初めてFA選手を獲得したことにより、広島はセ・パ12球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となっている。 カープ初の地方遠征は1950年3月16日に福山三菱球場で行われた対中日一回戦だった。6月7日には、広島県内で初のビジターゲーム・大洋対広島六回戦が現在三次市の十日市町営野球場で行われた。開催地はこの数日前に草競馬が催された河川敷。馬糞が所々落ちている雑草茂る原っぱである。客席は三塁側が川の堤で傾斜面がスタンド。平坦な一塁側は馬車や荷車を並べて観客席を作った。座布団代わりに一束二十銭で麦の藁束を売り、品切れになると隣の田んぼからいくらでも補充した。両軍ベンチは馬が繋がれていた丸太ん棒に板を打ち付けた即席ベンチ、勿論屋根はない。ベンチ前にはバケツが置かれ、消防団員が手押しポンプのホースを伸ばし、近所の農家の井戸から水を汲み上げバケツに注ぐ。これが選手たちの飲み水である。スコアボードは小学校の黒板。一枚では数字が読みにくいと二枚並べた。外野柵は、所々に青竹を立てて荒縄一本を腰の高さに張り巡らせた。両翼のポールがないことに試合直前に気付き、慌てて田んぼから稲干し用の丸太を引っこ抜いてぶっ立てた。この環境で公式試合がスタート。雑草やデコボコのグラウンドで、5回にしてカープが早々全員安打の15安打、7回にはツーアウトから四球一つをはさんで8本の長短打を放ち10点。ゲーム途中でスタメン全員得点、全員打点、毎回安打、1イニング三本塁打を記録。カープがこの試合で記録した28安打は、2016年終了時点でもセリーグ記録である。22得点は球団記録。この試合を現地で取材したプレスは、朝日新聞、共同通信社、読売新聞の三社のみで、野球担当になって間もない記者はスコアブックの記入に苦戦した。この試合から両チームの打ち合わせで、外野柵の縄張りの上を越せばホームラン、下をくぐれば二塁打と取り決めた。この試合で外野にお客を入れたかは分からないが、その後外野にお客を入れるとファンがカープに有利になるよう縄を動かした。これで問題を起こしたのが後述する「ナワ・ホームラン」である(#疑惑の本塁打)。 1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。 3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。 1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた洋松ロビンス三回戦で、4回広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱え主審に打ち直しを要求した。先述のように三次での試合から外野柵の縄張りの上を越せばホームラン、下をくぐれば二塁打という取り決めがあり、この試合も校庭のため外野柵がなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。それまでロビンス選手の打球が外野に飛来するとカープファンが縄を高々と差し上げ、カープ選手の打球が外野に飛ぶと縄を下げたりするので、小西監督も腹を据えかねていた。 当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。 そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、洋松選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。この日、第一試合は2–4でカープの負け。第二試合は終盤までカープリードで八回表、洋松の荒川昇治が走者二人を置いて、大田垣喜夫の速球をレフトポールに直撃する逆転スリーランを放ち、カープが逆転負けを食らうと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」とファンがその左翼ポールを引き抜いてしまうという珍事も起きた。この騒動には三つの遠因があり、荒川が「やーい、ザマーみろ!!」とスタンドで騒ぐカープファンをからかう仕草をやったこと、三塁の谷口塁審が先にフェアのジェスチャーをし、荒川が二塁を回るころ、改めてホームランのサインを示し、ファンから見ればジャッジの訂正のように見えたこと、カープの石本秀一監督が騒ぎ出したファンを納得させようとマイクを通じて事情を説明したが、「自分はそうは思わないが、塁審がホームランであるというからー」などと曖昧なことを言うから、興奮したファンに油を注いだことであった。試合終了後、殺気立つファンが雪崩うってグラウンドへ乱入し、谷口塁審、杉村主審らに暴行を働いた。そのうち十数人のファンが長い左翼ポールを引き抜き、審判団の逃げ込んだ道具置場までポールを持って行き「審判、このポールのどこに当たったんじゃ! いえ!!」と叫び、さらにポールで道具置場のドアを突き破ろうとした。朝日新聞記者・塩口喜乙は暴れるカープファンを片っ端から撮りまくり、翌日の朝日新聞は社会面のトップにこの事件を掲げ、『週刊朝日』や『アサヒグラフ』も大きく取り上げた。結局夜まで審判団を缶詰めにし、警官隊が出動する騒ぎになった。 尾道の事件後、連盟から「内外野の柵は縄を使用してはならない。なんらかのフェンスを設置すること」という指示が出て、大竹市の自衛隊演習場で開催された4月16日の巨人二回戦は、急遽、鉄筋コンクリートの建物を作る際にセメントを流し込む囲い板でフェンスが作られた。 2015年9月12日、阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース戦で、12回表、1死ランナーなしから広島・田中広輔の打球が左中間スタンドで大きく跳ね返り外野を転々としていた。田中は三塁で止まったものの広島側のベンチはホームランをアピールした。審判団はビデオ判定による協議で三塁打と判定。後続打者は凡退し2-2の引き分けに終わった。 試合後、カープはNPBとセリーグ両事務局に抗議文を送りNPBは誤審を認めたものの記録や成績の訂正は一切行わないとした。広島は当年の最終戦を69勝71敗3分の4位で終え、3位阪神とは0.5ゲーム差でクライマックスシリーズを逃した。この試合に勝っていれば広島は70勝71敗2分(勝率.496)、阪神は70勝72敗1分(勝率.493)で広島が3位になっていたので非常に大きな誤審になった。 なお、2015年はBクラスで終わったため本来は2017年の開幕権はなかったが、3位の阪神が返上したため、2017年はマツダスタジアムで開幕戦を迎えることとなった。 1964年入団の安仁屋宗八は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの「安仁屋流」を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。 1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之、石本美由起、新藤兼人、藤原弘達、木村功、杉村春子、森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦や富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。 こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。 カープは過去に1979年、1980年、1984年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。 ただし、カープが敗れた1975年、1986年、1991年のMVP選手(1975年:阪急 1986年, 1991年:西武)には通常と同じくトヨタ自動車製の車がプレゼントされている。 なお、マツダはその後NPBオフィシャルスポンサーとなったが、2007年以後日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。 MLBでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏期にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照) 日本ではそれまで下部組織は国内の二軍だけだったが、チームがMLBなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々の難点を危惧したことを受けて、上記MLBのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。 1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。この長嶋が全試合出場を果たし、一躍レギュラーとなったことから背番号0は他球団にも広まっていった。 1990年5月12日の対巨人7回戦(広島市民球場)。6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋を履いた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったと言われるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒をたき、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。 約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者であった。男は後日威力業務妨害罪で略式起訴され、罰金20万円の刑事処分をうけた。 この事件については当日、NHKが試合を生中継していたため、中継内でも一部始終が放送された。 事件の顛末について、2018年3月2日に放送された『爆報! THE フライデー』(TBS系)にて、男が匿名を条件にVTR出演した。男が事件を起こした背景に、当時世間で問題になっていた巨人選手(特に桑田真澄)の裏金問題があり、それに対する不満があったという。当然、巨人ファンからバッシングされることとなり、男の家族も警察の要注意人物となり、バッシングが及んだという。番組では、当時試合に出場していた川口和久が男の元を訪れ対面。川口は、この事件でペースが狂いチームが試合に敗れ、自身の成績にも影響が及んだことを話すと、男は深々と謝罪した。 ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、日本球界初の試みとして審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた。3回裏と5回裏終了後にボールが3個入ったカゴを口にくわえて登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では球団が特注で用意した背番号111のユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(プロ野球チップスに内包、数量限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え広島県下の101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。 あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったものの ミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。 この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗した「ベースボール・モンキー」としてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。 2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなした。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。 2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。 広島は、プロ野球の応援スタイルに繋がる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。豊田泰光は、「今のプロ野球の応援スタイルの起源は1975年の、あの“赤ヘルブーム”にある。熱狂的な広島ファンが、初優勝に向けてあの応援スタイルを作り出した」と述べている。ベースボール・マガジン社も、「日本のプロ野球の応援スタイルは、多くがカープの応援団がそのスタイルを確立したものと言って過言でない」と論じている。また、永井良和・橋爪紳也の共著『南海ホークスがあったころ』では、「広島の応援団は、日本のプロ野球界の共有財産となるような応援スタイルを生み出していった。その方向性は1975年の広島からもたらされたといっていい。広島カープのファンは、プロ野球の応援に関するかぎりイノベーターの称号を与えられるにふさわしい」と論じている。 トランペット応援・選手別応援歌 鳴り物などを使用した騒がしい応援スタイルは、一高三高定期戦など、戦前から学生野球やアマチュア野球ではあった。プロ野球でも戦前チームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られたが、戦後は手拍子や声援(野次)を中心にした応援が主流で、プロ野球の応援は比較的騒がしくはなかった。1950年代にテレビ放送が始まると都市対抗野球が人気が出て応援が騒がしくなったが、プロ野球の応援が徐々に変化していったのは、カープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したのが大きなきっかけ。また1978年にはチームの中心選手である山本浩二を特別な形で応援するため、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲(通称\"コージコール\")を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている。最初は声を合わせて「コージ」を繰り返すだけのものだったが、やがてトランペットのマーチに乗って、「かっとばせ! コージ」に変わり、トランペットは他の選手たち、そして他チームへも広がっていった。1979年には「花咲かじいさん」のテーマがコンバットマーチとともにトランペット応援で使用されるようになった。その内に、個々人のマーチに歌詞がつき、応援団だけでなく、球場に詰め掛けたファンが声をそろえて、声援を送るようになる。プロ野球の応援に鳴り物が使われるようになったのは\"コージコール\"からで、この応援スタイルはこれ以降プロ野球に波及した。 ジェット風船 1978年、カープの関西地区の私設応援団『近畿カープ後援会』のメンバーが、甲子園球場でジェット風船を飛ばしたのが起源という説 と1984年、甲子園を中心に関西地区で活動するカープ応援団「大阪河内楠公会」のメンバーが紙吹雪に代わるものとして、大阪・松屋町の玩具問屋で購入した風船を飛ばしたのが起源とする説がある。以後広島だけでなく、多くのチームファンが風船飛ばしを行っている。 広島ファンの飛ばすジェット風船の色について、以前は統一せず、カラフルであった。後に基本は赤一色となり、鯉のマークが入っている。なお7回だけでなく、勝利時にも飛ばす(勝利時も同じく赤一色)。 スクワット応援 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1993年のオープン戦から地元の高校生のグループが遊びで応援していたのが徐々に広まっていった。最初はこの高校生のグループがやり始めると周りの数組が真似をしていただけだったが、数試合後には初回から誰かしらが始めるようになり、全体に広まった。始めのうちはこの応援は立ったり座ったりするのが危険だという事で警備員に止められることもあった。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量(『ズームイン!!朝!』の放送によると、約200キロカロリー)になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。 高木豊が数えたところ、1試合のスクワット回数は約700回(『伊集院光 深夜の馬鹿力』豆知識予備校より)。 選手の応援歌を全く知らない人でも気軽に応援に参加することが可能で、新規ファンが増えやすい要因となっている。 しゃもじ応援 1975年の初優勝時、カープファンはスタンドでしゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは広島湾に浮かぶ宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。また、高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることもある。しゃもじは1980年代半ばまで使用され、以後は危険防止のためしゃもじを打ち鳴らす応援は行っていない。 メガホン応援 応援に欠かせないアイテム、「メガホン」。デザインや用途も含め、年々進化を遂げるメガホンの起源といわれているのが、前述の「しゃもじ」といわれる。しゃもじ応援にヒントを得た応援グッズメーカーが、12球団それぞれのチームカーラーのメガホンやメガバットを売り出したところ、飛ぶように売れて広まったとされる。前述のスクワット応援でも用いられている。 数ある日本のプロスポーツチームの中で、もっとも企画力に富んだグッズを生み出し続けているのはカープであると言われている。かつては「文鎮にしか使えない物ばかり」と揶揄された時期もあったが、これまで数多くのシャレの効いたグッズを販売してきた実績がある。2006年には当時のマーティ・ブラウン監督のおなじみのパフォーマンスをモチーフにした「ベース投げTシャツ」を、2007年には山崎浩司内野手が対戦相手を隠し球でアウトにしたことをネタにした「隠し球Tシャツ」まで販売した。その後もパンツやギターに台車、壁掛時計など、プロ野球チームのグッズとしては物珍しい商品を次々と販売している。 この他にも、ブライアン・バリントン愛用の爪磨きや、キラ・カアイフエなどの顔がデザインされたアロハシャツといったユニークな商品に加え、iPhoneケース、バッグなどもデザインが豊富で、すぐに売り切れになってしまう商品も多い。また、初勝利を収めた新人投手や、劇的なサヨナラホームランを打った選手の枚数限定Tシャツを即座に販売することもよく知られている。この限定Tシャツの人気は高く、特に2014年に発売したTシャツの売れ行きは絶好調であり、九里亜蓮や大瀬良大地の初勝利を記念した限定Tシャツは販売当日に完売している。さらに、2014年4月2日の対ヤクルト戦、堂林翔太の今季初ホームランによるサヨナラ勝利を記念した400枚のTシャツを、4月4日12時からインターネット限定で発売したが、わずか5分で完売した。 球界でも一番商品開発をして、最も物販の規模が大きいのもカープである。球団によってはグッズを売ってもロイヤルティーしか入らないところもあるが、カープは製作から販売まで自前。球団の収入に直結し、2009年にマツダスタジアムに本拠地を移して以来、3億~4億円だった売り上げは、2014年に20億円以上を売り上げ、球団収入の20%を稼ぎ出し、十数年で15倍に伸ばした。25年ぶりにリーグ優勝した2016年には記念商品などで収益を押し上げ、グッズ収入は前年比17億3千万円増となる過去最高の53億円となり、球団の全売上高の30%近くを占めるまでに成長した。  「地元での愛され方が他球団と違う」と豪語されるほど 広島県内におけるカープの人気は絶大なものであり、県内の至る所でその影響を受けたものが散見される。 ローソン 広島駅からマツダスタジアムに至る「カープロード」 沿いと、スタジアムに隣接するローソン2店舗の正面看板が、通常の青帯ではなく世界でここしかない赤帯になっており、通称「カープローソン」と呼ばれ、県外からのカープファンの観光スポットになっている。 カープ電車 広島電鉄およびJR西日本が、カープのロゴやカープ坊や、スライリーなどを利用したラッピング電車を運行している。広島電鉄のカープ電車 は、選手による車内アナウンスや、ファンによるメッセージが車内に掲示されている。 なお、カープ電車ではないが2015年にJR西日本が広島地区に導入した「227系」は赤を基調としたデザインであり、この色について公式プレスには厳島神社の大鳥居、広島県木のもみじと並んで「広島東洋カープをイメージした」との記載がある。ちなみにJR西日本の近郊型電車車両(225系や521系)にはデザインにJR西日本のコーポレートカラーである青のラインが入っているが227系には入っていない。また、2016年のリーグ優勝時には227系の種別表示機にカープ坊やを表示させて運用している。 教育・労働現場 広島市内の小中学校には「カープについて考える授業」が存在し、2015年5月30日放送の『ジョブチューン アノ職業のヒミツぶっちゃけます!』では湯崎英彦県知事によってその様子が紹介された。 2015年3月には、広島労働局が国が進める「働き方改革」の一環として「カープの試合が地元である日をノー残業デーにする」という案を発表し、この時職員はカープのユニフォームを着用して会見を行なった。 広島県外のカープファンは、元々その多くが広島県出身者ないしその近親者であるが、特に北海道にある北広島市は広島県人が開拓した街でもあるので、その流れで旧来からカープファンが多く見られる(ただ、現在は地元球団である日本ハムを応援する人も増えている)。他にも、広島とは縁はなくとも周りのカープファンに影響されカープファンとなった久米宏 などの例もある。 1993年に球界はフリーエージェント、ドラフトでの逆指名の両制度を導入し、選手が所属先を選べるようになったことで、資金力に欠ける広島は主力の流出や有力新人の獲得で苦しみ、長期低迷したが、2013年には16年ぶりにAクラス入りしたことで、風向きが変わった。巨人や阪神、ソフトバンクのように補強に頼らず、若い生え抜き選手を地道に育成してクライマックスシリーズに初進出したことが世間の共感を呼んだ。松田元オーナーは「若い選手を育て、強いチームに勝つという球団の考えに賛同してくれているのでは」と分析した。 カープ私設応援団「緋鯉会」によると、関東地方のカープファンが増え始めたのは2003年頃からという。2013年時でファンクラブ会員1万5千人のうち、約2割が関東在住者だったといわれ、ファン向けフリーペーパーは、都内の飲食店に配布されるとすぐに無くなるといわれた。全国的にファンが増えたのは突然ではなく、大都市圏を中心にカープファンが増加したことで、東京ドームでの巨人戦は勿論のこと、2011年頃からの神宮球場でのヤクルト戦を中心に、関東のカープファンの作る列は少しずつ長くなっていった。ヤクルト球団によると「神宮球場の広島戦の観客動員数はこの5年で三塁側を中心に倍近くまでふくれあがった」という。また、同球団営業部の黒石誠治課長は、広島戦が巨人戦、阪神戦に代わるドル箱になったとした上で「赤いユニホームばかりで(神宮球場が広島の)本拠地みたいな雰囲気になる」と驚いている。 2013年、阪神とのクライマックスシリーズにおいては甲子園球場のレフトスタンドから三塁塁アルプス席のほとんどが赤で埋め尽くされた。多くの阪神ファンが「こんな甲子園は見たことがない」と語った。本拠地・マツダスタジアムの平均観客数が増え始めたのは2014年のため、広島県外から先にカープファンが増えたと考えられる。カープファンの増加は2009年のアメリカのボールパークを意識したマツダスタジアムの開場や、2014年黒田博樹の復帰なども要因として挙げられる。 このように、広島とは縁もゆかりも無いカープファンが、地域、世代を超えてカープを応援するようになったことで、近年においては年々注目度を増している。 2013年、特に首都圏でのカープファンの急増と共にマスメディアに取り上げられたのが「カープ女子」である。ネーミングの発祥は不明であるが、2014年にもチームが開幕から好調なこともあって、さらにメディアへの露出を増やし、2014年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれた。 カープに女性ファンが増えていることは2011年頃から一部のメディアには取り上げられており、その頃は「カープガール」と呼ばれていた。その後2013年9月30日のNHK『ニュースウオッチ9』内で放送された「なぜ首都圏で急増? カープファン」という特集の中で「カープ女子」という言葉が使われ、一気にそのネーミングが拡散し、CSに進出が決まった頃は「カープ女子」という単語はすっかり一般化したといわれる。さまざまなジャンルの女性ファンに愛称をつける習慣はここから広がったとされ、女性ファンを取り込むという戦略は他球団、他スポーツにも波及した。2013年から2016年度の4年間の推移では、広島カープを応援する人の割合が、カープ女子が話題となった影響などで、プロ野球チームの中で唯一増加しているといわれる。 2014年5月10日、カープ球団が首都圏を中心に増え続ける女性ファン向けに「新幹線でマツダスタジアムへGO!『関東カープ女子 野球観戦ツアー』」を開催し大きなニュースになった。女性スタッフの発案を松田元オーナーらが採用して、西日本旅客鉄道(JR西日本)、資生堂などが企画に賛同したことで実現した。関東在住の女性を対象に、球団が東京 - 広島の往復の新幹線代約500万円を負担するという太っ腹ツアーで、募集人員148人に対し2305人の応募があり、倍率は15倍超という脅威的な競争率だった。この日の試合はカープが中日ドラゴンズ相手に13対5で圧勝し、勝利投手となったエース前田健太がヒーローインタビューで「関東から新幹線でカープ女子の方が来てくれたということで、勝てて良かったです。応援ありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。このツアーの模様は後日、日本テレビ『NEWS ZERO』で特集が組まれて全国放送された(後述)。 2014年は全国で増加するカープファンやカープ女子に注目するテレビ番組が相次いでいる。2014年5月7日のテレビ朝日の『マツコ&有吉の怒り新党』では、収録スタジオがあらゆるカープグッズで埋め尽くされた上、番組内でさまざまなグッズと選手が紹介された。翌5月8日の日本テレビの『ZIP!』では、快進撃を続けるカープの「ユニークな客席が魅力のマツダスタジアム」「次々と生まれるユニークなグッズ」「超体育会系の応援スタイル」「強さ」が特集された。5月13日にも同局の『NEWS ZERO』で、増え続けるカープ女子に関する特集が組まれた(先述)。さらにその翌日の5月14日、同じく同局の『ZIP!』の料理コーナーである「MOCO'Sキッチン」にて、野村謙二郎監督がこの番組のファンであることが紹介された。5月22日にはフジテレビの『めざましテレビ』の「ココ調」でカープファンの特集が組まれ、「広島県外のカープファンの増加」「可愛いグッズ」「記念Tシャツ」「若い生え抜き選手」「分かりやすく楽しい応援」などが紹介された。特に読売新聞のグループで巨人のお膝元である日本テレビが情報番組で連日広島東洋カープに関するニュースを放送するのは極めて異例であった。 なお、このようにカープ女子がブームになっているものの、その一方でカープにはNPB12球団で唯一、公式の女性チアリーディングチームが存在していない。似た組織としては、一般人3名で構成されたホームランガールが存在しており、ホームランを打った広島の選手に「ホームラン人形」を贈呈している。また、5回裏の応援「CCダンス」の際には、ビールの売り子がタンクを脇においてスタンド通路でパフォーマンスする。 カープ女子の増加とともにカープ関連の本が多数出版された。「カープ本」は2005年ころから人気が出始めたが、カープ女子の拡大に貢献した『球場ラヴァーズ』の連載が始まった2010年10月頃はまだ「カープの漫画なんて隙間産業では、と笑われた」と作者の石田敦子は話している。しかしその後増え続け、2014年は過去最多の32点が出版され年末には『カープ本100冊。全部読んでみた』(広島野球ブックフェア実行委員会編)と題する本まで出た。\"カープ本\"という言葉も定着し、広島県立図書館では時折、カープ本特集の展示がある。1950年の球団創立から1975年の初優勝までの25年間に出た「カープ本」は1960年、カープ東京後援会の会長だった池田勇人が内閣総理大臣に就任直後に出版された『カープ風雪十一年』(河口豪著・ベースボールマガジン社)1冊のみといわれる。同書には巻頭に池田の写真と推薦文が載る。著者の河口豪はカープの元球団代表。1975年の初優勝で事情が一変、優勝から一週間後に『やったぞ! カープ』(山中善和著・たくみ出版)が出版され以降、『耐えて勝つ』(古葉竹識著・ベースボールマガジン社)など次々発行された。1980年代からはスター選手を取り上げた本が増え、2015年1月現在で「カープ本」は290点を越える。 「カープの歌」(歌・RCC合唱団) 「勝て勝てカープ」(歌・塩見大治郎) - 初代球団歌「広島カープの歌」より改題。 「それ行けカープ 〜若き鯉たち〜」(歌・塩見大治郎、南一誠、鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND) - 現球団歌。 「燃える赤ヘル僕らのカープ」(歌・事崎正司=現・加納ひろし)ホームでビジターチーム先発ピッチャー交代時や9回裏に流れる(ビジターチームにリードされているゲーム)。 「勝鯉の女神」(歌・セレナ)球団公認 「宮島さん」(歌・加納ひろし) 「痛快! 赤ヘル音頭」(歌・柏村武昭) 「ゴーゴーカープ」(歌・富永一朗) 「Red 〜僕らの広島カープ〜」(歌・石田匠) 「わしを市民球場に連れてって。」(歌・堂珍嘉邦〈CHEMISTRY〉) 「勝利を我らに!〜Let's win!〜」(歌・鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND) 「カープロード」(歌・矢野昌大) 球団公認 得点が入った際に「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには 今日もカープは 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」 と歌われる通称「宮島さん」は、1901年(明治34年)の唱歌「花咲爺」の替え歌で、この時代に宮島の対岸である当時の地御前村(現在の廿日市市地御前)の野球大会で歌われ始めたものが元祖。「花咲爺」の替え歌は全国にあるというが「宮島さん」は最も有名な替え歌といわれる。広島ではその後、広島高等師範学校や、広島商業の応援歌に取り入れられ、広島商業など広島代表が甲子園に出場すると宮島名産のしゃもじを「カチカチ(=勝ち勝ち)と打ち鳴らして「いつも広商 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」などと応援したが、1988年夏の甲子園での広島商業6度目の全国制覇にあやかり、1989年からカープの応援歌として取り入れられた。「宮島さん」は、2017年2月22日発売の加納ひろしのアルバム『燃える赤ヘル僕らのカープ』に収録されている。 テレビ 『NHKプロ野球』 : NHK広島放送局 総合テレビ・ラジオ第1で中国地方向けで中継し、カードにより対戦相手の地元局でも中継。総合テレビで年1回週末デーゲーム、ラジオ第1、BS1で一部試合を全国放送で中継。 ビジターゲームは巨人・DeNA・ヤクルト・中日・阪神・交流戦の日本ハム・楽天・西武・ロッテ・オリックス・ソフトバンク戦を総合テレビ(巨人戦・週末デーゲーム)・BS1・ラジオ第1(木曜・金曜ナイター)で全国放送。木曜・金曜ナイターは総合テレビ・ラジオ第1で中国地方向けで地元局からのネット受けで放送。 『カープナイター/カープデーゲーム中継』 : 中国放送(RCC) ローカル中継は「Very!カープ カープナイター/カープデーゲーム中継」で中継。カードにより対戦相手のネット局でも中継するが、ネット局では実況を自社で差し替える。巨人戦はBS-TBS(地上波全国放送時はトップ&リレー中継、中国放送ローカル時は完全生中継)・TBSチャンネル1でも放送し、映像は同じだが中継体制が異なり、TBSテレビのアナウンサー・解説者がオフチューブで実況。巨人と対戦するクライマックスシリーズ(巨人が出場する試合のみ)中継では地上波が中国放送ローカル、CSがTBSチャンネル、BSがNHK BS1で放送する場合は地上波とTBSチャンネルで同時放送する場合がある。 ビジターゲームはDeNA・中日・阪神・ヤクルト戦や球団制作映像を利用する形で交流戦のパ・リーグ主催ゲームを自社制作で中継するが、楽天戦は東北放送、日本ハム戦は北海道放送からのネット受けで放送。BS-TBS、TBSチャンネル2(DeNA戦のみ)ではDeNA・パ・リーグ主催の広島戦もTBSテレビ制作で中継。 『Fun!BASEBALL!!』 : 広島テレビ放送(HTV) ローカル中継は「完全カープ主義鯉党VOICE」で中継。不定期で2軍の主催試合も自社制作で中継。カードにより対戦相手のネット局でも放送するが、局によって中継体制が異なる。巨人戦は平日ナイター(一部時間帯は裏送り)・週末デーゲーム、クライマックスシリーズ(巨人が出場する試合のみ)中継もBS日テレ・日テレジータスで地上波同時放送かつ日本テレビも制作協力に加わる。 ビジターゲームは阪神戦(読売テレビとの2局ネットの場合あり)や球団制作映像と独自映像を併用する形でDeNA戦・交流戦のパ・リーグ主催ゲームを乗り込み制作で放送し、ソフトバンク戦は福岡放送からのネット受けで放送。東京ドームの巨人戦も日本テレビ制作で地上波・BS日テレ・日テレジータスで放送し、BS日テレで交流戦のソフトバンク戦(福岡放送制作)、ロッテ戦(球団制作、日テレNEWS24でも同時放送)も中継。 『カープ応援中継 \"勝ちグセ。\"』 : 広島ホームテレビ(HOME) ローカル中継は「カープ応援中継 \"勝ちグセ。」で中継。テーマソングも独自の物を使用。カードにより対戦相手のネット局でも中継するが実況を自社で差し替え。巨人戦はBS朝日・テレ朝チャンネル2でも放送し、映像は同じだが中継体制が異なり、テレビ朝日のアナウンサー・解説者が担当する。 ビジターゲームはヤクルト・阪神戦や球団制作映像を利用する形でDeNA戦・交流戦のパ・リーグ主催試合を自社制作でオフチューブまたは現地乗り込みの何れかで中継。BS朝日では甲子園球場の阪神戦・パ・リーグ主催の広島戦もテレビ朝日・BS朝日制作で中継。 『TSS全力応援!Carp中継』 : テレビ新広島(tss) ローカル中継は「TSS全力応援!Carp中継」で中継し、テーマソングも独自の物を使用。カードにより対戦相手のネット局でも中継するが、局によって中継体制が異なる。巨人戦はBSフジ・フジテレビONEでも地上波と同時放送(一部時間帯は裏送り)するが、スコア表示・テーマソングのみフジテレビ側で差し替え。 ビジターゲームはヤクルト・中日・阪神戦や球団制作映像を利用する形でDeNA戦、パ・リーグ主催の交流戦を自社制作で中継し、ソフトバンクとのオープン戦はテレビ西日本からのネット受けで放送。フジテレビONEでヤクルト主催(年度によってはBSフジでも1試合放送する場合あり)、フジテレビTWOで西武主催の広島戦を中継。 『サンテレビボックス席』 : サンテレビ ・1973年から、地方球場での試合も含めて自社制作で中継。 『J SPORTS STADIUM』 : J SPORTS 在広局で中継がある試合を地上波同時放送。在広局で地上波中継なしまたはNHKで中継する試合・巨人戦以外のクライマックスシリーズ中継時はフリーアナウンサーと解説者が担当。 ビジターゲームも中日戦を東海テレビ・CBCテレビ制作(NHK・テレビ愛知中継時はJ SPORTSで実況差し替える)・オリックス・楽天戦を球団制作で中継する。 ラジオ 『RCCカープナイター/RCCカープデーゲーム中継』 : 中国放送(RCC) 広島戦を全試合開始から終了まで完全生中継。ラジオがJRN・NRNのクロスネット局のためCBCラジオ等に裏送りで制作する。 ビジターゲームは、ヤクルト・DeNA・巨人・ロッテ・西武戦は平日ナイターはニッポン放送、週末ナイターは文化放送との同時ネットまたは裏送りで放送。週末デーゲームはロッテ・巨人戦はラジオ日本制作協力による自社制作、ヤクルト戦はニッポン放送、DeNA戦はTBSラジオからの裏送りまたは制作協力による自社制作の何れかで放送。阪神戦は朝日放送ラジオと同時ネットで放送、オリックス戦は朝日放送ラジオからの裏送りで放送。中日戦は平日ナイターは東海ラジオ、週末デーゲームはCBCラジオ、ソフトバンク戦は平日ナイターは九州朝日放送、週末デーゲームはRKB毎日放送、日本ハム戦は平日ナイターはSTVラジオ、週末デーゲームは北海道放送、楽天戦は東北放送との同時ネットで放送。 テレビ E TOWN・SPORTS : 中国放送(RCC) 進め!スポーツ元気丸 : 広島テレビ ひろしま深掘りライブ フロントドア : 広島ホームテレビ 全力応援 スポーツLOVERS : テレビ新広島 ラジオ それ聴け!Veryカープ! : 中国放送(RCC) MONDAY CARP STUDIO \"M\" : 広島FM 広島アスリートマガジン - 選手が表紙に起用されている月刊誌、株式会社サンフィールド ^ 球団設立の際に終戦からの復興という名目で公的資金が投入された。自治体がプロスポーツという私企業に資本援助を行った例はカープ設立以外に他になかったが、1996年Jリーグのアルビレックス新潟が設立される際に、同様に自治体が資本金援助を行った。 ^ 終戦直後、プロ野球を地方で行う場合、連絡先を務めた団体に「木曜会」というものがあり、これは共同通信社に本部を置く主な地方新聞社が集まり結成したもので、地方試合は、その土地の有力新聞社に興行の全てを一任した。これはヤクザ関係興行団体の入る隙を与えないようにすることが狙いで、プロ野球が戦後、比較的健全な発達を遂げた理由の一つともいわれる。河口は「木曜会」の幹事で、カープ誕生以前の広島でのプロ野球開催は「木曜会」主催によるもの。広島大学設立資金の一部もここから拠出された。 ^ 発起人代表。 ^ 当初はパ・リーグに加盟申請したが、2リーグ分裂の混乱と、当時パ・リーグの中心であった毎日が阪神のパ・リーグ加盟に注力していた(プロ野球再編問題 (1949年)参照)ことで、広島の加盟申請は放置されてしまった。そのためセ・リーグに加盟申請したところ、すぐに受理されたものであった。 ^ 同じくセ・リーグの新規球団であった大洋ホエールズ(親会社は大洋漁業)は選手獲得資金として6000万円かけたが、広島の予算は800万円であったという。 ^ 結成披露式で、石本秀一監督(手前)らカープ選手が一列に並ぶ中国新聞の写真位置は、2017年8月30日放送『鯉のはなシアター』(広島ホームテレビ)第137回「特別編 鯉が歩んだあの場所は今」で、桝本壮志と長谷部稔が当地を訪れ、長谷部が後方の福屋などとの位置関係から「広島中央警察署前の交差点あたりでないか」と話した。 ^ 後に二軍選手達は労働基準監督署に訴えたが、「プロ野球選手は労働者に該当せず」と受け入れてもらえなかった。球団からは音沙汰なく、彼らはそのまま解雇となった。 ^ 具体的な処罰内容は決められておらず、「3割を切ったら自動的に解散と決めていた」という記述は誤りである。 ^ この年は松竹ロビンスが最下位で、勝率は.288(34勝84敗2分)。規定通りロビンスは、旧・大洋ホエールズとの合併を余儀なくされた。セリーグのお荷物カープを意識して作った規定がほかの球団に適用された。 ^ 白石のスカウトによって西鉄でくすぶっていた大和田明を獲得している。 ^ 現在の日本記録は1978年から1997年にかけて南海ホークス→福岡ダイエーホークスが記録した19年連続。 ^ この年後半戦開始時点で1位巨人と最大7.5ゲーム差を逆転しての優勝。 ^ この年は勝率ではなく勝利数で優勝チームを決定していたため引き分けの数だけ試合数が増える(実質再試合制)のため勝利数の差=ゲーム差であった。 ^ 2001年は勝率ではなく勝利数で順位を決定していた。 ^ 8月19日からの本拠地での阪神3連戦はブラウン監督が母親の葬儀に参列するため一時帰国し、ジェフ・リブジー監督代行の3試合目、退場後は小早川毅彦コーチが監督代行代理に。 ^ プロ野球記録は1953年に大映スターズが記録した59イニング。 ^ スポーツ紙などの紙上見出しでは「コイ」の略称も見られる。 ^ ユニフォームを赤に代えようとしたが、経費の都合でヘルメットと帽子のみになった。「我が道」山本浩二 スポーツニッポン 2010年10月14日より。 ^ 純粋な外様は、監督では日本人では別当薫が、外国人を含めるとジョー・ルーツが最後。コーチ・二軍監督では芦沢真矢・中利夫(登志雄)・伊勢孝夫・片岡新之介らが在籍した。 ^ 広島は2000年オフにも当時高校生だった内川のドラフト1位指名による獲得を目指していたが本人が入団を希望せず獲得を断念、結果的に横浜がドラフト1位で指名し獲得した経緯がある。 ^ 現在は主催試合を開催していないが、主にヤクルト主催のビジターとして対戦することがある。 ^ そのため、1990年代にカープで主力選手として活躍した金本知憲は、歴代2位タイとなる33球場でホームランを打っている(歴代1位は山内一弘)。 ^ パ・リーグ初の公式戦は、2000年5月20日・21日の西武ライオンズ対オリックス・ブルーウェーブ。 ^ 福岡ソフトバンクホークス(2011年 - )、読売ジャイアンツ(2016年 - )。 ^ 阪神が(唯一)日本一となったのは、広島が日本一となった翌年の1985年(1985年)。 ^ 日本シリーズのナイター開催は、東京オリンピックとの兼ね合いで例外として開催された1964年を除き、1994年から導入。2016年に出場する以前は、最初の出場が1975年で最後の出場が1991年であり、全試合がデーゲーム開催であった。 ^ 2016年以前の対戦相手は、阪急、近鉄、西武であるが、対戦当時の本拠地はいずれもオープン球場であった ^ 現に中畑清(当時・日本テレビ野球解説者)が日本テレビの特番『刑務所24時』の取材で広島刑務所を慰問中に緊急企画で中畑が巨人時代のユニフォームでソフトボールに出場し対戦し、刑務官や受刑者から拍手喝采を浴びた。 ^ 当時とは異なりベルトレスではなくカバー付ベルト仕様に変更。 ^ セ・リーグではスポンサー広告の掲示がホーム用ユニフォームにしか認められていないため。 ^ 旧市民球場が開業した1957年と1958年には同球場での広島主管試合が開催された例。 ^ 京セラドーム大阪で対阪神戦を開催している。 ^ 北海道日本ハムファイターズでは2006年以降使用休止となり、2009年から永久欠番になった。 ^ ミッキーが登場した公式戦に限定すれば、カープは15勝7敗と大きく勝ち越している。 ^ 大阪タイガースや阪急軍のブラスバンド演奏は数々の文献に出ている。 ^ トランペット応援の発祥がカープにあるという指摘は『プロ野球ヤジ講座』(おかひろみ編・自由国民社)、『巨人がプロ野球をダメにした』(海老沢泰久著・講談社) にも記述されている。 ^ 試合途中で結果が出ていないときは「…今日のカープは…」と歌われることもある。 ^ 阪神戦は毎日放送、ソフトバンク戦はRKB毎日放送が各々スタッフを現地に派遣。中日戦は2018年にCBCテレビがオフチューブで放送。日本ハム戦は北海道放送が乗り込みまたはオフチューブの何れかで放送。2002年には、対横浜との開幕戦をTBSテレビ(関東ローカル)とBS-i(現:BS-TBS)が別制作で放送。 ^ ナイター開催はトップ中継は別制作(TBSチャンネル1ではこのメンバーで全編放送)だが、リレー中継は地上波中継と同じメンバーが担当する。デーゲーム開催はリレー中継のみ(13:30試合開始時はトップ&リレー中継)実施し、中国放送では16時以降も中継するが、地上波同時放送とせず、TBSチャンネル1との同時放送で放送する。 ^ 阪神戦は読売テレビがスタッフを派遣し別実況で放送。日本ハム戦は札幌テレビ・ソフトバンク戦は福岡放送との2局ネットで放送。中日戦は中京テレビ、楽天戦はミヤギテレビで中継する場合はネット受けか別実況の何れかになる。 ^ 中日戦はメ~テレ、阪神戦は朝日放送テレビ、楽天戦は東日本放送が各々スタッフを派遣。過去には日本ハム戦を北海道テレビがオフチューブで中継。 ^ 阪神戦は関西テレビがスタッフを派遣して別実況で放送。日本ハム戦は北海道文化放送で中継する場合はネット受けまたは別実況の何れかになる。 ^ “2010年新春トップインタビュー”. 中国新聞 (2010年1月1日). 2010年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年1月6日閲覧。(Internet Archive) ^ a b c d 第62期決算公告、2018年(平成30年)4月13日付「官報」(号外第83号)34頁。 ^ 平野博昭. “《特別寄稿》新球場建設とカープの経営方針について”. 一橋総合研究所. 2015年10月15日閲覧。 ^ 「サッカー批評」編集部 『ニイガタ現象 日本海サッカー天国の誕生をめぐって』 双葉社、2004年、115頁。ISBN 4575296724。 ^ a b c “平和記念都市建設法と復興事業の進展 市民球団広島カープの誕生”. 広島平和記念資料館. 2017年6月22日閲覧。 ^ 復興の象徴 きずな探る元祖「市民球団」広島 - 中国新聞 2004年11月3日、学習開発学研究 2号 - 学内刊行物 - 広島大学 学術情報リポジトリ フィールドと学び 一広島というローカリティをグローバル文化で考える、22-27頁。 ^ a b c d e f g “ボクの思い出STADIUM:広島総合&広島市民球場”. 中日スポーツ. 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2010年にはフェニックスリーグで3連覇を達成した。2010年からは神戸サブ球場での試合開催を復活させている。 2015年12月7日、神戸市から大阪市此花区舞洲地区に球団トレーニング施設や選手合宿所等を移転・整備する計画を発表した。2017年シーズンからは、上記の新施設を稼働。施設の近隣にある既設の舞洲ベースボールスタジアムと、施設内に新設された舞洲サブ球場(バファローズスタジアム)を、ファームの本拠地球場として使用する。 前述したように、2017年シーズンからは、舞洲ベースボールスタジアム(3年間の命名権契約によって6月15日から「大阪シティ信用金庫スタジアム」に改称)と舞洲サブ球場を本拠地として使用。舞洲ベースボールスタジアムは大学・高校野球などとの併用球場であるため、同年のウエスタン・リーグの公式戦については、ナイター照明設備のない球団専用の舞洲サブ球場を本拠地球場として利用していた。2018年シーズンからは、舞洲サブ球場を「舞洲バファローズスタジアム」へ改称する一方で、ナイター照明設備を擁する大阪シティ金庫スタジアムでも一部の公式戦をナイトゲームで開催する。 2016年シーズンまではあじさいスタジアム北神戸、神戸総合運動公園サブ球場(グリーンスタジアムサブ球場)を主に使用。舞洲ベースボールスタジアムでも、ナイトゲームとして年に数試合開催していた。本拠地を舞洲へ移転した2017年シーズン以降も、神戸サブ球場で一部の公式戦を開催するほか、関西圏でのファン開拓を見据えた大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県内の地方球場での開催を続けている。 2000-2009年までは神戸市内での開催は神戸サブ球場での一部の試合を除き、基本的に北神戸のみで開催していたが、2010年から原則として4-6月は神戸サブ、7-9月は北神戸でのナイターをメインとした日程を組んだ。オリックス一軍が神戸球場を正本拠としていた時代(協約上は1991年から2007年。実質2004年まで)には、週末を中心に1軍のデーゲーム試合後に2軍の試合を薄暮開催する「親子ダブルヘッダー」をしたことが度々あった。 過去の本拠地球場 西宮第二球場 ブレーブス時代の1990年まで使用。当時の一軍本拠地であった阪急西宮球場の近くにあった。 あじさいスタジアム北神戸 神戸総合運動公園サブ球場 「ファームとは居てはならない場所」という方針の下で若手の奮起を促しており、MLBに於けるマイナーリーグのように待遇面でも一軍との差別化が行われている。本拠地に近い大阪府・兵庫県内の球場(阪神鳴尾浜球場など)で試合を予定している場合にも、選手には球場までの交通費を支給するだけにとどめている。遠征時も新幹線や空路は極力使用せず、チーム専用バスで長時間掛けて移動している。 選手寮については、ブルーウェーブ時代の1991年に神戸サブ球場近辺へ建てられた室内練習場付きの(初代)「青濤館」を2016年まで使用。施設の老朽化が進んだことから、舞洲サブ球場の左翼場外に4階建ての(第2代)「青濤館」を建設したうえで、2017年から使用している。 初代の「青濤館」には、イチロー(鈴木一朗)がブルーウェーブ時代の1992年の入団から、数年間にわたって406号室で生活。球団では、イチローが退寮してから第2代「青濤館」へ移転するまで、「鈴木一朗」のネームプレートを掲げたまま406号室をあえて空けていた。その一方で、1995年・1996年に一軍がイチローを擁してパシフィック・リーグで優勝した後には、玄関前の敷地で2連覇記念の植樹を実施。イチロー自身は、プレーの場をMLBへ移した2001年以降も、オフシーズンに初代「青濤館」の室内練習場で自主トレーニングを続けてきた。しかし球団は、舞洲への本拠地移転後に、初代「青濤館」の建物および敷地の所有権を放棄した。 第2代「青濤館」では、選手用の個室を3・4階に集約させる一方で、4階の個室の一部(5室)を他の個室の1.5倍広く設計。一軍のレギュラークラスの独身選手だけが使用できるように定めている。 ユニフォームは、サーパス時代まで、1990年代半ば以降の日本プロ野球界では珍しく、ボタンなしのプルオーバー式であった。 サーパスのユニフォームは、ファーム落ちの可能性が低い選手も含め全員分を作ったため(出典:綱島理友『プロ野球ユニフォーム物語』)、試合では着用しなかったが、イチローのユニフォームも存在し、オリックス退団・マリナーズ移籍時に当時の穴吹工務店社長との記念撮影で着用した。現在は、実家に隣接して開設されている記念館「イチロー展示ルーム I-fain」にて展示されている。また、中村紀洋や清原和博は試合で着用した事がある。 サーパス時代、同じく一軍とは別名義の球団だった湘南シーレックス(現:横浜DeNAベイスターズ二軍)のグッズは販売されていたものの、インボイス及びグッドウィル(現:埼玉西武ライオンズ二軍)とともに、サーパスのグッズ、レプリカ帽子・ユニフォーム等は商標の関係上、発売されることは無かった(帽子は過去にファームの年間パス購入特典としてプレゼントされたことはあった。)。 サーパス専用の球団歌として「明日を見せてやれ」(歌:渡邊正紀、作詞:岡康道、作曲:榊原大)という曲が存在していたが、チーム名変更で使用されなくなり、CDも商標・権利関係上発売されておらず、過去に球場で配布されたのみの非売品であるため、現在では入手困難の幻の曲となっている。 基本的に一軍と同じであるが、「サーパス(神戸)」時代には一軍とは別のマスコットが起用されていた。 サマー - 背番号384。チーム名の「サーパス」から。 シルキー フェニックスがモチーフ。二軍に落ちた選手に不死鳥のごとく復活してほしいという願いが込められている。2007年4月1日に結婚。名称と「結婚」の設定は穴吹工務店の創業者夫妻の名前(夏次、キヌヱ)に由来する。 チーム名称が一軍と統一された2009年シーズン以降登場せず、2011年以降は球団マスコット自体が一新され、一軍と同じバファローブル・バファローベルが就任している。 かつてのスポンサーが穴吹工務店であることから、bjリーグ・高松ファイブアローズ(当時)のマスコットを兼任していたが、同社の倒産により2009-2010シーズンからは登場していない。 1963年 - 1971年 : 片岡博国 1972年 - 1973年 : 中田昌宏(第1次) 1974年 - 1980年 : 西村正夫 1981年 - 1988年 : 中田昌宏(第2次) 1989年 : 住友平(第1次) 1990年 - 1991年 : 福本豊 1992年 - 1997年 : 根来広光 1998年 - 1999年 : 弓岡敬二郎(第1次) 2000年 - 2001年 : 新井宏昌(第1次) 2002年 : 中尾孝義 2003年 : 中沢伸二 2003年 - 2005年 : 加藤英司 2006年 : 大石大二郎 2007年 - 2008年 : 住友平(第2次) 2008年 - 2009年 : 古屋英夫 2010年 - 2012年 : 新井宏昌(第2次) 2013年 : 弓岡敬二郎(第2次) 2014年 - 2015年 : 岡本哲司 2016年 - 2018年 : 田口壮 2019年 - : 中嶋聡 ^ オリックス、活動拠点移転 神戸から大阪・舞洲へ ^ 神戸から撤退!?オリックス側が大阪・舞洲球場を落札…オリ2軍の拠点に ^ a b 大阪市舞洲地区への練習拠点移転計画のお知らせ オリックス・バファローズプレスリリース 2015年12月7日付 ^ a b オリックス大阪舞洲の移転発表、2軍公式戦も舞洲で 日刊スポーツ 2015年12月7日閲覧 ^ オリックス球団、神戸から完全撤退 練習拠点を大阪に ^ オリックス 神戸から大阪に練習拠点を移転へ ^ “舞洲スポーツ振興事業(舞洲プロジェクト)を実施します”. イチローの名札残る…オリックス旧選手寮取り壊しへ. 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1936年の公式戦は春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分け、東京・大阪・名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式で行われた。最初の春シーズンは、連盟結成披露試合として甲子園球場、鳴海球場、宝塚球場にて3大会が行われた。東京巨人軍がアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しておらず、名古屋金鯱軍も途中内外遠征を行ったため、シーズン通しての優勝は決定しなかった。 夏、秋各シーズンでは各大会1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏シーズンの名古屋大会で1位になった。また親会社同士が競争関係にある阪急軍に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋に24勝6敗1分の成績を残し、シーズン優勝を決める勝ち点が2.5と東京巨人軍と並んだ。しかし、同年12月に洲崎球場で行われた優勝決定戦で、1勝2敗と惜敗した。 1937年秋、1938年春には御園生崇男に加えて37年春から西村幸生が加入したことにより安定した投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、球団史上初かつ球団史上唯一の2シーズン連続の優勝を達成した。更にこの2年間は、春と秋のシーズン優勝球団の対決で年度優勝を決定していたが、2年とも対戦相手となった東京巨人軍を破り、年間優勝2連覇を達成した。このように、大阪タイガースは第二次世界大戦前から戦中は常に東京巨人軍と優勝争いを繰り広げる強豪チームだった。 1939年、この年は2位になったにもかかわらず、日本プロ野球史上初めて全球団に勝ち越しながら優勝を逃すという初めてのケースとなった。 1940年9月25日、日米および日英関係の悪化に伴う日本野球連盟の方針により、敵性語とされた英語の使用自粛のため球団名を「阪神軍」(はんしんぐん)に改称した。日中戦争・太平洋戦争の激化に伴う徴集および召集拡大化により選手数が不足する苦しい状況となる。1944年、監督兼主戦投手の若林忠志(当時37歳)が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化する中、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。 第二次大戦後、日本のプロ野球は1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰。1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。 1947年、若林が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞 (MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾った。1番・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は、「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番・藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「(初代)ミスタータイガース」と称された。1948年、藤村が対金星戦(甲子園)で日本プロ野球初のサイクル安打を達成。 1949年には、チーム順位が6位にも関わらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし、最終的には反対派に回り、2リーグ分裂に際して読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。更に遊撃手・長谷川善三が西鉄クリッパースへ、門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。 1950年-1958年 1950年、若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位で、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。 一方、チーム再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎などの若手選手が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中で、優勝から遠ざかることになった。 この間、松木は1954年限りで監督を退任。球団は後任にプロの経験がなかった岸一郎を起用してファンやマスコミを驚かせたが、岸は主力選手との対立や成績不振から1955年5月中旬に病気療養を名目に休養。助監督だった藤村富美男が監督代行となり、シーズン終了後には正式に兼任監督となる。しかし、1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村の監督退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2か月近くを要した。藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。藤村は現役に復帰するが、1958年限りで引退し、背番号10は阪神初の永久欠番となった。 1952年、フランチャイズ制度の正式導入に伴い、保護地域が兵庫県となった。 1955年、2軍チーム(阪神ジャガーズ)結成。ウエスタン・リーグに加盟。 1959年 6月25日の対巨人11回戦(後楽園)は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 - 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄のサヨナラ本塁打で、4-5で敗戦。 4年連続の2位に終わる。〈1959年は中日と同率の2位〉。 1960年 藤本勝巳が最多本塁打・最多得点の二冠を獲得したものの、チームは3位に終わる。 1961年 フランチャイズ制度の導入に伴い保護区域を兵庫県と定められた関係で、チーム名から「大阪」を外し、4月1日に商号を「株式会社阪神タイガース」、球団名も阪神タイガース(はんしんタイガース、Hanshin Tigers)と変更した。しかし成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した監督・金田正泰がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた藤本定義が監督に就任した。この年は、4位に終わる。 1962年 藤本の下、小山・村山の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分裂後では初、通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦した。村山先発で2連勝した後、3戦目にも村山を無理にリリーフ登板させたが打ち込まれ引き分けに終わったことが響き、その後4連敗。結果、2勝4敗1分で敗退した。 1963年 巨人と中日の首位争いに加わることができず、3位に終わる。 1964年 エース小山と毎日大映オリオンズの4番・山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋めた。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という状況で、最後に9連勝し公式戦最終日の9月30日に逆転で6回目の優勝。しかし日本シリーズでは、リーグ優勝決定の翌日から開催という強行日程になり、南海ホークスに先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫するなどして、3勝4敗で敗れている。 1965年-1969年 1965年から1967年まで3年連続の3位。1968年と1969年は、いずれも巨人と優勝争いを繰り広げるも、結果はいずれも巨人が優勝で、1968年は巨人と5ゲーム差、1969年は巨人と6.5ゲーム差の2年連続2位。1966年、藤本は杉下茂投手コーチに監督を譲り総監督となるが、同年8月に復帰。1968年まで監督を務め、同年オフに勇退。後任には後藤次男が就任。 1970年-1972年 1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一のバッテリー、吉田義男に代わって遊撃手のレギュラーとなった藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手がそろったが、巨人が9年連続日本一のV9時代で、1970年・2位→1971年・5位→1972年・2位と優勝する事ができなかった。1971年のオールスターでは、江夏が9者連続奪三振を記録。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退した。 1973年 金田が正式な監督に就任して巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日ドラゴンズ戦で、2対4で敗戦、甲子園での最終戦でも0対9と敗れて、巨人が9年連続優勝となった。 1974年 田淵が本塁打を量産し、オールスター戦時点では首位に立った。しかし、夏の長期ロードで大きく負け越して後退、最終的にはBクラスの4位でシーズンを終える。シーズン後に金田は退任。 1975年 吉田義男が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、江夏の不調などから3位に終わった。オフに江夏を江本孟紀・島野育夫らとのトレードで南海へ放出。 1976年 当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣が好調で、ハル・ブリーデンやマイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍で巨人と激しく優勝争いを演じるが、結局2位に終わる。 1977年 序盤は好調だったが、4月には6連勝のあと6連敗、6月には6連敗のあと8連勝と、大型連勝と大型連敗を何度も繰り返すなどチームの調子が安定せず、特に対中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わる。この年のオフに吉田は監督を辞任。 1978年 後藤が2度目の監督に就任したが球団史上初の最下位に終わり、後藤は責任を取る形で1シーズン限りで解任。オフに小津正次郎が球団社長に就任すると、低迷するチームの改革を図るために大規模な改革が必要と考え、田淵と古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴、竹田和史との交換トレードで放出。更に空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓とドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー・金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、交換トレードの形で巨人の小林繁を獲得した。 1979年 ドン・ブレイザーが監督に就任。掛布が48本塁打を放ち、小林が古巣の対巨人戦8勝を含む22勝を挙げるが、8月下旬に広島東洋カープに離されて4位に終わる。 1980年 新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などでブレイザーがシーズン途中で監督を辞任。後任には中西太が就任したが、5位に終わる。 1981年 優勝した巨人と8ゲーム差の3位。江本孟紀が「ベンチがアホやから野球ができへん」と首脳陣批判をして退団したのがこの年。 1982年 安藤統男が監督に就任。優勝した中日と4.5ゲーム差、2位の巨人と3ゲーム差で2年連続の3位(但し勝利数では優勝した中日を上回った)。山本和行がストッパーに転向したり、6月に11連勝する話題もあったが、一方でこの年は島野育夫・柴田猛の両コーチが審判に暴行を加えて(横浜スタジアム審判集団暴行事件)無期限出場禁止処分を下されたり(翌年解除)、若菜嘉晴がスキャンダル問題で退団するなどトラブルも相次いだ。 1983年、1984年 ランディ・バースが加わった打線は抜群の破壊力を見せつけたものの、投手陣はいまいち伸び悩み、特に1984年は昨年限りで引退した小林繁の穴を、ルーキー池田親興の躍進、南海から移籍の山内新一の活躍でも埋めきれず2年続けての4位。1984年オフ、安藤は監督を辞任、吉田義男が二度目の監督就任。 1985年 開幕投手を2年目の池田に任せるを得ないほどに、昨年から大きな弱点であった先発投手陣の手薄さという大きな弱点が改善されず、開幕当初はファンの間でも優勝への期待は薄かった。しかし主に1番・真弓、3番・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(「第二次ダイナマイト打線」)が先発投手陣の手薄さを補って余りある大活躍をし、4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではバース、掛布、岡田が巨人の先発の槙原寛己からバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。この年は最終的に本塁打セリーグ記録を更新する219本塁打を記録し。夏場まで首位を快走していた。しかし、8月12日に発生した日本航空123便墜落事故で球団社長の中埜肇が犠牲となり、阪神タイガースのナインたちもこの事故機(JA8119)に直前のフライト(福岡発羽田行日本航空366便)で搭乗していたため、選手たちは大きな衝撃を受けて一時は大型連敗を喫して首位陥落した。しかし、強力打線に加えて中西清起、福間納、山本和行らのリリーフ投手陣も1年を通して大車輪の活躍をみせ、10月16日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)に引き分けて、21年ぶりのリーグ優勝が決定。バースが球団初の三冠王を獲得。西武との日本シリーズは4勝2敗で勝利、1リーグ時代から約38年ぶり、2リーグ制になってから初の日本一達成となる。 1986年 バースがシーズン打率.389、シーズン長打率.777、7試合連続本塁打、13試合連続打点の日本新記録をマーク、2年連続三冠王を獲得し、ルーキーの遠山昭治が8勝を挙げ台頭したが、掛布と池田親興の負傷による長期戦線離脱、更に岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島と巨人との優勝争いから脱落して3位に終わった。この年、川藤幸三が引退。 1987年 投手陣は新外国人のマット・キーオが孤軍奮闘したものの、先発ローテーションの池田、仲田幸司らが不振で大きく負け越し、山本和行、中西清起らリリーフも失敗が目立った。バースは無冠ながら好調を維持し打線を支えたが、掛布の負傷及び不振、岡田の不振などが響き最下位となり、吉田は監督を辞任、村山実が監督就任。勝率.331は球団史上最低勝率である。 1988年 「少年隊トリオ」と呼ばれた和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど世代交代を進めたが、バースが長男の病気問題で退団、代わって入団したルパート・ジョーンズの故障、掛布の引退が重なって2年連続最下位。 1989年 セシル・フィルダーが本塁打王争いをするが、シーズン途中に三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。5位に終わり、村山が監督を辞任、中村勝広が監督に就任。 1990年 前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調で、特にパリッシュは8月まで本塁打王を狙える位置にいたが8月末に怪我を理由に突然の引退退団をしてしまった。投手陣は年間通して不振に終わり、主にロングリリーフを務めた3年目の野田浩司がチームトップの11勝(12敗)を挙げたが、エースのマット・キーオが中村勝広監督とそりが合わず怪我もあり不振。オフには自由契約になる。結局は、先発陣で規定投球回に到達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという結果に終わる。チームは2年ぶりの最下位。 1991年 開幕5連敗、6月に球団ワースト新記録の10連敗(それまで当時の12球団で唯一、2桁連敗がなかった)を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗で、2年連続の最下位となった。しかし、終盤戦で猪俣・葛西稔といった若手投手の台頭で、5連続先発投手完投勝利を収めた。 1992年 この年は、ヤクルト、巨人、広島との四つ巴の優勝争いとなる。衰えが見えていた主力の岡田や真弓らに代わり、それまでほとんど実績の無い亀山努、新庄剛志の両外野手に加え、和田、八木裕、山田勝彦、入団2年目のトーマス・オマリー、大洋から移籍してきたジム・パチョレック、新人王に輝いた久慈照嘉ら若手・中堅が活躍。特に亀山と新庄の台頭は「亀新フィーバー」と呼ばれた。また、甲子園のラッキーゾーンを撤去して外野が広くなった事が功を奏し、6月にノーヒットノーランを達成した湯舟敏郎の他、中込伸、野田や14勝を挙げ勝ち頭となった仲田の先発陣や、中継ぎのルーキー弓長起浩、抑えの田村勤らこちらも若い投手陣が軸となり、リーグトップ防御率2点台を記録するなど、一時は首位と成るも終盤に投手陣の駒不足に遭いヤクルトとの優勝争いで競り負け、巨人と同率ながら2位となった。オフ、野田浩司とオリックス・ブルーウェーブの松永浩美が交換トレード。 1993年 4位。オマリーが首位打者になる。松永浩美は3試合連続先頭打者本塁打の世界記録を樹立、しかし怪我での離脱が多く80試合の出場に終わり、オフにはFAで福岡ダイエーホークスへ移籍。前年最多安打・最多勝利打点だったパチョレックが途中退団。また岡田は自由契約を言い渡されオリックスに移籍した。一方、バルセロナオリンピック銀メダリスト郭李建夫がこの年に入団。オフには、新人として藪恵市、FAでオリックス石嶺和彦が加入し、MLB通算226本塁打のロブ・ディアーを年俸2億7000万円で獲得。 1994年 2年連続の4位(ヤクルトと同率タイ)。藪恵市がチームトップの9勝を挙げ新人王を獲得。新外国人のディアーは極度の不振で8月に退団。同年オフ、オマリーが長打力不足などを理由に解雇され、ヤクルトへ移籍。 1995年 最下位。球団ワースト記録となる84敗を喫した。チーム本塁打は88本で4年連続セ・リーグ最下位であった。中村が7月23日限りで休養(その後、辞任)。藤田平に監督を代行させる状況であった。同年オフ、真弓が引退し、代行の藤田がそのまま監督に正式就任。新庄が藤田との確執などが原因で引退を宣言するが、すぐ撤回。 1996年 2年連続最下位。5月終了時点で既に借金15に達していた。個人としては、桧山進次郎がチームトップの22本塁打を記録。2年目の川尻哲郎が13勝、3年目の藪が初の二桁勝利を挙げる。しかし、藪と湯舟が二年連続でリーグ最多敗戦ともなる。藤田は9月12日に監督解任を通告され(藤田が監督解任を受け入れたのは翌13日)、チーフ兼バッテリーコーチの柴田猛が後任を務め、シーズンオフには、吉田義男が3度目の監督に就任。中西と木戸が引退。新人として今岡誠が入団。観客動員は200万人を割り、28年ぶりの赤字となった。 1997年 5位。打撃陣の主力として期待していた新外国人のマイク・グリーンウェルがわずか数試合で故障・「引退しなさいという神のお告げを聞いた」と突然退団・帰国。和田が開幕戦からの連続安打日本記録(24試合連続安打)を樹立。オフに久慈照嘉、関川浩一を大豊泰昭、矢野輝弘との交換トレードで中日に放出。新人として坪井智哉、井川慶が入団。 1998年 8月には球団ワーストとなる12連敗を記録するなどし、最下位。個人としては、5月26日に川尻が対中日戦で矢野とのバッテリーでノーヒットノーランを達成、シーズンも2年ぶりの二桁勝利を記録。藪も二桁勝利しプロ入りシーズン初の勝ち越しを達成。坪井智哉は2リーグ制分立後の新人最高打率(.327)を記録。坪井は中日の川上憲伸、巨人の高橋由伸、広島の小林幹英と新人王を争う。新人王は川上憲伸が獲得したが、川上以外の3人は新人王に値する活躍と評価され、3名とも新人特別賞を受賞している。この年では横浜が38年ぶりの優勝を果たしたため、阪神は1998年から2002年までセ・リーグの中で最も優勝から遠ざっているチームとなった。シーズン後に吉田は監督を辞任し、後任にこの年までヤクルトの監督を務めた野村克也が就任した。 1999年 チームは6月には一時首位に立ったが、最終的に最下位。9月には2年連続で球団ワーストの12連敗を喫した。二軍がファーム日本選手権を制し初の日本一となった。個人としては、前年テスト入団で復帰した遠山奬志がカムバック賞を受賞。シーズン前には、新人として福原忍が、西武から佐々木誠が加入。シーズンオフには、オリックスから星野伸之がFAで入団。巨人から広澤克実、ヤクルトからカツノリを獲得。 2000年 球団初の3年連続の最下位。4月に9連勝して首位に立ち、5月には大阪近鉄バファローズからトレードで吉田剛、西川慎一を、6月には日本ハムから金銭トレードでマイカ・フランクリンをそれぞれ獲得。オフには新庄がFAでMLBのニューヨーク・メッツへ、大豊が契約交渉の決裂で中日に移籍。佐々木誠、フランクリンらが退団。チーム本塁打1位から3位(1位新庄28本・2位大豊24本・3位タラスコ19本)が全員退団する事態となった。湯舟敏郎・山崎一玄・北川博敏と近鉄酒井弘樹・面出哲志・平下晃司にて3対3トレードのトレードが行われた。新人として赤星憲広、沖原佳典、藤本敦士が加入。その他エドワード・ペレス、イバン・クルーズを獲得。 2001年 4年連続の最下位。長打力が大幅に弱体化した打線を、走力で補うため俊足の若手を重用。個人としては、井川慶が防御率リーグ2位、赤星憲広が盗塁王、新人王を獲得、前年ロッテからテスト入団した成本年秀がクローザーとして台頭しカムバック賞を受賞、4番に定着した桧山は初のシーズン打率3割を達成した。しかし、この年のチーム最多本塁打はクルーズの14本という状況であった。シーズン途中、交換トレードで西武から谷中真二、新外国人トム・エバンスを獲得。シーズン後に吉田剛、酒井弘樹が退団、塩谷和彦をトレードで放出。オリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムから片岡篤史、交換トレードでオリックスから斉藤秀光、デリック・ホワイトらの外国人選手が加入。12月5日、野村は成績不振に加えて夫人の野村沙知代の脱税容疑での逮捕の責任を取る形で監督辞任。後任はこの年まで中日の監督を務めた星野仙一が就任。 2002年 12年ぶりに開幕戦を勝利で飾るなど開幕7連勝でスタートし、巨人と首位争いを繰り広げていたものの、レギュラー選手に相次いで故障離脱が続出。特に赤星・矢野の離脱が致命的でセンターラインを失ったチームは徐々に失速。最終的には4位に終わり、主力と控えの戦力差に課題を残した。しかしチームとしては5年ぶりに最下位を脱出した。シーズン中にエバンスと西武の橋本武広の交換トレードを行い、オフには広島からFAで金本知憲、日本ハムから下柳剛、野口寿浩らが同じくトレードで加入。さらにジェフ・ウィリアムス、元ニューヨーク・ヤンキースの伊良部秀輝が加入。 2003年 「第三次ダイナマイト打線」と称された強力打線を擁し開幕より快進撃を続け、優勝マジックをセ・リーグ史上最速となる7月8日に点灯させる。マジック点灯以降は対中日戦で同一カード7連敗や2度の5連敗などでやや失速するも9月15日に18年ぶりリーグ優勝。20勝を挙げた井川慶がMVPに。日本シリーズは福岡ダイエーホークスと対戦するが、甲子園でのゲームを全てものにする一方で、福岡でのゲームを全て落とし、3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、星野が監督を退任し、シニアディレクター職に転ずる。また、星野に招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一、達川光男、西本聖は退団した。岡田彰布が後任の監督に就任。 2004年 球団成績は4位。10月4日、井川慶がノーヒットノーランを達成。シーズン前に自由獲得枠で鳥谷敬を獲得、シーズン後は藪恵壹がFAでMLB・オークランド・アスレチックスへ移籍、伊良部、アリアスが戦力外、リガン、八木裕が引退。オフに広島からアンディ・シーツが移籍。 2005年 リーグ優勝。チーム防御率もリーグ1位となった。ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之のリリーフ投手3人を「勝利の方程式」として抜擢。驚異的な成績を残し、やがて3人の名前の頭文字をとって「JFK」と呼ばれた。この年から導入された交流戦を経て首位に立つと、首位を明け渡すことなく優勝。赤星が5年連続の盗塁王を獲得、下柳が規定投球回未到達ながら最多勝、今岡が球団新記録の147打点を挙げて打点王、金本がMVPを獲得した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは0勝4敗で敗退。 2006年 夏場の苦戦が響いて中日にマジック点灯を許すが、一時戦線離脱していた藤川球児が復帰第一戦の8月27日の巨人戦で好投して連敗を止めてからは怒濤の反撃に転じ、結果的には2位に終わるも優勝した中日を最後まで苦しめた。片岡篤史が引退。オフに井川がポスティングシステムでMLB・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、同じくMLBからエステバン・ジャンとライアン・ボーグルソンを獲得。 2007年 最終的に3位。4月から5月にかけて9連敗し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷。借金は最大で9となった。7月を15勝6敗、8月を12勝8敗1分で勝ち越し、9月中旬には首位に立つこともあった。中日とのクライマックスシリーズ第1ステージを0勝2敗で敗退。この年は、規定投球回数に到達した投手がいなかった。更に打率・得点も12球団中最下位だった。上園啓史が新人王を獲得。シーズン終了後にアンディ・シーツが現役引退。FAで広島から新井貴浩、トレードでオリックスから平野恵一、日本ハムから金村曉、MLBからルー・フォードが加入。 2008年 最終的に2位。4月12日に金本知憲が通算2000本安打を達成。5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成。開幕から好調で、7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジックを点灯させる。しかし、北京オリンピックに新井、藤川ら主力メンバーを派遣した後半戦から下降線をたどるようになり、8月29日を最後に巨人相手に全く勝てなくなる。9月21日の直接対決での3連敗で巨人に同率首位に並ばれ、10月8日の直接対決の最終戦で敗れ、巨人に単独首位を明け渡し、10月10日の横浜戦(横浜)での逆転負けにより巨人が優勝した。クライマックスシリーズ第1ステージでは京セラドーム大阪で中日と対戦するが、1勝2敗で2年連続の第1ステージ敗退となった。シーズン後、岡田は優勝を逃した責任をとり監督を辞任。真弓明信が後任となった。野口寿浩がFAで横浜に移籍。 2009年 WBCに出場した岩田稔や正捕手の矢野、先発転向した久保田が故障で開幕に間に合わなかったことや、藤川の不調もあり前半戦は低迷。6月に途中加入したクレイグ・ブラゼルや、開幕前にロッテから移籍した久保康友、7月以降ローテーションに定着した能見らの活躍もあって、後半戦では8カード連続で勝ち越しを決めるなど巻き返すも、最終戦でヤクルトに連敗し4位に終わり、CS進出を初めて逃す。この年はベストナイン、ゴールデングラブ賞共に受賞者なし、タイトル獲得者もなしであった。3賞で受賞者がいないのは1995年以来14年ぶりであり、規定打席数以上で打率3割を超えた打者も2000年以来9年ぶりにいない状態であった。オフにシアトル・マリナーズから城島健司、コロラド・ロッキーズからマット・マートンなどを獲得。一方で、9年間チームに在籍した赤星が引退、藤本がFAでヤクルトに移籍、今岡、ウィリアムスらが退団した。また駐米スカウトのオマリーを解任し、シーツが後任となった。 2010年 1試合22得点(球団記録更新)挙げるなど、1リーグ時代を除けば球団最高のチーム打率.290、3割打者と90打点以上達成者が5人ずつ、という記録を残すなど爆発的な破壊力を誇る打線は「第四次ダイナマイト打線」と称された。9月に一時的にマジックが点灯したこともあった。しかし最終的には、ナゴヤドームでの中日戦での大幅負け越しなどが響き、首位中日と1ゲーム差の2位。初めて甲子園で行われたクライマックスシリーズの第1ステージの対巨人戦は、先制しながらも0勝2敗で敗退。個人記録としては、鳥谷の遊撃手としてのシーズン104打点はプロ野球記録となったが、開幕前に負傷した金本は、フルイニング出場が途切れた。オフにはFAで小林宏之と藤井彰人を獲得。一方で、矢野が引退、星野仙一シニアディレクターが、楽天の監督に就任するため退団。 2011年 3月11日に発生した東日本大震災の影響で、開幕日が当初の3月25日(神宮球場での対ヤクルト戦)から4月12日の甲子園での対広島戦に変更となり、阪神にとって1993年以来18年ぶりの甲子園開幕戦。これを7-4で制し、40年ぶりの甲子園での開幕戦勝利を挙げた。投手では、先発のランディ・メッセンジャーが、能見と並ぶ12勝を上げる。月間成績は6月から8月まで連続で勝ち越し、8月終了時には2位になる。しかし、9月に入ると首位ヤクルト相手に6連敗を喫するなどし、4位で終わった。シーズン後、真弓監督は辞任、後任の監督には和田豊コーチが就任した。この年、下柳、桜井、葛城らが退団。 2012年 阪神球団設立以来初めてキャプテン制度(野手と投手にそれぞれキャプテンを置く)を導入。野手に鳥谷敬、投手に藤川球児がそれぞれ就任した。開幕9試合の4月10日に5勝2敗2分で首位となるなど、4月は勝ち越したものの5月以降はすべての月間で負け越した。交流戦に入り5連敗で勝率5割を切ると、以降は勝率5割以上になることがなく、前半戦を借金10の5位でターン。後半戦直後に7連敗、8月11日に対広島戦に敗れ8連敗でクライマックスシリーズ自力進出が消滅し、9月25日の対ヤクルト戦(神宮)で敗れてBクラスが確定、首位巨人と31.5ゲーム差、3位ヤクルトと11.5ゲーム差の5位に終わる。411得点、58本塁打はリーグ最少、24無得点試合はリーグ新記録で、規定打席到達者の最高打率が鳥谷の.262など貧打線に苦しんだシーズンとなった。巨人とは途中9連敗、東京ドームでは開幕から2分けを挟んで8連敗するなど1勝9敗2分に終わり、シーズン通しては5勝15敗4分に終わる。2位の中日にもナゴヤドームで開幕から1分を挟んで8連敗するなど、シーズン通して7勝15敗2分に終わり、上位2球団とドーム球場の試合で大きく負け越す結果となった。なお、この年は城島と金本が現役を引退した。オフには、藤川が海外FA権を行使し、メジャーリーグのシカゴ・カブスへ移籍した。元メジャーリーガーの西岡剛と福留孝介を獲得し、FAでオリックスの日高剛を獲得している。ドラフトでは、大阪桐蔭高校の藤浪晋太郎を1位指名でオリックス、ヤクルト、ロッテとの4球団競合の末に獲得している。 2013年 開幕から巨人と首位争いをしていたが、6月2日に阪神が今季初の首位に立つものの、6月13日に巨人が首位に返り咲くと以降は首位に立つことができないまま、巨人と5ゲーム差で迎えた8月27日からの3連戦で3連敗したことも響き、9月22日に阪神が対ヤクルト戦(甲子園)に6対7で敗れたことで巨人のリーグ優勝が決定した。9月23日の同戦に2対0で勝利し、3年ぶりにクライマックスシリーズ進出が決定し、10月3日の対DeNA戦(横浜)で7対3で勝利し、3年ぶりのシーズン勝ち越しと、2位を確定させた。広島とのCSファーストステージ(甲子園)は2連敗で敗退した。この年、桧山進次郎が引退した。なお、同年10月より球団OBの掛布雅之が新設のゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任。 2014年 前年に続き巨人と広島との優勝争いとなり、8月には一時は首位の巨人と0.5ゲーム差となるものの長期ロード明け以降に阪神が失速し、26日に巨人の優勝が決定するが、翌27日の対ヤクルト戦(甲子園)に勝利し2年連続でクライマックスシリーズへの進出が決定し、10月6日に2年連続2位が決定した。マートンが首位打者、マウロ・ゴメスが打点王、メッセンジャーが最多勝と最多奪三振、呉昇桓が最多セーブを獲得するなど、NPB史上初めて1シーズン4人の外国人選手がタイトルを獲得した。また福原忍の最優秀中継ぎ投手と合わせて、1シーズンで5人、6部門のタイトル獲得はそれぞれ球団タイ記録。広島とのCSファーストステージ(甲子園)は第2戦で延長12回表に0対0とした時点で2位の阪神の勝ち上がりが決定し、1勝1分で球団初のファイナルステージに進出。巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)は、ファイナルステージ史上初の4連勝で、初めてCSを勝ち抜いての日本シリーズ進出となった。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズは甲子園での最初の2戦を1勝1敗で終えたのち、前回ホークスと対決した2003年の日本シリーズと同様に敵地福岡での全試合で敗れ、1勝4敗で敗退した。2004年以降のポストシーズン制導入後、レギュラーシーズン2位以下で日本シリーズに進出して日本一になれなかったのは阪神が初であった。 2015年 球団創設80周年を迎えた。5月28日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で球団通算5000勝目を達成し(巨人に次いで12球団中2番目の早さでの達成)。交流戦では、セ・リーグ球団で唯一10勝8敗で勝ち越し、総合順位では6位に終わるが、セ・リーグ球団ではトップの成績だった。6月19日にネルソン・ペレスを獲得。6月15日の前半戦終了段階で3位。7月3日の対横浜DeNAベイスターズ戦で、プロ野球史上初の通算1万試合を達成した。後半戦は、9月27日の対広島戦の逆転負けで、リーグ優勝の可能性が完全消滅。最終的にリーグ戦3位。クライマックスシリーズのファーストステージでシーズン2位の巨人と対戦し、結果1勝2敗で敗退となった。本塁打はリーグワースト2位、盗塁も48はダントツのワースト。得点リーグ最下位、チーム打率4位、チーム防御率も5位と低迷した。シーズン終了後、関本賢太郎・藤井彰人、渡辺亮が現役を引退。呉昇桓がセントルイス・カージナルスに移籍。リーグ優勝を逃した責任を取り、和田監督が退任となった。週刊ベースボールでは生え抜きの日本人選手が育たない分、外国人への依存度が高まったと指摘され、チーム総得点リーグワースト、チーム防御率も五位と低迷した。投手コーチの中西清起・山口高志、打撃コーチの関川浩一・高橋光信、守備走塁コーチの山脇光治・風岡尚幸、2軍バッテリーコーチの吉田康夫、2軍打撃コーチの八木裕の8コーチが解任された。後任の監督に球団OBの金本知憲が就任した。球団本部付育成&打撃コーディネーターの掛布雅之が二軍監督に就任。また、新外国人のマット・ヘイグ、マルコス・マテオ、ラファエル・ドリス、FAでは中日から髙橋聡文が加入し、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスに所属していた藤川球児が復帰した。 2015年 10月27日、一・二軍のコーチ陣を発表し、一軍作戦兼バッテリーコーチの矢野燿大・一軍打撃コーチの片岡篤史と濱中治・二軍打撃兼野手総合コーチの今岡誠・二軍内野守備走塁コーチの藤本敦士といった2003年・2005年のリーグ優勝当時に金本監督とともに優勝に貢献したメンバーが顔をそろえた。 2016年 3月、読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題に絡み、巨人同様円陣の声だしで金銭の授受や高校野球を対象としたくじ等が発覚。 「超変革」をスローガンに、髙山俊、横田慎太郎、北條史也、江越大賀ら若手を積極的に起用したが、西岡らベテラン戦力と噛み合わず、なかなか結果が出ないことが多かった。交流戦を7勝11敗で負け越し、前半戦終了時点で5位。夏場には最下位に転落することもあったが、結果的に4位で4年ぶりのBクラスに終わる。シーズン終了後、福原忍、鶴岡一成が現役を引退。シーズンオフには、平野恵一がファーム守備走塁コーチから1軍打撃コーチに就任、濱中治が1軍打撃コーチからファーム打撃コーチに就任、筒井壮がファーム打撃コーチからファーム守備走塁コーチに就任、新たに藤井彰人がファーム育成コーチに就任することが発表された。FAでオリックスの糸井嘉男を獲得。2016年のセリーグ新人王に髙山俊が選出された。 2017年 開幕から鳥谷、福留、糸井、上本博紀、糸原健斗などが高い出塁率を残しチームの好調を支えた。シーズン終盤には、俊介が規定打席には届かずとも3割を超える高い打率を残した。5月6日、球団史上初となる9点差からの逆転勝利を達成し(阪神12-9広島、8回戦、阪神5勝3敗、甲子園)、首位に浮上するが、5月28日に再び広島と順位が入れ替わり2位に転落し、以後は7月27日から翌日までの1日間のみ3位に落ちたほかはシーズン終了まで2位にあった。最終的に首位広島と10ゲーム差でのシーズン2位となり、クライマックスシリーズでは1stステージにおいて3位DeNAに1勝2敗で敗退した。特にリリーフ投手陣の働きが光り、桑原謙太朗、マテオ、ドリス、高橋聡文、岩崎優の5名はそれぞれ60試合以上の登板数を記録、さらに52試合に登板した藤川を加えた6名が50を超える試合に登板した。1チームで5名が60試合以上登板するのと、6名が50試合以上登板するのはどちらもプロ野球史上初の出来事であった。安藤優也、新井良太、狩野恵輔が引退。大和がDeNAへFA移籍。掛布二軍監督が退任。記録では鳥谷が通算2000安打を達成。 2018年 打線の主軸として期待されたウィリン・ロサリオ、大山悠輔、中谷将大らが開幕から揃って不振を極めた。糸原、梅野隆太郎らがレギュラーに定着するも打線の繋がりを欠いたことから得点力不足に陥りチームも低迷。5月29日には同じく開幕から不振が続いていた鳥谷の連続試合出場が1939試合で途切れた。投手陣では小野泰己、才木浩人、望月惇志らが一軍に定着した一方で藤浪、秋山拓巳、高橋聡文、マテオらが不調や故障により離脱する時期もあった。2位から最下位までが僅差の「団子状態」にあったセ・リーグの中で激しく順位変動を繰り返しながらも、中盤から雨天中止が相次いだ影響で過密日程を余儀なくされた終盤にかけて徐々にBクラスに定着し、最終盤での糸井、北條、原口文仁らの故障離脱なども響いて10月8日には2001年以来17年振りのシーズン最下位が決定した。この年は特に本拠地である甲子園球場で勝つことができず、球団史上ワーストとなるシーズン39敗を喫した。シーズン最下位の責任を取る形で金本監督、片岡ヘッド兼打撃コーチが退任。また、記録では鳥谷が藤田平の保持する球団歴代最多安打記録(通算2064安打)を更新した。二軍監督の矢野燿大が一軍監督に、新たに清水雅治がヘッドコーチに就任した他、一軍と二軍の首脳陣を大幅に入れ替えた。FAでオリックスの西勇輝を獲得、新外国人としてオネルキ・ガルシア、ピアース・ジョンソン、ジェフリー・マルテを獲得。 永久欠番は以下の3つとなる。実績・功績はそれぞれの項目を参照のこと。 10:藤村富美男(1959年より) 11:村山実(1973年より) 23:吉田義男(1987年より) 1936年春 - 1936年夏 : 森茂雄 1936年秋 - 1939年 : 石本秀一 1940年 - 1941年 : 松木謙治郎(第1次) 1942年 - 1944年 : 若林忠志(第1次) 1946年 : 藤村富美男(第1次) 1947年 - 1949年 : 若林忠志(第2次) 1950年 - 1954年 : 松木謙治郎(第2次) 1955年 : 岸一郎 1956年 - 1957年 : 藤村富美男(第2次) 1958年 - 1959年 : 田中義雄 1960年 - 1961年 : 金田正泰(第1次) 1962年 - 1965年 : 藤本定義(第1次) 1966年 : 杉下茂 1967年 - 1968年 : 藤本定義(第2次) 1969年 : 後藤次男(第1次) 1970年 - 1972年 : 村山実(第1次) 1973年 - 1974年 : 金田正泰(第2次) 1975年 - 1977年 : 吉田義男(第1次) 1978年 : 後藤次男(第2次) 1979年 - 1980年 : ドン・ブレイザー 1981年 : 中西太 1982年 - 1984年 : 安藤統男 1985年 - 1987年 : 吉田義男(第2次) 1988年 - 1989年 : 村山実(第2次) 1990年 - 1995年 : 中村勝広 1996年 : 藤田平 1997年 - 1998年 : 吉田義男(第3次) 1999年 - 2001年 : 野村克也 2002年 - 2003年 : 星野仙一 2004年 - 2008年 : 岡田彰布 2009年 - 2011年 : 真弓明信 2012年 - 2015年 : 和田豊 2016年 - 2018年 :金本知憲 2019年 - : 矢野燿大 ※太字は優勝達成監督 ^ ここから阪神軍 ^ ここから大阪タイガース(第2次) ^ 1955年は5月19日まで指揮。残り試合は藤村富美男が代行。 ^ ここから阪神タイガース ^ 1961年は6月4日まで指揮。残り試合は藤本定義が代行。 ^ 1966年は8月11日まで指揮。残り試合は藤本定義が代行。 ^ 1972年は4月19日まで指揮。残り試合は金田正泰が代行。 ^ 1980年は5月14日まで指揮。残り試合は中西太が代行。 ^ 1984年6月13日 - 6月15日は佐藤孝夫が監督代行。 ^ 1995年は7月23日まで指揮。残り試合は藤田平が代行。 ^ 1996年は9月11日まで指揮。残り試合は柴田猛が代行。 リーグ優勝:9回 1リーグ時代:4回(1937年秋、1938年春、1944年、1947年) 2リーグ制後:5回(1962年、1964年、1985年、2003年、2005年) 日本シリーズ優勝:1回(1985年) クライマックスシリーズ優勝:1回(2014年) 年間王者:2回(1937年 - 1938年) Aクラス:51回 1リーグ時代:12回(1936年秋 - 1940年、1942年 - 1948年) 2リーグ制後:39回(1950年 - 1960年、1962年 - 1970年、1972年 - 1973年、1975年 - 1976年、1981年 - 1982年、1985年 - 1986年、1992年、2003年、2005年 - 2008年、2010年、2013年 - 2015年、2017年) Bクラス:32回 1リーグ時代:2回(1941年、1949年) 2リーグ制後:30回(1961年、1971年、1974年、1977年 - 1980年、1983年 - 1984年、1987年 - 1991年、1993年 - 2002年、2004年、2009年、2011年 - 2012年、2016年、2018年) 連続Aクラス入り最長記録:11年(1950年 - 1960年) 連続Bクラス最長記録:10年(1993年 - 2002年) 最多勝利:87勝(2003年、2005年) 最多敗戦:84敗(1995年) 最多引分:13分(1976年) 最高勝率:.829(1938年春) 最低勝率:.331(1987年) 最多連勝:14連勝(1937年秋、1946年) 最多連敗:12連敗(1998年、1999年) 最小ゲーム差:0.5ゲーム(1937年春、1973年) 最大ゲーム差:37.5ゲーム(1987年) シーズン最多安打 1458安打 (2010年) - セ・リーグ記録 シーズン最多本塁打 219本 (1985年) シーズン最少本塁打 1本 (1944年) シーズン最多奪三振 1208奪三振 (2005年) - セ・リーグ記録 シーズン最多完封負け 24回 (1963年、2012年) シーズン最高打率 .345 (1936年夏) シーズン最低打率 .197 (1941年) シーズン最高防御率 1.53 (1944年) シーズン最低防御率 4.79 (1978年) シーズン連続2ケタ安打 10試合 (2008年) シーズン連続イニング安打 27 (2014年) シーズン連続完封試合 4試合 (2013年) シーズン連続イニング無失点 52 (1942年) - 日本プロ野球記録 シーズン連続試合無本塁打 15試合 (2012年) ゲーム最多得点 22得点 (2010年8月25日対広島東洋カープ) 阪神ではこれまでに球団史上9人の投手がノーヒットノーランを達成している。 特に江夏のケースは、延長11回裏に自らサヨナラ本塁打を放ってノーヒットノーランを達成するという名勝負となり、延長戦でのノーヒットノーラン達成はこれが日本プロ野球で史上唯一の記録である。なお、完全試合達成者は球団創立から現在に至るまで一切いないが、参考記録として準完全試合は2人が記録している。ひとりは田宮謙次郎が1950年3月16日に国鉄スワローズ戦で9回2死までを完全に抑え、もうひとりは小山正明が1956年6月6日に大洋ホエールズ戦で先頭打者に安打を許しその後の打者を完全に抑えた試合であった。 プロ野球最初の公式リーグ戦の1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加し、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体が変わらずに存続するプロ野球チームは世界的にも極めて少ない。また、ユニフォームや球団シンボル・ロゴなどのデザインについても球団創設時より大幅な変更が為されないまま現在に受け継がれている(デザインの項を参照)。 幾つかの特有の伝統行事も持つ。代表的なものとして、タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に廣田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である。また、現在では開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝することも伝統行事となっている。 その一方で、2005年創設の東北楽天ゴールデンイーグルスと並び、未だに日本一となった回数は最少タイ(1回)の球団である。また、1985年の日本一においては日本シリーズMVPを獲得したのはランディ・バースであり、セ・パ12球団では唯一日本人選手の日本シリーズMVP獲得者がいない球団でもある。 ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。大阪と同様に工業都市であったアメリカ合衆国のデトロイトを本拠地とするデトロイト・タイガースを参考にして松原がこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。その後「タイガース」の名は戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中で英語が使えず「阪神軍」を称していた時期を除き、一貫して使われてきた。 このニックネームについては、英語表記「Tigers」の発音は「タイガーズ」のほうが近いが、正式名称は日本語の固有名詞なので、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名は、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的だった。 球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が兵庫県の定める地域区分において、同県南東部の神戸市と大阪府に挟まれた「阪神間」に位置していることとの2つの意味を併せ持つ。設立当初は、球団事務所を大阪市に置き、「大阪タイガース」という球団名であったが、球団事務所を甲子園球場内に移転したことに前後して1961年より正式名称となった。 ただし、改称以前から略称として「阪神」が、通称として「阪神タイガース」が使われていた。 現在の略称について英字は「T」、漢字で略す場合は頭文字の「阪」でなく「神」になる。これは阪急ブレーブスとの重複を避けるため(阪急は「急」)であったが、阪急が球団を手放した後も(保護地域である兵庫県の県庁所在地に由来する)「神」を継続している。 阪神タイガースは、現在セントラル・リーグでは唯一近畿地方に本拠地をおく球団であり、関西圏において圧倒的な人気を誇る。しかし、その人気は始めから不動のものという訳ではなかった。 群雄割拠の関西球団 かつての関西においては、南海ホークスもタイガースと同様に多くの人気を集める球団であった。特に1950年代前半頃、甲子園球場へのナイター設備の設置(1956年完了)が大阪スタヂアムより遅れたことで観客動員を減少させた阪神は、南海の観客動員を上回ることができず、ナイター設置後も1959年からは3年続けて南海を下回っていた。また、テレビ中継でも、南海ホークスは毎日放送、近鉄バファローズは朝日放送、阪急ブレーブスは関西テレビ放送などと、球団 - 放送局間で優先的な放送契約を結んでいたこともあり、阪神以外の関西球団への注目度が比較的高い状況であった。 関西球団の中継数減少 しかし、1960年代中盤に差し掛かると読売ジャイアンツが黄金期を迎え、在京キー局との関係からも、他地方と同じく関西でも次第に巨人の試合の中継数が優位となっていった。特に、関西テレビは巨人中心の方針を強め、阪急が好調でも「阪急のカードを押し出すことは容易な業ではなかった」ことから、以前は年間約30試合ほどあった阪急戦の中継が1966年には8試合にまで減少。毎日放送でも、1960年代こそ南海戦の中継放送が事業として欠かせない存在だったが、1970年代には阪神・巨人戦の中継を確保することに必死となっていた。 阪神戦の「露出増加」から「一極集中化」 このように、関西でも巨人戦が中心的に中継されるようになったことで、同一リーグに所属するチームとして巨人と年間を通して対戦するタイガースのマスコミへの露出が他の関西球団と比して増加。さらに、時を同じくして神戸市を拠点とする放送局サンテレビが開局(1969年)、その直後から編成の目玉としてタイガース戦の完全中継枠『サンテレビボックス席』の放送を開始した。同局の視聴可能エリアは大阪府下の相当な地域を含む阪神地区全域を含んでおり、またその後関西圏の独立UHF各局へのネットも開始されたことで、関西全域において身近にタイガース戦をテレビ観戦できる環境が整った。 それに伴うタイガース人気向上に従って、元来阪神・巨人戦のみを放送していた上記の大手在阪テレビ局も積極的にタイガースを中心とした中継放送を増加させるようになり、関西でのプロ野球放送はタイガース戦への一極集中化が進んだのである。 このような背景から、現在でもスポーツ新聞各紙の関西版では専らタイガース関連の記事が1面を飾り、1面以外のページに至るまで大きく扱われることも多い。 1985年10月16日に関西テレビが中継した、阪神が21年ぶりの優勝を決めた対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)は関西地区で視聴率56.7%を記録(ビデオリサーチ調べ)。これは関西地区におけるプロ野球中継の最高視聴率記録である。 球団歌は「阪神タイガースの歌」である。歌詞の冒頭をとって「六甲颪(ろっこうおろし)」とも呼ばれる。球団結成時に「大阪タイガースの歌」として作られたものが、歌詞中の「大阪」を「阪神」に変更したものである。 1936年 - 現在:阪神甲子園球場(1964年2月までの名称は甲子園球場) 球団設立当初から、親会社が所有する阪神甲子園球場を使用しており、現在の日本プロ野球で本拠地となっている球場の中では最古である(ただし、アメリカ軍に接収されていた1946年のみ使えなかった)。1948年のフランチャイズ制仮導入以来一貫して専用球場としており、専用球場を変更していないのは、2005年から新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを除けば阪神だけである。なお、フランチャイズ制仮導入まではホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、阪神甲子園球場以外に後楽園球場・阪急西宮スタジアムなどの中から日程上都合のいい球場を選んで開催していた。 阪神甲子園球場は元々高校野球開催のため、またそれ以外にも多目的にスポーツ行事で使用されることを前提に造られた球場であるため、選抜高等学校野球大会と全国高等学校野球選手権大会の日程が最優先される。特に後者の大会の開催期間は2週間以上にわたるため、この時期の1ヶ月程度にも及ぶ長期遠征を「死のロード」と呼ぶようになった。ただし、昔と比べて交通機関の発達で移動時間が短くなったことや宿泊施設のグレードが上がったこと、特に1990年代以降は長期遠征中でもほっともっとフィールド神戸や空調完備の京セラドーム大阪といった甲子園の近場の球場でも試合が組まれているため、それも死語になりつつある。また、プロ野球の開幕を本拠地で迎える基準はセ・リーグはAクラスを確保したその年の2年後、パ・リーグはAクラスを確保したその年の3年後となっているため、Aクラスを確保しても本拠地開幕権を放棄するケースもある。 二軍の本拠地は、1950年代は神戸市民運動場野球場を、1979年から1993年までは阪神浜田球場を使っていたが、現在は阪神鳴尾浜球場を使っている。甲子園と鳴尾浜は同じ西宮市内にあり、12球団の中でも一軍の本拠地と二軍の本拠地に於ける間の距離は埼玉西武ライオンズに次いで近い。 実数発表となった2005年以降、2010年までは2008年を除き毎年公式戦での年間観客動員数は300万人以上を動員し続けてきたが、2011年以降は300万人に達しておらず、概ね260万 - 280万人台で推移している。ただ、2017年は最終的に2位となるなど好調な成績であったため、10月10日の公式戦最終戦で3万人の観客を集めて7年ぶりに年間観客動員数が300万人を超えた。 主に近畿地方を中心に、西日本で開催されることが特徴である。 年間試合数が144試合制であった2014年までのうち、2013年までは主催試合72試合のうち本拠地の阪神甲子園球場で60試合・大阪ドーム(京セラドーム大阪)を含む地方開催で12試合が組まれていた。なお、阪神としては大阪ドームは地方球場の扱いとなっている。この地方開催の内訳については、京セラドーム大阪での3カード・8 - 9試合と、倉敷マスカットスタジアム(それ以前は岡山県野球場)での1試合の計9 - 10試合は毎年必ず開催されており、他にほっともっとフィールド神戸を含むそれ以外の地方球場で毎年2 - 3試合が開催されていた。ただ、2014年は京セラドーム大阪での3カード・9試合と倉敷マスカットスタジアム1試合の計10試合のみでその他の地方球場での開催はなかった。年間試合数が143試合制となった2015年以降も2014年と同様、主催71ないし72試合のうち地方開催は9ないし10試合のみで、京セラドーム大阪と倉敷マスカットスタジアム以外は組まれていない。 かつては京都市西京極総合運動公園野球場でも毎年1 - 6試合を行っていたが、2005年の対西武ライオンズ戦を最後に主催試合はない。それ以外では、1999年には香川県営野球場で、2005・2006・2012年にはそれぞれ2試合ずつを松山坊っちゃんスタジアムで行った。2013年は沖縄セルラースタジアム那覇にて初めて公式戦2試合を開催した。この他、2014年にはアメリカで公式戦を開催する計画があったものの、その後断念した。 京セラドームについては1997年の開場以来使用しているが、2005 - 2007年の3年間は兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄を吸収合併したことによる暫定処置で兵庫県・大阪府のダブルフランチャイズとなったため、京セラドーム大阪を準本拠地として使うことが認められていた。現在は甲子園での春・夏の高校野球の開催期間中における、開幕カードあるいはその直後の1カード・3試合と夏の長期ロードの間の2カード・5 - 6試合の計8 - 9試合の開催が基本であるが、梅雨時などにも行われたことがあった。 また、2007年より3期に渡って行われた10月以降の甲子園の改修工事の影響から、2008年には雨天中止分の1試合がスカイマークスタジアムで、クライマックスシリーズ第1ステージが京セラドーム大阪で開催されている。2011年は当初予定されていた試合(京セラの中日3連戦と甲子園のヤクルト3連戦)が東日本大震災による日程延期によって、その日程の補填として10月にヤクルト3連戦が京セラドームで行われた。 夏季の長期遠征中は、基本的にビジターで概ね2 - 3カードこなしてから京セラドームで3連戦を組むというローテーションを繰り返しとなっているが、年度によっては旧盆(8月15日前後)の1週間に京セラドームで2カード・5 - 6試合連続開催とする場合もある。 ほっともっとフィールド神戸では後述する夏の長期ロードの時に開催していた時期もあったが、当時オリックスがフランチャイズとしていた関係もあって1994年を最後に暫く途絶えた。その後は地元自治体からの要望もあり、オープン戦ながら2007年に開催が復活し、以降公式戦では2008年には雨天中止による代替試合1試合(甲子園が改修工事で使用不可のため)を、2010年には2試合を、2012年には1試合をそれぞれ開催した。ただ、2013年以降は開催がなく、同球場からは再び撤退している。 夏の高校野球の開催期間中で甲子園が使えない期間の主催球場は1997年より京セラドームを使っているが、それ以前は京都市西京極総合運動公園野球場(1965年 - 1979年)、岡山県野球場(1973年 - 1979年)、平和台野球場(1980年 - 1988年)、グリーンスタジアム神戸(1988年 - 1994年)、阪急西宮スタジアム(1991年 - 1996年)を使っていた。特に、1980年から1987年までは、甲子園が高校野球で使用できない期間、関西地方ではほかの球団(阪急=西宮球場、南海=大阪スタヂアム、近鉄=日本生命球場・近鉄藤井寺球場)の本拠地はその球団の試合に日程が抑えられており、使用許可が下りなかったのと、それ以外の球場もナイター設備や施設スペックなどの問題で開催することが事実上難しかったため、この間2試合を平和台球場で主催しながら、ほぼ3週間関西を離れざるを得なくなる「死のロード」という状態になっていた。 また過去には、甲子園にナイター設備が導入されるまでの1953年 - 1955年には大阪スタヂアムでナイターを行うことがあった。その他、岩手県営野球場、郡山市営開成山野球場、県営宮城球場、藤崎台県営野球場(いずれも1975年)でも試合を行っている。 前述のように甲子園での選抜高等学校野球大会の開催のため、阪神は前々年(2001年以前は前年)にAクラスに入って本拠地開幕権を得ても甲子園で開幕戦を迎えられないケースが多い。選抜高校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、セ・リーグの開幕がこの時期になると当然甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。これにより阪神は21世紀になってからは通常の公式戦日程で本拠地での公式戦開幕を12球団では唯一行っていない。 選抜開幕前に開幕戦を甲子園で行われた年は1956年、1964年の2回であり、選抜終了後に開幕戦を甲子園で行われた年は1952年、1959年、1961年、1963年、1969年、1973年、1983年、1987年、1993年、2011年の10回である。このうち、2011年は当初日程であれば明治神宮野球場での対ヤクルト戦だったが、東日本大震災の影響で開幕日が4月12日に順延されたことから、甲子園での対広島戦が開幕戦となった。 かつては選抜開幕前もしくは終了後に甲子園で開幕戦が設定されたというケースもあったが、2007年のクライマックスシリーズ導入後は日程面から選抜終了後に開幕が設定されておらず、今後も終了後に設定される可能性は少ない。なお、甲子園で開催できない場合の対処として以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年以降。大阪ドームでの開幕は除く)。 前年ないし前々年(2003年以降)Bクラス球団の本拠地で開幕を迎える 1953年:後楽園球場(国鉄スワローズの本拠地) 1955年・1958年:川崎球場(大洋ホエールズの本拠地) 1960年:広島市民球場(広島東洋カープの本拠地) 1977年:明治神宮野球場(ヤクルトスワローズの本拠地) 1982年・1986年:横浜スタジアム(横浜大洋ホエールズの本拠地) 2017年:MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島東洋カープの本拠地) 前年ないし前々年(2003年以降)Aクラス球団の本拠地で開幕を迎える 1957年:中日球場(中日ドラゴンズの本拠地) 1976年:広島市民球場(広島東洋カープの本拠地) 地方球場での主催ゲームで開幕を迎える 1968年・1974年:岡山県営球場(1968年は対広島東洋カープ戦、1974年は対大洋ホエールズ戦) 地方球場でのビジターゲームで開幕を迎える 1954年:中津市営球場(大洋松竹ロビンス主催で、当時の大洋松竹ロビンスは大阪スタヂアムが本拠地であった) 大阪ドームの完成後は、大阪ドームを本拠地とするパシフィック・リーグ球団が当年の本拠地開幕権を持っていなければ、地元開幕を大阪ドームで迎えられるようになった。大阪ドームでの主催ゲームで開幕を迎えたのは、以下の年次が該当する。 2005年・2009年・2019年:対ヤクルトスワローズ戦(2005年)/東京ヤクルトスワローズ戦(2009年・2019年) 2007年:対広島東洋カープ戦 2008年・2010年・2012年:対横浜ベイスターズ戦(2008年・2010年)/横浜DeNAベイスターズ戦(2012年) 2015年・2016年:対中日ドラゴンズ戦 なお、2010年と2017年は大阪ドームを本拠地とするオリックスも当年の開幕権を持っていたため、セ・パ両リーグで折衝した結果、2010年はパ・リーグが変則日程とし、2017年は阪神が開幕権を返上することで決着した。 プロ野球の試合数については2000年以後140試合以上と増えたこと、また選抜大会も1997年に雨天中止が頻発したことなどから、プロ野球の日程に支障をきたすこともあるため、現在は何れも開幕時期を大幅に繰り上げている(選抜が概ね春分の日(3月20日か3月21日)前後、プロ野球は3月最終金曜日に制定されていることが多い。選抜は2003年以後現在の時期で開催)。そのため、現在では阪神が開幕戦主催権を獲得した場合は大阪ドームでの開催が常となっている。また2年前のシーズン(2003年以後)Bクラスにより開幕戦主催権を逃した場合であっても、大阪ドーム完成後は開幕2カード目、ないしは3カード目のいわゆる「ホーム開幕シリーズ」を同球場に割り当てることが多い(大阪ドーム完成前までは、選抜の大会日程が終了するまではビジターでの遠征が続いていた)。 一軍春季キャンプ:沖縄県宜野座村営野球場 秋季キャンプ、二軍春季キャンプ:高知県安芸市営球場 徳島県県営蔵本球場 タイガースは歴史的に一貫したスタイルを持っている球団であり、球団旗からロゴ、袖章の虎マーク、縦縞ユニフォームの基本デザインまで、創設当初から基本スタイルを守り続けている。このような一貫性を保持していることは日本球界では珍しく、日本球界ではタイガースのみである。これらのデザインを手掛けたのは当時阪神電気鉄道の宣伝課デザイン室に勤務していたデザイナー・早川源一(1906年 - 1976年)。阪神球団には、本人の手によると思われるデザインの原画が数点残っている。 球団創立当時から、球団旗・ユニフォーム・ペットマークなどに、右を向いた虎の似顔絵(虎マーク)が使われている。 1980年代前半頃より、虎マークが入った赤円を黒の輪で囲んだデザイン(黒の輪の上部に「HANSHIN」、下部に「Tigers」のロゴがそれぞれ白文字で入っていた)のペットマーク(丸虎マーク)が採用され、出版物や映像作品などで使われている。 虎マークはユニフォームにも採用されており、球団創設当時からユニフォームの左袖にあしらわれている(詳細後述)。なお、ユニフォームにあしらわれている虎マークは顔が左向きとなっている。 1981年には、阪神百貨店本店6階のタイガースショップ天井に丸虎マークの照明が取り付けられている(2004年2月に8階へ移転するとともに、照明もそのまま移設された)。 球団旗は球団創立当時から、黒と黄色の横じま(上から、黒四本・黄色3本交互に構成)をバックに、左上にはペットマークにも使用されている赤円の中に右向きの虎マークが入ったデザインを基本としている。 初期の赤円は若干薄い色であった。その後、1950年代から1960年代頃には、虎マークの囲み円が褐色に染められたものや、黄色に黒線で囲まれた円形に正面に向いた虎の絵(ペットマークのデザインとは異なる)が描かれたマークの入ったデザインが存在した(選手名鑑に掲載されたり、1966年のオールスターゲームのポスターにも描かれた)。 その後、1970年代後半頃には、虎マークなどが現在の形にまで整い、1978年の小林繁の入団発表でバックに掛けられた旗もこのデザインである〔このときの写真が『阪神タイガース70年史』57ページに掲載されている〕)、1984年10月には、一番下の黄色ラインの右寄り部分に黒色で「HANSHIN Tigers」のロゴが入ったデザインが正式採用された。ただし、正式採用より数年前から使われている。 先述の球団旗やホーム用ユニフォームの胸などに描かれる「Tigers」ロゴの書体は1960年に細部が変更されたのみで、創設以来一貫して使われ続けている。 また「Tigers」ロゴは、「HANSHIN」ロゴと合わせて、1962年6月15日には商標登録されている。1982年には、ユニフォームのマークと同じように、整ったロゴが登録されている。日本語表記の「阪神タイガース」ロゴは、1981年4月25日に商標登録出願、1983年10月27日に登録されている。 1936年 - 1940年 「Tigers」ロゴが2種類、「OSAKA」ロゴが1種類の3種類のユニフォームを使用。帽子も、3種類のユニフォームとそれぞれデザインを合わせた3種類があり、マークは黒字の「O」。ストッキングは黒地に黄と赤の2本ラインのものと、グレー地にダークグレーの4本ラインのものの2種類。 「Tigers」ロゴのものは白地にライトグレーのストライプのものと、グレー地にダークグレーのストライプのもので、共に襟付きであり、ロゴ・背番号の縁取り、前立て、袖などに黒と黄のパイピングというデザイン。なお、縦縞のデザインを使用した理由は諸説あるが、当時のデトロイト・タイガースのデザインを参考にしたのが有力とされる。 「OSAKA」ロゴのものはグレー無地にロゴ・背番号の縁取りとラインに黄のパイピングというデザインで、襟付き、左袖に虎マークのワッペンが貼られている。 1937年 「Tigers」ロゴの白ユニフォームのストライプを濃くし、ロゴ・背番号の縁取りを廃止するなどマイナーチェンジ。黒地にエンジの3本ラインのストッキングを追加。帽子を、白地にグレーのストライプ、黒ツバに赤字のOマークというデザインに変更。 1938年 - 1940年 「Tigers」ロゴの白ユニフォームのストライプをさらに濃く太くし、ロゴ・背番号の縁取りを復活。白地に黄の2本ラインと赤の1本ラインを配したストッキングを追加。 1940年 - 1943年 連盟の指示により球団名を「阪神」に改称したことに伴い、基本デザインはそのままにロゴを漢字の「阪神」(左胸に縦書き。「神」は旧字体の「示へんに申」)に変更し、帽子のOマークを廃止。 1943年 帽子の代わりに戦闘帽を着用し、阪神電鉄の社章を帽子マークとした。また、襟、ラインを廃止。 1944年 背番号を廃止。また、ユニフォームの国防色化も指示されていたが、かつて「OSAKA」のユニフォームで使用していた灰色無地の生地を使用することで容認された。その際にロゴやラインの黄色は取り除かれたが、袖の虎マークはそのまま使用された。 1945年 再び「大阪タイガース」に改称するも、生地の不足により「Tigers」ロゴ無しのグレー地に黒のストライプのユニフォームであった。ストッキングはグレー地にダークグレーのストライプのものが主に使用された。帽子のOマークは復活していた。 1946年 - 1948年 胸ロゴが復活。しかし、グレー地のユニフォームは生地の耐用期間が短く、わずか3年間で廃止された。 1947年 - 1951年 物資不足の影響から、縦縞の無い白色無地で前立てラインのユニフォームを採用。前立てラインが2本のものと1本のものの2種類が存在した。「Tigers」ロゴ縁取りやラインは黄色。アンダーシャツは選手によってバラバラであり、白や紺、黒、あずき色などが使用された他、帽子は白地に黒字のOマーク、ツバ紺色であり、1938年 - 1940年に使用された白地のストッキングが復活した。特に、1本ラインのものは2リーグ分裂後も使われ、1951年までホーム用として使用された。 1948年 - 1949年 「黒のユニフォーム」と呼ばれる濃紺の生地を使用したユニフォームを着用。主に遠征用として用いられていた。上下濃紺に白字に黄色の縁取りの「Tigers」ロゴで、帽子も濃紺に白字のOマークであった。ストッキングは従来の白地のものに加えブルーグレー地に紺のラインのものと黄色地に紺のラインのものを使用した。このユニフォームは縦縞の生地が手に入らなかったために間に合わせで作られたものだが、第1次ダイナマイト打線の時代と重なったことや21世紀に入ってから復刻版ユニフォーム(詳しくは後述。)として使われたこともあって、老若男女問わずファンの認知度は高い。 1950年 - 1951年オールスター前 2リーグ分裂に伴い、遠征用ユニフォームを濃紺のユニフォームから薄めのグレーを基調とした「OSAKA」ロゴのユニフォームへ変更。1936年 - 1940年に使用されていた「OSAKA」ロゴのユニフォームを踏襲したデザインであり、戦後初めて左袖に虎マークが復活。このユニフォーム専用として帽子マークが「T」の帽子が登場、黒地に白字のTマークというデザインであった。 1951年オールスター後 - 1953年 オールスターを境に、遠征用ユニフォームの「OSAKA」ロゴを「Tigers」ロゴに変更した上で、前立てラインを廃しビジター用として使用。「OSAKA」ロゴは虎マークの代わりに左袖に移動した。ストッキングは黄地に白、黒、赤のラインが入ったもの。襟を廃止。 1952年 このシーズンのみ、白地にラインなしのホーム用を使用。地色以外は前年から使用していたビジター用と共通のデザインであった。ストッキングは従来の白地に黄、赤のラインが入ったもの。また、ビジター用帽子のマークがTマークからOマークに戻った。 1953年 - 1957年 伝統の縦縞と白地の縞帽子が復活、1938年 - 1940年のデザインをほとんどそのまま踏襲したデザインとなった。 1954年 - 1957年 ビジター用のロゴが再び「OSAKA」となる。胸ロゴと背番号が明朝体をモチーフとした新たな書体となり、左袖の虎マークも復活。ストッキングは黒地に黄の2本ライン。 1958年 - 1959年 ホーム・ビジターともに、胸ロゴの黄色の縁取りがなくなる。また、ホーム用の白地の縦縞帽子とストッキングを廃し、ビジター用と同じものに統一。 1960年 ホーム用ユニフォームの「Tigers」の書体がブラッシュアップされると共に、胸番号を採用。創設から使われてきた帽子のマークを「O」から「To」に変更。 1961年 - 1965年 球団名が「阪神タイガース」となるに伴い、ビジター用の胸ロゴを「HANSHIN」に変更。現在ではチームの象徴ともいえる帽子の「HT」マークが登場する。 1962年後期 ビジター用の胸番号が背番号と同じ丸い書体になる。 1965年 - 1973年 基本のデザインはそのままに、襟・腕・パンツ脇に太いラインが採用された。背番号書体がホーム用はゴシックに近い書体、ビジター用は角書体、胸番号がホーム・ビジターともに角書体になる。ただし、ホーム用胸番号は背番号と書体が異なる上、さらにビジター用とも異なるいわゆる「高校野球型」書体である。ホーム用の左袖に「OSAKA」が復活、ビジター用は従来通り猛虎マーク。 1970年 - 1973年 猛虎マークが僅かに変更され刺繍となった他、背番号の上にローマ字で背ネームが入ったため背番号が小さくなった。オ段の長音は原則として「H」を使用しているが、1977年シーズン途中から1985年頃まで略していた選手が多かった(川藤幸三は「KAWATOH」ではなく「KAWATO」、遠井吾郎は「TOHI」ではなく「TOI」、大倉英貴は「OHKURA」ではなく「OKURA」)。 1972年 - 1973年 帽子のHTマークの「H」が黄色、「T」が白となり、トップボタンが白、空気穴が黄色となった。 1974年 - 1975年 ダブルニット素材がユニフォームの素材として採用されたことを機に、帽子のツバ、胸ロゴ、背番号、袖・首・パンツの線などに、それまでの黒に加えてチームカラーの黄色が入る。また、ホーム用の縦縞の色がグレーから黒となった。 1975年 - 1978年 まず1975年にビジター用のユニフォームのみ変更され、地色がグレーからスカイブルーになり、袖、パンツの線がギザギザ模様のラインになる。このラインは永井一正がデザインしたもので、「輝流ライン」と呼ばれた。由来には「虎の牙」と「赤穂浪士の法被」の2つの説がある。首のライン上に第1ボタンがついている珍しい様式で、ホーム用とビジター用でボタンの素材が異なり、ホーム用は地色と同じプラスチック製、ビジター用は半透明のプラスチック製ボタンだった。 1976年 - 1978年 ホーム用もギザギザラインになり、左袖の「OSAKA」のロゴが消え、虎マークになる。 1979年 - 1983年 ブレイザー監督就任と同時に輝流ラインを廃止し、従来の黒と黄色のラインに変更、ボタン式からプルオーバー式になる。また、ストッキングの黄色の2本線も廃止されて黒一色になる。ホーム用パンツの脇ラインが消え、縦縞が僅かに太くなる。ビジター用は左袖の虎マークが「Tigers」ロゴに変わり、1983年には左袖の「Tigers」ロゴが右上がりになる。 1982年 - 1983年 安藤統夫監督就任により、ホーム用を大幅にモデルチェンジ。チームカラーの黄色が消え、モノトーンスタイルと縞帽子(ツバ、THマークは黒)が復活し、ホーム用のスパイクが白地に黒線になる。このデザイン変更から、途中マイナーチェンジを重ねつつも基本デザインは2006年まで25年間に渡って使用されることとなる。この間1985年・2003年・2005年に3度のリーグ優勝を果たした。 1984年 - 1987年 ホーム用の背番号の書体がゴシックに近い書体からビジター用と同様の角型となる。胸番号は従来通りの高校野球型書体。また、ホーム用に2年遅れて、ビジター用を大幅にモデルチェンジ。ホーム用同様に黄色の首と袖のラインを廃してグレー地に黒の縦縞となり、左袖の虎マークが復活。また、帽子が黒地に白のHTマークとなり、ビジター用の胸番号の書体が背番号と同一になる。 1988年 - 1990年 基本的なデザインは変更されないまま、プルオーバー式からボタン式になる。また、ビジター用帽子のHTマークが白から銀に変更されるとともに、ビジター用スパイクが黒地に白線から、ホーム用と同様の白地に黒線となる。 1991年 - 2000年 1985年の日本一にあやかり、再びプルオーバー式が復活。1984年 - 1987年に使用されていたデザインがほぼ完全に踏襲された。 2000年 当時の監督・野村克也の提案により、ホーム用に使われていた縦縞帽子が廃止となり、ビジター用の黒い帽子をホームゲームでも使用するようになる。また、スパイクが黒地に銀のラインとなる。 2001年 - 2006年 ホーム用は、基本デザインを変更しないまま再びボタン式を採用(実際はボタン付きプルオーバータイプ〔ボタンが外れるのは上から数個までで、残りは飾りというもの〕)、背番号・胸番号の書体を高校野球型へ変更した。ビジター用はデザインを大きく一新。縦縞を廃し、グレー地に黒白のラケットラインと袖ラインが入り、左袖の虎マークがモノトーンカラーに変更された。また、「HANSHIN」の胸ロゴが黒字に白の縁取りのピッツバーグ・パイレーツ型の字体になり、ホーム用同様に背番号と胸番号の書体が高校野球型へ変更、ニューヨーク・ヤンキースを模して背ネーム無しのスタイルとなった。 2002年 - 2006年 ビジター用の左袖の虎マークがモノトーンカラーから従来のカラーのものに変更。 2003年 - 2006年 ビジター用ユニフォームが背ネーム無しから背ネームありのスタイルに変更。 2005年 左袖の猛虎マークが、ホーム用とビジター用ともに球団創立70周年記念のロゴマークに置き換わった。ただし、ホーム用とビジター用で若干配色が違う。 2007年 - 2011年 大幅モデルチェンジ。ホーム用は25年ぶりの大幅変更となった。監督の岡田彰布の要望により、チームカラーの黄色が1981年以来久々に取り入れられ、「Tigers」ロゴや背番号等が黄色で縁取られる。黄色と黒色の袖ライン+パンツ脇ラインが加わり、わき腹の部分には黒色を配したデザインとなった。帽子も1974年 - 1981年に使われていたもの(帽子のHTマークの「H」が黄色、「T」が白)に変わる。ビジター用は、ラケットラインを廃し「HANSHIN」ロゴを2000年以前の書体を再び採用、ホーム用と同じくわき腹部分に黒色のカッティングを配したデザインとなる。帽子は従来の黒帽子に、ツバのふちが白線が入りHTマークが銀色から白色へ戻る。また、ホーム・ビジター共に背番号・胸番号の書体が1962年夏 - 1965年まで使われた欧州系の書体を彷彿させるデザインとなった。 2008年 - 2009年 2008年交流戦明けより、ビジター用の帽子のデザインが変更。好評だった交流戦専用のビジター用のもの(後述)を、空気穴とトップのボタンをグレーから黒色にマイナーチェンジの上で引き続き使用。 2010年 左袖の猛虎マークが、球団創立75周年記念のロゴマークに置き換わった。ビジター用の帽子が2007年のタイプに戻る。 2012年 - 2014年 新たにミズノとサプライヤー契約したことによりモデルチェンジ。コンセプトは「伝統と改革の融合」。白、黒、黄色と縦縞の伝統は守りながらも、昨季のデザインと比べて黄色の部分が少なく、よりたくましいイメージとなっている。ホーム・ビジターともに基本のデザインは統一され、ホーム用は上下白地に黒の縦縞という従来のスタイルながら縦縞は昨季までのデザインより太くし「力強さ」を表現、「Tigers」ロゴ及び背番号・胸番号は黒字に白の縁取りとなった。ビジター用は藤川球児の提案から、シャツは黒、ズボンは白が基調のツートンカラーに一新し(ツートンカラーは、唯一阪神だけ採用していなかったが、このデザイン変更により全12球団が採用することとなった)、新たにシャドーストライプを配して伝統の縦縞を継承した他、「HANSHIN」ロゴをパイレーツ型をモチーフとした角張ったデザインへ変更、背番号・胸番号とともに白字にグレーの縁取りとした。シャツの肩とわき腹部分及びパンツの脇と裾部分に「牙」をイメージし虎の「勇猛さ」をアピールするとして配したシャープな切り返しデザインは、ホーム用は黒に黄色の縁取り、ビジター用は白にグレーの縁取りという配色となった。帽子のつばはホーム・ビジターともに黒となり、ツバのふちにホーム用は黄色、ビジター用は白のラインが入る(ヘルメットも同様)。HTマークについては、ホーム用はTが白でHが黄、ビジター用はTが白でHがグレーとなった。胸番号、背番号は、中日ドラゴンズが1996年から2011年まで使用したユニフォームと同じ書体に変更、背番号の角のある字体は力強さと同時に「優美さ」を表現している。キャプテン制導入(野手と投手にそれぞれキャプテンを置く)に伴い、藤川球児と鳥谷敬の左胸にはキャプテンのCマーク(黒地に「C」の白文字のワッペン)が入った。 2015年 - 2017年 球団創設80周年を機にモデルチェンジ。「歴史・伝統・新しさ」をコンセプトに、ホーム用は白、ビジター用はグレーを基調にシンプルな縦縞のデザインとなった。ビジター用の「HANSHIN」ロゴが従来のデザインへ復活。ホーム・ビジターともに肩やわき腹部分の切り返しなどを廃し、白色と黒色の腕ライン+ラケットラインが入る。帽子はホーム・ビジター共通のデザインとなり、黒地に白字でHTマークが入った。ヘルメットは艶消しのタイプとなる。 2015年 左袖の猛虎マークが、球団創設80周年記念シンボルマークに置き換わった。 2016年 - 2017年 ビジター用ユニホームを一新。2003年・2005年の2度のリーグ優勝時の「強いタイガース」をイメージし、2001年〜2006年に使用された上下グレー、縦じま無しのビジターユニホームをベースに、グレーを基調に黒白のラケットラインと袖ラインが入る。肩から袖にかけて黒のラグランスリーブをあしらい「シャープさ」と「力強さ」を表現。 2018年 - ホーム・ビジター共にモデルチェンジ。ホーム用は、伝統の縦縞にチームカラーであるイエローを加え、「伝統」とチーム・ファンとの「一体感」を表現。前年まで使用されたモデルの胸ロゴ、背番号、胸番号、背ネーム、ラインそれぞれの縁取りを白色から黄色にマイナーチェンジした形である。帽子も1974年 - 1981年、2007年 - 2011年に使われたもの(HTマークの「H」が黄色「T」が白色、ツバが黄色)を基にトップボタンと空気穴が黄色としたものに変わる。ビジター用は、ブラックを基調にイエローを加えることで「力強さ」と「一体感」を表現している。黒地に黄色と黒色のラケットライン+袖ライン、「HANSHIN」ロゴ、背番号、胸番号、背ネームは黄色に白の縁取りとなった。2014年以来4年ぶりにシャツが黒、パンツが白のツートンスタイルが復活。帽子は前年に引き続き黒一色であるがHTマークは白文字から黄文字+白縁取りに変更。なお、上新電機株式会社との契約により、ホームユニフォームは前年までのヘルメット及び右袖に加え、2018年より新たに帽子(左側)とユニフォームパンツ(左足付け根付近)に「Joshin」のロゴが掲出さることとなった。 2005年から開始されたセ・パ交流戦では2011年まで毎年、交流戦期間中の専用ユニフォームが作られた。これは交流戦が開始された2005年が球団創立70周年という記念の年に当たること、また、綱島理友が1999年から2004年まで『週刊ベースボール』で連載していた「ユニフォーム物語」で歴代のユニフォームが紹介され、それによって「オールドユニフォームを着て闘う選手の姿が見てみたい」というファンの声が高まったこと、さらに岡田彰布監督の「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えが一致したことによる。なお、選手が実際に使った交流戦専用ユニフォームは、毎年交流戦終了後に行われるチャリティー・オークションで落札者にプレゼントされ、その収益金は福祉団体などに寄付されることになっている。2012年以降は、交流戦専用ユニフォームの企画は行われていない。 2005年はホーム用のみ過去のデザインを復刻させた復刻版ユニフォームを専用ユニフォームとして使用。縦縞に黄色と黒色の縁取りを施した、1979年から1981年までのモデルを採用した。ビジターでは復刻版ユニフォームは着用せず、通常のビジター用ユニフォームで試合を行っている。この復刻版ユニフォームは好評で、その後他球団へも波及していった。 2006年は「縦縞をビジターでも見てみたい」というファンからの要望が多かったため、2005年度に使った復刻版ユニフォームをビジターの試合で着用。ホームでは逆に、同時期(1979年 - 1983年)にビジターで着ていた水色地のモデルを使用した。従って、東北楽天ゴールデンイーグルスの協力でホームゲームでは結果的に「ビジター対ビジター」、ビジターゲームでは「ホーム対ホーム」という趣で行われた。 2007年の交流戦用ユニフォームは復刻版ではなく、服飾デザイナーのコシノヒロコがユニフォームをデザイン。70年以上一度も変更されることのなかった胸のロゴデザインが改められ筆記体となり、背番号はかつてコシノが手がけた近鉄のユニフォームと同じ書体になった。どちらも文字は黄色で、ホーム用・ビジター用共に同じものを用いている。藤井寺球場時代の近鉄と同じラグランスタイルが採用されており、ホーム用は白地に黒の縦縞、ビジター用は黒地に黄色の縦縞が入っている。ラグランスリーブは共に黒で、黄色の線が配されていた。 2008年は“リアルタイガー”をコンセプトに、プロ野球界で初めて従来はアップリケだった胸のロゴや袖のマーク・背番号を生地に印字することで、これまでよりも100グラム軽い約400グラムに軽量化。より“虎”をイメージしたデザイン面は、伝統のタテジマの幅を倍の5ミリにしてグラデーション加工を施し、場所によってシマの濃さが変わる。さらに「流線形」でスピード感を表すように、すそや胸のロゴに向かって色が薄くなっている。帽子はホーム用は空気穴とトップのボタンを黄色にした交流戦限定型で、ビジター用はホーム用の黄色の部分全てにグレーが用いられた。なお、このユニフォームはキャンプ中に岡田監督が自ら提案した。 2009年は3年ぶりに復刻版ユニフォームを使うことになり、1985年にタイガースが日本一になった当時のユニフォームが選ばれた。デザインは「ユニフォーム」の1984年-を参照のこと。なお、2009年の復刻版ユニフォームは当時と同じくプルオーバータイプとなっている(2005年・2006年に使用した復刻版ユニフォームではプルオーバーを再現せずボタンありのものを作成しており、当時のものとは微妙に異なる)。一方、ホーム用のスパイクは当時は白だったが、2009年は通常のユニフォーム同様、黒だった。 2010年は「輝流ライン」入りの復刻版ユニフォームを採用する。デザインは「ユニフォーム」の1975年 - 1978年を参照のこと。 2011年は前年夏に開催された『「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜』でも使用した「黒のユニフォーム」の復刻版ユニフォームを採用する。なおストッキングは「オールド・ユニフォーム・シリーズ」では「紺色・灰色」だったものを今回は「黄色・紺色」とした。デザインは「ユニフォーム」の1948年-1949年を参照の事。着用は主催ゲームのみである(ビジターゲームでは通常のリーグ戦のビジター用を着用した)。 2010年、2012年にセントラル・リーグ主催で行われた期間限定プロジェクト。セ・リーグ6球団がそれぞれ歴代のユニフォームの中から選んだものを復刻ユニフォームとして着用。 2010年8月、『「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜』と銘打ち、1リーグ時代の「黒のユニフォーム」が復刻された。デザインは「ユニフォーム」の1948年 - 1949年を参照のこと。 2012年8〜9月、『「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜』において、大阪タイガース時代の1937年の秋に球団史上初の優勝を飾った当時のユニフォームを復刻し、ホーム用とビジター用の2種類を用意した。ホーム用は、ソックスのストッキングが黒・黄色・赤のラインが入ったもの。ビジター用は、ストッキングが黒一色のもの。 2013年より、夏イベントとして開催。毎年「ウル虎の夏(西暦)」と銘打たれ、期間中の阪神主催試合では期間限定ユニフォームが使用される。また、イベント開始前にユニフォームのお披露目としてゴールデンウィーク期間にも着用する。 2013年度は、従来の縦じまユニホームに黄色と黒のラケットラインを施し、左胸にタイガースのHTマークをあしらった。ユニフォームデザインにTHマークが使用されたのは球団史上初。また、交流戦およびセ・リーグ主管のオールドユニフォームシリーズ以外での季節限定特別ユニフォームの採用も初めての出来事であった。 2014年度は、甲子園球場の開場90周年を記念し、蔦や芝生など甲子園球場を象徴する緑色とタイガースを象徴する黄色をベースとした「ウル虎グリーン」をテーマカラーとして採用した。胸の限定ロゴは、躍動感のある猛虎をイメージし、強く、そして戦う姿勢を前面に押し出したデザイン。グリーン地に脇に黄色、ズボンは白地に横に黄色、帽子はグリーン地につばとHTマークが黄色。 2015年度は、球団創設80周年記念イベント「Yellow Magicプロジェクト」の一環として、本拠地・甲子園球場での主催9試合でチームカラーの黄色を基調としたユニホームを着用。黄色をベースに白と黒のラケットライン、パンツは白地に黄と黒の脇ライン。 2016年度は、前年同様黄色を基調とし、新たに肩や袖口に黒をあしらい力強さを表現した。また、この年よりユニフォームの名称を「ウル虎イエローユニフォーム」とした。 2017年度は、前年のモデルを踏襲した基本デザインを採用。新たに前身頃部に縦じま模様を加え、肩・袖口部の他に背面にも黒色を配し、帽子のツバにも縦じまのストライプが加わった。 2018年度は、2015年度採用のモデルをベースにラケットラインを廃し、腕ラインも白と黒から黄と黒に変更した。また、胸番号と背番号に「ウル虎の夏」のイベントロゴを模した炎のデザインを取り入れた他、ユニフォーム全体に虎柄模様を配した。帽子は黄色をベースにツバとTHマークを黒とし、ツバにはユニフォーム同様虎柄模様があしらわれている。 2016年から始まった阪神・巨人による相互展開プロジェクト。詳細は「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」の項を参照。 2016年は第1ラウンド(4月26日〜28日)にて、1970年代の「輝流ライン」ユニフォームを2016年版にリメイクした期間限定ユニフォームを着用。 2017年、5月23〜25日の甲子園・対巨人3連戦で1948年から1949年の「大阪タイガース」時代に着用されたユニフォーム(通称:ブラックユニホーム)を2017年バージョンとしてリメイクしたものを着用(帽子のマークを「O」から「TH」に変更、背ネームを追加)。 2018年、5月25日〜27日の対巨人3連戦(甲子園)にて、1975年から78年に着用された「輝流ラインユニフォーム」のビジター用をベースに、胸ロゴを「HANSHIN」から「Tigers」に変えホーム用にリメークした「輝流ラインユニフォーム2018」を着用。 球団マスコットは次の3体である。詳しくは、それぞれの項目を参照。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。 トラッキー(TO-LUCKY)- 背番号 1985 ラッキー(LUCKY)- 背番号 1994→なし キー太 - 背番号 2011 ちなみに、マスコットガールは1978年を除き2013年まで保有していなかったが、2014年から新たに「タイガースガールズ」として保有することとなった。(詳細は当該項目を参照) 大阪タイガースの歌(作詞:佐藤惣之助 作曲:古関裕而 歌:中野忠晴とコロムビア・ナカノリズムボーイズ) 大阪タイガース行進曲(発表当時球団、日本蓄音器商会〔現:日本コロムビア〕製作、上記の曲のレコードのB面に収録された公式の替え歌) 阪神タイガースの歌(球団名変更に伴う改題及び歌詞変更 歌:若山彰、立川清登、中村鋭一、道上洋三、唐渡吉則ら多数) 公式の球団歌はこの「タイガースの歌」(通称:「六甲颪」)のみであるが、その他に球団応援歌も多数ある。 タイガース音頭/進め!タイガース(歌:中村鋭一 朝日放送アナウンサー) トラトラマーチ(歌:植草貞夫 朝日放送アナウンサー) 阪神タイガース数え歌(歌:道上洋三 朝日放送アナウンサー) トラトラ阪神応援歌(同上) タイガースよ永遠に/今日も勝ったよタイガース(歌:平田勝男、吉竹春樹、池田親興=1985年タイガース所属選手) 阪神タイガースの優勝を知らない子供たち(戦争を知らない子供たちのパロディー替え歌。歌:リリアン、板東英二、やしきたかじん、桂雀々) WIN!WIN!タイガース(歌:JK21) 負ける気せんね/ハイハイ敗 (歌:辛坊治郎・森たけし=読売テレビアナウンサー) 他多数 1985年 - 1998年 3F(フレッシュ、ファイト、フォア・ザ・チーム) 1999年 - 2001年 TOP野球 2002年 - 2005年 NEVER NEVER NEVER SURRENDER 2006年 - 2008年 Be the Best For the Fans 2009年 - 2011年 Focus on this play,this moment!! 2012年 - 2014年 Go for the Top 熱くなれ!! 2015年 Go for The Top as One 2016年 超変革 Fighting Spirit 2017年 挑む Tigers Change 2018年 執念 Tigers Change 2018 2019年 ぶち破れ! オレがヤル 2019 セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。 ユニフォーム右袖 Joshin(2004年 - ) ヘルメット Joshin(2004年 - ) 帽子(左側)Joshin(2018年 - ) ユニフォームパンツ(左足付け根付近)Joshin(2018年 - ) ※2002年には、あしなが育英会のマークが入っていたが、これはスポンサーではなく、球団がボランティアで掲載したものである。 2013年から上新電機株式会社と、ユニフォームサプライを担当するミズノ株式会社の2社が阪神球団史上初となる「球団オフィシャルスポンサー」として正式に締結された(2014年度からは株式会社ローソン、2018年度からはアサヒビールも加わり計4社となった)。 球団オフィシャルスポンサーは、タイガースの球団経営の趣旨に賛同する企業・公益法人などの各種団体を対象として、球団と各団体が相互に成長していくことを目指すとしており、それらを象徴するシンボルとして、協賛スポンサー団体と球団のそれぞれのロゴマークが並列して描かれた「球団公認コンポジットロゴマーク」を広告やホームページなどに掲出できる。 タイガースの中心選手にファンが与える称号である。本来は藤村富美男の呼称であったが、藤村の引退後に村山実、田淵幸一、掛布雅之らが後継者として同様の称号で呼ばれた。 タイガース打線の代名詞。 1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志と佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号だった18、19にそれぞれ変更している。エースの若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。 1950年、リーグが分裂し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1 - 8が投手、9 - 11が監督、助監督、主将、12 - 14が捕手、15 - 20が内野手、21 - 24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9 - 11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。 村山実は入団した際に「背番号11はやめておけ」と周囲から言われたというエピソードがある。村山以前に11を付けた選手は、故障を含めて何らかの形で必ず不幸な目に遭い、11は不吉な番号といわれていたからである。 11を最初につけたのは藤井勇(1935年 - 1939年、1942年)。藤井は戦前のチームの中心打者だったが2度も召集され、戦後はパシフィックに移籍したためにタイガースへ復帰出来ずに野球人生を終えた。2代目の野崎泰一(1946年 - 1949年)は満足な成績を残せないところに肩痛が襲い、最後の年に3へ変更する。3代目の御園生崇男(1950年)は15からの変更だったが、前年に悪化していた体調がさらに悪化したため翌年元に戻す。4代目の三船正俊(1952年 - 1954年)はエースとして期待されていたが炎上癖が仇となって東映フライヤーズにトレード移籍。5代目の山中雅博(1955年)は50から変更した途端に体力不足に見舞われて退団、6代目の内司正弘(1957年)も40から変更した途端に退団している。 大学で村山の先輩にあたる御園生は「自分がつけていた背番号15を譲るから、絶対に11はつけるな」と説得したが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけている。結果的に自身の活躍でジンクスを跳ねのけた村山は、自らの手で背番号11を永久欠番にした。 試合展開を左右する局面で勝負強さを発揮する打者について、主にファンやメディアなどで「代打の神様」と表現されることが多い。 そのように称されるきっかけになったのは、八木裕である(1997年に代打成功率4割超を記録するなどした)。その後、この「代打の神様」の称号は、桧山進次郎、関本賢太郎へといつしか継承されていくこととなった。直近(2017年シーズン)は、狩野恵輔がこの称号で呼ばれることがあった。 なお、八木の活躍以前にも、複数年にわたり代打として活躍した選手は複数存在しており、遠井吾郎、川藤幸三、真弓明信などが挙げられる。 主にメディアなどで、対読売ジャイアンツ戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。2016年からは巨人との共同プロジェクトとして同カードを「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」と銘打ち相互展開を図っている。 1936年秋は複数大会開催による勝ち点制だった。各大会ごとに単独1位のチームに勝ち点1、同率1位のチームに勝ち点0.5を与え、6大会の勝ち点の合計でシーズン優勝を争った。大阪タイガースは最後の東京第2次リーグ戦(第2次東京大会)を残して勝ち点2となり、首位・東京巨人軍の勝ち点2.5に迫っていた。第2次東京大会ではタイガースと阪急軍が1位を争っていたが、巨人が故意に阪急に敗退する公認の八百長試合を行ったことで、タイガースは単独1位を逃し、勝ち点2.5で巨人と並んだため年度優勝決定戦を行うことになった。 12月に洲崎球場での年度優勝決定戦では1勝2敗で惜敗したものの、景浦が打者として12打数6安打、投手として13回を自責点1に抑える驚異的な活躍をみせた。 1936年秋の優勝決定戦では敗れたものの、1937年秋のシーズンに初優勝して臨んだ春優勝チームの巨人との年度優勝決定戦(7戦4勝制)では、沢村を打ち崩して4勝2敗で前年の雪辱を果たした。さらに翌年春のシーズンを制して迎えた年度優勝決定戦ではまたも巨人と対戦し、初戦のサヨナラ勝ちで勢いに乗り4連勝で年度連覇を果たした。同年限りで2シーズン制は終了し、年度優勝決定戦は廃止された。 なお、1937年と38年の日本一はリーグの通算優勝回数には数えられていない。これはこの2年間のリーグ戦はそれぞれ独立したシーズンであるためで、阪神の通算優勝は1937年秋季大会、1938年の春季大会でそれぞれカウントされている。 1973年には、8連覇中の巨人との間で、激しい優勝争いを展開していた。8月5日の対巨人戦(甲子園)9回表2死で、中堅を守っていた池田純一が黒江透修の平凡な飛球を追った際に、当時十分に整備されていなかった外野の天然芝に足を取られて転倒。転倒の間に塁上の走者が全員生還したことから、勝利目前だった阪神は逆転負けを喫した。実際には池田が転倒しただけで飛球を落としていないにもかかわらず、阪神が後述する結果でシーズンを終えたことから、このプレーは後年まで「世紀の落球」と呼ばれた。当の池田は、心ないファンから「戦犯」と決め付けられるなどの嫌がらせに苛まれたあげく、球界を離れた後の2005年に逝去している。 8月30日の対中日戦(甲子園)では、先発の江夏がノーヒットノーランを継続したまま、延長10回裏の打席でサヨナラ本塁打。中日による優勝の可能性を消滅させたが、翌31日には巨人が首位に立った。10月10日の対巨人戦(後楽園)では、田淵幸一が倉田誠から逆転満塁本塁打を放ち、江夏が抑えて勝利、流れは阪神に傾いたかに見えたが、翌日は7-0とリードしながら巨人が追い上げ、逆転に次ぐ逆転で10-10の引き分けに終わった。 残り2試合を残して僅差の首位、あと1勝で優勝というところまで迫っていた10月20日の対中日戦(中日球場)では、中日キラー・上田の先発が予想されたが、金田正泰は先発にチーム最多勝の江夏を指名。しかし、これが裏目に出て木俣達彦に本塁打を打たれて勝ち越されると、打線は星野仙一に抑え込まれて2-4で敗戦した。一方、江夏は自伝『左腕の誇り』(構成:波多野勝、草思社、2001年)の中で、「フロントから19日に球団事務所に呼び出され、『残りの2試合には勝ってくれるな』と言われた」と述べている。 この対中日戦の終了間際、球場近くを通る東海道新幹線を巨人選手を乗せた列車が通過したという逸話があり、実際にこの時の試合映像が現存している。選手の1人は車内からスコアボードを見ようとしたが果たせず、名古屋駅到着時にファンが試合経過を知らせ、それを聞いた選手達はムードが明るくなったと伝えられている。 こうして、10月22日(本来は21日だったが雨天で順延)の対巨人戦(最終戦、デーゲーム)で、その試合に勝ったチームが優勝ということになった。しかし、約48,000人の大観衆を集めたこの試合も0-9で大敗し、巨人のV9をあっさり許した。16時19分、最終打者のウィリー・カークランドが三振に倒れた瞬間、敗戦とV9を許した不甲斐ない阪神に怒ったファン約1500人が暴徒と化し、一塁側スタンドやアルプススタンドからグラウンドに乱入、両軍ベンチに向かった。阪神の選手・スタッフは試合終了とともにロッカールームに引き上げて難を逃れたが、巨人の選手はすぐにベンチに退散したものの、王は殴られてベンチ前で倒れ、森はキャッチャーマスクをとられるなど選手・コーチを含む七人に、殴る蹴るの暴行が加えられた。巨人の関係者はベンチ裏から脱出して、胴上げもせずに芦屋市の宿舎「竹園」に引き上げた。選手の退出を知った阪神ファンは、三塁側スタンドの巨人ファンに「帰れ、帰れ」と怒声をあげながらグラウンドの土や座布団、空き缶などを投げ合って応酬。「やめとけ」とグラウンドに降りた巨人ファンを阪神ファンが取り囲んで乱闘になり、兵庫県警機動隊員や甲子園警察署員の約180人が出動する事態となった。 また、場外でも16時40分頃に阪神球団関係者の乗った車をファン約500人が取り囲み「あの試合は何だ!」と車体を揺さぶるなどした。甲子園警察署が設置した警備本部も投石された。 この試合は、よみうりテレビ(実況:佐藤忠功、解説:村山実)が日本テレビ系列の全国ネットで中継しており、近畿広域圏ローカルでは朝日放送(実況:植草貞夫、解説:根本陸夫、ゲスト:中村鋭一)やサンテレビ(実況:西澤あきら、解説:後藤次男。近畿放送も同時ネット)も含めた3局が同時にテレビ中継。ラジオも朝日放送(実況:黒田昭夫、解説:皆川睦雄、中国放送にもネット。自社ではパ・リーグ優勝決定戦、阪急対南海〈解説:花井悠〉と二元)・毎日放送(解説:杉浦忠、阪急対南海〈解説:永井正義 他〉と二元)・TBSラジオ(解説:水原茂、実況:山田二郎。山陽放送にもネット)・ニッポン放送(解説:関根潤三)・文化放送(解説:別所毅彦)・ラジオ関東がそれぞれ中継していたが、よみうりテレビと朝日放送の放送席には途中から危険物などが投げ込まれ、選手の退出後には200人ほどの暴徒が襲い掛かってきた。 朝日放送のテレビ放送席では、暴徒の連中に「放送をやめろ」と植草と根本らに対して怒鳴りつけたり、空き缶を投げつけたりした。植草は暴徒ではない阪神ファンの一人が頭の上にかざしてくれた座布団で防ぎながら放送を続けたが、放送終了(16時38分30秒)までの30秒間は音声が途絶え、画面だけが流された。しかし、当時は『おはようパーソナリティ中村鋭一です』(阪神の熱狂的なファンである中村鋭一が朝日放送ラジオで担当していた生ワイド番組)が絶大な人気を博していたことから、同番組のリスナーと思われる阪神ファンが「ここは鋭ちゃんのとこ(朝日放送のテレビ放送席)やから勘弁したれ」と絶叫。さらに、良心的な阪神ファンが暴徒を説得したことによって、放送席と機材への襲撃は免れた。 暴徒はよみうりテレビの放送席も襲撃して「巨人の肩ばかり持つな」とテレビカメラや当時高価だったVTR機材といった放送機材を破壊するなど大暴れ。止めに入った解説の村山にも「阪神選手やったのによみうりテレビの解説をしやがって」と殴りかかった。機動隊員約30人が3局の放送席を取り囲んで暴徒を遠ざけるが、甲子園警察署の調べでは、よみうりテレビの損害は約1千万円にも及んでいた。この暴挙のため、優勝の瞬間は鮮明なVTR映像がなく、映画フィルムに転写したもの(キネコ)が残っているのみである。 しかしその一方で、サンテレビの放送席と機材は朝日放送と同様に「サンテレビは俺たちの味方や」とファンはおろか暴徒にも守られたことで難を逃れた。また、朝日放送とは異なり、実況中の暴徒による妨害行為も発生しなかった。 通常の試合では警察官100人、球場職員30人の警備態勢だが、この日の試合では警察官200人、阪神電鉄社員80人、アルバイト120人、ガードマン50人の計450人を待機させる特別態勢を敷いていたものの、この騒ぎを鎮めることができなかった。このため兵庫県警の機動隊70人が16時50分に出動。追い散らされたファンは機動隊を遠巻きにして「帰れ!」コールを浴びせた。ファンの殆どは17時過ぎに球場外へ出たが、それでも興奮が収まらない阪神ファンと群集約800人は甲子園球場の指定席券売場前に集まって「阪神の責任者にわびをさせろ」と騒ぎ、「阪神タイガースの歌」を合唱して気勢を挙げた。県警からの要請で18時過ぎに阪神監督の金田がユニホーム姿で場外に現れ、携帯マイクを使って「私は涙こそ流していないが、気持ちの中は皆さんと同じく残念でたまらない。来年こそ一層がんばるので、ファンの皆さんも理解してほしい」とファンへのお詫びとお礼を呼びかけた。これを受けて、19時にファンは引き上げたが、警備本部への投石で警官1名が負傷、ファン6名がケガをしたほか、よみうりテレビの放送機器を壊した疑いなどで数名が警察に検挙されている。 阪神は優勝を想定して、田淵幸一を起用した日本シリーズ用のポスターと「優勝記念」と書かれたマッチを製作したが、両方ともお蔵入りとなり、マッチは阪神電鉄の保養所で使われていた。 1946年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間がわずか55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合では渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝ちし、パシフィック先発の湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった。 逆に、1992年9月11日に行われた、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では日本プロ野球史上最長の6時間26分という試合時間を記録した。この試合では3 - 3の同点で迎えた9回裏、八木裕の打球がレフトフェンスの水平ラバー部、その上の金網フェンスへと当たりスタンドに入ったため一旦はサヨナラ本塁打と判定されたが、ヤクルト側の抗議により、審判団が協議した結果エンタイトルツーベースに訂正された。だが阪神側もこの判定に抗議して(既にロッカーへ引き上げていた選手、コーチがいたため)、37分間試合が中断した。結局、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)を戦いそのまま3 - 3で引き分けた。なお、サンテレビがこの試合の中継を試合終了まで行っており、試合終了時刻となった「午前0時26分」は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻となった。当時日本にて視聴率調査を行っていたニールセンによると、試合当日の平均視聴率は28.0%、瞬間最高視聴率は50.0%を記録した。また、試合が中断したことでサンテレビの技術スタッフが熱くなりすぎて中継時に掲示するボールカウント表示器のスイッチを壊してしまい、その後は試合終了まで手動に切り替えてしのいだというエピソードも残っている。 2018年9月20日に行われた、対広島21回戦(マツダスタジアム、5-4で勝利)では、試合終了が翌21日の深夜0時3分であった。過去、二日がかりの試合としては、上記のプロ野球史上最長試合も含めて13度あったが、いずれも延長戦にもつれたものであり、9回で決着がついた試合としては史上最も遅い試合終了時刻となった。当日は試合開始前から雨模様で、試合開始が1時間9分遅れの19時9分となっただけでなく、2回裏終了時に雨脚が強くなり1時間2分中断し、さらに5回裏終了後も同様に12分中断したことで、試合時間としては中断時間も含めて4時間54分であったが、試合終了時点では日付が変わっていた。中止ないしノーゲームにしてもおかしくない状況であったが、当年の阪神タイガースは前半から中盤にかけて中止が相次ぎ試合消化のペースが例年より遅く、これ以上の中止は全日程消化させる上で更なるスケジュールのタイト化が懸念されたため、強行したという事情がある。なお、当年のセ・リーグは8月28日から「連盟管理節」に入っており、試合挙行の可否や試合開始の時刻の変更などを、セ・リーグ統括または当該試合の球審が代行することになっていた。 偵察メンバーを多用した監督としては三原脩が有名だが、プロ野球で初めて考案したのは藤村富美男で、助監督兼内野手だった藤村の助言を受け松木謙治郎監督が初めて試合で使用した。1950年4月22日に熊本の水前寺で行われた対中日ドラゴンズ戦で、中日の先発が左腕の清水秀雄か右腕の服部受弘か迷ったため、1番左翼手を投手の干場一夫とした。服部の先発が分かると干場に代えて左打者の金田正泰を送った。この策は成功し、金田の二塁打を足がかりに阪神が1点を先制したが、試合は7 - 9で敗れた。 1954年7月25日の対中日ドラゴンズ戦(大阪スタヂアム)と、1967年9月23日の対大洋ホエールズ戦(甲子園)で行われている。いずれも阪神の負け試合となっている。 村上世彰率いる投資会社「MACアセットマネージメント」(通称・村上ファンド)が2005年に阪神電鉄の株式を買い増しし、電鉄の筆頭株主になった。村上ファンド側は「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」として、タイガースの株式上場を提案。これに星野仙一シニアディレクターは「タイガースはファンのもの」だと反論し、さらに牧田俊洋球団社長も「株式上場の計画はない」とコメント。2005年10月11日に村上と阪神電鉄首脳が会談を行い、村上は「(タイガースの株式上場は)ファンの意見を聴いた上で考慮したい」とコメントした。 2006年6月19日、阪急電鉄等を傘下に持つ阪急ホールディングスがTOBで、村上ファンドが保有する阪神電鉄株式を取得。その後、阪急ホールディングスは阪神電鉄を子会社化した(阪急・阪神経営統合参照)。 経営統合の話し合いの中で、タイガースに関しては「阪神タイガース」のままで存続することになったものの、これが7月5日に行われたプロ野球オーナー会議で、阪神電鉄から阪急阪神ホールディングスに経営スポンサーが変更される「経営譲渡」と見なされ、阪急阪神ホールディングスは加盟料30億円の支払いを課されることとなった。しかしこの決定には十分な論議がなされておらず、阪神側は阪急阪神ホールディングスとしては球団にかかわらないことになったことを主張し、この対応を不服として再検討を要求した。この主張はほぼ認められ、同年末に加入手数料として1億円のみの支払いとなることが決定された。 この他、かつては株主優待として、阪神電鉄の株式を9月30日時点で5,000株以上保有する株主に対して、翌年度の阪神甲子園球場でのタイガース主催試合のうち1試合2名を内野席(アイビーシート)に無料招待していたが、経営統合による阪神電鉄の上場廃止でこの無料招待も廃止された。 NHK大阪放送局 『NHKプロ野球』(主にBS1で中継、総合テレビで一部試合を関西ローカルで中継する他、土曜デーゲームを年1試合全国放送) 毎日放送 『MBSベースボールパーク』(MBSラジオ) 『with Tigers MBSベースボールパーク』(MBSテレビ) 朝日放送ラジオ(ABCラジオ) 『ABCフレッシュアップベースボール』 朝日放送テレビ(ABCテレビ) 『スーパーベースボール 虎バン主義。』 関西テレビ 『プロ野球中継(西暦)』 読売テレビ 『Fun!BASEBALL!!』 テレビ大阪 『ナマ虎スタジアム』 サンテレビ 『サンテレビボックス席』(日曜ナイターは朝日放送テレビとの共同制作) GAORA(MBS)※毎日放送制作分よりも、Tigers-ai制作中継を放送する頻度が高い。 スカイA(ABC)※テレビ朝日系列全国中継時はテレビ朝日も制作に加わる。 フジテレビONE(関西テレビ 巨人戦のみ)※ヤクルトのホームゲームと重なる場合はフジテレビTWOに移して中継しているが、TWOで西武のホームゲームとも重なった場合の実績は2016年は日程の関係上発生していない。地上波でデーゲームをフジテレビとの2局ネットまたはナイターをフジテレビ系列全国放送時はフジテレビも制作に加わる。 日テレジータス(読売テレビ 巨人戦のみ)※日本テレビ系列全国放送時は日本テレビも制作に加わる。 Tigers-ai(阪神コンテンツリンクが衛星放送向けに制作している阪神戦の中継) BS朝日 - 対巨人戦がテレビ朝日系列全国放送時は水曜ナイターはトップ&リレー中継、日曜デーゲームはリレー中継のみ実施し、何れも地上波中継と同じメンバーが担当。関西ローカルで対巨人戦や巨人戦以外の試合を地上波と並列放送する場合はテレビ朝日・BS朝日制作著作・朝日放送テレビ制作協力で朝日放送テレビが地上波とは実況・解説を別に用意して放送する。BS単独放送や地上波がサンテレビ・朝日放送テレビとの共同制作かつサンテレビでの放送時はTigers-aiの映像も使用。同局ではセ・パ交流戦でのパ・リーグ球団主催の阪神戦もテレビ朝日制作で放送。 BS-TBS - 対巨人戦がTBS系列全国放送時は平日ナイターはトップ&リレー中継で放送するが、トップ中継はTBSテレビのアナウンサー・解説者がオフチューブで中継し、リレー中継は地上波中継と同じメンバーが担当する、デーゲーム開催時はリレー中継のみ実施し、毎日放送のみ16時以降も中継かつ関西ローカルと同時放送するが地上波は17:30までの放送となり17:30以降は裏送りで放送。地上波が関西ローカルでの録画中継時は毎日放送からの裏送りで中継。対巨人戦以外の試合は、TBSテレビ・Tigers-ai制作でTBSテレビのアナウンサー・解説者で放送。同局ではTBSテレビ制作でDeNAや交流戦でのパ・リーグ球団主催の阪神戦も放送。 BS日テレ - 2017年から対巨人戦が日本テレビ系列全国放送時は平日ナイターはトップ&リレー中継、土曜・祝日デーゲームは地上波同時放送。関西ローカルでの録画放送時は読売テレビからの裏送りで生中継。同局では巨人主催の阪神戦も日本テレビ制作で放送。 BSフジ - 2017年9月9日に阪神対DeNA戦を関西テレビ制作で放送。当初は関西ローカルの録画放送を前提に放映権を獲得していたのが、同日に『FNS27時間テレビ にほんのれきし』が編成されたためBSフジでの全国放送となった。年度によりヤクルト主催の阪神戦をフジテレビ制作で1試合放送することがある。 ベイ・コミュニケーションズ(オリジナル番組制作) 虎バン(ABCテレビ) 熱血!!タイガース党(サンテレビ) 猛虎ファイル(MBSテレビ) 週刊トラトラタイガース(読売テレビ) 虎辞書なる!!(サンテレビ) サン虎検定(サンテレビ) BRAVO!(読売テレビ) with Tigers MBSベースボールパーク みんなでホームイン!(MBSラジオ) 清水次郎の虎たま!(ABCラジオ) 福本豊の虎たまデラックス!(ABCラジオ) ガチ虎!(ABCラジオ) がんばれ!!タブチくん!! 男どアホウ甲子園 剛Q超児イッキマン なにがなんでも阪神ファン 花形満 - 『巨人の星』に登場する阪神の選手。 浪花球太 - 『リトル巨人くん』に登場する阪神の選手。 通天閣虎夫 - 『ミラクルジャイアンツ童夢くん』に登場する阪神の選手。 藤村甲子園 - 『男どアホウ甲子園』の主人公。1974年入団、1976年に故障で現役引退。 決戦・日本シリーズ 神様がくれた背番号 ミスター・ルーキー 初代熱血硬派くにおくん 『大阪タイガース球団史 1985年度版』 松木謙治郎 編、恒文社、1985年。ISBN 4-7704-0634-7。 井上章一 『阪神タイガースの正体』 太田出版、2001年。ISBN 4872335651。 ^ 日本職業野球連盟は現在の日本野球機構の源流に当る組織である。 ^ この年は引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていたため、引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていなければ、大阪は勝率.5123、中日は勝率.5120となり、両球団の勝率が3毛差となり大阪は2位、中日は3位となる。 ^ 2004年に巨人が更新 ^ 同行していた電鉄本社常務取締役の石田一雄も犠牲となったが、これは同事故当日に運輸省(現・国土交通省)で行われた民鉄協の会議に出席し帰阪のために同事故の便に搭乗したものであるが、当初この会議には球団オーナーで電鉄本社社長の久万俊二郎が出席し同便で帰阪する予定だったが、久万が私用で出席できなくなったことで中埜・石田の両名が代理で出席し同便に搭乗し同事故の犠牲となった。 ^ 8月10日と11日に福岡市の平和台野球場で阪神対中日戦(地方主催試合)が行われ、事故日は13日から後楽園球場で行われる巨人対阪神戦に備えての移動日であった。犠牲になった中埜も事故前々日に応援のため平和台野球場を訪れていた。 ^ この366便に搭乗していた選手の一員である木戸克彦の妻は当該事故便の123便に搭乗予定だったが直前にキャンセルし難を逃れた。 ^ この当時、甲子園は改装工事中で使用できなかったため、京セラドーム大阪で試合を行った。 ^ 最高打率が.270以下だったのはチームでは44年ぶり。 ^ 前シーズンから通算すると10連敗。 ^ パ・リーグでは前身のプレーオフで2004年2位の西武、2005年2位のロッテ(当時のプレーオフはパシフィック・リーグのみに先行導入され、プレーオフを勝ち抜いたチームがリーグ優勝というルールだった)、CS導入後の2007年2位の中日、2010年3位のロッテはいずれも日本一になっている。 ^ 2011年の北海道日本ハムファイターズと並ぶ。 ^ 本来の英語では複数形のsを「ス」と発音するのは、単数形の語尾が無声音の場合だけであるが、戦前の日本の球団名ではタイガースのほかにイーグルス・セネタースがやはりあえて清音としている。戦後の命名ではセネタース・阪急ブレーブス・松竹ロビンス・近鉄パールス・東北楽天ゴールデンイーグルスがこれに該当する。 ^ 1950年の開幕前に甲子園球場で開催されたオープン戦「大阪市長杯」で全チームが参加した入場行進の写真に「阪神タイガース」のプラカードが写っているのが確認できる ^ 1961年に刊行した『毎日放送十年史』では南海との契約が営業に貢献したと記したが、1991年に刊行した『毎日放送の四〇年』の中では1971年に甲子園の阪神・巨人戦の中継枠2試合を確保したことを「\"虎の子\"の二試合、スポーツ担当だけでなく、全社あげて晴天を祈る気持ちだった。」と記すほど状況は変化していた。 ^ 南海と毎日放送との契約は、1960年に南海が契約額を引き上げたことから、1961年にはプロ野球中継自体を大幅に削減していた。 ^ 『毎日放送の四〇年』には1970年代の関西地区のプロ野球ファンについて「圧倒的に阪神タイガースのファンが多く、次いで巨人、さらに間をおいて南海、阪急、近鉄である」と記し、その対応として同局が「ナイター中継は阪神、巨人を中心にしたセ・リーグに主眼を置き、パ・リーグ在阪3球団のカードを交え…選ぶのが基本姿勢」との記述がある。 ^ その一方、読売新聞系の「スポーツ報知」は、スポーツ新聞として唯一、球団発行のタイガース公式イヤーブックに広告が掲載されていない。ただし、同じく読売系列の讀賣テレビ放送の広告は掲載されている ^ 1975年には全国高等学校野球選手権大会の日程が雨天順延が相次いで5日延びたため、甲子園で行う予定だった阪神の試合が雨天中止に準じた扱いで予備日に振替開催されたこともある。 ^ 現状では7月末から8月末までの1ヶ月程度に及んでいる。 ^ 新幹線や飛行機を使うまでは、在来線の夜行列車などで長時間移動したりした。 ^ かつては旅館の大部屋で雑魚寝ということもあったが、今はシティホテルの個室である。 ^ 実際には、巨人も毎年7月中旬 - 下旬の都市対抗野球開催期間中に阪神ほどではないが長期遠征を行っている。 ^ 2012年からこの制度になった。 ^ 2015年以降、阪神の主催試合は奇数年が72試合、偶数年が71試合となっている。 ^ 2006年も1試合を予定していたが、同球場の設備の老朽化を理由に甲子園に振り替えとなり、2007年以降はオープン戦すら行っていない。なお、それ以降はオリックスと巨人が公式戦を開催した実績がある。 ^ 交流戦が開催されている2005年以後は梅雨時の開催は行っていなかったが、2009年は交流戦2試合を開催した。 ^ 2011年も1試合を開催予定であったが、雨天中止となり甲子園での開催に振り替えられた。 ^ 2011年の公式戦開幕は東日本大震災の影響で日程が順延されたことによるもので、当初の予定ではビジターでの開幕だった。 ^ なお、その次の主催ゲーム開幕シリーズ扱いとなる京セラドームの中日戦も中止となったため、延期日程補填の観点から10月にヤクルト3連戦を京セラドームで開催している ^ 当初、セ・パ両リーグで同時開幕を前提としていたため大阪ドーム以外での開催も検討されたが、パ・リーグがセ・リーグよりも一週間早く3月20日(土曜日)に開幕し、かつ開幕カードから3日間空けて26日(金曜日)から次カードを行うという日程を組んだ。なお、セ・リーグは26日に開幕した。もし同時開催であれば、かつてオリックスが本拠地としていた保護地域の兵庫県内にあるスカイマークスタジアムの利用も示唆されていた。 ^ 当年はWBCとの兼ね合いで2010年のように開幕をずらすなどの日程の調整が難しかったことなどで、阪神が返上した。 ^ 綱島理友監修の書籍『スポーツマスコット図鑑』では「1984年ごろ」と記述 ^ なお、特許電子図書館ウェブサイトでも確認できる商標画像は、手書きでなされたものである。 ^ 書籍「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズでは、原則各球団の球団歌を記載しているが、「阪神タイガースの歌」は通称の方で明記されている。 ^ この時、オーダー表提出係を担っていた岡本伊三美は、先発投手に「江夏」と書かれているのを見て「本当にこれでいいんですか?」と金田に念押ししている。 ^ 星野は巨人への反骨心とすでにAクラス入りが決まっていたことから真ん中にボールを集めたといわれるが、カチカチになった阪神打線はこれを打てなかった(詳しくは中田潤の「新庄くんは、アホじゃない!」を参照)。 ^ 山際淳司のドキュメント小説では、新幹線内で選手が持ち込んだラジオの試合中継をナインが聞いており、中日の勝利が決まった途端に王貞治が嬉しさの余り叫んだ、と描写されている。この時の情景は、翌年放映のテレビアニメ『侍ジャイアンツ』第38話に取り入れられている。 ^ この試合はプロ野球の公式戦初となる「勝った方が優勝」となる事実上の優勝決定戦だった。 ^ この際、タクシー1台が騒ぎに巻き込まれて車体に損傷を受けている。試合告知の看板への損傷などもあった(上記読売新聞記事による)。 ^ 中村の愛称。当日もテレビ中継のゲストで出演していた。 ^ 後藤和昭は「阪神選手は翌日までロッカールームに缶詰めにされた」と語っているが「19時にファンが引きあげた」という当時の報道とは食い違いを見せている。 ^ 制作時点ではパシフィック・リーグの覇者が決まっていなかったため、「阪神 - パ・リーグ優勝チーム」という表記だった。 ^ 『関西の私鉄』には「(阪神百貨店の)祝優勝のペナント、店員用ワッペンは「その日」のために、倉庫で眠っている」とあるが、これが1985年に使われたかどうかは不明。 ^ 第84期決算公告、2018年(平成30年)7月3日付「官報」(号外第144号)93頁。 ^ 球団史 1985, p. 43. ^ 球団史 1985, pp. 79 - 85. ^ 球団史 1985, pp. 97 - 101. ^ 球団史 1985, pp. 142 - 149. ^ 球団史 1985, pp. 195 - 198, 208 - 212. ^ 球団史 1985, pp. 261 - 262. ^ 球団史 1985, p. 383. ^ 阪神、初の最下位転落時の監督・後藤次男さん キャッチフレーズは「みんな仲良くボチボチと」産経 ^ NHK特集 エースなき優勝~阪神21年目の栄冠~ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス ^ a b 野崎勝義著ダメ虎を変えた! ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年、2011年、朝日新聞社、P34-39 ^ “王ダイエー日本一 星野監督勇退”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 1. (2003年10月28日)  ^ この年の記述の出典は特記無い場合『週刊ベースボール』、ベースボール・マガジン社、2012年12月10日、 70頁。 ^ “阪神が新ユニホーム発表 ビジター用はシャツが黒!”. スポニチ Sponichi Annex. (2012年1月31日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/01/31/kiji/K20120131002543310.html 2017年4月9日閲覧。  ^ “阪神・坂井オーナー 前半戦「申し訳ない結果」”. スポニチ Sponichi Annex. (2012年7月20日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/20/kiji/K20120720003714850.html 2017年4月9日閲覧。  ^ “阪神 弱っ7連敗…中畑監督も同情「暗いなあ」”. スポーツニッポン. (2012年7月29日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/29/kiji/K20120729003784000.html 2015年10月14日閲覧。  ^ “エルドレッドが逆転2ラン!阪神8連敗で自力CS消滅”. スポーツニッポン. (2012年8月11日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/11/kiji/K20120811003887970.html 2015年10月14日閲覧。  ^ “阪神 今季22度目の零敗で2年連続Bクラス決定”. スポーツニッポン. (2012年9月25日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/25/kiji/K20120925004195520.html 2015年10月14日閲覧。  ^ “2012年度公式戦順位表”. 日本野球機構. 2015年10月14日閲覧。 ^ “新井弟 出血も実らず 阪神 対巨人9連敗に「やる気あるんか」”. スポーツニッポン. 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北海道をフランチャイズとし、本拠地は札幌ドームとしている。旭川スタルヒン球場や、函館オーシャンスタジアム、帯広の森野球場、釧路市民球場でも毎年公式戦を開催している(後述)。 千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズタウンには、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地であるファイターズスタジアムや、室内練習場、選手寮があり、関東地方におけるチームの拠点となっている。 1945年11月6日、戦時中の1943年に解散した東京セネタース(1935年創立)の中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規に「セネタース( Senators 、企業名:セネタース野球協会)」を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。1946年度のリーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。大下弘、飯島滋弥、白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。旧華族の西園寺公一をオーナーに付け、銀座のキャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登がスポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。 東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と表記する場合がある。 1946年9月27日の対ゴールドスター戦(西宮球場)で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる放棄試合とみなされ、0-9で敗戦した。苅田久徳を可愛がっていた猿丸元(のち、東急球団代表) が五島慶太の子分で、猿丸が五島に球団経営を勧め、同年12月18日、東京急行電鉄(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却した。セネタースと東急との仲介の労をとったのは小西得郎と浅岡信夫、黒川渉三である。運営法人として、「株式会社東急ベースボール倶楽部」を設立。翌1947年の1月7日、球団名を「東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、Tokyu Flyers)」とした。当時の東急はまだ大東急と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。 1948年4月9日、これまでプロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し大塚アスレチックスといくつかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を「急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、Kyuei Flyers )」に改称した。しかし、同年12月1日、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った(大映ユニオンズを参照)。 この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、二軍を創設。チーム名は「急映チックフライヤーズ( Kyuei Tic Flyers )」となる。「チックフライヤーズ」は、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス( Otsuka Athletics )のチックを絡ませた名称だった。 フランチャイズ(本拠地)制度が試験導入され、ホームグラウンド(専用球場)を東京都文京区の後楽園球場とする(1952年より、正式導入される)。 1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。 1950年 パ・リーグ参戦初年度のシーズンは8球団中6位。その後パ・リーグでは、しばらくBクラスに低迷。 1952年 大下弘との契約が難航、結局契約はこじれ、大下はシーズン途中に西鉄ライオンズに移籍。 1953年 9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園に自前の駒澤野球場(駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。 1954年 1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の東映興業株式会社 に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。チーム名を「東映フライヤーズ(とうえいフライヤーズ、Toei Flyers ※東映フライヤーズ野球団とも)」に変更。球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。この体制は、1964年の東映の東急グループ離脱後も続いた。 1959年 後に3000本安打を達成する「安打製造機」張本勲が入団。新人王に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。 1960年 12月、前巨人の水原茂が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。 1961年 それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。南海のエースの杉浦忠が離脱したこともあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2.5ゲーム差の2位に終わる。張本が初の首位打者を獲得。 1962年 東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に新宿区の明治神宮野球場を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされる。この年の東映主催の日本シリーズのうち、第3・4戦は神宮、第5戦は学生野球と日程が重複したため、取決め上後楽園で開催した)。同年年頭、大川はワシントンハイツと多摩川園のいずれかへの新球場建設の将来構想を語った が、結局は実現しなかった。水原監督の下で土橋正幸と尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。このシリーズの最優秀選手 (MVP)は土橋正幸と種茂雅之の2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。 1964年-1967年 国鉄スワローズの神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、1965年に正式に後楽園へ再移転することになった。1960年代後半に入り、張本の他、大杉勝男、白仁天、毒島章一、大下剛史ら強打者を擁した。しかし、チームはAクラスこそ入るものの優勝からは遠ざかっていた。大川は野球が好きで、当時の東映の新作の広告には「映画は東映 野球も東映」というキャッチコピーも添えてはいたが、もともと無駄な補強費を使わなかった大川は球団に金を使いたがらなかった。元巨人の名監督ということで年俸の高かった水原は1967年に監督を解任された。 1968年 大下弘が監督に就任。大川オーナーは「門限なし、罰金なし、サインなし」という球史に残る\"三無主義\"を打ち出す。人のいい大下監督はこれを実行。大人の集団だった当時のチームに「門限なし、罰金なし」は特に問題にはならなかったが「サインなし」は致命的な大問題だった。既に川上巨人のような緻密な野球が主流となりつつあった時代に、大下監督が現役だった昭和20年代のような野武士野球をやって勝てるわけがない。大下はシーズン途中で休養。結果、球団史上初の最下位に終わり、東映は完全に時代に取り残された。 1969年 チームは4位に終わる。 1970年 「黒い霧事件」発生。エースの森安敏明が永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。張本が日本プロ野球記録(当時)となる打率.383を記録し、4年連続の首位打者、大杉が最多本塁打・最多打点の2冠を獲得するも、エースを失った影響は大きく、チームは5位に沈む。 1971年 名物オーナーだった大川が急逝。岡田茂が東映本社社長に、大川の長男、毅が球団オーナーに就任。岡田の盟友で球団所有権を有する東急社長の五島昇と共に、大川色が強く年間3億円の赤字が出ていて不採算だった球団を手放すこととなる(五島は野球が嫌いだった)。 当初売却先としてはパイオニアが候補となっていたが、翌年10月21日にパイオニア側が買収を断念する。 1973年 1月16日、東京急行電鉄は球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を東映に譲渡。東映は、岡田・五島共通の知人である西村昭孝 の経営する不動産会社・日拓ホームへ球団を売却。売却額は3億円だった。商号は日拓ホーム野球株式会社、チーム名を日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、Nittaku Home Flyers )に改称(同年2月7日のパ・リーグ実行委員会で球団名変更を承認)。新オーナーの西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営に様々な新機軸を試みたが、チームは前期5位・後期3位の総合5位に終わる。パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。わずか1シーズンで球団を身売りすることとなった。なお夕刊フジの報道によると、日拓を含む複数の若手起業家のグループが中心となって、フライヤーズの球団経営を1年ごとに代えていく方針があったとされる計画も模索されていた。パリーグは「黒い霧事件」によるダメージが大きすぎて、1970年代に入るとセリーグとの人気の差は埋めがたくなっていた。 1973年 11月19日に日本ハムへ売却。「プロ野球の発展を通じてスポーツを振興し、青少年の育成、そして社会に貢献していきたい」という思いから球団経営に乗り出す。法人名は「日本ハム球団株式会社」となり、オーナーに大社義規、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任。新ニックネームを一般公募し、12月17日、公募で選ばれた新ニックネーム「ファイターズ」が発表され、球団名は「日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、Nippon Ham Fighters )」となる。 1974年 前後期ともに最下位。総合最下位に終わる。張本が7度目の首位打者獲得。三原社長は、フライヤーズ時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、大下剛史が広島東洋カープにそれぞれ移籍した。ヒーローインタビューを日本で初めて開始する。 1975年 前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わった。高橋直樹が17勝、大杉との交換で入団した小田義人が首位打者を争うも太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。同年オフ、張本が高橋一三・富田勝との交換で巨人に移籍。中西は解任され、大沢啓二が監督に就任した。 1976年 小田義人と新外国人のウォルター・ウィリアムス、巨人から移籍した富田勝が打率ベストテン入りするも、前期4位・後期5位の総合5位。 1977年 前期4位・後期4位で2年連続の総合5位に終わる。 1978年 ボビー・ミッチェルが本塁打王、南海から移籍の柏原純一も活躍し、チーム成績は、総合3位。ファイターズになってから初のAクラスとなる。 1979年 高橋直樹が20勝を挙げ、島田誠が1回3盗塁をはじめ55盗塁を記録するも結果は2年連続の総合3位。 1980年 新人の木田勇が22勝で最多勝獲得、MVP・新人王などタイトル投手部門を独占、打線も柏原、トニー・ソレイタ、トミー・クルーズのクリーンナップが活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつけた。しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦(10.7決戦)では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。結果的には前後期ともに2位、総合3位。オフには高橋直樹と広島・江夏豊の交換トレードを行う。 1981年 前期は4位に終わるも後期優勝。プレーオフで前期優勝のロッテと対戦し前評判では圧倒的ロッテ有利だったが3勝1敗1分で破り、東映時代から数えて19年ぶり通算2度目のリーグ優勝。日本シリーズは、同じ本拠地を使用する巨人との対戦となったため、全試合が同一球場で行われた。井上弘昭が活躍するもクルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退となった。 打撃陣では本塁打・打点の2冠王となったソレイタにプレーオフMVPの柏原とクルーズのクリーンナップに加え、島田や菅野、高代といった小兵選手も活躍した。投手陣では木田こそ10勝止まりだったが、間柴茂有が15勝0敗の成績で戦後初の無敗投手(規定投球回到達投手)となったほか、岡部憲章が防御率1位、高橋一三も14勝を挙げた。江夏も広島時代から3年連続でセーブ王 となった。 1982年 後期に優勝するものの、プレーオフで前期優勝の西武に1勝3敗で敗れ、総合2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていた工藤幹夫がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。工藤幹夫が20勝で最多勝。高橋里志が防御率1位。 1983年 パ・リーグの1シーズン制が再開、結果は優勝した西武に大差をつけられたもののAクラスの3位。二村忠美が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。オフに、江夏が西武に移籍。 1984年 植村義信が監督に就任するも最下位に低迷し6月27日に解任。終盤は大沢が代行を務めるも10年ぶりの最下位に終わった。オフには中日ドラゴンズから三沢淳を獲得。 1985年 高田繁が監督就任するが、首位西武と23ゲーム差の5位に終わった。 1986年 首位西武と13.5ゲーム差で2年連続の5位。新外国人のトニー・ブリューワが.321の打率をあげる。 1987年 新人の西崎幸広が15勝を挙げる活躍を見せ、チーム成績は3年ぶりのAクラスとなる3位。同年をもって、後楽園球場は閉鎖。同地(文京区後楽)で建設中の東京ドームへ巨人とともに移転することとなる。オフに大宮龍男・田中富生が大島康徳・曽田康二との交換トレードで中日に移籍。 1988年から2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。この頃になると西崎幸広や柴田保光らが投手王国を形成。観客動員のアイディアとして「カップルシート」、「ビアシート」などのチケット販売や近藤貞雄発案といわれる「キスをしたら入場無料」、「仮装で来たら入場無料」「同一カード3連戦に指定日なし(例:「○月1日・2日・3日」と書かれており、この内だったら切符一枚につき一度、何時でも入場可)」といったイベントなどを打ち出す。しかし、この16年間でリーグ優勝は1回もなかった。 1988年 東京ドーム元年となった88年は投手陣は西崎、松浦宏明が最多勝、河野博文が防御率1位の活躍でチーム防御率も1位だった。しかし、打撃陣はチームの大砲であったブリューワが腰痛により1年を棒に振り、前年度ベストナインの白井一幸も試合中に骨折など怪我人が続出、トレードで移籍してきた大島康徳、急遽獲得したマイク・イースラーの奮闘があったもののチーム打率、得点数、盗塁数がリーグ最下位という貧打で、2年連続3位となるも62勝65敗3分と負け越す。観客動員数が過去最高の245万8500人を動員する。オフに高代延博と広島鍋屋道夫・滝口光則とのトレードを行い、大洋から若菜嘉晴を無償トレードで獲得。高田が監督辞任、後任監督は近藤貞雄が就任した。 1989年 前年腰痛で1年を棒に振ったブリューワが復活し打率3割を超え、西崎は16勝をあげるも、投手陣の不調で5位に終わった。シーズン途中に巨人角盈男を無償トレードで獲得。オフに田中幸雄・早川和夫と中日藤王康晴・小松崎善久とのトレード。 1990年 柴田保光が4月25日の対西武戦でノーヒットノーランを達成し、新外国人のマット・ウインタースや、ドラフト1位酒井光次郎とベテラン若菜とのバッテリーが活躍する。66勝63敗1分と勝ち越すが、順位は首位西武と16.5ゲーム差の4位に終わった。 1991年 白井が最高出塁率、武田一浩が最優秀救援投手を獲得。しかし、貧打線で4位に終わる(閉幕した時点で、ダイエーが残り5試合で1勝すればダイエー4位、日本ハム5位という状況にあったが、ダイエーがロッテ5連戦を1分け4連敗して閉幕〈ロッテ戦前からだと1引き分けを挟む6連敗〉したために4位に浮上した)。この年のオフに近藤が監督辞任、後任は土橋正幸が1973年後期以来の監督復帰を果たした。オフに津野浩と広島の金石昭人との交換トレードを行った。 1992年 広島から移籍した金石昭人がチームトップの14勝、片岡篤史が新人ながらレギュラーで活躍したがエース西崎が不振。主砲として期待していた田中幸雄が開幕戦でリタイアした。ベストメンバーが組めず5位に終わり(最下位のロッテが先に閉幕した時点で、残り2試合で1分け1敗以下なら最下位という状況にまで追い込まれたが、西武戦に辛勝し〈最終戦の近鉄戦はサヨナラ負け〉、最下位は免れた、土橋は契約一年残して監督を解任された。後任はフロント入りし監督招聘を行っていた大沢啓二がその間チームの結果が出なかった責任を取る形で3度目の監督就任。 1993年 投手陣では西崎が復活し防御率リーグ2位の2.20をあげたほか、武田、前年リリーフエースだった白井康勝が先発で活躍、金石が怪我の影響もありリリーフへ転向。打撃陣では去年開幕戦だけしか出られなかった田中幸雄、それまで主に守備固めだったがレギュラーに抜擢された広瀬哲朗、ウィンタース・新外国人リック・シューなどが活躍する。首位西武にわずかの差で及ばずリーグ優勝を逃し、西武と1ゲーム差の2位でシーズンを終えた。金石と田村藤夫が最優秀バッテリー賞を受賞している。 1994年 46勝79敗5分で10年ぶりの最下位に終わった。5球団すべてに負け越し、打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位となった。3連敗以上を14度記録、逆に3連勝以上は3度しかなかった。9月29日の本拠地最終戦では試合終了後のセレモニーで大沢監督がファンの前で土下座している。観客動員数が東京ドームに本拠地移転後初めて200万人を割り込んだ。球団から戦力外通告を受けた大島と柴田が現役を引退、オフに木村拓也プラス金銭で広島長冨浩志とのトレードを行った。大沢は監督を辞任し、後任として元阪急監督の上田利治が就任した。 1995年 若手の岩本勉・今関勝・島崎毅・田口昌徳・上田佳範・井出竜也らを積極的に起用。4位に終わる。西崎が西武相手にノーヒットノーランを達成、2年目のキップ・グロスが最多勝を獲得した。田中幸雄が打点王獲得。新外国人のティム・マッキントッシュの不振・解雇により、急遽獲得したバーナード・ブリトーがわずか56試合の出場ながら21本塁打・50打点という驚異のペースで本塁打と打点を量産。白井一が開幕3戦目に故障で離脱すると、それまで一軍と二軍の往復生活をしていたプロ14年目の渡辺浩司が二塁のレギュラーに抜擢されて話題となった。オフに武田・松田慎司とダイエー下柳剛・安田秀之のトレード。田村がロッテに、白井一がオリックスにそれぞれ金銭トレード。河野がFAで巨人へ移籍した。 1996年 岩本・今関・芝草宇宙の台頭、ベテランの西崎・中堅の片岡の復活等投打が噛み合い前半2位オリックスと5ゲーム差を付けて首位をひた走るも後半チーム全体で極度の打撃不振に陥り失速。さらに上田がシーズン終盤に家庭の事情により休養しチームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)、結果は2位に終わる。グロスが二年連続で最多勝、島崎が最多ホールド、4年目の金子誠が新人王を獲得。二軍は本拠地を神奈川県川崎市の日本ハム球団多摩川グランドから千葉県鎌ケ谷市のファイターズスタジアムに移転している。 1997年 前年オフに巨人を自由契約になった落合博満をヤクルトとの競合の末、獲得。しかし、落合は不振で期待ハズレの結果に終わる。前年合計48勝をあげた西崎・今関・岩本・芝草・金石・島崎が軒並み怪我や不調で合計20勝に終わった。新外国人のナイジェル・ウィルソンが本塁打王を獲得。上田が落合の指導の下、初の規定打席到達・3割を打つなど飛躍。結果はリーグ4位。二軍は移転初年度にしてファーム日本選手権を制覇。オフに長年チームのエースだった西崎が西武石井丈裕と奈良原浩との交換トレードで移籍。金石が成績不振で解雇された。 1998年 開幕投手候補だったグロスが開幕直前に怪我でリタイアするアクシデントにあうも、グロスに代わり開幕投手を務めた岩本が球団史上初の開幕戦完封勝利を挙げ、関根裕之・金村暁・黒木純司が台頭した。今関、芝草も前年の不調を脱出。ウィルソン、ジェリー・ブルックス、田中幸雄、片岡、西浦克拓を擁してビッグバン打線と呼ばれた。西武から移籍の奈良原も打撃・守備に活躍しレギュラーを獲得。開幕直前にヤクルトから移籍の野口寿浩が正捕手として活躍。前半戦は首位独走で一時は最大貯金23まであったが、後半戦に9連敗を喫するなど大失速。西武に逆転され優勝を逃した。ウィルソンが二年連続で本塁打・初の打点王。金村が最優秀防御率。片岡が最高出塁率を獲得、落合が現役を引退した。初代ホールド王を受賞した島崎が中日へ金銭トレードで移籍した。 1999年 前年まで主に代打の切り札だった小笠原道大が捕手から一塁手に転向、「史上最強の2番打者」として大活躍。岩本が稲尾和久に並ぶ2年連続開幕戦完封勝利。しかし、4月の月間MVPを獲得した金村が4月末に怪我でシーズンの大半をリタイア。ウィルソンも怪我で離脱。石本努や途中加入したシャーマン・オバンドーの奮闘があったものの、前年ブレイクした西浦の不調。岩本、関根、ルーキーの建山義紀以外の先発投手陣の不調もありリーグ5位に終わる。上田は監督を辞任し、後任の監督に大島康徳が就任した。 2000年 小笠原が最多安打、野口が捕手ながら最多三塁打を獲得。前年、怪我でほとんど出場できなかったウィルソンが37本塁打と復活。投手陣では下柳剛が先発に転向し、2年目の立石尚行も先発ローテーションに定着しチーム打率、本塁打数、得点数、盗塁数が全てリーグ1位という破壊力抜群の打線で優勝争いに加わるも、エース岩本の不調等があり、首位ダイエーと4.5ゲーム差、2位西武と2ゲーム差の3位に終わった。 2001年 小笠原が最多安打を獲得。ルーキー中村隼人が初登板初完封を含むシーズン3完封(シーズン6勝)を上げるも、序盤から投手陣の不調、野手陣の故障者が続出し、7年ぶりのリーグ最下位。首位近鉄と24.5ゲーム差、5位ロッテと10.5ゲーム差、53勝84敗3分(勝率.387)の成績に終わり、観客動員数が137万6000人まで落ち込んだ。なおこの年、片岡がFAで阪神へ移籍した。 2002年 観客の増加を図るためそれまでプロ野球球団がなかった北海道の札幌市に本拠地を移す構想が、3月20日刊の北海道新聞でトップ記事になった。同市の準本拠化を計画していた西武からの反発もあったが、西武には他球団の公式戦試合も札幌ドームで開催できるという条件を付けて 移転を受諾させ、移転後も数試合を引き続き東京ドームで主催試合を行うと発表した。大島が3月31日のダイエー戦で暴力行為となったため退場で2試合出場停止、小笠原が初の首位打者を獲得、3年目の正田樹が球団では金子以来、投手としては1980年木田勇以来の新人王を獲得した。チームは前半戦貯金1で折り返したものの、後半戦失速し5位に終わった。大島は監督を解任され、後任に球団初の外国人監督のトレイ・ヒルマンが就任した。 2003年 東京ドーム最終年。翌年からの新本拠地となる札幌ドームでは2001年7月31日の初試合以来これまで10戦して8敗2分と勝てなかったが、8月20日の対近鉄戦で3対1で初勝利する。シーズンでは前年オフに野口とのトレードで阪神から移籍してきた坪井智哉が復活し高打率を記録、小笠原が2年連続の首位打者と最高出塁率を獲得した。投手陣でも先発転向二年目のカルロス・ミラバルがリーグ2位の16勝を挙げ金村も二年連続二桁勝利の10勝を挙げたが、前年新人王を獲得した正田がリーグ最多の15敗を記録し、またそれまでチームを支えてた岩本・関根が怪我や不振もありチームは二年連続の5位に終わってしまった。 8月に北海道の有力企業との出資で、移転後の球団運営会社となる株式会社北海道日本ハムファイターズを設立、本拠地を札幌ドームに移転(事務所も東京都港区六本木六丁目の六本木電気ビルから札幌ドーム内の事務所に移転)。同時に日本ハム球団株式会社は株式会社北海道日本ハムファイターズへ球団運営権を譲渡し解散、特別清算手続きをとった。二軍は引き続き鎌ヶ谷市のファイターズスタジアムを拠点とした。旧本拠地の関東地域のファンのために年間数試合を引き続き東京ドームで行うのと、二軍の本拠地維持の関係上、鎌ヶ谷市に「首都圏事業グループ」を設置している。なお、日本ハム球団株式会社は2005年2月1日付で特別清算終結決定が確定し、翌日付で登記簿が閉鎖(法人格消滅)されている。オフに新庄剛志(登録名「SHINJO」)の獲得に成功した。 2004年 同年からパ・リーグに導入されたプレーオフ出場を千葉ロッテとシーズン終盤まで争い、9月24日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で、プレーオフ進出を決め、最終的に4位ロッテと0.5ゲーム差であったが、この年のプロ野球は近鉄とオリックスの球団合併による球界再編問題が取りざたされ、選手会はこの問題で9月18日・19日の2日間、全球団それぞれ2試合ずつ計12試合でストライキを行い試合中止となり、代替試合は行われなかったことも影響した。 プレーオフ第1ステージでは2位の西武に1勝2敗で敗退した。フェルナンド・セギノールが44本塁打で本塁打王。建山が最優秀中継ぎ投手。横浜から移籍の横山道哉が28セーブで最多セーブ。オフにメジャー移籍を目指していたヤクルトの稲葉篤紀をFAで獲得。球団初のFA選手獲得となる。ドラフト会議では1位指名した東北高校のダルビッシュ有の交渉権を獲得した。 2005年 元監督の高田繁が球団初のゼネラルマネージャー(GM)に就任、4月27日、この年に日本ハム球団の初代オーナーであった大社義規が死去した。背番号100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めて永久欠番になった。この年から始まったセ・パ交流戦でも11連敗を喫し、5位に終わった。 2006年 4月18日、SHINJOが同年限りでの引退を発表、セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の対ヤクルト戦から7月7日の対西武戦まで、45年ぶりの球団最多タイとなる11連勝を記録。西武、ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。チーム防御率3.05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップであった。西武には7勝13敗と負け越したものの福岡ソフトバンクにはダイエー時代を含めて9年ぶりの勝ち越しで、オリックスと東北楽天にはそれぞれ17勝3敗と大差を付けた。プレーオフ第2ステージ(対ソフトバンク戦)を2連勝で制し25年ぶり、北海道移転後初のリーグ優勝を決める。中日との日本シリーズを4勝1敗で制し、東映時代の1962年以来44年ぶり、日本ハムとしては初の日本一となる。11月12日、アジアシリーズでも優勝を飾り、アジア王者となった。 打撃部門では小笠原が本塁打・打点の二冠王を獲得。投手陣はリーグ1のチーム防御率3点台前半を記録し、八木智哉が12勝を挙げて新人王に輝いた。この年のリリーフは武田久とマイケル中村の2人の名前を取って、親会社の日本ハムにも引っかけてHisashi And Micheal、略してHAM(ハム)と呼ばれた。岡島秀樹が登板した日はTOM(トム)とも呼ばれていた(武田のT、岡島のO、マイケルのM)。時々andを「&」と表現し「H&Mの方程式」とすることもある。武田久が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。MICHEALが39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。 オフには宣言通りSHINJOが引退、小笠原が巨人へ、岡島が大リーグ・ボストン・レッドソックスへそれぞれFA移籍した。ドラフトで日本大学の長野久義をドラフト指名するも入団を拒否された。戦力外通告をしていた坪井と再契約をする。 2007年 シーズン当初から敗戦が続き、4月25日の6連敗時点で早くも負け越し数は8、首位からは6.5ゲーム差をつけられた。しかし5月19日の対ソフトバンク戦から交流戦を挟み、6月8日の対ヤクルト戦まで、球団史上最長となる14連勝を記録し、6月23日には18勝5敗でセ・パ交流戦初優勝を決めた。ライアン・グリンが5勝0敗で交流戦MVPを獲得した。9月19日、クライマックスシリーズ進出を決め、9月29日に球団史上初のリーグ2連覇を達成した。借金8からのリーグ優勝は新記録であった。ロッテとのクライマックスシリーズ第2ステージは3勝2敗で制した。日本シリーズは前年と同じ中日と対戦し、初戦に勝つもその後4連敗となり、第5戦では山井大介と岩瀬仁紀の継投による完全試合 もあり、1勝4敗で連覇はならなかった。タイトルは絶対的エースに成長したダルビッシュが15勝を上げてMVPを、稲葉が自己最高の打率.334、176安打で首位打者と最多安打の2冠を獲得した。 10月3日、高校生ドラフトで中田翔の交渉権を阪神・オリックス・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月6日、高卒新人としては史上5人目となる契約金1億円・出来高5000万円・年俸1500万円(推定)で仮契約を交わした。オフには田中幸雄が引退し、セギノールが退団。フロントではヒルマン監督と高田GMが退団。ターメル・スレッジが加入。後任監督に梨田昌孝が就任する。 2008年 開幕から最終戦を通して一軍にいた野手はわずかに4人 であったなど多くの故障者に悩まされた。ソフトバンク以外には勝ち越せず、楽天と西武とオリックスに負け越した。特にチーム打率・本塁打数共にリーグワーストという結果だったが、投手陣と代役の活躍や交流戦の貯金もあり、最終的に3位になった。10月11日、10月12日、クライマックスシリーズでは第1ステージではオリックスに2勝0敗で勝利したが、続く第2ステージで西武に2勝4敗で敗退した。 2009年 シーズン前に日本ハムの工藤隆人、マイケル中村と巨人の二岡智宏、林昌範の交換トレードが成立した。この年は多くの打者が同時に打撃開眼したことで、チームはリーグトップの打率を記録するなど打撃力が増した。1番田中賢、2番森本稀哲、3番稲葉篤紀の流れは前年終盤と変わらなかったが、4番はこの年8本塁打の高橋信二が座り、自身初の打率3割を記録し「つなぐ4番」として機能。そして溜まったランナーを一発のある5番のターメル・スレッジ(この年27本塁打)が返す流れが定着。続く6番小谷野栄一はほぼ3割の打率(.296)と82打点を記録。さらに2006年に投手から外野手に転向した糸井嘉男がこの年レギュラーを掴み、いきなり打率3割・2桁本塁打・20盗塁をマークし、7番にも関わらずOPSはチームトップの.901を記録。8番捕手の鶴岡慎也を挟み、9番には金子誠が据えられる。金子は開幕から打撃絶好調で、4月15日に日本プロ野球新記録の7試合連続二塁打を達成。4月終盤まで打率4割を維持し、最終的に自身初の3割をマークした。稲葉、高橋、糸井、金子の計4人の3割打者が生まれ、うち稲葉以外の3人は自身初の大台のマークだった。また打席の左右も1番から8番まで全て交互の「ジグザグ打線」を形成し、相手投手の左右の影響を受けにくい打線であった。投手陣も先発はエースダルビッシュ有(この年15勝)を筆頭に、2006年に新人王に輝いて以降成績を残せていなかった八木智哉が復活し9勝を挙げ、武田勝も初の2桁勝利。またリリーフ陣は林昌範、江尻慎太郎、宮西尚生、菊地和正らが活躍し、ストッパーに転向した武田久は無敗のままセーブ王に輝いた。このように投打共に開幕から好調で、開幕から終盤まで優勝争いを牽引する。しかし地方開催のため旭川に訪れた8月18日、福良淳一ヘッドコーチ、ターメル・スレッジ、宮西尚生が新型インフルエンザに感染し球界初の新型インフルエンザ感染者となり、3名の他にも新型の恐れのあるA型インフルエンザによる発熱で主力選手の欠場、登録抹消が相次いで、この日の楽天戦から6連敗。その後も9月に再び6連敗、4連敗を記録するなど大きく失速し、2位楽天との差が一気に縮まり首位の座が危うくなる。それでも10月6日の札幌ドームでの西武戦に金子誠の犠牲フライでサヨナラ勝利し(厳密には試合途中に楽天がロッテに敗れたためその時点で決定)、2年ぶり5度目のリーグ優勝が決定した。またシーズン最終盤まで優勝争いがもつれたことでレギュラーシーズンのホームゲーム観客動員数は199万2000人と、北海道移転後最高を記録した。 球団別の対戦成績も、ソフトバンクにのみ11勝12敗1分と負け越したが他のパ4球団には勝ち越し、ロッテには18勝6敗と大きく勝ち越した。クライマックスシリーズ第2ステージでは楽天と対し、第1戦では最終回にスレッジが3点差を逆転する逆転サヨナラ満塁本塁打劇的勝利をおさめるなどして4勝1敗で下し、2年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズでは巨人と対戦するも、2勝4敗で日本一を逃した。11月22日、札幌市中心部でパ・リーグ優勝記念パレードが行われ約11万1千人(実行委員会発表)のファンで賑わった。 オフには球団史上最多となる7人 の選手がゴールデングラブ賞を受賞した。藤井秀悟が巨人へFA移籍。 2010年 1月17日、この年から二軍から一軍投手コーチに転身した小林繁が心不全のため57歳で急逝した。それに伴い1月23日、二軍投手コーチの島崎毅が一軍投手コーチに就任。 開幕以来怪我人が続出、ゴールデンウィークを前にして二軍の野手が9人しかいないという事態に陥った。シーズン序盤は黒星を重ね、借金を最大14とするが、交流戦終了後の7月1日に勝率を5割にする。最終的にはソフトバンク、西武、オリックスに勝ち越し、負け越したのは10勝14敗のロッテのみで、前年と同様に5球団全てから二桁勝利を挙げ、借金14到達後に限れば貯金21を積み上げる快進撃で貯金7まで盛り返した。最終戦までロッテとCS争いを繰り広げ、チームの最終戦終了時点では3位であったが、ロッテがその後に行われた最終戦で勝利し僅かに0.5ゲーム差でCS進出を逃した(そのロッテはそこからCSを勝ち上がり日本一を達成)。1番の田中賢介がリーグ2位の打率.335をマーク。高橋信二に代わり4番に座った小谷野栄一は打率.311、108打点を挙げ初の打点王を獲得。ダルビッシュ有が最優秀防御率、奪三振王の二冠を獲得。武田勝がチーム最多の14勝、新外国人のボビー・ケッペルが1年目にして2桁勝利を挙げた。 10月28日、2010年ドラフト会議で、高校時代には夏の甲子園優勝、大学時代には大学日本一2回と個人として史上6人目の東京六大学野球30勝300奪三振を記録した早稲田大学の斎藤佑樹の交渉権をヤクルト・ロッテ・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月18日、中継ぎ投手での10勝を挙げた榊原諒がチームでは4年ぶりの新人王を獲得。12月9日、新人合同入団会見に出席出来なかった斎藤佑樹のために、新庄剛志以来球団2人目となる札幌ドームでの単独の入団会見が行われた。オフには建山義紀が大リーグ・テキサス・レンジャーズへ、森本稀哲が横浜へそれぞれFA移籍した。 2011年 プロ入り前から既に全国区の人気を誇っていたルーキー斎藤佑樹を見物・報道するため、選手寮入寮、新人合同自主トレ、春季キャンプとシーズン前から大量のファンと報道陣が詰め掛ける大フィーバー・佑ちゃんフィーバー が巻き起こり、その異常な注目状態のまま開幕を迎えた。この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で当初予定されていた3月25日の開幕が4月12日に延期となった。4月17日、斎藤佑樹がプロ初登板を果たし、新人一番乗りとなる勝利を挙げた。5月26日から6月4日にかけて、プロ野球タイ記録の52イニング連続無失点記録、及び5試合連続完封勝利を達成している(詳細は下述を参照)。交流戦は16勝8敗で3位。7月27日、 オリックス12回戦(帯広の森野球場)に13-5で勝利し、日本プロ野球7チーム目となる球団通算4000勝を達成した。序盤からソフトバンクとの首位争いとなり、3位以下と大きく差をつけての2強状態となり、前半戦を同率首位で折り返す。8月27日、梨田監督が同年の成績如何にかかわらず同年限りでの監督退任の報道が流れ、9月15日には正式に梨田監督の退任が発表された。9月に11連敗を喫するなど月間6勝16敗1分と大きく負け越し大失速。最終的には首位から17.5ゲーム差の2位となり、2年ぶりのAクラスとなった。西武とのクライマックスシリーズファーストステージでは2連敗で敗退している。二軍では2004年以来7年ぶりのイースタン・リーグ制覇を成し遂げている。エースダルビッシュ有が自己最多の18勝を挙げ、武田勝、ケッペル、ブライアン・ウルフと4人の2桁勝利投手が生まれた。武田久が2年ぶりののセーブ王獲得。この年から3番を任された糸井嘉男はリーグ2位の打率.319、31盗塁に加え、.411で自身初の最高出塁率のタイトルを手にした。 梨田監督の後任は栗山英樹が就任した。 2012年 1月ダルビッシュがポスティングシステムを利用し、メジャーリーグのテキサス・レンジャーズへ移籍。3月30日、開幕戦の埼玉西武戦(札幌ドーム)に、栗山監督からダルビッシュの後継役を期待された2年目の斎藤佑樹が先発。自身初の大役を務めると、プロ入り初の完投勝利をその大舞台で披露しチームは快勝。その後も斎藤は6月6日までの約2ヶ月間にプロ初完封を含む5勝を挙げ、チームの好調な滑り出しに大きく貢献した。4月28日の楽天戦(koboパーク宮城)では稲葉篤紀がプロ通算2000安打を達成。前半戦はロッテと首位を争い、5月6日に首位となっているが、交流戦は14勝8敗で2位、その後ロッテに首位を奪われ、前半戦を2位で折り返す。中盤からは吉川光夫が主戦投手として活躍。前半戦絶不調ながら栗山監督に4番として起用され続けた中田翔も徐々に調子を上げる。後半戦はロッテが失速し、西武との首位争いとなる。西武に首位に立たれたまま9月に突入してしまうが、9月7日に糸井嘉男が左脇腹挫傷から復帰すると、糸井は打率.380、15打点、出塁率.473、長打率.660という驚異的な成績で月間MVPを獲得する猛打を奮い、チームを強く牽引。チームは9月を16勝7敗2分けと大きく勝ち越す。9月15日には西武から首位を奪い、9月28日の西武との直接対決では、吉川光夫の完封、中田翔の2本塁打で勝利し、優勝へのマジックナンバー4が点灯。マジック1とした10月2日、2位の西武がロッテに3-5で敗れたため、3年ぶり6度目のリーグ優勝を決まった。クライマックスシリーズファイナルステージでは3位のソフトバンクと対戦。クライマックス・シリーズMVPに輝いた糸井嘉男の第1、2戦の2試合連続本塁打の活躍により4連勝(アドバンテージ含む)で3年ぶりの日本シリーズ進出を決める。巨人との日本シリーズでは、2勝4敗で敗退している。個人としては、3番打者の糸井嘉男が.404の出塁率を記録し、2年連続となる最高出塁率のタイトルを獲得。エース吉川光夫がチームトップの14勝を挙げ、防御率1.76で自身初タイトルとなる最優秀防御率を獲得。球団としては2009年のダルビッシュ有以来3年ぶりのリーグMVPに選出された。オフに田中賢介が海外FA権を行使してメジャーリーグに挑戦することを表明し、サンフランシスコ・ジャイアンツに入団。ドラフト会議では、メジャー挑戦を公言していた大谷翔平を1位指名し、長期交渉の末に獲得し12月25日に斎藤佑樹以来3人目の札幌ドームでの単独入団会見を行った。 2013年 1月22日に糸井、八木とオリックスの木佐貫洋、大引啓次、赤田将吾の2対3のトレードが成立。中でも糸井嘉男は、2009年より4年連続で「打率3割・ゴールデングラブ賞」を続け、その間2度のリーグ優勝に貢献した主力打者であったため、放出には選手から動揺、不満の声が上がったが、主力選手や人気選手であっても温情抜きでトレードの対象とする日本ハムの革新的な球団運営を象徴する大型トレードであった。開幕戦の西武戦には勝利したものの、そこから連敗し借金生活は6月28日まで続いた。4月13日のオリックス戦では球団14年ぶりの1試合5失策を記録。5月4日から15日にかけて9連敗で、借金は2010年6月16日以来の10、5月終了時点で19勝28敗1分の勝率.404で最下位。6月2日、新たにナイター照明がついた旭川市にある旭川スタルヒン球場で北海道移転後、屋外球場初のナイター主催試合となる横浜DeNA戦を開催。またそれまでは旭川では年2試合の主催試合の開催であったが、この年は北海道移転後、札幌ドームと旧本拠地東京ドーム以外では最多となる4試合の公式戦を開催し(翌年も4試合を開催)、計8万人を動員。移転当初から掲げる地域密着の姿勢をさらに強く示した。7月3日に開幕日以来の貯金を実現したが、7月17日に負け越すとついに勝ち越すことがないままシーズンを終えた。8月14日から守り続けてきた5位も9月21日にシーズン前のトレード相手のオリックスに抜かれ最下位に転落。9月28日のオリックス戦(京セラドーム)に0対8で敗れたことで、クライマックスシリーズ出場の可能性がなくなり、3年ぶりのBクラスが確定した。10月1日の札幌ドームでの楽天戦に2対11で敗れたことで、この年優勝した楽天には本拠地で1勝も勝てずに終わり、この年24勝無敗というシーズン成績を挙げた田中将大に対しても8連敗に終わった。10月6日の西武戦(札幌ドーム)に4対3で敗れ、12年ぶりに北海道移転後では初の最下位が決定、前年リーグ優勝からの最下位は1981年の近鉄以来32年ぶりの記録となった。64勝78敗2分で勝率.451はチーム8年ぶりの負け越し、チーム防御率は2006年以降全て2位以上であったが同年はリーグ5位、失策はリーグワーストの88を記録した。 陽岱鋼が自身そして球団史上初となる盗塁王を、ミチェル・アブレイユが本塁打王を獲得。 2014年 先発候補であった吉川、武田勝、木佐貫が序盤から不調に陥るも、2年目の大谷が二刀流を継続しながらローテーションを守り、史上初となる「同一シーズンでの10勝と10本塁打」を記録 した他、大谷以外にも5年目の中村勝、3年目の上沢直之、新人の浦野博司といった若手がその穴を埋めた。優勝争いには絡めなかったが、9月29日の西武戦(札幌ドーム)に斎藤佑樹が先発し4対1で勝利し、2年ぶりにクライマックスシリーズ進出が決定。シーズンを3位で終え、オリックスとのCSファーストステージでは2勝1敗で勝利し、2年ぶりファイナルステージ進出を決めた。ソフトバンクと対戦したファイナルステージでは第5戦に勝利して3勝3敗のタイに持ち込んだが通算3勝4敗でCS敗退となった。4番中田翔が自身初タイトルとなる打点王を、西川遥輝が日本人選手では球団初の盗塁王を獲得。9月に引退宣言を行っていた稲葉篤紀、金子誠が現役引退。オフには小谷野栄一、大引啓次がFA宣言し、それぞれオリックス、ヤクルトに移籍。12月にはテキサス・レンジャース傘下3Aを自由契約となっていた田中賢介が2年ぶりに復帰。 2015年 大谷翔平が開幕6連勝の球団タイ記録をマーク。交流戦では最終戦前まで2位・ソフトバンクと0.5ゲーム差の首位に立つものの、最終戦の阪神戦に大敗しソフトバンクに逆転され2位で終える。ソフトバンク・西武との首位争いの末、前半戦を首位ソフトバンクと3.5ゲーム差の2位で終える。後半戦も、首位・ソフトバンクの後塵を拝す状態が続き、9月17日にソフトバンクが優勝を決めV免が決定した。9月19日の西武戦に勝利しクライマックスシリーズ進出決定。また翌20日の西武戦にも勝利し、レギュラーシーズン2位が確定。クライマックスシリーズのファーストステージはシーズン3位のロッテと対戦した。1戦目を落とし、2戦目に逆転勝ちを収めるも3戦目に逆転負けを喫し、対戦成績1勝2敗で敗退した。この年をもって木佐貫が現役を引退、また現役最年長野手で実働29年のNPBタイ記録を持ち、阪急ブレーブスを経験した最後の現役選手であった中嶋聡も現役を引退した。 2016年 序盤はソフトバンクの独走を許し一時は首位ソフトバンクとのゲーム差が最大11.5ゲーム差まで開いていたが、7月10日、球団タイ記録の14連勝。本拠地北海道移転後ホーム500勝を達成。7月12日、球団新記録の15連勝を達成。ソフトバンクとの差を徐々に縮め、8月末にはソフトバンクを抜き首位に立つ。終盤には首位争いでソフトバンクとの一騎討ちを繰り広げた。9月21日・22日の対ソフトバンク2連戦に連勝し、優勝へのマジックナンバー6が点灯。マジックナンバーを1として迎えた9月28日の対西武戦にレアードのソロ本塁打の1点を先発の大谷が西武打線を1安打・15奪三振の完封で守り切り1-0で勝利、4年ぶり7度目のリーグ優勝を達成した。なお、最大11.5ゲーム差を逆転しての優勝はパリーグ歴代2位の記録となる。中田が110打点で2年ぶり2度目の打点王、レアードが39本塁打で本塁打王、宮西が42ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手を、それぞれ初受賞。クライマックスシリーズのファイナルステージでは、リーグ3位のロッテを2連勝で破ったリーグ2位のソフトバンクと対戦。4勝(アドバンテージ1勝を含む)2敗で、ソフトバンクを下し、4年ぶりの日本シリーズ出場が決定。そして日本シリーズは広島東洋カープと対戦。MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島での第1、2戦は連敗するも、札幌ドームでの第3戦から第5戦は2つのサヨナラ勝ちを含む3戦全勝で王手をかけ、10月29日の広島での第6戦を10-4で勝利し10年ぶり3度目の日本一を果たした。同時に最大11.5ゲーム差を逆転しての日本一は日本プロ野球記録となる。オフに陽がフリーエージェントで、吉川・石川慎吾が巨人との交換トレードで移籍(代わりに大田泰示・公文克彦が加入)。武田勝が引退した。 2017年 第四回WBCに6名を輩出。そうしたチーム事情に加えて開幕直後に大谷が負傷離脱し、先発陣が軒並み不調に苦しむこととなった。4月に6連敗と10連敗を繰り返し、4月を最下位で終えた。5月3日にロッテ戦に勝利し5位に、5月下旬に4位に浮上するが、交流戦初戦でDeNAに敗れて再び5位に転落してからはシーズン終了まで順位を上げる機会なく、早々にチーム再建へ舵を切る年となった。得意にしていた交流戦も初めて負け越し、9位に終わる。交流戦終了後の7月には、3度の5連敗を喫するなど1度も連勝することが出来ずに4勝18敗と大きく負け越した。それでも、7月28日のロッテ戦で、2004年の北海道移転後からの通算1000勝を達成。8月に入ってからは、8月16日のロッテ戦で約2ヶ月ぶりの2連勝、それ以降チームの調子も上向き、11勝10敗と5月以来の月間勝ち越し、9・10月も16勝13敗と勝ち越してシーズンを終えた。なお、最終戦ではメジャー移籍を志望していた大谷が4番・投手で出場して10奪三振と2安打を記録し、チームも完封勝利で有終の美を飾った。 西川が39盗塁で3年ぶり2度目の盗塁王を受賞、7月30日には、中島卓也が2287打席目で人生初となる本塁打を放った。トレード期限となる7月31日、これまでセットアッパーとして活躍していた谷元圭介を中日に放出した。さらに8月31日にメンドーサがウェイバー公示によるトレードで阪神へ移籍した。飯山裕志が現役引退し、武田久が日本通運硬式野球部選手兼任コーチに就任し退団、オフにはメジャーリーグ移籍を表明した大谷がエンゼルスへと移籍した。さらにFAで増井がオリックスへ、大野が中日へ移籍した。なお、FA行使が噂された宮西と中田は行使せず残留となった。ソフトバンクからFA宣言していた鶴岡慎也が5年ぶりに復帰した。 順位が5位と低迷した一方で、ドラフト会議で7球団での競合を制して早稲田実業高等学校の清宮幸太郎の交渉権を獲得したことと、大谷がメジャー移籍を決めたことが注目を集め、同年の今年の漢字に「北」が選ばれる理由の一つともなった。 リーグ優勝 7回 (1962年、1981年※、2006年 - 2007年、2009年、2012年、2016年) 日本一 3回 (1962年、2006年、2016年) クライマックスシリーズ優勝 4回(2007年、2009年、2012年、2016年) アジアチャンピオン 1回 (2006年) セ・パ交流戦優勝 1回 (2007年) Aクラス 31回 (1959年、1961年 - 1967年、1978年 - 1983年、1987年 - 1988年、1993年、1996年、1998年、2000年、2004年、2006年 - 2009年、2011年 - 2012年、2014年 - 2016年、2018年) Bクラス 42回 ※2リーグ制後は38回(1946年 - 1958年、1960年、1968年 - 1977年、1984年 - 1986年、1989年 - 1992年、1994年 - 1995年、1997年、1999年、2001年 - 2003年、2005年、2010年、2013年、2017年) 連続Aクラス入り最長記録 7年 (1961年 - 1967年) 連続Bクラス最長記録 13年 (1946年 - 1958年) 後期優勝 2回 (1981年後期、1982年後期) レギュラーシーズン優勝 6回 (1982年、2006年 - 2007年、2009年、2012年、2016年) 最長連勝 15連勝 (2016年) 最長連敗 14連敗 (1984年、3引き分けを挟む) 最多勝 87勝 (2016年) 最多敗 92敗 (1956年) 最多引分 13分 (1984年) 最高勝率 .621 (2016年) 最低勝率 .364 (1955年) 最小ゲーム差 1.0(2位:1993年) 最大ゲーム差 48.0ゲーム(8球団中7位:1955年) ※1981年の優勝はロッテとのプレーオフで勝利したことによる。年間最高勝率は西武とのプレーオフで敗退した1982年を含む7回。 シーズン最多得点 771点(2000年) シーズン最多安打 1370本(2009年) シーズン最多二塁打 290本(2009年・日本プロ野球記録) シーズン最多三塁打 56本(1961年) シーズン最多本塁打 178本(2004年) シーズン最少本塁打 40本(1955年) シーズン最多打点 735打点(2000年) シーズン最少打点 312打点(1947年・2リーグ制以降は1951年の324打点) シーズン最多盗塁 185盗塁(1979年) シーズン最多犠打 180犠打(2010年・日本プロ野球記録) シーズン最多三振 1151三振(2005年) シーズン最高打率 .281(2004年) シーズン最低打率 .216(1956年) シーズン最少失策 55失策(1993年、2009年) シーズン最高防御率 2.39(1961年) シーズン最低防御率 4.98(1984年) シーズン最多セーブ 48セーブ(2006年・パ・リーグ記録) シーズン最多ホールド 131ホールド(2012年・日本プロ野球記録) ゲーム最多得点 22点(1949年11月19日対大陽) ゲーム最多安打 28本(2008年10月1日対楽天) ゲーム最多二塁打 9本(2004年5月12日対ロッテ、2009年4月19日対西武) ゲーム最多三塁打 6本(1946年7月14日対ゴールドスター) ゲーム最多本塁打 7本(1950年5月31日対毎日、2017年5月12日対ロッテ) ゲーム最多盗塁 9盗塁(1979年6月5日対西武) ゲーム最多犠飛 4犠飛(1982年7月3日対近鉄・日本プロ野球記録) ゲーム最多死球 7死球(1979年5月12日対ロッテ・日本プロ野球記録) ゲーム最多暴投 5暴投(2003年4月18日対西武・日本プロ野球記録) ゲーム最多ボーク 4ボーク(1974年7月17日対近鉄・日本プロ野球記録) 5者連続本塁打(1971年5月3日対ロッテ10回表・日本プロ野球記録) 4者連続二塁打(2009年7月29日対ロッテ1回表・パ・リーグ記録) 先頭打者から4者連続二塁打(同・日本プロ野球記録) 5試合連続無失点勝利(2011年5月28日対広島1回戦から6月3日対ヤクルト3回戦まで・日本プロ野球記録) 52イニング連続無失点(2011年5月26日対中日2回戦6回裏から6月4日対ヤクルト4回戦2回裏まで・日本プロ野球記録) 名球会入りの基準である通算200勝及び通算250セーブ達成投手はいない。 特記無い場合の安打以外の記録は達成当時のもの。 張本勲 (1972年8月19日対西鉄 投手東尾修) 大島康徳 (1990年8月21日対オリックス 投手佐藤義則) 田中幸雄(2007年5月17日対楽天 投手山村宏樹) 8413打席数での達成は史上最多、2205試合目は2番目に遅い記録 稲葉篤紀(2012年4月28日対楽天 投手ケルビン・ヒメネス) (太字は完全試合) 高橋善正 (1971年8月21日 対西鉄(後楽園球場) スコア 4-0) 高橋直樹 (1973年6月16日 対近鉄(後楽園球場) スコア 1-0) 田中幸雄 (1985年6月9日 対近鉄(後楽園球場) スコア 12-0) 柴田保光 (1990年4月25日 対近鉄(東京ドーム) スコア 3-0) 西崎幸広 (1995年7月5日 対西武(東京ドーム) スコア 1-0) 参考記録 八木智哉 - 武田久 - MICHEAL (2006年4月15日 対ソフトバンク〈福岡Yahoo!JAPANドーム〉 スコア 1-0) 先発八木が10回まで無安打無得点で抑えるものの、味方打線が点を取れないまま降板、その後11回を武田久、12回に挙げた1点をその裏MICHEALが抑えて勝利している。 1941年以来65年ぶりで64シーズンぶり、戦後かつ2リーグ制以降初めての継投によるノーヒットノーランで、延長戦かつ3人の投手で抑えたのは日本プロ野球史上初めてとなる。 また、八木の「先発投手が安打も得点も許さないまま9回以上を投げて途中降板」と言うのも日本プロ野球史上初めてとなる。 浅原直人 1952年4月20日 対近鉄(川崎球場) 毒島章一 1957年6月23日 対近鉄(駒沢球場) 張本勲 1961年5月7日 対近鉄(駒沢球場) 大宮龍男 1980年7月29日 対南海(大阪スタヂアム) 田村藤夫 1989年10月1日 対ダイエー(平和台野球場) 1948年 - 1953年 後楽園球場(※1・3) 1953年 - 1961年 駒澤野球場(※1) 1962年 - 1963年 明治神宮野球場(※2・3) 1964年 - 1987年 後楽園球場 1988年 - 2003年 東京ドーム 2004年 - 2022年(予定)札幌ドーム 2023年 -(予定)北海道ボールパーク(仮称、きたひろしま運動公園内に建設) ※1 1953年8月まで後楽園球場を使い、同年9月より駒澤野球場へ移転。 ※2 学生野球シーズンの使用が認められず、その時期は後楽園球場などを使った。後楽園球場が本拠地となった1964年から1977年頃まで、後楽園球場で他球団の試合が開催され、かつ神宮球場を本拠地とするアトムズ・スワローズの試合が組まれていない場合に限り準本拠地として神宮球場を使用している。 ※3 1973年 - 1977年には、暫定措置として対ロッテオリオンズ戦の一部がロッテの主催で行われた。 1946年 : 横沢三郎 1947年 - 1948年 : 苅田久徳 1949年 - 1950年: 井野川利春 (第1次) 1951年 : 安藤忍 1952年 - 1954年 : 井野川利春 (第2次) 1955年 : 保井浩一 1956年 - 1960年 : 岩本義行 1961年 - 1967年 : 水原茂 1968年 : 大下弘 1969年 - 1970年 : 松木謙治郎 1971年 - 1973年 : 田宮謙次郎 1973年 : 土橋正幸 (第1次) 1974年 - 1975年 : 中西太 1976年 - 1983年 : 大沢啓二 (第1次) 1984年 : 植村義信 1984年 : 大沢啓二 (第2次) 1985年 - 1988年 : 高田繁 1989年 - 1991年 : 近藤貞雄 1992年 : 土橋正幸 (第2次) 1993年 - 1994年 : 大沢啓二 (第3次) 1995年 - 1999年 : 上田利治 2000年 - 2002年 : 大島康徳 2003年 - 2007年 : トレイ・ヒルマン 2008年 - 2011年 : 梨田昌孝 2012年 - : 栗山英樹 ※太字は優勝達成監督 ^ 1947年は東急フライヤーズ(第1次) ^ 1948年は急映フライヤーズ ^ 1948年は8月16日まで指揮、残り試合は皆川定之が代理。 ^ ここから東急フライヤーズ(第2次) ^ ここから東映フライヤーズ ^ 1960年は7月10日まで指揮、残り試合は保井浩一が代理。 ^ 1968年は8月4日まで指揮、残り試合は飯島滋弥が代理。 ^ 1969年は7月10日から7月17日までを神谷定男が代理。 ^ 1970年は7月29日まで指揮、残り試合は田宮謙次郎が代理。 ^ ここから日拓ホームフライヤーズ ^ 1973年は7月12日(前期終了)まで指揮。 ^ シーズン後期のみ指揮。 ^ ここから日本ハムファイターズ ^ 1984年は6月26日まで指揮、6月28日までは矢頭高雄が代理。 ^ 1996年は9月9日まで指揮、残り試合は住友平が代理。 ^ 2002年は4月3日から4日までの2試合を高代延博が代理。 ^ ここから北海道日本ハムファイターズ ^ 2005年は7月18日から28日までの6試合を白井一幸が代理。 2009年1月30日に球団史上初めて永久欠番を制定することが発表された。該当者第一号は野球殿堂入りした大社義規初代オーナーである。 永久欠番一覧 100 大社義規(日本ハム球団初代オーナー) 準永久欠番[要出典] 41 稲葉篤紀(2015 - 2017)(元選手、現SCO。2018年にブライアン・ロドリゲスが着用するまで3年間欠番) 79 小林繁(2010 - 2011)(元コーチ。2009年に二軍コーチを務め、2010年より一軍コーチを務める予定であったがこの年の1月に急逝。これに伴い2年間欠番扱いとなった) 86 大沢啓二(元監督。球団史上、他者の着用がない) なおこの他に、2009年より「番号が0から始まるのは違和感がある」として0と00の使用をしないことが決定されている。 1946年 最初のユニフォームは阪急軍からのお下がり(1936年創立当時のユニフォーム)で、なす紺地のユニフォームに、左胸の阪急軍の「H」マークに変わり、左袖にセネタースの「S」のマークを付けた。 1947年 球団名が東急フライヤーズとなり、「Flyers」のロゴが登場。現在のビジター用にあたるダークグレーのユニフォームには親会社の「TOKYU」のロゴが入っていた。 1948年 - 1949年 大映球団と合併し球団名が急映フライヤーズとなる。大リーグで使われていたジッパーユニフォームが登場。ビジター用は「FLYERS」で縁取りがブルー。 1949年 球団名が東急フライヤーズに戻り、ジッパーのロゴは親会社の「T.K.K」に変更。胸マークには、熊のマスコットが描かれている。 1950年 2リーグ分立を機にロゴを変更。左から右に寄るスタイルとアーチ型の2種類があった。 1951年 - 1952年 ヤンキースを参考にしたユニフォームが登場。また、縦縞が初登場。ビジター用は「TOKYO」と「TOKYU」を併用。1954年に「TOEI」となるがビジター用のデザインはそのまま。 1953年 - 1960年 東急時代の晩年から東映の初期に使われたユニフォームのロゴと縁取りは濃紺とオレンジ。1954年から球団の親会社が東映となり、球団名も「東映フライヤーズ」となる。ビジター用のロゴを「TOEI」に変更。帽子は、こげ茶地にオレンジ色で「F」で菱形風のデザイン。 1961年 - 1967年 水原茂監督就任に伴い、水原の古巣・読売ジャイアンツをモチーフに、こげ茶とオレンジを基調とした物に変わる。左袖には親会社・東映の社章(東映マーク)に「TOEI」のロゴが入る。 ホーム用は「FLYERS」ロゴが大文字になって字体も一新され、頭文字の「F」の字に飛ぶ鳥の隠し絵が施されているという物だった。 ビジター用は、グレーの地色が淡くなり、胸ロゴが「TOEI」から「TOKYO」に変更される。 1967年後半のみ、ビジター用ユニフォームが変更。地色が鮮やかなスカイブルーとなり、縁取り、ライン、東映マークに使われていたオレンジが金糸に代わり、胸ロゴが「TOEI」に戻る。 1968年 大下弘監督就任に伴い、赤と紺を基調としたユニフォームに変更。帽子は紺色になり、Fマークは元の菱形風に戻る。袖、パンツ、ポケットには赤・紺の2本ライン、アンダーシャツ、ストッキングは青地、ストッキングには白・赤・白のラインが入る。左袖の東映マークは赤地に白抜き、青のライン。また、Flyersロゴが戦後すぐに使われていた筆記体に戻る。 1969年 - 1971年 松木謙治郎監督就任により、モデルチェンジ。赤と紺を基調としたものになる。 1972年 田宮謙次郎監督就任により、ニット式ベルトレスユニフォームを採用。前ボタン1個がついたプルオーバー式になる。帽子は紺地に金糸でTとFを組み合わせたマークになり、ツバが赤。首、袖、腰、パンツに紺と赤のラインがつく(ビジター用はラインの模様がホーム用と逆)。背番号の書体がセリフ体となり、ビジター用のみ背番号の上に選手名が入る。 なお、東映時代6年間のユニフォーム約600枚が、日本ハムになっていた1979年に原宿の古着屋で売られていた。全て背番号入りの本物、一律2900円でその後も10年ぐらいの間売り続けていた。 1973年前期 球団名が「日拓ホームフライヤーズ」となり、カラー、デザインは従来通りだが紺と赤のラインの色が東映時代と逆になっていた。帽子のマークがNとFの組み合わせとなり(書体は直線状の物と7色ユニフォームと同じ飾り文字の物と2種類あり)、左袖には日拓マーク、さらにビジター用の胸のマークが「NITTAKU HOME」(2段組で「NITTAKU」が赤、「HOME」が黒。また胸番号がなくなる)と、マイナーチェンジが行われる。 1973年後期 前年のユニフォームを一新し、7種類のユニフォームを採用する。(#7種類のユニフォームを参照。) 1974年前期 球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。紺と赤のカラーは継続しつつも、形状はボタン無しのプルオーバーになる。帽子のマークと左袖には親会社・日本ハムのブランドマーク(社章)と「ニッポンハム」ロゴ(左袖のみ)。パンツのサイドには2本の極太ラインが入る。 ホーム用は紺(縁取り:赤)の「Fighters」ロゴ。背番号、胸番号の書体は斜体がかった独特のものになる。首・袖・腰・パンツのラインは紺・赤で、紺地のストッキングには赤で親会社のブランドマークの刺繍が入る。 ビジター用はスカイブルー地に赤(縁取り:白)の「Nippon Ham」ロゴ、ロゴと背番号にはナール式(丸)文字を採用。選手名、胸番号は無し。帽子もスカイブルー、首、袖、腰、パンツのラインは赤・白。 1974年後期 - 1981年 ホーム、ビジター用共モデルチェンジされ、ストライプを採用。基本カラーが紺とオレンジに変わり、背番号と胸番号(ホーム用のみ)が角文字になり、袖とパンツのサイドラインが消える。首にはオレンジと紺の2本ライン、腰はオレンジ・紺・オレンジの3本ライン。途中、マイナーチェンジを繰り返しつつ、このユニフォームで1981年のリーグ優勝を果たした。 ホーム用は薄いブルーのストライプ、胸ロゴ、背番号、胸番号は紺にオレンジの縁取り。 ビジター用はスカイブルー地の色合いが変り、紺のストライプ、胸ロゴは白にオレンジの縁取りとなり、帽子、ストッキングがホーム、ビジター共通になる。 1975年から首、腰のラインがオレンジ一色となる。 1978年から背中に選手名が付き、これまで背中いっぱいについていた背番号の文字が、大幅に小さくなる。 1979年からベルト式にかわり、シーズン途中の7月4日より、ビジター用の「Nippon Ham」のロゴ、背番号の色が逆転し、オレンジ(縁取り:白)に変更。 1982年 - 1992年 アストロズのレインボー・カラーをイメージしたものにモデルチェンジ。採用前年のリーグ優勝へのご祝儀と、継ぎ接ぎが目立っていた旧ユニフォームに対する評判を覆すためにモデルチェンジした。胸ロゴはホーム用、ビジター用とも「Fighters」になり、帽子、アンダーシャツ、ストッキング、スパイクをオレンジ色にした。帽子のマークが白に青の縁取りの「Fighters」のロゴ、ロゴの右下に青字で「TOKYO」の文字の刺繍が入る。 ホーム用は胸に黄色、オレンジの2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「ニッポンハム」。 ビジター用は上着はオレンジ色で、黄色、白の2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「Nippon Ham」。 1988年から東京ドーム完成を機に帽子の前面部が白くなり、ロゴも白からオレンジになる。スパイクも白地にオレンジラインに変更。 1993年 - 2003年 大沢啓二監督復帰により、デザインを一新。濃紺が主体(帽子、アンダーシャツ、ストッキング)になった。12年ぶりに縦縞が復活(ホームは白地に濃紺の縦縞、ビジターはグレー地に濃紺の縦縞)し、帽子のロゴがオレンジに白の縁取りの「Fs」になる。 ホーム用は、左胸に濃紺にオレンジの縁取りで「Fs」、右胸に胸番号がつく。 ビジター用は胸に濃紺にオレンジの縁取りで「NIPPONHAM」、胸番号は左につく。 2001年からは右胸に親会社・日本ハムの広告が入るようになる。 2004年 - 札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。ユニフォームを一新。帽子、アンダーシャツ、ソックスが黒になり、袖や襟に青・金色のラインがつく。また、プロ野球初の左右非対称デザインを採用した(右肩は地の色と同じだが左肩が黒、甲冑をイメージしている)。ホーム、ビジター共に胸番号が消える。帽子のロゴは上から“ボール・七芒星・文字「F」”の順に重なったものとなっている。デザインはシアトル・マリナーズなどのCI(コーポレート・アイデンティティ)を手掛けている米企業のSME社である。 ホーム用は、「FIGHTERS」、右袖ロゴは「NIPPON-HAM」。ビジター用は、上下グレーで「NIPPON HAM」、右袖ロゴは「HOKKAIDO」。 ヘルメットには、北海道新聞の広告シールが付く。 2005年シーズン後半 大社義規前オーナーの死去に伴い、右腕に喪章として黒いラインが入る。 2006年からユニフォームスポンサーのホクレンのロゴが右肩に入った。ただし「ホクレン」ロゴはレギュラーシーズンの着用に限られ、交流戦・オールスター・クライマックスシリーズ・日本シリーズなどの試合では使用できないため、外される。 2011年 - 「HOKKAIDO PRIDE~北海道の誇りを胸に~」と銘打ち、ユニフォームデザインを一部変更。帽子・アンダーシャツの黒はそのままに、ホーム用は右肩の上部から左肩部を青に変更(新たに左脇下にも青を配色)し、左肩下部以降は以前と同じ黒とした。また「FIGHTERS」のロゴも下部に七芒星を付けたものに変更された。ビジター用は大きくモデルチェンジし、両肩が黒で、地色が北海道の「豊穣の実り」を表す「ハーベスト・ゴールド」となった(この他、青も北海道の空を表す「スカイブルー」、ホームの地色となる白も雪を表す「スノー・ホワイト」と命名されている)。またビジター用は帽子ロゴが「F」から北海道の「H」にし、胸のロゴは二段組で上段に「HOKKAIDO」、下段に「NIPPONHAM」が入る。さらにパンツ右には新たにスポンサーとなったニトリのロゴが入る。また、ホーム、ビジターとも帽子のつばが「ハーベスト・ゴールド」で縁取られている。 2011年7月15日 - 17日の試合を「北海道祭り」と銘打ち、本拠地・札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。さらに、同年9月23日 - 25日の試合を「秋の祭典」と銘打ち、こちらも札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。 2012年 - 主将・田中賢介のユニフォームの左胸にキャプテンマーク(黒文字で「CAPTAIN」の頭文字である「C」と金色の「七光星」の組み合わせ)のワッペンを導入。 2012年7月6日 - 8日の試合を「北海道祭り」と銘打ち、昨年同様本拠地・札幌ドームでビジターユニフォームを着用する。さらに、「北海道祭り」限定の帽子(帽子は本体が黒、ロゴが北海道の「H」、ロゴの右側に北海道の地図のシルエット、空気抗・帽子のつばが「ハーベスト・ゴールド」でつばの右側に「HOKKAIDO PRIDE」の文字が入る)を着用。 2014年 - 右袖に日本ハムグループの新CIが入り、ユニホームスポンサーのホクレンのロゴはその上部に掲示される。 2015年 - このシーズンよりキャップへの広告表示が認められ、12球団初の事例としてホーム用キャップ左即部にアインファーマシーズの広告が入る。 2016年 - ホーム用キャップ左即部にアイングループの広告に変更。 2018年 - 北海道移転15周年記念企画の一環としてサードユニフォーム「北海道スカイブルーユニフォーム」を導入。ホームユニフォーム左肩と同一の青色をユニフォームの全面と帽子の額部分にあしらい、胸にWE LOVE HOKKAIDOシリーズで用いられた「HOKKAIDO」ロゴ、金と黒のラインで非対称デザインを踏襲する形となり年30試合で着用。 備考 台湾プロ野球の中信ホエールズは札幌移転した当時の日本ハムのデザインを意識して[要出典]、2005年から左右非対称デザインのユニフォームを採用した。 1993年~2003年のホームユニフォーム ホームユニフォーム(2009年) ビジターユニフォーム(2010年) ホームユニフォーム(2015年) ビジターユニフォーム(2018年) 練習用ユニフォーム(2018年) WE LOVE HOKKAIDOシリーズ/北海道シリーズ WE LOVE HOKKAIDO・HOKKAIDO be AMBITIOUS 胸に「HOKKAIDO」の文字が刻まれた特別色の限定ユニフォームを着用し、北海道への愛と誇りを表現しチームとファンが一体となり戦うコンセプトの特別試合企画。2007年 - 2010年に第1期、2013年以降に第2期実施。第2期ではその年の「北海道179市町村応援大使」が就任した道内市町村から抽選で一部の市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出し、北海道との強い絆と地域活性化を目指す事を表す。2017年からは「北海道シリーズ」として「WE LOVE HOKKAIDO」と「HOKKAIDO be AMBITIOUS」の年間2期に拡大しての開催となる。 2007年:8月17日 - 19日の千葉ロッテ戦で開催、ユニフォームの生地の色は青、左肩は黒。帽子は本体が黒、つばが青のものを使用。 2008年:7月22日 - 24日の千葉ロッテ戦・25 - 27日の埼玉西武戦にて開催。何色にも染まらない意思の強さを表す球団カラーの一つ黒と北海道の海と空を表す青をユニフォームにあしらい、ユニフォームの生地の色は黒、左肩が青。帽子は本体が青、つばが黒で前年とカラーリングが逆転している。 2009年:札幌市円山球場で6月10日に行われた対横浜戦を除く道内地方(旭川・函館・帯広)開催の全試合と、9月11日 - 13日に札幌ドームで行われる千葉ロッテ3連戦にて開催。生地の色は紺色で、左肩と首回り、ボタン部分に北海道をイメージする花でもあるラベンダーカラー(薄紫)を採用。帽子は本体が紺、つばが薄紫(ラベンダー)。 2010年:7月9日 - 11日のオリックス戦にて開催。ユニフォームの生地の色は北海道の「豊穣の実り」をイメージした黄金色、左肩が黒。帽子は本体が青、つばが黄金色。なお、このユニフォームは「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2010」の3連戦限定の予定だったが、梨田監督の発案により、帯広・旭川で行われる計4試合でもこのユニフォームを着用することになった。 2013年:7月12日 - 14日の千葉ロッテ3連戦と7月15日・17日の埼玉西武戦において開催。ユニフォームの上着には北海道旗に描かれ、北海道民の「不屈のエネルギー」を意味する七光星の燃えたぎる「バーニング・レッド」をシンボルカラーに採用。また、過去の伝統を引き継ぐ意味を込めファイターズ独自の左右非対称デザインを踏襲。その非対称部分には北海道の美しい雪景色と無心で戦うチームの精神を表す純白(ピュア・ホワイト)で表現する。キャップおよびヘルメットのロゴ・マークには、「H」のセカンダリーマークを採用し、北海道への普遍的な愛と誇りを込める。キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもバーニング・レッドをあしらっている。2013年度の応援大使18市町村の中から、7つの市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 2014年:7月11日 - 13日のソフトバンク3連戦にて開催。「NEXT BLUE(ネクスト・ブルー)」をコンセプトカラーに採用。非対称の純白色とキャップの「H」マークは前年より据え置き。キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもNEXT BLUE色をあしらう。シリーズユニフォームは6月27日の楽天戦から7月16日の埼玉西武戦までビジター戦を含めた全16試合で着用、2014年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9つの市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。また、9月27日のオリックス戦、28日のソフトバンク戦では「WE LOVE HOKKAIDO シリーズ 2014〜again〜」として再度NEXT BLUE色ユニフォームが着用された。 2015年:6月12日のDeNA戦から7月15日までのソフトバンク戦まで約1か月間開催、期間中のビジター11試合でも着用。チームスローガンにちなみ北海道のラベンダーをイメージした薄紫色の「EZOlution ラベンダー(エゾリューション・ラベンダー)」をユニフォームのカラーに採用。ユニホームで非対称の純白色とキャップの「H」マークは前年より据え置き。キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもコンセプトカラーのEZOlutionラベンダーをあしらう。北海道の6・7月はラベンダーが咲く時期を迎えることから、勝利で笑顔の花を咲かせたいという思いが込められている。2015年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から、12の市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 2016年:北海道新幹線開業を記念し、新幹線H5系電車の車体と同じ「緑・紫・白」を配色した限定ユニホームを着用する。デザインは緑と白をベースに、紫色のラインをあしらう。キャップおよびヘルメットのロゴマークには、「H」マークを採用。キャップおよびヘルメットのつば部分にも北海道新幹線の車両と同じ「常磐グリーン」をあしらっている。北海道新幹線開業日と同じ3月26日のロッテ戦(QVC)より使用され、WE LOVE HOKKAIDOシリーズ期間の5月3日のソフトバンク戦から26日のロッテ戦までビジター6試合を含む19試合でも使用。 2016年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 2017年:この年より企画名が「北海道シリーズ(西暦)『WE LOVE HOKKAIDO』」となる。4月29日の楽天戦から5月28日のソフトバンク戦までのホーム16試合で限定ユニフォームを着用。北海道を舞台とした映画「幸福の黄色いハンカチ」のシンボルカラーをモチーフに「ハッピーイエロー」をコンセプトに制作。デザインは太陽を表すイエローと空を表すブルー(水色)をベースとし、非対称部分にブルーをあしらう。なお、このイベントは「HAPPY プロジェクト」と題し、レプリカユニフォームの収益の一部を「幸福の黄色いハンカチ」の舞台となった夕張市に寄付するなどの活動を通じて、今年3月で財政破綻から10年を経た夕張市の地域再生に役立てられる。2017年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 7月19日楽天戦から8月20日西武戦までのホーム9試合を「北海道シリーズ2017 HOKKAIDO be AMBITIOUS」と題して開催。北海道旗の配色である濃紺・白・赤を基調として濃紺をベースに肩の非対称部分に赤と白いラインを配した「アンビシャス・トリコロール」カラーのデザインとし、左胸にビジター時やWE LOVE HOKKAIDO時のキャップ・ヘルメットに使われるHエンブレムが大きく配される。 2018年:「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズとしては5月2日から20日までのホーム10試合で前述のサードユニフォームを着用し開催。2018年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 「HOKKAIDO be AMBITIOUS」シリーズとしては7月20日から28日までのホーム6試合で前年同様「アンビシャス・トリコロール」を基調にメインカラーを雲や雪や未来を描くキャンバスをイメージした白、肩の非対称部に紺、左腕を赤としたカラーリングの限定ユニフォームを着用。 その他 2012年8月17日 - 19日の試合を「サマーフェスタ」と銘打ち、選手が実際に着用したユニフォームなどを再利用して作られたレプリカユニフォーム「エコユニ」が発売され、選手も同じデザインのモノトーンカラーの限定ユニフォームを着用。 2005年の円山球場70周年記念試合の練習時、2013年のパ・リーグ共同企画「レジェンド・シリーズ2013」、2014年以降の球団独自のヒストリー企画「レジェンドシリーズ」にて着用。 2005年:円山球場で開催されたデーゲーム時に、試合前の練習で1974年後期 - 1981年モデルのホーム用ユニフォームを上衣のみ着用した。プルオーバーだった当時の物と異なりボタン式となっていた。 2013年:パ・リーグ共同企画「レジェンド・シリーズ2013」で、球団史上初で本試合時に復刻ユニフォームを着用。復刻されるユニホームは1993年から北海道移転前の2003年まで使用された、東京ドーム本拠地時代のピンストライプのホームユニフォーム(ただし、復刻版ユニホームの左袖には「ホクレン」のワッペンが、ズボンには「ニトリ」のワッペンが付く)。 レジェンドシリーズ(2014年以降) 2014年:8月21日の楽天戦・8月22日 - 24日の西武戦(札幌ドーム)と8月29日 - 31日のロッテ戦(東京ドーム)で東京時代の1982年 - 1992年のホームユニフォーム(いわゆる「オレンジユニフォーム」)を着用。なお、当時のユニフォームと異なりユニフォームの右袖に「ホクレン」の広告、ズボンに「ニトリ」の広告、ヘルメットに「北海道新聞」の広告が入る。帽子・ヘルメットは1988年 - 1992年(帽子の前部が白のもの)のタイプを復刻。 2015年:8月7日からの楽天3連戦(札幌ドーム)、21日からのオリックス3連戦(東京ドーム)で開催。1981年に日本ハムファイターズとして初優勝した際の1979年 - 1981年の白地に青のストライプ・襟元にオレンジが入ったホームユニホームを着用。なお、当時のユニフォームと異なりユニフォームの右袖に「ホクレン」の広告、ズボンに「ニトリ」の広告、ヘルメットに「北海道新聞」の広告、ホーム用キャップ左即部に「アインファーマシーズ」の広告が入る。 2016年:8月30日から9月19日までの主催試合において、1974年前期に着用した日本ハムファイターズ初代のホームユニフォームを着用。また、9月17日は「HOKKAIDO LEGEND MATCH」と題し、北海道移転後7年間にわたって着用した北海道初代ユニフォームを一日限定で着用。 2017年:6月23日から7月4日までの主催試合において、球団創設後初の日本一に輝いた1962年に着用した東映フライヤーズの1961年 - 1967年のホームユニフォームを着用。 二軍用も原則的には一軍と同じものだが、地域密着を目指しチーム・カラーを鎌ヶ谷市の色であるグリーンに。2008年7月20日・21日の鎌ヶ谷での試合に限り、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入り、本体が緑、左肩が白、金色のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。帽子は緑に前面が白のものでマークは「K」。 2010年 - 一軍のユニフォームをモチーフに、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入った緑のユニフォームを正式採用。前述の特別ユニフォームをモデルチェンジ。緑をベースカラーとし、左肩から左わき・右わきがオレンジ。両わき腹部分に白のラインが入り、白とオレンジのツートンカラーのラケットラインが入る。背中のネームは無しで背番号は白文字にオレンジの縁取り。帽子は緑に左前面にオレンジのラインが入り、マークは「K(ボール・七芒星・文字「K」)」。左袖に球団ペットマーク、右袖に「NIPPON-HAM(白文字にオレンジ縁)」。 2012年 - 鎌スタ限定ユニフォームを2年ぶりにリニューアル。胸に「KAMAGAYA(KとAに緑の☆)」のロゴが入り、本体が緑、右側がゴールド、左側が黒、その間に白いライン。白のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。帽子は黒地にマークは「K」、その上に緑の☆。 1945年 - 1946年:上から青・白・赤の横線。青の部分に白字でセネタースの頭文字「S」。 1947年 - 1949年:球団名が「東急フライヤーズ」となる。上が赤・下が青のセパレート、右端に白の二等辺三角形。赤の部分に白字で「F」。 球団名が「急映フライヤーズ」となった1948年も使用。 1950年 - 1973年:2リーグ分立を機に球団旗を変更。右端の白の二等辺三角形はそのままだが、セパレートの色を上下逆に(上が青・下が赤)。青の部分に白字で「F」。東急・東映・日拓と親会社が変わっても継続して使用される。 1974年 - 1976年:球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。橙色地に白のライン。白の部分には親会社・日本ハムのブランドマーク(社章)と「ニッポンハム」ロゴ。その下の橙色の部分に白文字で「Fighters」ロゴ。 1977年 - 2003年:大まかのデザインはそのままだが、「ニッポンハム」ロゴと「Fighters」ロゴを縮めたものに変更。 2004年 - :札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。白地にペットマークの七芒星。下の部分は黒地に白文字で「HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS」。 熊のマスコット(正式名称不明) 東急時代の1949年に、ユニフォームの胸マークの右上に入れていた。 帽子をかぶった少年の似顔絵(正式名称不明) 東映時代の1972年から日拓時代の1973年に、上記似顔絵が入ったペットマークを採用。球団発行印刷物に使用されていた。 弓を射るヘラクレス(正式名称不明) 日本ハム球団となってから1981年までペットマークに採用していた。 ユニフォームを着た少年(正式名称不明) 1982年から1987年までペットマークとして使用された。背番号は「100」。 ギョロタン 1980年、球団の着ぐるみマスコット第1号として登場。モチーフは太陽。名前の由来は「ギョロ目のタン吉」から。自転車が得意だった。晩年にはスクーターで走ることが多かった。 ちなみにギョロタンは、パ・リーグ初の着ぐるみキャラクターであり、ヤクルトスワローズのヤー坊に続き、日本球界2体目の着ぐるみキャラクターである。 レジェンドシリーズ2014で期間限定で復活、その後もレジェンドシリーズのたびに復活し、フリーダムな振る舞いで再び人気を博した。 ファイトくん 1988年の東京ドームへの移転に合わせて登場。翼をつけた戦士にバットとヘルメットをつけた1頭身の姿。ペットマークはもちろん、着ぐるみ化もされ、動物の着ぐるみ数体と共に球場を盛り上げた。 甲冑の戦士(正式名称不明) 1993年から2003年までのペットマーク。ユニホームを着た騎士が、剣の代わりにバットを振り上げているポーズ。 ファイティー(100) 1993年に登場した、東京ドーム時代の翼竜型のマスコット。英語表記は「FIGHTY」。大社義規オーナーがモデルといわれており、背番号も同じ100だった。北海道移転の際に引退が予定されていたが、ファンによる存続希望の署名活動を受け、北海道移転後の2年間は東京ドームでの主催試合限定で登場していた。2005年8月17日に現役引退。この日東京ドームでは引退セレモニーが行われた。 ギョロタンと共にレジェンドシリーズ2014で復活。ユニフォームは、復刻されたオレンジユニホームではなく、移転前に着ていた縦縞。上記の通り東京限定のため2014年8月21日の試合で札幌ドーム初登場となった。 B・B(ブリスキー・ザ・ベアー)(212) 愛称「B・B(ビー・ビー)」。2004年、球団の北海道移転とともに登場。2018年から北海道が命名150年を迎えることを記念した「北海道みらい事業」の「みらい大志」に就任するため球場での活動に一区切りをつけ、今後は道内での地域貢献に携わる。詳しくは当該項目を参照。 カビー(カビー・ザ・ベアー) B・Bの年の離れた弟で、2006年から登場している二軍マスコット。詳しくは当該項目を参照。 ベビービー(baby☆B) B・Bの小学生時代の姿。2010年デビュー。 ポリー(ポリーポラリス) 北海道移転10年目となる2013年シーズンに向けて2012年オフに登場した、球団初の女の子のマスコット。た詳しくは当該項目を参照。 フレップ(フレップ・ザ・フォックス)(179) 2016年開幕直前から登場した新マスコット。北海道を放浪していたキタキツネでたどり着いた札幌ドームでB・Bに惚れこみマスコット志願。出口の出待ちに根負けし、「マスコット見習い」として背番号の無いプラクティスユニフォーム着用。2017年11月26日のファンフェスティバルにて2018年シーズンよりメインマスコットに昇格することが発表され、B・Bから背番号179のホームユニフォームが渡された。 戦前の東京セネタースとは資本の面でも球団系統の面でも関係ない。ただし、セネタース・東急時代の節にあるように、東京セネタースの後継を目指して設立された球団である。 1947年から1973年に使われた愛称「フライヤーズ( Flyers )」は鳥の英語表現から取っているが、東京急行の「急行」の意も含むという説がある。水原監督時代のホーム用ユニフォームは、「FLYERS」の「F」の部分が空を飛ぶ鳥の隠し絵になっていた。「フライヤーズ」の商標は現在も東映が保有し、2007年まで東映アニメーションの公式サイト内告知・イベントレポート欄で使われておりサイトの開設当初は隠し絵のロゴもそのまま使われていた。 1974年から使われている「ファイターズ( Fighters )」は「闘士」の英語から取った。略号は「F」。「ファイターズ」の名は公募によるもので、名付け親となったのは岡山県の女子高生であり、「同郷(岡山県出身)の大杉勝男選手が、ガッツがあるファイターだから」というのが命名理由である(ファイターズと名付けた人は、後の本拠地となる北海道を含めて多数いたが、女子高生が名付け親になった決め手は、この命名理由が大きいと言われている)。しかし大杉はわずか1シーズンで交換トレードによりヤクルトスワローズに移籍してチームを去っている。 なお公募された愛称の中には、「ジャガーズ」(ヒョウ)、「イーグルス」(ワシ)、フェニックスなど動物名が多く、全体の38%、中には「モモタローズ」(桃太郎)、「キンタローズ」(金太郎)、「ドリフターズ」(漂流者。当時人気のザ・ドリフターズに因む)など愉快な物もあり、またハム会社だけに「ウインナーズ」(ウインナーソーセージ。これに「勝者」を意味する「ウィナー」をかけている)、「サンドイッチ」、「トンチャン」(ブタ)、「エッグス」(卵)などもあった。 1962年にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神を破ったがこの時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。さらに親会社の東映が「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。 1987年までのフランチャイズ球場は巨人と同じ後楽園球場だったため、日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくなかった)という原則があった。ただし、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。日本ハムはプロ野球界でのファンクラブの先駆けだった。同時にパ・リーグ初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場した。 先述の通り、後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、都市対抗野球による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神の「死のロード」に匹敵するものだった。1996年、1998年前半首位を走っていたが8月に失速して優勝を逃している。 特に8月は子どもが夏休みなので、家族連れが多く来る稼ぎ時として巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた。 2004年に専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からプロサッカー・Jリーグのコンサドーレ札幌がホームスタジアムとして使っていた(札幌厚別公園競技場と併用)。プロサッカークラブとプロ野球チームが同じスタジアムを使うのは日本初の事例で、コンサドーレが宮の沢に事務所を移転する2014年1月末ごろまでは日本ハム・コンサドーレそれぞれの事務所が札幌ドーム内に併設されていた。2006年には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。 札幌ドームでは、施設のレイアウト面やアクセス面で三塁側の方が便利であり、スコアボードとして使われている電光掲示板が三塁側からの方が見易いため、ホームチームが三塁側ダグアウトを使う。ホームチームが三塁側ダグアウトを使うのは日本では二軍を除いて、日本ハムが初である(なお、東京ドームや道内の地方球場で開催される主催試合では一塁側ダグアウトを使用)。 キャンプの調整方法は全体練習より個人練習に重点を置いており「投げ込みをさせずに質の高い投球を重ねる」「ゲームで与えられるであろうシチュエーションを意識して練習に取り組む」方針で長い時間の練習はあまりせず、選手には自主性・積極性を尊重し、選手が課題をあげそれをどうしたら解決するかまず自分で考えさせ、コーチにどういう練習をしたら良いかと自ら相談に行きアドバイスをもらうと言うシステムである。 監督は契約締結時に3年の契約を結び、それ以降は1~2年単位の契約更新と言う形を取っている。理由としては長期間の契約を結びその監督の考えをチームカラーとして定着させるよりも、定期的に監督を入れ替えて新しい視点、考えを入れた方がメリットがあると考え、初期の契約が2年では考えそのものが選手に浸透しにくいと考えたためである。 ベテラン生え抜き選手や主力選手であってもトレードされる事があり(近年では金村暁やマイケル中村、高橋信二、糸井嘉男など)、その根拠となっているものは「ベースボール・オペレーション・システム(BOS)」という情報システムである。これは所属選手をセイバーメトリクスを元に成績・年俸・年齢によって主力、控え、育成、在庫の4種類に分類し、現場とフロントがチーム編成に関して客観的な数値に基づく共通の理解のもと、若手を適正かつ監督・コーチ変更の度に指導方針が変わってしまわないよう次のコーチに引き継がせる、ベテランを適宜放出することで、年俸総額を抑えながらチーム力を維持、登録選手全員を戦力として活用する事を目標としたものである。BOSは千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークス、読売ジャイアンツ、横浜DeNAベイスターズにも採用されているが、初代の高田繁GMを招き日本ハムに倣っているDeNA以外は「あくまで選手起用の決定権は監督にある」(BOSを重用しすぎて監督の仕事を奪いかねない)と参考程度である。 過去にスキャンダルを起こした選手についても、「獲るべき選手を獲る。名誉挽回のチャンスを与えることが、球界全体にとって必要。(山田正雄前GM)」 と大らかでこだわらない方針である。背景には、低コストで戦力を整えるためには「何らかの事情でもなければ、良い選手を獲るのが難しい(同GM)」という判断がある。また同時に教員経験者を採用して若手の生活面の指導にあたらせるなど一般的な教養・常識面を含めた選手教育にも力を入れており、そのような環境構築の実績・経験があるからこその方針ともいえる。その一方、コーチについても「選手・コーチ間で上下関係を無駄に構築しない」「自分を手本とした指導ではなく選手の特長を見極め長所を生かした選手作り」、「レポート提出による指導方法の回顧・改善」等コーチ技術の指導もしている。 また、他の11球団が採用している「育成契約選手制度」を唯一採用しておらず2018年1月現在育成契約選手は皆無であった。1チームにおける(育成も含む)選手の受け入れ上限は100人で、12球団唯一育成契約選手が存在しなかったが、2018年度ドラフト会議において、球団史上初の「育成契約選手」としてBC富山より海老原一佳を指名した事により育成契約を採用しない球団は皆無となった。 札幌ドーム移転後、球団は以下の観客増加策を打ち出し東京ドーム時代よりも大幅に観客が増加した。2016年には1993年以来、初めて200万人を突破し、2017年には208万6410人を記録した。これは、ソフトバンクに次いでリーグ2位の観客動員数である。 なまらチケット 公式戦で、対象地域の道・市・区内在住者・在職者を対象に一塁側内野指定席券が一律1,500円の「なまらチケット」、平日ナイターの午後7時15分以降の入場者を対象に通常価格の約半額で入場できる「715チケット」(2007年までは午後7時30分以降の入場者を対象とした「730チケット」)を発売している。これらに加え、2005年からは全ての道民が対象の「なまら!超割チケット」、駐車券付きの「カルテット」、その名の通りビール券付きの「ビール券付き」等のグッズ付きチケット限定チケットも発売されている。 チョッQR 2009年には12球団初の、携帯電話のQRコードによって、チケットレスで入場できるシステム「チョッQR」を導入した。 KONKATSUシート、シンデレラシート 2009年7月11日と12日に開催された「KONKATSUシート」は当初は2日間で400人を募集も、2860人の応募があり、そのうち、女性が応募初日に規定枚数を越える応募があったが、逆に男性の応募が半分以下に留まったため、急きょ定員を600人に増員した。初日に28組が、2日目には34組のカップルが成立した。ちなみに、結婚までこぎつけたら始球式の権利が与えられる。2010年現在1組が婚約し、始球式の権利を獲得した。 2010年はKONKATSUシートの後釜として女性限定席の「シンデレラシート」を導入。1人につき、荷物置場として2席が割り当てられた。シンデレラシートは、テンピュールクッションや、オペラグラスが常設されていたが、3日間で備品の盗難が続出し、球団は多くの損失を被った。 ウィークデー割引 曜日ごとに対象者が変動する割引制度であり、火曜日は60歳以上と学生を対象にした「シニア&学生デー」、水曜日は女性全員を対象にした「レディースデー」、木曜日は公式ファンクラブ会員を対象にした「ファンクラブデー」、金曜日は男性全員を対象にした「メンズデー」で、いずれも当日券がある場合に限り、ほとんどの座席が一般価格の半額で入場できる。 なお、これは東京ドームでの公式戦でも実施されており(一部異なる場合あり)、札幌ドームの試合では試合開始前の1時間前まで買えないが、東京ドームの試合では当日の午前10時から買える。購入は当日券売り場、札幌ドームの試合のみファイターズステーション(札幌駅北口付近)でも可能で、2011年から金曜日が無くなり、火曜日が「メンズ&シニアデー」、水曜日が「レディース&学生デー」になった。 2017年からこの年に制定された「プレミアムフライデー」に賛同、「ゴールデンフライデー」と銘打ち札幌ドームでの金曜日開催試合は札幌ドーム貴賓室で観戦できるチケット、ビール飲み放題の席、ビジターユニフォームを着て当日券を購入すれば半額等のサービスを行う。 twitter連動企画 2018年から球団公式twitterでファンから質問を募集する企画を開始した「#ヒーロー質問」と付けてツイートした質問をホーム勝利時のヒーローインタビューで答える。 「その年の一番いい選手を取る」という方針のもと、ドラフト1位を決めている。2012年には花巻東から直接メジャー挑戦を表明していた大谷翔平を強行指名。2011年にも、巨人以外なら入団拒否して渡米する意向を公にしていた菅野智之を指名して、周囲を驚かせた。事実、希望入団枠制度が廃止された2007年以降のドラフトでは、強行指名した大谷、2008年度指名の大野奨太を除き、全て複数球団と競合している。 1993年:「はつらつベースボール」 1994年:「はつらつベースボール Part2」 1995年:「Aggressive & Dramatic」 1996年:「更なる挑戦」 1997年:「大いなる挑戦」 1998年:「乾坤一擲」 1999年:「Vへ一丸!」 2000年 - 2002年:「Be tough, Stay tough, Win tough」(タフになれ、タフであれ、タフに勝て) 2003年:「Ethos Pathos Logos(エトス・パトス・ロゴス)」〜勝利への精神、勝利への情熱、勝利こそ意義〜 2004年:「New Home, New Identity, New Dreams.」(新天地、新たな自身、新たな夢) 2005年:「Faith, Hope, Love The Game」(信じよう、希望しよう、ゲームを愛そう) 2006年:「Dream Big;Play Hard;Live Strong!」(夢は大きく、試合はしっかり、強く生きよう!) 2007年:「Focus, Advance, Nexus Spirit」 2008年:「熱く、頂点(サミット)へ」〜F・A・N・S '08〜 2009年:「Re:Challenge」 2010年:「Feel it !」 2011年:「ONE_1」 2012年:「9+ NinePlus」 2013年:「純 ―ひたむきに―」 2014年:「前進せよ 〜トゥミコロクル(アイヌ語:戦士)〜」 2015年:「EZOlution」 2016年:「爆ぜる」(はぜる) 2017年:「F-AMBITIOUS」(ファンビシャス) 2018年:「道 -FIGHTERS XV-」(みち ふぁいたーず・ふぃふてぃーん) アメリカ合衆国フロリダ州デルレイビーチ、サラソタ(1986年・1987年春季キャンプ) 千葉県鴨川市(秋季キャンプ。2007年から名護に変更。) 沖縄県名護市 名護市営球場(一軍第二次春季キャンプ) 沖縄県国頭郡国頭村 かいぎんスタジアム国頭(二軍春季キャンプ、秋季キャンプ) アメリカ合衆国アリゾナ州ピオリア ピオリア・スポーツ・コンプレックス(一軍第一次春季キャンプ、2016年・2017年) アメリカ合衆国アリゾナ州スコッツデール ソルト・リバー・フィールズ・アット・トーキング・スティック(一軍第一次春季キャンプ、2018年・2019年) 注)2017年キャンプ終了後、名護は改修工事に入り2018年からの一軍第二次春季キャンプは二軍と共に国頭で行うが、練習試合を多めに組ませ遠征先のキャンプ地で練習をする等の対策を取っている。 現在の本拠地移転にあたり2003年8月に設立した運営会社(新法人)「株式会社北海道日本ハムファイターズ」には、元々の出資企業である日本ハムの他、北海道内の主要企業が出資している。歴史の項でも触れたとおり、旧法人である「日本ハム球団株式会社」(日本ハム100%出資子会社。前身の「セネターズ野球協会」時代の1946年設立)から新法人への事業(球団)譲渡という形をとり、旧法人は2004年に特別清算手続きにより解散・法人消滅となっている。 日本ハム 札幌ドーム 北海道新聞社(ヘルメットスポンサー) 北海道旅客鉄道(JR北海道)(2013年に発生した一連のトラブルのため、2014年シーズンは公式サイトから消えている) 北洋銀行 北海道銀行 北海道電力 北海道ガス ホクレン農業協同組合連合会 サッポロビール 札幌商工会議所 東映時代 「フライヤーズの歌」(作曲:古関裕而) 日本ハム時代以降 「それゆけ ぼくらのファイターズ」(作詞・作曲:石原美代子、補作詞・補作曲:中村泰士、編曲:高田弘、歌:ささきいさお) 「ファイターズ讃歌」(作詞:石原信一、作曲:中村泰士、編曲:高田弘、歌:ささきいさお/速水けんたろう) 「GO!GO!ファイターズ」(作詞・作曲・編曲:大島隆二、歌:宮本毅)(2004年 - 2008年) 「La La La FIGHTERS」(作詞:いしわたり淳治、作曲:福原美穂、福原将宜、大坪稔明、中村優規、編曲:安原兵衛、歌:福原美穂)(2009年5月1日 - ) 「ファイターズと共に」(歌:TRIPLANE)※移転10周年記念ソング 球場にて試合前や試合後に流されたイメージソング。歌手は公式戦の始球式にも登場。 1993年「WILD DREAM」 (作詞:石岡美紀 作曲:パンタ 歌:立川亮子) 1994年「Let's Get A Groove 〜Yo! Hips〜」 (作詞・作曲・歌:久保田利伸) 1995年「Get the Truth!」 (作詞・作曲:長友仍世 歌:INFIX ) 1996年「あの瞳を忘れない」 (作詞:沢村大和 作曲:野中則夫 歌:BLOW) 1997年「太陽」 (作詞:TSUNAMI 作曲:パッパラー河合 歌:TSUNAMI) 1998年「Let Love Shine」 (作詞:萩原由美子 作曲:小松建祐 歌:水野由加里) 1999年「プラスのスマイル!!」 (作詞・作曲:永井ルイ 歌:CLOVER) 2000年「輝け!未来へ〜Hit & Run〜」 (作詞:門屋陽平 作曲:石川寛門 詞・曲・歌:速水けんたろう) 以下の2曲は、中日出身である大島康徳の監督就任を記念して中日ファンの山本正之がイメージソングを作り公認ソングとして発売されたものの、それまでのイメージソングと違い球場で流されたり始球式への登場は無し。 2001年:「熱血ファイターズの歌」(作詞・作曲・歌:山本正之。歌手名義は「INDEPENDENCE」) 2002年:「熱血ファイターズの歌2002」(作詞・作曲・歌:山本正之。歌手名義は「INDEPENDENCE」) 東京時代 1980年代前半頃の応援スタイルは、トランペットを使わず、どの選手にも笛と太鼓で「ピーッピーッピピピピピピピッ」という決まりのものだったが、柏原純一にだけは「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった(このスタイルは、柏原が阪神へトレード移籍した後も阪神の応援団が継承した)。 トランペットを使うようになってからの応援スタイルは、各選手別応援歌を歌うようになった(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う。ただし、交流戦のビジターで投手が打席に立つ場合には、投手用の汎用応援歌を歌う)。原則的には1回目は演奏なしでアカペラで歌い、2回目以降はトランペット演奏で歌うが、森本稀哲などファンファーレのある場合はそれに続けて1回目から演奏ありで歌う。田中賢介などのように選手コールの後で最初からトランペット演奏が始まる選手もいる。これ以外にも非公式だが、一部の選手には応援歌に合わせた動きをすることもある。 1980年代から1990年代後半までは、相手選手凡退時に凡退テーマを演奏していたが、現在では関西地区9回裏限定で行っている。 札幌時代 札幌移転後、大半の選手別応援歌を除いて応援スタイルがやや変わった。攻撃開始やチャンスには『北の国から』、得点が入った時のテーマが「I'm A 北海道MAN」の「おーいおーい北海道」の部分など地元をイメージした応援歌 になっている。また、東京時代は本拠地東京ドームでは使えなかった太鼓が札幌ドームで使用可能となり、ホームゲームでも太鼓を使うようになった。 なお移転後も、従来のメイン応援歌「ファイターズ讃歌」は引き続き歌われている。歌い手にささきいさおが起用されたこともあり、2000年以降は速水けんたろうが歌っている。2007年からは速水の再録音版を使っている。2011年途中から諸事情で歌唱の入っていないカラオケバージョンになるが、翌2012年より再び、速水歌唱バージョンを使用。2014年からは、上杉周大(THE TON-UP MOTORS)が歌っているバージョンが使用されている。なお、私設応援団の名前は「闘将会」である。 東京ドームなど関東の球場でも応援するために、札幌移転後も東京の応援団は存続している。このため東京のファンには馴染み深い移転前の応援スタイルが使われる場合がある。2006年のアジアシリーズでも移転前の応援スタイルが使われ、2007年から東京ドームでの試合のみ、ホーム・ビジター試合を問わず全試合で、東京ドーム本拠地時代の応援スタイルを使う(ただし、移転後にできた「北の国から」等のチャンステーマを使う時もある)。 ホームゲームで相手投手がノックアウトで降板するときは「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」を歌う。東京時代は海援隊の「贈る言葉」を応援団が演奏していた。札幌移転後もビジターゲームでは演奏する時がある。 2007年後半から、鳴り物が禁止されている宮城球場の試合で、宮城球場限定の鳴り物なしでの応援スタイルとチャンステーマを取り入れた。2008年からは関東限定で映画『チキ・チキ・バン・バン』の主題歌、札幌ドーム限定で「ジンギスカン」、2010年は、沖縄限定で「ハイサイおじさん」、東京ドーム限定でかつての球団歌『それゆけぼくらのファイターズ』と、地域別あるいは球場別でチャンステーマを取り入れている。 北海道移転当初の公式応援歌「Go! Go! ファイターズ」では、香瑠鼓による鳴子を振り付けに用いることがあった。7回裏、ファイターズ攻撃前にはマスコットのB.Bが登場し、スタンドの観客を率いて踊る。振り付けはYOSAKOIソーラン風であった。2006年は、YOSAKOIソーラン色を薄めた新しい振り付けになった。 札幌ドームの試合など北海道での試合では、日本ハムの投手が3ボールになって、カウントを悪くしてしまうと、投手を応援するための拍手(スリーボール・クラッピング)が自然に起こる。また、押し出しがかかる場面や連続四死球の直後には、2ボールの時点で拍手が発生することもある。 試合後、日本ハムが勝った場合に電光掲示板のカウントダウンと共にスタンド最上段(3階)から金色の紙テープがバズーカで発射され、ゆっくりと舞い降りて勝利を祝う。移転初年度の2004年は紙吹雪を発射していたが、掃除に手間がかかること、野球・サッカーの共用スタジアムという性質上の問題などから2005年に廃止された。しかし、勝利セレモニー復活の希望が多かったため、清掃しやすいスタイルになった(札幌ドームのみ)。2011年からは金テープのバズーカから勝利の花火に変更された。2018年からは花火が廃止され、金テープが復活した。 稲葉の打席では「稲葉ジャンプ」と呼ばれるジャンプが起こった。なお、2011年は東日本大震災の被災者に配慮してシーズン中は自粛していたが、クライマックスシリーズで復活した。金子誠の打席では、新撰組の「誠」の隊旗や法被が応援に使われている。 ビニール風船を使った応援 2005年頃から特定の選手へのビニール風船を使った応援が始まった。 小笠原道大(2005年 - 2006年):イルカ - 一時期、札幌市内と近郊の100円ショップからイルカの風船が消えるまでになった。 セギノール(2005年 - 2007年):バナナ 森本稀哲(2007年 - 2010年):緑色のマイク。これは森本本人がヒーローインタビューでのマイクパフォーマンスに長けていたことからファンが考案したものが広まったものである。札幌ドームの近所のファンが集まるラーメン屋で5000個作られて販売された。 田中賢介(2008年 - 2012年、2015年 - ):人差し指だけ伸ばしたピンクの手 スレッジ(2008年 - 2009年・2012年):ハンマー 鶴岡慎也(2008年 - 2013年):鶴または、ガチャピンのバット - 札幌では鶴が普及している。 札幌ドームでは長らくジェット風船を膨らませての応援が禁じられていた(東京ドームも同様)。理由は、札幌ドームはバックスクリーン奥にあるサッカー・ラグビー用天然芝ピッチの出し入れに必要な隙間に風船が挟まって移動に支障をきたす恐れがあるため(東京ドームはエアドームなので空気圧の膨張で風船が割れる恐れがあるため)。なお、札幌ドームでは2011年6月12日の対横浜戦に限り、限定的に使用が許された(ただし、衛生の観点から口から膨らますことは禁止され、専用ポンプを使っての応援のみ認められていた)。2012年から札幌ドームで行われる全試合で使用可能になった。日本ハムファンは7回表終了後に青色の風船を飛ばし、勝利時には白色の風船を飛ばしている。 1953年8月9日の対近鉄パールス戦(後楽園球場)のダブルヘッダー第1試合は17時から開始された。試合は両軍同点のまま決着がつかず、延長20回・試合時間は4時間46分の末に4-5で敗れた。当時は同一カードのダブルヘッダー第1試合についてはイニング制限が無く、変則ダブルの場合は12回までとなっていた。続く第2試合は22時11分に開始されたが、7回裏終了時点で当時のナイター時限だった23時45分が過ぎたため、コールドゲームで4-4の引き分けとなった。これも深夜の時限が来た場合、9回まで終了しなくてもそのイニングの攻撃が完了した時点でコールドとなる当時のルールによるものである。 1954年10月10日の同カード(大阪スタヂアム)で、今度は延長23回のパシフィック・リーグ延長イニング最長記録を作ったが、近鉄にサヨナラ負けを喫した。また、1981年10月10日の対ロッテオリオンズ戦(川崎球場・プレーオフ第1試合)では、9回・5-5の引き分けだったが、参考記録ながら5時間17分のロングゲームを戦った。 現在ではルールが改定され、ダブルヘッダーの場合、第1試合の終了が20時40分を過ぎたら第2試合は行わない取り決めとなっている。 1973年に東映フライヤーズを買収した日拓ホームのオーナー・西村昭孝は、低迷するパ・リーグに活気を取り戻そうと、この年の後期シーズンに7種類のユニフォームを製作、選手に日替わりで着用させる画期的な試みを行った。その7種類とは以下のとおりである。 ホーム用 上下白地で前後中央オレンジ。袖にオレンジ色ラインが入る。胸マークは、黒文字の筆記体で「Flyers」。帽子はオレンジを地色につばが白、「NF」マークが黒。 肩から袖の下、パンツまでオレンジの太いラインが入る。胸マークは、黒文字の筆記体で「Flyers」。帽子はオレンジ、「NF」マークが黒。 上着がセパレートタイプで、上が紫、下が白。胸マークは、黄色の筆記体で「Flyers」。帽子は紫色を地色に「NF」マークが金色。 袖がブルーでロゴが赤く、背番号の後ろに太いラインが入る。胸マークは、赤文字の筆記体で「Flyers亅。帽子は水色、「NF」マークが赤。 ビジター用(全身を一色で統一) 全身が黄色で、肩・パンツに黒いライン。胸マークは、黒文字で上に「NITTAKU」下に「HOME」。帽子は黒を地色につばが黄色、「NF」マークが黄色。 全身が黒で、袖の下からパンツに至る太い黄色のライン。胸マークは、黄色の文字で上に「NITTAKU」下に「HOME」。帽子は黒を地色につばが黄色、「NF」マークが黄色。 全身が青で、肩に太いラインが入り、パンツのラインが白。右胸に白の「NF」マーク。帽子は青を地色につばが白、「NF」マークが白。 しかし、シーズン終了後に日本ハムに再身売りしたため、この7色ユニフォームは3か月でお蔵入りとなった。 1978年のオールスターゲームのファン投票で、パ・リーグの9ポジションのうち8人を日本ハム勢が占めた。 この年の日本ハムは、前期がリーグ3位ながら29勝31敗5分と負け越しているにも関わらず、投票期間中の7月6日 - 7日に約7万票が日本ハムに入ったため結果が大きく変わった。この事が報じられると各界著名人から批判が巻き起こったが、それに応える形でフロント陣が、オールスターゲームの第3戦が日本ハムの主催試合となることから、ファンクラブ「少年ファイターズの会」会員にダイレクトメールでオールスターのファン投票用紙を5枚セットで送ったことを悪びれずに公表した。 各界著名人から「組織票」と批判されると、日本ハムフロント陣は前言を撤回して事態の沈静化を図り、特に成績が悪かった古屋と菅野の出場辞退を発表した。古屋は翌年にオールスター初出場を果たしたが、菅野は引退までオールスターに出場することはなかった。 2009年から2014年まで、日本ハム主催試合ではファイターズのラッキー7を6回裏に行った。これは、6回の得点が7回よりも多いことなどから、ラッキー6としたものである。同時に、2008年までラッキー7のBGMとして流れていた「GO!GO!ファイターズ」に代わり、ラッキー6のBGMとして、4月は「ファイターズ讃歌」 を、また5月1日の西武戦からは「ファイターズ讃歌」に代わり新応援歌「La La La FIGHTERS」を流している(「ファイターズ讃歌」は、勝利時にインストを流している。)。 場内アナウンスでも6回裏の攻撃の際に、「6回の裏、ファイターズ、ラッキーイニングの攻撃は…」と流していた。 なお、ビジターチームのラッキー7は通常どおり7回表に行い、ファイターズの7回裏には、2011年までは何のイベントも行わず、2012年以降は金色ジェット風船の打ち上げなど、6回裏に比べて規模を縮小したイベントを行った。 2015・2016年は再び、ファイターズのラッキー7を7回裏に行っていたが、2017年は8回裏に行われている。2018年は7回裏にラッキー7を行うがBGMは「それゆけ ぼくらのファイターズ」、8回裏にファイターズ讃歌が流れる。 日本ハムは本拠地を札幌ドームへ移転した2004年以降も、年間で3,4カードの数試合の主催試合を引き続き東京ドームで開催している。 移転前年の2003年11月に東京ドームで開催された最後のファンフェスティバルで球団社長(当時)の今村純二が「移転後も、東京ドームで12から15試合を引き続き開催します」とファンの前で宣言した。東京ドームで開催を継続する理由として、東京都にも球団事務所がある事、二軍施設は隣県の千葉県鎌ヶ谷市のまま継続されていることに加え、旧来の東京のファンの存在を考慮したものなどが挙げられる。 2004年は東京ドームでの主催試合が12試合行われ、2005年は10試合、2006年と2019年は9試合、2007年~2015年は8試合、2016年~2018年は7試合 の主催試合が開催される。移転当初は週末に多く開催されたが、2008年から2013年までは全ての東京ドームでの主催試合は平日に開催された。2014年以降は、1カードの東京ドームの主催試合が週末に開催されており、2018年も4月6日(金) - 4月8日(日)の対ロッテ戦3試合が東京ドームで週末に開催された。2019年も4月5日(金) - 4月7日(日)の西武戦3試合が東京ドームで週末に開催される。 また、本拠地を札幌ドームへ移転したことによって、2004年以降の東京ドームは、日本ハムの本拠地ではなくなったため、パ・リーグの他球団も東京ドームで主催試合を行う事が可能になった。2004年に、オリックスが2試合、ダイエーが1試合の主催試合を東京ドームで開催したのをはじめ、2005年、2007年 - 2009年はオリックスが2試合を、2010年以降は楽天が毎年1試合を、2012年以降はソフトバンクが毎年1試合(2018年は2試合)を、2016年と2018年はロッテが1試合を、2018年は西武が1試合を東京ドームで開催した。上記の試合のうち、2004年、2005年のオリックス主催の両年2試合(計4試合)、2013年、2015年の楽天主催の両年1試合(計2試合)、2013年、2017年のソフトバンク主催の両年1試合と2018年の同主催の2試合(計4試合)、2018年の西武主催の1試合では、日本ハムが対戦相手として出場した。2019年はパ・リーグ主催試合全体で、日本ハム主催9試合と楽天主催の1試合とソフトバンク主催の2試合及びロッテ主催の1試合が行われる。なお、楽天主催の1試合は日本ハムが対戦相手である。 2005年よりセ・パ交流戦が開始されたため、巨人の主催試合でも日本ハムは対戦相手として東京ドームでの試合に出場しており、2006年までは3試合を、2007年から2014年は2試合に出場した。2015年より交流戦が18試合に削減され主催試合が隔年開催となる影響で、2015年と2017年の試合は日本ハム主催の札幌ドームでの3試合のみとなり東京ドームでは行われず、2016年と2018年は巨人主催の東京ドームでの3試合が開催された。2019年は2015年、2017年と同様に日本ハム主催の札幌ドームで開催のため、東京ドームでは行われず、2020年は巨人主催の日本ハム戦が地方主催試合による他の球場でなければ、東京ドームで3試合行われる予定である。 本拠地時代には全て一塁側のベンチを使用していたこともあり、移転後も主催試合では一塁側のベンチを使用している。一方で、他球団の主催試合の対戦相手として出場した試合では、主催球団側が全て一塁側のベンチを選択している事から、現在に至るまで日本ハムは全て三塁側のベンチを使用している。 なお、東京ドームでの日本ハム対西武戦の公式戦は、本拠地移転後は1度も行われていなかったが、2015年4月7日・8日に、移転後初となる東京ドームでの日本ハム対西武戦の公式戦2試合が2003年9月以来、約11年半ぶりに開催された。 日本ハム主催の東京ドームでのセ・パ交流戦は未だに行われていない。 東京ドームが完成し、後楽園球場から本拠地を移転した日本ハムの1988年の観客動員数はドーム初年度の景気もあって2,458,500人(1試合平均37,800人)でパ・リーグ1位。同年最後まで優勝を争った西武や近鉄のそれを大きく上回り、また、セ・パ12球団を合わせても巨人に次ぐ2位で、同年セを制した中日や、5万人超 の収容能力を誇る阪神甲子園球場を本拠地とする阪神をも上回った。そのためフロントは「ドームさえあれば、何もしなくてもお客さんは来てくれる」と“ドーム景気”に依存してしまい、結果としてファンサービスやチームの補強策は次第におざなりになっていった。 しかし、この日本ハムの動員数は同年より同じく東京ドームへ本拠地を移転した巨人戦のチケットが取れなかった野球ファンが、巨人戦に比べて座席に余裕のある日本ハム戦のチケットを購入し、ドーム見物ついでで観戦した、というのがその実情だった。そのため、ドーム景気による観客増員効果は長続きせず、観客動員数は1988年をピークに減少、さらに1993年には福岡ドーム、1997年には大阪ドーム、ナゴヤドームが相次いで開場し、ドームの稀少価値が相対的に低下した事で動員低下にさらなる拍車がかかり、チームが最下位に終わった1994年には約172万人とドーム開場後初めて動員数が200万人を割り込み、その後も一時期はわずかに盛り返したことがあったものの全体的に動員低下が続き、移転発表前年の2001年の動員数は最下位に終わったこともあり、約137万人にまで落ち込んだ。チーム成績も上述の通り、フロントの補強策がおざなりとなったツケもあり、全体的には低迷した年が多く、1993年・1996年・1998年など優勝争いに加わったこともあったが、最終的にリーグ優勝を果たすことはできなかった。そのため、1990年代後半以降はビジターチームのファンが多い試合も多く、ホームの利を生かすことができなかった。 日本ハムはこの反省を教訓に、札幌移転を機にCIの導入を決定し、アメリカのSME社と共同で球団のイメージアップに本格的に着手する。その一環として「地域密着」の方針を打ち出し、北海道内でのチームの認知度アップとファン層開拓を目指した。新庄を獲得したのも、ファン獲得の一環でもあった。移転当初は「北海道は巨人ファンが圧倒的に多い」という現実があったが、道内での野球教室やファンイベントの開催、メディアへの露出促進などといったさまざまな活動が奏功して観客動員数は年々増加。また、トレイ・ヒルマンら首脳陣の下で森本、ダルビッシュらが成長し、高田繁らフロント陣の編成策によってチームの戦力層が強化された。 札幌ドームで初めて開幕戦を迎えた2006年に実施した「43,000プロジェクト」は、開幕戦など年間数回にわたってドームを満員にするために行われたスペシャル企画で、開幕戦では42,393人(パ開幕戦3球場中最多)、翌日も29,170人の観客動員を記録し、動員数増加に大きく貢献した。12年ぶりの開幕2連勝を飾ったチームも優勝を争い、シーズン終盤には連日3万人超の観客が札幌ドームを訪れた。そしてチームはパ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズでも中日を退けて日本一に輝いた。新庄が引退し、小笠原道大がFAで巨人へ移籍した2007年も2年連続でリーグ優勝し、クライマックスシリーズも制すなど、ピークといわれた前年の観客動員をさらに上回った。また、移転当初は隔年開催だった旭川スタルヒン球場、函館オーシャンスタジアム、帯広の森野球場での道内開催公式戦を、3球場とも毎年開催するよう改めた。 この道内各所での遠征シリーズ、あるいは札幌ドームでの主に夏季に行われるある3連戦は「We Love Hokkaido」シリーズとして、オリジナルユニフォームの着用や、2011年の札幌ドームでの西武戦(「北海道祭り」シリーズ)では外野席に道内179市町村と北海道の自治体旗が掲揚されたり、道内物産展や民俗芸能の紹介、花火大会(2011年)など、様々な趣向を凝らした地域密着応援シリーズを行っている。 しかし、それでも平日(特にシーズン序盤)の試合の観客動員数が2万人を割り込むことが多いため、球団では北海道在住者や午後7時台以降に来訪する観客を対象とした企画チケットを発売するなど、数々の観客獲得策を実施している(#チームの特徴も参照)。2007年には、財政破綻した夕張市の市民を札幌ドームに招待する「夕張シート」を創設し、2009年には札幌ドームのファウルエリアにフィールドシートを増設するなど、さらなる誘客策と地域密着策の開拓に力を注いでいる。 2016年5月、一部の報道で、北海道移転20周年となる2024年を目処として、札幌市、またはその周辺地域に、球団が自前で運営する新球場の建設計画を検討していることが報じられた。その理由として、現在の本拠地である札幌ドームは、札幌市が出資する第三セクターの「株式会社札幌ドーム」が管理・運営し、日本ハム球団は第三セクターの会社に1試合当たり1,600万円程度、年間総額で13億円程度の賃貸料を支払って本拠地にしている。また加えて、グッズや飲食店などの物販コーナーを自前で設置することにも一定の制限があり、収益の多くが直接球団に入らないことも球団経営に影響を及ぼしていることも挙げられている。このため日本ハム球団は「地域密着をテーマに掲げて球団経営をしてきたが、現状の条件では限界があり、今よりも1段階も2段階も上の地域貢献を成し遂げるために検討が必要になった」として、新球場の建設を検討し始めたという。 有力な候補地としては札幌市北区の北海道大学構内や、南区にある真駒内公園、北広島市のきたひろしま総合運動公園など札幌市周辺を中心とした15-20か所が挙げられ、選手の健康面の負担を軽減させるために天然芝にするほか、気候の問題なども踏まえた開閉式屋根付き、さらには収容人員を3万人程度にするなどが予定されている。 このことに関して、札幌市の秋元克広市長は2016年1月に日本ハム球団から説明を受け「この1年で方向性を出したい」と述べていたことを明かし、ドームの使用料減免などによる引き留めについては考えていないことを示唆した。その一方で札幌ドームの所有者である札幌市スポーツ部の手島久仁彦部長は「全国的に珍しいドーム運営の黒字化を実現し、好循環が生まれているだけに残念」とした上で「野球に特化した施設ではなく、経営戦略上は仕方がない。詳細は承知していないが、スポーツ振興や街づくりにつながり北海道を一緒に盛り上げるような計画になればよい」と楽観的な見方をしていた。 しかし札幌市に隣接する北広島市がこの構想に歓迎の意向を示し、2016年6月15日に同市の上野正三市長がきたひろしま総合運動公園の予定地を建設用地に提供する方針を表明し移転先の最有力候補に浮上する。このいち早い賛同姿勢は移転の現実性を軽視もしくは移転しても市内に留まるのは確実と考えていた札幌市にとって想定外であり、この時期になると新球場への移転によるチームの市外流出やドームの経営悪化に対する市民の反発に危機感を持つ声が強まり、札幌市は姿勢を一転して残留を求める方針に転換。2016年12月3日に札幌市・札幌ドーム・日本ハム球団・北海道コンサドーレ札幌によるドームの今後について話し合う初の4者協議が行われ、札幌市の秋元市長はドームの野球専用化を提案したものの日本ハム球団側は「望んでいない」と返答、市側に無視される形でホームグラウンドを奪われる格好になるコンサドーレ側も反発したことで紛糾し、「これまで通り、スポーツやコンサートなど多目的な球場を目指すことで一致」という結果に終わり、会議はわずか1時間ほどで終了した。 2016年12月19日、球団親会社の日本ハム株式会社が球団の新球場構想について承認を決定。球団はこれを受けて同日中に日本ハム本社と球団が新球場構想について協働する協議機関を設置すると表明、早ければ2023年ごろの移転を目指して調査・検討を進め、2018年3月末に一定の方向性を出す意向を表明した。 これを受けて翌20日、北広島市の上野市長が球団に球場誘致に関する提案書を提出した。これによると、きたひろしま総合運動公園の用地約36ヘクタールのうち約20ヘクタールを活用して、3万人規模の開閉式屋根付き天然芝球場や室内練習場、商業施設、キャンプ場などを整備し、予定地近くのJR千歳線への新駅建設(請願駅)や、大規模駐車場の整備により交通アクセスを確保するという。 一方、出遅れた格好となった札幌市は球団のドーム慰留は困難と判断し、市外流出阻止へ向けて引き続き残留要請するとともに、新球場建設予定地を提案する方針へ変更する姿勢を示したが、札幌ドーム残留を基本線で考えていたこともあって候補地の選定が遅れ、北広島市から約4か月遅れの2017年4月13日、北区の北海道大学の敷地の一部約10ヘクタールと、豊平区の北海道農業専門学校を運営している学校法人八紘学園が所有する土地約13ヘクタールの2か所を新球場候補地として球団に提案した。 その後、同年10月25日に前沢賢事業統轄本部長は、札幌市から提案されている北海道大学構内及び八紘学園が所有する土地の2つの候補地について、札幌市の諸事情もあって難しいという見解を示した。同年11月、札幌市は道立真駒内公園を新たな候補地として球団に提案することになった。同公園は札幌市が招致を行っている2026年冬季オリンピックのスピードスケート会場候補地から外れたため、新球場の有力候補地となった。同年12月15日、札幌市と実務者協議が行われ、新球場の建設候補地として真駒内公園を正式提案した。球団は商業施設や飲食街などを備えたメジャーリーグ流のボールパーク構想を掲げ、全体の敷地は20ヘクタールとなり、新球場は老朽化した屋外競技場である真駒内セキスイハイムスタジアムを取り壊して、跡地を中心とした約5ヘクタールに建設すると想定している。 2018年(平成30年)3月26日、日本ハムグループは東京都内で開かれた臨時取締役会で、球団の新球場建設地を北広島市の「きたひろしま総合運動公園」に決定した。同日付けで準備会社となる子会社の「北海道ボールパーク」を電通とともに設立し、今後、球団本拠地も北広島市に移転する。北広島市が提示した敷地面積は札幌市がこれまで提示したどの案よりも広大なうえ、土地の無償貸与に加え、球場や公園施設の固定資産税と都市計画税を10年間免除するなど、充実した行政支援があることが決め手となった。札幌市の意向がファンサービスや球団経営に影響を及ぼしていた札幌ドームとは異なり、新球場は日本ハムグループが主体となって建設と運営を行い、球場周辺にホテル、温浴施設、レストランなどの商業施設を併設する米国流「ボールパーク」となる。球場の屋根は開閉式または透明素材のドーム型とし、5,000台分の駐車場などを整備、計36.7ヘクタールの同公園内に飲食店、マンション、野外球場、子育て支援施設などの建設も計画しており、来場客の長時間滞在や集客増を目指し、商業施設も充実させるという。北広島市では札幌方面からのアクセス改善のため、前述した千歳線の請願駅に加え、列車の増便もJR北海道に要望しており、ボールパーク周辺の道路整備も行う予定で、北海道も支援を表明している。2018年10月31日、日本ハム球団は新球場「北海道ボールパーク(仮称)」の詳細を発表、開閉式の屋根付き天然芝ドーム球場で収容規模は約3万5000人となることが決まり、11月5日に正式発表された。2020年5月に着工、2023年3月の完成を目指す予定である。 全国向け放送 熱パ・プロ野球→なまら!ファイターズ中継→GAORAプロ野球中継(GAORA) ドラマティック プロ野球・パ!(スポーツ・アイESPN) J SKY STADIUM(J SKY SPORTS) 月刊ファイターズTV・週刊ファイターズTV(GAORA) 1990年代当初は東京ケーブルネットワーク制作(試合日によってテレビ埼玉、または千葉テレビ放送と共同制作としたものあり)の番組を、GAORAとスポーツ・アイESPNと本数調整しながら中継した。その後はほぼGAORAの独占となるが、1999年の一時期、J SKY SPORTSと放送本数を調整して中継した試合があった他、36試合制だった頃のセ・パ交流戦では、一部のカードで地上波放送を行う局とは別の在道放送局が制作して J SPORTSで放送することがあった。 北海道 全体的な総数では各局ごとにばらつきが見られるが、特に2006年の日本一を境に中継数が大幅に増加している。移転初年度から数年間は本拠地の試合を中心に数試合放送されることがほとんどであったが、近年ではビジター中継も積極的に行っている。 NHK札幌放送局 現在 ほっとニュース北海道 - スポーツコーナー 過去 ほくほくスポーツ(ほくほくテレビ) まるごとニュース北海道 - スポーツコーナー ネットワークニュース北海道 - スポーツコーナー HBC 北海道放送 現在 グッチーの今日ドキッ!→今日ドキッ! - スポーツコーナー Bravo!ファイターズ(2015年より開始のファイターズ応援番組) Bravo!ファイターズ(2004年-2007年までは「SAMURAI BASEBALL」、2008年-2009年は「1BAN!!ファイターズ」。Bravo!ファイターズは前述の応援番組、今日ドキッ!のスポーツコーナーの名前としても使用) 解説はOBである大宮龍男氏や建山義紀氏が登場することが多い。ビジターゲームはTBS系列局からのネット受けが多いが、時折オフチューブまたは現地乗り込みで実況を差し替えることがある。ネット受けの場合でも、ファイターズOBの岩本勉が現地局解説者とのダブル解説で出演することが多いが、楽天戦については2015年まで宮城県出身のOB金村曉(現阪神タイガース投手コーチ)が出演することがあった。 過去 すぽーつドーム アンカー! [E]スポーツ Hana*テレビ STV 札幌テレビ放送 現在 ファイトF(ファイターズ)(ファイターズ応援番組) どさんこワイド!!朝! - スポーツコーナー どさんこワイド - スポーツコーナー GO!GO!ファイターズ(2015年までは「ぞっこん!ファイターズ」。対戦相手の地元局へのネットがある場合は、ネット局への配慮から全国ネット時と同じ『Fun!BASEBALL!!』として放送) ビジターゲームは日本テレビ系列局からのネット受けが多いが、ファイターズOBの西崎幸広や稲田直人が現地局解説者とのダブル解説で登場することが多い。 過去 朝6生ワイド - スポーツコーナー ぞっこん!スポーツ マハトマパンチ - スポーツコーナー HTB 北海道テレビ放送 現在 FFFFF(エフファイブ)(ファイターズ応援番組) イチスポ(イチオシ! - スポーツコーナー) イチオシ!モーニング - スポーツコーナー イチオシ!ファイターズ 解説は、岩本勉・稲葉篤紀が務めることが多い。ビジターゲームでもオフチューブで実況を差し替えることがある。特に交流戦の広島戦では、広島ホームテレビが『カープ応援中継“勝ちグセ。”』として広島応援に特化しているため全てオフチューブ差し替えとなる。 過去 スキップ 朝までファイターズ UHB 北海道文化放送 現在 みんスポSATURDAY みんなのファイターズ・みんスポ(みんなのテレビ) みんスポBASEBALL 解説は、みんなのテレビコメンテーターの森本稀哲・OBの建山義紀が務めることが多い。 過去 ファイコンEXP.(北海道コンサドーレ札幌の情報も含む) えきニジ スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜 タカアンドトシのどぉーだ! YASUのえき☆スタ@noon 土曜えき☆スタUP えき☆スタ1 えき☆スタ発 のりゆきのトークDE北海道 さあ!トークだよ U型テレビ UHBスーパーニュース サタすぽ TVh テレビ北海道 現在 ゆうがたサテライト〜道新ニュース〜 - スポーツコーナー(毎週木曜日だが、他のスポーツも含む) TVhファイターズ戦の中継 過去 Do!ろーかる おばんでスタ!GOGOファイターズ(おばんでスタ!) 遊びなDJ 道内の地上波局が全てファイターズ主催試合の放映権を持っていることも特筆すべき点である。中でも2008年まではTVhが一番力を入れていた。 ただし、TVhは札幌・旭川・函館・室蘭を中心にした道央と道南のほぼ全域、道北の一部でしか見ることができず、帯広・北見・釧路・稚内を中心にした道東全域、道北の一部では見られないことから、これらの地域の視聴者からの苦情が少なくなかった。特に2006年のプレーオフ第2ステージ第2戦で優勝を決めた時はTVhが中継していたため、大量の苦情が殺到した(HBCラジオとSTVラジオでは聴取可能だった)。 その後TVhは、地上デジタル放送設置経費増加に伴う制作費削減に伴って2009年は原則として中継を行わず、2010年も試合中継数が少なかった。2011年には前年に総務省から「後発民放支援スキーム」の名称で後発民放の置局格差解消に伴う開局費用が補助されることを契機に道東の一部でも開局することになり、釧路放送局開局記念特番として3年ぶりに自社中継が復活。その後2015年12月に道東地方のごく一部を除いてTVhが視聴できる体勢となった ことから、苦情の数は次第に収まっていった。 しかし、東京ドームでの主催ゲーム(制作協力:テレビ東京、映像協力:東京ケーブルネットワーク・TCP)については2012年まで放送実績がなかった。 2009年9月26日にソフトバンク対日本ハムの中継を行った。また、11月8日に日本シリーズ第7戦・北海道日本ハムファイターズVS読売ジャイアンツを放送する予定だったが、第6戦で巨人の日本一が決まったため、第7戦が開催されず放送されなかった。 2010年は3試合中継を行った(主にTVQ九州放送からのソフトバンク戦をネット受け)。 2011年は5試合の中継を行った(ネット受け2試合、自社制作3試合)。 備考 2006・2007年の優勝パレードは、全局優勝パレード中継を生放送した。2009年はNHKを除く全民放が互い違いに放送した。2012年はSTV・HTB・UHBが生放送、HBCがパレード終了後の午後3時から録画放送を行った。NHK・TVhは放送なし。 ビデオリサーチ社の視聴率調査で北海道の2012年4月期の高視聴率番組トップ10が全てファイターズ戦の中継で1位が30%という快挙を達成し球団の密着度と人気がうかがえる結果となった。 その他 テレビ東京 東京12チャンネル時代に『戦国ナイター』で一部試合を放送していたが、その後しばらく主催ゲームの中継が途絶えた。 1990年代後半から、日本ハム提供でテレビ中継を再び行うようになった。また、1996年度から2003年度の8年間に渡って、『超野球ファイターズ』という日本ハム提供の球団情報番組を、毎週日曜日に放映していた。 札幌移転後の2004年4月からは内容を全面的に一新し、球団監修のミニアニメーション番組『超ぽじてぃぶ! ファイターズ』をテレビ東京とテレビ北海道で放送した。開始当初の半年は日本ハムの選手(実名で登場する)をデフォルメしたギャグアニメーション形式だったが、同年10月の放送からストーリー性を重視して「闘魂野球伝」シリーズ、さらに監督が岸誠二に代わり2005年度上半期は北海道の野球少年やファンとの友情を描いた「燃えるぜ!焼けるぜ!」シリーズ、下半期は「燃えるぜ!焼けるぜ!」のメインキャラが野球勝負でファイターズ以外の11球団を擬人化した魔人にさらわれたファイターズ選手達を救出する「11魔人」シリーズを放送し、2006年3月に終了した。 過去には、テレビ北海道など系列局への制作・技術協力を実施している。 テレビ埼玉 TVSヒットナイター(日本ハム主管試合、および一部ロッテ主管のビジターのうち、平日開催の多くを中心に放送。西武主管のビジターについては「TVSライオンズアワー」として放送されることがあった) FIGHTERS EXCITING NETWORK(1995年 - 1997年。球団公認番組)30分番組で、司会はポップコーン正一・正二。 千葉テレビ放送 CTCダイナミックナイター・CTCダイナミックスポーツ(テレビ埼玉が西武主管試合などの中継で放送の都合がつかなかった試合の一部をCTCに放送権を譲って放送しているが、中継中の制作字幕は「制作著作・東京ケーブルネットワーク」だった) ハピはぴ・モーニング〜ハピモ〜 北海道 HBCラジオ HBCファイターズナイター ファイターズDEナイト! 朝刊さくらい ガンちゃんの世界一面白いプロ野球の番組 プロ野球三都物語(開幕前に放送する特別番組。東北放送・RKB毎日放送と毎年持ち回りで制作) おぢさんツインカム にちようサウンドボックス 携帯サイト『HBC熱闘!スポーツ』も運営していた(2010年1月 - 3月)。 『ファイターズ中継ナンバーワン』「120%応援実況」をスローガンに年々中継試合数を増やして2007年からは公式戦はほぼ全試合を中継し(ネットの関係で東京ヤクルトスワローズとのビジターゲームを中継できないため、全試合はヤクルト戦がホームになった2016年しか達成できていない)、時には敵地にも自社アナウンサーを派遣する熱の入れようである。さらに試合後やオフシーズンにも応援番組も充実させている。 ファイターズ戦中継を増やし、STVラジオとの差別化を図ったことが聴取者から支持され、聴取率でSTVラジオを破った。 STVラジオ STVファイターズLIVE・GO!GO!ファイターズ ぞっこん!スポーツ(みのやと幸代のときめきワイド) アタックナイター直前情報(牧やすまさのスーパースクランブル) ナマスポ!(News&Sportsチャートなまらん) なまらん 月刊梨田のはなしだ スポーツトレイン(オハヨー!土曜日) 「オハヨー!チェック・ザ・チェック」「オハヨー!朝からファイターズ」「オハヨー!スポーツ情報」(『オハヨー!ほっかいどう』内) ※2007・2008年度は、ナイターはホームの全試合とビジターの大半、日曜日のデーゲームを中継していた。2009年 - 2012年は札幌ドームのナイターを中心に放送し、ビジターはヤフードームのソフトバンク戦など一部の試合のみ放送。その他は全国ネットの巨人戦またはヤクルト戦を放送。2010年からデーゲームはワイド番組を優先する関係で、主管試合でも2015年の平日(祝日及び地方開催)を除き放送することがなくなった。2013年は「ファイターズ公式戦はナイター開催に限り、全試合中継」を宣言。背景には長年聴取率調査で首位の座にいたが、HBCラジオに2012年12月調査で譲り渡したことがある。2017年よりファイターズ戦全試合中継を行うようになった。 AIR-G' 現在 ビビッド・クルール - ファイターズ情報 過去 AIR-G' Morning Pax - 広瀬哲朗のファイターズ情報 GOTCHA! 〜Fun's Radio〜 - 坪井智哉のツボチカ7(セブン) MOTTO FIGHTERS(SPICY FRIDAY) FM NORTH WAVE 現在 G1sports(G1-MOTION) DAY-TIME TRIPPERS(木曜日) 過去 Weekly Fighters Press その他 文化放送 現在 岩本勉のまいどスポーツ 過去 えのきどいちろう意気揚々→フォークトレイン内日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク→ミュージックトレイン内北海道日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク 2006年6月16日に「Yahoo!動画」上でインターネット配信を開始し、シーズン後半の1位通過争いやプレーオフの時は回線がパンク状態になった。SHINJOの引退セレモニーも中継したが、GOGOファイターズがずっと流れていた。2007年はオープン戦から配信している。CS放送のGAORA映像を使っている。 東映時代、同一資本系統の日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)がテレビ中継の優先権を確保していた。球団が日拓ホーム→日本ハムとなった後、関係は緩やかに解消され、1990年代以降は上述の通りテレビ東京等との結びつきが強くなっていった。 1970年代後半のNET→テレビ朝日との関係が縮小された時、日本テレビ放送網、フジテレビジョンでも主として週末に開催される後楽園主催試合を多数放送したことがあった。もっとも、日テレは後楽園球場時代に独占的な放映権があり、中継本数が多かった。TBSテレビは東映時代の1950年代と東京ドーム末期にデーゲーム中継をわずかながら放送。 東京ドーム関連のCATV(東京ケーブル)制作ナイター番組をテレビ埼玉(過去には試合により千葉テレビ放送にも)・GAORA(毎日放送系列のCS)・日テレG+(日テレ系列のCS)が購入して放送。北海道移転後もGAORAで引き続きナイター中継が放送されている。日本ハム本社は、GAORAに開局当初から出資している主要株主である。 1990年代前期、FM富士(当時JFN加盟)が不定期で放送していたラジオ番組『FIGHTERS ROCKS&BASEBALL』があり、日本ハム情報とロック音楽を放送していた。それを同タイトルでテレビ化した番組が1992年秋ごろから1994年ごろまで、テレビ埼玉制作で同局とテレビ神奈川・千葉テレビ放送・びわ湖放送の4局でネットしていた。 この他、北海道内のコミュニティFM放送局でも以下の番組が放送されている。 三角山放送局(札幌市西区 サイトはこちら):金子誠の 『週刊マック』 FMわっぴー(稚内市)・AIRてっし(名寄市)・FMもえる(留萌市)・FMウイング(帯広市)・FM-G’SKY(滝川市)・さっぽろ村ラジオ(札幌市東区)・FMパンプキン(恵庭市):「ナイス!ファイターズチャンネル」 FMメイプル(北広島市エリア)聴いてよメイプル…GOGOファイターズ!! ^ これは、読売ジャイアンツの前身の東京巨人軍が「巨人」の愛称で呼ばれることを受けて、鈴木惣太郎が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、大阪タイガースを「猛虎」、セネタースを「青鞜」、パシフィックを「太平」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため、定着しなかった。 ^ 東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男(横沢三郎の兄)の仲介で、五島慶太と永田を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させた。 ^ 1985年2月、東映不動産株式会社に吸収され、東映興業不動産株式会社となる(東映興業不動産は、2006年11月に東映へ吸収され消滅)。 ^ 西村昭孝は、現在の日拓グループ社長である西村拓郎の父である。 ^ 同年11月10日付の朝日新聞が「日拓、日本ハムに身売り」とスクープした。 ^ 江夏はこの年、当時存在した全12球団からのセーブを達成。 ^ 西崎は球団とのFA交渉を控えていた矢先、西崎本人は宣言せず残留するつもりだったのだが球団から突然のトレード通告に報道陣からのインタビューでもショックを隠しきれず会見では涙を流した。この年右投手では最多登板を果たした長冨も戦力外に近い形で金銭トレードに出され、金石が球団に「西崎・金石・長冨の放出は落合の高額年俸を捻出の為だけでは?」と詰め寄る場面があり(落合の年俸が3億円で、金石が1億5000万円・西崎が1億3000万円・長富が4800万円だった)、広瀬も落合の入団で玉突き的にポジションを奪われ、契約更改で「複数年契約するべきだった」と後悔する場面があった。 ^ パ・リーグの他球団主管の札幌ドームの試合は日本ハム移転直後の2004年以後行われていない(西武球団も、その後親会社・西武鉄道の証券取引法違反問題や球団自体がアマ選手に「栄養費」名目で裏金を渡していた問題など不祥事が相次いで発覚したことから札幌開催どころではなくなり、2008年シーズンからはチーム名を「埼玉西武ライオンズ」に改めて埼玉への地域密着を図る姿勢に転換したことで札幌開催を事実上放棄した)。セ・リーグでは巨人が2009年ごろまで夏季の北海道遠征をしていたが、2010年からはセ・リーグ球団の主管試合も組まれなくなった。 ^ 継投による完全試合は参考記録である。 ^ 田中賢介、工藤隆人、紺田敏正、鶴岡慎也。 ^ 鶴岡慎也(捕手)、高橋信二(一塁手)、田中賢介(二塁手)、小谷野栄一(三塁手)、金子誠(遊撃手)、稲葉篤紀、糸井嘉男(以上外野手)。 ^ なお、結果的に3位のロッテとは0.5ゲーム差だった。 ^ 前年の2012年からの連敗は13。 ^ 作道烝、大下剛史、大橋穣、張本勲、大杉勝男の5者。作道の本塁打は代打満塁本塁打。 ^ 2010年シーズンに中日ドラゴンズが記録して以来。 ^ 1942年シーズンに阪神軍が記録して以来。 ^ NPBでは継投によるノーヒットノーランは認められていない。 ^ 掲出される市町村はユニフォームが函館市(12日 - 15日・17日)、キャップが芦別市(12日・13日)と猿払村(14日・15日)、ヘルメットが網走市(12日)・池田町(13日)・留萌市(14日)・白老町(15日)。 ^ 掲出される市町村はユニフォームが長沼町(全日程)、キャップが鶴居村(6月27日 - 29日・7月1日 - 3日・7月5日 - 6日)と湧別町(7月8日 - 10日・11日 - 13日・15日 - 16日)、ヘルメットが七飯町(6月27日 - 29日)・厚沢部町(7月1日 - 3日)・名寄市(7月5日 - 6日)・中標津町(7月8日 - 10日)・江別市(11日 - 13日)・鹿追町(15日 - 16日)。 ^ 掲出される市町村はユニフォームが新篠津村(全日程)、キャップが苫前町(6月12日 - 14日・19日 - 21日・23日 - 24日・26日 - 28日)と佐呂間町(6月30日・7月2日 - 5日・7日 - 8日・7日 - 8日・10日 - 12日・14日 - 15日)、ヘルメットが深川市(6月12日 - 14日)・津別町(6月19日 - 21日)・羅臼町(6月23日 - 24日)・芽室町(6月26日 - 28日)・浦臼町(6月30日・7月2日)・福島町(7月3日 - 5日)・登別市(7月7日 - 8日)・枝幸町(7月10日 - 12日)・留寿都村(7月14日 - 15日) ^ 掲出される市町村はユニフォームが浜頓別町(全日程)、キャップが積丹町(5月3日 - 5日・6日 - 8日・10日 - 11日)と北斗市(5月13日 - 15日・17日 - 19日・21日 - 22日・24日・26日)、ヘルメットが三笠市(5月3日 - 5日)・清水町(5月6日 - 8日)・幕別町(5月10日 - 11日)・訓子府町(5月13日 - 15日)・釧路町(5月17日 - 5月19日)・新ひだか町(5月21日 - 22日・24日・26日) ^ 掲出される市町村はユニフォームが新得町(全日程)、キャップが遠別町(4月29日 - 30日・5月2日・3日 - 4日・9日 - 10日)と別海町(5月12日 - 14日)と稚内市(5月19日 - 21日・26日 - 28日)、ヘルメットが安平町(4月29日 - 30日・5月2日)・本別町(5月3日 - 4日・9日 - 10日)・更別村(5月12日 - 14日)・共和町(5月19日 - 21日)・東神楽町(5月26日 - 5月28日) ^ 掲出される市町村はユニフォームが幌加内町(全日程)、キャップが秩父別町(5月2日・3日)と八雲町(5月4日 - 6日)と仁木町(5月15・16日)と音更町(5月18 - 20日)、ヘルメットが小清水町(5月2日・3日)と比布町(5月4日 - 6日)と幌延町(5月15・16日)と音威子府村(5月18 - 20日) ^ 対戦相手のロッテは、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。 ^ 2003年8月の東京ドームでのホームゲームは盆休みの3日間だけ(同月には札幌ドームでの地元お披露目を兼ねた6連戦をしたこともある)だった。 ^ アメリカ合衆国ではオレゴン州・ポートランドで、1975年から1982年まで北米サッカーリーグのポートランド・ティンバーズとAAA級のパシフィック・コーストリーグに所属するポートランド・ビーバーズが、また、2001年から現在までユナイテッドサッカーリーグのティンバーズと同じくビーバーズが、共にPGEパークをホームスタジアムとして使っている。また、アメリカではメジャーリーグベースボールとアメリカンフットボール・NFLの本拠地を共有する事例がある。 ^ 2014年からラッキー7では上杉周大(THE TON-UP MOTORS)、「We love HOKKAIDOシリーズ」ではFIGHTERS×YUKIMIKUとして地元出身(設定)の雪ミクのカバーバージョンが、それぞれ流されている。 ^ 現在、札幌ドームでの主催試合の勝利時の試合後に流されている。 ^ 現在、宮城球場限定の小谷野栄一の応援コールで同じスタイルが使われる。ただし宮城球場では笛が使えないため、笛の代わりに太鼓を用いて「ドンドドンドドンドドン栄一」としている。 ^ ダルビッシュ有は専用の応援歌が用意されていた。 ^ 逆転・勝ち越しの時は、「ファイターズ讃歌」。 ^ 東京ドームの主催試合のみ、基本的に移転前のスタイルが継続されている。ただし、2007年以降には太鼓を使うようになった。 ^ 途中で男性パートと女性パートに別れる。また、クライマックスシリーズ限定で関東以外の球場でも披露された。 ^ 2008年と2009年のクライマックスシリーズと2009年の日本シリーズでは、両方とも使われた。 ^ 2006年までは銀色だった。また、「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」では銀と青の2色で、2009年5月の「ファミリーシリーズ・さくらまつり」ではピンクメタリック、10月の「炎の最終シリーズ」ではレッドメタリックのテープが発射された。 ^ 2012年の解禁時から2014年の途中までは金色の風船を飛ばしていた。 ^ 前期に使ったユニフォームは基本的に東映時代のデザインを踏襲したものだが、袖や襟のラインに使われた赤と青が入れ替わるなど、若干のマイナーチェンジが施されていた。 ^ 当時の中日ドラゴンズのホーム用ユニフォームのデザインに近い。 ^ 投手:高橋直樹、捕手:加藤俊夫、一塁手:柏原純一、二塁手:富田勝、三塁手:古屋英夫、遊撃手:菅野光夫、外野手:ミッチェル・千藤三樹男で、外野手の残り1枠は阪急の福本豊。 ^ この2人は怪我以外の理由で出場辞退した初のファン投票選出選手となった。 ^ 札幌移転前のラッキー7のBGMであり、移転後も2008年までは5回裏に応援団のトランペット演奏で流していた。 ^ 2011年は従来通り8試合を行う予定をしていたが、東日本大震災による計画停電の影響を受け、3月29日 - 3月31日の日本ハム主催の3試合が中止となり、その振替試合は全て札幌ドームで行われ、東京ドームでの主催試合は5試合となった。 ^ 2016年も当初は従来通り8試合を行う予定であったが、2016年4月1日の対ソフトバンク戦については、当日に東京ドームでμ'sのファイナルライブが開催される予定であること、また静岡県と静岡市から公式戦開催の要請を受けたことにより、急遽日程を変更し、東京ドームから静岡県草薙総合運動場硬式野球場での開催に振り替えることになった。 ^ 厳密に言えば、現在も東京都を保護地域とする巨人、ヤクルトの許可が必要となる。 ^ 前身の後楽園を含め、オープン戦や1981年の日本シリーズなどで三塁側のベンチを使ったケースは多数ある。 ^ 2005年のオープン戦で、このカードの東京ドームでの試合が組まれたケースはある。 ^ 公式戦で実数に近い数値の発表を開始した2005年以前にも実数発表をおこなっていた日本シリーズでは、1985年の第4戦で51,554人という数字が残されている。球場改修を経た現在の最大収容人数は47,808人で5万人超にはならない。 ^ 広島ホームテレビと同内容の中継はJ SPORTSで視聴可能。 ^ これは、TXN系列自体のゴールデンタイムにおける全国ネット番組の縛りが緩く、まとまったローカル差し替えが容易なためといえる。同じ系列のTVQ九州放送も同様の傾向で福岡ソフトバンクホークスの中継に積極的である。 ^ HBCは、パレードの時間帯はTBSの『王様のブランチ』を放送。 ^ a b “【4月19日】1952年(昭27) すったもんだの末に…西鉄 4番大下弘 初登場”. スポーツニッポン (2011年4月19日). 2015年10月18日閲覧。[リンク切れ] ^ a b c d e 岡田茂 『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』 角川書店、2004年、210 - 212頁。ISBN 4-04-883871-7。 ^ 大川博 『真剣勝負に生きる』 ダイヤモンド社〈歴史を作る人々〉、1967年、77頁。 ^ “ふたつのセネタース球団”. もうひとつのプロ野球 『国民リーグ』. 2015年10月18日閲覧。 ^ 『プロ野球史再発掘』4、関三穂 編、ベースボール・マガジン社〈スポーツ・ノンフィクション・シリーズ〉、1987年、13 - 16頁。ISBN 4583026218。 ^ 『プロ野球史再発掘』5、関三穂 編、ベースボール・マガジン社〈スポーツ・ノンフィクション・シリーズ〉、1987年、232, 262頁。ISBN 4583026226。 ^ 南海ホークス 編, ed (1978). 南海ホークス四十年史. 南海ホークス. pp. [要ページ番号].  ^ 高木圭介 (2012年7月27日). “高木マニア堂、365:東スポ傑作広告シリーズ(3)〜東京スタジアム建設(昭和37年1月)”. 東京スポーツ. 2015年10月18日閲覧。 東京スポーツ、1962年1月4日、第1面に大川のインタビューが掲載されていた。 ^ a b 祝プレーオフ進出 OB大下剛史「これがワシのファイターズ」(6)『東京スポーツ』連載、2006年9月20日。 ^ a b c d e 祝プレーオフ進出 OB大下剛史「これがワシのファイターズ」(7)『東京スポーツ』連載、2006年9月21日。 ^ 毎日新聞1967年11月26日13面「東映新監督に大下弘氏 水原解任\"電撃的組閣\"で幕」縮刷版p729 ^ 祝プレーオフ進出 OB大下剛史「これがワシのファイターズ」(8)『東京スポーツ』連載、2006年9月22日。 ^ 朝日新聞、1972年10月19日、『東映・西鉄 身売り説、明らかに』。 ^ 江尻良文 (2014年12月4日). “菅原文太さん死去で思い出す東映フライヤーズ身売り話 岡田社長の懐深さが染みた夜”. 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6月に明るみに出た大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併に端を発するプロ野球再編問題の渦中、同年9月に日本プロフェッショナル野球組織の加盟料撤廃(代って預かり保証金制度を実施)の決定を受けて、本拠地を神戸とするプロ野球参入の意思を表明。この時点では根来コミッショナーは「参入は時間的に難しい」と述べていた。9月24日に宮城県をフランチャイズ(地域保護権)とする新球団の加盟を申請した。 10月13日、初代監督に田尾安志が就任することが発表される。10月22日に新球団のチーム名を東北楽天ゴールデンイーグルス(通称:楽天イーグルス)と発表した。このときライブドアベースボール(呼称:仙台ライブドアフェニックス)も加盟申請を行っていたが、同年11月2日のプロ野球オーナー会議で楽天のみの参入が正式に承認された(プロ野球の新規参入球団は1954年の高橋ユニオンズ以来50年ぶり)。新規参入決定後の11月8日、近鉄とオリックスの選手を合併球団「オリックス・バファローズ」と新規球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」に振り分ける「分配ドラフト」が行われ、40選手の楽天入団が決定。「ゴールデンイーグルス」の名称は、東北地方の世界遺産・白神山地に棲息する猛禽類・イヌワシに因む。当初は単に「イーグルス」とする予定であったが商標の関係で「ゴールデンイーグルス」となった。なお、戦前に存在した球団である「イーグルス」とは一切無関係である。 11月17日、新規参入決定後初のドラフト会議に参加。明治大学の一場靖弘を自由枠で獲得したことに加えて、大学・社会人球界から「即戦力」になりうる6名の選手を指名した。さらに、他球団から無償トレードならびに自由契約となった選手を次々と獲得(山﨑武司、関川浩一、飯田哲也等)。また、分配ドラフトでオリックスに指名されたが入団を拒否していた岩隈久志も金銭トレードで獲得している。ドラフト会議で指名した選手のうち、東北に唯一縁のあった5巡目指名の塩川達也(東北福祉大学)は、現役引退後の2018年に一軍のコーチとしてチームに復帰。いわゆる「松坂世代」に当たる6巡目指名の平石洋介(トヨタ自動車)は、現役引退後もチームに在籍したまま、一軍・育成コーチや二軍監督を経て一軍の監督代行を経験し、2018年には楽天の生え抜きとしては初の監督に就任。 チームの新本拠地となる宮城球場は老朽化が著しかったため、楽天側の出資によってプロ本拠地としての使用に耐え得るよう2箇年計画で増改築されることが決まった。その一方で、球場を所有する宮城県は球場の命名権売却を決め、募集を開始した。その結果、人材派遣会社の「フルキャスト」に年間2億円の3年契約で命名権を売却することが決定し、2005年3月、「フルキャストスタジアム宮城(略称:フルスタ宮城)」に改称される。なお、命名権は二軍のチーム名についても売却を予定していたが、こちらの方は契約先は存在していない。 また、チームの練習場・合宿所は宮城球場に程近い宮城野区内にあるJT硬式野球部(2004年休部)の施設(JT球場など)を活用することを検討していたが、交渉がまとまらず断念。仙台市内での育成施設整備は難航を極めた。一方、二軍本拠地については楽天・ライブドアの参入計画が浮上した段階で秋田県と山形県が誘致に名乗りを上げていたが、楽天側は仙台市に近い山形県を本拠地とすることを決め、山形市近郊の東村山郡中山町にある山形県野球場(現:荘内銀行・日新製薬スタジアムやまがた)を使用することになった。その後、練習場・合宿所などは天童市にある山形県総合運動公園内に整備する計画が立案された(整備までの当座の措置として、山形市内の公共宿泊施設を仮の合宿所として使用した)ものの、選手の大半が仙台市近郊に在住し、また当時は選手の一・二軍間の入れ替えが頻繁であったため必要性に疑問が生じ計画は白紙化。仙台市内に育成施設を整備する計画に転換した(ただし二軍本拠地は変更しない)。 新規参入決定直後の秋季キャンプは白地に楽天のロゴが入ったジャージを着て藤井寺球場で行われた。 2005年 2月1日の沖縄県久米島での春季キャンプで本格的に始動。2月26日、新大分球場にて球団として初のオープン戦となる読売ジャイアンツ戦が行われ、4対3で勝利した。オープン戦は16試合で7勝8敗1分だった。 3月26日にパ・リーグ公式戦が開幕し、楽天は球団として初の一軍公式戦となる千葉マリンスタジアムで千葉ロッテマリーンズと対戦し、先発の岩隈が完投し3対1で勝利した。球団創立以来一軍公式戦で1試合も戦っていなかった球団が、球団創立以来一軍公式戦で戦った経験のある球団を対戦相手に初戦を勝利したのは、日本プロ野球史上初めてのことであった。 だが、翌3月27日の第2戦は打線がロッテの先発渡辺俊介の前に1安打に抑えられ、2リーグ制開始以降としては最大得点差の0対26で一軍公式戦初敗戦を喫した(当該試合記事参照)。その後4連敗し、4月1日、本拠地初戦となる西武ライオンズ戦では初回先頭打者の礒部公一が岡本篤志からバックスクリーン直撃の球団史上初の一軍公式戦本塁打を放つなど、16対5でチームは開幕戦以来のシーズン2勝目となった。しかし4月15日の北海道日本ハムファイターズ戦から29日の西武戦にかけて11連敗で、勝率が2割を切る。このため、4月30日にGMのマーティ・キーナートをチームアドバイザーに(GMのポストは当面空席)、またヘッドコーチの山下大輔と打撃コーチの駒田徳広を二軍にそれぞれ降格(替わって二軍監督の松井優典と同外野守備・走塁コーチ橋上秀樹が昇格)させるなど、コーチングスタッフを大幅に入れ替えた。 5月6日より、この年から始まったセ・パ交流戦の成績は11勝25敗で最下位に終わった。7月には10勝9敗1分けで球団史上初の月間勝ち越しを記録したものの、8月にはシーズン2度目の11連敗を喫するなどして、8月29日の対日本ハム戦(フルスタ宮城)でシーズン最下位とパ・リーグ全球団への負け越しが決まった。8月中にシーズン最下位が決まったのは1952年における8月20日に決まった近鉄パールス以来53年ぶりであった。9月25日のホーム最終戦(ロッテ戦)終了後、田尾監督のシーズン終了をもっての解任が発表された。最終成績は38勝97敗1分(勝率.281)だった。開幕前からささやかれていた「シーズン100敗」こそ辛くも免れたものの、5位の日本ハムとは25ゲーム差、レギュラーシーズン1位のソフトバンクとは51.5ゲーム差を付けられた。2リーグ制以降の新球団の初年度の成績としては最低の勝率となった。チーム最多勝は岩隈の9勝で、その次は福盛和男の4勝など戦力的に他球団と格段の差があった。分配ドラフトの仕様など、最低限の戦力の保証が一切無かった事が大きく響いてしまった。 田尾監督の後任には南海やヤクルト、阪神などの監督を歴任した野村克也が就任した。 2006年 弱者の戦略として「無形の力を養おう!」をスローガンに掲げ、チーム力の育成を図った。この年は前年より補強を進め、西武を自由契約となったホセ・フェルナンデス、同じく横浜ベイスターズからセドリック・バワーズ、台湾からは林英傑、元ロッテのリック・ショートを獲得。 オープン戦では初めて主催試合が組まれたが、本拠地フルスタ宮城での開催は前年同様に改修工事実施のため行われず、倉敷マスカットスタジアム、香川県営野球場、静岡県草薙総合運動場硬式野球場の3球場で計4試合が組まれた。 リーグ戦開幕直前には泉区に練習グラウンド・室内練習所・合宿所が完成(家電量販店大手のデンコードーと命名権契約を結び、「デンコードースタジアム泉」と名付けられた。その後2008年3月末を以って命名権を返上している)。イースタン・リーグ公式戦では使用せず、練習専用施設として使用されるようになる(ただし、アマチュアの社会人チームとの練習試合で使用されることはある)。練習グラウンドと同敷地内に設けられた合宿所は「泉犬鷲寮」と命名された。 3月25日の開幕戦の日本ハム戦(札幌ドーム)は岩隈が故障のため、前年2勝止まりだった一場が開幕投手を務めるが敗れ、開幕5連敗の後、31日の福岡ソフトバンクホークス戦(フルスタ宮城)でシーズン初勝利。交流戦では5月25日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)でリック・ガトームソンからノーヒットノーランを喫した。最終成績は17勝19敗で7位。後半に入ると、8月20日のオリックス戦(スカイマークスタジアム)でリーグ戦初の同一カード3連勝。9月以降の成績を9勝10敗1分としたものの、9月23日の西武戦で開幕から5位以上となることなく2年連続最下位が決定。最終成績は47勝85敗4分で5位のオリックスとは4.5ゲーム差の最下位。ホセ・フェルナンデスが球団初のタイトルとなる、ベストナイン(三塁手)を獲得。 9月25日に行われた高校生ドラフトでこの年の夏の高校野球準優勝校・駒大苫小牧の田中将大を1巡目で指名した。日本ハム、オリックス、横浜との競合の末、抽選で交渉権を獲得し、入団している。 2007年 3月24日の開幕戦のグッドウィルドームの西武戦で岩隈が2年ぶりの開幕投手を務めたが敗戦。翌25日の第2戦は2年目の青山浩二で勝利するが、その後4連敗。4月1日のオリックス戦(フルスタ宮城)では3回裏にフェルナンデスと山﨑がそれぞれ満塁本塁打を記録(1イニング2本の満塁本塁打は日本タイ記録)。同17日から19日のソフトバンク3連戦では初のホーム3連勝している。5月には、山﨑が球団初となる月間MVPを受賞。 7月2日にオールスター戦で8選手がファン投票で選出され、田中、松本輝(故障により出場辞退)、福盛和男、嶋基宏、高須洋介、鉄平、礒部、山崎と楽天の選手が占めた。しかし、実力が伴っているか否かに関係なく選ばれたため、監督の野村克也は中間発表時点で「オールスターじゃなく、オールスターダストや」と苦言を呈し、この年の全パ監督を務めた日本ハムの監督のトレイ・ヒルマンも「ファンのマナー違反だ」と発言した。 8月は月間15勝。9月も好調を維持し、初の2カ月連続勝ち越し。29日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)で3年目にして球団史上初の最下位脱出を決め、最終的には67勝75敗2分(勝率.472)で3位のソフトバンクにも7.5ゲーム差の4位。対ソフトバンク、オリックス戦では初の球団別シーズン対戦成績で勝ち越している。総得点575(2位タイ)、総失点676(6位)と打撃陣がチームを牽引したシーズンだった。山﨑が球団初の打撃部門タイトル獲得となる43本塁打108打点の成績で本塁打、打点の二冠王となり、田中が球団初の新人王を獲得。 楽天のホーム最終戦翌日の10月5日、フルキャストとの命名権契約解消で本拠地の名称が元の「宮城球場」に戻り、日本製紙が本拠地・宮城球場の命名権を取得。1月1日に「日本製紙クリネックススタジアム宮城(略称:Kスタ宮城)」と改称(その後、同社の不祥事が発覚。命名権契約解消は免れたが、ペナルティとして社名を削除。2月15日付で「クリネックススタジアム宮城(略称は変わらず)」に再改称した)。 2008年 スローガンは「Smart & Spirit 2008 考えて野球せぃ!」。 3月20日の開幕戦のソフトバンク戦(ヤフードーム)では9回裏に逆転サヨナラ3ラン本塁打を打たれて敗れ開幕から4連敗するが、その後7連勝で4月3日のロッテ戦(Kスタ宮城)で球団史上初の単独首位に浮上(2日後に首位陥落)。交流戦では初の勝ち越し(13勝11敗)。6月までは好調を維持したが、7月は24試合で5勝17敗2分と大きく負け越し。シーズン途中で前日本ハムのフェルナンド・セギノールを獲得し、打線強化を図る。だが8月以降も岩隈が奮闘するものの負けが込む。シーズン最終戦となる10月7日のソフトバンク戦(Kスタ宮城)において延長12回にサヨナラ勝ちし、最下位を脱出。65勝76敗3分の5位に終わった。チームの総得失点差は+20で、球団初のプラスとなった。また、チーム防御率も初の3点台でパ・リーグ3位、チーム打率は12球団トップだった。岩隈が21勝を挙げ投手三冠王を獲得パ・リーグMVP、沢村賞、ベストナイン(投手)に選ばれている。そしてセギノールも低迷するチームの中で大きく奮闘した。 シーズン終了後、3年契約が切れることになっていた野村の監督に於ける契約延長が決定。翌年も引き続き楽天を指揮することになった。また、オフには巨人から小坂誠を金銭トレード、中日からは中村紀洋をFAで獲得。小坂は球団初の宮城県出身選手、中村は球団初のFA加入選手となった。 2009年 スローガンは 「Smart & Spirit 2009 「氣」~越えろ!~」。 1月にメジャーリーグベースボールのオークランド・アスレチックスとの業務提携を開始した。WBC開催に伴い公式戦開幕が4月3日に設定されたため、初めて本拠地(Kスタ宮城)でオープン戦を開催(3月23日のオリックス戦と翌24日の西武戦)。 4月3日の開幕戦の日本ハム戦(札幌ドーム)から4連勝で4月15日まで首位に立ち、一端首位から落ちたものの初めて4月を首位で終え5月11日まで首位だったものの、交流戦では6連敗するなど最終的には9勝15敗の10位。打線の軸として期待された中村紀やセギノールも開幕から低迷し、二軍落ちするなどの誤算もあり7月も8連敗するなど低迷は続く。しかし、8月以降の3カ月で38勝21敗と勝ち進み9月12日のソフトバンク戦では球団史上初となるクライマックスシリーズ進出のマジックナンバー19が点灯し、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)で球団史上初のCS進出かつ、初のAクラス入りを決めた。同9日の対オリックス戦で勝利し、リーグ2位が確定し、CS第1ステージ地元開催権を獲得。最終的には77勝66敗1分(勝率.538)と初のシーズン勝ち越しを決めた。投手陣では3人の投手(岩隈、田中、永井怜)が二桁勝利を挙げた。 10月12日、野村は球団から監督退任を通告される。10月16日から行われたCSの第1ステージはKスタ宮城でソフトバンクと対戦し2連勝で第2ステージ進出 するものの、札幌ドームでの日本ハムとの第2ステージは第1戦では最終回に4点リードを守り切れず、逆転サヨナラ負け。第4戦に敗れ通算1勝4敗で敗退。CS終了後、野村は契約期間満了に伴い退任。 後任の監督に、この年まで広島東洋カープ監督を務めたマーティ・ブラウンが就任。野村は、翌年3月16日に就任要請を受けていた球団名誉監督に正式に就任している(期間は3年)。 2010年 スローガンは「Smart & Spirit 2010 Eagle Fire! 」。(鷲が強い情熱を持って突き進んでいく)。 3月20日、開幕戦のオリックス戦(京セラドーム)に1対0で敗れ、その後チームは4連敗。交流戦は12チーム中第5位(3位と同率も前年度順位が考慮された)となったが、この年の交流戦は上位6チームをパ・リーグが独占。そのためリーグでの順位が浮上することはなかった。交流戦終了後は負けが込むようになり、6月26日の対ソフトバンク戦で単独最下位になって以降は1度も順位を浮上させることができず、9月19日に4年ぶりのリーグ最下位が確定した。開幕から1度も勝率を5割に乗せることができず、最終戦績は62勝79敗3分で優勝したソフトバンクとは15ゲーム差、5位のオリックスとは7.5ゲーム差。ホームゲームの平均観客数も前年より1000人近く減少。こうした事情から球団は9月29日のシーズン最終戦終了後、ブラウンの監督解任を発表。 ブラウンの後任に、中日ドラゴンズ、阪神タイガース元監督で阪神シニアディレクターの星野仙一が就任した。 2011年 メジャーリーグ経験者の岩村明憲や松井稼頭央を獲得。また、ポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ移籍を表明していた岩隈も入札で独占交渉権を獲得したオークランド・アスレチックスとの交渉が決裂し、球団に残留。キャプテン制度導入に伴い、鉄平が球団初代キャプテンに就任した。チームスローガンは「Smart & Spirit 2011 真っすぐ」。 当初、3月25日のKスタ宮城でのロッテ戦で創設以来初の本拠地開幕戦を迎える予定であったが、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)でKスタ宮城が損壊したことにより、開幕戦が延期となった。この日、チームは兵庫県立明石公園第一野球場でロッテとのオープン戦の試合中で、選手は全員無事であった。13日に練習再開、17日までオープン戦を行わず、18日に震災発生以来初めて中日とオープン戦を行い、関西などを中心に開幕までの練習を行い、試合後などには球場や街頭などで募金活動を行っている。4月2日・3日には12球団によるチャリティー試合が行われ、楽天は札幌ドームで日本ハムと対戦している。このとき嶋基宏が、「見せましょう野球の底力を」とスピーチした。4月7日に震災以来チームとして初めて仙台に戻り、27日目の仙台入りに星野監督は「遅くなってすみませんでした。ごめんなさい」と訪れた避難所で謝罪している(この真っ最中にも強い余震が起きた)。4月11日にはフアン・モリーヨが震災で精神的な打撃を受けたとして球団に退団を申し入れ、了承された。 一方で、地震の影響でKスタ宮城に照明塔など47箇所の損壊が認められ、修復工事が必要となったことから、一時的に関西で主催試合を代替で行うことになった。この年のセ・パ両リーグの開幕日は4月12日に延期。同日の開幕戦はQVCマリンフィールドでの対ロッテ戦、主催試合初戦は同15日からの阪神甲子園球場での対オリックス戦。そして、本拠地・Kスタ宮城での初戦は宮城県が「震災復興キックオフデー」とした同29日の対オリックス戦となり、いずれも勝利した。 4月を9勝6敗で2位で終えたが5月は7勝14敗2分と負け越し、岩村や鉄平が打率1割台で低迷、岩隈が18日離脱した事が原因とされ、18日には5位、翌6月4日には最下位となっている。交流戦も9勝13敗2分の9位と低迷した。一方で田中が6、7月に連続して月間MVPを受賞するなどの活躍もあり、7月には永井怜が故障で離脱したものの、岩隈が復帰、ダレル・ラズナーが抑えに転向し5セーブ、新人の塩見貴洋が2勝を挙げるなどもあり、12勝10敗1分と勝ち越す。8月、前半に7連敗するも、後半に球団タイの7連勝もあり勝ち越す。しかし9月は8勝14敗と失速し、終盤までクライマックスシリーズ進出争いには加わったものの10月13日に進出の可能性がなくなり、最終的に66勝71敗7分、首位のソフトバンクと23.5ゲーム差、3位の西武と3ゲーム差の5位となった。統一球の影響もあり、本塁打は球団最少の53本で、7月から8月にかけ17試合連続で無本塁打の球団ワースト記録。ヤフードーム(11試合)と札幌ドーム(8試合)においてはそれぞれ本拠地球場となってからはパ・リーグ球団初の本塁打0に終わっている。田中が最多勝、最優秀防御率、最多完封の三冠王とベストナイン及びゴールデングラブ賞の投手部門を獲得した。なおこの年は、山崎が戦力外通告を受け退団している。 2012年 1月、岩隈がMLB・シアトル・マリナーズにFA移籍した。 チームスローガンは「Smart&Spirit2012 ともに、前へ。」。 3月30日、球団初の本拠地開幕戦となるロッテ戦が行われたが、3対5で敗れている。交流戦は10勝14敗で9位。オールスター直前までの前半戦を40勝38敗3分の3位として、球団初のAクラス、勝率5割以上で折り返すが、後半戦に入り8連敗を記録するなど順位を下げる。9月を勝ち越して終盤までソフトバンク、ロッテとクライマックスシリーズ進出争いを展開するが、10月4日の139試合目の対西武戦(Kスタ宮城)で引き分けてBクラスが確定した。最終戦のロッテ戦(Kスタ宮城)に勝利し、67勝67敗10分で、首位の日本ハムと7.5ゲーム、3位のソフトバンクと1ゲーム差の4位に終わるが、3年ぶりにシーズン5割以上の成績を残した。 8月1日付で元球団会長の三木谷浩史が球団オーナーに復帰し、球団社長には証券会社勤務だった立花陽三が就任した。 シーズンオフにはMLB・ダイヤモンドバックスからFAとなった斎藤隆を獲得し、岩村明憲に戦力外通告。また、現役メジャーリーガーのアンドリュー・ジョーンズとケーシー・マギーを獲得したことが発表された。野村名誉監督も任期満了で同職を退任した。 2013年 チームスローガンは「Smart & Spirit 2013 HEAT!」。 開幕投手と見られた田中がWBCでの疲れから辞退したことで、開幕戦のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)は則本昂大が新人投手としてはパ・リーグ史上55年ぶりの開幕投手となるが1対7で敗れている。4月27日の西武戦(西武ドーム)に9対2で勝利し、球団通算500勝を達成するが、序盤から5割前後の成績で4月を9勝13敗と負け越し、5月3日には借金が4になるが、その後は勝ち星を伸ばし、交流戦はソフトバンクと優勝を争ったものの、0.5ゲーム差の2位に終わった。7月4日に首位のロッテに勝利し、6月以降では球団初の同率首位に並ぶと7月6日に単独首位に浮上、前半戦をそのまま首位で折り返し、以降は首位を明け渡すことはなく。8月28日に球団史上初の優勝へのマジックナンバー28が点灯した。その後9月1日にはマジックが消滅するものの、9月5日に再点灯し、9月22日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に15対1で勝利し、4年ぶり2度目の2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ進出が決定し、翌9月23日の同戦で球団新記録のシーズン78勝とした。そして優勝へのマジック2で迎えた9月26日、マジック対象チームのロッテが対日本ハム戦(札幌ドーム)で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)で4対3で勝利したことで、楽天球団初のパ・リーグ優勝が決定した。球団創設9年目での優勝は日本プロ野球史上5番目のスピードでの達成。 クライマックスシリーズファイナルステージ(Kスタ宮城)では3位のロッテと対戦し、4勝1敗で日本シリーズに初めて進出を決めた。巨人との2013年の日本シリーズでは、3勝2敗で王手をかけた第6戦で2対4で敗れ、先発の田中がこの年シーズンから通じて初めての公式戦で敗戦投手となりタイとされるが、11月3日の第7戦(Kスタ宮城)に3対0で勝利し、4勝3敗で初出場で初の日本一を達成した。同月、台湾で開催されたアジアシリーズでは、11月19日の準決勝の対統一セブンイレブン・ライオンズ戦(台湾・中華職業棒球大聯盟)に1対4で敗れたため、日本からの出場チームでは初めて決勝に進めなかった。 田中が8月に開幕からの公式戦連勝と、前年8月26日からの公式戦連勝の日本プロ野球新記録を樹立、シーズン後にはこれらの記録とポストシーズンの2勝を含めた30連勝がそれぞれギネス世界記録に認定された。24勝0敗1セーブで日本プロ野球史上初のシーズン無敗での最多勝を達成、最優秀防御率と勝率第1位も獲得し、沢村賞、MVPを獲得した。チームからはゴールデングラブ賞は3人、ベストナインには4人がそれぞれ選出、新人王に則本が選出された。11月24日、優勝パレードが仙台市内中心部で行われ、約21万4千人の観衆を動員した。 2014年 スローガンは、「Smart & Spirit 2014 HEAT UP!」。 1月23日、田中がポスティングシステムでMLBニューヨーク・ヤンキースに移籍。5月26日、星野監督が腰痛のため、対ヤクルト戦(神宮)で休養し、投手コーチの佐藤義則が指揮を執った。翌27日に腰椎椎間板ヘルニアおよび胸椎黄色靱帯骨化症と診断された星野監督の休養と、佐藤投手コーチが監督代行をつとめることが発表された。7月2日、監督代行に大久保博元二軍監督がつき、佐藤は一軍投手コーチに専念することになった。7月24日より星野が監督に復帰するが、チームは低迷し、9月6日にはリーグ優勝の可能性が消滅し、9月18日に星野監督が退任を発表、9月29日にはBクラスが確定、10月7日の対オリックス戦(コボスタ宮城)に敗れ、最下位が確定した。なお前年優勝チームの最下位は前年の日本ハムに次いで史上5度目。10月14日、次期監督に大久保二軍監督の就任を発表した。 8月、コボスタ宮城の全面増築が完成、先行完成(3月)した楽天山観覧席と、8月に完成した3塁側上段の増設席を合わせ28,907人収容となった効果もあり、8月30日・ソフトバンク戦において、レギュラーシーズン・ポストシーズンを通して当球場歴代最多となる25,308人を集客したのを皮切りとして、観客動員記録を次々更新。最終的には1,450,233人(1試合平均単位で20,142人)の球団新記録を達成した。このうちコボスタ宮城に限れば67試合で1,350,293人(1試合平均20,153人)をマークした。 2015年 チームスローガンは、「Smart & Spirit 2015 一致団結」。 前年まで監督を務めた星野がシニアアドバイザーに就任する一方で、2013年から4番打者として君臨していたアンドリュー・ジョーンズが退団。ジョーンズに代わる現役メジャーリーガーとして、ヤンキースからゼラス・ウィーラー、ピッツバーグ・パイレーツからギャビー・サンチェスを獲得した。シーズン開幕直前には、前年にオリックスの主力として活躍したウィリー・モー・ペーニャも獲得することで、打線に厚みを増させた。投手陣は、抑えの切り札として広島東洋カープからキャム・ミコライオを獲得したほか、2013年まで在籍していたレイとハウザーが復帰。ドラフト会議では、高校生ながら最速で157km/hを記録した右腕投手の安樂智大を1巡目指名で獲得した。 開幕以来なかなか波に乗ることができず、ソフトバンク・日本ハム・西武の3強の後塵を拝する状態が続いた。交流戦では全18試合のうち2点差以内は15試合、延長戦は5試合と粘り強く戦い、10勝8敗の4位で終え2年ぶりに勝ち越した。交流戦のチーム防御率2.47は12球団トップであった。交流戦以降はロッテと4位・5位を争い、前半戦を5位でターンした。後半戦に入り、7月22日の日本ハム戦で1試合の最多得点での球団新記録となる19得点を記録したが、7月30日に田代富雄一軍打撃コーチが退任した。シーズンの途中でハウザーが再び退団したことからトレードおよび新外国人選手獲得期限日の7月31日には、アガスティン・ムリーロを獲得している。しかし、8月25日のオリックス戦に敗れたことで最下位に転落した。その後は一時5位に浮上したものの、8月28日の西武戦に2-3で敗戦。この敗戦によって自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅したことから、大久保監督が辞任の意向を示した。その一方で、9月7日には、星野前監督が取締役副会長に就任することを球団が発表された。星野球団副会長は、「球団の編成・ドラフト戦略・経営にも関与できる現場の総責任者」という立場で、三木谷オーナー・立花社長に次ぐ権限を有するようになった。9月22日のロッテ戦に敗れてクライマックスシリーズ進出の可能性が完全に消滅し、2年連続のBクラスも確定したため、大久保監督は同日に成績不振の責任を取って監督を退任することを正式を発表した。終盤はオリックスと5位の座を争ったが、10月3日の対ロッテ戦に敗れたため2年連続での最下位が決定した。シーズン通算では57勝83敗3分(勝率.407)という成績でパ・リーグの全チームに負け越した。チーム打率、防御率、得点はいずれもリーグ最下位で失点もリーグ最多を記録。その一方で、主催試合のシーズン通算観客動員数は歴代最多の1,524,149人に達した。 なお、球団創設メンバーで唯一の現役投手・小山伸一郎、地元・仙台出身でチーム最年長選手でもあった元メジャーリーガー・斎藤隆、入団以来長らく先発陣の一角を担ってきた永井怜などがこのシーズンを以って引退。 シーズン終了後の10月8日、大久保の後任として近鉄・日本ハムの監督を歴任した梨田昌孝の監督就任を発表。 2015年シーズンは「チームとフロントの一体化」であるとしてオーナーである三木谷がスタメン、打順、さらには一・二軍の入れ替えなどを指示することが多かった。しかしシーズン後半には現場の意見も取り入れるようになってきてそれをオーナーが決裁を出す形となった。オーナーの現場介入は打撃コーチである田代富雄がこれを許せないとしてシーズン途中で退団するなど批判の声があがっている。 2016年 チームスローガンは、「Smart & Spirit 2016 夢と感動」。 2年続けて最下位に陥るほどの低迷から脱却するために大型補強を敢行した。ここ2年固定できなかった三塁手を補強すべく、千葉ロッテマリーンズからFA権の行使を宣言していた今江敏晃と契約した。また、かつて広島東洋カープの主力打者だった山形県出身の栗原健太内野手、千葉ロッテマリーンズから戦力外通告を受けていた川本良平捕手、中日ドラゴンズを退団した山内壮馬・福岡ソフトバンクホークスを退団した金無英両投手を入団テスト経由で契約。外国人投手では、先発・リリーフ両方に対応できるラダメス・リズやジェイク・ブリガムを獲得したほか、WBSCプレミア12の台湾代表に選出された宋家豪と育成選手契約を結んだ。さらに、メキシカンリーグ二冠王のジャフェット・アマダー内野手と、MLB通算162本塁打の実績を誇るジョニー・ゴームズ外野手を獲得した。 2月1日から、楽天Koboスタジアム宮城の短縮表記を「コボスタ宮城」から「Koboスタ宮城」に変更し、5月には社会人・大学・クラブチームと対外試合を年に30戦程度実施することを前提に、若手選手の実戦経験を増やす目的で球団内に「育成チーム」を編成した。 公式戦では、茂木栄五郎を開幕から内野のレギュラーに抜擢するなど新人選手を積極的に起用した。ドラフト1巡目入団のオコエ瑠偉も高卒新人野手では球団史上初の開幕一軍入りを果たすと、セ・パ交流戦期間中から正中堅手に定着した。正捕手の嶋が故障で戦線を離れた5月下旬からはドラフト6巡目入団の足立祐一にスタメンマスクを託した。その一方で、新外国人のゴームズは18試合で打率1割台・本塁打1本にとどまり4月22日に一軍登録を抹消され帰国・退団したほか、パ・リーグの最年長選手だったレイも成績不振を理由に退団した。オープン戦の序盤に負傷したアマダーは5月下旬に公式戦デビューを果たしたものの、以降も再三にわたって故障で戦列を離れた。さらに今江・銀次・松井稼頭央などの主力打者も故障や打撃不振などで一軍と二軍を往復した。このため、7月には球団史上初めてのキューバ出身選手としてフェリックス・ペレス、シアトル・マリナーズ時代にイチローとチームメイトだったカルロス・ペゲーロ(いずれも左打ちの外野手)を相次いで獲得した。 序盤に一時首位に立つも、その後順位は急降下し4位に沈んだ。交流戦では11勝7敗の4位と健闘したが、リーグ戦の再開後はソフトバンク・日本ハム・ロッテの後塵を拝する状況が続いた。終盤には順位で西武にも抜かれ5位に転落した。9月29日のオリックス戦に勝利したことでオリックスの最下位が確定したため、チームは3年振りに最下位を脱出し5位でシーズンを終えた。西武に対しては、球団史上初めてシーズンの勝ち越しを果たした。 シーズン終了後には、球団創設時から楽天に所属している最後の現役選手であった近鉄出身の牧田明久や、2007年の大学・社会人ドラフト会議1巡目指名で入団した長谷部康平、後藤光尊、栗原、川本、山内などが現役を引退した。外国人選手では、リズ、ブリガム、ペレスが相次いで退団したほか、前年の故障からセットアッパーとして復活したミコライオとの残留交渉が不調に終わった(ミコライオは、後に退団した)。 2017年 チームスローガンは、「Smart & Spirit 2017 東北・夢・再び」。 前年10月31日付で楽天が宮城球場の命名権に関する3年契約を締結したことに伴って、1月1日付で本拠地の呼称を「Koboパーク宮城」に変更した。同月16日には、星野球団副会長が監督時代の実績を買われて野球殿堂顕彰者(エキスパート部門)に選ばれている。 外国人選手については、ウィーラー・アマダー・ペゲーロが揃って残留する一方で新たにフランク・ハーマン投手と契約を結んだ。レギュラーシーズン中の6月には、BCリーグの富山サンダーバーズからジョシュ・コラレス投手を獲得している。日本人選手では、西武からFA権の行使を宣言していた仙台市出身の岸孝之投手やソフトバンクからのコーチ就任要請を固辞して退団した青森県出身の細川亨捕手と契約。ドラフト会議では、1巡目の藤平尚真をはじめ支配下登録選手としての指名を経て入団した10人中9人を投手が占めた。さらに、一軍を経験していなかった柿澤貴裕外野手との交換トレードで、巨人から小山雄輝投手が移籍した。春季キャンプ中には、前年10月にDeNAから戦力外通告を受けていた元・巨人の久保裕也投手を、入団テスト経由で獲得している。 その一方で、レギュラーシーズンの開始前に催された2017 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)には、則本と松井裕樹が日本代表、アマダーがメキシコ代表として出場し、当初は嶋も日本代表に選ばれていたが、春季キャンプから右ふくらはぎの張りで調整が遅れたため本大会の直前に出場を辞退した。さらに則本は、WBC出場の影響で入団以来初めて開幕投手を外れた。 公式戦では、ウィーラー・アマダー・ペゲーロを同時にスタメンへ起用することを前提に1番に茂木・2番にペゲーロ・5番に銀次を据えた攻撃型の打線でスタートした。開幕投手には、岸が内定していたが開幕直前にインフルエンザB型へ感染したため、対戦相手であるオリックスとの相性の良い美馬学が初めて起用された。また、新人投手の森原康平・高梨雄平・菅原秀が中継ぎ要員として揃って開幕一軍入りを果たした。このような状況で開幕を迎えたにもかかわらず、開幕戦からの4連勝でスタートダッシュに成功する。パ・リーグの首位に立つと、4月を16勝5敗の勝率.761、5月を16勝7敗の勝率.696で終えた。この間には3連敗が1度もなかった。さらに則本は4月19日の西武戦から8試合連続で2桁奪三振(NPB新記録および世界プロ野球タイ記録)を達成した。 則本と共に先発陣を構成する美馬・岸や、クローザーの松井裕も好調で、ハーマンと共にセットアッパーを務める福山博之は、開幕戦から36登板試合連続で自責点を0に凌いだ。 5月以降はソフトバンクとリーグ戦で首位争いを展開した。交流戦ではソフトバンクが優勝したものの、3連敗を2度経験しながら10勝8敗の5位で終了した。6月28日にははるか夢球場(弘前市運動公園野球場)でオリックス戦を開催。球団創設13年目にして球団の主催による青森県内での一軍公式戦が初めて実現するとともに、地方球場に強い辛島航が先発で白星を飾った。この試合によって日程上は東北全6県での開催が実現したが、4月13日に福島県のヨーク開成山スタジアムで予定されていた西武戦が降雨で中止になったため、実公式での全県開催は2018年以降に持ち越された。結局、6月の通算成績は12勝9敗1分の勝率.571であった。 7月には2日にソフトバンクに敗れたことでソフトバンクとのゲーム差が−0.5ゲーム差となり、前年のソフトバンクに続き2位とのゲーム差がマイナスでの首位となる事象が発生した。7月7日にシーズン初めてソフトバンクに首位を明け渡すが、2日後には首位に再浮上した。前半戦最後のカードであったソフトバンクとの首位攻防2連戦で2連勝したため、4年振りに前半戦を首位で折り返した。しかし、その一方で交流戦の終盤から主力選手に故障者が続出し、茂木・藤田一也・ペゲーロ・岡島豪郎・松井裕・今江が相次いで戦線を離脱した。NPBレギュラーシーズン中のトレード期限が迫っていた7月下旬には、このような事情を背景に2015年までロッテの主力打者だった巨人のルイス・クルーズ内野手を金銭トレードで獲得した。獲得当日(26日)のソフトバンク戦から、茂木が遊撃の守備、ペゲーロが一軍に復帰する8月上旬まで一軍の公式戦に出場した。さらにこの試合で則本が入団1年目から5年連続のシーズン2桁勝利を達成し、チームは4連勝と6連勝を1回ずつ経験した影響で、7月を13勝7敗の勝率.650で終えた。 8月には2日に再び首位から陥落すると、投打の歯車が噛み合わないまま急失速した。前述した故障者のうち、今江以外の選手が相次いで一軍に復帰してもこの傾向に歯止めが掛からなくなった。一時はパ・リーグのレギュラーシーズンでは35年振りにマイナス1ゲーム差で首位に立ったものの、ソフトバンクや3位・西武との3連戦が組まれていた8月第3週から第5週までの通算15試合で、1勝13敗1分と大きく負け越した。首位・ソフトバンクとの差が10ゲームにまで広がったばかりか、31日の西武戦で敗れたためシーズンで初めて3位に転落した。結局、8月の通算成績は7勝18敗1分でシーズン初の月間負け越しを記録した。さらに8月23日のロッテ戦から9月3日のソフトバンク戦まで、球団初年度以来12年振りの公式戦10連敗を記録している。9月2日の対ソフトバンク戦で敗れたことによってチームの自力優勝の可能性が消滅したほか、本拠地での主催試合でも、8月18日のソフトバンク戦から9月9日のオリックス戦まで10連敗を喫した。この間には、前述した攻撃型打線の組み替えを繰り返す一方で春季キャンプ中の故障で出遅れていたオコエがスタメンに再び定着するほど好調を見せた。また、高卒新人の藤平もチームが6連敗中だった8月22日のロッテ戦で一軍初勝利を果たすと、チームの10連敗で迎えた9月5日の日本ハム戦でも先発勝利を記録した。さらにウィーラー・ペゲーロ・アマダーが9月中旬までに相次いで20本以上の本塁打を放ったため、「同一球団に在籍する3人の外国人選手が同一シーズンでいずれも20本以上の本塁打」というNPB一軍公式戦史上初の記録を樹立し、投手陣では則本と美馬が2桁勝利を達成した一方で、岸は防御率2.76ながら7連敗(8勝10敗)でレギュラーシーズンを終えた。 9月中旬以降は、16日にソフトバンクのリーグ優勝が決まったものの24日に楽天の3位以上が確定した。が、以降の試合で2位に返り咲けないまま10月4日の対ロッテ戦を延長12回引き分けで終了となった。チーム史上初めてレギュラーシーズンを3位で終えた。 ポストシーズンでは、西武とのクライマックスシリーズ(CS)ファーストステージ(メットライフドーム)第1戦においてレギュラーシーズン中の対戦で8戦全敗だった西武のエース・菊池雄星を相手に0 - 10の大差で完封負けを喫した。だが、第2戦からの2連勝によってパ・リーグの優勝チームとして臨んだ2013年以来4年振り(勝ち上がりは2009年以来)にCSファイナルステージへ進出した。パ・リーグが2007年から導入しているCS制度で、ファーストステージの第1戦に敗れたチームがファイナルステージへ進出できた事例はこの年の楽天が初めてである。迎えたソフトバンクとのファイナルステージでは、第1戦から2連勝しCS第2戦から4連勝と上り調子にあったが、則本・岸・美馬を先発に立てた第3戦以降の試合で3連敗を喫したため、4年振りの日本シリーズ進出を逃した。なお、この時点で日本シリーズの出場および制覇回数は1回であった。しかし、過去2回出場したシリーズをいずれも制していた横浜DeNAベイスターズ(セ・リーグ3位からCSを突破)が、この年の日本シリーズでソフトバンクの前に敗退した。その結果、日本シリーズで敗退したことがないチームはNPBの12球団で楽天だけになった。 日本シリーズの終了後には、チーム最年長の現役選手だった松井稼頭央が、コーチ就任の打診を固辞。他球団での現役続行を希望したため、テクニカルコーチ兼任の外野手として、15年振りに西武へ復帰した。また、巨人から移籍した2013年以降サイドスローの左腕投手として中継ぎで活躍した金刃憲人などが現役を引退。2009年以降もコーチとして楽天への在籍を続けてきた礒部が退団する一方で、ドラフト会議での1巡目指名を経て在籍していた片山博視(2006年入団)・武藤好貴(2012年入団)両投手や、一軍のクリーンアップを一時担っていた内野手の中川大志に戦力外通告を実施した(中川はDeNA、片山はコーチ兼任でBCリーグの武蔵ヒートベアーズ、武藤は入団前に所属していたJR北海道硬式野球部の後継チーム・JR北海道硬式野球クラブで現役を続行)。 ドラフト会議では、東京六大学野球のリーグ戦で歴代3位の通算21本塁打を記録した岩見雅紀(慶応大学外野手)を2巡目で指名。5巡目では、NPBの球団では初めてBASEBALL FIRST LEAGUEに加盟する球団の選手(兵庫ブルーサンダーズ所属の田中耀飛外野手)を支配下登録選手として指名した(いずれも指名後に入団、田中は入団後に「耀飛」の名で登録)。 2018年 楽天が宮城球場の命名権を保持したまま、1月1日付で球場の呼称を「楽天生命パーク宮城」に変更した。 1月4日には、チームの4代目監督でもあった星野仙一・球団代表取締役副会長が膵臓癌のため70歳で永眠した。球団では同月6日にその事実を公表し翌7日から3日間は楽天生命パーク宮城、オープン戦の期間中には主催試合の開催球場に献花台を設置した。また、星野副会長がかつて一軍監督やオーナー付シニアディレクターを務めた阪神球団との共同運営による「お別れ会」を東京と大阪で開催した。大阪での「お別れ会」開催直後の3月26日には、三木谷オーナーの意向に沿って、星野副会長が監督時代に付けていた背番号77を永久欠番として扱うことが球団から正式に発表された。 外国人選手については、前年に在籍していた7選手からクルーズ以外の6選手が残留したことに加えて、右の強打者オコエ・ディクソンと新たに契約。また、DeNAから2013年7月に西武へ移籍していた渡辺直人が内野手として8年振り、2015年から3年間ソフトバンクの一軍投手コーチを務めていた佐藤義則が一軍投手コーチとして4年振りに復帰した。ソフトバンクからは、前年の細川に続いて捕手の山下斐紹を西田哲朗との交換トレードで獲得した。 チームスローガンは、「日本一の東北へ」。また、球団創設以来初めてユニフォームのデザインをホーム・ビジター用とも一新した。ただし、レギュラーシーズン中には星野副会長の監督時代の背番号(77)をユニフォーム左胸部分の裏に付ける。その一方で、4月3日に楽天生命パークで開かれた日本ハムとのホーム開幕戦では、星野副会長の監督時代の背番号77を入れた2014年仕様のユニフォームを、監督、コーチ、選手、スタッフ(総勢115名)が着用した。 ユニフォームの変遷は「ホーム用」、「ビジター用」を参照。 レギュラーシーズンでは、オープン戦を打率トップで終えた内田靖人を開幕一軍のメンバーに初めて抜擢。3月30日にZOZOマリンスタジアムで催されたロッテとの開幕戦を延長12回の末に3 - 2というスコアで勝利したことによって、球団史上初めてシーズンのスタートを3年連続白星で切った。以降の試合では打線や救援陣がこぞって振るわず、球団史上12年振りに4月中に2桁の借金を喫したため、5月1日には一軍と二軍の間で一部のコーチを入れ替え。一軍の高須洋介打撃コーチと立石充男内野守備走塁コーチを二軍に配置転換する一方で、二軍から栗原健太打撃コーチと真喜志康永育成コーチが一軍に異動した。。しかし、開幕から10カード連続でカード勝ち越しに至らないまま、開幕から31試合目に当たる同月6日の対西武戦(楽天生命パーク)に大敗。この敗戦によって、自力によるリーグ優勝の可能性がいったん消滅した。NPB公式戦におけるシーズン31試合目での消滅は、この年のセ・リーグ球団を含めても最も速く、プレーオフ制度によるパ・リーグ優勝の可能性を残していた2005年のチーム(29試合)を除けば1955年の大映スターズ(27試合)に次ぐ速さである。5月9日には福島県内で一軍公式戦(郡山市開成山野球場の対ロッテ戦)の主催を予定していたが、グラウンド状態の不良によって前年(雨天)に続いての中止を余儀なくされた。 5月29日からのセ・パ交流戦でもチームの調子は上向かず、クローザーの松井裕樹が開幕からの不調、本塁打数でチームトップのペゲーロが交流戦中の不振、中心打者のウィーラーが試合中のヘッドスライディングによる左手指の骨折で相次いで戦線を離脱した。交流戦の開幕投手を任された高卒5年目の古川侑利が一軍公式戦初勝利を含む2勝を挙げたものの、チームは6月16日の対阪神戦に敗れたことで、リーグ戦からの借金が20に到達した。同日の試合終了後に梨田監督が球団へ辞意を申し入れたところ、球団から了承されたため、辞任が決定した。 2018年の監督代行時代も含める。 2018年 梨田監督の辞任を受けて、6月17日の対阪神戦(楽天生命パーク)から一軍ヘッドコーチ兼打撃コーチの平石洋介が監督代行に就任した。38歳での一軍監督代行就任は、歴代の一軍監督および代行経験者を含めても球団最年少であった。また、楽天生え抜きの人物がそのまま一軍を指揮するのは監督代行としての平石が初めてである。 チームでは、梨田の監督辞任と平石の監督代行就任に伴って一軍コーチ陣の配置転換も実施された。投手コーチではベンチ担当(佐藤義則)とブルペン担当(森山良二)の配置を入れ替えた。また、2018年5月の一軍復帰後から一塁ベースコーチを務めていた真喜志一軍内野守備走塁コーチがヘッドコーチ格で平石監督代行をサポート。この年から一軍戦略・内野コーチが務めていた塩川が、一塁のベースコーチに回っている(平石以外の首脳陣は肩書を変更せず)。 平石の監督代行就任後は、交流戦の残り2試合に全勝。交流戦開幕投手の古川も、6月19日の最終戦(横浜での対横浜DeNA戦)で白星を挙げたことによって、交流戦を一軍公式戦初勝利からの3連勝で締めくくった。しかし、チームは交流戦を最下位(全18試合で6勝12敗)という成績で終了した。リーグ戦の再開直後には、パ・リーグの球団で唯一勝率が5割を下回る事態に見舞われたものの、6月29日には菊池が先発した対西武戦(メットライフドーム)に15 - 1というスコアで大勝。レギュラーシーズンでは2016年5月25日から続いていた菊池の先発試合での連敗を13で食い止めた。 7月には、山形市総合スポーツセンター野球場(きらやかスタジアム)で初めてのNPB一軍公式戦として、10日の対オリックス戦を主催。前年まで他球場で実施されていた山形県内での一軍主催公式戦8試合目にして、初勝利を挙げた。また、オールスターゲームでは、岸が選手間投票1位、平石の監督代行就任を境に4番打者へ定着した今江が監督推薦でパシフィック・リーグ選抜チームに参加。前年のレギュラーシーズン3位を受けて梨田が務める予定だった同チームのコーチを平石が引き継いだほか、14日の第2戦(リブワーク藤崎台球場)には岸が同チームの先発投手として登板した。9月1日には、星野副会長の逝去以降事実上空席だった編成部門のトップとして石井一久が球団取締役ゼネラルマネジャー(GM)に就任。10月5日の対ロッテ戦(楽天生命パーク)の前に、平石監督代行が2019年シーズンから一軍監督へ正式に就任することを発表した。しかし、この試合に敗れたことで、チーム3年振りの最下位が確定した。 なお、この年のチームは梨田の監督在任中からホームゲームにとりわけ弱く、シーズン通算で球団最多の50敗を記録。地方開催分を含むホームゲーム(72試合)の通算勝率は.306(22勝50敗)だが、本拠地・楽天生命パークの開催分では69試合で.290(20勝49敗)にとどまった。パ・リーグに加盟する球団で、本拠地開催分の一軍公式戦におけるレギュラーシーズンの通算勝率が3割を切った事例は、1961年の近鉄(日生球場で.267=16勝44敗)以来57年振り。セ・リーグを含めても、1965年のサンケイスワローズ(神宮球場で.292)以来の低さであった。その一方で、ビジターゲーム(通算71試合)では36勝32敗3分と勝ち越している。 投手陣では、則本が5年連続5回目のリーグ最多奪三振を記録。さらに、チームのシーズン最終戦であった10月13日の対ロッテ戦(ZOZOマリン)に救援登板でシーズン10勝目を挙げたことによって、入団以来6年連続のシーズン2桁勝利(NPB史上4人目の記録)を達成した。また、岸がチーム最多の11勝を挙げるとともに、防御率2.72でリーグ最優秀防御率のタイトルを初めて獲得した。松井裕樹は自身の不調やチーム事情からシーズン中にセットアッパーや先発への転向を経験しつつも、9月16日の対ロッテ戦(ZOZOマリン)で一軍公式戦通算100セーブを史上最年少(22歳10ヶ月)で達成した。さらに、入団2年目の高梨が球団最多記録のシーズン70試合登板を記録した。野手陣では、高梨と同期入団(2年目)ながら、パ・リーグ新人王の選考資格を残していた田中和基がセ・パ交流戦の直前から正中堅手に定着。チーム生え抜きの野手としては歴代最多の一軍公式戦シーズン18本塁打を記録したことや、パ・リーグの最終規定打席に到達したことを背景に、スイッチヒッターとしてはリーグ史上初(チームからは田中将大・則本に次いで3人目)の新人王に選ばれた。後半戦に一軍へ定着した内田も、高卒の生え抜き野手および、生え抜きの右打者としては初めての2桁本塁打(12本塁打)を放っている。もっとも、前年のチームの躍進を支えた外国人野手は総じて低調。アマダーは7月だけで11本塁打を記録したが、NPBから禁止薬物摂取の嫌疑を掛けられた影響で、8月中旬以降実戦から遠ざかった。さらに、新加入のディクソンも、その穴を埋めるまでの活躍に至らなかった。 シーズン終了後には、二軍を中心に、コーチ陣の大幅な入れ替えを敢行。シーズン中に二軍投手コーチを務めた与田剛が古巣・中日の一軍監督に転身したほか、二軍監督として田中のブレイクに寄与した池山などが退団した。その一方で、この年に他球団で現役を引退した平石と同世代の小谷野栄一・後藤武敏が打撃コーチへ就任するとともに、石井GMが現役投手時代に所属していたヤクルト出身の指導者(伊藤智仁・三木肇・楽天のOBでもある野村克則)などを招聘。2016年1月の現役引退後に球団職員へ転じていた元・選手会長の鉄平が、二軍外野守備走塁コーチとして現場復帰を果たした。さらに、シーズン終了後に西武から国内FA権の行使を表明していたパ・リーグ打点王の浅村栄斗を獲得したほか、仙台育英高校やヤクルトで剛速球投手として活躍していた由規を育成選手として契約。由規とは高校での1年後輩に当たる橋本到が巨人との金銭トレード、広島の福井優也が菊池保則との交換トレードで入団した。他球団との指名重複による抽選が相次いだドラフト会議の1巡目では、2回目に指名した辰己涼介(立命館大学)への独占交渉権を4球団競合の末に獲得。結局、辰己や則本の実弟(則本佳樹)など(育成選手契約者を含めて)10人もの新人選手が入団した。その一方で、聖澤諒・枡田慎太郎・伊志嶺忠が戦力外通告を受けたことを機に現役を引退。球団からコーチへの就任を打診されていた細川や、育成選手契約で戦力外通告を受けた宮川将は、いずれも他球団で現役生活を続けることになった(細川はロッテ、宮川は前年の片山に続いてコーチ兼任で埼玉武蔵ヒートベアーズへ入団)。外国人選手については、ウィーラー以外の外国人野手とコラレスが退団。その一方で、右投手のアラン・ブセニッツや、右の長距離打者ジャバリ・ブラッシュを獲得している。さらに、この年限りでマリナーズを退団した岩隈に復帰を打診したが、巨人との争奪戦に敗れた。 2019年 チームスローガンは、「RESTART! 日本一の東北へ」。 日本シリーズ優勝:1回(2013年) リーグ優勝:1回(2013年) クライマックスシリーズ優勝:1回(2013年) 最下位:6回(2005 - 2006年、2010年、2014 - 2015年、2018年) Aクラス:3回(2009年、2013年、2017年) Bクラス:11回(2005 - 2008年、2010 - 2012年、2014年 - 2016年、2018年) 連続Aクラス入り最長記録:1年(2009年、2013年、2017年) 連続Bクラス最長記録:4年(2005 - 2008年) 最多勝利:82勝(2013年) 最多敗戦:97敗(2005年) 最多引分:10分(2012年) 最高勝率:.582(2013年) 最低勝率:.281(2005年) 最多得点:628(2013年) 最少得点:432(2011年) 最多失点:812(2005年) 最少失点:464(2011年) 最多本塁打:135本(2017年) 最少本塁打:52本(2012年) 最多盗塁:130盗塁(2011年) 最少盗塁:41盗塁(2005年) 最多失策:106失策(2007年) 最少失策:62失策(2009年) 最高打率:.272(2008年) 最低打率:.241(2015年) 最高防御率:2.85(2011年) 最低防御率:5.67(2005年) 最多併殺打:144併殺打(2007年・日本プロ野球記録) 初試合・初勝利:2005年3月26日・千葉マリンスタジアム(対ロッテに3-1) 初敗戦:2005年3月27日・千葉マリンスタジアム(2試合目、対ロッテに0-26、26点差での完封は日本プロ野球タイ記録) 初引分:2005年7月10日・フルキャストスタジアム宮城(83試合目、対ロッテに4-4) 最大連勝:7(2008年3月26日・対オリックス - 4月3日・対ロッテ、2011年8月20日・対ソフトバンク - 8月27日・対ソフトバンク、2013年7月26日・対ロッテ - 2013年8月4日・対日本ハム) 最大連敗:11(2005年4月15日・対日本ハム - 4月27日・対オリックス、2005年8月9日・対オリックス - 8月23日・対オリックス) 1試合最多得点:19(2015年7月22日・対日本ハム) 1試合最多失点:26(2005年3月27日・対ロッテ) 1試合最多安打:24(2014年4月12日・対ロッテ) 1イニング最多得点:10(2005年4月13日・対ソフトバンク・3回裏、2005年9月2日・対オリックス・6回裏) 1イニング最多失点:11(2005年3月27日・対ロッテ・2回裏、2008年7月22日・対西武・2回裏) 最多貯金:31(2017年7月26日・対ソフトバンク) 最多借金:59(2005年9月28日・対ソフトバンク) 1試合最多本塁打:6本(2010年6月6日・対巨人・中村紀洋8、9号、山崎武司13号、高須洋介2号、嶋基宏3号、ランディ・ルイーズ2号) 1イニング二塁打:7本(2013年8月4日・対日本ハム・5回表、プロ野球記録) 最優秀選手(MVP) 岩隈久志(2008年) 田中将大(2013年) 最優秀新人(新人王) 田中将大(2007年) 則本昂大(2013年) 田中和基(2018年) ベストナイン 2006年 - ホセ・フェルナンデス(三) 2007年 - 山崎武司(指) 2008年 - 岩隈久志(投)、リック・ショート(外) 2009年 - 鉄平(外) 2010年 - 嶋基宏(捕) 2011年 - 田中将大(投) 2013年 - 田中将大(投)、嶋基宏(捕)、藤田一也(二)、ケーシー・マギー(三) 2014年 - 藤田一也(二)、銀次(三) 2017年 - 銀次(一)、ゼラス・ウィーラー(三) ゴールデングラブ賞 2010年 - 嶋基宏(捕) 2011年 - 田中将大(投) 2012年 - 田中将大(投) 2013年 - 田中将大(投)、嶋基宏(捕)、藤田一也(二) 2014年 - 藤田一也(二) 2016年 - 藤田一也(二) 2017年 - 銀次(一) 2018年 - 岸孝之(投) クライマックスシリーズMVP 2013年 - 田中将大 日本シリーズMVP 2013年 - 美馬学 首位打者 リック・ショート(2008年) 鉄平(2009年) 最多本塁打 山崎武司(2007年) 最多打点 山崎武司(2007年) 最多盗塁 聖澤諒(2012年) 最多勝利 岩隈久志(2008年) 田中将大(2011年、2013年) 最優秀防御率 岩隈久志(2008年) 田中将大(2011年、2013年) 岸孝之(2018年) 最高勝率 田中将大(2013年) 最優秀投手 岩隈久志(2008年) 田中将大(2011年) 最多奪三振 田中将大(2012年) 則本昂大(2014年-2018年) 沢村賞 岩隈久志(2008年) 田中将大(2011年、2013年) ()内は獲得タイトル M→最優秀選手、新→新人王、ベ→ベストナイン、ゴ→ゴールデングラブ賞、首→首位打者、本→最多本塁打、打→最多打点、盗→最多盗塁、勝→最多勝利、防→最優秀防御率、投→最優秀投手、三→最多奪三振、沢→沢村賞 2006年 - ホセ・フェルナンデス(ベ) 2007年 - 山崎武司(ベ/本/打)、田中将大(新) 2008年 - 岩隈久志(M/ベ/勝/防/投/沢)、リック・ショート(ベ/首) 2009年 - 鉄平(ベ/首) 2010年 - 嶋基宏(ベ/ゴ) 2011年 - 田中将大(ベ/ゴ/勝/防/投/沢) 2012年 - 田中将大(三/ゴ)、聖澤諒(盗) 2013年 - 田中将大(M/ベ/ゴ/勝/防/投/沢)、嶋基宏(ベ/ゴ)、藤田一也(ベ/ゴ)、ケーシー・マギー(ベ)、則本昂大(新) 2014年 - 則本昂大(三)、藤田一也(ベ/ゴ)、銀次(ベ) 2015年 - 則本昂大(三) 10:ファン サブメンバーの一人としてチームを盛り上げてほしいという思いを込めた、ファンのための背番号。スターティングメンバーの9人に次ぐ番号であることにちなむ。 球団創設時からの永久欠番であるので、背番号「10」をつけていた選手・監督・コーチは過去にも誰一人存在しない。 この10の永久欠番化は、千葉ロッテマリーンズが、一軍登録25人に次ぐ26番目、支配下選手登録者の一人という意味を込めて26をファンのための準永久欠番としたのを参考にしたとのこと。 ちなみに、球団マスコットの「クラッチ」がイーグルス・ファンの1人として背番号10を着用している。 77:星野仙一 第4代監督。就任3年目の2013年、チームを初のリーグ優勝・日本一に導く。 監督退任後も球団に留まり、シニアアドバイザー、球団取締役副会長を歴任。 2018年1月4日、膵臓癌のため70歳で逝去。 監督として永久欠番に制定されたのは日本球界では史上初。 ※ ▲:2005・2006年はレギュラーシーズン首位球団、2007年以降はリーグ優勝球団とのゲーム差 ※ △:リーグ2位球団とのゲーム差 ※ 順位における太字の1は日本一 ※ 2014年シーズンは開幕-5月25日までは星野監督、5月26日-7月2日は佐藤義則監督代行(24戦10勝14敗)、7月3日-7月24日は大久保博元監督代行(16戦7勝9敗)、7月25日-シーズン終了までは星野監督が指揮。 ※ Aクラス(3位以上)のシーズンは背景色をつける。 25 50 75 100 125 150 2005 2010 2015   勝利   引分   敗戦 野村克也 2012年まで在任。現在、プロ野球界で名誉監督の称号を贈られたのは全球団で野村克也と読売ジャイアンツ終身名誉監督の長嶋茂雄のみである。 親会社・楽天のイメージカラーであり、イーグルスのチームカラーでもあるクリムゾン・レッド(えんじ色)を基調としている。パンツに1本の細ラインが入っている。帽子は、えんじ色をベースに白文字の「E」。2011年からは株式会社デサントとオフィシャルプラチナスポンサー契約を締結し、ユニフォームなどのウェアを提供していた。胸に、スポンサー・アイリスオーヤマのワッペンが付く。2014年シーズンのサプライヤーはマジェスティック・アスレティック。 2009年の左袖に、球団創立5周年を記念して「5th Anniversary」のロゴマークをデザインしたワッペンが付いた。 2011年の右袖に、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)犠牲者追悼の意を込め、黒の1ライン(喪章)が入り、「がんばろう東北」ワッペンが付く(「がんばろう東北」ワッペンは2012年も継続)。 2012年シーズンのみ、ホーム、ビジターともにヘルメットがツヤありからツヤなしに変わった。 白地で、胸ロゴは鷲の翼章付き「EAGLES」。その上に小さく「RAKUTEN」の文字があり、胸ロゴ・背番号・胸番号・帽子マークにはえんじ色の文字に黄色の縁取りが施されている。 2005年 - 2010年:シャドー・ストライプが広めの等間隔に入っていた。 2011年 - :胸番号・背番号・背ネームの字体が前年からビジター用(後述)のユニフォームで採用されているものと同じとなった。さらに、東日本大震災の犠牲者に哀悼の意を込めて左袖に袖を一周するリング状の喪章、震災からの復興の願いを込めて左腕に「がんばろう東北」のワッペンを追加した(喪章は2011年のみ採用)。また、同年からはキャプテン制度導入に伴い、キャプテン選手にはキャプテンマークとして、ユニフォームの右胸に「C(ホーム用は金色縁に赤、ビジター用は金色縁に白)」のワッペンが付いている。2014年、胸番号・背番号・背ネームの字体が再度変更された。 2013年の「レジェンド・シリーズ2013」では、ビジターゲーム(8月30日 - 9月2日・福岡ソフトバンクホークス対東北楽天ゴールデンイーグルス (福岡 ヤフオク!ドーム))でもホーム用ユニホームを着用して試合を行った。 2018年 :ユニフォームの肩と脇腹のラグランラインがなくなり、袖口と襟にゴールドとクリムゾンレッドのラインが追加された。また胸番号、背番号、背ネームの字体が変更されたほか胸ロゴの「EAGLES」や帽子マークの縁取りも黄色からゴールドに変わった。 ホームユニフォーム(2016年) ホームユニフォーム(2018年) 上着がクリムゾン・レッド、パンツが白(ホーム用と同タイプ)のツートンカラーを採用。 2005年 - 2009年:胸ロゴは「RAKUTEN」で、立体的に見えるように胸ロゴに黄色のシャドーが入っていた。 2010年 - :胸ロゴのデザインが「Rakuten」に変更され、黄色のシャドーは廃止、胸番号・背番号・背ネームの字体も変更した。コンセプトは「シンプル&スマート」 。2014年、胸番号・背番号・背ネームの字体を変更。 2018年 :胸ロゴ「Rakuten」の下に右に向かって細長いラインが入った。また胸番号、背番号、背ネームの字体が変更された。さらにユニフォームの肩と脇腹のラグランラインがなくなり、袖口と襟にホワイトとクリムゾンレッドのラインが追加された。帽子マークの縁取りは黄色からゴールドに変更。 ビジターユニフォーム(2009年) ビジターユニフォーム(2012年) ビジターユニフォーム(2018年) この他、期間限定での「3rd(または4th)ユニフォーム」が下記のとおり採用されている。 2006年 - 2009年:交流戦期間のホーム開催試合のみ着用するサードユニフォームが登場。胸ロゴは左胸に帽子と同じ「E」マーク、胸番号が右胸につく。肩、脇腹にクリムゾン・レッドのラグランスリーブラインが入る。背番号、胸番号の書体は、かつて西鉄ライオンズが採用していた角文字が使われている。 2007年:「ファンクラブデー」期間限定のファン投票によって選ばれたホーム用が初登場。交流戦用ユニフォームと同タイプであるが、胸に帽子と同じ「E」ロゴが大きく配置されている。胸番号は無し。背番号、選手名はカッパープレート・ゴシック体。肩、脇腹、背中にクリムゾン・レッドが施されている。 2008年7月11日 - 13日の対千葉ロッテマリーンズ3連戦で2008年度版「ファンクラブデー」ユニフォームを着用。胸ロゴは左胸に「RAKUTEN EAGLES」のロゴが縦置きに配置、右胸の胸番号、背番号、選手名はカッパープレート・ゴシック体。肩、脇腹、背中にクリムゾン・レッドが施されている。 2010年 - 2011年:夏休み期間限定のサードユニフォームが登場。フロント部分は白、脇(肩から両袖・わき腹にかけて)にはえんじ色のラグランデザインが使用され、胸に大きく「TOHOKU」の文字、その下に小さく「RAKUTEN」とある。右袖には帽子と同じ「E」マーク、左袖に「楽天」ロゴが入り、パンツは普段のホーム用をそのまま使用。東京ドーム以外での地方主催試合開催(いわゆる「東北シリーズ」で、郡山・秋田、岩手)、及び夏休み期間中のKスタ宮城での12試合を合わせた15試合で着用した。2011年も同様に、地方2試合(秋田・岩手)・8月のKスタ宮城での12試合、計14試合にて着用。 2011年:「球団創設7年目特別企画ユニフォーム」としてイーグル・レインボーを採用。「虹(夢の架け橋)」をコンセプトに胸下・両袖をクリムゾンレッドを含む7色の帯で構成しており、胸部は通常デザインとは異なる紺色の「Eagles」ロゴに加え左胸下に鷲のイラストが入る。パンツはクリムゾンレッド(後側のみ紺の縁取り)のラインが入り、腰部に背番号が入る。アンダーシャツは紺色。キャップも通常デザインではなく白抜きの紺色・ゴシック体の「E」となる。5月28・29日の対阪神2連戦ならびに6月11・12日の対中日2連戦(いずれもKスタ宮城)の交流戦計4試合で着用した。 2011年7月1日からの対千葉ロッテマリーンズ3連戦では2011年度版「ファンクラブデー」ユニフォームを着用。胸には「E」の一文字ロゴ、肩と脇下には4色のラインが入る。また左袖には東北地方の地図が入ったファンクラブオリジナルエンブレムが入る(「がんばろう東北」ワッペン及び喪章は右肩に移動)。 2012年6月29日からの対福岡ソフトバンクホークス3連戦で2012年度版「ファンクラブデー」ユニフォームを着用。普段はビジター用で使われるクリムゾンレッド生地に左胸に「E」の一文字ロゴマーク。右袖に「がんばろう東北」ワッペン、左袖には2012年ファンクラブの証である「ファンクラブワッペン(東北地方の地図が入ったファンクラブオリジナルエンブレム)」が付く。袖には犬鷲の羽ばたく翼と、「足」を生かした野球からイメージする「疾走感」も表現した白のラインが4本ずつ、両袖合わせて8本のラインをあしらい球団創設8年目であることを表現、同じく脇に4本のラインをあしらったキャップもオリジナルのものを使用。 2012年7月27日 - 8月26日に行われた26試合(ホーム17試合・ビジター9試合)で、「イーグル・スター」ユニフォームを着用する。「イーグル・スター」は「星に願いを(WHEN YOU WISH UPON A STAR)」をテーマに作られた。アイボリー地にクリムゾンレッドのストライプ(楽天のユニホームにストライプが使われるのは、球団創立以来初)をあしらったデザインで、左袖には星を象ったロゴのワッペンが貼られていて、勝ち星を重ね優勝すること、そして東北の早期復興への願いがひとつの「星」に込められている。 2013年7月26日 - 8月25日の期間中に福島県・岩手県・秋田県・山形県の地方球場で開催する1軍公式戦とKスタ宮城で開催する1軍公式戦、青森県などで開催する2軍公式戦の合計29試合で着用する企画ユニフォーム企画「TOHOKU GREEN(トーホク・グリーン)」を発表。「東北の緑が変わることなく、美しくあり続けることへの願い」をテーマに、ベースの色に「つね(常)に変わらない」という「常磐」の意味を持つ色「常盤色」を使ったデザインのユニフォームで東北の早期復興、美しき東北の自然の保全、そして東北楽天ゴールデンイーグルスが常勝チームになることへの願いをテーマに作られた。ユニホームは常盤色をベースに胸には「TOHOKU」、また、キャップも常盤色をベースにした。胸ロゴ・帽子ロゴ・背番号は赤縁に白。なお、ユニホーム下とアンダーシャツは通常のものを使用。 2017年シーズンから黒を基調とした「BLACK EAGLES」を採用。 2018シーズンからは「TOHOKU GREEN」のデザインをもとにした新たな「BLACK EAGLES」と、ほぼ同デザインの、赤が基調で脇腹から脇にかけて黒が入った「FAN'Sユニフォーム2018」を採用する。 サードユニフォーム(2007年) サードユニフォーム(2011年) 「イーグル・スター」ユニフォーム(2012年) 「TOHOKU GREEN」ユニフォーム(2013年) 2005年 - :親会社のイメージカラーであり、球団のチームカラーでもあるクリムゾン・レッド(えんじ色)を地色に、中央に白文字のチームロゴ(左右両端の文字は鷲の翼をイメージした「EAGLES」、その上に小さく「RAKUTEN」)。 クラッチ イヌワシをモチーフ。名前は一般公募され、英語のclutchに「ぎゅっとつかむ」「わしづかみ」という意味があり、また「勝負強い打者」を英語でクラッチヒッター(clutch hitter)と言うことから、「勝負強いチームになって、みんなの心をわしづかみにしてほしい」という願いを込めて決定された。また、イーグルス・ファンのための永久欠番である背番号10をイーグルス・ファンの1人として着用している。着ぐるみ登場当初は、帽子をかぶっていなかった。 クラッチーナ 「クラッチを元に女の子らしい名前を」ということで球団側が名づけた。ピンク色の羽毛が特徴。埼玉西武ライオンズのマスコット、レオに想いを寄せる素振りを見せている。 スイッチ 2016年4月1日に契約という形で登場した。オウギワシをモチーフ。アメリカ・カリフォルニア州出身。観覧車のあるボールパーク(Koboパーク宮城)が日本に存在すると聞き付けて仙台にやって来た。陽気で明るい性格だが、スイッチが入ると別人格になるうわさがある。 Mr.カラスコ 非公認マスコット。当該項目を参照。 超特大ゴーヤ 2009年の久米島キャンプの際に現地スポーツ団体(FC琉球や沖縄プロレス)から贈呈されたマスコット。後にオリックスに移籍。詳しくは、当該項目を参照。 Baby-brown 2010年、マーティ・ブラウンの監督就任を受け登場。どう見ても超特大ゴーヤの顔部分にブラウン監督の顔を模したお面(ただし造形はかなりリアルで、頭部ごと新造された可能性が高い)を貼りつけただけのようにしか見えないデザインのマスコット。ただし球団は「超特大ゴーヤとは何の関係もない」とコメントしている。公式サイトの記事によると、久米島の海岸に打ち上げられていたところをたまたま居合わせた田中将大に助けられてそのまま球場までついてきたそうで、その様子が写真入りで紹介されている。そしてこのキャラを見たブラウン監督が気に入って「Baby-brown」と名づけ、自身の公認マスコットにしたとのこと。 ピーマン ボン ジョルノ .カンパニー 未公認マスコット。当該項目を参照。 クロワシさん 2017年、「BLACK EAGLES DAY」の創設に合わせて誕生した。「BLACK EAGLES DAY」実施日のみに登場する。鷲の被り物を被ったおじさんで、2017年6月11日(関東広域圏での放送日)に日本テレビ系列で放送された『ニノさん』の1コーナー「第二のふなっしーを探せ!しゃべるご当地キャラオーディション」に出演した。背番号は「クロワシ」の語呂合わせで「9604」。 Baby-brown 羽ばたけ楽天イーグルス(作詞:藤巻浩・勝山聡・井岡美里、作曲:藤巻浩、歌:狗鷲合唱団) 軍歌調であるが、サンバMIXバージョンも存在する。7回攻撃前に流れている。 Dangerous Fight!(作詞・作曲:藤巻浩、歌:TOMMY) 合体ロボットアニメの主題歌系ロック調。 THE マンパワー!!!(作詞・作曲:つんく♂(シャ乱Q)、歌:モーニング娘。) 2005年4月1日に行われた主催ゲームかつ本拠地の開幕戦である対西武戦と同年5月8日に行われた対巨人戦ではフルキャストスタジアム宮城で披露され、スカイ・A「サテライトスタジアム」の中継のエンディングや、東北ANN各局ネット「黄金鷲団」のオープニング・エンディングでも使用されている。 イーグルスのオーナーである三木谷の個人資産管理会社が所有する(楽天グループではない)ヴィッセル神戸(Jリーグ)が2004年の本拠地開幕戦に松浦亜弥をゲストに呼んだことがハロー!プロジェクトとのつながり、さらにこの曲の誕生につながった。 LET'S GO 楽天イーグルス(作詞・作曲:つんく♂、歌:DEF.DIVAと楽天イーグルス応援隊) ハロー!プロジェクトによる公式応援歌第2弾。コーラスでつんく・カントリー娘。・メロン記念日が参加。前作「THE マンパワー!!!」に球団関連の歌詞がなかったためにファンの間で定着しなかった反省から、「楽天」「楽天イーグルス」「東北楽天ゴールデンイーグルス」といった球団名が曲の中に合計30回登場する。CDは2006年3月25日にWEB販売の楽天イーグルスオフィシャルショップ限定で発売され、3月28日のホーム開幕戦(対オリックス戦)で披露された。また前作に引き続きスカイ・A「sky・A STADIUM LIVE RAKUTEN わしづかみ」(「サテライトスタジアム」から番組名変更)のエンディングテーマソングとして使用されている。 前作から引き続き参加しているのは前作でモーニング娘。のメンバー、今作でDEF.DIVAのメンバーとして参加している石川梨華のみである。 ダイスキ楽天イーグルス(作詞・作曲:つんく♂、歌:GAM) ハロー!プロジェクトによる公式応援歌第3弾。CDは2007年3月24日にWEB販売の楽天イーグルスオフィシャルショップ限定で発売され、4月1日のホーム開幕戦(対オリックス・バファローズ戦)で披露された。この曲もスカイ・A sports+「sky・A STADIUM LIVE RAKUTEN わしづかみ」のエンディングテーマソングとして使われている。 GAMは松浦亜弥と藤本美貴のユニットだが、松浦は2年連続、また藤本は2年ぶりで、ともに2回目の応援歌担当となる。 越えろ!楽天イーグルス(作詞・作曲:つんく♂、歌:℃-ute) ハロー!プロジェクトによる公式応援歌第4弾。2008年3月20日発売。仙台駅構内・楽天イーグルスオフィシャルストア、Hello!Projectオフィシャルショップのみで発売。PVに、岩隈・山崎ら楽天所属選手(当時)が出演。 なお、PVは前述の選手登場のバージョンのほか、℃-uteメンバーのみ出演のバージョンのものも存在する。 球場での披露に関しては3月29日のホーム開幕戦のみ。 紅の翼(歌:堀内孝雄) つんく♂と同じアップフロントグループの堀内孝雄が歌う公式応援歌第5弾。 情熱ヴィクトリー(歌:杉田二郎、ばんばひろふみ) コーラスは矢口真里、辻希美、里田まいの3人が担当。 紅の翼 2011 〜さあ行こう戦いの舞台へ〜(作詞:庄司哲洋、作曲・歌:堀内孝雄) 「紅の翼」が制作された2009年は球団創設5年目の節目の年でクライマックスシリーズ進出を果たした記念すべきシーズンであった。このシーズンを越えるべく制作された公式応援歌である。 荒鷲のうた(作詞・作曲:石橋凌、歌:ARB) 東北楽天! おらほの! イーグルス(作詞:さくま詩穂里、作曲:斉藤常雄、歌:鴻巣巧一) 黄金のつばさ(作詞:白津守康、作曲:餅雅彦、歌:板橋修) 地元・仙台市の歓楽街・国分町にある代表的な2つの飲食店街の合同組織「虎屋横丁・稲荷小路親交会(通称:稲虎応援団)」が制作した。 Dream of EAGLES〜夢をかなえて(作詞・本間秋彦、作曲・坂本サトル、歌:サトル&アッキー) 「サトル&アッキー」はDate fmの番組「AIRJAM」から誕生した、坂本サトルと本間秋彦のユニット。 楽天イーグルスGO! GO! GO! GO! (作詞・作曲:佐々木朋義、歌:奥山えいじ、DJ:ワッキー貝山) 毎年、みちのくYOSAKOIまつりで踊られる。 夢のつばさ(作詞:松井五郎、作曲:木村真也、歌:さとう宗幸) 田尾監督解任に対して抗議する意味も込め、さとう自らが歌唱を封印したが、2010年2月24日に自身が司会を務めるミヤギテレビ『OH!バンデス』にて封印を解き、毎月1回番組内で歌っている。 楽天サンバ 東北放送のラジオ番組で制作された「マツケンサンバII」の替え歌。 大空へ(作詞・作曲・歌:清貴) エフエム東京の番組企画で製作された。 新規参入時から現在まで、宮城県が所有する宮城球場(仙台市宮城野区宮城野原公園総合運動場内)を本拠地球場とし、楽天野球団が都市公園法第5条第1項の許可(管理許可)を受けて運営している。ただし、3年毎に命名権の公募がなされ、権利を取得した企業が命名する愛称が「宮城球場」より優先して用いられている。 本拠地球場である宮城球場の収容人員、および、レギュラーシーズンの主催試合の宮城球場以外も含んだ観客動員数と1試合平均観客数は以下の通り。パ・リーグでのレギュラーシーズンの順位も付記。この統計では観客数に加えられないポストシーズンがあった年は特記。 収容人員と観客動員数の変化                      宮城球場の収容人員(人)… 各シーズン開幕当初(2005年以前は28,000人)                      主催試合の1試合平均観客動員数(人/試合) Koboパーク宮城開催のホームゲームで選手を紹介する場内アナウンス(「スタジアムDJ」と呼ばれる)は球団創設1年目の2005年から取り入れている。 男女混声形式を採用しており、基本的にホーム側は男性、ビジター側は女性が担当している。 男声アナウンスは過去に古田優児(フリーアナウンサー)が担当した。現在は千葉マサト(フリーアナウンサー)が担当している。 女声アナウンスは過去に岩手佳代子(フリーアナウンサー)、高野志津(フリーアナウンサー)、山口祐佳(中日ドラゴンズのチアリーダーチーム「チア・ドラゴンズ」の元メンバー)らが担当した。2012年からは紺野陽子(フリーアナウンサー)が担当したが2013年シーズンをもって退任した。2013年は二人体制となり、担当は試合ごとに変わる体制をとった。なお、2013年に新たに加わったアナウンサーの氏名は公表されておらず、2014年も引き続き担当。 2010年に男女混成形式の場内アナウンスが一旦は廃止。この年は男声アナウンスの古田がホーム、ビジター双方を務めた。また、非公式であるがオリックス戦では堀江良信が1回から3回のみ担当していた。 男性の場内アナウンスといえば京セラドームやほっともっとフィールドで開催されるオリックス主催ゲームが先駆けであるが、選手の紹介方法については大阪D・神戸がメジャーリーグを手本としてポジションや打順を英語でアナウンスするのに対し、男性の場内アナウンスを使用しているのにかかわらずポジションや打順は日本語のままである。 2013年からの楽天イーグルスの選手コールでは、「打順、ポジション、背番号、選手名」の順であり、メジャーリーグにおけるコールと同じ順である。 本拠地・楽天Koboスタジアム宮城(コボスタ宮城)ではトランペットや笛の使用は禁止されており、NPBから許可を受けた私設応援団のみ太鼓の使用が可能(但し、使用できる太鼓の大きさも制限されており、各団体1個のみしか使用できない。楽天のみならず、他球団の応援団に対しても同様)。なお、コボスタ宮城以外の球場ではトランペットや笛を使用した応援を行っている。 楽天攻撃時の選手の打席では他球団で行っている「かっとばせ」コールの代わりに「ドドドド○○!ドドドド○○!ォォォォオオオオ○○!」(○は選手名。ォォォォオオオオはせり上がるように語尾上がり調で)とコールする「4・4・8拍子」(東北楽天ゴールデンイーグルスの応援団である「全国荒鷲連合会(総本部・北海道荒鷲会・東北荒鷲会・関東荒鷲会・関西荒鷲会・九州荒鷲会)」が発案した独自の応援方法)という応援スタイルが確立されていた。しかし、2018年シーズンより応援をシンプルにするという目的で、「○○!○○!ォォォォオオオオ○○!」(○○は選手名、ォォォォオオオオは上記同様)という「3・3・4拍子」に変更された。ただしチャンステーマ1のみ「4・4・8拍子」である。 一部の選手については「4・4・8拍子」とは別の応援スタイルを取っている者も存在する(聖澤諒、外国人選手など)。 初回攻撃開始時は\"オープニングテーマ\"(原曲:さとう宗幸の「青葉城恋唄」)を歌う。 初回先頭打者には専用の応援歌が歌われる。 選手別応援歌は基本的に私設応援団「全国荒鷲連合会(北海道荒鷲会・東北荒鷲会・関東荒鷲会・関西荒鷲会・九州荒鷲会)」(以下「全鷲連」)で作った個別応援歌を使用しているが、個別応援歌が作られていない選手も少なくなく、その選手には共通の汎用テーマを使用している。なお、汎用テーマは4種類(30歳未満選手用、30歳以上選手用、外国人選手用、投手用)用意されている。 得点のチャンス時に歌われる\"チャンステーマ\"は仙台市内にある遊園地「八木山ベニーランド」のテーマ曲が使われている。ちなみに、このテーマは元々、地元の仙台二高の野球応援のチャンステーマとして使われていた。その後、\"チャンステーマ2\"(原曲:山形のローカルヒーロー「大鍋宣隊イモニレンジャー」のテーマ)と称する新しいチャンステーマも用意され、先のチャンステーマと並行して使用されている。この他、九州地区、北海道地区、関東地区、関西地区、ならびに東北地区専用のチャンステーマも存在する。 7回の攻撃開始前には球団歌「羽ばたけ楽天イーグルス」の演奏終了に合わせ赤のジェット風船を飛ばしている。また、楽天が勝利した際は白い風船を飛ばしている(「白星」の意味)。 ホームゲームでの勝利時、監督・コーチ・選手一同がグラウンドに整列し挨拶を行っているが、その挨拶終了後、引き続き選手数名が外野スタンド前に走り、スタンドのファンと一緒に「万歳三唱」を行っている(どの選手が参加するかは日によって異なる)。また、万歳三唱の直後にバックスクリーン後方から花火を打ち上げる。 ヘルメット 楽天証券(2005年始め - 同年途中) 国内信販・楽天KC(2005年途中 - 2010年) フクダ電子(2011年 - ) キャップ ®POINT(2016年 - ) 左袖 楽天カード(2006年) トランスコスモス(2007年) アイリスオーヤマ(2008年) 袖の部分は当初右に楽天市場、左に楽天トラベルのロゴを挿入したが、野球協約違反(ユニフォームに複数企業のロゴを入れてはいけない)の可能性があるため、楽天ICHIBAのロゴの「ICHIBA」の部分を抜く形で両者を並存させた。 パンツ MJQウェディング(2006 - 2007年) エイブル(2008 - 2009年) 楽天Edy(旧:ビットワレット)(表記:Edy〈2010 - 2011年〉→楽天Edy〈2012年〉) 楽天Kobo(2013年 - 2014年) 楽天生命保険(表記:楽天生命<2015年>→®LIFE<2016年 - >) 左胸 アイリスオーヤマ(2009年 - ) ベンチシート、応援用ビッグユニフォームなど 北電子(2007 - 2008年) その他 宮城球場におけるイーグルス主管試合(一部を除く)において、スポンサー協賛デーの試合を設けている。球団のオフィシャルスポンサー・サプライヤーとなっている企業・団体が特設ブースを設けるほか、観戦者に対して協賛企業・団体のグッズプレゼントが行われる。また試合によってはトークショーなどもある。 楽天では初代球団オーナー・三木谷の方針により収益を安定させるため、基本的に中継映像の制作部分までに関する権利を球団側で留保していた。2008年からは制作著作の権利までを球団側が所持。 従来型の放送局での中継には一定の制約がある。この手法は、北海道に移転した日本ハムの例に倣ったものとされる。 パ・リーグTV(前身となるヤフー動画への導入は2007年から) ニコニコ動画(2009-2017年) 2009年8月11日に「楽天イーグルスチャンネル」を開設。プロ野球シーズン中は主催試合のハイライト・試合後の監督の会見・勝利試合のヒーローインタビュー、オフシーズンには新入団選手の会見・キャンプのハイライトなどの動画を無料で随時公開している。 プロ野球シーズン中には、上記の動画の公開に加えて、ニコニコ生放送内の特設ページで主催試合の放送権を有するCS放送局制作の公式戦中継映像・実況のインターネット向け同時配信を実施(日本国内限定・クライマックスシリーズへ進出した場合には宮城球場での開催試合も対象に追加)。2009年には、クライマックスシリーズを含めたホーム・ビジター18試合で、sky・A sports+制作の中継を同時に配信した。CSにおける主催試合の放送権がJ SPORTS(2012年・2015年-)→ 日テレプラス(2013年-2014年)へ移行しても同時配信を継続。2013年には、(クリネックススタジアム宮城以外の開催分を含む)主催公式戦全72試合に加えて、クライマックスシリーズ・ファイナルステージ全試合の中継も配信した。 ニコニコ生放送では月額制の「プレミアム会員」を優先する視聴基準を設けているため、無料の「一般会員」として前述の中継を視聴する場合には、配信中でも視聴ユーザーの総数が収容人数を超えた時点で自動的に視聴できなくなる(いわゆる「生放送からの追い出し」)。さらに、「入場」(配信用ページへのアクセス開始)時間の早い順に会員の視聴権を割り当てているため、入場時間や当該ページへのアクセス状況によっては中継を視聴できないこともある。 Rakuten TV(旧楽天SHOWTIME・2014年から) マルチデバイス対応の動画配信サービス。公式戦ホームゲーム全試合中継。楽天会員でなくても無料視聴可能。 スポナビライブ ソフトバンクとヤフーが運営しているインターネット配信のスポーツ中継見放題サービス。 At Eagles AndroidとiOSスマートフォンアプリ。ホームゲームのライブ中継、コミュニティFM局「Rakuten.FM TOHOKU」のネット配信、球団の最新情報等のコンテンツを配信。 楽天イーグルスTV(2006-2007年、宮城球場で行われるホームゲーム全69試合を動画生中継した。2005年は人数限定の有料放送) 楽天イーグルスラジオ「EAGLESTATION」 2013年9月13日のオリックス戦以降の主催試合(宮城球場開催分)では、Jストリームのライブ配信インフラを活用しながら、「楽天イーグルス実況中継」(球団の自主制作による同球場での主催試合実況中継)をTuneIn Radioで試験的に実施。10月2日にTuneIn Radio内へ「EAGLESTATION」を開設したことを機に、日本で初めて、プロスポーツ球団の自主制作による公式戦の実況中継を本格的に開始した。 中継音源の聴取は無料で、スポンサーを付けていないため、イニングの間にはCMを挿入しない。ただし、配信時間は試合開始の直前から終了(楽天が勝利した場合にはヒーローインタビュー)直後までに限定。それ以外の時間帯には「SIGN OFF」扱いで配信を完全に休止するため、ダイジェストを含めて、過去の中継音源をオンデマンド形式で聴取することも不可能である。 2013年の中継では、解説者を配置せず、球団のイベント関係者(中継上の名義は「しゃべれる裏方“いしち”」)が実況と進行を兼務。「EAGLESTATION」の運用開始後は、10月3日のロッテ戦を皮切りに、主催公式戦6試合とクライマックスシリーズ・ファイナルステージの全試合(いずれも同球場開催分)を中継した。なお、公式戦期間中は宮城球場の内野スタンド上段に実況ブースを設けていたが、クライマックスシリーズではグラウンド付近の一塁側内野席へ中継機材を移動。中継日によっては、球団関係者やゴールデンエンジェルスのメンバー(当日の総合MC担当)などをゲストに招くこともあった。 2014年には、公式戦初の主催試合(4月1日のオリックス戦)を皮切りに、コボスタ宮城で主催する公式戦全67試合を中継。前年から続く日本語版に「英語チャンネル(English Channel)」を加えたうえで、日英2か国語による同時配信を実施した。また、日本語版の中継では、実況と進行を兼務するMCが日替わりで出演。前年担当の「いしち」に加えて、平方恭子(スカイ・Aでの東北楽天主催試合中継初代リポーター)、地元・仙台を拠点に活動するお笑い集団ティーライズのメンバーなどがMCを務めた。また、ビジターゲームの一部試合の中継を開始。 2015年には、インターネットラジオ配信プラットフォーム「Rakuten.FM」でも配信を開始。 2015年8月8日をもって、「EAGLESTATION」としては終了。日本語版は翌日より、コミュニティFM局「Rakuten.FM TOHOKU」のサイマル放送のネットラジオとしてリニューアルし、試合中継は「EAGLE BASEBALL GAME SHOW」として一番組扱いで継続している。英語チャンネルは、「Rakuten.FM TOHOKU(English)」に改称し引き続き試合中継のみのネットラジオ単独放送として継続。 地上波テレビ:NHK・在仙民放各局がホームゲームを放送。 NHK:地上波デジタル放送に関しては、サブチャンネルにて試合終了まで放送。東北地方で放送。ただし、楽天球団制作映像優先の方針により、自局での映像制作には一定の制限があり、中継権を持たない試合の資料映像については、原則として楽天野球団制作からの配信を受ける。楽天Koboスタジアム宮城の左翼場外で「スマイルグリコパーク」(試合を観戦できる観覧車などを設置した遊園地)の営業を開始した2016年以降の全国向け中継(主に日曜日のデーゲーム中継)では、観覧車のゴンドラの窓からホーム方向を写した映像の生中継や、スタンドリポート専任のアナウンサーによるパーク・スタンド内からのリポートを随時挿入している。 2009年のクライマックスシリーズ第1ステージ第1戦を放送(BS1でも放送されたが、実況・解説者は異なる)。番組編成は以下の通り 18:00 - 東北地方のデジタル総合2で放送(試合終了まで放送) 18:05 - BS1が飛び乗り(同上) 18:10 - NHK仙台放送局が飛び乗り( - 18:30で一旦飛び降り〈『てれまさむね』・『NHKニュース7』放送のため 19:30に飛び乗り〉) 19:30 - 仙台局以外の東北地方のNHKが飛び乗り( - 20:55で飛び降り〈ローカルニュース・『ニュースウオッチ9』放送のため〉) TBCテレビ:在仙のなかでは一番放送の数が多く創設当初は日曜のデーゲーム、現在は水曜のナイトゲームが中心。毎年1試合以上は巨人戦を差し替えて放送している、解説は2005年が対戦相手地域やJNN所属の相手OB解説者が、2006年は衣笠祥雄・川口和久・盛田幸妃・仙台出身の佐々木主浩が担当。2007年はラジオ解説が主の佐々木信行・秦真司が行い、2008年は駒田徳広・松本匡史も加わり2009年からは高橋雅裕が2010年は杉山賢人が新加入(衣笠、川口、盛田、佐々木(主)、駒田、秦は現在TBCで担当していない)。アナウンサー陣は佐藤修(2011年度よりスポーツ部所属)・松尾武・守屋周・飯野雅人。2010年からは木曜日にローカル枠が出現したおかげでゴールデンタイムの中継が増え過去最多の11試合を中継。過去には実況で三橋泰介(フリー)・大井健郎(現・報道記者)、リポーターで猪井操子(フリー)・根本宣彦・山本義幸も担当した。 全国ネット並びにポストシーズン製作実績 2005年5月の交流試合・巨人戦2試合(TBS製作、TBCアナウンサーは楽天ベンチリポーターのみ) 2009年のクライマックスパ第1ステージ第2戦(自社製作、RKBにもネットされた) 2011年4月のKスタ開幕・オリックス戦(TBCは宮城ローカル、全国中継は横浜×巨人との二元中継でTBSのスタッフで放送された) TBC製作分…解説:杉山賢人 実況:松尾武 ベンチリポーター:飯野雅人 スタンドリポーター:高以亜希子 TBS製作分…解説:佐々木主浩 ゲスト:松山英樹 実況:林正浩 ベンチリポーター:伊藤隆佑 仙台放送:土曜デーゲームが多いが2005年・2006年・2009年は巨人戦を差し替えていた。解説は斉藤明雄・高木豊・達川光男・田尾安志・江本孟紀のフジテレビ系列解説者が担当。2010年のオリックス戦では2009年まで楽天打撃コーチを担当した池山隆寛がベンチサイド解説を務めた。実況アナの変貌が目まぐるしく2005年は下田恒幸(現フリー)が3試合、佐藤拓雄が1試合実況を務め、2006年は浅見博幸が2試合を実況。金澤聡がリポーターを務めた後2007年から実況、板垣龍佑(現テレビ東京)がリポーターを務めた後2009年からは広瀬修一が担当。2006年の実況を務めた浅見がインタビュアーとして同局中継3年ぶりの登場を果たした(中継終了後にインタビューが行われた)。在仙局の中では中継が一番少ないが、ビジターゲームを中心に中継。アナウンサー(主に金澤)をベンチリポーターとして派遣している。2007年からは毎年1試合のみの中継となっていたが2011年は4月と5月さらには7月に1試合ずつ中継された。 ポストシーズンの放送実績 2009年のクライマックスパ第2ステージ、VS北海道日本ハムファイターズ・第3戦(北海道文化放送製作) ミヤギテレビ:レギュラーシーズンは週末デーゲームのみ未だに差し替え中継の実施はない。解説者は2005年が日本テレビの中畑清・水野雄仁が担当、2006年から2008年までは楽天OB初のミヤギテレビ専属解説者となった川尻哲郎と日本テレビの池谷公二郎。2009年4月の西武戦と9月の日本ハム戦を阿波野秀幸が務め10月のクライマックスシリーズを若菜嘉晴が務めた2010年は初代打撃コーチの駒田徳広と笘篠賢治(苫篠は引き続き現在まで解説継続中)、2011年は佐野慈紀・西崎幸広が担当。実況は伊藤拓とリポーターを担当している外賀幸一が2009年7月のオリックス戦を実況する予定(解説は前述の若菜)だったが試合開始直前に中止となり幻となったが2010年7月の日本ハム戦で野球実況デビューを果たした。さらには2010年4月の中継では加藤智也がリポーターを担当。伊藤・外賀・加藤の先輩・上司にあたる三雲茂晴も裏方(制作)として中継に参加している。2009年4月3日に札幌ドームで行われた日本ハム戦の中継を系列のSTVが行ったものの同局は巨人戦を優先し、4年間続いていた開幕中継をストップさせた。 ポストシーズンでの放送実績 2009年のクライマックスパ第2ステージ・第1戦、第2戦(札幌テレビ製作の映像+仙台のスタジオで伊藤が実況) 音声差し替え中継 2008年3月のソフトバンク戦(福岡放送製作映像&仙台のスタジオ 解説:川尻哲郎、実況:伊藤拓) その他 2005年5月の阪神戦(ホーム開催であったが系列のよみうりテレビが製作、MMTは伊藤を「派遣」する形で中継を行った) 解説:川藤幸三、実況:小澤昭博、リポーター:伊藤拓・尾山憲一、他球場情報:山本純也 ※2011年も阪神戦を中継したがMMTとよみうりテレビは別スタッフで中継した。 東日本放送:夏の高校野球県大会中継をしていることもあり実況アナは豊富で中継数も仙台放送やミヤギテレビよりも多い、土曜デーゲーム中心だが2005年・2006年・2010年は巨人戦を、2011年はゴールデンタイムの編成を差し替えた。ホームでの巨人戦中継では2008年(詳細後述)を除きテレビ朝日製作のため協力(2011年現在も続いている)にまわり同局のアナウンサーは楽天リポーターとして登場する(2009年まで)。解説はほとんどの試合、東北福祉大OBの大塚光二が務めている(巨人戦の場合はグランド解説にまわる)が2008年は元ABCプロ野球解説者の村上隆行が、2010年からはデニー友利が新加入した。2008年まではファン代表としてローカルタレントの本間秋彦がゲスト出演。(本間が諸事情で来られない場合もゲストを配し、野崎靖博や戸叶尚も中継に加わったこともある)。実況は熊谷博之・岩崎心平・松本龍が担当。Jリーグ・ベガルタ戦中継がメインの加川潤も2005年1試合を担当した。リポーターは各実況アナに加え2007年のみ吉岡伸悟も担当、2008年までは相手チームにもリポーターを配し系列局のアナウンサーが担当していた。2007年はCS放送sky・A sports+中継の実況も担当。2008年は6月の交流試合・巨人戦を自社製作で行う予定だったが当日、朝に起きた岩手・宮城内陸地震の影響で中止。中継を行った4試合全てが4時間超になり終了まで中継ができない現象が続いた、2011年は在仙局では史上初となるKスタ以外でのホームゲーム中継を甲子園で実施、系列ABCの協力を全面に受け阪神戦同様の放送ブースで中継を行った。2006年から3年続けて開幕戦のネット受けを行いすべての試合で熊谷がベンチリポーターで派遣されている。 全国ネット並びにポストシーズン製作実績 2005年と2006年5月の交流試合・巨人戦1試合ずつ(テレビ朝日製作、熊谷が楽天リポーターで出演) 2009年のクライマックスパ第2ステージ第4戦(現地乗り込み、北海道テレビ製作の映像+熊谷の楽天応援実況) 2011年のオールスターゲーム第3戦(KHBアナウンサーの出演はなし) 音声差し替え中継 2010年6月の阪神戦(ABC製作映像+仙台のスタジオ 解説:大塚光二 実況:岩崎心平 リポート:松本龍) 2011年6月の阪神戦(2010年同様の対応 解説:大塚光二 実況:松本龍) 宮城県以外(東北や他チーム本拠地等)へのネット 宮城県以外の東北5県の民放では、在仙局制作の中継番組が年に数回ネットされる程度であり、とくに青森・秋田両県は少ない。 2005年シーズンのデーゲーム中継は隣県(特に2軍本拠の山形県や福島県、岩手県)、ソフトバンク戦においてはTBC製作をRKBで仙台放送製作をテレビ西日本で日本ハム戦においてはミヤギテレビ製作がSTVで放送されたこともある。 2010年以降のTBC木曜ナイターは全試合ではないものの青森、秋田を除く3県にもネットされた試合がある。 在仙局以外では、東京地区のTOKYO MXが2011年に「「がんばろう東北」東北楽天ゴールデンイーグルス野球中継」のタイトルで、4月30日と5月1日の対オリックス戦、および5月7日の対西武戦を中継(映像は球団制作のものを使用)。2013年10月21日のクライマックスファイナルシリーズ第4戦をテレビ東京(TXN)系列6局(テレビ東京植草朋樹アナウンサーが出張実況。野村克也、緒方耕一らが解説)が中継。 BS 2008年6月、交流戦2試合をBS朝日で放送。(当初は1日の広島戦を球団製作=スカイ・エーと同時、14日の巨人戦は東日本放送制作で宮城県向けローカル中継との同時放送を予定していたが、巨人戦中継予定当日が岩手・宮城内陸地震のため開催中止となり、予備日の16日の試合はKHBの放送枠の都合が付かなかったためこの試合も球団製作のものに変更された) 同8月から日本BS放送(BS11)にて「BS11プロ野球・全国生中継」として中継に本格参入。同年度は終盤10試合を放送した。sky・A sports+と同様の球団制作中継。2009年からはタイトルを「プロ野球まるごと中継 熱闘!BS11ナイター」として20試合程度を放送した。 2010年はタイトルを「熱闘!! 楽天戦 フル中継」と改題、中継数も30試合に増加。Kスタ宮城以外にも東京ドーム、岩手県営野球場、秋田こまちスタジアム、開成山野球場で行われる試合も放送されるようになった。なお2011年よりタイトルを「断然 パ・リーグ主義!!」と改題(QVCマリンフィールドのロッテ戦も中継されるため)。2012年は放送なし。 2011年からはBS11に加え、TwellVでも「TwellV プロ野球中継」で放送(BS11は2011年度をもって終了)。2011年度は楽天主催試合を4試合中継。2012年度は楽天主催試合15試合を中継された。 CS、ケーブルテレビ 2008年度からは球団側が制作著作の権利を持ちマルチに映像制作している。 日テレプラス(「日テレプラス プロ野球中継 楽天イーグルス HEAT! LIVE」 2013年 - 2014年) J SPORTS(「J SPORTS STADIUM・野球好き」2012年、2015年 - ) sky・A sports+(『スカイ・Aスタジアム LIVE RAKUTENわしづかみ』 2011年まで) GAORA(アクティブ!ベースボール) AMラジオ 東北放送(県域放送):「TBCパワフルベースボール」 ※「プロ野球三都物語」は開幕前に1年に1度放送。 NHK仙台放送局(東北地域向け):NHKプロ野球の枠での放送と、「先読み!夕方ニュース」など通常の番組を休止しての放送がある(7時のニュースは放送される)。 コミュニティFM Rakuten.FM TOHOKU(宮城野区):「EAGLES BASEBALL GAME SHOW」(2015年8月より) 日本で初めて、プロスポーツ球団の自主運営によるコミュニティFM局として開局し、楽天全試合の中継を実施。解説者は楽天ベースボールスクールのジュニアコーチが日替わりで担当。なお、ビジター試合の中継はオフチューブ形式で行われる。 ※2006年まではFMじょんぱ(宮城野区、廃局)が「スタジアムFM」を展開していた。2007年からの一時期はFMいずみ(泉区)が「イーグルスライブラジオ」を展開していた。 FM放送 NHK仙台放送局(東北地方全域) : 開幕戦のみ放送。NHKラジオ第1放送が高校野球優先のうえ、実施期間のために放送ができず、FM放送を行っている。2005年 - 2007年の3年間はいずれも東北ブロックでの放送。2006年は対戦カードが日本ハムだったため、北海道でも放送された。 2013年11月24日に仙台市内で実施された優勝パレード(参照)では、上記の地元地上波民放4局とNHK仙台放送局が、以下の分担によって共同で生中継を実施した。 東日本放送:スタート地点周辺の撮影・取材(キー局・テレビ朝日制作の全国ネット番組『報道ステーション SUNDAY』内での全国向け生中継に協力) ミヤギテレビ:隊列の中の撮影(宮城ローカルで自社制作の特別番組を放送) 東北放送:選手や関係者が乗り込んだバスへの同行撮影・取材(宮城ローカルで自社制作の特別番組を放送) NHK仙台放送局:ヘリコプターによるパレードの空撮 仙台放送:上記の各局が撮影した映像の編集・管理(宮城ローカルで自社制作の特別番組を放送) 黄金鷲団(東日本放送制作、ANN東北地方ブロックネット番組、2005年4月2日 - 12月24日) - インターネット向けにもGyaO経由で配信 CHALLENGE 燃えよ!EAGLES → 燃えよ!EAGLES(東日本放送制作、秋田朝日放送でも同時ネット、2005年3月 - ) NEXT!犬鷲魂 ~We Love 楽天イーグルス~(J:COMチャンネル仙台) 2015年8月9日に開局したコミュニティFM放送局。愛称は「Rakuten.FM TOHOKU」(ラクテンドットエフエムトウホク)。 プロスポーツチームが直営する日本初のコミュニティ放送局となる。放送区域は宮城野区の西部、Koboパーク宮城を中心とした区域で、区内のカバー世帯数は30.06%である。 なお、宮城野区には1999年から2007年まで、仙台市民放送(FMじょんぱ)がコミュニティFM放送を行っており、同一区内の局としては8年ぶりの復活という形となる。また同一市区内でコミュニティFM廃局後、新たに開局があったケースは、これまで廃局の周波数が割り当てられていたが、Rakuten.FM TOHOKUはFMじょんぱ(78.8MHz)から周波数が変更されており全国初のケースとなっている。 番組は毎日午前1:00を基点とした1日24時間放送。イーグルスのホームゲーム中継やチーム情報をはじめ、宮城野区の地域情報、観光番組、音楽番組で構成する。 インターネット放送はRakuten.FM TOHOKU公式サイト、スマートフォンアプリ「At Eagles」、TuneIn Radioにて配信されている。 2009年よりKスタ宮城で行われる楽天の主催試合において、対戦相手や曜日などに応じてチケットの価格を変える「フレックス・プライス」が導入されている。「フレックス・プライス」のようなチケットの価格変動制は、メジャーリーグでは複数の球団が採用しており、日本では東京ヤクルトスワローズが神宮球場での読売ジャイアンツ戦、阪神タイガース戦に限り一部席種を割高にしている例があるが、本格的な導入は楽天が初めてになる。 チケットの価格は5段階で設定されており、高い順から「プラチナ」、「クリムゾン」、「ゴールド」、「シルバー」、「バリュー」となっている。 席によっては、プラチナの価格がバリューの2倍以上になることもある。 2007年4月3日(火) - 5日(木)、フルキャストスタジアム宮城で日本ハムとの3連戦をいずれもデーゲームで開催した。前年3月末のホーム開幕3連戦(28日からの対オリックス3連戦)をナイターで開催した際、冷え込みが激しく降雪も記録する事態があり、球団側は選手や観客の身の安全を考慮。比較的気温が高く温暖で、また春休みとあって学生ファンが多く詰め掛けられると見越し、本拠地開催では極めて異例の平日デーゲームを敢行することになった。3試合とも13時開始。テレビでもスカイ・Aスポーツプラスと東北放送(宮城ローカル)で生中継された。3試合とも1万人超えの盛況となった。特に、3戦目においては期待の高卒新人投手・田中の本拠地初登板もあって、約1万8千人ものファンが球場に詰め掛けた。翌2008年も前年同様の事情で、4月1日(火) - 3日(木)の対ロッテ3連戦をデーゲームで開催。ここでも3試合全て観衆1万人を超えた。 2009年 から2011年は平日デーゲームは行われず。2009年はWBCのため開幕が遅く4月7日(火)がホーム開幕戦。2010年はホーム開幕戦が土曜日に設定されたため(他球場では前日の金曜にホーム開幕戦となるナイターが行われている)。2011年は当初3月29日(火) - 3月31日(木)の対ソフトバンク3連戦をデーゲームで開催する予定になっていたが、東日本大震災の影響による開幕日延期のため取り止めとなった。 2012年からは平日デーゲームが再開され、2013年以降も毎年4月初旬に平日デーゲームが2試合程度組まれるようになっている。2017年は宮城での開催に加え、郡山・ヨーク開成山スタジアムでも平日の薄暮デーゲーム開催が予定されていたが、雨天中止となっている他、夏季開催(7月27日・ソフトバンク戦)でも平日のデーゲーム開催を行った。 また、パ・リーグでは他にロッテ、日本ハム、西武も平日デーゲームを組むようになった。 ちなみに、本拠地での平日デーゲームはプロ野球初期の1930年代 - 1950年代(ほとんどの球場にナイター照明がなかった)は頻繁に行われたほか、1990年代までは消化試合やプレーオフ(パ・リーグ)、日本シリーズでも行われていた。 イーグルス花火大会の開催に伴う薄暮デーゲーム開催 これとは別に、2015年5月21日(木)の日本ハム戦は「第1回楽天イーグルス花火大会」を試合終了後に行う予定であるため、通常より2時間早い16時からの薄暮デーゲーム開催とした。 これは、近接の仙台市陸上競技場のトラックから約2000発を打ち上げる花火大会そのもののほか、イーグルスが翌22日からの西武戦の会場・西武プリンスドームへの試合終了後の直接移動が可能であるという点も含めた総合的な判断で薄暮デーゲーム開催とした。長時間の試合であっても、若干の規模縮小などが生じるものの花火大会を開催できるように配慮した時間設定をしたものだったが、試合が延長戦にもつれ、試合開始から5時間が経過した21時を過ぎても試合が続いてしまう状況となってしまった(結局延長12回・5時間37分もかかる大乱戦となり、試合終了が21時40分を過ぎてしまっていた)。そのため周辺の騒音や選手の翌日の試合会場への移動(特に楽天の選手はこの試合終了後に予定していた西武プリンスドームへの直接移動ができなくなった)などを考慮して、この日の花火大会とそれに付随したAUN J CLASSIC ORCHESTRAによる音楽ライブの開催を断念せざるを得なくなった。 なお花火大会の代替日程は5月21日時点では未定であったが、あるファンから「花火を見たかった」という声をかけられた球団職員は「代替開催ができるように検討していく」としている他、立花も「残念すぎる。今日(21日)のお客様方に何らかの形で対応できるように考えたい」と延期開催の可能性を示唆するコメントを残している。 この後、5月29日に、この第1回花火大会の「リベンジ」延期開催を、7月11日にデーゲーム(14時)開催で行う予定としているオリックス戦で改めて行うことを発表した。この日は3000発の花火を打ち上げる予定にしているが、今回は長時間開催や荒天時の対応もはっきりと明示しており、 試合中止、また試合終了時に強風や豪雨などにより開催できない場合、試合終了が20時を超えた場合は中止 11日の試合、ないしはイベント中止時は12日に延期することにするが、12日も開催中止であればイベント自体延期せず中止する 試合終了後から19時30分までイベントの開催を予定している(ただし、5月21日のゲストであるAUN J CLASSIC ORCHESTRAの出場については明示されていない) と記載されている。そして7月11日のデーゲーム終了後、無事に花火大会は開催され、試合を観戦した人など市民約15000人が集まった。 開幕戦薄暮デーゲーム 2016年の開幕戦・ソフトバンク戦は、開幕戦のデーゲームとしては48年ぶりとなる薄暮デーゲームとして16時から行われる。これとは別に4月1日の西武戦も13時から実施され、またアウェーに出ての3月29・30日のロッテ戦(QVCマリン)も13時開始と、ナイター設備が整った近代において開幕当初の8試合がデーゲームという異例な日程となった(このほか4月12日の千葉ロッテ戦もデーゲームであったが、この時は残り2連戦はナイターだった)。 地域密着を目指すという観点で、[要出典]イーグルスでは2軍の主本拠である利府町中央公園野球場(楽天イーグルス利府球場)のほか、地方遠征(主に2軍)を開催する岩泉球場・しらさわグリーンパーク・湯沢市稲川野球場を初めとした東北地方16か所(2014年2月現在)の命名権を持っており、それぞれ「楽天イーグルス○○球場」「イーグルス○○球場」という名称を使用している。 これはイーグルスが2007年9月から取り組んでいる「フィールドサポートプログラム」という制度によるもので、東北地方各地の「野球競技を実施できる野球場」を対象として、球場を保有する地方自治体などと協議したうえで愛称を設定するが、通常の命名権のようなチーム名称・ロゴの使用のためのロイヤリティーは発生しない。 基本コンセプトを「地域と球団間における野球普及・促進に向けた協力活動」の一環として実施しており、これらの野球場では2軍(イースタン・リーグ)公式戦の開催(硬式球が使用できる球場のみ)のほか、年1回以上「イーグルス野球塾」と題した少年野球教室の開催などを通して、地域の野球振興に寄与し、また地元でのイーグルスの応援を高揚させるという目的がある。 地震による甚大な被害を受けた東北地方の人々を励ますべく、1995年の阪神・淡路大震災時のオリックス・ブルーウェーブが用いた「がんばろうKOBE」にあやかって作られた言葉。2008年の岩手・宮城内陸地震と2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)において使用され、ユニホームの袖部分にもこのフレーズが描かれたワッペンが貼り付けられた。 2014年には、個人を対象に、「FAN'Sデー」期間中(4月18日 - 20日)に楽天イーグルス利府球場で主催するイースタン・リーグ公式戦3試合の命名権を1試合3万円で販売。3試合とも完売したため、当該カードの試合前には、命名の対象者による始球式などのセレモニーを実施した。ちなみに、個人に対する球団主催公式戦の命名権販売は、NPBの球団では初めての試みである。 久米島町営仲里野球場(沖縄県島尻郡久米島町) - 二軍第1次春季キャンプ 久米島野球場(沖縄県島尻郡久米島町) - 一軍第1次春季キャンプ、二軍第2次春季キャンプ 金武町ベースボールスタジアム(沖縄県国頭郡金武町) - 一軍第2次春季キャンプ マスカットスタジアム(岡山県倉敷市) - 秋季キャンプ オフィシャルショップは「楽天イーグルスグッズショップ 」。店舗は以下の通り。 スタジアム店 チームショップ 宮城県仙台市宮城野区宮城野2-11-6(楽天Koboスタジアム宮城内) 仙台駅東口店 宮城県仙台市宮城野区榴岡4-1-8 エスパル仙台店 宮城県仙台市青葉区中央1丁目1-1 エスパル仙台 東館1階 上記とは別に「藤崎青葉通り店」、「仙台駅店」、「盛岡店」も設けられていたが、閉店。 2014年の公式戦開幕日(3月28日)からは、球団直営のスポーツラウンジ「T.R.G.E.(TOHOKU RAKUTEN GOLDEN EAGLES OFFICIAL SPORTS LOUNGE)」を、仙台市の繁華街・国分町2丁目のエーラクフレンディアビルの1階にオープン。東北楽天戦をはじめ、テレビのスポーツ中継を見られるスポーツバーで、アルコール飲料も有料で提供する。2017年2月22日をもって営業を終了。 朝日新聞スポーツ部 『スト決行 プロ野球が消えた2日間』 朝日新聞社、2004年。ISBN 4022579781。 『楽天主義。東北楽天ゴールデンイーグルス応援BOOK』 ベースボール・マガジン社〈週刊ベースボール別冊〉、2005年。 平成29年6月29日:本球団とクラーク記念国際高等学校が提携して高校の仙台キャンパスに女子硬式野球部を創部すると発表。監督は球団OBの山崎隆広。 ^ この時「イーグルス」の商標を先に取ったのは、参入時のライバル・ライブドアであった。 ^ シーズン2度の11連敗以上は1956年に12連敗を2度喫した高橋ユニオンズ以来、日本プロ野球史上2度目だった。 ^ 球場に被害はなかったが、試合は関係者の安否確認のため8回で打ち切りとなっている。 ^ 4月15日 - 17日・阪神甲子園球場、4月22日 - 24日・ほっともっとフィールド神戸。 ^ 阪神甲子園球場でのパ・リーグ球団の主催試合は史上初。 ^ この年は10月にも受賞しており、年間3度はパ・リーグ初の記録。 ^ シーズン連勝記録は継続扱いとなった。 ^ 2011年は鉄平、2012年は松井稼頭央。 ^ 体調不良による休養期間あり。 ^ 元ソニー仙台FC、モンテディオ山形スタジアムDJ。 ^ ベガルタ仙台の胸スポンサーにもなっている。 ^ 字幕はJ SPORTS側で用意したものを使った以外、基本的に球団製作のものを使用。ただし同時ネットで放送するTwellV・パ・リーグTVは従来通り球団製作の字幕を採用していた ^ ビジターゲームを放送するときは、その地域の放送局と同時放送。 ^ 交流戦ビジター試合は1球ごとのリアルタイム中継ではなく、「EAGLES BASEBALL TALK SHOW」としてゲストを招いてのトークショーをメインとしながら、試合経過を随時速報で伝える内容であった。 ^ 制作局である東日本放送の他に、青森朝日放送、岩手朝日テレビ、秋田朝日放送、山形テレビ、福島放送の6局ネットで放送。 ^ 県域放送局では、広島東洋カープが広島エフエム放送の大株主(2015年3月31日現在筆頭株主)という事例がある。同社の初代社長は当時広島球団のオーナーだった松田耕平が務めた。耕平の没後も次男の松田弘が務めるなど、広島球団および球団の事実上のオーナーである松田家(自動車メーカー・マツダの創業家)との関係が深い。 ^ FMじょんぱ閉局の半年後に隣接する太白区にてエフエムたいはくが僅か0.1Mhz違いの78.9MHzで開局しており、FMじょんぱの周波数をRakuten.FM TOHOKUに割り当てを行う事は実質的に不可な状況でもある。 ^ 24時間放送は2015年10月10日より開始。開局時は6:00 - 翌1:00 の1日19時間放送であった。 ^ クリムゾンは2013年より導入。2014年まではシルバーとバリューの間に「ブロンズ」が設定されていた ^ 楽天以外の関東の一部球団についても、平日のナイターをデーゲーム(薄暮開始含む)に移行したり、巨人・西武のように4月中の本拠地主管試合開催を断念した球団もある。 ^ 坂本達洋 (2015年5月21日). “【楽天】「5時間37分」で踏んだり蹴ったり! 花火大会中止 & 移動できず”. スポーツ報知. http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20150521-OHT1T50264.html 2015年5月22日閲覧。 当記事の写真において、大型ビジョンに「21時を過ぎましたので花火大会は中止させていただきます」と表示された様子が写っている。 ^ 前回は1968年4月6日・西鉄対近鉄戦(平和台球場・17時開始)。これ以外にも平日開催の開幕戦でのデーゲーム開催は、巨人と日本ハムが後楽園球場・東京ドームを併用し、同時期に前年Aクラスで開幕主管権を得た時に頻繁に行われている ^ デザインは、ホーム用がえんじ色地に白枠、その中に白文字で。ビジター用は、白地にえんじ色の枠、その中にえんじ色の文字で「がんばろう東北(東と北の文字の間に帽子にも使われるEマーク)」。 ^ a b 【宮城球場愛称変更】2018シーズンから 「楽天生命パーク宮城」へ!(東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト 2017年12月25日) ^ スト決行 2004, p. 124. ^ スト決行 2004, p. 126. ^ スト決行 2004, p. 170. ^ スト決行 2004, p. 178. ^ スト決行 2004, p. 181. ^ 楽天主義 2005, p. 45. ^ 楽天主義 2005, p. 46. ^ 楽天主義 2005, p. 49. ^ a b c d e f g h i j 毎日新聞2013年9月27日スポーツ面 ^ a b c d e f 「記録の手帳」、『週刊ベースボール』2013年10月14日、 32 - 35頁。 ^ a b c d ニッカンスポーツ関西版5面 ^ “ノムさん4連勝に「珍事か。違うな、実力だ」”. スポーツニッポン. (2009年4月7日). オリジナルの2013年10月2日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131002094302/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/04/07/kiji/K20090407Z00001340.html 2015-23閲覧。  ^ “楽天初の快挙!! ノムさん「ついてた」”. スポーツニッポン. (2009年4月30日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/04/30/kiji/K20090430Z00001190.html 2015年10月23日閲覧。  ^ “球団創設5年目でついに…楽天にCSマジック19”. スポーツニッポン. (2009年9月12日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/09/12/kiji/K20090912Z00001040.html 2015年10月23日閲覧。  ^ “球団創設5年目でついに…楽天にCSマジック19 CS進出決まった!楽天14点圧勝”. スポーツニッポン. (2009年10月3日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/10/03/kiji/K20091003Z00001270.html 2015年10月23日閲覧。  ^ “楽天2位決めた!好投!期待に応えたルーキー藤原”. スポーツニッポン. (2009年10月9日)  ^ “楽天 CS第2Sへ!山崎武2試合連発!マーくん完投!”. スポーツニッポン. (2009年10月17日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/10/17/kiji/K20091017Z00000450.html 2015年10月23日閲覧。  ^ “悲劇的幕切れ…ノムさん、声が出ない”. スポーツニッポン. 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ABC01-02-0096
通称を吉兵衛、雅号を友竹といった江戸時代の浮世絵師で、『見返り美人』で知られるのは誰でしょう?
菱川師宣
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[ "菱川師宣", "北尾重政", "勝川春章", "鳥橋斎栄里", "歌川豊国 (2代目)" ]
[ "菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ、元和4年〈1618年〉 - 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)とは、近世日本の画家。江戸初期に活動した浮世絵師の一人。生年は寛永7-8年(1630年-1631年)ともいわれる。享年64-65あるいは77。浮世絵を確立した人物であり、すなわち最初の浮世絵師である。 浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。 それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一枚の絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。初めは無記名で版本の挿絵を描いており、初作は寛文11年(1671年)刊行の噺本「私可多咄」(無款)であるとされ、翌寛文12年(1672年)、墨摺絵本「武家百人一首」(千葉市美術館所蔵)においてその名前(絵師 菱川吉兵衛)を明らかにした。その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・絵本を数多く手がけた。「浮世百人美女」、天和2年(1682年)刊「浮世続」(国立国会図書館所蔵)、天和3年(1683年)刊「美人絵づくし」(ボストン美術館所蔵)などに市井の女たちを描写し評判高く、生涯において100種以上の絵本や50種以上の好色本に筆をとっている。 祖父は藤原七右衛門と云い、京都在住であったが、父の吉左衛門は菱川を称し、安房国平郡保田本郷(現・千葉県鋸南町)に移住、道茂入道光竹と号した。師宣はここで暮らす縫箔師の家に生まれた。俗称を吉兵衛、晩年は友竹と号す。明暦の大火(明暦3年)の後、万治年間に海路によって江戸に出て狩野派、土佐派、長谷川派といった幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学び、その上に市井の絵師らしい時代感覚に合った独自の新様式を確立した。はじめは古版絵入り本の復刻の挿絵、名所絵などで絵師としての腕を磨いている。江戸に出て初めは縫箔を職として上絵を描いていたが、生来絵が巧みであったので遂に絵画を職としたのであった。江戸では堺町、橘町、人形町などに転住していた。また、京都へ行ったことも考えられる。 寛文後期から延宝前期には、無署名本が殆どであったが仮名草子、浄瑠璃本、吉原本、野郎評判記、俳書などの挿絵を中心に活動し、画技の研鑽に励んだ。やがて延宝中期、後期になると絵入り本、絵本で吉原もの、歌舞伎もの、名所記などや風俗画その他で個性を現し、絵本や枕絵本を刊行、師宣様式の確立という大きな転換期を迎えた。枕絵本は延宝3年(1675年)刊行の無署名『若衆遊伽羅之縁』、同3、4年頃刊行の『伽羅枕』、延宝5年(1677年)刊行の『小むらさき』などが早期の作品である。『伽羅枕』では「絵師 菱河吉兵衛」、『小むらさき』では「大和絵 菱川吉兵衛」と署名する。延宝5年にはほかにも近行遠通撰の地誌絵本『江戸雀』十二巻12冊などの挿絵を描いている。 その後延宝6年(1678年)刊行の役者絵本『古今役者物語』1冊、絵本『吉原恋の道引』や、元禄4年(1691年)刊行の絵本『月次(つきなみ)のあそび 』1冊、師宣没後の元禄8年(1695年)刊行の絵本『和国百女』三巻1冊などを著している。また天和元年(1681年)刊行の半井卜養の狂歌絵本『卜養狂歌集』二巻2冊の挿絵をしたことも知られている。これらを通して上部に文章、中・下部に絵という師宣絵本の基本形式が整ってきており、延宝8年(1680年)正月刊行の『人間不礼考』、同年5月刊行の『大和絵つくし』に至ると、上部3分の1乃至4分の1に文章、下部に絵という形式が確立される。当世絵本、風俗絵本の分野においての師宣の評価は動かし難いものとなったのであった。『大和絵つくし』は古代中世の故事、伝記、説話を大和絵で表現し、「大和絵師 菱川吉兵衛尉」と署名するなど、当世の大和絵師、菱川師宣の立脚点をも示した作品として記念碑的意味を持つものといえる。天和に入るとその活躍は一層目覚しいものとなり、悠揚迫らぬ美女群が画面一杯に闊歩する。この天和を挟んだ約10年間が師宣の最も充実した時期であった。天和2年(1682年)に大坂で井原西鶴の『好色一代男』が著されると、二年後の江戸刊行の際には師宣が挿絵を担当した。また、同じ天和2年刊行の絵本『浮世続』、『浮世続絵尽』(財団法人東洋文庫所蔵)、天和4年(1684年)刊行の絵本『団扇絵づくし』も知られている。 貞享3、4年頃からは円熟味と引換えに様式の固定化が目立つようになった。明暦の大火直後の再建の槌音も高い江戸市民の嗜好に、師宣ののびのびとして翳りのない明快な画風もマッチしていた。『吉原恋の道引』、『岩木絵つくし』、『美人絵つくし』などを見ても線が太く若々しいものであった。その好色的な図柄も開けっ広げで、健康的なのは時代の目出度さと思える。落款に「大和画工」や「大和絵師」という肩書きをつけているのも、その自負、自覚の表れである。また、絵図師の遠近道印(おちこち どういん)と組んで制作した『東海道分間絵図』(神奈川県立歴史博物館所蔵)は江戸時代前期を代表する道中図として知られている。大衆の人気を得た師宣は好色本を主に次々と絵入り本を刊行、やがてその挿絵が観賞用として一枚絵として独立、墨一色による大量印刷により、価格も安く誰でも買えるものになった。「吉原の躰」、「江戸物参躰」、「大江山物語(酒呑童子)」や、無題の春画組物など墨一色で、稀に筆彩された独自の様式の版画芸術が誕生し、ここに浮世絵が庶民の美術となったのであった。 師宣は屏風、絵巻、掛幅と様々な肉筆浮世絵も描いており、それらは江戸の二大悪所といわれた歌舞伎と遊里、隅田川や花見の名所に遊び集う人々や遊女であった。その大らかで優美な作風は浮世絵の基本的様式となっていった。なかでも、「見返り美人図」は師宣による一人立ち美人図であるという点で珍しい作例で、歩みの途中でふと足を止めて振返った印象的な美人画様式は、まさに榎本其角の『虚栗』において「菱川やうの吾妻俤」と俳諧で謳われたそのものであるとみられる。師宣は肉筆浮世絵では「日本繪」と冠していることが多い。 元禄7年(1694年)6月4日、師宣は江戸の村松町(現・東日本橋)の自宅で死去し、浅草において葬儀が行われた。終生故郷を愛した師宣の遺骨は房州保田の別願院に葬られた。菩提寺は府中市紅葉丘の誓願寺。法名は勝誉即友居士。 門人には、師宣の子、菱川師房、菱川師永、菱川師喜の他に古山師重、菱川友房、菱川師平、菱川師秀ら多数おり、工房を形作っていたといわれる。故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある(外部リンク先を参照のこと)。 代表作としては、世界的に有名な肉筆浮世絵である「見返り美人図」があげられる。また春画も数多く描いている。 「見返り美人図」(みかえりびじん ず) 代表作にして、師宣の代名詞的1図。美人画。肉筆画(絹本著色)。東京国立博物館蔵。女性は、17世紀末期当時の流行であった女帯の結び方「吉弥結び(きちやむすび)」と、紅色の地に菊と桜の刺繍を施した着物を身に着けている。それらを美しく見せる演出法として、歩みの途中で後方に視線を送る姿で描かれたものと考えられる。 同時代で年下の絵師・英一蝶は本作に刺激を受けてか、対抗するかのように、構図等に類似点の多い1図「立美人図」を描いている。 文化7年(1810年)の山東京伝による箱書があることから、おそらく幕末には好事家の間で知られていた可能性が高い。また博物館に収蔵された時期も早く、60番という若い列品番号がそれを物語っている。 現代日本では昭和23年(1948年)11月29日発行の記念切手(「切手趣味週間」額面5円)の図案に採用され、これが日本の記念切手の代表的かつ高価な一点となったことも本作が大衆に周知されるに少なからず影響した。 「歌舞伎図屏風」 (かぶきず びょうぶ) 風俗画。歌舞伎小屋の様子を描いた、六曲一双(紙本金地著色)の屏風。東京国立博物館蔵。重要文化財。無款であるが師宣の作として扱われる代表作の一つ。向かって右から、芝居小屋の表から始まり、華やかな舞台と賑やかな客席が描かれた右隻と、雑然とした楽屋と隣接する芝居茶屋での遊興の様子を描いた左隻からなる。小屋の櫓に掲げられた銀杏の紋と入り口の役者名の看板から、元禄5年(1692年)以降の中村座の様子を描いたものと判明できる。あらゆる階層・年齢の人物、総勢285名の表情や姿態を臨場感をもって巧みに描かれており、その完成度の高さから最晩年の作品と考えられる。 「北楼及び演劇図巻」 絹本着色 一巻 東京国立博物館所蔵 「浮世人物図巻」 紙本着色 絵巻 東京国立博物館所蔵 「大江山鬼退治絵巻」 紙本着色 三巻 藤田美術館所蔵 「不破名護屋敵討絵巻」 紙本着色 一巻 浮世絵太田記念美術館所蔵 「虫籠美人図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵 「見立石山寺紫式部図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵 「髪梳図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵 「秋草美人図」 絹本着色 出光美術館所蔵 「遊楽人物図貼付屏風」 絹本着色 6曲1双 出光美術館所蔵 「遊里風俗図」 絹本着色 一巻 出光美術館所蔵 寛文12年(1672年) 「遊里風俗図」 絹本着色 出光美術館所蔵 「遊里風俗図」 絹本着色 出光美術館所蔵 「江戸風俗図巻」 絹本着色 二巻 出光美術館所蔵 「二美人図」 絹本着色 出光美術館所蔵(伝菱川師宣) 「浄瑠璃芝居看板絵屏風」 紙本着色 6曲1双 出光美術館所蔵(伝菱川師宣) 「長者観桜酒宴の図」 紙本着色 たばこと塩の博物館所蔵 「元禄風俗図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵 無款 伝菱川師宣筆 「紅葉狩図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵 「江戸風俗絵巻」 紙本着色 MOA美術館所蔵 「振袖美人図」 絹本着色 奈良県立美術館所蔵 「立美人図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵 「桜下二美人図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵 「角田川舞台図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵 「上野・隅田川遊楽図屏風」 紙本着色 6曲1双 千葉市美術館所蔵 無款 「室内遊楽図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵 「天人採連図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵 「秋草美人図」 絹本着色 菱川師宣記念館所蔵 「行楽美人図」 絹本着色 菱川師宣記念館所蔵 「職人尽図巻」 絹本着色 大英博物館所蔵 「地蔵菩薩図」 紙本着色 大英博物館所蔵 「歌舞伎(中村座)図屏風」 紙本着色 6曲1隻 ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵 無款 「上野花見・隅田川舟遊図屏風」 紙本着色 6曲1双 フリーア美術館所蔵 「上野花見図押絵貼屏風」 絹本着色金泥 6曲1隻 ボストン美術館所蔵 吉原・「歌舞伎(中村座)図屏風」 紙本金地着色 6曲1双 ボストン美術館所蔵 無款 「変化画巻」 紙本着色 1巻 ボストン美術館所蔵 貞享2年(1685年)作 菱川師宣及び菱川師房ら弟子達よる寄合書 「花鳥・物語図帖」 1帖 絹本着色 心遠館(プライス・コレクション)所蔵 無款 「吉原風俗図巻」 1巻15図 紙本着色 ジョン・C・ウェーバー・コレクション 延宝末年頃 「よしはらの躰」 横大判 12枚揃 東京国立博物館所蔵 延宝後期頃 「江戸物参躰」 横大判 12枚揃 延宝後期から天和頃 「衝立のかげ」 筆彩 横大判 慶應義塾図書館所蔵 無款 「低唱の後」 筆彩 横大判 慶應義塾図書館所蔵 無款 「よしはらの躰 揚屋の遊興」 横大判 12枚組物のうち 千葉市美術館所蔵 「延宝三年市村竹之丞役者付」 大判 無款 城西大学水田美術館所蔵 「大江山物語絵図」 筆彩 横大判 12枚揃 天和から貞享頃 蹴鞠 大判 東京国立博物館所蔵 無款 ^ 吉田漱『浮世絵の基礎知識』110頁には寛永8年生まれとあり、稲垣進一編『図説浮世絵入門』16ページには寛永7年?生まれとある。 ^ ほうはくし、または、ぬいはくし。「縫箔」は模様表出に用いられる技法。「縫」は刺繍を、「箔」は摺箔を意味する。 ^ 人が多く暮らす場所。町。 ^ 画像のものは着彩されていない。 ^ けんぽん。書画を描くための地の素材として絹を用いているもの。そのうちの、生糸(きいと)で平織りされている通常のものを言う。上質で光沢のあるものは「絖本(こうほん)」と言う。 ^ 「着色」とも。「著」と「着」は本来同字。 ^ MIHO MUSEUM編集・発行 『ニューヨーカーが魅せられた美の世界 ジョン・C・ウェーバー・コレクション』 2015年9月15日、pp.178-189、ISBN 978-4-903642-20-8。。 藤懸静也 『増訂浮世絵』 雄山閣、1973年 27〜31頁 ※近代デジタルライブラリーに本文あり。 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年 楢崎宗重 『肉筆浮世絵 寛文-宝暦』〈『日本の美術』248〉 至文堂、1987年 吉田漱 『浮世絵の基礎知識』 雄山閣、1987年 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年 稲垣進一編 『図説浮世絵入門』〈『ふくろうの本』〉 河出書房新社、1990年 小林忠 『菱川師宣と初期浮世絵』〈『日本の美術』363〉 至文堂、1996年 『千葉市美術館開館五周年記念 菱川師宣展』 2000年 ※展覧会図録 小林忠監修 『浮世絵師列伝』 平凡社<別冊太陽>、2006年1月 ISBN 978-4-5829-4493-8 浅野秀剛 『菱川師宣と浮世絵の黎明』 東京大学出版会、2008年 浮世絵#代表的な浮世絵師 浮世絵師一覧 肉筆浮世絵 菱川師宣記念館 - 千葉県博物館協会(公式ウェブサイト) 菱川師宣記念館のページ(公式ウェブサイト)", "北尾 重政(きたお しげまさ、元文4年〈1739年〉 - 文政3年1月24日〈1820年3月8日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。北尾派の祖。 本姓は北畠で、戦国大名北畠氏の末裔だという。幼名太郎吉。俗称久五郎、後に佐助といった。諱は兼儔、字は非羸。画姓を北尾と言い、重政(繁昌、恭雅とも)、碧水、紅翠軒、紅翠斎、一陽井、台嶺、北峰、北鄒田夫、時雨岡逸民、恒酔天、酔放逸人、了巍居士と号す。また俳名や画号として、花藍、華藍と称している。 江戸小伝馬町の書肆(本屋)須原屋三郎兵衛の長男として生まれる。父の三郎兵衛はもと須原屋茂兵衛という大店の版元に長年年季奉公した功により、のれん分けを許された。重政は本に囲まれて育ったわけで、長じて浮世絵師になったのは、本人の絵心以外にこうした環境が影響していると推測される。既に10歳半ばには、暦の版下などを書いたという。その頃出版されていた紅摺絵は甚だ稚拙で、これくらいなら自分も描けると思ったのが絵師になる切っ掛けだったという。絵は師匠につかず独学で学んだ。しかし北尾の画姓は上方の浮世絵師北尾辰宣に由来し、本姓の北畠に読みが近いことも影響していると考えられる。辰宣は「自分の思いのまま、欲しいままに描く」という意味の「擅画」という語を用いたが、重政もこうした作画姿勢に共感したと思われる。浮世絵師になってからは大伝馬町三丁目扇屋井筒屋裏に住んでいたが、後に金杉中村の百姓惣兵衛地内に永住した。 重政は谷素外に師事して俳諧を学んでおり、花藍の号を受けたといわれ、プロの文字書きで師承は不明であるが書道に通じ三体篆書隷書をよくし、暦本の版下、祭礼や年中行事の際に掲げられる幟の文字などに有名書家たちに混じり揮毫、重政の書も大書されていたという。このような才能によって浮世絵を描き、一派の祖となった。宝暦末頃から西川祐信や鳥居清満風の紅摺絵の役者絵を描き、試行錯誤を重ねていった。明和2年(1765年)の摺物に花藍の号をもって参加、錦絵創製の有力絵師として活躍し始め、安永、天明の頃には画風が出来上がり、無款による美人画のほか、浮絵や草双紙の挿絵も多数描いた。一枚絵よりはむしろ版本における活躍が目立ち、手がけた絵本は60点を超え、黄表紙挿絵は100点以上あるといわれる。なかでも安永5年(1776年)に勝川春章と合作した絵本「青楼美人合姿鏡」は、実在の花魁をもとに吉原風俗を描いた代表作として良く知られている。他には同じく春章と合作した錦絵「かゐこやしない草」、洋風画の影響の見られる「写真花鳥図会」などが著名である。また、歌川豊春とも合作するなど、安永天明期の浮世絵黄金時代における一方の雄であった。天明期以降は専ら絵本や挿絵本の仕事を主とし、肉筆浮世絵をも描いた。後年名が売れたあとも、次第に浮世絵の流派が定まっていく中で、若輩が担当することが多くなっていった版本挿絵の仕事を継続的にこなしているのは、重政の本好きを表しているといえる。肉筆では天明期の「摘み草図」(東京国立博物館所蔵)、天明5年(1785年)作画「美人戯猫図」(浮世絵太田記念美術館所蔵)があげられる。。享年82。墓所は台東区西浅草の善竜寺。法名は了巍居士。 重政は次の天明期に美人画において活躍する鳥居清長に影響を与え、若き頃の喜多川歌麿を弟子のようにその面倒を見ている。また教養のある重政のもとには北尾政演、北尾政美、窪俊満、式上亭柳郊のような文学的教養のある門人が集まった。大田南畝は『浮世絵類考』で「近年の名人なり。重政没してより浮世絵の風鄙しくなりたり」と高く評価している。 後の喜多川歌麿や葛飾北斎などにも影響を与えている。 『絵本吾妻花』 絵本 ※明和5年 『絵本三家栄種』 絵本 ※明和8年 『青楼美人合姿鏡』 絵本 ※安永5年、春章と合作 『時花兮鶸茶曾我』 黄表紙 ※芝全交作、安永9年 『絵本吾妻抉』 絵本 ※天明6年 『花鳥写真図彙』初編 ※文化2年 「屏風前の二美人」 大判 ベルリン国立東洋美術館(英語版)所蔵 ※無款 「浮世六玉川 第五 陸奥 能因」 細判6枚揃のうち 城西大学水田美術館所蔵 「芸者と箱屋」 大判 ホノルル美術館所蔵 ※安永6年頃 「東西南北之美人」 大判揃物 ※無款、安永6年頃 「品川君姿八景」 大判揃物 ※無款、安永6年頃 「摘み草図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵 「ほたる狩図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵 「美人戯猫図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵 ※「乙巳林鐘 東都叡嶽後園北尾紅翠齋書」の落款と花押あり。天明5年 「見立普賢菩薩図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵 ※真巌賛 「東叡麓八景 溝店夜雨」 木版、ビルバオ美術館蔵。 「両国橋納涼図」 1770年頃。木版 「染井之植木屋」 1770年頃。木版 「本所五ツ目五百羅漢寺栄螺堂之図」 多色摺り木版。ボストン美術館蔵 「朝顔雨静」 1778年。木版 ヒルガオとカワセミ(部分)。1795年 藤懸静也 『増訂浮世絵』 雄山閣、1946年 ※近代デジタルライブラリーに本文あり。120頁、96コマ目。 楢崎宗重編 『浮世絵大系3 春章』 集英社、1974年 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 ※48頁 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年 ※107頁 稲垣進一編 『図説浮世絵入門』〈『ふくろうの本』〉 河出書房新社、1990年  小林忠編 『肉筆浮世絵大観(2) 東京国立博物館 II 』 講談社、1995年 小林忠編 『肉筆浮世絵大観(5) 浮世絵太田記念美術館/板橋区立美術館/北斎館』 講談社、1996年 ※75頁 小林忠監修 『浮世絵師列伝』 平凡社<別冊太陽>、2006年1月 ISBN 978-4-5829-4493-8 内藤正人 『江戸の人気浮世絵師 ―俗とアートを究めた15人』〈『幻冬舎新書』271〉 幻冬舎、2012年 ISBN 978-4-344-98272-7 浮世絵師一覧 肉筆浮世絵 浮世絵#代表的な浮世絵師", "勝川 春章(かつかわ しゅんしょう、享保11年〈1726年〉または寛保3年〈1743年〉 - 寛政4年12月4日または12月8日〈1793年1月15日または1月19日〉)とは、江戸時代中期を代表する浮世絵師。役者絵では役者個人の特徴を捉えた似顔絵風作画の先鞭をつけ、肉筆の美人画でも細密優美な作風で高い評価を得た。 本姓不詳、「藤原」とする説もあるが確かではない。諱は正輝、字は千尋。俗称は要助、のちに祐助と改む。画姓は初め宮川、または勝宮川、後に勝川、勝と称した。号は春章、旭朗井、李林、六々庵、縦画生。江戸の人といわれるが、台東区蔵前の松平西福寺に伝わる過去帳には春章以前の父祖の名が記されていないので、春章の代で他所から江戸に来た可能性が指摘されている。ただし春章とは知己の高嵩月が記した『画師冠字類考』(岩瀬文庫蔵)には春章の略歴があり、それによれば春章の父は医者で葛西にいたという。 明和年間から没年までを作画期とする。絵を宮川春水に、また高嵩谷にも学び、英一蝶風の草画もよくしている。北尾重政とは家が向かいで親しく、その指導を受けたという(『古画備考』)。春章は立役や敵役の男性美を特色とし、容貌を役者によって差別化しない鳥居派の役者絵とは異なる写実的でブロマイド的な役者似顔絵を完成させ、大衆に支持された。そのはじめとなったのは、一筆斎文調との合作として明和7年(1770年)に刊行した『絵本舞台扇』である。その後文調と比較して、明快な色彩と、素直で誇張のない表現で、人気を博した。特に「東扇」(あずまおおぎ)の連作は、人気役者の似顔絵を扇に仕立てて身近に愛用するために、扇の形に線が入っており、大首絵の先駆的作品とされる。ほかに代表作として「かゐこやしない草」があげられる。 春章には勝川春好、勝川春英をはじめとして勝川春潮、勝川春林、勝川春童、勝川春常、勝川春泉、勝川春暁、勝川春朗(のちの葛飾北斎)など多くの弟子がいた。春章を祖とする勝川派は役者似顔絵を得意として隆盛したが、春章自身は天明後期には勝川派を代表する座を弟子の春好と春英に譲り、肉筆画に専念してゆく。特に細密な美人画は当時から称賛されていたようで、安永4年(1775年)六月序の洒落本『後編風俗通』に「春章一幅価千金」と讃えられた。この語句は従来「一幅」という語句から春章の肉筆美人画を讃えたものと解釈されているが、安永4年当時春章は未だほとんど肉筆美人画を制作しておらず、これは現在数点確認されている柱隠しの錦絵美人画のことを指すことは注意する必要がある。肉筆画の代表作としては美人画の「雪月花図」(MOA美術館所蔵)がある。肉筆画において優れた美人画を数多く残したのは、宮川長春、春水の影響であろうとされる。 人形町の地本問屋林屋七右衛門の家に寄寓し、同店の仕切り判を画印に使用したことから「壺屋」、「壺春章」ともいわれた。俳諧もたしなみ俳名を酉爾(または西示)、のちに宣富と称し、当時江戸で出された句集にいくつかの句を残している。また松平西福寺の過去帳によれば勝川春橋は孫に当たるが、春橋が実際に祖父である春章から絵を学んだのかどうかは不明である。 墓所は現在松平西福寺となっているが、もとは同寺内の子院である存心院にあり、明治になって存心院が退転したので移されたという。墓石には辞世として「枯ゆくや今ぞいふことよしあしも」の句を刻む。法名は勝誉春章信士。 なお春章の享年は一般には67歳とされているが、これは『名人忌辰録』(関根只誠著、1894年)でそのように記されたのが濫觴となっている。しかし春章の作品も含めた江戸時代の資料において、春章の享年について67歳であると記したものは一切見当たらず、関根只誠がいかなる資料や根拠によって67歳としたのかは不明である。生年の享保11年というのもこの67歳から逆算したものである。同志社大学教授の神谷勝広は上述の『画師冠字類考』に春章の享年が「年五十歳」と記されていることから、通説よりも17歳若返ると指摘している。また『画師冠字類考』では没年を「寛政四年十二月四日」としており、寛政4年12月8日とする過去帳や墓石とは日付に違いがあるが、「死亡日が『四日』で葬儀日が『八日』だったのかもしれない」と推測している。 『風流錦絵伊勢物語』 安永2年(1773年)刊行 『錦百人一首あづま織』 安永4年刊行 「東扇 初代中村仲蔵の斧定九郎」 大判錦絵 東京国立博物館所蔵 ※連作「東扇」のひとつ。安永4,5年~天明元,2年(1775,6年~1781,2年)頃 「五代目市川団十郎の股野五郎 三代目沢村宗十郎の河津三郎 初代中村里好の白拍子風折実八鎌田正清娘」 細判錦絵3枚続 太田記念美術館所蔵 「二代目市川八百蔵の富士左近助行家 四代目松本幸四郎の浅間左衛門照政」 細判錦絵2枚続 城西大学水田美術館所蔵 「三代目瀬川菊之丞」 細判錦絵 城西大学水田美術館所蔵 「九代目市村羽左衛門」 ホノルル美術館所蔵 ^ a b c d 神谷(2017) ^ 内藤(2012)pp.79-82。 ^ 安村敏信監修 江戸東京博物館 あべのハルカス美術館 読売新聞社編集 『大妖怪展 土偶から妖怪ウォッチまで』 読売新聞社、2016年、p.72。 ^ 辻惟雄 小林忠 浅野秀剛ほか監修 朝日新聞社事業本部大阪企画事業部ほか編集 『ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展 「江戸の誘惑」図録』 朝日新聞社、2006年。 藤懸静也 『増訂浮世絵』 雄山閣、1946年 132-134頁 (国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり)。 サントリー美術館編 『異色の江戸絵画』 サントリー美術館、1984年 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年 ※101 - 102頁 出光美術館編 『出光美術館蔵品図録 肉筆浮世絵』 平凡社、1988年 稲垣進一編 『図説浮世絵入門』〈『ふくろうの本』〉 河出書房新社、1990年 小林忠監修 『浮世絵師列伝』 平凡社<別冊太陽>、2006年1月 ISBN 978-4-5829-4493-8 内藤正人 『勝川春章と天明期の浮世絵美人画』 東京大学出版会、2012年 ISBN 978-4-13-086043-7 神谷勝広 「勝川春章伝記少考」『浮世絵芸術』第173号、国際浮世絵学会、2017年1月20日、pp.22-29 浮世絵#代表的な浮世絵師 浮世絵師一覧 肉筆浮世絵", "鳥橋斎 栄里(ちょうきょうさい えいり、宝暦9年〈1759年〉 - 没年不詳)とは、江戸時代中期の浮世絵師、御家人。 鳥文斎栄之の門人。栄之門人の中では鳥高斎栄昌に次ぐ高弟である。姓は宇田川、名は忠春。通称は鉄蔵、五左衛門。鳥橋斎栄里、鳲鳩斎(しきゅうさい)栄里、勿用斎永犂、武川亭永艃、礫川亭永理、礫川亭永犂、礫川亭ヱひり、礫川亭一指、小石一指、小石堂一指と号す。『諸家人名江戸方角分』の小石川の部に、「永理 礫川 又一指ト改 丸田橋 宇田川五左ヱ門」とあるので、この「永理」と栄里(一指)は同一人とされる。 宝暦9年(1759年)、幡野一郎兵衛春郷の三男として小石川に生まれ、安永3年(1774年)に宇田川左京忠繁の養子となって宇田川家の家督を継いだ。家禄は蔵米150俵で、栄之と同じ小普請溝口十番組に属していた。 初作は天明8年(1788年)の洒落本『青楼五雁金』の挿絵で、この時の落款は「永理」である。並行して「栄里」と称し、寛政8年(1796年)頃まで錦絵22点と、肉筆美人画などを描いた。栄里期の錦絵では、同門の鳥高斎栄昌、栄烏と共作した「郭中美人競」が著名で、越前屋唐土、鶴屋かしく、丸屋九重の3点を栄里が描いた。他に「二代目富本豊前掾」と「山東京伝」の肖像画は、背景に黒雲母摺りを使用し、東洲斎写楽ほど個性的な描写ではないが、人物の風格をよく把握した作品で、栄里の名前を忘れえぬ物にしたといえるほどの傑作にあげられる。 他に美人画では、「三ケ之津草嫁美人合」や「青楼美人斉富」などを描いている。また栄里時代の肉筆画「美人図」は足元に置かれた三味線によって、この立ち美人が芸妓であることがわかる。着物は白地に桜花が胡粉で盛り上げて描かれている。栄之風の長身美人であるが、顔を横に向けて細い首を見せないため、安定した姿を示している。その後、錦絵「大もんじや内多が袖」に、礫川亭永犂画と落款している。この作品に描かれた人物は、顔立ちがやや頬のこけた感じが見受けられる。また、同じく礫川亭永犂画の落款のある肉筆画「桜下遊女図」に描かれた遊女は、ふっくらとした顔立ちをしており、衣服のひだの表現には金泥線を使い丁寧に描かれているため、錦絵よりも以前の作品であるといえる。さらに、肉筆画「見立琴高仙人図」に、礫川亭永艃冩と款しており、画風にも栄之の影響が見られ、栄里落款の美人画に酷似している。 その後、文化元年(1804年)に作画をした十返舎一九の黄表紙『風薫婦仇討』の挿絵や、文化4年(1807年)に絵入狂歌本『狂歌蓬莱集』などには「永艃」と款しており、「永艃」の落款で錦絵、肉筆画、黄表紙の挿絵などを手がけた。さらに一指と称して以降は、肉筆画のみを描いている。 「江戸花柳橋名取 二代目富本豊前掾」 大判 パリ国立図書館所蔵 「江戸花京橋名取 山東京伝」 大判 東京国立博物館所蔵 「郭中美人競 越前屋唐土」 大判 ボストン美術館所蔵 「郭中美人競 鶴屋内かしく」 大判 ボストン美術館所蔵 「郭中美人競 丸屋九重」 大判 シカゴ美術館所蔵 「丁子屋内雛鶴 つるし つるの」 大判 ボストン美術館所蔵 ※画中に「動(うごき)なき 世にすみなれて 石山の かとのとれたる 月のまとけさ」という歌あり 「大もんじや内多が袖」 大判 日本浮世絵博物館所蔵 「梅窓美人図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵 ※「栄里画」の落款、「鳲鳩斎」の白文方印 「美人図」 紙本着色 板橋区立美術館所蔵 ※「鳲鳩斎栄里画」の落款 「六玉川美人図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵 ※「栄里戯画」の落款 「立ち美人図」 紙本着色 光記念館所蔵 ※「栄里画」の落款、「ゑいり」と「鳲鳩斎」の朱文方印あり。那須ロイヤル美術館(小針コレクション)旧蔵 「柳下二美人図」 紙本着色 浮世絵 太田記念美術館所蔵 ※「鳲鳩斎栄里画」の落款 「遊女立姿図」 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵 ※「栄里戯画」の落款、「榮田人」の朱文方印、「鳲鳩斎」の白文方印 「団扇を持つ遊女図」 紙本墨画 熊本県立美術館所蔵 ※「栄里戯画」の落款・花押、唐衣橘洲の賛あり 「遊女後姿図」 紙本墨画 双幅 熊本県立美術館所蔵 ※右図に「礫川亭永理」の落款、「永」の白文方印・「犂」の白文方印 「見立業平東下り図」 絹本着色 三幅対 日本浮世絵博物館所蔵 ※各幅に「礫川亭永理」の落款、「永」の白文方印・「犂」の白文方印 「人物坐像図」 絹本着色 熊本県立美術館所蔵 ※「礫川亭永犂」の落款、「永」の白文方印・「犂」の白文方印 「頭巾美人図」 絹本着色 熊本県立美術館所蔵 ※「礫川亭永犂画」の落款、「勿用斎」の白文方印・「永犂」の朱文方印 「見立琴高仙人図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵 ※「礫川亭永艃冩」の落款、「永」の白文方印・「艃」の白文方印 「遊女と禿図」 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵 ※「礫川亭永艃画」の落款、「永」の白文方印・犂の白文方印 「桜下遊女図」 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵 ※「勿用斎永犂画」の落款、「永犂」の朱文方印・「勿用斎」の白文方印 「松下美人図」 絹本着色 静嘉堂文庫美術館所蔵 ※「礫川亭一指」の落款、「礫川亭」の白文方印・「一指」の朱文方印 享和年間頃 「犬と美人図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵 ※「礫川亭一指」の落款、「礫川亭」の白文方印・「一指」の朱文方印 「見立普賢菩薩図」 紙本着色 光記念館所蔵 ※「礫川亭筆」の落款 「遊女図」 絹本着色 光記念館所蔵 ※「礫川一指」の落款 「浴後美人図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵 ※「礫川一指」の落款 「団扇を持つ遊女図」 紙本墨画 熊本県立美術館所蔵 ※「栄里戯画」の落款と朱筆花押、唐衣橘洲の画賛あり 「美人読書図」 絹本着色 熊本県立美術館所蔵 ※「小石一指筆」の落款、「一指」の白文方印・「小石」の白文方印 二代目瀬川富三郎 『諸家人名江戸方角分』 ※国立国会図書館デジタルコレクションに文政元年(1818年)の写本の画像あり。永理(宇田川五左ヱ門)の名は54コマ目に見える。 藤懸静也 『増訂浮世絵』 雄山閣、1946年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。170頁、121コマ目。 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年 ※104頁 『小針コレクション 肉筆浮世絵』(第四巻) 那須ロイヤル美術館、1989年 熊本県立美術館編 『今西コレクション名品展Ⅲ』 熊本県立美術館、1991年 小林忠編 『肉筆浮世絵大観(2) 東京国立博物館』 講談社、1995年 ※212頁 ISBN 978-4-062-53252-5 国際浮世絵学会編 『浮世絵大事典』  東京堂出版、2008年 ISBN 978-4-4901-0720-3 浮世絵#代表的な浮世絵師 浮世絵師一覧 肉筆浮世絵", "二代目 歌川豊国(にだいめ うたがわ とよくに、生没年不詳 )とは、江戸時代の浮世絵師。 初代歌川豊国の門人。名は源蔵、一陽斎(文政11 - 12年)、一暎斎(文政11年頃以降)、後素亭(文政11年頃 - 天保5年)、満穂庵、また一龍斎と号す。文政の初め頃、初代豊国に入門し当初は国重(くにしげ)と称したという。のちに豊重(とよしげ)と名を改め、豊国忰豊重とも称した。文政7年(1824年)以前には初代豊国の養子となり、初代の没後、翌文政8年に二代豊国を襲名する。しかしこの襲名について『名人忌辰録』は「同門不承知」であったと伝えており(「歌川豊国二世」の項、ただしこの豊国とは歌川国貞のこと)、また『狂歌人名辞書』も「一たび豊国の号を継ぎしが物議の為め再び元の国重に復す」とあり、豊重の豊国襲名が当時の歌川派の中で問題になっていたらしいことが伺える。ちなみに弘化元年(1844年)、兄弟子の国貞が豊国の名跡を継いでいるが、なぜか本来は三代目にあたるにもかかわらず、二代目豊国の存在を無視して自らを「二代豊国」と称した。 画業は忠実に師の画風を受け継ぎ、堅実な作風で合巻の挿絵や美人画、役者絵、芝居絵を描いた。文政11年(1828年)頃には本郷春木町に住んだことから、後に二代目歌川豊国を称した国貞と区別するため「本郷豊国」と呼ばれる。天保5年(1834年)頃を境に作品は見られなくなる。『名人忌辰録』によれば豊国襲名が「同門不承知」だったことからついに絵師を廃業し、本郷三丁目で陶器商を営んだという。門人に二代目歌川国重、歌川国盛、歌川国鶴がいる。 『傾城水滸伝』 ※曲亭馬琴作、文政8年 - 天保6年刊行。初編の挿絵を二代目豊国が担当 『笹色猪口暦手』 ※柳亭種彦作、文政9年刊行 『誂織八丈縮緬』 ※山東京山作、文政10年刊行 『尾上松緑百物語』 ※三代目尾上菊五郎作、文政9年刊行 『今昔虚実録』 ※桜川慈悲成作、文政14年刊行 「定助実ハ笹野権三・市川団十郎」 大判錦絵 ボストン美術館所蔵 ※文政8年正月、江戸中村座『御国入曽我中村』より。「豊国伜豊重画」の落款あり 「稲の谷半兵衛・坂東三津五郎」 大判錦絵 ボストン美術館所蔵 ※「豊国伜豊重画」の落款あり 「道具屋与兵衛実ハ田代孫三郎・三枡源之助」 大判錦絵 ボストン美術館所蔵 ※「一龍斎豊重画」の落款あり 「名勝八景」 横大判8枚揃 国立国会図書館所蔵 ※天保5年頃 「新製錦手猪口」 大判錦絵揃物 日本浮世絵博物館所蔵 ※文政7 - 8年 「風流東姿十二支」 大判錦絵12枚揃 「東名所 芝八景 増上寺晩鐘」 大判錦絵 東京都立図書館所蔵 「新製姿見酒盃今様美人合」 大判錦絵 日本浮世絵博物館所蔵 「こいな・岩井半四郎」 大判 日本浮世絵博物館所蔵 「芸者立姿」 大判 日本浮世絵博物館所蔵 「役者花合 坂東秀佳」(三代目坂東三津五郎) 大判 新藤茂所蔵 ^ 『浮世絵師伝』は生年を享和2年(1802年)、『原色浮世絵大百科事典』第2巻及び『図説浮世絵入門』も生年を享和2年頃とするが、『名人忌辰録』の「歌川国重」(二代目豊国)の項では「天保六未年(1835年)十一月朔日歿す、歳五十九」と記しており、天保6年没で享年59だとすると生年が享和2年では計算が合わない。『浮世絵の基礎知識』(雄山閣、1987年)は生年を安永6年(1777年)としており、天保6年没享年59から逆算したものと見られる。『名人忌辰録』の「歌川豊国二世」(歌川国貞)の項には「一龍斎国重、故豊国の号を嗣で二世と称し夭死す」とある。 ^ 渋谷区立松濤美術館編集・発行 『月―夜を彩る清けき光』 2016年、pp.69,137。 ^ 池田芙美 丹羽理恵子 井垣万里子編集 『歌舞伎座新開場記念展 歌舞伎 江戸の芝居小屋』 サントリー美術館、2013年2月6日、pp.128,254-255 ^ 浮世絵太田記念美術館編集 『京都市・プラハ市姉妹都市提携1周年記念 プラハ国立美術館所蔵浮世絵展』 プラハ浮世絵展京都実行委員会、1997年2月27日、p.10。 関根只誠 『名人忌辰録 下』 1894年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。4コマ目。 井上和雄編 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、1931年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。113 - 114コマ目。 狩野快庵編 『狂歌人名辞書』 臨川書店、1977年(復刻版、原著は昭和3年〈1928年〉刊行) 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年 ※124頁 稲垣進一編 『図説浮世絵入門』〈『ふくろうの本』〉 河出書房新社、1990年 ※99頁 太田一斎編 『歌川派二百年と七代目歌川豊國』 歌川豊國興隆会、2002年 浮世絵師一覧 肉筆浮世絵 浮世絵#代表的な浮世絵師" ]
ABC01-02-0097
「一つの妖怪がヨーロッパに現れている」という書き出しで始まる、マルクスとエンゲルスの共著といえば何でしょう?
共産党宣言
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[ "共産党宣言", "ユダヤ人問題によせて", "帝国主義論", "経済学批判要綱", "実践論" ]
[ "『共産党宣言』(きょうさんとうせんげん、ドイツ語: Manifest der Kommunistischen Partei)または『共産主義者宣言』(ドイツ語: Das Kommunistische Manifest)とは、1848年にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって書かれた書籍。マルクス主義者による共産主義の目的と見解を明らかにした最初の綱領的文書とされている。2013年6月、資本論第一巻の初版と共に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界の記憶に草稿が登録された。 正義者同盟(別訳語:義人同盟)は1836年にパリで生まれた亡命ドイツ人を中心とした組織である。エンゲルスは『ドイツにおける社会主義』という論文のなかで、正義者同盟はフランスの革命家であるフランソワ・ノエル・バブーフ以来のユートピア的な共産主義の伝統をひくもので、財貨全体を共有することや秘密結社としての色合いが濃かったことを回顧している。 同じくエンゲルスの回顧『共産主義者同盟の歴史によせて』によれば、マルクスとエンゲルスはこの組織に後から接触し、同盟の首脳部も全欧州に同盟員をもつ組織に発展する過程で秘密結社的・バブーフ的な共産主義結社からの脱出を模索していた。同盟の首脳部幹部(具体的にはカール・シャッパー)は、ヴァイトリング派に抵抗するため、当時孤立状況にあったマルクスとエンゲルスと提携することを決断。シャッパーはマルクスたちに加盟をすすめ、同盟の危機的状況を打破する理論的宣言を執筆するよう依頼した(1847年秋)。1847年6月の第1回大会では『共産主義の信条表明』が暫定的な綱領草案として採択される。『共産主義の信条表明』は全文がエンゲルスによって書かれており、書記のヴィルヘルム・ヴォルフ(de:Wilhelm Wolff (Publizist))と議長シャッパーの署名がある。 『共産主義の信条表明』草案は22の問答体形式で書かれたが、同盟のブリュッセル班でも賛成が得られなかった。またモーゼス・ヘスは上記草案の修正案を提出する。エンゲルスはこれを徹底的に批判、同盟より新草案の作成を一任される。このため、エンゲルスは再び10月下旬から11月にかけて問答体の草案を書くことになった。これがいわゆる『共産主義の原理』である。以前の『共産主義の信条表明』草案が22の問答形式で書かれたのに対し、その後に書かれた『共産主義の原理』は25の問答になっている。服部文男の論考によれば、これらのエンゲルスの手書きの草案以外に、新たな別の案が作成されていた可能性がある。 6月の第1回大会の半年後、同盟の第2回大会が1847年11月29日から12月8日にかけてロンドンで行われた(これにはマルクス、エンゲルスも出席している)。エンゲルスは大会直前の1847年11月23日付の書簡で「問答形式をやめ、共産主義者宣言という題」にする方がよいという趣旨をマルクスに伝えた。それに対し同盟幹部は1847年11月の組織再編大会で採択した規約において「党の名のもとに宣言を発布する」としていた。 ところがヨーロッパの革命的情勢がますます切迫したものになっていたにもかかわらず、マルクスの『宣言』執筆は遅々としていた。そのため1848年1月25日付の共産主義者同盟中央委員会(ロンドン)からブリュッセル地区委員会(マルクスである)に宛てた通信「1月24日の中央委員会決議」では、マルクスに対し新綱領となる『宣言』を2月1日までにロンドンに発送するように督促している。 マルクスはなんとか1月に綱領案を脱稿し、その後ロンドンへ発送。翌月21日、カール・シャッパーの校閲を経て、ロンドンで印刷・発行された。この時に著者名がつけられていないのは同盟の方針である。また共産主義者同盟の中心者は上述のようにマルクスではなく、カール・シャッパーと、その反対派の急先鋒ヴィルヘルム・ヴァイトリングであった。したがってこの文書にはマルクス、エンゲルスの思想とは別に共産主義者同盟幹部たちや職人革命家たち(ヴァイトリング、シャッパー等)の政治的見地や社会的意識が反映している。このためマルクス研究者の間では、この文書は厳密な意味ではマルクス自身の著作ではないという見解もある。 後年、『共産党宣言』が何度も再版された時にマルクスもエンゲルスも自著(共著)としてこれを扱い、序文を書いている。 的場昭弘・内田弘・石塚正英・柴田隆行編『新マルクス学事典』弘文堂、2000年、122-124ページ参照 篠原敏昭・石塚正英編『共産党宣言――解釈の革新』御茶の水書房、1998年、40ページ参照 本書は次の四つの章からなる。 第1章「ブルジョワとプロレタリア」 第2章「プロレタリアと共産主義者」 第3章「社会主義的および共産主義的文献」 第4章「種々の反対党に対する共産主義者の立場」 エンゲルスは本書の全体像について、1883年のドイツ語版序文のなかで「『宣言』を貫く根本思想」として以下の諸点を挙げた。 経済が社会の土台であること すべての歴史は階級闘争の歴史であること プロレタリア革命は一階級の解放でなく人類全体の解放であること なお、マルクスにもエンゲルスにも経済的土台を上部構造決定の唯一の契機とする考え方はない。 『宣言』冒頭の有名な一文「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」は、ローレンツ・フォン・シュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』(1842年)中のフランス共産主義に関する文章に酷似している。マルクスはこの著作を大変な熱意で読んでいるが、マルクス自身がここから直接にヒントを受けて「共産主義=幽霊」としたと断言しているわけではない。しかし『宣言』にはシュタインの著作に影響を受けた共産主義者同盟幹部の職人革命家たちの政治的な意識や見地が反映されている。 第1章は、「これまでの社会のすべての歴史は階級闘争の歴史である」という有名な章句で始まり、ブルジョワジーの時代(まだこのときはマルクスもエンゲルスも「資本主義的生産様式」という言葉を使っていない)は生産と社会をどう変えてしまったかを述べ、現代は生産力と生産関係の矛盾が激化した社会革命の時代であるとして、プロレタリアートという勢力がその革命を担う、という内容を述べている。また一方では商人資本・産業資本へと展開されるヨーロッパ各国の経済発展とその生産関係の変革を述べながら、ブルジョワ階級の政治的支配者としての台頭、そしてそれによる近代的代議制国家の確立、政治的意志の中央集権化の過程について述べている。賃金制による労働の本質の変貌、反動主義者も落胆する世界市場の国の独自性を奪う世界主義的性質についても述べられる。さらに社会的諸関係の変化から、一個の“商品”として現れる労働力の存在へと議論が発展していく。「暴力によるブルジョワジーの転覆」という内容もここに登場するが、ここの論旨はプロレタリアートによって「競争による孤立化の代わりに、協同(Assoziation)による革命的団結を作り出す」ことにあると言える。 第2章は、共産主義者の運動の目的・性格づけが行われている。正義者同盟をバブーフ的なものからマルクス的なものへ変えるという当初のねらいからすれば、重要な意味をもつ箇所だった。とくにあらゆる財貨を共有し、完全平等を図るというバブーフ的な共産主義(そして今日でも広く共産主義はそういうものだと思われている)を「粗野な平等化」(第3章)と批判し、所有一般の廃絶ではなく「ブルジョワ的所有の廃止」が目標化された。ブルジョア的所有に対しては「専制的な侵害」なくしてプロレタリアの支配は達成できないとし、例として所得税の強力な累進課税、相続権の廃止、亡命貴族の財産没収、土地や銀行から工場などの国有化、生産手段の共有化、農業と工業の融合、児童労働の廃絶、無償の義務教育を挙げ、プロレタリアが支配階級として組織化された暁にはやがて自ら階級支配を廃し、国家権力も「政治的性格を失う」こと、そして「ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展の条件となる、一つの共同体が現れる」という見通しを述べた。 第3章はさらに次の3つの節に分かれて構成されている。 第1節「反動的社会主義」 a.封建的社会主義 b.小ブルジョワ的社会主義 c.ドイツ社会主義または「真正」社会主義 第2節「保守的社会主義またはブルジョワ社会主義」 第3節「批判的ユートピア的社会主義および共産主義」 ここでは18世紀から19世紀にかけてヨーロッパに存在した多様な社会主義的潮流をどうみるか、という問題にあてられている。当時は「社会主義」「共産主義」を名乗ることが流行のように行われていたので、さまざまな流派が存在していた。その主な検討・批判の対象は第1節cのドイツの真正社会主義であり、モーゼス・ヘスとカール・グリューンが名指しで批判される。また、小ブルジョワ的社会主義(第1節b)や空想的社会主義(第3節。サン=シモン、フーリエ、プルードン等)について、その歴史的意義を積極的に示すと共に、その限界が批判的に論じられる。 第4章は、共産主義者ではない政治勢力に対する共産主義者の政治スタンスのとり方である。「一言で言えば、共産主義者は、いたるところで現に存在する社会的・政治的状態に対するどの革命運動をも支持する」とあるように、ブルジョワジーが中心の運動であってもそれが民主主義や社会発展にかなっていれば支持をすべきという立場を表明した。つまり「ドイツがブルジョワ革命の前夜にある」とした上で、共産主義者はドイツに対してプロレタリア革命ではなく、ブルジョワ革命を展望すべきとしているのである。 末文は「共産主義者は自らの意図や信条を隠すことを軽蔑する。プロレタリアはこの革命において鉄鎖のほかに失う何ものをも持たない。彼らが獲得するものは世界である。万国の労働者、団結せよ」という有名な章句で閉じられる。 本書はマルクス主義の文献の中でも最も広範に読まれていた文献の一つである。そして反対者・批判者からこれを典拠とする批判も数多く行われている。そのうちの最も多いものの一つが「共産主義者は、これまでのすべての社会秩序の暴力的転覆によってのみ、自分の目的が達せられることを、公然と宣言する」という叙述への批判である。また、バブーフの財貨共有制を批判したものの、生産手段と生活手段の区別がなく、「ブルジョア的所有の廃止」というスローガンと並んで「私的所有の廃止」という目標も掲げられていることが、「共産主義は私有財産をとりあげる」という批判の根拠になった。(しかし当書には、宣言における私有財産の廃止とは即ち、ブルジョア的所有の廃止のことであるとする趣旨の内容が書かれている。)マルキスト側からは、その前文には「共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努める」と記されており、さらに暴力革命は当時の欧州の議会状況を反映したものであること、マルクスらは後年これらの見地を捨てたことなどが反駁としてあげられている。 しかしながら当時の正義者同盟も共産主義者同盟も非民主的な方法で社会の変革を目指す一つの秘密結社であったので、実際の方法論としてはマルクスも、シャッパーやヴァイトリングも暴力革命の路線を一時的にせよとったであろうことは推測される。なお最も明確に最後まで暴力革命路線を持ちつづけた同盟関係者はヴァイトリングであった。 「共産党」という言葉は現在では20世紀コミンテルン以来の特殊な政党のことを指すが、19世紀のマルクスの生きた時代の文脈においては、様々な思想的傾向の人々で構成される労働者党は存在したが、共産主義者だけで構成されるいわゆる“共産党”という政党は存在しなかった。1848年2月までロンドンに存在した“共産主義者同盟”はのちの社会民主主義勢力のような近代的な議会政党でもなく、当然20世紀的な国民政党でもなかった。当時のそれは議会ではなく直接行動によって社会革命を企図する秘密結社であった。このため、現在ではこの文書を『共産党宣言』(ドイツ語: Manifest der Kommunistischen Partei)ではなく『共産主義者宣言』(ドイツ語: Das Kommunistische Manifest)と呼ぶべきとする見解がある(石塚正英、篠原敏昭、大藪龍介、金塚貞文他)。 本書は発行された直後に1848年革命が起きたために、長らく入手が困難な状況におかれ、1860年代のドイツでは「『共産党宣言』はドイツ国内に一説によると、たった二冊しか残っておらず、その一部は、マルクスの友人であり後に袂を分かったフェルディナント・ラッサールの本箱の中にあったという」(安世舟『ドイツ社会民主党史序説』御茶の水書房、1973年)。また、ヨーロッパでは「マニフェスト」と言う語で、本書を指すこともある。 日本に於ける最初の翻訳は、1904年11月13日発行の週刊『平民新聞』第53号に幸徳秋水と堺利彦が共訳して掲載したものである(第3章は略された)。ただしこれは、ドイツ語からの翻訳ではなく、サミュエル・ムーアによる英語訳からの重訳であった。この号はただちに官憲の発売禁止措置をうけ、のちに堺が1906年に全文をドイツ語から訳しなおして発表。このときは発禁処分を受けなかったが、大逆事件以後、太平洋戦争が終わるまでの数十年間、非合法のままの扱いをうけた本となった。戦前、マルクスとエンゲルスの本は『資本論』をはじめ数多く読めたが(マルクス=エンゲルス歴史的批判全集MEGAの部分訳や往復書翰集の訳なども出版され、改造社からは日本で独自に編纂された全集も刊行されている)、綱領文書であるこの『共産党宣言』だけは発禁を解かれなかった。なお、官憲(内務省警保局)が自ら訳した共産党宣言も1919年に作成された。 「共産党宣言」幸徳秋水・堺利彦訳、『平民新聞』第53号、1904年11月。(戦後)彰考書院。 『共産党宣言』大田黒年男・早川二郎訳註、『マルクス主義の旗の下に』付録、1930年1月号。[ロシア語版リャザノフの註解本の訳]。 『共産党宣言』内務省警保局訳、外事警察研究資料第13集、1925年。 『共産党宣言』早川二郎訳註、(大竹補注)ナウカ社。[ロシア語リャザノフの註解本の訳] 『共産党宣言』大内兵衛・向坂逸郎訳、岩波文庫、1951年12月。ISBN 4003412451 「共産党宣言」宮川実訳、『世界教養全集』15巻所収、平凡社、1962年2月。青木文庫、改造選書。 『共産主義者宣言』金塚貞文訳、太田出版、1993年10月。ISBN 4872331397 『共産党宣言・共産主義の原理』ML主義研究所訳、大月書店、国民文庫。 『共産党宣言』村田陽一訳(同姓同名の音楽家とは全くの別人)、大月書店(大月センチュリーズ版) 『マルクス・エンゲルス8巻選集』第2巻、大月書店 『共産党宣言・共産主義の諸原理』服部文男訳、新日本出版社(古典選書版)、1998年11月 「コミュニスト宣言」今村仁司・三島憲一・鈴木直・塚原史・麻生博之訳『マルクス・コレクションⅡ ドイツ・イデオロギー(抄) 、哲学の貧困、コミュニスト宣言』、筑摩書房、2008年3月 大藪龍介『マルクス派の革命論・再読』社会評論社、2002年 篠原敏昭・石塚正英編著『共産党宣言――解釈の革新』御茶の水書房、1998年 田畑稔『マルクスとアソシエーション マルクス再読の試み』新泉社、1994年 マルクス・カテゴリー事典編集委員会編『マルクス・カテゴリー事典』青木書店、1998年 的場昭弘・内田弘・石塚正英・柴田隆行編『新マルクス学事典』弘文堂、2000年 テレル・カーヴァー『マルクスとエンゲルスの知的関係』内田弘訳、世界書院、1995年(原著1983年) テレル・カーヴァー『マルクス事典』村上隆夫訳、未來社、1991年(原著1987年) ^ a b c d e f g h i 安藤実. “共産党宣言 きょうさんとうせんげん Manifest der Kommunistischen Partei”. 日本大百科全書. 小学館. 2018年1月2日閲覧。 ^ Schriften von Karl Marx: \"Das Manifest der Kommunistischen Partei\" (1848) und \"Das Kapital\", ernster Band (1867) ^ 「ハーグ大会についての演説」1872年9月 マルクス・エンゲルス全集(18) 158ページ、不破哲三『科学的社会主義における民主主義の探求』40ページ ^ エンゲルス「フランスにおける階級闘争 序文」、マルクス『フランスにおける階級闘争』所収、大月書店 国民文庫18ページ ^ 『共産党宣言』邦訳史 - 経済学史学会 ファシスト・マニフェスト マニフェスト 当時の事情 共産主義者同盟 (1847年) カール・シャッパー ヴィルヘルム・ヴァイトリング 「共産党宣言」以前 正義者同盟 秘密結社 フランソワ・ノエル・バブーフ ローレンツ・フォン・シュタイン 今日のフランスにおける社会主義と共産主義 Manifest der Kommunistischen Partei (PDF) (ドイツ語) 原文 共産党宣言 (日本語) 翻訳(永江良一)文 共産党宣言 (日本語) 翻訳文 『共産党宣言』:旧字旧仮名 - 青空文庫(堺利彦・幸徳秋水訳) Manifesto of the Communist Party (PDF) (英語) 翻訳(Samuel Moore)文 Manifesto of the Communist Party (英語) 翻訳(Samuel Moore)文", "『ユダヤ人問題によせて』(ユダヤじんもんだいによせて、ドイツ語: Zur Judenfrage)は、カール・マルクスが1843年に執筆し、翌年『独仏年誌』に発表した論文。後年の唯物史観を形成する上で1つの画期となったものの、草稿自体は現存していない。 本論文は2部構成で、ユダヤ人がプロイセンで政治的解放を成し遂げようとする試みに関する、青年ヘーゲル派のブルーノ・バウアーによる研究を批判したものである。 バウアーは、政治的解放が宗教に如何なる隙をも与えない世俗国家でのみ可能となる以上、ユダヤ人は棄教によってでしか政治的解放を成し遂げられないと述べている。バウアーによると、こうした宗教上の要求が「人間の権利」と矛盾するため、真の政治的解放とは宗教の廃絶にあるという。しかしマルクスは、「世俗国家」で宗教が最早卓越した役割を果たしていないというバウアーの仮定に誤りがあることを、プロイセンと異なり国教が存在しないアメリカでも宗教が浸透している例を示して反論した。 マルクスの分析では、「世俗国家」が宗教と対立することなく、むしろ前提条件とする点に重点が置かれている。市民から宗教ないしは私的所有を剥奪することが宗教なり私的所有の廃止を意味するものではなく、それらからの分離に道を開くものに過ぎないというわけである。 また、宗教的自由に対する疑問を離れてバウアーの「政治的解放」へと関心を移したことも特色と言える。マルクスは個人が世俗国家において「精神的に」も「政治的に」も自由となりうる一方で、未だ経済的不平等により物質的な限界に直面していると結論付け、これが後年資本主義批判の基礎を築くこととなる。 マルクスから見ると、ブルーノは政治的解放と人間的解放とを混同しており、上記の通り現代国家で政治的解放がなされるにしても、ユダヤ人(或いはクリスチャン)に棄教を求めることはない。というのも、全き人間的解放が成就した暁には宗教が消滅するであろうが、それは「現在の世界秩序の範囲内」において不可能だからである。 本論文の第2部(かなり短いが今日においても最も頻繁に議論され引用されている)では、バウアーによるユダヤ教の「神学的」分析とキリスト教との関係を批判している。バウアーはユダヤ教がキリスト教の発展段階において原始的なものに留まっている以上、ユダヤ人が棄教することは極めて困難と述べているが、マルクスはこれに対し、ユダヤ人の経済生活が精神面に反映されたものに過ぎず、ユダヤ教とは何ら無関係であるとした。 それ故、バウアーが述べたようにユダヤ教は社会から抹殺する必要が無いばかりか、その一部でさえある。マルクスは「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると結論付けた。 1844年2月、マルクスとアルノルト・ルーゲが『独仏年誌』に発表すると、バウアーは同年、マルクスらに対する反批判を盛り込んだ『アルゲマイネ・リテラトゥール・ツァイトゥング』をベルリンにて刊行する。 その後、1845年にはフリードリヒ・エンゲルスとマルクスが青年ヘーゲル派を批判するべく『聖家族』を出版し、論争は泥仕合の様相を呈することとなる。マルクスは本書の各所で、バウアーのユダヤ人問題及び政治的人間的解放に関して、意見を異にすることを再三にわたり表明している。 歴史家のトライチュケは1879年の著書の中で、ユダヤ系移民をドイツの脅威と見做した上で、ユダヤ人に対するドイツ文化への同化を説いた。この論説は1881年6月から7月にかけて「ユダヤ人問題」第2部が再版されると、ベルンシュタインが編集長を務める新聞「社会民主主義」紙上で論争を巻き起こした。 「ユダヤ人問題によせて」自体は1890年10月、当時ヴィルヘルム・リープクネヒトが編集していた「ベルリナー・フォルクスブラット」に再掲載されたほか、1926年にはH・J・ステニングが英訳版を出した。 Louis Althusser, For Marx, first published in 1965 as Pour Marx by François Maspero, S.A., Paris. In English in 1969 by Allen Lane, The Penguin Press Karl Marx:Zur Judenfrage, first published in Deutsch-Französische Jahrbücher 1844. English translation used as a reference for quotations in this article: On The Jewish Question Andrew Vincent, \"Marx and Law\", Journal of Law and Society, Vol. 20, No. 4 (Winter, 1993), pp. 371-397. 高島善哉他(訳) 『ワイド版 世界の大思想Ⅲ-04 マルクス 経済学・哲学論集』 河出書房新社、2005年5月 良知力・廣松渉(編) 『ヘーゲル左派論叢第3巻:ユダヤ人問題』 御茶の水書房、1986年 植村邦彦 『同化と解放 - 19世紀「ユダヤ人問題」論争』 平凡社、1993年 ISBN 4582702112 ^ a b Marx-Engels Gesammtausgabe (MEGA), Volume II, apparatus, pp. 648 (German) Dietz, Berlin 1982 ^ ブルーノ・バウアー「ユダヤ人問題」ブラウンシュバイク、1843年 ^ ブルーノ・バウアー「現代のユダヤ人とキリスト教徒の自由になりうる能力」『二一ボーゲン』1843年、pp.56-71 ^ マルクス 1844年: 私的所有の政治的な撤廃によって、私的所有は廃止されないばかりか、かえって前提さえされているのである。国家が、生まれや身分や教養や職業を非政治的な区分であると宣言するとき、国家がこれらの区別にかまわずに国民のあらゆる成員を国民主権への平等な参加者であると布告するとき、国家が現実の国民生活のすべての要素を国家の見地から取扱うとき、国家は、生まれ・身分・教養・職業の区別を国家なりの仕方で廃止している。しかし、だからといって、国家は、私的所有や教養や職業がそれらなりの仕方で、すなわち私的所有として、教養として、職業として、作用し、それぞれの特殊な本質を発揮するのを妨げはしない。国家は、これらの事実上の区別を廃止するどころか、むしろその区別を前提としてはじめて存在し、自己を政治的国家として感じるのであり、自己のもつこれらの諸要素と対立することによってはじめて国家は自己の普遍性を発揮するのである。 ^ マルクス 1844年: 他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。 ^ マルクス 1844年: ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。 ^ Engels, Marx: The Holy Family 1845, Chapter VI, The Jewish QuestionNo. 1,No. 2,No. 3 ^ Karl Marx Selected Essays, tanslated by H. J. Stenning (Leonard Parsons, London and New York 1926), p. 40-97 唯物論 唯物史観 唯物弁証法 ユダヤ人 マルクス主義 青年ヘーゲル派 ブルーノ・バウアー アブラハム・レオン ユダヤ人問題について - Works of Karl Marx 1844 The Jewish Question, A Marxist Interpretation (French 1946, English 1950)", "『帝国主義論』(ていこくしゅぎろん)は、ロシアの革命家ウラジーミル・レーニンの著作。1916年にチューリヒで執筆され、1917年に初版が刊行された。正式名称は『資本主義の最高の段階としての帝国主義(平易な概説)』(ロシア語: Империализм, как высшая стадия капитализма (популярный очерк))。 生産の集積と独占体(Концентрация производства и монополии) 銀行とその新しい役割(Банки и их новая роль) 金融資本と金融寡頭制(Финансовый капитал и финансовая олигархия) 資本の輸出(Вывоз капитала) 資本家のあいだでの世界の分割(Раздел мира между союзами капиталистов) 列強のあいだでの世界の分割(Раздел мира между великими державами) 資本主義の特殊な段階としての帝国主義(Империализм, как особая стадия капитализма) 資本主義の寄生性と腐朽(Паразитизм и загнивание капитализма) 帝国主義の批判(Критика империализма) 帝国主義の歴史的地位(Историческое место империализма) 本書におけるレーニンの主張の概略は次の通りである。 自由競争段階にあった資本主義において生産の集積がおこり、独占体が生まれる。同時に資金の融通や両替など「ひかえめな仲介者」であった銀行は、銀行自体も独占体となり、資金融通などや簿記を通じて産業を支配するようになる。銀行独占体と産業独占体が融合・癒着した金融資本が成立する。金融資本は経済だけでなく政治や社会の隅々を支配する金融寡頭制を敷く。巨大な生産力を獲得した独占体に対し、国内大衆は貧困な状態に置かれたままになり「過剰な資本」は国外へ輸出される。この資本輸出先を巡り資本家団体の間での世界の分割が行われる。やがてこれは世界の隅々を列強が分割し尽くすことになり、世界に無主地はなくなる。資本主義の発展は各国ごとに不均等であり、新興の独占資本主義国が旧来の独占資本主義国の利権を打ち破るために再分割の闘争を行う。したがって、再分割をめぐる帝国主義戦争は必然である。 ゆえに、帝国主義戦争を不可避でないとする潮流は誤りだ。自国の帝国主義戦争を支持しようとさせる労働運動・社会主義運動の潮流は、資本輸出によってもたらされた超過利潤によって買収された労働貴族が担っており、労働者階級の利益を裏切っている。 帝国主義に発展した資本主義の基礎は独占であり、この段階では生産の社会化は極限まで達しており、資本主義は実体的な富の生産による搾取という本来的な経済のあり方を失い、金融詐術や独占の利得によって利潤をあげる、寄生し腐朽した資本主義になり、次の社会主義にとって代わられざるをえない。 『帝国主義論』が書かれる直前の1914年に第一次世界大戦が勃発。1912年に第二インターナショナルに集っていた社会主義者たちは、戦争に反対していく決議(バーゼル宣言)をしていたにもかかわらず、第一次世界大戦がはじまると、その主流派は自国の戦争を支持する「祖国擁護」の態度をとり、第二インターナショナルは事実上崩壊してしまう。 ドイツ社会民主党の指導者で、当時マルクス主義理論の泰斗といわれたカール・カウツキーは、「祖国擁護」をとなえた戦争支持派と、レーニンらの戦争反対派の中間である「中間派」に位置し、両者の融合に努めようとした。また理論的には、帝国主義列強が共同で世界を搾取する超帝国主義(英語版)の出現の可能性について言及し、帝国主義は列強がとる「政策」の一つであるとして、必ずしも不可避なものでないとした。 レーニンは、この「祖国擁護」をかかげた戦争賛成派の議論とともに、カウツキーの議論を反論する必要性を痛感し、帝国主義戦争は列強の「政策」の一つなどではなく、資本主義の最高段階における必然の現象で、絶対に不可避であるという主張を本書で展開した。また、こうした戦争支持派がなぜ労働運動や社会主義運動のなかに生まれるのかという解明の必要性にも迫られ、そこで上述の「超過利潤による労働貴族の培養」という概念に達した。 本書の序文のなかでレーニンは「本書の基本的な課題は、すべての国の議論の余地のないブルジョア統計の総括的資料と、またブルジョア学者たちの告白にもとづいて、国際的な相互関係における世界資本主義経済の概観図が、20世紀のはじめに、すなわち最初の全世界的な帝国主義戦争の前夜に、どのようなものであったかを示すことであった」とのべ、この本が単なる直近の第一次世界大戦の説明のみならず、「国際的な相互関係における世界資本主義経済の概観図」を示すものになったことをのべて、「この客観的状態を描くためには、いくつかの例や個々の統計資料でなく(社会生活の現象の巨大な複雑さのもとでは、あらゆる命題を証明する実例と個々の資料を好きな量だけいつでも探しだすことができる──原注)、ぜひともすべての交戦列強と全世界の経済生活の基礎に関する資料の総体をとりあげなければならない」と述べ、当時の資本主義経済全体を概観する研究となった。 第7章において、帝国主義の特徴として五つの指標を挙げた。1つ目は①生産と資本の集積が独占(体)をうみだすほどになっていること、2つ目は銀行資本と産業資本の融合により金融資本と金融寡頭制が成立していること、3つ目は商品の輸出にかわって資本輸出が重要な意義を得ていること、4つ目は世界を分割する資本家の国際的独占体が形成され、世界の経済的分割が形成されつつあること、5つ目は資本主義列強による地球の領土的分割が完了していること。この五つの指標の状態が生み出されている資本主義の発展の最高段階こそが帝国主義であると述べている。 このため、レーニンは148冊の単行本、232の論文・統計資料を踏まえた。特にレーニンが参照したのは、フェビアン社会主義者で『帝国主義論』を著わしたジョン・アトキンソン・ホブソン、第二インターナショナルの中央派で『金融資本論』を著わしたルドルフ・ヒルファーディング、そしてロシアの革命家のニコライ・ブハーリンであった。これらに対するレーニンの研究は『帝国主義論ノート』として出版されている。 初版の序文にあるように、初版ではロシア官憲の検閲を考慮して「『奴隷』の言葉で語らざるをえなかった」(レーニン)ため、問題を経済問題に限らざるをえなかったとしている。また、カウツキーびいきだった出版社が、レーニンの原稿にあったカウツキー批判を勝手に削除するなどしたために、初版には大きな問題が残った(初版と第5版のあいだには240カ所にのぼる違いがある)。", "「経済学批判要綱」(けいざいがくひはんようこう、独: Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie)は、カール・マルクスが1857年から1858年にかけて執筆した、経済学批判にかんする一連の未完の草稿のことである。執筆された時期から「1857-58年の経済学諸草稿」(独: Ökonomie Manuskripte 1857/58、1857-58年草稿)などとも呼ばれる。また、ドイツ語のタイトルから「グルントリッセ」(独: Grundrisse)と通称される。 マルクスは亡命生活を始めた1843年秋以来、経済学・哲学・革命論などの研究を行い、「パリ・ノート」9冊、「ブリュッセル・ノート」6冊、「マンチェスター・ノート」5冊などが残されている。1849年にロンドンに亡命してからは共産主義者同盟などで政治活動を行う傍ら、毎日のように大英博物館図書館へ通って研究を続け、1850年9月頃から1853年にかけて「ロンドン・ノート」24冊を書きためていた。1857年夏頃からマルクスは、経済恐慌と革命の到来を予想して研究をまとめ始め、実際に起こった1857年恐慌のなかで、1858年5月までにノート7冊に及ぶ草稿を一気に執筆した。なお、このノートはあくまでも草稿であり、公刊を意図して書かれたものではなかった。 この草稿は、「バスティアとケアリ」(独: Bastiat und Carey、1857年7月執筆)、「経済学批判要綱への序説」(序説、独: Einleitung、1857年8~9月執筆)、「経済学批判要綱」(本文、1857年10月~1858年5月執筆)およびその他の諸草稿からなる。その内容は、マルクスの亡命以来の「15年間の研究成果」であるとともに、それまでの広範で雑多な議論ではなく、経済学批判を軸として自らの研究を本格的にまとめたものであった。草稿は、生産・分配・交換、疎外、価値、労働、資本主義、技術と機械化の進展、資本主義以前の社会構成体、共産主義革命のための前提条件といった、マルクスの経済学・思想の重要な部分をカバーしている。 マルクスは本文の一部である「貨幣にかんする章」をもとにした原初稿(Urtext)を執筆し、さらにこれを改稿して、翌1859年に『経済学批判』を出版した。『経済学批判』の序言(Vorwort、「序説」とは異なる)で述べられる、資本・土地所有・賃労働・国家・外国貿易・世界市場の全6部からなる経済学批判の著述計画は、1857-58年の経済学草稿の執筆のなかで構想されたものである。その後、彼の研究の進展を受けてこの計画は変更され、1867年に『資本論』第1巻が出された。したがって、この草稿はマルクスが本格的にまとめた経済学研究の最初の成果であり、『経済学批判』を経て主著『資本論』へと至る彼の経済学研究の中心部分の構想を展開した最初の原稿と見なされる。他方で、『経済学批判』や『資本論』には反映されなかった議論もあり、この草稿の独自の価値も存在する。 マルクスの死後、ソビエト連邦において全連邦共産党(ボ)中央委員会付属マルクス=エンゲルス=レーニン研究所がこれらの諸草稿を「経済学批判要綱」と名付けて、1939年および1941年に2分冊として出版した。この2分冊は1953年に写真複製版・合本で東ドイツのディーツ出版社から出版され、巷間に知られることによりこの名前が定着する。それ以来、マルクスの初期の著作である「経済学・哲学草稿」(1843-45年、「パリ・ノート」の一部)・「ドイツ・イデオロギー」(1845-46年)・「共産党宣言」(1848年)と、主著である『資本論』(1867年)を媒介する文献として多くの研究・議論が行われている。 この草稿が学者・思想家に与えた影響は非常に大きい。フランスの哲学者のルイ・アルチュセールは草稿と『資本論』を比較するなかで、マルクスの諸著作を全体として首尾一貫したものとみなすのではなく、マルクスの思想に価値形態論の「断絶」を見出した。それはマルクス・レーニン主義を含む従来の様々なマルクス解釈を批判するものであった。また、イギリスの文化理論研究者のスチュアート・ホールは草稿の「序文」に特に注目し、いくつものゼミナールを持つとともに、論文「マルクスの理論ノート――「1857年の序文」を読む」(Stuart Hall, Marx’s Notes on Method: A ‘Reading’ of the ‘1857 Introduction’, Cultural Studies Vol.17 No.2, pp.113–149, 2003)へと結実するなど、カルチュラル・スタディーズにも大きな影響を与えた。この他、アントニオ・ネグリのように『資本論』よりも重要視する思想家も存在している。 「序説」については、この草稿の議論の見通しや方法が書かれているため、『経済学批判』の付録として出版され、重視される場合が多い。例えば、ソ連共産党マルクス=レーニン主義研究所とドイツ社会主義統一党マルクス=レーニン主義研究所が制作した、Marx-Engels Werke (日本語訳:大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』)では、『経済学批判』と同じ巻(第13巻)の付録として収録されている。日本語訳でも、岩波文庫版および国民文庫版で付録として「序説」が収録されている(#日本語訳も参照のこと)。 草稿の一部である「資本制生産に先行する諸形態」(独: Formen, die der kapitalistischen Produktion vorhergehen、「諸形態」とも略される)は、『経済学批判』序言で示される史的唯物論の定式の元となった文章であり、歴史学を中心に特に注目された。ソ連では1939年にロシア語訳され、国際的に行われていたアジア的生産様式に関する議論に影響を与えた。イギリスの歴史学者のエリック・ホブズボームは、「諸形態」を英訳して長文の解説論文を執筆し、資本主義以前の歴史の発展段階は単線的なものではなく、複数のタイプが存在することを主張した。 Bastiat und Carey (バスティアとケアリ) Einleitung zu den \"Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie\" (「経済学批判要綱」への序説) I. Produktion, Konsumtion, Distribution, Austausch (Zirkulation) (生産・消費・分配・交換(流通)) 1. Produktion(生産) 2. Das allgemeine Verhältnis der Produktion zu Distribution, Austausch, Konsumtion(分配・交換・消費への生産の一般的関係) 3. Die Methode der politischen Ökonomie(経済学の方法) 4. Produktion, Produktionsmittel und Produktionsverhältnisse. Produkutionsverhältnisse und Verkehrsvehältnisse. Staats- und Bewußtseinsformen im Verhältnis zu den Produktions- und Verkehrsvehältnissen, Rechtsvehältnisse, Familienvehältnisse(生産、生産手段と生産関係、生産関係と交通関係、生産・交通関係との関係における国家・意識形態、法関係、家族関係) Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie - Erster Teil (経済学批判要綱・その一) II. Das Kapitel vom Geld (貨幣にかんする章) III. Das Kapitel vom Kapital (資本にかんする章) Erster Abschnitt: Der Produktionsprozeß des Kapitals (第一の項目:資本の生産過程) Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie - Zweiter Teil (経済学批判要綱・その二) III. Das Kapitel vom Kapital (Fortsetzung) (資本にかんする章・続き) Zweiter Abschnitt: Der Zirkulationsprozeß des Kapitals (第二の項目:資本の流通過程)(この一部が「資本制生産に先行する諸形態」) Dritter Abschnitt: Das Kapital als Frucht bringend. Zins. Profit. (Produktionskosten etc.) (第三の項目:果実をもたらすものとしての資本、利子、利潤、(生産費用、等々)) Ergänzungen zu den Kapiteln vom Geld und vom Kapital (貨幣にかんする章と資本にかんする章とへの補足) 1. Wert (価値) Gold-weighing Machines (金貨計量機) (出典)新MEGA、『マルクス資本論草稿集1』および『同2』に基づく。 1939–41年 マルクス=エンゲルス=レーニン研究所版 Karl Marx, Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie (Rohentwurf) 1857-58, Anhang 1850-59, (Marx-Engels-Lenin Institute, Moskow). 1953年 ディーツ版 Karl Marx, Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie (Rohentwurf) 1857-58, Anhang 1850-59, (Dietz Verlag, Berlin). 1976年 新MEGA版 第Ⅱ部門第1巻 MEGA, Zweite Abteilung, Band 1, Karl Marx, Ökonomie Manuskripte 1857/58, (Institut für Marxisums-Leninismus, Dietz Verlag, Berlin). 1958–65年 日本語訳 1962–78年 中国語訳 1967–68年 フランス語訳 1968–69年 ロシア語訳 1968–70年 イタリア語訳 1970–71年 スペイン語訳 1971–77年 チェコ語訳 1972年 ハンガリー語訳 1972–74年 ルーマニア語訳 1973年 英語訳 1974–75年 スロヴァキア語訳 1974–78年 デンマーク語訳 1979年 セルビア語訳 1985年 スロヴェニア語訳 1985–87年 ペルシア語訳 1986年 ポーランド語訳 1986年 フィンランド語訳 1989–92年 ギリシア語訳 1999–2003年 トルコ語訳 2000年 韓国語訳 2008年 ポルトガル語訳 (出典)英語版ウィキペディアより。全訳のみのリストであり、部分訳は載せていない。Musto, Marcello (ed.), Karl Marx's Grundrisse: Foundations of the Critique of Political Economy 150 Years Later, (Routledge, London/New York, 2008). 日本語訳は、「経済学批判要綱」の全訳が2つ(下のリストでは太字)、その他「経済学批判要綱への序説」、「資本制生産に先行する諸形態」の翻訳が複数ある。タイトルの日本語訳も一定しておらず、文献によっては「経済学批判大綱」、「経済学批判序説」、「資本主義的生産に先行する諸形態」などとするものも見られる。上にのべたように、「序説」については『経済学批判』の付録として扱われることもある。2015年現在、手に入りやすい版は岩波文庫版(序説)、ホブズボーム版(諸形態)、新日本版(序説)、マルクス・コレクション版(序説および諸形態)である。また、大月全集版(序説)や『マルクス資本論草稿集 1~2巻』(全訳)は多くの大学図書館が所蔵している。 『經濟學批判序説』、河上肇・宮川實訳、弘文堂書房・マルキシズム叢書第6冊、1927年 「資本制生産に先行する諸形態」、飯田貫一訳、『歴史学研究』129号、1947年9月 ロシア語版(1939年)からの重訳。 『資本制生産に先行する諸形態 カール・マルクス草稿』、飯田貫一訳、岩波書店、1949年 上記の飯田訳の修正増補版。 『マルクス・エンゲルス選集 第9巻上』、マルクス・レーニン主義研究所編訳、大月書店、1951年 『世界大思想全集 第2期12巻 社会・宗教・科学思想篇 マルクス』、岡崎次郎・佐藤進[要曖昧さ回避]訳、河出書房、1954年(序説および諸形態) 『経済学批判』、岩波文庫、1956年(序説) ISBN 978-4003412503 『マルクス・エンゲルス選集 第5巻 史的唯物論』、小島恒久訳、新潮社、1957年(諸形態) 『経済学批判要綱(草案)』全5巻、高木幸二郎監訳、大月書店、1958-65年 マルクス=エンゲルス=レーニン研究所版およびディーツ版による世界最初の全訳。 『マルクス・エンゲルス選集 第7巻 経済学批判』、向坂逸郎訳、新潮社、1959年(序説) 『資本制生産に先行する諸形態』、岡崎次郎訳、青木文庫313、1959年(のち1980年再刊) 『資本主義的生産に先行する諸形態』、手島正毅訳、大月書店、1959年(のち国民文庫28、1963年 ISBN 4-272-80280-1) 『マルクス=エンゲルス全集 第13巻 1859年-1860年』、大月書店、1964年(序説) 『新訳 経済学批判』、杉本俊郎訳、国民文庫4、1966年(序説) ISBN 978-4272800407 『世界の大思想 第2期4巻(第21巻) マルクス』、岡崎次郎訳、河出書房、1967年(序説) のちに『世界の大思想 ワイド版3-4 マルクス:経済学・哲学論集』、河出書房新社、2005年として再刊 ISBN 978-4309970745 『共同体の経済構造 マルクス『資本制生産に先行する諸形態』の研究序説』、市川泰治郎訳、未来社、1969年(のち1981年新版、2006年再刊) ISBN 978-4624321727 原著はエリック・ホブズボームによる「諸形態」の英訳・解説書。Eric J. Hobsbawm, Karl Marx: Pre-capitalist Economic Formations, (Lawrence & Wishart, 1964). 『マルクス=エンゲルス8巻選集 第4巻』、大月書店、1974年(序説) 『マルクス資本論草稿集 1 1857-58年の経済学草稿 第1分冊』、資本論草稿翻訳委員会訳、大月書店、1981年 ISBN 4-272-10011-4 『マルクス資本論草稿集 2 1857-58年の経済学草稿 第2分冊』、資本論草稿翻訳委員会訳、大月書店、1993年 ISBN 4-272-10012-2 新MEGA版による全訳。 『『経済学批判』への序言・序説』、宮川彰訳、新日本出版社・科学的社会主義の古典選書(序説)、2001年 ISBN 978-4406028479 『マルクス・コレクション 3』、木前利秋訳、筑摩書房、2005年(序説および諸形態) ISBN 978-4480401137 ルイ・アルチュセールほか『資本論を読む(上・中・下)』、今村仁司訳、ちくま学芸文庫、1996-97年(原著1965年) ISBN 978-4480083012 ISBN 978-4480083029 ISBN 978-4480083036 大村泉『新MEGAと《資本論》の成立』、八朔社、1998年 ISBN 978-4938571719 大村泉・宮川彰編『新MEGA第Ⅱ部(『資本論』および準備労作)関連内外研究文献・マルクス/エンゲルス著作邦訳史集成』、八朔社、1999年 ISBN 978-4938571771 キャロル・C・グールド『『経済学批判要綱』における個人と共同体――社会存在論の哲学的探究』、平野英一・三階徹訳、合同出版、1980年(原著1978年) ISBN 978-4772601047 中村哲編『『経済学批判要綱』における歴史と論理』、青木書店、2001年 ISBN 978-4250201035 アントニオ・ネグリ『マルクスを超えるマルクス――『経済学批判要綱』研究』、作品社、2003年 ISBN 4-87893-559-6 的場昭弘・内田弘・石塚正英・柴田隆行編『新マルクス学事典』、弘文堂、2000年 ISBN 978-4335150449 Grundrisse - Introduction(原著英語訳,html)", "実践論(じっせんろん)とは1937年に毛沢東によって書かれた論文。 当時の中国で多く見られたマルクス主義を教条として字句の切れ端で人民を脅していたり、自身の断片的な経験のみにしがみつくなどといった教条主義、経験主義を批判するとともに、革命の実践にとってこそ理論が重要であるということを説くことを目的として書かれた。延安の中国人民抗日軍事政治大学でこの論文の観点について講演されたことがある。 日本語訳は、「矛盾論」と合本されることが多く、岩波文庫や国民文庫に収録されていた。 社会科学研究会 編訳. 三一書房, 1951. 尾崎庄太郎訳 1952. 国民文庫 毛沢東選集. 第2巻 (第二次国内革命戦争の時期) 毛沢東選集刊行会 編訳. 三一書房, 1952. のち青木文庫 実践論・矛盾論 松村一人,竹内実訳 1957. 岩波文庫 安藤彦太郎訳 1965. 角川文庫 小野信爾訳 世界の名著. 64 中央公論社, 1969. 中嶋嶺雄訳 1972. 講談社文庫 近藤邦康訳 新編原典中国近代思想史. 第5巻 岩波書店, 2010.12." ]
ABC01-02-0098
夏目漱石の「坊っちゃん」から広く知られるようになった愛媛の温泉といえば何でしょう?
道後温泉
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[ "道後温泉", "秩父七湯", "小薮温泉", "湯の川温泉 (島根県)", "鈍川温泉" ]
[ "道後温泉(どうごおんせん)は、四国・愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉である。日本三古湯の一といわれる。 その存在は古代から知られ、万葉集巻一にも見える。なおかつてはこの周辺が温泉郡(湯郡)と呼ばれていたが、これはこの温泉にちなむ地名である。 夏目漱石の小説『坊つちやん』(1905年)にも描かれ、愛媛県の代表的な観光地となっている。2007年8月に地域団体商標(地域ブランド)として認定された(申請者は道後温泉旅館協同組合、登録商標第5071495号)。 単純温泉。源泉温度42 - 51度(これらを混合して46度で供給している)。地熱由来の非火山型の温泉である。近年、道後温泉本館も県条例の影響で塩素消毒となり、その際には論議を呼んだ。松山市中心部の温泉であっても、湯量が余裕のある奥道後温泉からの引湯を利用している温泉もある。 神経痛、リューマチ・胃腸病・皮膚病・痛風・貧血。 ※ 効能は万人にその効果を保証するものではない。 道後温泉街はその中央にある道後温泉本館を中心としている。本館自体が観光施設であるが、その横には「道後麦酒館」という地ビールを飲める店があるなど、飲食施設が充実しつつある。 温泉本館前から、市内電車の道後温泉駅まで、L字型に道後温泉商店街があり、土産物店や飲食店などが軒を連ねている。L字の角のところに、椿の湯がある。こちらも共同浴場であるが、料金も本館より安く、地元の人の利用が多い。 市内電車の道後温泉駅前には、放生園という小公園があり、坊っちゃんからくり時計、足湯、湯釜などがある。駅前広場には夜間は坊っちゃん列車の機関車と客車が留め置かれ、ライトアップされている。また、坊っちゃん、マドンナ、巡査の衣装をまとった観光ボランティアガイドも出て、からくり時計の動く時間には観光人力車も集まり、とりわけ夜8時前後は賑やかになる。従来は道後温泉街には昼間の楽しみが少ないと指摘されていたが、放生園に足湯ができて、楽しみが増えた。足湯は湯釜を取り囲む形でベンチが作られ、腰を下ろして足を温泉に浸け、歩き疲れを取ることができる。なお、放生園の隣、商店街の入り口には(財)松山観光コンベンション協会の観光案内所(年中無休:TEL089-921-3708)と道後温泉旅館協同組合(TEL089-943-8342)の事務所がある。 温泉本館の北から東にかけてがホテル旅館街となっている。各旅館ホテルが高度成長期に競い合って増築を行ったため、規模の大きい施設が多い。いくつかのやや規模の大きいホテル旅館の前には足湯・手湯が置かれ、無料で自由に利用できる。 周辺にも、坊っちゃん記念碑、道後公園、湯築城跡、湯神社、伊佐爾波神社、宝厳寺、にきたつの道、セキ美術館、松山市立子規記念博物館、飛鳥乃湯泉などの見所が多数あり、一帯が観光名所を形成している。 近年、松山市が推進している「坂の上の雲」関連では、秋山家の墓が鷺谷墓地にある。 ホテル旅館街の西には歓楽街・風俗街があり、ストリップ劇場やソープランドなどもある。かつては置屋などの立ち並ぶ一帯もあったが、現在は廃屋同然となっている。 近年、道後温泉本館前の道路を迂回させ完全に歩道化することにより、モダンな周辺環境を整備しつつある。従来は横断歩道を渡らなくてはならなかったが、徒歩で安全に商店街と本館をつなぐことに成功し、商店街とより密接な関係を形成した。 道後温泉周辺は人力車での移動も可能なため、本館前には人力車の駐車スペースがある。 現在、道後温泉には3つの共同湯(外湯)がある。 道後温泉本館 - 観光客の利用が中心。皇族専用の浴室である又新殿もある。入浴料(神の湯)410円 椿の湯 - 松山市営で地元客の利用が中心。料金も安め。入浴料400円ロッカー代10円 道後温泉別館 飛鳥乃湯 - 松山市営。聖徳太子らの来湯伝承にちなんで、飛鳥時代をイメージしたデザインとした。入浴料600円 道後温泉商店街入口 道後温泉駅前にある放生園 セキ美術館 椿の湯 道後温泉本館の周辺には温泉旅館・ホテルが建ち並んでいる。巨艦ホテルはない。特に、本館からゆるやかな坂を上る県道の両側に比較的規模の大きいホテルが数館軒を並べている。小規模な旅館は、本館周辺および冠山の東側の道沿いに多い。なお、本館前の商店街もかつては旅館街であったが、自動車でのアクセスが一般的となり、また規模拡大を志向する中で、旅館は移転し、現在は土産物街となっている。 道後温泉は、日本国内でもひときわ古い3000年もの歴史を持つといわれる温泉である(冠山から、約3000年前の縄文中期の土器・石鏃(せきぞく)が出土している)。神話の昔はもちろん、史実上の記録に登場する温泉として見ても、道後温泉は日本最古級の歴史を持つ。 歴史については、年表としては松山市道後温泉事務所 を、物語的には道後温泉旅館協同組合 を参照。 白鷺伝説 昔、足を痛めた白鷺が岩の間から流れ出る湯に浸していたところ、傷は癒えて、飛び立って行くのを見て、村人が手を浸すと温かく、温泉であり、効能を確認したという伝説がある。これが道後温泉の発見とされる。 道後温泉のみならず、白鷺と温泉の縁は深く、各地の温泉の発見物語に白鷺が登場する。道後温泉ではさらに念の入ったことに、その白鷺が舞い降りた跡が残ったものとのいわれのある石(鷺石)があり、市内電車の駅前の放生園(ほうじょうえん)という小公園の一角に据えられている。 白鷺は道後温泉のシンボルの一つともなっており、道後温泉本館の周囲の柵にも白鷺をモチーフとした意匠がみられる。また、鷺谷という地名が残っている。 伊予国風土記逸文 日本神話の時代、大国主命と少彦名命が出雲の国から伊予の国へと旅していたところ、長旅の疲れからか少彦名命が急病に苦しんだ。大国主命は大分の「速見の湯」を海底に管を通して道後へと導き、小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めたところ、たちまち元気を取り戻し、喜んだ少彦名命は石の上で踊りだしたという。この模様を模して、湯釜の正面には二人の神様が彫り込まれている。 また、その上で舞ったという石は、道後温泉本館の北側に「玉の石」として奉られている。こちらにも、白鷺同様、命の「足跡」と伝えられる跡が残っている。なお、有馬温泉、玉造温泉ほか全国の各地に類似の伝説がある。 596年、厩戸皇子(聖徳太子)来湯 病気療養のため道後温泉に滞在したことが伊予国風土記逸文に記されている。皇子は伊佐爾波の岡に登り、風景と湯を絶賛し、記念に碑文を遺したとされる(伊予湯岡碑)。しかし今日までその現物は発見されておらず、道後温泉最大の謎とされている。14世紀に河野氏が湯築城造営の際に持ち去ったという説もある。椿の湯の南側の緑地にその模様を記した碑が建立されている。 これをはじめとして、『日本書紀』や伊佐爾波神社(八幡宮)の社伝などによると、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇)・中大兄皇子(後の天智天皇)・大海人王子(後の天武天皇)など多くの皇族方が行幸したとされる。 7世紀 645年に大化の改新が行われると、現在の今治市の辺りに伊予国の国府が置かれ、京から見て国府よりも遠い地域は「道後」(←→道前、道中)と呼ばれたことから、後世になるとこの温泉のある一帯が特にそう呼ばれるようになった。 『日本書紀』の天武13年10月(684年)の条項に「時伊予湯泉(いよのゆ)没而不出」と見え、これは白鳳地震による地変で出湯が停止したことを示すものであり、同様の現象は宝永地震、安政南海地震、1946年南海地震でも見られ、出湯の一時停止は南海地震の特徴の一つである。 中大兄皇子 白村江の戦いの前に中大兄皇子(後の天智天皇)が日本・百済連合軍を集結させた。 7世紀頃 2005年11月、松山市埋蔵文化財センターは、道後温泉本館の東隣の発掘調査現場から7世紀頃の地層に温泉の成分である高濃度の硫黄やアルカリ泉に存在するケイ藻の成分が含まれていたと発表した。史書に登場する温泉の存在を裏付ける史料ではないかと注目されている。 1239年、宝厳寺に一遍生誕。 14世紀、河野氏が一帯を支配、湯築城を本拠地とする。 1635年(寛永12年)、松平氏の温泉経営始まる 松山藩に松平定行が入ってから、道後温泉は定行ら代々の松平松山藩主により大きく整備された。「温泉経営の時代」である。 1707年10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震により数ヶ月間湧出が止まる。 1795年(寛政7年)、小林一茶来湯 1894年(明治27年)、道後温泉本館落成 温泉街の中心部に近代和風建築として斬新なデザインを持つ道後温泉本館が完成する。翌4月には松山中学の英語教師として温泉のある松山市に赴任した夏目漱石がその建築に感嘆し、手紙や、後の彼の作品『坊つちやん』の中で絶賛している。 手紙によれば、八銭の入浴料で「湯に入れば頭まで石鹸で洗って」もらうことができ、また3階に上れば「茶を飲み、菓子を食」うことができたようである。この道後温泉本館は、現在でも道後温泉のシンボル的存在となっている。 1944年(昭和19年) - 道後湯之町、松山市と合併 1946年(昭和21年) - 南海地震により湯の湧出が一時止まったが約1ヶ月後、再び湧き出る。 1950年(昭和25年) - 昭和天皇、入浴。 1956年(昭和31年) - 内湯創設当時、旅館62軒 1966年(昭和41年) - 道後温泉本館三階に「坊っちゃんの間」開設。 1977年(昭和52年) - 道後村めぐり始まる 1986年(昭和61年) - 愛媛県県民文化会館オープン。 1988年(昭和63年)4月 - 瀬戸大橋開通、宿泊者数ピークに 1994年(平成6年) - 道後温泉本館が国の重要文化財に指定された。 同年 本館建設百周年記念事業、からくり時計の設置、坊っちゃん列車復元運行(県民文化会館隣の空き地にて) この頃から、道後温泉誇れるまちづくり協議会の活性化の取組みが始まる。 1994年(平成6年)8月 - 夏季異常渇水に見舞われる 1994年(平成6年)12月 - 道後温泉本館重要文化財指定 1996年(平成8年)3月 - 道後公園の整備計画まとまる。中世の史跡公園としての方向性示される。 1996年(平成8年) - 聖徳太子来湯1400年 1996年(平成8年)7月 - 振鷺閣から打ち鳴らされる刻太鼓(ときだいこ)が、「残したい日本の音風景100選」に選ばれる。 1996年(平成8年)7月 - 道後地ビール発売 1997年(平成9年)6月 - 冠山のニュー宝荘明け渡し完了、駐車場としての利用開始 1998年(平成10年)5月 - 観光ボランティアガイド活動開始 1999年(平成11年)5月 - 瀬戸内しまなみ海道開通 2001年(平成13年)3月 - 芸予地震発生(24日)、一旅館倒壊の被害 2001年(平成13年)10月 - 道後温泉商店街の愛称が「ハイカラ通り」に決まる 2001年(平成13年)12月 - 旅館の入り口付近に「足湯」の設置始まる。 2002年(平成14年)2月 - 道後温泉誇れるまちづくり協議会により活性化構想「DO!GO!21」構想を発表 2002年(平成14年)3月 - 放生園に体験足湯設置 2002年(平成14年)4月 - 道後公園湯築城跡オープン 2002年(平成14年)12月 - 放生園の足湯設置 2003年 - 塩素騒動勃発 2005年度、全国都市再生モデル調査の事業として、カジュアルフォトコンテスト、道後村めぐりワークショップ、景観を考えるシンポジウム等を実施した。 2005年(平成17年)1月 - ぎやまんの庭オープン 2005年(平成17年)7月 - にきたつの道朝市開始(以後、第4日曜日開催) 2006年(平成17年)3月 - 道後温泉商店街新アーケード完成 2006年(平成17年)3月 - 道後温泉本館保存修復検討委員会最終報告 2006年(平成17年)4月 - 夏目漱石の小説『坊っちゃん』発表百周年記念行事。本館東側空き地に「漱石坊っちゃん碑」設置 2007年(平成19年)3月 - 美しい日本の歴史的風土100選に松山城と共に選定 2007年(平成19年)8月 - 地域ブランド認定 2009年(平成21年)3月 - ミシュランガイド(観光地)日本編において「2つ星」に選定 2009年(平成21年)4月 - 平成百景に選定された。 2017年(平成29年)9月 - 新しい外湯「道後温泉別館 飛鳥乃湯」が開業。 夏目漱石の『坊つちゃん』 正岡子規と交友のあった夏目漱石は、松山を舞台とした小説『坊つちやん』の中で道後温泉を取り上げており、道後温泉本館は「坊っちゃん湯」とも呼ばれる。明治28年4月に英語教師としてこの地に赴任した漱石は、子規や虚子としばしば道後に出かけ、「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと3階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」との手紙をしたためている。現在ある「坊っちゃんの間」は漱石をしのび造られたもので、娘婿松岡譲の命名になる。なお本館の東側には「坊つちやん」発表100年記念の石碑がある。 源氏物語に伊予の湯桁として登場 源氏物語の夕顔の巻に、伊予之介の上京を迎えて、「国の物語など申すに、湯桁は幾つと問わまほしく申せど……」とある。「伊予之介の(郷土の伊予の国の)」みやげ話などを聞きながら、あの有名な伊予の湯桁は幾つあるのかと、(光源氏が)聞いてみたくなった……」という意味で、当時の宮廷人や貴族階級など都人の会話の中で、非常にポピュラーな形で「伊予の湯桁」が登場していたことが伺える。 「湯桁」については、諸説あり、湯を張った浴槽そのものという説、湯壷と湯槽の中間的なもので、湯壷にいくつも板を縦に渡して、その上で沐浴を楽しんだという説、個人用の囲いという説、などがある。 『千と千尋の神隠し』のモデルとして スタジオジブリのアニメ映画『千と千尋の神隠し』において、道後温泉本館が本作に登場する「油屋」のモデルの一つになったと明言されている。 2010年5月、松山市の道後温泉の旅館の数がこの20年間で半減し、宿泊可能人数も3割程度減っていることが報道された。民間調査機関「いよぎん地域経済研究センター(IRC)」によると、「旅行需要は団体から小人数・個人に移行したが、道後温泉はバブル期前後に団体需要を踏まえた宴会場などの設備投資を進めた」と、低迷の原因を機動的な対応の遅れによるものと指摘している。道後温泉の旅館数は、1989年には58軒(収容人員9404人)だったが、2009年には31軒(同6665人)になった。 道後村めぐり 景観問題 道後村からくり新聞 JR松山駅から 予讃線松山駅から伊予鉄道市内電車■5号線または坊っちゃん列車で道後温泉行き終点の道後温泉駅へ(約20分)。 伊予鉄道、松山市駅(略称・市駅)乗り換え 松山市駅前駅から同じく市内電車■3号線または坊っちゃん列車で終点の道後温泉駅。 伊予鉄バス8番線東野経由道後温泉行 終点下車 伊予鉄バス52系統奥道後方面行き 道後温泉駅前下車。 松山空港から 松山空港から、JR松山駅などを経由し道後温泉駅前行きの空港リムジンバスが出ている。終点まで約40分。ほかに一般路線バス52系統が立ち寄る。 松山観光港から 松山観光港から、伊予鉄リムジンバスでJR松山駅前、松山市駅経由道後温泉駅前行 終点下車。所要約40分。 または徒歩10分の高浜駅から■高浜線で古町駅または大手町駅または松山市駅下車、路面電車および路線バス乗り換え。 車で 松山自動車道松山ICから、国道33号、松山東部環状線経由で約8km。 本館の隣の小高い山(冠山・かんむりやま)の上に市営の有料駐車場がある。ただし、道後温泉本館と椿の湯の利用者には1時間まで無料。 高速バス オレンジライナーえひめ号(東京線と名古屋線・大阪線の夜行便の1便のみ停車)。 道後エクスプレスふくおか ^ 『伊予国風土記』は現存しないが、『釈日本紀』、『万葉集註釈』(仙覚著)は逸文を伝えている。 ^ 2007年4月に発行された実用旅行ガイド『ミシュラン・ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン(Voyager Pratique)』においては「3つ星」の評価だった。 ^ 寒川旭 『揺れる大地 日本列島の地震史』 同朋舎出版、1997年 ^ 民間調査機関「いよぎん地域経済研究センター (IRC)」の調査による。[要文献特定詳細情報] ^ “「坊ちゃん」の道後温泉、20年で旅館半減”. 読売新聞. (2010年5月23日). http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100523-OYT1T00283.htm [リンク切れ] 道後温泉編集委員会編 『道後温泉』 松山市観光協会[要文献特定詳細情報] 外湯 温泉番付 名湯百選 日本の温泉地一覧 日本の温泉画像一覧 日本三大一覧 道後温泉 (小惑星) 愛媛県の観光地 新日本観光地100選 新日本旅行地100選 日本の観光地一覧 日本最古の一覧 伊佐庭如矢 道後物語 - 道後温泉旅館協同組合 道後温泉事務所 - 松山市ホームページ 松山歴史文化道(四国歴史文化道)", "秩父七湯(ちちぶななとう)は、秩父地方に存在する特定の7つの温泉を指した呼称である。 いずれも、源泉温度の低い鉱泉である、または、であったとされるのが特徴。現在[いつ?]では、温泉法の規定を満たしていることにより、いずれも温泉を名乗ることができるが、現在[いつ?]でも鉱泉を名乗り続けている温泉地もある。 7湯の選定は江戸時代であるとされる。そのうち現存するのは5湯である。以下に7湯を挙げる(括弧内は現在の呼称)。 新木の湯 (新木鉱泉) 鳩の湯 (鳩の湯温泉) 柴原の湯 (柴原温泉) 千鹿谷の湯 (千鹿谷鉱泉) 鹿の湯 (白久温泉) 梁場の湯 (現存せず) 大指の湯 (現存せず) 梁場の湯は1966年(昭和41年)に埼玉県で最も古く利用許可がなされた温泉であったが、下久保ダム建設と共に水没したため現存しない。現存しない2湯に替わって、和銅鉱泉、不動の湯温泉が入って7湯を形成する場合もある。 秩父温泉 温泉、温泉街、外湯、温泉番付 日本の温泉地一覧 - 日本の温泉画像一覧", "小薮温泉(おやぶおんせん)は、愛媛県大洲市肱川町(旧国伊予国)にある温泉。肱川中流にある鹿野川ダムわずかに下流で左岸に流れ込む小藪川をさかのぼったところにある。小藪温泉とも表記する。 アルカリ性冷鉱泉 山間の静かな温泉で、近郷の人々に利用されてきた温泉であり、観光地化されていない。1922年竣工と推定される木造三階建入母屋造の旅館が一軒のみ。1876年温泉を開業、明治30年代に旅館の営業が始まった。現在の建物は大正時代に完成したものとされるが、正確な資料は残存していない。文化財登録されている。また、「温泉遺産」に選定されている。 車 : 松山自動車道内子五十崎インターチェンジから南方面、愛媛県道229号、国道197号経由で約16km。国道から分岐した後は2km細い道が続く。 鉄道 : JR予讃線伊予大洲駅からバスで鹿野川大橋下車。ただし、バス停から小薮温泉(旅館)までは2kmの上りで、徒歩で行くことは難しい。 温泉、温泉街、外湯、温泉番付 日本の温泉地一覧 - 日本の温泉画像一覧 愛媛県『愛媛県の近代化遺産』(2003年)164頁に紹介 地形図-小薮温泉付近 小薮温泉", "湯の川温泉(ゆのかわおんせん)は、島根県出雲市(旧出雲国)にある温泉。 龍神温泉(和歌山県)、川中温泉(群馬県)と並んで三美人の湯のひとつとされる。 ナトリウム・カルシウム - 硫酸塩・塩化物泉 宿泊施設が6軒と、テーマパーク出雲いりすの丘内に日帰り温浴施設ひかわ美人の湯がある。ひかわ美人の湯は運営元の第三セクター企業の解散に伴い2009年(平成21年)3月末で一旦営業を終了し、新たな指定管理者を募集の上、同年4月下旬をめどに営業再開を目指したいとしていた。その後松江市の施設管理会社MIしまねを指定管理者に迎えて同年4月10日に営業を再開した。 神代の昔の、大国主の神話に登場する八上姫についての伝承がある。温泉地にはそれにちなんで八上姫神社の祠が鎮座している。 1989年、湯の川温泉・龍神温泉(和歌山県)・川中温泉(群馬県)は、「日本三美人湯」として姉妹協定を結んだ。1989年以後持ち回りで「美人の湯サミット」を開催していたが、2004年のサミットが最後になった。2016年には共同でのプロモーションの試みが行われた。 自動車 : 出雲空港より車で約5分 鉄道 : JR山陰本線荘原駅より徒歩10分 ^ 2009年3月3日付 中国新聞 ^ 2009年4月11日付中国新聞 ^ a b c “日本三美人湯が連携再開 龍神観光協会、東京銀座で協働PR”. 紀伊民報 (2016年2月1日). 2016年5月17日閲覧。 湯の川温泉 - 同名の温泉 斐川湯の川温泉組合", "鈍川温泉(にぶかわおんせん)は、愛媛県今治市玉川町(旧国伊予国)にある温泉。 単純温泉 源泉温度22℃。「美人の湯」といわれる。源泉中のラドンの含有量が多い。温泉街の位置する鈍川渓谷は蒼社川支流木地川が花崗閃緑岩を刻んだ渓谷である。源泉は鈍川渓谷の岩隙より噴出している。 鈍川渓谷に5軒の旅館が存在する。日帰り入浴施設は、「皆楽荘」、「鈍川温泉ホテル」、「鈍川せせらぎ交流館」が存在する。 温泉地には、温泉スタンドも設置されている。 道後温泉、本谷温泉とともに伊予の三湯といわれた。 江戸時代は今治藩の湯治場であった。 明治2年(1869年)に今治藩知事久松定法により開発が進められたが、交通の不便からその後衰退し、さらに大正14年(1925年)にも地元有志らにより復興されたがやはり交通の不便から衰退した。昭和27年(1952年)には道路が整備され近代的建築の温泉街が整備され現在に至る。 鉄道:予讃線今治駅よりせとうちバスで約30分。 ^ 『日本歴史地名大系39 愛媛県の地名』 平凡社、1980年 ^ 『角川日本地名大辞典』 角川書店、1981年 温泉、温泉街、外湯、温泉番付 日本の温泉地一覧 - 日本の温泉画像一覧 鈍川温泉組合" ]
ABC01-02-0099
タヌキはイヌ科の動物ですが、キツネは何科の動物でしょう?
イヌ科
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[ "イヌ科", "ピューマ属", "オオヤマネコ属", "リス亜目", "ウサギ目" ]
[ "イヌ科(イヌか、Canidae)は、哺乳綱食肉目に分類される科。 鼻面(吻)は長く、顎が発達する。歯列は門歯が上下6本、犬歯が上下2本、小臼歯が上下8本、大臼歯が上顎4本・下顎6本と計42本の種が多い(ヤブイヌ38本・ドール40本・カニクイイヌ44本・オオミミギツネ46 - 48本)上顎第4臼歯や下顎第1大臼歯(裂肉歯)、大臼歯は発達する。長い口吻や歯は、獲物に噛みつき切り裂くことに適している。前肢の橈骨と尺骨は回転せず、舟状骨と月状骨が連結することで走行することに適している。前肢には5本、後肢には4本の趾がある種が多い。指肢のみを接地して移動する(指行性)。指肢には鉤爪があるが、ひっこめることはできない。 陰茎骨が発達する。 2005年に発表された核DNAの12エクソンと4イントロンを用いた最大節約法による系統推定では、大きく以下の4系統に分かれるという結果が得られた。 grey & Island fox clade(ハイイロギツネ属) red-fox-like clade(オオミミギツネ属・タヌキ属・キツネ属) South American clade(コミミイヌ属・カニクイイヌ属・スジオイヌ属・タテガミオオカミ属・ヤブイヌ属)全属が南アメリカ大陸に分布 wolf-like clade(イヌ属・ドール属・リカオン属) この解析に含まれていない種もいるが、一例として2013年に発表されたミトコンドリアDNAシトクロムb・COII遺伝子を用いた系統推定では、絶滅種フォークランドオオカミを含むDusicyon属はタテガミオオカミ属と単系統群を形成すると推定されている。 以下の現生種の分類・英名は断りのないかぎりはMSW3 (Wozencraft, 2005)、和名は川田ら (2018) に従う。 コミミイヌ属 Atelocynus Atelocynus microtis コミミイヌ Short-eared dog イヌ属 Canis Canis adustus ヨコスジジャッカル Side-striped jackal Canis anthus African golden wolf(形態や分子系統解析からキンイロジャッカルのアフリカ個体群から分割する説もあり) Canis aureus キンイロジャッカル Eurasian golden jackal/Golden jackal Canis latrans コヨーテ Coyote Canis lupus オオカミ Wolf Canis mesomelas セグロジャッカル Black-backed jackal Canis simensis アビシニアジャッカル Ethiopian wolf カニクイイヌ属 Cerdocyon Cerdocyon thous カニクイイヌ Crab-eating fox タテガミオオカミ属 Chrysocyon Chrysocyon brachyurus タテガミオオカミ Maned Wolf ドール属 Cuon Cuon alpinus ドール Dhole フォークランドオオカミ属 Dusicyon †Dusicyon australis フォークランドオオカミ Falkland Islands wolf スジオイヌ属 Lycalopex (Pseudalopexとする説もあり) Lycalopex culpaeus クルペオギツネ Culpeo Lycalopex fulvipes ダーウィンギツネ Darwin's fox Lycalopex griseus チコハイイロギツネ South American gray fox Lycalopex gymnocercus パンパスギツネ Pampas fox Lycalopex sechurae セチュラギツネ Sechuran fox Lycalopex vetulus スジオイヌ Hoary fox リカオン属 Lycaon Lycaon pictus リカオン African wild dog タヌキ属 Nyctereutes Nyctereutes procyonoides タヌキ Raccoon dog(形態や染色体から日本個体群を別種N. viverrinusに分割する説もあり) オオミミギツネ属 Otocyon Otocyon megalotis オオミミギツネ Bat-eared fox ヤブイヌ属 Speothos Speothos venaticus ヤブイヌ Bush dog ハイイロギツネ属 Urocyon Urocyon cinereoargenteus ハイイロギツネ Gray fox Urocyon littoralis シマハイイロギツネ Island fox キツネ属 Vulpes Vulpes bengalensis ベンガルギツネ Bengal fox Vulpes cana ブランフォードギツネ Blandford's fox Vulpes chama ケープギツネ Cape fox Vulpes corsac コサックギツネ Corsac Fox Vulpes ferrilata チベットスナギツネ Tibetan sand fox Vulpes lagopus ホッキョクギツネ Arctic fox Vulpes macrotis キットギツネ Kit fox Vulpes pallida オグロスナギツネ Pale fox Vulpes rueppelli オジロスナギツネ Rueppel's fox Vulpes velox スウィフトギツネ Swift fox Vulpes vulpes アカギツネ Red fox Vulpes zerdaフェネック Fennec fox アルケオキオン Archaeocyon オタロキオン Otarocyon オクセトキオン Oxetocyon リゾキオン Rhizocyon ボロファグス族 Borophagini コルモキオン Cormocyon デスモキオン Desmocyon エウオプロキオン Euoplocyon メタトマルクトゥス Metatomarctus ミクロトマルクトゥス Microtomarctus プロトマルクトゥス Protomarctus プサリドキオン Psalidocyon テフロキオン Tephrocyon アエルロドン亜族 Aelurodontina アエルロドン Aelurodon トマルクトゥス Tomarctus ボロファグス亜族 Borophagina ボロファグス Borophagus カルポキオン Carpocyon エピキオン Epicyon パラトマルクス Paratomarctus プロテピキオン Protepicyon キナルクトゥス族 Cynarctina キナルクトゥス Cynarctus パラキナルクトゥス Paracynarctus フラキオン族 Phlaocyonini キナルクトイデス Cynarctoides フラキオン Phlaocyon カエドキオン Caedocyon キノデスムス Cynodesmus エクトポキヌス Ectopocynus エンヒドロキオン Enhydrocyon ヘスペロキオン Hesperocyon メソキオン Mesocyon オズボーノキオン Osbornodon パラエンヒドロキオン Paraenhydrocyon フィロトロクス Philotrox スンカヘカンタ Sunkahetanka 単独で生活する種や、群れで生活する種など種間・種内でも変異が大きい。例としてオオカミはペアで生活することもあれば、20頭に達する群れを形成することもある。ドール・ヤブイヌ・リカオンなどは集団で狩りを行い、アカギツネ・ホッキョクギツネなどは狩りを単独で行ったり大型の獲物がいない環境でも集団で生活することもある。集団で生活する利点として、大型の獲物を共同して狩る・縄張りや食物の防衛がしやすくなる・子育てを補助できるなどがあると考えられている。 イヌ属(オオカミ・コヨーテ・ジャッカル類)の例では有蹄類から果実までと、食性の幅は広い。キツネ属は食物を咥えて幼獣に与えるが、イヌ属・タテガミオオカミ属・ドール属・リカオン属では食物を吐き戻して幼獣に与える。 交尾の際にメスの膣内でオスの陰茎基部が膨張して射精するまで抜けなくなり、尻合わせの姿勢(タイ・交尾結合)をとる種が多い。この姿勢の役割は不明だが、ペアの維持に役立つと考えられている。 カニクイイヌ C. thous タテガミオオカミ C. brachyurus ドール C. alpinus クルペオギツネ L. culpaeus リカオン L. pictus タヌキ N. procyonoides オオミミギツネ O. megalotis ヤブイヌ S. venaticus ハイイロギツネ U. cinereoargenteus アカギツネ V. vulpes タイ・交尾結合 (イヌ) ^ a b W. Christopher Wozencraft, \"Order Carnivora,\" Mammal Species of the World, (3rd ed.), Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (ed.), Johns Hopkins University Press, 2005, Pages 532-636. ^ a b 川田伸一郎, 岩佐真宏, 福井大, 新宅勇太, 天野雅男, 下稲葉さやか, 樽創, 姉崎智子, 横畑泰志 「世界哺乳類標準和名目録」『哺乳類科学』58巻 別冊、日本哺乳類学会、2018年、1-53頁。 ^ a b c d e f g h i j k l David W. Macdonald 「イヌ科」山本伊津子訳『動物大百科 1 食肉類』今泉吉典監修 D.W.マクドナルド編、平凡社、1986年、66-67頁。 ^ a b c d e f g h i 増井光子 「イヌ科の分類」『世界の動物 分類と飼育2 (食肉目)』今泉吉典監修、東京動物園協会、1991年、127-149頁。 ^ a b Kerstin Lindblad-Toh, et al., \"Genome sequence, comparative analysis and haplotype structure of the domestic dog,\" Nature, Volume 438, Number 7069, 2005, Pages 803-819. ^ Jeremy J. Austin, Julien Soubrier, Francisco J. Prevosti, Luciano Prates, Valentina Trejo, Francisco Mena, Alan Cooper, \"The origins of the enigmatic Falkland Islands wolf,\" Nature communications, Volume 4, Number1552, 2013, Pages 1-7. ^ Klaus-Peter Koepfli, John Pollinger, Raquel Godinho, Jacqueline Robinson, Amanda Lea, Sarah Hendricks, Rena M. Schweizer, Olaf Thalmann, Pedro Silva, Zhenxin Fan, Andrey A. Yurchenko, Pavel Dobrynin, Alexey Makunin, James A. Cahill, Beth Shapiro, Francisco Alvares, Jose C. Brito, Eli Geffen, Jennifer A. Leonard, Kristofer M. Helgen, Warren E. Johnson, Stephen J. O’Brien, Blaire Van Valkenburgh, Robert K. Wayne'Correspondence information about the author Robert K. Wayne, \"Genome-wide Evidence Reveals that African and Eurasian Golden Jackals Are Distinct Species,\" Current Biology, Volume 25, Issue 16, 2005, Pages 2158?2165. ^ Sang-In Kim, Tatsuo Oshida, Hang Lee, Mi-Sook Min and Junpei Kimura, \"https://doi.org/10.1111/bij.12629 Evolutionary and biogeographical implications of variation in skull morphology of raccoon dogs Nyctereutes procyonoides (Mammalia: Carnivora),\" Biological Journal of the Linnean Society, Volume 116, Issue 4, 2015, Pages 856-872. ^ Paleobiology Database: Borophaginae ^ Paleobiology Database: Hesperocyoninae 食肉目", "ピューマ属( - ぞく、学名:Puma)は、ピューマ(模式種)とジャガランディの2種からなる、アメリカ大陸のネコ科動物の一分類群(1属)。 ピューマは南北アメリカ大陸に広く、ジャガランディは中央アメリカと南アメリカ大陸の広範な地域に分布する。 ピューマとジャガランディの分化は新生代第四紀更新世中期イオニアン(en)の頃と考えられているため、ピューマ属の出現はこれに先立つ時代に求められる。 系統分類学の新たな知見によれば、北アメリカ大陸で進化してきたピューマ属は、かつてユーラシア大陸の熱帯と温帯の平原に広く分布していたチーター属(genus Acinonyx。現生はチーターのみ)と、祖先を共有しているとされている。 ネコ科の揺籃地はユーラシアであるが、本件における両属の共通祖先が棲息していたのがユーラシアであったのか北アメリカであったのかは、まだ解明されていない。共通祖先がユーラシアからベーリング地峡を通って北アメリカに渡る以前に両属の分化があったのか、北アメリカに渡った共通祖先から両属が分岐した上でチーター属のみがユーラシアへも分布を拡げてむしろそこで繁栄を遂げたのか、はたまたそのいずれでもないのかは、現在、研究者の間で見解が分かれているところである。 なお、現在確認されている化石からは、チーター属は約250万年前から約220万年前にかけての時代(新生代第四紀更新世前期ジェラシアン)の中国大陸においてすでに棲息していたことが判っている。したがって、ピューマ属の出現もその頃まで遡らなければ、系統進化の上で整合性が得られない。 Puma Jardine, 1834 - ITIS", "オオヤマネコ属(オオヤマネコぞく、Lynx)は、食肉目ネコ科に分類される属。欧米での呼び方をそのまま用いて、リンクスと称することもある。 体長85-115センチ。尾は短い。アメリカに生息するカナダオオヤマネコは平均12キロ、ユーラシアに生息するオオヤマネコは平均22キロと体のサイズに開きがある。北米・ヨーロッパ・アジア北部に生息する。雪の上でも楽にジャンプできるため、行動範囲が広く1晩で40km移動することもある。カナダオオヤマネコは主にネズミやリス、昆虫、鳥、ウサギを捕食し、大柄なオオヤマネコはこれらに加えシカなどの大きな獲物も狙うことがある。天敵はピューマなどの、より大型のネコ科動物。 以下の分類・英名はMSW3に、和名は成島(1991)と伊澤(1992)に従う。 L. canadensis カナダオオヤマネコ Canadian lynx L. lynx オオヤマネコ Eurasian lynx L. pardinus スペインオオヤマネコ Iberian lynx L. rufus ボブキャット Bobcat かつてカラカルを含めることもあったが、形態情報や分子情報を用いた解析により否定されている。 化石を含む骨の形態情報から推定されたLynx属の進化史は以下の通りである。鮮新世から更新世にかけてヨーロッパ南部に分布した絶滅種L. issiodorensis†が、現生全てのLynx属の祖先にあたると考えられる。アフリカからもこの種に相当するより古い(400万年前)化石が産出しており、オオヤマネコ属の起源と考えることもある。ヨーロッパ南部のL. issiodorensisはL. pardinusへ、アジアへ進出したものはL. lynxへ、さらに北米大陸に到達したものはボブキャット(L. rufus)へと進化した。L. lynxは時代が下り更新世になってから、ヨーロッパへ進出しL. pardinusと競合するようになり、また北米大陸に渡ってL. canadensisとなった。 しかしこれは分子情報に基づいて推定された系統関係(右図)とは合致しない。Lynx属の共通祖先から、まず鮮新世の320万年前にボブキャットが分かれ、更新世になって160万年前にL. canadensisが分かれ、120万年前にL. lynxとL. pardinusが分岐したと推定されている。また他属との系統関係から、Lynx属の共通祖先は北米大陸にいたと考えられる。 日本列島では、秋吉台の洞穴で旧石器時代(更新世)の化石骨が発見されているほか、縄文時代を通して北海道・本州・四国・九州の各島の遺跡で断片的であるが化石が発掘されている。オオヤマネコはユーラシア大陸におけるマンモス動物群の一要素として、最終氷期の最盛期にヘラジカやトナカイなどとともにおそらく北海道経由で日本列島に渡来したと考えられる。縄文時代の遺物の中には犬歯の歯根部への穿孔したものがあり、垂飾りに使われたと考えられている。つまり縄文人の狩猟対象動物として、食用にするのみならず勇敢さと狩猟技量の高いことなどを誇示する最良の動物であったと考えられる。。その後、数千年前まで生息していた日本列島において絶滅した原因は不明である。 オオヤマネコ/リンクス lynx の名は、「光」を意味するギリシャ語に由来し、照度の単位ルクス lux とも同根である。これは、オオヤマネコの眼がかすかな光でもよく見えることに由来するが、古代ローマでは観察眼の鋭さを「オオヤマネコの眼」と表現し、英語では、lynx-eyed 「オオヤマネコの眼をした」という表現で「眼の鋭い」ことを表す。古代から中世にかけて、どんなものでも見透かしてしまう超越的な視線の持ち主と考えられた「ボイオティアの大山猫(リンクス)」の名が、しばしば比喩として引かれた。 中世キリスト教では、明敏や明智を表すものとして、貴族の紋章にオオヤマネコを用いたものがある。17世紀に設けられた西洋星座のやまねこ座も、明るい星のない星域に「この星座を見るためには誰もがヤマネコのような目を必要とするから」という理由からオオヤマネコがイメージされている。また、1993年公開の映画山猫は眠らないはスナイパーである主人公をオオヤマネコに例えたものである。 ^ a b c W. Christopher Wozencraft, \"genus Lynx,\" Mammal Species of the World, (3rd ed.), Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (ed.), Volume 1, Johns Hopkins University Press, 2005, Page 540. ^ a b 伊澤雅子編著 「食肉目(ネコ目)の分類表3」『動物たちの地球 哺乳類II 1 トラ・ライオン・ヤマネコほか』第9巻 49号、朝日新聞社、1992年、32頁。 ^ “オオヤマネコ”. ナショナルジオグラフィック日本版. 日経BP. 2018年3月19日閲覧。 ^ 成島悦雄 「ボブキャット」「カナダオオヤマネコ」「スペインオオヤマネコ」「オオヤマネコ」『世界の動物 分類と飼育2 (食肉目)』今泉吉典監修、東京動物園協会、1991年、165-167頁 ^ a b Lars Werdelin (1981年). “The evolution of lynxes”. Ann. Zool. Fennici 18: 37-71. http://www.sekj.org/PDF/anzf18/anz18-037-071.pdf.  ^ a b c Warren E. Johnson, Eduardo Eizirik, Jill Pecon-Slattery, William J. Murphy, Agostinho Antunes, Emma Teeling, Stephen J. O'Brien (2006年). “The Late Miocene Radiation of Modern Felidae: A Genetic Assessment”. Science 311 (5757): 73-77. doi:10.1126/science.1122277.  ^ 長谷川善和・金子浩昌・橘麻紀乃・田中源吾「日本における後期更新世~前期完新世産のオオヤマネコLynxについて」 (pdf) 、『群馬県立自然史博物館研究報告』第15号、2011年、 43-80頁。 ^ ボイオティア Boeotia は中部ギリシャの1地方。「もしも人間がボイオティアの大山猫のように、皮膚の下にあるものを見ることができるならば、誰もが女を見て吐き気を催すことになろう」というオドン・ド・クリュニー(10世紀フランスの修道士)の言葉が有名。 ネコ科", "リス亜目(リスあもく Sciuromorpha)は、齧歯目に属する亜目である。リスやヤマネの仲間が属する。 齧歯類で最初に分岐した、最も原始的なグループである。 かつては、顎骨の構造から、進化した顎を持つヤマアラシ下目以外の全ての齧歯類、つまり、ネズミ亜目、ヤマアラシ亜目グンディ下目と共にリス顎亜目 Sciurognathi にまとめられていた。これをリス亜目と呼ぶこともあるので注意。 現生では、2下目(または上科)3科が属する。そのほか、絶滅した数科が属する。 ヤマネ下目 Glirimorpha (ヤマネ上科 Gliroidea) ヤマネ科 Gliridae - ヤマネなど リス下目 Sciurida (リス上科 Sciuroidea) リス科 Sciuridae - シマリス、プレーリードッグ、マーモットなど ヤマビーバー科 Aplodontidae - ヤマビーバーのみ 絶滅(下目不明) アロミス科 Allomyidae ミラガウルス科 Mylagaulidae Reithroparamyidae", "ウサギ目(ウサギもく、Lagomorpha)は、哺乳綱に含まれる目。 北半球を中心に、南極大陸や離島を除く世界中の陸地に分布している。オーストラリア大陸やマダガスカル島には元々は生息していなかった。 全身は柔らかい体毛で被われる。耳介は大型で、本目内では耳介があまり発達しないナキウサギ科でも他の哺乳綱の分類群と比較すると大型。 眼は頭部の上部側面にあり広い視野を確保することができる。鼻には縦に割れ目があり、上部の皮膚を可動させることで鼻孔を開閉することができる。門歯は発達し、一生伸びつづける。上顎の門歯の裏側に楔形の門歯がある。盲腸は長い。尿と糞は1つの穴(総排泄口)から排出する。 目名Lagomorphaはギリシャ語で「ウサギ型」を意味する、「(λαγος (lagos) + μορφή (morphē)」からきている。つまり、「ウサギ目」は(たとえばネコ目などと違い)1980年代以前から使われている翻訳語である(ただし古くは兎目と書くこともあった)。日本哺乳類学会では兎形目という目名を用いるべきとする提案もある。 門歯が伸びつづける事から以前はネズミ目(齧歯目)に含まれていたが、上顎門歯の裏側にある楔形門歯などの特徴から本目を独立した目として分割された。系統的に齧歯目に近いのは事実であり、ともにグリレス大目に属する姉妹グループである。 始新世前期の約50,000,000年前に出現したと考えられている。 現生種は2科11属約60種に分かれる。 ウサギ科 Leporidae ナキウサギ科 Ochotonidae 草原、半砂漠地帯、熱帯雨林、雪原、岩場などの様々な環境に生息する。 食性は植物食で、草本、木の葉、樹皮、果実などを食べる。一方で陸棲の巻貝や昆虫を食べる種もいる。一部の栄養素を摂取するため、軟便を食物と一緒に胃で攪拌し再び腸から栄養を摂取する。 繁殖形態は胎生。繁殖力が強く、交尾によって排卵(誘導排卵)する。出産して直後に妊娠する(出産後妊娠)ことが可能で、一部の種では妊娠中に、再び妊娠する(重複妊娠)ことも可能である。妊娠期間も短く30 - 40日。 生息地では食用とされることもあり、食用に養殖されることもある。 アナウサギはペットとして飼育される事もあり(カイウサギ)、小型種のネザーランド・ドワーフなど、数多くの品種が作り出されている。アナウサギは人為的に世界各地に移入され、各地の植生を破壊したり移入先に分布する動物の競合などが問題となっている。開発による生息地の破壊などにより生息数が減少している種もいる。 キタナキウサギOchotona hyperborea ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r J. A. Champman、E. Schneider 「ウサギ目総覧」川道武男訳『動物大百科5 小型草食獣』今泉吉典監修 D.W.マクドナルド編、平凡社、1986年、128-129頁。 ^ a b 日本哺乳類学会 種名·標本検討委員会 目名問題検討作業部会 「哺乳類の高次分類群および分類階級の日本語名称の提案について」『哺乳類科学』第43巻 2号、日本哺乳類学会、2003年、127-134頁。 哺乳類" ]
ABC01-02-0100
主婦たちが家事の合間に集まってするおしゃべりを、昔、おしゃべりをしていた場所から何会議というでしょう?
井戸端会議
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[ "井戸端会議", "友達親子", "ダス・マン", "手遊び", "バイト敬語" ]
[ "井戸端会議(いどばたかいぎ)は、かつて長屋の女たちが共同井戸に集まり、水くみや洗濯などをしながら世間話や噂話に興じたさま。主婦同士などによる世間話のこと。地域の人々が生活を共にする井戸があれば人が集い、たわいのない話、そして余計な噂話がはじまったものでありゲーテの19世紀の作品『ファウスト』にも描かれている。 江戸時代までは集合住宅そのものとして、その後も長く集合住宅の様式として残った長屋では、水を供給する井戸は長屋の共同設備であり、ここでは飲料水はもちろん炊事・洗濯から行水に使う水までもを求めた。同じ長屋で住むもの同士が順番に水を桶など容器に汲んで、各戸に用意された大きな水瓶まで運んでいって満たすまで往復する作業が行われた。この作業は、その各戸に住む家庭の主婦などの重要な仕事(家事)であったため、他の者が水を汲むまでの間は雑談に興じていたであろうことは想像に難くなく、落語など当時の風俗を伝えるものにも、数多く井戸端会議の姿は描かれている。 また、長屋の構造上では利便性を求め井戸はこれを備える長屋の間を通る私設生活道路の中央付近で比較的広い場所であったため、井戸の周りは自然と人が集まるようにもなっており、『筒井筒』の話が描くように、そこに住む子供もこの周りで遊んだりもしたようだ。また、長屋内で問題というほど深刻でもない情報が共有され、その一部には回覧板のような地域同報システムとして掲示板とまではいかなくても、貼り紙などの形で情報が示され、これを元として住民間で会話が行われることもあったであろう。長屋を舞台とする時代劇などにおいてもしばしば登場するシーンである。 井戸端会議には、長屋のおかみが自身の「でこ」を棚に上げて、その場に居ないどこそこの奥さんの「あご」を批判するような側面もある。1907年(明治40年)の『家庭下女読本』は、下女が米研ぎや洗濯をそっちのけにして、「奥さんの噂話」から役者にまつわる世間話までしているのは見苦しいとしている。 20世紀に入り場としての象徴であった井戸は、水道へと変わり近隣社会は解体していき、隣人が何をしている人なのか分からない都市社会へと至る。食堂も会議の場所となり、ほかにも近隣の人々が立ち寄り世間話を楽しむような場として、喫茶店のような場所があり井戸端会議と呼ばれることがある。空間の環境デザインとして、ベンチを置き、屋根を作り、屋外でも快適となるような場を構築していくと人々が集う場所が作られる。 インターネットにおいて地域性を重視したサービスに、まちBBSやSNS内に設けられた地域的なコミュニティがあり、引越する者のあいさつから、美味しい飲食店の意見交換、生活上の相談が話題となる。 ^ a b 『日本国語大辞典』小学館。 ^ 『大辞泉』小学館。 ^ ゲーテ 『「フアウスト」物語』 六盟館、1910年、277頁。 ^ a b 安倍能成 『朝暮抄』 岩波書店、1938年、468-469頁。 ^ 墨堤隠士 『家庭下女読本』 大学館、1907年、74頁。 ^ a b 栄久庵祥二「道具と対人コミュニケーション:環境デザインへの一視点」、『日本デザイン学会研究発表大会概要集』第53巻0、2006年、 51-51頁、 doi:10.11247/jssd.53.0.51.0、 NAID 130005022616。 ^ 伊奈正人「西大寺井戸端会議 : ある「文化シーン」の情景」、『経済と社会 : 東京女子大学社会学会紀要』第26巻、1998年2月、 19-39頁、 NAID 110006607557。 ^ 大倉恭輔「地域メディアにおける生活情報の交換について : 井戸端としてのインターネット」、『実践女子短期大学紀要』第28巻、2007年3月20日、 35-54頁、 NAID 120005552835。 地域コミュニティ 隣組 公園デビュー", "友達親子(ともだちおやこ)とは1990年代半ば以降、親子関係・家族関係の中で顕著になった現象の一つ。ただし、下記のような親子関係自体は1980年代以前から存在し、最近になって出現した傾向ではない。 特徴として、子供に対して、親として権威を持って接しようとせず、若者という共通の土俵で友人のように接しようとする。 例えば、 親子でペアルックをする。 この関係では、権威としての父親が存在せず、父親が子供を叱責できない。叱責しなければならない場合には、「友達ではないのだから」という前置きが必要になる。家庭においても懲罰が困難なのだから、学校においては児童・生徒を廊下に立たせる程度の懲罰も出来ないとされる。NHKブックス「学級崩壊(尾木直樹)」では学童保育を定点調査した結果、思春期を抜け出していない親が多いと指摘する。2007年9月23日付け朝日新聞beによれば、1970年代から1980年代の父親が、「頑固」を特徴としたのに対して、最近の父親は「優しい」を特徴とするという。 例えば、 父親が、子供のためにと、何万円もする室内用プラネタリウムを買って来た。しかしこれは、自分が楽しむためである可能性がある。 当時の父親にあったものが最近の父親にはなく、最近の父親にあるものが当時の父親にはない、対照的な父子関係である。また、最近の母親も「生活臭がなく、まるでファッション雑誌から抜け出して来たかのよう」と述べられる。 友達親子については、賛否両論である。否定派は、病的な現象だと考え、肯定派は、ほほえましい姿だと考える。しかし、友達親子の背景には、子供の消費者としての地位の向上がある。「キレる子供たち」の原因は友達親子にあるとの意見もあり、賛否は教育学・社会学・心理学など、さまざまな角度から検討されなければならない。 「季刊子ども学」1997年冬号 山田昌弘、辻中俊樹、三浦展、山下英三郎、宮本みち子 親子の友達関係は成立するのか(PDF)", "ダス・マン(ドイツ語:Das Man)とは、マルティン・ハイデッガーによる哲学の概念であり、「世人」とも訳される。 人間というのは個としての死が必然であるということを自覚せざるを得ない能力を持っており、主体的に生きることが運命付けられている存在であるにもかかわらず、このことを考えずに紛らわして過ごしている人間のことを言う。社会において生きる人間というのは、他者とは道具的に出会うということが多く、これは仕事中の他者と仕事相手として出会うということである。ここでは他者は自らの便宜のためであり、自らも他者の便宜のために道具的に存在しているということである。人々はこのような公共的な世界での生活に埋没し、気晴らしを楽しみ、時間を潰しながら生きているわけであるが、ハイデッガーはこのような生き方は本来の人間らしくない生き方であり、これを頽落と表現し、このような生き方をしている人々のことをダス・マンと表現した。このダス・マンという言葉は、人間を非人間的に表現する言葉が名詞化されているということであり、人間ならば誰であってもかまわないという生き方が暗示されている。 ^ [1] ^ http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110125/218142/", "手遊び てあそび - 手を用いた遊び。 てすさび - 暇つぶし、気晴らしなどの目的で行われる他愛もないことの総称。手すさみ、手慰み。 手", "バイト敬語(バイトけいご)とは、レストランやファーストフード店などの飲食店において、アルバイト店員が多数を占めるサービス業界での接客時に特徴的な日本語表現である。あるいは、接客用語をマニュアル化している企業もあり、マニュアル敬語とも呼ばれる。 ファーストフード、コンビニエンスストア、ファミリーレストランなどにおいて、ある種の特徴のある接客表現が用いられており、それらは特に若いアルバイト店員が客に対して使うものであり、バイト敬語、コンビニ敬語、ファミレス敬語、またはファミコン言葉(「ファミ」レス・「コン」ビニ)などと呼称されている。 日本語の乱れや若者言葉として、紹介されたことから注目を集めたが、言語学や方言学の見地からは、さまざまな検証や反論が提示されている。 短期間で効率よく覚えるには効果的だが、場面に応じてではなく、客が子供でも、顔見知りでも、目上、目下もなく敬語が使われることになる。 21世紀初頭では、一般に家庭内では敬語は使わず、地域社会で子供の面倒を見る機能も減少し、これに替わる学校では、高校で少々習うものの大学でも基本的には「です・ます」の丁寧語が要求されるだけで体系的な敬語は不要であり、この敬語の未獲得の時期に、人によってはアルバイトなどでマニュアル化された接客用語としてマニュアル敬語・バイト敬語を覚える。 文化庁の『敬語の指針』では、典型例を学ぶには有効な手引きとなるが、場面によってはその敬語は適さないため、マニュアルは万能ではないことを知っておく必要があるとしており、「自己表現」される敬語が理想とされ、多様な例を示し解説することで選択できようにするという提案も行っている。 文化庁の文化審議会国語分科会は、「コミュニケーションの在り方」と「言葉遣い」について検討してきた。言葉一般について、仲間以外へは、広く通じる言葉を選ぶ必要はあるが、言葉は時代に従って変化するものであり、地域や共同体でも異なる場合があり、伝統や標準のみを正しいと思わず寛容さが求められ、また敬語についても敬意を示そうとしている部分を尊重して寛容に受け止めることも大切だとしている。 会計時に金銭を受け取る際、「○円、お預かりします」ではなく「○円からお預かりします」と言う。 1万円からお預かりします。 「1万円からお預かりします」の場合、客が端数の細かい金額を足し合わせようと財布の中を覗き込んでいながら、どうも足りなさそうなので店員側で「もう1万円から計算してしまいますよ」と確認するニュアンスを持つ。このため「急かされている」「決め付けられている」と不快に感じる聞き手がいる。 森山(2001)によると「〜から」は計算の起点を表すとする。この場合「〜から」が使用されるとかならずお釣りが出る場面であると考えられる。この説によればお釣りが出ない場面「9650円ちょうどからお預かりします」は説明できない。「クレジットカードからお預かりします」の用法も報告されている(飯田2002a)。 岩松(2001:26-28)によると、「〜から」は「1万円からでよろしいですか」と「それでは1万円お預かりします」の両者がつながった物であるとされる。「1万円からお預かりします」の用法は個人商店が多かったかつての日本にはなかった表現である。個人商店では受け取ったお金は店主のものになるので「(9650円頂きますがそのまえに)1万円お預かりします」と直接的な語法となっていた。ところがアルバイトはあくまで「店主と客のお金をめぐる仲介人」であるためこのような曖昧な語法が生じたとする。 北原(2005:10-16)は「〜から」は「まずは1万円から」「とりあえず1万円から」という意味である可能性を指摘する。「1万円からお預かりします」は「まずは1万円から、代金を仮にお預かりします」という店員の気持ちからの発言とする。 「○○で、よろしかったでしょうか?」と、注文の確認のために用いられる。場面や状況の捉え方により客側に違和感を与え得るとされる。この用法の正誤については反論もある。 ファミリーレストランなどで料理を提供するときによく聞かれる「和風セットになります」のような表現は文法的には正しいが、話し手の伝えたいことと聞き手の期待することが食い違うため、不自然に聞こえてしまう。その一方で、状況によってはさほど違和感がないかもしれないとする意見や、一概に否定できないとする意見、謙虚な気持ちを添えた畏まった表現であるとする意見、逆に「〜になります」の使用を禁止することのほうをマニュアル敬語として批判する意見もある。 この表現を批判する理由はよく、和風セットでなかった何かが客の目の前で和風セットに変化するわけでないからおかしいと説明されるが、動詞「なる」の意味は何かから何かに変化することに限らない。NHK放送文化研究所によれば、「〜にあたる」「〜に相当する」の意味もあり、親族を紹介する際に「義理の弟になります」などというのがこれにあたる。「きつねうどんになります」や「コーヒーになります」ならともかく、「シェフの気まぐれサラダになります」のように名前だけでは正確に想像できない品物を提供する際には、この「〜にあたる」の意味での「〜になります」の使い方が十分に有効である。 また、『明鏡国語辞典』編集委員で筑波大学教授の矢澤真人によれば、相手の予想から外れるかもしれない内容を伝える場合にも使われる。すでに三歳になった子供について「この子は三歳になります」とは、その子がこれから三歳に成長するという意味ではなく、聞き手がもっと幼いと予想していると考えて、予想外の情報を伝える意味で使われている。「こちら和風セットになります」などは、もっと豪華なものを期待しているかもしれない客に「これで果たしてお客様のご期待に添えるかどうかわかりませんが」という謙虚な気持ちを添えた、「〜です」より畏まった表現である。NHKでも謙遜の意を込めてそのような言い方をすることがあるとして、一概に否定できないとしている。 (計算すると)525円になります。 こちらの用例は、括弧内を補って考えれば、状態変化を表す「なる」と解釈できる。 また、明治時代から昭和初期にかけての文学作品にも用例がある。  お里がびく/\しながら、番頭の方へ近づくと、 「あ、そうですか。」番頭は何気なく、書きとめた帳を出して見る。彼は、落ちつかない。そそくさしている。 「△円△△銭になります。」 「そうでござんすか。」 —黒島傳治、『窃む女』1923年(大正12年)3月 「姉さん、幾等になる、」  女中は見附の台の傍に立つて、帳場のお神さんと口を利いてゐたが、勘定と聞いてやつて来た。 「一円九十五銭になります、」  清は金を出した。 —田中貢太郎、『白いシヤツの群』1923年(大正12年)10月  客の男は矢庭にポケツトから紙幣束を掴出して、「会計、いくら。」 「お酒が三杯。」と佐藤はおでんの小皿を眺め、「四百三十四円になります。」 —永井荷風、『にぎり飯』1949年(昭和24年)1月 こちら和風セットになります。 メニューになります。(2007年にイオンCM中での使用が指摘され、ございますにその後変更されている) 禁煙席になります。 お買い得なります/〜となっていま。 こちらになります。(客に場所等を説明する時の典型的バイト敬語) 「こちら和風セットになります」といった表現は、店の側としては、客に気配りをして、「〜です」より畏まった表現として用いているのであるが、客の側では単に自分の注文したものが提供されるのを期待しているだけなので、畏まった謙虚な表現としての「〜になります」とは解釈されず、何かから何かへ変化する意味の「〜になります」と捉えられて不自然に感じられる。 丁寧な接客表現だからといってなんでもかんでも「〜になります」と言うのでなく、場面に合った使い方をすることが必要である。 「こちらが若鶏のプロヴァンス風になります」のように、メニューを見ただけではどんな料理か想像できない、不確定な状況での「〜になります」については、さほど違和感がないかもしれないとする意見、あるいは十分有効であるとする意見がある。 また、明治時代から昭和初期にかけても用例が見られる。 税はそのくらいにしてこのほか己のためにするものは衣食住と他の贅沢費になります。 —夏目漱石、『道楽と職業』1911年(明治4年)8月 私は又、病院の方へも御無沙汰してゐたものですから、もう大抵、よくなられた事だとばかり、思つてゐました――すると、何時になりますかな、なくなられたのは。 —芥川龍之介、『手巾』1916年(大正5年)9月 今年六十七歳になりまするが、この五十年間を、私は絵と取組んで参った訳になります。 —上村松園、『想い出 絵の道五十年の足跡を顧みて』1941年(昭和16年) 「〜でございます」自体は正しい敬語だが、上記「〜になります」についての苦情を恐れるあまり「〜になります」の使用を禁じて全て「〜でございます」に言い換えさせることについては批判もある。NHK放送文化研究所では、「〜になります」も使い方によっては十分有効な表現であり、場面によって「〜になります」と「〜でございます」を使い分けさせるのが面倒だからといって一律に「〜でございます」に言い換えさせることは効率重視のマニュアル敬語だとして、それでは日本語の微妙なニュアンスが失われてしまうと批判している。 職業や健康など、あからさまに言うのがはばかられる話題に触れるとき、言葉に「〜のほう」をつけるのはもともとある用法である。慎み深さを重んじた日本的な表現である。戦前の文学作品にも用例が見られる。 そりゃ大丈夫です。身体の方は達者ですから。風呂でも何でも汲みます。 —夏目漱石、『それから』1909年(明治42年) 汽罐の方はそりゃ、私あ、十五六の時から、鉄道の方の、機関庫にいまして、最近までずうっと機関手をやって来ていますから。 —佐左木俊郎、『喫煙癖』1931年(昭和6年) また、対比や比較の対象を示す用法もある。コーヒーとスパゲッティを注文されたウェイトレスが、スパゲッティを念頭に置いて「コーヒーのほうはあとになさいますか」と聞くのはこの用法である。 しかし、近年では、ぼかして慎み深さを表す必要もなければ対比や比較の対象もない場面でも「〜のほう」が多用されている。コーヒーの他にも何かを頼んだ客に対して「コーヒーのほうは後でお持ちしますか」と尋ねるのであれば適切だが、コーヒーだけを頼んだ客に対して「コーヒーのほうをお持ちしました」というのは適切とはいえない。 ^ a b 文化審議会 『敬語の指針(文化審議会答申)』(PDF) 文化庁、2007年2月2日。 ^ 洞澤伸 & 岡江里子 2006, p. 1. ^ a b 井上史雄、当該コラムの筆者は竹田晃子 『敬語は変わる』 大修館書店〈大規模調査からわかる百年の動き〉、2017年、7, 144-146頁。ISBN 978-4-469-22260-9。 ^ “「分かり合うための言語コミュニケーション(報告)」について”. 文化庁 (2018年3月2日). 2018年7月15日閲覧。 ^ 文化審議会国語分科会 (2018年3月2日). “分かり合うための言語コミュニケーション(報告) (pdf)”. 文化庁. 2018年7月15日閲覧。 ^ この項目「「バイト敬語」を使う若者たち」洞澤伸、岡江里子(2006)、pp.23-27. から引用。 ^ 店員が「○○で、よろしかったでしょうか?」 - 独立行政法人 国立国語研究所:ことばQ&A(2010年9月15日時点のアーカイブ) ^ たとえば「ありえない日本語」秋月高太郎(ちくま新書) ^ 北原保雄 2004, p. 30. ^ a b c 本多啓 2006. ^ “最近気になる放送用語”. 2017年11月4日閲覧。 ^ a b c 北原保雄 2004, pp. 31-32. ^ a b c d 田中伊式「こちら、~になります」 (pdf) 、『放送研究と調査』第2016巻Oct、2016年10月、 103頁。 ^ “最近気になる放送用語”. 2017年11月4日閲覧。 ^ 北原保雄 2004, p. 33. ^ a b 北原保雄 2004, pp. 26-29. 北原保雄 『問題な日本語―どこがおかしい?何がおかしい?』 大修館書店、2004年。ISBN 4-469-22168-6。 洞澤伸、岡江里子「「バイト敬語」を使う若者たち : 話し手の心理と聞き手の印象」 (pdf) 、『岐阜大学地域科学部研究報告』第19号、2006年8月31日、 1-31頁、 NAID 120006339548。 本多啓「ニナリマス敬語について」 (pdf) 、『駿河台大学論叢』第31号、2006年、 77-91頁、 doi:10.15004/00001009、 NAID 120005578078。 「〜のほう」は“ぼかし”表現か? (PDF) 飯田朝子(中央大学 第125回日本言語学会大会 2002年11月4日東北学院大学) 敬語:日本語ブックレット2006(2010年4月8日時点のアーカイブ) - 解説 論陣論客 基本学び、けいこ重ねて 永崎一則(ながさきかずのり) 応用きかぬ「バイト敬語」 井上史雄(いのうえふみお) 読売 朝刊 2006-8-8 p.13 日本語一般:日本語ブックレット2006(2010年4月8日時点のアーカイブ) - 教養講座 ニホン語をめぐる知的冒険 バイト敬語はなぜ広がった?「一度」と「一回」はどう違う? (山口仲美、飯田朝子) 現代 40-8 2006-8 pp.296-304 講談社 日本語一般" ]
ABC01-02-0103
ボクシングで、相手を想像して一人で練習する方法を何ボクシングというでしょう?
シャドーボクシング
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[ "シャドーボクシング", "正面跳び", "跳び蹴り", "リープ・フロッグ", "リューキン" ]
[ "シャドーボクシングとは格闘技(主にボクシング)の練習方法の一つである。 一人で仮想の敵を想定し、自ら立って手足を動かす。仮想の敵からの攻撃を避けながら、パンチを繰り出すなどの攻撃をする。 もう一つの方法として、鏡を見ながら自分のフォームをチェックすることを目的として行う。 空手やキックボクシング等の、蹴りを使用する格闘技でも、シャドーボクシングと表記する。 「シャドー」と省略することも多い。 近年、日本国内ではシャドーボクシングを採点競技化した大会が行われている。 東日本ボクシング協会では、大橋秀行会長の提案により「エアボクシング」と称したシャドーボクシング大会が実施されている。自由演目の1次予選・2次予選、対戦シャドーの準々決勝・準決勝・決勝を行い、結果によりエアボクシングランキングを作成。試合結果次第でエアボクシングライセンスも付与する。2009年8月にプレ大会、2010年3月に初の本大会が開催された。 アマチュアでも全日本女子アマチュアボクシング選手権大会にて「演技部門」として実施され、好成績を収めた選手に対して「実戦部門」出場資格が与えられる。 上記以外にも地域連盟やジム、プロモーターなどの主催によるシャドーボクシング競技会が各地で行われている。 格闘技 イメージ・トレーニング 演武", "正面跳び(しょうめんとび)は、陸上競技の走高跳における跳躍の仕方の一種。はさみ跳びともいう。ハードルを越える動作に近い。 バーに対して垂直に助走し、ハードルを跳び越える際と同様に足を大きく開いて飛び上がり、さらに上体を捻ったり倒したりする。バーを越える時、体は横を向き、上体は前屈あるいは横(進行方向に対して後ろ)に傾く。最も初歩的で古くから用いられていた跳躍法。 ベリーロールの登場により影が薄まり、現在は背面跳びの登場によって完全に過去の跳躍法となっている。 走高跳", "跳び蹴り(とびげり)は、格闘技、武道、武術で跳びあがってから対象(人など)に蹴りつける蹴り技。飛び蹴りとも呼ばれる。 跳躍の勢いが蹴りに加算されるため、技の威力としては格段に強い。しかし跳躍の動作によって相手に意図が読まれやすいために回避されやすく、更に技が空振りに終わった後はほとんど無防備になる。そのため実戦で有効かは疑問符がつく。 一方でプロレスにおいては派手なアクションのため、見栄えがよい為、観客を沸かせる効果を狙って使用される。種類としてはドロップキックをはじめ多数ある。 また派手な技である為、アニメや特撮などのフィクションの世界では仮面ライダーのライダーキックを初めとして人気がある。", "リープ・フロッグ(leap frog)とは、プロレスにおける技術の名称。英語で“Leapfrog”とは馬跳びのことで、プロレスにおいても相手選手を馬跳びする要領で行われる技である。プロレス技というよりもプロレスの試合を盛り上げるための技術といえる。別名は英語名を日本語に直訳した『カエル飛び』。 ロープに振って返ってきた相手が自らに迫ってくるタイミングで開脚ジャンプを行い、相手を自らの背中越しにやり過ごす技である。そのため相手へのダメージは一切なく、自らの身軽さをアピールする見せ技の一種である。 振って返ってきた相手にすぐさま行うことは少なく、一度腹ばいになって相手を自らから飛び越えさせてから、もう一度返ってきた相手に仕掛けるのが通例。 また仕掛けられた相手は少し身をかがめてアシストする。 ジュニアヘビー級の選手に使い手が多い技だが(身軽さに自信を持つヘビー級選手にも使い手はいる)、跳躍力、正確性、開脚の美しさの三拍子がそろった最高の名手として、ジミー・スヌーカが挙げられる。 またミル・マスカラスもよく使っていたが、1974年7月25日に日大講堂で行われたザ・デストロイヤー戦で(『覆面世界一決定戦』)、この技を仕掛けようとした際タイミングを誤り、股間をデストロイヤーの頭部に強打。そのまま試合続行不可能となり世界一の座を奪われたばかりか、敵であるはずのデストロイヤーにリング上で介抱してもらうほど悶絶するという大失態を演じている(梶原一騎の「プロレススーパースター列伝」では、デストロイヤーが意図的に頭突きを食わせたということになっていた)。 日本人では、若い頃のジャンボ鶴田がよく使っていた。", "リューキンは、ソビエト連邦(当時)の体操選手ワレリー・リューキンが考案した床と鉄棒の技にそれぞれ付けられた名称の事である。 床・・・後方抱え込み3回宙返り 1980年代後半に考案されたが極めて難易度が高い上に、大会等でも使用される事がほとんど無い為、なかなか目にする機会がない。技の披露順はロンダートからバック転し、後方抱え込み3回宙返りを行う。2013年現在でも男子床に於いては最高難度のG難度である。 鉄棒・・・伸身トカチェフ(懸垂前振り開脚背面とび越し懸垂)一回ひねり 2013年現在男子鉄棒に於いてF難度の認定を受けている。 体操競技の技名一覧" ]
ABC01-02-0105
自分が犯した罪や過ちで苦しむ事を「身から出た錆」といいますが、この「身」とは何のことでしょう?
日本刀
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[ "日本刀", "大太刀", "刺刀", "模擬刀", "刀剣" ]
[ "日本刀(にほんとう)は、日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。 刀剣類は、日本では古墳時代以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり刀身の片側に刃がある刀剣のことを指す。 寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。 著名な日本刀には、日本国国宝「大包平」、妖刀「村正」、「雷切」、豊臣秀吉の愛刀「一期一振」、「天下五剣」と称される5つの名刀(国宝「童子切」、「三日月宗近」、「大典太」、重要文化財「数珠丸」、御物「鬼丸国綱」)などがある。詳しくは日本刀一覧を参照されたい。 古来から武器としての役割と共に、美しい姿が象徴的な意味を持っており、美術品としても評価の高い物が多い。古くから続く血統では権威の証として尊ばれていた。また武家に関するものとして挙げられることもある。その特徴は、「折り返し鍛錬法」で鍛え上げられた鋼を素材とする点と、刀身となかご(茎、中心)が一体となった構造である。茎には刀身を目釘で柄に固定する目的の孔(目釘孔)が設けられている(稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものもある)。また、日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装(拵え)とは別に刀身自体が美術的価値を発揮していることが特徴である。 「日本刀」は元来、日本国外からみた場合の呼称である。古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(けん・つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。また、木刀・竹刀・模擬刀に対置して「真剣」と呼ばれることもある。 「日本刀」という呼称は、北宋の詩人である欧陽脩の「日本刀歌」に見られる。この詩の中で、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が歌われている。日本刀の美しさが、平安時代後期 - 鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、輸出品の1つとされていたことを示している。 「日本刀」という名称は日本国外の刀剣とは異なる日本固有の刀剣の総称であり、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことである。それ以前は「打刀(うちがたな)」や「太刀」など小分類で呼ぶのが普通であった。 日本刀は、政治・経済・文化・風俗・習慣など、その時々の歴史的要因により、変貌を続けてきた。 日本では独自に青銅製の刀剣類が生産されていたが、古墳時代以前にはすでに鉄製の刀剣類の生産が始まっていた。例えば、古事記に登場し古代天皇の三種の神器とされ、そのなかの一つ草那藝之大刀(彎刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)がそれであり、埼玉県の稲荷山古墳や島根県安来市の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳(現古代出雲王陵の丘の一部)からは鉄剣、大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。 この時代の刀剣の多くは朽損しているが、古墳時代後期(6世紀)以降の直刀は「装飾付大刀」とも呼ばれ、金装・銀装・金銅装の煌びやかな装具を装着し、形態的にも様々なバリエーションのものが出現した。島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。 7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんかざりのからたち/きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている。推古天皇が「馬ならば日向の駒、大刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていたが、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。正倉院では唐大刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様大刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の刀も現存している。 平安時代初期の刀剣は遺品にこそ乏しいが、坂上田村麻呂の儀仗用とされる鞍馬寺の「黒漆剣(くろうるしのつるぎ)」や、兵仗用とされる清水寺 (加東市)の「騒速(そはや)」が現存している。特に清水寺の大刀は切刃造の1口の他に鋒両刃造の2口があり、特色として3口とも鎬筋がやや中央に寄り、刀身全体に浅い反りがあることから、奈良時代末期から平安時代中期にかけて兵仗が直刀から彎刀へと変遷する過程の初期のものとも考えられる。しかし作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の彎刀が形成されたかについては、はっきりと分かっていない。おそらくは奥州に住んでいた蝦夷の技術の影響を受け、直刀片刃に角度をつけた蕨手刀(彎曲刀)や、柄に透かしをつけて斬撃の衝撃を緩めた毛抜形蕨手刀、毛抜形刀、毛抜形を経て、反りのある日本刀に変化していった。反りがつくことで引き切りに適した武器となり、特に騎馬戦で使いやすくなった。刃金となる硬鉄を炭素含有量のことなる地金で巻き鍛造する製刀法は蕨手刀より見られるようになる。[要出典] また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。 平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきた。源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めとするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる。 平安時代の太刀の特徴を以下に列記する。造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、身幅(みはば)は総じて狭く、鋒(きっさき)が詰まって小切先となる。姿は腰から棟側にあたかも倒れるような姿をしており、反り高く、物打(ものうち)は反りが伏せごころ。踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしている。刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っており、沸(にえ)出来である。焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多い。これは研ぎ減りの関係でもあるが、「焼き落とし」とも呼び、豊後国行平など、九州鍛冶には後世でも見られる。茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形が主流である。稀に元先の身幅(みはば)に差があまりない豪快な太刀も存在し、古備前派の包平の大包平(おおかねひら 東京国立博物館蔵)、真恒(さねつね 久能山東照宮蔵)、友成(ともなり 厳島神社蔵)、九州の三池光世(みいけみつよ)の大典太(おおでんた 前田育徳会蔵)が著名でいずれも国宝に指定されている。 鎌倉時代は武士の台頭とともに諸国で争乱が生じ、それに伴い日本刀の需要が急激に高まり、後鳥羽上皇による御番鍛冶制度の創設で刀工に対して積極的に作刀を奨励したこともあり、日本刀の黄金期を迎えた。 鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、刀剣界が活発になっていく。源頼朝の没後、源氏の三代目の源実朝でその政権が途絶え、代わりに北条氏が実権を掌握したが、この変動に乗じて後鳥羽天皇は自らの朝威を回復しようとした。土御門天皇に位を譲った後鳥羽上皇は院政を行い、熱心な愛刀家であったため日本刀の鑑定にも詳しく、自らも焼刃を施したといわれる。『正和銘尽』によると後鳥羽上皇は月ごとに山城・備前・備中などから刀工を召して鍛刀させ、番鍛冶制度の影響で日本刀を代表する名刀がこの時代に多数生まれた。 鎌倉初期の日本刀は、平安後期にみられる初期日本刀の上品さを思わせる姿から、鎌倉中期に確立された豪壮な造りに移行する過渡期にあった。反りに関しては、平安後期のような鎺金(はばきがね)のある部位から勢いがついて曲がるような形状から、鎺元の上あたりに反りの中心がくるような上品な立ち姿へと変化していった。また、切先は小切先に分類されるが、この時期になると一回り大きくなり、それに伴い元身幅と先身幅の間が小さくなっていった。この時期の日本刀を代表する刀工の栗田口久國の地金にみられるように、肌がよくつんで微細な地沸が良く付いたきれいな地金が造られるようになった。刃文も美麗な小丁子乱がみられるようになり、華麗な見栄えに加えた勇渾な作品が目立つようになってきた。 同時代の著名な刀工としては、備前国の末古備前派の正恒・延房・吉包、同国の古一文字派の則宗・助宗・助則、同国の福岡一文字派の延房・宗吉・助包、山城国の粟田口派の國友・久國・國安、大和国の古千手院派の行信・重弘、陸奥国の舞草派、出羽国の月山派、伯耆国の安綱派、備中国の古青江派の守次・恒次・康次・貞次・助次・家次・正恒、豊後国の定秀派、薩摩国の古波平派の行安などが存在する。 鎌倉幕府は承久の乱で後鳥羽上皇と争い、「御成敗式目」の制定により武士の全国支配を確固たるものにさせ、必然的に鎌倉が武家文化の中心地となっていった。こうした変化に伴い武士が用いる武器の需要がますます高まり、それに応じて山城国の栗田口国綱、備前の三郎國宗や福岡一文字助眞はじめとする刀工一族が鎌倉に集まった。承久の乱で敗れた際に隠岐島に流された後鳥羽上皇は、そこでも刀を制作したとされ、後世に菊御作を残した。こういった事実はこの時代の世相をよく物語るものとなっている。また、この時代の寺院の権力化に伴う僧侶の武装化も刀剣界に影響を与えている。大和国では寺院お抱えの刀工群が生じたが、寺院が公家や武家以外の一大勢力へ変化していくのに伴い、刀工の各流派はしだいに各宗派の影響力がある地域へと移住し、そのことによって寺社と刀工流派は双方に影響を及ぼすようになった。寺社権力の強大化を恐れた幕府は六波羅探題を通して、1228年に高野山の僧徒などに武装を禁止する命令を下し、また、1235年に再び禁止令を徹底しようと試みたがいずれも失敗し、この時代の流れに逆らうことはできなかった。  鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついてくる。鎌鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでている。剛健な武家文化の特徴をよく表した強さが刀にも反映され、鎌倉初期に見られた傾向がより顕著になっていき、堅牢な武具を断ち切ることが可能なように造り込みが変化していった。反りに関しては前時代のものと比べると浅くなっており、鎌倉末期から南北朝期の作品に特徴的な中間に反りがくるような姿になる過渡期にあった。地鉄は全般的に多様化しており、備前鍛冶の作にみられるように匂出来で映りが雲煙のごとくたなびくものが多くあらわれるようになった。また、一文字派の吉用の例では、地景と映りが断続的にあらわれ、第二の刃文が確認できるように地は変化に富む。この時期の刃文は歴史上、最も美しく華やかなものとされ、備前と山城の作にみられるような大房丁子乱れが多く流行した。 この時期の短刀の特徴としては、反りがないか(刺刀:さすが)、わずかに内反り(棟が研ぎ減ったと考えられているかあるいは元から筍反:たけのこぞりと呼ばれる筍造:たけのこづくり)になっており、茎は反りのないものと振袖形(ふりそでがた)がある。この頃から短刀の制作が活発になり、作例がしばしば見うけられる。 同時期の著名な刀工としては、備前国の福岡一文字派の吉房・吉平・吉用・吉宗・吉家・吉包・助眞・助依・則包、同国片山一文字の則房、同国備前三郎派の國宗・國貞、同国古長船の光忠・長光、山城国の栗田口派の國綱・有國・國清・則國・國吉・吉光、同国の来派の國行・國俊、同国綾小路派の定利、大和国の千手院の力王・金王、備中国の古青江派の守次・助次・俊次・包次、周防国の仁王派の清綱・清久、薩摩国古波平派の家安などが存在する。 また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘した。主な刀工は、山城国から粟田口藤六左近国綱、備前国から福岡一文字派の助真、国宗派の国宗、京伝、大和伝の流れを汲む新藤五国光などと言われている。特に新藤五国光は、従来の山城伝伝統の精緻な地鉄の上に、大和伝に見られる沸働きの強い作風を確立し、事実上「相州伝」の祖と言われている。その弟子には行光、国広がおり、行光の弟子に越中則重、岡崎五郎入道正宗が知られている。備前伝が「匂出来」で知られる一方、相州伝は「沸出来」である。 山城・大和・備前・美濃・相模の5か国の作刀方式を「五箇伝」という。これら5か国の作刀には、それぞれ地鉄、鍛え、刃文などに独自の特色があり、それを「山城伝」、「相州伝」などと称する。なお、相模国については「相模伝」とは言わず「相州伝」という習慣がある。五箇伝は桃山 - 江戸時代にかけて刀剣研磨・鑑定を生業とした本阿弥一族が整理した区分であり、大正 - 昭和初期にかけて本阿弥光遜が体系的に整理した。 鎌倉時代末期、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づく。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていく。身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えてくる。短刀やその他の刀剣にも太刀と同じように長寸の作がでてくる。ただし、全般に重ねが薄い点が他の時代との大きな差異である。 古今で最も著名な刀工、相州の岡崎五郎入道正宗は、ちょうど鎌倉中期から末期にかけて活躍したと推測されている。彼は、新藤五国光が確立した「相州伝」をさらに強化した作風で知られる。硬軟の鋼を巧みに組み合わせた地鉄を鍛えることによって、砂流(すながし)・金筋(きんすじ)・沸裂(にえさけ)・地景(ちけい)・湯走り(ゆばしり)・沸映り(にえうつり)と称される地刃中の「沸の働き」を従来の刀工以上に表現した。殊に刃中の細かい沸の輝きは、後世の沸荒く飛び焼き顕著な「相州伝」と一線を引き、同時代の「相州伝」刀工の作を「相州上工の作」と区別し褒め称えられている。また、地鉄の「働き」が豪華絢爛であるのと同様、「湾れ(のたれ)」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えた、従来にはなかった大乱れの華やかな刃文を確立した。正宗の作風は鎌倉末期から南北朝期の各地の刀工に絶大な影響をあたえた。世に「正宗十哲」とよばれる刀工がいる。彼らの大部分は、後世の仮託であり、正宗とは実際の師弟関係がないにもかかわらず、正宗の相州伝が各地に影響を及ぼしたことがよくわかる。 政治的時代区分では室町時代に包含されることの多い南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られている。薙刀も大薙刀と呼ばれる大ぶりな物が多く造られている。槍も穂先の長い大身槍が登場し、大鉞や金砕棒といった武器も登場している。これらの武器は、取り扱いが非常に難しいが、威力があり、大変目立つために武士の羨望の的となった。すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来より一大勢力であった備前国においても、当時長船派の棟梁格であった兼光一派の作にも、伝統の丁子乱れ(ちょうじみだれ)ではなく、互の目乱れが見られ、後の長船一派の刀工へ影響を及ぼしている。この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させていることから、室町末期の磨上を「天正磨上」と呼び非常な名刀が多い。また、この時代には小太刀もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われる(この時代以前の目釘穴の位置は茎の中心に存在したが、不具合があったため南北朝時代の初期の建武の頃から区よりに目釘穴を設けるようになったという)。室町時代には大太刀がある一方で、総体的には刀剣が短寸化する時代と言われるが、この南北朝時代に流行した大太刀・大薙刀が再び流行したとする説もある。 室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀・脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。 (室町中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に代わってくる。なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の表で、その面に刀工銘を切るのが普通である。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いが、裏銘に切る刀工もいる) 平和な時代が始まったため刀剣の国内需要は低下したが、明への重要な貿易品としての生産も行われるようにもなった。そして、応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるため、足軽など農民兵用に「お貸し刀」(貸与される刀)などの粗悪な「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになった。戦国時代に入ると刀剣生産が各地で行われ、特に祐定を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工が活躍した美濃国が生産拠点の双璧である。他には、豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が知られている。寛正年間から火縄銃が普及する天正頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。また、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣を特注することもあった。これら「注文打ち」には名刀が揃っている。重要文化財に指定されている「長船與三左衛門祐定」の永正年期作は、注文主の栗山某の美意識を反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れを焼き、従来にはない感覚の異色の名刀である。同時代の著名な刀工としては、備前の則光、在光、賀光、祐光、勝光、宗光、清光、春光、治光、幸光など、美濃の兼定、兼元、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、兼生、氏貞、正吉(坂倉関)、正善(坂倉関)、正利(坂倉関)などが挙げられる。他の地方では、相州綱広、千子村正、高天神兼明、豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光、宇多国宗、波平某などがある。その他無名の刀工を含めると、第二次世界大戦時より刀工の数が多かったものと思われる。 南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。まず、鉄砲に対抗するため甲冑が強化された。また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。南北朝時代から使われた大身槍が室町時代末期から安土桃山時代の軍記などの文献にはよく現れ、南北朝時代に流行した大太刀・野太刀が安土桃山時代に再び流行した。また、室町時代に大太刀の改良型である長巻が登場し、戦国時代に最もよく使われた。 刀剣史上注記すべき点としては、長らく続いた備前長船一派が度重なる吉井川の氾濫で天正末期に壊滅したことがある。これによって備前鍛冶の伝統は一時休眠状態となった。そのため、各地の大名は量産体制のある美濃の鍛冶をこぞってお抱え刀工に採用した。この点は「新刀」を語る上で非常に重要なポイントとなる。 刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。新刀の祖は埋忠明寿と言われており、その弟子に肥前国忠吉がいる。 備前鍛冶が壊滅状態に陥ったこともあり、京都に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛冶は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。徳川家康が越前下坂康継をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。 江戸時代に入り、風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人などの差し料の寸法が制定された。特に武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文、延宝にかけて各地の刀鍛冶は繁栄し、技術水準も向上した。一方で幕末までの間、普段差しを中心に用いられる短刀の作刀は急激に減る。江戸初期に活躍した各地の著名刀工は以下の通り。北から 仙台・国包、会津・政長、兼定、江戸・越前康継(初、2代)・江戸石堂是一(初代)、相州・綱広、尾張・伯耆守信高(初代)・政常・氏房、加州・兼若、越前・下坂一派(忠国・重高・包則)、京・堀川派(国路・国安・国儔)・三品派(金道・吉道・正俊)、大坂・親国貞、紀州・重国・紀州石堂正俊、筑前信国派、福岡石堂一派(守次、是次)、肥前・忠吉一派(初代・忠廣)、薩摩・波平一派などである。寛文頃から江戸での鍛刀も盛んになるが、元和、寛永時期においては、京都、越前、美濃が中心地であった。 江戸においては、幕府お抱え刀工である越前下坂康継一派が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛冶の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛冶も出現し、お互い技量を高めた。また、島原の乱以降平和な時代が続き、寛文頃になると、剣術が竹刀稽古中心となった影響で、竹刀に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を寛文新刀と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。主な刀工としては、江戸越前康継(3代)・石堂是一(初、二代)・和泉守兼重・上総介兼重・大和守安定・法城寺正弘・八幡平高平・そして特に著名な長曾祢虎徹、奥里、奥正がいる。少し後れて、石堂派から日置光平、対馬守常光がいる。 交易の中心地の大坂には、近郊から刀工が次第に集まってきた。同時代の著名な刀工としては、三品派(親国貞・国貞(二代)・吉道・河内守国助)、紀州から移住した大坂石堂派(康広、多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口忠綱一派(忠綱、国綱)がいる。これらの刀工集団の作を大坂新刀と呼び、新刀の中でも特に区別される。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜く。背景には大坂の力と、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨を近辺に控えていることもあるだろう。そして、美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始した。特に有名なのは、大坂正宗と賞される国貞(二代)井上真改の匂い沸深い直刃と、助廣(二代)津田助廣が創始した涛瀾乱れ。中には「富士見西行」「菊水刃」と呼ばれる絵画的で華美な刃文も登場したが、保守的な武士からは退廃的だと忌避されるものもあった。また、元禄以降太平の世になると新たな刀の需要はなくなり、刀を作る者も殆どいなくなった。中には武芸者が特注打ちで流派に即した刀を鍛えさせているがごく少数である。その中でも粟田口忠綱二代の一竿子忠綱は刀身の出来、彫りともに優れている。 刀剣の需要が衰退する一方で、鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七・志水甚吾を代表とする肥後鐔工、京透かし鐔工、山吉兵などの尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工、全国に散った京正阿弥一派と言った鉄地を細工する鐔工だけでなく、町彫りの祖と呼ばれる横谷宗珉を始め土屋安親、奈良利壽、濱野政随など、従来の後藤一派の伝統から離れた金工職人に殊に独創的な名工が生まれた。刀剣は消耗しないものの、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し(一方で登城差しなど掟に縛られた拵えもある)、刀装具の繁栄に反比例するが如く、鍛刀界は衰退していく。 黒船来航前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる飢饉、政策の失敗続きなどにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めた。そんな時代に出羽国から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れた。安永3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀(すいしんしまさひで)の登場である。これより明治維新までの時代を「新々刀」と区分する。特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがある。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られた。地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現する。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなる。 新々刀初期に、鎌田魚妙という侍が『新刀弁疑』という著書で、名刀の条件に、沸匂深い作を主張し、大坂新刀の井上真改、津田助廣を褒め称えた。そのため新々刀初期には江戸時代前期の津田助廣が創始した華麗な涛瀾乱れを焼くのが流行した。しかし、本科と比べると、地鉄は無地調で弱く、刃は鎬にかかるほど高く焼き、そして、茫々とした締まりのない匂い出来で、斑沸つく作が多い。実用刀とはほど遠いと感じた正秀は、鎌田魚妙の説に疑問を抱き、実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた。この復古運動は、後の勤王思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、各地の鍛冶と交流し(相州伝、備前伝の秘儀を学ぶべく弟子入りした)、同時に大勢の門弟を育てた。卸し鉄など様々な工夫を凝らし目標とする鎌倉・南北朝期の地鉄作製を試みるも、たどり着くことはなかった。これは今日でも同様である。勤皇の志士は勤皇刀を使用した。 正秀の弟子は全国各地へ散り、文字通り新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどである。著名な弟子に大慶直胤、細川正義、加藤綱俊がおり、各々正秀と同様、多くの門人を育てた。 正秀一派が活躍する一方で、信州から源清麿が登場した。はじめは大坂新刀の流れを汲む尾崎一門の河村寿隆に作刀を学び、侍になるべく江戸へ出、幕臣であり軍学者であった窪田清音に才能を見出され、各家伝来の古名刀の写しを作る。源清麿は初銘を「秀寿」と切り・「環」・「正行」・「清麿」と推移する。四谷に住んだため「四谷正宗」の異名を持つ。古作の現物を見て写しを造り腕を磨いたため、正秀一門の写し物とは姿、出来が大いに異なる。特に左文字写し、志津兼氏写しを得意とした。地鉄も他の新々工とは一線を引き、鍛え肌美しく力強い。また、焼き刃は古作の如く、盛んに金筋を交える。しかし、多額の借金(鍛刀の前受け金)を残し42歳で自殺した。弟子に栗原信秀、藤原清人、鈴木正雄がいる。藤原清人と栗原信秀は、師匠が自殺した後、残された約定の鍛刀を引き受け、借金を返したという逸話を残している。 水戸勤皇派による天狗党の乱、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変などがあり、諸国でも佐幕派と尊王攘夷派が入り乱れて闘争が行われるようになる。時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少ない短刀の需要、長大な刀を好む武士も増え、作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎える。 明治6年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。国際社会に日本人の技術と精神を示すものであった。しかし明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)には廃刀令が発布され大礼服着用者・軍人・警察官以外は帯刀を禁止されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまった。新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。また、多くの名刀が海外に流出した。それでも政府は帝室技芸員として、月山貞一、宮本包則の2名を任命。伝統的な作刀技術の保存に努めた。 創設されてまもない日本軍(陸軍・海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告によって将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用した(なお、同布告では野戦や常勤時に使用するこの軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」も採用されている(のち廃止)。様式はサーベルではなくエペ)。陸軍・海軍ともに欧米列強に範をとったため、当初は拵え・刀身ともにサーベルであったが、西南戦争における抜刀隊の活躍や日本刀に対する日本人の想い入れから、次第にサーベル様式の拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには日露戦争における白兵戦で近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、それら軍刀需要で日本刀は復権をとげた。さらに昭和時代には国粋主義的気運が高まったことと満州事変や第一次上海事変における戦訓もあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、日本刀を納めるのにより適した将校軍刀拵えが登場した。また、同時期には将校准士官用と異なり長きに渡り拵え・刀身ともに純サーベル様式(三十二年式軍刀)であった下士官兵用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身(九五式軍刀)が採用された。しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が戦地で失われることにもなった。 日本軍において下士官兵(騎兵・輜重兵・憲兵など帯刀本分者)の軍刀は基本的に官給品であり扱いは「兵器」であるが、将校准士官の軍刀は上述の建軍まもない1875年の太政官布告以降、第二次世界大戦敗戦による日本軍解体に至るまでほぼ一貫して服制令上の制式であり、そのため扱いは「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」であった(軍刀を含む将校准士官が使用する大半の軍装品は自弁調達であるため、官製のものを購入していても「私物」であった)(「軍服 (大日本帝国陸軍)」および「軍服 (大日本帝国海軍)」参照)。 従来の日本刀は北方の極寒の中では簡単に折れるため強度に対して、また海軍からは錆に対する不満が高まっていたため満州事変以後、陸海軍の工廠、帝国大学など各機関の研究者は拵えだけでなく刀身においても実戦装備としての可能性を追求した。例として、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」など、各種の刀身が研究開発された。日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称された。官給軍刀を含むこれら特殊軍刀々身は、近代科学技術の力をもって開発されたものであるため、物によっては従来の日本刀よりも(俗に名刀と呼ばれる刀であっても)武器としての資質において勝るものも数多くあった。軍刀(工業刀)は総じて粗悪品だったという俗説も未だ根強いが、そういったものは悪徳業者の販売した粗悪刀などで、一部を除き(試行錯誤の初期や、余裕の無くなる第二次世界大戦末期には粗悪品が見られる)妥当な評価ではなく、また近代戦における戦場という劣悪な環境に置かされる事情も考慮に入れる必要がある。鋳造説、官給軍刀・造兵刀は粗悪品説に至っては論外である。これらは陸海軍の将校に、従来の日本刀に比べて手入れが少なく切れ味が持続するという圧倒的に優れた性能を持ち、安価で惜しげなく使える刀身として重宝され、下士官兵には官給軍刀の刀身として支給・実戦投入され、第二次大戦終戦まで大量に使用された。 将校准士官の軍刀は軍装品であり私物であるため、これら特殊軍刀以外にも先祖伝来のものや内地で特に入手したような旧来の日本刀(古刀から新作現代刀まで)も大量に軍刀として使用された。広義に「軍刀」とは軍隊で使用される刀剣を総称(通称)する単語であり、場合により語弊が生じることにも注意を要する(「軍刀#刀身」参照)。 本来の「戦う日本刀」「戦いの武器としての日本刀」「実戦刀」という観点では、各特殊軍刀々身は「完成された日本刀」となり、肝心の実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は二の次な物が多く(特殊軍刀々身においても、関の古式半鍛錬刀の様に双方を兼ね備えた刀身も開発されている)、今日では製造方法の上からも狭義の日本刀の範疇には含まれないことにはなっている。しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の新たな発見や偏った俗説の否定など、再評価の声が高くなっている。 太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、日本刀を武器であると見なした連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により刀狩が行われ、蛍丸を始めとした数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあった(熊本県のように、石油をかけて焼かれた後海中投棄された例もある)。また、「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言も飛び交い、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせ駄目にしたり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀(こがたな)としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み鉈や鎌、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値を貶めた例は枚挙に遑がない。GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還された。しかし、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれている。 一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれたが、日本側の必死の努力により、登録制による所有が可能となった。登録されていない刀は、警察に届け出た後に審査を経て合格すれば各都道府県の教育委員会から登録証が交付される。この登録がされた刀は、携帯や運搬に関しては銃刀法による制限はあるが、単なる所持については許可は必要なく誰でも可能である(条例により18歳以下への販売を規制している地域はある)。なお、購入・相続など所有者変更の際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への届け出が必要である(詳細は「銃砲刀剣類登録」を参照)。 今日では日本刀は武器ではなく、居合道・抜刀道といった武道用の道具、絵画や陶器と同格の美術品であり、その目的でのみ製作・所有が認められている。世界の刀剣の中でも日本刀は、美術品としての価値が高く、国宝、重要文化財に指定、あるいは重要美術品に認定されたものもある。日本刀は独自の鍛錬による、さまざまな刀姿、刃文、帽子、茎形、銘を鑑賞する、いわば鉄の芸術品であり、その価値を知るには、特色をよく理解しなくてならない。日本刀の鑑賞の歴史は千年以上の歴史があり、名刀と言われる日本刀は、実際に武器として使われず、千年以上時を経ても健全な形で残っていることも多い。現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決め、粗製濫造による作品の質の低下を防いでいる。しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作りその分稼ぐこともできないため、他の伝統工芸の職人と同じく数々の問題を抱えている。そのような状況の中でも現代の刀匠も、美術品としての日本刀の作刀を、さまざまな形で現代に伝えている。 「折れず、曲がらず、良く斬れる」の3要素を非常に高い次元で同時に実現させるため、日本刀の原材料となる鋼の製法、選定、刀剣の鍛錬には、古来より多くの刀工が工夫している。今日においては、古くから伝わる卸鉄(おろしがね。鉄材を再還元して刀剣用に供する鋼を造ること)や自家製鉄した鋼を用いる刀工もおり、日本固有の伝統技術として継承されている。 なお、中世以前の日本刀の製作方法や使用原料については史料がなく不明であり、現在の伝統的な日本刀の製作方法は江戸時代以降の記録に基づくものである。人間国宝(重要無形文化財保持者)の刀工であり、長年自家製鉄に取り組んでいた天田昭次は、古刀と新刀の地鉄には決定的な違いがあると言い、古刀期の作刀の原料や鍛法は判然としないとする。鎌倉時代の名刀の材料や製作法については、いまだ研究途上にある。江戸時代末期以来、刀工やさまざまな分野の専門家が研究を続けているが、古刀の実物から試料を取って分析することが不可能なこともあり、鎌倉期の名刀を再現するまでには至っていないといわれていた。しかし2014年に河内國平が、日本美術刀剣保存協会主催の「新作名刀展」に出展した「國平河内守國助(くにひらかわちのかみくにすけ)」で、現在の原料では不可能といわれていた古刀の特徴である地紋の「乱れ映り」の再現に完全に成功し、刀剣界の最高賞と言われる「正宗賞」(太刀・刀の部門)を受賞した。太刀・刀の部門は長らく「該当なし」であり、18年ぶりの受賞であった。これにより乱れ映りのメカニズムが解明されほぼ100%再現できるようになった。河内によると、受賞刀は一般的な作刀法で作られた刀と比べて地鉄が柔らかく、刃紋を美しく見せる芸術品ではなく武器としての強靭さを重視して焼入れの仕方を変えたことが成功に繋がったという。 古刀期以降の刀工が主たる原材料としてきたものは、砂鉄を原料としたたたら吹きによって製造される「玉鋼」と呼ばれる鋼である。玉鋼の名称は古来のものではなく、明治時代半ば以降に命名されたもので、もとは島根県の安来製鋼所で製造し、陸軍、海軍に坩堝の材料として納入していた鋼の商品名であった。分析から、鋼の質については鎌倉時代を頂点にそれ以降低下し始めるという現象が起こっており、一因としてどこかで鋼を作る製法に変化があった可能性について述べられることもある。上古刀に関しては、鉱石系箱形炉という鉄鉱石を原材料にした小型の炉が用いられていたことが判明している。以下の説明は、現代刀工によって行われている一般的な製作方法である。 たたら吹き 日本刀の材料となる鋼を和鋼(わこう)もしくは玉鋼(たまはがね)と呼ぶ。玉鋼は日本独自の製鋼法である「たたら吹き」で造られる。諸外国の鉄鉱石を原料とする製鋼法とは異なり、原料に砂鉄を用いることで低温で高速還元を実現し、さらには近代的な製鋼法に比べて不純物の少ない砂鉄を原料として使うため、良質の鋼を得ることができる。 水減し 熱した玉鋼を鎚(つち)で叩き、薄い扁平な板をつくる。これを水に入れて急冷すると、余分な炭素が入っている部分が剥落ちる。これを「水減し」または「水圧し(みずへし)」という。ここまでがへし作業と呼ばれる地金づくりである。 積沸かし この焼きを入れて硬くした塊はへし金(へしがね)と呼ばれ、鎚で叩いて小さな鉄片に砕く。その破片の中から炭素分の多い硬い鉄と少ない軟らかい鉄に分け、これらの鉄片を別々に「てこ」と呼ばれる鍛錬用の道具の先に積み上げて和紙でくるむ。周囲に藁灰を付けさらに粘土汁をかけて火床(ほど)に入れ表面の粘土が溶けるくらい加熱する。藁灰(プラント・オパール由来の珪酸分)と粘土の珪酸分が加熱によってガラス様に熔解して鋼の接着面の表面を覆い、鉄の酸化皮膜(酸化鉄(II)および酸化鉄(II,III))形成を阻害することで鋼の焼減りすることを防ぐ(※溶けた珪酸による酸化皮膜防止は同様の現象を利用して後述の鍛接の際に鋼の圧着にも用いられる。またいずれの鍛接の際にも融けたガラス状になった珪酸分は叩き出されて鋼の外に飛び散り、鋼間の結晶同士は圧着される)。小槌で叩いて6×9cmくらいに固める。鉄片が足りなければ、さらに積み上げ加熱して小槌で叩いて成形し所要の1.8-2.0kg程度の量にする。以上が「積沸かし」の工程である。玉鋼以外に炭素量の多い銑鉄と包丁鉄と呼ばれる純鉄も積沸かしと次の下鍛えの作業を行なう。 鍛錬(下鍛え) 赤熱したブロックを鎚(つち)で叩き伸ばしては中央に折り目を入れて折り重ねる「折り返し鍛練」を縦横方向で繰り返し行う。ちなみに刀匠(横座)と弟子(先手)が交互に刀身を鎚で叩いていく「向こう槌」が「相槌を打つ」という言葉の語源となった。この段階では5-6回程度の折り返しが行なわれる。 積沸かし 玉鋼、銑鉄、包丁鉄の3種類の下鍛えが済めば再び小槌で叩いて鉄片にし、それぞれの鋼の配合が適切になるように選んで、1回目の積沸かしと同じく積み上げて溶かし固める。この段階で含有炭素量が異なる心金(しんがね)、棟金(むねがね)、刃金(はのかね)、側金(がわがね)の4種類の鋼に作り分けられる。 鍛錬(上鍛え) 心金で7回、棟金で9回、刃金では15回、側金では12回程度の折り返しが行なわれる。叩き延ばした鋼を折り返しながら鍛錬を重ねることで、硫黄などの不純物や余分な炭素、非金属介在物を追い出し、数千層にも及ぶ均質で強靭な鋼へと仕上がっていく。 鍛接と沸延べ 下鍛えと2回目の積沸かし、上鍛えによって心金、棟金、刃金、側金の4種類の鋼が得られた後、棟金、心金、刃金の3層を鍛接して厚さ20mm、幅40mm、長さ90mm程の材料が4個取れるくらいに打ち伸ばして4つに切り離す。これは「芯金」と呼ばれる。側金も加熱され長さが芯金の倍になるくらいに叩き伸ばされ中央から切り離されて、芯金と同じ長さの側金が2本作られる。 (四方詰鍛えの造込みでは、)側金、芯金、側金の順で重ねられ、沸かして鍛接されて、厚さ15mm、幅30mm、長さ500-600mm程度に打ち伸ばされる。「てこ」が切り離されて、刀の握り部分になる「茎(なかご)」が沸かされ鍛接される。 素延べ 刀の形に打ち延ばす「素延べ(すのべ)」を行い、先端を3角に切り落とすがそのままでは刃先側に棟金や心金が現れるため、とがった先を背の側に打ち曲げて硬い刃金だけが刃の側に来るようにする。ここでの姿が最終的な日本刀の完成形を決めるため、慎重に小槌で叩き形を整えていく。 火造り 刀身の棟は三角になるように叩いて、刃の側(平地)は薄くなるように叩き延ばす。茎の棟を叩いて丸みを付け、最後に「鎬地(しのぎち)」を叩いて姿を整える。刀身全体をあずき色まで低く加熱し除冷する。 空締め 冷えてから表面の黒い汚れを荒砥石で砥ぎ落とし、平地と鎬地を小槌で叩いて冷間加工を行なう。棟と刃の直線を修正して、銛(せん:銑とも)と呼ばれる鉄を削る押切りの刃のような大振りの手押しかんなで凹凸を削る。この段階で「刃渡り」と「区(まち)」が定まる。 生砥ぎ かんなの削り跡を砥石で砥ぎ落とす「生砥ぎ(なまとぎ)」を行なう。その後、水を含む藁灰で油脂分を落とし乾燥させる。 土置き 加熱した刀身を水などで急激に冷やす「焼入れ」の準備として、平地用、刃紋用(刃文用)、鎬地用の3種類の焼場土(やきばつち)を刀身に盛る「土置き」を行なう。一般的には平地に平地用の焼場土を均一に薄く塗り、刃紋に筆で刃紋用焼場土を描く。最後に刃紋から棟までを鎬地用焼場土を厚く盛る。鎬地の焼場土を厚くすることで、焼入れでの急冷時に刃側はすばやく冷やされ十分に焼きが入り、棟の側は比較的緩慢に冷えるために焼きはそれほど入らなくなる。逆に刃紋の部分だけに土を置き、土を置いた部分の気泡の発生を抑えて刃先だけを急冷し、しのぎの部分は自然発生する気泡で緩慢に冷却する方法や、全く土を置かずに刃の薄くなった部分が先に冷えること利用した焼き入れの仕方なども存在する。焼きによって容積が膨張しながら硬くなり、日本刀独特の刃側が出っ張った湾曲を生む。棟の側は膨張が少なく硬度より靭性に富んだ鋼となり硬いが脆い刃側の鋼を支える機能を担う。 焼入れ 通常、刀匠は焼入れの時には作業場の照明を暗くして、鋼の温度をその光加減で判断する。土置きした刀身を火床に深く入れ、先から元まで全体をむらなく800℃程度にまで加熱する。加熱の温度は最も重要であり、細心の注意を払って最適の加熱状態を見極め、一気に刀身を水槽に沈め急冷する。刀身は前述の通り水の中で反りを生じ、十分な冷却の後に引き上げられ、荒砥石で研がれ焼刃が確認される。槍や剣などの諸刃の形状の場合は田楽炉という全体が均等に加熱できる専用の火床を用いる。 焼入れにより、刀の表面にはマルテンサイトと呼ばれる非常に固い組織が現れる。マルテンサイトの入り方によって、肉眼で地鉄の表面に刃文が丸い粒子状に見えるものを錵(にえ)または沸(にえ)と呼び、1つ1つの粒子が見分けられず細かい白い線状に見えるものを匂(におい)と区別する。 ちなみに冷却水の温度は10度から30度程度、油の場合は60度から80度程度である。 他の刃物類では、水以外にも油などで焼きを入れることあり、日本刀の場合では戦中の軍刀などで行われたが、現在では油で日本刀に焼きを入れることは少ないと思われる。油で焼きを入れると急冷しないため刃切れなどの失敗は少ないが、水焼きよりも柔軟性のある鋼組織となる場合が多い。また、匂い出来となることが殆どである。ただしこれは焼き入れの技術に大きく左右される問題で、冷却剤の撹拌度合いによっては、油焼きで水焼きよりも硬く焼く事は可能である。斬れ味は別(居合道を別とすれば現代社会で刃物として使う機会は無いに等しい)としても、油焼きは刃紋に冴えを出せず美術工芸品を志向する現代刀には不向きだとされている。なお、文部科学省の定める現代日本刀の定義は水焼きであるので、油焼きは銃刀法違法となる。 合い取り これは焼戻しの工程で、炉の火の上で時間をかけて刀身を150度程度に熱する。これにより焼入れにより組成変化した鋼を安定化させ、靭性などが強化され刃こぼれなどの防止に役立つ。反りは横方向にも少し生じるので木の台で小槌を使い修正する。なかごも焼きなまして形を整える。 場合によってはこの後、熱した銅の塊で刀身をはさみ、棟焼きを取るなどの作業をする場合もある。 鍛冶押し(かじおし) 焼き入れを終了させた刀の反り具合を修正し、刀工が荒削りをする。この時に細かな疵や、肉の付き具合、地刃の姿を確かめながら最終的な調整を行う。 茎仕立て 茎(なかご)は銑ややすりで形を整え、柄(つか)をはめる時に使用する目釘穴を普通は1つ、幕末期の一部の刀や一部の槍や居合用の刀の場合2つ以上開ける。この後に刀工独自の鑢目(やすりめ、滑り止め目的)を加える。 樋掻き 樋(ひ)をいれる物はここで入れる。 下地研(したじとぎ) 地金と刃紋を主に砥石で研ぐ。 銘切り 刀工は最後に鑿(たがね)を使い、自らの名前や居住地、制作年などを茎に銘を切る。一般的に表(太刀や刀を身に付けた際、外側になる面)に刀工名や居住地を切り、裏に制作年や所持者名などを切ることが多いが、裏銘や無銘など例外もある。 仕上研(しあげとぎ) 地金と刃紋を研ぎ、磨き棒で鏡面加工する。帽子を「なるめ」加工する。 刀工が行う一通りの作業が終わり、これからは研師により最終的な研ぎを行うが、室町時代以前は刀工自ら研磨も行っていたといわれる。日本刀研磨で、他の刃物砥ぎと大きく相異する点としては、刃物としての切れ味を前提としつつ、工芸品としての日本刀の美的要素を引き出すことを主眼としている点、刃部のみで無く、刀身全体に砥ぎを施すことなどがあげられる。鞘師によりその刀に見合った鞘を作成することになる。日本刀は刀工だけが造るものではなく、研師や鞘師、塗師、蒔絵師、金工師、白銀師などの職人によって初めて完成するものである。それぞれの職人は、大きく以下の部分を担当する。 刀工(とうこう):刀身を作る。「刀匠」、「刀鍛冶」とも呼ばれる。 研師(とぎし):刀身の研ぎを行う。 鞘師(さやし):鞘の作成を行う。 白銀師(しろがねし):はばきや鍔などの金属部分を作成する。 柄巻師(つかまきし):柄部分に紐を巻く。 塗師(ぬりし)、蒔絵師(まきえし)、金工師(きんこうし):鞘や鍔などに装飾を施す。 日本刀の研磨に関しては、日本刀研磨 を参照。 日本刀は、まず本体である刀身とその外装品である拵え(こしらえ)に分けられ、拵えは鞘(さや)、柄(つか)、鍔(鐔、つば)の各部に分けられる。部位および形状は右図を参照。 柄頭(つかがしら)/頭(かしら) 鮫肌(さめはだ) 柄糸(つかいと)/柄巻(つかまき) 目釘(めくぎ) 茎(なかご) 柄(つか) 目貫(めぬき) 縁(ふち) 鍔(鐔、つば) 切羽(せっぱ) ハバキ 棟(むね)/峰(みね)/背(せ) 刃文(はもん) 樋(ひ)/棒樋(ぼうひ) 長さ(ながさ) 反り(そり) 鎬(しのぎ) 鎬地(しのぎじ) 地(じ)/平地(ひらじ) 刃(は) 横手(よこて) 切先/鋒(きっさき) 頭金(かしらがね) 巻止(まきどめ) 鯉口(こいぐち) 栗形(くりがた) 鵐目(しとどめ) 下緒(さげお) 鞘(さや) 小尻/鐺(こじり) ものうち 刃先(はさき) 帽子(ぼうし) 日本刀の多くは片刃であり、刃のない側は棟(むね)または峰(みね)、また刃と棟の間の膨らんだ部分を鎬(しのぎ)と呼ぶ。鎬地と棟の間には樋(ひ)と呼ばれる溝が両面にそれぞれ1本または2本掘られるものがある。重量軽減しながら強度を保つ工夫であるが、実際は鎬地の傷隠しのために後世になってから彫るものが圧倒的に多い。また、鎬を高く棟を卸した作り込みが大和伝の特徴(棟を盗むという)で、これも樋と同じ目的となっている。大和伝以外では、戦国期に長船與三左衛門祐定と和泉守兼定が棟を盗む造りの名人であり、実用刀として珍重された。 刀身のうち柄(つか)に収まる部分を茎(なかご)、茎を柄に固定する棒状のものを目釘、それを通す孔を目釘孔(めくぎあな)と呼ぶ。茎には鋼の平鑢(ひらやすり)を丁寧にかけ(鑢目の種類は後述)、刃区(はまち)、棟区(むねまち)を整える。茎棟には流儀によって丸棟(まるむね)、角棟(かくむね)がある。さらに茎の尻を鑢で仕上げ、最後に目釘孔を設け銘を切る。古来、茎の鑢がけは柄から抜けにくくするためとされたが、江戸時代においては美観と贋物防止が目的となる。 一般的に日本刀を鑑賞するときには、刃文と地鉄に注目することが多い。刃文を構成する匂い口の様子や刃中の働き、鍛錬して鍛えた地鉄中の働き、鉄色の冴えを見る。さらに深く鑑賞、もしくは鑑定する場合は、茎を手に持ち垂直に立て、まず姿を見、作刀時代の検討をつける。続いて、各々の時代特色が刀身に現れているか鉄色、匂口の雰囲気、そして特に切先である帽子の出来から観察し、鑑賞する。最後に茎の具合を手のひらの感触、錆の具合、目釘孔の状態、鑢目、茎尻、茎棟の仕上げ状態、そして銘があれば銘を鏨切りの方向からも観察し、文字通り撫で回すように鑑賞する。 鞘(さや)は、刀身に擦り傷が付かないように軟質な朴(ほお)の木を、加工後の反りを防ぐために10年以上寝かして使う。刀身を差し入れる方を「鯉口」(こいくち)、逆の側を「小尻」または「鐺」(こじり)と呼ぶ。鐺の端には鐺金具と呼ばれる保護具が付くことがある。腰に刀を差したとき、鞘の体に接する側を「差裏」(さしうら)、外に面した側を「差表」(さしおもて)と呼ぶ。差表の腰にくるあたりには角や金属製の「栗形」(くりがた)と呼ばれる装置があり、ここに下緒(さげお)を通して帯からの脱落を防止する。また栗形の鐺よりには「返り角」(かえりづの)、「逆角」(さかづの)、「折金」(おりがね)と呼ばれる突起部品が付けられる場合もあり、刀身を抜く時に鞘ごと抜けないようにこの部分を帯に引っ掛ける。さらに「笄」(こうがい)という、整髪などに使う小さなへら状の装身具を収納するために、主に鞘の鯉口近くの指表に「笄櫃」(こうがいびつ)と呼ばれる溝が設けられることもある。 鞘は塗り加工などが行なわれて完成すると、内部の汚れは容易に除けなくなる。これを避けるために鞘の内部に別の小さな鞘を入れた「入子鞘」(いりこざや)と呼ばれるものがあり、2枚に分割可能な構造をしている。 親指を鍔にかけて鞘から少し押し出す所作を「鯉口を切る」という。 柄(つか)は茎(なかご)を包みこみ、使用者の握りを確かなものにするために重要な役割を持つ部分である。多くは木製で、その上に鮫皮を張り柄巻きと呼ばれる帯状の細い紐を巻く。 柄と刀身を貫いて固定するための小片を目釘、通すための穴を目釘孔と呼ぶ。目釘は古来は金属製であったが、後世では主に煤竹という燻上した肉厚の竹が用いられる。目釘には真竹の根本から三寸ほど上の部分が最適であり、さらに100年以上寝かせたものが最適であると言われている。また、目貫(元来は目釘の役目をしていた)という装飾がつけられる。さらに、柄の一番手元に来る部分は柄頭と呼ばれ、装飾と実用を兼ねた金属が付けられることも多い。 日本刀は刀身と拵え(こしらえ=外装品)を別々に分けることができるが、ハバキや切羽(せっぱ=鍔に添える金具)などで鍔は刀身に固定されている。 尚、刀身を通す中心穴(なかごあな)の他に笄櫃と小柄櫃の二穴が開いているのが大刀の、小柄櫃のみの一穴のみ開いているのが小刀の鍔である。 上古刀 通常日本刀の分類に入らない、古刀以前の刀をさす。直刀が主であるが、大刀などにはそりが見られるものがある。 古刀 狭義の日本刀が制作されてから、慶長(1596-1615年)以前の日本刀をさす。室町中期以前は、太刀が主である。 末古刀 室町時代末期、応永以降の概ね戦国時代頃の古刀を、「末古刀」と呼び、区別することがある。「数打ち」の粗製濫造品が多い。 新古境 安土桃山時代 - 江戸最初期頃の、古刀から新刀への過渡期をこう呼んで区別することがある。慶長 - 元和の頭文字を取り、「慶元新刀」とも呼ばれる。 新刀 慶長以降の刀をさす。この時期の日本刀は、さらに「慶長新刀」「寛文新刀」「元禄新刀」に分類される。 新々刀 「水心子正秀が提唱した古刀の鍛錬法」を用い制作された刀などの諸説あるが、新刀の内でも明和年間(1764-1772年)以降の日本刀をさす。 幕末刀 新々刀の内でも幕末頃に作成されたもの。 復古刀 江戸時代後期に鎌倉時代などの古名刀を手本として製作されたもの。 現代刀 これも諸説あるが明治9年(1876年)の廃刀令以降に作刀された刀剣をさすことが多い。 昭和刀 主に軍刀向けとして作られた刀をさす。美術刀剣としての日本刀の分類から除外されることが多いが、昭和に製作された刀の全てを指すわけではない。製法は様々であるが、本鍛錬刀でないものは原則的に教育委員会の登録審査に通らず、公安委員会の所持許可が必要となる。しかしながら、必ずしも厳密なものではなく明らかに鍛錬刀とは見られない特殊刀身であっても登録が通っているものや、特例として戦後間もなくは遺品などとして登録証の交付を受けているものも数多くある。 剣(けん、つるぎ) 外国からの影響を受けず日本古来の型もこれ。刀身に反りがなく、切っ先から刃区および棟区まで完全に両刃となっている造りのもの。実用とされていたのは古墳時代の頃までであるが、装飾用もしくは儀礼用、仏教法具としてその後の時代でも作刀されている(数は少ないが現代物も存在する)。 なお、現行の銃刀法では「剣」として登録できるものは、日本の刀剣として古来よりの伝来が確かなもの、もしくは日本で玉鋼を用いて古式に則り作刀されたものに限られており、国外で製作された剣(例えば、中世ヨーロッパ製のブロードソード)は「剣」として登録できず、それらを日本国内で個人が合法的に所持することは基本的に不可能である。 直刀(ちょくとう) 「大刀(たち)」とも呼ばれる反りのない刀身の作りで、奈良時代頃までの「刀」とはこれを指す。平造りもしくは切刃造りが一般的だが、刀身の先端もしくは刀身の半ばまで両刃となっているものも多くある。前述のように刀身には反りがつかないが僅かに内反りとなっているものも存在する。 直刀に対し平安時代より一般的となった刀身に反りのある刀を「彎刀(わんとう、まがりがたな)」と呼ぶ。 小烏丸太刀(こがらすまる たち) 鋒両刃造(きっさきもろはづくり、ほうりょうじんづくり)と呼ばれる刀身の造りで、皇室に伝来した際の逸話から特に「小烏丸作り」と呼ばれる。刃区から物打辺りまで鎬造り(しのぎづくり)であるが、切先から刀身の半ばほどまでが両刃となっている。反りは緩やかで浅い。直刀から彎刀への過渡期の存在と見られ、日本刀の変遷を示す例とされる。 毛抜形太刀(けぬきがた たち) 茎(なかご)が柄(つか)の役割を兼ねている太刀。柄に茎を差し込んで目釘で固定する一般的な日本刀とは違い、茎部分に装飾を施して直接「柄」として用いる。名の由来は、柄に毛抜型の透かしが施されていることによる。直刀から彎刀への過渡期に存在したもので、蝦夷の用いていた蕨手刀の影響を受けていると考えられている。 太刀(たち) 戦国時代頃までの一般的な刀。「打刀」は刃を上にし帯に差して携行するのに対し、太刀は刃を下にして吊るして携行する(これを「佩く(はく)」と呼ぶ)、それに伴い拵(外装)も異なる。また、打刀と比べると刀身の反りが深いものが多い。また、打刀はあまり刀身の幅に変化がないのに対して、太刀は鍔元は太く切先は細いという形状が多く見られる。なお、現代の分類では刃長60cm以上のものを指し、60cm未満のものは「太刀」として造られたものでも「脇差」と呼ぶ。 大太刀(おおだち、おおたち) 長大な刀身を持つ刀。野太刀とも呼ばれる。現代の分類では、刃長が90cm以上のものを指す。腰に差す(佩く)には長すぎるため、背負うか担ぐかして携帯された。通常のように立ち会いで使うものではなく、合戦の際に馬上から下にいる足軽などを叩き斬るために使われ、刃の半ほどまで紐や布を巻いて薙刀のように使う例もあったと伝わる。徒歩での戦いで使うこともあった。また、神社仏閣への奉納用としても用いられた。 小太刀(こだち) 刀身の短い太刀。現代の分類では「脇差」との区別は特にされておらず、刃長30cm以上60cm未満のもので刃を下にして佩く刀剣を指すが、古来は2尺(60.06cm)前後の全長の短い太刀のことをこう呼んだ。「小太刀」という呼称、定義については諸説あり、現在でもはっきりとは定まっていない。 刺刀 鎌倉時代、徒歩の兵士たちの主要武器が薙刀であった頃に、薙刀が使えなくなった時に用いられた刀。役割的には脇差と同じであるが脇差しより反りが少ないか内反りのものである。刺突に重点をおいた小武器で、やがて長くなり打刀へと発展する。また刺殺武器としての刺刀は、反りがなく重ねが厚い(刀身の断面形状が厚い)鎧通しに発展した。 打刀(うちがたな、うちかたな) 室町時代頃より登場した、太刀よりも反りの少ない刀身を持ち、刃を上にし帯に差して携行する刀。江戸時代以降一般的な「刀」となる。現代の日本では、単純に「刀」や「日本刀」と言った場合、打刀を指すことが多い。現代の分類では、切っ先から棟区までの直線で測った長さ(「刃長」)が60cm以上のものを指し、60cm未満のものは「脇差」と呼ぶ。 脇差(わきざし) 刀身の短い打刀、または太刀。現代の分類では、脇差は刃長30cm以上60cm未満のものを指す。江戸時代には長さに応じて大脇差(1尺7寸前後)、中脇差(1尺4寸前後)、小脇差、もしくは喰出し(はみだし)(1尺2寸未満)の言葉があてられた。 短刀(たんとう) 元々は全長1尺‐1尺2寸(約30-36cm)以下の刀で、現代の分類では、刃長30cm未満のものをいう。「合口」や「匕首(あいくち)」も短刀の別名である。刃長が1尺(約30cm)以上あるが、反りがほとんどなく、鎬のない平造りの刀身形状を持ものは「寸延短刀(すんのびたんとう)」と呼ばれ、現代の分類でも「短刀」に分類されることが多い。 鎧通し(よろいどおし) 身幅が狭く重ねが極端に厚く、寸の短い刃長7寸(約21cm)前後で身幅7分(約2.1cm)前後の短刀で、組討ち時にとっさに抜き鎧の隙間を狙うためのもの。合戦では右腰に指すことから「馬手指し(めてざし)」とも呼ばれる。古来より有名なのが粟田口藤四郎吉光の名物「厚(あつし)藤四郎」(東京国立博物館蔵、国宝)で、重ねは約1.1cm。尾張徳川家伝来徳川美術館収蔵の室町期の平安城長吉の作は重ねが約1.7cm。両者とも刃長は7寸前後だが、茎が長く、4寸前後あり、柄なしでも握りやすい肉置きとなっているのが特徴である。新々刀期に入ると時代情勢を反映してか重ねの厚い短刀が再出現するが、古作の如く、全体の姿が手馴れていないが、源清麿が鍛えた左文字写しの作は同時代を代表する鎧通し造りと言われている。鎧通しは広く知られている割に、重ねの定義も様々で、重ねが3分以上ある短刀ですら遺作が少ない。時代の姿およびその刀工の一般的な作風から逸脱する傾向があるため、刀工鑑定が困難である。また、入念作であるが元来無銘の鎧通しの名品もあり、基本的に一騎討ちを行う侍大将クラスの特注品だったと考えられる。 長巻(ながまき) ほぼ刀身と同じ長さの柄を持つ大太刀。大太刀の柄を延長して取り回し易くした「中巻き」から発展したもの。長巻と中巻きの違いは、最初から茎を長く作ってあるか、通常の茎の長さの大太刀の柄を延長して長くしたものか、の違い。正倉院の収蔵品に原型らしき長柄武器が残されている。 長巻直し 長巻を基にして刀に造り変えたもの。基となったものをどう造り変えたかにより刃渡り3尺(約90cm)の「大太刀」から2尺(約60cm)以下の「脇差」まで様々なものがあるが、基となった長巻の刀身形状から、先反りから中反りで「鵜の首造り」もしくは「冠落造り」の刀身形状になっているものが多い。また、鎬造りの刀の如く、横手を引き、切先をナルメて帽子を作ってあるのが特徴である。 薙刀(なぎなた) 切ることを主たる攻撃方法とする刀に対して、薙刀は薙ぎ払うことを目的とした武器である。打刀や太刀の様に湾曲した刀身を持つ、長柄の武器。「長刀(ながなた)」とも表記される。 薙刀直し 薙刀を基にして刀に造り変えたもの。薙刀の刀身形状から、先反りで「鵜の首造り」もしくは「菖蒲造り」の刀身形状になっているものが多い。薙刀は刀や太刀に比べると刃渡りが比較的短いため、茎を切り詰めて脇差や短刀に仕立てたものが多い。横手は引かず、帽子は作らない。 長巻や薙刀を造り変えて「刀」としたものではなく、作刀時から長巻直しもしくは薙刀直しであるかのような形状として造られた刀もあり、それらは「長巻直し造り(ながまきなおしつくり)」「薙刀直し造り(なぎなたなおしつくり)」と呼ばれる。これらは新々刀期に見られる。 仕込み刀(しこみがたな) 様々なものに刀身を仕込み、刀であることを偽装した隠し武器。主に杖・煙管・扇子といった日用品などに偽装したものと、他の武器に小さな刀身を仕込み二段構えの武器としたものの2種類がある。 外装を杖に模したものは特に「仕込杖」と呼ばれる。 刀剣の大業物(おおわざもの)や業物(わざもの)という表現は、切れ味による分類である。文化12年(1815年)、公儀介錯人の山田浅右衛門が多数の刀を集めて試し斬りを行い、切れ味により刀工ごとに刀を最上大業物、大業物、良業物、業物に分類し、結果を『懐宝剣尺』という書物にまとめて公表した。詳細は刀剣の業物一覧を参照。 鎬造り(本造り) ほとんどの日本刀はこの造り込みで作られている。上記の写真もこの造り込みである。切刃造りが進化してできたと思われる。 平造り 短刀や小脇差によくある造り込み。鎬がないもの。古墳時代や奈良時代に作られた反りがない直刀は平造りになっており上古刀と呼ばれる。鎌倉中期の刀工、粟田口国吉の「鳴狐」と号のある打刀が著名である。国宝に指定されている、春日大社の菱作腰刀の刀身は、焼き直しであるが、鎌倉時代をくだらない古作の打刀として知られる。平造りの打刀も室町時代中期から末期の間にごく少数見られる。 片鎬造り 片面が鎬造り、片面が平造りでできている。南北朝期の濃州鍛冶、兼氏の重要文化財指定の刀が遺作として著名である。 切刃造り、片切刃造り 鎬線がより刃先の方にある造り込み。上古刀期から見られる。南北朝期においては、貞宗の作と伝えられている名物の「切刃貞宗」が有名で、同時代前後の刀工に見られる造り(主に短刀)である。以来、慶長年間においては新刀の祖と言われる埋忠明寿を始めとし、特に越前康継の切刃貞宗写しは多数作られている。また、幕末において、各国の刀工に写し物が見られる。 切先双刃造り・鋒双刃造り・切先両刃造り・鋒両刃造り(きっさきもろはづくり)、小烏造り(こからすづくり) 切先に近い部分のみが、剣のように両刃になっているもの。特に、小烏造りは刀身の2分の1以上が両刃になった擬似刀と呼ばれる剣の造りを指す。現存する刀では小烏丸がこの造り込みでできている。新々刀期の刀工、明治期の刀工が写しを作刀している。 菖蒲造り(しょうぶずくり) 鎬造りに横手を取り除いた形の造り込み。形状が菖蒲の葉に酷似しているのが、この名前の由来である。この造り込みは鎌倉時代中期から始まり、主に脇指や短刀に見られるが、室町時代中期から末期の間に備前鍛冶や美濃鍛冶にたまに2尺を越えた打刀が見られる。 鵜の首造り(うのくびずくり) 鋒から少し下だったところから途中まで、棟の側肉が落とされているもの。鵜の首のように細くなっていることが、この名前の由来である。 冠落造り(かんむりおとしずくり) 鋒に向かって棟の側肉が落とされているもの。一般的に薙刀樋を付けたものが多く、短刀によく見られる。 両刃造り(もろはづくり) 鎬を境にして双方に刃が付いており、鋒が上に向いているもの。室町時代中期以後の短刀に見られる。7寸前後の懐刀が多く、まれに両刃造りの長刀も存在するが、両者とも直ぐに廃れた。古刀期では末備前の勝光・宗光兄弟の作が比較的多く現存し、新々刀期においては各地で見られる。 おそらく造り 横手の位置が通常の鎬造りと違い大きく茎の方によっており、鋒が刀身の半分から3分の2を占めているもの。短刀や脇差に見られる。この名称の発端については諸説あり、室町末期の刀工、 島田助宗の短刀にこの造りがあり、その刀身に「おそらく」(恐ろしきものという意味)と彫ってあったのでこの名がついたと言う説が主流だが、「恐らく他に存在するまい」という意味である、という説もある。 鋸刃造り(のこばづくり、のこぎりばづくり) 峰の部分が鋸になっているもの。船上で刀として使う他にもやい綱などの船具を切るための道具として用いられたもので、阿波水軍で多く用いられた。阿波国の郷土刀である「海部刀」にはこの鋸刃造りの刀身を持つ脇差や短刀が多くあり、現在でも幾振りが現存している。 一般的に時代が降るにつれ、腰から先へ反りの中心が移動していく傾向になっている。 腰反り(こしぞり) 反りの中心が鋒と棟区の中心より下の方に位置するもの。焼き入れの関係上、鎬造りの刀には必ず腰反りがつく。棟側にあたかも倒れるような腰反りは平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての太刀に見られる。 中反り(なかぞり)、鳥居反り(とりいぞり) 反りの中心が鋒と棟区のほぼ中心に位置するもので、鳥居の笠木から由来する。鎌倉時代中期頃の山城伝、大和伝に見られる。 先反り(さきぞり) 物打ち付近から切先にかけて反りのついた姿を「先反りがつく」と表現する。室町時代以降の片手打ちの刀、また、五箇伝から外れた刀工の刀に見られる。 内反り(うちぞり) 一般的に棟に向かって反るものだが、その逆で刃に向かって反っているものをいう。鎌倉時代の短刀・正倉院宝物の「刀子(とうす)」に見られる。然しながら短刀の場合、度々の日本刀研磨によって重ねの薄い切先部分のほうから研ぎ減り、内反りになることは知られており、むしろ内反りがつかない短刀程健全と言い得る。 踏ん張り(ふんばり) 厳密には反りではないが、反りを語る上で同時に用いられる表現なので記す。刃区(はまち)、棟区(むねまち)から2寸ほどの間で、刃、棟とも末広がりのような形状をしているもので(鎬地が緩やかに広くなる)、あたかも人が両足で踏ん張って立っている様子に似ていることから「踏ん張り」がある、と表現する。特に棟側の踏ん張りは重要で、研磨の際、損ないやすい。「踏ん張り」は、区送り(まちおくり)、磨上、度重なる研磨で失われるため、「踏ん張り」のある刀は見た目的にも安定感があるだけでなく保存状態が良い。生ぶ茎にのみ見られる。ハバキの収まりも良い。 鑢目(やすりめ)は柄から刀身を抜けにくくするために施される。国、時代、流派により使われる鑢目が違うため、日本刀の鑑定でよく見られる。 切り(横、一文字) 勝手下り 勝手上り 左利きの刀鍛冶に特徴的な鑢目であるため、鑑定では大きなポイントになる。 筋違 大筋違 逆大筋違 鷹の羽(羊歯) 檜垣 化粧鑢 上記各鑢目に組み合わされる装飾である。新刀期の後半以降に見られるため、時代判別の際のポイントになる。 ならし(鏟)鑢 小丸(こまる) 小丸上がり 小丸下がり 一文字返り 横手上刃細し 大丸(おおまる) 焼き詰め 掃きかけ 乱れ込み 丁字乱れ込み 地蔵 火炎 一枚 沸崩れ 湾れ込み 突き上げ かます切先 小切先 猪首切先 中切先 大切先 杢目肌 大杢目肌 中杢目肌 小杢目肌 柾目肌 板目肌 大板目肌 小板目肌 綾杉肌(月山肌) 松皮肌 則重肌 ひじき肌 梨子地肌 小糠肌 縮緬肌 無地肌 日本刀の地刃の働きは主に鋼を焼き入れした時に生じるマルテンサイトによって構成される。 沸(にえ) マルテンサイトの粒子が大きいもの 匂い(におい) マルテンサイトの粒子が小さいもの 沸と匂いの組み合わせによって以下の様々な働きが現象する。 映り(うつり) 地景(ちけい) 金筋(きんすじ)・金線(きんせん) 砂流し(すながし) 湯走り(ゆばしり) 足(あし) 葉(よう) 日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成することを追求しながら作刀工程が発達してきたと考えられている。「折れず、曲がらず」は材料工学においての強度と靭性の両立に相当する。両者の均衡を保つことは高度な技術の結果である。また「よく切れる」と「折れず」の両立も難しい。これについては刃先は硬く、芯に向かうと硬さが徐々に下がるいわゆる傾斜機能構造を持つことで圧縮残留応力を刃先に発生させて実現されている。 日本刀の切れ味については、様々なところで語られる。有名な逸話として、榊原鍵吉の同田貫一門の刀による「天覧兜割り」がある。ただし、この切れ味も最適な角度で切り込んでこそ発揮できるもので、静止物に刀を振り下ろす場合はともかく、実戦で動き回る相手に対し常に最適の角度で切り込むのは至難の業とされる。 日本刀のうち、江戸時代の打刀は、江戸幕府の規制(2尺9寸以上の刀すなわち野太刀は禁止された)と、外出中は大小を日常的に帯刀することから、(江戸幕府の)創成期と幕末期を除き、刃渡り2尺3寸(約70cm)程度が定寸である。また、江戸時代には実戦に供する機会がなくなり、試し斬りが多々行われた。刀剣は一般通念よりも軽く作られている。 以下は各地域発祥の刀剣との比較。なお、重量は全て抜き身の状態のもの。 打刀(日本):刃渡り70-80cmの場合 850-1400g程度(柄、鍔などを含める、抜き身の状態。刃渡り100cm程のものは、2,000g前後) サーベル(世界各地):刃渡り70-100cmの場合 1000g-1500g程度(地域によって異なり、この値より上下する場合もある) シャスク(東ヨーロッパ):刃渡り80cm 900-1,100g程度 バック・ソード(西ヨーロッパ) :刃渡り90cm以下、1200g-1300g(籠状の鍔も含む) ロングソード(西ヨーロッパ) :刃渡り90-110cm(全長は100-130cm) 1300-1500g 中国剣(中国):刃渡り70-100cmの場合 900-1,000g程度 (両手用、刃渡り100cmほどのものは3,000g程度以上) 以上は近代まで使われていた物である。日本の刀は、他の刀剣と比べ柄が長く、刃の単位長さ当たりの密度が低いわけではない。しかし、両手で扱う刀剣の中では最も軽量な部類に入る。日本刀は、「断ち切る」ことに適した刀剣である。しかし、刀自体の重量が軽いので切断する際手前にスライドさせて力の向きを切断物に対し直角からそらして加える必要がある。[要出典]。同じ理由により、「斬る」ために刀を砥ぐ際は、包丁のように、スライドさせる方向に砥ぎをかける(剣の扱いに似ている)。 日中戦争(支那事変)中、日本軍将校2人が百人斬り競争を行ったという。将校の一方は自らの関の孫六について、56人の時点で刃こぼれが1つ、86人の時点で「まだ百人や二百人斬れるぞ」と言ったという(東京日日新聞1937年11月30日・同12月4日)。これについて「名誉毀損」として訴訟が起きており、「全くの虚偽であると認めることはできない」とされた高裁判決が確定している。ただし、この裁判自体は戦時報道の虚偽性に関するものであり、日本刀の性能に関しては判断されていない。判決自体も結局のところ「総合的には真実とも虚偽ともどちらとも言えない」というような曖昧なものである。[要出典] 刀工の成瀬関次は『戦ふ日本刀』(1940)で日本刀での47人斬り他複数の逸話や伝聞の信憑性を肯定的に述べている。秦によると、鵜野晋太郎という少尉が『ペンの陰謀』に、捕虜10人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を寄稿したという。 日本刀は元来、「断ち切る」ことに適した刀剣である。起源をさかのぼれば、古墳 - 奈良時代に、儀式用と実戦用とが区別され始めた時、「圭頭大刀(けいとうたち)」や「黒作大刀(くろづくりのたち)」は「断ち切る」専用だった。平安時代に「小烏」などが「切っ先諸刃作り」を採用して「突き刺す」ことにも適性を持っていたが、その後、太刀や打刀では、切っ先諸刃作りは排され、手首を利かせて「切る」ことに適するよう、彎曲している。一部の武芸者は、切先三寸が両刃となった刀を使用したが、これは例外である。 『可然物(しかるべきもの)』という室町時代の刀剣一覧がある。 これは家臣に報奨として刀剣を下賜する機会が多かった足利義満が、将軍家からの太刀はおそらくその家の重代の家宝にするだろうから、斬れない刀ではあっては差し障りがあるだろう、として宇都宮三河入道に対して特に「切れ味」を基準に「然るべきもの」60工をピックアップさせたものである。 このように当時の武士本人は日本刀を儀仗ではなく主兵装と見なしており、家宝ですら美術的価値としてではなく武器としての性能が最も重視されていた。 日本刀が日本史上の戦場でそれほど活躍しなかったと主張する書籍がある(山本七平、鈴木眞哉、横山雅始)。鈴木眞哉は、日本刀が普及していた理由は、首を切り落として首級をとるために必要不可欠な道具であったからだと結論づけている。しかし、そのような用途では脇差・短刀の類で十分であり、太刀・打刀のような中型の日本刀が普及した事の説明にならない。山本七平のものは、彼自身が戦時中に軍刀で死体を切ってみた感想に基づいた意見である。 日本刀不要物論において彼らが挙げた根拠は以下のもの。 南北朝~戦国時代における合戦における負傷理由のうち、刀傷は弓矢による傷より圧倒的に割合が低い。とする。 鎧や鎖帷子を着用した部位に対する斬撃は威力を減じる。 刀身と柄が一体でなく、その接合方法上強い打撃に耐えられない構造上の問題があること。それに比べて、長柄物は柄が木製である特性上刀よりも容易に毀損する。刃の薄いものは力を加える方向によっては容易に変形や毀損を来たし、日本刀の利点である切れ味が失われる。 間合いの長い武器には野太刀や長巻もあるが槍の方が安価だった。高品質の名刀も高価だった。 野太刀は運搬に不便で手入れにも時間がかかった。 南北朝時代における野太刀の流行は後に戦国時代における槍の流行に取って代わられている。 日本刀の草創期からすでに武士の主戦術は騎射だったこと。 日本人の間で広く剣術が盛んになったのは、平和な江戸時代になってからであったこと。 とある模擬合戦を行ってみたところ槍の次の間合いでは脇差や短刀による組討ちの出番で打刀の出番は槍が壊れた時しかなかった。 模擬合戦において打刀の破損率が高かった。 模擬合戦において打刀対槍の勝率が打刀が3で槍が7であった。打刀や太刀は接近戦向きで、統制の維持されている集団が広い空間で戦う場合は長柄武器(槍や薙刀など)に対して不利だったこと。 研究で南北朝時代や戦国時代の武器による負傷率がわかっても死亡率がわからないという反論に対し、そもそも合戦における死亡者数自体が少ないこと。 刀や槍の負傷者が弓矢や鉄砲に比べて少ないのは白兵戦では負傷が即、死につながるからだという反論に対し、弓矢や鉄砲も記録から十分な殺傷力を読み取れるという説(ナポレオン戦争時代の記録では刀剣による負傷よりも銃による負傷の方が死亡率が高いとされている。また、雑兵物語という文献には鉄砲は当たったら死ぬものだと思えという記述がある)。 これに対して、以下の根拠から反論がなされている(近藤好和、樋口隆晴、渡辺誠、東郷隆、森瀬繚)。 隊列が乱れた乱戦状態での闘い、城内などの閉所での戦闘、および夜襲や悪天候下など、長柄武器や飛び道具が有効でない状況において特に有効な武器であり、必要不可欠であった。 刀は驚くほど粗製の物が平然と使われていたこと。打刀は戦国時代の足軽にも携帯が義務づけられ、数打ちと呼ばれる安価な量産品が支給された。 戦国時代の戦闘の主流は槍を使った集団戦で、打刀を使う機会は南北朝時代に比べ減ったと言われるが、「信長公記」を始め、戦国時代の戦いで刀が活躍したことを示す記録が少なからず存在し、「関ヶ原合戦図屏風」にも打刀を持つ兵の姿が多数描かれているので、状況に応じて槍と刀が使い分けられていたと考えられる。 足軽は手足の露出した簡素な鎧だったり雑兵などは鎧なしの者もいるなど、鎧は全身を覆っていない。また、金属部分であっても最適な条件で斬りつけた場合は鎖帷子などでは切断されるし、鎧であっても多少なり斬り込まれる。中世の日本刀はあまり切れないが、それでも攻撃力は人体を斬り落とすには十分であるし、鎧の隙間から刺突するという攻撃方法もある。そして、日本の鎧では手足をあまり守れなかった。 騎射を行う騎馬武者にこそ、未使用時に腰に差しておけるサブウェポンとしての太刀が重要であった。そして騎射を行わない、槍や薙刀や野太刀などをメインウェポンとする打物武者も、槍などのメインウェポンが壊れた時に備えてサブウェポンの太刀や打刀を携帯していた。 血糊や多少の刃毀れにより切れ味が失われても、殺傷力に大きな影響は生じない。鎧は打撃に若干弱い面があり、南北朝期や戦国期には刀を刃物付き鈍器として扱う戦い方もあったこと(戦乱期の刀には蛤刃といって刀身を分厚くこしらえたものが存在する)。また、打刀の場合は使用直前に細いノコギリ状の傷をつける場合もあり、これで鎧に対する打撃力は増した。太刀が打ち物と呼ばれるのには理由があり、敵を斬ることも不可能ではないが、斬ることよりは打つこと、すなわち打撃武器としての効果の方が重視された。 精神性を重視されるようになるのは江戸時代以降であり、当時の様々な記録に残っている通り刀は実用品であった。美術的価値のみが重視されたのは近代以降であり、当時において美術的価値を持ったのは極限られた名刀でしかなかったこと。 南北朝期のトマス・D・コンランによる調査では矢傷が最も多くとも、刀傷や薙刀傷、鉞傷を含めた切傷が一定の割合で存在する。そして鈴木眞哉の南北朝期の負傷率統計は切傷がコンランの調査より少ないが、統計のデータ数がコンランのものよりも少ないそして、南北朝期のコンランによる調査では戦場における負傷者と死亡者の数があまり変わらない。さらに南北朝期のコンランの調査によると馬の場合は致死の原因も記載しているが、それによれば、太刀や槍などの白兵戦武器の方が弓矢より死亡率が高いことが明らかであること。さらには南北朝期のコンランの調査によれば武士や馬を射殺すことは非常に難しかったようで、殺傷力が低いため、毒矢や火箭が使われたこともあったこと。そして、南北朝期や戦国期の合戦手負注文や軍忠状といった古文書では矢傷が多いが、あくまでも負傷者の受け身の史料であり、”生存者の負傷原因”はわかっても、おおむね”戦死者の死因”が不明である。これらの文書類の分析ではコンランによるものでも鈴木によるものでも、いずれも矢傷が最も多いことが指摘されているが、その矢を騎兵と歩兵のどちらが射たのか、さらに同じ騎兵でも馬上から射たのか、徒歩で射たのかといった攻撃側のことがわからないため、戦闘史料として、一見有効なようで、実は公平を欠く不完全な史料である。そして、合戦手負注文(及び討死注文)においては記載される対象は勝った方の士分以上の者のみであり、徴収された雑兵・軍夫は対象外である。そして、南北朝期~室町期(戦国期除く)において、矢傷が最も多くとも、敵を撃退する効果が高いのは太刀や薙刀などを手にした打物騎兵の突撃であった。 イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラが1561年8月17日付きの書簡において、二隊に分かれた子供たちが「第一に少年投石し、次に弓及び銃を用い、次に槍、最後に剣を以て」戦う京の祭りについて報告している。これは端午の節句に行われた印地打ち(石投げ合戦)で、実際の合戦を再現した模擬戦だったこと。 江戸時代の武士は大小一振りの打刀と脇差を差すのが基本となっているが戦国時代の武士は大小それぞれ複数の打刀と脇差を身につけて戦場に臨んだ。敵を何度か斬りつけると刀はすぐ使い物にならなくなり、敵の甲冑に当たれば刀は曲がったり、折れたりすることもあったためである。また、安物の刀の場合は油で切れ味が落ち、刃こぼれすることも多かった、などの理由があり、予備の刀を使ったり、倒した敵の刀を奪って使ったりと、何本もの刀を使って敵と戦っていた。 古来の武人が矢傷を不名誉とせず、白兵戦武器による傷を不名誉とする場合があったため、白兵戦武器による傷を自己申告しなかったことが考えられる。 出土する希少な甲冑の遺物の中で、それでも太刀傷をとどめた甲冑が発掘されていること。 南北朝期の合戦において最も一般的に使用されていた白兵戦武器は薙刀や槍や鉞ではなく、刀(太刀や野太刀など)だった。 南北朝期~室町期(戦国期除く)においては太刀と野太刀と長巻が合戦におけるメインウェポンの一つだった。 南北朝期~室町期には野太刀や長巻の攻撃から身を守るため、喉輪、膝鎧、立挙脛当、モロ籠手が利用されるようになった。そして、その時期の甲冑は弓矢の威力向上よりも斬撃武器の攻撃に対応していた。鎌倉時代後半までの星兜は打物による攻撃の衝撃を直接、頭部に与えてしまうため、クッションである浮張を持つ筋兜が南北朝期後半に登場した。 南北朝期の戦乱において、矛や槍は短く、大太刀より折れやすいため、広い円形範囲で敵を「打つ」「突く」「斬る」ことのできる大太刀と薙刀の方が利用価値が高かった。そして、南北朝期の戦乱において、鉞や薙刀といった木の柄の武器は大太刀より折れやすいため、柄が大太刀ほど長くなかった。そのため、最も有効な白兵戦武器が大太刀であったという説が存在する。そして、大太刀の流行は南北朝時代の後、安土桃山時代において再び訪れる。 日本刀の中でも長巻は戦国時代と安土桃山時代に特に盛んに利用された。 騎馬武者の武器として 太刀は刀身が大きく反っているため、馬上から斬りつけるのに適していた。平安時代から鎌倉時代等の戦では遠距離では和弓を放ち、近距離では弓を捨てて、太刀に持ち替えて戦うことがあったとされる。 また、南北朝期~室町期(戦国期除く)では、太刀、大太刀、長巻が騎馬武者(打物騎兵)のメインウェポンとして使われた。 予備の武器としての価値 武器は武人の蛮用により破損してしまうことが日常的にあり、予備の武器が必要である。古今東西、人は丸腰になることを恐れる。 自衛用の武器としての価値 白兵戦を専門とし、長柄武器を持つ兵は一部である。それ以外の兵も自衛用の武器が必要とされ、主に刀を身につけていた。たとえば弓・鉄砲・石つぶてといった投射兵種、荷駄や黒鍬といった支援兵種など。 長柄武器を使用しづらい状況での使用 室内や山林など、長柄の武器の取り回しが悪い環境では刀に持ち替えて戦った。 槍の補助として乱戦での使用 日本の合戦は中世の弓や近世の鉄砲などといった遠戦から始まり、統制の取れている段階で槍などで闘い、乱戦になると槍を捨てて、日本刀が使われることが多かった。 合戦で使用された刀の中には、峯などに相手の刀などによる切り込み傷のあるものが多い。たとえば、名物石田正宗には、大きな切り込み傷が多数存在し、実戦で使用されたことを窺わせている。 敵将の首級を挙げる 槍などの刀以外の武器では、戦場の真っ只中で迅速に首を切り落とすのは、非常に困難であり、合戦では自らの功績を示すものが敵将の首級であったため、重要であった(ただし、首を取る際には主に小脇差(予備の刀)や腰刀(腰に差す短刀)が使われたようで、江戸時代前期に書かれた「雑兵物語」には、大脇差は首の斬り取りに向かないとある)。 戦場外でも本差と脇差は携帯され、これは比較的扱いやすく丈夫(いざというときは命を預けられる)すぐれた護身用の携帯汎用武器として秀逸であったことを示している。戦場用よりも護身用の武器としてより役立った。切り傷を負わせる事で相手の戦意を喪失させたり、出血多量で戦闘能力を失わせる事に効果があったと考えられる。ただし江戸時代等では緊急時以外は殆ど用いられることがなくなった為、使用機会は少なくなった。また苗字帯刀が許されることは名誉なことであることとされた。またあだ討ちなどにも日本刀は使われ、十分な殺傷力を秘めていることを実証している。 合戦、人間同士の生命を賭した戦いという極限的状況には相応の覚悟が必要となる。それに際して日本刀に神器としての精神的要素、宗教的価値や美術的価値がある意味現実的な力として求められたとしても不思議ではない。戦乱の時代に作られた刀に所有者が信じる神仏の名や真言が彫り付けてある遺例が数多く存在することも当時の武士達の赤裸々な心情を窺わせて興味深い。 工学的側面からは、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ね科学的にも優れた刃物の到達点を示しえたことに今も関心がもたれている。理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどの情報を多く集積したり伝承したりすることで、ブラックボックス型の工学的知識を実現しているためと思われる。 刀剣春秋新聞社『刀剣春秋』 日本美術刀剣保存協会 『刀剣美術』 日本刀剣保存会『刀剣と歴史』 ^ アジアでは倭刀と呼ばれたが、現地で日本刀に模して作成されたものを指す事も多い。現代の漢文圏では「倭」を忌んで「和刀」と表記することもある。西欧では認知の普及により和語をそのまま\"katana\"と利用されたり、象徴的意味合いとして慣用的に“samurai sword”と呼ばれることもある。 ^ 日本最古といわれる観智院本。「後鳥羽院御字被召抜鍛冶十二月結番次第」という記述がある。 ^ 正宗賞の受賞刀の解説文によると「均整のとれた力強い太刀姿や現代丁子とは明らかに異なる焼刃の古色さもさることながら、その映りである。備前伝を手掛ける多くの刀匠にとっては刃文と共に地鉄、ひいては乱れ映りの再現が長年の課題であったが、本作では随所に現れた地斑状の暗帯部によって乱れ映りが明瞭に形成され、古作に近い雰囲気を湛えるのに見事成功している。このことから映りの解明に向けて大きく前進したことは間違いなく、一つの到達点に達したと言え、革新的な功績として今回の受賞は称えられるべきである」としている(『刀剣美術』、平成26年6月号より)。 ^ 『実戦刀譚』の著者である成瀬関次は、柄に使われる木材は朴が最も多く、その中でもくるいの少ない板目・柾目のしっかりしたモノを使うべきであり、若木、樹皮に近い部分、節目、逆目、木取の都合で斜になったモノは使ってはならないとしている。 ^ 山本七平は「自身の経験に照らして日本刀で斬れるのは高々3人である」としている(『私の中の日本軍』より) ^ a b c 『金属が語る日本史』72p(斎藤努著、吉川弘文官出版、2012年初版) ^ 日本の歴史07『武士の成長と院政』 2001年 下向井龍彦 講談社 ISBN 4-06-268907-3 ^ 図説・日本刀大全―決定版 34頁。 ^ a b c d e f 得能一男 2007, p. 17. ^ a b c d e 小泉富太郎 et al. 1966, p. 30. ^ a b 小泉富太郎 et al. 1966, p. 32. ^ a b c 得能一男 2007, p. 18. ^ 小泉富太郎 et al. 1966, p. 246. ^ a b 小泉富太郎 et al. 1966, p. 247. ^ a b c d e f g h i 得能一男 2007, p. 23. ^ a b c d e 小泉富太郎 et al. 1966, p. 31. ^ a b c 石井昌国 & 加島進 1966, p. 80. ^ a b 石井昌国 & 加島進 1966, p. 82. ^ 石井昌国 & 加島進 1966, p. 83. ^ a b 得能一男 2007, p. 24. ^ a b c d e f g トマス・D・コンラン. 図説 戦国時代武器防具戦術百科. 原書房.  ^ 近藤好和. 騎兵と歩兵の中世史. 吉川弘文館.  ^ a b 日本の武器と武芸. 別冊宝島.  ^ 日本甲冑史 上巻. 中西立太. 大日本絵画.  ^ a b c d e 戸田藤成. 武器と防具 日本編. 新紀元社.  ^ 臺丸谷政志『日本刀の科学』サイエンス・アイ新書、163頁。 ^ 近藤好和. 騎兵と歩兵の中世史. 吉川弘文館.  ^ 藤本正行. 鎧をまとう人びと. 吉川弘文館.  ^ a b c d 渡辺誠. 刀と真剣勝負 日本刀の虚実. ワニ文庫.  ^ 中西立太. 日本甲冑史. 大日本絵画.  ^ a b 戸田藤成. 武器と防具 日本編. 新紀元社.  ^ a b c d 戸部民夫. 図解 武器・甲冑全史 日本編. 綜合図書.  ^ (渡邉・住、2014)、p.6 ^ (天田、2004)、pp.12, 13,78 ^ (渡邉・住、2014)、p.9 ^ 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特集「彼らは刀装具の何に魅かれるのか?」(志塚徳行・笠原光寿・新井茂・園平治・銀座長州屋、廣井章久・永田宙郷 執筆・結城庵) ISBN 978-4-434-10758-0、全国書誌番号:00113455。 太刀 - 打刀 - 刺刀 - 忍刀 - 大太刀 長巻 - 薙刀 - 槍 脇差 天下五剣 - 日本刀一覧 模擬刀 - 模造刀 椿油 - 丁子油 テムズ・スクラマサクス(サクソン刀) - 10世紀のアングロ・サクソン人が製造・運用していた刀。日本刀の様に、軟鋼と硬鋼を一緒に鋳造・鍛錬して造られていたとされる。 韓国刀 - 倭刀 アイヌ刀 サーベル 砂鉄 - たたら吹き 刀工 日本刀研磨 居合 - 居合道 試し斬り - リアル斬鉄剣 剣術 財団法人日本美術刀剣保存協会 刀剣観日本精神史的研究 (PDF) 蒔田宗次「支那事變に於ける日本刀の威力」、『鐵と鋼 : 日本鐡鋼協會々誌』第24巻第12号、1938年12月25日、 1106-1112頁、 NAID 110001869462。 臺丸谷政志、小林秀敏:日本刀の衝撃工学的考察 日本機械学会論文集A編 Vol.77 (2011) No.776 P638-646 備前長船刀剣博物館", "大太刀(おおたち、おおだち)は、日本刀の一種で、長大な打刀、および太刀のことである。 「野太刀(のだち、のたち)」、「背負い太刀」とも呼ばれる。また、中国の武器である「斬馬刀(ざんばとう)」と混同されることがある(後述)。 大太刀とは初めに述べたように「長大な刀」のことであり、現代の分類では刀身の長さが三尺(約90cm)以上のものを指すのが一般的で、昔の日本人の平均的な身長(150cmから165cm)と比べると非常に大きい物であることがわかる。 日本刀において、刀身長による分類の方法には文献や研究者によって違いがあり、刀身が3尺(約90cm)以上のものを「野太刀」、刀身が5尺(約150cm)程度のものを大太刀とすることがある。日本の刀剣類の区分は、文献や研究者によっては5 - 9種類以上の分類をすることさえある。従って、「大太刀」という言葉が指す刀剣の定義は常に一定というわけではない。 このように、大太刀と野太刀の語の使い分けには確定した説がないが、単純に長大な太刀を「大太刀」、戦場で使うことを前提とした拵えに収められているものを「野太刀」と呼んでいた、というのが現在の主説で、一般的には大型の刀をまとめて「大太刀」と呼ぶことが主流である。南北朝時代から戦闘が激化して、野戦においては長大な豪刀を振り回すことは有利であるから、長大な野戦用の太刀が流行した。室町時代末期には刀を差し、従者に大太刀を持たせた。 大太刀は南北朝時代から安土桃山時代にかけて実戦で多用され、野戦で活躍した長太刀である。 基本的には歩兵の武器ではなく、騎馬武者の用いるもので、馬上から馬の走る勢いで斬る武器である。そのため、実用にあたってはあまり振り回す必要はない。しかし腕力を誇る武士が馬に乗らない白兵戦で使用する場合もあった。 現代においては大太刀は敵将を馬ごと斬ることができる代物とし、フィクションにおける表現では馬の胴体または首部と騎乗の武士を一緒に斬る豪快なイメージを描くが、実際にはそのような使い方はなく、長いリーチを生かして馬と騎乗の武士からの攻撃を避けつつ、騎者を落馬させるか、足を狙って馬をつぶすことが主であった。大太刀の刃先は鋭かったが、刃肉は厚く、その形式を蛤刃と呼んだ。これは大太刀が主に突き刺したり、鎧や兜の上から打撃を与えるために使用されたことを物語っている。馬の脚を折ったり、敵の頭を打ち据えて気絶させたりした。他の刀剣に比べて頑丈であることが利点だが、どんな大太刀でも鋼鉄製の兜にはかなわず、戦闘中に折れる事もあった。 大身槍と同じく、絶大な破壊力を持つ武器であった。 鎌倉時代になり武家が権力を握ると、武人として剛気で腕力があることが名誉とされるようになり、それを誇るための武具として、長大な刀身をもった太刀が戦場で見られるようになった。後に日本刀が刀身の長さにより分類されると、こうした長大な太刀は「大太刀」と区分されることになった。 南北朝時代には大きめの太刀と大薙刀と共に流行したがどれも流行は20数年間という短期間で廃れている。 大太刀が短期間で廃れた理由は騎馬武者からの攻撃への対策として、歩兵が薙刀や槍を多用するようになり、馬上での戦いが不利になってきたからという説がある。 また、大太刀の天敵は柄の長い刺突武器だという説もある。 しかし、戦国時代の朝倉軍の将兵や力士隊が大太刀で織田軍の槍の柄を斬り落として苦戦させている他、徳川家康が配下の者に対し「長い刀は槍に対抗するのに良い」と言った記録もある(ヨーロッパでは両手剣は多数の敵を相手にしたり、長柄武器に対抗するのに有効な武器だと認識されていた)。 南北朝時代に最も長く頑丈な武器は大太刀だったという説があり、戦場で活躍、重視されたという説も数多い。 南北朝代の矛や槍は短く、大太刀と比べ柄が折れやすい。鉞や薙刀も木の柄の武器であるため、大太刀より折れやすく、それを防ぐため、柄は大太刀ほど長くはなかった。そのため、南北朝時代に最も有効な白兵戦武器は大太刀であったとする説もある。ただし、最も長い薙刀の柄は五尺(約150cm)ぐらいであった。 また、リーチが長く、斬るだけではなく、刺突や石突を使用した打突、また柄での打撃が可能など多様な攻撃を繰り出せる薙刀が南北朝期~室町期(戦国期除く)の戦乱において最強の武器だったとする説もある。 南北朝期の槍は「突く物」「打つ物」として利用されたが、太刀と薙刀も「突く物」「打つ物」として利用された。広い半径範囲で敵を「打つ」「突く」「斬る」ことのできる大太刀と薙刀の方が南北朝期の戦乱において槍より有効であり、利用価値が高かった。 また、南北朝期には歩兵は騎兵を平地で防戦できるほどまとまった集団ではなく、騎馬の攻撃を支えられない分散された弱小集団であり、南北朝期を通して、騎兵は一番有利な軍事組織であった。 大太刀は長大な分、重い(120 - 300cm、1.5 - 8kg)ため、太刀と同じ形状の柄では扱いにくい(刀身に対して柄が短くなり過ぎて構えたり振ったりが難しい)という欠点があった。これを克服するため、柄が次第に長くなり(30 - 40cm)、やがて振り回し易いように刀身の根元の部分に太糸や革紐を巻きつけた「中巻野太刀(なかまき のだち)」へと発展した。そこから完全な長柄武器である「長巻」が派生することになる。 その後、三尺を超えるような大太刀は神社等への奉納用にも製作されるようになり、長大に作るためにいくつかの長さに分けて鍛錬し、後に接合して一本の刀身とした、実際に「刀」としては使用出来ない(強度的に「振る」ことが不可能)ものも製作された。 室町時代には大太刀を磨り上げ(刀身を短く縮めて仕立て直すこと)て打刀とすることが流行したため、室町時代以前のもので製作当時の刀身のまま現存するものはそれほど多くない。室町時代は刀剣類が徒歩使用と関連して短寸化する時代である。南北朝時代に流行した大太刀と大薙刀が室町時代まで流行したとする説もある。 だが、室町時代になると大きめの太刀と大太刀と大薙刀の流行は廃れているというのが定説である。 その後、安土桃山時代には大太刀は大きめの太刀や大薙刀とは違い、再び流行する。 徳川幕府が成立し徳川政権が確立されると、刀身長三尺以上の刀を帯刀することは刀装に角鍔を用いること他と共に禁じられ、寺社の奉納品や大名家の秘蔵品として少数が後世に残るのみとなった。江戸時代に奉納品として作刀されたものも少なからず存在するが、いずれも本格的な焼入れや砥ぎが行われていないものが多く、これは禁制を避けるための措置であったと推測されている。 幕末になると勤王の志士には長寸の打刀を差すことが流行し、「勤王拵」等と称される刀の様式も生まれたが、それらの大半は三尺前後のもので、「大太刀」というほどには長くはない。 現代に残る古流剣術・居合術は打刀の技だけではなく、大太刀の技をも伝承している。それは持ち運びにくいという欠点はあっても大太刀が実戦で絶大な威力を発揮することのできる武器だったからである。 平家物語などの軍記物語や古記録の中に戦場で活躍する武器としてしばしば登場する。 治承・寿永の乱について書かれた軍記物語である『源平盛衰記』には、畠山重忠が用いた太刀として「身巾四寸(約12cm)長さ三尺九寸(約120cm)」の太刀である「秩父がかう平」や武蔵国綴党の大将である太郎、五郎の兄弟が帯刀していたという「四尺六寸(約140cm)の太刀に熊の皮の尻鞘入」が記述されており、当時既に三尺を超えるものがあったことが伺われる。 時代が下って『太平記』には、五尺以上の太刀が多く記述され、最大で九尺三寸(約282cm)のものが描写されている。五尺(約150cm)の大太刀二振を佩き、更に手には刃長八寸の大斫斧(まさかり)を持って参陣したという長山遠江守(ながやま とおとうみのかみ)や、五尺六寸(約170cm)の大太刀を携えて勇戦したという大高重成、七尺三寸(約221cm)の大太刀を振るって奮戦したという山名の郎党である福間三郎の描写からは、長寸の大太刀が実際の戦闘で使われていた状況が推察できる。 南北朝時代には大太刀に象徴されるように太刀が薙刀と共に戦乱の中で大いに活躍した。 室町期の作で備州長船法光という大太刀があり、総長377.6cm,刃長226.7cmという長大なものであるが、歴史学者の近藤好和が実際に手に取ってみたところ、意外に持ちやすく、十分に実戦使用可能だという。氏は大太刀・大薙刀を実際に手に取った経験から長寸の太刀でも反り具合や柄の状態などの微妙な調整で手持ちはよくなるものだとしている。 室町時代の僧である一休宗純は自身の背丈よりも長い朱塗鞘の大太刀を腰に差し、こじり(鞘の先端)を引き摺りながら街を歩いた、という逸話が『一休和尚年譜』他の伝記にある。この大太刀は刀身は木製(竹光)で、「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」と、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。大太刀を携えた一休宗純の姿は「一休和尚像 自賛 伝曾我墨渓筆」に描かれて現代に伝えられている。 戦国時代には、朝倉氏や長尾上杉氏が「力士隊」と呼ばれる巨躯巨漢の者を集めた部隊を編成し、大太刀を持たせて戦わせたことが記録されている。朝倉氏の家臣である真柄直隆、真柄直澄の兄弟は、共に戦場で五尺三寸(約175cm)の大太刀を用いて奮戦し、両名ともに姉川の戦いで討ち取られたものの、その大太刀は「太郎太刀」「次郎太刀」の名で現在に伝えられている。 現在でも、神社への奉納品や、徳川家などで所蔵されていた個人所蔵品が徳川美術館(柳生の大太刀)、渡辺美術館、刀剣博物館などの博物館に納められたもの等が少数ではあるが現存している。重要文化財に新潟県の弥彦神社が所蔵する七尺四寸二分(約225cm)の大太刀がある。 新古刀通じて最長の大太刀は、山口県下松市花岡八幡宮所蔵の「破邪の御太刀」(刃長345.5cm、全長465.5cm、75kg)である。これは幕末の尊皇攘夷思想を背景として、氏子が南朝方の刀匠であった延寿派の末裔である延寿国村二十七代国綱(後、国俊と改銘)に特注した奉納刀である。砂鉄300貫を用い、川を堰きとめ焼き入れを行う等、大太刀製作に纏わる逸話が残されている点でも貴重である。 大太刀は長大なものではあっても「太刀」であり、太刀は馬上での戦いを想定して発展したものであるために、本来は騎馬武者が馬上で用いるものであった。 通常の太刀は柄の中程を握り、柄頭(柄の一番端の部分)に付けられた手貫緒(てぬきお)と呼ばれる紐を手首に通して脱落防止としたが、大太刀の場合は鍔元に近い部分を握り、手貫緒を肘の部分に通して締め、拳と肘の二箇所で柄を保持し、刀の重さを支える。刀を振る際は肘から先の前腕を一体として振り、通常の太刀や打刀のように手首を動かすことはしない(そのようにすると刀の重さを支えられないばかりか、手首を痛めてしまうことになる)。 このように構えた大太刀は、「刀」というよりは薙刀や槍などの長柄武器に近いものであり、武士同士の馬上決戦での突きや切り払い、または馬上から足軽に向けての突きや切り払いを行った。落馬した、もしくは下馬した際にも地面から馬上の敵を狙い突きや切り払いをするものとして扱った。 しかし、歴史学者の近藤好和は大太刀や薙刀、槍、棒などの長物であっても馬上で片手使用するとは限らないとしている。 弓矢は両手で扱うもので、騎射では手綱は持たないわけだから馬上で手綱から手を放し長物を両手使用することも何ら不自然ではないとしている。 なお、当時の騎馬武者を描いた絵図には、抜身の大太刀を握った手を肩の高さまで上げて刀身を肩に乗せている姿勢で描かれているものがあるが、これは一旦抜いて構えた大太刀を保持し続けることは重量的な面で体勢的に苦しいため、肩に乗せることで重量を軽減し、疲労と腕を痛めることを防ぐためのものであったと考えられている。 本来は馬上での戦いを想定して発展したものであるが、合戦での主な戦闘方法が騎馬武者主体の少人数戦闘から足軽主体の徒戦(かちいくさ)に移っていくに従い、大太刀も、体力がある者や体格の良い者といった限られた者が扱うものではあるが、馬上ではなく地上で使われるものになり、柄は両手で持って扱うことが容易なように長くなっていった。こうして大太刀(野太刀)は「中巻野太刀」、やがて「長巻」へと発展してゆく。 大太刀は長い武器であるために、細かな動きをし辛く、用いる際には周囲の味方を巻き込まないように戦う必要性が出てくる。古武術には大太刀を使った徒戦の戦闘技術が残っており、合戦などで技術研鑽されてきた徒戦の戦場の武器とも言える。 通常の場合、背負うか従者に持たせて携行していた。鎌倉時代末期から戦国時代末にかけて描かれた数々の絵図では、腰に下げる(佩く)もの、腰に差すもの、背負うもの、従者に持たせるもの、諸々の大太刀の携行方法を見ることができる。 自らの手で持つ場合 自らの手で持って運ぶ。この場合はかなり長い大太刀を引き抜くことが可能である。また戦いの始まる前には鞘を捨てることもある。 従者に持たせる場合 従者が手に持ち運ぶ。大太刀を引き抜く際には従者に鞘を持たせて、馬に乗った武者が引き抜くか、または徒歩の武者が引き抜く。この場合かなり長い大太刀を引き抜くことが可能である。大太刀は身分が高い武士が扱う武器であるため従者に持たせるのが本来の所持方法である。 腰に携行する場合 左腰に大太刀を携行する流派もある。しかし腰に携行する場合は大太刀の長さのため引き抜くのには容易ではない。そのためにはかなりの熟練した技が必要である。 通常は左腰に携行する場合は太刀は刃を下にして携行するが、流派により刃を上に向けて左腰に携行する場合もある。 背負う場合 大太刀を背負う場合は架空の物語や漫画などのイラストでは右利きの大太刀使いは右肩から左腰に大太刀を背負っている。しかしこの背負い方では大太刀は抜けない。太刀や刀はまず鯉口を切らなければ抜けず、また右肩に鯉口があり右手で大太刀を抜くにはあまりにも大太刀が長いために引き抜く手の長さが足りない。よって通常は左肩から右腰に背負う場合が多い。 右利きの場合、大太刀を抜く際は左手で左肩から出ている鍔元を掴み、刃を上に向け、鯉口を相手の正面側に向ける。そして右手で柄を持って鯉口を切り、右手を前に伸ばしながら大太刀を抜く。 忍刀の携行方法は大太刀を背負う場合の携行方法に似ており、鯉口を左肩側に背負う。 日本刀の拵(外装)の場合、太刀には佩くために腰に結わえるための紐(佩緒(はきお)と呼ぶ)を結ぶための帯と金具(足革及び足金物)があり、打刀には腰に差した際に帯に結わえるための紐(下緒(さげお)とそれを結ぶための部品(栗形)があるが、大太刀の場合は従者もしくは自分が手に持って持ち運ぶことが多く、それらには足金物、栗形ともにないものが通例である。 青江の大太刀(あおえのおおたち) 刃長103cm、重さ1.5kg。 真田宝物館(長野県長野市松代町松代4-1)が所蔵。 外部リンク 真田宝物館・展示と行事 志駄の大太刀(しだのおおたち) 「志田の大太刀」と書く場合もある。 弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)が所蔵。当神社には三家正吉作のものと合わせ、2本の大太刀が所蔵されている。 大太刀 附 革鐔 一口 大字弥彦 弥彦神社 刃長220.4cm(七尺二寸八分五厘)、茎長101.8cm(三尺三寸五分)、全長322.2cm。 外部リンク 弥彦文化財・大太刀 大太刀 拵共 三家正吉作 一口 大字弥彦 弥彦神社 刃長 七尺四寸(224cm)、茎長 三尺一寸(93cm) 外部リンク 弥彦文化財・大太刀 大太刀 銘信国 全長209.1cm。 八幡宮(新潟県三条市)が所蔵。 八幡宮の神宝。熱田・八剣の文字と作者の名とみられる「信国」の銘がある。室町時代初期(約600年前)の作とみられる。 外部リンク 三条市HP 大太刀-三条市 飯香岡八幡宮の大太刀 全長163cm、刃長130cm、反り3.5cm。 飯香岡八幡宮(千葉県市原市)が所蔵。 外部リンク 市原氏教育情報ネットワークHP 大太刀 三嶋大社の大太刀 全長161.5cm、刃長114.3cm、茎長47.5cm、反り5.0cm。 三嶋大社(静岡県三島市大宮町)が所蔵。 外部リンク 三嶋大社宝物館 大太刀:高力長吉作 山金造波文蛭巻大太刀(やまがねづくりはもんひるまきのおおだち) 号 祢々切丸(ねねきりまる) 刃長2.2m(七尺一寸二分)、全長3.4m(一丈一尺三寸二分)、重さ22.5kg。 日光二荒山神社(栃木県日光市)が所蔵。  二荒山神社の御神刀の一つである。諸金具は山金造、蛭巻とその間の余地の上には全体に色漆を厚く塗り、刷毛目に波状文を描く。 別名の由来は日光山中のねゝが沢に棲んでいた化け物の「祢々(ねね)」である。号の由来はこの太刀が自然に鞘から抜け、祢々を斬り退治したということからである。 外部リンク 山金造波文蛭巻大太刀(号祢々切丸) 重要文化財 大山祇神社の大太刀 刃長180.0cm、茎長58.5cm、反5.4cm。 大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)が所蔵。 大太刀は無銘である。(伝豊後友行)革包大太刀拵付。 外部リンク 革包大太刀拵 破邪の御太刀(はじゃのおんたち) 刃長345.5cm、茎長120cm、反28cm、身幅13cm、重ね3cm、重量75kg。 花岡八幡宮(山口県下松市)が所蔵。 新古刀通じて日本最長の大太刀である。安政6年(1859年)東肥菊地延寿国村27代末孫三光軒北辰子国綱が、門弟5名、手伝い2名を従えて、砂鉄300貫を鍛え、川を堰きとめ、焼きを入れて作り奉納したものと伝えられている。 外部リン:下松市の文化財 文化財の紹介 市指定有形文化財 破邪の御太刀 太郎太刀 白山比咩神社(石川県白山市三宮町)が所蔵。   上述の真柄直隆使用の刀。下記次郎太刀と入れ替わって伝わっている説がある。 次郎太刀 熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)が所蔵。  上述の真柄直澄使用の刀。上記太郎太刀と入れ替わって伝わっている説がある。 陰陽丸 刀身長280cm、茎長88.5cm。全長368.5cm 熱田神社(東京都台東区)が所蔵。 弘化4年(1847年)、刀工川井久幸が制作し、熱田神社に奉納したもの。 安政5年(1858年)コレラ流行の時、疫病を祓うため浅草鳥越町を巡行した。 都萬の大太刀 総長約3.54m、刃長約2.46m、重さ約63.75kg 宝徳2年(1450年)、妻町の付近の鹿野田の 住人日下部成家が、備前則次らに鍛えさせ、都萬神社に奉納したもの。現在は宮崎県都萬神社所蔵。 大太刀を指して「斬馬刀(ざんばとう)」と呼称されることがある。しかし、本来の「斬馬刀(剣)」と呼ばれていた、中国大陸で用いられていた武器(後述)と日本の大太刀は、まったくの別物である。 このような混同の原因は、現代の漫画などの創作物が発端だといわれ、1973年から1974年にかけて連載されていた永井豪作の漫画『バイオレンスジャック』において、登場人物のスラムキングの持つ大太刀が「斬馬刀」と呼称されている例が存在する。 また、1990年代に描かれた和月伸宏作の漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の登場人物の相楽左之助が使用した武器も「斬馬刀」という呼称が用いられ、日本の室町時代に存在した武器という解説がなされた。この「斬馬刀」は巨大な両刃剣のような武器として描かれているが、日本の歴史上、このような「斬馬刀」なる武器の存在を示す文献は確認されていない。後に描かれた、『るろうに剣心 完全版』第5巻における企画ページである「剣心再筆」では、斬馬刀は日本刀形状のものとして再設定されており、添文では 2m強の大太刀(斬馬刀)。柄尻に紅白の房、一対 と書かれている。この「大太刀(斬馬刀)」はイラストでは中巻野太刀のように鍔元から物打ちにかけての部分に糸巻きが施されたデザインになっており、 より多彩に取り回せるよう、鍔元に長ハバキを付け、その上に柄巻きを施すように細工済み との一文が添えられている。 この他にも「斬馬刀」もしくは「斬馬剣」という名称の武器が登場する創作作品はいくつかあるが、いずれも大太刀や中国における「斬馬刀(剣)」とは異なる、創作上のデザインである。 本来の「斬馬刀(剣)」は古代の中国で使用されていた武器の名称で、前漢時代には「斬馬剣」と呼ばれる長柄武器が文献に残されている。これは両刃の剣に長い柄を付けたもので、唐の時代にはさらに長い柄に身幅の広い片刃の刀身を取り付けたものに発展し、「大刀」(日本の打刀の「大刀」とは別のもの)と呼ばれるようになった。大刀は後に身巾が広く刀身が比較的短いものと、身巾はそれほどでもないが刀身の長いものとに分岐して発展し、後者は「眉尖刀」と呼ばれるようになった。 唐代には、長くほとんど反りのない片刃、もしくは両刃の刀身に両手で持つに十分な長さの柄があるものが「陌刀」の名で用いられ、明代には倭寇が用いていた野太刀(長刀)を始めとする日本刀が中国でも採り入れられて模倣され、倭寇や北方の騎馬民族(モンゴル)との戦いで一定の軍事的効果をあげた。倭寇が用いていた野太刀は中国兵が用いていた長柄の武器の柄を斬り落としてしまう上に、短柄武器よりも長かったために火縄銃よりも恐れられた。 これら「大刀」や「眉尖刀」、または「陌刀」や「倭刀」、「苗刀」は騎馬兵と戦うためにも用いられたことから、「斬馬刀」とも呼称された。「斬馬刀」とは、本来はこれらの長柄武器、もしくはその名で通称された大型の刀剣を指す言葉である。 なお、「大刀」は日本に伝えられて薙刀の祖になったともされる。「眉尖刀」は日本にも似た形状の武器が存在し、同じく「眉尖刀」と呼ばれているが、日本のものは中国における「眉尖刀」と比べると刀身が大身で身巾が広く、柄も含めた全体の長さが短い。このため、「日本式眉尖刀」と呼び分ける場合もある。この「(日本式)眉尖刀」は、現存する流派では元戸隠流(忍術)の武神館が使用している。 ^ a b 笹間良彦. 図説 日本合戦武具事典. 柏書房.  ^ a b c 図説・日本武器集成. 学研.  ^ a b c トマス・D・コンラン. 図説 戦国時代武器防具戦術百科. 原書房.  ^ a b 牧秀彦. 図説 剣技・剣術. 新紀元社.  ^ 近藤好和. 騎兵と歩兵の中世史. 吉川弘文館.  ^ a b c 得能一男. 日本刀図鑑 保存版. 光芸出版.  ^ a b c 東郷隆. 戦国武士合戦の心得. 講談社文庫.  ^ 加来耕三. 日本武術・武道大事典. 勉誠出版.  ^ 鈴木眞哉. 刀と首取り. 平凡社.  ^ 長田龍太. 続・中世ヨーロッパの武術. 新紀元社.  ^ a b c d e 戸田藤成. 武器と防具 日本編. 新紀元社.  ^ a b 牧秀彦. 図説 剣技・剣術二. 新紀元社.  ^ a b c d 戸部民夫. 図解 武器・甲冑全史 日本編. 綜合図書.  ^ a b c d e f g トマス・D・コンラン. 日本社会の史的構造 古代・中世 南北朝期合戦の一考察. 思文閣出版.  ^ 樋口隆晴. 歴史群像 武器と甲冑. 学研.  ^ 安田誠. 図説マニアックス・5 武器百科増補版. 幻冬舎コミックス.  ^ 西洋の両手剣にも同様の改良が行われたものが見られ、ツヴァイヘンダーの「リカッソ」が代表的である ^ a b 近藤好和. 騎兵と歩兵の中世史. 吉川弘文館.  ^ 藤本正行. 鎧をまとう人びと. 吉川弘文館.  ^ 渡辺誠. 刀と真剣勝負. ワニ文庫.  ^ 中西豪 大山格. カラー版 戦国武器甲冑事典. 誠文堂新光社.  ^ 笹間良彦. 図録日本の甲冑武具事典. 柏書房.  ^ 笹間良彦. イラストで時代考証2 日本軍装図鑑 上. 雄山閣.  ^ 太刀の鞘に被せて用いる毛皮製の覆いで、実用の他装飾用途でも用いられた ^ 土岐頼基(とき よりもと、頼元とも)。土岐頼遠の兄弟とされる人物。赤松氏範との一騎討ちの逸話で知られる ^ 近藤好和. 騎兵と歩兵の中世史. 吉川弘文館.  ^ 日本甲冑史 上巻. 中西立太. 大日本絵画.  ^ 近藤好和. 騎兵と歩兵の中世史. 吉川弘文館.  ^ 徒歩で行う戦闘 ^ 永井豪著 「完全版 バイオレンスジャック」 第2巻 207頁 ^ 和月伸宏著 「るろうに剣心―明治剣客浪漫譚」 巻之1 160頁 ^ 「るろうに剣心―明治剣客浪漫譚 (05)」カバー下 ^ 実際に大太刀をより振り回しやすいように鍔元に巻きを施した「中巻野太刀」は、長ハバキとしてその上に巻きを施しているわけではない(巻は刀身の刃のついていない部分に直接巻かれている)ので、このデザインは創作に基づくものである。 ^ a b c 林伯原. 中国武術史. 技藝社.  ^ a b 平上信行・笹尾恭二. 対談 秘伝剣術 極意刀術. BABジャパン.  ^ 戦略戦術兵器大全 中国古代~近代編. 学研.  ^ 戦闘技術の歴史5 東洋編. 創元社.  ^ 篠田耕一. 武器と防具 中国編. 新紀元社.  篠田耕一:著 『武器と防具 中国編』(ISBN 978-4883172115) 新紀元社 1992年 戸田藤成:著 『武器と防具 日本編』(ISBN 978-4883172313) 新紀元社 1994年 市田定治:著 『武器辞典』(ISBN 978-4883172795) 新紀元社 1996年 笹間良彦:著 『図説 日本合戦武具事典』(ISBN 978-4760125333) 柏書房 2004年 『図解 日本刀事典』(ISBN 978-4054032767) 学習研究社 2006年 中西立太:著 『日本甲冑史』大日本絵画:刊 『[上巻] 弥生時代から室町時代』 (ISBN 978-4499229548) 2008年 『[下巻] 戦国時代から江戸時代』 (ISBN 978-4499229562) 2009年 薬丸自顕流(薬丸派野太刀自顕流) 柳生心眼流 - 野太刀の技法も伝承されている。 日本刀 太刀 中巻野太刀 長巻 打刀", "刺刀(さすが)は、日本刀の一種。 短刀の一種であり、補助武器として用いられたが、限定条件下では威力を発揮した。ごく一部文献には「刺刃」とも表記される場合があるが、誤記か意図的に語呂と語彙を刷り合わせた表記にしたのかは不明。 なお、中国語では近代兵器としての「銃剣」のことを「刺刀」と表記する。 鎌倉時代、徒歩の兵士たちの主要武器は薙刀であったが、これを失ったときや、乱戦になって薙刀(長い武器)が使えなくなった時に用いられた。つまり、役割は脇差と同じである。 刺刀は、やがて長くなり、打刀へと発展する。平安時代後期以降武士の台頭により腕力を誇示することが流行したため、太刀からより大きな武器である野太刀や大太刀など大きな刀が人気を集めたが、戦国時代になると見栄より実用性を問うようになり、刺刀と同じ目的で脇差が作られた。この時代には(太刀よりも)打刀が主流になっていたため、脇差の形状は打刀と同様である。 また、「刺殺武器」としての刺刀は、反りがなく重ねが厚い(刀身の断面形状が厚い)「鎧通し」と呼ばれる短刀の形式に発展した。 抜きやすいよう右腰に口を帯の下に差した刺刀は、妻手指(えびらさし)または馬手差(めてざし:右手差しの意味)と呼ばれる。後に腹部を刀剣類で薙がれる危険性をより回避するため、中央左寄りの腰に短い脇差を差すようになり、馬手差は次第に廃れていった。 打刀 脇差 太刀 大太刀 長巻 薙刀 マテガイ:殻が鞘に収めた馬手差(短刀)に近い形状からこの名がついた。", "模擬刀(もぎとう)とは、日本刀を模して作成された用具のこと。模造刀とも別称されるが、厳密には銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)に規定された模造刀剣類に定義される物の一部である。抜刀術や居合道の修練用のものから床の間の飾りまである。真剣と違い刃物ではないため、所持許可証や登録証を必要としない。 刀身は真鍮、亜鉛、アルミニウムなどの合金製で、多くは表面がメッキしてあるため、保存するのにこれといった手入れの必要はないが、居合用に関しては刀身の磨耗を防ぐ、納刀をスムーズに行うなどの必要性から真剣と同様に刀油(丁子油、椿油)を塗布する。鍔は鉄製である場合が多く、防錆に注意を要する。 居合に使用される事が多いので居合刀とも呼ばれる。居合用の打刀は観賞用の物より高価であり、メーカーによって合金の比率など多少の差はあるものの、観賞用より強度に優れる。武道の中では比較的競技人口が少ないことから、模擬刀自体の製造メーカーも少なく、大会の会場では同じメーカーが特設市を開いている場合が多い。これらの特設市で購入するほか、模擬刀を扱う武道具屋でこしらえなどについて相談した上で発注したり、通信販売などの購入方法がある。 少年用の2尺から長大な3尺まで幅広いが、日本人の体型に合っている2尺4寸5分の物が多く流通している。長い刀を扱うにはそれなりの熟練が必要であり、刀を鞘から抜き出す際に必要な「さやびき」などがうまくできなければ運用は困難である。 メッキ上に加工した物。一重の物と二重の物があり、直刃以外にも互の目、湾れ、乱れ、三本杉、名刀の写しなどがある。 基本的に「掻き止め樋」が入るが、「2本樋」「添え樋」「真剣樋」などもある。薄口や厚口にすることで、重量を調節することができる。2尺5寸以上になると強度の面から厚口に限定される事が多い。柄に隠れるので表面からは見えない部分だが、茎(なかご)を頑丈にしてより真剣の感覚に近づけることもできる。また「菖蒲造り」や、小烏丸に代表される「鋒両刃造」、「ウノクビ(鵜の首)造り」なども存在する。 重量は刀身の重さと鍔の重さでほぼ決定する。使用者の体格、体重に合わせて発注する場合が多い。演武の際に見栄えが良くなるなどの理由から適正重量よりも軽い物を用いる場合もある。 柄はホウの木製の場合が多く、柄巻きは真剣と同じようにしっかりと巻かれる。金具もさまざまで真鍮や銅に塗装、装飾をしたものが多い。鞘は丈夫なウレタン樹脂製や漆塗りの物が多いが、価格の削減と作成期間の短縮のため漆風塗料を使うことも多い。目釘も抜けるようになっている。 あくまで観賞用であるため刀身はアルミ合金などの弱い金属製が多く、強度は武術・武道用のものと比べれば劣る場合が多い。高価な物もあるが、全体的には安価で粗雑な物が多い。 打刀は2尺4寸程度の物が非常に多い。他に小刀(脇差)、太刀、白鞘大刀、懐刀、長巻、大太刀などさまざまなサイズの物が販売されている。 樋は入っていない物が多く、特殊な造りは少ない。例外として大太刀が挙げられる。 こちらもメッキ上の加工によるもので、一重のみ、直刃と乱刃の物が多い。 高価な物は本身と同じこしらえである。安価な物は柄が主にプラスチックを接着剤で固めており脆弱であるため、強度の面から素振り、居合道への使用は推奨されない。柄巻きは巻き方が間違っていることもあり、鞘塗りに漆や漆風塗料が使われることはない。目釘は斜めに入っていることが多く、接着剤で固定されているため取り外しは不可能。 本科の造りになっていない物も多い。 連結式の槍、薙刀。これらは本科より短く製作されている。 連結式の鎖鎌。柄の一部がはずれて分銅鎖になる。 十手 鉄扇 兜割(防刃用に頑健に造られるためバランスは通常の打刀とは異なる) 釵 本科・本科写し。 十手 手裏剣 手槍(手突槍) 鎖鎌・大鎖鎌(契木術の併用できない物) からくり實手(当理流の武器で槍様の穂先に鉄棒がハサミのように折りたためる實手。一角流伝書ではマロホシとも呼ばれる精巧な物がある) 刃物ではなくとも形態・材質から、携帯した場合は銃刀法に抵触する可能性がある。鞘に収めただけの裸で持ち歩くことはもちろん、ある程度プライベートな空間とされる自動車内でも、そのままで置いておくと銃刀法違反になる場合がある。 運搬時はすぐに使用出来ない状態で、正当な目的である必要がある。居合刀などの模擬刀であれば、通常の刀袋に入れた上で段ボールや革ケースなどに収納しておくことが望ましく、道場の稽古に伴う運搬、店頭で購入した帰り、売却途中であるなど、所持・運搬理由を説明できる状態にしておくことが望ましい。そうした点では真剣と変わらない。 薄刃の物は鋭く、手を切る場合もある。また、ほとんどの場合先端は尖っており、素人でも首・心臓・腹部などを突き刺せば致命傷になる可能性が高い。突き以外でも力任せに斬りつければ金属製であることから、当たり所次第で骨折や命に関わる重傷になり得る。 ^ 銃砲刀剣類所持等取締法第二十二条の四 何人も、業務その他正当な理由による場合を除いては、模造刀剣類(金属で作られ、かつ、刀剣類に著しく類似する形態を有する物で内閣府令で定めるものをいう。)を携帯してはならない。 ^ 本歌とも表記される。本物、正真という意。主に骨董界で使用される。語源は和歌の本歌取りから引用されたという。 ^ 本歌写しとも表記される。高名な作(作者)の作風にならったという意。主に骨董界で使用される。悪意のある贋作は「写し」と表現しない。 竹光 - 竹・木・合成樹脂など非金属を刀身とする日本刀のレプリカ。 木刀", "刀剣(とうけん)とは、握りと同じ位かそれより長い刃もしくは剣身を備えている武器の総称。一般的には剣は両刃のものを指し刀は片刃のものを指すが、これに限らないものも存在する。 詳細はそれぞれの項目を参照。 短刀などに存在する両刃造りは両方に刃が付いているが、左右対称ではなく鋒の部分で上に反っている形になっている。また小烏丸の鋒両刃造りも物打ほどまで両方に刃が付いているが、それ以降片刃になっている。このような場合、一般的な定義だと剣に属してしまうが、双方ともに刀として造られたものであり、上記の定義には合わないが刀として分類されている。 ナイフ:短剣・短刀 剣:主に両刃のものを示す 刀:主に片刃のものを示し、日本で作られた刀を特に日本刀と呼ぶ 銃剣(バヨネット) 剣身、刀身、ブレード 鋩(きっさき)、鋒(ほこさき)、鋩子(ぼうし)、ポイント - 剣の先端部分、切っ先とも。 疑似刃、ファルスエッジ 鎬 樋、フラー 刃、刃先、エッジ 峰 中子、茎、タング(タン) 柄、ヒルト 鍔、ガード 護拳、ナックルガード 握り、グリップ 柄頭、ポメル 刀剣春秋新聞社『刀剣春秋』 日本美術刀剣保存協会『刀剣美術』 『改訂増補 刀工総覧』川口陟・飯田一雄(校訂) 刀剣春秋新聞社・宮帯出版社(発売) ISBN 9784885830082 『金工事典』若山泡沫・飯田一雄(校訂) 刀剣春秋新聞社・宮帯出版社(発売) ISBN 9784885830174 『アイテム・コレクション』 安田均・グループSNE 富士見文庫 ISBN 9784829142271 『図説 西洋甲冑武器事典』三浦権利 柏書房 ISBN 9784760118427 『武器辞典』 市川定春 新紀元社 ISBN 9784883172795 『武器と防具・日本編』 戸田藤成 新紀元社 ISBN 9784883172313 『武器と防具・中国編』 篠田耕一 新紀元社 ISBN 9784883172115 『武器と防具・西洋編』 市川定春 新紀元社 ISBN 9784883172627 『武勲の刃』 市川定春・怪兵隊 新紀元社 ISBN 9784915146237 『魔導具事典』 山北篤・稲葉義明 新紀元社 ISBN 9784775300350 『図説・日本武器集成』決定版 歴史群像シリーズ 歴史群像シリーズ編集部 編 学習研究社 ISBN 9784056040401 『図説・中国武器集成』決定版 歴史群像シリーズ 歴史群像シリーズ編集部 編 学習研究社 ISBN 9784056044317 『刀剣甲冑手帳』 刀剣春秋編集部 編 刀剣春秋新聞社・宮帯出版社(発売) ISBN 9784863660632 『中国武術兵器法』 青木嘉教 愛隆堂 ISBN 9784750202334 『隠し武器総覧』 名和弓雄 壮神社 ISBN 9784915906367 『図解隠し武器百科』 名和弓雄 壮神社 ISBN 9784404008077 『【決定版】図説忍者と忍術 忍器・奥義・秘伝集』 歴史群像シリーズ 歴史群像シリーズ編集部 編 学研マーケティング ISBN 4056048142 『【決定版】忍者・忍術・忍器大全』 都市鉄道研究会 著 歴史群像編集部 編 学習研究社 ISBN 4054041205 剣道 フェンシング 剣術 武術 日本刀 鞘 鎧 甲冑 武具 武器 白兵戦 日本美術刀剣保存協会" ]
ABC01-02-0106
童話「ムーミン物語」やサンタクロースの故郷として知られる北欧の国で、首都をヘルシンキに置くのはどこでしょう?
フィンランド
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[ "フィンランド", "スロベニア", "チェコ", "ルーマニア", "エストニア" ]
[ "フィンランド共和国 Suomen tasavalta(フィンランド語) Republiken Finland(スウェーデン語) 国の標語:なし 国歌:Maamme(フィンランド語) Vårt Land(スウェーデン語) 我等の地 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ 1999年以前はマルッカを使用。 ^ 「フィンランドのユーロ硬貨」も参照。 フィンランド共和国(フィンランドきょうわこく、フィンランド語: Suomen tasavalta、スウェーデン語: Republiken Finland)、通称フィンランドは、北ヨーロッパに位置する共和制国家。北欧諸国の一つであり、西はスウェーデン、北はノルウェー、東はロシアと隣接し、南はフィンランド湾を挟んでエストニアが位置している。 首都ヘルシンキは露仏同盟以来、ロシアの主要都市であるサンクトペテルブルク方面へ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となってきた。同じく直近の旧領ヴィボルグはサイマー運河の出口であったが、現在はロシア領で、ノルド・ストリームの経由地となっている。ロシアと欧州諸国の間にある地政学的な重要性から、勢力争いの舞台や戦場にも度々なってきた。 典型的な加工貿易国だが、面しているバルト海を通じて船は使用しにくい。[要出典]中立的外交の裏では、外交・安全保障やエネルギー政策を巡り東西の綱引きが行われている。国内には原子力発電所があり、オンカロ処分場は2020年に開設されれば世界初の使用済み核燃料の最終処分場となる。情報産業も政治と関係しており、公職経歴者が民間企業の幹部になる例として、エスコ・アホという首相経験者がノキア取締役を務めているようなことがある。 人口や経済規模は小さいが、一人当たりGDPなどを見ると豊かで自由な民主主義国として知られている。フィンランドはOECDレビューにおいて「世界で最も競争的であり、かつ市民は人生に満足している国の一つである」と2014年には報告された。フィンランドは収入、雇用と所得、住居、ワークライフバランス、保健状態、教育と技能、社会的結びつき、市民契約、環境の質、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っている。 フィンランドは、「フィン人の国」という意味で、スオミはフィン人の自称である。「スオミ」の語源については多くの説が提唱されており定説はないが、同じウラル系の「サーミ」や「サーミッド」(サモエード)と同源とする見方がある。「フィン」についてはタキトゥスが残した「北方に住む貧しいフェンニ人」の記述が最古のものである。「スオミ」については古くはフィンランド南西端、バルト海沿岸にある都市トゥルクを中心とする限られた地域を指す単語であったのが、後に国土全体を指す単語に変容し、そこに住んでいたスオミ族の名が後にフィンランド語の名称になった。トゥルク周辺は現在では「本来のスオミ(Varsinais-Suomi)」と呼ばれている。 正式名称は、フィンランド語では Suomen tasavalta(スオメン・タサヴァルタ)、通称 Suomi(スオミ)。形容詞はsuomalainen(スオマライネン)。スウェーデン語では Republiken Finland(レプブリケン・フィンランド)、通称 Finland(フィンランド)。形容詞はfinsk(フィンスク)。公用語はフィンランド語とスウェーデン語。 日本語の表記は フィンランド共和国、通称 フィンランド。漢字による当て字では芬蘭(古くは芬蘭土とも)と表記し、芬と略す。 英語表記は国名が「Finland」、国民が「Finn(s)」、形容詞は「Finnish」。 通常は先史時代(〜1155年)、スウェーデン時代(1155年〜1809年)、ロシアによる大公国(フィンランド大公国)時代(1809年〜1917年)、独立後の現代(フィンランド王国時代を含む、1917年〜)の四つの区分に分かれる。 現在のフィンランドの土地には、旧石器時代から人が居住した。南には農業や航海を生業とするフィン人が居住し、後にトナカイの放牧狩猟をするサーミ人が、北方に生活を営むようになった。400年代にノルマン人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始、居住域を拡大していった。 1155年にはスウェーデン王エーリク9世が北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し、同時にキリスト教(カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。16世紀の宗教改革でスウェーデンのグスタフ1世がルター派を受け入れたため、フィンランドもルター派が広まることになった。カトリックの承認を得ずに司教となったアグリコラが聖書翻訳を進めたことで、フィンランドは新教国としての性格を決定的にした。 1581年にはフィンランドの独立が模索された結果、ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」(後にフィンランド大公となった)\"となり、スウェーデン王国が宗主国となる形でフィンランド公国建国が宣言された。しかしこれは、フィンランドに植民したスウェーデン人が中心で長くは続かなかった。この時代のフィンランドはスウェーデン=フィンランドと呼称されており、スウェーデンによる大国時代を形成していた。 1700年から始まった大北方戦争の結果の1721年のニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)がロシア帝国に割譲された。ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後スウェーデンは戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンに戻らず、ロシアに留め置かれた。 19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し、『カレワラ』の編纂など独自の歴史研究がなされた。その一方でロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まった。 1899年には、ニコライ2世が署名した二月詔書には、高揚するロシア・ナショナリズムに配慮して、フィンランドの自治権廃止宣言(フィンランド語版、英語版)が含まれていることがフィンランド人に発覚したためフィンランドで暴動が発生している。1904年6月17日にはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマン(フィンランド語版、英語版)によるロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事にいたり、ついに1905年には「自治権廃止」は撤回された。 第一次世界大戦末期の1917年にはロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言した。1918年に共産化し、オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立した。その後、敗戦国となったドイツ軍など外国の介入もあり、フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され、1919年にはフィンランド共和国憲法が制定された(フィンランド内戦)。 独立後のフィンランドの政情や国際情勢は不安定で、1921年にスウェーデンとオーランド諸島の領土問題で争ったが、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造による「新渡戸裁定」で解決をみた。さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土(382,801km²)の10分の1を失った。喪失した地域は主に人口と産業密度の高い南東部で、ヴィープリ州には最も要となる港湾があった。ペツァモ州にはニッケル鉱床と国内唯一の不凍港と北極海への出入り口があった。これらが失われた上、サイマー運河も両断された。 第二次世界大戦(継続戦争)ではソ連と対抗するためにナチス・ドイツやイタリア王国などの枢軸国側に付いて戦い、一時は冬戦争前の領土を回復した。その後、ソ連軍の反攻によって押し戻され、1944年にソ連と休戦し、休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦った(ラップランド戦争)。日本や独伊と同様に敗戦国になったものの、フィンランド軍はソ連軍に大損害を与えて進撃を遅らせ、ナチス・ドイツ降伏前に休戦へ漕ぎ着けた。このため、バルト三国のようにソ連へ併合されたり、ソ連に占領された東ヨーロッパ諸国(東側諸国)のように完全な衛星国化や社会主義化をされたりすることなく、冷戦終結による東欧革命も経た現在に至っている。 戦後はソ連の影響下に置かれ、ソ連の意向により西側陣営のアメリカによるマーシャル・プランを受けられず、北大西洋条約機構(NATO)にもECにも加盟しなかった。自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわら、外交・国防の面では共産圏に近かったが、ワルシャワ条約機構には加盟しなかった(ノルディックバランス、フィンランド化)。この微妙な舵取りのもと、現在に至るまで独立と平和を維持した。ソ連崩壊後には西側陣営に接近し、1994年にはEU加盟に合意。2000年には欧州共通通貨ユーロを北欧諸国の中で初めて自国通貨として導入した。 2010年代にクリミア・東部ウクライナ紛争などでロシアの脅威が高まったため、西側への接近を加速している。2017年にはスウェーデンとともにイギリス主導でNATOや国際連合に協力する合同派遣軍への参加を決めた。 国家元首である大統領の任期は6年で、国民の直接選挙によって選ばれる。 2015年5月29日、議会は、第1党・中央党の党首ユハ・シピラを首相に選出した。サウリ・ニーニスト大統領は、同日、同首相就任を承認した。同首相は、中央党を中心とする新連立内閣を発足させた。 議会制民主主義国家であり、議会が国権の最高機関である。政治形態は独立以降、半大統領制の様な状態で大統領には現在より強大な権力があったが、ポスト冷戦期への移行が重なった1990年代以降になって議院内閣制への移行を目的とした憲法改正が数度行われ、行政権の比重は大統領から首相(内閣)に傾いた。 議会は一院制でエドゥスクンタ(Eduskunta)と呼ばれる。200議席を15の選挙区に分け、比例代表制選挙で選出され、政党助成金制度が存在する。任期は4年だが、途中で解散される場合もある。前回の投票は、2015年4月19日に行われた。政党別の獲得議席数は、次の通り。 中央党(Kesk)49 真のフィンランド人(PS)38 国民連合党(Kok)37 社会民主党(SDP)34 緑の同盟(VIHR)15 左翼同盟(VAR)12 スウェーデン人民党(SFP)9 キリスト教民主党(KD)5 その他 1 行政府の長である首相は、副首相や閣僚と共に内閣を構成する。各閣僚は議会に対して責任を負う。首相は、総選挙後に各党代表の交渉結果に従って大統領が首相候補者を指名し、議会で過半数の賛成を得た後、大統領による任命を経て就任する。他の閣僚は、首相の選任に基づき大統領が任命する。 内政面においては先進的な北欧型の福祉国家という印象が強いが、戦後は敗戦国の地位にもあって賠償金などの支払もあり国政面での労働者の権利拡充は後回しされ、労働無きコーポラティズムとして日本に近い社会であった。その後は急速に福祉国家建設へと邁進し北欧型の社会に近づく。 また、世界で最も政治家による汚職の少ない国の一つとも評価されている。2008年の民間活動団体「トランスペアレンシー・インターナショナル」による政治の腐敗認識指数調査では、2004年まで1位(世界で最も汚職が少ない)だったが、2009年時点では6位に転落している。 常備軍 - 16,500人 職業軍人 - 8,700人 最大可能動員数 - 34,700人 陸軍 - 27,300人 海軍 - 3,000人 空軍 - 4,400人 軍事費 - GDPの1.4% 三軍の他に国境警備隊(3,000人)があり、内務省の指揮下にあるが、有事の際には軍隊に統合される。 6〜12ヶ月の徴兵制を実施している(対象は18歳以上の男子。女子は志願制、例外として宗教法人エホバの証人の信者は良心的兵役拒否の下で免除されている)。100人あたりの小型武器の所有率は、2007年においてアメリカ軍、イエメン軍に次いで世界第3位である。 冷戦時代には、ソ連製のMiG-21戦闘機やAKライフル、T-54/55およびT-72戦車と中立国のスウェーデン製サーブ 35 ドラケン戦闘機などを有していた。冷戦終結後は西側からの調達が主となり、アメリカ製F-18戦闘機、ドイツ製レオパルト2戦車を装備している。 第二次世界大戦後、軍事勢力バランスの上でソビエト連邦の勢力圏に入りながら資本主義体制を維持するというジレンマ(外交面では反ソ連路線でありながら内政面では社会主義体制を敷いたユーゴスラビアなどの逆パターンとも言える)に置かれたため、外交のみならず国内的にもソビエト批判をタブーとする空気に支配されるという\"フィンランド化\"状況が続いた。フィンランドの外交を「フィンランド外交とは西側にあまり尻を出しすぎぬほどにロシアに頭を下げることである」との風刺が存在するほどであった。日本では、中曽根首相が「ソ連は、日本をフィンランド化しようとしている」と演説で述べ、ソ連が日本をフィンランドの様なソ連に逆らわない隣国にしようとしている、と言う懸念を述べた事があったが、この演説は駐日大使を通じてフィンランド政府による抗議を受けている。 しかしながらその立場を逆用し、東西貿易の窓口として栄え、国民の生活水準は世界一にもなった。現在ではNATOには参加することなく北欧理事会を中心とする北欧主義(Nordicism)、EUを中心とする欧州への参加、国連を中心とする世界秩序の構築が国是となっている。 フィンランドは、19の県 (maakunta、マークンタ) に分かれる。2009年までは県の上位行政区画として州が存在し、6つの州 (lääni、レーニ) に区分されていたが、2010年1月1日に廃止された。また、2010年までは東ウーシマー県が存在し、県の数は20であったが2011年1月1日に東ウーシマー県とウーシマー県とが合併し、新たなウーシマー県が発足したため、東ウーシマー県は消滅し、県の数は19となった。 OECDは、フィンランドは世界で最も地方分権が進んでいる国の一つだと評している。 ヨーロッパ北東部に位置し、北欧ないし北東欧と呼ばれる。北側はノルウェー、西側はスウェーデンと国境を接する。西はボスニア湾、南西はバルト海、南はフィンランド湾に面する。ボスニア湾の対岸はスウェーデン、フィンランド湾の対岸はエストニアである。東から南東にかけてはロシアと陸上で国境を接する。なお、スカンジナビア半島には含まれない。 国土の大半は平坦な地形で、氷河に削られて形成された湖が無数に点在する。植生はタイガと地衣類が多い。また森林には粘菌が多様に生息する。 首都のヘルシンキは国の最南部に位置し、フィンランド湾に面する。国土の大半が寒冷な気候であることから、ヘルシンキを始めとする規模の大きな都市はその多くが国の南部に偏在している。 フィンランドにある大きめの湖は以下の通り。 ネシ湖 パイエンネ湖 サイマー湖 オリ湖 ピエリネン湖 オウル湖 ロッカ湖 イナリ湖 人口とGDPの規模が日本の北海道とほぼ同じフィンランドは、1980年代以降、農業と林業中心の経済体制から、携帯電話の生産量が世界1位になるなどのハイテク産業を基幹とする工業先進国へと著しい変化を遂げることに成功した。特に、150年前からある老舗企業のノキア(NOKIA)やLinuxが有名である。高い教育水準なども影響した結果、ヨーロッパ内でも有数の経済大国となった。世界経済フォーラム(WEF)が毎年発表する国際経済競争力の順位では、2001年から2004年までと4年連続首位となった(2002年は一旦、2位と発表されたがその後の再評価で1位に修正された)。現在では付加価値ベースで71.2%をサービス業が占めている。フィンランドはOECDによるレビューにおいて、「世界で最も競争的であり、かつ市民は人生に満足している国の一つである」と2014年には報告された。フィンランドはOECD BetteLife Indexの多軸評価において、すべての点でOECD平均を上回っている。 ナショナル・フラッグ・キャリアはフィンランド航空だが、政府は既に株式の半数以上を売却している。 労・使・国の3者協議によるネオ・コーポラティズムを採用する。年間労働時間は平均で1672時間。タイムバンキング(英語版)という制度があり、多忙な時期に残業して、暇な時期に余計に休めるという制度が存在する。1994年に16.6%まで上昇した失業率は不況からの脱却とともに年々改善を続け、2012年には7.7%まで下がった。 労働年齢層の就業率は男性70.6%、女性68.2%(2012年)と、女性の労働力化が進んでおり、特に法律家・医師は女性が半数を占めている。企業で高い地位を占める女性も増えているが、男性に比べるとまだ少ない。女性は男性に比べ正社員として雇用されにくい傾向があり、若い世代の女性で契約期間付き雇用が多い(20代女性の4割が派遣社員)。 しかし、女性の労働力化によってGDPや購買力が増加する一方でロシア人やバルト三国から流入する女性労働者も増えており、特に売春などの性産業に従事する者が多い。2008年時点ではフィンランド国内に8,000人もの売春婦が存在しているとする見方もある。 フィンエアー(フィンランド航空) エア・オーランド トゥルク・エア フライビー・フィンランド ブルーワン VRグループ カレリアントレインズ フィンランド鉄道庁 ヘルシンキ近郊列車 ヘルシンキ地下鉄 ヘルシンキ・トラム 特徴的な事柄を挙げるとすれば、男女同権思想がある。生産性の低い土地に住んでいたためか、農業時代から女性も男性と同じくらい働き、発言権を持っていた。フィンランドで普通選挙が導入されたとき、ヨーロッパ初の女性参政権も当然のように付属していたのはフィンランドならではである。2015年現在も女性の社会進出は世界最高レベルで、労働市場における女性比率は40%に達するが、これはアファーマティヴ・アクション制やクオータ制のようなフェミニズムプログラム無しで達成している。 政治においては、フィンランドの国会議員は定数の3分の1以上に当たる76人の女性議員がいる(2015年現在)。しかし一方で兵役は男子のみの義務である(女子は志願制)。 また、俗説としてフィンランド人は「恥ずかしがりや」であり、サウナの様に集団で集まりやすい場を大切にし、顔を合わせずに会話の出来る電話や携帯電話の普及が速かったと言われる。ヨーロッパで「フィンランド人は無口で、話す時は独特の抑揚のない言語で不機嫌そうにしゃべる」というステレオタイプの印象が元になった。 民族比率は、フィン人が91.7%、スウェーデン人(スウェーデン系フィンランド人)が5.5%、サーミ人が0.1%、ロマ人が0.1%。2010年の統計によると、ドイツ系などの外国人は167,954人(2.7%)と少なく、大部分がロシア人とエストニア人である。そのため、他の北欧諸国に見られるような移民問題は比較的少なかったが、21世紀に入り難民等を積極的に受け入れており、ソマリア人、アルバニア人、イラク人、クルド人などがその中心となっており、ほとんどがヘルシンキ都市圏に在住している。なおこのような難民受け入れに対する反感も近年は根強くなっており「真のフィンランド人」のような安易な移民受け入れに反対する右派民族主義政党の躍進をもたらしている。 使用されている言語はフィンランド語が93.4%、スウェーデン語が5.9%で、この2言語が公用語である。1919年に制定された。サーミ人はサーミ語を使用し、1970年代にその地位は向上した。1999年の憲法改正により、準公用語と明記された。同時にロマ人その他の少数民族に対する配慮も加えられている。また、ロシア語を母語とするロシアからのいわゆる帰還者は最近増加しつつある。スウェーデン語は、すでにフィンランドに根を下ろしており、少数派とは言え、企業、産業界で影響力を持ち、政府にも主要政党を持っているため、公用語問題は歴史的な問題であった。これに対しロシア語は1世紀にわたり支配社会の上層部にのみ影響をあたえただけで、国民に浸透することはなかった。 宗教は、フィンランド福音ルター派教会が78%、フィンランド正教会が1.1%、他の宗教(ローマ・カトリック教会、ユダヤ教、イスラム教)と無宗教20%である。フィンランド福音ルター派教会とフィンランド正教会は国教として扱われており、政府が国民から直接税の形で集めた教会税によって資金的援助を受けている。しかし、近年では国民の信仰心の低下や政教分離の意見の高まりなどから、教会への支援は世論からの支持を受けなくなる傾向にあり、それにともない「教会税」も毎年減少傾向にある。 婚姻する際には夫婦別姓、夫婦同姓、相手の姓の付加(後置)、を選択することができ、2017年3月より同性結婚が合法化された。 ノルディックモデルの高負担高福祉国であり、GDPに占める税収比は43.9%と上位国のひとつである(2014年)。 OECDの人生満足度(Life Satisfaction)では第6位、国連世界幸福度報告では世界7位(2013年)、世界幸福地図では第6位、The Earth Institute(英語版)による国民総幸福量(GNH)では世界2位(2012年)であると報告された。 フィンランド人の平均寿命は、2015年では平均で80.77歳(男性77.82歳、女性83.86歳)であった。およそ市民307人あたり1人の医師がいる。 公営の保健センターが整備され、総合診療医(GP)によるプライマリケアが提供される。 GDPあたり保健支出は9.0%。医療費のおよそ18.9%は自己負担であり、76.6%は租税負担となる。近年のランセット誌の研究によれば、フィンランドは193ヶ国の中で死産率が最も低く、イギリス・フランス・ニュージーランドよりも低い。 課題としては、他のOECD諸国と同じように人口の高齢化があり、65歳以上が人口の18.5%を占めている(2012年)。GDPに占める保健・介護費用も伸び続けており、2000年代は約6%台であったが、2060年には13%に達すると推測されている。医療費の約55%は65歳以上人口が占めており、また認知症患者も増え続けている。 妊娠4か月以前に医者か地方自治体の妊婦向けクリニックで診療を受けたことがあり、かつ妊娠154日以上の全ての妊婦には妊婦パックが配られている。 学校教育ではフィンランド語、スウェーデン語が必修であり(ただし、オーランド諸島ではフィンランド語は必修ではない)、さらに英語やその他の言語の教育が行われている。本土のスウェーデン系国民は幼いころからテレビなどを通じて自然にフィンランド語を習得することが多いが、フィンランド系国民の多くは7年生(中学校の初年度)から学校でスウェーデン語の学習を始める。現在ではスウェーデン語より英語に重点がおかれており、小学3年生程度から英語の授業が始まる。さらに小学校高学年、また中学校でもその他の外国語を選択科目として履修できる。ただし外国語科目のカリキュラム等は自治体や学校により異なることがある。国民の外国語に対する関心も全般に高いため、4〜5ヶ国語を使いこなすフィンランド人も多い。 大学はすべて国立で無料であり、受験戦争はフランスや日本ほど厳しくはない。しかし、フィンランドの教育水準は世界トップで、教育における「フィンランドメソッド」が注目を集めている。生徒は競争による相対評価ではなく、達成度によって評価されるといわれている。ただし、これは学力の違いを無視した平等教育ではない。実際には高校入学は中学の成績に基づいて振り分けが行われている。また、中学校の教育に特筆されるのは三分の一の(成績の低い)生徒が特別学級に振り分けられるか、補習授業をうけていることである。このように学力による差別化および、低学力の生徒に対する個別の教育により落ちこぼれを学校ぐるみで防ぐ制度がフィンランドの教育の特徴である。 ユネスコの定義による高等教育機関(大学およびその他すべての高等教育機関・課程)の進学率は世界第二位の87パーセントである。(2004年度)2004年度に行われたOECD(経済協力開発機構)のPISA(学習到達度調査)では世界一である(ただし、OECDの調査自体には多くの問題点が指摘されている)。PISAは(1)読解力(2)数学リテラシー(3)科学リテラシーという三分野のみの調査を57カ国に対して行ったものである。 フィンランドの学校は週休二日制であり、教師は大学院卒が基本(ただし、これは特に教師に限ったことではない。また「大学院」の位置づけも日本とまったく同一とはいえない)、授業時間も日本よりかなり少なく、また「総合的な学習」に相当する時間は日本より多い。近年、日本で批判されている「ゆとり教育」に一見似ているが、家庭学習を重視し宿題が比較的多く、成績別教育により成績下位者への支援態勢が特に手厚くなっているなど、その実態はかなり異なる。制度的にも教育内容や教授方法への教育行政の指示が少なく、分権化が進んでいること、義務教育にも留年制度があること、小学校から大学まで多くの学校で学費が無料であることなどの違いがある。 1943年の法により、小中学校および後期中等教育学校・職業学校(日本でいう高等学校普通科と専門学科に近似)における給食は完全に無料である。 フィンランドには、NPOが約7-8万存在し国民の5人に4人がNPOに参加している。他の北欧諸国と同様に、世界で最も参加率の高い国の一つである。 未だに寛容な受け入れ対策をするスウェーデンとは違い、ノルウェーやデンマークと同様に安易な移民受け入れに反対する真のフィンランド人がエドゥスクンタ(国会)で第二党政党の連立与党として政権へ影響力を持っている。 フィンランド人の図書館利用率は世界有数であり、月に1回以上は図書館に行き、月に20冊以上の本やDVDを無料で借りている。 また、サウナは約200万あるとされ、フィンランド国民全員が入っても余裕があるという。フィンランド人にとってサウナは神聖な場所であり、「教会のように振る舞う」という格言がある。 ソーセージは国民食とされ、これによって女性の社会進出を後押しした。 またアルコールは国営企業による専売制である。キシリトールはフィンランドの大学の発見である。 19世紀にエリアス・リョンロートによって編纂された民族叙事詩『カレワラ』が存在する。 フィンランド人の音楽界での活躍は目覚しく、人口に比しても世界的な音楽家を数多く輩出している。ジャン・シベリウスに代表されるクラシック音楽や、ジャズ、ポップ、ロックやヘヴィメタルなどのポピュラー音楽が普及しており、少数民族サーミ人によるヨイクという民族音楽もある。 マリメッコは、ケネディ大統領夫人ジャクリーンがそのワンピースを着たことでも有名な、ファブリック・テキスタイルメーカー。 イッタラは、ガラス製品をはじめとするデザイン性の高いテーブルウェアの総合メーカー。 アラビア社は、ムーミンの陶器で名高い。アラビア社はイッタラグループの子会社でもある。 ノキアは、機能性の高さや使いやすさだけでなく、美しいデザインで知られる携帯電話メーカー。 HONKAは、世界No.1のログハウスメーカー。 どこの国にも地域おこしを兼ねた祭り的イベントは数多くあるが、フィンランドは名物やゆかりの行事などを競技化した奇妙な大会をいくつも開催している。様々な大会を「世界選手権」と銘打っていて、その中には世界的に有名となり各国から参加者が訪れる大会もある。 エア・ギター世界選手権(オウル州 オウル) 2006年と2007年にダイノジの大地洋輔が優勝、金剛地武志も入賞している。 奥様運び大会(東スオミ州北サヴォ県 ソンカヤルヴィ) 優勝者には、奥様の体重(最低49kg以上)と同じ量のビールが贈られる。 携帯電話投げ世界選手権(サイマー湖地方 サヴォンリンナ) 「この近代機器によってもたらされるすべてのフラストレーションや失望に返報するのが目的」で開催。優勝者には新しい携帯電話が贈られ、89m飛ばした選手もいる。 世界サウナ選手権 (南スオミ州ヘイノラ) サウナ我慢大会。2004年に笑福亭鶴瓶が挑戦した。優勝者にはモロッコのアガディールで過ごす1週間の旅が贈られる。 アヴァント水泳世界選手権; w:en:Avantouinti Ice Hole Swimming Championships (ラップランド州 ムオニオなど) 凍結した湖や海の表面に穴をあけて行う水泳競技。 国際雪合戦大会 International Snowball Fight Competitions(ラップランド州 ケミヤルヴィ) ケミヤルヴィの姉妹都市でもある北海道胆振支庁壮瞥町から紹介された\"Yukigassen\"が国際大会へと発展したもの。 コケモモ摘み世界選手権 The World Championships of Berry Picking (オウル州 スオムッサルミ) 1時間でどれだけのコケモモが摘めるかを競う競技。 泥サッカー世界選手権 Swamp Soccer World Championships(オウル州 カイヌー県 ヒリンサルミ) 沼地で行うサッカー大会。同じ場所で冬季には深雪サッカー選手権が行われる。 アクア・ジョギング世界選手権 Aquajogging World Championships (西スオミ州 ペタヤベシ) 水中でジョギングを行う競技。 フィンランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。 他の欧州諸国とは異なり、フィンランドにおいてサッカーは最も人気を集めるスポーツではなく、そのため弱小国の一つにすぎなかった。しかし近年は着実に力をつけており、最も直近の北欧選手権では初優勝を果たしている。個人ではヤリ・リトマネンやサミ・ヒーピアなどがスペイン、イングランドのトップクラブに所属するなどし、近年は欧州でも中堅の地位を堅めつつある。日本人選手でもアルビレックス新潟の田中亜土夢が2015年、HJKヘルシンキに移籍してきて活躍している。 フィンランド国民の関心ではサッカーよりもアイスホッケーが人気であり、トリノオリンピックではサク・コイブらの活躍で銀メダルを獲得している。また、1995年と2011年の世界選手権でも優勝している。 野球をサッカー場や陸上競技場でもできるように改良したペサパッロ(フィンランド野球)は国技である。 また、フィンランドは北国なのでウィンタースポーツも盛んである。特にスキーでは冬季オリンピックなどで多くの選手が活躍し、ジャンプ競技ではマッティ・ニッカネン、ヤンネ・アホネンなどの英雄を輩出している。ノルディック複合ではサンパ・ラユネン、ハンヌ・マンニネンが英雄である。また最近ではスノーボードも人気が出てきた。クロスカントリースキーやスキーオリエンテーリングも盛んで、アイスホッケーはNHLにプロ選手を送り出すほどの選手層の厚さを誇っている。トリノオリンピックでは歴史的に因縁のあるスウェーデンと初の北欧決勝対決を繰り広げ、第1ピリオドでは1-0でリードしながらも2-3で惜敗したものの、銀メダルを獲得している。フィギュアスケートでも、特に女子において近年世界トップレベルの選手が育ってきている。 注目すべきはモータースポーツの分野で、F1ではケケ・ロズベルグ、J.J.レート、ミカ・ハッキネン、ミカ・サロ、キミ・ライコネン、ヘイキ・コバライネン、WRCでは、アリ・バタネン、ヘンリ・トイボネン、ティモ・サロネン、ユハ・カンクネン、トミ・マキネン、マーカス・グロンホルム、ミッコ・ヒルボネン、ヤリ・マティ・ラトバラなどの優れたドライバーを多数輩出しており、世界チャンピオンも少なくない。このように速いドライバーの事を「フライング・フィン」と呼ぶほどである。このフライング・フィンは、陸上競技の長距離種目で活躍したハンネス・コーレマイネンやパーヴォ・ヌルミを称したのが始まりであるが、さまざまなスポーツの選手でこの愛称が使われている。最近では、F1の2007年世界チャンピオンにライコネンが輝いた。この様な事から、モータースポーツ界では「優勝したければ、フィン(フィンランド人)を雇え」という格言が存在する。 フィンランドは他の北欧諸国同様にオリエンテーリングも盛んであり、強豪国のひとつである。代表的な選手としては2010年にミンナ・カウッピがフィンランド年間最優秀スポーツ選手に選ばれている(en:Finnish_Sports_Personality_of_the_Year)。 オリンピックの開催経験もあり、1952年に首都ヘルシンキでヘルシンキオリンピックが行なわれた。 フィンランド人の一覧、スウェーデン系フィンランド人の一覧も参照。行頭の順位付けは、最も偉大なフィンランド人での順位。 1位 - カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(軍人、政治家、第二次世界大戦中のフィンランド軍最高司令官、元大統領) 2位 - リスト・ヘイッキ・リュティ(政治家、元大統領、継続戦争開戦を決断) 3位 - ウルホ・ケッコネン(政治家、元大統領) 5位 - タルヤ・ハロネン(政治家、前大統領) 7位 - ミカエル・アグリコラ(16世紀の宗教改革者、フィンランド語の表記法を確立したフィンランド文学の父) 8位 - ジャン・シベリウス(作曲家、国民的叙事詩「カレワラ」に影響を受けた曲を多数作曲) 9位 - アレクシス・キヴィ(フィンランド語文学および演劇の創始者) 10位 - エリアス・リョンロート(医師、叙事詩「カレワラ」編纂者) 11位 - マッティ・ニッカネン(元スキージャンプ世界王者、フィンランドの英雄) 13位 - ヴィッレ・ヴァロ(HIMのボーカリスト兼作曲家) 16位 - リーナス・トーバルズ(Linux開発者) 19位 - トーベ・ヤンソン(画家、作家、ムーミンシリーズ作者) 21位 - パーヴォ・ヌルミ(1920年代の長距離走者、五輪で9個の金メダルと3個の銀メダルを獲得) 23位 - ユホ・クスティ・パーシキヴィ(元大統領、対ソ友好関係を重視するパーシキヴィ路線を確立) 24位 - ユーハン・ヴィルヘルム・スネルマン(哲学者、思想家、政治家) 31位 - ミカ・ワルタリ(作家、歴史小説「エジプト人」の著者) 32位 - ミカ・ハッキネン(元F1ドライバー。1998年、1999年ワールド・チャンピオン) 33位 - アルヴァ・アールト(建築家、モダニズムに対する人間的なアプローチで知られる) 35位 - タピオ・ラウタヴァーラ(やり投の陸上競技選手、五輪で1個の金メダルを獲得、歌手、俳優) 38位 - オットー・クーシネン(政治家、モスクワに亡命した元フィンランド社会民主党議長) 42位 - ヤリ・リトマネン(サッカー選手、フィンランド代表の最多出場記録と最多得点記録を持つストライカー) 45位 - アンネリ・ヤーテンマキ(政治家、同国初の女性首相) 47位 - カールロ・ユホ・ストールベリ(元初代大統領) 48位 - マウノ・コイヴィスト(元大統領、フィンランド初の左派系大統領) 56位 - アクセリ・ガッレン=カッレラ(画家、叙事詩「カレワラ」に関連した絵画を数多く描いた) 58位 - キュオスティ・カッリオ(元大統領) 61位 - ラッセ・ビレン(陸上競技長距離選手、五輪で4個の金メダルを獲得) 64位 - アルトゥーリ・ヴィルタネン(化学者、糧秣の保存法の発見によりノーベル化学賞を受賞) 65位 - ニルス=アスラク・ヴァルケアパー(サーミ人ミュージシャン) 67位 - ペール・スヴィンヒュー(元大統領、フィンランド内戦において反革命勢力を組織) 68位 - アキ・カウリスマキ(映画監督、「パラダイスの夕暮れ」「過去のない男」で知られる) 70位 - パーヴォ・リッポネン(元首相、元フィンランド社会民主党の党首) 72位 - サカリ・トペリウス(歴史家、作家) 74位 - シモ・ヘイヘ(軍人、史上最多の確認戦果505名射殺の記録を残している狙撃手、白い死神と呼ばれた) 96位 - アクセル・アイロ(軍人、ラップランド戦争時、ドイツ軍に対する作戦の計画立案を指導) 政治 マルティ・アハティサーリ(10代大統領、外交官、2008年ノーベル平和賞受賞) エスコ・アホ(首相・政治家) サウリ・ニーニスト(フィンランド国会議長、元副首相) 文化 アレキシ・ライホ(チルドレン・オブ・ボドムのギタリスト兼ボーカリスト) エサ=ペッカ・サロネン(指揮者、作曲家) エルッキ・メラルティン(作曲家) サカリ・オラモ(クラシック指揮者、1999バーミンガム市交響楽団音楽監督、2003フィンランド放送交響楽団首席指揮者) セリム・パルムグレン(作曲家・ピアニスト。俗に「北欧のショパン」と呼ばれる) ターヤ・トゥルネン(歌手。元ナイトウィッシュ) タイナ・エルグ(Taina Elg)(女優。ハリウッド映画で活躍) マイケル・モンロー(ハノイ・ロックスのボーカリスト) カルツュー・ハタッカ(ワルタリのベーシスト) ミカ・カウリスマキ(映画監督) ヨハン・ルードヴィグ・リューネベリ(作家、詩人) トム・オブ・フィンランド(画家。本名はトウコ・ラークソネン) スポーツ キミ・ライコネン(F1ドライバー。2007年ワールド・チャンピオン。元WRCドライバー) ヘイキ・コバライネン(F1ドライバー) ケケ・ロズベルグ(元F1ドライバー。1982年ワールド・チャンピオン) サミ・ヒーピア(サッカー選手) アリ・バタネン(WRC、パリ・ダカール・ラリーなどで活躍したラリードライバー。後に政治家、欧州連合議員も務めた) トミ・マキネン(元WRCドライバー。1995〜1998年ドライバーズ・チャンピオン) マーカス・グロンホルム(WRCドライバー) ユハ・カンクネン(元WRCドライバー) ミッコ・ヒルボネン(WRCドライバー) ハリ・ロバンペラ(WRCドライバー) ヤリ=マティ・ラトバラ(WRCドライバー) トニ・ガルデマイスター(WRCドライバー) ヤンネ・アホネン(スキージャンパー) ヘンリ・トイボネン(WRCドライバー。1986年競技中事故死) マルク・アレン(元WRCドライバー) ミンナ・カウッピ(オリエンテーリング選手、2010年フィンランド年間最優秀スポーツ選手) キーラ・コルピ(女子フィギュアスケート選手 2006年トリノオリンピック出場) ラウラ・レピスト(女子フィギュアスケート選手 2009年ヨーロッパフィギュアスケート選手権優勝) ユシ・ヴァイカネン(自転車競技選手) キェル・カルストルム(自転車競技選手) テロ・ピトカマキ(陸上競技槍投げ) ^ a b c d e OECD 2014, p. 14. ^ 注:『ゲルマニア』における記述。 ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.41. ^ “Sweden and Finland join UK-led response force”. イギリス国防省ホームページ. 2017年7月7日閲覧。 ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.1. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.72. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.8. ^ “New 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Special education has a key part to play in improving equity and combating educational failure in Finnish schools.\"[3] ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.25. ^ a b イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.69. ^ 「北欧諸国への難民申請者数が減少、最も激減したのはノルウェー。ポピュリズム効果?」 ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.52. ^ a b イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.88. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.95. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.34. ^ イルッカ・タイパレ 2008, Chapt.49. OECD Economic Surveys: Finland 2014, OECD, (2014), doi:10.1787/eco_surveys-fin-2014-en, ISBN 9789264219519  イルッカ・タイパレ 『フィンランドを世界一に導いた100の社会改革―フィンランドのソーシャル・イノベーション』 公人の友社、2008年8月。ISBN 978-4875555315。  駐日フィンランド大使館 フィンランド関係記事の一覧 ラップランド かもめ食堂 - フィンランドを舞台にした邦画 ベーシックインカム オープンダイアローグ - フィンランドで開発された精神療法 政府 フィンランド共和国政府 (フィンランド語)(スウェーデン語)(英語) フィンランド大統領府 (フィンランド語)(スウェーデン語)(英語) フィンランド首相府 (フィンランド語)(スウェーデン語)(英語) 在日フィンランド大使館 (英語)(日本語)(フィンランド語)(スウェーデン語) 駐日フィンランド大使館 (@FinEmbTokyo) - Twitter(日本語) 日本政府 日本外務省 - フィンランド (日本語) 在フィンランド日本大使館 (日本語) 観光 フィンランド政府観光局 (日本語) その他 JETRO - フィンランド (日本語) BetterLife Index Finalnd - OECD", "スロベニア共和国 (スロヴェニア共和国) Republika Slovenija 国の標語:なし 国歌:祝杯 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ 2006年までの通貨はトラール(SIT)。 ^ スロベニアのユーロ硬貨も参照とのこと。 スロベニア共和国(スロベニアきょうわこく、スロベニア語: Slovenija:  [sloˈveːnija])、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国で、主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。 スロベニアは西はイタリア、北はオーストリア、南や南東はクロアチア、北東でハンガリーとそれぞれ国境を接している。国土面積は20,273km2 (7,827 sq mi)で、人口は205万人を擁する。議会制共和国(英語版)で、欧州連合や北大西洋条約機構の加盟国である。スロベニアではアルプス山脈とディナル・アルプス山脈、地中海のアドリア海に沿った少ない海岸部分のヨーロッパの4つの大きな地理的な部分が接している。 スロベニアの国土はモザイク状の構造で多様性に富んだ景観や、生物多様性があり、この多様性は自然の特質と長期の人間の存在による。主に丘陵地の気候であるが、スロベニアの国土は大陸性気候の影響を受け、プリモルスカ地方は亜地中海性気候に恵まれており、スロベニア北西部では高山気候が見られる。 スロベニアはヨーロッパの国の中でも水が豊かな国の一つで、密度が高い河川や豊かな帯水層、かなりのカルスト地形(クラス地方はカルストの語源)の地下水流がある。スロベニアの国土の半分以上は森林に覆われている。スロベニアの集落は分散しており、一様ではない。 スラヴ語派やゲルマン語派、ロマンス諸語、フィン・ウゴル語派などの言語や文化のグループはスロベニアで接し領域は均質でないが 、人口数ではスロベニア人が優勢である。スロベニア語はスロベニアの唯一の公用語であるが、イタリア語やハンガリー語などは地域の少数言語となっている。スロベニアの大部分は宗教と分離しているが、文化やアイデンティティの面ではカトリック教会やルーテル教会の大きな影響を受けている。スロベニアの経済(英語版)は小規模で、輸出志向型工業化の経済 でありその後の国際的な経済情勢に大きく影響を受けている。スロベニアの経済は2000年代後半に始まった欧州経済危機により厳しい痛手を負っている。 経済の主要な分野は第三次産業で、工業や建設がそれに続く。 多くのスロベニア人がスポーツ界で成功しており、特にウィンタースポーツ、ウォータースポーツ、登山、耐久性が要求されるエンデュランススポーツで顕著である。 歴史的に現在のスロベニアの領域は多くの異なった国により支配されており、その中にはローマ帝国や神聖ローマ帝国、それに続くオーストリア=ハンガリー帝国が含まれる。1918年、スロベニアは国際的には認められていないものの自己決定を行使し他民族と共同でスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を樹立し、後に1つとなりユーゴスラビアとなった。第二次世界大戦中、スロベニアはナチス・ドイツやイタリア王国、クロアチア独立国、ハンガリー王国に占領や併合されていた。戦後は新たに樹立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国の共和国の一つとなった。1991年6月に複数政党制の間接民主制を導入し、スロベニアはユーゴスラビアから独立した国となった。2004年にはNATOとEUに加盟し、2007年には元共産主義国としては最初にユーロ圏に加わり、2010年にはOECDに加盟している。 正式な国号はスロベニア語で Republika Slovenija (レプブリカ・スロヴェニヤ)。通称は Slovenija 。公式の英語表記は Republic of Slovenia 。通称 Slovenia 。スロベニア共和国政府による日本語の公式表記は「スロヴェニア共和国」。ただし日本の外務省による日本語の公式表記は、「スロベニア共和国」。通称「スロベニア」。 語源については諸説ある。一つに、「スラブ」(Slav)と同源であるとする説がある。「スラブ」は古スラブ語で「栄光」や「名声」を意味する sláva に由来している。一方、「言葉」や「会話」を意味する slovo に由来するとの説もある。9世紀頃のスラブ民族は、自らを「スロヴェーネ」(slověne:同じ言葉を話す=意思疎通が出来る人々)と呼んでいたとされる。現代英語でスロベニア人に対する総称(デモニム)は Slovenian と Slovene であるが、後者は上述の slověne に由来する。 6世紀ごろに南スラヴ人が定着する。7世紀には初の南スラヴ系のカランタン人による国家であるカランタニア公国が成立する。カランタニアはその後、バイエルン人、ついでフランク王国の支配下にはいる。 この地域はその後もフランクの遺領として扱われ、14世紀以降、東フランク王国、すなわち後の神聖ローマ帝国に編入された。そのために、同様に神聖ローマ帝国領となった現在のチェコともども西方文化とカトリック教会の影響を強く受け、他の南スラブ人地域と異なった歴史的性格をスロヴェニアにもたらすことになる。 15世紀にはハプスブルク家(オーストリア公国)の所領となり、以降オーストリア大公国、オーストリア帝国そして1867年にオーストリア=ハンガリー帝国領となった。 19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトのフランス帝国による支配を受ける。リュブリャナはフランス第一帝政イリュリア州の首都だった。フランス統治下ではイリュリア州が設置され、スロベニア語が州の公用語のひとつとなった。1809年から1813年の間、リュブリャナはフランス第一帝政イリュリア州の首都だった。これは、スロベニア語が公的地位を得た初めてのことであり、文語としてのスロベニア語の発展は勢いづいた。ナポレオンが去ると、ウィーン会議で締結された議定書によって再びオーストリア領となった。 その後1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、セルビア王国の主張する「南スラヴ人連合王国構想」に参加。セルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立に加わった。この際スロベニアの一部地域ではオーストリアとの経済的・文化的な結びつきが強かったため、住民投票が行われ、オーストリアに帰属するか、スロベニア(セルビア・クロアチア・スロベニア王国)に帰属するかを住民投票で決めた地域が存在する。この王国は、1929年にユーゴスラビア王国に改称した。 1941年にユーゴスラビアに枢軸国が侵入すると、スロベニアはナチス・ドイツの占領下に置かれた。西に接するイタリア王国はスロベニア沿岸地方を自国の領土と考えていたため、ベニート・ムッソリーニ指揮下のイタリア軍によって首都リュブリャナを占領され、北東の一部の地域はハンガリーが占領、さらにクロアチア独立国が成立するとイタリア占領地域のうち南東部がクロアチア統治下となり、スロベニア人の住む地域は都合4つの勢力(実質的には3勢力)によって分断された。占領に反対した右派ナショナリストたちはロンドンに逃れたユーゴスラビア王国亡命政府を支持したが、後に枢軸陣営に加わった。他方、共産主義者たちはヨシップ・ブロズ・チトーのパルチザンに加わり、ドイツ軍などと戦った。 パルチザンはスロベニアを含むユーゴスラビア全土を武力でドイツ軍から解放した。大戦前はイタリア領とされていたイストリア半島(イストラ半島)はユーゴスラビア領となり、スロベニアはコペル周辺で海岸線を手に入れることとなった。また、スロベニア人が多く住むオーストリアのケルンテン州の一部も求めたが、この要求は認められなかった。 1945年、社会主義体制となったユーゴスラビアに復帰し、ユーゴスラビアの構成国スロベニア人民共和国となる。ユーゴスラビアでは戦後一貫して政治・経済の分権化が進められていた。社会主義のユーゴスラビアは、ソビエト連邦の影響下に置かれた東側諸国とは異なる独自の路線をとっていた。政治の分権化と自主管理社会主義はその典型例であり、政治においては連邦から共和国、そして自治体へと権限が移管され、経済でも末端の職場に大きな権限が与えられていた。そのためそれぞれの地域では、その地域性を生かした独自の経済政策を採ることが可能であった。また、ユーゴスラビアがソビエト連邦と距離をおき、西側諸国との友好関係を維持していたこともスロベニアには有利に働いた。中央の意向に縛られることなく、西側諸国に隣接する先進的工業地帯というスロベニアの利点を最大限に発揮できたため、スロベニア経済は大きく発展し、1980年代になると他のユーゴスラビア内の諸地域に大きく差をつけるようになっていた。 政治に関しては、ユーゴスラビアでは比較的言論の自由が認められており、またその地方分権政策によってスロベニアをはじめ各共和国は大きな裁量を手にしていた。スロベニアでは、更なる独自の権限を求める声、連邦からの独立を求める声は次第に高まっていった。1980年代にユーゴスラビアが経済苦境に陥ると、スロベニアではその原因が連邦にあると考えた。連邦は通貨発行など一部の経済政策のみを握っていたが、経済改革を進めるために過度に分権化した経済政策の集権化を求めていた。また経済先進地域であるスロベニアが連邦に支払う負担金が、コソボやマケドニアなどの貧しい地域のために使われているという不満から、スロベニア共和国は連邦政府の経済改革を妨害し、連邦に対して支払う負担金を一方的に削減し、連邦に対する反発をあらわにしていった。 さらに、セルビアではユーゴスラビア連邦におけるセルビア人の支配力拡大を狙うセルビア民族主義者のスロボダン・ミロシェヴィッチが台頭し、ミロシェヴィッチはモンテネグロ、ヴォイヴォディナ、コソボの政府を乗っ取って支配力を強め、スロベニアに対しても圧力を強めていた。 こうしたことによって、スロベニアは連邦からの離脱を決意した。連邦からの離脱権を明記した新しい共和国憲法を制定すると、議会での決定と住民投票を経て、1991年6月にユーゴスラビアとの連邦解消とスロベニアの独立を宣言した。 短期的、小規模な十日間戦争を経てスロベニアは完全独立を果たした。1992年5月、連邦構成国だった隣国クロアチア、同じく連邦内にあったボスニア・ヘルツェゴビナと同時に国際連合に加盟した。同時期に連邦を離脱したクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が続いた中、スロベニアではユーゴスラビアという市場を失ったこともあり、1991年から1992年にかけて経済不振が続いたものの、その後はヨーロッパ志向を強め、経済は回復に向かった。政治面においては、ユーゴスラビア離脱前から民主的な制度の整備が強力に進められてきたこともあり、他のどの旧ユーゴスラビア諸国よりも早く、民主的体制が整えられていった。2004年3月にはNATOに、同年5月1日に欧州連合(EU)に加盟した。2008年には、2004年に新規加盟した国々の中で初めて欧州連合の議長国を務め、同年2月にコソボが独立を宣言したことによる一連の危機の対応にあたるなど、議長国として欧州連合の中で指導力を発揮した。 ユーゴスラビア末期の壊滅的な経済苦境、そして台頭するセルビア民族主義への反発から、スロベニアはユーゴスラビアからの独立を志向するようになった。1989年9月にはユーゴスラビア連邦から合法的に離脱する権利を記したスロベニア共和国憲法の改正案が共和国議会を通過する。1990年4月、第二次世界大戦後初の自由選挙を実施。共産党政権は過半数の票を集めることができず、野党連合のデモスが勝利した。首相には第三党のスロベニアキリスト教民主党のロイゼ・ペテルレ党首が選ばれている。同時に、共産党の改革派だったミラン・クーチャンが大統領となった。 1991年6月に独立を発表すると、スロベニア国内に基地を置いていたユーゴスラビア連邦軍と戦闘状態に入るが、7月には停戦に成功、同年10月には連邦側が独立を認めた。12月23日には現在の憲法が有効となり、複数政党制と大統領制が確立する。 1992年12月には独立後、第1回となる大統領選挙を実施、ミラン・クーチャンが選ばれた。同氏は1997年11月にも再選されている。2000年10月の総選挙では自由民主主義党が第1党となったため、連立政権が発足した。2002年12月の大統領選挙ではヤネス・ドルノウシェク首相が当選した。2007年12月、リュブリャナ大学法学部副学部長のダニロ・テュルクが大統領に就任した。 国家元首の大統領は任期5年で、国民の直接選挙によって選出される。行政府の長である首相は議会の下院が総選挙後に選出し、大統領によって任命される。 立法府は両院制をとっている。下院(国民議会)は定数90で、うち40議席を小選挙区で、残る50議席を比例代表で選出する(小選挙区比例代表併用制)。任期は4年。上院(国民評議会)は定数40で、各種団体による間接選挙で選出される。任期は5年。上院の立法権限は下院よりも弱く、諮問機関としての性格が強いが、国民投票を行うか否かの決断を下す権限を有する。 主要政党は中道左派の現代中央党(2015年3月7日にミロ・ツェラル党から改称)と中道右派のスロベニア民主党である。 2014年7月に行われた国民議会議員選挙では、新党「ミロ・ツェラル党」が第一党、スロベニア民主党が第二党となった。これをうけて翌月、国民議会はミロ・ツェラル党の党首で法律家のミロ・ツェラルを首相として承認した。 スロベニアはユーゴスラビア時代から経済的な先進地域であり、ユーゴスラビア紛争が収束する中でセルビア人、クロアチア人労働者を受け入れてきた。しかし、EUではEU内の労働者の移動、就労は自由化されるが、一方でEU外の労働者の受け入れは厳しく制限される。そのため、2004年のEU加盟に前後してセルビア人労働者を制限する方向に転換しており大きな政治焦点になっている。 スロベニアが独立した一年後の1992年に、日本・スロベニア両国が国交を結んだ。翌1993年、東京に在日スロベニア大使館が設置された。2006年には、スロベニアで日本の在スロベニア大使館が開かれた。2013年には、ボルト・パホル大統領が訪日し、続いて日本の文仁親王・同妃両殿下がスロベニアを訪れた。さらに、2015年には武藤容治外務副大臣らがスロベニアを訪れた。また、2016年9月30日に、岸信夫外務副大臣とシモナ・レスコヴァル駐日スロベニア大使との間で、租税条約の署名が行われた。続く2016年10月にはミロ・ツェラル首相が日本を訪問し、安倍首相と共に二国間関係を確認した。 スロベニアは、193の市(自治体)に分かれる。そのうち、特に人口の多い11の市は、特別の地位にある(日本の政令指定都市に相当)。以下にあげるのは、その11の市で、カッコ内はドイツ語・イタリア語名。 ヴェレニェ(ヴェラン) - 旧ユーゴスラビア時代にチトヴォ・ヴェレニエと改称していたことがある。(1981-1991) クラーニ(クラインブルク) - かつて地方政権の首都だった古都。 コペル(カポディストリア) - 海に面する国土が少ないスロベニアの唯一の商業港。 スロヴェン・グラデツ(ヴィンディッシュグラーツ) ツェリェ(ツィリ) - スロヴェニア第三の都市。ハルシュタット文明時代から ノヴァ・ゴリツァ(ノイゲルツ) → 参照:イタリア領ゴリツィアと双子都市。 ノヴォ・メスト(ルドルフスヴェルト) - 先史時代より居住の歴史がある。 プトゥイ(ペッタウ) - スロベニア最古の都市の一つであり、石器時代から人の定着が見られる。 マリボル(マールブルク・アン・デア・ドラウ)- スロベニアの第二の都市であり東部の中心都市でもある。人口は11万人(2002年) ムルスカ・ソボタ(オルスニッツ) リュブリャナ(ライバッハ)- 首都、人口26万人(2002年)はスロベニアの最大の都市。 その他の都市: リピツァ:馬の品種「リピッツァナー」の名称由来 で知られる コチェーヴィエ(ゴットシェー) スロベニアは、アルプス山脈の南端、スロベニア・アルプスの山々の麓に位置する山岳国である。登山や山岳スキーに世界中から観光客がやってくるスロベニア・アルプスはオーストリアとの国境ともなっている。 また、イタリアのトリエステとクロアチアの世界遺産プーラに挟まれたアドリア海の最奥の海岸線の一部も国土であり、ヴァカンス向きのリゾート地となっている。アルプスとアドリア海の両方を持つ風光明媚な国である。 これに対し、クロアチアへと続くスロベニアの内陸部は石灰岩からなるカルスト地形で荒涼とした風景が広がる不毛の土地である。もともと地理用語の「カルスト地形」はスロベニアの地名に由来しており、クロアチア国境に近いクラス地方(Kras、ドイツ語名:カルスト)が「カルスト」の語源である。カルスト地形の窪地・穴を表すドリーネも、スロベニア語の谷に由来する。スロベニアは鍾乳洞の宝庫で、リュブリャナの西には巨大なポストイナ鍾乳洞がある。延長24kmに及ぶ。 首都リュブリャナからハンガリーにかけてはハンガリー大平原の西の端、穀倉地帯である。そして、スロベニアはハンガリーとともに隠れた温泉国でもある。 1991年10月のユーゴスラビア連邦からの離脱により、既存の連邦市場から切り離されたこと、連邦内の分業体制から外れたことにより、一時的に経済が不安定化した。独立時に導入した新通貨トラールの信用も高くはなかった。しかし連邦内の内戦からは距離を置くことができたため、交通輸送、エネルギーなどの社会的インフラを無傷で保持できた。このため、経済成長にもかげりが見えない。例えば、2000年のGDPは前年比4.6%成長しており、その後も3%、2.9%と順調に推移している。旧共産圏随一の生活水準を誇り、国民1人当たりのGDPはポルトガルを上回る。失業率は2000年時点で11.9%と、イタリアを含む周辺諸国と同水準である。近年は消費者物価の上昇に悩まされており、2000年以降、消費者物価の上昇率は8-9%と高い。リーマンショック後はスロベニア「史上最悪」の経済危機にあり、近いうちに国際的な救済措置を受ける事態に陥るのではないかという報道が出ていた。 ユーゴスラビア連邦内では工業を担っていた。繊維産業を筆頭に、組み立てを含む電気機器製造、金属加工業が充実している。農業国でもある。主食となる穀物栽培と商品作物の生産にバランスが取れていることが特徴。貿易では機械の加工貿易の比重が極めて高い。 通貨については、インフレ率の低下などに伴い基準を満たしたため、EUの新規加盟国の先頭として2007年1月1日にユーロへ移行している。2010年には、 エストニア、イスラエルとともにOECDに加盟している。 なお、以下の統計資料はFAOのFAO Production Yearbook 2002などを用いた。 地下資源には恵まれておらず、石灰岩以外には天然ガスと品質の低い石炭を産出するのみである。しかしながら、自国の石炭と豊富な水力をエネルギー源として利用できるため、貿易に占める化石燃料の比率は12%と高くない。主な産出地を挙げると、原油や天然ガスはプレクムリェ地方、水銀鉱山はイドリヤ(ただし1977年に廃止された)、石炭はトルボヴリェ、ザゴリェ・オプ・サヴィ、フラストニク、亜炭鉱山はノヴォ・メストである。 電力生産は116億8200万キロワット時で、内訳は火力が40%、水力が25%、原子力が35%である(1993年)。 工業では、絹織物の生産が際立つ。生産量1036万平方メートル(1995年)は世界第10位である。 麻薬精製の原料である無水酢酸の押収量が世界で最も多い。 全土がケッペンの気候区分でいう温暖湿潤気候と西岸海洋性気候に覆われているため、気候は農業に向いている。しかしながら起伏に富んだ地形が広がるため、耕地面積は全土の14.1%と少ない。 ビールの原料となるホップ生産は2002年時点で世界第8位(シェア2.0%)を占める2000トン(ジャレツでの栽培が盛ん)。主食となる穀物では約2/3がトウモロコシ、残りが小麦。漁業は未発達であり、年間漁獲高は2000トンに達しない。穀倉地帯は平坦な土地が広がるリュブリャナ周辺やプレクムリェ地方である。またブドウの栽培とワインの醸造は古い歴史を持ち、ポドラヴェやポサヴェ、プリモルスカなどで年間8000万から9000万リットルのワインが製造されている。 牛や豚、羊などの家畜も飼育されており、そしてカルスト地方のリブニツァという村では昔からウィーンの宮廷でパレードなどに使われる儀典用馬の飼育がなされている。 2002年時点では、輸入額109億ドルに対し、輸出額が95億ドルであるため、貿易赤字の状態である。これを11億ドルの観光収入などで埋め合わせているため、貿易外収支を含めると、バランスの取れた状態であると言える。貿易依存度は輸出43.1%、輸入49.8%と非常に高い(例えば隣国イタリアはいずれも20%程度)。国際貿易港はコペルである。他にもピランとイゾラに小さな港がある。 2002年時点では、主な輸入品目は工業製品であり、金額にして80%を超える。次いで、原料・燃料、食料品である。細目では、一般機械、自動車、電気機械の順。輸入相手国はドイツ (19.1%)、イタリア、フランスの順であり、対EUが60%を超える。旧ユーゴスラビア諸国に対しては、クロアチアが3.6%と最も高いが、輸入相手国としては重要ではない。 主な輸出品目は工業製品であり、金額ベースで90%を超える。輸入品目と合わせると、スロベニアが加工貿易に強いことが理解できる。細目では、電気機械、自動車、一般機械の順である。輸出相手国はドイツ (24.7%)、イタリア、クロアチアの順である。 2003年時点で、輸入9665万ドルに対し、輸出3172万ドルと、貿易赤字である。主な輸入品目は自動車 (58.0%)、オートバイ、医薬品、輸出品目は、衣類、家具、スキー用品となっている。リュブリャナ大学とマリボル大学その他の一般講座で日本語教育が実施されている。2010年からスロベニアの経済に投資している。日本では1998年にはトヨタ自動車株式会社の海外支部である、トヨタ・アドリアが成立し、輸出入輸出入に関する事業を行なっている。また、安川電機は2018年までにリブニツァに新たな工場を建設する予定である。現場では、170人の仕事場を作る予定であり、全投資予算数は2100万ユーロとされている。2016年には関西ペイント株式会社がヘリオスを買収し、新製品の開発を行う見通しがある。その他にも、パナソニック株式会社はゴレニェ(Gorenje)に投資しており、株式会社ダイヘンはポムリエ地方(プレクムリェ地方)でダイヘンヴァルストローイを建設した。未だスロベニアから日本経済への投資は著しくないが、2017年2月にはスラットナー・アジア社が日本に創設され、同社はスキー用品の販売を開始すると共に、日本を含むアジア各国のスキー場施設の幅広いビジネスを展開する予定である。 代表的な観光資源は首都リュブリャナ、アルプス山脈(トリグラウ山(2864m)、ブレッド、ボーヒニなど)、アドリア海(コペル、ピラン)、カルスト地方の洞窟(シュコツィアン洞窟群、ポストイナ)、温泉である。 住民は、スロベニア人が89%、旧ユーゴスラビア系の住民(クロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人など)が10%、マジャル人(ハンガリー人)やイタリア人が0.5%である。マジャル人とイタリア人は議会内に1議席ずつ代表を持つ。ドイツ系住民は、他の国と比較すると多くない。 言語は、スロベニア語が公用語になっている。ユーゴスラビア時代、多くの国民は教育によってセルビア・クロアチア語を習得しており、一定以上の世代ではセルビア・クロアチア語の通用度が高い。独立後の教育では、第二言語としては、英語が最もよく教えられているが、ドイツ語も広く通用する。 宗教は、ローマ・カトリックが2/3以上、その他は無神論者、東方正教(主にセルビア正教、マケドニア正教)、イスラム教などである。 スロベニア出身の特に著名な哲学者として、ラカン派精神分析とカントなどのドイツ観念論、ヘーゲル、映画を組み合わせてグローバル資本主義を分析するマルクス主義者スラヴォイ・ジジェクの名が挙げられる。ジジェクの他にラカンに影響を受けた哲学者としてはアレンカ・ジュパンチッチなどが存在する。 アトミック・ハルモニク アンサンベル・ロカ・ジュリンドレ カラマリ (バンド) カルティッシモ ライバッハ (バンド) Devil Doll (Slovenian band) Perpetuum Jazzile Slavko Avsenik ドレンスカ地方のコステル地区には、チュースパイスという、シチューのような伝統料理がある。 スロベニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が1件存在する。 シュコツィアン洞窟群 (1986年登録) - 「地理」の章も参照せよ。 スロベニアは、国内に数多くのスキーリゾートを抱えていることからスノースポーツが盛んである。中でもクランスカ・ゴーラにおけるアルペンスキーや、世界最大のジャンプ台を擁するプラニツァにおけるスキージャンプは世界的にも有名である。一方、ヨーロッパの国の中ではサッカーは人気があるスポーツではなかったが、その中で2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002年のFIFAワールドカップ本大会に出場したことは国内外で大きな驚きと共に捉えられ、新興国スロベニアの知名度を高めることになった。なお、2010年のFIFAワールドカップ本大会に2大会ぶりに出場した。なお日本のJリーグにおけるスロベニア国籍選手は2016年現在5人おり、これはブラジル、韓国に次いで第3位の数字である。 人口わずか200万足らずにも関わらず多数のNBA選手や、ヨーロッパを代表する選手を輩出している欧州でも有数の強豪国。国内には数多くのNBA選手や有名選手を輩出してきた、プレミアリーグ(通称1. A SKL)と呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。代表チームの課題は、有力な選手の多くがNBAに行っている為、オフシーズンの代表招集で常にベストメンバーが揃わない事がある。そんな中でも、バスケットボール欧州選手権(通称『ユーロバスケット』)では、2005年には6位に入賞し、独立後初の世界選手権出場を掴んだ。翌年日本で開催された世界選手権では予選リーグを突破し決勝トーナメントに駒を進め、ベスト16入り。最終順位12位を獲得した。2007年には北京オリンピックの欧州予選を兼ねた2007年ユーロバスケットにおいて、7位決定戦でトニー・パーカー率いるフランスを破り、最後の最後で何とか世界最終予選の切符を獲得したが、この世界最終予選の決勝トーナメントでプエルトリコに破れ、独立後初のオリンピック出場の夢は叶わなかった。 スロベニアの交通 スロベニア軍 スロベニア製のコンピュータ スロベニア (小惑星) シェンゲン圏 近藤常子(en:Tsuneko Kondo-Kavese)-日本文化を伝えた。 ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール、訳:千田善 (1999年8月20日). スロヴェニア. 日本: 白水社. ISBN 978-4-560-05827-5.  ^ Armstrong, Werwick. Anderson, James (2007). “Borders in Central Europe: From Conflict to Cooperation”. Geopolitics of European Union Enlargement: The Fortress Empire. Routledge. p. 165. ISBN 978-1-134-30132-4. http://books.google.si/books?id=FWA3ppuOgK4C&pg=PA165.  ^ Černe, Andrej (2004年). Orožen Adamič, Milan. ed. Gateway to Western, Central, and Southeastern Europe. Slovenia: A Geographical Overview. 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1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離し成立した。NATO、EU、OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。 正式名称(チェコ語)は Česká republika [ˈtʃɛskaː ˈrɛpuˌblɪka] ( 音声ファイル)(チェスカー・レプブリカ:チェコ共和国)。通称は Česko [ˈt͡ʃɛsko](チェスコ)。 英語での公式名称は Czech Republic [ˈtʃɛk ɹɨˈpʌblɪk] ( 音声ファイル)(チェク・リパブリック)だった。チェコ外務省が1993年に提唱した通称に、ラテン語風の Czechia があり、チェコ政府は2016年4月14日に公式にこの略称を英語圏および国連に向けて使用することを発表したが、現在一般的に使われているとは言い難く、“Czech Republic” をそのまま用いることが多い。 日本語ではチェコ共和国(外務省統一表記)。通称チェコ。かつての外務省書類等ではチェッコという表記が使用された。なお、「チェッコ」という場合は、日中戦争期のチェコスロバキア製軽機関銃を指すこともある(→ZB26軽機関銃)。 かつて一つの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族による一つの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。 チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。 プラハを中心とした “Čechy” [ˈt͡ʃɛxɪ](チェヒ、ラテン名「ボヘミア」)、ブルノを中心とした “Morava” [mɔˈrava](モラーヴァ、ラテン名「モラヴィア」)、さらにポーランド国境近くの “Slezsko” [ˈslɛsskɔ, ˈslɛskɔ](スレスコ、ラテン名「シレジア」)の3つの地方がチェコ共和国を形成している。 ボヘミア地方を示す “Čechy”(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。そのため、チェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、“Česká republika”、“Czech republic” を用いるのが正確であり、世界的には一般的な考え方である。 現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける “Česko” は、チェコスロバキア時代の通称 “Československo” から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。だが、新しい呼称のため、定着したといえるのは最近であり、公の場や正式な文章では用いられない。 古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後ゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。つづいてアバール人が支配者となった。9世紀前半にようやく、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。 西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時にボヘミア王の称号(DuchyからKingdomに昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。 13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。 15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱がおきた(フス戦争)。 その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国・続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。 18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年にヨーロッパに広がった1848年革命がチェコ革命を誘発し、パラツキーがプラハでスラヴ人会議(英語版)を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。 第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年に民族自決の理念のもとチェコスロバキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼ全てを支配し、スロバキア人と対立した。そのためスロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となって、チェコスロバキアは地図から姿を消した。 第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんど全てが財産を奪われた上チェコスロバキアから追放された(この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。1946年までチェコに領地を持っていたリヒテンシュタイン公国はこれを法律による重大な人権侵害だとして、2009年までチェコ・スロバキア両国を国家として承認するのを拒否してきた)。 1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民民主主義」を宣言した(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン的抑圧に対する不満が爆発し、ノヴォトニー政権に代わりスロバキア人のドゥプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含むワルシャワ条約機構5カ国の軍が介入(チェコスロヴァキア侵攻(英語版))、スロバキア人のフサーク政権が樹立され、「正常化体制(英語版)」路線を推し進めた。国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自ら消滅していき、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。 1989年からの「ビロード革命」によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。 2002年8月、記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し(欧州洪水(英語版))、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。 2004年5月1日にチェコは欧州連合に加盟した。 国家元首は議会によって選出される大統領である。任期は5年で3選は禁止され、2013年以降はミロシュ・ゼマンが務める。大統領は首相を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2010年5月28 - 29日に実施された総選挙の結果、中道左派のチェコ社会民主党が第1党となったものの議席の過半数には程遠く、また連立政権の樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の市民民主党と新党のTOP 09、公共の物との間で中道右派の連立政権を発足させることで合意し、その首班には市民民主党党首のペトル・ネチャスが任命された。しかし、ネチャスは2013年、自身の首席補佐官で愛人と噂されていたヤナ・ナジョヴァーが逮捕されるというスキャンダルで引責辞任し、後任に同党のイジー・ルスノクが就いた。 議会は元老院と代議院によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、比例代表制による直接選挙で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の小選挙区制による元老院選挙が行われて両院制が整った。 チェコの地方行政区画は2000年に再編され、プラハ首都特別区および13のクライと呼ばれる行政区に区分されている。 チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェジカ山である。 国際通貨基金(IMF)による統計ではチェコのGDPは1,985億ドル、一人あたりのGDP(為替レート)は18,857ドルでありEU平均の半分、世界水準の1.8倍である[いつ?]。 オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから産業革命が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての共産党政権下での中央集権的な計画経済から、市場経済への移行を遂げている。もともとチェコスロバキアは旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命等の混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアやハンガリー等と並んで高い水準を維持している。1995年にOECD、2004年にはEU加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化している。 2004年にチェコがEUに加盟してから2007年末までの経済成長により、チェコの平均給与は40%以上も上昇した。このような状況で、チェコの労働者は高い給料を求めて次々と転職を繰り返し、一つの企業で長く働くことはなくなり、企業の教育もおぼつかない状態になった。「安くて良質な労働力」を期待してチェコに殺到した外資系メーカーは深刻な人手不足と納期不達に悩み、急上昇する人件費は企業の利益を急激に圧迫する要因となっている。 打開策として、国内のメーカーは製造ラインのロボット化を進める一方、ベトナムやモンゴルから安くて優秀な労働者を大量に雇いチェコへ労働移民として送り込む方向 [2]。チェコの工場を閉鎖して別の国に工場を新設することを検討している企業も多い。 主要輸出品目は機械、輸送機器、化学製品、金属などで、主要輸出相手国はドイツ、スロバキア、ポーランド、オーストリア、フランス、イギリス、イタリアである。一方、主要輸入品目は機械、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物で、主要輸入相手国はドイツ、ロシア、中国、イタリア、フランス、オーストリア、オランダ、スロバキア、ポーランドである。 チェコ人が90.4%である。さらに、モラヴィア人が3.7%である。少数民族としては、スロバキア人が1.9%、ポーランド人が0.5%、ドイツ人が0.4%、シレジア人が0.1%、マジャル人が0.1%、ロマが0.1%である。 かつてズデーテン地方で多数派であったドイツ人は、第二次世界大戦後のドイツ人追放によりそのほとんどがドイツに追放された。又戦前に多かったユダヤ人のコミュニティも消滅している(詳細はチェコのユダヤ人(チェコ語版)を参照)。 言語はチェコ語が公用語である。 前近代よりフス戦争などの熾烈な宗教戦争が戦われてきたチェコでは、その複雑な歴史的経緯から無宗教者が多く、60%がこのグループに属する。その他、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である。かわりに自民族至上主義を掲げる排他的な民族主義が非常に強いという特徴がある。 キリスト教圏ではあるが、1913年以来チェコのカトリック教会は火葬を容認しており、また、上述の通り無宗教者が多いこともあって、ヨーロッパ諸国のなかではイギリスと並んで火葬率が高い。 婚姻時、夫婦同姓、夫婦別姓、結合姓が選択できる。 ビール - チェコはビールの国民一人当たりの年間消費量が世界一である。2005年統計では一人当たり161. 5Lで日本の3.3倍の消費量。ピルゼン地方を発祥の地とするピルスナータイプ(ラガービールの一種)は、チェコをはじめとした欧州諸国のみならず、日本のような非ビール文化圏も含めた世界中に広がりを見せている。 ピルスナー・ウルケル ブドヴァル(ブドヴァイゼル。英語読みはバドワイザー。ただし、バドワイザーは登録商標である) クネドリーキ(クネーデル) グラーシュ ブランボラーク スマジェニー・ジーゼック スマジェニー・スィール スヴィチュコヴァー クグロフ パーレック・フ・ロフリーク -「ロールの中のソーセージ」という意味で、パンロールにマスタード・ソーセージを入れたもの。 トゥルデルニーク - 小麦粉に砂糖を混ぜて練りこみ、シナモンをかけて生地を鉄棒にらせん状に巻きつけて焼いたもの。 フランツ・カフカ アロイス・イラーセク ボジェナ・ニェムツォヴァー オタ・パヴェル カレル・チャペック ヤロスラフ・ハシェク ヤロスラフ・サイフェルト ミラン・クンデラ イヴァン・ヴィスコチル イヴァン・クリーマ ボフミル・フラバル ミハル・アイヴァス アニメーション作家 イジー・トルンカ カレル・ゼマン ヤン・シュヴァンクマイエル ベドルジハ・スメタナ(ベドジフ・スメタナ) アントニン・ドヴォルザーク(アントニーン・ドヴォジャーク) チェコでもっとも人気のあるスポーツはアイスホッケーであり国技ともいわれる。NHLに多数の選手が所属し、国内リーグでも首都プラハに本拠を置く2つのクラブチームは100年の歴史を有する。ナショナルチームは1998年長野オリンピックではドミニク・ハシェックなどの活躍で同国冬季五輪初の金メダルを、トリノオリンピックでは銅メダルを獲得した強豪である。2004年にはこの長野五輪の活躍を描いたオペラ「NAGANO」が上演された。また同国出身で、長野五輪の金メダルの立役者でもあるNHLのトップ・プレーヤー、ヤロミール・ヤーガーは移籍を重ねても常に68(「プラハの春」の年)の背番号を付けている。フィギュアスケートでもトマシュ・ベルネルやミハル・ブジェジナなどオリンピック選手を輩出している。 また、他のヨーロッパ諸国同様にサッカーも人気があり、チェコスロバキア時代はワールドカップで2回準優勝(1934、1962年大会)している。チェコ代表はFIFAランキング最高2位まで上がったヨーロッパの強豪として知られ、ヨーロッパ選手権では1996年大会で準優勝するなど実績があるが、選手層が厚くないためかワールドカップではヨーロッパ予選をなかなか突破できず、1993年のスロバキアとの分離後は2006年大会以外出場できておらず、世代交代に失敗した2000年代後半からは低落傾向にある。代表的な選手にパベル・ネドベド(引退)、ヤン・コレル(引退)、トマーシュ・ロシツキー(アーセナル)、ペトル・チェフ(チェルシー)、ミラン・バロシュ(ガラタサライ)、マレク・ヤンクロフスキ(FCバニーク・オストラヴァ)などがいる。 日本では、ヘルシンキオリンピックでの男子マラソンのエミール・ザトペック、1964年東京オリンピックでのヴィェラ・チャースラフスカー(ベラ・チャスラフスカ)の女子体操が古くから広く知られている。 テニスでもマルチナ・ナブラチロワ、ハナ・マンドリコワ、ヤナ・ノボトナ、イワン・レンドル、ペトル・コルダなどの名選手を輩出している。近年では、ラデク・ステパネク、ニコル・バイディソバ、トマーシュ・ベルディハ、ペトラ・クビトバなどの若手の活躍もめざましい。 自転車競技ではロードレースにおいてヤン・スヴォラダがツール・ド・フランスなどの世界的レースで活躍したほか、オンドジェイ・ソセンカは ツール・ド・ポローニュで二度の総合優勝を果し、UCIアワーレコード(一時間でどれだけの距離を走れるかの世界記録)を長らく保持していた。ロマン・クロイツィガーは2008年のツール・ド・スイスに22歳で総合優勝したのち、その後もアムステルゴールドレースで優勝するなど、世界の第一線で活躍している。また、ZVVZチームがジャパンカップに参戦するなどしている。 チェコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件存在する。 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]) ^ “チェコ、英語略称を「チェキア」に 国連登録を申請へ”. 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(2016年4月15日). http://www.afpbb.com/articles/-/3084108 2016年4月27日閲覧。  ^ タキトゥス『ゲルマーニア』泉井久之助訳、岩波書店〈岩波文庫〉1979年、201- 203頁。 ^ “Liechtenstein and the Czech Republic establish diplomatic relations (PDF)” (英語). tabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit (2009年7月12日). 2011年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月18日閲覧。 ^ What’s In a Name?, Expats, Aug 7, 2013. 増田幸弘 『黒いチェコ』 彩流社、2015年。ISBN 978-4779170409。 チェコ関係記事の一覧 チェコの交通 ピルスナー シュコダ - 自動車会社 タトラ メオプタ - 光学会社 クルテク〜もぐらくんと森の仲間たち〜 ヤン・フス 宗教改革 フス派 フス戦争 モラヴィア兄弟団 フッター派 三十年戦争 ハプスブルク家 ハイフン戦争 政府 チェコ共和国公式サイト (チェコ語)(英語) チェコ共和国政府 (チェコ語)(英語) チェコ大統領府 (チェコ語)(英語) チェコ共和国大使館 (日本語) 日本政府 日本外務省 - チェコ (日本語) 在チェコ共和国日本国大使館 (日本語) 観光 チェコ政府観光局 (日本語) その他 JETRO - チェコ (日本語)", "ルーマニア România 国の標語:なし 国歌:Deșteaptă-te române!(ルーマニア語) 目覚めよ、ルーマニア人! ルーマニアは、東ヨーロッパに位置する共和制国家である。南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。首都はブカレスト。 国の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原をトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれる。 東欧では数少ないロマンス系の言語であるルーマニア語を公用語として採用している国家であるが、宗教的には東方教会系のルーマニア正教会が多数派である。いっぽう北西のポーランドはスラヴ語派のうち西スラヴ語群に属するポーランド語が主に話されているが、宗教的にはカトリック教会が支配的であり、ルーマニアとは好対照をなしている。 正式名称はルーマニア語で România [romɨˈni.a] ( 音声ファイル)。近似発音「ロムニア」。 マジャル語(ハンガリー語)の表記は Románia (ロマーニア)。 公式の英語表記は Romania [roʊˈmeɪniə] ( 音声ファイル)。かつてはドイツ語風の Rumania やフランス語風の Roumania という表記も存在した。 日本語の表記はルーマニア。漢字表記は羅馬尼亜で、羅と略される。 国名の由来は、ラテン語でローマ市民の意味。独立してからの正式名称は、以下のように変遷している。 1859年 - 1881年 ルーマニア公国(連合公国) 1881年 - 1947年 ルーマニア王国 1947年 - 1965年 ルーマニア人民共和国 1965年 - 1989年 ルーマニア社会主義共和国 1989年 - 現在 ルーマニア 現在では「共和国」などのような政体名を含まない国名が正式名称となっており、「ルーマニア共和国」という表記は誤りである。 古代にはゲタイ人(古代ギリシア語: Γέται)と呼ばれる民族が居住していた。紀元前513年、イストロス河(古代ギリシア語: Ἴστρος、現ドナウ川)南でゲタイ人の部族連合が、対スキタイ戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。 約600年後、ダキイ人(ラテン語: Daci)は、ローマ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスの2度の遠征(101年-106年)に敗れ、ローマ帝国の領土となった。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである。 238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。 271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いた後、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人、アヴァールがトランシルヴァニアを8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。この頃の史料には、ペチェネグ人、クマ人、ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国、ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。 中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアをロシア帝国に割譲した(パリ条約により1920年再合併)。北東部は1775年、オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった。 トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、後にハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。 1859年にワラキアとモルダヴィアの公主が統一され、1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立(ルーマニア公国)。1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行った。1878年ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立。第一次世界大戦でトランシルヴァニアを併合した。同じ1918年ベッサラビアを回復したが、これは1940年再びソビエト連邦に占領され、最終的に割譲することとなる(現在はモルドバ共和国、ウクライナ)。 1940年第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなど、ルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦した。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復した。しかしドイツ敗退により、再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させた後にチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。 戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、ソ連軍の圧力により共産化した。王制を廃止し、1947年にルーマニア人民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。しかし、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権の元、次第にソ連とは一線を画す一国共産主義を唱え始め西側との結びつきも強めた。1989年、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権がルーマニア革命によって打倒され、民主化された。 2007年1月1日に欧州連合 (EU) に加盟した。加盟に際しては、改革が不十分であるとして欧州理事会によって再審査されたが、加盟後も改革を続行するとして承認された。 政体は大統領を国家元首とする共和制国家であり、国民から直接選挙で選ばれる大統領と議会から選出される首相が行政を行う半大統領制を採用している。しかし、旧ルーマニア王家には特別の地位が与えられており、政府が公式に「陛下」や「殿下」といった敬称を用いて呼び、その住居・生計・活動費すべてが国庫で保証されているなど、共和制と君主制の折衷ともいえるやや特異な国家体制を採っている。現在の旧ルーマニア王家の家長はマルガレータ・ドゥタで、彼女にはルーマニア王冠の守護者という称号が与えられ、陛下の敬称の使用が認められている。 大統領は任期が5年である(2004年までは任期4年)。立法権は二院制の議会に属し、下院(代議院)は定数332人、上院(元老院)は定数137人で両院とも任期は4年。司法権は最高裁判所に属している。 2004年には北大西洋条約機構 (NATO) に参加。2007年1月に欧州連合に加盟した。2006年6月30日、ルーマニア最高国防評議会議長を兼任するバセスク大統領は、タリチェアヌ首相が29日イラク駐留部隊の年内撤退計画を発表したが、同評議会が同計画を拒否したことを明らかにした。同大統領は、熱烈な親米政治家として知られ、外交政策がある日突然変わってはならない、とタリチェアヌ首相を批判した。 2007年2月、選挙制度改革を進めようとする大統領と野党が対立。4月19日権力乱用を理由に大統領の職務停止案の投票が議会で行われ、賛成多数で可決された。4月20日ルーマニア憲法裁判所はバセスク大統領の職務停止を決定。バカロイウ上院議長が大統領代行に就任した。1か月後の5月20日にバセスクの弾劾の可否を問う国民投票が行われ、投票の結果は弾劾の否決。バセスクは大統領職に復帰した。これは、ルーマニア史上で大統領が議会に弾劾された最初のケースであり、大統領が国民投票で弾劾の可否を問われた最初のケースでもあり、さらに弾劾の否決の結果大統領が留任された最初のケースでもあった。 2016年2月、ヨハニス政権下の同国が隣国モルドバの政治危機に乗じて両国の統合を目指し、その為の働きかけを強めていることがコメルサントにより報道されている。 2017年、ルーマニア反政府運動(英語版)が起きた。 2010年2月4日、アメリカのクローリー国務次官補(広報担当)は、ルーマニア政府が地上発射型迎撃ミサイル SM3の配備に同意したことを明らかにした。これは、オバマ政権が進めているイランの弾道ミサイルの脅威に対処するための新たな欧州ミサイル防衛 (SD) 計画に参加したことになる。アメリカは南欧に広がったことを歓迎している。昨年10月には、ポーランド政府が新MD計画に参加する方針を表明している。 ルーマニアの地方行政は、41の県と首都ブカレストに区分されて行われている。 また、同国の県はコムーナ(comună)或いはムニチピウ(municipiu)などと呼ばれる小規模の自治体に分かれている。 西のセルビア、南のブルガリアとの間におけるルーマニアの国境は、基本的にドナウ川を境界としている。モルドバとの国境線であるプルト川もドナウ川と合流し、東に位置する黒海に注ぐ。ドナウ川の河口は三角州(ドナウ・デルタ)となっており、生物保護区となっている。 これらの自然国境はそれぞれの川の流路変更によって変化する。また、ドナウ・デルタは、年に2〜5 km2ずつ面積を増やすため、ルーマニアの領土面積はここ数十年、増加の傾向にある。1969年に237,500 km2だった総面積は2005年には238,319 km2となっている。 ルーマニアの地形は34%が山地、33%が丘陵地、33%が平地である。国の中央をカルパチア山脈が占め、トランシルヴァニア平原を取り囲んでいる。カルパチア山脈のうち14の山は2000m級であり、最高峰のモルドベアヌ山は 2,544 mである。カルパチア山脈は南の丘陵地帯に続き、さらにバラガン平野(英語版、ルーマニア語版)に至る。 IMFの統計によると、ルーマニアの2013年の国内総生産 (GDP) は約1,889億ドルである。2016年の一人当たりの名目GDPは11,859ドルで、世界平均より少し高いほどだが、バルカン半島の旧社会主義国ではクロアチアに次いで高い。 ルーマニアは伝統的に農業国であり、第一次産業人口が人口の42.3%を占める(2001年)。一方で、社会主義時代に計画経済のもと工業化が進められた結果、2014年現在では鉄鋼やアルミ、繊維産業といった業種も主要産業となっている。その他、17世紀から続くモレニ油田が知られるように、ルーマニアは産油国であるが、今日ではその規模は限られている。 住民は、ルーマニア人が89%、マジャル人(ハンガリー人)が6%、ロマ人が2%などである。その他にはセルビア人、ウクライナ人、ドイツ人、トルコ人、タタール人、スロヴァキア人、ブルガリア人、ロシア人、ユダヤ人、ノガイ族等が居住している。ルーマニア人は古代のダキア人と植民したローマ人の混血だとされているが、異論もある。マジャル人の多くはハンガリーとの領有権問題を抱えるトランシルヴァニアに居住している。 公用語はルーマニア語であり、東欧ではモルドバと共に数少ないロマンス系言語を公用語とする国家である。その他、ハンガリー語、ドイツ語、フランス語等も使われている。 2011年の調査によれば、宗教は、キリスト教正教会の一派ルーマニア正教会が81%、プロテスタントが6.2%、カトリックが5.1%、その他(その他のキリスト教、イスラム教(英語版)、エホバの証人、ユダヤ教)が1.2%、無宗教が0.2%、無効データが6.2%である。 7歳から14歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が義務教育であり、無償となっている。 主な高等教育機関としては、ブカレスト大学(1864年)などが挙げられる。 現在ルーマニアは深刻な野犬の問題に直面している。全国で推定200万匹が野放しになっている。2005年において同国内で2万人以上が犬に襲われる被害を受けている。当局は駆除に乗り出そうとしているが、動物保護団体の激しい反対に合い対策は進んでいない。 2006年1月7日、動物愛護活動家でもあるフランスの女優ブリジット・バルドーは声明を出して駆除計画に抗議、ルーマニア当局を非難した。同年1月29日、日本人男性がブカレストで野犬に噛まれ、失血死する事件が起きた。 TVR1 TVR2 ルーマニア・テレビ Actualităti Argeş Express Objectivargeşean Piteşti.ro Pro Argeş Zirarul Profit Curierul Zilei Journal de Argeş 有名な吸血鬼ドラキュラは、15世紀のワラキア公であったヴラド・ツェペシュがモデルになったとされている。 ウィッチクラフト(魔女文化)が数世紀の歴史を持ち、現在も「魔女」や「まじない師」「占い師」として生計を立てる人々が多く存在する。魔女たちからもほかの自営業者と同様に徴税するために2011年1月1日に労働法が改正され、魔女が「職業」として認められることとなった。魔女たちは以後は役所に営業許可を得て「魔女」として登録する必要があるほか、占いが外れると罰金が科されたり、逮捕されてしまうようになる可能性もあるという。 ルーマニア料理は、他のバルカン諸国の料理と比べ、トルコ料理の影響が小さい。 婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、相手の姓を用いる、相手の姓を付加する、のいずれかを選択できる。 19世紀に活躍した詩人として、ミハイ・エミネスクは特筆される。 地域ごとに様々な伝統音楽の形式が存在する。また、ロマ(ジプシー)の音楽も盛んである。 他のヨーロッパ各国同様、サッカーが盛んである。サッカールーマニア代表は強豪とは言えないが、強豪に強い「大物食い」として知られており、ゲオルゲ・ハジ、ゲオルゲ・ポペスク、クリスティアン・キヴ、アドリアン・ムトゥ、チプリアン・マリカなど名の知れた選手は多い(Category:ルーマニアのサッカー選手も参照)。 また女子体操競技においては、ナディア・コマネチ、シモナ・アマナール、アンドレーア・ラドゥカンなどの五輪金メダリストを多数輩出する世界屈指の強豪国である。ラグビールーマニア代表はワールドカップの第1回大会から8回連続出場中である。 なお、K-1で活躍中のダニエル・ギタもルーマニアの選手である。一方で伝統的な競技としてレスリング形式のスポーツの トレンタ(Trîntă)(ルーマニア語版) が開催されており、このスポーツは同国だけでなく類似する文化圏のモルドバでも支持されている。 ルーマニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件存在する。 ドナウ川三角州 - (1991年) トランシルヴァニア地方の要塞聖堂のある村落群 - (1993年、1999年拡大) ホレズ修道院 - (1993年) モルダヴィア北部の壁画教会群 - (1993年) マラムレシュの木造聖堂群 - (1999年) シギショアラ歴史地区 - (1999年) オラシュチエ山脈のダキア人の要塞群 - (1999年) この他、伝統的祭日として3月1日の三月祭 (Mărţişorul) がある。これはバレンタインデーに似た祭日である。花のほかに、ペンダント・ヘッドやブローチなどを、男性から女性に贈る。紅白の細い糸を縒って作った小さなリボンを、プレゼントに結び付けるのが慣わしとなっている。 ^ ドイツ語表記 Rumänien ^ フランス語表記 Roumanie ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2016年2月14日閲覧。 ^ ルーマニア史(出版社)文庫クセジュ6頁〜10頁 ^ ルーマニア史(出版社)文庫クセジュ18頁〜28頁 ^ 新潮社『foresight』(2003年6月号)より「饗宴外交の舞台裏(65):ルーマニア王子が日本外交に投げかけた難問」 ^ “Румыния форсирует Прут”. Коммерсантъ (2016年2月16日). 2016年8月20日閲覧。 ^ 米ミサイル防衛に参加=SM3配備に同意-ルーマニア 2010年2月5日 時事通信 ^ IMFの統計(欧州の非先進国に絞ったデータ) ^ “ルーマニア基礎データ”. 各国・地域情勢. 外務省 (2014年1月1日). 2014年11月19日閲覧。 ルーマニア関係記事の一覧 ベッサラビア、ブジャク モルダヴィア モルドバ ブコビナ ワラキア トランシルヴァニア 政府 ルーマニア政府 (ルーマニア語)(英語) ルーマニア大統領府 (ルーマニア語)(英語) 日本政府 日本外務省 - ルーマニア (日本語) 大使館 在日ルーマニア大使館 (日本語) 在ルーマニア日本国大使館 (日本語) 観光その他 ルーマニア政府観光局 (日本語) ルーマニア政府観光局 (@Romanian_Office) - Twitter(日本語) ルーマニア政府観光局 - Facebook(日本語) JETRO - ルーマニア (日本語) 日本ルーマニアビジネス協会 (日本語) 日本ルーマニア音楽協会 (日本語) Yokoso Romania(日本語) Your Online Portal to Romania(英語)", "エストニア共和国 Eesti Vabariik 国の標語:なし 国歌:Mu isamaa, mu õnn ja rõõm(エストニア語) 我が故国、我が誇りと喜び エストニア共和国(エストニアきょうわこく、エストニア語: Eesti Vabariik)、通称エストニア(エストニア語: Eesti)は、北ヨーロッパの共和制国家。EU・NATO・OECDの加盟国、通貨はユーロ、人口は134万人。首都はタリンである。 フィンランド、ロシアと共にフィンランド湾に面する3つの国の一つで、湾をはさみフィンランドから約90km南に位置する。また、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中で最も北の国でもある。国土は北はフィンランド湾、西はバルト海に面する。南はラトビア、東はロシアと国境を接する。面積は九州本島の1.23倍。地形は平坦で最高標高318m。国連の分類では北ヨーロッパの国である。 中世ハンザ都市として栄えた港湾都市でもある首都のタリンは、フィンランドの首都ヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクと同じく、フィンランド湾に面する主要都市の一つである。特に85km北に位置する対岸のヘルシンキとの往来が活発である。 報道の自由度ランキングの上位国であり、公用語はエストニア語。複数の言語を話せる国民が多い。また、Skype(スカイプ)を産んだ国であり、外国のIT企業の進出も多くソフトウエア開発が盛んである。早期のIT教育や国際学力調査で欧州の上位国としても知られる。 13世紀以降、デンマーク、ドイツ騎士団、スウェーデン、ロシア帝国などの支配を経て、第一次大戦後1918年ロシア帝国より独立。第二次大戦中1940年ソビエト連邦が占領、翌1941年独ソ戦でナチス・ドイツが占領、1944年ソビエト連邦が再占領し併合。1991年同連邦より独立を回復、2004年EU・NATOに加盟、2008年NATOのサイバーテロ防衛機関の本部所在国となる。 エストニアはITを行政に活用する「電子政府」を構築しており、国外の外国人にもインターネット経由で行政サービスを提供する「電子居住権」(E-Residency)制度に1万5000人以上が登録している。この制度は投資を呼び込むとともに、エストニアに好意的な人を世界で増やして、ロシアに対する抑止力を高める狙いもある。 正式名称はエストニア語で、Eesti Vabariik(発音 [ˈeːsti ˈʋɑbɑriːk])。略称Eesti 発音 [ˈeːsti]。 日本語表記は、エストニア共和国。通称エストニア。 現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノルマン人等との混血の過程を経て、10世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった。13世紀以降、デンマークそしてドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し海上交易で栄えた。ただし、その後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた。 1917年のロシア革命でロシア帝国が崩壊したのち自治獲得の動きが高まり、まもなく独立運動へと転じた。1918年2月24日にエストニア第一共和国の独立を宣言、その後はソビエト連邦やドイツの軍事介入を撃退して独立を確定させた。 1921年には国際連盟にも参加したが、1940年にソビエト連邦に占領され、その後、独ソ戦で1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領されたが、第二次世界大戦末期の1944年にはソ連軍に再占領され、ソ連に併合された。ソ連崩壊直前の1991年に独立回復を宣言し、同年には国際連合にも加盟した。 1994年8月31日にロシア軍が完全撤退した後、西欧諸国との経済的、政治的な結びつきを強固にしていった。2004年3月29日、北大西洋条約機構 (NATO) に加盟した。さらに、2004年5月1日には欧州連合 (EU) に加盟している。ロシア連邦との間に国境問題が存在するが、EU加盟で棚上げになっている。 2007年4月27日、タリン解放者の記念碑(英語版)撤去事件を機に「青銅の夜」と呼ばれるロシア系住民による暴動がタリンで起こり、ロシアとの関係が悪化した。同時にロシアから、世界初の大規模なサイバー攻撃(DDoS攻撃)が行われ、国全体で通常時の数百倍のトラフィックが発生し、エストニアのネット機能が麻痺した。これを機に、翌年2008年、NATOのサイバーテロ防衛機関であるNATOサイバー防衛協力センターがタリンに創設された。 ソ連とナチスドイツによる占領と抑圧を受けた経緯から「鎌と槌」と「鉤十字」の使用と掲揚は、2007年施行の法律で禁止されている。 2014年2月18日、ロシアのラブロフ外相とエストニアのパエト(英語版)外相は、旧ソ連時代の国境線に従って両国国境を画定する条約に調印した。領土について一切譲歩しないという姿勢のロシアと、早期の国境画定を促すEUやNATOに押され、エストニアはペツェリ地区への主張を放棄することになった。 政体は共和制。議会(リーギコグ、Riigikogu)は一院制で、任期は4年である。大統領は議会によって選ばれ、任期は5年である。2007年2月26日から28日に世界で初めて議会選挙に関してインターネットを利用した電子投票を行った。 電子化が進んでおり、議会への出席時にノートパソコン等の電子端末持ち込みが自由であり、かつ、インターネットでの議会出席も許可されているため、議論への参加や投票の時以外は、議員が議会へ直接実際に出向く必要もない。政府が発行する個人IDカードは15歳以上のエストニア国民のほとんどが持っており、行政サービスのほとんどが個人端末から済ませることが可能である。また、このIDカードは運転免許証や、ショッピングの際のポイントカードとしても機能している。役所などでは人員や紙などのコストが4分の1、窓口の人員は10分の1ほどに減らすことが可能になった。 フランスと同じく、エストニアは欧州連合(EU)加盟国中で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と国交を結んでいない国である。 陸海空の三軍のほか、郷土防衛部隊としてのKaitseliitを有する。NATOに加盟し欧米諸国と同盟関係にある。国際貢献として、アフガニスタンやイラクにも人員を派遣した。また徴兵制度により18〜28歳の男性は8〜11ヶ月の兵役につとめる。 エストニア軍は、第一次世界大戦後の独立に際して創設されたが、第二次世界大戦以降はソ連への併合による赤軍の駐留やドイツの占領に伴う反共義勇兵の供出などが行われていた。現在のエストニア軍は1991年の再独立にともなって再創設された。 15の県 (maakond) に分かれる。なお、括弧内はある程度流通していると思われる日本語の慣用読みである。 ハリュ県(ハリウ県) Harju maakond イダ゠ヴィル県 Ida-Viru maakond レーネ゠ヴィル県(ラーネ゠ヴィル県) Lääne-Viru maakond ラプラ県 Rapla maakond ヒーウ県 Hiiu maakond イェルヴァ県 Järva maakond レーネ県(ラーネ県) Lääne maakond ヨゲヴァ県 Jõgeva maakond ペルヌ県(パルヌ県) Pärnu maakond ヴィリャンディ県 Viljandi maakond サーレ県 Saare maakond タルトゥ県 Tartu maakond ポルヴァ県 Põlva maakond ヴァルガ県 Valga maakond ヴォル県 Võru maakond 南のラトビアとの国境線は267km、東のロシアとの国境線は290kmあり、フィンランド湾に面する北の海岸は主に石灰岩からなる。 国土の最高標高地点はスールムナマギ(大きな卵の丘)で標高318m、1812年に最初の展望台が建設され、現在、展望台は5つあり、東にロシア領、南にラトビア領が望める。(位置:左地図参照) 首都タリンからフィンランド湾の北の対岸フィンランドの首都ヘルシンキまで85km、同じく湾の東奥ロシアのサンクトペテルブルクまで350kmである。[9] 最大の湖は東部のペイプシ湖で、面積は琵琶湖の5.22倍、湖の中央にはロシアとの国境線がある。国土の50.5%は森林となっている。 ペイプシ湖から、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市ナルヴァ(ロシアとの国境の街)を経て、フィンランド湾に流れ込むナルヴァ川は、エストニアとロシアの国境線となっている。 サーレマー島(エーゼル) Saaremaa / Ösel ヒーウマー島(ダーグエー) Hiiumaa / Dagö クレッサーレ(アレンスブルク) Kuressaare / Arensburg タリン(レーファル) Tallinn / Reval ペルヌ(ペルナウ) Pärnu / Pernau タルトゥ(ドルパット) Tartu / Dorpat, Derpt ナルヴァ Narva / Narwa ヴァルガ(ヴァルク) Valga / Walk コフトラ・ヤルヴェ(コホテル゠テュルプザール) Kohtla Järve / Kochtel-Türpsal ヴィリャンディ(フェリーン) Viljandi / Fellin クンダ Kunda ムーガ(ミュンケンホーフ) Muuga / Münkenhof パルディスキ(ローガーヴィーク) Paldiski / Rogervik ハープサル(ハプザール) Haapsalu / Hapsal サク Saku Parish リヴォニア帯剣騎士団・ドイツ騎士団・スウェーデン・ロシアの支配を経験したため、市町村に複数の名称がある。 カルラ国立公園 Karula National Park ラヘマー国立公園 Lahemaa National Park マッツァル国立公園 Matsalu National Park ソーマー国立公園 Soomaa National Park ヴィルサンディ国立公園 Vilsandi National Park IMFの統計によると、2013年のエストニアのGDPは187億ドルである。一人当たりのGDPは18,852ドルで、EU平均の3万4千ドルの半分強ほどではあるが、バルト三国の中では最も高い。 エストニアの経済状況はバルト三国中で最も良好である。フィンランドから高速船で1時間半という立地と、世界遺産に登録されたタリン歴史地区を背景に、近年は観光産業が発達している。1年間の観光客数は500万人を超えるともいわれる。その他にもIT産業が堅調で最近では、eストニアと呼ばれている。ヨーロッパのIT市場においてオフショア開発の拠点となっており、IT技術者が多い。ヨーロッパではハンガリーに次いでハッカー(単に高度なIT技術を有する人物を指す語であり、その技術を反社会的に利用するクラッカーとの違いに注意)が多いとも言われる。 また、アメリカの大手シンクタンク・ヘリテージ財団による経済自由度指標では、世界第13位(2009年現在)にランク付けされており、政府による経済統制は殆どないとされる。即ち、エストニアの経済構造は、近隣の北欧諸国のような市場調整型ではなく、アングロ・サクソン諸国(アメリカやイギリス)のような市場放任寄りである。このような構造で好調な経済成長を遂げている小国の例に、アイルランドやシンガポールがある。 通貨は、2010年までクローンを用いていたが、1度の延期(2007年)を経て2011年1月1日にユーロへの移行が完了した。1999年のユーロ導入以来17カ国目で、旧ソ連圏から初めてユーロ圏の一員となった。 2010年には、イスラエル、スロベニアとともにOECD加盟国となった。 住民は、フィン・ウゴル系のエストニア人 (Estonians) が69.7%、ロシア人が25.2%、ウクライナ人が1.7%、ベラルーシ人が1.0%、フィンランド人が0.6%、その他3.8%である(2011年)。1989年のソ連時代はエストニア人61.5%、ロシア人30.3%であった。 ソ連からの独立後、国内に残った残留ロシア人の問題を抱えている。全人口の7.03%がロシア連邦国籍、7.26%が無国籍者(大多数は民族ロシア人)である。 国語・公用語であるエストニア語は国民の68.54%の母語であり、フィンランド語と同じく、ウラル語族の言語である。ロシア語を母語とする人は29.60%を占める。特に首都タリンでは46.7%と半数近く、ロシア国境に位置するナルヴァでは93.85%と大半がロシア語を母語とする住民で占められているなど、都市部では実質的なロシア語圏の様相を持っていると言えるが公用語にはなっておらず、看板・広告等でのロシア語表記は制限されているが、テレビやラジオなどではロシア語放送がある。しかしながら、若年層のエストニア人の間では独立後にはロシア語教育が必須でなくなった事から、英語が話せてもロシア語を話すことができない人が急増しており、ロシア語系住民はエストニア語が苦手である等、両者の断絶が続いている。このように、ロシア語系住民との融和が大きな課題としてのしかかっている。 その他、フィンランド語、ドイツ語、英語、スウェーデン語が比較的よく通じる。[10] 宗教は、福音ルター派、正教会など。キリスト教圏だが、歴史的な問題により国民の信仰は比較的薄い。 国際的に著名なクラシック音楽、現代音楽の作曲家にはエドゥアルド・トゥビン、ヴェリヨ・トルミス、アルヴォ・ペルト、レポ・スメラ、エリッキ=スヴェン・トゥールなどがいる。 指揮者ではパーヴォ・ヤルヴィが2015年からNHK交響楽団の首席指揮者を務めており、父のネーメ・ヤルヴィも国際的に著名である。 エストニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。 タリン歴史地区 - (1997年、文化遺産) シュトルーヴェの測地弧 - (2005年、文化遺産) ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年11月15日閲覧。 ^ 沖縄県約143万人、福岡市約153万人の人口に近い。 ^ フィンランド湾、北岸のフィンランド首都ヘルシンキ、南岸のエストニア首都タリン、首都間の距離は85km。次の地理参照、駐日エストニア共和国大使館HP。 ^ エストニアの面積45,226km²、九州本島の面積36,749.82km² (九州の面積42,194.75km²から屋久島・種子島・奄美大島・五島列島など離島除く)。 ^ 国土の最高標高318mの地点は、タリンから南東に約250km、ロシアとラトビアとの国境近くの「スールムナマギ」(大きな卵の丘)。 ^ 国際連合統計局の分類より。地図 および次の「Northern Europe」参照 [1] 2011年2月17日. 2011年4月2日閲覧。 日本の外務省欧州局は西欧課が担当する。外務省欧州局 2011年4月2日閲覧。 ^ タリン市観光局公式HP、フィンランド・スウエーデン等との定期航路図、ヘルシンキとは1日7便(85km 所要時間最短で90分)、バルト海西岸のストックホルム(スウェーデン)とは1日1便(375km 所要時間15時間)等、2013年度。距離は次の「地理」による。駐日エストニア共和国大使館HP。 ^ 国境なき記者団が毎年発表する。政府による報道への規制等を国別に数値化し、自由度の高い順にランキング化したもの。エストニアは2007年と2012年が第3位、2014年第11位。日本は、2014年第59位で、2011年第11位が過去最高である。 ^ 駐日エストニア共和国大使館HPより、言語:「フィンランド語のほかに、英語、ロシア語、ドイツ語を話せる、あるいは、理解する人が多い」 [2] (参考)エストニア、2013年度「英語能力指数(EF EPI)」で世界第4位 [3]。 ^ 独立行政法人 労働政策研究・研修機構、海外労働情報・国別労働トピック[リンク切れ] ^ 小学1年生からプログラミング授業 WIRED news 2012.9.7 ^ OECD加盟国の生徒の学習到達度調査(PISA) 『~2012年調査国際結果の要約~』 P10表1より、ヨーロッパで、「科学リテラシー」がフィンランドに次ぐ第2位(OECD全体で6位)、「読解力」が第4位(全体で11位)、「数学的リテラシー」が第4位(全体で11位)。 ^ a b 機関名「NATO Cooperative Cyber Defence Centre of Excellence」、日本の外務省による訳語「NATOサイバー防衛協力センター」、参照:外務省サイト エストニアの外交・国防⇒ 3.国防⇒ (3)その他、より[4] ^ “エストニアの「電子居住権」、小国の生命線”. 日本経済新聞. (2017年1月24日). http://www.nikkei.com/article/DGXLZO12043610U7A120C1905E00/  ^ 日本の外務省HP、エストニア共和国、外交・国防、3.国防より、[5]。 ^ ロシアとエストニアが国境確定[リンク切れ] NHKニュース 2014年2月19日 5時38分 ^ http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6407269.stm ^ エストニア「電子国家」で変わる生活 ワールドビジネスサテライト 2018年1月16日放送[リンク切れ] ^ 「On the hill, there have been 5 towers. The first tower, built in 1812」 en:Suur Munamägi#History ^ エストニア語への招待[リンク切れ] ^ 以下のリンクなどを参照。 [6], [7], [8], Liste der Städte in Estland ^ 講談社>現代メディア「またの名を「eストニア」バルトの小国はEU期待の星」 ^ Skypeが開発されたのもタリン ^ http://www.heritage.org/index/Ranking.aspx エストニア関係記事の一覧 政府 エストニア政府公式サイト (英語) エストニア共和国政府 (エストニア語)(英語) 駐日エストニア共和国大使館 (日本語) エストニア政府観光局 (日本語) 日本外務省 - エストニア (日本語) 在エストニア日本国大使館 (日本語) PlanetCross - Planetway | データ主権を個人に帰属させるハイブリッドスタートアップ" ]
ABC01-02-0107
A.J.マックリーン、ケヴィン・リチャードソン、ハウィー・ドロー、ニック・カーター、ブライアン・リッテレルの5人からなる、アメリカの人気コーラス・グループは何でしょう?
バックストリート・ボーイズ
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[ "バックストリート・ボーイズ", "コールドプレイ", "UB40", "ザ・キラーズ", "パニック・アット・ザ・ディスコ" ]
[ "バックストリート・ボーイズ(英: Backstreet Boys、略称:BSB)はアメリカ合衆国の5人組・男性アイドルグループ。日本では主にビーエスビー(BSB)やバックスと呼ばれている。1993年結成。CD総売り上げは1億4000万枚を超えるスーパーボーイズグループ。代表曲は「アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ」、「エヴリバディ」、「君が僕を愛するかぎり (As Long As You Love Me)」、「シェイプ・オブ・マイ・ハート」 など多数。 1993年4月20日に結成し、1995年に「ゴーイン・オン」でデビュー。グループ名は結成当時オーランドで人気のあったフリー・マーケット「バックストリート・マーケット」(Backstreet Market)から取ったもの。 リードボーカルは各自とっているが、ややニックとブライアンとA.J. が多い傾向にある。メンバーの出身地は様々だが、グループとしてはフロリダ州が本拠地。 アメリカでは「ノー・ファン時代」も経験したが、ヨーロッパの人気をひっさげ本国に凱旋。本国でのデビューアルバム(日本やヨーロッパで発売された1st『バックストリート・ボーイズ』と2nd『バックストリーツ・バック』の二枚組)を発売。勢いに乗ってアメリカツアーが行われようとしていた矢先の1998年にブライアンの持病であった心臓病が悪化し、手術の先延ばしはもう出来ないとの見解から心臓手術を受ける。執刀医はアーノルド・シュワルツェネッガーの心臓手術も担当した医師であり、手術は無事に成功をした。この年は、メンバーのハウィーの姉キャロライン、BSBサウンドをデビュー当時から一緒に作ってきた音楽プロデューサーのデニス・ポップが病気で他界しており、「天国と地獄を味わった時期」と『ローリング・ストーン』誌のインタビューに答えている。 その後、1999年にアルバム『ミレニアム』を発売する。このアルバムは彼らにとっての、初の全米アルバムチャートNo.1に輝いた作品となった。さらに次作の『ブラック・アンド・ブルー』も全米アルバムチャートでNo.1に輝いた。日本でもこれらの2作品は連続ミリオンヒットとなり社会現象に発展し、名実ともに史上最大のスーパーグループとなった。2001年には初のベストアルバムとなる『グレイテスト・ヒッツ- チャプター・ワン』をリリースし、日本では150万枚を超える空前のヒットを記録する。 ニックのソロ活動などを経て、2004年に3年ぶりとなる来日公演を行う。2005年にオリジナルアルバムとしては5年ぶりのアルバム『ネヴァー・ゴーン』をリリース。全米では再びミリオンセラー、日本でもスマッシュ・ヒットを記録した。 2005年から2006年にかけては『ネヴァー・ゴーン』の発売に合わせた世界ツアーを行い、日本でも東京・大阪でライブを行った。 その他では、すでにソロ経験のあるニックを追って、ブライアンも2006年6月にソロアルバム『ウェルカム・ホーム』を発売。A.J. もソロ活動を開始する予定。ソロ活動以外にもメンバーはチャリティやミュージカルなどさまざまな場面で活躍している。 2006年6月23日、ケヴィンが脱退。その理由は、「メンバーにいる限り達成できない夢を叶えるため」だという。 2007年には『ネヴァー・ゴーン』から2年振りとなる待望の新作『アンブレイカブル』が10月24日に日本先行で発売された。この作品はグループ初となるオリコンチャート2週連続首位を獲得したが、全米では7位、全英では21位など世界的なセールスは大きく失敗に終わった。 2008年2月16,17日にワールドツアー日本公演のため来日。東京ドームでライブをし、大成功を収めた。 2009年9月30日にニューアルバム『ディス・イズ・アス』が発売された。 2010年2月に日本公演のため来日、18日には武道館でライブを行った。 2012年4月にロンドンでケヴィンが復帰すると発表。 2013年公開の映画『ディス・イズ・ジ・エンド 俺たちハリウッドスターの最凶最期の日』にカメオ出演した。 2013年7月24日にアルバム『イン・ア・ワールド・ライク・ディス』発表。 2019年1月25日にアルバム『DNA』を発表。 ニック(Nick 1980年1月28日 - ) ニコラス・ジーン・カーター(Nickolas Gene Carter) ニューヨーク州ジェームズタウン出身。ウェールズ、アイルランド、イングランドおよびドイツ系。 身長185cm。 弟のアーロン・カーター(Aaron Carter)はソロで音楽活動中である。 ハウィー・D.(Howie D. 1973年8月22日 - ) ハワード・ドゥエイン・ドロー(Howard Dwaine Dorough) フロリダ州オーランド出身。プエルトリコおよびアイルランド系。 身長167cm。 A.J.(A.J. 1978年1月9日 - ) アレキサンダー・ジェームズ・マックリーン(Alexander James McLean) フロリダ州ウェストパームビーチ出身。キューバ系。 身長178cm。 ブライアン(Brian 1975年2月20日 - ) ブライアン・トーマス・リトレル(Brian Thomas Littrell) ケンタッキー州レキシントン出身。 身長173cm。 ケヴィン(Kevin 1971年10月3日 - ) ケヴィン・スコット・リチャードソン(Kevin Scott Richardson) ケンタッキー州レキシントン出身。 ケヴィンとブライアンは従兄弟である。 身長185cm。 バックストリート・ボーイズ - Backstreet Boys(1996年11月21日) バックストリーツ・バック - Backstreet's Back(1997年8月1日) ミレニアム - Millennium(1999年4月28日) ブラック・アンド・ブルー - Black & Blue(2000年11月15日) グレイテスト・ヒッツ・チャプター・ワン - The Hits: Chapter One(2001年10月24日) ネヴァー・ゴーン - Never Gone(2005年6月8日) アンブレイカブル - Unbreakable(2007年10月24日) ディス・イズ・アス - This Is Us(2009年9月30日) イン・ア・ワールド・ライク・ディス - IN A WORLD LIKE THIS(2013年7月24日) DNA (2019年1月25日) ゲット・ダウン - \"Get Down (You're the One For Me)\"(1996年11月21日) ゴーイン・オン - \"We've Got It Goin' On\"(1997年1月22日) アイ・ネバー・ブレイク・ユア・ハート - \"I Never Break Your Heart\"(1997年) エニウェア・フォー・ユー - Anywhere For You (1997年) クイット・プレイング・ゲームス - \"Quit Playin' Games (With My Heart)\"(1997年4月23日) エヴリバディ - \"Everybody (Backstreet's Back)\"(1997年8月1日) 君が僕を愛するかぎり - \"As Long As You Love Me\"(1997年10月22日) オール・アイ・ハフ・トゥ・ギヴ - \"All I Have To Give\"(1998年7月8日) アイ・ウォント・イット・ザット・ウェイ - \"I Want It That Way\"(1999年4月27日) ラージャー・ザン・ライフ - \"Larger Than life\"(1999年9月29日) ザ・ワン - \"The One\"(2000年7月5日) ショウ・ミー・ザ・ミーニング・オブ・ビーイング・ロンリー (2000年) シェイプ・オブ・マイ・ハート - \"Shape Of My Heart\"(2000年11月1日) ザ・コール - \"The Call\"(2001年2月7日) モア・ザン・ザット - \"More Than That\"(2001年6月6日) ドゥラウニング~なんでこんなに好きなんだろう - \"Drowning\"(2002年10月23日) インコンプリート - \"Incomplete\"(2005年5月25日) ジャスト・ウォント・ユー・トゥ・ノウ - \"Just Want You To Know\"(2005年8月24日) アイ・スティル... - \"I Still...\"(2005年12月21日) インコンソーラブル - \"Inconsolable\"(2007年9月17日) ヘルプレス・ウェン・シー・スマイルズ - Helpless When She Smiles (2007年) ストレート・スルー・マイ・ハート - \"Straight Through My Heart\"(2009年9月9日) ビガー - Bigger (2009年) ドント・ターン・アウト・ザ・ライツ - Don't Turn Out The Lights NKOTBSB (2011年) イッツ・クリスマスタイム・アゲイン It's ChristmasTime Again (2012年) イン・ア・ワールド・ライク・ディス - \"IN A WORLD LIKE THIS\"(2013年7月3日) ショー・ワッツ・ユア・メイド・オブ - Show What Your Made Of (2014年) ガッド・ママ・ユー・アンド・ママ・ミー - God, Mama, You and Me ft FGL (2017年) ドント・ゴー・ブレイキング・マイ・ハート - \"Don’t Go Breaking My Heart\"(2018年5月17日) チャンシズ - \"Chances\"(2018年11月9日) ノー・プレイス - \"No Place\" (2019年1月4日) ディス・イズ・アス - \"This Is Us 初回限定デラックス盤/通常盤\"(2010年6月16日) イン・ア・ワールド・ライク・ディス - \"IN A WORLD LIKE THIS 豪華盤/通常盤\"(2014年3月28日) 2001年 11月19日, 20日, 21日 東京ドーム, 23日 ナゴヤドーム, 25日 大阪ドーム 2004年 9月29日, 30日, 10月1日, 2日, 3日 国立代々木競技場第一体育館 2006年 1月7日, 8日 東京ドーム, 10日 名古屋レインボーホール, 12日 大阪ドーム 2008年 2月16日, 17日東京ドーム 2010年 2月5日, 6日, 7日 さいたまスーパーアリーナ, 9日, 10日, 11日神戸 ワールド記念ホール, 14日, 15日名古屋日本ガイシホール, 17日東京国際フォーラムホールA, 18日日本武道館 2013年 10月2日,3日,名古屋日本ガイシホール,5日浜松アリーナ,7日広島グリーンアリーナ,8日福岡国際センター,11日,12日,13日さいたまスーパーアリーナ,15日,16日神戸ワールド記念ホール,17日東京国際フォーラムホールA Backstreet Boys Official Web Site (英語) Sony Music Online (日本語)", "コールドプレイ(Coldplay)は、イギリスで結成されたロックバンド。全世界トータルセールスは1億枚以上を記録している。 1997年にロンドンで結成される。メンバーは、クリス・マーティン(ボーカル・ギター・ピアノ)、ジョニー・バックランド(ギター)、ガイ・ベリーマン(ベース)、ウィル・チャンピオン(ドラム)から構成される。メンバー4人とも教師の息子たちである。 2000年、デビュー・アルバム『パラシューツ』とシングル「Yellow」の大ヒットにより世界的な成功を得た。現在までに総計6000万枚以上のアルバムを売り上げ、2000年代における最も成功したバンドのひとつである。『パラシューツ』は全世界で約900万枚、2ndアルバム『静寂の世界』は約1500万枚、3rdアルバムとなる『X&Y』は約1300万枚のセールスを記録した。ブライアン・イーノをプロデューサーに迎えた4枚目となるスタジオ・アルバム、『美しき生命』は2008年6月にリリースされ、約1100万枚のセールスを記録した。5thアルバム『Mylo Xyloto』は約800万枚、6thアルバム『Ghost Stories』は約400万枚のセールスを記録した。2015年12月4日に7thアルバム『A Head Full of Dreams』が発売された。 「イエロー」、「スピード・オブ・サウンド」や2003年にグラミー賞「最優秀レコード賞」を受賞した「クロックス」、さらに「美しき生命」といった数多くのヒット曲があることで知られる。 コールドプレイはさまざまなアーティストの影響を受けている。ギターとファルセットボーカル中心の曲が多いレディオヘッドやトラヴィスをはじめ、U2からも強い影響を受けているとされる。『パラシューツ』以降は他方面からの影響を得たとされ、『静寂の世界』ではエコー&ザ・バニーメンやジョージ・ハリスン、『X&Y』ではジョニー・キャッシュからの影響やクラフトワーク的作風にも挑戦している。 コールドプレイはフェアトレードやアムネスティ・インターナショナルなどの社会的・政治的運動を活発に支持している。さらにバンド・エイドやLIVE 8などの慈善コンサートにおいても公演を行っている。 1996年9月、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの学生だったクリスとジョニーが学年最初の週に学生寮のRamsay Hallで知り合い、その後一年間彼らはバンド結成の計画を練った。中にはイン・シンクに影響を受けたPectoralzと呼ばれるボーイ・バンドを考案していたこともある。実際には、バンドの方向性が決まらぬうちに二人のクラスメイトであるガイが仲間に加わった。1997年までバンドはプロモーター向けのロンドンの小さなギグを「Starfish(スターフィッシュ)」というバンド名で続けていたが、この時までには初期のボーイ・バンド結成への熱望は絶えていた。そしてクリスはオックスフォード大学でクラシック音楽を専攻していた、旧友であるフィル・ハーヴェイにバンド・マネージャーになるよう依頼した。フィルはバンドの2ndアルバムのリリースまでマネージャーを務めた。 1998年初め、ついにパーカッションプレイヤーとしてウィルがバンドに加わり、バンドの枠組みが完成した。多才なウィルはすでにピアノやギター、ベースそしてティン・ホイッスルまでも演奏できたので、経験がなかったにもかかわらずバンドに加わるとドラムに転向しすぐに習得してしまった。そしてこの頃に、同じロンドン大学の学生だった友人から「コールドプレイ」というバンド名をもらい、自らのバンドの名前にした。ちなみに「コールドプレイ」とは、Philip Horkyの詩のタイトルにちなんでいる。また、同じ頃Keaneのティム・ライス=オクスリーにキーボードプレイヤーとして参加するように頼んでいたが、すでにKeaneのメンバーとして活動していたために断られている。 コールドプレイは1998年5月にEP『Safety』をリリースする。このEPは500枚ほど生産されたが、その多くがメンバーの友人等の手に渡ったため、実際に販売されたのは50枚ほどとなった。さらに12月にはインディーズ・レーベルのFierce Pandaと契約し、翌1999年4月に、2月にたった4日間で収録を済ませていたEP『Brothers & Sisters』をリリースした。このEPはまず2500枚ほどが生産された。この頃になるとコールドプレイの曲はイギリスBBCのラジオ局Radio 1で流れ始め、次第にイギリス全土へと支持を広げていった。 1999年春にEMIの傘下パーロフォンと契約した。グラストンベリー・ロック・フェスティバルに初登場後、コールドプレイは新しいEPの製作に取り掛かる。『The Blue Room』と名づけられたEPは10月に5000枚がリリースされ、シングルカットされた『Bigger Stronger』はRadio 1で放送、知名度獲得の一助となった。その途中クリスとウィルがバンドの方針をめぐって喧嘩をしてしまう。その後和解するが、U2やR.E.M.のようなバンドを見習い、メンバー個人の尊重やドラッグをしないというバンドとしてのルールが決められた。 コールドプレイは1999年11月からデビューアルバムの製作に取り組んでいたが、発売に先立って2000年3月にシングル「Shiver」をリリースした。これが全英チャートトップ40に入り、このシングルで初めてMTVに登場した。続けて6月にリリースした「Yellow」は全英チャート4位に入り、注目を浴びる。さらに1stアルバム『パラシューツ』(Parachutes)をリリースし、ついに全英チャート1位を獲得する。パーロフォン側は4万枚程度のセールスを予想していたが、実際は2000年末までにイギリスだけで160万枚のセールスを記録した。そしてこのアルバムはマーキュリー賞などイギリスの数々の音楽賞を総なめにする。『パラシューツ』は『ザ・ベンズ』から『OKコンピューター』の頃のレディオヘッドから強い影響を受けている(本人も認めている)。 コールドプレイは2000年8月に日本でサマーソニックに出演。アメリカでは、「Yellow」や「Trouble」がラジオで流れ人気を博す。『パラシューツ』は11月にアメリカでも発売され、プロモーションのため全米ツアーを敢行する。このツアーはアメリカのクラブを回るものだったが、『サタデー・ナイト・ライブ』や『レイト・ナイト・ウィズ・コナン・オブライエン』、『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』といったテレビ番組にも出演した。『パラシューツ』はビルボード誌において最高51位まで上がる。2002年には、グラミー賞の「最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム」を受賞した。 オープニング・トラックの「Politik」はアメリカ同時多発テロ事件の数日後に書かれた。このアルバムで人気を博した「In My Place」、「クロックス(Clocks)」、そしてバラード曲である「The Scientist」といった数々の曲が生まれた。 バンドは2002年6月から2003年9月まで1年以上にわたってグラストンベリー・ロック・フェスティバルなどのロック・フェスを皮切りに、「A Rush of Blood to the Head tour」を行った。このツアーで真のスタジアムバンドを確立するまでの過程が見られる。同時期に行われたU2のエレヴェイション・ツアーを彷彿とさせる、手の込んだ照明や個性的なスクリーンを多くの公演で採用した。延長公演のシドニー、Hordern Pavilionにおける公演でライブ2003のDVDとCDを収録した。このライブアルバムのプロモーション曲として新曲の「Moses」が選ばれた。この世界ツアーでは自らの曲だけでなく、アクアの「Barbie Girl」などのカバーも演奏した。2003年7月26日には日本のフジ・ロック・フェスティバルに出演した。 2003年12月にはローリング・ストーン誌の読者が選ぶその年のベスト・アーティストとベスト・アルバムに呼び名をあげられた。同時期にはバンドはプリテンダーズの1983年のヒット曲、「2000 miles」をカバーし公式サイトの配信でのみリリースした。楽曲は年間ダウンロードチャートの1位を飾り、セールスからの収益金はFuture Forestsや銃抑止キャンペーンといった慈善団体に寄付された。『静寂の世界』は第45回グラミー賞において二つの賞を受賞した。翌年の同賞では「クロックス」で最優秀レコード賞を受賞し、さらには2003年ローリング・ストーン誌が選ぶ偉大なロック・アルバム500枚の473位にランクインした。 ツアーや3rdアルバムのレコーディングの休暇中も年中スポットライトを浴びていたように、2004年は完全にコールドプレイ・イヤーとなった。2004年から新しいアルバムの製作に取り掛かったが、思ったような曲ができなかった(メンバー自身が後に振り返っている)。そこで気分転換のため、メンバーが一緒に過ごす時間を増やしたという。この3rdアルバムの他のアーティストからの影響については、ガイが「デヴィッド・ボウイ、ブライアン・イーノ、ピンク・フロイドからデペッシュ・モード、ケイト・ブッシュ、クラフトワーク、そして常に聞くようにしているのだがU2まで、さまざまなアーティストの曲を聞いた」と後に語っている。5月にはファンを喜ばせるため、「Nappies」と称しクリスが妻のグウィネス・パルトロウとともに、娘であるAppleの誕生祝いにビデオを作って公式サイトにアップしたこともある。具体的には、著名なプロデューサであるジョージ・マーティンがコールドプレイの一員としてビデオを紹介、そして彼らのプロデューサであるケン・ネルソンが「Nappies」のメンバーとして演奏し、ラップやグラム・ロックを皮肉った、パロディビデオといったものである。クリスはこのビデオはジェイ・Zに影響を受けたとうそぶいている。 バンドの3枚目のアルバム、『X&Y』は前作と同様に日本で先行リリースされ、本国イギリスでは2005年6月6日にリリースされた。このアルバムは発売が遅れたので、所属するEMIの次年度に経常収支が引き継がれ、EMIの株価が大幅に下がってしまった。結局は全世界で830万枚を売り上げ、2005年に最も売れたアルバムとなった。先行シングルである「スピード・オブ・サウンド(Speed Of Sound)」は4月18日にラジオやネット配信で解禁となり、2005年5月23日にCDフォーマットでリリースされた。『X&Y』は28ヶ国で初登場1位を獲得し、イギリスのチャート史において最も早く売れたアルバム第3位となる(ちなみに第1位はオアシス、1997年のアルバム『Be Here Now』)。同アルバムからのシングルカット曲「フィックス・ユー(Fix You)」、「トーク(Talk)」はそれぞれ同年9月、12月に発売された。2006年5月にはシングルカット曲「ザ・ハーデスト・パート(The Hardest Part)」をイギリス以外の各国でリリースした。アルバムの大々的な成功にもかかわらず、音楽評論家や一部のファンのあいだでは『X&Y』は、過剰なマーケティング、ハリウッドスターと結婚したクリスのセレブな形振り、ヒットを狙ったかのような売れ線の楽曲、壮大な曲に聴かせようとする過剰なサウンドプロデュース、などを理由に反感を買った。ニューヨーク・タイムズ紙では「この十年でもっとも気にくわないバンド」と酷評であった。 2005年6月から2006年7月にかけて、コールドプレイはグラストンベリー・フェスティバル含む「Twisted Logic Tour」という世界ツアーを行った。そして初の単独日本公演である7月18日・19日の日本武道館公演でこのツアーが終了した。 2006年2月にコールドプレイは『X&Y』でブリット賞「ベスト・アルバム賞」、「スピード・オブ・サウンド」で同賞「ベスト・シングル賞」を受賞した。その授賞式でクリスが前述のバンドを批判し続ける人々に向け、自虐まじりで「みんな、俺達にうんざりしてるだろ、俺達もだ。これから何年もの間俺達を見ることはないだろう。」と発言し、解散説が流れたが、本人たちは否定している。 2006年12月初旬、バンドはブライアン・イーノ、マーカス・ドラヴスをプロデューサーに迎え、4枚目となるスタジオ・アルバム『美しき生命』(Viva la Vida or Death and All His Friends)のレコーディングにとりかかり始めた。この二人に加え、ティンバランドとのコラボレートの予定もあったという。バンドはこの後しばしのレコーディング休暇をとるが2007年初頭、チリやアルゼンチン、ブラジル、メキシコでのバンド初となる南米ツアーが敢行された。ツアー中には南米各地の教会などでアルバム収録を行っている。 「『美しき生命(VIVA LA VIDA)』はコールドプレイの新しい境地。」とクリスは語る。過去三枚のアルバムを「三部作」とし、「これまでとはまた違う変化を持たせた。ファルセットを抑え、ヴォーカルの位置づけを下げることを最優先に考えた。例えばディストーション・リフを用い、ブルージーな低いトーンのヴォーカル、『ヴァイオレット・ヒル』がある。」としている。「ヴァイオレット・ヒル(Violet Hill)」はリード・シングルとして2008年4月29日にラジオ・オン・エアーとなった。ラジオでの解禁後、公式サイトから同シングルが1週間、フリーで配信となり200万ダウンロードを達成した。UKチャートではトップ10入り、USではトップ40入りのチャートアクションと健闘するが、セカンド・シングル「美しき生命(Viva La Vida)」はiTunesからのみ解禁となり、ビルボードチャート、ホット・100では堂々1位を獲得、UKでもダウンロードチャート1位を獲得した。6月16日、コールドプレイはロンドン、ブリクストン・アカデミーでの45分間、二日間連続のフリーライブを皮切りにViva la Vida Tourを始めた。このパフォーマンスはBBCテレビセンターからテレビ放送された。 また、2005年の映画『40歳の童貞男』の中で「おまえはコールドプレイを聞いているからゲイだ」というセリフが大きな話題となって以降、ティーンエイジャーの間ではコールドプレイ・ファンだというと“オタク”“女々しい”などのレッテルを貼られてしまいがちであったが、クリスはこのアルバムにより、もうそんなことは言わせないと断言している。それこそが今回、このアルバムを作った動機でもあると語った。「このアルバムを作っているとき、なんでみんなが俺たちの作品を聴くのか証明してやりたいって思っていた。16歳が学校でコールドプレイのファンだって公言しても大丈夫なようにしたかった。このアルバムなら、彼らはそれほどからかわれなくて済むだろう。それが動機だよ。コールドプレイが好きでいいんだって、証明したかったんだ。」 6月15日、アルバム『美しき生命』はリリースからたった3日でUKチャートNo.1を獲得した。 2008年7月29日にリリースした「美しき生命(Viva La Vida)」という曲について、ジョー・サトリアーニが2004年にリリースしたインストゥルメンタル曲「If I Could Fly」とギターのリフが同じ箇所があると彼のファンに指摘され、「出来る限り裁判沙汰にならないように避けてきたが、コールドプレイ側がこの件について話したがらなかった。」と同年12月4日に著作権侵害で告訴した。サトリアーニ側は告訴した事について「悪意があって告訴したのではない。あくまでアーティストとしてすべき事をしたまでだ。」と発言している。これに対してコールドプレイ側は同月9日にバンドの公式サイトで「訴えられた事について我々は非常に驚いている。サトリアーニ氏は偉大なミュージシャンだが、我々の作ったあの曲は彼が書いたのではなく、彼の曲から影響を受けたものではなく偶然です。同氏の今後の活躍に期待する。」とコメントしている。サトリアーニの弁護士は「納得がいかない、裁判で片をつける。偶然かどうかは最終的には陪審員が決める事。」と発言している。その後2009年9月に、同件は棄却されたと同時に両者の和解によって解決となった。 2009年初頭、ブリット・アワード(BRIT Awards)にて、シングル「Viva La Vida」で「British Single」、アルバム『Viva La Vida or Death And All His Friends』で「British Album」、バンド本体で「British Group」など計4つの賞にノミネートした。また、第51回グラミー賞では楽曲「Viva La Vida」で「Song Of The Year」、アルバム「Viva La Vida or Death And All His Friends」で「Best Rock Album」など計3つの賞を勝ち取った。 2009年末、再びブライアン・イーノと共同し5枚目となるスタジオ・アルバムのレコーディングを開始した。プロデューサーには、前作『美しき生命』でも携わったマーカス・ドラヴス、リック・シンプソンに加え、新たにダニエル・グリーンを迎えている。 2010年12月1日にはクリスマスに向けたシングル「クリスマス・ライツ(Christmas Lights)」(5枚目のスタジオ・アルバムには未収録)をリリース、全英13位、全米25位を記録し、メディアからは多くの高い評価も得た。 2011年6月、5thスタジオ・アルバム『マイロ・ザイロト(MX)』(Mylo Xyloto)からのリード・シングルとして「ウォーターフォール 〜一粒の涙は滝のごとく(Every Teardrop Is A Waterfall)」をリリースした。全英シングルチャートで6位、全米ビルボード・ホット100で14位を記録、イギリスを含む15カ国以上でトップ10入りを果たした。また、同曲は2012年5月公開の映画『宇宙兄弟』の主題歌に起用されている。同年9月にはセカンド・シングル「パラダイス」をリリース。 5thアルバム『マイロ・ザイロト(MX)』は日本先行で2011年10月19日、イギリスを含む全世界で同年10月24日にリリースされ、全英アルバムチャート及び全米アルバムチャート、またカナダやオーストラリアなど数ヶ国で初登場1位を記録した。また、これによりコールドプレイは、ビートルズ、オアシスに次いで史上3番目のデビューからアルバム5作品連続で初登場1位を獲得したバンドグループとして名を連ねることとなった。さらに、2012年に入ると、セカンド・シングル「パラダイス」がリリースから約4ヵ月後にしてバンド2枚目となる全英シングルチャート1位に輝いた。同曲はアルバム『マイロ・ザイロト』、楽曲「ウォーターフォール 〜一粒の涙は滝のごとく」とともに第54回グラミー賞にノミネートしている。 2013年11月(日本では12月)に公開の映画『ハンガー・ゲーム2』の公式主題歌として新曲「Atlas」を書き下ろし、同映画のサウンドトラックにも収録された。 2014年2月、突如6thアルバムからの新曲「Midnight」をPVとともに発表し、間もなくして3月には6枚目となるアルバム『ゴースト・ストーリーズ』(Ghost Stories)のリリースおよび先行シングル「マジック(Magic)」を発表した。 ポール・エプワースを筆頭に、プロデューサーとして前作に続きダニエル・グリーン、リック・シンプソンらを迎え、2014年5月に全世界でリリースされた6thアルバム『ゴースト・ストーリーズ』は、本国イギリスやアメリカを始め世界20ヶ国以上で1位を記録した。また、本作は第57回グラミー賞の最優秀ポップ・ボーカル・アルバムにノミネートしている。 2014年6月12日に約3年ぶりに来日し、TOKYO DOME CITY HALLにてライヴを行った。この模様はJ-WAVEで生中継された。その翌日には、音楽番組『ミュージックステーション』に出演し、コ・プロデューサーとしてアヴィーチーを起用した楽曲「ア・スカイ・フル・オブ・スターズ」を、「美しき生命」とともに披露した。 2014年12月には再び、アンジェリーナ・ジョリー製作・監督の映画『不屈の男 アンブロークン』(同年12月25日アメリカ公開)の為に楽曲「Miracles」を書き下ろし、シングルおよび同映画のサウンドトラックとともにリリースされた。 2015年11月、前作『ゴースト・ストーリーズ』から僅か1年と7ヶ月ぶりにリリース予定の7thアルバムに向けたリード・シングル「アドヴェンチャー・オブ・ア・ライフタイム(Adventure Of A Lifetime)」を発表し、同年12月4日に7thアルバム『ア・ヘッド・フル・オブ・ドリームズ』(A Head Full of Dreams)を、日本も含めた全世界で同時リリースした。プロデューサーには、前作に引き続き長年コールドプレイの作品に携わっているリック・シンプソンらに加え、ノルウェーのプロダクション・チーム、スターゲイトを迎えている。また、ビヨンセやトーヴ・ロー、ノエル・ギャラガーなど多数のゲスト・ミュージシャンを迎え、さらにはクリスの前妻であるグウィネス・パルトロウ、間接的ではあるが米大統領のバラク・オバマも参加している。 クリス曰く、今作は前作『ゴースト・ストーリーズ』とのいわゆる「連作」であり、前作が陰を表し内省的な内容であるのに対し、今作『ア・ヘッド・フル・オブ・ドリームズ』は陽を表し意欲的な内容であるという。 一方アルバムは、本国イギリスを始めアメリカやカナダ、オーストラリア、イタリア、スイスなどで初登場2位、ドイツやアイルランド、ポルトガル、スウェーデンなどで初登場3位と、多くの国で初登場1位を逃した。そのほとんどでコールドプレイを退け、初登場1位を獲得したのは同時期に発売されたアデルの『25』であった。本作で初登場1位を獲得したのはノルウェーのみであった。なお、イギリスにおいて本作で初登場1位を獲得していた場合、オアシスと並ぶ「デビューアルバム以来7作連続で初登場1位を獲得したバンド」となる快挙だった。 2016年2月、アメリカ合衆国の国民的行事である第50回スーパーボウルにおいて、ブルーノ・マーズ、ビヨンセとともにハーフタイムショーを行った。このパフォーマンスの数日後、アルバム『ア・ヘッド・フル・オブ・ドリームズ』は発売約2ヵ月後にして見事全英1位に返り咲いた。 クリス・マーティン (Chris Martin、1977年3月2日 - ) / ボーカル・ギター・ピアノ イングランド南西部のデヴォン州に生まれる。音楽活動以外にも、発展途上国から先進国に対する輸出を中心とした公正な商品の取引を推進しようとするフェアトレードに参加している。また、グラミー賞の授賞式ではジョージ・ウォーカー・ブッシュとイラク戦争を批判し、民主党の大統領候補だったジョン・ケリーを支持した。私生活においては、アメリカの女優グウィネス・パルトローと2003年12月に結婚し、一男一女をもうけている。2014年3月に離婚を発表した。 ジョニー・バックランド (Jonny Buckland、1977年9月11日 - ) / ギター ロンドン生まれ、兄の影響で音楽を始める。ボーカルのクリスをして「ジョニー・バックランドなくしてコールドプレイの音楽は存在しない」と言わしめる存在。ジミ・ヘンドリックスらに影響を受けているとされている。映画『ショーン・オブ・ザ・デッド』にはクリスとともにカメオ出演をしている。 ガイ・ベリーマン (Guy Berryman、1978年4月12日 - ) / ベース スコットランド生まれ。16歳のときからベースを始める。大学に入ると初めは工学を専攻したが建築学に専攻を変更した。しかし結局そこからドロップアウトしコールドプレイの活動に集中した。ジェームス・ブラウンやビートルズ、ピンク・フロイドに影響を受けているとされている。 ウィル・チャンピオン (Will Champion、1978年7月31日 - ) / ドラムス イングランド南部のハンプシャー生まれ。若いころはトム・ウェイツに影響を受け、ギター・ピアノ・ベースといった楽器に触れていたが、ドラムはコールドプレイに加入するまで経験していなかった。コールドプレイ加入前は「Fat Hamster(ファット・ハムスター)」というバンドで活躍していた。クリス曰く「人間ジュークボックス」。 スタジオ・アルバム ライブ・アルバム ライブ 2003(LIVE 2003) / 2003年12月3日 LeftRightLeftRightLeft / 2009年5月15日 ライブ 2012(LIVE 2012) / 2012年11月21日 ゴースト・ストーリーズ ライヴ 2014(GHOST STORIES LIVE 2014) / 2014年12月3日 コンピレーション・アルバム The Singles 1999-2006 / 2007年3月26日 美しき生命〜プロスペクツ・マーチ・エディション / 2009年1月14日 EP Ode to Deodorant/Brothers & Sisters / 1998年 Safety EP / 1998年 Brothers & Sisters / 1999年 The Blue Room EP / 1999年 Acoustic (Sparks EP) / 2000年 Mince Spies / 2000年 Trouble - Norwegian Live EP / 2001年 Prospekt's March / 2008年 DVD ライブ 2003(2003年作品) / 2004年12月3日 ライブ 2003(DVD)スペシャル・プライス盤 / 2005年11月9日 ライブ 2012(DVD・Blu-ray) / 2012年11月21日 ゴースト・ストーリーズ ライヴ 2014(DVD・Blu-ray) / 2014年12月3日 来日記念盤 クロックスEP -ジャパン・ツアー・ミニ・アルバム- / 2003年7月24日 X&Y SPECIAL EDITION / 2006年6月28日 配信限定楽曲(着うたフルなど) How You See The World No.2 (War Child) / 2005年 ア・スペル・ア・レベル・エール(A Spell A Rebel Yell) / 2008年 Death Will Never Conquer / 2008年 配信限定楽曲(着うた) Easy To Please Only Superstition 彼らの音楽はボーカル/作詞を手がけるクリスの「尽きることのない感情表現の試行錯誤」であるともいわれ、クリスの詞は女性的ともいわれる。 1stアルバム『パラシューツ』期のメディアのトーンは「歪んだギターリフとパーカッションを多用」しメロディアスなポップ作であり、非常に美しいダークさと磨きのかかった良作と評された。『静寂の世界』は「個々の楽曲は胸が張り裂けんばかりの激情のメロディーであり、バンドの新しい境地」と評された。『X&Y』は「クリスの“疑問”や“恐れ”、“希望”や“愛”の反芻」であると評価された。 日本で発売されたアルバムやその収録された曲には、元のアルバムタイトルや曲とまったく違う、曲のイメージだけで連想させたマーケティング関係上それらしい邦題が、日本のレコード会社によりつけられている。 世界的な人気にもかかわらず、広告などのタイアップの使用を拒否し楽曲のメディアでの使われ方に保護的な姿勢を保っていた。過去にはゲータレードやコカ・コーラ、ギャップから「Yellow」、「Trouble」、「Don't Panic」の楽曲使用を求めて数億円の契約を持ちかけてられているが、すべて断っている。クリスによると「企業戦略に僕らの曲が使われてしまうと、バンドの方向性を見失ってしまう可能性がある。」と語っていたが、2008年、アルバム、美しき生命:VIVA LA VIDA リリース時に、アルバムプロモーションの意味合いも兼ねて、アップルのiPod+iTunesのCMにメンバー自身も出演する形で「Viva La Vida」が使用された。 コールドプレイはアムネスティ・インターナショナルの支持者である。また、クリスは発展途上国から先進国に対する輸出を中心とした公正な商品の取引を推進しようとするフェアトレード推進活動の目立った貢献者の一人で、2005年にスコットランドで行われた先進国首脳会議にむけて活動していたオックスファムの「Make Trade Fair」キャンペーンの参加者であった。クリスは実際にオックスファムの会員として実態調査を行い、広報活動を展開、またコールドプレイのライブにおいても「Make Trade Fair」のリストバンドを付けるなど、活発な支持者である。 2004年には民主党の大統領候補だったジョン・ケリーを支持した。クリスはアメリカ国民ではないが、妻のグウィネス・パルトローはアメリカ合衆国出身のためロサンゼルス、ロンドン両方に居住している。 初期のころはバンドの利益10%は慈善団体に寄付することをメディアに宣言していた。ガイは、「一人でも多くの人間に呼びかければ問題に気づくのさ。それが僕らにとっては容易いことだからね。もしそれで人を助けることができるのなら、そうしたいんだ。」と語っている。 SMAP×SMAP(フジテレビ) - 2008年9月8日 楽曲演奏:美しき生命(Viva La Vida) ミュージックステーション(テレビ朝日) - 2014年6月13日 楽曲演奏:美しき生命(Viva La Vida)、ア・スカイ・フル・オブ・スターズ(A Sky Full Of Stars) THE MUSIC DAY 音楽のちから(日本テレビ) - 2014年7月12日 楽曲演奏:美しき生命(Viva La Vida) 行列のできる法律相談所(日本テレビ) - 2017年5月14日 ゲストのIMALUの好きなアーティストとしてVTRでサプライズという形で登場。 ^ https://www.msn.com/en-ie/entertainment/music/amazing-facts-about-coldplay/ss-BBp8fYp?li=BBr5HCU&parent-title=coldplay-release-music-under-a-new-name&parent-ns=ar&parent-content-id=BBQbsNh&fullscreen=true ^ “Gwyneth Paltrow files for divorce from chris martin”. The Hollywood Reporter (2015年4月21日). 2016年6月1日閲覧。 ^ 2009年5月15日以降のViva La Vida Tourコンサートにて無料配布されたライブ・アルバム。公式サイトでも無料ダウンロード配布された。 ^ 自主制作デモテープ音源。 ^ 英国のみ500枚限定の自主制作音源。 ^ 英国のインディーズ・レーベル、Fierce Pandaから発表された1500枚限定音源。シングルも同様。 ^ 米国ではEMI International、イギリスではパーロフォンレーベルから発表された、メジャーファーストリリース。 ^ パーロフォンから発表されたエンハンスドEP。2000年10月29日に英国の日刊紙、インデペンデントの付録として配布された。 ^ 当時のファンクラブでのみ発表された1000枚限定クリスマスEP。 ^ ノルウェーのみEMIから発売された、ノルウェーで収録されたライブ音源。シングルとして発表された同名タイトルとは異なる。 ^ 世界限定35万枚生産。「美しき生命」の続編的作品。 ^ ダウンロードのみのチャリティーシングル。 ^ EU、日本、北米、南米、豪のみのシングル。 ^ 仏、ベルギー、スイスのみのシングル。 ^ メキシコのみのシングル。 ^ カイリー・ミノーグとのコラボ・チャリティーシングル。 ^ music.jpでのみ配信されている。 ^ 公式ウェブサイト上で無料配信されている楽曲。 ^ 2014年3月に離婚。 ^ “ジャスティン・ビーバー MTVヨーロッパ・ミュージック・アワードで5部門受賞”. シネマトゥデイ (2015年10月29日). 2015年10月29日閲覧。 公式ウェブサイト(英語) Coldplay / コールドプレイ|Warner Music Japan コールドプレイ - Myspace Coldplay - Google+ Coldplay - 公式YouTubeチャンネル", "UB40(ユービーフォーティー)はイギリスのレゲエ・ポップ・バンド。バンド名はイギリスの失業者給付金の申請書様式名(Unemployment Benefit, Form 40=失業給付40号様式)からとられたもので、デビューアルバム「Signing Off」のアルバムジャケットはこの申請書の様式を模したものとなっている。2011年、主宰していたレーベル清算に伴い、リードシンガーのアリ・キャンベルとバンドのメンバー4人が相次いで破産宣告を受けた。 1978年にバーミンガムで結成、1980年デビュー。メンバーは白人黒人の混成。当時イギリスではスカ、2トーンと呼ばれるレゲエから派生したロックがブームになっており、デビューアルバムは全英2位のヒットに恵まれた。 1983年のアルバム「レイバー・オブ・ラブ」は英1位、米8位という大ヒットを記録する。 1988年、突如アメリカで再発されたシングル「レッド・レッド・ワイン」(ニール・ダイアモンドのカバー)がビルボード1位に輝く。 1993年には「好きにならずにいられない」(エルヴィス・プレスリーのカバー)が映画『硝子の塔』のテーマとして使われたこともあり英米でチャート1位に輝き、世界的なヒットを記録した。当時、フジテレビで深夜に放送されていた音楽番組『BEAT UK』でもUKシングルチャートNo.1を獲得。 レゲエといえど音はポップで親しみやすく、またバンド名が示すとおり失業や人種差別などの社会問題を扱った歌詞が多い。 「好きにならずにいられない」のヒットで知られるUB40 5人のメンバーが相次いで破産宣告 音楽ニュース : リッスンジャパン Official Site", "ザ・キラーズ (The Killers) は、アメリカ・ラスベガス出身のロック・バンドである。 キーボードやシンセサイザーを多用した口ずさみやすいニュー・ウェイヴ・サウンドを壮大に鳴らす4ピース・バンド。ザ・ストロークスやザ・ホワイト・ストライプスと同じく、先にイギリスで人気に火がついて世界的ブレイクを果たしたアメリカのバンドである。先の二組と共に、イギリスで最も人気があるアメリカのバンドのひとつである。 バンド名は、ニュー・オーダーの『クリスタル』のミュージック・ビデオに登場する架空バンドの名前を拝借している。 2001年、デイヴィッドがメンバー募集告知をフリーペーパーに出し、ブランドンと出会う。後に、マーク、ロニーが加わる。 2003年にデビューを果たし、2004年にデビュー・アルバム『ホット・ファス』をリリースする。「ミスター・ブライトサイド」、「サムバディ・トールド・ミー」などのヒットシングルを生み、アルバムは全世界で合計700万枚を売り上げた。 2004年にはフジ・ロック・フェスティバルに出演した。 2005年、イギリスのグラストンベリー・フェスティバル (Glastonbury Festival) に出演する。当初ヘッドライナーに予定されていたカイリー・ミノーグが乳癌と診断され出演をキャンセルし、代わりにこの大役をオファーされる。しかし、まだバンドの活動期間が短いことや、アルバムを1枚しか発売していないことを考慮し、ヘッドライナーでの出演は辞退した。 2006年、セカンドアルバム『サムズ・タウン』を発表し、『ボーンズ』のミュージック・ビデオをティム・バートンが監督。出演者も『シン・シティ』のデヴォン青木などが出演し、豪華なミュージック・ビデオになっている。 2007年、『リード・マイ・マインド』のミュージック・ビデオは、東京を舞台にしており、ガチャピン、森泰仁が出演している。同年にコンピレーション・アルバム『ソーダスト』を発表し、グラストンベリー・フェスティバルでヘッドライナー出演を果たした。 2008年、サードアルバム『デイ&エイジ』 を発表した。 2009年、ヘッドライナーとしてコーチェラ・フェスティバルに出演した。 2012年、フォースアルバム『バトル・ボーン』 を発表。 2013にはウェンブリー・スタジアムでのライブを成功させる。同年10月には6年ぶりとなる来日公演も果たした。 2017年、アルバム『ワンダフル・ワンダフル』を発表。バンド初となる全米1位、デビューアルバムから5作連続となる全英1位を記録した。 フロントマンのフラワーズが、フォール・アウト・ボーイ、パニック・アット・ザ・ディスコをはじめとするエモ、ポップ・パンク・バンドを批判している。また、ザ・ブレイヴリーについても批判している。※これらのコメントについては彼は後に謝罪をしている。 レッド・ツェッペリンとニルヴァーナに関しては、「王座から引きずりおろしたい」とフラワーズはコメントしている。 ブランドン・フラワーズ(Brandon Flowers、1981年6月21日 - ) / ボーカル・キーボード デイヴィッド・キューニング(David Keuning、1976年3月28日 - ) / ギター マーク・ストーマー(Mark Stoermer、1977年6月28日 - ) / ベース ロニー・ヴァヌッチィ(Ronnie Vannucci、1976年2月15日 - ) / ドラムス 発売日は、アメリカにおいての発売日である。「US」や「UK」は、各国におけるチャートの最高位を示している。 ソーダスト Sawdust (2007年) ※シングルB面などアルバム未収録曲を収録。 全米12位、全英7位 ダイレクト・ヒッツ Direct Hits (2013年) ベストアルバム ※新曲2曲を収録 \"A Great Big Sled\" (2006年) \"Don't Shoot Me Santa\" (2007年) \"Joseph, Better You Than Me\" (2008年) \"¡Happy Birthday Guadalupe!\" (2009年) \"Boots\" (2010年) \"The Cowboys' Christmas Ball\" (2011年) \"I Feel It in My Bones\" (2012年) \"Christmas in L.A.\" (2013年) \"Joel the Lump of Coal\" (2014年) 2004年 (Hot Fuss Tour) 7月30日 新潟・苗場スキー場@フジロック・フェスティバル 2005年 (Hot Fuss Tour) 3月6日 名古屋CLUB QUATTRO 3月8日 広島CLUB QUATTRO 3月9日 大阪・心斎橋CLUB QUATTRO 3月10日 東京・LIQUIDROOM 2007年 (Sam's Town Tour) :1月13日 Zepp Tokyo 1月14日 名古屋・CLUB DIAMOND HALL 1月15日 大阪・なんばHatch 2013年 (Battle Born World Tour) 10月8日 東京・STUDIO COAST 10月9日 東京・ディファ有明 2018年 (Wonderful Wonderful World Tour) 9月12日 東京・日本武道館 ^ http://www.vibe-net.com/news/?news=0027482 ^ http://www.vibe-net.com/news/?news=0027354 ^ http://www.barks.jp/news/?id=1000006536 ^ http://www.spin.com/articles/brandon-flowers-says-sorry/ ^ https://rockinon.com/news/detail.html?20285 公式ウェブサイト (英語) ユニバーサル・ミュージック・ジャパン (日本語)", "パニック!アット・ザ・ディスコ(Panic! at the Disco) は、アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス近郊のサマーリン出身のロックバンド。 2ndアルバムをリリースするにあたり名前の「Panic! at the Disco」より「!」を外したが、現在は「!」を付けた方が正式名称。 変わった名前の由来には諸説あるが、イギリスのバンドザ・スミスの曲である「Panic」の一節を引用したものという説が一般的である。 多くのバンドが辿るデモテープの自主製作からライヴを行うという道を、結成当時メンバー全員高校生だった為に金銭的な面から辿らずに、インターネットを通じてフォール・アウト・ボーイのベーシスト、ピート・ウェンツに自作曲を送るという賭けに出る。これは長い曲名、風刺に富む字余り気味な歌詞など、ライアンがフォール・アウト・ボーイに少なからず影響を受けていた為である。 その後ピート本人がラスベガスまで赴き、彼が運営するレーベル「ディケイダンス・レコード」からの第一弾アーティストとして契約することになる。 ライヴではメンバーが1920年代調のクラシカルな衣装を着て、本物のサーカス団を交えたパフォーマンスを行ったり、バーレスクや見世物小屋の様な雰囲気のセットで観客を引き込ませるエンターテインメント性に満ちた作りになっている。また、ミュージック・ビデオもクラシカルやミュージカル形式であったりするものが多い。 2005年9月27日に1stアルバム『A Fever You Can't Sweat Out』を発売。その中からのシングル「I Write Sins Not Tragedies」が世界中で爆発的なヒットをし、アルバムも200万枚のセールスとなった。 『MTV Video Music Awards』ではベテラン勢(マドンナ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなど)がノミネートする中、「I Write Sins Not Tragedies」のPVで“Video Of The Year”を受賞。 2008年3月25日に2ndアルバム『Pretty. Odd.』を本国アメリカで発売。1stで前面に押し出していたエモを消し去る程の、ビートルズをイメージさせるような曲調へと変貌を遂げている。ビルボードのデイリーチャートでは初登場1位(ウィークリーでは初登場2位)を獲得する。日本では4月9日発売。 2009年7月6日に公式サイトにて、ライアンとジョンがさらなる音楽を追求する為、バンドを離脱することを明らかにした。ツアー以前から、メンバーそれぞれの音楽の方向性が異なってきていた為、バンド内で話し合った末の答えだという。ライアンとジョンは現在、「The Young Veins」というバンドで活動している。 2009年8月に、映画「ジェニファーズ・ボディ」への挿入曲「New Perspective」をリリース。これを機に、名前を結成当時の「Panic! at the Disco」に戻している。 2011年3月22日に3rdアルバム『Vices & Virtues』を発売。1stアルバムにあったエモサウンドに回帰している。日本では4月13日に発売。 2011年5月に、インディー・ロックバンド、ファンとのコラボレーション楽曲「C'mon」をリリースした。また、同年発売のゲームソフト『バットマン アーカム・シティ』サウンドトラックに新曲「Mercenary」を提供した。 2012年に、2009年からツアーメンバーとして参加していたダロン・ウィークスが正式メンバーとして加わり、3人体制となる。2013年10月8日には4thアルバム『Too Weird to Live, Too Rare to Die!』を発売。 2015年4月、スペンサー・スミスが脱退を表明。『Pretty. Odd.』発表当初からアルコール・薬物依存症を抱えており、克服するべく投薬による治療を続けていたものの、それが長引いたことが理由としている。スペンサーの脱退表明後、間もなくしてバンドはシングル「Hallelujah」を発表。何の予告も無く突如リリースされたものの、全米シングルチャートでは「I Write Sins Not Tragedies」以来のトップ40入りを記録した。 同年10月には、5thアルバム『Death of a Bachelor』を翌年1月にリリースすることを発表。発表に際し、ベーシストのダロンがツアーミュージシャンに籍を戻したことも明かされ、ダロン自身もツイッター上で「今後曲作りに参加することはない」と明言している。これにより、バンドにおける正式メンバーはブレンドン・ユーリーのみとなった。 Dan Pawlovich Brendon Urie Dallon Weekes Kenneth Harris イギリスの大手新聞社が繰り広げたエモ批判により、「パニック!アット・ザ・ディスコやマイ・ケミカル・ロマンスなどのエモ・バンドは、子供たちに悪影響を与える」という理由でバッシングが起こる。 また、同じラスベガス出身のバンドザ・キラーズのブランドン・フラワーズから「パニック!・アット・ザ・ディスコは危険なバンド」と揶揄され、バッシングもエスカレートした。 現在、ブランドンとは和解したようである。 ブレンドン・ユーリー (Brendon Urie、1987年4月12日) - ボーカル、ギター、キーボード、ピアノ、ベース スペンサー・スミス (Spencer Smith、1987年9月2日) - ドラムス ライアン・ロス (Ryan Ross、1986年8月30日) - ギター、ボーカル、キーボード、作詞作曲担当 ジョン・ウォーカー (Jon Walker、1985年9月17日) - ベース、ギター、ボーカル ブレント・ウィルソン (Brent Wilson) - ベース ダロン・ウィークス (Dallon Weekes、1981年5月4日) - ベース、ボーカル 公式サイト 日本公式サイト" ]
ABC01-02-0108
ハリウッド映画で『フォー・ルームス』『フィフス・エレメント』『シックス・センス』といったら、共通して出演している俳優は誰でしょう?
ブルース・ウィリス
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[ "ブルース・ウィリス", "ロバート・デ・ニーロ", "ジョシュ・ブローリン", "トム・ハンクス", "ハリソン・フォード" ]
[ "ウォルター・ブルース・ウィリス(Walter Bruce Willis, 1955年3月19日 - )は、ドイツ生まれのアメリカ人俳優であり、プロデューサー、ミュージシャンでもある。彼のキャリアは1980年代から始まり、それ以来コメディ、ドラマ、アクションといったジャンルで、テレビと映画の両方で活躍している。『ダイ・ハード』シリーズの主人公ジョン・マクレーン役でよく知られている。他にも60作品以上に出演し、『パルプ・フィクション』(1994年)、『12モンキーズ』(1995年)、『フィフス・エレメント』(1997年)、『アルマゲドン』(1998年)、『シックス・センス』(1999年)、『アンブレイカブル』(2000年)、『シン・シティ』(2005年)、『森のリトル・ギャング』(2006年)、『RED/レッド』(2010年)のように興行的成功を収めた作品も多い。 彼は2度エミー賞とゴールデングローブ賞を受賞し、4度サターン賞にノミネートされた。ウィリスはデミ・ムーアと結婚し、2000年に別れるまでに3人の子供をもうけた。現在はモデルのエマ・ヘミングと結婚しており、1人の娘が生まれた。左利き。身長182cm。 ウィリスは西ドイツのイダー=オーバーシュタインで生まれる。彼の母親マレーネ・Kはドイツ人であり、カッセル近郊のカウフンゲンの出身。父親のデイヴィッド・ウィリスはアメリカ人兵士でアイダホ州南東部のイングランド系の家庭に生まれた。ウィリスは4人目の子供であり、姉のフィレンツェ、兄のデイヴィッド、そして2001年に42歳で膵癌によって死亡した兄のロバートがいた。ウィリスの父親は1957年に除隊すると家族を連れてニュージャージーのカーニーズ・ポイントに引っ越した。母親は銀行で働き、父親は溶接工のマスター・メカニックと工場労働者になった。ウィリスはペンス・グローヴ高等学校に通った。彼はここで吃音に悩まされる。だがステージの上で自分自身を表現すると吃音はすぐに消えた。ウィリスはその後もステージで演じ続け、高校では演劇部に所属、生徒会長も務めた。 高校卒業後、ウィリスはセイラム原子力発電所で警備員として働いた。他にもディープウォーターのデュポンで輸送業者や工場労働もした。 私立探偵として働いた後(彼はテレビシリーズ『こちらブルームーン探偵社』と1991年の映画『ラスト・ボーイスカウト』で私立探偵役を演じる)俳優として活動した。モントクレア州立大学の演劇部に入り、クラスで戯曲『熱いトタン屋根の猫』を演じた。ウィリスは3年生で大学を中退するとニューヨーク市に移り住んだ。 いくつかのオーディションを受けた後、オフ・ブロードウェイの Heaven and Earth でデビューを果たす。彼は Fool for Love によく出演して経験を積んだ上、リーバイスのコマーシャルにも出演した。 オーディションを受けるため、ウィリスはニューヨークを離れてカリフォルニアに渡った。1984年、テレビシリーズ『特捜刑事マイアミ・バイス』の「地対空ミサイル強奪!武器密輸ルートを追え」に出演した。その後シビル・シェパード主演『こちらブルームーン探偵社』(1985年 - 89年)のデビッド・アディスン・ジュニア役のオーディションを受けて3000人の候補者の中から選ばれた。このシリーズはシーズン5まで続き、彼はコメディ役者としての地位を確立する。 1987年、ブレイク・エドワーズの作品『ブラインド・デート』でキム・ベイシンガー、ジョン・ラロケットと共演する。エドワーズ監督は『キャデラック・カウボーイ』(1988年)でウィリスを再び起用する。このとき彼は実在のカウボーイトム・ミックス役だった。さらにその後『ダイ・ハード』(1988年)に出演し、彼が予期しなかったほどのスターとなる。この映画の中ではほとんどスタントなしで演じた。世界興行収入は140,767,956ドルを記録した。1980年代後半にはウィリスはレコーディング・ミュージシャンとしてある程度の成功をおさめた。 『ダイ・ハード』のジョン・マクレーン役で成功したウィリスは続編である『ダイ・ハード2』(1990年)と『ダイ・ハード3』(1995年)にも出演した。この『ダイ・ハード』3部作は全世界で7億ドルを超える興行収入を得て、ウィリスはハリウッドの人気スターになった。 1990年代、ウィリスは『虚栄のかがり火』や『ハドソン・ホーク』といった主演映画の赤字に苦しんだ。他にも『薔薇の素顔』は批評家たちに酷評されたが高評価も受け、この映画は1995年のアメリカで最もレンタルされている映画トップ20にランクインした。1994年、彼はクエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』で絶賛される。これが新たな弾みとなり、1996年のカートゥーン Bruno the Kid でエグゼクティブ・プロデューサーを務め、自らをCGIで表現した。 『12モンキーズ』(1995年)と『フィフス・エレメント』では世界を救う男を演じた。90年代後半には『ジャッカル』や『マーキュリー・ライジング』、『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』に出演するもさほど評判にはならなかった。1998年のマイケル・ベイ監督作品『アルマゲドン』は世界的に大ヒットし、同年、プレイステーションのゲーム『アポカリプス』に主人公の外見と声の出演をした。1999年のM・ナイト・シャマラン監督作品『シックス・センス』は興行的に成功しただけでなく、ウィリスの演技力も高い評価を受けた。 2000年、ウィリスは『フレンズ』への出演によってエミー賞ゲスト男優賞コメディ部門を受賞した(彼はこのドラマの中でロス・ゲラーのはるか年下のガールフレンドの父親を演じた)。2001年にも『フレンズ』でアメリカンコメディ賞(シリーズにおかしな男の役でゲスト出演した)にノミネートされた。そして2000年に『隣のヒットマン』にジミー・“チューリップ”・チュデスキ役で出演し、マシュー・ペリーと共演した。また、『オーシャンズ11』(2001年)にテリー・ベネディクト役で出演予定だったがアルバムのレコーディングのために断った。その後『オーシャンズ12』(2004年)に本人役でカメオ出演を果たしている。2007年、『グラインドハウス』の『プラネット・テラー in グラインドハウス』にヴィランのミュータント兵士役で出演した。ウィリスはこの作品で『シン・シティ』に続きロバート・ロドリゲス監督とタッグを組んだ。 ウィリスは何度かアメリカの人気テレビ番組「レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン」に登場した。またこれまでにサミュエル・L・ジャクソンといくつかの映画で共演している(『ローデッド・ウェポン1』、『パルプ・フィクション』、『ダイ・ハード3』、『アンブレイカブル』)。他にも娘であるルーマー・ウィリスと2005年の映画『ホステージ』で共演した。 2007年にはハル・ベリー主演のスリラー『パーフェクト・ストレンジャー』と、犯罪ドラマ映画でシャロン・ストーンが出演している『アルファ・ドッグ 破滅へのカウントダウン』に登場した。そして『ダイ・ハード4.0』で再びジョン・マクレーンに扮した。最近では『トラブル・イン・ハリウッド』や同名コミックが原作の『サロゲート』で姿を見せている。 ウィリスは2010年2月のケヴィン・スミス監督作品『コップ・アウト 〜刑事した奴ら〜』でトレイシー・モーガンと共に盗まれた野球選手のカードを追う刑事を演じた。また、ゴリラズの「スタイロ」のミュージック・ビデオにも出演した。同年には『エクスペンダブルズ』で、80年代を代表するアクションスターであるシルヴェスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーとの共演を果たした。彼は“ミスター・チャーチ(「教会」という意味)”として登場した。この3人が共演するのはこのときが初めてである。共演シーンは短かったものの、そのシーンは映画の見所として期待されていた。3人は2009年の10月24日に空の教会でこのシーンの撮影をした。最近の出演作品で有名なものの中に『RED/レッド』がある。同名コミック・ミニシリーズの映画化作品である。2010年に公開されたこの映画で彼はフランク・モーゼズ役を演じた。 『ムーンライズ・キングダム』ではビル・マーレイ、エドワード・ノートン、フランシス・マクドーマンドと共演した。監督はウェス・アンダーソン、撮影はロードアイランド州で行われた。また、『エクスペンダブルズ2』(2012年)にも出演した。SFアクション映画『LOOPER/ルーパー』(2012年)ではジョセフ・ゴードン=レヴィットと共演しゴードン=レヴィットが演じたキャラクター、ジョーの未来を演じた。 ウィリスはデイヴィッド・バレット監督作品『ファイヤー・ウィズ・ファイヤー 炎の誓い』で50セントと共演した。主演はジョシュ・デュアメル。他にもヴィンス・ヴォーンやキャサリン・ゼタ=ジョーンズが出演する『噂のギャンブラー』に登場。スティーヴン・フリアーズが監督を務めている。この映画はラスベガスのカクテルウェイトレスが一流のギャンブラーになる物語である。この2作品の配給はライオンズゲートとなっている。 2011年10月12日に『ダイ・ハード』シリーズの続編『ダイ・ハード/ラスト・デイ』の制作が発表された。2013年2月14日(バレンタインデー)にアメリカと日本で公開となった。この作品はシリーズの5作目である。 ウィリスはテレビゲーム『KANE&LYNCH: DEAD MEN』の映画化作品『ケイン&リンチ』への主演が決定している。 ロサンゼルスに不動産を所有し、ニューヨーク市のトランプ・タワーの一室を借りている。また、マリブの家、モンタナ州の牧場、タークス・カイコス諸島のパロット・キーにある海岸の家が有名である。 2000年に、ビジネス・パートナーのアーノルド・リフキンと共にシャイアン・エンタープレスと呼ばれる映画制作会社を始めた。彼は、『ダイ・ハード4.0』の後に会社を去り、リフキンに任せている。他にも、ヘイリーでいくつかの小さな事業を行っている。その中には、ミント・バーやリバティ・シアター、俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー、シルヴェスター・スタローンと共同経営のプラネット・ハリウッドが含まれている。2009年、フランスの会社ベルヴェイダーのソビエスキー・ウォッカの3.3%の所有権と引き換えに、この会社の国際的キャラクターになった。 ゲイリー・クーパーやロバート・デ・ニーロ、スティーブ・マックイーン、ジョン・ウェインを演技の手本にしている。 映画『張り込み』のプレミアで、女優のデミ・ムーアと出会う。2人は1987年11月21日に結婚し、2000年10月18日までにルーマー・ウィリス(1988年8月16日生)、スカウト・ラルー・ウィリス(1991年7月20日生)、タルーラ・ベル・ウィリス(1994年2月3日生)の3人の娘をもうけた。2人の離婚の理由についてウィリスは、「自分が父親や夫としての役割を果たしていなかった」と述べている。離婚後、ムーアはアシュトン・カッチャーと再婚した。ウィリスも、2人の結婚式に出席した。 2009年3月21日にタークス・カイコス諸島でエマ・ヘミングと再婚。ムーアとカッチャー、3人の娘もゲストとして招かれた。しかし、この式典は公式なものではないため、6日後にビバリーヒルズで正式に結婚式を挙げた。2012年に娘が生まれ、マーベル・レイ・ウィリスと名付けている。 ウィリスは『マーシャル・ロー』や『ジャスティス』、『ティアーズ・オブ・ザ・サン』、『グラインドハウス』といった映画で軍人を演じている。軍人の家で育ったウィリスはアメリカ軍のためにガール・スカウト・クッキーの販売に公式に協力している。2002年、ウィリスの末娘タルーラは、ウィリスが軍隊に送るためにクッキーを購入したという趣旨の発言をした。ウィリスは12,000箱のクッキーを購入しそれらは空母ジョン・F・ケネディに贈られ、そこから中東全域の部隊に配布された。また2003年、ウィリスはUSOのツアーの一環としてイラクを訪れ、彼のバンド「The Accelerators」と共に歌を歌った。 日本ではCMに出演。1991年にNTTドコモのムーバ(アナログムーバ)の初代イメージキャラクターや、三貴の「じゅわいよ・くちゅーるマキ」のイメージキャラクター、スバル・レガシィの初代イメージキャラクターに起用された。2005年になって同車の累計生産台数300万台突破を機に、4代目のイメージキャラクターに復活。キャッチコピーは「レガシィを祝福するために、ブルースが帰ってきた」。古くは『ダイ・ハード』の屋上ジャンプシーンを連想させるキリンポストウォーターのCM(デミ・ムーアが共演)に出演し、2000年には日本コカ・コーラの缶コーヒージョージアのCMに半年間出演した。『アルマゲドン』ヒット時にはENEOSのCMにも出演していた。2011年にはダイハツ・ミライースのCMに、2014年には興和の「コーワパワードコーヒー」CMに出演。 日本語吹替は主にビデオソフト収録用を樋浦勉や磯部勉、内田直哉が、テレビ放映時は野沢那智、村野武範が担当することが多い。 プチ・ブルースというものまねタレントが存在する。 ウィリスはテレビと映画の功績によって数々の賞を受賞している。 『こちらブルームーン探偵社』でエミー賞(“主演男優賞ドラマ部門”)とゴールデングローブ賞(“男優賞ミュージカル・コメディ部門”)を受賞し、さらにいくつかのノミネートを受ける。 『イン・カントリー』ではゴールデングローブ賞“助演男優賞”にノミネートされる。 「マクシム・マガジン」は『薔薇の素顔』(1994年)における彼のパフォーマンスを映画史上最もセクシーなシーンであるとした。 1999年のドラマ / スリラー映画『シックス・センス』では、ウィリスはブロックバスター・アワード(“男優賞サスペンス部門”)とピープルズ・チョイス・アワード(“男優賞ドラマ部門”)を受賞する。他にサターン主演男優賞とMTVムービー・アワードの“最優秀男優”と“最優秀二人組”にノミネートされた。 2000年、ウィリスは『フレンズ』でエミー賞ゲスト出演賞テレビ部門を受賞した。 2002年2月、ウィリスはハーバード大学のヘイスティ・プディング・シアトリカルズによるヘイスティ・プディング賞マン・オブ・ザ・イヤーを受賞する。大学によれば、この賞はエンターテインメントの世界に長らく残るであろう印象的な演技に贈られるものである。 さらに2002年、ウィリスは大統領ジョージ・W・ブッシュに、里親に預けられた子供たちの国際的スポークスマンに任命される。 2006年4月、フランス政府は映画業界に対するウィリスの貢献を称えた。 2006年10月16日、ウィリスはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名前を埋め込まれる。場所は 6915 Hollywood Blvd にあり彼は2,321番目に名前を加えたスターである。 ^ “Bruce Willis”. 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They Did What!? The Funny, Weird, Wonderful, and Stupid Things Famous People Have Done, Andrews Publishing, 2002. p. 55.この縁で、リンカーンのドキュメンタリー映画のナレーターを請け負った。 ^ Lawrence M. Hanks, Associate Professor – University of Illinois at Urbana-Champaign. ^ “Female Nomad and Friends Interview: Sandra Hanks Benoiton”. 2013年5月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月10日閲覧。 ^ Tom Hanks biography ^ “トム・ハンクス、初の短編小説を「ニューヨーカー」誌に発表”. 映画.com. (2014年10月24日). http://eiga.com/news/20141024/9/ 2014年10月24日閲覧。  ^ 米国家賞“ケネディ・センター名誉賞”にスティング、トム・ハンクスら billboard-JAPAN 2014/09/05 ^ “米大統領自由勲章にデニーロさん”. 共同通信 47NEWS. (2016年11月17日). http://this.kiji.is/171754995940409350?c=39546741839462401 2016年11月17日閲覧。  ^ トム・ハンクスが東京の居酒屋で自撮り→馴染みすぎているうえに、ジャパニーズヨッパライが全世界に拡散されてしまう!(笑) ^ Danny Leigh (2001年1月12日). “Desert island risks”. The Guardian (UK). http://www.guardian.co.uk/film/2001/jan/12/culture.awardsandprizes 2010年10月9日閲覧。  ^ “tom hanks”. US magazine. 2012年9月15日閲覧。 ^ Tom Hanks, E! 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Harrison Ford, Season 6, Episode 613. August 20, 2000. ^ “ハリソン・フォード、新『スター・ウォーズ』に出演決定!ハン・ソロが30年ぶりにカムバック!”. シネマトゥデイ. (2013年2月16日). http://www.cinematoday.jp/page/N0050326 2013年3月1日閲覧。  ^ “『インディ・ジョーンズ』最新作、1年延期 2020年7月全米公開へ”. シネマトゥデイ. (2017年4月27日). https://www.cinematoday.jp/news/N0091286 2017年11月1日閲覧。  ^ “ハリソン・フォードさんの小型機墜落 中程度のけが”. 日本経済新聞. (2015年3月6日). http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H2G_W5A300C1000000/?dg=1  ^ “H・フォード、20年来の妻と離婚成立”. シネマトゥデイ. (2004年1月9日). http://www.cinematoday.jp/page/N0004301 2013年3月1日閲覧。  ^ “ハリソン・フォード、8年間の交際を経てついに結婚!すでに挙式も終える”. シネマトゥデイ. (2010年6月17日). http://www.cinematoday.jp/page/N0025050 2013年3月1日閲覧。  ^ “Harrison Ford and Calista Flockhart Get Married!”. People. (2010年6月16日). http://www.people.com/people/article/0,,20394673,00.html  ^ ハン・ソロことハリソン・フォード、自殺しそうなチューバッカを救うwww【動画】 - AOLニュース ^ “レオ様、ハリソン・フォードら大物俳優の日本CM”. 日刊スポーツ. (2016年4月10日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1628767.html 2016年4月11日閲覧。  ハリソン・フォード - allcinema ハリソン・フォード - KINENOTE Harrison Ford - インターネット・ムービー・データベース(英語)" ]
ABC01-02-0109
999人の幽霊が住んでいるという設定の、東京ディズニーランドの人気アトラクションは何でしょう?
幽霊屋敷
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[ "幽霊屋敷", "三破風館", "ウィスタリア荘", "サセックスの吸血鬼", "金縁の鼻眼鏡" ]
[ "幽霊屋敷(ゆうれいやしき、英: haunted house)は、幽霊が出ると言われている屋敷のこと。お化け屋敷とも言われる。 「お化け屋敷」という用語は遊園地やテーマパークにある娯楽施設で用いられることが比較的多いので、最初から娯楽施設として造られた建物についてはお化け屋敷の記事において記述し、本記事では実際に出没するとされる建築物について記述する。 幽霊屋敷とは幽霊が出ると言われている屋敷のことである。「屋敷」というのは、第一義として、家が建っているひと区切りの土地のことで、土地に家屋を含んで指す言葉である。 「屋敷」の意味は、単に、家とそれが建っている一区画の土地、という意味であり、大きな家や邸宅、館(やかた)を示すこともあれば、小さな家の事を示す場合もある。よって、幽霊屋敷と言えば幽霊が出ると言われる小さな家(あるいは小さな家と小さな庭)である可能性はある。 最近では、「幽霊屋敷」をかなり広義に解釈して、いわゆる人が住む「家」ではなく、幽霊が出ると言われる建物全般まで指すような使われ方もしている。例えば、幽霊が出るとされる病院・工場・オフィスビル等々も指すことがある。 幽霊が出没するとされる建物は世界各地に存在している。イギリスのボーリー司教館 (en:Borley Rectory) 、ロンドン塔、ヘンリー8世の王宮であるハンプトン・コート・シャー宮殿、キラキー邸、バークリー・スクエア50番地、アメリカ合衆国のウィンチェスター・ミステリー・ハウス、マダム・ラローリー邸などが特に有名である。また米国のホワイトハウスにも幽霊がいくつか出没すると長らく噂されている(後述)。 幽霊が出没することを英語では「haunted ホーンテッド」と言い、幽霊が出没する建物は「ホーンテッド・ハウス」「ホーンテッド・マンション」などと言う。イギリスでは、今日でも幽霊が現れる建物が多数存在しており、歴史的に由緒がある建物などでは、歴史上の人物が幽霊として現れることがある。イギリス人たちは、無類の幽霊好きで、自分の家に幽霊が出ることを自慢しあう。幽霊ファンのような層が存在し、幽霊見学ツアーなどが行われている。近代の心霊研究もイギリスを中心に発展したが、その理由は、ひとつには、イギリス人の気質が知的な探究心旺盛なため、幽霊が現れるとされれば、それを怖がったりせず、積極的に知的に調べてみたがるため、とも言われている。 幽霊を自分の目で見てみたいと思っているイギリス人も多いので、イギリスでは幽霊が出るとの評判が高い住宅・物件は、通常の物件よりもむしろ高価で取引されていることもある。日本では、幽霊が出る建物となると、悪い噂になるなどと考えて、ひた隠しにしようとしてしまう傾向があるのとは、対照的である。 日本でも幽霊が出ると言われている廃屋や廃病院などが注目を浴びる事があり、怖い物見たさで現地を訪れる人々もいる。ただし、個人や法人の所有地・所有物であり、そうした場所に無許可で侵入するのは法的には違法行為ともされ、また管理や手入れが悪い所であれば事故につながる恐れもあるので、面白半分の探訪は諌められることもある。 これらの建築物を題材とした創作物が多数存在する(後述)。 ホワイトハウスは何人もの亡霊が現れる幽霊屋敷だという噂がある。古い幽霊は18世紀末まで遡る。ホワイトハウスは1800年、第2代大統領ジョン・アダムスの時代に完成したが米英戦争のさなかにイギリス軍によって焼かれ、再建することになり焦げた外壁を白く塗りつぶしたためホワイトハウスと呼ばれるようになった。アダムズ大統領夫人のアビゲイルはホワイトハウスが汚れていたためいつでも掃除をしていたが、死後もしばしば幽霊となって掃除に現れたという。次は、第4代大統領ジェームズ・マディソンの夫人ドリーにまつわるもので、ウッドロウ・ウィルソンの夫人エディスがホワイトハウスのバラ園の場所を移そうとした時、仕事を請け負った庭師の前に現れたという。なかでも第16代大統領エイブラハム・リンカーンにまつわる幽霊は特に有名で、第30代大統領カルビン・クーリッジの夫人グレースは、大統領執務室の窓のところに立つリンカーンを見たし、ホワイトハウスに滞在したオランダのウィルヘルミナ女王もホワイトハウスの寝室でリンカーンの亡霊を見たので、それをフランクリン・ルーズベルト大統領に話したところ、ルーズベルト夫人や秘書もリンカーンの亡霊を見たと述べたという。 2005年ギャラップ社がアメリカ合衆国、カナダ、イギリスの人々を対象に調査を行ったところ、それぞれ37%、28%、40%の人々が幽霊屋敷が実在すると考えていた。この数字は他の超常現象の実在を信じるとする数字よりも大きい。 石原孝哉『幽霊(ゴースト)のいる英国史』集英社新書、2003、ISBN 4087201961 中岡俊哉『私は幽霊を見た 体験者は語る』潮文社1995、ISBN 4806301418 三木孝祐『「幽霊見たい」名所ツアー―日本全国99のミステリー・スポット』二見文庫、1998、ISBN 4576981110 三木孝祐『幽霊がいる場所、教えます』竹書房、2007、ISBN 4812432413 ^ a b “幽霊屋敷(ユウレイヤシキ)とは”. デジタル大辞泉. コトバンク. 2018年10月30日閲覧。 ^ “屋敷(やしき)とは”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、デジタル大辞泉. コトバンク. 2018年10月30日閲覧。 ^ 『超常現象大事典』p.82 ^ 『超常現象大事典』p.82 ^ 『超常現象大事典』p.82 ^ 放送大学の英語の講座でも、イギリスのある一般市民夫婦が、「たまたま古い民家に住むようになったところ、奥さんが二階の階段のところに男の幽霊が立っているのが見えて驚いた。ところが後日旅行していたところ、偶然あるギャラリーでその男(幽霊)と顔がまったく同じ肖像画を見つけたことでその人物の名を知り、後日歴史を調べたら、まさにその男性が数百年前にその民家に住んでいたことが判った。それまで幽霊を信じなかったが、その出来事以降は信じるようになった」と、放送大学のカメラに対して、その夫婦らが誇らしげに語っていた回がある。 ^ 『世界怪異現象百科』原書房、1999、p.406 ^ 石原孝哉『幽霊(ゴースト)のいる英国史』集英社新書、2003、ISBN 4087201961。 ^ 『世界怪異現象百科』原書房、1999、p.406 ^ a b 三浦清宏 『近代スピリチュアリズムの歴史』 講談社、1994年。 ^ 石原孝哉『幽霊(ゴースト)のいる英国史』集英社新書、2003、ISBN 4087201961。 ^ 石原孝哉『幽霊(ゴースト)のいる英国史』集英社新書、2003、ISBN 4087201961。 ^ 『世界怪異現象百科』p.406 ^ ただし、米国では、ある人が幽霊が現れる物件を販売しようとした時に、購入希望者に幽霊が出るという事実を説明せず、新しい所有者がそれを知らないまま購入したものの後で幽霊が出ることに気づき納得がゆかず裁判に訴え、裁判所がそれを事実と認定し、物件の値下げを命ずる判決を出した事例は1件ある(それは公式の裁判記録として残っている) ^ 『超常現象大事典』p.76 ^ 『超常現象大事典』p.76 ^ 『超常現象大事典』p.76 ^ Lyons, Linda (2005年11月1日). “Paranormal Beliefs Come (Super)Naturally to Some”. Gallup Poll. Gallup. 2010年8月22日閲覧。 ^ Moore, David W. (2005年6月16日). “Three in Four Americans Believe in Paranormal”. Gallup Poll. 2010年8月22日閲覧。 廃墟 en:List of reportedly haunted locations フォックス姉妹", "「三破風館」(さんはふかん、The Adventure of the Three Gables)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち51番目に発表された作品である。イギリスの「ストランド・マガジン」1926年10月号、アメリカの「リバティ」1926年9月18日号に発表。1927年発行の第5短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』(The Case-Book of Sherlock Holmes) に収録された。 久しぶりに下宿を訪れたワトスンに、現在来ている依頼のことをホームズが話そうとしたところへ、大柄の黒人プロボクサーがいきなり押しかけてくるという激しい幕開け。 「三破風館」に住むメイバリー夫人は、屋敷に住み始めてから1年以上近所との付き合いもなかったが、依頼の3日前に突然、屋敷を丸ごと買い取りたいという申し出を受ける。弁護士に相談したところ、身の回りの品物を含めて何もかもという条件だったため、この申し出はご破算となる。 ホームズは最近屋敷に届いたものが怪しいと推理し、事件の前の月に肺炎で亡くなったという夫人の息子の荷物に目をつける。 冒頭でホームズが、脅しをかけにきた黒人プロボクサーに人種差別的発言をする描写があり、シャーロッキアンの間で問題になっている。グラナダ版では差別的なシーンはカットされ、違うものに差し替えられた。 ^ ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、185頁", "「ウィスタリア荘」(ウィスタリアそう、ウィステリア荘、The Adventure of Wisteria Lodge)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち38番目に発表された作品である。イギリスの「ストランド・マガジン」1908年9・10月号、アメリカの「コリアーズ・ウィークリー」1908年8月15日号に発表。1917年発行の第4短編集『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』(His Last Bow) に収録された。 「ストランド・マガジン」では分割で掲載され、9月号の前編が「ジョン・スコット・エクルズ氏の奇妙な体験」(The Singular Experience of Mr. John Scott Eccles)、10月号の後編が「サン・ペドロの虎」(The Tiger of San Pedro)という題名で発表された。「コリアーズ・ウィークリー」では一括掲載され、「J. スコット・エクルズ氏の奇妙な体験」(The Singular Experience of Mr. J. Scott Eccles)という題名が使用された。「ウィスタリア荘」と改題されたのは、短編集『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』に収録される際である。 スコット・エクルズ氏がエシャーのウィスタリア荘に招待され、歓待を受ける。ところが翌朝、主人のガルシアをはじめとして召使いたちがみんな消えてしまった。ガルシアはウィスタリア荘から1マイルほど離れたところで殺人死体となって発見され、警察はエクルズを容疑者として追及するが、エクルズ氏の話を聞いて事件の謎は深まっていく。 地元のベインズ警部は、夕食中に届いたという手紙を見つけ、暗号文のような内容をホームズたちに示す。ホームズは手紙の内容から、ガルシアが向かっていたのは近くの大きな屋敷であるとにらみ、地元の不動産屋に大きな屋敷のリストを挙げてもらう電報を打つ。 ベインズ警部は、ウィスタリア荘に戻ってきたガルシアの召使いの大男を殺人容疑で逮捕するが、ホームズはその男が犯人ではないと警部に警告する。ホームズはリストに挙げられた大きな屋敷の中から、怪しい屋敷に当たりをつけ、見張りをつける。 ホームズはワトスンとともに、この屋敷の女家庭教師の部屋に忍び込もうとするが、その前に屋敷の住人は逃げ出してしまう。女家庭教師は捕らわれ、一緒に連れ去られようとしていたが、見張りをしていたウォーナーが逃げ出してくる彼女をホームズのもとへ連れ出してきた。 正典では事件が起こった年を1892年としている。しかし、この年はホームズがライヘンバッハの滝壺に落ちて死んだ(最後の事件)と考えられている時期であり、明らかに誤った記述である。 研究者の中には、この事件が1890年に起きたものと考える者もいる。また、ホームズが帰還したのが1894年ではなくもっと前であることをワトスンが暗示させたものではないかと考える説もある(空き家の冒険#大空白時代)。 ^ シャーロック・ホームズ最後の挨拶 - アーサー・コナン・ドイル/深町眞理子 訳|東京創元社 ^ シャーロック・ホームズ最後の挨拶 A・C・ドイル、日暮雅通/訳 | 光文社文庫 | 光文社 ^ a b ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、52頁", "「サセックスの吸血鬼」(サセックスのきゅうけつき、The Adventure of the Sussex Vampire)は、イギリスの小説家アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち48番目に発表された作品である。イギリスの『ストランド・マガジン』1924年1月号、アメリカの『ハースツ・インターナショナル』1924年1月号に発表され、1927年発行の第5短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』(The Case-Book of Sherlock Holmes) に収録された。 日本語版では訳者により、「吸血鬼」と短縮された題名なども使用される。 私立諮問探偵のシャーロック・ホームズと、伝記作家で医師のジョン・H・ワトスンが共同生活を送るロンドンのベーカー街221Bへ、「吸血鬼」に関する調査依頼が持ち込まれる。依頼人のロバート・ファーガスンはワトスンの旧友だった。再婚した南米ペルー出身の妻が、自分が産んだ赤ん坊の首に噛み付き血を吸っている場面を、2度も目撃されているのだという。 ファーガスンは、妻との関係は良好だったが、吸血の場面を見られた妻は理由も話さず寝室に閉じこもってしまったと説明する。また、前妻の息子で15歳になるジャックと妻との仲は険悪で、妻がジャックに体罰を加えたこともあるという。ジャックは子どものころの事故で体が不自由になっていて、そのぶんファーガスンは溺愛しているらしい。 ホームズとワトスンは、サセックスにあるファーガスンの館を訪問する。館には多くの装飾品があり、妻が南米から持ってきた様々な道具や武器が飾られている。ホームズは、後ろ足が麻痺している飼犬のスパニエルに目を留めた。しばらく前に突然麻痺の症状が出たというが、原因は分かっていない。 妻は寝室に閉じこもったままで、医者であるワトスンだけを室内に入れる。妻はワトスンに、夫は自分を愛しているし自分も夫を愛していると語るが、吸血や体罰の理由は説明しない。ジャックは父親の帰宅を喜ぶが、ホームズとワトスンには敵意のこもった視線を向けた。ホームズは傷口を調べるため赤ん坊を呼び、ファーガスンは赤ん坊を抱きかかえてあやしはじめる。そのときワトスンは、ホームズが庭に面した窓に視線を向け非常に集中した表情をしていることに気づく。 ジャックが部屋を出て行くと、ホームズは結論に辿り着いたとファーガスンに言う。実はベーカー街を発つ前から真相を推理していて、この館での調査で確信したのである。ホームズが短いメモを寝室の妻に届けさせると、閉じこもっていた妻は、夫にもホームズにも会うと答えた。ホームズは夫婦の前で、推理の展開を話す。吸血鬼など存在しないという前提に立つと、妻が唇に血をつけて赤ん坊の側にいたという事実には、血を吸うためではなく別の意味があったと考えられる。それは、女王の伝承にあるような、傷口から毒を吸いだすための行為だったのではないか。ホームズは、妻が南米出身であるところから、クラーレなどの毒が塗られた武器が館にあると推理したのである。 館でホームズは装飾品の中に空の矢筒を見つけ、麻痺を起こした犬も見つける。これらの観察から、犯人が毒の塗られた矢を使ったこと、赤ん坊に毒を用いる前に犬で実験したことを確信する。そして、妻が何も話そうとしないのは、ファーガスンが溺愛しているジャックが犯人であるからに他ならない、と真相を見抜いたのだった。ファーガスンが赤ん坊をあやしていた時、ホームズは窓に映っていたジャックの赤ん坊に対する憎悪の表情を見ていた。ジャックは自分と違って健康な赤ん坊へ憎悪をつのらせていたのである。 妻がジャックに体罰を加えたのは、赤ん坊へ危害を加えたジャックが許せなかったからだが、ファーガスンが傷つくことをおそれ、自分の口から説明することはできなかった。そこへホームズから全てを承知しているというメモが届いたのである。ホームズは、ジャックを1年ほど海で過ごさせてはどうかと対処法を提案し、ワトスンと共に館を立ち去るのだった。 ホームズが言及している女王(クイーン)とは、第3回十字軍の際に夫の傷口から毒を吸いだしたという逸話を持つ、エドワード1世の王妃エリナー・オブ・カスティルのことである。ただしこの逸話は、アルフレッド・S・E・アッカーマンの『通俗的誤謬』によれば史実ではない。その起源はスペインにあるという。 ジョージ・B・コーエル博士によれば、クラーレの毒は経口ではほとんど吸収されない。そのため、赤ん坊から毒を吸いだした妻が影響を受ける危険はなかった。 また、クラーレの影響は致死量に達しなかった場合1日で消えてしまうので、スパニエルの後ろ足の麻痺については、別の原因があると考えられている。コーエル博士と薬物学協会会員のF・A・アレンは、その原因を矢で刺されたことによる外傷性のものや、坐骨神経への二次的伝染によるものなどと推測している。 作中、このスパニエルについて、「尻尾を床に引きずっている」という描写があり、スパニエルは断尾をするはずなのでおかしいという指摘がある。 日本のシャーロキアン遠藤東樹は、犬好きの者ならこのスパニエルがアイリッシュ・ウォーター・スパニエルのことだと、すぐに分かるとしている。 ブラム・ストーカーは1897年に『ドラキュラ』を発表した小説家で、ドイルと親交があった。ドイルはワーテルローの戦いを題材にした戯曲「ウォータールー」を書き、ヘンリー・アーヴィングへ送ったことがある。当時アーヴィングの秘書をしていたブラム・ストーカーが、上演権を買い取りたいという返事を出し、この時から親交が始まったのだった。笹野史隆は、『ドラキュラ』に対してドイルがブラム・ストーカーへ賞賛の手紙を送っていることにふれ、「サセックスの吸血鬼」について「『吸血鬼ドラキュラ』があってこそ書かれたものであろう」と記している。 冒頭、自前の索引帳で吸血鬼について調べたホームズは「狂気の沙汰だ」と評するのだが、W・W・ロブスンはこれが1922年の映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』を見たドイルの感想なのではないかと推測している。この映画は小説の『ドラキュラ』を参考にしているにも関わらず、ブラム・ストーカーに対する謝辞が存在しなかった。 ワトスンによれば、電報が使える場所にいる限り滅多に手紙など書かない男だった、というホームズが手紙を書く、珍しい作品の一つである。ホームズは、この問題を最初に持ち込んだモリソン・モリソン&ドット社に、「吸血鬼に関して (Re: Vampire)」として返信している。その全文が明らかになっているホームズの手紙は、「最後の事件」でワトスンに宛てたものを別にすれば、この1通のみである。 新潮文庫版の解説では、本作は雑誌に発表されず単行本に差し加えられたとされているが、誤りである。前述の通り初出は雑誌である(2000年6月の版から修正された)。 ^ ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、135頁 ^ 原文 Was there not a queen in English history who sucked such a wound to draw poison from it? ^ a b c d e コナン・ドイル著、ベアリング=グールド解説と注『詳注版 シャーロック・ホームズ全集8』小池滋監訳、筑摩書房〈ちくま文庫〉、1997年、139-195頁 ^ a b c d コナン・ドイル著、W・W・ロブスン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第9巻 シャーロック・ホームズの事件簿』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、2002年、457-463頁 ^ 原文 Its hind legs moved irregularly and its tail was on the ground. ^ 遠藤東樹「犬(1)」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、55-56頁 ^ アイリッシュ・ウォーター・スパニエルは、スパニエルの中で唯一断尾されない犬種である。 ^ 笹野史隆「ウォータールーの戦い」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、86-88頁 ^ 原文 It's pure lunacy. 『サセックスの吸血鬼』:新字新仮名 - 青空文庫(大久保ゆう訳)", "「金縁の鼻眼鏡」(きんぶちのはなめがね、\"The Adventure of the Golden Pince-Nez)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち34番目に発表された作品である。イギリスの『ストランド・マガジン』1904年7月号、アメリカの『コリアーズ・ウィークリー』1904年10月29日号に発表。1905年発行の第3短編集『シャーロック・ホームズの帰還』(The Return of Sherlock Holmes) に収録された。 1894年11月の終わり、ヨックスリー・オールド・プレースのコーラム教授の屋敷で、秘書のウィロビー・スミス青年が首をナイフで刺されて死亡した。スミス青年は死の間際に「先生、あの女です……」という言葉を残し、手には犯人のものと思われる金縁の鼻眼鏡を握りしめていた。 ホプキンズ警部がシャーロック・ホームズのもとに捜査協力の依頼に訪れるが、ホームズはその鼻眼鏡を見ただけで持ち主の特徴を言い当て、ホプキンズを驚かせた。 翌朝、ホームズたちは現場に行き、犯人が通ったと思われる草の上を観察した。そこは小道と花壇の間で、どちらに足を踏み外してもくっきりと足跡が残ってしまう場所だった。 コーラム教授の部屋では、教授に勧められたたばこを気に入ったのか、ホームズは何本ものたばこをふかした。 その後、再びコーラム教授の部屋を訪れたホームズは、たばこの缶を落として、床にばらまいてしまう。しかし、全員でたばこを拾い集めるうち、ワトスンはホームズの目が輝いて頬が紅潮しているのに気づいた。事件の真相をつかんだのだ。 ^ ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、100頁" ]
ABC01-02-0110
東京モスリン亀戸工場で働く女性の悲惨な姿を描いた、細井和喜蔵の記録文学は何でしょう?
女工哀史
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[ "女工哀史", "真鶴 (志賀直哉の小説)", "道草 (小説)", "きりしとほろ上人伝", "小説総論" ]
[ "『女工哀史』(じょこうあいし)は、1925年(大正14年)、改造社より刊行された細井和喜蔵著のルポルタージュ。 紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録したルポルタージュ。またこれによって世に知られるようになった過酷な労働それ自体についてもこの語が用いられるようになった。 自身の機械工としての経験と、妻としをの紡績工場での労働経験を基本とした記述という面からは、この著作は、細井和喜蔵と妻としをの共同作業の産物ともいえる。  細井和喜蔵 蟹工船 あゝ野麦峠 - 『女工哀史』当時の製糸工場の女工たちをテーマに描いた山本茂実のノンフィクション。「悲惨さ」に頼らず社会的背景も分析する。 働く女性 近江絹糸争議 天満紡績争議 ブラック企業", "『真鶴』(まなづる)は、1920年(大正9年)、志賀直哉によって書かれた短編小説。タイトルとなった神奈川県真鶴町を舞台とする。 伊豆半島の年の暮れ、日が暮れる頃十二、三になる男の児が弟の手を引き海岸の高い道を歩いている。彼は二人の下駄を買うために小田原にいったのだが、憧れの水兵帽を店先で見つけ、二人分の下駄の代金に相当する金額をはらって買ってしまう。「彼」は、弟の疲れにも気づかず恋に悩んでいる。その想いを寄せる相手は法界節の女だった。やがて弟の疲れ切った様子に気づき、弟を背負って歩くうちに「彼」は迎えに来た母親と会う。「彼」の背で寝ていた弟が目を覚まし、母親の存在に気がついて暴れだすと「彼」は自分がかぶっていた水兵帽を弟にかぶせる。 「彼」 十二、三になる男の児。真鶴の漁師の子、色黒で頭が大きい。 弟 「彼」の弟。 小学校の教員 「彼」が通っている小学校の教員。 女教員 「彼」が通っている小学校に新しく来た若い教員。 叔父 「彼」の叔父。元、根府川の石切り人足、今は海軍の兵曹長。 法界節の男 四十くらいの眼の悪い男。琴をならす。 法界節の女 法界節の男の女房らしい女。顔から手から真っ白に塗り、月琴を弾いている。 法界節の少女 「彼」と同い年くらい。貧相な顔に所斑な厚化粧をしている。小さな拍子木を打ち鳴らし、唄う。 父 「彼」の父親。短気。 母親 「彼」の母親。「彼」を迎えに来る。 志賀直哉『清兵衛と瓢箪・小僧の神様』2011年6月6日 第7刷 集英社", "『道草』(みちくさ)は、夏目漱石の長編小説。「朝日新聞」に、1915年6月3日から9月14日まで掲載された。 「吾輩は猫である」執筆時の生活をもとにした漱石自身の自伝であるとされる。主人公の健三は漱石、金をせびりに来る島田は漱石の養父である塩原昌之助であるという。 私小説風のため、小宮豊隆らからはあまり勧められないなどと書かれ、不評であった。しかし、これまで漱石のことを余裕派と呼び、その作風・作品に批判的であった、いわゆる自然主義と呼ばれる作家達からは高く評価された。 留学から帰った健三は大学教師になり、忙しい毎日を送っている。だがその妻お住は、夫を世間渡りの下手な偏屈者と見ている。 そんな折、かつて健三夫婦と縁を切ったはずの養父島田が現れ金を無心する。さらに腹違いの姉や妻の父までが現れ、金銭等を要求する。健三はなんとか工面して区切りをつけるが、最後に「世の中に片付くなんてものは殆どない」と吐き出す。 『道草』:新字新仮名 - 青空文庫 『道草』 - 国立国会図書館", "『きりしとほろ上人伝』(きりしとほろしょうにんでん)は、芥川龍之介が1919年(大正8年)に雑誌『新小説』誌上に発表した小説である。 キリスト教の聖人伝説集『レゲンダ・アウレア』(黄金伝説)に登場する聖人クリストフォロスの生涯を翻案した小説。キリシタン版の『天草本伊曾保物語』(1594年刊)で使用されている、戦国時代の京阪地方における話し言葉を引用した文体に特徴がある。芥川の小説におけるジャンル「切支丹物」の傑作とされる。 遠い昔、「しりあ」の国の山中に、「れぷろぼす」という名の心優しい大男が住んでいた。彼は常々、この世の中で一番強いものに仕えたいと考えていたが、世間知らずで誰が一番強いのかわからない。日ごろ親しくしている樵に尋ねると、「あんちおきやの帝ほど、武勇に富んだ大将もおじゃるまい」と教わる。そこでれぷろぼすは山を下りて都に上り、帝の家来になる。 れぷろぼすは強大な肉体を生かして合戦で大手柄をたて、帝に認められ、大名に取り立てられる。しかし戦勝の祝宴で、琵琶法師の詠う物語を聞く帝が「じゃぼ」(悪魔)という言葉を恐れ、しきりに十字を切るさまを見て、帝王よりも悪魔が強いことを悟り、「それがしはこれよりまかり出で、悪魔の臣下と相成ろうず」と宣言し、怒った帝に投獄される。牢獄の中で呻いていたれぷろぼすは、現れた悪魔に助け出される。悪魔はれぷろぼすを連れてえじっとへ飛び、砂漠に庵を結んで修行する隠者を美女の姿で誘惑しようとする。しかし「業畜、御主『えす・きりしと』の僕に向って無礼あるまじいぞ」の叫びと共に十字架に打たれ、退散してしまう。 帝王よりも、悪魔よりも強い「えす・きりしと」の存在を知ったれぷろぼすは、その下僕になりたい旨を隠者に相談するが、かつて悪魔の家来だった者は、枯木にバラでも咲かない限り、神の僕になれない掟である。そのうえ無学で教典も読めず、大食いで断食も出来ず、寝坊で徹夜の修行も出来ないと云うれぷろぼすに隠者は困るが、身の丈3丈もある彼を見込み、近隣の大河の渡し守を務めさせることを思いつく。旅人の通行を助ければ、その心根が自然と天主に見出されるだろうという考えからだった。隠者に洗礼を施されたれぷろぼすはこうして「きりしとほろ」と名を改め、大河の渡し守となる。 それから三年の間、きりしとほろは大河のほとりに庵を結び、渡し守として旅人の便宜を図っていた。河を渡ろうとする者がいるとその者を肩車し、柳の大木を引き抜いた杖をつき、向こう岸に渡すのである。ある嵐の夜、「河を渡してください」と小屋の戸を叩く者がいた。きりしとほろが外に出ると、一人の幼い少年である。なぜこんな子供が嵐に一人で河を渡ろうとするのか不審に思うが、きりしとほろは少年を肩に乗せ、河に踏み込んだ。 すさまじい風雨と濁流に加え、奇怪なことに背負った少年の体が次第に重くなり、あまりの重さに一時を死を覚悟するが、きりしとほろは必死で目ざす岸へと急ぎ、ようやく対岸に、喘ぎ喘ぎよろめき上がった。彼が少年を肩から降ろして「さてさて、おぬしの重さは、はかり知れぬぞ」と息をつくと、少年はにこりと微笑み「さもあろう。おぬしは今夜、世界の苦しみを背負った『えす・きりしと』を、背負いぬいたのだ」と、鈴を振るような声で答えた。 その夜を境に、この河のほとりからは大男の姿が消えた。ただ残ったのは向こう岸に突き立った柳の杖で、その周りには、赤いバラの花が咲き乱れていた。 心の貧しい者は、幸いなるかな。天国は彼らのものなり。 『きりしとほろ上人伝』:新字旧仮名 - 青空文庫", "『小説総論』(しょうせつそうろん)は、二葉亭四迷の文芸評論。1886年(明治19年)、「中央学術雑誌」に発表。 坪内逍遥に影響を受け、さらに批判的に内容を深め『小説神髄』の欠点を補う。非常に短いが日本の近代小説成立の上で『小説神髄』と並んで重要な評論。 形(フォーム)と意(アイデア)の2つの用語を使って小説を整理した。小説は浮世の様々な形を描くことで意を直接に表現すべきものであるとしてリアリズムを主張し、作為的に善悪の二極を設定する勧善懲悪の物語を批判した。また、いたずらに形のみを描いて意を描けていない小説は下手であるとして、形に対する意の優位を示している。 『小説総論』:新字新仮名 - 青空文庫" ]
ABC01-02-0111
大相撲の番付で、所属する力士の数が最も多い位といえば何でしょう?
序二段
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[ "序二段", "三段目", "小結", "幕下", "十両" ]
[ "序二段(じょにだん)は、大相撲の番付の1つ。三段目の下、序ノ口の上。 呼称の由来は、番付表の下から2段目に書かれることに由来する。上から数えたら4段目であるため、江戸時代には「四段目」と呼ばれていた。15日間で7番の相撲を取る。 三段目以上とは異なり定員は決まっておらず、人数は毎場所変動する。1990年代前半は新弟子が激増したために200枚を超えることもあった。2018年5月場所現在までの最多枚数は1994年(平成6年)5月場所における210枚(延べ420人)である。大半の場所で三段目に在位する力士数を上回り、全段で最も多くの力士が在位するが、2007年の時津風部屋力士暴行死事件・2010年の大相撲野球賭博問題・2011年の大相撲八百長問題など不祥事が続発して以降、力士数が顕著に減少し、2013年(平成25年)1月場所では、1979年(昭和54年)3月場所以来34年ぶりに東西で100枚未満となり、三段目に在位する力士数を下回った。平成以降の最小枚数は2014年(平成26年)3月場所における89枚(延べ178人)である。序ノ口との比率について、規定は明文化されていないが、21世紀以降は5月場所のみ序二段75%に対し序ノ口25%、5月場所以外は序二段80%に対し序ノ口20%が目安とされている。 優勝賞金は20万円。大相撲本場所の幕下以下の取組でスイス式トーナメントを導入している関係上、力士数が多い序二段では、大半の場所で7戦全勝の力士が現れる。全勝力士が2人現れて千秋楽に全勝同士の優勝決定戦が行われる場所もしばしばである。2013年3月場所では様々な要因が相重なり、34年ぶりに全勝力士が不在になった。 序二段に限らず、「番付は生き物」と俗称されるように、成績と翌場所の地位との関係は一定ではない。1990年代以降の番付編成の傾向をみると、以下の成績を上げれば翌場所の三段目昇進は確実とされる。 20枚目以内で4勝以上。 35枚目以内で5勝以上。 70枚目以内で6勝以上。 71枚目以下で7戦全勝(優勝の有無を問わず、無条件で昇進)。 しかし、1967年3月場所に東序二段81枚目に在位し、7戦全勝で優勝を決めた伊勢ノ海部屋の河野山朝雄は、翌1967年5月場所に敢行された番付削減の影響により三段目に昇進できず、同場所も東序二段9枚目に据え置かれた。幕下以下1場所7番制が定着した1960年7月場所以降、序二段で全勝した力士が翌場所も序二段に留まったケースはこれが唯一とされる。 序ノ口への陥落についてはさらに流動的で、特に翌場所に大量の新弟子が序ノ口に登場する5月場所は、序二段で負け越しても、序二段下位で全敗あるいは全休でもしない限り陥落せず、逆に序ノ口で負け越した力士までが新弟子に押し上げられる形で序二段に昇進するケースも多い。 1950年代までは、場所前半の前相撲で新序の資格を得た優秀な新弟子は場所後半に序ノ口の取組に出場し、さらに次場所でいきなり序ノ口を飛び越して序二段の番付に載せたことがあった。現在は前相撲出場力士が序ノ口力士と対戦することはないため、前相撲に出場した力士は必ず1場所以上の序ノ口経験を必要としている。 いずれも、2018年3月場所終了時点の記録である。 序二段以下まで陥落した元幕内の力士は、男嶌・騏乃嵐・佐嘉昇・玉海力・若ノ城・鳥羽の山・琉鵬・舛乃山の8人おり、このうち琉鵬と舛乃山は序ノ口まで陥落した。なお、当該8人に陥落後幕内に再昇進した力士はいない。 1909年6月場所に大相撲の優勝制度が設けられて以降、序二段優勝を3回以上記録した力士は1人もおらず、2回記録した力士も鶴ノ富士・朝陽丸・慶天海・栃飛龍をはじめ11名しかいない。そのうち5名は2回目の優勝を記録する前に十両もしくは幕下上位への在位を経験し、負傷や疾患による休場で序二段まで番付を降下させ、復帰直後に優勝した。 優勝を伴わない7戦全勝も含めると、春日野部屋の棟方弘光(1993年7月場所・1994年3月場所・2002年11月場所でいずれも決定戦敗退)の3回が最多記録である。 序二段に在位した場所数が最も多い力士は、北の湖部屋の北斗龍定裕で現役生活186場所中151場所在位した。 序ノ口から序二段に昇進した回数が最も多い力士は、二所ノ関部屋の笠力充将で34回記録した。 ^ 当場所では序ノ口も69枚(69枚目は東のみ・延べ137人)存在し、序二段・序ノ口の合計人数も史上最多の延べ557人となっていた。 ^ 同部屋・力士間の親族関係など、厳密な規定を無視すると、スイス式トーナメントでは出場力士128名中1名が必然的に7連勝となる。 ^ 1991年11月場所から2001年1月場所までは、56場所連続で序二段に全勝力士が複数現れ、全勝同士の優勝決定戦が行われていた。 ^ 当場所の序二段の枚数は東西94枚まで減少し、必然的に6番相撲まで連勝を続ける力士が2~3名となり得る状況であった。更に、初戦から6連勝した力士が序ノ口には1名しかおらず(後の幕内・石浦)序二段には2名、三段目には3名(そのうち番付最下位の力士が元幕内・土佐豊)おり、審判部が星違いの対戦を避けるためにか序二段の両者を直接対戦させず、「石浦-(6連勝力士の下位の方)」、「(6連勝力士の上位の方)‐土佐豊」の割を組み、いずれも序二段側が敗れたため序二段の全勝力士不在という珍事に至った。 ^ 6勝1敗が元十両・飛天龍を含め9人。 ^ 河野山は最終的にこれを自己最高位として、三段目に昇進することなく廃業したため、史上初の三段目以上に在位することなく引退した序二段優勝経験者とされる。 ^ 序二段も大量増員されるため、序二段の中で番付は下がる。 ^ a b 騏乃嵐及び玉海力は序二段に陥落した場所前に引退し、番付に掲載されたのみで出場はしなかった。 ^ 当場所の序二段優勝は、後の小結・時天空だった。 ^ 2016年より山響部屋 力士養成員 相撲用語一覧", "三段目(さんだんめ)は、大相撲の番付の階級。幕下の下、序二段の上。 呼称の由来は、番付表の上から「三段目」にその位の力士の四股名が書かれることに由来している。15日間で7番の相撲を取る。 現在の定員は東西100人ずつの計200人である(1984年1月場所以降)。ただし三段目最下位格付出の力士はこれに含めない。 前相撲から最速3場所で昇進することが可能である。三段目力士ともなれば、いわゆる「お相撲さん」らしいしっかりした体格になり入門当初と比べても見違えるほどであるが、三段目から上を目指すには体格や素質だけでなく、優れた運動能力や技量がさらに要求されるため、部屋での稽古も激しく、より実戦的なものになる。その意味でも、三段目で優れた成績を挙げ続けられるかを、将来関取に昇進できる可能性があるかの見極めに用いる部屋が多い。 三段目の地位から雪駄を履くことが許される。また、最高位三段目以上かつ日本相撲協会在籍5年以上の実績を満たした満20歳以上の者には、「相撲指導適格者」の取得要件が与えられる。 優勝賞金は30万円。大相撲本場所の幕下以下の取組ではスイス式トーナメントを導入している関係上、三段目の定員が200人と定められて以降すべての場所で7戦全勝の力士が現れており、全勝力士が2人現れて、千秋楽に全勝同士の優勝決定戦が行われる場所もしばしばである。三段目で全勝力士が不在となり、6勝1敗同士の優勝決定戦が発生したケースは、幕下以下の本割が1場所7番と定められた1960年7月場所以降、3例(1964年9月場所の若北海・1970年11月場所の青葉山・1974年1月場所の弘乃海)しかない。 2015年5月に三段目最下位格付出制度が新設され、翌年3月場所に2人の力士が初土俵を踏んだ。 三段目に限らず、「番付は生き物」と俗称されるように、成績と翌場所の地位との関係は一定ではない。平成以降の番付編成の傾向をみると、以下の成績を上げれば翌場所の幕下昇進は確実とされる。 10枚目以内で4勝以上。 25枚目以内で5勝以上。 50枚目以内で6勝以上。 51枚目以下で7勝(優勝の有無を問わず、無条件で昇進)。 いずれも、2018年11月場所時点の記録である。 三段目優勝の回数は3回が最多であり、若ノ城宗彦(1993年3月場所・2001年9月場所・2002年11月場所)が記録した。但し、優勝を伴わない7戦全勝も含めると、高砂部屋の川口由貴(1994年9月場所・1995年5月場所で決定戦敗退、2002年5月場所で優勝)・玉ノ井部屋の唐津海誠二(2011年9月場所で優勝、2016年3月場所で決定戦敗退、2018年5月場所で優勝) 三段目まで陥落した元三役(大関・関脇・小結)の力士は、元大関照ノ富士・元関脇出羽ヶ嶽・元小結大豊・元関脇栃赤城・元小結巴富士・元小結千代天山・元小結時天空・元小結常幸龍・元小結千代鳳の9名。なお、照ノ富士は2018年11月場所で大関経験者として(江戸時代の看板大関などのケースを除けば)史上初めて三段目(西27枚目)に陥落し、自己の持つ大関陥落後の番付降下記録をさらに更新した。 三段目に在位した場所数が最も多い力士は、富士ノ風真弘で95場所在位した。 序二段から三段目に昇進した回数が最も多い力士は、田子ノ浦部屋(旧・鳴戸部屋)の輝の里一輝で20回記録した。 ^ 相撲診療所の医師である林盈六は、著書『相撲診療所医師が診た力士たちの心・技・体 』(法研、1996年12月)の中で、「幕内から序ノ口までの力士の中で、最も体脂肪率が高いのが三段目力士である」と明らかにした。 ^ 中島隆信『大相撲の経済学』(東洋経済新報社、2003年9月)では、前掲の林医師のデータを分析し、「三段目が出世の分かれ目」と説く。三段目は将来関取に昇進できる見込みの少ない力士が滞留する地位であるとしている。 ^ 同部屋・力士間の親族関係など、厳密な規定を無視すると、スイス式トーナメントでは出場力士128名中1名が必然的に7連勝となる。 ^ 川口は当場所直後(番付編成会議の期間中)に引退したため、番付に在位した最終場所を各段優勝という、非常に珍しい経歴を残した。 ^ 決定戦の対戦相手は当場所三段目格付出で初土俵を踏み、後に豊山の四股名で幕内に在位する小柳亮太だった。 ^ 栃赤城は三段目に陥落した場所前に引退し、番付に掲載されたのみで出場はしなかった。 ^ a b 巴富士及び時天空は三段目陥落後2場所連続で全休してそのまま引退。実際に三段目の土俵には上がらなかった。 ^ 常幸龍はその後三段目まで陥落した元三役としては史上初めて関取復帰を果たした。 力士養成員 相撲用語一覧 藤田川藤介 明治時代の力士で最高位が三段目、引退後は世話人を務めた。力士としての実績は皆無で相撲にも無気力であったが比類なき吝嗇家で知られ、「とうすけ」という隠語が相撲用語として現在残っている。", "小結(こむすび)とは、大相撲の力士の地位の一つ。関脇の下、前頭の上。三役の最下位。幕内に属し、幕内の地位の中では横綱から数えると第四位に当たる。 呼称の由来やその語源はわかっておらず、諸説があるにとどまる(最も一般的に広まっている説では、「小口の結び」からきているという)。本場所では幕内力士として15日間毎日取組が組まれる。 江戸時代の大相撲初期からある地位であり、必ず最低2名(東西1名ずつ)はおかれなければならない。昇進のための規定は特に設けられておらず、昇進要件が特に厳格である横綱・大関を除いた力士のうち、前場所の番付と成績を加味して上位2名が関脇、その次の2名が小結となることが多い。ただし、「番付は生き物」と俗称されるように、他の力士との兼ね合いによって番付は左右される。特に、小結は定員が少なく、さらに昇進の枠が限られてくるため、運・不運がものを言う。 関脇に比べると小結の地位で3人以上(以前の張出)が出ることは少ない。2006年11月場所に4小結(稀勢の里・黒海・安美錦・露鵬)となったが、それを最後に3小結以上の番付は現在に至るまで出ていない。近年の番付では東前頭筆頭の勝ち越しが昇進として最優先される傾向が強くなり、昇進枠が少ない場合、それより下の番付で単純計算で東前頭筆頭の力士を上回る成績を挙げたとしても、小結に昇進できない事例が見られるようになった。 小結から関脇への昇進は、関脇に負け越した力士がいなかったり、関脇の大関昇進によって三役の枠に空きが出なかったりした場合は小結で勝ち越していてもその地位に据え置かれることが多いが、おおむね11勝以上の好成績を挙げた場合は、たとえ関脇が全員勝ち越していても関脇昇進する(翌場所、関脇が3人以上に増える)。逆に小結で負け越せば、原則としてすぐ平幕へ陥落する。 逆に、上位陣が軒並み負け越した場合には、前頭中位から下位で大勝ちした力士を昇進させることがある。過去には前頭5枚目で8勝7敗だった力士の昇進例がある。 平幕から小結を飛び越えて関脇に昇進する場合や、関脇から小結を通り越して平幕に陥落する場合があるため、小結よりも先に関脇を経験する力士(逸ノ城・琴勇輝・正代など)、関脇を経験したが小結には在籍しないまま引退する例(追風海・北勝力など)がある。 大関の昇進基準の目安は「3場所連続で三役にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」であるため、小結での勝ち越しは後の大関昇進を検討する際に起点の成績とみなされる。平成以降大関に昇進した力士で昇進3場所前が平幕だった力士は照ノ富士と栃ノ心のみである。戦前までは小結で優勝に近い成績を挙げて、関脇を飛び越して大関に昇進することもあったが、戦後においては全くない。1991年11月場所の小結・琴錦は、前場所に平幕優勝を飾っており、この11月場所の終盤で、琴錦が2場所連続優勝を果たせば、関脇を飛び越えて大関の地位に抜擢も検討するという声も上がったものの、結果的に琴錦は優勝を逃したために昇進の話題は出なかった。 近年の慣例として、小結は、初日に横綱との対戦が組まれる。西小結は東横綱と、東小結は西横綱との対戦が組まれる場合が多い。 協会からの給料は、三役と扱われ、関脇と同額である。 四股名は優勝当時の四股名。 成績の()内は優勝同点力士。星は優勝決定戦。同制度は1947年(昭和22年)6月場所から導入、それ以前の優勝同点は上位者優勝。武藏山には他に小結での優勝同点がある(昭和5年10月場所)。 武藏山の時代には2場所ごとの成績で番付編成が行われており、翌1932年(昭和7年)1月場所で西大関。この場所は春秋園事件のために開催されず、武藏山も一時脱走するがすぐに帰参し、同2月場所では西大関で5勝3敗。 沖ツ海は現役死。 安念山は新三役で優勝。 2019年1月現在。 ☆は2019年現時点で現役。 ※は年6場所制定着以前の入幕。 小結が最高位の力士としては富士錦の10場所が最多。 2018年現在。 ※は年6場所制定着以前の入幕。 番付上に小結が最も多く同時に在籍したのは4人で、現在までに14例がある。1961年9月場所から1962年1月場所まで3場所連続で4小結が続いたことがある(3場所とも小結だったのは岩風と冨士錦で、あとの顔ぶれは毎場所入れ替わった)。 ^ 戦後、小結の地位で11勝以上挙げた力士で翌場所も小結に据え置かれた事例はない。 小結一覧", "幕下(まくした)は、大相撲の番付の階級。十両の下、三段目の上。 呼称の由来は、十両のなかった時代には幕内のすぐ下の階級であったため。番付では上から二段目に記載されるため、正式名称は「幕下二段目」。江戸時代には十両の地位が存在しなかったことから、幕下に位置していても、幕内力士との対戦が組まれていた。現在では十両創設以降の「十両」「幕下」と区別して十両創設以前の時代(江戸時代から明治初期)の幕下を「二段目」と呼ぶことがある。 15日間連日取り組みのある関取とは異なり、通常15日間で7番の相撲を取り、十両力士との対戦が絡む場合を除いては初日か二日目に一番相撲、三日目か四日目に二番相撲と言った具合に2日に1番ずつ相撲を取る。ただし、七番相撲は十三日目・十四日目・千秋楽の3日間のうちいずれかで取る。また、5戦全勝力士の六番相撲は十一日目に、6戦全勝力士の七番相撲(全員敗れて全勝力士がいなくなる可能性がある場合は5勝1敗の力士も)は十三日目に固定されている。なお、幕下以下の出場する全力士が6番相撲を取り終えた時点で七番相撲に出場する力士数が奇数となった場合は、1人だけ八番相撲が組まれることもある。 定員は東西60人ずつ、合計120人(1967年5月場所以降)。ただし幕下付出の力士については定員に含めない。優秀な力士は前相撲から最速4場所で昇進することも可能である。 関取(十両以上)を窺う地位であり、十両への昇進を目指す者と十両下位の力士との間で、最も競争の厳しい地位でもある。力士として一人前に扱われる関取と、力士養成員扱いの幕下以下とでは、その待遇に雲泥の差があるため、俗に「十両と幕下は天国と地獄」とまで言われる。そのため関取で長く活躍してきた力士は、幕下に陥落したのを潮に引退することも多い。ただ、幕下に昇進すると博多帯(博多織の帯)と冬場のコートを着用でき、中でも将来有望と見込まれた力士は稽古に専念させるためちゃんこ番などの雑用を免除する部屋もある等、三段目との待遇差も一目瞭然である。 幕下25枚目以上は本場所の場内で入場者に配布される当日の取組表の裏に印刷される星取表に掲載される。さらに幕下15枚目以内は成績次第で十両昇進の可能性が見えて来ることから俗に幕下上位と呼ばれる。21世紀以降は昇進競争が激化し、幕下上位に在位する力士の多くが関取経験者という事態がしばしばみられる。十両土俵入りから幕下最後の取組までの5番は特に幕下上位五番(後述)と呼ばれる。 優勝賞金は50万円。大相撲本場所の幕下以下の取組では、スイス式トーナメントを導入している関係上、定員が120人の幕下では、6番相撲まで6連勝した力士2人が相星決戦の末に、勝者が7戦全勝で幕下優勝となるケースが大半であるが、休場力士が続出したり、6連勝した力士2人が同部屋のため相星決戦が組めず両者共に星違いの力士に敗れたりして、全勝力士が不在になり、6勝1敗の力士複数名による優勝決定戦が行われるケースも稀に発生する。 逆に、6連勝した力士2人が同部屋だったり、番付が著しく離れていたりしたため相星決戦が組めなかった際に、両者共に星違いの力士に勝利して、全勝同士の優勝決定戦が行われるケースも更に稀に発生する。 なお、平成後期以降では6連勝した力士2人の相星決戦の際には場内アナウンスで力士、行司、呼出しの紹介の後で「なお、この取り組みの勝者が今場所の幕下優勝です。」とアナウンスされる。 幕下に限らず、「番付は生き物」と俗称されるように、成績と翌場所の地位との関係は一定ではない。特に幕下では上位ほど、十両から陥落する力士数や十両以上の引退力士の有無によって大きく左右される。1967年5月場所の幕内及び十両の定員改定に伴い導入された十両昇進に係る唯一の内規に、幕下15枚目以内で7戦全勝した力士を優先的に十両昇進させるというものが存在する。この内規は、7戦全勝同士の優勝決定戦で優勝を逃した場合にも適用される。 幕下15枚目格付出に内規が適用するかは定かではなかったが、2006年5月場所に幕下15枚目格付出で全勝優勝した若圭翔(当時「下田」)は、十両陥落者が少なかったため、「幕下15枚目格付出は幕下15枚目以内ではない」との理由付けで十両昇進はならなかった。現行内規に該当した力士で十両昇進を果たせなかった唯一の例である。 全勝以外で十両昇進を確実とする成績としては、東筆頭での勝ち越しがある(小結以上が関わる成績を除いては1点でも勝ち越せば番付が半枚以上は上がるため)。対して西筆頭の場合は勝ち越しても優先的に昇進できるわけではなく、他の勝ち越し力士の成績と比較されることになるため、勝ち越しても昇進が見送りとなる事例もある。 この他に幕下5枚目以内で6勝または幕下2枚目以内で5勝を挙げた場合、十両に昇進する可能性が高くなるが、この場合でも昇進できなかった例は存在する。 幕下15枚目以内での全勝と幕下東筆頭以外の力士は十両から陥落する人数に大きく左右されるため、「何枚目で何勝したので確実に昇進する」とは一概に言えない部分がある。また、1場所15番相撲を取る関取は「勝ち越し1点につき1枚昇進する(負け越しの場合も同様・横綱大関は除く)」という目安で計算できるため(以下「計算上」「相当」はこの目安を基にする)、幕内十両間の入れ替えは計算上の番付の優劣である程度決められる部分があるが、1場所7番の幕下力士にはこのような目安はないため、十両幕下間の入れ替えは計算上の番付の優劣では決めることができず、以下のようにな目安で決められることになる。 十両の負け越し力士は計算上、幕下陥落相当の成績の力士がそのまま陥落する。ただし、幕下上位での勝ち越し力士に対して幕下陥落相当の成績の力士が少なすぎる場合、計算上十両最下位となる力士が幕下に陥落することはある。また、幕下陥落相当の成績の力士に対して幕下上位での勝ち越しが少なすぎる場合、「あと1勝していれば計算上十両に残留できる力士」が陥落を免れる場合もある。 幕下から十両への昇進は十両から陥落する人数に合わせて優先順位の高い順番に決定する。この優先順位が高いことを俗に「強い成績」と表現されることがしばしばある。なお、この優先順位と番付の昇降は別物であるため、ある二者を比較して一方のみが昇進する場合、双方とも昇進あるいは双方とも昇進見送りになった場合には番付が下位になる方が昇進する場合もある。 幕下15枚目以内での全勝と幕下東筆頭以外の力士については幕下5枚目以内での勝ち越しが優先される傾向にあるが、幕下5枚目での4勝3敗と幕下6枚目での6勝1敗のように近い番付で成績に開きがある場合にはこの例に当てはまらないこともある。 十両から陥落する成績の力士と幕下から昇進してもおかしくない成績の力士の数に開きがあった場合の例 2008年11月場所、計算上十両から幕下に陥落する成績の力士が2人だった。安壮富士が幕下東筆頭で6勝1敗と勝ち越し、琴国が幕下東10枚目で7戦全勝とともに十両昇進を確定的が確定的となる成績だったため、幕下西筆頭で5勝2敗だった福岡が昇進できなかった。 2010年7月場所、計算上十両から幕下に陥落する成績の力士が2人(ともに仮にあと3勝していても陥落する成績だった)、大相撲野球賭博問題による全休で幕下に陥落することが決まっていた力士が4人と、同問題で大関・琴光喜が解雇処分になったことによる穴埋めの1枠の計7人が十両に昇進する状況になった。幕下5枚目以内での勝ち越し5人と幕下東12枚目で7戦全勝の十文字の全員を昇進させても1枠余ってしまい、幕下西11枚目で6勝1敗の琉鵬が十両に昇進した。 2011年7月場所、計算上十両から幕下に陥落する成績の力士が5人、場所中に引退した大関・魁皇の穴埋めの1枠そして大相撲八百長問題の影響で減らされていた関取の定員を元に戻すための4枠の計10枠を埋めなければならない状況であった。幕下西5枚目で7戦全勝の直江(場所後に皇風に改名)を含む幕下5枚目以内での勝ち越し力士6人を全員昇進させても4枠余ってしまうため、十両東13枚目で6勝9敗の飛天龍が十両に残留し、幕下西6枚目で5勝2敗の里山、幕下西9枚目で5勝2敗の北勝国、幕下西11枚目で6勝1敗の飛翔富士が昇進した。 2017年9月場所、計算上十両から幕下に陥落する成績の力士が2人だった。貴源治が幕下東筆頭で4勝3敗と勝ち越しを決めていたため、幕下西筆頭で4勝3敗の北太樹、幕下東2枚目で5勝2敗の翔猿、幕下東3枚目で6勝1敗の舛の勝のうち1人が昇進する状況となり、番付編成会議の結果、舛の勝(場所後に隆の勝に改名)が昇進した。この際、計算上十両最下位となる成績だった矢後を陥落させて北太樹か翔猿を昇進させる措置は取られなかった。また北太樹、翔猿ともに翌場所は番付が半枚ずつ上昇しており、結果的に翔猿の5勝目は翌場所の番付に影響しなかった。 2018年1月場所、幕下5枚目以内の勝ち越し力士5人、幕下15枚目以内の全勝力士なしに対して計算上幕下に陥落する成績の力士が7人いた(全員が仮にあと2勝していても計算上幕下に陥落する成績だった)。このため、幕下東6枚目で4勝3敗の炎鵬と幕下東7枚目で5勝2敗の貴公俊が十両に昇進した。なお、幕下東17枚目で7戦全勝だった若隆景は昇進しなかった。 十両土俵入りは十両力士の支度の都合上、幕下の取組を5番残したタイミングで行われる。この5番は特に幕下上位五番と呼ばれる。 十両土俵入り直後の取組では、対戦する力士の四股名に続いて「幕下上位の取組であります」とアナウンスされる。 土俵下の控えに十両力士と同じ座布団が用意される。 十両格行司が取組を裁く。 かつては、幕下上位五番に限り、館内の電光掲示板でも勝敗を表示していた(十両以上の定員増加等に伴い、1991年1月場所以降は行われていない)。 NHKの大相撲中継では、幕内取組の合間を縫って、十両結果とともに発表される(決まり手はアナウンサーによる口頭発表のみで表示はされない)。 仕切りの最中の力士紹介は、十両土俵入りまでは力士名・番付・出身地・所属部屋・勝敗数を横文字で紹介されるが、幕下上位五番からは縦文字(力士名は幕下力士のみ明朝体)で紹介される。 出場している関取が奇数になると、幕下力士が日替わりで十両の取組に登場する。休場・引退力士が多いときには、複数人が十両の土俵に上がる。また、終盤には十両下位で不振の力士と幕下上位で十両昇進の可能性を残している力士の取組が組まれることが多い(いわゆる入れ替え戦)。いずれの場合も、十両力士と対戦する幕下力士は大銀杏を結って土俵に上がる。 いずれも、2018年11月場所終了時点の記録である。 幕下以下1場所7番制が定着した1960年7月場所以降では、幕下優勝回数の最多記録は3回であり、神幸・天ノ山・出羽の洲・和歌乃山・大輝煌・若孜の6人が達成。いずれも3回目の幕下優勝の前に1場所以上の関取在位を経験し、神幸・和歌乃山・若孜は3回すべて7戦全勝を伴い、天ノ山・大輝煌は1回目のみ6勝1敗で2・3回目は7戦全勝、出羽の洲は1・3回目が6勝1敗で2回目のみ7戦全勝だった。 優勝を伴わないケースも含めた7戦全勝の最多記録もやはり3回であり、上述3人に加え、若晃・千葉の山・修羅王・立洸の延べ7人が達成。決定戦敗退を含む4人の内訳はいずれも優勝2回・決定戦敗退1回であった。 1967年5月場所で十両昇進に関わる内規が導入されて以降、2場所連続で幕下で優勝した力士は以下の8名である。いずれも、幕下16枚目(21枚目)以下で7戦全勝で優勝した翌場所に幕下15枚目(20枚目)以内でも7戦全勝で優勝して十両に昇進した。 上記8名のうち、連続優勝以前に関取在位を経験した力士は松谷(同時点の最高位は東十両8枚目)及び栃ノ心(同時点の最高位は西小結)の2名。 三段目から幕下に昇進した回数が最も多い力士は、井筒部屋の辻本正人で18回記録した。 幕下以下まで陥落した元関脇の力士は、昭和以降で1936年5月場所の出羽ヶ嶽から2017年1月場所の朝赤龍まで延べ16人おり、このうち出羽ヶ嶽と栃赤城はその後三段目まで陥落し、小城ノ花・土佐ノ海・北勝力・若の里は陥落直後の場所前に引退し、番付の掲載のみで出場はしなかった。琴風は陥落後に土俵に復帰し、その後再度関脇に昇進、最終的には大関に昇進した。 2018年7月場所、元大関の照ノ富士が、(江戸時代の看板大関などのケースを除けば)史上初の幕下陥落となった。なおそこから2場所連続で全休したため、11月場所では更に三段目に陥落した。 ^ この段には十両の力士も書かれているが、細く小さい文字の方が幕下で、地位表示は「同」の字が数名ごとに(現在の番付では8個)書かれている。 ^ 同部屋・力士間の親族関係など、厳密な規定を無視すると、スイス式トーナメントでは出場力士128名中1名が必然的に7連勝となる。 ^ 平成以降、このような経緯で幕下力士2名が全勝同士で優勝決定戦を戦ったケースは6例あるが、前者のように同部屋の幕下力士2名が7戦全勝で優勝決定戦を戦ったケースは、2015年11月場所の芝‐宇良の1例のみである(寄り倒しで芝の勝ち)。 ^ 幕下以外でも条件を満たせば同様のアナウンスがされるが、序ノ口は人数の都合上、同部屋の場合を除くと6戦全勝が1人に絞られていることが多いため滅多にない。序二段は通常は6戦全勝が少なくとも3人おり、3人目の力士と三段目の全勝力士との対戦の結果を待たないと決定戦の有無が確定しないため、通常のケースでは勝った方が優勝とはならない。三段目は通常は6戦全勝が3人おり、最初に登場する力士が序二段の全勝力士に敗れた場合のみ条件を満たすため、幕下のようにほぼ毎場所このような状況になるわけではない。幕内・十両は当該力士同士が既に対戦している場合などもあり、優勝を争っている力士の相星決戦になるとは限らない。以上のことから当該アナウンスは幕下優勝のかかった一番で聞く機会が最も多くなる ^ 導入当初は「幕下20枚目以内」、1977年3月場所より現行。 ^ 平成以降に限ると大岳、琴藤本、五剣山、市原、蒼国来、希善龍、北太樹、大成道が西筆頭で4勝3敗で勝ち越ししたにも関わらず昇進を見送られた。また、福岡は2008年11月場所で西幕下筆頭で5勝2敗と勝ち越したにもかかわらず昇進を見送られた。 ^ この成績で見送られた例として2008年11月場所の福岡(西筆頭で5勝2敗で昇進できず)、2017年9月場所の翔猿(東2枚目で5勝2敗で昇進できず)がある。 ^ 大相撲八百長問題の際は、技量審査場所における多数の関取在位者の引退により、同場所に幕下上位で負け越した垣添(西幕下筆頭で3勝4敗)及び荒鷲(東幕下3枚目で3勝4敗)も昇進の対象となった。 ^ 北勝力のみ当該場所を引退を前提として休場し、場所中に引退届を提出。 幕下付出", "十両(じゅうりょう)は、大相撲の番付の内の1つ。幕内(前頭)の下、幕下の上。正式名称は十枚目(じゅうまいめ)という。 江戸時代にはこの地位は存在せず、幕内の下の地位がすなわち「幕下」であった。1888年(明治21年)春場所、給与制度の導入に伴い、幕下の上位10枚目以内の力士に場所毎に給与を支給したことにより創設された。このことから、正式な名称を「十枚目」といい、現在でも十両優勝の表彰式などでは「十枚目」の呼称を使う。しかし、例えば「十枚目二枚目」のように表現する煩わしさを避けるため、当時の年俸にちなみ「十両」の名で呼ばれることが一般的であり、本場所の場内アナウンスや日本相撲協会公式ホームページ、館内の勝敗電光掲示板、NHK中継のテロップなどは全て「十両」で統一されている。本場所では15日間毎日取組が組まれる。 名称は「十枚目」であるが、実際の人数は、明治期には文字通り東西10枚ずつの20人であったものの、大正期以降はそれよりも多い人数で上下するようになった。2018年1月現在、定員は東西14枚ずつの28人(2004年1月場所以降)。史上最多人数(枚数)は1958年1月場所~11月場所における東西24枚ずつの48人である。番付上の表記は、幕下上位から発生したため幕下とともに上から2段目に書かれているが、十両の方が太く大きい字で書かれ、十両の地位表示は1人ずつ「前頭」と書かれている。 十両以上の力士は関取として扱われる。関取は力士として一人前になった証とされ、幕下以下の力士養成員と違って高額の給料をもらえる、大部屋の集団生活から解放されて個室に住むことを許され、日常生活では付け人の世話を受けられるなど大きく優遇され、力士として非常に名誉なこととされる。引退する関取が「相撲人生の中で最も嬉しかったことは」と聞かれて、ほぼ全員が「十両になれた時」と答えるのもそのためである。一方で新十両の力士は私物の新調など入用であるため、番付編成会議の結果十両昇進が決まった力士には(再昇進も含めて)発表される。ただし、これはあくまで力士本人や部屋の用意に配慮した「内示」であり、正式に十両の待遇となるのは新番付発表以降である。 本場所の取組は原則十両同士であるが、休場などにより幕内の出場力士が奇数になった場合などには幕内力士と、関取全体の出場力士が奇数になった場合などには幕下力士と対戦することがある。休場が多くなると複数の繰り上げ取組が行われ、特に終盤にはいわゆる「入れ替え戦」が多く行われる。これにちなんで、筆頭力士を「貧乏神」・「瀬切り」と称すことがある。 優勝賞金は200万円。力士間の実力が拮抗している上に、幕内力士との対戦が組まれることもあるため、全勝力士は極端に少なく、全勝優勝経験者の北の富士勝昭が私的に北の富士賞を設けている。過去には9勝6敗の優勝が出たことがある。 本場所では控の席で共用の座布団を使用する(幕内力士は私物の座布団)。 十両に限らず、「番付は生き物」と俗称されるように、成績と翌場所の地位との関係は一定ではないが、関取については目安として、勝ち越し、負け越しの点数(勝数と、負数・休みの合計の差)と同じ枚数だけ番付が上下する。十両と幕下の入れ替え人数は十両力士の星取が主な判断要素となるが、現行内規では幕下15枚目以内で全勝すれば、優先的に十両に昇進させる扱いをしている。 前相撲から全勝を続けた場合、幕下通過には2場所かかると考えられていたため、番付外・序ノ口・序二段・三段目の各1場所と合わせて十両昇進は最短6場所で可能である、と長らく言われていた。前相撲(初土俵)から6場所で十両昇進した力士には板井圭介・土佐豊祐哉・常幸龍貴之・炎鵬晃の4人がいる。しかし2010年ごろから力士数の減少にともなってその分昇進する地位も繰り上がるようになり、2011年9月場所では一度十両に昇進した後、故障で番付外まで転落していた北勝国英明が前相撲から5場所での十両再昇進を果たした。なお初土俵(前相撲)から5場所で十両に昇進したケースはまだないが、常幸龍、炎鵬のケースでは5場所目の地位がそれぞれ東幕下15枚目と西幕下14枚目で、7戦全勝すれば5場所での十両昇進が濃厚であった。 幕下付出の場合は、10枚目格・15枚目格共に、7戦全勝することで1場所での十両昇進が可能である。しかし、15枚目格で唯一7戦全勝を果たした下田圭翔(2006年5月場所)は、十両からの陥落力士が少なく十両昇進はならず、翌場所は西幕下筆頭だった。旧制度の60枚目格付出の時代には、輪島大士・長岡末広・武双山正士・雅山哲士の4人が2場所での十両昇進を果たしている。 大関経験者が関脇以下に陥落後、幕内から十両に陥落することが確定的となった場合は、慣例的に引退するケースが殆どであったが、近年では大関経験者が現役中に十両以下に陥落するケースが増えてきている。詳細は大関#陥落・大関特例復帰を参照のこと。 引退に際し、関取を通算30場所(以前の規定では25場所以上)務めた力士は(幕内を経験していなくても)年寄を襲名する資格がある。部屋を継承する場合に限り関取通算20場所以上で資格を得る。2018年1月現在、最高位が十両の年寄は大嶽(元十両4・大竜)1人、また最高位が十両で年寄の襲名条件の資格があるのは関取在位27場所で既存部屋の継承資格を持つ徳真鵬(十両6)のみである。 2017年3月場所現在 太字は最高位が十両の力士 瓊ノ浦(のちの両國梶之助)は春秋園事件の影響で東幕下3枚目から西前頭7枚目に抜擢され、引退まで十両に陥落したことがない。このため、昭和以降の幕内力士では唯一の十両在位皆無という珍記録を持っている。 昭和以降 歴代1位(5回):益荒雄広生 歴代2位タイ(4回):若の里忍・小城ノ花昭和・大錦一徹・播竜山孝晴・鳳凰倶往・朝登俊光 十両は人数が少ないため、優勝争いで混戦になることが多い。幕内では10勝5敗での優勝は過去に例が無く、11勝4敗でも過去に3回しか例が無いが、十両では10勝5敗や11勝4敗が優勝者最高成績となることが大半である。2001年7月場所では9勝6敗での優勝が記録され、あまりにも成績が低過ぎるとして理事会で優勝無しが検討されたほどである。故に十両は15戦全勝を達成することが極めて困難な地位として知られる。後述のように、関取の1場所15日制が定着する以前にも十両での全勝優勝を経験した者は数人居るが、これは現在よりも取組数が少ないために達成が比較的容易だったという要素もある。2018年5月場所終了時点で15戦全勝を達成した力士は5人居り、全勝優勝を達成した力士は最終的に全員が大関以上の地位に昇進している(2018年5月場所終了時点で現役力士である栃ノ心剛史は、同場所13勝2敗を記録して直近3場所合計37勝8敗となり、2018年7月場所での大関昇進を決めている)。 栃光正之(1955年3月場所) 豊山勝男(1961年11月場所) 北の富士勝昭(1963年11月場所) 15戦全勝を達成した人物の中で唯一横綱に昇進。 把瑠都凱斗(2006年3月場所) 把瑠都はこのとき北の富士賞を贈られた。当該項目も参照。 栃ノ心剛史(2014年9月場所) 十両は枚数が少ない関係上、十両優勝力士が翌場所に幕内に昇進するケースの方が、十両に据え置かれるケースよりも多い。そのため、十両での連覇発生は、1回目の優勝の際に中位~下位に在位していた・優勝のレベルが低かった・幕内昇進枠に対し十両の(優勝力士以外の)好成績者が多かったなど、偶然性にも左右される。1909年6月場所に優勝制度が導入されて以降、十両で連覇を経験した力士は以下の20名である。1場所目の太字は当場所が新十両だったケースである。 2場所連続で全勝優勝を達成した者は過去に例が無い。また、関取の1場所15日制定着以降に連覇を達成した者の中で1場所目もしくは2場所目のいずれかで全勝優勝を達成しているのは栃ノ心剛ただ1人である。 なお、上述しているように、十両は枚数が少ない関係もあり、優勝した場合は十両据え置きよりも幕内昇進となる場合が多いため、1場所目で全勝優勝を達成した場合は番付(枚数)に関係なくほぼ確実に幕内昇進となる可能性が高いため、1場所15日制が定着している現在は2場所連続全勝優勝することはまず不可能であると考えられる。 ^ 一方、同様に番付編成会議直後に発表される新横綱や新大関は、昇進伝達式を行ったその日から横綱・大関の待遇を受ける。 ^ 幕内力士より給料が安いものの、幕内下位の力士との対戦が多く組まれるため。 ^ もっとも、この期間は大相撲八百長問題で関取などに大量の欠員が出ていた時期と重なっており、通常よりも番付が上がりやすい状況であったことに留意が必要である。2011年7月場所は西幕下9枚目で5勝2敗と通常では十両に昇進できない成績であった。 ^ 協会は「15枚目格は15枚目以内ではない」趣旨のコメントをしており、実際に15枚格に内規が通用するのかは不明である。 ^ 1927年の東西合併から1932年の春秋園事件発生までの間は、東京開催と関西開催を交互に行う年4場所制だったが、現行のように各場所の成績は即翌場所の番付に反映されず、番付の昇降は関西で開催した場所後の2回のみで、直近2場所を合算した成績をもって編成されていたため、十両優勝をしたにもかかわらず、同地位に据え置かれるケースも多々見られた。 公益財団法人日本相撲協会監修『ハッキヨイ!せきトリくん わくわく大相撲ガイド 寄り切り編』71p" ]
ABC01-02-0112
エーゲ海北部のサモトラケ島で発見された彫刻で知られる、ギリシャ神話の勝利の女神は何でしょう?
ニーケー
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[ "ニーケー", "ケレース", "コンス", "ユーノー", "メルクリウス" ]
[ "ニーケー(古希: Νίκη, Nīkē、古代ギリシャ語発音:[nǐːkɛː])は、ギリシア神話に登場する勝利の女神。日本語では長音を省略しニケと表記する場合もある。ローマ神話ではウィクトーリア (Victōria) と同一視される。 ティーターン族の血族パラースとステュクス(冥界の河)の子。兄弟は、ゼーロス(鼓舞)、クラトス(力)、ビアー(暴力)。ティーターノマキアーには、ステュクスの命によりオリュムポス側につき、ゼウスに賞されたという。 一般には有翼の女性の姿で表される。アテーナーの随神だが、アテーナーの化身とする場合もある。しかし、ローマ神話のウィクトーリアは、マールスに付き従う。アテーナイのパルテノン神殿の本尊であったアテーナー神像では、右手の上に載せられていた。サモトラケ島で発掘された彫像「サモトラケのニケ」が有名。 英語ではナイキ(Nike、英語発音: [ˈnaɪki])と発音される。スポーツ用品メーカー「ナイキ」の社名はこの女神に由来する。トレードマークはこの女神の翼をイメージしたもの。 ニカの乱 - ニカ(勝て)はニケと同語源である。 サモトラケのニケ", "ケレース(Ceres)は、ローマ神話に登場する豊穣神、地母神、地下神。長母音を省略してケレスとも表記される。英語表記ではシリーズ、シアリーズとも呼称される。 古くからギリシア神話のデーメーテールと同一視されたため、ローマ神話での本来の性格はよく分かっていない。ローマ神話におけるエピソードも、ほとんどは本来デーメーテールのものである。なお、ギリシア神話のケーレスとは無関係である。 また、大地の女神であることから冥界の神ともされ、死人を出した家では、ケレースに供物を捧げることによって死の穢れを祓うことが行われていた。 その祝祭ケレーアーリア(Cerealia)は、古くは4月19日に執り行われたが、紀元前3世紀末以降は、4月12日からの8日間にわたって行われた。これは4月15日の大地母神の祝祭とも深く関係している。 ケレースは農業、特に穀物の収穫を司るため、英語で穀物を意味するシリアル(cereal)の語源となった。また、ビールを意味するスペイン語(es:cerveza)やポルトガル語(pt:cerveja)の語源である。 初めて発見された小惑星、ケレスの名は、この女神に由来している。 ケレースはその権能から、古来しばしば各国の貨幣にその姿が登場し、近代ではフランスの20フラン金貨に多く見られる。", "コンス (Khons, Chons) はエジプト神話の神。テーベでは、アメンとムトの息子として、またコム・オンボにおいては、セベクとハトホルの息子として三柱神の1柱を担う。 主に子供、幼児の髪型をしたミイラ、またホルスと同じ隼の頭を持った姿で描かれる。月の神である事から、どちらの姿で描かれる場合であっても三日月と満月を組み合わせたものが頭飾りとして描かれる。 アメン、ムトと共にテーベ三柱神と構成した。その名は、「横切る者」を意味し、父アメンの乗る太陽の船に対して月の船を持ち夜に天空を移動すると考えられた。子供の姿から新生児を守護するとも、月の神であることから夜に三日月の刃を振るい罪人に制裁を与える恐ろしい神とも言われる。また同じ月の神トトに関係して暦を司るとも考えられた。 テーベ(ルクソール)のカルナック神殿にコンス神殿がある。", "ユーノー(ラテン語: Juno、古典綴:Iūno)は、ローマ神話で女性の結婚生活を守護する女神で、主に結婚、出産を司る。また、女性の守護神であるため月とも関係がある。主神ユーピテルの妻であり、ローマ最大の女神である。神権を象徴する美しい王冠をかぶった荘厳な姿で描かれ、孔雀がその聖鳥。女性的気質の神格化である。ギリシア神話のヘーラーと同一視される。 英語ではジューノウ (Juno) 、フランス語ではジュノン (Junon) 。日本語ではユノ、ユノー、ジュノーなどともカナ表記する。 ユーピテル、ミネルウァと共に3柱1組でカピトーリウムの丘の神殿で崇拝されている。 古代ローマのユーノーの祭としては3月1日のマートローナーリア (Matronalia) や7月7日のノーナイ・カプロティーナイ (Nonae Caprotinae) があったが、現在では6月の女神として知られる。ヨーロッパの言語で6月を表す Giugno, Juin, June などはユーノーに由来する。また、「6月の花嫁(ジューン・ブライド)」は、6月に結婚することで花嫁にユーノーの加護を期待する風習である。 サートゥルヌスの娘で、ユーピテルとの間にウゥルカーヌスとユウェンタースを産んだ。花の女神フローラからもらった魔法の花に触れて妊娠し戦いの神マールスを単独で産んだ。 ウェルギリウスによる叙事詩『アエネーイス』(Aeneid)ではトロイア人を憎み、ウェヌスの息子アイネイアースのローマ建国を阻むため、アネモイ(風神)の主であるアイオロスに頼んでアイネイアースの船隊を沈没させようとした。その返礼に自らの配下のニンフで最も美しいデーイオペーアをアイオロスに与えると言った。第七巻ではユーノーがアレークトーを呼んでアマタを操って、トゥルヌスとアイネイアースの戦争を扇動させた。二人の開戦前にはユーノーが、ラティーヌス王の代わりに、戦いを始める際に開けることになっているヤーヌスの神殿の門を開け放った。 ユーノーは様々な添え名と側面を持ち、崇拝されている。 ユーノー・モネータ(Juno Moneta) 忠告のユーノー。ガリア人のローマ侵入を神殿で飼われていたガチョウが告げたため「忠告する」という名を付された。紀元前345年に建設されたユーノー・モネータの神殿では後に貨幣の鋳造が行われた。 ユーノー・ルーキーナ(Juno Lucina) 出産のユーノー。ルーキーナと同じく、ローマ人では「子どもを光明の中へ出す女神」とも称される。 ユーノー・レーギーナ(Juno Regina) 女王のユーノー。ユーピテルの妻にして、通常「神々の女王」とも呼ばれる。 ユーノー・フォルトゥーナ(Juno Fortuna) 運命のユーノー。 ユーノー・カプロティーナ(Juno Caprotina) 豊穣・多産のユーノー。 ユーノー・ソスピタ(Juno Sospita) 救済・守護のユーノー。 ユーノー・ナタリス(Juno Natalis) 誕生日のユーノー。 ユーノー・ユガ(Juno Juga) 結びのユーノー。 ^ a b 高津春繁 『ギリシア・ローマ神話辞典』 岩波書店 1960、293頁。 カピトリヌスの三神 ジュノー (小惑星)", "メルクリウス (Mercurius) はローマ神話のデイ・コンセンテス (Dei Consentes) の一人であり、商人や旅人の守護神である。英語読みでマーキュリー (Mercury) とも表記される。 ギリシア神話の神々の伝令使ヘルメースと同化し、雄弁家、盗賊、商人、職人の庇護者とされた。ヘルメースと融合する前の元来の職能や性格は明瞭でないが、その名は merces (商品、財貨)に関係があるとも言われる商業の神である。ニュンペーのラールンダとの間にラールたち(ラレース)をもうけた。 メルクリウスの神殿は紀元前496年にアウェンティヌス丘の上に建てられたとされるが、これはローマの聖所ポメリウムの外にあったため、元からローマにいた神ではなく、外部から来た神と考えられている。 ローマ暦では、水曜日をメルクリウスの日 Diēs Mercuriī (ディエース・メルクリイー)としている。 タキトゥスは『ゲルマーニア』において、ゲルマン人が最も崇拝する神をメルクリウスと呼んだが、これはゲルマン神話の主神ウォーダンのことであったと考えられている。英語の Wednesday は「メルクリウスの日」を古英語で「ウォーデンの日」と翻訳したことに由来する。 別名をメルクリウスともエジプト人ヘルメスともいうヘルメス・トリスメギストスは、ヘルメス主義を象徴する神話的人物であるが、後世、ヨーロッパ中世およびルネサンス期において、錬金術の考案者にして諸学と技芸の祖であると考えられた。 カール・グスタフ・ユングは「メルクリウス」について次のように述べる。 「メルクリウスは(錬金術でいうところの、即ち、無意識の)作業(オプス)の始めに位置し、終りに位置する。 メルクリウスは原初の両性具有存在ヘルマプロディートスであり、一旦は二つに分れて古典的な兄-妹の対の形を取るが、最後に「結合」において再び一つに結びつき、「新しい光」、即ち、「賢者の石」という形態をとって光り輝く。 メルクリウスは金属であるが同時に液体でもあり(「メルクリウス=水星」を象徴する金属は水銀)、物質でもあるが同時に霊でもあり、冷たいが同時に火と燃え、毒であるが同時に妙薬でもあり、『諸対立を一つに結びつける対立物の合一の象徴なのである。』」 「メルクリウス」の変容性と多様性は錬金術の根本表象であり、即ち、「メルクリウス」は我々の無意識、心的世界の一つの表象といえる。 「ライオンとユニコーン」は共に、錬金術における「メルクリウス」の象徴であるとされる。他に、「鳩、鹿、鷲、龍」なども「メルクリウス」の同義語とされる。 ^ スチュアート・ペローン 『ローマ神話』 中島健訳、青土社、1993年、p. 106, pp. 115-120. ^ 呉茂一 『ギリシア神話(上)』 新潮社〈新潮文庫〉、昭和54年、236頁。 水星 水銀 オーディン" ]
ABC01-02-0113
イギリスの通貨単位はポンドですが、フランスの通貨単位は何でしょう?
ユーロ
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[ "ユーロ", "スイス・フラン", "レフ", "ズウォティ", "スウェーデン・クローナ" ]
[ "ユーロは、欧州連合における経済通貨同盟で用いられている通貨である。 ユーロはヨーロッパでは25の国で使用されている。そのうち19か国が欧州連合加盟国である。 1999年1月1日に決済用仮想通貨として導入された。この時点では現金のユーロは存在しなかった。3年後の2002年1月1日に現金通貨としてのユーロが発足した。この時、導入国の従来の通貨に代わり、ユーロが法定通貨となった。ユーロ硬貨はユーロ圏18か国の他に、合意によって認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインを採用している。 ユーロ紙幣のデザインは統一されているが、紙幣に印刷されている番号の先頭の文字によって、ユーロの印刷された国家が判別されるようになっている。 ユーロは、準備通貨としては、アメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有し、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、とりわけ、2010年欧州ソブリン危機以降、通貨連盟の矛盾が表面化し、その存続を危ぶむ意見も出ている(後述)。 ヨーロッパに単一通貨が求められた理由は欧州連合の歴史と世界経済の流れに見ることができる。すなわち、1968年の関税同盟の結成による実体経済の統合と、ブレトン・ウッズ体制の崩壊による為替相場の不安定化がもたらす通商政策への障害である[要出典]。 1965年、欧州通貨統合のイニシアティブがアメリカ国務省で開かれた会談でとられた。 1970年、ルクセンブルク首相のピエール・ヴェルネとヨーロッパの経済通貨統合の研究者が作成したいわゆる「ヴェルネ計画」では、単一通貨の導入に触れられていた。このヴェルネらの構想では1980年までに経済通貨統合を達成することがうたわれていたが、ブレトン・ウッズ体制の崩壊のために挫折を余儀なくされた。 それでも1972年には欧州為替相場同盟を、1979年には欧州通貨制度を創設した。欧州通貨制度は各国の通貨の相場が大きく変動することを防ぐものとなった。またあわせて欧州通貨単位が導入され、のちのユーロの基礎となった。欧州通貨単位の紙幣が発行されることはなかったが、硬貨については欧州通貨単位を具現的に見せるという目的で特別に鋳造された。欧州共同体の加盟国のなかには欧州通貨単位の額面で債券を発行しており、証券取引所でも欧州通貨単位で取引がなされたりした。1988年、当時の欧州委員会委員長であるジャック・ドロールのもとで経済通貨統合を検討する委員会はいわゆる「ドロール報告書」を作成し、そのなかで経済通貨統合にむけて3つの段階を示した。 1990年7月1日、通貨統合の第1段階に入り、欧州経済共同体の加盟国のあいだで資本の自由な移動が可能となった。1994年1月1日になると第2段階に移行し、欧州中央銀行の前身である欧州通貨機構が設立され、加盟国の財政状況を検査するようになった。1995年12月16日、マドリードで開かれた欧州理事会の会合において新通貨の名称を「ユーロ」とすることが決められた。 上述の欧州理事会で新通貨の名称が決定されるまで、多くの案が議論された。有力な案に「ヨーロッパ・フラン」があったが、フランのスペイン語表記である Franco がフランシスコ・フランコを連想させるために却下された。このほかにもヨーロッパ・クローネやヨーロッパ・ギルダーといった案が出されていた。既存の通貨の名称を使うことで通貨としての連続性を示し、また新通貨に対する市民の信頼を固めようとした。さらに、一部の加盟国には従来の通貨の名称を残したいという希望があった一方で、決済通貨として使用されていた ECU(エキュもしくはエキュー) の名称がふさわしいと考える国もあった。しかしこれらの名称案はそれぞれに対して反対する国があり、とくにイギリスは多くの名称案に反対して、いずれも採用されなかった。名称が定まらない中、ドイツの連邦財務相テオドール・ヴァイゲルは「ユーロ」という名称案を提示した。 通貨単位としてユーロという名称が刻まれた硬貨は、確認できるかぎりでは1965年に初めて鋳造されている。また1971年にはオランダで、ユーロと刻まれた硬貨の見本が製造されている。この見本ではユーロの先頭の文字が C に波線が引かれたものとなっていた。またその周囲にはラテン語で EUROPA FILIORUM NOSTRORUM DOMUS(日本語試訳:ヨーロッパはわれらの子たちの家である)と刻まれていた。 1992年に署名された欧州連合条約では、加盟国は経済通貨統合の第3段階への移行、つまりユーロの導入にあたっては収斂基準を満たさなければならないとした。またテオドール・ヴァイゲルが主導した結果、1996年のダブリンでの欧州理事会においてユーロ導入にあたっての2つの基準が定められた。さらに安定・成長協定ではユーロ導入国に対して、通常の経済情勢では財政の均衡を維持することを義務づけており、他方で景気が悪化している情勢では、経済の安定化のために単年度国内総生産 (GDP) の 3% を上限として国債の発行を認めている。累積債務残高については60%を上限としている。すなわち、収斂基準は物価の安定性・高過ぎない長期金利・財政赤字および政府債務の健全性・為替の安定性の4つである。このうち為替の安定性に関しては、欧州為替相場メカニズム(ERM II)への参加が法的に求められている。この欧州為替相場メカニズムは、1979年に設立されたもともとのERMにかえて、1999年から実施されているERM IIと呼ばれるものであり、ERMとしては2番目のものである。このERM IIにおいて、ユーロに対する自国通貨の標準変動幅を2年間、上下15%の範囲とする必要がある。これを達成するとユーロ導入が認められ、ERM IIの対象から外れ、ユーロ導入となる。ただし、問題がある場合は期間が延長される。具体的には経済収斂基準とは次のようなものである。 物価:過去1年間、消費者物価上昇率が、消費者物価上昇率の最も低い3か国の平均値を1.5%より多く上回らないこと。 財政:過剰財政赤字状態でないこと。(財政赤字GDP比3%以下、債務残高GDP比60%以下) 為替:2年間、独自に切り下げを行わずに、深刻な緊張状態を与えることなく欧州通貨制度の為替相場メカニズムの通常の変動幅を尊重すること。 金利:過去1年間、長期金利が消費者物価上昇率の最も低い3か国の平均値を2%より多く上回らないこと。 — 日本国外務省「EUにおける通貨統合」 ギリシャは2002年に収斂条件を満たしたとしてユーロを導入したが、2004年11月、ギリシャがユーロ導入の決定がなされた時点で収斂基準を満たしていなかったということが判明した。ギリシャは実際の財政赤字を偽って欧州委員会に報告書を提出していた。しかし、条約・協定では基準違反を想定していなかったため、ギリシャが法的な責任を問われることはなかった。 また、ドイツやフランスなどの大国を含む一部の国々は、ユーロ加盟後に安定・成長協定で定める基準に抵触している。 1998年12月31日、当時のユーロ参加予定国のそれぞれの通貨とユーロとの為替レートが固定され、1999年1月1日、ユーロがそれらの国において電子的決済通貨となった。このときユーロは欧州通貨単位に対して 1:1 で置き換えられた。翌1月2日、ミラノ、パリ、フランクフルトの各証券取引所は通貨単位をユーロとして取引を開始した。このほかにユーロの導入によって、外国為替相場の表示法が変更された。ドイツではユーロ導入以前まで、1 US$ = xxx ドイツマルク(DM)というかたちで表示されていたが、1999年1月1日からはドイツを含めてユーロを導入した国で、1 EUR = xxx US$ という表示法に変えられた。また同日から、振込みや口座自動引き落としについてもユーロ表記が用いられるようになった。銀行口座ではユーロあるいは従来の通貨単位での表示がおこなわれていた。しかし、現金のユーロは存在しなかったため、ユーロ表記の口座でも、預金をおろすと現地通貨、例えばドイツであればドイツマルク紙幣が窓口で渡された。有価証券はユーロで表記されたものに移行した。 2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件をうけて、EU内に手形交換所が設立された。この頃からドイツではいわゆる「フロントローディング方式」の枠組みでユーロが民間銀行に配付された。また銀行ではドイツマルクを回収してユーロを供給することで切り替え作業を進めていった。2001年12月17日からはドイツ国内の銀行で各種のユーロ硬貨が入ったスターターキットの販売が開始された。このスターターキットには合計10.23ユーロ(20.0081409マルク相当)の20枚の硬貨が入っていたが、販売価格は20マルクであり、切り捨てられた小数点以下の部分は国庫が負担した。オーストリアのスターターキットでは合計14.54ユーロの33枚のユーロ硬貨が200シリングで販売された。通常の現金、とくに紙幣の流通は2002年1月1日から開始された。 ドイツではドイツ連邦銀行の各支店でドイツマルクをユーロに交換することができる。また特例的に一部の商店では代金支払の際にドイツマルクで受け取っている。 このようにユーロへの交換は簡易かつ費用負担がかからないにもかかわらず、2005年5月の時点で37億2000万ユーロ相当のドイツマルク硬貨(2000年12月の発行量のおよそ46%)が流通していた。また紙幣についても39億40000万ユーロが交換されないままでいた。この推定はドイツ連邦銀行によるものであるが、ほとんどの硬貨や紙幣は紛失または破損したものと見られている。 ユーロを導入した国ではそれぞれで、2002年の2月あるいは6月までを移行期間として代金の支払にユーロか旧通貨の使用が認められ、移行期間後は旧通貨の法的効力は消滅した。ただしほとんどの旧通貨は各国の中央銀行でユーロと交換することができる。 ユーロ導入国では旧通貨の取り扱いについてそれぞれの国で異なっている。ドイツではドイツマルクの紙幣および硬貨を、無期限・無手数料でユーロに交換することができる。ドイツ以外でもオーストリア、スペイン、アイルランド、エストニア、ラトビアにおいても同様で、それぞれの国の旧通貨とユーロとを交換することができる。ベルギー、ルクセンブルク、スロベニアではそれぞれの旧通貨の紙幣のみ、無期限でユーロとの交換ができる。これら以外の国ではそれぞれの旧通貨とユーロとの交換には期限が定められている。 ポルトガル・エスクード硬貨、フランス・フラン硬貨、ベルギーおよびルクセンブルク・フラン硬貨、オランダ・ギルダー硬貨、ギリシャ・ドラクマ硬貨は交換不能となっている。 通貨ユーロにかかわる政策はフランクフルト・アム・マインにある欧州中央銀行が担っている。欧州中央銀行は1998年6月1日に設立された機関である。実際の業務が開始されたのは通貨統合の実施によって各国の中央銀行の業務を引き継いだ1999年1月1日のことである。欧州中央銀行は欧州連合の機能に関する条約第127条によって物価安定の確保に努め、また加盟国の経済政策を支えるという使命を持っている。このほかにも金融政策の決定と実施、加盟国の公的外貨準備の管理、外国為替市場への介入、市場への資金供給、円滑な決済の促進を担っている。欧州中央銀行の独立性を維持するために、欧州中央銀行および各国の中央銀行は加盟国政府の指示を受け入れることが禁止されている。欧州中央銀行に法的独立性が与えられているのは、欧州中央銀行が紙幣発行を一手に担う、つまり欧州中央銀行はユーロのマネーサプライに影響力を持っており、財政の不足額を補うためにマネーサプライを増やすということを避けるためである。欧州中央銀行の独立性が確保されなければユーロに対する信頼が失われ、通貨が不安定になる。 欧州中央銀行は各国の中央銀行とともに欧州中央銀行制度をつくっている。欧州中央銀行の政策決定は、欧州中央銀行の役員会とユーロ圏各国の中央銀行総裁で構成される政策理事会が担う。欧州中央銀行の役員会は総裁、副総裁、理事4人で構成され、いずれも任期は8年でユーロ圏各国が選任し、再任は認められていない。 2015年1月1日にリトアニアが導入したことで、ユーロを法定通貨としているのは欧州連合加盟全28か国中19か国となっており、これらの国々はユーロ圏と呼ばれている。また欧州連合の経済通貨統合に参加していない6か国でもユーロを法定通貨として導入している。ユーロを法定通貨としている国のほかに、為替相場制度でユーロと連動させている国も多くある。そのような国には、欧州為替相場メカニズムに組み込まれている4つの欧州連合加盟国やCFAフランを使用している14か国がある。さらに36か国と、フランス領ポリネシア、ニューカレドニア、ウォリス・フツナの3つの地域でもユーロ、あるいはユーロと連動する通貨を使用している。 フランスの海外領土であるグアドループ、フランス領ギアナ、フランス領南方・南極地域、マルティニーク、マヨット、レユニオン、サン・バルテルミー島、サン・マルタン島、サンピエール島・ミクロン島でも同様にユーロを法定通貨としている。 またキプロスがユーロ圏入りしたことによって、イギリスの主権基地領域であるアクロティリおよびデケリアでもユーロが法定通貨として導入された。北キプロス・トルコ共和国では事実上、トルコリラが法定通貨として使用されているが、ユーロも広く流通している。 1998年5月3日に開かれた欧州理事会の会合において、各国首脳は1999年1月1日に収斂基準を満たした11か国で経済通貨統合を第3段階へ移行することを決定した。 2000年6月19日、欧州理事会は「ギリシャは高い水準で持続的な収斂性を有しており、ユーロの導入に必要な状況になった」という理解に達した。その後の経済・金融理事会において、2001年1月1日にギリシャでユーロを導入することが承認された。 スロベニアは2006年3月8日に、2004年の第5次拡大の際に欧州連合へ加盟した国としては初めて、2007年1月1日のユーロ導入を正式に求めた。2006年5月16日、欧州委員会はスロベニアのユーロ圏入りを提案し、翌月7月11日には経済・金融理事会において、スロベニアの2007年1月1日のユーロ導入を全会一致で承認した。このとき、1 EUR = 239.640 SITという交換比率が定められた。 2007年7月10日に欧州連合加盟国の財務相は、キプロスとマルタのユーロ圏入りを承認した。さらに2009年1月1日には旧東側諸国としては初めてスロバキアが、2011年1月1日には旧ソ連圏としては初めてエストニアがユーロ導入を果たしたことで、ユーロを導入した欧州連合加盟国数は17となった。2014年1月1日よりラトビアが、2015年1月1日にリトアニアにユーロを導入。旧ソ連圏では3国目となる。 一部の国では従来からの通貨同盟などによって、相手国がユーロを導入したことで自らもユーロを法定通貨とした国がある。それらには以下のような通貨同盟がある。 フランスとアンドラ、モナコ イタリアとサンマリノ、バチカン スペインとアンドラ モナコ、サンマリノとバチカン独自のユーロ硬貨を発行することについて欧州連合と合意しているが、アンドラについては同様の合意がなされていない。そもそもアンドラは独自の通貨を持っておらず、そのためユーロが事実上の法定通貨となっており、アンドラは独自に硬貨を発行しなくとも問題がない。アンドラ政府は2004年10月から欧州共同体と協議を行なったが、政治的要請、とりわけ金融機関の守秘性の緩和を実行する用意がなく、協議は数か月後に終了した。このほかにも企業税制を導入して非課税制度を撤廃することが受け入れられないということも正式な通貨同盟の合意に至らなかった理由となった。2016年1月現在、the Royal Spanish Mintよりアンドラ独自のユーロ硬貨が発行されている。 独立にむけて、モンテネグロは一方的にドイツマルクを通貨として導入した。またコソボでは紛争後に国際連合コソボ暫定行政ミッションが通貨としてドイツマルクを導入した。そのドイツマルクが廃止されてからは、両国においてユーロが法定通貨となった。ただし両国は欧州連合とのあいだでユーロ導入の正式な合意をしておらず、また欧州連合も両国とのあいだで合意を模索する様子もない。そのため欧州中央銀行による金融政策の対象とならない。さらに独自のユーロ硬貨の発行も認められておらず、両国は通貨発行益を得ることができない。 ユーロ圏外でも多くのヨーロッパの国で、ユーロでの支払が可能である。ただしその多くの場合は販売者が独自に決めた交換比率が用いられ、また釣り銭は現地通貨で支払われることもある。 いくつかの国ではユーロと通貨をペッグしている国がある。そのような国々は3つのグループに分けることができる。まず、ユーロとのあいだで欧州為替相場メカニズムによる為替はバンド制をとっていて、ユーロを法定通貨として導入していない欧州連合加盟国がある。つぎに、歴史的に為替が固定されていたかつてのフランスの植民地がある。最後に、一方的にユーロとペッグしている国がある。 ユーロを通貨として導入していないすべての欧州連合加盟国は欧州連合条約により、収斂基準を満たして単一通貨を導入することが義務付けられている。ユーロ導入にあたって求められる収斂基準の4つの要素の1つとして、2年間は現行通貨を欧州為替相場メカニズムに組み込まなければならない。ただしイギリスとデンマークについては適用除外規定が定められており、現行通貨を維持するということが認められている。 1979年、欧州為替相場メカニズムの核となる欧州通貨制度が創設された。本来はすべての加盟国が欧州為替相場メカニズムに組み込まれなければならないが、実際にはベルギー、デンマーク、西ドイツ、フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダのみに適用された。1999年のユーロの創設により1974年より運営されていた従来の欧州為替相場メカニズムは廃止されたが、ユーロに移行していない欧州連合加盟国を対象とした新たな欧州為替相場メカニズムが1999年に設定された。これがERM IIと呼ばれるものである。欧州為替相場メカニズムのおもな目的は物価の安定を確保するために為替相場とその変動を調整することであり、また欧州為替相場メカニズムはユーロ圏入りの前段階における必要条件となっている。現在必要条件としてユーロに移行していない欧州連合加盟国に求められているのはERM IIへの参加であり、ERM IIはERMとしては2つ目のものである。この必要条件とは、具体的には、2年間、ERM IIのもとで、ユーロに対する自国通貨の標準変動幅を2年間、±15%の範囲とするというものである。ただし、問題がある場合は延長される。 2015年以降、1つの欧州連合加盟国が自国の通貨を欧州為替相場メカニズムに組み込ませている。欧州為替相場メカニズムではユーロとそれぞれの現行通貨との相場変動幅を基準値(セントラル・レート)の±15%としている。またデンマークは欧州連合との取り決めにより、ほかの通貨よりも変動幅が狭い、±2.25%としている。 欧州為替相場メカニズムが適用されている国は状況が整えば、ほかの国と比べて早い段階でユーロを導入することができる。しかし、2007年以降の金融危機により急激に財政状況が悪化し、ユーロの導入は困難なものとなった。 当初リトアニアは2007年にユーロを導入するはずであった(導入は2015年となった)。2006年3月16日、リトアニア財務相ジグマンタス・バルチーティスは欧州委員会から正式に警告を受けていたにもかかわらず、ユーロ導入に関する必要書類を提出した。この書類などをもとにして審査した結果、欧州委員会はリトアニアのインフレーション率が基準よりも 0.06% 高いとして、リトアニアのユーロ導入を延期するよう欧州理事会に勧告し、2006年6月15-16日にブリュッセルで行なわれた欧州理事会の会合でもリトアニアのユーロ導入は見送られた。当時のリトアニアのインフレーション率は既存のユーロ圏諸国と比べてもユーロを導入するには十分に低かった。しかし欧州連合条約ではユーロ未導入の加盟国に対して基準を厳格に守るように定めている。一部の欧州連合の高官からはリトアニアがユーロを導入しても問題がないという意見があったが、欧州委員会と欧州中央銀行はユーロの信頼性を損なわないためにもこの意見を認めなかった。2007年にユーロを導入していれば、リトアニアはスロベニアとともに中東欧諸国で最初のユーロ移行国となっていたことになる。 2010年5月12日、欧州委員会はエストニアが収斂基準を満たしたとする報告書を作成し、同国のユーロ移行を提案した。これを受けて同年7月13日に経済・財務理事会は、2011年1月1日にエストニアがユーロを導入することを認める決定を下した。また2014年にはラトビアもユーロを導入した。 デンマークとイギリスを除くすべての欧州連合加盟国はユーロの導入が義務付けられているが、いまだ6か国が欧州為替相場メカニズムの適用を受けていない。このため6か国は少なくとも収斂基準の1つを満たしていないということになる。 ブルガリアは急激なインフレーションが進み、欧州為替相場メカニズムの適用が拒否されたことがある。現行通貨のレフは1999年にドイツマルクと 1:1 で固定しており、そのため1ユーロとも1.95583レフで固定されている。2009年8月、政権交代によって就任したばかりの財務相シメオン・ジャンコフはブルガリアのユーロ導入について、2013年ごろになるという考え方を示していた。2016年1月現在、ユーロ導入の見通しは立っていない。 ポーランドでは政界や社会におけるユーロ導入への支持が低く、欧州為替相場メカニズムに参加する見込みが少なかった。ところが2007年に政権が交代するとユーロ導入に前向きとなり、首相に就任したドナルド・トゥスクは所信表明で可及的速やかにユーロを導入すると述べた。またクリニツァで開かれた経済フォーラムでトゥスクは2011年をユーロ導入の目標時期とした。ところが2009年8月に財務次官ルドヴィク・コテツキは、ポーランドのユーロ導入は2014年まではないということを明らかにした。その理由として、2009年のポーランドの経済成長率見込みは 0.5% となるものの、2008年の金融危機がポーランドにも大きな影響を及ぼしたとしている。2016年1月現在、ユーロ導入の日程については未定である。 ルーマニアは2007年に欧州連合に加盟して以来、ユーロ導入を検討してきた。ブルガリアと同様に、ルーマニアも高いインフレーション率がユーロ導入の障害となっている。ルーマニア国立銀行はユーロ導入の目標時期を2012年から2014年としていた。2016年1月現在、ルーマニアは2019年をユーロ導入目標に定めている。 スウェーデンは2003年9月14日に実施された国民投票でユーロ導入が反対されている。スウェーデンは欧州連合に加盟する際の条約において収斂基準の達成が義務付けられているが、欧州為替相場メカニズムへの不参加によってユーロ導入が不可能となっている。2013年までは再度の国民投票が実施されないことになっているが、中道右派による連立政権内では再度の国民投票を早期に実施するという意見が高まっている。さらに2008年秋の金融危機を受けてユーロ導入の議論は高まっており、スウェーデン政府は2013年という期日は守るとしているものの、財務相アンデルス・ボルグはユーロ導入について支持を表明している。また有権者のあいだでもユーロ導入への支持が高まっている。2009年4月に実施された世論調査では、わずかながらも初めてユーロ導入に賛成する意見が反対を上回った。 チェコは当初、2010年のユーロ導入を目指していた。しかしチェコでは社会基盤の整備のための出費よりも財政赤字のほうが大きいという見込みとなったことでこの導入目標は断念することとなり、政府は2012年か2013年の導入を目指すこととなった。その後さらに、ユーロ導入の期日が遅れるということへの経済的影響から、チェコ国立銀行総裁のズデニェク・トゥーマはインタビューで、2019年のユーロ導入が適切であると発言した。ところがコルネの対ユーロ相場の変動幅が大きく、また近隣4か国が2012年までにユーロを導入する見込みが大きいため、チェコもまたこれらの国やポーランドと同時期の2012年1月1日にユーロを導入すると見られていた。チェコでは2009年中にユーロ導入までのロードマップを作成し、チェコ政府も2009年11月1日を導入の方針を定める期限としている。2016年1月現在、ユーロ導入の期日は未定である。 ハンガリーは2010年にユーロに移行したいとしていた。ところが慢性的な財政不足からこの目標は断念された。ハンガリーでは対国内総生産比で毎年 10% の赤字となっており、すべての欧州連合加盟国の中でももっとも高い数値となっている。このためハンガリーのユーロ導入は2013年から2016年ごろと見込まれていた。2016年1月現在、ユーロ導入時期については未定である。 欧州連合に加盟しているデンマークとイギリスは基本条約でユーロ導入義務を課せられない「適用除外」を受けている。これはオプト・アウトとも呼ばれる。 デンマークは欧州為替相場メカニズムの適用国であるが、2000年9月28日の国民投票で適用除外の権限行使を決め、ユーロを導入していない。このときの国民投票では 53.1% がユーロ導入に反対した。しかしその後デンマーク政府は、2011年にも国民投票の再実施を検討している。しかし、デンマークのトーニング・シュミット首相は後に適用除外に関する国民投票の約束を取り下げている。2013年5月16日のストックホルムのインタビューにおいて、トーニング・シュミット首相は、「現政権下では非現実的だ」と述べ、2015-19年に見込まれる「次期政権下でも、国民投票実施の選択肢を協議することには意味がないと思う」とした。ただし、欧州財政危機において、デンマークは他の北欧諸国とともに資金の避難先となっており、ユーロ圏にいずれかの時点で加わる是非については協議を続けるとも述べている。 イギリスでは2006年に当時の首相のトニー・ブレアの発言により、ユーロ導入の是非については国民投票を実施することになっていた。ところが2005年にフランスとオランダでの国民投票の結果、欧州憲法条約の批准が反対されたことにより、イギリスでは欧州憲法条約の批准の是非を問う国民投票が無期限に延期された。またブレアの後任であるゴードン・ブラウンはユーロに対して懐疑的な立場を持つとされ、さらにブラウンがブレア政権で通貨政策を担う財務相を務めていた時、ユーロ導入について両者が対立したこともあり、ブラウン政権下ではユーロ導入の議論が進まなかった。 ユーロに移行された旧通貨と相場を固定していた通貨は、ユーロが導入された後はユーロと相場を固定している。とくにフランスの植民地だった赤道ギニア、ベナン、ブルキナファソ、コートジボワール、ガボン、ギニアビサウ、カメルーン、コンゴ共和国、マリ、ニジェール、セネガル、トーゴ、チャド、中央アフリカの14の西部・中部アフリカ諸国で使用されている CFAフランはユーロと相場が固定されている。CFAフランについてはフランス財務省が固定相場を保証している。 CFAフランと同様に、フランスの海外領土であるフランス領ポリネシア、ニューカレドニア、ウォリス・フツナで使用されている CFPフラン、かつてのフランスの植民地であるコモロのコモロ・フラン、ポルトガルの植民地だったカーボベルデのカーボベルデ・エスクードも対ユーロの為替相場が固定されている。 ボスニア・ヘルツェゴビナは1998年から独自の通貨を持つようになり、この通貨はドイツマルクと固定されていたため、対ユーロでも為替相場が固定されている。 euro という名称は1995年12月15-16日にマドリードで開かれた欧州理事会の会合で採択され、その後規則で正式に定められた。この単一通貨が導入される国のすべての言語でも \"euro\" という表記が用いられている。ただしドイツ語では語頭が大文字で書かれ (Euro)、またギリシア文字の表記も別に定められている(ευρώ)。 他方で単一通貨の名称の綴りは同じであっても、言語によって以下のように発音が異なっている。 ドイツ語 [ˈoɪ̯ʁo] オイロ 英語 [ˈjuːɹəʊ]、[ˈjuərou] ィユァロウ フランス語 [øʀo] ウロ、[øʁo] ウホ(「パリのʁ音」で発音した場合) オランダ語 [ˈøːroː] エーロー ギリシア語 [ɛvˈro] エヴロ フィンランド語、イタリア語 [ˈɛuro] エウロ スペイン語 ['euɾo] エウロ 2006年初頭に一部の東ヨーロッパの国から、自らが使っている言語の文法上の規則に \"euro\" という綴りがそぐわないとして、単一通貨の別の表記法を認めるよう求めた。たとえばロシア語でヨーロッパを指すキリル文字での表記はЕвропа、発音は [jɪˈvropə] となる。ところが数週間後には、この議論は成果もなく収まっていった。それでも一部の国では異なる表記法が用いられており、スロベニア語の \"evro\"(2007年ユーロ導入)、ラトビア語の \"eiro\"(2014年ユーロ導入)、リトアニア語の \"euras\"(2015年ユーロ導入)などがその例である。 単一通貨の正式名称は関連する欧州連合の法令に定めがあり、また欧州中央銀行が定期的に作成する収斂報告書にも以下のような文章を確認することができる。 In Anbetracht der ausschließlichen Zuständigkeit der Gemeinschaft für die Festlegung des Namens der einheitlichen Währung sind jegliche Abweichungen von dieser Bestimmung mit dem EG-Vertrag unvereinbar und daher zu beseitigen. (日本語仮訳)単一通貨の名称の決定に関する共同体の権限を考慮すると、規則に対するいかなる違背も欧州共同体設立条約に相いれないものであり、したがって排除されるべきものである。 — Europäische Zentralbank、Konvergenzbericht Mai 2007 アングリシズム批判の立場からは、\"euro\" および \"cent\" という表現を使うことに対して、英語特有の表現の受け入れを推し進めるものだという意見が出されることがある。しかしこの意見に対しては、\"euro\" という単語はギリシア語の Εὐρώπη の略語に由来するものであり、また \"cent\" もラテン語の centesimus(「100」または「100番目の」)に由来するものであるが、ヨーロッパのロマンス諸語で通貨の補助単位(例: céntimo, centime, centavo, centesimo)として使われてきた語であることから、必ずしも英語を受け入れるものではないという。とくにイギリスの領土ではこれらの語が通貨の単位として用いられていない。 ユーロの補助単位は「セント (cent)」であり、100セントが1ユーロに相当する。ただしギリシャでは λεπτό、フィンランドでは sentti が用いられる。セント硬貨には \"EURO\" と \"CENT\" の両方が刻まれており、このことはユーロ硬貨の外見の特徴についての欧州委員会の文書においても掲載されている。ただこの文書では、\"EURO\" の文字は \"CENT\" よりも小さく刻まれるものとするということが記載されている。 欧州連合の発行物に関する内規では、加盟国ごとで異なる表記を排除してはならないと定められている。これはユーロ導入前に補助単位として cent と同義の語を使用していた国に対する容認策であり、たとえばフランスやベルギーの centimes やポルトガルの centavo などがある。 口語ではほかの補助単位のセントと区別するために、ユーロ・セントという表現が用いられることがある。たとえばUSドルやユーロに移行される以前の通貨の補助単位と区別する際に用いられている。 欧州連合は euro と cent について、その複数形は変化させずに使うこととしている。しかしスペイン語とポルトガル語では複数形を euros や céntimos としている。フィンランド語では度量単位と同様に部分格が用いられ、euroa や senttiä となる。またドイツ語や英語では数詞が先行しない場合、通常の複数形の作り方にならう。複数形が用いられるのは紙幣や硬貨の枚数について言及するときであり、金額について言及するときには単数形が用いられる。 ユーロによる金額表示を行うさいには、数に続いて通貨コードである \"EUR\" を加える。補助単位のセントには正式な記号や短縮形が定められていない。そのためユーロ圏では、セントの部分は \"20 cent\" や \"0.20 €\" などと表示する。ただし、正式なものではないが、短縮された形 (Ct, Ct., ct, C, c) などが用いられることもある。USセントを示す記号 ¢ は、ユーロ・セントを示すものとして使われることはあまりない。 ユーロ記号は1997年に単一通貨を示す記号として、欧州委員会によって作成された。当初は通貨に独自の記号があるものは少ないため、欧州理事会でもユーロ記号についてはあまり議論されていなかった。1996年になるとユーロのロゴの募集が開始され、そのなかから図案が選考された。また1997年7月にはロゴに加えて通貨記号も定めることになった。 ユーロ記号は欧州経済共同体で主席グラフィックデザイナーを務めていたアルトゥール・アイセンメンガーが1974年に作成した図案が元になっている。その図案は大きく丸みを帯びた E の文字の中央に2本の横線が入ったもの( C の文字に等号を組み合わせたようなもの)である。またそれはギリシア文字のε、古典古代のヨーロッパを連想させるものでもある。2本の横線は、ユーロとヨーロッパ経済圏の安定を示している。ユーロの前身である欧州通貨単位の記号は短縮形の ECU を図式化して使用されていたが、ユーロ記号は ECU と同様に作成されたものではない。このユーロ記号の Unicode での符号位置は U+20AC である。 ところが、国際汎ヨーロッパ連合では1972年に発表した1, 2, 5, 10, 20, 50, 100ユーロの7つの図案にはユーロ記号が、正式に定められた記号とはわずかに異なるものの、大きい \"C\" の文字に等号をあわせた構成で描かれていた。この図案が発表された1972年は、国際汎ヨーロッパ連合の50周年、欧州石炭鉄鋼共同体の設立20周年にあたる年で、また同年には欧州諸共同体の北方拡大についての条約が調印されている。この図案に描かれた紙幣・硬貨の周縁には、\"CONFŒDERATIO EUROPÆA\" という文章が記載されていた。さらに肖像の人物として、カール1世、カール5世、ナポレオン・ボナパルト、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー、ジャン・モネ、ウィンストン・チャーチル、コンラート・アデナウアーが描かれていた。さらにヨーロッパを取り巻く状況としてこの1972年は、仏独協力条約の署名10周年でもあった。 欧州連合ではユーロ記号の画像使用に留保を設定しているが、促進を目的とする使用は認めている。 ユーロの省略表示は \"EUR\" と定められている。ISO 4217 では以下のようなコード指定の方法を講じているが、ユーロに対しては以下とは異なるコード指定の方法を講じている。 通常、通貨同盟の通貨に与えられるコードの最初の文字には \"X\" が割り当てられる。したがって通例にならうと、ユーロに対しては \"XEU\" が指定されるはずだった。実際に XEU は、1979年から1998年にかけて欧州通貨単位のコードに指定されていた。 最初の文字に \"X\" が指定されない場合には、通貨コードの冒頭2文字は ISO 3166-1 の国名コードが指定される。しかし欧州連合は主権国家でないため、通貨コードの冒頭2文字には欧州連合を示す省略表示 \"EU\" が指定された。 通常、通貨コードの最後の文字は通貨の最初の文字が指定される。そのためユーロに対しては上述の \"EU\" に \"euro\" の最初の文字である \"E\" をあわせて \"EUE\" とするはずだった。 但し例外も存在し、例えばロシア・ルーブル(Russian Ruble)のコードは \"RUR\" ではなく \"RUB\" となっている。 2009年6月末の時点で7847億ユーロを超える金額に相当する紙幣・硬貨が流通している。 硬貨として発行されているのは1, 2, 5, 10, 20, 50セントと1, 2ユーロである。硬貨の表面はすべての発行国で共通したものとなっているが、裏面は発行国ごとに異なるモチーフが刻まれている。裏面のデザインが異なっていても、硬貨としての効力に違いが生じるものではなく、同様に使うことができる。2004年に欧州連合が拡大したことを受けて、2007年に表面のデザインが刷新された。ドイツで鋳造された硬貨の裏面には、鋳造所を示すミントマークが刻印されている。またギリシャのセント硬貨には CENT ではなくΛΕΠΤΟ / ΛΕΠΤΑで額面が表示されている。また表面には L を2つ重ねた印があり、これは各硬貨共通の表面のデザインを担当したベルギーのリュク・ライクスを示すものである。 1ユーロ硬貨と2ユーロ硬貨には白銅と黄銅の合金が用いられている。 タイの10バーツ硬貨と2ユーロ硬貨は大きさと重量がほぼ同じであり、またそれぞれが2種類の金属の合金でできているため、ユーロ圏の硬貨識別能力が不十分な自動販売機は10バーツ硬貨を2ユーロ硬貨として認識することがある。10バーツ硬貨のほかにもトルコの1リラ硬貨、ケニアの5シリング硬貨、イタリアで使われていた500リラ硬貨についても同様の事象が起こりえる。 2004年以降、2ユーロ額面の記念硬貨が発行され、市中に流通している。この記念硬貨は裏面に描かれる主題が発行国ごとに異なるものであり、ユーロを使用する国で有効に使うことができる。 最初に発行された2ユーロ記念硬貨はアテネで開かれた2004年夏季オリンピック大会を記念したもので、ギリシャが作成した。2005年にはオーストリア国家条約署名・発行50周年を記念した硬貨を作成、2006年にはドイツがはじめて記念硬貨を作成し、主題にはホルステン門が描かれた。その後ドイツでは2007年にシュヴェリン城、2008年に聖ミヒャエル教会が描かれた記念硬貨が発行されている。これらの記念硬貨は大量に発行・流通されている。ドイツでは16年間は、通常版であるアドラーを描いた2ユーロ硬貨を発行せず、連邦州のモチーフを描いた2ユーロ硬貨を1年ごとに代えながら発行する予定になっている。ただ2008年には流通を目的として、通常版の2ユーロ硬貨が大量に鋳造されている。 2007年3月25日、ローマ条約署名50周年を記念して、当時のユーロ圏13か国は共通の図画とそれぞれの国の公用語およびラテン語での文章を刻んだ記念硬貨を発行した。また2009年1月1日には、経済通貨統合10周年を記念した2ユーロ硬貨が発行された。 上述の記念硬貨以外にもユーロ圏諸国では、2ユーロ以外の額面の特別記念硬貨を発行しており、なかには100ユーロ以上の額面のものや記念金貨として発行されたものもある。オーストリアではユーロ額面として最高額の硬貨が鋳造されており、\"Big Phil\" と呼ばれるウィーン金貨には100,000ユーロの額面が付けられている。このような特別硬貨はユーロが使用されているすべての国では通用せず、それぞれ発行国のみで有効であり、またおもに収集家向けにやりとりされている。 スロベニアが欧州連合理事会議長国だった2008年には3ユーロ硬貨が発行された。 ユーロ紙幣のデザインは欧州連合規模で行なわれた公募で集められた案のなかから、オーストリアのロベルト・カリーナのものが選ばれた。また紙幣のデザインはすべての国で共通のものとなっている。発行されている額面は5,10,20,50,100,200,500ユーロの7種類である。 紙幣には「ヨーロッパのそれぞれの時代と建築様式」を主題としたモチーフが描かれている。またそのモチーフとして表面には窓が、裏面には橋が描かれている。ユーロ紙幣に描かれた建築物は実在のものではなく、それぞれの時代の特徴的な建築様式をもとに描かれたものである。具体的には、5ユーロ紙幣は古典建築、10ユーロ紙幣はロマネスク建築、20ユーロ紙幣はゴシック建築、50ユーロ紙幣はルネサンス建築、100ユーロ紙幣はバロック・ロココ建築、200ユーロ紙幣はアール・ヌーヴォー、500ユーロ紙幣は現代建築となっている。 2002年末までユーロ紙幣の裏面に記載されている記番号の頭文字によって、その紙幣がどの国で印刷されたものかを判別することができた。たとえばドイツで印刷されたものにはXの文字が記載されていた。2003年以降は、いわゆる「プーリング制度」によりそれぞれの額面の紙幣が一部の中央銀行だけで発行されるようになり、印刷工場からユーロ圏全域に発送されることとなった。また各中央銀行が発行を担当する額面の種類は4つを超えないとされている。 2003年以降は紙幣に記載された記番号を確認することで印刷工場を判別できるようになっている。たとえば5ユーロ紙幣では灰色で印刷された図柄の左端、EUROのOの文字の上方約1cmのところに記番号が記載されている。ほかの紙幣でも、この記番号は表面にある額面の上方に記載されている。記番号の先頭の文字は、その紙幣がどの工場で印刷されたものであるかを示している。例えばRであれば、ベルリンの連邦印刷局で発行された紙幣ということを表している。印刷工場コードに続くのは3桁の数字、アルファベット1文字、1桁の数字である。 オーストリアは2ユーロ紙幣を、イタリアはさらに1ユーロ紙幣の導入を求めている。両国ではユーロ導入以前に、低い額面の紙幣が流通しており、オーストリアでは20シリング(1.45ユーロに相当)紙幣が、イタリアでは1,000リラ(52セントに相当)紙幣がそれぞれ発行されていた。 2004年11月19日に欧州中央銀行の政策理事会は、現行よりも低い額面の紙幣発行は行なわないということを決定した。2ユーロ紙幣についても現行の紙幣が10年間は改訂する予定がなく、導入する見込みはない。 一部のユーロ導入国では1セント硬貨と2セント硬貨が一般的に使われていない。実際にフィンランドではセント単位の下1桁が0または5しか使用されていないため、同国では1セント硬貨と2セント硬貨が導入されていない。このような端数の廃止はオランダでも同様に行なわれた。これは両硬貨の流通量が少なく、そのために需要が少ないということが指摘されている。しかし1セント硬貨、2セント硬貨はとくに問題なく使うことができる。 廃止に反対する立場からは、価格が5セント単位となるよう切り上げられていくおそれがあり、いわば第2のトイロをひきおこしかねないということが指摘されている。これに対して、心理的価格設定を行うさいに、従来は端数を99セントとしたものを廃止後は95セントにすることが見込まれるため、トイロ現象は起こらないという反論がある。さらにオランダやフィンランドの商店では、商品価格の端数をいまだに端数を99セントとしているところがある。このような商店では商品の合計購入額を支払のさいに切り上げ、または切り下げしている。 2009年、ドイツ連邦議会はインターネット上で500ユーロ紙幣による支払の廃止を求める請願の受付を開始した。この原因には、ガソリンスタンドや商店、あるいはドイチェポストの受付窓口でさえも、500ユーロ紙幣の受け取りが断られている実態にある。500ユーロ紙幣の受け取りが断られる背景には、釣銭が不足するというためではなく偽札を警戒するというものである。ところが統計ではこの懸念を裏付けることができない。これは実際に500ユーロの偽札が使われるという割合が全体の1%に満たないためである。 2016年5月4日に欧州中央銀行は、パナマ文書で明かされたユーロによる資金洗浄対策により、ドイツの反対を押し切り、500ユーロ紙幣の発行停止を2018年末までに実施することを決定した。廃止される500ユーロ紙幣は発行残高の20%程度、枚数にして2%程度に過ぎないと推測されている。 ユーロ紙幣の偽造対策の水準は世界的に見ても高いものと評価されている。紙幣の安全性を確保するためにさまざまな対策が講じられている。紙幣用の紙には製造段階において蛍光繊維が、また中心部には糸が入れられており、裏から光を当てると全体が黒ずみ、とくに額面のあたりには極小文字が印刷されている。またユーロ紙幣は特殊な構造を持つ綿繊維で作られている。さらに図柄の部分は発光塗料で印刷されており、紫外線を当てるとその部分が発光するようになっており、赤外線を当てると違う色が反射される。紙幣の透かしに裏から光を当てると、それぞれの券種に描かれている図柄が浮かび上がり、額面が判断できるようになっている。 紙幣の表面左上隅にある確認用の見当は裏から光を当てて、裏面に印刷された見当と合わせると紙幣の額面が浮かび上がる。これは表面と裏面にはそれぞれ額面の一部しか印刷されておらず、両者を組み合わせることで額面が示されるようになっている。5,10,20ユーロ紙幣の縁には帯状の金属箔が貼り付けられており、光の加減でユーロ記号や額面が現れるキネグラムとなっている。50ユーロ以上の額面の紙幣に貼られている金属箔はホログラムとなっており、見る角度によってその紙幣に描かれている建造物や額面が現れるようになっている。 凹版印刷と、間接的な活版印刷を組み合わせた印刷法で製造された紙幣の表面にはレリーフが隆起しており、これは紙幣を偽造しにくくするのと同時に、視覚障がい者が紙幣を区別しやすくするためのものである。さらに紙幣に描かれた窓や扉の部分や欧州中央銀行の略称である BCE, ECB, EZB, ΕKΤ, EKP が印刷されている部分も隆起印刷が施されている。 低額紙幣の裏面には構造色を起こす筋があり、他方で50ユーロ以上の紙幣には光学的変化インクで額面が印刷されており、紙幣を傾けるとその色が変化するようになっている。さらにユーロ紙幣には機械で真券であるかを検査するための印がある。また偽造防止システムによって、複写機やパーソナルコンピュータを用いた偽造を防止するなどの対策も採られている。ドイツ連邦銀行では確認する安全対策の方法をひとつだけにすべきではないとし、同時に、非公開としている安全対策があるということを明らかにしている。 ユーロ硬貨は額面が低いため、偽造ユーロ紙幣に比べると影響が深刻ではない。しかしユーロ硬貨にも偽造対策が施されている。ユーロ硬貨には大きさと重さが厳密に定められている。1ユーロ硬貨と2ユーロ硬貨は2つの金属の合金で鋳造されている。合金で鋳造されていることと、複雑で3段階を経る製造過程によってユーロ硬貨の安全性が確保されている。1ユーロ硬貨と2ユーロ硬貨の中心部分にはわずかな強磁性を持つが、1,2,5セント硬貨は強い強磁性を持つ。1ユーロ硬貨と2ユーロ硬貨の外周は強磁性を持たないが、1, 2, 5セント硬貨は強磁性を持っている。偽造セント硬貨は本物のセント硬貨とは違う金属で製造されることがあるため、テーブルに落とした音で偽造硬貨を判別することがある。また紙に偽造硬貨で線を引くと、鉛筆で書いたような跡が残ることがある。2006年後半に回収された偽造硬貨のおよそ95%は2ユーロ額面のものだった。 ユーロの導入によって従来は共同体内部に存在していた為替相場リスクや、そのリスクヘッジのために企業が負担するコストが低減することとなり、ユーロ圏内での通商や経済協力が増大するということが期待される。そして通商は経済成長をもたらす大きな要因のひとつであることから、ユーロ圏入りはその国民にとって利益につながると考えられており、実際に2007年までにユーロ圏内での貿易は 5-15% 増加してきた。つまりユーロによってヨーロッパの企業は巨大な経済圏で活動するという利益を享受することとなった。またユーロは商品、サービス、資本、労働力の自由な移動という、ヨーロッパ共同市場に欠けていた単一通貨となって、市場統合を完成させた。 さらにユーロによって、ユーロ圏諸国における商品およびサービスの価格格差が解消され、つまり裁定取引によって既存の価格格差は相殺される。このことによって企業間の競争が活発化し、またインフレーション率の低下とあわせて消費者に利益をもたらすこととなる。 一般に、欧州中央銀行はインフレとの戦いという主たる使命を成し遂げてきた。事実、欧州中央銀行が設定している 2% というインフレーション・ターゲットはおおむね達成されているか、あるいは長期にわたる過度の超過は防がれてきた。インフレーション率が低いということはユーロ圏諸国の市民にとって経済安定性の基礎[要出典]となっている。 ユーロに対する投機は、投資家にはリスクが大きすぎ、ほかの小規模の通貨と比べると困難なものとなっている。1990年代の通貨に対する投機はポンド危機など、欧州通貨制度に深刻な歪みをもたらし、さらにアジア通貨危機の発生原因のひとつとなった。特定の国の通貨に対する投機はその国の外貨準備を吐き出させ、また国民経済に深刻な損害をもたらしかねないものとなり、ユーロの導入はヘッジファンドによる通貨の空売りの目論見を防止することが可能となる。 またユーロは、とくに旅行者にとって利益をもたらしている。ユーロ圏内では両替やその手数料が不要になるうえ、通貨単位が異なることによる商品価格の比較が容易になる。 ユーロ圏内では複数の通貨を有する経済圏よりも自由な資本の移動が起きている。 さらにユーロの登場によって世界におけるヨーロッパの経済的重要性が再認識されている。金融に関するヨーロッパの動向はより大きな影響を持ち、またユーロ圏諸国の発言力も強くなっている[要出典]。グローバル化した世界でユーロという単一通貨はアメリカやアジア諸国に対するヨーロッパの国際競争力を高める役割を持っている。 ユーロは経済心理面においてヨーロッパ諸国間の協力関係を表すものであり、またヨーロッパのシンボルとして統合の概念を具現化するものである。また政治面でもユーロは欧州連合の強化をもたらしている[要出典]。 経済学者の中には、ユーロ圏のような巨大で特殊な経済圏にとっては単一の通貨を持つことについての危険性を懸念する意見がある。とくに景気循環が非同期的であることによって適切な金融政策が困難であるということが挙げられている。 実際にユーロが導入されて間もなく、国ごとで経済情勢が異なっているにもかかわらず、単一の金融政策を実施することが困難なものであるということが明らかとなった。たとえば、経済成長率が 5% を超えていたアイルランドと、ほぼ 0% のスペインやポルトガルとを調和させるといったことが挙げられる。このとき、従来の手法では政策金利の引き上げや通貨供給量の引き締めといった政策でアイルランドの経済情勢に臨まなければならなかった一方で、スペインやポルトガルに対しては金融緩和策が必要だった。しかし単一の金融政策ではこのような域内での格差を十分に反映できない。 マクロ経済学上の大きな問題として、単一通貨に参加することによる為替相場の固定がある。これがもたらす問題として域内地域格差問題がある。為替レートが域内固定されることにより、人件費の安い南欧に工場建設などの長期投資が発生する一方で、独・仏・ベネルクスなどでは安価な商品サービスの提供が行われるようになった反面、失業率の高止まりと新たな雇用の創出という難題を抱えている。南欧諸国にしても、ERMに参加していない欧州諸国とりわけイギリスやポーランド、チェコなどとの競争にさらされている。 国際金融のトリレンマに従えば、固定相場制と資本移動の自由を両立させているユーロ圏各国では独立な金融政策をとることができない。この事実はユーロ圏の加盟国が不況に陥ったときに、自国通貨を切り下げて輸出競争力を高め経常収支を改善させることができなくなる。そのような状況下ではユーロ圏で経済が好調な国から不況の国へ財政支援が検討された場合のEUの力量が試される。けれども実際にはアメリカのような財政連邦主義を現時点でのユーロ圏が有しているわけではなく、頼みの綱の財政政策も安定成長協定(SGP)によって制限をかけられ、結果として各国の成長の足かせになりうる。 ユーロ圏は、アメリカと異なり、圏内各国で言語や文化が異なるために、ユーロ圏内での資本移動はアメリカほど自由ではないし、各国は自国の人口をゼロにしたいとは思わない。ここで、資本移動での経済の調整メカニズムはあまり機能しなくなる。さらに。圏内の唯一の発券銀行である欧州中央銀行が、ドイツの影響を非常に強く受けているために、危機に対して民主的な裁量の余地が加盟国に乏しいことなどが想定される。 ミルトン・フリードマンは、ユーロの見通しの悪さを以下のように危惧していた。適切な金融政策がとれるのは変動相場制があるからであり、統一通貨ではそれは不可能である。さらに悪いことに、ユーロ圏のように、為替レート変動による経済の調整メカニズムを放棄している場合には、国内の価格や賃金あるいは資本移動によってでしか調整メカニズムが働かないので、ユーロ圏各国が各自独立した文化や規制を有している状態のままユーロを導入すれば、ユーロ圏各国の政府が各々異なる政治的圧力にさらされ、それら政府同士での政治的軋轢が生じる。これは、現在のPIIGSとドイツのように、救済される側とする側とで異なる政治的圧力が働き、ユーロ圏政府間での交渉が行き詰っている状態をさしており、このような経済的困難が現れることを、フリードマンは予見していたと言える。 また、クリストファー・ピサリデスは、現在のユーロシステムによって、失業率が高止まりし失われた世代が作り出されていると指摘し、ユーロ圏の順序だった解体を主張し始めた。かつては名案とされた通貨同盟だが、この通貨システムによってヨーロッパが低成長に苦しみ、加盟国が政治的に分断される結果となり、逆効果にしかなっていないとピサリデスは述べる。 ユーロ圏全体では既に2013年度の平均失業率が12.2%に達し、スペインでは前年より売り上げが10%落ち込み、ギリシャなど一部の国ではデフレーションに陥っている状況であるにもかかわらず、欧州中央銀行(ECB)が景気回復のための適切な金融政策をとっていないという批判がある。ユーロ圏の経済成長率は1%未満にまで低下している。スペインとギリシャの失業率は27%に達しており、IMFはECBに政策金利を下げるよう要請している。だが、現段階でECBは、アメリカの連邦準備制度(FRB)などが行っているような量的緩和を検討はしないという。ジョージ・ソロスは、ECBの金融政策はその他の中央銀行が行っている量的緩和と同期していないと述べる。 加えて、政治的な面からも、欧州中央銀行や欧州委員会がユーロ導入国の赤字国債発行を阻止できるかということは疑わしいと考えられている。マーストリヒト条約では安定成長協定に反した場合の罰金制度が規定されているが、2003年にフランスが棚上げにさせたことなどもありその実効性は疑わしい。 一般に、単独または複数の国が財政政策上の義務を逃れるために大規模な国債増発に動いた場合、通常は国債価格の下落(金利の上昇)やインフレの進行、あるいは自国通貨の下落(通貨安)による輸入物価の高騰という形でむくいを受けるが、ユーロ一本値の場合、インフレ率や為替への影響は域内全体に拡散、吸収されるため残りのユーロ圏諸国に間接的な影響(損害)を及ぼしかねない。すなわち国債増発国はリスクを負わず安易な債券の発行が可能になり、その付けは他の参加国が共同で負うというモラル・ハザードを生み出すことになる。 アメリカのように金利上昇により自国通貨が上昇(通貨高)する事例もあるが、民族資本の乏しい開発途上国では、為替相場におけるクラウドイン効果は期待できないと推測される。 国債発行の単年度GDPの3%制限は、財政政策を行う上での大きな足かせであり、なおかつ金融調整は欧州中央銀行の一本値である。政府支出と金利調整機能は自国の総需要管理の強力な誘導手段であり、この2つを放棄することは自国の雇用を域内市場の趨勢にまかせ、政府が国民に対する責任を果たす直接的な手段が大きく制約されることを意味する。 イギリスの再加盟反対派が掲げる主な理由は「イギリス経済はユーロ経済と非常に異なっており、ユーロ圏の画一的な経済政策はイギリス経済にリスクをもたらす」「イギリスの自主性が失われる」「イギリスのマクロ経済政策は、ユーロ圏のそれより有効である」「ユーロ圏とくにドイツに構造的問題がある」とする。イギリス政府は、再加盟問題を検討するうえで5項目の経済テストをおこない、結局「イギリスの金融部門に良好な影響をあたえる」以外の項目は満たさないとの結論を得た。なお、他の4項目は、「ユーロ圏とイギリスの経済構造や景気サイクルが持続的に一致の方向にむかっている」「イギリスの労働・生産市場が経済的衝撃に耐えられる柔軟性をそなえている」「イギリスへの投資が改善(拡大)する」「イギリスにおける雇用の機会が拡大する」である。 上述してきた影響のほかに、国際商品市場の値動き、とくに経済において重要なものに原油価格が挙げられる。ほとんどの原油の取引にはUSドルが用いられ、1970年代以降、石油輸出国機構諸国はドル建てだけで取引してきた。ところがユーロの登場により原油輸出国側では外貨準備の分散の観点から一部の受け取りをUSドルからユーロに移行する国が増え、そのため輸入国側でもユーロ建てでの取引に移行せざるを得ないということが議論された。 各国中央銀行と民間資本によるドルによる外貨保有は、アメリカ国債の重要な引き受け先であり、輸出国側がユーロ建てを導入すれば、ながらく原油取引によって安定してきたUSドルとドル経済にきわめて不利な影響をもたらすことになる。2000年、サッダーム・フセイン統治下のイラクは原油取引をユーロ建てのみとしたが、のちにアメリカによる占領でドル建てに戻されている。またイランや、ユーロ建てへの移行を強く唱えているウゴ・チャベス政権下のベネズエラはサッダームによるユーロ建て移行に対する支持を表明している。2008年2月17日、イランはキーシュ島に、USドル建ての取引を行なわない石油取引所を開設したが、イランの原油輸出量はUSドルの「原油取引通貨」としての地位を脅かすほどのものではなかった。 ユーロの導入によって多くの消費者は商品やサービスの価格がインフレーション率以上に高くなったと感じている。この物価があがったという消費者の感覚は、特定の地域で原価が上がったために個々の価格が上げられたことによるものであり、これらの価格上昇がとくに印象に残った。一部では事前に、ユーロ導入後の価格の表示で端数の調整を実施するために、価格を緩やかに上昇させていたところもあった。 そのためドイツでは、ティタニック誌が作り出し、その後多くの新聞でも使われるようになった \"Teuro\" という言葉(「高価な」という意味のドイツ語 teuer と Euroをあわせた造語)が広まり、Teuro は2002年の言葉 (Wort des Jahres 2002) に選ばれた。しかし政府の統計ではこの年に大きなインフレーションは起こっていない。たとえばオーストリア統計局によると、オーストリアの1998年12月31日での対1986年比での消費者物価指数 (VPI 86) は133.7で、1987年から1998年の12年間の平均インフレーション率は2.45%である。これに対して対1996年比での消費者物価指数 (VPI 96) は、1998年12月31日に102.2だったものが、2003年12月31日には112.0となっており、ユーロ導入後の平均インフレーション率は1.84%に下がっている。またドイツの対2000年比での消費者物価指数を見ると、1991年に81.9だったものが1998年には98.0となった一方で、ユーロ導入後の2003年には104.5となっている。つまり、ユーロ移行以前の平均インフレーション率が2.60%だったのに対して、移行後は1.29%と下がっている。 上記のような、統計上はインフレーション率が低下していることと、ユーロ導入によって消費者が実際のインフレーション率以上に物価が上昇していると感じたこととの矛盾についてはさまざまな解析がなされている。たとえば、たしかに食品など日常購入する商品の価格上昇率は全体のインフレーション率を上回っていたが、マーケットバスケット方式で調査された対象に含まれている電化製品などの価格上昇率は全体のインフレーション率より下回っていた。つまり後者の商品は日常的に購入するものではないため、消費者は統計以上に物価が上昇したと感じたのではないかということが指摘された。また旧通貨からユーロに頭の中で換算したときに、四捨五入するなどして発生した誤差(たとえば対ドイツマルクで 1:1.95583 とするところを 1:2、対オーストリア・シリングで 1:13.7603 とするところを 1:14 などとした)が影響したという見方もあり、とくにスペイン・ペセタ(四捨五入で 1:166)の例がある。そして旧通貨を使っていた時間が長いほどユーロでの価格表示と旧通貨での表示を比べるために、物価が上昇したのではないかということが強く感じられたのではないかとも指摘されている。 通貨が共通化されたことにより、導入国では国内の経済政策の大部分を独自に実施するということがなくなった。このため単一通貨を批判する立場からは経済や政治における摩擦が増大する危険をもたらすのではないかと指摘し、他方で単一通貨を支持する立場からは導入国間での収斂基準の達成に基づく金融政策の統合は合理的であるとしている。 主要通貨に対してユーロ相場が安定した動きを見せていることとアメリカが長期にわたって財政政策の懸案事項を抱えていることから、経済専門家の中には世界における準備・基軸通貨としてのUSドルの地位をしだいに脅かし、最終的には凌駕するのではないかという見方を持つものがいる。もしユーロがUSドルに代わる地位を得ることとなれば、かつて第二次世界大戦後に、それまで世界の基軸通貨だったポンド・スターリングと取って代わったUSドルの時代が終焉するということになる。そのことは世界の準備通貨の割合においてユーロが着実に増えているということに示されている。 ほとんどの経済専門家は開発途上国や新興工業国が外貨準備の再検討や原油取引のユーロ建てへの移行について繰り返し表明していることを、具体的な意図があるのではなくアメリカに対して政治的な圧力をかけようとしていると考えている。しかし、ユーロ圏外の国の外貨準備におけるユーロの占める割合が過大になれば、それは外貨準備において従来の過小評価を改めただけと考えられ、多くの国の通商・経済関係では依然としてユーロは低く評価されている。 ユーロの現金発行残高は2006年にUSドルを抜いて、世界で最も多くなった。この年の10月に世界に流通しているユーロ紙幣の額面の合計は5920億ユーロとなり、USドル紙幣の5790億USドルを上回った。ただしこの背景には、アメリカ国内では決済手段としてクレジットカードが多く使用されているということがあり、そのため1人あたりの現金の所持額が少なくなる。ユーロは将来的に現金として最大の規模を持つ通貨となると見込まれている。 欧州為替相場メカニズム適用国においてユーロを導入するさいには、欧州連合加盟国の財務相による経済・金融理事会において最終交換比率を決定することになる。この交換比率は、端数処理による誤差が最小限となるような有効桁数が6桁の数となるように決められる。 1998年12月31日に欧州連合加盟国の財務相は、ユーロを最初に導入する11か国の通貨とユーロとの最終交換比率を決定した。このときの交換比率は欧州通貨単位に基づいて設定されたものである。以後にユーロを導入した国(2001年のギリシャ、2007年のスロベニア、2008年のキプロスとマルタ、2009年のスロバキア)の旧通貨とユーロとの最終交換比率は、欧州為替相場メカニズムのセントラル・レートを基準として定められた。 ユーロが決済通貨として導入されると、導入国の旧通貨とほかの通貨との両替は「トライアンギュレーション」方式でのみ行なわれることとなった。つまり旧通貨とほかの通貨との両替にあたっては、いったんユーロに換算してから行なわれなければならなくなった。また端数処理はユーロおよび対象通貨の小数第3位で行なうことが認められていた。トライアンギュレーションは直接換算で発生するおそれがある端数処理の誤差を防ぐため、欧州委員会はこの方式による両替の実施を義務づけた。 旧通貨単位での金額表示をユーロに切り替えるにあたって、切り替えのための計算の最後の時点においてのみ、端数を支払が可能な額に丸めることが認められた。端数処理を計算の最後の時点としたのは、計算にあたって個々の要素や計算途中で出された結果を端数処理をするとまったく異なる結果が出るおそれがあったためである。異なる結果が出てしまえば、新通貨の導入によって契約の継続性に影響を及ぼさないとする原則に反することになる。 1999年1月4日、フランクフルト証券取引所においてはじめてユーロとUSドルの為替取引が開始され、このとき 1EUR = 1.1789USD の値がついた。ユーロ相場は対USドルで値を下げていき、取引開始から2年後には最安値をつけた。2000年1月27日にはユーロは対USドルで 1EUR = 1USD のパリティを下回り、同年10月26日に史上最安値の 1EUR = 0.8252USD となった。 2002年4月から2004年12月にかけてユーロは多少値を戻していく。2002年7月15日には 1EUR = 1USD のパリティを上回り、2004年12月28日には当時の史上最高値となる 1EUR = 1.3633USD をつけた。一部のアナリストは 1EUR = 1.4 - 1.6USD にまで達すると見込んでいたが 、その予想ははずれ、連邦準備制度の政策金利引き上げを受けてユーロは2005年に入って値を下げていき、同年11月15日には年間最安値の 1EUR = 1.1667USD をつけた。ところが連邦準備制度の金利引き上げ策は2006年のアメリカ経済の後退を受けて継続されなかった。2007年後半に表面化したサブプライムローン危機のために、連邦準備制度は政策金利の引き下げを決め、これを受けてユーロは相対的に値を上げた。その結果、2008年7月15日に欧州中央銀行の基準相場は史上最高値の 1EUR = 1.5990USD をつけ、また市場では基準相場を上回る 1EUR = 1.6038USD で取引された。この値は1995年4月19日につけた1USドルが1.3455ドイツマルク、単純に1ユーロに換算すると 1EUR = 1.45361 USD という相場を超えたものとなった。 2008年サブプライムローン危機によるUSドルの下落によって、ユーロ圏の域内総生産をUSドルに換算すると一年間だけ一時的にアメリカ合衆国の国内総生産を上回った。しかし、その後はユーロ圏がむしろ経済危機の震源地になっており、ユーロは下落し、USドルに換算すると経済的に衰退している。2017年9月時点に於いて1EUR = 1.17171USDをつけた。 強いユーロはヨーロッパ経済に光も陰ももたらした。光とは、強いユーロによっていまだにUSドルで取引されることの多い原材料の価格を安く買い入れることができたことである。陰とは、強いユーロによってユーロ圏の輸出品が相手先で高くなり、ユーロ圏の経済成長がある程度阻害されたことである。しかしユーロ圏の規模もあって、為替相場とその変動幅によるリスクはそれぞれが異なる通貨を使用していたころよりもはるかに低減した。とくに2007年の初旬には、世界経済の成長が緩やかだったにもかかわらず、ヨーロッパ経済が平均を上回る成長率を達成した。 2002年までのユーロ相場の下落は、当時ユーロ紙幣や硬貨が存在しなかったということがその原因のひとつに挙げられ、そのために当初ユーロは、ファンダメンタルが適切なものだった場合に比べて低く評価されていた。ヨーロッパの共同市場における経済の問題のためにユーロ相場の下落傾向は強まり、またこの流れのために域外の投資家がヨーロッパへの投資に魅力を感じないということにもつながっていった。ユーロ紙幣・硬貨の流通が開始されるとまもなく、過小評価されていたユーロ相場は上昇に転じた。2005年以降のヨーロッパ経済、とくに輸出の持ち直しはユーロ相場のさらなる上昇をもたらした。このほかにも中長期なユーロ相場の上昇をもたらしたと考えられる原因があり、とくに以下の3つが挙げられる。 アメリカの慢性的な財政・経常赤字とそれらに伴う累積債務の増大 中国、インド、日本、ロシアなどのおもな諸国の外貨準備の将来的な変動 石油輸出国による、USドルに加えてユーロを決済通貨としたい意向 将来的にユーロ未導入の欧州連合加盟国が加わる予定となっており、またこれらの国々でもユーロが現行通貨に替わって法定通貨となることから、拡大を続ける欧州通貨同盟が心理的に有望視されているということもユーロが軽んじられない要因となっている。さらにこのことはユーロの強大化に少なからず寄与しており、またユーロの国際的評価や経済的重要性を上昇させている。 2002年、ユーロは「これまでのなかでヨーロッパを認識させるような統合への手段はほかになく、そのために諸国民の一体化をもたらす重大で新たな時代を切り開くような貢献をした」としてアーヘン市からカール大帝賞を受賞した。 Cohn-Bendit, Daniel; Duhamel, Olivier; Vissol, Thierry (ドイツ語). 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Reuters (2008年3月14日). 2009年8月1日閲覧。 ^ ユーロの「父」マンデル教授、ドルとの固定を提唱-危機の再発防止にBloomberg 2009年9月25日 ECB – Our money: The website of the euro banknotes and coins (英語) 紙幣・硬貨の一覧などを参照できる ECB: European Central Bank home page (英語) 欧州中央銀行 The euro (英語) 紙幣のデザインやセキュリティなどの解説が載せられている ユーロ紙幣 (ドイツ語) (英語) TradingView ユーロ指数", "スイス・フラン(ドイツ語: Schweizer Franken(シュヴァイツァー・フランケン)、フランス語: franc suisse(フラン・スュイス)、イタリア語: franco svizzero(フランコ・ズヴィッツェロ)、ロマンシュ語: franc svizzer(フランク・スヴィッツェル))は、スイスとリヒテンシュタインの通貨。加えて、イタリアの飛地カンピョーネ・ディターリアの通貨、ドイツの飛地ビュージンゲンの非公式な通貨である。 通貨記号はFr.、SFr.、CHF(ラテン語国名の Confoederatio Helvetica Franc の頭文字)。ISO 4217の通貨コードはCHFで表す。補助単位はそれぞれの言語でラッペン(ドイツ語: Rappen, Rp.)、サンチーム(フランス語: centime, c.)、チェンテージモ(イタリア語: centesimo, ct.)、ラップ(ロマンシュ語: rap, rp.)と呼ばれ、1フランの100分の1に値する。対円レートは固定相場制の時が89→83円、変動相場制に移行してからは65円 - 150円の間で推移している。 スイス・フランは従来より、国際金融市場において、イギリス・ポンド、ドイツ・マルク、フランス・フランと並ぶ重要な通貨であった。欧州連合統一通貨ユーロの誕生後は、ユーロ圏に浮かぶ孤島となってしまもなお、国際社会における永世中立国スイスの地位により、「金(地金)よりも堅い」といわれるように、世界で最も安定した国際通貨として知られており、その現在もい要性はいささかも変わっていない。戦争などの有事や金融危機などの際には日本円などと共に「避難貨」とも呼ばれフラン相場が上昇する。外国為替市場における取引量は、米ドル・ユーロ・日本円・英ポンドに次ぐ取引規模を有し、また国際決済通貨のひとつであるため、自国の通貨が不安定な国家では、世界との貿易に、米ドルに代わってスイス・フランが使われることも多い。 1848年のスイス連邦成立時、各カントンでばらばらであった通貨を統合することになり、1850年に正式にスイス・フランが制定された。当時のフランス・フランに倣って、品位.900重量5グラム(純銀含有量は4.5グラム)の1フラン銀貨をもって基準通貨とする実質的な銀本位制であった。最初に鋳造されたフラン硬貨は写真のデザインのもので、現在の硬貨とは違う図案であった。1/2・1・2・5フラン銀貨がパリ造幣局でフランス・フランと同じ仕様で鋳造された(パリ造幣局のAのミントマークが裏面下に刻印されている)。スイスは、その後1865年のラテン通貨同盟に参加し、更に1876年にはフランスに続き金本位制に移行した。 この通貨同盟の加盟国ベルギーは、全ての銀貨の品位を引き下げ補助貨幣にすることを提案したが、フランスの猛烈な反対に遭い、5フラン銀貨を本位貨幣として残すことになった。つまり実質的には、金銀複本位制となった。この決定を受け、スイスも新しいデザインの硬貨を鋳造した。1874年から2フラン銀貨、1875年から1/2フランと1フラン銀貨が鋳造され発行されたのである。この銀貨は品位を.835に落とした補助貨幣であり、そのデザインは現在に至るまで変更されていない。なお、5フラン銀貨は品位.900のまま1928年まで鋳造されていた。 リヒテンシュタインでは、過去においてはオーストリアと経済的繋がりを持っていたため、通貨もクローネン基準であったが、第一次世界大戦以後はスイスとの関係が強まり、通貨もフラン基準となった。1924年までは独自の流通用の銀貨が発行されていたものの、現在はスイスの硬貨と紙幣がそのまま流通し、独自の通貨は記念硬貨など、収集家向けの硬貨のみを発行するに留まっている。 2015年1月15日、スイス国立銀行は2011年9月から、1ユーロ=1.2スイスフランに設定していた対ユーロ上限を撤廃し、為替介入を廃止することを突然発表した。これにより同日には一時1ユーロ=0.8517フランの過去最高値を付け、ユーロに対して41%の上昇となった。 このスイスフラン暴騰に連鎖して、世界の株式市場の下落や外国為替証拠金取引の混乱、両替商の倒産などの混乱が発生した。 スイス・フランの硬貨(英語版、フランス語版) スイスの現行硬貨は、5・10・20ラッペン(サンチーム)、1/2・1・2・5フランの7種類。1ラッペンの銅貨は先頃までセット販売用に製造されていたが、2007年1月1日に廃止された。かつて存在した2ラッペンの銅貨は1974年で製造が打ち切られ、その後1997年に廃止となった。こちらはすでに他額面硬貨との交換が終了しており、通貨としての価値を失っている。 スイスの硬貨はこれまで様々な材質で製造されてきており、これらが長期に渡って流通している。しかし、近年になって自動販売機の普及、銀行のATMでの硬貨の利用の増加などにより支障をきたすようになった。現在の硬貨は5ラッペンの黄銅貨を除き全て白銅貨である。かつてフラン硬貨は.835品位の銀貨であったが、1971年以降回収が行われ、現在は市中で銀貨を見かけることはない。また、5・10・20ラッペン硬貨のうち、純ニッケル素材の硬貨も、2004年に流通停止になっている。このほか5フラン硬貨も周囲のギザに相当する部分に刻まれた文字がレリーフ状になっているタイプと彫り込んだタイプが存在し、この彫り込んだタイプも自動販売機の誤作動を招くために流通停止となっている。 現在流通している硬貨のうち2フラン以下の6種類の硬貨のデザインは、フラン硬貨がヘルヴェティア女神の立像、ラッペン硬貨が同じく頭像で、これらの図案は1870年代から変更されていない。材質こそ銀や純ニッケルから白銅に変わりはしたが、概ね130年以上も同じデザインの硬貨が流通しているような国は、他には全く見当たらない。これは如何にスイス・フランが安定している通貨であるかの裏付けに他ならない。なお、低・中額面硬貨のヘルヴェティア女神像に対し、最高額面の5フラン硬貨のデザインはウィリアム・テルとなっている。この5フラン硬貨は、広く一般に流通している硬貨においては、日本の500円硬貨と並んで先進諸国の硬貨ではもっとも実質価値の高い額面の硬貨である。 この他の硬貨として、1880年代から10フラン、20フランの本位金貨が流通していた。20フラン金貨はラテン通貨同盟の基準金貨でフランスの20フラン金貨(ナポレオン金貨)と同じ6.4516グラムの重量を有する金純度90%の金貨で、アルプスの少女「ブレネリ」が描かれていた。 スイスの硬貨においては、公用語全てをもって国名表示することが困難であるため、基本的に国名はラテン語名の HELVETIA または CONFOEDERATIO HELVETICA の銘が使われている。 1ラッペン 1850 - 1941年: 銅貨(表: 紋章、裏: 花輪と額面) 1942 - 1946年: 亜鉛貨(表: 紋章、裏: 花輪と額面) 1948 - 2006年: 青銅貨(表: 白十字、裏: 麦の穂と額面) 2ラッペン 1850 - 1941年: 銅貨(表: 紋章、裏: 花輪と額面) 1942 - 1946年: 亜鉛貨(表: 紋章、裏: 花輪と額面) 1947 - 1974年: 青銅貨(表: 白十字、裏: 麦の穂と額面) 5ラッペン 1850 - 1877年: 洋銀貨(表: 紋章、裏: 花輪と額面) 1879 - 1917年: 白銅貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1918年: 黄銅貨(表: ヘルヴェティア頭像 裏: 花輪と額面) 1919 - 1931年: 白銅貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1932 - 1941年: ニッケル貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1940、1942 - 1980年: 白銅貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1981年以降: アルミ黄銅貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 10ラッペン 1850 - 1876年: 洋銀貨(表: 紋章 裏: 花輪と額面) 1879 - 1915年: 白銅貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1918 - 1919年: 黄銅貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1919 - 1931年: 白銅貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1932 - 1939年: ニッケル貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1940年以降: 白銅貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 20ラッペン 1850 - 1859年: 洋銀貨(表: 紋章、裏: 花輪と額面) 1881 - 1938年: ニッケル貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1939年以降: 白銅貨(表: ヘルヴェティア頭像、裏: 花輪と額面) 1/2フラン 1850 - 1851年: 銀貨(品位.900、2.5グラム)ヘルヴェティア女神坐像。 1875 - 1967年: 銀貨(品位.835、2.5グラム)ヘルヴェティア女神立像。 1968年以降: 白銅貨(仕様変更2度) 1フラン 1850 - 1857年: 銀貨(品位.900、5グラム)ヘルヴェティア女神坐像。 1860 - 1861年: 銀貨(品位.800、5グラム)ヘルヴェティア女神坐像。 1875 - 1967年: 銀貨(品位.835、5グラム)ヘルヴェティア女神立像。 1968年以降: 白銅貨(仕様変更2度) 2フラン 1850 - 1857年: 銀貨(品位.900、10グラム)ヘルヴェティア女神坐像。 1860 - 1863年: 銀貨(品位.800、10グラム)ヘルヴェティア女神坐像。 1874 - 1967年: 銀貨(品位.835、10グラム)ヘルヴェティア女神立像。 1968年以降: 白銅貨(仕様変更2度) 5フラン 1850 - 1874年: 銀貨(品位.900、25グラム)ヘルヴェティア女神坐像。 1888 - 1916年: 銀貨(品位.900、25グラム)ヘルヴェティア女神頭像。 1922 - 1923年: 銀貨(品位.900、25グラム)ウィリアム・テル。 1924 - 1928年: 銀貨(品位.900、25グラム)ウィリアム・テル(図案修正)。 1931 - 1969年: 銀貨(品位.835、15グラム)ウィリアム・テル(小型化)。 1968、1970年以降: 白銅貨(仕様変更3度) 10フラン 1911 - 1922年: 金貨(品位.900、3.2258グラム)ブレネリ。 20フラン 1883年: 金貨(品位.900、6.4516グラム)ヘルヴェティア女神頭像(周囲ギザ)。 1886 - 1896年: 金貨(品位.900、6.4516グラム)ヘルヴェティア女神頭像(周囲文字)。 1897 - 1949年: 金貨(品位.900、6.4516グラム)ブレネリ。 100フラン 1925年: 金貨(品位.900、32.2581グラム)ブレネリ。 なお、硬貨の裏面に描かれた花輪は、1,2ラッペンが月桂樹、5ラッペンが葡萄、10ラッペンが樫の葉、20ラッペンが石楠花となっている。フラン硬貨には各種の植物の組み合わせの花輪が描かれている。5フラン硬貨にはエーデルヴァイスも描かれている。 スイスの硬貨は最初にも記したが、概ね1875年以降現在に至るまで図案の変更はなく、種類に乏しい嫌いがあるため、収集家は勢い記念硬貨の収集に走るが、通常硬貨を年号別に収集すると膨大なコレクションになるので、一部のマニアのターゲットになっている。 スイスの硬貨は、原則的にベルン造幣廠(現: スイス連邦造幣局)で鋳造されているが、初期の硬貨に関しては、パリ・ストラスブール・ブリュッセルで鋳造されたものがある。各々の鋳造硬貨は、次の通りである。 パリ(ミントマークは「A」) 1850・1851年: 1Rap.、2Rap.、1/2Fr.、1Fr.、2Fr.(1850のみ)、5Fr. 1894年: 1/2Fr.、1Fr.、2Fr. ストラスブール(ミントマークは「AB」) 1850年: 5Rap.(この硬貨は非常に希少である) ストラスブール(ミントマークは「BB」) 1850・1851年: 5Rap.、10Rap.、20Rap. ブリュッセル(ミントマークは「B.」) 1874年: 5Fr. 硬貨にはミントマーク(ベルン造幣廠はB)を刻むのが慣わしであったが、1970年代から80年代の一時期、全ての硬貨からミントマークが削除された時期があった。 スイスではこれまでに様々な記念の硬貨も発行されてきたが、中でも1855年から発行されている射撃大会の記念硬貨は希少価値も高く、コレクターの注目アイテムである。1970年代以降は、ほぼ毎年各種の記念硬貨が定期的に発行されている他、コレクター向けの地金型、収集型の金貨や銀貨も発行されている。日本ではこれらの収集型金貨は、予約し抽選で購入者が決まる事が多いが、スイスではほとんどの場合、銀行等で誰でもすぐに購入できる。また、造幣局のウェブ通販で海外からも購入できる。各国の記念硬貨の例に漏れず、スイスでも通常仕様のものとプルーフ仕様のものが発行されている。 スイス国立銀行より、10フラン、20フラン、50フラン、100フラン、200フラン、1000フランの銀行券が発行されている。発行が停止されたが2020年4月30日まで有効な紙幣として500フラン紙幣がある。 2008年3月14日、アメリカ合衆国ドルとスイス・フランが同じレートとなった。これは歴史上初の出来事である。 2015年1月の急騰についてはスイス国立銀行を参照されたい。 スイス・フランは世界中の国で外貨準備として用いられており、2011年では第5位の通貨である。 ^ “Triennial Central Bank Survey (PDF)” (英語). B.Traditional foreign exchange markets: 3. Currency composition. 国際決済銀行. pp. 9-12 (2007年12月19日). 2008年8月31日閲覧。 ^ “スイス中銀、フラン高抑制・経済防衛の主要手段を放棄” (日本語). Bloomberg.com. https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2015-01-15/NI7R2H6KLVR801 2018年10月11日閲覧。  ^ RICHARD BARLEY (2015年1月16日). “スイス中銀、中央銀行の信頼損ねた恐れ”. ウォールストリート・ジャーナル. http://jp.wsj.com/articles/SB11258286719794574597104580402221950786544 2015年2月15日閲覧。  ^ “「スイスフランショック」の余波世界に、為替業者が破綻”. ロイター. (2015年1月17日). http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0KP2AJ20150116 2015年2月15日閲覧。  ^ Swiss National Bank (SNB) - Sixth banknote series, 1976 ^ (PDF) Review of the International Role of the Euro, Frankfurt am Main: 欧州中央銀行, (December 2005), ISSN 1725-2210, http://www.ecb.int/pub/pdf/other/euro-international-role200512en.pdf ; ISSN 1725-6593 (online). ^ 1995–99, 2006–12: “Currency Composition of Official Foreign Exchange Reserves (COFER) (PDF)”. Washington, DC: 国際通貨基金 (2013年1月3日). 2015年1月18日閲覧。 ^ 1999–2005: International Relations Committee Task Force on Accumulation of Foreign Reserves (February 2006) (PDF), The Accumulation of Foreign Reserves, Occasional Paper Series, Nr. 43, Frankfurt am Main: 欧州中央銀行, ISSN 1607-1484, http://www.ecb.int/pub/pdf/scpops/ecbocp43.pdf ; ISSN 1725-6534 (online). スイス・フランの紙幣 フラン (通貨) 為替 為替レート 現行通貨の一覧 スイス国立銀行(英語。ドイツ語、フランス語、イタリア語ページあり。)", "レフ(lev、ブルガリア語:лев) 複数形:レヴァ(leva、лева )は、1881年から使用されているブルガリアの通貨単位。国際通貨コード(ISO 4217)は、BGN。補助通貨単位はストティンカ(stotinka、複数形:stotinki ストティンキ)で、1レフ=100ストティンキ。 1997年よりドイツマルクを基軸通貨とする固定相場制を採用。欧州通貨統合により基軸通貨はユーロとなり、€1=1.95583レヴァ固定(2018年1月6日現在1レフ=69.58円)。 19世紀頃のブルガリア語では、レフは獅子という意味を持っていた(現代ブルガリア語では、獅子はルフ(luv、ブルガリア語:лъв)である)。これはオランダでターラー銀貨をもとに発行されていたライクスダアルダー(rijksdaalder)という大型銀貨に由来する。ライクスダアルダーはライオンの像を彫っており、それゆえリューエンダーラー(leeuwendaler、ライオン・ドル)という別名があった。リューエンダーラーがオスマン帝国領内に流通し、ブルガリアやルーマニアではライオンが銀貨の別名になった。 1999年7月5日、デノミネーションが実施され、1,000旧レヴァは1新レフと同等の価値とされた。デノミネーション前の旧レフの国際通貨コードは、BGLである。 いずれもレフと同じ「獅子」という意味の通貨を使用している。 ルーマニア・レウ モルドバ・レウ", "ズウォティ(ポーランド語: złoty [ˈzwɔtɨ] ( 音声ファイル))は、ポーランドの通貨単位である。ズウォティはポーランド語で「金」を意味し、中世以来金貨の名前として用いられてきた。1ズウォティは100グロシュ。zł または ISO 4217コードに基づくPLN(波: polski nowy, 英: polish new)と表記される。ポーランド国内ではPLN表記が優勢になりつつある。日本ではズロチまたはズオチと呼ぶこともある。 民主化以降の経済の不安定化が一段落し、激しかったインフレーションがバルツェロヴィチ・プラン(「ショック療法」経済政策)の成功により沈静化したことを受けて、1995年1月1日にデノミが実施され、旧10,000zł(PLZ、波: polski złoty、英: polish zloty)が新1zł(PLN)に切り下げられた。 為替レートは1zł=約29.0円(2016年5月現在)。近年、ポーランド通貨の対外通貨(ユーロ、ドル、円など)に対する上昇は著しく、以前のようにドイツ人がポーランドに買い物に行くといった現象は見られなくなり、逆にポーランド人が「西側」に買い物に行くという現象が生じている。 2008年半ばから2009年初頭にかけて、折からの世界的な金融危機と同時にポーランドの金融機関を中心とした経済不安が新聞のコラムなどを通じて広まった。ポーランド政府の経済閣僚やポーランド中央銀行(英語版)の金融政策委員会メンバーがそのような不安説を否定するために具体的な数字を挙げず(まだその当時は各指標は公式発表されていなかった)、簡単なコメントを述べるに終始したため、悪い噂がさらに悪い噂を呼び、ズウォティは投資銀行などの投機家に売り込まれ、ユーロやスイスフランに対して大きく下落した。しかし、1992年のポンド危機の際のイギリスとは異なり、ポーランド政府が財政規律を守り、金融業界にもローンの貸し出し額に関する厳しい規制が設けていた甲斐もあり、ポーランドが欧州連合 (EU) に加盟した2004年の春のレートを割り込むことはなかった。 2009年2月中旬以降は、ポーランドの実体経済や金融機関が健康である事実が客観的指標から明らかになり、ズウォティを狙った投機筋の売り攻勢が収まるとともにズウォティがこれまで過小評価されていたことが注目され、次々に買いが入ったため、相場は急上昇した後にもみ合う展開となっている。 ドナルド・トゥスク首相が率いるポーランド政府は、ユーロやスイスフランなどに対する急激な上昇と下降を繰り返すズウォティのボラティリティの高さは国内の経済に悪影響を与えると発言しており、早期のユーロ導入を目指して2009年前半にはユーロ導入のための準備段階である2年間の欧州為替相場メカニズムIIに入ると見られていた。しかし、その後も各国のソブリン債務不安に伴い、各国通貨との間の相場があまりに急激に上昇と下降を繰り返すため、ポーランド政府はズウォティ/ユーロ相場の恒久的な固定に対する慎重な態度に転換し、欧州為替相場メカニズムIIに入る時期を先延ばししている。", "スウェーデン・クローナ(svensk krona)は、スウェーデンの通貨。ISO 4217の通貨コードはSEKで、通称はセック。補助通貨単位はオーレ(öre)で、1スウェーデン・クローナは100オーレに等しい。1スウェーデン・クローナ≈13円(2017年8月現在)。 スウェーデン・クローナはスウェーデン中央銀行(Sveriges Riksbank)が発行している。 1クローナ(銅めっき鋼鉄)、2クローナ(銅めっき鋼鉄)、5クローナ(ノルディック・ゴールド)、10クローナ(ノルディック・ゴールド)の4種の硬貨(10クローナは1991年から発行、5クローナ以下は2016年から発行)が流通している。硬貨の図案は国王の肖像やモノグラムが中心になっている。50オーレの青銅貨は2010年10月1日に流通停止となり、2011年3月末で交換も停止され、現在は失効しているため、現在スウェーデン・クローナの補助単位としてのオーレは現金の単位としては使われていない。1クローナ白銅貨・5クローナ白銅貨の旧硬貨も2017年6月末に失効した。 現在流通している紙幣は、2015年に発行されたもので、 20クローナ(アストリッド・リンドグレーン肖像(児童文学者)、紫) 50クローナ(エバート・タウベ肖像(ミュージシャン)、橙色) 100クローナ(グレタ・ガルボ肖像(女優)、青) 200クローナ(イングマール・ベルイマン肖像(映画監督)、緑) 500クローナ(ビルギット・ニルソン肖像(ソプラノ歌手)、赤) 1000クローナ(ダグ・ハマーショルド肖像(第2代国連事務総長)、茶色) と、肖像には20世紀に活躍したスウェーデンの偉人が起用されている。 旧紙幣(20クローナ(ラーゲルレーヴ肖像:紫)、50クローナ(ジェニー・リンド肖像:黄色)、100クローナ(カール・フォン・リンネ肖像:緑)、500クローナ(カール11世国王肖像:茶色)、1,000クローナ(グスタフ・ヴァーサ国王肖像)の5種類)は、100クローナと500クローナの2種類が2017年6月末に失効したのを最後に、全て失効した。 前国王時代には、5および10クローナの低額紙幣や、10,000クローナの高額紙幣(当時のレートで日本円約65万円相当)が発行されていた。 1914年までの歴史についてはクローネ#歴史を参照 2003年9月にユーロ参加の是非について国民投票が行われたが、デンマークと同様に否決された。これは主に北部などユーロへの参加に保守的な立場の人々の票が影響したと思われる。実際に首都ストックホルムなど比較的大きい都市では賛成派が反対派を上回った。 またこの投票の前にユーロ参加に積極的な立場を取っていた外務大臣・アンナ・リンドがストックホルム市内のデパートで刺殺される事件が起き、一時は過激な反対派の仕業かと思われたが、実際は精神病患者の突発的な行動であった。 2006年9月にスウェーデンにおいて選挙が行われ、ユーロ導入に肯定的な穏健党が勝利したが、導入については、未だ白紙の状態である。 現在スウェーデンは、電子決済による取引の普及が著しく、完全キャッシュレス化に向かっており、世界一キャッシュレス化が進んでいる国家として知られている。 2012年にサービスを開始した、スマートフォンアプリによる非接触型決済システム「Swish」は、2015年12月の取引件数が1000万回を超え、2017年時点ではスウェーデン国民の半数以上が利用していると言われる。 鉄道やバスなどの公共交通機関の自動券売機は、カード専用で現金が使えず、現金で切符を購入する際には、専用の窓口に並ぶ必要がある 一般的な店での少額の買い物(飲食店や屋台のような店なども含む)でも、電子決済専用で現金が使えないことが一般化している 教会での寄付集めや子供の小遣いさえも電子マネーで支払う スウェーデンにある銀行店舗の半数以上が通貨を取り扱わず、ATMの撤去も進んでいる 現在の学生など若い世代では、全て電子取引で、一切現金を使ったことがないまま育った人が大半 このように、市場はデビットカード・クレジットカード・電子マネーといった電子商取引が流通を支配する中、通貨の地位は既に低下しており、スェーデン・クローナそのものの廃止まで議論されるほどである。 2016年現在、スウェーデンで発生した取引の98%までが現金を用いない電子決済による取引で、通貨の流通は観光客や年配の世代など僅少となっている。その要因として、現金決済には上限額が法律で決められていることや、現金取扱いのコスト削減、強盗犯罪対策などが挙げられる。元ABBAで『マネー、マネー、マネー』の作者のひとりであるビョルン・ウルヴァースは、キャッシュレス化の推進者の1人として知られる。 例えば2013年4月22日に、大手銀行SEBのストックホルム・エステルマルムストーリ支店に銀行強盗が侵入したものの、銀行がキャッシュレス支店だったため、現金強奪の目的を果たせなかった。 逆にキャッシュレス化で、不便な思いをした人々が中心となって立ち上げた Kontantupproret という「キャッシュレス化反対運動」も存在している。Kontantupproret の主張では、キャッシュレス化によって、銀行強盗や路上強盗が減った代わりに詐欺が倍増していること、金融業界へのサイバー攻撃による利用者の不利益を挙げ、急速なキャッシュレス化に反対している。また、銀行に現金サービスの提供を義務付ける法案の議会提出も検討されている。 その他、デンマーク(通貨はデンマーク・クローネ)、ノルウェー(通貨はノルウェー・クローネ)、アイスランド(通貨はアイスランド・クローナ)、フィンランド(通貨はユーロ)といった北欧諸国で、同様にキャッシュレス化が著しい傾向にある。 対ドル為替レート ^ a b c d e f “リアル貨幣の最期 2人のビョルンの「お金の存亡」をめぐる闘い”. WIRED.jp (2016年9月20日). 2017年10月20日閲覧。 ^ 大前研一 (2017年7月3日). “世界で加速する「キャッシュレス革命」 普及率低い日本の今後は?”. PRESIDENT Online2017年7月17日号. 2017年10月20日閲覧。 為替 為替レート 現行通貨の一覧 クローネ スカンディナヴィア通貨同盟 スウェディッシュ・ラウンディング Stibor Swish (電子決済)" ]
ABC01-02-0114
もともとは江戸時代に防火の目的で作られた幅のある道のことで、現在では名古屋や上野に地名として残っているものは何でしょう?
広小路
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[ "広小路", "江戸城三十六見附", "大木戸", "一石橋", "代地" ]
[ "広小路(ひろこうじ)とは、江戸時代以後に設置された幅の広い街路のこと。 元は江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに推進した火除地の一種として上野や両国などに設置され、続いて3年後の万治3年(1660年)に大火にあった名古屋にも同様の通りが設置された。火災の類焼を食い止める役割を果たした。また、広小路に沿って火除土手(ひよけどて)が設けられたが、今日では失われてしまった場所も多い。 後に各地に広まって同様の趣旨をもった通りを「広小路」と称するようになった。江戸時代から昭和戦前までに名付けられた街路のため、太平洋戦争後の復興で広小路より更に広い街路を持つ都市も少なくない。 広小路 (秋田市) 上野広小路 広小路通 (名古屋市) 広小路通 (京都市) ほか、全国各地に多数ある。 上野広小路駅 大崎広小路駅 三島広小路駅 広小路停留場 広小路駅 広小路通", "江戸城三十六見附(えどじょうさんじゅうろくみつけ)とは、江戸城門に置かれた見附(見張り番所)のうちの目ぼしい36か所を挙げたもの。 見附とは、本来、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所に由来する言葉で、城門を警護する番兵が通行人を見張る場所のことを言い、とくに、枡形をもつ城門の監視場所を指した。俗に江戸城には36見付があったといわれ(江戸城三十六見附)、現在も四谷見附・赤坂見附など、地名として残っている。 実際には、江戸の城門の見張り場所自体はもっと多数あったようだが(66、90など諸説あり)、枡形門を持つ見附は、幕府作事方の資料によると外曲輪に26門あり、内曲輪にいくつあったかは明らかになっていない。語呂の関係から、枡形の26門に、目ぼしい10門を足して「三十六見附」とし、江戸の名所として喧伝されたようである。 浅草見附 筋違見附 小石川見附 牛込見附 市谷見附 四谷見附 喰違見附 赤坂見附 虎ノ門 幸橋門 山下橋門 数寄屋橋門 鍛冶橋門 呉服橋門 常盤橋門 神田橋門 一ツ橋門 雉子橋門 竹橋門 清水門 田安門 半蔵門 外桜田門(桜田門) 日比谷門 馬場先門 和田倉門 大手門 平川門 北桔橋門 西の丸大手門 西の丸玄関門(二重橋) 坂下門 内桜田門(桔梗門) 下乗門 中之御門 中雀門 浅草橋門 筋違橋門 小石川門 牛込門 市谷門 四谷門 虎ノ門 幸橋門 山下門 数寄屋橋門 鍛冶橋門 呉服橋門 常盤橋門 一ツ橋門 竹橋門 清水門 田安門 半蔵門 外桜田門 日比谷門 馬場先門 和田倉門 大手門 平川門 北桔橋門 西丸大手門(手前)、西丸玄関前門(奥) 坂下門(現在の門は90度位置が変わっている) 内桜田門 下乗門 中之門 中雀門跡 ^ 『江戸建築叢話』大熊喜邦著 (東亜出版社, 1947) 江戸城の枡形門見附の一覧 「江戸三十六見附の称」『社会有益秘法: 日用宝鑑』 服部喜太郎 編 (求光閣, 1898)  江戸三十六見附 大江戸歴史散歩を楽しむ会 交差の界隈性 : 現代東京における江戸の見附地と辻の役割牛垣雄矢[他] (国際交通安全学会, 2005-08)", "大木戸(おおきど)は、江戸時代に、街道上の江戸内外の境界に設置された簡易な関所である。人間や物品の出入りを管理するのが目的であった。 木戸とは江戸市中の町境などにあった防衛・防犯用の木製の扉で、その大規模なものとして大木戸と呼ぶ。", "一石橋(いちこくばし、いっこくばし)は、東京都中央区にて日本橋川に架かる橋。東京都道405号外濠環状線(通称「外堀通り」)を通す。南岸は中央区八重洲一丁目、北岸は中央区日本橋本石町一丁目。皇居(旧江戸城)外濠(外濠川)と日本橋川の分岐点に架橋され、日本橋川に架かる橋では最も低い橋である。 構造形式 (下流側)2径間連続鋼床版鈑桁橋 (上流側)2径間連続RC床版鈑桁橋 橋長 (下流側)50.205 m (上流側)50.494 m 幅員 16.5 m 桁下 AP+4.2 m 着工 1999年(平成11年)3月19日 竣工 2000年(平成12年)6月20日 発注 首都高速道路公団 制作 佐藤鉄工 江戸時代初期の「武州豊島郡江戸庄図」に既に元となる木橋の記載が見られる。 北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。またそのまま「後藤橋」とも呼ばれていた。江戸期を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋であった。 木橋としては1873年(明治6年)の架け替えが最後で、当時の記録には橋長十四間、幅員三間とある。1922年(大正11年)6月に東京市道路局によって花崗岩張りのRCアーチ橋として改架された。橋長43 m、幅員27 mで親柱は4本、袖柱は8本。中央部には市電を通す構造で、翌1923年(大正12年)9月の関東大震災にも耐え抜いた。 1963年(昭和38年)12月に首都高速都心環状線の京橋出入口〜呉服橋出入口間が開通した際に、下流側橋詰に呉服橋出入口を設置するために親柱2本を撤去、さらに1973年(昭和48年)には鈑桁橋に改修される際に袖柱4本も撤去、上流側に親柱2本が残るのみとなってしまう。 さらに老朽化と拡幅のために1997年(平成9年)の大改修時に撤去となるところであったが、関東大震災以前のRCアーチ橋のものとしては、都内最古の親柱として貴重な近代文化遺産であることが認められ、2002年(平成14年)に南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されることとなった。 一石橋はその名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれた。橋上に立つと自身も含めて八つの橋(外濠の常磐橋 (日本橋川)・呉服橋・鍛冶橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋、道三堀の銭瓶橋・道三橋)が見渡せたことが由来で江戸の名所のひとつであった。歌川広重が名所江戸百景において「八ツ見のはし」として描いている。 現在は一石橋以南の外濠と、道三堀が埋め立てられ、橋上を通る首都高速都心環状線の橋脚が見通しを遮ってしまっているため、わずかに常磐橋とあとから作られた常盤橋、西河岸橋が見えるのみである。 江戸期〜明治期にかけて付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出た。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって1857年(安政4年)2月に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が南詰に建てられた。 しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。このほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたようだが、現存するものは一石橋のものだけである。 1942年(昭和17年)9月に東京都指定旧跡に指定され、1983年(昭和58年)5月6日に種別変更され東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されている。 アクセス 東京地下鉄三越前駅(○半蔵門線)より出口すぐ 日本橋川 (上流) - 常盤橋 - 一石橋 - 西河岸橋 - (下流) 2000年の改築工事の概要〜佐藤鉄工ウェブサイトより 東都名所「八ツ見橋真景」 座標: 北緯35度41分4.70秒 東経139度46分16.80秒 / 北緯35.6846389度 東経139.7713333度 / 35.6846389; 139.7713333", "代地(だいち)とは、江戸幕府が江戸市中において強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。町ごと収用する場合もあり、代地に移転・成立した町を代地町(だいちまち)という。 江戸時代初期には江戸城や市街地の整備のために代地が行われることが多かったが、明暦の大火以後は火除地の設置など防災上の理由などの理由に行われた。こうした移転は大名屋敷や寺社・庶民の町屋などを問わず行われ、町全体が丸ごと1か所もしくは数か所に分散して移動させられる場合もあった。 松崎欣一「代地」(『日本史大事典 4』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13104-8)" ]
ABC01-02-0115
全天88星座のうち、名前がひらがな1文字で表されるのはや座、ほ座と何座でしょう?
ろ座
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[ "ろ座", "とかげ座", "つる座", "みなみのかんむり座", "アンドロメダ座" ]
[ "ろ座(炉座、Fornax)は、南天の星座の1つ。 星の固有名称はなく、明るい星もない地味な星座であるが、そのような領域は、一方では深宇宙探査に適しているとも言える。 下掲の極めて遠い天体の発見はその一例であろう。また、ろ座ボイドやろ座ウォールといった大規模構造の存在も確認されている。 α星:ろ座で最も明るい恒星。 NGC 1365:棒渦巻銀河。 NGC 1399:楕円銀河。 NGC 1316:レンズ状銀河。全天で4番目に強力な電波源(ろ座A)。 NGC1365の周辺にはろ座銀河団と呼ばれる銀河団があり、口径の大きい天体望遠鏡などで観測することができる。 ろ座矮小銀河 UDFj-39546284:MACS0647-JDに次いで最も遠い天体。銀河と考えられている。 LP 944-20:褐色矮星。 ニコラ・ルイ・ド・ラカーユによって18世紀に設定された。ラカーユはフラスコを加熱するための炉としてこの星座を設定した。当初の名はフランス語でFourneauだが、のちにラテン語でFornax Chemica(化学用炉)と記載した天文学者もいる。 ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールド ハッブル・エクストリーム・ディープ・フィールド", "とかげ座(蜥蜴座、Lacerta)は、アンドロメダ座、はくちょう座の間にある北天の小さく目立たない星座。 α星:とかげ座で最も明るい恒星。 とかげ座BL:ブレーザー。この星座で最も有名な天体である。この天体は発見当時に変光を示す点光源のように見えたために変光星の命名規則に基いた名がつけられている。現在では同様の天体が複数見つかっており、とかげ座BL型天体 (BL Lac天体) と総称されている。 1690年にヨハネス・ヘヴェリウスが刊行した星図 Firmamentum Sobiescianum に初めて登場する。ヘヴェリウスが、いもり座 (Stellio) と書いたものも残っているが、こちらの名前は廃れてしまった。 とかげ座は新しい星座のため神話がない。 ^ a b Ian Ridpath. “Star Tales - Lacerta”. 2014年1月28日閲覧。", "つる座(鶴座、Grus)は、南天の星座の1つ。新しく設けられた星座の中では明るい星が多い方だが、日本では南に低くしか上らないので目立たない。 α星、β星の2つの2等星がある。 α星:アルナイル(Alnair)は、青白色の主系列星。つる座で最も明るい恒星。 β星:赤色巨星。つる座で2番目に明るい恒星。 γ星:アルダナブ(Al Dhanab)は、3.01等星。 つる座は16世紀以降に作られた新しい星座であり、神話はない。 ペーテル・ケイセルとフレデリック・デ・ハウトマンが残した観測記録を元にペトルス・プランシウスが1597年に作成した地球儀に残したものが最初である。ヨハン・バイエルが1603年に発刊したウラノメトリアでそれを引用したことにより世に知られるようになった。デ・ハウトマンは1603年に出版した星表で Den Reygher「さぎ座」として、プランシウスは、後の1625年に作成した地球儀では Phoenicopterus 「フラミンゴ座」として名付けていたが、最終的にはオリジナルの「つる座」が世に広まった。 つる座はかつてはみなみのうお座の一部だった。α星の「アルナイル」(アラビア語で「明るいもの」を意味する言葉に由来)も「魚の尾の中での明るい星」というアラビア語の一部から付けられた固有名である。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for * alf Gru. 2013年1月23日閲覧。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for V* bet Gru. 2013年1月23日閲覧。 ^ a b Ridpath, Ian. “Star Tales - Grus”. Star Tales. 2013年5月11日閲覧。 ^ 近藤二郎 『星の名前のはじまり アラビアで生まれた星の名称と歴史』 誠文堂新光社、2012年8月、初版、172頁。ISBN 978-4-416-21283-7。", "みなみのかんむり座(南冠座、Corona Australis)は、南天の星座でトレミーの48星座の1つ。かんむり座とは別の星座である。日本の大部分では南の低い空でしか見ることができない。ラテン語名は、国際天文学連合の決定により Corona Australis だが、『学術用語集』では Corona Austrina となっている。(この場合、属格形は Coronae Austrinae、略符は同じ)。 α星:メリディアナ (Meridiana) は、この星座で唯一の固有名が付けられた恒星である。4.087等。 NGC 6541:球状星団。 NGC 6726:反射星雲。γ星とε星の間に位置する。南東すぐの位置にあるNGC 6729などを含めたこの一帯は、太陽系から最も近い星生成領域の1つとして知られている。なお、このγ星とε星の間には暗黒星雲が位置する。 一つの星座として独立して扱われた最古の記録は、紀元前1世紀頃のギリシャの数学者ゲミノスの『ファイノメナ序説』 (Εἰσαγωγὴ εἰς τὰ Φαινόμενα) によるものである。クラウディオス・プトレマイオスは13の星をこの星座に含めていたが、そのうちの星の1つは現在ぼうえんきょう座のα星とされている。 この冠は、ディオニューソスが母セメレーを冥界から救い出したのちに天に置かれたものとする神話がある。ヒュギーヌスはこれをかんむり座に関する神話であるとしているが、二つの星座を混同していると考えられる。 射手の冠、ケンタウルスの冠などと呼ばれることもあるが、これはすぐそばにいて座があることに由来する。 ^ a b “Results for alf CrA”. SIMBAD. CDS. 2018年6月28日閲覧。 ^ 原恵 『星座の神話 - 星座史と星名の意味』 恒星社厚生閣、2007年2月28日、新装改訂版第4刷、154頁。ISBN 978-4-7699-0825-8。 ^ a b “IAU Catalog of Star Names”. 国際天文学連合 (2018年6月19日). 2018年6月28日閲覧。 ^ a b c Ian Ridpath. “Corona Australis”. Star Tales. 2018年6月28日閲覧。 ^ Richard H. Allen (2013-02-28). Star Names: Their Lore and Meaning. Courier Corporation. p. 172. ISBN 978-0-486-13766-7. https://books.google.com/books?id=vWDsybJzz7IC.  座標: 19h 00m 00s, −40° 00′ 00″", "アンドロメダ座(アンドロメダざ、Andromeda)は、ペガスス座に隣接している星座。トレミーの48星座の1つ。アンドロメダ銀河 (M31) があることで知られている。 α星、β星、γ星の3つの2等星がある。以下の恒星には、国際天文学連合によって正式に固有名が定められている。 α星:アルフェラッツ (Alpheratz) は、かつて、ペガスス座の一部分であり、「ペガスス座δ星」でもあった。この星とペガスス座のα星、β星、γ星の4つの星により形作られる四角形は「ペガススの大四辺形」と呼ばれる。 β星:ミラク (Mirach) は「腰布」という意味のアラビア語に由来する。赤色巨星。 γ星:対照的な色の美しい二重星であり、γ1星の固有名はアルマク。 ξ星:固有名はアディル (Adhil) 。 υ星:固有名はTitawin。最低でも惑星を3つ持つ。 14番星:固有名はVeritate。Speと命名された惑星を持つ。 51番星:固有名はNembus。かつてペルセウス座υ星と呼ばれたこともある。 その他、以下の恒星が知られている。 κ星:直接観測された惑星を1つ持つ。 S星:アンドロメダ銀河内に発見された超新星。 GY星:磁変星。 ロス248:太陽系から10.33光年の距離に存在する赤色矮星。 M31(アンドロメダ銀河):アンドロメダ座で最も有名な恒星以外の天体であり、肉眼で見ることのできる最も遠い天体とされる。天の川銀河が属する局部銀河群で最大の渦巻銀河。天球上では、アンドロメダ座β星とμ星に線を引き、それをμ星方向にほぼ等距離伸ばした場所にある。 M32:M31の伴銀河 M110:M31の伴銀河 NGC 752:散開星団 王女アンドロメダーは、神話上のエチオピア王ケーペウスと王妃カッシオペイアの娘である。カッシオペイアが「自分の美貌は海のニュムペー ネーレーイスに優る」と自惚れたことに腹を立てたネーレーイスたちはポセイドーンに訴え出た。それを聞き入れたポセイドーンは、エチオピアに海の怪物ケートスを遣わし、災害を引き起こした。困ったケーペウスが神託を立てたところ、「災害を止めるにはアンドロメダーをケートスに生贄として捧げなければならない」とされたため、アンドロメダーは海辺の岩に鎖で縛られ、ケートスに捧げられた。それを、別の冒険から帰る途中のペルセウスが目撃し、ケートスを倒してアンドロメダーを救った。その際、剣で切って倒したとする説と、ペルセウスが前の冒険の戦利品として持っていたメドゥーサの首を見せて石にして倒したとする説とがある。 以後若干の紆余曲折はあったがアンドロメダーはペルセウスの妻となり、6人の子を成した。後にアテーナーにより天に上げられ、星座になったと言われている。 中国では二十八宿の奎宿であり、日本では江戸時代にこれを「とかきぼし」(斗掻き星)と訓じていた。 ^ さんかく座銀河 (M33) やおおぐま座のボーデの銀河 (M81) のほうが遠いとする説もある。 ^ “SIMBAD Astronomical Database”. Results for V* alf And. 2013年1月27日閲覧。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for NAME MIRACH. 2013年1月27日閲覧。 ^ “SIMBAD Astronomical Database”. Results for ADS 1630 ABC. 2013年1月27日閲覧。 ^ a b c Ian Ridpath. “Star Tales - Andromeda”. 2014年1月31日閲覧。 ^ 草野巧 『ギリシア神話 神・英雄録』 新紀元社、1995年1月30日、109頁。ISBN 4883172473。 ^ 長島晶裕/ORG 『星空の神々 全天88星座の神話・伝承』 新紀元社、2012年。ISBN 978-4-7753-1038-0。 座標: 00h 46m 00s, 37° 00′ 00″" ]
ABC01-02-0117
英語では「ブローガン」という、細長い筒に矢を入れ、息を吹き込んで的に当てる遊びを日本語で何というでしょう?
吹き矢
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[ "吹き矢", "投網", "ろうそく消し", "ボーラ (武器)", "鈍器" ]
[ "吹き矢(ふきや)とは、1-3m程度の中空の筒と、これに使用する針が付いた矢(弓矢の矢とは違い、ダーツの矢に近いが、矢羽の形状が大きく異なる)からなる、狩猟や競技に用いる道具で、広義には飛び道具といわれる武器でもある。 吹き矢は、弓矢とは違い、吹き筒といわれるものに矢を込めて、筒の片側から口で息を吹き込んで、その空気圧によって矢を飛ばすものである。弓矢の矢羽は風を切り、その空気抵抗で直進性を高める役目を果たすが、吹き矢の矢の矢羽は筒と矢の密閉を高め、空気圧が筒に装填された矢の前方に漏れなく矢に伝えるための構造を持っているという機能の違いから、風受と呼称される。 吹き矢は、吹き筒と矢からなり、矢について特徴的な部分は、対象に刺さるための針と、吹き筒の内部で密閉性を発揮するシール構造から構成され、このシール構造は風受けとも呼ばれる。 矢は、金属製の針のほか、石製や竹や木製など、硬質の針状の素材であれば様々なものが利用できる。風受けには古くは、針や針状に細長く加工した竹に動物の体毛や樹皮や皮革や布などから、円錐に加工した紙の風受けが日本では使われてきた。現在では紙や樹脂フィルムなどを、円錐形に巻いた矢は日本独特のもので、日本以外では針金や竹串に、柔らかい素材のコットンやプラスチックの円錐の風受けがついている矢が用いられている。 吹き筒は日本古来のものとしては、木製で長尺の木に半円の溝を彫ったものを張り合わせた八角柱や円柱の筒や、竹の内側を均等に加工したものや、和紙を丸めたものがあり、それぞれの筒の内や外に漆を塗ったものがある。現在では様々な工業製品の空洞の円柱を吹き筒として代用できるほか、紙などを丸めた手作りのものから市販される玩具や競技用のものなどがあり、主にプラスチックなどでできている。また後述するように、針の部分を他のものに置き換えられたものも、スポーツや娯楽の分野で利用されている。 古来から世界各地で狩猟具として利用され、南米や東南アジアの狩猟を糧とする民族によって、今日も狩猟具として活用されている。これは弓矢より携帯が容易なことをはじめ、密林では弓矢より吹き矢の方が矢羽の風切り音が静かなこと、飛距離は弓矢ほどではないが、長い吹き筒を使用すれば高い命中精度が期待できること、さらには小さい矢が植物の枝葉が邪魔な場合に有利であることに加え、毒を併用すれば、小動物のみならず、ある程度の大きさの動物を捕らえることもできるといった理由によるものと考えられている。 日本では、同様に小動物の狩に使われたほか、毒と併用して暗殺などにも使用されたという伝承もあるが定かではない。また忍者などが使ったともされるが、忍術兵法書として知られる『万川集海』(1676年)の上では、日本の忍者が吹き矢を利用したことは確認されない。一部の忍術流派では実際に使用したとされる吹き矢が残っているものの、どの程度の実用があったのかは判っていない。 その一方、江戸時代には遊技や懸け物としての射的の出店として、庶民から大名までもが玩具としての吹き矢で、的当てなどをしていた。これは大正時代まで続いたが、明治維新の西欧化や風営法の設立などによって、廃れていった。 現代の日本では、武器としての吹矢ではなく、危険性のない矢を用いた娯楽やスポーツとしての吹矢が主流となっている。その日本国内では、1990年代よりスポーツ競技としてや健康法としての吹き矢に脚光が当てられ、スポーツを主体とした活動団体として1998年に設立された日本スポーツ吹矢協会が主導的役割を果たしてきたが、楽しく健康増進をしながらの仲間づくりを目的とした吹矢の活動団体として、日本吹矢レクリエーション協会が2004年に発足し、楽しむことを主体とした吹き矢を提唱している。 一般には、息を吹き込んで使用するため、吹き矢を装填した吹き筒の本体の片方を口に宛がって使用する。照準は筒の先端を口に宛がうことから、概ねその誤差を経験と勘によって補正する必要はあるが、至近距離でも一定の命中精度ではない。 発射速度は肺活量と胸や腹の筋力に左右され、その多くは狩りでも小動物などが精々である。筒の長さを延長すると、それだけ初速を稼ぐことができるが筒容積も増して、より多くの肺活量を必要とする。 このため、より大型の動物を対象とした狩猟に用いる際には、針の先に毒を塗布して利用される。これにより獲物を確実にしとめることができる。なお毒の種類によっては外傷から注入されると麻痺ないし致死させるものであっても、経口摂取しても問題ないものもあり、大型の動物を捕らえる狩猟道具として使われた地域では、そのような毒物利用の文化が発達している。経口摂取で問題を起こさない毒物の発達しなかった地域では、折角の獲物を毒物で汚染させてしまう狩猟用の吹き矢はそれほど発達しなかったが、食肉を得る訳ではない遠隔からの麻酔や暗殺などといった用途では利用された。また、こういった毒矢としての利用から、特定の動物種の名に吹き矢が冠されている例もあり、モウドクフキヤガエルのように毒をもつカエルのいくつかは、吹き矢や毒矢に利用されてきた。 使用される毒物に関しては、弓矢による使用(いわゆる毒矢)と合わせアメリカ先住民族の使用したクラーレ(d-ツボクラリン)が代表的だが、東インドの未開民族の間ではストリキニーネが、古代のガリア人が使用したヘリボー(ヴェラトリンを主成分とする有毒植物)などが知られている。 現代では近距離からの動物の捕獲のため、麻酔薬の入った注射器を矢としたものが獣医師などに利用されている。 スポーツ用品や玩具としての吹き矢もあり、スポーツ吹き矢では専用の器具を使用するが、これらスポーツ用品であり狩猟具ではないため、矢は軽く作られ針の部分が短く、的に刺さる画鋲程度のものでしかない。また玩具としては安全性の観点から針の代わりに吸盤がついている製品もある。このような安全性に配慮した吹き矢で、矢を吹いて、当たった位置により命中精度や得点を競う競技である。 吹矢レクリエーションも同じく、狩猟具ではないため、安全性を十分に考慮し、先端が尖っていない矢を使っている。この団体の特徴として、さらに安全面を考慮した、特許商品である吸盤式の矢と的、ビンゴゲーム式の的がある。特に介護施設や障害者団体、老人会、子供会、教育関係の団体を中心に全国に行われている。 近世の玩具として、「吹矢人形」が存在する。これは田中久重が発明したからくり人形の記録『久重の手記によるからくり図案』の中にも記述されているもので、人形が数本の矢を順次に筒中から吹き出し、的を倒していく装置である。人の息でなくとも、いわゆる蒸気の力を用いることでも、吹き矢を射出・作動させることは可能であり、溜めた空気圧を開放させるという点は気砲の原理とも似る(気砲の場合、手動であり、熱エネルギーを必要としない)。自動吹き矢はあくまで娯楽文化としての発明(そういう名目でないと、幕府に目をかけられる)であって、兵器としては利用されなかった(からくり#からくりの種類の「からくり的」も参照)。 ^ 澁澤龍彦 『毒薬の手帖』 河出書房新社〈河出文庫〉、1984年、246頁。ISBN 4-309-40063-9。 射的 ダーツ スポーツ吹矢 吹矢レクリエーション 空気銃(機械的に発生させた空気圧で弾丸を発射する装置) 狩猟 スリングショット 投石器 軍事 ダイナマイト砲(圧縮空気でダイナマイトを飛ばす大砲) 麻酔銃", "投網(とあみ)とは、漁業に用いる漁網の一種で、岸辺や船上から魚がいると思われる地点に投げ入れて魚を捕る道具である。この漁網を用いて行う漁撈活動のことを投網漁といい、網を投げられる様に手に持つ下拵えを手取り(拵え)という。また、投網を投げることを「投網を打つ」という。 投網は投げた際に円錐状あるいはつりがね状に広がって沈下するように作られている。網裾(網の最も外側の部分)には等量の沈子(おもり)が取り付けられており、網裾が自動的に同時沈下して、確実に水底に着底することで、水中または水底の魚群をかぶせとるようになっている。網の周辺部は袋状になり、魚が網から逃れようとすると、そこに入る様に作られているが袋に入らず錘の下をくぐり逃げる魚も多い。 投網で漁獲できる魚は、袋に入るか網目に頭を突っ込み逃げられなくなった首くくりの魚である。 特に鮎では袋に入ることはまれで、石と錘の隙間を見つけそこから逃げたり、石の間で暫くじっとしていて網を上げた瞬間に錘の下から逃げたりとくぐり抜けの上手い魚である。その為、首くくりでの漁獲を重視し獲れる魚のサイズにあった目合いの網を選ぶことが重要となる。 網目の大きさを目合いと言い、縦に伸ばした網5寸(15cm)の間にいくつ結び目があるかを節(せつ)という単位であらわす。又、網目の1辺もしくは1目(1辺×2)の長さを分.厘であらわす地方も有る。 網の大きさは、円周(裾回り)の長さを尋(1.5m)で表したり、すぼめた状態での網の長さを尋で表す。 一枚の帯状に作られている投網(投げ刺し網)もある。この場合、網をうったらすぐに魚を網のある方に追い込まなければならない。和歌山県の茜屋流で有名なのは、刺し網を投網のように投げる漁法の小鷹網。 大まかに次の二つに分けられる。 三つ手取り:右手、左手,肘の三点に網を分けて手取る。 掬い取り(二つ手取り):右手で網を掬う様に左手に近づけた点と肘の二点で網を分けて手取る(手に持つ網は、右手指で五等分される)。 土佐打ち(三つ手取り) 細川流(別名「本振り」「肥後打ち」「掬い取り」「二つ手取り」など) 船で広い範囲を移動しながら打つのに適し、体力のない人でも練習次第で、大きく網を打てるようになる打ち方。 舟打ち:舟で移動しながら、船上から打つ。 徒(かち)打ち:岸から又は水の中を歩き移動しながら打つ。 投網を打つ様子 魚体に傷が付きやすく、魚によっては捕獲後に放流しても生存率が下がるため、捕獲するだけで生態系に影響を与える可能性も否定できない。ほとんどの河川で投網の使用は規制がかけられているため、無許可で投網をうつことは禁止されている。 道具 > 漁具 > 漁網・網 > 掩網(かぶせあみ)類 > 投網 漁業 > 漁(漁撈)> 網漁 > 投網漁 投網船 細川の政 スポーツ投網 網打ち - 相撲の決まり手のひとつ。漁師が投網を打つように、相手力士の差し手を両手に持ちながら、土俵外へ放り投げる技。", "ろうそく消し(ろうそくけし)またはキャンドルスナッファー(英語: candle snuffer)は、燃えたろうそくの火を消すための道具。 英語では、(キャンドル)スナッファーと呼ばれる2枚の平らな刃からなる鋏に似た器具や、エクスティングィッシャー(英: extinguisher)(de)と呼ばれる持ち手の先端に円錐形の小さなカサのついた器具のいずれをも指す。\"candle snuffer\"(キャンドルスナッファー)や\"snuffer\"(スナッファー)(de)の語は、かつて\"extinguisher\"と呼ばれたものを説明するためにしばしば用いられた。 鋏に似た器具は、ろうそくの芯を切り取るために使われる。上手くやれば、炎を消すことなく芯ごと切り取ることができる。刃についた小さな受けで、切り取った芯を受ける。この器具は、炭化して曲がることで自ずと火が消える芯の発明により時代遅れとなった。これは余分な芯を燃やし尽くして、芯が長くなり過ぎるのを防ぐ。 ろうそく消しを使うことは、熱された蝋が吹き飛んで生じる問題を回避するのに役立つ。エクスティングィッシャーは、いまだに家庭や教会で一般的に使用されている。 ^ candle snufferの意味 - 英和辞典 Weblio辞書 ^ Douter at Dictionary.com ^ a b Candlesnuffer at Dictionary.com ^ extinguisherの意味 - 英和辞典 Weblio辞書 ^ extinguisherの意味・用例|英辞郎 on the WEB:アルク ^ Extinguisher at Dictionary.com ^ snufferの意味 - 英和辞典 Weblio辞書 ^ snufferの意味・用例|英辞郎 on the WEB:アルク ろうそく#使用方法 消火器", "ボーラ(bola)は、複数のロープの先端に球状のおもりを取り付けた狩猟用アイテム、もしくは投擲武器。2個あるいは3個の丸石または金属球またはゴムや木の錘を、革紐やロープや鎖やワイヤーなどで繋ぎ、3個の場合は同じ長さの紐で三つ又になるように作る。おもりが石の場合は、皮でくるんで紐を結びつけることもある。 東南アジアが発祥とされるが、エスキモーや南米パンパス地帯のインディオもダチョウ狩り等の狩猟目的で使用していた。また、スペイン人がヨーロッパから持ち込んだ馬が野馬となって数が増えるとそれらを狩る際にもに石3個のボーラが用いられるようになった他、スペイン人と先住民の子孫で牧畜に従事したガウチョ達は先住民との戦いや内戦の際も武器として使用した。 イヌイットのボーラは主に野鳥を捕獲することを目的としている。小形動物の狩猟用はケラウイタウティンと呼ばれる。 南米では2つ球のボーラをソマイ、3つ球のボーラをアチコと呼んでいる。インカ帝国では遠戦の主力武器だった。 ボーラに相当する、日本の伝統的な分銅鎖系武器は、「微塵」と呼ばれている。直径4センチほどの中央の輪に、長さ35センチほどの3本の分銅鎖が付いた、主に忍者が用いた隠し武器(神社に奉納されて、実物・技ともに伝承)で、先端の錘は2.5cm程度のものがある。扱い方次第では敵の骨を木っ端微塵に打ち砕く威力をも発揮しうるため、この名が付けられたとされる。 近年、野生の猿が住宅街に降りてきて、弱い子供や女性が襲われたり、噛み付かれる被害などが発生しているため、一時捕獲・撃退を目的に、網よりも機動性がある暴漢捕縛用のボーラ(安全なゴムの錘とロープなどの組み合わせ)が使われることもある。 女性のストッキングと適当な錘になるものを組み合わせて、即席で作られたボーラが、暴漢撃退用として使われることもある。 ロープの中心を持ち、頭上で振り回して十分に加速が付いたところでロープを放し、標的に投げ付ける。投擲されたボーラは錘の重量と遠心力で広がった状態で回転しながら飛び、標的の脚(鳥類捕獲であれば翼と胴)の二本に絡み付き、歩行(飛行)を妨げ捕獲する。頭や胴に命中した場合も、錘の重量と回転が十分な衝撃となる。狩猟目的ではない武器としてはこの用法が主となる。また、投擲武器としてではなく、ロープを持ったまま錘を回転させて相手に叩き付ける打撃武器としても使われる。 微塵の使い方もほぼ同様であるが、間合いの取り方に応じて使い分け方が多少異なる。近距離では中央の輪を持ち、3つの分銅が同時に襲って敵を打つ。中距離では1本または2本の分銅を持って振ることで、残った分銅で相手の急所を狙う。遠距離の相手には3つの錘が広がるように投げれば、分銅が敵に絡みついて殴打する(頭部に巻きついてから加えられる打撃は、致命傷になることもある)もしくは鎖が足に搦み付いて足止めになる。流星錘と同じように、靴の沓(かのくつ)を履いた足で錘を次々と蹴り飛ばして、斜め下から連続した打撃を次々と加える技も存在する。乳切木と同じように障害物を回り込んで打撃を与えるため、矢襖(盾)や刀では攻撃を受け流すことが難しい。 暴漢捕縛目的で使われるゴムの錘とロープまたはワイヤーを組み合わせたものは、離れた距離から安全に相手の動きを止めることが出来る。また、縛る目的で使うこともできる。 漫画『MASTERキートン』では、元SASのサバイバル教官の主人公が、何度か即席のボーラを作って使用している。 TVアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』に登場する科学忍者隊員の一人、燕(つばくろ)の甚平/G-4号は、伊賀忍者一族の末裔を自称し、敵組織ギャラクターの隊員たちを次々と倒しまくるシーンで、特殊なアメリカンクラッカーを忍者の隠し武器の微塵(ボーラ)のように使っているが、錘は2つである。 『水戸黄門』TVシリーズ34部から、伊賀の里の頭領の孫娘アキが成長して戦闘に参加するようになり、端に錘の付いた紐(日本刀の下緒とそれに付属する金属製の錘の振振(ぶりぶり)を組み合わせて微塵に仕立てた、独自設定の投擲武器)を投げて、首に巻き付けたり足首に絡ませて転倒させる使いかたをしている。 映画『ポリスアカデミーシリーズ』の『ポリスアカデミー6/バトルロイヤル』で、銃マニアの警官ユージン・タックルベリーに対して、激しい銃撃戦の末に追い詰められた犯人が、銃を投げ出して「丸腰の者に対して銃は使えないだろう」と言い放って走り去ろうとするシーンで、タックルベリーは犯人の言葉に惑わされることなく、銃をボーラに持ち替えて投げつけ、見事足に絡みつかせて逮捕している。 ゲーム「ガンスリンガーストラトス」ではボーラランチャーの弾として用いられる。 スルチン (武器) Inuit Bolas Boleadoras 復刻古武術品(微塵を再現)", "鈍器(どんき、英語: blunt instrument)とは、刃は無いが固く重みのある金槌や棒などのような器具。多くは凶器として使われる際に言われるため、代替と成りうる物体(家具など)の総称とすることもある。また、鋭利でない刃物も含む。 刃がないだけに表面を鋭く切り裂く能力はないが、相手を傷つけ内部を粉砕する能力がある武器として用いることができる。 重たいものをぶつけるのは相手にダメージを与えるという意味ではそれなりに重要なものであり、その意味では鈍器は武器として有意義である。特に、刃がないことは、うかつに触れても自分自身が負傷しないことを保証するものであり、素人にとっての扱いやすさを保証する。鈍器としての性質を利用した純粋な武器としては鎚矛(メイス)などが挙げられる。 RPGなどのファンタジー作品においては、無闇な殺生を禁じる戒律などの宗教上の理由から刃物を持つことができない僧侶の武器として設定されることが多い。 ^ 広辞苑(第5版)、岩波書店、1998年。ISBN 4000801120 槌 棍棒 メイス 利器 捕具 fr:Arme contondante - de:Schlagwaffe - (英語: blunt weapon) デジタル大辞泉『鈍器』 - コトバンク" ]
ABC01-02-0118
三本の矢の教訓で知られる毛利元就の孫にあたる、関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた武将は誰でしょう?
毛利輝元
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[ "毛利輝元", "尼子義久", "香宗我部親泰", "毛利元就", "乃美宗勝" ]
[ "毛利 輝元(もうり てるもと)は、戦国時代後期(安土桃山時代)から江戸時代前期にかけての大名。安芸毛利氏の当主。 豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。 天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として安芸国吉田郡山城(現在の広島県)に生まれる。幼名は幸鶴丸。 永禄6年(1563年)8月、11歳の時に父・隆元が急死したため、祖父・毛利元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。 永禄8年(1565年)2月、13代将軍・足利義輝より「輝」の偏諱を受けて元服し、輝元と名乗り、実質的な当主となるが、元就が死没するまで当主権限を元就が掌握する二頭政治体制が続くことになる。同年の月山富田城の戦いで初陣を飾る。 元亀2年(1571年)6月、元就が死去すると、毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。 天正2年(1574年)2月、15代将軍・足利義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に叙任され、室町幕府の相伴衆ともなった。 その後、輝元は中国路の覇者となるべく元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦って勝利し、さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け(大内輝弘の乱)、九州や中国地方に勢力を拡大した。 天正4年(1576年)2月、織田信長によって都を追われた将軍・足利義昭が紀伊国の畠山領を経て毛利家領内の備後国に動座してきたため、輝元は鞆に御所を提供して保護する(この時期を鞆幕府とも呼称)。このとき、義昭はかつて織田信長に与えた桐紋(足利氏の家紋)を輝元にも与えた。また、義昭は輝元を副将軍に任じ、兄・義輝と同様に、中国地方各地の守護に任じたとされている[要出典]。 輝元は信長とは義昭の処遇について折衝を重ねるなど友好関係を保っていたが、さらに石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うなどしたことから、織田氏と対立する。また、義昭は毛利氏のもとにおいて反信長勢力を糾合し、越後国の上杉謙信はそれまで信長と同盟関係にあったが将軍家の呼びかけにより信長と敵対した。そうした外交的背景もあり、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、7月には第一次木津川口の戦いで毛利水軍は織田水軍を破り、大勝利を収めた。 また、天正6年(1578年)7月には上月城の戦いで、織田方の羽柴秀吉・尼子氏連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ。 しかし、3月に上杉謙信が死去、さらに11月の第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫する。淡路島以西の制海権は保持したままであったが、次第に戦況は毛利側の不利となっていく。 天正7年(1579年)、毛利氏の傘下にあった備前国の宇喜多直家が信長に通じて、毛利氏から離反した。 天正8年(1580年)1月、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する(三木合戦)。 天正9年(1581年)、因幡国の鳥取城も羽柴秀吉、宮部継潤らの兵糧攻めにより開城し、毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後国の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれていく。 天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せていた清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃する(備中高松城の戦い)。輝元は、元春・隆景らと共に総勢4万の軍勢を率い、秀吉と対峙する。 同年6月2日、攻防戦の最中、自ら中国地方へ遠征に赴こうとしていた信長が京都において明智光秀によって討たれる、いわゆる本能寺の変が発生する。いち早く情報を得た秀吉は、光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。秀吉から毛利家の武将のほとんどが調略を受けていると知らされた毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった。結果、備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。毛利方が本能寺の変報を入手したのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが吉川広家の覚書(案文)から確認できる。こうして毛利氏は織豊政権との和平路線へと転換することになった。 信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。 天正11年(1583年)、輝元は秀吉と勝家との間に起った賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている。賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言(のち広家)を差し出し、秀吉に臣従した。 その後は秀吉の命令で、天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)の九州征伐にも宇喜多秀家、宮部継潤ら中国の軍勢と合流し先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。だが、戦いの最中に吉川元春・元長親子を病で失った。 天正16年(1588年)7月、主な家臣を連れて上洛し、従四位下参議に任官した。豊臣姓と羽柴の名字を下賜され羽柴安芸宰相と称された。 天正17年(1589年)、当時の交通の要衝である太田川の三角州(当時の名称は五箇村)に、秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を開始。天正19年(1591年)には、長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城から、まだ工事中であった広島城に入った。 天正19年(1591年)3月、秀吉より知行目録を与えられ112万石の所領を安堵された。 文禄元年(1592年)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵にも、主力軍として兵3万を派遣。秀次事件後の文禄4年(1595年)には従三位権中納言となり、安芸中納言と称された。 慶長2年(1597年)には残された両川となっていた小早川隆景が死去。小早川家臣は養子の小早川秀秋に仕えることを良しとせず、毛利家に帰参した。しかし、これらの者の中には帰参したはいいが毛利家中では外様視されてしまうことを嫌い、出奔する者も多く出た。隆景の重臣であった鵜飼元辰も出奔を企てたため、輝元によって殺害された。また、三原など隆景死後に毛利家に返還される所領の処理も問題となった。 同慶長2年(1597年)、秀吉より五大老に任じられた。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。 輝元は従兄弟である秀元(穂井田元清の子)を養子にしていたが、実子の秀就が生まれたために秀就を後継者とする代わりに秀元にも所領を分け与えることを考えた。豊臣政権の取次であった石田三成は秀元に吉川広家の所領である伯耆・出雲・隠岐を与えて広家を宙に浮いていた小早川隆景の遺領に移す案を作成した。吉川氏の勢力を削減する意図をもっていた輝元は瀬戸内海の要所である三原を広家に与えることに難色を示して代替地を備中にする意向を示し、秀元も長門を与えられることを希望し、所領を移される広家は元よりこの提案内容に反発し、三者三様の反対をしたにも関わらず、慶長4年(1599年)1月に三成は広家の代替地の決定を先送りする形でこの案を押し切った。だが、直後に三成が失脚すると、徳川家康が決定の見直しを行い、同慶長4年(1599年)6月になって秀元には長門を与えて広家の所領をそのままに、隆景の遺領は毛利家にそのまま返還されることになり、輝元・秀元・広家ともにこの案を受け入れた。 慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による対立がついに武力闘争に発展した。6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。 7月17日、家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸を接収し、輝元が入城した。その後は三成に擁立された西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させる。 九州に向けては、当時広島城に滞在していた大友吉統を吉統の旧領地である豊後国に派遣した。大友軍は東軍の黒田家や細川家の九州留守居軍と戦闘を行う。また、西軍方の毛利吉成(もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)が伏見城の戦いでの損害により兵力を欠くこともあり、黒田方から防衛するためとして輝元の旧領であった豊前国の吉成領を占領する。 また、蜂須賀至鎮が東軍に参陣したことから、その父・家政の身柄を押さえ、蜂須賀家の領国阿波徳島城を毛利家の軍勢に占領させる。東軍方で領主不在であった伊予国の加藤嘉明領と藤堂高虎領では、故・小早川隆景の旧臣であった国人を促し蜂起させる。加藤領には毛利軍が侵攻し交戦した(三津浜夜襲)。藤堂領で蜂起した国人は藤堂家に鎮圧されている。 しかし、三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂、島津義弘や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去したのである。四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。 岐阜城の落城の後で、輝元は家康率いる東軍と輝元率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家に頼み、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑えたり福原広俊が秀元の出馬を諫めたりする結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし、徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍を指揮した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし井伊直政が家康に不義を訴えたため、輝元は隠居のまま、秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵とする形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の29万8千石に減封となった。 関ヶ原の戦い後の10月、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、論功どおり形式的に嫡男の毛利秀就に家督を譲り、秀就が初代の長州藩主となった。しかし、実際にはこれ以後も法体のまま実質的な藩のトップの座に君臨し続けていた。 慶長8年(1603年)、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌慶長9年(1604年)には長門国に萩城の築城を開始し、居城とした。 慶長10年(1605年)、輝元は家中統制の必要もあり、五郎太石事件に絡んで熊谷元直と天野元信らを粛清した。 慶長15年(1610年)、領内検地の後、幕閣とも協議し公称高(表高)36万9,411石に高直しを行ない、この表高は支藩を立藩した時も変わることはなかった。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣において、輝元は冬の陣で密かに重臣で母方の従兄弟の内藤元盛を「佐野道可」と称させて大坂城に送り込む一方で(軍資金を提供したとも)、家康の命を受けると病を押して出陣するが、さしたる戦闘を毛利勢がほとんど行わないまま和議が豊臣・徳川の間で結ばれる。しかし、夏の陣ではなかなか出陣命令が出ず、痺れをきらした秀元隊が本隊より先駆けて豊臣軍相手に戦った(この行為は結果として家康から賞賛された)。 佐野道可こと内藤元盛は夏の陣で自害したが、戦後になって彼を大坂城に送り込んだ疑惑が幕府に伝わり、家康はこのことを知って激怒し、毛利家を問い詰めた。輝元は何も知らなかったと述べ、家康の下に釈明に赴いていた佐野の遺児2人(内藤元珍と粟屋元豊)が萩に戻ってくると口封じのために自害に追い込み、元珍の子・内藤元宣を幽閉して、自家を守った(佐野道可事件)。 その後、輝元は大坂の陣の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。 元和4年(1618年)には、輝元毒殺の謀反の企て有りとの讒言を受け、以前より不仲であった吉見広長を追討し殺害した。 元和9年(1623年)、輝元は正式に隠居した。 寛永2年4月27日(1625年6月2日)、輝元は萩の四本松邸で死去した。享年73(満72歳没)。このとき、長井元房という武将(元房はかつて出奔したが、輝元に帰参を許された)が殉死している(元房の墓所は輝元夫妻と同じ)。 山口県萩市旧天樹院にある毛利輝元の墓所 毛利輝元夫妻の墓 墓所内にある輝元の火葬場跡 永禄8年(1565年) 2月: 元服に際し、室町幕府将軍足利義輝の諱一字を賜り、輝元と名乗り、屋形号を許される。 元亀3年(1572年) 3月23日: 右衛門督に任官、従五位下に叙位。 天正2年(1574年) 2月9日: 右馬頭に遷任。 天正16年(1588年) 7月25日: 豊臣輝元として従四位下に昇叙し、侍従に任官。同日、参議に転任。安芸宰相、あるいは羽柴安芸宰相と称せられる。 文禄4年(1595年) 1月6日: 従三位に昇叙し、権中納言に転任。清華家の家格に列す。安芸中納言、また、羽柴安芸中納言と称される。 この年、豊家五大老の一員となる。 慶長3年(1598年) 4月18日、権中納言辞任。 慶長5年(1600年) 10月10日: 隠居。 輝元について、慶長の役で日本軍の捕虜となった姜沆は『看羊録』の中で、「つつしみ深く、ゆったりと大らかで、わが国(朝鮮)人の性質によく似ている」と記しており、「朝鮮出兵の時、彼だけは朝鮮人の鼻削ぎなどの残虐行為を見て哀れだと思う心を持っていた」と、敵ながら彼の人格を称えている。また、姜沆は「日本人は皆、家康は関東から京に至るまで米俵を以って道を作ることができ、輝元は山陽・山陰から京に至るまでの道に銀銭を以って橋を作れると言っている」とも記している。 叔父の小早川隆景は輝元に対して極めて厳格に接し、時には輝元を折檻したこともあったが、それも隆景が毛利氏の将来を思う一念から出たもので、決して輝元を軽視したのではなく、常に輝元へは宗家の主人として仕え、尊敬していた。 側室の二の丸殿が幼少の頃に広島の児玉家門前で遊んでいたのを通りがかりに目に入れたのをきっかけに大変気に入り、その後しばしば児玉家を訪問する始末であった。二の丸殿の父である児玉元良はこの輝元の態度を快く思わずに二の丸殿が12歳になると周防国の杉元宣の嫁に出したが、天正17年(1589年)に元宣を殺害して二の丸殿を奪ったという逸話が『古老物語』に収録されている。一方で二の丸殿の兄弟の児玉景唯が輝元の側室のお松の下に毎夜通っていたために景唯の死後にその家を改易している。 関ヶ原の戦いでは総大将でありながら実際には戦場に赴かず、戦後は家康に改易されかけたが、吉川広家、福原広俊らの働きでかろうじて存続することになった。広家が家康に出した起請文には、「輝元が今後少しでも逆心を抱けば、自分が輝元の首を取って差し出す」とまで記されている。輝元は「近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている」と自らの非力を嘆いたという。 関ヶ原の戦い後、輝元が京都付近の木津屋敷に引き篭もっていた頃に長雨が続いた。その屋敷の外れに「輝元と 名にはいへども 雨降りて もり(毛利)くらめきて あき(安芸)はでにけり」という落首を記した高札が立てられたという。 父: 毛利隆元(1523-1563) - 毛利元就の長男 母: 尾崎局(1527-1572) - 内藤興盛の娘で大内義隆の養女 正室: 南の大方(1558-1631) - 宍戸隆家の娘 側室: 清泰院(1572-1604) - 児玉元良の娘 長男: 毛利秀就(1595-1651) - 長州藩初代藩主 長女: 竹姫(1600-1644) - 吉川広正室、婚姻日は元和2年(1616年)7月。正保元年9月10日(1644年10月10日に周防国岩国において死去、法名は高玄院殿超誉珠栄大姉、墓所は岩国市横山 次男: 毛利就隆(1602-1679) - 徳山藩初代藩主 側室: 於松(?-1641) - 羽根山城守元泰の四女。寛永18年12月13日(1642年1月13日)に萩において病死、法名は妙華院殿清久芳純大姉、墓所は萩市雲渓院 側室: 於千、改名して千代(1550-1658) - 井上河内守就正の娘。万治元年10月29日(1658年11月24日)に萩において病死、法名は東泰院殿隣宗受清大姉、墓所は萩市雲渓院 側室: 於鶴(?-1677) - 花房太郎左衛門尉某の娘。延宝5年9月18日(1677年10月14日)に萩において病死、法名は正法院殿三融日諦大姉、墓所は萩市大照院 側室: 於さな(?-1644) - 伊井のちに児玉小左衛門真友の娘。正保元9月3日(1644年11月3日)に萩において病死、法名は覚身院殿妙伝尊尼公 養子 女子: 古満(こま)姫(?-1651) - 宍戸元秀の次女。小早川秀秋室、秀秋死後は興正寺門跡准尊室。慶安4年9月29日(1651年11月12日)に京都において死去、法名は長寿院殿釈尼妙専大姉、墓所は京都大谷 毛利秀元(1579-1650) - 毛利元就の子・穂井田元清の長男。長府藩初代藩主 尼子元知 小笠原元枝 長屋元和 長屋元加 長屋元忠 野上元雅 - 野上房忠の子 福原元俊 福原元房 福間元道 福間元之 - 福間元道の弟 三吉元高 山内元資 冷泉元満 小説 『白藪椿―毛利輝元の密謀』(平川弥太郎) 『毛利は残った』(近衛龍春) 宇津井健 (『葵 徳川三代』 、NHK大河ドラマ、2000年) 森田剛 NHK大河ドラマ「毛利元就」 ^ この時、元就は「こうづるいよいよ成人侯わんと、何よりめでたく、月星とこれのみ思い待ち入り侯」と心情を側室の中の丸や輝元の生母・尾崎局に綴っている。 ^ 輝元はこの総攻撃の前に元就に先陣を願い出ているが、叔父の吉川元春や小早川隆景の強い反対にあい、断念している[要出典]。 ^ 元就は輝元の初陣を期に隠居を考えたが、輝元に「父・隆元は、40の歳まで祖父上に後見していただいたではないですか...なのに、まだ15の私を、なぜ見捨てておしまいになるのですか」と言われ、死ぬまでその後見にあった[要出典]。 ^ 布部山の戦いでは新山城攻撃を目前に「元就、危篤」の報が入り、元春にその場を任せ、隆景と共に元就の病床に駆けつけ、死去後は総大将に復帰し、尼子勝久を追放している[要出典]。 ^ 上月城の戦いで捕虜にした山中幸盛の殺害を指示したのは、元春なのか輝元なのか諸説あり、はっきりしない。ただし、輝元実行の場合、幸盛の忠誠に感激していた元春・隆景が「殺害反対、家臣または助命」と進言したという。しかし輝元は、二度も毛利に捕らえられながらなおも敵対し、毛利につくことを潔しとしない幸盛の態度に憤然としていた。そのため、進言には一切耳を貸さず、幸盛を討ち果たすように命じたといわれる。このとき隆景は輝元の「政治的判断よりも感情を優先する」様子を見て、「総大将の器にあらず」と憂えたという[要出典]。 ^ 「大老」は後世の呼称であり、当時は「奉行」「年寄」であったとする学説・文献もある。 ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。 ^ 瀬戸内海に面した三田尻や山口の築城が幕府に許可されず、やむなく萩にしたといわれ、この時、「これほど苦労をさせるなら、諸国を流浪していたほうがまだ増しじゃ」と側近に語ったとされる[要出典]。 ^ 検地では53万9,268石余を算出したが、一揆の発生、東軍に功績のあった隣国の広島藩主・福島正則49万8,000石とのつりあいなどにより、幕閣は申告高の7割を新石高と公認した。 ^ このとき輝元は佐野に一族を末代まで取り立てるという起請文まで出した[要出典]。 ^ 堀智博の研究によると、この逸話には信憑性がなく、元盛は天正17年(1589年)に輝元から勘気を蒙って追放されており、牢人として拠り所のない元盛は輝元の意思とは無関係に「佐野道可」として大坂籠城を行ったとする。一方、脇正典は同事件に関係した文書は各所に及び全てを捏造するのは不可能であるとするとともに、慶長19年7月6日付の元盛の実兄・宍戸元続の書状(『毛利家文書』1329号)から元盛は秘かに毛利家から借財をしていたためにその要請を断り切れなかったと推測する。 ^ 家中の分裂は秀元や恵瓊が独立大名となったことへの反感や個人的対立等が既に生じていたという説[要出典]もある(少なくとも広家と恵瓊はもともと反りが合わず、朝鮮出兵以降にその溝は決定的なものになったという[要出典]。なお、恵瓊を独立大名とする見解には異説もある[要出典])。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 時山弥八編 1916, p. 83. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 82. ^ 『毛利家文書』602号、年月日不詳 中の丸宛て毛利元就自筆書状。 ^ 光成準治 2016, pp. 48-71. ^ 村川 2000, p. 50. ^ 天正10年(1582年)2月に吉川経安が子孫に書き残した置文「石見吉川家文書」では、「義昭将軍(略)御動座、毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り、井び(ならび)に小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春父子、その権威をとって都鄙鉾楯(とひむじゅん)にをよふ(及ぶ)」と記されている。 ^ 藤田 2012, p. [要ページ番号]. ^ 宮本 1994. ^ a b 村川 2000, §. 羽柴氏下賜と豊臣姓下賜. ^ 『武家事紀』第三十一、「加能越古文書」「毛利家文書」など[要文献特定詳細情報] ^ 阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」、『史苑』49巻2号、1989年。 ^ 光成準治編著 2016, §.「総論 吉川広家をめぐる三つの転機」. ^ 津野倫明 2016, p. [要ページ番号]. ^ 『毛利家文書』1558号、正保3年(1646年)6月14日付 益田元堯言上書。 ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. [要ページ番号]. ^ 堀 2013, 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よしひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名、武将。尼子晴久の嫡男。 天文9年(1540年)、出雲国の戦国大名・尼子晴久の次男として生まれる。弟に倫久・秀久がいる。幼名は三郎四郎、のち室町幕府13代将軍・足利義輝より偏諱(足利将軍家の通字である「義」の字)の授与を受けて義久と名乗る。なお一説によれば、播磨国赤穂の尼子山城にて一時城代を任されていたというが、詳細は不明。 永禄3年(1560年)12月、父・晴久の急死により家督を継ぐ。未だ毛利氏との石見大森銀山を巡る争いが終結していなかった中での晴久の急死であったため、尼子家臣団の動揺もあって月山富田城内に密葬することとなる。また新宮党粛清による有力な親族衆が殆どいない状態で当主を継承するといった状態であり、更には尼子氏から追放・粛清処分を受けるなど抑圧されてきた国人衆の不満が一挙に噴出し始めていた。 その後、毛利氏は晴久が急死したことを察知し、再び石見国への侵攻を開始する。これに対して義久は父の採っていた毛利氏との石見銀山を巡る対決路線を変更し、室町幕府の仲介により和平をすすめようとしたが、毛利元就はこれを利用して逆に尼子氏の攻略を画策し、和平の条件として石見国への不干渉を申し入れた(雲芸和議)。この条件を義久が了承したため、元就の狙いどおり尼子氏を頼みに毛利氏への反乱を起こしていた福屋氏が孤立し、また福屋氏へ軍事援助を行おうとしていた本城常光、牛尾久清、多胡辰敬らの石見に駐屯していた尼子家臣や温泉英永など尼子方の国人も不利な立場に立たされることとなった。この行動が尼子勢力の崩壊に繋がっていく。一方で、当時の九州大大名であった大友宗麟と同盟関係を結び、毛利氏の軍事力を二方面(大友氏に周防国への侵攻を促すなど)に分散させている。 永禄5年(1562年)6月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、温泉英永、牛尾久清は出雲へと退却し、雲石国境の刺賀岩山城は毛利氏の攻撃により落城して、城主・多胡辰敬は自刃した。また赤穴氏や三沢氏などの西出雲の有力国人衆は雪崩を打って毛利方へと転じた。この情勢を契機として、毛利元就は出雲へ侵攻を開始し、永禄6年(1563年)8月には松田氏が守備する白鹿城が毛利軍によって落城し、熊野城も抵抗虚しく陥落した。この出雲侵攻において、尼子十旗を守備する赤穴氏・三沢氏・三刀屋氏などの国人衆が殆ど戦わずして開城したのに対し、一部の国衆は毛利元就に対して頑強に抵抗している。これは父・晴久の影響力や中央集権化が未だ完了していなかったことの証左であり、尼子内部に生じていた内紛や不満によって国人衆をまとめることが出来なかったことも示している。 永禄7年(1564年)には伯耆江美城の落城により、尼子氏の糧道がほぼ押さえられ、尼子方の美作江見氏・美作三浦氏家臣の牧氏・後藤氏とも容易に連絡が取れる状況ではなくなり、事実上月山富田城は孤立してしまう。永禄8年(1565年)からは遂に月山富田城を包囲された(第二次月山富田城の戦い)。毛利軍は富田城へ総攻撃を開始したが、城の守りは堅く城兵の士気も旺盛で、損害ばかりが増えたため、攻撃を中止し兵糧攻めに切り替えた。富田城内では次第に兵糧が欠乏し、士気が衰えるなか、尼子氏累代の重臣の亀井氏・河本氏・佐世氏・湯氏・牛尾氏が毛利軍に降伏する。さらに永禄9年(1566年)に宇山久兼(宇山飛騨守と思われる)を義久が謀反の疑いにより誅殺するなど、城内は混乱の極みとなる。 11月28日、義久は月山富田城を開城を決意。毛利元就に降伏する旨を伝えると、元就は三男・小早川隆景、次男・吉川元春の順に義久の身柄を安堵すると記した血判を送り、これにより月山富田城は開城した。富田城が陥落したことにより、出雲国内で抵抗していた尼子十旗の城将達も、次々に毛利氏に下った。元就は義久とその弟たちの一命を助け、安芸円明寺に幽閉している。これによって、大名としての尼子氏は滅亡した。 その後、義久は天正17年(1589年)、毛利輝元より毛利氏の客分として遇され、安芸国志道に居館を与えられた。慶長元年(1596年)、長門国阿武郡嘉年の五穀禅寺(現・極楽寺)において剃髪、出家して友林と号した。 慶長15年(1610年)8月28日、長門国阿武郡奈古で死去した。享年71。毛利家の意向により、甥(弟・倫久の長男)の尼子元知が養嗣子という形で尼子氏を継いだ。 義久の直系の子孫は、福永氏(昭和初期に福長と改姓)として残り、現在は広島県に在住。改姓を行わなかった(改姓時の長男以外)福永氏は山口県、広島県、愛媛県、北海道に在住しているが、出雲尼子一族会の会長を務める見明昭は自らを義久の正統な直系の子孫であると称している。 上記のように、出雲から追放された国人衆の多くは毛利氏が尼子氏を滅ぼしたことにより本領への復帰という宿願を達成した。しかし、逆に尼子氏に仕えていた者たちの中には義久幽閉先に同行した宇山誠明・本田家吉等の直臣を除けば所領や地位を剥奪され流浪の生活を強いられることになった。 これに対して尼子下部に属していた家臣団の本領復帰の近道は尼子氏の復権というものになった。この中に居たのが立原久綱・秋上宗信・山中幸盛等の比較的地位の低かった家臣や重臣の庶子達であった。彼らの生活基盤となるものを保障をしていた尼子氏の復権を狙ったものが尼子勝久を担いだ形となる再興軍であった。 雲芸和議を結ぶなどの失策もあるが、大友氏と結ぶ等して毛利氏に対抗しており、決して外交能力が劣っていたわけではない。 元就が彼の身柄を安堵する血判を送ったことからも、尼子氏は出雲国での求心力が健在であり、元就は義久を殺害するより人質として取る方が出雲統治が容易になると判断したようであるが、その後に尼子勝久率いる再興軍が出雲国に上陸すると、一部の国人が出雲・隠岐・伯耆・美作で毛利に反旗を翻したことからも、毛利氏の山陰統治は容易ではなかったようである。 父の代から継続して出雲国の経済要衝である宇竜港を通じて対明貿易を盛んに行っている。 毛利氏に降伏後は、尼子勝久や山中幸盛らのような大名家としての尼子再興運動は一切起こしていない。一方で、幽閉が解けた後は毛利氏の傘下として、その家名を幕末まで保っている。 尼子再興軍の尼子勝久は正当な出雲尼子氏当主ではなく、義久がその当時の正統な当主である。そして尼子氏の家督は養子の元知が継いでいる(後に名字を尼子から佐々木に戻している)。 ^ a b c d e f g h i j k l 今井尭 1984, p. 327. ^ a b c 『月山富田城尼子物語 -尼子ハンドブック-』 安来市観光協会 ^ 幼名が、父祖たちも用いた幼名・又四郎でなく三郎四郎であったのは兄がいたからである。しかし兄は夭折したので、代わって嫡男となった。偶然にも父の晴久も同様にして尼子氏の当主となった経緯がある。 ^ 宮本義己 1974. 今井尭 『日本史総覧』3(中世 2)、新人物往来社、1984年。NCID BN00172373。 宮本義己「足利将軍義輝の芸・雲和平調停―戦国末期に於ける室町幕政―」、『国学院大学大学院紀要』6輯、1974年。 宮本義己「戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって―」、『日本歴史』367号、1978年。 浅野友輔「戦国期室町将軍足利義輝による和平調停と境目地域―尼子・毛利氏間和平と石見福屋氏の動向―」、『十六世紀史論叢』4号、2015年。 『毛利元就』(1997年、NHK大河ドラマ、演:中村獅童)", "香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。長宗我部国親の三男。 天文3年(1543年)、長宗我部氏第20代当主・長宗我部国親の三男として生まれる。幼名は弥七郎。弘治4年(1558年)に父の命によって香宗我部親秀の養子となった。永禄12年(1569年)に安芸国虎が滅亡したため、安芸城主となる。 その後は兄・元親に従って各地を転戦する。親泰は阿波平定に尽力し、阿波海部城を拠点にして各地を転戦し、天正7年(1579年)に新開道善の富岡城を奪取した。親泰は外交にも秀でており、天正3年(1575年)に長宗我部信親の烏帽子親を織田信長が務め、天正8年(1580年)には渡海して安土城で織田信長と拝謁し、三好康長ら三好氏との和睦を求めたりしている。 天正10年(1582年)6月の本能寺の変後、中富川の戦いで十河存保を破り、天正11年(1583年)には阿波木津城を攻略するなど、兄の四国統一に尽力した。 信長の死後も柴田勝家や徳川家康と通じて四国平定を有利に進めたことは、全て親泰の手腕によるものである。織田氏・徳川氏など諸大名の窓口となっており、親泰宛に書状が送られている。天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐では阿波牛岐城を守備したが、木津城が豊臣軍に落とされたため、城を放棄して土佐に帰国した。 しかし天正20年(1592年)、文禄の役に赴く途上にあった嫡男・親氏が急死、自身も朝鮮半島に赴く途上の文禄2年(1593年)に長門で兄に先立って急死した。享年51。中山田泰吉(香宗我部親秀の弟・秀通の子)に跡を継がせる話も出たが、結局跡は次男・貞親が継ぎ、泰吉はその後見となった。吉良親貞同様、その死は長宗我部氏にとって大きな痛手であった。 親泰は元親の分身として四国各地を転戦し、よく補佐を務めた。親泰の死で元親を補佐・諫言できる者がいなくなり、その後元親は暴走を繰り返して長宗我部家は衰退し、元親の没後には改易となる。 中山田泰吉 中山田秀政 池内真武 西内喜兵衛 田中正吉 ^ 親泰の入嗣に反対したため、親秀に殺害された。 ^ a b c 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究社、2008年、p.133 ^ a b c 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究社、2008年、p.134 ^ 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究社、2008年、p.135 ^ 山本大『長宗我部元親』130頁 ^ a b c 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究社、2008年、p.136 ^ 山本大『長宗我部元親』162頁 書籍 川口素生『戦国名物家臣列伝』学習研究社、2008年 山本大『長宗我部元親』(1987年、吉川弘文館) ISBN 4642051031 史料", "毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。 明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主毛利弘元と正室の福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。 明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。翌文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と養母の杉大方について書き残している。永正8年(1511年)杉大方は、京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可をもらって松寿丸は元服。多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比殿と呼ばれるようになった。 永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。 安芸武田氏重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。一部の防備の兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死した結果、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この有田中井手の戦いは武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。 詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われている。 甥の毛利幸松丸が大永3年(1523年)にわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良をはじめとする重臣たちの推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。しかし毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して重臣たちによる「元就を当主として認める」という連署状が作成されている。8月10日に元就は、吉田郡山城に入城した。 元就の継承に不満を持った坂氏・渡辺氏らの有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。 元綱粛清後、元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられている。元就自身が書いたとされる家系図にはこの元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれている。また、僧侶になっていた末弟(元就・元綱の異母弟)の就心に頼みこんで還俗させ、就勝の名を与え、北氏の跡を継がせて側に置いた。 なお、この事件はこれで収まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。なお、この事は毛利家中に広く伝わったらしく、後に防芸引き分けの際に隆元が元澄に、元就にあの時命を助けられたのだから今こそその恩を返すべく元就が陶氏に加勢しに行くのを引きとめてほしいと要請している。また、この時謀反を起こし粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げている。 家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年(1525年)に尼子氏と関係を断ち大内義興の傘下となる立場を明確にした。そして享禄2年(1529年)には、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。天文4年(1535年)には、隣国備後の多賀山通続を攻め、降伏させた。 一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。元就が宍戸氏との関係を深めたのには父・弘元の遺言があった。元就が後年手紙で、「父・弘元は宍戸氏と仲をよくしろと言い遺されたが、兄の興元の時は戦になってそのまま病でなくなってしまい、父の遺言は果たせなかった。しかし、それは兄はまだ若かったからしかたなかったことだ。だが、元源殿はなぜか自分の事を気に入って下さって水魚の交わりのように親しくつきあってくださった。」と述べている。元就は宍戸元源の方から親しく思ってくれたとしているが、実際は宍戸氏とも争っていた高橋氏の旧領の一部を譲る等、積極的に働きかけていた。宍戸家家譜によると正月に数人の伴を引き連れて元就自身が宍戸氏の五龍城を訪れ、元源と気が合っため、そのまま2人で枕を並べて夜遅くまで語り合い、その中で元源の孫の隆家と娘(後の五龍)との婚約が決まったと伝わる。なお、宍戸隆家は生まれる前に父を亡くしており、母の実家の山内家で7歳まで育ったため、宍戸氏と誼を結ぶことで山内氏とも繋がりができた。前述の渡辺氏の生き残りである渡辺通が許されて毛利家に戻って元就に仕えたのもこの頃と考えられている。 その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。毛利家中においても、天文元年(1532年)に家臣32名が、逃亡した下人らを匿わずに人返しすることなどの3カ条を守り、違反者は元就が処罰するという起請文を連署して捧げている。 天文2年(1533年)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で叙任が実現することになった。これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。また天文6年(1537年)には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。 天文8年(1539年)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。後に信実は出雲の尼子氏を頼っている。 天文9年(1540年)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって勝利し、さらにこの戦いの顛末を記録した文書を幕府に提出(毛利元就郡山籠城日記)して称賛を受け、安芸国の中心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。 天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、さらには元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるが敗れ、大内軍は敗走する。この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって渡辺通らが身代わりとして戦死、窮地を脱して安芸に帰還することができた。 天文13年(1544年)、元就は手始めに強力な水軍をかかえる竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を出した。小早川家には元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでおり、前当主の興景は吉田郡山城の戦いで援軍に駆けつけるなど元就と親密な仲であった。天文10年、興景が子もなく没したため、小早川家の家臣団から徳寿丸を養子にしたいと要望があったが、徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っている。しかし、当主不在のまま何度か戦いがあり、困った小早川家家臣団は今度は大内義隆に、元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこんだ。元就も義隆の頼みを断ることはできず、興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行った。なお、興景を失った竹原小早川氏に対しては、備後神辺城主である山名理興(尼子派)が天文12年に攻め寄せたため、大内軍と共に毛利軍も救援に赴いている。6年後の神辺城陥落(神辺合戦)まで戦いは続いたが、この陣中で徳寿丸は元服して隆景を名乗るようになった。一方同年には、備後三吉氏へ遠征に出た尼子軍を撃退するため、児玉就忠・福原貞俊を派遣したが敗北している(布野崩れ)。ただし、三吉軍の夜襲が成功したため、最終的に尼子軍は退却した。 天文14年(1545年)、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くしている。息子の隆元に宛てた手紙に「この頃は、なぜか妙玖のことばかりがしきりに思い出されてならぬ。」「妙玖がこの世にいてくれたらと、いまは語りかける相手もなく、ただ心ひそかに亡き妻のことばかりを思うのだ。」「内をば母親をもって治め、外をば父親をもって治め候と申す金言、少しも違わず」と述べている。妙玖の名前は、元就から息子に毛利家の結びつきを説くときに語られる、大切な結び目としての母の名であった。 天文15年(1546年)、元就が隠居を表明。隆元が毛利家当主となる。ただし、完全に隠居したわけではなく実権はほぼ元就が握っていたため、隆元もこの時は元就の隠居に反対しなかった。 天文16年(1547年)、妻・妙玖の実家である吉川家へ元春を送りこむ。当時吉川家当主であった吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、吉川経世たち一族や重鎮と対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。そこで反興経派は元就に、吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子にしたいと申し出た。元就は初め、元春を子のなかった異母弟・北就勝の養子にする約束があったため断ったが、吉川家の再三の要求に応じて元春を養子に出した。一方、吉川家当主の吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。隠居させられた興経は、吉川家家臣団との約束で吉川氏の領内に隠居させる予定であったが、元就は興経派らの動きを封じるため興経を深川に移した。それでも興経派を警戒していた元就は吉川家の当主となった元春をなかなか吉川家の本城へ送らなかった。 ちなみに吉川家相続前に元春は熊谷信直の娘と独断で婚約を結び、元就は熊谷信直へ侘びの手紙と「あいつは犬ころの様なやつだが息子をどうかよろしく頼む」と一言書いている。元春夫婦は結婚後も、吉川家相続の後も吉田郡山城におり、長男の元資(元長)が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていた。元春が吉川氏の本城に入るのは、興経の隠居後の天文19年(1550年)に、将来の禍根を断つため興経とその一家を元就の命で熊谷氏が殺害してからである。 一方で、先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題にも介入した。当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。 これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。 天文18年(1549年)2月、元春と隆景を伴い山口へ下向する。この時大内家は陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派で対立が起こっていた。また、当主の大内義隆は月山富田城で負けて以来、戦に関心を持たなくなっていた事もあり、不満に思っていた陶隆房が山口下向中に元就達の宿所に何度か使いをやっている。なお、元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くかかり、吉田に帰国したのは5月になってからである。なお、この時元就を看病した井上光俊は懸命に看病したことで隆元から書状を貰っている。 天文19年(1550年)7月13日に家中において専横を極めていた井上元兼とその一族を殺害し、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させ、集団の統率力を強化。後に戦国大名として飛躍するための基盤を構築していく。しかしながら井上一族をすべて殺したわけではない。先の井上光俊のように看病してもらった者や、井上一族の長老である光兼は元就が太陽を拝むきっかけとなった客僧を招いた屋敷の主であったことなど恩があるものは助命しており、主だった30名のみ処分している。元就自身はこの誅伐に関して手紙で、幼いころに所領を横取りされたことなど積年の恨みつらみを書きしたためているが、家臣を切るのは自分の手足を切るような悪い事であるから決してしてはならないことであると隆景に宛てて書いている。 天文20年(1551年)、防長両国の大名大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される(大寧寺の変)。元就は以前からこの当主交代に同意しており、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。 元就はこれを背景として徐々に勢力を拡大すべく、安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめた。1553年には尼子方の江田氏が守っていた備後の高杉城、旗返山城を落とし、尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退した。 この際の戦後処理のもつれと毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。そこに石見の吉見正頼が隆房に叛旗を翻した。隆房の依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたが、陶氏への不信感を抱いていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵ができないでいた。そこで隆房は、直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。平賀広相からその事実を告げられた隆元や重臣たちは、元就に対して(安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるとした)約束に反しており、毛利と陶の盟約が終わったとして訣別を迫った。ここに元就も隆房との対決を決意した(防芸引分)。 しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000人以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000から5,000人であった。正面から戦えば勝算はない。さらに毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。 天文23年(1554年)、出雲では尼子氏新宮党の尼子国久・誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛が起こった。尼子氏が新宮党を粛清の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄を毛利氏に300貫の領地を与えることを条件に内応させる。しかし、房栄がさらなる加増を求めたため、房栄の内応をわざと元就が晴賢に明かしている。実際隆元は、房栄は命を助けてやるだけでも有難いと思うべきなのに、要求する領地が多すぎると不満を手紙で述べている。 そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、謀反を起こした吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000人の兵を預け毛利氏攻撃を命令。山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。これに対し元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死(折敷畑の戦い)。緒戦は元就の勝利であった。 これにまたもや激怒した陶晴賢は弘治元年(1555年)、今度は自身が大軍を率いて山口を出発した。交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかし厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。 弘治2年(1556年)、備前遠征から素早く兵を撤兵させた尼子晴久率いる25,000人と、尼子と手を結んだ小笠原長雄が大内方であった山吹城を攻撃。これに毛利氏は迎撃に出るが、忍原において尼子晴久に大敗し石見銀山は尼子氏のものとなる。(忍原崩れ) 弘治3年(1557年)、大内氏の内紛を好機とみた元就は、大内氏の当主義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。 同年、家督を嫡男・隆元に完全に譲ろうとするが、隆元はこれを拒絶。 永禄元年(1558年)、石見銀山を取り戻そうとして毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃。これに対して尼子晴久も出陣するが、互いに江の川で睨みあったまま戦線は膠着。翌永禄2年(1559年)には温湯城を落城させ山吹城を攻撃するが攻めあぐね、撤退中に城主本城常光の奇襲と本城隊に合流した晴久本隊の攻撃を受け大敗している。(降露坂の戦い) 弘治2年(1556年)以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、永禄3年(1560年)にその尼子晴久が死去する。そして尼子氏の晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男尼子義久は足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に破棄し、永禄5年(1562年)より出雲侵攻を開始する(第二次月山富田城の戦い)。 これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城月山富田城(現在の島根県安来市)に籠城し尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし永禄6年(1563年)に、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功する。だが一方で、当主である嫡男、隆元の不慮の死という悲運にも見舞われている。 元就は大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うため離間策を巡らせた。これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。永禄9年(1566年)11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大名になった。 出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、尼子勝久(尼子誠久の子)を擁した山中幸盛率いる尼子残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入し、毛利氏に抵抗した。さらに豊後の大友宗麟も豊前の制覇を目指しており、永禄11年(1568年)には北九州での主導権を巡る争いの中で、陽動作戦として元就自身によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘に兵を与えて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの働きにより、大友氏と和睦しつつ尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。しかし大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になった。 1560年代の前半より元就はたびたび体調を崩していたが、将軍・足利義輝は名医・曲直瀬道三を派遣して元就の治療に当たらせている。元就の治療は「道三流」と称される道三門下の専門医によって行われ、道三門下の専門医と道三との往復書簡いわゆる「手日記」を通して処方が決定された。その効果もあったのか、元就の体調は一時は持ち直したようで、永禄10年(1567年)には最後の息子である才菊丸が誕生している。なお、毛利氏領国では、専門医・専従医不足に伴う医療基盤の軟弱さが、永禄9年に曲直瀬道三が下向して一挙に改められた。 元亀2年(1571年)6月14日、吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。 家督そのものはすでに嫡男の毛利隆元に継承済であったが、隆元は永禄6年(1563年)に早世していたため、嫡孫の毛利輝元(隆元の嫡男)が後を継いだ。 朝倉宗滴による評価 越前朝倉氏の名将、朝倉宗滴は自身の著作『朝倉宗滴話記(続々群書類従所収)』の中において、元就のことを「日本に国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、今川殿(今川義元)、甲斐武田殿(武田信玄)、三好修理大夫殿(三好長慶)、長尾殿(上杉謙信)、毛利某、織田上総介方(織田信長)、関東正木大膳亮方(正木時茂)…此等の事」と書いており、政務・家臣掌握術において今川義元や武田信玄らと共に高く評している。 厳島神社への参拝 「江譜拾遺」には、元就がまだ元服前に家臣と共に厳島神社へ参拝に行った際の逸話が残っている。元就が、家臣に祈願の内容を訊ねると、家臣は「松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました」と答えた。それに対して元就は「何故天下の主になれるように願わなかったのだ」と言った。家臣は「実現不可能な事を祈願しても意味がありますまい。せいぜい中国地方でござろう」と笑ったが、元就は、「天下の主になると祈願して、やっと中国地方が取れようというもの。まして、最初から安芸一国を目標にしていたのでは、安芸一国すら取れずに終わってしまう」と反論し、自らの理想の高さを示した。しかし、彼は後述のように、年を経るにつれて、天下獲りよりも家名の保全に腐心するようになった。 天下を競望せず 尼子氏の滅亡後、中国地方の覇者となった元就だったが、自身は「天下を競望せず」と語り、自分の代での勢力拡大はこれ以上望まない意志を明らかにしていた(とはいえ、大内氏の支配圏だった北九州進出にはこだわり、晩年まで大友氏と激しい抗争を続けた)。またそれは息子や孫達の代に至るも同様であり、三男・隆景を通じて輝元の短慮を諌めるようにたびたび言い聞かせ、これが元就の『遺訓』として毛利家に浸透していったという。 三本の矢 死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたというものである。この逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名だが、実際には元就よりも隆元が早世しているなど史実とは食い違う点も多く、弘治3年(1557年)に元就が書いた直筆書状『三子教訓状』に由来する創作とされる。 家臣・周辺国人への気遣い 「元就はいつも餅と酒を用意し、地下人などの身分が低い者達まで声をかけて親しくしており、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。家来が持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいですと答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあげていた」(『吉田物語』) 後世に遺された数多くの手紙 元就は筆まめな人物であり、数多くの自筆の手紙が残っている。明和4年(1767年)に毛利家で編纂された毛利氏の訓戒集には手紙などに残された元就の小言が30近く羅列されている。また、前述の『三子教訓状』の紙幅は2.85メートルにもなり、同じような内容が繰り返し記される。吉本健二、舘鼻誠など戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記している理由である。吉本は元就の手紙を「苦労人であった為かもしれないが説教魔となっている」と評した。このような手紙について元就自身は「思いのまま綴った」「急いで書いた」という趣旨の釈明をしているが、実際には誤字脱字は多くなく、手紙の意図が伝わるように読み手を意識した文章になっていることから、複数回の下書きをした上で入念に準備しているものと考えられている。 酒でのウサ晴らしを戒め、下戸で通す 元就は嫡男の隆元に、酒は分をわきまえて飲み、酒によって気を紛らわすことなどあってはならないと、節酒の心得を説いている。孫の輝元が元服を済ませた際には、輝元の実母の尾崎の局に小椀の冷汁椀に一杯か二杯ほど以外は飲ませないように忠告している。このような背景に、元就は毛利氏歴代が酒に害されやすい体質であることを熟知しており、そのために元就自身は節酒をしてその延命効果を説いたのである。 元就が構築した政治体制は領内の国人領主や地方勢力との共生を念頭とした典型的な集団指導体制であり、同年代の他の戦国大名と類似する点が多い。また元就の統治には、三子教訓状や百万一心などの標語による家臣・領民の心理的な変革が含まれていた。この点は武田信玄などに通じるものがある。毛利氏の統治の特色として挙げられるのは地方領主の独立性の高さであり、大名(毛利氏当主)による独裁とは程遠い体制だったことである。その詳細は武田氏などと同様に複雑かつ煩雑で把握しにくいが、家中に奉行制度を確立して政務を効率化すると共に、毛利家当主のサポート体制を盤石なものとして政権の基盤構築に成功していたことは確かである。 だが、これは古来の血族支配や、国人・土豪といった守旧的勢力の存在を前提にした良くも悪くも保守的な体制でもあった。特に地方勢力の独立性を認めることは、軍事組織(戦国大名)としての一体性をやや欠き、脆さをも内包することになったからである。この結果、嫡孫・輝元の代には革新的かつ強権的な軍事体制を実現した織田氏との交戦により苦境に陥り、一部国人衆の離反を招いた。また両川(元春・隆景)や穂井田元清など有力な血族が死去した後の関ヶ原の戦いでは、家中が東軍派と西軍派に割れて一貫した行動が取れず、結局敗軍の烙印を押されてしまうという醜態を演じた。(これは元来優柔不断な性格だった輝元の不手際によるものであるが、そもそも有力な血族による直接的補佐を必要とした毛利氏の体制から言えば、やむを得ないことであったとも言える。) にもかかわらず毛利氏が大名として生存を果たせたのは、元就の政治理念と異常なまでの家名存続の意志が、その死後も家中に色濃く残っていたためである(吉川広家の機転など)。後述する毛利両川とそれを筆頭とした奉行らによる集団指導体制の構築、そして「天下を競望することなかれ」という言葉を残したのは、自らの死による体制の変質や時流の変化を見越した判断でもある。 防長経略の年(1557年)に、元就は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居した。しかし隆元が政権の移譲を拒絶したため、実権は元就がなおも握り、吉川元春と小早川隆景による毛利両川体制を確固たるものとしていったのである。隠居に際しての同年11月25日、14箇条の遺訓(いわゆる「三子教訓状」)を作成、家中の結束を呼びかけた。この遺訓が後に「三本の矢」(前述)の逸話の基となったとされている。 続いて同年12月2日、元就以下12人の主だった安芸国人領主が著名な「傘連判状」を結んでいる。これは上下関係を明らかにはせず、彼ら国人領主皆が対等の立場にある事を示している。 だが、裏を返せば、当時の毛利氏は井上一族の粛清によってようやく自己の家臣団を完全に掌握したばかりの状態であって、未だに安芸の土豪連合の集団的盟主という立場から完全には脱却できず、実子が当主である吉川・小早川両氏といえども主従関係にはなかったのである。毛利氏がこうした土豪の集団的盟主という立場から脱却して、土豪連合的な要素の強かった安芸国人衆の再編成と毛利家の家臣への編入を通じて、名実ともに毛利氏による安芸統一が完成する事になるのは隆元が安芸国守護に任じられた永禄3年(1560年)頃とされている。 ただし、その後もこうした国人領主は毛利氏との主従関係を形成しつつも、限定的ながら一部においてその自立性が認められていくことになった。こうした直臣家臣団と従属土豪(国人領主)という二元的な主従関係は関ヶ原の合戦後の長州藩移封まで長く続き、その統率が破綻することなく続いたのは毛利氏当主とこれを支える両川の指導力によるところが大きかったのである。 毛利氏は小豪族ではあったが、朝廷との結びつきが強い大内氏と同盟関係にあったことから、元就が当主となる以前から既に中央との政治的な繋がりを持っていたようである。また吉田郡山城の戦いで勝利した顛末を記した「毛利元就郡山籠城日記」を幕府に提出し、管領細川晴元らの歓心を得た。大内氏の滅亡後、1557年に即位した正親町天皇に即位料・御服費用として総額二千五十九貫四百文を進献し、その即位式を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる(同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任、元就・隆元父子揃っての相伴衆就任、孫の輝元が将軍足利義輝から偏諱の拝領などは全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である)。 また、その後の尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を得た(雲芸和議)。また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた。 毛利氏領国では、女性の資産が、その本人ばかりか嫡男にも相続されるなど、女性の財産所有権および相続権が一面的とはいえ、認められていた。武家女性の社会的地位に関する特殊性が見て取れる。また成人した庶子の男子よりも実子の女子に優先相続権がある場合もあった。 ※日付=旧暦(明治5年12月2日まで) 1533年(天文2年)9月25日、従五位下に叙位。9月28日、右馬頭に任官。 1560年(永禄3年)2月15日、従四位下に昇叙し、陸奥守に遷任。 1561年(永禄4年)12月8日、幕府相伴衆となる。 1562年(永禄5年)5月18日、従四位上に昇叙し、陸奥守如元。 1571年(元亀2年)6月14日、卒去。享年75 1572年(元亀3年)、贈従三位。 1908年(明治41年)4月2日、追贈正一位。 十八将以外の家臣については、毛利氏の家臣団の項を参照。 粟屋元通 北就勝 吉川元棟(毛利元氏) 林就長 弘中就慰(弘中方明) 福原元俊 村上元吉 益田元祥 一代で西日本最大の戦国大名となりその名を広く知られるようになったため、現代でも小説・ゲーム・アニメなどで取り上げられている。 小説 毛利元就(山岡荘八) 元就、そして女たち(永井路子) 覇道の鷲 毛利元就(古川薫) 毛利元就とその時代(古川薫) 毛利元就と戦国武将たち(古川薫) 毛利元就(童門冬二) 毛利元就(谷恒生) 毛利元就(徳永真一郎) 毛利元就(松永義弘) 毛利元就(榊山潤) 毛利元就(内館牧子) 毛利元就 秀吉が、そして家康が畏怖した男(堺屋太一)ほか 毛利元就 知略に長けた西国の覇者(和田恭太郎) 毛利元就と陶晴賢(山本一成) 荒天は吉日(馬場誠二) 智将毛利元就・勝利の方程式99(藤田公道) 元就軍記 歴史小説(桜田晋也) 厳島の戦い 戦史ドキュメント(森本繁) 我、天下を望まず(渡辺寿光) テレビドラマ 毛利元就(1997年 NHK大河ドラマ 元就役:岩渕幸弘→森田剛→中村橋之助) ゲーム 西国の雄(ツクダホビー) ボードゲーム。毛利元就の中国地方制圧の戦いを再現。 毛利元就 誓いの三矢(コーエー)- 1997年発売。声:田中秀幸。 ^ 現在の広島県西部。 ^ 元就は「能や芸や慰事、何もかも要らず。ただただ武略、計略、調略こそ肝要にて候」「謀多きは勝ち、少なきは負け候」と孫子を踏まえて自らの信条を書き綴っている。 ^ アルコール中毒や飲酒の害毒のこと『酒毒』 - コトバンク。 ^ 「我々は五歳にて母に離れ候、十歳にて父に離れ候、十一歳の時にて兄〔興元〕京都へ上られ候。誠に了簡なく、みなしご〔孤児〕に罷り成り」 — 毛利元就、毛利家文書 第420号 「多治比を我々に弘元お譲り候へども、井上中務丞〔元盛〕渡し候わで押領候……」 — 毛利元就、毛利家文書 第420号 と述懐している。 ^ 「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む。[要出典] ^ この家督相続について、元就は初め辞退したという話が元就自身の日記に記されているが、この日記は連署状を受け取った日時が現存する書状と違い、また日記といってもこの時の3日分しか存在しない史料であるため、疑問がもたれている。また、当主になった元就は連歌の席で「毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱(あくまで自分は分家の身であるから、と謙遜の意味)」という歌を詠んだというが、これも他の史料では確認できない。 ^ これを元就の謀略であると伝える軍記もあるが、尼子氏が、統率力強化のために自発的に行ったものとと考えられている。詳しくは新宮党の項目参照 ^ この戦いは日本三大奇襲作戦の1つされるが、従来の通説は陰徳太平記など、後世に編纂された不確かな軍記物語によって構築されたもので、実際にどのような戦いが行われたかは不透明な部分が多い。 ^ しかし大友の立場からすれば、同じく毛利の侵攻に悩まされ危機的な状況に陥り、龍造寺氏や島津氏の勢力伸長を押さえる事ができなかった。 ^ 死後、織田信長より哀悼の使者が遣わされた。 ^ 『甲陽軍鑑』にも、武田信玄の軍師山本勘助が「源義光公の時代以来、この世に戦巧者といえば楠木正成を除いて、他には毛利元就しかおりません」と評した逸話があるが、これに関しては創作の可能性が高い。 ^ 「当分五ヶ国十ヶ国御手に入れ候は、時の御仕合せにて候(我々が5ヶ国10ヶ国を手に入れられたのは時の運であり、これ以上望むべきではない)」と元就がこぼしていたことに触れている。 ^ 家臣の志道広良に宛てたとされる自筆書状では、内容の要点に関する部分が韻を踏むかのように記されており、視覚的にも効果的な記述とされる。 ^ 元就を基準とすると、時計回りに毛利元就、吉川元春、阿曽沼広秀、毛利隆元、宍戸隆家、天野元定、天野隆誠、出羽元祐、天野隆重、小早川隆景、平賀広相、熊谷信直の12名。 ^ この「傘連判状」の解釈には異論も存在する。元就が時計の十二時の最も目立つ位置に署名していること、この申し合わせが毛利家に伝わっており、国衆が元就に提出したと見られること、恩賞は一般に主人が部下に与えるものだが、この中の平賀氏は「御恩賞は決して忘れはしません」と書かれた書状が残っている等の理由から、傘連判は多分に形式的なもので、実質的に国衆と家中の間に差はなかったとする意見もある。 ^ こうした二元的な主従関係の複雑さから、元就没後の織田氏との戦いでは軍がまとまらず、常に後手に回る醜態を晒した。また関ヶ原以前の毛利氏では分国法が編纂されず、代わりに当主の下に官僚組織を形成することで人的に対応する方針を採った。 ^ 陸奥守は毛利家の祖先である大江広元が就いていた官職 ^ 毛利元就の自筆が題字として採用されたため、スタッフの一人として毛利元就自身がクレジットされている。 ^ a b c d e f g h i j k l m 時山弥八編 1916, p. 75. ^ a b 阪本 1994. ^ a b 『閥閲録』巻76「村上権右衛門」。 ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 76. ^ a b c d 時山弥八編 1916, p. 77. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 78. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 79. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 80. ^ 時山弥八編 1916, p. 81. ^ 毛利家文書 第413号、嫡男・隆元宛の三子教訓状追伸文 ^ a b 『毛利家文書』第420号 弘治4年(1558年)8月付 毛利隆元宛て毛利元就書状写 ^ 『毛利家文書』第405号 弘治3年(1557年)11月25日付 毛利元就自筆書状(いわゆる「三子教訓状」)の第12条。 ^ 山室 1995. ^ 藤木 1976. ^ a b 宮本 1993a. ^ a b c 宮本 1993b ^ 歴史群像シリーズ毛利元就 P168 ^ a b 吉田龍司 2010. ^ 吉川家文書 第917号、吉川広家卿自筆覚書 ^ 舘鼻誠 2006. ^ 目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜 第421回(毛利博物館館長代理 柴原直樹) - 地域情報新聞ほっぷ(2018年11月23日号) ^ 宮本 2002, pp. 121-123. ^ 鴨川達夫 2011, pp. 69-76. ^ 宮本 1978. ^ 宮本 1974a. ^ 宮本 1974b. ^ 宮本 1974c. ^ 宮本 1975. ^ 田端泰子「戦国期女性の役割分担」(『日本中世女性史論』塙書房、1994年)91頁 ^ 郡山城観光パンフレット「国指定史跡毛利氏城跡 郡山城」(発行:安芸高田市未来創造事業 歴史・伝統文化を活用した地域活性化実行委員会) - 郡山城趾観光ルート(時刻表付き)[リンク切れ] (安芸高田市) 石黒吉次郎『安西軍策 毛利元就合戦記(日本合戦騒動叢書)』(勉誠出版) ISBN 978-4-585-05111-4 小和田哲男『戦国武将「名将」のすごい手の内』(三笠書房) ISBN 978-4-8379-7656-1 『歴史群像1996年12月号 総力特集〜毛利元就軍団』(学研) 金谷俊則『毛利隆元』(中央公論事業出版) ISBN 4-89514-301-5 河合正治 『安芸毛利一族』 新人物往来社、1984年11月。ISBN 440401239X。 NCID BN01455089。OCLC 672973935。全国書誌番号:85019269。  鴨川達夫 『武田信玄と毛利元就 : 思いがけない巨大な勢力圏』 山川出版社〈日本史リブレット人, 043〉、2011年4月。全国書誌番号:21938299。ISBN 978-4-634-54843-5。NCID BB05531898。OCLC 752050531。 岸田裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房) ISBN 978-4-623-07224-8 阪本是丸、「豊栄神社」、渡邊静夫編 『日本大百科全書』17巻 小学館、1994年1月。ISBN 409526117X。 NCID BN10240516。OCLC 683132570。全国書誌番号:99096908。  『新説戦乱の日本史38 厳島の戦い』(小学館) 『新説戦乱の日本史39 月山富田城の戦い』(小学館) 『戦乱中国の覇者 毛利の城と戦略』(成美堂出版) ISBN 4-415-09216-0 谷口克広『信長の政略 -信長は中世をどこまで破壊したか-』(学研) ISBN 978-4-05-405710-4 田端泰子「戦国期女性の役割分担」(『日本中世女性史論』塙書房、1994年) 舘鼻誠 『戦国争乱を生きる : 大名・村、そして女たち』 日本放送出版協会〈NHKライブラリー, 209〉、2006年12月。全国書誌番号:21155354。ISBN 4-14-084209-1。NCID BA79725929。OCLC 675126696。 『大日本古文書 家わけ第八 毛利家文書』東京大学史料編纂所 東京帝国大学文学部史料編纂所編 『大日本古文書』家わけ八ノ一 毛利家文書之1-4、東京帝国大学、1920年11月30日。全国書誌番号:73018527。NCID BN04859787。OCLC 33677381。国立国会図書館デジタルコレクション 『大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書』東京大学史料編纂所 『大日本古文書 家わけ第十一 小早川家文書』東京大学史料編纂所 東京帝国大学文学部史料編纂所編 『大日本古文書』家わけ十一ノ一:小早川家文書之1、東京帝国大学、1927年。全国書誌番号:73018529。NCID BN04860811。OCLC 835258028。国立国会図書館デジタルコレクション 東京帝国大学文学部史料編纂所編 『大日本古文書』家わけ十一ノ二:小早川家文書之2、東京帝国大学、1927年。全国書誌番号:73018529。NCID BN04860811。OCLC 834195954。国立国会図書館デジタルコレクション 時山弥八編 『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』、1916年。NCID BN04718592。 宮本義己 『歴史をつくった人びとの健康法 : 生涯現役をつらぬく』 中央労働災害防止協会〈中災防新書, 008〉、2002年3月。ISBN 4805908068。 NCID BA57557401。OCLC 166676820。全国書誌番号:20342773。  山室恭子 『群雄創世紀 : 信玄・氏綱・元就・家康』 朝日新聞社、1995年4月。ISBN 4022568437。 NCID BN12621962。OCLC 675061775。全国書誌番号:95045017。  吉田龍司 『毛利元就 : 「猛悪無道」と呼ばれた男』 新紀元社〈Truth in history, 22〉、2010年9月。全国書誌番号:21821591。ISBN 9784775308400。NCID BB03590229。 ビジュアル日本の名将100傑(歴史魂編集部) ISBN 978-4048709408 渡辺世祐編『毛利元就卿伝』マツノ書店、1997年 論文 藤木久志、「戦国乱世の女たち」、笠原一男編 『彼岸に生きる中世の女』 評論社〈日本女性史3〉、1976年。  宮本, 義己「足利将軍義輝の芸・雲和平調停―戦国末期に於ける室町幕政―」、『国学院大学大学院紀要』6輯、1974a、 ISSN 0388-9599、 全国書誌番号:00008276。 宮本, 義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)」、『政治経済史学』第11巻第102号、日本政治経済史学研究所、1974年11月、 1-6頁、 ISSN 02864266、 全国書誌番号:00013066。国立国会図書館デジタルコレクション 宮本, 義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(下)」、『政治経済史学』第12巻第103号、日本政治経済史学研究所、1974年12月、 12-20頁、 ISSN 02864266、 全国書誌番号:00013066。国立国会図書館デジタルコレクション 宮本, 義己「武家女性の資産相続--毛利氏領国の場合」、『国学院雑誌』第76巻第7号、国学院大学出版部、1975年7月、 18-30頁、 ISSN 02882051、 NAID 40001281543、 全国書誌番号:00008272。国立国会図書館デジタルコレクション 宮本, 義己「戦国大名毛利氏の和平政策--芸・雲和平の成立をめぐって」、『日本歴史』第367号、吉川弘文館、1978年12月、 19-36頁、 ISSN 0386-9164、 NAID 40003065611。国立国会図書館デジタルコレクション 宮本, 義己「戦国期毛利氏領国における医療体制刷新の実相--曲瀬道三の医術教導と元就の医道伝授」、『帝京史学』第8号、帝京大学文学部史学科、1993年1月、 53-105頁、 ISSN 09114645、 全国書誌番号:00043595。国立国会図書館デジタルコレクション 宮本義己、「戦国期における毛利氏領国の医療と医術」、米原正義先生古稀記念論文集刊行会編 『戦国織豊期の政治と文化』 続群書類従完成会、1993年。  厳島神社、毛利水軍 百万一心、三子教訓状 メイショウモトナリ 毛利昭彦 広島市森林公園 - 山城を再現した展望台を設置。 サンフレッチェ広島 元就。 - 中国放送で放送されているローカルバラエティ番組。 毛利博物館公式ホームページ 毛利元就公墓所を訪ねる - YouTube(朝日新聞社提供、2018年3月23日公開)", "乃美 宗勝(のみ むねかつ)は、戦国時代の武将。毛利氏・小早川氏の家臣。安芸の国人領主で、居城は忠海賀儀城(ただのうみ かぎじょう)。沼田小早川氏の庶流浦氏の当主であり、名は浦 宗勝(うら むねかつ)とも言う。通称は兵部丞。 大永7年(1527年)、乃美賢勝の第4子として生まれる。父は浦元安の養子であったが、元は小早川敬平の弟・是景から始まる乃美氏で乃美弘平の弟にあたり、その為、宗勝は乃美姓を名乗った。同じ乃美氏の乃美隆興は従兄。小早川氏の家督を継承した小早川隆景に仕えた。天文24年(1555年)の厳島の戦いでは自身の血縁関係もあり(村上吉充、村上武吉とは血縁)、村上水軍を味方に引き入れるべく交渉し、毛利元就の「一日だけ軍船をお借りしたい」との言葉を伝えたとされる。村上通康らは決断を下し、宗勝は村上水軍を味方に引き入れ、厳島の戦いの勝利、そして陶晴賢の自害に一役も二役も買うこととなる。 その後も隆景に従い、小早川水軍の主力として各地で活動する。天文24年(1555年)10月より始まる防長経略でも水軍を率いて活動し、毛利氏が九州に進出するとそれに従い、永禄4年(1561年)の門司城攻防戦では敵前に上陸し、大友方の勇将・伊美鑑昌(伊美弾正左衛門統正)と一騎討ちを演じ、負傷するも伊美鑑昌の首を取った。永禄8年(1565年)には所領に賀儀城を築城し、拠点とする。なおも筑前国博多の支配権奪取を目論む毛利元就は九州侵攻を継続し、その事実上の前哨戦となった毛利氏の伊予出兵でも主力として活躍。永禄12年(1569年)の立花山城攻防戦でも活躍する。 立花山城攻略後はその城代となり、筑前防衛の主将として行動した。しかし、大友義鎮の支援を受けた大内輝弘が長門国に侵入(大内輝弘の乱)、毛利領内は大混乱となり、毛利軍主力は大内輝弘征伐のために立花山城から撤退することとなった。わずかな兵とともに殿として立花山城に残った宗勝であったが、翌永禄13年(1570年)に開城し、戸次鑑連に城を明け渡した。開城の約束通り、毛利軍は堂々と安芸へ撤退し、戸次鑑連もそれを追撃することはなかった。同年、所領に勝運寺を建立。自身の菩提寺とした。 天正3年(1575年)は備中国へも転戦し、ここでも主力として活動している。上野隆徳が守る備中常山城を攻撃した際に、落城寸前の城内から鶴姫(上野隆徳の妻、三村元親妹)が34人の侍女を率い、自ら出陣して猛攻を仕掛けた。そのあまりの突撃に毛利軍も驚いて壊走した。宗勝は鶴姫に見つかり、良き相手と勝負を挑まれたが、「女とは戦えぬ」と説得。勝負を諦めた鶴姫は伝家の宝刀である「国平の太刀」を宗勝に渡し、城内へ戻って自害した(常山合戦)。 天正4年(1576年)5月には毛利と同盟する播磨英賀の領主である三木通秋の所領に入り、三木軍と合流して5,000の兵で播磨国衆の中でも親織田派であった小寺孝高と交戦するも敗北した(英賀合戦)。同年9月の第一次木津川口の戦いでは総大将として出陣し、織田氏配下の九鬼嘉隆率いる九鬼水軍と激突し、焙烙を多用した毛利水軍の攻撃により九鬼水軍は壊滅。無事に石山本願寺に兵糧を運び込むことに成功している。しかし、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、鉄甲船を使用した九鬼水軍の前に敗北を喫した。天正7年(1579年)に別所長治が籠城する三木城への兵糧搬入を成功させている。 天正10年(1582年)に、嫡男の浦盛勝が織田氏の調略によって、不穏な動きを見せた。主君の小早川隆景はこれに素早く反応し、同年に盛勝は急死している。暗殺説も囁かれる、謎の死であった。 天正20年(1592年)、豊臣秀吉の文禄の役で宗勝も朝鮮へ出陣した。しかし現地で病を得て、帰国後の同年9月23日に、立花山城近くの筑前糟屋郡秋屋で死去。法名は宗勝寺殿天與勝運大居士。 大友戦においては毛利軍のなかで最も活躍し、大友氏の部将戸次鑑連は宗勝を高く評価した。また生涯に亘って毛利元就、小早川隆景、毛利輝元、豊臣秀吉の4人から戦功ありとして15通の感状を受け取った。 宗勝の子孫は、直系の子孫が浦姓を、傍系の子孫が案浦(あんのうら)と言う苗字を称していると言われている。案浦と言う苗字は宗勝寺住職の談話、福岡県糟屋郡に残る石碑などから、「宗勝の側室の子の系統であることから浦を名乗る事が出来なかった子孫が、宗勝を偲び、安芸を安木と読み替え『安木の浦』から誕生した」と伝承されている。案浦姓は福岡県糟屋郡にしか存在しない100戸余りの少ない姓である。毛利家は守護大名の墓守(大内盛見公)の菩提を弔うために糟屋郡粕屋町の泉蔵寺に案浦姓を配備し長く護持繁栄とした。今もなをつづく繁栄は盛見公なしでは語れない。 宗勝の直系の末裔は、江戸時代半ばに嫡流(宗勝の次男・景継流)が絶え、度々他家から養子が入っている(詳しくは浦氏の系図を参照)。幕末の長州藩家老・国司就孝の次男(=浦元襄)もその一人である。 宗勝寺(福岡県東区) - 1569年に立花山城代を務めていた時に、亡妻を弔うために建立。 勝運寺(広島県竹原市) - 1570年、本領の忠海に建立。 勝運寺には宗勝の遺髪が収められているとされ、宗勝寺には妻と宗勝自身の墓碑がある。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 田村哲夫編修 1980, p. 158. ^ 田村哲夫編修 1980, p. 157. 『近世防長諸家系図綜覧』 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。全国書誌番号:73004060。NCID BN07835639。OCLC 703821998。国立国会図書館デジタルコレクション 復刻 「寄組浦家」『近世防長諸家系図綜覧』 田村哲夫編修、三坂圭治監修、マツノ書店、1980年11月、復刻版。全国書誌番号:81035962。NCID BN0189824X。OCLC 674504899。 浦氏 乃美隆興 乃美大方 毛利水軍" ]
ABC01-02-0119
ラグビーで、フォワード8人のまとめ役となり、スクラムをコントロールする花形的ポジションといえば何でしょう?
ラグビーのポジション
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[ "ラグビーのポジション", "石田元成", "プレースキッカー", "フットサルのポジション", "センター (バスケットボール)" ]
[ "ラグビーユニオンにおいて、フィールドプレーヤー15人にはそれぞれ決まったポジションが与えられており、フォワード8人とバックス7人に大きく分けられている。 ポジションは、大きくフォワードとバックスに分かれており、それぞれ次のように呼ばれる。フォワードの8人は、スクラムを構成する。なお、各ポジションの呼び方は国によって異なることがある。 フォワード (FW) (最前列)3人 - フッカー (HO) (2) と、左右のプロップ (PR) (1,3) (第二列)2人 - 左右のロック (LO) (4、5) ※海外ではセカンドロー (SR) と呼ばれる (第三列)3人 - ナンバー・エイト (NO8) (8) と、左右のフランカー (FL) (6,7) バックス (BK) ハーフバック (HB) 2人 - スクラムハーフ (SH) (9) とスタンドオフ (SO) (10) ※ハーフ団とも呼ばれる。 スリークォーター・バック (TB) 4人 - 左右それぞれのウィングスリークォーターバック (WTB) (11,14) とセンタースリークォーターバック (CTB) (12,13) フルバック (FB) (15) 1人 近年、世界各国での競技人口が増えるとともに、競争も激化し、戦術が多様化するにおいて、それぞれのポジションの役割も多様化してきている。トップレベルにおいては、各ポジションにおいて、より多くの役割をこなすことが要求され、高校・大学レベルにもそれは波及し始めている。 フォワードとは、1番から8番までの8人の選手のこと。またフォワードは、試合中にスクラムを組むメンバーでもある。 スクラムを組む際の位置取りで、フロントロー、セカンドロー、バックローに大きく分けられる(フロントローとセカンドローを総称してタイトファイブと呼ぶことも多い)。そして与えられた役割に従って、さらに細かくプロップ (2人)、フッカー (1人)、ロック (2人)、フランカー (2人)、ナンバー8 (1人)というポジションに分けられる。 試合ではボールを獲得することが一番の役割で、敵チームと激しくボールを奪い合うために、相手選手に競り負けたり、当たり負けしたりしないよう、身長や体重など体格的に優れ、屈強な肉体の、パワーのある選手がこのポジションを占めている。 しかし、最近では選手がオールラウンダー化する世界的流れの中で、バックスのように走力も求められるようになっている。運動量を増す現代のラグビーでは、PR・HO・LOのタイトファイブの運動量が勝負の鍵とまで言われる。 スクラムを組む際に最前列に位置するため、PR・HOの3名をフロントローと称する。 1・3番 プロップ (PR) スクラムの際にフッカーと共に最前列の3名(フロントロー)を構成し、相手のフロントローと頭を交互に組み合わせて相手チームを直接押す役割を持つ。モールの際には体ごと相手を押し込み、相手陣を崩す役目を持ち、スピードを犠牲にしてもパワーがあることが要求されるポジションである。スクラムの職人。フィールドでボールに触ることはほとんどないが、ボールハンドリング能力や突破力が高ければ高いほど、勝敗に影響するポジションであり、ボールを持って突破を試みるプロップも珍しくない。 1番(左側)のプロップをルースヘッドプロップ(スクラムの際、片方の肩のみで組むため)、3番(右側)のプロップをタイトヘッドプロップ(スクラムの際、両肩に相手の体重がかかるため)という。 2番 フッカー (HO) スクラムの要。スクラムの際のフロントローの中央に位置し、プロップ (PR) と共に相手と組み合って直接相手を押し込む。また、スクラムハーフ (SH) が投入したボールを足で引っかけて (hook) 自陣後方に送り込む役割も果たす。この役割がフッカーの名称の由来でもある。プロップに比べると体格のやや小さい選手が務めることが多く、スクラムの際に中央に来ることで両側からの押す力が中央に集まりやすくなり、スクラム全体が安定すると言われている。 また、ラインアウトの際にはボールを投入する役割となることが多い。これは、ボールを受ける側に体格の大きい選手が回ることで、競り合いに負けないようにするためだと言われている。そのため、フォワード陣の中でも特にボールの扱いの上手さ、パスの技量が求められる。 フッカーは第二のナンバーエイトと呼ばれるほど重要なポジションであり、アタック・ディフェンスともに強い選手がこのポジションに就く。 スクラムを組む際に2列目に位置するため、このポジションをセカンドローと称する。 4・5番 ロック (LO) FWのポジションでスクラムの際に2列目の左右に位置する。ラインアウトの際にボールを空中で奪い合う役割があることから、チームで最も背の高い選手がなる傾向がある。空中の仕事人。モールの際にはプロップと共に体ごと相手を押し崩す。このため身長と体重の双方が求められる。 スクラムの時に軸となる3番プロップの後ろになる5番ロックは、4番ロックより体格の良い選手が担当することが多い。 強くて頼りになる男の象徴という理由から、「ラグビー王国ニュージーランドでは、少年はロックを目指す」と言われる。 大きな体を生かした突進で、防御にダメージを与える。 スクラムを組む際に最後列(3列目)に位置していたため、FL・No8の3名をバックローもしくはサードローと称する。 現在は後述の通りFLが2列目の両翼に上がるように変化しているが、呼称自体は旧来から変化していない。 6・7番 フランカー (FL) FWのポジションでスクラムの際に3列目の左右に位置する。地上で展開される攻撃のあらゆる局面(モール、ラック、ブレイクダウン、パントキックに対するチャージダウン等)に積極的に参加して味方をサポートし、体で相手陣を押し崩す役回りである。ボールを保持して密集地のサイドを突破する役目も担う。ディフェンスにおいてはタックルマンとして大きく勇気が求められる。また、接点におけるルーズボールへの働きかけ(セービング、ジャッカル、スイープ)も重要な役割で、ロックが空中戦のスペシャリストだとすれば、フランカーは地上戦のスペシャリストであり、攻守に活躍するだけの高い身体能力、運動量が求められる。このような動きから国によってはルーズフォワード (Loose Forward) とも呼ばれる。スクラムにおいては主に6番がブラインドサイド、7番がオープンサイドに就くという形があるが、単に6番が左、7番が右という形も見られる。オープンサイドフランカーは豊富な運動量とアタッキング力、ブラインドサイドフランカーはフィジカルとディフェンス力が求められる。 8番 ナンバー8(ナンバーエイト) (NO8) フランカーとともにスクラム時の3列目を組む。FWのリーダー。 スクラムに最後に参加し、体ごと相手FW陣を押し崩す役回りである。スクラム最後尾でフロントローから送られてきたボールをキープしたり、かき出されたボールを持って自ら密集地のサイドを力尽くで突破したりする。モール形成時には、その起点となることも求められる。フランカーに似たポジションではあるが、より自由にフィールドを走り回るため、運動量、身体能力に加えて、ゲームに対する総合的な判断力が求められる。 相手フォワードと直接組み合う最前線のフロントローはプロップ2人とそれを間でつなぐフッカー1人の計3人、2列目のセカンドローはその3人をすぐ後ろでサポートするロック2人、そして元々3列目のフランカー2人がそれぞれ2列目のロックの外側のほぼ真横に上がり、ナンバー・エイト1人が最後方に位置するようになっている(3-4-1システム)。詳細は、スクラム (ラグビー)を参照されたい。 バックスとは、フォワード以外のスクラムハーフ (1人)、スタンドオフ (1人)、センタースリークォーターバック (2人)、ウイングスリークォーターバック (2人)、フルバック (1人)の7人のプレーヤーの総称で、9番から15番までの選手のこと。 その中でも9番と10番の選手をハーフバックスもしくはハーフバック団と呼び、11番から14番までの選手はスリークォーターバックス (three quarter backs; 日本語に訳すと「4分の3のバックス」という意味)、そして15番はフルバックと言う。 また、スタンドオフとセンターをフロントスリー、ウイングとフルバックをバックスリーと呼ぶこともある。 バックスは、フォワードが獲得したボールを前に進め、最終的に得点につなげるのが役割。体格的にはフォワードに劣るが、足が速く、パスやキックなどのテクニックに優れた選手が多い。守備ではタックルで相手の攻撃を防ぐ。 ポジションを8分割したときに4/8列目と5/8列目に来るため、スクラムハーフとスタンドオフと合わせて「ハーフバックス」と呼ばれる。国によってはスタンドオフを「ファイブエイス」と分けて呼び、ハーフバックとは単にスクラムハーフを指すこともある。 9番 スクラムハーフ (SH) 名前の由来は、スクラムと連携するハーフというところから。スクラムやモール、ラックに参加はしないが、そばにいて、かき出されたボールを持ってバックス陣にパスをすることを主とする役回りである。スタンドオフと同様に攻撃の起点となることから、フランスのラグビー哲学ではスクラムハーフが司令塔であるとされている。 地面にあるボールを拾うことと一連の動作でパスする(ダイビングパス等)という動作が特に多く、体が小さい選手が務めることが多い。密集地からの最初のパスを出すので、敏捷さと高度なパススキル、瞬間的な判断力、常に密集地に素早く駆けつけることができる持久力、体が小さいことを武器として大男たちの密集地のサイドを突破できるような俊敏性とステップワーク技術が要求される。 守備の際は相手スクラムハーフをマークし、密集地からパスが出たことを味方に伝えたり、相手FW陣のスクラムサイドの突破を防ぐことが要求される。体躯の大小にかかわりなく9人目のFWとして大男の突破を防がなくてはならないことから、強靭なメンタリティとフィジカルが求められる。 10番 スタンドオフ (SO) (フライハーフ (FH)) 語源は、スクラムから“離れた”(=スタンドオフ)ハーフというところから。イギリスではその後、このポジションのことを「フライハーフ」 (flyhalf) と呼ぶようになったので、日本やアメリカなどで使われる「スタンドオフ」という言葉は、今ではあまり使われない。国際的にもフライハーフと呼ばれることが多い。これ以外にも、国によっては「ファースト・ファイブエイス」 (first five-eighth)、「ファースト・ファイブ」 (first five)、「アウトサイド・ハーフ」 (outside half) などという呼び方がある。 スクラムやモール、ラックなどの密集からボールが出てきたときに最初にボールを受け取る役回りであり、受け取る瞬間はノーマークであるため、パス、パント、突破と様々なプレーを選択でき、そのプレーが攻撃の基点になることから、一般的に、司令塔と言われているポジションである。ボールハンドリング、パススキル、キック、ステップワークなど多種多様かつ正確巧緻な技術、瞬時の状況判断力、試合の流れを読む冷静さ、長い距離を走るスピードよりも短い距離でトップスピードに到達する俊敏性が求められる。 スクラムやモールには参加せず、守備時においては、相手のスタンドオフをマークし、プレッシャーをかけることで相手のミスの誘発やプレーを遅らせる役目を担う。 ポジションを8分割したときに6/8=3/4(スリークォーター)に位置するため(かつては7列目にSE〈セブンエイス〉というポジションが存在した)、11番から14番までをスリークォーター・バックス (TB) と呼ぶ。国によっては、12番を「セカンド・ファイブエイス」と分けて呼ぶ場合もある。 11・14番 ウイング・スリークォーターバック (WTB) 攻撃の際はラインの最も大外にてパスをもらい、ライン際を駆け抜けてトライを取りに行くことこそがこのポジションの役割で、チーム随一の快足と共に、巧みなステップや相手を抜き去る相手裏へのキック(ショートパント)の技術も要求される。トライゲッターとして、ラガーマンの華でもある。 守りにおいてはFBと共にバックスリーとして相手のキック処理に関わることが多く、陣地を稼ぐためのロングキックも求められる。 12・13番 センター・スリークォーターバック (CTB) 12番をインサイドCTB、13番をアウトサイドCTBと呼ぶこともある。言わば切込隊長。SOの外に位置し、SOからWTBへパスを中継したり、意表を突いて自らラインを突破したり、敵陣の空いたスペースにボールを蹴り入れたりと、攻撃の幅を広げる。攻撃時の接点になることが多いため、パススキルはもちろん自ら相手に突破を仕掛ける際のスピードに加え、当たり強さも求められる。 ディフェンス時には、SOの外を突いてくる敵に対する強いタックルも求められる。自身のそばでモールやラックが発生すれば、それに参加することもよく見られる光景である。したがって、フォワードに負けない体格の選手が増えている。 一般的にインサイドセンターはSOに近く、パススキルや突破力が求められ、アウトサイドセンターはWTBに近く、ランニングスピードが求められる。 全体の最後尾 (8/8) に位置するポジションであるため、15番をフルバックと呼称する。 15番 フルバック (FB) 最後尾に位置し、バックスを統率するバックス最後の要のポジション。身体能力の高い者が務めることが多く、役割は多岐に渡る。バックス陣が攻撃を担当するラグビーにおいて、フルバックは攻撃よりはむしろ守備の担当として攻撃時でも最後尾で味方の選手に指示を出しつつ自陣のゾーンをカバーする。相手バックス陣に負けないスピードと相手FW陣に負けない当りの強さを求められる。また、最後の切り札としてオフェンスに参加することもある。特にキックの能力が不可欠である。 ^ ファーストが付くのは12番の選手をセカンド・ファイブエイス (second five-eighth) と呼ぶことがあるため。", "石田 元成(いしだ もとなり、1942年10月30日 - )は、日本の元ラグビー選手。現在NTT東海ラグビー部総監督。 愛知県出身。 ポジションはフランカー(FL)。 身長 163cm、体重 66kg 日本代表キャップは4。 西陵商業高校を経て法政大学ラグビー部でプレー。卒業後は電電東海に入社した。 1967年のニュージーランド戦で日本代表初キャップを獲得。 小柄ながら運動量が豊富でタックルが良く、ラインアウトスローイング能力の高い選手だった。 名古屋市立西陵高等学校 法政大学ラグビー部 ラグビー日本代表", "プレースキッカーは、アメリカンフットボールにおいて、フィールドゴールを蹴るポジションである。多くの場合、キックオフも蹴り、稀に、パンターも兼ねる。アメリカンフットボールで、「キッカー」は、大抵の場合、プレースキッカーのことを指す。 キッカーはもともと特別なポジションではなく、1960年代までは他のポジションと兼任するのが一般的であった。1940年代前半に太平洋戦争による選手不足の影響から自由な交代が発案され、1940年代後半に自由な交代制が恒久的なルールとして規定されると、選手はポジションごとのスペシャリストが起用されるようになっていった。1940年代後半からキッカーのスペシャリストが登場し、1960年代にはキッカーのスペシャリストを各チームがロースターに入れることが一般的になった。 技術的な違いや怪我をした時に代わりがいなくなるリスクから、プロフットボールではパンターとキッカーを兼ねることは少なく、どちらかが怪我をした時の緊急の場合を除き、兼任することは稀である。また、キッカーがキックオフも蹴る場合が多いが、キックオフは飛距離、フィールドゴールは正確性を求められるので、チームによっては、キックオフとフィールドゴールで別のキッカーを起用したり、パンターがキックオフを務めることがある。 一方、アマチュアチームでは選手層が薄い場合が多く、キッカーとパンターを兼ねることや、他のポジションの選手がキッカーを兼任することが多い。 僅差でビハインドを背負った試合において、試合終了間際に同点もしくは逆転を狙うフィールドゴールを任される事が多く、プレッシャーに負けない強い精神力も求められる。 キッカーやパンターは、年俸400万ドルを超えることがあるが、プロフットボール選手としては、低い給料である。他のポジションの選手に比べ、練習量が少ないので、チームの練習が残っていても帰ることを許されることが多い。キッカーはチームの中でも小柄であることが多かったが、近年では、筋力トレーニングにより、ワイドレシーバーやコーナーバックよりも大柄で重い選手も珍しくなくなっている。 プロフットボールにおいて、プレースキッカーはパンターやクォーターバックと同じ分類に分けられ、19番以下の番号を付ける。高校、大学アメフトでは他のポジションと兼任することが多いので、有資格レシーバーの番号(1番から49番、80番から99番)を付けられると規定されている州がほとんどである。 ^ Hogrogian, John (2000年). “Twelve Interesting Things About The 1939 NFL Season”. Coffin Corner (Professional Football Researchers Association) 22 (3): 1?5. オリジナルの2012年4月28日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120428082457/http://www.profootballresearchers.org/Coffin_Corner/22-03-851.pdf.  ^ “渡辺史敏の「NFL最前線」#41 キッカーはつらいポジション”. 日刊スポーツ (2015年11月30日). 2016年1月15日閲覧。 ^ ゴストコウスキーがフランチャイズ指定にサイン、リーグ最高給KにNFL JAPAN 2015年03月07日配信 ^ [1]", "ここではフットサルにおける5人のプレーヤーの配置、及びその役割について記す。 ゴールキーパー (Goalkeeper、Goleiro、Portero、Portiere) 至近距離のシュートを防ぐ反射神経やゴールエリアを飛び出して得点を防ぐ判断力が必要で、スローイングの正確性も求められる。ミドルシュートを打ったり、5人全員で攻撃するパワープレー時にボール回しに参加することもある。 ディフェンダー (Defender、Fixo、Cierre、Difensore) 守備力が必要なのはもちろん、攻撃時にはパス回しの中心としてチャンスメイクを担う。 ウイング (Winger、Wing、Midfielder、Ala、Esterno) 試合中にもっともボールタッチが多いポジションで、シュートを打つ機会も多い。 フォワード (Forward、Pivô、Pívot、Pivot) ディフェンスを背負ってボールを受け、攻撃の起点となる役目。 フットサル日本代表 日本のフットサル 日本フットサル連盟", "センターはバスケットボールのポジションの一つで、主としてゴール近辺でのオフェンス、ディフェンスを担う。略称C(Center)。 また、このポジション名を番号で呼ぶ場合「5番」と呼ばれる。 5つあるバスケットボールのポジションのうち、センターの選手は多くの場合ゴールに最も近い位置でプレーする役割を果たす。バスケットボールのゴールは床から3.05メートルの高さにあるため、長身でジャンプ力のある選手がセンターとしては有利である。ゴール近くでのシュートは長距離のシュートより成功確率が高いため、ゴール近辺では自ずと選手同士の接触が増える。そのため、肉体的な強靭さもセンターの選手には期待される。 オフェンスにおいてはゴール近辺での得点、あるいはゴール近くに相手選手を引きつけて味方選手が得点するチャンスを作る役目を負う。ディフェンスではゴール近くで相手選手の得点を防ぐことが求められる。相手選手のシュートボールを手で直接防ぐブロックショットもセンターに期待されるプレーである。攻守においてリバウンド(シュートが外れたボール)を得ることもセンターの選手に要求される。 NBAにおいては初期から長らく花形ポジションの座にあり、現在では考えられないような個人記録の多くはセンタープレーヤーによるものである。近年ではガードやフォワードに主役の座を譲りつつある。 近年にはポジションの役割を明確に区別しない傾向があり、もあるため、フォワード(スモールフォワード、パワーフォワード)の役割も受け持ったり(または重なる)、センターが複数存在する場合もある。このポジションのボーダーレス化に伴い、仕事場をゴール周辺に限定せず、外からのシュートも打てるヨーロッパ型のセンターが増加傾向にある。 1937年まで、バスケットボールのルールでは得点の度にコート中央でジャンプボールを行うことが定められていた。そのため、長身でジャンプ力のある選手を持つチームが有利だった。この時代にジャンプボールを任された選手が現在のセンターの起源に当たる。 この頃までのバスケットボールでは、最も長身な選手でも身長180センチかせいぜい190センチほどだった。これは現代のプロバスケットボールではポイントガードの身長である。1930年代の大学バスケットボールで活躍したムース・クラウスは190センチで、やや後の時代に「オリジナル・セルティックス」の選手だったクリス・レナードやジョー・ラプチックは192センチを超えなかった。この時代には身長2メートルを超える選手は実質的におらず、そのような選手はバスケットボールには不向きであると考えられていた。 1940年代以降になると、身長210センチに近いセンターの選手が現れ始めた。ジョージ・マイカンやボブ・カーランドのような有力なセンターたちは相手選手の放ったシュートボールをバスケットの直前で弾き、シュートを阻止した。カーランドはプロの世界には進まなかったが、マイカンはNBAのミネアポリス・レイカーズに入団し、3連覇を含む5度の優勝に貢献した。 両選手は当時としては非常に有力な選手で、大学のバスケットボールではシュートのブロックに制限を加えるためにゴールテンディングのルールを設けなければならなかった。またNBAではマイカンを擁するチームがあまりに有利にならないようにゴール下の制限区域を12フィート(3.6m)まで拡大した。これらのルール変更はやがて国際バスケットボールにも導入された。 1950年代と1960年代には、ディフェンスに長けたビル・ラッセルや得点能力の高いウィルト・チェンバレンなどのセンターが活躍した。1962年にチェンバレンは100得点を達成するなどセンターの影響力は強まる一方で、NBAはゴール下の制限区域を16フィート(4.8m)まで拡大した。続く1970年代にはカリーム・アブドゥル=ジャバーが現れた。ラッセルは身長208センチだったがチェンバレンやアブドゥル=ジャバーはそれぞれ216センチ、218センチの長身だった。 これらのセンターたちは試合の趨勢に大きく影響を及ぼす選手であり、多くのチームはセンターを重視したチーム作りを行った。1980年代以降にマジック・ジョンソンやラリー・バード、マイケル・ジョーダンなどフォワード、ガードの選手が時代の主役となったがアキーム・オラジュワン、パトリック・ユーイング、デビッド・ロビンソンらセンターは依然重要な存在だった。 アメリカ合衆国、そして日本でもセンターの選手はゴール近辺でのプレーを前提として練習を重ねることがよくあるが、アメリカ国外では異なるタイプのセンターが知られるようになった。リトアニア出身のアルビダス・サボニスは221センチの身長だったが外郭のシュートやパスを得意としていた。サボニスを擁するソ連代表は1988年のソウルオリンピックに出場し、アメリカを破って金メダルを獲得した。サボニスに代表されるように、ヨーロッパでは身長やポジションにかかわらず同じようにシュート練習を行う伝統がある。やがて長身で長距離のシュートに長けたヨーロッパ人選手がオリンピックで活躍し、アメリカの大学やプロリーグで活躍する例も見られるようになった。 この傾向は21世紀になってより顕著になったが、一方で圧倒的なパワーでペイントエリア内を支配するシャキール・オニールが強烈な存在感を示しロサンゼルス・レイカーズで3連覇を達成した。オニールに対抗できるセンターは現れず、多くのチームはフォワード、ガードを中心としたチーム作りを行った。しかし、現代でも長身の選手を持つことがチームにとって有利であることに変わりはなく、身長が213センチ、すなわち7フィートを超える選手は「セブンフッター」と呼ばれ、多くのチームが獲得を試みようとする。2004年にドワイト・ハワードが入団してから徐々にリーグを代表するセンターに成長し、2008、2009年のオールスターファン投票でセンター部門第一位となり、特に2009年のオールスターファン投票では、史上最多得票となる315万181票を獲得した。 Template:バスケットボールのポジション" ]
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エジプトにある山で、旧約聖書でモーゼが「十戒」を授かった山といえばどこでしょう?
シナイ山
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[ "シナイ山", "オリーブ山", "ベツサイダ", "ネボ山 (ヨルダン)", "カシオン山" ]
[ "シナイ山(シナイざん、シナイさん、ヘブライ語:הר סיני Hár Sinái、アラビア語:جبل موسى Jabal Mūsā、英語:Mount Sinai)は、シナイ半島にある、モーセが神から十戒を授かったとされる場所。ホレブ山(Horeb)とも呼ばれる。 聖書のシナイ山の正確な場所は定かではないが、アラブ人がジェベル・ムーサー(Jabal Mūsā, アラビア語で「モーセ山」の意)と呼ぶシナイ半島南部の山(標高2,285m)に古くから比定され、アブラハムの宗教によって神聖視されている。ジェベル・ムーサーにはモーセに関わる伝承を持つ泉や岩が数多く存在し、土地の人々の信仰の対象となっている。3世紀には聖カタリナ修道院が建設された。 一方、ジェベル・ムーサー近辺には聖書の描写に合致するような広大な平原が存在しないこと、エジプトからパレスチナへの通り道としては南すぎる、などの理由から、近年[いつ?]、一部の聖書学者たち[誰?]は、その北側のラス・サフサファ(Ras Safsafeh / Sufsafeh)をシナイ山と同定している[要出典]。 他方、ロン・ワイアットは、ミデヤンの地をアラビア半島北西部とし、シナイ山(ホレブ山)を、同地のラウズ山(Jabal Al-Lawz ヤベル・エル-ローズ 標高2,580m)に比定している。エジプト第1王朝以来、シナイ半島はエジプト王国の領域であり、出エジプトというからにはシナイ半島を出なければならず、モーセが割って渡った海も、紅海ではなくアカバ湾(の浅い部分)であったとしている。アカバ湾を渡れば、目指すミデヤンの地もラウズ山もすぐである。 ^ 『出エジプト記』 24:12, 31:18 ^ 『出エジプト記』 3:12, 3:1 ^ 池上英洋 『西洋美術史入門』 筑摩書房、2012年、38頁。ISBN 978-4-480-68876-7。 ^ 『出エジプト記』 12:37, 19:2 聖書アラビア起源説 座標: 北緯28度32分23秒 東経33度58分24秒 / 北緯28.5397度 東経33.9733度 / 28.5397; 33.9733", "オリーブ山(オリーブやま、ヘブライ語: הר הזיתים‎、Har HaZeitim、アラビア語: جبل الزيتون, الطور‎、Jebel az-Zeitun)は、エルサレム東郊にある丘陵。 旧約および新約聖書にたびたび言及され、橄欖山(かんらんざん)とも訳される。海抜800mほどで、エルサレム旧市街より数十メートル高い。古くからオリーブ畑になっていたため、この名で呼ばれる。 旧市街からキドロンの谷を隔てて東にある。南東麓にはベタニア、北西麓にはゲッセマネ(「オリーブ油搾り場」という意味)の園がある。 旧約聖書のゼカリヤ書(14:4)で、最後の審判の日に神が立ち死者がよみがえる場所とされているため、墓地が作られるようになった。新約聖書にも数回言及される。イエスが最後のエルサレム滞在中に夜を過ごし(ルカによる福音書21:37)弟子たちに説教を行った場所(マタイによる福音書24:3など)とされ、またルカ福音書(22:39)では捕えられる前に最後の祈りを捧げた場所とされる。 第一次中東戦争でヨルダンに占領され、墓地は破壊された。しかし第三次中東戦争ではイスラエルにより奪還され、再び墓地となっている。メナヘム・ベギン首相ら有名人の墓も多い。 アブサロムの墓 ゼカリヤの墓 古代の洞窟の墓 オーガスタビクトリア病院 ブリガムヤング大学 スコーパス山 オリーブ山ユダヤ人墓地 主の祈りの教会 the Mount of Olive in the \"CITY of DAVID\" Website Interactive Panoramas of the Mount of Olives – jerusalem360.com, GoJerusalem.com Jerusalem Photo Portal – Mount of Olives", "ベツサイダ(英語:Bethsaida)は新約聖書に登場する町の名前である。「漁師の家」という意味のアラム語を音訳した地名である。今日のイスラエル共和国の古跡エッ・テルであると言われる。 イエス・キリストの最初の弟子になった漁師アンデレ、ペテロ、ピリポの故郷であるガリラヤの町である。イエスは盲人を癒し、また、町の人々の不信仰に嘆いた。 ヨルダン川がガリラヤ湖(ゲネサレ湖)に流れ込む河口の東岸を北に1.5kmほど入った地点にあるエッ・テルがベツサイダであると言われる。高さ30mほどの小高い丘の上に残骸が残っている。 ヘロデ大王の子ピリポが再興して、皇帝アウグストゥスの娘ユリアにちなんで、ベツサイザ・ユリアスとよがれた町である。 『新聖書注解』いのちのことば社、1985年 座標: 北緯32度54分36秒 東経35度37分52秒 / 北緯32.910度 東経35.631度 / 32.910; 35.631", "ネボ山(ネボさん、英語: Mount Nebo, アラビア語: جبل نيبو‎、ジェベル・ネボ、Jabal Nībū. ヘブライ語: הַר נְבוֹ‎, Har Nevo)は、ヨルダン西部に位置し、近郊の町マダバの北西10km内の距離にある海抜817m(802m) の高い尾根である。海抜約マイナス400mの死海との標高差は1,200mであり、山頂からは聖地の全景と、北にヨルダン川渓谷の一部が展望できる。通常、エリコの西岸地区の町が頂上から見え、よく晴れた日であればエルサレムも望むことができる。 申命記の最後にいたる章によると、ネボ山は神がイスラエルの民に与えられた約束の地をヘブライ人の預言者モーセに眺望させた場所とされる(申命記32章49節)。そして、モーセはモアブの平野からネボ山、エリコの向かいにあるピスガ(英語版)の頂へと登った(申命記34章1節)。 キリスト教の伝承によれば、モーセは神によってこの山に埋葬されたが、モーセの永眠の地は不明である。イスラームの伝承でもまた同様にいわれているが、モーセの墓所はユダヤの荒野のうち、エリコの南 11km、エルサレムの東 20kmに位置するマカーム・ナビ・ムサ (Maqam El-Nabi Musa) であるともされる。ナビ・ムサはモーセの意である。学者は、現在ネボ山として知られているこの山が、モーセ五書に示された山と同じであるかどうかの議論を続けている。 マカバイ記 二 2章4-7節によると、預言者エレミヤは幕屋と契約の箱をこの地に隠したとされる。 1933年、山頂部 (標高710m) のシャーガ (Syagha) で、教会と修道院の跡が発見された。その教会は初め、4世紀後半にモーセの死の場所をしのんで建てられた。教会の構造は典型的なバシリカ様式による。教会は5世紀後半に拡張され、西暦597年に建て直された。教会については西暦394年に一人の女性、エゲリア (Aetheria) の巡礼記に初めて記載された。モザイクで覆われた教会の床下からは、天然の岩をくり抜いた6基の墓が発見されている。現在も、年代の異なるモザイクの床の断片を見ることができ、現代の教会はその場所を保護して、礼拝の空間を備えるよう建設されている。 2000年3月20日、ヨハネ・パウロ2世は聖地への巡礼の中で、ヨルダンで最も重要なキリスト教霊場の1つであるネボ山を訪れた。訪問時、ヨハネ・パウロ2世はビザンティン様式の礼拝堂の側に、平和の象徴としてオリーブの樹を植えた。 教皇ベネディクト16世は、2009年5月9日にこの地を訪れて演説し、エルサレムの方向を山頂から眺望した。 山頂にある蛇のような十字架の造形物(青銅の蛇の記念碑)は、イタリアの芸術家ジョヴァンニ・ファントーニにより作成された。それはモーセが荒野で作った青銅の蛇(民数記21章4-9節)とイエスが磔刑にされた十字架(ヨハネ3章14節)を象徴している。 かつて修道院の扉に使用されていたモーセの記念碑 (The Abu Badd) 2000年に訪れたヨハネ・パウロ2世の記念碑 保存されたモザイク ^ a b 野町和嘉 『SINAI・聖書の旅 - モーセの足跡を追って』 平凡社、1979年、20-22頁。 ^ 小山茂樹 『中東がわかる古代オリエントの物語』 日本放送出版協会、2006年、84-89頁。ISBN 4-14-081098-X。 ^ “デジタル大辞泉 - ネボ山”. コトバンク. 2018-0-9-17閲覧。 ^ 滝口鉄夫 『聖書の旅』 小学館、2000年、26-28頁。ISBN 4-09-606019-4。 ^ Islamic sites in Jordan Archived 2013年11月10日, at the Wayback Machine. ^ Amelia Thomas, Michael Kohn, Miriam Raphael, Dan Savery Raz (2010). Israël & the Palestinian Territories. Lonely Planet. pp. 319. ISBN 9781741044560. http://books.google.com/books?id=VRGsmo7xjykC&pg=PA319.  ^ “ナビ・ムサ”. 駐日パレスチナ常駐総代表部. 2013年5月24日閲覧。 ^ Also found as 'Siyagha' the peak is (710 metres), while the south eastern peak 'el-Mukhayyat' is 790 metres Piccirillo, Michele (2009) Mount Nebo - page 17 ^ Piccirillo, Michele (2009) Mount Nebo (Studium Biblicum Franciscanum Guide Books, 2) pp. 14/15 - extract from Fr Sylvester Saller The Memorial of Moses on Mount Nebo Jerusalem 1941, pp. 15-18) ^ Piccirillo, Michele (2009) Mount Nebo (Studium Biblicum Franciscanum Guide Books, 2) p. 107 ^ “Pope Benedict begins his pilgrimage on Mt. Nebo”. Catholic News Agency (CNA). 2016年7月10日閲覧。 レベッカ・ハインド 『図説 聖地への旅』 植島啓司訳、原書房、2010年、137-139頁。ISBN 978-4-562-04591-4。 ミルトス編集部 『シリア・ヨルダン・レバノン ガイド』 ミルトス、1997年、96-97頁。ISBN 4-89586-016-7。 『聖書 新改訳』 新改訳聖書刊行会訳、日本聖書刊行会、1970年。ISBN 4-264-00445-4。 Abarim Nabau Nabi Musa “The Memorial of Moses at Mount Nebo - Description”. Fransiscan Friars. 2013年12月23日閲覧。 “The Memorial of Moses at Mount Nebo - Pictures”. Fransiscan Friars. 2013年12月23日閲覧。 “Arch Art”. 2013年12月23日閲覧。", "カシオン山(アラビア語: جبل قاسيون‎、Jabal Qāsiyūn 〈Qasioun, Qasiun, Kasiun, Kassiun, Kassioun〉、英語: Mount Qasioun 〈Qasyon〉)は、シリアの首都ダマスカスの街を見下ろす山である。山に並ぶレストランからは街全体が見わたせる。街は長年にわたり拡張されていくつかの地区が山麓に設けられた。標高は1,151メートル(3,776フィート)である。 カシオン山の斜面には、伝説に包まれた洞窟がある。そこは最初の人間であるアダムが一時住んでいたといわれており、またアブラハムに関するさまざまな物語が伝えられ、さらにイエスもその中で祈った。また一方でそこはカインがアベルを殺した場所であったと中世アラブの歴史書のなかに語られている。世界で初めて起こった殺人とされる場所がそこであったことから、Maghārat al-Dam (血の洞窟)と呼ばれる。そこは何百年もの間、祈りがすぐに届き、とりわけ旱魃(かんばつ)のときにダマスカスの統治者が洞窟へと登り、雨乞いをする場所として知られていた。 スンナ派のムスリム(イスラム教徒)においては、カシオン山は Abdāl として知られる40聖人のミフラーブ(祈りの窪み)の場所であり、彼らは毎晩、夜を徹しての祈り(ビジリア)を捧げたといわれ、小さなモスクがこうしたミフラーブのある「血の洞窟」の上に築かれた。 さらに「血の洞窟」から山を下ると Maghārat al-Jūˁ (飢えの洞窟)として知られている別の洞穴があったことで、この洞窟に関する物語はやや混乱している。ひとつに40聖人たちはそこで絶食して死を遂げたといわれるが、しかしながら al-Harawī という人物が、40人の預言者がそこで餓死したとして記される西暦1200年代に居住していた。 今日、洞窟は家屋に囲まれて隠れてしまっているが、その場所は al-Juyūˁīyah (おおよそ「空腹の場所」)と呼ばれている。 同じく山の別の側には、さらに別の洞窟があり、そこは原始キリスト教の史料のみならずコーランにも述べられた、7人の眠れる若者 (Seven Sleepers) の洞穴であると地元の伝説において伝えられ、Aṣḥāb al-Kahf (洞窟の仲間)として知られている。しかしながらこれはかなり疑わしく、それは共通して主張するこの世界各地の多くの洞窟のうちの1つに過ぎない。最近、マドラサが洞窟の上に建てられたが、巡礼者には引き続き入場が認められている。 ^ 1:10,000, Edition 2-AMS, Series K922. U.S. Army Map Service, 1958 ^ “Jabal Qasiyun - Site of Wonders”. 2013年3月2日閲覧。 ^ Jason Koutsoukis (2008年9月27日). “Progress at a standstill at the crossroads of the Middle East”. The Age. http://www.theage.com.au/world/progress-at-a-standstill-at-the-crossroads-of-the-middle-east-20080926-4ov4.html?skin=text-only 2010年12月28日閲覧。  ^ a b Josef W. Meri (Trans.): A Lonely Wayfarer's Guide to Pilgrimage. 'Ali ibn Abī Bakr al-Harawī's: Kitāb al-Ishārāt ilā Ma'rifat al-Ziyārāt pp. 24-25. Princeton, 2004. ^ コーラン 第18章 (アル=カハフ〈洞窟〉章) 第7-26節" ]
ABC01-02-0123
88星座を五十音順に並べたとき、最初にくる星座は何でしょう?
アンドロメダ座
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[ "アンドロメダ座", "ヘルクレス座", "つる座", "さんかく座", "うしかい座" ]
[ "アンドロメダ座(アンドロメダざ、Andromeda)は、ペガスス座に隣接している星座。トレミーの48星座の1つ。アンドロメダ銀河 (M31) があることで知られている。 α星、β星、γ星の3つの2等星がある。以下の恒星には、国際天文学連合によって正式に固有名が定められている。 α星:アルフェラッツ (Alpheratz) は、かつて、ペガスス座の一部分であり、「ペガスス座δ星」でもあった。この星とペガスス座のα星、β星、γ星の4つの星により形作られる四角形は「ペガススの大四辺形」と呼ばれる。 β星:ミラク (Mirach) は「腰布」という意味のアラビア語に由来する。赤色巨星。 γ星:対照的な色の美しい二重星であり、γ1星の固有名はアルマク。 ξ星:固有名はアディル (Adhil) 。 υ星:固有名はTitawin。最低でも惑星を3つ持つ。 14番星:固有名はVeritate。Speと命名された惑星を持つ。 51番星:固有名はNembus。かつてペルセウス座υ星と呼ばれたこともある。 その他、以下の恒星が知られている。 κ星:直接観測された惑星を1つ持つ。 S星:アンドロメダ銀河内に発見された超新星。 GY星:磁変星。 ロス248:太陽系から10.33光年の距離に存在する赤色矮星。 M31(アンドロメダ銀河):アンドロメダ座で最も有名な恒星以外の天体であり、肉眼で見ることのできる最も遠い天体とされる。天の川銀河が属する局部銀河群で最大の渦巻銀河。天球上では、アンドロメダ座β星とμ星に線を引き、それをμ星方向にほぼ等距離伸ばした場所にある。 M32:M31の伴銀河 M110:M31の伴銀河 NGC 752:散開星団 王女アンドロメダーは、神話上のエチオピア王ケーペウスと王妃カッシオペイアの娘である。カッシオペイアが「自分の美貌は海のニュムペー ネーレーイスに優る」と自惚れたことに腹を立てたネーレーイスたちはポセイドーンに訴え出た。それを聞き入れたポセイドーンは、エチオピアに海の怪物ケートスを遣わし、災害を引き起こした。困ったケーペウスが神託を立てたところ、「災害を止めるにはアンドロメダーをケートスに生贄として捧げなければならない」とされたため、アンドロメダーは海辺の岩に鎖で縛られ、ケートスに捧げられた。それを、別の冒険から帰る途中のペルセウスが目撃し、ケートスを倒してアンドロメダーを救った。その際、剣で切って倒したとする説と、ペルセウスが前の冒険の戦利品として持っていたメドゥーサの首を見せて石にして倒したとする説とがある。 以後若干の紆余曲折はあったがアンドロメダーはペルセウスの妻となり、6人の子を成した。後にアテーナーにより天に上げられ、星座になったと言われている。 中国では二十八宿の奎宿であり、日本では江戸時代にこれを「とかきぼし」(斗掻き星)と訓じていた。 ^ さんかく座銀河 (M33) やおおぐま座のボーデの銀河 (M81) のほうが遠いとする説もある。 ^ “SIMBAD Astronomical Database”. Results for V* alf And. 2013年1月27日閲覧。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for NAME MIRACH. 2013年1月27日閲覧。 ^ “SIMBAD Astronomical Database”. Results for ADS 1630 ABC. 2013年1月27日閲覧。 ^ a b c Ian Ridpath. “Star Tales - Andromeda”. 2014年1月31日閲覧。 ^ 草野巧 『ギリシア神話 神・英雄録』 新紀元社、1995年1月30日、109頁。ISBN 4883172473。 ^ 長島晶裕/ORG 『星空の神々 全天88星座の神話・伝承』 新紀元社、2012年。ISBN 978-4-7753-1038-0。 座標: 00h 46m 00s, 37° 00′ 00″", "ヘルクレス座(Hercules)は、トレミーの48星座の1つ。ヘルクレス座は、全天で5番目に大きい星座である。あまり明るい星はない。ギリシア神話に登場する勇者ヘーラクレースにちなむが、日本語での正式な星座名は「ヘルクレス座」である。 以下の恒星には、国際天文学連合によって正式な固有名が定められている。 α星:ラス・アルゲティ (Rasalgethi) は、二重星であり、主星はSRC型に細分類される半規則型変光星。 β星: コルネフォロス (Kornephoros) は、ヘルクレス座で最も明るい恒星(2.77等)。 δ星:Sarin は3等星。 κ星:Marsic は、元々MarfakやMarfikと呼ばれてきたが、2017年2月にIAUにより Marsic が固有名として採用された。 λ星:マシム (Maasym) ω星:クヤム (Cujam) はりょうけん座α2型変光星に分類される5等星。 HD 149026:主星に Ogma、惑星HD 149026 bに Smertrios という固有名が定められている。 その他、以下の恒星が知られている。 14番星:太陽系外惑星をもつK型主系列星。 X星:半規則型変光星。細分類はSRB。 SX星:半規則型変光星。細分類はSRD。 UU星:SRD型変光星の代表星。 AC星:おうし座RV型変光星。 AM星:激変星。 M13:球状星団。北半球で最も明るい球状星団。 M92:球状星団。 NGC 6050:渦巻銀河。 IC 1179:渦巻銀河。 ヘルクレス座・かんむり座グレートウォール:2013年に発見された、最大の宇宙の大規模構造。 勇者ヘーラクレースは、大神ゼウスが王女アルクメーネーとの間にもうけた子で、王になる予定であったが、例によってゼウスの妻の女神ヘーラーの横槍が入り、王になれなかった。勇者でありながら、その後もヘラに生活の邪魔をされ失敗続きだったが、12の冒険を成し遂げ、神となり星座の仲間入りをした。 しし座、うみへび座、かに座、りゅう座などの星座が、ヘーラクレースの12の冒険と関係が深い。 ^ a b c d e 原恵 『星座の神話 - 星座史と星名の意味』 恒星社厚生閣、2007年2月28日、新装改訂版第4刷、146頁。ISBN 978-4-7699-0825-8。 ^ a b c d e f g h “IAU Catalog of Star Names”. 国際天文学連合 (2017年2月1日). 2017年2月12日閲覧。 ^ 塩井宏幸「変光星ガイド・1月」、『天文ガイド』1983年1月号、誠文堂新光社、102頁。 ^ a b 宇宙科学研究倶楽部 『宇宙がまるごとわかる本』 学研パブリッシング、2012年2月14日、57頁。ISBN 978-4054052604。 ^ Horvath, Istvan; Hakkila, Jon; Bagoly, Zsolt (2013年11月5日). “The largest structure of the Universe, defined by Gamma-Ray Bursts”. arXiv:1311.1104v1.  ^ Ian Ridpath. “Star Tales - Hercules”. 2014年2月1日閲覧。 座標: 17h 00m 00s, +30° 00′ 00″", "つる座(鶴座、Grus)は、南天の星座の1つ。新しく設けられた星座の中では明るい星が多い方だが、日本では南に低くしか上らないので目立たない。 α星、β星の2つの2等星がある。 α星:アルナイル(Alnair)は、青白色の主系列星。つる座で最も明るい恒星。 β星:赤色巨星。つる座で2番目に明るい恒星。 γ星:アルダナブ(Al Dhanab)は、3.01等星。 つる座は16世紀以降に作られた新しい星座であり、神話はない。 ペーテル・ケイセルとフレデリック・デ・ハウトマンが残した観測記録を元にペトルス・プランシウスが1597年に作成した地球儀に残したものが最初である。ヨハン・バイエルが1603年に発刊したウラノメトリアでそれを引用したことにより世に知られるようになった。デ・ハウトマンは1603年に出版した星表で Den Reygher「さぎ座」として、プランシウスは、後の1625年に作成した地球儀では Phoenicopterus 「フラミンゴ座」として名付けていたが、最終的にはオリジナルの「つる座」が世に広まった。 つる座はかつてはみなみのうお座の一部だった。α星の「アルナイル」(アラビア語で「明るいもの」を意味する言葉に由来)も「魚の尾の中での明るい星」というアラビア語の一部から付けられた固有名である。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for * alf Gru. 2013年1月23日閲覧。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for V* bet Gru. 2013年1月23日閲覧。 ^ a b Ridpath, Ian. “Star Tales - Grus”. Star Tales. 2013年5月11日閲覧。 ^ 近藤二郎 『星の名前のはじまり アラビアで生まれた星の名称と歴史』 誠文堂新光社、2012年8月、初版、172頁。ISBN 978-4-416-21283-7。", "さんかく座(三角座、Triangulum)は、北天の星座で、トレミーの48星座の1つ。3等星と4等星が細長い三角形を形成する小さな北天の星座。周辺に明るい星がないので比較的見分けやすい。 この星座以外にも三角と名前がつく星座に、みなみのさんかく座がある。また星座以外で恒星によって構成される天球上の三角としては冬の大三角、春の大三角、夏の大三角がある。 α星は、国際天文学連合が正式な固有名を定めている。 α星:モサラー (Mothallah) は3等星で、アラビア語で「三角の頭」を意味する言葉に由来する。それをラテン語化したカプトトリアングリ (Caput Trianguli) と呼ばれることもあった。 β星:さんかく座で最も明るい恒星。 M33(さんかく座銀河):渦巻銀河。この銀河は、太陽系のある天の川銀河、M31 (アンドロメダ銀河)とともに、局部銀河群を形成している。 3C 48:初めて発見されたクエーサー。ただしクエーサーと初めて認識されたのは3C 273である。 特徴的な神話は伝わっていない。 ギリシャ文字の Δ(デルタ)の形に似ているので、ギリシャでは古くは「デルトートン」とも呼ばれた。偽エラトステネスはナイル川の三角州を表すと伝えている。またローマの詩人ヒギヌスは、3つの岬を持つことから「トリナクリア」 (Trinacria) と呼ばれたシチリア島であると看做した者もいたと伝えている。トリナクリアは農業の女神ケレスの故郷であるとされていた。 日本でも「さんかく」と呼ぶ地方がある。 ^ Ian Ridpath. “Star Tales - Triangulum”. 2014年6月13日閲覧。 座標: 02h 00m 00s, +30° 00′ 00″", "うしかい座(牛飼い座、Boötes)は、トレミーの48星座の1つ。日本では春から初夏にかけて見ることができる。 α星は、全天21の1等星の1つであり、アークトゥルスと呼ばれる。アークトゥルスと、おとめ座のα星スピカ、しし座のβ星デネボラで、春の大三角を形成する。 1等星のα星(アークトゥルス)以外に、2等星が1つ(ε星)ある。 以下の恒星には、国際天文学連合によって正式な固有名が定められている。 α星:アークトゥルス (Arcturus) は、うしかい座で最も明るい恒星で、全天21の1等星の1つ。実視等級-0.05等のオレンジ色の巨星。 β星:ネカル(Nekkar) γ星:セギヌス(Seginus) ε星:うしかい座で2番目に明るい恒星で、2等星と5等星との連星になっている。ε星Aにはイザル (Izar) という固有名が正式に付けられている。美しい二重星であるとされ、ラテン語で「最も美しいもの」を意味するプルケリマという名前で呼ばれることもあった。 η星:ムフリッド (Muphrid) λ星:玄戈 (Xuange) μ星:連星。μ1星にはアルカルロプス (Alkalurops) という固有名が付けられている。 38番星:固有名はMerga。 その他、以下の恒星が知られている。 δ星:黄色巨星。 ζ星:連星。 θ星:F型主系列星。 ξ星:連星で主星はりゅう座BY型変光星。 ρ星:巨星。 σ星:変光星。 τ星:ε星同様実視連星であり、主星の周りを公転する惑星が1つ発見されている。 V星:赤色巨星でSRA型の半規則型変光星。 GRB 080319B:肉眼で見えた唯一のガンマ線バーストで、肉眼で見ることの出来た最も遠い天体。 SCP 06F6:観測史上最も明るい天文現象の1つだが、正体が良くわかっていない。 四つ葉のクローバークエーサー:重力レンズ効果で像が4つに分裂しているクエーサー。 星座名の Boötes は、ギリシャ語の Βοώτης を音訳したもので、元々は動物を追いやる大きな声に関連して「騒がしい」を意味する言葉であったとされる。また「Βους(牛)を ωθειν (動かす)」に由来するともされ、実際におおぐま座が牛に牽かれた車として描かれた図が残っている。また、古代ギリシャでは Ἀρκτοφύλαξ とも呼ばれており、これは「熊を監視する者」や「熊を守る者」など様々に訳されている。アラトスはこの名前を用いて、熊を引き連れて天の北極の周りを巡る人物としている。ホメロスが、『オデュッセイア』の中で Boötes とだけ呼んでいることから、 Boötes のほうがより古い呼び名であると考えられている。 この人物が指し示す人物については諸説ある。偽エラトステネスは、アルカディアの王リュカーオーンの娘カリストーとゼウスの息子アルカスであるとする。またヒュギーヌスは、ディオニューソスからブドウとブドウ酒の製法を教わったアッティカの王イーカリオスであるとしている。一説には、ギリシア神話に登場する天を支える巨人アトラスであるとする説もある。 後に天文学者たちはこの人物に2匹の犬(りょうけん座)を結び付けているが、ギリシャ神話や古代ギリシャの星図とは全く関係がない。 英語では Boötes と綴られる。2番目の \"o\" の上に見られる \"¨\" はドイツ語に見られるウムラウト記号ではなくトレマと呼ばれるもので、これが付加されているので [bouóuti:z] (ボウオウティーズ)と発音される。分音符がなければ[bú:ts] (ブーツ)になってしまう。 日本では、牧夫座(ぼくふざ、まきおざ)と呼ばれた時代があった。 ^ OED ^ a b c d e f g h i Ridpath, Ian. “Star Tales - Boötes”. 2017年1月28日閲覧。 ^ a b c 原恵 2007, p. 122. ^ 原恵 2007, p. 67. ^ “春の星空を楽しもう”. AstroArts. 2013年5月11日閲覧。 ^ “SIMBAD Astronomical Database”. Results for CCDM J14449+2704AB. 2013年1月27日閲覧。 ^ a b c d e f g h i j “IAU Catalog of Star Names”. 国際天文学連合. 2017年10月10日閲覧。 ^ a b “SIMBAD Astronomical Database”. Results for NAME ARCTURUS. 2013年1月15日閲覧。 ^ a b c 原恵 2007, p. 123. ^ “SIMBAD Astronomical Database”. Results for HR 5506. 2013年1月27日閲覧。 ^ “SIMBAD Astronomical Database”. Results for HR 5505. 2013年1月27日閲覧。 ^ 原恵 2007, pp. 123-124. ^ 原恵 2007, p. 124. ^ 野尻抱影 『星座の話』 (改版) 偕成社、1977年9月、83-85頁。ISBN 4037230100。  原恵 『星座の神話 - 星座史と星名の意味 -』 恒星社厚生閣、2007年2月28日、新装改定版第4刷。ISBN 978-4-7699-0825-8。 うしかい座ボイド 座標: 15h 00m 00s, +30° 00′ 00″" ]
ABC01-02-0125
囲炉裏によく見られる、鍋などを釣り、上下に動かすことで火との距離を調節出来るもののことを何というでしょう?
囲炉裏
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[ "囲炉裏", "火起こし", "かまど", "ボーフラ", "炭" ]
[ "囲炉裏(いろり:居炉裏とも表記)とは、屋内に恒久的に設けられる炉の一種。伝統的な日本の家屋において床を四角く切って開け灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた一角のことである。主に暖房・調理目的に用いる。数える際には「基」を用いる。古くは、比多岐(ひたき)や地火炉(ぢかろ)とも言った。 囲炉裏は炊事専門のかまど、属人的な火鉢とともに、日本の伝統家屋の火の座を構成した。 地方により特有の形態を持つ囲炉裏は、その呼び名も地方ごとに異なり、多くの呼称があった。 現在に残るものとして、炉、地炉、ヒジロ、ユル、ユルイ、ユルリ、イナカ、エナカ、ヘンナカ、エンナカ、イリリ、イレ、シタジロ、スブト、ジリュなどがある。 囲炉裏は次のような様々な機能を有する。 暖房 囲炉裏は暖をとるために用いられる。部屋の中央付近に置かれ、部屋中を暖める。 調理 囲炉裏は食物の煮炊きに用いられる。囲炉裏では自在鉤(後述)や五徳を用いて鍋を火にかけ、炊飯をはじめあらゆる煮炊きを行なった。また魚などの食材を串に刺し火の周囲の灰に立てたり、灰の中に食材を埋めて焼くことも多い。徳利を灰に埋めて酒燗することもある。北陸地方の場合、竈(かまど)が作られるのは昭和30年代が中心で、それまではあらゆる煮炊きを囲炉裏で行なっていた。温暖な西日本では夏季の囲炉裏の使用を嫌い、竈との使い分けが古くから行なわれている。 照明 囲炉裏は夜間の採光に用いられた。火が主要な照明であった近世以前、囲炉裏は安全に部屋を照らすことのできる手段であった。古くは炉辺の明かし台で松明を燃やして手元の明かりとした。また、照明専用具として油や蝋燭があった。 乾燥 火棚を組み、衣類・食料・生木などの乾燥に用いた。また、着物掛けを炉辺に置いて濡れた着物を乾かした。 火種 マッチなどによる着火が容易でない時代、囲炉裏の火は絶やされることなく、竈(かまど)や照明具の火種として使われた。 家族のコミュニケーションの中心 囲炉裏には家族や人を集結させる場としての機能を持っていた。食事中、夜間は自然と囲炉裏の回りに集まり、会話が生まれる。通常家族の成員の着座場所が決まっており、家族内の序列秩序を再確認する機能もあった。囲炉裏の周囲の着座場所の名称は地方によって異なるが、例えば横座、嬶座(かかざ)、客座、木尻または下座(げざ)といったものが挙げられる。 家屋の耐久性向上 部屋中に暖かい空気を充満させることによって、木材中の含水率を下げ、腐食しづらくなる。また薪を燃やすときの煙に含まれるタール(木タール)が、梁や茅葺屋根、藁屋根の建材に浸透し、防虫性や防水性を高める。ただし、家の中に煙が充満することで眼病などの原因にもなる。 囲炉裏は床に組み込んで設置される場合と土間に設置される場合とがある。 日本の伝統的な民家は床敷きの部位と土間の部位が大黒柱を軸に結合した形態を取り、囲炉裏が切られるのは多くの場合床敷きの部位の中央である。しかし、地域によっては床敷き部分の土間よりの辺に接して切る場合もある。南部の曲り家に見られる「踏み込み炉」は土間囲炉裏の典型で、農作業中に土足のまま囲炉裏の周りに腰掛けられる作りとなっている。また、東北地方などの寒冷地には掘り炬燵のように足を下ろせる深い囲炉裏もある。囲炉裏は生活にかかせないものとして発展し各地方特有の形態を持つ。 家によっては複数の囲炉裏が存在し、身分により使う囲炉裏が分けられていた。囲炉裏が2つある場合、薪(たきぎ)を燃料とした家族の囲炉裏と木炭を燃料とした客人用の囲炉裏とを使い分けることもあった。また、煙のでない木炭の囲炉裏では贅沢な自在鉤や茶釜を用いることも多かった。 現在では大きな火鉢や木製のテーブルの中央で炭火を熾す座卓を囲炉裏と称することも多いが、本来的に囲炉裏は移動できない設備であり、移動のできるものは火鉢と称する。 なお、形状としては正方形のものと長方形のものがある。 茶室にも囲炉裏に良く似た火の座があるが、茶道では「炉」と称し、畳の間に切る。寸法も一尺四寸(42.42cm)あるいは裏千家の大炉の場合でも一尺八寸(54.54cm)四方で、一般的な囲炉裏よりはるかに小さい。茶道の水屋では、直径一尺程度の鉄の円形の丸炉(がんろ)というものが用いられる。書院茶では丸炉のみが用いられる。 燃料は炭のこともあるが、薪であることが多いとされる。 燃料はかまどと異なり、火力よりも火持ちのよさが重視される。現代家屋では煙の出ない炭火が用いられることが多いが、古くは民家ではコストのかかる炭火はむしろ火鉢専用であり、囲炉裏では薪が用いられることが多かった。長いままの枝を薪として用い、押し込みながら燻らせる様にして燃やし火を長くもたせた。地方によっては切り株を掘り起こしたものを細かく割らずにくべることもあった。火を長くもたせるには、乾燥しすぎていない薪を用いる、籾殻や灰を掛けて燻らせながら燃やすなどの方法がある。山中で無償で入手できる薪に比べ、木炭は貴重な存在であった。火を扱う場であるため、火の神を祀ることも多かった。 山暮らしを実践している大内正伸は、薪ストーブ代わりにしていた鋳物カマドと比べて囲炉裏の使用で薪の使用量が激減した、地面に落ちている枯れ枝がそのまま使える、雨で多少濡れた枝でも細いものは天日に2〜3日晒せば乾く、薪の炎で鍋料理を作りながら燠火をずらせば炭火焼も同時にできる、余った燠火を火消し壷に入れれば燠炭が作れ火鉢・あんか・こたつで使える、灰をかけて燠炭を翌朝まで保つには大きな燠炭ができる太い薪が適していると記している。過去に大量に植林されたスギは今や需要が低迷し、一気に燃えて持続力がないので薪ストーブの燃料には向かないが、カマドや囲炉裏であれば火力調節ができる調理に便利な燃料で、山中に大量に捨てられているスギの枝葉に至るまで利用できるとの利点も挙げている。 ただし、エアータイト型の薪ストーブの場合は、杉であってもゆっくり燃やせるので、燃料に向かないということは全くない。 自在鉤(じざいかぎ) 天井から吊るされた先端が鉤状のもの。自在とも呼ぶ。変更がしづらい囲炉裏の火力を火からの距離によって調節するため、てこの利用や、筒の中に通した鉄や木の鈎の位置をずらすことによって、高さを上下に自由に変えられる構造を持つ。自在鉤に鍋や鉄瓶をかけて煮炊き・湯沸しを行う。英語圏では\"pothook\"という似た道具がある。 横木 自在鉤上方に付いている、自在鉤を任意の位置で留めるためのてこ。字義のとおり木製の物もあるが耐摩耗性を得るため金属製のものや、火除けの意味を込めて魚の形をした物もある。 炉縁 囲炉裏の縁である。ナシの材が多く用いられた。 目につく部分であるため、銘木を用いたり様々な装飾が施されることもある 天、天棚、火棚 地域によるが、囲炉裏上部には天(あま)が設けられる事もある。天棚(あまだな)あるいは火棚(ひだな)とも呼ばれる。これは囲炉裏上部に天井から吊るす木や竹製の板で、囲炉裏より大きく作られ、上部に舞い上がる火の粉を防ぐと共に、煙や熱を拡散させる働きがある。ヒエやアワといった穀類などを乾燥させたり、川魚などの食品を吊るし煙による燻煙で保存食を作ったりする。近年作られる多くの火棚は装飾目的で格子状に作られるが、格子状の場合上部に何らかの煙を遮断するものを敷かなければ火の粉や煙が通り抜けるので本来の役には立たない。 五徳(ごとく) - 鉄などの金属製の台であり、上下何れかに円形の枠を形成し、3本の足が伸びている構造。五徳の上部に網を乗せ焼き物をする場合と、直接鍋などを乗せ煮たきをする場合がある。北陸地方特有の上部に大きな輪の付いたものは金輪(かなわ)と呼ばれ、内容物を含めれば自在鉤(の摩擦力)では固定できないほどの重量がある大きな鉄鍋をのせて使われる。 わたし - 金属製で左右に長い格子状のものに、足と中央に柄を取り付けたもので、囲炉裏で餅や団子などを焼く台として使うもの。柄を持ち火元に差し出したり、熾き火を下部に掻き入れて使う。地方により「てっき」ともいう。火元を囲むように扇状に作られたものが多い。 火箸(ひばし)- 金属製の比較的長い箸。火の付いた炭や木を移動させたりひっくり返したりして火力の調整を行う。 灰均し(はいならし) - 金属製のヘラで、灰を整えたり灰模様を描いたりするもの。古くは木製のものもある。 十能(じゅうのう) - 鉄板製の小さな杓、あるいはスコップ形状のもの。灰をならしたり、炭を追加したりする場合に使用する。 台十能(だいじゅうのう) - 炭火を安全に運ぶため、深型の十能に足をつけ、畳の上などに置けるようにしたもの。台付き十能ともいう。 火消し壷(ひけしつぼ) - 炭火を消すための壷。蓋による密閉で酸素を遮断し火を消す。陶器製・金属製・石造のものがある。囲炉裏に備える場合は隅でほぼ全体を灰に埋めて使われることが多く、外観は蓋のみで壺形状には見えない。 炬燵櫓(こたつやぐら) - 木製や竹製の櫓。囲炉裏の上に置き、炬燵にする。夕食の調理で残った熾き火を利用して寝入りの暖を取るべく、囲炉裏へ足先を向け寝るのに使う。敷布団は囲炉裏すなわち櫓の外側に敷かれるため、他の炬燵とは違い足を炬燵内に入れることは出来ない。 囲炉裏鍋(いろりなべ) - 自在鉤を使って吊り下げるのにも五徳を使って置くにも適した鋳物の鉄鍋。鉄製の蔓(つる)で吊れるようになっており、丸い底を持ち、さまざまな大きさの五徳に置きやすい。通常木製の蓋を持つ。 鉄瓶(てつびん) - 囲炉裏鍋同様につり下げて安定する形状の鉄の蔓を持つ鋳物の薬罐。 童話「猿蟹合戦」の話の中には、栗が囲炉裏の火中に入り、火力で弾けた栗が猿を直撃、やけどを負わせる内容がある。これはかつて囲炉裏の灰に栗や餅、山菜などを埋めて焼き、食べていた習慣から時折起きていた事故であり、今の子供がこの話を聞くより、囲炉裏が普通に民家にあった時代の子供が聞いた時に非常に生々しい実感を持って感じることのできるエピソードであった。 野口英世は、幼い頃、囲炉裏に落ち、左手に大やけどを負った。 置き囲炉裏 - 床の工事などを必要としない簡易的な囲炉裏。炉付きテーブルや火鉢に似た使い方をする。 ^ a b c d e f 岩井広實監修、工藤員功編 『絵引 民具の事典』 p.161 2008年 ^ a b c d 野本寛一編『食の民俗事典』柊風舎 p.537 2011年 ^ 大内正伸『囲炉裏と薪火暮らしの本』農山漁村文化協会、2013年3月、p.13,16,24,75,27-28 ^ 自在鉤 横須賀市教育研究所 ^ a b c 岩井広實監修、工藤員功編 『絵引 民具の事典』 p.157 2008年 日本の住宅 暖炉 火鉢 七輪 かまど 炉端焼き きりたんぽ いぶり漬け(いぶりがっこ)", "火起こし(ひおこし、火熾し、火おこしとも表記)とは、炭に着火する道具である。 炭は燃料であり可燃物であるが着火性はさほど高くなく、炭へ確実かつ迅速に着火するために用いられる。火起こし自体は炭を保持する容器に過ぎず、炭への着火に際して炎が上がる熱源に乗せて(あるいは被せて)使用する。 現代の日本の火起こしは片手鍋に似た形状で、底に炎を通す穴が開いており、ガス焜炉などに乗せて使用する。着火後の炭を茶室へ運び入れる炭十能とあわせ、広義の茶道具に含まれる。 バーベキューなどで使われる火起こしは英語圏で「チムニースターター」「チャコールスターター」あるいは「ファイヤースターター」と呼ばれ、日本語ではこれを略して「チャコスタ」とも呼ばれている。 木炭 火鉢 香炉 七輪 オガ炭 成形木炭 オガライト 焼き肉 バーベキュー", "かまど(竈)は、穀物や食料品などを加熱調理する際に火を囲うための調理設備。 調理などで煮炊きをする場合、古くは囲いの無い直火に鍋などを加熱する方式によって食品の加熱調理が行われていたが、周辺に熱が放射などの形で逃げる他、煤煙が漂う・火が風で揺らぐなど効率が悪いため、土、石、セメントで作られるかまどが発明された。 これらでは木(薪)といった直接的なバイオマス燃料や、炭などのバイオマス加工燃料が固形の燃料として用いられる。また地域によっては石炭や家畜の乾燥させた糞が利用される場合もある。 このかまどの発達により、調理者は裸火による直接的な放射熱に晒されなくてすみ、より高温の炎で調理することが出来るため調理時間の短縮にも繋がり、また調理方法も様々なバリエーションを生むようになり、今日ある調理方法のほとんどは、このかまどによってその原型が確立された。 更に言えば、かまどの発達は文明の発達に大きく寄与したとも考えられる。調理の一極化や専門化を生み、かまどを中心に人が集中するようになり、従来の炉が調理に手間が掛かっていたために食が賄える人の数はそれほど多くなかったのに対し、かまどでは高温での連続集中調理で多くの人の食事が賄え、これにより人口の集中が発生、そこに文明が育まれた。 かまどは調理専門に火を焚く設備であるため、暖房や照明としての火が必要ない、温暖な地域で使用される場合が多い。しかし、かまどから吐き出される煙の熱気を利用した合理的な暖房システムが、寒冷なアジア北部とヨーロッパ北部に存在する。朝鮮のオンドル、中国北部の炕(カン)は、かまどの排気を床下に通して部屋を暖める床暖房である。原理はどちらもそれぞれ同じだが、日本と同じく「履物を脱いで部屋に上がる」朝鮮では部屋全体を暖め、室内でも靴を脱がない中国では寝床のみ暖めるところに違いがある。部屋の中では焚口、つまり台所に近い場所が暖かいため、「上座」とされる。暖房が必要ない夏季は、オンドルに繋がらない夏専用のかまどを使用する。日本でも、神社やお堂などの公共の場に祭事の炊き出しや暖を取ることを目的としたかまどが併設されていることがある。ロシアのペチカは、かまどや暖炉の排気を石やレンガで築いた煙道に通す蓄熱式暖房である。ペチカの上に寝床を設ける事もある。幕末、カムチャッカ半島に抑留された高田屋嘉兵衛は、ペチカで暖房された部屋の快適さを「襦袢のみで過ごせる」と証言している。現在、北海道でも、石油ストーブと組み合わせたペチカが一部で使用されている。 西洋、東洋で長い間利用され、かまどの火はよく神聖化された。 日本では釜で沸かした湯で邪気を払う「湯立神事」のため、かまどを設ける場合もある。愛知県の奥三河地方や長野県の伊那地方には鎌倉時代より伝統的な祭り「花祭」が伝承されている。祭りの際はかまどを築いて湯を沸かし、クライマックスで鬼に扮した踊り手が舞う中、湯が振り撒かれ、邪気を払う。 次第に文明が発達していく中で、調理用の熱源としてガスコンロのような他の燃料による簡便な調理用の炉が利用されるようになると、次第にその役目を終えて姿を消していった。 かまどの構造は調理側と焚口側が一致する類型(日本や朝鮮半島のほか、中国のブイ族・ウイグル族・リー族の住居など)、調理側と焚口側が直交に分離している類型(中国のサニ族の住居など)、調理側と焚口側が平行二面に分離している類型(中国の華南地域の住居など)などがある。 新石器時代には調理用火器として住宅内に設けられた炉である竈が出現した。地面に作り付けのかまどを地竈といい竈台と竈坑がある。竈台は床面から5cmほど高い位置に水平面を設けた炉で、鼎などの脚付きの調理着に適した設備である。一方、竈坑は床面から15cmから20cmほど掘り下げて縁の部分を少し高くした炉で、釜など脚の付かない調理器具に適しており、かまどの起源となった設備である。 また壁面に設けた壁竈もあり、龍山文化でみられるこれらの設備の併設は採暖用の炉竈と炊事用の厨竈の機能分化とみられている。 さらに新石器時代には地竈や壁竈のほか、持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた。 日本全国で呼称はさまざまである。関西では「へっつい」と呼ばれることが多いが、京都では「おくどさん」という名称が使われていた。 日本では20世紀末ごろには、日常生活では利用されなくなっており、地方農村でも埃をかぶるに任せられている。 それでも1950年代頃までは使われていたため、飯の炊き方などにこのかまどによる調理方法が口伝などの形で残されており、これらは現代の炊飯器でも「美味しいご飯の炊き方」として再現されている。例えば2008年にパナソニックから発売された製品では、その20年前(1988年)から試し炊きだけで3トンもの米を消費しながら改良を続け、製品名に『竈』を含めた「プレミアム炊飯器」をリリースしている。 個人所有数は減少しているものの、レジャー施設に併設されるバーベキュー場やキャンプ場には調理器具や食材とセットで気軽に利用できるよう設置されていることが多い。また和食文化でも、飲食店では、日本式のかまどを再現して煮炊きに利用しているところもある。 災害発生時の避難施設に指定されている学校や公園などの公共施設等においては電気・ガス等のライフラインが停止している状態で多数の避難者の食事を提供する必要があることから、かまどの有用性が高く、敷地内に新しくかまどを設置する活動もある。 他にも屋外での催し物等で仮設・移動式の物が使用されている。 かまどは簡単な材料で作ることが可能で、使用耐久も長く、修理も比較的簡単なため、広く普及した。 構造としては単純なものでも火を被う囲いと、その上部には鍋や釜といった調理器具を置くための台が一体化しており、また屋内に設置されているものでは戸内に煙が充満しないよう、室外に煙突が設けられ、温度の高い煙は煙突から外へ、放射熱は調理器具の底を熱するようになっている形態が一般的である。 側面には燃料を投入するためと燃え滓(灰など)を掻き出すための口が設けられており、ここに燃料を投入したり、火の加減を調節するために利用される。この口は地面と同じ高さになっている物も多く、主に土間に設置されていた日本のかまどでは、かまどのすぐ下が土の露出した地面となっていた。 やや高度化すると、燃料を投じる口に金属製の蓋が設けられたり、燃え滓の排出口が戸外に設けられるなどしたものもみられる。日本のかまども社会の高度化に伴って多様化し、七輪のような移動の簡便な焜炉が発展する以前より、長く広く利用されていた。 もっとも単純な形の炉は、石を火の周囲に積み上げた物で、キャンプでの飯盒による調理などでおなじみだが、既に石器時代にはそのような炉が登場していたと見られ、当時の遺構にその痕跡が見られる。日本では、古墳時代前期までは、地床炉が用いられるケースが多く、弥生時代後期から古墳時代前期までは炉の上におかれた器台のついた台付甕が用いられていた。古墳時代中期の5世紀には登り窯(窖窯:あながま)の遺構がみられるようになり、須恵器などのための焼成技術として伝来したと推定されている。カマド型の土器もこの時代の遺構から発掘されている。 この時期に朝鮮半島からの伝播をうかがわせる発掘品としては、「韓竈(からかま、からかまど)」と呼ばれる移動式の模型のような「カマド」が複数の遺跡から出土している。「韓竈」という文字は905年から編纂が開始された延喜式に記されており、発掘された20センチ未満の小型竈(ミニチュア)は古墳時代の、とくに渡来人系の被葬者の葬祭儀礼や都城での祓いなどの祭礼に祭具として用意されたと考えられている。20センチ以上の大型の竈は実用品であろうが、延喜式では鎮魂祭のさいに韓竈で炊事することが記されているものであり、発掘されたものは概してススなどの付着が顕著ではない。 6世紀以降には竪穴式住居の北側や東側の壁面に設けられる「カマド」がつくられるようになり、その構造は粘土をドーム状にもりあげ、住居の内側に焚き口、「カマド」の天井部に煮沸具である土師器の甕に、はめ込むようにして甑が置かれる形になっている。「カマド」の「ソデ」と呼ばれる部分には、石、伏せた土師器の甕、瓦などが用いられ、「カマド」中央部に置かれた甕をささえるための支脚にも粘土質のものや長い形の石や伏せた須恵器の坏などが用いられることもあった。 奈良時代、平安時代には全国的に普及したかまどには、屋外へ煙を排出するための煙道が発達していた。しかし庶民の住居が竪穴式住居から掘立柱建物に移行するにしたがい、煙道が失われた。かまどは焚き口と鍋釜をしかける穴のみが設けられた構造となり、薪の燃焼で生じた煙は焚口から屋内に排出され、屋根裏を通って屋根に設けられた「煙出し」の穴から屋外に吐き出されるようになった。 高温多湿な気候の日本において家屋を腐朽やシロアリから守るには、かまどから屋内に煙を吐き出させ、屋根材や家屋を「燻製」にして防腐効果を狙う必要があったためである。瓦葺きの家屋でも、かまどやへっついには、あえて煙突は設けられていなかった。煙突が日本のかまどに復活したのは、西洋文明が大規模に渡来した明治以降になってからだった。 調理用の常設の炉が世界各地に、その土地の気候・風土を反映した様々な形態をもって、古くから存在している。南西日本では、調理はほぼかまどを用いて行われていた。沖縄地方では、竈はその祖形である「三つの石を並べた形」からそれほど発達することはなかった。三つの石を並べた上に「シンメーナービー」と呼ばれる中華鍋に似た形の大鍋を載せ、朝に主婦が火を焚きつけて大量のンム(サツマイモ)を蒸しあげる。蒸したンムに小魚の塩辛や味噌汁を沿えて食事とした。三つの石の間を泥で塗りこめて塞いだ「ヤマト式」と呼ばれる竈が普及したのは、明治以降だった。近畿地方の旧家には大小の竈を4,5個連ねた複合かまど「おくどさん」が見受けられる。そのうちで小さなかまどは日常の炊事に用い、端にすえられた大型かまどは、ハレの炊事にのみ使用する。 一方、東日本ではかまどが一度は普及しながらも、囲炉裏が再度卓越し、竈の使用はすたれてしまったところが多かった。緯度が高いために冬が長く、夜が長い東日本、北日本では、暖房用、照明用として家の中央の囲炉裏で常時火が焚かれている。それと別にかまどを設けて調理に使うよりも、炉の火で炊事を行ったほうが燃料の浪費が抑えられるためである。岩手県の山村では、炊事はすべて囲炉裏で行い、飯も釜ではなく鍋で炊く。かまどは「とな」と呼ばれる、牛馬の飼料を煮る目的にのみ使用される。北海道では、7世紀ごろの擦文時代に一度はかまどが普及したものの、次第に廃れた。後のアイヌ民族の民家チセには、大きな囲炉裏のみでかまどが存在しない。調理はシュワッツ(自在鉤)で吊られた鍋で行う。行事や野営などで野外で炊事する際も、石で鍋を支えようとはせず、三脚から鍋を吊る。 日本ではその役割を終えたかまどではあるが、アフリカや東南アジアなどといった紛争や政治的混乱により社会整備が進んでいない国や、また古代さながらの原始的生活をしている民族もおり、これらの人々は戸外で裸火による調理をしている。しかしこれらの国における樹木などの燃料資源は限られ、難民などの形で一極集中が起きた際には、瞬く間に周囲の樹木が乱伐採され枯れ果てるなどの二次的な環境破壊も発生している。 このためそのような地域では、より効率の良い調理手段が求められてもおり、これに応じて現地に日本式のかまどの作り方を伝えるなどといった運動をしているという話も聞かれる。これらでは炭の使用も含めて、森林保護に効果があると評されている模様だ。なお難民など移動が多い場合には、七輪の利用といった運動も聞かれる。(→七輪) 国際協力機構(JICA)に所属しケニア在住の日本人食物栄養学者である岸田袈裟は、1994年に西ケニア州のエンザロ村で、其処にある材料で現地の需要に則して改良した日本式のかまどを作り上げた。これが現地で「Enzaro Jiko エンザロ・ジコ」や 「Kamado Jiko カマド・ジコ」(Jikoはスワヒリ語で「かまど」の意)と呼ばれて、好評を呼んでいるという。彼女は現地家庭の台所事情の調査の傍らや地域援助の際にこのかまど作りを伝え、更にそのかまどの作り方は現地の人々の間で伝え合われている。 このかまどは日干しレンガか石で土台を作り粘土を塗り込み形を整えて作られる。特にお金をかける必要もなく、人の手だけで数時間で作ることが可能で、2週間ほど乾かせば使用できるようになる。裸火を使った従来の炉では1度に1つの料理しか作れなかったが、改良したかまどでは同時に3種類の調理が行えることから主婦達の労力削減になる。また、従来の炉と違ってかがむ必要もなく立ったままで調理ができることから、腰痛も減り、主婦達の健康改善にも役立つ。さらに、薪の消費量が従来の4分の1で済むため、薪を集める時間と労力も節約でき、同時に森林保護にもつながる。従来は生活廃水も流入するような川の水でも沸かして飲むのは難しく、子供達の7人に1人は5歳前に病気で死んでいたが、従来の4分の1の薪で同時に3種類の調理ができる効率の良いかまどの導入によって水の煮沸消毒が容易になり、衛生的な湯冷ましを飲めるようになってからは、子供の死亡率は135人中1人に激減した。エンザロ・ジコは今ではケニアのほかの州や隣国のウガンダにも広がっている。 。 JICAによると、エンザロ・ジコ以外にも同機構の技術協力プロジェクトの派遣先にて日本式かまどを現地にある材料で使いながら伝える活動が行われていると言う。アフリカのマリ・ニジェール・ブルキナファソ・ルワンダ・タンザニアのほか中南米のメキシコ、また南米ではボリビアなどでもかまど作りが伝えられている。こちらはエンザロ・ジコのような石組みに土を塗る方式以外にも煉瓦を利用している地域もあるようで、従来からある煉瓦を流用した簡易炉をかまど風に組み直す活動も見られる。(例:ボリビア) こういった活動は地域の健康を促進するだけではなく、同時に家事に束縛される主婦や燃料調達に追われる子供たちの労働時間が短縮され、これによって農作業に多くの時間をかけられるようになり、地域の農業生産力が向上したり、女性の地位向上、子供の学力向上にも好影響を与えている。 インドなどではタンドールという伝統的なかまどがあり、日本の本格インド料理店などにいくと、このタンドールが実用に供されているところが見られる(→タンドリーチキン・ナン)。 ヨーロッパや西アジア・中東方面では、余熱を使う種類のかまども多い(→石窯)。こちらは火によって調理器具を加熱するのではなく、炉の中でいったん大量の薪などの燃料をくべて石造りの炉自身を加熱、炉が十分に過熱されたところでまだ熱い灰を左右に押しのけ、焼けた石のうえに鍋や金型などの調理器具に食材を載せ、炉内の熱で調理する。これは「薪オーブン」とも呼ばれ、パンやパイを焼くのに適しており、また加熱中は一定以上に過熱されることがないことから放っておけ、また大量調理にも適している(むしろ少量調理には不便である)ため、特に農繁期の労働者に食事を提供するためにも利用され、鍋に入れた料理が冷めないよう保温に利用することもあった。イタリアのピザも本式ではそのような薪オーブンで調理される。 古代ローマではかまどの女神(ウェスタ)もおり、かまどの火が消えないように管理する巫女(ウェスタの処女)も存在した。沖縄では、「ヒヌカン」(火の神)のご神体は、かまどの基本形である3つの石である。 イギリスではベンジャミン・トンプソンが19世紀後半に炙り焼きによる味と栄養の損失と、「うまくすれば優に50人分以上の夕食が作れるほどの燃料を使って、やかんの湯をわかすことがよくある」と評したかまどの熱効率の悪さと、その燃料の木炭から出る有害ガスに対処しようと、彼の爵位をとって『ランフォードのかまど』(en)と呼ばれる窯を作成した。これはミュンヘンの貧民収容施設等に設置されたが、オーブンと直火による炙り焼き(ロースト)を厳格に区別する西洋においてはオーブンと見做され、炙り焼きを好むイギリス文化圏では受け入れられなかった。 ^ 浅川滋男 『住まいの民族建築学』、1994年、138-139頁。 ^ a b c d 浅川滋男 『住まいの民族建築学』、1994年、139頁。 ^ 浅川滋男 『住まいの民族建築学』、1994年、139-140頁。 ^ 浅川滋男 『住まいの民族建築学』、1994年、140頁。 ^ そこが知りたい家電の新技術ナショナル「大火力竈釜」 ^ http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h22/05/leader_01.html ^ 考古学では、現在の竈と区別して、竈の機能を持つものという意味合いで、慣例的にカタカナ表記を用いる。 ^ 吹田市文化財ニュース2005.3.31“アーカイブされたコピー”. 2007年11月14日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年3月13日閲覧。 ^ カマドの断面図 Archived 2016年3月10日, at the Wayback Machine. あびこ電脳考古博物館 ^ さくまゆみこ文・沢田としき絵 『エンザロ村のかまど』東京 福音館書店、2009年、ISBN 9784834024494 、14-31頁 ^ ケニアの人たちと友だちになるために Archived 2009年6月24日, at the Wayback Machine. 日本児童図書出版協会 ^ Wilson, Bee 『キッチンの歴史:料理道具が変えた人類の食文化』 真田真由子訳、河出書房新社、2014年1月30日(原著2012年)、122-125頁。ISBN 9784309022604。 台所 釜 焜炉 七輪 蒸しかまど Big Green Egg(英語版) 鍋(羽釜、鍔釜) かまど神 荒神 三宝荒神 土公神 ヘスティアー ウェスタ カマドウマ - かまどの周辺で見かけることから名がついた昆虫", "ボーフラは、湯沸かし道具の一つで、土瓶の一種。主に煎茶道の手前で使う。 流派によって「保夫良」「保宇夫良」の当て字を使ったり、また「湯缶」「湯瓶」「湯沸」とも言う。「ボーブラ」という流派もある。 この名称は、形状がカボチャの実と似ていたために、元々はポルトガル語で「カボチャ」を意味していた単語「abobora」が転用されたという説が有力である。 見た目は急須に似ているが、胴が張り出しまるまるとしているのが特徴である。また、直接火に掛ける道具のため、材質は素焼きの陶器であり磁器製はない。 大別して 上手式:持ち手が上についている物 横手式:持ち手が横について射る物 に分けられる。上手式は大型の物が多く瓶掛(小型火鉢)に、横手式は涼炉に合わせることが多い。 茶道では釜あるいは鉄瓶など、金属製の湯沸かしを使うことがほとんどだが、煎茶道では「金属製の湯沸かしは茶の味が壊れる」として極力避ける傾向があり、土瓶、とくにボーフラを使って沸かした湯を尊重する。起源となった中国茶では現在もっぱら金属製(主にステンレス製)や耐熱ガラス製やかんを使うのとは対照的である。 煎茶の他の道具と同様中国伝来の道具であり、現在でも明・清時代に渡来した伝世品は高値で取り引きされ、珍重されている。特に文政年間に輸入された物は「文政渡」と称され、珍品とされる。「文政渡」の物は土質が良いためか、非常に薄く、まるで紙で作ったやかんを持っているかのようであるという。また表面も素焼きと思えないほど艶があるという。 ボーフラも他の煎茶器同様に国産化されたが、土質の関係で分厚く重い物が多く、渡来品に比べて安物とされる。 『煎茶の世界 しつらいと文化』(雄山閣、ISBN 4-639-01424-4)", "炭(すみ)とは、狭義には、有機物が蒸し焼きになり炭化することで得られる、炭素を主成分とする可燃物である。製品である、木炭、竹炭、ヤシガラ炭などは、燃料などに使われる。 広義には炭素を主成分とする燃料全般を意味し、石炭、泥炭などや、石炭製品の練炭、コークスなども含む。 ここでは主に狭義の炭について述べる。 有機物を、不完全燃焼させることでできる。空気が少ないところで加熱すると、300℃くらいから急激に組織分解を始め、二酸化炭素などの揮発分がガスとなって放出される。詳細は炭素、木炭を参照すること。 薪への酸素の供給が不十分だったり、あるいは料理を過熱しすぎたりして、意図せず炭になることもある。 日本では古くは平安時代から、戦後、石油やガスなどへ燃料が転換する高度成長期頃までの長年にわたり、産業分野や一般家庭でも普通に用いられる燃料だった。 薪炭(「しんたん」と読む)という単語はポピュラーであり、薪や木炭の供給源としての「薪炭林」、厳冬地では「薪炭手当」という言葉も使われていた。町中には薪炭店/薪炭商があり、家庭で日々使われる木炭、練炭類、薪などを販売していた。 1879年、トーマス・エジソンは、木綿の炭を材料にして電球を発明した。 現在、家庭での日々の燃料としての用途よりも、キャンプやバーベキューなどのレジャーや、茶道など趣味性の分野で使われており、業務用としては炭火焼をセールスポイントとしている飲食店での利用が多い。 アジア各地やアフリカで製材の際に出る廃棄物として捨てられていたおが屑やヤシ殻、ピーナッツ殻は日本の技術指導によりオガ炭などの成形木炭を生産する工場も現れ資源の有効利用として活用されている。 2000年代後半以降、原油価格の高騰もあり、バイオマス燃料の一つとして見直されてきている。 炭素 炭化水素 木炭 竹炭 花炭 グラファイト(黒鉛) 人造黒鉛 炭団 灰 ダイヤモンドライクカーボン ^ http://xn--y7y688a.jp/yamasen/charcoal/work.html" ]
ABC01-02-0126
代表作に『銀河帝国の興亡』や『わたしはロボット』があり、「ロボット工学の3原則」を提唱したことでも知られるロシア生まれのアメリカのSF作家は誰でしょう?
アイザック・アシモフ
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[ "アイザック・アシモフ", "A・E・ヴァン・ヴォークト", "C・L・ムーア", "H・ビーム・パイパー", "ポール・アンダースン" ]
[ "アイザック・アシモフ(Isaac Asimov、1920年1月2日 – 1992年4月6日)は、アメリカの作家、生化学者(ボストン大学教授)である。その著作は500冊以上を数える。彼が扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、デューイ十進分類法の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。 日本語では「アシモフ」と「アジモフ」などの片仮名表記があり、前者での表記が一般的であるが、本人が望んでいた読みは後者の発音に比較的近い[ˈaɪzək ˈæzɪmɒv]である。 ジュブナイル作品ではポール・フレンチという筆名を用いた。1942年発表のSF短編 Time Pussy では George E. Dale という筆名を用いた。1971年の著書 The Sensuous Dirty Old Man では Dr. A という筆名を用いた。 アシモフは1920年1月2日、当時のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のペトロヴィッチにおいて、父ユダ・アジモフ (Judah Azimov、Judah Ozimov) と母アンナ・レイチェル (Anna Rachel Azimov、Anna Rachel Ozimov) の間にユダヤ系ロシア人イサアーク・ユードヴィチ・オジモフ (Исаак Юдович Озимов) として生まれた。生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない。ソビエト連邦成立後、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリンで育った。10歳のころ、SF雑誌『アメージング・ストーリーズ』によりSFファンとなる。本人によれば、父親の経営するキャンデーストア(英語版)にはパルプ・マガジンが置いてあったが、アシモフはこれらに興味を持ったものの読むことを許されなかったため、アシモフは雑誌名に「サイエンス(科学)」の語が含まれることから教育的なものであると父親を説き伏せ、彼の了承を得ることに成功したという。 家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を飛び級で卒業して1935年に15歳でコロンビア大学へ入学した。1938年に初めての作品をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、採用はされなかったが編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった。1939年には『アメージング』誌に「真空漂流」が掲載され作家としてデビューした。 1939年にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大学大学院で化学を専攻した。この頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』など初期の代表作を発表しているが、当時はまだSF自体の社会的地位や市場規模が限られていたこともあり専業作家になることは全く考えておらず、大企業に就職して高給取りの研究員となることを目指していた。1942年にはガートルードという女性と結婚、第二次世界大戦の勃発を理由に大学院を休学し、フィラデルフィア海軍造船所に技術者として勤務した。ここでは予備役の技術士官として勤務していたロバート・A・ハインラインとL・スプレイグ・ディ・キャンプに出会った。終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁でのクロスロード作戦に技術兵として加えられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9か月で除隊した。 1946年に大学院に復学し、1948年には博士号を取得したものの就職口は得られず、コロンビア大学で1年間博士研究員を務めた後に、1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となった。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった。この頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加し、1950年にダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化やアンソロジーへの再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて印税でも収入を得られるようになった。1953年から1954年にはSFミステリ『鋼鉄都市』を発表した。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになり、講演者としての活動も行うようになった。 1955年に准教授となり終身の在職権を得たが、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた。既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった。1979年7月、ボストン大学教授に昇任する。 1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが、1970年から妻子と別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医のジャネット・ジェプスン(後にSF作家)と再婚した。アシモフとジャネットはノービー (Norby) シリーズなどの共著を残している。 アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり、科学を概観した『知識人のための科学入門』 (The Intelligent Man's Guide to Science) が1961年の全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされ、1965年にはアメリカ化学会から化学についての報道を表彰するジェイムズ・T・グラディー賞(英語版)を受賞した。1962年にメンサの会員になったが数年後に退会した。1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行した。その際、同じくメンサ会員で親睦の深かったアーサー・C・クラークと再会し、共に講演に参加している。 1970年ごろから『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にて純粋なミステリの『黒後家蜘蛛の会シリーズ』の連載を開始した。SFでは1972年に久々の長編である『神々自身』を出版し、ヒューゴー賞 長編小説部門とネビュラ賞 長編小説部門を受賞した。1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆したファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『ファウンデーションの彼方へ』がベストセラーとなり、以後再びSF長編を執筆し、同シリーズとロボットシリーズを統合した。 アシモフは1992年4月6日に没した。死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVに汚染されていたことが原因である。アシモフの死因は、彼の死から10年後に出版されたジャネット夫人の自伝 It's Been a Good Life (我が良き生涯)で明らかにされた。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した。 アシモフは自伝の中で英語とイディッシュ語の2つの言語が使えると述べているが、イディッシュ語による作品は残していない。すべての著作は英語で行われた。 作家としての地位を確立し、著作からの収入で裕福になってからも「仕事中毒」であり、贅沢をしたり余暇を楽しむことは少なかった。アシモフ自身は、父の自営する店で幼い頃から働いた影響であると自己分析している。飛行機嫌いで、その生涯で飛行機を利用したのは2度のみである。そのため遠くへ行くことは少なかったが、東海岸の各地で講演を行った。自宅近辺で開催される世界SF大会にはよく参加し、他の作家やファンと陽気に交流を楽しんだ。普段と同様に女性に対して飛びついたりしたが、相手がマジメに返すと驚いて引き下がる、などのエピソードも残っている。また、ハーラン・エリスンなどとは過激なやりとりを楽しんだ。狭くて閉ざされた空間をこよなく愛する閉所愛好家(閉所恐怖症の逆)でもあり、地下室や屋根裏部屋でタイプライターに向かう時間が無上の喜びだったと自ら語っている。 アシモフは人道主義者で、アメリカ人道主義協会(英語版)の会長を務めた。かつ合理主義者だった。純粋な信仰心に反対することはなかったが、超常現象や根拠のない思想に対しては断固とした態度を貫いた。アシモフは疑似科学の科学的な調査・批判を行う団体、サイコップの創立者の一人である。 ほとんどの政治的問題においては進歩的な態度をとっており、若い頃から一貫して民主党の強い支持者だった。1970年代初期のテレビのインタビューでは公然とジョージ・マクガヴァンを支持した。1960年代後期以降に急進的な政治活動家によって採られていた、アシモフにとっては「非合理主義的」な物の見方を不満に思っていた。第2の自伝 In Joy Still Felt の中で、アシモフはカウンターカルチャーの象徴であったアビー・ホフマンとの会合を回想している。アシモフの受けた印象は、この1960年代のカウンターカルチャーの英雄は感情の波に乗り、最後に「思想の中立地帯」で座礁させられたようであり、彼らはそこから二度と戻ってはこないのだろうか、といぶかしむものであった。アメリカのSF界を2つに割ったベトナム戦争への賛成・反対問題については反対派についた。また、1960年代の半ば、ソ連のSF評論家たちがアメリカSFを「社会の進歩を信じていない」と批判した際、ポール・アンダースンは共産主義の欺瞞をついた激しい反論を行ったが、ソ連からの移民でもあるアシモフははっきりとした政治的態度を取らなかった。 このほか、ポール・エルリッヒ(英語版)によって発表された将来の見通しを受けて、多くの著作で人口管理の重要性を訴えた。彼の最後のノンフィクションの著作は Our Angry Earth (怒れる地球、1991年、SF作家フレデリック・ポールとの共著)であり、この中で彼は地球温暖化やオゾン層の破壊といった環境危機について論じている。 メンサの会員として非常に有名であり副議長まで務めていたが、メンサへの参加には消極的であった。一部の攻撃的である会員に対してあまり良い感情を抱いていなかったこともあり、一時期脱退したが、後に復帰しメンサの講演のためにイギリスへと旅行した。アシモフは同じく会員であったマービン・ミンスキーとカール・セーガンの2人に関して、アシモフ自身よりも知的であると認めている。 彼の栄誉をたたえ、その名を冠したものとして、(5020) アシモフという小惑星、アシモフという火星のクレーター、SFのアイザック・アシモフ賞がある。また出身の高校も現在(2013年)はアイザック・アシモフ高校という名前になっている。東京大学で2003年に開発された、起き上がり動作に特化したロボットが、アシモフの小説に登場するロボットR・ダニール・オリヴォーと同じ「Rダニール」と名付けられた。世界初のロボットスーツHALを開発した山海嘉之はアシモフの影響を受けている。本田技研工業の人型ロボットASIMOは名前の綴りがアシモフと似ているが(最後の \"V\" がない)、開発者はまったく関係はないとしている。アシモフはロボット工学を造語したが、「ロボット工学の父」と呼ばれることもあるジョセフ・F・エンゲルバーガー博士はアシモフに影響を受けていた。 アシモフは、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインと合わせて三大SF作家 (The Big Three) と呼ばれる(日本では「(海外)SF御三家」)。SFの分野でヒューゴー賞を7回、ネビュラ賞を2回、ローカス賞を4回受賞している。 10代の頃からSFファンであり、『アスタウンディング』誌の読者欄に書評を投稿したりSFのファンダムに参加していた。1938年に初めての商業作品をアスタウンディング誌へ持ち込んでから、編集者のジョン・W・キャンベルの指導の下で実力をつけていき、クリフォード・シマックやロバート・ハインラインらとともに、いわゆる「アメリカSFの黄金時代」を作り上げた。アシモフはキャンベルと個人的にも親しくなり、その影響を強く受けた。 キャンベルの発案で書かれ出世作となった短編「夜来たる」(Nightfall, 1941年)は Bewildering Stories 第8号で「もっとも有名なSF短編」の一つとして挙げられている。また、1968年アメリカSF作家協会(現アメリカSFファンタジー作家協会)による投票でも「これまでに書かれた最高のSF短編」に選ばれている。彼は短編集『夜来たる』 (Nightfall and Other Stories) の中で次のように述べている。 『夜来たる』は、わたしのプロ作家としての経歴の中で、一つの転換点となった作品である(中略)突然、私は重要な作家と見なされ、SF界が私の存在に注目するようになった。何年か後には、わたしはいわゆる\"古典\"を書いたことがはっきりした。 — アイザック・アシモフ、『夜来たる』 短編小説以外にもSF雑誌に「チオチモリンの驚くべき特性」(The Endochronic Properties of Resublimated Thiotimoline, 1948年)という科学論文のパロディーを書いた。ペンネームが用いられるはずが博士号の口述試験の直前に実名で掲載されたためにアシモフは不合格とされることを心配したが、試験には合格した。 ファウンデーションシリーズやロボットシリーズの初期作品にもキャンベルは深く関わっており、多大な影響を及ぼした。 その後就職のためニューヨークを離れボストンに転居したこと、キャンベルがダイアネティックスなどの疑似科学に傾倒していったことから二人は疎遠となり、折しもアスタウンディング誌に代わって台頭してきた『ギャラクシー』誌のホーレス・ゴールド(英語版)編集長、『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』 (F&SF) 誌のアンソニー・バウチャー、ロバート・P・ミルズ(英語版)両編集長との関係を深めた。前者は長編『鋼鉄都市』、後者は F&SF 誌の科学エッセイシリーズに関わることとなった。 アシモフの代表的SFシリーズであるファウンデーションシリーズは、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をヒントにした、未来の宇宙における巨大な銀河帝国の崩壊と再生の物語である。 1942年に第一作『ファウンデーション』がアスタウンディング誌に掲載、以後1949年まで中短編の形で同誌で発表され、のちに『ファウンデーション』(1951年)、『ファウンデーション対帝国』(1952年)、『第二ファウンデーション』(1953年)の3冊にまとめられた。現在は「初期3部作」と呼ばれるこの3冊は、1966年にヒューゴー賞過去最優秀長編シリーズ賞を受賞した。 1982年、ファンや編集者の続編を求める声に抗えなくなったアシモフは、新作『ファウンデーションの彼方へ』を発表、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ねると共に、1983年のヒューゴー賞長編小説部門を受賞した。以後その続編『ファウンデーションと地球』(1986年)、時代をさかのぼりハリ・セルダンの半生を描いた『ファウンデーションへの序曲』(1988年)、『ファウンデーションの誕生』(1992年)が書かれ、ロボットシリーズとの世界観の融合もなされた。 アシモフの死後、SF作家グレゴリー・ベンフォード、デイヴィッド・ブリン、グレッグ・ベアの3人が続編として『新・銀河帝国興亡史』3部作 (Second Foundation trilogy) を発表した。 ロボットものもファウンデーション3部作と同じ頃に書き始められた。その多くは後に短編集『われはロボット』(I, Robot, 1950年)、『ロボットの時代』(1964年)として出版された。この作品群により、ロボット・人工知能の倫理規則(いわゆるロボット工学3原則)が世に広められた。この規則は、他の作家や思想家がこの種の話題を扱うに際して大きな影響を与えている。また中編『バイセンテニアル・マン』(1976年)は1977年のヒューゴー賞 中編小説部門と1977年のネビュラ賞 中編小説部門、ローカス賞 長篇部門を受賞し、1999年にロビン・ウィリアムズ主演で映画化された(日本では『アンドリューNDR114』のタイトルで公開)。 一連の作品は、ロボットが一見して三原則に反するような行動を取り、その謎を解決するというミステリ仕立ての作品が多く、中でも長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』は、3原則の盲点を利用した巧妙な殺人トリックを描いたSFミステリの傑作としても知られている。 ファウンデーションとロボットの2つの潮流は、『ロボットと帝国』(1985年)によってひとつの未来史としてまとめられた。また没後に『アンドリューNDR114』および『アイ,ロボット』の2本の映画が公開されている。 1958年にボストン大学を辞して専業作家となったアシモフだが、増加した執筆時間は専らノンフィクションの分野に向けられることとなり、SFの執筆量はかえって激減した。それでも(何とか彼にSFを書かせようという編集者の努力もあって)短編を中心に年に数作は書いており、ファンの「何故SFを書くのを止めたのか」との問いにも「決して止めてはいない」と繰り返し答えている。 アシモフはテレビ番組化されることを期待して、『天狼星の侵略』(1952年)などジュヴナイルの長編小説「ラッキー・スター」シリーズを執筆、この際に低品質なテレビ番組になる場合を懸念してポール・フレンチという筆名を用いた。結局TV化は実現せず、後期の作品ではロボット工学三原則を出すなどして自ら正体を示唆し、再版時には実名に戻している。 アシモフは「編集をせずとも、自動的に収録される作品が決まる」アンソロジーである『ヒューゴー賞傑作集』の形式上の「編者」として、収録各作品の前にユーモラスなエッセイを書いた。これは、アシモフがその時点でヒューゴー賞を受賞していなかったために「編者」に選ばれたのだが、1963年にSF雑誌F&SFの科学のコラムによる功績で初めてヒューゴー賞を受賞した後もひきつづいて「編者」を務めた。さらに異星人とセックスの要素を含む『神々自身』(1972年)でヒューゴー賞 長編小説部門とネビュラ賞 長編小説部門を受賞した。1992年の「ゴールド-黄金」でもヒューゴー賞 中編小説部門を受賞した。 1977年には彼の名前を冠したSF雑誌「アイザック・アシモフズ・サイエンス・フィクション・マガジン Isaac Asimov's Science Fiction Magazine 」が創刊された(現在の誌名は「アシモフズ・サイエンス・フィクション Asimov's Science Fiction 」)。アシモフ自身は編集には関わっていなかったが、巻頭のエッセイと読書投稿欄のコメントを担当していた。 マーティン・H・グリーンバーグらと共同編集のアンソロジーも多数(グリーンバーグとの共同編集は127作)発表しており、ユーモラスな前書きを書いてそれらのアンソロジーに花を添えている。なお、グリーンバーグとの最初の共同編集アンソロジーである『三分間の宇宙』は、グリーンバーグらがすでに選択済である、2倍の数の作品を、アシモフが半分にしぼる方法で作品選択がされた。 他に彼の作品の世界観を元に若手作家が競作する『電脳惑星シリーズ』などのシェアード・ワールド物にも積極的に協力した。 アシモフはしばしばSFにミステリの手法を用いる一方で、純粋なミステリ作品も執筆しており、推理小説作家としても評価を受けている。 純粋なミステリの代表作は『黒後家蜘蛛の会』シリーズである。『黒後家蜘蛛の会』はアシモフも属した実在の「トラップ・ドア・スパイダース」という会をモデルにしている。ほぼ純粋なパズル・ストーリーであり、殺人事件さえめったに起こらない。題材は盗まれた物や遺産を得るための暗号の解読、忘れてしまった地名の推測など、より日常的な問題である。解決には登場人物である給仕ヘンリーの該博な知識が使われる。 『黒後家蜘蛛の会』はすべて短編であり、1972年2月号の『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に第1作「会心の笑い」が発表されてから断続的に合計66作が書かれた。60作は5冊の短編集として出版され(日本語訳あり)、残りの6作はアシモフの死後、The Return of the Black Widowers (2003年)にまとめられた。 アシモフは『ユニオン・クラブ奇談』というシリーズも書いている。これはクラブで語られるパズル・ストーリーである。『黒後家』の名探偵役ヘンリーが人格円満で謙虚な人物であるのに対して、『ユニオン・クラブ』の名探偵役グリズウォルドは傲岸で偽悪的な人物である。しかし両者はともにアシモフに似た人物であり、全体的な構成やトリックも似ている。アイディアを使うという点で2作は競合関係にあって、『ユニオン・クラブ』執筆中は『黒後家』の執筆は進まなかった。 『黒後家蜘蛛の会』『ユニオン・クラブ奇談』シリーズには長編作品はないが、アシモフは長編ミステリーの『ABAの殺人』(1958年)『象牙の塔の殺人』(1976年)を書いた。 アシモフは科学解説者としてもよく知られている。ファンタジー&サイエンス・フィクション誌に連載されていた科学エッセイは400編以上を数え、テーマは物理・天文・化学・生物学・科学史など多岐にわたる。記事はエスクァイア、ハーパーズ(英語版)、サタデー・イブニング・ポストなどにも寄稿した。 1954年に出版した10代向けの生化学の本『生命の化合物』 (The Chemicals of Life) 以来、アシモフは大衆向け・子供向けの科学の本も執筆した。1957年、ソ連がアメリカに先駆けて初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げると、いわゆるスプートニク・ショックによってアメリカ国内で科学に対する関心が高まり、一般向けの科学解説書の需要が急増した。アシモフはこれに応える形で多数の科学解説書を執筆し、ノンフィクションに執筆活動の中心を移して行く契機となった。 科学全般について大衆向けに書かれた『知識人のための科学入門』(The Intelligent Man's Guide to Science, 1960年)はニューズウィーク等の書評から好評を受け、全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされた。アシモフはこの本によって科学の解説者としての地位を向上させた。また『宇宙を作る元素』(Building Blocks of the Universe, 1957年)はエジソン財団賞を、血液についての著作『生きている川』(The Living River, 1960年)はアメリカ心臓協会のハワード・W・ブレイクスリー賞を、それぞれ受けた。さらに、1967年にはアメリカ科学振興協会から科学の著述における功績でウェスティングハウス賞を与えられている。 アシモフは2冊の『アシモフの聖書入門』 (Asimov's Guide to the Bible) を著した。第1巻(1967年)は旧約聖書を、第2巻(1969年)は新約聖書をそれぞれ扱っている。後にこの本は1295ページの1冊の本にもまとめられた。この本では、聖書に記述されている事件、人物や場所について、冒涜も妄信もせずに科学的な観点からの解説や考察を行っている。 そのほか、科学以外の分野では歴史の解説やシェイクスピアなどの文学の解説、趣味である滑稽五行詩(リメリック)についての著作も残した。 彼はまた、3冊の自伝、すなわち In Memory Yet Green (1979年、『アシモフ自伝I』)、In Joy Still Felt (1980年、『アシモフ自伝II』)、I, Asimov: A Memoir (1994年)も書いている。この自伝は非常に大分量のもので、アシモフの生涯のできごとや作品と、それによる収支まで詳細に書かれたものである。 3番目の自伝、I, Asimov: A Memoir は1994年4月に出版された。この本のエピローグは彼の死のあとまもなく、彼の後妻であるジャネット・アシモフによって書かれたものであり、1995年のヒューゴー賞ノンフィクション部門を受賞した。他にも『木星買います』『アシモフ初期作品集』などのSF短編集でも、収録作品の前書きに代えて執筆当時の自身の状況を詳細に記している。 他にも彼の日ごろからの社会的主張もいくつかのエッセイにまとめられている。『考えることを考える』(Thinking About Thinking, 1967年)、『科学:プラスチックをたたく』(Science: Knock Plastic, 1967年)など。 また彼は、自身の著作が100冊、200冊、300冊にそれぞれ到達した際に、それまでの著書の内容から選別した本、Opus 100 (1969), Opus 200 (1979), Opus 300 (1984) を刊行しており、Opus 200 は『アシモフ博士の世界』として日本語訳されている。 長編 1950年 - Pebble In The Sky (『宇宙の小石』) 1951年 - The Stars, Like Dust (『暗黒星雲のかなたに』) 1951年 - Foundation (『ファウンデーション』) 1952年 - Foundation and Empire (『ファウンデーション対帝国』) 1952年 - The Currents of Space (『宇宙気流』) 1953年 - Second Foundation (『第二ファウンデーション』) 1954年 - The Caves of Steel (『鋼鉄都市』) 1955年 - The End of Eternity (『永遠の終り』) 1957年 - The Naked Sun (『はだかの太陽』) 1966年 - Fantastic Voyage (『ミクロの決死圏』) 1972年 - The Gods Themselves (『神々自身』) 1982年 - Foundation's Edge (『ファウンデーションの彼方へ』) 1983年 - The Robots of Dawn (『夜明けのロボット』) 1985年 - Robots and Empire (『ロボットと帝国』) 1986年 - Foundation and Earth (『ファウンデーションと地球』) 1987年 - Fantastic Voyage II: Destination Brain (『ミクロの決死圏 2 - 目的地は脳』) 1988年 - Prelude to Foundation (『ファウンデーションへの序曲』) 1989年 - Nemesis (『ネメシス』) 1993年 - Forward the Foundation (『ファウンデーションの誕生』) 短編集 1950年 - I, Robot (『われはロボット』) 1955年 - The Martian Way and Other Stories (『火星人の方法』) 1957年 - Earth Is Room Enough (『地球は空き地でいっぱい』) 1959年 - Nine Tomorrows (『停滞空間』) 1964年 - The Rest of the Robots (『ロボットの時代』) 1968年 - Asimov's Mysteries (『アシモフのミステリ世界』) 1969年 - Nightfall and Other Stories (『夜来たる』『サリーはわが恋人』) 1972年 - The Early Asimov (アシモフ初期作品集『カリストの脅威』『ガニメデのクリスマス』『母なる地球』) 1975年 - Buy Jupiter and Other Stories (『木星買います』) 1976年 - The Bicentennial Man and Other Stories (『聖者の行進』) 1982年 - The Complete Robot (『コンプリート・ロボット』) 1983年 - The Winds of Change and Other Stories (『変化の風』) 1988年 - Azazel (『小悪魔アザゼル18の物語』) 1995年 - Gold (『ゴールド-黄金』) 1996年 - Magic ロバート・シルヴァーバーグによる長編化作品 1990年 - Nightfall (『夜来たる (長編版)』) 1991年 - The Ugly Little Boy (『停滞空間』の長編化) 1992年 - The Positronic Man (『アンドリューNDR114』) ジュヴナイル ポール・フレンチ名義 1952年 - David Starr, Space Ranger (『天狼星 (シリウス)の侵略』) 1953年 - Lucky Starr and the Pirates of Asteroids (『小惑星 (アステロイド)の海賊』) 1954年 - Lucky Starr and the Oceans of Venus 1956年 - Lucky Starr and the Big Sun of Mercury (『水星基地のなぞ』) 1957年 - Lucky Starr and the the Moons of Jupiter (『木星のラッキースター』、『九号衛星のなぞ』の2種) 1958年 - Lucky Starr and the Rings of Saturn (『太陽系の侵入者』) ジャネット・アシモフとの共著 1983年 - Norby, the Mixed-up Robot 1984年 - Norby's Other Secret 1985年 - Norby and the Lost Princess 1985年 - Norby and the Invaders 1986年 - Norby and the Queen's Necklace 1987年 - Norby Finds a Villain 1988年 - Norby Down to Earth 1989年 - Norby and Yobo's Great Adventure 1990年 - Norby and the Oldest Dragon 1991年 - Norby and the Court Jester 長編 1958年 - The Death Dealers (後に A Whiff of Death に改題、『象牙の塔の殺人』) 1976年 - Murder at the ABA (『ABAの殺人』) 短編集 1974年 - Tales of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会1』) 1976年 - More Tales of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会2』) 1980年 - Casebook of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会3』) 1983年 - The Union Club Mysteries (『ユニオン・クラブ綺談』) 1984年 - Banquets of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会4』) 1986年 - The Best Mysteries of Isaac Asimov 1990年 - Puzzles of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会5』) 2003年 - The Return of Black Widowers 1954年 - The Chemicals of Life (『生命の化合物』) 1956年 - Inside the Atom (『原子の内幕 - 百万人の核物理学入門』) 1957年 - Only a Trillion (『たった一兆』) 1958年 - The World of Nitrogen (『窒素の世界』) 1960年 - The Intelligent Man's Guide to Science 1960年 - The Living River 1962年 - Life and Energy 1963年 - View from a Height (『空想自然科学入門』) 1963年 - From Earth to Heaven (『地球から宇宙へ』) 1964年 - The Human Brain (『脳 - 生命の神秘をさぐる』) 1964年 - Adding a Dimension (『次元がいっぱい』) 1964年 - Asimov's Biographical Encyclopedia of Science and Technology, Doubleday (1982年改訂、『科学技術人名事典』 皆川 義雄 (訳) 共立出版、1971年) 1965年 - Of Time and Space and other things (『時間と宇宙について』) 1965年 - A Short History of Chemistry (『化学の歴史』) 1966年 - The Neutrino (『ニュートリノ』) 1967年 - Is Anyone There? (『生命と非生命のあいだ』) 1968年 - Science, Numbers and I 1969年 - Opus 100 1969年 - Twenty Century Discovery (『発見、また発見!』) 1971年 - The Stars in their Courses (『わが惑星、そは汝のもの』) 1974年 - Of Matters Great and Small (『アジモフ博士の極大の世界・極小の世界』) 1974年 - Our World in Space 1976年 - The Planet that Wasn't (『存在しなかった惑星』) 1978年 - Quasar, Quasar, Burning Bright (『輝けクエーサー』) 1979年 - Isaac Asimov's Book of Facts (『アシモフの雑学コレクション』 星新一(編訳)) 1979年 - The Road to Infinity (『アジモフ博士の地球・惑星・宇宙』) 1979年 - Opus 200 (『アシモフ博士の世界』) 1981年 - Change! (『変わる!』) 1981年 - Views of the Universe 1982年 - The Sun Shine Bright (『アジモフ博士の輝け太陽』) 1983年 - Counting the Eons (『アジモフ博士の地球の誕生』『アジモフ博士の宇宙の誕生』) 1984年 - X Stands for Unknown (『未知のX』) 1984年 - Opus 300 1985年 - Asimov's Guide To Halley's Comet (『アジモフ博士のハレー彗星ガイド』) 1985年 - The Subatomic Monster (『素粒子のモンスター』) 1986年 - The Dangers of Intelligence and other science essays (『真空の海に帆をあげて』) 1987年 - Far as Human Eye Could See (『見果てぬ時空』) 1988年 - The relativity of Wrong (『誤りの相対性』) 1989年 - Asimov's Chronology of Science and Discovery, Harper & Row (『アイザック・アシモフの科学と発見の年表』 小山慶太・輪湖博(訳) 丸善、1992年) 1990年 - Out of the Everywhere (『人間への長い道のり』) 1991年 - The Secret of the Universe (『宇宙の秘密』) 1991年 - Asimov's Chronology of the World, HarperCollins (『アイザック・アシモフの世界の年表』 川成洋(訳) 丸善、1992年) 1995年 - Breakthroughs in Science (『アシモフの科学者伝』〈地球人ライブラリー〉 木村繁(訳) 小学館、1995年) ^ 唯一の例外は1類「哲学および心理学」である。ただし、1類に分類される The Humanist Way の序文を執筆している。 ^ Asimov の発音については自伝に has-him-of のエピソードが掲載されている。『アシモフ自伝I』 上巻31頁には、has, him, of の3つの簡単な英単語から2つの h を抜くと Asimov の発音になるという記述がある。さらに同書30頁には Asimov の s は発音としては z である旨の記述もある。これらより、本人が考えている発音をカタカナで表記すると アジモヴ の方がより近いと考えられる。しかし日本語において著者名としてアジモヴあるいはアジモブという表記をとっている書籍は国立国会図書館にはない。アシモフ自身が日本語仮名表記で「アジモフ」の表記を要求した事実はなく、日本ではアシモフの著作が紹介された当初から「アシモフ」の表記が定着している。 ^ ロシア語には強勢のないOをAと読む発音規則があり、読み方は「アジモフ」のほうが近い。 ^ 早ければ1919年10月4日の可能性もある。 ^ 本田技研は、ASIMOは Advanced Step in Innovative Mobility のアクロニムであると説明している。バクロニムも参照。 ^ 日本の映画史家の四方田犬彦はアシモフのこの例にならい、自身の100冊目の著書として自選集『濃縮四方田』を刊行した。 ^ アシモフ (1983)、上巻263–264頁。 ^ a b Krystek, Lee (2007年). “Revisiting the Big Three: Isaac Asimov”. Notes from Curator's Office. 2011年9月25日閲覧。 ^ Seiler, Edward; Jenkins, John H. (2008年6月27日). “Isaac Asimov FAQ”. Isaac Asimov Home Page. 2008年7月2日閲覧。 ^ Server, Lee (2002). Encyclopedia of Pulp Fiction Writers. New York: Facts on File. p. 17. ISBN 0816045771.  ^ アシモフ (1983)、下巻340頁。 ^ Smith, Stephen (2006). An Inkwell of Pen Names. Bloomington: Xlibris. p. 27. ISBN 1425728243.  ^ Asimov, Isaac (1972). The early Asimov. New York: Doubleday. p. 371. ISBN 0345325907.  ^ White (2005), p. 207. ^ a b Gunn (1996), p. 4; Campbell (1991), p. 4. ^ a b Touponce (1991), p. xi. ^ Peach, A. R. (2011). Totalitarianism. Maryville: Dogwood. p. 243. 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E. van Vogt\" と題した節で『非Aの世界』を「ことによるとこれまで出版された中で最悪の大人向けSF小説」だとしている。ナイトはヴァン・ヴォークト作品全般について次のように述べている。 一般にヴァン・ヴォークトは私から見ると次のような基本的な点で作家として失敗している。第一に彼のプロットは検証に耐えない。第二に彼の言葉の選び方や文の構造は手探りであって無自覚である。第三に彼は光景を視覚化できないし、人物もリアリティに欠ける。 ナイトはこのエッセイでヴァン・ヴォークトについて「全く偉大ではない。彼は巨大なタイプライターを操作することを学んだ小人だ」と結論している。 ジョン・W・キャンベルの書簡集の中で、キャンベルは「奴は最初の一文であなたをつかまえ、一文ごとに目をひきつけ、最後まであなたを離さないだろう」と書いている。 ハーラン・エリスンは10代のころにヴァン・ヴォークトを読み始めたが、「ヴァンは宇宙や人類についての考え方を教えてくれた最初の作家」だと記している。 大原まり子は『武器製造業者』を自身の考えるベストSFとしてあげ、「私はこの小説から、政治、歴史、恋愛について学んだ。豪華絢爛なSF、まさにSF!」と記している。 2012年には彼の名を冠したA・E・ヴァン・ヴォークト賞がカナダで創設された。 スラン SLAN, 1946年 武器製造業者 The Weapon Makers, 1947年 The Book of Ptath 1947年 非Aの世界 The World of Null A, 1948年 宇宙船ビーグル号の冒険 The Voyage of the Space Beagle/Mission:Interplanetary, 1950年 ロボット宇宙船 The House That Stood Still、1950年(The Mating Cry、1960) イシャーの武器店 The Weapon Shops of Isher, 1951年 宇宙嵐の彼方 The Mixed Man/Mission to the Stars, 1952年 宇宙製造者 The Universe Maker, 1953年 惑星売ります Planets for Sale, 1954年(E・メイン・ハル(夫人)と共著) 非Aの傀儡 The Pawns of Null-A/The Player of Null-A, 1956年 The Mind Cage、1957年(The Great Judge(1948)の長編化) Siege of the Unseen、1959年 The War Against the Rull、1959年(1940–1950発表の6短編のFix-up) Earth's Last Fortress、1960年 銀河帝国の創造 The Wizard of Linn, 1962年 The Violent Man、1962年(非SFのサスペンス小説) 月のネアンデルタール人 The Beast、1963年(Moonbeast、1969) 目的地アルファ・ケンタウリ Rogue Ship, 1965年 The Winged Man、1966年(E・メイン・ハルと共著) The Changeling、1967年 The Silkie、1969年(1964–1967発表の3短編のFix-up) 未来世界の子供たち Children of Tomorrow, 1970年 Quest for the Future、 1970年(1943–1946発表の3短編のFix-up) The Battle of Forever、1971年 The Darkness on Diamondia、1972年 Future Glitter、 1973年(Tyranopolis、1977) The Man with a Thousand Names、 1974年 The Secret Galactics、 1974年(Earth Factor X、1976) Supermind、 1977年(1942 – 1968発表の3短編のFix-up。1965発表「Research Alpha」はジェイムズ・H・シュミッツと共作) The Anarchistic Colossus、 1977年 Renaissance、 1979年 Cosmic Encounter、 1979年 Computerworld、1983年(Computer Eye (1985)) Null-A Three、1984年 To Conquer Kiber、1985年(フランス語版、ルーマニア語版のみ刊行) 拠点 (The Rull) - 日本オリジナル 地球最後の砦 (Earth's Last Fortress/Masters of Time, 1950) 時間と空間のかなた (Away and Beyond, 1952) 終点:大宇宙 (Destination: Universe!, 1952) 原子の帝国 (Empire of the Atom & Siege of the Unseen, 1959) モンスターブック (Monsters, 1965) 他に短編、エッセイ等あり。 ^ 「(ヴァン・ヴォークトは)パルプ雑誌の要求に迎合しつつも、情緒的インパクトとストーリーの複雑さを追求した」 Clute, John & Nicholls, Peter, ed. The Encyclopedia of Science Fiction. New York: St. Martin's Press, Inc.. p. 1268. ISBN 0-312-13486-X. . ^ 例えば Peter Nicholls は(Clute, John & Nicholls, Peter, ed. The Encyclopedia of Science Fiction. New York: St. Martin's Press, Inc.. p. 199. ISBN 0-312-09618-6. ) 、「キャンベルのSF黄金時代の始まりはピンポイントで1939年の夏ということができる」とし、1939年7月号から内容を論じている。レスター・デル・リー (del Rey, Lester (1979). The World of Science Fiction and Fantasy: The History of a Subculture. New York: Ballantine Books. p. 94. ISBN 0-345-25452-X. ) は「7月号が転換点だった」と記している。 ^ a b c Drake, Harold L. (1989). The Null-A Worlds of A.E. van Vogt. C. Drumm Books. ISBN 093605543X.  ^ a b Knight, Damon (1967). In Search of Wonder. Chicago: Advent.  ^ Alexei Panshin, The Abyss of Wonder, Man Beyond Man, The Early Stories of A. E. van Vogt[リンク切れ]. ^ Charles Platt, Who Writes SF?[リンク切れ] Savoy Books, 1980. ^ 浅倉久志(『地球最後の砦』早川書房 1971年) ^ Beetz, Kirk H. (1996). Beacham's Encyclopedia of Popular Fiction. Beacham Publishing. 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Moore, 1911年1月24日 - 1987年4月4日)は、アメリカ合衆国の小説家、SF作家、ファンタジー作家。本名はキャサリン・ルシール・ムーア(Catherine Lucille Moore)。代表作〈ノースウェスト・スミス〉シリーズなどで人気を博した。夫のヘンリー・カットナーもSF作家であり、夫婦で多くの合作を行なった。 1911年1月24日、インディアナポリスに生まれる。子供のころは身体が弱く、いつも読書ばかりしていて、やがて自分でもお話を作って書くようになる。インディアナ大学に入学したが、世界恐慌をきっかけとして大学を中退し、インディアナポリスの Fletcher Trust Company に秘書として就職。1931年に書店で『アメージング・ストーリーズ』を目にしてSFを書くことを志し、作品を同誌に持ち込んだが没にされ、次作「シャンブロウ」を『ワンダー・ストーリーズ』に持ち込んだが拒絶され、『ウィアード・テイルズ』で採用された。以後このノースウェスト・スミスを主人公とするシリーズは同誌でR・E・ハワードの英雄コナンシリーズと並ぶ人気となる。またこれに続いてジョイリーのジレルを主人公としたシリーズも同誌に発表を始めた。 当初、名前を「C・L」と略すことで性別は隠された。1934年に(発行40部の)同人誌『The Fantasy Fan』」にてムーアが女性であるという事実が明かされ、サム・モスコウィッツ『Seekers of Tommorow』によると、これによりムーアは「SF界において『フランケンシュタイン』の作者M.W.シェリーに次ぐ枢要な女性の地位に置かれることになったのだ」と述べられるようになった。 1936年、当時『ウィアード・テイルズ』の新鋭作家であったヘンリー・カットナーはムーアを男と勘違いしたままファンレターを書き、ロバート・ブロックやフランク・グルーバーを交えた交際ののち、2人は1940年に結婚した。 カットナーとムーアは、結婚前から合作による作品を発表するようになり、結婚後はルイス・パジェット(Lewis Padgett)を初めとする多数の(浅倉久志によると19もの)ペンネームの下に、作風、投稿する雑誌を変えて大量の合作を行なった。この活動は、やもすれば「有望な新人作家が、カットナー夫妻の新しい別名に過ぎないのではないかと疑われる」という珍現象(カットナー・シンドローム)を招いた(ジャック・ヴァンスはカットナー夫妻の別名義と思われた作家の一人である)。パジェットはユーモアものを発表する際によく使用された名義で、この名義での代表作には「ホグベン(Hogben)一家」シリーズがある。カットナーの関与の度合いが薄いものについてはローレンス・オドネル (Lawrence O’Donnell) というペンネームをよく使った。結婚後には単独作は少なく、むしろカットナーの共作者として働いた。カットナー名義の作品の中にもムーアの書いたものが含まれるとも、自身で語っている。 有名な合作作品としては「ボロゴーヴはミムジィ」(2007年の映画『ミムジー 〜未来からのメッセージ〜』の原作)や「ヴィンテージ・シーズン」(1991年の映画『グランド・ツアー』の原作)がある。《ノースウェスト・スミス》シリーズの一編「スターストーンを求めて」も合作している。1956-57年には、「マイケル・グレイ」という精神分析学者が主人公の合作ミステリ小説4作を発表。1957年「新世界の黎明」が最後の長編小説となった。 1958年にカットナーが亡くなると、ムーアはほとんど創作活動をやめ、夫が講師を務めていた南カリフォルニア大学の創作講座を引き継いで4年間勤める。またテレビの脚本に転じ、『マーベリック』『サンセット77』などを書いた。1963年に作家ではないトマス・レジーと再婚すると、完全に執筆をやめ、カリフォルニア州のパサディナに住んだ。 1981年、世界幻想文学大賞生涯功労賞を受賞。 晩年ムーアはアルツハイマー型認知症を患い、1987年4月4日、ハリウッドの自宅で亡くなった。 代表的な作品の一つは犯罪者で冒険家の主人公ノースウェスト・スミスを主人公とする太陽系を舞台にしたシリーズで、もう一つは中世ヨーロッパを舞台に、ジョイリーのジレルを主人公としたファンタジー系の《処女戦士ジレル》シリーズである。後者は「剣と魔法」もののファンタジーとしては最初期の女性主人公の物語だった。 《ノースウェスト・スミス》シリーズで最も有名な作品は「シャンブロウ」で、最初に売れた短編でもある。ウィアード・テイルズ誌1933年11月号に掲載され、彼女はそれで百ドルを手に入れた。幻想的・耽美的な作風を持った「シャンブロウ」は、活劇主体であった当時のSF中では異彩を放っていた。計12編の続編、すなわち《ノースウェスト・スミス》シリーズはムーアの代表作であるとともにスペースオペラのマスターピースのひとつに数えられている。この作品の一つ「スターストーンを求めて」は、作中でスミスの口ずさむ「地球の緑の丘」の歌詞に触発されて、R・A・ハインラインがムーアの許可を得て同名の作品を書いたことでも知られる。 《処女戦士ジレル》シリーズの舞台ジョイリーは、L・スプレイグ・ディ・キャンプによると、14世紀百年戦争の頃のフランス西部の架空の小王国で、ジレルはその女王であり、男を凌ぐ剣の腕と勇猛さを持つ女戦士である。最も有名な作品は「暗黒神のくちづけ」で、ウィアード・テイルズ誌1934年10月号の表紙イラストになっている(イラストレーターは Margaret Brundage)。初期作品は、当時としては珍しい感覚的・感情的な描写が特徴だった。 1940年代にはアスタウンディング誌にも作品を発表した。アスタウンディング誌に掲載したいくつかの短編を集めた短編集 Judgment Night が1952年に出版された。アスタウンディング誌1943年の8月号と9月号に連載された長編で、未来の銀河帝国を舞台とした冒険もの。\"The Code\"(1945年7月号)は、ファウストを現代風に解釈しラヴクラフト的な恐怖で味付けした短編。\"Promised Land\"(1950年2月号)と \"Heir Apparent\"(1950年7月号)は、人類が太陽系に広がっていく際に経験しなければならない試練を描いた短編。\"Paradise Street\"(1950年9月号)は、孤独なハンターと入植者の衝突という西部劇的な物語を未来に置き換えた短編。 《ノースウェスト・スミス》シリーズ:「ノースウェスト・スミス」参照。 《処女戦士ジレル》シリーズ Jirel of Joiry 「暗黒神のくちづけ」Black God’s Kiss 1934年 「暗黒神の幻影」Black God’s Shadow 1934年 「魔法の国」Jirel Meets Magic 1935年 「暗黒の国」The Dark Kand 1936年 「ヘルズガルド城」Hellsgarde 1939年 《長編》 『銀河の女戦士』Judgment Night 1943年 『新世界の黎明』Doomsday Morning 1957年 《短編》 The Bright Illusion 1934年 Great Glories 1935年 Tryst in Time 1936年 Miracle in Three Dimensions 1939年 Fruit of Knowledge 1940年 There shall be Darkness 1942年 Crash by Night 1943年(ローレンス・オドンネル名義(カットナーとの共作でないことは仁賀克雄が手紙でムーアに確認。以下同じ)) Doorway into Time 1943年 The Children’s Hour 1944年 「美女ありき」No Woman Born 1944年 The Code 1945年(ローレンス・オドンネル名義) Vintage Season 1946年(ローレンス・オドンネル名義) Daemon 1946年 Promised Land 1950年(ローレンス・オドンネル名義) Heir Apparent 1950年(ローレンス・オドンネル名義) Paradise Street 1950年(ローレンス・オドンネル名義) Home is the Hunter 1953年 Rite of Passage 1956年 ルイス・パジェット名義の作品は「ルイス・パジェット」参照。 『たそがれの地球の砦』Earth's Last Citadel 1943年 The Mask of Circe 1948年 No Boundaries 1955年(短編集) Judgment Night 1952年(同名長編と他の短編集) Shambleau and Others 1953年 Northwest of Earth 1954年 Jirel of Joiry 1969年、Black God's Shadow 1977年、Black God's Kiss 2007年(ジレル全5作の作品集) The Best of C. L. Moore レスター・デル・レイ編、1975年 Northwest of Earth 2008年(ノースウェスト・スミス全作品) 《ノースウェスト・スミス》 『大宇宙の魔女』仁賀克雄訳、ハヤカワ文庫SF、1971年 『異次元の女王』仁賀克雄訳、ハヤカワ文庫SF、1972年 『暗黒界の妖精』仁賀克雄訳、ハヤカワ文庫SF、1973年 (日本オリジナル編集) 『シャンブロウ』仁賀克雄訳、論創社、2008年 《ノースウェスト・スミス》シリーズをすべて収録したもの。 《処女戦士ジレル》 『暗黒神のくちづけ』仁賀克雄訳、ハヤカワ文庫SF、1973年 その他 Doomsday Morning (1957) 『新世界の黎明』仁賀克雄訳、ハヤカワ文庫SF、1975年 Judgement Night (1943) 『銀河の女戦士』仁賀克雄訳、ソノラマ文庫海外シリーズ、1985年 「美女ありき」No Woman Born 1944年(アスタウンディング)(『20世紀SF 1 1940年代 星ねずみ』河出書房新社 2000年) 『ミュータント』Mutant (1953) 浅倉久志訳(ルイス・パジェット名義)、ハヤカワ・SF・シリーズ、1964年 『ポロゴーヴはミムジイ』 小尾芙佐他訳(日本版オリジナル短編集。カットナー単独名義だが、パジェット作品を多く収録する)、ハヤカワ・SF・シリーズ、1973年 『たそがれの地球の砦』Earth's Last Citadel (1943) 仁賀克雄訳(ムーア&カットナー名義)、ハヤカワ文庫SF、1976年 『世界はぼくのもの』 米村秀夫編(日本版オリジナル短編集。カットナー単独名義だがパジェット作品を収録する)、青心社SFシリーズ、1985年 スペースオペラ エイリアン通り - 成田美名子の漫画作品。本作の主人公シャールは《ノースウェスト・スミス》シリーズの登場人物から着想を得て生み出された。 地球の緑の丘 - ロバート・A・ハインラインのSF短編。《ノースウェスト・スミス》シリーズの一編に触発されて書かれた。 『闇からの衝動』 - 山本弘のSF、ホラー短編。C・L・ムーアを主人公とする。「まだ見ぬ冬の悲しみも」、「シュレディンガーのチョコパフェ」に収録。 ^ 野田昌宏「わがシャンブロウへの挽歌」(『大宇宙の魔女』早川書房) ^ 仁賀克雄「訳者あとがき」(『異次元の女王』早川書房) ^ a b 仁賀克雄「訳者あとがき」(『暗黒神のくちづけ』早川書房) 翻訳作品集成 C・L・ムーア - Internet Speculative Fiction Database(英語) Profile at the Science Fiction Museum and Hall of Fame A brief biography of C.L. Moore Moore at Fantastic Fiction More biographical information, and discrepancies in records Moore at IMDb Review of Black God's Kiss Rosemarie Arbur: Literary Descendants of C.L. Moore Past Masters - A Kuttner Above the Rest (But Wait! There's Moore!) by Bud Webster, at Galactic Central", "ヘンリー・ビーム・パイパー(Henry Beam Piper, 1904年 - 1964年11月9日)は、アメリカ合衆国の小説家、SF作家。 1947年、「アスタウンディング」誌から短編『Time and Time Again』でデビュー。多くの作品が未来史の「人類連合」(Terro-Human)とパラレルワールドものの「平行時間警察」(Paratime)の二大シリーズに含まれる。例えば『スペース・ヴァイキング』と『リトル・ファジー』は前者、『異世界の帝王』は後者である。 邦訳は少なく、未訳ながらミステリー1編も書いている。1964年に自殺。 『スペース・ヴァイキング - 復讐の宇宙海賊』(Space Viking, 1963) 『異世界の帝王』(Lord Kalvan of Otherwhen, 1965) 『リトル・ファジー』(Little Fuzzy, 1962) 『創世記/夜明けの惑星』(Genesis) 『オムニリンガル』(Omnilingual)", "ポール・ウイリアム・アンダースン(Poul William Anderson、1926年11月25日 - 2001年7月31日)は、アメリカ合衆国の小説家、SF作家。北欧系で、名のPoulは英語名のPaulとは異なる。姓はアンダーソンと表記することもある。ファンタジーや歴史小説もいくつか書いている。ヒューゴー賞を7度、ネビュラ賞を3度など、様々な賞を受賞している。 多作かつ「はずれのない作家」と言われる。ハードSFの書き手として知られ、相対論的効果を正面から扱った『タウ・ゼロ』は評判となった。他にはタイム・パトロールものの古典『タイム・パトロール』なども有名。作品の一部は「惑星間協調機関」(The Psychotechnic League)シリーズという独自の未来史を形成していた(日本語にはあまり訳されていない)。「リアリティーを高めるため、常に五感のうちの三つ以上に言及する」という独自の手法を持っていた。 1926年11月25日、ペンシルベニア州ブリストルで生まれる。誕生後まもなく一家はテキサス州に引越し、10年以上を過ごした。父が亡くなると、未亡人となった母は子供たちをつれてデンマークに帰国した。アメリカに戻ったのは第二次世界大戦勃発後で、ミネソタ州の農場に落ち着いた。 ミネソタ大学で物理学を専攻し、1948年に卒業。しかし、物理学者になろうとはしなかった。というのも大学在学中の1947年、『アスタウンディング』誌に発表した「明日の子供たち」(F・ウォルドロップと共作)で作家デビューしていたためである。大学卒業後はフリーランスのライターとして働き始めた。長編第一作『脳波』は1951年に出版された。 1953年、カレン・クルーゼと結婚し、サンフランシスコのベイエリアに引っ越した。1954年に生まれた1人娘は、後にSF作家グレッグ・ベアと結婚した。後にバークレーにほど近いカリフォルニア州オリンダに家を建て、亡くなるまでそこで過ごすことになった。 1960年代にはヒロイック・ファンタジー作家のグループ Swordsmen and Sorcerers' Guild of America の一員としてファンタジー小説も書き、リン・カーターのアンソロジー Flashing Swords! に掲載されている。1966年、中世ヨーロッパの文化を研究・再現する団体 Society for Creative Anachronism の創設に関わった。 1972年、アメリカSFファンタジー作家協会の第6代会長を務めた。 ロバート・A・ハインラインの1985年の小説『ウロボロス・サークル』の献辞にある「ポウル」はポール・アンダースンのことである。 癌のため一カ月間入院したのち、2001年7月31日に死去。 ガンダルフ賞グランドマスター賞(en) (1978) ヒューゴー賞 短編 「長い旅路」(1961) 短編 「王に対して休戦なし」(1964) 中編 『肉の分かち合い』(1969) 中長編 『空気と闇の女王』(1972) 中編 『トラジェディ』(1973) 中編 Hunter's Moon (1979) 中長編 The Saturn Game (1982) ジョン・W・キャンベル記念賞 (2001) - GENESIS ローカス賞 (1972) - 『空気と闇の女王』 ネビュラ賞 中編 『空気と闇の女王』(1971) 中編 『トラジェディ』(1972) 中長編 The Saturn Game (1981) プロメテウス賞 殿堂賞 Trader to the Stars (1985) The Stars are also Fire (1995) 殿堂賞 The Star Fox (1995) 特別賞 (2001) SFWA グランド・マスター賞 (1997) Brain Wave(1954)『脳波』 The Broken Sword(1954)『折れた魔剣』 War of the Wing-Men(1958)『鳥人大戦争』 The Enemy Stars(1959)『敵の星』 The High Crusade(1960)『天翔ける十字軍』 Orbit Unlimited(1961)『無限軌道』 Three Heats and Three Lions(1961)『魔界の紋章』 Twilight World(1961)『たそがれの地球』 After Doomsday(1963)『審判の日』 Shield(1963)『最後の障壁』 The Corridor of Time(1965)『時の歩廊』 Tau Zero(1970)『タウ・ゼロ』 Fire Time(1974)『焦熱期』 The Avatar(1978)『アーヴァタール(上・下)』 The Boat of a Million Years(1989)『百万年の船 1-3』 Operation Chaos(1971)『大魔王作戦』 The Star Ways(1956)『銀河よ永遠なれ』 Virgin Planet(1959)『処女惑星』 Guardians of Time(1960)『タイム・パトロール』 The Shield of Time(1990)『タイム・パトロール/時間線の迷路(上・下)』 Agent of the Terran Empire (1965)『地球帝国秘密諜報員』 (ゴードン・R・ディクスンとの共著) Earthman's Burden(1957)『地球人のお荷物』(短編集) Star Prince Charlie(1975)『がんばれチャーリー』(長編) Hoka!(1983?)『くたばれスネイクス!』(短編集) Strangers from Earth(1961)『地球人よ、警戒せよ!』 Vault of the Ages(1952)『五百年後の世界』(改題新訳版『タイム・カプセルの秘密』) ※以上の他に、日本語訳が未刊の作品が多少ある。 フィリップ・K・ディックの「水蜘蛛計画」にはポール・アンダースンが主要キャラクターとして登場している。 ^ Lee Gold. “Tracking Down The First Deliberate Use Of \"Filk Song\"”. 2012年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月27日閲覧。 ^ Heinlein, Robert A (1986). The Cat Who Walks Through Walls. New England Library. ISBN 0-450-39315-1.  ^ Heinlein's Dedications Page Jane Davitt & Tim Morgan Accessed August 20, 2008 ^ “Science Fiction & Fantasy Books by Award: 2001 Award Winners & Nominees”. Worlds Without End. 2009年3月28日閲覧。 ^ “Poul Anderson on Locus Award Nominees List”. Locus magazine. 2012年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月24日閲覧。 Miesel, Sandra (1978). Against Time's Arrow: The High Crusade of Poul Anderson. Borgo Press. ISBN 0-89370-124-6.  Tuck, Donald H. (1974). The Encyclopedia of Science Fiction and Fantasy. Chicago: Advent. pp. 8–10. ISBN 0-911682-20-1.  翻訳作品集成>ポール・アンダースン(Poul Anderson) - 日本語訳作品(短編も含む)の書誌情報 ポール・アンダースン - Internet Speculative Fiction Database(英語) Poul Anderson's online fiction at Free Speculative Fiction Online Bio, bibliography and book covers at FantasticFiction Obituary and tributes from the SFWA On Thud and Blunder, an essay by Anderson on fantasy fiction, from the SFWA Time Travel and Poul Anderson, by Dr Paul Shackley Poul Anderson's Future Histories, by Dr Paul Shackley Poul Anderson, an essay by William Tenn The Society for Creative Anachronism, of which Poul Anderson was a founding member The King of Ys review at FantasyLiterature.net" ]
ABC01-02-0127
歌手の音域に合わせて、曲全体のキーをそのまま高く、または低くすることを何というでしょう?
移調
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[ "移調", "ハルモニームジーク", "変ハ長調", "持続低音", "派生楽器" ]
[ "移調(いちょう)とは音楽の用語で楽曲の調の主音を移行して演奏することである。例えばハ長調の曲すべての音を長2度上げることによってニ長調の曲として演奏することをいう。 移調が頻繁に行われるのは、歌曲である。人の声は体格その他によって音域が違うために、同じ作品を調性を変えて演奏するのである。したがって伴奏者には歌手にあわせ移調して演奏する能力が求められる。 一部の楽器は、譜面に記された音と実際に演奏する音が一定の音程をもってずれている。このような楽器を移調楽器と呼ぶ。例えばB♭管のトランペットで「ド」の音を鳴らすと、実際に出てくる音は「シ♭」である。移調楽器の奏者は、奏者が用いている楽器とは別の調で楽譜が書かれていることがしばしばあり(たとえば変ロ調のトランペットを使用している奏者がホ調で書かれている楽譜を演奏するなど)、目の前の楽譜を即座に別の調に移調して読んで演奏する能力が求められる。この作業は移調読みとして知られている。 ピアノの自然な運指には黒鍵を多用する調が有利である。ロマン派音楽でピアノ曲に嬰記号、変記号が調号に多いのはこのためである。難解な譜面で愛好家に理解されないのは困るが、演奏は簡単なほうがよいというジレンマから移調譜を作曲家が自ら用意した例も多い。(シューベルトの例) 移調と似た概念に、移旋がある。これは、たとえば長調を短調に、短調を長調に、変化させることを言う。 邦楽の雅楽では、かつて陰陽五行説に基づき、調には季節による禁忌があり、そのため、ある楽曲をその調にふさわしくない時期に演奏するため、移調が行なわれた。これを「渡しもの」という。ただし厳密に同じ旋律が移されるのではなく、楽器の音域的制限から、元調の曲から旋律が変形されたものが固定している。これがかえってまた喜ばれた。 近世邦楽のほとんどのジャンルは絶対音高の音楽ではないので、同じ曲でも特に歌い手の音域によって調が違うことは珍しくない。この場合三味線、箏、胡弓、琵琶(ただし薩摩琵琶、筑前琵琶)は開放弦に調の主要音を設定するので、移調に合わせ、調弦そのものをスライドさせる。たとえば、ある曲がDを主音とする調である場合、三味線の調弦は D - A - D(二上りの場合)となるが、もし同じ曲を C♯を主音とする調で演奏する場合は、調弦も C♯ - G♯ - C♯となる。また尺八や篠笛もそれに合わせて長さの異なる楽器が使われる。したがって、移調しても楽器演奏の感覚は弦、管いずれの楽器でもあまり変わらない。 またこれとは別に、原曲を異なった調弦法で演奏するために、移調的な編曲が行なわれることがある。例えば『六段の調』の三味線は「本調子」という調弦法で演奏されるのが普通だが、これを「二上り」という調弦法で演奏できる編曲がある。これは完全五度上への移調といえる。 転調", "ハルモニームジーク、あるいはハルモニー(ドイツ語: Harmoniemusik, Harmonie)は、18世紀後半から19世紀前半にかけて流行した管楽合奏の形態。 \"harmonie\"という語は管楽器による合奏全般を指す言葉でもあり、フランス語で軍楽隊を指す\"harmonie militaire\"、ドイツ語で木管五重奏を指す\"Harmonie Quintett\"などの用法がある。しかし現在この語が一般に使われる場合、1780年代からドイツ語圏を中心とした貴族階級に流行した管楽合奏、特に\"full harmonie\"、\"octet harmonie\"と呼ばれる場合もある、オーボエ2、クラリネット2、ホルン2、ファゴット2による八重奏を指す。 ハルモニーが用いられた主な機会は食事や催事の際の伴奏音楽としてであり、ソリストが招かれたときに共演する場合もあった。レパートリーの中心となったのは当時人気のあったオペラからの編曲で、ヨーゼフ・トリーベンゼー(英語版)が編曲したヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラ群や、ヴェンツェル・セドラク(ドイツ語版)編曲のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『フィデリオ』、カール・マリア・フォン・ウェーバーの『魔弾の射手』などが知られている。ヨーゼフ2世の楽団で2番オーボエ奏者だったヨハン・ヴェント(オランダ語版)は40ものオペラをハルモニームジーク用に編曲した。また、交響曲もしばしば編曲されており、ベートーヴェンの存命中にウィーンで出版された交響曲第7番は作曲者自身の編曲とも言われている。オリジナル作品としてはモーツァルトのセレナードK.375(第11番)、K.388 (384a)(第12番)やK.361 (K6.370a)(グラン・パルティータ、第10番)、ベートーヴェンの八重奏曲作品103(英語版)、フランツ・クロンマーの13曲の「パルティータ」などがある。 編成の基本となったのは上記の八重奏編成であったがそれ以外の楽器が用いられることも多く、コントラファゴット(上記のクロンマー作品)、コントラバス、セルパンなどの低音楽器をはじめ、フルート(アントニオ・ロセッティが使用)やバセットホルン、金管楽器や打楽器が追加される場合もあった。フェリックス・メンデルスゾーンの『吹奏楽のための序曲』(Ouvertüre für Harmoniemusik)の原曲『ノクトゥルノ』(Nocturno für Bläser)は、標準的なハルモニームジークの八重奏編成にフルート、トランペット、イングリッシュ・バスホルンが追加された11本の管楽器のために書かれている。 ロマン派以降も、ドヴォルザークの『セレナーデ 作品22』がチェロやコントラバスを含む12人の奏者のために、R・シュトラウスの『セレナーデ 作品7』や『組曲 作品4』では標準的な八重奏編成にフルート、ホルン各2本とコントラファゴットまたはテューバが加わる13管楽器のためのために書かれており、同種の管楽器2本をペアで含むハルモニームジークの伝統が受け継がれている。 同様の用途のために編成された、より小規模な管楽合奏は18世紀初頭からヨーロッパ全体に存在しており、特にオーボエ2、ホルン2、ファゴット2という編成の六重奏は、この編成によってフランツ・ヨーゼフ・ハイドンがニコラウス・ヨーゼフ・エステルハージのために「ディヴェルティメント」あるいは\"Feldmusik\"(野外音楽)と題された作品(Hob. II: 3, 7, 15, 23)を複数作曲している。モーツァルトも1775年から1777年にかけて、同じ編成でザルツブルク大司教のために6曲のディヴェルティメントを書いている。 1782年に、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がウィーンにおいて、クラリネットを加えた上記の八重奏編成による\"harmonie\"を編成した。アントン・シュタードラーの兄弟が加わっていたこの楽団は高水準の演奏によって好評を博し、様々な貴族が追随して楽団を編成した。代表的な人物としてケルン大司教選帝侯のマクシミリアン・フランツ、ラウドニッツ(英語版)のロプコヴィッツ侯爵などがいる。また、モラヴィアからの移民によってアメリカでもハルモニーは編成されている。 この時期、モーツァルトはオペラ『ドン・ジョヴァンニ』や『コジ・ファン・トゥッテ』の中でハルモニーを模した楽節を登場させており、当時の普及ぶりが伺われる。『ドン・ジョヴァンニ』では、『フィガロの結婚』のアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」をはじめとする当時の流行曲が複数引用されている。 19世紀に入ると、ナポレオン戦争によって引き起こされた貴族の権勢の衰えに伴ってハルモニーも衰退していき、解体されあるいはより大きな編成の楽団へ組み込まれていった。1835年にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン公国(英語版)のハルモニー(ヨハン・ジモン・ヘルムシュテットが楽長を務めていた)が管弦楽団に改組されたが、これはハルモニーに関する記録のなかでも最も新しい部類に属するものである。またこのような、ハルモニーを管楽器セクションとして含む管弦楽団の編成は、完全な二管編成による管弦楽団の普及に貢献したと考えられている。 ^ MENDELSSOHN 吹奏楽のための序曲&管楽器のためのノクトゥルノ(日本楽譜出版社)解説(堀内貴晃) Roger Hellyer. \"Harmoniemusik\", The New Grove Dictionary of Music and Musicians, Second edition Oxford University Press, 2001 フレデリック・フェネル『タイム&ウィンズ―フレデリック・フェネルの吹奏楽小史』隈部まち子訳、秋山紀夫監修、佼成出版社、1985年 小交響曲 (グノー) シャルル・グノーが1885年に作曲した室内楽曲。上記の八重奏編成にフルートを加えた九重奏による。 13管楽器のためのセレナード (リヒャルト・シュトラウス) 13管楽器のための組曲 (リヒャルト・シュトラウス) リヒャルト・シュトラウスが1882年と1884年に作曲した楽曲。上記の八重奏編成にフルート2、ホルン2、コントラファゴットまたはテューバを加えた編成による。", "変ハ長調(へんハちょうちょう)は、西洋音楽における調のひとつで、変ハ (C♭) 音を主音とする長調である。調号はフラット7箇所 (B, E, A, D, G, C, F) である。 赤マスは一般に臨時記号により表される。 和音は自然長音階で考えたもの。 VIIの和音 (B♭m-5) はV7 (G♭7) の、VII7の和音 (B♭m7-5) はV9 (G♭9) の根音を省略した形とみなされることがある。 その他のコードネームも実際の楽譜では異名同音的に変えられることがある。 ロ長調の方が調号が少なく(シャープ5つ)読譜が容易であり、変ハ長調が持たない同主調・下属調・下属調平行調を含めて関係調をすべて持つなど利便性が高いため、通常はロ長調が用いられ、変ハ長調はほとんど用いられない(変ハ長調と同じく調号7箇所の嬰ハ長調や変イ短調は同主調を持っているのである程度は使われる)。 コンサート用のハープは、各オクターブ内の7音に相当する7本のそれぞれの弦がフラット、ナチュラル、シャープを持っており、フラットが開放弦となるので、すべての音がフラットの状態、すなわち変ハ長調の状態でチューニングを行う。このためハープでロ長調の曲(ストラヴィンスキーの火の鳥フィナーレなど)を演奏する場合は、変ハ長調に書き換えて演奏することがある。 シューベルトは特にピアノ曲においてこの調を好んだ様で、ソナタなどの主調で使う事はなかったものの、曲中の転調部分で使っている例を若干見る事ができる。 Category:変ハ長調を参照。", "持続低音(じぞくていおん、英:pedal point、仏:pédale、独:Orgelpunkt)は、和声のある音楽において、特に低音で持続する音である。 持続低音は、和声には組み入れられない非和声音の一種であるが、「最初は和声音であるが、和音が変わって非和声音になっても続く」、「後で和声音に解決する」という点が他の非和声音とは異なる。 持続低音は「和音を元に引き戻す強い和声上の効果がある」。持続低音は通常、主音または属音に用いられる。また、低音ではなく高音を持続させることもある。 ハープシコードやピアノのような音の減衰が速い楽器では、同一音の繰り返しやトリルなどで代用されることが多い。 西欧の用語には「オルガン」や「ペダル」を表す言葉が含まれることが多いが、これはオルガンでは足踏み鍵盤にて演奏されることが多かったためである。 フーガでは、持続低音がしばしば用いられ、特に曲の終わり近くで用いられることが多い。 ソナタ形式やロンド形式をとる楽曲においては、再現部の直前(ソナタ形式の場合)やロンド主題が再現する直前(ロンド形式の場合)に属音の持続低音が設けられることが多い。緊張感を高揚させ、主調を準備をする役目を果たす。 田園風の主題を提示する際に、主音と属音からなる5度の二重持続低音がしばしば用いられ、これはパストラーレ・オルゲルプンクトと呼ばれる。 パストラーレ・オルゲルプンクトが見られる作品としては、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲ホ長調『春』(第3楽章主題)、ベートーヴェンの交響曲第6番ヘ長調『田園』(第1楽章第1主題、第5楽章前奏)、ドヴォルザークの交響曲第5番ヘ長調(第1楽章第1主題)などがある。 ^ a b Frank, Robert J. (2000). \"Non-Chord Tones\", Theory on the Web, Southern Methodist University.", "派生楽器(はせいがっき)とは、西洋音楽の楽器で標準型の楽器でない楽器のことである。主として管楽器に用いられる用語である。標準型の楽器と派生楽器とで同族楽器を構成する。 金管楽器の派生楽器は トランペットに対してピッコロトランペット、アルトトランペット、バストランペット トロンボーンに対してソプラノトロンボーン、アルトトロンボーン、バストロンボーン、コントラバストロンボーン などであり、 木管楽器の派生楽器は フルートに対してピッコロ、アルトフルート、バスフルート オーボエに対してコーラングレ、オーボエダモーレ、バリトンオーボエ、ヘッケルフォーン クラリネットに対して小クラリネット、アルトクラリネット、バスクラリネット、バセットホルン ファゴットに対してコントラファゴット などである。 木管楽器の派生楽器は全般的に次の特徴を持つ。 標準型の楽器よりも短く高い音の出る楽器では高音域を、長く低い音の出る楽器では低音域を得意とする。 標準型の楽器の奏者が多少の練習をすれば演奏することができる。ただし、演奏は標準型の楽器よりも多少なりとも困難であり、運動性に劣り、音域も狭い。 標準型の楽器と楽譜上の運指が共通となるように記譜される(移調楽器)。 オーケストラの中では、木管楽器の派生楽器は定席を占めることはない。同族楽器ごとのセクションの中で首席以外の奏者によって演奏されるが、楽団によっては派生楽器の専門奏者に対して首席と同等ないしそれに準じる地位を与える場合もある。持ち替えで演奏されることも多い(この場合は、重要なソロがあるときには特に、首席奏者が演奏することもある)。 金管楽器の派生楽器も バストロンボーンは第3奏者が常用する。 アルトトロンボーンは首席奏者によって演奏される。 バストランペットはトロンボーン奏者によって演奏される。 といった点を除けば、木管の派生楽器とほぼ同様の扱いである。" ]
ABC01-02-0128
昨年のベルリン国際映画祭でアニメとして初めて金熊賞を獲得した、宮崎駿監督の映画は何でしょう?
千と千尋の神隠し
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[ "千と千尋の神隠し", "猫の恩返し", "となりのトトロ", "借りぐらしのアリエッティ", "ゲド戦記 (映画)" ]
[ "『千と千尋の神隠し』(せんとちひろのかみかくし)は、スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画。監督は宮崎駿。日本歴代興行収入第1位。 千尋という名の10歳の少女が、引っ越し先へ向かう途中に立ち入ったトンネルから、神々の世界へ迷い込んでしまう物語。千尋の両親は掟を破ったことで魔女の湯婆婆によって豚に変えられてしまう。千尋は、湯婆婆の経営する銭湯で働きながら、両親とともに人間の世界へ帰るために奮闘する。 声の出演は、柊瑠美・入野自由・夏木マリ・内藤剛志・沢口靖子・上條恒彦・小野武彦・菅原文太など。 制作のきっかけは、宮崎駿の個人的な友人である10歳の少女を喜ばせたいというものだった。この少女は日本テレビの映画プロデューサー、奥田誠治の娘であり、主人公千尋のモデルになった。企画当時宮崎は、信州に持っている山小屋にジブリ関係者たちの娘を集め、年に一度合宿を開いていた。宮崎はまだ10歳前後の年齢の女子に向けた映画を作ったことがなく、そのため彼女たちに映画を送り届けたいと思うようになった。 2001年7月20日に日本公開。興行収入は300億円を超え、日本歴代興行収入第1位を達成した。この記録は2018年現在も塗り替えられていない。第52回ベルリン国際映画祭では『ブラディ・サンデー』と同時に金熊賞を受賞した。宮崎の友人である映画監督ジョン・ラセターの尽力によって北米で公開され、第75回アカデミー賞ではアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した。 2016年のイギリスBBC主催の投票では、世界の177人の批評家が「21世紀の偉大な映画ベスト100」の第4位に選出した。 2016年に行われたスタジオジブリ総選挙で見事1位に輝き、2016年9月10日(土)〜9月16日(金)の7日間、全国5カ所の映画館にて再上映された。 10歳の少女・千尋(ちひろ)は、両親と共に引越し先へと向かう途中、森の中の奇妙なトンネルから通じる無人の街へ迷い込む。そこは、怪物のような姿の八百万の神々が住む世界で、人間が来てはならないところだった。千尋の両親は飲食店で神々に出す食べ物に勝手に手を付けたため、罰として豚にされてしまう。千尋も帰り道を失って消滅しそうになるが、この世界に住む少年ハクに助けられる。 ハクは、八百万の神々が客として集う「油屋」という名の湯屋で働いていた。油屋の主人は、相手の名を奪って支配する、恐ろしい魔女の湯婆婆(ゆばーば)である。仕事を持たない者は動物に変えられてしまうとハクは千尋に教える。千尋は、雇ってくれるよう湯婆婆に頼み込み、名を奪われて「千(せん)」と新たに名付けられ、油屋で働くことになる。ハクは、本当の名前を忘れると元の世界に戻れなくなると忠告する。ハクもまた名を奪われ、自分が何者であったのかを思い出せずにいた。しかし、彼はなぜか千尋を知っており、千尋のことを覚えているのだという。一方、千尋には、ハクの正体に心当たりがない。 豚にされた両親を助けるため、油屋で働き始めた千尋だったが、彼女は人間であるために油屋の者たちから疎まれ、強烈な異臭を放つ客の相手まで押し付けられる。しかし彼女の実直な働きにより、客から大量の砂金が店にもたらされると、千尋は皆から一目置かれる存在になる。千尋はその客から不思議な団子を受け取る。 翌日、ハクは湯婆婆の言いつけにより、彼女と対立している双子の姉の銭婆(ぜにーば)から、魔女の契約印を盗みだす。しかし、銭婆はハクを追ってきて魔法で重傷を負わせ、湯婆婆の息子である坊(ぼう)もネズミに変えてしまう。千尋はハクに不思議な団子を飲ませて助けるが、ハクは衰弱してしまう。千尋はハクを助けたい一心で、危険を顧みず銭婆のところへ謝りに行くことを決意する。 そのころ油屋では、カオナシという化け物が従業員を飲み込んで暴れていた。カオナシは千尋から親切にされたことがあり、金や食べ物で千尋の気を引こうとするが、彼女が興味を示さないので激怒する。千尋は不思議な団子をカオナシに飲ませて従業員を吐き出させ、感謝される。千尋は、カオナシとネズミになった坊を伴って銭婆の家を訪れる。銭婆は千尋を穏やかに受け入れる。 一方、意識を取り戻したハクは、坊が銭婆のところへ行ってしまうことを湯婆婆に伝える。ハクは、坊を連れ戻してくることを条件に、千尋と両親を解放するよう約束を迫り、帰る手段のなかった千尋を迎えに行く。ハクは銭婆から許され、千尋と共に油屋へ帰る。その途中で、千尋は自分が幼いころに落ちた「川」がハクの正体であることに気づく。幼いころハクの中で溺れそうになったとき、ハクは千尋を浅瀬に運び、助けあげた。千尋がハクの名前に気づくと、ハクも自分の名前を取り戻す。 油屋に帰ったハクは、千尋と両親を解放するよう湯婆婆に要求する。従業員たちも、今度は千尋の味方である。湯婆婆は、油屋の前に集めた豚の中から両親を言い当てろと難題を課すが、千尋はこの中に両親はいないと正解を言い当てて自由となり、従業員たちに祝福されながら油屋を去る。 ハクは千尋を途中まで見送り、自分も湯婆婆に暇を告げて元の世界に戻るつもりであると伝え、再会を期して別れる。人間に戻った両親は、最初のトンネルの前で、なにごともなかったかのように待っていた。もとの世界に戻った千尋が振り返ると、トンネルは来たときとは違う姿に変わっていた。 荻野 千尋(おぎの ちひろ) / 千(せん) 声 - 柊瑠美 本作の主人公。荻野家の一人娘。すぐ卑屈になって我侭を言ったり両親に頼ろうとする典型的な都会育ちの一人っ子、現代っ子気質。10歳の少女。髪は焦げ茶色のポニーテール。私服はクリーム色と黄緑色のTシャツに半ズボンを穿いている。両親と共に異界に迷い込む。罰を受けて豚にされてしまった両親を人間に戻し、元の世界に帰るために湯屋「油屋」の経営者である湯婆婆と契約を交わし、名前を奪われ「千」となって湯屋で働くことになる。初めは仕事の手際も悪かったが、湯屋での経験を通じて適応力や忍耐力を発揮していく。物語の中盤ではこれからどうしたらいいのか分からずいじけていく中、ハクが差し出した『千尋の元気が出るようにまじないをかけて作った』おにぎりを食べ、ずっと自分を心配してくれていたハクの優しさと思いやりに触れた事で、声を上げて泣きじゃくるほど感情を露わにする。オクサレ様を接客した際には、体から廃棄物を引っ張り出して救い出す。映画終盤では暴れるカオナシを鎮め、坊の親離れに一役買い、傷ついたハクを救うなど活躍する。龍の姿のハクにニガダンゴを食べさせたときには、力づくでハクの口をこじ開けている。 契約書に自分の名前を書くシーンでは、「荻」ではなく「获」と書いている。 千尋役のオーデションには女優の本仮屋ユイカも参加していた。 ハク 声 - 入野自由 油屋で働いている謎の少年。外見年齢は12歳。魔法使いの見習いで、湯婆婆の弟子であり、また番頭として湯屋の帳場を預かってもいる。作中で初めて千尋と会ったときから彼女の力になる。 釜爺によれば、千尋同様忽然と湯屋に現れ、湯婆婆の弟子になることを懇願したという。釜爺は反対していたが止め切れず、その後は湯婆婆の手足として利用されるようになった。 中盤以降、白龍の姿でも登場する。その正体は、千尋が以前住んでいた家の近くを流れていた「コハク川」という川の神だった。本名は「ニギハヤミコハクヌシ」(英語版では Kohaku River とされている)。 最終的に千尋の尽力で湯婆婆の支配と銭婆の呪詛から救われる。千尋が解放された後は湯婆婆の弟子を辞めると語り、いつか千尋に会いに行くと約束した。 荻野 明夫(おぎの あきお) 声 - 内藤剛志 千尋の父親。38歳。建築会社に勤めるサラリーマン。愛車はアウディ・A4クアトロ。体育会系で、引っ越しのときには道をよく確認しないままどんどん進んでしまい、いつの間にか不思議の町に迷い込むが、面白がって進み続ける。町の飲食店に迷い込んだ際、勝手に食事に手をつけてしまい、豚の姿に変えられてしまった。最終的に元の姿に戻ったが、豚になっていたときの記憶は残っていない。 モデルは日本テレビの奥田誠治で、千尋のモデルとなった奥田千晶の父。車の運転や食事シーンに奥田の個性が反映されている。 荻野 悠子(おぎの ゆうこ) 声 - 沢口靖子 千尋の母親。35歳。不思議の町に迷い込んだ際、夫につられて勝手に食事に手をつけてしまい、夫と一緒に豚の姿に変えられてしまった。作中で名前は明らかになってはいない。さり気なく夫に寄り添う仕草を見せる一方で、娘の千尋に対してはドライに振る舞う。夫同様、最終的に元の姿に戻った。 モデルはジブリ出版部に勤務する女性。 湯婆婆(ゆばーば) 声 - 夏木マリ 湯屋「油屋」の経営者で正体不明の老魔女。二頭身という人間離れした体格で顔も大きい。強欲で口うるさく、老獪な人物として描かれている。その一方で息子の坊を溺愛しており、ハクに指摘されて坊が行方不明になったことに気付き、激しく取り乱していた。 人間の世界から迷い込んできた千尋を雇い、名前を奪って「千」と呼ぶ。油屋が閉まる明け方になると黒いマントに身を包み、コウモリのような姿になって湯バードと共に彼方へ飛び去っていく。弟子のハクを魔法で操り、銭婆の持つ契約印を盗ませるなどの悪行に加担させている。悪事も辞さない横柄な性格だが経営者としての度量と心意気も持ち合わせており、河の神の穢れを清めて砂金の儲けをもたらした千尋を褒め称え、怖気付いた従業員達に千尋を見習うようたしなめている。他にも、横暴な態度の客の撃退を試みたり、経営者として腐れ神やカオナシなどの客への対応を自ら行うなど、全てを従業員に任せっ放しというわけでもない。 坊(ぼう)/ネズミ 声 - 神木隆之介 湯婆婆の息子。赤い腹掛けをした巨大な赤ん坊で、銭婆に「太りすぎ」と評される肥満体型。怪力の上、甘やかされて育てられている為、性格はかなり我儘。癇癪を起こすと暴れ泣き喚き、部屋を破壊する。物語の中盤で、銭婆の魔法によって小太りのネズミに姿を変えられる。湯婆婆の過保護のもと部屋から出ずに暮らしていたが、千尋と出会って初めて外界を冒険し、精神的に成長する。ネズミの姿の際の移動は、同じく銭婆に小さなハエドリに姿を変えられた湯バードに運んで貰っているが、ハエドリが飛び過ぎて疲れ果てた際は、彼を乗せて自ら歩行を行う事もある。途中で、銭婆の魔法の効力は無くなっていたため、自らの意思で元に戻れるようになっていたが、湯屋に戻って千尋と湯婆婆が対峙する時までネズミの姿で行動している。ネズミの姿をしていた際に湯婆婆と会っているが、自分だと気付くどころか、汚いものを見るような態度や言動をされた事に対して、悲しげな表情を見せたあと、怒りを露にした表情を見せている。湯婆婆の息子だが「お母さん」や「ママ」とは呼ばず、何故か「ばーば」と呼ぶ。 頭(かしら) 湯婆婆に仕える、緑色の頭だけの怪物。中年男性のような容貌で、跳ねたり転がりながら移動する。「オイ」としか話すことができず、作中では銭婆の魔法によって坊の姿に変えられる。いつも三つ一緒に行動している。 湯バード(ゆバード)/ハエドリ 首から上は湯婆婆と同じ顔(ただし、顔色は黒い)、体はカラスという不気味な姿の鳥。常に湯婆婆につき従っている。言葉は話せず、カラスのような鳴き声を発する。中盤で銭婆の魔法でハエのように小さい鳥(ハエドリ)にされ、以降は終始この姿で行動する。ネズミに変えられた坊を足で掴んで飛ぶこともできる。湯婆婆がネズミとなった坊と会った際、気付かずに邪険な態度と言動を見て、坊と共に批判的な表情を見せている。ネズミになった坊とは違い、元の姿に戻りたくないようで、最後までハエドリの姿だった。「湯バード」という名前は劇中では呼称されない。 銭婆(ぜにーば) 声 - 夏木マリ 湯婆婆の双子の姉で坊の伯母。声や容姿、服装、髪型などは湯婆婆と瓜二つで、甥の坊が湯婆婆と間違えてしまう程。彼女と同様に強力な魔力を持つ魔法使いである。カンテラなど無生物に魔力を吹き込んで使役しながら「沼の底」という寂れた田舎に住んでいる。本人曰く「私たちは二人で一人前」だが姉妹仲はお世辞にも良好とは言えず、妹からは性悪女呼ばわりされている。 口調は湯婆婆と同じで、釜爺にも「あの魔女は怖い」と評されている。自身に害を及ぼす者には容赦はせず、湯婆婆の差し金で魔女の契約に用いる判子を盗み出したハクに紙の式神を差し向けて痛めつけたり、判子を盗んだものは死ぬまで命を食い散らすナメクジのような呪い(あやつり虫)をかけるなど、評判通り恐ろしい人物であるような印象を見せたが、実際は穏やかな心優しい性格で、強欲な妹よりも物解かりのよい気質である。ハクに代わって謝罪しにきた千尋を快く家に迎え入れて、カオナシやネズミ、ハエドリ達も同様にもてなした上で優しく接し、カオナシとネズミ・ハエドリとともに紡いだ手製の髪留めを贈り、湯屋へ送り出す。その際に迎えにやってきたハクのことも快く許した。また、行くあての無いカオナシを引き取るなど、面倒見もよい。 従業員の大半はカエル(男衆)とナメクジ(女衆)であり、ヘビと合わせて三すくみの関係にある。 釜爺(かまじい) 声 - 菅原文太 油屋のボイラー室を取り仕切っている老人。蜘蛛のような姿で、伸縮可能な6本の腕・手を自在に操り、油屋で使われる湯を沸かし、薬湯の生薬を調合する仕事をしている。突如として現れた千尋に対し、厳しめの態度を取りながらも、彼女を気遣い、リンに湯婆婆のところへ連れてくように頼む。その後も傷付いたハクを介抱したりするなど、千尋をサポートする。部下に石炭を運ぶススワタリがいる。 仕事には厳しいが、千尋には優しい一面も見せる。 湯婆婆と直接絡むシーンは無くお互いの関係は不明だが、かなり昔から湯屋に勤めている人物である。 リン 声 - 玉井夕海 油屋で働いている娘。外見年齢は14歳。口調は荒っぽいが性格はサッパリとしており、人間である千尋を初めて見た時は驚いて当惑していたが、彼女の雇用が決まると湯屋の先輩として千尋に色々と仕事を教えて面倒を見る。出自は不詳で、不本意ながら湯屋で働く自分の運命を呪っており、いつか湯屋を出て海の向こうの街に行く事を夢見ている。そのため、雇い主である湯婆婆に対する敬愛の念などは無く、上司であるはずのハク・父役・兄役らに対してもタメ口で話す。彼女の他にも人間の娘と全く変わらぬ外見をした湯屋で働く下働きの娘が何人かいる。他の従業員は人間である千尋を差別的に嫌っているが、彼女にはそういった偏見は無く、千尋に対しても他の従業員と同等に接している。好物はイモリの黒焼き(油屋では貴重な品で、従業員はみなイモリの黒焼きに目がない)。 父役(ちちやく)、兄役(あにやく)、番台蛙(ばんだいかえる) 声 - 上條恒彦(父役)、小野武彦(兄役)、大泉洋(番台蛙) それぞれ油屋の従業員たちと湯婆婆との間の中間管理職的役割を担っており、父役はハク以外の従業員の中で最も地位が高く、兄役はその下という位置づけ。いずれも蛙の化身。それぞれ、上には諂い下には威張るような態度を取るキャラクターとして描かれている。下の者を見下す傾向にあり、特に人間である千尋を毛嫌いしている。兄役は、カオナシが客として振舞っていたときに幇間もしていた。父役と兄役は千尋がカオナシを追い払ってからは、青蛙とともに湯婆婆から千尋を庇うなど変化が見られる。 青蛙(あおがえる) 声 - 我修院達也 湯屋で下働きをしている蛙。金に目がない。最初にカオナシに飲み込まれる。 ススワタリ イガ栗のような形をした黒い実体。魔法の力で煤から生まれたらしく、常に働いていないと消えてしまうが、煤に戻ってもいつのまにか煤から生まれてくるらしい。釜爺の指示で石炭を抱えて運び、ボイラー室の炉に放り込むのが仕事。金平糖を食事として与えられている。千尋の服と靴を預かる等、釜爺と共に千尋を手助けする。『となりのトトロ』にも同名の生物が登場するが、本作に登場するススワタリと違って手足が無い。 カオナシ 声 - 中村彰男 黒い影のような物体にお面をつけたような存在。言葉は話せず「ア」または「エ」といったか細い声を搾り出すだけで、表情も無い。コミュニケーションが取れないため、他人を呑み込んで声を借りる。その際はお面の下にある口腔から話す。普段は直立歩行だが、湯屋の従業員の青蛙を取り込んで巨大化した後は4足歩行に変わった。相手が欲しい物を手から出す力を持ち、それを手にした瞬間にその人を飲み込んでしまう。ただし、それは土くれが変化したものに過ぎない。橋の欄干で千尋を見かけたときから彼女を求めるようになり、喜んでもらいたい一心で番台から薬湯の札を盗み、千尋に差し出した。オクサレ様の一件の翌日に油屋に現れ、砂金を餌に従業員達を丸め込み、大量に料理を作らせて暴飲暴食し巨大化した。千尋にも砂金を差し出したが断られ、兄役がやってきて説明すると逆上し次々と湯屋の従業員の兄役と蛞蝓女を飲み込んでいきさらに肥大化していく。その後千尋を呼び出し、対面するが彼女に拒絶され、更にニガダンゴを食べさせられ嘔吐すると同時に怒りで暴走し、千尋を追いかけている途中に飲み込んだ3人を全て吐き出し、元の姿に戻る。戻った後は大人しくなり、千尋について銭婆のところへ行き、そのままそこに留まることになる。英語版での名前は\"No-Face\"。 鈴木敏夫によって米林宏昌がモデルであるとされていたが、のちに米林本人が後づけであると否定している。 神々 疲れを癒しに油屋へ来る八百万の神々。姿形はバリエーションに富み、様々な形体をしている。 おしらさま 声 - 安田顕 大根の神様。千尋と会っても別段物怖じも驚きもせず、リンに代わって千尋が湯婆婆のところへ行くのに付き添う。その後は扇子を持って舞を踊ったり、正装らしき衣装を着て帰る千尋を見送っていた。作中にはおしら様が二人映るシーンがあるため、複数いると思われる。 春日様 春日大社の神の面を顔につけた神様。硫黄の上の湯に入っている。 牛鬼 鹿のような角を生やした鬼。 オオトリ様 卵のまま生まれてこられなかったひよこの神様。大所帯で風呂に入る。 おなま様 木の葉の服を着て包丁を持っている。 オクサレ様(おくされさま) / 河の神(かわのかみ) 声 - はやし・こば ヘドロを固めたような姿で、凄まじい悪臭を放つ。その悪臭はリンが調達してきたメシを一瞬で腐らせるほど。千尋が浴槽に転落した際、底にこびりついたヘドロに頭から埋まり、もがく千尋を引き抜いて助けだした。その正体は翁のような面を付けた半透明の体を持つ名のある川の主。千尋の尽力によって体中のゴミが取り除かれて本来の姿を取り戻し、歓喜しながら湯屋から飛び去っていった。去り際には自身を救ってくれた千尋にニガダンゴを授け、湯屋には大量の砂金を残している。 一言主 名称のみ登場。 理砂 名前のみ登場。千尋が引っ越す前の友達。千尋が引っ越す時、「元気でね また会おうね」と書かれたお別れの手紙を添えた花束をプレゼントした。千尋が名前を奪われ千となってしまった後、お別れの手紙に書かれていた「ちひろ」の名前を見て自分が千尋であることを思い出すきっかけとなる。 湯婆婆が経営する、八百万の神が体を休める「油屋」(あぶらや)という屋号の湯屋が舞台。油屋は一見和風建築であるが、土台部分はコンクリートであったり、ボイラーやエレベーターといった近代的な設備が備わっている。和様に装っているのは表面部分だけであり、宮崎はこうした作りを「俗悪」と言い表す。最下層にボイラー機械室、その上に従業員用のスペースがあり、湯婆婆とハク、釜爺以外の従業員達はそこで寝泊りする。従業員の生活空間は崖側に配置されており、神々の出入りする正面側からは見えない。油屋正面とその上階が営業スペースとなっている。中に大きな吹き抜けがあり、下には様々な種類の風呂が配置され、その上を取り囲むように宴会場や客室が配置されている。さらに、その上には湯婆婆の個人宅があり、その部分は洋風の建築様式となっている。 千尋たちは最初に、時計台のような建物に迷い込む。そこから先は、廃墟が点々とするなだらかな草原がしばらく続く。その後小川を渡ると、食堂街に出る。丘と街を区切る川は、昼は小川であるが、夜になり神々が訪れる時間になると草原全体を占める大河に変わり、そこを船が行き交う。食堂街を抜けると大灯籠のある広場に出、そこから延びる橋が湯屋の正面入り口に繋がる。食堂街の周りには、両親の収容されている畜舎や冷凍室、花園などが配置されている(花園では季節の異なる花々が同時に咲き乱れている)。湯屋の方から見ると、畜舎は突き出た絶壁の上に建っていることがわかる。町と湯屋をつなぐ橋の下は巨大な平原になっており、雨が降ると海になる。橋の下には海原電鉄(架線はない)が走っている。単線の一方通行で、専ら行きっぱなしである(釜爺によれば、昔は帰りの電車も通っていたという)。途中には千尋が降りる「沼の底」駅があり、ほかに乗客の降りる沼原駅なども出てくる。 英語版はピクサーのジョン・ラセターが製作総指揮を手掛け、4人の翻訳家が英語版台本を作成し、カーク・ワイズが演出を手がけた。 製作総指揮:徳間康快 製作:「千と千尋の神隠し」製作委員会:徳間書店、日本テレビ放送網、電通、ディズニー、東北新社、三菱商事、スタジオジブリ 原作・脚本・監督:宮崎駿 音楽・指揮・ピアノ演奏:久石譲 作画監督:安藤雅司・高坂希太郎・賀川愛 原画 : 稲村武志・山田憲一・松瀬勝・芳尾英明・山森英司・中村勝利・小野田和由・鈴木麻紀子・松尾真理子・田村篤・米林宏昌・藤井香織・山田珠美・二木真希子・百瀬義行・山下明彦・武内宣之・古屋勝悟・倉田美鈴・山形厚史・君島繁・山川浩臣・大杉宣弘・田中雄一・金子志津枝・浜洲英喜・古川尚哉・小西賢一・大城勝・大平晋也・橋本晋治・中山久司・高野登・篠原征子・石井邦幸・山内昇寿郎 テレコム・アニメーションフィルム(田中敦子) 動画チェック:舘野仁美・鈴木まり子・斎藤昌哉・大橋実 動画協力:アニメトロトロ、オープロダクション、スタジオコクピット、スタジオたくらんけ、グループどんぐり、中村プロダクション、GAINAX、動画工房、スタジオ九魔、Production I.G、スタジオムサシ、スタジオ・ブーメラン、Studio DEEN、スタジオ雲雀、ラジカル・パーティー、キリュウ、夢弦館、AIC、SHAFT、LIBERTY SHIP、MADHOUSE 美術監督:武重洋二 美術監督補佐:吉田昇 背景:男鹿和雄・平原さやか・福留嘉一・田中直哉・春日井直美・伊奈涼子・長田昌子・石原智恵・矢野きくよ・糸川敬子・増山修・斎藤久恵・菊地正典・長縄恭子・佐々木洋明・山本二三 スタジオ風雅(永井一男) 小倉工房(小倉宏昌、久保田正宏) 色彩設計:保田道世 色指定補佐:山田和子・野村雪絵 デジタル作画監督:片塰満則 映像演出:奥井敦 録音演出:林和弘 整音:井上秀司 編集:瀬山武司 編集助手:水田経子・内田恵・武宮むつみ 制作担当:高橋望 プロデューサー補:石井朋彦 特別協力:読売新聞社・ローソン 宣伝プロデューサー:市川南 製作担当:奥田誠治・福山亮一 制作:スタジオジブリ プロデューサー:鈴木敏夫 配給:東宝 (以上、特に注記のないものはロマンアルバム 2001, pp. 102-103より抜粋) 宮崎駿は信州に山小屋を持っており、毎年夏になるとジブリ関係者の娘たちを招いて合宿を行っていた。宮崎は子どもたちを赤ん坊のころから知っており、「幼いガールフレンド」という言い方もしている。少女たちは宮崎を「お山のおじさん」と呼んでおり、その頃はまだ映画監督とは思っていなかった。『もののけ姫』公開直後の1997年8月、制作に疲れ果てた宮崎は山小屋で静養し、「幼いガールフレンド」たちの訪問を楽しみにしていた。同年9月ごろ、宮崎に次回作への意欲が灯りはじめる。山小屋には『りぼん』や『なかよし』といった少女漫画雑誌が残されていた。宮崎は過去にも、山小屋に置かれていた少女漫画誌から映画の原作を見つけ出している(『耳をすませば』や『コクリコ坂から』)。しかし今回は、漫画の内容が恋愛ものばかりであることに不満を抱いた。山小屋に集まる子どもたちと同じ年齢の、10歳の少女たちが心に抱えているものや、本当に必要としているものは、別にあるのではないか。美しく聡明なヒロインではなく、どこにでもいるような10歳の少女を主人公に据え、しかも安易な成長物語に流れないような映画を作ることができるのではないか。少女が世間の荒波に揉まれたときに、もともと隠し持っていた能力が溢れ出てくるというような、そんな物語が作れるのではないか。このように考えた。当時宮崎は、思春期前後の少女向け映画を作ったことがなかったので、「幼いガールフレンド」たちに向けて映画をプレゼントすることが目標になった。宮崎は『パンダコパンダ』(1972年)のとき、自分の子供を楽しませようという動機でアニメーションを制作した。顔の浮かぶ特定の個人に向けて映画を作るという経験はそれ以来のことだった。しかし宮崎駿は、『もののけ姫』の製作中からしきりに監督引退をほのめかしており、1997年6月の完成披露試写会以降、「引退」発言はマスメディアを賑わせていた。当時はまだ引退の心づもりは変わらず、次回作ではシナリオと絵コンテは担当しても、監督は別人を立てるつもりでいた。 1998年3月26日、スタジオジブリの企画検討会議で、柏葉幸子『霧のむこうのふしぎな町』(1975年、講談社)が案に挙がる。小学6年生の少女が「霧の谷」を訪れ、魔法使いの末裔たちが営む不思議な商店街で働きはじめるという筋のファンタジー小説だった。この原作は以前から企画検討にかけられており、1995年の『耳をすませば』では天沢聖司が『霧のむこうのふしぎな町』を読む場面が組み込まれている。宮崎は、柏葉の原作をもとに『ゴチャガチャ通りのリナ』というタイトルで企画に取り組む。しかし、これは早々に断念された。 次に、新企画『煙突描きのリン』がはじまった。1998年6月、小金井市梶野町のスタジオジブリ付近に事務所「豚屋」が完成、宮崎の個人事務所二馬力のアトリエとして使われることになった。宮崎はここで新企画に取り組みはじめた。『煙突描きのリン』は、大地震に見まわれた東京を舞台にした映画で、銭湯の煙突に絵を描く18歳の画学生、リンが、東京を影で支配する集団と戦うという物語であった。作品の背景には、現代美術家荒川修作の影響があり、荒川をモデルにした登場人物も用意されていた。宮崎は1998年に養老天命反転地を訪れて気に入り、荒川とも対談して意気投合している。プロデューサーの鈴木敏夫によれば、リンと敵対する集団のボスは宮崎自身が投影された60歳の老人であり、しかもこの老人と18歳の主人公のリンが恋に落ちる展開が用意されていたという。 1998年6月から約1年間進められた『煙突描きのリン』の企画は、1999年8月、突如廃案になった。鈴木敏夫によれば、次のような出来事があったという。鈴木は、1998年に公開されヒットしていた映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』(本広克行監督)を遅れて鑑賞する。若手の監督によって同時代の若者の気分がリアルに表現されていることに衝撃を受け、同時に、宮崎の描く若い女性が現代の若者像として説得力を持ちえるのかどうか疑問を抱く。鈴木は映画を観たその足で宮崎のアトリエに赴いた。すでに『煙突描きのリン』の企画はかなり進んでおり、アトリエの壁面には数多くのイメージボードが貼りつけられていた。イメージボードとは、作品のおおまかなイメージをスタッフと共有するために、アニメの代表的なシーンをラフに描き起こしたスケッチである。しかし鈴木はそれには触れず、『踊る大捜査線』の話をしはじめた。 宮さんは僕の話を聞きながら、すっと立ち上がり、壁に貼ってあったイメージボードを一枚一枚はがし始めました。そして、全部まとめて、僕の目の前でゴミ箱の中にバサッと捨てたんです。あの光景はいまでも忘れられません。 「この企画はだめだってことだろう、鈴木さん」 — 鈴木敏夫、ジブリの教科書 2016, p. 56 宮崎はその場ですぐ、「千晶の映画をやろうか」と提案した。「千晶」とは、本作の製作担当である奥田誠治の娘、奥田千晶のことである。奥田誠治は日本テレビの社員で、宮崎の友人のひとりだった。奥田千晶は毎年夏に宮崎の山小屋に滞在する「幼いガールフレンド」のひとりであり、鈴木とも親しかった。さらに宮崎は、作品の舞台を江戸東京たてもの園にすることを提案した。江戸東京たてもの園はスタジオジブリにほど近い場所にあり、宮崎・鈴木・高畑勲らの日常的な散歩コースになっていた。身近な場所を舞台に、親しい子供のための映画を作るという宮崎の提案に、鈴木は首を縦に振らざるをえなかった。 ある夏、宮崎らが山小屋の近くの川に沿って散歩をしていると、千晶がピンク色の運動靴を川に落としてしまった。千晶の父と宮崎・鈴木は必死で靴を追いかけ、川から拾い上げた。このエピソードは宮崎の印象に残り、『千と千尋の神隠し』のクライマックスの場面で直接的に使われている。幼いころの千尋はハク(コハク川)から靴を拾おうとして川に落ちたが、そのときの運動靴はピンク色である。また、この靴は、エンドクレジット後の「おわり」のカットでも作画されている。企画は当初、「千の神隠し」という仮題でスタートし、主人公の名前もそのまま「千晶」になっていた。しかし、「教育上よくない」という理由で、「千尋」と改められた。 1999年11月2日、企画書が書き上げられた。宮崎は企画書の中で大きく分けて次の3点の意図を掲げている。 現代の困難な世の中で危機に直面することで、少女が生きる力を取り戻す姿を描く 言葉の力が軽んじられている現代において、「言葉は意志であり、自分であり、力」であることを描く(千尋は湯婆婆に名前を奪われ、支配されてしまう) 日本の昔話の「直系の子孫」として、日本を舞台にするファンタジーをつくる 「千尋が主人公である資格は、実は喰い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない」とし、その上で、本作を「10歳の女の子達のための映画」と位置づけている。 『千と千尋の神隠し』は、『霧のむこうのふしぎな町』、『ゴチャガチャ通りのリナ』、『煙突描きのリン』の影響を部分的に受けてはいるが、キャラクターやストーリー展開の面では完全なオリジナルになった。 本作の制作は、12月13日に東宝が公開した配給作品ラインナップで公にされた。 1999年11月8日、宮崎駿はメインスタッフに向けて説明会を行う。11月12日にはジブリ全社員を集めて作品についてレクチャー。翌週から監督は絵コンテ作業に入り、メインスタッフたちも本格的な制作準備に入った。 2000年2月1日、宮崎は社内に打ち入りを宣言、作画打ち合わせがスタートした。 作画監督には安藤雅司が起用された。安藤は『もののけ姫』で26歳にして作画監督に抜擢された。しかし、鈴木敏夫の回想によれば、『もののけ姫』の制作終了後、安藤は一度辞意を示しており、鈴木に慰留されていた。宮崎のアニメーションがキャラクターを理想化・デフォルメする傾向が強いのに対して、安藤はリアリズムを希求し、映像的な快楽を優先して正確さを犠牲にすることを許さなかった。両者の志向は対立していた。 通常のアニメ作品では、原画修正は作画監督が行い、監督は直接関与しない。しかし、宮崎駿監督作品の場合、宮崎がアニメーターの長として全体の作画作業を統括し、原画のデッサン・動き・コマ数などを先に描き直す。このため、作画監督の仕事は宮崎のラフな線を拾い直す作業が主となる。安藤は『もののけ姫』公開後のインタビューで、宮崎の作品では作画監督という肩書で仕事をしたくないと心情を語っている。そこで鈴木は、次回作では「芝居」についても安藤のやり方で制作していいと認めることにした。宮崎自身も、『もののけ姫』の制作で加齢による体力の低下を痛感し、すでに細かな作画修正作業を担いきれない段階にあると考え、作画の裁量を安藤に委ねる方針を取った。それだけでなく、演出を安藤に任せる案もあった。宮崎が絵コンテを描いた『耳をすませば』で近藤喜文が監督を担当した前例もあり、同様の制作体制が取られる可能性もあった。少なくとも『ゴチャガチャ通りのリナ』の段階では、演出を安藤に任せるつもりでいたという。しかし、当の安藤は宮崎の絵コンテで演出をするつもりはなく、結局は宮崎が監督することになった。 原画は過去最大規模の37人体制になった。しかし、当時ジブリ社内の原画陣は過去に例がないほど脆弱で、特に中堅のアニメーターの層が薄かった。これに加えて、フリーで活躍しているアニメーターを積極的に受け入れ、宮崎駿の中になかった表現を取り入れたいという安藤の意向もあり、大平晋也や山下明彦といった実力派のフリーアニメーターが参加した。 動画チェックチーフは舘野仁美。舘野は『となりのトトロ』から『風立ちぬ』までのすべての宮崎監督作で動画チェックを務めている。動画班は最終的に、国内スタッフが99人、韓国の外注スタッフが27人、計126人が動員された。 宮崎駿は、長編映画制作の際、事前にシナリオを用意しない。絵コンテを描きながらストーリーを構想し、各スタッフは絵コンテがすべて完成する前から作業を進めていく。その間は監督自身でさえも作品の全容を知らない。本作では、絵コンテが40分ほど完成したところで転機が訪れた。2000年のゴールデンウィーク中のある日、その日は休日だったため、多くのスタッフは出勤していなかったが、プロデューサーの鈴木敏夫、作画監督の安藤雅司、美術監督の武重洋二、加えて制作担当者がたまたま居合わせた。宮崎はホワイトボードに図を描きながら、映画後半のストーリーを説明しはじめた。千尋は湯屋で働きながら湯婆婆を打倒する。ところが、湯婆婆の背後には銭婆というさらに強力な黒幕がいたことが判明する。ハクの力を借りて銭婆も倒し、名前を取り返して両親を人間に戻す。このような流れである。 しかし、この案では上映時間が3時間を超えてしまうという意見が出た。鈴木は公開を一年延期しようと提案したが、宮崎と安藤はこれを否定。上記のプロットは破棄されることになった。宮崎はそこでとっさに、千尋が初めて湯屋に入るシーンで欄干のそばに立っていたキャラクターを話題にした。当初カオナシは、「何の予定もなくてただ立たせていただけ」だったが、映像にしたときに奇妙な存在感があり、宮崎にとって気になるキャラクターになっていた。宮崎は即席で、湯屋でカオナシが大暴れするストーリーを語った。これが採用されることになり、絵コンテ執筆は大きく転換した。湯婆婆を退治するという展開は立ち消え、代わりに千尋とカオナシの関係にスポットライトが当たることになった。 当初は予定通り安藤雅司が作画工程を統括し、原画修正を任されていた。鈴木敏夫の約束通り、宮崎駿はタイミングのみをチェックした。しかし、日を追うにつれ、宮崎と安藤の間の溝は次第に深まっていった。宮崎は「どこにでもいる10歳の少女を描く」というコンセプトを掲げた。安藤はこの方針に可能性を感じ、今までの宮崎駿監督作にはなかったような現実的な空間を作り上げることで、ジブリアニメに新しい風を吹きこもうとした。そのような試みのひとつが「子供を生々しく描く」ということだった。安藤が用意した千尋のキャラクター設定は、背中が曲がり、無駄の多い緩慢な動作に満ち、表情はぶうたれていて喜怒哀楽が不鮮明だった。これは従来宮崎が描いてきた少女像からかけ離れたもので、とりわけ、目の描き方が一線を画していた。序盤の絵コンテは、千尋の不機嫌なキャラクター性を反映してゆっくりとした展開となった。しかしながら宮崎は、千尋がグズであるがゆえに先行きの見えてこない物語に苛立った。絵コンテでは、千尋が湯屋で働きはじめるまでの段階で、すでに40分が経っていた。そこで、中盤以降は一気にスペクタルに満ちた展開に舵を切った。千尋も序盤とは打って変わってデフォルメされた豊かな表情を見せ、きびきびと行動するようになった。そこには、旧来通りの、宮崎らしい、理想化されたヒロインがいた。安藤はこの方向転換に「違和感と失望」を抱いたが、それでもなお緻密な修正を続け、作画監督の通常の仕事範囲を超えて動画段階でもチェックを行い、場合によっては動画枚数を足すなど、身を削って作業を進めた。カットの増加・作画作業の遅延によって補助的に作画監督(賀川愛・高坂希太郎)が増員されたが、最終チェックはすべて安藤が担った。結局は宮崎も、当初の予定に反して、レイアウト修正・原画修正を担うようになった。宮崎の提示する演出意図と安藤の指示の食い違いに戸惑うスタッフは多かったという。 安藤は制作終了後のインタビューで、最終的には作品と距離をおいた関わり方になってしまったこと、全体としては宮崎の作品の枠を出ることができなかったこと、当初自分で思い描いていた作品はどうしても実現できなかったことを振り返っている。しかし、宮崎は「安藤の努力と才能がいい形で映画を新鮮にしている」と評価しており、鈴木は宮崎と安藤の緊張関係によって画面に迫力がみなぎるようになったと語る。安藤は本作を最後にジブリを退職したが、『かぐや姫の物語』(2013年)にはメインアニメーターとして、『思い出のマーニー』(2014年)には脚本(連名)および作画監督としてジブリ作品に再び参加している。 2000年9月20日、スタジオジブリ社長、徳間康快が死去。10月16日、新高輪プリンスホテルにてお別れ会。宮崎は会の委員長を務めた。葬儀に出席する喪服の男たちがみなカエルのように見えたと語っており、作中に登場するカエル男たちとの関係をほのめかしている。徳間は作品の完成を見ずにこの世を去ったが、「製作総指揮」としてクレジットされている。 同時期、作画作業の遅延は深刻化していた。前述の通り作画監督が増員されたのはこのころだった。経験の浅い新人アニメーターに対しては「遅くとも1人1週間で1カットあげる」という目標を設定したが、それだけではとても公開に間に合わない計算になり、鈴木は頭を悩ませた。社内で上げたカットは全体の半分程度にとどまり、残りは外注で仕上げた。アニメーターの小西賢一に依頼して実力のあるフリーアニメーターをリストアップしてもらい、支援を要請した。 動画・彩色は、国内の外注スタジオに委託しただけでは間に合わないということが明らかになった。そこで、ジブリ創設以来はじめて、海外スタジオに動画と仕上を外注することを決断。スタジオから4人を韓国に派遣した。韓国のD.R DIGITALは動画・彩色を、JEMは彩色を担当した。両社の仕事は高品質で、納期も遵守された。 美術監督は武重洋二、美術監督補佐は吉田昇。美術班も作画部門と同様新人スタッフが多かったため、武重はほぼすべてのカットの美術ボードを描いた。しかも、用途別に各カットごと3枚の美術ボードを描くほど念入りだった。『となりのトトロ』の作画監督であるベテランの男鹿和雄は、主に不思議の町に入り込む前の世界、冒頭とラストシーンの自然環境の背景を一任され、該当場面のモデルとなった四方津駅周辺を独自に取材した。湯屋の中の巨大な鬼の襖絵は吉田昇が担当した。 宮崎からは「どこか懐かしい風景」「目黒雅叙園のような擬洋風、古伊万里の大きな壺」などの指示があった。色については「とにかく派手に」「下品なほどの赤」という指定があり、随所にちりばめられた赤色と湯屋内部の金色がキーカラーになっている。 2000年3月17日には、江戸東京たてもの園でロケハンが行われた。江戸東京たてもの園は、企画当初から作品の舞台とされていた場所である。油屋のデザインについて、モデルとなった特定の温泉宿などは存在しない。ただし、江戸東京たてもの園の子宝湯は宮崎お気に入りの建物で、特に千鳥破風の屋根に加えて玄関の上に唐破風(別の屋根の形式)を重ねる趣向、および内部の格天井に描かれた富士山のタイル絵などの「無駄な装飾性」に魅了されたという。また、ジブリの社員旅行で訪れたことのある道後温泉本館も参考にされた。油屋の内装は目黒雅叙園が原形になっており、他に二条城の天井画、日光東照宮の壁面彫刻、広島の遊郭の赤い壁などが参考にされた。釜爺の仕事場にあった薬草箱は江戸東京たてもの園の武居三省堂(文具屋)内部の引出しがモデルになっている。油屋周辺の飲食店街は、新橋の烏森口や有楽町ガード下の歓楽街をイメージして描かれている。従業員の部屋は、1950年代の劣悪な労働環境だった近江紡糸工場の女工たちの部屋や、多磨全生園隣接の国立ハンセン病資料館内に再現された雑居部屋がモデルとなっている。湯婆婆の部屋は、和洋の混じった鹿鳴館や目黒雅叙園がモデルである。 台湾の台北近郊の町九份の一部商店主は宮崎駿が訪れスケッチをしたと主張しているが、宮崎は台湾メディアのインタビューに対して九份を作品の参考にしたことはないと否定している。 スタジオジブリでは『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)よりデジタル彩色が導入されており、本作は宮崎駿監督作品としては初めて、仕上・撮影の工程がデジタル化された。これに伴って宮崎は一部の役職を新しく命名し、CG部チーフだった片塰満則は「デジタル作画監督」に、撮影監督だった奥井敦は「映像演出」になった。『となりの山田くん』では水彩画調の実験的な彩色が行われたため、長編映画でデジタル彩色を用いて従来のセルアニメーションを再現していく作業は、ジブリにおいては実質的に初めての経験といってよかった。この状況を踏まえて、作画・美術・デジタル作画・映像演出の各チーフによって「処理打ち合わせ」という会議が持たれ、各部署間での密接な連携が模索された。たとえば、雨が降ったあとにできた海の描写はデジタル部門や撮影班の上げた成果である。 デジタル作画部門はほぼすべての背景動画を担当した。それ以外に、浮き上がる「荻野千尋」の文字や、川の神のヘドロ、海原電鉄から見た黒い人物の様子などを担当した。 映像演出部門では、現像を手掛けるイマジカと協力して、独自のカラーマネジメントシステムを導入し、デジタルデータをフィルムに変換する際に色調が変化しないよう努めた。また、本作は初期のDLP上映作品であり、本来であればフィルム特有の画面の揺れは抑えられる環境にあったが、映像演出の奥井はあくまでフィルム上映を基本と考え、完成画面の上下左右に1センチの余裕を残して、シーンに応じてデジタルデータにわざとブレを加える工夫をした。 色彩設計は保田道世。宮崎駿・高畑勲とは東映動画に在籍していた1960年代からの知己であり、『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』に至るまで、すべての宮崎駿監督長編作品で色彩設計部門のチーフを務めている。本作ではデジタル化により扱える色の量が飛躍的に増加した。 音楽は久石譲が担当した。久石は『風の谷のナウシカ』からすべての宮崎長編作品を作曲しており、『千と千尋の神隠し』で7作目。公開に先駆け2001年4月にイメージアルバムが発売され、5曲のボーカル曲のすべてで宮崎が作詞した。宮崎はイメージアルバムに収録されたピアノ曲「海」を気に入っており、久石は、この曲が海上を走る電車のシーンにうまく「はまった」ことを喜んだ。 覚和歌子作詞、作曲・歌はソプラノ歌手の木村弓による「いつも何度でも」が主題歌となった。しかし、この曲はもともと『千と千尋』のために書かれたものではない。木村弓と宮崎の交流は、1998年夏ごろに木村が宮崎に書いた手紙に端を発する。木村は前作『もののけ姫』を鑑賞して感銘を受け、自らのCDを添えて手紙を送った。宮崎は木村に好感を持った。当時宮崎は『煙突描きのリン』の企画中だったので、そのあらすじを書き添えたうえで「作品が形になったら連絡するかもしれない」と返事した。木村は『リン』の世界から刺激を受けてメロディを着想。作詞家の覚に持ちかけて曲の制作に入った。こうして、「いつも何度でも」は1999年5月に完成した。しかし宮崎から連絡があり、『リン』の企画自体が没になったので、主題歌には使うことができないと伝えられる。「いつも何度でも」はお蔵入りになりかけた。『千と千尋の神隠し』の主題歌は、宮崎作詞・久石作曲の「あの日の川へ」になる予定だった。イメージアルバムの1曲目には同名のボーカル曲が収録されている。しかし、宮崎の作詞作業が暗礁に乗り上げ、不採用になった。2001年2月、「いつも何度でも」を聞き直した宮崎は、「ゼロになるからだ」などの歌詞と映画の内容が合致することに驚き、急遽主題歌としての再起用を決める。『千と千尋』を制作するにあたって「いつも何度でも」が潜在的な影響を与えたのかもしれない、と振り返っている。 シングル「いつも何度でも」の売上は50万枚以上を記録した。 企画書にある「あいまいになってしまった世の中」、「あいまいなくせに、侵食し喰い尽くそうとする世の中」の縮図として設定されたのが、湯屋という舞台である。湯屋の勤務形態は夜型だが、スタジオジブリもまた夜型の企業であり、企業組織としての湯屋はスタジオジブリそのものがモデルになっている。宮崎もスタッフに「湯屋はジブリと同じだ」と説明し、ジブリ社内は「10歳の少女には魑魅魍魎の世界に見える」と語った。たとえば、湯婆婆はときどき湯屋から外出してどこか知れぬところへ飛んで行くが、この行動には、会議・出張などで頻繁にジブリからいなくなる鈴木敏夫のイメージが重ねられている。インタビューによれば、宮崎はペルーの少年労働を扱ったドキュメンタリー番組を見たことがあり、子供が労働することが当然である世界の現状を忘れたくなかったので、過酷な環境下で少女が労働を強いられるストーリーを執筆したと説明している。 町山智浩・柳下毅一郎は「湯屋は遊郭である」と指摘し、作品スタッフの舘野仁美(動画チェック)も同様の発言をしている。宮崎自身は、千尋が迷いこむ不思議な世界のイメージを伝える文脈で、学生時代に新宿の赤線地帯付近を通りかかったときに見た「赤いライトの光景」についてスタッフに説明したという。また、雑誌「プレミア日本版」2001年9月号のインタビューでも同様の発言があり、子供のころにはまだ残っていた新宿の「赤いランタン」に触れたうえで、「日本はすべて風俗営業みたいな社会になっている」「いまの世界として描くには何がふさわしいかといえば、それは風俗営業だと思う」と語っている。湯屋に大浴場がなく、個室に区切られていることについて質問されたときには、「いがかわしいこと」をするためであろうと答えている。かつての日本の湯屋では、湯女による垢すりや性的行為が一般的に行われていた。 そして、鈴木の述懐によれば、企画の原点には鈴木と宮崎の間で交わされた「キャバクラ」についての会話があった。その内容はこうである。鈴木にキャバクラ好きの知人がいた。この知人から聞いた話では、キャバクラで働く女性には、もともとコミュニケーションがうまくできないひとも多い。客としてくる男性も同じようなものである。つまりキャバクラは、コミュニケーションを学ぶ場なのである。異性と会話せざるを得ない環境に放り込まれて働いているうちに、元気を取り戻していく(という従業員もいる)。鈴木によれば、宮崎はこの談話をヒントにして湯屋の物語を構想した。すなわち、千尋が湯屋で神々に接待していくうちに、生きる力を取り戻していくというストーリーである。 「神仏混淆の湯治場」という発想は、「霜月祭」がもとになっている。この祭りは「十二月に神々を招いて湯を浴びさせる」というもので、様々な仮面を被った人々が多種多様な神々を演じて舞う神事である。鈴木と宮崎はNHKドキュメンタリー『ふるさとの伝承』でこの祭りを知り、着想を得た。霜月祭は、長野県下伊那郡天龍村に伝わる「天龍村の霜月神楽」や長野県飯田市の遠山郷(旧南信濃村、旧上村)に伝わる「遠山の霜月祭」など、長野・愛知・静岡の県境にまたがる地域の各地で行われている。また、静岡県静岡市の「清沢神楽」や静岡県御殿場市の「湯立神楽」、愛知県北設楽郡の「花祭り」など「釜で湯を沸かして掛け踊る」という湯立神楽の祭事は、日本各地で行われている。 1994年春頃、宮崎は自宅付近を流れるドブ川を観察する。川の中では、ユスリカの幼虫が大量発生して、汚濁した水の中で懸命に生きていた。宮崎はその様子を見て「今後の人間の運命」を感じる経験をした。後に宮崎は地元有志とドブ川を掃除し、そのときの経験が汚れた河の神の内部から自転車などを引き出すシーンとして活かされた。その後も川掃除は宮崎の習慣になっており、2016年に一般市民が制作したドキュメンタリー作品では、宮崎が川掃除などの地域の清掃活動に取り組む様子が収められている。 鈴木敏夫は、宣伝の量と上映館のキャパシティの両方を『もののけ姫』の倍にする計画を立てたと語っている。鈴木を奮起させたのは、宮崎駿の息子、吾朗と、博報堂の藤巻直哉の言葉だった。鈴木は、前作に続いて今作でも大ヒットが続けば、宮崎がおかしくなってしまうのではないかと心配していた。しかし、宮崎吾朗は、当時デザインに取り組んでいた三鷹の森ジブリ美術館の成功を望み、『千と千尋の神隠し』を前作の倍ヒットさせてほしいと言った。のちに『崖の上のポニョ』の主題歌を歌うことになる藤巻直哉は、2000年の秋頃に赤坂でばったり鈴木と出くわした。当時、電通と博報堂は1作ごとに交代で製作委員会に入っていたため、博報堂の担当者である藤巻は関わっていなかった。藤巻はそこで次のようなことを漏らした。次の作品は、『もののけ姫』の半分は行くだろうとみんな言っている。電通がうらやましい、と。鈴木はこの言葉にいきり立ち、必ずや『千と千尋』を大ヒットさせると決意する。 2001年3月26日、江戸東京たてもの園で製作報告会。宮崎は、「幼いガールフレンド」たちが本当に楽める映画を作りたいと制作の動機を語った。徳間書店・スタジオジブリ・日本テレビ・電通・ディズニー・東北新社・三菱商事が製作委員会を組んだ。本作から新たに加わった出資企業は2社。ディズニーは『ホーホケキョ となりの山田くん』から参加していたが、東北新社と三菱商事は初参加だった。電通経由で特別協賛に入ったネスレ日本と、三菱商事系列企業のローソンはタイアップで活躍した。ネスレは本編映像を使用したテレビCMの放映などでキャンペーンを展開した。 コンビニエンスストアとのタイアップはジブリにとって初めての経験だった。それまで鈴木はコンビニを敬遠していたが、ローソンは全国約7000店の店舗で『千尋』を大々的に告知、独自にフィギュアつき前売り券などを用意し、映画館窓口の販売実績を超える32万枚の前売り券を売り上げた。この機にジブリとローソンのタッグは確立され、三鷹の森ジブリ美術館が完成した後にはローソンが唯一のチケット窓口になるなど、関係は続いている。 劇場の本予告・および新聞広告ではカオナシが前面に押し出された。本予告は二種類が作成され、2001年3月から5月までの予告「A」は、千尋が不思議な町に迷いこみ、親が豚になってしまうところまでをホラー映画風にまとめたものだった。対して、6月から流れた予告「B」は、千尋がカオナシを湯屋に招き入れ、カオナシが暴走するところまでをまとめた。 鈴木は、本作を「カオナシの映画」であると考え、カオナシを宣伝の顔として立てることを決めた。その理由として、前述した千尋のキャラクターの極端な変貌を鈴木が感じ取っていたことが挙げられる。不機嫌な千尋の視線に沿ってゆったりとした前半の展開と、中盤以降のきびきびと働く千尋を追いかけるような展開にはギャップがあり、鈴木は本作を「1本で2本分の映画」であるように思った。鈴木の語ったところによれば、宮崎自身も当初は「千尋とハクの話」だと考えており、カオナシ中心に宣伝を行うことに違和感を持っていた。しかし、映画が完成に近づいた段階でラッシュ(完成した素材を荒くつないだ映像)を見て、「千尋とカオナシの話」であることを認めたという。 当初は、糸井重里の書いた「トンネルのむこうは、不思議の町でした。」という宣伝コピーが使われていた。しかし、宣伝プロデューサーを務めた東宝の市川南の意見で、「〈生きる力〉を呼び醒ませ!」というサブコピーが考案され、新聞広告などではこちらのほうが大きく取り上げられた。 宣伝チームはローラー作戦をかけ、通常であれば行かないような地方の小さな町まで訪れるなど、徹底したキャンペーンを張ったと鈴木は証言する。 2001年7月10日、帝国ホテルで完成披露会見。同日、日比谷スカラ座で完成披露試写会。宮崎は前作の公開時に続いて、またしても長編引退をほのめかした。試写の反応は絶賛一色だった。しかし、作品の完成は公開日の2週間前で、試写にかけられる時間がわずかしかなかったことから、『もののけ姫』ほどの大ヒットにはならないだろうという観測が多勢を占めていた。この日の試写会には千尋のモデルとなった奥田誠治の娘、奥田千晶も現れた。宮崎は鈴木とともに千晶を出迎え、「この映画はおじさんと千晶の勝負だ」と言った。上映後の千晶の反応は上々であり、宮崎と鈴木は喜んだ。「おわり」のカットで描いた不鮮明なイラストについて宮崎が尋ねると、千晶はそれが自分の落とした靴の絵であることを正しく言い当てた。 2001年7月20日公開。すぐさま爆発的なヒットになり、週末映画ランキングでは公開以来26週連続トップ10にランクインした。さらに、公開32週目には前週の18位から一気に4位に浮上した。11月11日までの4か月間で、興行収入262億円、観客動員数2023万人を記録。『タイタニック』が保持していた日本の映画興行記録を塗り替えた。1年以上のロングラン興行になり、最終的には308億円の興行収入を叩き出した。この記録は2018年現在も破られていない。宮崎の個人的な友人である千晶を喜ばせたいという動機でスタートしたこの映画は、実にのべ2350万人もの日本人の足を劇場に運ぶに至ったのである。 空前のヒットの興行的な要因としては、まず宮崎の前作『もののけ姫』が1420万人を動員し、新規顧客を開拓したことが挙げられる。また、『もののけ姫』から『千と千尋の神隠し』に至るまでの期間に、シネマコンプレックスが全国的に普及し、人気作品を映画館の複数スクリーンで集中的に上映する体制が整っていたこともある。公開と同時に、他の作品を上映する予定だったスクリーンが『千と千尋の神隠し』に回され、シネコンでの上映を占拠していった。一方、こうした類のない大ヒットは、他の上映作品の興行に悪影響を及ぼした。2001年12月に行われた「大ヒット御礼パーティ」の席上では、興行関係者が困惑を露わにした。興行収入300億という数字は、1年間に公開される邦画のすべてを合わせた量に相当したからである。 本作で行われた大宣伝とは対照的に、次回作『ハウルの動く城』では「宣伝をしない」宣伝方針が取られた。公開前の内容の露出は極端に抑えられることになり、宮崎もメディアから姿を消した。これに関して、鈴木は千と千尋の神隠しがヒットしすぎたことにより、本来ならある程度数字を挙げることができた様々な作品がヒットせず、多方面に迷惑をかけてしまったため、千と千尋がヒットした後に関係者が集まり、二度と千と千尋のような作品を出さないよう、ある程度棲み分けることにしたと語っている。 英語吹替版はピクサー社のジョン・ラセターがエグゼクティブ・プロデューサー(製作総指揮)を担当。配給の優先権を持っていたのはディズニーだったが、2001年8月にディズニーで行われた上映会では、当時CEOだったマイケル・アイズナーの反応は芳しくなかった。宮崎は米国での公開に積極的ではなかったが、鈴木は検討を重ねた末、宮崎の熱烈なファンであるラセターに協力を依頼することにした。1982年、宮崎はアニメ映画『リトル・ニモ』の企画で渡米し、このときにラセターと面識を得ていた。当時まだディズニーに在籍し、不遇の時にあったラセターは、『ルパン三世 カリオストロの城』を鑑賞して衝撃を受け、以来宮崎の熱心なファンとなる。1987年には『となりのトトロ』制作時のジブリを訪れてもいる。その後、ピクサーが創立されるとラセターは移籍し、1995年の『トイ・ストーリー』を皮切りに、ヒット作を送り出していた。 ラセターが説得した結果、ディズニーが北米での配給権を取得。ラセターは『美女と野獣』の監督、カーク・ワイズ(英語版)を英語版監督に、『アラジン』のプロデューサー、ドナルド・W・エルンスト(英語版)を英語版プロデューサーに指名した。英題は Spirited Away に決まった。吹替版は原作に忠実に制作された。 2002年9月5日から10日間、宮崎・鈴木らはプロモーションのために米国へ渡った。ラセターは、ピクサー社を案内したり、複葉機による遊覧飛行を用意したりと、ジブリの一行を手厚くもてなした。このときの様子を収めた映像は、DVD『ラセターさん、ありがとう』(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2003年)として発売されている。 9月20日、北米10都市で公開。以後約1年間に渡って小規模ながら興行が続いた。同年12月からは全米で次々と映画賞を受賞した。最終的には約1000万ドルの興行収入を記録した。 2003年1月24日には日本テレビ系列の『金曜ロードショー』でテレビ初放送され、46.9%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)という視聴率を記録した。過去にテレビ放送された劇場映画の最高視聴率である。ビデオリサーチ・関西地区調べでも46.1%の視聴率を記録。日本だけでなく、2004年12月29日にはイギリスで、2006年にはアメリカ合衆国で、2007年9月30日にはカナダでもテレビ放送された(オーストラリアでもテレビ放送実績あり)。 VHS・DVDは2002年7月に発売された。日本国内におけるVHSの出荷本数は250万本、DVDの枚数は300万枚だった。合計550万本の出荷は、やはり新記録だった。 2002年7月に日本で発売された『千と千尋の神隠し』のDVDや、ビデオカセット(VHS)に収録されている本編映像が、劇場公開版や予告編・TVスポットなどと比べて赤みが強いとして、スタジオジブリと発売元のブエナビスタ、消費者センターなどに苦情が寄せられた。 両社は、DVD制作時に用意されたマスターの色調には、意図的な調整を施しているためであり、「このクオリティが最高のものと認識しております」と説明した。映画上映時のTVCMや上映用プリントやDVDに収録された予告編、TVスポットなどにはこの調整は施されていないため、両者の色調が異なっているが、あくまで本編の色調が正しいとした。 2002年11月、この問題で一部ユーザーは、販売元のブエナビスタを相手取り京都地方裁判所に提訴し、正しい色調のDVDとの交換と慰謝料などを請求した。本係争は2004年9月に「ディズニー・ジャパンは購入者に誤解や混乱が生じたことに遺憾の意を表明する」「今後DVD販売に際しデータを調整した時は明記する」「原告らは請求を放棄する」など全5項目の和解が成立し決着した。 その後、北米、ヨーロッパ、韓国では、日本で発売されたものよりも、赤みの強くない映像が収録されたDVDが販売された。 日本テレビでの2003年1月24日の『金曜ロードショー』(開局50周年記念番組)での放送には、DVDと同様のマスターが使用され、以後も使用されるようになった。 2011年1月7日、日本テレビの『金曜ロードショー』で、初めてハイビジョンマスターにより放送。赤みが大幅に軽減され、北米版DVDに近い赤みの強くない映像で放送された。 2014年4月1日、本作のBlu-ray Disc化が正式発表された。発売予定日は2014年7月16日。Blu-ray版ではDVD版のような赤みは無くなり、劇場版と同等の色調で収録された。 日本以外の国での題名 『千与千尋』(繁:千與千尋、簡:千与千寻、ピンイン:Qiānyǔqiānxún、中国と香港の訳名)直訳:「千と千尋」 『神隠少女』(繁:神隱少女、簡:神隐少女、ピンイン:Shēnyǐnshǎonǚ、台湾の訳名)直訳:「神隠しにされた少女」 『Chihiros Reise ins Zauberland』(ドイツ語)直訳:「千尋の魔法の国の旅」 『Spirited Away』(英語)訳:spirit away=「誘拐する、神隠しにする、忽然と連れ去る」 『El viaje de Chihiro』(スペイン語)直訳:「千尋の旅」 『Le Voyage de Chihiro』(フランス語)直訳:「千尋の旅」 『La città incantata』(イタリア語)直訳:「魔法にかかった町」 『센과 치히로의 행방불명』(2000年式ローマ字:Sen-gwa Chihiroui haengbangbulmyeong、韓国語)直訳:「千と千尋の行方不明(神隠し)」 2002年2月6日、第52回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品。同映画祭コンペ部門の長編アニメーション映画の出品は初。2月27日、最優秀作品賞である金熊賞を受賞した。ポール・グリーングラス監督『ブラディ・サンデー』と同時受賞だった。世界三大映画祭で長編アニメーションが最高賞を獲得するのは史上初だった。 2003年2月12日、第75回アカデミー賞長編アニメーション部門へのノミネートが決定。3月23日の授賞式で受賞が発表された。2018年現在に至るまで、同部門を受賞した日本のアニメーションは本作のみである。また手描きのアニメーションとしても唯一の受賞作である。授賞式には宮崎の代理で鈴木敏夫が出席する予定だったが、3月20日に米軍を中心とする有志連合がイラク進攻を開始し、事態が緊迫化したため、断念した。宮崎の受賞コメントは次のようなものになっている。 いま世界は大変不幸な事態を迎えているので、受賞を素直に喜べないのが悲しいです。しかし、アメリカで『千と千尋』を公開するために努力してくれた友人たち、そして作品を評価してくれた人々に心から感謝します。 — 宮崎駿、 アカデミー賞を受賞したことが示すように、本作は英語圏でも広範な評価を得ている。レビュー集積サイトのRotten Tomatoesでは、178本のレビューが掲載されており、うち97%が肯定的に評価している。平均レートは8.6/10で、掲載されているコンセンサスは次の通り。「『千と千尋の神隠し』は、見事に描き出されたおとぎ話であり、眩惑的、魅惑的だ。この作品を見た観客は、自分たちの住んでいる世界がいつもより少しだけ興味深く、魅力的なものに感じられるだろう」。Metacriticでは37本のレビューをもとに94/100のスコアがついている。シカゴ・サンタイムズのロジャー・イーバートは満点の四つ星をつけ、作品と宮崎の演出を称賛している。また、本作を「今年のベスト映画」のひとつとしている。ニューヨーク・タイムズのエルヴィス・ミッチェルは肯定的なレビューを書き、アニメーションシーケンスを評価している。また、ルイス・キャロルの鏡の国のアリスと好意的な文脈で引き比べており、この映画が「気分としての気まぐれさ (moodiness as mood)」についての作品であり、キャラクターが作品の緊張感を高めていると評している。バラエティ誌のデレク・エリーは、「若者と大人が同じように楽しめる」とし、アニメートと音楽を評価している 。ロサンゼルス・タイムズのケネス・タランは吹き替えを評価しており、「荒々しく大胆不敵な想像力の産物であり、こうした創作物はいままでに見たどのような作品にも似ない」としている。また、宮崎の演出も評価している。オーランド・センチネル紙のジェイ・ボイヤーもやはり宮崎の演出を評価し、「引っ越しを終えた子供にとっては最適」の映画だとしている。 2009年2月にオリコンがインターネット調査した「日本アカデミー賞 歴代最優秀作品の中で、もう一度観たいと思う作品」で1位に選ばれた。 2016年7月、アメリカの映画サイト・The Playlistが、21世紀に入ってから2016年までに公開されたアニメのベスト50を発表し、本作が第1位に選ばれた。 2016年8月、英BBC企画「21世紀の偉大な映画ベスト100」で第4位に選ばれた。 2016年に実施された「スタジオジブリ総選挙」で第1位に選ばれ、2016年9月10日から16日までTOHOシネマズ5スクリーンで再上映された。 2017年4月、映画批評サイト「TSPDT」が発表した「21世紀に公開された映画ベスト1000」にて、第8位に選ばれた。 2017年6月、ニューヨークタイムズ紙が発表した「21世紀のベスト映画25本」で、第2位に選ばれた。 2017年6月、英エンパイア誌が読者投票による「史上最高の映画100本」を発表し、80位にランクインした。 2018年8月、ワシントンポスト紙が発表した「2000年代のベスト映画23本」に選出された。 2018年10月、英BBCが企画・集計した、「非英語映画100選(英語圏にとっての外国語映画100選)」にて、37位に選ばれた。 (日本国内) (番組はすべて日本テレビ系 「金曜ロードSHOW!」(旧・金曜ロードショー)である) ^ a b 外部リンクに映像 ^ 名前の由来は饒速日命。 ^ 銭婆によってネズミにされた坊に出くわしたときには、自分の息子だと気づいていなかった。 ^ 絵コンテに収録されている釜爺のセリフによれば、契約印があれば湯屋の労働協約を変えることができ、従業員を奴隷にすることもできる。 ^ 絵コンテでは「ゼニーバの声 やさしくなりすぎないこと こわいおばあさまです」と注意書きされている。 ^ 宮崎は「長虫」という語で龍を指すことがある。 ^ 着ているシャツの袖も腕の長さに合せて同時に伸縮する。 ^ イメージボードでは、リンのイラストの横に「白狐」と記されている。 ^ 絵コンテには「部長と課長とおもって下さい」とある。 ^ 釜爺の回数券に名が記されている。 ^ きっかけとなった宮崎と鈴木の面会は、1999年1月の出来事とする記述もある。 ^ 公開を1年延期して3時間の映画を作るという提案について、鈴木の真意は不明である。映画公開直前の2001年6月20日のインタビューでは「真剣でした。そういう映画を見たかったし」と語っている。一方、公開から10年余りが経った2016年の聞き書きでは、宮崎の提示したプロットについて「正直にいうと、ちょっとバカバカしいんじゃないかと思った」と語っている。しかし、宮崎の前で正直に不満を述べるわけにはいかない。そこで、上映時間が延びてしまうというプロットの弱点をとっさに指摘した、という説明に変わっている。 ^ 安藤は漫画家の高野文子のファンで、高野のように少ない線のみで人体を生々しく表現することに憧れを持っていた。 ^ 通常、アニメーションの美術制作は三段階に分けて行われる。背景のイメージをおおまかに描き起こしレイアウト化した美術設定、本番の背景作業に入る前により指針とする絵を描き、色味や物の質感などを詳細に指定する美術ボード、そして実際に撮影に使用される背景素材を各スタッフが分担し描く本番の作業である。『千と千尋の神隠し』では、宮崎が絵コンテで背景を作りこんでいったため、武重は美術設定を制作していない。美術監督#アニメーションでの美術監督も参照。 ^ 宮崎はアニメーターの近藤勝也の結婚式で目黒雅叙園を訪れたことがあった。 ^ その名の通り動く背景。手書き作画の場合は、通常の人物の動きと同じように、アニメーターが動きを起こす。本作のようにCGで作画される場合もある。 ^ 以下は舘野の発言の引用。「当初『小さい子供のための映画』と聞いていましたが、あのお風呂屋さんも湯女がいて、一種の遊郭みたいな場所ですね。昔から宮崎さんが描きたいと思っていて、描けなかった部分だったのかなと思いました。それと、宮崎さんが書いた歌詞に、カオナシが千尋を食べちゃいたいという箇所があるでしょう。賀川(愛)さんが、『ついにホントのこと言っちゃったねぇ』って、種明かししたみたいに喜んでいました(笑)。」 ^ のちに「ジブリ学術ライブラリー」ブランドでブルーレイ化。 ^ 市川がジブリ作品の製作に関わったのは本作のみだった。2013年、東宝映画社長となった市川がゴジラ映画の新しい企画(『シン・ゴジラ』)を製作した際には、鈴木が庵野秀明を紹介している。 ^ その後、「DVD・VHS本編のクオリティは、その色を忠実に再現したものと認識しております」と変更された。 ^ 翌年から名称は東京国際アニメフェアに。コンペティションの名称は途中から「東京アニメアワード」になった。遅くとも2003年からはこの名前が使われていることが確認できる。2014年、東京国際アニメフェアはアニメ コンテンツ エキスポと統合してAnimeJapanにリニューアル。東京アニメアワードは東京アニメアワードフェスティバルとして独立した。 ^ 宮崎駿監督のアカデミー名誉賞受賞を記念して放送される。番組序盤には『ルパン三世 カリオストロの城』から『風立ちぬ』まで、宮崎駿監督の全11作品の名シーンを振り返る特別企画が放送された。 ^ a b “Sen to Chihiro no kamikakushi (2001) - Company credits”. 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キネ旬ムック『千と千尋の神隠し』を読む40の目(2001年8月15日)ISBN 4-87-376574-9 ユリイカ 詩と批評 2001年8月臨時増刊号 総特集 宮崎駿「千と千尋の神隠し」の世界 ファンタジーの力(2001年8月25日)ISBN 4-79-170078-3 千と千尋の神隠し(徳間アニメ絵本)(2001年8月31日) 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(1)(2001年9月1日)ISBN 4-19-770082-2 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(2)(2001年9月10日)ISBN 4-19-770083-0 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(3)(2001年9月30日)ISBN 4-19-770084-9 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(4)(2001年9月30日)ISBN 4-19-770085-7 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(5)(2001年9月30日)ISBN 4-19-770086-5 THE ART OF Spirited Away―千と千尋の神隠し(2001年9月10日)ISBN 4-19-810006-3 千と千尋の神隠し(ロマンアルバム)(2001年9月10日) 千と千尋の神隠し(ジス・イズ・アニメーション)(2001年9月20日)ISBN 4-09-101558-1 千と千尋の神隠し(スタジオジブリ絵コンテ全集13)(2001年10月31日)ISBN 4-19-861439-3 「千と千尋の神隠し」の謎(2002年1月20日)ISBN 4-8379-6122-3 アニメーションを展示する―三鷹の森ジブリ美術館企画展示「千と千尋の神隠し」(ジブリTHE ARTシリーズ)(2002年9月1日)ISBN 4-19-810007-1 「千と千尋の神隠し」のことばと謎(2003年3月3日)ISBN 4-336-04519-4 千と千尋の神話学(2009年6月23日)ISBN 4-7879-6138-1 「千と千尋」のスピリチュアルな世界(2009年7月27日)ISBN 4-393-20320-8 アニメに学ぶ心理学 『千と千尋の神隠し』を読む(2015年10月)ISBN 978-4-86565-035-8 千と千尋の神隠し ジブリの教科書〈12〉 文藝春秋〈文春ジブリ文庫〉、スタジオジブリ編(2016年3月)ISBN 4-16-812011-2 音楽 千と千尋の神隠し イメージアルバム 徳間ジャパンコミュニケーションズ(2001年4月4日)TKCA-72100 千と千尋の神隠し サウンドトラック 徳間ジャパンコミュニケーションズ (2001年7月18日)TKCA-72165 スタジオジブリ 宮崎駿&久石譲 サントラBOX [Box set, Limited Edition] (CD) 徳間ジャパンコミュニケーションズ(2014年7月16日) 宮崎駿 油屋 湯女 三鷹の森ジブリ美術館 - 本作の制作と並行して開館準備が行われた。開館後、最初の企画展示として『千と千尋の神隠し』が取り上げられた。 柏葉幸子 - デビュー作の『霧のむこうのふしぎな町』が当作の原型となっている。 耳をすませば - 劇中で天沢聖司が読んでいる本が『霧のむこうの不思議な町』である。 公式サイト - ウェイバックマシン(2002年1月23日アーカイブ分) スタジオ・ジブリ公式HP 千と千尋の神隠し|ブルーレイ・デジタル配信 - ディズニー 千と千尋の神隠し - 金曜ロードショー(2004年12月10日放送分) 千と千尋の神隠し - 金曜ロードショー(2007年2月2日放送分) 千と千尋の神隠し - 金曜ロードショー(2009年6月5日放送分) 千と千尋の神隠し - 金曜ロードショー(2011年1月7日放送分) 千と千尋の神隠し - 金曜ロードSHOW!(2012年7月6日放送分) 千と千尋の神隠し - 金曜ロードSHOW!(2014年11月21日放送分) 千と千尋の神隠し - 金曜ロードSHOW!(2017年1月20日放送分) 千と千尋の神隠し - 日本映画データベース 千と千尋の神隠し - allcinema 千と千尋の神隠し - KINENOTE 千と千尋の神隠し - Movie Walker 千と千尋の神隠し - 映画.com 千と千尋の神隠し - オールムービー(英語) 千と千尋の神隠し - インターネット・ムービー・データベース(英語) Spirited Away Wins Animated Feature: 2003 Oscars - YouTube アカデミー長編アニメ映画賞「千と千尋の神隠し」(受賞映像)", "『猫の恩返し』(ねこのおんがえし)は、スタジオジブリ制作のアニメーション映画。監督は森田宏幸。2002年に『ギブリーズ episode2』と同時上映で公開。 スタジオジブリの作品『耳をすませば』の主人公である月島雫が書いた物語という位置付けのスピンオフ。猫の男爵バロンとムーンが2作に共通して登場する。宮崎駿のリクエストをうけて柊あおいが描き下ろしたコミック『バロン 猫の男爵』を原作とする。 バロンの声を担当する声優は主人公とのバランスを考慮し、『耳をすませば』の露口茂から袴田吉彦に変更された。また、『耳をすませば』で月島雫の声を担当した本名陽子が、クラスメイトのチカ役を担当している。 『耳をすませば』の直接の続編ではないが「月島雫が書いた物語」という位置づけであるため、実質的には続編に近く「続編は作らない」という方針を採るジブリが試みた唯一の続編相当作品である。 キャッチコピーは「猫になっても、いいんじゃないッ?」(糸井重里)。 日本国内の興行収入は64.6億円で2002年の邦画1位、DVDとVHSを合わせたビデオグラム出荷本数は2007年5月時点で72万本。 女子高生・吉岡ハルは、学校に遅刻したある日の放課後、ラクロス部である親友のひろみと家路についていた。道中、何かをくわえた見かけない黒猫がトラックに轢かれそうになるのを目撃、咄嗟にひろみのラクロスのスティックを使って助ける。助けられた後、その猫は日本語で礼を述べ、二足歩行で歩き去る。実は、彼は猫の国の王子・ルーンだった。その夜、母親に「猫が話した」と告げたハルは幼いハルが「白猫と話した」と口にしたというエピソードを聞かされる。その夜中、猫王ら猫の国一行が現れルーンを助けたお礼として目録を貰う。 翌日、猫の国からのお礼が届くが、ひろみへの大量のスティック、家の庭いっぱいの猫じゃらし、マタタビ、ネズミといった、猫しか喜びそうのない代物ばかり。さらにはハルについてくる大量の猫たち。放課後、ひろみの掃除当番を代わりごみ捨てに行くと、想い人である町田が彼女と思われる人物と歩いているのを目撃。その直後に猫王の家来ナトルがハルの元を訪れる。「私は猫じゃないから猫じゃらしもマタタビも嬉しくない」と文句を言うハルに、それならば猫の国へご招待致しますとナトルは答えた。さらに、猫王はハルをルーンの妃にしようとしていることも伝える。ハルはそのことに慌ててナトルを引き止めるが、ナトルは「今夜お迎えにあがります」と言い残し去ってしまう。「猫のお嫁さんにされちゃう」とパニックになるハルにどこからともなく声が聞こえた。その声によると「猫の事務所を探して。十字街に居る白い大きな猫が教えてくれるから」とのこと。 学校の帰り道、ハルは十字街で白い大きな猫、ムタに出会い、「付いて来な」と言われたハルは付いて行くことに。着いたのは不思議な街で、そこにある小さな家の「猫の事務所」で猫の男爵バロンと、心を持つカラスのガーゴイルトトに出会う。ムタ曰く、猫の国は自分の時間が生きられないやつが行く場所で、それを聞いたバロンはハルに自分を見失わないようにと諭す。猫の事務所にいる時、突然現れたナトリ率いる猫の集団に、ハルは連れ去られてしまう。そしてハルとムタは、バロンやトトと離れてしまい猫の国に連れ去られる。そこで、ハルはルーン王子と結婚する事を決められてしまい、猫耳や尻尾が生えて猫にされてしまう。 泣く泣く猫の国の城での祝宴に参加していた時、ハルは仮面の貴公子に扮したバロンに助けられ、白猫ユキの手引きにより建物から脱出、塔の頂上に行けば元の世界に戻れると知り、ムタと共に迷路の堀を攻略する。迷路を阻む壁のハリボテを倒し、塔を登って行くが、中途で猫王が塔の下半分を爆破し崩壊させたため、追い詰められる。 その時、帰ってきたルーン、そしてハルを猫の事務所に導いた声の主・ユキにより助けられる。そしてユキは昔ハルに助けられたこと、ルーンと結婚することを告白。ハルはそのことを心から喜ぶ。諦めきれない猫王はハルを自分の妃にしようと薦めたが一蹴され、怒って暴れ出し、バロンに勝負を挑む。結局猫王が敗北したものの、塔の頂上からはハルの悲鳴が。塔が崩壊していたため、出口は人間界の上空のあらぬところにつながっていたのだ。 ムタとともに落下していくハル。しかしなんとか間に合ったバロンの指示で体勢を立て直し、遂にトト率いるカラス達に助けられながら人間界に帰還する。学校の屋上で、ハルはバロンに告白する。バロンは寂しがるハルに、また困った事件があったら猫の事務所の扉は開かれると言い残して去る。ハルは感謝の気持ちを叫び、日常に戻るのだった。 吉岡 ハル(よしおか ハル) 本作の主人公。短めのポニーテールが特徴の女子高生。心優しく素直な性格。実は猫の言葉を理解できる能力をもっている。朝に弱く、寝坊で学校を遅刻してしまうことも少なくない。ドジなことも多く、作中では2回ガードにつまづいて転倒している。母子家庭のため、母が仕事で多忙な時は炊事などを引き受けており、家事は得意。既に別の女子生徒と交際しているクラスメイトの町田に片想いをしている。劇中では当初は数々のトラブルから「猫なんて助けなければ良かった」と後悔していたが、バロンらとの触れ合い、猫の国での奮闘などから心境の積極的な変化が見られるようになる。終盤には自身を助け導いてくれたバロンを男性として意識する程に。物語のラストでは劇中での様々な経験からきた気持ちの現れからか、佇まいが大人びたものとなり、朝寝坊を治し、町田への想いを吹っ切るなどといった態度を改めるようになり、肩まで伸ばしていた髪もさっぱりとショートヘアにカットしている。 バロン / フンベルト・フォン・ジッキンゲン 「猫の事務所」(原作では「地球屋」という名前がある)の所長。「男爵」という設定で、身の丈30センチほどの、二足歩行で歩く猫の獣人。タキシード姿にステッキを持っており、イギリス紳士を連想させる風貌をしているが、名前はどちらかというとドイツ貴族に近い。性格は如何なる時でも冷静沈着、紳士的でムタ曰く「キザ」。剣術の腕前は一流で、身体能力にも優れている。自身が客に振舞う特製スペシャルブレンドの紅茶は、毎回味が変わるとのこと。原作での毛色は黒に近いこげ茶で衣装も黒を基調としている一方、映画版では黄色がかった茶色の毛皮に白のタキシードを羽織っている。一人称は基本的に「わたし」であるが、クライマックスの1シーンのみ、ハルに対し「俺を信じろーっ!」と発している。猫であるが実像が人工物であるため、「ゆ」の発音が可能。原作では映画版と比べると少々茶目っ気が強め。一方で、猫の国を滅ぼしかねない凄まじい能力を秘めているらしい。 ムタ / ルナルド・ムーン バロンの仲間の太った猫。普段は商店街をウロウロしている。口が悪く短気で気難しいが、根は善良で、いざという時には頼りになる。ハルをかなり上の階段に放り投げることができるほどの怪力の持ち主。自分の生い立ちについてはあまり語りたがらず、過去の経歴は後述する大犯罪猫であることが判っている以外はすべて不明。猫王の「どうすればそんなに長く生きられるのか」という台詞から、通常の猫の寿命をはるかに超える年月を生きていることが判っており、不老不死だとも思われる。通常、猫は「ゆ」という発音ができないことが彼によって説明されているが、彼自身は発音できる。これも長い年月をかけて生きてきたが故に身に付けた能力であると思われる。作中で「おれはハッキリした女が好きなんだ」と語っている。甘い物が大好きで数十個のケーキすら彼にとっては恐るるに足らず、こだわりも持っている模様。その昔、猫の国で国中の魚を喰い尽くして逃げた伝説の大犯罪猫「ルナルド・ムーン」として知られ、壁画にもなっていた。 「ムタ」という名前は、元々「耳をすませば」にて原田夕子の自宅近くに居住する幼女が独自に名付けた名前である。当作では「ルナルド・ムーン」が本名という設定であるが、「ムーン」という名前は「耳をすませば」にて天沢聖司が独自に名付けた名前である。 トト バロンの仲間のカラス(原作ではカササギ)。普段は石像(ガーゴイル)だが、事務所が動き出すと知性を持つ様になる。ムタとは喧嘩ばかりしているが、困難にぶつかった時は力を合わせている。色々とハルやバロンの手助けをする。たくさんの仲間の群れを呼ぶことができる。 ルーン 猫の国の王子。恋人(恋猫)のユキが好きだったお魚型のクッキーを探し人間界に来ていて、車に轢かれそうになったところをハルに救われる。猫王を反面教師にしてきたため、父親と違って誠実で真面目な性格をしている。父親と同じ色のオッドアイ。終盤にユキにプロポーズする。原作では映画とは違い、マイペースな性格である。 ユキ ハルが幼い頃に出逢った白猫。ハルを助ける為に彼女を「猫の事務所」へと導いた「不思議な声」の張本人。悲しそうな垂れ目をしている。かつてハルに食べさせてもらったことから、人間界で売っている魚の形をしたクッキーが大好き。自身の名前が「ユキ」であるためか、「ゆ」と発音できる数少ない存在である。猫王のお城で給仕をしている。ルーンとは恋人(恋猫)関係にあり、終盤にプロポーズを受ける。原作では元々ハルの飼い猫で、物語の7、8年前に交通事故により死亡している。また、ハルの護衛に失敗したムタに「大したことないのね」というなど、少々気の強い性格となっている。 猫王 本作の悪役。猫の国の王で、王子・ルーンの父親。青と赤のオッドアイである。我侭な暴君だが、最高権力者なので誰も逆らえない。ルーンを溺愛するが、彼を人間の娘と結婚させようと、彼やハルの意思を全く無視して2人の結婚を強行しようとする。しかし、ルーンが彼の恋人・ユキとの結婚を猫王の前で発表するとそれを素直に祝福するも、今度は自分がハルの結婚相手に名乗りを挙げるという無茶苦茶な王様。その際に難癖をつけて強引に迫ったことから、ハルから「このヘンタイネコー!」と怒られた。原作では行方不明の妃がおり、生存の知らせが入ったため捜しに行く。終盤で塔を爆破するなどやる事はかなり豪快であった。この騒動の後引退を決意。 映画では「ねこおう」と呼ばれているが、原作のルビは「みょうおう」で統一されている。 ナトリ 猫王の第一秘書。非常に有能で猫王を頭脳面でサポートしている。冷静沈着な性格で、猫王の支離滅裂な命令もきちんとこなす(しかし、猫王が塔を爆破すると言い出した際は、「猫王の好感度が下がる」と判断して普段の冷静さを失いパニックになったことがある)。唯一ムタに「どこかで見たことがあるような…」と疑問を持っていた(後にムタがルナルド・ムーンだと思い出した)。終盤で猫王と共に引退を決意。原作では登場しない。 ナトル 猫王の第二秘書。垂れ下がった耳が特徴的で、ナトリと違って能天気な性格。半ば強引にハルを猫の国に連れてきた。原作では大、中、小と3匹いる。 吉岡 直子(よしおか なおこ) ハルの母。夫はおらず、一軒家で娘のハルと2人で暮らしている。パッチワークの仕事で生計を立てている。 ひろみ ハルの親友でクラスメイト。ラクロス部に所属している。明るく思ったことをはっきりと言う性格。同じクラスメイトで卓球部の柘植君がお気に入りで試合があったら真っ先に見に行く。なお、ハルは彼女のラクロスのスティックを使ってルーンを助けたが、その際にスティックは折れてしまい、後に自宅に大量のスティックが送られた(事情が事情だったので、ひろみは怒らなかった)。 元は柊あおい作の短編マンガ「桔梗の咲く頃」(「耳をすませば幸せな時間」に収録)の登場人物で、柘植君(本作では主人公)に片想いしている設定は同じである。 チカ ハルのクラスメイト。泣きぼくろがあり、眼鏡をかけている。ひろみと卓球部の試合を観に来ていた。劇中では名前は明かされない。 原作:柊あおい(『バロン - 猫の男爵』(徳間書店、2002年3月、ISBN 4-19-770088-1)より) 企画:宮崎駿 監督:森田宏幸 脚本:吉田玲子 音楽:野見祐二 キャラクターデザイン・レイアウト:森川聡子 作画監督:井上鋭、尾崎和孝 作画監督補:稲村武志、山森英司、田村篤、山下明彦 動画チェック:坂本豊、中込利恵、大西綾、藤井香織 動画協力:スタジオコクピット、アニメTOROTORO、ラジカル・パーティー 美術監督:田中直哉 色彩設計:三笠修 仕上検査・色指定:林留美子、山崎紀代美 特殊効果:榊原豊彦 撮影監督:高橋賢太郎 編集:内田恵(瀬山編集室) 編集助手:武宮むつみ 録音演出:林和弘 整音:住谷真 効果:野口透(アニメサウンド) フォーリー:帆苅幸雄、丹雄二、北田雅也、岡瀬昌彦 フォーリーミキサー:井上秀司 フォーリー収録:東宝サウンドスタジオ(両角佳代子) 録音スタジオ:東京テレビセンター(今泉武、岩名路彦) 光学録音:上田太士 デジタル光学録音:西尾曻 ドルビーフィルム・コンサルタント:森幹生、河東努 dtsマスタリング:中山敦子、相川敦 キャスティング・プロデュース:PUG POINT・JAPAN(畠中基博、安直美、佐藤あゆみ) 音響制作:KiKi 音楽制作マネージメント:岸健次郎、久松有子 レコーディングエンジニア:大野映彦 ミュージックエディター:大野直子 演奏:東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:熊谷弘 音楽収録:東京オペラシティ コンサートホール 音楽制作:スタジオジブリ(稲城和実) タイトル:真野薫、マリンポスト 制作プロデューサー:田中千義 制作デスク:出口秀男、居村健治 制作進行:神村篤、望月雄一郎、清川良介 ポスプロ担当:古城環、津司紀子 演出補佐:齋藤純也、今井靖、泉津井陽一 監督助手:鶴岡耕次郎 制作業務担当:野中晋輔 制作業務デスク:川端俊之 プロデューサー補:石井朋彦 広報:西岡純一、鵜飼由美子、白木伸子 渉外:荒井章吉 音楽著作権:長井孝 キャラクター商品開発:今井知己、浅野広一、井筒理枝子 出版:田居因、筒井亮子、渋谷美音 管理担当:島宮美幸 協力:創芸、デジデザイン・ジャパン、D-REC、山﨑文雄、新井紀乃、吉田純哉、笹木信作 特別協力:ローソン 特別協賛:ハウス食品 宣伝プロデューサー:伊勢伸平 特別顧問:徳山雅也、矢部勝 予告編製作:ガル・エンタープライズ(板垣恵一) 海外プロモート担当:スティーブン・アルバート、武田美樹子、網崎直 「猫の恩返し」製作委員会:徳間書店、日本テレビ放送網、博報堂、三菱商事、東宝 製作担当:奥田誠治、藤巻直哉 現像:IMAGICA(タイミング:平林弘明、フィルム・レコーディング:豊谷慎吾、柴田祐男、本間政弘、カラー・マネジメント・システム:遠藤浩平、山井哲也、フロント業務:鈴木優子、志村由布子、ラボ・マネジメント:川又武久) 制作協力:高橋プロダクション、T2Studio、テレコム・アニメーションフィルム、D.R MOVIE、スタジオ・ファンタジア 制作:スタジオジブリ 製作:松下武義、氏家齊一郎、星野康二、宮川智雄、相原宏徳、高井英幸 製作プロデューサー:鈴木敏夫、高橋望 配給:東宝 『風になる』 作詞・作曲・歌 - つじあやの / 編曲 - 根岸孝旨 / 弦・管編曲 - 山本拓夫 シングル - SPEEDSTAR RECORDS サントラ - 徳間ジャパンコミュニケーションズ エンディングではAcoustic Versionが使用されている。 当作品の放送を行う際、上映時間が75分と短く、1時間55分の映画番組では放送時間が大幅に余るため、CMの本数を増やしたり、作品の放映終了後に最新映画情報などを長めに扱い時間の埋め合わせを行うのが常である。2016年11月18日放送の回では劇場公開時に同時上映だった『ギブリーズ episode2』を一緒に放送する2部構成とすることで時間の穴埋めが図られた。なお、テレビで『ギブリーズ episode2』が放送されたのはこの時が初めて。なお、ジブリ作品ではエンドロールも含めてノーカットで放送されるのが原則となっており、当作も例外ではなく、初回から4回目まではノーカットで放送していたが、この回の放送では例外的にエンドロールがカットされた。また、2018年8月24日放送の回では翌日放送の「24時間テレビ41「愛は地球を救う」」にあわせてマラソンランナー等の出演者が思い出のジブリ作品を語るコーナーが放送されたため、前回に続いてエンディングが途中カットとなった。 映像ソフト 猫の恩返し/ギブリーズ episode2 VHS - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2003年7月4日) 猫の恩返し/ギブリーズ episode2 DVD ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2003年7月4日) 猫の恩返し/ギブリーズ episode2 Blu-ray Disc - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2013年12月4日) 出版 りぼんマスコットコミックス 耳をすませば 幸せな時間(1996年2月20日)ISBN 4-08-853841-2 アニメージュ コミックス スペシャル バロン 猫の男爵(2002年5月20日)ISBN 4-19-770088-1 路地の向こうは猫の国 猫の恩返し&ギブリーズ 徹底ガイド(2002年7月20日)ISBN 4-04-853527-7 ロングテイル オブ バロン 絵本とムックで紡ぐ猫の男爵のもうひとつの物語(2002年7月20日)ISBN 4-906069-35-5 ジブリの猫たち(2002年8月2日)ISBN 4-7966-2822-3 猫の恩返しガイドブック―スタジオジブリとファンタジーの世界 (TOKUMA LADY’S MOOK)(2002年8月25日)ISBN 4-19-700022-7 猫が教えてくれたこと 「猫の恩返し」応援団編(2002年8月31日)ISBN 4-19-861562-4 猫の恩返し(徳間アニメ絵本)(2002年8月31日)ISBN 4-19-861570-5 猫の恩返し―フィルムコミック(1)(2002年9月1日)ISBN 4-19-770089-X 猫の恩返し―フィルムコミック(2)(2002年9月10日)ISBN 4-19-770092-X 猫の恩返し―フィルムコミック(3)(2002年10月1日)ISBN 4-19-770094-6 猫の恩返し―フィルムコミック(4)(2002年10月1日)ISBN 4-19-770095-4 The art of the cat returns―猫の恩返し(2002年9月10日)ISBN 4-19-810008-X 猫の恩返し(ロマンアルバム)(2002年9月10日)ISBN 4-19-720213-X 猫の恩返し(ジス・イズ・アニメーション)(2002年9月20日)ISBN 4-09-101567-0 バロン・猫の男爵 (フェアベルコミックス)(2006年12月7日)ISBN 4-86245-020-2 音楽 猫の恩返し サウンドトラック 徳間ジャパンコミュニケーションズ(2002年7月17日)TKCA-72367 原作コミックでは普通の猫は「ゆ」と発音できないことになっており、その旨が作中でムタによって解説されている。バロン・ムタ・ユキなど、特別な経緯を持つ猫のみが発音できることになっている。 映画では上記の設定は採用されておらず、ルーンやナトルも「ゆ」と発音している。 スタジオジブリ作品は通常、テレビ放送時はエンディングテーマも含めてノーカットで放送されることが原則となっているが、2016年11月18日に本作が放送された際には上述しているように『ギブリーズ episode2』が一緒に放送されたため、放送時間の都合により、ジブリ作品としては珍しくエンディングがカットされた。 第20回ゴールデングロス賞最優秀金賞 第6回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞 ^ 2002年興行収入10億円以上番組 (PDF) - 日本映画製作者連盟 ^ バロン 猫の男爵 - スタジオジブリ ^ “2002年度興行成績ランキング” (日本語). 楽天 (2013年6月11日). 2013年7月13日閲覧。 ^ 110万冊無料配布。“ゲドを読む。”の狙いを読む 宮崎吾朗監督作品「ゲド戦記」DVDのユニークなプロモーション、日経ビジネスオンライン、2007年5月21日。 ^ 『ギブリーズ episode2』の追放送に伴う措置 ^ 『24時間テレビ「愛は地球を救う」』の出演者による特設コーナー敷設に伴う措置 ^ 1日の放送で2作放送するのは長い金曜ロードショーの歴史の中でも極めて稀であり、2011年7月15日に『海がきこえる』と『ゲド戦記』の2作が同日に放送されて以来、5年4ヶ月ぶりのことである。 ^ 監督曰く「若々しい感じを出したかった」とのこと。もっとも、制作時点で既に露口は芸能活動を休業している状態だった。 ^ 原作漫画では自宅の表札に「晴」と漢字で表記されている。ただし、漢字表記は表札だけであり、表札以外は原作でも全てカタカナ表記である。 ^ ひろみいわく、一年で美人とのこと。 ^ 原作では猫になった際に、猫の国のメイドに「そこだけ長いと変」と髪をショートカットに切られてしまう。 ^ 杖と体術で2匹の兵士を倒したり、猫王との一騎討ちで勝つなど。 ^ 劇中でハルはそれを「すごく美味しい」と評しており、その際には「君はツイてる」と返している。 ^ だが、それが仇となってマタタビゼリーに入って身動きが取れなくなった。 ^ ムタ曰く「鳥目野郎」「靴墨野郎」。 ^ 原作では、車道の真ん中でぼーっと佇んでいて、事故にあいそうになっていた。「後日お礼を」と言ったのに、助けてくれた人物(ハル)の名前を聞き損ねていた(ユキに怒られる)。その上原作ラストで、「あらためて恩返しに伺いました」とハルの家に訪ねていき、ハルをずっこけさせた。 ^ この設定は原作には無い。なお、ルーンが人間界で買ってきたのは烏賊で出来たコップ。 ^ 原作漫画・映画ともに夫が居ない理由は明かされていない。 公式サイト - 2002年11月22日時点のアーカイブ 猫の恩返し - 金曜ロードショー(2005年8月26日放送分) 猫の恩返し - 金曜ロードショー(2008年7月4日放送分) 猫の恩返し - 金曜ロードショー(2010年10月22日放送分) 猫の恩返し - 金曜ロードSHOW!(2013年7月19日放送分) 猫の恩返し - 金曜ロードSHOW!(2016年11月18日放送分) 猫の恩返し - allcinema 猫の恩返し - KINENOTE 猫の恩返し - Movie Walker 猫の恩返し - 映画.com The Cat Returns - オールムービー(英語) Neko no ongaeshi - インターネット・ムービー・データベース(英語)", "『となりのトトロ』(英題:My Neighbor Totoro)はスタジオジブリ制作の長編アニメーション映画。宮崎駿監督作品。昭和30年代前半の日本を舞台にしたファンタジー。物語は、田舎へ引っ越してきた草壁一家のサツキ・メイ姉妹と、子どもの時にしか会えないと言われる不思議な生き物・トトロとの交流を描く。 小学生のサツキと妹のメイは、母の療養のために父と一緒に初夏の頃の農村へ引っ越してくる。引越し先の空き家には小さな黒いオバケが沢山住んでいた。最初はビックリした二人だったが、隣のおばあちゃんからそれは子供にしか見えず、害もなく、人が住み始めるといつのまにか居なくなるという話を聞いてサツキは拍子抜けし、メイは「つまんない」とぼやく。 サツキの通う学校が田植え休みの日、入院している母の見舞いに行った二人はオバケ屋敷のことを報告する。母がオバケ嫌いであることを心配したが、少しも怖がらずに「自分もオバケに会いたい」と言ってくれる母を見て、心強さを感じた二人は母が早く退院して一緒に暮らせることを願う。 そんなある日。1人で遊んでいたメイは庭で不思議な生き物を見つける。その生き物を追いかけて森に入ると、そこにはずっと大きな生き物が寝転んでいる。その生き物にメイが名を尋ねると、\"トトロ\"と答えたようにメイには聞こえた。その後、林の奥で眠っていた所を発見されたメイは、サツキと父にもトトロを見せようとするが、トトロが寝ていた場所が見つからず、やがて二人が笑いだしたため自分が言った事を信じていないのだと思い、本当にトトロを見たのだと怒って言い張る。しかし、そんなメイに父は「トトロはきっとこの森の主で、いつでも会えるわけではないのだ」と優しく諭し、三人でくすの木のある塚森へ向かい「これからもよろしくお願いします」と改めて引っ越しの挨拶をする。その晩、サツキは母あての手紙にこの時の出来事を書き記し、自分もトトロに会ってみたいと添える。 梅雨の季節となったある夜、サツキとメイが森にあるバス停で雨の中父の帰りを待っていると、そこへ頭に葉っぱを乗せたトトロがやって来る。ずぶ濡れのトトロを見かねてサツキがお父さんの黒い傘を貸してやると、トトロはお礼に木の実が入った笹の葉の包みを渡し、バスの姿をしたネコ(ネコバス)に乗って行ってしまう。数日後、二人は木の実を庭にまいたが、なかなか芽が出ずメイは数十日間毎日「まだでないまだでない」と言っている。さらに数日たったある夜、二人は就寝中にある物音に目を覚まし、庭を歩き回るトトロ達の姿を見つけて駆け寄る。やがて木の実はトトロの不思議な力で巨木へと育ち、二人はトトロと共にコマに乗って空を飛び、一緒に木の上でオカリナを吹いて遊ぶ。翌朝、目が覚めると巨木は消えていたが、かわりに小さな芽が生えていた。それを見た二人は、夢だけど夢ではなかったと大喜びする。 数ヵ月後。夏休みとなったある日、二人が隣のおばあちゃんと畑のトウモロコシを収穫していると、おばあちゃんの孫のカンタが預かってきた病院からの電報を持ってやって来る。サツキは慌てて電話を借りるとこの事を父に伝え、母が体調を崩してしまい一時退院が延びる事を知る。しかし、いくら仕方ないと言い聞かせても駄々をこねてばかりいるメイに、とうとうサツキは「お母さんが死んじゃってもいいのね!?」と怒って大ゲンカしてしまう。だが、不安なのはサツキも同様であるため、家に戻った直後、母が死ぬかもしれないとおばあちゃんの前で大泣きしてしまった。その話を聞いていたメイが母の所に向い、姿を消している事が判明し、村中で探し回るが一向に見つからない。途方にくれたサツキは藁にもすがる思いでトトロに助けを求めに森へ行く。寝ぼけ眼のトトロは「どうしたらいいかわからないの…」と泣き崩れたサツキを見て事態を察し、くすの木のてっぺんに登るとネコバスを呼んでくれた。サツキを乗せたネコバスは風のように走り、道に迷って泣いていたメイを見つける。メイが持っているトウモロコシを見たサツキはメイが母にトウモロコシを届けようとしたことを知った。 それを見たネコバスは二人を病院に連れて行く。そこには元気そうに父と話す母の姿があり、それを見た二人は安心する。母が二人の気配に気づき窓辺を見上げると、そこには『おかあさんへ』と彫られたメイが持ってきたトウモロコシが置かれていた。その後、二人は再びネコバスに乗って家まで送ってもらい、そこでカンタとおばあちゃんと合流すると、四人仲良く家路を歩く。そしてトトロ達は今夜もくすの木の上でオカリナを吹いていた。 サツキ(草壁サツキ) 声 - 日高のり子 草壁家の長女。黄色いシャツの襟付き服にオレンジ色の吊りスカート、それに濃い青い靴を履いているが、中盤からは夏服として薄黄色いノースリーブのワンピースに白いサンダルを履いている。当初は10歳の小学4年生という設定だったが、あまりにしっかりしているので12歳の小学6年生に変更された。親思いで聞き分けがよく、妹の面倒を見たり、寝坊する父親に代わって家事もこなすしっかり者だが、好奇心旺盛で有頂天になると大仰な振る舞いをする傾向がある。また、病院から容態の悪化を告げる電報が届いた時や、母を追って迷子になったメイを探しにトトロの森へたどり着いた際は不安から大泣きしてしまう繊細な一面も持っている。母からは「聞き分けが良すぎる」と言われた。トトロとは、雨の日にバス停留場で初めて対面した。肝が据わっており、初めてトトロやネコバスを見た際も驚きはしたが怖がりはせず特にトトロに出会えた際は喜びの表情を見せていた。名前の由来は皐月(5月)から。 メイ(草壁メイ) 声 - 坂本千夏 草壁家の次女。白いシャツの襟付き服に濃いピンク色のノースリーブのワンピース、それに黄色い靴を履いているが、中盤からは夏服として薄いピンクのノースリーブのワンピースに赤いサンダルを履いている。4歳。姉のサツキと同じく親思い。努力家で聞き分けのいい姉とは対照的に、幼い故に聞き分けが悪く言い出したら聞かない頑固な性格。サツキとは喧嘩もすることもあるがお姉ちゃん子で寂しさで姉の学校まで行ったり、どこかに行くと大抵はついてくる。幼稚園には通っておらず、父親が大学へ行く日はカンタのおばあちゃんの家へ預けられている。好奇心の強さや観察眼は姉以上で、初めて見た中小トトロを追ってトトロの棲家までたどり着いている。物語の終盤、家からかなり離れた母の入院先へトウモロコシを届けようとして迷子になってしまい、サツキがトトロの力を借りて探しに出ることになり、一緒に同行したネコバスの力を借り、無事に届けることができた。前述の好奇心に加え姉と同様の肝が据わっており、初めて小トトロを見た際も怖がらず、面白がるようにその後をつけ回した。名前の由来は英語で五月を表すMayから。 トウモロコシをちゃんと言えずトウモコロシと言ったり、オタマジャクシをオジャマタクシと言ってしまったりする。またこの作品では何もない所でよく転んでいて、大雨の中では転んだ拍子に服が泥だらけになったりするなど、幼児らしい所をしばしば見せている。顔のモデルは宮崎自身である。 お父さん(草壁タツオ) 声 - 糸井重里 サツキとメイの父。身長180cm。32歳。東京にある大学で、非常勤講師として考古学を教え、生活費を稼ぐため翻訳の仕事(主に中国語)もこなす。寝坊癖があるなど少しおっちょこちょいで頼りないが、優しく落ち着きがある。お化け屋敷に住むのが小さいときから夢だったと語るなど。いついかなる時も子供心を忘れない純粋さの持ち主。 大人であるため、トトロとは会ったことはないが、二人の娘の目撃談を疑っておらず、塚森の主と考えている。 俳優のイッセー尾形が声優をつとめる予定だったが、イッセー尾形の事務所スタッフが糸井重里の方が適任だと紹介し、糸井がキャスティングされることになった。なお、糸井はこの作品から長らくジブリ作品のキャッチコピーを担当することとなる。 久保つぎこ著の小説版では『都ぞ弥生』を歌うシーンがあり、北海道大学出身者であることが示唆されている。 お母さん(草壁靖子:くさかべやすこ) 声 - 島本須美 サツキとメイの母。優しく穏やかな性格。体が弱く、「七国山病院」に入院している。演出覚書には「胸を病んで入院中」とあるが、作中では靖子の病名は明言されていない。サツキが夏休みに入って最初の土曜日に一時退院が決まっていたが、風邪をこじらせて延期になってしまう。その事を病院側が電報で知らせたために、メイが迷子になる騒ぎが起き、そのことを申し訳ないと思い、退院したら2人の我が儘をいっぱい聞くつもりだと語った。エンディングでは、無事退院した姿を見せている。 トトロ(大トトロ) 声 - 高木均 森の主であり、この国に太古より生き、巨大なクスノキに住んでいる生き物。トトロは精霊などではなく、動物である。毛色は灰色で、たいてい塚森にあるオオクスの木で眠っている。子供にしか見ることができない(普通は人間には見えない)。蒔いたばかりの種をすぐさま大木に成長させたり、回転するコマの上に乗って空を飛んだりすることができ、月夜の晩にはオカリナを吹いている。また、雨の日のバス停でサツキから父の傘を借りてからはそれも持ち歩くようになる。「トトロ」という呼び名は伝承などに由来するものではなく、メイに名前を聞かれた時、うわのそらで眠たげに「ドゥオ、ドゥオ、ヴォロー」、という野太い声を上げ、これを返事と解釈したメイが「トトロって言うのね」と思い込んだことによる。初期の設定での名前は「ミミンズク」。年齢は1302歳。身長は2m。 中トトロ 毛は青く、よく木の実が入った袋を持っている。小トトロより一回り大きく、胸には大トトロと同じ模様がある。小トトロと同行中にメイに発見され、追いかけられた。初期の設定での名前は「ズク」。年齢は679歳。 小トトロ 毛は白い。普段は半透明で姿を消すことができる。中トトロと一緒に行動する。3匹の中では最初にメイに発見され、追いかけられた。普段は手は描かれていないが、オカリナを吹いたりする際に毛の中から伸び出している。映画コミックなどでは、チビトトロと表記されることもある。初期の設定での名前は「ミン」。年齢は109歳。 ネコバス 声 - 龍田直樹 身体がボンネットバスのような巨大な雄ネコ。ボンネットにあたる部分が頭で、背中が空洞になった胴体は柔らかな毛皮に覆われた座席になっている。爛々と光る眼がヘッドライト、額の両サイドのネズミがマーカーランプになっており、12本の足で水上、電線など、場所を選ばず風のように高速で走り、森の中を抜けるときは木々が脇に避けて道を空ける。トトロ同様、子供にしか見えない(普通は人間には見えない)が、走り去る姿に犬が反応して吠え付いたり、送電線に留まっていた小鳥たちが接近に応じて飛び立つ描写がある。実際のバスのように行先表示窓(方向幕)があり、迷子になったメイの元に向く際は「めい」、サツキとメイがこっそりお母さんを見舞いに訪ねる際には「七国山病院」(本編では「院」の字の「阝」が左右逆に、「完」が上下逆になっている)、巣に戻るときは「す」など、状況に応じて行先が表示される。 昔はカゴ屋に化けていたが、バスを見てからはバスの姿や行動を真似るようになった。これは、日本の神が新しい物好きであるためだという。 まっくろくろすけ(ススワタリ) 草壁家に住んでいた、イガ栗のような形に白い目をした黒い生き物。おばあちゃんはススワタリと呼んでいる。家中をすすと灰だらけにしてしまう。元が煤で出来ているためか触ったりすると真っ黒になってしまう。「ワリャッ!」という声は、アフリカに住むピグミーの声をサンプリングし、久石が作成したものである。後年のスタジオジブリ作品『千と千尋の神隠し』においても、釜爺の助手として石炭運びをするススワタリが登場するが、こちらには細い手足が生えている。 おばあちゃん 声 - 北林谷栄 カンタの母方の祖母。草壁家が引っ越してくるまで家を管理しており、隣家の大垣家に住む。サツキとメイを本当の孫のようにかわいがり、2人の面倒をよくみてくれる。畑でいろいろな野菜や花を育てている。ロマンアルバムによると「おっかない性格」らしく、本編でもサツキたちの家をおばけ屋敷呼ばわりして囃し立てたカンタを一喝し、逃げ帰らせている。 小さい頃にはススワタリが見えたという。 カンタ(大垣勘太) 声 - 雨笠利幸 サツキのクラスメイト。身長はサツキより少し低い。よく家の仕事を手伝っているが、飛行機模型を弄るなど年相応に遊ぶ描写もある。純情で照れ屋な性格で、都会から来たサツキが気になる様子だが素直になれない様子。当初、家の事を悪く言った為、サツキとは険悪であったが、大雨の中メイを連れて雨宿りしていたサツキに自らの傘を貸した事で和解する。その後は、サツキとメイが喧嘩した時にメイに声を掛けたり、メイが迷子になり途方に暮れていたサツキの元へ駆け付ける等頼れる面も見られた。 カンタの母 声 - 丸山裕子 雨の日なのに傘を忘れてきたと嘘をついて意地を張るカンタにゲンコツを一発お見舞いした、典型的な肝っ玉母さん。その後サツキとメイが傘を返しに来た時は律儀に返してくれたことを感謝した。 カンタの父 作中では、婿養子と思しき描写がある。あまり存在感がない。 学校の先生(森山玲子) サツキの担任。大柄で恰幅のいい、大学を出たばかりの若い女性教師。草壁家の事情を理解しており、メイが淋しがって勝手に学校に来た時は、放課後まで一緒の教室にいることを許してくれた。 ミチ子(ミッちゃん) サツキのクラスメートで、引っ越してから一番最初にできた友達。朝、登校するサツキを迎えにやって来た。サツキからはミッちゃんと呼ばれている。学校ではサツキの隣の席に座っている。エンディングではサツキ達と共に木登りなどで活発に遊んでいる姿を見せている。 草刈りをしている男性 サツキにメイのことを尋ねられたおじさん。 本家のおばあちゃん カンタの家の本家筋にあたる親戚。サツキに電話を貸した(当時は電話は各家庭に普及しておらず、限られた家にしかなかった)。小説版では伯父さんも登場している。 農作業車に乗っていた男 若い男性。いきなり飛び出してきたサツキを怒鳴りつけたが、事情を理解すると同情した。 農作業車に乗っていた女(リョウコちゃん) 農作業車の荷台に乗っていた若い女性。七国山病院に向かって迷子になったメイのことを聞くサツキに、「七国山から来たが幼い女の子は見ていない」という情報を伝えた。 郵便配達員 七国山病院からおかあさんの病気に関する電報を届けに来たが、留守だったので隣のカンタの家に預けに行く。 バスの車掌 雨の日、サツキとメイが、自宅から最寄りの稲荷前の停留場へおとうさんの傘を持って行った際に止まったバスの車掌。 本作の原型となる構想は、宮崎駿が1970年代に日本アニメーション、そしてテレコム・アニメーションフィルムに在籍していたころに書き連ねていたイメージボードに残されている。この時点では主人公の女の子は1人で、メイに似た容姿をした5歳の女の子であり、サツキとメイのデザインと性格が混在していた(容姿はメイ、服装はサツキのものとして残された)。この初期構想の少女が描かれた絵は劇場パンフレットの他、小説版の表紙カバーなど、様々な媒体にも採用されている。テレビスペシャルなどへの採用を模索していたとされるが、企画書は通っていない。イメージの一部は、宮崎がAプロダクションに在籍したときに設定や演出に参加した『パンダコパンダ』からも採られている。 劇場公開時のポスター(後にビデオ、DVDのパッケージでも使用)は、本編同様にサツキとメイがトトロと並ぶ図案が検討されていたが、デザイン上の都合で二人ではうまく描けなかったため、この初期イメージの女の子がトトロと雨降りのバス停で立っているイラストが使われている。 宮崎によれば、当初、女の子がトトロに出会う場面について、雨のバス停の時と昼間の時との2つの場面を思いついてしまい悩んでいたところ、映画化決定の1年前に入って主人公を2人の姉妹にすることを思いつき、サツキとメイの2人が生まれたという。一方、現在のスタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫は、2008年7月12日放送の特別番組において、「もともと同時上映の『火垂るの墓』ともども60分の尺の予定が、『火垂るの墓』が90分に延びることになったので、じゃあトトロも80分以上にしようって話になった。どうやって20分も延ばすか悩んでいたが、宮崎監督が『主人公を姉妹にすれば、20分くらい延びるだろう』と言い出し2人になった」と語っている。 なお、宮崎が「中編劇場アニメーション作品(60分)」として書いた本作品の企画書(1986年12月1日)の時点で、すでにサツキ(小学校3年生)とメイ(5歳)の姉妹が主人公として設定されている。 宮崎は『天空の城ラピュタ』の公開を終えた後、1986年11月に「トトロ」の企画書を徳間書店に提出する。しかし、舞台が昭和30年代となっていることや題材が地味であることに加え、当初60分程度の中編映画として企画されたために単独での全国公開は難しかったことから、制作企画会議において承認を得るまでには至らなかった。そこに、高畑勲が検討していた『火垂るの墓』を同時上映する案が浮上し再度企画を持ち込んだが、オバケに墓という組み合わせが顰蹙を買って承認されず企画自体が頓挫しそうになった。だが、『火垂るの墓』の原作小説を刊行している新潮社が企画に賛同し『火垂るの墓』の出資、製作にすることとなり、徳間書店と新潮社の共同プロジェクトとして中編2本体制が確立することとなった。 制作母体は前回同様、スタジオジブリが選ばれた。高畑班が従来のスタジオに入り、宮崎班は新設した第二スタジオに準備室を設営する。高畑、宮崎の信頼に堪える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮を迫られた。高畑側が旧知のベテランを集めた一方で、宮崎側は作画監督の佐藤好春、美術監督の男鹿和雄のように、新しく参入したスタッフを中心に制作することとなった。 両作品とも60分の中編になるはずだったが、結局は予定を超えて90分前後の長編映画となった。宮崎によると、冒頭の引っ越しの絵コンテを書き上げた段階で、この作品が予定の時間に収まりきらないことが分かり、高畑の『火垂るの墓』も同様な状況であることを聞いて、時間を延ばすことにしたという。また『火垂るの墓』で登場する蛍やトマトは一切出さないことにしたなど、『火垂るの墓』との重複を意識して避けたと語っている。 宮崎は、「登場人物たちは作品完成後も年々自分の頭の中で年を重ねており、現在では主人公も嫁いで元気に暮らしている」と述べている。「(宮崎の中では)そのまま若いままではいないです。いませんよ。そりゃあ。もうあの人たち(さつきとメイ)はすっかりもう成人になってます。すっかりいい娘になって、その後結婚した後は、知らない(笑)」という。 観客動員数は約80万人。配給収入が5.9億円と『風の谷のナウシカ』を大きく下回り公開当時は振るわず、興行的には外れてしまう(この失敗のおかげで資金回収のために『魔女の宅急便』が製作されることになった)。しかしキネマ旬報の「日本映画ベストテン」第1位など、各種日本映画関係の作品賞を獲得。更に1989年4月28日以降、日本テレビ放送網の『金曜ロードショー』でジブリ最新作公開年の夏、最新作公開日前夜の放送日等に放映されており、毎回高視聴率を記録する。2010年7月23日には『金曜ロードショー』枠で1989年4月のテレビ初放送から数えて12回目のテレビ放送が実施され、全12回中10回目の視聴率20%越えを達成した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。1998年以降は2年おきにテレビ放送されており、2014年7月11日に14回目、2016年11月4日に15回目、2018年8月17日に16回目の放送となる。 トトロのキャラクター商品第一号である、映画公開時に宣伝用に販売したぬいぐるみは合計666,920個を販売し、1989年末にサン・アローから発売されたぬいぐるみ(前述の物とは異なる)を1990年に『となりのトトロ』がテレビ放映された際に視聴者プレゼントしたところ、日本テレビに200万通の応募はがきが殺到した。サン・アローから発売された「となりのトトロ」のぬいぐるみは1991年2月時点で、大トトロが計約100万個、中トトロと小トトロが計約60万個、その他が計約50万個(合わせて計約210万個)を販売した。キャラクター人気と販売の好調ぶりを、ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫は「一番の稼ぎ頭」と表現している。またキャラクターとして定着したトトロは、『おもひでぽろぽろ』以降、スタジオジブリのシンボルマークとしても使われている。ジブリ映画にはブルーバックにトトロが描かれたものが使用されるようになり、以前の作品がビデオやDVD化される時も本編に追加されるようになった。 1997年6月27日にはブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメントよりビデオが発売され、発売後約1ヶ月で100万本を出荷するヒットになった。そして、2001年9月28日にはブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメントよりDVDが発売された。こちらもオリコンDVDチャートで前人未到の500週ランクインを達成し、国内DVD売上もアニメ作品史上4作目となる100万枚を突破している。 黒澤明は「ネコバスが凄く気に入った」と語っており、「黒澤明が選んだ100本の映画」にてアニメ作品で唯一トトロが選ばれている。トイ・ストーリーやファインディング・ニモの監督・総指揮で知られるジョン・ラセターは「僕の人生で最も好きな映画の1つだよ」と述べている。 2005年開催の「愛・地球博」では、本作に登場した「草壁家」が『サツキとメイの家』として再現され、長久手会場に建設された。好評により博覧会終了後も保存され、現在は愛・地球博記念公園にて予約制で見学できる。 本作のヒットにより、各地で本作をイメージさせる場所や物が話題となり観光名所になるといった現象が発生した。 大分県佐伯市宇目の轟(ととろ)地区に、大分バス「ととろ」バス停(佐伯 - 木浦線)があり、付近に居住していた子どもが「ととろのバス停にとなりのトトロがいたら」と話し、母親が1992年にねこバスやトトロの人形や手書きパネルを置いた。いつしかトトロを彷彿させるその名称やパネルが注目され、2000年に新聞報道されてから、この「ととろの里」は、旧宇目町の人気観光地のひとつとなった。近年、人形やパネル等が増えすぎたため、その多くはバス停近隣に整備された小公園「トトロの森」に移され、バス停に残る大型のパネルはトトロとサツキ&メイのもののみとなった。 2013年4月のダイヤ改正で佐伯-木浦線は廃止されたが、ととろバス停は大分バスの配慮によってバス運行当時の姿のまま残されていた。その後、老朽化のため2015年2月下旬に地区住民の土地提供により、80メートル程離れた場所に移設、修復され佐伯市コミュニティーバスのバス停として活用されている。 山形県最上郡鮭川村小杉には、トトロにそっくりな形をした「小杉の大杉」がある。藩政時代からの由緒ある木であり、夫婦で見ると子宝が授かると言われている。 山形県米沢市李山地区にもトトロにそっくりな形をしたトトロの木がある。 東京都杉並区阿佐谷北には通称「トトロの家」と呼ばれる家があり、宮崎駿著書「トトロの住む家」で「トトロが喜んで住みそうな懐かしい家」と紹介されモデルになったとされる。この家屋は、1924年(大正13年)に、東京市震災復興局の近藤謙三郎が設計したものであった。杉並区が所有者から買い取り公園として残される予定であったが、2009年2月14日深夜に発生した外部侵入者による放火が疑われる火災により全焼してしまった。その後再建は見送りになったものの、宮崎駿のデザインスケッチを元にした公園へと生まれ変わることに決まり、2010年7月25日に「Aさんの庭」としてオープンした(所在地: 杉並区阿佐谷北五丁目45番13号)。 北海道深川市の戸外炉峠(ととろとうげ)では、付近の畑で農作業する人の休憩所として使われていた廃車バスが、1998年頃地元のまちづくりグループの手でネコバス模様に塗装され、ダミーのバス停等も置かれている。 バンダイが行ったアンケート「バンダイこどもアンケートレポート」によると、0歳から12歳までのこどもがいる保護者を対象に行ったアンケートにおいて、作品の公開から20年以上経過している2011年1月(集計は前年10月に実施)時点で、こどもに見せたい映画の第1位を獲得しており、依然として根強い人気の映画と評価されている。また、集計を行ったバンダイは、親にとってサツキとメイは理想の女の子であると分析している。 また英誌Time Outでは「アニメ長編映画ランキング トップ50」で1位になり、同じく英誌Total Filmの「史上最高のアニメ映画50本」でも6位になり、本作は国外においても非常に高い評価となっている。 2010年7月10日に公開されたピクサー映画『トイ・ストーリー3』では、大トトロのぬいぐるみが出演。声は発しないが、本作でおなじみの歯をむき出して笑う顔を見せる。 別冊宝島には1988年のサブカル・流行の1つとしてとなりのトトロが紹介されている。 時代設定は昭和30年代初頭(カレンダーは1952年及び1958年の日付)とされているが、宮崎は「テレビのなかった時代」と述べており、特定の年代を念頭に置いて演出したわけではない。後に宮崎は、1953年を想定して作られたとも述べている。 宮崎は、トトロと主人公たちが住んでいる緑豊かな集落のイメージの由来について、かつて在籍した日本アニメーションのある聖蹟桜ヶ丘、子供のころに見て育った神田川、宮崎の自宅のある所沢、美術監督の男鹿和雄のふるさと秋田など様々な地名を挙げており、作品の風景はこれらが入り混じったものであって、具体的な作品の舞台を定めたのではないとしている。その他にも、宮崎の親族が神奈川県の鶴巻温泉で経営する温泉旅館「元湯・陣屋」の名前が挙げられることもある。その後、宮崎が1990年代から狭山丘陵の「トトロの森」保全運動に携わったり、所沢の地名が形を変えて作品に取り入れられていることもあって、所沢市がその舞台として紹介されることもある。 作品の固有名詞には埼玉県所沢市から東京都東村山市にかけて広がる狭山丘陵の地名を元にしたものがある。また劇中、草壁家の引っ越しの場面で「狭山茶」の張り紙をした箱が登場する。 埼玉県所沢市松郷 所沢市の東部、浦和所沢バイパス松郷交差点付近の地名で、草壁家が住む「松郷」のモデルとなったとされる。西武バス [所59] 「エステシティ所沢〜所沢車検場前〜東所沢駅(武蔵野線)〜所沢駅東口(西武池袋線・西武新宿線)」の所沢車検場前バス停付近。 埼玉県所沢市牛沼 埼玉県所沢市松郷に隣接する地区名で、ねこバスに表示される行き先「牛沼」のモデルとされる。 「トトロ」の名前は「所沢にいるとなりのオバケ」に由来している。またトトロの原型となっているのは、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』である。初期の設定では、大トトロは「ミミンズク」で1,302歳、中トトロは「ズク」で679歳、小トトロは「ミン」で109歳。 また、公益財団法人「トトロのふるさと基金」が、狭山丘陵の緑地を取得・保護するナショナル・トラスト活動を行っている。宮崎駿は顧問を引き受けるなど協力している。 英語版は2種類存在する。 ストリームライン版 演出・台本 - グレゴリー・スネゴフ プロデューサー - カール・メイセック 製作 - ストリームライン・ピクチャーズ 配給 - 20世紀フォックス ディズニー版 演出・プロデューサー - リック・デンプシー 製作・配給 - ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント 「さんぽ」 作詞 - 中川李枝子 / 作曲・編曲 - 久石譲 / 歌 - 井上あずみ 童謡としても歌われており、カラオケなどでもアニメソングでなく童謡に分類される場合がある。 CDでは杉並児童合唱団のコーラスが付いているが、映画では井上のソロで2番が省略されている。 「となりのトトロ」 作詞 - 宮崎駿 / 作曲・編曲 - 久石譲 / 歌 - 井上あずみ 映画では転調せず、2番のサビで終了する。 ※作曲・編曲は全て久石譲が担当 「風のとおり道」 作詞 - 宮崎駿 / 歌 - 杉並児童合唱団 サラ・ブライトマンの「Dreamchaser」の日本盤ボーナス・トラックの中に収録されており、日本語で歌っている。 「すすわたり」 作詞 - 中川李枝子 / 歌 - 杉並児童合唱団 「おかあさん」 作詞 - 中川李枝子 / 歌 - 井上あずみ 「まいご」 作詞 - 中川李枝子 / 歌 - 井上あずみ 「ねこバス」 作詞 - 中川李枝子 / 歌 - 北原拓 「ふしぎ しりとりうた」 作詞 - 中川李枝子 / 歌 - 森公美子 「ドンドコまつり」 作詞 - W.シティ制作部 / 歌 - 井上あずみ 「小さな写真」 作詞 - 宮崎駿 / 歌 - 久石譲 上條恒彦がカバー。曲名は「お母さんの写真」で、歌詞が一部異なっている。 カラオケで全曲が歌え、ジブリ関連のCDや井上あずみの独自ベストなどに収録されている。 作曲・編曲・ピアノ演奏 - 久石譲 / 演奏 - 新日本フィルハーモニー交響楽団 / ナレーション - 糸井重里 トトロのストーリーを糸井重里によるナレーションと、オーケストラによる音楽で再現。 2003年に久石譲のコンサートにて初演された。物語に入る前に、「さんぽ」のメロディーに合わせてオーケストラの楽器紹介が行われる。CDは徳間ジャパンより、オーケストラスコアは全音楽譜出版社より発売されている。 オーケストラストーリーズ「となりのトトロ」曲目リスト さんぽ(楽器紹介) 五月の村 すすわたり〜おかあさん トトロがいた! 風のとおり道 まいご ねこバス となりのトトロ 第3回AVA国際映像ソフトフェア ビデオ部門アニメビデオ賞 第12回山路ふみ子映画賞 映画賞 第13回報知映画賞 監督賞 1988年度キネマ旬報ベストテン 日本映画ベストテン第1位、読者選出日本映画ベストテン第1位、読者選出日本映画監督賞 1988年度毎日映画コンクール 日本映画大賞、大藤信郎賞 第29回優秀映画鑑賞会会員選出ベストテン 日本映画第4位 第31回ブルーリボン賞 特別賞 日本映画ペンクラブ1988年度ベスト5 邦画部門第2位 1988年度第24回映画芸術ベストテン 日本映画第1位 第6回日本アニメ大賞・アトム賞 最優秀作品賞、脚本部門最優秀賞、美術部門最優秀賞、主題歌部門最優秀賞 昭和63年度(第39回)芸術選奨文部大臣賞 第20回星雲賞メディア部門 芸術選奨芸術作品賞 文化庁優秀映画製作奨励金交付作品 昭和63年度厚生省・中央児童福祉審議会特別推薦 シティロード読者選出ベストテン'88 ベストシネマ邦画第1位、ベスト監督第3位 1988年度シネフロント・ベストテン 日本映画ベストテン第1位 1988年度全国映連賞 作品賞、監督賞 第11回アニメグランプリ(アニメージュ)作品賞第1位 Time Out London誌 アニメ長編映画オールタイムトップ50 第1位 日経リサーチが2004年12月27日に発表した「タレント・キャラクターイメージ調査」において、トトロが好意度ランキングで第2位に選ばれた。 (日本国内) 数値はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。 映像ソフト となりのトトロ VHS - 徳間書店/徳間ジャパン/徳間コミュニケーションズ 128GH-22(1988年9月5日) となりのトトロ Beta - 徳間書店/徳間ジャパン/徳間コミュニケーションズ 128GB-5022(1988年9月5日) となりのトトロ LD - 徳間書店/徳間ジャパン/徳間コミュニケーションズ 98LX-13(1988年9月25日) となりのトトロ VHD - 徳間書店/徳間ジャパン/徳間コミュニケーションズ 98HD-1003(1988年9月25日) となりのトトロ VHS - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(1997年6月27日) となりのトトロ DVD - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2001年9月28日) となりのトトロ DVD デジタルリマスター版 - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2014年7月16日) DVD(宮崎駿監督作品集) - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2014年7月2日) となりのトトロ Blu-ray Disc - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2012年7月18日) Blu-ray Disc(宮崎駿監督作品集) - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2014年7月2日) 出版 となりのトトロ(ポエム版)(1988年2月29日)ISBN 978-4-19-703621-9 中川李枝子が書いた詩に宮崎駿が描いた水彩画を添えている。映画本編の内容には触れていない。 となりのトトロ―フィルムコミック(1)(1988年6月30日)ISBN 4-19-778561-5 となりのトトロ―フィルムコミック(2)(1988年6月30日)ISBN 4-19-778562-3 となりのトトロ―フィルムコミック(3)(1988年6月30日)ISBN 4-19-778563-1 となりのトトロ―フィルムコミック(4)(1988年6月30日)ISBN 4-19-778564-X となりのトトロ(徳間アニメ絵本)(1988年6月30日)ISBN 4-19-703684-1 となりのトトロ(ロマンアルバム・エクストラ)(1988年6月30日)ISBN 4-19-720157-5 ジ・アート・オブ となりのトトロ(1988年8月20日)ISBN 4-19-818580-8 「となりのトトロ」よりもののけ通信(1988年10月31日)ISBN 4-19-669596-5 スタジオジブリ作品関連資料集 型録II(1996年8月31日)ISBN 4-19-860560-2 となりのトトロ(スタジオジブリ絵コンテ全集3)(2001年6月30日)ISBN 4-19-861378-8。※以上は全て徳間書店 となりのトトロ(小学館<ジス・イズ・アニメーション>、1988年5月、新装版2008年7月ほか)ISBN 4-09-103812-3 ジブリの教科書3 となりのトトロ(文春ジブリ文庫、2013年6月)ISBN 978-4-16-812002-2 シネマコミック3 となりのトトロ(文春ジブリ文庫、2013年7月)ISBN 978-4-16-812102-9 音楽 となりのトトロ イメージソング集 徳間ジャパンコミュニケーションズ((再発版CD/2004年8月25日)TKCA-72724(オリジナル盤/1987年11月25日)) となりのトトロ サウンドトラック集 徳間ジャパンコミュニケーションズ((再発版CD/2004年8月25日)TKCA-72725(オリジナル盤/1988年5月1日)) となりのトトロ サウンドブック 徳間ジャパンコミュニケーションズ((再発版CD/2004年8月25日)TKCA-72726(オリジナル盤/1988年9月25日)) となりのトトロ ドラマ編 徳間ジャパンコミュニケーションズ((再発版CD/1996年11月21日)TKCA-71028(オリジナル盤/1989年2月25日)) となりのトトロ ハイテックシリーズ 徳間ジャパンコミュニケーションズ((再発版CD/2004年8月25日)TKCA-72727(オリジナル盤/1990年1月25日)) となりのトトロ ソング&カラオケ 徳間ジャパンコミュニケーションズ(1999年12月1日)TKCA-71780 オーケストラストーリーズ となりのトトロ 徳間ジャパンコミュニケーションズ(2002年10月23日)TKCA-72453 スタジオジブリ 宮崎駿&久石譲 サントラBOX [Box set, Limited Edition] (CD) 徳間ジャパンコミュニケーションズ(2014年7月16日) 久保つぎこ『小説 となりのトトロ』徳間書店アニメージュ文庫、1988年4月 『めいとこねこバス』、2002年に三鷹の森ジブリ美術館で公開。 『トトロの生まれたところ』(スタジオジブリ編、岩波書店、2018年5月) 宮崎駿/和田久士・写真 『トトロの住む家』(朝日新聞社、1991年12月/岩波書店(増訂版)、2011年1月) 木原浩勝 『ふたりのトトロ 宮崎駿と『となりのトトロ』の時代』(講談社、2018年9月)。側近スタッフの回想 ^ 新京報 (2018年11月7日). “​宫崎骏来了!《龙猫》内地定档12.14” (中国語). 新浪. 2018年12月17日閲覧。 ^ “本日12/14(金)から中国で『となりのトトロ』の正式上映がはじまりました(ジブリ作品が中国本土で正式上映されるのは初。約6000館、12,000スクリーン…)”. 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CRI online 日本語. 中国国際放送局. 2018年12月18日閲覧。 ^ 初めての大規模上映は2018年12月14日。それ以前は中国で大規模な一般公開には至らなかった。 ^ 『宮崎駿全書』(叶精二、フィルムアート社、2006年)によると、コピーは当初「このへんないきものは、もう日本にはいません。たぶん。」だったが、宮崎駿の意向により現在のものに変更された。他の出典:kinro_ntvのツイート(487571055989379072)、kinro_ntvのツイート(487571204799078400) ^ kinro_ntvのツイート(487582212145938432) ^ 後の関連書籍では年齢が統一されておらず、『ロマンアルバムエクストラVol.69 となりのトトロ』(徳間書店)では小学4年生、映画パンフレットや公開後に発売されたDVD、雑誌、書籍等には小学6年生と記されている。『となりのトトロ 絵コンテ集』(徳間書店)の巻末資料の中に、小学4年生の設定であったが、途中で小学6年生に変更されたとある。 ^ kinro_ntvのツイート(487593992012324864) ^ 宮崎監督曰く、「サツキもまた年相応の女の子なのだという部分と、子供特有の『弱さ』を強調させたかった」との事。 ^ kinro_ntvのツイート(487582226305933313) ^ kinro_ntvのツイート(487576701006643200) ^ 子どもによく見られる「音位転換」である。ただし、トウモコロシと言ったのは最初だけで、二度目はちゃんとトウモロコシと言っている。 ^ 『エンピツ戦記』(その為、メイの顔が横長だと話していたスタッフを激怒している) ^ 一部に「草壁達男」と漢字で表記された資料がある。 ^ kinro_ntvのツイート(487580436663525376) ^ ほぼ日刊イトイ新聞 「茶坊主のひとりごと。二十杯目◎「となりのトトロ」秘話」 東京糸井重里事務所、2004年9月5日 ^ 久保つぎこ 『となりのトトロ』 徳間書店、1988年4月30日、270頁。ISBN 978-4196695813。 p.88。 ^ 宮﨑駿『出発点 〔1979-1996〕』(徳間書店、1996年)p.406 「「となりのトトロ」演出覚書―登場人物について」 ^ kinro_ntvのツイート(487580943431921664) ^ 「The art of Totoro」(宮崎による説明) ^ 実際は「まだ眠たいよー」という意味らしい ^ a b kinro_ntvのツイート(487584434074308609) ^ a b kinro_ntvのツイート(487584482690482178) ^ kinro_ntvのツイート(487595228501508098) ^ a b c ロマンアルバム特別編集『となりのトトロ絵コンテ集』(1988年)附録の宮崎駿インタビューより。 ^ 宮﨑駿『折り返し点』p.123、宮﨑の発言 ^ kinro_ntvのツイート(487571257039151104) ^ メイが逃げ遅れたまっくろくろすけを捕まえて手を真っ黒にし「逃げちゃった」という場面があるが、実際は潰れたという方が正しい。 ^ kinro_ntvのツイート(487572476352671744) ^ kinro_ntvのツイート(487572351307874305) ^ 絵コンテには「小型のオート三輪」と記されている。 ^ kinro_ntvのツイート(487583738075693056) ^ となりのトトロ(1988)(スタジオジブリ公式サイト 制作作品一覧) ^ スタンリー@金曜ロードSHOW!による2016年11月4日22時12分のツイート ^ kinro_ntvのツイート(487583785743966208) ^ 宮崎駿『出発点〔1979~1996〕』(徳間書店、1996年)p.397「企画書「となりのトトロ」」 ^ カレンダーは公開年より30年前の1958年のカレンダー。 ^ a b c DVD「風の谷のナウシカ」特典ディスク『ジブリはこうして生まれた。~再現映像で綴る誕生物語~』、2003年。 ^ 「プロフェッショナル 仕事の流儀」、2008年8月5日 ^ a b スタジオジブリ責任編集『トトロがいっぱいTOTORO―1988-1995』1995年、徳間書店、193頁。ISBN 4-19-860269-7 ^ 『日経流通新聞』1991年2月16日付、8頁。 ^ 鈴木プロデューサーインタビュー ^ 「ブエナビスタホームエンターテイメントのビデオソフト」『日経産業新聞』1997年11月11日、3面。 ^ 日テレNEWS24 「となりのトトロ」500週ランクイン達成2011年 ^ 黒沢明「夢は天才である」 文藝春秋 1999年8月刊 ^ ファインディング・ニモ インタビュー: ジョン・ラセター インタビュー:宮崎駿のアニメの魅力映画.com 2003年12月1日 ^ 2005年日本国際博覧会協会 「サツキとメイの家」 2005年 ^ これについて東京都東村山市は、万博終了後の同市への移設・保存を目的に署名活動を行った。 ^ 『夕刊デイリー』(1997年12月13日3頁) 大分県教育委員会汚職事件(2008年)の当事者であったことから、現在では公にはされていない。 ^ 佐伯市観光協会オフィシャルサイト「 佐伯市観光大百科[リンク切れ]」 ^ 「ととろバス停」移設して復活! 佐伯市コミュニティーバス活用 大分合同新聞 2015年4月19日(47NEWS。元記事のURLは[1](削除済み) ^ a b ナリナリドットコム2010年8月30日記事「公園になった“トトロの住む家”、宮崎監督デザインの「Aさんの庭」訪問。」 ^ トトロの公園、再び 宮崎駿監督デザイン、東京・杉並に(2009年9月8日時点のアーカイブ) asahi.com 2009年9月6日 ^ “北海道ファンマガジン 深川市の高台「戸外炉(トトロ)峠」には、あの「ねこバス」がある!?”. 2014年11月8日閲覧。 ^ “バンダイこどもアンケートレポートVol.185 「お子様に観せたい映画は?」” (PDF) (プレスリリース), バンダイ, (2011年1月), http://www.bandai.co.jp/kodomo/pdf/question185.pdf 2011年11月29日閲覧。  ^ 映画.com映画史上のアニメ映画第1位は「となりのトトロ」 英タイムアウト誌発表」 2009年10月13日 ^ 映画.com英誌選出「史上最高のアニメ映画50本」 2011年11月7日 ^ 別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.93. ^ kinro_ntvのツイート(487570110358368256) ^ 『ロマンアルバムエクストラVol.69 となりのトトロ』(徳間書店)122頁 ^ 映画「コクリコ坂から」のパンフレット(企画のための覚書「コクリコ坂から」について「港の見える丘」より) ^ 『ロマンアルバムエクストラVol.69 となりのトトロ』(徳間書店)122頁 ^ 陣屋(3) - マイナビ女子オープン中継ブログ・2016年4月12日 ^ a b kinro_ntvのツイート(487591164179005440) ^ kinro_ntvのツイート(487591182315163649) ^ kinro_ntvのツイート(487569313394462720) ^ 『ジブリはこうして生まれた。』 ^ kinro_ntvのツイート(487579833962995713) ^ kinro_ntvのツイート(487579879974514690) ^ 『THE ART OF となりのトトロ』に掲載の初期イメージボードの設定より ^ よくある質問トトロのふるさと基金(2018年3月18日閲覧) ^ 「タレント・キャラクター消費者の好意度 麗しのオードリー不滅 イメージネット調査」『日経流通新聞MJ』2004年12月27日付、2面。 ^ a b c 叶精二『宮崎駿全書』124頁。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 叶精二『宮崎駿全書』122頁。 ^ a b 叶精二『宮崎駿全書』125頁。 ^ 『トトロ』DVDが前人未到600週ランクイン - オリコン 2013年6月26日 ^ オリコンブルーレイディスク(BD)週間ランキング(30日付) - 毎日新聞デジタル 2012年7月25日 ^ a b c d e f g h i j k l 2011年3月21日放送 日本テレビ 『スタジオジブリ物語』 ^ [となりのトトロ]15回目の放送も14.2%の好視聴率 Archived 2016年11月7日, at the Wayback Machine. マイナビニュース 2016年11月7日発行、同日閲覧。 ^ となりのトトロ:2年ぶり16回目の視聴率14.0% 根強い人気で高視聴率 MANTANWEB 2018年8月20日閲覧。 2005年日本国際博覧会 - サツキとメイの家を出展している。 土々呂駅 大分バス - 佐伯駅〜木浦鉱山線の沿線に「ととろ」バス停がある。 狭山丘陵(トトロの森) トイ・ストーリー3 - 大トトロ(ぬいぐるみ)が登場した。 カーズ2 - サツキとメイという名の空港の受付嬢が登場する。 トトロ (小惑星) - 本作品に由来して命名された小惑星「トトロ (10160 Totoro)」が存在する。 となりのトトロ - 日本映画データベース となりのトトロ - allcinema となりのトトロ - KINENOTE となりのトトロ - Movie Walker となりのトトロ - 映画.com となりのトトロ - オールムービー(英語) となりのトトロ - インターネット・ムービー・データベース(英語) となりのトトロ - 金曜ロードSHOW!(2012年7月13日放送分)", "『借りぐらしのアリエッティ』(かりぐらしのアリエッティ、英:The Borrower Arrietty、北米:The Secret World of Arrietty)は、スタジオジブリ制作の日本のアニメーション映画。監督は本作が初監督作品となる米林宏昌が務める。2010年7月17日公開。 キャッチコピーは『人間に見られてはいけない。』『それが床下の小人たちの掟だった。』。 メアリー・ノートンのファンタジー小説『床下の小人たち』(en:The Borrowers)が原作となっている。この作品は1952年に出版され、この年のカーネギー賞を受賞している。 元々は、約40年前にアニメーション監督の宮崎駿と高畑勲によって考えられた企画であり、2008年初夏になって宮崎駿によって改めて企画された。当初は『小さなアリエッティ』という題であった。タイトルの大胆な改変は宮崎駿が「アリエッテイ」という言葉の響きが好きでその名前をずっと覚えていて、「借りぐらし」という設定がいい。いまの時代にぴったりだと変更した。監督に米林宏昌が起用されたのはプロデューサーの鈴木敏夫の提案である。 翔の声は、キャラクターデザインの段階から神木隆之介に依頼する予定であった。そのため、作画スタッフは作画ルームにも神木のポスター等を貼り、動作・表情の研究をしたとされ、神木は翔の声だけでなく、翔のキャラクター自体のモデルとなっている。 本作に登場する和洋折衷の屋敷や庭園は、2008年11月12日にスタジオジブリの社員旅行で訪問した青森県平川市の盛美園がモデルとなった。宮崎駿によれば屋敷の所在地は東京都小金井市の辺りという設定である。 14歳の小人の少女・アリエッティは両親と3人、人間に見られてはいけないという掟の下、郊外にある古い屋敷の床下で人間の生活品を「借り」ながら密かに慎ましく暮らしていた。 彼女が初めての「借り」を夜に控えたある日、人間の少年・翔が療養のため静かなこの屋敷へやってきた。その夜の借りで翔に見つかり、戦利品の角砂糖も逃げる時にうっかり取り落としてしまう。一度、翔の出方をみることにした父・ポッドと彼女だったが、母と大叔母から小人の話をよく聞かされていた翔は3人との接触を試みるようになる。 これに対しアリエッティは独断で動き網戸越しに気取られてしまうが、家族の安全のため、自分達小人と関わらないよう頼む。そこへイタズラ者のカラスが乱入して、この騒動で家政婦のハルは翔を怪しむようになる。その夜、翔は部屋の寝室にあるドールハウスは翔の曽祖父がこの屋敷に住んでいる小人達への贈り物として造らせた物だと知る。 一方引越し先を探しに行っていたポッドはスピラーの助けにより無事帰り、スピラーから引越し先のアテやアリエッティ達以外にも小人達が無事でいるとの報せを得る。ポッドは、生き延びるために家人に見つかったこの家から去る決意を語る。その時彼女らの家は揺れ、歪み、見慣れたキッチンは剥がれ、換わりにドールハウスのキッチンが降って来た。全て翔の善意によるものだったが結果として引越しは確定的となってしまう。 別れを告げるため、庭で休む翔の前に隠れることなく現れたアリエッティ。そんな彼女に憎まれ口を叩いてしまう翔だったが、守りたかったがための自分の行いが結果として彼女の住処を壊してしまったことを詫びる。さらに自分は心臓の病で手術を受けるのだが、きっと死ぬのだろうと彼女に告げる。その時、翔の動向を窺っていたハルはついに小人の住処を発見し、アリエッティの母・ホミリーを誘拐すると、瓶の中に閉じ込めてしまう。部屋に戻った翔はハルによって知らぬ間に閉じ込められてしまうが、そこへ現れたアリエッティにホミリーがいなくなったことを告げられる。悲しむアリエッティに、翔は共にホミリーを探すことを提案する。部屋から脱出して台所へ来た2人は、ホミリーを救出することに成功する。 その日の夜、アリエッティと両親はスピラーとの待ち合わせ場所である川へ向かう。明け方、飼い猫のニーヤの知らせでアリエッティが川にいることを知った翔は、川へと急ぐ。一方、ようやく川に到着したアリエッティ達は、スピラーと共に船代わりのやかんに荷物を積み始める。そしてアリエッティは、そこへ現れた翔に別れを告げると、引っ越し先を目指して川を下っていった。 アリエッティ 声 - 志田未来(英 - シアーシャ・ローナン / 北米 - ブリジット・メンドラー) 本作の主人公。14歳。貞子達が暮らす屋敷の床下で様々な生活品を借りながら、両親と密かに暮らしている小人の少女。基本的には明朗快活で人間や家猫、虫に対して物怖じしない性格。冒頭、母親の誕生日のためにローリエと紫蘇の葉、そして自分の部屋に飾る花を採りに出たところを翔に目撃されてしまう。最初は翔を警戒していたが、彼の暖かさと優しさに触れた事で少しずつ心を通わせていき、母のホミリーが捕まった時は迷わず翔に助けを求める。 別れの際は励ましの言葉と、角砂糖と交換する形で髪留めにしていた洗濯バサミを渡した。 ホミリー 声 - 大竹しのぶ(英 - Olivia Colman / 北米 - エイミー・ポーラー) アリエッティの母親。52歳。豊かな表情とやや大げさな身振り手振りが多い。借り物を工夫して家庭を切り盛りしている。衣服などサイズの合う既製品が無い場合洋裁等で作成している模様。長年の工夫を重ねた結果である現在の住処での生活を気に入っている。虫は苦手の様子。本物の海を見るのが夢で、ガラス窓を模した物の背景の海の絵は3年間も取り替えていない。ドールハウスのキッチン用品に憧れていたが、物が無くなったらすぐ分かってしまうと夫に言われているため我慢している。 ポッド 声 - 三浦友和(英 - マーク・ストロング / 北米 - ウィル・アーネット) アリエッティの父親。61歳。危険な「借り」に出て一家を支える大黒柱。この先自分達に何かあったときのためにアリエッティに初めての「借り」を教える。手先は器用な様で劇中借物を用いて半田付け補修・藁カゴ編み等の工作や華麗なロッククライム術を披露した。 スピラー 声 - 藤原竜也(英 - Luke Allen-Gale / 北米 - モイセス・アリアス) 小人の少年。12歳。家族は居らず、蓑を纏って赤い弓を持ち歩いて1人で野性的な生活を送る。屋外を活発に動いている所為か劇中ではモモンガのように滑空し移動する描写も見られた。脚を怪我したポッドを助け家まで送り届けた。初対面のアリエッティ一家に対しぶっきらぼうな物言いで、多少片言気味に喋る。携帯食としてコオロギの脚を獲ってきていて「食う?」とアリエッティとホミリーに見せたが、2人は気味悪がっていた。 アリエッティと別れの挨拶を交わしている翔を勘違いから弓で射とうとしたり、その後、少し落ち込んでいた彼女を励ます為にラズベリーを渡すなど、アリエッティに気があるらしい描写が随所に見られる。 翔(しょう) 声 - 神木隆之介(英 - トム・ホランド Tom Holland / 北米 - デヴィッド・ヘンリー) 12歳。両親は離婚して父親とは別居している。また、外交官の母親・奈津美も仕事柄海外赴任することが多く、家族との交流は薄い。生まれつき心臓が弱く、過度に運動出来ない体である。母から屋敷の小人について聞いたことがある。 屋敷へ手術直前の療養のため1週間のみ訪れた初日、家猫のニーヤに絡まれ掛けていたアリエッティを目撃する。年齢の割には落ち着いていて大人びた感性の持ち主だが、手術に対して悲観的になっており、別れを告げに来た彼女に対し(多少自棄気味になりつつ)小人は滅び行く運命だと発言した後、「死ぬのは僕の方だ」とも発言している。しかし基本は穏やかで心優しい少年の様で、小人を見たことは秘密にし、彼女が落とした角砂糖を届けに行ったり、病身を押してアリエッティの母親救出に協力している。小人の掟を知らなかったとはいえ、ドールハウスのキッチンの件は亡き曽祖父の願いを叶え、かつ、アリエッティ達のためになると信じての行動だった。最後には餞別として再び角砂糖を渡し、アリエッティから生きる勇気を得て2日後の手術を「頑張る」と約束して終幕する(冒頭の台詞からその後も存命している事は濃厚)。その時、彼女からいつもつけていた髪留めの洗濯バサミを託される。少なくとも劇中で小人を見た(とされる)人間は翔の曽祖父、ハル、翔の3人(翔の母や大叔母は話に聞く程度)。苗字は不明。 牧 貞子(まき さだこ) 声 - 竹下景子(英 - フィリダ・ロー Phyllida Law / 北米 - グレイシー・ポレッティ Gracie Poletti) アリエッティの家族が暮らす屋敷の主人。68歳。翔の祖母の妹で、いわゆる大叔母にあたる。病身の身である翔のことを案じ、手術前にも拘らず仕事で外国に出張している翔の母・奈津美を批判する発言をするなど、良心的な人物である。 屋敷の主人だが、表札には「藪」と表記されている。 彼女の屋敷にはニーヤという猫がいる。 愛車は劇中の特徴から、多摩ナンバー・シルバーのベンツ190E(メルセデス・ベンツ W201)。 翔に宛てがわれた部屋にあるドールハウスは、「いつか小人が現れた時にプレゼントするため父(翔の曽祖父)がイギリスの職人に作らせたもの」である事を翔に話した。自分も父の願いを叶えたかったが自分では見たことが無く、この家にはもう小人は居ないのかもしれないと半分諦めかけた発言をしている。だが、翔がこっそり戻しておいたドールハウスのキッチンストーブに忘れ置かれていたハーブ入りのティーポットを見つけ、小人が本当にいたのだと分かり喜んでいた。 ハル 声 - 樹木希林(英 - ジェラルディン・マキューアン Geraldine McEwan / 北米 - キャロル・バーネット) 長年住み込みで働いている貞子の屋敷の家政婦。65歳。愛車の赤い軽自動車の駐車マナーを主人の貞子に度々注意されている模様。小人を捕まえようと試みるが、捕獲を一般の鼠捕り業者に依頼しようとするなど思慮の浅い点も見られる。老眼で少々目が悪い。『ロマンアルバム 借りぐらしのアリエッティ』によると、彼女が小人を捕まえることに執着する理由は、金や名声のためではなく「かつて小人を見たが、それを誰にも信じてもらえなかった悔しさを晴らすため」であるらしい。苗字は不明。 その他の声優 声 - 羽鳥慎一(日本テレビアナウンサー〈当時〉)、吉野正弘 「Arrietty's Song」 作詞 - セシル・コルベル / 作曲 - サイモン・キャビー(Simon Caby)、セシル・コルベル / 日本語訳詞 - 伊平容子 ジブリ作品では初の、海外の音楽家による主題歌である。 コルベルは2009年4月「私はずっと昔からジブリ映画の大ファンで、私の音楽のすべてはジブリ映画から大きな影響を受けています」という手紙と自身のCDをジブリに送付したのがきっかけで、本作の主題歌を担当した。彼女は作詞作曲のほか、ハープ演奏と歌(日本語版の他、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語でも歌っている)も担当している。 なお、主題歌を担当したセシル・コルベルはTOHOシネマズスカラ座で行われた初日舞台挨拶にサプライズ出演し、ハープ演奏による主題歌の生演奏を披露した。 2010年5月8日より全国約20箇所の劇場で、テント生地で作られた縦1.8m×横10.5mの超パノラマサイズポスターが張り出された。 公開に先立つ7月11日の試写会には、ギャルママ雑誌『アイラブママ』の人気モデルとして知られる日菜あこと野田華子が出席。 2010年7月17日より10月3日まで東京都現代美術館で『借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展』を開催。1200m2を超える展示室に巨大なセットが組まれた。8月17日には来場者が10万人を突破する程の大好評となっている。この美術展はその後愛媛(愛媛県美術館)、神戸(兵庫県立美術館)、新潟(新潟県立近代美術館)と全国を回っている。 前売り券は2010年6月17日時点の発売後約2か月で54,000枚を超える売り上げを記録。これは前作『崖の上のポニョ』より約3倍の記録となった。 2010年8月10日にはNHKで、映画完成までの舞台裏を密着したドキュメント『ジブリ 創作のヒミツ 宮崎駿と新人監督 葛藤の400日』が放送されている。 全国447スクリーンで公開され、2010年7月17,18日初日2日間で興収約9億円、動員は約68万人になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第1位となった。更に公開3日間(17-19日)では動員103万8,138人、興収13億4,979万8,700円を記録し100万人超えを達成している。客層の6割が女性で占められ、ぴあ初日満足度ランキング(ぴあ映画生活調べ)でも第4位となっている。更に公開第2週目で累計動員が206万2,166人となり早くも動員200万人を突破。公開第3週には累積動員は300万人を突破、公開第4週には興収が50億円を突破しランキング連続第1位に、公開第6週には動員600万人を突破している。 最終興収は92.5億円になり2010年度興行収入邦画第1位となっている。 フランスでは2011年1月12日、台湾では2011年1月14日から公開。イギリスでは『The Borrower Arrietty』のタイトルで2011年7月29日に公開、北米では『The Secret World of Arrietty』のタイトルで2012年2月17日よりディズニー配給で公開、吹き替えもアリエッティ役をイギリス版ではシアーシャ・ローナン、北米版ではブリジット・メンドラーと別に配役がされている。 北米では当時最高だった『崖の上のポニョ』を上回る全米1522館一斉封切りが行われ、オープニング興収640万ドル、最終的な興行収入は約1900万ドルを記録。いずれもジブリ作品としては『崖の上のポニョ』を上回り、最高記録となっている。 2011年12月16日、日本テレビ『金曜ロードショー』にて初放送を行った。 視聴率はビデオリサーチ関東地区調べ。 前作『崖の上のポニョ』と同様に、エンディングテロップは制作に関わったキャスト・スタッフの氏名だけが50音順に表記され、誰が何を担当したのか判らないようになっている珍しい作りで、最後は「スタジオジブリ」「おわり」となっている。 ^ 正式な社名はMS&ADインシュアランスグループホールディングスだが、「MS&ADホールディングス」としてクレジット表記されている。 ^ a b 2010年興行収入10億円以上番組 (PDF) - 日本映画製作者連盟 ^ a b 北米版『借りぐらしのアリエッティ』に新たな魅力!?ポスター&予告編が解禁!!シネマトゥデイ 2011年11月1日 ^ “スタジオジブリ:新作「借りぐらしのアリエッティ」 宮崎駿脚本、36歳、麻呂こと米林監督を抜てき”. 毎日新聞社 (2009年12月16日). 2009年12月16日閲覧。 ^ a b c 鈴木敏夫 (2009年). “借りぐらしのアリエッティ企画書”. 『借りぐらしのアリエッティ』公式サイト. 2009年12月16日閲覧。 ^ 「社員旅行2日目。宮崎監督もお目当ての庭園(青森県の盛美園)を見学に訪れ、至極満足していた様子でした。」ジブリ日誌 2008年11月12日〈水〉 ^ スタジオジブリ広報部長 西岡純一のアリエッティ日記 物語の舞台となる庭について[リンク切れ] ^ 父方・母方のどちらの系統かは不明。 ^ 鈴木敏夫のジブリ汗まみれ 「2010/04/11 セシル・コルベルさんがれんが屋に!」より ^ ジブリ最新作「借りぐらしのアリエッティ」超巨大ポスター Archived 2010年5月2日, at the Wayback Machine.スポーツ報知 2010年4月30日 ^ 『ギャルママモデル「借りぐらし〜」試写会で「メルヘンな気持ち」』 2010年7月11日 日テレNEWS24 ^ ジブリ最新作“実写化”…アリエッティの部屋をセットでそのまま再現 Archived 2010年7月9日, at the Wayback Machine.スポーツ報知 2010年7月8日 ^ 「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」来館者10万人突破日テレNEWS24 2010年8月17日 ^ 「アリエッティ」新たに場面写真公開 前売券は「ポニョ」の3倍読売新聞 2010年6月22日 ^ 宮崎駿と新人監督の“師弟”の葛藤を400日の密着ドキュメンタリーで追う!webザテレビジョン 2010年7月27日 ^ 『アリエッティ』が堂々1位!『トイ・ストーリー3』『踊る大捜査線』を破り100万人超えシネマトゥディ 2010年7月21日 ^ 今年の夏は動員ミリオン超え作品が続出!『アリエッティ』『トイ・ストーリー』『踊る』『ポケモン』『告白』【映画週末興行成績】シネマトゥデイ 2010年7月27日 ^ 『借りぐらしのアリエッティ』が首位!! 8位には『ヒックとドラゴン』が初登場、夏休み映画が大盛況シネマトゥデイ 2010年8月11日 ^ 『ハナミズキ』が1位で30万人動員!『特攻野郎Aチーム』もランクイン!!【映画週末興行成績】シネマトゥデイ 2010年8月24日 ^ http://tw.movie.yahoo.com/movieinfo_main.html/id=3663 ^ http://www.boxofficemojo.com/genres/chart/?id=anime.htm スタジオジブリ責任編集 『ジブリthe artシリーズ 借りぐらしのアリエッティ』徳間書店、スタジオジブリ、2010年8月 アニメージュ編集部編 『ロマンアルバム 借りぐらしのアリエッティ』徳間書店、2010年10月 『アニメージュコミックス 借りぐらしのアリエッティ』徳間書店(全4巻)、2010年10月  『ジブリの教科書16 借りぐらしのアリエッティ』 スタジオジブリ編、文春文庫〈文春ジブリ文庫〉、2014年6月 『シネマ・コミック16 借りぐらしのアリエッティ』文春ジブリ文庫、2014年6月 ザ・ボロウワーズ: (1973年、アメリカ)The Borrowers (1973 film) ザ・ボロウワーズ: (1992年〜1993年、イギリス)BBCテレビシリーズThe Borrowers (TV miniseries) ザ・リターン オブ ザ・ボロウワーズ: (1992年〜1993年、イギリス)BBCテレビシリーズThe Return of the Borrowers ボロワーズ/床下の小さな住人たち(1997年、アメリカ=イギリス)The Borrowers (1997 film) 「スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI」公式サイト 公式ウェブサイト 借りぐらしのアリエッティ - 金曜ロードショー(2011年12月16日放送分) 借りぐらしのアリエッティ - 金曜ロードSHOW!(2014年7月18日放送分) 借りぐらしのアリエッティ - allcinema 借りぐらしのアリエッティ - KINENOTE 借りぐらしのアリエッティ - Movie Walker 借りぐらしのアリエッティ - 映画.com The Borrower Arrietty / The Secret World of Arrietty - オールムービー(英語) The Borrower Arrietty / The Secret World of Arrietty - インターネット・ムービー・データベース(英語)", "『ゲド戦記』(ゲドせんき、英題:Tales from Earthsea)は、アーシュラ・K・ル=グウィンの小説『ゲド戦記』の主に第3巻の「さいはての島へ」を原作とし、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』を原案とした長編アニメーション映画。スタジオジブリ制作。東宝配給で2006年7月29日に劇場公開。宮崎吾朗監督・脚本の独自解釈によるストーリーとなっている。 原作『ゲド戦記』ではなく、絵物語『シュナの旅』がキャラクターイメージの元となっている。監督の宮崎吾朗は「『シュナの旅』の登場人物に少しずつアレンジを加えていって…『ゲド戦記』の世界に近づいた感じです」と語った。 ( )内はその人物の真(まこと)の名。作中の世界(アースシー)では、人に真の名を教えることはその者の掌中に己の魂を委ねることと同じで、通常、真の名を隠す。 アレン(レバンネン) 主人公。エンラッドの王子。17歳。その純粋で生真面目すぎる性格のために、世の中の暗黒に対してまで深く心を悩ませるうちに、本来は心の“光”だった彼の分身が“影”となって去ってしまう。やがて心の均衡を失い、衝動的に父王を殺害した挙句、国を捨てて失踪。放浪中に偶然ハイタカに命を救われ、ハイタカと共に、世界に異変を引き起こしている災いの根源を探す旅に同行する。 テルー(テハヌー) ヒロイン。顔に火傷の痕がある少女。テナーと共に作物や羊を育てて暮らしているが、特に自分の命を大切にしない人間には容易に心を開かず、両親に虐待された末に捨てられた辛い過去を持つ。心に闇を持ち折に触れて自暴自棄になるアレンを嫌っていたが、彼もまた自分のように心に傷を負っていると知ると、徐々にアレンに歩み寄るようになっていった。清廉な心を持つハイタカには出会ってからすぐに信用し、彼のことをタカと呼び慕っている。 ハイタカ(ゲド) アースシーの大賢人。世界の均衡が崩れつつある事を察知し、アレンと共に災いの源を探る旅に出る。頬に傷がある。世界の均衡を崩さぬよう、みだりに魔法を使ってはならないと考えている。 テナー ハイタカの昔なじみで、彼のよき理解者。ゲドという彼の真の名を知っている。親に捨てられたテルーを女手一つで育てている。昔、カルガド帝国にあるアチュアンの墓地の巫女をしていた。このことは台詞のみで語られている。映画では髪は金色だが、原作では髪は黒い。 クモ 永遠の命を得るために、禁断の生死両界を分かつ扉を開いた魔法使い。かつて魔法を濫用したが、ゲドに阻止されたため、密かに彼に復讐する機会を伺っている。男性だが、声優とその外見から女性的に見えるキャラクターとなっている。英語版での名前はCob。 かつて「ハブナーのクモ」と呼ばれ、人が金を払いさえすればパルンの『知恵の書』を使い、望み通りの人間をあの世から好き勝手に呼び出していた。しかし、自らの師の魂を呼び出されて憤った若き日のハイタカは、泣き喚いて必死に抵抗するクモを無理矢理に黄泉の国まで連れて行き、恐怖の底に突き落とした。その後クモは、改心を誓って西へと去ったが、その心の底ではハイタカへの復讐を強く誓っていた。 ウサギ 人狩りを生業とするクモの手下。小心者だが、クモの力をかさに着て傍若無人に振る舞う。アレンを坊っちゃん、テルーをお嬢ちゃんと呼ぶ。これはウサギ役の声優本人が希望した呼び方らしい。英語版での名前はHare。 国王 エンラッドの賢王で、アレンの父。賢王の名にふさわしく、国民のことを常に考えており、国土の各地から報告される異常事態を深く憂慮していた。ある夜、突如アレンに刺殺され、身に帯びていた魔法の剣を奪われる。 王妃 アレンの母。国を継ぐ者として、アレンを厳しく躾ける。いつも愛猫を抱いている。 女主人 都城ホート・タウンに住む元まじない師。今ではすっかり魔法を信じられなくなり、模造品の生地を商っている。 ハジア売り 常習すると死に至るハジアを売りさばく売人。ハジアとは麻薬の一種であり、アレンに気安く近づき言葉巧みにハジアを売りつけようとする。しかし、あと一歩のところハイタカに止められ、腐れて「強がるんじゃねぇよ呪い野郎、どうせお前も魔法が使えねぇんだろう」と半ば暴言のような捨て台詞を吐き捨てて走り去る。既にハジアに侵された犠牲者もいる。ハイタカ曰く「ハジアを口にすると精神が肉体から離れ、やがて最期は死」とのこと。 ルート エンラッド国王の側近の老魔法使い。世界の均衡が崩れつつある事に憂慮している。 2人組のオバさん テナーの家の近くに住む村人。テナーの作る薬を買っているが、内心ではテナーやテルーの事を薄気味悪がっている。なお、この2人組の動きは、ハウルの動く城で王宮の大階段のシーンを手がけたアニメーター、大塚伸治によるものである。 本作品は原作者ル=グウィン(以下「原作者」)による「ゲド戦記」の一連の作品を原作としており、世界観や設定、登場人物名や用語などでいくつかの共通点を持つ。その一方、原案『シュナの旅』の影響が強いため、原作とは異なる点も多い。本作品と原作ゲド戦記の主要な相違点は以下のとおりである。 影の意味 原作3巻にアレンの影は出てこない。鈴木敏夫が『ゲド戦記』のテーマに触れる入り口として導入を提案した。原作1巻の影の物語をハイタカからアレンに移植し、影の役割も変わっている。 制作者によると本作では影の意味は原作とは対照的に設定されているようである。原作では若きハイタカ(ゲド)の影が「心の闇(憎しみや傲慢)」として描かれているが、映画ではアレンの影が「心の光の存在」であるとして描かれている。 原作における影は、光を受けた時に認識する事ができる、様々な受入れがたい心の傷(良心の呵責等)や、結果的に自分を害する事に繋がる弱い心(憎しみや傲慢等)である。原作では影は、様々なゲドの経験から蓄積された無自覚な否定したい心の部分が召喚魔法により具現化し実体を脅かす存在となり、実体であるゲドにつきまといゲドは次第に追いつめられて行く。しかし、少年ゲドが影から逃げるのをやめて正面から向き合ったとき、彼は影が自分の一部であることを悟り受け入れ全き人となる。「影は自己認識へ、大人へ、光への旅の案内人なのです」(「夜の言葉」より)。 宮崎吾朗のインタビューによると、映画では悪役クモの仕業によって主人公の「心の光の部分」が切り離されて、光が肉体を追う影となってしまい、影は心の闇に支配されたアレンの実体と一つに戻ろうとして追いかけていたと説明されている。つまり、アレンの影こそが実は「心の光の存在」だった。テルーから「レバンネン、そうして命はずっと続いていくんだよ。」という言葉を聞かされ、闇に支配されていたアレンの心に「光」が戻る。 原作者は映画に対するコメントの中でアレンが分割した理由が不明確であることについて批判をしている。 アレンとゲドの関係 映画ではアレンが心の闇に支配されて国王(父)を殺害し国を出奔、そしてハイタカに出会って旅に同行するという展開になっているが、原作ではアレンは、エンラッドや諸国の異常を知らせるよう父に命じられて、ロークの大賢人たるゲドに会いに行き、そして2人で旅に出る流れになっている。 アレンの父殺し アレンが国王である父親を殺すという設定は原作にはなく、映画オリジナルである。テルーが親から虐待されたという原作に準拠した設定ともあいまって、田を耕さずハジアを売ったり、人を売り買いする人が儲けたり等の均衡の崩れた世界を象徴している。世界の均衡を崩し、人の頭を変にする災いの力はアレンの身にも及んでいた。 劇中、アレンが父を刺したのと同じ構図で、アレンがハイタカに斬りかかるシーンもある。2度目のハイタカに斬りかかる方は、劇中はっきりとクモに操られていることが示される。 アレンの父殺しという設定のできた経緯は、書籍「ロマンアルバム ゲド戦記」のインタビューに詳しく記述されている。発案者はプロデューサーの鈴木で、主人公の旅立ちの理由を模索していた吾朗は、「この子は父を殺しちゃうんだよ」という鈴木の一言に初め驚いたそうだが、アレンのキャラクターに合うと思い取り入れた。脚本家の丹羽圭子のインタビューでは、当初アレンはおかしくなった父親に殺されそうになり国を飛び出す、というシノプシスがあったが、鈴木が「今の時代を考えると、息子が父を刺すほうがリアルだ」と発案し、吾朗が取り入れたと言う。 アレンの父殺しの理由は劇中はっきりとは説明されず曖昧だが、宮崎吾朗はインタビューで、「アレンは父を憎んでいたわけではなく、たぶん尊敬しており好きでもあったが、自分が陥っていた閉塞感やがんじがらめな気分を抑えきれなくなり暴走し、彼を取り巻く世界、社会の『象徴』である父親に抑えきれなくなった感情の矛先が向かった」という講釈をしている。 よく父である宮崎駿と宮崎吾朗の関係になぞらえられた推察がされるが、吾朗自身は「父さえいなければ、生きられると思った。」というキャッチコピーに対しても、自分のことではない、と否定している。 韓国公開版では、この部分の台詞がカットされており、韓国の配給会社は「スタジオジブリ側で韓国的情緒を考慮し、台詞を変えることを先に要請してきた」としている一方、スタジオジブリは「セリフが変わったのは、一言で言えば韓国の配給会社側が観客を配慮したもの」と否定している。 テルーの描写 映画ではテルーは火傷の跡こそ描かれているものの、基本的にジブリ作品におけるヒロインのデザインを踏襲したものとなっている。『シュナの旅』のヒロイン、テアにも似ている。ジブリの定石である少年と少女の物語にするため、原作では5 - 6歳(4巻)なのをアレンと見た目が同年代の少女に変更。火傷の位置は原作では右半身だが、映画では左の目から頬にかけて痣状にある。 原作では「顔の半分がケロイド化して目がつぶれている」とか「手が溶けて鉤爪のようになっている」など醜悪さを表現する描写が少なくない。また原作では炎によって喉も潰れており、「テルーの唄」のような歌を歌う事も出来ないとされる。 物語の世界 映画ではホート・タウンとその周辺で物語が進められるが、原作においてはゲドとアレンは辺境の島々から死後の世界まで、アースシーの世界を縦横に横断している。 原作では肌の黒い人間がマジョリティ、白い人間はカルガド圏出身のマイノリティである。しかし、映画ではハイタカの肌がやや黒い以外は誰の肌も褐色とはおよそ言えない。原作者は物語で肌の色が濃いのは邪悪さと結びつけられる因習に批判的なため、この肌の表現にこだわりを持ち、表紙の人物のデザインについて出版社と争うこともあり、ドラマ版製作者と対立したこともある。 アニメ作品では自然の物音の音源が厳密に選定されていないことが多く、例えば、真夏の都会の真ん中でスズムシやマツムシが鳴いていたりする作品がしばしばあるが、本作では世界観に合わせて本物のヨーロッパイエコオロギの声がサンプリングされている。 物語の解決 原作では、誰か悪者を暴力で倒す事によって物語の解決を図ろうとはしていない。それに対して映画では、世界の均衡が崩れつつあるのも、竜が食い合うのも悪役クモが生死両方を分かつ扉を開けた影響とされ、その悪役クモを倒す事によって、共食いをしていた竜がラストシーンで仲睦まじく天空高く飛ぶようになる姿を描き、物語は解決を見せ、終わっている。アレンはすべてのいきさつを知る大賢人ゲドと共に国へ帰る。 本作品の映画の公式パンフレットに『ハイタカはクモという魔法使いが生死両方を分かつ扉を開け、それによって世界の均衡が崩れつつあることを探り出す』と記載されているとおり、世界の均衡を崩し、人々の頭をおかしくしているのは、クモである。しかし、劇中ではクモは敗れたのみで、世界の崩れた均衡の全てが解決したかどうかは明確ではない。また、クモの台詞の中に「均衡はすでに我ら人間の手によって破壊されつつある」とあるため、クモだけが災いの原因とは言えない可能性が大きい。 劇中、世界の均衡を唯一崩せる存在は「人間」であると暗に示されており、世界の均衡を崩しているのは、本来は自分たちの物ではない物まで欲する人間の強欲な働きである。クモが不死を欲した事は均衡を崩す強欲な人間の働きの代表であるといえよう。ハイタカも過去の教訓から、均衡を崩さぬよう魔法の使用を控えている。 本作品は、プロットや部分的な絵作りにおいて、原案としてクレジットされている宮崎駿作の『シュナの旅』からの翻案が多い。その主要なものは以下のとおりである。 プロット ストーリーの前半で、主人公の少年は悪者に捕まったヒロインの少女を助ける。そしてストーリーのラストでは、心の闇に沈んでしまった主人公の少年が、ヒロインの少女によって心の光を取り戻す。これは本作品と『シュナの旅』に共通するプロット。 人狩り 人狩りに捕まって首輪を付けられているシーン。また、人買いの車から助けられた際に、同時に枷(かせ)をはずされた同乗の犠牲者達が、再び捕まるという恐怖のために動けないでいるシーンは『シュナの旅』とほぼ同一である。 旅の風景 物語の前半で出てくる「砂漠の上に打ち捨てられた巨大船」の風景、また「人々が捨てて去った村の家を覗き込むシーン」は『シュナの旅』と構図が全く同一である。 ヤックル アレンの馬はシュナの愛畜ヤックルに酷似している。宮崎吾朗も「あれはヤックルみたいなものです」「もののけ姫ではなくシュナの旅を参考にした」とインタビューに答えている。ただし2本の角は製作過程で取ってしまった、と言っている。 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン (『ゲド戦記』) 原案:宮崎駿 (『シュナの旅』) 監督:宮崎吾朗 脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子 作画演出:山下明彦 作画監督:稲村武志 作画協力:アニメトロトロ、中村プロダクション、スタジオたくらんけ、スタジオコクピット、オープロダクション、動画工房、竜の子プロダクション、GAINAX、ufotable、Production I.G、MADHOUSE、GONZO、DR MOVIE 美術監督:武重洋二 音楽:寺嶋民哉 色彩設計:保田道世 デジタル作画監督:片塰満則 映像演出:奥井敦 録音演出:若林和弘 整音:高木創 効果:笠松広司 整音監修:井上秀司 編集:瀬山武司 プロデューサー:鈴木敏夫 協賛:アサヒ飲料 制作:スタジオジブリ 制作進行:齋藤純也、石井朋彦、伊藤郷平、仲澤慎太郎、橋本綾 配給:東宝 主題歌「時の歌」 作詞 - 宮崎吾朗・新居昭乃 / 作曲 - 新居昭乃・保刈久明 / 歌 - 手嶌葵 アルバム『ゲド戦記歌集』収録。 劇中挿入歌「テルーの唄」 作詞 - 宮崎吾朗 / 作曲 - 谷山浩子 / 編曲 - 寺嶋民哉 / 歌 - 手嶌葵 プロデューサーである鈴木敏夫に参考資料として手渡された、萩原朔太郎の詩「こころ」に着想を得た宮崎吾朗が作詞。 監督の宮崎吾朗の父親である宮崎駿は『ゲド戦記』の古くからのファンであり、彼の作品は『ゲド戦記』から大きな影響を受けてきた。『風の谷のナウシカ』(1984年)を映画化する以前、彼は原作の出版元岩波書店に映画化を打診していたが、その当時原作者のル=グィンは自身の作品のアニメ化には消極的で、アニメとはディズニーのようなものだと見做しており、1990年代に再オファーするも、この時も原作者の許可は下りなかった。 2003年に『ゲド戦記』の全巻の訳を終えた清水真砂子が原作者・ル=グウィンと面会した際に『となりのトトロ』などの宮崎作品に対し「ジブリ作品は、私の作品の方向性と同じ」と気に入っていることを述べた上で、「もし(原作者である)私の作品を映像化するとしたら、OKを出せるのはあの人だけ」と発言。清水は彼女に宮崎駿に伝えていいのか念押しし、後日スタジオジブリにそのメッセージを伝えた。宮崎駿は 「これが20年前なら、すぐにでも飛びついたのに……。」と戸惑ったが、「ハウルの動く城」を製作中だったこと、および「これまでの自分の作品で既に『ゲド戦記』の要素を取り入れて作ってきたから、今更できない」として、監督を断った。 しかし、本作をジブリで映画化したかったプロデューサーの鈴木敏夫は、ジブリ内で『ゲド戦記』の映画化を検討する研究会を立ち上げた。当初のスタッフは鈴木とプロデューサー石井朋彦、有力な若手アニメーターと宮崎吾朗。その時点では吾朗は美術館館長としての参加だったが、次第に研究会の中心人物として動くようになっていった。その過程で鈴木は、他のアニメスタッフではなく、吾朗を監督に起用することを画策した。発表当時のインタビューでは、「前提としてジブリの今後を考え、当の鈴木を含め駿や高畑勲が高齢であるため」と述べた。 当初はジブリ全スタッフから「なぜ宮崎駿の息子というだけで監督なんだ」と異論を唱えられたと言う。宮崎吾朗は絵コンテやレイアウトを書きながら色々なスタッフと渡り合い、自分の能力を証明し、溶け込んでいった。また、宮崎吾朗が製作の素人だったということもあり、新たな方法論や発想が生まれることとなった。スタッフも自由に仕事が出来るようになり、鈴木敏夫は「ジブリのスタッフが持つ感性と力がうまく引き出された」と評している。 この作品については、宮崎親子に関する確執が公開前から取り沙汰されており、公開に至るまで親子間、又はジブリ内での紆余曲折が、しばしば話題にされた。 宮崎駿は、映画監督経験がない吾朗が監督に就く事に「あいつに監督ができるわけがないだろう。絵だって描けるはずがないし、もっと言えば、何も分かっていないやつなんだ」と言って猛反対した。ここで鈴木は吾朗にイメージ画を描かせ、吾朗は『竜とアレンが向き合う絵』を描きあげた。これを見た駿は唸り黙ってしまったという。そして吾朗に「お前、本当にやれるのか?」と3日に渡って何度も問いただしたが、それでも吾朗は監督をやると返答し続け、そして宮崎駿はようやく吾朗が監督するのを呑んだという。鈴木はこれを聞き、一枚描いてくれと頼み、それがホート・タウンの町の原型となるイメージ画となった。 それでも息子の仕事の進行具合が気になっている様子を見かねた鈴木が、独身社員の出会いの場を建前に宮崎駿を含む本作品の製作スタッフを集め、すき焼きパーティーを催す。その席で本作品の出来具合を(古参の)女性スタッフに訊ねると「ミヤさん(宮崎)が引退した後、ローンの支払いをどうするか心配をしていたが杞憂だった」と言われ、「ふざけるな!」とヘソを曲げたという。 2005年6月に鈴木と吾朗は、原作者に吾朗を監督にする了解を得るため渡米を予定していたところ、駿は「吾朗がやると決めたじゃないか」「監督というのは少しでも時間があったら、1枚でも多くの画を描くべきだ。原作者と交渉するのはプロデューサーの仕事だろう!」と一喝した。「じゃあミヤさんが来てくださいよ」と鈴木に促され、仕方なく駿と鈴木が渡米する。原作者と面会の場で、駿は昔書いた「ゲド戦記」などのスケッチを見せ、原作への思い入れや、自身への影響を熱烈に語り、スクリプトについては責任を持つということでル=グィンの了承を得た。なおこの際に上記『竜とアレンが向き合う絵』をル=グィンに見せ、駿は「この竜と少年の絵は、原作の表現と比べるとおかしいですよね?」と吾朗の解釈について批判する一幕もあった。帰国後、駿はスクリプトの件で「あんなこと、言わなきゃよかった」と言い、その後も悩むこととなったが、結局シナリオには一切関わらなかった。ただし、脚本に行き詰まる吾朗に対し「『ゲド戦記』なんかやらずに『シュナの旅』をやればいいんだ」と助言し、それが本作の大きな指針となった。 その後もゲド戦記(と息子)に対する宮崎駿の執念と確執は燻り続け、2005年暮れになって鈴木の下へ現れた宮崎駿は「今からでも間に合うから吾郎を降板させて、俺に監督をさせろ」と言い出し、鈴木を困惑させる。その時の宮崎駿案によるプロットは老いて襤褸を纏ったゲドを基軸とする物語であった。作品が完成直前まで漕ぎ付けても息子・宮崎吾朗に対する溝は埋まらず、「カリオストロの城」が公開当時に観客動員が奮わなかった上「監督一作目にしては良く出来ていた」などと評価された事に根強い恨みを持っていた宮崎駿は、「俺も同じように“監督一作目にしては良く出来ていた”と言ってやる」と息巻いていた。ただそれは宮崎駿が次もやろうと奮起した言葉でもあったと鈴木は語っている。 公開前より「行かない」と言っていた宮崎駿であったが、初号試写に現れ関係者を驚かせる。鈴木は「行かないと言ってたのに何故来たの? どうせ途中で帰るんでしょ」と忠告し、事実、駿はその通りに上映途中で煙草のために数分席を立って、「気持ちで映画を作っちゃいけない」と語った。その後試写室に戻り、試写の後「大人になってない、それだけ」と感想を述べた。 宮崎は初号を隣の席で共に見た色彩設計の保田道世に自身のアトリエで、「初めてにしてはよくやったっていうのは演出にとって侮辱だからね。この1本で世の中変えようと思ってやんなきゃいけないんだから。 変わりゃしないんだけれど。 変わらないけどそう思ってやるのがね、映画を作るってことだから」と話している。後に宮崎駿は本作品に対し、保田を通じて「素直に描けていて良かった」との感想を吾朗に伝えた。なお、後のジブリ作品「コクリコ坂から」では吾朗の監督起用に駿は反対していない。 第63回ヴェネツィア国際映画祭で特別招待作品として上映。映画祭での上映に対する現地の評判は最低ランクで、スタジオジブリの評価を著しく下げた。「ウニタ」紙のダリオ・ゾンダは「平板なスタイル、創造性に欠けた絵で、それはリアリズムの上に成り立つファンタジーに供する想像を生み出すことを放棄している」、キャッスルロック.itは「アニメーションはスムーズで、緻密なキャラクターデザインではあるけれども、吾朗の映画は父親の映画における創造性と物語性芸術の高みには達していない」と評した。 北米での劇場公開 北米では米SCI FI Channelによるテレビドラマ化の契約により、2006年当時、劇場公開は不可能であった。 公開から4年後となる2010年8月13日より、ニューヨークやロサンゼルスなど都市部限定でPG13指定で公開となった。 原作者のル=グウィンは試写会後、吾朗に感想を問われ「私の本ではない。吾朗の映画だ。」と述べた。その後、この発言を吾朗が無断でブログに紹介したことや、日本人ファンからのメールなどを受けて、映画に対する感想を公式に発表する。ル=グウィンはこのコメントの中で、「絵は美しいが、急ごしらえで、『となりのトトロ』のような繊細さや『千と千尋の神隠し』のような力強い豊かなディテールがない」「物語のつじつまが合わない」「登場人物の行動が伴わないため、生と死、世界の均衡といった原作のメッセージが説教くさく感じる」などと記した。また、原作にはない、王子が父を殺すエピソードについても、「動機がなく、きまぐれ。人間の影の部分は魔法の剣で振り払えるようなものではない」と強い違和感を表明している。 多くの映画評論家は、この作品に厳しい評価をした。2006年度の最低映画との評価を、それぞれ独立した映画評論雑誌5誌から受けている。 「週刊朝日」、「文藝春秋」、「週刊新潮」、「Premiere」、「ぴあ」、「スクリーン」、「キネマ旬報」等、国内の雑誌でも酷評されている。 2008年7月11日に日本テレビの金曜ロードショーで地上波初放送された。近年のジブリ作品の地上波初放送の視聴率は20~30%台がほとんどだが、本作品は16.4%(関東地区・ビデオリサーチ)と低調だった。これは、翌週に放映された「となりのトトロ」(17.6%、関東地区・ビデオリサーチ)よりも低かった。 押井守は、「初監督でこれだけのものが普通の人に作れるだろうか? 合格点を与えていいだろう。次は本当の父殺しの映画を作るべきだ。」と評価した。 公開2日間で観客動員約67万人、興行収入約9億円を記録した。配給の東宝は初動の結果を受け、興行収入100億円超を目標に掲げたが、9月に入ると85億円に下方修正した。最終的にはそれをさらに下回る76.9億円だったが、2006年邦画興行収入1位となった。 第30回日本アカデミー賞 優秀アニメーション作品賞 第3回文春きいちご賞 第1位 第3回蛇いちご賞 作品賞 映画芸術 2006年ワーストテン 第1位 「諸君!」2006年11月号誌上において荒川洋治は、「作詞者宮崎吾朗氏への疑問」と題して劇中挿入歌である『テルーの唄』に対し、「萩原朔太郎の『こころ』に、ある範囲を超えて似すぎている」「参考資料として『こころ』を詞のもとにしたならば、原詩・萩原朔太郎、編詞・宮崎吾朗とでも表記するべきで、作詞・宮崎吾朗とすることにためらいはなかったのか」との批判を行った。 2006年10月21日、毎日新聞はこの件につき報道した。記事の中で三田誠広は、「盗作ではないがモラルの問題として謝辞を入れるべき」「シングルCD購入者はそうであるとは分からず、先行する芸術に尊敬が欠けている」旨述べた。 2006年10月24日、鈴木敏夫は「ゲド戦記」プロデューサーとしてこの件につき声明し、「表記について思慮不足だった」との旨を述べ謝罪した。 2007年7月4日、DVD及びVHSにて発売された本作品のスタッフロールに、「『テルーの唄』の歌詞は、萩原朔太郎の詩『こころ』に着想を得て作詞されました。」との表記が追加された。 原詩との関連についてオリジナルサウンドトラック、劇場用パンフレット、公式サイト、TV番組『ゲド戦記音図鑑~テルーの唄はこうして生まれた』等、映画に関係が深い媒体では『こころ』に着想を得て作詞された旨が解説されていたが、歌そのものの媒体であるシングルCDには解説がなく、劇場公開当時のスタッフロールにも表記が無かった。 本問題については「本歌取りやオマージュであり、表記については問題がない」という見方がある。法律としては現在、『こころ』の著作権は著作権の保護期間を満了し消滅している。 「見えぬものこそ。」(糸井重里) 「父さえいなければ、生きられると思った。」 「かつて人と竜はひとつだった。」 本作品は、協賛しているアサヒ飲料の三ツ矢サイダーのコマーシャルにも起用されている。挿入歌の「テルーの唄」をバックに、テルーの声優の手嶌葵がアフレコをしている場面で、劇中のセリフを吹き込むというもの。 映像ソフト ゲド戦記 VHS - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2007年7月4日) ゲド戦記 DVD - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2007年7月4日) ゲド戦記 特別収録版 DVD - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2007年7月4日) ゲド戦記 Blu-ray Disc - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2011年11月16日) 出版 さいはての島へ―ゲド戦記III― (岩波書店、1977年8月30日)ISBN 4-00-110686-8 ソフトカバー版 ゲド戦記III さいはての島へ (2006年4月7日)ISBN 4-00-028073-2 ゲド戦記の秘密―アースシーの歩き方 (ぶんか社、2006年7月20日)ISBN 4-8211-0912-3 アースシーの風に乗って―映画「ゲド戦記」完全ガイド (角川書店、2006年7月29日)ISBN 4-04-853990-6 ゲド戦記(スタジオジブリ絵コンテ全集15)(徳間書店、2006年7月31日)ISBN 4-19-862190-X 僕たちの好きなゲド戦記(宝島社、2006年8月13日)ISBN 4-7966-5384-8 ゲド戦記(ジス・イズ・アニメーション)(小学館、2006年8月20日)ISBN 4-09-103807-7 ゲド戦記の世界 「ゲド戦記」はじめて読本(近代映画社、2006年8月25日)ISBN 4-7648-2095-1 「ユリイカ臨時増刊号」 総特集 アーシュラ・K・ル=グイン 『闇の左手』から『ゲド戦記』まで(青土社、2006年8月25日)ISBN 4-7917-0150-X ゲド戦記詩画集(宮崎吾朗/詩・絵)(スタジオジブリ、2006年8月31日)ISBN 4-19-862201-9 ゲド戦記(徳間アニメ絵本)(徳間書店、2006年8月31日)ISBN 4-19-862202-7 THE ART OF TALES from EARTHSEA ゲド戦記(スタジオジブリ責任編集、徳間書店、2006年9月1日)ISBN 4-19-810011-X ゲド戦記 TALES from EARTHSEA(徳間書店〈ロマンアルバム〉、2006年9月1日)ISBN 4-19-720248-2 ゲド戦記―フィルムコミック(1)(徳間書店、2006年9月1日)ISBN 4-19-770133-0 ゲド戦記―フィルムコミック(2)(2006年9月15日)ISBN 4-19-770134-9 ゲド戦記―フィルムコミック(3)(2006年10月15日)ISBN 4-19-770135-7 ゲド戦記―フィルムコミック(4)(2006年10月20日)ISBN 4-19-770136-5 Works of ゲド戦記 Digital Artwork|STUDIO GHIBLI(ビー・エヌ・エヌ新社、2007年9月10日)ISBN 4-86100-513-2 ゲド戦記―ジブリの教科書(14)(スタジオジブリ編、文藝春秋〈文春ジブリ文庫〉、2017年4月)ISBN 4-16-812014-7 音楽 ゲド戦記 サウンドトラック SACD HYBRID(Stereo/Multi-ch) 徳間ジャパンコミュニケーションズ(2006年7月12日)TKGA-503 スタジオジブリ・プロデュース 「ゲド戦記歌集」(手嶋葵)ヤマハミュージックコミュニケーションズ(2006年7月12日)YCCW-10028 ゲド戦記 ピアノプラス(寺嶋民哉) 徳間ジャパンコミュニケーションズ(2006年11月29日)TKCA-73148 ^ 「WORKS OF ゲド戦記」(BNN刊)において ^ 参考文献:ル=グウィンのエッセイ「夜の言葉」、第1作巻頭言「エアの創造」 ^ 「ゲド戦記」背倫台詞削除論難 スポーツ京郷 2006年8月2日 ^ 参考文献:公式パンフレット ^ a b c d インビテーション 2006年8月号 ^ a b c d e f インビテーション 2006年4月号 ^ “世界一早い「ゲド戦記」インタビュー 鈴木敏夫プロデューサーに聞く”. yomiuri.co.jp. 2008年10月5日閲覧。 ^ このことは、2006年6月5日にタワーレコード渋谷で開催されたゲド戦記CD発売記念記者会でも鈴木が語っている。 ^ a b c ABCアシッド映画館2006年放送、鈴木敏夫インタビューより要約 ^ 『プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル 宮崎 駿の仕事』 NHKエンタープライズ 2009年 ^ FantasyMagazine ^ a b 原文 有志による邦訳文 ^ 宮崎吾朗監督「ゲド戦記」 8月13日米国限定公開 アニメ!アニメ! 2010年8月1日 ^ 番外編5 ル=グウィンさんの言葉 ^ 朝日NET 2006年08月24日記事より抜粋 ^ FM東京『ジブリ汗まみれ』第7回 ^ 2006年興行収入10億円以上番組 (PDF) - 日本映画製作者連盟 ^ 「テルーの唄」の歌詞の表記の問題について ^ ビデオテープ(VHS方式)でのリリースが行われたスタジオジブリの作品では最後である。 クロード・ロラン - 背景絵を彼の作風をモデルに描いた。 「ゲド戦記にはクロード・ロランの世界観が似合う」と宮崎駿がスタッフとの歓談のなか漏らした意見を、スタッフが採用した。 ニュータイプ編『アースシーの風に乗って~映画「ゲド戦記」完全ガイド』角川書店(2006年) フィルムコミック1~4巻 「スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI」公式サイト ゲド戦記公式情報 スタジオジブリ『世界一早い「ゲド戦記」インタビュー(完全版)』 雑誌『インビテーション』4月号採録 「鈴木プロデューサー ゲド戦記を語る(1)」 ゲド戦記 - 金曜ロードショー(2008年7月11日放送分) ゲド戦記 - 金曜ロードショー(2011年7月15日放送分) ゲド戦記 - allcinema ゲド戦記 - KINENOTE ゲド戦記 - オールムービー(英語) ゲド戦記 - インターネット・ムービー・データベース(英語)" ]
ABC01-02-0129
会社の形態を大きく4つに分けると、「株式会社」「有限会社」「合資会社」と何でしょう?
合名会社
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[ "合名会社", "法人成り", "月賦百貨店", "合資会社", "組織変更" ]
[ "合名会社(ごうめいがいしゃ、独: Kollektivgesellschaft、仏: société en nom collectif 日本法上のものはgeneral partnership companyなどと英訳される)とは、無限責任を負う社員のみから構成される会社形態。日本の会社法においては持分会社の一類型とされている。合名会社の商号中には、「合名会社」という文字を用いなければならない(会社法第6条、旧商法17条)。略する場合「(名)」(銀行振込の場合は「メ」)と略される。英文では\"GMK\" (GoMei Kaisha) と略すこともあるようである。 会社法は、以下で条数のみ記載する。 合名会社は、会社法が用意する四つの会社類型の中で最も原初的なもので、個人事業の事業主が複数人になり、共同事業化した状態を想定した会社形態である。合名会社を構成する社員は出資をして業務も執行する機能資本家(経営に自ら携わる出資者)であり、企業の所有と経営が一致している。社員は、無限責任を負い、原則として各自が業務を執行し、会社を代表する。 家族、相互の信頼が醸成された仲間など、意思疎通の密な固定された小人数による経営に向いているが、社員間の関係が損なわれれば、事業の運営が混乱する危険性もある。 基本的な構造は民法上の組合とほぼ同じで、組合に関する規定が準用される。法人格を有する点、つまり会社自体が権利能力を有し、取引や財産所有の主体となることができる点が組合と異なるが、実質的な違いは団体名義での登記の可否に過ぎないとも言われる。重要な違いは、むしろ税法上の問題、すなわち法人税が課されるか否かという点にあるともいえる。 2006年(平成18年)の会社法の施行によって、新たに社員一人のみの合名会社も認められることとなり、共同事業・組合的性格のない個人事業が合名会社に法人成りすることもできるようになった。 社員とは、一般的にいう「社員」(従業員、会社員)のことではなく、合名会社を含めた持分会社においては、出資者であると同時に業務の執行者である地位のことをいい、会社の意思決定を行う構成員である。株式会社における株主と取締役・代表取締役を兼ねたものに相当し、原則的に、株式会社のような所有と経営の分離がない。 社員は、会社の債務について無限責任を負う。無限責任とは、有限責任に対する概念で、会社が負った債務を会社財産では完済しきれない場合、社員は自己の個人財産から弁済をしなければならないが、その責任が出資の額に限定されていないことを言う。つまり社員は、会社の債務を弁済しきるまでの責任を負っている。もっとも、個人事業主の場合も、事業による債務を弁済する責任が、事業に投じた資金等の額に限定されず、個人財産全体に及ぶ点は同様である。 社員は、原則として、会社の業務を執行する(590条1項)。これは合名会社の社員としての権利でもあり、義務でもある。 社員が二人以上ある場合、業務の決定は原則として社員の過半数による(590条2項)。ただし、会社の常務は、各社員が単独で行なうことができる(590条3項)。 業務を執行する社員(業務執行社員)は、社員のうちから定款で定めることもできる。定款で定めた業務執行社員が二人以上いるときは、業務の決定は業務執行社員の過半数による。ただし、会社の常務は、各業務執行社員が単独で行なうことができる(591条1項)。 業務を執行する社員は、会社を代表する。業務を執行する社員が二人以上いるときは、各自が会社を代表する。会社を代表する社員(代表社員)は、業務を執行する社員のうちから定款で定めたり、定款の定めに基づく社員の互選によって定めることもできる。 なお、「社長」「専務」といった役職は法律上のものではないので、定款の規定などによって社員から選任するのは、その会社の自由である。 合名会社は、社員が無限責任を負っているから、会社自体の財産もさることながら、会社に結集した社員個々人の資産状況が、会社の信用の大きさにつながる。また、社員は会社の財産的裏付けであると同時に経営陣でもあるから、その手腕・技能・知識・経歴や人脈・人望が経営の成否を左右する。合名会社は、このように社員に属する特性(資本の人的な構成)、そして社員間の協調に信用や経営の基礎を置く人的会社である。 こうした性質から、社員が交替したり新たな社員が加入することは、社員相互の関係や信用、経営を悪化させる危険性を伴う。そのため、他の社員に歓迎されない者が社員となる可能性を極力排除している。 まず、株式会社の株式のように持分を自由に譲渡することはできず、譲渡するには全社員の承諾(同意)が必要である(585条1項)。また、社員が死亡した場合にも社員としての地位が相続されることはなく(法定退社、607条1項3号)、相続人には持分の払戻が行われる。 しかし、持分の譲渡を制限すれば、そのぶん投下資本の回収が困難になる。そこで、株式会社では許されていない退社制度を認め、会社から出資の払戻を受けることができるとしている。合名会社の場合、たとえ払戻によって会社財産が減少しても社員の個人資産を会社債務の引き当てにできることから、こうした仕組みをとっている。有限責任原理によって、会社の債務の引き当てが会社財産のみである株式会社では会社財産が減少すると会社債権者を害することになるから、退社(出資の払戻)は認められていない。 他に、強制的に社員を退社させたり(609条)、業務権限を剥奪することもできる。 旧商法においては退社等によって社員が一人となった場合には合名会社は解散するとされていた。つまり、株式会社のように株主(社員)が一人しかいない「一人会社」は認められず、社団性が強く要求されていたのである。会社法においては、持分会社一般の解散事由は「社員が欠けたこと」とされており(641条4号)、合名会社の社団性はやや後退したといえる。会社法制定後のその他の変更点としては法人が社員となることが許容されたことがあげられる(598条等)。 合名会社の起源は中世ヨーロッパのコンパーニア (compagnia) にあるとされる。コンパーニアは、12 - 13世紀以降、イタリアとフランドル間などヨーロッパ各地の市場を結ぶ内陸交易の発達に伴って出現した。コンパーニアは、ある家族が機能資本家として複数世代にわたって同一の名称を用いて活動するために生まれた家族的な事業団体が家族以外の者を含む形で発展したものである。これはそれまでの企業形態とは異なり、企業としての継続性を有していたのが特徴である。コンパーニアは存続期間を定めて社員の出資によって設立され、その社員は第三者に対して無限連帯責任を負担した。コンパニーアは、社員による出資のほか、有利子の預金によっても資金調達を行った。14世紀のフィレンツェには、ヨーロッパ各地に支店を設け、交易のほかにも、為替や、君主・諸侯などへの貸付けを行うようなものも登場した。また、16世紀の南ドイツにおいても、フッガー家などが同様の企業形態を有していた。 合名会社についての最初の立法例は、フランス王国の1673年の商事勅令 (l'Ordonnance de Colbert de 1673 sur le commerce) であるといわれている。その後、ナポレオン法典(1807年の商法典)等の大陸諸国の商法典に規定されるようになり、日本では商法制定時にドイツ商法典に倣って導入された。 法人格を有するか否かは立法例によって異なるが、ドイツ、ベルギー、スイス、ポーランドの合名会社は法人格がないのに対し、日本やフランス、ルクセンブルク、ノルウェー、チェコ、スウェーデンの合名会社は法人格を有する。 イングランドでは、コンパーニアに相当する企業形態はパートナーシップ(あるいはジェネラル・パートナーシップ)と呼ばれており(カンパニー (company) ではない。)、これは法人格を有しない。これは現在でも英米法の各法域でよく用いられているが、法域によってはパートナーとは区別された法的実体 (legal entity) であるとされている。尚、他にもイギリスにおいては、無限責任の法人として無限責任会社 (unlimited company) が設けられたが、こちらは現在では、日本の合名会社と同様にあまり利用されていない。 「合名会社」という語は、ナポレオン法典において合名会社の呼称として採用された\"société en nom collectif\"の直訳に由来する。フランスでは現在でも、合名会社の商号は1名又は数名の社員の名前の後に\"et compagnie\"を付す形を採っており、そのことからこのような呼称が与えられているのである。日本法においては、合名会社の商号中に「合名会社」の文字を用いなければならないが、社員の名前を連記しなければならないという規制はない。 創業の古い、地域の零細企業がしばしば合名会社の形態であり、業種的には酒や醤油・味噌の醸造会社などに多く見られるようである。なお、三井財閥の持株会社であった三井合名会社や安田財閥における合名会社安田保善社、古河財閥における古河合名会社のように、戦前の財閥一家による株式所有の方法としていた例もある。 合名会社の設立の登記(912条) 目的 商号 本店及び支店の所在場所 合名会社の存続期間又は解散の事由についての定款の定めがあるときは、その定め 社員の氏名又は名称及び住所 合名会社を代表する社員の氏名又は名称(合名会社を代表しない社員がある場合に限る。) 合名会社を代表する社員が法人であるときは、当該社員の職務を行うべき者の氏名及び住所 公告方法についての定め 特別法により設立が認められる法人のうち、いわゆる「士」(さむらい)資格をもつ者のみが社員となって設立されることが強制されるもの(たとえば弁護士法人、監査法人、税理士法人、社会保険労務士法人等の士業法人)は、その公益性の高さから、債権者保護のため、根拠法令において合名会社の規定が多く準用されている。 ただし、これらの法人は絶対的商行為・営業的商行為を行わないため、商人ではない。 合名会社を表す㈴が「全角括弧付き名」としてUnicodeに含まれている。 合資会社 合同会社 有限会社(日本では廃止。旧法において設立したものは株式会社の一類型である特例有限会社として存続) 株式会社 ^ 同様に、合資会社は「(資)」、合同会社は「(同)」と略すのが一般的である。 ^ Dean A. Stahl, Ralph De Sola, Karen Kerchelich, Abbreviations Dictionary (Tenth Edition, Crc Pr I Llc, 2001) p.452 ^ 2008年(平成20年)4月1日以降、情報公開など一定の要件を満たした監査法人については、米国のLLCに準拠した法人形態である有限責任監査法人の設立が認められたが、監査報告書に署名した指定有限責任社員は被監査会社からの訴訟に対して無限責任を負う(公認会計士法34条の10の4及び34条の10の5)ものとされる。", "法人成り(ほうじんなり)とは、個人事業主が手続きを行い、株式会社や合同会社などの法人に成り代わることである。 法人成りを行うことにより、個人事業主として経営を行うよりも利益を得られる場合がある。 個人事業主の利益に対しては「所得税が課せられる」のに対し、法人に対しては法人税が課せられる。所得税は超過累進課税で計算されるため、利益を得れば得るほど租税を引かれる。それに対し、法人税の税率は常に一定であるため、ある水準の所得を超えた場合、法人の方が有利である。 消費税は2年前の課税売り上げ金額に応じて課せられるので、新設の法人はそれがないため、結果として免除されることとなる。尚、資本金が1,000万円以上の法人の場合は特例で課税される。また法人設立時の資本金で判断されるので、999万円で会社を立ち上げて、しばらくしてから増資して1000万円を超えた場合でも、消費税は2年間免除される。 業種や従業員数に関わらず、労働保険(労災保険・雇用保険)や社会保険(健康保険・厚生年金保険)の強制適用事業となり、保険関係成立届の提出などの面倒な手続きや経費が嵩む。 労働保険の保険料の徴収等に関する法律(通称:徴収法)第3条、4条の規定によって、法人が設立された時点で、法律上当然に保険関係が成立するので、事業主は、法人設立の日(当日起算)から10日以内に、「保険関係成立届」を提出しなければならない。 ただ、労働保険事務組合に労働保険の事務処理を委託しているか否かによって、提出先が異なる。労働保険事務組合に労働保険の事務処理を委託していれば、所轄公共職業安定所長に、そうでなければ、所轄労働基準監督署長に、それぞれ書類を提出する決まりになっている。 健康保険の場合は、日本年金機構の所轄年金事務所又は地方厚生局長(例えば、大阪府下の法人であれば、近畿厚生局長になる。)に提出する。 中小企業の多くは、従業員が全国健康保険協会の被保険者となるが、健康保険組合を設立する事もできる。ただ、その場合は、一社での単独設立の場合は、一般被保険者が常時700人以上、複数の法人が集まって共同で設立する場合は、一般被保険者が合算して常時3,000人以上という要件を満たさなければならない。 また、健康保険組合を設立するのであれば、その法人に使用される一般被保険者の2分の1以上の同意(共同設立の場合は、一般被保険者の2分の1以上の同意を各社について得なければならない。)を得て規約を作り、厚生労働大臣の認可を得なければならない。 但し、従前から国民健康保険組合に加入している個人事業主が法人化した際には、日本年金機構の所轄年金事務所に健康保険被保険者適用除外承認申請を提出し承認されれば、健康保険として国民健康保険組合への加入を継続することが可能である。 厚生年金保険の場合は、法人設立の日(当日起算)から5日以内(船舶を用いる事業を営む法人であれば10日以内)に、日本年金機構の所轄年金事務所に提出する。 小林敬幸著『個人事業者・フリーランスのための小さな会社をつくるメリット・デメリット』(秀和システム)ISBN 4-79802-747-2 厚生労働省 労働基準監督署 公共職業安定所 日本年金機構 社会保険労務士 全国健康保険協会 健康保険組合 労働保険事務組合 厚生労働省 全国健康保険協会 健康保険組合連合会 日本年金機構 全国社会保険労務士会連合会", "月賦百貨店(げっぷひゃっかてん)とは、割賦販売により商品を販売していた小売店のこと。百貨店とはいうものの、三越や伊勢丹などのいわゆる百貨店とは別物。日本独特の形態である。 月賦百貨店の下地となったのは、「椀船」(漆器等の割賦販売)である。1921年に初めて店舗を構えた丸共合資商会も、椀船の行商隊をその母体としている。大正から昭和にかけて、相次いで店舗が立ち並んだ。その後太平洋戦争下の戦時商業統制の対象となりいったんは途切れたものの、戦後のインフレ、統制が一段落するのにあわせ、再び姿を現す。そして昭和40年代には絶頂期を迎えることとなる。 多彩な品揃えの商品 割賦販売 店頭で販売、資金回収 といった特徴を持つ月賦百貨店は、「物は欲しいけれど一括で買えるほど現金はない」という庶民に支持され、活況を呈した。 最盛期には丸井、緑屋、丸興、大丸百貨店が業界の大手4社として数えられていた。 しかし、高度成長期による庶民の所得増加、銀行等の販売信用制度の充実により月賦百貨店の特徴は次第に薄れ、大部分の企業は経営不振により整理されていくことになる。 大手4社のうち、丸井はエポスカード(旧赤いカード)、緑屋はクレディセゾンとしてセゾンカード、丸興はダイエーファイナンス(現セディナ)としてオーエムシーカードといずれもクレジットカード発行に踏み切り、いずれも月賦百貨店業態から転換している。なお、大丸百貨店はラオックスと提携して一部店舗を家電量販店業態に転換、後に社名を変更し専門店をグループ(井門グループ)で営業している。 ただし、丸井については営業内容を一般的な百貨店、現在ではファッションビルとほとんど変わらないものに変えることで小売店舗を存続させているが、月賦百貨店という業態や用語自体、現在では馴染みが薄いものとなりつつある。 1921年 - 丸共合資商会(1912年設立)が、新宿に常設店舗を構える 1922年 - 井門冨士逸が東京・品川で大丸商会(後の大丸百貨店)を創業 1929年10月8日 - 丸菱百貨店(埼玉県川口市本町)が割賦販売(洋服と家具)を開始 1931年 - 青井忠治が丸二商会から独立し、中野に店舗を構える(後の丸井) 1934年 - 業界団体「月賦研究会」発足 1946年 - 丸井(ただし、月賦の再開は1950年)が再開。岡本虎三郎が岡本商店(後の緑屋、現: クレディセゾン)を創業 1947年 - 大丸百貨店が再開 1950年 - 丸興が東京・亀戸で創業 1957年 - 全国月賦百貨店組合連合会、設立 1960年 - 丸井、月賦の呼称をクレジットに改めるキャンペーンを実施。「クレジット・カード」を発行 井野屋(大阪・東大阪・下関・北九州)…加盟店で唯一、業態を維持して現存する 丸井 緑屋(現・クレディセゾン) 丸興(現・セディナ) 大丸百貨店(現・井門グループ) ほくそうデパート(1970年3月倒産) ^ a b c 岡田康司『百貨店業界』教育社、1991年4月 ^ a b c 『わが国クレジットの半世紀』社団法人 クレジット産業協会 ^ OIOI。北海道の丸井今井とは別物。 ^ 大阪府に本店を構える百貨店大丸とは別物。 ^ 今日は何の日10月8日PHP研究所 ^ 出征前の風景 川口商工会議所2006年5月号Vol.390 ^ 日本で「クレジット」という呼称を使用したのはこれが最初。なお、「クレジット・カード」は今日の総合割賦購入あっせんを行うクレジットカードとは別物。『わが国クレジットの半世紀』社団法人 クレジット産業協会 ^ 割賦販売会社「ほくそう」も経営ゆきづまる 消費者信用 販売信用 割賦販売 - クレジットカード", "合資会社(ごうしがいしゃ、羅: societas in commendam、独: Kommanditgesellschaft、仏: société en commandite、英: partnership in commendam)とは、大陸法上の会社形態で、コンメンダに由来する有限責任社員と無限責任社員から構成される組合類似の組織を有するのが特徴である。 日本の他、フランス、ドイツ、米国ルイジアナ州などの大陸法諸国において認められる制度であるが、英米法においてもリミテッド・パートナーシップと呼ばれる類似の企業形態が制定されている。日本法の法令用語としては日本の会社法上のものを指す場合と、類似の形態の外国会社を含む場合とがある。日本法上の合資会社は、英語表記ではlimited partnership companyなどとされる。 会社名の一部として略称を用いる場合は、一般的には「(資)」(銀行振込の場合は「シ」)とされる。英語表記では\"GSK\"(GoShi Kaisha)と略すことが多い。 本項では、日本の合資会社について扱い、会社法の規定に関しては、以下で条名のみ記載する。 日本法上の合資会社は、法人格を有し、持分会社の一類型とされる(575条1項、576条1項5号)。会社法施行に伴い改正される前の商法(以下「改正前商法」)においては、合名会社の変種として規定されていた。 合資会社の有限責任社員は、株式会社などの社員(株主)のような間接有限責任ではなく、無限責任社員とともに直接責任を負う。つまり、会社の債権者は、会社の債務について、直接に無限責任社員と有限責任社員に対して履行を求めることができる。ただし、無限責任社員と有限責任社員では、履行責任に文字通りあらかじめ定めた限度があるかないかの違いがある。ただし、会社に対し出資を履行した価額の分について間接責任となる(580条2項)点は、株式会社の株主と同様である。 株式会社のような所有と経営の分離の仕組みのない持分会社においては、社員は出資者であると同時に経営者でもあるが、改正前商法における合資会社の場合は、無限責任社員が業務執行権及び代表権を有するものと定められ(改正前商法156条)、有限責任社員は基本的に経営に関与しない存在だった。しかし、会社法においては、原則としてすべての社員が業務執行権と代表権を有し(590条)、定款で定めた場合には社員のうちの業務執行社員が有するものとされており、この点で有限責任社員と無限責任社員との差は無い。 合資会社の商号中には、「合資会社」という文字を用いなければならない(6条2項)。設立するにあたっては作成する定款(575条1項)において、その社員の一部を無限責任社員とし、その他の社員を有限責任社員とする旨を記載する等しなければならない(576条3項)。さらにその本店の所在地(576条1項3号)において設立の登記をなすことが必要である(579条)。 設立登記には、有限責任社員の出資の目的及びその価額並びに既に履行した出資の価額の記載が必要である(913条)。 例えば株式会社の設立時や新株発行時に株式を取得して株主になろうとする場合、その者は会社に対してその発行価額を払い込む。その後、その会社が負債を抱えて倒産した場合でも株主は会社の債務について責任を負わない(返済する義務がない)。株主は出資によって得た株式の価値を失うが、それ以上の損失を迫られることはない。これを間接責任という。株主は有限責任であると同時に間接責任でもある(間接有限責任)。 これに対して合名会社の社員や合資会社の無限責任社員・有限責任社員は、会社がその債務について会社財産をもってしても完済できなかった場合には自己の財産をその弁済に充てることを迫られる。これを間接責任と対比して直接責任という。無限責任社員と有限責任社員とは、責任を負うべき額にあらかじめ定めた限度があるかないかの違いがある。株式会社の株主や合同会社の社員が間接有限責任を負うに過ぎないのに対し、合資会社の有限責任社員は、直接有限責任を負っているのである(ただし、会社に対し出資を履行していれば、その価額の分については間接責任となる)。 逆に言えば、現実に払込みをしなくても将来の会社債務弁済のリスクを引き受ければ、有限責任社員として出資したことになる。さらに、無限責任社員は金銭以外の信用出資・労務出資(信用力や将来の働きを出資として評価する)もできるので、例えば1人につき100万円ずつ計5人に有限責任社員としてリスクを引き受けてもらい、かつ無限責任社員の信用出資・労務出資を500万円と評価すれば、現実の払込みがなくても資本金1,000万円の会社になる。合資会社の有限責任社員を引き受ける側からすれば、いわば範囲を限定しない根保証の保証人になるようなものである。 ドイツやフランスの合資会社は、匿名組合と同様に、中世イタリアのコンメンダを起源とするものである。日本の合資会社はこれを継受したものであるが、その際に法人格があるものとして規定されてしまったため、法人税が課されることとなり、使い勝手が悪くなってしまったものと指摘されている。 ちなみに、英米法のリミテッド・パートナーシップも合資会社を継受したものであるが、さらに日本がこれを継受して投資事業有限責任組合となった。これは法人格を有さず、したがって法人税は課されない。 戦前の三菱財閥の持株会社であった三菱合資会社が有名だが、一般的には昔からの酒造・醸造会社、離島と本土とを結ぶ海運会社など同族経営を前提とした小規模な企業がほとんどであり、現存数は株式会社や有限会社に比べると圧倒的に少ない。ただし、1990年代の後半、当時は最低資本金の制約があった株式会社や有限会社に対して、資本金の面でも手続の面でも設立が容易であることに注目され、それ以前に比べて1万社程度増加したこともあった。その結果として、現存する合資会社にはIT関連企業やタクシー会社なども多い。 2006年の新会社法によって株式会社の最低資本金制度が撤廃されるとともに、全社員が有限責任である合同会社が導入されたため、現在は敢えて合資会社を新たに設立しようとする者はほとんど無く、また債権者保護手続上問題の無いものは株式会社や合同会社に組織変更する例が増えている。 合資法人を表す㈾が「全角括弧付き資」としてUnicodeに含まれている。 ^ 同様に、合名会社は「(名)」、合同会社は「(同)」と略すのが一般的である。 ^ en:Types_of_business_entity#Japan 英語名を\"GSK\"とする会社の例:[1]]、合資会社手焼工房 株式会社などと同様に、\"Co., Ltd.\"(例:飯田産業合資会社、菊姫合資会社)、\"Inc.\"(例:合資会社GB、合資会社カシュシステムデザイン)とする会社も実在する(株式会社などでもそうだが、日本の会社組織形態の英訳名は法定されていないので、ある程度自由に決められる)。 ^ ただし、これは課税政策の問題ともいえ、比較法的にも法人格と法人税は論理必然の関係ではない。 ^ 組合員につき直接に、その所得として課税される。 合名会社 合同会社 株式合資会社(日本では1950年の商法改正により廃止) 有限会社(日本では2005年の商法改正により廃止。旧法において設立したものは株式会社の一類型である特例有限会社として存続) 株式会社 - 株式会社 (日本) 匿名組合 投資事業有限責任組合 リミテッド・パートナーシップ ジョイント・ストック・カンパニー(joint stock companyを「合資会社」と訳すことがある)", "組織変更(そしきへんこう) 一般には、団体内部の部署等の組織を組み替えたり、組織形態を変更したりすること。 会社法での企業組織再編の一つで、株式会社が合名会社・合資会社・合同会社となること、またはその逆方向の変更による法人形態の変更を指す。(下記別表も参照)。会社法では第2条26号で定義づけられ、同法第五編(743条以下)において規律されている。 会社法について以下では、条数のみ記載する。 企業等の経営上、意思決定の迅速化、決定された方針の具現の効率化などの観点から、会社等の組織の見直しは適宜図られる。 変更にあたっては、現組織の問題点抽出、変更計画、実行、検証、というプロセスを経ることになる。この変更にあたり、人事異動、人員整理(整理解雇など)を伴うことがある。 会社法でいう組織変更は、法人の種別の変更であり、現実に会社という企業体を組成する内部組織を変更することではない。 組織変更をするには、株式会社においては総株主の同意が(776条1項)、持分会社においては総社員の同意が、必要となる(781条1項)。 その後、債権者保護手続を採る必要がある(779条、781条)。 下記表において、○に該当する会社形態の変更が「組織変更」に当たる。△に該当するものは、「組織変更」にあたらず定款の変更のみで行いうる。また、社員の加入・脱退等により、かかる定款変更があったものとみなされる場合もある。" ]
ABC01-02-0130
木曽川、長良川などの下流地域に多く見られる、洪水を防ぐために村落が人工堤防で囲まれた土地のことを何というでしょう?
輪中
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[ "輪中", "大榑川", "天王川 (岐阜県)", "鉄砲川", "逆川 (岐阜県)" ]
[ "輪中(わじゅう)は、集落を水害から守るために周囲を囲んだ堤防。また、堤防で囲まれた集落や、それを守るための水防共同体も指す。 岐阜県南部と三重県北部、愛知県西部の木曽川、長良川、揖斐川とその支流域の扇状地末端部から河口部に存在したものが有名。この地域では、曲輪(くるわ)、輪之内(わのうち)とも呼ばれる。加納輪中や室原輪中のように、集落が山裾や高位部に接していて、上流側からの大量の水が流入する可能性が低いため、その部分に大きな堤防を持たないものもみられるなど、完全に堤防に囲われていない例外もある。 輪中の記述が登場する最も古い文献は、鎌倉時代の歌人飛鳥井雅有の旅日記「春の深山路」である。原文「此所のやう、河よりははるかに里はさがりたり。まへにつゝみを高くつきたれば山のごとし。くぼみにぞ家どもはある。里の人のいふやう、水いでたる時は、ふね此つゝみの上にゆく。空に行(く)舟とぞみゆると云(う)をきけば、あまのはとふねのとびかりけんも、かくやとぞ聞ゐたる。」、現代語訳「このあたりでは、川よりも里の方がずっと低くなっている。里の前には堤を山のように高く築き、家々は窪みの中にある。里の人がいうには、水が出たときには舟は堤の上を行く。まるで舟が空を行っているように見える。これを聞いて、神話に出てくる天の鳩舟のことを思い出した。」とある。弘安三年(1280年)には輪中が成立していた。但しこの輪中が後の時代まで継続して存在していたかは別の問題である。他の記録としては、『百輪中旧記』に鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に、標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちがそれまで下流側に堤防が無い「尻無堤」に下流部からの逆水を避けるための潮除堤を追加し集落全体を囲う懸廻堤を有する最初の輪中である古高須輪中が完成したとされている。しかし『百輪中旧記』は、明治以後に成立した村の名が登場するとか、古木曽川の推定流路から見て高須輪中の成立は慶長(1596年~1615年)以前にはさかのぼれないなどの問題があり、資料としての性格は根本的に疑われている。輪中を維持管理するための社会構造が鎌倉時代には存在できないと唱える者もおり、実際に古高須輪中が完成したのは江戸時代初期であるとされる。 初期に成立した輪中についてはその正確な年代を特定する文献が乏しいが、輪中には内水による災害の危険が伴うため、排水路が整備された年代などからその成立時期が推定されている。その後周辺の集落もこれに習い明治時代中ごろまでに順次造られた。研究者の定義により差異はあるが、最終的に1,800km2の面積に及び、数は80ほどに達した。時代が下ると大垣輪中や多芸輪中など、大きな河川に対して利害が一致する輪中同士がその河川に対する堤防を共有したり、旧来の輪中の外側の湿地帯や河川敷で新田開発のため新たな輪中が形成されるなどして内部に輪中構造を持つ複合輪中も誕生した。これに対して内部に輪中堤を持たない輪中を独立輪中と呼ぶ。複合輪中は外側の河川に対する堤防を持つ輪中として外郭輪中とも呼ばれた。これに対して外郭輪中の内側に含まれる輪中は内郭輪中と呼ばれた。ただし、堤防が共有される場合でも水防に関して独立している場合は複合輪中とは見なされない。 江戸初期に御囲堤が尾張の木曽川沿いに築かれ、木曽川から尾張側へ流れる河川が締め切られることにより木曽川の水量が増して水害が起こりやすくなった。また、木曽川西岸の堤防は御囲堤よりも3尺(1m)低くしなければならない、御囲堤の修繕が終わるまで対岸の堤防の修理を控えなければならないといった不文律もあったため(異説あり)水害が絶えず、美濃で特に輪中が発達することとなったと言われる。ただし御囲堤は国境よりも東側にあり、また木曽川の河口までは延びていなかったため尾張国内でも弥富市などの御囲堤に守られていなかった地域には多くの輪中が造られている。更に美濃側の木曽三川下流域は、天領、旗本領、尾張藩領、高須藩領、大垣藩領、加納藩領その他の領土が混在し共同して治水に当たることが難しかったことも一因として挙げられる。 輪中地域は傾斜が少ない氾濫原で、多くの領域は潜在的な遊水地となりえた。そのため輪中の形成は遊水地の減少を意味し、近隣地域の水害の危険性を高めることとなった。また、以前は輪中内の地域に流れ込んでいた土砂が、輪中の形成により河川に堆積し天井川になるという悪影響もあった。そのため以前は洪水に見舞われなかった上流域も水害の危険が増し、順次輪中が形作られていくこととなった。しかし前述の通り、輪中の形成により遊水地が減少することから近隣の輪中は新たな輪中の形成には強く反発した。その例として松枝輪中があげられる。また河口部では新田を開発するため河口部を干拓することによって新たな輪中が作られた。 明治時代に入って木曽川、長良川及び揖斐川の三川の大規模な治水事業により水害は激減したため輪中の必要性は薄くなり逆に道路交通に支障をきたすとして多くが削り取られたり取り壊されたりした。また戦争中の食糧難によって比較的上流にある輪中は次々に田畑にされ、ほとんど残っていない。 現在でも残る一部の輪中堤防は洪水の際に利用されることがある。昭和51年(1976年)9月12日に起きた水害(通称:9.12水害)では輪之内町の福束輪中の水門を締め切ることでその内側は水害から免れることができた。近年、洪水に対する減災の観点から見直され、京都府由良川流域や青森県馬淵川流域等で採用されている。 輪中には水害から身を守るために様々な施設が存在した。 助命壇 洪水の際に、水害から身を守るために住民が避難した高台。多くは集落の中心に作られ、目印となるように木が植えられている。多数人が避難できるが、食料などが備蓄してあるわけではない。水屋を作ることのできない貧しい農民が利用した。命塚とも。 上げ仏壇 水害の際に仏壇が濡れないように可動式となっており、水害が発生したときは天井裏へあげられるようになっている。 上げ舟 水害の際の移動手段として、軒下などに小船が備え付けられていた家も多い。これらは上げ舟と呼ばれた。関東から東北地方では「揚舟」「用心舟」「出水用心田舟」「出水用心舟」などと呼ばれることもある。 水防倉庫 江戸期においては水小屋、郷倉、諸式倉などと様々に呼ばれた。輪中堤の破堤に備えて水防に必要な道具類を収蔵した倉庫。土嚢を造るための麻袋や杭、縄、タコ槌、スコップ、松明が収められていた。堤防上や堤防沿いに建てられている場合が多い。 水神 輪中堤防が決壊したことのある場所(切所)には再びの破堤からの守護を祈念して祠が建てられている場合が多い。これを水神(みずかみ)と呼ぶ。切所は再び破堤する危険が高くそれを警戒する意味合いもあった。水神の例祭は水害の発生した日となっている場合が多い。 洪水による浸水を避けるため母屋とは別に石垣や土盛りの上など、高い場所に作った家屋。母屋と渡り廊下(どんどん橋と呼ばれることもある。)でつながっていることも多い。一般には倉庫として扱われ、洪水の際には住居として使われるものが多い。建造する費用が高いので全ての家にあるわけではなく、所有者は裕福な家に限られた。また、立地としては洪水時に避難できる高台や堤防から離れた地区に多い。類似の建築は日本各地に見られ、利根川流域の水塚や淀川流域の段蔵や信濃川流域の水倉が挙げられる。文献上は18世紀後半にみられ以降輪中地域全体に広がるが、明治時代の木曽三川の分流工事の後は水害の危険が少なくなり新しく水屋が建てられなくなったためその数を減らしつつある。大垣市輪中生活館には住居式水屋と土蔵式水屋の双方を併せ持つ名和邸が保存整備されており、同市釜笛地区の水屋群が文化庁により文化的景観重要地域に選定された。 その形態により以下の5つに類型化されている。 住居式水屋 住居としての基本的な機能を備えた水屋。生活ができるように便所なども備えている。倉庫としての機能は有さない。 倉庫式水屋 普段は倉庫として農具や食料を保存してある蔵として使用され、出水時に避難所として利用される。味噌倉として用いられていた例が多い。 土蔵式水屋 土壁で作られた土蔵を水屋として用いたもの。 倉庫住居式水屋 倉庫式水屋と住居式水屋の両方の機能を持つもの。最も一般的な形態。 土蔵住居式水屋 土蔵式水屋と住居式水屋の双方の機能を兼ねるもの。 堀田(ほりた)とは特に濃尾平野にある輪中地域に作られた溝渠農業を示す。まわりの土を掘り上げて盛ってできた水田面とその掘られてできたクリーク、沼で成り立ち前者は堀上げ田、後者を堀潰れと呼ばれる。濃尾平野の地形上、定期的にどべあげ(じょれんで堀潰れの泥をかき上げる作業)が必要でかき上げられた泥は肥料として用いられた。また耕作には備中鍬、くれんこ、除草には田すりごまが用いられた。 堀田は形態や構造の違いにより、以下の3つに類型化されている。 河間(がま)吹型堀田 水田中に湧く湧水を排除するために設けられた細長い溝渠で、それらの堀潰れは不規則なものが多い。水深は湿地状の場所から2mを越えるところまである。水温を15℃程度に保ち緩やかに水が流れることがほとんど。堀田の中でも存在していた地域が少ないタイプである。冬季の淡水魚の避難所として利用されていると考えられる水域もある。 孤立型堀田 堀潰れが短冊状に並び、水路とは直結せずに孤立している。通常水深は浅く、時には湿地になったり干上ったりもする。梅雨時などには排水路や堀上げ田と繋がる。これは、小規模の溜池やわんどなどの環境に近いものと考えられる。 田舟型堀田 水はけが最も悪い場所に存在した堀田で規模も大きく堀上げ田と堀潰れの比が6対4、あるいはそれを上回るところもあった。堀潰れは櫛の歯状や梯子状で、水深は平均的に見て1~1.5mと深い。ほとんどは悪水路と直結する。流れはほとんどなく止水である。田舟でしか水田へ行けないところが多い。 また、裏作として米以外の農作物を育てる目的で作られた堀田は根腐れを防ぐために土盛りを通常の堀田より高くした。このような田をくね田と呼んだ。 堀田は昭和29年(1954年)から昭和45年(1970年)にかけて行われた土地改良事業により消滅した。一例として国土地理院地図・空中写真閲覧サービスによる、現在の岐阜県海津市海津町深浜付近の航空写真を示す。 1961年(昭和36年) 註:画像左側が北方向。 1975年(昭和50年) 農家が堀田を造ることは無くなったが、海津市歴史民俗資料館の敷地内に復元された堀田で稲が栽培されている様子を見ることが出来る。また埋め立て用土砂の運搬に用いられた加藤製作所製のディーゼル機関車も展示されている。 輪中は集落の低位部に堤防が存在するため、その外側に自然に排水が流れ出ることがなかった。流れ出ずに溜まった排水は悪水と呼ばれ、その排水の為に堤防に排水のための悪水吐圦樋を設けた。圦樋は増水時には閉じられたが、水圧が大きい場合には破壊されてそこから水が流入してくる場合があった。 河川の水位が土砂の堆積により上がると圦樋での排水が困難となる場合があった。その際は圦樋の位置を従来より低位部に移した。これを江下げと言った。さらに河川水位が上がり天井川となると輪中の外周の河川へ排水ができなくなった。そのような場合には河床の下を通りサイフォンの原理で河川下流部へ排水する伏越樋が造られた。伏越樋は木製で経年劣化したので一定の期間を経ると伏せ替えが行われた。海抜ゼロメートル地帯に属する輪中では伏越による排水も出来ないため、干潮時は外側に開き満潮時に閉じる仕組みの門樋が作られた。海津市歴史民俗資料館には明治期に用いられた金廻四間門樋が復元展示されている。悪水吐による排水は近代化が進むにつれ工業排水が増える等の理由もあり、ポンプによる機械排水に取って代わられ、廃れた。 また、破堤等により輪中内に大量に水が滞留し、悪水吐では能力が不足して排水ができない場合は非常手段として低位部堤防を意図的に切り割りして破堤させる乙澪(おとみよ、乙澪切り)が行われる場合があった。明治29年の豪雨により大垣輪中内に滞留した水を揖斐川へ排水するために金森吉四郎により横曽根権現下堤を切り割りした例が最も著名であるが、江戸期からこの方法は採られていた。 内水の問題は輪中内部でも利害が異なり、上流側で高位部の上郷と下流側で低位部の下郷で対立を惹起させた。上郷の集落では井戸を掘って水を得ていたが、得られた水は最終的には排水となって下流部へ流れ込んだ。しかも輪中地域は西は養老町から東は羽島市まで、北は瑞穂市から南は海津市までが自噴帯であり井戸を掘ると止め処なく水が出た。よって上郷が多くの井戸を掘ればその分下郷は排水により害を蒙るため、上郷が掘る井戸の数を制限するため株井戸という制度が設けられた。上郷は井戸の数に応じて下郷に対して保障を行った。他にも下郷は上流部からの悪水が流れ込まないように上郷との境界に小さな堤防を作る場合があった。これは除(よげ)、除桁(よげた)、横堤、横土手、中提などと呼ばれた。上郷からは排水の妨げになるものであったため、対立の原因となった。 輪中では堤防が切れることは死活問題であったため、各輪中では水防組が作られ、水害に備えて準備を怠らなかった。この水防組は明治以降も水害予防組合として存続している。 一般に輪中地域では生死を共にする輪中内での結束力は強かったが、他の輪中とは険悪な仲であった。他の輪中が自分たちの輪中より高くなることは自分たちが水害に遭うことに等しかったからである。自分たちの輪中を水害から守るため隣の輪中堤防を破壊することもあったといわれているが、このような行為は現在で言うところの現住建造物等浸害罪などにあたり当時も厳しく罰せられた。 このような水害から自分の住む輪中を守るためにその中での結束が固くなるが他の輪中の人に対しては冷ややか、という排他性から輪中根性という言葉が生まれた。岐阜県民の県民性を表すときによく使われるが、保守的で猜疑心の強い排他的な自己本位の田舎者といった意味であることが多い。 同一輪中でも上流域と下流域の仲は悪かった。上流で掘った井戸の水が下流部に溜まって悪水と化すからである。その為、同じ輪中でも上流部と下流部のあいだに堤防が築かれたこともあった。 また輪中地域は水害に悩まされた反面、渇水にも悩まされた。これは水害を防ぐため田畑はやや高いところに存在していたためである。そのため、これらの地域では雨乞い踊りなどが伝わっている。 秋田県 - 大仙市 新潟県 - 新潟市 埼玉県 - 加須市北川辺地域 三重県 - 桑名市多度町・桑名市長島町、桑名郡木曽岬町のそれぞれ一部 岐阜県 - 海津市、瑞穂市、大垣市、羽島市、岐阜市、各務原市、安八郡安八町、輪之内町、羽島郡笠松町、岐南町のそれぞれ一部 愛知県 - 愛西市、弥富市、海部郡飛島村、稲沢市祖父江町のそれぞれ一部 和歌山県 - 和歌山市 大分県 - 大分市高田地区 秋田県 - 強首地区輪中堤 新潟県 - 亀田郷、白根郷 埼玉県 - 北川辺 三重県 - 長島輪中 岐阜県 - 高須輪中、大垣輪中、桑原輪中、福束輪中、多芸輪中、墨俣輪中、松枝輪中 愛知県 - 立田輪中 和歌山県 - 小豆島 大分県 - 高田輪中 ^ 輪中(ワジュウ)とは - コトバンク ^ 榎原雅治著「中世の東海道をゆく」(中公新書 2008年4月25日)P.74~76「輪中の誕生」より。但し同書には天孫降臨神話とあるが、天孫降臨に舟は登場しないので、出雲の国譲りの神話に登場する天鳥船か、先代旧事本紀の饒速日命の河内への降臨の神話で乗ったという天磐船の事かと思われる。 ^ 「中世の東海道をゆく」P.75 ^ 輪中 その構造と展開 ^ 輪中と治水 ^ “低地の人々のくらし:切り割り3”. 岐阜大学教育学部附属カリキュラム開発研究センター (2010年2月17日). 2011年2月15日閲覧。 ^ “防災基礎講座:災害事例編 輪中が典型発達した乱流河川の低湿平野における洪水 − 1976年台風17号による長良川の破堤氾濫など”. 防災科学技術研究所 自然災害情報室 (2011年6月22日). 2013年7月12日閲覧。 ^ 岐阜県海津市の木曽三川公園センター内輪中の農家にて ^ “水塚・揚舟”. 群馬県板倉町. 2018年7月17日閲覧。 ^ 『「川」が語る東京 人と川の環境史』 東京の川研究会、山川出版社、2001年、42頁。ISBN 4-634-60820-0。 ^ 宮代町教育委員会 「第三編「近世」第四章「御成道と宮代の道」第二節「近世宮代の橋と舟運」「川船と舟運」」『宮代町史 通史編』 埼玉県宮代町、2002年。 ^ 妻沼町誌編纂委員会 「葛和田渡船場と舟問屋」『宮代町史 通史編』 埼玉県妻沼町役場、1977年、162頁。 ^ 洪水と人間 その相克の歴史 伊藤安男 古今書院 ^ a b “事後評価 重点事業 雄物川上流直轄河川改修事業(強首地区) (PDF)”. 国土交通省東北地方整備局事業評価監視委員会 (2007年12月10日). 2018年7月26日閲覧。 ^ a b 新潟農林振興部農村振興担当管内の概要 新潟県 ^ a b 水の郷百選 埼玉県北川辺町 国土交通省土地・水資源局水資源部 ^ a b みんなでつくる大野川 大野川のあらまし-歴史(2) 国土交通省九州地方整備局大分河川国道事務所 ^ a b おおいた景観モデル賞 52.高田輪中のまちなみ (PDF) 大分市 ^ a b 高田輪中 大分市ロケーションオフィス ^ 日本の郷文化 宝暦治水事件 明和治水 木曽三川分流工事(明治治水) 長島一向一揆 木曽三川公園センター 岐阜大学 輪中の歴史(郷土を開く)(日本語)", "大榑川(おおぐれがわ)は、岐阜県安八郡輪之内町と海津市、養老郡養老町を流れる木曽川水系の河川。長良川から分流し、揖斐川に注ぐ一級河川である。 岐阜県安八郡輪之内町と海津市境付近の長良川が水源。輪之内町と海津市の境をなしており、海津市平田町今尾(旧海津郡平田町)付近で揖斐川の旧河道と合流し、海津市と養老郡養老町の境で揖斐川に注ぐ。川の北側は福束輪中、南側は高須輪中である。堤の上には全長約7kmわたって桜が植えられ、春には花見客で賑わう。海津市平田町岡付近より上流は準用河川、下流は一級河川に指定されている。 長良川の洪水に悩まされた高須輪中の住民が1620年(元和5年)に勝賀(海津市平田町)から今尾(海津市平田町)まで新川を掘った。これが大榑川である。 大榑川が完成すると長良川の水の多くが大榑川に流れるようになり、今度は揖斐川流域の洪水の危険性が増した。揖斐川流域の住民が願い出て、1751年(寛延4年)に長良川との分流点に食違洗堰を築いたが、効果があまりなかった。さらに薩摩藩が行った宝暦治水で、難工事の末、1755年(宝暦5年)大榑川洗堰が完成したが、これも大きな効果をあげられなかった。 大榑川は1899年(明治32年)オランダ人技師のヨハニス・デ・レーケ監修の明治改修工事で長良川と完全に締め切られた。 宝暦治水事件 『大榑川総合内水対策計画』 2011年11月4日 大榑川総合内水対策協議会・輪之内町・岐阜県・国土交通省中部地方整備局木曽川上流河川事務所", "天王川(てんのうがわ)は、岐阜県本巣市と本巣郡北方町、岐阜市、瑞穂市、大垣市を流れる木曽川水系の河川。長良川支流の犀川に合流する一級河川である。 岐阜県本巣市南部の席田(むしろだ)付近(旧本巣郡糸貫町)が水源。本巣郡北方町内を南に流れ、岐阜市西河渡付近で旧中山道を越える。瑞穂市生津天王東町付近で東に流れを変え(一部はそのまま南下)、長良川天王川排水樋門を経て長良川に合流する。分流した流れは糸貫川をサイフォンで潜り抜け、長良川沿いに南に流れる。途中、東海道本線、国道21号などを過ぎ、中川等を合流し、大垣市墨俣(旧安八郡墨俣町)地内で犀川と合流する。1973年(昭和48年)、瑞穂市生津天王東町に糸貫川・天王川排水機場が整備されて以降、一部の水は、糸貫川と合流し、長良川に直接注いでいる。 ^ 1891年(明治24年)の地形図では既に糸貫川をサイフォンで潜り抜けている。 ^ 1951年(昭和26年)の長良川の堤防整備により、犀川流域に切り落とされた。それまでは瑞穂市穂積付近で直接長良川に注いでいた。 岐阜県 本巣市、本巣郡北方町、岐阜市、瑞穂市、大垣市 犀川圏域河川整備計画", "鉄砲川(てっぽうがわ)は、かつて岐阜県羽島郡川島村(現・各務原市川島)にあった、木曽川の支流である。現在は正式な河川では無い。洪水の鉄砲水により出来た川ということから、鉄砲川と名づけられたと言われている。 1857年(安政4年):洪水により、美濃国羽栗郡松倉村(現各務原市川島松倉町)と小網島村(現各務原市川島小網町)、河田島村(現各務原市川島河田町)の間に、幅約100mの川ができる。1896年(明治29年)の洪水で川幅が広くなる。 1923年(大正12年):河川改修工事により、廃川となる。川の一部は池として残る。大きな池は上流より、雁場池、柞下池(ほうすもといけ)、三ツ屋池である(雁場、三ツ屋は1960年代までの旧地名。現在も古くからの住人は使用している)。 1971年(昭和46年):エーザイ川島工園からの浄化した水を、旧鉄砲川の跡に放流する事になり、再び鉄砲川が復活する。 明治時代以前に築かれたという堤防があったが、廃川後に撤去または道路化(道路は周辺より高く、堤防の痕跡はある)された。2017年現在、河跡湖公園の一部(岐阜県道180号松原芋島線から木曽川堤防の間付近)には、ほぼ当時のままの堤防が残っている。また、洪水を鎮めるための祠(川除大神社、水神社など)が数箇所存在する。 廃川時に池として残った雁場池は昭和60年頃、土地所有者により埋め立てられた。残る柞下池と三ツ屋池の周りは自然が残され、河跡湖として保護されており、説明板が柞下池にある。柞下池は、古くは“雁場うら”、現在の子供達は近くの喫茶店の名から“あかし池”と呼んでいる。三ツ屋池は、その風景をいかして、映画『39 刑法第三十九条』(1999年公開、森田芳光監督、主演鈴木京香)のロケに使用された。 昭和50年代~60年代は、家庭からの生活排水によりかなり汚れてしまったが、下水道の普及で汚れは減少しつつある。 各務原市の水と緑の回廊計画の一つとして、鉄砲川に残された自然を利用して一帯を公園化され、2009年(平成21年)3月14日、河跡湖公園として開園した。 三派川 - 鉄砲川周辺の河川改修により集約された木曽川と改修の歴史。", "逆川(ぎゃくがわ)は羽島市内を流れて長良川に注ぐ木曽川水系の一級河川。 1586年に木曽川の流路を変えた大洪水の際に誕生したとされ、かつては羽島市下中町加賀野井で木曽川から分派し、羽島市を横切りながら北上して長良川に注いでいた。木曽川及び長良川は市内を北から南へ流れていたため、この名がある。竹鼻城が存在していたころは逆川の水を堀へ引き込んでいた。 江戸時代となり輪中が発達すると桑原輪中と足近輪中及び正木輪中を分ける境界となる。また水運に用いられ舟が行き交っていた。1754年の宝暦治水の際に洗堰が作られて木曽川から切り離される。 現在は竹鼻町で羽島用水、小熊町で松枝排水路及び足近排水路と合流して逆川排水機場により長良川へ注いでいる。羽島市中部の農業排水や生活排水が流れ込んでいるため、生物化学的酸素要求量は高い。" ]
ABC01-02-0131
フロンティア電子論で世界的に注目され、1981年に日本人で初めてノーベル化学賞を受賞した京都大学名誉教授は誰でしょう?
福井謙一
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[ "福井謙一", "熊田誠", "金森順次郎", "真島利行", "国武豊喜" ]
[ "福井 謙一(ふくい けんいち、1918年10月4日 - 1998年1月9日)は、日本の化学者。京都大学・京都工芸繊維大学名誉教授。日本学士院会員、ローマ教皇庁科学アカデミー会員、全米科学アカデミー外国人客員会員。工学博士。奈良県奈良市出生(大和郡山市出生の説もある)。大阪市西成区出身。 アジアで初のノーベル化学賞 (1981) を受賞した。勲等は勲一等旭日大綬章、文化勲章受章。 1930年3月 大阪市玉出第二尋常小学校卒業 1935年3月 旧制今宮中学校卒業 1938年3月 旧制大阪高等学校卒業 1941年3月 京都帝国大学工学部工業化学科卒業、同大学院入学。同時に短期将校として燃料研究所へ入所。 1943年8月 京都帝国大学工学部燃料化学科講師(1966年 石油化学科に改組) 1945年9月 京都帝国大学工学部燃料化学科助教授 1948年6月 工学博士(「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」) 1951年4月 京都大学工学部燃料化学科教授(高温化学講座) 1965年1月 京都大学工学部燃料化学科教授(高圧化学講座 1966年より炭化水素物理化学講座に改称) 1970年11月 京都大学評議員(1971年4月まで) 1971年4月 京都大学工学部長(1973年3月まで) 1982年4月 京都大学退官 京都大学名誉教授 1982年6月 京都工芸繊維大学学長(1988年5月まで) 1988年6月 京都工芸繊維大学名誉教授、財団法人基礎化学研究所所長 1990年2月 学術審議会会長 1995年9月 日本学術振興会会長 1998年1月 逝去 満79歳没 1952年、フロンティア軌道理論 (frontier orbital theory) を発表。これはフロンティア軌道と呼ばれる軌道の密度や位相によって分子の反応性が支配されていることを初めて明らかにしたもので、世界の化学界に衝撃を与えた。この業績により、1981年にノーベル化学賞を受賞。また固有反応座標 (Intrinsic Reaction Coordinate) の概念をより厳密に提唱した(ヘンリー・アイリングの「絶対反応速度論」に同様の概念が記載されている)。 門下に米澤貞次郎(京大名誉教授)、永田親義(元国立がんセンター生物物理部長)、山邊時雄(京大名誉教授)、諸熊奎治(分子研名誉教授、エモリー大教授)、藤本博(京大名誉教授)、平尾公彦(東大名誉教授)、加藤重樹(京大)など多くの著名な化学者、また産業界では伊藤俊明(元三菱重工業株式会社常務取締役、現三菱重工業株式会社特別顧問)がいる。 妻の友栄は1925年生まれで、裕福な家庭に育ち、帝国女子理学専門学校(現・東邦大学)で物理化学を専攻し、京大で聴講生をしていた。星薬科大学教授の福井哲也は実子。娘は、梅原猛の長男・梅原賢一郎の妻。 1943年12月 正七位 1962年5月 日本学士院賞(「共役化合物の電子状態と化学反応に関する研究」) 1981年11月 文化功労者文化勲章 1981年12月 ノーベル化学賞 1988年11月 勲一等旭日大綬章 1989年6月 ロンドン王立協会外国人会員 1998年1月 従二位 工場経営、外国貿易を営む父亮吉の元、三人兄弟の長男として奈良県生駒郡(現奈良市押熊町)に生まれる。少年時代は大阪府西成郡玉出町(現大阪市西成区岸里)で過ごした。 中学時代にファーブル昆虫記をこよなく愛読していた。 数学が好きであったが、父の叔父に当たる喜多源逸京大教授の「数学が好きなら化学をやれ」という一言に触発され、京都大学工学部工業化学科に進学した。後に量子力学を会得し、フロンティア軌道理論を完成させることとなる。 24歳で京都大学の講師となるが、同時に国から陸軍技術大尉にも任命され、別格官幣大社と呼ばれていた。戦時下にありながら、東京京都間の往復など、自由な生活が許されていた。 陸軍燃料研究所のアルコール蒸気に満ちた実験室で実験を繰り返していたため、酒にめっぽう強くなった。 1960年代初頭には既に黎明期の核磁気共鳴分光法を研究に取り入れていた。 メモ魔であり、枕元に常にメモ帳と鉛筆を置いて寝ていた。また、早朝の散歩にも手帳を持ち歩いていた。 ダイレクトメールなどの印刷物は不要でもすぐには捨てず、裏が白いものはB6ほどの大きさに揃えた後、メモ用紙として再利用した。これは紙が貴重だった戦前からの習慣であった。 毎朝の散歩を欠かさなかった。北白川疏水から瓜生山西麓の小道を経て、赤山禅院へと至る道を好んで歩いた。 基礎学問重視、独創的研究の必要性、科学と人間の平和的共存を訴えた。 「メモしないでも覚えているような思いつきは大したものではない。メモしないと忘れてしまうような着想こそが貴重なのです。」 「時間と空間を媒介して、宇宙空間の全ては因果関係でつながっている。」 「ひとりの人間は、無限の過去、無限の未来とつながっている。」 「科学者を目指す若者に中等教育で最も励んで欲しいのは数学、特に平面幾何学である。」 「企業は自分のことだけ考えておればいいという時代は終わった。世界全体、人類全体のことを考える。これが高度という意味なんですよ。」 『ブチレンの異性化速度に關する一考察』 日本化學會誌 Vol.65 (1944) No.3 P.240-244, doi:10.1246/nikkashi1921.65.240 『不飽和炭化水素の反応性に関する量子力学的解釈の進歩』 化学の領域 6(7), 379-385, 1952-07, NAID 40017571347 『触媒反応装置』 化学工学 Vol.19 (1955) No.10 P.515-526, doi:10.1252/kakoronbunshu1953.19.515 『化学工業の新しい展開に向けて-1-分子設計と反応設計』 Chemistry 35(9), p683-687, 1980-09, NAID 40000389073 『不飽和炭化水素の反応性に関する量子力学的解釈の進歩』 化学総説 (38), p109-116, 1983, NAID 40000416792 福井信次郎、福井謙一、竹内成一、『反應爐設計の一指針』 化学研究所講演集 15, 38-39, 1946-11-30, NAID 120001254784 兒玉信次郎、福井謙一、川崎明裕、『外部冷却式反應塔の温度分布に関する研究』 Chemical engineering 12(2), 72-76, 1948, NAID 130003760890, doi:10.1252/kakoronbunshu1937.12.72 兒玉信次郎、福井謙一、多米 健、『触媒内置式反応塔と触媒外置式反応塔』 化学機械 14(6), 27-31, 1950-10, NAID 40017550884 兒玉信次郎、福井謙一、田中 秀男 [他]、『アンモニア合成反応における触媒層の最適温度分布について』 硫安技術 (11), 48-52, 1951-01, NAID 40018577415 兒玉信次郎、福島達、福井謙一、『加圧下に於けるアンモニアと二硫化炭素との反応に関する研究(第2報)ロダンアンモン生成反応に於ける理論的取扱いについて』 工業化学雑誌 Vol.56 (1953) No.6 P.396-397, doi:10.1246/nikkashi1898.56.396 『共重合理論の基礎』 高分子 Vol.4 (1955) No.8 P.359-363, doi:10.1295/kobunshi.4.359 北野省男、福井謙一、野津龍三郎、大坂太一郎、『モノフルオール酢酸の新誘導体』 工業化学雑誌 Vol.58 (1955) No.1 P54-57, doi:10.1246/nikkashi1898.58.54 永田親義、福井謙一、米沢貞次郎ほか、『アゾ化合物の電子状態および化学反応性と発癌作用』 癌 Vol.46 (1955) No.2-3 P.346-348 福井謙一ほか、『ホウフッ化スルホニウム化合物の合成』 Journal of the Chemical Society of Japan, Pure Chemistry Section 82(2), 1961-02, NAID 40018222351 福井謙一、服部秀三、米沢貞次郎、草鹿履一郎、北野尚男、『有機フッ素化合物の核磁気共鳴吸収に関する研究(第1報)二,三の芳香族フッ素化合物の化学シフトの定性的考察』 日本化學雜誌 Vol.80 (1959) No.5 P541-545, doi:10.1246/nikkashi1948.80.5_541 喜多晋一郎、福井謙一、『エチレンのラジカル重合における短鎖分岐生成のメカニズムについて 第3報 少量のα-オレフィン添加による短鎖分岐構造の変化』 高分子化學 Vol.24 (1967) No.269 P.599-605, doi:10.1295/koron1944.24.599 福井謙一ほか、『立体特異反応の量子化学』 Chemistry & chemical industry 21(2), 222-228, 1968-02, NAID 40017563265 藤本博、福井謙一、『フリーラジカル反応の理論的考察』 化学の領域 33(2), p71-80, 1979-02, NAID 40000429777 清水剛夫、福井謙一、『高分子イオン場の特徴とその応用』 日本化学繊維研究所講演集 (36), p101-114, 1979-10, NAID 40002839863 『量子化学』(1968年、朝倉書店) Theory of Orientation and Stereoselection(1975年、Springer-Verlag)、ISBN 0387074260 『化学反応と電子の軌道』(1976年、丸善)、ISBN 462102132X 『フロンティア軌道法入門』(1978年、講談社)、ISBN 4061392506 『科学と人間を語る』(1982年、共同通信社)、ISBN 4764101149 『化学と私』(1982年、化学同人)山邊時雄編、ISBN 4759800883 『学問の創造』(1984年、佼成出版社)、ISBN 4333011434 『教育への直言』(1985年、パンリサーチインスティテュート)、ISBN 4893520059 『学問の創造』(1987年、朝日文庫)、ISBN 4022604433 『21世紀日本の選択』(1994年、ダイヤモンド社)、ISBN 4478190186 『哲学の創造』(1996年、梅原猛との共著・PHP研究所)、ISBN 4569552056 『複雑系の経済学』(1997年、ダイヤモンド社)、ISBN 4478372160 Frontier Orbitals and Reaction Paths(1997年、World Scientific Publishing Company)、ISBN 9810222416 『福井謙一とフロンティア軌道理論』(1983年、日本化学会学会出版センター)、ISBN 4762263516 『福井謙一博士の死―大学回り記者哀歓記』(1999年、ミネルヴァ書房)、ISBN 4623030512 『ノーベル賞の周辺―福井謙一博士と京都大学の自由な学風』(1999年、化学同人)、ISBN 4759808183 ^ 福井謙一博士略年譜 ^ 大和郡山ゆかりの人々 ^ 京都大学百年史編集委員会編、『京都大学百年史』資料編3、2001年、p.183。 ^ 京都大学百年史編集委員会編、『京都大学百年史』資料編3、2001年、p.162。 ^ 京都大学百年史編集委員会編、『京都大学百年史』資料編3、2001年、p.143。 ^ Fukui K, Yonezawa T and Shingu H. A molecular orbital theory of reactivity in aromatic hydrocarbons. Journal of Chemical Physics, April 1952, 20(4): 722-725. doi:10.1063/1.1700523. ^ Fukui K. Role of Frontier Orbitals in Chemical Reactions. Science, November 1982, 218(4574): 747–754. doi:10.1126/science.218.4574.747. ^ Fukui K, \"Formulation of the reaction coordinate\", J. Phys. Chem., 1970, 74 (23), pp 4161–4163. doi:10.1021/j100717a029. ^ 古川安「燃料化学から量子化学へ―福井謙一と京都学派のもう一つの展開―」化学史学会編集『化学史研究』第41巻第4号(2014/12)pp.181〜233 ^ 福井友栄 『ひたすら』 講談社、2007年3月29日。ISBN 978-4062139021。 ^ “Fukui; Kenichi (1918 - 1998)” (英語). Past Fellows. The Royal Society. 2012年3月27日閲覧。 ^ 米沢貞次郎、岩前博子、福井謙一「ベンセンのハロゲン置換体のプロトンシフト」、『高分解能核磁気共鳴の化学への応用 第1回討論会 講演要旨集』1961年、 17頁。 『福井謙一先生について』、京都大学福井謙一記念研究センター 福井謙一 - NHK人物録", "熊田 誠(くまだ まこと、1920年1月17日 - 2007年6月28日)は日本の化学者。京都大学名誉教授。専門は有機ケイ素化学、有機金属化学、有機合成化学など。福井県小浜市出身。 有機金属化学、特に有機ケイ素化学、遷移金属触媒反応の分野において先駆的な研究をしこの分野の発展に指導的役割を果たした。また多くの門下生を輩出した。 1943年9月 京都帝国大学工学部工業化学科卒業 1943年10月 東京芝浦電気株式会社入社 1950年3月 大阪市立大学理工学部助手 1951年4月 大阪市立大学理工学部講師 1952年5月 大阪市立大学理工学部助教授 1956年6月 大阪市立大学理工学部教授 1962年7月 京都大学工学部合成化学科教授(有機金属化学講座) 1983年4月 京都大学定年退官 名誉教授 有機合成化学協会関西支部長 近畿化学協会有機金属部会長 ケイ素化学協会顧問 J. Organomet. Chem.誌 東洋地区責任編集者 第7回国際有機ケイ素化学会議組織委員長 日本化学会名誉会員 ケイ素化学協会名誉会員 専門は有機ケイ素化学、有機合成化学、有機金属化学を中心とする有機化学。 特に有機ケイ素化合物その他有機金属を用いる有機合成、 構造有機化学で先駆的研究成果を多数。現在、シリコーン接着剤や化粧品などの原材料として幅広く使われる有機ケイ素化合物の新しい合成法や物性の研究開発を行った。1994年優れた業績を挙げたとして、恩賜賞・日本学士院賞を受賞した。1972年には炭素同士の新しい結合生成反応「熊田・玉尾カップリング」を発見し、ニッケルやパラジウムなどを触媒としたクロスカップリング反応開発の基礎を築いた。 1967年 アメリカ化学会 F. S. Kipping 賞(日本人で初めて受賞)。 1974年 有機合成化学協会賞。 1993年 勲三等旭日中綬章。 1994年 恩賜賞・日本学士院賞(櫻井英樹東北大学名誉教授との共同受賞)。 1996年 有機合成化学協会特別賞を受賞。 2007年 正四位。 講義の板書や講義資料を非常に几帳面な字で書く癖があった。 小田良平京都大学名誉教授の門下生である。 ノーベル賞選考委員のヤン・ベックバル(ストックホルム大学教授)は、2010年ノーベル化学賞発表後のインタビューで、「(熊田教授が生きていたら、クロスカップリング開発の功績で)受賞はあり得た」と述べている。 石川満夫(広島大学 名誉教授) 山本經二(東京工業大学 名誉教授) 玉尾皓平(理化学研究所(京都大学名誉教授)) 細見彰(大学評価・学位授与機構)(筑波大学 名誉教授) 吉良満夫(東北大学 名誉教授) 林民生(京都大学院・理) 吉田潤一(京都大学院・工) 穐田宗隆(東京工業大学資源研)", "金森 順次郎(かなもり じゅんじろう、1930年(昭和5年)3月7日 - 2012年(平成24年)11月13日)は、日本の物理学者、理学博士。第13代大阪大学総長、前財団法人国際高等研究所所長、大阪大学名誉教授、財団法人国際高等研究所上級研究員、財団法人山田科学振興財団理事長を務めた。 大阪市出身。近畿日本鉄道(近鉄)の実質的な創業者の一族に生まれたが、順次郎は嫡流でなかったこともあり、学界へと進んだ。 祖父:金森又一郎(近鉄の前身である大阪電気軌道・参宮急行電鉄元社長で、実質的な近鉄創業者の一人) 父:金森乾次(元近鉄会長、又一郎の二男) 実兄:金森茂一郎(元近鉄社長・会長、大阪近鉄バファローズの元オーナー。球団解散直前に死去) 1948年03月 - 大阪府立天王寺高等学校卒業 1953年03月 - 大阪大学理学部物理学科卒業 1957年03月 - 大阪大学 理学博士「一酸化鉄及び一酸化コバルトの磁性の理論」 1958年06月 - 大阪大学理学部講師 1958年08月 - シカゴ大学金属研究所研究員(1960年(昭和35年)7月まで) 1964年(昭和39年)01月 - パリ大学客員教授(1964年(昭和39年)11月まで) 1965年(昭和40年)05月 - 大阪大学理学部教授 1971年(昭和46年)01月 - カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授 1972年(昭和47年)04月 - 大阪大学学生部長(1973年(昭和48年)3月まで) 1981年(昭和56年)04月 - 大阪大学理学部長(1985年(昭和60年)3月まで) 1989年(平成元年)04月 - 大阪大学理学部長(1991年(平成3年)8月まで) 1991年(平成3年)08月 - 大阪大学総長(1997年(平成9年)8月まで) 1997年(平成9年)09月 - 総長の任期満了により大阪大学を退官、名誉教授の称号を受ける 1997年(平成9年)10月 - 国際高等研究所フェロー(1997年(平成9年)12月まで) 1998年(平成10年)04月 - 国際高等研究所特別委員 2001年(平成13年)04月 - 国際高等研究所所長(2009年(平成21年)3月まで) 2012年(平成24年)11月13日 - 大阪府吹田市の病院にて肝門部胆管がんの為逝去。82歳没。 財団法人労働安全衛生研修所顧問 財団法人関西エネルギー・リサイクル科学研究振興財団理事 財団法人千里国際情報事業財団顧問 財団法人山田科学振興財団理事長 財団法人仁科記念財団評議員 財団法人懐徳堂記念会理事 財団法人湯川記念財団理事 2004年 - 瑞宝大綬章 2012年 - 従三位 1996年 - 日本学士院賞 1999年 - 藤原賞 超交換相互作用 ^ 金森順次郎氏死去(元大阪大学長) 時事通信 2012年11月19日閲覧", "真島 利行(まじま としゆき、または故実読みで りこう、1874年(明治7年)11月13日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、日本の有機化学者。大阪帝国大学総長などを歴任。 京都市生まれ。京都府中学を経て上京。共立学校など数校の進学予備校に学び第一高等中学校入学。のち、東京帝国大学理科大学卒業後、同大助手、1903年に助教授。1907年からドイツ、イギリスに留学し、後にノーベル化学賞を受賞したリヒャルト・ヴィルシュテッターらの下で研究を行う。 帰国後、1911年に東北帝国大学理科大学教授に就き、1917年には漆の主成分ウルシオールの構造決定および合成に成功した。同1917年に理化学研究所主任研究員を兼任。1926年に東北帝国大学理学部長となる。さらに1929年からは東京工業大学教授、1930年からは北海道帝国大学教授、1932年からは大阪帝国大学理学部教授・学部長を兼任。続く1933年からは大阪帝国大学の専任となる。1934年6月1日、東北帝国大学名誉教授の称号を授けられた。1943年から大阪帝大総長に就任。1949年には文化勲章受章。 日本人女性として初めて化学者となった黒田チカも東北帝国大学理科大学時代に利行の指導を受けた。 ^ 『官報』第2224号、昭和9年6月2日。 東北大学史料館 - 「真島利行文書」(1910 - 1950年代の日記、絵葉書など)が保存・公開されている。", "國武 豊喜(くにたけ とよき、1936年(昭和11年)2月26日 - )は日本の化学者、教育者、会社役員。理研ベンチャーである株式会社ナノメンブレン取締役および北九州産業学術推進機構の理事長。北九州市立大学元副学長。姓の「國」は旧字体のため、新字体で国武 豊喜(くにたけ とよき)とも表記される。 福岡県久留米市に生まれ、久留米大学附設高等学校卒業後、九州大学工学部応用化学科に入学。大学4年時に秋吉三郎教授、麻生忠二助教授の高分子化学講座へと配属される。修士課程修了後、秋吉教授の「アメリカの大学院を範とする基礎研究重視の大学院教育システムの確立」のため、ペンシルベニア大学の博士課程へと進学する (Ph.D. Adviser, Charles. C. Price)。約2年半で博士学位を取得し、カリフォルニア工科大学のCarl G. Niemann Groupで博士研究員として研究を行う。その後、助教授として九州大学へと戻り(麻生教授グループ)、麻生教授の退官後ほどなくして教授となる。 九州大学学部・大学院修士課程およびペンシルベニア大学大学院においては、高分子合成化学に関する研究を行う。博士研究員時代に加水分解酵素に関する研究を行い、助教授就任後の初期には環化重合と酵素モデルに関する研究に携わる。世界で初めて人工での脂質二分子膜形成を達成した。九州大学教授を退官後も精力的に研究を行っており、現在では分子組織化学をさらに発展させることによって、数10 nmの膜厚を有し、なおかつ十分な強度を有する無機-有機ハイブリッドナノ薄膜の合成に成功している。取締役を務めるナノメンブレン社は、このナノ薄膜をコア技術・製品としている。 1999年に九州大学教授を退官、北九州市立大学の教授および理化学研究所のディレクターとなる。 門弟に新海征治、岡畑恵雄、君塚信夫、米澤徹など。 本名は「國武豊喜」であり、文化勲章受章時の名簿でもそのように記載されているが、一方で「國」を「国」と表記されることもある。 1958年 3月 九州大学工学部応用化学科卒業 1960年 3月 九州大学大学院修士課程修了 1962年 8月 ペンシルベニア大学大学院博士課程修了 1962年 9月 カリフォルニア工科大学博士研究員 1963年 2月 九州大学工学部助教授 1974年 2月 九州大学工学部教授 1999年 4月 北九州市立大学教授 2007年 9月 株式会社ナノメンブレン取締役に就任 2008年 3月 北九州市立大学教授 退職 2001年 - 日本学士院賞 2007年 - 産学官連携功労者表彰文部科学大臣賞 2011年 - 瑞宝重光章 2014年 - 文化勲章 2015年 - 京都賞先端技術部門 高分子学会賞 日本化学会賞 向井賞 高分子科学功績賞 紫綬褒章 文化功労者 ^ T. Kunitake and Y. Okahata , \"A totally synthetic bilayer membrane\", J. Am. Chem. Soc., Volume 99, pp. 3860–3861 (1977). ^ 『國武豊喜名誉教授が高等研究院の特別主幹教授に就任 | トピックス | 九州大学(KYUSHU UNIVERSITY)』2016年2月5日。 ^ 『平成26年度 文化勲章受章者:文部科学省』2014年11月。 ^ 文化勲章にノーベル賞の天野さん・中村さんら7人 朝日新聞デジタル 2014年10月24日 ^ “國武豊喜氏ら3氏に京都賞”. サイエンスポータル. 科学技術振興機構 (2015年6月22日). 2015年7月15日閲覧。[リンク切れ] Colloids Surfaces A, vol. 169, pp. 1–3 (2000). doi:10.1016/S0927-7757(00)00466-0 ナノネットインタビュー 「極薄の膜で人類の課題を解決する (PDF) 」 RIKEN NEWS(理化学研究所)2007年1月号インタビュー 国武化学組織プロジェクト - ERATO ICORP超分子プロジェクト 九州大学大学院工学研究院 応用化学部門分子教室 株式会社ナノメンブレン 北九州産業学術推進機構" ]
ABC01-02-0132
春、菜の花が咲く頃に降る長雨を特に「何梅雨」というでしょう?
梅雨
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[ "梅雨", "季節現象", "南岸低気圧", "オホーツク海高気圧", "揚子江気団" ]
[ "梅雨(つゆ、ばいう)は、北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、および台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて毎年めぐって来る曇りや雨の多い期間のこと。雨季の一種である。 気候学的な季節変化を世界と比較したとき、東アジアでは春夏秋冬に梅雨を加えた五季、また日本に限るとさらに秋雨を加えた六季の変化がはっきりと表れる。 東アジアでは、春や秋は、温帯低気圧と移動性高気圧が交互に通過して周期的に天気が変化する。一方、盛夏期には亜熱帯高気圧(太平洋高気圧)の影響下に入って高温多湿な気団に覆われる。そして、春から盛夏の間と、盛夏から秋の間には、中国大陸東部から日本の東方沖に前線が停滞することで雨季となる。この中で、春から盛夏の間の雨季が梅雨、盛夏から秋の間の雨季が秋雨である。なお、梅雨は東アジア全体で明瞭である一方、秋雨は中国大陸方面では弱く日本列島方面で明瞭である。また、盛夏から秋の間の雨季の雨の内訳として、台風による雨も無視できないほど影響力を持っている。 梅雨の時期が始まることを梅雨入りや入梅(にゅうばい)といい、社会通念上・気象学上は春の終わりであるとともに夏の始まり(初夏)とされる。なお、日本の雑節の1つに入梅(6月11日頃)があり、暦の上ではこの日を入梅とするが、これは水を必要とする田植えの時期の目安とされている。また、梅雨が終わることを梅雨明けや出梅(しゅつばい)といい、これをもって本格的な夏(盛夏)の到来とすることが多い。ほとんどの地域では、気象当局が梅雨入りや梅雨明けの発表を行っている。 梅雨の期間はふつう1か月から1か月半程度である。また、梅雨期の降水量は九州では500mm程度で年間の約4分の1・関東や東海では300mm程度で年間の約5分の1ある。西日本では秋雨より梅雨の方が雨量が多いが、東日本では逆に秋雨の方が多い(台風の寄与もある)。梅雨の時期や雨量は、年によって大きく変動する場合があり、例えば150mm程度しか雨が降らなかったり、梅雨明けが平年より2週間も遅れたりすることがある。そのような年は猛暑・少雨であったり冷夏・多雨であったりと、夏の天候が良くなく気象災害が起きやすい。 東アジアは中緯度に位置している。同緯度の中東などのように亜熱帯高気圧の影響下にあって乾燥した気候となってもおかしくないが、大陸東岸は夏季に海洋を覆う亜熱帯高気圧の辺縁部になるため雨が多い傾向にある。これは北アメリカ大陸東岸も同じだが、九州では年間降水量が約2,000mmとなるなど、熱帯収束帯の雨量にも劣らないほどの雨量がある。この豊富な雨量に対する梅雨や秋雨の寄与は大きい。梅雨が大きな雨量をもたらす要因として、インドから東南アジアへとつながる高温多湿なアジア・モンスーンの影響を受けている事が挙げられる。 時折、梅雨は「雨がしとしとと降る」「それほど雨足の強くない雨や曇天が続く」と解説されることがある。これは東日本では正しいが、西日本ではあまり正しくない。梅雨の雨の降り方にも地域差があるためである。特に西日本や華中(長江の中下流域付近)では、積乱雲が集まった雲クラスターと呼ばれる水平規模100km前後の雲群がしばしば発生して東に進み、激しい雨をもたらすという特徴がある。日本本土で梅雨期にあたる6-7月の雨量を見ると、日降水量100mm以上の大雨の日やその雨量は西や南に行くほど多くなるほか、九州や四国太平洋側では2カ月間の雨量の半分以上がたった4-5日間の日降水量50mm以上の日にまとまって降っている。梅雨期の総雨量自体も、日本本土では西や南に行くほど多くなる。 漢字表記「梅雨」の語源としては、この時期は梅の実が熟す頃であることからという説や、この時期は湿度が高くカビが生えやすいことから「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説、この時期は「毎」日のように雨が降るから「梅」という字が当てられたという説がある。普段の倍、雨が降るから「倍雨」というのはこじつけ(民間語源)である。このほかに「梅霖(ばいりん)」、旧暦で5月頃であることに由来する「五月雨(さみだれ)」、麦の実る頃であることに由来する「麦雨(ばくう)」などの別名がある。 なお、「五月雨」の語が転じて、梅雨時の雨のように、物事が長くだらだらと続くことを「五月雨式」と言うようになった。また梅雨の晴れ間のことを「五月晴れ(さつきばれ)」というが、この言葉は最近では「ごがつばれ」とも読んで新暦5月初旬のよく晴れた天候を指すことの方が多い。気象庁では5月の晴れのことを「さつき晴れ」と呼び、梅雨時の晴れ間のことを「梅雨の合間の晴れ」と呼ぶように取り決めている。五月雨の降る頃の夜の闇のことを「五月闇(さつきやみ)」という。 地方名には「ながし」(鹿児島県奄美群島)、「なーみっさ」(喜界島での別名)がある。沖縄では、梅雨が小満から芒種にかけての時期に当たるので「小満芒種(スーマンボースー、しょうまんぼうしゅ)」や「芒種雨(ボースーアミ、ぼうしゅあめ)」という別名がある。 中国では「梅雨(メイユー)」、台湾では「梅雨(メイユー)」や「芒種雨」、韓国では「장마(チャンマ)」という。中国では、古くは「梅雨」と同音の「霉雨」という字が当てられており、現在も用いられることがある。「霉」はカビのことであり、日本の「黴雨」と同じ意味である。中国では、梅が熟して黄色くなる時期の雨という意味の「黄梅雨(ファンメイユー)」もよく用いられる。 梅雨の時期には、以下の4つの気団が東アジアに存在する。       揚子江気団 中国北部・モンゴルから満州にかけての地域に存在。暖かく乾燥した大陸性の気団。移動性高気圧によって構成される。       オホーツク海気団 オホーツク海に存在。冷たく湿った海洋性の気団。       熱帯モンスーン気団 インドシナ半島・南シナ海から南西諸島近海にかけての地域に存在。暖かく非常に湿った海洋性の気団。インド洋の海洋性気団の影響を強く受けている。       小笠原気団 北太平洋西部に存在。高温・多湿で海洋性の気団。 春から夏に季節が移り変わる際、東アジアでは性質の違うこれらの気団がせめぎ合う。中国大陸方面と日本列島・朝鮮半島方面ではせめぎ合う気団が異なる。 中国大陸方面 : 北の■揚子江気団と南の■熱帯モンスーン気団が接近し、主に両者の湿度の差によって停滞前線が形成される。 日本列島・朝鮮半島方面 : 北の■オホーツク海気団と南の■小笠原気団が接近し、主に両者の温度の差により、停滞前線が形成される。 性質が似ていることや、距離が離れていて干渉が少ないことなどから、北側の気団同士・南側の気団同士の間には、前線は形成されない。 北と南の気団が衝突した部分には東西数千kmに渡って梅雨前線(ばいうぜんせん)ができ、数か月に渡って少しずつ北上していく。この前線付近では雨が降り続くが、長雨の期間は各地域で1か月–2か月にもなる。これが梅雨である。 冬の間、シベリアから中国大陸にかけての広範囲を冷たく乾燥したシベリア気団が覆っている。シベリア気団はしばしば南下して寒波をもたらし、日本の日本海側に大雪を降らせるが、チベット高原では高い山脈が邪魔して気団がそれ以上南下できない。そのチベット高原の南側、インド-フィリピンにかけての上空を亜熱帯ジェット気流が流れる。 冬が終わり春が近づくにつれ、シベリア気団は勢力が弱くなり、次第に北上していく。代わって中国大陸には暖かく乾燥した揚子江気団ができ始め、勢力を強めていく。春になると、揚子江気団は東の日本列島や朝鮮半島などに移動性高気圧を放出し、これが偏西風に乗って東に進み、高気圧の間にできた低気圧とともに春の移り変わりやすい天候を作り出している。 春が終わりに差し掛かるにつれて、南シナ海付近にある熱帯モンスーン気団が勢力を増し北上してくる。すると、揚子江気団と熱帯モンスーン気団が衝突し始める。地上天気図でみると、揚子江気団からできた高気圧と熱帯モンスーン気団からできた高気圧が南シナ海上でせめぎあい、その間に前線ができていることがわかる。これが最初の梅雨前線である。 例年、華南や南西諸島南方沖付近では5月上旬頃に、梅雨前線のでき始めである雲の帯(専門的には準定常的な雲帯と呼ぶことがある)が発生する。 5月上旬には南西諸島も梅雨前線の影響を受け始める。5月中旬ごろになると、梅雨前線ははっきりと天気図上に現れるようになり、華南や南西諸島付近に停滞する。 一方、初夏に入った5月ごろ、亜熱帯ジェット気流も北上し、チベット高原に差し掛かる。ただし、チベット高原は上空を流れる亜熱帯ジェット気流よりもさらに標高が高いため、亜熱帯ジェット気流はチベット高原を境に北と南の2つの流れに分かれてしまう。 分かれた亜熱帯ジェット気流のうち、北側の分流は、樺太付近で寒帯ジェット気流と合流する。さらにこの気流は、カムチャツカ半島付近で南側の分流と合流する。この合流の影響で上空の大気が滞ると、下降気流が発生して、その下層のオホーツク海上に高気圧ができる。この高気圧をオホーツク海高気圧といい、この高気圧の母体となる冷たく湿った気団をオホーツク海気団という。 同じごろ、太平洋中部の洋上でも高気圧が勢力を増し、範囲を西に広げてくる。この高気圧は北太平洋を帯状に覆う太平洋高気圧の西端で小笠原高気圧ともいい、この母体となる暖かく湿った気団を小笠原気団という。 5月下旬から6月上旬ごろになると、九州や四国が梅雨前線の影響下に入り始める。このころから、梅雨前線の東部ではオホーツク海気団と小笠原気団のせめぎあいの色が濃くなってくる。一方、華北や朝鮮半島、東日本では、高気圧と低気圧が交互にやってくる春のような天気が続く。 北上を続ける梅雨前線は、6月中旬に入ると、中国では南嶺山脈付近に停滞、日本では本州付近にまで勢力を広げてくる。 次に梅雨前線は中国の江淮(長江流域・淮河流域)に北上する。6月下旬には華南や南西諸島が梅雨前線の勢力圏から抜ける。7月に入ると東北地方も梅雨入りし、北海道を除く日本の本土地域が本格的な長雨に突入する。また同じころ、朝鮮半島南部も長雨の時期に入る。 7月半ばを過ぎると、亜熱帯ジェット気流がチベット高原よりも北を流れるようになり、合流してオホーツク海気団が弱まってくる。一方で、太平洋高気圧が日本の南海上を覆い続けて晴天が続くようになり、日本本土や朝鮮半島も南から順に梅雨明けしてくる。 こうして北上してきた梅雨前線は最終的に、北京などの華北・中国東北部に達する。例年、この頃には前線の勢力も弱まっており、曇天続きになることはあるが前線が居座り続けるようなことはほとんどない。また、8月中旬・下旬を境にしてこれ以降の長雨はいわゆる秋雨であり、前線の名前も秋雨前線に変わるが、前線の南北の空気を構成する気団は同じである。ただし、秋雨は中国大陸方面ではほとんど見られない。西日本でも秋雨はあるものの雨量はそれほど多くない。一方、東日本、および北日本(北海道除く)では梅雨期の雨量よりもむしろ秋雨期の雨量の方が多いという傾向がある(ただし、秋雨期の雨量には台風によるまとまった雨も含まれる)。 性質の違う2つの空気(気団という)がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、前線が発生する。梅雨前線を構成する気団はいずれも勢力が拮抗しているため、ほぼ同じ地域を南北にゆっくりと移動する停滞前線となる。 梅雨前線の南側を構成する2つの気団はともに海洋を本拠地とする気団(海洋性気団)のため、海洋から大量の水蒸気を吸収して湿潤な空気を持っている。ただ、北側の気団と南側の気団とではお互いの温度差が小さいため、通常はほとんどが乱層雲の弱い雨雲で構成される。そのため、しとしととあまり強くない雨を長時間降らせる。 しかし、上空の寒気や乾燥した空気が流入したり、地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入したりすると、前線の活動が活発化して、積乱雲をともなった強い雨雲となり、時に豪雨となる。 2つの高気圧がせめぎあい、勢力のバランスがほぼつり合っているとき、梅雨前線はほとんど動かない。しかし、2つの高気圧の勢力のバランスが崩れたときや、低気圧が近づいてきたり、前線付近に低気圧が発生したりしたときは一時的に温暖前線や寒冷前線となることもある。梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされる。 年によっては梅雨入りの発表がされないこともあり、東・西日本(特に四国地方・近畿地方・北陸地方)ではこのパターンが数年に一回の割合で起こる。これは、太平洋高気圧の勢力が強いために梅雨前線が北陸地方から北上して進みそのまま夏空に突入し、南の高気圧となって次第に南下していくパターンである(小暑を境にして、小暑以降はそのまま梅雨明けになる)。この場合でも、四国地方、近畿地方、北陸地方では高温や晴天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、近畿地方における(本当の)夏は北陸地方よりも長いとされている。 年によっては梅雨明けの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。東北地方(特に青森県・秋田県・岩手県の北東北)ではこのパターンが数年に一度の割合で起こる。これは、オホーツク高気圧の勢力が強いために梅雨前線が東北地方から北上できずにそのまま秋に突入し、秋雨前線となって次第に南下していくパターンである(立秋を境にして、立秋以降の長雨を秋雨とする)。この場合でも、北の北海道では低温や曇天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、東北地方における(本当の)夏は北海道よりも短いとされている。 梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つである。インドをはじめとした南アジアや東南アジアのモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因である。世界最多の年間降水量を有する地域(インドのチェラプンジ)を含むなど、この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれる。またこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアという。 アジア・モンスーンの影響範囲はさらに東にまで及んでおり、南シナ海を覆う熱帯モンスーン気団にも影響を与えている。具体的には、南西諸島や華南の梅雨の降雨の大部分が熱帯モンスーン気団によってもたらされるほか、太平洋高気圧の辺縁を時計回りに吹く気流が、この熱帯モンスーン気団の影響を受けた空気を日本・朝鮮半島付近まで運んできて雨を増強する。このような関連性を考えて、気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島・日本列島の大部分をモンスーン・アジアに含める。 また、梅雨前線付近の上空の大気をみると、冬の空気と春・秋の空気の境目となる寒帯前線、春・秋の空気と夏の空気の境目となる亜熱帯前線が接近して存在していて、梅雨は「季節の変わり目」の性質が強い。 各地域の極値 日本では各地の地方気象台・気象庁が、数個の都府県をまとめた地域ごとに毎年梅雨入り・梅雨明けの発表をする(北海道を除く)。まず、梅雨入り・梅雨明けしたと思われるその日(休日の場合は、以降最初の平日)に「速報値」として発表が行われ、その発表に従って「梅雨入りしたとみられる」・「梅雨明けしたとみられる」と報道される。その後、5月から8月の天候経過を総合的に検討し、毎年9月に最終的な梅雨の時期を「確定値」として発表する。その際、速報値での梅雨入り・梅雨明けの期日の修正が行われたり、最終的に「特定せず」という表現になることもある。一般に、南の地域ほど梅雨の到来は早く、沖縄は5月中旬から6月下旬、東北・北陸では6月下旬から7月下旬頃となるのが平均的である。 梅雨入りや梅雨明けの発表は通常、次のようにして行われる。各気象台は主に、1週間後までの中期予報とそれまでの天候の推移から、晴れが比較的多い初夏から曇りや雨の多い梅雨へと変わる「境目」を推定して、それを梅雨入りの日として発表している。端的には、管轄地域で曇りや雨が今後数日以上続くと推定されるときにその初日を梅雨入りとする。梅雨明けの場合は逆に晴れが数日以上つづくときである。中期予報の根拠になるのは、誤差が比較的少ないジェット気流などの上空の大気の流れ(亜熱帯ジェット気流と梅雨前線の位置関係は対応がよい)の予想などである。ただ、この中期予報自体が外れると、発表通りにいかず晴れたりする。梅雨入りや梅雨明けの発表は、確定したことを発表するのではなく、気象庁によれば「予報的な要素を含んでいる」ので、外れる場合もある。 ただし、梅雨前線が停滞したまま立秋を過ぎると、梅雨明けの発表はされない。立秋の時期はちょうど、例年梅雨前線がもっとも北に達するころであり、これ以降はどちらかといえば秋雨の時期に入る。しかし、この場合でも翌年には通常通り「梅雨入り」を迎えるが、「梅雨明けがないまま一年を越して重畳的にまた梅雨入りとなる」わけではない。つまり、梅雨明けがない場合は「はっきりと夏の天気が現れないまま梅雨から秋雨へと移行する」と考える。 梅雨期間の終了発表のことを俗に梅雨明け宣言という。基本的に、梅雨前線の北上に伴って南から北へ順番に梅雨明けを迎えるが、必ずしもそのようにならない場合もある。前線が一部地域に残存してしまうような場合には、より北の地方の方が先に梅雨明けになる場合もある。過去に、先に梅雨入りした中国地方より後に梅雨入りした北陸地方が先に梅雨明けしたり、関東地方の梅雨明けが西日本より大幅に遅れたりした例がある。 梅雨の末期は太平洋高気圧の勢力が強くなって等圧線の間隔が込むことで高気圧のへりを回る「辺縁流」が強化され、暖湿流が入りやすくなるため豪雨となりやすい。逆に梅雨明け後から8月上旬くらいまでは「梅雨明け十日」といって天候が安定することが多く、猛暑に見舞われることもある。 梅雨の期間はどの地方でも40日から50日前後と大差はないが、期間中の降水量は大きく異なる。本土では西や南に行くほど多くなり、東北よりも関東・東海・近畿、関東・東海・近畿よりも九州北部、九州北部よりも九州南部の方が多い。一方南西諸島では、石垣島や那覇よりも名瀬の方が期間降水量は多く、総合的に日本付近の梅雨期の雨量は九州南部が最も多い。 実際の気象としては北海道に梅雨前線がかかることはあるが、平均的な気象として、つまり気候学的には北海道に梅雨はないとされている。これは、梅雨前線が北海道に到達する梅雨末期は勢力が衰え、北上する速度が速くなっていて、降水が長く続かず前線がかかっても曇りとなるだけで雨が降らないようなことが多いためである。 北海道の中でも南西部太平洋側(渡島・胆振・日高)では本州の梅雨末期に大雨が降る事がある。また、北海道の広い範囲でこの時期は低温や日照不足が起こりやすいほか、釧路など東部で海霧の日数が多くなるのも、東日本の梅雨と同じくオホーツク海高気圧の影響を受けている。特に、5月下旬から6月上旬を中心として見られる一時的な低温は、北海道ではリラ(ライラック)の花が咲く時期であることから俗に「リラ冷え」とも呼ぶ。また、このようにぐずついた肌寒い天気が、年によっては2週間程度、本州の梅雨と同じ時期に続くことがあり、「蝦夷梅雨」(えぞつゆ)と呼ばれることがある。 小笠原諸島が春から夏への遷移期にあたる5月には、気団同士の中心が離れているため前線が形成されず、雨が長続きしない。そして初夏を迎える6月頃より太平洋高気圧の圏内に入ってその後ずっと覆われるため、こちらも梅雨がない。 中国中部・南部、台湾でも梅雨がみられる。中国大陸部では各都市の気象台が、台湾では中央気象局が梅雨入りと梅雨明けの発表をおこなっている。ある研究では、1971年-2000年の各都市の梅雨入り・梅雨明けの平均値で、長江下流域の梅雨入りは6月14日、梅雨明けは7月10日、淮河流域の梅雨入りは6月18日、梅雨明けは7月11日となっている。 目安として、台湾や華南では5月中旬ごろに梅雨前線による長雨が始まり6月下旬ごろに終わる。時間とともにだんだんと長雨の地域は北に移り、6月中旬ごろから7月上旬ごろに華東(長江中下流域)、6月下旬ごろから7月下旬ごろに華北の一部が長雨の時期となる。長雨はそれぞれ1か月ほど続く。 朝鮮半島では6月下旬ごろから7月下旬ごろに長雨の時期となり、1か月ほど続く。北にいくほど長雨ははっきりしないものになる。 梅雨入り前の5月-6月ごろ、梅雨に似た天候がみられることがあり、これを走り梅雨(はしりづゆ)、梅雨の走り(つゆのはしり)、あるいは迎え梅雨(むかえづゆ)と呼ぶ。 梅雨入り当初は比較的しとしととした雨が連続することが多い。梅雨の半ばには一旦天気が回復する期間が出現することがある。この期間のことを梅雨の中休み(つゆのなかやすみ)という。 梅雨の時期、特に、長雨の場合は、日照時間が短いため、気温の上下(最高気温と最低気温の差、日較差)が小さく、肌寒く感じることがある。この寒さや天候を梅雨寒(つゆざむ)または梅雨冷(つゆびえ)と呼ぶ。一方、梅雨期間中の晴れ間は梅雨晴れ(つゆばれ)または梅雨の晴れ間と呼ばれ、特に、気温が高く、湿度も高い。そのため、梅雨晴れの日は不快指数が高くなり過ごしにくく、熱中症が起こりやすい傾向にある。 梅雨末期には降雨量が多くなることが多く、ときとして集中豪雨になることがある。南および西ほどこの傾向が強く、特に、九州では十数年に1回程度の割合でこの時期に一年分の降水量がわずか一週間で降ることもある(熊本県・宮崎県・鹿児島県の九州山地山沿いが典型例)。逆に、関東や東北など東日本では梅雨の時期よりもむしろ秋雨の時期のほうが雨量が多い。 梅雨末期の雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼ぶ。また、梅雨の末期には雷をともなった雨が降ることが多く、これを送り梅雨(おくりづゆ)と呼ぶ。また、梅雨明けした後も、雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがある。これを帰り梅雨(かえりづゆ、返り梅雨とも書く)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼ぶ。これらの表現は近年ではあまり使われなくなってきている。 梅雨明けが遅れた年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にある。 梅雨は日本の季節の中でも高温と高湿が共に顕著な時期であり、カビや食中毒の原因となる細菌・ウイルスの繁殖が進みやすいことから、これらに注意が必要な季節とされている。 梅雨の期間中ほとんど雨が降らない場合がある。このような梅雨のことを空梅雨(からつゆ)という。空梅雨の場合、夏季に使用する水が確保できなくなり、渇水を引き起こすことが多く、特に青森、秋田、岩手の北東北地方においては空梅雨になる確率がかなり高く、また、秋季~冬季の降水量が少ない北部九州や瀬戸内地方などでは、空梅雨の後、台風などによるまとまった雨がない場合、渇水が1年以上続くこともある。 あまり強くない雨が長く続くような梅雨を陰性の梅雨、雨が降るときは短期間に大量に降り、降らないときはすっきりと晴れるような梅雨を陽性の梅雨と表現することもある。陰性の梅雨を女梅雨(おんなづゆ)、陽性の梅雨を男梅雨(おとこづゆ)とも呼ぶ。性差別的な表現であるが、俳句では季語として使われる場合がある。 傾向として、陰性の場合は、オホーツク海高気圧の勢力が強いことが多く、陽性の場合は、太平洋高気圧の勢力が強いことが多いが、偏西風の流路や、北極振動・南方振動(ENSO、エルニーニョ・ラニーニャ)なども関係している。 台風や熱帯低気圧は地上付近では周囲から空気を吸い上げる一方、上空数千m-1万mの対流圏上層では吸い上げた空気を湿らせて周囲に大量に放出している。そのため、梅雨前線の近くに台風や熱帯低気圧が接近または上陸すると、水蒸気をどんどん供給された梅雨前線が活発化して豪雨となる。また、梅雨前線が、勢力が弱まった台風や温帯低気圧とともに北上して一気に梅雨が明けることがある。 梅雨の時期の大雨や豪雨の事例をみていくと、気圧配置や気象状況にある程度のパターンがあるといわれている。日本海側で豪雨になりやすいのが日本海南部に停滞する梅雨前線付近を低気圧が東に進むパターンで、低気圧に向かって南西から湿った空気が流れ込み、その空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。 太平洋側で豪雨になりやすいのが、梅雨前線が長期的に停滞するパターンや、太平洋側付近に梅雨前線、西側に低気圧がそれぞれ停滞するパターンであり、南-南東から湿った空気が流れ込み、同じようにその空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。 このほか、梅雨前線沿いにクラウドクラスター(楕円形の雲群をつくる降水セルの一種。)と呼ばれる積乱雲の親雲が東進すると、豪雨となりやすいことが知られている。上空の大気が乾燥している中国大陸や東シナ海で形成され、日本方面へやってくることが多い。 統計的にみて、赤道付近の太平洋中部-東部にかけて海水温が上昇・西部で低下するエルニーニョ現象が発生したときは、日本各地で梅雨入り・梅雨明け共に遅くなる傾向にあり、降水量は平年並み、日照時間は多めとなる傾向にある。また、同じく中部-東部で海水温が低下・西部で上昇するラニーニャ現象が発生したときは、沖縄で梅雨入りが遅めになるのを除き、日本の一部で梅雨入り・梅雨明けともに早くなる傾向にあり、降水量は一部を除き多め、日照時間はやや少なめとなる傾向にある。 最大1時間降水量 153.0mm - 長崎県長浦岳 (1982年7月23日、日本の全観測点の観測史上2位) 129.5mm - 福岡県朝倉 (2017年7月5日) 129.0mm - 静岡県土肥 (2003年7月4日) 127.5mm - 長崎県長崎 (1982年7月23日) 127.0mm - 鹿児島県枕崎 (2000年6月25日) 最大年間降水量 8670.0mm - 宮崎県えびの (1993年、日本の全観測点の観測史上1位) - この年は、5月17日に梅雨入り、平年であれば7月中旬ないし下旬に梅雨明けとなるところ、8月に入っても梅雨が続いたどころか、盆を過ぎた8月31日になってもまだ梅雨が明けなかったため、梅雨明けは「特定せず」となり、梅雨期間中の5月に122mm、6月に2,242mm、7月に2,299mm、8月に1,717mmの雨が降った(梅雨入りから8月末までに平年の年間降水量を超える雨が降った。平年の年間降水量は4,582.2mm)。8月にも梅雨の時期が続いた年は観測史上極めてわずかである。 日本の気象庁が梅雨入り・梅雨明けの情報提供を始めたのは1955年ごろとされ、「お知らせ」として報道機関に連絡していた。気象情報として発表を始めたのは1986年になってからである。 梅雨の時期を発表することにより、長雨・豪雨という水害・土砂災害につながりやすい気象が頻発する時期としての「梅雨」を知らせることで防災意識を高める、多雨・高温多湿が長続きする「梅雨」の時期を知らせることで生活面・経済面での対策を容易にする、「梅雨」という一種の季節の開始・終了を知らせることで季節感を明確にする(春一番、木枯らし、初雪などの発表と同様の役割)といった効果が期待されている。 ツユクサ(梅雨草) ツユアオイ(梅雨葵) アジサイ - 梅雨の時期に咲く代表的な花。梅雨を表現する際に出てくることが多い。 雨(作詞:北原白秋、作曲:弘田龍太郎) 雨ふり(作詞:北原白秋、作曲:中山晋平) 雨ふりお月さん(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平) 雨降り熊の子 てるてる坊主(作詞:浅原六朗、作曲:中山晋平) かたつむり(唱歌) 五月雨(作詞・作曲・歌:大瀧詠一) 五月雨を 集めて早し 最上川(松尾芭蕉) 五月雨や 大河を前に 家二軒(与謝蕪村) おもに3月下旬から4月上旬にかけての、連続した降雨を「菜種梅雨」(なたねづゆ)という。菜の花が咲くころに降るためこの名前があり、花を催す雨という意味で「催花雨」(さいかう)とも呼ばれる。梅雨のように何日も降り続いたり、集中豪雨をみたりすることは少ないが、やはり、曇りや雨の日が多く、すっきりしない天気が何日も続くことが多い。 冬の間、本州付近を支配していた大陸高気圧の張り出しや、移動性高気圧の通り道が北に偏り、一方で、その北方高気圧の張り出しの南縁辺に沿って、冷湿な北東気流が吹いたり、本州南岸沿いに前線が停滞しやすくなったりするために生ずる。そのときには南岸に小低気圧が頻繁に発生しやすくなるのもまた特色である。そのため、西-東日本太平洋沿岸部にかけていう場合が多く、北日本にはこの現象はみられない。近年は、暖冬傾向および、温暖化の影響もあり、菜種梅雨が冬に繰り上がるきらいがあり、気候の変動が懸念される面もある。 例としては、1990年(平成2年)2月は月の後半を中心に曇雨天続きで、東京での同・月間日照時間は僅か81時間しかならず、大暖冬を象徴するかのようだった。また、1985年(昭和60年)には3月は月全体を通して関東以西の太平洋側地方では冷たい雨の連続で、東京では同年月での快晴日数は0(梅雨期である6、7月を除いては初のワースト記録)、日本気象協会発行の天気図日記では「暗い3月」と評される程であった。その他、1988年(昭和63年)、1991年(平成3年)、1992年(平成4年)、1995年(平成7年)、1999年(平成11年)と3月が比較的長いこと曇雨天が持続した影響で、月間日照時間は北日本除いてかなり少なかったため、20世紀末にかけての3月は、「菜の花の上にお日様無し」、「行楽受難・鬼門の月」、「花見には 傘など雨具が 必需品」、「卒業式、終業式はいつも雨」などと不名誉なレッテルが貼られたこともあった。その他、2002年(平成14年)、2006年(平成18年)には2月おわりから3月初めにかけて、南岸前線が停滞したり、朝晩中心に雨の降りやすいすっきりしない空が続いて、お天気キャスターの一部では「菜種梅雨の走り?」と評されたりもした。 おもに5月下旬から梅雨本番前ぶれのように雨が降り続く状態をいう。ちょうど、その時期が卯の花が咲くころにあたり、卯の花を腐らせるような雨ということから、卯の花腐し(うのはなくたし)とも呼ぶことがある。「走り」とは「先駆け」を意味し、「走り梅雨」とは梅雨に先駆けて降り続く雨と解釈することもある。「梅雨の走り」ともいう。沖縄など南西諸島の梅雨期にあり、南西諸島付近にある梅雨前線が一時的に本州南岸沿いに北上したときに多くみられる。また、オホーツク海高気圧が5月前半に出現した場合に北東気流の影響を受けやすくなるため、関東以北の太平洋側で低温と曇雨天が長続きすることがある。その他、メイストームなど、日本海や北日本方面を通過する発達した低気圧の後面に伸びる寒冷前線が本州を通過して、太平洋側に達した後、南海上の優勢な高気圧の北側に沿って、そのまま停滞前線と化して、太平洋側、おもに東日本太平洋沿岸部でしばらくぐずつき天気が続くケースもそのたぐいである。 おもに8月後半頃から10月頃にかけて(地域によって時期に差がある)降り続く長雨の時期をいう。「秋霖(しゅうりん)」、「すすき梅雨」などとも呼ぶ。 おもに11月下旬から12月上旬にかけての、連続した降雨を「さざんか梅雨」という。さざんかが咲くころに降るためこの名前がある。 ^ a b 梅雨前線のもととなる対流(雲)は、大気の相当温位θeの減率が大きいほど強くなる。大気の温度や湿度が高いほどθeは大きいので、乾と湿、あるいは寒と暖の性質を持つ気団の衝突によって大気のθe減率が大きくなることで、前線の雲が発生しやすくなる。 ^ 8月31日になってもまだ梅雨が明けない場合は梅雨明けを特定しないこととしている。1993年の記録的長雨では、沖縄と北海道以外での梅雨が、8月も梅雨となり(8月の梅雨は観測史上では極めて稀である)、2ヶ月半以上にわたって梅雨が続いた状態であったため、梅雨明け時期は特定しなかった。 ^ なお、「リラ冷え」は1970年代から知られるようになった言葉で、俳人の榛谷美枝子が初めて俳句に用いたものを、辻井達一が著書で紹介、それがさらに渡辺淳一によって引用され小説『リラ冷えの街』となり、テレビドラマ化もされたことが契機となって広まったと伝えられている。 ^ a b c d e f g h i キーワード 気象の事典、加藤内蔵進「梅雨」221-226頁 ^ a b “平成20年の梅雨入り・明けと梅雨時期の特徴について” (PDF) (プレスリリース), 気象庁, (2008年9月1日), http://www.jma.go.jp/jma/press/0809/01a/tsuyu2008.pdf 2009年8月16日閲覧。  ^ a b Yahoo!百科事典『梅雨(ばいう)』 ^ 二宮、81-84頁 ^ 二宮洸三 『豪雨と降水システム』、121-122頁、東京堂出版、2001年 ISBN 4-490-20435-3 ^ 甲東哲、先田光演 編、『分類沖永良部島民俗語彙集』、p258、2011年、鹿児島、南方新社、ISBN 978-4-86124-209-0 ^ 岩倉市郎、『喜界島方言集』p192、1941年、東京、中央公論社 ^ a b c K.Iwata (2005年6月25日). “中国語の落とし穴026【出梅】”. 中国語学習ノート. 2009年8月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年6月11日閲覧。 ^ ただしこのパターンの年は北海道も低温傾向であり8月でも内陸部では最低気温が10度を割る日がしばしば起こることがある。 ^ “昭和26年(1951年)以降の梅雨入りと梅雨明け(確定値)”. 気象統計情報. 気象庁. 2009年9月1日閲覧。 ^ “代表地点における梅雨期間降水量(参考)”. 気象統計情報. 気象庁. 2009年8月16日閲覧。 ^ a b 『気象予報士ハンドブック』、2008年、§1-3-2 ^ a b 『気象予報士ハンドブック』、2008年、§1-3-5 ^ 「榛谷美枝子さん:季語「リラ冷え」の俳人、1月に96歳で永眠、香る花に託した思い /北海道」毎日新聞、2013年05月31日北海道版 ^ 豊島秀雄「ことば(放送用語) > 放送現場の疑問・視聴者の疑問 > 北海道の「リラ冷え」、本州の「花冷え」と同じ?」、NHK放送文化研究所、1999年5月1日付 ^ “えぞ梅雨? 北海道内で雨や曇り続く 札幌は11日連続の降水”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2014年6月16日). http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/545685.html  ^ 森田正光 (1999年8月30日). “小笠原に梅雨はある?”. 森田さんのお天気ですかァ?. TBSテレビ. 2009年8月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月16日閲覧。 ^ “장마의 시작과 끝 (평년값)(梅雨の開始と終了 平年値)” (html) (プレスリリース), 大韓民国気象庁, (2009年5月26日), http://web.kma.go.kr/parti/faq/faqlist.jsp?page=1&num=177&mode=view&field=category_code&text=02&order=&dir=&bid=faq01&ses= 2009年8月17日閲覧。  ^ 幡野泉 (2006年5月30日). “韓国にも「梅雨」はあるの?”. 季節から学ぶ韓国語. All About. 2009年8月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年6月11日閲覧。 ^ “エルニーニョ現象に伴う日本の天候の特徴”. エルニーニョ/ラニーニャ現象に関するデータ. 気象庁. 2007年6月29日閲覧。 ^ “ラニーニャ現象に伴う日本の天候の特徴”. エルニーニョ/ラニーニャ現象に関するデータ. 気象庁. 2007年6月29日閲覧。 ^ a b c “梅雨って何?(3) どう生かす 「梅雨」への高い関心”. asahi.com (朝日新聞社). (2005年6月13日). http://www.asahi.com/special/june2005/TKY200506130497.html 2017年6月7日閲覧。  ^ 浅野芳 『お天気おじさんうちあけ話』 家の光協会(原著1981年7月)、p. 123。ASIN B000J7XODO。 児玉安正、山田広幸「アジアの梅雨・世界の梅雨」、『天気』54巻6号、日本気象学会、7-10頁、2007年6月 NAID 110006317416 新田尚、伊藤朋之、木村龍治、住明正、安成哲三(編) 『キーワード 気象の事典』、朝倉書店、2002年 ISBN 4-254-16115-8 日本気象予報士会(編) 『気象予報士ハンドブック』、オーム社、2008年 ISBN 978-4-274-20635-1 「梅雨(ばいう) 」、Yahoo!百科事典(日本大百科全書)、小学館、2013年9月1日閲覧[リンク切れ] つゆ 入梅 秋雨 梅雨明け 気象庁|過去の梅雨入りと梅雨明け", "季節現象(きせつげんしょう)とは、初雪や初冠雪など季節を象徴する現象をいう。 桜の開花 梅雨 秋雨(秋の長雨、秋霖) 紅葉 初霜 初氷 初雪 初冠雪 根雪(長期積雪) 霜 結氷 雪 初冠雪 長期積雪(札幌管区のみ) 積雪(札幌管区のみ) 春一番(地方単位で発表、九州南部、九州北部、中国、四国、近畿、東海、関東・甲信、北陸で発表) 木枯らし一号(東京、大阪のみ) 霜、結氷、雪、長期積雪、積雪においては季節において最初に観測された日と、最後に観測された日及び初冠雪の日において平年値が求められる。 しかし、測候所は2010年までに原則廃止されるため初雪などの発表が行われる地点が減少するほか、初冠雪が観測される山も減る。三島測候所の廃止を例にとると、静岡県側の富士山の初冠雪の観測がなくなったほか、箱根山の初冠雪の観測が廃止された。 生物季節観測 初霜 初冠雪", "Clip 関東の南に南岸低気圧がある天気図。(気象庁によるものを切り取り、2017年1月8日) 南岸低気圧(なんがんていきあつ)とは、日本列島南岸を発達しながら東に進んでいく低気圧のこと。冬から春(概ね毎年1月から4月にかけて)にかけてよく発生する。暖気を運んでくる日本海低気圧とは対照的に、日本に寒気を運ぶことが多い。また、日本列島の太平洋側に大雪や大雨を降らせることが多く、特に東京を含む関東地方南部における大雪のほとんどは南岸低気圧によるものと言われている。 厳密には、四国沖や東海沖、東シナ海などで発生して、日本の南岸を沿うように東北東の方向に進む低気圧を指す。なお、文献によっては中国大陸南部で発生したものも含める。進行方向に当たる東側に温暖前線、西〜南側に寒冷前線が形成され、それぞれ低気圧の周りを反時計回りに回転してくる。前述の地域で発生した低気圧は発達しながら東に進み、ちょうど日本列島南岸に差し掛かった頃に最盛期を迎える。温暖前線付近では強い南風に伴う高温と雨、低気圧の周囲では強風、寒冷前線付近では強い北風・東風とまとまった雨に見舞われることが多い。なお、気象予報分野では「南低」と略されることがある。 暖気側では季節外れの大雨や高温、寒気側(特に低気圧西側)では低温をもたらすという特徴がある。晩冬から初春の関東以西の太平洋側に大雪を降らせる典型的な低気圧である。また、東北から関東地方にかけての東日本太平洋側の降雪はこの低気圧によるものが多く、晩冬から初春の2月から3月上旬にかけて降りやすい。立春以降の場合は「春の大雪」と呼ばれることがある。特に、関東地方では例年既に桜の開花シーズンを迎えている3月下旬から4月にかけて、季節外れの雪をもたらす場合がある。この場合、開花した桜・チューリップ・菜の花等の春の花が咲いていながら雪が降るという不釣合いかつ不思議な光景になることがあり、2010年4月17日の関東地方のように新緑や若葉をバックに雪が降った年もある。 単純に東進するだけではなく、北上・停滞したり、急発進・急発達などにより、予報が外れるケースも多く、大きな災害となったケースがいくつもある。これはブロッキングも関係している。台湾沖で発生して日本に襲来し被害をもたらすものがあり、天気図では低気圧の周囲の等圧線の形が坊主の頭に似ていることなどから、古くは「台湾坊主」(たいわんぼうず)と呼ばれていた。この低気圧は時に台風並みの勢力に猛烈に発達し、波浪・暴風・集中豪雨と言った災害をもたらすことがあった。その後、気象庁が用いる予報用語としては「台湾低気圧」と言い換えることとされ、さらに「東シナ海低気圧」と変更されて現在に至る。「東シナ海低気圧」は、「南岸低気圧」のうち東シナ海で発生するものを指す名称である。 1970年1月30日 - 2月2日の昭和45年1月低気圧は大災害をもたらした低気圧で、中部地方から北海道にかけて暴風・大雨・波浪の被害が発生し、死者・不明者25人、住宅被害5,000棟以上、船舶被害293隻の被害を出した。29日午後に1010mb(=hPa)、30日15時に996mbだった中心気圧は、31日3時に976mbと猛発達、同日八戸では962.1mbを観測するなど、気圧が急低下して「爆弾低気圧」となった。 1999年10月27日には、関東付近で低気圧が急発達し、千葉県佐原市(現在の香取市)で1時間雨量153mmを観測する記録的な豪雨となった。 既述のように東京を含めた関東地方の平野部の雪のほとんどは南岸低気圧に伴うものである一方、その予想は難しいとされている。これは、関東地方特有の地形性の「滞留寒気」や低気圧のコースのずれが予報の誤差要因となるためである。週間天気予報でも「雨か雪」・「雪か雨」で発表している。 南岸低気圧により関東地方平野部に雪の可能性がある場合、予報を左右する主な要素は以下が挙げられる。 南岸低気圧のコース 南岸低気圧の接近時に中心が陸地に近いほど関東は雨になりやすく、遠いほど雪になりやすい。一般的に伊豆諸島の八丈島付近を境にして、これより南を通ると雪の確率のほうが高く、北を通ると逆に雨の確率が高い。なお、陸地から遠すぎると低気圧の雨域から外れるため降水自体がない確率が高くなる。過去には現業予報でこのコース判断を雨雪判断の要としていたこともあったが、数値予報が発達した現在ではあくまで複数の判断材料の1つとして用いられるに留まっている。 滞留寒気層 北と南に山脈を擁する地形の影響で関東平野では、地表に接する厚さ数百mの冷気の層(滞留寒気)が形成されることがしばしばある。滞留寒気は、低気圧接近初期では乾燥した大気中で雨雪が蒸発して大気から気化熱を奪う効果、雨雪が本格化した後では冷たい雨雪自体の冷却効果により、降水の開始とともに形成される(このため、降水とともに気温が急降下する)。層内は冷たいままほぼ等温となるため、雪が融けずに降る確率が高まる。日本海側では上空850hPa(約1,500m)の気温-6°C以下が雪の目安とされるが、滞留寒気の為に関東平野では-4°C以下が雪の目安とされ、場合によっては-3°Cより高くても雪となる事例がある。滞留寒気内の地表付近は北風・西風であり、関東平野の北側と西側にそびえる2,000m超級の山地から吹き下ろすような風系を持つ。これに対して低気圧からは暖かい南風・東風が吹き込んでいて等温線の間隔が込んでいるが、地形などの影響で入り組んだ分布となる場合があり、予報誤差の要因となる。なお、滞留寒気が重要なファクターとなるため「東京都心で降雪があるときは必ず(と言ってよいほど)北、北北西または北西の風である」とされている。 各地点の気温や湿度 各地点の気温や湿度(湿度が低いほど雪が融けにくい)も雨雪判断の目安となる。滞留寒気による気温急降下がどの程度進むかが気温を左右する。 なお、南岸低気圧による関東平野の雪は\"雪水比\"が0.5 - 1.0程度で「湿った雪」が多く、降雪時の気温も0 - 1°C程度の場合が多い。 地名の後は最大積雪量(cm)。太字は観測史上最高もしくは1945年以降最高。 1883年2月8日 - 和歌山40 東京46 1907年2月11日 - 浜松27 津19 大阪18 和歌山21 下関28 多度津25 徳島42 松山34 1908年4月9日 - 東京20 熊谷16 前橋29 甲府19 松本52 1928年2月14-15日 - 秩父58 甲府44 松本64 飯田56 1936年2月23日 - 東京36 熊谷45 秩父42 宇都宮26 前橋35。なお、東京ではこの3日後に二・二六事件が発生するが、ドラマや映画で「雪の東京」が描かれているのは、この日降った雪がまだ残っていたため(26日も若干ながら積雪を記録している)。 1945年2月25-26日 - 東北南部・関東から中国・四国にかけての広範囲で大雪となり、各地で観測史上最高の積雪を記録している。白河43 小名浜28 横浜45 銚子15 勝浦37 熊谷27 館野26 水戸32 宇都宮30 前橋37 長野71 松本46 諏訪35 飯田45 甲府42 網代28 三島18 静岡10 名古屋16 上野15 大阪12 神戸17 洲本13 岡山26 津山29 福山23 広島29 高松12 多度津12。なお、その前の2月22日には東京38cm、大島32cm、松山17cm、河口湖68cm、大分15cmの積雪を記録した。 1951年2月14-15日 - 低気圧が猛発達し関東では暴風雪となった。特に房総半島では、千葉市内の白井133cm、仁戸名91cm、都80cmをはじめ、記録的な豪雪(三島82 牛久76.5 木更津75 千倉64 久留里60 勝山55 吉尾54.5 佐倉54 湊50 布佐47 小御門46 館山43 鴨川40 一宮40)となった。東京33 横浜24 勝浦14 熊谷27 館野25 津26 上野37 大阪12 高松15 徳島29 1954年1月24-25日 - 横浜39 熊谷43 秩父47 館野16 宇都宮23 前橋32 甲府34 飯田41 1963年3月13日 - 横浜16 甲府10 上野19 奈良19 1964年2月25日 - 長野27 津10 和歌山10 姫路8 福山11 高松11 1967年2月11-12日 - 12日は東京、横浜、千葉などで最高気温が0°C未満の真冬日となった。東京21 横浜23 千葉20 勝浦35 銚子7 館野23 水戸15 宇都宮12 網代20 石廊崎9 三島8 静岡3 1968年2月15-16日 - 低気圧が日本の南岸を発達しながら進み、広範囲で大雪。暴風雪となるところもあった。東京23 横浜33 千葉10 熊谷28 秩父49 宇都宮15 前橋29 小名浜19 長野(降雪55) 軽井沢47 松本31 諏訪35 飯田23 甲府33 河口湖60 津11 上野19 奈良12 福山9 高松14 多度津17 徳島19 飯塚23 1969年 2月27日 - 諏訪20 姫路10 3月4日 - 低気圧が南岸沿いを進み、関東と近畿で大雪となった。福島21 東京21 横浜17 千葉10 熊谷16 館野14 水戸14 宇都宮17 前橋11 長野20 松本24 諏訪24 甲府25 彦根14 神戸9 姫路6 3月12日 - 東北・関東・四国などで大雪。東京では積雪が30cmを超えた。大船渡23 福島43 東京30 横浜23 熊谷27 秩父37 館野10 前橋28 宇都宮23 長野23 軽井沢(降雪35) 松本36 諏訪36 甲府29 高松19 松山9 4月17日 - 4月中旬としては記録的な大雪。東京2 横浜4 熊谷5 秩父18 奥日光44 前橋9 甲府5 河口湖38 諏訪10 松本17 軽井沢33 長野3 白河22 福島7 若松2 1974年 1月22日 - 仙台34 福島27 宇都宮13 甲府14 2月8日 - 仙台32 宮古81 福島23 熊谷10 前橋10 長野(降雪36) 飯田(25) 甲府24 1975年2月21日 - 石巻33 東京15 熊谷18 秩父27 館野12 宇都宮15 前橋15 横浜16 長野(降雪23) 甲府11 静岡3 岐阜12 彦根(16) 洲本11 1976年12月25日 - 仙台34 福島27 1977年 1月23日 - 網代13 三島7 2月10日 - 奈良11 洲本11 松山7 1984年の冬は関東を中心に南岸低気圧による大雪に度々見舞われ(五九豪雪)、冬季の総降雪量は東京が92cm・横浜109cmで観測史上最高を記録した。 1984年 1月19日 - 東京22 横浜21 千葉26 勝浦15 熊谷11 つくば15 前橋14 甲府18 1月31日 - 1月29日まで冬型の気圧配置で寒気が残っていたところに、低気圧が本州南岸を発達しながら東に進んだ。九州を含む西日本や東日本の広範囲で大雪となり、瀬戸内海側では観測史上最高の積雪を記録する地点も出た(右図 赤字)。 2月17-18日 - 東京20 大島12 横浜27 千葉21 勝浦15 熊谷20 つくば22 水戸25 宇都宮23 前橋20 甲府22 名古屋14 四日市10 上野37 奈良12 呉9 広島15 1985年3月11-12日 - 仙台21 福島40 宇都宮12 軽井沢(降雪量22) 松本22 1986年 2月18-19日 - 東京18 横浜37 千葉15 熊谷22 秩父25 館野22 水戸13 宇都宮18 日光41(降雪45) 前橋26 白河29 福島33 仙台17 石巻17(14) 大船渡21(19) 軽井沢28 松本33 諏訪25 飯田35 甲府46 河口湖32 広島15 3月23日 - 東京9 熊谷10 秩父38 日光75 前橋16 軽井沢43 松本21 諏訪21 河口湖75 1987年 2月2日-3日 - 日本の南岸と日本海の低気圧がまとまりながら東に進み、三陸沖に抜けた。大船渡28 仙台28 福島31 熊谷14 秩父22 前橋16 軽井沢20 松本29 名古屋7 松山11 3月7日 - 熊谷15 館野14 水戸17 宇都宮13 前橋13 長野20 甲府10 奈良10 1988年4月8日 - 4月としては記録的な大雪。東京9 横浜7 熊谷6 秩父19 日光42(降雪50) 前橋5 白河23 福島11 軽井沢35 松本12 諏訪20 甲府5 河口湖37 1990年2月1日 - 東京11 横浜13 熊谷24 秩父27 つくば23 水戸27 宇都宮26 前橋22 甲府21 長野(降雪23) 軽井沢(43) 松本26 諏訪42 飯田(31) 上野23 奈良21 大阪11 1992年2月1-2日 - 仙台21 福島29 白河30 東京17 横浜15 千葉13 熊谷15 つくば15 水戸13 宇都宮20 長野36 軽井沢32 松本23 1994年2月12日 - 東北太平洋側から西日本にかけての広範囲で大雪となった。関東地方では東京・横浜・千葉で20センチを超える積雪となり、千葉では歴代3位の23cmという記録的な大雪となった。東海・西日本でも前日までの寒気が残っていたことで、大雪となる地点が多かった。東海地方では、名古屋・岐阜では積雪10cmを超え、津では歴代3位となる積雪15cm、雪の積もることすら珍しい伊良湖では歴代3位の積雪8cmを記録した。また、静岡県の東部や浜松でも積雪を記録した。近畿地方は、姫路で歴代2位となる積雪16cmを記録したほか、大阪で積雪9cmの大雪となった。中国地方では瀬戸内側でも積雪し、福山で歴代5位の積雪12cm、岡山で9cmの積雪となった。 1996年2月18日 - 東京14 横浜22 熊谷11 千葉14 館山5 つくば13 宇都宮10 前橋12 大島14 軽井沢20 松本26 諏訪32 飯田36 甲府22 三島7 上野17 奈良17 1997年2月3日 - 仙台25 1998年 1月9日 - 東京15 横浜20 熊谷25 秩父28 つくば16 宇都宮29 前橋31 甲府16 小名浜17 長野(降雪量32) 軽井沢32 松本29 1月15日 - 東北太平洋側・関東・甲信で大雪。9日の大雪で積雪が残っていたところに上積みされ、積雪記録を更新する地点が出た。甲信地方では、甲府49cm、河口湖89cm、軽井沢72cmを記録し、この時点では観測史上最高の積雪となった(いずれも2014年2月14-15日の大雪で塗り替えられた)。関東地方でも、内陸部で大雪となり、前橋で歴代3位の33cm、秩父で歴代4位の48cmを記録した。 2000年3月16日 - 仙台20 2001年 1月8日 - 仙台29 福島(降雪50) 熊谷23 秩父30 宇都宮18 前橋21 長野(降雪23) 軽井沢21 松本21 甲府20 1月20日 - 横浜9 熊谷11 諏訪34 飯田25 名古屋10 岐阜15 つくば11 1月27-28日 - 低気圧が発達しながら八丈島付近を東進した。長野県や山梨県では、諏訪で69cmの過去最高、飯田でも56cmとこの時点では過去最高となる積雪を記録するなど記録的な大雪となった。関東地方でも西部を中心に大雪となり、横浜では積雪17cmを記録した(右図参照)。 2002年 1月27日 - 松本44 12月9日 - 関東では珍しい12月上旬の大雪。二つ玉低気圧の影響。千葉5 熊谷9 つくば9 水戸14 宇都宮17 前橋7 松本23 諏訪37 2003年1月23日 - 仙台20 福島20 長野(降雪23) 軽井沢(22) 松本39 諏訪(23) 甲府20 2004年12月31日 - 福島20 熊谷13 宇都宮10 前橋8 秩父20 長野(降雪22) 松本22 甲府14 2005年3月4日 - 仙台22 福島29 千葉4 熊谷6 つくば8 水戸10 宇都宮14 日光76 2006年1月21日 - 前線を伴った低気圧は北緯30度付近を東進していたが、21日未明に東海沖でメソ低気圧が発生、東に進み降水域が北へ広がったため、関東地方で大雪となった。東京気象庁では8年ぶりとなる積雪9cmを記録。東京9 横浜11 千葉10 つくば16 水戸17。なお、埼玉県北部や群馬・栃木県では雪にならなかった。 2008年 2月3日 - 横浜7 千葉6 熊谷6 宇都宮8 前橋7 軽井沢(降雪20) 松本32 諏訪(25) 津5 2月9日 - 未明に四国沖で低気圧が発生。日本海の低気圧に先行して紀伊半島沖・東海沖を東北東に進み、八丈島の北を通り東海上に抜けた。上空850hPaに-3°C以下の寒気が残っており、前日の晴天により放射冷却で気温が下がっていたために、中部・近畿では珍しい南岸低気圧による大雪となった。奈良市では歴代8位となる積雪11cm、名古屋市では南岸低気圧によるものとしては24年ぶりの積雪13cmを記録した。関東地方では、関東の西部を中心に積雪したものの、北関東では降水量がまとまらず、南関東では暖気の影響もあり、あまり大雪とはならなかった。 2010年 3月10日 - 東北太平洋側や関東内陸を中心に大雪。八戸市では32年ぶりの積雪61cmを記録し、3月としては過去最高を記録した。八戸61 むつ(降雪30) 青森(28) 大船渡18 宮古42 仙台24 白河10 福島17 秩父24 熊谷11 前橋10 宇都宮8 奥日光37(31) 松本22 軽井沢(23) 甲府11 河口湖25 4月17日 - 関東や東北で4月中旬としては珍しい降雪。東京・熊谷・水戸・宇都宮・前橋・甲府で1969年4月17日に並ぶ最も遅い降雪・積雪を記録したほか、千葉では観測史上最も遅い降雪・積雪を記録、横浜でも1969年に並ぶ最も遅い降雪を記録した。また、酒田では4月としては1位となる積雪3cmを記録した。河口湖13 諏訪3 松本7 軽井沢21 長野7 秩父3 宇都宮1 奥日光33 白河19 若松11 福島6 山形19 新庄8 2011年 2月11日 - 九州の南に低気圧が発生し、四国から関東を中心に大雪となった。高松市では25年ぶりに5センチを記録した。大阪で5センチ、奈良で11センチなど、関西では3年ぶりに南岸低気圧による本格的な大雪となった。東京都心でも雪となったが、あまり積雪にはならなかった。名古屋でも3cmを記録した。 2月14日 - 四国から関東で再び大雪となった。和歌山市では3年ぶりに積雪となり、27年ぶりに6cmを記録した。 2012年2月29日 - 寒気が残っていたところに九州の南海上を通過した南岸低気圧によって、九州北部と関東中心に大雪となった。福岡では3cmを記録し、南岸低気圧による積雪としては2004年12月31日以来8年ぶりで、3cm以上は28年ぶりとなる。 2013年 1月14日 - 沖縄の南の熱帯低気圧の暖気を吸い込んだ爆弾低気圧により、東北地方南部太平洋側・関東・甲信地方・西日本の内陸部を中心に大雪になった。宮古16 仙台20 石巻17 福島18 東京8(北の丸公園14) 横浜13 千葉8 熊谷4 つくば3 河口湖43 甲府10 松本22 2月6日 - 北関東など関東内陸を中心に積雪。宇都宮7 前橋3 水戸1 熊谷1 秩父1 2014年(詳しくは平成26年豪雪を参照) 2月7-9日 - 動きの遅い低気圧が急速に発達したため、太平洋側の広い範囲で、特に関東甲信・東北では場所によって観測史上最高、或いは数十年ぶりとなるような記録的な大雪となった。西日本では7日午後を中心に平地では3年ぶりの本格的な大雪・積雪となった。岡山では20年ぶりに9cmを記録した。関東は8日夕方〜夜を中心に、8日未明から翌9日未明までほぼ1日降り続き、東京で45年ぶりの25cm超えとなる27cm(戦後3位・歴代7位タイ)、千葉で観測史上最高の33cm、熊谷で60年ぶりの43cmなどを記録した。東京で13年ぶりに大雪警報が発表されるなど、関東広域に渡り雪に関する警報も発表された。東北では8日夜から9日午前にかけて降り、仙台で78年ぶりとなる35cm(歴代3位)、石巻で91年ぶりとなる38cm(歴代2位)などを記録した。八戸23 宮古35 石巻38 白石32 仙台35 福島44 白河50 前橋33 宇都宮13 水戸14 つくば26 秩父48 熊谷43 東京27(北の丸公園31) 千葉33 横浜16 甲府43 河口湖65 松本49 飯田33 名古屋5 岐阜4 大津3 京都3 奈良5 和歌山4 大阪2 岡山9 広島2 山口3 徳島3 高松3 2月11日 - 南関東で降雪。千葉県では残った雪に、上積みされたため積雪21cm(降雪10cm)を記録 2月14-15日 - 動きの遅い低気圧が発達しながら進んだため、先週(7-9日)とほぼ同様、東北 - 近畿の太平洋側の広い範囲で、特に関東甲信と東北(主に福島県と宮城県)で記録的な大雪となり、広域で大雪警報も出された。関東甲信では陸地に近いところを低気圧が通過したため、沿岸では15日の未明頃早めに雨に変わったが、内陸では寒気がしぶとく残りながら朝方まで強い雪が降ったため、豪雪となった。また、南岸低気圧としては珍しく、関東では広域で竜巻注意情報が出されたり所によって雷を観測した。甲府、前橋、熊谷、宇都宮などでいずれも観測史上最高(特に甲府ではこれまでの記録(49cm)を2倍以上塗り替える114cm)を記録し、東京でも先週同様27cmを記録した。近畿・東海でも、14日夕方にかけて大雪となり、紀伊半島を中心に約20年ぶりの大雪となった。雪はいったん夕方に止んだが、夜遅くから再び弱い雨や雪が降り、再び積雪したところもある。奈良県では18年ぶりに歴代4位の15cm(降雪18cm)を記録し、24年ぶりに大雪警報が発表された。津で20年ぶりに13cm(戦後3位)を記録し、三重県南部で初の大雪警報が発表された。京都府でも南丹市で23cmを記録し、18年ぶりに大雪警報が発表。四国や九州南部の山沿いでも、積雪となった。白石57 仙台29 白河76 福島54 つくば12 宇都宮32 前橋73 熊谷62 秩父98 千葉14 東京27(北の丸公園39) 横浜28 甲府114 河口湖143 松本75 長野62 諏訪52 軽井沢99 飯田81 名古屋7 津13 彦根7 京都4 大阪4 奈良15 和歌山6 高松3 徳島4 2015年 1月30日 - 関東甲信の広範囲で降雪、甲信を中心に積雪。東京では、2014年12月2日に観測地点が大手町から北の丸公園に移転して以降初の積雪となった。東京3 宇都宮5 甲府6 河口湖10 諏訪10 飯田4 2016年 1月18日 - 甲信・北関東を中心に湿った大雪。都心では未明を中心に雪が強まったが、5時以降は雨に変わった。東京6 横浜5 前橋20 宇都宮6 熊谷15 秩父34 河口湖40 甲府12 松本33 福島22 11月24日 - 11月としては強い寒気の到来と南岸低気圧の通過により関東甲信地方を中心に降雪となり、東京都心では54年ぶりの11月の初雪、また、観測史上最も早い積雪を観測した。その他の地域でも11月としては記録的な積雪を観測した。東京0(積雪あり) 千葉2 宇都宮4 つくば4 長野12 松本5 飯田14 諏訪13 軽井沢23 河口湖22。また、福島県沖の地震(震度2 - 3、最大は4)もあり、交通機関に影響が出た。 2017年 1月8-9日 - 河口湖では1月上旬としては84年ぶりの大雪となった。伊豆諸島では総雨量が150mm近い大雨となった。また、7日には鹿児島県十島村の中之島で1時間雨量112mm(総雨量218mm)の豪雨となり、記録的短時間大雨情報が発表された。河口湖43 松本22 飯田16 甲府9 2月9日 - 本州南岸を東進中の低気圧と関東沖に発生した小さい低気圧の影響で広範囲で雪や雨。茨城県内では朝に降り方が強まり2014年以来3年ぶりに多い積雪を観測。東京も日中はみぞれが降り続いた。水戸12 河口湖8 諏訪8 宇都宮2 奈良2 3月26-27日 - 関東甲信の内陸で大雪。栃木県那須郡那須町のスキー場でこの大雪による表層雪崩で高校生などが巻き込まれる事故が発生した。河口湖19 軽井沢32 奥日光41 土呂部29 那須高原34 白河10 2018年 1月22日 - 関東地方(特に東京都・埼玉県・神奈川県・群馬県・栃木県)を中心に4年ぶりの大雪となった。日本海に低気圧を伴う二つ玉型で大雪となったのは1969年3月4日の事例と同様である。南岸低気圧北東側の下層寒気が強かったうえ、低気圧接近前に太平洋上で発生していた局地的な前線による降水により関東平野部全域で地表付近の大気がさらに冷やされ、氷点下となり積雪が1時間に3cm前後増加する強い降雪となった。東京23 横浜18 前橋29 宇都宮27 熊谷19 秩父17 水戸19 つくば15 千葉10 河口湖22 松本21 2月1-2日 - 関東南部を中心に降雪。陸地からかなり離れた所を低気圧が通過したため、1月22日ほどの大雪にはならなかったものの、都心では積雪1㎝を記録した。東京1 横浜1 八王子7 箱根13 甲府6 3月21日-22日 - 関東南部を中心に霙や雪で、市街地でもうっすら積雪。東京でも正午頃と昼過ぎに霙を観測した。横浜1 熊谷1 前橋2 秩父6 軽井沢16 松本20 諏訪8 河口湖33 ^ a b 日本気象学会(編)『気象科学事典』、東京書籍、1998年 ISBN 978-4-487-73137-4 ^ a b c d 山岸米二郎『気象学入門 -天気図からわかる気象の仕組み-』、§11-7-2「南岸低気圧」(167-168頁)、オーム社、2011年 ISBN 978-4-274-20989-5 ^ a b c d 「説明資料2 雪に関する予報と気象情報について (PDF) 」、気象庁「気象等の情報に関する講習会」、2012年12月7日、2014年3月2日閲覧 ^ a b c d 牧野眞一(気象庁予報部予報課) 「一般報告 3.南岸低気圧による関東地方の雪の予想手法」、日本気象学会『天気』60巻8号、673-677頁「第9回天気予報研究会の報告 (PDF) 」より、2013年8月 NAID 40019798823 ^ a b 冨山芳幸「関東地方の降雪にかかわる気温急降下:1999年2月11日の事例解析 (PDF) 」、日本気象学会『天気』48巻11号、811-822頁、2001年11月 NAID 110001814346 ^ 雪水比=降雪量(cm)/降水量(mm)。0.5は1mmの降水が0.5cm以下の積雪、1.0は1mmの降水が1cm以下の積雪にしかならないことを意味する。地表気温が氷点下の時の雪の雪水比は1.5 - 2.0前後の値となる。 ^ 区内観測所における観測 ^ 『千葉県の気候・気象(千葉県の自然誌本編3)』103、670頁、千葉県気象月報・区内気象月表原簿(1951年2月) ^ 雪はなぜ積もらなかった ^ 福岡市で南岸低気圧によって積雪するのは、どのくらい珍しいのか? ^ 気象庁「急激に気温低下」=都心の大雪、予報外れで 日本海低気圧 西高東低 二つ玉低気圧 五九豪雪 平成26年豪雪 気象災害年表:低気圧 - 気象人 過去の気象データ検索 - 気象庁", "オホーツク海高気圧(オホーツクかいこうきあつ、英語:Okhotsk High) とは、オホーツク海上に毎年4月末から8月に発生する高気圧。 4月ごろ、ユーラシア大陸の熱収支の逆転に伴いオホーツク海が相対的に低温になることにより発生し、6月から7月にかけて偏西風がチベット高原で分流され南北に分かれることにより停滞する。南の太平洋高気圧との間に梅雨前線を形成し、夏に発達すると関東地方以北の太平洋側に冷害をもたらすなど広い範囲で大気を不安定にして悪天候をつくり出す高気圧。北日本の太平洋側・関東地方にはオホーツク海気団よりやませが吹き込む。北海道東部から三陸にかけて小笠原気団の一部が寒冷な海水により冷やされることで濃霧が発生しやすい。 その後上空のジェット気流は次第に北へと上がっていき、太平洋高気圧が勢力を増してオホーツク海高気圧は消滅し、日本では梅雨が明けて暑い夏が訪れる。しかし、オホーツク海高気圧の勢力が再び強まると、寒冷な北東風が吹き出し、北海道や東北地方、関東地方の太平洋岸にやませとなって吹き付ける。このような年は、東京都心でも大阪・名古屋に比べて気温が大きく下回り(さらに東京都心の気温が札幌よりも低くなることさえもある)、北海道・東北・関東の太平洋側で冷夏傾向となり米などの農作物に影響を与えることがある。 秋には一度離れた梅雨前線が再び日本付近に接近し、秋雨前線として日本付近に雨を降らせる。このときに一度消滅したオホーツク海高気圧が再び生成される。 オホーツク海高気圧のほぼ全域は寒冷・多湿なオホーツク海気団で構成されている。 シベリア高気圧 太平洋高気圧 チベット高気圧 移動性高気圧", "揚子江気団(ようすこうきだん)とは、中華人民共和国の揚子江(長江)流域に位置する、高温・乾燥な気団。熱帯大陸性気団に属するが、亜熱帯大陸性気団とすることもある。長江気団(ちょうこうきだん)とも呼び、気象庁は2007年4月の予報用語改定以来、こちらを正式名称としているが、日本では伝統的に「揚子江気団」のほうがよく使用されている。 春や秋に多く出現し日本付近を西から東へ移動する、いわゆる移動性高気圧を構成している気団。 中国の華南や華中、インドシナ半島北部は中緯度高圧帯に位置するため、雨は一時期に集中して降り、周辺の地域に比べて比較的乾燥した高温の状態が続くことが多い。また、チベット高原には夏を中心に春から秋にかけてモンスーンの影響による東西に長い高気圧帯(チベット高気圧)ができ、同じく乾燥した高温の状態が続く。そのため、春から秋の間、高温で乾燥した気団が中国揚子江流域付近に出現する。 揚子江気団は寒帯性のシベリア気団(シベリア高気圧)が上記のような要因で温暖化したものである。したがって、ユーラシア大陸側が海洋側(北太平洋・インド洋など)より相対的に温暖になり、大陸全般が顕著な低圧部(地上気圧が低いエリア)となる晩春(初夏)-盛夏の時期には日本に影響を与えることはほとんどない。一般的には、シベリア・オホーツク海・揚子江・小笠原の4気団が日本に影響を与える主な気団とされるが、上記のように揚子江気団は、正確には独立した気団とはいえない。独立した気団としては、赤道気団が台風の時期や梅雨末期などに日本に影響を与えるため、日本に影響を与える主な独立した気団としては、シベリア・オホーツク海・小笠原・赤道の4気団であるということができる。 華南や華中付近では、対流圏中高層の上空では一年を通してジェット気流が流れており、揚子江気団を伴った移動性高気圧は西から東に流される。冬はシベリア気団が南下して勢力を強め、ジェット気流の流路はフィリピン付近にまで南下する。春になるとジェット気流は北上し、そこに移動性高気圧が流れてきて、からっとした晴天をもたらす。また、高気圧の間には低気圧が形成され、変わりやすい天気となる。地上天気図上での日本付近に来る移動性高気圧の主なルートとしては、バイカル湖付近に中心を持つシベリア高気圧が華中・華南付近に中心を移し(移しているように見える動きをし)、それが東進して日本付近に来るルートがある。これは一つの例であり、大陸上での経由地は様々なパターンがあるほか、日本付近でも本州上を東進するものもあれば、本州南海上を進むものなど色々な場合がある。この移動性高気圧が本州の東海上、特に本州の南海上を通る場合は夏の気圧配置(南海上に小笠原高気圧)と似た配置となり、南から温暖な空気を引き込み本州付近では気温が上がる事がある。 5月ごろには高温・多湿の小笠原気団を伴った小笠原高気圧(太平洋高気圧)が南シナ海まで勢力を広げ、揚子江気団との間に梅雨前線を形成し、華南に梅雨をもたらす。前線は次第に北上していくが、6月ごろにはオホーツク海気団の勢力が日本列島に及び始め、揚子江気団に代わって梅雨前線を形成するようになる。梅雨が明けると小笠原気団が日本列島の広範囲を覆う。 8月のお盆明けから9月頃になると小笠原気団は勢力を弱め始め、オホーツク海気団は勢力を強め始める。この両気団の間に秋雨前線が形成され、日本に秋雨をもたらしながら次第に南下していく。秋雨前線は中国付近にまで達することはほとんどなく、10月に本州南方(伊豆諸島・小笠原諸島の東海上)にまで退いて次第に消滅していく。すると、両気団の間に揚子江気団を伴った移動性高気圧が入り込み、春のような変わりやすい天気をもたらす。ただし春とは違い、日本海低気圧やメイストームのような、日本付近で荒天をもたらす移動性低気圧が発生することはあまりない。発達して日本付近に荒天をもたらす低気圧の発生が多くなるのは、シベリア気団の強まってくる晩秋(初冬)以降となる。そして、シベリア気団の南下とともにジェット気流が南下し、揚子江気団の流れも南へ移っていく。そして冬になると日本付近は、小笠原諸島など一部を除いてシベリア気団の影響を強く受けるようになり、再び揚子江気団の影響を受けることが多くなるのは翌春以降となる。 ^ 日本の気象と気候 東京学芸大学気象学研究室 ^ 2006年10月には、台風と秋雨前線の相互作用で低気圧が発達し、東・北日本で記録的な大雨・暴風をもたらした。 オホーツク海気団 小笠原気団 シベリア気団 赤道気団" ]
ABC01-02-0133
居酒屋でアルコールを注文したときに出てくる、前菜の入った小皿を何というでしょう?
突き出し
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[ "突き出し", "押し倒し", "引き落とし", "渡し込み", "突き倒し" ]
[ "突き出し(つきだし)とは、相撲の決まり手の一つである。相手の胸や顔を掌で突っ張り、土俵の外に出す技。最も基本的な技の一つ。明治から大正にかけての横綱太刀山峯右エ門の突きは強烈で、“一突き半で相手を突き出す”ということから「四十五日(一突き半→一か月半)」の異名をとった。その後も突っ張りの強い力士が一気に突き出しで決めたときには似たような言われ方がされる。 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年7月号 p74 相撲 大相撲の決まり手一覧 突き倒し 突き落とし", "押し倒し(おしたおし)とは、相撲の決まり手の一つである。相手の胸や喉、腋を押し、後ろ倒しに土俵上や土俵の外に倒す技。突っ張って土俵の外に出したら突き倒しとなるが区別が難しいため押し倒しとなることが多々ある。1991年7月場所初日、横綱大乃国に当時前頭筆頭の曙が立合いで一撃で決めた。この場所の8日目を持って大乃国は引退した。2004年5月場所6日目、35連勝中の横綱朝青龍を北勝力がこの技で倒し、連勝を止めた一番が有名。 押し倒しで勝負が決まった中でも疑惑の一番として2009年5月場所千秋楽に行われた千代大海と把瑠都の一番が知られている。その場所の千代大海は12日目で5勝7敗、更に左足太もも肉離れという絶望的な状況に追い込まれたが、その後大関琴光喜と魁皇、関脇把瑠都に対し3連勝をし、8勝7敗で13度目の角番を脱出した。しかし勝ち越しを決めた一番で把瑠都が軽くいなされたにすぎないにもかかわらず左手から旋回して飛び上がり自ら土俵下へ落ちる動きを見せたため両者ともに無気力相撲の認定を受けた。 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年7月号 p74 ^ 千代大海と把瑠都が無気力相撲を釈明 nikkansports.com 2009年5月30日23時26分 相撲 大相撲の決まり手一覧 押し出し", "引き落とし(ひきおとし)とは、相撲の決まり手の一つである。相手が低い体勢で攻めているとき、または自分が突っ張りや押し相撲で攻めているときに、相手の前に行こうとする力を利用して相手の腕や肩を正面から手前に引き、相手を倒す技。前褌を引いて倒すこともある。 当決まり手での勝利を狙う際に失敗すると相手を呼び込む形になってあっけなく土俵を割ってしまうため、あまり誉められた技ではないとされる。解説者からも「楽をして勝とうとしてはいけない」と批判されることが多い(一般論として、引きたくなる誘惑に惑わされず前に出て勝つのが本道であるとされている)。また、動作が単純という点でも楽に打てる技であり、実際に高鐵山孝之進は自身が著した暴露本『八百長』で「引き技を多用する力士は八百長力士であると疑った方が良い。」という趣旨の記述を行った。 一方で、土俵際まで押し込まれた力士が抵抗するなど、土俵を割る前に何かしらの理由で相手力士の重心が崩れ、前に倒れることで当決まり手が偶然的に発生するケースや、つきひざやつき手が発生した際に四つに組んでいた場合に、当決まり手が採用されるケースも稀に見られる。 低い体勢で攻める型の力士はどうしても引き技を仕掛けられやすいため、安芸乃島のように「引かれても絶対前に落ちない」というのがそういう力士への褒め言葉としてよく用いられる。 引き技を仕掛けるときに、手が誤ってまげに入ってしまうことが時々あり、まげをつかんで引き倒したと認定されると反則負けとなる。 相撲力が身に付かないため、稽古場ではある意味で本場所以上に好まれない技である。 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年7月号 p77 ^ 大相撲の魅力は、朝稽古を見ずして語れない 東洋経済ONLINE  2016年06月26日 (文・佐々木一郎) 相撲 大相撲の決まり手一覧 突き落とし 叩き込み 肩透かし", "渡し込み(わたしこみ)とは、相撲の決まり手の一つである。相手の片足を外側から片腕で抱え、もう片方の手で相手を押し倒す技。 幕内の取組ではあまり見られない決まり手ではある。大関琴奨菊が得意として、新大関の2011年11月場所千秋楽に関脇稀勢の里に、2014年5月場所6日目に平幕遠藤に、2015年9月場所4日目に小結隠岐の海にこの決まり手で勝っている。琴奨菊の場合、前に出るときに自分の足がついていかず倒れこみながら相手の足を抱えることが多い。 他に2009年11月場所9日目に翔天狼が春日王に対して、嘉風が2015年7月場所3日目に臥牙丸に対して、同年11月場所初日に鶴竜に対して渡し込みで勝っている。 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年7月号 p76 相撲 大相撲の決まり手一覧", "突き倒し(つきたおし)とは、相撲の決まり手の一つである。相手の胸や顔を掌で突っ張り、土俵上や土俵の外に向けて倒す技。突っ張りの強力な力士の場合、ノックアウトしてしまう場合もあり、その場合もこれが当てられる。英語では\"Frontal thrust down\"と呼ぶ。 1970年1月場所6日目、全勝の大関北の富士を前頭3枚目福の花が突き倒しで破った一番。 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年7月号 p74 ^ 大空出版『相撲ファン』vol.06 p106 ^ Fukunohana vs. Kitanofuji : Hatsu 1970 (福の花 対 北の富士) - YouTube 相撲 大相撲の決まり手一覧 突き出し 突き落とし" ]
ABC01-02-0136
草もちの中に入れたり、もぐさの原料として使われる、キク科の植物といえば何でしょう?
ヨモギ
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[ "ヨモギ", "ニシキギ", "タラノキ", "リュウノウギク", "エゴノキ" ]
[ "ヨモギ(蓬、学名:Artemisia indica var. maximowiczii)は、キク科の多年草。 別名モチグサ(餅草)、エモギ、サシモグサ、サセモグサ、サセモ、タレハグサ、モグサ、ヤキクサ、ヤイグサ。 英語ではJapanese mugwortとも呼ばれるが英語のmugwortとは異なることがある。 繁殖力が強く、日本全国いたるところに自生し、地下茎はやや横に這い、集団を作る。茎は立ち上がり、やや木質化する。葉は大きく裂け、裏面には白い毛を密生する。夏から秋にかけ、茎を高く伸ばし、目立たない花を咲かせる。 セイタカアワダチソウと同様に地下茎などから他の植物の発芽を抑制する物質を分泌する。この現象をアレロパシー(他感作用、allelopathy)と言う。 特有の香りがあり、春につんだ新芽を茹で、おひたしや汁物の具、また草餅(蓬餅)にして食べる。また、天ぷらにして食べることもできる。香りの主成分はシネオール、ツヨン、β-カリオフィレン、ボルネオール、カンファー、脂肪油のパルミチン酸、オレイン酸、リノール酸、ビタミンA、ビタミンB1、ビタミンB2などである。 灸に使うもぐさ(艾)は、葉を乾燥させ、裏側の綿毛を採取したものである。葉は、艾葉(がいよう)という生薬で止血作用がある(なお、艾、艾葉には、ヨモギの他にヤマヨモギ(学名A. montana)も使われる)。 若い芽や、育ち始めた若い株は、干しておいたのちに煎じて飲むと、健胃、腹痛、下痢、貧血、冷え性などに効果がある。また、もう少し育ったものは、これも干しておき、風呂に入れると良い。腰痛を始め、痔に効果がある。また、アイヌの人々は風邪や肺炎の際に、ヨモギを煮る際の蒸気を吸引させて治した。 南西諸島にはニシヨモギ A. indica Willd. var. orientalis (Pamp.) Haraが自生し、沖縄方言では「フーチバー」と呼ばれる。これは沖縄料理の沖縄そばの具やヤギ肉の臭み消しとして用いられる。この語は長崎弁や博多弁など九州方言に見られる「フツ」、「フツッパ(フツの葉の意)」と同根であると考えられる。雑炊に入れた「ふーちばーじゅーしー」も著名な調理法である。 若葉  ヨモギの花  道路工事にヨモギを使用する例としては、山や斜面を切り崩して道路を作った際に、雨水などで法面(のりめん)の表土が流出しないように成長の早い低木のアカシア(一般に見られるアカシアおよび、ハチミツのアカシアはニセアカシアのこと)や、草の種などを混ぜた土を吹きつける。ヨモギは成長が早く、多年草であるため、地上部が枯れても残った株が生きており、土壌の固定に適している。ただ、ヨモギの花粉はブタクサと同様に秋の花粉症のアレルゲンでもあり、人工的に多用するには問題点もある。 中国地方の口伝では本願寺門徒の間で蓬(ヨモギ)の根に尿をかけたものを一定の温度で保存することにより、ヨモギ特有の根球細菌のはたらきで硝酸が生成されることを発見したという。馬の尿とヨモギでそれは量産(当時にしては)された。これらは当時の軍事機密であったので厳重に守秘されて一般に広まることはなかったが、本願寺派に供給された火薬の主体であったようである。信長が驚いた本願寺の鉄砲の数は、実は弾薬の量に支配されるものであり、安価な硝酸がそれを支えたのである。 ^ 「BG Plants 和名−学名インデックス」(YList) ^ Flora of Japan Database(日本植物誌データベース)[リンク切れ] ^ a b 岩槻秀明 『街でよく見かける雑草や野草がよーくわかる本』 秀和システム、2006年11月5日。ISBN 4-7980-1485-0。 p.470 ^ 植物名の由来 中村浩著 P98 ^ 『アイヌと自然シリーズ■第4集 アイヌと植物<薬用編>』 財団法人アイヌ民族博物館、2004年、22頁。 草の一覧 山正 ヨモギ属 狼煙 蓬餅(よもぎ餅) 含まれる成分 - ツジョン ヨモギ(カズザキヨモギ/モチグサ、マグワート/オウシュウヨモギ) - 「健康食品」の安全性・有効性情報(国立健康・栄養研究所)", "ニシキギ(錦木、学名:Euonymus alatus)とはニシキギ科ニシキギ属の落葉低木。庭木や生垣、盆栽にされることが多い。 日本、中国に自生する。紅葉が見事で、ニッサ・スズランノキと共に世界三大紅葉樹に数えられる。 若い枝では表皮を突き破ってコルク質の2~4枚の翼(ヨク)が伸長するので識別しやすい。なお、翼が出ないもの品種もあり、コマユミ(E. alatus f. ciliatodentatus、シノニムE. alatus f. striatus他)と呼ばれる。 葉は対生で細かい鋸歯があり、マユミやツリバナよりも小さい。枝葉は密に茂る。初夏に、緑色で小さな四弁の花が多数つく。あまり目立たない。果実は楕円形で、熟すと果皮が割れて、中から赤い仮種皮に覆われた小さい種子が露出する。これを果実食の鳥が摂食し、仮種皮を消化吸収したあと、種子を糞として排泄し、種子散布が行われる。 紅葉を美しくするために西日を避けた日当たりの良い場所に植える。剪定は落葉中に行う。よく芽を付ける性質なので、生垣の場合は強く剪定してもよい。栽培は容易。 名前の由来は紅葉を錦に例えたことによる。別名ヤハズニシキギ。 木の一覧 種子 枝 紅葉", "タラノキ(楤木、桵木、学名、Aralia elata)はウコギ科の落葉低木。新芽を「たらのめ(楤芽)」「タランボ」などと呼び、スプラウトとして食用に販売もされている。テンプラ等に調理される。「タラ(楤、桵)」と呼ばれることもある。地方によって呼び名があり、タランボ、オニノカナボウともよばれている。 高さは2–4 m程度、あまり枝分かれせずにまっすぐに立ち、葉は互生で先端だけに集中する。樹皮には幹から垂直に伸びる棘が多くある。 葉は奇数2〜3回羽状複葉で、全長が50–100 cmにも達する大きなものである。全体に草質でつやはない。葉柄は長さ15–30 cmで基部がふくらむ。小葉は卵形から楕円形で長さ5–12 cmで裏は白を帯びる。葉全体に毛が多いが、次第に少なくなり、柄と脈状に粗い毛が残る。 夏の8月頃に、多数の小さな白い花を複総状につける花序を一つの枝先に複数つける。花弁は三角形で5枚、雄蕊は5本で突き出ている。自家受粉を防ぐため、雄蕊が先に熟して落ちた後、5個の雌蕊が熟し、秋には黒色で球状の果実となる。 分類上は幹に棘が少なく、葉裏に毛が多くて白くないものをメダラ(f. subinermis)といい、栽培されるものはむしろこちらの方が普通である。 タラノキの実 タラノキの葉 日本各地、東アジアに分布する。 林道脇など日当たりの良い山野に自生する。いわゆるパイオニア的な樹木であり、森林が攪乱(かくらん)をうけると、たとえば伐採跡地に素早く出現し、生育環境にもよるが1年で20–60 cmほど伸び、5年で3 mに達するものも珍しくはない。 ノダラ:自生種。とげが多いが、栽培種に比べて格段に風味、香りがよく非常に美味。収穫後の回復力が弱く、個体数が少なく希少である。3–4 m。 新駒みどり:とげが少なく扱いやすく、多収が期待できる。1.5–2 m。 静岡緑:青芽系とげなし優良選抜種。セリのようにやわらかい芽が特徴。1.5–2 m。 とげなしタラノキ・井上選抜:静岡緑から井上氏が優良個体を選びぬき増殖された品種で、とげが少なくなり、栽培もしやすく、収穫も安定。1–1.5m。 ウルトラタラノキ:青芽系とげなし種。成木での新芽の太みが3 cmに及ぶ。側芽も収穫できる。2 m。 七島:赤芽系とげなし種。琉球地方の変種といわれ、伊豆七島に分布。通常の栽培種に比べ、風味、香りがよく非常に美味。自生種に近い味わいといわれる。3–4 m。 特に有名なのは新芽の山菜としての利用であるが、樹皮は民間薬として健胃、強壮、強精作用があり、糖尿病にもよいといわれる。 通常は頂芽のみが採集の対象。側芽まで取ってしまうとその枝は枯れてしまう。ゆえにそのような行為はマナー違反とみなされることがある。胴芽も通常は採らない。幼い一本立ちのタラノキ(高さがだいたい膝から腰くらい)の頂芽を取るとその幼木全体が枯れてしまう。 新芽の根元で容易にむしることができるが、鎌等の道具を用いることもある。 園芸業者が販売している枝に棘のない品種(メダラ)や別種のリュウキュウタラノキ(Aralia ryukyuensis) を栽培し販売することもある。 新芽の採取時期は桜の8分咲きころに同期しており、里の桜がタラの芽の採取時期でもある。採取は先端から上に向いた1番の芽と、その脇から斜めに伸びる2番程度までとし、あとは昨年に伸びた枝を見て芽の候補が残っているか確認する。一定の時期を過ぎると候補と成る芽の素は枯れて発芽しない。脇芽を含め全ての芽を摘み取ると立枯れする。 スーパーなどで見られる綺麗な緑色のタラの芽は昨年伸びた枝を伐採したもので、敷き詰めたオガクズや水の入ったバケツに挿しておいたもの。出荷前にビニールハウスで気温を上げ発芽させる。天然ものよりもだいぶ味・香りが弱く、水っぽさがある。天然もののタラの芽のテンプラは冷えても歯ごたえがしっかりしているが、枝切りして芽吹かせたタラの芽はテンプラが冷えるとしぼんでしまう[要出典]。 若芽をテンプラにするのが一般的で、口いっぱいにひろがる独特の芳香が特徴的である。単にゆがいておひたしやゴマの和え物にしたり、油で炒めて食べてもよい。 薄紅色の部分がタラの芽。2番目、3番目の芽が見える 食べごろのタラの芽 タラノキ皮として、樹皮は楤木皮(たらのきかわ)、根皮は楤根皮(そうこんぴ)とよんで生薬として用いられる。樹皮の部分は刺老鴉(しろうあ)ともよばれるが、中国薬物名の楤木はタラノキの仲間の別種である。 乾燥させたタラノキ皮を煎じて、1日3回に分けて服用すると、血糖降下、健胃、整腸、糖尿病、腎臓病に効用があるといわれる。また、芽をたべることで同じような効果が期待できると言われている。根皮も「タラ根皮」(タラこんぴ)という生薬で、糖尿病の症状に対して用いられる。高血圧や慢性胃炎には皮つき枝を刻んだものでお茶代わりに飲用することもでき、常用しても支障は出ない。暖める作用がある薬草で、熱があったり、のぼせやすい人や、妊婦への服用は禁じられている。 膵臓β細胞に障害を与えた糖尿病モデルに対してタラノメ抽出物を投与したが改善効果は認められなかった。一方、ラットへのブドウ糖やショ糖の負荷投与に際して血糖値上昇が7-8割も抑制された。このことから、タラノメは糖尿病の治療というよりも予防や悪化防止に効果があると考えられるとする報告がある。 なお、タラノキ材は小細工用に使われる。 ^ デジタル大辞泉『楤』 - コトバンク ^ a b c 貝津好孝 1995, p. 219. ^ a b c d e f g h 馬場篤 1996, p. 72. ^ 文部科学省 「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 厚生労働省 「日本人の食事摂取基準(2015年版)」 ^ 薬用食物の糖尿病予防成分、吉川雅之、化学と生物 Vol.40 No.3 2002, doi:10.1271/kagakutoseibutsu1962.40.172 ^ 『広辞苑』岩波出版昭和58年11月1日発行2661頁中1402頁 貝津好孝 『日本の薬草』 小学館〈小学館のフィールド・ガイドシリーズ〉、1995年7月20日、219頁。ISBN 4-09-208016-6。 北村四郎・村田源、『原色日本植物図鑑・木本編I』、(1971)、保育社 馬場篤 『薬草500種-栽培から効用まで』 大貫茂(写真)、誠文堂新光舎、1996年9月27日、72頁。ISBN 4-416-49618-4。 山菜 救荒植物 木の一覧 植物雑学辞典 タラノキ - 岡山理科大学 山菜の栽培技術指針、タラノメの栽培 (PDF) - 愛媛県", "リュウノウギク(竜脳菊)はキク科キク属の多年草。いわゆる野菊の1種。秋遅くに花をつける野菊で、茎がひょろりとして頼りないが、とてもキクによく似たものである。 地下茎は長く伸びて、まばらに複数の茎を立てて株立ちになり、小さな群落を作る。 茎は細くてやや立ち上がり、茎の下部は木質化するが、細くて頼りない。 高さ30 - 80cmだが、真っ直ぐ立ち上がることは少なく、斜めに伸びるか、斜面から垂れ下がる。 葉は長さ4 - 8cm、大まかには楕円形、おおよそは三つに浅く裂けて、さらに粗い鋸歯がある。表面は緑色で毛があってつや消し、裏面は短い毛が密生して白っぽくなっている。ちなみにこの毛はT字型になっている。基部には短い葉柄があって、葉身から少し流れる 花期は10 - 11月。ヨメナやノコンギクなどよりは遅い。花は茎の先端に単独か、せいぜい2 - 3個だけ着く。径2.5 - 5cm、外側には白い舌状花が並び、真ん中の管状花は黄色。舌状花は楕円形でヨメナなどよりずっと丸みがある。そう果は長さ1.8mm。 この名は、茎や葉の香りが、中国から伝わった竜脳(リュウノウジュから採れる精油)という香料に似ている事に由来する。実際には樟脳に近い香りで、成分としても樟脳が多いとのこと。 低山の森林周辺に多く、特に林縁部の日向に出る。自然な地形では崖地に出現する。道路脇の切り通しなどによく出現するが、開けた草原に出るものではなく、河川の土手などで見ることもない。また石灰岩地によく見られるとも。 本州(福島県・新潟県以西)・四国・九州(宮崎県)に分布する。関東や近畿では普通種。日本固有種。 特に実質的なものはない。日本の野生の野菊には栽培されるもの、改良品種を持つものが少なくないが、この種に関しては栽培されることがあまりない旨を牧野が記している。 キク属には多くの種があり、特に白い舌状花をつけるものは互いによく似ている。ただし多くは海岸生のもので、また分布域も異なっている。多くは狭い地域の固有種である。 この種の種内変異としてはワカサハマギク var. wakasaense (Shimotomai) Kitam. がある。一回り大きく、福井県から鳥取県の海岸と伊吹山などの石灰岩地に分布する。基本変種から染色体数が倍増したものと考えられている。 なお、この類は染色体数が倍増する倍数性が明確で、2n=18のものから2n=90までが見られる。これは各地で倍数性による変異が生まれ、それがそれぞれに固有種になっていったという経緯があると考えられる。その中でリュウノウギクは白い舌状花をつけるものでは唯一の2n=18の種である。 ^ 「世界の植物」第1巻、p.50 ^ 「世界の植物」第1巻、p.51 『朝日百科 植物の世界』1巻、(1997)、朝日新聞社 佐竹義輔・大井次三郎・北村四郎他『日本の野生植物 草本III 合弁花類』,(1981),平凡社 牧野富太郎『牧野 新日本植物図鑑』 (1961)、図鑑の北隆館 キク科", "エゴノキ(Styrax japonica)とはエゴノキ科の落葉小高木である。北海道~九州・沖縄まで、日本全国の雑木林に多く見られる。 和名は、果実を口に入れると喉や舌を刺激してえぐい(えごい)ことに由来する。チシャノキ、チサノキなどとも呼ばれ歌舞伎の演題『伽羅先代萩』に登場するちさの木(萵苣の木)はこれである。 斉墩果と宛字するが、本来はオリーブの漢名。ロクロギとも呼ばれる。 高さは10mほどになる。樹皮は赤褐色できめが細かい。葉は両端のとがった楕円形で互生。花期は5月頃、横枝から出た小枝の先端に房状に白い花を下向きに多数つけ、芳香がある。花冠は5片に深く裂けるが大きくは開かずややつぼみ加減で咲き、雄しべは10本。品種により淡紅色の花をつける。 果実は長さ2cmほどの楕円形で、大きい種子を1個含む。熟すと果皮は不規則に破れて種子が露出する。 果皮に有毒なエゴサポニンを多く含む。ピーク時には果実にも同量のサポニンを蓄えるが、11月を過ぎると急激に減少する。エゴサポニンは胃や喉の粘膜に炎症を起こし、溶血作用もある。 庭木などとして栽培もするほか、緻密で粘り気のある材を将棋のこまなどの素材とする。 昔は若い果実を石鹸と同じように洗浄剤として洗濯などに用いた。またサポニンには魚毒性があるので地方によっては魚の捕獲に使ったといわれるが、同様に毒流し漁に用いられたと言われるサンショウの樹皮との比較実験からエゴノキのサポニンの魚毒性の強さは漁に使えるほどのものではないのではないかと疑問視する見解もある。 ヒゲナガゾウムシ科の甲虫・エゴヒゲナガゾウムシ(ウシヅラカミキリ) Exechesops leucopis(Jordan, 1928)が果実に穴を開けて産卵し幼虫が種子の内部を食べて成長するが落下種子内で休眠中の成熟幼虫を「ちしゃの虫」と呼び1935年ごろからウグイ、オイカワなどの川釣りの釣り餌として流通している。この昆虫の発生が見られる地点は散在的でありかなり稀であるが、発生地の種子の寄生率は70%にも及ぶという。 新梢にはしばしば菊花状の構造が認められるが、これはエゴノネコアシと呼ばれる虫こぶである。イネ科のアシボソを一次寄主としエゴノキとの間で寄主転換を行うアブラムシ、エゴノネコアシアブラムシ Ceratovacuna nekoashi(Sasaki, 1907)が春に二次寄主であるエゴノキに移動してきて新芽を変形させてこれを形成する。 ^ a b 羽根田治『新装版・野外毒本:被害実例から知る日本の危険生物』山と渓谷社 2014年、ISBN 9784635500357 p.142. 木の一覧 エゴノキ:植物雑学辞典" ]
ABC01-02-0138
英語で「錐」という意味の、ドライ・ジンをライムジュースで割って作られるカクテルは何でしょう?
ギムレット
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[ "ギムレット", "餃子", "キーライムパイ", "エビのチリソース", "かりんとう" ]
[ "ギムレット(gimlet)とは、ジンベースのショートドリンクタイプのカクテル。 1890年頃、イギリス海軍の軍医であったギムレット卿が、艦内で将校に配給されていたジンの飲み過ぎを憂慮し、健康維持のためにライム・ジュースを混ぜて飲むことを提唱したことが起源とされている。他に、ギムレット(gimlet)が錐の意であることから、その味の突き刺すような鋭いイメージから命名されたという説もある。 ジン - (全量の)3/4 ライム・ジュース - (全量の)1/4 現在の標準的なレシピは、以上の通りである。 ジン-45ml ライムジュース-15ml カリブシロップ-5ml (上記のレシピはギムレットが誕生した当初の味に近いとされる) シェイカーに材料を全て入れる。 シェイクし、カクテル・グラスに注ぐ。 ライムは、コーディアルライム(甘味付のライム・ジュース)を使うのがスタンダードだが、その場で絞ったライムの果汁を使った方が味・香りが良いという判断から、こちらが採用される場合もある。しかし、その場合はまったく甘味がなくなるので、砂糖かガム・シロップ、あるいはコーディアルにより適度の甘味を付けるのが一般的である。稀ではあるが甘味にホワイト・キュラソーなどのリキュールが使われる場合もある。 以上のように、作り手によりレシピの異なるカクテルの代表例となっている。コーディアルのみの使用なら、色は淡く透明なグリーンであるが、果汁を使うと白濁色となり、見た目のイメージも異なる。まったく甘味を加えないドライなカクテルとして作られることもあるが、多少の甘味を加えるのが主流である。 シェイクせず、氷を入れたグラスに同じ材料を注ぐと、「ジン・ライム」という別のカクテルとなる。 ジンをウォッカに変えた場合、「ウォッカ・ギムレット」や「スレッジハンマー」というカクテルとなる。 ジンをラムに変えた場合、「ラムレット」というカクテルとなる。 レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説『長いお別れ』中の代表的な台詞。英語の原文は「\"I suppose it's a bit too early for a gimlet,\" he said.」 カクテルブックなどでは、主人公の私立探偵フィリップ・マーロウによる台詞と誤記されることが多いが、ゲストキャラクター「テリー・レノックス」がマーロウに対して言った台詞である。台詞だけ見て「ギムレットのような強い酒を飲むにはまだ時刻が早い」という風に思われがちだが実際は異なり、物語全体における重要な意味が含まれている。 小説中には、レノックスがギムレットへのこだわりを語る場面として、「本当のギムレットはジンとローズ社製ライム・ジュース(英語版)を半分ずつ、他には何も入れない」という台詞がある。ここで言われるローズ社製ライム・ジュースはコーディアル(英語版)ライムの事である。このレシピで作ったギムレットは、(甘味の強い)ローズ社製ライム・ジュースを半分も入れている為、ハードボイルドなイメージと違ってかなり甘い。 中央競馬で活躍した競走馬、タニノギムレット(2002年東京優駿優勝馬)の馬名はこのカクテルに由来する。 ^ 桑名 2006, p. 52. ^ 桑名 2006, p. 55. ^ 杉田米三 『最新カクテルブック』 柴田書店、1969年12月20日、80頁。 ^ チャンドラー & 清水 1976, p. 27. 『カクテル・パーフェクトブック』 桑名伸佐(監修)、日本文芸社、2006年2月25日。 レイモンド・チャンドラー 『長いお別れ』 清水俊二訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1976年4月30日(原著1954年)、第49刷(日本語)。ISBN 4-15-070451-1。 カクテル", "餃子(ギョウザ、ギョーザ、拼音: jiǎozi)とは、小麦粉を原料とした皮で、肉、エビ、野菜などで作った具を包み、茹でたり、焼くなどした食べ物である。調理の方法によって、水(茹で)餃子、焼き餃子、蒸し餃子、揚げ餃子などと呼ばれる。 まず、餃子の一つの発祥地である中国の餃子から解説し、その後、異なる発祥地の満州引揚者によってもたらされ、日本独自に変化した餃子について解説する。 歴史は古く、中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の頃に、山東省で誕生したとされている。遺跡から、当時餃子が食べられていた痕跡が見つかっている。敦煌の唐代の墳墓では、副葬品として壺に入った餃子が乾燥状態で発見されている。 中国では水餃子(茹でて湯切りをしたもの)が主流であり(後述)、焼き餃子(鍋貼、煎餃等)は水餃子に比べるとその数がずっと少ない 。また中国では餃子は主食として食べられることが一般的であり、日本のように(白飯の)「おかず」としては食べない(後述)。 中国においては、北京語の発音で「ジャオズ、チャオズ(ピン音:jiǎozi)」といい、特に中国東北部(満洲)において水餃子(茹で餃子、満州語:hoho efen)がよく食べられる。満洲民族による清朝成立後に広く華北一帯に普及し、中華料理の代表的な料理のひとつになった。それとは別に華南で発達した点心として食べられる蒸し餃子がある。 主食としての水餃子 中国の華北の餃子は主食のひとつとして一度に沢山食べられ、水餃子(水餃、shuǐjiǎo)が主流。水餃子といっても、皮は厚目にし、お湯で茹で湯面に浮いてきたものをザルに上げ湯切りをして食べる。日本的な表現をするならば「茹で餃子」である。形状も日本の餃子が長細く楕円に近いのに比べ、丸みを帯びて正円に近い。日本では水餃子とスープ餃子(湯餃、tāngjiǎo)が同義で用いられる場合が多いが、中国では水餃子と言えば茹で餃子のことを指す(中国語でお湯は「熱水」、スープは「湯」である)。餃子の中身に冷まして固体にした牛脂を入れる場合がある。これが熱でとろけて何ともジューシーであるが、皮が厚いので牛脂は漏れだしにくい。 鍋貼(焼き餃子) 「鍋貼」(グオティエ、guōtiē)と呼ばれる、焼いた餃子もある。特に台湾では鍋貼のチェーン店が全国に多数展開され、その他に朝食を売る店や屋台でもメニューとして置かれており、非常に一般的である。ただ、台湾も中国大陸と同じく水餃子が主流で、点心としても食べられている。「鍋貼」はもともと「残り物」の餃子を焼いて食べるものと言われることが多いが、現在店舗で料理として売られているものは残り物の再利用ではない。 大きくわけて2つのタイプがあり、日本で「棒餃子」や「鉄鍋餃子」と呼ばれるもののような皮が薄く長細いものが基本で、水餃子とは皮の作り方から違う。また、水餃子と同じく、丸い形状のものを焼き、鍋貼と称することもある。 現在、台湾の鍋貼チェーン、例えば八方雲集(中国語版)が中国本土にも進出し、展開されている。中国で焼き餃子が主流ではない理由として、丸底の中華鍋が一般的になり、満州発祥の平底の鍋が普及しなかったからという理由も考えられる。 煎餃 その他に、主にスナック感覚で食べられる小ぶりで日本の餃子のように皮が薄い焼き餃子(煎餃、jiānjiǎo)も屋台などで売られている。また煎餃自体が大括りでの焼き餃子の意味になり、水餃子の再利用としての焼き餃子はむしろこちらで呼ばれる。中国華北の専門店ではほぼ水餃子のみであるが、屋台などでは多量に水を使わないことから、焼き餃子をメニューに採用することも多い。日本の焼き餃子と同じく蒸し焼きで、水は使用する。 ニンニクとニラ 中華圏では水餃子と鍋貼の具としてニンニクを入れる習慣はない。また、ニンニク的役割を果たすものにニラ(韭菜、jiŭcài)があるが、必ずしも入れず、白菜と豚肉のみなどというものも多い。ニラを使ったものは「韭菜水餃」として水餃子と区別してメニューに記載されたりもする。また、店によっては生のニンニク片が卓上に置かれる事もあり、食べる者の好みにより生ニンニクをかじりつつ食す方法がある。 蒸し餃子(点心)、揚げ餃子 華東や華南では点心の一種として、蒸し餃子が良く見かけられる。また、揚げ餃子を出す例もある。中国で点心として食べられる蒸し餃子には皮や具や形に工夫を凝らし、皮に小麦粉ではなく米粉を使うなどさまざまなバリエーションが存在する。陝西省西安などには「餃子宴」と称する、形を変えた変わり餃子や、加熱の仕方や具の異なる餃子を次から次へと出す、餃子フルコースがある。 縁起ものとして 餃子はその発音が交子(子を授かる)と同じであることや、清代の銀子の形に似ていることにより縁起の良い食べ物としても珍重される。また「交」には「続く、末永し」という意味もあり、春節には長寿を願い食され、大晦日(過年、guònián)には年越し餃子(更歳餃子、gèngsuì jiǎozǐ)を食べる。また、皇帝も王朝と社稷の永続を祈願し春節のときだけ餃子を食したという。ただこれは元来北部の習慣である。元旦にも、豊作を神霊に祈りつつ餃子が食される地域があり、儀礼食としても定着している。地域によっては婚礼や法要時にも食され、婚礼時には半月型の餃子を茹でて食されることが多い。 日式餃子 皮が薄い日本風の餃子を、近年は「日式餃子」と称して出す店もある(主に日本人が多い地域の日本料理店で、日本料理として)。しかし中国でも受け入れられつつある日式拉麺などとは違い、中国で餃子と言うとあくまで水餃子であり、皮が薄い日式餃子や、餃子と一緒にチャーハンや唐揚げを食べる日本風の食べ方は満州発祥という認識もあいまって全く受け入れられていない。日式餃子を前面に出して2005年に中国に進出した餃子の王将も2014年に撤退を発表した。ちなみに日式餃子はあくまで日本料理として扱われるため、いかにも日本料理店な店舗で寿司などと一緒に餃子が並んでいる、日本人からすると異様な光景が見られる。 中国では豚肉、白菜を使った一般的なものの他に、たとえば下記の様な具が用いられる。具材は地域によって大きく異なる。 ニラ 香菜 椎茸 牛肉 羊肉 ロバ肉 サワラ エビ ふかひれ 豆腐 ウニ 日本の餃子は、日本で独自に進化(\"日本化\")した餃子であり、焼き餃子が主流であり(中国では水餃子が主流)、用いる具材、調理法も中国で主流のものと異なる。 日本では、日本独自の「焼き餃子」がとても人気があり、かつては皮も含めて家庭で材料から作ることが多かったが、市販の皮をスーパーなどで買って具を作って包むという方法をとる家庭も増え、いつ頃からかは未検証だが、具を皮に包んだ状態の冷凍食品・チルド品も多くの種類が出回っている。各種飲食店のサイドメニューとしても広く扱われていて、焼きあがったものや生のものを持ち帰り用に販売している店もある。 日本の餃子は薄目の皮を使い、豚ひき肉、キャベツ、ニンニク、ニラを入れるのがポピュラーである。中国の東北部を除く西の餃子ではキャベツではなく白菜を使い、ニンニクを入れることはない、という点で異なっている。中国東北部(満州)では豚が育ちにくく羊肉が主になる。日本に餃子が伝わった当時は満州の製法で豚肉ではなく羊肉を使用していた。豚肉がメインで使用されるようになってからも、風味の良いニンニクが餃子とも相性がよく好まれたため、今日も多くがそのまま具材として使用され続けている。 しかも日本では、出来上がった餃子を「焼き目」の側を上にして皿に盛る、という独自性がある(中国では、餃子の「上下」は、あくまで皮と皮をくっつけた側が「上」と考える。中国人が日本の餃子を見ると「ひっくり返っている」と見える)。 種類 焼き餃子が殆どだが、揚げ餃子も好まれている。春巻きに似た形で鉄板焼きにしたものを棒餃子(ぼうギョウザ)または焼き棒餃子(やきぼうギョウザ)と称したり、特に日本で広まった鉄鍋で焼く餃子を鉄鍋餃子(てつなべギョウザ)と称して出す店がある。また鶏の手羽先に具を詰めて揚げたものは、手羽先餃子と呼ぶ。 調理方法(焼き餃子) 店舗では、焼く面が平らで長方形の、餃子専用の道具(中国では見かけられない道具)が用いられ、それに餃子が並べられ、(専用道具併設の水道蛇口から)水が加えられ、工程の前半で、蓋がされ、まずは「蒸し焼き」状態にされ、後半で蓋が開けられ、水蒸気を飛ばしつつ、焼き目をしっかりつける。 家庭での調理もほぼ同様で、(店舗のような専用道具が無いので)一般的には、底面が平らで円形のフライパンに餃子を並べ、適量の水を加え、蓋をし、適度に「蒸し焼き」にし、次に蓋を取り、水蒸気を飛ばし、適度な焦げ目をつける(最近の冷凍食品では、「焼く時に水を加えなくてもよい(しかも羽根つき)」ということをセールスポイントにするものも登場した)。 食べ方・タレ 日本では米飯を主食として餃子を「おかず」として食べる(中国では「水餃子はあくまで主食」として食べてしまうので、白飯のおかずとしての食べ方に至ることが出来ない。日本人の眼には「おかずばかりを2種類同時に食べている」と映じ、とても奇妙に感じられる)。タレには醤油、米酢、ラー油を混ぜたものを使う。 日本国内で初めて餃子を食べた人物は江戸時代の徳川光圀とされており、亡命していた朱舜水が伝えたという。明治時代までにも餃子を出す中華料理店は存在し、料理書でも作り方は紹介されている。しかし、呼び方はチャオツなど原語の音をそのまま使い、「メリケン粉に包んだもの」や「焼いた豚饅頭」などという解説を付けなければならないほど、庶民には縁遠い存在であった。 日本で一般の日本人が食べられるようになったのは第二次世界大戦後で、関東軍や満州開拓団などの引揚者によって広く普及するに至った。しかし、米飯が主食の日本では水(茹で)餃子ではなく、おかずとして薄目の皮を使用した日本独特の焼き餃子が主流となった。一説には、引揚者が茹で餃子を作ろうとしたものの、鍋がなく代わりに鉄板を使ったのが始まりとされる。以降、大衆的な日本人向けの中華料理店やラーメン店、また餃子専門店、スーパーやデパートの惣菜コーナーなどで広く扱われ、家庭の手軽な惣菜として定着している。 日本では戦後の同時期に各地から普及したため、「元祖餃子」を謳う店舗は幾つか存在する。発祥地を特定するのは困難とされるが、現在では宇都宮を餃子の発祥であるとする説が有力となっている。大陸に派遣された師団本部(第14師団)が宇都宮にあり、帰還兵が大陸の食文化を伝えたと考えられている。 日本で初めて工場で作った生の餃子を販売したのは株式会社紀文食品。現在は、多数の食品会社や餃子店がチルド食品や冷凍食品として各種餃子を販売している。 冷凍餃子のシェアでは、2012年時点で味の素冷凍食品が9年連続でシェア1位で、家庭用国内シェアは47%(店頭市場ベース)と、圧倒的な「独り勝ち」の状態で、その時点でシェア2位は、「大阪王将」を前面に打ち出したイートアンド社製である。その後、1位の味の素冷凍食品はさらにシェアを伸ばし、50%を超えた。2014年に、冷凍餃子市場は前年比8.4%の増加で、388億円。シェア2位に付けるイートアンド社も「羽根つき餃子」の投入と認知の拡大という方法で、市場シェアを30%を(わずかに)超えるまで伸ばした。 2002年7月に餃子をテーマにしたフードテーマパーク「池袋餃子スタジアム」がオープン。戦後の日本で餃子が大衆食として定着した昭和30年代の園内演出と、宇都宮餃子をはじめ日本全国の餃子を一度に味わえる運営スタイルが特徴。東京・池袋のナムコ・ナンジャタウン内にある。浜松市、宇都宮市、北九州市八幡東区などでは、餃子をご当地グルメとしてPRし、地域おこしを行っている。 地域によっては、軽トラックに専用の鉄板を積んで売り歩く姿も見られる。売り歩く際は、「ぎょうざーぎょうざー」といった独特の節回しで呼びかけるのが定番。 名称 現在、日本語での発音として一般的な「ギョウザ」、「ギョーザ」という呼び方は、山東方言の発音「ギァオヅ(giaozi)」に由来しているという説のほか、満州語(満洲民族の言語)のgiyose、朝鮮族の교자(gyoja)に由来するという説がある。山東方言説は、煙台市周辺で無声歯茎硬口蓋破擦音のj([tɕ])が日本人にはガ行の音に聞こえる無声硬口蓋破裂音([c])で発音されることによると思われるが、煙台周辺では「古飵(グージャ、guja)」という言い方のほうが普通であるが、「餃子」と呼ぶ場合での発音は「ギャオダ(giaoda)」や「ギャオラ(giaora)」で、これが訛ったとする説である。他の中国主要都市の方言では安徽省合肥で「ジオザ」と発音しているのが比較的近い。潮州語では、餃子と雲呑を総称して「餃」(ギオウ、giou)と呼んでいるが、接尾語の「子」は付かず、日本語の由来とは見なせない。 第二次世界大戦以前の中華料理(当時は支那料理と呼んだ)の本の記載では、「餃子」の読みは「ギョウザ」ではなく、日本語の料理名を付けていることもある。例えば、1927年の『家庭でできるおいしい支那料理』は、「餃子」(チャオツ、メリケン粉に包んだもの)、1935年の『支那料理』は「水餃子」(スイキョウズ、肉の包み茹で)、1940年の『お鍋一つで出来る支那料理と支那菓子の作方』は「餃子」(チャオツ)としている。 豚肉(主流は豚だが、鶏肉を合わせることもある) キャベツ ニンニク ニラ 餃子に極めて類似した料理としてマンドゥ(만두、饅頭)が存在する。クンマンドゥ(군만두)は中国の鍋貼や日本の焼き餃子に近いものであり、ムルマンドゥ(물만두)は水餃子と同様に茹でたものである。具材にはダイコン、豚肉、ニラ、キムチ、豆腐、春雨などが使われる。 ポーランドやスロバキアなどの中欧諸国、ウクライナ、リトアニア、ベラルーシ、グルジア、ロシア、モルドバなどといった旧ソビエト連邦構成国の東欧諸国、ないしイタリアなどの南欧にも中国とよく似た餃子の文化がある。 ポーランドやスロバキアでは「ピエルク」と呼ばれる。ポーランド語やスロバキア語ではスープに入れる小ぶりなものにはまた別の呼び名がある。 ウクライナの民族料理の「ヴァレーヌィク」は、ほぼ中国式の水餃子と同じものである。具はバラエティに富みジャムやチーズ、果物なども入れられて主食としても食される。 リトアニアでは「ヴィルティニャイ」、ベラルーシでは「カルドゥーニ」、グルジアでは「ヒンカリ」と呼ばれる。ロシアでは「ペリメニ」と呼ばれるが、これは日本国内のロシア料理店などでよく供されるので、ロシア料理の好きな日本人には比較的なじみ深い呼び方である。モルドバでは名称は中国北部のマンティから派生した「マンティーヤ」であるが、ヴァレーヌィクなどと基本的に同じものである。 これらヨーロッパ系の餃子は中国の餃子に比べて皮が厚めの傾向がある。 皮の非常に薄いものが近年のポーランドに見られるが、これは「ピエルク・ヤポンスキ(複数形はピエロギ・ヤポンスキエ)」と呼ばれ、「日本風のピエルク」という意味で、形も具も調理法も基本的には日本の標準的な餃子と同じである。ただ醤油と酢とラー油のタレを付ける食べ方は一応知られているものの、特にラー油が入手困難なことと辛いものがポーランド人は大の苦手なため、まだ日本式のタレは定着はしておらず、焦がしベーコンをベースにしたポーランド独特のタレをかけたり、多少濃い目に味付けをしたキノコのクリームソースなどといったいろいろなソースをかけたり、サラダ用の様々なドレッシングをかけたりして食べる。 イタリアのラビオリは東洋の餃子が元であり、イタリアに入って現地の味覚に合うように変化したものである。餃子は日本を経由して伝わったため、「ラビオリ・ジャポネージ ravioli giapponesi (複数形)」と呼ばれている。 ドイツ南部シュヴァーベン地方にはラビオリに似たマウルタッシェという料理があり、スープ餃子のように提供される。 フランスでは日本人シェフがプロデュースした餃子専門店が「餃子バー」として出店している。 ポーランド系移民やその子孫が非常に多い北アメリカではピエルクの複数形の「ピエロギ」として知られるようになり、北アメリカではピエロギが英語風に訛った「ピーロギー」という呼ばれ方をすることが一般的である。しかも「ピーロギー」はもともと「ピエルク(Pieróg)」の複数形「ピエロギ(Pierogi)」が訛ったものであるにもかかわらず、英語では「ピーロギー(Pierogi、ないしPerogiやPirogiと表記)」が単数形として認識され、この複数形として「ピーロギーズ(Pierogies)」が存在し使われている。オックスフォード英英辞典にも「Pierogi/Pierogies」が正式な英単語として載っているほど一般化している。基本的には水餃子と同様に茹でるが、そのほかにフライパンで焼いたり油で揚げたりといったさまざまな加熱法を使う。なお北米の都市の中には中華式の餃子がDumpling(本来の意味は茹団子)またはPot stickerと称されスーパー等で販売されているケースも見られる(カナダ・バンクーバーで在カナダ華僑が製造販売する餃子の袋売りパッケージなど)。 カナダではポーランド系移民やその子孫が特に多いことからピーロギーは広く浸透して定着し、長いこと国民食の一つとなっている。「ピーロギー」の名で餃子を提供する食堂はポーランド系やスロバキア系といった中欧系の人々のほかにウクライナ系の人々が経営している場合も多く、そこでは「ピーロギー」が「ウクライナ料理」として供される。本来ウクライナではヴァレーヌィク(複数形はヴァレーヌィキ)と呼ばれるが、英語圏ではこの呼び方は一般的ではない。通常は「ポットスティッカー(Pot sticker)」とよばれている。 トルコ料理には水餃子によく似た献立マントゥがあり、ゆで上げたマントゥにニンニクや香味油で味付けしたプレーンヨーグルトを掛けて供される。 ブラジル風揚げ餃子といわれるパステル(またはパステウ)がある。 揚げ餃子がポピュラーである。 焼き餃子 「中国の餃子」「日本の餃子」参照 焼き餃子は主に満州族(第二次世界大戦後の中華人民共和国では満族と呼ぶ)の調理法で、現在の日本では最も幅広く浸透している。これは第二次世界大戦後に満州からの引き上げ邦人が広めたためである。但し日本と中国では焼き餃子に用いる具材などは異なる。 日本 家庭で作る場合はフライパンや中華鍋、専門店では鉄板などを用いる。フライパンに並べた餃子に少量の油と水を加え蓋をして蒸して、水分が蒸発したら蓋を取り、さらに加熱して焦げ目をつける。油で焼いて焦げ目をつけてから水を加えて蒸し焼きにする方式もあれば、それを誤りだという人もいる。 蒸す時の水に片栗粉や小麦粉を少量加えることもある。焼き上げたあとパリパリした薄皮ができ、これを羽根餃子(羽根付き餃子)と呼ぶ。 中国 中国においても鍋貼や煎餃などは確立したメニューとして、日本の焼餃子と同じく生の状態から蒸し焼きにされる。この水を用い蒸し焼きするという調理法は包子にも見られるものである(水煎包、shuǐjiānbāo)。 中国では、一度茹でた(あるいは蒸した)餃子を焼く残り物の再利用という位置づけのものもある。 中国の水餃子や蒸し餃子を再利用した焼き餃子は油たっぷりで焼くため、底面は揚げ餃子に近い仕上がりになっていることもあるが、上述の通り水を用いて蒸し焼きする鍋貼や煎餃などは、日本の餃子と変わらない仕上がりである。 水餃子 中国では水餃といい、中国で最も一般的な食べ方。焼き餃子よりも厚めの皮で作られた餃子をお湯で茹でたもの。日本語風に表現すれば、茹で餃子。タレを付けて食べる。皮の質や閉じ目が強くないと茹でる時に中の具がバラけて台無しになるために、作り置きが難しい。 日本国内で流通している家庭用の餃子の皮の多くは、焼き餃子で作った際に最適の食感となる様に作られている為、茹で餃子には向かないものが多い。家庭で茹で餃子や下記のスープ餃子としての水餃子を作る場合は『厚手』や『水餃子用』と明記されているものを使用した方が無難である。 スープ餃子 茹でた餃子を野菜など他の具と一緒にスープに入れて供するもので、中国では「湯餃」と呼ばれる。日本ではこれも水餃子と呼ぶことが多い。これに近い料理にはワンタンスープ、朝鮮半島のマンドゥクク、ロシアのペリメニなどがある。 蒸し餃子 中国でも華中、華南の点心ではもっとも普通の食べ方。味が水に逃げず、皮の食感が楽しめる。タレは付けてもよいが、中国ではそのまま食べられる味付けになっている。変わり餃子もこのタイプが普通。米粉の皮を使用した場合は蒸し上がった皮が半透明になるため、中の具が透き通り美しい。 揚げ餃子 揚げ焼売と同様日本ではなじみ深いが、中国で見かける機会は多くない。ただし、この調理法による料理は中国にも存在しており、それが日本に伝わったのか日本で独自に発展したものかは定かではない。 変わり餃子 金魚、ウサギ、白菜などの形を餃子で作ったものや、三角形や花のような形に包んだ餃子。形や皮に付けられた色を保つために蒸して加熱する場合が多い。 ひとくち餃子 「ひとくち餃子」を参照 棒餃子 中国では「餃子」とは呼ばず、一般的に上述の「鍋貼」および一部で「褡褳火燒(ダーリェンフオシャオ、dālián huǒshāo)」と呼ばれている。褡褳火燒は着物の袖口に似ている焼き物という意味の名で、北京の下町のスナックでありレストランで食べられることは少なかったが、近年は出す店も現れている。 また単純に焼き餃子の総称としての「煎餃」と呼ばれることもある。 エビ餃子 中国では点心のひとつとして普通にみられるが、日本では豚肉の餃子が主流のため、エビなどの海鮮類を具に用いたものは区別されることが多い。華中、華北でみられるような普通の小麦粉の皮を使うものと広東料理で見られるような浮き粉と澱粉を使った、半透明の皮の物がある。 粉果 潮州料理の点心の一種で、米粉(上新粉)を使った皮で刻んだ野菜や肉などの具を包んで蒸したもの。半透明に仕上がる。 豆腐の夾み蒸し 中国語で「醸豆腐(ニヤンドウフ、niàngdòufu)」と呼ぶもので、華南に移住した客家の人たちが入手困難となった小麦粉の皮の代わりに切込みを入れた豆腐を用い、肉を入れて作ったといわれる。客家料理の東江料理の定番。 卵餃子 中国語で「蛋餃子(ダンジャオズ、dànjiǎozi)」と呼ぶもの。小麦粉の皮の代わりに、薄焼き卵を使ったもの。中国で冷凍食品として売られ、鍋料理の具として広まっている。 餃子巻き おでんの具の一種。餃子を魚のすりみで巻いて揚げたもの。 手羽先餃子 鶏の手羽先の骨を抜いて袋状にし、具を詰めて揚げたもの。 鶏皮餃子 鶏の皮で具を包んで揚げたもの。 糖餃 「糖絞」の字を当てる場合もある。名前に「餃」が付くが、小麦粉の生地を細長く伸ばしたり、ひねって使って油で揚げ、砂糖をまぶした中華風ドーナツの一種。 デザート餃子 最近ではフルーツやお菓子などが餃子のタネとして使われたりトッピングされるデザート餃子というものがある。 餃子鍋 具材のメインとして餃子を用いた鍋料理。2010年冬シーズンの鍋料理市場において注目されるメニューとなっている。通常の餃子を長時間煮込むと皮が破れやすくなったり溶けてしまうことがあるため、皮の耐久性を高めた鍋専用餃子が開発され飲食店で使用している。家庭で餃子鍋を作る際、市販されている焼き調理用の餃子を鍋に使用すると皮の状態によって前出の問題点が発生する可能性があるため、対策として餃子に片栗粉をまぶすことで皮の耐久性を高める方法が考案されている。 餃子パン パン生地で餃子を包んで焼いた総菜パン。沖縄県のオキコなどが製造販売している。 焼売 春巻き ワンタン 中華饅頭 小籠包 福島県福島市の餃子は、戦後満州からの帰国者が店で提供したのが始まりといわれ、餃子専門店が10数軒ある。独特の形状の「円盤餃子」が主流で、餃子をフライパンに円盤状に並べて焼き上げ、そのまま皿に移して出される。小ぶりで皮が厚く具に野菜が多いため味はあっさり系で、にんにくは具に入れず薬味として使う店が多い。餃子専門店を中心に「ふくしま餃子の会」が結成され、餃子の町としての観光PR活動を始めている。 栃木県宇都宮市の餃子の始まりは、補充担任を宇都宮師管とする大日本帝国陸軍第14師団が、1940年(昭和15年)8月以降、衛戍地を満州としたことから宇都宮出身の軍人が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれる。市内には餃子専門店と餃子を扱う料理店が合わせて約200軒あり、一般的な販売価格は1人前200 - 300円程度と低廉で学生がおやつ代わりに食べることが出来る価格帯である。タレは酢だけで食するのが宇都宮スタイルといわれることもあるが、水餃子・揚餃子・焼餃子・スープ餃子など、店舗によりさまざまなスタイルの食べ方が存在する。 1990年(平成2年)、前年に発生した大谷石採掘場での落盤事故をきっかけに観光客が激減し、大谷に代わる町興しに繋げられるキーワードを探していた宇都宮市観光課の職員が、総務庁統計局の「家計調査年報」において、1987年(昭和62年)の調査開始以降「餃子購入額」で同市は常に上位に挙がっていることに注目し、餃子による町興しを提案したのがきっかけで、観光PRに力を入れてきた。 1991年(平成3年)には、業者団体として「宇都宮餃子会」が発足し、行政と民間で協力して様々な企画を仕掛けたことが功を奏し、かつて国際観光都市「日光・鬼怒川」への通過点だった宇都宮が、餃子という大きな観光資源を得ることに成功した。任意団体として発足した宇都宮餃子会は2001年(平成13年)に協同組合となり、登録商標「宇都宮餃子」の管理や組合直営店「来らっせ」3店舗(宇都宮2店、東京1店)の運営管理なども行っており、現在の組合加盟店舗数は70軒を超えている。こうした市内の餃子専門店の中には、市外に支店を進出させている店もあり、餃子ブームは宇都宮市内に留まらず栃木県内各地への広がりも見せている。 またJR宇都宮駅東口広場には、1993年に市とテレビ東京の山田邦子司会の番組『おまかせ!山田商会』とタイアップしPR作戦を行った際、現代美術家の西松鉱二がデザインし、地元産出「大谷石」の業者によって無償で制作されたオブジェ『餃子像』が設置されていた。ビーナスが餃子の皮に包まれた姿を表現したユニークなもので、観光客の人気撮影スポットとなっている。東口駅前整備工事のため2008年10月6日午前、駅の西口バスターミナルへ仮移転させる作業中に不手際から転倒、脚と胴体部分が割れてしまった※リンク切れ。落下させた業者の負担で割れた石の間にボルトを通し、セラミックボンドで接着させるなどの修復作業を行うとともに表面全体を薄く削り、コケの生えた身体をシェイプアップさせた。修復された餃子像は同月中には西口バスターミナル前への移転設置が完了し、式典には山田邦子も姿を見せた。 同時に、国鉄の駅構内販売機関がその沿革の中で『宇都宮駅が駅弁発祥の地』としていたことに因み、「宇都宮餃子駅弁」が企画され現在も地元業者が数量限定で販売している。また宇都宮駅ホームの立ち喰いそば屋『野州そば』には餃子そばというメニューがあった。2005年(平成17年)3月に廃止され、翌2006年(平成18年)の同月に閉場となった宇都宮競馬場には、「宇都宮餃子会長賞」という冠レースがあった(廃止直前は「宇都宮餃子会長賞リーディングジョッキー賞典」、赤字経営だった同競馬場を支援する目的)。 秋には宇都宮餃子会を中心とする市民手作りのイベント「宇都宮餃子祭り」が定例化している。協賛餃子店(みんみんやシンフー、青源など)が市街で屋台を開き、1人前1皿100円の餃子が振る舞われ、また宇都宮はジャズの町でもあることから街角の特設会場では同日にジャズ演奏が行われ、その中で一般市民や観光客が餃子を食す。「宇都宮餃子祭り」は毎年 11月初旬の土日に行われている。2000年代後期、浜松市が独自調査結果から餃子消費量日本一都市を宣言し報道されていたが、2007年(平成19年)4月に浜松市が政令指定都市となって総務省統計局の「家計調査年報」の調査対象となった結果、2009年(平成21年)の同調査で宇都宮市と浜松市の年間餃子消費量は他の都道府県庁所在都市および全政令指定都市中で抜きん出て多く、ほぼ同等の結果(宇都宮市4,187円、浜松市4,137円。以下、鹿児島市2,764円、千葉市2,673円、京都市2,662円、前橋市2,635円等。全国市町村の平均は2,055円。)となった。2011年分の調査では、震災の影響で浜松市に抜かれ、2位に陥落した。 埼玉県南埼玉郡宮代町では、宮代町商工会が、餃子に使用する野菜が町内で多く生産されていることと、町内に餃子を提供している店が多いことから町内ブランドとして「みやしろ餃子」を立ち上げた。 埼玉県北本市は昭和初期までトマトの名産地であったことからトマトを使った揚げ餃子を「とまとルンルン揚げ餃子」として商品化し、ご当地餃子としてPRを始めた。 東京都大田区蒲田は、満州より調理法を受け継いだ店主が1982年より売り出した「元祖羽根つき餃子」を扱う3店舗を中心に、餃子の街としてTVなどで報道されている。 神奈川県川崎市は外食の中華食が全国第1位であることから、川崎の餃子店18店舗が集まり「かわさき餃子舗の会」を結成し、餃子の町としてのPRを始めた。。餃子に合う専用味噌「かわさき餃子みそ」なども発売した。 静岡県裾野市では、市民一万人あたりの餃子取扱店数が、宇都宮市の4.45軒を超える6.04軒であることから餃子を通じて「日本一ギョーザ好きのまち裾野」としてまちおこしをはじめた。「すそのギョーザ倶楽部」を発足させ、加盟店では特産のモロヘイヤの入ったすその水ギョーザを提供している。 静岡市は「餃子の街」であり、餃子消費量も全国平均を大きく上回り、餃子王国宇都宮市を抜き日本一になった年もあった(平成7年家計調査年報)。最近でも2009年(平成21年)の総務省「家計調査」における「ぎょうざ」年間消費額の全国市町村平均が2,055円だったのに対し、静岡市は2,500円(全国51の都道府県庁所在都市および政令指定都市中では第10位)と高水準を保っている。1960年代後半から静岡市内のいくつかの製麺業者が、家庭向けに餃子の具と皮を分けたパックを製造し販売している。 浜松市は餃子専門店が約80軒あり、餃子をメニューとして出す飲食店を含めると300軒以上。キャベツをたっぷりと使った甘味が特色で、薄い塩味で軽く茹でたモヤシを添える独特のスタイルを持つ。これは石松餃子(現在2代目)の先代が、屋台時代に家庭用のフライパンを使って、餃子を丸く並べて焼く時に出来た中央の空間に、店のサービスで茹でたモヤシを添えた事が始まりである。現在2代目の石松餃子では、飼料に麦を混ぜて育てた遠州麦ブタを使い、キャベツも季節によって仕入れ先を変えたりして具材には拘っている。。また、タレに拘った店が多い。終戦後、石松餃子(先代が森の石松の故郷と言われる森町出身)が、浜松駅の近くで出店屋台を開いていて、その時に、満州などで餃子の製法を会得した復員兵から餃子を食べたいと言われて、レシピを聞きながら作ったのが浜松餃子の発祥と言われているが、実は同市に於ける焼き餃子の歴史は古く、戦前より在市の中国人が中華料理の一品として、既に焼き餃子を提供していた事が判っている。この様な歴史により浜松市内の餃子専門店では前記のように茹でモヤシを添えること、酢醤油などではなく店ごとに秘伝のタレを使用すること、餃子以外のメニューを最小限にとどめていることが一般的となっているが例外もある。また、浜松市民は餃子で一食とすることが多く、一回の食事を数十個の餃子だけで済ませることが多い。 当時、総務省の家計調査年報では浜松市は統計発表の対象外だったため、一世帯当たりの餃子の年間支出金額は不明とされていた。家計調査年報とは調査方法は異なるものの、2006年(平成18年)の浜松市役所の調査では、一世帯当たりの餃子の年間消費量は宇都宮市の約4倍、年間消費金額は1万9403円としていた。その後、政令指定都市となり公式に総務省「家計調査」の公表対象都市となり、2010年(平成22年)に宇都宮市の消費額とほぼ同等の結果であったことが分かった。マスコットキャラクターとして「ちゃお」を擁する。2011年には支出額調査でギョーザ支出額で宇都宮市を抜き年間首位となったが、東日本大震災で消費が落ち込んだ影響もあり手放しでは喜べないとした。 三重県津市では、津ぎょうざと呼ばれる大きな揚げ餃子が提供されている。その定義は、直径15cmの大きな皮で餡を包み、油で揚げた揚げ餃子とされている。起源は学校給食であり、1985年頃に考案され現在も提供されている。2008年には「津ぎょうざご当地グルメプロジェクト」が発足し、飲食店やイベントで販売されるようになった。2010年には「津ぎょうざ協会」が設立され、津市の名物料理の一つとなっている。なお、一般の揚げ餃子の一人前は複数個で構成されているが、津ぎょうざは大きいため、一人前が一個で販売されることがほとんどである。 神戸市ではメニューが餃子と飲み物だけという専門店も多く存在する。市内の餃子店は南京町を中心に水餃子が多く見られ、JR神戸線沿いには焼き餃子の店が多く見られ、神戸の焼き餃子の特色として味噌ダレをつけて食べることが挙げられる。 北九州市八幡東区は、かつて鉄の都として栄えた旧八幡市の中心地。その八幡製鐵所に勤務する労働者は肉体疲労がかなり激しく、ニンニクなどのスタミナ素材を好んで食べていたことから餃子文化が浸透。餃子専門店、ラーメン店など、八幡東区の20店舗以上で「八幡ぎょうざ」が食べられる。種類は鉄なべ餃子やひとくち餃子、にんにく入りスタミナ餃子、スープ餃子など多種多様。北部九州では餃子の薬味に「柚子胡椒」を使うこともある。現在、有志が集まり、八幡ぎょうさ協議会(八幡食ブランド実行委員会)を立ち上げており、商店街でイベントなども開催されている。 熊本県の南部に位置する人吉市は人吉城跡等が有名な日本遺産認定都市。キャベツやニラなどの野菜を具材の中心とし、皮目をパリパリに焼いたものが目立つ。全国的に知名度の高い店、メニューが餃子と飲み物だけという専門店も存在する。 主な外食チェーン店には餃子の王将・大阪王将・大阪王・珉珉・宇都宮みんみん・ホワイト餃子店・ぎょうざの満洲・紅虎餃子房などがある。 たとえば、北海道のチェーン店「みよしの」は、一般的な生地(皮)では無く、チルドタイプの餃子を調理し、提供する店舗である。「珉珉」では、国産の具材をベースに餃子を作っていることを宣言している。 餃子に関するフードテーマパークも存在していて、池袋のナンジャ餃子スタジアム(ナムコ・ナンジャタウン内部)がある。 日本では、加工食品としての餃子において下記のような事件が発生した。 2004年 生ゴミ入り餃子事件 - 韓国の企業が、地方自治体に不良食品製造容疑で3度摘発され課徴金を払いつつ生ゴミの大根を材料とした餃子を生産し続け、日本などに輸出していた事件。 2008年 中国製冷凍餃子中毒事件 - 中国で生産され、日本へ輸出された冷凍食品の餃子に高濃度の農薬が混入しており、それを食べた多数の人が薬物中毒を起こした事件。→詳細は中国製冷凍食品による農薬中毒事件、段躍中を参照。 『サイキックハーツ』 - トミーウォーカー社のプレイバイウェブ。宇都宮のご当地怪人として、「宇都宮ぎょうざ怪人」が登場する。これは、「ご当地怪人」という敵種族のサンプルキャラクターでもある。 ^ その焼き餃子で用いる具材や調理法も主流のものは後述の通り、日本の焼餃子とは異なる ^ 日本人のようにご飯と食べられることはないし、老舗餃子専門店で白飯(パイファン)は出ない。浅田次郎は『パリわずらい江戸わずらい』(小学館 2014年pp.229-234)でこの理由を第一に中華料理では「でんぷん+でんぷん」という食べ方がありえない、第二に日本のような白飯信仰のない中国では、あえて食事中に注文されると「量が少ない」という不満を表明しているように受けとられるという。 ^ ただし、交子はjiāoziと声調が異なる。 ^ 地域によって南部などでは餅(年糕、niángāo、年糕、niángāo、)が食される ^ 但し、中国にも日本式焼き餃子と同じ調理法の「鍋貼」が一応は、存在しはする。が、中国人のほとんどはそれは食べたことがない。(鍋貼は、戦前の日本で出版された料理本にも掲載されている。例えば中村俊子、『家庭でできるおいしい支那料理』(P183,富文館,1927)に「鍋烙餃子」(焼餃子)の作り方がある。)中国東北部では蒸し餃子が主流で、古くなった餃子は油でいためる習慣があり、それは日本式の焼き餃子に似る。あくまで、「残り物」の処理方法、といった位置づけである。因みに王将の餃子を指す店内用語「コーテー」「コーテル」は「鍋貼」「鍋貼儿」(鍋貼の儿化)が訛ったものともされ[要出典]、日本で生まれた商業用の中国語風表現の可能性がある。 ^ 調査はスーパー等での生もしくは焼餃子等の購入金額のみで、チルド餃子等の消費量は含まれない。また専門店などで食べられ、外食費として処理される分も含まれない。 ^ 餃子と飲み物のみ、あるいは餃子とご飯と飲み物のみなど ^ 総務省の家計調査年報では、都道府県庁所在地および政令指定都市別の品目別支出金額が公表される。しかし、浜松市が都道府県庁所在地だったのは1876年(明治9年)までであり、政令指定都市に昇格したのは2007年(平成19年)だったため、家計調査年報の都市別集計の対象に含まれていなかった。 ^ a b c d e f g h 于亜「中国山東省における餃子食の意味と地域的特質」、『人文地理』第57巻第4号、人文地理学会、2005年、 396-413頁、 doi:10.4200/jjhg1948.57.396。 ^ 復活した冷凍ギョーザ市場、首位固めに動く味の素 ^ イートアンド、4~5月は焼き餃子売上37.8%増、シェア3割超に ^ 石橋崇雄『大清帝国』講談社、2000年。 ^ 中村俊子、『家庭でできるおいしい支那料理』p181、富文館、1927 ^ 秋穂敬子、『支那料理』p323、東京割烹女学校、1935年 ^ 主婦之友編、『お鍋一つで出来る支那料理と支那菓子の作方』(『主婦之友』5月号別冊付録)、p12、主婦之友社、1940年 ^ 李信徳 (2001). 韓国料理 伝統の味・四季の味. 柴田書店. p. 115. ISBN 4-388-05895-5.  ^ 「フランス・パリに行列ができる餃子レストランが登場」(2012年6月18日ロケットニュース24) ^ デザート餃子 + 餃子 ^ 餃子鍋レシピ(クッキングノート) ^ a b c 今冬の注目は餃子鍋? 鍋専門店のメニューに続々登場 - J-CAST 2010年10月15日 ^ 2010年冬の“鍋”は、バリエ豊かな「餃子鍋」が大本命! - 東京ウォーカー 2010年10月24日 ^ a b c 2010年11月1日放送『DON!』(日本テレビ)特集「2010年 DON!オススメ!この冬絶対はやる鍋!!」 ^ 水餃子鍋(サントリー) ^ 散歩の達人MOOK「栃木さんぽ」(2016.6.1交通新聞社発行)P32-33 ^ 宮代町商工会 ^ 【ぐるなびPR】第6回 埼玉B級ご当地グルメ王決定戦 ^ 彩流社『ニッポン定番メニュー事始め』澁川祐子 27頁 ^ 日本テレビNNN Newsリアルタイム「絶品ギョーザ大集合厳選(秘)情報」2010年2月8日放送分より。 ^ ぎょうざ舗の会 - 地元密着川崎最強ポータルサイト「カワサキオンライン」 ^ 日本一ギョーザ好きのまち裾野 ^ ご当地グルメ 浜松餃子 ^ 浜松餃子学会 ^ 「日本一『ギョウザ』好き――浜松市悲願達成」『J-CASTニュース : 日本一「ギョウザ」好き 浜松市悲願達成』ジェイ・キャスト、2007年(平成19年)2月20日。 ^ ギョーザ日本一の浜松、「手放しで喜べない…」読売新聞 2012年2月1日 ^ 津ぎょうざご当地グルメプロジェクト 関連食品 ダンプリング ひとくち餃子 点心 焼売 すその水ギョーザ うどんぎょうざ イベント・施設 B-1グランプリ 池袋餃子スタジアム 関連団体 合同会社日本餃子協会 日本餃子協会 著名人 パラダイス山元 - 芸能界一の餃子通、東京で完全会員制餃子専門店「蔓餃苑」を開店。 橘田いずみ - 声優であるが、餃子評論家としても活動。特に宇都宮餃子に関する造詣が深く、宇都宮愉快市民及び宇都宮餃子PR特命アンバサダーを務める。 スペシャオ餃子BAND - 餃子の楽曲ばかりを演奏するバンド、全国餃子サミット協議会オフィシャルバンド チャオズ箕輪 - 宇都宮市出身のプロボクサー。リングネームが餃子の中国語読みに由来。", "キーライムパイ(英: key lime pie)とは、キーライム(Citrus aurantiifolia)果汁、卵黄、コンデンスミルクをパイクラストに入れて作るアメリカ合衆国のデザートである。 キーライムパイの起源は19世紀末のフロリダキーズにもとめられる。伝統的なコンク(ヨーロッパ系バハマ移民)の製法では、卵黄を使用しメレンゲをトッピングする。このパイは、フロリダキーズ全域に自生する小さなキーライムから名付けられた。キーライムは、とげがあって扱いづらく、薄く黄色い皮は傷みやすいが、多くの米国食料品店で一年中販売されるタヒチライム(別名ペルシャライム、Citrus × latifolia)より酸味と芳香が強い。 フロリダキーズでは冷蔵配送が行われるまで牛乳は日用品でなかったため、キーライムパイは缶入りコンデンスミルクで作られた。 キーライムの果汁は、通常のライム果汁と異なり、淡黄色である。キーライムパイのフィリングもまた、主に卵黄を使用することにより、黄色である。着色料でパイフィリングを緑にする場合もあるが、伝統的なキーライムパイ作りでは邪道とされる。 具材を混ぜる際、コンデンスミルクとライム果汁に含まれる酸が反応して凝固し、フィリングに火を通すことが不要になるほど固まる。キーライムパイの初期のレシピではパイを焼かずにこの化学反応でフィリングを固めていた。現在は、生卵の使用によるサルモネラ中毒の危険性のため、この種のパイには通常短時間の焼き工程がある。この焼き工程により、フィリングはさらに固まる。 1965年に、フロリダ州下院議員バーニー・パピ・ジュニアは、キーライムを使用せずにキーライムパイと宣伝したものに罰金100ドルを科す法案を提出したが、法案は可決されなかった。 2006年7月1日より、キーライムパイはフロリダ州の公式な「州のパイ」である。 初期にはAndroid 4.4のコードネームとして用いられていたが、キーライムパイの味を知るものが少ないという理由でキットカットに変更されている。 ナチュラル・ボーン・キラーズ - 主人公達が立ち寄ったダイナーで注文するシーンあり。鮮やかすぎる毒々しい緑色を放つ。 デクスター 警察官は殺人鬼 - 主人公の養父の友人で「キーライムパイ」に一家言を持つ女性が登場し、シーズン途中で末期ガンに侵され、主人公が殺人鬼であること察している上で彼に尊厳死を希望していることを告げ、その意を受けた主人公がキーライムパイに毒物を仕込んで食べさせるシークエンスがある。 シェイプ・オブ・ウォーター - 主人公の隣人が、密かに想いを寄せているダイナーの店員に会うたびに、店の不味いキーライムパイを買い続けるシーンがある。 ^ a b Conch Cooking, L.P. Artman, Jr., August 1975 Florida Keys Printing & Publishing, page 74 ^ History of Key Lime Pie ^ A Chronological History of Key West A Tropical Island City, 3rd edition, Stephen Nichols ^ “SB 676 - Official State Pie/Key Lime”. 2006年8月14日閲覧。 ^ Android 4.4 KitKat 公式コラボのキットカット登場、Nexus 7他が当たるキャンペーンも実施 - engadget 日本語版、2013年9月4日", "エビのチリソースは、エビを辛い味付けで炒めた料理。エビチリという略称で呼ばれることも多い。 現在知られているポピュラーなレシピは、中華料理人の陳建民が日本で中華料理店を営むにあたり、四川料理の「乾燒蝦仁」(カンシャオシャーレン)をアレンジしたレシピが広まったものである。 当時は日本人が豆板醤の辛味に慣れていなかったことからケチャップ、スープと卵黄を用いて辛味を抑え、また調理法そのものを簡易化し今のエビチリが作られた。 このレシピが完成するまでは、生のトマトを刻んで入れたりするなどの試行錯誤があり、現在のエビチリは陳建民が晩年に至って完成させたものであると、陳建民の息子の陳建一は語っている。 ケチャップやスープの素の利用により、家庭でも作ることが容易になり、辛さが抑えられた事もあって、日本の大衆に受け入れられ、中華料理ブームに乗った食品会社の宣伝も手伝って一気に普及した。今日では代表的な中華料理の一つとして広く親しまれている。 簡易には、市販のエビのむき身を炒め、市販のチリソースとからめ、皿に盛れば完成。各社より、いろいろなチリソースが市販されている。 陳建一が伝えるレシピは以下のようになる。エビの下拵えに手間をかけ、食感にこだわる。 下拵え 長ネギ・ショウガ・ニンニクをみじん切りにする。長ネギは最後に使うので分けて置いておく。 蝦の背ワタを取り、塩でよく揉んで、洗い水が透明になるまで濯ぎ、汚れをとる。 玉子を割って、卵黄と卵白に分けておく 調理 十分に蝦の水気を切ってから、卵白、片栗粉、酒、塩、胡椒をまぶす。 蝦を油通しまたは炒めて、軽く火が通ったら鍋から出す。 ソースを作る。ショウガ、ニンニク、豆板醤を弱火で炒め、香りが出てきたらケチャップを入れる。全体が炒まり気泡が上がるようになったらスープを加え、酒、塩、胡椒を混ぜて好みの味にする。 蝦を加えて炒め合わせ、長ネギを加える。ここで、先ほど分けておいた卵黄を流し入れると辛味が抑えられ、まろやかになる。蝦が硬くなるので加熱しすぎないよう気を付ける。 水溶き片栗粉でとろみをつけ、仕上げに、風味づけの酢と胡麻油を少々加えて完成。 チリクラブ きょうの料理 陳建一のえびのチリソース 干烧虾仁的做法 - 美食天下", "かりんとう(かりん糖)は、小麦粉を砂糖・水・イーストや食塩・重曹などと共に練り合わせて棒状に成形した生地を、植物油で揚げ、黒砂糖や白砂糖で作った蜜をからめて乾燥させた、和菓子の一種である。花林糖と当て字で表現されることもある。膨化食品の一種。 庶民が慣れ親しんできた昔ながらの駄菓子としてのかりん糖がより一般的と言えるが、高級和菓子で知られる老舗の商品としてのかりん糖もある。現代日本では、胡麻の実、抹茶、大豆、蕎麦粉、ピーナッツ、各種の緑黄色野菜・根菜等々、様々な食材や、卵殻由来カルシウム等を生地に混ぜたものが市販されている。また従来、植物油で揚げていた生地を焼き上げ黒砂糖で作った蜜をからめた、焼きかりんとうも市販されている。 起源については諸説あり、はっきりとはしていない。唐菓子を起源とする説によれば、奈良時代、遣唐使によってもたらされた唐菓子であり、古代の上流階級に「捻頭(むぎかた)」の名で親しまれ、食されたという。江戸時代には関東にも広まり、天保年間には、江戸深川の山口屋吉兵衛が「花りんとう」の名で売り出して一気に評判を呼び、一時の江戸には200人の売り子が出たといわれる。明治初期には東京浅草周辺から庶民の味として親しまれるようになった。なお、現代の中国には「江米条」と呼ばれるかりん糖に似た菓子がある。また、日本の愛知県津島市の津島神社周辺地域(旧・尾張国海東郡、津島神社界隈)には「あかだ」「くつわ」と呼ばれる米粉を用いた昔ながらの油菓子がある。 南蛮菓子を起源とする説によれば、関連性を示す研究・文献はないものの、スペインにはペスティーニョ(スペイン語版)と呼ばれるかりん糖そっくりの菓子がある。 関東のかりん糖は生地の発酵を長めに行い、比較的柔らかくて軽く、からめる蜜には白砂糖が用いられることもある。元々は上流階級の菓子として広まったもので、現在の高級なかりん糖の先駆けとなった。 一方、関西では硬めにこねた生地を用いるため、比較的硬めの食感を身上としており、先述の姫路地方で播州駄菓子(ばんしゅうだがし)と呼ばれるなど駄菓子として発達した。 東北地方ではバラエティに富み、岩手県の沿岸北部では棒状ではなく円盤状に成形した生地を揚げており、煎餅に似た形状が特徴である。秋田県では短冊状に加工したものがあり、味付けも味噌と砂糖をまぜたものを使う場合がある。宮城県では大崎市岩出山(旧・玉造郡岩出山町)の名物とされ、県内では袋だけでなく一斗缶に入った状態でも販売されている。 市販品のほかに家庭でも、食パンの耳を油で揚げ、砂糖や蜂蜜の汁に絡めて作るかりんとうがある。食感は、どちらかというとラスクに近い。サンドイッチを作る際などに食パンから切り落とした耳を再利用できることから、節約メニュー、幼稚園児の弁当の裏技としても薦められている。昭和初期生まれの人々には、子供の頃の思い出のおやつとして、このパンの耳のかりんとうを挙げる人も多い。 ^ a b c 宮崎正勝 『知っておきたい「食」の日本史』 角川学芸出版〈角川ソフィア文庫〉、2009年、197頁。ISBN 978-4-04-406412-9。 ^ a b 丹阿弥谷津子他 『NHKおばあちゃんの知恵』 NHKラジオ制作部「こんばんはラジオセンター班」編、飛鳥新社、1988年、43-44頁。ISBN 978-4-87031-056-8。 ^ a b “3時のおやつ”. おさとうドットコム. 上野砂糖. 2012年12月1日閲覧。 ^ 丸山千晶他 『決定版! 幼稚園のおべんとう裏ワザ大事典』 吉村太郎編、辰巳出版〈タツミムック〉、2012年、80頁。ISBN 978-4-777-80987-5。 ^ 小泉和子編 『ちゃぶ台の昭和』 河出書房新社〈らんぷの本〉、2002年、77-78頁。ISBN 978-4-309-72723-3。 奉天 かみなり 黒ねじ 芋ケンピ - かりんとうから派生したとされる。 かりんとう饅頭 - 福島県田村市等で販売されている菓子。 油菓子 - 愛知県蒲郡市周辺で作られる郷土菓子の一種。 東京カリント - かりんとうを主に販売している企業。 麻花 - 中国華北の菓子。" ]
ABC01-02-0139
フランス語で「新しい芸術」という意味の、19世紀にフランスやベルギーで起こった芸術運動を何というでしょう?
アール・ヌーヴォー
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[ "アール・ヌーヴォー", "モデルニスモ", "世紀末芸術", "新古典主義", "シカゴ派" ]
[ "アール・ヌーヴォー(フランス語: Art nouveau)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。 第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。しかし、1960年代のアメリカ合衆国でアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。ブリュッセルやリガ歴史地区のアール・ヌーヴォー建築群は世界遺産に指定されている。 アール・ヌーヴォーという言葉はパリの美術商、サミュエル・ビングの店の名前から一般化した。この言葉で狭義にベル・エポックのフランスの装飾美術を指す場合と、広義にアーツ・アンド・クラフツ以降、世紀末美術、ガウディの建築までを含めた各国の傾向を総称する場合とがある。国によって次のようにも呼ばれているが、これらの様式の大部分にはそれほど大きな違いはない。 「ティファニー」(アメリカ合衆国。ルイス・カムフォート・ティファニーの名による)、「ユーゲント・シュティール(ドイツ。雑誌『ユーゲント』から)、「ウィーン分離派」(オーストリア)、「ネーウェ・クンスト」(オランダ)、「スティレ・リベルティ」(イタリア。リバティ百貨店から)、「モデルニスモ」(スペイン)、「スティル・サパン」(スイス)、「スティル・モデルヌ」(ロシア)、「モダン・スタイル」(イギリス)など。フランスでは、アール・ヌーヴォーは批判者からは、特徴的なアラベスクなフォルムから「ヌイユ様式」(麺類様式)、またエクトール・ギマールにより1900年に実現されたパリ地下鉄のこの様式の出入口から「メトロ様式」などとも呼ばれた。 アール・ヌーヴォーの理論的先駆はヴィクトリア朝イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に求められる。ウィリアム・モリスやジョン・ラスキンらは、工業化の進行とそれによる創造性の枯渇を厭い、社会の再生は、人々の周りにあり人々が使うもののフォルムの真正性によってしか成されないのであるとして、中世のギルドの精神、自然界のモチーフの研究、洗練されたフォルムへの回帰を強く勧めた。 フランスでは、この意図は多少なりともモラリスト的で、より合理的なものとなった。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクは現代的な素材(特に鉄)を拒絶せず、中世のゴシック建築の構造と同様に逆にそれに装飾的・美的な機能を与えて誇示した。一連のネオ・ゴシック運動の先導者として知られていたにも関わらず、ヴィオレ・ル・デュクは数々のアール・ヌーヴォーの建築家にも影響を与えた。ロックタイヤード城のフレスコ画(1859)を含む彼の諸作品はネオ・ゴシック運動とアール・ヌーヴォーの血縁関係の完璧な例である。 1893年にヴィクトール・オルタがブリュッセルに建設したタッセル邸がアール・ヌーヴォー様式の最初の建築物であると見做されている。そこではヴィオレ・ル・デュクの流れを完璧に酌んで、金物、モザイク、壁画、ステンドグラスといった構造的であると同時に装飾的でもある要素を取り囲む植物的な曲線が空間のなめらかな流れと響き合っている。 「アール・ヌーヴォー」という言葉は1894年にベルギーの雑誌L'Art moderne(現代美術)においてアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの芸術作品を形容する言葉としてエドモン・ピカールが初めて用いた。この言葉はフランスに伝わり、1895年12月26日、パリのプロヴァンス通り22番地に美術商サミュエル・ビングの店「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」(仏: Maison de l'Art Nouveau)の看板として登場した。ここではヴァン・デ・ヴェルデの他、エドヴァルド・ムンク、オーギュスト・ロダン、ルイス・カムフォート・ティファニー、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなど、多数の象徴派とアール・ヌーヴォーの勢力下の展示が行われた。エクトール・ギマールは彼らとは別の孤独な道を行き、「ギマール様式」と呼ばれる彼独自の世界を作り出し、多作かつ隔絶した才能であったと見なされている。 フランスのアール・ヌーヴォーの最も見事な総体が構成されたのはナンシーである。1870年のアルザスとモゼルの併合の後、ドイツの支配の下に留まることを望まなかった多数の併合ロレーヌ地方の住民は仏領ロレーヌに移住した。ここでアール・ヌーヴォーは地方主義要求の表明手段となり、エミール・ガレ、ドーム兄弟、ジャック・グリューバーらがナンシー派を形成した。 1900年のパリ万国博覧会でビングは現代的な家具、タペストリー、芸術的オブジェなどを色とデザインの両面でコーディネートしたインスタレーション展示を行った。これらの完全な形で再現された装飾的なディスプレイはこの様式と非常に強く結び付いていたので、結果としてビングの店の名前「アール・ヌーヴォー」が様式全体を指すようになった。他方で彼らの真正の作品は、彼ら自身が(意図せずに)提唱者となった流行の成功によって飲み込まれ、はびこる粗製濫造の装飾品(ビングとヴァン・デ・ヴェルデの告発)はアール・ヌーヴォーの記憶を長きにわたり汚すことにもなる。 アール・ヌーヴォーは、フォルムの再生を妨げる格式ばった歴史主義とは異なる選択肢を提案するために象牙の塔から出て、日用品の装飾を引き受け過去の様式を断ち切りつつも利用する一群の芸術家たちの営みであった。 この観点から、木や石のような古くからの素材が鋼やガラスのような新しい素材と組み合わされた。芸術家たちはそれぞれの素材から最良のものを引き出すべく極限まで探求を推し進めた。多層のパート・ド・ヴェール(ガラス工芸の一種)、金物工芸の組み合わせ模様を施した階段の手すり、うねりのある木の家具などは、自然界に刺激されたフォルムの革新への意志を保ちつつも、意向に応じて手頃な価格で芸術を取り入れることを可能にした。この芸術はまた数多くのパトロンを持ち、選ばれたブルジョワ階層の間で広がって行った。 花、草、樹木、昆虫、動物などのモチーフがよく用いられ、これらは住居の中に美を取り入れるのみならず自然界にある美的感覚に気付かせることを可能にした。他方で鋼の使用は建築物の高層化を可能にし、摩天楼を実現するまでに至った。 アール・ヌーヴォーはパリの無数の建物に影響を与えたのはもちろん、ヴァル=ド=マルヌやエソンヌやセーヌ=サン=ドニといったパリ近郊を散歩するとよく目にする、大半が20世紀初頭に建造された珪石造の数多くの古い別荘にも非常に大きな影響を与えている。錬鉄の大胆な使用、煉瓦と陶器による装飾、切妻と時として小塔がこれらの特徴となっている。こうした郊外でフランスの建築家たちは、アカデミズムとは対照的に総体的なものであろうとしたアール・ヌーヴォーが端緒となった新しい素材と新しい様式を実験したのである。 第一次世界大戦を境に、様式化が進みコスト高でもあったアール・ヌーヴォーのデザインは、流線型で直進的であり安価に製造できる、ラフで簡素で工業的な美意識に忠実であると考えられたモダニズム的なデザインへと変化して行った。アール・デコである(1920-1940)。 アール・ヌーヴォーの家具の概念は職人仕事を再生させた。アール・ヌーヴォーは制作者個々人によるスタイルであり、それは職人の仕事を中心に据え機械仕事からは距離を置くものであった。室内装飾の領域での大きな革新は統一性の探求にあった。とはいえ、アール・ヌーヴォーも伝統的な様式と無縁というわけではなく、とりわけゴシック、ロココ、バロックなどの影響を残していた。ゴシックから理論的なモデルを、ロココなどから非対称性の応用を、バロックからはフォルムの造形的な概念を引き継いでいる。日本の彩色芸術もまた、その立体感の極めて平面的な扱いによって、ギリシャ式オーダーの対称性への隷属からアール・ヌーヴォーが解放されるのに貢献した(ジャポニスム)。 木は奇妙な形となり、金属は自然の流れの交錯を模倣して曲りくねった形となった。実際に、アール・ヌーヴォーは自然の観察に大いに基づいており、それは装飾のみならず、見方によっては構造的な部分にまで及んでいた。命を持つ、官能的な波打つ線が構造部分にまで行き渡り支配していた。椅子やテーブルは素材の中で特徴的なしなやかさに形作られていた。それが可能なあらゆる箇所で、直線は禁じられ、構造上の分かれ目は連続した曲線と動線のために隠されていた。アール・ヌーヴォーの最も優れた作品は、その際立った線のリズムにより、18世紀の高級家具にも似た調和を見せていた。 フランスでは、アール・ヌーヴォーは2つの派に分かれていた。一方はサミュエル・ビングとその店を中心としたパリ、もう一方はエミール・ガレ(1846-1904)に率いられたナンシーのそれである。ロココとアール・ヌーヴォーの類縁性が最も説得力を持つのはナンシーの方であった。それほど魅惑的ではないが、当時最も名を知られていた芸術家の1人であったルイ・マジョレル(1859-1926)が間違いなくナンシーのアール・ヌーヴォーの2番目の先導者であった。ガレは植物から象徴的な文学の銘に至るまでの幅広いモチーフの象嵌細工を得意とした。この巨匠の作品に典型的に見られるのが構造的な要素が幹や枝から末では花となって終わる変容である。ナンシー派とは対照的に、パリのアール・ヌーヴォーはより軽快で洗練された簡素なものであった。自然から着想されたモチーフはより大まかに様式化され、場合によっては半抽象化までされており、副次的なものとなっているように見える。 自然を主要な着想源としたアール・ヌーヴォーは宝飾芸術にも新たな命を吹き込んだ。この革新は琺瑯細工やオパールやその他の半貴石のような新しい素材での職人芸によって成し遂げられた。日本美術への関心の広がりや各種の金属加工技術への高まる情熱が新しい芸術的なアプローチや装飾の主題に大きな役割を演じた。 18・19世紀には、宝飾は貴石、特にダイヤモンドに集中していた。宝飾工の主要な関心は宝石を輝かせるために取り付ける枠を作ることにあった。アール・ヌーヴォーの到来により、芸術的なデザインの概念に動機付けられ、嵌め込まれる宝石にはもはや装身具の中核的な重要性を置かない新しいタイプの宝飾が日の目を見た。 パリとブリュッセルの宝飾工たちがこの急変の主導者となり、彼らの吹き込んだ新しい息吹はアール・ヌーヴォー様式の高い評判となって現れた。宝飾芸術は根源的な変容を経験し、その中心となったのは宝飾工でありガラス職人であったルネ・ラリックであったというのが現代フランスの批評家たちの一致した見解である。ラリックはその作品において、日本美術の意匠に着想を得て蜻蛉や草といったあまり慣習的でなかった要素を取り入れることでレパートリーを増し自然をさらに輝かせた。 宝飾工たちはこの新しい様式を伝統に組み入れ、ルネサンスの、特に七宝と彫刻を解こした装身具から着想を汲み他と一線を画そうと望んだ。七宝を施した作品の多くにおいて宝石は主役の座を譲り、ダイヤモンドも造形したガラス・象牙・角といったそれまであまり一般的でなかった素材と組み合わせての副次的な役割に格下げされた。宝飾工という職業の認識も変化し、その作品性のためもはや職人ではなく芸術家であると考えられるようになった。 ナンシー派運動のメンバーであったルイ・ギンゴはあまり知られていないが間違いなくアール・ヌーヴォーの画家であった。ギンゴは膠絵具による独創的な技法を用いた。アンリ・ベルリ=デフォンテーヌ、ジュール・シェレ、ジョルジュ・ド・フール、ヴィクトル・プルヴェ、テオフィル・アレクサンドル・スタンランなどの画家たちも純粋芸術とマイナー芸術の分離を拒否して絵画・リトグラフ・ポスターに同じように労力を捧げた。絵画もまた装飾の1つとなったのである。 スイスのアンドレ・エヴァールもアール・ヌーヴォーの画家として挙げられるであろう。 本の表紙から雑誌の挿絵まで、宣伝ポスターから装飾パネルまで、新聞のタイポグラフィから絵はがきまで、ありとあらゆるところにアール・ヌーヴォーはその足跡を残した。グラフィックデザインやイラストレーションに属するこれらの領域に専心した数多くの者たちの中でも、最も大きな影響力があったのは間違いなくチェコのアルフォンス・ミュシャであり、1895年1月1日にパリの街頭に貼り出されたヴィクトリアン・サルドゥの演劇『Gismonda』のポスターは一夜にしてセンセーションを巻き起こした。これらの作品は、ほとんどの場合で女性を中央に据え、自然の要素からなるアラベスクで取り囲んだ繊細なデザインで世界的な評判を獲得した。主に商業的な性質の作品で用いられたこのスタイルは当時のイラストレーターたちに広く模倣された。 オーブリー・ビアズリーが最も独創的なアール・ヌーヴォーの芸術家の1人として挙げられる。ビアズリー独特の白黒イラストレーションは、挿画の対象に選んだ主題が不遜なもので論争を引き起こしたにも関わらず同時代人の賞賛を浴びた。 その他の著名なポスター作家としてチャールズ・レニー・マッキントッシュ(アーツ・アンド・クラフツ運動の一員であった)、アンリ・プリヴァ=リヴモン、コロマン・モーザー、フランツ・フォン・シュトゥックなどが挙げられる。 ジュール・シェレ『Cacao Lhara』ポスター(1890) テオフィル・アレクサンドル・スタンラン『黒猫』ポスター(1896) プラハの聖ヴィート大聖堂にあるアルフォンス・ミュシャのステンドグラス オーブリー・ビアズリーによるオスカー・ワイルド『サロメ』挿絵(1892) チャールズ・レニー・マッキントッシュ『スコットランド音楽レビュー』(1896) アンリ・プリヴァ=リヴモン『カブールのカジノ』ポスター(1897) コロマン・モーザー『洞窟の中のヴィーナス』(1915) フランツ・フォン・シュトゥック『国際衛生博覧会』ポスター(1911) エクトール・ギマールによるパリの地下鉄駅出入口 ヴィクトール・オルタによるタッセル邸(ブリュッセル、1893年) ポール・アンカールのアンカール邸、ブリュッセル ポール・コーシーのコーシー邸、ブリュッセル、1905年 シャルルロワにある『黄金の家』、Gabriel van Dievoetによるスグラッフィートがある レオン・ドリュヌのドリュヌ邸、ブリュッセル アントニ・ガウディによるサグラダ・ファミリア(建設中)、バルセロナ アンリ・ソヴァージュによるマジョレル邸、ナンシー、1902年 オテル・デュ・パルク(旧オテル・メトロポール)、プロンビエール=レ=バン ジャン=エミール・レスプランディによるチュニス市立劇場、1902年 ヨゼフ・マリア・オルブリッヒによるセセッション館(分離派会館)、ウィーン、1898年 ルサージュ薬局、ドゥーヴル=ラ=デリヴランド レストラン「ラ・フェルメット・マルブーフ」(パリ、1900年) ジャック・エルマンによるソシエテ・ジェネラル本店(パリ、1912年) アール・ヌーヴォー運動の中心地であったナンシーとブリュッセルにはこの他にも数多くのアール・ヌーヴォー作品が残っている。またリガにはヨーロッパ最大規模のアール・ヌーヴォー建築群がある。 エクトール・ギマールによるパリ地下鉄出入口 ポール・アンカールのアンカール邸、ブリュッセル シャルルロワにある『黄金の家』 レオン・ドリュヌのドリュヌ邸、ブリュッセル ドリュヌ邸、ポール・コーシーのスグラッフィート アントニ・ガウディによるサグラダ・ファミリア(建設中)、バルセロナ アンリ・ソヴァージュによるマジョレル邸、ナンシー マジョレル邸内部。煙突はアレクサンドル・ビゴー、ステンドグラスはジャック・グリューバーの作 オテル・デュ・パルク(旧オテル・メトロポール)、プロンビエール=レ=バン ジャン=エミール・レスプランディによるチュニス市立劇場、1902年 ヨゼフ・マリア・オルブリッヒによるセセッション館(分離派会館)、ウィーン、1898年 ウィーン分離派会館のオブジェ。ユーゲント・シュティールの典型例 ルサージュ薬局、ドゥーヴル=ラ=デリヴランド ジャック・エルマンによるソシエテ・ジェネラル本店(パリ、1912年) フランス、ベルギーがアール・ヌーヴォーの中心地であったが、同様の新しい芸術様式はヨーロッパ各地やアメリカ合衆国でも花開いた。イギリス、チェコ、イタリアその他の国々にもアール・ヌーヴォー様式の鉄道駅、ホテルの建物などが残っている。 パリでは 1895年にサミュエル・ビングがアール・ヌーヴォーの画廊を開き、1900年にはパリ万国博覧会が催され、地下鉄駅出入口やカステル・ベランジェで知られるエクトール・ギマールのほか、ガラス工芸家のルネ・ラリック(ラリックの活動期間は長く、アール・デコの時代に及ぶ)、建築家ユジェーヌ・ガイヤール、金物師エドガー・ウィリアム・ブラント(兵器開発者でもあった)、画家ポール・ベルトン、アルフォンス・ミュシャ、ウジェーヌ・グラッセなどの重要人物たちの活動の場となった。 しかしながら、最もまとまったグループを形成したのはナンシー派であり、ガラス工芸家のドーム兄弟、エミール・ガレ、ジャック・グリューバー、家具師ルイ・マジョレル、建築家ユジェーヌ・ヴァラン、 オクターヴ・ゲラン、彫刻家アントナン・バルテルミなど数多くの人物を輩出した。 ベルギーでは、ヴィクトール・オルタが最初のアール・ヌーヴォー建築を建設し、ポール・アンカール、エルネスト・ブルロ、ポール・コーシー、ギュスターヴ・ストローヴァン、ポール・サントノイ、レオン・ドリュヌ、フィリップ・ウォルハーズ、ジュール・ブリュンフォー、Gabriel van Dievoet[訳語疑問点]、ギュスターヴ・セリュリエ=ボヴィ、ヴィクトル・ルソーなど数多くのアール・ヌーヴォー建築家・芸術家を輩出した。運動のオピニオンリーダーであったアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデはドイツでその芸術を発展させた。 オルタのタッセル邸やソルヴェー邸は「建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群 (ブリュッセル)」の名で世界遺産となっている。 イギリスはアール・ヌーヴォーの起源であり、詩人・デザイナーのウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動がアール・ヌーヴォーの先駆けとなり、ロンドンとグラスゴーで活動した建築家のシャルル・ロバート・アシュビー(Charles Robert Ashbee)、イラストレーターのウィリアム・H・ブラッドリー(Will H.Bradley)らに受け継がれた。 後には、グラスゴーでチャールズ・レニー・マッキントッシュとその妻マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ、マーガレットの妹フランシス・マック・ドナルド、ハーバート・マックニーの「4人組」(The Four)が「グラスゴー派」を形成した。オーブリー・ビアズリーによるオスカー・ワイルド『サロメ』の挿絵はアール・ヌーヴォーのイラストレーションの代表格である。 特にドイツ語圏のものをユーゲント・シュティール(青春様式)という。 オーストリアでは1897年にウィーン分離派(ゼツェッシオン)が旗揚げし、総合的な芸術運動を目指した。代表的芸術家は、ウィーン分離派の中心人物であった建築家のオットー・ワーグナー、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒや画家のグスタフ・クリムトなど。 ドイツでは建築家のアウグスト・エンデル、彫刻家のヘルマン・オブリストなどを中心にミュンヘン、ベルリン、ダルムシュタットでユーゲント・シュティールが展開された。 スペインのものをモデルニスモ(モダニズム)などと呼ぶ。特にバルセロナを中心に、アントニ・ガウディのほかドメネク・イ・モンタネル、プッチ・イ・カダファルク、ジュゼップ・マリア・ジュジョールなどの建築家がいる。 オランダでは画家ヤン・トーロップと建築家ヘンドリック・ペトルス・ベルラーへがいる。 イタリアでは「スティレ・リベルティ」と呼ばれ、いずれも建築家のエルネスト・バジーレ、ライモンド・ダロンコ、ジュゼッペ・ソマルーガ、カルロ・ブガッティ、ジュゼッペ・ブレガが活躍した。 北欧ではノルウェーでエドヴァルド・ムンクがアール・ヌーヴォー絵画を残しているほか、オーレスンがユーゲント・シュティール建築で知られている。フィンランドには建築家エリエル・サーリネンがいた。 チェコのプラハ本駅は高名なアール・ヌーヴォー建築である。アルフォンス・ミュシャはパリで活躍したが、出身はチェコであり、名前も本来の発音は「ムハ」に近い。 ハンガリーの建築家レヒネル・エデンにはブダペストの応用美術館、郵便貯金局などの仕事がある。 ラトビアのリガは数多くのアール・ヌーヴォー建築で知られている。リガとロシアのペトログラード(現サンクトペテルブルク)で、建築家のミハイル・エイゼンシュテイン(映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテインの父)が活躍した。 アメリカ合衆国ではシカゴの建築家ルイス・サリヴァンや、ニューヨークの宝飾デザイナー・ガラス工芸家ルイス・カムフォート・ティファニーが活躍した。 日本の木版画(浮世絵)、とりわけ葛飾北斎の諸作品はアール・ヌーヴォーの語彙の形成に強い影響を及ぼした。1880年代から1890年代にかけてヨーロッパを席巻したジャポニスムはその有機的なフォルム、自然界の参照、当時支配的だった趣味とは対照的なすっきりしたデザインなどで多くの芸術家に大きな影響を与えた。エミール・ガレやジェームズ・マクニール・ホイッスラーといった芸術家が直接取り入れたのみならず、日本に着想を得た芸術やデザインはサミュエル・ビング(パリ)やアーサー・ラセンビー・リバティ(ロンドン)といった商人たちの店によって後押しされた。ビングはアール・ヌーヴォーの店を開く前は日本美術の専門店を経営しており、1888年からは『芸術的日本』(La Japon Artistique)誌を発行してジャポニスムを広めた。 日本美術から刺激を受けたアール・ヌーヴォーは逆輸入の形で日本にも影響を与えた。夏目漱石の『猫』など一連の本の装幀(橋口五葉)、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』・雑誌『明星』の表紙(藤島武二)や杉浦非水のポスターなどに直接的な影響が見られる。高畠華宵の出世作となった「中将湯」広告にはビアズリーの影響が指摘されている。インテリアでは、北九州市の旧松本健次郎邸(現西日本工業倶楽部)の内装(1912年ごろ、辰野金吾設計)にアール・ヌーヴォーの影響が指摘される。 Paul Aron, Françoise Dierkens, Michel Draguet, Michel Stockhem, sous la direction de Philippe Roberts-Jones, Bruxelles fin de siècle, Flammarion, 1994 Françoise Aubry, Jos Vandenbreeden, France Vanlaethem, Art nouveau, art dèco & modernisme, Èditions Racine, 2006 Franco Borsi, Victor Horta, Èditions Marc Vokar, 1970 Franco Borsi, Bruxelles, capitale de l'Art nouveau, Èditions Marc Vokar, 1971 Franco Borsi, Paolo Portoghesi, Victor Horta, Èditions Marc Vokar, 1977 Maurice Culot, Anne-Marie Pirlot, Art nouveau, Bruxelles, AAM, 2005, pp. 16, 35, 90, 91. 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ISBN 0500202737 アール・ヌーヴォーとアール・デコ 甦る黄金時代(監修者:千足伸行、小学館、2001年)ISBN 4096996912 スティーヴン・エスクリット(天野知香訳)『アール・ヌーヴォー(岩波世界の美術)』(岩波書店、2004)ISBN 400008979X デボラ・シルヴァーマン(天野知香ほか訳)『アール・ヌーヴォー : フランス世紀末と「装飾芸術」の思想』(青土社、1999)ISBN 4791757661 【図録・作品集】 ポーラ美術館編『ポーラ美術館名作選 エミール・ガレとアール・ヌーヴォーのガラス工芸』(ポーラ美術振興財団、2007)ISBN 9784901900102 世田谷美術館ほか編『パリのアール・ヌーヴォー : 19世紀末の華麗な技と工芸 : オルセー美術館展』(読売新聞社、2009) 村田孝子、冨澤洋子編『ガレ・ドーム・ラリック : アール・ヌーヴォーからアール・デコへ : 華麗なる装飾の時代』(NHKプロモーション、2008) 東京国立近代美術館編『日本のアール・ヌーヴォー1900-1923 : 工芸とデザインの新時代』(東京国立近代美術館、2005) 【概説・入門書など】 堀本洋一『ヨーロッパのアール・ヌーボー建築を巡る : 19世紀末から20世紀初頭の装飾芸術』(角川SSコミュニケーションズ〈角川SSC新書〉、2009)ISBN 9784827550672 橋本文隆著『図説アール・ヌーヴォー建築 : 華麗なる世紀末』(河出書房新社〈ふくろうの本〉、2007)ISBN 9784309761077 NHK「美の壺」制作班編『美の壺 アールヌーヴォーのガラス』(日本放送出版協会、2006)ISBN 4140811331 海野弘『アール・ヌーボーの世界 : モダン・アートの源泉 改版』(中央公論新社〈中公文庫〉、2003)ISBN 412204152X 由水常雄『ジャポニスムからアール・ヌーヴォーへ』(中央公論社〈中公文庫〉、1994)ISBN 4122020654 ^ 上田篤・田端修 『路地研究 もうひとつの都市の広場』 鹿島出版会、2013年、182頁。ISBN 978-4-306-09423-9。 ^ 谷克二 『ブリュッセル歴史散歩 中世から続くヨーロッパの十字路』 日経BP企画、2009年、219頁。ISBN 978-4-86130-422-4。 ^ 『世界の美しい階段』 エクスナレッジ、2015年、134頁。ISBN 978-4-7678-2042-2。 パリ万国博覧会 (1900年) - ビングが万博に出店して人気を博し、店の名前「アール・ヌーヴォ」から様式全体を表す名称となった。 アーツ・アンド・クラフツ - アール・ヌーヴォーを準備したイギリスの美術・デザイン潮流。 新古典主義、アール・デコ - アール・ヌーヴォー前後の美術潮流。アール・ヌーヴォーは新古典主義とモダニズムの架け橋でもあった。 ウィーン分離派、ユーゲント・シュティール - ドイツ語圏でのアール・ヌーヴォーの動き。 ドイツ工作連盟、バウハウス - アーツ・アンド・クラフツを受けたドイツでのモダニズムの発展。 ジャポニスム - この頃、江戸後期の日本美術が西洋に大きな影響を及ぼしていた。 浮世絵、家紋 - よく複写された。 高島北海 - ナンシーに渡りエミール・ガレらと親交があった日本画家。 金唐革紙 ベル・エポック - アール・ヌーヴォーの頃のフランスはBelle Époque「良き時代」と称される。 lartnouveau.com (フランス語) - 芸術家とその作品。 art.nouveau.free.fr (フランス語) - 伝記と多数の写真。 szecesszio.com (英語) - ハンガリーのアール・ヌーヴォー。 パリの地下鉄駅出入口 (フランス語) - エクトール・ギマールの仕事。 L'Architecture Art Nouveau à Paris (フランス語) - フランスのアール・ヌーヴォー建築の写真多数。 Des chardons sous le balcon(バルコニーの下の薊) (フランス語) - アール・ヌーヴォー・フリークのブログ。 artquid.com (英語) - アール・ヌーヴォー家具の写真。 Fermette Marbeuf 1900 - アール・ヌーヴォーのレストラン。 Art Nouveau European Route (英語) - ヨーロッパのアール・ヌーヴォー観光案内。 Réseau Art Nouveau Network (英語) - アール・ヌーヴォー遺産を持つ都市のネットワーク。 The Art Nouveau Home (英語) - アール・ヌーヴォーのインテリアの情報サイト。 アール・ヌーヴォー:現代美術用語辞典 (日本語) - artscape Schiedmayer grand piano from the musicroom of the House Behrens - Darmstadt 1901", "モデルニスモまたはモデルニズモ(Modernismo) モデルニスモ(Modernismo) - スペイン語およびポルトガル語で芸術様式のモダニズム(あるいはアール・ヌーヴォー)、カトリック教会の近代主義(Modernism (Roman Catholicism))のこと。 モデルニスモ(Modernismo) - カタルーニャ地方の芸術様式。本項で詳述する。 モデルニスモ(Modernismo) - ルベン・ダリオを代表とするスペイン語圏のラテンアメリカ文学の運動。モデルニスモ文学を参照。 モデルニスモ(カタルーニャ語:Modernisme 発音: [muðərˈnizmə] ムダルニズマ)またはカタルーニャ・モデルニスモ(カタルーニャ語:Modernisme català ムダルニズマ・カタラー、カスティーリャ語:Modernismo catalán モデルニスモ・カタラン)は、スペインのバルセロナを中心としたカタルーニャ地方で19世紀末から20世紀初頭に流行した、フランスのアール・ヌーボーと類似した芸術様式をいう。   アール・ヌーボーなどの新しい芸術様式がヨーロッパで盛んだった頃、スペインでは他のヨーロッパ諸国に先駆けて産業革命を終え、カタルーニャ地方のバルセロナでモデルニスモが流行する。曲線の使用や華やかな装飾性などアール・ヌーボーの特徴を持つことからカタルーニャ版アール・ヌーボーと呼ばれることもある。さらに、カタルーニャの19世紀における繁栄は、隆盛を極めた中世の復興によるものであると、文芸復興運動カタルーニャ・ラナシェンサ(=ルネサンス、Renaixençam、レナシェンサとも「再生」を意味する。)が起きる。そしてこの地の民族主義的な伝統に対する関心の高まりと共にモデニスモは独自の展開を見せる。 建築においてもラナシャンサの表現として中世主義建築が現れ、新たな表現の建築様式を求めてモデルニスモの建築が登場する。アントーニ・ガウディー(1852-1926)やその師でもあるリュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー(1849-1922)等カタルーニャの建築家達はアール・ヌーボーからの強い影響を受けながら、南フランス及び北アフリカのイスラーム建築を研究し、伝統的なムデハル様式を加えた独特なスタイルを築いていった。 バルセロナ市街区の一つに、モデルニスモ建築三巨匠のドメネク、ガウディ、プーチの作品が並んでいる。周囲を道で囲まれた街区ブロックのことをスペイン語でマンサナといい、リンゴの意味もあることから「不和のリンゴ」という。その街区に向かって右端にガウディが改築をデザインしたパトリョ邸、左端にドメネクがデザインのレオ・モレラ邸、両作品に挟まれてプーチの設計したアマトリエ邸が1900年に新築された。その2、3年後に左右の建物が改築されて、今日に至っている。バルセロナ一格式の高いグラシア通りに軒を連ねている。 アントーニ・ガウディー(1852-192) リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー(Lluís Domènech i Montaner、1849-1923) ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク(en:Josep Puig i Cadafalch、1867-1956) ジュゼップ・マリア・ジュジョール ラモン・カザス(Ramon Casas i Carbó) ^ 岡部明子 『バルセロナ 地中海都市の歴史と文化』 中央公論新社、2010年、62頁。ISBN 978-4-12-102071-0。 『近代建築史』 石田潤一郎・中川理:編 モダニズム モデルニスモの道(カタルーニャ語ほか) BARCELONA ガウディ以外のモデルニスモ建築", "世紀末芸術(せいきまつげいじゅつ)は、1890年代から20世紀初頭にかけて、おもにヨーロッパの都市を中心に流行した諸芸術のなかで一定の傾向を示す一群のことを指す。一般に、幻想的・神秘的・退廃的な性格を有するとされる。ただし、一定の流派を指す用語ではない。 ロンドンでは「鬼才」「世紀末の異端児」と呼ばれたオーブリー・ビアズリーの黒白の鋭いペン画が話題をさらい、多くの人々がエドワード・バーン=ジョーンズの描く美しい世界にため息をもらした。オスカー・ワイルドがファム・ファタール(運命の女)を描いたグロテスクで官能的な戯曲『サロメ』が大成功を収め、その英語版にはビアズリーの挿絵が添えられた。 パリでは、のちに「小さき男、偉大なる芸術家」と賞されたトゥールーズ=ロートレックのポスターや、モラヴィア出身でグラフィックデザイナーとして活躍したアルフォンス・ミュシャの版画・ポスター・挿絵などが芸術分野に新機軸を開き、エミール・ガレやドーム兄弟などのガラス工芸がもてはやされた。絵画ではオディロン・ルドンが華麗で幻想的な作品を発表して話題となり、聖書や神話の一節を好んでテーマとしたギュスターヴ・モローもその精緻な作風が人気を集めた。 ウィーンでは、グスタフ・クリムトの描く官能的で退廃的な絵画が話題をさらい、オットー・ワーグナーの建築はその機能美が注目を浴びた。ボヘミア生まれのグスタフ・マーラーはウィーン宮廷歌劇場の音楽監督とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めてウィーンの空気と人々の心を震わせ文芸の世界では16歳にして詩集が認められた早熟な天才フーゴ・フォン・ホーフマンスタールが現れた。 スペインのカタルーニャでも、のちに巨匠と呼ばれるアントニ・ガウディが有機的な曲線を多用した独創的な表現で建築に新地平をひらいた。スイスのアルノルト・ベックリンの『死の島』、イタリアのジョヴァンニ・セガンティーニの『嬰児殺し』はともに死を題材にした絵画であるが、島、髪、樹木などにみられる象徴主義的な表現は、他の作品や芸術分野でも顕著にみられる世紀末芸術の特徴といえる。 ベルギーのジェームズ・アンソールやフェルナン・クノップフ、ノルウェーのエドヴァルド・ムンクなど、いずれも象徴性の高い絵を描いたこの時期の画家たちは、そろってサロメやオルフェウスを描いた。そしてまたニンフやメデューサ、スフィンクス、牧神など、エキゾティックな題材を好んで取り上げる傾向が著しかった。 『サロメ』ビアズリーがオスカー・ワイルドの戯曲のために描いた挿絵。1892年 エドワード・バーン=ジョーンズ『アーサー王最後の眠り』1898年 ロートレック『ムーラン・ルージュ』1889-90年 ロートレック『写真家セスコー』1894年 ルドンの幻想的な作品『シタ』1893年 フランス象徴派の詩人たちと交流をもったルドンの『キュクロプス』1898-1900年頃 ムンク『叫び』1893年 クリムト『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』1907年 クリムト『死と生』1907-1911年 シュトゥック『サロメ』1906年 モロー『オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘』1866年 モロー『ユピテルとセメレー』1894-95年 ミュシャ『プラハ聖ヴィート大聖堂のステンドグラス』 エミール・ガレの花瓶、1898年 ドーム兄弟の花瓶、1900年頃 オットー・ワーグナーの建築『カールスプラッツ駅』 ガウディ『サグラダ・ファミリア教会』1882年 - レヒネル・エデン『ブダペスト工芸美術館』1896年 アドルフ・ロース『ミヒャエーラープラッツのロースハウス』1911年 シーレ『予言者』1911年 世紀末ということばは、語彙としては古くより存在したものであるが、1886年にパリで上演された風俗喜劇『ファン・ド・シエクル(fin de siècle, 世紀の終わり)』が大当たりして以来、広く知られるようになったと云われている。それ以来、19世紀末のヨーロッパの時代思潮にみられる諸特徴を称して呼ばれるようになった。一般には、このことばは、ひとつの時代の転換期に特有な文化的な現象や諸形態、とりわけ終末観あるいは終末の予兆を指しているといわれており、デカダンス(退廃)やスノビズム、懐疑主義などとほぼ同義で用いられることが多い。ただし、用法および概念においてそれぞれが必ずしも一致するわけではなく、また、その特徴とされるものの多くは、いずれも世紀の終わりに至って急に現れ出たものというよりは、19世紀を通じてその底部に流れていた潮流や気分といったものが一気に顕在化したものと捉えることができる。 つまりは、19世紀初頭にはじまったバイロンやハイネ、レオパルディ、ミュッセなどのロマン主義に内包されていた「世界苦」の思想や厭世的傾向が、人間のもつ獣性や醜悪な部分にも目を向けたギュスターヴ・フローベールらの写実主義あるいはエミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサンらの自然主義によってあらためて注視され、またエドガー・アラン・ポーらが提示した空想的芸術、さらには、現実から離れ、それ自体独自な人間精神の世界へ目を向けた高踏派などを経て表出したものとみなすことができる。「世紀末」といったときに、上に掲げたデカダンス以下の諸傾向とともにペシミズムや刹那的享楽主義、「美のための美」を追求する芸術至上主義や耽美主義、あるいは逆に唯物主義を含意することが多いのも、19世紀の思潮全体の推移を俯瞰してこそ理解が可能となる。「世紀末」とはこのとき、様々な思潮が現れては交錯し、対立する場でもあったのである。 言い換えるなら、19世紀前期のロマン主義や、中葉の写実主義、自然主義というふうに、一つの大きな流れにまとめられないところに、「世紀末」の芸術ないしは文学運動の特色があったともいえる。 1880年代のヨーロッパは、ヴィクトリア女王治下の大英帝国、植民地拡大政策をとって一定の成果を収めたフランス、鉄血宰相ビスマルクの指導下で一大勢力となったドイツ帝国、リソルジメント成ったイタリア王国など、対外的にみればいずれも国力の頂点に達していた。 ドイツとイタリア統一のあおりをくらって両国との戦争に敗北、永年の盟友だった帝政ロシアとも東方問題で対立し、さらに諸民族の自立要求と抵抗にも悩まされていたオーストリア=ハンガリー二重帝国にしても、1880年代は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と、ハンガリーの文化と風土をこよなく愛したエリーザベト皇后のもとで小康状態を保っていた。 こうしたなか、欧米では第二次産業革命とよばれる動きがイギリスのみならず各地で展開していた。物理学・化学・生物学・医学などの自然科学分野で現代につながる重要な発見が続き、汽車や汽船、自動車の改良や動力飛行機の登場、電信・電話の実用化、ディーゼル機関の登場、写真や電球・蓄音機の発明、印刷技術の発達など、おびただしい発明や発見があいついだ。1859年に機械掘りによる原油掘削が成功したのちは「黒いゴールドラッシュ」の時代を迎え、「石油と電力」を基軸とする技術革新は、鉄鋼・電気・化学工業のめざましい発展をもたらした。こうして飛躍的な成長を遂げた技術力と産業力にささえられて、各国が大胆な首都改造に乗り出すとともに、都市は急速に膨張し、社会はめざましい変化にさらされていた。 人々が語らう場も、かつては上流階級に限定されていたサロンがあったが、新興のブルジョワ階級は政治談義の場所などとしてカフェを好み、19世紀中ごろにはサロンに入れない芸術家たちの集まる場所という性格が強くなって、新しい芸術家たちの誕生を促した。さらに、ルノワールが1876年のモンマルトルの踊り場を描いた『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』では、正式な舞踏会に行くことのできない庶民が広場で気軽に踊りを楽しんだ様子が描かれている。そしてまた、こうした大衆の政治や文化への参加は、上記の技術革新と相俟ってマスメディアの発達を促したのであった。 このような情況のなかで、一方では依然として人間と社会の進歩・発展を信じる楽天主義や進歩主義も広く、そして根強く存在したが、その一方では、滅びの予感と人間文明に対するペシミスティックな懐疑、科学万能主義に対する反感、通俗的なブルジョワ的生活への嫌悪、官能的陶酔への傾きなどの心性も現れていたのである。その典型として、ジョリス=カルル・ユイスマンスの小説『さかしま』に登場する主人公のような人間像が掲げられる。 この時期はまた、デイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーのアフリカ探検、スヴェン・ヘディンの中央アジア・チベット旅行、さらには同時期の極地探検などにみられるように未知の世界への冒険が始まった時代でもあった。これは、帝国主義時代の本格的な到来と相補的な動きととらえることができるが、芸術についていえば、ヨーロッパの人々に対し、野生の世界や東洋世界への絶え間ない好奇と関心をもたらすできごとでもあった。 これら19世紀後半の一連の動向は、90年代の新しい芸術の創造を試みる諸活動を産む契機ともなっていった。 ヨーロッパの世紀末芸術は、フランスでは「アール・ヌーヴォー」(新しい芸術)、イギリスでは「モダン・スタイル」(近代様式)、ドイツでは「ユーゲント・シュティール」(青春様式)とよばれ、いずれも、新たなる美の創生をあらわす多彩な動きとして世人の大いなる関心と期待が寄せられた。この芸術工芸運動は、国により、また地域によって異なった名称を有してはいたが、造形美術だけではなく、建築、工芸デザイン、ポスター、挿絵などあらゆる分野にわたる双方向的な交流・影響関係がみられた点と、華麗な曲線模様を主体とした新しい美学を追求したという点で、互いに似た要素をもっていた。 ウィリアム・モリスを中心とするイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動、雑誌『ルブュ・ブランシュ』の周囲に集まったロートレックやナビ派の若者などフランスの芸術家たち、ベルギーの前衛芸術グループ「自由美学」に集った人々、ドイツの雑誌『ユーゲント』や『パン』を舞台に活躍した芸術家たちが、それぞれにみずからの個性的特色を保ちつつも、この広範な世紀末芸術運動に参加した。ロートレックが油彩を描き続けたまま、果敢にポスターに挑戦したのも、この分野に新しい可能性をみたからであろう。 かれらが新しさを求めたことは、その運動の名称そのものにも表れているが、ミュンヘン、ウィーン、ベルリンで相次いで結成をみた分離派もまた、いわば過去からの「分離」を唱えている点で共通の傾向をもっていた。なかでも1897年にクリムトが結成したウィーン分離派は、一方ではオスカー・ココシュカやエゴン・シーレなどいっそう表現主義的な画家を生み出した一方で、のちに「建築は必要にのみ従う」と唱えたオットー・ワーグナー、さらには「装飾は犯罪である」としてシンプルな造形性のみを求めたアドルフ・ロースのような建築家の成立も促した。 文学分野においては象徴主義(サンボリズム)が起こり、生涯にわたって詩の可能性を求め続けたステファヌ・マラルメ、その破滅的な人生とともに「秋の日の ヴィオロンの……」などの訳詞で知られるポール・ヴェルレーヌ、20世紀の詩人にとりわけ大きな影響を与えたアルチュール・ランボーら真に偉大な詩人たちが続々と現れた。ドイツでも、「神は死んだ」ということばで有名なフリードリヒ・ニーチェが現れ、『ツァラトゥストラはこう語った』で永劫回帰と超人への意思という独自の哲学を確立した。 ところで、「世紀末」とは単に年代や時代区分を指すものではない。たとえば19世紀後半の絵画には、一方でリアリズムを標榜する印象派・後期印象派の流れがあり、それとほぼ並行してアンチ・リアリズムの象徴主義絵画があった。同時にアール・ヌーヴォーと呼ばれる新芸術運動もあれば、伝統的なアカデミー派の絵画も健在だった。しかし、美術や文学の領域では単に19世紀末という限定された時代区分を指すというよりは、その時代に特有のきわだった個性・傾向を指している。クロード・モネやルノワールが「世紀末」にカテゴライズされることは、まずない。 そうした「世紀末」芸術の特性の1つが様式における象徴主義であり、もう1つが主題における、死やエロスへのこだわりなどの特殊性であり、また、社会通念から逸脱した「退廃的」な主題やモティーフを好む傾向であった。そして、芸術家たちは、この2つの特性を展開するための素材を神話、伝説、歴史、聖書、文学、歌劇等に求めた。しかし、これはアカデミー派の「歴史画」とは一線を画しており、「世紀末」の作家たちは説話自体の意味するものを自己の世界に引きつけ、再解釈をしたうえで象徴的、寓意的に提示したのである。それゆえ、その芸術は説話を物語るのみならず、激しい社会の変化のなかでの自己の内面世界をも物語ることとなった。冒頭に掲げたサロメやスフィンクス、オルフェウスなど「異形」の題材が、ことのほか愛されたのもそのためなのである。 【造形芸術・建築】 ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824年 - 1898年、フランス、画家) ギュスターヴ・モロー(1826年 - 1898年、フランス、象徴主義の画家) アルノルト・ベックリン(1827年 - 1901年、スイス出身、象徴主義の画家) ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828年 - 1882年、イギリス、画家・詩人) ジョン・エヴァレット・ミレー(1829年 - 1896年、イギリス、画家) エドワード・バーン=ジョーンズ(1833年 - 1898年、イギリス、画家) ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834年-1903年、アメリカ出身、ロンドンで活躍、画家) オディロン・ルドン (1840年 - 1916年、フランス、画家) オットー・ワーグナー(1841年 - 1918年、オーストリア、建築家) レヒネル・エデン(1845年 - 1914年、ハンガリー、分離派の建築家) ウォルター・クレイン(1845年 - 1915年、イギリス、画家・イラストレーター) エミール・ガレ(1846年 – 1904年、フランス、ガラス工芸家・陶芸) アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1846年 – 1904年、フランス、画家・ポスター作家) ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(1849年 - 1917年、イギリス、画家) アントニ・ガウディ(1852年 - 1926年、スペイン、建築家) オーギュスト・ドーム(1853年 - 1909年、フランス、ガラス工芸家) フェルディナント・ホドラー(1853年 - 1918年、スイス、画家) アレクサンドル・セオン(1855年 - 1917年、フランス、画家) レオン・フレデリック(1856年 - 1940年、ベルギー、画家) ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858年 - 1899年、イタリア、画家) フェルナン・クノップフ(1858年 - 1921年、ベルギー、画家) ジェームズ・アンソール(1860年 - 1949年、ベルギー、画家) アルフォンス・ミュシャ(1860年 - 1939年、モラヴィア生まれ、グラフィックデザイナー) ヴィクトール・オルタ(1861年 - 1947年、ベルギー、建築家) グスタフ・クリムト (1862年 - 1918年、オーストリア、画家) フランツ・フォン・シュトゥック(1863年 - 1928年、ドイツ、画家・版画家・彫刻家・建築家) アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863年 - 1957年、ベルギー、建築家) エドヴァルド・ムンク(1863年 - 1944年、ノルウェー出身、画家) アントナン・ドーム(1864年 - 1930年、フランス、ガラス工芸) リュシアン・レヴィ=デュルメル(1865年 - 1953年、フランス、画家) ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(1867年 – 1908年、オーストリア、建築家) エクトール・ギマール(1867年 – 1942年、フランス、建築家) ウィリアム・ドゥグーヴ・ド・ヌンク(1867年 – 1935年、ベルギー、画家) コロマン・モーザー(1868 年- 1918年、オーストリア、画家・デザイナー) チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868年 - 1928年、スコットランド、建築家・デザイナー・画家) ヨーゼフ・ホフマン(1870年 - 1956年、オーストリア、建築家・デザイナー) アドルフ・ロース(1870年 - 1933年、オーストリア、建築家) マグヌス・エンケル(1870年 -1925年、フィンランド、画家) フランソワ・クプカ(1871年 - 1957年、チェコ出身、画家) オーブリー・ビアズリー(1872年 - 1898年、イギリス、画家・詩人・作家) 【文芸】 ステファヌ・マラルメ (1842年 - 1898年、フランス、象徴派の詩人) ポール・ヴェルレーヌ(1844年 - 1896年、フランス、象徴派の詩人) ジョリス=カルル・ユイスマンス (1848年 - 1907年、フランス、作家) ピエール・ロティ(1850年 - 1923年、フランス、耽美主義的な作家) オスカー・ワイルド(1854年 - 1900年、アイルランド出身、耽美主義詩人・作家・劇作家) アルチュール・ランボー(1854年 - 1891年、フランス、象徴派の詩人) エミール・ヴェルハーレン(1855年 - 1916年、ベルギー、詩人・劇作家) モーリス・メーテルリンク (1862年 - 1949年、ベルギー、象徴派詩人・劇作家・随筆家) シュテファン・ゲオルゲ(1868年 - 1933年、ドイツ、高踏派の詩人) オーブリー・ビアズリー(1872年 - 1898年、イギリス、詩人・作家・画家) フーゴ・フォン・ホーフマンスタール (1874年 - 1929年、オーストリア、詩人・作家・劇作家) 【音楽】 アントン・ブルックナー(1824年 - 1896年、ウィーンで活躍した作曲家) グスタフ・マーラー(1860年 - 1911年、ウィーンで活躍した作曲家・指揮者) クロード・ドビュッシー(1862年 - 1918年、フランス、作曲家) アルノルト・シェーンベルク (1874年 - 1951年、オーストリア出身、作曲家) 【その他】 チャールズ・ダーウィン(1809年 - 1882年、イギリス、進化論の提唱) フリードリヒ・ニーチェ (1844年 - 1900年、ドイツの思想家・哲学者・古典文献学者) マックス・ノルダウ(1849年 - 1923年、ハンガリー出身、『頽廃論』の著者) カール・ウィトゲンシュタイン(1847年 - 1913年、オーストリアの実業家、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの父でクリムトと親交をもつ) ジークムント・フロイト(1856年 - 1939年、オーストリア、精神分析学創始者) ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889年 - 1951年、オーストリア出身の哲学者) 樺山紘一・木村靖二・窪添慶文ら編『クロニック世界全史 CHRONICLE OF THE WORLD』講談社、1994.11、ISBN 978-4-06-206891-8、901頁 河辺利夫・保坂栄一編『新版世界人名辞典 西洋編』東京堂出版、1971.10。全国書誌番号:73022473、NCID BN0083376X。 高階秀爾監修『カラー版 西洋美術史』美術出版社、1990.5、ISBN 4-568-40030-9 河村錠一郎『世紀末美術の楽しみ方』 新潮社<とんぼの本>、1998.11、ISBN 4-10-602074-2 池内紀・南川三治郎『世紀末ウィーンを歩く』 新潮社<とんぼの本>、1987.3、ISBN 4-10-601944-2 高階秀爾 『世紀末芸術』 ちくま学芸文庫 2008。ISBN 978-4480091581 海野弘『魅惑の世紀末』 美術公論社 1986。ISBN 4893300687 海野弘『アール・ヌーボーの世界―モダンアートの源泉』 中公文庫 1987。ISBN 4122013976。新版2003。ISBN 412204152X ハンス・ホーフシュテッター 種村季弘訳『象徴主義と世紀末芸術』 美術出版社 1970。全国書誌番号:75048952、NCID BN01904852。新版1987ほか ハンス・ホーフシュテッター 種村・池田香代子訳 『ユーゲントシュティール絵画史―ヨーロッパのアール・ヌーヴォー』 河出書房新社 1990。ISBN 4309261280 フィリップ・ジュリアン 杉本秀太郎訳 『世紀末の夢 象徴派芸術』 白水社 1982。全国書誌番号:82023088、NCID BN00299807。新版2004。ISBN 4560038996 ジョン・ミルナー 吉田正俊訳『象徴派とデカダン派の美術―幻想の19世紀末』  PARCO出版局 1976。全国書誌番号:75050805、NCID BN0632906X。 カール・E・ショースキー 安井琢磨訳『世紀末ウィーン 政治と文化』 岩波書店  1983。ISBN 4062580543 高木昌史編訳 『世紀末芸術論 リルケ、ジンメル、ホフマンスタール』 青土社 2008。ISBN 978-4791764488 世紀末 終末もの デカダンス 退廃芸術 終末論 象徴主義 耽美主義 表現主義 デカダン派 ナビ派 アール・ヌーヴォー ユーゲント・シュティール ゼツェシオン ミュンヘン分離派 ウィーン分離派 ベルリン分離派 世紀末ウィーン サロメ (ヘロディアの娘) さかしま - ユイスマンス著、デカダンスの聖書と呼ばれた。 ツァラトゥストラはこう語った - ニーチェ著、「神は死んだ」と宣言した。 青い鳥 - メーテルリンク著、寓意に満ちた童話劇は世界的に著名。", "新古典主義(しんこてんしゅぎ、英語:neoclassicism)は、18世紀中頃から19世紀初頭にかけて、西欧で建築・絵画・彫刻など美術分野で支配的となった芸術思潮を指す。それまでの装飾的・官能的なバロック、ロココの流行に対する反発を背景に、より確固とした荘重な様式をもとめて古典古代、とりわけギリシアの芸術が模範とされた。18世紀後期にはこの様式を記述する為に用いられたのは「真の様式」であり、如何なる意味でも、偶有的であるとは看做されていなかったが、その一方で、流入する文化に対する反応や異国情緒の現れのような偏執は、「ロココのあの数々の局面の一つ」であったと評される。 音楽については第一次・第二次大戦間にストラヴィンスキーやフランスの「六人組」が中心になって採用した音楽全体のスタイルを指す。 18世紀前半に発掘されたヘルクラネウムとポンペイの遺跡は、当時の西洋人の古代への関心を高めることとなった。この頃美術評論家ヴィンケルマンがギリシア賛美の評論を書き、各国に影響を与えた。これらが新古典主義の背景になっている。 それまでのロココ美術があまりに甘美な装飾様式で、絵画等の題材が貴族主義的、退廃的と揶揄され、ギリシア・ローマの古典様式を模範とし、当時なりに解釈し、洗練させた芸術様式が生まれた。形式的な美、写実性を重視しており、その成り立ちから、新古典主義(ネオクラシズム、Neo-Classicism)と呼ばれる。新古典主義はフランスのアカデミーの主流になっていった。 フランス革命、ナポレオン・ボナパルトの登場によって、古典の英雄主義的な主題はさらに好まれるようになった(ダヴィッドによるナポレオンの戴冠式を描いた作品は新古典主義の代表的なもの)。第一帝政期の様式は帝政様式(アンピール様式、Empire)とも呼ばれる。 新古典主義の主な画家としては、ダヴィッド、アングル、ジェラール、グロ等が挙げられる。 ロココ様式の華美で表層的な表現や、イリュージョニズムに熱狂するバロック様式へのアンチテーゼとして、デッサンと形を重視し、理性を通じた普遍的価値の表現を理想とした。 19世紀に入り、より感性的・情熱的で表現者自身の感覚を重視するロマン主義(ロマン派)が台頭し、新古典主義とは真っ向から対峙する事となる。 新古典主義の巨匠アングルと、ロマン派の巨匠ドラクロワの対立は有名だが、これは17世紀の、素描のプッサン派と色彩のルーベンス派の論争に類似している。 この絵画の造形上の対立は、更には古代ギリシャに実在したと伝えられる二人の画家、アペレスとゼウクシスの対比に遡ることも出来る。つまり、線の連続性や調和を重視し色を輪郭に即して用いる態度、色の効果を重視し色斑によって形体を描き出す態度の相違は、絵画の誕生とほぼ同時に存在していたと言える程に根源的なものなのである。そして連綿と続くこの対立はアングルが指摘したように、色彩が優位を保つには手数が少なく素早い制作であることが不可欠であり、卓越した形体表現に必要な階調・バルールの徹底的な研究と絢爛たる色彩が両立しないことが根底的な理由である。 (画)ダヴィッド (画)ドミニク・アングル (画)フランソワ・ジェラール (画)アントワーヌ=ジャン・グロ イタリアのカノーヴァが古代の理想を受け継いだ作品を残し、ナポレオンの依頼で皇帝像も制作している。 イギリスのウェッジウッドは、ジャスパーウェアをはじめとする炻器に、古代ギリシャ、エトルリア、ローマ、エジプトの陶器の形状、意匠を取り入れ一世を風靡した。この傾向はマイセンなど大陸諸窯にも大きく影響を与えた。 上記の時期に限定されず、「新古典主義」という用語が用いられることがある。 パブロ・ピカソは1920年代に、新古典主義を参照・模倣して、人物画を多く描いた。この時期をピカソの新古典主義(古典主義)時代という。 演劇では、ルネサンス期のイタリア・イギリス(シェイクスピア等)の劇作を新古典主義ということがある(演劇の歴史の項を参照)。 ナチスの採用した建築様式も新古典主義と呼ばれることがある。 ^ デーヴィッド・アーウィン(鈴木杜幾子訳)『新古典主義(岩波 世界の美術)』(岩波書店、2001) ^ ヒュー・オナー『新古典主義』 ^ ヒュー・オナー『新古典主義』 ^ Arnold Whittall, \"Neo-classicism\" (The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 2nd ed., ed. by Stanley Sadie and John Tyrrell, Macmillan Publishers, 2001). ^ アペレスは線の表現に秀でており、ゼウクシスは色彩の扱いに優れていたと言われる。 ^ 相違;互いに一致しないこと。 ^ Delaborde, Ingres, sa vie et ses travaux, 1870. ^ アングル (ヴィヴァン 25人の画家) 1. 新古典主義一般 デーヴィッド・アーウィン(鈴木杜幾子訳)『新古典主義(岩波 世界の美術)』(岩波書店、2001)ISBN 978-4000089296 ヒュー・オナー(白井秀和訳)『新古典主義』中央公論美術出版、1996 2. 絵画 鈴木杜幾子編『新古典主義と革命期美術』(『世界美術大全集 西洋編』19、小学館、1993) 鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』晶文社、1991 2. 建築 ジョン・サマーソン(堀内正昭訳)『18世紀の建築:バロックと新古典主義(SDライブラリー16)』鹿島出版会、1993 ISBN 978-4306061163 杉本俊多『ドイツ新古典主義建築』中央公論美術出版、1996 エミール・カウフマン(白井秀和訳)『理性の時代の建築 フランス篇』中央公論美術出版、1997 エミール・カウフマン(白井秀和訳)『理性の時代の建築 イギリス・イタリア篇』中央公論美術出版、1992 ロビン・ミドルトン、デイヴィッド・ワトキンソン(土井義岳訳)『新古典主義・19世紀建築1, 2巻(図説世界建築史13、14巻)』(本の友社、1998, 2002) パオロ・デ・マッティス《ヘラクレスの選択》 1712年、198x256cm、アシュモリアン美術館(オックスフォード) ジョゼフ=マリー・ヴィアン《プットーを売る女》 1763年、98x112cm、フォンテーヌブロー宮国立美術館 ベンジャミン・ウェスト《ゲルマニクスの遺灰を抱いてブルンディシウムに上陸するアグリッピナ》 1768年、164x240c、イェール大学付属美術館(ニューヘイヴン) ジャック=ルイ・ダヴィッド《ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運び込む警士たち》1789年、323x422cm、ルーヴル美術館 《ホラティウス兄弟の誓い》 1784年、275x203cm、ルーヴル美術館 ウィリアム・ブレイク《オベロン、タイタニア、パック、踊る妖精》 1785年、47.5x62.5cm、テイト・ギャラリー 美術 美術史 西洋美術史 古典主義", "シカゴ派 (Chicago school) は、1880年代から1890年代に米国イリノイ州シカゴで生じた建築傾向。1871年のシカゴ大火後の再開発と産業の発展を背景に、鉄骨造の高層建築群が設計された。代表的作品にウィリアム・ホラバートとマーティン・ローシュのタコマ・ビルディング(1887年)、ルイス・サリヴァンとダンクマール・アドラーのオーディトリアム・ビルディング(1889年)などがある。20世紀の高層オフィスビルの先駆。 1871年、シカゴは大火に見舞われる。この大火によって、シカゴの市民の内、約10万人がそれぞれの住居を失ってしまった。 その復興の過程で出現するのが高層事務所ビルディングであった。 オフィスは、産業革命以降の工業の発展に伴い、業務を行う場所として、また、保険会社といった第三次産業を行う場所として現れた。一方、産業革命以降の都市への人口集中と、それに伴う土地に集約的な有効利用を解く鍵の一つとして現れたのが高層建築である。高層建築という形式は鉄骨構造の発展やエレベーターの実用化を背景に可能となったものである。 このオフィス高層建築は、これまでの宮殿や教会といった建築にとってかわって、20世紀の建築の主題となっていくものである。そしてその先駆者がシカゴを中心に、オフィスを高層建築で構想し実現させた、シカゴ派という建築家達なのである。 近代建築史 石田潤一郎・中川理:編 (昭和堂)" ]
ABC01-02-0142
正式名を「絶滅のおそれのある野生動物の種の国際取引に関する条約」という条約を、調印された都市の名から何というでしょう?
絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約
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[ "絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約", "中国国家一級重点保護野生動物", "レッドデータブック (環境省)", "レッドリスト", "その他無脊椎動物レッドリスト (環境省)" ]
[ "絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ぜつめつのおそれのあるやせいどうしょくぶつのしゅのこくさいとりひきにかんするじょうやく、英: Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora)は、希少な野生動植物の国際的な取引を規制する条約である。条約が採択された都市の名称をとって、ワシントン条約(英: Washington Convention)、または英文表記の頭文字をとってCITES(サイテス)とも呼ばれる。法令番号は昭和55年条約第25号。 野生動植物の国際取引が乱獲を招き、種の存続が脅かされることがないよう、取引の規制を図る条約である。輸出国と輸入国が協力し、絶滅が危ぶまれる野生動植物の国際的な取引を規制することにより、これらの動植物の保護を図る(国内での移動に関して、制限は設けていない)。絶滅のおそれのある動植物の野生種を、希少性に応じて3ランクに分類、これらを条約の附属書I、IIおよびIIIに分けてリストアップし、合計約30,000種の動物を取引制限の対象としている。 絶滅の恐れのある野生動植物は、英語の呼称で「レッドデータアニマルズ」と呼ばれることもあるが、ワシントン条約の附属書リストに登録されている生物種は、国際団体や原産国によって、いわゆる「レッドデータブック」に登録されている種と必ずしも一致するわけではない。これは、この条約自体はレッドリスト作成・公表している国際自然保護連合 (IUCN) とは直接的な関係がなく、あくまでも経済活動としての国際取引によって種の存続が脅かされる生物の種の保全を目的とするものであるためであり、種の絶滅が危惧される生物のうち、経済生物として国際取引される生物が選ばれているためである。そのため、いかに絶滅が危惧されていようとも、経済的な国際取引の対象となり得ない生物はこの条約の対象とはならない。また、条約により国際取引が規制されるのは動植物種の生体だけではなく、死体や剥製、毛皮・骨・牙・角・葉・根など生体の一部、およびそれらの製品も対象となる。 1972年の国連人間環境会議において、「特定の種の野生動植物の輸出、輸入及び輸送に関する条約案を作成し、採択するために、適当な政府又は政府組織の主催による会議を出来るだけ速やかに招集すること」が勧告された。これを受けて、アメリカ合衆国連邦政府および国際自然保護連合 (IUCN) が中心となって野生動植物の国際取引の規制のための条約作成作業を進めた。 1973年3月3日にアメリカ合衆国のワシントンD.C.で採択、締結国が10カ国になった1975年7月1日に発効。2017年3月現在、締約国は183か国。日本は1980年11月4日に締約国となった。 附属書I 絶滅のおそれのある種で取引により影響を受ける種が掲げられる。そのため附属書Iに掲げられた種は商業目的の国際取引が制限される。輸出入する場合は、各国の政府機関(日本の場合は経済産業省)の輸出許可書・輸入許可書が必要である。主に学術研究目的(主として動物園や大学などでの展示、研究、繁殖)やそれらの材料を使った加工済みの製品(附属書Iに掲載されたの木材を使用した楽器や家具など)の商業取引に関して輸出入許可書が交付される。約1,050種。 附属書II 絶滅のおそれのある種ではないが、その種やその種由来の材料が違法な手段で捕獲や採取、取引が行われるのを規制するために掲げられる。そのため附属書IIに掲げられた種の商取引の際には、輸出国の輸出許可書(その取引物が違法に入手されたものではなく、その個体が適法に捕獲・伐採されたものであることを認めるもの)が必要となる。これらを使用した加工品などは申請不要であったが、2016年改正(2017年1月2日発効)において、規制となる動植物そのものだけでなく、それらを加工等して一部でも使用していれば対象となること、対象の種が一部でも含まれていれば、新品中古に関わらず輸出入の際に手続きが必要なこと、製品の状態で輸入したものを再度海外へ輸出する場合も規制対象となり、輸出入の際に手続きが必要なことも明記された。約34,600種。 附属書III 世界的には絶滅のおそれが少ないが、その地域内で絶滅のおそれがある種が揚げられる。主に商業目的のための国際取引の制限の協力を求めるものである。附属書IIIに掲げられた場合、輸出国の輸出許可書または原産地証明書(附属書IIIの協力を求めた国以外である証明)等が必要である。約220種。 条約そのものには罰則規定がないため、各加盟国が独自に条約運用のための法整備を行っている。日本では絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律(種の保存法)がこれにあたる。アメリカでは輸入許可書や産地証明書などを取得せずに輸入した場合、司法省から罰金が課される。 なお条約違反行為等に関しては、後述の締約国会議の下に常設委員会が設けられており、同委員会は締約国会合において採択された諸決議に即し、条約違反国に対する貿易制裁を締約国政府に勧告する権限を有している。同委員会の貿易制裁勧告措置が行われた場合、条約違反とされた大多数の国は同委員会勧告を受けて是正措置を講じており、環境条約の履行問題に対する一つの解決策を提示しているものと主張されている。 第11条により、締約国会議は2年に1回開催されることになっているが、実際には3年の間があいたことも何度かある。1992年の第8回締約国会議は日本で行われた。2010年3月13日から25日にかけてカタールで開催された第15回締約国会議におけるタイセイヨウクロマグロの禁輸案の否決は、日本で大きく報じられた。 ^ R. シフマン「ケニアの野生動物を守れ リチャード・リーキーに聞く」、『日経サイエンス』2017年4月号、日経サイエンス社、 83頁。 ^ CITES: List of Contracting Parties(2017年3月14日閲覧) ^ 1980年(昭和55年)8月23日外務省告示第298号「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約の日本国による受諾に関する件」 ^ ワシントン条約附属書にローズウッドなどが追加されます。(経済産業省 - 日本オフィス家具協会 ^ ワシントン条約対象貨物の輸出入に関するFAQ - 経済産業省 ^ Rosalind Reeve, Policing International Trade in Endangered Species: The CITES Treaty and Compliance (London: Earthcan, 2002) ^ 友清 哲, 協力/プレスラボ (2010年3月31日). “経済・時事 News&Analysis【第162回】水産市場の「ドーハの悲劇」はこれから?禁輸否決でもマグロ騒動が終わらない理由”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2010年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月16日閲覧。 レッドデータブック (環境省) 絶滅危惧種 生物多様性 絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律 - 日本における法律 絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律 - Endangered Species Act (ESA) とも呼ばれる、1973年に制定したアメリカの法律 天才!志村どうぶつ園(オランウータンの「チカ」を起用していたがワシントン条約に抵触し降板) 狩猟 環境法令一覧 環境法 日本の環境と環境政策 世界野生生物の日 銘木 ワシントン条約事務局(英語) 外務省 / ワシントン条約 経済産業省 / ワシントン条約 (CITES)", "中国国家一級重点保護野生動物(ちゅうごくこっかいっきゅうじゅうてんほごやせいどうぶつ)とは、中華人民共和国が野生生物保護法(1988年制定)に基づいて指定した絶滅危惧動物である。一級は特に保護が必要とされるものであり、他に「国家二級重点保護野生動物」も指定されている。 サル目(霊長目) ロリス科 ロリス属(蜂猴属)Loris spp. または、スローロリス属(懶猴属)Nycticebus spp. 原文では「蜂猴(所有種)Nycticebus spp.」とされている。 オナガザル科 アッサムモンキー(熊猴)Macaca assamensis タイワンザル(台湾猴)Macaca cyclopis ブタオザル(豚尾猴)Macaca nemestrina リーフモンキー属(葉猴属)Presbytis spp. シシバナザル属(仰鼻猴属、金絲猴)Rhinopithecus spp. キンシコウなど。 テナガザル科 テナガザル属(長臂猿属)Hylobates spp. ネコ目(食肉目) クマ科 マレーグマ(馬来熊)Helarctos malayanus ジャイアントパンダ(大熊猫)Ailuropoda melanoleuca イタチ科 クロテン(紫貂)Martes zibellina クズリ(貂熊)Gulo gulo ジャコウネコ科 ビントロング(熊狸)Arctictis binturong ネコ科 ウンピョウ(雲豹)Neofelis nebulosa ヒョウ(豹)Panthera pardus トラ(虎)Panthera tigris ユキヒョウ(雪豹)Panthera uncia ジュゴン目(海牛目) ジュゴン科 ジュゴン(儒艮)Dugong dugong ゾウ目(長鼻目) ゾウ科 アジアゾウ(亜洲象)Elephas maximus ウマ目(奇蹄目) ウマ科 アジアノロバ(蒙古野驢)Equus hemionus キャン(西藏野驢)Equus kiang モウコノウマ、タヒ(野馬)Equus przewalskii 鯨偶蹄目 ヨウスコウカワイルカ科 ヨウスコウカワイルカ(白鱀豚)Lipotes vexillifer マイルカ科 シナウスイロイルカ(中華白海豚)Sousa chinensis ラクダ科 フタコブラクダ(双峰駱駝)Camelus ferus (=C. bactrianus) 原文では「野駱駝 Camelus ferus (=bactrianus)」とされている。 マメジカ科 ジャワマメジカ(小鼷鹿)Tragulus javanicus シカ科 マエガミホエジカ(黒麂)Muntiacus crinifrons クチジロジカ(白唇鹿)Cervus albirostris エルドジカ、ターミンジカ(坡鹿)Cervus eldi ニホンジカ(梅花鹿)Cervus nippon ホッグジカ(豚鹿)Cervus porcinus シフゾウ(麋鹿) ウシ科 ガウル(野牛)Bos gaurus ヤク(野氂牛)Bos mutus (=B. grunniens) プシバルスキーガゼル(普氏原羚)Procapra przewalskii チルー(藏羚)Pantholops hodgsoni サイガ(高鼻羚羊)Saiga tatarica ターキン(羚牛)Budorcas taxicolor 台湾鬣羚 Naemorhedus swinhoei 原文では「台湾鬣羚 Capricornis crispus」とされている。(Capricornis crispusは日本固有種のニホンカモシカ) アカゴーラル(紅斑羚)Naemorhedus cranbrooki ヒマラヤタール(喜瑪拉雅塔爾羊)Hemitragus jemlahicus 北山羊 Capra ibex ネズミ目(齧歯目) ビーバー科 ヨーロッパビーバー(河狸)Castor fiber ミズナギドリ目 アホウドリ科 アホウドリ(短尾信天翁)Diomedea albatrus ペリカン目 グンカンドリ科 シロハラグンカンドリ(白腹軍艦鳥)Fregata andrewsi コウノトリ目 コウノトリ科 シュバシコウ(白鸛)Ciconia ciconia ナベコウ(黒鸛)Ciconia nigra トキ科 トキ(朱䴉)Nipponia nippon カモ目 カモ科 コウライアイサ(中華秋沙鴨)Mergus squamatus タカ目 タカ科 イヌワシ(金鵰)Aquila chrysaetos カタジロワシ(白肩鵰)Aquila heliaca キガシラウミワシ(玉帯海鵰)Haliaeetus leucoryphus オジロワシ(白尾海鵰)Haliaeetus albcilla オオワシ(虎頭海鵰)Haliaeetus pelagicus ベンガルハゲワシ(擬兀鷲)Pseudogyps bengalensis ヒゲワシ(胡兀鷲)Gypaetus barbatus キジ目 ライチョウ科 オオライチョウ(細嘴松鶏)Tetrao parvirostris ミヤマエゾライチョウ(斑尾榛鶏)Tetrastes sewerzowi キジ科 キジシャコ(雉鶉)Tetraophasis obscurus シセンミヤマテッケイ(四川山鷓鴣)Arborophila rufipectus ハイナンミヤマテッケイ(海南山鷓鴣)Arborophila ardens ハイイロジュケイ(黒頭角雉)Tragopan melanocephalus ヒオドシジュケイ(紅胸角雉)Tragopan satyra ミヤマジュケイ(灰腹角雉)Tragopan blythii ジュケイ(黄腹角雉)Tragopan caboti ニジキジ属(虹雉属)Lophophorus spp. ニジキジなど。 ミミキジ(褐馬鶏)Crossoptilon mantchuricum サンケイ(藍鷴)Lophura swinhoii ビルマカラヤマドリ(黒頸長尾雉)Syrmaticus humiae カラヤマドリ(白頸長尾雉)Syrmaticus ewllioti ミカドキジ(黒長尾雉)Syrmaticus mikado コクジャク(孔雀雉)Polyplectron bicalcaratum マクジャク(緑孔雀)Pavo muticus ツル目 ツル科 オグロヅル(黒頸鶴)Grus nigricollis ナベヅル(白頭鶴)Grus monacha タンチョウ(丹頂鶴)Grus japonensis ソデグロヅル(白鶴)Grus leucogeranus オオヅル(赤頸鶴)Grus antigone ノガン科 ノガン属(鴇属)Otis spp. チドリ目 カモメ科 ゴビズキンカモメ(遺鴎)Larus relictus カメ目 リクガメ科 ヨツユビリクガメ(四爪陸亀)Testudo horsfieldi スッポン科 ハナマルスッポン(黿)Pelochelys bibroni 有鱗目 コブトカゲ科 シナワニトカゲ(中国鰐蜥)Shinisaurus crocodilurus オオトカゲ科 ミズオオトカゲ(水巨蜥)Varanus salvator ニシキヘビ科 ビルマニシキヘビ(蟒)Python molurus ワニ目 アリゲーター科 ヨウスコウアリゲーター(揚子鰐)Alligator sinensis コイ目 コイ科 新疆大頭魚 Aspiorhynchus laticeps チョウザメ目 チョウザメ科 カラチョウザメ(中華鱘)Acipenser sinensis チョウセンチョウザメ、ダブリーチョウザメ(達氏鱘)Acipenser dabryanus ハシナガチョウザメ(シナヘラチョウザメとも。白鱘)Psephurus gladius 刺胞動物門 花虫綱 红珊瑚 Corallium spp. 軟体動物門 二枚貝綱 庫氏硨磲 Tridacna cookiana 頭足綱 オウムガイ(鸚鵡螺)Nautilus pompilius 節足動物門 昆虫綱 中華蛩蠊 Galloisiana sinensis オウゴンテングアゲハ(金斑喙鳳蝶)Teinopalpus aureus 半索動物門 腸鰓綱 多鰓孔舌形虫 Glossobalanus polybranchioporus 黄島長吻虫 Saccoglossus hwangtauensis 希少野生動植物種 - 日本での法令に基づき指定された絶滅危惧種 中国環境保護部 - 国家重点保護野生動物名録(中国語)", "レッドデータブック(Red Data Book、略記:RDB)は、絶滅のおそれのある野生生物に関する保全状況や分布、生態、影響を与えている要因等の情報を記載した図書である。1966年にIUCN(国際自然保護連合)が中心となって作成されたものに始まり、現在は各国や団体等によってもこれに準じるものが多数作成されている。日本で単に「レッドデータブック」と言うときは、環境省によるもの、あるいはIUCNによるものを指すことが多い。本項では環境省作成のものについて記す。 環境省によるレッドデータブックは、同省が作成・改訂したレッドリスト(絶滅のおそれがある動植物のリスト)に基づき、より具体的な内容を記載したデータブックである。IUCNによるものと区別するため、JRDBとも呼ばれる。「レッドデータブック」は通称であり、正式な名称は1991年に出版されたものは『日本の絶滅のおそれのある野生生物』、1995年からの見直し作業の後に出版されたものは『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物 -レッドデータブック-』という。さらには、三訂版である2014年度に『レッドデータブック2014』が作成された。 レッドデータブックを作成する目的は、絶滅の危機にある野生生物の現状を的確に把握することである。レッドデータブックに基づき、絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律(種の保存法)に基づく希少野生動植物の指定や絶滅危惧種の保全・保護方策の検討、環境アセスメントへの活用、一般市民への普及・啓発などが期待されている。 そのような目的から、積極的な情報公開が行われており、環境省の生物多様性情報システム内に、絶滅危惧種情報を検索・閲覧できるページが設置されているほか、NPOによる地方公共団体の情報をまとめたサイト(日本のレッドデータ検索システム )が存在する。 環境庁(当時)の「レッドデータブック」は、1986年、自然保護局(当時)野生生物課が発足すると同時に作成が開始され、財団法人自然環境研究センターから、1991年5月に『日本の絶滅のおそれのある野生生物-脊椎動物編』が同年10月に同『無脊椎動物編』が発行された。しかしその後、IUCNのレッドリストのカテゴリー改定(1994年)があったことなどを受けて、早くもその内容が見直されることになった。 なお、植物については、既に、財団法人日本自然保護協会と財団法人世界自然保護基金日本委員会が共同して『我が国における保護上重要な植物種の現状』を作成していた。 環境省生物多様性センターの生物多様性情報システム『絶滅危惧種情報』にて、レッドデータブックに掲載されている情報を検索・閲覧することができる。 旧動物絶滅危惧種検索 旧版レッドデータブックの見直しに当たり、環境省自然環境局野生生物課では、1995年から、動植物を下記の9分類群に分け、それぞれのレッドリストを作成し、このリストを踏まえて、改訂版の「レッドデータブック」を編集した。その後、レッドデータブックの改訂作業が順次始められ、2000年7月の植物I(維管束植物)を始まりに、2006年8月に最終巻の「昆虫類」が完成、出版された。 哺乳類 鳥類 爬虫類・両生類 汽水・淡水魚類 昆虫類 陸・淡水産貝類 クモ形類・甲殻類等 植物I(維管束植物) 植物II(維管束植物以外) - 蘚苔類、藻類、地衣類、菌類 改訂版レッドデータブックは財団法人自然環境研究センターから、「改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物 -レッドデータブック-」として、分類群ごとに書籍の形で全9冊が刊行されている。 また、環境省生物多様性センターの生物多様性情報システム『絶滅危惧種情報』にてレッドデータブックに掲載されている情報を検索・閲覧することができる。 動物絶滅危惧種情報 - 動物 植物絶滅危惧種検索 - 維管束植物 維管束植物以外絶滅危惧種検索 - 蘚苔類、藻類、地衣類、菌類 2014年10月から2015年3月にかけて、2012年8月及び2013年2月に発表された第4次レッドリストに基づいたレッドデータブックが刊行された。 2014年版レッドデータブックは株式会社ぎょうせいから、『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物-』として、各分類群ごとに書籍の形で全9冊が刊行されている。 各分類群は、ほぼ改訂版と同じであるが、「陸・淡水産貝類」が対象を広げ「貝類」に、「クモ形類・甲殻類等」が「その他無脊椎動物(クモ形類・甲殻類等)」に変更されている。 日本国内では、環境省の他にも、学術団体や水産庁や都道府県等の地方公共団体などによりレッドデータブックが発行されており、その対象とする分類群が環境省版よりも広い場合も多い。 水産庁は1998年に「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」を発行しており、環境省版では対象としていない海生生物含む水生生物を対象としている。 学術団体などでは、環境省よりも早くに、日本自然保護協会及び世界自然保護基金日本委員会の合同で、1989年に維管束植物のレッドデータブックが作成され、これは、日本におけるレッドデータブックの先駆けとも言われている。日本哺乳類学会は1997年に哺乳類のレッドデータブックを作成しており、クジラ目も対象としているなど、環境省版よりも範囲を広げて評価している。環境省が汽水域・干潟域の生物を対象とするよりもまえに、世界自然保護基金日本委員会は、『WWF Japan サイエンス・レポート』にて、干潟海岸における底生生物のレッドデータブックを作成した(花輪・佐久間編、1996)。その後、2012年に日本ベントス学会において『干潟の絶滅危惧動物図鑑』が発行されている。 地方公共団体においては、1995年に神奈川県と三重県が作成したものがはじめてと言われている。2005年には、47都道府県の全てでレッドデータブック又はレッドリストが作成されており、中には改訂を行った地方自治体もある。その中には、独自の分類群や項目を設定している場合があり、例えば京都府では、生物だけではなく地形・地質・自然現象や生態系を評価対象にしている。 また、複数の自治体をまたがる地域版のレッドデータブックとして、近畿地方の7府県(兵庫県、大阪府、京都府、滋賀県、奈良県、和歌山県、三重県)を対象とした「近畿地方における保護上重要な植物 -レッドデータブック近畿-」が、1995年に作成されている。 ^ 環境省報道発表資料 『(お知らせ)レッドデータブック2014<哺乳類、鳥類、爬虫類・両生類、貝類、その他無脊椎動物>の完成・出版について』、2014年10月9日。 ^ 環境省報道発表資料 『(お知らせ)レッドデータブック2014<汽水・淡水魚類、昆虫類、植物II>の完成・出版について』、2015年3月9日。 ^ 環境省報道発表資料 『(お知らせ)レッドデータブック2014<植物I>の完成・出版について』、2015年3月20日。 ^ 環境庁(2000、21頁) ^ a b 我が国における保護上重要な植物種及び群落に関する研究委員会植物種分科会(1989) ^ 水産庁編 (2000) ^ a b c NPO法人野生生物調査協会及びNPO法人Envision環境保全事務所「レッドデータブックの歴史」『日本のレッドデータ検索システム Archived 2016年7月1日, at the Wayback Machine.』(2015年5月8日閲覧) ^ 日本哺乳類学会編(1997) ^ 日本ベントス学会編(2012) ^ 京都府『京都府レッドデータブック』(2015年5月8日閲覧) ^ レッドデータブック近畿研究会編著『近畿地方の保護上重要な植物 -レッドデータブック近畿-』関西自然保護機構、1995年1月、121頁。 NPO法人野生生物調査協会及びNPO法人Envision環境保全事務所『日本のレッドデータ検索システム』(2015年5月8日閲覧) 環境庁自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物8 植物I(維管束植物)』財団法人自然環境研究センター、2000年7月、660頁、ISBN 4-915959-71-6。 水産庁編『日本の希少な野生水生生物に関するデータブック』 財団法人自然環境研究センター、2000年3月、437頁。 京都府『京都府レッドデータブック』(2015年5月8日閲覧) 生物多様性政策研究会編『生物多様性キーワード事典』中央法規出版、2002年、162-163頁、ISBN 4-8058-4422-1。 日本哺乳類学会編『レッドデータ 日本の哺乳類』文一総合出版、1997年9月30日、279頁、ISBN 4-8299-2117-X。 日本ベントス学会編『干潟の絶滅危惧動物図鑑 海岸ベントスのレッドデータブック』東海大学出版部、2012年7月20日、306頁、ISBN 978-4-486-01943-5。 花輪伸一・佐久間浩子編集「特集:日本における干潟海岸とそこに生息する底生生物の現状」『WWF Japan サイエンス・レポート第3巻』財団法人世界自然保護基金日本委員会、1996年12月20日、1-181頁。 レッドデータブック近畿研究会編著『近畿地方の保護上重要な植物 -レッドデータブック近畿-』関西自然保護機構、1995年1月、121頁。 我が国における保護上重要な植物種及び群落に関する研究委員会 種分化会編『我が国における保護上重要な植物種の現状』財団法人日本自然保護協会・財団法人世界自然保護基金日本委員会、1989年11月、320頁。 レッドリスト 哺乳類レッドリスト 鳥類レッドリスト 両生類・爬虫類レッドリスト 汽水・淡水魚類レッドリスト 昆虫類レッドリスト 貝類レッドリスト その他無脊椎動物レッドリスト 維管束植物レッドリスト 植物II(維管束植物以外)レッドリスト 京都府レッドデータブック - 京都府内の絶滅危惧野生生物種および、自然生態系などを対象。(発刊:京都府 2002年) 保全状況評価 絶滅危惧種 読者の参考となる書籍を紹介する。本記事の執筆に直接使用していないものも含まれるので注意。 初版レッドデータブック 環境庁自然環境局野生生物課編『日本の絶滅のおそれのある野生生物 脊椎動物編』財団法人自然環境研究センター、1993年10月、340頁、ISBN 4-915959-03-1。 環境庁自然環境局野生生物課編『日本の絶滅のおそれのある野生生物 無脊椎動物編』財団法人自然環境研究センター、1993年10月、271頁、ISBN 978-4-915959-04-2。 改定版レッドデータブック 環境省自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物1 哺乳類』財団法人自然環境研究センター、2002年3月、177頁、ISBN 4-915959-73-2。 環境省自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物2 鳥類』財団法人自然環境研究センター、2002年8月、278頁、ISBN 4-915959-74-0。 環境庁自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物3 爬虫類・両生類』財団法人自然環境研究センター、2000年2月、120頁、ISBN 4-915959-70-8。 環境省自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物4 汽水・淡水魚類』財団法人自然環境研究センター、2003年5月、230頁、ISBN 4-915959-77-5。 環境省自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物5 昆虫類』財団法人自然環境研究センター、2006年8月、246頁、ISBN 4-915959-83-X。 環境省自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物6 陸・淡水産貝類』財団法人自然環境研究センター、2005年7月、402頁、ISBN 4-915959-81-3。 環境省自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物7 クモ形類・甲殻類等』財団法人自然環境研究センター、2006年1月、86頁、ISBN 4-915959-82-1。 環境庁自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物8 植物I(維管束植物)』財団法人自然環境研究センター、2000年7月、660頁、ISBN 4-915959-71-6。 環境庁自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物9 植物II(維管束植物以外)』財団法人自然環境研究センター、2000年12月、429頁、ISBN 4-915959-72-4。 2014版レッドデータブック 環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物- 1 哺乳類』ぎょうせい、2014年9月、132頁、ISBN 978-4-324-09895-0。 環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物- 2 鳥類』ぎょうせい、2014年9月、250頁、ISBN 978-4-324-09896-7。 環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物- 3 爬虫類・両生類』ぎょうせい、2014年9月、153頁、ISBN 978-4-324-09897-4。 環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物- 4 汽水・淡水魚類』ぎょうせい、2015年2月28日、414頁、ISBN 978-4-324-09898-1。 環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物- 5 昆虫類』ぎょうせい、2015年2月、509頁、ISBN 978-4-324-09899-8。 環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物- 6 貝類』ぎょうせい、2014年9月、455頁、ISBN 978-4-324-09900-1。 環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物- 7 その他無脊椎動物(クモ形類・甲殻類等)』ぎょうせい、2014年9月、82頁、ISBN 978-4-324-09901-8。 環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物- 8 植物I(維管束植物)』ぎょうせい、2015年3月、646頁、ISBN 978-4-324-09902-5。 環境省自然環境局野生生物課希少種保全推進室編『レッドデータブック2014 -日本の絶滅のおそれのある野生生物- 9 植物II(蘚苔類、藻類、地衣類、菌類)』ぎょうせい、2015年2月、580頁、ISBN 978-4-324-09903-2。 海生・水生生物 水産庁編『日本の希少な野生水生生物に関するデータブック』 財団法人自然環境研究センター、2000年3月、437頁。 底生生物 花輪伸一・佐久間浩子編集「特集:日本における干潟海岸とそこに生息する底生生物の現状」『WWF Japan サイエンス・レポート第3巻』財団法人世界自然保護基金日本委員会、1996年12月20日、1-181頁。 日本ベントス学会編『干潟の絶滅危惧動物図鑑 海岸ベントスのレッドデータブック』東海大学出版部、2012年7月20日、306頁、ISBN 978-4-486-01943-5。 哺乳類 日本哺乳類学会編『レッドデータ 日本の哺乳類』文一総合出版、1997年9月30日、279頁、ISBN 4-8299-2117-X。 維管束植物・植物群落 我が国における保護上重要な植物種及び群落に関する研究委員会 種分化会編『我が国における保護上重要な植物種の現状』財団法人日本自然保護協会・財団法人世界自然保護基金日本委員会、1989年11月、320頁。 環境省 自然環境局 環境省 自然環境局 生物多様性センター 生物多様性情報システム 絶滅危惧種情報 環境省 インターネット自然研究所 RDB図鑑 日本のレッドデータ検索システム - NPO法人野生生物調査協会及びNPO法人Envision環境保全事務所 植物レッドデータブックCOMPLETE IUCN日本委員会 自然環境研究センター", "レッドリスト(英語: Red List, RL)とは、国際自然保護連合(IUCN)が作成した絶滅のおそれのある野生生物のリスト。正式には The IUCN Red List of Threatened Speciesという。2017年12月現在で、最新のバージョンは2017年版。 また、日本では環境省が作成した「絶滅のおそれのある野生生物の種のリスト」も、レッドリストと呼ばれる。 最初のIUCN版レッドリストは、1966年に作成された。しかし、それ以前からレッドリストの作成に関する動きはあり、1940年代に哺乳類や鳥類の個体数の減少の報告が、1950年代にはIUCNが絶滅の危機のある野生生物をカード化して整理を始めた。これがレッドリストの先駆けである。そして、上述のように、1966年にノエル・シモン編『レッドデータブック第1巻「哺乳類」』及びジェイムス・フィッシャー、ジャック・ビンセント編『第2巻「鳥類」』が発表された。その後、1968年にレネ・ホネッガー編『第3巻「爬虫類と両生類」』、1970年にロナルド・メルビーユ編『第5巻「種子植物」』、1977年にロバート・ミラー編『第4巻「淡水魚」』が次々と発表された。これらは、更新の便からルーズリーフ形式が採用されている。 その後、1970年代から1980年代にかけて、レッドリストの更新や新たな分類群のレッドリストの作成が進められ、1986年に\"1986 IUCN red list of threatened animals\"と呼ばれる「本」の形式で出版され、2000年にはインターネットを通じて提供されるようになった。 レッドリストのカテゴリとその評価基準 (Categories & Criteria) の変遷を説明する。 1940年代〜1968年 この時代には統一された用語や評価基準は無かった。 1969年 1969年にカテゴリの統一化、整理が進み、絶滅危惧、希少、減少、非認定の4つの評価基準が定められた。 1970〜1990年 1969年版カテゴリと基準をベースにいくつかの検討がなされる。 1991年 (ver.1.0) 新しいカテゴリーの基本。大型脊椎動物に関する数値基準が示される。 1992年 (ver.2.0) ver.1.0の改訂版。種々の分類群に適用できるようにした数値基準を設けるとともに、絶滅のおそれが少ない種に対するカテゴリーが導入された。 1994年版 (ver.2.3) よく知られているカテゴリーと基準の1つ。定量的な数値基準を採用するためにカテゴリーと基準の全面改訂が行われ、1994年12月に数値基準を導入した新システムが採択された。その後のIUCNのレッドリストはこの1994年版のカテゴリーに従って作成されている。1996年10月発表の絶滅危惧動物のレッドリスト (1996 IUCN Red List of Threatened Animals (Baillie and Groombridge, 1996)) が1994年版のカテゴリーと基準を用いた最初のIUCNレッドリストである。 Evaluated - 評価済 Adequate data - 充分なデータあり Extinct (EX) - 「絶滅」 Extinct in the Wild (EW) - 「野生絶滅」 Threatened - 「危惧」あるいは「絶滅のおそれのある状態」(絶滅危惧) Critically Endangered (CR) - 「絶滅寸前」(絶滅危惧IA類) Endangered (EN) - 「絶滅危機」(絶滅危惧IB類) Vulnerable (VU) - 「危急」(絶滅危惧II類) Lower Risk (LR) - 「低リスク」 Lower Risk - Conservation Dependent (LR/cd) - 「保全対策依存」 Lower Risk - Near Threatened (LR/nt) - 「準絶滅危惧」(準絶滅危惧) Lower Risk - Least Concern (LR/lc) - 「軽度懸念」 Data Deficient (DD) - 「データ不足」(情報不足) Not Evaluated (NE) - 「未評価」 ※「 」内はIUCN日本委員会が訳した「IUCNレッドリスト2000年(1994年レッドリストカテゴリーとその基準)」で示されている訳語。( )は、環境省レッドリストの対応用語。 このカテゴリーと基準を海産魚類に適用したことをきっかけに、経済的な取引の対象となる生物への適用が議論となった。 2001年版 (ver. 3.1) 2015年5月現在採用されているカテゴリーと基準。2000年2月に、2001年版 (Ver. 3.1) カテゴリーと基準が採択された。2001年1月以降の評価はこの基準に従って行われている。しかし、1994年版に従ってすでに行われた全分類を2001年版に従って見直すことは、即時にできることではない。そのため、1994年版と2001年版が併用されており、\"ver. 2.3 (1994)\" あるいは \"ver. 3.1 (2001)\" と表示し、どのカテゴリーに従った評価なのかがわかるようになっている。 2001年版 (Ver. 3.1) によるカテゴリーは下記の通りである。Lower Risk以下が変化している。 Evaluated - 「評価済み」 Adequate data - 「十分なデータあり」 Extinct (EX) - 「絶滅」<絶滅種>(絶滅) Extinct in the Wild (EW) - 「野生絶滅」<野生絶滅種>(野生絶滅) Threatened - 「絶滅危惧」<絶滅危機種>(絶滅危惧、絶滅のおそれのある種) Critically Endangered (CR) - 「深刻な危機」<近絶滅種>(絶滅危惧IA類) Endangered (EN) - 「危機」<絶滅危惧種>(絶滅危惧IB類) Vulnerable (VU) - 「危急」<危急種>(絶滅危惧II類) Near Threatened (NT) - 「準絶滅危惧」<近危急種>(準絶滅危惧) Least Concern (LC) - 「低懸念」<低危険種> Data Deficient (DD) - 「データ不足」<情報不足種>(情報不足) Not Evaluated (NE) - 「未評価」 ※「 」内矢原・金子が訳した『IUCNレッドリストカテゴリーと基準 3.1版』で示されている訳語。<>はWWF-Jの訳語。( )は、環境省レッドリストの対応用語。 1966年 ルーズリーフ形式で発表された。 1986年 初めて本の形式で発表された。 1988年版 1990年版 1994年版 1996年版 1996年10月に「1996 絶滅危惧動物に関するIUCNレッドリスト」(\"1996 IUCN Red List of Threatened Animals\" (Baillie and Groombridge 1996)) が発表された。1994年版 (Ver. 2.3) のカテゴリーに従って発表された最初のレッドリストである。 2000年版 インターネットによる情報提供がはじまる。 2004年版 2006年版 2006年5月8日に「2006 絶滅危惧種に関するIUCNレッドリスト」(\"2006 IUCN Red List of Threatened Species\") が発表された。調査対象の40,168種のうち、絶滅のおそれのある種 (Threatened) は16,118種、絶滅 (Extinct) が784種、野生絶滅 (Extinct in the Wild) が65種になった。カテゴリー基準は2001年版 (Ver. 3.1) と1994年版 (Ver. 2.3) が混在している。この年以降、毎年更新されている。 2007年版 2007年9月12日に「2007 絶滅危惧種に関するIUCNレッドリスト」(\"2007 IUCN Red List of Threatened Species\") が発表された。絶滅のおそれのある種 (Threatened) は16,306種で、2006年版よりも188種が増加した。 2008年版 2008年10月6日に「2008 絶滅危惧種に関するIUCNレッドリスト」(\"2008 IUCN Red List of Threatened Species\") が発表された。絶滅のおそれのある種 (Threatened) は16,928種で、2007年版よりも622種が増加した。 2009年版 2009年11月3日に「2009 絶滅危惧種に関するIUCNレッドリスト」(\"2009 IUCN Red List of Threatened Species\") が発表された。絶滅のおそれのある種 (Threatened) は17,291種で、2008年版よりも363種が増加した。 2010年版 2010年10月27日に「2010 絶滅危惧種に関するIUCNレッドリスト」(\"2010 IUCN Red List of Threatened Species\") が発表された。絶滅のおそれのある種 (Threatened) は18,351種で、2009年版よりも1,060種が増加した。 2011年版 2012年版 2013年版 2014年版 2014年11月17日に \"2014 IUCN Red List of Threatened Species\" が発表された。クロマグロやアメリカウナギなどの海産資源種がレッドリストに掲載された。 2015年版 2015年11月19日に \"2015 IUCN Red List of Threatened Species\" が発表され、アユモドキやマンボウを含む23,250種が絶滅のおそれのある種(Threatened)と評価された。 2016年版 2016年7月5日に \"2016 IUCN Red List of Threatened Species\" が発表された。 IUCNのレッドリスト発表後、各国の所管政府機関などによって、同様のリストが独自に作成されてきた。これらの多くは、IUCNのカテゴリーに準拠したものもある。 日本では環境省により作成されているほか、水産庁や地方公共団体、学術団体などにより作成されている。 日本においてはレッドリストやレッドデータブックに掲載された生物に対する法令等の規制はないが、絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律(種の保存法)における希少野生動植物種の指定や環境アセスメントなどの野生生物の保護・保全における基礎資料として用いられる。 環境省では、レッドリストとレッドデータブックという2つの資料を作成・公表する。レッドリストは絶滅のおそれのある野生生物の名称(学名、和名等現地名)、カテゴリー等の最低限の情報のみをリストするものであり、レッドデータブックよりも短期間で作成することができる。一方レッドデータブックには、レッドリストの内容に加え、形態、繁殖・採餌等の生態、分布、生育・生息環境、生育・生息状況、絶滅の要因、保全対策などのより詳細な情報が盛り込まれており、掲載種の基本的な情報を得ることができるようになっている。しかしながら、最新の知見を収集し、それらを取りまとめるため、作成に時間がかかるという欠点もある。例えば、環境省ではレッドリストの公表からレッドデータブックの作成までの期間を見ると、最も短い両生類・爬虫類で2年半、最も時間が掛かった昆虫類で6年以上経過している。絶滅の危機に瀕している野生生物の状況は短期間で悪化することもある。そのため、いち早くレッドリストを確定・公表し、その後詳細な情報をとりまとめたレッドデータブックを作成するという2段階の作業をとっている。 この作成期間の差から、レッドリストとレッドデータブックで記載されている内容が変更されることもある。環境省の哺乳類では、1998年公表のレッドリストでは1亜種としていたニホンカワウソを、1998年発行のレッドデータブックでは本州以南個体群と北海道個体群の2つの亜種に分けている。また、維管束植物では、1997年公表のレッドリストで情報不足に評価された種(亜種・変種)について可能な限り再評価し、2000年発行のレッドデータブックでは絶滅危惧 (Threatened) に評価された種が266分類群も増加している。 レッドリストとレッドデータブックの作成期間が開いた場合、レッドデータブックの発刊後すぐに、見直されたレッドリストが公表されるという場合もある。環境省の甲殻類等とクモ形類・多足類等のレッドデータブックは2006年2月に発行されたが、その年の12月に新しいレッドリストが公表されている。 なお、レッドリストとレッドデータブックの2段階に分けず、レッドデータブックとして1回のみ公表する場合もある。特に日本の地方自治体(都道府県など)ではその傾向にあるが、環境省(当時環境庁)が1991年(平成3年)に発行した『日本の絶滅のおそれのある野生生物』(動物版レッドデータブック)においても、先行してレッドリストを公表してはいない。 1991年版カテゴリー IUCNの1966年版カテゴリーを元に設定された。 絶滅種 (Ex) 絶滅危惧種 (E) 危急種 (V) 希少種 (R) 地域個体群 (LP) 1997年版カテゴリー IUCNの1994年版カテゴリーを元に設定されたが、LR/cd(低リスク/保全対策依存)・LR/lc(低リスク/軽度懸念)・NE(未評価)に相当するカテゴリーは設定していない。また、詳細なカテゴリーの定義については下記を参照。また、カテゴリーの判定基準は「定性的要件」と「定量的要件」を組み合わせたものになっており、分類群あるいは評価対象種の状況に応じていずれかが採用されている(無脊椎動物や植物IIでは全面的に定性的要件が使用されており、絶滅危惧IA類とIB類の区分もされていない)。 絶滅 (Extinct, EX) - 日本ではすでに絶滅したと考えられる種 野生絶滅 (Extinct in the Wild, EW) - 飼育・栽培下でのみ存続している種 絶滅危惧 (Threatened) 絶滅危惧I類 (CR+EN) - 絶滅の危機に瀕している種 絶滅危惧IA類 (Critically Endangered, CR) - ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの 絶滅危惧IB類 (Endangered, EN) - IA類ほどではないが、近い将来における野生での絶滅の危険性が高いもの 絶滅危惧II類 (Vulnerable, VU) - 絶滅の危険が増大している種 準絶滅危惧 (Near Threatened, NT) - 存続基盤が脆弱な種 情報不足 (Data Deficient, DD) - 評価するだけの情報が不足している種 [付属資料]絶滅のおそれのある地域個体群 (Threatened Local Population, LP) - 地域的に孤立している個体群で、絶滅のおそれが高いもの 2007年(2006年)版カテゴリー カテゴリー区分は環境省1997年版カテゴリーと同じであるが、カテゴリー定義が若干変更されている。 2012年・2013年版カテゴリー クニマスの再発見により、野生絶滅の判定基準を「飼育・栽培下でのみ存続している種」から「飼育・栽培下あるいは自然分布域の明らかに外側で野生化した状態でのみ存続している種」に変更した。 1991年版と1997年版・2007年版カテゴリーの比較 1991年版と1997年版・2007年版カテゴリーの比較を参考として記載する。 2017年版カテゴリー 2012(平成24)年度に第4次レッドリスト(絶滅のおそれのある野生生物の種のリスト)を取りまとめており、2015(平成27)年度から、生息状況の悪化等によりカテゴリー(ランク)の再検討が必要な種について、時期を定めず必要に応じて個別に改訂することとしている。環境省レッドリスト2017は、第4次レッドリストの第2回目の改訂版。環境省レッドリスト2017における13分類群に海洋生物レッドリストを加えた絶滅危惧種は3,690種。 1991年版(1回目) 環境庁(当時・環境省)は、1986年度から「緊急に保護を要する動植物の種の選定調査」を実施し、その結果を『日本の絶滅のおそれのある野生生物-脊椎動物編』、『同-無脊椎動物編』(通称『レッドデータブック』)として取りまとめ、1991年5月に脊椎動物編を10月に無脊椎動物編を発行した。最初の環境省版レッドリストは、レッドデータブックという形態で、動物についてのみ取り扱っていた。 1997-2000年版(2回目) 1994年に、IUCNで上記の新しいカテゴリーが採択された。そこで環境庁でも、1995年より、新しい基準とカテゴリーを適用する形でレッドリストの見直し作業を開始することとなった。この際に、生息状況や生息環境の変化に関するその後の知見等も取り入れることとした。しかし純粋に定量化されたIUCNのカテゴリーをそのまま導入するには種ごとの国内の知見に限界もあることから、定性的要件と定量的要件を併用したカテゴリーとされた。 初版レッドデータブックの作成時と違い、この見直し作業は各分類群(哺乳類、鳥類など)ごとに分割して行われた。まず1997年8月に「爬虫類・両生類」のレッドリストが公表されたのを皮切りに、同月に「植物I(維管束植物)」「植物II(維管束植物以外)」、翌1998年6月に「哺乳類」「鳥類」、1999年2月に「汽水・淡水魚類」のレッドリストが続き、2000年4月の「昆虫類」「その他の無脊椎動物」の公表をもって、全分類群のレッドリストが完成した。 その後、2006年8月までに「その他の無脊椎動物」を基にしたレッドデータブック(「陸・淡水産貝類(2005年)」及び「クモ形類・甲殻類等(2006年)」)が出版され、それぞれのレッドリストを元にした改訂版レッドデータブックは全て完成した。 2006-2007年版(3回目) 2006年12月22日に「鳥類」、「爬虫類」、「両生類」及び「その他無脊椎動物」の新レッドリストが、2007年8月3日に「哺乳類」、「汽水・淡水魚類」、「昆虫類」、「貝類」、「植物I(維管束植物)」及び「植物II(維管束植物以外)」の新レッドリストが公表された。これで全10分類群の見直し作業が終了した。その結果、絶滅のおそれのある種としてレッドリストに掲載された種の数は、全10分類群合計で2,694種(旧リスト)から3,155種(新リスト)となった。 2012-2013年版(4回目) 2012年8月28日に「哺乳類」「鳥類」「爬虫類」「両生類」「昆虫類」「貝類」「その他無脊椎動物」「植物I(維管束植物)」「植物II(維管束植物以外)」、2013年2月1日に「汽水・淡水魚類」のレッドリストが公表された。絶滅のおそれのある種は全10分類群合計で3,597種であり、2006-2007年版と比較して442種増加した。 2015年版 2015年9月15日に「環境省レッドリスト2015」が公表された。2012-2013年版で絶滅危惧II類(VU)だったゼニガタアザラシが準絶滅危惧(NT)と再評価されたため、絶滅のおそれのある種は全10分類群合計で3,596種となった。 2017年版 2017年3月31日に「環境省レッドリスト2017」が公表された。絶滅のおそれのある種は13分類群合計で3,634種となり、2015年版と比較して38種増加した。追加されたのは、絶滅したと見なされていたが宮崎県の川南湿原で自生が確認されたヒュウガホシクサ、対馬固有種のツシマウラボシシジミ、八重山諸島のヤエヤマイシガメ、小笠原諸島のオガサワラクロベンケイガニ。 2018年版 2018年5月22日に「環境省レッドリスト2018」が公表された。絶滅のおそれのある種は13分類群合計で3,675種となり、2017年版と比較して41種増加した。 海洋生物版 2017年3月17日に海洋生物レッドリストを公表した。魚類や珊瑚、甲殻類など5分類の約1万120種について調査(水産庁所管の食用魚は対象外)。オガサワラサンゴを絶滅と判断したほか、シロワニなど56種を絶滅危惧種とした。 環境省版レッドリストの公表年月日 各環境省レッドリストへのリンク 環境省報道発表資料 『両生類・爬虫類のレッドリストの見直しについて』、1997年8月7日。 環境省報道発表資料 『植物版レッドリストの作成について』、1997年8月28日。 環境省報道発表資料 『哺乳類及び鳥類のレッドリストの見直しについて』、1998年6月12日。 環境省報道発表資料 『汽水・淡水魚類のレッドリストの見直しについて』、1999年2月18日。 環境省報道発表資料 『無脊椎動物(昆虫類、貝類、クモ類、甲殻類等)のレッドリストの見直しについて』、2000年4月12日。 環境省報道発表資料 『鳥類、爬虫類、両生類及びその他無脊椎動物のレッドリストの見直しについて』、2006年12月22日。 環境省報道発表資料 『哺乳類、汽水・淡水魚類、昆虫類、貝類、植物I及び植物IIのレッドリストの見直しについて』、2007年8月3日。 環境省報道発表資料 『レッドリストの修正について』、2007年10月5日。 環境省報道発表資料 『環境省 第4次レッドリストの公表について(汽水・淡水魚類を除く9分類群)』、2012年8月28日。 環境省報道発表資料 『環境省 第4次レッドリストの公表について(汽水・淡水魚類)』、2013年2月1日。 環境省報道発表資料 『環境省レッドリスト2015の公表について』、2015年9月15日。 環境省報道発表資料 『環境省版海洋生物レッドリストの公表について』、2017年3月17日。 環境省報道発表資料 『環境省レッドリスト2017の公表について』、2017年3月31日。 環境省報道発表資料 『環境省レッドリスト2018の公表について』、2018年5月22日。 掲載種のリスト 哺乳類レッドリスト 鳥類レッドリスト 両生類・爬虫類レッドリスト 汽水・淡水魚類レッドリスト 昆虫類レッドリスト 貝類レッドリスト その他無脊椎動物レッドリスト 維管束植物レッドリスト 植物II(維管束植物以外)レッドリスト 水産庁は2000年(平成12年)に「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」を発行している。これは水産資源の持続的利用を目的とし、環境省版では対象としていない海生生物含む水生生物を対象としたレッドデータブックである。評価基準及びカテゴリーは環境庁(現環境省)の1991年版カテゴリーに準じた絶滅危惧(種)、危急(種)、希少(種)、地域個体群に加え、独自のカテゴリーとして減少(種)、減少傾向、普通を設けている。最新のIUCNカテゴリー等に準拠しておらず独特のものであるため問題が指摘されている(クジラ目#クジラ目の保護参照)。 日本の47都道府県全てで、レッドリスト(あるいはレッドデータブック)を作成・公表している。また、都道府県によっては、改定版を作成している場合もある。各地方自治体の状況に応じて、独自色をだしている(京都府レッドデータブックを参照)。千葉市、名古屋市、松山市などのように市町村レベルでのレッドデータブックを作成している地方自治体がある。 日本自然保護協会及び世界自然保護基金日本委員会の合同で、1989年に維管束植物のレッドデータブックが発行されている。 日本哺乳類学会においても、環境省とは独自に哺乳類のレッドリストを検討し、1997年に『レッドデータ 日本の哺乳類』を発表している。このレッドリストは、IUCN版の新旧両方のカテゴリーに対応している。 ^ 詳細は、Historical IUCN Red Data Books and Red Listsを参照。 ^ 環境省レッドリスト2017では、植物の分類群が「維管束植物」「蘚苔類」「藻類」「地衣類」「菌類」と細分化されたため、評価対象の分類群の数が(10→13に)増えている。 ^ a b 編集部「レッド・リスト」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、1984〜1994年(コトバンク。2015年5月18日閲覧。) ^ a b International Union for Conservation of Nature and Natural Resources \"The IUCN Red List of Threatened Species. Version 2017.3.\" ^ 環境省『報道発表資料 第4次レッドリストの公表について(お知らせ)』、2012年8月28日。 ^ a b c d e f g h i j k l m n 国際自然保護連合編「IUCNレッドリストの歴史」『IUCNレッドリスト 世界の絶滅危惧生物図鑑』岩槻邦男・太田英利訳、丸善出版、2014年1月25日、xiii-ix頁、ISBN 978-4-621-08764-0。 ^ Simon, Noel, \"Red data book. Volume 1. Mammalia, a compilation.\" IUCN, 1966. ^ Vincent, Jack, Simon, Noel, \"Red data book. Volume 2. Aves.\" IUCN, 1966. ^ Melville, Ronald, \"Red data book. Volume 5. Angiospermae, a compilation.\" IUCN, 1970. ^ Miller, Robert Rush, \"Red data book. Volume 4. Pisces : freshwater fishes.\" IUCN, 1979. ^ \"1986 IUCN red list of threatened animals.\" IUCN, 1986. ^ a b c d 2001 Categories & Criteria (version 3.1) ^ a b c d IUCN『http://www.jwrc.or.jp/JWRC/pdfs/IUCNRR.pdf IUCNレッドリストカテゴリーと基準 3.1版]』矢原徹一・金子与止男訳、2001年。(pdf.) ^ a b c レッドリストについて(2015年5月18日閲覧) ^ WWF-J「IUCNレッドリスト2006」発表 ^ WWF-J「IUCNレッドリスト2007」発表 ^ WWF-J 1万6,928種が絶滅の危機に 2008年版IUCNレッドリスト発表される ^ WWF-J 2009年版「レッドリスト」が発表されました ^ 産経ニュース 【COP10】絶滅おそれ3割超す 1060種増、IUCN発表 ^ 産経ニュースクロマグロ、アメリカウナギのレッドリスト入りで食卓は変わる?さらなる値上げの可能性も(2015年5月18日閲覧) ^ WWF-J アユモドキがジャワサイ、ノグチゲラの仲間入り(2017年2月19日閲覧) ^ 日本経済新聞 マンボウが絶滅危惧種に レッドリスト最新版(2017年2月19日閲覧) ^ IUCN Red List: Numbers of threatened species by major groups of organisms (1996–2016) ^ 毎日新聞 スッポン 新たに絶滅危惧種に指定 IUCN(2016年7月5日閲覧) ^ IUCN版との対応表 ^ レッドデータブックカテゴリー(環境省、1997) ^ レッドリストカテゴリー(環境省、2007) (PDF) ^ 生物多様性情報システム ^ 汽水・淡水魚類レッドリスト見直しで明らかになった点 ^ a b 環境省レッドリスト2017の公表について 2017年3月31日(環境省) ^ 鳥類、爬虫類、両生類及びその他無脊椎動物のレッドリストの見直し ^ 哺乳類、汽水・淡水魚類、昆虫類、貝類、植物I及び植物IIのレッドリストの見直しについて ^ 環境省 第4次レッドリストの公表について(2012年)(2017年3月28日閲覧) ^ 環境省 第4次レッドリストの公表について(2013年)(2017年3月28日閲覧) ^ 環境省レッドリスト2015の公表について(2017年3月28日閲覧) ^ 環境省レッドリスト2017の公表について(2017年4月3日閲覧) ^ 環境省レッドリスト2017掲載種数表(2017年4月3日閲覧) ^ 環境省レッドリスト2018の公表について(2018年5月28日閲覧) ^ 環境省レッドリスト2018掲載種数表(2018年5月28日閲覧) ^ 水産庁編 『日本の希少な野生水生生物に関するデータブック』 財団法人自然環境研究センター、2000年、4頁。 ^ 日本のレッドデータ検索 最新のレッドデータリスト・ブックの情報。 ^ “千葉市の保護上重要な野生生物について-千葉市レッドリスト-”. 千葉市. 2012年11月18日閲覧。 ^ “名古屋市:「名古屋市版レッドリスト2015」・「レッドデータブックなごや2015」(市政情報)”. 名古屋市. 2019年1月6日閲覧。 ^ “レッドデータブックについて”. 松山市. 2019年1月6日閲覧。 ^ 我が国における保護上重要な植物種及び群落に関する研究委員会 種分化会編 『我が国における保護上重要な植物種の現状』 財団法人日本自然保護協会・財団法人世界自然保護基金日本委員会 発行、1989年。 ^ 日本哺乳類学会編 『レッドデータ 日本の哺乳類』文一総合出版、1997年、ISBN 4-8299-2117-X。リストは日本哺乳類学会 Archived 2007年8月21日, at the Wayback Machine.のホームページからも確認できる。 環境庁自然環境局野生生物課編 『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物8 植物I(維管束植物)』 財団法人自然環境研究センター、2000年、ISBN 4-915959-71-6。 国際自然保護連合編『IUCNレッドリスト 世界の絶滅危惧生物図鑑』岩槻邦男・太田英利訳、丸善出版、2014年1月25日、416頁、ISBN 978-4-621-08764-0。 日本哺乳類学会編 『レッドデータ 日本の哺乳類』文一総合出版、1997年、ISBN 4-8299-2117-X。 我が国における保護上重要な植物種及び群落に関する研究委員会 種分化会編 『我が国における保護上重要な植物種の現状』 財団法人日本自然保護協会・財団法人世界自然保護基金日本委員会 発行、1989年。 『野生生物問題』羽山伸一著 地人書館、2001年、ISBN 4-8052-0689-6 IUCN 生物多様性条約 / 絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約) 生物多様性 / 絶滅危惧種 / 保全状況 環境省 / 生物多様性センター / レッドデータブック (環境省) 京都府レッドデータブック - 京都府内の絶滅危惧野生生物種および、自然生態系などを対象。(発刊:京都府、2002年) The IUCN Red List of Threatened Species - International Union for Conservation of Nature and Natural Resources レッドリストの解説 - IUCN日本委員会 「レッドリストについて」 - WWF-J 生物多様性情報システム - 環境省生物多様性センター 「絶滅危惧種情報システム」 日本のレッドデータ検索システム 植物レッドデータブックCOMPLETE", "その他無脊椎動物レッドリスト(そのたむせきついどうぶつレッドリスト)は、日本の環境省が公表した無脊椎動物のレッドリストであり、日本国内における貝類の絶滅危惧の評価である。日本国内の個体群に対しての評価であるので、世界的にみれば普通種に該当する場合がある。 対象としては、甲殻類(エビ・カニの仲間)、クモ形類(ダニやクモの仲間)、多足類(ムカデやヤスデの仲間)、扁形動物(ウズムシ類)、環形動物(ヒルやミミズの仲間)、海綿動物(カイメンの仲間)、刺胞動物(クラゲの仲間)、苔虫動物(コケムシの仲間)等が含まれている。なお、他に、無脊椎動物を対象としたリストは昆虫類と貝類がある。 また、後述する1991年版リストでは「汽水・淡水産十脚甲殻類」と「その他の無脊椎動物」に、2000年版リストでは「無脊椎動物II(クモ形類・多足類等)」と「無脊椎動物III(甲殻類等)」に区別していた。 環境省版のその他無脊椎動物レッドリストは、1991年(平成3年)に『日本の絶滅のおそれのある野生生物-無脊椎動物編』として公表されたもの(1991年版)が初めてである。その後、2000年(平成12年)4月12日に、改訂されたレッドリスト(2000年版)が公表された。その2000年版レッドリストを基に、2006年(平成18年)1月に『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物7 クモ形類・甲殻類等』が作成された。さらに、2006年(平成18年)12月22日に最新のレッドリスト(2006年版)が公表された。 なお、無脊椎動物では、絶滅危惧のカテゴリーである絶滅危惧I類 (CR+EN) についてIA類 (CR) とIB類 (EN) の区分を行っていない。 1991年版では71種(亜種を含む、以下同じ)、2000年版では101種、2006年版では136種と、掲載種数は増加している。ただしこれは、最新の研究の結果により分類が変更されたこと(それまでは別(亜)種と考えられていたものが、同(亜)種であると改められる等)や、評価単位が変更されたこと(種単位で評価していた分類群を亜種単位での評価に変える等)などによる部分があるので、掲載種数の増加が単純に絶滅危惧種の増加を示すとは言えないことに注意する必要がある。 その他無脊椎動物の評価対象種は約4200種であるが、これには下記の要件がある。 種又は亜種を評価単位とする。分類学的に未確定のものは原則として対象外だが、種又は亜種の学名が確定しなくとも、明確に特定でき、報告されたものは評価の対象とする。 純海産種は対象から除く。 海外から導入された種及び他地域から導入された種は対象から除く。 その他無脊椎動物の絶滅危惧(絶滅のおそれのある種)の数は、1991年版では14種、2000年版では33種、2006年版では56種となり、増加傾向にある。 2000年版で、野生絶滅に評価されたトキウモウダニはトキに寄生しているダニであるため、トキが野生絶滅したために野生絶滅と評価された。 2000年版から2007年版でザリガニミミズ類およびサワガニ類の絶滅のおそれのある種が増加したが、これらの種の生育環境の悪化が要因であるほか、 南西諸島産のオオサワガニの分類が見直され、4種に再分類ことなど新たな知見が増えたことも要因としてあげられる。また、干潟に生息するシオマネキおよびハクセンシオマネキや、小笠原諸島に生息するオガサワラヌマエビ等がカテゴリーが上がっている。 ※計数は、発表された当時の各レッドリストの掲載種の数であり、表内のカテゴリーの数と計数が一致しないことがある。これは、レッドリストの見直しに伴い評価単位である分類群(種や亜種、地域個体群等)を変更することがあり、本表ではそれらの変遷も追えるように作成されているためである。これらについては備考を参照のこと。 ^ 環境省報道発表資料 『無脊椎動物(昆虫類、貝類、クモ類、甲殻類等)のレッドリストの見直しについて』、2000年4月12日。 ^ a b c 環境省報道発表資料 『鳥類、爬虫類、両生類及びその他無脊椎動物のレッドリストの見直しについて』、2006年12月22日。 ^ 絶滅危惧種検索 トキウモウダニ 環境庁自然環境局野生生物課編『日本の絶滅のおそれのある野生生物 無脊椎動物編』 財団法人自然環境研究センター、1991年、ISBN 978-4-915959-04-2。 環境省自然環境局野生生物課編『改訂・日本の絶滅のおそれのある野生生物7 クモ形類・甲殻類等』 財団法人自然環境研究センター、2006年、ISBN 4-915959-82-1。 環境省生物多様性センター 『絶滅危惧種情報』生物多様性情報システム。 環境省報道発表資料 『無脊椎動物(昆虫類、貝類、クモ類、甲殻類等)のレッドリストの見直しについて』、2000年4月12日。 環境省報道発表資料 『鳥類、爬虫類、両生類及びその他無脊椎動物のレッドリストの見直しについて』、2006年12月22日。 環境省報道発表資料 『レッドリストの修正について』、2007年10月5日。 レッドデータブック レッドリスト 哺乳類レッドリスト 鳥類レッドリスト 両生類・爬虫類レッドリスト 汽水・淡水魚類レッドリスト 昆虫貝類レッドリスト 貝類レッドリスト 維管束植物レッドリスト 植物II(維管束植物以外)レッドリスト ウィキプロジェクト 生物(レッドデータカテゴリーの表示) 環境省 自然環境局 生物多様性センター 生物多様性情報システム 絶滅危惧種情報 カテゴリー IUCN日本委員会" ]
ABC01-02-0143
日本人でノーベル文学賞を受賞した作家は、川端康成と誰でしょう?
大江健三郎
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[ "大江健三郎", "古井由吉", "吉行淳之介", "武田泰淳", "野間宏" ]
[ "大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年1月31日 - )は、日本の小説家。昭和中期から平成にかけて活躍した現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。愛媛県出身。東京大学仏文学科卒業。 1994年、ノーベル文学賞受賞。 愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。東京大学文学部フランス文学科卒。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。サルトルの実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感と恐怖をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎、開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。 その後、豊富な外国文学の読書経験などにより独特の文体を練り上げていき、核や国家主義などの人類的な問題と、故郷である四国の森や、知的障害者である長男(作曲家の大江光)との交流といった自身の「個人的な体験」、更に豊富な読書から得たさまざまな経験や思想を換骨奪胎して織り込み、それらを多重的に輻輳させた世界観を作り上げた。作品の根幹にまで関わる先人たちのテクストの援用、限定的な舞台において広く人類的な問題群を思考するなどの手法も大きな特徴として挙げられる。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。 主な長編作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』など。1995年に『燃えあがる緑の木』三部作完結、これをもって最後の小説執筆としていたが、親友の武満徹への弔辞で発言を撤回し執筆を再開。以降の『宙返り』から、『取り替え子(チェンジリング)』に始まる『おかしな二人組(スウード・カップル)』三部作などの作品は自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と位置づけている。また戦後民主主義の支持者として社会参加の意識が強く、国内外における問題や事件への発言を積極的に行っているが、その独特の視座における発言が議論を呼ぶこともある。身長172センチ。2002年アメリカ芸術科学アカデミー外国人会員選出。 1935年1月31日、愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちの大江の文学世界の形成に大きく関わることになる。1941年、大瀬小学校入学、この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1947年、大瀬中学校入学。この年新憲法が施行され、「戦後民主主義」に立脚した自身の思想を形成するうえで多大な影響を受けた。1950年、愛媛県立内子高等学校に入学するも、いじめを原因に翌年愛媛県立松山東高等学校へ編入。このときのいじめの体験はのちに『芽むしり仔撃ち』で題材とされている。高校時代は石川淳、小林秀雄、渡辺一夫、花田清輝などを愛読。東高では文芸部に所属し部誌「掌上」を編集、自身の詩や評論を掲載した。東高在学中、同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。 1953年に上京、予備校に通ったのち翌1954年東京大学教養学部文科二類(現在の文科III類)に入学。学生演劇の脚本として「天の嘆き」「夏の休暇」を執筆、教養学部学友会機関紙に「火山」を掲載し銀杏並木賞受賞。このころパスカル、カミュ、フォークナー、ノーマン・メイラー、安部公房などを愛読、とりわけサルトルに関心を抱く。1955年、「文藝」全国学生小説コンクールに「優しい人たち」で佳作(この時の佳作第一席は岡松和夫)。1956年、文学部フランス文学科に進み、かねてから愛読していた渡辺一夫に師事、この頃よりサルトルを原書で読み始める。学生演劇の脚本「死人に口なし」を執筆、また戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに当選。同年10月、立川基地拡張反対のデモに参加した。 1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が『東京大学新聞』に掲載され、『毎日新聞』で平野謙の激賞を受ける。これを契機として同年『文學界』に「死者の奢り」を発表し、学生作家としてデビュー。「他人の足」「石膏のマスク」「偽証の時」を次々に発表。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となり、川端康成や井上靖、舟橋聖一の推薦を受けるが、この回は開高健の『裸の王様』が受賞した。デビュー時よりサルトルの実存主義からの影響を強く受けた作家とされたが、この「死者の奢り」について江藤淳は、「実存主義を体よく表現した小説」というよりも安岡章太郎や川端康成などの叙情家の系譜につらなる作品ではないかと分析している。 デビューの翌1958年、自身初の長編小説『芽むしり仔撃ち』を発表。同年、「飼育」で第39回芥川賞を23歳で受賞。1956年の石原慎太郎に続いて当時最年少タイでの受賞となった。選考委員の川端康成は、「芥川龍之介と大江健三郎では時代も、才質も作風も違うが、23、4の学生が、異常な題材を小説に仕上げた点を芥川と似通ったものと解釈し、芥川龍之介の名前を冠した賞に加えたいと思った」とした。一方、舟橋聖一は前回の芥川賞の選考に異議を唱える立場から、「飼育」よりも「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行っている。 また、同1958年に、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。 1959年、東大卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」。同年書き下ろし長編『われらの時代』刊行。この作品から青年であることへの鬱屈と虚無感、グロテスクに閉塞したセクシュアリティを主題の一環として前面に押し出すようになり、痛烈な批判を受けたものの、この作品によって第一の作風転換を遂げる。同年に武満徹と知り合う。1960年、伊丹ゆかり(伊丹十三の妹)と結婚。 1961年、「政治と性」を主題とした作品「セヴンティーン」を『文學界』1月号に、続編「政治少年死す―セヴンティーン第二部」を翌月号に発表。浅沼稲次郎暗殺事件に触発され、犯人の山口二矢をモデル人物として、「性に耽溺し、政治に陶酔する右翼少年」(文庫本裏の梗概より)を描くが、「風流夢譚事件」と同様にこの作品をめぐって文藝春秋等に右翼団体から脅迫が行われた。このため「政治少年死す」はその後の単行本に収められていない。ただし『大江健三郎全作品1』所収の自筆年譜によれば、本作が「現在までの短編集に採録されていないのは、作家自身の意志によるものではない」としており、『大江健三郎全作品3』に「セヴンティーン」と併せて収録された。 1963年、長男の光が頭蓋骨異常のため知的障害を持って誕生。重い「障害を持つ子」の誕生は、戦後社会に希望を持てない青年と、その社会に対する絶望的な反抗や呪詛を独自に描いてきた作家にとって、精神的な転機をもたらした。1964年、光の誕生をうけての擬似私小説的作品『個人的な体験』で第11回新潮社文学賞受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親「鳥(バード)」が、様々な精神遍歴の末、想像力によって現実に向き直るに至るまでを描いた作品であり、もともとサルトルによってその意識を深められた「想像力」の概念は、これ以降の大江にとって非常に大きな主題・手法のひとつとなった。ただしこの作品のプロットについては、ジョン・アップダイク『走れウサギ』(1960年)との類似、ないし本歌取りの可能性を指摘する声もある。同年、広島に何度も訪れた体験や世界原水爆禁止大会に参加した体験を元にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』の連載を開始。これ以降の大江は、障害を持つ子供を中心とした「個人的な体験」と、広島・長崎の被爆や戦争という「人類固有の悲劇」とを対応させ、自身の主題として深めていく。 1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表、最年少(2019年現在破られていない)で第3回谷崎潤一郎賞を受賞。万延元年(1860年)に四国の村で起こった一揆と、100年後の安保闘争とを重ね合わせ、閉鎖的情況における革命的反抗を描き大きな反響を呼んだ。この頃前後から70年代の作品で顕著になる大江独特の文体は、格や注釈、修飾・被修飾の対応関係などが混濁するためしばしば難解で悪文であるとも言われるが、近代の標準的な日本語である東京方言に対抗しうる(散文)詩的な言語として、ノーベル文学賞に選出された際の受賞理由として挙げられている(ただしその後大江は作品にあわせて文体を適宜調整する書き方も行っている)。今日では大江の代表作・最高傑作などと名高い作品ではあるが、かつて大江を評価していた江藤淳は厳しく批判し、以後は長い対立関係が形成された。 日本社会と地続きの異常な小世界群を描き出した短篇集(『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年))を経て、1971年に発表された中篇「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「月の男(ムーン・マン)」では、前年の三島事件を受けて現行の天皇観を批判的に問い直すことを主題とし(巻頭の短文に三島への揶揄的な記述も見られる)、その後のカタストロフ的なヴィジョンを援用した『洪水はわが魂に及び』(1973年、野間文芸賞受賞)、『ピンチランナー調書』(1976年)では天皇制や核の問題を考えつつ、リアリズムを超越した世界観を描き始める。ここで大江の後期のテーマである「魂の問題」「祈り・赦し」といった宗教的な問題に深く接近していき、更なる転換を遂げる。40代から山口昌男らの文化人類学の影響を受け、1979年に発表された『同時代ゲーム』において「村=国家=宇宙」の歴史を書く主人公の物語を描いたが、文芸評論家[誰?]からは名声を確立したあとの「奢り」のようなものとして批判を受けた。ただし大江自身は、宇宙の創建者である「壊す人」や魂の問題を取り上げたものとして、自身の作品の中でも重要なものと位置づけている。 1982年、連作集『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』を発表、翌年に第34回読売文学賞受賞。なお、武満徹はこの連作集の第一作「頭のいい「雨の木」」に触発された「雨の樹」(レイン・ツリー)を作曲した。連作第二作「「雨の木」を聴く女たち」は、この曲の初演を受けて執筆されており、小説中にコンサートの場面が出てくる。1983年の『新しい人よ眼ざめよ』では、ブレイクの詩を引用し、ブレイクのテクストやそれにまつわる研究を繰り返し読むことで導かれた思考を大江自身の子供の言葉と重ね合わせつつ、静謐な筆致で私小説的に私生活を描き、第10回大佛次郎賞受賞。1985年には連合赤軍事件を思想的に総括した『河馬に嚙まれる』、1986年には『同時代ゲーム』の世界観を現実世界と照応させるこころみとして『M/Tと森のフシギの物語』、1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにして自身の半生・思想の遍歴・主題の変遷などを叙事的に描いた『懐かしい年への手紙』を発表、自身の作風の総括的な仕事を連続しておこなった。1989年の『人生の親戚』では長編で初めて女性を主人公とし、子供を失った女性の悲劇と再起までを描いて第1回伊藤整文学賞を受賞した。1989-1990年に発表された連作『治療塔』および続編の『治療塔惑星』では、広義のSFの枠組みとイェイツの詩(既存の詩歌の引用に大きな手法上の役割を持たせるのも後期作品の特徴の一つ)を借りながら核と人類救済の主題を描いている。 1993年9月より、『新潮』において自身最長の三部作『燃えあがる緑の木』の連載を開始。連載中の1994年10月13日に「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。その世界では生命と神話が凝縮されて、現代の人間の窮状を描く摩訶不思議な情景が形作られている (who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today )」という理由でノーベル文学賞を受賞、川端康成以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者となる。12月7日にストックホルムで行われた晩餐会での基調講演は川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」というものであった。ここで大江は、川端のいう美しいという概念はvague(あいまい、ぼんやりした)で実体が定かではない神秘主義に過ぎないとし、自分としては日本をambiguous(あいまい、両義的)な国としてとらえると述べ、前近代−日本と近代−西洋に引き裂かれた国、としての日本を語った。11月より『燃えあがる緑の木』刊行開始。四国の村を舞台とした「救い主」による伝承の復活・教会の「救い主」一派への攻撃・村民と教会の激しい対立といった筋立ての中に、アウグスティヌスやイェイツを引いての考察で「魂の救済」の主題を突きつめつつ、それまでの全自作の集大成を行った。1995年1月、1994年度朝日賞受賞。 1995年に当初自身の「最後の小説」としていた『燃えあがる緑の木』が完結したが、1996年に親友の武満徹の告別式の弔辞において新作を捧げる発言をし、1999年の『宙返り』で執筆活動を再開した。テロを防ぐために「棄教」した教祖「師匠(パトロン)」による波乱と殺人の中での教団の再建を描いており、三人称の語りを導入するなど様々な意味での転換作となった。以降の創作活動は大江自身が「後期の仕事(レイト・ワーク)」と形容している。 伊丹十三の死をうけて書かれた『取り替え子』(2000年)、『憂い顔の童子』(2002年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)は、すべてに「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する三部作となっている。三部作最後の『さようなら、私の本よ!』では、三島由紀夫と戦後の問題を自身の人生と重ね合わせ、デビュー作の『奇妙な仕事』に回帰するという複雑な構成を取った。三部作をはさんで2002年には、自身の唯一のファンタジーとして児童向けに『二百年の子供』を発表している。その後2007年には、お蔵入りとなった映画を再度作り上げようと奮起する「おかしな老人」たちの老いらくの冒険譚『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(らふたし〜)が新潮社、2009年には、身辺の凶事の中で父の水死を描こうとする作家の巻きこまれた騒ぎをヴァラエティに富んだ語り口で描く『水死』が講談社よりそれぞれ発売された。 『燃え上がる緑の木』の後日談的総括ともいえる『宙返り』以外の「後期の仕事」は、すべてが自身を重ねあわせた小説家・長江古義人をめぐる虚実入り乱れた物語であり、自身をめぐる物語に虚構の騒動を交えて自身の思考を語りなおす、という手法が踏襲されている(この形式には大江自身も自覚的であり、『水死』の作中にも「老作家のあいも変わらぬ自己模倣」などといった韜晦のような表現がある)。また、全編にわたって先行する文学・芸術などからの放縦な引用に加えて、過去の自作の引用・再話・換骨奪胎・再構築が行われている。 創作以外の活動としては、2006年に大江健三郎賞が設立されるにあたり、次代の若き作家を称揚する動きをみせている。 戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また、「護憲」の立場から核兵器や憲法第9条についてもエッセイや講演で積極的に言及しており、自衛隊の存在に対しても否定的である。 1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引き、「抗議すること」という概念に言及した。また芸術院会員となったり文化勲章を受けたりする文学者の姿勢には批判的であり、ノーベル文学賞は世界的な権威を持つノーベル財団から贈られたものであるが“スウェーデン国民から贈られたと言えるもの”と賞を喜んで受けたが、その直後に天皇からの親授式を伴う文化勲章と文化功労者のセット授与が決定した際には、「私は、戦後民主主義者であり、民主主義に勝る権威と価値観を認めない」として受章を拒否した。ちなみに、スウェーデン王室から授与される勲章は、セラフィム勲章 (en) や剣勲章 (en)等があり、前述のようにノーベル賞は学術賞であって国家勲章ではない。しかしフランス政府から2002年に授与されたレジオンドヌール勲章は拒否せず受け取るなど、ノーベル文学賞もレジオンドヌール勲章などを辞退した哲学者のサルトルとは異なる面も見られる。 2003年の自衛隊イラク派遣の際は「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した。2004年には、憲法九条の戦争放棄の理念を守ることを目的として、加藤周一、鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。 東アジア外交については、2006年に中国社会科学院・外国文学研究所の招きで訪中し、南京大虐殺紀念館などに訪れた。北京大学付属中学校で行われた講演では、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に触れて「日本と日本の若い世代の将来を最大限に損ねるものだ」と述べた。2012年9月28日には「『領土問題』の悪循環を止めよう」と題する声明を元長崎市長の本島等、元「世界」編集長の岡本厚ら進歩派の知識人、文化人ら1300人と共同で発表。尖閣諸島も竹島も過去に日本が侵略したものだという立場を示した。尖閣諸島に「領土問題は存在しない」とする日本政府の立場を批判する一方で、台湾の馬英九総統の対話提案を高く評価している。 2005年8月に梅澤裕と赤松嘉次の遺族が、名誉毀損で賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。 大江が1970年の著書『沖縄ノート』にて、赤松嘉次陸軍大尉について「渡嘉敷島民の集団自決を強要した」と断定した上、多くの誹謗中傷を書いたと訴えられたものである。 しかし大江は、『沖縄ノート』には2者の名前はないこと(これは原告も認めている)、「罪の巨塊」という表現で沖縄戦での日本政府・軍の責任を批判したものであり、名誉毀損ではないと反論している。また執筆のソースとなったのは沖縄タイムス社の『鉄の暴風』であり、執筆当時として信頼に当たるものだし、本人も体験者の話を聞いた上で書いたと述べている。 2008年3月、大阪地裁は大江の記述は真実と信じる十分な理由があり、名誉毀損は成立しないとして原告の請求を棄却。2008年10月、大阪高裁は控訴を棄却。2011年4月、最高裁は上告を棄却。遺族らの敗訴が確定した。 1961年、「わがテレビ体験」(『群像』)において以下のように述べている。「結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。 そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。 それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る…。このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった」。 1965年、「二十歳の日本人」において以下のように述べている。「北朝鮮に帰国した青年が金日成首相と握手している写真があった。 ぼくらは、いわゆる共産圏の青年対策の宣伝性にたいして小姑的な敏感さをもつが、それにしてもあの写真は感動的であり、ぼくはそこに希望にみちて自分および自分の民族の未来にかかわった生きかたを始めようとしている青年をはっきり見た。 逆に、日本よりも徹底的に弱い条件で米軍駐留をよぎなくされている南朝鮮の青年が熱情をこめてこの北朝鮮送還阻止のデモをおこなっている写真もあった。 ぼくはこの青年たちの内部における希望の屈折のしめっぽさについてまた深い感慨をいだかずにはいられない。 北朝鮮の青年の未来と希望の純一さを、もっともうたがい、もっとも嘲笑するものらが、南朝鮮の希望にみちた青年たちだろう、ということはぼくに苦渋の味をあじあわせる。日本の青年にとって現実は、南朝鮮の青年のそれのようには、うしろ向きに閉ざされていない。しかし日本の青年にとって未来は、北朝鮮の青年のそれのようにまっすぐ前向きに方向づけられているのでない」。 2009年6月2日、九条の会の講演において、核保有国と非核保有国との間に信頼関係がなければ、核廃絶は始まらない。私たちが不戦の憲法を守り通す態度を貫くなら、北朝鮮との間に信頼を作り出す大きな条件となるのではないかという旨の発言を行った。 著作は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、スペイン語などに翻訳されているものも少なくない。 なお現在新潮文庫から出版されている初期の短篇集は、文庫オリジナルの再編集が施されている。 「火山」『学園』1955年9月 「奇妙な仕事」『東京大学新聞』1957年5月 「死者の奢り」『文学界』昭和32年8月号(1957年7月) 「飼育」『文学界』昭和33年1月号 - 芥川賞受賞作 『死者の奢り』(短編集)文藝春秋、1958年 死者の奢り/偽証の時/飼育/鳩/奇妙な仕事/人間の羊/他人の足 『芽むしり仔撃ち』(中編)講談社、1958年(のち新潮文庫) 『見るまえに跳べ』(短編集)新潮社、1958年 見るまえに跳べ/暗い川おもい櫂/不意の唖/喝采/戦いの今日 『われらの時代』(長編)中央公論社、1959年7月(のち中央公論文庫、新潮文庫) 『夜よゆるやかに歩め』(長編)1959年、中央公論社 『死者の奢り・飼育』(短編集)新潮社 <新潮文庫> 死者の奢り/他人の足/飼育/人間の羊/不意の唖/戦いの今日 『孤独な青年の休暇』(短編集)新潮社、1960年 孤独な青年の休暇/後退青年研究所/上機嫌/共同生活/ここより他の場所 『青年の汚名』(長編)1960年、文藝春秋(のち文春文庫) 「セヴンティーン」『文学界』・「政治少年死す—セヴンティーン第二部」『文学界』、1961年 『遅れてきた青年』(長編)新潮社、1962年(のち新潮文庫) 『叫び声』講談社、1963年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) 『性的人間』(中短編集)新潮社、1963年 性的人間/セヴンティーン/不満足 『日常生活の冒険』(長編)文藝春秋、1964年(のち新潮文庫) - 伊丹十三をモデルとしたもの 『個人的な体験』(長編)新潮社、1964年8月(のち新潮文庫) - 新潮社文学賞(英訳題 A personal matter ノーベル賞対象作) 『万延元年のフットボール』(長編)講談社、1967年、(のち講談社文芸文庫) - 谷崎潤一郎賞(英訳題 The silent cry 仏訳Le Jeu du siècle ノーベル賞対象作) 『性的人間』(短編集)新潮社 <新潮文庫>、1968年 性的人間/セヴンティーン/共同生活 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(連作短編・中編集)新潮社、1969年(のち新潮文庫) 第1部 なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの 第2部 ぼく自身の詩のごときものを核とする三つの短篇(走れ、走りつづけよ/核時代の森の隠遁者/生け贄男は必要か) 第3部 オーデンとブレイクの詩を核とする二つの中篇(狩猟で暮したわれらの先祖/父よ、あなたはどこへ行くのか?) 『空の怪物アグイー』(短編集)新潮社 <新潮文庫>、1972年 不満足/スパルタ教育/敬老週間/アトミック・エイジの守護神/空の怪物アグイー/ブラジル風のポルトガル語/犬の世界 『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(中編集)講談社、1972年(のち講談社文芸文庫) みずから我が涙をぬぐいたまう日/月の男(ムーン・マン) 『洪水はわが魂に及び』(長編)新潮社、1973年(のち新潮文庫) 『見るまえに跳べ』(短編集)新潮社 <新潮文庫>、1974年 奇妙な仕事/動物倉庫/運搬/鳩/見るまえに跳べ/鳥/ここより他の場所/上機嫌/後退青年研究所/下降生活者 『ピンチランナー調書』(長編)新潮社、1976年(のち新潮文庫) 『同時代ゲーム』(長編)新潮社、1979年(のち新潮文庫) 『現代伝奇集』(短編集)岩波現代選書、1980年 頭のいい「雨の木」/身がわり山羊の反撃/『芽むしり仔撃ち』裁判 『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』(連作短編集)新潮社、1982年(のち新潮文庫) - 読売文学賞 頭のいい「雨の木」/「雨の木」を聴く女たち/「雨の木」の首吊り男/さかさまに立つ「雨の木」/泳ぐ男—水のなかの「雨の木」 『新しい人よ眼ざめよ』(連作短編集)講談社、1983年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) - 大仏次郎賞 「河馬に嚙まれる」『文学界』、1983年 - 川端康成賞 『いかに木を殺すか』(短編集)文藝春秋、1984年(のち文春文庫) 揚げソーセージの食べ方/グルート島のレントゲン画法/見せるだけの拷問/メヒコの大抜け穴/もうひとり和泉式部が生まれた日/その山羊を野に/「罪のゆるし」のあお草/いかに木を殺すか 『河馬に嚙まれる』(連作短編集)文藝春秋、1985年(のち文春文庫、講談社文庫) 河馬に嚙まれる/「河馬の勇士」と愛らしいラベオ/「浅間山荘」のトリックスター/河馬の昇天/四万年前のタチアオイ/死に先だつ苦痛について/サンタクルスの「広島週間」/生の連鎖に働く河馬 講談社文庫版 : 河馬に嚙まれる/「河馬の勇士」と愛らしいラベオ/河馬の昇天/四万年前のタチアオイ/死に先立つ苦痛について/生の連鎖に働く河馬 『M/Tと森のフシギの物語』(長編)岩波書店、1986年(のち同時代ライブラリー、講談社文庫)- (英訳題 M/T and the narrative about the marvels of the forest 仏訳 M/T et l’Histoire des merveilles de la forêt ノーベル賞対象作) 『懐かしい年への手紙』(長編)講談社、1987年(のち講談社文芸文庫) - (仏訳題 Lettres aux années de nostalgie ノーベル賞対象作) 『キルプの軍団』(長編)岩波書店、1988年(のち同時代ライブラリー、講談社文庫、岩波文庫) 『人生の親戚』(長編)新潮社、1989年(のち新潮文庫) - 伊藤整文学賞 『治療塔』(長編)岩波書店、1990年(のち講談社文庫) 『静かな生活』(連作短編集)講談社、1990年(のち講談社文芸文庫) 静かな生活/この惑星の棄て子/案内人(ストーカー)/自動人形の悪夢/小説の悲しみ/家としての日記 『治療塔惑星』(長編)岩波書店、1991年(のち講談社文庫) 『僕が本当に若かった頃』(短編集)講談社、1992年 火をめぐらす鳥/「涙を流す人」の楡/宇宙大の「雨の木(レイン・ツリー)」/夢の師匠/治療塔/ベラックヮの十年/マルゴ公妃のかくしつきスカート/僕が本当に若かった頃/茱萸(ぐみ)の木の教え・序 『燃えあがる緑の木』三部作(長編)、新潮社(のち新潮文庫) 『「救い主」が殴られるまで』1993年 『揺れ動く(ヴァシレーション)』1994年 『大いなる日に』1995年 『宙返り』(長編)講談社、1999年(のち講談社文庫) 『取り替え子(チェンジリング)』(長編)講談社、2000年(のち講談社文庫) 『憂い顔の童子』(長編)講談社、2002年(のち講談社文庫) 『二百年の子供』(長編)中央公論新社、2003年(のち中公文庫) 『さようなら、私の本よ!』(長編)講談社、2005年(のち講談社文庫) 『おかしな二人組(スゥード カップル)』(三部作) 講談社、2006年 『取り替え子』/『憂い顔の童子』/『さようなら、私の本よ!』の特装版 『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(長編)新潮社、2007年(のち新潮文庫『美しいアナベル・リイ』へ改題) 『水死』(長編)講談社、2009年(のち講談社文庫) 『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』(長編)講談社、2013年(のち講談社文庫) 『世界の若者たち』新潮社、1962年 - 中国レポートのほか、大鵬、島津貴子、大藪春彦、黒柳徹子らとの対談 『ヨーロッパの声、僕自身の声』毎日新聞社、1962年 『厳粛な綱渡り』文藝春秋、1965年(のち文春文庫、講談社文芸文庫) 『ヒロシマ・ノート』岩波書店 <岩波新書>、1965年 『持続する志』文藝春秋、1968年(のち講談社文芸文庫) 『壊れものとしての人間』講談社、1970年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) 『核時代の想像力』新潮社 <新潮選書>、1970年 『沖縄ノート』岩波書店 <岩波新書>、1970年 『鯨の死滅する日』文藝春秋、1972年(のち講談社文芸文庫) 『同時代としての戦後』(作家論集)講談社、1973年(のち講談社文庫、講談社文芸文庫) 『状況へ』岩波書店、1974年 『文学ノート 付15篇』新潮社、1974年 『言葉によって-状況・文学*』新潮社、1976年 『小説の方法』岩波書店 <岩波現代選書>、1978年(のち同時代ライブラリー、岩波現代選書) 『表現する者-状況・文学**』新潮社、1978年 『方法を読む=大江健三郎文芸時評』講談社、1980年 『核の大火と「人間」の声』岩波書店、1982年 『広島からオイロシマへ―'82ヨーロッパの反核・平和運動を見る』岩波書店 <岩波ブックレットNo.4>、1982年 『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』岩波書店、1984年 『生き方の定義-再び状況へ』岩波書店、1985年 『小説のたくらみ、知の楽しみ』新潮社、1985年(のち新潮文庫) 『新しい文学のために』岩波書店 <岩波新書>、1988年 『最後の小説』講談社、1988年(のち講談社文芸文庫) - 劇シナリオ「革命女性」を含む 『ヒロシマの「生命の木」』NHK出版、1991年 『人生の習慣(ハビット)』岩波書店、1992年 『文学再入門』NHK出版、1992年 『新年の挨拶』岩波書店、1993年(のち同時代ライブラリー、岩波現代文庫) 『小説の経験』朝日新聞社、1994年(のち朝日文芸文庫) 『あいまいな日本の私』岩波書店 <岩波新書>、1995年 ISBN 4004303753 『あいまいな日本の私 : Japan,the ambiguous,and myself The Nobel Prize speech and other lectures』(英文)講談社インターナショナル、1995年 『日本の「私」からの手紙』岩波書店 <岩波新書>、1996年 『私という小説家の作り方』新潮社、1998年(のち新潮文庫) 『鎖国してはならない』講談社、2001年(のち講談社文庫) 『言い難き嘆きもて』講談社、2001年(のち講談社文庫) 『「話して考える」(シンク・トーク)と「書いて考える」(シンク・ライト)』集英社、2004年(のち集英社文庫) 『「伝える言葉」プラス』朝日新聞社、2006年(のち朝日文庫) 『大江健三郎作家自身を語る』(尾崎真理子聞き手・構成)新潮社、2007年 『読む人間-読書講義』集英社、2007年(のち集英社文庫) 『定義集』朝日新聞出版、2012年(のち朝日文庫) 『大江健三郎賞8年の軌跡 「文学の言葉」を恢復させる』講談社、2018年 『対話・原爆後の人間』(重藤文夫)新潮社、1971年 『『世界』の40年—戦後を見直す、そして、いま』(安江良介)岩波書店 <岩波ブックレット No.39>、1984年 『私たちはいまどこにいるか ——主体性の再建——』(隅谷三喜男)岩波書店 <岩波ブックレット No.113>、1988年 『ユートピア探し 物語探し—文学の未来に向けて』(井上ひさし、筒井康隆)岩波書店、1988年 『自立と共生を語る—障害者・高齢者と家族・社会』(上田敏ほか)三輪書店、1990年 『オペラをつくる』(武満徹)岩波書店 <岩波新書>、1990年 『恢復する家族』(大江ゆかり画)講談社、1995年(のち講談社文庫) 『日本語と日本人の心』(河合隼雄、谷川俊太郎)岩波書店、1996年(のち岩波現代文庫) 『ゆるやかな絆』(大江ゆかり画)講談社、1996年 『シンポジウム 共生への志——心のいやし、魂の鎮めの時代に向けて——』(ロナルド・ドーア、プラティープ・ウンソンタム・秦)岩波書店 <岩波ブックレット No.528>、2001年 『君たちに伝えたい言葉—ノーベル賞受賞者と中学生の対話』(ハロルド・クロート)読売新聞社 <読売ぶっくれっと no.25>、2001年 『同じ年に生まれて 音楽、文学が僕らをつくった』(小澤征爾)中央公論新社、2001年(のち中公文庫) 『「自分の木」の下で』(大江ゆかり画)朝日新聞社、2001年(のち朝日文庫) 『「新しい人」の方へ』(大江ゆかり画)朝日新聞社、2003年(のち朝日文庫) 『暴力に逆らって書く 大江健三郎往復書簡』朝日新聞社、2003年(のち朝日文庫) ギュンター・グラス、ナディン・ゴーディマー、アモス・オズ、マリオ・バルガス=リョサ、スーザン・ソンタグ、鄭義、アマルティア・セン、ノーム・チョムスキー、エドワード・サイードほか2名と 『何を学ぶか 作家の信条、科学者の思い ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「21世紀の創造」』(白川英樹)読売新聞社 <読売ぶっくれっと no.34>、2004年 『憲法九条、あしたを変える——小田実の志を受けついで——』(井上ひさし、梅原猛他)岩波書店 <岩波ブックレット No.731>、2008年 『冥誕 加藤周一追悼』(鶴見俊輔他)かもがわ出版、2009年 『文学の淵を渡る』(古井由吉)新潮社、2015年(のち新潮文庫) 『大江健三郎柄谷行人全対話 世界と日本と日本人』(柄谷行人)講談社、2018年 『岩波講座文学』岩波書店、全12巻、1975-1976年 『叢書文化の現在』岩波書店、全13巻、1980-1982年 『なぜ変える?教育基本法』(辻井喬他共編)岩波書店、2006年10月、ISBN 978-4-00-024158-8) 『歌劇『ヒロシマのオルフェ』』(芥川也寸志)(CD)カメラータ・トウキョウ、2002年 『私の最後の小説、「燃えあがる緑の木」』(カセット)新潮社、1994年 『大江健三郎 文学再入門』(ビデオカセット)NHKソフトウェア、全12巻、1995年 NHKスペシャル「世界はヒロシマを覚えているか〜大江健三郎・対話と思索の旅〜」カール・セーガン、フリーマン・ダイソン、アンドレイ・サハロフ、金芝河、アルカジイ・ストルガツキーらと対話。 1990年8月5日 NHK人間大学「文学再入門」1992年10月~12月(のちビデオカセット化) NHKスペシャル「響きあう父と子 〜大江健三郎と息子 光の30年〜」1994年9月18日 「ニュース23」「はなまるマーケット」などに出演 1999年 NHKスペシャル「シリーズ安全保障」にてイラクへの自衛隊派遣、改憲問題などについて、後藤田正晴、中曽根康弘、栗山尚一と討論。 2003年12月20日 『臨床心理ケース研究』 シリーズ 河合隼雄、佐治守夫、成瀬悟策、臨床心理ケース研究編集委員会、 誠信書房 「無気力(アパシー)青年」の事例検討に参加し、文学者の視点から彼等の内面を語る。 『 Switch 』 Vol.8 No.1 『緑したたる森 萌え出ずる樹 大江健三郎 』 扶桑社 (1990年3月号) 氏の子供達「イーヨー、オーちゃん、マーちゃん」が語る、 アンドレイ・タルコフスキーの 映画『ストーカー』の解説と、「四国の森の谷間の村」や「読書遍歴」、 氏と違って (同じく) 「 “ 奇妙な ” ディーセンシー ( 古雅な上品さ・まっとうさ ) 」 のある 『ご母堂』 (88歳)の肖像。 『沖縄について考え続けていること』岩波書店 世界 (2014年8月号) 通巻859号 大江の講演を活字化したもの われらの時代 (1959) 監督:蔵原惟繕 偽大学生 (1960) 監督:増村保造 飼育 (1961) 監督:大島渚 静かな生活 (1995) 監督:伊丹十三 音楽:大江光 大江健三郎全作品、新潮社、第1期全6巻、1966-1967、第2期全6巻、1977-1978年 大江健三郎同時代論集、岩波書店、全10巻、1980-1981年 大江健三郎小説、新潮社、全10巻、1996-1997年 大江健三郎自選短篇、岩波文庫、2014年 大江健三郎全小説、講談社、全15巻、2018- 新鋭文学叢書12『大江健三郎集』筑摩書房、1960年 新日本文学全集11『開高健・大江健三郎集』集英社、1962年 角川版昭和文学全集9『開高健・大江健三郎』角川書店、1963年 現代の文学43『大江健三郎集』河出書房新社、1964年 われらの文学18『大江健三郎』講談社、1965年 日本の文学76『石原慎太郎 開高健 大江健三郎』中央公論社、1968年 日本文学全集第2集25『大江健三郎集』河出書房新社、1968年 新潮日本文学64『大江健三郎集』新潮社、1969年 De Luxe われらの文学7『大江健三郎』講談社、1969年 現代日本の文学47『安部公房・大江健三郎集』学習研究社、1970年 現代の文学28『大江健三郎』講談社、1972年 日本文学全集50『大江健三郎/芽むしり仔撃ち 日常生活の冒険』河出書房新社、1971年 日本文学全集44『大江健三郎 安部公房 開高健』新潮社、1971年 新潮現代文学55『大江健三郎/個人的な体験 ピンチランナー調書』新潮社、1978年 日本の原爆文学9『大江健三郎 金井利博』ほるぷ出版、1983年 昭和文学全集16『大岡昇平 埴谷雄高 野間宏 大江健三郎』小学館、1987年 大江光 - 長男、作曲家。 大江ゆかり - 妻、挿絵を描いている。伊丹十三の妹。 伊丹十三 - 義兄 ジャン=ポール・サルトル - 思想的(実存主義)および学位論文テーマにも影響 安部公房 川端康成 - 芥川賞推薦者、1968年ノーベル文学賞受賞者。1994年記念講演タイトルでの呼応。 武満徹 - 作曲家。「へるめす」同人 信長貴富 - NHK全国学校音楽コンクールの課題曲のために大江が作詞した『新しい人に』の作曲を担当。 大岡信 - 「へるめす」同人 谷川俊太郎 井上ひさし - 「へるめす」前身となる「例の会」メンバー 筒井康隆 中上健次 井上靖 大岡昇平 埴谷雄高 加藤周一 小田実 江藤淳 - 文芸評論家、かつての盟友であり、後の論敵。 本多勝一 - 論敵。 磯崎新 - 「へるめす」同人 中村雄二郎 - 同上 山口昌男 - 同上 東野芳明 - 「へるめす」前身となる「例の会」メンバー 清水徹 - 同上 高橋康也 - 同上 一柳慧 - 同上 渡邊守章 -同上 吉田喜重 -同上 鈴木忠志 -同上 原広司 - 同上。京都駅、札幌ドームを設計した建築家 。 安江良介 エドワード・サイード ロバート・J・リフトン ガルシア・マルケス ギュンター・グラス 司修 - 著作の装丁を多く手掛けている。 山崎努 - 映画『静かな生活』で大江にあたる人物を演じた。 辻章 - 大江と非常に仲が悪かった。辻が芥川賞の最終選考まで残った際、当時選考委員をしていた大江が猛烈に反対し辻を落選させたほどである。 大江健三郎賞(2014年で終了) 死体洗いのアルバイト ロイド眼鏡(愛用) さようなら原発1000万人アクション 篠原茂『大江健三郎文学事典―全著作・年譜・文献完全ガイド』森田出版 ISBN 494418901X 黒古一夫『作家はこのようにして生まれ、大きくなった―大江健三郎伝説』ISBN 4309015751 小森陽一『歴史認識と小説―大江健三郎論』 ISBN 406211304X 張文穎 『トポスの呪力―大江健三郎と中上健次』 ISBN 4881251244 ジャン・ルイ・シェフェル 『大江健三郎―その肉体と魂の苦悩と再生』 ISBN 4896340779 本多勝一『大江健三郎の人生-貧困なる精神X集』毎日新聞社 ISBN 4620310565 谷沢永一『こんな日本に誰がした-戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状』クレスト社/KKベストセラーズ ISBN 4877120297 尾崎真理子聞き手『大江健三郎 作家自身を語る』新潮社 大江健三郎『核時代の想像力』新潮社 ISBN 9784106035845 ^ 小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』p.38 ^ American Academy of Arts and Sciences Elects Ten Columbia Scholars ^ 「解説」『死者の奢り・飼育』新潮文庫、1959年 ^ ただし鹿砦社の『スキャンダル大戦争2』には「風流夢譚」ともども(おそらく著者に無断で)収録されている。 ^ 「文学からみた アメリカン・ポップ・カルチャー」青山南 ^ 初出『新潮』掲載時の原題「死滅する鯨の代理人」。 ^ 篠原茂『大江健三郎文学事典』森田出版、1998年。 ^ エドガー・アラン・ポーの詩「アナベル・リー」から採られている。渡辺利雄『アメリカ文学に触発された日本の小説』(研究社2014年)pp.27-53に対照がある。 ^ 自衛隊派遣に「怒っている」大江健三郎氏が仏紙で論陣 2003年12月1日朝日新聞 ^ ““反日声明”韓国で大歓迎 大江健三郎氏ら、領土問題「日本が侵略、反省を」 (1/2)”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2012年9月29日). オリジナルの2012年10月2日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121002055042/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120929/kor12092922120005-n1.htm  ^ 「わがテレビ体験」群像昭和36年3月。 ^ 「二十歳の日本人」『厳粛な綱渡り』文藝春秋刊・昭和四十年。 ISBN 4061961470[要ページ番号] ^ “「九条の会」発足5年記念、大江健三郎さんが講演”. asahi.com (朝日新聞社). (2009年6月2日). オリジナルの2009年6月5日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090605080318/http://www.asahi.com/national/update/0602/TKY200906020371.html  Kenzaburo Oe - Biographical - ノーベル財団の公式ホームページ (英語) NHKアーカイブス 大江健三郎さんノーベル文学賞(1994年) - 日本放送協会(NHK)", "古井 由吉(ふるい よしきち、1937年11月19日 - )は、日本の小説家、ドイツ文学者。いわゆる「内向の世代」の代表的作家と言われている。代表作は『杳子』、『聖』『栖』『親』の三部作、『槿』、『仮往生伝試文』、『白髪の唄』など。精神の深部に分け入る描写に特徴があり、特に既成の日本語文脈を破る独自な文体を試みている。 東京府東京市出身。港区立白金小学校から同高松中学校を経て、1953年4月、獨協高校に入学。隣のクラスに美濃部強次(古今亭志ん朝)がいた。同年9月、都立日比谷高校に転校。同級生に尾高修也や塩野七生、福田章二(庄司薫)がいた。 1956年3月、日比谷高校卒業。1956年4月、東京大学文科二類入学。同文学部独文科卒。同大学院人文科学研究科独語独文学専攻修士課程修了。その後、金沢大学助手、同大学講師を経て、立教大学助教授に着任。 大学教員の時期は、「日常に潜在する苦そのもの」を見た(講談社文芸文庫の自筆年表より)とするフランツ・カフカの研究に加えて、ロベルト・ムージルやヘルマン・ブロッホなどの翻訳をすすめる一方、1968年、処女作「木曜日に」を同人雑誌『白描』に発表、続いて発表した「先導獣の話」、「円陣を組む女たち」で評価される。 1970年3月付で立教大学を退職し、作家業に専念する。神経を病んだ女性・杳子と登山で出会った男を非現実的・幻想的なイメージを交えて描いた「杳子」(『文芸』1970年8月号)で、1971年に第64回芥川賞を受賞。古井を含むこの時期の作家は小田切秀雄によって「内向の世代」と命名され、「社会的問題やイデオロギーなど外部に距離をおいて、内に向っている作家たち」との批判を受けた(実際はこの一派の作家にそうした現実逃避の傾向は希薄であるとの反批判もある)。ことに古井は「朦朧派」(石川達三)や「退屈の美学」(後年の江藤淳による批判)との揶揄も受けたが、他方で秋山駿や柄谷行人らには擁護された。 その後も『杳子・妻隠』の延長線上にある作風の『行隠れ』(1972年)、『櫛の火』(1974年)などを経て、1977年から、後藤明生、坂上弘、高井有一とともに責任編集者として、平凡社から季刊雑誌「文体」を刊行。様々な媒体で旺盛に短篇を発表する。 1980年、都会に投げ出された男女の生活を描く『栖』で第12回日本文学大賞受賞。1983年、偶然出会った男女の間の濃密な性を描いた『槿』で第19回谷崎潤一郎賞受賞。1986年には芥川賞選考委員に選出され、翌年短編「中山坂」(『眉雨』所収)で第14回川端康成文学賞受賞。 1990年、宗教説話を引きながら生死に対する認識をたどった『仮往生伝試文』で第41回読売文学賞受賞。1991年、椎間板ヘルニアのため2ヶ月間入院、この体験が転機となり、『楽天記』(1992年)『白髪の唄』(1996年)と、老いの中で正気と狂気、生と死、現在と過去など様々な相克のあわいを継ぎ目なく往還する独特の作風に達する。 1997年『白髪の唄』で第37回毎日芸術賞受賞、以降は文学賞を一切辞退している。その後左右相次いでの眼の故障もあり(この経験は『聖耳』などの作品にも書かれている)、2005年に芥川賞選考委員を「執筆に専念する」として辞任。朗読会や講演も多数行っている。以降の作品に『辻』『白暗淵(しろわだ)』などがある。 『折々の馬たち』などの作品にもうかがえるように、熱烈な競馬ファンとしても知られる。エッセイのみならず、自身の居住区付近の馬事公苑を散策したり、その近辺で見かけたとおぼしい馬から喚起される想念など、競馬にまつわる描写が作品に登場することも少なくない。現在でも日本中央競馬会の機関誌『優駿』にエッセイを連載したり、デイリースポーツ紙上でGI競走の当日に自らの予想を寄稿していたこともある。 ロベルト・ムージルやヘルマン・ブロッホといった心理・想念を錯綜した記述で描く作家からの影響を礎としつつ、心理主義とは異なる手法と柔らかく明晰な文体で男女の奇妙な愛縁を描いたが、その作風の集大成とも言うべき『槿』以降はそうした明瞭な物語性を離れ、一貫した(自然主義や身辺雑記的でない)私小説的リアリズムによる随想的かつ小説的でもあるような作品を書き続けている。 (静謐だがしばしば性的な側面を持つ)男女の愛、認識論、民俗学、連歌や短歌、漢詩、神話や説話などの古典、記憶や追想、老耄などをライトモチーフとし、身辺の多岐にわたる事柄を又聞きならぬ「又語り」する体裁で、隠微な日常性にあふれた描写と同時に情景と心理のあいまいとした内奥を明晰かつ幻想的に描く作風、文法・人称・時間軸などの構成を意図的に脱臼させめまぐるしい想念の流れを映し出した眩惑的な文体を確立。また、以前は『円陣を組む女たち』など、僅かな作品でしか描いてこなかった戦争体験を、近年では積極的にモチーフとして採用し始めている(『野川』、『白暗淵』など)。『蜩の声』の作中には、戦時下あるいは戦後間もない頃の記憶が随所にちりばめられている。 『円陣を組む女たち』中央公論社 1970年 のち文庫 短編集 『男たちの円居(まどい)』講談社 1970年 のち文庫、のち「雪の下の蟹・男たちの円居」講談社文芸文庫 短編集 『杳子・妻隠(つまごみ)』河出書房新社 1971年 のち河出文芸選書、新潮文庫 短編集 『行隠れ』河出書房新社 1972年 のち集英社文庫 長編 『水』河出書房新社 1973年 のち集英社文庫、講談社文芸文庫 連作短編集 『櫛の火』河出書房新社 1974年 のち新潮文庫 長篇 『聖』新潮社 1976年 のち「聖・栖」新潮文庫 短編集 『女たちの家』中央公論社 1977年 のち文庫 長編  『哀原(あいはら)』文藝春秋 1977年 短編集 『夜の香り』新潮社 1978年 のち福武文庫 連作短編集 『栖(すみか)』平凡社 1979年 のち「聖・栖」新潮文庫 連作長編 『椋鳥』中央公論社 1980年 のち文庫 短編集 『親』平凡社 1980年 連作長編 『山躁賦(さんそうふ)』集英社 1982年 のち集英社文庫、文芸文庫 連作短編集 『槿(あさがお)』福武書店 1983年 のち文庫、講談社文芸文庫 長編 『グリム幻想-女たちの15の伝説-』 パルコ出版 1984年(絵本・挿画東逸子) 『明けの赤馬』福武書店 1985年 短編集 『眉雨(びう)』福武書店 1986年 のち文庫 短編集 『夜はいま』福武書店 1987年 短編集 『仮往生伝試文』河出書房新社 1989年、新装版2004年 のち講談社文芸文庫 長編 『長い町の眠り』福武書店 1989年 連作短編集 『楽天記』新潮社 1992年 のち文庫 長編 『陽気な夜まわり』講談社 1994年 短編集 『白髪の唄』新潮社 1996年 のち文庫 長編 『木犀の日 自選短編集』講談社文芸文庫 1998年。以下が収録作品 「先導獣の話」「椋鳥」「陽気な夜まわり」「夜はいま」「眉雨」「秋の日」「風邪の日」「髭の子」「木犀の日」「背中ばかりが暮れ残る」 『夜明けの家』講談社 1998年 のち文芸文庫 連作短編集 『聖耳(せいじ)』講談社 2000年 のち文芸文庫 連作短編集 『忿翁(ふんのう)』新潮社 2002年 長編 『野川』講談社 2004年 のち文庫 長編 『辻』新潮社 2006年 のち文庫 連作短編集 『白暗淵(しろわだ)』講談社 2007年 のち文芸文庫 連作短編集 『やすらい花』新潮社 2010年 連作短編集 『蜩の声』講談社 2011年 のち文芸文庫 連作短編集 『鐘の渡り』新潮社 2014年 連作短編集 『雨の裾』講談社 2015年 連作短編集 『ゆらぐ玉の緒』新潮社、2017年 短編集 『東京物語考』岩波書店 1984年、岩波同時代ライブラリー 1990年 『招魂のささやき』福武書店 1984年 『裸々虫記』講談社 1986年 『「私」という白道』トレヴィル 1986年 『日や月や』福武書店 1988年 『ムージル-観念のエロス』(作家の方法)岩波書店 1988年 増訂版 『ロベルト・ムージル』岩波書店 2008年 『魂の日』福武書店 1993年 ※ただし「長篇作品」と表記 『半日寂寞』講談社 1994年 『折々の馬たち』角川春樹事務所 1995年 『神秘の人びと』岩波書店 1996年 『山に彷徨う心』アリアドネ企画 1996年 『ひととせの 東京の声と音』日本経済新聞社 2004年 『聖なるものを訪ねて』ホーム社(発売:集英社) 2005年 ※掌編小説十二編も併録 『詩への小路』書肆山田 2005年 ※ライナー・マリア・リルケ『ドゥイノの悲歌』などの本人訳詩も併録 『始まりの言葉』(双書 時代のカルテ)岩波書店 2007年 『漱石の漢詩を読む』岩波書店 2008年 『人生の色気』新潮社 2009年  『半自叙伝』河出書房新社 2014年、河出文庫、2017年 『楽天の日々』キノブックス 2017年 『フェティッシュな時代』(田中康夫との対談)トレヴィル 1987年 『対談集 小説家の帰還』(講談社 1993年) 江藤淳・吉本隆明・平出隆・松浦寿輝・養老孟司・大江健三郎と 『遠くからの声』(佐伯一麦との対談)新潮社 1999年 『色と空のあわいで』(松浦寿輝との往復書簡)講談社 2007年 『言葉の兆し』(佐伯一麦との往復書簡)朝日新聞出版 2012年 『文学の淵を渡る』(大江健三郎との対談)新潮社 2015年 『古井由吉全エッセイ』作品社(全3巻) 1980年 第1巻 日常の\"変身\" 第2巻 言葉の呪術 第3巻 山に行く心 『古井由吉作品』河出書房新社(全7巻) 1982-1983年 第1巻 『円陣を組む女たち』『男たちの円居』 第2巻 『杳子・妻隠』『行隠れ』 第3巻 『櫛の火』『水』 第4巻 『女たちの家』『夜の香り』 第5巻 『聖』『栖』『哀原』 第6巻 『親』『椋鳥』 第7巻 エッセイ・翻訳(「愛の完成」『誘惑者』部分) 『古井由吉自撰作品』河出書房新社(全8巻) 2012年 第1巻 『杳子・妻隠』『行隠れ』『聖』 第2巻 『水』『櫛の火』 第3巻 『栖』『椋鳥』 第4巻 『親』『山躁賦』 第5巻 『槿』『眉雨』 第6巻 『仮往生伝試文』 第7巻 『楽天記』『忿翁』 第8巻 『野川』『辻』『やすみしほどを』(「やすらい花」収録) 世界文学全集 第56 ブロッホ「誘惑者」 筑摩書房 1967年。新版「筑摩世界文学大系64 ムージル ブロッホ」1973年 世界文学全集 第49 ムージル「愛の完成、静かなヴェロニカの誘惑」 筑摩書房 1968年。岩波文庫 1987年 ^ 古井由吉(フルイヨシキチ)とは - コトバンク ^ 第一学習社「改訂版 新編日本文学史」184ページ ^ 日立システムアンドサービス「百科事典 マイペディア」", "吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ、1924年(大正13年)4月13日 - 1994年(平成6年)7月26日)は、日本の小説家。代表作に『驟雨』『砂の上の植物群』など。対談やエッセイの名手としても知られた。 岡山県岡山市に父・吉行エイスケ(モダニズムの詩人)、母・あぐり(美容師)の長男として生まれる。同じ町内には内田百閒がいた。2歳の時に両親が上京、東京麹町に育つ。府立一中と武蔵高等学校尋常科と府立高等学校尋常科の受験に失敗し、麻布中学に進学。 1940年に父・エイスケが急死。しかし自身はその頃腸チフスにかかり入院していたため死を知らされたのは退院後であった。翌41年に旧制静岡高校(現静岡大学)文丙(文系仏語クラス)に進むが、2年進級時に「心臓脚気」という仮病で1年休学、この頃より文学に関心を持つようになる。 1944年、徴兵検査を受け甲種合格、20歳で召集されるが、9月1日の入営直後に気管支喘息と診断され即日帰郷。翌年も徴兵検査を受け、再び甲種合格となったが召集前に終戦を迎えている。1945年4月、東京帝国大学に入学。5月25日の空襲で焼け出され自宅を失った。 大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。社長の勧めで学業を放棄し(学費を一度も払わず、学費未納のため除籍処分)、1947年に新太陽社へ入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わった。このときアルバイト編集者に澁澤龍彦がいた。『モダン日本』時代に小島功らと交流、赤川童太、鈴木義司、富永一朗らを抜擢し、新人漫画家の発掘の天才と言われた。 倒産寸前の会社で多忙を極めつつ、『世代』『新思潮』などの同人雑誌に年一作のペースで作品を発表。同人雑誌を通して安岡章太郎、近藤啓太郎、阿川弘之、三浦朱門、島尾敏雄らと知り合った。 1952年『原色の街』が芥川賞候補になり、その後も『谷間』、『ある脱出』が候補に上る。『谷間』発表後、空洞が肺に見つかり結核と診断され会社を休職、翌53年の春に退社した。退社後は千葉県佐原市の病院に夏まで療養し、11月に清瀬病院に入院。その間は生計のためにABC放送のラジオ原稿を書いていた。清瀬病院で療養中の1954年に『驟雨』で第31回芥川賞を受賞、収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、同世代の作家である遠藤周作、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎らと共に「第三の新人」と呼ばれた。 1979年、日本芸術院賞を受賞し、1981年、日本芸術院会員となる。晩年は数々の病気を克服しながら執筆を続けた。 1994年、肝臓癌のため聖路加国際病院で逝去した。70歳没。戒名は清光院好文日淳信士。墓所は岡山市北区御津金川(旧:御津郡金川町草生)の吉行家墓地にある。 私小説的な純文学および芸術的傾向の作品として、『砂の上の植物群』『暗室』『夕暮まで』などの長編、『男と女の子』『焔の中』『出口・廃墟の眺め』などの中編、更に奇妙な味の短編『鞄の中身』など。大衆文学の方面では『すれすれ』『にせドンファン』『鼠小僧次郎吉』などがある。また、『軽薄のすすめ』など軽妙な随筆のファンも多い。 長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載し「座談の名手」としても知られ、それらは『軽薄対談』『恐怖対談』などにまとめられている。またヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』の翻訳、井原西鶴『好色一代男』の現代語訳なども手がけている。阪神タイガースのファンで、『Number』誌上で山藤章二、上岡龍太郎と鼎談を行ったこともある。 文学のテーマ同様にその人生は常に女性に彩られていた。若い頃に結婚した妻の吉行文枝との間に女児が一人いた。後に別居し、結婚後約10年後に知り合った女優の宮城まり子は生涯に渡り同居した事実上の伴侶となったが、妻は終生離婚に応じなかった。その他にも愛人がおり、死去後に大塚英子と高山勝美が名乗り出ている。大塚が『暗室のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』で、高山が『特別な他人』で、宮城が『淳之介さんのこと』で、そして本妻の文枝が『淳之介の背中』で、それぞれの体験を公表している。 大層女性にモテたことで知られているが、奥本大三郎は吉行を「まぎれもなく女性嫌悪思想の系譜に連なる作家である」と指摘しており、また、「女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられない」のが「弱点」であるとも記している。奥本はまた、吉行に女性読者が増加していることを称して「猟師の鉄砲に小鳥が止まったような具合」と形容している。フェミニストの上野千鶴子は、ミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)傾向の強い作家として吉行以外に永井荷風を挙げており、ミソジニーの男性には「女好き」が多いと指摘している。友人の遠藤周作は時おり随筆で「吉行世之介」と書いてからかっている。 作家・詩人の吉行エイスケは父。美容師の吉行あぐりは母。女優の吉行和子、詩人の吉行理恵は妹。生家の土建会社「株式会社吉行組」(岡山市)は、祖父の死去後、叔父が後を継いだ。淳之介自身も吉行組の無報酬重役を務めていた。 本妻との間に娘がいる。 1999年、静岡県掛川市にある、社会福祉施設ねむの木学園の敷地内に吉行淳之介文学館が開館した。 吉行が選考委員をつとめた文学賞は以下の通り。吉行は基本的に自身の創作の本道を純文学に置き、多くの文学賞で言及した選評を自ら実現・実行していた。 文学界新人賞:1966年 - 1970年(第22 - 30回) 文藝賞:1966年 - 1967年(第4 - 5回) 太宰治賞:1970年 - 1977年(第6 - 13回) 芥川賞:1972年 - 1993年(第66 - 110回) 泉鏡花文学賞:1973年 - 1993年(第1 - 21回) 川端康成文学賞:1974年 - 1993年(第1 - 20回) 谷崎潤一郎賞:1977年 - 1993年(第13 - 29回、ただし第28回は病気欠席) 群像新人文学賞:1978年 - 1980年(第21 - 23回) 野間文芸賞:1980年 - 1993年(第33 - 46回) 『星の降る夜の物語』 作品社、1954年 『驟雨』(『薔薇販売人』を含む) 新潮社、1954年、のち『薔薇販売人』は角川文庫 『漂う部屋』 河出新書、1955年 『原色の街』 新潮社、1956年、のち『原色の街』『驟雨』は新潮文庫 向島 (墨田区)の赤線地帯、鳩の街が舞台(新潮文庫に入っているものは芥川賞候補になった『原色の街』と『ある脱出』を組み合わせ、加筆訂正したもの)。 『焔の中』 新潮社、1956年、のち中公文庫、旺文社文庫 『悪い夏』 角川書店、1956年、のち角川小説新書 『美女哄笑』 現代文芸社、1957年、のち新鋭作家叢書、『がらんどう』は中公文庫 『男と女の子』 講談社、1958年、のち中公文庫、集英社文庫 『二人の女』 平凡出版、1959年 『すれすれ』 講談社、1959年–60年、のち角川文庫、光文社文庫 『娼婦の部屋』 文藝春秋新社、1959年、のち角川文庫、新潮文庫、光文社文庫 『風景の中の関係』 新潮社、1960年、のち『鳥獣蟲魚』は旺文社文庫 『街の底で』 中央公論社、1961年、のち角川文庫 『闇の中の祝祭』 講談社、1961年、のち光文社文庫、角川文庫、光文社文庫 妻と恋人との間で振り回される男の姿を描いた作品。当時の宮城まり子との恋愛からディテールを構成したため「女優との交際の告白」として物議をかもした。のち『春夏秋冬女は怖い』で事実だと書いている。 『コールガール』 角川書店、1962年、のち角川文庫 『札幌夫人』 集英社、1963年、のち集英社文庫 『雨か日和か』 講談社、1963年 『花束』 中央公論社、1963年、のち中公文庫 『女の決闘』 桃源社、1964年 『ずべ公天使』 集英社、1964年、のち『にせドン・ファン』は角川文庫 『砂の上の植物群』 文藝春秋新社、1964年、のち新潮文庫 『夜の噂』 朝日新聞社、1964年、のち新潮文庫 『痴・香水瓶』 学習研究社・芥川賞作家シリーズ、1964年 『吉行淳之介短篇全集』全5巻  講談社・ロマンブックス、1965年 『不意の出来事』 新潮社、1965年、のち『娼婦の部屋』『不意の出来事』は新潮文庫 新潮社文学賞受賞。 『技巧的生活』 河出書房新社、1965年、のち新潮文庫 『怪盗ねずみ小僧』 講談社、1965年、のち『鼠小僧次郎吉』は角川文庫 『唇と歯』 東方社、1966年、のち角川文庫 『赤い歳月』 講談社、1967年 『星と月は天の穴』 講談社、1967年、のち講談社文庫、文芸文庫 『美少女』 文藝春秋、1967年、のち新潮文庫 『女の動物園』 毎日新聞社、1968年 『暗室』 講談社、1970年、のち講談社文庫、文芸文庫 谷崎潤一郎賞受賞。 『浅い夢』 毎日新聞社、1970年、のち角川文庫 『小野小町』 読売新聞社、1970年、(小説選書) 『吉行淳之介全集』全8巻  講談社、1971–72年 『裸の匂い』 ベストセラーズ、1971年、のち集英社文庫 『湿った空乾いた空』 新潮社、1972年、のち新潮文庫 『一見猥本風』 番町書房、1973年、のち角川文庫 『猫踏んじゃった』 番町書房、1973年、のち角川文庫 『出口・廃墟の眺め』 講談社文庫、1973年 『鞄の中身』 講談社、1974年、のち講談社文庫、文芸文庫 読売文学賞受賞。 『赤と紫』 角川文庫、1974年 『吉行淳之介自選作品』全5巻  潮出版社、1975年 『子供の領分』 番町書房、1975年、のち角川文庫、集英社文庫 『童謡』 出帆社、1975年、のち集英社文庫 『怖ろしい場所』 新潮社、1976年、のち新潮文庫 『牝ライオンと豹』 角川文庫、1976年 『吉行淳之介エンタテインメント全集』全11巻  角川書店、1976–77年 『寝台の舟』 旺文社文庫、1977年 『鬱の一年』 角川文庫、1978年 『夕暮まで』 新潮社、1978年、のち新潮文庫 「夕ぐれ族」の語源。社会現象となった。野間文芸賞受賞 『菓子祭』 潮出版社、1979年、のち角川文庫、講談社文芸文庫 『堀部安兵衛 黒鉄ヒロシえ』 集英社文庫、1980年 『百の唇』 掌篇小説選、講談社、1982年 『夢の車輪 パウル・クレーと十二の幻想』 掌篇小説集、文藝春秋、1983年 『吉行淳之介全集』全17巻 別巻3巻  講談社、1983–85年 『目玉』 新潮社、1989年、のち新潮文庫 『吉行淳之介全集』全15巻  新潮社、1997–98年 『悩ましき土地』 講談社文芸文庫、1999年 『吉行淳之介娼婦小説集成』中公文庫、2014年 『恋愛作法』 文藝春秋新社、1958年 『青春の手帖』 講談社、1959年 『浮気のすすめ』 新潮社、1960年 『すれすれ探訪』 東都書房、1960年 『不作法紳士』 集英社、1962年、のち集英社文庫 『わたくし論』 白凰社、1962年 『紳士放浪記』 集英社、1963年、のち集英社文庫 『変った種族研究』 講談社、1965年、のち角川文庫 『私の文学放浪』 講談社、1965年、のち角川文庫、講談社文庫、講談社文芸文庫、同ワイド版 『痴語のすすめ』 実業之日本社、1965年、(ホリデー新書) 『軽薄派の発想』 芳賀書店、1966年 『快楽の秘薬 神経疲労回復の書』 青春出版社プレイブックス、1966年、のち光文社文庫 『なんのせいか』 随想集、大光社、1968年 『秘蔵の本、禁話のコレクション』 河出ベストセラーズ、1968年、のち光文社文庫 『私の恋愛論』 大和書房、1970年、のち角川文庫 『私のうちなる女』 新潮社、1970年 『生と性』 大光社、1971年、(語りおろしシリーズ)のち集英社文庫 『軽薄のすすめ』 角川文庫、1972年 『樹に千びきの毛蟲』 潮出版社、1973年、のち角川文庫、ランダムハウス講談社文庫 『面白半分のすすめ』 角川文庫、1973年 『不作法のすすめ』 角川文庫、1973年、のち光文社文庫、中公文庫 『スラプスティック式交遊記』 角川書店、1974年、『悪友のすすめ』と改題し角川文庫、1976年、のち光文社文庫 『四角三角丸矩形』 創樹社、1974年 『贋食物誌』 新潮社、1974年、のち新潮文庫 『猫背の文学散歩』 対談集、潮出版社、1974年 『女のかたち』 創樹社、1975年、のち集英社文庫 『ぼくふう人生ノート』 いんなあとりっぷ社、1975年、のち集英社文庫 『某月某日』 番町書房、1975年 『石膏色と赤 随筆集』 講談社、1976年、のち講談社文庫 『自選作家の旅』 山と渓谷社、1976年 『怪談のすすめ』 角川文庫、1976年 『麻雀好日』 毎日新聞社、1977年、のち角川文庫 『男と女をめぐる断章 316のアフォリズム』 文化出版局、1978年、のち集英社文庫 『街角の煙草屋までの旅』 講談社、1979年、のち講談社文庫 『詩とダダと私と』 作品社、1979年、のち福武文庫 『赤とんぼ騒動 わが文学生活 1980年~1981年』 潮出版社、1981年 『スペインの蠅 わが文学生活 1979年~1980年』 潮出版社、1982年 『エアポケット わが文学生活 1977年~1979年』 潮出版社、1982年 『夢を見る技術 わが文学生活 1975年~1977年』 潮出版社、1982年 『男と女のこと わが文学生活 1973年~1975年』 潮出版社、1982年 『甲羅に似せて わが文学生活 1971年~1973年』 潮出版社、1982年 『「私」のいる風景、342のアフォリズム』 文化出版局、1982年 『花冷えの季節 わが文学生活 1970年~1971年』 潮出版社、1982年 『珍獣戯話』 毎日新聞社、1982年 『なんのせいか わが文学生活 1966年~1970年』 潮出版社、1982年 『木馬と遊園地 わが文学生活 1963年~1966年』 潮出版社、1983年 『悩ましい時間 わが文学生活 1960年~1963年』 潮出版社、1983年 『年齢について わが文学生活 1957年~1960年』 潮出版社、1983年 『雑踏のなかで わが文学生活 1946年~1957年』 潮出版社、1983年 『吉行淳之介による吉行淳之介 試みの自画像』 青銅社、1983年 『わが文学生活』 講談社、1985年、講談社文芸文庫、2017年11月 『人工水晶体』 講談社、1985年、のち講談社文庫。※白内障手術の体験記。 『あの道この道、いろの道川柳撰』 光文社、1986年、のち光文社文庫 『定本・酒場の雑談』 有楽出版社、1986年、のち集英社文庫 『犬が育てた猫』 潮出版社、1987年、のち文春文庫 『日日すれすれ』 読売新聞社、1987年、のち集英社文庫 『自家謹製小説読本』 山本容朗編、有楽出版社・実業之日本社、1988年、のち集英社文庫 『人間教室』 山本容朗編、有楽出版社・実業之日本社、1989 『春夏秋冬女は怖い なんにもわるいことしないのに』 光文社カッパホームス、1989年、のち光文社文庫 『やややのはなし』 文藝春秋、1992年、のち文春文庫 『私の東京物語』 山本容朗編、有楽出版社・実業之日本社、1993年、のち文春文庫 『懐かしい人たち』 講談社、1994年、のちちくま文庫 『失敗を恐れないのが若さの特権である 愛・結婚・人生 – 言葉の花束』 宮城まり子編、海竜社、2000年 『淳之介養生訓』 中公文庫、2003年 『吉行淳之介エッセイ・コレクション』全4巻 荻原魚雷編 ちくま文庫、2004年 『愛と笑いの夜』 ヘンリー・ミラー作、河出書房、1968年、のち角川文庫、福武文庫 『不眠症あるいは飛び跳ねる悪魔』 ヘンリー・ミラー作、読売新聞社、1975年 『酒について』 キングズレー・エイミス作、林節雄共訳、講談社、1976年、のち講談社文庫 『好色五人女』 井原西鶴原作、河出書房新社、1979年、のち中公文庫、河出文庫 『好色一代男』 井原西鶴原作、中央公論社、1981年、のち中公文庫 『鼠の草子』 原作は御伽草子、集英社、1982年 『吉行淳之介 軽薄対談』 講談社、1966年、のち角川文庫 『吉行淳之介 第二軽薄対談』 講談社、1967年 『吉行淳之介 第三軽薄対談』 講談社、1967年 『吉行淳之介 対談浮世草子』 三笠書房、1971年、のち集英社文庫 『面白半分対談』 講談社、1971年 『不作法対談』 角川文庫、1973年 『吉行淳之介 躁鬱対談』 毎日新聞社、1975年、のち角川文庫 『新面白半分対談』 講談社、1975年 『粋談、ユーモア対談集』 番町書房、1976年 『恐怖対談』 新潮社、1977年、のち新潮文庫 『拒絶反応について』 対談集、潮出版社、1978年 『恐怖・恐怖対談』 新潮社、1980年、のち新潮文庫 『サルの檻、ヒトの檻』 文化人類学講義、西江雅之対談、朝日出版社、1980年 『着流し対談』 角川文庫、1980年 『夢・鏡・迷路』 潮出版社、1981年 『恐・恐・恐怖対談』 新潮社、1982年、のち新潮文庫 『対談美酒について 人はなぜ酒を語るか』 開高健対談、サントリー出版、1982年、のち新潮文庫 『街に顔があった頃 浅草・銀座・新宿』 開高健対談、ティビーエス・ブリタニカ、1985年、のち新潮文庫 『特別恐怖対談』 新潮社、1985年、のち新潮文庫 『対談老イテマスマス耄碌』 山口瞳対談、新潮社、1993年 『やわらかい話 吉行淳之介対談集』 丸谷才一編、講談社文芸文庫、2001年 『やわらかい話 2 吉行淳之介対談集』 丸谷才一編 講談社文芸文庫 2008年 『奇妙な味の小説―現代異色小説集』立風書房 1970年 のち中公文庫 『幻の花たち : 娼婦小説集』立風書房 1972年 『プレイボーイ傑作短篇集』集英社プレイボーイ・ブックス 1977 『酔っぱらい読本』全7巻、講談社、1978年-1979年、 『酔っぱらい読本』『続・酔っぱらい読本』『最後の酔っぱらい読本』講談社文芸文庫、2012-14年 『純愛小説名作選』集英社文庫 1979年 『グラフィック版世界の文学 別巻2 世界恋愛名作集』世界文化社 1979年 『ヴェニス 光と影』 篠山紀信写真、新潮社、1980年、のち新潮文庫 『ネコ・ロマンチスム』青銅社、1983年 『日本の名随筆16 性』作品社、1983年 『文章読本』日本ペンクラブ (編), 福武文庫 1988年 『酒中日記』講談社、1988年、のち中公文庫 『日本の短篇』上下、井上靖・吉行淳之介・大江健三郎編、文藝春秋、1989年 『また酒中日記』講談社 1991年、のち中公文庫 『川崎長太郎選集』上下 吉行編、河出書房新社、1991年 ^ 淳之介と親しくしていた親友2名は、彼等の学年では許されていた「徴兵逃れのための理系大学への進学」で長崎医大に進み、長崎の原爆で死亡した。結果的に淳之介は「仮病による休学」で命びろいした。吉行『私の文学放浪』 ^ 母・吉行あぐりをはじめ親族とも緊密であり、淳之介の没後にあぐりの決断で宮城が葬式一切を取り仕切ることとなった。 ^ 娘とは親交があり、一時は淳之介、宮城とともに暮らした。 ^ 河出書房新社、1995年。 ^ 中央公論社、1996年。 ^ 文藝春秋、2001年。 ^ 新宿書房、2004年。 ^ 佐藤嘉尚『人を惚れさせる男: 吉行淳之介伝』1頁 ^ 高橋広満『吉行淳之介: 人と文学』17頁 ^ 『吉行淳之介全集』別巻3、小島功「新人漫画家発掘の名人」、峯島正行「その編集者時代と若い漫画家たち」 ^ 『朝日新聞』1979年3月6日(東京本社発行)朝刊、22頁。 ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)262頁 ^ a b 奥本(1981)p.161 ^ a b 上野(2010)pp.7-21 ^ 吉行淳之介『街角の煙草屋までの旅』(講談社、1979年)所収『サーモンピンクの壁』。 ^ 1982年6月刊行『芥川賞全集』第5巻の巻末年譜による。 奥本大三郎「男の領分 『驟雨』詳論」(『ユリイカ』1981年12月号)青土社、1981年 鈴木重生『わが友吉行淳之介 その素顔と作品』未知谷、2007年 上野千鶴子 『女ぎらい -ニッポンのミソジニー-』 紀伊国屋書店、2010年10月。ISBN 978-4-314-01069-6。 文章読本 吉行淳之介文学館 吉行淳之介の墓 とにかく吉行淳之介 一見吉行風", "武田 泰淳(たけだ たいじゅん、1912年(明治45年)2月12日 - 1976年(昭和51年)10月5日)は、日本の小説家。第一次戦後派作家として活躍。主な作品に『司馬遷』、『蝮のすゑ』、『風媒花』、『ひかりごけ』、『富士』、『快楽』など。 妻は随筆家の武田百合子、娘は写真家の武田花。兄は水産生物学者・東大教授の大島泰雄。伯父に僧侶・仏教学者・社会事業家の渡辺海旭がいる。 東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。長い間二男とされていたが、上田女子短期大学教授の長田真紀の研究によって、夭折した次兄・信也がいたことが明らかになった。出生名は覚(さとる)。 父の師にあたる武田芳淳に養子に入り、武田泰淳と姓名を変更する。 京北中学校、浦和高等学校を経て東京帝国大学文学部支那文学科に入学、竹内好と知り合う。左翼活動を繰り返し、1年の時、中央郵便局でゼネスト呼びかけのビラ配布に参加して逮捕され、1ヶ月ほど警視庁丸ノ内署や本富士署に身柄を拘束される。釈放後に大学を中退し、1934年、魯迅の弟、周作人来日歓迎会を機に竹内好らと共に「中国文学研究会」を設立する。 1937年、華中戦線に送られるが2年後に除隊される。1943年、『司馬遷』刊行。終戦時には上海に滞在していた。日本に帰国して、1947年、『蝮のすゑ』発表。同年、北海道大学法文学部助教授として勤務した。翌年には『近代文学』の同人となり、作家活動に専念するため退職し帰京。 1951年、昭森社社主の森谷均がオーナーで当時文学者が多く集まっていた神田の喫茶・文壇バーの「ランボオ」で働いていた鈴木百合子との間に子ができる。長女・花の誕生と共に、11月に鈴木百合子と結婚。戦時中に起きた知床岬沖で遭難した船長の食人事件をテーマに、1954年『ひかりごけ』を発表。この作品により前述の事件はひかりごけ事件と言われるようになった。北海道滞在時に接したアイヌを題材にした『森と湖のまつり』が、発表直後の1958年には映画化された。翌年には二・二六事件を舞台にした『貴族の階段』が吉村公三郎監督で映画化された。 1964年、富士桜高原の別荘地「字富士山(あざふじさん)」に別荘「武田山荘」を構え、東京都港区赤坂の自宅に加え、よく過ごすようになる。 1969年(昭和39年)10月から、週の半分を過ごしている山梨県南都留郡鳴沢村の富士桜公園山荘から着想を得て、太平洋戦争末期の富士北麓の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を文芸雑誌『海』に連載し、1971年に刊行した。『富士』執筆中に酒量が増え刊行後は、糖尿病原因の脳血栓症で入院、片麻痺が残ったため以後の作品は妻百合子の口述筆記により書かれた。 1973年に『快楽』で、日本文学大賞を受賞、1976年に『目まいのする散歩』で、野間文芸賞を受けるも、『秋風秋雨人を愁殺す』での1968年度芸術選奨文部大臣賞や日本芸術院会員の選出などの国家的栄誉は辞退し続けた。 1976年10月5日、胃ガン及び転移した肝臓ガンのため東京慈恵会医科大学附属病院で死去、64歳。戒名は恭蓮社謙誉上人泰淳和尚。未完作に『上海の蛍』(残りは一作のみだった)。葬儀等の後の整理は、遺言で竹内好と埴谷雄高に託された。没後間もなく、竹内らにより「増補版 全集」(筑摩書房)が刊行された。 泰淳の残した2000点以上の資料は、娘の花により2005年に日本近代文学館に寄贈された。資料の中には、中国への従軍時の日記「従軍手帖」もあり、泰淳が「個人的発砲」を行なったことが記されていた。なお担当編集者には村松友視・川西政明らがいる。川西は『武田泰淳伝』(講談社、2005年)により 伊藤整文学賞(第17回・評論部門)を受賞した。 『司馬遷 史記の世界』日本評論社「東洋思想叢書」 1943、創元文庫 1952、文藝春秋新社 1959 講談社、同「名著シリーズ」、講談社文庫、講談社文芸文庫、新版解説宮内豊  『蝮のすゑ』思索社 1948 「愛のかたち・蝮のすゑ」角川文庫、「蝮のすえ・愛のかたち」 講談社文芸文庫 1992、解説川西政明 『愛のかたち』八雲書店 1948、「愛のかたち・才子佳人」新潮文庫(新版) 『月光都市』臼井書房 1949、「才子佳人・月光都市」新潮文庫 『女の部屋』早川書房 1951 『未来の淫女』目黒書店 1951 『異形の者』河出書房 (市民文庫) 1951 『風媒花』大日本雄弁会講談社 1952 のち新潮文庫、角川文庫、講談社文芸文庫(改版2011)、新版解説山城むつみ  『流人島にて』大日本雄弁会講談社 1953 「流人島にて・ひかりごけ」新潮文庫、角川文庫、「ひかりごけ」新潮文庫(改版2012)  『愛と誓ひ』筑摩書房 1953 のち角川文庫  『天と地の結婚』大日本雄弁会講談社 1953 のち角川文庫 『美貌の信徒』新潮社 1954 『人間・文学・歴史』厚文社 1954、筑摩叢書(新編)1966 『才子佳人』角川文庫 1955 『火の接吻』筑摩書房 1955 『敵の秘密』河出新書 1955 『女の宿』鱒書房(コバルト新書) 1956 『にっぽんの美男美女』筑摩書房 1957 『みる・きく・かんがへる 現代文学の沃土を求めて』平凡社 1957 『森と湖のまつり』新潮社 1958、のち新潮文庫、角川文庫、講談社文芸文庫   『現代の魔術 武田泰淳評論集』 未來社 1958 『士魂商才』文藝春秋新社 1958、のち岩波現代文庫 『貴族の階段』中央公論社 1959、のち角川文庫、新潮文庫、岩波現代文庫(解説澤地久枝)  『地下室の女神』新潮社 1959 『政治家の文章』岩波新書 1960 『花と花輪』新潮社 1961 『私の映画鑑賞法』朝日新聞社(新書版) 1963 『わが中国抄』普通社 1963 『ニセ札つかいの手記』講談社 1963 『日本の夫婦』朝日新聞社〈コンパクト・シリーズ〉 1963 『十三妹』朝日新聞社 1966。中公文庫 2002(解説田中芳樹)。原案:児女英傑伝  『冒険と計算』講談社 1966 『揚子江のほとり 中国とその人間学』芳賀書店 1967 『秋風秋雨人を愁殺す 秋瑾女士伝』筑摩書房 1968、筑摩叢書 1976、ちくま学芸文庫 2014 『わが子キリスト』講談社 1968、のち講談社文庫、講談社文芸文庫 2005 『新・東海道五十三次』中央公論社 1969、中公文庫 1977(解説斎藤茂太)、改版2018 『黄河海に入りて流る 中国・中国人・中国文学』勁草書房 1970、新版1986 『武田泰淳 滅亡について』文藝春秋<人と思想> 1971  『富士』中央公論社 1971、中公文庫 1974、改版2018(新版解説堀江敏幸) 『快楽』(上・下) 新潮社 1972、のち新潮文庫。小学館 2016  『私の中の地獄』筑摩書房 1972 『目まいのする散歩』中央公論社 1976、中公文庫 1978(解説後藤明生)、改版2018 『文人相軽ンズ』構想社 1976 『上海の螢』中央公論社 1977。小学館 2016(新編) 『自伝 身心快楽』創樹社 1977 『武田泰淳評論集 滅亡について』岩波文庫(川西政明編 1992) 『武田泰淳随筆選 身心快楽』講談社文芸文庫(川西政明編 2003)  『ニセ札つかいの手記 武田泰淳異色短篇集』中公文庫 2012、解説高崎俊夫 『淫女と豪傑 武田泰淳中国小説集』中公文庫 2013、解説高崎俊夫  『武田泰淳集 新文学全集』河出書房 1952 『武田泰淳作品集』全4巻 大日本雄弁会講談社 1954 『武田泰淳全集』全16巻 筑摩書房 1971-73  『武田泰淳中国小説集』全5巻 新潮社 1974 『武田泰淳全集』増補版・全18巻別巻3 筑摩書房 1978-79 別巻は対談2冊、『武田泰淳研究』埴谷雄高編 『武田泰淳エッセンス』石井恭二編、河出書房新社 1998 『武田泰淳集 戦後文学エッセイ選5』影書房 2006 『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティ・ブック』清流出版 2009 木下恵介・内田吐夢の対話も収録。 『揚子江文学風土記』小田岳夫共著 龍吟社 1941 『毛沢東-その詩と人生』竹内実共著 文藝春秋新社 1965 『混々沌々 対談集』筑摩書房 1971 『精神の共和国は可能か 対談集』筑摩書房 1973 『私はもう中国を語らない』堀田善衛対話 朝日新聞社 1973 『こんにゃく問答 対談集1 身辺箚記』文藝春秋 1973 『こんにゃく問答 対談集2 中国今昔』文藝春秋 1973 『混沌から創造へ』中央公論社 1976、中公文庫 1981。聞き手は佐々木基一・開高健、他に対談集 『生きることの地獄と極楽 対話集』勁草書房 1977 支那辺疆視察記 陳賡雅 井上紅梅共訳 改造社 1937 虹 茅盾 現代支那文学全集 第3巻 東成社 1940 愛すればこそ 蕭軍 小田岳夫共訳 現代支那文学全集 第4巻 東成社 1940  ^ 「発見された“幻の手紙”―武田泰淳の詫び状」光文社月刊「宝石」1994年8月号、および「武田泰淳研究-一通の「除籍謄本」を通して」上田女子短期大学国語国文学会「学海」第11号1995年 ^ 『官報』第1277号、昭和6年4月6日、p.152 ^ 『官報』第1290号、昭和6年4月21日、p.546 ^ この辺りは、武田百合子『富士日記』(中公文庫全3巻ほか)に詳しい ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)191頁 ^ 川西政明「武田泰淳日記を読む」 朝日新聞2006年1月12日夕刊 第一次戦後派作家 戦後文学を読む 竹内好 埴谷雄高 松枝茂夫 小田岳夫 増田渉 近代文学 (雑誌) ウィキメディア・コモンズには、武田泰淳に関するカテゴリがあります。", "野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 - 1991年(平成3年)1月2日)は、日本の小説家、評論家、詩人。 長編小説を多く書き、社会全体の構造をとらえる全体小説を志向した。また、最晩年まで社会的な発言を多く行ったことでも知られている。部落外の出身者だが部落解放同盟中央委員となった。そのきっかけは、戦前から水平社とともに運動してきたことのほか、誤りを犯したことがきっかけで解放同盟に洗脳されたことであるといわれる。 僧侶(在家の新しい流派を建てたので、既存の寺院に属してはいなかった)を父として、兵庫県神戸市長田区に生まれる。大阪府立北野中学校に進学する。 1932年、旧制第三高等学校在学中、同人誌「三人」を富士正晴(野間は富士の妹と結婚したので義兄)、竹之内静雄と創刊。 1935年、京都帝国大学に進学し、反戦学生運動に参加。 1938年、京都帝国大学文学部仏文科卒業。 1938年から大阪市役所に勤務し、被差別部落関係の仕事を担当した。 1941年に応召し、中国やフィリピンを転戦するも、マラリアに感染したため帰国。 1943年、社会主義運動の前歴を憲兵に追及され、思想犯として大阪陸軍刑務所で半年間服役。年末に出所後、監視つきで原隊に復帰。 1944年2月、召集解除。大阪の軍需工場に勤務していた時、敗戦を迎える。 敗戦後、日本共産党に入党。 1946年、『暗い絵』を発表し、作家生活に入る。 1951年、前年創刊された雑誌『人民文学』の編集にかかわる。 1952年、『真空地帯』で毎日出版文化賞を受賞。 1954年、詩集『スターリン讃歌』編集に参加。同書のためにスターリンを賛美した詩『星の歩み』『スターリン』を執筆。 1964年、ソ連に追随したとして、日本共産党から除名処分を受ける。 1971年、『青年の環』で谷崎潤一郎賞を受賞。 1973年、『青年の環』がロータス賞を受賞。 1974年、「日本アジア・アフリカ作家会議」の初代議長に選出される。 1977年、『差別・その根源を問う』『狭山裁判』など部落問題に関する言論活動が評価され、松本治一郎賞を受賞。 1989年、 『野間宏作品集』(全14巻・岩波書店)をはじめとする文学への貢献により、1988年度朝日賞を受賞。 1991年、食道癌の合併症により東京慈恵会医科大学附属病院で死去。エセー集『時空』(福武書店)と、大作『生々死々』(未完、講談社)が出された。 全22巻の『野間宏全集』(筑摩書房)、全14巻『野間宏作品集』(岩波書店)があるが、スターリンを賛美した作品は収録されなかったという。 藤原書店より、『完本 狭山裁判』(上中下、1997年)と、『作家の戦中日記 一九三二-四五』(2001年)が出された。また『野間宏の会』を主催している。 影書房で『野間宏集』 (戦後文学エッセイ選9、2008年)が出された。 『真空地帯』発表時、大西巨人は、軍隊があまりに単純に悪として描かれていると批判し、「俗情との結託」と呼び、のち自ら軍隊を描いた『神聖喜劇』を発表した。 三高から京大時代の数年間にわたる日記は、没後に『作家の戦中日記』として藤原書店から刊行されたが、それによると野間は痴漢行為や公衆便所の窃視の常習犯であり、若い女性に尾行と性器露出を繰り返し、友人たちから「野獣」と呼ばれ、みずからも「淫らな変態性欲者」と自嘲していた。ただし警察に捕まったことはなかった。 1974年春に『青年の環』の担当編集者の田邊園子(当時37歳)を突然口説きはじめて田邊を啞然とさせたが、その場は来客があり、ことなきを得た。それから半年以上経ち、1974年秋の夜、野間は田邊を新宿駅東口のタクシー乗り場に呼び出し、無言のまま田邊を自動車でどこかへ連れ去ろうとしたが抵抗され、何もできなかった。後に判明したところによると、野間はこの晩、男女が肉体的に結ばれる場面を田邊相手にみずから演じて書く予定だった。しかし野間はこの出来事を歪曲し「田邊が野間を誘惑して失敗した」と一部の人々にまことしやかに話し、信じさせた。田邊は「当時、私は勤務先の社長から奇妙な厭味を言われ、その後も長く、作家たちや他社の編集者から哀れみや同情、慰めの言葉、時には蔑みの視線を受けてきたことを忘れることが出来ない。野間夫人すら私の\"失恋\"を疑わなかった」、「ほとんどの人々は、常日ごろ\"人権擁護\"を標榜している作家が、他者の人権を踏みつけるような嘘を人に話して聞かせるとは信じないだろう」と記している。しかし野間はみずからの言動を「小説家は嘘をつくものです」と正当化していた。 『暗い絵』真善美社 1947 のち新潮文庫 『暗い絵・顔の中の赤い月』(角川文庫) 『暗い絵・崩解感覚』(新潮文庫) 『暗い絵・第三十六号』(旺文社文庫) 『暗い絵・顔の中の赤い月』(講談社文芸文庫) 『崩解感覚』丹頂書房 1948 『崩解感覚・夜の脱柵』(旺文社文庫) 『小説入門』真善美社 1948 「文章入門」旺文社文庫、レグルス文庫 『星座の痛み 詩集』河出書房 1949 『青年の環』第1-2部 河出書房 1949-1950 のち岩波文庫(以下同) 『顔の中の赤い月』目黒書店(自選作品集)1951 『雪の下の声が……』未來社 1952 『文学の探求』正続 未來社 1952-1953 『真空地帯』河出書房 1952 のち岩波文庫、角川文庫、新潮文庫、旺文社文庫 『人生の探求』未來社 1953 『野間宏詩集』三一書房(日本国民詩集)1953 『野間宏作品集』全3巻 三一書房 1953 『現代文学の基礎 いかに人間を考えるか』理論社 1954 『思想と文学』未來社 1954 『志津子の行方』河出新書 1955 『文学の方法と典型 社会主義リアリズムにむかって』青木書店 1956 『地の翼 上巻』河出書房 1956 『真実の探求 現代文学の方法』理論社(私の大学・文学の教室)1956 『今日の愛と幸福』中央公論社 1957 『黄金の夜明ける』未來社 1959 『さいころの空』文藝春秋新社 1959 のち角川文庫 『車の夜』東京書房 1959 『感覚と欲望と物について 評論集』未來社 1959 『若い日の文学探求』青春出版社(青春教養大系)1960 『文章読本』新読書社出版部 1960 『干潮のなかで』新潮社 1961 『わが塔はそこに立つ』講談社 1962 のち文庫、文藝文庫 『肉体は濡れて』東方社(イースト・ブックス)1965 『青年の環 第3』河出書房新社 1966 『人生と愛と幸福』合同出版(パピルス双書)1967 『文学論』合同出版 1967 『青年の問題文化の問題』合同出版(パピルス双書)1967 『青年の環 第4』河出書房新社 1968 『サルトル論』河出書房 1968 『歎異抄』(私の古典)筑摩書房 1969 のち河出文庫、ちくま文庫 『野間宏全集』全22巻 筑摩書房 1969-1974 『野間宏評論集』全2巻 未來社 1969-1970 『創造と批評』筑摩書房 1969 『全体小説への志向 対話集』田畑書店 1969 『全体小説と想像力』河出書房新社 1969 『青年の環 5』河出書房新社 1971 『鏡に挾まれて 青春自伝』創樹社 1972 『親鸞』岩波新書 1973 『心と肉体のすべてをかけて 文学自伝』創樹社 1974 『文学の旅思想の旅』文藝春秋(人と思想) 1975 『忍耐づよい鳥』河出書房新社 1975 『狭山裁判』岩波新書 1976 『現代の王国と奈落 現代文明の危機についての文学者の考察』転轍社 1977 『野間宏全詩集』文和書房 1979 『危機の中から 対話集』小学館創造選書 1981 『新しい時代の文学』岩波書店 1982 『戦後その光と闇』福武書店 1982 『東西南北浮世絵草書 わたしの読書と生活』集英社 1987 『野間宏作品集』全14巻 岩波書店 1987-1988 『解放の文学その根元 評論・講演・対話集』解放出版社 1988 『生々死々』講談社 1991 『時空』福武書店 1991 『天の穴、地の穴野間宏生命対話』立松和平編 社会思想社(現代教養文庫) 1991 『作家の戦中日記』藤原書店 2001 山繭 詩集 井口浩、富士正晴共著 明窗書房、1948 世界解放詩集 長田弘共編訳 飯塚書店 1951 愛と革命(編)河出新書 1953 日本抵抗詩集(編)三一書房 1953 風に鳴る樹々 全国結核療養者詩集 安東次男、瀬木慎一共編 朝日書房 1954 フランス解放詩集 小内原文雄共編 河出文庫 1954 学生たちの記録 永丘智郎共編 河出書房 1956 知識人の思想と行動 新しい連帯のために 木下順二、日高六郎共編 麦書房 1964 文章のつくり方 三一書房 1966 (高校生新書) 小説の書き方 明治書院 1969 (作法叢書) 差別・その根源を問う 安岡章太郎共編 朝日新聞社 1977.7 のち選書 狭山差別裁判 三一新書 1978.6 人間のゆくえ 渡辺格対談 新泉社 1979.4 アジアの聖と賤 被差別民の歴史と文化 沖浦和光共著 人文書院 1983.4 日本の聖と賤 沖浦和光共著 人文書院 1985-1987 親鸞から親鸞へ 現代文明へのまなざし 三国連太郎対談 藤原書店 1990.12 日本の名随筆 100 命 作品社 1991.2 万有群萌 ハイテク病・エイズ社会を生きる 山田国広対談 藤原書店 1991.12 日本の聖と賤 近代篇 沖浦和光 人文書院 1992.4 神戸文学館 狭山事件 ^ a b 『文学』1959年2月号、p.39 ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)22頁 ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)256頁 ^ 田邊園子『伝説の編集者坂本一亀とその時代』37-38頁 ^ a b c d e f 『新日本文学』2001年11月号、田邊園子「野間宏の『嘘』」 ^ 田邊園子『女の夢 男の夢』 野間宏と戦後派の作家たち展 野間宏の会" ]
ABC01-02-0145
長さでは100分の1寸、重さでは100分の1匁、そしてお金では100分の1円を1とする単位は何でしょう?
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[ "銭", "銭貨", "二朱金", "両", "一朱金" ]
[ "銭(せん、中国語: 錢/钱 拼音: qián チエン、朝鮮語: 전 チョン)は、東アジアのいくつかの国の通貨である。 「銭」(旧字体「錢」)は元は農具の「鋤」を意味する漢字だったが、鍬形の貨幣があったことから貨幣の意味に転じた。通貨としては複数の意味があるが、主に 1⁄100円。 質量1銭(=匁)の銀の価値。1⁄10両にも等しい。 の2つの系統の意味がある。 古代から江戸時代までは、銭貨1枚の価値を表した。つまり、文あるいは0.001貫に等しい。銀に換算すると1700年のレートでは銀0.015匁にあたり、銀1銭(1匁)の価値である中国の銭とは2桁異なる。 1871年(明治3 - 4年)に新貨条例により円・銭・厘が新通貨として導入され、「銭」には新たな意味を与えられた。この銭は、0.01円・10厘に等しい。1両=1円の切り替えレート(および1両=4000文のレート)から換算すると、銭(新)=40銭(旧)となる。1953年(昭和28年)に小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律により銭・厘単位の硬貨や紙幣が全て通用停止となり、現金単位としては役割を終えた。 現在の日本では「銭」の使用は金融分野にほとんど限定され、株価・為替レートなどの、1円未満の端数表示に使われる。 朝鮮語では「錢」を 전(チョン)と読む。英字表記は、2000年からの韓国では jeon、北朝鮮および2000年までの韓国では chon である。なお、ウォンと同様に、現在は南北ともに公式な漢字表記はない。 南北双方でチョン=1⁄100ウォンである。ただし現在の韓国では、チョンの使用は日本の銭と同様、金融分野にほぼ限られている。北朝鮮では現在もチョン硬貨が鋳造されているが、ほとんど使われていないようである。 1892年、1⁄10両(ヤン)にあたる補助通貨として導入された。5両=圜(ファン)だったので、銭=1⁄50圜に等しい。 1902年、圓(ウォン)の導入に伴い、銭=1⁄100圓と改められた。切り替えレートは圓=5両(=圜)なので、銭(新)=2銭(旧)となる。 日本統治時代には基本通貨が圓(エン)、補助通貨が銭(セン)となった(切り替えレートは導入時・廃止時とも1:1)が、レートは変わらず銭=1⁄100圓だった。1953年から1962年までの韓国では基本通貨が圜(ファン)に戻ったが、補助通貨は変わらず銭=1⁄100圜だった。ただし、1953年の圜導入時に100倍、1962年の新圓導入時に10倍のデノミネーションがあったため、それに伴い銭の価値も一定ではなくデノミネーションされている。 1⁄10両に等しかった。「銀1銭」、つまり、質量1銭の銀の価値だった。 ちなみに今の1元の1⁄10は角、1⁄100は分である。 ベトナム語では「錢」を tiền(ティエン)と読む。 阮朝 (1802–1945) 後期に、1⁄10両、あるいは銀1銭に等しい価値の通貨として使われた。 時期は不明だが、安南国では1錢=1⁄100両だったともされる。 「銭」が小額貨幣の呼称で、かつアメリカ合衆国の貨幣単位の「cent」と音が似ていたことから、戦前のアメリカの日系移民の間では銭の単位を流用し、アメリカの「セント」を「米銭」と表記することがあった。 ^ 「ラング;两」、二村隆夫 監修『丸善 単位の辞典』2002年 丸善", "銭貨(せんか)は、主に東アジアでかつて流通した硬貨を指す。同音で泉貨とも記述される。多くは円形で中心部に方形の穴が開けられた(円形方孔)有孔貨幣であることが多い。金貨や銀貨といった貴金属製の硬貨の対義語として、卑金属製の硬貨を指すこともあるが、金貨および銀貨のうち円盤状で中央に孔が開いた形状をしているものを含めて銭貨ということもある。多くは銅貨であるが、銅の不足などにより、鉄製のものや錫等との合金とした真鍮製の物が銭貨として発行されたこともある。 銭貨の通貨単位としては、一般に文が用いられた。 四角の穴があいているために「穴あき銭(あなあきせん)」「穴銭(あなせん)」、あるいは「方孔銭」「円形方孔銭」「方孔円銭」ともいう。 単に「ぜに(銭)」ともいう。江戸時代には「ちゃん」、「ちゃんころ」などとも呼ばれた。 中国における銭貨の歴史については中国の貨幣制度史を参照。とくに唐の開元通宝は、そのデザインや大きさ・重さの点で東アジアやベトナムの銭貨に強い影響を与えた。 日本(倭国)産の銭貨として最初に鋳造されたのは、無文銀銭または富本銭とされるが、実際に流通したかどうかは定かではなく、厭勝銭(まじない銭)や試作品の可能性もあり、よく分かっていない。 最初に正式な貨幣として発行されたのは708年(和銅元)の和同開珎である。これは律令国家の建設と軌を一にするものであり、中国王朝にならい貨幣発行権を国家のもとにおいたのである。律令政府は、蓄銭叙位法や献銭叙位法を施行するとともに、雑徭・調の銭納を認めるなど、銭貨の普及を強く推進した。以後、10世紀頃まで国産の銭貨である万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝・乾元大宝が鋳造された。和同開珎から乾元大宝まで12種類なので、これらを皇朝十二銭と呼ぶ。しかし、銭貨の原料となる銅が十分に確保されないために、消費需要に見合うだけの銭貨を供給することができず、銭貨は次第に布や米などの物品貨幣へ代替されるようになり、11世紀初めごろまでに流通しなくなった。 平安時代後期に荘園公領制が成立すると、地域間の決済が増加していき、貨幣への需要が高まった。日宋貿易によりもたらされた宋銭・唐銭が次第に流通し始め、『百練抄』には、平安最末期の1179年(治承3)に「銭の病」が流行した記事が残っている。この「銭の病」を急激な宋銭普及に伴うインフレーションとする説もある。 本格的に銭貨流通が盛んになったのは鎌倉時代からである。13世紀中葉ごろからの社会変動に伴い、銭貨流通は社会に広く普及した。室町時代に明から永楽通宝が大量に輸入された。15世紀後半になると、これら宋銭・明銭といった中国銭に信用不安が発生しており(後述書)、理由として、15世紀半ばに明が国家的支払い手段を銭から銀に転換したため、国家的保障を失い、日本にも波及したものと考えられている(久留島典子 『日本の歴史13 一揆と戦国時代』 講談社 2001年 pp.254 - 255)。当時、大内氏は撰銭令を出す対策を出しているが、その後を継いだ毛利氏の時代では、石見銀山によって、大量の銀を産出することに成功しているため、撰銭令を出す必要性が減じている(同書 pp.255 - 256)。 ながらく中国から輸入した渡来銭や鐚銭などが流通していたが、江戸時代に入ると、初期には慶長通宝・元和通宝が鋳造され、ようやく安定的な貨幣供給体制が整えられた後には、寛永通宝を中心として、宝永通宝、天保通宝、文久永宝などが流通し、三貨制度の一角を担った。寛永通宝は1953年(昭和28年)12月の「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」施行まで、銅貨4文銭を2厘、銅貨1文銭を1厘硬貨として、法的に通用していた。 以下の表は江戸時代の銭貨の一覧である。 『続日本紀』には、度々、銭百万文を献上したことで無位・下位の者が五位を与えられた記述があり、実質上、皇朝十二銭の登場や貴族身分の形成の早い段階から銭貨で身分を買えた(蓄銭叙位令も参照)。記述例として、天平勝宝5年(753年)9月1日条には、無位の板持連真釣(いたもちのむらじまつり)が銭百万文を献上したので、外従五位下を授けられたとある(この他、銭百万文と共に稲一万束を献上したなど、銭と併用して献上し、五位を得る例が見られる)。 ^ 大辞林、大辞泉などの辞典 ^ 公鋳銭として発行が開始された年。それ以前の寛永3年(1626年)に二水永が鋳造されたが、この時はまだ正式な官銭ではなかった。 ^ 太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失った年。 ^ 貨幣法により正式に通用停止となった年。 ^ 太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失った年。 ^ 貨幣法により正式に通用停止となった年。 ^ 実際には80文に通用。 冥銭 銭紋 日本の貨幣史 民国通宝:中国最後の銭貨。 常平通宝:朝鮮最後の銭貨。 保大通宝:ベトナム最後の銭貨であるとともに、世界最後の方孔銭である(円形の孔の硬貨は日本の5円硬貨、50円硬貨がまだ流通している)。保大帝の頃に作られた。", "二朱金(にしゅきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種。 二朱判(にしゅばん)ともいう。 形状は長方形短冊状。 表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、下部に「二朱」の文字が刻印されている。 裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。また、最初に鋳造された元禄二朱金には、裏面右上部に鋳造時期を示す年代印「元」が刻印されている。 額面は2朱。その貨幣価値は1/8両に相当し、また1/2分に相当する。 一朱金、二分金とともに、小判、一分判に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられ、補助貨幣的に用いられた。 元禄10年(1697年)に初めて発行されたが、宝永7年(1710年)の乾字金の発行に伴い通用停止、その後天保3年(1832年)に天保二朱金、万延元年(1860年)に万延二朱金が発行された。万延二朱金は後に明治二朱金と改名して明治2年(1869年)まで鋳造されている。 元禄二朱判(げんろくにしゅばん)は元禄小判と同品位であり、量目が1/8につくられており、本位金貨に位置づけられるものである。慶長金の時代は、一分判より低額の計数貨幣は寛永通寳一文銭しかなく、一分は公定相場で一貫文に相当するため高額貨幣と小額貨幣の中間に相当する計数貨幣が無く、甚だ使い勝手が悪いため、「二朱」という額面は歓迎されるものであった。しかし幕府は慶長金回収を促進するため、二朱金への両替は元禄金に限るという策を講じた。 天保二朱判(てんぽうにしゅばん)は天保3年9月3日(1832年)から鋳造が始まり同年10月24日より通用開始され、これは保字金銀発行前のことであり、新文字金銀の系統に属するもので、量目は新文字小判(文政小判)の1/8につくられているが、金品位は48%削減されており、甚だ低いもので改鋳による出目獲得を目的としている。発行高は多額に上り、小判のような本位金貨を凌駕するに至った。 吹替えにより幕府が得た出目(改鋳利益)は1,018,300両であった。 通用停止は慶応2年5月末(1866年)であり、通用期間は比較的長いものであった。 万延二朱判(まんえんにしゅばん)は万延元年4月10日(1860年)より通用開始された万延二分判と同品位で1/4の量目につくられており万延二分判と伴に事実上本位貨幣的地位の主導権を握っていたといえる。万延二分判と同様、万延小判より純金量が劣る改鋳による出目獲得を目的とした貨幣である。江戸時代の金貨としては最も薄小なもので、使い勝手が悪いためか、鋳造量は伸びなかった。 通用停止は古金銀停止の明治7年(1874年)9月末であった。 ^ 瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版、1999年 ^ 『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』 ボナンザ、1982年 ^ a b c 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年 ^ 『日本大阪皇國造幣寮首長第三周年報告書 ディロンの報告』 造幣寮、1874年 ^ a b 甲賀宜政 『古金銀調査明細録』 1930年", "両(りょう)は、尺貫法における質量の単位であり、また、近世の日本における金貨、および中国における秤量銀貨の通貨単位である。 質量の単位としての両は、匁の倍量(貫、斤の分量)単位で、日本では1両=10匁=1/100貫=1/16斤とされた。奈良時代に公布された大宝律令では隋代(唐代初期か)の一両に準じて、おおむね41〜42グラムくらいであったが、唐代になり11%程度減少し37.3グラムとなり、日本国内でもこれに近い値となった。明治時代以降、日本国内ではほとんど使用されていない。現代の中国の1市両は50グラムである。 金貨の通貨単位としての両は武田信玄により、鋳造を命じられた甲州金により確立され、江戸幕府に継承されたもので、1両は4分に等しく、また16朱に等しい。小判1枚の貨幣価値に相当し、したがって二分金2枚に、一分金、一分銀4枚に相当し、また二朱金、二朱銀8枚に、一朱金、一朱銀16枚に相当する。明治時代に通貨単位として圓(円)が導入されたが、切り替え時に「1圓は1両と等価」とされ、しばらくの間は「圓」のことを「両」とも呼んでいた。また江戸時代にも文政年間頃から「両」のことを俗称として「圓」と呼ぶ習慣が一部にあったという。 質量の単位としての両は、古代中国で生まれた。古代中国で流通した貨幣として半両銭がある。 漢代では『漢書律暦志』に 「権者銖・両・斤・鈞・石也。所以称物平施知軽重也。本起於黄鍾之重。一龠容千二百黍重十二銖。両之為両。二十四銖為両。十六両為斤。三十斤為鈞。四鈞為石。」 と記述があり、黄鍾管(当時の音律の基準となった黄鍾の音色の笛)の体積が一龠(やく)であり、これに入る黍1200粒を12銖(しゅ。朱はこれの略字)とし、これを二つ合わせた質量すなわち24銖を1両とした。「両」の漢字には「二つ」という意味がある。 中国の劉復が新の嘉量を計量したところ、その質量は13 600 g であった。一方、『漢書律暦志』には「嘉量の質量は「重二鈞」と記されている。これから、劉復は、漢代の1斤を226.67グラム、1両を14.167グラムと推算した。 南北朝時代になると南朝では質量は変化しなかったが北朝で1両の質量が増し、隋・唐では旧制の「小称両」とその3倍の「大称両」が定義された。呉承洛の『中国度量衡史』による隋代の「大称両」1両は41.762グラムで「小称両」1両の3倍である。唐代の1斤は約680gだったので(斤を参照)、「大称両」はその1/16で約42.5gとなる。 唐代に開元通宝が1/10両の基準で鋳造され、質量の単位は従来の「1両 = 24銖」から「1両 = 10銭 = 100分」という十進法の制度に改められた。 清代には目的によっていくつかの両があったが、庫平両が標準とされた。この庫平両とメートル法の対応は清朝滅亡後の1915年に定義され、それによれば、1庫平両 = 37.301g であった。国民革命後の1929年に庫平両は廃止され、新たに市制が導入されたが、その定義では1両 = 31.25g に減少した。これはメートル法との対応が計算しやすいように1斤 = 500gとしたためである。中華人民共和国では 1斤 = 10両に十進法化したため、1両は逆に 50g に増加した。ただし、この 50g の両は中華人民共和国以前にも使用例がある。満州国でも1両を 50g としていた。 香港では、歴史的に1斤を常衡1 1⁄3ポンドと定めたため、それにしたがって現在も1斤=16両=604.78982グラム、1両=37.7994グラムである。これは「司馬両」と呼ばれる。貴金属の取引では、これとは少し異なる値の金衡両(37.429g)が使われる。 東南アジア諸国では、名称はさまざまだが同様の質量の単位が使われている。インドネシア・マレーシア・シンガポール・ブルネイでは tahil と呼び、それがポルトガルを経由して英語ではテール(tael)と呼ばれる。 日本には唐代の大小両方の「両」が伝わった。 江戸時代初期までは、唐代の「両」が日本に伝えられ用いられていたが、寛文元年(1661年)に度量衡の「衡」が統一され、両替商で用いられる分銅は後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた。この分銅は「両」を基本単位としている。ただし秤量銀貨の通貨単位は日本では銀一両といえば銀4.3匁のことであり、さらに小判の通貨単位の「両」との混同を避ける意味から「匁」および「貫」が用いられた。すなわち、肆兩(しりょう)の分銅と釣合う丁銀は銀40匁と表した。江戸時代の1両は分銅および定位貨幣の実測による推定では平均して37.36グラム程度であり、江戸時代終盤にやや増加して37.5グラムを超えたという。 一方中国では秤量銀貨の実測値一両(大両)を銀一両(テール)と表した。このため、安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際、約8.6グラムの質量を持つ一分銀は偶然にも質量としての一両の約1/4であることから額面通り銀1/4両であり、中国の銀一両の約3/4の質量である1ドル銀貨=一分銀3枚という日本側に不利な交換比率を主張する口実をハリスに与えることになり、小判流出の一因となった。 明治4年(1871年)5月、新貨条例公布の際、当初1戔(匁)=3.756574グラムとされたが、同年9月に訂正され1戔=3.756521グラムと定められたため、1両=37.56521グラムとなる。 その後、換算の便宜のため、メートル法基準となり、明治24年(1891年)の度量衡法により1貫=3.75キログラムと定められたので、1両=37.5グラムとなる。しかし明治時代以降は日本国内では尺貫法としては専ら「貫」、「匁」が使用され、「両」は新貨条例にも度量衡法にも登場せず、ほとんど使用されなくなった。その度量衡法も昭和26年(1951年)に廃止され、その後の計量法ではメートル法に統一され公式には使用されなくなった。 江戸時代まで使用された後藤分銅の表示は「両」が基本質量単位であり、「匁」は分銅に記載すらなく代わりに「戔」と刻まれている。対して江戸時代の「匁」は銀目としての貨幣単位であり、大坂において商取引の相場は必ず銀目で表された。しかし、江戸幕府は南鐐二朱銀発行以降、銀貨=丁銀・豆板銀という従前の概念の意識抜き・洗脳を周到に行い、貨幣の機軸は「両」であるという既成事実を息長く積み上げ、また、明治以降は維新政府による1868年の銀目廃止、1891年の度量衡法施行以来、あたかも「両」は江戸時代の貨幣単位、「匁」は質量単位と一般には認識されるようになった。 薬種の量目としては1両を4匁(すなわち小両)とするのが一般的であったが、薬種によって4匁4分や5匁とするものもあった。馬一頭が運ぶ荷物の目方(質量)を表す駄法と関連があるとされる記事に、1300年頃に編纂されたとされる『拾芥抄』の中に、胡粉、白鑞(しろめ)、銅鉄、絲綿紅、蘇芳は大目を用い、金銀、水精、青木香、金青、緑青、陶砂は小目を用い、「6銖を1分、4分を1両、12両を1屯、16両を小1斤、3斤を大1斤」とする単位系が記述されている。 拾芥抄はこれは俗説であるとしているが、唐の駄法にも全く同一の単位系が存在するという。ここで言う1分とは1銭(匁)の1/10とは全く異なる。甲州金および江戸時代の通貨体系となった「両」および「分」は、これを基に定められた可能性が高く、薬種の量目も金銀の単位体系に準じている。 中国では、銀錠と呼ばれる銀の塊の質量を測り、それに基づいて貨幣としての価値を決定した(銀両/テール)。だが、銀錠は実質上の銀貨として市場において通用していたが、民間によって発行されていたため、時代や地域によって形状が異なっていた。これが完全に廃止されるのは1933年である(廃両改元)。 金一両は元来一両(大宝律令では小両、延喜式以降は10匁)の質量の砂金という意味であったが、次第に質量と額面が乖離するようになり鎌倉時代には金一両は5匁、銀は4.3匁となり、鎌倉時代後期には金一両が4.5から4.8匁へと変化している。文明16年(1484年)、室町幕府により京目一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、安土桃山時代すなわち元亀、天正年間には、京目一両は4匁4分 (約16.4グラム)と変更され、京目以外の基準は田舎目と呼ばれた。甲州金は田舎目一両すなわち4匁(約14.9グラム)を基準としてつくられ、この通貨単位が江戸時代の小判の額面1両の基となった。甲州金の通貨単位は「1両=4分=16朱=64糸目」という四進法の単位系であった。これが江戸幕府に継承され、江戸時代の通貨の基軸となるよう幕府は政策に尽力を注ぎ続けた。 金拾両(じゅうりょう、44匁)は一裹(つつみ)あるいは一枚と呼ばれ、後に大判の量目(質量)の基準となり、銀拾両(43匁)は同じく一裹あるいは一枚と呼ばれ、後に丁銀の量目の基準となった。このような「枚」という単位は中世から江戸時代にかけて、主に恩賞および贈答用の通貨単位として用いられた。 慶長小判の質量は京目一両の金4.4匁に銀0.82匁を加え、金座の鋳造手数料0.44匁および吹減分0.02匁を引いて4.76匁と決められたとされる。この説に基けば慶長小判でさえ金含有量は金一両=金4.4匁とする金平価から乖離しているが、その後、改鋳により含有率、質・量とも劣る小判が発行される様になり、質量単位としての両と通貨単位としての両の乖離は拡大し、「両」の名目化が進行した。一方で慶長小判全体の量目4.76匁が田舎目の金一両であるとする説もある。 「両替」という言葉は、近世初期に金吹屋あるいは銀吹屋において砂金あるいは練金を引取り鑑定し、秤量貨幣としての灰吹銀と交換した、いわゆる南鐐替(なんりょうがえ)が変化したものであり、また金と銀の量目替(両目替、りょうめがえ)に由来する。また両替商で一両小判を秤量銀貨や銭貨に換(替)えたとする説もある。 天正年間の1両は米4石、永樂銭1貫文、鐚銭4貫文とほぼ等価であった。 江戸時代、金貨・銀貨・銭貨の為替レートは日々変動していた。一方江戸幕府は御定相場として慶長14年(1609年)に、金1両は、銀50匁(約187グラム)、銭4貫文(4,000文)に等価と布告し、後の元禄13年(1700年)に、金1両は、銀60匁(約225グラム)、銭4貫文と改正したが、幕府は相場が行き過ぎた場合のみ介入し、普段は市場経済に委ねていた。 また、貨幣吹替および飢饉の影響などによる変動はあったものの、米1石(当時の人一人の一年分の米消費量にほぼ相当する)の価格は1両前後であり、元禄年間から幕末の世情不安に至る前まで、ほぼこの前後の水準で推移した。 1両が現在の貨幣価値に換算したらどの程度になるかは諸説ある。相対的な価値は慶長期と急激な下落を見た幕末期では概ね一桁以上は異なる上に、生活様式が現在と全く異なるため物価基準であるか賃金基準であるかにより、さらに物価も品目により大きく異なる。中学校歴史教科書では「小判1両は、江戸時代初めには今の10万円ほどの価値があったが、幕末には3,000円-4,000円程度まで価値が下がってしまった」と記述しているものがある(五味文彦・高橋進・斎藤功ほか45名『新編新しい社会 歴史』東京書籍、2009年)。 日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトによると、元文期を基準として賃金で1両=30〜40万円、そば代金では1両=12〜13万円、米量価では1両=約4万円、に相当するとの事である。 また、現在のように成人者で合法な売買ならば、誰でも自由にお金が使えたわけではない。身分とセットで考える必要もあるため、現在への換算は難しいのである。 1871年6月27日(明治4年5月10日)、新貨条例が公布され、『両』にかわって『円』が用いられるようになった。この時、一両は一円に等価であると設定され、旧通貨単位が新単位に切り替えられた。 ^ 当時は主にクロキビであったという。 ^ 三上(1996), p291-292. ^ 小泉(1974), p253. ^ [1] 岩田重雄、「新莽嘉量について」、『計量史研究』第26巻2号、p.95 表1 新莽嘉量の質量、日本計量史学会、2004年12月27日 ^ 小泉(1974), p254. ^ 『大同三年時憲書』、1934年、49頁。 (国会図書館 近代デジタルライブラリー) ^ “Weights and Measures Ordinance”. The Law of Hong Kong. 2010年10月5日閲覧。 ^ “Weights and Measures Act (CHAPTER 349) Third Schedule”. 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ABC01-02-0147
コーヒーの積み出し港として知られるサントスは、ブラジルの何という都市にあるでしょう?
サンパウロ
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[ "サンパウロ", "レシフェ", "ポルト・アレグレ", "リオデジャネイロ", "グアヤキル" ]
[ "サンパウロ(São Paulo、ブラジルポルトガル語発音:[sɐ̃w̃ ˈpawlu])は、ブラジル南東部に位置する都市。サンパウロ州の州都。 人口は1,100万人以上。ブラジルのみならず、南半球最大のメガシティである。2016年の都市圏人口(近郊を含む)は2,060万人で、世界第10位、南半球では第1位である。アメリカのシンクタンクが2016年に発表した世界都市ランキングでは、世界34位と評価された。ブラジルの都市としては、リオデジャネイロを凌ぎ首位であった。 略称として SP や S.Paulo と表記される(「SP」は「サンパウロ州」の略称でもある)。住人の呼称は「パウリスターノ (paulistano)」、女性形は「パウリスターナ (paulistana)」。 市街地には高層ビルが、郊外には多くの工場が立ち並ぶ大都会で、ブラジルのみならず南米の経済、文化の中心地の一つである。平均収入もブラジルで最も高く、2009年には個人所有のヘリコプターとヘリポートの数が世界一になった。 イタリア系やポルトガル系、スペイン系、ドイツ系、シリア系、レバノン系、ユダヤ系、日系の人口が特に多い他、最近では韓国などのアジア諸国からの移民が増えている。内陸に位置するため、南方60kmの位置に在るサントスを外港とする。 なお、「サンパウロ (Sao Paulo)」は、ポルトガル語でキリスト教における聖人の1人である「聖パウロ」の意味。漢字では、「聖市」と表記される。 ブラジル南部に位置し、標高は約800m。人口の増加に併せ郊外が拡張を続けている他、近隣都市からの通勤者も増加している。なお、ブラジル第2の都市であるリオデジャネイロからは約450km、外港であるサントスから約60kmの距離にある。 市の中心はセー広場とその周辺のセントロ地区であり、そのすぐ南に東洋人街(旧日本人街)であるリベルダーデが広がる。中心部より南西にはビジネスと金融の中心であるパウリスタ通りがある。 サンパウロの起源はインディオに対する布教のためポルトガル王ドン・ジョアン3世(在位1521年 - 1557年)の依頼で派遣されたイエズス会宣教師団の一人ジョゼ・デ・アンシエタ (José de Anchieta) が1554年にとして創設した宣教村である。その後人口はゆっくりと増大し、1565年にはサンパウロ市が創設された。しかしサンパウロは内陸に位置し、本国ポルトガルとの連絡に不便であったため、当時のブラジル開発の主力産業であったサトウキビ農園なども立地せず、開発が遅れていた。 サンパウロが成長をはじめるのは17世紀中頃に奥地探検隊バンデイランテス (Bandeirantes) の根拠地となってからである。バンデイランテスはサンパウロの奥地に建設されつつあったイエズス会の教化集落を襲撃し、住民であるインディオを奴隷として海岸部のサトウキビ農園へと売却して行ったが、その過程で奥地の開発が進められ、拠点としてサンパウロの重要性は徐々に上昇していった。また、イエズス会はスペインの支援を受けていたが、バンデイランテスによって撤退を余儀なくされ、その土地にバンデイランテスが進出することによってポルトガルの勢力圏がトルデシリャス条約線を大きく越えて西へ伸びるきっかけとなった。 その後もバンデイランテスの活動は続き、1693年には現在のミナスジェライス州で金鉱を発見し、これがブラジルの発展のきっかけとなった。しかし、金を求めてやってきた山師(靴を履き脛あてをしている姿から、サンパウロ人からは足が羽毛に覆われている鳥にたとえエンボアーバと呼ばれた)たちと、金鉱を発見したサンパウロ市民との対立は悪化し、1708年にはエンボアーバ戦争が勃発。サンパウロは敗れ、ミナスジェライス地方の開発権を失った。しかし、サンパウロの開発方向は西へと向かい、ゴイアス州やマトグロッソ州方面の開発拠点となっていった。1711年には正式に市に昇格した。 1800年ごろにはサンパウロは国内でも大きな都市となっていたものの、この時期のサンパウロは未だ一地方都市に過ぎず、首都リオデジャネイロとは比べ物にならない小さな都市であった。この状況が一変するのは、1830年ごろにサンパウロ州内でのコーヒー栽培が始まってからである。当初リオデジャネイロ周辺で行われていたコーヒー栽培が、地力の消耗などにより衰退し、適地を求めたコーヒー農家がサンパウロ州北部や西部に入植し、コーヒー栽培を開始した。サンパウロの気候と土地にコーヒーは大変適しており、折からの産業革命によってヨーロッパでコーヒーの需要が爆発的に増加したことを受け、サンパウロはコーヒーの集散地として急速に発展を遂げた。 1867年にはサンパウロと外港サントスとの間に鉄道が開通し、コーヒー経済はさらに拡大していった。1872年にはサンパウロの人口は26000人であったが、1920年には58万人まで増加した。しかしコーヒーブームに沸くサンパウロでは、労働力が不足していた。奴隷制は未だ存続していたものの国内から厳しい批判に晒されていたし、奴隷労働は生産性が低く収益向上の足かせとなっていた。そこで他国からの移民の導入が検討され、1881年にはイタリアなどから移民が始まった。移民は船が着くサントスから列車でサンパウロまで移動し、ここで各地の農場へと割り振られていった。移民の中にはこの街にとどまるものもおり、また農場へ入植した者たちもいくらかはふたたびサンパウロへと移住してきた。こうして、サンパウロは移民が世界中から集まる街となり、国際化が進む。 1889年に奴隷解放からブラジル帝国が崩壊すると、新しく成立した政府は地方分権的なものとなり、各州中で最も経済的に有力なサンパウロ州の発言権は非常に増大した。1894年にはサンパウロ出身のプルデンテ・デ・モライス大統領が就任し、この年から1930年まで、サンパウロ州とミナスジェライス州が交互に大統領を出す「カフェ・コン・レイテ」期が続く。これにより政治力をも得たサンパウロの経済はさらに発展していった。 1908年には、最初の日本からの正式移民が笠戸丸でサントス港に到着する。その後も続く日本人移民はサンパウロ州を中心に定着し、やがてサンパウロに日本人街を形成した。 カフェ・コン・レイテ期は1930年のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス政権成立によって崩壊するが、それを不満としたサンパウロは1932年に「護憲革命」を起こしたものの、サンパウロ以外の諸州の賛同を得られず失敗した。 この時期には世界恐慌の影響によりコーヒー価格も暴落し、コーヒー・ブームは終息したものの、第二次世界大戦後の1950年代に、開発路線をとるヴァルガス政権や以後の歴代政府によって経済開発がおこなわれ、ブラジル最大の産業都市としてのサンパウロの地位は揺らがなかった。 1960年には、同年に首都の座を離れたリオデジャネイロの人口を超えブラジル最大の都市となった。「ブラジルの奇跡」と呼ばれた1960年代から1970年代初頭にかけの高度経済成長期には、日本や西ドイツ、アメリカなどからの外国企業の進出が相次いだ。1974年には地下鉄1号線が開通し、1985年には近郊にグアルーリョス国際空港が開港した。 気候は1年を通じて変化に富み、12月から2月ごろの夏は気温が摂氏30℃を越えることもある反面、6月から8月頃の冬は10℃以下に下がり霜がおりることもある。ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候 (Cfa) に属する。 2014年の都市圏GDPは4,093億ドルであり、世界15位、南米では首位である。ブラジル最大の都市で南アメリカの経済・流通の中心地であるサンパウロには、日本やアメリカ、スペインやドイツなどの世界中の大企業や金融機関などが古くから多数進出しており、パウリスタ通り近辺や新ビジネスエリアにはこれらの企業のオフィスが集中している。 また、郊外に点在する工業団地には、内外の大企業の自動車やコンピュータ、家電製品の工場が立ち並び、メルコスール加盟後の好調なブラジル経済を反映して活況を呈している。また、市内には数多くのショッピングセンターや大規模スーパー、コンビニエンスストアなどが立ち並び、消費トレンドの面でもブラジルのみならず中南米の経済をリードする存在である。 サンパウロ証券取引所 (Bovespa) は中南米最大の取引高を誇っており、特に2000年代以降の海外からの投資の増加を反映して活況を呈している。2013年9月、アメリカのダウ・ジョーンズらの調査によると、世界第36位の金融センターと評価されており、南米では第1位である。 その反面、市内を流れるピニェイロス川とチエテ川の汚染や、自動車の排気ガスや工場の排気による公害、100万人以上が市内に点在する貧民街に住んでいるといわれる都市型貧困とそれに起因する犯罪の増加、市内中心部の慢性的な交通渋滞などが深刻な社会問題となっている。 サンパウロ市内やその近郊には、路線バスと地下鉄、鉄道の路線網が密接に張り巡らされており、加えて、タクシーもポピュラーな移動手段である。他の都市との移動は、高速道路を使った長距離バスや旅客機での移動が主流である。 地下鉄と郊外電車があり、サンパウロ・メトロがサンパウロ地下鉄を、郊外電車はサンパウロ都市圏鉄道会社 (CPTM) によって運営されており、両者が一体となった都市鉄道網を形成している。 サンパウロ市内には市内および市内と郊外を結ぶバスの路線が縦横に張り巡らされている。市内バスは前扉から乗り、車内の車掌に運賃(均一)を支払った後、後扉から降車する。1990年代最初までは逆に「後乗り前降り」であったが、後扉から降車する客もいたため変更された。 路線によっては運転席側にも前後の扉があり、鉄道のように停留所の位置によって右側・左側と乗降扉が変化するブラジルでも比較的珍しい扉配置である。通常のバスに加えてトロリーバスや連接バスの運行もある。 現在ではBilhete Unicoと呼ばれる地下鉄と連携したICカードシステムが導入されており、他のバスや地下鉄に乗り継ぐ際に限り通常料金より安い運賃で利用できる。ただし、市内を走るバスのうち、扉が1つしかない観光バスや、Metropolitanoと書かれた郊外バスは運賃が異なる。 行先や経由地に地下鉄のマーク(上下の矢印を組み合わせたマーク)を描くことで地下鉄駅に行くことを示している。 市内のチエテ (Tietê) にはニューヨークのものに次いで世界で2番目の規模という遠距離バス用の巨大なターミナルがある。1982年に営業開始したもので、一階には港の桟橋を思わせる櫛の歯状の多数の乗り場があり、2階には待合室や売店、レストランの他に何十という国内線・国際線のバス会社のブースが並び、警察 (Policia Civil) の出張所もある。地下鉄のチエテ駅(かつてはポルトゲーザ・チエテ/ Portuguesa-Tietêという名称だった)に直結している。 リオデジャネイロとの間には、「コメッタ」や「エスプレッソ・ブラジレイロ」などの複数のバス会社により、多い時間帯には5 - 10分に1本の割合でバスが運行されている他、グアルーリョス国際空港やヴィラコッポス国際空港との間や、ブラジルのほとんどの都市の間を結ぶだけでなく、モンテビデオやブエノスアイレス、アスンシオン、サンティアゴ・デ・チレへの国際線も多数運行されている。 チエテの他にも、行先はサンパウロ州内各都市に限られるが、バハフンダ (Barra Funda)、ブレッセル (Bresser)、ジャバクアラ (Jabaquara) の3か所にもバスターミナルがある。いずれも同名の地下鉄駅に直結している。 サンパウロ市内と近郊にある3つの空港が、旅客用と貨物用に使用されている。他にも自家用機専用の小規模な空港もある。なお、ヘリコプターの運航数は世界有数を誇り、多くのビルの屋上などにヘリパッドが用意されている。 市内中心地から車で20分程度の距離にあるコンゴーニャス空港は、現在国内線専用に使用されている。かつては近距離国際線も乗り入れていたが、滑走路長が短いことや、国内線の乗り入れ数が増大したことから現在は国内線専用となっている。 コンゴーニャス空港とブラジル第2の都市であるリオデジャネイロ市内にあるサントス・デュモン空港の間には、「ポンチ・アエーレア」(Ponte Aérea、空の架け橋)と呼ばれるシャトル便が、LATAM ブラジルやゴル航空などによって、日中の時間帯には10分に1便程度の頻度で運行されており、世界でも有数の搭乗者数を誇る路線となっている。 市内中心部から車で40分程度の距離にあるグアルーリョス国際空港は、ブラジルおよび南アメリカ最大の国際空港で、中南米南部の空の玄関口となっているハブ空港である。 LATAM ブラジル空港の拠点空港であるほか、多数の国内線と国際線、貨物便が乗り入れている。なお、近年の航空需要の増大により、新旅客ターミナルビルの建設を含む拡張工事が行われている。 市内中心部から車で1時間から1時間30分程度の距離にある、サンパウロ州第2の都市のカンピーナスにヴィラコッポス国際空港がある。以前は国際線が中心に乗り入れていたが、現在は国内線と国際線が乗り入れているほか、大規模な航空貨物設備があることから世界各国から貨物便が乗り入れている。 格安航空会社のアズールブラジル航空の拠点空港となって乗り入れ数が飛躍的に増大したことや、コンゴーニャス空港とグアルーリョス国際空港の需要ひっ迫を受けて、2015年には新旅客ターミナルが供用されたほか、現在第2滑走路の建設が行われている。 サンパウロには、多くの観光名所がある。しかし、一方でサンパウロはほぼ全地域が犯罪多発地域とも言える都市でもある。観光客の訪問には十分な注意が必要である。 サンパウロ美術館 (MASP) サンパウロ・ビエナール(1951年より開催されている世界的に有名な国際美術展覧会) パウリスタ博物館 リベルダージ(東洋人・日本人街) ブラジル日本文化福祉協会 日系移民博物館 イビラプエラ公園 パヴィリオン・ダ・ビエナール(イビラプエラ公園内にあるオスカー・ニーマイヤー設計の見本市会場) バンデイランテスの丘 モルンビー・スタジアム(高級住宅地、モルンビーにあるサンパウロFCのホームグラウンド) パカエンブースタジアム インテルラゴス・サーキット(インテルラゴスにあるF1ブラジルGPの開催サーキット) アイルトン・セナの墓(モルンビー) ブタンタン(毒蛇・毒グモ研究所) サンパウロ競馬場 アクリマソン公園 カルナバル(リオデジャネイロやその他の都市と同時期に行われる) コパン・ビルディング ルス駅 人口の多さのみならず、様々な人種が交わりあうブラジルの中でも特に多彩な人種構成となっていることから、ブラジルのみならず南米における最大の文化の中心、発信地として注目を浴びる存在である。 国際美術展覧会「サンパウロ・ビエンナーレ」や各種展覧会が定期的に行われるほか、市内にはサンパウロ美術館をはじめとする多数の美術館が点在する。また、サンパウロ市立劇場やイビラプエラ公会堂をはじめとする多数の劇場やコンサートホールがあり、ブラジル最大の人口を持つ都市であることや、新聞やテレビ、雑誌などの報道機関の多くが本拠を構えることもあり、ブラジルのみならず世界各国のアーティストが公演に訪れる。 また市内には、パヴィリオン・ダ・ビエンナールやコパン・コンプレックス、サンパウロ美術館をはじめとする、オスカー・ニーマイヤーなどの内外の著名な建築家が設計した建造物が多数存在する。 1999年に、音楽ホール「サーラ・サンパウロ (Sala São Paulo)」がオープンした。歴史的建造物であるジュリオ・プレステス駅を改築利用したもので、1498席を持つ壮麗で美しいホールになっている。 サンパウロFCやパルメイラスをはじめとするいくつかの名門サッカークラブが本拠地を構える他、F1などの世界的なスポーツ大会も多数開催されている。またアジア系住民が多数住むことから柔道や空手、テコンドーの道場も多く存在するほか、少数ではあるが野球場も複数存在する。 市内にあるモルンビー・スタジアムやパカエンブースタジアムなどのスタジアムには、サッカークラブ世界一を決めるトヨタカップで過去3回優勝するなど、世界有数の強豪チームとして知られるサンパウロFCや、同じく強豪のコリンチャンスやパルメイラスなどのサッカークラブが本拠地を構えており、シーズン中に毎週行われる試合には数万人のサポーターが詰め掛ける。 なお、サンパウロ州選手権は、ブラジル国内でも屈指のレベルの州選手権である。 郊外のインテルラゴスにあるインテルラゴス・サーキットでは、1970年代初頭より毎年F1世界選手権ブラジルGPが開催されている他、国内選手権のレースが定期的に開催されている。また、日本でも有名な伝説的レーシングドライバー、アイルトン・セナや人気レーシングドライバー、フェリペ・マッサやルーベンス・バリチェロの故郷でもある。 アイルトン・セナ:元F1ドライバー、1988年度、1990年度、1991年度世界チャンピオン セナの死後、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港へアクセスする高速道路が彼の名を冠した名称に変更された。 エマーソン・フィッティパルディ:元F1ドライバー、1972年度、1974年度世界チャンピオン ルーベンス・バリチェロ:元F1ドライバー フェリペ・マッサ:元F1ドライバー ブルーノ・セナ:元F1ドライバーでアイルトンの甥 ルーカス・ディ・グラッシ:元F1ドライバー ホセ・カルロス・パーチェ:元F1ドライバー、サンパウロに所在するインテルラゴスサーキットの正式名称は彼の名を冠し「ホセ・カルロス・パーチェサーキット」という名称である。 ペドロ・ディニス:元F1ドライバー インゴ・ホフマン:元F1ドライバー エリオ・カストロネベス:レーシングドライバー ジュニーニョ・パウリスタ:サッカー選手 ロベルト・リベリーノ:元サッカー選手 カフー:サッカー選手 大岩オスカール:現代美術家 セルジオ越後:元サッカー選手 ジョアン・ディクソン・カルバリオ:元サッカー選手 吉村大志郎:元サッカー選手 アマラオ:元サッカー選手 ロドリゴ宮本:野球選手 国東始:元大相撲力士 ジャイアント・シルバ:プロレスラー フェルナンド・メイレレス:映画監督 ラヴフォックス:ミュージシャン、バンドCSSのボーカル ビビアーニ大野:ファッションモデル サブリナ・サトー:グラビアモデル 小野リサ:歌手 アリーネ:モデル 南かなこ:演歌歌手 水本光任:サンパウロ新聞設立 松元ユウイチ:プロ野球選手 メリッサ・クニヨシ:歌手 麻生太郎:第92代日本国総理大臣、サンパウロ駐在経験あり 小渕恵三:第84代日本国総理大臣、サンパウロに遊学 猪口邦子:元衆議院議員、少女時代をサンパウロ近郊で過ごした。サンパウロ日本人学校出身 アントニオ猪木:プロレスラー、参議院議員、少年時代をサンパウロ近郊で過ごした 原吉平 : ニチボーブラジルをブラジル国法人として設立。塩塚忠美・市居誠一・原乙彦らとともに戦後における最初の海外進出を果たした。 大日方傳:俳優、サンパウロ近郊で牧場を経営した 麻路さき:元宝塚歌劇団星組男役トップスター、現在サンパウロ在住 日系ブラジル人の約70%、約100万人が在住しているサンパウロは、トヨタ自動車や東京海上日動、コマツや日本航空、東芝やヤマハ発動機など、様々な業種の日本企業が数百社進出しており、郊外には世界でも有数の規模の日本人学校、サンパウロ日本人学校があるなど、日本との縁が非常に深い都市である。 市内には日本の多くの都道府県人会の事務所があるほか、日系ブラジル人により、ホテルやレストランなど多くの日系ブラジル人向けの企業や商店も経営されている。 さらに総領事館も設置されているほか、日本政府の対外情報発信施設「ジャパン・ハウス」の第一号は、2017年4月30日にサンパウロで開設された。 サンパウロ市の中心地にある東洋人街「リベルダージ (Liberdade)」地区(「リベルダーデ」とも発音され、邦字紙の正規表現とされている。いずれもポルトガル語の発音では誤りではない)は、ガルボン・ブエノ街の入口に鳥居や大阪橋があり、また、中心部にも小さな日本式庭園が設置され、地区全体の街灯が鈴蘭の形をしているなど随所に日本らしさを取り入れた街づくりがされている。 同地区には日系団体御三家と呼ばれ、代表機関となっているブラジル日本文化福祉協会、サンパウロ日伯援護協会、ブラジル都道府県人会連合会の各事務所がある他、各県人会、日系福祉団体、日系文化団体の事務所が集中している。日系人が経営するホテルや日本食レストラン、日本語書籍の本屋や土産物店などが立ち並び活況を見せているほか、近年では中国系や韓国系など、他のアジア系住民の数も多い。日系の医療機関としてサンパウロ日伯援護協会のリベルダーデ医療センターがあり、日系医師による日本語での診察が受けられる。 なお、ブラジル日本文化福祉協会内に設置されている移民資料館では、当時の生活を再現した展示コーナーや日系人移民の旅券、当時使用していた生活用具などさまざまな文物が展示されており、日系ブラジル人の歴史を知る上で貴重な存在となっている。地下鉄のリベルダージ駅前の広場では一年の節々に、サンパウロ仙台七夕祭りや茅の輪くぐり、甘茶の振る舞いなど日本の年中行事が再現され、また秋田犬の品評会など日本に関わる行事が開催される。 サンパウロでは日本語による新聞も発行されている。主にサンパウロ新聞 (Jornal de São Paulo) とニッケイ新聞 (Jornal do Nikkey) の2社があり、日本やブラジルのサンパウロニュースを日本語で読むことができる。また、これら日系紙では「サンパウロ市」のことを「聖市」と表記する。 アビジャン、コートジボワール アルタ・フロレスタ、ブラジル アンマン、ヨルダン アスンシオン、パラグアイ バマコ、マリ共和国 バルセロナ、スペイン ブダペスト、ハンガリー ブエノスアイレス、アルゼンチン クルージュ=ナポカ、ルーマニア コインブラ、ポルトガル コルドバ、スペイン ダマスカス、シリア エレバン、 アルメニア フンシャル、ポルトガル Góis、ポルトガル ハバナ、キューバ ラパス、ボリビア ラ・プラタ、アルゼンチン リマ、ペルー ヨハネスブルグ、南アフリカ共和国 レイリア、ポルトガル リスボン、ポルトガル ルアンダ、アンゴラ マカオ、中華人民共和国 ミラノ、イタリア パリ、フランス メンドーサ、アルゼンチン ノーフォーク、アメリカ合衆国 モンテビデオ、ウルグアイ 大阪、日本 北京、中華人民共和国 プレシデンテ・フランコ、パラグアイ サン・クリストーバル・デ・ラ・ラグーナ、スペイン サンティアゴ・デ・チレ、チリ サンティアゴ・デ・コンポステーラ、スペイン サン・ホセ、コスタリカ ソウル、大韓民国 上海、中華人民共和国 テルアビブ、イスラエル トロント、カナダ ^ “São Paulo, São Paulo § informações completas”. ibge.gov.br. 2017年1月1日閲覧。 ^ “Sobre a RMSP”. Emplasa. 2017年1月1日閲覧。 ^ 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新) Demographia 2016年10月29日閲覧。 ^ Global Cities 2016 AT Kearney 2016年11月2日閲覧。 ^ “INMET — Climatologia — Gráficos Climatológicos”. INMET. 2010年8月閲覧。 ^ “Climatological Normals of Sao Paulo”. Hong Kong Observatory. 2011年3月19日閲覧。 ^ “World Weather Information Service - Sao Paulo”. World Weather Information Service. 2011年3月19日閲覧。 ^ Cities Rank Among the Top 100 Economic Powers in the World Chicago Council on Global Affairs 2016年11月2日閲覧。 ^ Xinhua-Dow Jones International Financial Centers Development Index (2013) 2013年9月15日閲覧。 ^ “ブラジル / サンパウロにおける治安情報:海外旅行現地情報”. 一般社団法人 日本海外ツアーオペレーター協会. 2014年5月3日閲覧。 ^ “ジャパン・ハウス サンパウロの開館”. 外務省ホームページ. 2017年5月13日閲覧。 ^ “Ajuntament de Barcelona Barcelona internacional – Ciutats agermanades]” (Catalan). 2006–2009. 2009年7月13日閲覧。 ^ “Os contatos internacionais do município de Limeira: pautas para o intercâmbio e o desenvolvimento” (portuguese). 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Tel Aviv-Yafo Municipality. 2009年7月14日閲覧。 公式 サンパウロ市公式サイト (ポルトガル語)(英語) 日本政府 在サンパウロ日本国総領事館 (日本語) 観光 サンパウロ市観光局 (ポルトガル語)(英語) サンパウロ市公式旅行代理店 (ポルトガル語)(英語) ウィキトラベル旅行ガイド - サンパウロ (日本語) その他 ニッケイ新聞 サンパウロ新聞 地図 - Google マップ 伯剌西爾時報(1917-1952) - かつて発行されていた邦字新聞のデータベース 座標: 南緯23度32分35.88秒 西経46度37分58.8秒 / 南緯23.5433000度 西経46.633000度 / -23.5433000; -46.633000 (サンパウロ)", "レシフェ(Recife, ヘスィーフィやヒスィーフィとも表記することがある。)は、ブラジルの港湾都市。市域の人口は約163万人 (2016年7月1日)であり、同国第9位の人口規模である。また、ペルナンブーコ州の州都であり、ブラジル北東部ではサルヴァドールの次に大きい都市である。 ポルトガルの植民地の一部であったが、1580年にポルトガルがスペインに併合されると、当時スペインと独立をめぐり争っていたオランダが1630年にレシフェを占領した。占領は1654年まで続いた。ポルトガル王室から奴隷貿易の受け入れ港としての特権を与えられていたため、サルヴァドールやリオ・デ・ジャネイロなどとともに奴隷貿易の拠点としても栄えた。 ブラジル北東部の海岸に位置している。 貿易風の影響を受け、熱帯モンスーン気候に属している。 混血 (52.9%) 、白人 (38.6%) 、黒人 (8.0%) 、その他 (0.4%) レシフェメトロ レシフェ/グアララペス・ジルベルト・フレイレ国際空港 レシフェはブラジルの他の都市と比べて治安は良くない。住民100,000人につき69,4件の殺人が起こっており、これはリオデジャネイロやサンパウロと比べても高く、ブラジルの平均の2倍ほどである。 日本国大使館のレシフェ出張駐在官事務所によれば殺人事件の発生率はブラジルでも有数であるとし、警察と強盗団の銃撃戦は日常茶飯事といった有様で、住民が流れ弾に巻き込まれるケースも多々あると注意を促している。 2014 FIFAワールドカップの開催都市の一つであった。 スポルチ・レシフェ サンタクルスFC クルーベ・ナウチコ・カピバリベ ポルト、ポルトガル 1987年 ナント、フランス 2003年 広州市、中華人民共和国 2007年 アムステルダム、オランダ 2009年 空港 ピーナの町並み レシフェ橋(Ponte do Recife) ボア・ヴィアージェンの海岸 ^ Climate Information for Recife, World Weather Information Service, accessed 05 May 2012. ^ Climatological Information for Recife, Brazil, Hong Kong Observatory, accessed 05 May 2012. ^ “Weatherbase: Historical Weather for Recife” (2011年7月). 2014年5月2日閲覧。 ^ “安全の手引き”. 在ブラジル日本国大使館. 2014年5月2日閲覧。 Recife Official Site (ポルトガル語) The Recife Guide (英語)", "ポルト・アレグレ(Porto Alegre)は、ブラジル南部の都市で、リオグランデ・ド・スル州の州都である。都市名は「陽気な港」という意味。市域の人口は約148万人(2016年7月1日)であり、同国第10位の規模である。 140万人を超える人口を持つ、ブラジルを代表する港町である。グアイバ川に面し、南に大西洋と接するパトス湖がある。 ヨーロッパからの移民が多く、ヨーロッパ風の建物が多い。 また、1989年より市民が市役所の予算編成に関わる市民参加型予算を実施しており、この面でも世界的に注目されている。 白人(80.7%)、混血(10.7%)、黒人(8.0%)、その他(0.6%) 18世紀中頃にアゾレス諸島からポルトガル人が移住したのが起源で、その後ドイツ・イタリア・スペインなどからの移民を中心として発展した。 1835年-1845年、当時のブラジル帝国に対する共和派の反乱「ファホウピーリャ革命(War of Tatters)」の中心都市であった。 1963年、第3回夏季ユニバーシアードが開催される。 2001年1月に最初の世界社会フォーラムが当地で開かれ、その後も幾度も開催地となっている。 ブラジルを代表する航空会社ヴァリグ・ブラジル航空の発祥地で、サルガド・フィーリョ国際空港は長らく同社のハブ空港であった。 サルガド・フィーリョ国際空港 ポルトアレグレ地下鉄 メトロ-アエロポルト連絡線 ロサリオ(アルゼンチン共和国 サンタフェ州) 蘇州市(中華人民共和国 江蘇省) 金沢市(日本国 中部地方 石川県) サンクトペテルブルク(ロシア連邦 レニングラード州) オースティン(アメリカ合衆国 テキサス州) サッカークラブチームのグレミオFBPAとSCインテルナシオナルの本拠地であり、両チームの対戦は「ポルト・アレグレダービー」(チーム名を取って通称グレ・ナル)として盛り上がる。ロナウジーニョをはじめとする数多くのサッカー選手の出身地である。 グレミオFBPA SCインテルナシオナル 2014 FIFAワールドカップの開催都市の一つであった。 ロナウジーニョ(サッカー選手) ロベルト・デ・アシス・モレイラ(サッカー選手) アンデルソン・ルイス・デ・アブレウ・オリベイラ(サッカー選手) カルロス・ルシアーノ・ダ・シウヴァ(サッカー選手) クリスティアン・コヘア・ディオニシオ(サッカー選手) クライトン・アルベルト・フォントーラ・ドス・サントス(サッカー選手) パウロ・セザール・フォンセカ・ド・ナシメント(サッカー選手) エメルソン・アウグスト・トーメ(サッカー選手) ホージェル・マシャド・マルケス(サッカー選手) アイルトン・グラシリアーノ・ドス・サントス(サッカー選手) ラファエル・フェリペ・シャイデ(サッカー選手) マルセロ・ロザーダ・シルヴァ(サッカー選手) ワグネル・ピレス・デ・アウメイダ(サッカー選手) ファブリシオ・ヴェウドゥム(総合格闘家) エリス・レジーナ(歌手) ハダメス・ジナタリ(作曲家) 世界社会フォーラム サンチアゴ航空513便事件 ^ Climate Information for Porto Alegre, World Weather Information Service, accessed 9 August 2012. ^ Climatological Information for Porto Alegre, Brazil, Hong Kong Observatory, accessed 9 August 2012. ^ “BBC Weather: Average Conditions for Porto Alegre”. BBC. 2012年8月9日閲覧。 ポルト・アレグレ市公式サイト JANJAN特集・ウェブ探検:参加型市政の実験ポルト・アレグレ市政の試みに関するレポート 都市の毎日の更新とポルトガル語での写真ブログ。", "リオ・デ・ジャネイロ(葡: Rio de Janeiro, ブラジルポルトガル語発音: ヒウ・ヂ・ジャネイル)は、ブラジル南東部に位置するリオデジャネイロ州の州都。世界有数のメガシティであり、国内最大の観光都市である。港湾都市としても知られる。 人口は600万人を超え、サンパウロに次いでブラジル第2位にランクされる。経済規模(域内総生産)でもサンパウロに次いで第2位にあり、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第56位、国内ではサンパウロに次ぐ第2位の都市と評価された。都市周辺の美しい文化的景観は「リオデジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」として、2012年に世界遺産リストに登録された。 2016年の第31回夏季オリンピックの開催都市である。 \"Rio de Janeiro\"とはポルトガル語で「1月の川」という意味。 ブラジルポルトガル語発音では、ヒウ・ヂ・ジャネイル[ˌxiuʤiʒaˈnejɾu]となる。 一般的にポルトガル語で都市名を読み書きする場合は男性形・女性形の区別をつけないが、一般名詞と区別するためにリオ・デ・ジャネイロは必ず男性定冠詞\"o\"を付けた\"o Rio de Janeiro\"という男性形で呼ばれる。ただし、長距離バスや航空機の行先表示などでは単純に「Rio」と略記されることもある。 カーニバルで有名。コパカバーナ、イパネマ(英語版)などの世界的に有名な海岸を有し世界3大美港の一つに数えられる美しい都市である。都市のGDPは2010億ドルであり世界第30位、南米ではサンパウロ、ブエノスアイレスに次ぎ第3位である。 1960年にブラジリアに遷都するまではブラジルの首都であった。また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまではポルトガルの首都であった。また、中南米有数の貿易港でもあるためにブラジルの経済的な中心地でもあった。近年は経済の中心地はサンパウロに移り、その地位が低下しているものの、依然として中南米有数の経済都市である。また、ブラジルのみならず世界でも有数の観光地としても、ショーロ、ボサノヴァを生んだ音楽の都としても名高い。 左にやや傾いた平行四辺形の形状を呈した大陸部とグアナバラ湾内に分布する島嶼部の2つからなり、東西の長さは約70km、南北は37kmにおよぶ。公式的には全部で7つの大行政区と33の小地域、160の街区Bairroから構成されているが、街区の上位にある地区Distritoが存在しないのが特徴である。慣用的には、セントロ、南部地域、北部地域、バラ・ダ・チジューカ地域、西部地域という区分がなされることが多い。 セントロ セントロはリオの歴史的中心部であり、また現在でも経済的中心でもある。セントロの中心であるリオ・ブランコ通りはビジネス街で、多くのオフィスビルが立ち並ぶ。東西にはプレジデンチ・ヴァルガス大通りが走っており、リオの中央駅であるドン・ペドロ2世駅もこの通り沿いにある。東端にはグアナバラ湾に面してサントス・ドゥモン空港があり、国内線が多く発着する。また西部には、カーニバルのメイン会場となるサンボードロモ・ダ・マルケス・ジ・サプカイがある。 南部地域 南部は高級住宅街が多く、またグアナバラ湾や大西洋に面したビーチも多い。セントロのすぐ南に広がるフラメンゴやボタフォゴにもビーチがあるが、リオのビーチで最も著名かつ人の多いところはその南に広がるコパカバーナや、そのさらに西に広がるイパネマ海岸である。この二つはリオ有数の観光地であると同時に、リオ有数の高級住宅街でもある。イパネマ海岸はリオで生まれた音楽ボサノヴァの曲『イパネマの娘』の舞台としても有名である。イパネマのさらに西にあるレブロン地区は南アメリカ大陸で最も地価が高い地点のある高級住宅街である。また、ボタフォゴの東のウルカ地区にはリオのシンボルの一つであるポン・ヂ・アスーカルと呼ばれる岩山があり、ロープウェーで頂上まで登ることができる。また、リオデジャネイロのシンボルであるコルコバードのキリスト像はこの南部地区にあるコルコバードの丘の上に立っており、登山電車で登ることができる。 北部地域 北部地域は工業地区や住宅地区から構成され、観光の目玉となる場所はそれほど多くはない。しかしながら、やや南よりには、1950年のワールドカップのために建設され、かつては20万人の収容人員を誇った世界一のサッカースタジアム(現在の収容人員は95000人)エスタジオ・ド・マラカナンがあることで知られる。同スタジアムは、2014年ワールドカップおよび2016年リオデジャネイロオリンピックのメイン会場である。なお、北部地域には、グアナバラ湾に浮かぶいくつかの島も含まれており、主なものとしては、アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港が位置するゴベルナドル島のほか、静寂さが観光客に人気のパケタ島などをあげることができる。一般的に、北部地域は経済的にみて比較的貧しい階層が住んでおり、内陸の丘陵地帯にはコンプレックドアレマンが、沿岸部ではコンプレックソドマレに代表されるファヴェーラがある。一方、グアナバラ湾対岸のニテロイ市との間までを結ぶリオ・ニテロイ大橋の起点にあたるほか、州西部および北部に向かう幹線道路の通過点にあたるなど交通の要衝的な地位を確保しているのも事実である。 バラ・ダ・チジュカ地域 南部地域の西に隣接し、近年開発が進んでいるエリアである。主に、バラ・ダ・チジュッカ街区とレクレイオ・ドス・バンデイランテス街区から構成される。片側4車線の幅広い道路が東西に伸び、中央では南北方向を結ぶもう一つの幹線道路と交差している。計画的な開発が進められ、高層アパート、大規模ショッピングセンターが立ち並んでいる。2016年オリンピックにおいては、この地区に選手村や会場の多くが建設される予定である。小型機の発着が可能な空港もある。 西部地域 市域のほぼ西半分を占め、最西端にあるサンタクルス、そこから少し東に行ったところにあるカンポグランデなどが代表的であり、セントロにあるリオデジャネイロ中央駅からサンタクルス駅までは都市近郊鉄道で結ばれている。サンタクルスは日系人が入植した地として知られ、リオデジャネイロ市でも日系人が比較的多いところとして知られる。 ファヴェラ 地域の名前ではなく、不法に立てられた貧民街を「ファヴェーラ」と呼ぶ。主なスラムとしては、レブロン街区の西、ドイスイルマンの山塊(533m)の北西斜面に広がり居住人口がラテンアメリカ最大規模を誇るロシーニャ、バラ・ダ・チジュカ地区の北に隣接し映画『シティ・オブ・ゴッド』(2002年)の舞台となったシダージデデウス、北部地区の内陸のやや標高の高い丘にあり2011年にはスラムの上空をゴンドラリフトが貫通るようになったコンプレックソドアレマン、北部のグアナバラ湾沿いの湿地帯に広がるコンプレックソドマレ、コパカバーナ街区の丘に広がるパヴォン・パヴォンジーニョなどがある。 1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちがグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名した。ポルトガル人たちは海岸に壁を白く塗った家を建てて住んだ。先住民のトゥピ族(英語版)は彼ら白人を「カリ・オカ」(トゥピー・グゥアラニー語で白い家の意味)と呼んだ。それが現代語のカリオカ(en)の起源である。1555年にフランスの植民地開拓者が南極フランス(英語版)居留地をつくったが1567年にこれをポルトガル人は追い出し、18世紀までここに小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(実は湾)の名の転用である。 17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス州周辺で金鉱が発見された。この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、1725年にリオとミナスジェライスを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスの金やダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地(英語版)の交通と富の中心となった。このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからリオに移されブラジル植民地(英語版)の首府となった。 1808年に半島戦争の勃発により、リスボンのポルトガル宮廷はナポレオン軍を逃れてリオに移転した。翌1809年、リオがポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。これによりリオは人口も増加し、また高い文化を持った移住者たちによって文化も進歩した。1821年には王の帰還と共に首都もリスボンに再遷都されたが、ポルトガルがブラジルの統治に軍を送り込んだためブラジル側の憤激を買い、独立派はリオに残っていた王太子ドン・ペドロを擁立して1822年にブラジル帝国の独立を宣言し、リオはブラジル帝国の首都となった。 1832年4月4日から7月5日まで、ダーウィンの乗ったイギリス海軍のビーグル号が寄港している。ここでダーウィンは奴隷に対する酷い仕打ちを目撃した。このときの深い嫌悪感を終生忘れることがなかった。 帝国の首都として行政機能の集中したリオの街は順調に発展していった。1854年にはブラジル初の鉄道14kmがリオに建設され、ガス燈や電信、上下水道といったインフラも整備され始めた。1889年に帝政が廃止され共和制に移行するものの、リオは引き続きブラジル連邦共和国の首都となった。当時の市街はグアナバラ湾の入口にほど近い現在のセントロ地区のみであったが、19世紀末には人口は50万、1900年には81万に達し、市街は拡大していった。1902年に就任した第5代大統領のロドリゲス・アルヴェスは首都であるリオの改善に熱心に取り組み、都市計画家フランシスコ・ペレイラ・パソスを起用して都市計画を実施し、1903年には東西南北の幹線道路が整備された。黄熱病が撲滅され、衛生状況が大きく改善したのもこの時期である。南のボタフォゴ地区やさらに南のコパカバーナへと市街地が延びていった。コパカバーナやイパネマへと通じる直通トンネルも建設された。 ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス時代の開発政策により、第二次世界大戦後に商工業が発展すると内陸部や北東部から職をもとめて大量の人々が流入した。しかし、経済の重心は徐々に内陸部のサンパウロ市に移っていき、1950年代にはリオの人口はサンパウロに抜かれ、現在に至るまでリオはブラジル第2の都市となっている。また1960年、ジュセリーノ・クビシェッキ大統領によって首都はブラジリアに移され、リオは行政の中心地としての機能を失った。遷都後もそれまでの連邦直轄区の領域、すなわち今日のリオデジャネイロ市域はグアナバラ州としてリオデジャネイロ州と併存していたが、1975年にグアナバラ州とリオデジャネイロ州が合併し、ニテロイ市にかわって新リオデジャネイロ州の州都になった。1992年にはこの地で地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)が開催され、「環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言」(リオ宣言)とその行動計画であるアジェンダ21が合意された。 2009年10月2日、東京、シカゴ、マドリードとの投票に勝利して、第31回夏季オリンピックのリオ開催が決定した。これは南米大陸初、ラテンアメリカ全体でも1968年開催のメキシコオリンピックに次ぐ48年ぶり2回目のオリンピック開催となる。 白人(53.4%)、混血(33.5%)、黒人(12.6%)、その他(0.5%)。19世紀末から20世紀初頭の大量の移民によって人種構成は多様化し、ポルトガル人のほか、イタリア系、スペイン系、ドイツ系、日系(15000人)、ユダヤ系、レバノン系など、多種多様な人種が混在し、混交している。1872年に27万人だった人口は、1890年に52万人、1900年に81万人、1950年に237万人、2000年には585万人に達した。この人口増加の多くは国内移動、とくに貧しい北東部からの大量流入によるもので、これによりリオ市内各所にファヴェーラ(スラム)ができ、貧富の差や治安の悪化が問題となっている。 サンパウロについでブラジル第2の経済規模を持ち、ブラジルGDPの5.4%をリオ1市で生み出している。首都移転により行政機能は失われたが、ペトロブラス社などの公企業や半官半民の企業はブラジリアへは移転せず、リオに本社を置き続けた。工業面でもブラジル第2の都市であり、石油精製や造船、鉄鋼、冶金、石油化学、薬品、セメント、印刷、ゴム、食品などの産業が立地している。しかしながら、経済構成でみた工業の割合は1割程度で、残りの9割は商業・サービス業からなる。昨今では、バラ・ダ・チジューカ地区(バラ・ダ・チジューカ街区およびレクレイオ・ドス・バンデイランテス街区)における大規模ショッピングセンターでの商業・サービス業の伸展、同地域における高層マンション、住宅の建設などが新たな経済活動の主軸となっている。 リオデジャネイロ港は貨物取扱量でブラジルで3番目の港であり、埠頭の総延長は7kmに及ぶ。リオデジャネイロ州、ミナスジェライス州、エスピリトサント州、そしてサンパウロ州の貨物を主に取り扱っている。 リオ市内やその近郊にはバスと地下鉄2路線、そして1998年に運行を開始した郊外電車(SuperVia)8路線が張り巡らされており、また比較的安価な価格で利用できるタクシーもポピュラーな移動手段である。ちなみに地下鉄には女性専用車も設置されている。路面電車も一路線残っている。 他の都市との移動は、高速道路を使った長距離バスや、市内に2つある空港(主に国内線向けのサントス・ドゥモン空港と、主に国際線向けのリオデジャネイロ国際空港(アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港/ガレオン国際空港))からの旅客機での移動が主流である。 特に市内のサントス・ドゥモン空港とブラジル最大の都市であるサンパウロ市内のコンゴーニャス空港との間には「ポンチ・アエレア」(空の架け橋)と呼ばれるシャトル便が就航しており、世界でも有数の搭乗者数を誇る路線となっている。所要時間はサンパウロまで車・バスで6時間、航空機で1時間弱かかる。 長距離バスの便数も多い。特にサンパウロ・チエテバスターミナルとの便はバス会社3社(Itapemirim, Cometa, Expresso Brasileiro)が同区間を別々に運行しており、日中は数十分に1本の頻度で運行されている。サンパウロだけでなく、ニテロイ接続のサンパウロ行きやベロオリゾンテ行きの便も多い。 またリオデジャネイロ港は世界3大美港の一つでもあり、ブラジルでも最大級の港湾設備を有している。そのため近隣の港湾都市、島嶼とのフェリーの運航も頻繁に行われている。 ケッペンの気候区分ではサバナ気候(Aw)に属する。12月から3月にかけては雨が多く、また気温も最も高くなる。一方7月と8月は冬であり、降水量が少なく気温もやや低くなるが、全般的にいえば年間通じて温暖な気候を保っているといえる。年間平均気温は23℃で、年間平均降水量は1175mmである。 ブラジルの文化の中心地であり、流行の発信地でもある。「サンパウロ人は仕事で忙しく、リオ人は遊びで忙しい」ともいわれる明るく享楽的な気質を持つ。 ポルトガル語でカルナヴァル(Carnaval)。カトリックの謝肉祭のことで、カーニバル自体は世界各国のカトリック文化圏で行われている他、ブラジル各地でも行われている。もともとはポルトガルの謝肉祭・エントルードがブラジルに渡ったものであるといわれる。リオのカーニバルは派手で規模が大きいので特に有名で、開催時期は世界各国からの観光客を集める。復活祭(イースター)を基準に太陰暦で日程を決めるため毎年開催日程は変動するが、だいたい2月の中旬から下旬になることが多い。 なおカーニバルといえば真っ先にサンバが連想されるが、サンバ以外にもマルシャ(ブラジル版マーチ)やポルカなどもある。サンバの場合、ファンタジアと呼ばれる華やかな衣装を身に付けサンバを踊り打楽器隊などによる演奏や歌で行進する。4日間行われ、開催中は世界各国から見物客が集まる。いわゆるリオのカーニバルとして知られているのは、マルケス・ヂ・サプカイ通りにあるサンボードロモ(サンバ会場)で行われるコンテスト形式のパレードである。ここで行進するサンバチームはエスコーラ・ヂ・サンバ(葡: Escola de samba、直訳:サンバの学校)と呼ばれる。なお「学校」はジョークで名付けられたもの[要出典]で実際はリクリエーション団体の傾向が強い。そのため多くの団体はグレーミオ・ヘクヘアーチヴォ・エスコーラ・ヂ・サンバ、略称:G.R.E.S.(〜チーム名)と冠がつけられ一般的にはチーム名で呼ばれることが多い。なお日本ではこれらを総称してエスコーラと呼ばれる。これらはリオ市や隣接する他の市に点在する地域を代表するサンバのコミュニティーである。 パレードはコンテスト形式になっており審査が行われる。有名なサンバ団体を挙げるとベイジャ・フロール、ポルテーラ、マンゲイラ、インペリオ・セハーノ、サウゲイロ、ヴィラ・イザベウ、ウニードス・ダ・チジュッカ、ウニアォン・ダ・イーリャなどでどれも歴史的なサンバの名手(Sambista、サンビスタ)や曲を生んだエスコーラである。他にも沢山のエスコーラが存在し順位や優勝を競っている。今日、世界に誇るリオ各地域の市民による手作り文化の結晶として光り輝いている。 リオのカーニバルは1959年公開のブラジル・フランス合作映画『黒いオルフェ』の背景舞台にもなっており開催前の人々の準備ぶりや浮かれ具合、当時のカーニバルの様子などうかがい知ることができる。オルフェウ率いる架空のエスコーラもあれば本物のカルトーラ夫妻やポルテーラ、マンゲイラ、インペリオ・セハーノもチラリと登場する。1999年公開のブラジル映画『オルフェ』は現代のリオを窺い知ることが出来る作品。リオのカーニバルのトップリーグ、Grupo Especialに出場するエスコーラのパレードテーマ曲集は毎年日本の輸入盤扱いのある大型CDストアなどでも手に入れることが出来る。カーニバル後にはその年の模様を収めたビデオテープ(近年ではDVD)も発売されている。 なおリオのカーニバルが観光化・商業化が進むとそれに嫌気をさしたりエスコーラの内紛などによりカンディアやカルトーラ、メストリ・マルサルなどの著名サンビスタがエスコーラを去ったケースも多い。またいくつかのサンバコミュニティーがファベーラと呼ばれるスラム街に拠点があることなどから、賭博や麻薬取引との関係も指摘される。 またカーニバル期間中はリオ・ブランコ通りなどをはじめ、各所でエスコーラより小規模であるブロコやコルダゥンと呼ばれる各チームがパレードを行う光景も見られる。 2011年2月7日、リオデジャネイロのカーニバル用の用具を制作する施設が集中する地区で大規模な火災が発生し、同年のカーニバルに使用予定の山車及び衣装多数が焼失するという事態が発生した。 リオデジャネイロ連邦大学やリオデジャネイロ州立大学など、99の高等教育機関がある。また、ラテンアメリカ最大、世界でも7番目の、900万点の蔵書数を誇るブラジル国立図書館もリオのセントロ地区に位置する。 コルコバードの丘やコパカバーナ海岸は、2012年に世界文化遺産に登録されている。 ブラジル国立博物館 - 2018年9月2日、火災により2,000万点以上の収蔵品の大半が消失。 リオのみならずブラジルを代表するクラブとして知られているCRフラメンゴをはじめとしてCRヴァスコ・ダ・ガマ、フルミネンセ、ボタフォゴなどのサッカークラブの本拠地として知られ、これらのクラブは多くの「クラッキ(名選手)」、「ジョガドール(サッカー選手)」を輩出してきた。2000年代ではロナウド、アドリアーノなどがリオ出身のクラッキとして知られる。 また、世界最大のサッカースタジアムで1950年の1950 FIFAワールドカップの主会場となったエスタジオ・ド・マラカナンがある。同スタジアムは2014年に行われた2014 FIFAワールドカップの主会場の一つとなった。 2016年夏季オリンピックが開催された。なおこれはブラジルのみならず、南アメリカ大陸で開催される初のオリンピックとなる。 1989年までフォーミュラ1選手権が郊外のネルソン・ピケ・サーキットで行われていた他、各種マリンスポーツやハンググライダー、ビーチバレーなどが盛んに行われている。 2007年7月13〜29日にパンアメリカン競技大会が開催された。 リオデジャネイロは年間282万人の観光客の訪れる、ブラジル有数の観光都市である。主な名所は以下の通り。 (括弧内はポルトガル語による表記。) コパカバーナ海岸 (Praia Copacabana) イパネマ海岸 (Praia Ipanema) コルコバードのキリスト像 (Cristo Redentor) ポン・ヂ・アスーカル (Pão de Açúcar) リオデジャネイロ大聖堂 (pt:Catedral de São Sebastião do Rio de Janeiro) リオデジャネイロ旧大聖堂 (Igreja de Nossa Senhora do Monte do Carmo) リオデジャネイロ市立劇場 (Teatro Municipal do Rio de Janeiro) エスタジオ・ド・マラカナン (Estádio do Maracanã) キンタ・ダ・ボア・ヴィスタ (Quinta da Boa Vista) ポン・ヂ・アスーカル リオデジャネイロ旧大聖堂 リオデジャネイロ市立劇場 エスタジオ・ド・マラカナン キンタ・ダ・ボア・ヴィスタ リオの犯罪率は高く、とくにファヴェーラなどで麻薬組織や麻薬販売人による犯罪や殺人が多い。2006年には2273人が殺され、10万人あたりの殺人率は37.7だった。2008年より、リオデジャネイロ州は治安回復計画(UPP)を実施し、悪化していた治安を向上させることに努め、2009年から2010年の殺人率は21%減少し、治安は改善傾向にある。しかしこれに反発した麻薬組織と警察の対立が激化している。2016年のオリンピックの際に報じられた情報によると、2015年にリオ市で起きた事件数は殺人1205件、強盗81740件であり、同年の日本全国の事件数(殺人933件、強盗事件2426件)と比べても多く、人口10万人あたりの発生率で見ると殺人発生率は日本の25倍、強盗発生率は660倍とのことである。オリンピック・パラリンピック期間中は85,000人の警察官・警備隊を投入し、観客やメディア関係者が死亡するような事故や事件は発生しなかった。 リオデジャネイロ出身の人を「カリオカ(葡: Carioca)」という。 ジーコ(サッカー選手、元サッカー日本代表チーム監督) ラモス瑠偉(サッカー選手) ネルソン・ピケ(F1ドライバー) ピシンギーニャ(音楽家) エイトル・ヴィラ=ロボス(音楽家) カルトーラ(音楽家) アントニオ・カルロス・ジョビン(音楽家) ジョルジ・ベンジョール(音楽家) マルコス・スザーノ(音楽家) オスカー・ニーマイヤー(建築家) ジョアン・アヴェランジェ(元FIFA会長) ファビアナ・オリベイラ(女子バレーボールブラジル代表選手) カルロス・ヌズマン(リオデジャネイロオリンピック組織委員会会長) リオデジャネイロは以下の都市と姉妹都市となっている。 ^ 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表) ^ プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP Archived 2011年5月13日, at the Wayback Machine. ^ 池永啓介・宇根道子「リオデジャネイロ」『世界地名大事典―中南アメリカ』山田睦男、中川文雄、松本栄次編、朝倉書店、2014年12月 ^ 池永啓介・宇根道子「リオデジャネイロ」『世界地名大事典―中南アメリカ』山田睦男、中川文雄、松本栄次編、朝倉書店、2014年12月 ^ 「ラテンアメリカを知る事典」p454 平凡社 1999年12月10日新訂増補版第1刷  ^ 「概説ブラジル史」p221 山田睦男 有斐閣 昭和61年2月15日 初版第1刷 ^ パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 36ページ ^ 池永啓介・宇根道子「リオデジャネイロ」『世界地名大事典―中南アメリカ』山田睦男、中川文雄、松本栄次編、朝倉書店、2014年12月 ^ “Médias e registros – Rio de Janeiro, Brasil”. The Weather Channel (2011年). 2011年3月20日閲覧。 ^ Climatological Information for Rio de Janeiro, Brazil – Hong Kong Observatory ^ 「ブラジルを知るための56章」p21 アンジェロ・イシ著 明石書店 2010年2月10日第2版第1刷  ^ 2011年2月8日の朝日新聞朝刊6面 ^ Dom Phillips (2018年9月3日). “Brazil museum fire: ‘incalculable’ loss as 200-year-old Rio institution gutted”. The Gursdisn. https://www.theguardian.com/world/2018/sep/03/fire-engulfs-brazil-national-museum-rio?CMP=share_btn_tw 2018年9月3日閲覧。  ^ [1] ^ [2] ^ [3] ^ カリオカ(Carioca)は、ポルトガル語の形容詞・名詞で「リオデジャネイロ市出身の」あるいは「リオデジャネイロ市出身の人」をさす言葉。この語はトゥピ・グアラニー族)の方言で、「白人の家」(家 oca、白人 cari)に由来する。 ^ “Sister cities”. Radikal.com.tr. 2010年4月17日閲覧。 ^ “Sister cities”. Managua.gob.ni. 2010年4月17日閲覧。 ^ “Sister cities”. Eng.gov.spb.ru. 2010年4月17日閲覧。 ^ Sister cities ^ “Sister cities (PDF)”. 2010年4月17日閲覧。 ^ “Sister cities”. 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CIA, 2011. ^ “Guayaquil Climate Guide to the Average Weather & Temperatures with Graphs Elucidating Sunshine and Rainfall Data & Information about Wind Speeds & Humidity:”. 2011年12月10日閲覧。 ^ a b 治安は最悪、ガラパゴス旅行の拠点グアヤキル産経新聞、2014.1.4 ^ エクアドルに対する渡航情報(危険情報)の発出外務省海外安全ホームページ、2013年08月14日 ^ 野口英世の生涯内閣府 ^ 野口英世博士の生涯財団法人 野口英世記念会 キト - 首都 Municipalidad de Guayaquil (スペイン語)" ]
ABC01-02-0148
首の下と肩を結ぶ、ゆるくS字にカーブした骨を何というでしょう?
鎖骨
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[ "鎖骨", "橈骨", "肩甲骨", "尺骨", "胸骨" ]
[ "鎖骨(さこつ)は四肢動物の肩帯を構成する骨の一つ。 ヒトの鎖骨は、胸骨と肩甲骨を連結する事で肩構造を支持し、また各種筋肉の起始基盤として機能する。ウマ、イヌ、ウシ、ゾウの様な走行性の哺乳類等では退化している場合も多い。鎖骨がないといわゆる抱きつく所作(前脚を内側に曲げ保持すること)が困難で鎖骨のない動物は木登りができないことから、早期に草原に進出した動物は長距離移動に適応して鎖骨が退化し、長期間森林に生息した動物には鎖骨が残っているのではないかと考えられている。鳥類では左右の鎖骨が癒合し、暢思骨または叉骨(en:Furcula)と呼ばれる。 ヒトの鎖骨は、人体の中で最も折れ易い骨であり、肩に加わる衝撃を吸収するための、クラッシャブルゾーンの役割を果たしている。こうした特徴に着目し、3点式や4点式のシートベルトや命綱などが開発されている。 内側端で胸骨と関節し胸鎖関節をなし、外側端で肩甲骨と関節し肩鎖関節をなす。 胸鎖乳突筋 三角筋 大胸筋 鎖骨下筋 僧帽筋 ラテン語名claviculaは、clavis(「鍵」)の指小形で、「小さな鍵」の意味。 古くは「鎖骨」とは、菩薩の身体にあると言われる鎖状(あるいは蔓状)に繋がった(架空の)骨を指し、仏でいう舎利に相当する聖遺物であり、高僧への賛辞にも用いた。 漢方典籍では主に「血盆骨」の名が用いられ、『解体新書』では前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)もこの語を当てたが、『重訂解体新書』では大槻玄沢が訳し直し「鎖骨」の語を当てている。 この鎖骨は血盆骨の別名の一つで、古くは1247年に出版された法医学書洗冤集録に使用が見られる。他に「鎖子骨」「𩩓子骨」「缺盆骨(欠盆骨)」「拄骨」「巨骨」とも書く。鎖骨内側の窪みを「缺盆」と言う。鎖骨外端の経穴を巨骨穴と言う。 近年では、「鎖骨」という名称は、昔の中国で囚人を捕らえておくために、この骨の後に穴をあけて鎖をとおしたことに由来するなどと主張する者もいる。 ^ a b 森ら, p.124 ^ 森ら, p.297 ^ 森ら, p.334 ^ a b 森ら, p.309 ^ 森ら, p.265 ^ 白川静『字通』「鎖」→熟語:鎖骨 ^ 張読 (唐)『宣室志』(唐代)「夫鎖骨運絡如蔓,故動搖之,体則有清越之聲,固其然矣。昔聞佛氏書言,佛身有舍利骨,菩薩之身有鎖骨」 ^ 蘇軾『書黁公詩后』「霜顱隱白毫、鎖骨埋青玉」 ^ 『全体新論』と『解体新書』の漢字医学術語について ^ 洗冤集錄 : 二十四、殺傷 - 中國哲學書電子化計劃 ^ 醫宗金鑒 ^ ブルーバックスB-1537「退化」の進化学 犬塚則久 2007年 講談社 ISBN 4-06-257537-X 63ページ 原著 森於菟 改訂 森富 「骨学」『分担 解剖学1』 金原出版、東京都文京区、2000年11月20日、第11版第20刷、19-172頁。ISBN 978-4-307-00341-4。 原著 森於菟 改訂 森富 「骨学」『分担解剖学1』、19-172頁。 原著 森於菟 改訂 大内弘 「筋学」『分担解剖学1』、249-437頁。 人間の骨の一覧 後頸三角 Terminologia Anatomica(1998)に基づく解剖学 系統解剖学 骨格系 鎖骨 - 慶應医学部解剖学教室 船戸和弥", "橈骨(とうこつ)(英名 radial bone、羅名 radius pl, radii)とは、四肢動物の前肢を構成する骨であり、前腕の二本の長い骨のうちの一つである。 断面は角柱状の形状を取り、尺骨と平行に並んで存在している。橈骨と尺骨の大きさや長さを比較すると、橈骨の方がやや小さく短い。解剖学的正位(腕を体の脇に下げ、掌の表側を前に向けた位置)において、体から離れた外側(がいそく)側に位置し、親指の側にあるのが橈骨である。 前腕および手の橈骨側を橈側(とうそく)という。同部位に対しては医学用語の外側(がいそく)が日常語の内側(うちがわ)に当たり、紛らわしい。橈側の反対側を尺側(しゃくそく)と呼ぶ。 ヒトの橈骨は、左右の前腕に1本ずつ存在しており、尺骨とともに前腕構造を支持し、髄腔の存在する管状骨、すなわち長骨に分類される。 近位端は馬蹄のような細長い構造をしており橈骨頭(とうこつとう)と言い、遠位端に移行するに従って広く太くなる。 橈骨  近位端は上腕骨と腕撓関節を形成し、尺骨と上橈尺関節(肘関節の一部)を形成する。 遠位端も尺骨と下橈尺関節を形成し、舟状骨および月状骨、三角骨と橈骨手根関節(手関節の一部)を形成する。 英語など欧州諸語で使用されている radius は、もともとラテン語で「光線の放射」「棒、杖」「車輪の輻(スポーク)」という意味である。 古い中国医学では、清代の『医宗金鑑』に(現在で言う)尺骨とまとめて「臂骨(ぴこつ)」と言われ、狭義では尺骨を「臂骨」(つまり総称と区別しない)と、橈骨を「輔骨」(俗に纏骨)と呼んだ。 橈骨は「撓(たわ)んだ」形の骨の意で、杉田玄白が『解体新書』で橈骨を「橈臂骨」と、尺骨を「直臂骨」と訳したのが始まりである 。 ただし、『解体新書』の原文では「橈臂骨、其上端有二起処。其一者、挟臑内筋之処也。其微陥者、受直臂骨櫛之処也」とあり、橈臂骨の上端には臑内筋(上腕筋?)を挟む部分と、もう一方の骨の櫛(関節環状面)を受けるくぼみ(橈骨切痕?)があるので、橈臂骨=尺骨、直臂骨=橈骨であるようにも考えられる。 いずれにせよ、鈴木文太郎が1905年に著した『解剖学名彙』でradius = 橈骨の用語が統一された 。 なお、大槻玄沢は『重訂解体新書』で、ラテン語を直訳して「梃骨(ていこつ)」(梃=棒)と訳した。 ^ 森ら, p.130 ^ 森ら, pp.206-207 ^ 森ら, pp.213-214 ^ 森ら, p.215 ^ 森ら, p.347 ^ a b c 森ら, p.359 ^ 森ら, p.347 ^ a b 森ら, p.351 ^ 森ら, p.354 ^ 森ら, p.348 ^ a b 李 強、2014、「解剖学骨名「尺骨」の由来を巡って - 医学文化史の世界を瞥見する」、『大阪物療大学紀要』2巻 pp. 53-61 ^ a b 国分 正一. “骨の逸話”. 東北大学整形外科学教室. 2018年8月17日閲覧。 ^ 澤井 直、2010、「昭和初期解剖学用語の改良と国語運動」、『日本医史学雑誌』56巻1号 pp. 39-52 原著 森於菟 改訂 森富 「骨学」『分担 解剖学1』 金原出版、東京都文京区、2000年11月20日、第11版第20刷、19-172頁。ISBN 978-4-307-00341-4。 原著 森於菟 改訂 森富 「骨学」『分担解剖学1』、19-172頁。 原著 森於菟 改訂 森富 「靭帯学」『分担解剖学1』、173-248頁。 原著 森於菟 改訂 大内弘 「筋学」『分担解剖学1』、249-437頁。 人間の骨の一覧 橈骨神経麻痺(ハネムーン症候群) 慶応義塾大学医学部解剖学教室 解剖学テキスト 橈骨 - 川村光毅、船戸和弥", "肩甲骨(けんこうこつ、英名: shoulder blade、羅名: scapula、pl. scapulae、肩胛骨とも)は、四肢動物の肩帯を構成する骨の一つである。 ヒトの肩甲骨は肩に一対あり、後方から肋骨を覆っている三角形状をした大型の骨である。 肋骨面あるいは前面(図1)は凹面になっていて、肩甲下窩(けんこうかか)と呼ばれる。 肩甲下窩の内側3分の2には、外側に向かって斜めに上行する数本の稜線が走る。この稜線からは肩甲下筋腱が起始して、稜線の間は貝殻面状になっている。肩甲下窩の外側3分の1は滑らかで肩甲下筋の線維に覆われている。 肩甲下窩の上部には陥凹部が横走し、ここから骨が直角に立ち上がっているように見え、関節窩まで続いている。この構造がしっかりとした角を形成しており(肩甲下角と呼ばれる)、アーチ型のこの構造によって肩甲骨は脊柱と肩峰を支えられるだけの力を生み出している。 背側面(図2)は上下方向にアーチを形成しており、肩甲棘(けんこうきょく)によって不等に二分される。肩甲棘より上方を棘上窩(きょくじょうか)、下方を棘下窩(きょくかか)という。 棘上窩は上方のより狭い部分で滑らかな凹面をなし、脊椎側が上腕骨側よりも広い。内側3分の2は棘上筋の起始部である。 棘下窩は棘上窩よりもかなり広く、上部では脊椎側の縁にかけてかすかな凹面をなしているが、中央部では明らかに凸面となり、腋窩に近い縁では深い溝が上部から下部に向かって走行している。棘下窩の内側3分の2は棘下筋の起始部であり、外側3分の1は棘下筋に覆われている。 背側面で目立つ構造は腋窩側の縁にある隆起で関節窩下部から下方に、また脊椎側縁にむけて内側方向に走行し、下角の約2.5cm上方の部分まで達している。この隆起には線維性の隔壁が付着し、棘下筋と大円筋および小円筋を分離している。 この隆起と腋窩側の縁(内側縁)にはさまれた部分のうち上方3分の2は細長く、その中央には肩甲骨回旋動静脈がはしり、またここは小円筋の起始部になっている。 その下3分の1の部分はやや広い三角形の形をしており、大円筋起始部である。またその上を広背筋が走行しており、しばしば広背筋のうちのある線維はこの部分に起始部がある。 この腋窩側のせまい上下二つの部分は腋窩縁から下方・内側方へ斜行する隆起によって隔てられ、この隆起にも線維隔壁が付着していて大円筋と小円筋を分離している。 肩甲骨には三つの周縁がある。 上縁は最も短く薄い。凹面で上角から烏口突起まで続いている。ヒト以外の動物では頭側縁に相当する。 腋窩側縁あるいは外側縁は最も厚い。関節窩の下縁に始まり、斜め下方・後方に走り下角に終わる。動物では尾側縁に相当する。 脊椎側縁あるいは内側縁は最も長く、上角から下角に続く。動物の背側縁に相当する。 肩峰(けんぽう)は肩の最も上の部分となる大きくやや三角型あるいは楕円形の突起である。前方に行くにつれ平たくなり、関節窩を覆うかのように始めは外側に、やがて前方および上方に曲面を描いている。 肩甲骨の大部分は膜性骨化によって形成される。周囲の部分には出生時には軟骨であり、その後軟骨内骨化によって形成されるものがある。 突起や骨の厚い部分は内部に海綿骨組織を含むが、その他の部分は緻密骨の薄い層のみで形成されている。 棘上窩の中央部および棘下窩の上部、特に前者はヒトでは通常非常に薄く半透明になっていて、時として骨が欠失し、隣接する筋群が線維組織のみで隔てられていることもある。 肩甲骨肩峰が鎖骨と関節し肩鎖関節をなし、上腕骨と関節し肩関節をなす。 棘下筋 棘上筋 肩甲下筋 肩甲舌骨筋 広背筋 三角筋 小円筋 上腕三頭筋(長頭) 上腕二頭筋(短頭) 上腕二頭筋(長頭) 大円筋 烏口腕筋 肩甲挙筋 小胸筋 小菱形筋 前鋸筋 僧帽筋 大菱形筋 ^ a b c 森ら, p.122 ^ [1] ^ [2]. 原著 森於菟 改訂 森富 「骨学」『分担解剖学1』 金原出版、東京都文京区、2000年11月20日、第11版第20刷、19-172頁。ISBN 978-4-307-00341-4。 medcyclopaedia bartleby.com 人間の骨の一覧 回旋筋腱板(ローテータカフ) オモプラッタ(ポルトガル語で、肩甲骨の意味。格闘技の関節技。) 肩甲骨 - 慶應医学部解剖学教室 船戸和弥", "尺骨(しゃっこつ)(英名 elbow bone、羅名 ulna pl, ulnae)は、四肢動物の前肢を構成する骨であり、前腕の二本の長い骨のうちの一つである。 断面は角柱状の形状を取り、橈骨と平行に並んで存在している。尺骨と橈骨の大きさや長さを比較すると、尺骨の方がやや大きく長い。解剖学的正位(腕を体の脇に下げ、掌の表側を前に向けた位置)において、体に近い内側(ないそく)側にあり、小指の側に位置するのが尺骨である。 前腕および手の尺骨側を尺側(しゃくそく)という。同部位に対しては医学用語の内側(ないそく)が日常語の外側(そとがわ)に当たり、紛らわしい。尺側の反対側を橈側(とうそく)と呼ぶ。 ヒトの尺骨は左右の前腕に1つずつ存在しており、橈骨とともに前腕構造を支持し、髄腔の存在する管状骨、すなわち長骨に分類される。 尺骨  近位端に滑車切痕 (Trochlear notch)と言う特徴ある構造をもち、上腕骨滑車を包むように上腕骨と関節する。橈骨とは反対に近位端の方が太く遠位方向に移行するに従って細くなり、遠位端には尺骨茎状突起 (Ulnar styloid process) と言う突起構造をもつ。 滑車切痕 - 近位端、前面像  尺骨肘頭突起 - 遠位端、前面像  近位端では尺骨滑車切痕が上腕骨滑車と関節し腕尺関節(肘関節の一部)を形成し、橈骨と上撓尺関節(肘関節の一部)を形成する。遠位端では橈骨と下橈尺関節を形成する。 円回内筋(尺骨頭) 回外筋 示指伸筋 尺側手根屈筋(尺骨頭) 尺側手根伸筋(尺骨頭) 深指屈筋 浅指屈筋(上腕尺骨頭) 長母指屈筋 長母指伸筋 方形回内筋 上腕筋 上腕三頭筋腱 肘筋 英語など欧州諸語で使用されている ulna は、もともとラテン語で「肘」という意味である。 古い中国医学では、清代の『医宗金鑑』に(現在で言う)橈骨とまとめて「臂骨(ぴこつ)」と言われ、狭義では尺骨を「臂骨」(つまり総称と区別しない)と、橈骨を「輔骨」(俗に纏骨)と呼んだ。 杉田玄白もこれを踏襲し、『解体新書』では尺骨を「橈臂骨」と、橈骨を「直臂骨」と訳している。 現在の「尺骨」という訳語は、『重訂解体新書』で大槻玄沢が義訳(意訳のこと)として初めて用いた用語で、古代ローマで肘(から中指にかけて)が長さの単位(キュービット)として用いられたことから、古代中国周制における身体尺の一つである「尺」を当てはめたものである。 ^ a b 森ら, pp.133-134 ^ 森ら, p.134 ^ 森ら, p.135 ^ 森ら, pp.206-207 ^ 森ら, pp.213-214 ^ 森ら, p.347 ^ a b c 森ら, p.359 ^ a b 森ら, p.348 ^ 森ら, p.357 ^ 森ら, p.350 ^ 森ら, p.351 ^ 森ら, p.343 ^ a b 森ら, p.345 ^ a b c 李 強、2014、「解剖学骨名「尺骨」の由来を巡って - 医学文化史の世界を瞥見する」、『大阪物療大学紀要』2巻 pp. 53-61 原著 森於菟 改訂 森富 「骨学」『分担 解剖学1』 金原出版、東京都文京区、2000年11月20日、第11版第20刷、19-172頁。ISBN 978-4-307-00341-4。 原著 森於菟 改訂 森富 「骨学」『分担解剖学1』、19-172頁。 原著 森於菟 改訂 森富 「靭帯学」『分担解剖学1』、173-248頁。 原著 森於菟 改訂 大内弘 「筋学」『分担解剖学1』、249-437頁。 解剖学/人間の骨の一覧/人間の筋肉の一覧 尺 尺骨 - 慶應医学部解剖学教室 船戸和弥", "胸骨(きょうこつ、英語:sternum)は人においては胸郭前面の正中部にある扁平骨であり、上から胸骨柄・胸骨体・剣状突起の3部からなる。 成人は胸骨には腸骨に次いで大量の骨髄が存在し、血液の20~30%程度は胸骨で作られる。 胸骨骨折(英語:fracture of the sternum、ドイツ語:Sternumfraktur)は胸郭骨折の1つである。ほとんどの場合は直達外力によって発生し、骨折部位としては胸骨柄、胸骨体の境界部に多く発生する。頻度は高くなく、交通事故の際に運転者がハンドルで前胸部を強打するなどして生じることが多い。 症状 疼痛、局所圧痛、腫脹、縦隔症状などが現れる。 治療 胸郭内内臓損傷の合併がない場合には絆創膏固定、バストバンド固定を3、4週間施す。転位が大きく、呼吸、循環に支障が認められる場合は手術療法を行う。 魚類を除き、人を含む動物においては脊椎動物の腹壁にある骨片である。胸骨の原基は、元来肋骨の先端部が頭部の方向に延長して互いに結合し、さらに左右のものが結合して形成される。起源が肋骨であることからもわかるように軟骨性の骨格であり、鳥類と哺乳類では硬骨への置換が進んでいるが、両生類と爬虫類では生涯軟骨だけで構成されていることが多い。 胸骨は肋骨を通じて脊椎骨と連結し、これらとともに胸郭を構成するが、現生の両生類では二次的に肋骨が退化、退縮して胸骨と肋骨の結合が失われている。 胸骨のもうひとつの大きな役割は前肢の基部骨格、つまり肩帯と体幹部の結合である。肩帯は肩胛骨、前烏口骨、烏口骨の3つ、あるいは肩胛骨、鎖骨、烏口骨の3要素からなるが、これらの接点に前肢の基部が結合し、前烏口骨、あるいは鎖骨の部分に胸骨が結合する。こうして前肢は肩帯、胸骨、肋骨を経て脊椎骨と結びついている。 胸骨は前肢を動かす筋肉の付着箇所としても重要であり、飛翔のために強大な筋肉を必要とする鳥類では、胸骨の正中線上に竜骨突起が生じて筋肉の付着面積を著しく拡大している。 胸骨は甲羅によって胸骨の機能がまかなわれてしまっているカメや、四肢を退化させたヘビでは、二次的に退化消失している。 胸骨の位置。赤色で示す。 胸骨の位置。矢印の先。 ヒトの胸郭。緑が肋骨で、青が胸骨。 胴体の水平断面。画像上部、緑の字で書かれているのが胸骨。 ^ 森ら, p.46 原著 森於菟 改訂 森富 「骨学」『分担 解剖学1』 金原出版、東京都文京区、2000年11月20日、第11版第20刷、19-172頁。ISBN 978-4-307-00341-4。 人間の骨の一覧 Nuss法 胸骨 - 慶應医学部解剖学教室 船戸和弥" ]
ABC01-02-0150
Y字型の支軸にゴムを張り、石などを飛ばす子どもの玩具といえば何でしょう?
パチンコ
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[ "パチンコ", "デジパチ", "ホールコンピュータ", "普通機", "大量獲得機" ]
[ "パチンコとは、ガラス板で覆った多数の釘が打たれた盤面上に小さな鋼球を盤面左下から弾き出し、釘に従って落ちる玉が特定の入賞口に入ると、得点あるいは賞球が得られる日本の遊技(ゲーム)である。漢字表現は「自動球遊器」。最も一般的な営業形態は風俗営業として、客が遊技の結果得た鋼球をパチンコ店が指定する特殊景品と交換し、景品買取業者(古物商)が運営する景品交換所がそれを買い取る形で現金と交換するシステムとなっている。日本においては風俗営業に分類される。規制が年々強化され、2017年12月末時点でパチンコホール経営企業数は、前2016年同月末比で177社減少し3244社、店舗数は420店舗減少で1万258店舗。 パチンコ遊技機(ゲーム機)そのものは「パチンコ台」と呼ばれる。ただし、「パチンコ」は通称であって、風営法上では「ぱちんこ遊技機」とひらがなで名称されている。パチンコ設備を設けた遊技施設は、施設設立前に警察に営業許可を事前に求めなくてはならない。呼称で最も一般的には「パチンコ店」または「パチンコ屋」と呼ばれるが、パチンコ業界やパチンコ雑誌などでは「パーラー」・「ホール」と呼ぶ場合もある。店名にパーラーが入っている店舗も多数存在する。このような遊技施設は、1930年に最初の店舗が開店し、その後第二次世界大戦時は不要不急の産業として一時は全面禁止となったが、終戦後に復活した。 2009年現在、日本以外ではアメリカのグアムなどにパチンコ店が存在しているが、賭博(カジノ)として位置づけられ、規制を受けている。また中華民国(台湾)では、法律上で禁止されている(ただし実際には多数の非合法店が営業を行っている)。韓国では在日韓国人によってパチンコが持ち込まれ流行していたが、「人間を怠惰にして、人生を狂わせる」として、2006年からはパチンコにおいてそれまで利用されていた商品券の換金が停止、事実上の法規制となった(メダルチギも参照)。また、北朝鮮の平壌にもパチンコ店が存在している。 日本国内のパチンコ店で行われる営業(以下「パチンコ営業」)は、法的には風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(以下「風営法」) 第2条第1項第4号で「設備を設けて客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業」として定める風俗営業で、遊技の結果で得た鋼球を賞品と交換され、パチンコ店から現金が持ち込まれている景品交換所で現金と交換される営業が行われる。このような遊技施設は、18歳未満の者は営業所に立ち入ってはならない旨を入り口に表示するよう義務づけられる(風営法第18条)とともに、客として立ち入らせることを禁じられている(風営法第22条第1項第5号)。 パチンコ遊技施設は、現在ではギャンブル的要素を持つが庶民の身近な娯楽施設として、都市や地方を問わず国内各地にくまなく存在している。このために、多くの社会的問題を抱えている(→パチンコ#パチンコの問題点参照)。変わったところでは、2017年2月1日、九州で「P-ZONE」を展開する株式会社パラダイスが経営する複合型リゾートホテル「ザ パラダイスガーデン サセボ」(佐世保市)にて、パチンコホール「パラダイス」がオープンした。この店舗は日本人でも利用可能だが外国人宿泊客をターゲットとしており、4ヵ国語(英語、中国語、韓国語、台湾語)で書かれた遊技台や機種の説明書を設置しているほか、営業時間はホテルのチェックインに揃えた16時から22時40分まで、また宿泊客に外国人がいない日は休業とするなど独特な営業形態を採っている。 パチンコ店以外では、ゲームセンターや露店などにてもパチンコ台が設置・運営されるが、この場合は鋼球と景品との交換は行われない。以前は一定数の得点に到達すると景品が払い出されるマシンが多数存在したが、風営法の規制強化に伴い全て禁止となった。コンシューマ分野においては、中古のパチンコ台、パチスロ台を個人向けに売買する市場があり、また、このようなパチンコ台の特徴を模した玩具や、シミュレーションゲームとしてのビデオゲームも存在する。 パチンコ店としての風俗営業は、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律の第二条第一項第四号(いわゆる「第4号」)に基づいて運営される。パチンコ台を設置するゲームセンターは同法においていわゆる「5号営業」に該当する(運営に関する詳細は「ゲームセンター」を参照)。 日本国内のパチンコ店で行われる営業(以下「パチンコ営業」)は、遊技の結果によって賞品を提供している。この根拠となる法令は、風営法第4条(許可の基準)、同法施行令第7条(政令で定める営業)、同第10条(遊技機の種類)、同第11条(政令で定める営業が遊技の結果に応じ客に賞品を提供させる営業であることを明記)、風適法施行規則第36条(遊技料金等の基準)である。 これら法令に基づく営業において景品を提供する事自体は合法であるが、現金や有価証券を提供することは禁止している。しかし、客が獲得した景品を古物商に売却して現金化する事例が多く、客から古物商が受け取った景品は景品問屋を通じてパチンコ店に卸されており、これを事実上の賭博行為として問題視する意見もあるなど、多くの社会的問題を抱えている(→パチンコ#パチンコの問題点参照)。 『レジャー白書2017』によれば、2016年のパチンコの参加人口は940万人、パチンコホールの貸玉量は21兆6260億円であった。『レジャー白書2015』で市場規模が過去に遡って修正されたことで、市場規模のピークも1995年の30兆9000億円から2005年の34兆8620億円に修正された。なお出玉により客に還元される分があり、店舗平均の還元率が85%程度だといわれているので、パチンコホールの実際の売り上げは貸玉料の15%程度ということに留意する必要がある。また参加人口は、娯楽の多様化、古臭くて不健康・不健全なイメージによる若者離れ、法改正によるギャンブル性の低下による客離れ、社会問題視されたパチンコ依存症などが指摘され、年々減少し、現在過去最低水準にある。 パチンコチェーンストア協会によると、2016年8月のパチンコホール企業の就業人口だけで約24万人であった(メーカーなどは含まず)。産業界においては、パチンコ台のハイテク化が進んでICチップや液晶モニターなどが多用されるようになった結果、ハイテク産業に関連する大手企業の業績をも左右するほどの重要な市場となっている。 500 1,000 1,500 2,000 2,500 3,000 10 20 30 40 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012 2014 2016   参加人口(万人)   売上(兆円) 2004年7月に改正された遊技規則の影響を受け、2004年6月以前に保安通信協会(保通協。当時の名称は「保安電子通信技術協会」)の検定を通過したパチンコ遊技機やその他の遊技機は、遅くとも2007年9月末までに全て撤去することが義務付けられた。また大当たりの連チャンが人気だった4号機パチスロ機も同時に撤去対象となっており、これに伴いパチンコホールは入替のために多額の費用負担を強いられた上、射幸心をあおる遊技機の規制により大幅な客離れが見込まれたため、金融機関もパチンコ業界へのファイナンスに対し非常に慎重になった。そうしたあおりを受け、2007年4月27日には業界第6位のダイエー(本社・会津若松市)が東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請したことを代表に、2007年度のパチンコ店倒産件数は前年比37.1%増の大幅増加となった。 パチンコ台は、多くは木製の板(現在はアクリル製が多い)に多数の真鍮製の釘が打ち込まれた盤をほぼ垂直に立て、前面をアクリル板で覆い、ここに直径11mm、重さ5gのパチンコ球と呼ばれる鋼球を据え付けられている発射装置によって弾き入れる。弾かれた球は、盤面上の釘や羽根、回転体などの構造物に当たりながら複雑な軌跡で盤面を落ちて行き、この間に球が入賞穴と呼ばれる入賞口に入ると、15個以内の規定数の入賞球を獲得することができる。盤面には、遊技の妙味を増すために、「役物(ヤクモノ)」と呼ばれる特別な入賞口や仕掛けが施されている。役物は機械仕掛け・電気仕掛けにとどまらず、近年ではデジタル部品を駆使したデジパチと呼ばれるハイテク度の強い機種が主流である。 パチンコの遊技料金は、国家公安委員会規則である風営法施行規則で規定されている。1978年以降長い間玉1個につき4円以下と定められていたが、2014年4月に「貸し玉料金に消費税相当分の上乗せを認める」旨の改正が行われ、玉1個につき消費税込みで4.32円以下(2014年4月現在)となっている。ただし上限いっぱいの4.32円貸しでは、一般的な貸玉1回の単位である500円で割り切れないため、実際には貸玉カードの精算機を1円単位で返金できるようにして4.32円貸しとするか、500円で割り切れる単位の貸玉料金とする(例:500円あたり116個貸し=1個につき約4.31円)等の対応が求められる。 以前は、ほぼすべての店舗が貸玉料金1玉4円で営業していたが、2006年頃から1玉1円での営業スタイルが広がり始め、現在では貸玉料金を1玉0.5円、0.2円、0.1円、2円等に下げ、低資金で長時間の遊技が可能である事を稼働率回復の特効薬とする店舗が多数存在する。これらを4円パチンコは「よんぱち」、1円パチンコは「わんぱち」「いちぱち」、2円パチンコは「にぱち」「にこぱち」等の名称で宣伝、呼称している業者が存在する。 また、2014年4月以降貸玉料金に消費税相当分の上乗せが出来るようになったことから、低貸玉営業においても一部の店舗では貸玉料金に消費税分を上乗せ(1円パチンコの場合1.02円から1.25円程度)するようになった。 風俗営業としてのパチンコ営業では、客が遊技の結果で得た玉などを賞品と交換する。風営法は営業者に、現金や有価証券を賞品として提供することや客に提供した賞品を買い取ることを禁じたり(23条1項)、賞品の価格の最高限度に関する基準(国家公安委員会規則で定める。2014年4月現在、最大賞品価格は9,600円で消費税込み10,368円)に従った営業を義務づけ(19条)たりして、パチンコの射幸性を抑制している。 なお、2012年頃から警察庁ではパチンコ玉・メダルと景品の交換率を店舗単位で統一することを求めるようになったが(いわゆる「一物一価」)、地域によって取り組みはばらついており、2014年現在は必ずしも徹底されていない。 提供される賞品は、一般的に「一般景品」と「特殊景品」の2種類に大別される。 風営法施行規則35条2項2号では景品として「客が一般に日常生活の用に供すると考えられる物品のうちから、できる限り多くの種類のものを取りそろえておくこと」を店舗に求めている。そのため、タバコや菓子のほか、店によってネクタイ・ハンカチ・靴下などの洋装小物、電気製品、化粧品、大衆薬、アクセサリー、CDやDVD、食料品など様々で、大型のパチンコ店内の景品交換コーナーはコンビニエンスストアや小型のスーパーマーケットにも似る。 警察庁では2006年12月に、パチンコ景品として最低500種類以上(ホールの設置台数が500台以上の場合はその台数と同数以上の種類。うち最低200種類は実物を展示)、品目としては家庭用品・衣料品・食料品・教養娯楽用品・嗜好品・身の回り品・その他の7品目中5品目以上を取り揃えるよう求める通達を出している。 特殊景品とは、パチンコ店外に設置されている、各都道府県の公安委員会に古物商の許可を受けた景品買取所に売却することを前提とする景品を指す。これによりパチンコはギャンブル的な要素を持つとされている。しかし、前出した風営法23条1項の禁止規定があるので、パチンコ店が景品交換所を経営することはできない。そのため、パチンコ業界はパチンコがギャンブルではないという建前で、三店方式(もしくは四店方式)と呼ばれる方法を採っている。 1970年代後半頃までのパチンコ台には現在のようなハンドルはなく、玉を弾くスプリングを戻す強さの加減をレバーを使って手動で行いながら一発一発打つようになっていた(参考画像)。この微妙な力加減もパチンコ遊技の醍醐味であり、1952年公開の日本映画『生きる』では、そうした手動のパチンコ台が描写されている場面がある。 現在のパチンコ台は玉の自動射出機構を備えており、ハンドルに手を添えるだけで玉を打つことができる。玉の射出頻度は、パチンコで0.6秒に1発、アレパチでは0.5秒に1発以内と規定されており、またハンドルに手を添えている間は永続的に玉が射出されるため、射出を一時的に停止させるストッパーの機能を持った押しボタンがパチンコ台に搭載されている。この押しボタンはハンドルの右手親指で押せる位置に取り付けられているものが殆どだが、中には2005年から2007年にかけて京楽が採用していた台枠「ビッグ バン」のように、ハンドルではなくハンドル真上の右手人差し指で押せる位置に取り付けていたものもあった。また、大都技研の台では、ハンドルに自動で玉の射出が最大出力となるボタンを搭載しており、大当たりで右打ちする際にハンドルを右に回さなくても右打ちできる機能を搭載している。なお、パチンコ遊技には最低限の技術介入が求められるため、ハンドルを硬貨や器具などで固定して遊技することは風営法で禁じられており、それを防止する目的として、ハンドルには素手で触れていることを検知するセンサーが取り付けられている(手袋をはめたままでは玉が射出されず、遊技できない)。 このように、現在のパチンコ台ではハンドルが当たり前となっている中で、パチンコ台メーカーの業界団体である日本遊技機工業組合に2015年に組合員として新たに加盟したA-gonが、およそ40年ぶりとなる手動レバーを採用した新台「CRA-gon昭和物語」を発表、同年12月よりホールに設置されている。 かつてのパチンコ台では、アタッカーは台中央の一番下の部分に取り付けられていた。そのため、左打ち・右打ちいずれでも中央部の液晶画面真下にある始動入賞口(ヘソ)に玉が入るようになっていたが、現在では液晶画面が大型化したことに加え、大当たり時の出玉の消化を早めるために最速でアタッカーへ届くよう、右端下部に取り付けられているものが殆どである。そのため、現在では通常時は左打ち、確変時は右打ち(ハンドルを右に目いっぱい回して最大出力)、としている台が主流である。 玉を貸し出すために所定のプリペイドカードを読み取らせる機器が付いたパチンコ機であるCR機の導入以降、1回の大当たり(特賞)の入賞球を増やしたり、確率変動(確変)を導入して大当たりの確率を高める代わりに特賞以外の入賞球を減らすなど、射幸心をあおる傾向にある。本来の風営法では客に射幸心をそそるおそれのある遊技機を禁止しているのにも関わらず、脱税対策を建前としたCR機の普及のために、射幸心をあおる傾向にある遊技機を認可したことが原因であると言われる。 現在のパチンコ台では、タイアップ機と呼ばれる、映画・ドラマ・漫画・アニメ・特撮ドラマなどの作品を題材にしたもの、あるいは著名芸能人が監修またはモチーフとするものが殆どである。ただ、作品や権利者によっては、ギャンブル(その他児童に提供できない商品・サービス)に対しキャラクターの使用は許可しない、とするケースも見られる。 近年では特に音楽業界が、CDの売り上げが落ち込む中で、モチーフとするタレントの肖像権料に加え、リーチや大当たり演出中の楽曲使用による版権収入が(更に台の売り上げが伸びればインセンティブ収入も)見込めるため、パチンコ市場に大いに注目している。実際に、2007年度のJASRAC賞で銀賞を受賞した「エヴァンゲリオンBGM」においては、パチンコ・パチスロでの著作権使用料が同楽曲の使用料全体の44%を占めており、パチンコ機から得られる版権収入がカラオケ・着うた等と並んで音楽業界において無視できない金額となってきたことを示している。 また、パチンコ機やパチスロ機の大ヒットにより、パチンコ・パチスロユーザーが興味を持って「エヴァンゲリオン」や「北斗の拳」などモチーフとなった作品のDVDや原作本を買い求めることで新規ファンを獲得し、それらの人気復活に大きな貢献を果たしたことに加え、資金面に目途が立ち新作の製作に繋がるなど関連ビジネスが活性化したという側面も見せるようになった。 既に述べた通り、現在の遊技機はデジタル部品を駆使したデジパチが主流であり、ハイテクの塊でもある。本体内部のROMの性能向上と容量の増加により、モチーフとなったアニメやドラマなどの映像をほぼオリジナルのままリーチ演出や大当たり演出に組み込んだりできるようになったほか、LEDを使用したカラフルな演出や、盤面にある「役物(ヤクモノ)」も仕掛けが大型化・派手なものになるなど、進化を遂げている。中には牙狼シリーズのように台枠から役物が飛び出すものも登場している。ただ、その一方で、ハイテク化や装置の複雑化、チャンスボタンの代わりとなるギミックの搭載、サブ画面としての小型液晶モニターの搭載などもあり、1台あたりの販売価格が以前より高騰している。例えば2015年10月発売の「CRぱちんこ 仮面ライダーフルスロットル」の販売価格は発売当時史上最高額となる1台52万円であった。また、2017年5月発売の「CR必殺仕事人Ⅴ」は1台49万5000円であった。 インターネット上では、近年のパチンコ台をゲームにしたパチンコゲームと呼ばれるものも人気を集めている。 遊技機は国家公安委員会の指定試験機関である保安通信協会によって規定上の条件を満たしているか試験が行われ、その後各都道府県の公安委員会の検定を受け、その後ホールに設置され、ホール所轄の警察が試験を行う。全ての試験を合格して初めて客が遊技することが可能となる。 検定の有効期間は3年間とされ、有効期間を過ぎた遊技機(いわゆる「みなし機」)は現行法下の遊技機については引き続きの設置は可能だが(一度店舗から撤去した遊技機の再設置は不可)、検定が満了しているため変更が一切認められない。そのため故障などの場合は、部品などの交換や修理が出来ないことから、故障のまま放置するか、新しい遊技機と入れ替える必要がある(故障したまま稼動を続けることは出来ない)。なお、過去に数度行われた「みなし機」撤去は、法が改正され遊技機の基準を満たさなくなったために行われたものであり、現行法が改正されない限り、現行法下での検定を合格した遊技機(以下「現行機」)は、検定期間が満了した際に撤去しなければならない、ということではない。 現行機については、検定の有効期間内に業界の自主規制基準である「中古遊技機流通健全化要綱」に基づいた認定を受けることで、認定日からさらに3年間設置運用(部品交換等の変更可)が認められるが、認定切れ時の再認定は事実上認められていないため(法的には不可能ではない)、最長でも検定合格から6年間経過するとほぼ強制的に「みなし機」扱いとなる。ちなみに再認定が困難なのは、型式要件を満たしていること保証するための書類等を遊技場が作成する必要があるためである(初回認定時は製造業者発行の検定書類などで対応できる)。 2015年11月以降に設置している遊技機においては、概ね以下の基準に沿って作られている。 初当たり時における大当たり確率の下限は1/320。また、異なる確率を採用する場合、2種類までの確率(低確率と高確率)を採用できる。 一連の大当たりで得られる遊技玉数の期待値は最大7200個(最初の大当り分を含まず)。 獲得出玉の期待値が6400個を超える場合、最大出玉の1/3もしくは600個以上の出玉が獲得できなければならない(最大が1800個未満の場合)。 最低獲得出玉を最大出玉の1/3かつ600個以上…大当たり確率1/320以上1/260未満の機種 最低獲得出玉を最大出玉の1/4…大当たり確率1/260以上1/250未満の機種 最低獲得出玉を最大出玉の1/8…大当たり確率1/160以上の機種 確変継続率は上限65%(高射幸性タイプに適用。2016年5月以降に設置する機種) また、2018年2月より以下の新基準が施行された。初当たり時における大当たり確率の下限は1/320で変更ないものの、 大当り出玉数の上限は1500個(それまでは2400個) 小当たりラッシュの期待値を1500個(それまでは2400個) 継続率65%以上のリミッタタイプの最大出玉を6000個未満(それまでは7200個未満)に、一般電役の総量は4500個(それまでは4800個)に引き下げ 大当りラウンドの上限は10ラウンド(それまでは16ラウンド) 検定試験項目に、4時間における出玉試験を追加 大当り確率において6段階の設定が可能(スロットと同様) 4時間の遊戯での出玉払い出し数を発射総個数の1.5倍未満とする このほか、2018年2月1日以前に検定を通過した機種は、検定期間満了まで設置可能(最長3年間)とされたことや、カードユニットとの接続仕様を明確にし、カードユニットが遊技球等貸出装置接続端子板に接続されていない場合に遊技球を発射できないことや、遊技球等貸出装置接続端子板を有さないものに確率変動機能は搭載できないことが明記された。また、型式名については種類ごとに判別できるように基本記号を型式名の最初に付与することとし、接頭辞はそれまでの「CR」に代わり、パチンコは「P」(第1号機種は、2018年8月より設置されたSANKYO「Pフィーバー革命機ヴァルヴレイヴ」)、アレンジボールは「R」、じゃん球は「J」、ちょいパチは「Pちょいパチ」(現金機・その他は接頭辞なし)。さらに、のめり込み対策の強化を目的に注意喚起の統一フレーズの液晶表示も明記しており、表示契機は「大当たり後」と「客待ち中」の2ヶ所とし、表示時間は2秒以上、「パチンコ・パチスロは適度に楽しむ遊びです。」と「のめり込みに注意しましょう。」の2つの統一フレーズを挿入することになっている。ほかにも、主基板のセキュリティ性能や周辺基板に関する取り決め等も明記されており、演出表示器に使用するデータ用ロムの記憶容量については総じて64ギガビットを上限とすることなどが挙げられている。 現在のパチンコ・パチスロには、児童向けの漫画、アニメ、特撮、ハリウッド映画といったキャラクターものから、歌手、俳優、女優などの芸能人まで起用したタイアップが多数展開されている。また、タイアップ機種によっては版権等の問題から複数のメーカーから機種が販売されたケースが存在する。ただ、中にはゲーム性が合わなかったり、世の中のトレンドが変わったりして、結局パチンコ化できずにお蔵入りする版権も少なくなく、他にもコンテンツのイメージを崩したくない権利者が色々とつける注文に応えたために却ってつまらない遊技台になってしまったケースもある。 これらは、それらの作品に慣れ親しんだファン層をパチンコへの新規ユーザーとして取り組む宣伝効果を狙ったものと考えられる。既に述べた通り、2003年に発売された「北斗の拳」(パチスロ)や2004年に発売された「新世紀エヴァンゲリオン」(パチンコ)のように、人気機種となり空前の大ヒットとなったことで、それまで原作に馴染みのなかったパチンコ・パチスロを打ったユーザーが新たに原作コミックスや愛蔵版、アニメDVDなどを買い求め新たなファンを獲得するといったケースも生まれている。 また、作品の性質上ギャンブルには似つかわしくないという理由でキャラクターの版権を許可しない著作権者もいる。例えば、「ドラゴンボール」は大ヒットが見込める優良コンテンツとしてメーカー各社が版権獲得に動いたが原作者の鳥山明が首を縦に振らなかったと言われており、また「キャプテン翼」の原作者である高橋陽一も、2000年頃から同作品のパチンコ化へのオファーはあったが「子供向け作品だから」という理由で当初は断っていたことを明かしている。 近年は、タイアップしたアニメやドラマで新作が製作された場合は、パチンコ機メーカーが番組スポンサーに就くケースも多く見られるようになっている(「『牙狼〈GARO〉』シリーズ(途中より)」、「おそ松さん」、「ルパン三世(TV第4シリーズ)」、「地獄少女 宵伽」などが例)。 風俗営業としてのパチンコには、さまざまな社会問題の存在が指摘されている。以下に問題点とされる事例・要因とパチンコを支持する側のそれに対する反論を挙げる。 パチンコは前述の通り「特殊景品」を景品交換所に持ち込むことで現金に交換することが可能である(三店方式)が、そもそもこれは終戦直後のパチンコブームの際に換金行為に暴力団の介在が横行していたことを防ぐために暴力団排除にもつながることからよりましな手段として1961年に大阪で導入され、警察も黙認あるいは支援していたものである。これが法律違反に当たるかどうかについて、1968年の福岡高等裁判所では、「交換所が顧客から買い上げた特殊景品が景品問屋でシャッフルされる形で複数のホールに卸されているため、ホールの特殊景品が交換所や景品問屋を経てそのままストレートに最初のホールに戻ってくると特定できない」として「三店方式が風俗営業法条例違反に当たらない」として無罪判決が下されている。 賭博(ギャンブル)とは刑法においては、「金品などを賭け、偶然性の要素を含む勝負を行い、その結果によって賭けた金品の再分配を行うもの」をいい、このような「賭博」は、賭博罪として刑法185条によって禁じられている。ここで「金品」には景品も含まれるため賭博罪の正否が問題となる。パチンコでは現金や有価証券ではなく賞品を景品として出すことが風俗営業法で認められているため、刑法第35条の「法令又は正当な業務による行為」として刑事罰の対象にはならない。 なお、日本国内における、海外の賭博場であるカジノを模した遊技場は、風俗営業適正化法では5号営業、すなわちゲームセンターとしており、風俗営業適正化法第13条は、その5号営業では遊技の結果に応じて賞品を提供することが禁じている。そのため、そのようなカジノを模した遊技場が三店方式を模倣した場合、遊技の結果による賞品の提供がこれに抵触するので、違法行為となり、実際に警察に検挙されている。 これらの状況については、警察・検察のパチンコ業界との癒着が指摘されている。産経新聞は景品交換所での現金化は「事実上の賭博」に該当しており、警察が黙認しているとしている。 警察庁はパチンコ業界の監督官庁として、その外郭団体である保安通信協会で遊技機の仕様が適正であるかどうかを調べる試験を行ったり、さらに、試験に通過した機種を実際に営業に供して良いかどうかの検定を各都道府県の公安委員会で行ったり、あるいは店舗営業の許可を与えたりするなどの権限を握る立場にあるため、癒着が発生しやすい関係にある。例えば、遊技機の型式試験を行う保安電子通信技術協会の前会長は元警察庁長官であった山本鎮彦であり、職員の1/3を警察出身者が占めることや、パチンコメーカー・アルゼでは元警視総監である前田健治を常勤顧問として迎え入れていたなど、関連団体や企業への天下りとも解釈できる例が見られる。 パチンコ業者の団体である東京商業流通協同組合、東京ユニオンサーキュレーションなどに、多くの警察官が天下りしている。また、貸金業のクレディセゾンの連結会社であるパチンコ業界大手のコンサートホールは、各店舗ごとに警察官1名の天下りを受け入れることを警察への求人で表明している。このようなことから、ジャーナリストの寺澤有は「日本全国でパチンコの違法状態が放置されている理由は、他でもない警察が換金業務を牛耳っているからである」と問題視している。 2007年から、インターネットイニシアティブ(IIJ)の連結子会社であるトラストネットワークスによってパチンコ店へのATM設置が行われるようになり、2010年にはトラストネットワークスが投資家に「今後4~5年間程度で約8000台のATMを導入していく」とATMの設置をさらに推し進めることを表明。一方で「パチンコ店内のATM設置は依存症が強いパチンコの利用を煽らせて金銭の浪費を容易化させる」としてジャーナリストや日本共産党によって積極的にATMの設置問題が取り上げられるようになった。 パチンコ内でのATM設置自体は違法ではなく、風俗営業法第9条では警察に届け出をすることしか規定されていない。しかし、パチンコのATM設置を問題視する立場からは、ジャーナリストの小出康成はパチンコ店内におけるATMの設置に関する届け出は警察の実質的な許可となっている構造であること、日本共産党はATM設置届け出に対して何らかの手だてをとることができたということを前提にした上で警察が規制を一切行っていないことをそれぞれ問題視し、パチンコ店へのATM設置及びパチンコ業界の規制官庁である警察について批判的な言論を展開した。 このため、トラストネットワークスと提携してATM設置をすすめていた農林中央金庫や地方銀行が新規の設置を中止することやパチンコ店内ATM事業に協力しないよう傘下の団体に通知するなどの動きが生じたため、パチンコ店への新規のATMの設置が取りやめになるなどの影響が出ている。トラストネットワークスはATMで1日に引き出せる上限を3万円までとし、ATMからの現金引き出しに歯止めをかける仕組みを提示している。 精神医学においては行動嗜癖であり、国際疾病分類ICD-10の「精神および行動の障害」の「成人の習慣と衝動の障害」という項目にある、「病的賭博(pathological gambling)」の一つとされる。一般的には「ギャンブル依存症」とも呼ばれる。パチンコの場合気楽に行けるためカジノより危険であると考えられており、カジノの問題より最優先でパチンコへの対策が喫緊の課題として浮上している。 パチンコの大当たり時には、脳から大量のβ-エンドルフィン、ドーパミンなどの神経伝達物質(脳内麻薬とも呼ばれる)が分泌される。このため一種の薬物依存に近い状態に陥り、パチンコに依存する恐れがある(『報酬系』)。心理学者のバラス・スキナーによるネズミを使った実験(スキナー箱)では「ボタンを押すと\"必ず\"エサが出る」仕組みより、「ボタンを何回か押していると、\"ランダムに\"エサが出ることがある」仕組み(「間欠強化」)の方が、急にエサを出さなくなった場合であっても、ネズミは長い時間に渡ってボタンを押し続けることが判明しており、多くのパチンコ客が『ハマリ』に陥った場合でもパチンコを続けるのは、この仕組みで説明できる。 このパチンコ依存症は性癖や意思の問題として扱われたため、「治療できる」病気であることが理解されず放置され、治療行為が行われなかったために勉学や勤労への意欲を喪失した例や、さらに借金をしてまでパチンコにのめり込み多重債務や自殺といった悪循環に陥る例もある。多重債務に付けいる消費者金融や闇金融のありさまと併せて社会問題視(クレサラ問題)された。このことから、2005年頃から東京都遊技業協同組合などの業界団体でもパチンコ依存症に対する注意の呼びかけや問題解消のためのカウンセリングの紹介といった事業が始められている。2006年からは日本全体の業界団体である全日本遊技事業協同組合連合会でも同様の取り組みを開始しており、パチンコ依存症は治療を要する「病気」であると共に、業界団体としても救済を必要とする問題と位置付けて5年間分の運営費1億円を負担、同依存症に対する研究を進めるほか、専門相談員の育成を行うとアナウンスしている。 また民間では女性用回復施設の「ヌジュミ」が活動を始めている。パチンコ業界主導の依存症対策には疑問を投げかけている。回復者本人で精神保健福祉士が運営する相談カウンセリングセンター「横浜メンタルヘルスサポートセンター」も活動し効果を上げている。 元臨床心理士・タレントで作家の松岡圭祐は、小説『催眠』や『千里眼の教室』の中で、パチンコ依存症を以下のように表現している。 パチンコ台は「大音量の音楽」「点滅するネオン」「回転するデジタルスロット」など複数の要素が絡む。 交感神経系優位で被催眠性の高い(熱中しやすい)人間をトランス状態の一種である、リラックス状態に陥れる。 大当り時に起きる高揚感を止められなくなり、浪費する傾向に走る症状。 乳幼児を保育園などへ預けず、駐車場の自動車内へを放置し、そのまま熱中症や脱水症状などで死亡させる事故(→ネグレクト)や、北関東連続幼女誘拐殺人事件(足利事件)のように、親がパチンコに興じていた隙に乳幼児が誘拐される事件まで発生した事例もある。 そのため、全日本遊技事業協同組合連合会は子供の車内放置は児童虐待の防止等に関する法律の児童虐待にあたるとして車内放置根絶を目指し注意を喚起するキャンペーンを行っている。対策として、加盟店内の一角に壁で仕切られた遊び場を設けて子供を預かったり、あるいは駐車場を店のスタッフが巡回して注意を呼び掛けたりしている。同会の報告によると、巡回などで見つかった車内放置のケースは2006年度で37件、56人になり増加傾向にある。 託児設備のあるパチンコ店も一部にはあるが、全国的にみても地方郊外店以外では導入に積極的ではない面もある。これについては、2006年5月から施行された改正風営法により、明らかに18歳未満と分かる者を入場させたホールに対して罰則規定が盛り込まれた。これにより立ち入り規制の徹底がされた店もあるが、以前と比べても立ち入り規制が取り締まられていない店も少なくない。ただし、取締りの強度は所轄の方針に左右され、大阪府などのように乳幼児まで含め完全に規制が徹底されているケースもある。 CR機導入以降は減少してはいるものの、依然として脱税が多く、業界全体として、国税庁の2004年度の調査では不正発見割合でみると、50.3%と約半数で脱税の疑いがあり、「不正発見割合の高い業種」「不正申告1件当たりの不正脱漏所得金額の大きな業種」では4206万2000円と、ともにパチンコがワースト2位にランクされている。現金の流れが不透明な中小ホールでは、未だに脱税体質に変化がないものの、近年、一部の大手ホールでは決算において監査法人を受け入れるなど、ある程度の改善傾向もある。しかし2012年までに、日本全国に存在する40に及ぶパチンコ店グループが、租税回避目的で企業再編税制を導入することをコンサルティング会社から勧められ、これを導入した結果、税務当局から一斉に多額の申告漏れを指摘された事が判明している。 業界各団体の健全化推進の努力が、継続的に行われているにもかかわらず、暴力団や海外マフィアが関わるコンピュータプログラムの内容を書き換えた違法改造ROM、パチンコ店による不正基板への換装、パチンコ店によるパソコンを利用した遠隔操作など、風営法で禁じられている無承認構造変更や、玉貸機や計数機を改造して不当な利益を上げようとする、詐欺罪に相当する不正などの、業界の信頼を失う不正行為が根絶できていない。 パチンコ店はネオンサインやLEDを使った電光掲示板などにより派手に外装してあることが多く、景観の悪化を嘆く声がある。特に光害の大きな原因となるサーチライトに関しては、岡山県の旧美星町(現:井原市)の例をはじめ、条例により規制する動きも広がりつつある。近年では外装に予算をかけずマスコミ媒体に予算を使った広告戦略を行う店も増えている。また、店舗内の音楽が周囲に漏れて騒音となっているところも少なくない。 大量の現金を扱うことから、景品交換所や事務室などでは強盗や深夜の窃盗事件がしばしば発生している。 パチンコ店のCMが教育上好ましくないという声がある。全国放送されているのは主に大手メーカー製のパチンコ台そのものであり、パチンコ店(チェーン店)自体のCMはほとんどがローカル局での放送である(テレビ・ラジオでのCMやチラシによる広告が多い)。さらにはパチンコ・パチスロでは児童〜中年層にも人気のある漫画・アニメのキャラクターを起用した、版権もの(タイアップ)も多く含まれるため、これに対し北海道や新潟県、島根県ではCMの影響で射幸心をあおることや、多重債務を招く恐れがあるとして、テレビCMの自主規制を行うことを決めている。また2009年4月より、子供が視聴することが多い時間帯である午前5時 - 午前9時及び午後5時 - 午後9時でのCM放送を自粛することが決められた。しかし、2011年3月に東日本大震災(福島第一原子力発電所事故含む)による電力不足で、パチンコ業界における大量の電力消費が問題になったこと、また震災に伴う華美な広告活動の「自粛」などの意味あいから、震災発生直後以後は業界団体の日本遊技機工業組合(日工組)が毎年更新の取り決めとして終日パチンコ、パチスロマシン本体のCM放映が自粛され、終日に渡ってメーカーやホールのイメージCMが放送されている(禁止ではなく自主規制である)。 自治体が運営する施設(公営交通、野球場など)でのパチンコ関連の広告の掲出を不可としている所がある。一例として東京都交通局が該当する。 廃棄処分になったパチンコ台・パチスロ台のほとんどは香港、中国などに輸出され、不正なブローカーの手に渡った結果、有害物質の鉛が適正に処理されず、中国国内で健康被害を引き起こし問題となっていたが、昨今はリサイクルまで含めた一連の流れが確立している。 前述のような、周辺環境への影響の問題から、条例(パチンコ店等規制条例など)でパチンコ店の出店を規制する動きが自治体の間で見られるが、市町村と、出店の認可権限のある都道府県との間で、縦割り行政による条例の食い違いと弊害があり、出店業者がその不備を突いて出店を強行するケースも見受けられる。例として、大阪府では「交野市」と「大阪府」との間での条例の違いにより、業者側が府の条例と最高裁判例を盾に取り工事を強行しており、市側が苦肉の策として、建設予定地の傍に市道があることに目を付け、市道の安全確保が困難になるという理由づけで2009年7月24日に仮処分を申請した。2009年12月15日、建築続行禁止並びに営業禁止に係る仮処分申立について、大阪地方裁判所はいずれも却下する旨の決定を行った。 韓国では、外見上はパチンコに類似した「メダルチギ」といわれる遊戯機を置く店舗が1万5000店存在し、売上高は日本円にして約3兆円にのぼっていたが、2006年秋に換金行為・営業が禁止され、メダルチギ設置店舗は激減した(なお、POKKA吉田による解説も参照)。 プロサッカー球団「大分トリニータ」に、2005年以降、大手パチンコ店チェーン「マルハン」がメインスポンサーとして支援してきたが、2007年にJリーグ側がパチンコ店のスポンサーを認めなくなったことから、2009年をもって撤退を余儀なくされた。その結果、球団の収入が激減して経営が悪化し、Jリーグに対して緊急融資を要請する事態に陥った。 また、上記のような不透明性があるためか、パチンコ台や関連機器メーカーの上場(株式公開)企業はあるものの、パチンコ店(ホール)の上場は申請した企業はあったものの長年にわたって認められず、上場企業は1社もない状態が続いていた。この背景には証券取引所のパチンコ店業界に対する厳しい姿勢がある。しかし、2012年8月6日、大手パチンコ店のダイナム(正式には持株会社のダイナムジャパンホールディングス)が香港証券取引所に上場を果たし、これがホール企業初の上場例となった。 パチンコ産業は在日韓国・朝鮮人の割合が高く、韓国の中央日報によれば、日本に約1万6000〜7000店ほど存在するパチンコ店の経営者に占める割合は90%という指摘がある(2016現在の店舗数は1万店程度に減少している)。『AERA』(2006年2月13日号)では「全国のパチンコ店オーナーの出自の内訳は、韓国籍が50%、朝鮮籍が30〜40%、日本国籍、華僑が各5%」としている。また、2008年1月10日のハンギョレの記事ではパチンコ業界の6割が在日韓国・朝鮮系としている。これらの数値は具体的な集計方法が不明であり、紙面によって数値が大きく変動していることや大手チェーン店をどのように扱っているかも不明であることに留意を要する。 民団傘下の「在日韓国商工会議所」では、所属する1万社のうち約7割がパチンコ業に係わっており、韓国民団、朝鮮総連の幹部、団員に多数のパチンコ店経営者、関係者が存在するため、日本公安警察はパチンコ業界が韓国民団、朝鮮総連の資金源と見ている。 自民党の武藤嘉文元外務大臣は1993年の国会答弁にて、「パチンコの金が何千億と北朝鮮に行っている」と述べている。 各メディアにおいても、北朝鮮送金問題に関して北朝鮮の資金源として、朝鮮総連に関係するパチンコ業界があるのではないかと言われる。AP通信ではパチンコで負けた損失が北朝鮮の核開発に流用されている可能性を危惧するパチンコファンの声や、「ドラッグとともにパチンコの収益が北朝鮮政府や軍の手に渡っている」とする宮塚利雄の見解を伝えている。 『読売新聞』2012年4月15日によると、日本から北朝鮮への送金は現在はほとんど無く、持ち出し額も「年間約5億円」という。 『朝日新聞』2011年6月7日朝刊15面記事によると、90年代半ばに売り上げ30兆円・店舗数1万8000店は、2010年までに売り上げ20兆円・店舗数1万2000店の3分の2に激減しており、2011年現在のパチンコ店経営者の国籍は、韓国が5割、日本が3割、中国・台湾が1割、朝鮮(北朝鮮)籍が1割であるとされる。 パチンコは日本のみならずハワイや台湾など数カ国で営業している。日本で使われた中古台を活用し、スペックや連荘システムなどは現地仕様に改造してある。また、日本のように貸玉サンドに現金を投入スタイルは少なく、カウンターで玉を購入するスタイルが多い。 韓国 韓国では日本のパチンコように玉を打ってプレイするスタイルではなく、メダルを入れ抽選後に当落を判断。 技術介入要素は無いカジノのスロットマシーンのようなシステムであり、ダブルアップも存在する。 当たったあとに商品券等が出て換金や商品と交換するシステムとなっている。射幸心の煽りなどのギャンブル性の問題が噴出し2005年に非合法化されたが、看板を変えて営業しているとされている。 台湾 台湾では、日本と異なり、当たった数字や再抽選後に出た数字によって連荘数が決定。また、ハンドルは固定手を離しても良い。目が届く範囲内での掛け持ち遊戯も容認されている。 グアム・ハワイ 基本的に日本のと似ているが、カウンターで玉を買う・手を離してのハンドル固定可能・全店禁煙などの差異がある。 パチンコ業界と関係の深い自民党国会議員らによって時代に適した風営法を求める議員連盟が結成されており、パチンコへの課税、換金合法化などを提言している。また業界団体パチンコチェーンストア協会には政治分野アドバイザーとして多数の政治家が挙げられている。 2008年、在日本大韓民国民団の代表団が、韓国の李明博次期大統領当選を祝うために訪韓し、「パチンコ産業への規制による経営の苦しさ」を訴えた。李は、小沢一郎民主党代表との会談の際、民団から聞いたこととして、この話を小沢に伝え、「関心を持ってほしい」と要望した。小沢は「後日民団から聞く」と応じた。後日、民団と在日韓国商工会議所が母体の「レジャー産業健全化推進協会」の協会幹部たちが「遊技業業界の規制緩和を訴える陳情書」を小沢へ提出することとなった。上記と同様の陳情が2007年12月、泉信也国家公安委員長、森喜朗日韓議員連盟会長に対しても行われている。 2010年、パチンコの換金合法化とカジノの解禁を目標とした超党派の議員連盟、国際観光産業振興議員連盟が発足した。 国際観光産業振興議員連盟(通称カジノ議連) 2010年発足 時代に適した風営法を求める議員連盟 2014年発足 パチンコチェーンストア協会(政治分野アドバイザー51名 2010年5月10日現在) 第170回国会(2008年9月24日 - 2008年12月25日)では、「パチンコ店における出玉の換金行為を取り締まり、完全に違法化することに関する請願」が西村真悟の紹介により提出された。 2018年7月5日の参院内閣委員会で、日本共産党の田村智子がギャンブル依存症対策としてパチンコの「3店方式」への規制を要求した。 1925年頃に大阪で横型コリントゲームを改良したものがパチンコの発祥との説があるが、専門家によると実際にはヨーロッパから輸入されたウォールマシンが日本で広まったものがパチンコの起源であるとされる。 1930年、風俗営業第1号店が名古屋で許可されパチンコ店が開店。 1936年、高知でパチンコが大流行、半年で35店が開店。 1937年、日中戦争勃発。 戦時特例法によりパチンコ店の新規開店が禁止される。 現在のパチンコと同じ鋼球式のパチンコが登場。 1941年、太平洋戦争勃発。 1942年、戦時体制により、パチンコは不要不急産業として全面禁止。パチンコ店は閉店され、台は処分される。 1946年、禁止されていたパチンコが復活する。 1948年、 風俗営業取締法(改正前の風営法)制定により、パチンコは許可営業となる。 「正村ゲージ」が登場。 1949年、 貸玉料金が1円から2円に値上げされる。 丸新物産(現:ニューギン)が名古屋市で設立。 1950年、竹屋商会(現:竹屋)が春日井市で設立。 1951年、 法改正により18歳未満の入場が禁止される。 ソフィア(西陣)が桐生市で設立。 1952年、 菊山徳治考案のオール20連発式(機関銃式)が開発される。 京楽が名古屋市で設立。 大一商会が愛知県(現在の北名古屋市付近)で設立。 1953年、 第1期黄金時代到来。パチンコ店387,664軒にのぼる。製造メーカーは約600社。 循環器第1号機(高速度連射可能機:160〜180発/分の玉が自動的に発射)開発。これによりパチンコブームが加熱し、射幸心をそそるとして後の連発禁止令の要因となる。 1954年、 東京都公安委員会が「連発式パチンコの禁止」を決定、全国に広がる。 豪快不況が到来、全国軒数も半減。 1955年、モナミ商会(現:三洋物産)が名古屋で設立。 1956年、第一回業界編成期を迎える。 1957年、 初めて役物を搭載したコミック機・「ジンミット」(西陣)発売。 「竹屋式無人機」の登場で、従業員がシマの中に入らなくてもよくなった。 1958年、藤商事が大阪市で創業(法人としての藤商事設立は1966年)。 1960年、 画期的な「チューリップ」が登場。 リモートコントロール方式を初めて発売。 第2期黄金時代到来。 平和が桐生市で設立。 豊丸が名古屋市で設立。 パチンコメーカー60社が集まって日本遊技機工業協同組合(日本遊技機工業組合の前身)を結成。 1961年、大阪で三店方式の基となる仕組みが誕生、全国に広がる。 1962年、盤面のファッション化に拍車がかかる。 1963年、 分離式(ユニパック)発表。 メダル式パチンコ機登場。 1965年、パチンコ店1万軒を越える。オリンピアマシン(パチスロの前身)登場。 1966年、三共(現:SANKYO)が名古屋で設立。 1972年、電動式ハンドルが認可される。貸玉料金が2円から3円に値上げされる。 1973年、太陽電子(現:タイヨーエレック)が名古屋市で設立。 1975年、間寛平の「ひらけ!チューリップ」が100万枚の大ヒット。サミーが東京都で設立。 1978年、貸玉料金が3円から4円に値上げされる。 1979年、全日遊連が「パチンコの日」制定(毎年11月14日)。高尾、三星(現:サンセイR&D)が名古屋市で設立。 1980年、現在のデジパチの基本である「三共フィーバー」が登場。 1981年、現在の羽根モノの基本である「ゼロタイガー」が登場。 警察庁がフィーバー機の大当たり時に開く大入賞口開閉時間を30秒×10ラウンドに規制。 1982年、権利モノが初めて登場。 1983年、大同(現:ビスティ)が東京都で設立。 1984年、フィーバー機の大当たり時の大入賞口開閉時間を15秒×10ラウンドに規制強化。 1985年、保安電子通信技術協会によるパチンコ機の検定制度開始。 1986年、「全国パチンコ・パチスロファン感謝デー」制定。 1988年、警察庁が「CR機構想」を発表。日本レジャーカードシステム設立。東洋商事(現:フィールズ)が名古屋市で設立。 1989年、日本遊技関連事業協会設立。日本ゲームカード設立。 1990年、風営法施行規則改定。最大大当たりラウンド数が10ラウンドから16ラウンドに緩和。確率変動(確変)の導入。 1990年代、この頃より車に置き去りにされた子供の熱中症事故が問題視され始める。 1992年、最初のCR機「CRフラワーショップ」が登場。 1993年、「ダービー物語事件」。この事件を機に連チャン機は規制され、CR機の導入が加速化する。 1995年頃 台北市が三店方式のパチンコ店を全面的に禁止した。 1996年、遊技機内規変更。CR機の確変の連続が最大80ラウンドに制限(いわゆる5回リミッター)され、大当たりの確変を搭載したCR機の時短機能や確変の2回ループを禁止。それまで規定されていなかった大当たり確率の下限を1/360に規制。同時に「社会的不適合機」と呼ばれ、射幸性が高いとみなされた機種(約70万台)を自主撤去。 1997年、パチンコメーカー10社に対し公正取引委員会が独占禁止法違反による排除勧告を行う。(いわゆるパチンコ機特許プール事件) 1999年、遊技機内規変更。大当たりの確変割合と大当たりの出玉数に応じてリミットを設けるようになり、5回リミッターが事実上の撤廃。最低賞球数が5個の機種の場合、大当たり確率の下限を1/320に規制。 2002年、遊技機内規変更。最低賞球数が5個から4個に。大当たり確率の下限が、賞球に関係なく1/360に緩和。大当たり終了後の時短が認められる。 2004年、風営法施行規則改定。パチンコの種区分が廃止。 ハンドル部へのバイブレータ搭載、抽選演出の省略(センサー等を使用したスキップ機能)、演出の書き換えによる連続予告(擬似連続予告は対象外)をそれぞれ禁止。大当たり確率の下限が1/500に緩和。ループ式の機種の確変割合の上限(50%)や普通電動役物(電動チューリップ等)のサポートを搭載した場合の高確率の上限(1/50)を撤廃。最低賞球数が3個(規則上は1個)に。 2005年、遊技機内規変更。1/500にまで緩和された大当たり確率の規定が見直され、下限が1/400となる。 この頃からパチンコの新機種のテレビCMが頻繁に流れるようになる。 2006年5月、風営法改定。閉店前やトラブル時の出玉保証の禁止、明らかに18歳未満と分かる者を入場させたパチンコ店に対する罰則規定などが盛り込まれる。 2006年6月、「みなし機」の完全撤去。 2006年秋 韓国のパチンコ店(1万5,000店)が全面的に廃止された。 2006年8月8日、有限責任中間法人遊技産業健全化推進機構設立。 2007年4月、有限責任中間法人遊技産業健全化推進機構が「誓約書」を提出した全国のパチンコホールに対して、「随時・不通知」の立入検査を開始。 2008年3月、遊技機内規変更。2004年の規則改定以降なくなっていた連続予告の解禁(ただし、変動時間を変更してはいけない)。 2009年4月、遊技機内規変更。大当たり確率における「出玉なし通常大当たり」は大当たりの確率計算から除外した上で、下限1/400を遵守(確率計算から除外しない場合は、1ラウンドあたりの特別電動役物の開放時間を6秒以上にして出玉を得られるようにすること)。 2010年7月、遊技機内規変更。大当たり確率における「出玉なし大当たり」を最大出玉の1/8未満と定義付け、通常/確変の種類を問わず、大当たりの確率計算から除外した上で、下限1/400を遵守。 2011年1月、遊技機内規変更。大当たり確率における「出玉なし大当たり」を最大出玉の1/4未満と定義付け、通常/確変の種類を問わず、大当たりの確率計算から除外した上で、下限1/400を遵守。かつその確率を「出玉なし大当たり」を含めた確率の1/1.3以上に制限。 2011年4月、新聞出版・放送向け宣伝活動の大幅制限(遊技機の機種に関する宣伝の自粛、企業PRに関するCM制作・放映等)を業界全体により徹底、これにより先月中旬に発生の震災後に宣伝活動を再開させた遊技機メーカーのCMはほぼ全てが企業イメージCMに差し替えられる。 2012年8月、ダイナムの持ち株会社ダイナムジャパンホールディングスが香港証券取引所に株式公開。パチンコホール運営会社の株式上場は初めて。 2014年4月、消費税増税にあわせて貸玉料金における消費税の外税表示が認められる。これにより、貸玉料金の上限が4.32円(消費税込)となる。 2015年4月、日本遊技機工業組合が「のめり込み対策に関わる申合せ」を発表(事実上の遊技機内規変更)。同年11月以降に登場する機種に適用となる。大当り確率の下限値の引き上げや、突然確変からのST抜けや潜伏確変の禁止など。 具体的な内容は以下の通り。(1)大当り確率の下限値を現行の1/400から1/320とする。(2)一連の大当りで得られる遊技玉数の期待値を最大7200個(最初の大当り分を含まず)に変更。(2)獲得出玉の期待値が6400個を超える場合、最大出玉の1/3もしくは600個以上の出玉が獲得できなければならない(最大が1800個未満の場合)。※獲得出玉の期待値が6400個とは初当り1回に対する平均出玉 2016年2月、日本遊技機工業組合はいわゆる「釘変更によって性能が異なる可能性のある型式遊技機」問題に関して、該当機種を回収するための第1回対象機リストを発表。6月の第3回発表まで行われ、該当する遊技機(約726,000台)は2016年12月末までに撤去することで業界各団体が合意。 2016年11月、国内のパチンコ店舗数が1万店を割り込んだが同年12月には1万店舗を回復した。 2017年、再びパチンコ店舗数が1万店を割り込む。 CR機 正村ゲージ 現金機 デジパチ 羽根モノ 権利物 一般電役 普通機 一発台 アレンジボール(アレパチ) スマートボール パチンコ遊技機等製造会社の組合として、1960年設立の日本遊技機工業組合(日工組)がある。 ◎ : 2017年時点で過去1年以内に新機種を供給しているメーカー ○ : 2017年時点で過去2年以内に新機種を供給しているメーカー × : 2017年時点で過去2年以上新機種を供給していないメーカー ◎A-gon - 2015年に日工組に加盟した、最も新しいメーカー ×エース電研 ◎京楽産業. ◎オッケー. - 旧まさむら遊機 ○コナミアミューズメント - 旧アビリット、旧高砂電器産業 ◎サミー ×銀座 ◎タイヨーエレック ◎SANKYO ◎ジェイビー ◎ビスティ - 旧大同(ダイドー) ◎サンセイアールアンドディ(Sansei R&D) ◎三洋物産(SANYO) ◎サンスリー ◎ソフィア - 西陣ブランドで販売 ◎大一商会 ◎大都技研 ◎高尾 ◎竹屋 ◎豊丸産業 ◎七匠 ◎ニューギン ◎EXCITE ◎藤商事 ◎平和 ◎アムテックス ×オリンピア ◎ベルコ ◎マルホン工業 ○ミズホ - ユニバーサルエンターテインメントグループ ◎メーシー - ユニバーサルエンターテインメントグループ 奥村遊機 ^ 同法は1948年(昭和23年)7月10日に「風俗営業取締法」という題名で公布された(昭和23年法律第122号)。2回改題されており、施行済み最終改正は2005年11月7日公布、翌年10月1日までに施行(2008年8月1日現在)。改題を伴った改正は次の通り。 1959年2月10日公布→「風俗営業等取締法」 1984年8月14日公布、翌年2月13日施行→「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」 ^ 風営法のこの条項をふくめ、同法、同法施行令、同法施行規則には、施設ではなく営業を表す「ぱちんこ屋」が登場するが、この「ぱちんこ屋」以外にもパチンコ営業はありうる。パチンコ台は「ぱちんこ遊技機」と表記される。「ぱちんこ台」「ぱちんこ店」は登場しない。 ^ 詳しくは七号転用機を参照 ^ 通常のパチンコ台は24Vで動く為、家庭用の100Vに繋げると一瞬で故障してしまう。その為、電圧を下げるトランスを用いて100Vを24Vに下げている。パチンコの中古販売店で「パチンコが家庭でも遊べる」と謳っている商品は、全てトランス付きの物を指す。なお、パチスロに関してはこの限りではなく、五号機の頃より標準で100Vでの動作とするメーカーが増え、2016年段階では、一部のメーカー以外は標準で100V電源が搭載されている。 ^ パチンコ営業と同じく風営法2条1項7号の風俗営業である「まあじやん屋」や同項8号の風俗営業(一部のゲームセンターなどが該当)では、営業に関し遊技の結果に応じて賞品を提供することが禁じられている(風営法23条2項)。ゲームセンターにおける景品を提供するゲームについてはプライズゲーム#法的な問題点を参照。 ^ ギャンブル依存症などの相談センター 横浜メンタルヘルスサポートセンター ^ 東京の渋谷店は、One-Oh-Nineの、ショッピングセンターとしての廃業ののちに開店。 また酒田店は、酒田大沼→スーパーダイエーの廃止ののちに開店。(パチンコ店で決着 酒田駅前地区ダイエー跡地 景観へ配慮求める声も) ^ 但し、テレビ東京系にて放映されていた平和の同名のオリジナルタイトルを原作にした深夜アニメ『戦国乙女〜桃色パラドックス〜』では制作キー局のテレビ東京以外の同系列ネット局は大筆頭スポンサーを務めていた同社の提供自粛により公共広告機構(現ACジャパン)のCMに差し替えられた。 ^ 日本ではパチンコホール運営会社に関する諸事情(主に出玉の景品を換金する業界慣行の合法性が曖昧であることの問題が中心)により関連法令・制度により国内での株式上場ができないため。 ^ [1]パチンコホール、1年間で420店も減少。先行きも暗い…(ニュースイッチ) - Yahoo!ニュース ^ 台湾パチンコ市場視察レポート - 矢野経済研究所 ^ 石原慎太郎 (2011年4月). “都民のみなさんへ(4月)”. 東京都. 2011年4月閲覧。 ^ 若宮健 (2011年1月19日). “【若宮健】パチンコに溺れる日本、全廃した韓国【桜H23/1/20】”. 日本文化チャンネル桜. 2011年4月閲覧。 ^ 社会批評社刊打ったらハマる パチンコの罠(PART2) メディアが報じない韓国のパチンコ禁止 ^ なお、禁止されたのは商品券を払い出す行為、換金行為であり、パチンコやメダルチギの存在自体が法規制されたわけではないことに注意を要する。 ^ 「パダイヤギ」はパチンコ? メダルチギ? ^ 鉄人社刊『裏モノJAPAN』2002年8月号参照 ^ “千葉で227万円ひったくられる 現金をパチンコ店に運ぶ途中”. 共同通信. 47NEWS (2011年6月26日). 2011年8月6日閲覧。 ^ “景品交換所の女性、現金入りバッグ奪われる 千葉・松戸”. 朝日新聞 (2011年6月26日). 2011年6月30日閲覧。[リンク切れ] ^ “ホテル内に外国人客を対象にしたパチンコ店が誕生”. 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という都市伝説は尽きない。 ^ 遊技機の認定及び型式の検定等に関する規則を参照。構造等の要件が些細に記載されている。また役の制御基板は裏表とも透明なケースに入れられた後に封印がなされるため、後付装置や配線はすべて違法となる。ただし遊技機についてのみの規則であるため、倫理上の問題は別としてゲームセンター等への設置は可能である。 ^ 例として 『新海』を遠隔操作、店長ら逮捕 - 月刊グリーンべると・2004年7月23日 山口県内の経営者ら、遠隔操作容疑で逮捕 - 月刊グリーンべると・2004年9月3日 などが挙げられる。 ^ ビデオポーカーによる違法賭博の摘発もあり、ビデオポーカーの製作元企業とともに、違法遠隔操作装置の広告を掲載していた業界誌の出版元もJAMMAから除名されることになった。", "普通機(ふつうき)とはパチンコの機種分類のひとつで、電子的な抽選機能を一切持たない機種を指す。 チューリップ台とも呼ばれる。 近年、パチンコの主流を占めるデジパチは、特定の入賞口にパチンコ玉が入ると抽選を行い、一定の確率で行われる抽選に当選すれば「大当たり」となり、多くの出玉を得られる。これに対し普通機には電子的な抽選機能がなく、主に機械式チューリップ(非電動役物)を開閉させ、そこに玉を入れることによって出玉を得る。よって普通機には「大当たり」の概念が(基本的には)ない。 機械式チューリップを開閉させる手順は、以下のいずれかである。 チューリップにパチンコ玉が直接入る。 開いたチューリップに玉が入れば、再び閉じる。またそのチューリップに玉が入れば、再び開く。これを繰り返す。 特定の役物内に玉が入り、役物内で振り分けられた玉が特定の部分を通過する(パチンコ玉を使用して、物理的な抽選を行っているとも言える)ことで、連動してチューリップが開く。この形式のチューリップの場合、一定の個数の玉(胴体に表示してある)が入るまで閉じない事が大半で、さらにこのチューリップに玉が入る事で別のチューリップが連動して開く、といった構成になっている台が多い。 一部の普通機では、玉を導く釘の調整を極端な「曲げ釘」にし、役物の振り分けでチューリップが開けばあとは盤面右側に玉を通すなどの特定の打ち方をする事で、店側の定める量(いわゆる「打ち止め」)まで無限に玉が増え続ける、俗に言う一発台として営業できる台も過去にはあった。これに関しては、一発台の項目を参照。 なお、「普通機」という呼び方はデジパチが本格的に普及してから、従来機を区別するため使われるようになった用語(レトロニム)で、デジパチや羽根モノが登場する以前には存在しなかった。 普通機の性質上、出玉の量がデジパチよりも非常に少なく射幸性が低いため、現在のパチンコ機種の主流からは大きく外れており、ゆえにメーカー各社もほとんど生産をしておらず、年間数機種程度しか発売されていない。 またパチンコ店における設置状況も、旧基準のみなし機の総撤去(2006年)以降激減しており、1機種あたり多くても数十店舗程度に留まる。 ※現行基準に移行してから発売された機種。現金機・CR機併売の機種は「CR~」の表記を省略。 CRぱちんこスカイポート(2005年、京楽産業) ひらけ!こぶ茶バンド(2005年、奥村遊機) うちのポチ(2005年、SANKYO) 開け!チューリップ(2006年、大一商会) ひらけ!ペンギンアイランド(2006年、平和) チューリップ8(2006年、ニューギン) CRあま10(2006年、藤商事) CR OH!アニモー(2006年、サミー) おさかなちゅー(2007年、ニューギン) ビッグバン(2007年、大立) Aトーテムポール(2007年、ニューギン) CRAぱちんこラッキークラウン(2008年、京楽産業) Aエンブレム3(2008年、奥村遊機) CRAチャレンジ13(2009年、トビー) CRAフェニックス(2010年、P-CUBE) CRAフェニックスSP(2012年、P-CUBE) CRAコスモアタック(2015年、愛喜) CRA-gon昭和物語(2015年、A-gon) スマートボール", "大量獲得機(たいりょうかくとくき)とは、パチスロ機(4号機)の中でも、一回のビッグボーナスにおいて概ね500枚以上の獲得枚数が得られる機種を指す。 大量獲得機の元祖といわれるのは3号機の『ミラクル』(尚球社・現岡崎産業)である。4号機においては標準になっている「期待値方式」(平均でどれくらいの枚数を獲得できるかで機械割を決定する方式)を初めて採用することで実現された。但し、常に大量獲得を狙えるものではなく、機械による振り分けで強制的に獲得枚数が決まるものだった。しかし追従する機種は登場せず、3号機における大量獲得機は幕を閉じる。 4号機に入り、Aタイプの機種が圧倒的だった時代、『B-MAX』(アルゼ)のリリースにより大量獲得機の認知が広がる。その後、技術介入度が低く告知機能も搭載した『大花火』の大ヒットにより、大量獲得機が各社から発売される。大量獲得機は一大ブームを起こしたものの、どうしてもボーナス中の遊技方法は似たり寄ったりになってしまう。メーカーは演出の質の高さが要求された。 『獣王』に始まるアシストタイム(AT)ブームまでは、大量獲得機はパチスロにおける「一発台」的な役割を果たす。 ストック機能搭載機のブームにより、大量獲得機がストック機能を搭載したことでAT機と遜色無い出玉が得られるようになり、再度脚光を浴びることとなる。 しかし5号機では、ビッグボーナス時の払い出し枚数が「465枚を超えたら終了」という形(=最大480枚、純増枚数としては最大448枚)に制限されたため、4号機基準での大量獲得機の実現が事実上不可能となった。そのため4号機での大量獲得機については、発表順では2006年9月に登場した『ジャイアントパルサー』(山佐)が、設置期限を基準とするならば『燃えよ!功夫淑女』(山佐)が最後となる。 5号機における最大枚数である448枚については、『パチスロうる星やつら』(銀座)におけるハイパービッグで初めて実現され、その後も幾つかの機種に448枚のボーナスが搭載されたが、概ね確率的に1/1000を超える低確率なものが多く、当選するのはかなり難しくなっている。そのため、5号機においては最大払い出し枚数である448枚のボーナスを備えた機種よりも、リプパンはずし(リプレイタイム(RT)を長引かせるため、転落契機役を敢えて入賞させない方法)やART(ATとRTを複合させ、ハズレの乱数をリプレイに書き換えコイン持ちを良くした上で、特定の小役を液晶などによりナビし、出玉を得る方法)を搭載した機種の方が往々にして出玉率が高くなっている(5号機の規定上、一定のゲーム数で得ることの出来る出玉に制限が持たされたため、一撃での出玉よりも長いゲーム数をかけて出玉を増やす方法が取られたからだと見られる)。 大量獲得を実現するには、ボーナスゲーム中に「JACインフラグ」「15枚役(またはそれに順ずる役)」のいずれかが高確率で抽選されるように調整する必要がある。一方で当選小役の払い出しが多い、高確率での抽選という理由により、結果的にボーナス当選確率が低く設定される。1000ゲーム以上のハマリといった光景も、当たり前の様に見られた。 設定による出玉率の格差が大きい。ビッグボーナスの確率は概ね1/240~1/430、1/290~1/530の範囲。特に高設定域での出玉率は極めて高く、1万枚以上といった出玉も容易に実現出来た。また、低設定域でも1万枚以上の出玉が発生することもある。これは確率論における分散が従来機よりも倍ほど大きいことに起因している。 その後メーカーにより、Bタイプやツイン(トリプル)ビッグといった様々な工夫も行われた。Bタイプは獲得枚数がAタイプに劣るがその分確率は高い。ツイン(トリプル)ビッグでは押し順・リール制御・小役確率・ナビの変化により、擬似的に数種類のビッグを演出し、全体における出玉率を下げたことで当選確率を上げることが出来た。 ボーナス中は、1ゲームあたりの出玉率も従来機より桁外れに高い。その為リプレイはずしの失敗や小役の取りこぼしは大きな痛手となり、大幅に出玉を下げることになる。そのためプレイヤーにとっては特にリプレイハズシの瞬間は緊張が伴うものであった。 JACインフラグの抽選確率が従来に比べ低めである(概ね1/7程度)。そのため、パンクしてしまう確率も高くなる。 リプレイはずしの難易度は機種により様々だが、大量獲得機のシェアが多かった時期は概ね簡易であった。 連続絵柄・ボーナス絵柄などを目押しすることで、外すことが出来る。 指定された箇所付近のリール制御を変化させることで、ハズシの必要コマ数に余裕を持たせる。 指定の押し順を行うと、制御により勝手に外れてくれる。 「A-771」タイプという機種も少ないながら登場した。771枚の獲得を実現出来る仕組みは、ビッグボーナスの全てを1枚掛けで消化することにある。しかしながら、低設定時の当選確率が1/500近い数字になってしまうことが、あまり受け入れられなかった最大の要因であった(「シムケンG」「M771」「リアルボルテージ」など)。 パーフェクト獲得 3枚掛け(JACイン中は1枚掛け)の遊技であれば、Aタイプ機におけるビッグボーナス1回での理論上の最高獲得枚数は711枚である。但しそれを達成するためには、リプレイハズシを用いず、且つ最終ゲームでJACインフラグに当選する必要があったため、偶然性が大きく左右される。そのため安易な挑戦はパンクの危険との隣り合わせであった。 画期的な「JACイン持ち越し機能」 しかし1999年に発売された「バンバン」(大都技研)がJACインフラグの持ち越し機能を実現。通常ゲーム内でのボーナスフラグの持ち越しに着目し、ボーナス中でも同様の解釈を行い、JACインフラグの持ち越しをさせることに成功した(JACインフラグはREGと解釈する)。これによりリプレイハズシを駆使することで、小役ゲームの最終ゲームで(それまでにJACインフラグが成立していない場合を除き)必ずJACインさせることが可能となり、リスクを伴わない理想の大量獲得実現のための下地が作られた。 「同一小役」の解釈 さらに2002年に登場した「カンフーレツデン」(山佐)により、大量獲得機は大幅な転機を迎えることになる。JACインフラグと15枚役を「押し順によって揃え分けられる同一の小役」と解釈し、ボーナス中はプレイヤーに押し順を指定させる事により、極めて高確率で711枚の獲得が得られるように工夫された。この考え方は以降のヒット機種の流れを作る。 パーフェクト獲得とフラグ持ち越し、そしてストック機能という3つの出玉性能が最大限に生かされた機種が「吉宗」や「主役は銭形」である。双方とも遊技する上で極めてハイリスク・ハイリターンではあるが、大量獲得機における最終形態といっても良いだろう。 Aタイプ(ノーマル):「B-MAX」「大花火」「マリーンバトル」「タロットマスターR」など Bタイプ(ノーマル):「ホットロッドクイーン」など ツインビッグ:「不二子2」「ハイパーラッシュ」など トリプルビッグ:「ハンゾー」 ストックAタイプ:「吉宗」「主役は銭形」「カンフーレツデン」など ストックBタイプ:「巨人の星」など" ]
ABC01-02-0151
デンマークの考古学者・トムセンの「三時代区分法」で、「石器時代」と「鉄器時代」の間にあたるのは何時代でしょう?
青銅器時代
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[ "青銅器時代", "鉄器時代", "紀元前5千年紀", "メヘルガル", "紀元前26世紀" ]
[ "青銅器時代(せいどうきじだい)は、考古学ないし歴史学において、石を利用した石器の代わりに青銅を利用した青銅器が主要な道具として使われた時代を指す術語である。 青銅器時代とは、デンマークのクリスチャン・トムセンが提唱した歴史区分法の一つである三時期法に依拠する概念である。この三時期法は、社会の歴史的な時間の流れを、主に利用されていた道具の材料によって石器時代、青銅器時代、鉄器時代と3つに区分する考え方であり、青銅器時代はその中の真ん中の時代に相当する。また、この時代区分は先ヨーロッパ史を中心に考えて提唱されたものであるが、中東、インド、中国にも適用することが可能である。青銅器時代は多くの文明において国家形成の開始された時期に当たり、世界最古の文字が発明されたのもこの時期にあたる。このため、各文明においては先史時代と歴史時代の両方の面を持つ。メソポタミア文明においては都市の形成は新石器時代後期にさかのぼるとみられているものの、歴史をしるすことのできる文字の発明は青銅器時代に入ってからのことである。エジプト、中国の各文明においては青銅器文明に入った後に国家の形成が行われ、歴史時代へと入っていった。またこれとは逆に、西ヨーロッパや北ヨーロッパのように青銅器時代を通じて国家の形成が見られず、先史時代にとどまった地域も存在する。 青銅は銅と錫の合金であるため、当然ながら、ある社会が青銅器時代へと移行するためには、交易によって他の文明圏から青銅器自体を大量かつ恒常的に入手できる例外的な場合を除いては、鉱物資源の入手が可能な状況が存在しなければならなかった。また同時に、火の制御と利用に関する高度な技術や冶金術の発達も必要とされた。 石器時代の終盤、人類は自然金や自然銅などの鉱物を加工することを覚え、やがて銅を加工した金属器を使用するようになった。この時代のことを銅器時代、または金石併用時代と呼ぶ。ただし銅は硬度が不足しており、石器を完全に駆逐することはできず、金属器と石器の併用される時代が続いた。やがて自然に結晶化した鉱物だけでなく、鉱石に含まれる金属を精錬する冶金技術を手に入れた人類は、じょじょにさまざまな金属を使用するようになっていく。こうした金属の中に、スズがあった。スズは融点が低く、主要鉱石である錫石からの精練が容易であるためかなり早くから実用化された金属であるが、このスズと銅を同時に溶融して合金である青銅を開発したことで、青銅器時代がスタートした。もっとも、初期の青銅は二つの金属を混合したものではなく、スズ成分を多く含む銅鉱石を精錬した際に偶然発見されたと考えられている。 青銅がもてはやされた理由は、展延性に富み加工性に優れていたことと、銅に比べ融点が低く溶融しやすいにもかかわらず非常に硬度が高く、武器や農具などにも使用可能であったこと、青銅器が示した熱伝導性や耐久性や光沢という金属の一般的な性質が当時の人々にとって希少価値を有していたことにあると言われている。青銅は錫の添加量が多いほど白銀色の光沢が強くなり硬度も上がり、銅が多くなるにつれ黄金色を経て赤銅色へと変化し硬度も低下するが、この白銀色や黄金色といった華美な色彩は当時の人々の創造性を非常に刺激し、祭礼において用いられた神聖な神具や高貴な者が使用する装飾品として錫を多く含む青銅器が製作された。一方で、錫の含有量に相関して脆性が高まることから、青銅製の刀剣は黄金色程度の色彩の青銅が多く使われたことが分かっている。ただしスズは加工は容易ではあるものの非常に地域的な偏在が激しい鉱物のひとつであり、スズを入手できなかった地区においては青銅器時代に到達せず、石器時代が非常に長く継続することも稀ではなかった。またこうしたことからスズは青銅器時代において非常に重要な交易物資として扱われた。銅もスズほどではないがどこにでも産出する性質のものではなく、これらの物資はしばしば文明地域から離れた地域において調達された。シュメール文明においては銅はイラン高原から、のちにはマガン(現オマーン)から、スズはアフガニスタン西部から、それぞれ輸送されてきたが、このことははるかな遠隔地との間を結ぶ長距離交易システムがすでに構築されていたことを示している。こうした青銅器時代の交易船からは、しばしばスズや銅のインゴットが発見され、この二品目が青銅器時代において大変重要な交易品だったことを示している。 青銅器の獲得により、石器時代に比べ、農業生産効率の向上、軍事的優位性を確保する事が出来、それによって社会の大幅な発展と職業の分化、文化レベルの向上が起こったと考えられている。こうしたことから、青銅器時代に入った地域においては各地で文明が成立し、周囲の農耕民が集住してできた都市が形成され、やがて国家を形成するようになっていった。このほか、文字の発明やウマの広汎な使用、車輪の使用、身分の分化などもこの青銅器時代に端を発する。 メソポタミア・エジプトでは紀元前3500年ごろから青銅器時代がはじまった。メソポタミアにおいては青銅器時代に入る前から都市が形成されていたが、青銅器時代に入るとさらに発展は加速し、ウル・ウルク・ラガシュなどといったシュメールの都市国家が栄え、紀元前2350年頃にはアッカド王サルゴンがメソポタミアを最初に統一し、やがてウル第三王朝やバビロニア、カッシートなどの広域王朝が交代を繰り返すようになった。このほか、メソポタミア北部においてはアッシリアやミタンニなども建国された。エジプトにおいても青銅器文明に入ると統一王朝が形成され、エジプト初期王朝時代を経てエジプト古王国が成立した。その後、エジプト第1中間期、エジプト中王国、エジプト第2中間期を経て、エジプト新王国期までがエジプトの青銅器時代である。エーゲ海地方においては、紀元前3000年頃から2000年頃にわたって続いたキクラデス文明や、クレタ島に栄えたミノア文明(ミノス文明、クレタ文明)、ギリシア本土に栄えたミケーネ文明、小アジア西端のトロイア文明といった、エーゲ文明の名で総称される各文明が起こっていた。オリエントにおいては、アナトリア高原にヒッタイトの現れる紀元前1500年前後までが青銅器時代と考えられる。ただしこの時期のオリエントにおいて鉄器の製造技術を保持していたのはヒッタイトのみであり、ほかの諸国においては青銅器時代が継続していた。オリエント全域に鉄器が広がり青銅器時代が終焉するのは、紀元前1200年ごろに海の民の襲撃によりヒッタイトが滅亡し、その技術がオリエント全域に流出した、いわゆる前1200年のカタストロフののちのことである。 インドにおいては紀元前2600年から紀元前1800年ごろにかけて、インダス川流域にモヘンジョ・ダロやハラッパーなどの諸都市によるインダス文明が栄えた。 ヨーロッパでは紀元前2300年〜紀元前1900年ごろのビーカー文化後期、紀元前1800年〜紀元前1600年ごろから始まったウーニェチツェ文化、紀元前1600年〜紀元前1200年ごろの墳墓文化(西部)およびトシュチニェツ文化(東部)、紀元前1300年ごろからの骨壺墓地文化(西部)およびルサチア文化(東部)などを経て、紀元前800年頃から青銅器時代から鉄器時代への移行期に入った。また、北ヨーロッパにおいては青銅器文化の時期はやや遅れ、紀元前1700年〜紀元前500年ごろに北欧青銅器時代を迎えた。 中国では、紀元前3100年頃から紀元前2700年頃にかけて甘粛省や青海省といった黄河最上流部に栄えた馬家窯文化において青銅の物品が発見されており、この時期に青銅器時代に移行したと考えられている。その後、黄河中下流域に栄えた龍山文化や二里頭文化を経て、紀元前1600年頃には二里岡文化に代表される中国最古の王朝である殷(商)が成立した。殷代の青銅器は、饕餮(トウテツ)文と呼ばれる複雑な文様が青銅器の表面に鋳造されていることで知られる。その後周代を経てから春秋時代(紀元前770年〜紀元前400年ごろ)までが青銅器時代に相当し、鼎に代表されるさまざまな特異な青銅器が生まれた。こうした青銅器の表面にはしばしば文字が鋳造されるか刻まれ、金文と呼ばれて貴重な資料となっている。 石器時代、青銅器時代、鉄器時代という時代区分が当てはまらないケースもある。 石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝われば、その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しないことになる。日本は、その典型例である。日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており、青銅器は祭器としてのみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。サハラ砂漠以南のアフリカにおいても青銅器時代は存在せず、銅の使用自体も鉄器伝来後、しかも装身具などわずかな使用にとどまっていた。 また中・南アメリカにおいては、鉄を発見する事なく文明・文化を発展させ、歴史時代に入った事から、青銅器時代という区分は存在しない。鉱業・冶金技術の発展とともに青銅のみならず金や銀、あるいは金・銀・銅の合金が使われるようになったものの、こうした金属器の使用はほぼ装飾品など一部の利用にとどまり、武器など実用品の多くは石器のままの、いわゆる金石併用状態であった。 石器時代 - (銅器時代・金石併用時代)- 青銅器時代 - 鉄器時代 ^ 西川精一 『新版金属工学入門』p427 アグネ技術センター、2001年 ^ 「文明の誕生」p114-117 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行 ^ 「青銅器時代の沈没船:青銅の原料」 ナショナルジオグラフィック 2010年2月24日 2016年9月7日閲覧 ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.287-288 有松唯、「イラン北部における青銅器時代から初期鉄器時代への移行 ノールズ・マハレ遺跡下層出土土器を中心に」 オリエント Vol.50 (2007) No.2 P28-54, doi:10.5356/jorient.50.2_28", "鉄器時代(てっきじだい)は、デンマークのクリスチャン・トムセンが提唱した歴史区分法の1つ。主に利用されていた道具の材料で時代を、石器時代、青銅器時代、鉄器時代と3つに区分する三時代(時期)法を採用し、鉄器時代はその中の最後の時代に相当する。 鉄器時代の定義としては、青銅を利用した青銅器の代わりに鉄を利用した鉄器が主要な道具として使われている事が条件となっている。 この分類法は先ヨーロッパ史を前提にして提唱されている。ヨーロッパ、中東、インド、中国などの地域では時代区分することが可能だが、例えば日本やサハラ以南アフリカにおいては青銅器と鉄器が同時に伝わり、石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり鉄器時代に入るため、全世界的に万能な区分法とは言えない。 初期の製鉄は炉内に木炭と鉱石を層状に装入して鞴(ふいご)で空気を送って燃焼させ、一酸化炭素が鉄と結合している酸素を奪って二酸化炭素となり金属鉄になる。この化学反応に必要な温度は400から800度ほどで、温度が低ければ固体のまま還元されて酸素を失った孔だらけの海綿状の鉄になり、硬いものの上で赤熱のまま打ち叩いて不純物を絞り出し、鉄原子どうしをくっつけ直すことで純粋な鉄にすることができる。これが「鍛える」という操作である。更に炭に包んで炭素分を加えて鍛えることで「鋼」が精製できる。 鉄器の原料となる砂鉄や鉄鉱石などは青銅器の原料である銅鉱石やスズ鉱石にくらべて偏在が少なく、世界の多くの地域において容易に入手が可能なものであった。このため、鉄器製造が可能になると世界各地でその土地の原料によって製鉄が試みられるようになり、金属器の増産をもたらした。また鉄は加工が容易なうえに強度が強く、武器や農具などの原料として適していたため、製法が伝わった地域においてはどこも青銅に代わって鉄を金属器の中心に据えるようになった。ただし青銅も全く使われなくなったわけではなく、青銅器は祭器や装飾品などに使用されるようになっていった。鉄の農具や武器が量産されるようになると、農作物などの生産量が増大して富の蓄積が一層進み、また各地の王がより強力な軍事力を保持するようになっていった。やがて蓄積された富と武力は周辺地域の統合へと向かい、オリエントにおいては初の統一帝国であるアケメネス朝ペルシア帝国が成立し、インドにおいても十六大国などの王朝群が成立したのちそのうちのひとつであるマガダ国が強大化してマウリヤ朝によって統一され、中国においても春秋戦国時代を経て秦王朝による中国統一が成し遂げられ、それに続く漢王朝(前漢・後漢)によって中国の統一状態が固定化されるなど、各地で強大な統一王朝が成立するようになった。また、これら先進地帯においては社会の複雑化が進んだため、思想体系の確立も進み、哲学史的に「枢軸時代」と呼ばれる、紀元前500年ごろの世界同時の思想的一大変動が起きることとなった。このほか、青銅器時代においては国家を形成していなかったヨーロッパや中央アジアのステップ地帯、サハラ以南アフリカや日本などにおいても、鉄器の普及による富の増大と偏在は権力の集中を促し、国家が成立していくようになった。 鉄の利用は鉄器時代の開幕よりもはるかに古く、紀元前3000年ごろにはすでにメソポタミアで鉄は知られていた。ただしもっとも初期には融点が高いために鉄鉱石から鉄を精錬することはできず、もっぱら隕鉄を鉄の材料としていた。その後、エジプトなどでも出土例がみられるが、精錬の難しさや隕鉄の希少性などから利用は多くなく、武器や農具としての利用は青銅を主としていた。 最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトとされている。ヒッタイトの存在したアナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し、鉄を主力とした最初の文化を作り上げた。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった。その鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されており、周辺民族に伝わる事が無かった。しかし前1200年のカタストロフが起き、ヒッタイトが紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。カタストロフによってオリエントの主要勢力はほぼ滅亡するが、その後勃興した、あるいは生き残った諸国はすべて鉄器製造技術を備えていた。同様のことはエーゲ海地方においても起きた。紀元前1200年ごろにギリシアの北方から製鉄技術を持つドーリア人が侵入し、ミケーネ文明の諸都市やその構成員であったアイオリス人やイオニア人を駆逐しながらギリシアへと定住した。この時代は文字による資料が失われていることから暗黒時代と呼ばれるが、一方でアイオリス人やイオニア人を含む全ギリシアに鉄器製造技術が伝播したのもこの時代のことである。 いったん拡散が開始されると、製鉄技術はかなりの速度で旧大陸の各地に伝播していった。アフリカにおいては、紀元前5世紀ごろにはナイジェリア中央部のジョス高原にノク文化が成立したが、この文化は溶鉱炉による鉄の精練を行っていた。また同時期、スーダンのメロエにおいても大量の製鉄が行われていた。このアフリカへの製鉄の伝播ルートとしては、メロエからアフリカ全土へと製鉄法が伝えられたという説と、メロエと西アフリカに同時期に別ルートで製鉄法が伝えられ、それが伝播していったとの説、それに西アフリカで独自に製鉄法が開発されたとの説がある。かつては第一の説が有力であったが、西アフリカにおける製鉄開始の年代がかなり古いと考えられることや、メロエと西アフリカの製鉄法がまったく異なることから現在では有力説とは言えない。また、サハラ以南アフリカにおいては青銅器は鉄器とともに拡散しており、単独の青銅器時代がなく石器時代から直接鉄器時代に移行したのも特色である。また、紀元前1500年ごろから急速な移動と拡大を続けていたバントゥー系民族にも鉄器製造技術は受容され、紀元前3世紀ごろにはヴィクトリア湖畔に達した。この地域はバントゥー系民族の第二次拡散の中心地であり、ここから東アフリカや中部アフリカ、南部アフリカへと鉄器文明は急速に拡大した。 ヨーロッパにおいては、地中海沿岸のイタリア半島中部には紀元前1100年ごろからヴィラ・ノーヴァ文化が栄え、紀元前750年ごろよりこの文化が都市を形成してエトルリアの諸都市が成立した。中央ヨーロッパにおいては青銅器文明後期の段階にあったハルシュタット文化が紀元前800年ごろに鉄器を受け入れ、紀元前450年ごろからはかわってラ・テーヌ文化が栄えるようになった。インドにおいての鉄器時代は古く、紀元前1200年ごろには開始されたと考えられている。ウクライナから中央アジアの草原地帯においては紀元前800年ごろよりスキタイが勢力を持つようになるが、スキタイは鉄器技術を持っていた。 中国においては、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているものの、これはシュメールなどと同じくそれほど利用されていたわけではなく、主に使用されていたのはあくまでも青銅器であった。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代には広く普及した。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けた。例えば、秦は高度に精錬された青銅剣を使っている。 一方の東アジア北部では中国よりも早くに鉄器が伝わり、沿海州では紀元前1000年頃に鉄器時代を迎えている。 鉄器も参照 日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのはたたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、確立した6世紀の古墳時代に入ってからである。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在する。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。日本においては鉄器と青銅器がほぼ同時に伝来したため、耐久性や鋭利さに劣る青銅器は祭器としての利用が主となり、鉄器はもっぱら農具や武器といった実用の道具に使用されることとなった。 鉄器は旧大陸のオリエント地域で出現し、そこから世界各地へと伝播していったため、この地域と接触のない文化においては鉄器製造技術は伝播せず、鉄器時代を迎えることはなかった。代表的な無鉄器文明としては、新大陸のすべての文明が挙げられる。アステカ帝国やマヤ文明に代表されるメソアメリカ文明も、インカ帝国に代表されるアンデス文明も、青銅器の利用すら装飾品としての利用にとどまり、金属加工レベルとしては金石併用時代にとどまっていて、製鉄技術を開発することはなかった。南北アメリカ大陸に鉄器が到達するのは15世紀末のヨーロッパ人のアメリカ発見を待たねばならず、その後も両文明は滅亡まで鉄器製造技術を手に入れることはなかった。鉄器を装備したスペイン人の一隊によって両文明が滅ぼされたのち、やってきたヨーロッパからの植民者たちによってはじめて新大陸に鉄器は普及することとなった。また、太平洋に広がったポリネシア人の文明も、小島嶼群という地域特性上鉄鉱石の鉱脈がほぼ存在しなかったために金属を手に入れることができず、ヨーロッパ人との接触まで新石器時代の技術レベルにとどまった。 石器時代 - (銅器時代・金石併用時代)- 青銅器時代 - 鉄器時代 ^ 「文明の誕生」p128-129 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行 ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p126 ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p60 ^ 「マヤ文明 密林に栄えた石器文化」p21 青山和夫 岩波新書 2012年4月20日第1刷 ^ 「オセアニアを知る事典」平凡社 p269 1990年8月21日初版第1刷", "紀元前5千年紀(きげんぜんごせんねんき)は、西暦による紀元前5000年から紀元前4001年までを指す千年紀(ミレニアム)である。現在からおよそ6000年〜7000年前に当たる。 古代エジプトで新石器時代。 日本の縄文時代前期。縄文海進の最盛期で、海面は今より3〜5メートル高かった。 中国長江流域で大渓文化、黄河流域で仰韶文化。 紀元前5000年頃 - 紀元前3400年頃 - メキシコ南部のテワカン谷の人々がトウモロコシの栽培を始めた。最初は野生のトウモロコシを採集していたが、紀元前3000年頃には野生種に改良が加えられ、穂軸が大きく、粒の落ちにくい栽培種ができあがる。 紀元前5000年 - 紀元前3000年 - フランスのブルターニュ地方のカルナック列石が作られる。 紀元前5000年頃 ギリシャ・テッサリア地方で、新石器文化の農耕民の集落が栄える。 日本ではこの時期、人口が大幅に増加し、竪穴式住居や貝塚が盛んに作られた。丸木舟による漁労活動や交易が盛んに行われる。 紀元前4713年1月1日正午(世界時)= -4712年1月1日正午(世界時) - ユリウス通日の起算日時 紀元前4600年頃‐紀元前4200年頃、ヴァルナ墓地と呼ばれる金石併用時代の200基以上に及ぶ墳墓群が、黒海沿岸(現在のヴァルナ)に築かれる。 紀元前4500年 - メソポタミアでスサ文明およびキシュ文明。 紀元前4500年頃 - 黄河上流から中流にかけて、鮮やかな文様を描いた陶器が盛んに作られ、使われる。これを彩陶(さいとう)と言う。 紀元前4300年頃 - 鹿児島県の大隅半島南端佐多岬の南西約40kmの鬼界カルデラが大爆発する。その火砕流は半径100kmの範囲を覆い、またその火山灰は西日本各地に大量に降り注いだ。 文字の発明 紀元前4500年頃 - ヨーロッパで鋤の使用が始まる 中国: ヤギ、ヒツジの家畜化。彩陶などの陶器の製作 メソポタミアで原始的な印章の使用が始まる 紀元前4713年1月1日正午(世界時)= -4712年1月1日正午(世界時) - ユリウス通日の起算日時。 紀元前4004年10月23日午前9時 - 『旧約聖書』において、この日時に神が人類を創造したとされている。(キリスト教圏で広く信じられた説の一つによる年代推定。天地創造参照)。 注釈 出典 年表 ウィキメディア・コモンズには、紀元前5千年紀に関するカテゴリがあります。", "メヘルガル(ウルドゥー語: م‍ﮩ‍رگڑھ ‎、Mehrgarh)は、考古学的にも重要な新石器時代の遺跡(紀元前7000年-紀元前2500年)で、現在のパキスタン、バローチスターン州に位置する。南アジアで最初期の農耕(小麦と大麦)と牧畜(牛、羊、山羊)の痕跡がある遺跡である。 ボーラーン峠(英語版)付近、インダス川の渓谷の西、パキスタンの現代の都市クエッタの南東にある。1974年、フランス人考古学者 Jean-François Jarrige の率いる発掘チームが発見した。発掘調査は1974年から1986年まで続けられた。495エーカー (2.00 km2) の領域の北東の角にメヘルガルで最も古い居住地跡があり、紀元前7000年から紀元前5500年ごろの小さな農村と見られる。 初期のメヘルガルの建物は泥レンガ製で、穀物を蓄える倉があり、付近で採掘された銅で道具を作り、大きな籠には歴青で補強している。六条オオムギ、1粒コムギ、2粒コムギ、ナツメ、ナツメヤシを栽培し、羊、山羊、牛を育てていた。紀元前5500年から紀元前2600年ごろには、石器製作、皮革なめし、金属加工などの手工業が盛んになっている。この場所には紀元前2600年ごろまで継続的に人間が住んでいた。 2006年4月、科学専門誌「ネイチャー」は in vivo(生体内で)の人間の歯をドリルで治療した世界最古の証拠がメヘルガルで見つかったと発表した。 メヘルガルはインダス文明の発生よりも古い遺跡である。イスラマバードのカーイデ・アーザム大学の考古学名誉教授 アフマド・ハサン・ダーニー は「メヘルガルでの発見はインダス文明の概念を根底からくつがえした」とし、「そこでは村が始まった当初から連綿と生活が続いていた」としている。パリのギメ東洋美術館のインダス・バルチスターン考古研究センターの Catherine Jarrige は次のように述べている。 「…カチ平原とボーラーン盆地はボーラーン峠に面しており、この峠がアフガニスタン南部、イラン東部、バルチスターン丘陵、インダス川渓谷を繋ぐ主要ルートになっている。ゆるやかな起伏のこの丘陵地帯はインダス渓谷の西端にあり、紀元前2500年ごろ、そのあたりでメソポタミアや古代エジプトと同時期に巨大都市文明が出現した。インド亜大陸で最初の継続的定住地は紀元前7000年から紀元前500年ごろまで存在したことが、ピラク(1968年-1974年)、メヘルガル(1975年-1985年)、ナウシャロー(1985年-1996年)の発掘調査で明らかとなった」 メヘルガルの銅器時代の人々は、アフガニスタン北部、イラン北部、中央アジア南部の文化とも交流をもっていた。 考古学者はメヘルガルの年代をいくつかに分けている。メヘルガルI期は紀元前7000年から紀元前5500年までを指し、土器を伴わない新石器時代である。この地域での初期の農業は半遊牧民が行ったもので、コムギやオオムギを栽培する傍らでヒツジやヤギやウシを飼っていた。泥製の住居群は4つの区画に分けられている。多数の埋葬跡も見つかっており、副葬品として籠、石器、骨器、ビーズ、腕輪、ペンダントなどがあり、時折動物の生贄も見つかっている。一般に男性の方が副葬品が多い。装飾品としては、貝殻(海のもの)、石灰岩、トルコ石、ラピスラズリ、砂岩、磨いた銅などが使われており、女性や動物の原始的な像も見つかっている。海の貝殻や付近では産出しないラピスラズリ(アフガニスタン北東部で産する)が見つかっていることから、それらの地域と交流があったことがわかる。副葬品として石斧が1つ見つかっており、もっと地表に近いところからも石斧がいくつか見つかっている。これらの石斧は南アジアでは最古のものである。 2001年、メヘルガルで見つかった2人の男性の遺体を研究していた考古学者らは、インダス文明の人々がハラッパー文化の初期から原始的な歯学の知識を持っていたことを発見した。その後の2006年4月、「ネイチャー」誌は in vivo(生体内)で人間の歯をドリルで治療した世界最古の証拠がメヘルガルで見つかったと発表した。論文の筆者らによると、その発見により初期農耕文化の中で原始歯学の伝統が育まれたことを示すという。「ここで我々は、7500年から9000年前のパキスタンの新石器時代の墓地から発見された9体の成人の遺骨において、11個の臼歯に穴を開けた痕跡があることを説明する。これらの発見は、初期農耕文化の中である種の原始歯学の長い伝統が育まれた証拠である」 メヘルガルII期は紀元前5500年から紀元前4800年まで、メヘルガルIII期は紀元前4800年から紀元前3500年までを指す。II期は土器を伴う新石器時代、III期は銅器時代後期である。様々な生産活動の痕跡が見つかっており、より高度な技術が使われるようになっていった。艶のあるファイヤンス焼きのビーズが作られるようになり、テラコッタ製の像は精密化していった。女性の像は色を塗られ、様々な髪形で装飾品も身につけた姿になっていった。II期の2つの屈葬墓は、遺体を赭土で覆った形で見つかった。副葬品の量は徐々に少なくなっていき、特に装身具が少なくなり、女性の墓の方が副葬品が多くなっていった。最古の鈕印章はテラコッタと骨から作られており、幾何学的なデザインとなっている。テクノロジーとしては、石と銅でできた条播器、窯、銅を溶かす坩堝などがある。II期にはさらに遠方と交易していた証拠がある。特に重要なのはラピスラズリ製のビーズの発見で、現在のアフガニスタン北東部で産出したものである。 紀元前2600年から紀元前2000年の間のいずれかの時点で、この集落はほとんど放棄されており、それはインダス文明が発展の途中段階にあったころである。 インダス文明 クエッタ ^ Hirst, K. Kris. 2005. \"Mehrgarh\". Guide to Archaeology ^ Possehl, Gregory L. 1996. \"Mehrgarh.\" Oxford Companion to Archaeology, edited by Brian Fagan. Oxford University Press ^ a b Coppa, A. et al. 2006. \"Early Neolithic tradition of dentistry: Flint tips were surprisingly effective for drilling tooth enamel in a prehistoric population.\" Nature. Volume 440. 6 April 2006. ^ Kenoyer, J. Mark, and Kimberly Heuston. 2005. The Ancient South Asian World. Oxford University Press. 176 pages. ISBN 0195174224. Dr. Ahmad Hasan Dani, \"History Through The Centuries\", National Fund for Cultural Heritage Jonathan Mark Kenoyer, \"Early Developments of Art, Symbol and Technology in the Indus Valley Tradition\" \"Stone age man used dentist drill\" BBCニュース 都市文明のあけぼの インダス文明への招待(東海大学) 座標: 北緯29度12分45秒 東経67度40分15秒 / 北緯29.21250度 東経67.67083度 / 29.21250; 67.67083", "紀元前26世紀(きげんぜんにじゅろくせいき)は、西暦による紀元前2600年から紀元前2501年までの100年間を指す世紀。 紀元前2600-2500年頃 デンマークでは野生の馬の狩猟が行われていた。 グ・エディン・ナをめぐりラガシュとウンマの間の戦争が続いた。 紀元前2600-2400年頃 シュメール人のウルの王墓(英語版)が多数作られる。 王妃プアビ(英語版)の墓には金の宝飾品を身に着けた侍女たちが多数殉葬されていた。 「ウルのスタンダード(大英博物館蔵)」や「牡山羊の像(大英博物館蔵)」が副葬品として作られる。 紀元前2600-2350年頃 - エジプトのサッカラ出土の「書記坐像(ルーヴル美術館蔵)」が作られる。 紀元前2600年頃 インダス文明統合期(ハラッパーIIIA期)。 クレタ島のミノア文明は前宮殿時代(土器編年EMII)。 ミルトスのフルヌウ・コリフィ遺跡はこの時代のもの( - 紀元前2200年頃)。 紀元前2589年頃 - エジプトでクフの治世が始まった。 紀元前2578年頃 - クフが死去した。 紀元前2575年頃 - スネフェルがエジプト第4王朝を興した。 紀元前2570年頃 - カフラーが治世を始めた。 紀元前2566年頃 - クフが死去した。 紀元前2558年頃 - カフラーが治世を始めた。 紀元前2550年頃 ギザの大ピラミッドが完成した。 エジプト西部の砂漠のオアシスの開発が進められた。 メスアンネパダがウルクを倒してウル第1王朝を築いた。 紀元前2544年頃 - カフラーが死去した。 紀元前2533年頃 - メンカウラーが治世を始めた。 紀元前2532年頃 カフラーが死去した。 メンカウラーが治世を始めた。 紀元前2515年頃 - メンカウラーが死去した。 紀元前2503年頃 - メンカウラーが死去した。 この時期までに「メンカウラーとその后カメレルネブティ2世の像(ボストン美術館蔵)」が作られた。 紀元前2500年頃 エジプト王シェプスセスカフが自らの墳墓としてサッカラに「マスタバ・ファラウン(英語版)」(「ファラオのベンチ」)を建設。 三皇の時代が終わり黄帝により五帝の時代が始まった。 ストーンヘンジのストーンサークルの建設が始まり、この後500年間続いた。 紀元前2601-2578年頃 - クフ(エジプト第4王朝ファラオ) 紀元前2599年 - フニ(エジプト第3王朝ファラオ) 紀元前2575年 - スネフェル(エジプト第4王朝ファラオ) 紀元前2528年 - ジェドエフラー(エジプト第4王朝ファラオ) 紀元前2520年 - カフラー(エジプト第4王朝ファラオ) 洞窟壁画 - ノルウェーのRødøy フタコブラクダとヒトコブラクダが家畜化された。 紀元前2560年 - 初代ドクターがダーレクに追われこの時代に辿り着く。ダーレクとエジプト兵が戦闘。(ドラマ『ドクター・フー』) 注釈 出典 年表" ]
ABC01-02-0154
歴代自由民主党総裁のうち、ただひとり総理大臣になったことがないのは誰でしょう?
河野洋平
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[ "河野洋平", "町村信孝", "谷垣禎一", "自見庄三郎", "羽田孜" ]
[ "河野 洋平(こうの ようへい、1937年〈昭和12年〉1月15日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(14期)、衆議院議長(第71・72代)、副総理(村山内閣・村山改造内閣)、外務大臣(第123・128-131代)、内閣官房長官(第55代)、科学技術庁長官(第39代)、原子力委員会委員長(第39代)、自由民主党総裁(第16代)、新自由クラブ代表(第1・3代)を歴任。 2003年(平成15年)から2009年(平成21年)まで日本憲政史上最長の期間にわたって衆議院議長を務めた。 副総理兼国務大臣(東京オリンピック担当)、農林水産大臣等を務めた党人派の実力者だった元衆議院議員の河野一郎は父。元参議院議長の河野謙三は叔父。外務大臣で衆議院議員の河野太郎は長男。 いわゆる従軍慰安婦について述べた「河野談話」を発表したことで知られる。 1955年(昭和30年)、早稲田大学高等学院を卒業し、早稲田大学政治経済学部経済学科に入学(同級生に福田康夫)。1959年(昭和34年)に大学を卒業し、丸紅飯田(1972年に社名変更して丸紅となる)に入社した。大阪本社財務部、食糧部、東京支社砂糖食料品部に勤務。 丸紅飯田在籍中には富士スピードウェイの建設にも関わっており、富士スピードウェイの運営会社として設立された「日本ナスカー株式会社」の副社長も務めていたことがある。ただしその後、同社の経営権が三菱地所に事実上譲渡されたことに伴い、サーキットのオープンを待たずに経営陣から退いている。 後、米国スタンフォード大学留学、ニチリョウ社長を務めた。1965年(昭和40年)、父・一郎が死去。 1967年(昭和42年)、父の地盤を継承して自民党公認で初出馬、トップ当選を果たす(当選同期に山下元利・増岡博之・加藤六月・塩川正十郎・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・水野清など)。自民党では父が率いた河野派の流れをくむ中曽根派に入会。1972年(昭和47年)、第2次田中角栄内閣の文部政務次官に就任。 若手時代は「自民党のプリンス」と呼ばれ、勉強会「政治工学研究所」(政工研)を主宰。超派閥的に党内左派の中堅・若手議員を従える立場にあった。1974年(昭和49年)の田中角栄内閣の総辞職に伴う後継総理・総裁選出に際しては、公選が行われることを見越しての河野擁立運動が政工研を中心に展開された。しかし、話し合いによる後継者決定(椎名裁定)が当時の実力者の間で既定路線となっていたこともあり、擁立運動は挫折した。また、三木内閣発足時には環境庁長官への起用が予定されていたが、党内左派の反発で流れた。 1976年(昭和51年)に政工研のメンバーだった田川誠一、西岡武夫、山口敏夫、小林正巳、有田一寿と自民党を離党、新自由クラブを結成し党首に就任。結党直後の総選挙では都市部を中心に一挙に17人の当選者を出す躍進を遂げた。なお、1976年(昭和51年)の新自由クラブ立ち上げ当時に、ニッポン放送の深夜放送『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた経験(1976年7月30日放送)がある。 1979年(昭和54年)、西岡の離党・自民党復党によって打撃を受け、総選挙では惨敗した。後、代表を辞任している。また、自民党が同年の総選挙で過半数割れした後の四十日抗争の際に当時の大平正芳首相から連立の申し出があったが、自民党内の反対で立ち消えになった(連立政権では田川が文部大臣に就任する予定だった)。なお、1981年(昭和56年)には映画『ええじゃないか』に原市之進役で出演したこともある。 1982年(昭和57年)、河野の政界の師匠である中曽根康弘が内閣総理大臣となると、連立政権案が浮上。1983年(昭和58年)、新自由クラブは第37回衆議院議員総選挙で過半数割れした自民党の呼びかけに応じ、連立政権に参加した。1984年(昭和59年)に新自由クラブ代表に復帰。1985年(昭和60年)には第2次中曽根再改造内閣で科学技術庁長官に就任し、政界入りから18年目で初入閣。 1986年(昭和61年) 新自由クラブは解党し、河野も自民党に復党する。 かつて所属した中曽根派から「帰ってこい」と言われたが、中曽根のタカ派体質が馴染めず断り、尊敬する宮澤喜一が領袖を務める宏池会に入る(当時は宮沢派) 。しばらく活動を抑えていたが、1991年(平成3年)には宮沢総裁実現に貢献し、1992年(平成4年)、宮澤改造内閣で内閣官房長官に就任し、また、国務大臣として『婦人問題を総合的に推進するため行政各部の所管する事務の調整』も担当した。 1993年(平成5年)、小沢一郎ら大量の離党者と総選挙で過半数を割った宮澤内閣が総辞職すると、新党さきがけを結成した武村正義らを懐柔する目的で、後継総裁に後藤田正晴が浮上。しかし後藤田が固辞したため、自由民主党総裁選挙に立候補し、渡辺美智雄を破って自民党総裁に就任。党総裁としては初めて首相の所信表明演説に対して代表質問を行った。 1994年(平成6年)に政府提出案であった政治改革関連法案が参議院で否決された際、細川護煕首相との党首会談で法案修正で合意した上で成立させた。また羽田政権総辞職後の政権構想では自分の首相就任を断念して、日本社会党の村山富市を首班に擁立して自社さ連立政権(村山内閣)を成立させ、自民党の政権復帰を実現した。河野は同内閣で副総理・外務大臣に就任した。 1995年(平成7年)の第17回参議院議員通常選挙で与党が敗北すると村山は自民党総裁である河野に政権禅譲を提案。しかし、小渕派会長の小渕恵三が総裁選前の交代を強硬に反対したために実現しなかった。総裁選挙では、河野は幹事長を三塚派の森喜朗から三塚博に交代するなどして、再選戦略を展開したものの、同じ宮沢派の実力者である加藤紘一が橋本龍太郎を支持したことにより、出馬辞退に追い込まれる。後継の総裁となった橋本が、閣内で通産大臣だったこともあり、副総理も橋本に明け渡している(外務大臣職は、内閣総辞職まで続投)。史上初の内閣総理大臣に就任していない自民党総裁となった。また、自民党総裁経験者で、衆議院議長になったのも河野だけである。 1998年(平成10年)12月には、宮澤派の後継を巡って加藤との対立を鮮明にするが、派内の河野支持者の劣勢に加え、河野本人が当時宮澤派を離れ無派閥であったことも影響し、加藤が後継者に決定した。翌1999年(平成11年)1月、河野を支持し、加藤派への移行に反発して宮澤派を離脱した粕谷茂、麻生太郎、相澤英之、衛藤征士郎、森英介らと「大勇会」(河野グループ)を結成し、会長に就任。 1998年(平成10年)の自民党総裁選挙では、宮沢、加藤らの小渕恵三支持に反し、粕谷、麻生らと共に梶山静六を支持した。1999年(平成11年)には小渕内閣で外務大臣に就任。続く森喜朗内閣でも続投し、2000年(平成12年)7月の九州・沖縄サミットではG8外相会議の議長を務めた。 2003年(平成15年)に行われた第43回衆議院議員総選挙後の衆議院議長候補選任に際して、自民党総裁として政権奪還の悲願を果たした功労者でありながら、内閣総理大臣に就任出来なかった河野の境遇を見かねた森喜朗に打診されて衆議院議長に就任。イラク戦争については疑問を呈しながらも「やむをえない決断」として武力行使を指示した。 2005年(平成17年)7月の郵政国会で郵政法案に造反が出て5票差の僅差で可決された時には、可否同数になった際の議長決裁も想定していた。2005年(平成17年)8月に衆議院解散で議長失職するが、総選挙後の9月に議長期間が短かったこともあり議長再選された。 2006年(平成18年)、衆議院議長在任のため派閥活動に関与していなかったこともあって、派閥会長の座を麻生に譲ることを決意。この際、河野派から麻生派への移行では麻生に都合が悪いとして、12月15日に大勇会を正式に解散し、その上で麻生が新たに派閥を結成する形式をとった。 2007年(平成19年)には国会事務総長経験者が就任することが慣例化していた国立国会図書館長人事について、衆議院議長の強い意向として情報工学者の長尾真を起用した。 2008年(平成20年)、ガソリン国会でのガソリン税等暫定税率延長問題に絡み、与党が提出した「つなぎ法案」に対し野党が反発し、国会が混乱した際、江田五月参議院議長と連名で、予算案と歳入法案の徹底審議を行って年度内に一定の結論を得ることで、つなぎ法案を取り下げるものとした斡旋案を提示した。与野党は両院議長の斡旋案に合意した(その後予算案は結局強行採決され、歳入関連法案は衆議院でみなし否決をした上で再可決された)。 2008年(平成20年)9月17日、次期衆院選に立候補せず政界を引退する意向であると報じられる。翌9月18日、正式に表明し、牧島かれんを後継とする意向も示した。同年11月20日、衆議院議長としての在任日数が1786日となり明治から大正にかけて議長を務めた大岡育造の記録を破り憲政史上最長を更新。 2009年(平成21年)7月21日、衆議院は解散され、解散詔書を読み上げるとともに2029日務めた議長の任と議員生活を終えた。 また、その後行われた第45回衆議院議員総選挙で河野の前任の議長を務めていた綿貫民輔が落選したため、次期国会の召集時には一時的に議長経験者が不在となった。2011年(平成23年)秋の叙勲にて桐花大綬章を受章。 早稲田大学競走部のOBで、父・一郎、叔父・謙三も歴任した日本陸上競技連盟会長を務めていた(2013年退任)。年初に開催される箱根駅伝では、中継所や往路のゴールにて自身の出身校である早稲田大学の選手の到着を待っている姿がしばしば目撃される。 上記陸連会長として、資金を不正運用した上に巨額損失を出している、東京マラソンに関する協賛金を計上しない、人事を身内で固め陸上と無縁な人物を入会させる、等の行為を内部告発されている(週刊新潮2009年3月18日発売号より)。 また、競走馬のオーナーブリーダーとしても知られ、父・河野一郎から引き継いだ那須野牧場のオーナーとしてナスノコトブキ(1966年菊花賞)、ナスノカオリ(1971年桜花賞)、ナスノチグサ(1973年優駿牝馬)を輩出した。その関係もあり、現在日本軽種馬協会会長を務めている。なお、那須野牧場は河野洋平の次男である河野二郎が社長を務めている。 出身地・選出選挙区ともに首都圏であるが、自民党総裁としては初代の鳩山一郎以来である(河野以後では小泉純一郎がいる)。 河野は新自由クラブを結成した1976年(昭和51年)頃より異常な疲れを感じるようになっており、直後に重度の肝機能障害を指摘された。これは後にC型肝炎と診断され、さらに1997年(平成9年)にアメリカ合衆国で受けた肝臓の生検の結果、肝硬変に近い状態まで進行していることが判明した。これに対してインターフェロンによる治療を受けたものの改善無く、2000年(平成12年)には黄疸が出現、また肝性脳症による意識障害も生じるようになっていたという。 2002年(平成14年)、息子らの勧めによって、肝臓移植を受けることを決定、同年4月16日から翌未明にかけて、信州大学医学部附属病院において生体肝移植を受けた。肝臓のドナーは、息子の太郎であった。手術は成功したが、河野は自身のC型肝炎感染経路については不明としている。 北京オリンピックを支援する議員の会会長 日中友好議員連盟所属 日本国際貿易促進協会会長 日韓議員連盟顧問 日本陸上競技連盟元会長(2013年退任) 日本軽種馬協会会長 河野は1980年に朝鮮総連25周年行事に参加して、 尊敬する韓徳銖先生(当時の朝鮮総連議長)。この席にお集まりの幹部の皆様、私は皆様方が敬愛する金日成主席の指導の下、いくつもの難しい局面や困難を乗り越え、(朝鮮総連)結成25周年を迎えられたことに、心からお祝いの言葉を述べさせていただきます。 この25年間、皆様は着実な歩みで、在日同胞をまとめあげ、日本の広範にわたる人々の理解を得るため努力をされてきており、今日、保守的だといわれる新自由クラブを代表する私が、この席にご招待いただいたことをみても、皆様方の運動の正当性の一端を窺うことができるでしょう。 朝鮮問題についてはさまざまな意見がございますが、今日、日本の近隣国家である朝鮮半島の自主的平和統一を積極的に支持するという意見が大多数であることは疑いの無い事実となっております。このような良い状況というのは黙って座っていれば自然に整うというものではなく、皆様方が、苦難に満ちた道のりをご自身の力で開拓してきたことから勝ち得た結果です。私はこれについて深い敬意を表します。皆様たちは、この25年間絶え間なく、着実に努力を重ね、固い団結を守り、運動を確固たる形へと発展させてきました。皆様の運動なくしては在日同胞の生活や安全、反映は考えられず、彼らを守り育ててきたことは、やはり、皆様方の努力によるものだと思います。 新自由クラブは立党以来、朝鮮民主主義人民共和国に正式代表団を送り、真剣な意見交換を行ってきたことを始めとし、世界平和のために、力を注いできました。まだ未熟な点もございますが、私たちは、力で問題を解決できるなどとは、決して思っておりません。平和を願う心と心の対話、そういった誠意を結集させた大きな政治的な判断が、朝鮮を自主的平和統一へと導くでしょう。もう一度、新自由クラブを代表し、結成25周年を祝し、これからも皆様方が強い団結と、敬愛する金日成主席の指導の下、理想達成のため、続けて献身されるであることを願い、それらの運動に、私たちがともに肩を並べて歩み、行動していくことを約束し、お祝いの言葉といたします と祝辞を送っている。 1993年(平成5年)、韓国の盧泰愚大統領は従軍慰安婦問題で韓国挺身隊問題対策協議会らが主張する「強制連行」の有無について真相究明を求め、日本政府は「強制連行」となる証拠が発見できずに対応に苦慮していた。韓国への外交的な配慮をするため、河野は「文書を探す調査だけでは十分でないという部分もございますから、関係された方々のお話もお聞きをするということを考えております」と国会で答弁し、7月26日から30日にかけて韓国の太平洋戦争遺族会から紹介された16人の慰安婦に対して聞き取り調査を行った。宮澤喜一改造内閣の官房長官として、それまで認めていなかった慰安婦の強制性を認め謝罪する「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(「河野談話」)を発表した。河野は談話中で、「総じて本人たちの意思に反して行われた」「募集・移送・管理等の過程全体としてみれば甘言・強圧という方法により強制があった」という趣旨の発言を行った が、事前に韓国政府と談話の内容を調整していたことや慰安婦の証言の裏付け調査をしていなかったことが明らかにされている。 1997年に平林博内閣官房内閣外政審議室長が「従軍慰安婦に関する限りは強制連行を直接示すような政府資料というものは発見されませんでした」と国会で答弁しており、当時官房副長官であった石原信雄も、当時の日本政府の調査では、軍など日本側当局が慰安婦を強制連行したという資料は確認されなかったと述べている。 調査期間が短かった理由については、第40回衆議院議員総選挙で非自民党の連立政権が発足されることが確実になったため、政権としての実績を残したい焦りがあったためと指摘されている。(談話が発表された翌日に宮澤内閣は総辞職している。) 2012年8月24日、河野談話について、慰安婦の強制連行について証拠がないにも関わらず、慰安婦の強制性を認めたことについて、石原慎太郎は「訳分からず認めた河野洋平という馬鹿が日韓関係を駄目にした」、橋下徹は「証拠に基づかない内容で最悪だ。日韓関係をこじ らせる最大の元凶だ」と相次いで批判し、松原仁国家公安委員会委員長や安倍晋三元首相も河野談話を問題視する発言を行っているまた、野田佳彦首相も、2011年の参議院予算委員会で河野談話について「強制連行したという事実を文書では確認できなかった」と発言している。河野は「『昔はどこの国でも(慰安婦は)いたんだよ』と発言するのは卑怯です。スピード違反で捕まった人が、『ほかの人もやっているじゃないか』と自分の罪を認めず、開き直る態度に似ている。」と批判し、「河野談話以降の日韓関係は非常に良好だったじゃないですか」と河野談話が日韓関係の改善したと主張している。 河野談話は証拠に拠るものではなく、河野の個人的な政治信念に基づくものであることは、本人により認められている『朝鮮日報』(2012年8月30日付)の取材に対して「私は信念を持って談話を発表した」「(慰安婦の徴集命令を裏付ける証拠資料がないとする批判には)処分されたと推定できる」と述べている。河野は韓国の太平洋戦争遺族会から紹介された16人の慰安婦からの証言(非公開)を「証言は被害者でなければ語り得ない経験である」と判断したことが慰安婦の強制連行を信じる根拠となったと発言していたが、現在は、インドネシアでオランダ人女性が日本軍に強制連行された白馬事件を根拠としている。 慰安婦募集の強制性(強制連行)について、河野は「紙の証拠がない」と証言しており、また、「背後に強大な、圧倒的な権力を持った者がいて、甘言、あるいはだまして(女性を)連れていった」「これはもう結果として断ることができない、本人の意志に反して連れて行かれたということは、言ってみれば強制だった」という見解を述べている。 河野談話は当初から強制連行を示す証拠がないにも拘らず強制性がみられると述べている点が問題視されることがあったが、2014年8月5日および6日に、談話の発火点ともされる朝日新聞の植村隆元記者の書いた慰安婦強制連行を肯定する記事が朝日新聞自身の検証により資料の「誤用」とし強制連行については取り消したことを受け、日本政府は談話の再検証を実施、8月20日に検証結果の報告書を公表した。報告書は、 談話作成時に韓国側と文言調整していた。 元慰安婦とされた女性への聞き取り調査では、事後の裏付け調査を行わなかった。 日韓両政府が文言調整の事実を対外的に非公表とする取り決めがあった。 ことを明らかにしている。 翌21日、自民党政調会議では「正しい史実に基づき、日本の名誉を回復したい。国際社会に正しい情報を積極的に発信すべきだ」として、河野談話に代わる新たな官房長官談話を出すよう政府に要請することを決定した。 また、外国の報道や教科書に慰安婦に関する事実誤認があるとして、自民党が日本政府に訂正の働きかけを求める提言をまとめたことについて、河野はオランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議を持ち出して「強制連行があったことは、否定することのできない事実だ」と反論。「なぜ『申し訳ありませんでした』とできないのか。」と不快感を示した。 外務大臣在任中、日本が批准していた「化学兵器の開発,生産,貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」の発効に伴い、同条約4条から要請される、中国国内に遺棄された旧日本軍の毒ガス弾の処理において、中国やソ連のもすべて日本が全負担する取り決めを中国と交わした。 なお、同条約および附属文書では、遺棄化学兵器の廃棄に必要な資金技術人員施設等すべての必要なものを遺棄した締約国(つまり中国における旧日本軍の遺棄化学兵器については日本)の責任で用意することを求めており、また、遺棄化学兵器の廃棄を発効後10年間(2007年まで)に終了することを求めている。 在日韓国人の徐龍達が推進していた公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法成立のため、藤波孝生、森喜朗らと尽力をした。 2000年(平成12年)に外務大臣として国連からの要請は19万5千トンで山崎拓と共に北朝鮮からの食糧要請は最大限すべきであり、拉致疑惑のせいで支援出来ないのは議論の余地があるとして北朝鮮への50万トンのコメ支援を決定した。 1975年(昭和50年)にタイ王国の首都バンコクで行われた東南アジア諸国連合外相会議に議員として出席した際、搭乗した飛行機が機体不良で台湾に緊急着陸した後に、中華人民共和国外交部長(外務大臣)だった喬冠華に会った際に「私は台湾の空港で一歩も外に出ませんでした」と述べた。 2001年(平成13年)の台湾の李登輝前総統訪日に中華人民共和国からの強い抗議を受けて、自らの外務大臣辞任をほのめかしてまで入国ビザ発行に反対した。ビザが交付されたが、河野は辞任しなかった。 2006年(平成18年)8月15日、全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞で今上天皇、美智子皇后両陛下の面前で「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と戦争責任論に言及し、2007年(平成19年)8月15日全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞においては、「日本軍の一部による非人道的な行為によって人権を侵害され、心身に深い傷を負い、今もなお苦しんでおられる方々に、心からなる謝罪とお見舞いの気持ちを申し上げたいと思います 」と両陛下と戦没者遺族が出席している中で述べた。 安倍総理大臣が靖国神社に参拝したことについて「まったく評価しない。今やるべきでないことをやっている」と批判している。 2015年、安倍政権の政権運営をめぐり「自民党がこれ以上『右』に行かないようにしてほしい。今は保守政治と言うより右翼政治のような気がする」との懸念を示した。 2016年12月の安倍首相の真珠湾への慰霊訪問に対しての朝日新聞社からのインタビューで「中国人・韓国人に日本への怒りが相当あるのは当然だ」と述べた。さらに朝日新聞記者が「首相に対し、中国・韓国への配慮も暗に求めた」と補足したことに産経新聞は社説で両者を『理解不能』、『激しく戦ったアメリカとの歴史的な和解のための訪問で、中韓にどう配慮しろというのか。そもそも日本は韓国と戦争していない。』と強く批判した。河野を芥川龍之介の侏儒の言葉での政治家への皮肉を引用して『中途半端で要領を得ない知識・見識を振りかざす政治家より、国民の肌感覚の方がはるかにまともである。』と批判した。 2017年5月の講演において、「自民党は改憲党ではない」「中国の嫌がることばかりやっている」などと語った。 荒木和博は、河野が「外務省が表に出て第一線で当たるのに大事なことが二つある。一つは、力ずくではダメ、話し合いでやらなければいけない、ということ」と主張していることについて、「相手は国家体制自体が拉致犯なのですから、いざというときには実力で奪還するというオプションを持っていなければ話し合いによる解決もできないのではないでしょうか。最優先されるのは被拉致者の安全ですから、最後には色々な手段が考えられますが、安明進氏が「片手に棍棒を持って交渉すべきだ」と言ったように、北朝鮮には強硬策を持って臨んだほうが成果は上がるものと思います。「強硬なことを言うと『戦争をする気か』と言われる」と言った人がいましたが、数十人の日本人が長期に亙って拉致されているというのはすでに私たちが戦争の中にいるということの証明です。」と述べている。 クリントン米政権時の2000年(平成12年)10月、オルブライト国務長官(当時)訪朝前に、アメリカ政府は北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除を検討しており、解除に極めて近い状況であったが、日本政府(河野は当時外務大臣)が拉致問題等を理由に指定解除阻止を図っていたことが分かっている。 2011年(平成23年)3月19日に始まった北大西洋条約機構(NATO)による対リビア空爆作戦を日本政府が支持したことについて、自身がコメンテーターとして出演していたTBSの報道番組『サンデーモーニング』内にて、当時中国政府がリビア空爆に反対していたにも関わらず、菅内閣 (第2次改造)がNATO軍の空爆を安易に支持表明をしてしまったことにより、今後の日中関係に悪影響を与えると批判した。 南京事件については認めつつ、中国政府が犠牲者を30万人としていることについては、「若干、われわれの意見と食い違うものもある」と反論している。 1972年12月 - 文部政務次官(第2次田中角栄内閣) 1985年12月 - 科学技術庁長官(第2次中曽根内閣第2次改造内閣) 1992年12月 - 内閣官房長官(宮沢改造内閣) 1994年6月 - 外務大臣・副総理(村山内閣) 1995年8月 - 外務大臣(村山改造内閣) 1999年10月 - 外務大臣(小渕第2次改造内閣) 2000年4月 - 外務大臣(第1次森内閣・第2次森内閣・第2次森改造内閣) 2003年9月 - 衆議院議長 2005年8月 - 衆議院議長 (神奈川県平塚市) 祖父・治平(政治家) 父・一郎(政治家) 妻・武子(1995年7月没。実業家伊藤恭一娘) 長男・太郎(自由民主党衆議院議員・現外務大臣) 次男・二郎(那須野牧場社長) いとこ・田川誠一(政治家) ^ a b c [時代の証言者]保守・ハト派 河野洋平(14)「消費税反対」の誤解 読売新聞 2012年10月4日 ^ 内閣府 男女共同参画局 ^ 2003年3月17日放送のNHK「NHKニュース9」 ^ a b c 太郎との共著『決断』を参照 ^ 朝鮮新報 1980年5月28日 ^ 第 126 回国会参議院予算委員会会議録第 7 号 平成 5 年 3 月 23 日 pp.4-5 ^ 平成5年8月4日 内閣官房内閣外政審議室 調査の経緯. いわゆる従軍慰安婦問題について [1] ^ 朝日新聞1997年3月31日付 ^ 首相官邸 (2014年6月20日). “河野談話作成過程に関する検証作業について”. http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201406/20_p.html 2014年9月13日閲覧。  ^ 河野談話作成過程等に関する検討チーム (2014年6月20日). “慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯~河野談話作成からアジア女性基金まで~”. 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(2001年4月18日). http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/danmen/danmen2001/0418.html 2015年6月29日閲覧。  ^ 河野元衆院議長:第二次大戦への日本の反省は不十分-インタビュー ブルームバーグ 2014年7月24日 ^ 河野洋平元衆院議長「今は保守と言うより右翼政治」、村山談話踏襲求める!」 ^ “何を見聞きしても中韓への贖罪意識にとらわれるのか”. 産経新聞社. 2016年12月25日閲覧。 ^ “「安倍という不思議な政権」 河野洋平元衆院議長が首相を呼び捨て猛批判 外交も「中国の嫌がることばかり」「9条は触るべきではない」 講演詳報”. 産経新聞 (2017年5月31日). 2017年5月31日閲覧。 ^ http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200001/00-01-03.htm 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 334頁 神奈川県出身の人物一覧 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 ネオ・ニューリーダー KK戦争 谷垣禎一 - 河野同様内閣総理大臣でない自由民主党総裁。 鯨岡兵輔 - 河野の後ろ盾として行動した 松本純 - 河野の側近で、河野の長男・太郎とは1996年衆院選当選同期である。 親中派 妙智会教団", "町村 信孝(まちむら のぶたか、1944年〈昭和19年〉10月17日 - 2015年〈平成27年〉6月1日)は、日本の政治家。 衆議院議員(当選12回)、文部大臣(第124・129代)、内閣総理大臣補佐官(教育改革担当)、科学技術庁長官(第62代)、原子力委員会委員長(第62代)、文部科学大臣(初代)、外務大臣(第136・137・140代)、内閣官房長官(第75代)、拉致問題担当大臣(福田康夫内閣)、衆議院議長(第75代)などを歴任した。 なお、名前の表記についてはこちらを参照のこと。 静岡県沼津市に内務官僚・町村金五の次男として生まれた。町村家は、父・金五が静岡県水産課長時代からの縁で、沼津市郊外にあった静岡県原町漁業組合長植松与三郎の別宅に疎開していた。 東京学芸大学附属世田谷中学校、東京都立日比谷高等学校を経て東京大学経済学部卒業。 体格は、小学4年生の時点で身長1m60cm・体重60kgあり、相撲大会で優勝したこともあって、相撲部屋から勧誘されたことがある。高校ではラグビー部に入り、早稲田、慶應から勧誘された。 町村の東大在学中は東大紛争の真っ只中であり、ノンポリ学生のリーダーの一人として、東大紛争終結のための学生運動を率いた。 大学3年時に、サンケイ新聞社奨学金を受けて米国コネティカット州ウェズリアン大学に留学。 1968年(昭和43年)11月、東大経済学部ストライキ実行委員会の一人としておよそ1ヶ月のストライキを打っている。1969年(昭和44年)1月、秩父宮ラグビー場にて東大7学部の学生・教職員9千人が参加した“大衆団交”では議長役を務め、大学自治の議定書である「東大確認書」には経済学部代表として署名している。大学でもラグビー部に所属していた。 1969年(昭和44年)東大を卒業し、通商産業省(現・経済産業省)に入省。昭和44年入省同期組らで、「44」(しし)と高倉健の歌である「唐獅子牡丹」に掛けて、「獅子の会」なる集まりを結成し、エネルギー問題などに関して血判状(連判状)を作って大臣、事務次官らを突き上げたこともあった。その後、米国ジェトロ出向経験を経て、1982年(昭和57年)4月に通商産業省を退官する。 政界入りを父・金五に大反対され、夫人には3回落選するまで付き合ってほしいと懇願する中で1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。以降10期連続当選(当選同期に田中直紀・熊谷弘・二階俊博・野呂田芳成・額賀福志郎・衛藤征士郎・田中秀征・尾身幸次・北川正恭・伊吹文明・自見庄三郎・中川昭一・大島理森・野呂昭彦・鈴木宗男・甘利明など)。1991年北海道知事選挙では現職横路孝弘の圧倒的な強さの前に鳩山由紀夫・舛添要一と共に当時の選挙区でのライバルで落選中の中曽根派の佐藤静雄を支援したが惨敗。 4年後の1995年北海道知事選挙では、自民党などが推薦する伊東秀子を支援したが、日本社会党などが推薦する前副知事の堀達也に敗北。小選挙区比例代表並立制導入に伴い、当初は国政復帰を目指す横路が出馬する北海道1区での擁立が検討されたが、選挙区調整により先祖代々営むまちむら農場の在る北海道5区から出馬し、新進党の党首小沢一郎の甥である新人・小野健太郎に圧勝し初の小選挙区を制した。 1997年(平成9年)の第2次橋本改造内閣で文部大臣に就任し、初入閣。小渕内閣では大臣経験者ながら高村正彦外務大臣の下、外務政務次官を務める。2000年第42回衆議院議員総選挙でも民主党の小林千代美と小沢自由党の小野が出馬して野党の票が割れた恩恵もあり小選挙区で勝利、第2次森改造内閣では文部大臣、科学技術庁長官、原子力委員会委員長を務め、中央省庁再編により初代文部科学大臣となった。 小泉政権では自民党総務局長、自民党幹事長代理を務め、2003年北海道知事選挙では通商産業省の後輩である高橋はるみを擁立し、北海道史上初の女性知事誕生に貢献した。同年の札幌市の市長再選挙では北海道放送キャスター経験者の石崎岳を支援したが横路後援会が支援した上田文雄に敗北。 2004年(平成16年)の第2次小泉改造内閣では外務大臣に就任した。町村の外相起用を強く働きかけたのは、同じ派閥の後輩にあたる安倍晋三で、9月22日に安倍が小泉と会談した際に起用が決まったとされる。外相としては対中ODA廃止や尖閣諸島の灯台管理などを行い、第3次小泉内閣まで務めた。政治家の年金未納問題が注目された際には年金の未納が発覚している。 民由合併で北海道5区でも候補者が小林に一本化された事で2003年第43回衆議院議員総選挙や2005年郵政選挙で町村は小選挙区の勝利が厳しいとの予測もされたが、結果的に連立政権を構築する公明党(2003年は解党直前の保守新党も)の支援もあり小選挙区で連勝(小林は2003年が比例復活、2005年は比例北海道ブロック次点)。また、郵政選挙の際は北海道全体では全国の中で比較的自民党が苦戦したが政令指定都市・札幌では小泉フィーバーが発揮された。 2006年自由民主党総裁選挙では同選挙へ立候補した安倍の選対本部長代理として、安倍の総裁選出馬に奔走、総裁選後に発足した第1次安倍内閣では要職への就任が有力視されたが実現しなかった。その後、元首相森喜朗に代わり、清和政策研究会会長に就任し、町村派を率いる。 2007年(平成19年)8月27日、第1次安倍改造内閣で外務大臣に就任。当初は内閣官房長官への就任が確実視されていたが、安倍と麻生太郎の最終的な話し合いで、土壇場で与謝野馨の名が浮上し、町村は2度目の外相就任となった。外相再登板後は、麻生が提起した「北方領土面積二等分論」を論外だと批判。従来の方針通り「4島一括返還論」を主張する立場に回帰した。 安倍の退陣表明を受けて行われた2007年自由民主党総裁選挙では立候補に意欲を示したが、同派閥の福田康夫の立候補表明を受け福田を支持。自身の立候補は見送った。 2007年(平成19年)9月25日、福田康夫内閣の発足に伴い外相から内閣官房長官に横滑りした。派閥の領袖が官房長官を務めるのは初めてのことである。なお官房長官に就任したため町村は閥務に時間が割けなくなり、町村派は会長職を廃止して町村、中川秀直、谷川秀善の3人を代表世話人とする集団指導体制となった。福田康夫改造内閣でも内閣官房長官に留任。福田改造内閣発足後初の閣僚記者会見において、会見場に掲揚された国旗に登壇・降壇する時共に敬礼したのが町村ただ一人であったため、後に潮匡人が福田首相をはじめ、町村を除く全ての福田改造内閣の閣僚を批判している。 2009年(平成21年)2月5日、町村派内で依然として強い影響力を持っていた前会長の森は、麻生総理に批判的言動をとる中川の派内での影響力を削ぐために、町村を会長に復帰させた。森同様に町村自身も、中川との関係は良くないようで、町村派の会合などで「町村派の中には確か広島県選出の議員はいらっしゃらなかった……ああ、中川先生がいらっしゃいましたか」などと皮肉とも取れる言動が見られた。 同年の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区で民主党元職の小林に3万票余りの差をつけられ敗北。重複立候補した比例北海道ブロックで自民党2枠に対し、名簿順1位内の惜敗率で武部勤(北海道12区)に次ぎ2番目となり、復活当選で9選。10月15日には衆議院予算委員会の筆頭理事に就任。 その後、小林は選対幹部の公職選挙法違反での公訴提起と北海道教職員組合からの不正な政治献金の問題が発覚し2010年(平成22年)6月に議員辞職。これに伴う補選に出馬するため10月に議員辞職する。補選ではJ-NSCの会員の支援も受け自身の長女の札幌南高校の同級生だった民主党の新人中前茂之に勝利し、10選(投票率は過去最低の54.34%で、同選挙区の過去最低だった1996年の60.53%を大きく下回った)。 2012年(平成24年)9月14日、2012年自由民主党総裁選挙に立候補するも、9月18日に体調不良を訴えて入院する。9月26日の投開票では34票を獲得するに留まり、5人中4位となった。その後も入院生活を継続し、11月22日には脳梗塞が見つかった。 2014年(平成26年)12月24日、衆議院議長に就任したが、2015年4月21日、再び軽い脳梗塞を発症したため辞任した。 2015年(平成27年)6月1日午後2時15分、東京都内の病院で脳梗塞のため死去。70歳没。6月3日、町村に対して従二位への追叙ならびに桐花大綬章が没後叙勲にて授けられることが日本政府の持ち回り閣議にて決定された。 2016年4月24日、町村の死去に伴い実施された北海道5区補欠選挙で娘婿の和田義明が接戦の末、無所属の池田真紀(民進党・日本共産党・社民党・生活の党と山本太郎となかまたちの4党推薦)を破り、当選した。墓所は本駒込の吉祥寺 (文京区)と武生(越前市)の龍門寺。 町村自身は、自身の名前の正しい字は旁の「言」の字最上部が「二」ではなく「なべぶた」である()と主張している。しかし、戸籍統一文字にそのような異体字は登録されてないため、戸籍においても同様の扱いであると判断できる。手書きにおける表記揺れの範囲内にすぎない。 映画『バトルロワイアル』公開直前に映画業界関係者を文部科学省に呼びつけ、自主規制の徹底を要請した。 漫画・アニメ・ゲーム・映画を規制する青少年健全育成基本法案の立法化を推進。 「本当に一日も早くこういうもの(町村曰く「青少年に有害な情報」)が国内から追放される日が来ることを心から期待しているものであります」と国会で発言。 内閣府所管の「青少年健全育成推進委員会」から有害指定を受けたイラストやテキストなどを削除しなければ1年以下の懲役刑を科すという「青少年有害情報規制法」の立案を指示した。 「もし道路予算を一般財源化するなら、その一部を(整備新幹線に)つぎ込めないか。いろんな可能性を模索している。財務省などと真剣な話し合いをしている」と述べ、道路特定財源で北海道新幹線を建設すべきとの見解を示した。 内閣府特命担当大臣(規制改革担当)兼国・地方行政改革担当大臣の渡辺喜美が進めていた公務員制度改革について、国家公務員制度改革基本法案の内容にある「内閣人事庁」の創設を「閣僚の人事権が弱まるのではないか」として反対した。国会議員と公務員の接触を制限する「政官接触制限」についても反対するなど慎重な姿勢を貫き、渡辺と激しく対立した。 米国政府機関が竹島の帰属先を再度「韓国」に戻したことについて、「米政府の1機関がやることに、あまり過度に反応することはない」との見解を示した。福田首相が抗議を行う可能性については「ない。なぜ必要なのか」と述べた。 一方、2010年(平成22年)2月に起きた、民主党小林千代美陣営に北教組が選挙資金を違法に提供したとされる事件の際は、北教組について「日教組本部も驚くような団体だ」と指摘し、「研修資料に『竹島は韓国の領土だという、韓国の主張が正しいと教えましょう』と(書いている)。これが日本の北海道の先生だ」と述べ、竹島を韓国領だと教育する北教組の教師を批判している。 2008年(平成20年)7月18日、政府が掲げる司法制度改革の法曹人口3000人の実現に異議を唱えた、日弁連の法曹増加の見直しを求める提言に対し、身内である弁護士の報酬の低下という業界の利益を優先させていると指摘、「日弁連の見識を疑うものであります」と批判した。 たばこ1箱を1000円にするたばこ増税について、「私個人は大変面白い提案だと思っている」と述べている。 日本の学校制度について「十歳の大学生がいてもいいし、二十歳の中学生がいてもいい。年齢で学年が変わることは行き過ぎた平等だ」と、年齢主義を批判した。 大学への九月入学を一般化すべきだとしており、高校卒業後の半年は自衛隊へ入隊させて奉仕活動するのもいい、と述べている。 米の減反政策の見直しを「食糧不足や価格高騰が起きている。日本だけの問題ではなく、世界の食糧不足という文脈で考えなければならない」として突然表明し、自民党内から「何の根回しもない」と強く批判された。農林水産大臣経験者である谷津義男は「減反をやめれば農家が大赤字になる。差額補償など約8000億円の補助金が必要だが、できるわけがない」と反論した。 2009年(平成21年)3月19日に民主党代表・小沢一郎が提議した「企業・団体からの献金全面禁止」について、同日の派閥総会にて「まさに盗っ人猛々しい話だ」「(小沢氏の)目くらまし発言に乗せられないようにしてほしい」と批判した(ただし、町村自身は下記項目の政治資金で記されているように、政治資金規正法で禁止された地方公共団体を初め多数の企業・団体献金を受け取っている)。 菅義偉が国政選挙における世襲候補の立候補制限を唱えていることについて「こんな取るに足らないことをあたかも大ごとのように取り上げる政治家も政治家だし、マスコミもマスコミだ」「有権者の選択眼を信じない人が『世襲禁止』と言う」と批判した。一方で小泉純一郎が引退にあたり自らの次男を後継者に指名したことについては「率直に言って小泉さんらしからぬ行動だった」とコメントし、自身の2人の娘についても「継がせるつもりはない」としている。また、同時に「候補者を公募するシステムを充実させるべき」という考えも示している。 なお、町村の死去に伴う衆議院北海道第5区補欠選挙では、娘婿・和田義明(次女の夫 町村札幌事務所副所長)が立候補した。 民主党の小沢一郎が、政治資金団体で不動産を購入したことについて、テレビ朝日の番組で、「自分のお金で自分の名前で登記すればいいんですよ。何で政治資金団体というものをわざわざ通すのか」と発言した。町村が代表者を務める政治団体「信友会」の政治資金収支報告書(2007年3月19日提出分)によれば、信友会は、2001年(平成13年)7月23日に江別市内の不動産を1,000万円で取得している。(詳しくは#政治資金を参照) 選択的夫婦別姓制度の導入に賛成。ただし、2010年に民主党の同法案に対しては反対を表明した。 米軍ヘリ墜落が墜落した沖縄県宜野湾市の沖縄国際大学を視察中に「操縦技術が上手だったため、最小限の被害でとどまったのかもしれない」と発言し、批判を浴びた。 2007年(平成19年)12月18日に「地球外から飛来してきたと思われる未確認飛行物体 (UFO) の存在を確認していない」とする答弁書が閣議決定された。官房長官記者会見でこのことについて質問され、公式答弁は紋切り型にしかできないとしつつも、「私は個人的にはこういうものは絶対いると思っている」「そうじゃないと、ナスカのああいうの(ナスカの地上絵)、説明できないでしょ」と答えた。 2009年(平成21年)7月2日、民主党との政策討論会で、郵政民営化がサービスの低下を招いたとの指摘があることについて、「一部の悪質な労働組合の人たちが国営に戻したい一心でわざと(仕事を)さぼっていると聞いたことがある」と述べた。これに対し、民主党参議院議員の増子輝彦は、「労働組合の方々に極めて失礼な表現があった。町村氏らしからぬ発言でやめてもらいたい」と批判した。 町村は、2014年9月の内閣改造の際に地方創生相になった石破茂について「このポストが良い、嫌だと言い出したら自民党の人事はできない。石破氏は一体何者だ。来年の総裁選に出たいなんて冗談じゃない」「(地方創生相なんて)極端なことを言えば誰でもやれるんじゃないですか」「私の中では彼(石破)の評価は最低」などと名指しで痛烈に批判した。 1944年10月17日 - 静岡県沼津市に出生(北海道江別市出身)。 1969年 6月 - 東京大学経済学部卒業 7月 - 通商産業省入省。入省同期に、佐野忠克(経産審議官)、河野博文(資源エネルギー庁長官)、藤島安之など。 1974年6月 - 国土庁へ出向。 1979年5月 - 日本貿易振興会(ニューヨークトレードセンター)に出向。 1982年4月 - 通商産業省資源エネルギー庁石油部石油企画官を最後に同省を退職。 1983年 - 第37回衆議院議員総選挙に立候補、初当選(当時の旧北海道1区には、現在の小選挙区での北海道4区に該当する後の義家弘介の勤務先小樽練成会在る小樽市や北星余市の在る余市町含む。4区には中選挙区時代のライバル佐藤静雄や自身の東大や通商産業省の後輩宮本融が自民党候補として出馬)。 1989年6月 - 宇野内閣で文部政務次官に就任 1990年3月 - 自由民主党文化局長に就任。 1997年9月 - 第2次橋本改造内閣で文部大臣に就任。 1998年7月 - 小渕内閣で閣僚経験者では異例ながら高村正彦外務大臣の下、外務政務次官に就任。 2000年 3月 - 内閣総理大臣補佐官(教育改革担当)に就任。 12月 - 第2次森改造内閣で文部大臣・科学技術庁長官に就任。 2001年1月 - 中央省庁再編に伴い、初代文部科学大臣に就任。 2002年10月 - 自由民主党総務局長に就任 2004年9月 - 第2次小泉改造内閣で外務大臣に就任。 2005年9月 - 第3次小泉内閣で外務大臣に再任。 2006年10月 - 森派を森喜朗から禅譲され、町村派会長に就任。 2007年 8月 - 第1次安倍改造内閣で外務大臣に就任。 9月 - 福田康夫内閣で内閣官房長官、拉致問題担当大臣に就任。 10月 - 中川秀直元自民党幹事長の町村派復帰に配慮し、自ら町村派会長を退き代表世話人のポストを新設(清和政策研究会も参照)。町村、中川、谷川秀善の3人が代表世話人に就任する集団指導体制を敷く。 2008年 8月 - 福田康夫改造内閣で内閣官房長官に留任。 9月 - 事故米問題等をめぐって太田誠一農林水産大臣が辞任したため、臨時代理を兼務。 2009年 2月 - 町村派の代表世話人制度廃止に伴い、町村派会長に復帰。 8月 - 第45回衆議院議員総選挙にて民主党の元職・小林千代美に小選挙区で敗れたが、重複立候補していた比例北海道ブロックで復活当選した。 2010年 6月 - 小林の議員辞職に伴う補欠選挙に出馬する意向を表明。 10月 - 衆議院議員を一旦辞職し補選出馬し勝利。 2012年 9月 - 2012年自由民主党総裁選挙に出馬。 2014年 12月 - 衆議院議長に就任。 2015年 4月 - 衆議院議長辞任。 6月1日 歿 70歳。 6月3日 従二位追叙と桐花大綬章追贈が日本政府により決定された。 自民党たばこ議員連盟(顧問) 日本教職員組合問題究明議員連盟(顧問) 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(常任幹事) 神道政治連盟国会議員懇談会(副会長) 日中友好議員連盟(副会長) 親学推進議員連盟(副会長) 日韓議員連盟(常任幹事) 日印友好議員連盟(会長) 北京オリンピックを支援する議員の会(副幹事長) みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会 TPP交渉における国益を守り抜く会 北海道連合遺族会(理事長) 北海道スペースポート研究会(顧問) ラグビーワールドカップ2019日本大会成功議員連盟(会長) 日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』に、日本歯科医師連盟から多額の献金を受け取っていたと報じられた。 『しんぶん赤旗』に、札幌市からの出資を受けている北海道ガスから献金を受けていたと報じられた。地方公共団体から補助金を受けている企業から政治家への献金は、政治資金規正法で制限されている。 『しんぶん赤旗』に、鋼鉄製橋梁工事をめぐる談合事件に関与した談合組織に所属する企業から献金を受けていたと報じられた。 町村が代表者を務める政治団体「信友会」の政治資金収支報告書(2007年3月19日提出分)によると、2001年7月23日に江別市内の不動産を1,000万円で取得したが、同じく「信友会」が2008年3月19日に提出した政治資金収支報告書で、その年度中に608万円で当該不動産を売却したことが記載されている。『週刊ポスト』は、町村が2001年に当該不動産を信友会名義で購入し、6年後に買い取って自宅にしたとして、政治資金を私的に流用した疑いがあると報じた。 趣味はスポーツ、音楽、バレエ、演劇鑑賞など。座右の銘は「ベストを尽くす」「誠実」。 1993年、崇教真光の34周年秋季大祭に出席し、祝辞の中で「私も神組み手の一人としてこの秋季大祭へのお参りを許され、こうしてご挨拶をさせて頂く光栄に浴しましたこと、心から有難く御礼を申し上げます。」「私達は、救い主様への報恩感謝の気持ちというものを片時も忘れてはなりません」と、崇教真光の信徒(神組み手)で篤く帰依していることを表明した。 町村家(福井県武生市、北海道江別市) 町村家は江戸時代(1603年 - 1867年)、代々越前藩の附家老府中領主本多家に仕えた武士の家系である。 祖父:町村金弥 - 実業家、政治家。大久保町長。 父:町村金五 - 内務官僚、政治家。警視総監、北海道知事、衆議院議員、参議院議員、自治大臣。 父・金五(官僚、政治家) 母・二葉(鳥取県、法学博士桑田熊蔵の娘) 姉 妻と2女あり。次女の夫は和田義明(町村札幌事務所副所長、政治家) 『保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる』 PHP研究所 2005年 ^ a b “町村前衆院議長 死去 NHKニュース”. NHK NEWS WEB. (2015年6月1日). オリジナルの2015年6月1日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150601083020/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150601/k10010099551000.html 2015年6月1日閲覧。  ^ ただし、2010年(平成22年)に小林千代美の議員辞職に伴い自身も辞職し、補欠選挙に出馬して当選しているため、実質的な任期は11期。 ^ 「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 193-194頁 ^ 「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 120頁 ^ 「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 120頁 ^ 「保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる」 113頁 ^ 町村信孝ウェブサイト ^ a b c d 田原総一朗著 『新・日本の官僚』 文春文庫,1988年 135頁 ^ 2008年6月17日付 日本経済新聞朝刊最終面「交友抄」に町村が寄せた手記より。 ^ 北海道11区で石川知裕に敗北した比例次点の中川昭一は既に死去していたため、北海道6区で敗北した今津寛が繰り上げ当選した。 ^ 日本経済新聞:自民・町村氏が検査入院 総裁選の関連行事欠席(2012年9月19日) ^ 石破氏1位、党員票で圧倒=安倍氏と決選投票-自民総裁選 時事通信 2012年9月26日 ^ 読売新聞:入院中の町村氏、脳梗塞患う…本人不在で選挙戦(2012年11月22日) ^ 産経新聞:町村議長辞表提出 脳梗塞理由に「仕事の悪影響避けたい」(2015年4月20日) ^ 衆議院歴代議長・副議長一覧衆議院 ^ 訃報:町村信孝さん70歳=前衆院議長 毎日新聞 2015年6月1日 ^ “故町村信孝氏に従二位と桐花章”. 産経ニュース. 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(2014年9月1日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140901/stt14090111130002-n2.htm 2014年9月6日閲覧。  ^ 安倍首相と石破氏会談へ、内閣改造・党人事めぐりTBSnewsi 2014年8月28日 ^ “タバコ販売&耕作者政治連盟から自民党議員への献金額 6年間の合計金額が多い順 2010年~2015年(平成22~27年)”. 日本禁煙学会 (2017年2月21日). 2018年8月18日閲覧。 ^ “モディ首相「インドの友人だった」町村氏悼む声明”. 日本経済新聞. (2015年6月3日). http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS03H22_T00C15A6PP8000/ 2015年6月7日閲覧。  ^ 13閣僚に日歯連マネー 小泉改造内閣 小泉首相、町村外相、北側国交相ら… しんぶん赤旗 2004年9月28日 ^ 企業献金やめます/札幌市も出資 北海道ガス/外相らに毎年「適切さ欠く」 しんぶん赤旗 2005年7月5日 ^ 正副7大臣に談合企業が献金 不当利得の一部還流 穀田議員追及 4年間で八百万円 しんぶん赤旗 2005年7月23日 ^ 「信友会」政治資金収支報告書 p4(2008年3月17日提出分) ^ 「小沢氏喚問を叫ぶ石原・町村・江田各氏の「政治とカネ」問題」、『週刊ポスト』2011年5月18日号、小学館、2011年5月11日、2013年3月25日閲覧。 ^ 『真光』1993年12月号 P.37 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 410-412、477頁 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 10-21頁 町村信孝 『保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる』 PHP研究所 2005年 長谷川岳 町村信孝 - Facebook 町村信孝 (@machimurasentai) - Twitter 町村信孝 略歴 - 首相官邸 大臣会見の概要(町村信孝文部科学大臣) - 文部科学省", "谷垣 禎一(たにがき さだかず、1945年(昭和20年)3月7日 - )は、日本の政治家、弁護士。京都府遺族会会長、有隣会特別顧問。 衆議院議員(12期)、科学技術庁長官(第56代)、総理府原子力委員会委員長(第56代)、大蔵政務次官(小渕内閣)、金融再生委員会委員長(第3・4代)、国家公安委員会委員長(第69代)、産業再生機構担当大臣(第1次小泉第1次改造内閣)、食品安全担当大臣(第1次小泉第1次改造内閣)、財務大臣(第3・4・5代)、国土交通大臣(第9代)、海洋政策担当大臣(福田康夫改造内閣)、法務大臣(第93代)、自由民主党総裁(第24代)、自由民主党政調会長(第50代)、自由民主党幹事長(第47代)、自民党たばこ議員連盟顧問等を歴任。 父は、文部大臣(第100代)を務めた衆議院議員の谷垣専一。祖父は、陸軍中将の影佐禎昭。 京都府福知山市生まれ。谷垣専一の長男。麻布中学校・高等学校、東京大学法学部卒業。大学卒業後、司法試験を数回受験し、1979年に合格。司法修習第34期を修了し、弁護士となる。野田総合法律事務所に所属していた。 1983年、父・専一の死去に伴い、父の地盤を継承。1983年の旧京都2区補欠選挙に自由民主党公認で出馬し、初当選した。当選後、選挙戦中に旧京都2区に20日間泊まり込みで支援をした白川勝彦が所属し、なおかつ亡父も籍を置いていた宏池会に入会。この補欠選挙では、前尾繁三郎の死去に伴って同じ旧京都2区から野中広務も当選しており、選挙の実務を担当したのが当時党総務局長だった小沢一郎である[要出典]。 1995年、衆議院議院運営委員長に就任。1997年、第2次橋本改造内閣において科学技術庁長官兼総理府原子力委員会委員長に任命され、初入閣した。1998年の第18回参議院議員通常選挙で大敗した橋本龍太郎が退陣、その後成立した小渕内閣では大蔵政務次官に起用された。首相の小渕恵三が元首相の宮澤喜一に大蔵相就任を要請した際、就任の条件の一つに挙げたのが谷垣の大蔵政務次官への就任であったため、閣僚経験者ながら政務次官に就任した。金融国会においては金融二法の成立に尽力し、小渕第2次改造内閣で金融再生委員長の越智通雄が失言により辞任した際、後任に起用された。第1次森内閣において、金融再生委員長に再任。2000年の加藤の乱では、宏池会会長の加藤紘一に同調するも、内閣不信任決議案可決の試みは不発に終わった。谷垣はこの際、賛成票を投じに向かおうとする加藤の腕をつかみつつ、「あなたは大将なんだから、一人で突撃なんて駄目ですよ」と訴え、慰留に努めた。乱以後の宏池会分裂に際しては加藤派に参加した[要出典]。 加藤の乱以後、加藤や山崎拓に連座した議員らは一様に森政権下では不遇であったが、2001年に内閣総理大臣に就任した小泉純一郎の下で谷垣は重用された[要出典]。第1次小泉第1次改造内閣で国家公安委員会委員長に任命され、産業再生機構担当大臣・食品安全担当大臣の補職辞令を受けたことを皮切りに、第1次小泉第2次改造内閣では塩川正十郎の後任として財務大臣に横滑りし、小泉が退陣するまでの丸3年務めた。2005年、加藤派を引き継いでいた小里貞利が政界を引退し、また同派最高顧問の加藤紘一が離脱したのに伴って小里派を継承、谷垣派会長に就任した。 2006年9月、自由民主党総裁選挙に立候補。 総裁選では、政権構想に 財政再建(2010年代半ばまでには消費税を10%に引き上げ) 東アジア外交の立て直し(在任中は靖国神社参拝を控え、日中韓首脳同士が常時対話が可能な「アジアホットライン」の構築) 地域社会の活性化(法人税、地方交付税等の税体系の見直しを通じた税収の地域間格差の是正に取り組む) 等を掲げた。投票の結果、谷垣は703票中102票(国会議員66票・地方36票)を獲得し、安倍晋三(当選)、麻生太郎に次ぐ最下位に終わったが、比較的タカ派色の強い安倍、麻生に対しハト派の谷垣が対立軸を明確に打ち出し[要出典]、3桁の票を獲得する健闘を見せた[要出典]。 第1次安倍内閣において谷垣派は閣僚および党三役ポストを一つも獲得できず、党内非主流派に回った[要出典]。与党が過半数割れの大敗を喫した第21回参議院議員通常選挙後は、安倍内閣の政治姿勢や続投に公の場で疑問を呈する等、批判の度合いを強めていたが、参院選後の内閣改造・党役員人事においても谷垣派からの閣僚・党三役への起用は見送られた。同年9月、安倍首相の辞任を受けて行われた自由民主党総裁選挙に一時、出馬を検討したが、出馬表明を行った元内閣官房長官の福田康夫を派を挙げて支持し、自身の出馬は見送った。幹事長(当時)の麻生太郎を破り総裁に選出された福田の下で政務調査会長に起用され、初めて党三役入りした。福田政権の発足を契機に、加藤の乱以来の懸案であった宏池会再結集の動きが一気に具体化し、2008年1月には古賀・谷垣両派の合併が決定(中宏池会構想)。 同年5月に発足した古賀派では代表世話人に就いたが、新派閥の総裁候補は棚上げされたままで、また派内には菅義偉ら麻生を支持する議員も少なくなく、派を挙げて谷垣を一枚岩で支援する体制は整わなかった[要出典]。2008年、福田康夫改造内閣で国土交通大臣に任命されるも、福田は間もなく辞任。それに伴う自由民主党総裁選挙でも出馬に意欲を見せたが、福田康夫内閣の一員であった立場を考慮し、断念。宏池会は自主投票を決定した。この総裁選では、宏池会から麻生派会長の麻生太郎、無派閥の与謝野馨を率先して支持する議員が現れ、2度続けて出馬を見送った谷垣の影響力低下を感じさせた。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、京都5区で民主党新人の元自衛官、小原舞の猛追を受けるも7,032票差で逃げ切り、10選。 2009年9月28日、499票中300票を獲得し、第24代自由民主党総裁に選出された。自民党総裁就任時に内閣総理大臣に指名されなかったのは河野洋平、橋本龍太郎に次いで3人目(橋本は村山富市首相の退陣を受け、内閣総理大臣に就任)。河野は総裁退任後に衆議院議長を務めており、三権の長を経験していない総裁経験者は谷垣のみである。 同年10月、政権奪還を意識する観点から「影の内閣」の設置に意欲を見せていたが、党内から「『影の大臣』と『大臣』の名がつけばポスト争いが始まる」との異論が出たため、構想は頓挫した。10月19日には、秋季例大祭が行われている靖国神社に参拝。自民党総裁の靖国神社参拝は、2006年8月15日(終戦記念日)に内閣総理大臣(当時)の小泉純一郎が参拝して以来、3年2ヶ月ぶりであった。その後産経新聞の取材に対し、2006年自由民主党総裁選挙において「首相に就任した場合は参拝を自粛する」と表明していたことについて、「当時の国際関係を考慮し、総理はあの時点では差し控えるべきだという意味です」と述べ、「野党になったから参拝したのか?」との質問には「野党であるということを斟酌してというよりも、戦争で亡くなられた英霊をお祀りする場は必要だと思う」と答えた。靖国神社に代わる国立追悼施設の建設については、総裁選時に「他の施設を造るのは賛成できない」と述べており、この時も記者団に対し、「戦争に従軍した方々は『戦死したら靖国神社に祀られる』という思いを持って亡くなった方が大勢いるので、その重みはある」と述べ、慎重な構えを見せた。 11月26日、民主党や公明党などが成立を目指す永住外国人への地方選挙権付与について「反対だ」と明言した。また、「党全体を賛成の方向でまとめていくつもりは全くない」とも語り、自民党としても外国人参政権に賛成をしないという意向を示した。 天皇特例会見問題では、民主党政権を批判。民主党幹事長(当時)の小沢一郎による“国事行為発言”についても批判し、「天皇の政治利用」とする認識を示した。また、天皇の訪韓にも慎重な姿勢を示した。 2010年1月1日、自由民主党総裁として自民党本部から全国の党員・党友組織自由国民会議会員に向けて新年のメッセージを送った。 1月4日、伊勢神宮に参拝。記者たちに「特に政治とカネの問題を見ると、必ず内閣総辞職、あるいは解散によって国民に信を問うところまで求めていかなければならない」と述べ、偽装献金問題などを追及し首相の鳩山由紀夫が辞任することを強く求めていく考えを強調した。また、衆参同日選挙の可能性について「1つの選択肢として視野に置く必要がある」と述べた。民主党幹事長の小沢一郎については、小沢が先日の天皇特例会見を内閣の助言と承認に基づく「国事行為」だとして正当化したことに触れ「小沢幹事長のごときにいたっては、あたかも内閣が判断をすれば天皇陛下に何でもお願いできるかのような表現すら取っている。まったく日本国憲法の構造をはき違えたものだ」と批判した。 1月7日の新年初の自民党総裁定例記者会見にて、産経新聞の記者から「鳩山首相がTwitterを始められましたが、総裁はやられるのか?」との質問に対し「つぶやくようなことはしない。ごまめの歯ぎしりでもあるまいし」と否定し、フリーランスの記者から「鳩山首相がブログを始めましたが、総裁としてブログを書くつもりはあるか?」との質問に対しては「具体的に考えていない」と答えた。 1月19日、BSフジの番組「BSフジLIVE プライムニュース」にて、永住外国人への地方選挙権付与法案について「米軍普天間基地移設問題を地方の首長選(2010年1月24日の名護市長選)に委ねようとする動きを見ていると、地方参政権を付与するのがいいのかどうか」と述べ、外国人参政権に反対する意向を改めて表明。賛否では党議拘束をかけるべきだとの考えを示した。また同市長選と同日の党大会には自身の選挙区に含まれる網野町(平成の大合併で京丹後市)出身の野村克也を来賓として招聘した。 2月11日(建国記念の日)、神社本庁や日本会議などで作る「日本の建国を祝う会」主催の「建国記念の日奉祝中央式典」であいさつし、「現在、わが国は非常に厳しい経済情勢のもとにありますが」「むしろ、危機は飛躍するための好機であるととらえ、今こそ人づくり国づくりに力を尽くす時であると考えます」と述べた。また、「国の発展には、伝統文化の継承と心豊かな人材の育成が必要不可欠」として、道徳教育の必要性などを訴えた。 2月25日、鳩山由紀夫内閣がまとめた天皇の公的行為に関する見解について、国会内で記者団に「象徴天皇のデリケートさに全く何の配慮もない、政治的英知を欠いた見解だ。その都度その都度便宜的に判断すればいいという答えだが、憲法のイロハも心得ない噴飯物の解釈だ」と批判した。 4月16日、韓国の与党であるハンナラ党の鄭夢準代表から、日本における永住外国人への地方選挙権付与に協力するよう求められたが、「憲法上の問題もあり自民党は反対の立場だ」と述べた。 4月22日、自民党本部にて行われた定例記者会見で、鳩山由紀夫の元秘書が東京地方裁判所にて有罪判決が出たことに関して「弁護士は総理を守る、依頼者を守るのが仕事で、総理の責任は説明責任をきちっと果たす」と述べ、弁護士の国会への参考人招致を求めていく方針を示し、「鳩山首相は、秘書の疑惑は議員の責任と、過去に誠にあっぱれな発言された経緯があります。ご自身の責任も明らかにすべきであると、申し上げたいと思います」と追及する構えを見せた。 参議院議員の舛添要一より離党届が提出された問題では、「比例代表から選出されており、議員辞職をするのが筋」と離党届を受理しない旨を示唆した。その結果、舛添は27日の党紀委員会会合で除名処分となった。 また、フリーランスの記者から「この程、Twitterを始められた心境の変化について」を尋ねられた際には「若い方々から多くの方の生の声を聞く、非常に良い手法であると。必ずしも、公式の、四角四面の街頭演説や集会では得られない声が返ってくるということもある」と周りから勧められたことを述べた。 4月28日、宮崎県で家畜伝染病である口蹄疫が拡がっていることを受けて、宮崎県で口蹄疫の視察をした。2日後、口蹄疫対策本部(本部長・谷垣禎一総裁)を設置し、政府に対し万全の対策を講じるよう申し入れ。野党の自民党が対策本部を設置する異例の事態となった。 7月の第22回参議院議員通常選挙を控え、「与党を過半数割れに追い込めなかった場合は総裁を引責辞任する」と表明し[要出典]、背水の陣を敷いて選挙戦に臨んだ。公明党との協力戦略が奏功し、自民党は51議席を獲得して改選第1党となり、連立与党は過半数を割り込んだため、谷垣は総裁続投を表明した。 2011年8月30日の菅内閣総辞職に伴う内閣総理大臣指名選挙で、衆議院において自民党議員の他に無所属の鳩山邦夫からも票を得た。参議院では1回目は民主党代表の野田佳彦に次ぐ2位の票を獲得し、野田との決選投票では、たちあがれ日本、公明党、無所属の大江康弘、長谷川大紋からも支持を受けた。 2012年1月8日から12日にかけ、総裁就任後最初の外遊として、ベトナムとインドネシアを訪問した。中国の存在感が増す中、ASEANの重要国である両国との間で、安全保障や経済面での連携についての協議が行われた。なお、法務大臣に就任した第2次安倍内閣では、法務省の所管は国内事項が中心であるものの、施設等機関である法務総合研究所の一部局である国際協力部は、アジア圏でのルール形成に日本が積極的に関与していくという見地から、ベトナム、インドネシアを含めたアセアン諸国等に対し、法律の整備や法律家人材育成といった法整備支援を行っている[要出典]。 同年9月の自由民主党総裁選挙に再選を目指して立候補を予定していた。しかし、石原伸晃幹事長が立候補を表明したため「執行部を含めて党内を掌握できなかった責任を取る」として、9月10日に再選出馬を断念。これにより、河野洋平以来2人目の内閣総理大臣に就任しなかった自由民主党総裁、また任期中通して野党であった唯一の総裁となった(河野は任期中に自社さ連立政権発足に伴い与党に復帰した。次代の安倍晋三も就任直後は野党総裁であったものの2012年12月26日に内閣総理大臣に就任、また第21代総裁時代も首相を務めた)。平成年間では谷垣までの時点で13名が総裁を務めたが、任期満了による退任は1995年の河野、2006年の小泉純一郎に続く3例目である。 総裁退任後も宏池会へは戻らず、総裁選で再選出馬を支持していた議員らを中心に谷垣グループである有隣会を旗揚げし、同会顧問に就任した。 2012年12月、第46回衆議院議員総選挙で11回目の当選。選挙後に発足した第2次安倍内閣で、新総理の安倍より、法務大臣、厚生労働大臣、復興大臣を打診され、法務大臣を選択し入閣。法相就任後、2013年は2月21日・4月26日・9月12日・12月12日の4度8人の死刑囚の死刑を執行した。 2013年9月4日に最高裁判所が婚外子を差別する民法の規定が、日本国憲法に対して違憲であるとの違憲判決を下したことを受けて、兵庫県明石市が10月1日、出生届の記載事項である「嫡出子」「嫡出でない子」の記載を削除した届出用紙を独自に作成したことや、婚姻歴のないひとり親家庭に対する寡婦(夫)控除のみなし適用を実施することを明らかにしたことに対し、「法令で定められたところに背く扱いを行おうとすることは極めて遺憾」と述べた。 2013年10月8日、宇都宮市で開いた自身のグループ研修会で講演し、消費税率を10%に引き上げることについて「10%に引き上げる時に最大の問題は原発を動かせるかどうかだ。できるかどうかで日本の景気動向は大きく変わる」と述べた。 2014年6月26日、死刑囚1人に対して死刑の執行をした。この執行は年が変わってから初めてとなる。そして同年8月29日には2度目となる死刑囚2名の死刑執行を行った。法務大臣就任中に合計6度11人の死刑囚の死刑を執行した。これは歴代法相の中で鳩山邦夫に次ぐ執行回数である。 2014年9月3日、第47代自由民主党幹事長に就任。自由民主党総裁経験者の幹事長就任は初めて。そして同日午前中の記者会見では、年末の消費税10%引き上げに関して、法律上は8%から10%に引き上げるためのレールが敷かれており、基本的には法律に則って進める考えを示す一方で、同時に景気情勢をよく見ていかなければならないと述べた。また安倍晋三首相からは「諸般の事情もよく目配りして進めてほしい」と指示があったことも明かした。 2016年7月16日午前、趣味のサイクリング中に転倒し、頸髄損傷により入院する。幹事長の職務続行が困難になったため辞任の意向を示した。これを受け、続投の意向であった安倍晋三首相は、同年8月3日に行われた内閣改造に伴う自民党役員人事において、総務会長の二階俊博を幹事長に任命し、谷垣は幹事長の職を辞することとなった。以後、療養に努めていたが、2017年6月16日、東京都内で開かれた谷垣派のパーティーにおいてメッセージを寄せ、秋口までに復帰することを示唆した。その後、同年10月に行われる見通しの第48回衆議院議員総選挙には立候補しない意向を示した。政界復帰を求められたが、後進に託すとして慰留を固辞し、9月25日、正式に政界引退を表明した。 2018年夏頃には有隣会(谷垣グループ)が平河町にバリアフリー仕様の新しい事務所を開設する準備を進めていると報じられた。同年10月31日昼、安倍晋三首相と総理大臣官邸で面会し、その後は自ら記者団の取材にも応じた。これが自転車事故で頸椎を損傷して以来、約2年3カ月ぶりに公の場に姿をみせた機会となった。 日本ユニセフ協会を支援するユニセフ議員連盟の会長を務めた。 選択的夫婦別姓制度の導入に反対。 死刑制度については、「著しく凶悪な重大犯罪に対しては死刑を科することもやむを得ない」と述べ、制度存続に賛成している。 金融再生委員長在任中、日本長期信用銀行破綻後に公的資金を投入しオランダ籍の投資組合ニューLTCBパートナーズに10億円で売却するのを主導。ニューLTCBパートナーズが日本長期信用銀行名称変更後の新生銀行となり、新生銀行上場後株式を売却し約1兆円の売却益を得たが日本側から課税できないことについて、財務大臣在任中に日本共産党衆議院議員の塩川鉄也から質問を受けた際、「条約関係のもとで日本では課税権がないということを承知しておりました」と述べ、旧日本長期信用銀行の売却時点ですでに将来収益に課税できないことを知りながら放置してきたことを認めた。これについて日本共産党は外資に利益を与え納税者に「不利益」を与えたと批判した。 秘密保全法制には反対の立場であり、自民党議員12人と連名で「報道機関のみの規定をなぜ置くのか、報道機関以外はすべて処罰されるとするのか疑問である。かかる規定は、国民すべてに適用されるべき」という意見書を出したことがあるが、特定秘密保護法には賛成。会見において、後述の1980年代のスパイ防止法では反対の立場をとっていたにもかかわらず、今回賛成の立場であることの理由を記者から質問された際、「秘密保護法制を考える際は、民主主義社会においては情報公開の仕組みが合わせてなければならない。当時は情報公開制度は無きに等しかった。その時より状況が変わってきている。また、構成要件の条件も、情報公開制度が全く無い時と、ある時とでは縛りのかけ方が違う。」と述べた。 麻布中学校時代は剣道部、麻布高等学校時代は山岳部に所属。いずれにおいても部活の先輩であった橋本龍太郎に指導を受けた。その縁で、橋本龍太郎が会長を務めていた日本山岳ガイド協会の会長を橋本から引き継いだ。東京大学入学後もスキー山岳部に入部し、活動にのめり込んで留年したり、司法試験で何度も不合格になる等、苦労人的なエピソードも持っている。他の趣味は落語鑑賞、サイクリング。サイクリングにはロードバイクやマウンテンバイクを愛用し、何度もロードレースに参加し好タイムで完走している。ただ、2009年にはサイクリング中に転倒し、ケガをした。政界でも指折りの自転車愛好者で、自転車活用推進議員連盟と日本サイクリング協会の会長を務め、協会公式サイトの「会長の新年ご挨拶」ページにはヘルメットにレーサージャージ姿の自身の写真を載せたり、総裁就任後は選挙応援や地方遊説にも自転車を活用している。自転車関連でのメディア露出も多く、例えばムック本『イエローバイシクル [1][2]』では、111.28kmの距離(いわゆる「ロングライド」の距離である)を同誌編集長と共に自転車で走りながら語り合う前代未聞のインタビューを受けたり、単行本『自転車会議』では共著者に名を連ねたりしている。 東京大学法学部には、1年間の浪人生活を経て進学している。同期には弁護士で、衆議院議員や内閣官房長官を務めた仙谷由人がおり(ただし仙谷は現役で合格している)、当時の縁から現在でも冗談を交わすこともある仲だという。また、2011年6月に死別した佳子夫人とは、法学部在籍中に通っていた司法試験合格を目指す予備校で出会って以来の仲。 学生時代から弁護士志望で政界入りの意欲は持っておらず、父・専一からも「こういう仕事は世襲じゃないんだから、お前は継ぐな」と言われていたが、1983年6月27日に父が急逝。当時株主総会の集中日で弁護士として多忙を極めていた所を後援会から「ホテルで缶詰め」にされ、「警察の取り調べのように」出馬を要請された。7月3日に出馬を承諾、8月7日に補欠選挙で当選する慌ただしさだった。 愛読書は四書五経など中国の古典や宋代の詩人・蘇軾の漢詩などで、しばしば中国の故事を引用する。また読書を巡るインタビューでは、竹越与三郎の『二千五百年史』、田口卯吉の『日本開化小史』、北畠親房『神皇正統記』、新井白石『読史余論』といった史論への嗜好を語っている。 日蓮宗寺院の檀信徒であり、同宗を鑽仰する国会議員のグループ「法華一乗会」に加入しているほか、同宗が千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行っている戦没者追善供養法要にも参列したことがある。またクリスチャンではないものの聖書に造詣が深く、キリスト教系の政財官界人の親睦会「インターナショナル・VIP・クラブ」の講師を務め、「国会議員が集まって聖書を読みながら祈る会」を発足させたメンバー議員の一人。 ワイン愛好家で名誉ソムリエの称号を持つ。ただし、かつての宏池会の同僚議員であった森田一によれば、ワインは蘊蓄派というよりガブ呑み派の酒豪だという。 巨人軍の熱烈なファンであり、東京ドームで野球観戦する際にはプロ野球選手のプレーに批評を加えるほど。 1996年に『文藝春秋』が企画した「現役政治部記者が選ぶ21世紀のリーダー」では3位に選出され(1位は鳩山由紀夫)、そこでは「政策通でありながら議運・国対で汗をかける政治家」として評価されている。また読売新聞が2001年にキャリア官僚100人を対象に実施したアンケート(2001年1月に紙面掲載)によれば、「2010年に活躍が予想される政治家」で1位(2位石原伸晃、3位額賀福志郎)、「21世紀中に首相になって欲しい政治家」では石原と共に1位に選ばれている。 2000年の加藤の乱に際しては、加藤紘一・山崎拓に同調。しかし森派や橋本派の切り崩しにより造反の動きは鈍り、加藤、山崎の2人だけで不信任案への賛成票を投じに行こうとする加藤にすがりついて「加藤先生、大将なんだから! 一人で突撃なんてダメですよ! 加藤先生が突撃するときは俺たちだってついて行くんだから!大将は自重しなきゃダメですよ!」と涙ながらに慰留するシーンが話題になった。 尊敬する歴史上の政治家は聖徳太子。影響を受けた政治家は宮澤喜一。 2004年6月4日、内閣府特命担当大臣(防災)の井上喜一が佐世保小6女児同級生殺害事件について「元気な女性が多くなってきたということですかな」などと発言したため、問題の本質から外れているとして批判を浴びた。この発言を受けて、谷垣は6月5日に岡山市で行った講演で、「弁護するわけではないが、私の若い頃は、放火は女性の犯罪。もちろん男もあるが、どちらかというと女の犯罪。カッターナイフで切るのは原則的に大人の男の犯罪」などと発言し、軽率な発言として批判された。 週刊文春(2005年12月8日号)で1988年に中華人民共和国を訪問中に女性を買春し、中国公安当局に尋問されたと報じられた。これを受けて谷垣は名誉を棄損されたとして、謝罪広告の掲載と2200万円の損害賠償を求めて週刊文春の発行元である文藝春秋側を提訴。1審(東京地裁)は名誉棄損の成立を認めて文藝春秋側に330万円の支払いを命じ、2審(東京高裁)では1審判決を支持した上で賠償額を220万円に減額。その後最高裁は文藝春秋側の上告を棄却し、2審判決が確定した。 日本共産党の機関紙しんぶん赤旗(2009年9月16日号)に、2009年の第45回衆議院議員総選挙において、2人に1万1000円を提供したと報じられた 1963年 麻布高等学校卒業。 1972年 東京大学法学部卒業。 1979年 司法試験合格。 1982年 司法修習34期(同期に山口那津男、伊東秀子、千葉景子、松野信夫)修了し弁護士登録。 1983年 旧京都2区補選において衆議院議員に初当選。 1986年 衆議院議事進行係に就任。 1988年 郵政政務次官に就任。 1990年 防衛政務次官に就任。 1991年 衆院逓信委員長に就任。 1995年 衆院議運委員長に就任。 1996年 自由民主党総務局長に就任。 1997年9月11日 科学技術庁長官に就任(翌年7月30日まで)。 1998年 大蔵政務次官に就任。 2000年2月25日 金融再生委員会委員長に就任(同年7月4日まで)。 2000年11月21日 「加藤の乱」に際し、派閥の会長であった加藤紘一に同調。 2002年9月30日 国家公安委員会委員長に就任(~2003年9月22日)。 2002年11月8日 産業再生機構(仮称)担当大臣兼務(前同。2003年4月10日、呼称から「(仮称)」が外れる)。 2003年7月1日 食品安全担当大臣兼務(前同)。 2003年9月22日 財務大臣に就任(第1次小泉第2次改造内閣)。 2003年11月19日 財務大臣に再任(第2次小泉内閣、第2次小泉改造内閣)。 2005年9月21日 財務大臣に再任(第3次小泉内閣、第3次小泉改造内閣)。 2005年9月26日 宏池会会長に就任。 2006年9月 自由民主党総裁選挙に出馬、3位。 2006年10月 自民党総務に就任。 2007年9月 自由民主党政務調査会長に就任。 2008年5月13日 旧谷垣派と旧古賀派の合流に伴い、宏池会の代表世話人に就任。 2008年8月2日 国土交通大臣に就任。(福田康夫内閣改造内閣) 2009年9月28日 自由民主党総裁選挙で当選し自由民主党総裁に就任。 2012年9月10日 自由民主党総裁選挙への不出馬を表明。 2012年12月26日 法務大臣に就任(第2次安倍内閣)。 2014年9月3日 自由民主党幹事長に就任。 2016年7月16日 サイクリング中にロードバイクで転倒し、頸髄損傷の重傷を負う。 2016年8月3日 自由民主党幹事長を辞任。 2017年9月20日 二階俊博幹事長ら党幹部に政界を引退する旨を伝えた。 2018年10月31日 2年3か月ぶりに公の場に姿を現し、安倍晋三と総理大臣官邸で面会。 (京都府福知山市、東京都) 祖父・松次郎 兵庫県黒井村(現:丹波市)の出身で、生家は小間物屋。父が早世して実家が没落。小学校を終えると、酒造見習いの丁稚となった。数えの19歳で京都府福知山に移り住み、呉服や素麺の行商から身を起こして、焼酎、味醂、清酒の製造を手掛け、1926年(大正15年)4月に数えの52歳で亡くなった。趣味や遊びは一切せず、商売に心血を注ぎ、学問を独学で続けた。味醂や酒の醸造に成功できたのも独学で醸造学を学んだからだった。 父・専一(農林官僚、政治家) 松次郎の五男が専一である。福知山中学から第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科へ進む。1936年(昭和11年)、農林省に入省。満州国に出向し、そこで影佐禎昭の娘、安紀と見合いし、1944年(昭和19年)に結婚。翌、1945年(昭和20年)3月7日、長男誕生。奇しくも、影佐禎昭と同じ誕生日だった。専一は岳父の名から一字を取り「禎一」と名付けた。1958年(昭和33年)に農林省を辞職。農林中央金庫の監事になっていたが、福知山出身の芦田均元首相が死去したので、後任に地元の人が専一を衆院選に担ぎ出した。大平内閣で文部大臣になった。 母・安紀(影佐禎昭陸軍中将の娘) 弟・信行(谷垣禎一秘書) 妻・佳子 2011年6月13日入院先の病院で死去。66歳。 二女あり 従兄・八木靖浩(川崎製鉄社長) 自民党たばこ議員連盟(顧問) 北京オリンピックを支援する議員の会(副会長) 日本会議国会議員懇談会(顧問) 神道政治連盟国会議員懇談会 みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会 空から日本を見てみよう 国道246号線編(テレビ東京) ^ 安倍首相の言いなり 「最も地味」な自民党・谷垣禎一幹事長 . 日刊ゲンダイ .(2014年10月17日) ^ 日中首脳会談実現へ「井戸を掘った」 福田元首相と谷垣幹事長の「贖罪意識」.現代ビジネス.(2014年9月27日) ^ 2003年4月10日までは産業再生機構(仮称)担当大臣。補職辞令は2002年11月8日に発令。 ^ 補職辞令は2003年4月1日に発令。それ以前は国務大臣【食品安全委員会(仮称)担当】に任命されていた。 ^ a b c “谷垣氏の政権構想要旨”. 共同通信社. 47NEWS. 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九州大学医学部の第1内科に入局し、遺伝学研究室主任を務めた。1977年3月、九州大学大学院の医学系研究科を修了し、医学博士の学位を取得した。1980年7月、アメリカのハーバード大学にて、公衆衛生学部の疫学教室に所属する主任研究員となった。1982年4月、九州大学の医学部にて講師に就任した。 1983年12月、第37回衆議院議員総選挙に当時の旧福岡4区から自由民主党公認で立候補し、初当選を果たした。以後7期連続当選を果たす。1987年・1992年には、衆議院の議事進行係に就任した。1997年9月には、第2次橋本改造内閣にて、郵政大臣に就任した。 2005年7月5日、いわゆる「郵政国会」の衆議院本会議採決で反対票を投じた。第44回衆議院議員総選挙では、この反対票を理由に自由民主党の公認を得られず、無所属で福岡10区から出馬した。しかし、同年9月11日、自由民主党が「刺客候補」として送り込んだ西川京子に敗れる。その後、離党勧告処分を受けて、自由民主党を離党した。 2006年8月22日、早期の国政復帰を目指して、日本医師会の政治団体である日本医師連盟(日医連)の第21回参議院議員通常選挙比例区推薦候補公募に立候補するも、この日開かれた日医連執行委員会での挙手による採決の結果、圧倒的大差で3選を目指す自民党の武見敬三参院議員に敗れた。しかし4月の日医会長選で、武見が当選した唐澤祥人会長に肩入れしたことを「政治介入」とし、強く反発していた近畿6県などの執行委員は退席した。また、2007年1月30日には、茨城県医師会の政治団体である茨城県医師連盟(委員長原中勝征)は常任委員会を開き、第21回参議院通常選挙で武見敬三と自見庄三郎の2人を推薦することを全会一致で決め、都道府県医師連盟で初めて、日本医師連盟の決定に背く決定を下した。 2006年10月13日、「参院選では国民新党がキャスティングボートを握る可能性がある」として、第21回参議院通常選挙に国民新党の比例候補として立候補することが正式に発表された。2007年2月4日に実施された北九州市長選挙では、当選した北橋健治を支援した。当初は過去のいきさつもあり自由民主党が推薦した対立候補を個人的に応援していたが、新たな所属先である国民新党が北橋を推薦したことから、最終的に党の方針に従った。 2007年7月29日投開票の参議院議員選挙で国民新党公認で比例代表枠で出馬、当選した。なお、日医連の推薦を争った武見敬三は比例区で個人票が足りず、落選した。同年8月には、国民新党副代表に就任した。同年9月25日 自身が参院初当選後初めての総理大臣指名選挙では、棄権した。その後、国民新党総務会長(のち、政策審議会長へ移行)に就任した。2009年9月、亀井久興の落選に伴い、国民新党幹事長に就任した。 2010年6月11日、内閣府特命担当大臣(金融担当)亀井静香の辞任に伴い、後任として2度目の入閣を果たした。前任の亀井が担当していた「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」いわゆる郵政改革担当大臣も後任として担当することとなった。同年6月14日、国民新党幹事長を退任し、国民新党副代表に就任した。また、同年10月22日には、参議院本会議において、永年在職表彰(両院通算して25年に到達)を受けた。 2010年9月17日の菅第1次改造内閣、2011年1月14日の菅第2次改造内閣でも、それぞれ内閣府特命担当大臣(金融担当)に留任した。また、引き続き「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当することとなった。 2011年9月2日、野田内閣で内閣府特命担当大臣(金融担当)に再任された。また、「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当することとなった。 2012年3月31日、野田政権が消費税増税法案の国会提出するための閣議決定を巡り、国民新党代表の亀井静香が2009年の連立合意に反するとして、連立離脱を民主党執行部に通告するなど連立政権離脱を表明したが、郵政法案を最優先するために連立を維持すべきとした党内多数派の自見大臣は閣議へ出席したうえで消費税増税法案の国会提出に署名をした。自見はその後の会見で「国民新党所属議員のうち連立政権離脱に反対した6人の議員によって開いた議員総会で連立政権への残留を決定した」「国民新党副代表として署名した」と説明した。党首が法案に反発して連立離脱を表明したにも関わらず、所属議員がその意に反して閣議へ出席して法案に署名した点は極めて異例で、野党側から批判が相次いだほか、身内である国民新党政調会長の亀井亜紀子から「(自見の)除名を含めて検討すべき」との趣旨の発言まで飛び出した。ちなみに、その後に開かれた4月3日の閣議にも自見は出席している。従って、野田政権の存立基盤が民主党単独の政権なのか国民新党との連立政権なのかが非常に不明確になってしまった。これは、国民新党の党則や規約の中で党議を代表の意向とするのか議員総会の議決とするのかといった点があいまいに整備されていたためというのが主因である。 4月5日、自見を含む連立維持派は議員総会で亀井静香を国民新党代表から解任し、新代表に自見が就任したことを表明。亀井静香は代表解任を無効であると主張したが、翌4月6日に亀井亜紀子と共に国民新党を離党したため、名実共に自見が国民新党代表となった。 5月8日、4月27日に郵政民営化の見直しを柱とする郵政民営化法等の一部を改正する等の法律が成立。 6月4日、内閣改造が行われ、内閣府特命担当大臣(金融担当)および郵政民営化担当大臣を退任し、野田第2次改造内閣では同じ国民新党の松下忠洋が後任の大臣に就任した。 2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙の結果、自公連立政権の第2次安倍内閣が発足し、民主党と国民新党は下野。 2013年2月21日、自民党の河村建夫選挙対策委員長と会談し、国民新党を自民党に吸収合併させて自身も復党したいという旨を申し入れる。しかし、自民党内ではこの申し入れに批判が相次ぎ、3月8日に自民党の石破茂幹事長が国民新党の吸収合併および自見の復党を拒否すると通告。 3月21日、自見1名のみで議員総会を開き、国民新党の解党を同日付で決定。これにより、無所属となる。 その後は無所属での参院選出馬を模索していたが、2013年7月2日、第23回参議院議員通常選挙への不出馬を表明。しかし、今後も何らかの形で議員に復帰することを模索している。 自見の次女である自見英子は日本医師会の組織内候補として第24回参議院議員通常選挙に立候補し、比例区で初当選した。 「政治は鳥の目と虫の目」という言葉を用いることが多い。これは、鳥の目という大局的な判断をすることと虫の目というミクロのことにまで気を配った判断をすることが政治に求められるという意味。 1997年12月16日、テレビ東京系で放映されたアニメ「ポケットモンスター」第38話「でんのうせんしポリゴン」を観ていた視聴者が痙攣などの発作を起こして病院に担ぎ込まれるという事件が起こった(ポケモンショック)。このとき医師でもある自見は、かつての勤務先でもある九州大学医学部の教授から「光感受性発作」に関するアドバイスを受けた上で、発生原因とメカニズムを分析、自らポケモンの該当話を視聴し、「透過光を利用して画面の背景がより強い光によって明滅する映像表現」(透過光撮影)への対応策を郵政大臣として指示した。この後、日本のテレビのアニメーション番組の多くは「テレビは明るい場所で離れた位置から見て下さい」といった字幕が流れるようになった。 新型インフルエンザ騒動に際して、2009年5月21日の参議院予算委員会で公衆衛生学の医学博士である自見は、学問的見地から見ても2009年新型インフルエンザ(以下、単に新型インフルエンザという。)は従来の季節性インフルエンザと毒性は変わらないとして、新型インフルエンザを感染症法第6条第6項に基づく五類感染症に指定する(通常の季節性インフルエンザと同類にするということ)よう舛添要一厚生労働大臣(当時)に迫った。これに舛添は、新型インフルエンザを国民の多くが免疫を獲得していない状況で五類感染症に指定することは、感染症法の改正が必要になるとした上で、妊婦や慢性疾患の患者であれば新型インフルエンザを罹患すると重篤になるとの見解を示した。これに対し、自見は妊婦や慢性疾患の患者は通常の季節性インフルエンザであっても重篤になるのは医学の常識であると反論し、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)が「今回の新型インフルエンザは強毒性ではなく、教育プログラムや高校、大学での休校措置は奨励しない。」との見解を示しているとした上で、地方自治体や防疫関係者の負担が過多であり、こうした過剰な日本政府の対応による経済損失が最悪の場合、2兆円に上るおそれがあるとして再考を促したが、舛添は「CDCがすべてではない」などとして自見の意見を切り捨てたただ、新型インフルエンザに対する当時の政府の対応を巡っては、厚生労働省の医系技官である木村盛世もブログ等で批判している。 2011年3月11日に発生した東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故に伴い、電力需給の不足が懸念されて内閣に設置された電力需給緊急対策本部の第2回会合(3月14日開催)では、冷凍ワクチンの保管場所が計画停電の対象になると冷凍ワクチン自体が使用できなくなる恐れがあるとして配慮を求めた。また、第5回会合(5月13日開催)では、被災地の医療機関で電力が不足しないよう配慮を求めた。 電力需給緊急対策本部の後継組織である電力需給に関する検討会合の第1回会合(7月20日開催)では、レーニンの「共産主義とは電化である。」との言葉を紹介した上で、政治は結果であり、30%を占める原子力をゼロにするのは現実的ではないとの見解を示した。さらに、「どうすれば原発を再稼働できるのか、はっきり、ビシビシと道筋をつけていただきたい。これは泥をかぶってでもやる話。強く言っておく。」と述べ、原発再稼働への理解を示し、海江田万里経済産業大臣に再稼働の道筋をつけるよう求めた。これに対し、海江田は「ありがたいお言葉」と述べ、発言を歓迎した。当時、7月13日の会見で脱原発の方針を示していた菅直人首相はこの会合に出席していない。 適切な医療を実現する医師国会議員連盟(会長) 日本香港友好議員連盟(会長) 日中友好議員連盟(副会長) 日朝国交正常化推進議員連盟(副会長) 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(常任幹事) 戸籍法を考える議員連盟 憲法20条を考える会(事務局) 政教分離を貫く会(代表世話人) 朝鮮半島問題研究会(副会長) 2016年 - 春の叙勲で旭日大綬章を受章。 『郵政省蘇る“民意”が勝った行政改革』(日本テレソフト、1999年) ^ 「国民新党:新幹事長に下地氏、国対委員長など兼務」『国民新党:新幹事長に下地氏、国対委員長など兼務 - 毎日jp(毎日新聞)』毎日新聞社、2010年6月14日。 ^ 「国民新党幹事長に下地氏――自見氏は副代表」『国民新党幹事長に下地氏 自見氏は副代表 - MSN産経ニュース』産経デジタル、2010年6月14日。 ^ http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/2013/news1/20130702-OYT1T01054.htm?from=ylist ^ 金融大臣としての記者会見より ^ 平成21年5月21日 参議院予算委員会質疑 ^ 木村盛世オフィシャルサイトよりhttp://www.kimuramoriyo.com/swine_flu8.html http://www.kimuramoriyo.com/swine_flu16.html ^ 電力需給緊急対策本部議事概要より。 ^ 電力需給に関する検討会合 議事概要より ^ 春の叙勲4024人 小島三菱商事前会長ら旭日大綬章 日本経済新聞 2016年4月29日 城井崇 じみ庄三郎ホームページへようこそ!(公式サイト) 自見庄三郎のブログ", "羽田 孜(はた つとむ、1935年(昭和10年)8月24日 - 2017年(平成29年)8月28日)は、日本の政治家。 衆議院議員(14期)、内閣総理大臣(第80代)、農林水産大臣(第9代、第12代)、大蔵大臣(第88代)、外務大臣(第121代)、新生党党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表、同党最高顧問などを歴任。2012年(平成24年)に政界引退し、晩年は民進党長野県連名誉顧問を務めていた。 東京府東京市蒲田区(現東京都大田区蒲田)にて羽田武嗣郎・とし子夫妻の長男として生まれる。父武嗣郎は朝日新聞記者を経て衆議院議員となった人物であり、母とし子は志賀高原を命名した長野電鉄の創設者神津藤平の娘である。名付け親は、武嗣郎の東北帝国大学時代の恩師に当たる阿部次郎で、「孜孜(しし)として働く」から取られた。 1942年(昭和17年)に第二延山小学校に入学するが、戦争が激しくなったため、1944年(昭和19年)3月に父の郷里である長野県に疎開する。1946年(昭和21年)に、父武嗣郎が公職追放となる。1951年(昭和26年)に、上田第二中学校に入学する。この頃から議論好き、世話好きの片鱗を見せ始める。長野県上田高等学校を受験するが不合格となり、東京の成城学園高等学校に入学。1954年(昭和29年)に成城大学経済学部に進学する。大学3年生の時に、ハンガリー動乱で亡命してきた学生をかくまったことがある。 1958年(昭和33年)に、成城大学を卒業する。父と同じくジャーナリズムに憧れ、朝日新聞社・日本経済新聞社などを受験したが失敗。父のコネで、小田急バスの試験を受け入社した。小田急バスでは、吉祥寺営業所を経て観光課に配属される。観光課では企画を担当し、春夏秋の観光シーズン以外に顧客を掘り起こすため、武嗣郎の友人である野田宇太郎の協力を得て、「文学散歩」「史跡散歩」などに力を入れた。その他に学生、老人、会社などの慰安旅行や幼稚園の遠足や学校の修学旅行、更には皇族の旅行を企画し、時には車掌も務めた。1965年(昭和40年)に綏子夫人と結婚する。羽田は父親の後継者となって政界入りする気持ちはなかったが、1963年(昭和38年)に武嗣郎が脳出血で倒れたため、後援会から政界入りを打診され、1968年(昭和43年)10月に小田急バスを退職する。 1969年(昭和44年)12月、第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自民党公認で立候補し、7万3325票を獲得しトップ当選を果たした。自民党の派閥は佐藤栄作→田中角栄派に所属した。羽田は、郵政政務次官を経て農林政務次官となり、農林族としてそのキャリアを歩むこととなる。衆議院農林水産委員長、自民党林政調査会長、総合農政調査会長などを歴任した。農林族としての羽田は、それまでのいわゆる「ベトコン議員」に代表される毎年米価を引き上げて、農村に一方的に利益を傾斜配分するものではなく、国内産業としての農業の位置づけや、国際経済における農業貿易問題を思考するもので、加藤紘一などとともに、「総合農政族」と呼ばれた。1984年(昭和59年)には、自民党を代表し牛肉とオレンジをめぐる日米農産物交渉解決に取り組んだ。翌年の1985年(昭和60年)12月に、牛肉オレンジ交渉の実績が認められて、第2次中曽根再改造内閣で農林水産大臣として初入閣する。ちなみにこの時自治大臣として小沢一郎も初入閣している。農水相としては「タブーへの挑戦」を掲げ、日米間で対立が大きくなってきたコメの自由化問題に対応する。羽田は、外国米に対して価格の高い日本米に国際競争力をつけるため、農産物価格の引き下げを断行しようとした。しかし1986年(昭和61年)の衆参同日選挙後、成立した第3次中曽根内閣で農水相は羽田から安倍派の加藤六月に交代し、農協の反対にもあい米価は据え置かれることとなった(農水相在任中、当時農水官僚だった荒井聰に対し、初当選同期で党派・与野党・保革を超えて個人的な親交があった横路孝弘が道知事時代の北海道庁への出向を命じている)。しかし、農水相を降りた羽田は、翌年の1987年(昭和62年)に、生産米に関しては、生産者価格を引き下げるという政府・自民党合意を取り付け、米価の引き下げを断行するに至る。 羽田は田中派の中堅議員として、次第に実力を蓄えていくが、一方で派内の世代交代を意識するようになっていった。1985年(昭和60年)2月、竹下登による田中派の派中派・創政会に参加する。田中は2月27日脳梗塞で倒れるが、最後に政治家として公の場で発言したのは、羽田のパーティーにおいてであった。竹下派結成に際しては、竹下派七奉行の一人に数えられ、金丸信から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と称される。1987年(昭和62年)11月、中曽根康弘の後継指名を受けた竹下登が自民党総裁に就任し、竹下内閣が成立する。1988年(昭和63年)12月27日、竹下改造内閣では再び農水大臣に就任する。しかしリクルート事件、消費税導入による世論の逆風を受け、竹下内閣は1989年(平成元年)に退陣した。 第1次海部内閣が成立すると、羽田は自民党幹事長となった小沢一郎に、党選挙制度調査会長就任を求められ、これを受けた。自民党内に設置された政治改革推進本部の本部長となった伊東正義、本部長代理の後藤田正晴とともに政治改革推進派の中核となる。羽田は、政治と金の問題と、国際政治に日本が対応するために政治改革を必要と考え、選挙制度改革を中心にした政治改革を主張し、金丸から「熱病にうかされている」とまで言われる。また、党内議論の中で後に自民党幹事長となる石破茂などの改革派若手とひざ詰めで議論し、若手の信頼を得た。羽田は小選挙区比例代表並立制の導入を主張するが、加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎(いわゆる「YKK」)らは、竹下派支配に反対し海部内閣倒閣を目論み、選挙制度改革を中心とする政治改革に反対して、1991年(平成3年)9月に政治改革関連法案は廃案となった。政治改革が頓挫する中で若手議員は敗北感を覚えるが、羽田はそんな中にあって若手を叱咤し、政治改革は伏流として残ることになる。 1989年半ば、国会改革委員長に就任していた羽田は訪米した際、C-SPANを知ることになる。これは、議会のやり取り、ニュースキャスターの討論会など、政治を専門に24時間放送する衛星放送の番組である。ありのままの国会を国民に見せることで、国民の関心が高まり、国会運営の活性化になると考えた羽田は、こうした仕組みの日本への導入を訴えた。 1991年(平成3年)11月に成立した宮澤内閣で大蔵大臣に就任し、入閣。1992年(平成4年)、金丸の佐川急便事件に端を発した竹下派分裂に際しては、派閥会長ポストをめぐり、会長代行の小沢一郎と竹下の最側近である小渕恵三の間で派を二分する争いが起こる。羽田は、竹下から中立の立場を求められるが、小沢の側に立ち、人の悪口を言わないことで知られる竹下をして「孜がこんなに無定見とは知らなかった」と言わしめる。羽田は、小沢、当選同期の奥田敬和、渡部恒三らとともに改革フォーラム21(羽田派)を結成し、代表に就任。党内第5派閥に転落した羽田派は内閣改造で冷遇され、政治改革実現を旗印に集団離党するのではとの観測が流れる。こうした中、1993年(平成5年)4月に病気辞任した渡辺美智雄の後任として、外相就任を宮澤に打診された。これは羽田を閣内に封じ込めるために後藤田正晴副総理が考えた天元の一石であった。しかし、羽田は野にあって自由な行動を取ることを選択、外相就任を断った。同年6月、宮澤首相が政治改革関連法案の成立を断念したため、羽田派は野党から提出された内閣不信任決議案に賛成した。羽田は6月23日、自民党を小沢一郎らとともに集団離党。新生党を結成し、党首に就任した。代表幹事となった小沢による二重権力支配という批判に対しては、自分が表紙で小沢が黒子と反論ともつかぬ主張をした。ともあれ、羽田は新生党党首として全国を遊説し、新党ブームに乗って新生党は55議席を獲得する。これに先立つ、6月24日に既に、新生党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合の5党首が非自民・非共産連立政権を目指すことに合意し、羽田は連立政権の首班候補として最有力視されていたが、日本新党代表の細川護煕を連立政権首班とすることに合意する。羽田は細川内閣に、副総理兼外務大臣として入閣した。 細川政権は政治改革、コメの部分的自由化を実現し、新生党は連立与党の中核としてこれを支えたが、細川首相は金銭スキャンダルなどを理由に1994年(平成6年)4月8日の電撃的に辞意を表明。後継首相について小沢は、自民党の渡辺美智雄に「渡辺さんの派閥(渡辺派)から多数の同調者を引き連れて合流すれば首相に擁立する」と持ちかけ、渡辺も一時は離党を表明するが同調者が少数にとどまり撤回。結局、連立与党は後継首相に羽田を推すことで合意し、4月25日国会で羽田が首相に指名された。ところがその直後、連立与党のうち新生党、日本新党、民社党などが衆議院で統一会派「改新」を結成すると発表。改新は総勢130議席で、与党第1党であった社会党の74議席を大きく上回るもので、社会党の連立与党内での地位低下を図った動きであった。首相指名後の統一会派発表という事態に社会党の村山富市委員長は信義に反すると強く反発し、翌4月26日、社会党は連立政権を離脱すると発表。羽田は懸命に社会党の連立復帰を試みたが功を奏せず、4月28日に羽田内閣は少数与党内閣として発足した。元来、小沢は羽田が細川の後継首相となることには、平成6年度予算成立後の政局を見据え反対ないし消極的であり、渡辺美智雄との提携を企図していたこともあって、羽田と小沢の関係にひびが入り始める。ただ小沢が、細川の後継首相に羽田を擁立するのを躊躇したのは、乱世ゆえに「平時の羽田」のキャリアが傷つくのを避けるためだったという見方もある。 羽田は「改革と協調」を掲げ、平成6年度予算の成立に全力を挙げた。 永野茂門法相が「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言すると直後に更迭した。在任中に公共料金値上げの年内凍結や、首相官邸直通のFAX設置などを打ち出していった。1994年(平成6年)5月12日の衆議院本会議での「1969年の日米首脳間で交わされた有事における沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという密約の真相」に関する村山富市の質問や同年5月16日の参議院本会議で「沖縄への核再持ち込み密約について調査すべき」とする市川正一の質問に対し、首相として沖縄核再持ち込み密約を否定し、調査の必要は無いと答弁をした。 予算案は成立したが、少数与党状態の解消を狙って行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党は内閣不信任案を衆議院に提出した。内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田は、解散総選挙に打って出る構えも見せたが、政治空白と従来の中選挙区制による総選挙実施を招くということで、結局6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目(現憲法下では最短)の短命政権に終わった。 この頃、通産官僚齋藤健の媒酌人を務めた。また当時新生党の新人代議士で、新生党から民主党まで行動を共にした上田清司は埼玉県知事就任後、斎藤を埼玉県副知事に起用した。 6月30日自社さ連立政権・村山内閣が発足し、野党に転落した。小沢の主導によって、旧連立の新生党、民社党、日本新党などは相次いで解党し、1994年12月10日に新進党が結党。羽田は党首選挙に立候補するが、小沢の支持を得た海部俊樹に敗れ、小沢らの打診で副党首となった。 1995年(平成7年)12月にも党首選挙に立候補し、小沢と激突した。羽田支持グループは、党内非主流派ともいうべき興志会を結成し、小沢執行部と対立を深めていった。1996年(平成8年)の、第41回衆議院議員総選挙で自身は新設の長野3区で小選挙区一本で出馬し重複立候補している新党さきがけ党首で社民党・自民党推薦する井出正一に圧勝も新進党自体が敗北すると、小沢執行部に対する更なる不満を強め、新進党を離党し太陽党を結成、党首となった。 1997年(平成9年)12月に新進党が分党すると、1998年(平成10年)1月8日 に、 民主党、新党友愛、太陽党、国民の声、フロム・ファイブ、民主改革連合が院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)結成。同年1月28日、太陽党、国民の声、フロムファイブが統合して民政党を結成し、代表となった。さらに4月27日には民主党、民政党、新党友愛、民改連が統合し、新・民主党が結成され、初代幹事長に就任。首相経験者の政党幹事長就任は前例がなく「羽田は首相再登板の目を覗っている」との見方もあったが、その後は事実上の名誉職である特別代表、最高顧問を歴任した。 2004年(平成16年)5月、国民年金への加入が義務付けられた1986年(昭和61年)4月から首相在任期間を含む1995年(平成7年)7月までの9年間余り未加入であったことを自ら発表し、党最高顧問を辞したがその後再び最高顧問に就任した。 2009年(平成21年)8月、脳梗塞後遺症等の体調不安が囁かれる中、8月30日に行われる衆院選への立候補を最後に政界を引退する考えを表明した。衆院選について、「大きく考えれば、最後の選挙になるだろうというのが常識的なところだ」「後継者は党や後援会と相談して決めたい」と述べ、また長男の羽田雄一郎について周辺に「世襲は認めない」と伝え、後継として擁立しない考えを示した。 2009年(平成21年)9月16日に、民主党政権が発足し長年の宿願であった政権交代が実現された。この日国会で行われた首班指名投票では体調不良により投票箱のある演壇に自力で上り下りすることができなかったため、小沢一郎に片腕を支えられながら投票を行った(以降も投票の際、他の民主党衆議院議員が介添えをしながら行なっていた)。かつて政権交代を目指して自民党を離党した時の盟友同士でありながらその後の政局の流れで訣別した羽田と小沢のツーショットが計らずも政権交代当日に再現された。民主党代表選挙でも投票の際、登壇するのに介添えを必要としていた。 小沢との関係はかなり回復し、陸山会の土地取引に絡む政治資金規正法違反事件の渦中になる小沢に対し「俺とお前は一心同体だ、羽田グループとして全面的に支える」と明言した。また2010年9月民主党代表選挙でも小沢を支持していた。 2010年(平成22年)9月28日、時事通信社の取材において、政界引退を表明した。 2012年(平成24年)11月16日の衆議院解散で政界引退。「自民党の政治に終止符を打ったのは、今でも歴史の必然、私に課せられた天命だった」とした上で、2009年の政権交代は「私なりに満足のいく、改革の成果」であるとした。今後の活動については、「多難な時期を迎えた我が国の再生にわずかなりともご奉公できる道を探し続ける」とコメント。長年の盟友である小沢は「議会制民主主義を確立させるべく、長年共に歩んだ同志。勇退は誠に残念だ。政治の第一線を退かれても、引き続きこの国の将来のため、親しく指導していただきたい」と述べた。 後継には息子の雄一郎に参議院から鞍替えさせようという意向もあったが、時の首相・野田佳彦が「反世襲」の方針からこれを認めなかった。 2013年(平成25年)4月29日、桐花大綬章を受章。 2017年(平成29年)8月28日・午前7時6分、老衰のため死去した。満82歳没。9月5日、従二位追叙が日本政府により決定された。 身長172cm、体重75kg。 首相在任中、答弁が長い事を参議院議院運営委員会から注意された。田中眞紀子からは「多弁にして空疎」と評された。 語尾に必ずといっていいほど「~というふうに」というフレーズを使用する(羽田語と揶揄された)。ほかに、「アレする」「真正面から」「率直にいって」などのフレーズも多用。 特徴的な半袖ジャケット『省エネスーツ』の推進者。省エネルックの普及に大きく貢献した。 首相退陣後は、人民服風のマオカラースーツを愛用して20~30着も持ったとされ、中国メディアの取材に対して羽田家の先祖が中国からの渡来人である秦氏と伝わることが理由と述べてる。また、秦氏が徐福と所縁があるともされることから日本徐福会の名誉会長も務めた。 田中角栄の愛弟子で親中派議員の代表格であり、日中友好団体である日中国際交流協会の会長なども務めた。羽田内閣の永野茂門法務大臣が「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言すると、即座に永野法相を更迭した。また2005年6月には、自身の政治資金パーティーで小泉純一郎首相の靖国参拝を批判し「(中国の反発は)被害者の悲鳴だ。なぜ独り善がりで突っ張っているのか。戦争は絶対やらないという覚悟を持っているなら、何回詫びても限界があるとは思わない」と述べた。小沢一郎の側近であり、自民党から新進党まで羽田とも行動を共にした平野貞夫は、「羽田さんは歴史観、国家観が社会党的だ」と批判していた。 上記のように首相在任中の靖国神社参拝には否定的であるが、羽田の長男で民主党参院国会対策委員長の羽田雄一郎と羽田自身もみんなで靖国神社に参拝する国会議員の会のメンバーに名を連ねており、羽田はかつて同会の会長も務めて靖国神社参拝をしてはいる。 羽田は小選挙区制導入後は長野3区選出代議士だが、自身の自宅は東京6区に在る。歴代の東京6区選出代議士は岩國哲人~石井紘基~小宮山洋子~自民党の越智隆雄~小宮山。岩国は羽田側近、石井・小宮山は成城学園高校の後輩で親密。石井が殺害された後の補選で、当時参院にいた小宮山を担ぎ出し選対本部長をつとめたのは羽田である。 初入閣の際、閣僚名簿を発表する後藤田正晴内閣官房長官に名前を「はだしゅう」と誤読された。 1994年(平成6年)11月8日、笑っていいとも!のテレフォンショッキングに小池百合子からの紹介で出演したことがある。ちなみに翌日ゲストに指名したのは山口敏夫。 三枝成彰と親密で俳優・歌手の小坂一也とも親交があった。 同郷のプロボクサーでスーパーミドル級世界王座挑戦2度の実績有す西澤ヨシノリの後援会会長を務める。 総理大臣顕彰を、引退表明し鹿島アントラーズを退団したジーコに与えた。 バレーボール好きで、全日本チームの試合会場に観戦することも多く、地元・長野県バレーボール協会会長を2007年まで16年間務めた。 2007年(平成19年)7月シンガポールに設立されたマザーズ・キッス・ファウンデーションの名誉総裁を務める。 パチンコチェーンストア協会政治分野アドバイザー。 北京オリンピックを支援する議員の会と天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟と地下式原子力発電所政策推進議員連盟で顧問を務めていた。 新宗教崇教真光の46周年秋季大祭(2005年)に出席し、来賓として祝辞を述べている。 衆議院議員時代に、キリスト教系道徳再武装運動に基づいたイニシアティブス・オブ・チェンジの顧問を務めていた。 日中国会議員書画展へ書画を提供している。 AKB48 32ndシングル選抜総選挙において、当時の大分市長・釘宮磐は、市のかっこうの広告塔である指原莉乃に投票するよう市職員や市民などに広く呼び掛けて行く中で、「政治の師」と仰ぐ羽田サイドにも全面支援の約束を取り付けた。このことが、指原を初の総選挙1位に導いたとする見方もある。 長男は、参議院議員・羽田雄一郎 次男の羽田次郎は、成城学園中学校、アルザス成城学園を経てウェイクフォレスト大学に留学。2011年(平成23年)に行われた世田谷区議会議員選挙に民主党公認で立候補し、落選、2017年の第48回衆議院議員総選挙に希望の党比例東京ブロックで立候補し落選している。 羽田貞義師範学校校長は祖父 羽田武嗣郎元衆議院議員は父 神津藤平・長野電鉄創立者・元社長は祖父 妻は元カルピス会長・津下紋太郎の孫、元オカモト副社長・津下綱平の子 羽田健一郎長和町長は従兄弟の息子で、孜本人の最後の後援会長 羽田家(長野県小県郡長和町、東京都) 羽田貞義━━羽田武嗣郎━━羽田孜━━羽田雄一郎 1935年(昭和10年) 8月24日 出生する(父・武嗣郎、母・とし子)。 1969年(昭和44年) 12月 第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自由民主党公認で立候補して、初当選。 1985年(昭和60年) 12月28日 農林水産大臣。 1988年(昭和63年) 12月27日 農林水産大臣。 1991年(平成3年) 11月5日 大蔵大臣。 1993年(平成5年) 6月23日 自民党を離党。新生党党首。 8月9日 副総理兼外務大臣。 1994年(平成6年) 4月25日 内閣総理大臣に指名。直後に改新騒動があった。 4月28日 内閣総理大臣。羽田内閣が成立。社会党の連立離脱により少数与党内閣として発足。 6月25日 自由民主党による内閣不信任案の提出を受け、内閣総辞職。 12月10日 新進党副党首。 1995年(平成7年) 12月27日 第2代新進党党首選挙で小沢一郎に敗れる。 1996年(平成8年) 新進党を離党し小沢と決別(その後和解)。太陽党党首。 1998年(平成10年) 1月 民政党代表。 4月28日 民主党初代幹事長。以後、特別代表、最高顧問を歴任する。 2000年(平成12年) 9月 民主党特別代表。 2002年(平成14年) 12月 民主党最高顧問。 2009年(平成23年) 10月 民主党最高顧問。 2012年(平成24年) 11月16日 政界引退。 2013年(平成25年) 4月29日 桐花大綬章受章。 2017年(平成29年) 8月28日 老衰のため死去。従二位叙位。 ^ 衆議院本会議1994年5月12日議事録 ^ 参議院本会議5月16日議事録 ^ “羽田元首相、今回の衆院選最後に政界引退へ” (2009年8月3日). 2009年8月8日閲覧。 ^ “羽田元首相、今回限りを示唆=「最後の選挙」” (2009年8月3日). 2009年8月8日閲覧。[リンク切れ] ^ “羽田元首相が小沢氏支持” (日本語). 徳島新聞. (2010年8月26日). http://www.topics.or.jp/worldNews/worldFlash/2010/08/2010082601000401.html 2010年9月15日閲覧。  ^ “羽田元首相、今期限りで政界引退へ”. 時事通信. (2010年9月28日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010092800351 2010年9月28日閲覧。  ^ “羽田元首相が議員活動に幕 連続14期当選”. 信毎web (信濃毎日新聞社). (2012年11月17日). http://www.shinmai.co.jp/news/20121117/KT121116ATI090071000.php 2012年11月22日閲覧。  ^ “羽田孜氏「自民党政治に終止符、天命だった」”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2012年11月17日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121117-OYT1T00703.htm?from=ylist 2012年11月22日閲覧。  ^ a b “羽田元首相が議員活動に幕 連続14期当選”. 信毎web (信濃毎日新聞社). (2012年11月17日). http://www.shinmai.co.jp/news/20121117/KT121116ATI090071000.php 2012年11月22日閲覧。  ^ “羽田孜氏「自民党政治に終止符、天命だった」”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2012年11月17日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121117-OYT1T00703.htm?from=ylist 2012年11月22日閲覧。  ^ “羽田国交相、公認せず=野田首相 - 「脱世襲」自民と差【12衆院選】”. 時事通信. (2012年11月17日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012111700178 2012年11月17日閲覧。  ^ (日本語) “羽田元首相に桐花大綬章=倍賞千恵子さん旭日小綬章 - 春の叙勲”. 時事ドットコム (2013年4月29日). 2013年4月29日閲覧。 ^ (日本語) “羽田元首相が死去、82歳=現行憲法で最短”. 時事ドットコム (2017年8月28日). 2017年8月28日閲覧。 ^ “羽田孜・元首相が死去 82歳 非自民連立政権担う”. 朝日新聞デジタル. (2017年8月28日). http://www.asahi.com/articles/ASK8X4FGDK8XUTFK005.html 2017年8月29日閲覧。  ^ (日本語) “羽田孜元首相に従二位…政府”. 読売新聞 (2017年9月5日). 2017年9月6日閲覧。 ^ a b “日前首相羽田爱穿中山装”. 中国国際放送 (2007年11月20日). 2018年4月19日閲覧。 ^ 鳥居貞儀・徐福友好塾 『徐福さん 伝承地に見る徐福像と徐福伝説』 ネスト企画、2005年12月、171頁。 ^ “理事長挨拶”. 一般社団法人日中国際交流協会. 2018年4月19日閲覧。 ^ パチンコチェーンストア協会理事・会員リスト ^ 『崇教真光』誌平成17年12月号」 ^ IC役員名簿 ^ [1]NPO法人日中国会議員書画展実行委員会 ^ [2]「ベスト3目指す」大分市長が“さしこ”全面支援宣言 サンケイスポーツ 2013年4月13日 ^ プロフィール はた次郎のブログ、平成21年8月12日閲覧 民主党の閣僚経験者一覧 竹下派七奉行 ネオ・ニューリーダー 民主党娯楽産業健全育成研究会" ]
ABC01-02-0155
日本の鉄道で、現在一番長い路線は東北本線ではなくなりました。京都と幡生を結ぶ何線でしょう?
山陰本線
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[ "山陰本線", "舞鶴線", "福知山線", "呉線", "岩徳線" ]
[ "山陰本線(さんいんほんせん)は、京都府京都市下京区の京都駅から中国地方の日本海沿岸(山陰地方)を経由し、山口県下関市の幡生駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、仙崎支線あるいは仙崎線と呼ばれる長門市駅 - 仙崎駅間の支線を持つ。 京都駅 - 園部駅間については、「嵯峨野線」も参照。 京都市から西方向へ延び、福知山市・豊岡市・鳥取市・倉吉市・米子市・松江市・出雲市・益田市・長門市などの丹波・但馬・山陰地方の各都市を経て下関市に至る。路線の終点は幡生駅だが、幡生側の列車は下関駅まで運転されている。竹野駅から幡生駅までは線路が日本海沿いを通っている区間が多い。 支線をのぞく営業キロは673.8 kmで、新幹線をのぞくJR線(在来線)としては日本最長である。2002年までは東北本線 (739.2 km) の方が長かったが、東北新幹線の延伸に伴い東北本線の一部が第三セクターのIGRいわて銀河鉄道および青い森鉄道へ経営移管されたことにより山陰本線の営業キロを下回った。 京都駅 - 園部駅間は旅客営業規則が定める大都市近郊区間のうち、大阪近郊区間に含まれており、この区間には嵯峨野線という愛称がある。京都駅 - 園部駅間と伯耆大山駅 - 出雲市駅間はIC乗車カード「ICOCA」の利用可能エリアに含まれている。嵯峨野線区間を含めた京都駅 - 城崎温泉駅間は、E の路線記号と、紫(■)のラインカラーが設定されている。これに加え、鳥取県を中心とした城崎温泉駅 - 米子駅間には、A の路線記号と、鳥取二十世紀梨をイメージした黄緑(■)のラインカラーが、島根県を中心とした米子駅 - 益田駅間には、D の路線記号と、日本海と宍道湖の夕日をイメージした朱色(■)のラインカラーが、それぞれ2016年2月より導入されている(両区間の境界は米子駅となる)。 近畿エリアの路線記号の適用対象でありながら、2015年3月14日ダイヤ改正時点での構内の旅客案内への反映は嵯峨野線内の各駅にとどまっていたが、2016年3月26日ダイヤ改正より前述の米子支社ともども、福知山支社管内の各駅における旅客案内や一部の所属車両の方向幕でも、米子支社制定分を含めたラインカラーや路線記号の本格使用を開始した。これに際し、上川口駅 - 城崎温泉駅についても紫色にEの路線記号に包含され、当該各駅でもこの路線記号を使用するようになり、同年4月頃には公式サイトの路線図にも反映された。 一方、広島支社管内の戸田小浜駅 - 幡生駅間には路線記号はないが、広島エリアの路線図や当該各駅の駅掲示時刻表のシンボルとして、オリーブ色(■)が使用されている。 なお、支社および鉄道部の管轄は以下のように分かれている。 京都駅 - 園部駅間…近畿統括本部 園部駅 - 居組駅間(園部駅構内のぞく)…福知山支社 居組駅 - 赤碕駅間(居組駅構内のぞく)…米子支社鳥取鉄道部 赤碕駅 - 田儀駅間(赤碕駅構内のぞく)…米子支社 田儀駅 - 益田駅間(田儀駅構内のぞく)…米子支社浜田鉄道部 益田駅 - 小串駅間(両端の駅構内のぞく)、長門市駅 - 仙崎駅間…広島支社長門鉄道部 小串駅 - 幡生駅間…広島支社下関地域鉄道部 管轄・路線距離(営業キロ):全長676.0 km(支線含む) 西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者): 京都駅 - 幡生駅間 673.8 km 長門市駅 - 仙崎駅間 2.2 km 嵯峨野観光鉄道(第二種鉄道事業者): トロッコ嵯峨駅 - トロッコ亀岡駅間 (7.3 km) 日本貨物鉄道(第二種鉄道事業者): 伯耆大山駅 - 益田駅間(196.3km) 軌間:1067mm 駅数:160(起終点駅含む。嵯峨野観光鉄道の駅はのぞく) 山陰本線所属駅に限定した場合、東海道本線所属の京都駅と山陽本線所属の幡生駅 が除外され、158駅となる。 複線区間: 京都駅 - 園部駅間(うち嵯峨嵐山駅 - 馬堀駅間は旧線を含めると一部区間をのぞき三線で、旧線は嵯峨野観光鉄道が第二種鉄道事業者としてトロッコ列車を運行している) 綾部駅 - 福知山駅間 伯耆大山駅 - 安来駅間 東松江駅 - 松江駅間 玉造温泉駅 - 来待駅間 電化区間: 京都駅 - 城崎温泉駅間、伯耆大山駅 - 西出雲駅間(直流1500V) 閉塞方式: 京都駅 - 西出雲駅間:自動閉塞式 西出雲駅 - 幡生駅間、仙崎支線:自動閉塞式(特殊) 最高速度: 嵯峨嵐山駅 - 馬堀駅間、綾部駅 - 福知山駅間:130 km/h 京都駅 - 嵯峨嵐山駅間、馬堀駅 - 綾部駅間、鳥取駅 - 出雲市駅間:120 km/h 鳥取駅 - 出雲市駅間:120 km/h(キハ187系及びHOT7000系等の振り子機能搭載列車)、100 km/h(その他の列車) 出雲市駅 - 益田駅間:110 km/h(キハ187系運用列車)、90 km/h(その他の列車) 福知山駅 - 鳥取駅間、益田駅 - 幡生駅間:95 km/h 長門市駅 - 仙崎駅間:85 km/h 運転指令所: 京都駅 - 園部駅間:大阪総合指令所 園部駅 - 居組駅間:福知山運輸指令室 居組駅 - 長門市駅間:米子運輸指令室 長門市駅 - 幡生駅間:広島総合指令所 在来線としての営業キロは日本最長の路線であるが、起点から終点までを通して走る優等列車の設定が史上一度もない本線の一つとなっている。区間によって乗客の流動に大きな偏りがあり、東西方向の交流が必ずしも盛んでないことや、かつての日本国有鉄道(国鉄)や現在のJR西日本が、山陽新幹線開業以降、山陰本線沿いの各都市から直接山陽新幹線に至る路線(陰陽連絡路線)を強化してきた結果である。 山陰と瀬戸内側を結ぶ線には福知山線・伯備線などの電化された路線や智頭急行線のような高速新線があるが、山陰の横同士の連絡は最近まであまり考慮されず、電化もそれらの延長的存在でつぎはぎ状態で行われた。後年の高速化工事も同様で、高速化された区間とそうでない区間がつぎはぎ状態になっている。それでも民営化後は鳥取駅 - 倉吉駅 - 米子駅 - 松江駅 - 出雲市駅の都市間輸送に力を入れるなど、以前に比べれば改善がみられる。 幹線扱いの長大路線でありながら近代化が遅れたことや、ローカル色あふれる風光明媚な車窓風景とあいまって、鉄道ファンであった作家の宮脇俊三は「偉大なるローカル線」と山陰本線を評した。この表現は山陰本線の実情をよく表したものとして、大方の鉄道ファンから賛同を得ている。特に出雲市駅以西の区間の輸送実態は地方交通線とほとんど変わらないといっても良いほどである。このほか、2010年に鉄橋からコンクリート橋に架け替えられた余部橋梁や、日本で3か所に現存するラチス式桁を持つ竹野川橋梁、浜坂駅手前にはラチス桁が残る田君川橋梁があるほか、須佐駅 - 宇田郷駅間にかかる惣郷川橋梁は日本海に注ぐ白須川河口にあるため、鉄道の撮影ポイントとしても有名である。 また、沿線には温泉地が多く、城崎温泉・玉造温泉・温泉津温泉など古くから知られた温泉が数多く湧出している。 山陰本線の東端・京都駅31 - 33番のりば 余部橋梁 コンクリート橋への架け替え前の余部橋梁を行く特急「はまかぜ」 城崎温泉駅 - 竹野駅間にあるラチス式桁(格子状桁)の竹野川橋梁 須佐駅 - 宇田郷駅間の惣郷川橋梁 以前は、京都・大阪あるいは東京方面と鳥取地区とを結ぶ列車は山陰本線の和田山駅 - 鳥取駅間を経由するか、東京方面の場合新幹線連絡で津山線・因美線を経由した岡山駅経由がメインルートであったが、智頭急行が開業してからは智頭急行線を使うルートに取って代わられた。また、対米子地区についても山陽新幹線開業以降は山陰本線経由から伯備線経由にメインルートが移っている。現在、京都・大阪からの特急はほとんどが電車であり城崎温泉駅までの運転である。京都駅 - 鳥取駅間には下記の列車が走っている。そのうち福知山駅は北近畿ビッグXネットワークの中心部分にあたる(定期列車・山陰本線経由分のみ記載。夜行列車は後述)。 京都駅 - 綾部駅間 特急「まいづる」(京都駅 - 東舞鶴駅間) ※特急「まいづる」は下記の「はしだて」「きのさき」と併結運転されている。 京都駅 - 福知山駅間 特急「はしだて」(京都駅 - 天橋立駅間) 京都駅 - 城崎温泉駅間 特急「きのさき」(京都駅 - 城崎温泉駅間) 福知山駅 - 城崎温泉駅間 特急「こうのとり」(新大阪駅 - 福知山駅・豊岡駅・城崎温泉駅間) 和田山駅 - 鳥取駅間 特急「はまかぜ」(大阪駅 - 香住駅・浜坂駅・鳥取駅間) 鳥取駅 - 益田駅間は近年の高速化工事などにより、新型車両の特急を登場させるまでに至ったが、その一方で益田駅 - 幡生駅間は「いそかぜ」廃止以降、優等列車はなくなった。鳥取駅以西については、鳥取駅・米子駅・益田駅などを結ぶ都市間連絡特急として下記の列車が運転されている。鳥取駅 - 出雲市駅間で120km/h、出雲市駅 - 益田駅間で110km/h運転を行っている。 鳥取駅 - 益田駅間 特急「スーパーまつかぜ」(鳥取駅 - 米子駅・益田駅間) 特急「スーパーおき」(鳥取駅・米子駅 - 新山口駅間) また、陰陽連絡特急として、下記の列車が運転されている。これらの列車は、京都駅・新大阪駅で東海道新幹線、姫路駅・岡山駅で山陽新幹線と接続している。 鳥取駅 - 倉吉駅間 特急「スーパーはくと」(京都駅 - 鳥取駅・倉吉駅間) …智頭急行線・因美線経由 伯耆大山駅 - 米子駅 - 出雲市駅間 特急「やくも」(岡山駅 - 出雲市駅間) …伯備線経由 このほか、夜行列車として下記の列車が運転されている。大阪駅からの急行「だいせん」(大阪駅 - 米子駅間)が2004年10月16日に、また東京駅からの寝台特急「出雲」(東京駅 - 出雲市駅間)が2006年3月18日のダイヤ改正で廃止されてからは、伯備線経由の列車のみの運転となっている。 伯耆大山駅 - 米子駅 - 出雲市駅間 寝台特急「サンライズ出雲」(東京駅 - 出雲市駅間) …伯備線経由 運転区間は過去最長のもの。詳細は各列車の記事参照。 特急 「あさしお」(京都駅 - 米子駅間) …一部宮津線経由 1972年 - 1996年 「まつかぜ」(京都駅 - 博多駅間) …福知山線経由 1961年 - 1986年 「やくも」(新大阪駅 - 浜田駅間) …福知山線経由 1965年 - 1972年(「まつかぜ」に編入) 「エーデル北近畿」(大阪駅 - 浜坂駅間) …福知山線経由 1990年 - 1999年 「エーデル鳥取」(大阪駅 - 倉吉駅間、のちに新大阪駅 - 鳥取駅間) …福知山線経由 1989年 - 1999年 「はくと」(京都駅 - 倉吉駅間) …智頭急行線・因美線経由 1994年 - 1997年(「スーパーはくと」に編入) 「いなば」(鳥取駅 - 米子駅間) …1996年 - 1997年(「くにびき」に編入) 「くにびき」(鳥取駅 - 益田駅間) …1988年 - 2001年(「スーパーくにびき」に改称) 「スーパーくにびき」(鳥取駅 - 益田駅間) …2001年 - 2003年(「スーパーまつかぜ」に改称) 「いそかぜ」(米子駅 - 博多駅間) …1985年 - 2005年 「スーパーやくも」(岡山駅 - 出雲市駅間) …伯備線経由 1994年 - 2006年(「やくも」に統一) 「おき」(新大阪駅 - 出雲市駅間) …伯備線経由 1971年 - 1972年 「おき」(鳥取駅 - 小郡駅間、米子駅 - 下関駅間) …山口線経由 1975年 - 2001年(「スーパーおき」に改称) 寝台特急 「いなば」(東京駅 - 米子駅間)…1975年 - 1978年(「出雲」に編入) 「出雲」(東京駅 - 浜田駅間)…1972年 - 2006年 急行(主要列車・運転区間に普通列車区間を含む・運転期間は急行時代) 「丹後」(京都駅 - 城崎駅・東舞鶴駅・敦賀駅・豊岡駅間) …1966年 - 1996年 「白兎」(京都駅 - 出雲市駅・大社駅間) …1961年 - 1986年(1961年 - 1968年に大阪駅 - 松江駅間編成併結) 「丹波」(大阪駅 - 城崎駅・天橋立駅間) …一部宮津線経由 1966年 - 1986年 「だいせん」(大阪駅 - 益田駅・大社駅間) …福知山線経由 1968年 - 2004年 「しまね」(大阪駅 - 出雲市駅・大社駅間) …福知山線経由 1964年 - 1965年 「おき」(大阪駅 - 出雲市駅・大社駅間) …福知山線経由 1965年 - 1968年 「但馬」(大阪駅 - 鳥取駅間) …播但線経由 1966年 - 1996年 「あさしお」(金沢駅 - 出雲市駅間) …小浜線・宮津線経由 1964年 - 1968年(併結相手の「大社」に統合) 「大社」(金沢駅 - 米子駅・名古屋駅 - 大社駅間) …小浜線・宮津線経由 1966年 - 1982年(山陰本線直通期間。金沢編成は元「あさしお」) 「みささ」(大阪駅 - 倉吉駅間) …姫新線・因美線経由 1966年 - 1985年(山陰本線定期直通期間。廃止は1989年) 「砂丘」(宇野駅 - 上井駅間、のちに岡山駅 - 米子駅間) …1968年 - 1991年(山陰本線定期直通期間。廃止は1997年) 「美保」(鳥取駅 - 境港駅間) … 1966年 - 1982年 「石見」(鳥取駅 - 益田駅間) … 1966年 - 1985年 「さんべ」(鳥取駅 - 熊本駅間) …1968年 - 1997年 「しまね」(米子駅 - 博多駅間) …1965年 - 1968年 「はぎ」(米子駅 - 長門市駅間) …1972年 - 1975年(「ながと」に改称) 「ながと」(米子駅 - 長門市駅間) …1975年 - 1985年 「しんじ」(宇野駅 - 小郡駅間) …伯備線・山口線経由 1966年 - 1975年 「伯耆」(岡山駅 - 米子駅間) …1975年 - 1982年 「しらぎり」(米子駅 - 広島駅間) …伯備線経由 1966年 - 1968年(「ちどり」に統合。その後も伯備線経由は1972年まで存続) 「いなば」(鳥取駅 - 広島駅間) …木次線経由 1966年 - 1968年(「ちどり」に統合) 「ちどり」(鳥取駅 - 広島駅間) …木次線経由 1966年 - 1990年(山陰本線直通期間。廃止は2002年) 「あきよし」(江津駅 - 日田駅間) …1966年 - 1985年 「ながと」(浜田駅 - 小倉駅間) …1985年 - 1992年 国鉄時代は、ほぼ全線を通して運転されるような長距離列車が多く見られ、京都発の普通客車列車の行先だけでも園部駅や福知山駅のみならず、豊岡駅・浜坂駅・鳥取駅・米子駅・出雲市駅・浜田駅などもあったが、現在はおおむね下記の区間に細かく運転系統が分かれている。 京都駅 - 園部駅間と鳥取駅 - 益田駅間では中距離・都市間の速達輸送を担う快速列車が運転されている。一方、園部駅 - 浜坂駅間でも2013年から一部の定期普通列車が快速列車に変更されているが、こちらは利用者の少ない駅を通過運転するものである。快速列車へ変更となった列車も引き続き他の普通列車と一体的な運行がなされている。 なお、京都駅 - 園部駅間をのぞき、ほとんどの区間の普通や快速列車でワンマン運転を行っている。 嵯峨野線の愛称がある。アーバンネットワーク圏内のため旅客数・列車本数とも多く、朝ラッシュ時の輸送力は飽和状態に近い。2010年3月7日に京都駅 - 園部駅間の複線化(京都駅構内は単線)が完成した。 電化および高速化工事が行われ、特急の所要時間は短縮された。しかし、普通列車は行き違いや追い抜きのための停車時間が長くなり、また、区間内ではカーブが多く、速度制限があるため、所要時間はあまり短縮されていない。普通列車は1時間あたり1 - 2本程度が運転されており、一部をのぞきワンマン運転が実施されている。京都駅と直通している朝夕の一部列車をのぞいて園部駅 - 福知山駅間のみの運行を行っており、園部駅で嵯峨野線列車との接続は良好である。嵯峨野線およびこの区間においては特急優先度が高く、途中駅で追い抜かれることが多い(一例として胡麻駅では、日中の下り列車を中心に特急待避が行われている)。ただ上り列車の場合、日中を中心に福知山駅を特急の約10分後に出発し、かつ園部駅で嵯峨野線快速との接続がある列車に関しては、京都駅まで先行する(反対方向に対しても、京都駅を朝夕に出発する列車を中心に、福知山駅まで先行する)。 単線部の複線化については、京都府は2022年度を目標とする奈良線複線化事業後の着手を考えたいとしている。 綾部駅 - 福知山駅間は舞鶴線と直通する列車も乗り入れて列車本数が多くなり、この区間は複線となっている。また、当路線の特急「きのさき」・福知山線の特急「こうのとり」と接続する舞鶴線直通の普通は「リレー号」として運転されている。 福知山線の延長的存在として京都駅 - 園部駅間よりも早く電化されて、大阪・京都方面からの特急が多く運行されているが、高速化工事はされておらず、おもに福知山駅 - 上夜久野駅間では急曲線も連続することから特急も速度を落として運転している。この区間には対向列車待ち合わせのための宿南信号場がある。1996年3月15日までは大阪駅から福知山線経由で直通していた長距離普通列車も運転されていた。和田山駅 - 城崎温泉駅間では播但線の特急も乗り入れている関係や、観光シーズンになると臨時列車の運行や乗降に時間を要し、遅延が発生することが多い。 1時間あたり1 - 2本程度が運行されている。普通列車は一部をのぞきワンマン運転を実施している。朝5時台に豊岡駅 - 城崎温泉駅間の区間列車がある。 城崎温泉駅から先は非電化となり、本数も1 - 2時間に1本程度とローカル色がより濃くなる。この区間には対向列車待ち合わせのための相谷信号場があった。普通列車は一部をのぞきワンマン運転を実施している。この区間の普通列車は基本的に豊岡駅発着となる。この区間では2002年度の上半期に月一回の保守運休(代替バスなし)を行っていた。 かつてはこの区間にも特急「北近畿」との接続を目的として快速列車が運行されていた時期もあった。2011年4月からは、臨時快速として、豊岡駅 - 鳥取駅間に「山陰海岸ジオライナー」が土休日などに運行されている。2012年春のダイヤ改正で、一部の駅を通過する普通列車が設定された。また、2013年春のダイヤ改正で、それらの列車を快速列車としている。 県境を挟むこともあり、特急「はまかぜ」(1往復)をのぞけば、1・2両編成の普通列車と快速列車が走るのみである(定期快速は居組駅のみ通過。前節の臨時快速「山陰海岸ジオライナー」は、この区間では途中岩美駅のみ停車)。普通・快速列車にはキハ47形気動車・キハ121系気動車が使用される。2018年3月17日ダイヤ改正時点で普通・快速列車は全ての列車がワンマン運転を実施している。この区間にはスイッチバック式停車場となっている滝山信号場があるが、現在では対向列車待ち合わせの用途には使用されていない。 この区間は再び幹線鉄道の様相を呈する。高速化工事により所要時間が短縮された海沿いのなだらかな区間(末恒駅 - 倉吉駅間以外にはトンネルが存在しない)を、鳥取県内・山陰両県の都市間輸送を担う特急やこれを補完する快速「とっとりライナー」が運行されている。また京阪神発着の特急も智頭急行経由で乗り入れることから、特に鳥取駅 - 倉吉駅間で列車本数が多く、普通列車は行き違いや追い抜きのための停車時間が長い。普通列車は倉吉駅で乗り換えとなるものもある。途中の伯耆大山駅から電化区間となり、伯備線の電車列車も乗り入れているため、運行本数も多くなり、米子駅を経て安来駅まで複線化されている。 伯備線と同時に山陰本線で最も早く電化された区間であるが、普通列車の半数近くは気動車で運転されており、1時間あたり1本程度運行されている。一方、快速列車はすべて気動車である。一部の電車列車は伯備線に直通し、特急「やくも」や寝台特急「サンライズ出雲」も乗り入れる。平日は上りのみ快速「通勤ライナー」も運転されている。それ以外にも快速列車(「アクアライナー」と「とっとりライナー」)が運転されているが、この区間は例外なく各駅に停車する。宍道駅 - 松江駅間には木次線からの直通列車がある。 また、この区間は特急を含めると列車の運行本数がかなり多く、伯耆大山駅 - 安来駅間、東松江駅 - 松江駅間、玉造温泉駅 - 来待駅間は複線化がなされているが、この区間全線が複線化されている訳ではないので、対向列車の待ち合わせに10分以上要する場合もある。なお、揖屋駅から米子方約2kmの複線化がなされているが、1982年の伯耆大山駅 - 知井宮駅(現・西出雲駅)間の電化の時に用地は確保されていたにも関わらず、施工されていなかった。 この区間は、西出雲駅から先は再び非電化区間となり、ローカル色が強くなるが、2001年7月7日に高速化工事が完成し、島根県内の都市間輸送を特急とともに行う目的で快速「アクアライナー」が運行されている。普通列車は浜田駅・江津駅で乗り換えとなるものが多く、浜田駅 - 益田駅間は運行本数が少なくなる。2006年7月18日から2007年6月15日まで三江線が不通になっていた関係で、1往復の列車が運休していたが運行再開に伴い当該列車も運行を再開した。再開と同時に三江線直通の普通列車も浜田行きが2本、浜原行きが1本設定されていたが、三江線は2018年4月1日に廃止され、当該列車は江津発着となった。 島根県と山口県の県境を挟むこの区間は、山陰本線の中でもとりわけ乗客・本数ともに少なく、1日10往復足らずで、日中は4 - 5時間以上運転がない時間帯がある。全列車が1 - 2両編成のワンマン運転による普通列車である。多くの列車が益田駅 - 長門市駅間の運転となるが、益田駅 - 下関駅間を直通する列車や益田駅 - 東萩駅間および木与駅・東萩駅 - 長門市駅間、登校日の長門三隅発長門市行きの区間列車も設定されている。2005年2月末に特急「いそかぜ」が廃止されて以降、益田駅 - 下関駅間は仙崎支線を除けば山陰本線で唯一特急列車が運行されていない区間となっている。 この区間にはJR西日本管内の地方交通線で見られるような20 - 30 km/h程度に速度を落として通過する曲線箇所が存在する(飯浦駅 - 江崎駅間など)。 山陰本線は幡生駅までだが、列車は下関駅まで運転される。この区間は輸送力が低いとされ、かつては急行「あきよし」「さんべ」などのように長門市駅で分割し、美祢線経由で運転されるものもあった。 日中を中心にワンマン運転を実施しているが、奈古駅・長門市駅・滝部駅 - 下関駅間を直通する列車の場合、奈古駅・長門市駅・滝部駅 - 小串駅間までがワンマン運転で、小串駅 - 下関駅間は車掌が乗務する列車もある。ただ、下関市域、特に小串駅 - 下関駅間は、関門都市圏の都市圏輸送を担っていることもあって、1時間あたり1 - 2本程度は運行されている。輸送力調整のため、小串駅で乗り換えとなる列車も多く、小串駅 - 下関駅間では3・4両編成になることもある。 2005年9月30日までは、関門トンネルを抜けて、JR西日本管内小串・長門市方面と、門司駅・小倉駅などJR九州北九州市内の駅を結ぶ直通列車が運転されていたが、2005年10月1日のダイヤ改正以後は、全列車が下関駅折り返しとなっている。 この区間では、2017年8月5日からは観光列車「○○のはなし」が土日祝日に運行されている。2007年7月1日から2017年1月29日まで、観光列車「みすゞ潮彩」が運転されていた(土日祝日のみ快速運転。ただし運行上、2回通る幡生駅を1回通過するのみで、あとは各駅停車であった)。 「みすゞ潮彩」 2017年3月4日のダイヤ改正では、下関駅発上りの最終列車が23時台に引き下げられた。 1日6往復のみの運行となっている。観光列車「○○のはなし」(下関方面直通)をのぞく全列車がワンマン運転で、一部の線内折り返し列車をのぞき美祢線と直通運転する系統が基本である。これは仙崎支線がもともと美祢線の貨物支線として開業した経緯によるものである。1往復のみ2両編成である。 2014年3月改正時点で伯耆大山駅 - 米子駅間に3往復運行されていた高速貨物列車が、2015年3月14日のダイヤ改正において、伯耆大山駅のコンテナホームが供用を開始し、同駅に米子駅の機能を統合したため、すべて伯備線内折返しとなったのを最後に、山陰本線内を通過する定期貨物列車が全廃された。日本貨物鉄道(JR貨物)における山陰本線の第二種鉄道事業免許についても、2015年4月1日付で廃止された。 その後、2018年7月の西日本豪雨に伴い山陽本線の一部区間が不通になったため、伯耆大山駅 - 益田駅間の第二種鉄道事業許可書が同年8月22日にJR貨物に対し交付され、伯備線・山陰本線・山口線に迂回する貨物列車が同年8月28日から9月28日まで臨時運行された。2018年9月29日に台風24号の影響で山陽本線柳井駅 - 下松駅間が不通となったため、同年10月5日から(当線通過は6日から)11日まで再度同一経路で運行された。 かつて、山陰本線・山陽本線の門司駅 - 福知山駅間には日本一の走行距離を有する普通列車が運行されていた。鉄道ファンはその列車番号で824列車と呼んでいた。 そもそも昭和30年代まで、日本国有鉄道(国鉄)においては特急・急行列車の本数が少なかった半面で、長距離の普通列車が設定されていた。1956年11月のダイヤ改正当時では、東海道本線・山陽本線では東京駅 - 門司駅間運転の111・112列車(東海道本線区間で夜行運転、運転区間の営業キロは1102.8 km。「ムーンライトながら」の項目も参照)、日本海縦貫線では大阪駅 - 青森駅間には羽越線を夜行で走る511・512列車、北陸線と奥羽線で2夜行になる513・514列車(運転区間の当時の営業キロは1055.6 km)が存在するといった具合である。 しかし、1961年10月に実施された「サンロクトオ」と呼ばれるダイヤ改正以降、国鉄では普通列車の乗客を新設ないしは増発した特急・急行列車に振り向けるため、これら長距離運転をする普通列車を削減するようになっていった。そして、その普通列車削減の流れが進んだ昭和50年代に、日本一の運行距離を有する普通列車となったのが、この824列車である。 1972年(昭和47年)3月15日ダイヤ改正以前には全線を直通する夜行列車826列車、829列車もあったが、夜行区間が急行に格上げ(「しまね」を経て夜行「さんべ」)されたり、夜行区間と昼行区間とが別列車に分断(夜行区間はのちの「山陰」)されて、この列車が残った。このため、本列車のスジ自体は山陰本線全通時にまでさかのぼる(戦時中は分断)が、日本最長となったのは、それまで最長だった大阪発新潟行きの普通列車が廃止された1972年10月のダイヤ改正 であった。 この列車は門司駅を朝5時30分ごろに発車し、福知山駅にはその日が終わるころに到着するもので、途中駅で特急・急行の待避や荷物輸送のための長時間停車をしていたこともあって、所要時間は約18時間半にもなり、表定速度は30km/hを若干上回る程度であった。また、客車はオハ35系・スハ43系・61系など手動扉の旧型のものが最後まで使用された。 その旧形客車の旅愁と運転区間が相まって、「乗り鉄」とも通称された鉄道旅行派のファンなどから注目される存在となり、宮脇俊三・種村直樹といった紀行作家による乗車記も書かれた。なお、上越新幹線開業に伴うダイヤ改正直前の1982年10月における、国鉄の長距離運行普通列車上位5位は以下のとおりである。 824列車:門司駅 - 福知山駅間 595.1 km 831列車:豊岡駅 - 門司駅間 535.2 km 726列車:浜田駅 - 大阪駅間 500.8 km 530列車:西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅) - 門司港駅(日豊本線経由)間 476.9 km 921・924列車「はやたま」:亀山駅 - 天王寺駅(紀勢本線経由)間運行 442.2 km しかし客車の老朽化が進んだことと、合理化および動力近代化の一環として客車列車を気動車・電車化した上で運行距離を短縮する施策が取られるようになったことから、824列車は1984年2月のダイヤ改正で下関駅 - 出雲市駅間運行の824列車と、出雲市駅 - 福知山駅間運行の548列車に系統が分割された。その後、さらに列車の運行区間が細分化され、2006年現在では824列車が運行していた時間帯に該当する列車が存在しない区間もある。 各年度の平均通過人員、旅客運輸収入は以下の通り。 289系電車 福知山駅 - 城崎温泉駅間(「こうのとり」) 287系電車 京都駅 - 城崎温泉駅間(「まいづる」「はしだて」「きのさき」「こうのとり」) 285系電車 伯耆大山駅 - 出雲市駅間(「サンライズ出雲」) 381系電車 伯耆大山駅 - 出雲市駅間(「やくも」) キハ187系気動車 鳥取駅 - 益田駅間(「スーパーまつかぜ」「スーパーおき」) キハ189系気動車 和田山駅 - 鳥取駅間(「はまかぜ」) HOT7000系気動車 鳥取駅 - 倉吉駅間(「スーパーはくと」) KTR8000形気動車 京都駅 - 福知山駅間(「まいづる」「はしだて」) 289系電車 287系電車 キハ187系気動車 キハ189系気動車 HOT7000系気動車 113系電車 綾部駅 - 城崎温泉駅間 115系電車 綾部駅 - 城崎温泉駅間 伯耆大山駅 - 米子駅 - 西出雲駅間 221系電車 京都駅 - 福知山駅間 223系5500番台電車 京都駅 - 城崎温泉駅間(京都駅 - 園部駅間は221系と併結運転) キハ40系気動車 …電化前は京都駅 - 豊岡駅間でも使用 豊岡駅 - 浜坂駅 - 鳥取駅間 鳥取駅 - 米子駅 - 出雲市駅間 出雲市駅 - 益田駅間 益田駅 - 幡生駅 - 下関駅間 キハ121系気動車 浜坂駅 - 鳥取駅間 キハ121系・キハ126系気動車 豊岡駅 - 鳥取駅間(臨時快速「山陰海岸ジオライナー」) 鳥取駅 - 米子駅・出雲市駅・西出雲駅間(快速「とっとりライナー」) 出雲市駅→米子駅間(快速「通勤ライナー」) 米子駅 - 浜田駅・益田駅間(快速「アクアライナー」) キハ120形気動車 伯耆大山駅 - 米子駅間 松江駅 - 宍道駅間 出雲市駅 - 浜田駅 - 益田駅間 益田駅 - 長門市駅間 長門市駅 - 仙崎駅間 113系電車 115系電車 221系電車 223系5500番台電車 キハ40形気動車 キハ126系気動車 キハ121系気動車 183系電車 特急「まいづる」「はしだて」「きのさき」「こうのとり」「たんば」 キハ80系気動車 特急「あさしお」「まつかぜ」「はまかぜ」「やくも」「おき」 キハ181系気動車 特急「あさしお」「まつかぜ」「はまかぜ」「はくと」「いなば」「やくも」「くにびき」「おき」「いそかぜ」 キハ58系・キハ65形気動車 各急行列車 24系客車 寝台特急「出雲」(1・4号) 14系客車 寝台特急「いなば」→「出雲」(2・3号)、急行「だいせん」 12系客車 急行「だいせん」「さんべ」 20系客車 寝台特急「出雲」、急行「だいせん」「さんべ」 117系電車 キハ33形気動車 浜坂駅 - 鳥取駅間(2010年3月運用終了) キハ58系気動車 50系客車 12系客車 EF64形・各種コンテナ貨車 伯耆大山駅 - 米子駅間 DD51形・タキ1100形 益田駅 - 岡見駅間 183系電車 キハ82形気動車 キハ181系気動車 キハ65形気動車 キハ33形気動車 キハ58形気動車 明治の鳥取では、明治中期に県内の道路整備が行われたものの、県外との交通は海運が主流だった。1890年(明治23年)頃は、鳥取から大阪へは徒歩で約1週間、航路では瀬戸内海を経由して2週間ほどを要した。その航路も春は荒天で欠航が多かった。 その頃までに、東京・神戸間や東京・仙台間に鉄道が開通していた。また1887年(明治20年)の私設鐵道條例によって全国で私鉄ブームとなった。山陰では、鳥取県と島根県の議員が合同で山陰地方への鉄道建設を目指すようになり、鳥取新報などの地元紙も山陰の鉄道に関する連載を行って地元世論を喚起した。1887年(明治20年)には早くも山陰と岡山を結ぶ路線が提唱された。 1890年(明治23年)から1891年(明治24年)にかけて鳥取・岡山の県議ら約250名が請願した「境港-米子-倉吉-津山-岡山」ルートの請願を出した。この頃の倉吉は木綿や農機具(千歯扱き)生産で栄えていて、これらを境港へ輸送する手段を求めていたのである。 これに対し、日野郡出身で鉄を扱う商工業者らは中国鉄道株式会社を興し、鉄の輸送に便利な「境港-米子-根雨-津山-岡山」ルートを主張した。 さらに倉敷方面と米子方面の有力者たちが「境港-米子-新見-倉敷-玉島」ルートを目指す期成会を結成した。 鳥取市では「姫路-津山-鳥取」ルートを目指して市会の議決を行ったが、税負担を不服とする住民がこれに反対し、県へ問題を持ち込んだ。県、鳥取市長、鳥取市会の意見の隔たりが大きくなり、提訴や行政裁判が繰り返され、遂に市長と市議全員が総辞職する騒動になった。 これらの様々なルートで競争が行われたが、1892年(明治25年)の鉄道敷設法では、舞鶴から鳥取、松江、浜田を経て山口を繋ぐ日本海側の縦断線や、いくつかの陰陽横断線が盛り込まれた。ただし、具体的なルートや着工の見通しはそれ以後の決定とされた。9種類ものルートが検討の対象となった。 結局、1893年(明治26年)に官設の「境港-米子-鳥取-智頭-佐用-姫路」ルート、私鉄・中国鉄道の「米子-根雨-津山-岡山」ルートの建設が決まった。翌1894年(明治27年)には山陽鉄道が神戸・広島間を全通させ、山陰方面でも大いに期待が高まった。ところがその翌月、日清戦争が勃発し、山陰方面の鉄道建設は凍結になった。 戦争終結後、山陰方面の鉄道建設が再開されることになったが、より重要な路線を最優先で建設することとなった。再び建設ルートや官民どちらを優先するかで紛糾したが、最終的には「境港-米子-鳥取-智頭-佐用-姫路」ルートが優先されることになった。これには軍部の意向が働いていて、姫路の第10師団と鳥取の歩兵第40連隊、さらに重要港湾の境港の連絡路を優先したのだとみなされている。 1900年(明治33年)の着工時点では、795万円の国費が予算として充てられた。工事は境港から始まったが、これは建設資材などを境港へ船で運び、そこから順次、先へ伸ばすのが輸送の面から合理的だったからである。建設工事は県内外から大量の人夫を集めたほか、米子方面の建築業者の成長を促した。境港から東へ向かうルートはしばらく平坦路で地盤もよく、工事は順調に進んで1902年(明治35年)に境港-御来屋間が開通した。 このあと御来屋-八橋間の建設工事中に、帝国議会はルート変更を決めた。変更後のルートは「境港-米子-鳥取-和田山-福知山」となった。日露戦争を見据えた帝国議会が軍事上の最優先路線として、大阪と舞鶴軍港を結ぶルートの建設を急ぐことになり、これと連結することで姫路・大阪・舞鶴・鳥取・境港といった軍事拠点が一挙に連絡できるからである。また、まもなく米子から今市(出雲市駅)までの延長も決まった。さらに鉄道国有法によって、全路線が国有化されることになった。このときから、今市・香住間を「山陰西線」、香住・福知山間を「山陰東線」と称するようになり、「西線」の工事指揮のため米子に出張所がおかれた。この出張所が米子鉄道局に発展した。 御来屋から東を目指す建設工事は、日露戦争中に一時的に中断があったものの急ピッチで進められた。このうち倉吉付近のルート選定については諸説ある。建設ルートは、倉吉市中心部を通るわけでもなく、江戸時代からこの地方の水運の拠点だった橋津を通るわけでもなく、両者の中間である上井を通ることになった。これは最短路というわけでもなく、迂回ルートとなっている。『鳥取県史』では、このルートは鉄橋やトンネルの建設が最小限で済む低コストのルートだったと説明している。 「東線」に相当する区間では、京都鉄道が1899年(明治32年)までに京都・園部間を、園部・綾部間を国が建設した。福知山・綾部間は阪鶴鉄道の路線を延伸する形で舞鶴までを結ぶ阪鶴線の一部として1904年に開業した。京都鉄道・阪鶴鉄道の両社は国有化され、京都駅 - 綾部駅間が京都線として1910年に開通した。 建設ルートではにわか景気による様々な悲喜騒動があったものの、米子から鳥取までの工事は比較的順調にすすみ、1907年(明治40年)の皇太子(のちの大正天皇)行啓にあわせて「鳥取仮駅」(千代川左岸)まで開業した。さらに翌年に千代川の鉄橋完成により1908年(明治41年)に米子・鳥取間の開通となった。 しかし鳥取と香住間は険しい山地を通るため難工事で、なかでも桃観トンネル・余部橋梁が最後になった。これらの完成を以って「西線」が開通したが、これは「東線」に比べて5ヶ月遅れてのことだった。こうして1912年(明治45年)3月1日に京都駅から出雲今市(出雲市駅)までが全通することになった。鳥取市で行われた開通式典には大隈重信、原敬など2600人が参加した。一番列車が来ると各駅で花火を打ち上げ、小学生の旗行列や大人の提灯行列で出迎えたという。 山陰本線の開通は山陰地方を大きく変えた。それまで交通・運輸の中心だった海運は壊滅的に衰退し、多くの港町が荒廃した。村ごとにあった商工業者は京阪神の大手企業に太刀打ちできず、次々と消えていき、地方の小町村は「都会へ安価な労働力を提供する地」へと変わっていった。一方、京阪神地方からの旅行客が激増し、観光地や温泉地が飛躍的に発展した。また、農業・漁業・林業などの一次産業では、地元消費から京阪神へ出荷する商品の生産が大幅に伸びた。肉牛、二十世紀梨、繭などが増産されたほか、第一次世界大戦の好況も相まって、材木、パルプ、綿布、和紙の出荷が大きく増えた。これらにより、産業構造は一次産業偏重に大きく傾いていった。 出雲今市駅からは順次西へ延び、1928年に須佐駅まで延伸される。 宇田郷駅 - 正明市駅(現在の長門市) - 阿川駅間および正明市駅 - 仙崎駅は美禰線(美祢線)を延伸する形で1930年までに開業した。小串駅 - 幡生駅間は長州鉄道(小串駅 - 幡生駅 - 東下関駅)の一部を1925年に国有化したもので、国有化時に小串線となった。1928年には小串駅 - 阿川駅間が延伸された。1933年には須佐駅 - 宇田郷駅間が開業し、美禰線の宇田郷駅 - 正明市駅 - 阿川駅間・正明市駅 - 仙崎駅間と小串線を編入して京都駅 - 幡生駅間・正明市駅 - 仙崎駅間となった山陰本線が全通した。 なお、長州鉄道のうち、国有化されなかった幡生駅 - 東下関駅(現在の東駅)間については1926年に電化、翌々年の1928年には山陽電気軌道(サンデン交通の前身)へと譲渡され、同社の路面電車線と一体化して運営されるようになった。 1897年(明治30年) 2月15日:京都鉄道 二条駅 - 嵯峨駅(現在の嵯峨嵐山駅)間(3M65C≒6.14 km)が開業。二条駅・嵯峨駅が開業。 4月27日:大宮駅 - 二条駅間(2M4C≒3.30 km)が延伸開業。大宮駅・丹波口駅が開業。 11月16日:京都駅 - 大宮駅間(38C≒0.76 km)が延伸開業。官設鉄道(国鉄)京都駅に乗り入れ。 1898年(明治31年)1月1日:花園駅が開業。 1899年(明治32年) 8月1日:大宮駅が廃止。 8月15日:嵯峨駅 - 園部駅間(15M69C≒25.53 km)が延伸開業。亀岡駅・八木駅・園部駅が開業。 1902年(明治35年)11月12日:営業距離の単位をマイル・チェーンからマイルのみに簡略化(22M16C → 22.2M)。 1905年(明治38年)1月15日:大宮駅が再開業。 1907年(明治40年)8月1日:京都鉄道が国有化。 1909年(明治42年)10月12日:線路名称制定、京都駅 - 園部駅間が京都線となる。 1910年(明治43年)8月25日:園部駅 - 綾部駅間(26.1M≒42.00 km)が延伸開業。日吉駅・胡麻駅・和知駅・山家駅が開業。 1911年(明治44年)9月16日:大宮駅が廃止。 1904年(明治37年)11月3日:福知山駅 - 綾部駅 - 新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間が開業(福知山駅 - 綾部駅間は7.7M≒12.39 km)。阪鶴鉄道に貸与。現在の山陰本線にあたる区間に綾部駅・石原駅・福知山駅が開業。 1907年(明治40年)8月1日:阪鶴鉄道が国有化。 1909年(明治42年)10月12日:線路名称制定、神崎駅(現在の尼崎駅) - 福知山駅 - 綾部駅 - 新舞鶴駅間などを阪鶴線とする。 1908年(明治41年)7月1日:和田山駅 - 八鹿駅間(7.5M≒12.07 km)が開業。養父駅・八鹿駅が開業。 1909年(明治42年) 7月10日:八鹿駅 - 豊岡駅間(10.7M≒17.22 km)が延伸開業。江原駅・豊岡駅が開業。 9月5日:豊岡駅 - 城崎駅間(6.0M≒9.66 km)が延伸開業。城崎駅(現在の城崎温泉駅)が開業。 10月12日:線路名称制定、飾磨駅 - 姫路駅 - 和田山駅 - 城崎駅間を播但線とする。 1911年(明治44年)10月25日:城崎駅 - 香住駅間(13.7M≒22.05 km)が延伸開業。支線 和田山駅 - 福知山駅間(19.0M≒30.58 km)も開業。上川口駅・下夜久野駅・上夜久野駅・梁瀬駅・竹野駅・佐津駅・香住駅が開業。 1902年(明治35年) 11月1日:境駅(現在の境港駅) - 米子駅 - 御来屋駅間が開業(米子駅 - 御来屋駅間は12M5C≒19.41 km)。現在の山陰本線にあたる区間に米子駅・淀江駅・御来屋駅が開業。 12月1日:熊党駅(現在の伯耆大山駅)が開業。 1903年(明治36年) 8月28日:御来屋駅 - 八橋駅間(11.0M≒17.70 km)が延伸開業。下市駅・赤碕駅・八橋駅(現在の浦安駅)が開業。 12月20日:八橋駅 - 倉吉駅間(9.7M≒15.61 km)が延伸開業。由良駅・倉吉駅が開業。 1904年(明治37年)3月15日:倉吉駅 - 松崎駅間(3.4M≒5.47 km)が延伸開業。松崎駅が開業。 1905年(明治38年)5月15日:松崎駅 - 青谷駅間(7.4M≒11.91 km)が延伸開業。泊駅・青谷駅が開業。 1907年(明治40年)4月28日:青谷駅 - 鳥取仮停車場間(12.9M≒20.76 km)が延伸開業。浜村駅・宝木駅・湖山駅・鳥取仮停車場が開業。 1908年(明治41年) 4月5日:鳥取駅 - 鳥取仮停車場間(1.1M≒1.77 km)、米子駅 - 安来駅間(5.5M≒8.85 km)が延伸開業。起点を境駅から鳥取駅に変更し、鳥取駅 - 安来駅間が本線、米子駅 - 境駅間が支線となる。鳥取駅・安来駅が開業。鳥取仮停車場が廃止。 11月8日:安来駅 - 松江駅間(12.5M≒20.12 km)が延伸開業。荒島駅・揖屋駅・馬潟駅(現在の東松江駅)・松江駅が開業。 1909年(明治42年) 3月11日:名和仮乗降場が開業。 10月12日:国有鉄道線路名称制定。鳥取駅 - 米子駅 - 松江駅間を山陰本線とする。 11月7日:松江駅 - 宍道駅間(10.6M≒17.06 km)が延伸開業。湯町駅(現在の玉造温泉駅)・宍道駅が開業。 1910年(明治43年) 6月10日:岩美駅 - 鳥取駅間(11.4M≒18.35 km)、宍道駅 - 荘原駅間(2.5M≒4.02 km)が延伸開業。岩美駅・荘原駅が開業。 10月10日:荘原 - 出雲今市間(7.2M≒11.59 km)が延伸開業。塩見駅(現在の福部駅)・直江駅・出雲今市駅(現在の出雲市駅)が開業。 1911年(明治44年) 10月1日:熊党駅を大山駅に改称。 11月10日:浜坂駅 - 岩美駅間(8.7M≒14.00 km)が延伸開業。浜坂駅・居組駅が開業。 1912年(明治45年) 1月31日:名和仮乗降場を仮停車場に変更し名和仮停車場が開業。 3月1日:香住駅 - 浜坂駅間(11.1M≒17.86 km)が延伸開業し京都駅 - 出雲今市駅間が全通。京都線全線、阪鶴線綾部駅 - 福知山駅間、播但線福知山駅 - 香住駅間を山陰本線に編入。鎧駅・久谷駅が開業。 3月2日:玄武洞仮停車場が開業。 5月1日:倉吉駅を上井駅に改称。 1913年(大正2年)11月21日:出雲今市駅 - 小田駅間(9.6M≒15.45 km)が延伸開業。知井宮駅(現在の西出雲駅)・江南駅・小田駅が開業。 1915年(大正4年) 3月10日:下北条駅が開業。 3月31日:米子駅 - 安来駅間に清水寺仮停車場が開業。 7月11日:小田駅 - 石見大田駅間(10.6M≒17.06 km)が延伸開業。田儀駅・波根駅・久手駅・石見大田駅(現在の大田市駅)が開業。 1917年(大正6年) 5月1日:大山駅を伯耆大山駅に改称。 5月15日:石見大田駅 - 仁万駅間(7.3M≒11.75 km)が延伸開業。五十猛駅・仁万駅が開業。 1918年(大正7年) 4月21日:玄武洞仮停車場が駅に変更され、玄武洞駅が開業。 11月25日:仁万駅 - 浅利駅間(11.9M≒19.15 km)が延伸開業。馬路駅・温泉津駅・黒松駅・浅利駅が開業。 1920年(大正9年)12月25日:浅利駅 - 都野津駅間(6.6M≒10.62 km)が延伸開業。石見江津駅(現在の江津駅)・都野津駅が開業。 1921年(大正10年)9月1日:都野津駅 - 浜田駅間(9.1M≒14.65 km)が延伸開業。波子駅・下府駅・浜田駅が開業。 1922年(大正11年) 3月10日:浜田駅 - 周布駅間(5.9M≒9.50 km)が延伸開業。石見長浜駅(現在の西浜田駅)・周布駅が開業。 9月1日:周布駅 - 三保三隅駅間(6.1M≒9.82 km)が延伸開業。三保三隅駅が開業。 1923年(大正12年)12月26日:三保三隅駅 - 石見益田駅(現在の益田駅)間(13.6M≒21.89 km)が延伸開業。山口線と接続。鎌手駅・石見津田駅が開業。 1924年(大正13年)4月1日:折居駅が開業。 1925年(大正14年) 3月8日:石見益田駅 - 石見小浜駅間 (6.1M) が延伸開業。石見小浜駅(現在の戸田小浜駅)が開業。 7月6日:湖山駅 - 宝木駅間に白兎仮停車場が開業。 10月10日:下山駅が開業。 11月1日:石見小浜駅が戸田小浜駅に改称。 1926年(大正15年) 4月1日:岡見駅が開業。 9月16日:静間駅が開業。 9月17日:大山口駅が開業。 1927年(昭和2年)6月19日:戸田小浜駅 - 飯浦駅間(2.3M≒3.70 km)が延伸開業。飯浦駅が開業。 1928年(昭和3年) 3月25日:飯浦駅 - 須佐駅間(7.7M≒12.39 km)が延伸開業。江崎駅・須佐駅が開業。 7月4日:八橋浜仮停車場(現在の八橋駅)が開業。 9月11日:末恒駅が開業。 10月25日:石見福光駅が開業。 1929年(昭和4年) 8月17日:嵯峨駅 - 馬堀駅間に松尾山信号場が開設。 12月25日:来待駅が開業。 1930年(昭和5年)4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(京都駅 - 須佐駅間 336.8M→542.0 km)。貨物支線 馬潟駅 - 馬潟港駅間 (1.0 km) が開業。貨物駅として馬潟港駅が開業。京都駅 - 丹波口駅間の貨物営業が廃止。 1931年(昭和6年)7月18日:諸寄仮停車場が開業。 1924年(大正13年)11月3日:美禰線 正明市駅(現在の長門市駅) - 長門三隅駅間(3.2M≒5.15 km)が延伸開業。長門三隅駅が開業。 1925年(大正14年) 4月3日:長門三隅駅 - 萩駅間(11.6M≒18.67 km)が延伸開業。三見駅・玉江駅・萩駅が開業。 11月1日:萩駅 - 東萩駅間(2.3M≒3.70 km)が延伸開業。東萩駅が開業。 1928年(昭和3年)12月9日:支線 正明市駅 - 黄波戸駅間(3.3M≒5.31 km)が開業。黄波戸駅が開業。 1929年(昭和4年) 4月24日:東萩駅 - 奈古駅間(7.4M≒11.91 km)が延伸開業。長門大井駅・奈古駅が開業。 10月13日:支線 黄波戸駅 - 長門古市駅間(2.5M≒4.02 km)が延伸開業。長門古市駅が開業。 1930年(昭和5年) 4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(正明市駅 - 奈古駅間 24.5M→39.4 km、正明市駅 - 長門古市駅間 5.8M→9.4 km)。 5月15日:貨物支線 正明市駅 - 仙崎駅間 (2.2 km) が開業。貨物駅として仙崎駅が開業。 12月7日:長門古市駅 - 阿川駅間 (18.4 km) が延伸開業し小串線に接続。人丸駅・伊上駅・長門粟野駅が開業。 1931年(昭和6年)11月15日:奈古駅 - 宇田郷駅間 (11.0 km) が延伸開業。木与駅・宇田郷駅が開業。 1914年(大正3年)4月22日:長州鉄道 東下関駅 - 幡生駅 - 小串駅が開業(幡生駅 - 小串駅間は14.8M≒23.82 km。現在の山陰本線にあたる区間に垢田口停留場・綾羅木駅・安岡駅・福江駅・吉見駅・梅ケ峠駅・黒井村駅・川棚温泉駅・小串駅が開業。 1917年(大正6年)3月1日:垢田口停留場が廃止。 1925年(大正14年) 6月1日:幡生駅 - 小串駅間が国有化され、小串線となる。全線で0.1M(≒0.16 km)短縮。機関車4両、客車10両、貨車23両を引継ぐ。 8月16日:小串駅 - 滝部駅間(9.4M≒15.13 km)が延伸開業。湯玉駅・長門二見駅・滝部駅が開業。 1928年(昭和3年)9月9日:滝部駅 - 阿川駅間(4.8M≒7.72 km)が延伸開業。特牛駅・阿川駅が開業。 1930年(昭和5年)4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(28.9M→46.4 km)。 1933年(昭和8年) 2月24日:須佐駅 - 宇田郷駅間 (8.8 km) が延伸開業し京都駅 - 幡生駅間が全通。美禰線 宇田郷駅 - 正明市駅 - 阿川駅間、正明市駅 - 仙崎駅間と小串線全線を編入し京都駅 - 幡生駅間、正明市駅 - 仙崎駅間が山陰本線となる。 7月26日:支線 正明市駅 - 仙崎駅間の旅客営業開始。 1935年(昭和10年) 5月1日:湯里駅が開業。 7月20日:馬堀駅・並河駅・千代川駅・吉富駅が開業。 10月1日:安岡駅 - 綾羅木駅間に梶栗駅が開業。 1936年(昭和11年)4月15日:松尾山信号場が駅に変更され、保津峡駅が開業。 1937年(昭和12年)4月10日:乃木駅が開業。 1938年(昭和13年) 6月1日:諸寄仮停車場が駅に変更され、諸寄駅が開業。 8月20日:八橋駅を東八橋駅に改称。八橋浜仮停車場が駅に変更され、八橋駅が開業。 1941年(昭和16年)8月10日:吉富駅・梶栗駅が休止。 1943年(昭和18年)10月1日:塩見駅 - 鳥取駅間に滝山信号場が開設。 1945年(昭和20年) 5月30日:綾羅木駅 - 幡生駅間に稗田信号場が開設。 11月14日:稗田信号場が廃止。 1946年(昭和21年)4月25日:和知駅 - 山家駅間に立木信号場が開設。 1947年(昭和22年):同年以降に石見益田駅 - 戸田小浜駅間に競馬場仮停車場が開業。廃止日不明。 6月26日:柴山駅が開業。 11月1日:立木信号場が駅に変更され、立木駅が開業。 1948年(昭和23年)10月13日:国府駅が開業。 1949年(昭和24年) 3月1日:塩見駅が福部駅に改称。 5月11日:湯町駅が玉造温泉駅に改称。 12月15日:東八橋駅が浦安駅に、石見長浜駅が西浜田駅に改称。 1950年(昭和25年)1月1日:東浜駅・大岩駅が開業。 1951年(昭和26年) 10月1日:吉富駅が再開。 11月1日:中山口駅が開業。 1953年(昭和28年)10月10日:船岡駅が開業。 1955年(昭和30年) 2月10日:名和仮停車場が駅に変更され、名和駅が開業。 8月1日:貨物支線 西浜田駅 - 浜田港駅間 (2.3 km) が開業。貨物駅として浜田港駅が開業。 1957年(昭和32年) 2月11日:安栖里駅が開業。 4月1日:出雲今市駅が出雲市駅に改称。 1958年(昭和33年) 2月12日:高津駅が開業。 7月19日:宇賀本郷駅が開業。 1959年(昭和34年) 3月1日:久代駅が開業。 4月1日:敬川駅が開業。 4月16日:餘部駅が開業。 1960年(昭和35年)4月1日:越ケ浜駅が開業。 1961年(昭和36年) 2月1日:千代川駅に行き違い施設が新設される。 9月30日:国府駅に行き違い施設が新設される 1962年(昭和37年) 11月1日:正明市駅が長門市駅に改称。 11月22日:伯耆大山駅 - 米子駅間に日野川信号場が開設。 12月1日:日野川信号場 - 米子駅間が複線化。 1963年(昭和38年) 1月28日:和田山駅 - 豊岡駅間で連査閉塞式が導入。 6月1日:長門市駅 - 仙崎駅間の貨物営業が廃止。 7月20日:馬堀駅に行き違い施設が新設される。 1964年(昭和39年) 1月21日:飯井駅が開業。 10月1日:清水寺仮停車場が廃止。清水寺信号場が開設。 1966年(昭和41年) 3月25日:京都駅 - 園部駅間で自動閉塞化。 10月1日:石見益田駅が益田駅に改称。伯耆大山駅 - 日野川信号場間が複線化。日野川信号場が廃止。安栖里駅に行き違い施設が新設。園部駅 - 綾部駅間が自動閉塞化。 12月20日:船岡駅に行き違い施設が新設される。 1967年(昭和42年)3月31日:綾部駅 - 和田山駅間が自動閉塞化。 1968年(昭和43年) 3月23日:和田山駅 - 城崎駅間が自動閉塞化。 9月18日:綾部駅 - 石原駅間が複線化。 9月23日:八鹿駅 - 江原駅間に宿南信号場が開設。 9月29日:城崎駅 - 香住駅間で自動閉塞化。 1969年(昭和44年) 3月1日:白兎仮停車場が廃止。 9月26日:石原駅 - 福知山駅間が複線化。 1970年(昭和45年) 2月21日:玉造温泉駅 - 来待駅間が複線化。 6月1日:石見江津駅が江津駅に改称。 9月30日:香住駅 - 居組駅間が自動閉塞化。 12月15日:福知山駅 - 居組駅間に列車集中制御装置 (CTC) が導入。 1971年(昭和46年)2月1日:石見大田駅が大田市駅に改称。二条駅 - 福知山駅間に CTC が導入。 1972年(昭和47年)2月14日:上井駅が倉吉駅に改称。 1973年(昭和48年)4月1日:馬潟駅が東松江駅に改称。 1974年(昭和49年)11月30日:蒸気機関車運転終了 1975年(昭和50年)4月1日:貨物支線 東松江駅 - 馬潟港駅間 (1.0 km) が廃止。馬潟港駅が廃止。 1976年(昭和51年) 3月16日:京都駅 - 二条駅間が高架化。丹波口駅が移転。 12月1日:竹野駅 - 佐津駅間に相谷信号場が開設。 1977年(昭和52年)3月10日:松江駅付近が高架化。 1978年(昭和53年)11月8日:鳥取駅付近が高架化。 1979年(昭和54年)10月31日:東松江駅 - 松江駅間が複線化。 1980年(昭和55年)8月31日:奈古駅 - 長門大井駅間が災害で不通になる。10月に復旧するが再び不通になる。 1981年(昭和56年)3月5日:再度の土砂崩れで不通だった奈古駅 - 長門大井駅間が復旧。 1982年(昭和57年) 6月18日:清水寺信号場 - 安来駅間が複線化。 6月24日:米子駅 - 清水寺信号場間が複線化。清水寺信号場が廃止。 7月1日:伯耆大山駅 - 知井宮駅間が電化。特急「やくも」が電車化。神西駅(現在の出雲神西駅)が開業。 11月7日:貨物支線 西浜田駅 - 浜田港駅間 (2.3 km) が廃止。浜田港駅が廃止。 1985年(昭和60年)7月27日:竹野駅 - 佐津駅間に臨時駅として切浜海水浴場駅が開業。 1986年(昭和61年) 8月1日:切浜海水浴場駅が廃止。 10月29日:福知山駅 - 城崎駅間が電化。 11月1日:長門市駅 - 幡生駅間の貨物営業が廃止。 12月28日:鎧駅 - 餘部駅間の余部橋梁から、回送中の客車が転落する事故(山陰線余部鉄橋列車転落事故)が発生。 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が丹波口駅 - 二条駅間、湖山駅 - 出雲市駅間、江津駅 - 益田駅間の第二種鉄道事業者となる。二条駅 - 湖山駅間、出雲市駅 - 江津駅間、益田駅 - 長門市駅間の貨物営業が廃止。 1988年(昭和63年)3月13日:長門市駅 - 仙崎駅間でワンマン運転開始。京都駅 - 園部駅間に「嵯峨野線」の愛称が付けられる。 1989年(平成元年) 3月5日:嵯峨駅 - 馬堀駅間が複線の新線に切り替え、1.6km短縮。旧線は廃線とせず存置。 3月11日:太秦駅が開業。 1990年(平成2年) 3月10日:京都駅 - 園部駅間が電化。 6月1日:鉄道部制度が発足。和田山駅(構内のぞく)- 居組駅間が福知山支社直轄から豊岡鉄道部管理に、知井宮駅(構内のぞく)- 益田駅間が米子支社直轄から浜田鉄道部管理に移行。豊岡駅 - 鳥取駅間、出雲市駅 - 益田駅間でワンマン運転開始。 1991年(平成3年) 4月1日:第2次鉄道部の発足に伴い、園部駅(構内のぞく)- 福知山駅(構内のぞく)間が福知山支社直轄から舞鶴鉄道部管理に、居組駅(構内のぞく)- 伯耆大山駅(構内のぞく)間が米子支社直轄から鳥取鉄道部管理に、益田駅(構内のぞく)- 幡生駅(構内のぞく)間と長門市駅 - 仙崎駅間が広島支社直轄から長門鉄道部管理に移行。園部駅 - 福知山駅間、益田駅 - 長門市駅間でワンマン運転開始。 4月27日:嵯峨駅 - 馬堀駅間の旧線が嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線として開業(西日本旅客鉄道が第一種、嵯峨野観光鉄道が第二種鉄道事業者)。 11月1日:長門市駅 - 下関駅間でワンマン運転開始。 12月1日:鳥取駅 - 米子駅間でワンマン運転開始。 1992年(平成4年)4月1日:米子駅(構内のぞく)- 知井宮駅間が米子支社直轄から出雲鉄道部管理に移行。 1993年(平成5年)3月18日:東山公園駅が開業。知井宮駅が西出雲駅に、神西駅が出雲大社口駅に改称。 1994年(平成6年) 7月23日 - 8月16日:竹野駅 - 佐津駅間に臨時駅として、きりはまビーチ駅が設置される。以後も1996年まで夏季に営業。 8月1日:浜田駅 - 益田駅間でキハ120形気動車が使用開始。 9月4日:嵯峨駅が嵯峨嵐山駅に改称。 9月23日 - 11月20日:京都駅 - 丹波口駅間に梅小路公園で開催された全国都市緑化フェア会場最寄りの臨時駅として緑化フェア梅小路駅が設置される。 1995年(平成7年) 4月20日:綾部駅 - 福知山駅間が電化。 7月27日:鳥取大学前駅が開業。 1996年(平成8年) 3月16日:園部駅 - 綾部駅間が電化。二条駅 - 花園駅間が高架化。殿田駅が日吉駅に改称。鍼灸大学前駅が開業。丹波口駅 - 二条駅間、米子駅 - 東松江駅間の貨物列車が廃止。 8月21日:きりはまビーチ駅が廃止。 1997年(平成9年) 3月22日:江津駅 - 岡見駅間の貨物列車が廃止。 10月1日:湖山駅 - 伯耆大山駅間の貨物列車が廃止。 1998年(平成10年)3月14日:出雲市駅付近が高架化。 1999年(平成11年) 3月13日:出雲大社口駅が出雲神西駅に改称。 10月2日:福知山駅での特急・グリーン料金乗り継ぎ通算制度が導入。 2000年(平成12年)9月23日:二条駅 - 花園駅間が複線化。円町駅が開業。 2001年(平成13年) 3月3日:福知山駅 - 城崎駅間でワンマン運転開始。 7月7日:安来駅 - 益田駅間の高速化工事が完成。米子駅 - 出雲市駅間でワンマン運転開始。 年月日不明:小串駅 - 幡生駅(構内のぞく)間が長門鉄道部から下関地域鉄道部管理に移管。 2002年(平成14年)8月30日:福知山駅 - 居組駅間で小規模線区自動進路制御装置 (SRC) が導入。 2003年(平成15年) 10月1日:鳥取駅 - 米子駅間の高速化工事完成。 11月1日:京都駅 - 園部駅間においてICカード「ICOCA」利用開始。 2004年(平成16年) 4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(湖山駅 - 伯耆大山駅間)が廃止。 2005年(平成17年) 3月1日:城崎駅が城崎温泉駅に改称。 11月26日:福知山駅付近が高架化。 年月日不明:舞鶴鉄道部廃止に伴い、園部駅(構内のぞく)- 福知山駅(構内のぞく)間が福知山支社直轄に戻る。 2006年(平成18年)4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(丹波口駅 - 二条駅間、東松江駅 - 出雲市駅間、江津駅 - 岡見駅間)が廃止。 2008年(平成20年) 3月15日:梶栗郷台地駅が開業。 3月23日:花園駅 - 太秦駅間が高架化。 5月25日:太秦駅 - 嵯峨嵐山駅間が高架化。 12月14日:馬堀駅 - 亀岡駅間が複線化。 2009年(平成21年) 3月14日:八木駅 - 園部駅間が複線化。 7月20日:京都駅 - 丹波口駅間が複線化。 9月6日:並河駅 - 八木駅間が複線化。 11月1日:亀岡駅 - 並河駅間が複線化。 2010年(平成22年) 1月31日:丹波口駅 - 二条駅間が複線化。 3月7日:花園駅 - 嵯峨嵐山駅間が複線化。 6月1日:豊岡鉄道部が廃止され、和田山駅(構内のぞく)- 居組駅間が福知山支社直轄に戻る。 7月17日 - 8月11日:余部橋梁の架け替えのため香住駅 - 浜坂駅間で運休し、バス代行を実施。 8月12日:コンクリートに架け替えた余部橋梁を供用開始。 2013年(平成25年) 7月28日:島根県と山口県の大雨で須佐橋脚が沈下、須佐トンネルと大刈トンネルで土石流が発生し益田駅 - 長門市駅間で不通となる。8月4日に奈古駅 - 長門市駅間が運転再開、宇田郷駅 - 奈古駅間で代行輸送開始、8月5日に益田駅 - 須佐駅間で代行輸送開始。 8月24日:大雨により江津駅 - 浜田駅間で運転見合わせ(代行輸送を実施)、大田市駅 - 江津駅間では一部列車の運転取り止め。 9月25日:江津駅 - 浜田駅間が運転再開。 11月9日:益田駅 - 須佐駅間が運転再開。不通区間は奈古駅 - 須佐駅間に短縮される。 2014年(平成26年) 4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(岡見駅 - 益田駅間 16.9 km)が廃止。 8月10日:奈古駅 - 須佐駅間が運転再開。 8月17日:16日からの京都府北部での集中豪雨の影響で、園部駅 - 和田山駅間が0時13分から不通となる。 8月18日:園部駅 - 綾部駅間が運転再開。 8月19日:綾部駅 - 和田山駅間が運転再開。 2015年(平成27年) 3月14日:伯耆大山駅 - 米子駅間の貨物列車が廃止。山陰本線を経由する定期貨物列車が全廃される。京都駅 - 福知山駅間で路線記号が本格導入開始。 4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(伯耆大山駅 - 東松江駅間 27.1 km)が廃止。 2016年(平成28年) 1月30日:田儀駅において山側の土砂が崩れ、海側の線路のみでの運用となり、行き違いができなくなったことでダイヤに大幅な影響が出る。 2月4日:城崎温泉駅 - 益田駅間への路線記号・ラインカラーの導入が発表される。 12月17日:伯耆大山駅 - 出雲市駅間においてICカード「ICOCA」利用開始。 2017年(平成29年)5月22日:益田駅 - 幡生駅と長門市駅 - 仙崎駅間に小規模自動進路制御装置(SRC) を導入。 2018年(平成30年) 7月10日:平成30年7月豪雨の影響により、長門大井駅 - 越ケ浜駅間で斜面崩壊が発生。益田駅 - 東萩駅間が長期不通となる。 7月21日:平成30年7月豪雨による災害で運休していた益田駅 - 東萩駅間が再開。 8月22日:日本貨物鉄道に対し伯耆大山駅 - 益田駅間の第二種鉄道事業を許可。 8月28日:平成30年7月豪雨で一部区間が不通となっている山陽本線の迂回貨物列車の運行を開始し(当線通過は29日から)、9月28日に運行を終了。 9月30日:台風24号の影響で中山口駅 - 下市駅間で道床流出が発生し、赤碕駅 - 下市駅間が不通となる。 10月5日:赤碕駅 - 下市駅間が運転再開。台風24号による土砂災害で山陽本線の一部区間が不通となったため、迂回貨物列車の運行を再び開始し(当線通過は6日から)、10月11日に運行を終了。 2019年(平成31年) 春:梅小路京都西駅が開業予定。 特急列車の停車駅は、#優等列車に挙げられている各列車記事参照。 線路 … ∥:複線区間、◇・|:単線区間(◇は列車交換可能)、∨:ここより下は単線、∧:ここより下は複線 営業キロは、仙崎支線をのぞいて京都駅からのキロ程。 全区間複線・電化。( )内の数字は営業キロ。 京都駅 (0.0 km) - 丹波口駅 - 二条駅 - 円町駅 - 花園駅 - 太秦駅 - 嵯峨嵐山駅 - 保津峡駅 - 馬堀駅 - 亀岡駅 (20.2 km) - 並河駅 - 千代川駅 - 八木駅 - 吉富駅 - 園部駅 (34.2 km) 停車駅 普通…すべての旅客駅に停車 快速列車…●印の駅は全列車停車、▲印の駅は一部の列車が停車、|印の駅は全列車通過。 嵯峨野線区間から乗り入れる快速(臨時列車除く)は、この区間内では普通列車扱いとして各駅に停車。逆にこの区間内で快速となる列車は、嵯峨野線区間では普通列車扱いとして各駅に停車する。 豊岡駅 - 城崎温泉駅間については、福知山方面からの電車快速についてのみ記載。 全区間電化 ^ 舞鶴線の列車は一部が福知山駅へ乗り入れる JR西日本直営駅(6駅) 園部駅・綾部駅・福知山駅・和田山駅・豊岡駅・城崎温泉駅の6駅 JR西日本福知山メンテックによる業務委託駅(3駅) 八鹿駅・江原駅・香住駅 簡易委託駅(4駅) 日吉駅・和知駅・梁瀬駅・養父駅 便宜上、気動車列車の系統上の起点となる豊岡駅から記載する。 停車駅 普通…すべての旅客駅に停車 快速列車…●印の駅は全列車停車、▲印の駅は一部の列車が停車、|・↑印の駅は全列車通過(↑は矢印の方向のみ運転)。 豊岡駅 - 浜坂駅間で快速(臨時列車除く)となる列車は、浜坂駅以西では普通列車扱いとして各駅に停車する。 浜坂駅 - 鳥取駅間で快速(臨時列車除く)となる列車は、当該区間以外は普通列車扱いとして各駅に停車する。 豊岡駅 - 城崎温泉駅間については、浜坂方面からの気動車快速についてのみ記載。 臨時快速「山陰海岸ジオライナー」の停車駅は、列車記事を参照のこと。 停車駅 普通…すべての旅客駅に停車 快速「とっとりライナー」(米子駅 - 出雲市駅間のみ)…すべての旅客駅に停車 快速列車…●印の駅は全列車停車、▲印の駅は一部の列車が停車、|・↑印の駅は全列車通過(↑は矢印の方向のみ運転)。 ■印の駅は米子駅 - 大田市駅間の各駅に停車する下り列車、益田駅 - 大田市駅間の各駅に停車する上り列車のみが停車 ^ a b 伯備線の列車は運転系統上は米子駅へ乗り入れる JR西日本直営駅(14駅) 城崎温泉駅・鳥取駅・鳥取大学前駅・倉吉駅・伯耆大山駅・米子駅・安来駅・松江駅・宍道駅・出雲市駅・大田市駅・江津駅・浜田駅・益田駅 JR西日本福知山メンテックによる業務委託駅(2駅) 香住駅・浜坂駅 JR西日本米子メンテックによる業務委託駅(12駅) 岩美駅・湖山駅・浜村駅・青谷駅・由良駅・浦安駅・赤碕駅・揖屋駅・乃木駅・玉造温泉駅・仁万駅・三保三隅駅 簡易委託駅(5駅) 竹野駅・宝木駅・江南駅・温泉津駅・波子駅 便宜上、幡生側の全列車が乗り入れる山陽本線下関駅も合わせて記載する。 定期列車はすべて普通列車(すべての旅客駅に停車) JR西日本直営駅 益田駅・長門市駅・下関駅 JR西日本広島メンテックによる業務委託駅 東萩駅・小串駅・綾羅木駅・幡生駅 残りの各駅は簡易委託駅または無人駅である(簡易委託駅のうち、江崎駅・須佐駅・奈古駅・滝部駅の4駅にはPOS端末を設置)。 単線非電化(仙崎駅では列車交換不可)、両駅とも山口県長門市に所在 なお、仙崎駅は無人駅である。 ( )内の数字は起点からの営業キロ。 貨物支線 東松江駅 (0.0 km) - 馬潟港駅 (1.0 km) 貨物支線(浜田港線) 西浜田駅 (0.0 km) - 浜田港駅 (2.3 km) ( )内の数字は京都駅起点の営業キロ。 大宮駅:1899年廃止、京都駅 - 丹波口駅間(約0.8 km) (臨)緑化フェア梅小路駅:1994年廃止、京都駅 - 丹波口駅間 (1.1 km) (臨)切浜海水浴場駅:1986年廃止、竹野駅 - 佐津駅間 (臨)きりはまビーチ駅:1996年廃止、竹野駅 - 佐津駅間 (167.6 km) 鳥取仮停車場:1908年廃止、鳥取駅 - 湖山駅間(約232.0 km) 白兎仮停車場:1969年廃止、末恒駅 - 宝木駅間 (241.6 km) (貨)米子駅:2015年廃止、米子駅 - 安来駅間(324.2 km) 清水寺仮停車場:1964年廃止、米子駅 - 安来駅間 (326.9 km) 競馬場仮停車場:廃止日不明、益田駅 - 戸田小浜駅間 (517.3 km) 梶栗駅:1941年廃止、安岡駅 - 綾羅木駅間 (669.4 km) 垢田口停留場:1917年廃止、綾羅木駅 - 幡生駅間(約673.2 km) ( )内の数字は京都駅起点の営業キロ。 相谷信号場:2012年廃止、竹野駅 - 佐津駅間 (170.0 km) 日野川信号場:1966年廃止、伯耆大山駅 - 東山公園駅間 (320.2 km) 清水寺信号場:1964年廃止、米子駅 - 安来駅間 (328.0 km) 稗田信号場:1945年廃止、綾羅木駅 - 幡生駅間 (671.5 km) 福知山駅:北丹鉄道 - 1971年3月2日休止、1974年2月28日廃止 江原駅:出石鉄道 - 1944年5月1日休止、1970年7月20日廃止 岩美駅:岩井町営軌道(営業時) - 1944年1月11日休止、1964年3月27日廃止 倉吉駅:倉吉線 - 1985年4月1日廃止 米子駅:日ノ丸自動車法勝寺電鉄線(米子市駅) - 1967年5月15日廃止 荒島駅:一畑電気鉄道広瀬線 - 1960年6月19日廃止 出雲市駅: 一畑電気鉄道立久恵線 - 1964年7月19日休止、1965年2月18日廃止 大社線 - 1990年4月1日廃止 江津駅:三江線 - 2018年4月1日廃止 幡生駅:山陽電気軌道 - 1971年2月6日廃止 ^ 支線を含む営業キロは東海道本線 713.6 km に次ぐ676.0 km。 ^ 現在この区間の速達移動は山口線経由の特急「スーパーおき」(益田 - 新山口間)と山陽新幹線または山陽本線で補完する形となっている。 ^ 歴代の最長距離普通列車は「過去の鉄道に関する日本一の一覧」を参照。 ^ 2015年3月14日改正現在の日本最長距離を走る定期普通列車(快速列車含む)は、根室本線の滝川駅 - 釧路駅間(下りのみ)308.4 kmを8時間27分かけて走る普通列車2429D。 ^ 民間の中国鉄道は、既に自力で岡山・津山間の鉄道開通にこぎつけていたが、優先度を下げられたことで資金難に陥り、津山から先の延伸は長く凍結されることになった。 ^ 米子 - 東松江間の貨物列車1往復は、短距離であること、輸送量が減少していたことからトラック輸送に転換された。 ^ 同日のダイヤ改正で米子駅 - 安来駅間も高速化されている。 ^ 『データで見るJR西日本 2005』には記載されているが、『データで見るJR西日本 2006』には記載されていない ^ 『データで見るJR西日本 2009 Archived 2010年3月7日, at the Wayback Machine.』には記載されているが、『データで見るJR西日本 2010 Archived 2012年1月18日, at the Wayback Machine.』には記載されていない ^ ただし京都駅 - 京都貨物駅の分岐点間は単線。 ^ 日本国有鉄道電気局 『鉄道電報略号』、1959年9月17日、22頁。 ^ ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット - 西日本旅客鉄道 ^ 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日 ^ a b お客様によりわかりやすく鉄道をご利用いただくために米子支社エリアに「ラインカラー・路線記号」を導入します! - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年2月4日 ^ JR西日本全域路線図 (PDF) - JRおでかけネット、2016年4月16日閲覧 ^ 広島エリア路線図 (PDF) - JRおでかけネット、2016年3月28日閲覧 ^ JR西日本 - データで見るJR西日本 - 西日本旅客鉄道 ^ 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB、1998年。ISBN 978-4-533-02980-6。 ^ “府知事、JRに費用負担求めず 山陰線園部-綾部複線化”. 京都新聞. 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下関駅間で並行する国道 砂になりたい:石川さゆりのシングル曲で、歌詞に「山陰本線」が登場 島根恋旅:水森かおりのシングル曲で、歌詞に「山陰本線」が登場", "舞鶴線(まいづるせん)は、京都府綾部市の綾部駅から京都府舞鶴市の東舞鶴駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。路線記号は「L」。2016年3月26日ダイヤ改正より福知山支社管内での路線記号の本格使用が開始され、舞鶴線においても時刻表や223系5500番台の方向幕で、ラインカラーならびに路線記号の使用を開始した。 日本海軍の舞鶴鎮守府が置かれ、軍港のあった舞鶴への鉄道として建設された。かつて出征者や引揚者の輸送で賑わった路線も現在は舞鶴市などへのビジネス利用や丹後・若狭地方への観光路線となっている。全区間が福知山支社の直轄である。 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者) 路線距離(営業キロ):26.4 km 軌間:1,067 mm(狭軌) 駅数:6駅(起終点駅含む) 舞鶴線所属駅に限定した場合、山陰本線所属の綾部駅 が除外された5駅になる。 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:全線(直流1,500 V) 閉塞方式:単線自動閉塞式 最高速度:95 km/h 運転指令所:福知山運輸指令室 京都駅 - 東舞鶴駅間に特急「まいづる」が下り8本、上り7本運転されている。以前は土曜・休日・夏季やカニシーズンを中心に「まいづる」のうち1往復が小浜線の小浜駅まで乗り入れていた。なお、綾部駅で進行方向が逆転するため、舞鶴線内では座席が進行方向と逆向きに設定されていた。 ほかの北近畿方面の特急と異なり、大阪方面の列車は設定されていないが、1999年10月1日までは「エーデル北近畿」として東舞鶴駅まで乗り入れていた。東舞鶴駅 - 大阪駅間の距離は福知山駅経由(152.9 km)よりも京都駅経由(145.4 km)のほうが若干短い。福知山駅で大阪方面の特急「こうのとり」と接続する普通列車が設定されている。ただし、当該列車のすべてが東舞鶴駅 - 福知山駅間の運転とは限らないため、時間帯によっては綾部駅 - 福知山駅間でいったん園部駅発着の列車に乗車する必要がある。 普通列車は福知山駅・綾部駅 - 東舞鶴駅間に1時間あたり1本程度運転されており、一部は「特急リレー号」として綾部駅で山陰本線の特急列車と接続している。朝5時台の西舞鶴発と夜22時の東舞鶴発西舞鶴行きの列車は小浜線と直通運転をしている。西舞鶴駅 - 東舞鶴駅間の列車も下りのみ1本設定されている。全線でワンマン運転を実施しているが、一部列車には車掌が乗務することもある。以前は、朝に東舞鶴発綾部行きの快速列車(途中停車駅は西舞鶴駅のみ)が1本のみ運行されていたが、2006年10月21日のダイヤ改正をもって廃止された。2013年3月16日から新たに快速が設定されたが、これは1年前の2012年3月17日改正で真倉駅を通過とした普通列車 の名義を変更したものであり、列車の性質は異なる。夜間滞泊は西舞鶴駅のみで行っているため、西舞鶴駅 - 東舞鶴駅間に回送列車が設定されている。 非電化時代は一時期、山陰本線・舞鶴線・北近畿タンゴ鉄道宮津線(当時)・同宮福線を経由して福知山市・綾部市・舞鶴市・宮津市を循環する「四都市循環列車」を運転していたことがあった。その経路は次の通り。 福知山駅→(山陰本線)→綾部駅→(舞鶴線)→西舞鶴駅→(北近畿タンゴ鉄道宮津線)→宮津駅→(北近畿タンゴ鉄道宮福線)→福知山駅 西舞鶴駅→(舞鶴線)→綾部駅→(山陰本線)→福知山駅→(北近畿タンゴ鉄道宮福線)→宮津駅→(北近畿タンゴ鉄道宮津線)→西舞鶴駅 山陰本線の嵯峨野線にあたる京都駅 - 園部駅間がまだ非電化だった頃は、当時あった特急・急行とは別に綾部駅でスイッチバックし、京都駅 - 東舞鶴駅間を直通する普通列車が運転されていたこともあった。その列車は夜間の運転であったため、京都市内でのその日の用務を終えて舞鶴方面へ帰宅するビジネス客には重宝された。 特急「まいづる」のうち一部の列車のみが北近畿タンゴ鉄道の気動車で運転され、そのほかの列車はすべてJR西日本の電車で運転されている。 JR西日本所有 113系・115系・223系 福知山電車区所属。ワンマン運転に対応しており、山陰本線から直通して全線で運転されている。 125系 敦賀地域鉄道部敦賀運転センター所属。ワンマン運転に対応しており、1日1往復のみ小浜線から直通して東舞鶴駅 - 西舞鶴駅間で運転されている。 287系 福知山電車区所属。特急「まいづる」で使用される付属編成3連が運転されている。 北近畿タンゴ鉄道所有 KTR8000形気動車 2008年(平成20年)まで西舞鶴駅から北近畿タンゴ鉄道宮津線(現在の京都丹後鉄道宮舞線・宮豊線)へ乗り入れる列車を併結していたが、ルート変更により単独運転になっている。 以下に書かれている路線のうち宮津線は1987年(昭和62年)まで国鉄、同年4月1日からJR西日本、1990年(平成2年)4月1日から北近畿タンゴ鉄道、2015年(平成27年)4月1日から「京都丹後鉄道」の名でWILLER TRAINSが運営し、西舞鶴駅 - 宮津駅間は「宮舞線」、宮津駅 - 豊岡駅間は「宮豊線」の愛称が付けられている。2015年4月現在、西舞鶴機関区は北近畿タンゴ鉄道西舞鶴運転区、福知山機関区はJR西日本福知山電車区、敦賀運転所はJR西日本敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室、向日町運転所はJR西日本京都総合運転所となっている。 9600形 西舞鶴機関区に所属し、宮津線網野駅からの乗り入れで、綾部駅まで運用されていた。 DE10形 宮津線及び、舞鶴港線(西舞鶴駅から舞鶴港駅〈旧・海舞鶴駅〉を結んでいた貨物線で、1985年〈昭和60年〉3月14日で廃止)と貨物列車で共通運用されていた。現在は1両(1104号機)が、JR西日本のグループ会社嵯峨野観光鉄道に払い下げられ、トロッコ嵯峨駅 - トロッコ亀岡駅間で「ロマンチックトレイン嵯峨野」としてトロッコ列車を牽引している。 キハ17形 福知山機関区所属で、宮津線および、中舞鶴線(1972年〈昭和47年〉11月1日で廃止)と共通運用されていた。 キハ20系 福知山機関区所属で、小浜線および宮津線・山陰本線と共通運用されていた。 キハ55系 福知山機関区所属で、山陰本線直通の準急(のちに急行)「丹後」「わかさ」でも使用、末期は宮津線で運用された。 キハ58系 一部の車両が敦賀運転所に所属し、山陰本線への直通や、小浜線や宮津線で急行「丹後」を中心に、北近畿タンゴ鉄道宮津線に転換後も運用、1996年(平成8年)3月16日の急行「丹後」廃止以後も、1997年(平成9年)および1998年(平成10年)夏季・冬季に運行された急行「舞鶴」をはじめとする各種臨時急行や普通列車で1999年(平成11年)10月2日の電化まで30余年間走り続けた。 キハ40系 山陰本線・宮津線および、小浜線と共通で運用。東舞鶴駅以南は、福知山機関区所属のキハ47形(両開き2扉)、東舞鶴以北は敦賀運転所所属のキハ48形(片開き2扉との共通運用)が北陸本線米原駅および東海道本線彦根駅、湖西線近江今津駅までと分かれて運用されていた。 キハ82系 向日町運転所の所属で、山陰本線への直通や宮津線で特急「あさしお」として1982年(昭和57年)まで運用された。 キハ181系 向日町運転所の所属で、山陰本線への直通や宮津線で特急「あさしお」を中心に、北近畿タンゴ鉄道宮津線に転換後も運用され、1996年(平成8年)3月16日の廃止以後も1997年(平成9年)から1999年(平成11年)の夏季・冬季に運行された臨時特急「たんご」(多客臨)として運行していた。また、時折団体列車として乗り入れることがあった。 183系 1999年(平成11年)10月2日の電化開業から2011年(平成23年)3月12日のダイヤ改正まで、特急「まいづる」に使用されていた。 ほぼすべての列車が全線を走破するが、その利用は京都府北部の中核都市である舞鶴市の代表駅である東舞鶴駅と西舞鶴駅が中心であるため、西舞鶴駅以外の途中駅は利用が低調である。特急列車および特急に接続する普通列車(特急リレー号)は、舞鶴市に国や府の出張官庁、また企業の支店・営業所などが集中していることからビジネス利用が多いが、それ以外の普通列車は通学などでの利用が多い。1999年(平成11年)10月に電化開業して以後、一貫して利用者数を増やしてきたが、近年は微減傾向である。 元は阪鶴鉄道・京都鉄道が計画していた路線だが、日露戦争を控え着工を急ぐ必要性から1904年に官設で福知山駅 - 綾部駅 - 新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間と支線が開通、阪鶴鉄道に貸与されて開業した。支線として舞鶴港線(西舞鶴駅 - 舞鶴港駅間)や、出征者や戦場からの引揚者を運んだ中舞鶴線(東舞鶴駅 - 中舞鶴駅間)などを有していたが、1985年までにすべて廃止されている。 1904年(明治37年)11月3日:福知山駅 - 綾部駅 - 新舞鶴駅間が官設で開業(綾部駅 - 新舞鶴駅間は16.4M≒26.39 km)。同時に阪鶴鉄道に貸与。現在の舞鶴線にあたる区間に綾部駅・梅迫駅・舞鶴駅(現在の西舞鶴駅)・新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)が開業。舞鶴駅 - 舞鶴海岸荷扱所の軍用線も開業。 1907年(明治40年) 8月1日:阪鶴鉄道が国有化。 11月1日:舞鶴駅 - 舞鶴海岸荷扱所に営業マイル設定(1.0M≒1.61 km)。舞鶴海岸荷扱所が正式開業。 1909年(明治42年)10月12日:国有鉄道線路名称制定に伴い、神崎駅(現在の尼崎駅) - 福知山駅 - 新舞鶴駅間、舞鶴駅 - 舞鶴海岸荷扱所間などが阪鶴線(はんかくせん)になる。 1912年(明治45年)3月1日:綾部駅 - 新舞鶴駅間、舞鶴駅 - 舞鶴海岸荷扱所間が分離され、舞鶴線(まいづるせん)に改称。 1913年(大正2年)4月10日:舞鶴海岸荷扱所が海舞鶴駅に改称。舞鶴駅 - 海舞鶴駅間の旅客営業を開始。 1919年(大正8年)7月21日:支線(中舞鶴線)新舞鶴駅 - 中舞鶴駅間(2.1M≒3.38 km)が開業。東門駅(のちの北吸駅)・中舞鶴駅が開業。 1924年(大正13年)4月12日:舞鶴駅 - 海舞鶴駅間の旅客営業が廃止。 1929年(昭和4年)6月1日:梅迫駅 - 舞鶴駅間に中筋信号場が開設。 1930年(昭和5年)4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(綾部駅 - 新舞鶴駅間 16.4M→26.4 km、舞鶴駅 - 海舞鶴駅間 1.0M→1.8 km、新舞鶴駅 - 中舞鶴駅間 2.1M→3.4 km)。貨物支線 新舞鶴駅 - 新舞鶴港駅間 (1.3 km) が開業。貨物駅として新舞鶴港駅が開業。 1939年(昭和14年)6月1日:新舞鶴駅が東舞鶴駅に、新舞鶴港駅が東舞鶴港駅に改称。 1941年(昭和16年)9月1日:貨物支線 東舞鶴駅 - 東舞鶴港駅間が廃止。東舞鶴港駅が廃止。 1944年(昭和19年)4月1日:舞鶴駅が西舞鶴駅に改称。 1946年(昭和21年)9月1日:東門駅が北吸駅に改称。 1949年(昭和24年)6月1日:日本国有鉄道法施行に伴い、公共企業体日本国有鉄道(国鉄)に移管。 1951年(昭和26年)9月1日:中筋信号場が駅に変更され、真倉駅として開業。 1960年(昭和35年)3月29日:淵垣駅が開業。 1966年(昭和41年)10月1日:海舞鶴駅が舞鶴港駅に改称。 1972年(昭和47年) 10月1日:山陰本線綾部(舞鶴線経由)・宮津線西舞鶴 - 網野間で京都府内の国鉄線で最後の蒸気機関車運転、西舞鶴機関区所属の9600形蒸気機関車を使用。 11月1日:中舞鶴線 (3.4 km) が廃止。北吸駅・中舞鶴駅が廃止。 1985年(昭和60年)3月14日:舞鶴港線 (1.8 km) が廃止。舞鶴港駅が廃止。 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化に伴い、西日本旅客鉄道(JR西日本)が承継。日本貨物鉄道(JR貨物)が梅迫駅 - 東舞鶴駅間の第二種鉄道事業者となる。綾部駅 - 梅迫駅間の貨物営業が廃止。 1991年(平成3年)4月1日:福知山支社から舞鶴鉄道部の直轄になる。ワンマン運転開始。 1996年(平成8年)7月13日:東舞鶴駅付近が高架化。 1999年(平成11年) 3月31日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(梅迫駅 - 東舞鶴駅間)が廃止。 10月2日:綾部駅 - 東舞鶴駅間が電化。特急「まいづる」が運転開始。 2006年(平成18年)7月1日:舞鶴鉄道部が廃止され、福知山支社の直轄に戻る。 2015年(平成27年)3月14日:路線記号が本格導入開始。 停車駅 普通…すべての駅に停車 快速…●印の駅は停車、|印の駅は通過 特急…「まいづる (列車)」参照 線路(全線単線) … ◇:列車交換可能、|:列車交換不可 全駅京都府内に所在 綾部駅・西舞鶴駅・東舞鶴駅の3駅はJR西日本直営駅、淵垣駅・梅迫駅・真倉駅の3駅は無人駅である。 駅名は廃止時点のもの。(貨)は貨物駅を表す。( )内の数字は起点からの営業キロ(舞鶴港線・中舞鶴線の営業キロは路線記事を参照)。 貨物支線(舞鶴港線) 西舞鶴駅 - (貨)舞鶴港駅 支線(中舞鶴線) 東舞鶴駅 - 北吸駅 - 中舞鶴駅 貨物支線 東舞鶴駅 (0.0km) - (貨)東舞鶴港駅 (1.3km) ^ 日本国有鉄道電気局 『鉄道電報略号』、1959年9月17日、22頁。 ^ 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日 ^ 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB、1998年。ISBN 978-4-533-02980-6。 ^ 平成15年 春の臨時列車運転について(インターネットアーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年1月16日 ^ 平成15年度 【 夏 】の臨時列車の運転(福知山支社)(インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年5月16日 ^ 平成16年春季臨時列車の運転計画について (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2004年1月16日 ^ 平成16年 【 夏 】 の臨時列車運転について (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2004年5月14日 ^ 平成17年春季臨時列車の運転計画について (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2005年1月14日 ^ 平成17年【夏】の臨時列車の運転(別紙詳細) (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2005年5月20日 ^ 平成17年度冬季臨時列車の運転計画について (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2005年10月14日 ^ 平成18年【春】の臨時列車の運転(別紙詳細) (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2006年2月1日 ^ 平成18年【夏】の臨時列車の運転について (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2006年5月19日 ^ 平成18年 【 秋 】 の臨時列車の運転について(北近畿エリア) (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2006年8月24日 ^ 平成18年度冬季臨時列車の運転計画について (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2006年10月13日 ^ 平成19年【春】の臨時列車の運転 (PDF) (インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2007年1月19日 ^ 3月17日のダイヤ改正より、一部の普通列車が停車しない駅があります。 (PDF) - 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宝塚駅間では阪急宝塚線の梅田駅 - 宝塚駅間と、大阪駅 - 伊丹駅間では阪急神戸線・阪急伊丹線の梅田駅 - 伊丹駅間と競合している。 東海道本線の大阪駅 - 尼崎駅間を含む大阪駅 - 篠山口駅間はアーバンネットワークの路線の一つとなっており、「JR宝塚線」(ジェイアールたからづかせん)の愛称が付けられている。阪急電鉄にも宝塚線があるため、混同を避けるために愛称に「JR」が付いている。JR西日本が1987年8月に大阪駅 - 新三田駅間の愛称を公募したところ、「北阪神線」が1位であったが、「JR宝塚線」が採用された。また愛称の区間も地元自治体の要望により、大阪駅 - 篠山口駅間に変更されている。 ラインカラーは黄(■)であり、選定理由は「これからの新しい開発エリアを示すイキイキとしたイメージ」とされている。路線記号は G 。 尼崎駅 - 新三田駅間は近畿統括本部が、新三田駅(構内を除く) - 福知山駅間は福知山支社が管轄している。大阪駅 - 尼崎駅 - 谷川駅間は旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」に含まれており、大阪駅 - 篠山口駅間はIC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者) 路線距離(営業キロ):106.5km 軌間:1067mm 駅数:30(起終点駅含む。JR宝塚線としては23駅) 福知山線所属駅に限定した場合、東海道本線所属の尼崎駅と山陰本線所属の福知山駅が除外され、28駅となる。 複線区間:尼崎駅 - 篠山口駅間 単線区間:篠山口駅 - 福知山駅間 電化区間:全線電化(直流1500V) 閉塞方式:自動閉塞式 保安装置: 尼崎駅- 宝塚駅間:ATS-P[要出典] 宝塚駅[要出典] - 篠山口駅間:ATS-P(拠点P方式)およびATS-SW 篠山口駅 - 福知山駅間:ATS-SW 最高速度: 120km/h(尼崎駅 - 新三田駅間) ただし、尼崎駅 - 宝塚駅間は2005年6月19日から当分の間、95km/hとなっている。 105km/h(新三田駅 - 福知山駅間) 運転指令所: 尼崎駅 - 新三田駅:大阪総合指令所 新三田駅 - 福知山駅:福知山運輸指令所 列車運行管理システム:JR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システム (SUNTRAS) …尼崎駅(構内のぞく) - 新三田駅間 路線は篠山口駅を境に南側の都市近郊路線と、北側の地方幹線とに雰囲気が分かれ、日中は普通列車の運転系統も分離されている。篠山口駅以南は複線、以北は単線である。単線区間の各駅すべてで列車交換が可能で、一線スルー化されている。複線区間では塚口駅・川西池田駅・宝塚駅・新三田駅・広野駅で列車の待避が可能である。 1986年10月31日まで客車普通列車が運行されていたが、同年11月1日の宝塚駅 - 新三田駅間の複線電化を機に、沿線住宅開発の進展とJR東西線の開業などにより新型車両が行き交う通勤路線となっている。また、川西池田駅 - 西宮名塩駅間・三田駅 - 丹波大山駅間・柏原駅 - 福知山駅間は国道176号とほぼ並行している。 武田尾駅では、旧線(左の道路)と交差する。 トンネルに挟まれた武田尾駅を通過する特急列車。 田園風景が広がる道場駅 - 三田駅間。 三田駅を過ぎると田園と山の織りなすのどかな風景に変わる(新三田駅 - 広野駅間) 福知山線は尼崎駅が起点だが、尼崎駅を発着する全列車が尼崎駅を越えて大阪方面、またはJR東西線を経由し片町線(学研都市線)に乗り入れている。福知山駅からは特急列車が山陰本線・京都丹後鉄道宮福線に直通している。普通列車(快速列車を含む)は、日中は篠山口駅で運転系統が分かれており、大阪駅 - 福知山駅間を直通する列車は朝晩のみである。 2015年3月14日ダイヤ改正時点での運行概況は次の通り。 朝ラッシュ時間帯の尼崎方面行きは、大阪行きの快速、JR京都線直通の普通、JR東西線・学研都市線直通の快速・普通が頻発する。普通列車は、かつてはJR京都線直通とJR東西線直通が1:1の割合であったが、現在はJR東西線直通のほうが多く設定されている。尼崎駅でJR神戸線からの普通列車に接続する。 北近畿ビッグXネットワークの一角(「X」の左斜め下の部分が福知山線)としての機能があり、特急「こうのとり」がおおよそ1時間に1本で1日14往復運転されている。 停車駅は、大阪駅・尼崎駅・宝塚駅・(西宮名塩駅)・三田駅・(新三田駅)・(相野駅)・篠山口駅・(谷川駅)・柏原駅・(黒井駅)・福知山駅で、( )内の駅には一部の列車が停車する。 大阪から福知山市・豊岡市などの丹波・但馬地方の各市町や城崎温泉などの観光地への足として、城崎温泉駅発着列車などもある。現在は主に3両・4両編成で運転されるが、多客時には7両へ編成増強されることもある。平日朝晩の特急列車では大阪駅 - 篠山口駅間で通勤需要があるため、2往復は通年7両で運転されている。 「こうのとり」のうち一部列車が多客期のみ京都丹後鉄道(2015年3月までは北近畿タンゴ鉄道)天橋立駅へ延長運転を実施していた。 快速列車は、大阪駅発着系統と尼崎駅からJR東西線・学研都市線に直通する系統が運転されている。2000年3月11日のダイヤ改正より登場した丹波路快速は前者にあたる。快速と丹波路快速の停車駅は同じで、尼崎駅 - 三田駅間で尼崎駅・伊丹駅・川西池田駅・中山寺駅・宝塚駅・西宮名塩駅・三田駅に停車し、三田駅 - 福知山駅間は各駅に停車する。 JR東西線・学研都市線直通系統には、日中に塚口駅で折り返す系統が運転されているが、この列車で学研都市線内でも区間快速として運転する列車は、当路線内でも区間快速として運転されている。なお、折り返し系統以外の列車は塚口駅は通過する。 大阪駅発着系統・丹波路快速 大阪駅発着系統は、宝塚駅・新三田駅・篠山口駅・福知山駅発着で運転されている。JR京都線には乗り入れていない。日中時間帯は1時間に4本(宝塚駅 - 篠山口駅間は丹波路快速のみ2本)運転されている。丹波路快速は半数が篠山口駅で篠山口駅 - 福知山駅間の列車と相互接続する。 篠山口駅・福知山駅発着で、223系・225系電車(いずれも6000番台)で運転される列車は丹波路快速として運転されている(ダイヤ乱れ時等は別車両の場合あり)。丹波路快速は、221系電車の当路線での運用が増加した2000年3月11日のダイヤ改正で運転を開始し、その後2008年6月28日からは大半の列車が223系に置き換えられた。2011年3月12日のダイヤ改正で8両編成で運転される丹波路快速が大幅に増加、2012年3月17日のダイヤ改正で221系が同線から撤退し入れ替わる形で225系も運用されるようになった。 福知山駅まで直通する列車および篠山口駅で福知山行きに接続する列車は福知山駅まで先着する(後者は篠山口駅で乗り継ぎ)。篠山口駅 - 福知山駅間ではホームの有効長が8両に達しない駅があり、篠山口駅を境に南北で乗客数に大きな差もあるため、朝晩に福知山駅に直通する丹波路快速は篠山口駅で一部車両の連結・切り離し作業が行われ、大阪駅 - 篠山口駅間では8両、篠山口駅 - 福知山駅間では4両または6両で運転される。 JR東西線・学研都市線直通系統 JR東西線・学研都市線直通系統は、日中は塚口駅折り返しで1時間に4本運転されている。朝晩は宝塚駅・新三田駅・篠山口駅発着の設定がある。尼崎駅でJR神戸線の快速と相互接続(時間帯によっては新快速・普通とも接続をする場合もあり)を行う。尼崎駅で列車種別を変更してJR東西線・学研都市線では区間快速として運転する列車があり、列車番号も尼崎駅で変更になる。日中の塚口駅発着の区間快速は尼崎駅で列車番号の変更は行われない。学研都市線・木津経由の奈良駅発着列車も、2018年3月時点で朝に奈良発新三田行き快速が1本、夜間に新三田発奈良行きの快速(平日は新三田20時台発。土休日は新三田21時台発で尼崎駅から区間快速)が1本設定されている。 車両は、223系・225系電車が大阪駅発着の列車に限って使用されており、207系・321系電車は7両編成で大阪駅発着・JR東西線直通の宝塚駅・新三田駅・篠山口駅発着列車に使用されている。 快速列車は日本国有鉄道(国鉄)時代は1日に数本程度運転されるだけであった。国鉄末期の1983年頃のダイヤでは、大阪駅 - 篠山口駅間に尼崎駅・伊丹駅・宝塚駅・武田尾駅・三田駅・広野駅・相野駅・古市駅を停車駅とする気動車による快速列車が1日2往復のみ設定されていたが、快速列車はのちに、各駅停車となる区間が三田駅 - 篠山口駅間、宝塚駅 - 篠山口駅間と次第に延びて停車駅が増加していき、1986年11月1日の全線電化で全列車が電車に統一されたことによって普通列車のスピードアップが図られたため、最終的に廃止された。快速が多数運転されるようになったのは民営化後の1989年3月11日のダイヤ改正からで、当時の停車駅は尼崎駅・伊丹駅・川西池田駅・宝塚駅と三田駅以遠の各駅で、国鉄時代とは異なる停車駅で設定されていた。1997年3月8日改正では広野駅・藍本駅・草野駅・古市駅・南矢代駅を通過する速達タイプの快速が設定され、大阪発篠山口行きで毎日夕方に4本(1時間に1本)運転されていた。この速達快速は207系電車を使用して運転が開始されたが、2003年12月1日のダイヤ改正で廃止された。 一部の列車を除き、運行区間内の各駅に停車する。普通の大半がJR京都線と直通しており、京都駅・高槻駅 - 大阪駅 - 新三田駅間で運転されている。新三田駅 - 篠山口駅・福知山駅間は前述の快速が各駅停車としての役割を担っている。始発・最終を含む朝晩をのぞき、川西池田駅で快速との緩急接続を行う。尼崎駅では一部列車をのぞきJR神戸線 - JR東西線間直通の普通と同一ホームで接続を取っている。 朝ラッシュ時は塚口始発でJR東西線に直通する系統が設定されている。日中は大阪駅 - 新三田駅間で1時間に4本運転されている。2002年10月5日のダイヤ改正前は日中以降は高槻発・京都行きとの組み合わせであったが、この改正で15分間隔運転時間帯は高槻駅発着に統一された。土曜・休日ダイヤでは朝に京都駅発着の列車が運転されているほか、夜の20分間隔運転時間帯が21時から始まる。 夜19時台には篠山口発高槻行きが1本運転されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正により廃止された。 朝晩にはJR東西線・学研都市線に直通する列車も設定されている。JR東西線・学研都市線との直通列車は時間帯によって上りは尼崎駅で、下りは京橋駅で区間快速に種別変更を行う列車もある。土休日朝には学研都市線・木津経由の奈良発宝塚行き(京橋駅まで区間快速)が1本ある。 JR京都線に直通しない大阪駅発着の普通も朝や深夜時間帯に運転されている。この列車は尼崎駅 - 大阪駅間で外側線を走行し、塚本駅は通過(土曜・休日夜の大阪行き1本は除く)する。 車両はほとんどが207系・321系の7両編成であり、大阪発着列車に限り223系・225系も充当される。 JR東西線開業前は大阪駅発着の列車が主体で、朝ラッシュ時のみ新大阪行きと吹田発の設定があった。また昼間でも113系や117系も普通列車に充当されていた。JR東西線が開業した1997年3月8日に吹田発は高槻発に変更された。同年8月31日まですべての普通が塚本駅を通過していた(大阪駅 - 尼崎駅間は外側線を走行していたことなどが理由。現在も朝の大阪駅発着は外側線を走行している)が、翌9月1日からは、尼崎駅発着だったJR京都線の普通と当路線のJR東西線直通ではない普通を統合して京都・高槻方面 - 新三田方面直通としたため、前述の一部列車を除き塚本駅にも停車するようになった。 篠山口駅 - 福知山駅間では、日中に丹波路快速に接続する普通が運転されている。主に223系5500番台の2両編成でワンマン運転を行い、1時間に1本程度運転されている。この区間では最大6両編成が乗り入れ可能で、朝晩は車掌が乗務している列車がほとんどであり、2両編成でも車掌が乗務している列車もある。2014年3月15日の改正で、大阪発22時台の丹波路快速が福知山行きから篠山口行きに見直されたことに伴い、篠山口発0時台の普通福知山行きが設定されたが、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止された。 国鉄からJRとなって以降は、冬のカニのシーズンを迎える11月から3月にかけて、臨時特急「味めぐり北近畿」(1998年以前)・「かにカニ北近畿」(1999年以降)が運転されていた。 (「こうのとり」の項目も参照) 現在は臨時列車の運転はなく、定期列車における車両増結で対応している。 国鉄時代から、篠山の祭礼に合わせた臨時快速(「デカンショ祭り号」)などが多く設定されていたが、現在は定期列車の充実もあって臨時列車の設定はほぼなくなっている。 現在は、毎年3月に行われている朝日放送主催の篠山ABCマラソン大会に合わせた大阪発篠山口行き臨時快速「篠山ABCマラソン号」が1本設定される程度となっている。「篠山ABCマラソン号」の停車駅は、新三田駅までは通常の快速と同一であるが、新三田駅 - 篠山口駅間の各駅は旧速達快速が停車していた相野駅も含めて通過としている。 沿線には中山寺などの大きな社寺があるため、大晦日深夜から元旦にかけて、福知山線では尼崎駅 - 宝塚駅間(運転区間は学研都市線四条畷駅 - (JR東西線) - 宝塚駅間)において普通のみ約30〜60分間隔で終夜運転が実施されている。なお、かつては宝塚駅 - 新三田駅間でも終夜運転が行われたが、2011年度以降は宝塚発新三田ゆき臨時列車1本のみの運転となり、のち臨時列車の運転も取り止められた。 大阪駅 - 篠山口駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、207系の大阪側から3両目および321系では5号車に女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。 JR宝塚線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。 かつて福知山線には大阪駅と舞鶴市や山陰各都市とを結ぶ幹線として長距離の優等列車が多数運転されていたが、国鉄末期の1986年11月1日に山陰本線城崎駅(現在の城崎温泉駅)まで電化されたことにより、優等列車は電車化・特急化されて運転区間は城崎駅まで短縮され、山陰方面への直通列車は夜行をのぞき廃止された。その後一時期気動車による直通列車も運転されたが、米子・出雲方面へは伯備線経由が、鳥取方面へはのちに開業した智頭急行経由がメインになり、長距離列車は姿を消した。2004年10月16日に急行「だいせん」が廃止されたことにより、福知山線経由での夜行列車は運転されなくなった。 このほかに福知山線では、北近畿タンゴ鉄道(現在の京都丹後鉄道)へ乗り入れる「文殊」や「タンゴエクスプローラー」が運転されていたが、2011年3月12日のダイヤ改正によって福知山線経由の特急はすべて「北近畿」から改称された「こうのとり」に統一された。 通勤客向けの座席定員制の列車(ホームライナー)として1988年3月13日から2002年10月4日まで、大阪駅 - 篠山口駅間でほくせつライナーが1往復運転されていた。篠山口行きは夕方に、大阪行きは朝ラッシュ時に運転された。ほくせつライナーには183系電車のほか、一時期大阪行きのみキハ58系・キハ65形気動車による運用もあった。ほくせつライナー廃止後は特急「北近畿(現・こうのとり)」の増発で代替している。 停車駅(2001年時点) 大阪駅 - 尼崎駅 - 宝塚駅 - 三田駅 - 新三田駅 - 広野駅 - 相野駅 - 藍本駅 - 古市駅 - 篠山口駅。 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災ではJR神戸線が寸断され、迂回ルートで最も重要な線区として、最優先で復旧作業が行われた。福知山線では川西池田駅 - 中山寺駅間の被害が大きく、地震発生の1月17日には広野駅 - 福知山駅間が開通し、その後順次運転を再開した。 輸送力の確保のため運転開始直後から臨時列車が運転され、5時30分から21時まで1時間あたり1 - 2本の臨時列車を最大42本運転し、特急「北近畿」の増結も行われた。大阪駅を発着としていた特急列車は、東海道新幹線との接続のため3往復を新大阪駅発着で運転し、このほか「北近畿」15号は福知山駅 → 和田山駅間で延長運転し、播但線との接続を改善した。またJR神戸線が全通した4月1日以降も4月17日まで、新大阪駅延長運転が2往復、和田山駅延長運転が行われた。 貨物列車の迂回運転も行われた。福知山線や山陰本線の和田山駅 - 湖山駅間で貨物列車が運転されていなかったため貨物列車を毎日運転するには問題があり、乗務員の養成や設備の一部改良の必要性があったが、福知山線・山陰本線・伯備線を経由して2月11日から迂回運転が開始された。貨物列車が運転されていなかった区間の迂回貨物列車の乗務はJR西日本が担当した。また、ダイヤ改正にあわせた新製車両の甲種鉄道車両輸送も3月14日から8本、特大貨物2本が迂回運転された。 1月17日:広野駅 - 福知山駅間が開通。 1月18日:尼崎駅 - 塚口駅間が開通。 1月19日:宝塚駅 - 広野駅間が開通。 1月21日:塚口駅 - 宝塚駅間が開通し、全線復旧。神戸市内からは北神急行電鉄・神戸電鉄を利用した鉄道の迂回ルートが完成。臨時列車10往復運転開始。 1月22日:臨時列車が14往復に増発。 1月23日:姫路駅 - 新大阪駅間(播但線・福知山線経由)で直通快速が1往復運転開始。 1月24日:臨時列車が19往復に増発(増発の快速4本は西宮名塩駅に停車)。 2月11日:東京貨物ターミナル駅 - 福岡貨物ターミナル駅間運転の貨物列車が迂回運転開始(コンテナ車両10両)。 3月20日:東京貨物ターミナル駅 - 福岡貨物ターミナル駅間運転の迂回貨物列車が2往復に増発(増発分はコンテナ車両8両)。 2011年3月12日以降はすべて電車で運転されている。篠山口駅 - 福知山駅間の快速・普通列車は、すべての列車が転換クロスシート車両で運転されている。 287系・289系(福知山電車区):特急「こうのとり」 289系は北陸本線の特急「しらさぎ」専用車両だった683系2000番台を直流化改造したもので、2015年10月31日より運用を開始した。 207系(網干総合車両所明石支所) 7両編成で、尼崎駅 - 篠山口駅間で快速・普通で運転されている。 321系(網干総合車両所明石支所) 7両編成で、尼崎駅 - 篠山口駅間で快速・普通で運転されている。2005年12月1日に運用を開始し、当時は大阪駅 - 新三田駅間のみで運用されていた。2006年3月18日の改正から快速運用にも充当され篠山口駅まで運転されていたが同年10月21日の改正で一旦廃止され、2010年3月13日の改正で再び篠山口駅まで乗り入れるようになった。 223系6000番台・225系6000番台(網干総合車両所宮原支所) 2008年6月28日から日中の丹波路快速などを中心に、快速や朝晩の一部の普通で運用されている。225系は2012年3月17日のダイヤ改正で221系・113系の運行終了を受けて、全線で運用が開始された。 223系5500番台(福知山電車区) 2008年8月11日から113系3800番台に代わって運用開始した。篠山口駅 - 福知山駅間のみ運用されており、日中はワンマン運転を行っている。 287系 289系 207系 321系 223系6000番台 225系6000番台 国鉄時代末期の1986年11月1日に全線電化開業したが、1981年4月1日の尼崎駅 - 宝塚駅間電化の際には、103系として新車の導入がなされたものの、逆に残る宝塚駅 - 福知山駅 - 山陰本線城崎(現・城崎温泉)駅間電化の際に新車はまったく導入されず、既存の113系を寒冷地向けに改造した800番台の導入等で賄った。 201系・205系0番台(網干総合車両所明石支所) JR京都線直通の普通として1997年9月1日から普通(京阪神緩行線)として運用されていたが、321系を投入して普通の最高速度120km/hに統一するため、201系は2007年3月18日に、205系は2006年2月7日に運用が廃止された。なお、205系はその後、4編成すべてが阪和線に転属し、2011年3月14日にJR京都線とJR神戸線に復帰したが、運用は京都駅・高槻駅 - 尼崎駅間の平日朝ラッシュ時の限定運用で、当路線に入線することはなかった。 113系(網干総合車両所宮原支所) 全線で運転されていた。2012年3月17日のダイヤ改正で運用が終了した。 113系3800番台(福知山電車区) 篠山口以北の単線区間で運用されていた。2両編成の固定運用で113系800番台からの改造工程と経費を節約するため、従来のように廃車体から前頭部を移植・溶接するのではなく、編成に組まれていたクハ111形から運転台機器を流用して非常に簡易なものを新造するという手法が採られた。そのため片方の前面部は独特の外観を持つ車両となっている。223系5500番台の運用開始に伴い2008年10月までに除籍となった。 115系 電化直後に113系800番台の不足を補う形で非冷房の0番台が運用を開始、後に1000番台に置き換えられ2004年まで使用された。いずれも転入直後は湘南色だったが、0番台は旧福知山色、1000番台は新福知山色に塗り替えられた。 117系 福知山色といわれる緑帯塗装で快速・普通として運用されていたが、ラッシュ時の遅延対策のため一部の座席を転換クロスシートからロングシートに変更されていた。しかし、それでも対応しきれなくなり、ラッシュ時には乗客の流動とは逆方向の列車に充当されたり、早朝深夜を中心に運用されるようになった。JR福知山線脱線事故の影響でATS-Pを搭載していないことから、結果的には2005年4月25日限りで運用を終了し、福知山色のまま下関地区や京都総合運転所(当時)へ転出している。 103系 宝塚駅まで電化された1981年4月1日から普通として6両編成の新車がカナリアイエロー(黄5号)で登場した。1984年2月1日のダイヤ改正(1984年2月1日国鉄ダイヤ改正)で4両編成に短縮されたが、JR化後に6両編成に戻された。1997年9月1日の改正でJR京都線との直通運転に伴って7両編成に増強された。普通以外に深夜の快速などにも使用された。その後はJR京都線直通が主体となったため1999年以降、順次スカイブルー(青22号)に塗り替えられた。高速化やJR東西線開業の影響により2003年8月14日に運用を退いたが、2005年4月25日の脱線事故の影響で同年8月1日より再び運用を開始し、321系の運用が始まる前日の同年11月30日まで使用された。 221系(網干総合車両所) 1999年10月2日から運用を開始し、2008年6月28日までは4両編成が全線で、それ以降も8・6両編成が大阪駅 - 篠山口駅間で運用されていた。丹波路快速・快速での運用がほとんどだが、2011年3月12日改正時点で朝1本、大阪発篠山口行き普通(8両編成)での運用があった。なお、2012年3月17日のダイヤ改正での223系・225系への統一に伴い運用を終了した。。 415系800番台 1991年9月1日の七尾線電化に向けて用意された415系800番台の早期落成車が、延命工事等によって不足していた113系800番台の代わりに福知山線を走行した実績がある。塗装は113系800番台と同一であった。 183系 特急「こうのとり」で使用されていた。2013年3月16日のダイヤ改正で運用が終了した。なお、この形式の運用終了により、当路線での普通鋼製車両の定期運転がすべて終了したことになった。 381系 特急「こうのとり」で使用されていた。2011年5月31日まで運用されて、一時離脱していたが、2012年6月1日より再び運用されていた。車両の老朽化が進んでいたため、289系に置き換える形で2015年10月30日をもって正式に運用を離脱した。 201系 205系0番台 113系 113系3800番台 115系 117系 103系 221系 415系800番台 183系 381系 キハ10系:無煙化の進行していたSL混在期に普通列車として使用。 キハ55系:1970年代後半よりキハ26形が一日に2往復存在した快速列車に充当された。1970年代初頭には急行「丹波」にも使用。 キハ58系・キハ65形:特急「エーデル北近畿」「エーデル丹後」「エーデル鳥取」、急行「だいせん」「丹波」、普通列車など キハ47系:快速・普通(1979年より運行開始) キハ80系:特急「まつかぜ」 キハ181系:特急「まつかぜ」(1982年より運行開始) KTR8000形(北近畿タンゴ鉄道〈現・京都丹後鉄道〉):1996年から1999年まで新大阪駅発着列車が「タンゴディスカバリー」と名乗っていた。また、2005年6月19日 - 2007年3月17日の間、KTR001形気動車の代替で「タンゴエクスプローラー」に使用されていた。 KTR001形(北近畿タンゴ鉄道〈現・京都丹後鉄道〉):特急「タンゴエクスプローラー」 キハ10形 キハ55系キハ26形 キハ65形 キハ80系 キハ181系 北近畿タンゴ鉄道KTR8000形 北近畿タンゴ鉄道KTR001形 12系:急行「だいせん」・普通列車 14系:急行「だいせん」 20系:急行「だいせん」 オハ35系:普通列車 スハ43系:普通列車 60系:普通列車 10系:普通列車 50系:普通列車 国鉄DF50形ディーゼル機関車:無煙化進行時に使用。1970年代後半までにはすべて別系列に置き換えられた。 国鉄DD54形ディーゼル機関車:1960年代後半からおよそ10年使用。故障続きで早々と撤退した。 国鉄DD51形ディーゼル機関車:長年にわたり、非電化時代の福知山線の客車列車・貨物列車を牽引した。1991年10月に急行「だいせん」の牽引を最後に撤退したが、その後も工事列車などで臨時に入線することがある。 国鉄DD13形ディーゼル機関車:主に小規模貨物の牽引や、尼崎港支線での客車列車の牽引に使われた。この形式による客車牽引は全国的に珍しかった。 国鉄DE10形ディーゼル機関車:多くの路線でDD13がDE10に置き換えられたのに対し、福知山線では国鉄期にDE10での貨物を含めた定期列車は設定されていなかったようである。民営化の後に、宝塚駅北方の大阪砕石からの砕石列車(惣川工臨)牽引に利用されていた。また近年の旅客車牽引実績としては、丹波市で恐竜の化石が発掘されたことに伴い2009年に運転された団体臨時列車「恐竜列車ちーたん号」において、14系客車の「リゾート&シュプール」をDD51とのプッシュプル運転で牽引した。現在でも工事列車などで臨時に入線することがある。 また無煙化以前には 国鉄8800形蒸気機関車 国鉄C50形蒸気機関車 国鉄C54形蒸気機関車 国鉄C55形蒸気機関車 国鉄C57形蒸気機関車 国鉄D51形蒸気機関車 国鉄C11形蒸気機関車 といった蒸気機関車が使用された。 DF50 DD54 DD51 DD13 DE10 8800 C50 C54 C55 C57 D51(肥薩線) C11 1970年から三田市と神戸市北部に位置している神戸三田国際公園都市・北摂三田ニュータウンの開発が始まり、ニュータウンへの入居が始まった1981年ごろから三田市の人口が増加し、特に1987年から1996年まで、人口の実質増加率は10年連続で日本一を記録した。 福知山線では輸送力増強のため、非電化区間であった宝塚駅 - 福知山駅間の電化による全区間電車運転と一部区間の複線化が行われることとなったが、生瀬駅 - 三田駅の山間部においては武庫川渓谷に沿って走っており、複線化が困難であったことから、生瀬駅 - 道場駅間はトンネルの連続する複線の新線に切り替えられ、約1.8km短縮されることになった。 まず、1986年8月1日より新線切り替えと宝塚駅 - 三田駅間の複線化が行われた。次いで同年10月15日より三田駅 - 新三田駅(この時点では開業前)が複線化され、翌11月1日行われた国鉄最後のダイヤ改正(1986年11月1日国鉄ダイヤ改正)から全面的に電車で営業を開始した。同時に、生瀬駅 - 武田尾駅間には西宮名塩ニュータウンの開発にあわせて西宮名塩駅が、三田駅 - 広野駅間にはウッディタウンの玄関口として新三田駅が開業し、特急「北近畿」の運転開始に加え、113系2両編成を主体として普通が日中時間帯で1時間あたり3本(大阪駅 - 福知山駅間1本、大阪駅 - 新三田駅間2本)に増発された。民営化後の1989年より快速が運転を開始した(快速の区間は現在と同じく、大阪駅 - 三田駅間のみ)。この時点で日中は特急0 - 1本、快速2本、普通4本の現在とほぼ変わらないダイヤになった。 1997年には新三田駅 - 篠山口駅間の複線化が完成し、JR東西線が開業することにより、同線経由で学研都市線との直通運転が開始された。 2009年度1日平均の乗車人員は、宝塚駅が約4万人と福知山線で最も利用者が多く、次いで伊丹駅が約2万3千人、川西池田駅が約2万人である。アーバンネットワーク内でも新三田駅以北では利用者数が少なくなり、7駅合計で約1万人に留まる。JR発足時に1日の運転本数が100本足らずだった福知山線は、JR東西線開業以降は1日360本を超えるダイヤの都市近郊路線へと変化していった。 大阪駅・北新地駅 - 宝塚駅間の利用は特定区間運賃が適用されるが、電車特定区間に含まれないため、これ以外の区間と跨って利用すると幹線運賃が適用され、運賃が高くなるのが特徴である。 丹波市は、篠山口駅 - 福知山駅間の単線区間の複線化をJR西日本に要望している。また丹波市は団体利用への運賃補助を行い、兵庫県も特急列車の料金補助を行う社会実験を実施していた。そして兵庫県は「乗って 近づく 複線化」などと呼びかけている。だが、2003年度の1日の乗車人員はこの区間の丹波大山駅から丹波竹田駅までの8駅を合わせても約3,600人であり、篠山口駅以北では少子化に伴う通学利用の減少やモータリーゼーションの浸透もあって減少傾向にある。 福知山線の発祥は、川辺馬車鉄道が1891年に開業させた尼ヶ崎駅(のちの尼崎港駅) - 伊丹駅間の馬車鉄道である。のちに摂津鉄道と改称して1893年に馬車鉄道を蒸気動力の軽便鉄道に改築し尼ヶ崎駅 - 池田駅(現在の川西池田駅)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にあった。 摂津鉄道の路線は、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道に譲渡され、改軌した上で宝塚駅まで開業。以後順次延伸されて、1899年には福知山南口駅(内田町付近)まで開通した。 1904年、軍部からの要請で対ロシア戦略の軍用鉄道として舞鶴鎮守府までの開通を急がされた福知山駅 - 綾部駅 - 新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間が官設で開通。阪鶴鉄道も現在の福知山駅(天田)まで延伸し、福知山駅 - 新舞鶴駅間の貸与を受けて、大阪と舞鶴を結ぶ鉄道が完成した。 阪鶴鉄道は1907年に国有化され、官設区間とあわせて阪鶴線と呼ばれていたが、山陰本線の京都駅 - 出雲今市駅(現在の出雲市駅)間が1912年に開通したのを機に、神崎駅(現在の尼崎駅) - 福知山駅間、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間が福知山線となった。 大阪と山陰方面を結ぶ亜幹線とされたが、線路改良や電化などの近代化は大幅に遅れた。さらにC54形蒸気機関車やDD54形ディーゼル機関車が配属され、特急「まつかぜ」が福知山線経由で1961年から設定されていたが、1972年に新設された特急「はまかぜ」に至っては時間短縮を理由に姫路駅経由となるなど亜幹線として機能しているとは言い難い状況であった。加えて、普通列車は永らくDD54形やDD51形ディーゼル機関車牽引による旧形客車が使用され続けるなど、車両面での近代化は大きく遅れていた。ただし、大阪駅発着の客車列車に関しては、乗客のデッキからの転落事故などがあり1985年3月のダイヤ改正で自動扉がついた12系客車に置き換えられて近代化された。 設備面では、1970年代後半から近代化が進められた。1979年 - 1980年にかけて塚口駅 - 宝塚駅間が順次複線化され、翌1981年に尼崎駅 - 宝塚駅間の電化が完了。また、1980年代前半までは腕木式信号機が現存したが列車集中制御装置 (CTC) の導入により姿を消した。だが、設備は近代化された一方で、車両は依然として旧形車両が主力であったため、新車を相次いで登場させたが、競合相手の阪急には太刀打ちできず、当線に登場した103系も当初6両編成であったものがのちに4両編成に減車されている。また、神戸方面へも当時は神戸電鉄経由(当時は北神急行が開業していなかったので神戸電鉄有馬線鈴蘭台駅・新開地駅経由)での所要時間とは大きく差がなかったが、やはり本数は福知山線の方が相当少なかった。 福知山線にとって劇的な変化が起こるのは、宝塚駅 - 新三田駅間の複線化、福知山駅までの全線電化が完成した1986年である。それまで山間部を武庫川渓谷に沿って走っていたため複線化が困難であった生瀬駅 - 道場駅間をトンネルの連続する複線の新線に切り替えるとともに西宮名塩駅を新たに設置、また三田駅 - 広野駅間には新興住宅地の玄関として新三田駅を設置した。そして国鉄最後のダイヤ改正である1986年11月1日から全面的に電車で営業を開始し、特急「北近畿」の運転が開始された。 一方、福知山線最初の開業区間でもあった塚口駅 - 尼崎港駅間の通称尼崎港線が、旅客営業を1981年に廃止した後、1984年に完全に廃止された。同線は1898年に東海道本線の尼崎駅への連絡線を設けて大阪方面との直通運転を始めてからは、塚口駅 - 尼崎港駅間の貨物主体の盲腸線となっていた。晩年の旅客列車の本数は1日2往復で混合列車であった。 民営化以降は下記の年表を参照のこと。 1891年(明治24年) 7月:川辺馬車鉄道 尼ヶ崎駅 - 長洲駅間が開業。馬車鉄道。尼ヶ崎駅(のちの尼崎港駅)・大物駅・長洲駅が開業。 9月6日:川辺馬車鉄道 長洲駅 - 伊丹駅間が開業。塚口駅・伊丹南口駅・伊丹駅が開業。 1892年(明治25年)6月:川辺馬車鉄道が摂津鉄道への改称を出願。 1893年(明治26年)12月12日:尼ヶ崎駅 - 伊丹駅間が改軌、伊丹駅 - 池田駅間が延伸され、尼ヶ崎駅 - 池田駅間(8M35C≒13.58km)が軌間762mmの軽便鉄道として開業。尼ヶ崎駅・長洲駅・伊丹駅が再開業。池田駅(現在の川西池田駅)が開業。 馬車鉄道時代は東海道線と平面交差していたが、改築後は貨車をのぞいて横断を禁止され、南北に構内を分断された長洲駅を旅客は徒歩連絡、貨車は人力で横断させていた。 1894年(明治27年)3月6日:大物駅・塚口駅・伊丹南口駅が再開業。 1897年(明治30年) 2月16日:摂津鉄道が全線を阪鶴鉄道に譲渡。 12月27日:池田駅 - 宝塚駅間(4M50C≒7.44km)が軌間1067mmで延伸開業。中山駅(現在の中山寺駅)・宝塚駅が開業。池田駅が新線分岐点付近に移転。 12月28日:長洲駅 - 池田駅間の軌間が1067mmに改軌され、改キロにより同区間で43C≒0.87km短縮。伊丹南口駅が廃止。 1898年(明治31年)6月8日:宝塚駅 - 有馬口駅間(1M11C≒1.83km)、神崎駅 - 塚口駅間(1M38C≒2.37km)が延伸開業。有馬口駅(のちの生瀬駅)が開業。官設鉄道神崎駅(現在の尼崎駅)に乗り入れ。長洲駅 - 塚口駅間(1M19C≒1.99km)が廃止され、尼ヶ崎駅 - 長洲駅間は孤立区間となる。 1899年(明治32年) 1月25日:有馬口駅 - 三田駅間(9M68C≒15.85km)が延伸開業。武田尾駅・道場駅・三田駅が開業。 3月25日:三田駅 - 篠山駅間(15M29C≒24.72km)が延伸開業。有馬口駅が生瀬駅に改称。広野駅・相野駅・藍本駅・古市駅・篠山駅(現在の篠山口駅)が開業。 4月10日:改キロ、全線で2C≒0.04km延長。 5月25日:篠山駅 - 柏原駅間(13M34C≒21.61km)が延伸開業。大山駅(のちの丹波大山駅)・下滝駅・谷川駅・柏原駅が開業。 7月15日:柏原駅 - 福知山南口駅間(15M68C≒25.51km)が延伸開業。石生駅・黒井駅・市島駅・竹田駅(のちの丹波竹田駅)・福知山南口駅(のちの福知駅)が開業。 1900年(明治33年)度:尼ヶ崎駅 - 長洲駅間(1M58C≒2.78km)が休止。 1901年(明治34年)4月1日:池田駅が中山寄りに移転。 1902年(明治35年)11月12日:マイル・チェーン表記からマイル表記に簡略化(神崎駅 - 福知山南口駅間 66M55C→66.7M)。 1903年(明治36年) 4月30日:池田駅 - 中山駅間に花畑仮停車場が開業。 8月1日:花畑仮停車場が廃止。 11月1日:福知山南口駅が福知駅に改称。 1904年(明治37年)11月3日:福知駅 - 福知山駅間(0.7M≒1.13km)が延伸開業し、官設鉄道福知山駅に乗り入れ。同日開業した官設鉄道 福知山駅 - 綾部駅 - 新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間を阪鶴鉄道が借り入れ。 1905年(明治38年)7月13日:貨物支線 塚口駅 - 長洲駅間(1.2M≒1.93km)が再開業し、長洲駅 - 尼ヶ崎駅間(1.7M≒2.76km)が軌間1067mmに改軌の上、東海道線と立体交差化され営業再開。尼ヶ崎駅が営業再開。大物駅・長洲駅が廃止。 1907年(明治40年) 8月1日:阪鶴鉄道が国有化。 11月1日:神崎駅 - 福知山駅間の改キロにより0.4M≒0.64km短縮。 1909年(明治42年) 10月1日:福知駅が廃止。 10月12日:国有鉄道線路名称制定により、神崎駅 - 福知山駅 - 新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間などが阪鶴線になる。 1911年(明治44年) 9月6日:塚口駅 - 尼ヶ崎駅間の旅客営業再開。神崎乗降場が開業。 11月1日:竹田駅が丹波竹田駅に改称。 1912年(明治45年) 3月1日:神崎駅 - 福知山駅間、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間が阪鶴線から分離され、福知山線となる。 4月16日:支線に金楽寺駅が開業。 1913年(大正2年)9月1日:惣川駅が開業。 1915年(大正4年)9月11日:中山駅が中山寺駅に改称。 1917年(大正6年)5月1日:大山駅が丹波大山駅に改称。 1918年(大正7年) 5月15日:伊丹駅 - 池田駅間に猪名川仮信号所が開設。 9月13日:猪名川仮信号所が廃止。 1926年(大正15年)3月15日:惣川駅の旅客営業廃止。 1930年(昭和5年)4月1日:マイル表示からメートル表示に変更(神崎駅 - 福知山駅間 67.0M→108.3km、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間 2.9M→4.6km)。 1934年(昭和9年)5月15日:神崎駅 - 塚口駅間が複線化。 1944年(昭和19年) 3月1日:篠山駅が篠山口駅に改称。 4月1日:北伊丹駅が開業。 1949年(昭和24年)1月1日:神崎駅が尼崎駅に、尼ヶ崎駅が尼崎港駅に、神崎乗降場が尼崎乗降場に改称。 1951年(昭和26年)8月1日:池田駅が川西池田駅に改称。 1955年(昭和30年)10月24日:南矢代駅が開業。 1956年(昭和31年)11月19日:尼崎駅 - 塚口駅間が電化。 1958年(昭和33年)3月27日:草野駅が開業。 1961年(昭和36年)10月1日:特急「まつかぜ」運転開始。 1969年(昭和44年)4月30日:尼崎乗降場が書類上尼崎駅に併合され、尼崎臨時乗降場になる。 1979年(昭和54年) 6月29日:塚口駅 - 尼崎港駅間が自動信号化。 7月1日:惣川駅が廃止。 9月27日:塚口駅 - 北伊丹駅間が複線化。 1980年(昭和55年) 9月3日:川西池田駅が北伊丹寄りに0.2km移転。 12月5日:北伊丹駅 - 中山寺駅間が複線化。 12月11日:中山寺駅 - 宝塚駅間が複線化。 1981年(昭和56年) 4月1日:塚口駅 - 宝塚駅(正確には惣川貨物駅跡まで)間が電化。猪名寺駅が開業。塚口駅 - 尼崎港駅間の旅客営業廃止。金楽寺駅・尼崎臨時乗降場が廃止。 12月10日:篠山口駅 - 福知山駅間が自動信号化。 1982年(昭和57年)2月27日:篠山口駅 - 福知山駅間に列車集中制御装置 (CTC) が導入。 1984年(昭和59年) 2月1日:貨物支線(尼崎港線)塚口駅 - 尼崎港駅間 (4.6km) が廃止。尼崎港駅が廃止。 3月10日:広野駅 - 篠山口駅間にCTCが導入。 1986年(昭和61年) 8月1日:宝塚駅 - 三田駅間が新線に切り替え、複線化。生瀬駅 - 道場駅間1.8km短縮。 10月15日:三田駅 - 新三田駅間が複線化。尼崎駅 - 広野駅間に CTC が導入。 11月1日:宝塚駅 - 福知山駅間が電化され、全線電化完了。西宮名塩駅・新三田駅が開業。ダイヤ改正により次のように変更。 快速と特急「まつかぜ」が廃止。 エル特急「北近畿」が運転開始。 全線の貨物営業廃止。 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。 1988年(昭和63年)3月13日:大阪駅 - 篠山口駅間の愛称としてJR宝塚線を使用開始。大阪駅 - 篠山口駅間に「ほくせつライナー」が運転開始。 1989年(平成元年)3月11日:快速が再び運転開始(停車駅:大阪・尼崎・伊丹・川西池田・宝塚・三田以北各駅)。 1991年(平成3年)6月25日:丹波竹田駅 - 福知山駅間の踏切でトレーラーと普通が衝突、1両目の車両が脱線転覆。当該車両(クモハ112-801)が事故廃車となる。 1992年(平成4年)4月1日:新三田駅(構内のぞく)- 福知山駅(構内のぞく)間が福知山支社の管轄から篠山口鉄道部の管轄になる。 1993年(平成5年)3月18日:207系電車投入。 1994年(平成6年)8月3日:三田駅 - 新三田駅間の踏切でトラックと普通が衝突、1両目の車両が脱線転覆。当該車両(クハ103-839)が事故廃車となる。 1995年(平成7年)12月25日:藍本駅構内で篠山口発大阪行き快速電車が、雪によるブレーキ不具合で停止位置を行き過ぎ安全側線に進入し脱線する事故が発生。死傷者は出なかったものの、この事故がきっかけで福知山線内を走行する電車にも耐雪ブレーキを装備することとなった。 1996年(平成8年) 3月16日:西宮名塩駅が快速の停車駅になる。 12月1日:広野駅 - 古市駅間が複線化。 1997年(平成9年) 3月8日:新三田駅 - 広野駅間、古市駅 - 篠山口駅間が複線化。JR東西線を経て片町線(学研都市線)と直通運転開始。 9月1日:ダイヤ改正により次のように変更 篠山口駅・新三田駅 - 大阪駅間の普通がJR京都線と終日直通運転を開始し、塚本駅に停車するようになる(早朝・深夜の大阪駅発着列車をのぞく)。 福知山線経由のすべての特急・急行列車が尼崎駅に停車するようになる。 201系電車・205系電車の運用が開始。 2000年(平成12年) 3月11日:丹波路快速が運転開始。 12月2日:篠山口駅 - 福知山駅間の一部列車でワンマン運転開始。 2002年(平成14年)10月5日:「ほくせつライナー」が特急「北近畿」に格上げされ廃止。 2003年(平成15年) 8月:103系電車の運用が終了。 10月1日:コンコースの喫煙コーナーが廃止。 11月1日:大阪駅 - 篠山口駅間で「ICOCA」の利用サービスが開始。 12月1日:中山寺駅が快速の停車駅になる。 2004年(平成16年)10月16日:急行「だいせん」が廃止。これにより、福知山線の夜行列車が消滅。 2005年(平成17年) 4月25日:尼崎駅 - 塚口駅間で列車脱線事故(JR福知山線脱線事故)が発生し、尼崎駅 - 宝塚駅間が不通となる。 6月19日:尼崎駅 - 宝塚駅間で運転再開。尼崎駅 - 新三田駅間で ATS-P が使用開始。ATS-P車上装置を装備していない117系電車と北近畿タンゴ鉄道のKTR001形気動車が運用から外れる。 11月26日:福知山駅付近が高架化。 12月1日:321系電車が運行開始。 2006年(平成18年)2月:205系電車の運用が終了。 2007年(平成19年)3月:201系電車の運用が終了。KTR001形気動車がATS-P車上装置を設置して運行再開。 2008年(平成20年) 6月28日:宮原総合運転所の223系6000番台が運用開始。 7月22日:223系5500番台が運用開始。 2009年(平成21年) 2月11日:新三田駅 - 篠山口駅間で ATS-P が使用開始。 7月1日:尼崎駅 - 新三田駅間の各駅でホーム上の喫煙コーナーを廃止して全面禁煙化。 2010年(平成22年)12月1日:組織改正により、大阪支社が管轄していた尼崎駅 - 新三田駅間を近畿統括本部の管轄に変更。 2011年(平成23年) 3月8日:尼崎駅 - 新三田駅間にJR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システム (SUNTRAS) が導入。 3月12日:特急「北近畿」が「こうのとり」に改称、「文殊」「タンゴエクスプローラー」が廃止。287系電車が運行開始。 2012年(平成24年)3月17日:113系電車・221系電車の運用が終了。225系6000番台が運用開始。 2013年(平成25年)3月16日:183系電車の運用が終了。 2014年(平成26年) 8月16日:京都府北部での集中豪雨で線路が冠水したり、道床が流出するなどの被害を受けて篠山口駅 - 福知山駅間が不通となる。 8月19日:篠山口駅 - 石生駅間が運転再開。 8月27日:石生駅 - 福知山駅間が運転再開し全線運転再開。 2015年(平成27年)3月14日:路線記号が本格導入開始、篠山口駅 - 福知山駅間にもラインカラーが正式に設定される。 2016年(平成28年):広野駅 - 篠山口駅間に小規模自動進路制御装置 (SRC) を導入。 2018年(平成30年)3月17日 - 尼崎駅 - 篠山口駅間の各駅に駅ナンバーが導入され、使用を開始する。 1989年に大阪国際空港(伊丹空港)に近いJR伊丹駅から伊丹空港までの路線を建設する構想として、福知山線分岐線構想が計画された。その後、1995年に発生した阪神・淡路大震災により、航空機での輸送の重要性が改めて認識され、空港へのアクセス整備が必要であることから、「阪神・淡路復興計画」の中に盛り込まれた。この計画はのちに「ひょうご21世紀交通ビジョン」の中に盛り込まれている。 1995年に国・兵庫県・大阪府・JR西日本や伊丹市などから構成される「福知山線分岐線研究会」を設置し、事業予測・路線計画・整備手法や採算などについて詳細な調査を行い、2007年に兵庫県が空港とJR伊丹駅を結ぶライトレール (LRT) の導入を検討すると発表しており、2010年に事業を完成させるとしていたものの計画は進んでおらず、伊丹市では当面の対策として、市バスを活用した空港アクセスを行っている。 阪:特定都区市内制度における「大阪市内」エリアの駅(道場駅は同制度の「神戸市内」の駅には属さない) #:待避線がある駅 停車駅 特急以外の各種別…●印の駅は全列車停車、|印の駅は全列車通過 普通…JR京都線の直通列車は塚本駅(▲印)に停車。大阪駅始発・終着列車は同駅を通過 快速…塚口駅(△印)にはJR東西線直通列車のうち同駅折り返し列車が停車 特急(こうのとり)は列車記事参照 線路 … ||||:複々線区間、||:複線区間、◇:単線区間(列車交換可能)、∨:ここより下は単線(列車交換可能) 駅ナンバーは2018年3月より導入 ^ 大阪駅と北新地駅の間は徒歩連絡の特例がある(JR東西線#乗車制度を参照) ^ 運転系統上の「京都本線」を表す。同線の正式な起点は十三駅。 ^ 舞鶴線の正式な起点は山陰本線綾部駅だが、一部の列車が福知山駅に乗り入れている 駅距離間が比較的長い、中山寺駅 - 宝塚駅間に新駅建設案がある。 下記以外の駅はJR西日本の直営駅である。 業務委託駅 北伊丹駅・中山寺駅・生瀬駅 …JR西日本交通サービスが受託 広野駅・相野駅・谷川駅・黒井駅 …JR西日本福知山メンテックが受託 簡易委託駅 石生駅・市島駅 無人駅 武田尾駅・道場駅・藍本駅・草野駅・古市駅・南矢代駅・丹波大山駅・下滝駅・丹波竹田駅 1981年の旅客営業廃止直前のもの。全駅ともに兵庫県尼崎市に所在していた。 尼崎港線の尼崎駅は東海道本線の駅とは約300m離れていた。なお、塚口駅 - 尼崎駅間の実キロは約1.9kmだが、本線の同区間にあわせていた。 #廃止区間(尼崎港線)が廃止になったことによる廃駅を除く。 本線(括弧内は尼崎駅起点の営業キロ) 伊丹南口駅:1897年廃止、猪名寺駅 - 伊丹駅間(約4.7km) 猪名川仮信号所:1918年廃止、伊丹駅 - 北伊丹駅間(約7.3km) 花畑仮停車場:1903年廃止、川西池田駅 - 中山寺駅間(約13.4km) 惣川駅:1979年廃止、宝塚駅 - 生瀬駅間 (18.5km)。設備は宝塚駅構内扱いで現存、貨物駅。 福知駅:1909年廃止、丹波竹田駅 - 福知山駅間(約100.6km) 尼崎港線(括弧内は塚口駅起点の営業キロ) 長洲駅:1905年廃止、塚口駅 - 金楽寺駅間(約1.9km)。年表にある通り東海道本線との交点に前後して設置されていた。改築により跡地は乗り越え用の築堤となり尼崎港線の神崎駅(尼崎駅)ホームが設置された。 大物駅:1905年廃止、金楽寺駅 - 尼崎港駅間(約3.7km) 名称などは廃止時点のもの。 川西池田駅:能勢電鉄妙見線(川西国鉄前駅)- 1981年12月20日廃止。 三田駅:国有鉄道有馬線 - 1943年7月1日休止。 篠山口駅: 国鉄篠山線 - 1972年3月1日廃止。 篠山鉄道(篠山駅) - 1944年3月21日廃止。 福知山駅:北丹鉄道 - 1971年3月2日休止、1974年2月28日廃止。 ^ 大阪発16時台と福知山発11時台は運転なし ^ 一部列車は京都駅からJR京都線内を回送列車として運行される関係で、多客期にJR京都線内で臨時列車が設定される場合は同線内を大阪行きの快速または新快速として運転、大阪駅において同駅始発の(丹波路)快速(継続して乗車できる場合であっても営業上は大阪駅を境に別列車扱い)として運転されることがある。 ^ 福知山線にも1978年から1979年にかけて気動車については新製のキハ47形を投入した。 ^ 日本国有鉄道電気局 『鉄道電報略号』、1959年9月17日、21頁。 ^ a b 「JR西の路線、愛称開始15年」朝日新聞、2003年1月29日。 ^ a b 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します - 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実地踏査地図から消えた鉄道60』JTB、1999年。ISBN 4-533-03150-1。 日本の鉄道路線一覧 JR福知山線脱線事故 阪急宝塚本線 - 並行し最も競合する路線 国道176号 - 並行する国道 舞鶴若狭自動車道 - 福知山線と並行し、競合する高速道路", "呉線(くれせん)は、広島県三原市の三原駅から広島県安芸郡海田町の海田市駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。 このうち三原駅 - 広駅間には、公募により「瀬戸内さざなみ線」という愛称が付けられたが、旅客案内は「呉線」で統一されている。 かつて東洋一の軍港と呼ばれた呉市を経由して、瀬戸内海に沿って三原市と海田町を結んでいる。運転系統としては、西部区間を走るすべての列車が広島駅まで乗り入れ、沿線と県都の広島市を結ぶ役割を果たしている。内陸を並走する山陽本線のこの区間は「瀬野八」と呼ばれる線内最大の連続急勾配区間を挟むため、歴史的には山陽本線のバイパスとして機能してきた。しかし、山陽新幹線開業による優等旅客列車の削減、および、沿線の急速な都市化により、現在では通勤・通学輸送が主体となっており、全線単線であるが、輸送量が多いことから、途中駅のほとんどが行き違い駅となっている。戦前・戦中は沿線に軍事施設が多く存在することから要塞地帯に指定され、車内で列車の鎧窓を上げるようにするように命じられたり、川原石など沿線に目隠し用の板塀が設置されていたりする時代もあった。 広駅 - 海田市駅間は「広島シティネットワーク」として広島市の近郊路線のひとつとして扱われ、快速列車が運転されている。一方「瀬戸内さざなみ線」の愛称を持つ三原駅 - 広駅間は観光路線としての側面も持つ。海のすぐ近くまで山が迫る区間も多く、安芸幸崎駅 - 忠海駅間は車窓から瀬戸内海を眺望できる。 歴史的な経緯から、山陽本線との間に経路特定区間が設定されている。1978年以降、呉線を経由する優等列車は消滅しているが、この制度の対象区間である。なお、山陽本線に事故で不通になったり工事などで線路閉鎖が生じたりした際、寝台列車が迂回して呉線を通ったことがある。また、現在も一部の団体臨時列車などが呉線経由で走っている。 全区間が広島支社の管轄であり、IC乗車カード「ICOCA」のエリアである。 2014年に、広島駅を起点とした運転系統の呉線として広島駅 - 広駅間で「瀬戸内海沿いを運行しており、水面に反射する暖かい日射しの色のイメージ」として黄(■)のラインカラーが、路線記号に Y が選定された。同年10月末の広島駅における先行導入を経て、翌2015年3月14日のダイヤ改正で本格的に導入された。一方、車内掲示等で使われる広島エリアの路線図においては仁方駅以東もこのカラーで表現されている。公式サイトの全域路線図についても2016年4月に岡山・山陰エリアの路線記号が反映された際に、黄色にYの路線記号の適用区間が、仁方駅以東も含めた呉線全区間に拡大された。また、岡山支社管内で駅掲示運賃表を路線記号入りに更新した駅でも同様の対応となっている他、同支社管内西端の糸崎駅では方面案内で直通先として呉線の路線記号が使われている。その一方で、仁方駅 - 三原駅間各駅の駅掲示時刻表では路線記号のない山口地区各線同様に、路線記号のアルファベットが入らないカラーのみのシンボルを使用している。 なお、日本で一番短いトンネルである川尻トンネル(全長8.7m)がある。 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者) 路線距離(営業キロ):87.0km 軌間:1067mm 規格:甲線 駅数:28(起終点駅含む) 呉線所属駅に限定した場合、山陽本線所属の三原駅・海田市駅が除外され、26駅になる。 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:全線(直流1500V) 閉塞方式:単線自動閉塞式 最高速度:95km/h 運転指令所:広島総合指令所 1935年の全通以来、戦中・戦後の一時期を除き1978年まで山陽本線の優等列車の一部や1986年まで荷物列車の一部が呉線を経由していたが、現在は快速・普通列車のみが運転されている。三原駅 - 広駅間でワンマン運転が開始された2003年10月1日以降は、広駅で運転系統が分かれている。朝夕には広駅を列車番号を変えて同駅を越えて直通する列車がある。糸崎駅・三原駅 - 広駅間、広駅 - 広島駅・岩国駅・あき亀山駅間の運転が多い。呉駅 - 広島駅間には快速「安芸路ライナー」および「通勤ライナー」(次節参照)が設定されている。 海田市駅側ではすべての列車が山陽本線の広島駅に直通し、一部の列車は広島駅を越えて山陽本線には徳山駅まで、可部線にはあき亀山駅まで乗り入れている。 山陽本線については、JR発足後も長らく下関駅まで乗り入れていたが、227系の運行が開始された2015年3月14日以降は山口県内の乗り入れ区間が大幅に短縮されている。2017年3月4日現在、一部の列車を除き、広島シティネットワーク西端の岩国駅までの乗り入れである。 なお、国鉄時代は宇品線・岩徳線・岩日線(現在の錦川鉄道錦川清流線)へ直通する普通列車が運転されていた時期もあった一方で、可部線への直通列車は存在しなかった。 三原駅側では朝夕の列車が山陽本線の糸崎駅に直通し、上り2本のみ福山駅まで乗り入れている。1975年3月10日に優等列車に代わる快速列車が設定されて以降、岡山駅に直通する列車が設定されていたが、下り列車は2003年9月30日をもって消滅し、上り列車も2014年3月14日をもって福山駅までの乗り入れに区間短縮された。2016年3月26日からは夕方に福山行が新たに設定された。なお、平成初期には岡山駅を越えて瀬戸駅・万富駅・和気駅に乗り入れる列車もあった。 呉駅 - 広島駅間にて快速運転を行う列車として、朝には快速「通勤ライナー」が、その他の時間帯(おおむね午前9時以降)には快速「安芸路ライナー」が運転されている。普通列車との所要時間差は15 - 20分程度。「通勤ライナー」は主に227系電車(1本のみ113系)が用いられる。「安芸路ライナー」の愛称は、1999年2月7日から現在の「通勤ライナー」に該当する列車も含め使用している。当初は広島支社発行の無料の時刻表のみ愛称が併記され、全国版の時刻表には併記されていなかった。 三原駅 - 広駅間では、日中は1時間に1本程度運転されており、105系電車を用いてワンマン運転を行う。朝夕は113系・115系・227系電車も運用される。広駅 - 広島駅間では、日中は1時間に1本程度運転されている。車両は主に113系・115系・227系電車が使用される。 2005年に広島県の大型観光キャンペーンにより、3月 - 8月の土曜休日中心に「スーパーサルーンゆめじ」で快速「瀬戸内おさんぽ号」が運転された。その後同年10月1日からキハ47形気動車の改造車(7000番台)を使用し、観光列車として快速「瀬戸内マリンビュー」が運転されている。 なお、「瀬戸内マリンビュー」はNHK大河ドラマ『平清盛』の放送に合わせて2012年1月7日から「清盛マリンビュー」として運転されていた。2013年1月14日で「清盛マリンビュー」としての運転は終了し、同月19日から「瀬戸内マリンビュー」に戻されている。 キハ47形7000番台「瀬戸内マリンビュー」 定期列車はすべて下関総合車両所(運用研修センター及び広島支所)に所属する電車で運転されている。 105系 113系 115系 227系 105系 115系 113系 227系 電車 103系 165系:急行列車など 167系:急行「吉備」(1970年 - 1972年)など 153系:急行列車など 111系:快速列車など 70系・80系 72系 気動車 キハニ5000形:三呉線部分開業時に使用 キハ41000形:広駅以西の区間列車用 キハ42000形:広駅以西の区間列車用 キハ10系:普通列車など キハ20系:普通列車など キハ55系:準急列車など キハ58系:準急・急行列車など 蒸気機関車 1150形 6150形 6760形 8620形 C11形 C50形 C51形 C53形 C59形 C62形 D50形 D51形 電気機関車 EF58形 EF15形 EF61形 EF62形 EF65形 客車 24系:寝台特急「安芸」(1977年 - 1978年) 20系:寝台特急「安芸」(1975年 - 1977年) 12系:急行「音戸」(1973年 - 1975年、臨時列車としては1969年 - 1975年)など 10系: 急行「安芸」(1956年 - 1970年)、急行「音戸」(1961年 - 1975年)など スハ43系:急行「安芸」(1951年 - 1964年)、普通列車など オハ35系:急行7・8列車(1939年 - 1942年)、急行「安芸」(1950年 - 1968年)、普通列車など スハ32系:急行7・8列車(1935年 - 1942年)、普通列車など オハ31系:急行7・8列車(1935年 - 1942年)、普通列車など オイテ27000:急行7・8列車(1935年 - 1939年) 22000系:普通列車など 前述の通り呉線は単線であるため、複線化に近い機能を発揮する3か所の行き違い設備を、要望のあった新駅を2駅(水尻駅・かるが浜駅)と、川原石駅を移設して設置することとし、この結果、ラッシュ時にも快速運転ができるようになった。 2006年夏以降、利用者や経済界からの所要時間短縮の要望を受けて、呉市による複線化に向けた調査が行われていたが、2009年8月に「呉 - 海田市間と新広 - 安芸阿賀間の複線化で、約10分の所要時間短縮が可能となり採算性もあるが、事業費が多額で早期の着工は難しい」との調査結果が出された。 なお、2015年からは転換クロスシート車両である227系の導入で、車両のアコモデーション(接客設備)を改善している。 軍都広島と軍港呉を結ぶ必要から呉駅 - 海田市駅間は官設(呉線)で1903年に開業している。開業当時は呉駅 - 広島駅間を6往復、呉駅 - 海田市駅間を3往復の計9往復が運転された。この区間は、1904年12月1日から山陽鉄道に貸し渡され同社が運営したが、1906年12月1日に国有化され、国有鉄道の運営に戻った。 三原駅 - 呉駅間が開業したのは遅く、三呉線(さんごせん)として三原駅 - 須波駅間が1930年に開業、全通したのは1935年のことである。全通以後は軍港としての呉の重要性から東京直通の急行列車が運転された。当線を経由した優等列車としては急行「安芸」「宮島」「ななうら」「にしき」「吉備」「出島」「音戸」や寝台特急「安芸」などがあげられる(列車の沿革の詳細は「瀬戸内マリンビュー#呉線優等列車・観光列車沿革」および「山陽本線優等列車沿革」の項目を参照のこと)。このため、かつては線路規格が高く設定されており、戦前はC53形、戦後もC59形やC62形といった大型の旅客用蒸気機関車が電化まで運用されていた。 戦前の1939年には、輸送力増強のため海田市駅 - 呉駅間の複線化が計画され、1941年3月に着工された。しかし太平洋戦争中の資材不足から工事が遅れ、輸送力増強は省営バス安芸線の運行を開始することで代えられ、1945年に複線化は中止された。4分の3が完成していたトンネル・路盤は放置されていたが、電化に際して従来の低規格のトンネルを放棄し、戦中に掘削した新トンネルに切り替えられている。 1903年(明治36年)12月27日:海田市駅 - 呉駅間(12.4M≒19.96km)が開業。矢野駅・坂駅・天応駅・吉浦駅・呉駅が開業。 1904年(明治37年) 7月28日:浜崎仮停車場が開業。 12月1日:山陽鉄道に賃貸。 1906年(明治39年)12月1日:山陽鉄道が国有化。 1909年(明治42年) 5月28日:浜崎仮停車場を浜崎仮乗降場に変更。 10月12日:国有鉄道線路名称の制定により、海田市駅 - 呉駅間が呉線となる。 1914年(大正3年)5月1日:小屋浦駅が新設され、浜崎仮乗降場が廃止。 1926年(大正15年)7月21日:旧浜崎仮乗降場と同一地点に安芸浜崎仮停車場が開業。 1928年(昭和3年)7月7日:狩留賀浜仮停車場が開業。 1930年(昭和5年)4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(12.4M→20.0km)。 1934年(昭和9年)4月1日:ガソリンカーの運行が開始。 1935年(昭和10年)3月24日:呉駅 - 広駅間 (6.8km) が延伸開業。安芸阿賀駅・広駅が開業。 1930年(昭和5年) 3月19日:三呉線 三原駅 - 須波駅間(3.2M≒5.15km)が開業。須波駅が開業。 4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(3.2M→5.1km)。 1931年(昭和6年)4月28日:須波駅 - 安芸幸崎駅間 (6.7km) が延伸開業。安芸幸崎駅が開業。 1932年(昭和7年)7月10日:安芸幸崎駅 - 竹原駅間 (13.5km) が延伸開業。忠海駅・大乗駅・竹原駅が開業。 1935年(昭和10年)2月17日:竹原駅 - 三津内海駅間 (18.9km) が延伸開業。吉名駅・安芸三津駅(現在の安芸津駅)・風早駅・三津内海駅(現在の安浦駅)が開業。 1935年(昭和10年)11月24日:三津内海駅 - 広駅間 (16.0km) が延伸開業により全通。三呉線が新規開業区間と(旧)呉線を編入し呉線に改称。安登駅・安芸川尻駅・仁方駅・川原石駅が開業。 1940年(昭和15年)11月1日:川原石駅が休止。 1946年(昭和21年)5月1日 三津内海駅を安浦駅に改称。 仁堀連絡船開業。仁方駅で接続した。 1949年(昭和24年)11月20日:安芸三津駅を安芸津駅に改称。 1950年(昭和25年)10月1日:宇品線への直通運転開始。 1958年(昭和33年)8月1日:川原石駅が営業再開。 1966年(昭和41年)12月20日:宇品線への直通運転廃止。 1967年(昭和42年)8月1日:狩留賀浜仮停車場・安芸浜崎仮停車場廃止。 1968年(昭和43年)4月25日:電化工事起工。 1970年(昭和45年) 8月3日:架線試験列車が入線、工事が完了した電化設備の試験を開始。 8月22日:電化試運転開始。蒸気機関車牽引列車に電気機関車を連結しての電蒸運転も始まる。 9月15日:全線電化(直流1500V)。全区間で列車集中制御装置 (CTC) 導入。電蒸運転を行っていた一部列車は電機単独の牽引に移行。 9月23日:同日から29日まで電化完成の関連行事として呉駅構内で蒸気機関車展示会を実施。 9月30日:急行「安芸」が呉線の蒸気機関車さよなら列車として運転され、線内から蒸気機関車牽引列車が消滅した。 10月1日:ダイヤ改正により、広駅 - 広島駅間が快速となる列車運転開始。停車駅は、広駅・呉駅・海田市駅・広島駅。 1972年(昭和47年)3月15日:ダイヤ改正により、糸崎駅 - 呉駅間が快速となる列車運転開始。停車駅は、糸崎駅・三原駅・忠海駅・竹原駅・安芸津駅・安浦駅・安芸川尻駅・仁方駅・広駅・呉駅。また、広駅 - 広島駅間快速の列車は呉駅 - 広島駅間快速に変更。 1975年(昭和50年)3月10日:ダイヤ改正で山陽新幹線が全線開業したことに伴い、優等列車は寝台特急「安芸」を除いて全て廃止。 1978年(昭和53年)10月2日:ゴーサントオのダイヤ改正で寝台特急「安芸」が廃止され、線内を走行する優等列車が消滅。快速の停車駅に安芸幸崎駅・安芸阿賀駅を追加。 1980年(昭和55年)10月1日:ダイヤ改正により、快速の停車駅に向洋駅を追加。糸崎駅 - 呉駅間快速の列車全廃。 1982年(昭和57年)7月1日:仁堀連絡船廃止。 1984年(昭和59年)2月1日:ダイヤ改正により、広駅 - 広島駅間にシティ電車導入。快速列車を削減し普通列車を増発。 1985年(昭和60年)3月14日:ダイヤ改正により、呉駅 - 広島駅間の快速が全廃され、普通のみの運転となる。 1986年(昭和61年) 3月3日:ダイヤ改正により、昼間時運転の列車に水曜日運休を導入。 11月1日:全線の貨物営業廃止。国鉄の鉄道小荷物廃止により、荷物列車も全廃となる。ダイヤ改正により、川原石駅に全列車が停車するようになる。シティ電車が20分間隔で運転されるようになる。 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道が継承。 1988年(昭和63年)3月13日:ダイヤ改正により、水曜日運休の列車が全廃。 1989年(平成元年)3月11日:ダイヤ改正により、可部線から呉線へ乗り入れる列車の運転開始。 1992年(平成4年) 3月14日:ダイヤ改正により、呉線から可部線へ乗り入れる列車の運転開始。臨時列車「ミッドナイトトレイン」運転開始。 3月19日:呉ポートピア駅が開業。 1993年(平成5年)3月18日:ダイヤ改正により、臨時列車「ミッドナイトトレイン」廃止。 1994年(平成6年)10月1日:安芸長浜駅が開業。 1995年(平成7年)10月1日:三原駅 - 広駅(構内のぞく)間が広島支社の直轄から三原地域鉄道部の管轄になる。 1996年(平成8年)3月16日:広駅 - 広島駅間で快速が復活。呉駅 - 広島駅間ノンストップで、呉駅 - 広島駅間の最短所要時間は上りが27分、下りが25分であった。 1999年(平成11年)2月7日:かるが浜駅・水尻駅が開業。川原石駅が0.5km海田市駅方面へ移転。公募された快速の愛称が「安芸路ライナー」に決定。朝ラッシュ時(下りのみ)、夕ラッシュ時(上りのみ)にも快速を運転開始。 2002年(平成14年) 3月23日:新広駅が開業。呉駅 - 広島駅間で日中の快速がワンマン運転開始。 10月5日:広駅 - 海田市駅・広島駅間が広島シティネットワークエリアとなる。 2003年(平成15年) 3月13日:開業100周年を記念し、きのくにシーサイド用の客車で記念列車を運行。 10月1日:三原駅 - 広駅間でワンマン運転開始。これにより、日中は広駅を境に運転系統が分割される。 2004年(平成16年) 3月13日:山陽本線向洋駅 - 広島駅間に天神川駅が開業。呉線の普通列車も停車開始。 10月16日:日中の快速が「安芸路ライナー」に、朝夕ラッシュ時の快速が「通勤ライナー」になる。天神川駅・矢野駅・坂駅が快速「安芸路ライナー」の停車駅になる。 2005年(平成17年) 3月19日:211系・スーパーサルーン「ゆめじ」編成(3両)を用い臨時快速「瀬戸内おさんぽ号」が運転開始(8月までの土曜・休日を中心に運転)。 10月1日:広島駅・広駅 - 三原駅間でキハ47形7000番台気動車による臨時快速「瀬戸内マリンビュー」2往復が運転開始(ほぼ毎日運転)。矢野駅が快速「通勤ライナー」の停車駅になる。 2006年(平成18年)3月18日:臨時快速「瀬戸内マリンビュー」の広駅 - 三原駅間が各駅停車になる。 2007年(平成19年) 5月以降:各駅に自動改札機を導入。 9月1日:全区間が「ICOCA」の利用エリアになる。 2009年(平成21年)3月14日:土曜日を休日ダイヤで運転開始。 2010年(平成22年) 7月14日:梅雨前線の影響による大雨で複数の土砂崩れが発生し三原駅 - 呉駅間が終日不通となる。 7月16日:広駅 - 呉駅間で運転を再開 7月20日:不通区間を竹原駅 - 安浦駅間に短縮し、同区間で貸切バスによる代行を開始。 11月1日:竹原駅 - 安浦駅間の復旧により、全線で運転再開。 2011年(平成23年) 3月12日:ダイヤ改正により、臨時快速「瀬戸内マリンビュー」が土曜・休日ダイヤのみ1往復の運転になり、広駅 - 三原駅間が快速運転に戻される。 4月2日-4月7日:東日本大震災による車両保守部品工場被災に伴い、昼間時に間引き運転を実施。 2012年(平成24年) 1月7日:「瀬戸内マリンビュー」が山陽本線広島駅 - 宮島口駅間で延長運転が行われ、宮島口駅 - 三原駅間の快速「清盛マリンビュー」として運転。2013年1月14日まで。 3月17日:海田市駅・吉浦駅が快速「安芸路ライナー」の停車駅となり、天神川駅が7年5か月ぶりに同列車の通過駅に戻る。 2014年(平成26年)3月15日:広駅を跨いで運転する列車は、広駅で必ず列車番号を変更するようになる。 2015年(平成27年) 2月:広島シティネットワークエリア内各駅の駅名標を順次交換開始。JR西日本コーポレートカラーの青色から、呉線ラインカラーの黄色に変更。 3月14日:ラインカラー・路線記号を本格的に導入。227系運行開始、103系運行終了。 2016年(平成28年) 3月26日:ダイヤ改正により、土休日ダイヤを見直し、平日と土休日で大きく異なるダイヤとなる。 6月22日:大雨により安登駅 - 安芸川尻駅間で土砂崩れが発生し、三原駅 - 広駅間が不通となる。 6月27日:三原駅 - 安浦駅間が復旧するも、須波駅 - 安芸幸崎駅間の斜面亀裂のため、19時から再び三原駅 - 忠海駅間が不通となる。 6月29日:安浦駅 - 広駅間が復旧。 7月15日:三原駅 - 忠海駅間が復旧。 2017年(平成29年) 3月4日:ダイヤ改正。 平日夕方上りの快速「通勤ライナー」と一部の普通列車を快速「安芸路ライナー」に変更して増発し、運行時間帯を21時台まで拡大。平日・土休日ともに9時以降の快速列車は「安芸路ライナー」に統一。 臨時快速「瀬戸内マリンビュー」の列車号数を廃止。 7月29日:「瀬戸内マリンビュー」が8月26日までの土曜日に福山駅まで延長運転(47号・48号として列車号数が復活)。 2018年(平成30年) 6月1日:三原地域鉄道部廃止に伴い、約23年ぶりに全区間が広島支社の直轄になる。 7月5日:平成30年7月豪雨により三原駅 - 広駅間が運休となる。 7月6日:広駅 - 海田市駅間も運休となる。複数箇所で土砂崩れが発生。これにより、全線不通となる。 7月17日:呉駅 - 広島駅間で災害時緊急輸送バスの運行(朝夕の往復)を、呉港(中央桟橋) → 広島港(宇品)間で災害時緊急輸送船の運航(平日朝に1便)をそれぞれ開始。 7月21日:広駅 - 広島駅間(直行便)、呉駅 - 広島駅間、坂駅 - 広島駅間で代行バスの運行を開始。これに伴い呉駅 - 広島駅間の災害時緊急輸送バスは運行終了。 7月25日:広駅 - 呉駅間で代行バスの運行を開始。 8月2日:坂駅 - 海田市駅間の運転を再開。これに伴い代行バスの運行区間が広駅 - 坂駅間(直行便)、呉駅 - 坂駅間、広駅 - 呉駅間に再編され、呉港 - 広島港間の災害時緊急輸送船は前日で運航終了。 8月11日:三原駅 - 広駅間で代行バスの運行を開始。これで、不通区間の全区間で代行バスが運行に。 8月20日:広駅 - 呉駅間で暫定的な折り返し運転を開始。これに伴い、広駅 - 坂駅間(直行便)、広駅 - 呉駅間の代行バスは前日で運行終了。 9月9日:広駅 - 坂駅間で正式に運転再開。これに伴い、呉駅 - 坂駅間間の代行バスは前日で運行終了。 10月14日:安芸川尻駅 - 広駅間で運転再開。 10月28日:安浦駅 - 安芸川尻駅間で運転再開。 12月15日:全線で運転再開。 便宜上、海田市側で全列車が乗り入れる山陽本線海田市駅 - 広島駅間も合わせて記載。なお山陽本線内にある貨物駅は省略。 広:特定都区市内制度における「広島市内」エリアの駅 停車駅 普通…すべての旅客駅に停車 快速…安芸路=「安芸路ライナー」、通勤=「通勤ライナー」…●印の駅は停車、|・↓印の駅は通過(矢印はその方向のみ運転) 「瀬戸内マリンビュー」の停車駅は「瀬戸内マリンビュー#停車駅」を参照 線路(呉線内は全線単線) … ◇・∨・∧:列車交換可能、|:列車交換不可、∥:複線(山陽本線内) 全駅広島県内に所在 ^ 可部線の正式な起点は山陽本線横川駅だが、運転系統上は広島駅に乗り入れる 呉線の区間のうち、以下の駅をのぞく15駅は簡易委託駅または無人駅である(ただし簡易委託駅のうち、安芸津駅にはPOS端末が設置されている)。 JR西日本の直営駅(5駅) 三原駅・広駅・呉駅・矢野駅・海田市駅 JR西日本広島メンテックによる業務委託駅(8駅) 竹原駅・安浦駅・安芸川尻駅・新広駅・安芸阿賀駅・吉浦駅・呉ポートピア駅・坂駅 駅ののりば番号は、駅本屋がある方から1番線、2番線…と付けていくのが通例だが、呉線内各駅ののりば番号の付け方は、駅本屋の場所に関係なく上り本線から1番線、2番線、3番線(3番線は安浦駅・広駅・呉駅・坂駅のみ)の順となっている。 ( )内は三原駅起点の営業キロ。 狩留賀浜仮停車場:かるが浜駅付近 (72.1km) 安芸浜崎仮停車場:天応駅 - 呉ポートピア駅間 (75.2km) ^ 安芸幸崎 - 忠海駅付近では旧芸予要塞、後に毒ガス製造所が設置された大久野島の近くを通り、安登駅以西は広島湾沿いに各種の軍事施設・艦艇停泊地が設けられていることから呉要塞地帯となっていた。 ^ 呉駅以西を普通列車として運転する殆どの列車が川原石駅を通過しており、事実上糸崎駅 - 吉浦駅間の快速運転となっていた。 ^ 「安芸」は日本のブルートレイン史上最も短命(わずか3年半の運行)の列車となった。 ^ 主に土曜日の深夜、上り定期最終列車の後に広島駅 - 広駅間で運転された。 ^ JR西日本宮島フェリー(宮島航路)の船舶を使用。 ^ 並行して運行する広電バスの路線バスも利用可。 ^ 呉駅 - 呉ポートピア駅間は、並行して運行する広電バスの路線バスも利用可。 ^ 安芸川尻駅 - 広駅間は、並行して運行する広電バスの路線バスも利用可。8月20日からは、三原駅 - 竹原駅間・竹原駅 - 安芸津駅間・安芸津駅 - 風早駅間についても、並行して運行する芸陽バスの路線バスも利用可に。 ^ a b 鉄道事業ダイジェスト Archived 2014年3月14日, at the Wayback Machine. - 西日本旅客鉄道 ^ “呉の歴史 - 呉市ホームページ”. 呉市 (2015年11月1日). 2018年8月22日閲覧。 ^ CYBER STATION (2007年2月). “JRニュース”. 交通新聞社. 2007年2月12日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年9月3日閲覧。 ^ ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット - 西日本旅客鉄道 ^ 2014年10月20日から11月1日に開催された「広島駅の歴史展」より ^ 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日 ^ 広島エリア路線図 (PDF) - JRおでかけネット、2016年3月28日閲覧 ^ JR西日本全域路線図 (PDF) - JRおでかけネット、2016年4月16日閲覧 ^ 井上怜 (2014年9月21日). “「日本一短い鉄道トンネル」引退へ 群馬のJR吾妻線”. 朝日新聞デジタル. オリジナルの2014年9月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140920220629/http://www.asahi.com/articles/ASG9M7SK1G9MUHNB017.html 2016年12月6日閲覧。  ^ 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB、1998年。ISBN 978-4-533-02980-6。 ^ 『JR時刻表』2015年3月号、交通新聞社。 ^ a b ジェー・アール・アール編『JR電車編成表 2012冬』交通新聞社、2011年。ISBN 978-4-330-25611-5。 ^ 『JR時刻表』2015年2月号、2015年3月号、2017年3月号。 ^ 国鉄監修『交通公社の時刻表』1962年6月号、1965年10月号など。 ^ 『JR時刻表』2003年10月号、2014年3月号、2016年4月号。 ^ 『JR時刻表』1989年3月号、1990年3月号。 ^ a b 平成17年夏の臨時列車について (PDF) (インターネットアーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2005年5月20日 ^ a b 大河ドラマ「平清盛」と連動した観光列車の運転について(インターネットアーカイブ) - 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ABC01-02-0156
高知県の民謡『よさこい節』で、月の名所と歌われている海岸はどこでしょう?
桂浜
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[ "桂浜", "海金剛", "大里松原海岸", "白山洞門", "足摺岬" ]
[ "桂浜(かつらはま)は、高知県高知市浦戸に位置し太平洋に臨む海岸。土佐民謡「よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、高知を代表する名所の一つとして知られる。 上竜頭岬が北東端に、下竜頭岬が南西端にあり、その間に挟まれて弓形に砂浜が延びている。下竜頭岬には竜王宮があり鳥居が立っている。桂浜の近くには、1591年(天正19年)長宗我部元親が北側の丘陵部に浦戸城を築き、一時この地が岡豊城に代わって土佐の中心地になった時期もあった。しかし、初代土佐藩主として土佐入りした山内一豊がこの地では手狭であると感じ、1603年(慶長8年)高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となった。現在は、坂本龍馬記念館・桂浜水族館・大町桂月記念碑などの文学碑等がある。 昔から月見の名所としても知られ、毎年中秋の名月の夜になると地元出身の歌人・大町桂月を偲びながら文芸を語り酒を酌み交わす「名月酒供養」が開催される。 近隣の浦戸地区には、回天および震洋の格納庫の跡がある。 高知駅または南はりまや橋よりとさでん交通バス桂浜行き(概ね1~2時間に1本)に乗車し、終点で下車。 ゴールデンウィークなどの大型連休になると、臨時駐車場から無料のシャトルバスが運行されることがある。この無料シャトルバスには、ボランティアによる観光ガイドが添乗していることもある。 桂浜の砂浜は、潮流が速いため遊泳は禁止されている。 石碑前からの眺望 高知県立坂本龍馬記念館 桂浜水族館 桂浜土佐闘犬センター(現、龍馬の浜茶屋) 日本の観光地一覧 アイスクリン 高知県の観光地 美しい日本の歩きたくなるみち500選 日本の歴史公園100選 日本の渚百選 四国のみずべ八十八カ所 土佐維新歴史文化道 桂浜 - 高知市公式ホームページ 月の名所桂浜 - 高知県観光情報サイトこじゃんとネット 土佐維新歴史文化道 桂浜公園ストリートビュー 座標: 北緯33度29分43.79秒 東経133度34分25.81秒 / 北緯33.4954972度 東経133.5738361度 / 33.4954972; 133.5738361 (桂浜)", "海金剛(うみこんごう)は和歌山県東牟婁郡串本町にある自然景勝地。吉野熊野国立公園に含まれる。 紀伊大島鷹ノ巣岬の断崖下の海面から荒々しく切り立つ巨岩が連なる海岸線をいう。 「21世紀に残したい日本の自然百選」に選ばれている。 〒649-3501 和歌山県東牟婁郡串本町樫野 JR紀勢本線(きのくに線) 串本駅より熊野交通バス樫野灯台口行36分、樫野バス停より徒歩15分 紀伊大島 日米修交記念館、トルコ記念館、エルトゥールル号遭難碑、樫野埼灯台 串本海中公園 潮岬 橋杭岩 橋杭海水浴場 串本応挙芦雪館 古座海岸 海金剛 - 南紀串本観光協会 座標: 北緯33度27分54.6秒 東経135度51分16.7秒", "大里松原海岸(おおさとまつばらかいがん)は、徳島県海部郡海陽町にある太平洋に面した海岸である。日本の白砂青松100選選定。 大里松原海岸は日本の白砂青松百選選定されており、アカウミガメの産卵地として有名である。長い砂浜には、投げ釣りのメッカとして釣り人からの人気も高い。 北端に建つ木ノ元展望台からは、大里松原海岸の全景を堪能することができる。南端は海部川河口となっている。 JR牟岐線阿波海南駅より徒歩約30分。 ^ “大里松原海岸”. 四国の右下↑. 2017年1月26日閲覧。 ^ “大里松原海岸”. 徳島県. 2017年1月26日閲覧。 大里松原海岸 海陽町観光協会", "白山洞門(はくさんどうもん)は、高知県土佐清水市足摺岬にある海蝕洞である。高知県の天然記念物に指定されている。 足摺岬の西方にある。花崗岩で形成された岩盤が波の浸食により洞門となった。足摺岬周辺には海蝕洞が数多く見られるが白山洞門が最大規模である。高さ16m、幅17mで花崗岩の海蝕洞では日本一の規模であるとされる。昭和28年(1953年)1月16日に高知県の天然記念物に指定された。 高知県道27号線脇の「万次郎足湯」から眺めるのが一番である。また、洞門本体真際にまで遊歩道が整備されており間近に見ることも出来る。 岩峰の頂上には白山神社が祀られているが、上部は岩場となっており、手摺や鎖場は設けていないため遊歩道脇にある鳥居より遙拝することを呼びかけている。 土佐くろしお鉄道中村線 中村駅から高知西南交通バス「足摺岬行き」で1時間40分、「白皇神社前」下車、徒歩5分 『土佐清水 足摺宇和海国立公園 観光ガイドブック』 土佐清水市/発行 2009年 現地説明板 白山神社 (土佐清水市) 「万次郎足湯」営業時間:8時~19時、定休日:水曜日、料金:無料、駐車場:有(道路を挟んで万次郎足湯の前にあり) (一社)土佐清水市観光協会 土佐清水市-足摺岬周辺観光ガイド 座標: 北緯32度43分25秒 東経133度00分51秒 / 北緯32.72361度 東経133.01417度 / 32.72361; 133.01417", "足摺岬 高知市 足摺岬(あしずりみさき)は、高知県南西部土佐清水市に属し、太平洋(フィリピン海)に突き出る足摺半島の先端の岬。足摺宇和海国立公園に指定されている。 Michelin Green Guide Japon(ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン)では、「足摺岬」と「足摺岬からの眺望」がそろって二つ星★★と評価されている。 北緯32度43分24秒、東経133度1分12秒。宿毛市に属する沖の島の存在のほか、岬付近にはこれより低緯度にも小島が散在し、四国本島としても、長碆(ながはえ)地区等の存在から、実際にはわずかに四国最南端ではないが、一般には四国最南端の地(岬)として認識されている。 足摺崎の読みは本来「あしずりざき」が正式呼称であったが、観光地化の進展に伴い論議を経て通称の「あしずりみさき」が正式呼称となった。 高知県を代表する観光地の一つで、JR四国・土佐くろしお鉄道の特急列車にもその名が採られている(詳細は、「あしずり」を参照)。 足摺半島南東端に位置、黒潮の打ち寄せる断崖は約80mの高さをもつ。周囲はツバキ・ウバメガシ・ビロウ等の亜熱帯植物が密生。沖合いはカツオの好漁場。一方で台風銀座でもあり、しばしば暴風に見舞われる。 足摺半島西岸、中浜の漁師であり、幕末の政局に大きな役割を果たしたジョン万次郎(中浜万次郎)の銅像が立つ。万次郎の遺品や当時の捕鯨・航海についての資料を展示した「ジョン万ハウス」も、岬から500m西に設置されていたが、建物の老朽化により、2006年(平成18年)4月、あしずり港内にある「海の駅」2階へ、同ハウスにあった観光案内所は足摺岬園地に移転した。その後ジョン万ハウスは、2010年(平成22年)1月にNHK大河ドラマ龍馬伝のパビリオン「くろしお社中」としてリニューアルオープンした。NHK大河ドラマ龍馬伝の放送終了に伴い、翌年4月からは「ジョン万次郎資料館」として再度リニューアルオープンし、ジョン万次郎の情報発信基地となっている。 各所からは日の出、日の入りが一望できる。明るく温暖な南向きの岬である。 南方にある浄土へ渡るという「補陀洛信仰」(→補陀洛山寺)の舞台であり、中世には紀伊国(和歌山県)の那智勝浦と並ぶ、「補陀落渡海」の船の有名な出発地であった。田宮虎彦の小説「足摺岬」はこうした歴史を背景とした作品である。この小説をきっかけに、自殺が急増した時期があり「ちょっと待て、もう少し考えよ」という自殺防止用の看板が立てられた。 1914年(大正3年) - 足摺崎灯台が点灯 1955年(昭和30年) - 足摺岬国定公園に指定 1965年(昭和40年) - 「足摺崎」から「足摺岬」へ改称 1972年(昭和47年) - 足摺宇和海国立公園に指定変更 土佐くろしお鉄道中村駅からバス(高知西南交通)。 国道321号(足摺サニーロード) 足摺岬有料道路(旧足摺スカイライン)※現在は県道(椿の道)へ移管され無料開放されている。 高知県道27号足摺岬公園線 - 足摺半島の海岸沿いを周回する県道 ゴールデンウィーク、盆休み、年末年始には通行規制が実施される。これは金剛福寺前での混雑、事故を防止するためである。1kmほど手前にある市営駐車場(料金は無料)に駐車し徒歩もしくはシャトルバス(運行時間に注意)を利用することとなる。路線バスも一部を除いて足摺岬への乗り入れは行わず先述の市営駐車場に併設されている足摺岬センター発着となる。 竜串 四国八十八箇所第三十八番札所 蹉陀山金剛福寺 足摺岬灯台 白山洞門 足摺山七不思議 万次郎足湯 亜熱帯自然植物園 唐人駄場 臼碆 足摺温泉郷 初夏・早朝 初夏・午後 白山洞門 臼碆 天狗の鼻 万次郎足湯 足摺岬 (小説) 足摺岬 (映画) 四国のみち 美しい日本の歩きたくなるみち500選 日本の端の一覧 竹居岬 - 四国最北端の岬(香川県高松市) 蒲生田岬 - 四国最東端の岬(徳島県阿南市) 佐田岬 - 四国最西端の岬(愛媛県西宇和郡伊方町) (一社)土佐清水市観光協会公式HP ジョン万次郎資料館 足摺岬 四国最南端 座標: 北緯32度43分24秒 東経133度1分12秒 / 北緯32.72333度 東経133.02000度 / 32.72333; 133.02000" ]
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もとは歌舞伎や寄席のいちばん最後の出し物のことで、現在ではテレビ番組『笑点』の名物コーナーとしてもおなじみなのは何でしょう?
大喜利
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[ "大喜利", "下ネタ", "ゴングショー", "コント", "むちゃぶり" ]
[ "大喜利(おおぎり、おおきり)は、演芸の形式。寄席の余興として考案され、現在は放送メディアで独自に発展し、多数の観客を招いての大きなイベントとしても行われる。 寄席においてトリ(最後を飾る出演者)がいない場合、それに代わる最後の演目として観客へのいわばアンコールに相当するサービスとして行われていたもの。余興として、その日の寄席の複数の出演者が再び登場し、観客からテーマをもらって互いに芸を競い合った。 歌舞伎の「大切」(一日の興行の最終幕最後の場面)にちなんだ名であり、「喜利」は客も喜び、演者も利を得るという意味の当て字である。このように「大喜利」は寄席のプログラムを指す言葉であったが、そのうち出し物そのものを表す語となっていく。 「笑点」での大喜利が定着したため、近年のテレビ番組やインターネット上などで行われる「大喜利」は、司会者の出題に対して、ひねりを効かせて答える、といった言葉遊びゲームの集合そのものを指すことが多いが、本来この形式のものは、様々な大喜利のうち「とんち」と呼ばれるものである。 元来の大喜利ではこの他に、歌や踊りの披露、三題噺、にわか(即興の芝居。数人の芸人が幽霊に扮して登場する道具入りの怪談噺など)、芸人による相撲、裁判の真似事など、趣向を凝らしたさまざまなものが行われている。 なぞかけ 川柳・狂歌・都々逸 パロディを作るものや、折句(あいうえお作文)の形式で答えるものなど。 無理問答 山号寺号 俗曲・端唄 ベンベン 「ベンベン節」とも。落語の『豊竹屋』の掛け合いに由来。「AのようでAでない」「ベンベン(三味線を弾く音の真似)」「BのようでBでない」「ベンベン」「それは何かと尋ねれば、C、C」の形式で、AとBからかけ離れたCを答えるもの。 売名節(うりなぶし) 「忘れ節」「売名を忘れ節」とも。売り子が商品の名を忘れたという趣向で、「Aを売りにやったら売名を忘れ」「Bを買わしゃませんかいな。ヤレコラサ、ドッコイサノサ」と掛け合う。 落ちてます 「落ちてます、落ちてますよ。(どこそこ)に○○が落ちてます。拾うてようかな。誰も見てへんな。拾うて見たら××やった」という文句で、似て非なるものに見間違えたという笑いを取る。価値のあるものに見えたが実は無価値なものであったというオチに終わる。 住吉踊り - 古今亭志ん朝により復興させたことが有名。落語協会の浅草演芸ホール8月中席昼席で大喜利として同協会員によって披露される。 「にゅうおいらんず」による演奏 - 三遊亭小遊三、春風亭昇太らが中心となって結成された落語芸術協会会員によるデキシーバンドの演奏。浅草演芸ホール8月上席の同協会昼席で大喜利として披露される。 現代メディアにおける大喜利は古典的なスタイルの問答はほとんど見られず、お題に対して不条理な回答を返したり、写真から面白い台詞を想像して答えたりする形式の問答が主流を占めている。 この流れは1996年から放送が始まった『一人ごっつ』が最初とされており、これ以降は発想力が問われる「笑いの競技化」が進んで行くこととなった。 笑点 お好み演芸会 - 花の落語家5人衆の知恵くらべ 生放送!おもしろ寄席 - 笑いと恐怖のハリセン大喜利 お笑いタッグマッチ お笑いとんち袋 日曜演芸会 → 末廣演芸会 お笑い頭の体操 摩訶不思議 ダウンタウンの…!? ダウンタウン汁 かざあなダウンタウン 一人ごっつ 内村プロデュース お笑い頭脳バトル 着信御礼!ケータイ大喜利 IPPONグランプリ 千原ジュニアの大喜利塾「題と解」 宇宙GメンEX - 火曜日にニッポン放送アナウンサーの吉田尚記を中心にTwitterを利用したtwitter大喜利というコーナーを展開していた。番組は現在終了。 大喜利四賢者の「オレたちしんけんじゃ!」 フットンダ Shibuya Deep A ごくじょうラジオ - 「お酒よもやま大喜利」 おはよう!スプーン すっぴん! - 木曜日の8時台に「日本一早い!大喜利コーナー」を放送。 お笑い地賛地笑バラエティ ガンバッペ魂 サンドウィッチマンの天使のつくり笑い - 「ピンチを笑いに変えろ!天使の一言」というコーナーで展開。 土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送 - 12時台に「初心者歓迎!まっぴるま大喜利」を放送。 千原ジュニアの座王 - 対決内容に『大喜利』パネルが1,2枚配置されていて、視聴者から大喜利におけるお題投稿を募集している。 スーパーヒットチャートなまらん - 「大喜利ランキング」・「冬季オオギリンピック」というコーナーを展開。 ダイナマイト関西 漫画 キッドアイラック!(長田悠幸) ボケて(bokete) ^ 大喜利とバラエティー番組の50年(2)『一人ごっつ』とM-1ブーム ORICON NEWS 2016年6月9日 落語 日本お笑い史 ノックノック・ジョーク エレバン放送 落首 サラリーマン川柳 スタンドアップコメディ カード・アゲインスト・ヒューマニティー", "下ネタ(しもネタ)は、笑いを誘う排泄・性的な話題のこと。寄席における符牒のひとつであったが、テレビ業界で用いられるようになってから一般化した。「下がかった話」などともいう。現在ではもっぱら艶笑話について用いられ、必ずしも笑いを伴わない猥談や露骨に性的な話(エロネタ、エッチネタ)を指すこともある。下は人間の下半身と「下品」のダブル・ミーニング[要出典]、ネタは「(話の)タネ」を意味する。 現在では、艶笑的な話題と、排泄に関わる汚らしさによって笑いを誘う話題を下ネタと総称されているが、本来の寄席用語では艶笑ものを「バレ(ネタ)」として区別しており、下ネタの原義は排泄物をめぐる笑話のことであったと言われている。落語においてはバレネタと下ネタ(狭義)の間には大きな扱いの差があり、バレネタは粋や通を体現するものとして必ずしも低く扱われないのに対し、排泄物をめぐる下ネタは下品で安易な笑いの取り方であるとしてあまり好まれない傾向にある。 以下、猥談を含んだ広義の下ネタについて述べる。落語における艶笑ものは、表現規制や戦中の禁演落語の問題とも関わる。この点については「禁演落語」の項目参照。 一般に下ネタは下品なものと見なされ、好き嫌いは大きく分かれる。 人間が生きていくうえで必要な事柄を利用して笑いを誘うだけにわかりやすく、多くの人に通じやすいのは事実であるが、通常の生活において隠されるべきもので、絶対的なプライバシーとして確保すべきものを公表するものでもあるため、これに対して不快感や嫌悪感を持つ人も多い。 また人間存在の根幹にかかわる性や排泄の問題は、文化や生活習慣、年代、地域、性差によってそれぞれにタブーの違いがあり、場合によっては誤解を呼んだり、相手を侮蔑・侮辱するものとして文化的な摩擦の原因となる事ある。 特に、性的な下ネタは現代社会では、しばしばセクシャル・ハラスメントとして問題視されることがある。 同様の理由から、下ネタが比較的寛容に受入れられる社会であっても、私的な場と公の場においてはその待遇が違うことが多い。例えば、いわゆる艶笑落語は排泄物を巡る下ネタよりも厚遇されているとはいえ、高座であまり大っぴらに語るべきものとは考えられておらず、少人数の内輪の会などで客席と親密な一体感を持ちながら演じられる。内容がきわどく、露骨になればなるほど、この傾向は強くなる。 マスメディアの中でもテレビ・ラジオは、不特定多数なおかつ膨大な数の大衆に向けて発信される性質を持っており、比較的少数の、また価値観や嗜好を共有する均質な人々の集合であった寄席の観客とは大きく性質を異にする。そのため同じ下ネタでも、寄席や演芸舞台という場では演じられても、テレビやラジオなどの放送媒体では自粛される場合がある。 また、特にテレビにおいては、必ずしも下ネタで笑いを取って来なかったお笑いタレントがテレビ番組で下ネタをネタとして使用することが多くなると、「下ネタにしか頼れなくなった」という評価がつき、タレントとしての商品価値の低下に繋がっていくこともある。反対に、一種のゲテ物系の色物として劣情や下ネタに特化した笑いを専門的に狙うタレントもいる。他方、トーク術や番組の司会運営、しゃべくり芸などについて高く評価されていても、やはり下ネタが頻出するため、テレビ局や番組制作会社から数多くの仕事が来るものの、警戒されて生放送の仕事がほとんど回ってこない、さらには、収録された内容も大幅に編集されてしまうため、テレビでは舞台の場で見せる本領とは程遠いパフォーマンスしか発揮できないというお笑いタレントも稀にいる。 子供への影響や、食事中に視聴者に与える不快感に配慮し、きわどい下ネタは深夜番組やCS放送でしか行われない傾向にある。また例えば、女性器の俗称は、ゴールデンタイムの番組では自主規制音がかぶせられるほか、クイズ番組で下ネタを含む回答をすると不正解とされることが多い。代表例は「マジカル頭脳パワー!!」(日本テレビ系)で、排泄・性的表現を含む回答は不正解(勝ち残り系クイズではアウト)とされ、特に初期~中期のレギュラー解答者所ジョージはこれにより司会の板東英二から減点を受けることが多かった。が、深夜番組ではカットされずそのまま放送されるなど、放送時間帯や視聴者層の違いにより扱いが異なる語句もある。また、視聴層の違いなどから、テレビと比較するとラジオの方が若干は寛容であるとされる。ただし、ラジオ番組でも低年齢層向けのものについては、やはり下ネタを避ける傾向は見られる。 放送文化よりも歴史の長い落語の中には、「実の母と関係する話」(『故郷へ錦』)や「会話の流れで小便を飲ませる話」(『禁酒番屋』)のような際どい話があり、これらが寄席において公演された時代もあったが、テレビでこの種の下ネタを含むものが演じられることはあまりない。 落語等古典芸能では「内容の一部に不適切なものがあるが、作品を尊重して」と前置きがあり、放送される例もある。 演芸文化における下ネタに対する許容度で関東と関西を比較すると、かつては、芸に様式や粋を追求する傾向が強い関東では下ネタは避けられ、一方で「どんな手段を使ってでもお客様を笑わせてこそ芸人はナンボ」という風潮が根強い関西の者が、お笑い芸人・客いずれも下ネタに対する許容度が高いと言われていた。だが、吉本興業の全国展開で関西系、吉本系のお笑いタレントがお笑い市場において大きく幅を利かせている近年では関東では下ネタの許容も徐々に多くなり、最近ではさまぁ~ずや我が家の様に下ネタを芸風の一部とする関東系タレントも登場している。それでも、関東では下ネタに対する反発は関西の芸能人が想像しているよりも根強いものがあり、番組出演者の間でちょっとしたトラブルになってしまうケースや、TPOや視聴者層を考慮しないタレントの下ネタの連発から、関東の視聴者を中心に放送局へと抗議が集中するケースも見られる。もっとも、きわどい下ネタを頻発してもラジオスターとして聴取率の高さで関東でも生き残った笑福亭鶴光、谷村新司という例もあるものの、関東では一般聴衆からの好き嫌いの差は極端に激しく、決して関西ほどに万人受けしているというわけではない。 また、初代林家三平の弟子や孫弟子などといった、『(初代)三平一門』の流れを汲む落語家・お笑い芸人、萩本欽一のいわゆる『欽ちゃんファミリー』に属するタレントなど、関東の芸能タレントには現在でも一門の不文律などという形で下ネタをタブーとしている者が珍しくない。これについてはそれぞれ師匠格のお笑い芸人の芸の好みによるものであったかもしれないが、テレビへの出演が芸能文化の事実上の頂点となっている現代にあっては、一門のタレントたちの芸について、安易な下ネタに依存させないことで鍛え上げ、芸の幅を広げる結果に繋がっているとも言える。その一方で、このような事情で下ネタができないタレントは特定のお笑いタレントとの組み合わせが難しいなどの支障が見られることもあり、テレビ局にとっては番組制作上の難題になることも珍しくない。 古代ギリシャのギリシャ喜劇では下ネタが極めてあからさまである。しかし、やはりそれなりに下らないものとの判断があったらしい。例えば、アリストパネスの『蛙』の冒頭は、奴隷が「荷物が重くてウンコが漏れる、とか言っていいか?」から始まり、それに対して主人公が「そういうのは聞き飽きたからやめろ」と返している。では、アリストパネスはそういうのは使わないかと言えば、実は結構よく使っており、この作品中でも主人公がびびって服のまま脱糞をするシーンがちゃんと出てくる。 また、当時の喜劇では役者やコロス(合唱隊)が股間に陰茎の作り物をぶら下げて登場するのが普通であり、上記作家の作品『女の平和』はそう言ったエロネタにあふれており、この飾りがたいそう活躍したものと思われる。しかし、他方で同作家の『鳥』では合唱隊が「そのようなものをつけずに出てくることが出来て」という下りがあり、これもそれなりにレベルの低いものと見なされていたことが想像される。 漫画・アニメ 特に青年誌において生殖器や性行為、セクハラを直接または間接的に想起させる言葉・会話・動作の表現が日常的に多用されているが、『コミックボンボン』や『コロコロコミック』のような児童誌ではあまり見られず、代わりに能動的な排泄で笑いを取る表現が多い。 生殖器や性行為、セクハラを想起させる言葉・会話・動作による表現の下ネタが多い漫画 『究極!!変態仮面』、『ふぐマン 』、『喜劇新思想大系』、『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。』、『LET'Sぬぷぬぷっ』、『工業哀歌バレーボーイズ』、『妹は思春期』、『B型H系』、『みつどもえ』、『ロッテのおもちゃ!』、『こどものじかん』、『To LOVEる -とらぶる-』、『シェイプアップ乱』、『ジャングルの王者ターちゃん』、『ももいろスウィーティー』、『行け!!南国アイスホッケー部』『超速変形ジャイロゼッター』、『日本一の男の魂』、『おるちゅばんエビちゅ』『有害指定同級生』など一連の作品など 排泄の表現による下ネタの多い漫画 『トイレット博士』、『がきデカ』、『学級王ヤマザキ』、『浦安鉄筋家族』、『ボボボーボ・ボーボボ』、『まことちゃん』、『わ〜お!ケンちゃん』など 上記の両方に多い漫画 『クレヨンしんちゃん』、『Dr.スランプ』、『おぼっちゃまくん』、『幕張』、『行け!稲中卓球部』、『銀魂』、『激烈バカ』、『よんでますよ、アザゼルさん。』、『地獄先生ぬ〜べ〜』、『珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-』、『えの素』、『コータローまかりとおる!』など 落語 紙入れ、明烏、磯の鮑、三助の遊び、つるつる、錦の袈裟(ちん輪)、引っ越しの夢、葛籠の間男、疝気の虫、目薬、茶漬け間男、故郷へ錦、禁酒番屋、短命 バレ系統の噺には、本格的な噺よりも小噺程度のものが多い。 テレビ ネタ単体で成立させる「ひとつの噺としての下ネタ」から、ネタを利用したチキンレース的な側面を持つ「テレビで見せるべきではないものを見せて笑いをとる下ネタ」へと変質していく契機のひとつは、ザ・ドリフターズの風呂屋のコント(『ドリフ大爆笑』のもしもシリーズ)ではないかという説がある。『タモリ倶楽部』の名物コーナー「空耳アワー」では、下ネタを含んだ作品が比較的多く投稿される傾向がある。 演芸番組『笑点』の「大喜利」では三遊亭小遊三が下ネタを発することが多く、現職である落語芸術協会副会長とかけて「便所でお尻を拭く会長」というニックネームを持つ。また、座布団運びの山田隆夫は1990年代まで「子作り名人」とイジられる(或いは自ら使用する)ことがあった。過去の大喜利メンバーでは林家こん平が肥溜めネタを使うことが多く、下ネタを徹底的に嫌っていた初代林家三平一門としては異色の存在だった。 その他下ネタを得意とする芸人はケンドーコバヤシや徳井義実、大久保佳代子などがおり、前二者はお色気番組のMCも担当している。変わったところでは小籔千豊、レイザーラモンによるユニットビッグポルノがあり(2014年解散)、国立文楽劇場で開催されたコントライブのDVDは、お笑い作品としては異例となるレイティングが適用されている。 2000年代以降の海外バラエティ・コント番組では、その傾向が顕著に出ており、FOXTVで放送されている「MADTV」等は大抵はブラックジョークと下ネタで練り作られたものが非常に多い。 ラジオ 深夜放送の投稿企画でよく使われる。代表的なものではオールナイトニッポン(笑福亭鶴光・福山雅治パーソナリティ版)があり、特に後者は当時若手イケメン俳優・歌手というポジションで認知されていた彼の「素」を本番組で公に広く知らしめた。それ以外では谷村新司、つボイノリオ、木村洋二の番組がある。 楽曲 つボイノリオの一連の作品 - 金太の大冒険、インカ帝国の成立など。 ビッグポルノ - 楽曲には「KING TIMER」や「Tea! Tea! No! oh,,,喫茶?」など。 どぶろっく - 楽曲「もしかしてだけど」など。 方言 はちきん(土佐弁で女傑の意味) - 名前の由来は男性の睾丸が関わっており、方言としては実に下ネタな方言である。 ほーみー、たに(沖縄弁で女性器、男性器)- 同名の日産自動車の日産・ホーミーは沖縄では販売されなかった。また、名字が「谷」または「~~谷」である俳優、タレントはゴールデンタイムのテレビ番組にはほぼ起用されない。逆に、漫湖は沖縄県外では下ネタギャグとして扱われることが多い。 物真似 主に清水アキラ、レイパー佐藤。清水はものまね王座決定戦やオールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!!、佐藤は発表!日本ものまね大賞では下ネタを含んだものまねを披露していた。 ^ 同じ日本テレビ系で放送されていた番組対抗特番スーパークイズスペシャルでは、世界のアナウンサー早押しクイズでクイズ世界はSHOW by ショーバイ!!チームとして出ていた山城新伍は下ネタを含んだ回答を言って、当時の司会者でもある逸見政孝に突っ込まれる事があった。 ^ a b c d これらはPTAなどから批判されたことがある。 ^ 小島貞二(編) 定本 艶笑落語 立風書房 ISBN 9784651840147 ^ このほか、姉妹番組であるBS笑点・笑点Jr.では五明樓玉の輔が同様に大喜利で下ネタを発することが多かった。 ^ 特に清水に関しては、審査員を務めていた淡谷のり子にお説教をされた事がよくあった。 表現の自由 放送禁止用語 汚言症 - ネタにしているわけではないが、周囲に下ネタと思われることも多い。 猥談 男性器 女性器 糞 モザイク処理 - 日本ではアダルトビデオの登場とともに普及したことから、画像処理自体に下ネタを連想する人が多い。", "ゴングショー、あるいはゴングショウ (Gong Show)は、テレビ・ラジオ番組やトークショーで行われる審査形式。アメリカのバラエティ番組『ザ・ゴングショー』が原型。 視聴者参加型番組において多用されるフォーマットのひとつ。開催場所などによって細かな違いはあるものの、ショーの流れはおよそ以下の通り。 司会者の紹介で参加者がステージに登場する ステージ上で演目を行う 演目の最中に審査員が「つまらない」「見る価値がない」(もしくはその逆)と判断した場合、何らかの装置によってそれを評価点として表明する 規定数の加点、もしくは減点が行われた場合、演目はその時点で中止となる。演目を最後まで終えた場合、合格扱いとなるケースが多い 参加者の数だけ1~4を繰り返し、最終的に残った参加者の中から最も優秀な参加者を決定する。 欽ちゃんの仮装大賞 NHKのど自慢 とんねるずのみなさんのおかげでした - 博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜 サタネプ☆ベストテン", "コント(conte)とは笑いを目的とする寸劇である。フランス語で「短い物語・童話・寸劇」を意味する conte が語源。 日本での黎明期のコントで傑作と語り継がれているものに、昭和6年に榎本健一が主演した「大悲劇・最後の伝令」などがある。また、終戦後の浅草界隈で演じられた「日本3大コント」として、「仁丹」「天丼」「レストラン殺人事件」の3つが挙げられている。2006年には、九世野村万蔵が南原清隆とタッグを組み、「コントと狂言が結婚したら!?」をコンセプトに、「現代狂言」の名においてコラボレーションを試みた。演劇用の劇場はもとより、ストリップ劇場・ライブハウスや寄席などの演芸場で演じられている。コメディ(喜劇)との違いは、「コメディは役者がやってコントは芸人がやるもの」とされる。 大抵は5〜20分程度である。これよりも長い内容も存在するものの、それらは軽演劇や喜劇として分類される。衣装や小道具を用いずそのまま演じることもあるが、化粧や衣装、着ぐるみなどで役を作り、道具やセットなどが予め用意されている場合もある。 主に軽演劇の役者が戦後ストリップ劇場のショーの幕間に演じた物や、キャバレーなどの営業のために持ちネタを短縮して演じた芝居が広まったものをコントと呼んでいたためか、1970年代では長編になればなるほど芝居がかってくる傾向にあった。中にはメッセージ性の高いコントもある。例としては、自殺しようとする人を止めようと説得する『自殺コント』などがある。 漫才における役割の基本がボケとツッコミなのに対し、コントにおける役割の基本はフリとコナシである。初めてコンビ名に『コント』を冠したコント55号を例にとれば、萩本欽一がネタを振り、坂上二郎が振られたネタを受けてこなしていた。コント55号はもともとアナーキーな芸風だった。常識人の坂上二郎に対し、萩本が難癖をつけて暴力的に追い詰めていく。萩本欽一の暴力性や狂気が売りだった。 近年ではおぎやはぎやサンドウィッチマンのように本来はコントとして作ったネタを漫才に作り替え、コント漫才として演じる芸人も増えている(ただし、小道具を用いないものがほとんどである)。逆に漫才のネタをコントとして演じる芸人もいる。 「私たちが覚えたのは『浅草コント』っていう特別なもの。(中略)台本は無いですね。コメディアン同士で打ち合わせもしない。演出家の先生が来て、衣装出してあるからやっておくようにって。『俺から先に出ていくよ』くらいしか話さない。台本には『コント』ってあって、名前が書いてあるだけ」「私たちにはネタを見せるって感覚がないんです。お客さんに応じて変わってしまうから」 漫才とコントの違い「強いて言えば、言葉で笑いをとるのが漫才で、コメディアンは動きで笑いをとる。それが大きな違いかな。我々はまず、言葉で笑わしちゃいけないっていう修行をするわけです」 最近では笑いの要素の無いテレビドラマでも、演出が単純、あるいは役者の芝居が下手なことを揶揄して「コント」と呼ぶ人も居る。 「ショートコント」とは和製外来語で、数秒から数十秒程度の短い寸劇のこと。衣装や小道具を用いずにそのまま演じる場合がコントよりも多い[独自研究?]。非現実的な状況を演じるものもある。日本では、最初にウッチャンナンチャンがショートコントを確立させていった[要出典]。 テレビバラエティ番組のコントでは、主人公に個性的なキャラクターを設定する場合が多い。また、そのキャラクターの登場するコントをシリーズ化することによってストーリーに深みを持たせたり、知名度を上げてキャラクターグッズ製作に乗り出すことも多い。また、番組中にコミックソングのコーナーを設けるなどしてCD販売も重視することもある。 1970年代のザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』はコントを公開生放送していた。 『ドリフ大爆笑』や『志村けんのだいじょうぶだぁ』などの番組では、何年経っても飽きさせないようにマンネリズムの美学を追求していて、同じ内容や結末のコントを新規撮影の際に細かな演出により変化させている。 80年代 - 90年代前半には、『オレたちひょうきん族』内の『タケちゃんマン』や『とんねるずのみなさんのおかげです』内の『仮面ノリダー』をはじめとするヒーローもののパロディコントが流行した。 90年代中期では、『ダウンタウンのごっつええ感じ』では様々なコントが放送され以後のバラエティ番組へ多大な影響を与えた。 90年代後半から2000年代初頭では、『笑う犬』シリーズで、『てるとたいぞう』や『小須田部長』などといったストーリー重視の連続ものコントが展開されていた。 2003年頃『エンタの神様』など簡略化された番組セットでのコントが主流となる。 M-1グランプリ創設の影響からコントではなく、漫才を中心に活躍する芸人が増えており、お笑い芸人の数は増加傾向にあるが、コントの人気は下がりつつあると言える(これは、コントのセットなどで予算がかかることが多いのに対して、漫才は道具の持ち込みが基本的にしなくてもよいという理由もある。)。 『めちゃ×2イケてるッ!』や『はねるのトびら』などコント主体だった番組がゲームコーナーやトークなどの別企画増加により、コントコーナーがほぼ皆無になったり、コント番組で無くなっていく例も増えている。 2008年からコントNo.1決定戦『キングオブコント』が放送開始し、第1回優勝者にバッファロー吾郎が選ばれた。 終了したものも含めると、コント番組には以下のようなものがある。 夢であいましょう(1961年 - 1966年) サラリーマンNEO(2004年 - 2011年) 祝女(2008年 - 2012年) 松本人志のコントMHK(2010年、2011年 - 2012年) LIFE!〜人生に捧げるコント〜(2012年 - 現在放送中) 七人のコント侍(2013年、2014年 - 2016年) コントの劇場 〜The Actors' Comedy〜(2013年 - 2015年) となりのシムラ(2014年 - 現在放送中) ドリフターズドン!(1967年) 進め!ドリフターズ(1968年) チータ55号(1968年) 突撃!ドリフターズ(1968年 - 1969年) 8時だョ!全員集合(1969年 - 1985年) 8時だョ!出発進行(1971年) みんなで出よう55号決定版!(1969年 - 1975年) 笑って!笑って!!60分(1975年 - 1981年) ピンキーパンチ大逆転(1982年) パリンコ学園No.1(1982年 - 1983年) 欽ちゃんの週刊欽曜日(1982年 - 1985年) 笑ってポン!(1983年) 加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ(1986年 - 1992年) KATO&KENテレビバスターズ(1992年) ドキド欽ちゃんスピリッツ(1986年) 総天然色バラエティー 北野テレビ(1989年) 東京イエローページ(1989年 - 1990年) ギャグ満点(1989年 - 1990年) 王道バラエティ つかみはOK!(1993年 - 1994年) ピッカピカ天然素材!(1994年 - 1995年) デカメロン(1997年) 10カラット(2005年 - 2006年) パワー☆プリン(2011年 - 2013年) お昼の演芸(1954年、1956年 - 1962年) 青春カレンダー(1954年 - 1956年) シャボン玉ホリデー(1961年 - 1972年) 巨泉・前武のゲバゲバ90分!!(1969年 - 1971年) 日曜日だョ!ドリフターズ!!(1971年) 金曜10時!うわさのチャンネル!!(1973年 - 1979年) ゲバゲバ一座のちょんまげ90分!(1971年 - 1972年) コント55号のなんでそうなるの?(1973年 - 1976年) カリキュラマシーン(1974年 - 1978年) カックラキン大放送!!(1976年 - 1986年) ドリフと女優の爆笑劇場(1977年 - 1989年) 今夜は最高!(1981年 - 1989年) レオナルドにゅうす笑(1983年 - 1984年) サザンの勝手にナイト あ!う○こついてる(1984年) 赤信号のにゅうす笑(1984年 - 1985年) いい加減にします!(1984年 - 1985年) 三宅裕司じゃん!(1985年) 大きなお世話だ(1985年 - 1986年) ごきげん月曜7時半(1986年) コラーッ!とんねるず(1985年 - 1989年) とんねるずの子供は寝なさい!?(1985年) ビートたけしの全日本お笑い研究所→番組の途中ですが…再びたけしです(1988年) ウッチャンナンチャン(1989年 - 1990年) ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.(1990年 - 1992年) 全員出席!笑うんだってば(1989年) とんからりん(1990年) おとなの漫画BG4(1990年 - 1991年) ギグギャグゲリラ(1990年) 吉本印天然素材(1991年 - 1993年) ショージに目あり!(1992年 - 1993年) ビビるのジャムパラ(1997年) エンタの神様(2003年 - 2010年) メンB(2004年 - 2005年) 少女B(2005年) 落下女(2005年 - 2006年) 人類滅亡と13のコント集(2005年 - 2006年) ぜんぶウソ(2009年) キレてもいいですか?→コレってアリですか?(2010年 - 2011年) サタデーナイトチャイルドマシーン(2013年) コントな奴ら(2014年) おとなの漫画(1959年 - 1964年) クレージーキャッツショー(1959年 - 1961年) 7時半だよクレージー(1963年 - 1964年) コント55号の世界は笑う(1968年 - 1970年) 欽ドン!シリーズ(1975年 - 1987年) 欽ちゃんのドンとやってみよう!(1975年 - 1980年) 欽ドン!良い子悪い子普通の子(1981年 - 1983年) 欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子(1983年 - 1985年) マイルド欽ドン!(1985年 - 1986年) 欽ドン!お友達テレビ(1986年) 欽ドン!ハッケヨーイ笑った!(1986年 - 1987年) 3分勝負15ラウンド(1976年) ドリフ大爆笑(1977年 - 2003年)  大進撃!おもしろ組(1980年 - 1981年) オレたちひょうきん族(1981年 - 1989年) タケちゃんの思わず笑ってしまいました(1983年 - 1987年) マンガチョップ'84(1984年) 志村けんのバカ殿様(1986年 - 現在放送中) 志村けんのだいじょうぶだぁ(1987年 - 1994年) 志村けんはいかがでしょう(1993年 - 1995年) 志村けんのオレがナニしたのヨ?(1995年 - 1996年) けんちゃんのオーマイゴッド(1996年) 志村けんのだいじょうぶだぁII(2005年 - 2008年) 笑いの殿堂(1988年 - 1989年、1990年、1991年) とんねるずのみなさんのおかげです(1988年 - 1997年) 夢で逢えたら(1988年 - 1991年) 邦ちゃんのやまだかつてないテレビ(1988年 - 1992年) ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!(1990年) ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!(1990年 - 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1984年)→ さんまの駐在さん(1985年 - 1986年) サブシロのTHE・ハタラケ興業(1986年 - 1987年) 松ちゃん浜ちゃんの純情通り三番地(1991年 - 1992年) ファンキーモンキー寛平先生がゆく!(1992年 - 1994年) なんじゃそら三人組(1995年 - 2000年) ツッコメディ!痛快パラダイス(2000年) なんやモー目茶苦茶屋(2000年 - 2002年) 特ダネ野郎えぇチーム(2002年) 1、2、駐在さんダァ〜!!(2002年 - 2004年) 開運コメディ 今日も大吉!パンパンパン(2004年) なにわ人情コメディ 横丁へよ〜こちょ!(2004年 - 2008年) あったか人情コメディ 湯けむりパラダイス!(2008年 - 2009年) 爆笑!ふれあいコメディ こちらかきくけ公園前(2009年 - 2010年) 全快はつらつコメディ お笑いドクター24時!! → お笑いドクター24時!!〜はなさき診療所編〜(2010年 - 2011年) ほっとけ!3人組(2011年 - 2012年) 熱血!人情派コメディ しゃかりき駐在さん(2012年 - 2013年) 夕焼けの松ちゃん浜ちゃん(1990年 - 1991年) シャンプー劇場(2001年 - 2005年) 発熱!猿人ショー(2003年) 読売テレビ どんぶり5656(1983年 - 1984年) なげやり倶楽部(1985年) 週刊テレビ広辞苑(1988年 - 1989年) 現代用語の基礎体力(1989年 - 1990年) ムイミダス(1990年 - 1991年) 未確認飛行ぶっとい(1991年) 関西テレビ 爆笑寄席(1969年 - 1975年) SMAP×SMAP(1996年 - 2016年) 謎の処方箋 コントS錠(1998年) ゲンキ王国(2002年 - 2003年) 妖怪ブッサイくん(2002年 - 2003年) CBCテレビ デイブレイク(1988年 - 1990年) 流行笑会(1990年) 東海テレビ もりすぎ★パンチ(2008年 - 2009年) 福島放送 でんきくらげとしびれふぐ(2003年、2004年) AKB48コント「びみょ〜」(2011年 - 2012年) ここではコント番組以外の番組や、番組リニューアルなどでコントコーナーが追加あるいは番組の途中までにコントコーナーがあった番組を紹介する。 ヤンヤン歌うスタジオ(1978年 - 1987年) 夕やけニャンニャン(1985年 - 1987年) 桃色学園都市宣言!!(1987年 - 1988年) 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城(1986年 - 1989年) - 中盤から「人喰い穴」の前座にショートコントが追加され、88年からセットを使ったコントコーナーが開始された。 パラダイスGoGo!!(1989年 - 1990年) ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!(1989年 - 現在) - 最初期はダウンタウンの漫才とコントを中心とした番組構成であった。 ギルガメッシュないと(1991年 - 1998年) - 中期ごろ、ヒロインものパロディコントコーナーがあった。 ウゴウゴルーガ(1992年 - 1994年) - 静止画による実写コントコーナー『はらぺこだいさく』が一時期番組内で放映された。 ポンキッキーズ(1993年 - 2006年) - 1999年から爆チュー問題(爆笑問題)のコントコーナーが開始された。 ダンジョンV(1993年 - 1994年) ぐるぐるナインティナイン(1994年 - 現在) - 夕方放送時はミニコントコーナーがあり、ゴールデンタイム移動後の1999年にパロディコントコーナーがあったが、2007年からコントコーナーが再び作られた。 ゲッパチ!UN アワーありがとやんした!?(1994年) ジャングルTV ~タモリの法則~(1994年 - 2002年) - 初期はタモリや関根勤、ナインティナインや伊集院光らによるコントを中心とした体裁をとっていた。 ウッチャンナンチャンのウリナリ!!(1996年 - 2002年) SMAP×SMAP(1996年 - 2016年) めちゃ×2イケてるッ!(1996年 - 2018年) - 1999年まで、shootcoolというコントコーナーが存在した。 とんねるずのみなさんのおかげでした(1997年 - 2018年) - 初期の頃は『とんねるずのみなさんのおかげです』のスタイルに回帰した事もあって、コントコーナーも存在した。 神出鬼没!タケシムケン(1999年 - 2000年) - 番組後期にコントコーナーが作られた。 桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜(1999年 - 2001年、2009年) - コントコーナーが中心の回があり、復活版でもコントコーナーが不定期で放映された。 侵略放送パンドレッタ(2001年 - 2003年) - 番組前期 - 中期、末期に特撮もの仕立てのコントコーナーがあった。 衛星中立放送パンドレッタプラス(2003年 - 2004年) - 番組中期までパロディコントコーナーがあった。 はねるのトびら(2001年 - 2012年) - 末期はコントコーナーは皆無に近かった。しかし、フジテレビの公式ホームページではゲームコーナーでありながらコント扱いになっているものがある。 アイドル道(2003年 - 2005年) - 4thシーズンでは『胸キュン戦隊アイドレンジャー』というコントコーナーが主体になっていた。 究極癒し戦隊ヴィーナスエンジェル(2004年) - 番組前期はスーパー戦隊シリーズドラマ仕立てのパロディものだった。 ピラメキーノ(2009年 - 2015年) - 本来は子供番組だが『だるだるEnglish』、『PIRAMEKINO SHOWTIME』、『ピラメキーノ討論会 子供たちの今』、『カワンケンの早く人間になりたい!』など様々なコントコーナーがある。 AKB48 SHOW!(2013年 - ) - ほぼ毎回『48グループの日常シリーズ』というコントコーナーが存在する。 ヨルタモリ(2014年 - 2015年) - タモリによるショートコントが毎回放送されていた。 ^ 『喜劇人哀楽帖』向井爽也著、文化出版局 ^ 『「笑」ほど素敵な商売はない』萩本欽一著、福武文庫(p112~113、183) ^ 2010/3/17放送 フジテレビ特番「悪いのはみんな萩本欽一である」でのコメント ^ 『ブルータス』2016年11月15日号 萩本欽一インタビュー「笑い王から見た漫才」 ^ 『ブルータス』2016年11月15日号 萩本欽一インタビュー「笑い王から見た漫才」 ^ 1998年以降は総集編など不定期放送 ^ 単発スペシャルとして現在放送中 ^ CS放送のフジテレビONEにて隔月放送 スケッチ・コメディー シチュエーション・コメディ", "むちゃぶり(無茶振り)とは、お笑いで用いられる「フリ」の一つ。一般的なお笑いの形式としては、相手のキャラ(コミュニケーション上の役割)を考慮したうえでそれに沿った「フリ」(笑いにつながるようなきっかけ)を与えることになるが、ここであえてそのキャラ設定を無視した対応困難な「フリ」を与え、相手がそれに動揺して素を露呈してしまっているところを笑いに転化するのがむちゃぶりである。 ^ 太田省一「遊びと笑いというコミュニケーション」『コミュニケーションの社会学』 有斐閣、2009年、156-157頁。ISBN 978-4641123922。" ]
ABC01-02-0159
愛知県生まれの児童文学者で、『おじいさんのランプ』『ごんぎつね』などの作品で知られるのは誰でしょう?
新美南吉
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[ "新美南吉", "神戸淳吉", "土家由岐雄", "浜田広介", "斎藤隆介" ]
[ "新美南吉(にいみ なんきち、1913年7月30日 - 1943年3月22日)は、日本の児童文学作家。本名は新美正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。 半田市名誉市民。出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られている。半田市は生誕100周年にあたる2013年に新美南吉生誕100年記念事業を各種行った。 1913年7月30日、畳屋を営む父・渡邊多蔵、母・りゑ(旧姓・新美)の次男として生まれる。戸籍上の出生地は多蔵の実家の半田町字西折戸61番地の3(現在の半田市新生町1丁目99番地)となっているが、実際は畳屋を営む半田町字東山86番地(現在の半田市岩滑中町〈やなべなかまち〉1丁目83番地)と推定されている。前年に生まれ18日後に死亡した兄「正八」の名をそのままつけられた。多蔵は講談好きで講談の本も良く読んでおり、講談に出てくる英雄「梁川庄八」をもじってつけた。また死んだ兄の分とあわせて二人分の知恵と身体を持つようにとの願いもこめられている。りゑは出産後から病気がちになり、1917年11月4日午前1時、29歳で死去する。多蔵は南吉を実家に預け、再婚相手を探した。1919年2月12日、多蔵は酒井志んと再婚。同月15日に異母弟・益吉が生まれている。 1920年4月1日、半田第二尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)に入学。おとなしく体は少し弱かったが成績優秀だった。あだ名は「正八」をもじった「ショッパ」。 南吉の実母・りゑの実家の新美家ではりゑの弟・鎌次郎がなくなり、跡継ぎがなくなってしまった。そこで南吉が養子に出されることになったが、当時の法律では跡取りの長男を養子に出すことを禁じていた。多蔵は、1921年7月19日志んと離婚。多蔵と南吉は祖父の六三郎の籍に入る。同月28日、8歳の南吉は祖父の孫として新美家と養子縁組させられた。南吉は養母・新美志もと二人暮らしをはじめるが、寂しさに耐えられず、5か月足らずで渡邊家に戻る。12月3日多蔵と志んは復縁したが、南吉の籍は新美家のままだった。この出来事は幼い南吉にとって大きな衝撃であった。ただし、家族仲は良く、志んは南吉を実子と同じように扱い、南吉は異母弟の益吉を良くかわいがっていた。 1926年3月20日、半田第二尋常小学校卒業。成績優秀で「知多郡長賞」「第一等賞」を授与される。卒業式では卒業生代表として答辞を呼んだが、この答辞は教師の手を入れず、南吉一人で書き上げたものだった。畳屋の多蔵は息子を進学させるつもりはなかったが、担任の伊藤仲治が渡邊家に通って説得する。学校の先生になれると聞いた多蔵は進学を許可。4月5日、南吉は旧制愛知県立半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)に入学する。南吉は多蔵に進学を反対されたことを終生忘れず、のちに巽聖歌に「家は貧乏、父親は吝嗇、継母は自分をいじめる」と生い立ちを語っている。中学で南吉は児童文学に向かうようになり、1928年2月、校友会誌『柊陵』第九号に『椋の實の思出』童謡『喧嘩に負けて』が掲載される。その後様々な雑誌に作品を投稿する。1929年5月『張紅倫』、6月に『巨男の話』を脱稿、弟の益吉に朗読している。友人たちとも自作を持ち寄る朗読会をはじめたが2回で終了し、9月1日、同人誌『オリオン』を発行。10月、『愛誦』に掲載された童謡『空家』から「南吉」のペンネームを使いはじめた。『オリオン』は翌年1月1日の新年号(5号)で終刊。その後は日記帳に作品を書き始める。 半田中学校卒業直前、『赤い鳥童謡集(北原白秋編)』を読んで感銘を受ける。裏表紙に「一九三一・三・四 中学卒業式の前の日、現在地球上にこれよりすぐれた童謡集はないと思ふ。新美正八」と書き入れ、以後白秋に心酔した。南吉の実家は、多蔵が畳屋、志んが下駄屋を営んでおり、南吉には離れの家が与えられていたが、2月10日、離れが火事で全焼する。当初、南吉の火の不始末を疑われ、結局原因はわからず仕舞いとなったが、南吉は大きな衝撃を受けた。 1931年3月4日、半田中学校を卒業。南吉の希望は児童文学者の大西巨口や菊池寛のように大学に行って、卒業後は新聞記者で生計を立てながら作品を書き、いずれは記者を辞めて文筆業だけで食べていくことで、早稲田大学に進学を考えていた。しかし多蔵が許すはずもなく、結局岡崎師範学校を受験する。結果は不合格。体格検査で基準に達していなかったためといわれる。南吉は小学校時代の恩師の伊藤仲治をたずね、母校の半田第二尋常小学校を紹介され、代用教員として採用される。『赤い鳥』5月号に南吉の童謡『窓』が掲載される。主催者の北原白秋を尊敬する南吉は喜び、教員生活の傍ら創作、投稿を続ける。8月号には童話『正坊とクロ』が掲載された。8月31日、代用教員を退職。南吉は東京高等師範学校の受験を考えていた。9月、童謡同人誌『チチノキ』に入会。白秋の愛弟子の巽聖歌や与田凖一と知り合う。またこの頃から木本咸子との交際が始まり、7月に初めてデートしている。 12月、上京して東京師範学校を受験するが不合格。しかし巽や与田と会い、同じ下宿「ミハラシ館」で寝泊まりしたこと、巽の紹介で北原白秋の家を訪ね、白秋との対面を果たし感激するなど充実した日々だった。また巽から卒業生の半数が教職に就いているという東京外国語学校の受験を勧められる。翌年1月2日帰郷。 1932年、『赤い鳥』1月号に『ごん狐』が掲載される。帰郷した南吉は両親に外語学校受験を願い出て許可される。 3月、東京外国語学校英語部文科受験。志願者113人中合格者11人という狭き門をくぐり、見事合格。4月入学、上京。当初、結婚した巽聖歌の家に下宿し、2学期に学校寮に入った。寮のある上高田には巽の他、与田凖一、藪田義雄も転居し、南吉は充実した学生生活を送った。また白秋指導のもと童謡を創作、『赤い鳥』に掲載された。しかし、1933年4月、白秋が鈴木三重吉と大喧嘩の末『赤い鳥』と絶縁。南吉もこれに従い『赤い鳥』への投稿をやめる。さらに『チチノキ』が経済的理由のため休刊。南吉は新しい童謡同人誌発行を計画するが、門下の分裂を恐れる白秋が反対したため断念。作品発表の場を失ってしまう。 7月、与田凖一の紹介で長編童話『大岡越前守』執筆するが、出版社から史実と違うという理由で拒否される。この原稿が日の目を見たのは南吉死後のことである。 1934年、2月16日、第一回宮沢賢治友の会出席。 2月25日、結核のため喀血する。南吉は実家に帰り1か月あまり療養したのち、4月に学校に戻る。 1935年、2月11日、チチノキが1年半ぶりに発行され、童謡や翻訳を発表するが、5月廃刊となる。フランス語科の河合弘に自分から声をかけ、友人になる。5月、巽が精文館から幼年童話の依頼を回してくる。南吉は「デンデンムシノカナシミ」など50篇ものカタカナ童話を量産するが、無名の新人という理由で出版不可となる。しかし、作品を書いた経験が南吉にとって大きな自信になった。 8月、木本と別れる。病弱な南吉が結婚に躊躇したのが原因だった。 1936年、3月16日、東京外国語学校を卒業する。教員免許を取らなかった南吉は東京で就職活動するが、この年は不景気だったこともあり、文系学生の就職は困難だった。4月、東京土産品協会という会社に就職する。南吉は英文カタログを作成する仕事をするが、激務の上月給は40円と安いものだった。10月9日、二度目の喀血で倒れ1か月寝たきりの生活になる。近所に住んでいた巽夫妻の献身的な看病で、小康状態となった南吉は、11月16日、帰郷し療養生活を送る。 1937年、教員の仕事を探し、4月、河和第一尋常高等小学校の代用教員を7月末まで務める。同じ学校で代用教員の山田梅子との交際が始まる。9月1日、杉治商会鴉根山畜禽研究所に就職。寄宿舎に住み込み、鶏の雛を世話をする仕事で、20円の薄給、休みは月2回という激務で、翌年1938年1月退職する。 その後、半田中の恩師で安城高等女学校の校長になっていた佐治克己の働きかけで女学校教員採用が決まり、3月17日中等教員免状を取得する。3月31日安城高等女学校教諭心得の辞令が出る。中山ちゑとの交際がはじまり、4月1日、杉治商会時代から疎遠になっていた山田梅子に別れの手紙を書く。 4月4日の入学式から教員生活がスタート。1年生の学級担任となり、1年生から4年生の英語、1年2年生の国語と農業を担当する。図書係や農芸・園芸部長も務めた。給料は70円。通勤に1時間半もかかるため、翌年の1939年、安城町新田の大見坂四郎家に下宿する。 4月23日、外語学校時代に知り合った江口榛一が哈爾濱日日新聞の文芸部に入り、南吉に原稿を依頼する手紙が来る。『最後の胡弓弾き』『久助君の話』や詩が翌年まで掲載される。体調もよく、3年生の関西旅行引率や富士登山、同僚と熱海や大島へ視察するなど充実した年であった。 1940年、6月9日、中山ちゑが青森県の知人宅で体調を崩し、急死。南吉は葬儀で男泣きに泣き、その後1か月は腑抜けのような状態だった。 一方この年は作品が次々雑誌に載る。 年末、学習社という出版社から伝記物の依頼を受ける。学習社の編集者が豊島与志雄宅を訪れて新人作家の紹介を依頼した際、その場に居合わせた南吉の友人で河出書房に勤務していた澄川稔が南吉を推薦。豊島も『赤い鳥』投稿の南吉の作品を知っていたため同調。南吉に原稿依頼となった。1941年1月4日から良寛の伝記を書き始め、3月9日脱稿。10月1日『良寛物語 手毬と鉢の子』が出版される。2万部出版され1300円の印税を受け取る。多蔵は「正八はえらいもんになりやがった、年に千三百円ももうけやがった。」としみじみ言ったという。11月28日、女学校の生徒の兄で早稲田大学の佐薙知の依頼で早稲田大学新聞に『童話に於ける物語性の喪失』を寄稿する。しかし伝記執筆後から体調が悪化。4月は腎臓病で10日あまりも学校を欠勤。その後も体調不良が続き、11月中旬には岩滑の実家に戻っていたが、12月血尿が出る。南吉は死を覚悟した。 1942年、1月、病院で診察を受け腎臓炎と診断されるが、日記に死を覚悟した苦悩をつづる。巽から童話集出版の話が舞い込み、外語時代に書いた童話13篇を浄書して送るが巽は幼年童話を望んでいなかったため採用されなかった。3月末から5月末までの2か月の間に『ごんごろ鐘』『おぢいさんのランプ』『花の木村と盗人たち』『牛をつないだ椿の木』など童話を次々書き上げる。4月、与田凖一からも童話集の依頼。学習社に依頼された伝記『都築彌厚伝』執筆のため、8月、長野の温泉に行くが宿をとれず、群馬の万座温泉で過ごし1週間で帰宅。『都築彌厚伝』は頓挫した。10月10日はじめての童話集『おぢいさんのランプ』刊行。南吉は本の印税で高女職員全員に鶏飯をふるまい、職員室にラジオを寄付した。体調が悪化し、12月からは喉が痛み、声も出にくくなる。11月2日、北原白秋が死去。巽と与田から追悼詩集への執筆依頼を受け2篇の詩を書いて送る。それをきっかけに創作を再開、『耳』『小さい太郎の悲しみ』などを書く。1943年、年明けからは女学校を長期欠勤。2月10日安城女学校を退職。 退職後は咽頭結核のためほとんど寝たきりになる。2月12日、巽聖歌に原稿と病状を手紙にして送る。また遺言状も書いている。南吉の病気を知らなかった巽は驚いて岩滑を訪れ、離れで寝ている南吉と対面、原稿の整理をする。3月20日、恩師伊藤仲治の妻が見舞いにきた。南吉はほとんど声が出ない様子で、「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」と語った。3月22日午前8時15分、死去。29歳8か月の生涯だった。死因が結核だったこと、関係者が学年末で忙しかったことなどから、葬儀は1か月後の4月18日、離れの家で行われた。法名「釈文成」。半田市柊町の共同墓地、北谷墓地に葬られた。巽聖歌が寄贈した墓石の裏には「法名 釈文成 俗名 正八 昭和十八年三月二十二日歿行年三十一才童話詩小説の作家歿後声明高まる」と彫られている。 クラシック音楽愛好家で日記にしばしば音楽についての記述がある。蓄音機を持っていなかったので、東京では名曲喫茶と呼ばれた喫茶店に通ったり、蓄音機のある友人宅でレコードを聴いていた。 生涯独身だったが、29年の生涯に3人の女性との交際経験がある。いずれも失恋で終わっている。 木本咸子(みなこ) 新美南吉の初恋相手。18歳の頃、半田第二尋常小学校に代用教員として勤務中に交際を始めるが、4年後の22歳で別れた。 山田梅子 新美南吉の2度目の恋人。24歳の頃、河和第一尋常高等小学校に代用教員として勤務中に交際を始めるが、退職後疎遠になり、翌年4月に別れた。 中山ちゑ 新美南吉の幼馴染で、子どもの頃から親しく遊んでいた。26歳の頃、結婚を考えるが、翌年に急死したため婚約は叶わなかった。生涯最後の交際相手である。ちゑの死後の翌年、教え子の岩月みやという女性に結婚を申し込んでいるが、若すぎるという理由で断られた。 1913年 7月30日 畳屋を営む父 渡辺多蔵、母 りゑの次男として愛知県知多郡半田町(現・半田市)岩滑(やなべ)で生まれる。この前年に生まれ、生後わずか18日でなくなった長男の名をそのまま付けられた。これは父親が2人分生きてほしいとの願いを込めたもの。また、父親の好きな講談に登場する英雄梁川庄八に由来する。 1917年 11月4日 母 りゑ逝去(享年29)。 1919年 2月12日 父 多蔵再婚。義母の名は「志ん」。2月15日弟益吉誕生。 1920年 4月1日 知多郡半田第二尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)入学。おとなしく目立たない児童で、体は少し弱かったが成績は良かった。 1921年 7月19日 父多蔵離婚。しかし同年12月6日には同じ相手と再婚している。 7月28日 正八、母方の祖母 新美志も の養子となり、新美正八と改姓。祖母と二人で暮らし始めるが、12月には新美姓のまま実家渡辺家に戻る。 1926年 3月で半田第二尋常小学校を卒業し、4月に旧制愛知県立半田中学校(現・半田高校)へ入学。 1928年頃~ この頃から童謡や詩の投稿を始める。また、文芸誌『赤い鳥』や小川未明の『日本童話集』にであう。 1931年 3月24日 岡崎師範学校(現・愛知教育大学)受験するが体格検査で不合格となる。 4月1日 愛知県知多郡半田第二尋常小学校の代用教員となるが、8月には一身上の都合で退職している。 5月 『赤い鳥』に初めて童謡が掲載される(5月号「窓」)。 1932年 1月 『赤い鳥』1月号に童話「ごん狐」掲載。 4月 東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語部文科文学に入学。 1934年 2月25日 喀血(かっけつ)。この頃顔色も優れず、頻繁に盗汗。 1936年 3月16日 東京外国語学校を卒業。神田の貿易商会に勤めたが、二度目の喀血をして11月に帰郷。 1937年 4月 知多郡河和小学校の代用教員となる。夏に体調をくずし、7月31日退職。 9月 杉治商会(家畜の飼料製造販売)鴉根山畜禽研究所に入社。 1938年 3月 安城高等女学校(現・安城高校)の教員となる。英語、国語、農業担当。 1941年 10月 初の単行本『良寛物語 手毬と鉢の子』(学習社)刊行 1942年 10月 初の童話集『おぢいさんのランプ』刊行 1943年 1月 病状悪化(喉頭結核)。2月には安城高等女学校を退職。 3月22日 29歳で逝去。 9月10日 童話集『牛をつないだ椿の木』、9月30日 童話集『花のき村と盗人たち』と2冊の童話集が相次いで刊行。 地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれ好対照をなしている。 賢治は南吉がまだ学生だった昭和8年に亡くなっているため、両者は会った事はないが、南吉自身は早くから賢治の作品を読み、高く評価していた。賢治没後の昭和9年に開かれた「宮沢賢治友の会」にも出席している(新美南吉記念館ホームページ『南吉Q&A』より) 。 作品の多くは、故郷である半田市岩滑新田(やなべしんでん)を舞台としたものであり、特に少年達が主人公となる作品では、「久助君」「森医院の徳一君」等、同じ学校の同じ学年を舞台としたものが多い。(主人公は「久助君」「大作君」など作品によって変わるが、「徳一君」や「兵太郎君」などはほとんどの話に登場して世界観をつなげる役目を果たしている。) 「久助君」を主人公にした作品が最も多く、俗に「久助もの」と呼ばれる。 生前に企画・制作された童話集は次の3作。うち2作は死後の刊行。()内は初出の雑誌名と刊行年。 『おぢいさんのランプ』 有光社 1942年(昭和17年)10月10日 川 (新児童文化第1冊、昭和15年) 嘘 (新児童文化第3冊 昭和16年) ごんごろ鐘 久助君の話 (哈爾賓日々新聞 昭和14年) うた時計 (少国民の友 昭和17年) おぢいさんのランプ 貧乏な少年の話 『牛をつないだ椿の木』 大和書店 1943年(昭和18年)9月10日 かぶと虫<小さい太郎の悲しみ> 手袋を買いに 草 狐 牛をつないだ椿の木 (少国民文化 昭和18年) 耳 (少国民文化 昭和18年) 疣 『花のき村と盗人たち』 帝国教育出版部 1943年(昭和18年)9月30日 ごん狐 (赤い鳥 昭和7年) 百姓の足・坊さんの足 のら犬 (赤い鳥 昭和7年) 和太郎さんと牛 花のき村と盗人たち 正坊とクロ (赤い鳥 昭和6年) 鳥右ヱ門諸国をめぐる 『良寛物語 手毬と鉢の子』 学習社 1941年10月1日 『大岡越前守』学習社 1944年6月30日 『新美南吉全集』全8巻(牧書店) 1965年 『校定 新美南吉全集』全12巻、別巻2巻(大日本図書) 1980年 『新美南吉の手紙と生涯』巽聖歌、英宝社 『友、新美南吉の思い出』河合弘、大日本図書 『新美南吉の世界』浜野卓也、新評論 『新美南吉の生涯 ごんぎつねのふるさと』大石源三、エフエー出版 ^ 半田市 ^ 新美南吉生誕100年公式ウェブサイト ^ Q 南吉はどこで生まれたの?新美南吉記念館、2017年6月12日閲覧 ^ 帯金 2001, p. 7. ^ 帯金 2001, p. 8-9. ^ 帯金 2001, p. 11. ^ 帯金 2001, pp. 11-13. ^ 帯金 2001, p. 14. ^ 帯金 2001, p. 15. ^ 巽はこれを鵜呑みにして『新美南吉の手紙とその生涯』を執筆、以後定説となっていたが、浜野卓也が『新美南吉の世界』ではじめて誤りであると指摘した。(帯金 2001, p. 15) ^ 帯金 2001, pp. 16-17. ^ 当初の題は「少佐と支那人の話」で脱稿後に「古井戸に落ちた少佐」に改題、のちに鈴木三重吉が「張紅倫」に改題。 ^ 帯金 2001, pp. 22-23. ^ 帯金 2001, pp. 23-28. ^ 帯金 2001, p. 32-33. ^ 帯金 2001, pp. 26-27. ^ 帯金 2001, p. 29-30. ^ 南吉の中学五年生時の身長は165.5センチ、体重47.95キロ。岡崎師範学校では体重÷身長の値が0.319という基準があった。 ^ 帯金 2001, pp. 31-33. ^ この女性の名前は牧書店の全集、大石源三、浜野卓也の著書では「O子」、大日本図書の校定全集や「新美南吉紹介」では「αα」と伏字になっているが、新美南吉記念館のホームページでは本名が記載されている。 ^ 帯金 2001, pp. 35-37. ^ 帯金 2001, pp. 39-40. ^ 帯金 2001, pp. 42. ^ 帯金 2001, pp. 43-45. ^ 帯金 2001, p. 46. ^ 帯金 2001, pp. 47-48. ^ 河合弘は岐阜県大垣市出身。外語学校卒業後は南吉と同じく結核に苦しみ南吉と手紙のやりとりで励ましあっていた。その後、フランス語の通訳や翻訳の仕事に従事。著作に『友、新美南吉の思い出』がある。 ^ “愛知県半田市出身の童話作家新美南吉の友人である大垣の人河合弘氏について”. レファレンス協同データベース. 2017年6月13日閲覧。 ^ 帯金 2001, pp. 48-49. ^ 帯金 2001, p. 112. ^ 帯金 2001, pp. 50-53. ^ 帯金 2001, pp. 57-60. ^ 帯金 2001, pp. 61-63. ^ 帯金 2001, pp. 63-65. ^ 帯金 2001, pp. 65-68. ^ 帯金 2001, pp. 170-171. ^ 帯金 2001, pp. 70. ^ 帯金 2001, pp. 72-73. ^ 帯金 2001, pp. 73-74. ^ 帯金 2001, pp. 75-81. ^ 帯金 2001, pp. 81-82. ^ 帯金 2001, pp. 82-83. ^ 帯金 2001, pp. 269-270. ^ 帯金 2001, pp. 271-274. ^ 帯金 2001, pp. 277-279. ^ 帯金 2001, p. 177. ^ 帯金 2001, p. 171. 帯金充利 『新美南吉紹介』 三一書房、2001年。  新美南吉児童文学賞 新美南吉童話賞 赤い鳥 巽聖歌 北原白秋 与田準一 鈴木三重吉 新美南吉記念館 新美 南吉:作家別作品リスト - 青空文庫 安城高校HP 本人の顔写真白黒 新美南吉年譜(はっとし_ぜろホームページ内) ウィキメディア・コモンズには、新美南吉に関するカテゴリがあります。 ウィキクォートには、新美南吉に関する引用句があります。", "神戸 淳吉(かんべ じゅんきち、1920年5月31日 - )は、日本の児童文学作家。東京府出身。日本大学卒。社会福祉施設などに勤務。1950年いぬいとみこ、佐藤さとるらと同人誌「豆の木」を創刊。1955年作家となる。動物を描くことが多かった。 『ファーブル』偕成社 1958 児童伝記全集 『空飛ぶ木馬』1962 講談社の絵本 『キュリーふじん』偕成社 1963 幼年伝記ものがたり 『シュバイツァー』小峰書店 1963 幼年偉人ものがたり 『風の村』三十書房 1964 日本少年文学選集 『子バトのクウク』理論社 1964  『ものがたりニュートン』偕成社 1964 児童伝記全集 『ゾウのかばん』理論社 1965  『すずめのてがみ』金の星社 1966 『東南アジアのむかし話』研秀出版 1966  『ジャングルのはこぶね』理論社 1967 小学生文庫 『自然と人間のたたかい』班目文雄、大和英成監修 盛光社 1967 『名犬ボビーのぼうけん』岩崎書店 1967  『リンカーン』国土社 1967 子ども伝記全集 『めいけんバリー』岩崎書店 1969 『わたしたちの社会科・自然と人間のたたかい 世界編 北アメリカ』盛光社 1969  『にんぎょのゆびわ』小峰書店 1970 『ケネディ』偕成社 1971 児童伝記シリーズ 『シートン』潮出版社 1971 ポケット偉人伝 『はしれクラウス』金の星社 1971 おはなしノンフィクション絵本 『牧野富太郎』潮出版社 1971 ポケット偉人伝 『みんなのピアノ』ポプラ社 1971  『りすせんせいははいしゃさん』童心社 1971 『せつ子と三十人のきょうだい』国土社 1972 『大仏建立物語 大仏をたてた人、守った人』小峰書店 1972 少年少女ノンフィクション 『ヘレン・ケラー』小峰書店 1972 幼年伝記ものがたり 『けんちゃんでんしゃ』偕成社 1973  『ぼくのなは八ろうざえもん』金の星社 1973 『うぐいす小太郎』高橋書店 1974  『ゆめをたべます』小峰書店 1974 『元禄の白い塩』金の星社 1975  『ざっくりぶうぶうがたがたごろろ』偕成社 1976 『いきている大仏』高橋書店 1977 『ふるさとのさくら 御母衣ダムから桜を守った話』岩崎書店 1977 『百枚めのきもの』中央共同募金会 1978 『アフリカゾウ りこうでおとなしい猛獣』ポプラ社 1980 子ども動物園 『きんじろう 二宮金次郎』大日本絵画巧芸美術 1980 『野口英世』1980 講談社の子ども伝記 『愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ』PHP研究所 1981 PHPこころのノンフィクション 『徳川家康』1981 講談社の子ども伝記 『ヤクシカ おくびょうジカの大脱走』ポプラ社 1981 子ども動物園 『高山右近』さ・え・ら書房 1982 少年少女伝記読みもの 『キリスト 大工の子・光の子』1983 講談社火の鳥伝記文庫 『武田信玄』さ・え・ら書房 1983 少年少女伝記読みもの 『新渡戸稲造』あかね書房 1983 嵐の中の日本人シリーズ 『豊田佐吉 発明と技術に生きる』1984 講談社火の鳥伝記文庫 『サンタクロースってどんな人』岩崎書店 1985 愛と勇気のノンフィクション 『太陽をつかまえた 「日時計の王様」小原銀之助物語』講談社 1985 『わたしのハムは世界一 ハムづくりひとすじに生きたドイツ人』PHP研究所 1985 PHP愛と感動のノンフィクション 『台風がやってきた』偕成社 1986 『食べてはいけないお菓子』ポプラ社 1986 愛と心のシリーズ 『けんちゃんでんしゃ』偕成社 1987 のりものストーリー 『ベル』チャイルド本社 1987 チャイルド絵本館. 伝記ものがたり 『歩もうともに手をつないで 愛の心を実践しつづけた賀川豊彦』PHP研究所 1988 PHPこころのノンフィクション 『まぼろしの花がさいた 二千年まえのハスを開花させた大賀一郎博士の六十年』くもん出版 1988 くもんのノンフィクション 愛のシリーズ 『バッハ すべては神の栄光に』音楽之友社 1992 ジュニア音楽ブックス クラシックの大作曲家 『エジソン 努力が生んだ発明の天才』岩崎書店、1993 のちフォア文庫  『動物を愛した人びと』平岩米吉、堀口守共著 実業之日本社 1955 お話博物館 『とりと子どもの物語』高島春雄共著 実業之日本社 1956 お話博物館 2年生 「こどもノンフィクション」来栖良夫、石川光男共編 小峰書店 1964-65 アマゾンのふしぎ 1964  アラビアのロレンス 1964  アンコールワットのなぞ 1964  インカ帝国のさいご 1964  エベレストをめざして 1964 きえた湖 1964 ケニアのライオンがり 1964  世界のスピード王 1964 南極の日本人 ビーグル号の航海 ピカールの海底旅行 フランクリン探検隊のなぞ 北極のノーチラス号 ボストーク号の勇士 密林の探検家 月世界への道 1965 シベリアのマンモス スターリングラードの戦い 七つの海のオオカミ 『日本縦貫ハイウェイ』村上永一共著 鹿島研究所出版会 1968 少年の科学 『日本のおばけ話』編著 偕成社 1970 少年少女類別民話と伝説 『キリスト教子どものほんの本』編著 同信社 1989 『こわさ120%超怪談!!』高橋宏幸共著 ポプラ社 1993-94 ケネス・グレアム『ひきがえるの冒険物語』講談社 1964 ナイト『名犬ラッシー』偕成社 1964  ツルゲーネフ『猟人日記』岩崎書店 1967 ジュニア版世界の文学 バイコフ『もりへかえったおおかみ』フレーベル館 1969 ファーブル昆虫記』集英社 1973 G.ポーター『リンバロストの少女』集英社 1975 マーガレット文庫 世界の名作 デジタル版日本人名大辞典:[1] [2]", "土家 由岐雄(つちや ゆきお、1904年(明治37年)6月10日 - 1999年7月3日)は、日本の児童文学作家。本名は土屋姓である。 東京都文京区に生まれる。少年時代に図書館に通って巌谷小波の作品を愛読したことがきっかけとなり、児童文学作家を志望する。小学校を卒業してからは三菱の関連会社の給仕のかたわら、児童文学雑誌への投稿を行い、40編あまりの作品が入選を果たした。東京工学校採鉱冶金科卒業後は三菱商事や東京都教育局や少国民文化協会などに勤務しながら数冊の作品を発表していたが、1945年(昭和20年)に小国民文化協会が解散すると、執筆活動に専念する。 戦後は幼年童話の分野でも活動を始め、小学館児童文化賞を受賞した『三びきのこねこ』や、『かわいそうなぞう』が注目を集める。1971年『東京っ子物語』で野間児童文芸賞を受賞し、1975年には児童文化功労者として、日本児童文芸家協会から表彰された。 多くの児童文学作品を発表する一方で、児童を対象にした童句を創始し、複数の作品集を発表した。1992年1月から1999年3月まで、読売新聞日曜版の「童句」欄の選者を務めていた。晩年は埼玉県狭山市に在住していたが、狭山市の智光山公園子ども動物園前には土家の句が刻まれた童句碑が建っている。 1999年心不全のため死去。95歳没。葬儀は故人の遺志で行わなかった。 妻ツヤの実弟奥名修一は、太宰治と心中した山崎富栄の夫。 1940年代に発表された『虹の出帆』は土屋の代表作の1つで、マレー半島を舞台に少年が活躍する長編の少年小説だが、三菱商事のシンガポール支店に勤務した体験が生かされている。 また、野間児童文芸賞を受賞した『東京っ子物語』は土家の自伝ともいえる長編で、職人気質の俳人である父とその息子である少年の生活を淡々と描いた作品である。土家が60代後半まで住み続けた東京の山の手の文化風俗や人情を、童話の形を用いて子供の視点から描いている。 日本人が『ロビンソン・クルーソー』や『宝島』のような冒険小説を執筆したことで面目を果たしたとして、『虹の出帆』は文部省の児童図書推薦事業にて推薦を受け、文部大臣奨励賞を受賞した。当時の世評も高かったが、識者の間では児童文学の新風として評価する立場と、通俗的な読物に過ぎないとみなす立場とに分かれた。 『かわいそうなぞう』は教育出版と学校図書で、小学2年生用の国語の教科書に採用され、幼年層を対象とする戦争児童文学の代表的な作品として知られるようになった。一方で戦時猛獣処分を軍部の命令とするなど誤った記述も広まることになった(実際は大達茂雄東京都長官の行政命令)。 東京を買った屑屋さん 展望社 1932 夢を売る店 童話と童話劇 双雅房 1935 虹の出帆 双雅房 1940 ドイツ人形 鶴書房 1942 昭南島 少国民小説 金の星社 1943 カド爺さんの話 マライ童話集 宮武正道共著 増進堂 1943 (大東亜圏童話叢書) 蟻地獄 金の星社 1944 花の南京 雁書房 1946 セミツクリノオヂイサン 藤澤龍雄画 二葉書房 1946.9 太った王さま 雁書房 1948 温泉場のたぬき 小峰書店 1948 (青空文庫) こいぬとろうそくうり とんぼ社 1949 まほうつかいのろば 3年生 金の星社 1955 めだかのおまつり 金の星社 1955 円山応挙 偉人の少年時代 3 金の星社 1956 ちびみみぞうさん 泰光堂 1958 (童話十二ケ月) 二宮金次郎 偕成社 1958 (児童伝記全集) 一休さん 偕成社 1958 (なかよし絵文庫) 野口英世 偕成社 1958 (なかよし絵文庫) 源平のたたかい 1958 (講談社の絵本) おじいさんのえほん・おばあさんのえほん 麦書房 1959 (雨の日文庫) ふしぎなつぼ ポプラ社 1962 (おはなし文庫) とよとみひでよし ポプラ社 1962 (おはなし文庫) ふえふきおじさん 小学館 1962 (小学館の幼年絵本) りょうかんさま 偕成社 1964 (幼年伝記ものがたり) おさるのふうせん 文憲堂七星社 1968 かわいそうなぞう 金の星社 1970 (おはなしノンフィクション絵本) のちフォア文庫 東京っ子物語 東都書房 1971 勝海舟 母と子の世界の伝記 集英社 1974 おこりんぼむし 小学館 1974 (小学館の創作童話シリーズ なかよし子ネコ 高橋書店 1975 (たかはしの創作童話) 人形天使 日本教文社 1975 お月お星 かわいそうな話 母と子の日本の民話 11 集英社 1976.12 ネコの水てっぽう 日本教文社 1977.8 げたをはいたゾウさん 日本教文社 1978.8 ビキニ島のかめ コーキ出版 1979.7 (絵本ファンタジア) ぼくの四季 童句文学への招待 童句集 単独舎 1987.10 どうく 土家由岐雄童句集 むなぐるま草紙社 1987.10-1988.5 てじなをつかうはとポッポ けやき書房 1988.2 (子ども世界・幼年童話) 母の日 童謡集 教育報道社 1992.11 天使と戦争 ある人形研究家の青春 文渓堂 1997.8 (翼をひろげて ; 2) 除夜のかね 土家由岐雄童句集 沖積舎 2005.5 (その他多数の絵本、再話) 鶴になった王さま ハウフ 偕成社 1957 (児童名作全集) せむしの子馬 エルショフ ポプラ社 1957 (たのしい名作童話) ほらふきだんしゃく ビュルガー 1958 (小学館の幼年文庫) 鉄仮面 ボアゴベー 鶴書房 1961 (世界童話名作全集) ドリトル先生アフリカ行き ロフティング 1963.7 (講談社の絵本) わにのウォリー 1 ハナ=バーバラプロダクション 講談社インターナショナル 1964 原始家族 2(パパは強いぞ) ハナ=バーバラプロダクション 講談社インターナショナル 1965.1 血と砂 イバニエス 岩崎書店 1967 (ジュニア版世界の文学) カロリーヌとおともだち ピエール・プロブスト 福島のり子共著 小学館 1967 (オールカラー版世界の童話) カロリーヌの月旅行 ピエール・プロブスト 福島のり子共著 小学館 1967 (オールカラー版世界の童話) カロリーヌのせかいのたび プロブスト 福島のり子共著 小学館 1968 (オールカラー版世界の童話) ^ 『東京っ子物語』 170頁。 ^ a b 『日本児童文学大事典 第1巻』 488頁。 ^ 『東京っ子物語』 169頁。 ^ 『作品による日本児童文学史 2 昭和前期』 179頁。 ^ 『作品による日本児童文学史 2 昭和前期』 115頁。 ^ 『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』 10頁。 滑川道夫他編著 『作品による日本児童文学史 2 昭和前期』 牧書店、1968年。 土家由岐雄著 『東京っ子物語』 東都書房、1971年。 日本児童文学者協会編 『現代日本児童文学作家案内』 すばる書房盛光社、1975年。 大阪国際児童文学館編 『日本児童文学大事典 第1巻』 大日本図書、1993年 ISBN 4477003765 読売新聞夕刊 1999年7月5日付。 長谷川潮 『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』 梨の木舎、2000年 ISBN 4816600051 狭山台公民館童句まつり - 童句碑の画像が掲載されている。", "浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年(明治26年)5月25日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の童話作家。本名は廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがある。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。既婚。息子は音楽評論家の濱田滋郎である。 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた。幼少時から巌谷小波を愛読。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。中学時代は大熊信行や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに何作かの小説を著す。また1917年(大正6年)「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話一等に『黄金の稲束』が入選したのを機会に、コドモ社の児童雑誌『良友』から童話を発表するようになった。翌年に廣介は『途暗し』で北村透谷賞を受けたりするが、やがて童話作家を志すようになっていく(この間、鈴木三重吉からの『赤い鳥』への参加呼びかけを断っている)。 廣介は卒業後ほどなくコドモ社に入社し、児童雑誌『良友』を編集、自らも童話を書くようになる。1921年(大正10年)、島崎藤村の紹介で実業之日本社に移り、『幼年之友』を編集する。1923年(大正12年)の関東大震災による退社をきっかけに作家に専念した後も同誌から多くの童話を発表した。1925年には早大童話会を立ち上げた。 1928年に結婚。 1940年、日本文化協会児童文化賞受賞。1942年、野間文芸奨励賞受賞。 1953年、芸術選奨文部大臣賞受賞。同年、鳥越信と古田足日を中心とした「少年文学宣言」が発表され、未明と廣介は「古い」児童文学として否定されるという憂き目に遭う。 1957年と1961年に産経児童出版文化賞を受賞。1972年に名誉町民に顕彰され、庁舎前に「回顧の碑」が建つ。 1973年、前立腺癌のため東京都大田区田園調布の自宅で死去。戒名は廣徳院殿童愛錦謡居士。 廣介の作品は「ひろすけ童話」とも呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容で、教科書や絵本で親しまれている。 1989年より故郷の高畠町に記念館が建てられている。 自作の詩「日本橋から」は古賀正男(政男)が無断で曲をつけ、佐藤千夜子の歌でヒットした。のちに著作権法に抵触すると聞かされた古賀が廣介に謝罪したが、当の本人はそんなことも知らず、2人で大笑いした。 『椋鳥の夢』新生社、1921年(広介童話全集』1) 『大将の銅像』実業之日本社、1922年 『ひろすけ童話讀本』文教書院、1924-29年 『頼朝と義経』子供の日本社、1925年(英傑伝叢書) 『小鳥と花と』文教書院、1925年 『飛んで来い』叢文閣、1926年 『河うその赤んぼ』創生堂、1927年 『かっぱと平九郎』岡村書店、1939年 『ニゲタカメノコ』文昭社、1939年 『旅に出た王子』岡村書店、1939年 『竜の目の涙』フタバ書院、1941年 『兎の画家』新潮社、1941年(日本童話名作選集) 『蠅の目と花』フタバ書院、1941年 『タノシイコドモ』富士屋書店、1941年 『わにとへいたいさん』新生閣、1944年 『コドモトイヌ』昭和出版創立事務所、1944年 『ひのきまる』尚文館、1947年 『花びらの旅』小澤出版社、1947年 『一つの願い』国民文芸社、1948年 『おかあさんと花』二葉書店、1948年 『つよいたんぽぽ』児童図書刊行会、1948年 『みち』童画書房、1948年 『ひろすけ童話選集』1-6、講談社、1948–50年 『春の氏神』桜井書店、1948年(こどもかい文庫) 『雪国のおんどり』講談社、1949年 『かえるのきょうだい』主婦之友社、1949年 『雪のふる国』小峰書店、1950年(日本童話小説文庫) 『小さな川の小さなはし』羽田書店、1950年 『たぬきとつばめ』むさし書房、1951年 『浜田広介童話集』新潮文庫、1953年 『こぶたのペエくん』日本書房、1954年 『くまがさるからきいた話』日本書房、1954年 『ひろい世界』日本書房、1954年 『お山の子ぐま』金の星社、1954年 『浜田広介童話選集』全6巻、講談社、1956年 『ひろすけ童話』1-8』集英社、1967年 『童話文学と人生』集英社、1969年 『ひろすけ幼年童話文学全集』1–12、集英社、1970–73年 『浜田広介全集』全12巻、集英社、1975–76年 浜田留美『父浜田広介の生涯』筑摩書房、1983年 小林正『浜田広介おぼえがき』北郊書房、1985年 羽山周平『さくら花咲く庭にして  浜田広介おぼえがき拾遺』北郊書房、1992年 西沢正太郎『ひろすけ童話ひとすじに  日本のアンデルセン浜田広介の生涯』PHP研究所、1994年 浜田留美『「ひろすけ童話」をつくった浜田広介  父浜田廣介の生涯』ゆまに書房、1998年 ^ 岡田昌己スペインを踊る 版元ドットコム ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)266頁 ^ 浜田広介 文学者掃苔録 ^ 浜田広介 米沢日報デジタル ^ ひろすけ童話の世界にふれる「浜田広介記念館」 山形県庁 まほろば・童話の里 浜田広介記念館 ひろすけ童話賞 山形県出身の人物一覧 早稲田と文学(浜田広介) - 早稲田大学 浜田広介記念館 高畠町", "斎藤 隆介(さいとう りゅうすけ、1917年1月25日 - 1985年10月30日)は、日本の児童文学作家。本名は隆勝(たかかつ)。 短編童話集『ベロ出しチョンマ』で、1968年に第17回小学館文学賞、『天の赤馬』で、1978年に第18回日本児童文学者協会賞、『ソメコとオニ』で、1987年に第10回絵本にっぽん賞を受賞。 東京都生まれ。山本有三を慕って明治大学文芸科に入学。在学中ゴーリキーの影響を受ける。卒業後、北海道新聞、秋田魁新報の記者を歴任。新聞記者のかたわら著作活動に入る。 秋田地方の方言、オノマトペをふんだんにちりばめた民話の体裁をとりながら、ほとんどは斎藤の創作童話である。当初は子供向けではなく、地元の教員や生徒の父母に向けた作品でありながら、画家滝平二郎の独特な挿絵、絵本化によって次第に有名な児童文学作家となる。滝平とは末永い創作活動を続けることとなる。 単純で骨太な展開、生と死のはざまで揺れ動く主人公を描くことで、人間が根源的にもっている情念・情愛からほとばしる生への尽きぬエネルギーに満ちあふれている。 一方、献身、自己犠牲といった説話くさい主題、表現で、発表当初から賛否両論を巻き起こしたものの、戦後の児童文学史上、童話および絵本の新分野を開拓し、民話絵本のブームを起こし、小学校の教科書にも取り上げられ、数々の業績を残した。斎藤の作風は主に古田足日をはじめ、神宮輝夫、今江祥智、藤田のぼるなどに強い影響を与えた。 八郎(初出: 1950年 秋北中学生新聞)福音館書店、1967 – 八郎潟 ベロ出しチョンマ(1967年/理論社) のち角川文庫、フォア文庫 – 佐倉惣五郎 職人衆昔ばなし (1967年/文藝春秋) のち文庫、文春学藝ライブラリー 職人衆昔ばなし 続 (1968年/文藝春秋) 花さき山(1969年1月/岩崎書店) 三コ(1969年8月/福音館書店) – 三湖伝説 ゆき 講談社、1969 のち文庫 町の職人 文藝春秋、1969 立ってみなさい 新日本出版社、1969 のち講談社文庫  ちょうちん屋のままッ子 理論社、1970 のち角川文庫 1971年第18回産経児童出版文化賞受賞 まけうさぎ(1971年1月/新日本出版社) モチモチの木(1971年11月/岩崎書店)(1972年、岡本忠成により映像化[1]) ひさの星(1972年1月/岩崎書店) でえだらぼう 福音館書店、1972 かまくら 講談社、1972 ケチ六 あかね書房、1975 火 岩崎書店、1975 火を噴く山 新日本出版社、1977 冬の夜ばなし 新日本出版社、1977 雪の夜がたり 新日本出版社、1977 天の赤馬 岩崎書店、1977 のちフォア文庫 天の笛 佼成出版社、1978 わらの馬 講談社、1979 ひとりの正月 佼成出版社、1979 半日村(1980年1月/岩崎書店) 天に花咲け 新日本出版社、1981 ふき 講談社、1981 斎藤隆介全集(岩崎書店・全12巻)1982 八郎・モチモチの木(短編童話1)解説 = 古田足日 花咲き山・ひさの星(短編童話2)解説 = 鳥越信 虹の橋・桔梗の花(短編童話3)解説 = 滝平二郎 ケチ六・火を噴く山(短編童話4)解説 = 関英雄 ちょうちん屋のままッ子(長編童話1)解説 = 小西正保 ゆき(長編童話2)解説 = 神宮輝夫 天の赤馬(長編童話3)解説 = 藤田のぼる 職人昔ばなし(ノンフィクション1)解説なし 続職人昔ばなし(ノンフィクション2)解説 = 江國滋 町の職人(ノンフィクション3)解説 = 山本夏彦 日本のおばあちゃん(ノンフィクション4)解説 = 松谷みよ子 春の声・寒い母(大人の童話)解説 = 今江祥智 火の鳥(1982年1月/岩崎書店) 猫山 岩崎書店、1983 ひばりの矢(1985年11月/岩崎書店) ユとムとヒ(1986年9月/岩崎書店) ソメコとオニ(1987年7月/岩崎書店) かみなりむすめ(1988年7月/岩崎書店) 斎藤隆介童話集(2006年/ハルキ文庫・角川春樹事務所) 斎藤隆介が問いつづけた「やさしさ」──『モチモチの木』" ]
ABC01-02-0161
型の古くなった洋服などに手を加え、再び着られるようにすることを英語で何というでしょう?
リフォーム
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[ "リフォーム", "特定優良賃貸住宅", "マンション", "共用施設 (マンション)", "指定工事店" ]
[ "リフォームとは、居住の改築や改装のことで、特に内外装の改装を差す和製英語。 英語の reform は「改心する、改正する」もしくは広く「作り直す」の意であり、日本語の「住宅リフォーム」に相当する語は renovation、refurbish である。また、建築業者の中には「リフォーム」ではなく、「家を作り直す」との意を込めて「リホーム」 (rehome) としているところもある(これも和製英語)。 住宅リフォームの主なものとしては 雨漏りなどの修繕 外壁の取り替え 住宅設備(キッチン、浴室などの水周り主体)の取り替え、補修 今の住宅の床面積を増やす(増築) 今の住宅の床面積を増やさずに中の間取りを変える(改築) 省エネルギー性能の強化(エコガラス(省エネ複層ガラス)、サッシなど) 耐震性の強化(補強工事など) 手すりや階段昇降機の設置などのバリアフリー対応化 オール電化 などが挙げられる。 一般的には、近在の工務店を中心にした業者に見積もりや工事を依頼する。基本的に一品対応になるため部材の価格は比較的高めになる。また、現物合わせの作業を精度良く行うために熟練作業が必要となり、小規模な改装であっても高くつくことも多い。 例えばユニットバス取り付け工事では、ユニットバス自体は工業量産品のため価格は明瞭であるが、現物合わせで取り付ける作業に手間を要し作業費がかさむこともある。そのため、施主が材料を安価で調達し、工事会社へ支給する「施主支給」というシステムを利用し施工するケースも増えてきている。 なお、住宅リフォームを行う場合、築年数やリフォーム業者、リフォーム内容など、条件によっては自治体から補助金が支給される場合がある。 一般にリフォームには結構なお金が掛かることから、悪徳商法や詐欺に狙われることがある。悪徳商法としては悪質リフォームと呼ばれ、詐欺としてはリフォーム詐欺と呼ばれるが、リフォームに関わる犯罪行為を一まとめに「悪質リフォーム詐欺」ということもある。 契約金額が500万円未満の場合は建設業許可なしで出来る上、建築構造を考える必要はないので素人でも出来る。そのため、とりわけ訪問販売で高齢者や知的障害者を相手に、強引に高額・不必要な契約を行い、契約後も粗雑工事により客を騙す、自宅を競売にかけられるなどの悪徳業者が存在する。予防には契約の取り消しが可能になる成年後見制度が利用できる。 また、訪問販売の一種である場合、業者より書面を受領した日から起算して8日以内であれば、工事が開始あるいは完了していても原則的にクーリングオフ可能で、無償で現状復帰させることも可能である。 なお、国民生活センターから、消費者へのアドバイスとして訪問販売によるリフォーム工事はできるだけ契約しない事という発表が2002年8月21日付けで行われている。 リフォーム工事をする意思も能力もないのに、被害者に対し虚偽の事実を申し向け、材料費名目で現金を騙し取る事案も発生している。この種の事案では、実際にリフォーム工事に入らないので、前金詐取と言える。 関連団体として、住宅リフォームを取り巻く環境を整備し、消費者・リフォーム事業者双方にとって有益かつ健全なリフォーム市場の形成を目的に、一般社団法人 住宅リフォーム推進協議会があり、さらに各都道府県にも住宅リフォーム推進協議会がある。 財団法人愛知県建築住宅センター 財団法人石川県建築住宅総合センター 財団法人岩手県建築住宅センター 社団法人インテリア産業協会 大阪ガス株式会社 財団法人大阪住宅センター 押出発泡ポリスチレン工業会 社団法人カーテンウォール・防火開口部協会 財団法人鹿児島県住宅・建築総合センター 関西電力株式会社 北九州市住宅リフォーム促進協議会 キッチン・バス工業会 財団法人熊本県建築住宅センター 財団法人経済調査会 財団法人建材試験センター 財団法人建設物価調査会 財団法人建築環境・省エネルギー機構 社団法人建築業協会 社団法人マンション管理業協会 財団法人高齢者住宅財団 財団法人静岡県建築住宅まちづくりセンター 財団法人住宅管理協会 財団法人住宅金融普及協会 財団法人住宅産業研修財団 財団法人住宅生産振興財団 社団法人住宅生産団体連合会 財団法人住宅保証機構 財団法人住宅リフォーム・紛争処理支援センター 財団法人住まいづくりナビセンター 社団法人石膏ボード工業会 全国管工事業協同組合連合会 社団法人全国建設室内工事業協会 全国建設労働組合総連合 社団法人全国住宅建設産業協会連合会 社団法人全国宅地建物取引業協会連合会 社団法人全国中小建築工事業団体連合会 社団法人全国防水工事業協会 社団法人全国木材組合連合会 社団法人全日本瓦工事業連盟 社団法人全日本不動産協会 東京ガス株式会社 財団法人東京都防災・建築まちづくりセンター 財団法人長崎県住宅・建築総合センター 財団法人新潟県建築住宅センター 有限責任中間法人日本インテリアプランナー協会 財団法人日本ガス機器検査協会 社団法人日本空調衛生工事業協会 社団法人日本建材・住宅設備産業協会 社団法人日本建築士会連合会 社団法人日本建築士事務所協会連合会 財団法人日本建築センター 財団法人日本建築総合試験所 財団法人日本建築防災協会 社団法人日本左官業組合連合会 日本室内装飾事業協同組合連合会 社団法人日本住宅協会 財団法人日本住宅・木材技術センター 社団法人日本しろあり対策協会 一般社団法人日本増改築産業協会 社団法人日本ツーバイフォー建築協会 社団法人日本塗装工業会 社団法人日本木造住宅産業協会 日本木造住宅耐震補強事業者協同組合 日本窯業外装材協会 財団法人兵庫県住宅建築総合センター 財団法人福岡県建築住宅センター 社団法人不動産協会 社団法人プレハブ建築協会 財団法人ベターリビング 財団法人マンション管理センター 一般社団法人マンション計画修繕施工協会 マンションリフォーム推進協議会 一般社団法人リノベーション住宅推進協議会 社団法人リビングアメニティ協会 公益社団法人ロングライフビル推進協会 都道府県と政令指定都市 各都道府県と政令市の住宅供給公社 宮城県住宅供給公社 山形県住宅供給公社 茨城県住宅供給公社 栃木県住宅供給公社 群馬県住宅供給公社 千葉県住宅供給公社 神奈川県住宅供給公社 新潟県住宅供給公社 福井県住宅供給公社 山梨県住宅供給公社 長野県住宅供給公社 岐阜県住宅供給公社 静岡県住宅供給公社 愛知県住宅供給公社 滋賀県住宅供給公社 京都府住宅供給公社 大阪府住宅供給公社 兵庫県住宅供給公社 奈良県住宅供給公社 鳥取県住宅供給公社 島根県住宅供給公社 広島県住宅供給公社 山口県住宅供給公社 徳島県住宅供給公社 高知県住宅供給公社 福岡県住宅供給公社 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ファミリー向けのため、家族との同居を前提としているが、婚約中(入籍前)や単身世帯の入居を認めているケースがある。 補助としては、入居者に対しては家賃、建設した民間事業者には建設費への補助、建設資金の融資に対する利子補給、住宅金融支援機構の融資限度額の拡大等の制度がある。 入居者にとっては、家賃補助のメリットがあるが、家賃補助の仕組みが、時期や物件によって異なり、必ずしも家賃補助が受けられるとは限らないため、注意が必要である。(後述) 床面積、構造、広さ、戸数などの条件が定められており、同時期に建設された一般の物件よりはグレードが高い場合が多い。 民間事業者が建設した賃貸住宅の他に、地方自治体または地方住宅供給公社そのものが建設する特別公共賃貸住宅も含まれる。略称「特公賃(とっこうちん)」。 家賃補助は必須ではないため、家賃補助がない物件もある。また、制度自体が、建設時期や補助する地方自治体等によって異なるため、家賃補助がある物件でも、いくつか注意点がある。 管理期間(10年または20年が一般的)しか家賃補助は受けられない 所得が高くなると補助額が減り、高所得だと家賃補助は受けられない 毎年補助額が減る(家賃の実質負担額が高くなる)ケースがあり、このケースだと比較的低所得でも途中から家賃補助がなくなる場合がある 主に都市部の住環境改善のため、賃貸住宅ストックの質的向上を目的にした制度として、従来地域特別賃貸住宅(略称「地域特賃」)があったが、これは予算制度(法律上の制度ではなく、予算上で措置されている制度)であり、また行政や地方住宅供給公社など、公的セクターが供給主体とされており、供給量に限界があった。 そこで、主に民間事業者が供給する賃貸住宅への補助制度という形を取ることによって、民間事業者が土地所有者を探して事業化することが可能になり、供給量が増加した。 その後、賃貸住宅の市場動向の変化による空家率の上昇や、高齢者向け優良賃貸住宅の供給が思うように進んでいないなどの事情により、入居資格を緩和するとともに、高齢者向け優良賃貸住宅等を合わせて、地域優良賃貸住宅制度に改編された。(法的根拠自体は特優賃) ^ 事実婚でも可能 ^ これは国のレベルの話で、地方自治体においては条例等で制度を定めている場合が多い。 公営住宅 地方住宅供給公社 高齢者向け優良賃貸住宅 特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する法律 - e-Gov法令検索 特定優良賃貸住宅等供給促進事業制度 - ウェイバックマシン(2013年6月7日アーカイブ分) - 国土交通省 都民住宅とは - 東京都住宅供給公社", "マンション(由来: mansion, 英: condominium)とは、日本語ではアパートよりも大型の共同住宅(集合住宅)を表す一般名詞として使われている。ただし、語源である英語では(例えばビル・ゲイツの私邸のような)豪邸などの意味で用いられることが多く、共同住宅の意味はほとんどない。 マンションという語は、日本のデベロッパーが、昭和30年代初めより一部の限られた階層を対象に、公団住宅などとは一線を画した高級路線の集合住宅を、高級感をイメージするために「マンション」と銘打って売り出したことに由来するという。その後、対象とする層を広げて多様なものが開発、販売されるようになっても、「マンション」という呼び名が定着した。ただし、英語では、Mansion(英)は、主に豪邸を示す言葉であり、日本語で言うような「共同住宅」を意味する一般名詞として用いられることは、ほとんどない。イギリスではより限定的に、Mansion Houseといった場合は市長公邸、Mansion blockといった場合は高級なアパートを指す。 日本で言うところのマンションは、比較的大規模な共同住宅で独立して住居の用に供することができる各室を有するものを指す。また、同じく共同住宅を指す「アパート」という言葉が、小規模なもの、木造や軽量鉄骨造のもの、賃貸物件を指していることが多いのに対し、「マンション」という言葉は比較的大規模で、構造としては基本的には鉄筋コンクリート造・鉄骨鉄筋コンクリート造のような堅固なもの、という相違点がある。区分所有(建物の区分所有等に関する法律 - 略称:区分所有法)されるものを分譲マンション、賃貸されるものを賃貸マンションという。なお、共同住宅は住宅の建て方を示す用語で、一戸建、長屋建(タウンハウス)と並んで分類されている バブル景気には都心での土地高騰の影響により、戸建住宅が中(ジム・プール)ベッドタウンへの進出が相次いだ。スポーツクラブ(ジム・プール)やラウンジの設置、温泉をパイプラインで浴室に引き込んだ物件や、山間部のリゾートマンションなどユニークで多種多様なものが供給されたが、それらは区分所有者が維持管理しなくてはならず、修繕積立金高騰の一因となることがわかり、現在では人気は衰えている。2001年以降は地価下落による土地仕入れコストの低下に伴い、全国的に大都市の都心部にマンション建設が数年続いた。 マンションは、都市部における住居形態として重みをもつ。日本では、国土交通省が行った調査では、2009年末において、全国の分譲マンションストック戸数は約562万戸としている。なお該当調査における、マンションとは「中高層(3階以上)で分譲・共同住宅、鉄筋コンクリート・鉄骨鉄筋コンクリートまたは鉄骨造の住宅」を示すように、「マンション」の定義が一定しなかった時期が長く、2010年現在も、その傾向が残る。 また住宅について、事業者の種類に応じて分譲、賃貸、コーポラティブハウスに分類される。このうち分譲とは、事業者が不動産会社(事業者宅建業法第3条第1項の免許を受けて宅地建物取引業を営む者)であって、住戸ごとに区分し売買するものを言う。したがって「分譲マンション」とは、鉄筋コンクリート造ないし鉄骨鉄筋コンクリート造の共同住宅のうち、事業主が不動産会社で住戸ごとに区分し売買するものを示している。 「マンション」は、マンションの管理の適正化の推進に関する法律(2001年施行)において、法令用語とされた。同法における定義では、複数の店舗や事務所と居住となる専有部分が1戸以上ある建物で、区分所有者が最低2名以上いること。これには設備や土地も含まれる。これは、同法でいうマンションが区分所有法の適用対象でもあるということ、「この法律は、土地利用の高度化の進展その他国民の住生活を取り巻く環境の変化に伴い、多数の区分所有者が居住するマンションの重要性が増大していることに鑑み(以下略)」とされていることからもわかるように、分譲マンションにおける管理を想定したものであるため、オーナーが1人で賃貸に供されているマンションなどは、ここではマンションとされない。ただし、2人以上いた区分所有者が1人になった場合でも、区分所有法は適用される。 2004年、国土交通省は、「中高層共同住宅標準管理規約」の改正に当たり、「分譲の中高層共同住宅を指す法令用語として『マンション』の用語が定着している状況」を理由に、名称を「マンション標準管理規約」と変更した。2015年の国土交通省の調査による日本のマンションの総戸数は約600万戸で、うち団地にあるものは200万戸とされる。 語源である英語では、集合住宅をアパートメント (apartment) と呼び、賃貸物件ならばアパートメント・レンタル (apartment rental (略:rental))、分譲物件ならば種類によって、主にコンドミニアム(またはコンドミニウム) (condominium (略:condo))、と(housing cooperative (略:coop))に分かれ、マンション(mansion)は米国と英国で豪邸という意味になる。 イギリスでは、集合住宅の中の一件をフラット (flat) と呼ぶのがもっとも一般的である。その他に社会政策で普及したタワーブロック (Tower block)、逆に高級感をだしたマンションブロック (Mansion block) などの語もあるが、イギリス以外では一般的ではない。日本語の「マンション」の語源となった Mansion Block の例としては、Devon Mansions などがある。 日本は、マンション学事典(3-5頁)で、マンション草創期(1950年代-1960年代前半)、マンション大衆化期(1960年代後半-1970年代)、マンション質向上期(1980年代-1990年代前半)、多様ストック形成期(1990年代後半- )の4期に分けられている。マンション草創期は、「マンション」の語源にも関係するように一般庶民には無縁なデラックス志向のものに限られ、その一方で建物の区分所有が広まり始めた事を受け区分所有法の制定などがあった。マンション大衆化期は、マンションの普及が促されるに伴い徐々に住宅ローン制度が広まる、その一方で後述する建設時などのトラブルが表面化し出した時期でもある。マンション質向上期は、建築技術の進歩、バブル景気などの好景気を受けて、高層化の進展、居住性の向上も進んだ時期である一方で、マンション草創期等につくられたマンションの大規模修繕、建替えの必要性の問題が表面化してきた。その後の時期は、単身世帯の増加、高齢化の進展などを背景に、想定される利用者層などが様々なタイプのマンションが市場に登場している。また、マンションにIoTを搭載した「スマートホーム」も話題になっており、マンションの先進化が進んでいる。 インナーシティの高密度開発のために住宅助成金制度を改正(1946)、67年まで高層住宅ブームだった。しかしタワーは育児・防犯に問題が大きいとの一連の調査結果、そして上位7社で7~8割という建設会社の寡占から批判を集め、ローナン・ポイント高層住宅のガス爆発・崩落事故(1968)を機に高層の公営住宅の建設は中止された。 産業振興・人口増加に対応し、60年代には大規模再開発事業が盛んになり、中高層住宅も数多く建設された。その後、石油危機を契機に「人間規模の都市計画」に都市法も転換する。社会住宅建設や小工業・手工業のパリへの維持による「均衡のとれた都市づくり」が追求され、60年代よりもはるかに厳しい建物の高度制限や容積率制限が導入された。 ル・コルビュジエのアントワープ計画(1933)を踏まえて、1960年代にアムステルダムに一辺80~400mもの巨大高層住棟から構成されるバイミール・ニュータウンが建設された。低所得オランダ人向けの計画だったが高層は全くの不人気で、結果的に移民労働者世帯が居住し、40種類以上の言語が話される「コミュニケーションなきコミュニティ」となる。これとすぐ外の環境を「わがもの意識」で見守れない空間性と相まって、犯罪・破壊・空家急増をもたらした。こうした高層団地の悲惨な現状を受け、1970年代以降にはオランダの各都市圏の集合住宅建設は、幼児のいる家族向けにはタウンハウス・クラスターとして建設されることになった。 アメリカ合衆国では、マンハッタンに1930年代から超高層マンションが林立するようになっていた。戦後はモータリゼーションと並行し、持家所有と郊外開発が進む。その一方、中心市街地ではスラムクリアランスを目的とする公共住宅法(1937)以来、マイノリティのコミュニティを全面的に破壊しながら中高層の公共住宅が建設された*2。しかし大規模な高層住宅ほど、エレベーター、廊下、空地などお互いの監視の目の届かないスペースが生まれるために、強盗、窃盗、脅迫、強姦、殺人といった凶悪犯罪の温床(13階建以上で千人当たり年間20件)となって退去者も急増し荒廃する。こうした治安問題を背景に、プルーイット・アイゴー団地の全面爆破(1974)と中低層団地への建て替えに代表されるように、公共住宅の高層化は下火になった。 マンションは、対象とする利用者層、目的から、次のような用語例がある。 ファミリー型: 専用部分はnDK型やnLDK型と呼ばれる、n個の居室とダイニングキッチン、リビングなどから構成されることが多い。 ワンルーム型: 居室、ダイニング、寝室等に仕切りがなく一体になっている。ただし、トイレや風呂場は別になっている。 マンションの用途は住戸であるが、居住者層等から、さらに細分化され、それに対応した様々なものが市場に出ている。 土地、敷地利用権の権利態様から、次のようなものに大別される。 各室(専有部分)を入居者が所有することが基本で、敷地も各専有部分所有者の共有とするもの。 各室(専有部分)を入居者が所有することが基本だが、敷地は定期借地権等の設定を受けて各専有部分所有者が借地権を準共有するもの(いわゆる定期借地権マンション等)。 建物全体と敷地が同一の所有形態で、専有部分にあたる各室を賃貸に供しているもの(いわゆる賃貸マンション)。入口に管理する不動産業者とその連絡先が書かれたプレートや「入居者募集」と書かれた貼り紙等が取り付けられている場合が多い。 各室(専有部分)ごとに所有者がおり、敷地利用権も各専有部分所有者の共有もしくは借地権準共有であるが、建設当初の販売時から賃貸に供されることを前提としたもの(いわゆる投資用物件マンション、居住者-借主側から見ると「賃貸マンション」に含まれる)。 自ら居住するための住宅を建設するものが組合を結成し、協同して事業計画を進め、土地の取得、建設の設計、工事発注、その他の業務を行い、住宅を取得する方式(コーポラティブ方式、コーポラティブハウス参照)。将来の建替え時の意思統一の円滑化の観点からも、専有部分に当たる部分も組合で共有する方法にはメリットがあるという。 日本や大韓民国などにおいては、日本の区分所有法のような関係法令により、一棟の建物及び敷地を、専有部分、共用部分、敷地というように分類するが、欧米では、土地と建物を不動産として区別せず、敷地利用権という概念がない国が多い。さらに、共同住宅の普及の進む国、地域においては、法令やその運用により、区分所有権に基づく利用の自由と区分所有者の共同の利益の調和が図られる。 上記の3.以外は、専有部分所有者(区分所有者)たちにより形成される管理組合により運営されて行くことになるが、共同住宅の普及の進む国等では、それぞれ法令の整備を進めている。日本では、マンションの管理運営は建物の区分所有等に関する法律(区分所有法)によって定められており、区分所有者と管理組合が主体となって管理運営を行うこととされている。なお、上記の1.において、年月の経過と共に、専有部分を賃貸する区分所有者が増えていく傾向があり(「賃貸化」)、管理上の問題点の一つとされている。 区分所有建物のイメージ例(専有部分と共用部分) 201、202、301、302の各号室:住戸(各戸前のバルコニーの専用使用権付) 高層マンションでも、上記イメージの延長となる。こうしたマンションの全景は、バルコニーの部分が凹んだような外観となることが多い。大川端リバーシティ21 センチュリーパークタワー 「規約共用部分」とは管理規約により共用部分とされる部分で、「法定共用部分」とは法令上当然に共用部分となる部分をいう(区分所有法第4条)。 参考:『平成21年度版 宅建ポイントマスターI 民法等』TAC マンションの歴史は高層化の歴史でもあり、中高層のマンション建設時には、建設工事の騒音、振動、中高層の建物ができることによる景観、日照等への影響、ビル風、テレビや携帯電話の電波障害をめぐって周辺住民との間にトラブルが起こることがある。日本では、1976年に建築基準法に日影規制が定められるきっかけともなった。また、電波障害対策として、周辺の住民に対し、ケーブルテレビ等による再送信の補償が行われることもある。 日本では、度々、報道や訴訟の対象とされている。個別のトラブル事例については、該当する事例の項目を参照されたい。国立マンション訴訟のように住民の景観利益を認めた事例(ただし、すでにできあがったマンションの撤去を求めた住民の請求に関しては却下)が注目された。この事例では、国立市長(当時。反対運動関係者でもあった)が市議会などで「違法建築」と発言したことが、事業者に対する営業妨害にあたると認められたが、このように反対運動の手段の「正当性」が問題となる事例も見られる。 日本では、2000年から2005年頃にかけて、バブル経済崩壊後の企業がリストラの一環として保有する土地を放出し、政府の景気対策もあいまって、東京都心部などではマンション建設に弾みがつき、都心居住を望む人々から割安感・買い得感に基づくマンション需要が急増し、都心回帰現象が生じたことがある。そこで、大都市の都心に近く工場跡地の多かった東京都江東区などではマンションの素地の供給とマンションの需要から「建設(開発)ラッシュ」が発生し、局地的な人口急増に公共施設の整備が追いつかないという状況が問題となった。自治体側は急増する公共施設の整備に対してマンション開発業者により多くの負担を求め、業者側は負担が増加して開発コストへの反映、ひいては販売価格にも影響する形となった。 マンション開発が行われる土地は、「素地」と呼ばれることがあり、素地の価格は、マンション開発の投資採算性の立場から、法令上許容される床面積を重視して評価することとなる。 マンションは居住の用に供するため、躯体は、強風や振動に対する安定性のある鉄筋コンクリート造が望ましいとされる。一方で、鉄筋コンクリート造は鉄骨造に比べて建物の自重が大きくなりがちで、建築物の高層化、大スパン化を目指す上で柱が邪魔になるため、「強度の高いコンクリートを使うことによって、いかに邪魔にならない柱の大きさにするか」ということを目指して、各国で高強度コンクリートの開発が進められた。日本でも、超高層マンションを中心に、高強度コンクリートの使用が広がっている。 躯体より寿命の短い配管の付替リスクを分離するため、現在では、配管を部屋の中に通す内配管方式に代わり、マンションの基幹配管を分離して建てるスケルトン・インフィル住宅(外配管方式)を採用するマンションが増大している。 住宅におけるIT化の進展に伴い、電気設備の容量、インターネット通信の光ファイバーの有無が重要性を増している。既存のマンションでこれらの新増設を行うには、共用部分の変更に当たる工事が必要となり、各区分所有者が各自自由に回線を引き込めない場合がある。 日本の場合、駐輪・駐車スペースが不足しているマンションが散見される。ただし、逆に駐車場の空きが発生すると、入居後に、駐車場の駐車場管理費又は利用料が確保できず、それを財源の一部とする修繕計画等の見直を迫られるなど管理組合運営に影響が出てくることとなる。 2005年11月、建築確認申請に添付する「構造計算書」の数値偽造が発覚し、結果的に建築基準法の耐震基準を満たさないマンションが多数建設・販売されることとなった。販売済みのマンションでは購入者に対する補償問題(瑕疵担保責任)、完成前のマンションでは取り壊し、また建設業者や不動産業者倒産などの影響が出ている。 マンション購入時は、人々は建物や環境、立地というハード面を重視する傾向がある。一方、マンション管理士の立場からは、「人と人とが一緒に住む」(共同生活の場)というソフト面に重点を置くことも提唱され、手段として、人間関係の構築、子育て、高齢者への福祉等、インターネット活用、などが例示されている。 近年では人々のライフスタイルが多様化しているため、特定の特徴を備えたマンションを求める人々もいる。例えば、ペットを飼う人々のために「ペット飼育可」という条件になっているマンション、さらにはペット用に室内設計に工夫されているそれ、音楽家や趣味で音楽に熱中している人々のために防音室が各戸に設置してあるマンション、オートバイ好きの人々のためにオートバイを各戸に持ち込むことができるマンション、等々等々を企画するデベロパーがあり、そういった特徴を持つ人々の間では人気を博している(こうしたマンションでは、住民どうしが似たライフスタイルを持ち、互いを理解しやすいため、後述するような住民同士のトラブルがある程度防げる面もある)。 マンションでは「人と人とが一緒に住む(共同生活)」という状況であるため、利用方法等をめぐって、入居者、区分所有者間のトラブルも多く見られる。 マンション内で最も多いトラブルに騒音がある。隣室や上下階の生活騒音は、法令等の違反となるような大音量でなくとも、音質や頻度によっては不快に感じることがあり、またその程度が人によって大きく異なる。法令や管理規約に違反しないかぎり、当事者間の問題となる。上階からの騒音は床スラブが厚いほど、また直張りよりも二重床のほうが軽減される。ただし配管などを通して音が漏れてくる場合もある。1990年代初頭から急速に広まったフローリングを含め解決策といえるものとしては床や壁を厚くしたり、防音効果のある絨毯などをはさむことが考えられるが、既存マンションで改修工事としてこれらを行う場合、共用部分である躯体に手を加えることとなるため管理組合全体の問題となったり、工事に伴う騒音、振動が隣室や上下階に及ぶこととなることから困難な場合がある。1980年代には上階や隣家の騒音をめぐる住民間の殺傷事件などが発生した事例もあったが、その後、防音技術やそれの普及の向上に伴って問題としての深刻度は低下している。 近年では、ペット飼育に関するトラブルや、マンション内にゴミ置場がある場合にゴミ出しをめぐるトラブルなどの他に、生活習慣が異なる外国人居住者とのトラブル(上記の騒音の他にも、管理費を払わない、民泊のように不特定多数の他人に又貸し宿泊させる、など)といった新たな問題も発生している。 マンションは子育てを行っている世代の入居者も多いが、成長期の子どもは、立体的なものに対する感覚が未発達であり、高いところに住むという意識が薄い。建築基準法上では、ベランダの手すりの安全上必要な高さは110cm以上とされているが(建築基準法施行令第126条)、これでは子どもの転落事故に発展することもある。 日本では近年、自治体によって《子育て支援マンション》に関する条例を制定する例が増えている。多くの場合実態は様々であるが、多くは一定の基準を満たすことで《子育てマンション》と認定し、結果としてマンションの資産価値あがるというものである。基準としては、共用部分にキッズルームを設ける、などがある。 上述のごとく、概して駐車場が不足しているマンションは多く、周辺にも手ごろな駐車場が存在しない場合、新たに車を所有しようと考える居住者は、既に駐車場を利用している居住者が使用するのをやめそれが空くのを待つ順番待ちに加わることになる。需給の差が大きかったり入れ替わりの速度が遅いと、空き待ちの状態で数年以上待たされる、などということも生じる。ただし基本的には、自治体などが開発業者に対してマンションの戸数の一定割合の駐車場を設置する義務を課している。最近では自動車の所有にこだわらない人も増え、マンション管理組合がカーシェアリングを運営、マンション付設の駐車場にその車を置き、多くの住民が車を所有せずして手軽に車を利用できる、ということを特徴として打ち出すマンションも出てきた。 建物のうち、特にマンションは、日常の維持管理、計画的な大規模修繕の実施等により、経済価値や「寿命」が大きく影響を受ける。日常の維持管理、大規模修繕は、管理組合が主体的に実施すべきものである。 マンションにおいて設立される管理組合は、区分所有者全員の加入が区分所有法で義務づけられている。一方、区分所有者が賃貸に出している場合、賃借人は管理組合員ではない。関わる項目も、原則として共有部分に関することであり、マンション標準管理規約(単棟型)では、「管理組合の業務」に「地域コミュニティにも配慮した居住者間のコミュニティ形成」を含めているが(第32条)、本来目的ではない。 日本の場合、既存の市街地には町内会(自治会)がある場合が多く、これらには賃借人であろうと居住者が加入するが、任意なので加入しない人もいる。マンション標準管理規約(単棟型)第27条のコメントでは、各居住者が任意の判断で加入する自治会費、町内会費は、管理費とは別で各自の負担として、マンションの管理組合とは区別している。住民の親睦を図るほかに、自治体事務の委任をうけて仕事をすることがある。マンションの場合、小規模であれば町内会の「班」程度となるが、大規模であれば、独自の自治会を組織して上位の「町内会連合会」などに加盟することもある。 上記の性質の差から、「管理組合=実質的に(マンション独自の)自治会」、「管理組合役員と自治会役員の選出はまったく別」などのさまざまな形態がある。実質同一であれば、賃借人の問題、実質別であれば、業務の切り分け(例:共有の防災施設の扱いは誰がおこなうか)、自治体の委任事務の扱いなどの課題がある。 新築時の分譲と使用開始後の「中古」売買に分けられる。マンションの売買については、構造面、権利面の特殊性等から、他の建物、土地の取引とは異なる特徴がある。 マンションに限らず建物は、経年に伴う劣化、機能的・経済的劣化、被災による損壊等を避けられないため、最終的には、建替え・解体を検討することとなる。 特に、マンションは、施工の質や維持管理の状態等により、「寿命」に大きな差異が生ずることもあり、さらに、多数の権利者が関係し、建替えに当たっては、建替えに参加しない者の専有部分を取得するなど、その権利者間の調整が重要である。国土交通省は、「マンションの建替えに向けた合意形成に関するマニュアル」及び「マンションの建替えか修繕かを判断するためのマニュアル」を作成している。これらマニュアルでは、合意形成については、発意から準備段階-検討段階-計画段階を経て建替え決議をゴールとし、事業実施については、建替組合の設立段階-権利変換段階-工事実施段階を経て再入居・新管理組合設立段階まで盛り込まれている。建替えか修繕かの判断については、費用対改善効果を把握し、それに基づき総合的に判断するものとされている。専有部分#売渡請求権、専有部分#買取請求権も参照されたい。 各国では様々な法制の整備が進められている。例えばアメリカ合衆国では、「区分所有関係の解消手続き」を区分所有権の80%以上の賛成により行い、専有部分及び共有部分の所有権を組合に帰属させた上で建替えを進めることとしているという。 日本では、以下の2つの法律がある。 建て替えそのものの手続きなどを迅速に出来るようにした「マンションの建替え等の円滑化に関する法律」がある。 区分所有法により、管理組合総会において区分所有者及び議決権の各5分の4以上の賛成により建替えを決議できる。建替え決議の要件として、以前は様々な規定があったが、2003年に大幅に緩和された。さらに、マンションの建替え等の円滑化に関する法律が制定されている。同法では、区分所有法の建替え決議が成立した場合は、マンション建替組合を設立することができ、組合が建替え不参加者への区分所有権売渡請求などを行えることとしている。2002年の国土交通省の発表によると、81例全てが100%の合意で建替えられている。 人口減少と高齢化が進む状態では、マンション住民の高齢化、死亡により空室が増加し、維持費の調達が困難になった荒廃マンションが増加する。高齢化による荒廃マンションの増加を経験したイギリスは、高層マンションの建設を禁止するとともに、荒廃し、スラムとなったマンションを税金で取り壊している。日本は急速な高齢化が進んでいるものの、他国のこういった事例に気づく動きがないことを、藻谷浩介が指摘している。 マンションは築年数の経過すると大規模修繕を行う必要がある。資産価値の維持や老朽化の防止のため。一般的に12年に1度の頻度で行う。その費用は居住者からの修繕費積立金で補う。金額は月々1万円~。マンションの規模によって異なるので、一概にいくらというわけではない。 設計、施工、販売、管理とそれぞれの業者が存在する。 管理規約 ルームシェア マンション管理業 長期使用製品安全点検制度 スケルトン・インフィル住宅 外断熱工法 地下室マンション 構造計算書 国立マンション訴訟 構造計算書偽造問題 タウンハウス アパート 長屋 団地 ゲーテッド・コミュニティ デザイナーズマンション 超高層マンション 大規模マンション マンション管理センター マンション管理業協会 日本マンション学会 都市再生機構 リゾートマンション ワンルームマンション マスターズマンション(高齢者向け分譲マンション) 短期賃貸マンション(ウィークリーマンション、マンスリーマンション) 高齢者専用賃貸住宅(現:サービス付き高齢者向け住宅) ペット共生マンション ^ a b 不動産協会『日本の不動産業』2010年版10頁 ^ 『不動産の公正競争規約』 不動産公正取引協議会連合会 不動産の表示に関する公正競争規約施行規則3条(物件の種別) ^ 『建築動態統計調査 用語の定義』国土交通省 ^ 国土交通省・分譲マンションストック数(平成21年末現在) ^ 国土交通省 『中高層共同住宅標準管理規約の改正について』2010年6月26日閲覧 ^ \"「全員賛成」要件緩和へ 集合住宅の再開発 3分の2で可能に\"中日新聞2015年12月28日付朝刊、総合面10版3ページ ^ 湯川利和「まもりやすい集合住宅」学芸出版社、2001 ^ 小玉徹・大場茂明・檜谷美恵子・平山洋介「欧米の住宅政策」ミネルヴァ書房、1999 ^ 原田純孝・広渡清吾・吉田克己・戒能通厚・渡辺俊一「現代の都市法」東京大学出版会、1993 ^ 湯川利和「まもりやすい集合住宅」学芸出版社、2001 ^ 湯川利和「まもりやすい集合住宅」学芸出版社、2001 ^ 『マンション学事典』17頁 ^ 『第52回“マイホームプア”からの脱却「200年住宅ビジョン」の中身を検証する:住宅情報 - 日経住宅サーチ』2010年11月7日閲覧[リンク切れ] ^ マンションには様々な階層のものがあるが、低層:2階以下、中層:3-5階、高層:6階以上、消防法で規定の31m超とすることが多いという。さらに高層には超高層マンションという概念もある(『マンション学事典』65頁)。 ^ 最高裁判所ホームページ判例集、制作:国土交通省 運営:不動産適正取引推進機構 『不動産トラブル事例データベース』 インターネット等でのマンション建設反対と名誉毀損 ^ 江東区の「マンションラッシュ」事例は顕著な事例として代表的に取り上げた。日本では2000年から2005年頃にかけて各地で発生したものであり、個別事例の詳細は本記事では割愛する。 ^ 江東区『いただいたご意見と回答-豊洲の課題山積』『マンション急増対策の現状と課題 』 ^ 『新・要説不動産鑑定評価基準』251頁 ^ 大成建設 『快適空間を創るコンクリート』2010年6月5日閲覧 ^ 日本建築構造技術者協会 『コンクリート』- 高強度・超高強度コンクリート』 2010年6月5日閲覧 ^ 日本の場合、マンション標準管理規約では、「建物の躯体部分に相当程度の加工を要するものではなく、外観を見苦しくない程度に復元するのであれば」総会の普通決議で可能としている(単棟型第47条コメント)。 ^ 国土交通省作成のマンション標準管理規約では、「マンションの住戸の数に比べて駐車場の収容台数が不足しており(中略)という一般的状況を前提」としている(単棟型第15条コメント)。 ^ 不動産鑑定評価基準でも建物や環境、立地というハード面と建物・敷地に関する権利に関する事項が重視されている(『新・要説 不動産鑑定評価基準』293-296頁)。 ^ 『マンション学事典』388-406頁 ^ 町内会費等の支払いについての対応は - 財団法人マンション管理センター ^ 売れ残りにより中古扱いとなる場合もある。 ^ 不動産適正取引推進機構 『諸外国におけるマンション建替え法制』 ^ 建替え決議の要件として様々な要件を規定するという立法例は韓国にもある(不動産適正取引推進機構『諸外国におけるマンション建替え法制』)。 ^ 『ニッポンの地域力』 藻谷浩介 日本経済新聞出版 2007年9月 小菊豊久『マンションは大丈夫か?住居として資産として 』2000年 文藝春秋 ISBN 978-4166601196 編:日本マンション学会 『マンション学事典』 民事法研究会、2008年。ISBN 9784896284577。 週刊ダイヤモンドは、定期的に日本の分譲マンションを評価している。2007年6月30日号 国土交通省マンション政策室監修、(財)マンション管理センター編著『平成21年度版 マンション管理の知識』2009年 住宅新報社 ISBN 978-4789229890 国土交通省『平成20年度マンション総合調査結果について』平成21年4月10日、19頁、 不動産協会『日本の不動産業』 2010年6月19日閲覧 監修日本不動産鑑定協会 編著 調査研究委員会鑑定評価理論研究会『新・要説不動産鑑定評価基準』 住宅新報社 2010年 ISBN 9784789232296 国土交通省 中高層共同住宅標準管理規約の改正について - 「中高層共同住宅標準管理規約」は「マンション標準管理規約」と変更された。 「マンションの建替えに向けた合意形成に関するマニュアル」及び「マンションの建替えか修繕かを判断するためのマニュアル」の作成について 一般社団法人マンション管理業協会 一般社団法人マンション計画修繕施工協会 NPO法人集合住宅管理組合センター 大規模修繕の教科書", "共用施設(きょうようしせつ)とは、住居用マンションに住む住民が共同で使用できる施設のことを言う。建物の区分所有等に関する法律では、専有部分と共用部分が定義されているが、共用施設は共用部分にあたる。共用施設は全住民が使用できる生活利便性のある施設を特に意味しているため、共用部分であっても柱や壁、ベランダなどについては、共用施設と通常呼ばない。管理責任は管理組合にあるが、マンション管理会社に管理を委託していることが多い。売店の運営などはさらに業者に再委託することがある。 共用施設の設置には建築費、ランニングコストがかかるため、一戸あたりの負担が小さく済む大規模マンションで多く設置される傾向にある。 集会室、会議室 ゲストルーム 駐車場、駐輪場 キッズルーム、託児所 公園 - 住民専用の場合と、誰でも入れる公開空地の場合がある。 売店、コンビニエンスストア - 通常、住民専用ではないが、実質的に顧客がほとんど住民のことは多い。 プール ジム パーティルーム マスターズマンション(高齢者向け分譲マンション)には、大浴場やレストランが設置されている。", "指定工事店(していこうじてん)とは施工業者の業態の一つで、主に設備関連に携わる工事店をいう。 日本では、講習会や資格試験を受け、関係諸官庁やメーカー、若しくは元請けに対して指定工事に関わる申請や届け出等を行なった後に一定以上の技量や資格を有すると認められて、指定した工事を特定の工事範囲内、若しくは特定の地域内で独占的に事業を行なう施工業者若しくは工事業をいう。一般的には地方自治体から指定を受けて上下水道の施工に携わる企業若しくは事業所を指すことが多い。 地方自治体では、上下水道工事に携わる企業や事業所を対象にして事業体ごとに登録制を採用して監督指導および管理しており、多くは市町村単位でこれを行なっている。 専属の給水装置工事主任技術者(国家資格)が在籍していることや水道設備工事施工のための機材を保有していることが必要条件とされている。 一般的には“水道屋”、“設備屋”、“設備家”の中で、正規の認可企業であるのが「指定工事店」である。指定工事店は、ほとんどの企業が10人以下の社員で構成されることが多い。 建設業のなかでも特に3Kと呼ばれる業種のひとつとして挙げられる向きもあり、日ごろは目立たない職種であるが、住宅等にあっては建物内の漏水の有無をメーターから読み取り日常的な使用量と比較して異常が予想される際には関係官庁や使用者に連絡するなど、水道行政の最前線に位置付けられている。 上水道の新設・増設・修理 排水設備工事 高度な仕組みをもつ機器にあっては、設置や調整の際に一定水準以上の専門知識が求められるものがあり、有資格者が施工・調整を行なわないと機器の機能を発揮できないものがある。指定工事店若しくは指定工事業者はこのような機器を対象に独占して施工・調整する。 電気設備 空調設備 通信設備 電話設備 工事を発注する施主の立場ではノウハウの流出を防止する目的で、特定工事にあっては施主工事がある。このような特定工事では施主が指定する関連企業や工事店、あるいは特定企業に発注し、施主の期待する品質を満たすために施工する。このような発注先の工事業者を指定工事店、若しくは指定工事業者という。本体工事とは別に施工を行なう。 防犯・防護を扱う代表的な業種である銀行では外部からの侵入や犯罪に対して防御するために部外者に情報が漏洩しないように工事店や指定機器メーカーを指定する場合が多い。 金庫工事 防犯工事 物品販売の代表的な業種で大規模な床面積をもつ百貨店やスーパーマーケットでは独自の陳列ノウハウや間取りのレイアウトがあり、客の動線を熟知した什器備品の陳列を行なう内装業者や家具業者が存在する。開店セールまでの工事工程は元より出店してくるテナント各店との調整などを行なう。 内装工事 家具工事 上水道 下水道 建設業 施工 水の道" ]
ABC01-02-0162
世界の自動車メーカーで、「ボルボ」といえばスウェーデンですが、「ヒュンダイ」といえばどこの国のメーカーでしょう?
大韓民国
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[ "大韓民国", "慶尚北道", "釜山広域市", "浦項市", "大田広域市" ]
[ "大韓民国 대한민국 国の標語:홍익인간 (和訳例 : 弘益人間)(建国理念、デ・ファクト) 国歌:애국가 (愛國歌)(朝鮮語) 愛国歌 大韓民国(だいかんみんこく、朝鮮語: 대한민국、漢字: 大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島(韓半島)南部を実効支配する東アジアの共和制国家であり、戦後の冷戦で誕生した分断国家。 憲法上は鴨緑江、豆満江以南の「朝鮮半島及び付属島嶼」全域を領土とするが、現在、北緯38度付近の軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治下にあり施政権は及んでいない。朝鮮戦争で争った北朝鮮とは1953年に休戦したが、その後も断続的に軍事的対立や小規模な衝突が発生している。 政治面は1980年代半ばまで独裁体制が取られていたが、1987年の民主化宣言によって成立し、現在まで続いている第六共和国憲法に基づく体制は民主主義政体と評価される。 経済面は1960年代前半まで世界最貧国グループにあったため、独自に資金や技術を調達できなかった。しかし、ベトナム戦争参戦で獲得したドル資金と、日本からの1960年代半ばから1990年までの約25年に渡る円借款およびその後も続いた技術指導や技術援助により、社会インフラを構築し輸出産業が育ち経済発展を遂げた。これは漢江の奇跡と呼ばれ、国内総生産(GDP)で世界11位(2015年時点)となっている。 現在では韓国全体のGDPで東京を多少下回る程度にまで成長した。 隣国ではあるが、歴史的経緯や政治・教育などの誘導により韓国民における反日感情は著しく高く、世界的に見てもその傾向はトップクラスであるものの、日本・韓国相互に、貿易総額で第3位(2016年)の貿易相手国であり、経済的結び付きも高い。 国土面積は日本の約26%で(北朝鮮を除く)、山地が多く平野部は少ない。森林と農地で国土の約81%を占める。ソウル首都圏には全人口5千万人の約半数が居住し、世界の都市圏人口の順位は第5位である。海上では南と東に日本、西に中華人民共和国と各々国境を接する。 正式名称は、ハングル表記: 대한민국、漢字表記: 大韓民國。読みは、テハンミングク 発音[ヘルプ/ファイル]。略称は、한국(韓國、ハングク)である。 「韓」は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる馬韓、辰韓、弁韓の国々の名称に由来する朝鮮民族の別名で、1897年に当時の朝鮮国(朝鮮王朝)が清から独立するにあたって使用した国号「大韓帝国」に由来している。(朝鮮国が国号を「大韓帝国」とした経緯については大韓帝国#国名を参照のこと)1910年の日韓併合後、朝鮮の地域呼称は「韓」から「朝鮮」へ戻されたが、1919年に朝鮮独立運動の活動家達が中華民国で「朝鮮の亡命政権」(大韓民国臨時政府)を樹立する際、共和制国家の名称として「大韓」と「民国」を採用した(名称採用の経緯については大韓民国臨時政府#名称の由来参照のこと)。 現在の「大韓民国」という国号は、李承晩、金九などの「大韓民国臨時政府」を正当な独立運動の主体と考える大韓独立促成国民会(独促国民会)の強い意向により決まった。 1945年の日本の降伏時点で、連合国は大韓民国臨時政府の政府承認を否定し、朝鮮全土を連合国軍の占領下に置いた。その後、1948年に米軍統治下の朝鮮のみで独立することが決まると、米軍は憲法制定(制憲)国会を招集して独立準備に当たらせた。その際、憲法起草委員会が新国家の憲法起草と共に新国家の国号と年号も決めることになり、国号候補として「大韓民国」、「高麗共和国」、「朝鮮共和国」、「韓国」の4つが挙げられた。最終的には、1948年6月23日に採決が行われ、独促国民会が推す「大韓民国」が新国家の国号に決定した。なお、委員会が国号を決定しかねていたある日、臨時政府側の池青天(チ・チョンチョン)将軍(光復軍司令官)が起草委員でもないのに突然委員会に姿を現し、「国号は『大韓民国』、年号は『檀紀』に即決せよ、さもないと割腹自殺する。」と頑張るハプニングがあったという。 日本語表記は、大韓民国。略称は、韓国。ただし、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府を「朝鮮の合法な政府」として支持する者(朝鮮総連等)の間では、南朝鮮(みなみちょうせん)という呼称が使用される。 また、北韓(北朝鮮)との対比で南韓と呼ばれる場合もある。大韓民国の建国からしばらくの日本では、韓国の他に、南朝鮮・南鮮などの呼称も一般的であった。だが、1965年の日韓基本条約締結で国交が樹立されてからは、大韓民国(韓国)の呼称も使用されるようになるが、メディア等では「南朝鮮・大韓民国」と二つ並べて呼称されることが多かった。80年代中ごろ以降、南朝鮮・南鮮の呼称は公式の場面でほとんど用いられなくなっている。日本語での伝統的な異称としては高麗(こま、「狛」とも表記)があり、「こまひと(高麗人)」といえば朝鮮半島の人々の異称であった。 ヨーロッパ諸語でのコリア (Korea) はマルコ・ポーロの『東方見聞録』における「高麗(고려 [koɾjʌ]、コリョ)」に由来する。大韓民国のヨーロッパ諸語の呼称は Republic of Korea(英語)を公式に使用している。また、北朝鮮を North Korea、韓国を South Korea と略称することも多い。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府は、自国や自民族の呼称として「朝鮮」を用いており、かつ韓国を主権国家として正式に承認していない。南北朝鮮は、東西ドイツのように条約(東西ドイツ基本条約)に基づいて相互を国家承認していない。1991年の南北基本合意書に「相手方の体制を認定し尊重する」(第1条)との規定はあるが、合意書が批准を経たものでないため、法的拘束力を持っていない。このため、北朝鮮(朝国)の人々は、韓国政府が実効支配している地域を南朝鮮(みなみちょうせん、(남조선(ナムジョソン))と呼んでいる。韓国政府をアメリカ合衆国の傀儡政権と見なして、「南朝鮮かいらい」と表記することもしばしばである。 韓国(南朝鮮)の人々も、大韓民国建国まで、韓国政府の実効支配区域(38度線以南の朝鮮)に居住する朝鮮民族の間でも、自国や自民族の呼称として「朝鮮」を用いていた。しかし、韓国と北朝鮮は、1948年の両者の建国以来、「朝鮮の合法な政府」としての地位を巡って対立しており、1950年には朝鮮戦争によって甚大な被害をこうむっている。このため、韓国の人々は、大韓民国建国以降は、敵対する北朝鮮が半島全土の呼称として「朝鮮」を用いていることや、韓国を「南朝鮮」と呼称していること、韓国人から歴史的にあまり芳しくないと考えられている日本統治時代や李氏朝鮮を想起させることなどの歴史的・政治的事情により、「朝鮮」という表現を避ける傾向が強い。 これらの事情のため、韓国人が「朝鮮民族」「朝鮮語」などの言葉を日常で使うことはほとんどなく、「韓民族」「韓国語」という表現が主流となっている。また、朝鮮半島を「韓半島」、朝鮮戦争を「韓国戦争」または「韓国動乱」などと呼称するのが一般的となっている。朝鮮の南北についても「北韓・南韓」と呼んでいる。更に、朝鮮人参も「高麗人参」という。 ただし、ごく一部の民族民主 (NL) 系人士が自国のことを「南朝鮮」と呼んでいる他、ホテル名や学校名、朝鮮日報のような大韓民国成立以前から存在する組織など、極少数の固有名詞では、敢えて歴史的な事実を尊重して、歴史的感覚から「高麗」「新羅」と同様に「朝鮮」を使用している場合もある。 朝鮮は1910年の韓国併合によって日本の統治下に入り、国際的に併合の合法性を問題視する国も無かった。だが、第二次世界大戦の勃発で日本と連合国が敵対するようになると、連合国の首脳は1943年に発表したカイロ宣言の中で大戦後の朝鮮に「自由且独立ノモノタラシムル」事を宣言した。1945年2月、ヤルタ協定にて連合国首脳は戦後朝鮮を米・英・中・ソ四国による信託統治下に置くことを決定、ヤルタ会談と米軍との秘密協定に基づいてソ連軍は8月9日の対日参戦後速やかに朝鮮半島へ侵攻を開始した。1945年8月15日、日本がポツダム宣言の受託を宣言したことで朝鮮の日本統治からの離脱が決定的となった。韓国ではこれを「光復」と呼び、8月15日を光復節という祝日に定めている(北朝鮮も同日を祝日に定めている)。 光復後、朝鮮は北緯38度以北(北朝鮮)をソ連軍に、以南(南朝鮮)をアメリカ軍にそれぞれ占領された。米軍司令部は9月7日に朝鮮における軍政(占領統治)実施を宣言し、独立運動家らが自発的に樹立した朝鮮人民共和国や大韓民国臨時政府の政府承認を否定した。9月9日に米軍は朝鮮総督府から降伏文書の署名を受け、南朝鮮では新設された在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が朝鮮総督府の統治機構を一部復活させて直接統治を実施した。連合国は同年12月のモスクワ三国外相会議にて朝鮮半島の信託統治を協定し、翌1946年1月から京城府で信託統治実施に向けた米ソ共同委員会を開催した。だが、共同委員会は信託統治受け入れに反対(反託)する李承晩、金九ら大韓民国臨時政府系の右派の扱いを巡って紛糾し、米ソ対立から1947年7月に決裂した。 アメリカは朝鮮問題を国際連合に持ち込み、国連は1947年11月14日に国連監視下で南北朝鮮総選挙と統一政府樹立を行うことを決定した。翌1948年1月に国連は国連朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮へ派遣し、総選挙実施の可能性調査を行なった。ソ連がUNTCOKの入北を拒否した為、アメリカ主導の国連は2月26日にUNTCOKが活動可能な南朝鮮単独での総選挙の実施を決定、金九、金奎植ら大韓民国臨時政府重鎮や北朝鮮人民委員会による南部単独での総選挙反対を押し切って5月10日に南部単独総選挙を実施した。選挙によって成立した制憲議会は7月12日に制憲憲法を制定、7月20日には李承晩を大韓民国大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた。そして光復から3年後の1948年8月15日、李承晩が大韓民国政府樹立を宣言、同日独立祝賀会が行われ、実効支配地域を北緯38度線以南の朝鮮半島のみとしたまま大韓民国が独立国家となった。 南朝鮮単独で大韓民国が建国された翌月の1948年9月9日、大韓民国の実効支配が及ばなかった残余の朝鮮半島北部は金日成首相の下で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として独立した。互いに朝鮮半島全土を領土であると主張する分断国家はそれぞれの朝鮮統一論を掲げ、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は建国翌日の9月10日に最高人民会議の演説で「国土完整」を訴え、他方大韓民国(南朝鮮)の李承晩大統領は軍事力の行使をも視野に入れた「北進統一」を唱えた。互いを併呑しようとする両政府は1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争によって、実際に干戈を交える事になる。 1950年6月25日、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)は韓国との境界であった北緯38度線を越えて南下を開始し、朝鮮戦争(韓国動乱)が勃発した。その頃、弱体である韓国軍は敗退を重ね、洛東江以東の釜山周辺にまで追い詰められた。北朝鮮の侵攻に対して国連安保理は非難決議を上げ、米国を中心とする西側諸国は国連軍を結成して韓国軍と共に後退戦を戦っていたが、仁川上陸作戦により北朝鮮軍の戦線を崩壊させ、反攻に転換した。韓国軍・国連軍は敗走する北朝鮮軍を追ってを鴨緑江近辺にまで侵攻した。これに対し中国が義勇軍を派遣して北朝鮮の支援を開始、韓国軍・国連軍を南に押し戻し、一時再びソウルを占領した。その後、北緯38度線付近で南北の両軍は膠着状態になり、戦争で疲弊した米国と北朝鮮は1951年7月10日から休戦合意を巡る協議を開始した。2年間に渡る戦協議の末、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定締結を以って大規模な戦闘は停止した。ただし、韓国政府は休戦協定に署名しておらず、戦争自体も協定上は停戦状態のままとなっている。この戦争により、朝鮮半島のほとんど全域が戦場となり、インフラや文化財の焼失、戦闘での死者のみならず、保導連盟事件や済州島四・三事件の例にあるように双方とも敵の協力者と見なした一般市民の大量処刑を行うなど、物的、人的被害が著しく、国土は荒廃した。また、38度線が引かれた事により朝鮮半島が分断が確定的となり、朝鮮統一問題が南北朝鮮の最重要課題となっている。 1948年に初代大統領に就任した李承晩は、日本から戦争賠償金を獲得するために「対日戦勝国(連合国の一員)」としての地位認定するよう国際社会に要求したが、連合国からは最終的に認定を拒否され、1951年の日本国との平和条約を締結することができなかった。そのため、李承晩は李承晩ラインの設置(1952年)や竹島の占拠(1953年)によって一方的に武力で日本の主権を奪う政策に出た。一方、国内では朝鮮戦争という危機的状況下でも権力を維持し、戦争中に釜山へ移転していた政府を休戦後に再びソウルへ戻す事が出来た。朝鮮戦争後、李承晩は政敵の排除(進歩党事件等)や反政府運動に対する厳しい弾圧とともに、権威主義的体制を固めていった。しかし、経済政策の失敗で韓国は最貧国の一員に留まっており、権威主義的な施策もあって人気は低迷していった。そのため、不正な憲法改正や選挙など法を捻じ曲げての権力の維持を図ろうとしたものの、1960年4月19日の学生デモを契機として政権は崩壊し(四月革命)、李承晩はハワイへ亡命した。 李承晩失脚後は、張勉内閣の下、政治的自由化が急速に進展したが、学生を中心とした北への合流を目指した南北統一運動が盛り上がりを見せるに至り、危機感を抱いた朴正煕少将を始めとした軍の一部が1961年5月16日にクーデターを決行し、国家再建最高会議 が権力を掌握した。第三共和国憲法の承認後、朴正煕は1963年10月に第5代大統領に当選 した。1972年、野党勢力の伸張により政権の合法的延長が難しくなった朴正煕は10月17日、非常戒厳令を発し憲法を改正(第四共和国)、大統領の直接選挙を廃止して、自らの永久政権化を目指した。「維新体制」と呼ばれるこの時期には反対派に対する激しい弾圧により、政治的自由が著しく狭まったが、1979年10月26日、側近の中央情報部長により朴正煕は暗殺された。 朴正煕時代は強権政治の下、朝鮮戦争以来低迷していた経済の再建を重視した。しかし、世界最貧国グループに属していた韓国は、自前で「資金」や「技術」を調達できず、いずれも、特に米国や日本など海外に依存せざるを得なかった。資金面では、米国のベトナム戦争参戦で得た巨額のドル資金や、1965年に日韓基本条約締結を契機に日本からの1990年までの約25年に渡る円借款、技術面は、日米の技術者による指導や日米企業との技術提携を通して、技術やノウハウを吸収し、鉄鋼、石油化学などの基礎産業が整備され、造船や自動車産業などの輸出産業も成長した。後に「漢江の奇跡」と呼ばれた。これにより韓国は世界最貧国の層を脱した。一方で朴政権は人材登用や産業投資に際し、自身の出身地である慶尚道を優遇し、全羅道に対しては冷遇をしたため、慶尚道と全羅道の地域対立、差別の問題が深刻になった。この問題は今に至るまで解決していない。 朴正煕の暗殺により、急速に規制が解かれた韓国の政治はソウルの春と呼ばれる民主化の兆しを見せたが、1979年12月12日より始まった粛軍クーデターにより、全斗煥陸軍少将を始めとした「新軍部」が軍を掌握した。新軍部の権力奪取の動きに対して、反対運動が各地で発生したが、80年5月17日に非常戒厳令拡大措置が発令され、政治活動の禁止と野党政治家の一斉逮捕が行われた。5月18日、光州では、戒厳軍と学生のデモ隊の衝突が起こり、これをきっかけに市民が武装蜂起したが、5月27日、全羅南道道庁に立てこもる市民軍は、戒厳軍により武力鎮圧された。(光州事件)。新軍部は朴正煕暗殺後に大統領の職を引き継いでいた崔圭夏を8月16日に辞任させ、全斗煥が大統領に就任し、憲法を改正。翌81年2月25日に行われた選挙により全斗煥が大統領に選出された。1987年、大統領の直接選挙を求める6月民主抗争が起こり、与党の盧泰愚大統領候補による6.29民主化宣言を引き出されため、大統領直接選挙を目指した改憲が約束された。しかしながら、12月に行われた大統領選挙では、野党側の有力な候補が、金泳三、金大中に分裂したために、全斗煥の後継者である盧泰愚が大統領に当選し、軍出身者の政権が続くこととなった。 全斗煥、盧泰愚の時代は、軍政に反対する民主化運動とそれに対する弾圧の激しい時代であったが、朴正熙時代から引き続いた高度な経済成長と、ソウルオリンピックの成功、中華人民共和国やソビエト連邦(1990年9月30日)との国交樹立、国際連合への南北同時加盟などにより新興工業経済国として韓国の国際的認知度の上がった時代でもあった。 1990年、金泳三率いる統一民主党が金鍾泌の率いる新民主共和党とともに盧泰愚政権の与党である民主正義党と合同(「三党合同(朝鮮語版)」)し、巨大与党である民主自由党が発足した。金泳三は1992年の大統領選挙に民主自由党の候補として出馬し当選した。金泳三は久しぶりに軍出身者でない文民の大統領であったが、旧軍事政権と協力したために実現したものだった。しかしながら、金泳三政権時代に、全斗煥、盧泰愚元大統領らに対する軍事政権下の不正追及が開始された。 1997年の大統領選挙では、長年に渡って反軍政・民主化運動に関わってきた金大中が大統領に当選した。金大中政権に於いて民主化、自由化は本格化し、国家安全企画部の改組、民主労総の合法化などが行われた。民主労総を支持基盤とした民主労働党が結成され、後に国政進出を果たした。対北朝鮮政策も「太陽政策」の下2000年6月に南北首脳会談を実現させ、分断された鉄道の連結や経済協力など南北融和が進み、近い将来の統一の期待を膨らませた。金大中は日本文化の開放も進め、日韓ワールドカップの共催を頂点に日韓の友好ムードは高まった。 2002年の大統領選挙で当選した盧武鉉は支持基盤的に金大中の後継であり、政策も引き継いだ。 2007年大統領選挙に当選した李明博、2012年大統領選挙に当選した朴槿恵により、再び政権は慶尚道系保守勢力へ戻り、各種政策も揺り戻しが起こっているが、民主的政体は大韓民国に於いてもはや定着していると言える。2017年3月には民主化以降初めての大統領弾劾が成立して朴槿恵が失脚。5月の大統領選挙に文在寅が当選し、再び革新系に政権が戻った。 大韓民国成立後の歴史は、憲法(大韓民国憲法)による政体の相違によって、7つの時代に区分される。 1945年 - 1948年:アメリカ軍政庁期(連合軍軍政期、非独立) 1948年:済州島4・3事件。 1948年5月10日:南朝鮮単独での初代総選挙が実施される。 1948年7月12日:大韓民国憲法が制定され、7月17日に公布される。 1948年 - 1960年:第一共和国期 1948年8月15日:アメリカ合衆国の承認を得て李承晩が大韓民国の独立を宣言。 1948年:済州島4・3事件継続。 1948年:麗水・順天事件。 1949年:聞慶虐殺事件。 1949年:対馬領有宣言。 1950年1月12日:アメリカ合衆国国務長官、ディーン・アチソンが「アチソンライン」を表明する。 1950年6月25日:北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮人民軍が大韓民国を奇襲し、朝鮮戦争が勃発する。 1950年:保導連盟事件。 1952年1月18日:李承晩ライン宣言により竹島を取り込む。 1953年:竹島近海の日本巡視船への銃撃開始。 1953年7月27日:「北進統一」に固執した李承晩大韓民国大統領を除いた上で、中朝連合軍代表の南日朝鮮人民軍大将と国連軍代表のウィリアム・ハリソン・Jr(英語版)アメリカ軍中将の間で朝鮮戦争休戦協定が署名される。 1953年10月1日:米韓相互防衛条約が署名され、米韓同盟が結ばれる。 1954年:韓国沿岸警備隊竹島派遣公表。 1955年8月18日:日本との経済関係断絶。 1959年12月4日:新潟日赤センター爆破未遂事件。 1960年4月27日:四月革命によって李承晩初代大統領が失脚し、第二共和国が始まる。 1960年 - 1961年:第二共和国期 朴正熙少将による5・16軍事クーデターによって国家再建最高会議が設置される。 1961年 - 1963年:国家再建最高会議(軍政)期 朴正熙が軍職を辞して大統領となり、第三共和国が始まる。 1963年 - 1972年:第三共和国期 1964年 - 1973年:ベトナムに出兵する。 1965年1月:竹島密約。 1965年6月22日:朴正煕大統領と日本国の佐藤栄作内閣総理大臣との間で日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)を批准。日本との国交を回復する。 1968年:青瓦台襲撃未遂事件。 1971年8月23日:実尾島(シルミド)事件。 1972年10月17日:十月維新後の憲法改正で第四共和国が始まる。 1972年 - 1979年:第四共和国期。 1973年8月8日:大韓民国中央情報部 (KCIA) によって日本国内に滞在していた大韓民国の民主化運動家、金大中を拉致する事件が発生し、この日本国への主権侵害によって日韓関係は悪化する。 1974年8月15日:朴正煕大統領の陸英修夫人が在日韓国人の文世光によって暗殺される文世光事件が発生する。 1976年8月18日:ポプラ事件。 1970年代:コリアゲート事件発覚。 1979年10月26日:朴正煕暗殺事件によって崔圭夏によって第五共和国が始まる(ソウルの春)。 1979年 - 1987年:第五共和国期。 1980年:5・17非常戒厳令拡大措置。 1980年5月18日 - 5月27日:光州事件。 1983年9月1日 - 大韓航空機撃墜事件。 1983年10月 - ラングーン事件。 1987年6月29日:盧泰愚による民主化宣言により第六共和国が始まる。 1987年 - 現在:第六共和国期。 1987年11月29日:大韓航空機爆破事件。 1988年 - ソウルオリンピック。 1991年:湾岸戦争に参戦。国連加盟国となる。 1997年11月21日:国際通貨基金 (IMF) に救済金融を要請したと公式発表。 1997年12月3日:国際通貨基金 (IMF) 資金支援合意書に署名。 2000年6月13日:「太陽政策」を推進していた金大中大統領が朝鮮民主主義人民共和国の金正日国防委員長と南北首脳会談を実施、6月15日に6.15南北共同宣言を締結する。 2002年:アフガニスタンに出兵する。 2003年:イラクに出兵する。 2004年9月:イラクのアルビール県にザイトゥーン部隊を派遣する。 2007年10月:盧武鉉大統領と金正日国防委員長の間で第2回南北首脳会談が行われる。 2008年:ザイトゥーン部隊をイラクから撤収する。 2010年3月26日:韓国哨戒艦沈没事件。 2010年11月23日:延坪島砲撃事件。 2014年4月16日:セウォル号沈没事故。 2018年 - 平昌オリンピック。 特別市(トゥクピョルシ、(Teukbyeol-si) 1:ソウル特別市(ソウルとくべつし) 広域市(クァンヨクシ、(Gwangyeok-si) 2:釜山広域市(プサンこういきし) 3:大邱広域市(テグこういきし) 4:仁川広域市(インチョンこういきし) 5:光州広域市(クァンジュこういきし) 6:大田広域市(テジョンこういきし) 7:蔚山広域市(ウルサンこういきし) 特別自治市(トゥクピョルヂャチシ、(Teukbyeol-jachisi) #:世宗特別自治市(セジョンとくべつじちし) 道(ト、(Do) 8:京畿道(キョンギどう) 9:江原道(カンウォンどう) 10:忠清北道(チュンチョンブクどう) 11:忠清南道(チュンチョンナムどう) 12:全羅北道(チョルラブクどう) 13:全羅南道(チョルラナムどう) 14:慶尚北道(キョンサンブクどう) 15:慶尚南道(キョンサンナムどう) 特別自治道(トゥクピョルヂャチド、(Teukbyeol-jachido) 16:済州特別自治道(チェジュとくべつじちどう) なお、現在大韓民国の統治の及んでいない黄海道、平安南道、平安北道、咸鏡南道、咸鏡北道の5つの道(以北五道)も名目上設置されている。 大韓民国は朝鮮半島全域を領土と主張し、その内の南北軍事境界線以南及びその属島を統治している。軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府によって実行統治されているが、大韓民国では北朝鮮地域を指す表現として「北韓(ほっかん)」が用いられている。 西には黄海、東には日本海に面し、大韓海峡(対馬海峡の西水道)を隔てて釜山と対馬とは約50kmの距離である。全国土面積は100,339km2で、(2017年基準、干拓事業による領土拡張)これは日本の総面積377,961km2のほぼ1/4(26%)にあたり、北海道本島の面積77,984km2の1.26倍に相当する。国土は古期造山帯が支配的である。 地震は九州など日本から伝わるものを除きほとんど発生しないことから、比較的安価に高層マンションが建設可能であり、戸建より人気がある。活火山も全く存在しない(済州島、鬱陵島は火山島だが活動していない)が少数の温泉はある。 日韓間には、竹島(韓国名:独島)領有問題が存在する他、1990年代以降、日本海(韓国名:東海)の国際的な呼称を巡って日本国政府と大韓民国政府が対立する等、幾つかの問題がある(参考:日本海呼称問題、李承晩ライン)。 1948年8月の建国以降も、日本統治時代の植林政策を受け継ぎ森林の造成を行い、1970年代以降、40年間で100億本(1日あたり約68万本)の木を植林したと韓国内で報道されている。 韓国の範囲 最北端(韓国政府の実効支配下にある地域) - 江原道高城郡 最北端(韓国政府が主張、北朝鮮政府が実効支配) - 咸鏡北道 最南端 - 馬羅島(済州特別自治道西帰浦市) 最西端(韓国政府の実効支配下にある地域) - 白翎島(ペンニョンとう、仁川広域市甕津郡) 最西端(韓国政府が主張、北朝鮮政府が実効支配) - 平安北道 最東端(韓国政府の実効支配下にある地域、韓国政府が主張) - 竹島(独島) 最東端(日本政府が主張) - 竹嶼 ケッペンの気候区分によると、ソウル、春川、堤川などの北部や内陸部、山岳地帯は亜寒帯冬季少雨気候、それ以外の地域は温帯夏雨気候および温暖湿潤気候に属する。半島状に位置しているものの、顕著な大陸性気候であり、寒暖の差が激しく気温の年較差、日較差が大きい。南部や東部沿岸部を除いて、1月の平均気温は氷点下になり、特に最低気温が低くなる。冬は大陸からの季節風の影響を受け、日本の同緯度の地域に比べると寒冷である。例えばソウルは新潟県長岡市付近と同緯度にあるが、1月の平均気温は-2.4度で、冬の寒さは日本の北東北から北海道南部と同じである。強烈なシベリア寒気団に覆われると、ソウルでも最低気温が-10〜-15度前後になり、郊外では-15度を下回ることもあるなど平年を大きく下回る寒さになることもある。また釜山は名古屋、京都と同緯度にあるが、1月の平均気温は3.2度で、東京より平均気温が2, 3度低い。全体的に、日本の北関東から東北地方や北海道南部の気温に匹敵する。この気候はオンドルを発達させた。 冬季は晴れる日が多いため朝夕の冷え込みが厳しい反面、韓国一の豪雪地帯である鬱陵島の他、過去に1mを超える積雪を観測したことのある日本海沿岸の江陵、東海市、束草や内陸の平昌郡(大関嶺)など江原道を除けば降雪量は少なく、東日本・西日本の太平洋側の降雪量と同程度かむしろ少ないくらいである。実際に、ソウル周辺地域の過去最深積雪でさえ30cm程と少ない。寒冷な気候はそれほど長く続かず、2月になれば三寒四温となり大分暖かくなり、4月に入ると桜が開花する。 済州島は九州北部の福岡県と同緯度にあり、韓国では最も温暖とされるが、冬は半島部と同様の北西季節風の影響、また(38度線以南の現在の)韓国では最高峰である漢拏山(標高1950m)がそびえる地形的要因により非常に風が強く、済州市の1月の平均気温は5~6度と東京などとほぼ同じ寒さである(体感温度はさらに低い)。西帰浦市の位置する南部は温暖で高知県や宮崎県北部の気温に匹敵する。 夏は半島部においては日本列島よりは湿気が少ない。ソウルの夏の気温は30度を超えることもよくあり、また内陸の盆地にある大邱は韓国で最も暑いとされるが、湿気が少なく、また熱帯夜になる事はほとんどないため、エアコンが無くても寝苦しいということはほとんどない。 近年は[いつ?]中国の砂漠化の進行に伴う黄砂被害の拡大が問題となっている。 最暖月22度未満・・・薄水色 最寒月-3度未満(=亜寒帯(D)の条件)・・・薄水色、水色、青色 1948年8月15日の建国以来、大韓民国は共和憲政体制を採用している。国家体制を定める憲法は、建国直前の1948年7月17日に最初の憲法を採択して以来、9回の憲法改正を経て現在に至っている。特に、国家体制を大きく変えた5回の改憲は韓国政体の歴史的な一区切りとされ、それぞれの時期に存続していた憲法は第一から第六憲法と呼称されている。それにともない、各憲法に基づいて構成されていた政体も、第一から第六共和国と呼称されている。 現在の憲法は第六共和国憲法と呼ばれ、1987年10月29日に採択された。この憲法は、5年毎の直接選挙による大統領の選出を定めている他、大統領の再選禁止なども盛り込まれており、韓国憲政史上最も民主主義的な体制を規定した内容である。第六共和国憲法に基づいた第六共和国は、1988年2月25日に盧泰愚大統領の就任以来、今日まで持続している。現在でも役人の権限が非常に強い役人社会である。腐敗が余りにも蔓延しているため、中央・地方の全公職者・公企業・国公立の教職員とされていたが、社会に与える影響力が大きいという点から記者などマスコミに携わる従事者と私立学校教職員、そのらの配偶者への接待・贈り物を禁止するキムヨンラン法が制定された。 1990年代以降は地方自治体の選挙も実施されているが、それ以前の広域自治体の首長は政府の任命、基礎自治体の首長は知事や特別市長、直轄市長による任命であった。 大陸法を採用している。三審制で最高の司法機関は大法院である。法律の合憲性、弾劾裁判、政党への解散命令、憲法訴願審判については大法院に設置される憲法裁判所で審判が行われる。 誤訳、意訳が問題になった通訳が再び担当になる事、弁護士が用意した通訳者に頼る等があり通訳が不足している。外国人が関係した刑事裁判は2012年の3249件から2014年の3790件と増加傾向にあるが韓国内の裁判所に2015年に登録されている司法通訳は計約1200人で、英語、中国語、日本語など28の通訳が選択可能だが、難しい法律用語を正確に伝えられる司法通訳の数は限られている。 加藤達也産経新聞ソウル支局長を含め、メディア側に対する民事・刑事での法的措置も頻発していて、大統領の主張・意向通りで検察が動くなど批判が多く、加藤支局長の時は韓国の検察は、記事に「朴槿恵大統領の名誉を傷つける意図」があったことを立証するためとして、記事を読んで朴氏の男女関係を臆測したインターネット掲示板2ちゃんねるの書き込みを証拠として提出するほど形振り構わない。名誉毀損の告訴が増加傾向にあり、2005年以降の9年で告訴件数は70%も増え、年間1万2000件を超えた一方で、検察当局が実際に起訴する割合は下がり、2013年の起訴率はたったの22%だった。強引な告訴の多さを示している。政府がマスコミや市民への告訴を乱発していることが国民にも影響を与えているとみられ、実際に裁判で無罪となるケースも多い。 判決も含め、韓国の司法判断は、時の政権の意向や世論の動向に影響されやすい。 韓国刑法10条2項にある「心身障害で事物を弁別したり意思を決定したりする能力が低下している場合には、刑を軽減する」を根拠として酩酊状態だと減刑される。ナヨン事件以降に酒酔減軽廃止を求める世論がある 2018年4月27日には2017年12月に隣家の幼稚園児を車に連れ込んで性的暴行し、「酒に酔って犯行を覚えていない」と主張した50代の会社員に懲役10年を宣告したため、「酒に酔って、通常の精神状態ではなかった」という被告人の主張を受け入れて懲役12年の刑で済んだナヨン事件の再来として、未成年者への性暴行をアメリカのように無期懲役にすることを求める請願に20万人以上が参加するなど廃止世論が再び強まった。 大韓民国大統領は陸軍・海軍・空軍の最高司令官であり、大統領、国防部長官、合同参謀本部議長のもとに陸海空軍本部が所属する。2011年の国防予算は約31兆4千億ウォン、兵力は陸軍約52万、海軍約6.8万人(大韓民国海兵隊2.8万人含む)、空軍約6.5万人である。26ヶ月から30ヶ月の徴兵制と志願兵制を併用しており、全ての男性には兵役義務があるが、近視等の身体的問題やその年度の予算不足のため免除や短縮勤務となる者もある。政治家の息子や有名俳優やスポーツ選手などの中には徴兵逃れをしている者もおり、度々報道されている。 大韓民国国軍の主たる国防対象は軍事境界線(38度線)を挟んで対峙する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の朝鮮人民軍であり、大半の陸上戦力を向けている。1950年に勃発した朝鮮戦争以来、朝鮮戦争休戦後の1953年に締結された米韓相互防衛条約に基づいた米韓同盟によりアメリカ軍と緊密な繋がりがあり、しばしば朝鮮半島有事を想定した米韓合同軍事演習を実施している。協定により平時の作戦統制権は韓国軍が単独行使するが、有事の際の戦時作戦統制権は少なくとも2020年代半ばまでは米軍と共同行使するため米韓連合司令部がおかれている。2008年4月に行われた米韓首脳会談において、在韓米軍を2万8,500人体制で維持することが決定されている。 また、韓国軍は国防対象を日本へも向けている。日本から韓国への策源地(敵地)攻撃能力が皆無なのとは対照的に、韓国国内から日本のほぼ全域を射程とする射程1500kmの玄武-3巡航ミサイルシリーズや、射程180km〜500kmの玄武-1・玄武-2弾道ミサイルシリーズやATACMS弾道ミサイル、イージスシステムを搭載し巡航ミサイルの発射が可能な世宗大王級駆逐艦の配備をするなど、日本本土をも攻撃可能な兵器の増強をしている。また、新造する強襲揚陸艦に竹島の韓国名である「独島」と名づけたり、最新鋭機のF-15Kに空軍参謀総長が自ら乗り込んで、日本に対して竹島の実効支配を見せ付けるために竹島上空を飛行するなどしている。さらに政府要人や軍幹部が相次いで公然と日本に軍事的に対抗する意思を示しており、盧武鉉大統領時代にはアメリカ政府に対して「日本を仮想敵国にするよう」正式に要請している。また伊藤博文を暗殺したテロリストの名を冠した潜水艦安重根や文禄・慶長の役で豊臣軍と戦った武将の名を冠した李舜臣級駆逐艦を保有し、日本に対する海軍艦艇の数的劣勢を補うために、日本本土と至近の済州島に建設中の海軍基地に独島級揚陸艦と最新鋭の214型潜水艦を配備する予定であるなど、日本に対する軍事的対抗心を露にしている。 大韓民国国家情報院 (英語表記: National Intelligence Service:NIS) - 大韓民国中央情報部 (KCIA)、国家安全企画部 (ANSP) から改称 国軍情報司令部 (英語表記: Defense Intelligence Command:DIC) 国軍機務司令部 (英語表記: Defense Security Command:DSC) - 国軍保安司令部から改称 1970年代に大韓民国大統領であった朴正煕は大韓民国独自の核兵器開発を構想しており、大韓民国の核保有を望まないアメリカ合衆国との政治問題に発展していた。2004年には過去において韓国がウラン濃縮など核兵器開発の研究を行っていた事実が発覚し、国際原子力機関(IAEA)の査察を受けている。 また、1979年の朴正煕暗殺事件以後も現職の政治家や大統領が核武装を肯定する発言が相次いでいる。ハンナラ党の鄭夢準議員や宋永仙議員は北朝鮮への対抗上、韓国は核武装を進めるべきだと述べている。2013年2月、李明博大統領は韓国国内から核武装論が出ていることについて、「愛国的で、高く評価する」、「北朝鮮と中国への警告になり、間違っているとばかり言えない」と述べた。 その他にも外国への核拡散関与が発覚することもある。2005年には大韓民国の放射性アイソトープ販売企業であるキョンド洋行が、イラン企業のパトリス社に放射性物質であるニッケル63を売ったほか、フランスからは別の放射性物質である三重水素(トリチウム)を買い入れ、パトリスに売り渡していたことが、報道された。 大韓民国は、国際連合加盟国のうち188か国と国交を結んでいる。2016年12月時点で国交の無い国連加盟国は朝鮮民主主義人民共和国、キューバ、シリア、及びマケドニア共和国の4か国である。国交締結国のうち、特にアメリカ、中国、日本とは経済または軍事のいずれかの面で結びつきが親密となっている。 1948年8月15日の朝鮮半島南部に於ける大韓民国建国以来、翌月の1948年9月9日に朝鮮半島北部にて建国された朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とは「朝鮮唯一の正統な国家」としての立場を巡り、敵対的な関係が続いた。2013年3月6日付の朝鮮労働党機関紙『労働新聞』が「米帝が核兵器を振り回せばわれわれは精密核打撃手段でソウルだけでなくワシントンまで火の海にするだろう」と大韓民国とアメリカ合衆国を並べて非難したように、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国は南韓、大韓民国を「米帝の傀儡」だと看做し(「南朝鮮傀儡」)、特に米韓合同軍事演習実施の度に関係が悪化する。 1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争以後、朝鮮半島の分断は決定的となった。強硬な反共主義者であり、「北進統一」論を掲げていた李承晩初代大統領は軍事力による朝鮮半島統一の可能性を断ち切らなかったため、1953年7月27日に朝鮮戦争休戦協定が国連軍と中朝連合軍の間で署名された際も、北側は朝鮮人民軍の南日大将が署名したのに対し、南側はアメリカ軍のウィリアム・ハリソン・Jr中将が署名し、大韓民国の要人は休戦協定に署名しなかった。朝鮮戦争休戦後も初代大統領の李承晩や朴正煕、全斗煥らによる軍事政権は強固な反共主義政策を実行し、1987年6月29日の民主化宣言まで朝鮮民主主義人民共和国が「対南工作」で派遣したスパイや、大韓民国国内の共産主義者に対しては「国家保安法 (大韓民国)」やその他の法令に基づき厳重な取締が行われた。ただし、1987年の民主化以後は「国家保安法」の存在にも拘らず、大韓民国にも政治集団として朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮労働党の指導理念である「主体思想」を支持する「主体思想派」が存在する。また、1990年代に北朝鮮の経済が崩壊し、北朝鮮で「苦難の行軍」と呼ばれる飢餓が発生した後には「脱北者」と呼ばれる亡命者が南朝鮮、大韓民国に流入している。 大韓民国政府は1万人を超える「北派工作員」を北朝鮮に送り込み多くの犠牲を出している。1971年8月23日に発生した実尾島事件はこの「北派工作員」派遣の過程で発生した事件であった。朝鮮民主主義人民共和国政府も様々な手法で韓国に対する「対南工作」を行っており、青瓦台襲撃未遂事件、ラングーン事件、文世光事件で大韓民国大統領の暗殺を謀ったり、イ・スンボク事件や江陵浸透事件等で大韓民国への侵入事件を引き起こしている。また、大韓航空機YS-11ハイジャック事件等で韓国国民の拉致事件を引き起こしており、大韓航空機爆破事件では韓国国民を標的とした無差別テロ事件を引き起こしている。また陸上の軍事境界線や海上の北方限界線をめぐっては、南北分断以降、1976年のポプラ事件、1999年の第1延坪海戦、2002年の第2延坪海戦、2009年の大青海戦、2010年の天安沈没事件、延坪島砲撃事件等の武力衝突が断続的に発生している。 このような中、統一に向けた努力が試みられているが、実を結ぶには至っていない。1960年の四月革命によって学生と市民が李承晩初代大統領を退陣させた後、同1960年8月14日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は南北朝鮮統一のために「連邦制統一案」を発表、両政府代表による「最高民族委員会」の結成を提唱し、初めて具体的な平和統一案を提出したが、大韓民国の張勉首相がこの提案を検討することのないまま、翌1961年の5・16軍事クーデターによって朴正煕少将が軍事政権を樹立したため、この提案は流れてしまった。1972年のニクソン大統領の中国訪問によってそれまで敵対していた米中関係が改善した結果が南北朝鮮に波及したため、同1972年7月4日に大韓民国の朴正煕大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は共同で南北共同声明を発表したが、その後朴正煕大統領が維新クーデターで更なる権力集中を進め、また1973年の金大中事件で大韓民国国内の民主派を弾圧する姿勢を維持した為、以後北側からの南北間の対話は途絶えた。なお、金大中事件直前の1973年6月23日に朴正煕大統領は「平和統一外交宣言」を、金日成主席は「祖国統一五大方針」をそれぞれ提出しているが、国際連合同時加盟問題に対する南北両政府の主張の隔たりの大きさが浮き彫りになる結果に終わっている。 1979年10月26日に朴正煕暗殺事件が発生した後、翌1980年5月に5・17非常戒厳令拡大措置によって全斗煥将軍が実権を握ると、同1980年10月10日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席は、軍事政権である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の両国間の政治体制の相違を乗り越えて低い段階での連邦制を実現するため、「高麗民主連邦共和国」創設を提示した。 冷戦終結以後は雪解けが進み、1991年の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の国際連合同時加盟や南北基本合意書に結実した。1993年に大統領に就任した金泳三は「三段階統一論」を提示した。1998年に発足した金大中政権は「太陽政策」の名の下、積極的に朝鮮民主主義人民共和国との融和政策を進め、2000年6月には金正日国防委員長と南北首脳会談を実施、6.15南北共同宣言を締結し、大韓民国国内に和解ムードが広がっていた。 2003年に発足した盧武鉉政権も太陽政策を引き継ぎ、朝鮮民主主義人民共和国による2006年の核実験以後も、2007年10月に第2回南北首脳会談を実施したが、北朝鮮による日本人拉致問題が発覚し、相次ぐ北朝鮮によるミサイル発射実験、北朝鮮核問題を巡る六者会合の実施など北朝鮮包囲網が国際的に形成されたこともあり、2008年2月25日に発足した李明博政権以降は太陽政策を転換した。李明博政権下では南北間の緊張が高まり、2009年の大青海戦、2010年の天安沈没事件、延坪島砲撃事件等の軍事衝突が勃発している。 朴槿恵政権下の2014年には韓国政府から北朝鮮に対して30億ウォン(約3億円)規模の人道支援が実施された。 なお、北朝鮮と韓国は、対中関係で大きく変化してきており、2014年の北朝鮮による核実験の強行によって、建国以来、血盟関係にあった中朝関係は急速に悪化する一方、習近平中国最高指導者が北朝鮮首脳との面会に先だって訪韓するなど中韓両国は急速に接近し、北朝鮮政府は中国に派遣する自国の貿易商に中韓関係の情報収集を命じているとされ北朝鮮は警戒を強めているとされている。2015年2月に北朝鮮は中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加しようと特使を派遣したが中国側の拒否によって失敗に終わったのに対し、韓国は同年3月にアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加した。2015年9月の中国の軍事パレードでは、韓国は大統領の朴槿恵が参加し党総書記である習近平と肩を並べて参観したのに対し、北朝鮮は朝鮮労働党書記である崔竜海を派遣したが席は端に近い位置であった。韓国の聯合ニュースはその写真と1954年に金日成と毛沢東が同じ場所で軍事パレードを参観した写真を並べ、「主人公の変化は、半世紀を超える間に韓中関係と中朝関係がどれだけ変化したかを象徴している」と報じた。 1948年8月15日に建国された大韓民国は、李承晩初代大統領の反共主義の影響もあって、1949年10月1日に中国共産党の毛沢東主席によって中華人民共和国が建国された後、中国国民党の蒋介石総統と共に台湾に逃れた中華民国と親交を深めた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、緒戦での首都ソウルの最初の陥落後、臨時首都釜山にまで追い詰められた李承晩政権はダグラス・マッカーサー司令官率いる国連軍の介入によって朝鮮民主主義人民共和国が統治していた38度線以北を北上し、1950年中に大韓民国国軍は一時中朝国境の鴨緑江にまで到達したが、毛沢東主席はアメリカ合衆国(中国語では美国)に抗して朝鮮民主主義人民共和国を援ける為(「抗美援朝」)に朝鮮戦争参戦を決断、彭徳懐司令官率いる中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)はアメリカ軍主体の国連軍を38度線以南にまで押し戻し、一時中朝連合軍は国連軍が奪還した首都ソウルを再占領した。 1953年7月27日に中朝連合軍代表の南日大将と国連軍代表のウィリアム・ハリソン・Jr(英語版)中将の間で朝鮮戦争休戦協定が署名された後も、大韓民国は反共主義から中華人民共和国と敵対した。中華人民共和国も1961年7月11日の中朝友好協力相互援助条約締結で示したように、大韓民国よりも朝鮮民主主義人民共和国を重視する姿勢を示した。 しかし、1976年の毛沢東主席の死後、中華人民共和国の実権を握った鄧小平が1978年12月にそれまでの経済政策を変更して改革開放路線を歩み、西側諸国からの外資導入への意欲を見せたことと、1990年の東西冷戦体制の崩壊を要因として、大韓民国の対中政策は転換した。 1992年8月24日に盧泰愚大統領は、人口が多く市場として有望で、安価な労働力の提供が可能な中華人民共和国との国交樹立を模索する産業界からの要請もあり、中華人民共和国との国交を正常化し(中韓国交正常化)、「一つの中国論」に基づいて中華民国(台湾)とは断交した。 中韓国交正常化以降、韓国では対中投資ブームが起こり、多くの韓国企業が安い労働力を求めて中華人民共和国に進出した。現在では韓国の対中投資額は日本のそれを上回り、投資額は国家としては第1位となっている。とくに山東省青島、遼寧省大連、吉林省延辺朝鮮族自治州には、韓国企業の投資が累積している。また中華人民共和国に留学する外国人学生数で、韓国はトップを占めるほどになっている。 投資額が国家として1位とはいえ、韓国企業の対中投資実行額は04年の62億5000万ドルから、07年には1〜11月段階で32億3000万ドルと3年でほぼ半減のペースとなっている。要因としては2008年1月より施行された外資優遇を原則廃止した新たな企業所得税法、従業員の待遇を向上させる労働契約法や現地トラブルも重なり「中華人民共和国離れ」が加速している。 また、WTO香港ラウンドに於いて、韓国の農業従事者が香港で激しいデモ活動を展開した。香港の警察はデモを行った人々を拘束した。 韓国は2014年3月に中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加することを決定し、韓国の企画財政省高官はAIIBを通じた北朝鮮でのインフラ開発に期待感を示した。また、2015年9月3日に中国が開催した抗日戦争勝利70年記念式典には大統領の朴槿恵が出席した。しかし中国軍にとって脅威になりうるTHAADミサイルシステムの在韓米軍配備をめぐり両国の関係は悪化していき、2016年7月8日に米韓両国関係者がTHAAD配備が最終的に決定したと発表したことに対し、中国側は「強烈な不満と断固とした反対」を表明。国交正常化25周年となる2017年8月24日の記念式典の共同開催や文在寅韓国大統領の訪中も中国側によって拒否され実現せず、それぞれが主催する式典が北京で別々に開催された。 1945年の第二次世界大戦終結により、朝鮮半島は北緯38度線を完全な境界線として、8月に進駐したソビエト連邦軍軍政下の北部と、9月に進駐したアメリカ軍軍政下の南部と分断占領された(連合軍軍政期)。朝鮮半島北部では1945年9月11日に朴憲永ら朝鮮半島内部で抗日運動を行っていた共産主義者が中心となって朝鮮共産党が再建された後、中国共産党、八路軍に所属し抗日闘争を戦っていた中国朝鮮族の共産主義者や、ソ連や満洲から帰還した抗日パルチザンが朝鮮半島北部に流入し、こうした社会主義者、共産主義者の協同戦線党として1946年8月に北朝鮮労働党が結成され、その中でもソ連軍の士官として朝鮮半島に帰還した金日成は1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会委員長に就任した後、農地改革を実施する中で徐々に権力基盤を固めた。 1948年にアメリカ合衆国主導の南北統一総選挙が国連で決議されたが、北部を軍政統治するソビエト連邦が拒否し、南北分断が確定した。同1948年8月15日には朝鮮半島南部単独で大韓民国が独立を宣言し、追って9月9日には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が残余の朝鮮半島北部のみで独立を宣言したため、大韓民国は建国当初からソ連と敵対関係になった。 ソ連は朝鮮半島北部で朝鮮労働党の指導による社会主義国の建設に成功し、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後は朝鮮人民軍の南侵を支持したが、国際連合安全保障理事会における欠席戦術を逆手に取られてアメリカを中心とした国連軍の編成と介入を許し、朝鮮半島全域への勢力拡大は失敗した。この際、ソ連軍は直接介入を控えたものの、軍事顧問団の派遣や兵器の供給で朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国の中朝連合軍による軍事作戦を支えた。 1953年の朝鮮戦争休戦後、朝鮮民主主義人民共和国の執政党となった朝鮮労働党党内では、1950年代の金日成首相を領袖とする満州派の権力基盤独占化の過程で、1956年の8月宗派事件によって朝鮮労働党ソ連派は南日ら極一部を除いて粛清されたが、北朝鮮に於ける親ソ派の粛清にも拘らずソビエト連邦は1961年7月6日に朝鮮民主主義人民共和国とソ朝友好協力相互援助条約を締結し、朝鮮半島唯一の正統政権と認め、大韓民国とは全く外交交渉を行わなかった。 その後のベトナム戦争では、アメリカ合衆国の要請に応じて南ベトナムに出兵した大韓民国国軍が北ベトナムを通じてソ連と中華人民共和国の支援を受ける南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)と激しい戦闘を行った。朴正煕大統領率いる大韓民国の軍事政権は反共主義を唱え、朝鮮民主主義人民共和国の背後にいると考えられていたソ連や中国を強く警戒しており、この1960年代から1970年代の東西冷戦の激しい時期では大韓民国とソ連の関係は絶たれていた。 1981年、首都ソウルが1988年のソウルオリンピック開催都市に決まると、韓国はホスト国としてソビエト連邦を含む全ての国を安全に招待する義務を負った。しかし全斗煥政権は対ソ強硬姿勢と国内の民主化運動弾圧を継続し、1983年9月1日には大韓航空の旅客機がソビエト連邦領空を侵犯した後に撃墜された大韓航空機撃墜事件も発生して、両国間の関係は全く改善されなかった。 この敵対的な韓ソ関係が変化したのは、1985年に登場したソビエト連邦のゴルバチョフ政権が「新思考外交」による冷戦の緩和を訴えた以降である。韓国も1987年の大統領選挙に勝利し、翌1988年に成立した盧泰愚政権が民主化を進めつつソビエト連邦や中国との緊張緩和を目指す「北方外交」を提唱した結果、1988年9月17日から10月2日にかけて開催されたソウルオリンピックはソビエト連邦や東欧諸国の参加を得て無事に開催された。この際に両国の接触が本格的に開始され、首脳会談を経て、1990年9月30日に韓国とソビエト連邦は国交を樹立した。1991年にはゴルバチョフが初訪韓(済州島を訪問)し、同年に大韓民国は朝鮮民主主義人民共和国と同時に国際連合加盟を果たした。また、第二次大戦後に旧日本領の南樺太(その後ソビエト連邦がサハリン州に編入)に取り残され、無国籍状態やソビエト連邦国籍になっていた残留朝鮮人の韓国訪問・帰還事業や、第二次世界大戦前にヨシフ・スターリンによって極東の沿海地方から中央アジアへ民族全員が強制移住させられたソビエト連邦国籍の朝鮮人(「カレイスキー/高麗人」と称される)との交流が開始された。 1991年12月にソビエト連邦が崩壊した後、後継国家としてロシア連邦やその他の独立国家共同体(CIS)諸共和国が完全な独立国家として成立しても、韓国側からの積極的なアプローチは続いた。現代自動車はロシアの外国自動車市場で最大のメーカーとなり、LG電子も家電市場で3割のシェアを獲得したと伝えられている(ジェトロレポートより)。巨大財閥以外の韓国企業もロシアに進出し、ウラジオストクを重要な拠点としてシベリア開発にも関与している。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は社会主義体制を放棄した現在でも北朝鮮との友好関係を維持し、南北等距離外交を推進している事から、北朝鮮の核開発問題をめぐる六者会合への参加国に含まれている。 また、ソ連崩壊後に新たに中央アジアに独立したカザフスタンやウズベキスタンにも韓国企業が進出している。両国には韓国からの直行便が就航し、高麗人(カレイスキー)への朝鮮語教育の支援などを含めた関係強化が進められている。 第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国(米国)を盟主とする西側諸国とソビエト連邦(ソ連)を盟主とする東側諸国の間で東西冷戦体制が形成される中、朝鮮半島南部は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による連合国軍政に置かれた。1948年5月10日に左派や朝鮮半島北部の反対の中で実施された朝鮮半島南部単独での初代総選挙を経て、同1948年8月15日に李承晩初代大統領の下、アメリカ軍軍政下にあった朝鮮半島南部に右派を中心とする大韓民国が成立し、1948年11月20日に大韓民国国会でアメリカ軍の無期限駐留要請が決議された。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮人民軍が大韓民国の首都ソウルを攻略した後、釜山に逃れた李承晩政権の防衛には、ダグラス・マッカーサー元帥率いるアメリカ合衆国を中心とする国連軍が大きな役割を果たした。1953年7月27日に朝鮮人民軍の南日大将とアメリカ陸軍のウィリアム・ハリソン・Jr中将の間で朝鮮戦争休戦協定が署名された後、同1953年10月1日に調印された米韓相互防衛条約によって大韓民国はアメリカ合衆国の同盟国となった。 朝鮮戦争休戦後の1950年代の大韓民国は軍事的、経済的にアメリカ合衆国に依存していたが、李承晩政権の末期にはアメリカ合衆国からの援助が減額されるようになった。1961年に5・16軍事クーデターにより軍人出身の朴正煕が軍事政権を設立した韓国はベトナム出兵の承認をアメリカ合衆国に求めたが認められなかった。1963年11月22日に民主党のジョン・F・ケネディ大統領が暗殺され(ケネディ大統領暗殺事件)、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領に昇格すると大韓民国国軍のベトナムへの出兵が認められ、朴正煕大統領はアメリカ軍に次ぐ大部隊を南ベトナムに派遣し、民間人を含む多くのベトナム人を殺戮した。大韓民国軍のベトナム派兵は、1968年2月12日に発生した「フォンニィ・フォンニャットの虐殺事件」のような戦争犯罪を伴い、ベトナム戦争終結後の越韓関係にしこりを残している。ベトナム出兵によりアメリカからの経済援助も増額され、戦争特需によって三星・現代などの財閥が形成された。米国は韓国が導入した外資40億ドルの内およそ20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは約11億ドル、西独などの西欧諸国からは約10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった技術者・軍人・建設者・用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(60年代後半の五年間で17億ドル)も、韓国の高度成長を支えた。こうして韓国は、ベトナム参戦を契機に急成長を遂げていく(「漢江の奇跡」)。また、韓国人の米国への移住が許可され、在米韓国人は200万人に達している。しかしながらベトナム派兵によって強化された後の米韓関係も、1970年代に入ると朴正煕大統領の核武装構想によって大韓民国の核兵器保有を望まなかった民主党のジミー・カーター大統領との間で軋轢を起こしている。また1970年代には、KCIAが関与したアメリカ合衆国下院議員買収工作が発生し、米韓両国の政治問題と化した(コリアゲート事件)。 1987年6月29日の民主化宣言と、翌1988年の盧泰愚政権の発足、朴正煕、全斗煥両大統領の軍事政権による開発独裁下で実現した韓国経済の躍進(漢江の奇跡)、1990年以降の東西冷戦体制の崩壊は、この構図を転換する要因となった。大韓民国はソビエト連邦、中華人民共和国、ベトナム社会主義共和国と、それまで反共主義から対立していた社会主義国との国交を樹立し、これら諸国に対する経済投資も拡大した。また、1991年に勃発した湾岸戦争に際しては、多国籍軍に大韓民国国軍を派遣している。 1998年の金大中政権成立後は太陽政策によって朝鮮民主主義人民共和国との関係も金泳三政権期に比べて改善された。一方、1999年の老斤里事件報道後、在韓米軍に対する反感が強まり、2002年に米軍車両に韓国人女子中学生が轢き殺された事件(議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件)によって米軍に対する反感がいっそう高まった。同時に米軍兵器の近代化と展開能力の向上により、想定される戦闘の様相が、米軍が駐留し始めた頃とは異なってきているため、米軍が韓国に駐留する必要性は減少している。このため、米国も在韓米軍を削減する政策を打ち出している。 2003年2月25日に発足した盧武鉉政権はイラク戦争に際して米英軍主導の有志連合に大韓民国国軍を派兵し、2004年にはイラクのアルビール県にザイトゥーン部隊を派遣した一方、金大中政権以来の太陽政策を引き継ぎ、特に2006年の北朝鮮の核実験後も北朝鮮との宥和政策推進のために2007年10月に第2回南北首脳会談を行う親北反米政策を取ったため、米国との関係は悪化した。 2008年2月25日に発足した李明博政権は金大中政権以前の親米路線に方針を転換したため、対米関係も改善されると見込まれていた。しかし4月、BSE問題に端を発する米国産牛肉の輸入をめぐり反発する野党、市民と政権の対立が激化しており、今後も米国との良好な関係が維持できるのか不透明な状態が続いている。 アメリカとは固い絆を築いているとされ、アメリカ軍への慰安婦として数十年に渡って提供された女性たちが謝罪と補償を求めているが、日本を相手とした場合とは異なり、韓国政府は女性たちを支援しないこととしており、韓国人とアメリカ人によってアメリカ各地の公共施設に建立が進められている慰安婦追慕碑にはアメリカ軍慰安婦や韓国軍慰安婦は対象外としている。一方で、日本軍慰安婦を非難することには共同歩調をとっている。 しかし、2014年2月末以降、日韓の歴史問題をめぐるシャーマン米国務次官の発言、韓国国内でのリッパート駐韓米大使襲撃事件の発生、中国主導のアジアインフラ投資銀行への韓国の参加表明などにより米韓関係には不協和音が生じていると報道されており、4月には米韓連合軍の防衛力強化を主要議題として米韓国防相会談がセッティングされたが、中国への配慮から米国が求めている最新鋭ミサイル防衛システム「最終段階高高度地域防衛(THAAD)」の在韓米軍への配備は議題に含まないとされた。 大韓民国は1965年に朴正煕大統領と佐藤栄作内閣総理大臣との間で批准された日韓基本条約に基づき、日本国が朝鮮半島の唯一の正統国家として承認している国家であり、隣国であるだけでなく、かつては日本の一部であったという歴史的背景もあり、政治・経済・文化などあらゆる分野で比較的緊密な関係にある。 一方で、歴史的経緯や政治・教育などの誘導により韓国民における反日感情は著しく高い。特に1910年の朝鮮併合から1945年の第二次世界大戦(大東亜戦争)までの日本の統治に対して朝鮮半島の近代化などを無視した否定的な意見は多く、2003年に発足した盧武鉉政権下では日本統治時代の「親日派」の子孫を排除・抑圧する法律(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)が施行されている。これらの法律は法の不遡及の原則に反するとの指摘があり(法の不遡及#韓国法)、このような法律が施行されることで自国民を政治的に反日派へ誘導し日韓関係に対し思想や言論などの自由を失わせている。 公然と戦前・戦中の日本(韓国や北朝鮮では「日帝」と呼ばれる)について肯定的な発言をおこなう人物は激しく非難され、出国拒否、発言の撤回などの制裁を受けている。 韓国側では李承晩・金九ら右派民族主義者を中心として建国された当初から現在に至るまで、朝鮮併合と、それに伴う同化政策(皇民化教育など)に屈辱的な感情を抱いており、韓国統監として朝鮮併合案に反対して朝鮮国家の樹立に尽力していた伊藤博文を暗殺したテロリスト・安重根を英雄視するなど、根強い反日感情がある。外交の舞台でも日本に批判的な発言が多く、金泳三大統領は中国の江沢民国家主席との中韓首脳会談で、竹島問題について「日本のポルジャンモリ(ばかたれ)をしつけ直してやる」と発言している。 鈴置高史は韓国政府にとって、日本に謝らせることそのものが外交得点で国内対策でもあるとし、日本がその度に要求通りにしたとしても国内で困った時には「やっぱり不十分だった」と再び謝罪を求めてくると述べている。なぜなら、韓国の三大紙の東亜日報論説委員による社説の見出しが [オピニオン]2人の春樹の無限謝罪論 。という「謝罪は無限に続くべき」だと いう「無限」という言葉に韓国人の本音がよく現れていると分析した。村上春樹が東京新聞で「相手(韓国人)が納得するまで謝ることが大切」、慰安婦問題で活動してきた和田春樹東京大学名誉教授が訪韓インタビューで「もういい、納得した、と言える人は当事者しかいない」と強調したと言っていることが、韓国人はどう謝罪・賠償されても納得するつもりは全くないので、韓国人が納得するまでというなら日本・日本人・日本政府の「謝罪は無限に続く」ことになると結論付けた。 。 1945年の第二次世界大戦終結後、日本軍の武装解除のために連合軍の一員であるアメリカ軍が日本統治下にあった朝鮮半島南部に上陸し、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による軍政が敷かれた。 1948年8月15日の大韓民国建国直前に発生した済州島4・3事件では、南朝鮮政府の弾圧から逃れるために済州島民が日本に移入することとなった。 また、李承晩政権下では反民族行為処罰法に基づき、1949年に反民族行為特別調査委員会が組織され、親日反民族行為者が法的に認定された。 1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では、連合軍占領下にあった日本は、韓国を助けるために海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、開戦からの半年間だけでも56名が命を落としている。韓国政府は1950年のソウル会戦で北朝鮮軍に敗北すると、亡命政府を設けるために山口県を提供することを日本政府に求めている。(仁川上陸作戦の成功により亡命政府が立ち消えになったため実現せず) また、韓国政府は犯罪者や密入国の韓国人の強制送還の大半を拒んだため、日本政府は抑留された日本人の返還と引き換えに韓国人の密入国者・犯罪者の送還を諦め、日本国内で釈放した。1959年には在日朝鮮人の帰還事業を阻止する目的で在日米軍立川飛行場経由で工作員を日本に送り込み、新潟日赤センター爆破未遂事件を起こしている。 日本が自国領土とする竹島(韓国名は独島:독도)を、韓国が自国の領土と主張して武力占拠、日本海上に一方的に李承晩ラインを設定し、この線を越えて操業する日本漁船を拿捕し乗員を抑留・殺害してきた。この時代には、第一大邦丸事件のように、多数の日本人が韓国人によって殺害された。1965年に国交が回復するまでに、韓国によって、日本漁船328隻が拿捕され、日本人44人が殺傷され、3929人が抑留されることとなった。 李承晩政権期は国交断絶状態であったが、1960年の四月革命で李承晩政権が打倒された後、1961年の5・16軍事クーデターで朴正煕(帝国陸軍士官学校第57期生にして、日本名は高木正雄であった)政権が成立した後、両国の国交正常化交渉が本格化した。国交正常化交渉の過程では請求権問題が最も紛糾した。韓国による対日請求権の主張に対して日本側は、日本統治時代に朝鮮半島に投下した資本および引き揚げた日本人が残した財産(GHQ調査で52.5億ドル)を主張することで韓国側に対抗した。 1965年、サンフランシスコ平和条約と国際連合総会での採択決議第百九十五条を想起して、日韓基本条約が締結された。サンフランシスコ平和条約では沖ノ鳥島の存在が明記されている。ともに締結された財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定にもとづいて、日本が朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助することによって、日韓間の両国間及び国民間の請求権に関する問題は完全かつ最終的に解決されていることが確認された。しかし、韓国政府や韓国メディアは国民に積極的に周知を行わなかったため、日本政府への新たな補償を求める訴えや抗議活動がなされ続けていたが、2009年8月14日にソウル行政裁判所による情報公開によって韓国人の個別補償は日本政府ではなく韓国政府に求めなければならないことが韓国民にも明らかにされている。なお、韓国はその資金をインフラの整備に充て、戦時徴兵補償金は死亡者一人あたり30万ウォン(約2.24万円)であった。 朴正煕政権時代の1973年8月8日には大韓民国中央情報部(KCIA)が日本国に滞在していた大韓民国の民主化運動家、金大中を拉致し、日本国の主権を侵害し、明らかな犯罪行為である金大中拉致事件を引き起こしている。 1997年のアジア通貨危機により、韓国の経済は危機に瀕した。発足したばかりの金大中政権は国際通貨基金の支援とその経済政策を受け入れ、新自由主義的傾向をもつ構造改革政策によって危機を乗り切った。この時期、首相は金大中と立場を異にするものの経済通と呼ばれた金鍾泌であった。IMF支援の際、日本は韓国に対する緊急支援のうち最大の百億ドルの準備を行った。 1999年には新日韓漁業協定が発効し日韓暫定水域が設定された。これにより竹島周辺海域も日本漁船が操業できる海域に設定されたが、暫定水域は日本側に大きく食い込む形で設定されたため、日本の漁業は大きなダメージを受けている。たとえば新協定の発効以降、暫定水域での韓国漁船による乱獲とゴーストフィッシングと事実上の占拠が続いており、韓国漁船は資源の保全状況が比較的良好な日本のEEZにまで進出して違法操業を行っている。これに対して日本側は官民を上げて、協定改定による暫定水域での漁法に対する法的拘束力の実現や是正、取り締りの強化を要請している。 2003年に発足した盧武鉉政権は当初「歴史問題に言及しない」と発言するなど両国関係の改善が期待されたが、国内においては日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を制定するなど、一貫して反日的な態度を取り矛盾を伴う二枚舌な政策を行う。盧武鉉政権は日本時代の親日派問題の清算として、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」及び「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が事実上没収する人権蹂躙とも取れる法を制定し、実際に「親日派」10人の子孫が所有する約13億6000万円相当の土地を没収するなど韓国民主化以前の反共主義さながらの反日主義で上記特別法適用を開始している。2006年に韓国政府は親日反民族行為者財産調査委員会を設置し、2010年までに親日反民族行為者の子孫の資産約180億円を没収した。 両国の関係は、竹島問題、韓国の日本の国連常任理事国入りを目指した動きへの反対運動、靖国神社や歴史教科書に対する内政干渉問題もあり悪化した。民間交流のあり方も一様ではなく、韓流ブームも影響して民間交流は活発化しているかに見える一方で、2004年から2005年にかけては日本に対する抗議デモの影響により、韓国側が交流行事をキャンセルする事態がいくつか発生した。 2008年の韓国通貨危機では日本は韓国と300億ドルの通貨スワップの協定を締結した。2008年7月21日、韓国国会議員50名によって対馬島返還要求決議案が韓国国会に提出された。 2010年3月1日、韓国人による2ちゃんねるへのサイバーテロ事件が発生した。後日VANKの扇動により、ネット犯罪者グループがボットネットを用いて攻撃を行っていた事も判明した。VANKには韓国政府から公金が支出されている。 2010年の韓国哨戒艦沈没事件では日本政府は韓国を強力に支持した。 2010年〜2012年、日本でK-POPがブームになる。日本では韓国ドラマの放送は禁止されていないが、韓国はテレビ地上放送での日本の番組を禁止している。 2012年6月、日韓間で結ばれる予定だった軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の締結が、締結1時間前になって突然韓国側からキャンセルされた。 2015年、韓国地検による産経新聞支局長名誉毀損起訴事件などを受けて、日本の外務省は韓国について「報道の自由」などに疑念があるとし、2014年版外交青書にあった「自由、民主主義、基本的人権などの基本的な価値を共有する」という表現を2015年版外交青書では削除した。 2015年7月、韓国与党セヌリ党の金乙東最高委員が「韓国の領土である対馬を取り戻そう」と主張した。 2000年代以降、韓国政府が日本の国際的地位を失墜させることを目的とした『ディスカウント・ジャパン運動』を行っており、VANK等の民間団体を強力に後援しながら、世界に向けて日本を貶める対日宣伝工作活動を行っている。韓国側が行っている様々なディスカウント・ジャパン運動、全米各地への慰安婦像の建立、軍事情報包括保護協定締結の突然のキャンセル、日韓犯罪人引き渡し協定を無視しての中国人靖国神社放火犯の引渡し拒否、対馬の盗難仏像の返還拒否、韓国三大紙中央日報の東日本大震災時の「日本沈没」報道や「原爆は神の懲罰」コラム、大統領の竹島上陸と天皇謝罪要求など、韓国側の反日的な動きが活発になっているが(後述)、この原因として、中国の国力の増大と日本の国力の低下により、韓国が伝統的に持つ「従中卑日」の小中華思想が強くなって先祖返りしていることが原因であると専門家から分析されている。またこれを裏づける証言として、竹島に上陸した李明博が日本の国力が落ちたことに言及している。 慰安婦問題 韓国政府は、日本軍慰安婦は日本軍により組織的に拉致・監禁・強姦された「性奴隷」だったとして、日本への謝罪と賠償を求める運動を世界各国で行っており、その結果、世界各国の議会で対日謝罪要求決議が可決され、米国の複数の公共施設で韓国人によって当事国であるアメリカ軍慰安婦や韓国軍慰安婦ではなく、第三国である日本軍の慰安婦を対象とした追慕碑の設置が行われる事態となっている。2011年には、韓国の市民団体が駐韓日本大使館正面に13歳の少女慰安婦と称する像を建立し、訪日した李明博大統領が野田佳彦首相に対し、日本国が韓国の求める誠意を示さない限りさらなる銅像の建立がなされるとする強要を行った。また、大韓民国女性家族部が韓国漫画映像振興院や漫画家と協力してアングレーム国際漫画祭で日本を非難する慰安婦の漫画を出展し、世界各国で慰安婦写真展を開催し、ユネスコの世界記憶遺産に慰安婦の証言録を登録することを企画している。さらに、訪韓外国人観光客に韓国の歴史認識に基づいたパンフレットを配るなどして日本の「不当性」を知らしめる運動も企画している。これと同時に、韓国政府は政府見解に反し日本軍慰安婦が自発的な売春婦であったことを公に発する国民に対しては検挙するなどして言論統制を行っており、慰安婦の自発的売春や、日本の朝鮮半島統治による恩恵の存在、竹島に対する日本の領有権を主張をしているブログや掲示板などの「親日賞賛サイト」の記述を、放送通信審議委員会の指示の下で強制的に削除したり接続を遮断している。 海洋(竹島・日本海呼称など)に関する問題 韓国は官民をあげて世界各国で「竹島は韓国の独島である」「日本海呼称は東海呼称が正しい」「韓国が日本に文化を伝えてあげた(一部韓国起源説も含む)」という宣伝工作活動も行っており、VANKが協力していることも助力して、1999年時点で3%しかなかった世界の主要機関・地図制作会社・出版社の日本海/東海併記の世界地図が、13年後の2012年時点では30%にまで増加している。2014年にアメリカバージニア州で、在米韓国人の政治運動により、全ての教科書で日本海と東海を併記することを決定する法律が成立した。日本政府は、このような竹島問題や日本海呼称問題などの外交案件に関わる韓国側の宣伝工作活動に対しては抗議を行っている。 2008年11月、日本は大陸棚限界委員会(Commission on the Limits of the Continental Shelf、略称:CLCS)に対して、沖ノ鳥島を基点とする海域を含む7つの海域を大陸棚の延長として申請を提出した。その申請に対して、韓国は「沖ノ鳥島は、島に該当せず岩に当たる」という抗弁を2009年2月に大陸棚限界委員会へ提出した。しかしながら大陸棚限界委員会が沖ノ鳥島を起点とする大陸棚を日本の大陸棚の延長として認定したため、韓国の主張は事実上、国際機関から退けられることとなった(日韓基本関係条約はサンフランシスコ平和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と定められており、そのサンフランシスコ平和条約において沖ノ鳥の存在が明記されているが、それにも関わらず韓国はこの時点から公式に沖ノ鳥島を岩だと主張しはじめた)。 2012年8月、李明博大統領が竹島に上陸し、天皇への謝罪要求を行うと、日韓関係は一気に悪化した。 2012年12月、韓国政府は東シナ海での韓国の大陸棚を同国沿岸から200カイリ(約370キロ)を越えた沖縄トラフ付近まで、大陸棚を拡張することを求める大陸棚境界画定案を国連の大陸棚限界委員会に提出した。 文化財に関する問題 日韓間では、文化財についても問題となっている。韓国政府は、日本にある朝鮮半島から流出した文化財の「返還」を日本政府や民間機関に求めている。これらの文化財は売買や寄贈、所有権の移転等の合法的な手段によって日本に持ち込まれたものや、朝鮮併合以前に由来したものがほとんどであることから、韓国に引き渡す場合は「返還」ではなく「寄贈」となるのだが、韓国政府や韓国マスコミは「略奪文化財」なので「返還」が正しいと主張している。そして、菅内閣はこれに迎合する形で日韓図書協定を結び、1200冊あまりの図書文化財の事実上の「返還」を談話で決定した。 また、韓国では小中華思想や韓民族優越主義の観点から「日本文化のほとんどが日本人が朝鮮半島から盗み出したもの」という韓国起源説が蔓延しており、「日本に略奪された韓国文化財と文化を取り戻しにいく」と言う名目で、韓国人によって日本にある様々な文化財が組織的・計画的に韓国に盗み出され、日本文化が剽窃される事例が相次いでいる。特に日本人が正当に入手した高麗仏画が盗難の標的にされ、このうち長崎県壱岐市安国寺から盗まれた「高麗版大般若経(重文)」は大韓民国指定国宝284号に指定され、兵庫県高砂市鶴林寺から盗まれた「阿弥陀三尊像(重文)」は韓国の寺に寄付されている。対馬市の観音寺からは、長崎県指定有形文化財「観世音菩薩坐像」が盗み出され韓国に持ち込まれたが、韓国地裁は観音寺返還を事実上拒否する判決を下した。韓国政府は日本の外務省からの度重なる文化財の返還要請にも関わらず、文化財不法輸出入等禁止条約を無視し続け、盗難文化財の日本への返還を拒否し続けている。このような状況がありながら、菅内閣が在韓日本文化財については完全に無視したまま朝鮮半島由来の文化財の「返還」を決定したため、野党から批判された。 その他の歴史認識をめぐる関係 2013年1月、韓国は日韓間で締結した犯罪人引渡し条約を無視して、靖国神社に放火した刑事犯の中国人の日本への引渡しを拒否して、「政治犯」として中国に送還した。これに対して安倍晋三内閣総理大臣は抗議声明を発表した。同年3月11日、韓国は日本政府主催の東日本大震災二周年追悼式を中国と共に欠席した。 2013年3月、朴槿恵大統領は日韓関係について「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」と述べた。 2015年4月、柳興洙駐日本韓国大使は「加害者は100回謝罪しても当然。何回したかは関係ない」と述べた。 2015年、韓国与党セヌリ党の金乙東(キム・ウルドン)最高委員は「日王(天皇)はひきょうにも命乞いして生き残った」と述べた。 歴史認識をめぐって、ソウルの日本大使館前で韓国人の老人が焼身自殺を図ったり安倍総理大臣の写真や人形に火をつける過激なデモが発生している。 2015年12月28、日韓外相会談で慰安婦問題日韓合意(いあんふもんだいにっかんごうい)が結ばれた、日本軍の従軍慰安婦問題を最終かつ不可逆的に決着させる、日本国政府と大韓民国政府との合意となった。 2016年9月29日、韓国外交部は「日本側が慰安婦被害者の方々の心の傷を癒やす追加的な感性的措置をとることを期待している」と述べた。 経済面において韓国は、日本との関係が深い。韓国から日本への電子部品や工作機械などの輸出も増大している。韓国の対外輸出の増加に伴い、日本からの部品輸入や日本への特許使用権料の支払いも増加しており、戦後一貫して韓国の対日貿易は赤字が続いている。 2007年度には対日貿易赤字が過去最高の289億ドル(約3兆2000億円)に達した。 原因として、韓国は自国で賄えない技術、部品、素材の日本への依存度が極めて高い上、その加工技術、信頼性は日本製品に比べて著しく劣ることから、韓国製品の日本輸出が難しいという構造的問題があり、「韓国が世界貿易で稼いでも、その半分以上を日本へ引き渡している構図である」と指摘されている。対日輸入の金額自体は増加しているが、輸入に占める割合は2005年には18. 5%、2006年は16. 8%、全体的に減少傾向にであり、また輸出でも同様の現象が起こっている。 しかし、韓国の対日貿易赤字は日本の経済政策における為替変動が問題であるとして、2013年2月のロシアモスクワにおいてのG20では、「円安は日本政府の意図的政策によるもの」として問題提起、続いて同年4月米国ワシントンでのG20においても「日本の量的緩和は韓国輸出競争力に打撃と懸念する」として声明を発表、公式会議において名指しで日本を非難する立場をとっている。 李承晩政権時代には外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月〜翌年1月と1959年6月〜翌年4月の2度に渡り通商断交を宣言したことがあるが、2回とも韓国側の要請で1年以内に通商再開をしている。2003年に両国首脳は自由貿易協定 (FTA) 締結を目指すことで合意したが、交渉は難航している。 ベトナム戦争では南ベトナム陣営として参戦し約5000人の兵士が戦死、帰還兵が枯葉剤の影響によって後遺症に苦しめられることになった事、ハミの虐殺等の韓国兵士による民間人の虐殺行為から両国間に根強い禍根が残っている。1992年に北ベトナムの後継国であるベトナム社会主義共和国と国交樹立。韓国政府は虐殺行為を認めていない立場であり補償問題は遅れている。ベトナムは韓国の主要な輸出先の一つである事、2014年から2017年現在にかけて韓国人の直接投資の割合がトップであり経済的な結びつきも強い。 MIKTA(ミクタ)は、メキシコ (英: Mexico)、インドネシア (Indonesia)、大韓民国 (Republic of Korea)、トルコ (Turkey)、オーストラリア (Australia) の5ヶ国によるパートナーシップである。詳細は該当ページへ。 韓国の経済は、朝鮮戦争以降大きく立ち後れていたが、1962年から1994年の間、年20%の輸出の伸びを記録し、毎年平均GDPが10%成長した。これは漢江の奇跡と呼ばれ、アジア四小龍のひとつにも例えられた。 高度経済成長を遂げ、新興工業経済地域 (NIEs) の一つに数えられた時期を経て、1996年にアジアで2番目のOECD(経済協力開発機構)加盟国になった。 1997年にはアジア通貨危機により韓国経済は大きな危機に直面し、大量倒産や失業と財閥解体が起こり、外資導入と市場の寡占化が進んだ。大手輸出企業や銀行の株主の多くは外国人になった。2000年頃には一時期な経済の立ち直りがあったものの、政府の金融政策のためクレジットカードを大量に発行した余波もあり、2003年頃には個人破産が急増し国内での信用不安が高まり金融が危機的状態となった。2008年時点では、大学新卒者が正規社員として働くのは困難であり、2009年大卒者就業見込みは55万人中4万人だけであった。徴兵義務や就職難のため、優秀な若者は韓国国内の経済状況に関わらず海外への脱出を目指す傾向が強いが、経済的苦境のため、ますます国を離れて米国や日本の企業に就職する若者が多くなっており、頭脳流出が懸念されている。 大手製造業である一部財閥系輸出企業は好調だが、韓国全体の雇用に寄与しているとは言いがたく、内需は極めて停滞しており、韓国国内においては財閥系企業の寡占が問題となっている。2008年時点で、韓国の国内総生産の18%、輸出の21%を三星財閥ひとつで占めていた。このため、社会では「二極化」という言葉がよく使われるようになり、経済的格差の拡大が問題となっている。2000年頃から富裕層向けの高層マンションブームとなり、2002年から2012年までの10年間に不動産価格は68.5%上昇(日本のバブル景気とほぼ同率)した。しかし人口動態の高齢化や内需の不振により、既に不動産価格は下落を始めており、ソウルのアパート価格は2011年2月以後22ヶ月連続で下落した。2010年段階で国民の約10人1人にあたる500万人が、屋上部屋、地下、ビニールハウスなどの、政府が定めた最低居住水準に満たない住居で暮らしている。 2007年頃には、韓国の製造業が、技術的に先行する日本と、大量生産により追い上げる中国の存在に追い込まれるのではないかとする「サンドイッチ現象」への懸念が持ち上がっていたが、2010年頃から2012年末までに続いた超円高や、2011年のタイの大規模洪水や東日本大震災等の天災で、日本の製造業が大規模な被害を被ったため、韓国の製造業は大きく業績を伸ばした。特に好調なのがサムスン電子は売り上げ高と利益を伸ばし、世界最大の電機企業になっている。また現代・起亜グループは世界における自動車販売台数を急激に伸ばした。 主要な産業は情報技術、造船、鉄鋼、自動車などである。主要な企業としては、サムスン電子や、現代自動車、LG電子、ポスコ、現代重工業などがある。リーマン・ショック以降、ウォン安政策によって輸出の伸ばし、2011年には韓国の貿易依存度は対GDP96%となった。2011年度の統計によると、核心技術や素材、部品産業を日本に依存しているために、日本との貿易収支は277億ドルの赤字であるが、好調な輸出に支えられて、韓国の総貿易収支は333億ドルの黒字であった。2011年度は東日本大震災の影響で石油製品や鉄鋼の対日輸出が43%増加し、前年度比で85億ドルの対日貿易赤字が解消されている。 2014年時点での国内総生産は世界13位。近年は知的財産への投資も増加している(韓国の知的財産権問題も参照)。 一向に解消されない財閥企業への一極集中により若者の就職難や格差問題が続いており、2015年ころから韓国のSNSでは「ヘル朝鮮」という言葉が流行語になり韓国内外の複数のマスコミにも報道される事態となっている。2018年時点で従業員300人未満の中小企業が国内の労働者全体の87%に相当する1300万人を雇用している。最低賃金上昇など人件費負担や政府の政策に反発する中小企業の国外脱出が増加している。行き過ぎた最低賃金引き上げによる副作用の補填に8兆ウォン(8000億円)投入する事態になっている。 韓国の建築・土木企業は1990年代頃まで、「不実工事」(手抜き工事)による三豊百貨店や聖水大橋、KB橋の崩落事故等により多数の死者を出したことから信頼性に疑問符をもたれることもあるが、近年は韓国建設業界の発展は目覚しく、世界への進出を加速させている。 2000年以降、韓国建設業界は単純な土木工事から脱却し石油化学などのプラント受注等に力を入れていて、中東地域やアジアからの受注が多い。また、リゾートやニュータウンの建設にも力を入れており、サムスン建設がドバイで完成時点で世界一の高さになったブルジュ・ハリファを外国企業と共同で建設した。ただし源泉技術は海外に依存しており、例えば第2ロッテワールドタワーの基礎・構造・風洞設計や外壁や衛星測量などの核心技術はすべて外国企業の技術に依存している。 韓国の建築企業は、発電所や淡水・発電プラント等の大型プロジェクトを一括(ターンキー方式)受注している。主な企業は、斗山重工業、現代重工業、サムスンエンジニアリング、サムスン物産、現代建設、サムスン建設、SK建設、SKエンジニアリング、GS建設、大宇インターナショナル、韓電KPS、ハンソルEME。 現代重工業の鄭周永会長が、創建期に研修生を1年間日本の造船会社に派遣してコンテナ2台分の設計図などの各種資料を不法に盗み出させたことを告白しているように、韓国の造船業は日本からの技術移転や不法なスパイ行為による技術流出により発展してきた。 その後、プラザ合意以降の日本の円高による競争力低下とアジア通貨危機を受けての空前のウォン安が韓国造船業界に追い風になり、2000年に建造量と受注残(いずれも標準貨物船換算トン数)で日本を抜き世界1位の造船大国になった。 それと共に造船技術も発展し、2002年から2006年までに世界で発注されたLNG船の78.3%、ドリルシップの68%、油田開発用洋上石油生産設備(FPSO)の53.8%を韓国メーカーが受注し、高付加価値船舶市場でも高いシェアを得た。ただし海洋プラント市場では、核心技術の不足により国産化率が20%ほどにとどまり、大半の利益は海外企業に流れており見かけのシェアほどの利益を得られていない。 2008年に世界金融危機をうけて世界経済の収縮が始まると、造船業界の景気も急激に悪化し韓国造船業界の成長も急速に落ち込んでいる。2009年の9月期までの韓国大手造船メーカーの受注額は年初計画の3%から10%に留まり、年間建造量こそ世界1位を維持したが年間受注量と受注残(いずれも標準貨物船換算トン数)が初めて中国に抜かれ世界2位になった。2010年上半期には建造量、受注量、受注残量すべての指標で中国に抜かれた。 2015年は現代重工、サムスン重工、大宇造船の造船大手3社だけで総額8兆ウォン (7300億円) 以上の赤字を出した。赤字額の多くの要因は海洋プラントであった。 兵器の製造の受注においては、韓国の国内企業ではほとんどを現代重工業が担っており、歩兵用銃器の製造に関しては大宇重工業が行っている。また兵器の多くを輸入(ライセンス生産も含む)に頼っており、韓国の2006年から2010年までの兵器輸入額は74億300万ドルで、インドと中国に次ぐ世界3位であった。2000年代に入り兵器の国産化が続々と進められたが、K2戦車、K9 155mm自走榴弾砲、K21歩兵戦闘車、K11複合型小銃、コムドクスリ級ミサイル艇などの初期運用前後に欠陥が次々と発覚し、新型国産兵器の生産や配備が遅滞する事例が続出している。 2000年代初頭より中小企業庁は京畿道富川市の金型産業を地域特化品目に認定するなど金型産業にも力を入れている。これを受け富川市は金型産業支援条例を制定し、世界で初めての金型集積化団地を造成し、世界的な金型産業の前進基地として育成している。 事務用機器、医療用機器、自動車用ギアボックス、携帯電話、PDA・半導体用金型部品、プレス用金型部品、自動車用プレス金型部品、エンジニアリングプラスチック金型、二重射出金型、ダイキャスティング金型、ブロー金型、マシニングセンタ、放電加工機、NCフライス盤、研削盤等のさまざま金型メーカーが存在している。長らく金型・工作機械産業は輸入超過の赤字であり韓国の産業界では問題児とされていたが2005年以降黒字に好転し、外貨獲得率80〜90%の優秀な産業に変貌している。 アメリカの最先端ブロンコ・スタジアムの骨組みとなる数十トンの鉄骨用高強度ボルト・ナットの輸出や独BMWの部品供給メーカー、カイザー社への工作機械供給など世界各国に輸出している。 韓国にはKPF、ファチョン機械、牙城精密、貨泉機工、ドラゴン電気などの中小企業から斗山インフラコアのような大企業まで1000社以上が存在している。 ポスコ(POSCO=旧浦項製鉄)などの製鉄会社がある。ポスコは新日本製鐵から当時の最新の技術をそのまま導入して設立された。近年、中国で粗鉄の需要が急速に伸び中国国内の調達だけでは間に合わないため、中国は韓国から輸入するケースが出ている。また日本の自動車メーカーもポスコの鋼板を採用するようになった。 ポスコの製鉄技術は2004年頃から急激に品質が向上し新日本製鐵の高品位製品のシェアを奪っていったが、これは90年代に新日鐵を退職した技術者が、新日鐵が数十年と数百億円をかけて開発した門外不出の「方向性電磁鋼板」の技術をポスコに流出させたことによるものである。2012年、ポスコと新日鐵の元技術者は、新日鐵から、不正競争防止法の「営業秘密の不正取得行為」にあたるとして、1000億円の損害賠償と高性能鋼板の製造・販売差し止めを求めて提訴されている。この裁判によると、ポスコ本社の社長の意思決定により日本から機密情報が盗用されており、ポスコ東京研究所の実態について、「研究所とは名ばかりで実験設備は何もなく、もっぱら日本の鉄鋼メーカーの情報を収集し韓国の本社に送っていた」ことが明らかになった。 2012年時点の韓国の独立系自動車資本は現代-起亜自動車グループだけであり、その他の自動車メーカーは外国企業の傘下である。 韓国の自動車産業の歴史は日本企業との提携から始まった。現代自動車は三菱自動車、現在では現代自動車の傘下に入っている起亜自動車はマツダ、大宇自動車(GM大宇を経て現在は韓国GM)はトヨタ、ルノーサムスン自動車は日産自動車と提携していた。韓国国内では1988年に自動車の輸入が自由化されたが、「輸入先多辺化(多角化)制度」と呼ばれる事実上の対日輸入禁止品目において自動車が指定されていたために、日本車の輸入・販売は1998年7月に至るまで禁止されていた。 現代-起亜自動車グループは、2000年代中盤までには日本以外の世界市場ですでに一定の低 - 中価格帯の車種のシェアを獲得し、2000年代後半にはさらなる高価格帯への参入を企図し、2008年に初めて海外の高級車マーケットにヒュンダイ・ジェネシスを投入した。一方、趣味性の高いスポーツカーはほとんど販売しておらず、数々の特色のあるスポーツカーを市場に投入してきた日本の自動車メーカーとこの点で異なる。2002年、現代・起亜はアメリカで、エンジン出力水増し広告が発覚し、集団訴訟され、補償金を支払った。2012年、今度は燃費水増し広告が発覚し集団訴訟されている。 韓国車のデザインは2000年代前半頃までは日本車の影響が強かったが、2000年代後半からその影響を脱し飛躍的に向上している。これは現代-起亜自動車グループが、生産効率よりもデザイン優先に経営方針を定め、起亜がアウディのチーフデザイナーだったペーター・シュライヤーを獲得して最高デザイン責任者に据え、現代がBMWのチーフデザイナーだったクリストファー・チャップマンを獲得してデザイン責任者に据えたことが影響している。現代起亜グループの立役者となったペーター・シュライヤーは2012年12月に現代起亜グループの社長となった。また品質の向上も著しく、世界金融危機以降の円高ウォン安の影響もあり、特に米国や欧州市場で販売シェアを伸ばしており、2011年の現代-起亜自動車グループの現代自動車と起亜自動車の合計販売台数は660万台で世界4位であった(ルノー・日産アライアンスを順位に入れると5位)。 DRAMでは世界シェアの約半数近くを占める。1997年のアジア通貨危機で、当時、単なる主要企業に過ぎなかった韓国の半導体メーカーらは、一時的に倒産寸前にまで追い込まれるが(ハイニックス半導体は、2001年に一度経営破綻している)、韓国政府からの公的資金注入による韓国の将来をかけた半官半民体制や、破綻を避けるための広範な構造改革、効率的な経営計画の実行、大規模投資、日本の電機メーカーとの相互協力(ソニーとの液晶パネル製造の合弁会社設立や、相互特許使用契約の締結。 東芝との光ディスク装置の合弁会社設立。古くはフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約の締結等もしている)などを経て、著しく躍進し、グローバル企業への成長を加速させる。半導体技術力向上の一環として、世界中から人材を集めるのが特徴で、サムスン電子などは韓国政府のバックアップの元、1991年の日本のバブル崩壊時に大掛かりにリストラされた東芝、松下電器、三洋電機、シャープ、NECなどの日本人技術者を高給でヘッドハンティングし、日本人技術顧問が外国人技術者中77名と大半を占めるなどの環境下で、最新技術を取得。それらの要因と日本の電気メーカーの緩慢さ・展望の見誤りも有り、1990年代まで日本が優位にあったDRAM業界のシェアを韓国が塗り替えることになった。これに対し日本や他国の企業は技術流出の対抗策として、自社技術者の監視、生産技術の内製化を進めている。一方で韓国企業でも同様に他国への技術流出対策を積極的に行っている。フラッシュメモリーは日本や米国にも輸出する反面で部品を輸入し、水平分業が盛んである。パソコンや携帯電話等で使われる汎用品の液晶パネルでもDRAMと同じ産業構造であり、韓国が世界トップのシェアを占めている。 韓国の家電・情報通信製品は世界有数の販売シェアを得ており、液晶テレビや携帯電話の分野ではサムスン電子が、冷蔵庫、洗濯機、エアコン等の白物家電の分野ではLG電子が世界的に有名である。 特にサムスン電子の製品は、新興国のみならず欧米でも低価格で人気を得て、高いブランド価値も得ている。デジタルカメラやプリンターなど日本企業が健闘していた製品領域での伸びも著しい。携帯電話の分野では国際マーケットでノキアやモトローラなどと熾烈な競争を続けている。基幹部品のフラッシュメモリーや液晶パネルのシェアで世界トップであることが強みであり、第三世代携帯電話 を中心に韓国製のシェアが伸びている。この分野についてはOEM(相手先ブランドによる生産)やEMSなどが広範におこなわれており、いわゆるブランドシェアと実際の国際マーケットにおける貢献の詳細については不明な点も多い。クレジットカード照会機、PCPOSシステムと周辺機器、複合クレジットカード照会機をはじめとした各種の電子機器の海外輸出も行われている。 韓国ではブロードバンドが普及しており、インターネット放送や通信型ゲーム、サイワールドなどのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)やオーマイニュースなどの市民参加型インターネット新聞サイトなど多様なサービスを展開している。部分的には、IPマスカレードが法律で禁止されているため、ルーターをあまり使用せず、IPアドレスが不足するといった問題もある。これは電話会社との料金設定上の契約によるものである。全世界のスパム発信元ランキングではワースト6位であり、全体としてのセキュリティ対策は十分とは言い難い現状である(日本は33位)が、セキュリティに対する関心は高まっている。また、韓国国内ではネット上のマナーや倫理問題から、韓国内サイトでの発言は、匿名性を廃止し、個人名や国民番号を記載させる傾向にある。 無線通信技術の分野では、CDMA技術など米国の会社に対する基本技術への特許使用料が増加しており、新規技術開発が急がれていた。こうした中、韓国電子通信研究院 (ETRI)が 2007年に「WiMAX」規格の派生規格である「WiBro」の開発に成功し、「モバイルWiMAX wave1」規格はWiBroに準拠して策定された。しかし世界的に導入が進み事実上の国際標準になっているのは「モバイルWiMAX wave2」規格であり、期待通りの成果を収めたとはいえない。 第二次世界大戦以降、韓国の農業技術は向上した。韓国の農業関係者の努力と、日本の農業技術の導入などが要因である。禹長春の業績が知られている。 再生医療は世界的に将来有望な市場とみなされており、近年、韓国でも再生医学などの医療・生命科学技術(バイオテクノロジー)を振興している。2004年から2005年にかけてのソウル大学の黄禹錫教授のヒト胚性幹細胞(ES細胞)に関する一連の世界初の成果により、韓国は再生医学分野における世界の先頭走者に躍り出ると見られていた。しかし、実験に用いる卵子採取に際して倫理的な問題が浮上し、黄禹錫教授が米科学雑誌Scienceで発表した、世界初の「ヒトクローン胚からのES細胞作製に関する論文」についての捏造疑惑が浮上した。捜査と再検証によりイヌクローンの論文以外の一連の世界初の成果は全て捏造だということが判明した。これにより黄禹錫はソウル大学を免職処分になり、さらには詐欺と横領罪により起訴されるに至っている(事件の詳細は黄禹錫の項を参照)。 韓国政府は、2003年8月に「経済自由地域の指定運営法」に基づいて、仁川の永宗島、松島、青羅地区を経済自由区域に指定し、同年10月24日には釜山及び鎮海と光陽湾一帯に対しても同様の指定を行い、仁川・釜山及び鎮海・光陽湾による「3特区体制」を整備した。政府はこの3地域を「北東アジアのハブ(中心国家)構想(仁川は国際空港を中心とした金融・物流・国際業務センターとしての役割を担い、釜山及び鎮海(東南地域担当)と光陽湾(西南地域担当)は中国・上海と競争する港湾物流・工業団地として育成する)」の拠点に据えるとの計画を発表した。 また、2006年からは、外国企業誘致の為、経済自由区域内では英語を公用化する必要性があるとして、公文書を英語で受付け、処理されるようになり、公文書や看板等には英語が併記される様になった。 他にも、外国企業誘致策の一環として、2006年3月より、松島地区において韓国では初めての公的教育機関としての外国人学校(対象は、韓国に住む外国人、仁川経済自由地域に進出する外国企業で働く外国人の子弟)となる松島国際学校の建設が進められ、完成すれば、幼稚園から高校までの13年課程の学校となる(永宗島と青羅地区にも、同様の外国人学区が建設される予定)。 朝鮮は古代より、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(『魏志東夷伝』)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(『魏志東夷伝』)」という様に、国を割いてまで秦の亡民の建国を許しているように多様な経路からの異民族の移住が多く、また、朝鮮半島中・西北部は楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の植民地漢四郡が置かれ、漢の植民地だった時期に漢族が移住して土着化し、東北部は高句麗人、渤海人、女真人等ツングース民族の流入が相次ぎ、また、高麗時代初期に異民族が23万8000人余りも帰化した。あるいは契丹が滅亡した後に、高麗に渡来した契丹人は100万に達するという記録もあるが、李氏朝鮮時代から日本統治時代にかけて住民の均質化が進み、ほとんどが朝鮮民族となっている。 大韓民国は分断国家朝鮮の片方である朝鮮民主主義人民共和国と同様に、単一民族国家意識が強いのが特徴的である。 自殺率が年々増加し続けており、10万人あたり31人という自殺率(2010年調べ)は、OECD加盟国中、トップである。また、社会保障の政府支出が対GDP比で7.7%と少なく、OECD加盟国中、最下位である。 韓洪九によると、中国人の箕子・衛満、渤海遺民の集団移住、契丹(契丹の高麗侵攻)・モンゴル(モンゴルの高麗侵攻)・日本(文禄・慶長の役)・満州(丁卯胡乱)からの侵入など歴史上大量に人々が流入した事例は数多くあり、韓国が単一民族というのは「神話」でしかなく、韓国の姓氏の族譜では、祖先が中国から渡来した帰化姓氏が数多くあり(金光林によると、朝鮮の姓氏の半分は外国人起源であり、大半は中国人に起源に持つ)、少なくとも族譜が編纂された李氏朝鮮時代には、単一民族意識がなかった証左であり、そもそも身分制社会だった近世では、支配層の両班と被支配層の奴婢・賤民が同じ血を分けた単一民族だという意識は成立しえないという。 日本語では、朝鮮民族のうち大韓民国在住の人々を「韓国人」、北朝鮮在住の人々を「北朝鮮人・朝鮮人」、朝鮮半島在住の人々を「朝鮮人」と呼ぶが「朝鮮人」というニュアンスには差別的な要素が含まれる時がある。 2000年に高齢化社会になった韓国は2017年高齢社会になった。実に17年間でありにな日本の24年間よりも短く最も早く高齢化した国となった。日本同様、韓国でも晩婚化や少子化が問題となっており2000年代以降の合計特殊出生率は世界最低レベルである。このため韓国は若年人口が減少傾向であり、2020年頃に総人口と労働力人口の減少が始まり、世界一急速に高齢化社会が進行し2050年頃には高齢化率が日本に追いつき世界最高水準になることが予測されている2017年に韓国社会は高齢化社会から高齢社会に突入、高齢者が子供の数を逆転、生産年齢人口が減少となった。2017年の合計特殊出生率は1.05でありマカオ、シンガポールに次いで低かった 民族構成は、そのほとんどが朝鮮民族である。他にはごく少数ながら中国系住民(華僑・華人)も存在する。韓国に永住権をもつ外国人の大半は華人であるが、華人に対して排外的な風土と諸施策が影響し、さらに中国そのものの経済発展もあって、過去数十万人いたが現在では数万人以下に減少している。 韓国統計庁「婚姻・離婚統計」によると、2005年度の全結婚件数の13.6%が国際結婚で、特に花嫁不足の地方では35.9%が国際結婚であり、2020年までに200万人の混血児の誕生を見積もっている。 近年、在韓外国人が急増しており、その数は126万5006人に達し、外国人の占める割合は2%を超え日本を上回る。急速に、かつての単一民族国家から日本以上の移民社会へと変貌を遂げつつある。大半は中国人、特に中国朝鮮族が占めているが、国際結婚の急増から東南アジアも非常に多い。また、カレイスキー(高麗人)との関係から旧ソ連を構成していた中央アジア諸国出身者も20,265人と多いのが特徴である。 公用語はソウル方言をもとにした朝鮮語(「韓国語」)であり、文字は主にハングルを用いる。なお「韓国語」とは主に外国向けの表現であり、韓国民は「国語」「ウリマル(우리말、「我々の言葉」を意味する)」と呼ぶことが多い。最近ではハングルのみで読み書きするための教育を受けた世代が多くなり、古文書を扱う公務員や教育関係者など一部を除き、漢字を読むことができない国民が多い。最近は再び、学校での漢字教育も重視すべきとされているが、全般的に漢字表記は少ない。2002年のW杯前後より、東亜の漢字文化圏からの観光客への便宜及び同地域の国際交流推進を目的に、交通施設の標識などに漢字が増えてきている。 2005年に行われた韓国統計庁の社会統計調査によると韓国は総人口の約3割がクリスチャンであり、約2割が仏教徒である。韓国の宗教人口はほぼ半数で、残りのほぼ半数は無宗教者ながら祖先崇拝や法事は熱心に行う。 CIAによる『ザ・ワールド・ファクトブック』に記された2010年の調査では、大韓民国国民の内31.6%がキリスト教徒であり、キリスト教徒の内の24%がプロテスタント、7.6%がローマ・カトリック(大韓民国のカトリック)となっており、仏教徒が24.2%と続き、不明もしくはその他が0.9%、無宗教が43.3%となっている。韓国のキリスト教は信者の絶対数でフィリピンに続き、アジア第二のキリスト教国家である。 古来中国の影響から高麗時代には仏教、朝鮮時代には儒教が国教であり、更に独自の伝統信仰である巫俗の信者がいる。クリスチャンの多くはプロテスタントであり、カトリックは少数派である。フランスのAFPBBによると韓国では宗教が社会的勢力として、信者数の多い団体は莫大な資産と巨大な社会的な影響力を誇っている。AFPBBによると韓国では、いくつものキリスト教系のカルト宗教が2018年時点でも急速に勢力拡大させている。3歳児がカルトの犠牲として死亡する事件も起きている。韓国検察当局によれば、2018年5月にソウルで救世主を自称するカルト指導者が女性信者を最少で7人もレイプした容疑で逮捕されている。2018年8月にはフィジーで韓国から移住すれば災害から救われると信者らに信じ込ませたカルト教団が約400人をパスポートを取り上げて監禁し、悪魔払い儀式として数百回も暴行していたとして韓国入国時に韓国警察に逮捕された。 日本同様の6-3-3-4制の学校制度を持つ。日本以上の学歴社会であり大学受験は熾烈を極め、予備校などのための教育費負担が大きいことも問題となっている。大学進学率は極めて高く子弟が塾へ通う割合も極めて高く、公式統計によると、2012年の大学進学率(大学入学者数/高校卒業者数)は71.3%である。初代大統領の李承晩が、プリンストン大学で博士号を取った人物ということもあって、アメリカの一流大学で博士号を取得する学生が尊ばれた。政府高官や大学教授などの高い地位が約束されていて、1970年代後半までは、新聞に顔写真と経歴が掲載される程だった。また、企業や奨学財団も、アメリカ留学を積極的に推し勧めた。そのため、厳しい受験競争を勝ち抜いたトップクラスの学生は、アメリカ留学へと向かった。1980年代以降は、博士号取得者が増加し、その数は1998年までで3万人に達するといわれている。今では単にアメリカで博士号を取得した程度では、大学教員として迎え入れられることはなくなっているという。こうした人材が経済発展の礎となった。米国際教育研究所によると、2010〜11年学期にアメリカの大学に在籍した韓国の留学生数は、中国15万7千人、インド10万3千人、に次いで第3位、7万3千人である。 公式統計によると、一般大学の就職率は2010年51.9%、2011年54.5%、2012年56.2%である(就職率の分母は卒業者数から進学者や兵役に就いた者、外国人を除く)。 一方で、英語教育への過度の熱心さゆえに、TOEFL受験受付ページへのログインのために連続クリックツールなどを使いそれが原因でサーバーに多大なる負担を与える事件が起き、その結果TOEFLは世界で唯一韓国だけは除外されている時期があった。 人口の85%は都市部に住んでいる。特に首都のソウル特別市には全人口の2割に当たる約1000万人が住んでいる。また一般に首都圏として扱われるソウル、仁川、京畿道の合計人口は全人口の半分近くにのぼり、非常に強い人口の一極集中がみられる。人々の方言や、価値観や意識は地域間の差が大きく、現在でも地域対立は強く選挙などへの影響も強い。これは伝統的なものとされる。 軍事政権時代は朴正煕大統領の出身地である慶尚北道の大邱市や慶州周辺に多額の予算が投入される一方、光州市など全羅道は、予算配分でも就職など社会においても、様々な差別があったことも、地域対立の原因である。大邱地域と慶尚道の出身者はTKとよばれ社会のあるゆる面で優遇された。嶺南圏(ヨンナムコン)といわれる慶尚道と、湖南圏(ホナムコン)といわれる全羅道の、東西での対立感情は今でも強い。 日本の職業価値観とは相違があり、特にブルーカラーの職業は冷ややかな目で見られているという指摘も日本の一部メディアにある。この価値観のため、韓国の自営業は長くは続かないことが特徴とされる。また歌手や俳優などは、もともと貴族に仕えるための職業で、ホステスや水商売に近いイメージがあり、親戚に歌手がいる場合、恥ずべきこととして隠すことが多かった。しかし現在では、そのような価値観も大幅に変化している。韓国の経済成長期は、大量の人口が農村部から都市部へ移り、女性も工場労働者として、長時間労働により経済発展を支えたが、女性が働くことも身分が低いこととみなす差別感が根強い。最近では高学歴女性など積極的に働く人も多いが、女性の社会進出は遅れぎみであり伝統的な性別役割意識も強い。 韓国の労働者の収入は40代で頂点に達し急降下する。2018年時点でも公式の定年は60歳だが、平均退職年齢49.1歳で実質定年になっていて、40代、50代になると職場から退出させられている。 日本では50代こそ円熟期で会社の核心であるが、韓国のサラリーマンは45歳になると定年を意味する「サオジョン」、56歳まで在籍していると泥棒を意味する「オリュクト」と批判され早期退職させられる。それでも、TOEICスコアを900点以上取得、資格取得・海外語学研修・評価取得のためのボランティア活動の「スペック」がないと就職ですら不可能なため、若者は就職のために「スペック」を得るために動いている。追い出された元サラリーマンは無理な起業や貧困に陥って、70台で紙資源拾いも珍しくない。マネートゥデイによると170万人いる。中央日報によると退職を控えた韓国のサラリーマンが先に退職した先輩から「生半可な起業は絶対にするな」とされる。なぜなら借金してパン屋やチキン屋を起業するが自営業の8割は倒産するほど自営業競争が激しいため、多くが退職金を借金に変える。OECDの所得不平等統計で韓国の65歳以上の所得水準がOECD加盟国の中で最低だった背景には、韓国の高齢者には約1万4000円の公的年金すら受給資格がない人が多いことにある。そのため、高齢者の自殺率が一位になっている。 厳しい受験戦争を勝ち抜いて有名大学を卒業しても、就職できない学生が増え続けている。「最低賃金引き上げ」「労働時間短縮」を受けて企業は韓国国内に投資しなくなったため、若年層が影響を受けて最悪の青年失業率になっている。2017年から2018年にかけて日本の大卒就職率は98%なのに対して、韓国は日本の最低89.7%を下回る67.7%である。就職放棄を含む実質的な失業状態にある人を含んだ青年層の体感失業率はアルバイトをしながら就職活動中の人や入社試験に備える学生などを含めた体感失業率は統計開始以降最悪の約23-24%である。中央日報は「主要先進国が活況を呈しながら、韓国の若者だけ前例のない求人難を経験している」と嘆いている。青年の失業率が過去最高を更新するなかで、20歳を過ぎた子を親が扶養するケースが増加している。自立すべき年齢でありながら親に頼る「カンガルー族」、「ブーメランキッズ」を持つ40-60代の中壮年層は自分の子と高齢者となった親を同時に扶養する二重の負担を抱えている。 25歳以上で親から月平均73万8000ウォン(約7万3300円)を貰っている。このような自立出来ない人が増加して、40-60代の4割が25歳以上になった子供を扶養している。50代の毎月の支出の25%を占めている韓国の労働市場は正規雇用は25%、残り75%は非正規など低収入の仕事であるため、75%の側にならないために履歴書に書ける項目を増やす「スペック」積み、入社後も出世競争もある超競争社会である。苛烈な競争社会で、受験戦争を勝ち残って一流大学を卒業して大企業に就職するのが理想とされされている。サムスン電子やLG電子、現代自動車など大手財閥系企業に就職できるのは僅かであり、大手財閥系企業でなければ脱落者とみなされかねない空気がある。自殺や鬱になるものが他世代よりも増加し、2016年には20代の鬱病患者が2012年よりも22.2%増えた。2018年時点で20代の約40万人が失業者である。「就職無経験失業者」は2018年時点で10万4000人で20・30代が8万9000人で85.6%を占める。雇用経験が全くない若い求職者が増加している。就職出来ても質の低い仕事に追いやられるものが増加している。 そのため、日本への就職希望者が急増している。2016年には日本で就職した韓国人は2008年比で2.3倍になった。 不動産投機による地価や賃料高騰、所有の不平等が世界でも最も深刻な国である。韓国の不動産による不平等が、深刻な所得格差の重要な原因である。韓国では人口の44%が一坪にもならない土地しか所有していない一方、人口の1%が個人私有地の約55%、人口の10%が約97%の土地を所有している。 朝鮮半島の歴代王朝は長期間に渡って中国大陸の歴代王朝に服属・朝貢しており、例えば新羅は北斉(北朝)・陳(南朝)・隋・唐に朝貢し、高麗は宋・契丹(遼)・女真(金)・明に朝貢、元に服属し、李氏朝鮮は明・清に朝貢していた(日清戦争まで)。これらの歴代王朝の多くは中国歴代王朝による冊封を受け(朝鮮半島を中国とみなす記述を参照)、「礼教、音楽、法律、制度、衣冠(身分秩序)、文物(文化の産物)、ことごとく中国の制度に従い」と記述されたように中華文化に対して卑屈なまでに尊ぶ事大主義と、自らは中国文明(大中華)に次ぐ「小中華」であり周辺国である日本や琉球や満洲などの夷狄より文化的に優越するという「小中華思想」が形成されていた。しかし現実(李氏朝鮮時代)には極端な朱子学の影響もあり、実用的な商工業や産業は軽視され文化的にも停滞しており、「武」を忌避する文化から軍事的にも退廃し、結果として文禄・慶長の役で日本に攻められ、その300年後には、近代化に失敗し日本に統治される結果を招いた。 大韓民国建国後、1961年の5・16軍事クーデターの後に第5代大統領となった朴正煕は、この朝鮮民族の属国史の原因を自分達の民族性によるものと考え、「民族の中興の使命を達成するための主体的民族史観」に基づいた「国籍ある教育」を掲げて、愛国心教育や民族教育を徹底するようになった。この徹底した自民族優越主義的な愛国民族教育が伝統的な小中華思想や原理主義的な儒教と結びつくことで、韓国社会の間で自国を「歴史的な文化先進国」、日本を「歴史的に未開で野蛮な文化的劣等者」とする人種差別に根差した価値観がますます根付くようになった。 これは、学校教育や大手新聞やテレビや書籍で、「日本は韓国の優れた文化を受け入れるだけの文化劣等国」「有史以来一枚見下げるべき文化的劣等者」「韓半島に比べてみすぼらしくて短い歴史しか持たず、歴史を捏造するしかない日本」というような対日蔑視に基づいた誤った論評が日常的に行われたり、日本列島を指す「島国」という言葉が「劣等で未開」という意味で使われて、駐日韓国大使がテレビのインタビューで使うまでになっていることからも伺える。また、マスコミによって「チョッパリ」「ウェノム」「イルボンノムドル」などの日本人を指す人種差別に根差した侮蔑語が使用され、「古代に韓民族の中の質の悪い犯罪者を「おぼれ死ね」と丸太に縛って海に流して島にたどり着いたのが国際的なならず者の低質日本民族の正体だ」、「『日本猿』と『チョッパリ』、どちらが日本人の呼び名に相応しいか?」、「『倭人』という言葉がある。とても小さくてみすぼらしいという意味の倭だ。人間の度量が小さくて狭い場合に私たちは『小さい奴』という言葉を使う。日本はそのような種族だ。」「『日本猿』という呼称がある。陰湿で凶悪で他人の真似はうまい人に、よく『猿のような奴』と非難する。日本はその猿のように卑怯な種族だ。」、などといった論評まで行われていることからも伺える。また韓国社会では日本人を「文化的に劣等な『猿』」とみなすことが常態化しており、奇誠庸などの有名スポーツ選手や地方公共団体が公の場で日本人を「猿」として侮辱することがある。 そして、このような対日蔑視に基づいた「文化的劣等者の日本人に韓国が併合された」という認識が韓国国民の反日感情の大きな要因になっている。こうした自民族優越主義的な価値観と対日蔑視に基づいて、偉業を成した日本の著名人を根拠なく勝手に在日コリアンやコリアン系の同胞だと主張する在日認定や韓国起源説(他国文化の剽窃)は、インターネットを介して日本や中国にも知られるようになっている。 また、一部の韓国人は「歴史的に先進的な韓国とその従属国の日本」という認識を第三国にも広めようと熱心に活動しており、例えばカリフォルニア州在住の在米韓国人達が、「韓国が日本に東アジア思想と文物を伝えた。」「韓国の陶工が日本に渡って日本の文化形成に寄与した。」などの新たな記述をカリフォルニア州で使用される歴史教科書に反映させるための法案を通過させようと、カリフォルニア州議会議員達に対してロビー活動を行っている。 現代の日本社会や文化に対しては、ある程度の親しみを感じながらも上記のような理由でスポーツイベントなどで人種差別に結びついた愛国心を表出させ反日行動を起こすことがある。第1回WBCでは、韓国のマスコミ各社がイチローの「韓国侮辱30年発言」を捏造したため大規模なイチローバッシングがおき、LGツインズ公認のイチロー射殺Tシャツが発売されるに至った。フィギュアスケートでは、韓国SBSが「国際大会で日本人選手が組織的にキム・ヨナの練習を妨害している」と事実無根の報道をしたため、日本人選手バッシングがおきYouTubeで日本人選手を非難する各種動画が投稿され100万件以上の閲覧がされるに至った。AFCアジアカップ2011の日本対韓国戦においては、キ・ソンヨンがゴール後に韓国社会で日本人を「文化的劣等者」として言及する時に多用される蔑称である「猿」を真似たパフォーマンスを行った。当初は試合前から用意していた日本人に向けたパフォーマンスだとキ本人が認めていたが、問題が大きくなると日本応援席に掲げられた旭日旗を見たことを理由に(実際には旭日旗は存在していない)、次いで「欧州での自身に対するアジア人差別に抗議するため」と責任転嫁と保身に走った。AFC U-23選手権2016決勝戦=日韓対決前には、大韓サッカー協会が日本戦での応援スローガンを「日本は韓国の優勝自販(JAPAN)機」に決めた(訳注:朝鮮諺文での自販〈=自動販売機、読み方はジャパン〉と英語で日本を意味するJAPANが同じ発音になることをかけたもの)(結果は、0-2とリードされた後半に3連続ゴールを決めた日本が3-2で劇的逆転勝利し、「日本戦では120%の力が出る」と虚言のキム・ヒョン含むサッカー韓国代表選手および韓国応援団を落胆させた)。 近年では司法が韓国国民の反日感情を『道徳的社会秩序』として、通常の法理より優先する判例が多発しており、韓国の新たなカントリーリスク (詳細はコリアリスクも参照) と認識されている。 一方で、韓国社会における非正規雇用の増加や物価急騰、過酷な受験戦争と男女差別等により、世論調査で、韓国人全体の1/4と、20代女性の半数が「韓国に生まれ変わりたくない」と否定的な回答をしたり、高麗大学の学生の51%が「韓国が嫌い」と回答した調査もあり、近年の韓国人の愛国心は低下しているという調査結果もあるが、上記のような対日蔑視に変化はないのが現状である。 韓国の治安は国際的には良いほうとされるが、殺人・強姦・強盗などの凶悪犯罪を含む犯罪発生率は日本と比べると大幅に高い。犯罪割合は日本の3倍以上、殺人は2.4倍、強姦わいせつ事件は5.8倍という統計データがある。聯合ニュースは2009年7月31日付けで韓国での殺人、強盗、強姦、窃盗、暴力の5大犯罪の発生件数がここ5年間で20%近く増加していることを伝えている。韓国警察研究学会の資料によると、殺人、強盗、強姦の三大凶悪犯罪の発生件数は、2001年に14896件、2010年には27482件となっており、10年間でほぼ倍増している。また、警察庁の発表によると、2016年に韓国内で発生した放火事件は1052件である。 韓国の警察庁の発表によると、2007年から2011年の5年間で発生した性犯罪事件は81760件で、その半数以上は強姦事件である。2013年の強姦・強制わいせつ事件は22310件であり、そのうち強姦事件2691件は10万人当たりの発生率は日本の約5倍である。稀に40倍という数字が出るが、韓国警察では強姦と強制わいせつを同じ枠で集計するため注意が必要である。(40倍という数字は韓国は強姦+強制わいせつ、日本は強姦のみで比較しているため)2008年には、再発を防止するために、性犯罪前歴者に電子足輪の装着が義務付けられたが、足輪をつけたまま暴行する再犯者が後を絶たない。韓国女性の半数が性犯罪に遭遇している(2012年調査)ことから男性から女性への性犯罪が日常茶飯事であるとされている。 特に未成年者による性犯罪が多く、低年齢化も進んでいる。強姦事件は日本の10倍、アメリカの2倍(人口10万人当たり)となっており、2003年から2008年にかけて42.9%増加するなど減少傾向にあるアメリカや日本と対比的である。 また、未成年者による強姦の50.7%は輪姦である。アメリカ国務省は、韓国の犯罪発生率は低いが、強姦事案が報告されており、性犯罪に巻き込まれないよう夜間の一人旅は慎重にすべしと旅行者に呼びかけており、韓国の大都市ではアメリカの大都市と同程度の安全対策をすることが望ましいとしている。また、同様の警告は、イギリス外務省よりも発せられている。 韓国警察庁の資料によると、2016年に、詐欺241,613件、横領50,053件、背任4,358件も起きている。また、2016年に、偽証罪で2,657人、誣告罪(日本では虚偽告訴罪)で4841人が起訴されている。 2010年現在、韓国女性10万人以上が海外で売春を行っているが、その半数に当たる5万人が日本で売春をしており、韓国内で募集された高校生を含む未成年者までもが売春目的で渡航するなど深刻な問題となっている。また、韓国国外で収監されている韓国人犯罪者の43.2%が日本で収監されている。しかし2008年3月31日にソウル市城北区下月谷洞のアパート工事現場前で売春に従事する女性と売買事業主ら300人余りが片道2車線の道路を占拠して本地域での営業権を求めデモ活動を行うなどアングラな産業として売春が黙認されているのも事実である。また『ハント全国連合』と呼称する性売買事業主達による連合団体が存在し売春を禁止する法律自体の変更、撤回を求め活動していることから国際的な世論とは裏腹に売春業に従事する者は権利や保障を求め活発である。 2012年6月15日付の朝鮮日報の記事によると、2007年に女性家族部が実施した実態調査の結果、韓国の風俗産業の経済規模は約14兆952億ウォン(当時の為替レートで約9,622億円)と試算されており、これは同年の国家予算239兆ウォン(約16兆円)の約6%に相当する額である。また同調査によると、韓国全土で46,247カ所の風俗店が営業しており、これらの店で働く女性は269,707人に達し、客となる男性は年間延べ9,395万人、1人の成人男性が1年に5回近く風俗店を利用している事となる。一般的に売買春行為が密かに行われている点を考慮すると、実際の数はこれよりも遥かに多いと考えることも出来、男性の権利擁護を目指す男性連帯は2011年12月に韓国国内の風俗店で働く女性の数を189万人(韓国女性人口の約7.5%)と推定され、同団体の関係者により「自発的に売春を行う女性が、現実として非常に多いことも問題だ」と指摘された事が同記事にて報道された。 韓国内の宗教家、医師、芸術家、大学教授、ジャーナリスト、弁護士という6種の職業による2011年から2016年までの五年間の強姦と強制わいせつ犯罪の統計結果では1位宗教家、2位医師、3位芸術家、4位大学教授、5位ジャーナリスト、6位は弁護士の順となっている。代表的な6つの職業よ中では医師と芸術家の性犯罪が増加している傾向にある。 優れた人材の確保などを目的として国籍法を改正し、成人の二重国籍を条件付きで容認している。嘗ては韓国人と日本人の間に生まれた子どもは、22歳までは韓日の二重国籍として取り扱われ、22歳の時点で何れかの国籍を選択しなければならず、日本国内に居住している二重国籍保有者の大半は、日本国籍となる例がほとんどであった。約48万人いる在日韓国・朝鮮人の結婚相手は、最近9割程度が日本人であり、その間に生まれる子どもは毎年5千人前後に上る。韓国大使館によると、韓国の改正国籍法は1997年5月に一部施行され、韓国と他国との二重国籍になった者は22歳までに、韓国内で外国籍を行使しないと誓約すれば、外国籍を放棄せずに韓国籍を維持できるようになった。既に韓国籍を失った元二重国籍者も、2012年5月までに申請すれば外国籍を持ったまま韓国籍を再取得できる。日本の国籍法では二重国籍を認めておらず、法務省は「韓国籍を維持、再取得すれば日本国籍を失う可能性がある」(民事1課)と指摘する。 1998年6月13日以前に生まれた者は父が韓国人である場合のみ大韓民国の国籍が付与される。 京郷新聞によると夫と妻、親世代と子世代など他者との無限競争が日常化された能力主義社会であり、「世代葛藤」が「世代戦争」と呼ばれるまでになっている。OECDが2018年1月に発表した「2017生活の質(How's life)」レポートにて、韓国では社会生活の中で様々な紛争を経験したことがあると回答した割合が34%で、調査対象国のうち1位であった。特に韓国で「事業と雇用」の問題と「隣人と住居環境」問題に紛争を経験した割合はそれぞれ他国よりも高く、最も主要な韓国の日常葛藤要因となっている。更に困難時に頼れる家族や親戚、友人などの人間関係があると答えた割合が全OECD加盟国の最下位だった。生活の満足度も10点満点中5.9点で、OECD最下位だった。京郷新聞 は職場でも帰宅後の家庭でも、大小の葛藤と争いにストレスを受けることは多いのに、他者からの支援は受けにくい社会だというのが調査結果でも表れたと報道している。 チョゴリないし韓服、キムチ、朝鮮人参に代表される韓食、オンドルに代表される住居などに伝統文化が息づいている。韓国の伝統社会では地理的な関係から中華文明の影響が大きかった。 大統領直属の大韓民国国家ブランド委員会の指導の下、官民を上げて様々な組織が韓国のイメージや「国格」を高めるため、韓食の世界化などの対外文化広報を行っており、伝統文化やハイカルチャーの広報を韓国文化院が担い、大衆文化については韓国コンテンツ振興院(KOCCA)が民間企業のコンテンツ制作と輸出と宣伝に多額の国費を投入して強力に後援している。韓国の2008年度の文化振興予算は1169億で日本の1018億円より多く国家予算比では日本の7倍であり海外への宣伝と輸出に極めて積極的である。 韓国は自国の地上波テレビで日本のドラマ・映画、日本語の歌が放映されることは、かつて法律で禁止され強く制限されており、1998年から日本の大衆文化を順次受け入れ始め、2004年にはケーブルテレビなど有料放送においてのみ、年齢制限付きで日本のドラマ放映は解禁され、また最近は日本のドラマのリメイクや日本の小説・漫画を原作としてドラマの製作も行われてはいるが、地上波テレビ放送においては現在も日本のドラマ・映画、日本語の歌の放映は放送局側が「国民情緒に配慮し」録画放送だけに限ってきた。2010年9月10日にはSKE48が「2010ソウルドラマアワード」の授賞式に出演し、日本語で歌う姿が韓国の地上波で初めて生放送された。 韓国政府が韓国コンテンツ振興院(KOCCA)を設立して、国家戦略として映画・放送映像(テレビドラマ)・K-POP・ゲーム・アニメ・マンファ・キャラクターなどの大衆文化の振興を図っている。対外世論工作や様々な韓国製品の輸出の尖兵としての役割も果たすため、韓国政府が国策として民間企業のコンテンツの制作と輸出を強力に後援している。映画やテレビドラマの制作やK-POPシンガーの育成やコンサートの開催にも国費が投入され、コンテンツ制作企業に制作費の10%の輸出実績があれば、韓国政府が金融機関に貸し出し保証書を発行しており、これにより韓国のコンテンツ制作企業は金融機関から積極的に融資を受けることができるようになっており、韓国のコンテンツ制作企業から輸出相手国企業に補助金が支払われるまでになっている。韓国ドラマの放映権を購入した台湾のある企業は、買い付け金額より多い補助金を韓国側から受け取っている。またJapan ExpoやKorean Connectionなどの国際イベントでも韓国政府の各機関が文化の輸出と宣伝を行っており、ここで韓国起源説を交えながら韓国文化を宣伝することで日本人と摩擦を引き起こしている。日本においても2010年から韓国のポップソンググループをK-POPと称して頻繁に取り上げた。 また、韓国の文化産業の保護育成を目的とした、国内映画の上映割合を義務付ける排他的なスクリーンクウォーター(割当)制を実施している。スクリーンクウォーターとは別にアニメや歌謡曲に対する商業規制もあり、これは「国民感情に配慮」を名目としているが、事実上の国内文化産業の保護育成策にもなっている(文化の日韓関係を参照)。また国・地方自治体レベルでアニメーション産業を育成するなどしている。 韓国では、多くの人が映画や音楽やゲームなどの様々な大衆文化をネット経由で楽しんでおり、韓国の大衆文化とインターネットは密接な関係にある。街中にPC房(PCバン、インターネットカフェ)が至る所にあり、ブロードバンドを手軽に利用することができ、インターネットテレビのストリーミング放送やミュージックビデオの無料閲覧が早くから実現するなど、特色あるインターネット文化を構築している。2000年には世界で逸早くブロードバンド利用者が1千万人を突破し、2002年の日韓ワールドカップの頃には盛んに「インターネット強国」を自称し海外に宣伝していた。韓国ではインターネットが現実世界に与える影響力が大きく、盧武鉉の大統領選挙当選や2008年韓国蝋燭デモにおいても大きな影響力を発揮している。 韓国での日本大衆文化の流入制限 詳しくは韓国での日本大衆文化の流入制限を参照 韓国政府による日本の大衆文化に対する規制と段階的撤廃 詳しくは韓国における日本大衆文化の開放を参照。 韓国政府は、長い間「国民感情を害する」との名目により、日本の大衆文化が韓国に流入することを禁止してきた(倭色を参照)。このような中、一部の韓国国民は、日本の地上波放送の電波が届く釜山や日本海側沿岸部で日本のテレビ放送を鑑賞する、規制の対象外の日本の輸入書籍を購読する、治外法権のある在韓日本大使館公報文化院を利用する、台湾からの輸入CDや海賊版を購入するなど、規制をかいくぐって限定的ながら日本の大衆文化に接してきた。 韓国政府が日本の大衆文化を段階的に開放したのは1990年代後半の金大中政権からであり、1998年の第1次日本大衆文化開放では、漫画販売の全面開放と、世界4大映画祭(アカデミー賞と世界3大映画祭)受賞映画と日韓合作映画に限っての映画館上映のみ開放された。翌年の1999年の第2次開放では、年齢制限のない実写版映画の映画館上映と、2000席以下での室内での日本語歌謡公演(コンサート等)に限って追加開放された。 開放が大幅に進んだのは2000年の第3次開放からであり、日本語歌謡公演の全面開放、日本語歌唱のない日本の音盤(CD等)販売、PC・オンライン・店舗用ゲーム機(家庭用の据え置きと携帯ゲーム機以外)の販売・稼働、「青少年観覧不可」以外の実写版映画の映画館上映、国際映画祭を受賞したアニメ映画の映画館上映、スポーツ・報道・ドキュメンタリー・韓国で映画館上映された映画の有料放送(ケーブルテレビ・衛星放送)が追加開放された。これを受けて、韓国デジタル衛星放送・スカイライフや多くのケーブルテレビ局が、韓国の総代理店(スバルコリア)を通じて日本放送協会(NHK) に使用料を支払いNHKワールドプレミアムの再送信を行うようになった。ただし地上波放送では依然として厳しい規制が続いた。日本語歌謡公演では、2000年8月にCHAGE & ASKAが韓国女性団体の招聘を受けて蚕室体操競技場で日本人アーティスト初となる大規模公演を2日間開催した。 2002年には日韓ワールドカップ=サッカーワールドカップが韓国と日本により共同開催され、日韓国民交流年として850件を超える交流行事が行われた。これを機に日韓間の文化的交流が爆発的に広まった。草彅剛は、チョナン・カンという名前で韓国で活躍するようになった。 そして2004年の第4次開放ではさらに開放が進み、実写版映画の映画館上映、音盤(CD等)販売、ゲーム販売が全面開放された。ビデオでは韓国の映画館で上映されたものに限っての販売・レンタルが開放された。有料放送(ケーブルテレビ・衛星放送)では、生活情報、教養、日本語歌唱、韓国で映画館上映された映画の放送が全面開放され(アニメ映画のみ2006年から)、ドラマについては「12歳以上視聴可」と日韓合作ドラマの放送に限って開放された。日本語公演についても第4次開放以降安室奈美恵、L'Arc〜en〜Ciel、嵐、MISIA、V6、X JAPAN、堂本光一、Perfume、安全地帯などが単独公演を行ってきた。また、各種イベントに日本人アーティストが出演する機会もある。 一方、地上波放送での日本文化開放は、「国民への多大な影響」を名目に強い規制があり、日韓合作以外のドラマ(日本の一般ドラマ)、日本人歌手の公演中継と日本人歌手の韓国国内放送出演以外の日本語歌謡の放送は規制されたままである。また、韓国で映画館上映されていないビデオの販売・レンタル、連続アニメ番組と娯楽型番組(コメディ・バラエティ・トークショー等)の放送に関しては、有料放送と地上波放送の両方でいまだに規制されたままである。地上波放送の日本語歌謡の規制については、前述の通り公演中継や韓国国内放送への出演であれば第4次開放で開放されていたが、放送局の自主規制により長らく歌唱の一部を切り取った録画放送にとどめていた。しかし、2010年9月10日に、事前に放送通信審議委員会を通した上で、SKE48が「2010ソウルドラマアワード」授賞式で「強き者よ」「青空片想い」を日本語でフルコーラス歌う姿が初めて韓国の地上波テレビで生中継された。 韓国社会における日本に対する表現の自主規制 親日的な言論や大衆文化上の表現に対する法的な規制はないが、日常的に行われる扇情的な韓国国内の反日教育と反日報道により韓国国民の反日感情は強く、親日的な発言をした(と見なされる)人物は、韓国社会から凄まじい弾圧を受ける傾向にあり、様々なメディアで親日的な表現の事実上の自主規制が行われている。親日的というだけでなく言語表現にも自主規制がなされることもある。例えば2014年K-POPガールズグループCRAYON POPの新曲の歌詞に日本語的な表現があるとして、テレビ局であるKBSから放送不適合と判定された。新曲「オイ」の中で「ピカポンチョク」という表現の中に日本語の「ピカピカ」の「ピカ」が入ったことが理由であると当該局は説明している。このような「自主規制」を行わなかった『親日派のための弁明』を書いた金完燮は、国中から猛烈な非難を浴びた上に、名誉毀損と外患煽動の容疑で逮捕・告訴され、『殴り殺される覚悟で書いた親日宣言』の著者趙英男は番組降板・公開謝罪に追い込まれている。 一方、南北和解の進展に伴い、共産主義的な書籍の発行、共産主義的な言論を規制の対象としてきた「国家保安法」の改正が論議されているが、まだ同法は実行力をもっており、自主規制のみならず、親北朝鮮的な言論や大衆文化上の表現に対してはさまざまな明文化された規制がある。 韓国による日本の大衆文化の盗作と知的所有権の侵害 韓国では、長年、日本の文化が禁止されていたが、韓国のドラマ、アニメ、音楽、漫画、ゲーム製作者などが、日本の作品を盗作するケースが見られ、これらの盗作に対する韓国司法による司法判断では日本側に不利な判決となっており、たとえば、角川歴彦によれば、ガンダムの商標権を巡る争いでは、「『ガンダム』はロボットの一般名称であるから問題ない」とする韓国側の主張が認められ、一審で勝訴したとされる(詳細は韓国の知的財産権問題)。その反面で、日本の出版社が韓流スターの肖像権を侵して提訴されるなどの日本からの知的所有権侵害という珍しい現象も起きている。 韓国には大衆文化に限らず『日本で成功したものは必ず韓国でも成功する』という神話(ジンクス)があると分析する者もおり、特に大衆文化の分野において、実に様々な日本の事物が輸入され『韓国風』への改装を経て韓国市場に出た。金大中政権によって「日本文化開放」が提案された折には、支持の理由として「実現されれば韓国の根深い日本剽窃問題がなくなるから好ましい」との意見を表明する韓国人も多かった。 日本における韓国の大衆文化 一方日本においては、韓国が日本の大衆文化を開放し、日韓ワールドカップが開催されたことから、マスコミが韓国を取り上げることが激増した。2003年から2004年にNHKが韓国TVドラマ『冬のソナタ』を地上波放送したことをきっかけに、2004年から2005年にかけて民放テレビ局や女性週刊誌でも頻繁に韓国の芸能情報を報道するようになり、中高年女性を中心として「韓流ブーム」が起きた。しかし、韓国映画のほとんどは赤字を記録し2006年以降にブームは急速に失速、2007年に日本で公開された韓国映画112本のうち99本が赤字であり、韓国映画の輸出額は2005年の3分の1に落ち込んだ。音楽面では東方神起やBoAが成功し、東京ドームでの講演や紅白歌合戦への参加も行った。2010年以降は日本のテレビメディアがK-POPグループとしてKARAや少女時代等の韓国のアイドルグループを頻繁に取り上げたが、韓国の反日の実態を隠し「韓国賞賛」を繰り返したと見なされたメディアへの不審も相まって、2011年のフジテレビ騒動やフジテレビ抗議デモなどの嫌韓世論が沸き起こった。そして、韓国が次々に送り出すK-POPアイドルの粗製乱造による飽きや、李明博の竹島上陸による日本人の対韓国感情の悪化により、2012年頃から急速に韓流とK-POPの人気が低下した。 韓国起源説への注目 また日韓間の人的・経済的交流が広がることによって、歴史や伝統を媒介とした文化交流も始まっているが、近年、特にインターネット上において日韓間で相違のある歴史認識や伝統文化の取り扱いが問題となっている。たとえば、日韓ワールドカップを境に、韓国や日本のウェブサイト等を介して、韓国側のマスコミ報道や歴史教育や対日世論が日本側に紹介される事例が増えたが、ここで韓国起源説が注目され物議をかもしている。この問題は現実世界にも波及し、2005年には韓国起源説を大きく取り扱った『マンガ嫌韓流』が日本で出版されベストセラーとなり、韓国でも各種マスコミに報じられた。また韓国起源説の一つの「コムド起源問題」では全日本剣道連盟及び、全日本剣道連盟配下の国際剣道連盟のウェブページで剽窃問題として正式に取り上げられるまでに至った。また朝鮮通信使再現パレードや四天王寺ワッソなどの文化交流事業が韓国側に都合の良い歴史観を押し付けるものであり、韓国起源説を助長させるのではないかという異議が唱えられている[要文献特定詳細情報]。 韓国国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が10件、自然遺産が1件存在する。 休日が集中していた10月初旬の「国軍の日(국군의 날)」(10月1日)と「ハングルの日(한글날)」(10月9日)は、休日の多さが経済発展に悪影響を及ぼす懸念から1991年より公休日でなくなった。しかし、ハングルの日は2013年より公休日に再指定された。 「植木日(식목일)」(4月5日)は2006年より公休日でなくなった。 「三一節」「制憲節」「光復節」「開天節」「ハングルの日」の5つを「国慶日(국경일)」と呼ぶ。「ハングルの日」は2006年より国慶日となった。 「制憲節(제헌절)」(7月17日)は2008年より公休日でなくなった。 現在、韓国では公的には満年齢を使用している(1962年以降)が、民間では数え年が広く使われている。 韓国では、野球・サッカー・バスケットボール・バレーボール・柔道・ゴルフ・アーチェリー・卓球・バドミントン・スピードスケート・ショートトラックスピードスケート・カーリングが盛んである。特に野球においては1982年に韓国野球委員会が発足しプロ野球がスタートした。一方のサッカーにおいては1983年にプロリーグであるKリーグが開幕し、バスケットボールにおいては1996年に韓国バスケットボールリーグ(KBL)が開幕した。特に野球とサッカーは国民的スポーツの地位を得ていて、国内のビッグゲームや国際大会での国民の熱狂振りは有名である。その他のスポーツの国際大会での対戦相手が日本あるいは他の国ともなれば、その熱狂振りの度合いは更に増す。だが、一方で審判に賄賂を渡したりラフプレーの多さや対戦国への差別的な侮辱、または道徳的な問題もよく指摘されることもある。 サッカー大韓民国代表は、アジアの中では最多となる10回のFIFAワールドカップへの出場を果たしている。2002年には日本との共同開催という形で、第17回ワールドカップ開催を実現させている。この大会においては様々な疑惑の判定があったものの、代表チームはオランダ人の監督の下、イタリアやスペインといった強豪国を破り過去最高となる4位の成績を収めた。サポーターは「プルグン・アンマ(붉은 악마:赤い悪魔)」と呼ばれ、「テーハンミング(대한민국:大韓民国)」や「オー、ピルスンコリア(오 필승 코리아:オー、必勝コリア)」といった熱狂的なコールが日本でも注目された。しかし、一方で国際試合におけるトラブルも多数指摘されている。 野球大韓民国代表は2000年のシドニーオリンピックで初のメダルとなる銅メダルを獲得し、2004年のアテネオリンピックへの出場は逃したものの、野球が正式競技種目として最後の大会となった2008年の北京オリンピックでは強豪キューバ代表を破り、念願の金メダルを獲得した。 WBCにおいても、2006年の第1回大会では準決勝で日本と対戦して敗れた。2009年の第2回大会では決勝まで進んだが、接戦の末にまたしても日本の前に敗れ準優勝に終わった。巻き返しを図った2013年の第3回大会と2017年の第4回大会では1次ラウンドで姿を消した。 2000年のシドニーオリンピックから正式競技種目として採用されているテコンドーは国技とされ、テコンドーも日本の柔道同様、現在は国際的スポーツとなっている。また、日本の相撲によく似たシルムも存在する。 最近では冬のウィンタースポーツでも顕著な成績を上げていて、中でも2010年のバンクーバーオリンピックにおいては金妍兒が女子フィギュアスケートで韓国史上初の金メダルを獲得している。またスピードスケートでも牟太釩を筆頭に金メダル3個、銀メダル2個の快挙を成し遂げた。一方、ショートトラックスピードスケートではこれまでに冬季オリンピックで金メダル21個、銀メダル12個、銅メダル9個を獲得するなど強豪国となっている。自国開催となった2018年の平昌オリンピックでも韓国選手団は金メダル5個、銀メダル8個、銅メダル4個の計17個のメダルを獲得した。 韓国はインターネットゲームに強いと世界から評価されており、e-sports界では最強クラスの認知度を得られている。韓国のeスポーツ人口は多く、韓国全体の人口が約5000万人に対して半数以上、つまり2500万人以上がオンラインゲームをプレイしている。 1961年から1987年までは、軍事政権による言論統制が続き、新聞業界の再編などが行われた。放送局は民放2局が公営の韓国放送公社 (KBS) に統合され、残った民放の韓国文化放送 (MBC) も65%の株式をKBSが保有、基督教放送も準国営化され、コマーシャルと報道の放送が大幅規制された。 1987年の民主化宣言以降は言論の自由が一応は保障され、新聞社が増大した。しかし政府が報道内容に干渉することも多く、本格的な言論の自由は1998年以降である。最近もKBSとMBCは、日本の日本放送協会 (NHK) 以上に政府の影響力が強く、テレビ報道の内容は政府寄りである。 また1990年にはマスコミ統制で一度KBSに統合された東亜放送のチャンネルを使用した民放のSBSをはじめ、宗教放送専門の仏教放送、圓音放送、平和放送、交通情報専門の交通放送、韓国交通放送(名称が類似しているが別組織)、教育放送専門の韓国教育放送公社、国楽のアリラン専門・国楽FM放送などの新局が多数開局、またFEBC-Koreaもすでに中波で開局していたソウルと済州島以外の主要都市にFM放送局を開局しラジオネットワーク事業に参入を果たした。ケーブルテレビ局を通した、専門チャンネルの放送も増えている。 新聞各紙の紙面は1980年代までは日本と似た縦書きだったが現在は欧米と同じ横書きになっている。 日本との間に起こる歴史期認識問題や領土問題などの報道では、日本側の主張を「歪曲」「捏造」「妄言」等と主観的な言葉で断じた上で報道することが多い。一般的に愛国心を鼓舞するような報道が頻繁になされ、スポーツイベントなどでも顕著である。 ^ 大韓民国国家統計ポータル > 人口・世帯 > 人口総調査> 人口部門 > 総調査人口(2015) > 全数部門 > 人口、世帯と住宅 - 邑面洞 2015年~2015年, 2016年9月11日閲覧 ^ a b “South Korea”. 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The World Factbook. Central Intelligence Agency.  (英語) 大韓民国 - DMOZ (英語) 大韓民国のウィキメディア地図 (英語) 地図 - Google マップ", "慶尚北道(キョンサンプクト、けいしょうほくどう、韓国語表記:경상북도)は、大韓民国の東南部(朝鮮半島南東部)に位置する行政区。「慶尚」とはかつての中心都市であった慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた合成地名であり、この周辺地域を慶尚道と呼ぶ。行政区画としては李氏朝鮮の時代に東西に分けられたりなど試行錯誤が行われ、1896年勅令第36号で朝鮮八道における慶尚道の北半分を慶尚北道と定めた。かつて慶尚北道の一部であった大邱市は1981年に「大邱直轄市」(1995年より大邱広域市)として分離した。その後も道庁は大邱広域市に置かれていたが、2016年2月12日に安東市に移転した。通常は慶北と略される。 東は日本海に面し、北は江原道に、西は忠清北道・全羅北道に、南は慶尚南道に接しており、韓国で一番面積が広い道になっている。 道の大部分が太白山脈、小白山脈に囲まれる盆地であるため、韓国でもっとも暑い地域であるといわれる。 農業が重要な産業のひとつであり、コメ、豆、ジャガイモ、大麦などが生産される。大邱周辺で生産されるリンゴは特産物であるといえる。酪農業も営まれる。漁業もまた盛んであり、エビ、カニなどの甲殻類、海藻やイカが漁獲される。 なお、韓国政府の立場では、竹島(韓国名:独島)は鬱陵郡に所属するので、慶尚北道の管轄となる。 1月の平均気温: 安東(-2.3℃) 浦項(1.6℃) 聞慶(-2.0℃) 8月の平均気温: 安東(25.0℃) 浦項(25.4℃) 聞慶(24.6℃) 1314年 慶尚道が成立する。 1896年 慶尚北道と慶尚南道に分離する。 1946年10月1日 大邱10月事件。 1963年 蔚珍郡を江原道から編入する。 1981年 大邱市、直轄市に昇格し道から分離する。 1995年 達城郡を大邱広域市に編入する。 2005年3月16日 慶尚北道知事、島根県の竹島の日制定に抗議して姉妹都市提携破棄を宣言する。 2005年6月9日 10月を独島の月とし、日本との交流を制限する条例を制定する。 2006年6月1日 知事選挙で金寛容(キム・グァンヨン)が新しい知事になる(任期は7月1日から)。 2009年3月13日 サイバー独島士官学校を設立 慶尚北道知事:金寛容(김관용、2014年7月1日~現在)第31代(民選6期) 第30代(民選5期):金寛容(김관용、2010年7月1日~2014年6月30日) 第29代(民選4期):金寛容(김관용、2006年7月1日~2010年6月30日) 第28代(民選3期):李義根(이의근、2002年7月1日~2006年6月30日) 第27代(民選2期):李義根(이의근、1998年7月1日~2002年6月30日) 第26代(民選1期):李義根(이의근、1995年7月1日~1998年6月30日) 出典:“慶尚北道知事ホームページ”の“역대도지사(歴代道知事)”。2014年7月1日閲覧 道議会:60議席(地域区54+比例代表6)地域区は小選挙区制。 出典:「현역의원 정당별」(現役議員政黨別)慶尚北道議会ホームページ。2017年5月21日閲覧 10の都市と13の郡が設置されている。 浦項市 南区 北区 慶州市 金泉市 安東市 亀尾市 栄州市 永川市 尚州市 聞慶市 慶山市 軍威郡 義城郡 青松郡 英陽郡 盈徳郡 清道郡 高霊郡 星州郡 漆谷郡 醴泉郡 奉化郡 蔚珍郡 鬱陵郡 読みは大韓民国の地方行政区画を参照。 朴正煕(第5,6,7,8,9代大韓民国大統領) 李明博(第17代大韓民国大統領) 朴槿恵(第18代大韓民国大統領)※出身地の大邱市は現在は広域市となり道から独立しており慶尚北道の区域ではないが、出生時は慶尚北道大邱市であった。 金道源 鄭淵珠 柳時敏 チャン・ウヒョク(元H.O.T.メンバー) ソン・ジヒョ(女優) ナム・サンミ(女優) イ・ヨンア(女優) オハイオ州 河南省 イルクーツク州 北西州 アルザス地域圏 ブルサ県 タイグエン省 ジョグジャカルタ特別州 カスティーリャ・レオン州 日本の島根県と姉妹都市であったが、2005年に竹島の日が制定されると、慶尚北道の議会は日章旗を焼くなどの抗議をし、島根県との姉妹都市関係を撤回し、断交を宣言した。同年、独島の月を制定し、日本との交流を制限することを宣言している。 ^ 慶尚北道公式サイト 慶北紹介 > 慶北現況 , 2016年9月11日閲覧 ^ 大韓民国国家統計ポータル > 人口・世帯 > 人口総調査> 人口部門 > 総調査人口(2015) > 全数部門 > 人口、世帯と住宅 - 邑面洞 2015年~2015年, 2016年9月11日閲覧 ^ VANK「サイバー独島士官学校」、生徒1万人突破 聯合ニュース 2009/05/22 ^ 東亜日報 2005年3月16日 donga.com(Japanese donga) 朝鮮八道 慶尚道 二十三府制 慶尚北道 (日本統治時代) 慶尚北道公式サイト 韓国語 日本語版", "座標: 北緯35度06分 東経129度02分 / 北緯35.100度 東経129.033度 / 35.100; 129.033 釜山広域市(プサンこういきし、ふざんこういきし、韓国語表記:부산광역시、英語:Busan)は、大韓民国南東部に位置する広域市。韓国第2の都市である。対馬海峡に面し、古くから日本と朝鮮半島とを結ぶ交通の要衝として栄えてきた港湾都市である。首都ソウルに次ぐ韓国第二の都市として、政治・経済・文化の面で重要な役割を担ってきた。 朝鮮半島南東端に位置し、韓国の主要都市中で最も日本の近くに位置する。対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を挟んで対馬を望む事ができ(海雲台区の冬柏などから肉眼で見える日が年間約60日あり)、下関市・福岡市までは200kmほどの距離である。このため、日本との関係も密接であり、とくに下関市・福岡市などの北部九州や山口県との関係が深い。 現在は広域市に位置づけられ、道には属さないが、1962年までは慶尚南道に属していた。道から独立後も1983年6月まで慶尚南道庁の所在地であった。朝鮮の地方区分でいう慶尚道地方(嶺南地方)の中心都市である。 北 - 蔚山広域市、梁山市(慶尚南道) 西 - 金海市(慶尚南道)、昌原市(慶尚南道) 読み、各種表記は大韓民国の地方行政区画を参照のこと 後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる。 朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域に含まれる。 古代は任那(伽耶)に含まれる地域である。新羅に合併された時に居漆山郡になり、統一新羅時代の757年に良州(現在の梁山市)所属の東莱郡を設置、現在の市街地地域に東平県、機張郡に機張県が東莱郡の下に設けられているが、地域の中心は金海にあった。 任那について倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている、広開土王碑日本軍改竄説が否定され、またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団によるこの地域の統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されている。 高麗時代の富山浦は蔚州の東莱県に所属する漁村であった。 李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代、釜山地域にははじめ東莱県、のちに東莱府(東莱都護府)が置かれた。対日防衛の要衝であることから慶尚左道都万戸が置かれた。また、対日交易の拠点としても重要な位置を占め、15世紀始めには富山浦に日本人居留地である倭館が設置された(浦所倭館)。以後、釜山地域は三浦の乱や文禄・慶長の役など中世日朝関係の曲折の舞台となった。 朝鮮王朝と江戸幕府の交渉が復活すると、龍頭山一帯に対馬藩の草梁倭館が設置された。江戸時代、「鎖国」(海禁)時代の日本では、蝦夷地および琉球とともに、日本人が海外に居住できる限られた場所となった。 1877年の日朝修好条規によって朝鮮が開国した際、3ヶ所の開港地(他の2港は仁川・元山)の一つとなり、倭館はひきつづき日本人居留地となった。以後、釜山港の貿易港としての整備とともに、港湾都市釜山は発展することになる。1905年には鉄道(京釜線)が開通し、釜山駅が開業した。 この間、行政面では1895年に慶尚道が廃止されて東莱府(二十三府制)になったが、翌年に慶尚南道になり、道庁が釜山に置かれた。 日本統治時代の1914年には行政区画の整理が行われた。このとき、旧釜山府の日本人居留地一帯(釜山港周辺)を新釜山府(ふざんふ)として編成した。郊外部では旧釜山府の農村部と機張郡を東莱郡として改編した。 以後、日本統治下では1936・42年の二度にわたって釜山府は府域拡張を行っている。1936年には西面など(現・釜山鎮区などの一帯)が、1942年には東莱邑など(現・東莱区などの一帯)が東莱郡から府域に編入された。 1949年に釜山府は釜山市に改称した。1950年に朝鮮戦争が勃発し、ソウルが陥落すると、釜山は1953年まで大韓民国の臨時首都となった。釜山には戦争を避けた難民が多く移り住み、人口が増加した。 1957年には出張所を改めて区が設置され、1963年には釜山直轄市に昇格した。朝鮮戦争後は、金海郡の一部(現・江西区一帯)を編入するなど数次の市域拡大を行っている。1995年に釜山広域市に名称を改めるとともに、梁山郡内の旧東莱郡域(現・機張郡)を市域に編入した。2000年には文化観光部2000年式の告示に伴い、公式の英語表記がそれまでの Pusan から Busan に改められた(ただし釜山大学校など、現在も Pusan の表記が使われる場合もある)。 長らく市庁は港に近い旧市街地の古い建物を使っていたが、1999年に蓮堤区に市庁の庁舎を建設して移転、裁判所なども蓮堤区に所在している。 市庁跡地には超高層ビルの釜山ロッテタウンタワーが建設中で、2019年に完成する予定である。 市の人口は近年まで増加の一途をたどり、一時400万人前後に達したが、2000年以降徐々にドーナツ化現象によって減少傾向にあると言われる。 1910年10月1日 - 慶尚南道東莱府が釜山府に改称。 1914年4月1日 - 釜山府を分割し、釜山港周辺の市街地を新たな釜山府とする。農村部の大部分は機張郡とともに東莱郡として編成、一部(左耳面・北面の各一部)は梁山郡に編入。 1936年4月1日 - 東莱郡西面および沙下面の一部を編入。 1942年10月1日 - 東莱郡東莱邑・沙下面・南面および北面の一部を編入。 1949年8月15日 - 釜山府が釜山市に改称。 1957年1月1日 - 中区・西区・東区・影島区・釜山鎮区・東莱区を設置。(6区) 1963年1月1日 - 慶尚南道釜山市が釜山直轄市に昇格。(6区) 慶尚南道東莱郡亀浦邑・沙上面が釜山鎮区に編入。 慶尚南道東莱郡北面および機張面の一部が東莱区に編入。 1975年10月1日 - 釜山鎮区・東莱区・東区の各一部をもって南区を設置。(7区) 1978年2月15日 - 釜山鎮区の北部と慶尚南道金海郡大渚邑および鳴旨面・駕洛面をもって北区を設置。(8区) 1980年4月1日 - 東莱区の一部を分離し、海雲台区を設置。(9区) 1983年12月15日 - 西区・北区のそれぞれ一部をもって沙下区を設置。(10区) 1988年1月1日 - 東莱区の一部を分離し、金井区を設置。(11区) 1989年1月1日 - 北区の西部と慶尚南道金海郡駕洛面・菉山面、義昌郡天加面をもって江西区を設置。(12区) 1995年1月1日 - 釜山直轄市が釜山広域市に改称。(12区) 1995年3月1日 (15区1郡) 慶尚南道梁山郡機張邑・長安邑・鼎冠面・日光面・鉄馬面を編入。その区域をもって機張郡を設置。 慶尚南道鎮海市の一部が江西区に編入。 南区の一部を分離し、水営区を設置。 北区の一部を分離し、沙上区を設置。 東莱区の一部を分離し、蓮堤区を設置。 市長:徐秉洙(서병수)第24代(民選6期)。海雲台区長(民選2期)の他、国会議員を連続4期(16〜19代)務めた。 23代(民選5期):許南植(허남식、2010年7月1日〜2014年6月30日) 22代(民選4期):許南植(허남식、2006年7月1日〜2010年6月30日) 21代(民選3期):許南植(허남식、2004年6月6日〜2006年6月30日)・・・04年6月5日の補選で当選。安相英前市長の残余任期を勤めた。 20代(民選3期):安相英(안상영、2002年7月1日〜2004年2月4日)・・・収賄の疑いで逮捕・起訴され、拘置所に収監中の04年2月4日に自殺。 19代(民選2期):安相英(안상영、1998年7月1日〜2002年6月30日) 18代(民選1期):文正秀(문정수、1995年7月1日〜1998年6月30日) 出所:市長室「역대시장(歴代市長)」、日本語版サイト「歴代市長」。 議会:47名(地域区42名+比例代表5名)地域区は小選挙区制。 出典:“부산광역시의회(釜山広域市議会)”の의원광장 정당별(議員広場政党別)を参照。(2017年5月21日閲覧) 江西区(강서구) カンソく Gangseo-gu 金井区(금정구) クムジョンく Geumjeong-gu 南区(남구) ナムく Nam-gu 東区(동구) トンく Dong-gu 東莱区(동래구) トンネく Dongnae-gu 釜山鎮区(부산진구) プサンジンく Busanjin-gu 北区(북구) プクく Buk-gu 沙上区(사상구) ササンく Sasang-gu 沙下区(사하구) サハく Saha-gu 西区(서구) ソく Seo-gu 水営区(수영구) スヨンく Suyeong-gu 蓮堤区(연제구) ヨンジェく Yeonje-gu 影島区(영도구) ヨンドく Yeongdo-gu 中区(중구) チュンく Jung-gu 海雲台区(해운대구) ヘウンデく Haeundae-gu 機張郡(기장군) キヂャンぐん Gijang-gun 読みは大韓民国の地方行政区画を参照。 オークランド バルセロナ ホーチミン 高雄市 ロサンゼルス リオデジャネイロ 上海市 下関市 福岡市 スラバヤ ティファナ バルパライソ ビクトリア州 ウラジオストク モントリオール 西ケープ州 イスタンブール 韓国では2003年まで、姉妹都市関係は「1国1都市に限る」という規則があった。このため、すでに下関市との間で姉妹都市関係を結んでいた釜山市は、当初は「行政交流都市」の関係を福岡市と結んでいた。その後、この規制が撤廃されたことを受け、2007年2月2日、両市はそれまでの関係の格を引き上げ、「姉妹都市」関係の締結を行った。従って現在では姉妹都市である。 大阪市 2008年5月21日 友好協力都市協定諦結。 横浜市 2006年6月26日 パートナー都市協定諦結。 北海道 2005年12月 友好交流提携諦結。 朝鮮半島の南端に位置するため、比較的温暖な気候である。最高気温極値は37.3℃(2016年8月14日)、最低気温極値は-14.0℃(1915年1月13日)、過去最深積雪は37.2cm(2005年3月6日)である。2005年3月の大雪はそれまでの最深積雪記録(1945年2月25日)の22.5cmを60年ぶりに大幅に塗り替える記録的な大雪となった。過去に20cm以上の積雪は前述の2度しかなく、例年は積雪となることはほとんどない。2011年1月16日には、午前の最低気温が-12.8℃を記録し、1915年以来96年ぶりの大寒波に見舞われた。 地理学でのケッペンの気候区分では、かつては温暖湿潤気候の代表的な都市とされていたが、近年の夏季の降水量の増大の結果温帯夏雨気候(最多雨月は7月で316.9mm、最少雨月は12月で22.8mmである為)に変化した。 イギリスの週刊新聞エコノミストが発表した「世界の経済大国のうち最も空気が汚染されている都市」でワースト5に入った。 釜山では東南方言の一種である釜山マル(부산말)が話され、「友へ チング」など釜山を舞台にした作品でも耳にすることができる。 漁港を擁するため海鮮料理が名物であるほか、ホルモン焼き、豚骨スープを用いたテジクッパ、朝鮮戦争の際に北からの避難民が持ち込んだ平壌冷麺を起源に持つミルミョン、豚足をサラダ風に盛り付けるネンチェチョッパル、東莱地区のパジョン(ネギチヂミ)などが釜山のご当地グルメに挙げられる。 KBS釜山放送総局 MBC 釜山文化放送 九州朝日放送(KBC テレビ朝日系列)と姉妹局提携 KNN(Korea New Network)(旧:釜山放送(PSB))(SBS系列局) テレビ西日本(TNC フジテレビ系列)と姉妹局提携 かつてKBS釜山・第1ラジオからは、ラジオ韓国の日本向け日本語放送のサービスを韓国標準時(日本時間同じ)0時から1時に放送していた時期があった。 日本統治時代から野球が盛んであり、釜山商業と釜山中学が朝鮮代表として全国高校野球選手権大会に出場している。現在も「野球都市」と称されることがあるほど、韓国では最も野球人気が高い都市である。ファンの熱狂的な応援で知られる地元球団ロッテ・ジャイアンツは韓国でも屈指の人気球団であり、観客動員もトップクラスを誇る。 釜山に本拠地を置くプロスポーツ ロッテ・ジャイアンツ(韓国野球委員会) 釜山アイパーク(Kリーグ) 釜山KTマジックウィングズ(韓国バスケットボールリーグ) 釜山慶南競馬公園(韓国馬事会) 釜山大学校(부산대학교)(国立) 東亜大学校(동아대학교) 釜山外国語大学校(부산외국어대학교) 釜慶大学校(국립 부경대학교)(国立) 韓国海洋大学校(한국해양대학교)(国立)  慶星大学校(경성대학교) 東義大学校(동의대학교) 釜山教育大学校(부산교육대학교) (国立) 新羅大学校(신라대학교) 東西大学校(동서대학교) 東明大学校(동명대학교) 慶南情報大学(경남정보대학) 釜山科学技術大学(부산과학 기술대학) 釜山港は大韓民国のハブ港湾である。2005年、2006年の釜山港のコンテナ取扱量は世界5位である[2]。 釜山港 釜山国際旅客船ターミナル - 日本の大阪港、神戸港、下関港(関釜フェリー・釜関フェリー)、博多港(ビートル・コビー、カメリアライン)、厳原港と比田勝港(大亜高速海運)に就航。 釜山沿岸旅客船ターミナル 金海国際空港 ここでは主要な駅を掲載。 釜山駅 京釜線とKTX・SRTの列車が発着する。 釜田駅 東海線・慶全線の列車が発着。 亀浦駅 京釜線・慶全線の列車と、KTXの一部が停車。 新海雲台駅 少数の京釜線の列車が発着、東海線の列車が停車。 上記の他に釜山鎮駅も存在するが、2005年より旅客扱いを行っておらず、現在は貨物駅としてコンテナ貨物の取り扱いのみを行っている。また、市内西部には貨物線の釜山新港線が通っている。 釜山交通公社(Humetro)(地下鉄) 4つの都市鉄道路線(釜山都市鉄道)を運営している。 釜山-金海軽電鉄 2011年9月9日開業(開通式は9月16日)。沙上駅と隣町金海市の加耶大駅の間で運行。金海国際空港へのアクセス路線でもある。 広域電鉄東海線(KORAIL) 2016年12月29日開業。 1968年までは、市電(路面電車)も市街地で運行されていた。詳しくは釜山市電を参照。 釜山総合高速バスターミナル ソウル等の全国各地に向かう高速バスが発着している。 釜山西部バスターミナル 慶尚南道地域に向かうバス主体。 バス運送事業組合及びマウルバス運送事業組合の傘下事業者により、多数のバス路線が設定・運行されている。運賃・機能体系は一般バス・座席バス・マウルバス・深夜バスに分かれる。運賃支払いにはハナロカードも利用でき、カード利用割引、地下鉄乗継割引などの制度が適用される。 一部路線は蔚山広域市や梁山市へも乗り入れているほか、蔚山広域市・梁山市の市内バスにも釜山市内への乗り入れ路線がある。 京釜高速道路(1号線) 釜山インターチェンジ - 久瑞ジャンクション - 老圃インターチェンジ(ソウル方面のみ出入り可能) 中央高速道路(55号線) 三楽インターチェンジ - 大渚ジャンクション - 亀浦インターチェンジ 南海高速道路(10号線) 北釜山料金所 - 大渚ジャンクション 南海高速道路第二支線(104号線) 駕洛インターチェンジ - 西釜山料金所 - 西釜山インターチェンジ - 沙上インターチェンジ 釜山タワー 龍頭山公園 釜山アクアリウム BEXCO 太宗台 梵魚寺 国立日帝強制動員歴史館 南浦洞 国際市場 チャガルチ市場 西面 西面市場 東莱温泉 釜山大学 海雲台 海雲台 広安里 釜山国際映画祭 『ブラックパンサー』 『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』 - 千葉真一主演。 『友へ チング』 『チルソクの夏』 『まだまだあぶない刑事』 - 冒頭の「ブラックマーケットの取引現場」シーンを釜山港影山地区で撮影。 『HERO』 - 木村拓哉主演。韓国からイ・ビョンホンが友情出演している。 『悪いやつら』 『弁護人』 『国際市場で逢いましょう』 『はぐれ刑事純情派』 - 2000年(平成12年)1月1日放送「安浦刑事、韓国へ飛ぶ!釜山港へ帰る女・父と娘、遙かなる帰郷」 『応答せよ1997』 2012年放送の韓国ドラマ 盧武鉉 大韓民国第16代大統領 慶尚南道金海郡(現・金海市)で生まれ、釜山商業高校を卒業。1978年から1987年までの弁護士時代は釜山の法律事務所で活動。1988年の国会議員選挙に釜山市東区選挙区から出馬して当選し政界入りした。 文在寅 大韓民国第19代大統領 出生地は慶尚南道巨済郡(現・巨済市)だが、小学校入学前に釜山市影島区に一家で移住し、釜山市内の小学校・中学校・高校に通った。弁護士時代は盧武鉉とともに釜山の法律事務所で活動。国会議員時代の選挙区は釜山市沙上区 李大浩 プロ野球選手、ロッテ・ジャイアンツ所属 孫児葉 プロ野球選手、ロッテ・ジャイアンツ所属 宋勝準 プロ野球選手、ロッテ・ジャイアンツ所属 朴漢伊 プロ野球選手、三星ライオンズ所属 尹盛桓 プロ野球選手、三星ライオンズ所属 張元準 プロ野球選手、斗山ベアーズ所属 鄭根宇 プロ野球選手、ハンファ・イーグルス所属 李宅根 プロ野球選手、ネクセン・ヒーローズ所属 張成宇 プロ野球選手、KTウィズ所属 秋信守 プロ野球選手、テキサス・レンジャーズ所属 金無英 元プロ野球選手、栃木ゴールデンブレーブス投手コーチ 金致坤 プロサッカー選手、サラワクFA所属 金昌洙 プロサッカー選手、蔚山現代FC所属 金昶訓 サッカー選手、水原FC所属 金旼弟 サッカー選手、水原FC所属 金裕晋 サッカー選手 丁東浩 プロサッカー選手、蔚山現代FC所属 崔昇仁 プロサッカー選手、釜山アイパーク所属 崔龍洙 元プロサッカー選手 朴炡慧 元プロサッカー選手 文慶建 プロサッカー選手、大分トリニータ所属 チェ・ジウ 俳優 イ・ジュンギ 俳優 チャン・ヒョク 俳優 コン・ユ 俳優 ソンモ (超新星) 歌手 チョン・ヨンファ(CNBLUE) 歌手、俳優 イ・ジョンヒョン (CNBLUE) 歌手、俳優 チャン・ウヨン (2PM) 歌手 チョン・デヒョン(B.A.P)歌手 パク・ジミン(防弾少年団)歌手 チョン・ジョングク(防弾少年団)歌手 ウジ(SEVENTEEN)歌手 チョン・ウンジ(Apink)歌手 ユナ(AOA )歌手 ミナ(AOA )歌手 EXY(宇宙少女) ハン・ソナ 歌手、俳優 カン・ダニエル 歌手 ^ 大韓民国国家統計ポータル > 人口・世帯 > 人口総調査> 人口部門 > 総調査人口(2015) > 全数部門 > 人口、世帯と住宅 - 邑面洞 2015年~2015年, 2016年9月11日閲覧 ^ 『朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉』[1]東京大学考古学研究室研究紀要. 第25号, 2011年3月, pp.65-96 ^ 安相英・釜山市長が拘置所で自殺。2004年2月4日付東亜日報(日本語版) ^ 韓国気象庁 過去の積雪の記録 ^ 写真で見る101年ぶりの大雪便り 釜山観光旅行ガイド プサンナビ ^ “평년값자료(1981–2010) 부산(159)”. 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Korea Meteorological Administration. 2011年5月23日閲覧。 慶尚北道 北区 (浦項市) 南区 (浦項市) 浦項市公式サイト(朝鮮語) 浦項市公式サイト(日本語)", "大田広域市(テジョンこういきし、朝鮮語: 대전광역시)は、大韓民国の都市。韓国で5番目の大都市である。5区と79行政洞よりなる。現在は広域市に位置づけられ、道には属さないが、1988年までは忠清南道に属していた。 西には名山・聖山として知られた鶏龍山がそびえる。古来より近郊の儒城温泉が知られていたが大きな町はなく、公州所属の農村地帯に過ぎなかった。ゆえにこの地域を「大きな田畑」を意味する固有語でハンバッ(한밭、Hanbat)と曖昧に指し示していた。日本統治下の自治体統廃合の際に「大田」と漢字が当てられ、さらに京釜線・湖南線などが開通して交通の要衝となり急速に発展、大きな都市となった。 大田国際博覧会が1993年に開催されたほか、市内の儒城区にハイテク団地「大徳研究団地」を有するなど科学技術都市として知られる。1973年に研究学園団地として指定された大徳研究団地は、韓国科学技術院(KAIST)や韓国電子通信研究院(ETRI)など政府・民間の研究所100以上が集中しており、原子力や宇宙開発、生命工学などの研究を行っている。また特許庁や統計庁など首都機能の一部が大田に分散されており、韓国鉄道公社(KORAIL)の本社も置かれている。 市長:許泰鋌(허태정、2018年7月1日 - ) 歴代市長については大田広域市長を参照。 議会:22議席(地域区19+比例代表3)地域区は小選挙区制。 出典:“大田広域市議会ホームページ”を参照(2018年10月21日閲覧)。 区 東区(동구) 中区(중구) 西区(서구) 儒城区(유성구) 大徳区(대덕구) 読みは大韓民国の地方行政区画参照 1935年10月1日 - 大田郡大田邑が大田府に昇格。 1940年11月1日 - 大徳郡外南面・柳川面の各一部を編入。 1949年 - 大田府が大田市に改称。 1963年1月1日 - 大徳郡柳川面および懐徳面・山内面の各一部を編入。 1977年 - 東区・中区を設置。(2区) 1983年2月15日 (2区) 大徳郡儒城邑および九則面・炭洞面・杞城面・鎮岑面の各一部が中区に編入。 大徳郡懐徳面が東区に編入。 1987年 - 大徳郡鎮岑面の一部が東区に編入。(2区) 1988年1月1日 - 中区の一部が西区として分離。(3区) 1989年1月1日 - 忠清南道大田市が大田直轄市に昇格。(5区) 忠清南道大徳郡東面および山内面の一部が東区に編入。 忠清南道大徳郡山内面の一部が中区に編入。 忠清南道大徳郡杞城面が西区に編入。 西区の一部と大徳郡九則面・炭洞面および鎮岑面の一部をもって儒城区を設置。 東区の一部を大徳郡新灘津邑をもって大徳区を設置。 1993年 - 大田国際博覧会を開催。 1995年 - 大田直轄市が大田広域市に改称。(5区) 2004年 - KTX(韓国高速鉄道)開業。 1914年の行政区画と現在の行政区画の比較  古代 - 百済の雨述郡・真峴県・奴斯只県・所比浦県 統一新羅時代 - 比豊郡・鎮嶺県・儒城県・赤鳥県 高麗時代 - 公州牧の懐徳県・鎮岑県・儒城県・徳津県 李氏朝鮮時代 - 忠清道懐徳郡・鎮岑郡 1895年5月26日 - 二十三府制導入。公州府懐徳郡・鎮岑郡となった。それにより、後の大田広域市の中心地にあたる公州郡より回廊地帯であるを山内面、山外面、柳等川面、炭洞面、九則面が懐徳郡に編入。 1896年 - 十三道制導入。忠清南道懐徳郡・鎮岑郡となった。 1906年 - 飛地整理令により清洲郡周岸面を懐徳郡に編入。 1914年4月1日 - 郡面併合により、懐徳郡・鎮岑郡および公州郡の一部(県内面)を大田郡として編成。大田郡に以下の面が成立。(12面) 朝鮮総督府令第111号  鎮岑面・杞城面・柳川面・儒城面・内南面・炭洞面・九則面・外南面・大田面・山内面・北面・東面 1917年10月1日 - 内南面が懐徳面に改称。(12面) 1931年4月1日 - 大田面が大田邑に昇格。(1邑11面) 1932年 - 忠清南道道庁が公州より移転。 1935年10月1日(11面) 大田邑が大田府に昇格・分離。 大田郡の残り地域は大徳郡に改称。 1940年11月1日 - 大田府拡張による行政区画調整。(10面) 柳川面の柳川里・唐垈里・沙亭里・平里および龍頭里の一部、外南面の弘道里・佳陽里・蘇堤里・連孝里・山所里・龍坊里・石橋里・中村里が大田府に編入。 外南面の三丁里・加午里・虎洞里・玉渓里・大城里が山内面に編入。 1963年1月1日 - 柳川面全域および懐徳面の大禾里・梧井里・龍田里、山内面の玉渓里・加午里・三丁里・虎洞里が大田市に編入。(9面) 1973年7月1日(2邑7面) 北面が新灘津邑に昇格。 儒城面が儒城邑に昇格。 1983年2月15日(1邑6面) 儒城邑および九則面・炭洞面・杞城面・鎮岑面の各一部が大田市中区に編入。 懐徳面が大田市東区に編入。 1987年 - 鎮岑面の一部が大田市東区に編入。(1邑6面) 1989年1月1日 - 以下の変更により、大徳郡は廃止。 東面および山内面の朗月里・大別里・二沙里・大城里・長尺里・小好里・九到里・三槐里・上所里・下所里が大田直轄市東区に編入。 山内面の無愁里・旧完里・砧山里・木達里・政生里・於南里・錦洞里が大田直轄市中区に編入。 杞城面が大田直轄市西区に編入。 新灘津邑が新設の大田直轄市大徳区に編入。 九則面・炭洞面および鎮岑面の大部分(南仙里を除く)が新設の大田直轄市儒城区に編入。 鎮岑面の南仙里が論山郡豆磨面に編入。 儒城区の紫雲台には教育司令部や陸海空各軍の大学があるほか、周囲に国防科学研究所、軍需司令部が集中する。鶏竜台(陸海空三軍統合本部)のある鶏龍市は儒城区に隣接する。 市内に空港はないが、清州国際空港が忠清北道清州市(旧清原郡)にあり、韓国の時刻表では「清州/大田」と表記されている。 韓国鉄道公社(KORAIL) 京釜高速線: (大田操車場) - 大田駅 京釜線:新灘津駅 - 懐徳駅 - (大田操車場) - 大田駅 - 細川駅 湖南線:(大田操車場) - 西大田駅 - 佳水院駅 - 黒石里駅 大田線(旅客営業なし):大田駅 - 西大田駅 大田駅にはKTX・SRTが乗り入れる。京釜高速鉄道でソウル駅からの所要時間は最速50分、水西駅から43分、釜山駅から1時間29分。湖南高速鉄道の列車は西大田経由のKTXのみ西大田駅に停車し、湖南高速線公州駅経由の列車は大田市内に入らない。 在来線の一般列車は、ソウル駅から東大邱駅・釜山駅方面のITX-セマウル・ムグンファ号が大田駅に、龍山駅から湖南線・全羅線方面へのITX-セマウル・ムグンファ号が西大田駅に停車する。 忠北線・清州駅方面の列車の多くも大田駅を始発駅としている。 大田線は2015年4月1日をもって旅客列車の運行が廃止された。 大田広域市都市鉄道公社(地下鉄) 大田都市鉄道1号線:板岩駅 - 盤石駅 路線詳細は当該記事を参照のこと。 大田複合ターミナル 2011年12月16日に開業。これまで分散していた高速バスターミナルと市外バスターミナルが集約された。大田駅より北に2km、西大田駅より北東4kmに所在。 高速バスは、ソウル高速バスターミナルへは15分間隔で運行し、所要時間は2時間。その他東ソウル総合バスターミナル・釜山総合高速バスターミナル・大邱広域市(大邱東洋高速バスターミナル・西大邱高速バスターミナル)・仁川・全州・光州・蔚山・浦項・江陵などへ運行。 市外バスは、仁川国際空港・金浦国際空港・水原・利川・城南・原州・春川・安東・昌原など各地へ運行。 京釜高速道路(1号線) 飛龍ジャンクション - 大田インターチェンジ - 懐徳ジャンクション - 新灘津サービスエリア(ソウル方向のみ) - 新灘津インターチェンジ 統営-大田・中部高速道路(35号線) 南大田インターチェンジ - 山内ジャンクション 唐津-盈徳高速道路 (30号線) 儒城ジャンクション 湖南高速道路支線(251号線) 西大田ジャンクション - 儒城インターチェンジ - 北大田インターチェンジ - 懐徳ジャンクション 大田南部循環高速道路(300号線)(当該記事参考) 川辺都市高速化道路(当該記事参考) ケッペンの気候区分では温帯夏雨気候に属する。内陸である為、寒暖の差が激しい大陸性気候となる。夏は暑く、冬は緯度の割りに寒さが厳しい。最高気温極値は37.7℃(1994年7月24日)、最低気温極値は-19.0℃(1969年2月6日)、過去最深積雪は49.0cm(2004年3月5日)である。 国立 韓国科学技術院 (KAIST) 忠南(チュンナム)大学校 ハンバッ大学校 私立 韓国情報通信大学校(第三セクター形式) 大田(テジョン)大学校 又松(ウソン)大学校 培材(ペジェ)大学校 牧園(モグォン)大学校 韓南(ハンナム)大学校 大田科学高等学校 大田高等学校 KSTAR - 核融合研究施設 儒城温泉(ユソン温泉) 国立中央科学館:「自然と人間と科学の調和」がテーマの産業、技術、自然史、科学技術史などに関する博物館。1926年ソウルに開業した国立科学博物館の移転・拡大したもの。正式にはこちらが本部で、ソウルが分館。 エキスポ科学公園:1993年の大田国際博覧会跡地。リニアモーターカーが運行されている。 アクアワールド水族館 オーワールド 鶏足山ファントッキル:「黄土の道」と呼ばれるハイキングコース。 大清湖 大田トゥルレサンキル:市内・周囲のハイキングコース。 同春堂:李氏朝鮮時代の官吏・儒学者の宋浚吉の別荘。大韓民国指定宝物。 大田文化芸術の殿堂 大田市立美術館 李應魯美術館 現代ギャラリー テレビ・ラジオ局 KBS大田放送総局 大田文化放送(大田MBC) 大田放送(TJB・SBS系列 大田市、日本 1987年 シアトル、アメリカ合衆国 1989年 ブダペスト、ハンガリー 1994年 南京市、中国 1994年 カルガリー、カナダ 1996年 グアダラハラ、メキシコ 1997年 ウプサラ、スウェーデン 1999年 ノヴォシビルスク、ロシア 2001年 ブリスベン、オーストラリア 2002年 ビンズオン省、ベトナム 2005年 無錫市、中国 2006年 札幌市、日本 2010年10月22日 ダーバン、南アフリカ共和国 ^ 大韓民国国家統計ポータル > 人口・世帯 > 人口総調査> 人口部門 > 総調査人口(2015) > 全数部門 > 人口、世帯と住宅 - 邑面洞 2015年~2015年, 2016年9月11日閲覧 ^ 2015년 4분기 주민등록인구통계(외국인 포함) ^ (新旧対応)朝鮮全道府郡面里洞名称一覧(1917年) ^ 朝鮮総督府令第111号(1913年12月29日) ^ 道令第8号(1917年9月25日) ^ 朝鮮総督府令第103号(1930年12月29日) ^ 朝鮮総督府令第220号(1940年10月23日) ^ 法律第1175号 시·군관할구역변경및면의폐치에관한법률(1962年11月21日) ^ 大統領令第6543号 邑設置に関する規定(1973年3月12日) ^ 大統領令第11027号 市・郡・区・邑・面の管轄区域変更及び面設置等に関する規定(1983年1月10日)第4条 ^ 法律第4049号 대전직할시설치에관한법률(1988年12月31日) ^ “평년값자료(1981−2010) 대전(133)”. 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ABC01-02-0163
1867年3月30日に、アメリカがロシアから720万ドルで購入した地域はどこでしょう?
アラスカ州
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[ "アラスカ州", "レイクアンドペニンシュラ郡 (アラスカ州)", "コディアックアイランド郡 (アラスカ州)", "アラスカ半島", "アメリカ合衆国本土" ]
[ "座標: 北緯64度 西経150度 / 北緯64度 西経150度 / 64; -150 アラスカ州 State of Alaska 州の愛称: 最後のフロンティア The Last Frontier 州のモットー: 未来は北にある North to the future アラスカ州(英: State of Alaska [əˈlæskə] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国最北端にある州。アリューシャン列島を含む。北アメリカ大陸北西の端にあり、合衆国本土とはカナダを挟んで飛地になっている。アラスカでは、合衆国本土を\"lower 48\"(直訳:南方の48州。アメリカ50州からアラスカとハワイを除いたもの)と呼ぶことがある。 アメリカ合衆国の州の中では面積最大であり、東はカナダ、北は北極海、西と南は太平洋と接し、西のベーリング海を隔ててロシアとも海上の国境がある。2010年国勢調査による人口は710,231人であり、その約半分はアンカレッジ都市圏に住んでいる。州都はジュノー市で、最大都市はアンカレッジ市である。海港アンカレッジはかつてアジアとアメリカおよびヨーロッパを結ぶ航空路線の寄港地として知られた。アメリカ合衆国の州の中では人口密度が最小の州でもある。 アラスカは1867年3月30日にロシア帝国からアメリカ合衆国が買収した。その後幾つかの管理形態の変遷を経て、1912年5月11日にアラスカ準州、1959年1月3日にアラスカ州となった。 「アラスカ」の名は、ロシア植民地時代に既に使われていたが、アラスカ半島のみを指していた。アレウト族の言葉で「半島」を意味する \"Alakshak\"(アラクシャク)、あるいは「本土」、より語義的には「海の動きが向けられている対象」を意味する \"alaxsxaq\" から採られた。アレウト語の同じ語源から派生した「認められた土地」を意味する \"Alyeska\" という説も知られている。 主要記事:アラスカの歴史 最終氷期では海面は後退し、ベーリング海峡にはベーリンジアという平原が広がっていた。ユーラシア大陸を東進してきた人類は、まずインディアンが次いでエスキモーが回廊を通り、アラスカに到達した。[要出典] 歴史時代以前、アラスカはエスキモーとインディアンの土地であった。エスキモーは北極海沿岸を中心に海洋動物の狩猟が中心の生活、インディアンは内陸部にてヘラジカ(ムース)やカリブーなどの狩猟が中心の生活をそれぞれ一万年以上続けてきたとみられている。 近代に入ると、北部ユーラシア大陸を東進してきたロシア帝国がアラスカに到達した。1648年、ロシアの探検家セミョン・デジニョフ(Semyon Dezhnev)がベーリング海峡上の島、ダイオミード諸島に到着した最初のヨーロッパ人である。しかしデジニョフの航海は18世紀まで忘れられており、1728年8月16日にヴィトゥス・ベーリングが再発見・命名したとされる。再発見した8月16日はロシア正教会がタルソスの聖ディオメデスを祝う日であり、これにちなみ現在の名となった。またロシアの測地学者ミハイル・グヴォーズデフ(Mikhail Gvozdev)がダイオミード島の位置を地図に記した(別名のグヴォーズデフ諸島の名はこれにちなむ)。 1799年に露米会社が勅許を受けたことによりロシア領アメリカが成立。 1804年、シトカの戦い。 19世紀前半にロシアは植民を行い、露米会社がアザラシなど海洋動物の毛皮を採集していたが、運送費がかさむこと、乱獲による海洋動物の激減により毛皮事業がなりたたなくなっていた。 なお、アラスカはかつてロシア領だったために正教徒の割合が他州に比べて高く、現地語のうちの幾つかがロシア人宣教師によってはじめて文字化された。[要出典] クリミア戦争後の財政難などの理由による資金調達のため、1867年にクリミア戦争の中立国であったアメリカ合衆国に720万ドル(1km2あたり5ドル)で売却された(アラスカ購入)。この交渉をまとめたのは国務長官であったウィリアム・H・スワードである。このことは当時のアメリカ国民から「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたが、その後豊富な資源が見つかったり、アラスカが(主に旧ソ連に対する)国防上重要な役割を果たすことが分かり、現在では高く評価されている。 1896年カナダのユーコン準州で金が発見された。 その後、アラスカのノームやジュノー、フェアバンクスでも金鉱が発見され、アラスカのゴールドラッシュが始まり、何万人もの金探鉱者がアラスカとカナダのユーコン準州に集まった。フェアバンクス等はこの時代に町としての形をなした。フランク安田の生涯を描いた『アラスカ物語』はこの時代を舞台としている。 1941年からアメリカも参戦した第二次世界大戦中には、州内の島しょ部が日本軍に占領されたほか、ダッチハーバーにあるアメリカ海軍の基地が日本海軍機の空襲を受けた。 1959年、アメリカの49番目の州に昇格した。1950年代の東西冷戦の時代には、アラスカを水爆実験場にしようという計画が持ち上がったが、自然保護運動の高まりの中、中止に至った。 1968年アラスカの北部のプルドーベイで、ARCO(1977年にアナコンダ・コパーを吸収合併)が油田を発見した。推定埋蔵量は96億バレルだった。1974年-1977年に、プルドーベイ油田からバルディーズ市まで1,280kmのトランス・アラスカ・パイプラインが建設された。1976年「連邦土地政策および管理法」にとって代られるはずだったホームステッド法は、開発途上のアラスカ州にかぎり1986年まで例外的に適用された。 アラスカ州はアメリカ合衆国の他の全ての州の海岸線を合わせたよりも長い海岸線を持っている。北アメリカにある州として唯一本国とは飛び地になっており、ワシントン州との間には約500マイル (800 km) にわたってカナダのブリティッシュコロンビア州がある。アラスカ州は\"lower 48\"と呼ばれるアメリカ合衆国本土(主要部分)の一部ではない。専門的には合衆国大陸部(continental U.S.)の一部とされるが、日常的にはそう見なされないことが多い。州都ジュノーは北米大陸にあるが、道路で北アメリカハイウェイシステムの他の部分とは繋がれていない。 アラスカ州は東をカナダのユーコン準州とブリティッシュコロンビア州と接し、南はアラスカ湾と太平洋、西はベーリング海、ベーリング海峡およびチュクチ海、北は北極海に面している。アラスカ州の領海はベーリング海峡でロシアの領海と接しており、ロシア領大ダイオミード島とアラスカ領小ダイオミード島とは僅か3マイル (5 km) しか離れていない。アリューシャン列島が東半球まで伸びているので、アメリカ合衆国の最北の州であると同時に西端の、および(東経の数字上は)東端の州でもある。 アラスカ州の陸地面積は586,412平方マイル (1,518,807 km2) あり、アメリカ合衆国の州の中では最大で、第2位のテキサス州と比べてもその2倍以上ある。世界の主権国と比べても第19位の大きさであり、北欧5か国(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク本国、アイスランド)にバルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)を合わせた面積にほぼ相当する。領海までを含むと、面積順位上位のテキサス州、カリフォルニア州、モンタナ州の3つを合わせたよりも大きく、順位下位の22州を合わせたよりも大きい。 アラスカ州の地域を分ける公式の境界は無いが、一般には6つの地域が認められている。 アンカレッジ市、マタヌスカ・サスティナ・バレーおよびキナイ半島があり、州内でも最も人口の多い地域である。アラスカ山脈の南およびランゲル山脈の西にあるほとんど無人の地方、さらにはプリンスウィリアム湾地域やコルドバとバルディーズの町もこの中に含まれている。 アラスカ・パンハンドル(「取っ手」の意、突出部)とも呼ばれ、アメリカ合衆国本土に最も近いので、アラスカ買収後最初に開拓が始まった地域である。州都ジュノー、旧都シトカおよびケチカンの町が入っている。これら都市の道路は極めて地域に限られており、その郊外にある集落を含めて互いを繋ぐ道路は無い。アレキサンダー諸島地域に入り、またアメリカ合衆国最大の国有林であるトンガス国立の森が入っている。 内陸部は州内最大の地域だが、その大半は無人の原生地である。そこそこの大きさの町はフェアバンクスくらいである。全体に道路や河川に沿って小さな町と先住民の集落が散らばっている。デナリ国立公園と保護地があり、北アメリカの最高峰であるデナリ(マッキンリー山)がある。 南西部はベーリング海沿岸から500マイル (800 km) ほど内陸までの人口希薄な地域である。人口の大半は海岸部に住んでいる。コディアック島も地域に入っている。世界でも最大級の河川デルタであるユーコン・コスコクウィム・デルタがある。アラスカ半島の一部も南西部の一部と見なされ、残りは下記アリューシャン列島に含まれる。 大半がツンドラ地帯であり、小さな集落が散開している。原油の巨大埋蔵量でも知られ、アラスカ国家石油保留地とプルードー湾油田がある。アメリカ合衆国最北の都市バローがある。コッツェブーを郡庁所在地とし、コブク川を含むノースウエストアークティック郡もこの地域内にあると見なされることが多い。しかし、ノーススロープやノースウエストアークティックのイヌピアト族は自分達のことをそれに属するとは考えていない。 アリューシャン列島は300以上の小さな火山島が連なり、全長1,200マイル (1,900 km) にわたって太平洋上に並んでいる。国際日付変更線が列島を横切っているが、国際標準時では西経169度30分以西の地域にハワイ・アリューシャン標準時を採用している。第二次世界大戦時にアッツ島とキスカ島の2島が日本軍に占領された。 アラスカ州はその無数にある島を含めて全長34,000マイル (54,400 km) 近い海岸線がある。南端から西にはアリューシャン列島が延びている。アリューシャン列島や海岸地域には多くの活火山が見られる。例えばユニマク島にはシシャルディン山があり、北太平洋上に10,000フィート (3,000 m) 以上も噴煙を上げることがある。地球上で最も円錐状に近い火山であり、日本の富士山よりも対称性が高い。この火山の連なりは本土のアンカレッジ市の西、スパー山まで続いている。地質学者はアラスカをランゲリアの一部としている。ランゲリアは活発に大陸形成が行われている太平洋岸北西部にあって、アメリカ合衆国とカナダの多くの州を含むものである。 アンカレッジ市の直ぐ南にあるターナゲイン・アームでは世界最大の潮汐が起こる。干満の潮位差は35フィート (10.7 m) にも達する(カナダにはもっと大きな潮位差が出る地域があるとする文献もある)。 州内には300万以上の湖がある。北部、西部および南西部の平原では湿原や永久凍土層が188,320平方マイル (488,000 km2) にもなる。氷河は陸地16,000平方マイル (41,000 km2)、海岸部1,200平方マイル (3,100 km2) を覆っている。ユーコン準州との南東部国境近くにあるベーリング氷河は単独で2,250平方マイル (5,800 km2) の大きさがある。氷河の総面積は10万平方マイル (260,100 km2) 以上有り、世界の氷河の半分に相当している。 北アメリカ大陸最高峰のデナリ(別名マッキンリー山)がある。周囲は広大なデナリ国立公園が広がっている。他の国立公園は、グレイシャーベイ国立公園などがある。 また、自然保護区としてラッセルフィヨルド、文化遺産保護区としてアラスカ最南端にミスティフィヨルドがある。 ボーフォート海に面するアラスカ国家石油保留地は未開発の状態が保たれている。 アメリカ合衆国土地管理局の1998年10月付け報告書に拠れば、州内の土地の65%は連邦政府が国有地として保有・管理している。これには多くの国有林、国立公園、国立野生生物保護区などが含まれている。この中で土地管理局は8,700万エーカー (348,000 km2) すなわち州面積の23.8%を管理している。北極野生生物国家保護区はアメリカ合衆国魚類野生生物局が管理している。広さ1,600万エーカー (64,000 km2) に及ぶ世界最大の野生生物保護区である。 残りの土地では、アラスカ州が10,100万エーカー (404,000 km2) を所有している。これは州構成法の下にある権限である。その一部は新しく設立される郡に関する州法の規定により法人化郡に分譲される。小さな土地は田園の小区分などホームステッドに関連する機会に取って置かれるが、これらは遠隔であったり道が無かったりして、あまり人気が無い。アラスカ大学は土地認可大学であり、独立で管理するかなりの広さの土地も所有している。 他に4,400万エーカー (176,000 km2) の土地はアラスカ州先住民居住法に従って創設された12の地域および数多い地方の先住民共同体が所有している。地域先住民共同体であるドヨン・リミテッドは広告などの通信分野ではアラスカ州最大の民間土地所有者としてそれ自体を宣伝している。アラスカ州先住民居住法の規定は1981年から共同体の所有する土地を公開市場で販売しても良いこととされていたが、それが実行に移されるまえに撤廃された。実質的にこの共同体は権利(個人には否定される特権など多くの場合に基本的な権利を含む)を保有しているが、土地を売ることはできない。しかし、先住民個別割り当て地は公開市場で販売でき、事実売られている。 様々な民間事業者が残りの土地を所有しており、州面積の約1%である。先住民の保有する土地を除けば、アラスカ州は他州と比べて遙かに民間の所有する土地の比率が小さい州である。 ジュノーなど南東パンハンドル部の気候は、南部が西岸海洋性気候(ケッペンの気候区分Cfb)、北部が海洋性亜寒帯気候(ケッペンの気候区分Cfc)である。パンハンドル地域は冬に温暖な気温と年間を通じて降水があり、アラスカ州の中では最も雨が多く暖かい地方である。ジュノーでの年間平均降水量は50インチ (1,270 mm)、他の地方は275インチ (6,985 mm) 以上である。州内では冬季でも日中の最高気温が氷点を超えるのはこの地域だけである。 アンカレッジ市など南中部は海岸に近いためにアラスカ人の標準からは温暖な方である。南東部よりも雨が少なく、雪が多く、晴天になることが多い。年間平均降水量はアンカレッジ市で16インチ (406 mm)、雪は75インチ (190 cm) であるが、南中部の他地域ではさらに降雪量が多い。夏は短期間で冷涼であり、亜寒帯太洋性気候(ケッペンの気候区分Cfc)である。 州西部の気候はベーリング海とアラスカ湾の影響が強い。その南西部は海洋性亜寒帯気候であり、北部は大陸性亜寒帯気候である。気温は北の方にあるにしては幾らか温暖である。降水量は所によって大きな差がある。スワード半島北側からコブク川バレーに至る地域は事実上砂漠であり、年間平均降水量は10インチ (254 mm) に満たない。一方ディリングハムとベセルの間の地域では100インチ (2540 mm) を超える所もある。 内陸部の気候は亜寒帯気候(ケッペンの気候区分Dfc)である。州内で最高および最低気温はフェアバンクスの周辺で起こっている。夏の気温は90°F(30℃ 台前半から半ば)に達し、冬は−60°F(−51℃) 以下にまで下がる。降水は稀であり、年間10インチ (254 mm) に満たないことが多いが、冬の降水量は冬季を通じて凍り、流出しない傾向にある。 アラスカ州の過去最高および最低気温は内陸部で観測された。過去最高気温は1915年6月27日にフォートユーコン(北極圏の8マイル (13 km) 内側)で観測された 100°F(38℃) であり、ハワイ州と共にアメリカ合衆国の州における最高気温としては最も低いものである。過去最低気温は1971年1月23日にプロスペクトクリークで記録された −80°F(−62℃) であり、北アメリカで記録された過去最低気温(カナダのユーコン準州スナグ)より 1°F 高いだけである。 州最北部の気候は極地性気候(ケッペンの気候区分ET)であり、長くて大変寒い冬と、短くて涼しい夏がある。7月でもバローでの平均最低気温は 34°F(1℃) である。降水量は少なく年間で10インチ (254 mm) に満たない場所が多い。年間を通じて根雪がある。 2008年7月1日時点、アラスカ州の人口は686,293人と推計され、2000年国勢調査時点より59,361人、すなわち9.5%増加した。これには自然増60,994人(出生86,062、死亡25,068)並びに州外への移住者5,469人の減少が含まれている。アメリカ合衆国外からの移住は4,418人増加し、合衆国内部への移住で9,887人減少した。 アラスカ州の人口重心はアンカレッジの東およそ64.37 km(39.96マイル)となっている [1]。 2000年時点の人口では、アメリカ合衆国の州でワイオミング州とバーモント州に次いで少なく第48位である(但しワシントンD.C.が少ない)。アラスカ州は人口密度で最小であり、その値は1平方マイルあたり1人 (0.42/km2) と世界でも最も少ない方である。面積では国内最大の州であり、一人当たり収入では第6位になっている。2010年1月時点での失業率は8.5%である。 2010年国勢調査に拠ると州人口は710,231人である。人種と民族で見ると、 白人:66.7%(非ヒスパニック白人は64.7%) アメリカ・インディアンとアラスカ先住民:14.8% アジア系:5.4% アフリカ系:3.3% ハワイ先住民と太平洋諸島系:1.0% その他の人種1.6% 混血:7.3% ヒスパニック:5.5% となっている。 2005年から2007年のアメリカ地域社会調査に拠ると、州内で5歳以上の人口のうち84.7%が家庭で英語のみを話している。スペイン語は約3.5%、その他インド・ヨーロッパ語族言語2.2%、アジア系言語4.3%、その他の言語5.3%となっている。 州人口の5.2%は「先住民族語」と総称される22の言語の1つを話している。これらの言語はエスキモー・アレウト語族あるいはナ・デネ語族のどちらかに入っている。北アメリカのこれら2語族の故郷としてのアラスカは、大陸の交差点とも呼ばれ、ベーリング地峡を伝って北アメリカに渡ってきた証拠にもなっている。 アラスカ州は太平洋岸北西部のワシントン州やオレゴン州と共に最も宗教色の薄い州に分類されてきた。宗教データ保存所協会が集めた統計に拠れば、アラスカ州民の約39%は特定の宗派に属している。福音派教会員が78,070人、ローマ・カトリック教会員54,359人、プロテスタント・メインライン37,156人となっている。単独宗派としてはカトリックの次に来るのが末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の30,169人、南部バプテスト教会22,959人となっている。ロシア正教会が初期植民地時代に先住民に伝道を行った結果として、正教徒も多く、49の教区、50,000人となっている。 1795年、コディアックに最初のロシア正教会が設立された。アラスカの先住民との結婚によってロシアからの移民は社会に融け込んでいった。その結果アラスカの中で次第に教会の数が増えていった。アラスカ州は他州と比べクエーカー教徒の比率も高い。2009年、州内には6,000人のユダヤ教徒がいた(ユダヤ教の戒律ミツバーを守ることが社会的な問題を生じている)。イスラム教徒の数は2,000人から5,000人と推計されている。2010年にイスラム教徒がアラスカでは初のモスクを竣工させた。ヒンドゥー教徒は他のシク教徒やジャイナ教徒と同じ施設を使い祝祭も同時開催することが多い。 この地に先住するエスキモー、インディアン、アレウトは、本土のインディアンと同じくアメリカ内務省の出先機関であるBIA(インディアン管理局)の管理下に置かれ、アメリカ連邦政府=BIAが認定した部族のみが、連邦条約のもと、村落単位で保留地(Reservation)を領有している。 アラスカ・エスキモー(ユピク、イヌピアト)はイヌイットとは言語も違う別部族であり、「イヌイット」とは呼ばない。 もともと移動狩猟民であるアラスカ・エスキモーは、20世紀になって衣食住の援助や地下資源の所有権と引き換えに「保留地」を受け入れ、移動生活を破棄している。現在、アラスカのエスキモーは観光用以外犬ぞりは使っておらず、スノーモービルが主流となっている。 石油などの地下資源に関しては、開発容認派と伝統派の賛否両論で部族村落が二分しているところも多い。大雪原を分断するアメリカ本土の石油パイプライン建設計画も、自然環境と併せ彼らの生活への大きな影響が懸念されている。 1990年代、全米の産業・軍事用高濃度核廃棄物の埋め立て処分場として、アメリカ連邦政府は本土の(アメリカ連邦条約上、外国である)インディアン保留地のいくつかを候補地とし、各廃棄物受け入れの見返りとして2億5000万ドルの援助金を提示。これに対し、ニューメキシコ州のメスカレロ・アパッチ族部族会議が名乗りを上げたため、メスカレロ・アパッチ族部族員はこれに猛反発。部族会議は北米自由貿易協定をもとに、この高レベル核廃棄物をそのまま他部族の保留地へ丸投げする計画を表明した。これを受けてアラスカ州サスカチェワンの自治組織メードウ湖畔部族会議が受け入れ表明したため、周辺の部族が猛反発し、大論争となった。1994年にこの高濃度核廃棄物のアラスカへの「たらい回し」は正式に頓挫した。 現在6つの部族・団体が連邦認定を拒否され、アラスカ先住民としての権利を行使できずにおり、連邦による認定を要求中である。 2008年1月18日、約100人のアラスカ・インディアンが、アラスカ立法府が「インディアンの国(Indian country)」の認定可否について連邦裁判所と係争するために100万ドルを費やすことについて抗議デモを行った。彼らは太鼓を打ち鳴らし部族の歌を歌いながら平和と主権を叫び、フェアバンクスからコルドバまで行進した。アラスカ・インディアンの活動家チャールズ・エトック・エドワードセンは「主権は売り物や商品ではない。土着民の見出し付けなど制定できるものなのか」とコメントしている。 ≪アメリカ連邦政府が公式認定しているアラスカ部族・村落≫ ≪アメリカ連邦政府が公認していないアラスカ部族・団体≫ チルクート族・カーグワーンターン氏族 領土なき5つのトリンギット族共同体 カタラ=チルカット・トリンギット族 クヌガンク族 キュテクカク族 ツィムシアン族部族会議 インディアン賭博規制法に基づき、アラスカの先住部族が運営する部族カジノは現在のところ、以下の9つ。「プルタブ」という名称が多い。 ≪アラスカ部族カジノと経営部族≫ アラスカで最も人口の多い都市はアンカレッジで、2000年現在260,283人、市街地域には225,744人が暮らしている。 アメリカ合衆国の都市の面積順リストでは、アラスカ州内の都市が上位を占める。1位はヤクタト市郡、2位は南東部に位置するシトカで、3位はジュノー、4位はアンカレッジである。 一人当たり収入で州内第1位はハリバットコーブの89.895ドルである。 アラスカ州はアメリカ合衆国の他州とは異なり、郡(County)ではなく\"Borough\"という行政小区分が作られているが、日本語ではどちらも「郡」と訳されている。州内の比較的人口の多い部分は16の\"Borough\"に入っており、他州の\"County\"と同様な機能を果たしている。しかし、他の49州とは異なり既存の\"Borough\"だけで州内の全地域をカバーしてはいない。いずれの\"Borough\"にも属さない地域は「非自治郡」と総称されている。 非自治郡には独自の政府が無いが、アメリカ合衆国国勢調査局は州と協同して、統計的解析と公表の目的に限定して11の国勢調査地域を定めている。「記録地区」はアラスカ州における公的記録を管理する仕組みである。州内は州記録官の下に中央管理される34の記録地区に分けられている。全ての記録地区は公的記録に文書を加えるために同じ需要基準、料金体系などを使っている。 アメリカ合衆国の州が州、郡、タウンシップという3段階の行政区分を使っているのに対し、アラスカ州は州と郡の2段階のみを使っている。人口密度が少ないために、土地の大半が非自治郡に入っている。非自治郡には中間的郡政府は無く、直接州政府によって管理されている。2000年時点で州域の57.71%は非自治郡であり、その中には人口の13.05%が住んでいる。 国勢調査の統計目的のために非自治郡は国勢調査地域に分けられている。アンカレッジ市は1975年に大アンカレッジ地域郡と合併し、アンカレッジ統合市郡となった。これには従来の市域と、イーグルリバー、チュギアク、ピーターズクリーク、ガードウッド、バード、およびインディアンの町を含んでいる。フェアバンクス市の場合は郡部(フェアバンクスノーススター郡)と市部(フェアバンクス市)が別々にある。 アラスカ州の特にアラスカブッシュ(未開地)には小さな町が多くあるが、概して道路が繋がっていない。 主要記事:en:Government of Alaska アラスカ州はアメリカ合衆国の他州と同様に三権分立の共和制を採っている。行政府は州知事と個別に選挙で選ばれ憲法で規定される行政官で構成されている。立法府は上院と下院の両院制である。司法府はアラスカ州最高裁判所と下級裁判所で構成されている。 州全体では約15,000人の職員を雇用している。 アラスカ州下院は40人、上院は20人の議員で構成され、上院は4年間、下院は2年間の任期である。州知事の任期は4年間である。副知事は予備選挙で知事とは別に出馬するが、一般選挙では知事と副知事の候補者が組み合わされ、1つの投票用紙に記入されている。 アラスカの司法制度は4段階である。すなわち最高裁判所、控訴裁判所、上級裁判所および地方裁判所である。上級裁判所および地方裁判所は第一審である。上級裁判所は一般的な事件を扱い、地方裁判所は軽犯罪や10万ドルまでの民事事件など特定の事件のみを扱う。最高裁判所と控訴裁判所は上級審である。控訴裁判所は刑事訴追、少年非行、および人身保護令状に関するものなど下級裁判所の判決から控訴されたものを審問する。最高裁判所は民事訴訟を審問し、その判断で刑事控訴事件を審問することもできる。 アラスカ州は民主党の州として合衆国に加盟したが、1970年代初期以降は共和党寄りの州になってきた。地方の政治社会は土地を使った開発、漁業、観光および個人の権利に関する問題で動くことが多い。アラスカ州の先住民はその居住地とその周りで組織化されている一方で先住民共同体の中で活動を続けてきた。これらの団体は受託責任を必要とする広大な土地の所有権を与えられている。 アラスカ州では個人の家庭内で1オンス (28.35 g) 以下の大麻を所有することは州法の下で完全に合法であるとする唯一の州である。ただし連邦法では違法である。 州内ではアメリカ合衆国からの分離に関する投票に賛成する独立運動があり、アラスカ独立党は「20世紀で最も重要な州レベルで活動する第三政党」と位置付けられている。 過去に6人の共和党員と4人の民主党員が州知事になってきた。さらに1990年には共和党のウォリー・ヒッケルが2期目に再選されたが、これは再選されるよりずっと以前に短期間共和党を離れてアラスカ独立党の推薦を得ていたものだった。1994年には正式に共和党に復党した。 死刑制度は廃止されている。 アラスカ州は州政府の運営資金として主に石油収入と連邦政府の交付金に頼っている。このことで個人に対する税負担は合衆国の州の中でも最低レベルになっており、消費税も個人の収入に対する所得税も無い。なお、アメリカで消費税が無いのは5州、所得税が無いのは7州、どちらも無いのは2州となっている。アラスカ州税収省 は定期的に州の税収減を報告している。また税収に直接影響する新州法を含めその運営に関する年間報告書も発行している。 州レベルでは消費税が無いが、89の自治体は1ないし7.5%、普通は3ないし5%の消費税を徴収している。その他の課税対象としては、鮮魚税、ホテルやモーテルのベッド税(ベッドと朝食に課される)、枯渇性資源税、酒類とタバコ税、賭博税、タイヤ税および燃料輸送税がある。特定の収税と免許料(石油、航空燃料、電話事業)から集められる歳入の一部は州内の自治体に交付される。 フェアバンクス市は州内でも最も資産税が高い部類にあるが、フェアバンクスノーススター郡では消費税も所得税も課されない。この郡では消費税導入案が何度も住民投票に掛けられたが、これまで承認されたことが無く、立法者達は酒類とタバコなど他の商品への税率を著しく高めてきた。 2008年、シンクタンクの「タックス・ファンデーション」はアラスカ州を「事業に優しい」税政策の州第4位にランク付けした。その上位にはワイオミング州、ネバダ州およびサウスダコタ州が来ている。 アラスカ州が1959年に州に昇格して以降、1964年を除いて全てのアメリカ合衆国大統領選挙では共和党候補を選んできた。民主党候補を選んだ回数がこれより少ない州は無い。1964年に民主党候補リンドン・B・ジョンソンが地滑り的勝利を得た時にはアラスカ州もジョンソンを支持した。1960年と1968年の選挙は接戦だった。しかし、1972年以降は共和党候補が大差で州を制してきた。2008年の選挙でも共和党のジョン・マケインがバラク・オバマを得票率59.49%対37.83%という大差で制した。マケインの副大統領候補者サラ・ペイリンはアラスカ州知事であり、主要政党の候補者になったことでは初のアラスカ出身者だった。ペイリンは2009年7月に知事を辞職したが、全国的に注目を集め続けている。 アラスカブッシュ、ジュノー市の中心部、アンカレッジ市の中部と中心街およびアラスカ大学フェアバンクス校のキャンパス周辺は民主党の強い地盤である。マタヌスカ・スシトナ郡とサウスアンカレッジは共和党の強い地盤である。2004年、予備選挙を止める動きがあるにも拘わらず、登録有権者の過半数が「支持政党無し」あるいは「不表明」を選んだ。 アラスカ州はその人口に比例してアメリカ合衆国下院に1人の代表しか送っていない。その議席は共和党のドン・ヤングが19期連続して占めている。全州が1つの選挙区になっており、その広さはカナダのヌナブト準州に次いで世界第2位である。 アラスカ州選出のアメリカ合衆国上院議員2人はクラス2と3に属している。2008年、アンカレッジ市長の民主党員マーク・ベギッチが長年上院議員を務めた共和党のテッド・スティーヴンスを破った。スティーヴンスは選挙の1週間前に、上院議員財政公開票に贈与を報告していなかったという7つの重罪で告発されていた。検察の職権乱用の証拠が出された後の2009年4月にこの告発は取り消された。 共和党のフランク・マーカウスキーがもう一つの上院議員職を務めていた。マーカウスキーは2002年に知事に選出された後に上院議員を辞任して下院議員で娘のリーサ・マーカウスキーを後継者に指名した。リーサは2004年から2010年の6年間全期を務めた。2010年の再選を求めた選挙では共和党の指名候補から外れて、投票用紙に名前が事前に記されていない記入候補(ライトイン)として出馬したが、当選し現職を務めている。 アラスカ州トルーパーズは州全体の警察組織である。長く様々な歴史を持っているが、公式の組織になったのは1941年になってからだった。公式の組織になる以前は様々な連邦機関が法の執行を行っていた。大きな町は通常独自の警察を持っており、村によっては警察訓練を受けているが武器を持たない「公衆安全オフィサー」に依存する所もあった。現在の州の大半ではトルーパーズが唯一の警察として機能している。交通ルールや刑法を執行することに加え、ワイルドライフ・トルーパーズは猟や釣りの規制も監督している。様々な地形があり、トルーパーズの任務が幅広いために、各種の陸上、空中および水上の偵察用移動装置を利用している。 田園部の多くの町は「ドライ」であると考えられ、アルコール飲料の持ち込みは違法としてきた。田園部住人の自殺率は都会部よりも高い。 家庭内暴力など暴力犯罪は高いレベルにある。これはアルコールの乱用に結びつけられることがある。 また性犯罪も国内では高い発生率を示している。性的暴力を受けた被害者の平均年齢は16歳である。事件の5件中4件で容疑者は親戚、友人あるいは知人になっている。 アラスカ州の2007年度州内総生産は449億ドルで国内第45位だった。同年の1人当たり所得は40,042ドルで国内第15位だった。その経済は石油・ガス産業が支配的であり、州歳入の80%以上になっている。石油・ガスを除く主な輸出品は海産物であり、サケ、タラ、カニが多い。 農業の占める比率は小さい。農産物は主に州内消費用であり、苗木、酪製品、野菜および家畜が含まれている。製造業は限られたものであり、食料や雑貨は輸入されている。 雇用は主に政府によるものであり、他に天然資源採掘、海運および輸送などの産業で雇用されている。フェアバンクスやアンカレッジでは、軍事基地も経済の大きな要素になっている。連邦政府の交付金も経済の大きな要素であり、税率を低く抑えられている。鉱工業生産品として、原油、天然ガス、石炭、金、貴金属、亜鉛などの鉱物、海産物加工品、木材および木製品がある。サービス産業や観光産業も成長しつつある。 米国の中で最も天然資源に恵まれ、とりわけ「原油」の埋蔵量が豊富である。プルドーベイ油田(プルドー湾油田)は米国最大の規模を誇り、それら産出事業のおかげで州民に対する補助金が潤沢で平均所得も国内トップクラスにある。21世紀初頭からの原油価格高騰により、他の油田候補地の開発も州政府は検討しているが、一方でこれらの多くが北極圏国立自然保護区(ANWR)に位置し、州議会ではアラスカの自然・生態系愛護を訴えるアメリカ民主党との間で長らく論争が続いており、開発推進派のサラ・ペイリン州知事が2008年共和党大会で副大統領候補に指名されて以降(ただし正大統領候補マケインのほうが従来は開発反対を唱えていた)俄然注目を集めた。その後選挙には敗れたものの、国家のエネルギー問題解決の鍵を握る構想として部分的に解禁される道も残されている。 アラスカ・ノーススロープとクック湾で石油と天然ガスの埋蔵が確認されている。エネルギー情報管理局に拠れば、原油生産では国内第2位の州になっている。ノーススロープのプルードー湾油田はアメリカ合衆国および北アメリカでも最大の産出量を誇り、日量40万バーレル (64,000 m3/日)となっている。これは国内石油生産量の8%に相当している。 トランス・アラスカ・パイプラインは1日210万バーレル (330,000 m3) までの原油を輸送することができ、国内最大のパイプラインとなっている。さらに瀝青炭、準瀝青炭および褐炭のかなりの埋蔵量が発見されている。アメリカ合衆国地質調査局はノーススロープの天然ガス水和物から取り出すことのできる85.4兆立方フィート (2,420 km3) の未確認埋蔵量があると推計している。また川が多いので国内でも最大級の水力発電を生み出す可能性を持っている。さらに海岸線では風力発電や地熱発電の可能性も高い。 アラスカの経済は暖房、輸送、電力、照明に高価な軽油を使う比重が高まっている。風力や水力は豊富にありながら未開発であり、州全体のエネルギー供給計画では、2001年時点での燃料コスト (0.50ドル/ガロン 以下)、送電距離、少ない人口を考慮して経済的に成り立たないと判断された。州都市部でのガス燃料代は国内平均よりも通常1ガロン当たり30セントないし60セント高い。田園部ではかなり高くなるが、輸送費、季節変動のある最大使用量、石油開発施設との距離など様々な要素により変動がある。 アラスカ恒久基金は1976年の住民投票で承認され、主にトランス・アラスカ・パイプラインから得られる石油収入の余剰金を配分するものであり、憲法でも認められている。この基金は先ず1969年プルードー湾油田鉱区借用権の売り出し前に当時の知事キース・ミラーが提案したものであり、議会が販売利益9億ドルを一度に消費してしまうことを恐れたものだった。これは後のジェイ・ハモンド知事やキナイ選出の州議会下院議員ヒュー・マローンから支持を受けた。それ以来これは魅力的な政治観として機能し、振り分けられた歳入は一般基金に積み立てられることになった。 アラスカ州憲法は州の基金を特定目的に使うことをしないように規定されている。恒久基金はこの数少ない例外となったが、これには創設されるときの政治的不信感が大きく作用した。基金は当初の734,000ドルから、ロイヤルティと投資計画の結果として400億ドルにまで成長した。この元本は全てではないもののほとんどがアラスカ州外に投資されている。そのためにアラスカ州の政治家は州内に投資すべきと言う要求をしばしばすることになったが、実際には実現していない。 1982年からは基金の年間増加分から得られる配当金が資格有るアラスカ州民に支払われてきた。その額は1982年の1,000ドル(分配計画に関する訴訟のために配当が止められたので3年分に相当)から、2008年の3,269ドル(「資源リベート」1,200ドル1回分を含む)まで変化した。毎年議会は収入の8%をとり、インフレの対策費として3%を元本に戻し、残り5%を資格有る州民に配当している。恒久基金の配当を受けるためには州内に12か月以上居住し、一定限度の不在期間があっても住居を維持しなければならない。また様々な資格剥奪条件となる判決や刑事告発を受けていないことが必要であり、違背すれば配当は差し押さえられる。 アラスカ州の物価はアメリカ合衆国本土より高い傾向にあった。これがアンカレッジ市の大半やフェアバンクス市の一部では変化してきており、過去5年間で生活費が下がってきた。連邦政府特にアメリカ合衆国郵便公社の雇員や実働任務にある軍事関係者は基本給の25%を生活費補助として受けている。生活費は下がってきたが依然として国内では高いレベルにあるのが理由である。 アンカレッジ、フェアバンクスおよびジュノーに大型郊外店ができたことも物価を下げることに寄与した。ウォルマートは1993年にアンカレッジに1号店を出店し、2004年にはフェアバンクスにも開店した。現在ではジュノー、ケチカンおよびコディアックなど人口の集中する場所の大半をカバーしている。しかし、田園部は輸送手段が限られているために国内と比べて食品や消費財の価格が極めて高い。田園部の住人は都市に出てきてコストコやサムズクラブのような倉庫型量販店から食品や雑貨を購入している。ネット商店の中には送料無料をうたっているものがあり、町で買うよりも安く品物を手に入れることができる。 アラスカ州では寒冷な気候と険しい地形のために農業はあまり発展していない。農地はアンカレッジ市の北東約40マイル (64 km) のマタヌスカ・バレーか、同南西約60マイル (96 km) のキナイ半島にある。栽培できる季節は100日ほどと短いが、夏の長い日照時間で作物が育つ。主要作物はジャガイモ、ニンジン、レタス、キャベツなどである。フェアバンクスの南東約100マイル (160 km) のデルタジャンクション地域にも幾らか農地が集中しており、大半はフォートグリーリーの北と東にある。この地域はハモンド知事がその2期目に推進した州の企画に従って開発された。この地域の作物はオオムギと干し草が多い。 アラスカ州には郡 (County) が無いので郡祭 (county fair) も無い。しかし、州祭と地方祭(その最大のものはパーマーで開かれるアラスカ州祭)を組み合わせて、晩夏に開催されるものが多い。これらの祭は歴史あるあるいは現在農業を行っている町で行われることが多く、地元農夫が作物を出品し、また遊園地の乗り物、コンサート、食品屋台など高収益の出店物も出ている。アラスカの農業では「アラスカ育ち」がスローガンになっている。 アラスカ州は海産物が豊富であり、主な漁場はベーリング海と北太平洋である。海産物は数少ない他州よりも安価な食品になっている。多くのアラスカ州民は生活の食料としてまたスポーツとしてサケの狩漁シーズンを楽しむ。 業としての狩猟は特に遠隔地のブッシュでは通常にあることであり、カリブー、ムースおよびドールシープなどが対象である。伝統的な先住民の食料として、エスキモーのアイスクリームと言われるアクタックがある。これはトナカイの脂肪、アザラシの脂、干し魚および土地で獲れるベリーで作ることができる。 アラスカのトナカイはスワード半島に集中しており、そこでは野生のカリブーが家畜化されたトナカイと混じり合えないようになっている。 アラスカ州の食料の大半は外部から輸送されてくるものであり、輸送費のために食料費は高くなる。田園部では輸入された食料が途方もなく高価になるので、狩猟採集で生きていくことが必要である。村に輸入される食料は7セント/ポンド (15セント/kg) のものが50セント/ポンド (1.10ドル/kg) 以上にまで上がることがある。1ガロンのミルクを村に配達するコストは多くの村で約3.5ドルとなり、そこでの一人当たり年収は20,000ドル以下である。燃料費も1ガロン当たり8ドルを超えることがある。 アラスカ州教育・初期開発省が州内の多くの教育学区を管轄している。さらに州はシトカにある全寮制のマウントエッジキューム高校を運営している。またネナナにあるネナナ学生生活センターやガレナにあるガレナ・インテリア学習アカデミーなど他の全寮制学校に資金の一部を提供している。 アラスカ州労働・職業能力開発省はアラスカの工科大学を運営している。スワードとアンカレッジにあるキャンパスでは、情報技術、溶接、看護および機械のような多様な分野で1週間から11か月間までの訓練プログラムを提供している。 アラスカ州には「頭脳流出」の問題がある。若者の多くは学校の成績が優良な者を含めて、高校卒業後に出て行き、戻ってこない。アラスカ大学はアラスカ・スカラーズ・プログラムによって高校卒業者の上位10%に対し、4年間の奨学金の一部を負担することで、この問題に対処しようとしている。 USニューズ&ワールド・レポートがランク付けしている大学は3校に過ぎない。 アラスカ大学システム(英語版) アラスカ大学アンカレッジ校(英語版) - (星槎道都大学との提携校) アラスカ大学フェアバンクス校 アラスカ大学サウスウエスト校(英語版)(シトカ) アラスカ聖書大学(英語版)(パーマー) アラスカ・パシフィック大学(英語版)(アンカレッジ) チャーター大学(英語版)(アンカレッジ) イリサグヴィック大学(英語版)(ノーム) シェルダン・ジャクソン大学(英語版)(シトカ) - 2007年休校 アラスカで人気のある年間行事には、アンカレッジ市からノームまでのイディタロッドトレイル犬橇レース、フェアバンクスの世界氷の芸術選手権、ケチカンのアラスカ・ハミングバード祭、シトカ鯨祭、ランゲルのスティキーン川ガーネット祭がある。スティキーン川の春には世界でも最大級にアメリカハクトウワシが集まってくる。 アラスカ先住民歴史遺産センターは州内11の民族の豊富な歴史遺産を誇っている。その目的は先住民の自尊心を高め、あらゆる人々の文化的交流を図ることである。アラスカ民族芸術基金 は州内のあらゆる地域と文化から民俗芸術を促進し市場に乗せようとしている。アンカレッジ市西6番アベニュー500のギャラリー、ニューヨーク市ソーホーのマーサー通り109のアラスカハウス・ニューヨーク、さらにインターネットでも閲覧できる。 アラスカの音楽に影響を与えたのは先住民の伝統的な音楽と、ロシアやヨーロッパからの移民によってもたらされた民族音楽である。州内で著名な音楽家としては歌手のジュエル、アレウト族の伝統的なフルート奏者メアリー・ヤングブラッド、フォークのシンガーソングライターであるリビー・ロデリック、クリスチャンミュージックのシンガーソングライターであるリンカーン・ブリュースター、メタル・ポストハードコア・バンドの36クレイジーフィスツ、グループのバミュアとポーチュガル・ザ・マンがいる。 定評有る音楽祭としては、アラスカ・フォーク・フェスティバル、フェアバンクス・サマー・アーツ・フェスティバル、アンカレッジ・フォーク・フェスティバル、アサバスカン・オールドタイム・フィドリング・フェスティバル、シトカ・ジャズ・フェスティバル、およびシトカ・サマー・ミュージック・フェスティバルがある。最も著名な交響楽団はアンカレッジ交響楽団であるが、フェアバンクス・シンフォニー・オーケストラやジュノー交響楽団も良く知られている。アンカレッジ・オペラは州内唯一のオペラ劇団であるが、州内にはボランティアやセミプロの組織もある。 公式の州の歌は「Alaska's Flag」(アラスカの旗)であり、1955年に採用され、州旗を祝うものである。 アラスカ州で最初に全て州内で撮影された映画はサイレント時代のもので、The Chechahcosはアラスカの事業家オースティン・E・ラスロップが制作し、アンカレッジ市周辺で撮影された。1924年にアラスカ動画会社によって公開されたが、この会社が作った唯一の映画になった。 アラスカで撮影された最も著名な映画はMGM制作のEskimo/Mala The Magnificentであり、アラスカ生まれのレイ・マラが出演した。1932年、ハリウッドのMGMスタジオからアラスカへの遠征隊が出発し、「かつてなく大きな映画」という触れ込みだった。アラスカに到着すると、州北西部に「キャンプ・ハリウッド」を構築し、撮影期間中はそこに起居した。プロデューサーのルイス・B・・メイヤーは遠隔地であるにも拘わらず掛ける費用に糸目を付けず、食事を準備するためにハリウッドのルーズベルトホテルからシェフを呼び寄せることまでやった。この映画がニューヨークのアスターシアターで封切られると、MGMはその時点までなかったような多額の収益を上げた。Eskimo/Mala The Magnificentは評価も良く、世界中で公開された。その結果、マラは国際的な映画スターになった。アカデミー賞では最優秀編集賞の最初のものを獲得し、イヌピアト族の文化を見せ保存することにも役だった。 1983年のディズニー映画Never Cry Wolfは少なくとも一部がアラスカで撮影された。1991年にイーサン・ホークが出演したWhite Fangはヘインズ周辺で撮影された。1994年にマイケル・ケインが出演したスティーヴン・セガールの沈黙の要塞は、その一部がバルディーズに近いウォーシントン氷河で撮影された。1999年、ジョン・セイルズの映画Limboではデヴィッド・ストラザーン、メアリー・エリザベス・マストラントニオ、クリス・クリストファーソンが出演し、ジュノーで撮影された。 2002年のサイコスリラー映画インソムニアは、アル・パチーノとロビン・ウィリアムズが出演し、カナダで撮影されたが、舞台はアラスカだった。2007年のホラー映画30デイズ・ナイトはバローが舞台だが、ニュージーランドで撮影された。アラスカを舞台とする映画やテレビ番組の多くがアラスカでは撮影されていない。例えば、たどりつけばアラスカの架空の町アラスカ州シシリーは実際にはワシントン州ロスリンで撮影された。 ショーン・ペンが監督した2007年のイントゥ・ザ・ワイルドは一部アラスカで撮影され、設定もそうだった。この映画は同名の小説に基づくものであり、1992年にアラスカ州ヒーリーの西、スタンピード・トレイル沿いの放棄されたバスの中で死んだクリストファー・マカンドレスの冒険を追ったものである。 関連項目:List of Alaska Routes かつて冷戦下は西側諸国に旧ソビエト連邦領空が開放されておらず、また当時の航空機の性能もあり、日本と欧米諸国を往復する最短経路の航空便はアンカレッジ国際空港を経由するのが普通であった(いわゆる「北回り航路」)。しかし、現在では冷戦終結や航空機の性能の向上等もあり、日本とアメリカ大陸を往復する便はアラスカ上空付近を飛行するがアンカレッジ空港を経由することはなくなった。日本とアラスカ州を結ぶ定期直行便は、貨物便を除いてない。日本からアラスカに行くには、通常アメリカ西海岸(シアトル・タコマ国際空港、ロサンゼルス国際空港、サンフランシスコ国際空港など)に飛び、そこからの定期便を利用する(バンクーバー国際空港の方が距離的には近いが、アラスカまでは国際線となるため先述の各空港からより便数が少なめ)か、夏季限定の仁川国際空港(韓国)からの定期便、もしくは日本からのチャーター便を利用するかのいずれかになる。 道路や海と川の交通機関が届いていない都市に行くには、航空機、徒歩、犬橇あるいは雪上機が必要である。アラスカ州独特のものとして航空機の利用が進んでおり、最も効率的な移動手段であり続けている。アンカレッジ市自体およびフェアバンクス市への幾らかは多くの主要航空会社の便を利用できる。アンカレッジでは観光業の隆盛に対応してテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港を大々的に改修した。2000年から2001年の統計で、240万人が州内に到着し、170万人は空路により、140万人は観光客だった。 州内の集落や町への営業的に引き合う定期便は難しいので、連邦政府の基本航空サービスプログラムによって援助を受けている。アラスカ航空が州内でジェット旅客機を飛ばしている唯一の会社であり(ボーイング737-400sによって貨物と乗客を組み合わせて運ぶことがある)、アンカレッジとフェアバンクスからベセル、ノーム、コッツェブー、ディリンガム、コディアックなど比較的大きな町と州南東部およびアラスカ半島にある町を地域中継点として運行している。 他にある商業便としてはエラ・アビエーション、ペンエアおよびフロンティア・フライング・サービスなど小さな地域コミューター便会社が運行するものである。小さな集落や町はセスナ・キャラバンのような一般用途航空機を使う定期便やチャーター便に頼るしかない。田園部に郵便を運ぶアラスカ・バイパスメイル・プログラムで飛ばされている便が利用できる。このプログラムでは援助金の70%が乗客を運ぶ運行者に払われることを求めている。 多くの町では需要に応じて遠隔地に輸送して欲しいという需要からエアタクシーを運行している。特に水上機が多く使われている。世界で最も利用される水上機基地はテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港に隣接するレイクフッド基地である。ここでは滑走路無しで乗客、貨物や店舗、倉庫の多くの物品を遠隔地の集落に運んでいる。アラスカ州は合衆国の州の中で一人あたりパイロットの数が最も多く、総数で8,550人、78人に1人となっている。 アラスカ州内には道路で接続されていない多くの市や村が多く、そのため域内の移動は、飛行機や船舶(河川及び海上)に大きく依存する。 アラスカ・マリーン・ハイウェイ(AMHS, Alaska Marine HIghway System)の名で知られる州営フェリー網がよく発達しており、南東アラスカからアリューシャン諸島までを結んでいる。また、アラスカ域内のみならず、米本土ワシントン州のベリングハム、カナダブリティッシュコロンビア州プリンスルパートから南東アラスカの各都市をスカグウェイまで運航している。 別会社のインターアイランドフェリー社は、アラスカ南東部の主要都市、ケチカンおよびランゲルとプリンスオブウェールズ島(Prince of Wales)のコミュニティを結んでいる。 近年は数千人を収容できる大型クルーズ船が夏に何隻も運航し、アメリカ、カナダの太平洋岸から主に南東アラスカへ大勢の観光客を呼びこんでいる。特に人口1万人に満たないケチカン市では、最大4隻までの大型クルーズ船が同時に接岸し、乗客をはき出す日には、街の人口が一気に膨れ上がる。 アラスカ州ではアメリカ合衆国の他州と比較してほとんど道路が接続されていない。その道路網は限られた地域のみにあり、人口の多い地域を結ぶものとカナダを抜けていく主要道であるアラスカ・ハイウェイがあるだけである。州都のジュノーへは道路を使って入ることができず、カーフェリーがあるだけである。このことは道路が繋がっている他の都市へ州都を移すことや、ヘインズから接続する道路を建設することなど長い間議論が続くことになった。州西部には他の部分と繋ぐ道路が無い。 アラスカ・ハイウェイの特徴あるものとしてアントン・アンダーソン記念トンネルがある。これはアラスカ鉄道の現役トンネルであり、孤立していたプリンス・ウィリアム湾のウィッティアとアンカレッジ市南東約50マイル (80 km) のポーテージでスワード・ハイウェイとを繋ぐ舗装道路を備えるように改修された。全長2.5マイル (4 km) のこのトンネルは2007年まで北アメリカ最長の道路トンネルだった。現在でも北アメリカで最長の道路鉄道併用トンネルである。 アラスカ鉄道は1915年頃に建設され、20世紀を通じてアラスカの発展に重要な役割を果たした。スワードから州南中部を経て内陸部に行く間に、アンカレッジ、エクルトナ、ワシラ、タエウキートナ、デナリ、およびフェアバンクスを通過し、ウィッティア、パーマーおよびノースポールへの支線もあり、北太平洋の航路と繋ぐ重要なインフラである。鉄道が通る都市、町、集落および地域は「レイルベルト」と呼ばれている。近年の舗装道路の発展により、アラスカ経済における鉄道の重要さに陰りが生じてきた。 鉄道は夏季の旅客輸送には有名であるが、天然資源を南に運び、州内で貨物を動かすことでアラスカの発展に重要な役割を果たしてきた。ヒーリーに近いウシベリ炭田からスワードに運ばれる石炭、マタヌスカバレーからアンカレッジに運ぶ砂利などが知られている。 アラスカ鉄道は通常の便に車掌車を連結していることでは北アメリカでも最後に残ったものであり、現在でも砂利運搬列車で使っている。旗を掲げておれば停車する運行形態でも国内では最後の生き残りである。タルキートナの北約60マイル (100 km) の路線は道路が無い。この地域の家屋や小屋にはこの鉄道が唯一の輸送手段である。1970年代にパークス・ハイウェイが建設されるまで、そのほぼ全線にわたって陸上からの唯一のアクセス方法を提供していた。 州南東部の北部、ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートもスカグウェイから北のカナダのユーコン準州やブリティッシュコロンビア州に入る鉄道であり、国境をホワイトパスで越えている。この線は主にスカグウェイにクルーズ船で到着する観光客に使われている。1993年のBBCテレビ番組「グレートリトル・レイルウェイズ」で紹介された。 アラスカ州の鉄道網は外部と接続されていない。2000年、アメリカ合衆国議会はアラスカ、カナダとアメリカ合衆国本土を繋ぐ鉄道の可能性を調査するために600万ドルの予算を承認した。 アラスカ・レイル・マリーンはウィッティアとシアトルの間で自動車航送を行っている。 アラスカ州の輸送手段には犬橇がある。近代では輸送手段というよりもスポーツの性格が強くなった。州全体で様々なレースが開催されているが、最も良く知られているのがアンカレッジ市からノームまで1,150マイル (1850 km) の道を行くイディタロッド・トレイル犬橇レースである。総延長は毎年変わるので、公式の距離は1,049マイル (1,678 km) とされている。このレースは1925年にあったノームまで血清を運ぶ出来事から起こった。ノームの町にジフテリアが蔓延し、他に血清を運ぶ手段が無かったときに、トーゴやバルトなどの犬が曳く橇が血清を届けた故事である。毎年3月に世界中の犬橇がアンカレッジ市に集まり、賞金、賞品と威信を競う。1925年に通ったルートを正確に辿る「シーラムラン」はフェアバンクス市の南西、ネナナからノームに向かうルートを使っている。 道路も鉄道も無い地域で夏の輸送手段は全地形対応車であり、冬季にはスノーモービルであるが、アラスカでは「スノーマシーン」と呼ばれることが多い。 カート・シリング - 野球選手 トニー・バーネット - 野球選手 カルロス・ブーザー - バスケットボール選手 イントゥイション - ラッパー 州のモットー:\"North to the Future\"(北から未来へ) 州の愛称:\"The Last Frontier\"(最後のフロンティア)、\"Land of the Midnight Sun\"(真夜中の太陽の土地)、\"Seward's Icebox\"(スワードの冷蔵庫) 州の鳥:カラフトライチョウ、1955年に準州議会が採用した。体長15–17 インチ (38 43 cm) のライチョウであり、ヤナギの間やツンドラと湿地で生活する。羽毛は夏に褐色、冬に白となる。アラスカ州の大半で観測される。 州の魚:キングサーモン、1962年採用 州の花:ワスレナグサ、1917年に準州議会が採用した。州全体、ハイダーから北極海海岸および西部からアリューシャン列島まで見られる多年草、 州の化石:ツンドラマンモス、1986年採用 州の宝石:ネフライト、1968年採用 州の昆虫:フォースポット・スキマー・トンボ、1995年採用 州の陸上哺乳類:ムース、1998年採用 州の海洋哺乳類:ホッキョククジラ、1983年採用 州の鉱物:金、1968年採用 州の歌:\"Alaska's Flag\"(アラスカ州旗) 州のスポーツ:犬橇レース、1972年採用 州の木:シトカ・トウヒ、1962年採用 州の犬:アラスカン・マラミュート、2010年採用 州の土:タナナ、採用年不明 ^ “RCN – Digital Cable TV, High-Speed Internet Service & Phone in Boston, Chicago, New York City, Philadelphia, Washington, D.C. and the Lehigh Valley”. 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U.S. Census Bureau. 2011年2月4日. ^ American FactFinder, United States Census Bureau, http://factfinder.census.gov 2008年1月31日閲覧。  ^ MLA Language Map Data Center Official site - 公式サイト 座標: 北緯58度24分 西経156度11分 / 北緯58.40度 西経156.18度 / 58.40; -156.18", "コディアックアイランド郡(英: Kodiak Island Borough)は、アメリカ合衆国アラスカ州の南海岸部、コディアック島に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は13,592人である。郡庁所在地はコディアック(人口6,130人)である。1963年に設立された。 コディアックアイランド郡は北緯57度43分、西経153度47分に位置している。アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は12,024平方マイル (31,142.0 km2)であり、このうち陸地は6,560平方マイル (16,990.3 km2)、水域は5,464平方マイル (14,151.7 km2)で水域率は45.44%である。郡域の大半はコディアック島であるが、アラスカ半島西部海岸の帯状の地と、付近のコディアック諸島の島々(アフォニャク島、シュヤク島、マーモット島、ラズベリー島、リトルラズベリー島、ホエール島、スプルース島、ウッディ島、ウガニク島、シトカリダク島、タギダク島、シトキナク島、チリコフ島、セミディ島)も含まれている。コディアック島と本土との間の海峡はシェリコフ海峡と呼ばれている。島の南側は太平洋の海原であり、ある種の衛星を打ち上げるには好適地と考えられている。コディアック打上げ基地はモルニヤ軌道や極軌道に人工衛星を打ち上げるのに適している。 キナイペニンシュラ郡 - 北 レイクアンドペニンシュラ郡 - 北西 アラスカ海洋国立野生生物保護区、アラスカ半島とアラスカ湾にかかっている バーレン諸島 セミディ原生地 セミディ諸島 トリニティ諸島 シトキナク島 タギダク島 アラスカ半島国立野生生物保護区(部分) ベチャロフ国立野生生物保護区(部分) ベチャロフ原生地(部分) チュガチ国立の森(部分) カトマイ国立公園および保護地(部分) カトマイ原生地(部分) コディアック国立野生生物保護区 以下は2000年の国勢調査による人口統計データである。 郡内には6の都市(アクヒオク、コディアック、ラーセンベイ、オールドハーバー、ユージンキー、ポートライオンズ)と5の国勢調査指定地域、および1の未編入町がある。 アクヒオク アレネバ チニアク カールク コディアック - 郡庁所在地 コディアックステーション ラーセンベイ オールドハーバー ユージンキー ポートライオンズ ウィミンズベイ ^ a b American FactFinder. U.S. Census Bureau. 2011年2月4日. ^ Find a County, National Association of Counties, http://www.naco.org/Counties/Pages/FindACounty.aspx 2011年6月7日閲覧。  ^ US Gazetteer files: 2010, 2000, and 1990, United States Census Bureau, (2011-02-12), http://www.census.gov/geo/www/gazetteer/gazette.html 2011年4月23日閲覧。  ^ “Census Of Population And Housing”. 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ABC01-02-0167
「日本が近代国家になるには漢字教育が負担になる」と漢字不要説を唱えていた、日本の初代文部大臣は誰でしょう?
森有礼
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[ "森有礼", "佐々木高行", "尾崎三良", "桂太郎", "井上馨" ]
[ "森 有礼(もり ありのり、正字体:森 有禮、1847年8月23日(弘化4年7月13日) - 1889年(明治22年)2月12日)は、日本の武士(薩摩藩士)、外交官、政治家。通称・助五郎、金之丞。栄典は贈正二位勲一等子爵。 第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、諸学校令制定により戦前の教育制度を確立した。また明六社、商法講習所(一橋大学の前身)の設立者、東京学士会院(日本学士院の前身)会員であり、明治六大教育家に数えられる。 弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)で薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれた。兄に横山安武がいる。安政7年(1860年)頃より造士館で漢学を学び、元治元年(1864年)頃より藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講する。慶応元年(1865年)、五代友厚らとともにイギリスに密航、留学し(薩摩藩第一次英国留学生)、ロンドンで長州五傑と会う。その後、ロシアを旅行し、さらにローレンス・オリファントの誘いでアメリカにも渡り、オリファントの信奉する新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団と生活をともにし、キリスト教に深い関心を示した。また、アメリカの教科書を集める。明治維新後に帰国すると福澤諭吉・西周・西村茂樹・中村正直・加藤弘之・津田真道・箕作麟祥らと共に明六社を結成する。 明治8年(1875年)、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。駐英公使をつとめていたときに、ハーバート・スペンサーから大きな影響をうけたといわれる。福澤諭吉が証人となり、広瀬常との結婚に際して婚姻契約書に署名し結婚した。 明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わる。また、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。 明治19年(1886年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めたほか、教育令に代わる一連の「学校令」の公布に関与し様々な学校制度の整備に奔走した。黒田内閣でも留任。明治20年(1887年)4月には、大日本教育会の果たすべき役割の重要性について私案を提出している(1884年の学習院講堂で開かれた常集会でも大木喬任とともに演説を行っている)。しかし明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去。43歳だった。 当時の新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な欧化主義者であった森に人々から疑いの目が向けられる事となった。この事件は事実かどうかは定かではないが、この一件が森が暗殺される原因になった。木場貞長はのちにこの事件は事実無根であると書き残している。 英語の国語化を提唱したこと(国語外国語化論)でも有名で、明治5年(1872年)にはイェール大学の言語学教授のウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛てに「不規則動詞を規則化して簡略にした英語を日本の国語とするべきではないだろうか」という書簡を送っている。だが、ホイットニーは簡略化した英語に否定的な見解を示した上で、日本語のローマ字化を除いては日本語の廃止に反対している[要出典]。 森の急進的な考えには当時の大衆の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られもしたが、近代国家としての教育制度の確立に尽力したその功績は大きい[要出典]。 日本に関心を寄せる外国人との、神道に関する議論では「神道の中心思想は死者に対する敬虔な崇拝だ。日本の現絶対主義的政権を維持するために政府が巧みにこれを政治利用したことは実に正当だったと考えるが、日本の初期の歴史記録とされている書物は信頼に値するとは到底言えない。」という意見をのべている。 広瀬常との結婚は、日本における最初の契約結婚といわれる。その契約は3条から成り(それぞれが妻、夫であること、破棄しない限り互いに敬い愛すこと、共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと)、福沢諭吉が証人となった。ただし、山本七平は「欧米で結婚が契約だというのは二人がそれぞれ神と契約するのであって二人が相互に契約するのではない。欧米人が森の『契約結婚』を聞いたらひっくりかえっただろう」と述べている。[独自研究?]常とは、結婚11年目に常の素行上の理由で双方納得のうえ離婚した。 父・森有恕、母・阿里 長兄・喜藤太有秀、次兄・喜八郎(青山良顕)、三兄・三熊(夭折)、四兄・喜三次(横山正太郎安武。1870年政府に建白し自刃) 最初の妻・広瀬常。森との間に3児。長男・森清(貴族院子爵議員)。 後妻・岩倉寛子(岩倉具視の娘)。森の死亡により結婚生活は約1年半。 中渋谷教会の牧師・森明は寛子との息子である。その娘・関屋綾子は一家について『一本の樫の木 淀橋の家の人々』(1981年)を刊行。 仏文学者・哲学者の森有正は有礼の孫にあたる。 昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生17名の像『若き薩摩の群像』の一人として銅像が建てられている。 弘化4 (1847) - 誕生。 安政5 (1858) - 藩校「造士館」入学。 元治1 (1864) - 藩洋学校「開成所」入学。 慶応1 (1865) - 薩摩藩英国留学生として英国渡航。ロシア旅行。 慶応3 (1867) - 米国渡航、新興宗教トマス・レイク・ハリス教団に所属。 明治1 (1868) - 帰国後、徴士外国官権判事、学校取調兼勤。 明治2 (1869) - 廃刀案を否決され辞表提出、佐賀の兄・横山安武を訪問。 明治3 (1870) - 興国寺跡で英学塾を開く。横山安武自刃。12月に少弁務使として米国渡航(1871年1月)。 明治5 (1872) - 米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任。 明治6 (1873) - 帰国後「明六社」結成,外務大丞に昇任。 明治8 (1875) - 広瀬常と結婚。長男・森清誕生。特命全公使として清国渡航。 明治10 (1877) - 帰国後、外務卿代理に昇任。 明治11 (1878) - 外務大輔に昇任。 明治12 (1879) - 駐英公使として英国渡航。 明治17 (1884) - 帰国後、参事院議官、文部省御用掛兼勤。 明治18 (1885) - 第一次伊藤内閣初代文部大臣就任。「学政要領」立案。 明治19 (1886) - 学位令、師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則などを公布。妻の常と離婚。 明治20 (1887) - 岩倉寛子と再婚。子爵となる。各地で学事巡視。伊勢神宮不敬事件起こり、森が疑われる。 明治21 (1888) - 三男・森明誕生。 明治22 (1889) - 刺殺され、43歳で没。 位階 明治2年1月18日 - 従五位下 明治3年 6月20日 - 位記返上 閏10月5日 - 従五位 1875年(明治8年) 9月20日 - 正五位 11月22日 - 従四位 1885年(明治18年)10月1日 - 正四位 1886年(明治19年)10月19日 - 従二位 1889年(明治22年)2月14日 - 贈正二位、金幣五千円 勲章等 1878年(明治11年)2月6日 - 勲二等旭日重光章 1886年(明治19年)3月11日 - 勲一等旭日大綬章 1887年(明治20年)5月9日 - 子爵 『文部大臣森子爵之教育意見』 日下部三之介編纂、日下部三之介、1887年2月 「森有礼篇」(大久保利謙編 『明治文学全集 3 明治啓蒙思想集』 筑摩書房、1967年1月、ISBN 4480103031) 『森有禮全集』 大久保利謙編、宣文堂書店、1972年2月(全3巻) 『新修 森有禮全集』 上沼八郎、犬塚孝明共編、文泉堂書店、1997年3月-2015年1月(既刊9巻) 著書 Religious Freedom in Japan : a memorial and draft of charter. 1872. 「英文日本宗教自由論」(吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第11巻 宗教篇』 日本評論社、1928年9月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第19巻 宗教篇』 日本評論社、1967年8月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第12巻 宗教篇』 日本評論社、1992年10月、ISBN 4535042527) 「日本に於ける宗教の自由」(三枝博音、清水幾太郎編 『日本哲学思想全書 第8巻 宗教 宗教論一般篇』 平凡社、1955年12月) On a representative system of government for Japan. 「日本政府代議政体論」(江村栄一校注 『日本近代思想大系 9 憲法構想』 岩波書店、1989年7月、ISBN 4002300099) The proposed national assembly in Japan. 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Lothrop Co., 1883. ^ 『澤柳柳太郎と帝国教会-成城大学』 ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)311頁 ^ アーネスト・サトウ 神道論 ^ a b 『朝日新聞の記事にみる恋愛と結婚』朝日新聞社、1997, p37 ^ 『平成新修 旧華族家系大成 下巻』。 ^ “若き薩摩の群像”. 鹿児島県観光連盟. 2014年5月14日閲覧。 ^ 森有礼略年譜鹿児島県立図書館 ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。 ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。 ^ 『官報』第1686号、1889年2月15日、145頁。 ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。 「森有一(子爵)」(霞会館華族家系大成編輯委員会編纂 『平成新修 旧華族家系大成 下巻』 霞会館、1996年。ISBN 4642036717) 「故文部大臣履歴」(『官報』第1686号、1889年2月15日。) 大華居士手録 『森文部大臣遭難録』 紅雪書院出版局、1889年。 海門山人著 『森有礼』 民友社、1897年。 大久保利謙編 『森有禮全集 第3巻』 宣文堂書店、1972年 / 上沼八郎、犬塚孝明共編 『新修 森有禮全集 別巻1 復刻篇』 文泉堂書店、1999年。 木村匡著 『森先生伝』 金港堂書籍、1899年 / 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1980年 / 大空社〈伝記叢書〉、1987年。 高橋淡水著 『森有礼と星亨』 良書普及会、1918年。 石神今太編 『五十年祭追悼記念 故森有礼先生略伝』 鹿児島県教育会、1938年。 『南国史叢』第4輯(子爵森有礼先生追悼講演会記念号)、薩藩史研究会、1939年6月 大久保利謙著 『森有礼』 文教書院、1944年。 大久保利謙著 『大久保利謙歴史著作集 8 明治維新の人物像』 吉川弘文館、1989年。ISBN 4642035982 太田絍子、湯田純江 「森有礼」(昭和女子大学近代文学研究室編 『近代文学研究叢書 第1巻』 昭和女子大学光葉会、1956年1月) 海後宗臣ほか 「森有礼の思想と教育政策」(『東京大学教育学部紀要』第8巻、1965年9月、NAID 40002596326) 原田実著 『森有礼』 牧書店、1966年。 坂元盛秋著 『森有礼の思想』 時事通信社、1969年。 Hall, Ivan Parker. Mori Arinori. Harvard University Press, 1973. ISBN 0674587308 関屋綾子著 『一本の樫の木 : 淀橋の家の人々』 日本基督教団出版局、1981年。 犬塚孝明著 『若き森有礼 : 東と西の狭間で』 KTS鹿児島テレビ、1983年。ISBN 4795229015 林竹二著 『林竹二著作集 6 明治的人間』 筑摩書房、1984年。ISBN 4480389067 林竹二著 『林竹二著作集 2 森有礼 : 悲劇への序章』 筑摩書房、1986年。ISBN 4480389024 「森駐米代理公使の辞任」(『東北大学教育学部研究年報』第15集、1967年3月、NAID 120000787484)および「森有礼とキリスト教」(同誌第16集、1968年10月、NAID 120000787496)を収録。 犬塚孝明著 『森有礼』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年。ISBN 4642050787 木村力雄著 『異文化遍歴者森有礼』 福村出版、1986年。 井上勝也著 『国家と教育 : 森有礼と新島襄の比較研究』 晃洋書房、2000年。ISBN 477101146X 上沼八郎 「森有礼」(伊藤隆、季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典』 吉川弘文館、2004年。ISBN 4642013415) 秋枝蕭子著 『森有礼とホーレス・マンの比較研究試論 : 日米近代女子教育成立史研究の過程から』 梓書院、2004年。ISBN 4870352397 犬塚孝明、石黒敬章著 『明治の若き群像 : 森有礼旧蔵アルバム』 平凡社、2006年。ISBN 4582833306 長谷川精一著 『森有礼における国民的主体の創出』 思文閣出版、2007年。ISBN 4784213678 Swale, Alistair. The political thought of Mori Arinori: a study in Meiji conservatism. Japan Library, 2000. ISBN 1873410875 Kobayashi, Toshihiro. Mori Arinori : New light on his Weltanschauung in late Edo and early Meiji Japan and on his language reform discourse. Seijo University, 2009. 国吉栄著 『森有礼が切り拓いた日米外交 : 初代駐米外交官の挑戦』 勉誠出版、2018年。ISBN 9784585222132 小説 山田風太郎 『ラスプーチンが来た』 文藝春秋、1984年12月 / 文藝春秋〈文春文庫〉、1988年1月、ISBN 4167183110 / 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1997年10月、ISBN 9784480033512 森本貞子 『秋霖譜 : 森有礼とその妻 』 東京書籍、2003年7月、ISBN 4487797128 林望 『薩摩スチューデント、西へ』 光文社、2007年4月、ISBN 433492543X / 光文社〈光文社文庫〉、2010年12月、ISBN 9784334748937 植松三十里 『辛夷開花』 文藝春秋、2010年9月、ISBN 4163295704 テレビドラマ 熱い嵐(TBS、1979年2月26日、演:竹脇無我) 獅子の時代(NHK大河ドラマ、1980年、演:中山仁) 経世済民の男 第一部「高橋是清」(NHK、2015年8月22日・29日、演:谷原章介) 明六社 文部科学省(旧文部省) 大日本教育会(帝国教育会) 有礼坂(幽霊坂) 森寛子 近代日本人の肖像 森有礼 - 国立国会図書館 一橋大学人物文献リスト 森有礼文献リスト - 一橋大学附属図書館 憲政資料室の所蔵資料 森有礼関係文書 / 林竹二旧蔵資料 - 国立国会図書館リサーチ・ナビ 貴重資料の紹介 初代文相 森有礼(2017年5月22日アーカイブ分) - 鹿児島県立図書館 鹿児島市 史跡めぐりガイドブック - 鹿児島市。中央地区にある「森有礼誕生地」「横山安武・森有礼成育の地」が紹介されている。 薩摩藩英国留学生記念館 森有礼高等教育国際流動化センター - 一橋大学 自警 - 国立公文書館デジタルアーカイブ Mori Arinori: Japanese Statesman - Smithsonian Institution Archives 古典籍総合データベース - 早稲田大学図書館。大隈関係文書の森有礼書翰などが閲覧できる。 鹿児島県立図書館(本館) デジタルアーカイブ検索 - 肖像写真などが閲覧できる。 Collections - ボストン美術館。肖像写真が閲覧できる。 日本ポータル 鹿児島県ポータル 教育ポータル 政治学ポータル 人物伝ポータル", "佐々木 高行(ささき たかゆき、文政13年10月12日(1830年11月26日) - 明治43年(1910年)3月2日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家。爵位は侯爵。幼名は万之助、通称は三四郎。初名は高喜(たかあつ)、高春(たかはる)と称し、高行(たかのり)と改名した後に現在の呼称に変えた。佐佐木高行とも書かれる。土佐三伯の1人(他に板垣退助・後藤象二郎)。日記『保古飛呂比』の著者でもある。 藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名。明治政府高官の中でも保守派を代表する1人であり、明治天皇の信任を楯に政治体制を巡り伊藤博文らと争った。 文政13年(1830年)、土佐国吾川郡瀬戸村(高知県高知市)に土佐藩士・佐々木高順(100石)の次男として生まれる。誕生前の5月19日に父が死去したことにより48石まで家禄が逓減し、姉千代子の夫谷潤三郎が養子に入り佐々木高下と改名し家督継承、幼少期は貧窮に耐えて過ごしている。 元治元年(1864年)に義兄が死亡したことにより家督継承、剣術を麻田直養(勘七)に学び、山鹿流兵学を窪田清音の門下生である若山勿堂から習得、国学を鹿持雅澄に学んだ。鹿持の同門であった尊王攘夷派・武市瑞山(半平太)などとも交流。藩では文武調役、作事奉行、郡奉行、普請奉行、大目付などを歴任、山内豊信(容堂)の側近として藩政をリードし、九州大宰府に赴き情報収集に奔走、慶応3年(1867年)には上洛して後藤象二郎・坂本龍馬と薩土盟約の吟味および大政奉還の建白について協議している。 慶応4年(明治元年、1868年)に戊辰戦争が開始、それに伴い1月に江戸幕府の長崎奉行河津祐邦が現地から脱走すると、海援隊を率いて長崎奉行所を接収、長崎に赴任して来た長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨の推薦で参謀助役に任命、空白地帯の長崎取り締まりを任された。長崎で隠れキリシタン裁判(浦上四番崩れ)と土佐藩が起こしたフランス軍水兵殺傷事件(堺事件)に関わった後富岡県知事・天草県知事を務め刑法官に出仕、明治2年(1869年)に発生した横井小楠暗殺事件の取調べや東京奠都の明治天皇迎え入れ、戊辰戦争で敗れた榎本武揚ら戦犯の処分も引き受けた。同年に刑法官副知事となり、翌明治3年(1870年)12月20日に鶴田皓・津田真道・水本成美・邨岡良弼らと協力して刑法の新律綱領制定を果たした。その功績により参議、翌明治4年(1871年)に司法大輔に昇進、11月からは岩倉使節団の一員(理事官)として平賀義質・岡内重俊を連れて欧米各国の司法制度調査のため各国を巡る。 旅行中はアメリカ訪問前に乗っていた蒸気船「アメリカ(英語版)」号で団員達の野蛮な振る舞いに眉を顰め、到着後は大使岩倉具視が和装から洋装に着替えたことを軽率と考え、外国通の副使伊藤博文の有頂天な振る舞いを日記に書いて憤慨している。一方、自分達他の団員も社交界に出る必要性から洋服に着替えたが、慣れない服に戸惑い「不恰好」「窮屈」と日記に記し、表面上の文明開化を批判し、日本固有の制度・精神を保持しつつも西洋文明の取得を重視、改革の速度を緩やかにして混乱を最小限に留める漸進的な考えを持つようになっていった。 アメリカの後はイギリス、フランス、ドイツ、イタリアを歴訪して各裁判所を視察、明治6年(1873年)に使節団に先立ってインド洋経由で帰国(3月11日に横浜港へ到着)、政府への報告に急進的な改革を戒めた漸進論を主張した。また、このような考えから改革を推し進めた留守政府には批判的で、明治六年政変で同郷の後藤象二郎と板垣退助が下野しても政府に留まり、明治7年(1874年)7月から翌8年(1875年)4月まで左院副議長に在任(議長は伊地知正治)、大阪会議で左院が廃止されたことにより元老院議官を経験した。 明治9年(1876年)10月と翌10年(1877年)6月の2度に渡り土佐へ帰郷し、不平士族と板垣ら民権派の扇動を防ぐため、政府の命令を受けて中島信行と共に士族の説得に尽くし、同年10月に西南戦争の終結と土佐の鎮静化を見届け東京へ戻った。明治11年(1878年)は地方議会整備に尽力したが、明治天皇の教育を担当する侍補・元田永孚と岩倉具視の協議で3月5日に一等侍補に就任、天皇の側近として精神的成長と政治意欲の向上を促し、「天皇親政運動」に大きく動いていくことになる。 明治10年8月に設置された侍補グループは新たに佐々木を加え、政府首班の内務卿大久保利通と天皇輔導を話し合い、大久保を宮内卿とする構想実現に近づけたが、明治11年(1878年)5月14日に大久保が暗殺されたことで挫折した。政治危機を感じた佐々木は元田や吉井友実・土方久元・米田虎雄ら他の侍補と共に2日後の5月16日に天皇に親政実行を直訴、天皇も賛成したことを受け、18日に大久保の後を継いで内務卿となった伊藤博文・岩倉具視ら政府に対して、天皇の閣僚会議参加と侍補の傍聴・臨席を迫った。 だが、政府は前者を認めたが、後者は宮中・府中が混同され分離の原則を乱す元になるとして拒否した。佐々木は政府に抗議したが聞き入れられず、天皇の政治関与も抑えられ、天皇が希望した佐々木の工部卿就任はならず、29日に侍補達が反対していた井上馨が伊藤の後釜で工部卿になったこと、侍補の一員で宮内卿を兼任していた徳大寺実則が政府に侍補を解任されたことなどで侍補の運動は抑えられていった。一方、12月24日に佐々木が海軍省御用掛に任命され、同じ侍補の山口正定も海軍中佐にされたことは、参謀本部を創設して天皇との直結を図った陸軍に反発した海軍が、天皇の信頼が厚い両者を通して天皇との直結を提案(海軍卿川村純義の主張とされる)、侍補を政治関与させて侍補との妥協を図った政府の意志であった。御用掛を兼任した佐々木は様々な人材を登用、山本権兵衛のドイツ留学と伊地知正治・副島種臣の宮内省引き入れを仲介している。 しかし侍補達は運動を諦めず、翌明治12年(1879年)3月に政府に建議書を提出、前年8月から11月に北陸・東海地方を巡幸して積極的に地方の民情に接した天皇が「勤倹」と称する表層的な開化主義の否定と財政緊縮を岩倉らに表明したことを受け、天皇の意見を元に建議書を作成し政府に提出した。内容は親政と勤倹実現、政府の元老院干渉排除を盛り込んでいたが、この意見も政策に反映されず、政府から侍補の分断を目論んだ人事異動が発令、吉井が工部少輔として工部省へ転出された。この異動は単なる分断ではなく、勤倹を重視する侍補を現場へ送り込み、実際に主張をどう活かすか実地教育と考えの補正を兼ねた政府側の目論見があり、工部卿の井上と海軍卿の川村がその監督を引き受けたとする。やがて吉井は多忙から侍補の役割を果たせなくなり、勤倹の理念を抑え政府へ籠絡されていった。 そうこうする内に元田が「侍補を辞めて、代わりに参議が責任を果たす」と軽率な発言をしたことを受け、10月13日に侍補は廃止された。元田は宮中に留まったが、佐々木は明治13年(1880年)初頭に政府から北日本出張を命じられ、同年3月に東京へ戻り元老院副議長に就任、宮中から遠ざけられた。廃止と引き換えに政府は天皇輔導を約束したが、明治12年9月に井上が参議に加わり、明治13年2月に田中不二麿が司法卿に就任したことは天皇が政府に押し切られた結果であり、輔導の約束は守られず天皇の政治関与抑制も続けられ、親政運動は侍補廃止により挫折した。 しかし、明治13年5月に大蔵卿大隈重信主導の大隈財政を巡る紛糾で佐々木らは再び政争に加わった。大隈は外債募集で財政補填を図ったが政府が賛成・反対に分裂、佐々木は元田・土方ら元侍補と組んで反対陣営に与し天皇に奏上、政府の反対意見も集積した上で天皇は外債を中止した。この問題を契機として元侍補を再結集し政府の人事と財政に口を挟むようになり、提言は実現はしなかったが、天皇の信任でしばしば諮問に応じている(谷干城と内海忠勝の出処進退、西園寺公望の拝謁問題の相談)。 翌明治14年(1881年)、大隈が提出した急進的な憲法制定・国会開設論が伊藤らの反発を買い、7月に開拓使官有物払下げ事件が起こり世論の激化で政府が動揺すると好機と考え、宮中や元老院を舞台に谷・元田らと共に天皇親政運動を主導して、払下げ反対と大隈の追放および元老院の権限強化と参議廃止を訴え、天皇を擁して再度親政を掲げ伊藤ら政府要人の排除に動いたために「中正党」と称された。9月に結成された中正党の顔触れは元侍補達と谷や鳥尾小弥太・三浦梧楼・曾我祐準ら非主流派の軍人、河田景与・中村弘毅ら元老院議官、三好退蔵・金子堅太郎ら少壮官僚で構成されていた。 だが、10月に政府主導の明治十四年の政変で大隈が追放、払下げ中止や政府が打ち出した国会開設の詔への対応を巡り中正党は分裂、政府の方針は参議の継続と各省卿の兼任となり、10月21日に政変による人事異動で佐々木は参議・工部卿に就任した。参議廃止を始めとした政治改革は取り上げられず天皇親政運動も消滅、佐々木は工部省で新たな政策に取り組まなければならなくなる。 工部省は明治3年の発足以来元長州藩士の拠点となっていて、工部卿も長州系の政治家が交代していた中で、佐々木の登用は例外だった。これは吉井と同じく勤倹思考の矯正を図る政府の意向があり、佐々木の海軍省御用掛もその前段階に当たっていた。工部少輔だった吉井は前年6月に大輔に昇進していたが、明治14年に日本鉄道社長への転出が内定しており(翌明治15年(1882年)1月に実行され7月の井上勝まで空位)、佐々木が就任した後は長州派の芳川顕正が工部少輔となり、芳川が佐々木の補佐・抑制を担当する中で佐々木は勤倹と西欧化開発事業をどう折り合いを付けるか試行錯誤していった。 さしあたっては大隈が明治13年の時点で計画していた工場・鉱山などの官営事業払下げを推進、明治15年12月と明治16年(1883年)夏に工部省の方針を定めた意見書を政府に提出した。内容は「官営では規則に縛られ商業に通じない官僚が担当するため利益が少ない」「事業を整理・統合して不要な局は各省へ移管、工部省は道路・港湾など土木事業に絞る」と書いた。勤倹を現実に適応した場合を探り、工業政策の意義は認めつつ官営の非効率性と商人癒着を批判し、大規模な土木事業を国の運営にすべきと結論付けた。 提案は政府に採用されなかったが、佐々木は構わず工部省の改革に邁進、組織改変と工場・鉱山払下げに熱心に取り組んだ。閣議は事業放棄に難色を示したが、佐々木の熱意に押され財政難もあり認可、深川セメント製造所、品川硝子製造所、中小坂鉱山、長崎造船所、阿仁鉱山など多くの官営模範工場が民間に払下げられた。また、1度認められなかった工部省の改革案を明治17年(1884年)3月と10月に再度提出したが、こちらは結論を得られず停滞した。 一方、明治15年7月に芳川が転出したことを契機に工部省の実権を掌握、井上勝が工部大輔に任命、同年8月に書記局長林董がロシアへ出張となり留守役の安川繁成が実務を担当したことは有利に働いた。佐々木は安川と調整して改革案作成に取り組み、鉄道敷設に全力を挙げていた井上を支援、明治15年2月に中山道を通る区間(長浜駅 - 大垣駅間、東京駅 - 高崎駅間)の建設を上申した井上の提案を採用したり、明治16年に鉄道工事の継続と中山道路線敷設を井上と話し合う一方、私設鉄道の設立を極力阻止、井上の要請に基づいて日本鉄道の東北本線敷設を認可している。 明治18年(1885年)5月に閣議で工部省廃止が決まり、12月に伊藤が創始した内閣制度で業務内容は分散、電信は郵便と一体化して逓信省が設立、鉄道は内閣直属となり工部省は完全に解体された。これは大蔵省と内務省の勢力争いに巻き込まれ、小規模のため敗北したからとされるが、工部省が土木事業専門組織に生まれ変わる狙いが大蔵省・内務省の前に否定されたことが原因ともされる。いずれにせよ、佐々木は工部省廃止と内閣制度開始と共に閣外に去って同年に宮中顧問官となり、政界の影響力を排除され宮中に軸足を移していく。 明治17年、維新以来の功績によって伯爵を授かり、明治21年(1888年)から死去まで枢密顧問官を勤め、この間に明宮・常宮・周宮の養育係主任を務めた。明治23年(1890年)には吉井や千家尊福らと神祇院再興運動を進めるが採用されず、西村茂樹らと敬神・尊王・愛国思想の普及に尽くす。明治29年(1896年)、関係者の強い要望によって、当時経営状態が悪化していた皇典講究所の第2代所長に就任し、再建に尽力した。明治天皇の信任は変わらず話し相手として宮中で過ごしたが、もはや政治関与の機会は与えられなかった。 明治42年(1909年)に侯爵に昇叙、翌明治43年(1910年)3月2日薨去。享年79。嫡男の高美に先立たれていたため、爵位は孫の行忠が継承、行忠も祖父と同じく皇典講究所の所長を務めた。墓は東京都港区青山霊園にある。 1882年(明治15年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日桐花大綬章 1909年(明治42年)4月29日 - 侯爵 国久市兵衛の長女貞子と結婚、2男3女を儲けた。 千勢子(1849年 - 1902年) - 藤井守馬と結婚 繁子(1857年 - 1942年) - 児玉淳一郎と結婚したが離婚、加賀見光賢と再婚 高美(1862年 - 1902年) - 父に先立ち死去 律子(1870年 - 1880年) 高志(1872年 - 1949年) - 分家、海軍中佐 佐々木高行および佐々木三四郎が登場する作品 『お~い!竜馬』(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう)- 史実では下士に対して寛容的なのに逆に漫画では下士を見下すというスタンスを取っている。 ^ 臼井、P469。 ^ 朝日新聞社、P739、霞会館、P667。臼井、P469。 ^ 朝日新聞社、P739、笠原、P18 - P36、P47 - P57、P73 - P77、P108 - P125、臼井、P469、瀧井、P30 - P44、伊藤、P200 - P201、P218。 ^ 朝日新聞社、P739、笠原、P125 - P152、P168 - P169、臼井、P469、鈴木、P229 - P236、伊藤、P221 - P224、P226 - P229。 ^ 朝日新聞社、P739、笠原、P169 - P187、臼井、P469、伊藤、P229 - P232、P237。 ^ 朝日新聞社、P739、臼井、P469、鈴木、P237 - P251、伊藤、P257、老川、P83、P89 - P93、P95 - P97、P108 - P113、P153、P158 - P159。 ^ 朝日新聞社、P739、臼井、P469、伊藤、P313 - P314、P326、P331、P357 - P358、P367 - P368。 ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部) ^ 『参議大山巌福岡孝弟佐々木高行元老院議長佐野常民特旨ヲ以テ勲一等ニ叙ス・附岩倉右大臣大山福岡佐々木三参議親授式執行』 アジア歴史資料センター Ref.A15110025200  ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。 ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。 ^ 『官報』第7194号「叙任及辞令」1907年6月24日。 ^ 『官報』第7751号「叙任及辞令」1909年4月30日。 ^ 霞会館、P667。 佐佐木高行著、東京大学史料編纂所編『保古飛呂比 佐佐木高行日記』全12巻 東京大学出版会、1970年〜1977年。 佐佐木高行著『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』東京大学出版会、全2巻、1980年。 佐佐木高行著、安在邦夫ほか編『佐佐木高行日記 かざしの桜 早稲田大学図書館所蔵』北泉社、2003年。 『佐佐木高行家旧蔵書目録 國學院大學図書館所蔵』同大学編、汲古書院、2008年。 朝日新聞社編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。 笠原英彦『天皇親政 佐々木高行日記にみる明治政府と宮廷』中央公論社(中公新書)、1995年。 風間健「武士道教育総論」壮神社 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年。 臼井勝美・高村直助・鳥海靖・由井正臣編『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年。 鈴木淳編『工部省とその時代』山川出版社、2002年。 瀧井一博『文明史のなかの明治憲法―この国のかたちと西洋体験』講談社選書メチエ、2003年。 伊藤之雄『明治天皇 むら雲を吹く秋風にはれそめて』ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)、2006年。 老川慶喜『井上勝 職掌は唯クロカネの道作に候』ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)、2013年。 幕末の人物一覧 機務六条 末松謙澄 - 書生として雇っていた 佐佐木高行 | 近代日本人の肖像", "尾崎 三良(おざき さぶろう、天保13年1月22日(1842年3月3日)- 大正7年(1918年)10月13日)は、日本の官僚。男爵。諱は盛茂、別名・戸田 雅楽(とだ うた)。京都郊外の西院村で代々里長を務める家に生まれる。陶磁器研究家の尾崎洵盛は長男。「憲政の神様」と呼ばれた明治・大正・昭和にわたって活動した政治家・尾崎行雄は女婿にあたる。 仁和寺宮諸大夫の若林盛之の三男として山城国葛野郡西院(現在の京都市右京区)で生まれたが、幼くして両親と死別し、学問への志をもちながらも、1857年から烏丸家、そして冷泉家に仕えた後、三条実美に気に入られて、元家人の戸田造酒(みき)の養孫となり、戸田雅楽(のち戸田三郎)と名のり、実美の家人となる。 文久2年(1862年)、孝明天皇の勅使となった三条実美に随従して江戸に赴き、翌年の八月十八日の政変で三条ら過激派公卿が京都を追放された七卿落ちでは三条に随行し、長州藩へ落ち延びた。慶応元年(1865年)、三条に随って大宰府に移った。この間、撃剣・乗馬を習い、読書を積んだ。 「戸田雅楽」の別名で、三条の名代として西郷隆盛など尊皇攘夷派との連絡役をつとめたのもこの時期である。大宰府では、公卿の臣下や諸藩の人士との交流によって攘夷論から開国論へと転向した。 慶応3年(1867年)、三条の諒解を得て見物の名目で長崎に赴いた際にアメリカ領事や坂本龍馬・中島信行らと親交を結び、大政奉還の策を協議して岩倉具視に建策する。その際に出されたのが、後の三職制度であるとされている。坂本・陸奥宗光らとともに土佐へも赴き、ついで京都にむかい、そこで坂本と同席しているあいだに京都二条城で徳川慶喜により大政奉還がおこなわれた。 そこで急遽西郷隆盛らと同船して大宰府に戻り、事態を三条実美に報告した。維新後、実家の尾崎氏の姓を継ぎ「尾崎三良」と称した。 龍馬の死後、三条は朝廷に復帰するが、尾崎は龍馬から聞いた海外の話に関心を持って留学を志す。これは伊藤博文にも支持され、三条は嫡男・公恭とともにその従者としてイギリス留学することを命じた。 慶応4年(1868年)3月、公恭、中御門寛丸、毛利元功およびその従者の一行8人で神戸港から渡英した。長崎からは62日間の船旅となった。イギリスでは河瀬真孝に英語を学んだが、のちにオックスフォード大学聴講生としてイギリス法を修得するまでになっている。後に河鰭実文のイギリス留学の世話もしている。 ロンドンでの英語学習中の明治4年(1871年)、岩倉使節団のアメリカ到着を知って渡米し、木戸孝允や岩倉と会見して条約改正の時期尚早を献策し、寺島宗則などとともにロンドンに戻った。 ロンドン留学中、三良は英語教師のウイリアム・モリソンの家に同居し、その一人娘のバサイア・キャサリン・モリソン(Bathia Catherine Morrison)と明治2年(1869年)に結婚し、三女をもうけた(1881年に離婚)。 明治6年(1873年)には木戸の要請で帰国、太政官に出仕して法制整備の任にあたる。明治7年(1874年)に養祖父・戸田造酒の孫の戸田八重と結婚。明治11年(1878年)、尾崎の英国での結婚を知った上司の伊藤博文はモリソン家に一時金を渡すよう井上馨に依頼、明治13年(1880年)にはモリソン家からも井上に相談があり、尾崎が八重を離縁し英国妻パサイアとの婚姻届けを井上に提出したことにより三条実美にも知れ、実美を激怒させた。バサイアから尾崎の欧州赴任の嘆願もあり、同年、ロシア駐在一等書記官として、公使柳原前光とともにサンクトペテルブルクに入る。翌年、バサイアとの離婚約定書を英国で交わし、帰国後太政官大書記官、内務大丞などを歴任。明治18年(1885年)には元老院議官として大日本帝国憲法の審議にあたった。 明治23年(1890年)の帝国議会発足とともに同年9月29日貴族院議員に勅撰され、翌年成立した第1次松方内閣においては法制局長官に就任した。 明治23年(1890年)12月に出版された 『国会傍聴 議場の奇談』には「尾崎三良氏の演説は中々上出来 三浦安氏の弁舌は流暢なり共に老練々々」と記されている。 後に田口卯吉の帝国財政革新会の結成を支援する。明治29年(1896年)6月5日に男爵を叙爵。明治40年(1907年)には宮中顧問官。晩年には文部省維新史料編纂委員を務めた。 中央公論社より、各3巻で『尾崎三良自叙略伝』(1976-77年、中公文庫 1980年)と、『尾崎三良日記』(伊藤隆・尾崎春盛編、1991-92年)があり、足跡を詳しくたどる事ができる。 妻 バサイア・キャサリン・モリソン(Bathia Catherine Morrison, 1843-1936)- ロンドンでの尾崎と三条公恭の滞在先であり英語を習っていたウィリアム・モリソン(William Mason Morrison)の娘。父親はケンブリッジ大学中退後、地方の学校で教師となり、その後ロンドンで個人教師業と下宿屋を営んでいた(父の兄はドイツ語翻訳家として多数の著書のあるAlexander James William Morrison)。尾崎と1869年に英国で結婚したが(日本での届け出は1880年)、1873年に妻子を置いて尾崎が帰国したまま放置されたため、井上馨に書面で尾崎の欧州赴任を懇願、1880年に外務一等書記官としてペテルスブルクに赴任した尾崎と再会するも翌年離婚。離婚理由は、帰国中に尾崎が日本人妻を娶ったことを知ったバサイアが日本への同行を拒否したためとされる。長女の英子は義弟の洵盛に「父は母を捨てて帰国した」と語ったという。1885年に父ウィリアムが亡くなると金銭的に困窮し、駐ロンドン日本領事の園田孝吉に親子の窮状を訴え救いを求めたことから、この騒動が日本でスキャンダルとなったが、バサイアは離婚後もオザキ姓を名乗り続け、尾崎の悪口を聞くと怒ったという。93歳まで長らえ、次女に看取られ亡くなった。バサイアと尾崎が署名した同意書は英国法では離婚でなく別居合意書であったため、死亡届は日本の外交官の妻バサイア・オザキとしてなされた。 八重(1855-1943) - 滋賀の本行寺住職・藤山澤證と妾の千代浦(尾崎の義祖父・戸田造酒の娘。千代浦の妹・戸田玉井は尾崎の義母にあたる)との三女。尾崎が留学する前に許嫁となり、帰国した半年後の1874年3月に入籍したが、1880年にバサイアを入籍するため一旦離縁され、のちにパサイアと尾崎が離婚後再び入籍。尾崎が妾を迎えたのちの1886年に一女をもうける。 ミチ(?-1902) - 士族・藤木行顕の娘。1879年に妾となり、長男はじめ14人の子を産む。美知、道、道枝、道栄とも。 子供 英子(O'yei Evlyn Theodora Kate)- 1870年生まれ。16歳で来日。慶應義塾幼稚舎の教師のほか、駐日英国公使夫人の秘書などを務める。タイムズ特派員のオートラリア人と恋愛関係にあったが、尾崎行雄と結婚。日本の昔話の英訳で知られる。子に品江と雲香。 政子(Masako Maude Mary Harriett)- 1872年生まれ。フランス造船学校を出た松岡右左松との縁談のため1899年に来日するも破談となり帰国、1906年に英国人Alfred Games Herwittと結婚し、母のバサイアを看取る。娘のMuriel Herwittは俳優のラルフ・リチャードソンと結婚した。 君子(Kimie Florence Bathia Alexandra)- 1873年生まれ(尾崎帰国後に誕生)。尾崎が毎月バサイアに生活費を仕送りする代わりに君子を日本に送るという両親の生活援助協定により1889年に来日したが、日本の生活に馴染めず一年後に帰国、1904年に再来日して横浜のフレイザー商会で働く。1909年にスウェーデン人商人のHenrich Ouchterlony(1882-1948)と日本で結婚、スウェーデンで一女をもうけた。夫は1906年に来日し、Ouchterlony & Co Ltdを大阪で開業し、フィンランド・パルプの代理人を務めるほか、神戸と大阪でフィンランドとスウェーデンの領事館に勤務したのち、1940年にはフィンランド総領事となる。夫とともに1946年にスウェーデンに戻り、1964年にヨーテボリで没。 洵盛 - 1880年生まれ。外務省参事官。中国陶磁器研究者として著書もある。 盛貞 - 1883年生まれ。 昌盛 - 1884年生まれ。 寿子 - 1886年生まれ。八重の子。小野義一と結婚 望盛 - 1887年生まれ。 繁盛 - 1890年生まれ。子に尾崎盛光 雄盛 - 1891年生まれ。 元子 - 1895年生まれ。物部長穂と結婚 寿恵子 - 1896年生まれ。 位階 1889年(明治22年)11月5日 - 従三位 1893年(明治26年)4月11日 - 正三位 1913年(大正2年)1月30日 - 従二位 勲章等 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1891年(明治24年)3月30日 - 勲二等瑞宝章 1903年(明治36年)5月21日 - 金杯一組 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正) 尾崎は立身しても三条の旧恩を忘れず、内閣制度発足時に三条を内大臣として祭り上げ、伊藤博文を初代内閣総理大臣にしようとした際は最後まで反対した。以後も東久世通禧らとともに三条の政治的復権を画策している。内大臣そのものも無用の官職とみなしている。 新聞紙条例、讒謗律(ともに1875年)の起草にあたったことから、新聞界などから恨まれて「酷吏」などと非難された。 明治20年(1887年)の保安条例の起草者も尾崎とされているが、これによって旧友の中島信行が捕らえられて東京から追放されてしまう。同じく追放された尾崎行雄は、のちに尾崎三良の娘・テオドラを後妻とした。テオドラからは昭和54年(1979年)に難民を助ける会を設立した相馬雪香が生まれている。 ^ 次男と紹介されることもある。伊藤(2001)p.103 ^ ウイリアム・ウィルソンが英語を教えた日本人にはジャーナリストの末松謙澄や井上馨の養女井上末子(のちの井上勝之助夫人)がいる。伊藤(2001)p.104 ^ a b 伊藤(2001)p.103 ^ a b c d e f g h 『国際結婚第一号: 明治人たちの雑婚事始』小山騰、講談社, (1995/12), 「第4章 明治14年のスキャンダル」p117-144 ^ 伊藤(2001)pp.103-104 ^ a b c d e 伊藤(2001)p.104 ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。 ^ 『官報』第3880号、明治29年6月6日。 ^ a b c d e f 尾崎行雄夫人セオドーラの半生長岡祥三、日本英学史学会『英学史研究』1996 (1995) No. 28 ^ a b c d e f g h 明治前期国際結婚の研究 : 国籍事項を中心に小山騰、慶応義塾大学『近代日本研究』 Vol.11, (1994. ) ^ a b 『尾崎三良自叙略傳』中央公論社,1976 ^ a b Bathia Kimiko Alexandra Ouchterlony (Ozaki)Geni.com ^ Henrik Wilhelm Arvid OuchterlonyGeni.com ^ 『官報』第1911号「叙任及辞令」1889年11月9日。 ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。 ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。 ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。 ^ 『官報』第2322号「叙任及辞令」1891年3月31日。 ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。 ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。 ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。 伊藤隆 『日本の近代16 日本の内と外』 中央公論新社、2001年1月。ISBN 4-12-490116-X。中公文庫で再刊 元老院 枢密院 旧慣温存政策 国際結婚 国立国会図書館 憲政資料室 尾崎三良関係文書", "桂 太郎(かつら たろう、弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年)10月10日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階勲等功級爵位は、従一位大勲位功三級公爵。諱は清澄(きよずみ)。幼名は寿熊、左中。号は海城。元老・井上馨とは義理の親子の関係。 児玉源太郎、川上操六とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。 台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任した。首相在任日数2886日はこれまでで最も長い。元老の一人であったという説もある 長州藩士であり、毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元や桂元澄などの子孫に当たる。戊辰戦争に参加し、明治維新後、横浜語学学校で学びドイツへ留学。帰国後は山縣有朋の下で軍制を学んで陸軍次官、第3師団長、台湾総督を歴任した後、第3次伊藤内閣・第1次大隈内閣・第2次山縣内閣・第4次伊藤内閣で陸軍大臣をつとめた。明治34年(1901年)、首相に就任。日英同盟を締結し、日露戦争で日本を勝利に導いた。西園寺公望と交代で首相を務め、「桂園時代」と呼ばれた。在職日数2886日は歴代1位。なお連続して在職してはいないため、連続在職の記録は佐藤榮作に譲る形となっている。明治33年(1900年)9月15日には、拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である獨逸学協会学校の二代校長を明治20年(1887年)4月から同23年(1890年)7月までつとめた。第2次桂内閣時には韓国併合も行った。 長門国阿武郡萩町、萩城下平安古(ひやこ、現・山口県萩市平安古)にて、長州藩士馬廻役・桂與一右衛門(125石)の嫡男として生まれる。母は同藩士・中谷家の娘・喜代子。桂は125石の上士の長男で、母の実家の中谷家は180石。叔父の中谷正亮は松下村塾のスポンサーだった。桂は入門しなかったが、それは吉田松陰が刑死したとき、数え年で13歳だったからである。しかし、中谷の甥であったことによって、桂がどれほど恵まれたかは計り知れないものがある。 幼少時に阿武郡川島村(現・萩市川島)に移る。長州藩の藩校・明倫館で学んだあと、万延元年(1860年)には藩の西洋式操練に参加して鼓隊に編入される。家柄の良い桂は当初は正規軍である「選鋒隊」に編入されたが、元治元年(1864年)、禁門の変などにより藩が存亡の窮地に立たされる中、7月に世子毛利元徳の小姓役となる。第2次長州征伐では志願して石州方面で戦う。 戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督澤為量の参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦し、敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事した。秋田戦争では、まず庄内戊辰戦争春の陣で負け、奥羽列藩同盟の成立を許し、その後弘前藩に入藩することを拒否され、東北諸藩を説得できないふがいなさに能代では自殺も考えたものの、なんとか久保田藩を新政府側に寝返らせることに成功する。その後、7月11日金山の戦いで仙台藩軍に壊滅的な打撃を与え、新庄藩を寝返らせることに成功するものの、14日には人数では勝っているはずの新庄の戦いで酒井吉之丞率いる庄内藩軍に負け、庄内藩や仙台藩相手に、新政府軍の増援が到着するまで延々久保田藩内で撤退戦を行わざるを得なくなった。なぜか、戦後は「その軍功が評されて」賞典禄250石を受けている。彼の部下は約200名だったが戦死者が41名、負傷者が53名もいた。非常に高い死傷率といえるが、隊長の桂はかすり傷1つ負わなかったという。 明治3年(1870年)8月、桂はドイツに留学した。但し、賞典禄を元手にした私費留学であったことから現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団のためドイツへ来訪した木戸孝允を訪ね、官費留学への待遇切り替えを依頼している。木戸は桂の叔父・中谷正亮とは親しくしていたため、中谷の甥である桂にも目をかけていた。だが、木戸は帰国した明治6年(1873年)7月、政争の合い間に桂のために切り替え手続きを行ったものの、桂は10月半ばに留学を打ち切って帰国した。 木戸は陸軍卿の山縣有朋に依頼し、桂を陸軍に入れて大尉に任命した。賞典禄250石を受けた軍歴からすれば佐官クラスであるが、山縣の「君が留学中に陸軍の秩序も整って、初任の場合はいきなり佐官にしないことになった。しばらく辛抱してくれ」との慰めに対し、桂は「秩序と規律は軍の根幹であります。大尉ではなく少尉の方が陸軍のためには良かったと思います」と返答している。さらに陸軍の興隆策についての下問に対して「帰国して日が浅いので何ともいえませんが、徴兵制が実現したことは欣快に存じます。後は兵士をどう訓練するかでしょう」と返答。これを聞いた山縣は大喜びだった。 大村益次郎が発案した徴兵制度を押し進めていた山縣は、士族出身者から白眼視されていた。桂は山縣の派閥に組み入れられたが桂の木戸に対する気配りは大変なもので、駐在武官となって赴任したドイツからも月に1度は手紙を出し、珍しいものを木戸夫人宛てに贈った。また、木戸宛ての宛名には「木戸尊大人様閣下」になっている。この仰々しい敬称にはかえって木戸の方で驚いたに違いないが、桂にはそれを平然とやってのける図太さがあった。 以後は山縣の引き立てもあり、順調に昇進を重ねた。日清戦争には名古屋の第3師団長として出征した。1896年その後、台湾総督を経て、第3次伊藤内閣で陸軍大臣になり、続く第1次大隈内閣に次ぎ、第2次山縣内閣でも陸相とともに山縣の参謀格を務め、明治33年(1900年)に発生した義和団の乱では中国に軍を出動させた。8月に動乱は終結したが、複雑な国際関係の中での出兵と国内の政争に心労を感じた桂は中央から距離を取るために転地療養に入った。10月に第4次伊藤内閣が成立すると桂は離職の意思を示したが、明治天皇に一旦は慰留された。しかし、立憲政友会与党の内閣に違和感を感じた桂は政務に関与せず、再び辞意を示して12月に児玉源太郎と交代した。 伊藤博文は4回、山縣有朋と松方正義は各2回の首相経験があり、薩長閥の大物で残っているのは西郷従道と井上馨の2人である。西郷は例によって兄・隆盛を持ち出して断ったが、井上は引き受ける決心をし、大命を受けて組閣にとりかかった。財政難を切り抜ける手腕のある大蔵大臣を誰にするか。すぐれた作戦家だが、軍政には適していない児玉を変えるかどうか。井上は蔵相に渋沢栄一、陸相に桂の再任を求めたが、両者に拒否されてあっさり組閣を断念した。 元老会議は桂を推し、明治天皇は桂に組閣を命じた。明治34年(1901年)6月、海相・山本権兵衛と陸相・児玉源太郎の留任を除いて、小粒な内閣が発足した。蔵相兼外務大臣の曾禰荒助をはじめ、初めて大臣になるという官僚が大半で、その多くが内務省出身の山県閥官僚であった。 世人は「小山縣内閣」「第二流内閣」と揶揄したが、桂は批判に対して勅命が降下したのだから仕方が無い、というスタンスをとり続けた。 桂は首相就任と同時に予備役となるはずであったが、天皇の意向により現役であり続けた。桂は9月に小村寿太郎を外相に起用した。日英同盟締結を推進するためで、桂は自伝で、自分と小村とは日露問題の解決は武力によるしかないと最初から覚悟していたと語っている(もっとも、この自伝について山縣は、桂本人に都合のいい作文みたいなものだと酷評している)。 1901年には、後に日本商工会議所の前身となる商業会議所の設置法を成立させ、各地における50名以下の選出議員からなる商業会議所の設立を推進した。この商業会議所制度は、後継の商工会議所法により廃止される1927年まで続いた。 現実に日英同盟は日露戦争において日本に有利に作用し、戦争そのものは海軍の東郷平八郎、陸軍の大山巌の働きで勝利した。米国ポーツマスでのロシアとの和平交渉(ポーツマス条約)は陰で大統領セオドア・ルーズベルトを動かした金子堅太郎の努力で、何もかも成功した。桂は、明治天皇から参謀総長であった山縣の頭越しに戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めていった。 桂は首相として称賛されるべきだったが、国民的人気は湧かなかった。戦争の実状を国民に秘匿していたため、賠償金は取れず、割譲されて得た領土が樺太南部だけという結果に、民衆が不満を持っていたからである。講和条約の内容に関する鬱積に端を発する日比谷焼打事件も、この第1次桂内閣の末に起こっている。 その後、桂は西園寺公望と交互に組閣(桂園時代)し、明治41年(1908年)7月から同44年(1911年)8月に第2次内閣、大正元年(1912年)12月から同2年(1913年)2月に第3次内閣を組閣する。この桂園時代は立憲政友会の原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する元老世代からの自立を図った時代でもある。第2次内閣の時代には、韓国併合や大逆事件による社会主義者への弾圧、関税自主権の回復による条約改正の達成などの業績を残した。だが、それは山縣との間に微妙な亀裂を生み始める。2度の内閣での実績を盾に山縣からの自立を図り、さらに反政友会勢力を結集させた「桂新党」までも視野に入れた桂だったが、山縣はそれを許さなかった。山縣は、明治天皇の崩御(死去)により急きょ海外視察から帰国した桂に「新帝輔翼」の重要性を説き、内大臣兼侍従長として宮中に押し込めることで桂の政治的引退を図った。だが、二個師団増設問題を桂は巧みに利用し、第2次西園寺内閣の倒閣後、山縣自らが桂を擁立せざるを得ない状況へと誘導する。 だが、第3次桂内閣の時に第一次護憲運動が起こり、これに対して桂は「桂新党」構想実現のための新政党(後の立憲同志会)を立ち上げて対抗しようとしたが、達成できないまま2月20日、わずか62日で退陣を余儀なくされた。 その後は病状が悪化し、6月には葉山、鎌倉に転地し、8月には一時容態が小康となり9月に三田の本邸に戻る。10月には脳血栓を起こし、10月10日の午後4時に死去、享年67。遺体は遺言により死後解剖され、死因は腹部に広がっていた癌と頭部動脈血栓であると診断された。 葬儀は10月19日に増上寺で行われ、葬儀の会葬者は数千人にのぼり、8ヶ月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せた。 墓所は生前の桂の遺言により、吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区)に隣接して建立されている。 桂太郎は「ニコポン宰相」と呼ばれた。命名者は「東京日日新聞」記者の小野賢一郎で、桂がニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったため新聞にそう書いたと言われている。 背が低いわりに頭が大きく、腹がふくれた姿が七福神の大黒天に似ていたので、「大黒様」「巨頭公」と呼ばれた。 1885年(明治18年)7月25日 - 正五位 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1890年(明治23年)6月11日 - 従三位 1891年(明治24年)5月11日 - 勲二等瑞宝章 1895年(明治28年)8月20日 - 子爵叙爵。功三級金鵄勲章叙功。勲一等瑞宝章叙勲。 1896年(明治29年)10月14日 - 正三位叙位 1901年(明治34年)12月27日 - 旭日大綬章 1902年(明治35年)2月27日 - 伯爵 1906年(明治39年)4月1日 - 大勲位菊花大綬章叙勲 1907年(明治40年)9月21日 - 侯爵 ・貴族院議員章 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章受章 1911年(明治44年)4月21日 - 公爵陞爵(韓国併合の功) 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章受章。この年元帥府に列する旨の内示を受けたが辞退している 1913年(大正2年)10月10日 - 菊花章頸飾叙勲 外国勲章佩用允許 1901年(明治34年)4月16日 - フランス共和国よりレジオンドヌール勲章グラントフィシエ(大将校章、第二等)叙勲 1906年(明治39年)6月5日 - ローマ教皇庁よりピウス9世勲章カヴァリエレ ディ グランクローチェ(大十字騎士章、第二等)叙勲 1910年(明治43年)7月1日 - ブラウンシュヴァイク国レーヴェンハインリッヒ第一等勲章 本姓は大江氏。『日本の名家・名門 人物系譜総覧』246頁によれば、 「桂家は、三度首相に就いた桂太郎を出した家。同家は毛利元就と同族で、相模国津久井から出た氏で、元就の重臣としては桂元澄がいる。陶晴賢を厳島に誘い出して討つことに成功したのは、この元澄の働きによる。」という。 3回結婚、5男5女を儲けた(うち1人は愛人との間に儲けた庶子)。 最初の妻歌子(旧姓は野田。1874年結婚、1886年没)との間に1男2女。 蝶子(1880年 - ?) - 国光侃と結婚。後に遠藤美之の養女となり、長雄勝馬と結婚。 与一(1882年 - 1913年) - 1906年に新田忠純の娘貞子と結婚、2男1女を儲けたが、父に先立ち死去。 広太郎(1908年 -2002年) - 与一の長男。祖父の死後爵位を継承。 繁子(1883年 - ?) - 尾寺藤三と結婚、後に長崎英造と結婚。 2番目の妻貞子(旧姓・宍道、歌子の兄の未亡人、1886年結婚、1890年没)との間に1男1女。 三郎(1887年 - 1959年) - 井上勝之助の養子 潔子(1888年 - ?) - 長島隆二と結婚 愛妾中村ウラ子との間に1女を儲けた。 輝子(1891年 - ?) - 天岡直嘉と結婚 3番目の妻可那子(1875年 - 1940年、かな子、加那子とも)は、元々村上浜次郎の娘で名古屋の上前津の料亭「旗亭香雪軒」の経営者・木村常次郎の養女となり、桂が第三師団長になった際、再三この店を訪れ、27歳年下の可那子を見染めた。1891年より事実婚、1898年に井上馨の養女として桂と結婚。2人の間に3男1女。 四郎(1893年) - 早世 五郎(1895年 - ?) 寿満子(1897年 - 1930年、須磨子とも) - 首相伊藤博文の庶子文吉と結婚 新七(1899年 - ?) 三男三郎は井上馨の養嗣子井上勝之助の養子となり井上家を継ぐ。更に三郎と勝之助の養女千代子(馨の実子)の間に生まれた井上光貞は歴史学者として活躍した。 愛妾として知られる芸者・お鯉(安藤照)とは日露戦争中に山縣の紹介で知り合った。病弱だった本妻可那子に代わり桂の世話をし、総理官邸に「お鯉の間」が設けられたり、日比谷焼打事件では妾宅が襲撃の対象になったりした。関西をお鯉と訪れる際には「松風閣」とよばれる財界人の清遊の場にたびたび宿泊している。「松風閣」は現在も大阪府箕面市の箕面観光ホテル内に「桂別邸」として存在する。 ^ 陸海軍大将のなかでも軍功が抜群な者は特にこれを終身現役の大将として元帥の称号を冠することを許し、彼らが大元帥たる天皇の軍事面における最高顧問となった。したがって元帥は軍人としては最高の栄誉に他ならなかったが、軍人としての器よりも政治家としての器の方がはるかに大きかった桂にとって、それはなによりも有難迷惑なものでしかなかった。伊藤博文の政友会にならって自身も新党を結成し、今後とも議会政治に対する影響力を一層伸張していくことを模索していた桂は、元帥府に列して現役軍人の身分が生涯つきまとうと、それが自身が望む政党党首となることを否定するものとなるばかりか、一政治家としての政治活動さえも著しく制限するものになることを嫌ったのである。 ^ 林茂、千葉功など。伊藤之雄、大久保利謙は否定している。 伊藤之雄 『元老―近代日本の真の指導者たち』 中央公論新社、2016年。 ^ a b 澤村修治『天皇のリゾート:御用邸をめぐる近代史』図書新聞 2014年 ISBN 9784886114600 pp.157-174. ^ 『商業会議所法』(明治34年3月25日法律第31号)、官報。国立国会図書館 ^ 『官報』第621号「叙任及辞令」1885年7月27日。 ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。 ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。 ^ 『官報』第2357号「叙任及辞令」1891年5月12日。 ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。 ^ 『官報』第3991号「叙任及辞令」1896年10月15日。 ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。 ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。 ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。 ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。 ^ 『官報』第7276号「帝国議会 - 貴族院 - 議員就職」1907年9月28日。 ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。 ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。 ^ 『官報』第5365号「叙任及辞令」1901年5月24日。ただし同報では「フランス共和国グランオフィシェードロルドルナショナルドラレジョンドノール勲章」と記載。 ^ 『官報』第6893号「叙任及辞令」1906年6月22日。ただし同報には「ローマ法王ピーヌーフ第一等勲章」と記載。 ^ 『官報』第8123号「叙任及辞令」1910年7月20日。 ^ 宇野(2006年)、P272 - P275、P284 - P285。 ^ 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』(実業之日本社、2017年)P116 - P118 ^ a b 「桂太郎(明治の首相)が、軍人として名古屋に来たとき知り合った女性(のちに夫人となる)について知りたい。」 - レファレンス協同データベース ^ 『明治美人伝』長谷川時雨 翻刻史料 『桂太郎自伝』(宇野俊一校注、平凡社東洋文庫、1993年) ISBN 4582805639 存命中に本人が執筆、原本は憲政資料室所蔵「桂太郎関係文書」書類の部に拠る。 『桂太郎関係文書』(千葉功編、東京大学出版会、2010年) ISBN 978-4-13-026222-4 「桂太郎関係文書」と、早稲田大学中央図書館特別資料室所蔵の「桂太郎旧蔵諸家書翰」のうち、桂太郎宛ての書簡を翻刻・編集した資料集。巻末解説で、桂が死去した際桂家にあった書簡・書類など桂家文書の現在にいたるまでの伝来を記す。 『桂太郎発書翰集』(千葉功編、東京大学出版会、2011年) ISBN 978-4-13-026226-2 前年出版の『桂太郎関係文書』(桂宛書簡集)に対応した桂自身による書簡を翻刻した資料集。 刊行書籍 徳富猪一郎 (蘇峰) 『政治家としての桂公』 民友社、1913年11月 徳富猪一郎編著 『公爵桂太郎伝 乾・坤』 故桂公爵記念事業会、1917年  (復刻 原書房 「明治百年史叢書」、1967年/オンデマンド版、2004年) 杉山茂丸 『桂大将伝』 博文館、1917年  (復刻 歴代総理大臣伝記叢書 第6巻 ゆまに書房、2005年) ISBN 4843317845 川原次吉郎 『桂太郎』 (時事通信社、三代宰相伝、1959年/ 新版 「日本宰相列伝4」、1985年) 宇野俊一 『明治国家の軌跡』 (梓出版社、1994年) 小林道彦 『桂太郎と後藤新平 日本の大陸政策1895-1914』 (南窓社、1996年) ISBN 4816501940 古川薫 『山河ありき 明治の武人宰相 桂太郎の人生』 (文藝春秋、1999年) ISBN 4163187103/ (文春文庫、2002年) ISBN 4167357151 伊藤之雄 『立憲国家と日露戦争 外交と内政 1898-1905』 (木鐸社、2000年) 宇野俊一 『桂太郎』 (吉川弘文館〈人物叢書〉、2006年) ISBN 4642052348 小林道彦 『桂太郎 予が生命は政治である』 (ミネルヴァ書房 日本評伝選、2006年) ISBN 4623047660 千葉功 『桂太郎 外に帝国主義、内に立憲主義』 (中央公論新社〈中公新書〉、2012年) ISBN 4121021622 華族 大正政変 後藤新平 - 政権時代のブレーン。 加藤高明、若槻禮次郎、濱口雄幸 - 桂の政治的継承者。「桂新党」(立憲同志会)の結党に参加し、憲政会-立憲民政党内閣で(桂が新党構想で掲げた)健全財政・軍縮・協調外交路線をとる。 三浦梧楼- 長州出身の軍人、「観樹将軍」で知られる。 大三 - 桂の「ニコポン主義」に由来する「ニコホン綿」で知られる。 東京地学協会 桜尾城 - 広島県廿日市市の城趾。祖先が桂元澄だった関係で城趾の土地を買収し廿日市市に寄贈。桂公園として整備された。 歴代総理の写真と経歴(首相官邸ホームページ) 桂氏系譜 桂太郎肖像 明治宰相列伝 : 桂太郎 | 国立公文書館 拓殖大学 国立国会図書館 憲政資料室 桂太郎関係文書(所蔵) 国立国会図書館 憲政資料室 桂太郎関係文書(MF:当室蔵・早稲田大学図書館蔵・宮内庁書陵部蔵ほか) 桂公爵邸に於ける外遊紀念の写真『ニコニコ写真帖. 第1輯』 - 三番目の妻の加那子(右から3人目)と桂(右から5人目)、その横に二人の娘の須磨子。", "井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係はない。 幼名は勇吉、通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、要職を歴任した。栄典は従一位大勲位侯爵、元老。 長州藩士・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現山口市湯田温泉)に生まれる。嘉永4年(1851年)に兄の井上光遠(五郎三郎)と共に藩校明倫館に入学した。なお、吉田松陰が主催する松下村塾には入学していない。安政2年(1855年)に長州藩士志道氏(大組・250石)の養嗣子となる。両家とも毛利元就以前から毛利氏に仕えた名門の流れを汲んでおり、身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、比較的毛並みの良い中級武士であった。 同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向、江戸で伊藤博文と出会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。万延元年(1860年)、桜田門外の変の余波で長州藩も警護を固める必要に迫られたため、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わり、文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(後の元徳)の小姓役等を勤め江戸へ再下向した。 江戸遊学中の文久2年(1862年)8月に藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴、同年11月に攘夷計画が漏れて定広の命令で数日間謹慎した。にも関わらず御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らと共に12月のイギリス公使館焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。 翌文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助と共に長州五傑の1人としてイギリスへ密航するが、留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、翌元治元年(1864年)の下関戦争では伊藤と共に急遽帰国して和平交渉に尽力した。 第一次長州征伐では武備恭順を主張したために9月25日に俗論党(椋梨藤太を参照)に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負った。ただ、芸妓の中西君尾から貰った鏡を懐にしまっていた為、急所を守ることが出来、美濃の浪人で適塾出身の医師の所郁太郎の約50針に及ぶ縫合手術を受けて一命を取り留めた。この時あまりの重傷に聞多は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせた。この時のエピソードは後に第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。また、寝込んでいた時に伊藤が見舞いに訪れ、危険だから早く離れろと忠告しても伊藤がなかなか承諾しなかったエピソードも後に伊藤が語っている。 体調は回復したが、俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかったが、高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起(功山寺挙兵)、再び藩論を開国攘夷に統一した。しかし慶応元年(1865年)4月、長州藩の支藩長府藩の領土だった下関を外国に向けて開港しようと高杉・伊藤と結託、領地交換で長州藩領にしようと図ったことが攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れ、若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏、別府温泉の古湯楠温泉にてしばらく療養した。5月に伊藤からの手紙で長州藩へ戻り、7月から8月にかけて長崎で外国商人トーマス・ブレーク・グラバーから銃器を購入、翌慶応2年(1866年)1月に坂本龍馬の仲介で長州藩と薩摩藩が同盟(薩長同盟)、同年6月から8月までの第二次長州征伐で石州口で戦い江戸幕府軍に勝利した。9月2日、広沢真臣と共に幕府の代表勝海舟と休戦協定を結んでいる。 慶応3年(1867年)の王政復古後は新政府から参与兼外国事務掛に任じられ九州鎮撫総督澤宣嘉の参謀となり、長崎へ赴任。浦上四番崩れに関わった後、翌明治元年(1868年)6月に長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事した。明治2年6月に政府の意向で大阪へ赴任、7月に造幣局知事へ異動となり(8月に造幣頭と改名)、明治2年から3年(1869年 - 1870年)にかけて発生した長州の奇兵隊脱隊騒動を鎮圧した。この間、明治2年11月に死去した兄の家督を継承、甥で兄の次男勝之助を養子に引き取り、明治3年8月に大隈重信の仲介で新田俊純の娘武子と結婚している。 明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、伊藤と行動を共にし、主に財政に力を入れた。明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席、同月に副大臣相当職の大蔵大輔に昇進、大蔵卿・大久保利通が木戸や伊藤らと岩倉使節団に加わり外遊中は留守政府を預かり、事実上大蔵省の長官として「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。しかし大蔵省は民部省と合併して出来た巨大省庁だったため、財政だけでなく地方官僚を通して地方行政にも介入出来るため(元幕臣中野梧一の山口県参事登用など)、予算問題で改革にかかる多額の予算を要求する各省と衝突しただけでなく、学制頒布を掲げる文部卿・大木喬任や地方の裁判所設置と司法権の独立を目指す司法卿・江藤新平との対立も発生した。また、行政府の右院は各省の長官が構成員であり、前述の関係上対立・機能不全は避けられず、立法府の左院と最高機関である正院も調整力が疑問視されていた。 こうした事態を憂いた井上は大久保の洋行に反対だったが、西郷隆盛が大久保の代理となることで納得した。しかし秩禄処分による武士への補填として吉田清成に命じたアメリカからの外債募集は上手くいかず、明治4年9月に大久保と共に建議した田畑永代売買禁止令・地租改正もまだ実現しておらず財政は窮乏していた。緊縮財政の方針と予算制度確立を図ったが、文部省が学制頒布、司法省が司法改革などで高い定額を要求すると拒絶して予算を削ったことが江藤らの怒りを買い、明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及され5月に辞職した。その後9月に使節団が帰国、征韓論を巡る政争や10月の明治六年政変で西郷、江藤、板垣退助らが下野、大蔵省の権限分譲案として内務省が創設される、翌明治7年(1874年)に江藤が佐賀の乱を起こして敗死するなど変遷があったが、既に下野していた井上にはそれらに関わりがなかった。 政界から引いた後、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、辞任していた木戸と板垣の説得に当たり、伊藤に説得された大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。同年に発生した江華島事件の処理として翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆と共に副使として渡海、朝鮮の交渉に当たり2月に日朝修好条規を締結した。6月に欧米経済を学ぶ目的で妻武子と養女末子、日下義雄らと共にアメリカへ渡り、イギリス・ドイツ・フランスなどを外遊、中上川彦次郎、青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち7月に帰国した。 大久保暗殺後に伊藤が政権の首班となると、同月に伊藤により参議兼工部卿に就任、翌12年(1879年)に外務卿へ転任、明治14年(1881年)に大隈重信と伊藤が国家構想を巡り対立した時は伊藤と協力して大隈を政界から追放した(明治十四年の政変)。この後も朝鮮との外交に対処、翌明治15年(1882年)で壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、また条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設に尽力した。同年、海運業独占の三菱財閥系列の郵便汽船三菱会社に対抗して三井など諸企業を結集させ共同運輸会社を設立したが、後に両者を和睦・合併させ日本郵船を誕生させた。 明治17年(1884年)12月の甲申事変で朝鮮宗主国の清が介入すると渡海、翌18年(1885年)1月に朝鮮と漢城条約を締結して危機を脱した(4月に伊藤が清と天津条約を締結)。また、明治16年(1883年)に鹿鳴館を建設して諸外国と不平等条約改正交渉に当たり、明治17年の華族令で伯爵に叙爵された。同年に防長教育会や防長新聞の創設、三井物産相談役のロバート・W・アーウィンを通したハワイの官約移民(明治14年に日本を訪問した国王カラカウアと約束していた)にも尽力している。 明治18年(1885年)、伊藤が内閣総理大臣に就任して第1次伊藤内閣が誕生すると、外務卿に代わるポストとして初代外務大臣に就任。引き続き条約改正に専念した。ところが、明治20年(1887年)に改正案が広まると、裁判に外国人判事を任用するなどの内容に反対運動が巻き起こり、井上毅・谷干城などの閣僚も反対に回り分裂の危機を招いたため、7月に改正交渉延期を発表、9月に外務大臣を辞めざるを得なかった。この他、山陽鉄道社長に中上川彦次郎を据えて鉄道建設を進めたり、パリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めていたが、条約改正と同じく辞任に伴い頓挫した。その際に井上の秘書として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルトは勲一等、兄アレキサンダーと共に交渉に関わったハインリヒ・フォン・シーボルトには勲三等が後に与えられた。両名は医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男と次男である。 明治21年(1888年)に伊藤が大日本帝国憲法を作成するため辞任、黒田清隆が次の首相になると、黒田内閣で農商務大臣に復帰したが、かねてより政府寄りの政党を作るべく企画した自治党計画が翌22年(1889年)2月の黒田の超然内閣発言や周囲の反対で挫折、外務大臣に就任した大隈の条約改正案に不満を抱き、5月末から病気を理由に閣議を欠席して引き籠り、10月に黒田内閣が倒閣に陥ると辞任した。12月、悪酔いした黒田が留守中の自宅に押し入り暴言を吐く事件が発生、黒田に抗議している。 それからしばらくは内閣に入らなかったが、明治25年(1892年)8月8日に伊藤が再度内閣を組織(第2次伊藤内閣)すると内務大臣に就任、11月27日に伊藤が交通事故で重傷を負うと翌26年(1893年)2月6日まで2ヶ月余り総理臨時代理を務めた。明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発、戦時中の10月15日に内務大臣を辞任、朝鮮公使に転任して陸奥宗光と共に戦時中は伊藤を支え翌明治28年(1895年)8月の終戦まで公使を務めた。朝鮮では金弘集内閣を成立させ改革に着手したが、三国干渉によるロシアの朝鮮進出と朝鮮の親露派台頭、ロシアと事を構えたくない日本政府の意向で成果を挙げられないまま帰国した。後任の朝鮮公使三浦梧楼が10月に親露派の閔妃を暗殺する事件を起こし解任されると(乙未事変)、 特派大使に任命され次の公使小村壽太郎の助け役として再渡海、11月に帰国した後は静岡県興津町(現:静岡市清水区)の別荘・長者荘へ引き籠り、明治29年(1896年)の伊藤辞任まで目立った活動は見られなかった。 明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣成立に伴い大蔵大臣となったが、半年で倒閣になったため成果は無い。また、明治33年(1900年)の第4次伊藤内閣で大蔵大臣再任が検討されたが、渡辺国武が大蔵大臣を望み伊藤が止むを得ず承諾したため話は流れた。 明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するに至った。組閣断念の理由について、歴史家の村瀬信一は渋沢を初めとする財界が政治との関わり合いを嫌ったこと、同じ長州派の伊藤と山縣有朋が憲法、軍事で成果を上げ、それぞれ立憲政友会、官僚集団といった基盤を備えていたことに対し、外交・財政いずれも功績を残せず、政党と官僚閥とも繋がりがなく、財界以外に基盤がない点から内閣を諦めたと推測している。 大命拝辞した後は後輩の桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立させた。桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、明治36年(1903年)に斬奸状を送られる危険な立場に置かれたが、翌37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。明治40年(1907年)、侯爵に陞爵。明治41年(1908年)3月に三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席した時に尿毒症にかかり、9月に重態に陥ったが11月に回復、明治42年(1909年)の伊藤の暗殺後は西園寺公望や松方正義などと共に元老として、政官財界に絶大な影響力を持った。 明治44年(1911年)5月10日、維新史料編纂会総裁に任命された。明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助、大正2年(1913年)に脳溢血に倒れてからは左手に麻痺が残り、外出は車椅子の移動となる。大正3年(1914年)の元老会議では大隈を推薦、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化、9月1日に79歳で死去した。葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の長谷寺と山口県山口市の洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。 生前から井上の生涯を記録する動きがあり、三井物産社長の益田孝と井上の養嗣子勝之助が編纂して大正10年(1921年)9月1日に財政面を主に書いた『世外侯事歴 維新財政談』が上・中・下の3冊で刊行された。昭和2年(1926年)に勝之助の提案で井上の評伝を作ることが決められ、昭和8年(1933年)から翌9年(1934年)にかけて全5巻が刊行された。また、これとは別に伊藤痴遊が明治41年に井上の快気祝いとして評伝『明治元勲 井上侯実伝』を、大正元年に『血気時代の井上侯』を出版している。 位階 明治2年11月10日 - 従五位 明治4年12月13日 - 従四位 1886年(明治19年)10月19日 - 従二位 1896年(明治29年)6月20日 - 正二位 1915年(大正4年)9月1日 - 従一位 勲章等 1879年(明治12年)2月10日 - 勲一等旭日大綬章 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵 1888年(明治21年)7月21日 - 銀製黄綬褒章 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1895年(明治28年)10月7日 - 旭日桐花大綬章 1906年(明治39年)4月1日 - 大勲位菊花大綬章 1907年(明治40年)9月21日 - 侯爵・貴族院議員章 1915年(大正4年)9月1日 - 菊花章頸飾 外国勲章等佩用允許 1885年(明治18年) 4月6日 - メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライフェン勲章グロースクロイツ 4月14日 - ハワイ王国:カメハメハ第一世勲章グランドクロス 5月8日 - ロシア帝国:白鷲大綬章 1886年(明治19年)2月3日 - 波斯国:獅子太陽第一等勲章 1892年(明治25年)11月10日 - オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章 1902年(明治35年)6月21日 - 大韓帝国:李花大綬章 維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくといった、行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は、井上がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。1度は官を辞職したが、長州系列の人物と革命の元勲としての威光で同藩出身の山縣有朋とともに過去の汚職にも関わらず絶大な存在感を示した。 外務大臣としての従事期間は長く、その間、条約改正に献身的な努力を注いでいた。その成果は次の大隈重信・青木周蔵・陸奥宗光らに至って現れて来ていると考えられる[要出典]。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであるから、国内での影響力と同じ尺度で評価する事は適切ではない[要出典]。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていた為に、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていた事が窺い知れる[要出典]。 実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に努めた。日本郵船・藤田組、小野田セメント、筑豊御三家、特に三井財閥においては最高顧問になるほど密接な関係をもった。これを快く思わなかった西郷隆盛は岩倉使節団出発前夜の明治4年11月11日、送別会の席で井上のことを「三井の番頭さん」と皮肉っている(佐々木高行の日記より)。尾去沢銅山事件に代表されるように実際に三井や長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた。 井上は三井財閥、藤田組などを通して第一国立銀行設立、三井物産創業、三池炭鉱事業の開始、台湾銀行、台湾製糖会社の設立、児島湾干拓事業、洞海湾拡張事業などを手がけ、石炭輸出による外貨獲得、日本の近代化を推し進めた。また、各財閥に家憲を制定して同族間の結束を固めることを強調、藤田家憲は明治9年、三井家憲は明治33年、貝島家憲は明治42年にそれぞれ制定、井上の尽力で3家は日本経済を支える財閥に発展した。 仕事上で特に深く関わった人物は渋沢栄一、益田孝、藤田伝三郎、貝島太助、杉孫七郎、杉山茂丸等多数。長寿だったため、大甥である鮎川義介(実姉常子の孫、日産コンツェルン創始者)や鮎川の義弟・久原房之助(藤田の甥、久原財閥の祖)への指導もしている。 恩義を忘れぬ情厚き面があり、旧藩主毛利家一族や長井雅楽、高杉晋作の遺族や、命の恩人の医師・所郁太郎の子孫に手厚く報いた。明治8年に高杉の愛人梅処尼が貧困に苦しんでいた所を有志を募り生活費を与え、明治14年から3年かけて寄付金を集め、明治17年に東行庵を建てて梅処尼を住まわせたこと、明治23年から26年にかけて毛利一族の結束を図り家憲を制定、明治25年から毛利邸建築に着工(完成は大正5年)したことなどが挙げられる。また、明治25年と明治34年に右田毛利家が経営する第百十国立銀行が経営危機に陥ると、伊藤らと共に財政援助を行い破綻を防いだ。第百十銀行は後に他の銀行と合併、山口銀行が誕生した。 一方、突拍子も無いことを言い出す傾向、妥協を許さず主張を押し通す所もあり、文久3年のイギリス旅行の途中停泊した上海で、外国艦隊を目にして攘夷を捨てて開国論に転向したり(伊藤に話したが相手にされなかった)、下関戦争で攘夷か和睦か方針が定まらない藩を非難したり、外相時代の明治18年と翌19年(1886年)にキリスト教推進、外山正一創立のローマ字会加入および演説、群馬県太田市から桐生市一帯を首都とする上州遷都案を立ち上げたり、明治21年に自治党を発案したりしている。これらは欧化主義と非難されたが、条約改正に取り組む井上としては近代化した日本を列強に見せる狙いがあり、合理的な姿勢、新しい物に対する理解の速さから取得の必要性を感じたため、一直線に欧米文化流入に尽力した経過であり、辞任後は立憲政治への対応を考え、政府与党の創造および政府と世論の接点を近づけようとした。しかし、あまりにも先取りし過ぎるアイディアを周囲の反応を省みず実行へ突き進んだため、外相辞任に伴い事業挫折、あるいは伊藤らに説得され断念したことは井上の強引な一面が災いしたことを示している。 親友は吉富簡一(山口矢原の庄屋の生れ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した)。高杉晋作と伊藤博文とは終世親しく交際していた。 欧米に負けない国劇の創造を目指した演劇改良運動の後援者であり、自らの私邸を天覧歌舞伎の会場として提供した。また歌舞伎役者の九代目市川團十郎がかつての養家から泣きつかれて背負いこんだ経営不振の河原崎座の借財整理に協力したこともあった などとも親交を深めた。その他の演芸家では、落語家の三遊亭圓朝、清元節の清元お葉、義太夫の竹本越後太夫などとも親交があった。 明治19年2月10日、外務大臣として鹿鳴館での舞踏会に出席中、十数名の暴漢に襲われそうになったが、警護役の得能関四郎が応戦して11名を逮捕し、難を逃れた。この事件は得能の剣客としての名声を高めることとなった。 明治21年、同志社英学校創立者の新島襄が同志社大学設立のため自宅を訪れた際、大隈重信、渋沢栄一、益田孝ら親しい事業家達に募金を募り3万円近く集めた。 明治24年、九州の金田炭鉱を訪れた際、柏木勘八郎の引き立てで貝島太助と出会い、正直なその性格を見込んだ井上は不況で経営難に陥っていた彼を助けるため、毛利氏の財産を投資して(井上は家憲制定の件で後見人同然の立場にあった)貝島の窮地を救い、後に貝島の息子太市と鮎川の妹を娶わせ、その後の貝島財閥の繁栄を導いた。一方、毛利氏の家政は三井物産が担当、資金貸し出しを通して貝島の資産調査・炭鉱への介入を繰り返したため、貝島炭鉱の独立は大正9年(1920年)までかかった。 明治30年、維新史編纂事業が進まないのに怒り毛利家の編集担当者だった宍戸璣を更迭、後任に末松謙澄を据えた。末松が長州藩士ではなかったこと、末松の頼みで井上が委員を解雇して他藩出身の人間に入れ替えたことなどが元になり、明治34年8月4日に宍戸が新聞に不満をぶちまける、編集委員の中原邦平(長州藩士)が末松と衝突するなどトラブル続きだったが、紆余曲折の末に明治44年に防長回天史が出版され大正9年に完全刊行、現代に残る幕末維新史の基本史料が出来上がった。 明治35年(1902年)、莫大な借金を抱えた東本願寺に泣きつかれ、本山の放漫財政が赤字の原因と知ると、対策として末寺からの本山統制を主とした財団法人設立を企図した(東本願寺借財整理)。東本願寺の抵抗によりすぐに成功しなかったが、後に財団が設立された。 明治44年11月、中国から製鉄コンビナートの漢冶萍公司総理盛宣懐が訪問した際、三井物産の上海支店長山本条太郎と共に漢冶萍公司の日中共同経営を考え、第2次西園寺内閣の内務大臣原敬に掛け合い資金援助を実現させた。翌明治45年に漢冶萍公司の株主の反発で盛宣懐が解任されたため事業は失敗に終わるが、盛宣懐が井上に送った称賛の言葉を綴った軸が洞春寺に残っている。 美術品収集に熱心で、茶会に招かれた先で気に入った茶碗や掛物を「貰っておく」と言い、半ば強引に奪い取っていた。持ち主は権力者である井上には逆らえず、泣き寝入りするしかなかったという。この話を聞いた明治天皇は井上の茶会に行幸し、掛物を「貰う」と言い出し井上を狼狽させ、横暴をたしなめたという。 ほぼ毎年遺言書を更新していた(そのうちの1枚がテレビ番組『開運!なんでも鑑定団』で取り上げられたことがあり200万円の値がついている)。 鉄道庁は明治41年、長者荘への病気見舞客のため新橋及び神戸発の最急行を興津駅に停車させることにした。 関直彦 「井上伯の好物は数の子にて、その季節には三度の食膳に必ず供せられ、一と鉢位は難なく平らげらる」 建築の嗜好があり、都内のほか、各地に多数の別邸を普請した。 鳥居坂本邸 - 1880年竣工。1887年には増築された棟で天覧歌舞伎が行われた。その後久邇宮、赤星弥之助・赤星鉄馬、岩崎小弥太と所有者が変わり、戦後跡地に国際文化会館が建てられた。 内田山本邸 - 鳥居坂近くの麻布宮村町内田山(現・元麻布3丁目、六本木6丁目)に1894年建築。1905年に邸を訪ねたフリーダ・フィッシャー(東洋美術収集家)は屋敷の典雅さに驚き、「なんという静謐さ、なんという気品、なんという簡素さだろう!」と感嘆の言葉を残している。1922年に4000坪が売却され、宅地化。 龍土町別邸 興津別邸「長者荘」 - 62歳の1896年に隠居所として建設され、興津の別荘地化のきっかけを作った。この家で没したのち養嫡子の井上勝之助が住んだが、1945年の清水空襲により焼失した。約5万坪の敷地に磯部温泉別邸を移築した本館、鳥居坂から移築した別館のほか、みかん畑や庭園、高さ5m弱の巨大な井上馨像(戦時中に供出)などがあった。跡地は静岡市埋蔵文化財センターなどが建つ。 湯河原別邸 - 跡地は2018年現在旅館になっている。湯河原のほか、神奈川県には富岡別邸、横浜野毛別邸、鎌倉稲村ケ崎別邸などがあった。 内田山本邸、光琳の間 内田山本邸、周文の間 内田山本邸の茶室八窓庵。鳥居坂本邸から移築 興津別邸全景 明治43年撮影 井上馨銅像。右より井上三郎、幸子、千代子、末子、武子、井上馨 その短気と怒声から「雷親父」とあだ名されていた。一方、右腕とする渋沢栄一には絶大な信頼をおいており、渋沢が近くにいる限り井上は語気を荒らげることすらなかったので、渋沢のまわりには雷は落ちないということから、彼は「避雷針」とあだ名されていた。ただしその渋沢本人は「本当の避雷針は井上氏」だったといい、どんな攻撃も井上が体をはって受け止めてくれたからこそ自分はやりたいように仕事ができたと述懐している。 大隈重信は伊藤と井上の2人を次のように評している。「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった……井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから、敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また藩内での家格も上で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから、伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事の中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い」。 林学博士・中村弥六によると「世話好き。一旦見込んだ人には身分や出身地の如何に関せず常に満身の誠意を傾注して世話をやいた」という。直情径行で曖昧を許さない。必要な場所に自身で出かけて行き、膝詰談判をした。意にそまぬ事があると一喝にあう。この一喝にあってそれっきり寄り付かぬ者、敵になった者もあるが、元来親切から出ているので、一喝にあっても怯まず、自ら偽らず自信のある者は後に出世した者が多い。曽根松太郎も明治35年に書いた『当世人物評』で井上が人材登用・育成に熱心であることを高く評価している反面、感情の起伏が激しく、些細なことでも激怒・罵倒したかと思えば冷たい対応を取ったりするため、親しい人にも去られて伊藤・山縣の下へ移る者も少なくないと長所と短所を指摘している。 徳富蘇峰は「彼は官業反対論者なり。彼は徹頭徹尾民間が出来る業をお役人がやる事は非能率で民間の業を圧迫妨害する…」ものと考えていたことを紹介し、井上の合理主義者としての一面を評価している。 明治10年代(1877年 - 1886年)のドイツ公使アイゼンデッヒャーは井上について「前外務卿(寺島宗則)よりよく、温和で礼儀正しい人物であった」と述べている。 井上氏 光亨┳光遠==馨==┳勝之助==三郎┳光貞━光順━光隆   ┃       ┃       ┃   ┗馨      ┣千代子    ┣元勝           ┃       ┃           =可那子    ┣元廣                   ┃                   ┗武子                  柳原承光━━真美子         桂太郎━━井上三郎       ┃               ┃         ┃  ┏井上光隆               ┣━━━井上光貞  ┣━━┫               ┃    ┃    ┃  ┗井上光博         井上馨━━千代子   ┃    ┃                    ┣━━━井上光順                    ┃        伊達宗徳━━二荒芳徳  ┃                ┃  ┏明子                ┣━━┫                ┃  ┗治子    北白川宮能久親王━━━拡子    ┃                     ┃                   ┏石坂一義                   ┃                   ┣石坂泰介                   ┃              石坂泰三 ┣石坂泰夫                ┃  ┃                ┣━━╋石坂泰彦                ┃  ┃          織田一━━雪子  ┣石坂信雄                   ┃                   ┣智子                   ┃                   ┗操子                    ┃            霜山精一━━霜山徳爾 前妻:名不詳。志道慎平の次女。志道氏の養子縁組で結ばれるも文久3年(1863年)のイギリス密航を機に離縁。 娘:志道芳子(万延元年(1860年)に前妻との間に誕生。離縁の際志道氏へ引き取られる) 後妻:武子。父は交代寄合旗本新田俊純(岩松俊純)。なお、明治維新時には経済的困窮から、大隈綾子とともに茶屋奉公をしていたとされるが高村光雲はこれを否定している。また、中井弘の妻となったとされるが華族辞典などに記録はなく、武子は馨との婚姻が初婚である。実家は後に男爵家となる。 養嗣子:井上勝之助(甥、兄光遠の次男、外交官) 娘:井上千代子(庶子。養嗣子・勝之助の養女、従妹) 娘:藤田聞子(藤田四郎の妻) 養女:井上末子(姪、姉常子と小沢正路の娘、勝之助の妻) 養女:山田龍子(湯田温泉の瓦屋・鹿島屋喜右衛門の娘、山田顕義の妻) 養女:都筑光子(都筑馨六の妻) 養女:桂可那子(名古屋の料亭・旗亭香雪軒の経営者・木村常次郎の養女、桂太郎の3番目の妻) 養孫・婿:井上三郎(桂太郎の三男、勝之助の養嗣子、娘・千代子の夫、陸軍少将) 孫:井上光貞(三郎・千代子夫妻の長男、東大名誉教授、日本古代史研究者) 兄:長男・光遠(井上五郞三郞) 甥:児玉幾太郎(光遠の長男、勝之助の兄、児玉源吾の養子) 甥:森祐三郎(光遠の三男、幾太郎、勝之助の弟。来島又兵衛の長男森清蔵の養子。三井銀行勤務) 甥:伊藤博邦(光遠の四男、幾太郎、勝之助、祐三郎の弟、伊藤博文の養嗣子) 姉:長女・常子、小沢正路の妻 妹:次女・菊子、夭折 妹:三女・孝子、福原元僴の息子彦七の妻 妹:四女・厚子、森清蔵の妻 ^ 後にイギリス密航を機に井上家に復籍 ^ 小林、P269 - P271、伊藤、P29、堀、P16 - P23、村瀬、P4 - P5。 ^ 小林、P271 - P273、伊藤、P34 - P46、P522 - P523、堀、P23 - P45、村瀬、P5 - P15。 ^ 小林、P274 - P275、伊藤、P46 - P53、堀、P45 - P77、村瀬、P22 - P26。 ^ 小林、P275 - P278、伊藤、P92 - P93、笠原、Pi - ii、P4 - P5、P22 - P23、P40 - P58、P64 - P109、堀、P82 - P93、村瀬、P26 - P33。 ^ 小林、P95 - P96、伊藤、P122 - P129、P140、P161 - P168、P175 - P177、P196 - P201、P204 - P206、P212 - P216、堀、P93 - P110、P116 - P151、P154 - P155、P158 - P159、村瀬、P39 - P65。 ^ 伊藤、P219 - P220、P238 - P255、P309 - P319、P343 - P352、P358 - P360、P390 - P393、P442 - P445、堀、P162 - P168、P178 - P204、P216 - P218、村瀬、P16 - P18、P65 - P110。 ^ 伊藤、P454 - P456、堀、P219、村瀬、P110 - P116、P369 - P376。 ^ 『官報』第8363号、「官庁事項」1911年05月11日。 ^ 伊藤、P457 - P470、P507 - P508、堀、P219 - P258、村瀬、P116 - P120。 ^ a b 井上馨 - 国立公文書館デジタルアーカイブ ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。 ^ 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。 ^ a b 『官報』第927号「叙任及辞令」1915年9月3日。 ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部) ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。 ^ 『官報』第1519号「彙報 - 褒章」1888年7月23日。 ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。 ^ 『官報』第3684号「叙任及辞令」1895年10月8日。 ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。 ^ 『官報』第7272号「授爵叙任及辞令」1907年9月23日。 ^ 『官報』第7276号「帝国議会 - 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ABC01-02-0171
露天風呂めぐりができる入湯手形が人気の、熊本県の温泉といえばどこでしょう?
黒川温泉
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[ "黒川温泉", "田の原温泉", "由布院温泉", "塚原温泉", "鉄輪温泉" ]
[ "黒川温泉 熊本市 天草市 黒川温泉(くろかわおんせん)は、熊本県阿蘇郡南小国町にある温泉である。 阿蘇山の北に位置し、南小国温泉郷の一つを構成する。広義の阿蘇温泉郷に含む場合もある。 全国屈指の人気温泉地として知られ、2009年版ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで、温泉地としては異例の二つ星で掲載された。なお 「黒川温泉」の名称は2006年に地域団体商標として商標登録(地域ブランド)されている。 硫黄泉 - 温泉街の比較的浅い(20メートルとも)地層から80度 - 98度の源泉が湧いている。 田の原川の渓谷の両側に24軒のこぢんまりとした和風旅館が建ち並ぶ。温泉街としては川の流れに沿って、東西に延伸しつつある。 渓谷にある温泉地であることから収容人数は少なく、旅館組合の主導で歓楽的要素や派手な看板を廃して統一的な町並みを形成する方策を採っているため、落ち着いた雰囲気を見せる。 ほとんどの旅館に露天風呂があり、旅行者は「入湯手形」を購入することにより、3カ所まで選んで入浴することができる。杉の木を利用した『手形』は温泉街の中心に位置する旅館組合の事務所兼案内所で入手できる。 温泉街には2軒の共同浴場が存在する。 地蔵湯 穴湯 温泉としての歴史は古く、以下の伝説がある。 ある日、豊後国の甚吉という男は、瓜を盗んだことで首を刎ねられそうになったが、それを免れた。身代わりに信仰していた地蔵の首が刎ねられてしまう。そこで、村人はそれを甚吉地蔵として崇拝するようになった。ところが細川藩士の中にこの地蔵を持ち去ろうとした男がいた。だが、ある場所に辿り着くや、突如として地蔵が重くなり動かなくなる。男は諦め、地蔵をその場に放置すると、村人は岩場に奉祀することにした。すると、その岩の裂け目から湯が噴き出、村人の浴場となったという。このいで湯こそ黒川温泉の発祥であり、今も地蔵湯と地蔵の首が残っている。 もともと阿蘇外輪山に位置する山あいのひなびた湯治場であり、旅館の経営体も20数軒で農家兼業が多かった。1964年に南小国温泉の一部として国民保養温泉地に指定され、かつやまなみハイウェイが開通したことで一時的に盛り上がりを見せた。農業など異業種からの参入も含めて、現在も営業している旅館のいくつかがこの前後に開業。 しかし、休日以外は客足は伸びず、温泉地でありながら湯を楽しむ客よりも宴会客中心の状況が続いた。さらに、ブームは数年しか続かず、増築をした旅館の多くは多額の借金をかかえ混迷が続いた。そんな時代でも1軒だけ客足の絶えない宿があったが、それが黒川温泉の父ともいわれる後藤哲也の経営する新明館であり、現在の黒川温泉の骨子となっている宿泊施設である。 当時24歳の後藤は裏山にノミ1本で洞窟を掘り始めた。「風呂に魅力がなければ客は来ない」と考えていた後藤は3年半の歳月をかけ、間口2m、奥行き30mの洞窟を完成させ、そこへ温泉を引き洞窟風呂として客に提供した。さらに、後藤は裏山から何の変哲もない多くの雑木を運び入れ、あるがままの自然を感じさせる露天風呂を造った。他の旅館の経営者が後藤の教えに倣って露天風呂を造ってみたところ、噂を聞いた女性客が続々と訪れだしたため、後藤を奇人変人扱いし白眼視していた他の経営者たちも彼を師匠と仰ぎ、そのノウハウを請い、実践に移した。 後藤のテーマはただひとつ「自然の雰囲気」であり、現在の黒川温泉の共通理念となっている。温泉は自然に出るのだから、作りも自然にしなければならない、自然を生かすにはどうすればいいのか、客を引き留め、リピーターを確保できる、黒川温泉のセールスポイントは何かを摸索したその答えが、露天風呂と田舎情緒であった。また、単独の旅館が栄えても温泉街の発展にはつながらないと考え、温泉街一体での再興策を練った。その他、様々な案が浮かび上がっては消えるなど試行錯誤の連続であったが、後藤の指導の下、すべての旅館で自然を感じさせる露天風呂を造ることにした。その中で、露天風呂を造れない旅館があったため、「それならいっそのこと、すべての旅館の露天風呂を開放してしまったらどうか」という提案があり、昭和61年、すべての旅館の露天風呂に自由に入ることのできる「入湯手形」を1枚1000円で発行し、1983年から入湯手形による各旅館の露天風呂巡りが実施される。さらに、町全体に自然の雰囲気を出すため、全員で協力して雑木林をイメージして木を植え替え、町中に立てられていたすべての看板約200本を撤去した。その結果、温泉街全体が自然に包まれたような風景が生まれ、宿には鄙びた湯の町情緒が蘇った。 この企画も大々的なPRを行わず、口コミによる観光客増加を待つのみであった。また、この頃は修学旅行生も頻繁に受け容れており、手頃さも売りにしていたが、これが結果的に奏功し、リピーター確保につながっている。また、熊本新聞など地元メディアに情報を発信したり、福岡市でピーアールを行ったりもしている。こうした地道な努力の甲斐もあり、1978年(昭和53年頃)からは旅館への養子縁組やUターンで若者が入り始めた。 「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」、いつしかこの言葉が黒川温泉のキャッチフレーズとなった。 口コミはインターネットなどでも広がり、ゴーストタウン同然だった当温泉街が人気温泉へと変貌を遂げるようになった。1998年に福岡の旅行情報誌「じゃらん九州発」の人気観光地調査で第1位となった。2000年以後にはテレビ番組や各種雑誌などにも盛んに採り上げられるようになり、知名度は一躍全国区となった。また、その評判は海外にも発信され、今日ではアジア諸国や欧米からの来湯者も多い。 現在では、全国の温泉経営者や旅館組合関係者がノウハウを見学、視察に訪れるようになり、温泉手形による湯巡りは全国至る温泉地で模倣されるなど各地で同様の試みがなされている。 現在地には拡張が困難な施設が多いことから、さらに川を上った東の地区等へ新たな施設を開設する等の事例がみられる。 また、現在では、「手形」による日帰り客で休日を中心に混雑し、本来のお客である泊まり客がゆっくり入れない等の問題も生じている。このため、立ち寄り型の旅行会社のツアー客には「手形」を販売しないという方針を打ち出すに至っている。 熊本市、別府市からは九州横断バスが利用できる。自家用車の場合は九州自動車道熊本インターチェンジより国道57号線、やまなみハイウェイ、国道442号線経由。 また、福岡からの高速バスが九州産交バスと日田バスによって運行されている。 ^ Michelin Travel Guide Japan, 2009, p.369, ISBN 9781906261948 フランス語版は Michelin - Le Guide vert Japon, ISBN 978-2067139466 ^ 野口冬人著『全国温泉大事典』黒川温泉の項目より ^ この発案は、野沢温泉の外湯巡りを参考にしている ^ じゃらんnetの口コミ記事が代表的である。サイト公開当初から由布院、草津らと共に温泉部門で高順位を付けていたことで、女性を中心に注目を浴びることになった ^ それまでは、黒川温泉のほか、三谷温泉など一部温泉地が行っている程度であった ^ テレビ『世界痛快伝説!!運命のダダダダーン!』「温泉」 『黒川温泉-急成長を読む』熊本日日新聞社、2000年 『黒川温泉 観光経営講座』光文社新書、2005年 『黒川温泉のドン後藤哲也の「再生」の法則』朝日新聞社、2005年 「愛する故郷を救え! 黒川温泉再生の決断」(ルビコンの決断、2009年5月7日放送)  旅行読売出版社刊『全国温泉大事典』 野口冬人著 観光カリスマ - 後藤哲也(新明館代表取締役)が観光カリスマ百選に選ばれた。 ハンセン病元患者宿泊拒否事件 黒川温泉ホームページ 座標: 北緯33度04分41秒 東経131度08分30秒 / 北緯33.078058度 東経131.141715度 / 33.078058; 131.141715 (黒川温泉観光旅館協同組合)", "田の原温泉(たのはるおんせん)は、熊本県阿蘇郡南小国町(旧国肥後国)にある温泉。 含芒硝重曹炭酸弱食塩泉 源泉温度72℃ 黒川温泉の西側、田の原川沿いに旅館が5軒存在する。 周辺は自然豊かな田園地帯である。 共同浴場は1軒存在していたが、現在は閉鎖 「地獄元湯」と呼ばれる源泉地がある。 蛍が有名で、夏場の夜には幻想的な風景を醸し出す。 開湯は鎌倉時代である。田の原川の川底から湧出しているところを発見したと言われる。また、温泉地からは縄文時代の遺跡も発見されており、古くから人が定住していたとされる。 江戸時代には湯治場として栄え、熊本藩の藩士が効能を評価した文を残している。 男はつらいよの第21作目、「寅次郎わが道をゆく」が当地にて撮影された。 昭和39年6月11日 - 厚生省告示第269号により、南小国温泉の一部として黒川温泉、満願寺温泉と共に国民保養温泉地に指定。 鉄道:豊肥本線阿蘇駅より無料送迎バスで約40分。但し旅館へ宿泊する人のみ利用可能。 車:大分自動車道日田ICより約60分。 南小国町観光協会", "由布院温泉 由布院温泉(ゆふいんおんせん)は、大分県由布市(旧国豊後国速見郡)にある温泉。由布岳の麓にある金鱗湖周辺に広がる温泉地である。 すぐそばに聳える由布岳(火山:標高1,584m)の恵みを受けた豊富な湯量を誇る。 湯平温泉・塚原温泉とともに、「湯布院温泉」として国民保養温泉地に指定されている。なお、湯平、塚原両温泉とも由布院温泉からは7-8kmほど離れた地にある。 かつてはひなびた温泉で団体観光客向けの大型ホテルや歓楽街は整備されていなかったが、それがプラスに転じた。 昭和40年代から町ぐるみで毎年夏に映画祭や音楽祭を開催し、歓楽色を排して女性が訪れたくなるような環境整備を続けてきた。バブル期の大型開発計画には適正な規模や景観を守るため抵抗。人気の過熱が続く現在も、温泉のあり方についての模索が続いている。 単純温泉 湧出量 : 毎分38,600L 温泉湧出量は全国2位の量である。源泉の数は852本存在し、これは別府温泉に次いで全国第2位である。 由布院駅から温泉街の方向に延びる通称「由布見通り」や、そこから金鱗湖(きんりんこ)に続く「湯の坪街道」(ゆのつぼかいどう)には、しゃれた雑貨屋やレストランが並び、周辺には各種の美術館が点在する。この付近は近年商店の出店が激しく、2006年1月現在のこの近辺の地価は、人口10万人以上の大分市・別府市に次いで、大分県内で3番目となっている。このことからも温泉街のにぎわいの様子が見て取れる。 各宿泊施設はにぎやかな町並みから外れた周辺の川端や林の間、丘の上などに点在している。湯量が豊富で広い範囲で湯が湧くため、旅館が一箇所に集積する必要が少なかったことから、一軒の敷地も比較的広く、町の造りはゆったりとしている。しかも開発規制により高層の巨大旅館・ホテルもなく、田園的な名残を残している。なお、ネオンサインの煌く歓楽街は無い。また、このようなまちづくりに深く関わってきた由布院玉の湯、亀の井別荘をはじめとして高級旅館が多い。 このような特徴から、由布院温泉は、数多くの調査で九州の温泉の第1位に選ばれている 。連休には多くの人が訪れ、湯の坪街道には人があふれる。昭和の大規模温泉街に多く見られた歓楽性を極力排しており、女性に特に人気が高い。逆に、そうした客層を目当てにした外部資本の観光・土産物業者が進出してきており、田園的な雰囲気を損ねているとの指摘がある。 豊富な湯量のおかげで安価な値段で入浴できる共同温泉も多い。金鱗湖脇には一般客も入浴できる簡素な下ん湯(したんゆ)がある。その他に土地の人だけが利用できる共同温泉が各所にある。 由布岳 駅前から温泉街への方向の正面には由布岳が見え、町のランドマークとなっている。 霧 山間の盆地特有の朝霧が、独特の雰囲気をかもし出す。朝霧は、冬季で気温が低く、放射冷却の起こりやすい晴天の日の朝によく見られる。盆地のすぐ東には標高1160mの倉木山があるため、盆地に朝日が届いて霧が晴れるのは下の写真のように周辺が明るくなってからである。 冬の朝、やまなみハイウェイの狭霧台から見下ろした湯布院盆地を覆った朝霧 左の写真から30分経って、盆地に朝日が差し込むと霧が徐々に晴れてくる 古くは豊後国速見郡に点在する別府十湯の一つに数えられていたが、大正時代の行政区画の変更により塚原温泉とともに別府十湯から外れた。その結果、別府温泉は現在の別府八湯の形となった。現在でも、由布院温泉は「別府の奥座敷」とも言われる。 油屋が開発 由布院の静かで田園的な温泉地・温泉郷というイメージはかなり前からあった。 由布院を最初に温泉保養地にしたのは、大正時代この地に自分の私的な別荘を作った油屋熊八である。彼は、別府における近代的温泉地づくりの祖で、亀の井ホテル・亀の井バスの創設者でもある。彼は由布岳の麓の静かな温泉地が気に入り、金鱗湖の畔に私的な奥座敷として別荘を建て、亀の井ホテルの客や内外から著名人を招き接待をしている。彼はこの別荘(現在の亀の井別荘)の管理を中谷巳次郎に任せ、この後に旅館も数軒建てられた。 大正末期には「ロマン主義」を携えてドイツ留学から帰国した林学博士、本多静六がこの地で『由布院温泉発展策』という講演を行い、ドイツのバーデンバーデンに学ぶ、自然を多く取り入れた静かな温泉地づくりを提案している。慧眼といえる。 朝鮮戦争が終わって 由布院には米軍基地(現在は自衛隊)があり、朝鮮戦争の頃は半島帰りの米兵がたくさん居り、また米兵相手の娼婦もたくさん居たという。それが戦争が終わり、あっという間に姿を消した。 その反面、国民的観光レジャーブームとなり、別府、熱海などの温泉地はお金を数える時間もないほど大繁盛したという。 ダム反対運動 由布院は二つの大きな反対運動を経験した。 最初の反対運動は1952年のダム建設反対運動である。この時の計画とは、由布院盆地に巨大なダムを作り、出来たダム湖畔を観光地化するという構想であった。地元には莫大な補償金も支払われる一石三鳥の構想とあって、町行政も議会も推進姿勢であった。 しかし、この構想に対して町の青年団は強力な反対運動を行う。結果、翌年にダム建設計画は白紙撤回される。町を二分した議論を糧に、主体的に地域の将来を考えようという雰囲気が地域に根付いた。 湯布院町へ 昭和20年代後半、由布院町は深刻な財政危機にあった。そこで当時、多くの湯治客で賑わい、財政の豊かであった湯平村と、1955年(昭和30年)に昭和の大合併の一つとして合併し、湯布院町が誕生した。先の反対運動のリーダーで青年団長であった医師・岩男穎一が初代町長に当選する。 岩男町長は「産業・温泉・自然の山野の三つの融合」を掲げ、健全な保養温泉地づくりへと邁進した。戦後の高度成長が始まろうとして、「観光開発」により将来の明るい夢がひらけると地方の多くの人が信じていたこの時期、温泉地の歓楽街化に反対し、由布院の自然や環境を守ろうと町をあげて取り組んだのである。 岩男は20年近く町長を務めた。なお、岩男は当時農業協同組合組合長も兼務しており、中谷らの欧州研修旅行費用(後述)は農業協同組合から借りた話は有名である。 人材を得る 岩男の用意した舞台で育った若者が居た。 中谷健太郎と溝口薫平である。中谷は東宝撮影所で映画監督となるべく研鑽を積んでいたが、昭和37年、父親の急逝により帰郷、亀の井別荘を継ぐ。当時28歳。また、溝口は博物館に勤めていたことがあり、自然に詳しく、旅館・玉の湯の経営に当たっていた。こうした個性豊かなリーダーを得たことが、由布院の現在の姿を築く上で大いなるプラスとなった。 時期も恵まれていた。中谷帰郷の2年後の1964年(昭和39年)には東京オリンピックの開催、新幹線の開通、長崎までの九州横断道路(国際観光道路)ができた。 ゴルフ場計画に反対 二つ目の反対運動は1970年(昭和45年)に提示された大手の開発業者によるゴルフ場建設計画への反対運動である。 当時、ゴルフ場建設が計画されていたのは猪の瀬戸湿原という、別府から由布院への入り口に当たり、貫重な自然の動植物の宝庫と言われていた場所である。当初、ゴルフ場建設反対運動は自然保護運動として始められた。中谷・溝口の二人は既に観光協会の中心的存在になっており、「守る会」の事務局も観光協会内に置いた。最終的には、県・町を巻き込むことに成功した。環境を切り開いて施設を作り、拡張していくのが普通の観光業者が環境を守る運動とは…と、マスコミにずいぶんと取り上げられたという。なお、猪の瀬戸は行政区域としては別府市に属し、当時、溝口が環境庁の自然公園指導員をしていた。1973年(昭和48年)にはサファリパーク進出計画があり、これも阻止。 欧州でつかんだもの 1971年(昭和46年)6月、「明日の由布院を考える会」の中心メンバーだった志手、溝口、中谷の三人の青年は、欧州へ50日間に及ぶ町づくり視察研修旅行に旅立つ。そして、西ドイツ(当時)の保養温泉地構想を学んだ。先に西ドイツを視察し、理想の保養温泉地を頭に描いていた岩男町長はじめ関係者の大きな期待がかかっていた。欧州でつかんだもの、それはその後の由布院のありかたを決定付けた。 「守る会」から「考える会」へ 反開発の思想をバックボーンとして、「反対」から「地域づくり」へと舵を切った。1971年(昭和46年)のことである。 地震の危機をばねに〜アイデアの勝利 1975年(昭和50年)4月に試練が訪れた。 地震が由布院を急襲、被害は大きく、由布院内のみならず九州横断道をはじめとした主要道路も壊滅的な打撃を受けた。「由布院は壊滅した」とのうわさが駆け巡った。 ここで「湯布院(本来は由布院と表記すべき[誰?])は健在だ」と全国にPRするため、観光協会では辻馬車の運行を決める。震災の翌月には対馬に辻馬車の馬を買い付けに行き、7月には運行開始。田園風景ともマッチし、辻馬車は大評判をとった。 手作りイベントの時代〜知識人・文化人を引き付ける さらに、「手づくり」を合い言葉に「ゆふいん音楽祭」同年8月開始、「午喰い絶叫大会」10月開始、「湯布院映画祭」翌年8月開始と、イベントを立ち上げた。芸能人、知識人等都会の人間も巻き込みながら、「芸術の町」由布院の存在を全国的に知らしめることに役立った。今では由布院名物として全国に知られている主な催しの多くは、この時期に始まったものである。 メディア・外部の力の活用 由布院の「まちづくり」運動が実を結んだ要因として、「まちづくり」の過程そのものがメディアによく取り上げられたことも挙げられる。 観光協会・旅館組合が合同で作っている湯布院(本来は由布院と表記すべき)観光総合事務所の事務局長を公募したときも、その伝説的な選抜はマスコミで紹介された。もちろん観光地情報のみならず、「まちづくり活動」そのものも映像つきでよく紹介されている。例えば、NHKの『プロジェクトX』などがそれである。 1981年(昭和56年)11月、由布院温泉観光協会に平松大分県知事から「一村一品運動奨励賞」が贈られた。同年、湯布院町は環境庁の国民保健温泉地指定。 「リゾート」「開発」に抗して〜成長管理 1987年(昭和62年)、総合保養地域整備法(いわゆる「リゾート法」)が公布された。リゾート開発の波は由布院にも押し寄せた。農村景観を残しながら温泉保養地としての決して無理をしない由布院にとって、外部資本による用地の物色は地価の高騰を招くやっかいな問題であった。 これに対抗し、湯布院町は1990年(平成2年)9月に「潤いのあるまちづくり条例」を制定。「成長の管理」や「地域ごとの展開の重視」が明記されている。 成長管理を模索する ただ、福岡・北九州都市圏からを初めとして九州一円からの日帰り客も多く、加えて九州を代表する観光地の一つとして観光ツアーの立ち寄りも非常に多い。それを見込んだ土産物店・キャラクターグッズ店をはじめとした地元外資本も多数入り込んでいる。2004年に発生した温泉偽装問題では、源泉利用許可を取っていない旅館および源泉の無断開発を行った旅館があったと報じられた。マイカーや観光バスが押し寄せ、メインストリートの「湯の坪街道」は賑わい以上のものがある。もはや、かつての田園的な由布院の姿はないとの厳しい見方もある。真にやすらぐ温泉郷とは何か、模索は続いている。 熊本地震の余波、そしてその後 2016年4月16日、熊本地震が発生。それに伴い、一部で温泉が出なくなる、浴場が被災するなど被害が発生した。地震への恐怖などの風評被害もあり、旅館ならびにホテルにキャンセルが殺到。大きな打撃を受ける。環境庁はこの状況に対し、助成金を創設し「九州ふっこう割」による支援を敢行。これにより現在は外国人観光客を中心に、客足が戻りつつある。現在では恒例である湯布院映画祭が行われるまで復興している。 しかし、支援がなくなったときの客足については現在も大きな課題として残っている。 JR九州久大本線由布院駅から、すぐ。 亀の井バスが別府市・九重町から運行。 とよのくに号(福岡 - 大分)各停。 サンライト号(長崎 - 大分)ノンストップ・各停。 以上の便は湯布院インターで下車。そこから約100m先の「道の駅ゆふいん」停留所より路線バス(ただし本数はかなり少ない)、またはタクシー、約3km。 ゆふいん号(福岡 - 湯布院・別府)全便。 空港リムジン(大分空港 - 湯布院)全便。 以上の便は由布院駅前バスセンター(由布院駅より約100mの位置)で下車、すぐ。 九州横断バスくじゅう号(熊本 - 別府)全便。 以上の便は湯布院(由布院駅より約700mの位置・亀の井バス「湯布院営業所」隣接)で下車、すぐ。 大分自動車道湯布院インターチェンジから、大分県道216号別府湯布院線を経由し約3km。 ^ この夏行きたい温泉地、1位「湯布院」・2位「黒川」・3位「登別」 - ライフスタイル - nikkei BPnet ^ JAL国内線 - 九州温泉ランキング(JAL九州キャンペーン2007) ^ 温泉特集 九州の人気温泉ランキング Best3 - goo 冬特集2006-2007 ^ “大分 罹災証明の申請急増/別府・由布 観光客半減 行政支援を” (日本語). www.jcp.or.jp. 2018年9月16日閲覧。 温泉、温泉街、外湯、温泉番付 日本の温泉地一覧 - 日本の温泉画像一覧 ゆふ・ゆふDX・ゆふいんの森 - 沿線となる久大本線で運行される特別急行列車の名称。 由布院温泉観光協会", "塚原温泉(つかはらおんせん)は、大分県由布市湯布院町塚原(旧国豊後国速見郡)の伽藍岳中腹にある温泉。 硫酸塩泉 源泉は緑色を呈する アルミニウム・鉄分の含有量が多いのが特徴。 pH=1.4 全国第2位の強酸性(1位は玉川温泉)の泉質で知られる。石鹸は泡立たない。皮膚に対する効能があるとされ、アトピーに悩んでいる人々も多く訪れる。水虫など感染機序が関与した疾患には効果がある。 入浴施設が1軒存在する。施設は浴槽まで全て木でできている内湯と耐酸性のコンクリート製露天風呂、家族風呂を有する。そのため、建物の雰囲気は共同浴場にも近い。入浴施設の裏山には、源泉地である地獄地帯が広がる。地熱が高い場所は、ゴム製の靴底で歩くと溶ける場合があるという。降った雨がこの地獄地帯で温められてすぐに温泉になるため、湯量や温泉の成分の濃さは降雨量と密接に関係があるのが特徴である。冬期は積雪のため休業になる場合があるので注意が必要である。 伽藍岳の火口は年々拡大傾向で噴気帯の活動も活発である。伽藍岳の火口は塚原温泉から徒歩5分くらいで見学(近年有料化された)できるが、噴気帯は現在危険の為立ち入り禁止となっている。かつては噴気帯にスコップを持参して手掘りの湯船を作って入浴するマニアもいた。詳細は伽藍岳を参照のこと。火口がある周辺はシリカの露天掘り鉱山跡であり、1966年頃には珪酸白土鉱床が採掘されていた。 開湯は平安時代と言われる。かつては3軒の温泉旅館が存在したが、現在は入浴施設が1つのみである。古くは豊後国速見郡に点在する別府十湯の一つであったが、大正時代の行政区画の変化により、別府十湯から外れた。同時に由布院温泉もはずれ、現在の別府八湯の形となった。 鉄道:久大本線由布院駅よりタクシーで約20分。別府明礬温泉から30分程度。 ^ 550.378:550,835(52a6) 大分県別府白土地帯の放射能強度分布調査報 清島信之、原田種成 地質調査所月報(第18巻第9号) 別府八湯温泉道:別府十湯の一つに数えられた事にちなんで温泉道に加盟している 温泉、温泉街、外湯、温泉番付 日本の温泉地一覧 - 日本の温泉画像一覧 湯布院塚原高原観光協会", "鉄輪温泉(かんなわおんせん)は、大分県別府市(旧国豊後国速見郡)にある温泉で、別府八湯の一つ。温泉の湧出量では日本最大である別府の源泉の大半が鉄輪に集中している。湯治場の面影を濃く残し、レトロな町並みと別府地獄めぐりの多くが鉄輪温泉にある。 別府八湯(別府、亀川、柴石、鉄輪、明礬、堀田、観海寺、浜脇)は西部の火山帯から東部の別府湾に向けて広がる火山麓扇状地に噴出する自然湧出泉からなり、江戸時代後期まで農閑期を中心に多くの湯治客を集めていた。明治時代の近代化以降は別府港、鉄道、道路の整備により観光客が急増し、一大観光地と化す。地上に吹き上げる高温の沸騰泉は気液分離装置により温泉水と温泉蒸気とに分離され、温泉水は配管で各集落へ、高温の蒸気は「湯けむり」となり空中に高く排出され、温泉場らしい雰囲気を醸成している。とりわけ鉄輪温泉は明礬温泉とともに湯治場の色彩が強く、今なお木賃宿や旅籠の起源を持つ古い宿泊施設が旅館や貸間として残り、路地を挟んで小規模な湯治宿が建ち並ぶレトロで情緒豊かな町並みを形成している。また、町の各所に住民により管理された共同浴場が点在する。 鉄輪温泉を中心に、いたるところからもうもうと湯煙りを上げる別府の町並の景観が「別府の湯けむり・温泉地景観」として2012年(平成24年)9月19日に重要文化的景観に選定されている。 鎌倉時代(建治2年)に一遍上人が念仏行脚の途上に鉄輪の地を訪れた際、猛り狂う地獄地帯を鎮め、湯治場(鉄輪むし湯)を開いたのが始まりとされ、そのため上人創設の鉄輪むし湯には一遍上人像が祀られ、また「上人湯」という名の共同浴場もある。上人像の自分の体の悪い部分と同じ部位に温泉の湯をかけると、悪い箇所がよくなるとされる。例年9月には鉄輪湯あみ祭りが開催され、一遍上人に感謝する湯あみ法要も行われる。 2009年(平成21年3月)、鉄輪温泉地区温泉湯けむり重点景観計画策定。 2012年(平成24年)9月19日に重要文化的景観に選定される。 鉄輪むし湯をはじめ「上人湯」、「地獄原温泉」など9ケ所のの共同浴場がある。 鉄輪むし湯 - ナトリウム塩化物泉(別府市鉄輪上1組)500円 6:30〜20:00(第4木曜日定休) 上人湯 - 塩化物泉(別府市鉄輪風呂本5組)100円 10:00〜17:00 渋の湯組合温泉 - 塩化物泉(別府市鉄輪風呂本1組)100円 6:30〜21:00 地獄原(じごくばる)温泉- 含ホウ酸食塩泉(別府市鉄輪東6組)100円(賽銭箱へ入れる)6:30〜21:00 すじ湯温泉 - 塩化物泉(別府市鉄輪井田4組)100円(賽銭箱へ入れる)6:30〜17:00 熱の湯温泉 - :ナトリウム塩化物泉(別府市鉄輪井田1組)無料 6:30〜21:00 谷の湯 - 塩化物泉(別府市北中1組の8)80円 6:30〜22:00 ひょうたん温泉[1] - 塩化物泉(別府市鉄輪159-2)700円(200円)9:00〜25:00 夢たまて筥 - 塩化物泉(別府市北中1組 ホテル風月HAMMOND敷地内)500円(200円)7:00〜26:00 以上 別府観光を代表する観光地で、全部で八ヵ所がある。すべて入場は有料だが2日間有効の「8地獄共通観覧券」がある。 ※別府地獄めぐりを参照。 地獄蒸しは江戸時代より湯治客に好まれた鉄輪を代表する料理の一つで、高温の温泉を利用した料理。「地獄蒸し料理」を体験できる「地獄蒸し工房 鉄輪」がある。 温泉街には「湯の川」と呼ばれる川が流れ、各源泉から流れ出た温泉水が一ヶ所に集い、轟々と音を立てて流れ落ちている。 湯の川の近くには、「湯雨竹(ゆめたけ)」と呼ばれる温泉の冷却装置がある。lこれは2000年代に入って建造されたもので、源泉の湯温が100℃にも達するという湯温を調節するもので、加水による調温を回避できる。 別府市大字鉄輪 JR別府駅西口よりタクシーまたはバス。 バス:亀の井バス(路線番号2、5、7)「鉄輪」バス停下車。 大分空港よりバスまたはタクシー。 空港バス:観光港別府交通センター下車(約35分)。降車後タクシーを利用。 福岡空港より高速バスで鉄輪口バス停下車。 以上 ^ a b 別府ひょうたん温泉公式サイト ^ a b c d 別府市役所 - 別府の湯けむり景観 ^ 別府ひょうたん温泉公式サイト - 歴史 ^ 大分合同新聞 - 一遍上人も「ほっ」鉄輪温泉湯あみ祭り[2009年09月24日 10:06 ^ 鉄輪むし湯 ^ 鉄輪旅館組合 ^ a b c d たびらい大分 ^ 極楽地獄別府 ^ 別府市公式サイト - 地獄蒸し工房 鉄輪 ^ 鉄輪旅館組合 - 交通アクセス 別府八湯温泉道 別府地獄めぐり 別府十湯、別府三勝、別府八景 湯治 - 湯治場 藤原新也 - かつて鉄輪に住んだ作者の自伝小説『鉄輪』があり、鉄輪温泉の路地の写真が数多く掲載されている。 鉄輪旅館組合公式サイト 別府市役所 - 鉄輪むし湯 別府市役所 - 別府の湯けむり景観 たびらい大分 - 鉄輪温泉 ぬくもりが沁みる湯治の町 ひょうたん温泉" ]
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日本舞踊で、鳥の精が踊るのは『鷺娘』ですが、花の娘が踊るのは『何娘』でしょう?
藤娘
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[ "藤娘", "茶音頭", "今様薩摩歌", "通小町", "橋弁慶" ]
[ "藤娘(ふじむすめ)は、 大津絵の画題。娘が黒の塗り笠に藤づくしの衣装で藤の花枝をかたげている姿。 大津絵に題をとった歌舞伎舞踊(日本舞踊)の演目、及びその伴奏の長唄。 藤娘の姿は多くの日本人形や羽子板の押絵にも用いられている。 藤娘は、近江国大津の名物で又平という絵師が作ったと言う戯れ絵、大津絵の画題の一つ。かつぎ娘、藤かつぎ娘とも。 藤娘は、大津絵の『かつぎ娘』に題をとった長唄による歌舞伎舞踊の演目。文政9年(1826年)江戸中村座初演、二代目關三十郎が舞った。作詞は勝井源八。もとは絵から出て来た娘が踊るという趣向の五変化舞踊のひとつだったが、六代目尾上菊五郎が娘姿で踊る藤の精という内容に変えて演出を一新して以来その型が一般的になり、今日でも人気の歌舞伎舞踊の演目の一つであるばかりか、日本舞踊でも必須の演目の一つとなっている。 変化舞踊『哥へす哥へす余波大津絵』(かえすがえす おなごり おおつえ)」の一曲。『藤娘』は最初の曲で、花道のすっぽんから現れて大津絵同様の姿で踊った。なお初演時には藤娘の曲が終りかかると、舞台に着ぐるみの犬が出てきて娘に飛びつく、すると娘がびっくりした拍子にそれまでの鬘や衣装が舞台上で脱げ座頭の姿となり、持っていた藤の枝も仕掛けで杖に変って、そのまま犬と一緒に座頭の所作を踊るという演出だった。 昭和12年(1937年)に六代目尾上菊五郎が五変化舞踊のひとつだった藤娘を独立させ、長唄の間に『藤音頭』(岡鬼太郎作)を挿入して演出を一新したもの。藤の絡んだ松の大木は、松が男を、藤が女を象徴している。筋は、藤の絡んだ松の大木の前に藤の枝を手にした藤の精が、意のままにならない男心を切々と嘆きつつ踊る。やがて酒に酔い興にのって踊るうちに遠寺の鐘が鳴り夕暮れを告げると、娘も夕暮れとともに姿を消す、というもの。  若むらさきに とかえりの 花をあらわす 松の藤浪 人目せき笠 塗笠しゃんと 振かかげたる 一枝は 紫深き 水道の水に 染めて うれしきゆかりの色に いとしと書いて藤の花 エエ しょんがいな 裾もほらほら しどけなく 鏡山 人のしがより この身のしがを かへりみるめの 汐なき海に 娘すがたの はづかしや 男ごころの憎いのは ほかのおなごに 神かけて あはづと三井(みい)のかねごとも 堅い誓いの石山に 身はうつせみの から埼や まつ夜をよそに 比良の雪 とけて 逢瀬の あた妬ましい ようものせたにゃ わしゃのせられて 文も堅田の かただより こころ矢橋の かこちごと 松を植よなら 有馬の里へ植えさんせ いつまでも 変わらぬちぎり かいどりづまで よれつ もつれつ まだ寝がたらぬ 宵寝まくらの まだ寝が足らぬ 藤にまかれて 寝とござる アア何とせうか どせうかいな わしが小まくら お手まくら 空もかすみの夕照りに 名残惜しみて 帰る雁金 流派によって多少異なる。間に「潮来出島」や「藤音頭」が挿入される。 潮来出島 潮来出島の真菰の中に 菖蒲咲くとはしおらしい サアサよいやサア 宇治の柴船 早瀬を渡る わたしゃ君ゆえ のぼり船 サアサよいやサア 花はいろく五色に咲けど 主に見かえる花はない サアサよいやさ 花を一もと わすれて来たが 後で咲くや開くやら サアサよいやサー よいやさ しなもなく 花にうかれて ひと踊り 藤音頭 藤の花房色よく長く 可愛いがろとて酒買うて 飲ませたら うちの男松に からんでしめて てもさても 十返りという名のにくや かへるという忌み言葉 はなものいわぬ ためしでも しらぬそぶりは ならのきょう 松にすがるも すきずき 松をまとうも すきずき 好いて好かれて はなれぬ仲は ときわぎの たち帰えらで きみとわれとか おゝ嬉し おゝうれし", "茶音頭(ちゃおんどう、ちゃおんど)は、文化文政期に京都で活躍した盲人音楽家、菊岡検校が作曲、八重崎検校が箏の手付をした手事物の地歌曲である。流派により『茶の湯音頭』とも呼ばれる。 俳人横井也有の「女手前」から抜粋した歌詞で、多数の茶道具を詠み込みつつ男女の仲がいつまでも続くよう願った内容。三味線の調弦が「六下がり」という非常に特殊なもので、独特な響きがこの曲独自の雰囲気を作り出している。歌の節も凝っている一方で手事が長く、八重崎検校の箏手付も巧みで合奏音楽としてもよくできている。現代でも演奏会でよく取り上げられる曲である。茶の湯の手前の伴奏としても演奏される。 本来は純音楽曲であるが、後世「上方舞」(地唄舞)において振り付けも行われ、好んで舞われており、いくつかの流派ごとの振り付けがあるが、どれも袱紗を使用したり、茶道の所作をいれたりする特徴のあるものである。 題名の「音頭」とはもとは雅楽において、各楽器の主たる演奏者をしめす用語である。『茶音頭』は、「音頭」民謡のいち形態としての「音頭」とはまったく別のものである。 菊岡検校は、『茶音頭』の作曲にあたり、「六下り」あるいは「三メリ」と呼ばれる特殊な調弦を使用している。六下りという名称は、本調子の三味線の第3弦(3の糸)を十二律でいう5律(完全4度)下げ、それがちょうど、第1弦(1の糸)から6律目にあたることから名付けられた。実際の六下り の調弦では、三下りの第3弦を3律下げることのほうが多い。 箏曲 三曲 三分損益法 茶 茶道", "『今様薩摩歌』(いまよう さつまうた)は、岡鬼太郎作の歌舞伎の演目。二幕構成。大正9年 (1918) 10月、新富座にて初演。 元薩摩藩士の笹野三五兵衛は、朋友である菱川源五兵衛の尽力で、誕生八幡の神主・笹野杉斎の養子となるも、近くの商家千草屋の娘・おまんと恋仲になって、その噂は町内に知れ渡っていた。そんな二人は三五兵衛の家で密会するが、おまんを祭具を入れる長持に隠したことが露見し、二人とも実家から勘当される。見かねた源五兵衛は、二人を引き取り、勘当が解けるまでは別々に住むがいいと、三五兵衛を知人の家に預け、おまんは自宅に引き取ることとなる。 その晩、源五兵衛は中間事助と晩酌を楽しむ。中間が去ったあと一人で飲んでいると、足もとにおまんの簪が落ちていた。やがて、隣家から聞こえてくる新内の煽情的な調べに欲望を抑えきれなくなり、おまんを連れて千草屋に赴き、三十にもなっての独身に耐えきれなくなったので、おまんを妻に呉れるように談判する。薩摩屋敷との取引を重んじる千草屋は快諾するが、おさまらないのはおまんである。二階から晒しの幟を使って脱出し、三五兵衛のもとへ走る。 後を追った源五兵衛が三五兵衛のもとに来ておまんを譲るように談判するが、おまんを護る三五兵衛は断り双方口論の末切り結ぶ。三五兵衛は切られる。おまんも「人の心が刀で斬れるか。力でとれるか」と叫んで後を追う。一人残された源五兵衛は、孤独と無力感に苛まれつつ切腹の用意をするのであった。 おまん(小万)源五兵衛の情話は、17世紀ごろから「高い山から谷底見れば、小万かわいや晒ほす」の唄で知られ、井原西鶴の『好色五人女』、近松門左衛門の『薩摩歌』、並木五瓶の『五大力恋緘』、鶴屋南北の『盟三五大切』などの読本や歌舞伎狂言の主題となってきた。本作はその書き換え狂言である。演出こそ新内や竹本を用いるなど従前の歌舞伎狂言そのものだが、人物の性格や心理描写などに近代的な点が見られ、特に無骨一辺倒の中年武士が恋に落ちる様を新内節で語ることで効果があがっている。 初演時の二代目市川左團次の源五兵衛、二代目市川松蔦のおまんが大好評で、左團次はお家芸をまとめた「杏花戯曲十種」に入れている。その後は、三代目市川壽海、八代目松本幸四郎などが源五兵衛を得意とした。しかし、源五兵衛の特異な 役柄をつとめることができる役者がなかなかいないこと、そして配役が揃わないと舞台効果が上がらないことなどが理由で、名高い作品にしては上演回数が極端に少ない。その意味では左團次の源五兵衛の巧さは無類だった。新内を聞きながらおまんへの欲情が抑えきれなくなるくだりでは、他の役者が表現の工夫にもて余す中で、左團次は何もしないでじっと新内を聞いていることによって、源五兵衛の揺れ動く心理を観客に理解させたという。 菱川源五兵衛…二代目市川左團次 笹野三五兵衛…二代目市川猿之助 おまん…………二代目市川松蔦 事助……………二代目市川荒次郎 1958年2月17日と同年同月24日の2回に渡って、KRT(現:TBS)の『ウロコ座』(月曜21:15 - 21:45。武田薬品工業一社提供)で放送された。 出演者:八代目松本幸四郎、守田勘弥、藤間紫、笈川武夫、汐見洋、村田嘉久子、河村久子 脚色:千谷道雄", "『通小町』(かよいこまち)は、執心男物の能楽作品のひとつ。本来の曲名は「四位少将」で、『通小町』という曲名は後代につけられた。原作者が唱導僧であるため、説法色の顕著な作品となっている。 比叡山山麓で夏安居中の僧のところに、毎日木の実と薪木を持って一人の里女がやってくる。僧は今日こそ名前を聞いてみようと思い、尋ねてみると、その女は「小野・・」といいかけて、薄が茂る市原野あたりに住む姥であり跡を弔ってほしいと言って姿が見えなくなった。僧は不思議に思いながらも思い当たる節があり、市原野で聞いた小野小町の幽霊の話と同じである事に気づく。これは間違いないと思い、小町を回向するために市原野へと向かう。そうして市原野へ着くと小町の幽霊が現れ受戒を乞うて来た。しかし、そこに四位の少将が出て来て、受戒を受けさせまいとする。小町はせっかく仏法に出会えたのに、まだ地獄の苦しみにあわねばならないのですかと言う。少将は二人で苦しむだけでも悲しいのに、あなた一人だけが成仏すれば、私の苦しみはさらに重くなるばかりですと言い、僧に帰ってくれと願う。僧の説得の甲斐も無く、少将はたとえ打擲されても小町より離れまいと言い、小町の袖を引き留め、二人して涙するのであった。僧は、あなた方が小野小町と四位の少将であるならば、少将が小町の元に百夜通いしたときのことを再現してみせて欲しいと願う。小町は、まさか死後に少将がこのような迷いに落ちるとは思いもよらなかったと言い、少将は、百夜通えばと小町が偽りを言ったのを信じて通ったのですと言う。そのうちに少将の思いも止むだろうと小町は思ったけども、少将は小町の事を思い続けて、粗末な格好で、雨の日も雪の日も暗い夜を通い続けた。そのときの様子を再現しはじめる。そうして九十九夜が過ぎ、あと一夜となった時の喜びを表し、小町の元へと急ぐのであったが、祝いの酒は仏の戒めを守って飲まないことにしたのであった。そのときの一念の悟りによって、多くの罪は消え、小町も少将も、ともに成仏する事ができたのである。 シテ  四位少将(深草の少将)の亡霊 前ツレ  里女 後ツレ  小野小町の亡霊 ワキ  僧 『申楽談儀』によると、金春権守が演じた、比叡山の山徒である唱導僧の作品が原作であり、後に観阿弥が改作したとされる。それゆえに『申楽談儀』では観阿弥作となっている。また、作者名が無くて、『五音』に一節が掲出されているので、世阿弥も制作に関わったと解されている。 ^ 衆徒と同格に属する、節や抑揚をつけて説法を行う僧 ^ 『五音』における作者名無しは、世阿弥の作と解されている ^ 祝言・幽曲・恋慕・哀傷・闌曲という五つの謡い方を記した世阿弥の書 ^ a b 梅原猛、観世清和『能を読む①翁と観阿弥』角川学芸出版 2013年pp141-151 梅原猛、観世清和『能を読む①翁と観阿弥』角川学芸出版 2013年 the能com 通小町 深草少将 小野小町 百夜通い", "『橋弁慶』(はしべんけい)は、 能楽作品のひとつ。初見は16世紀初頭の『自家伝抄』などに見られる。江戸時代前期に金剛、喜多が、江戸後期から観世、宝生、金春が上演している。室町時代には、手猿楽による上演が多い。 比叡山西塔近くに住む武蔵坊弁慶は宿願あって、五条の天神に丑の刻詣でを行っている。その満願の日がきたが、従者が今日の参詣は思いとどまるように弁慶に進言する。人間離れした少年が次々と五条あたりで人を斬りつけているというのだ。弁慶はいったんは思いとどまるが、すぐに思い返して弁慶のほどの者が逃げるわけにも行かぬと、逆に退治してやろうと出かけて行く。 すると五条で斬られ逃れて来た二人の都の者が、牛若の千人斬りだと言いながら逃げ去っていった。 牛若が、五条の橋で人が来るのを待っている。母の言いつけで夜が明ければ寺に戻らねばならず、今日が最後という。 弁慶は好みの大長刀を持って、鬼神ですら寄せ付けない気で五条に近づくと、牛若が傍らに現れる。弁慶は女の姿と見て通り過ぎるが、牛若は弁慶をなぶってやろうと、長刀を蹴り上げる。弁慶は愚かな奴だと懲らしめようと斬りかかるが、斬り合ううちに逆に打ち込まれて退いてしまう。そこで、ふたたび斬りかかるが、宙を舞うようにかわされ、とうとう長刀を打ち落とされてしまう。そこで組もうとするが、とらえることもできない。まったく歯が立たず、これは希代の少年だとばかりあきれ果てて立ち尽くすのだった。 弁慶は、あなたはそんなに若いのに、どうしてそのように強いのか、名前をお聞かせ下さいと願う。すると我は源の牛若であると名乗る。弁慶も名乗り、降参し、どうか私の主人になってほしいと願う。そして主従の約束を固く結び、牛若の九条の御所へ参上する。 前シテ 武蔵坊弁慶 後シテ 武蔵坊弁慶 子方 牛若 トモ 従者 本曲は『弁慶物語』『義経記』など、室町時代の物語に準拠していると言われている。ただし、流布された弁慶にまつわる物語の多くは、千人斬りは弁慶の所行となっている。なかには天理図書館所蔵の『橋弁慶』など、牛若の所行になっているものもある。本曲では牛若の所行とし、それに室町期の義経像が投影され、超人的な能力の持ち主として描かれている 。 ^ 武士や商人など素人出身の専業能役者。あるいはその者たちの演じる能 ^ a b 梅原猛、観世清和『能を読む④信光と世阿弥以後』角川学芸出版 2013年pp330-338 梅原猛、観世清和『能を読む④信光と世阿弥以後』角川学芸出版 2013年 銕仙会〜能と狂言〜 義経記 武蔵坊弁慶生誕伝説" ]
ABC01-02-0174
寿司屋で使う言葉で、「がり」は生姜のことですが、「むらさき」とは何のことでしょう?
醤油
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[ "醤油", "煮豆", "出汁", "味噌", "豆腐" ]
[ "醤油(しょうゆ、醬油)は、主に穀物を原料とし、醸造技術により発酵させて製造する液体調味料であり、日本料理における基本的な調味料の一つとなっている。現代日本における呼び名であるが、同様の調味料は別の呼び名で東アジアの民族料理にも広く使用されている。例えば現代の中国では酱油と書く。 以下、特記なき記述は日本について記したものとする。 独自の発展を経て明治時代の中期に完成を見た。大豆、小麦、塩を原料とし、麹菌、乳酸菌、酵母による複雑な発酵過程を経て生成され、その過程でアルコールやバニリン等の香気成分による香り、大豆由来のアミノ酸によるうまみ、同じく大豆由来のメチオノールによる消臭作用と、小麦由来の糖による甘みを持つ。なお、赤褐色の色調は、主にメイラード反応によるものである。 鉄分はコウジカビの生育に悪影響を与えるので鉄分の少ない水を使用する。鉄分が少ない方が色が薄く仕上がり、軟水の方が適する。 日本料理の調理において、煮物の味付けや汁物やタレのベースにするなど、広く利用され、天ぷら・江戸前寿司・蕎麦など、日本の食文化の基本となっている調味料である。また、ほとんどの場合は濃口醤油が用いられ、一般家庭でも醤油差しに入れられて食卓に出され、食堂や日本料理店などでも同様に普通にテーブルに置かれ、料理にかけたり少量を小皿に注ぎ・浸す、「つけ・かけ」用途に用いられる。主要な産地としては千葉県・兵庫県である。 表記そのものの文献上の初出は宋代の中国で、11世紀の北宋の詩人蘇軾の文書に出てくる。また、13世紀の南宋で1266年頃に書かれた林洪著の「山家清供」という料理書にも出てくる。 日本においての初出には諸説あり定かではないが、15世紀ごろから用例が現れる。文明6年(1474年)成立の古辞書『文明本節用集』(ぶんめいぼんせつようしゅう)に、「漿醤」に「シヤウユ」と読み仮名が振られているのが日本の文献上の初出[要検証 – ノート]である。上記「漿醤」から約100年後の『多聞院日記』永禄11年(1568年)10月25日の条に登場する。しかし『鹿苑日録』天文5年(1536年)6月27日条には「漿油」と表記されており、「シヤウユ」の漢字表記はこちらの方が古い可能性が高い。また、初期には「醤油」の「油」を漢音読みして「シヤウユウ」と発音されることもあった。 醤の当て字に正を用いて正油と書く事がある。 調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの「さしすせそ」では、「せ」にあたり、「せうゆ」と表記されているが、歴史的仮名遣では「しやうゆ」と書くのが正しい。ただし「せうゆ」という仮名遣も、いわゆる許容仮名遣として広く行われていた。 したじという別名もあり、これは吸い物の下地の意からで、むらさきという別名の語源は諸説あり、色から来た女房詞とも、江戸時代に筑波山麓で多産され、筑波山の雅称が紫峰(しほう)であったことからとも言われる。 英語のsoy sauce、soybean (大豆)に含まれる soy は、日本語「しょうゆ」がオランダ語経由で伝わったものである。 ルーツは諸説ある。 古代中国の醤(ひしお・ジャン)をルーツとする説で、「醤」は広義に「食品の塩漬け」のことを指す。 一方、日本における最古の歴史は弥生時代とされている。肉醤、魚醤、草醤であり、中国から伝わったものは唐醤と呼んだ。文献上で日本の「醤」の歴史をたどると、701年(大宝元年)の『大宝律令』には、醤を扱う「主醤」という官職名が見える。また923年(延長元年)公布の『延喜式』には大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。また『和名類聚抄』では、「醢」の項目にて「肉比志保」「之々比之保」(ししひしほ)についてふれており、「醤」の項目では豆を使って作る「豆醢」についても解説している。 「多聞院日記」の1576年の記事では固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当すると考えられている。 文献上に「たまり」が初出したのは1603年(慶長8年)に刊行された『日葡辞書』で、同書には「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」との記述がある。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述が同書に存在し、1548年(天文17年)成立の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている。 発祥・起源については各説あり、定かとはなっていない。 鎌倉時代の僧によって偶然できた説 メーカーのヤマサ醤油によれば、たまりの元となるものを作ったのは、鎌倉時代、紀州由良(現在の和歌山県日高郡)の興国寺の僧であった心地覚心(法燈円明国師)であり、覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型だとしている。 金山寺味噌を由来とする説 伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型とされる。ただし、この伝承を裏付ける史料は見つかっていない。 斉民要術発祥説 たまり醤油の歴史は中国大陸においては後漢代にまで遡る。特に500年代に記された『斉民要術』には現代の日本の味噌に似た豆醤の製造法と、その上澄み液から作る黒くて美味い液体「清醤」の製造法が詳細に記述されており、その製造法や用途から清醤が現代のたまり醤油の原型であると理解されている。たまり醤油が中国で普及していった過程において、その製造法が日本にも伝来したとする説である。 文献に登場しはじめた時代のたまり醤油は、原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴なわない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった。この製法によるたまり醤油は16世紀を描いた国内の文献に多く現れ、17世紀に江戸幕府が開かれると、人口の増加に伴い上方のたまり醤油が、清酒や油などとともに次々と江戸へ輸送されていく。 木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展したため、麹はこうじカビを蒸した原料に職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。こうじカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに「すみ醤油」という名前で現れている。18世紀になると、大量生産の時代に入っていく。 安土桃山時代から江戸時代になると、泉州堺産の物が名産として、全国に流通するようになる。日本国外への輸出は1647年(正保4年)にオランダ東インド会社によって開始された。この当時は樽詰めされた物が一般的だった。最初は東アジアへ、18世紀には欧州へ輸出された。伝承によればルイ14世の宮廷料理でも使われたという。フランスでの日本産醤油に関する記述は、『百科全書』(1765年)に現れる。当時の記録によると腐敗防止のために、一旦沸騰させて陶器に詰めて歴青で密封したという。用いられたビンは「コンプラ瓶」と呼ばれた陶器の瓶であり、多数が現存する。なお、「コンプラ瓶」が使用され始めたのは、1790年(寛政2年)からである。 「濃口醤油」と「淡口醤油」の違いは、色や香りの違いである。 江戸時代初期までは、日本での主流は色の濃いたまり醤油であり、主な産地は上記の湯浅に代表される近畿と讃岐(引田、小豆島)であった。しかし、たまり醤油は生産量が需要に追いつかなかった。 1640年代頃、寛永年間、巨大な人口を抱えて一大消費地となっていた 江戸近辺において、製造工程が改良された「こいくち醤油」が考案された。江戸は、材料となる行徳の塩、関東平野の穀物生産地、それを運ぶための水運など立地が恵まれており、特に下総国の野田が生産地として大きく発展し、今日に至る。 「うすくち醤油」は、1666年(寛文6年)に揖保郡龍野(現在の兵庫県たつの市)で円尾孫兵衛が醤油もろみに米を糖化させたものを混ぜることにより色の薄い醤油を創り出したのが最初と言われている。元々は龍野でのみ消費されていたが、18世紀半ばに京都への出荷が本格化した。 1781年(天明元年)には、玖珂郡柳井津(現在の山口県柳井市)の高田伝兵衛によって「甘露醤油」(「再仕込み醤油」「さしみ醤油」)が開発されている。 幕末の1864年(元治元年)、物価高に悩んだ幕府が市場に値下げ令を発した際、商品の品質保持を理由に銚子と野田の7銘柄は「最上醤油」の名称で従来価格で販売する許可を得た。 明治時代初期では醤油産業自体、手工業的要素が強かったが、1882年(明治15年)以降になり理科学的な手法の研究進歩に伴い、醸造技術及び企業形態の近代化が徐々に進んでいった。 生活必需品である事に目をつけた明治政府は「醤油税」を創設し、大正時代になるまで続いた。 明治時代の市販品は、まだまだ贅沢な調味料であり、一般家庭では依然として味噌由来のたまりなどが使われていた。富山県の農村(上市町)の例では、庶民は正月や祭礼時に1合 - 2合買う程度であり、村の店では醸造元から仕入れた3升の醤油を何か月もかけねば売れなかった。使用量が増えたのは大正時代に入ってからであり、一般家庭が一升買いをするようになったのは、昭和時代初期になってからだという。 ヨーロッパでの販売は貴族の没落と安価な中国産・東南アジア産に押され、さらに二度の世界大戦で販路を失い衰退した。 第一次世界大戦が由来する好況の影響で、1918年(大正7年)頃には設備の近代化に拍車をかけ、企業の合同も行われたことなどから、近代的な大量生産体制に移行していった。約12,000もの工場が、最盛期である大正初期には存在した。 第二次世界大戦前後に深刻化した食糧難に伴い、主原料の大豆が確保出来ずに製造自体が危機的状況に陥り、生産方針も質の向上より量の確保が先決であったため本醸造製法は僅かな量しか作られず、「アミノ酸醤油」がその代用品として主流の時代を迎えた。1940年(昭和15年)に統制物資の対象となり、1942年(昭和17年)には配給規制を受けた。終戦後、重要性を理解しなかった連合国軍最高司令官総司令部の効率良く製造できるとの指導を行ったとされた、大豆を酸で加水分解した液を利用する方法が導入された。 苦肉の策として戦後しばらくの間はこうした醤油造りが続いたが、1950年(昭和25年)、配給公団の廃止と価格統制の撤廃により、自由販売が認められたことで食糧事情の回復進展とともに、再び質の向上を目指した本醸造造りが復活し、以降アミノ分解法等の製法が用いられることはほとんどなくなった。 1963年(昭和38年)の日本農林規格(JAS)制定後、1968年(昭和43年)に1リットルパックが登場。1973年(昭和48年)以降、企業による日本国外の生産も盛んになった。 食事の欧米化と減塩志向に伴い、1980年代以降日本人1人当たりの消費量は減少傾向にある。一方、日本において醤油を原材料とした調味料、めんつゆやたれの需要・消費量が伸びていることから、出荷量の割合において1980年代に業務・加工用が家庭用を上回っており、世帯当たり支出金額では1990年代にめんつゆ・たれの購買額が醤油の購買額を上回っている。2000年代では、家事の負担軽減化を求める傾向や食に対して簡便性の高さを求める傾向からめんつゆやたれの普及が進み、料理の味付けにおいて醤油よりもめんつゆやたれを中心に使用する家庭が増加している。 輸出量は、日本人海外渡航者数の増加や日本国外における健康食としての日本食の流行などにより増加していった。こうした状況を受け、キッコーマンは1957年(昭和32年)にアメリカ合衆国に進出、製造工場を建設するなど、国際的な調味料として愛好されている。 千葉県はメーカーも多く、生産量は日本全体の約3分の1を占める。兵庫県がそれに次ぎ、上位2県で過半数を占めているが、中小のメーカーは日本各地に存在する。 長い歴史があり、各地で独自の風味や味わいを持つものが開発されてきた。1963年に制定された日本農林規格(JAS)では、本醸造、混合醸造、混合3つの製造方式による、製造方法、原料、特徴などから、「こいくち」「うすくち」「たまり」「さいしこみ」「しろ」の5種類に分類されている。そして醤油は「しようゆ」と表記されている。 たまり(溜り) 上述の通り、江戸時代中期までは主流であり、この当時は醤油と言えばこの溜り醤油のことで、とろりとしており旨味、風味、色ともに濃厚である。刺身につけたり、照焼きのタレなどに向く。味噌を絞ってその液体部分だけを抽出したもの。原料は大豆が中心で、小麦は使わないか使っても少量。つまり豆味噌を絞ったものが中心である。しかしながら現在では、製法としては普通の醤油(濃口醤油)と同じで、単に小麦を使わないか少量しか使わないものをたまりと称することも多い。豆味噌と同様に東海3県が主産地である。 こいくち(濃口) 現在、最も一般的なものであり、生産高の約8割を占め、通常「醤油」というとこれを指す。江戸時代中期の関東地方で発祥し、江戸料理の調味料として発達した。関東最古の醸造業であるヒゲタ醤油が、醤油(溜り醤油)の原料に小麦を配合するなどして改良し、現在のこいくち醤油の醸造法を確立したと云われている。特有の香りが高く、たまり醤油のように濃い色を持つ。全国的に最も一般的な醤油であり、食堂にある醤油は、まずこれと思ってよい。様々な料理の味付けに使われ、色付け・香り付けにも使われる。原料の大豆と小麦の比率は半々程度である。北海道から沖縄まで各地で生産されるが、関東地方における生産量が特に多い。特に有名な産地として、利根川の水運が利用できた千葉県の野田市や銚子市、最適な気候・風土の香川県小豆島がある。 うすくち(淡口) 汁物、煮物、かけうどんつゆなどの料理用に、特に近畿地方で多用される。近畿の料理は昆布出汁を多用し、昆布の風味が失われないよう香りの薄いものが求められた。また濃口醤油を使うと料理の色が黒くなる(うどん汁が大阪では薄色で、東京は濃く黒っぽくなるのは醤油の色の違いである)ので、素材の彩りを生かす京料理などに透明なものが好まれた。塩分濃度は濃口より1割ほど高い。濃口よりも原料の麦を浅く炒り、酒を加える。仕込み時には、麹の量を少なく、仕込み塩水の比率を高くする。圧搾前に甘酒を加えることもある。酸化して黒みが出ると価値が低いとされているために濃口醤油より賞味期限が短い。 さいしこみ(再仕込み) さしみ醤油・甘露醤油とも呼ばれる、風味、色ともに濃厚なもの。天明年間に周防国の柳井で考案されたと伝えられる。仕込工程にて、塩水のかわりに生醤油や醤油を用いて造る。一般的には淡口醤油の諸味が用いられる。刺身、寿司などに向く。 しろ(白醤油) 色は薄く、醤油というよりナンプラーのような淡い琥珀色をしている。味は淡泊ながら甘味が強いのが特徴である。茶碗蒸しや吸い物、うどんのつゆ、煮物などに向く。原料は大豆が少なく、あるいは全く使わず、小麦が中心である。つまり上述のたまりと逆と思えばよい。うすくちより淡い色の淡さが特に重要なため、淡口よりさらに賞味期限が短くなる。愛知県碧南市原産で、現在でも愛知県を主産地とするが、関東など他地域でも生産されている。 減塩しょうゆ・うす塩しょうゆ 塩分の割合を通常品より減らしたもの。減塩しょうゆは高血圧や心臓病、腎臓病などの人を対象に、厚生労働省の「特別用途食品」(低ナトリウム食品)に指定され、塩分は9%で通常品の半分程度。うす塩しょうゆの塩分は13%で通常品の8割程度。製造方法は、イオン交換法で通常品から塩分を除去する方法と、濃厚に造ったものを希釈する方法の2通りがある。製品のラベルを見れば、醸造酢または酸味料が添加されている製品が多いことがわかる。 昆布しょうゆ、刺身しょうゆ、だししょうゆ、土佐しょうゆ等 醤油を原料に、昆布だしやカツオだし、液糖やステビア等の甘味料を添加し、うまみを強化した液体調味料。公的な基準はないため、同じ名称が使われていてもメーカーごとに風合いは異なっている。減塩醤油、昆布醤油などをひとくくりにし、これらはしょうゆ加工品と表記され、単に醤油という表記は法令上できない。醤油としょうゆ加工品を区別するため、加工品はひらがな表記である。 新式醤油 醸造中醤油もろみにアミノ酸を加える方法や醤油粕に塩酸を加えソーダ灰で中和し麹を加え熟成させる方法や、タンパク質原料を塩酸で加水分解しソーダ灰で中和させ麹を入れて熟成させる方法などの製法がある。 生醤油 読み方により全く違うものであるので注意が必要である。 「きじょうゆ」と読む場合、だしやみりんなどで味付けしていない、純粋な醤油という意味で生(き)と称し、元々は料理業界の用語であった。JASの規定上は、この呼称を使用できるのは塩の添加までで、原材料名に大豆・小麦・食塩と表記のあるもの(いわゆる本醸造醤油)のみが使用できる。 「なましょうゆ、なまじょうゆ」と読む場合、製造工程の項に詳細は譲るが、もろみを搾ったのち、火入れをせず(この段階のものを特に「生揚醤油(きあげしょうゆ)」と呼ぶ)、ろ過により、もろみなどの微生物除去を行ったもの。香りや味も穏やか。加熱した際の香りの立ちが通常品より際立っているが、保管・流通に手間がかかるため、広く出回らなかった。 長い歴史の中で、地方ごとの食文化に適したものが好まれ、作られてきたため、地方ごとに物性面・官能面の傾向が異なる。このような地方性は、地方の食文化と密接に関連したものであり、歴史が関係している。 関東や東北をはじめとする東北日本では、もっぱら濃口醤油を使うことが多い。そのため、濃口醤油の品質に対する要求が厳しくなった結果、中間的な澄んだ色調で香り高く、旨味に富んだ濃口醤油が発達した。濃口醤油をベースとした蕎麦つゆや割下が、鍋物やつけ汁としてよく使われる。今日日本料理の代表とされる蕎麦、天ぷら、鰻の蒲焼、握り寿司は、濃口醤油が作り上げた、東日本発祥の食文化である。ダシは濃口醤油に負けないように「削り節」を多く使用する。 江戸は参勤交代や地方からの出稼ぎの人により、人と共に食文化の交流が多彩となっており、料理や店によっては薄口しょうゆも使用される。地域によっては秋田のしょっつる、伊豆諸島のくさや汁のような、魚醤を利用する文化がある。1770年頃から、「地回り醤油」と呼ばれる関東産濃口醤油が上方からの下りものを凌駕し醤油の代表となった。小麦の名産地が多く気候が良い事から常陸・下総・上総・相模で醸造が盛んとなり、銚子と野田には江戸時代初期に遡る老舗ブランドが多い。今でも関東地方は日本における生産量が最も多く、キッコーマン、ヤマサ醤油、ヒゲタ醤油、正田醤油など全国的によく知られたメーカーがある。 淡口醤油だけではなく、濃口醤油も多く使用する。煮物や吸い物の味付けには淡口醤油を用い、色を付けずまたコクが少ない醤油を使用して調味する事がある。 近畿地方および中国・四国地方 近畿地方は、煮物や吸い物用には淡口醤油または白醤油を用いて、食材の色と出汁の風合いを壊さないように調理することが良いとされる一方、刺身用をはじめとするつけ・かけ醤油については、濃口醤油(またはたまり醤油)が使われる。とりわけ煮物・吸い物用の淡口醤油の需要が高い。西日本に知られた淡口醤油中心の有名なメーカーとして、ヒガシマル醤油がある。 一方で、和歌山県では古くから濃口醤油が主流となっている。由良町の興国寺で発見された「たまり」と呼ばれる醢の抽出物が国産醤油の元祖と伝えられ、有田郡湯浅町や周辺市町村、御坊市を中心に醤油蔵が数多く見られ、現在も中小の醤油蔵が県内に20数軒点在する。この和歌山の濃口醤油の技法が、銚子や野田などの一大産地に伝えられた(ヤマサ醤油創業者の濱口儀兵衛は和歌山県有田郡広川町の出身である、また関東最古の醤油醸造業といわれるヒゲタ醤油は、1616年(江戸開府13年後)、下総の国・銚子の豪農、第三代田中玄蕃が、摂津の国・西宮(現 兵庫県西宮市)の酒造家、真宜九郎右衛門の勧めで、銚子で醸造を始めたのが創業)。 濃尾地方 愛知県や岐阜県までは、一般家庭で醤油を使い分ける地域の東限と言われる。この地方を特徴付けるのは濃厚な味わいを持つ「たまり醤油」(たまり)であり、豆味噌文化と深い関係がある。他方、前述の碧南市のように白醤油の生産が多い地域もある。このことから、煮物・吸い物用を含む一般的用途に、関東風の濃口醤油を用い、刺身などのかけ・つけ醤油としてたまり醤油を用いる家庭と、煮物・吸い物用には特に白醤油を用い、その他の用途には広くたまり醤油を用いる家庭がある。濃厚な味わいを好むところから、一般向けには、みりんが添加されていることもある。ヤマシン醤油、イチビキ、サンビシ、盛田、サンジルシ醸造、日東醸造、ヤマミ醸造、七福醸造などのメーカーがある。 北陸地方 北陸も、東北日本と比べれば旨みの強い濃厚な味わいを、近畿以西と比べると塩分の強い濃い味を好む傾向がある。この要求を満たすために混合醸造方式の比率が高く、九州ほどではないが甘みの強いものが多く出回っている。例えば、直源醤油、ヤマト醤油味噌など複数の醤油会社が集まる金沢市海岸部の大野醤油(大野紫)は、「甘口」と書いて「うまくち」を読む味わいを売り物にしており、醤油蔵に観光客も誘致している。他方、濃口醤油の色は必ずしも濃くない(関東の濃口と近畿の淡口の中間といえる)。他方、上方の影響から淡口醤油も使用される。上記以外では飯田醤油、富士菊醤油、室次といったメーカーがある。 この地域では、他の地域と異なる利用文化が見られる。 九州地方(山口県を含む) 九州では、長崎貿易で砂糖が比較的豊富に手に入った伝統から甘味を求める傾向が強い。このため北陸と同様に混合醸造方式の比率が高いが、糖分やうまみ成分などは北陸のものに比べ多めに添加されており、甘みが一層引き立っている。なお、九州ではこれらの製法で作られた醤油を「うまくち」と称している。また濃口醤油でも、九州では色や香りに濃厚な風合いが好まれる傾向にあることから関東のものに比べて色が黒く、香りも関東の濃口と比較して「鼻にツンと来ない」と評されるほど弱いのが特徴である。さらに甘みやうまみを多く添加したどろっとした風合いの「さしみ醤油」も使用される(特に脂が多い刺身への「のり」が良い)。フンドーキン醤油やニビシ醤油、富士甚醤油、フンドーダイ、チョーコー醤油、ホシサンなどのメーカーがある。 沖縄地方 沖縄では、古来、うま味を得るためには昆布と魚や豚の出汁を利用することが多く、調味料は味噌や塩が主流で、醤油はかつて高級品扱いであり、戦後の食文化の変化に伴い、一般的に用いられるようになった。 沖縄で販売されているものはキッコーマンやヤマサ醤油等、他県産のものが多いが、県内にも赤マルソウなど、小規模メーカーはある。材料にシークヮーサーを用いた醤油も、沖縄では知られた調味料の一つとなっている。 大豆以外の食材を発酵させた醤油に近い見かけ・用法の調味料が日本の国内外にある。伝統食品として古来作られてきたもの(前述の「起源」参照)以外に、醤油とは違った味やコクを持つ商品として復活・開発する企業もある。比較的有名なのは魚醤で、このほかに大豆以外の穀物から作る穀醤、椎茸などキノコ・野菜から作る草醤、肉醤などがある。一例として、まるはら(大分県日田市)は『和名類聚抄』を参考に大豆以外を原料とした調味料を4種類をブレンドした商品を販売している。 健康食として日本食が世界各地で好まれるようになってから、日本の製品が世界各地で手に入れることができるようになった。現在発展途上国を中心に100か国以上の国に輸出されており、生産は年14万キロリットルにも達する。大手メーカーでは現地生産も行っている。 アジアの他の国々にも醤油に似た調味料が存在する。英語では産地や種類にかかわらず \"Soy sauce\" と呼ばれている。 醤油(中国) 中国大陸においては大豆由来の醤は既に前漢代の遺跡から出土しており、後漢代になると文献上にも現れるようになる。北魏代6世紀の文献には「豆醤」「清醤」についての製法が残されており、11世紀の宋代の文献には「醤油[jiàngyóu]」の表記も見られるようになる。また、たまり醤油の利用も既に後漢代には行われていたが、その利用は極めて限られた段階にあり、その利用が一般化したのは明代に入ってからとされる。日本の中華料理レシピ本では単に「しょうゆ」とのみ記述され、日本の醤油で代用する場合がほとんどである。中国料理における醤油の用途は、香りや味より色づけに重点を置いているため、色調は濃い。カラメルなどを加え、どろっとしてマイルドな「老抽」、塩が立って色が淡めの「生抽」がある。 もともと地域に根差した調味料の一つであり、中国国内の製造メーカーは無数に存在してきたが、2010年代においては李錦記などの大手メーカーも進出しており販売競争は激化。一部には食品偽装レベルの品質の醤油も出回っており、問題となったことがある。 蔭油(台湾) 醤油は原材料に大豆のほか小麦や塩を加えているが、日本統治時代より前の台湾では「蔭油」が製造されていた。蔭油は黒豆など原材料の豆に塩をまぜて自然発酵させたもので、小麦やもろみは使用しない。台湾の蔭油は閩南地方(中国福建省南部)伝統のものだが、現在は台湾の一部でつくられているものの、台湾でも中国大陸でもこの製法をほとんど行わなくなった。 カンジャン(韓国) 韓国では「カンジャン」(간장、塩辛い醤の意)と呼ばれるものがある。これも日本のものと比較して色調が黒めで、主に他の調味料とブレンドし、ヤンニョムとして利用することが多い。また、日本と同様に刺身に「つけ・かけ」用途でも用いる。伝統的な製法としてのカンジャンはチョソンカンジャン(朝鮮カンジャン)・チェレシッカンジャン(従来式カンジャン)と呼ばれ、主に家庭でメジュ(味噌玉)を発酵させることで液体部分がカンジャン、固体部分をテンジャンとして利用していた。現代のカンジャン製品に関しては朝鮮半島に導入された日本式の製法とみられるウェカンジャン(倭醤油)・ケリャンカンジャン(改良醤油)が多くを占めている。売上高としてはジンカンジャン(陣カンジャン、ホナプカンジャン(混合醤油)とも)、が最も多く、ヤンジョカンジャン(醸造醤油)、スープ用であるクッカンジャン(汁カンジャン、伝統的製法で作られている)が続く。 ケチャップマニスとケチャップアシン(インドネシア/マレーシア) インドネシアやマレーシアでも、歴史的に大豆を原料とした液体調味料が使われている。代表的なものとして「ケチャップマニス」(Kecap manis, manis=「甘い」)、「ケチャップアシン」(Kecap asin, asin=「塩辛い」)が用いられている。ケチャップマニスは、物性的には、色調が黒く、甘辛くどろっとした調味料である。ケチャップアシンは、比較的色が薄く、塩が立つさっぱりした調味料である。 シーユー(タイ) タイでは一般的に魚醤である「ナンプラー」がよく使われているが、大豆から作られた「シーユー」も、炒め物の味付けなどに使われる。甘味がある「シーユー・ダム」と、辛口の「シーユー・カオ」が一般的。 ショーユ(ハワイ) かつて日本人が多く移民し、現在も日系人が多数在住しているハワイでも独自のものが生産されている。日本の醤油の系統に属する味ではあるが、大豆の風味が薄くさらっとした塩味になっている点が特徴である。メーカーとして1946年創業のアロハ醤油がある。 シジャウ(ペルー) ペルーにおいても日系人が多数在住しており、日本のものを模した醤油が作られている。カラメルにより色がつけられており、日本の醤油と比べるとドロッとした調味料である。ペルー大手の醤油メーカーとして1957年創業のキッコー社がある。(日本のキッコーマンの商標に類似しているが、直接の関係はない。) 現在、国内で生産されているものの大半が本醸造であり、またこの濃口醤油が大半を占める。「本醸造」の条件は、大豆、麦、米等の穀物を蒸煮し、麹菌を用いて作成した麹に、塩水または生揚げを混合して発酵・熟成させたものを指す。麹に、蒸した米や甘酒を添加したり、分解を促進するための、セルラーゼ等の酵素を添加することも許されている。ただしプロテアーゼを除く。JAS特級の条件には「本醸造であること」という項目も含まれているため、特級醤油であれば常に本醸造醤油である。 以下に近代的な製造工程の例を示す。 原料工程 大豆(または脱脂加工大豆)は浸水し、膨潤したところで圧力をかけて蒸煮する。小麦は焙煎し、割砕して荒い粉末状にする。加熱条件には留意する。これは、生の大豆タンパク質が最終工程に残ると製品(加熱時)の濁りにつながり、小麦の生デンプンは、一般的な醤油酵母は資化できないためである。 製造工程 製麹(せいきく)工程: 蒸煮大豆と割砕小麦を約1:1で混合したものに種麹を加えて混ぜ、高湿度下で3 - 4日程度培養を行い醤油麹を作る。麹菌には、主にショウユコウジカビが用いられ、ニホンコウジカビが使用されることもある。 仕込工程(前期): 醤油麹に塩水を加え、麹の塊を崩して混合しながら醸造タンク(または、木桶)に移送することを「仕込工程」と呼び、麹と塩水の混合物をもろみと呼ぶ。麹由来の酵素により蛋白質はアミノ酸に、デンプン質は糖に分解される。 仕込工程(中期): もろみ内にて微生物による発酵が起きる。まずは乳酸菌(Tetragenococcus halophilus)により乳酸が作られもろみ全体が酸性に傾く。次に、耐塩性酵母(Zygosaccharomyces rouxii)により、アルコール発酵が起きる。香りの成分の多くはこの工程で発生する。 仕込工程(後期): 「後熟工程」とも呼ばれ、香り・味を熟成させる工程。活発な発酵は行われず、アミノグリコシド反応等の、比較的静かな反応が続く。この時期にはCandida属酵母による香気成分の生成が行われる。淡口醤油の場合、仕込工程の末期に甘酒や米麹を添加することがある。 圧搾工程: ナイロン等丈夫な素材で作られた「圧搾布」にもろみを包んで加重し、固体と液体を分離する。液体が「生醤油」、固体が「醤油粕」である。この際、主に大豆由来の油脂が分離して液面に浮かぶ。これを「醤油油(しょうゆあぶら)」と呼ぶ。醤油油は微生物による分解や酸化のため、食用油脂としての利用はできない。また、醤油粕も利用価値が低いことから、メーカーは処分に苦慮することが多い。 火入工程: 圧搾工程で得られた生醤油には、醸造工程で含まれた各種酵素などのタンパク質が多く含まれている。これを加熱すると、タンパク質は熱変性して不溶化し、沈殿する。また、製品に焦げた臭い(焦げ香)をつけ、微生物を殺す。一般的にはプレートヒーター等を用い、熱がかかりすぎないように留意する。熱履歴が高い場合は製品の色が黒色を呈し、焦げ香が強くなりすぎることになる。 清澄・濾過工程: 沈殿除去、珪藻土濾過や精密濾過などを用い、含まれる変性タンパク質など不溶性固形分を除去する。完成品の濁りは品質的には製品事故となる。ここで生醤油は、「火入醤油」と、沈殿分・濾過除去された分の「オリ」に分けられる。 詰工程: 火入醤油に適切な成分調整を加え、容器に詰めて製品とする。 原料としての大豆 「脱脂加工大豆」が多く用いられ、醸造用加工大豆と呼ばれることもあるが、一般的には大豆を原料にヘキサンを溶剤として油脂製造を行った際の副生産物(油粕)である。残留ヘキサンの毒性は神経毒であるが、神経がない微生物による醤油醸造には影響がない。ヘキサンは油脂製造企業にとっては原価の一部であり、適切に回収されている。製品の一括表示内に原材料「大豆」と表示されているものは、無加工の大豆である丸大豆を使用していることを表し、脱脂加工大豆が使用されている場合は「脱脂加工大豆」と表示される。原料に丸大豆を使用する場合、仕込工程の説明のように、丸大豆には未処理の油脂が大量に含まれているため、これらの油分は仕込工程中に分離して、もろみの上に浮かんで油脂の層を作る。 丸大豆醤油を支持する製造者は、 「油脂の層によりもろみの酸化が防げる」 「油脂から分解されたグリセリンが風合いを変える」 等の主張がある。一方、分析および官能試験では有意な差がないという意見もあり「丸大豆だから美味しい」とは一概に言えず、議論が発生する。 酵素添加による速醸法 仕込工程初期に酵素剤を添加することで醸造期間を短縮する技術がある。しかし、この場合は醤油業中央公正取引協議会の業界基準により、製品表示に「天然」「生」等の用語を利用することができない。 混合醸造方式、混合方式ともに、塩酸で原料処理を行い、水酸化ナトリウムで中和して得られたアミノ酸液を利用している。2004年(平成16年)のJAS(日本農林規格)の改正に伴い、旧名「新式醸造」のうち混合先がもろみのものが「混合醸造方式」となり、混合先がもろみではなく生揚げ醤油なものと旧名「アミノ酸添加法」が「混合方式」と変更された。現在の醤油生産は、本醸造がその多くを占めるが、アミノ酸液には独特の香りと味があり、特にそれが好まれる地域において混合醸造・混合方式も残っている。 混合醸造方式 原料に塩酸を添加すると加水分解してアミノ酸液が得られる。これを水酸化ナトリウムで中和し、もろみとともに仕込み熟成を経る方法を「混合醸造」と呼ぶ。 混合方式 生揚げ醤油(もろみを絞った液)に、アミノ酸液を混合して製品とする手法。熟成の有無は問わない。 保存料 一般的に、防黴効果の高い安息香酸ナトリウムまたはパラオキシ安息香酸ナトリウムを使用する。高付加価値商品では安息香酸を添加しない製品もある。 アルコール 保存料として安息香酸を利用しない場合、アルコールの防黴作用を利用することがある。アルコールを添加して防黴作用を持たせる場合は、安息香酸を添加した場合と比較し、品質保持期間は短くなる傾向にある。 甘味料 一般的に、甘草、ステビア、果糖ブドウ糖液糖、サッカリン等が使用される。塩の辛さをやわらげ、マイルドな味わいとなる。 カラメル色素 黒色を呈色させる場合に添加する。また、独特の甘さと香りも追加される。 調味料(アミノ酸等) グルタミン酸ナトリウム、核酸系調味料を添加して、うまみを強化する場合がある。 かい棒 醤油や酒などを作る際、樽内をかき混ぜるために使用する棒のことを指す。 ガラス瓶、ペットボトル容器、タレ瓶(主に弁当用の小型プラスチック容器)、プラスチック製パック(主に弁当用)などの形で販売されている。卓上用の製品の場合、容器がそのまま卓上用の醤油入れとして用いることができるようになっているものもある。 少量のアルコールと塩分を多く含む発酵食品であるために、冷暗所において品質の劣化は遅い。ただし開封後は、極力酸素を避けて密封し、冷蔵保存することが望ましい。酸素存在下で放置すると、揮発性成分が揮発して香りが減少するほか、特に防黴剤として安息香酸が含まれない場合は、液面に酵母(産膜酵母)が白く膜状に繁殖することがある。そのため醤油側に空気が入らなくても注げる容器がワインのBag-In-Box(略してBIB)を応用して商品化されている。 このような産膜酵母の実態は、醤油の主発酵酵母と同種のZygosaccharomyces rouxiiであり、いわゆる「醤油に生えるカビ」である。害は無いが香りは悪くなり、糖を消費するため味も劣化する。さらに、酸化によりメイラード反応が進み、色は黒くなる。なお、醸造期間にも劣化は平行して進行するため、単純に「長期醸造」が高品質というわけではない。 日本国内の醤油メーカーは、大正時代には1万社以上、1980年代には2000社以上存在したが、年々減少傾向であり、1990年代に2000社を切り、2000年代中盤では約1500 - 1600社程度となっている。 これは、価格が低迷している上、大手メーカーの地方進出に加え、副製産物の廃棄コストや設備の維持費高騰のため、地方の零細・小規模メーカーが廃業を続けているためである。 商品としてはコモディティ化が進んでおり、他の食品と比較して利益は一般的に低い。その一方で、年々、衛生面での要求は厳しくなり、廃棄物に対する規制は強くなっている。特に、エネルギーコストが必要な製麹工程、人的・場所的コストが必要で、醤油油や醤油粕などの廃棄コストが必要な仕込工程を省略し、全工程を独力で行わない製造者が増加している。製麹工程までを外部に依存するケース、仕込工程までを行わずに大手生産者より生醤油を購入し、火入・詰工程を行うケース、OEMやスーパー・生協などのプライベートブランドとして大手製造者に発注するケースがある。また、協業組合として複数の生産者が、製麹・仕込工程までを行う工場を作るケースもある。地方の中小メーカーの存在は、地域の食文化に密接に関係するもののため、文化保全の意味も含めて、「残って欲しい」と惜しまれている。 都道府県別では、キッコーマン(野田市)、ヤマサ、ヒゲタ(いずれも銚子市)等の大手が存在する千葉県が34%、ヒガシマル(たつの市)が存在する兵庫県が16%と上位2県で過半数を占めているが、日本各地に中小メーカーが存在する。なお、現存する最も古いメーカーは、室次(福井県福井市)である。 メーカーの名称は縁起の良い「亀甲(きっこう)」に由来する「キッコー○○」、醤油・味噌が寺院で造られていたことにちなむ「ヤマ○○」の商標名が各地に多い。 品質は「色」「香り」「味」で評価される。高品質の製造をするためには高い醸造技術・醸造管理・衛生管理・保存管理が必要となる。 色 熟成の期間や温度経過によって異なり、無色に近い淡褐色から、黒に近い暗赤褐色まで存在する。アミノ酸と糖に富むため、酸化や加熱、成分の揮発のほか、メイラード反応が進むことで産生されるメラノイジンにより色は濃くなる傾向にある。 一般的には淡色で赤い色調のものが良いとされ、製造/管理的に高度な技術が必要だが、地方性により、特に濃口醤油においてはむしろ色が濃いものが好まれる場合もある。 香り 鼻で匂いをかぐときに感じる「トップノート」と、口に含んでから感じる「フレーバー」がある。香気成分の多くはアルコールをはじめとする酵母の発酵生産物であり、メイラード反応から、ストレッカー分解を経て産出される有機化合物、加熱工程にて産生される焦げ香も、特徴付ける重要な要素である。 長期間保存すると酸化が進み、n-酪酸(ノルマル酪酸)、イソ酪酸、イソ吉草酸などの「劣化臭」といわれる臭いがつくこともある。また、製造工程における衛生管理の問題により、Bacillus属細菌などによる腐敗臭や、味噌のような臭いがつくこともある。 味 塩辛さ、うまみ、甘みを強く持つ。塩辛さは原料の塩から、うまみは主にアミノ酸、甘みは糖による。アミノ酸は、麹により産生されたプロテアーゼやアミラーゼ等の酵素によって大豆由来のタンパク質が分解されたもの、糖は同じく小麦由来のデンプンが分解されたものである。 「きき味」により、主に色・香り・味が評価される。「色は淡色で赤みがある色調で、かつ香り高く、味が良い」ものが良質とされる。 花のような甘い香りや爽やかに鼻に抜ける香が一般的に良しとされるが、製品によっては生乾きの雑巾のような臭い、汗のような臭いなど「悪い香」を呈するものもある。また、「麹の香」「味噌の香」「アルコールの臭」などの香りが加わっているものもある。 「よい香」とされる香も強すぎると問題となるため、それらのバランスにおいて製造者ごとに特徴が出る。 JAS(日本農林規格)では、品質基準に、含有する窒素分、無塩可溶性固形分(エキス分)、アルコールの量に従って格付けされている。 その中でもっとも重要とされるのが、「うま味」の指標となる全窒素分である。 「標準」(濃口: 1.2%以上、淡口: 0.95%) 「上級」(濃口: 1.35%以上、淡口: 1.05%) 「特級」(濃口: 1.5%以上、淡口: 1.15%) また、JASの他に日本醤油協会が定めている基準がある。 「特選」: 特級の10%増し(濃口: 1.65%、淡口: 1.265%) 「超特選」: 特級の20%増し(濃口: 1.8%、淡口: 1.38%) また、醤油業中央公正取引協議会が定めるものとして、以下の表示を利用することができる。 上級醤油は「上選」、「吟醸」、「優選」、「優良」 特級醤油は「特吟」や「特製」 日本醤油協会で言うところの「超特選」(特級の1.2倍)の場合、「濃厚」 カビの中で、麹を作る際に用いられる菌が麹菌である。ニホンコウジカビ(Aspergillus oryzae)および、ショウユコウジカビ(Aspergillus sojae)は、ともに醤油醸造に用いられている。 仕込中期にアルコール発酵を行う酵母を「主発酵酵母」と呼ぶ。過去、主発酵酵母は耐塩性のサッカロミセス属と分類されていたが、現在はジゴサッカロミセス・ルーキシー(Zygosaccharomyces rouxii) と分類されている。古くなった醤油に生える白いカビも同種のもの。また、仕込後期に穏やかに香気成分を生産する酵母を「後熟酵母」と呼ぶ。Candida versatilis等、主にカンジダ属の酵母である。 過去、Pediococcus属の乳酸菌と考えられており、Pediococcus halophilusやPediococcus sojaeと分類されていたが、DNA相同性による分類の結果、アンチョビやキムチから分離された耐塩性乳酸菌と同種であることが判明し、現在ではTetragenococcus halophilusと分類されている。また、塩分を減少させた減塩醤油では耐塩性乳酸菌が増殖しやすく、耐塩性乳酸菌による\"腐敗\"が生じる事がある。 日本の料理には欠かせない調味料であるが、江戸時代における濃口醤油の発明はその後の日本料理の発展において重要な役割を果たした。握り寿司、蕎麦、蒲焼、天ぷらといった江戸で生まれた料理は濃口醤油の誕生なくしては存在していなかったと言っても過言ではない。今日の日本料理の代表となっている多くの江戸料理は濃口醤油と密接に関係している。江戸時代の料理書である『料理早指南』には、味噌汁や澄まし汁の味を引き立てるためにたまりを少し差すとの解説がある。これを「影を落とす」と表現するとされ、すでにうま味を与える調味料としての醤油の性格が認識されていることが理解される。 人の髪の毛から作られている 日本では、大正時代から昭和初期と太平洋戦争終戦から数年間にかけ、物資不足解消のため、様々な原料から食品を製造する試みが行われていた。醤油原料としても様々な原料が検討され、それぞれ長所・短所がある独特の製品が作られた。これを代用醤油と呼ぶ。原料としては、魚介類や海藻、カイコの蛹、鯨ひげなどが用いられた。製造法の代表的なものとして、タンパク質原料を加水分解したものを中和したアミノ酸液を得るものである。また、廃毛髪や、牛の血液を用いたという俗説[要検証 – ノート]もある。 2017年7月現在の日本でも、都市伝説として、醤油の原料に人毛由来のアミノ酸が使われているという噂があるが、[要出典]2017年7月現在ではキャリーオーバーを除きJAS法や品質表示基準によって植物性たん白質の使用しか認められておらず、髪の毛のような動物性たん白質の使用は禁止されている。また、2017年7月現在の日本において、法的には毛髪由来のアミノ酸を原料とした場合、それを「しょうゆ」と呼ぶことはできない。コスト面においては、毛髪収集に必要なコストは大半が人件費であり、脱脂加工大豆の購入価格がそれよりも大幅に安いため、毛髪からアミノ酸を生産するのは非経済的である。また、味も非常に悪いため、素人が興味本位で作ることはあっても、一般に出回ることはまず考えられない。なお、中国では一部業者によりアミノ酸の基準量を満たす目的で人毛由来のアミノ酸を添加した醤油が製造されているとの報道が2004年1月にあったため、中国政府によって人毛を原料とする醤油の製造が禁じられた。[要出典] 飲めば兵隊に取られない かつて徴兵制度が実施されていた時代に、検査の前日に大量の醤油を飲むことによって体調を崩し不合格となるといったことが、兵役を逃れる目的で実際に行われていたとされる。醤油は高濃度の塩分を含む液体のため、一時に大量を摂取すれば腎機能や肝機能の検査値に異常をきたすことは確実だが、こうした無茶な行為によって不可逆的な疾病を患ったり、急性症状によって死に至る例もあったと伝えられている。徴兵制度導入初期には免役率が80%以上と高く、徴兵される場合のほうが不運と考えられたため、このような徴兵逃れ行為が横行したが、その後の改訂で国民皆兵が義務づけられ免役率が下がると、むしろ免役されるほうが不名誉と考えられるようになり、徴兵逃れ行為は下火となった。 醤油を使うとガンになる 昭和40年代に広まっていた俗説。はっきりとした根拠は不明だが、麹菌がアフラトキシンを生産する、という噂が一人歩きしたものに、「大量に醤油を摂取した場合には塩分の過剰摂取による体調不良が起きる」ことが付与されて作られた俗説と考えられる。 大手メーカーは2週間で醤油を作っている 本醸造醤油の場合は、混合醸造方式・混合方式を利用することができないため、理論的に2週間では不可能と言ってよい。仕込み開始から2週間、比較的高温で推移させた場合は、麹菌の酵素により諸味は一応液化するが、微生物による発酵過程を経ないため、香りは立たず、色は黒く、歩留まりは悪くなると思われる[要出典]。また、先に挙げた酵素添加による速醸法を用いることで、1か月程度に醸造期間を短縮することができる。しかし醤油醸造は酵素反応で原料が分解されれば終了という単純なものではなく、広く使われてはいない。農林水産省のホームページによると、日本生産の8割を占める本醸造醤油は寝かせる期間だけでも6か月 - 8か月である。 英語のSoyの語源は薩摩弁である 幕末期に薩摩藩が輸出していたこと、薩英戦争後にイギリスと急接近したこと、1867年にパリ万博に出展したことなどから、英語のsoyの語源は当時の薩摩弁で醤油を指す「そい」であるという俗説がある。しかし1688年にはすでにカリブの海賊のウィリアム・ダンピアが太平洋を航海した時の記録にsoyという単語が使われている。また、パリ万博で賞を取ったのは、幕府側代表だった水戸藩の領内で作られたものである。 湯浅 - 重要伝統的建造物群保存地区。 醤油資料館、麹資料館 醤の郷 - 香川県小豆郡小豆島町に所在する、近代以前の醤油蔵建築が日本で最も集積する地域 マルキン醤油記念館 うすくち龍野醤油資料館 ものしりしょうゆ館 - キッコーマンが野田工場内に開設 ^ 日本酒の「水」を理解する:灘の男酒と伏見の女酒 ^ 龍野の醤油について ^ a b 中国における醤油の歴史と日本への伝来 日中の食文化形成に関する学際的研究― 食文化の生成・伝来・融合化を中心として 人文科学、社会科学に関する学際研究への助成 サントリー文化財団 下渡 敏治 http://www.suntory.co.jp/sfnd/research/detail/200717.html http://www.suntory.co.jp/sfnd/ssi/img/0000022000/0000021775/img.pdf 苏轼《格物粗谈·韵藉》:“金笺及扇面误字,以釅醋或酱油用新笔蘸洗,或灯心揩之即去。” http://www.zdic.net/c/d/18/39574.htm ^ 多聞院日記 巻12-巻23 (三教書院 1939)(近代デジタルライブラリー) ^ 山科言継『言継卿記』永禄2年(1559年)条や1638年成立の『毛吹草』等。 ^ a b ヤマサしょうゆ博士 - しょうゆの歴史 - しょうゆのルーツは「醤(ひしお)」 ^ Oxford Dictionaries ^ 万能調味料しょうゆの歴史| しょうゆ情報センター。 ^ 紀元前8世紀頃の『周礼』で、「醤」という漢字が初めて使われた。 ^ 味噌の醸造技術 中野政弘編著 ^ 豊浜水産物加工業協同組合 ^ 河野酢味噌製造工場 ^ 『日本の味 醤油の歴史』吉川弘文館 ^ ヤマサしょうゆ博士 - しょうゆの歴史 - しょうゆの誕生 ^ 万能調味料 しょうゆの歴史 しょうゆ情報センター(醤油PR協議会)、『味噌・醤油入門』海老根英雄・千葉秀雄 ^ a b 川田正夫 『日本の醤油』 三水社、1991年。ISBN 978-4915607530。 ^ “―醤から醤油へ―しょうゆ発達小史”. 2015年1月25日閲覧。 ^ 松江重頼の『毛吹草』、巻4の諸国の名産「和泉」の項に「酒、醤油溜…」と記載。 ^ 植物学者ツンベルクの『日本紀行』の中に記載。 ^ キッコーマン 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魚醤 - 肉醤 - 草醤 - 穀醤 味噌 もろみ 醸造業 代用醤油 - 人毛醤油 しょうゆ品質表示基準 (PDF) しょうゆ情報センター(醤油PR協議会) しょうゆの歴史(キッコーマン株式会社) THE MAKING (91) しょう油ができるまで", "煮豆(にまめ)は、ダイズやアズキ、エンドウマメなどの乾燥豆を水でもどし、甘い味付けでやわらかく煮た煮物料理のひとつ。 乾燥した豆を事前に十分に水に漬けてもどし、弱火でゆっくり煮る。途中で砂糖などの調味料を加えて、味を豆の芯まで含ませる。 豆の種類や調味料などの違いで、うぐいす豆、富貴豆、ぶどう豆、五目豆など、様々な種類がある。 卓袱料理では、十六寸豆(とろくすんまめ。一般的には白いんげん。大福豆とも)や黒豆を用いた煮豆が小菜として出される。 昆布豆のように、(甘口であっても)刻んだ昆布や根菜も入れ、味付けに醤油などを用いた、甘くない煮豆も存在する。 ベイクドビーンズやカスレなど欧米の豆の煮込み料理は、日本の煮豆とは全く異なるものの「煮豆」と訳される事がある。 黒豆 お煮しめ - 地域・家庭によっては豆類を加えることがあり、(豆の量が多い場合には)煮豆と称する事もある。", "出汁(だし)は、昆布や鰹節などの食品を煮て出した汁。「煮出汁」(にだしじる)の略で、「出し汁」(だしじる)、「にだし」ともいう。 料理に、甘・酸・苦・鹹の味覚のほか、肉や野菜、キノコや海藻から抽出したうま味を加えるために用いられる。うま味成分であるアミノ酸や核酸、栄養を含み、また香りをも与える。 食文化によって各種存在するが、だしの材料としてグルタミン酸、イノシン酸やグアニル酸などの呈味性ヌクレオチドを含む食材が利用されている。またこれらを粉末等にした製品もある。西洋料理や中華料理の汁物(スープ)に使われる湯やブイヨンなども「洋風だし」や「中華だし」などと呼ばれることがあり、これらに対して特に日本料理のだしを呼ぶときは「和風だし」と呼ばれる。 日本料理においてだしは味の基礎となっている。代表的なものは、鰹節とコンブである。他にもシイタケや野菜、魚の粗や煮干しなど様々なだしがある。野菜のおかずで米飯を食べることが主体の、日本を中心とした東アジアの米食地帯にあっては、それ自体のうま味の少ない野菜にそれを補う必要が生じ、穀醤や魚醤を経て美味しさのエキスである出汁の文化が発展した経緯がある。こうした素地があったため、うま味調味料の東南アジアなどへの迅速な浸透は当然のことと受け取られている。 西洋料理では本来、だしには牛・鶏・魚・野菜・香草などを用い、日本のように鰹節や昆布を使うことは無かったが、近年は日本料理の影響を大きく受けたことで、鰹節や昆布のだしを使ったフレンチやイタリアンが普通に見られるようになっている。 江戸時代前期(1643年)に発行された『料理物語』に「だしはかつお」、1777年『倭訓栞』(谷川士清)には「垂汁または煮出」と「タレ」と「ダシ」が書かれている。現在は出汁と書いてだしと読む表記やだし汁という表記がみられる。 グルタミン酸のコンブと、イノシン酸の削り節などの魚介類やグアニル酸の椎茸などを単品、または組み合わて出汁をとる(「出汁を引く」とも言う)。煮たり、乾物を水に長時間浸したりして、出汁成分を抽出する。明治時代以降は西洋・中国料理の影響もあって肉類など食材の幅が広がり、鶏肉やスッポン、ウミガメ、豚骨・牛骨などが使われることもある。鍋料理では、出汁を入れて煮た各種の具材からも出汁が出て味を深め、最後は米飯や麺類を入れて食べる、いわゆる「〆(しめ)」づくりに使われる。 家庭での和風出汁づくりは手間がかかるため、食品メーカーは簡単に煮出せる出汁入りバッグや、顆粒・粉末・液状のインスタント出汁を販売している。食品メーカーや外食産業や食品メーカーでは素材や抽出方法に独自の工夫をした出汁を使うことが多い。特に飲食店では、そのレシピを秘密にする料理人が珍しくない。 精進料理ではコンブ、椎茸の他に、大豆、モヤシ、六条豆腐(塩蔵した乾燥豆腐)なども用いられる。 だしは麺類や、おでんなどの鍋料理や煮物など様々に用いられる。また、和え物の味付けに利用したり、酢などを割って二杯酢など別の調味料としたり、一夜漬けなどの調味に使用する事がある。西日本において「だし」と表記する場合は、うどん用のつゆそのものを指すことがあるが、料亭などでは「だし」と「つゆ」を正しく使い分けており、料理に詳しくない者が誤用したものが広がった呼び方である。また讃岐うどんで知られる香川県では、つゆの作成のために、だしを醤油に抽出させただし醤油が置かれる。 だしを取った後の昆布、鰹節といっただしがらも、醤油等で味を付け、佃煮やふりかけなどに利用されることがある。 日本国外においても、日本風のだしを素材の持ち味を引き出す隠し味として西洋料理に応用する試みが行われている。 日本料理では吸物に用いる一番だしや、下味を付けたり汁物に用いる二番だしなど用途によってだしを使い分ける。 だしには以下のようなものがある。 あわせだし - 複数の食品からとっただし。特に昆布と鰹節のあわせだしが使われる。 一番だし - 主に吸物に用いる。鍋に水2リットルと昆布20グラムを入れて煮て、沸騰直前に昆布を取り出す。鰹節30グラムを入れたら火を止める。鰹節が沈んだら漉す。 二番だし - 汁物等様々に用いる。鍋に水2リットルと、一番だしで用いた昆布と鰹節を入れて煮、沸騰したら火を止めて漉す。おいがつおを加える場合もある。 精進だし - 肉を禁じた、精進料理に使われるだし。コンブ・干し椎茸・かんぴょう・大豆・小豆などを水につけたり煮たりして取る。 八方だし - だしに塩で味をつけたもの。醤油とみりんで味を付ける場合もある。下味を付けたり煮炊きに用いる。 また地域や用途によって以下のようなものがある 関東風そばつゆのだし - 主に関東での蕎麦で使うだし。沸騰した湯のなかに、鰹節やソウダガツオの削り節などを入れてそのまま1時間ほど煮出してから絞り漉す。このだしに、醤油と砂糖のみりんのかえしを入れて、つゆとなる。 関西風うどんつゆのだし - 主に関西でのうどんで使うだし。コンブを煮てしばらく沸騰してから取り出す。鰹節にサバ、ウルメイワシの削り節のブレンドを加えて入れて煮出してから漉し絞る。このだしに、醤油と砂糖とみりんを入れて、つゆとなる。 鹿児島県の食品業界は、様々な材料から出汁をとる食文化のブランド化を図る「出汁の王国・鹿児島」プロジェクトを展開している。 沖縄料理のだし - 沖縄料理では、鰹だしと昆布だしの他、豚のばら肉の茹で汁を濾したものを豚だしとして用いる。 ラーメン汁のだし - ラーメンの出汁は鶏肋や豚骨、野菜、コンブ、煮干し、鰹節やサバ節など様々である。 近年は、高血圧や生活習慣病を予防するため、料理中の塩分を減らし、代わりに出汁の旨味で満足感を維持する取り組みが広がっている。青森県が進める「だし活」プロジェクトがその一例である。 中華料理では鶏肉、鶏ガラ・鶏骨、豚肉、中国ハム、貝柱、海老などが材料として使われる。 韓国料理・朝鮮料理においては牛肉、鶏肉などが材料としてよく使われる他、貝のだしも用いられる。肉のゆで汁をだしとして用いる場合も多く、牛肉のだしをユッス(肉水、육수)という。 西洋料理においては、牛・鶏・魚といった動物質の素材に野菜(タマネギ、ニンジン、セロリなど)・香草類からなる香味野菜を加えて素材として作る。動物質の素材には肉のほか、すじ肉や骨も使い、使用目的によってはオーブンで香ばしく焼いた上で長時間煮込む。風味を整えるために「ブーケガルニ」と呼ばれる香草類のセットを用いる(パセリ、タイム、ローリエ等)。エビやロブスターの料理では、むいた殻でだしをとることもある。 ストック(英語版説明)も参照。フランス料理では、子牛を素材として使ったものは「フォン・ド・ヴォー」、仔羊のものは「フォン・ダニョー」、シカ、イノシシ、ウサギやウズラなど野鳥獣のものは「フォン・ド・ジビエ」、鶏のものは「フォン・ド・ヴォライユ」、魚のものは「フュメ・ド・ポアソン」と呼ばれる。イタリア料理では「ブロード」と呼ばれる。 フランス料理では、だしを用途によって使い分ける。大きくは、コンソメやポタージュなどのスープに用いるブイヨンと、ソースに用いるフォンとに大別される。フランス料理ではソースの種類によって様々なだしがある。 茶色い仔牛のフォン - 「フォン・ド・ヴォー」と呼ばれる。 鶏のだし汁 - 「フォン・ド・ヴォライユ」と呼ばれる。鶏肋はもつジブレッツを取り除き、水で煮る。ニンジン、タマネギ、セロリなどと、ブーケガルニやコショウ、塩を加え煮て漉す。 魚料理のだし - 「フュメ・ド・ポワソン」と呼ばれる。魚料理へのソースや、魚スープのベースとする。白身魚の粗とタマネギ、セロリ、エシャロットなどを薄切りにしてバターで炒め、白ワイン、水、レモンの薄切り、ブーケガルニ、コショウを加えて煮出して漉したもの。 スープのだし - 「ブイヨン」とよばれる。牛肉のすね、牛骨、鶏肉と鶏肋はもつジブレッツを取り除き、水から煮る。野菜のニンジン、タマネギ、セロリ、ブーケガルニやコショウ、塩を加えて、灰汁を取り除きながら、6時間ほど煮て漉す。 クールブイヨン - 主に魚介類をゆでるためのだし。クールは短時間。野菜のニンジン、タマネギ、セロリ、ブーケガルニやレモン、ライム、コショウ、塩を、水と白ワイン、ワインビネガーで短時間煮て作る。 風味調味料などとも呼ばれる。原材料は、「風味原料」とよばれる動物性や植物性のエキス分等に、アミノ酸等のうま味調味料、塩や醤油、砂糖などの調味料など(なおそういった副原料を加えない出汁も存在する)、および香辛料、デンプンなど様々である。液体や粉末・ペースト状などの加工品がある。風味によって、カツオ風、コンブ風、鶏ガラ風、コンソメ風など様々な種類がある。 自分の目的や利益のために、他の人やものを利用する・方便にすることを「だしにする」と表現することがあり、食品を用いた慣用句の一つである。 東日本では、「だし」と言えば、「昆布や鰹節や煮干しなどの下味」を指す。高齢者になるとラーメンの「豚骨や魚介や鳥の下味」は「だし」とは表現せず「でじる」や「しる」になる。そのため、西日本出身者が「だしがカラい(つゆがしょっぱい)」などと表現すると「つゆが(唐辛子のように)辛い」と思われてしまうため、西日本出身者は注意が必要である。 西日本では、「だし」と言えば、汁物やスープなどの「つゆ」を指す。これは特に関西地方で使われ、うどんの汁をだしを効かせて色を薄くする事がほとんどであるのが理由であり、関西人が「関東はうどんが辛い(濃い、しょっぱい)、関西はうどんが薄味」と表現する事が多いのはその事に由来する。 関西風で使われる薄口醤油の方がやや塩分濃度は高いが、醤油の使用量に大きな違いがあり、関西がだし18 リットルあたり500mlの醤油を入れるのに対し、関東は関西の4倍以上の醤油を入れているので、実際の塩分濃度は関西が2.5%なのに対し、関東は6.7%と2倍以上塩分濃度が高い。 ^ 『世界大百科事典 』第2版 ^ a b 『広辞苑』第5版 ^ a b c d e 『四季日本の料理 冬』講談社 ISBN 4-06-267454-8 ^ 石毛直道『世界の食べもの 食の文化地理』p266 講談社学術文庫 ^ (英語) Harris Salat \"The Secret's Out as Japanese Stock Gains Fans\", ニューヨーク・タイムズ, October 14, 2008 . ^ a b 『四季日本の料理 秋』講談社 ISBN 4-06-267453-X ^ 「出汁の王国・鹿児島」公式サイト2017/03/23閲覧。 ^ 「だし活!健活!減塩推進事業」サイト2017/05/03閲覧。 ^ a b 『フランス料理の本 野菜・卵料理』辻静雄 講談社 ISBN 4-062029243 ^ a b c 『旬の食材 秋の魚』講談社 ISBN 4-06-270133-2 ^ 知識の宝庫!目がテン!ライブラリー 大阪うどん うす味の謎 調味料 ブイヨン フォン 湯 (中華料理) 昆布 鰹節 粗 鶏ガラ・鶏骨 豚骨 牛骨 吸物 世界大百科事典 第2版『出汁』 - コトバンク デジタル大辞泉『出し』 - コトバンク 大辞林 第三版『出し・出汁』 - コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『出し汁』 - コトバンク", "味噌(みそ)は、大豆や米、麦等の穀物に、塩と麹を加えて発酵させて作る発酵食品で、日本の伝統的な食品の一つである。日本料理(和食)の代表的な材料として日本国外にも知られている。 食品学、人類学的には、日本の味噌は醤油と同じく、醤(ひしお/ジャン)のうち穀醤(こくしょう)に分類される。一般的な味噌は日本独自のものであるが、東アジア、東南アジアの各地に存在する大豆やその他の豆・穀物を原料としたペースト状の発酵調味料である穀醤も、類似性から味噌に含める場合もある。例えば、中国の豆板醤、韓国のコチュジャンを、日本ではしばしば唐辛子味噌などと呼ぶ。 主な原料は大豆であるが、穀物や麹の違いで種類が豊富である。穀物に黄麹菌などの麹菌を繁殖させた麹や塩を混ぜ合わせ、発酵させることによって大豆のタンパク質を消化しやすく分解し、旨みの元であるアミノ酸を多量に遊離する。穀物由来の麹が増えるとデンプンが糖に変わって甘味が増し、大豆が増えるとアミノ酸による旨味が増す。温暖多湿という日本の国土条件の中、職人技により製造する。現代的な食品の衛生基準との間で伝統を守りづらくなっている[要出典]​。原料により豆味噌、米味噌、麦味噌など、地域、種類により赤味噌、白味噌、合わせ味噌(調合味噌)などと区別する。 古くから日本の食生活における主な蛋白源である。また副食の素材が豊富になった今日では調味料とみなすことがあるが、江戸時代中盤以前は「おかず」的な扱いをしていた。現在でも「おかずみそ」・「ねぎみそ」・「ピーナッツみそ(みそピー)」・金山寺味噌・豚味噌(アンダンスー)・魚味噌・朴葉味噌など、多数の味噌加工品が存在しており、日本料理に欠かせないものの一つとなっている。とくに近年ではスローフードや日本食ブームにより、味噌の良さが改めて見直されている。 長年の経験では、味噌は食品として万能であることが江戸時代の本朝食鑑に記載されており、その健康増進効果から味噌汁は「医者殺し」と当時から言われていた。20世紀後半からは、健康効果の研究がおこなわれている。 大豆 塩 麹 - 米、麦、豆など地域によって様々な穀物を使った麹が使用される。 味噌の栄養価の参考値  実際の栄養価は、原料ダイズの生育環境、品種、発酵に参加する菌株、副原料の添加量など多くの要素によって変動するため参考値である。 味噌には以下のような成分が含まれる。 たんぱく質 グルタミン酸をはじめとする各種アミノ酸 ビタミンB3 ビタミンE 酵素 イソフラボン コリン レシチン 味噌の起源には二つの説がある。 中国伝来説 古代中国の醤を根源とし、遣唐使により中国を経て伝来したとされる説。 語源も『未だ醤にならないもの』という意味の未醤から平安時代に味醤、味曽、味噌となった。 701年の大宝律令に未醤が課税対象としてあらわれ、「主醤」という醤を管理する役職の記述もある。 日本独自説 日本の味噌の原型は歴史が古く、弥生時代からとする説もあるが、豆を用いた現在の味噌とは違う液体状のもので、魚醤に近い。日本においては縄文時代から製塩が行われ、醤(ひしお)などの塩蔵食品が作られていたと見られる。縄文時代後期から弥生時代にかけて遺跡から穀物を塩蔵していた形跡が見つかっている。古墳時代からは麹発酵の技術を加えたものとなった。 現在の味噌の起源に連なる最初は、奈良時代である。当時の文献に「未醤」(みさう・みしょう:まだ豆の粒が残っている醤の意味)と呼ばれた食品の記録がある。また「末醤」とも書かれ、「大宝令」(大宝元年(701年))の「大膳職」条では「末醤」と記される。他に味醤、美蘇の字もすでに見える。藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤と末醤を請求したものとして、表は「謹啓今忽有用処故醤」、裏には「及末醤欲給恐々謹請 馬寮」と書かれた木簡が発掘されている。この未醤、あるいは末醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化したものであることは、「倭名類聚抄」(934年頃)や「塵袋」(1264-1287年頃)という辞書に書かれている。この当時の味噌は、調味料というよりは豆やその他の穀物を塩漬保存した保存食であり、つまんで食べられた。徒然草にある、北条時頼と北条宣時が、台所に残っていた味噌だけを肴として酒を酌み交わしたという逸話は、このような時代背景によるものである。大豆を原料とした調味料としては、当時は塩辛納豆が主に使われた。 室町時代になると、各地で味噌が発達した。戦国時代には主に糠が原料とされたが、兵糧(陣中食)として重宝され、加工品の芋がら縄も含め、兵士の貴重な栄養源になっていた。その名残は、朴葉味噌などとしても伝わっている。各地の戦国武将にも味噌作りは大事な経済政策の1つとして見られるようになった。 各地の風土・気候を反映し、材料比率を変えたり熟成方法などが異なる多様な味噌が製造された​。 明治時代の一般的な味噌の醸造期間は1-3年程度であった。明治時代の国語辞典である言海は味噌の分類として以下の3種をあげる。その記述では、当時の赤味噌と白味噌は材料の豆や麹が異なったという。 白味噌 - 豆の皮を取り、白麹で作る。色が白く甘い。 赤味噌 - 白大豆で作る。色が赤い。 玉味噌 - 豆を臼で砕かず包丁で刻み、藁に包んで熟成させる。下等品だったという。 蒸すか茹でるかした大豆を潰して団子にし、藁で包んで味噌玉として軒下などに吊るし、カビが生えるなどして熟成したものを塩水と合わせて仕込む玉味噌は、現代でも地方各地に残っている。また、味噌玉を作って味噌を仕込む方法は朝鮮半島のテンジャンにおいても見られる。 明治時代末期に日本陸軍糧秣廠に勤めていた河村五郎(日出味噌創業者)が、麹の働きを温度管理で調節する味噌速醸法を考案。醸造時間は数ヶ月に短縮することが可能となった。当時、東京で主流となっていた仙台味噌の醸造法とともに全国に普及した。 明治時代末まで味噌の原料豆を砕く道具は臼と杵であり、完全な破砕ができなかったため、出荷された味噌には豆の粒や欠片がそのまま残っており、使用の前にすり鉢で粒を潰し「みそこし」で漉してから使った。やがて味噌製造が機械化すると味噌を出荷前に機械で漉し、家庭でいちいち擂ったり漉したりの手間が省ける「漉し味噌」「擂り味噌」が販売されるようになった。現在のような滑らかなペースト状の味噌が販売されるようになったのはみそ漉し機械の導入以降であるが、味噌をすり鉢でする習慣は戦後も残っていた。漉し味噌は食味で劣るとの議論もあり、現在でも漉していない「粒味噌」が販売されており、鹿児島県の奄美料理のように粒味噌のまま使っている地域もある。 1926年(大正15年)に「最新醤油味噌醸造法」栂野明二郎 著 醸造評論社 が発行されている。本書は、国立国会図書館のデジタルライブラリで閲覧可能である。当時の醤油味噌の製造方法がわかる。 戦前の東京では、河村が開発した味噌速醸法を元にした早造り仙台味噌(早仙)が普及。第二次世界大戦中には、食糧統制下で全国味噌組合方式(全味式)へと発展し、配給味噌の基準製法になった。また、温度に着目した醸造法が各地で試された結果、大戦中の1944年(昭和19年)に中田栄造(マルマン (味噌製造)創業者)が醸造中の温度管理の適正化を進めた中田式速醸法を開発。醸造時間を20日とすることも可能となった。この速醸法は、中田の信州味噌の醸造法とともに、戦後、全国に普及した。 昭和30年代後半までは、農村では多くの農家が味噌を家庭で作っており、昭和40年代の高度成長期とともに自家製味噌は減っていた。とはいうものの、仕込み味噌とよばれる味噌を買い、発酵と熟成は家庭で行うということがその後20年は続いた。 1970年代(昭和40年代)までは食料品店(酒屋、三河屋)などで醤油や味噌が樽から量り売りされていたが、流通の変化などで量り売りは姿を消し、袋やプラスチック容器などのパッケージに入ったものに変わっている。従来は袋詰めの際、添加物としてソルビン酸カリウムが使用されたが、現在は酒精(エチルアルコール)を2~3%添加する。これにより、耐塩性酵母を殺菌し、発酵で出る二酸化炭素による膨張を防ぐことができる。なお、調整処理されていないものは生味噌と呼ばれ、耐塩性酵母が引き続き活動している。 1979年度(昭和54年度)後期より国家資格である技能検定制度で、みそ製造技能士1級、2級試験がはじまった。みそ製造の技能の伝承を確実にしている。1級は7年以上の実務経験、または2級合格後2年以上の実務経験、2級は実務経験2年以上。科目は学科試験は、みそ製造法、微生物および酵素、化学一般、電気、関係法規、安全衛生で、実技試験がある。 今日では北海道音威子府村から沖縄県与那国町まで、日本の全ての地域に製造業者が存在する。それほど高度な技術や多額な資本投下無しに製造できることが推測できる[要出典]​。同じ穀醤の中でも特定地域に集中している醤油製造との違いでもある。多くの製造業者があり、他の食品と同じように商品の多機能化と差別化が進んでいる[要出典]​。単に素材の違いだけでなく、出汁入りのものやカルシウムなどを添加したものを販売している。「つけてみそかけてみそ」など食卓に置いておくみそも普及している。2000年(平成12年)以降は、みその出荷量は単調減少で、2015年(平成27年)には2000年比(平成12年)2割近い落ち込みである。2000年(平成12年)以降デパートでのみその出荷は4分の1以下になっている。 2009年(平成21年)8月みそソムリエ制度ができ、みその普及の基盤ができてきたが消費の減少に歯止めがかかっていない。 現在、「味噌」はMiso、味噌汁はMiso Soupとして、日本国外の人にも日本のものとして親しまれている。 味噌はJASでは「みそ」と表記され、主材料によって次のように分類される。 みそ 米みそ - 大豆と米を発酵・熟成させたもの。 麦みそ - 大豆と大麦又ははだか麦を発酵・熟成させたもの。 豆みそ - 大豆を発酵・熟成させたもの。 調合みそ - 上記の各みそを混合したもの。または、その他のみそ。 また、その製造法に起因する色の違いによって、赤味噌・白味噌・淡色味噌のようにも分類される。 大豆や麹のたんぱく質と糖分によるメイラード反応により味噌は着色する。強く蒸した大豆を多く使い、長期間、高温で熟成させると色が濃くなり赤味噌になる。一方、茹でて糖分やタンパク質を流し出した大豆を、精白した米や着色の進まない系統の麹を多くあわせ、短期間熟成させると白味噌になる。白味噌は熟成期間が短いので色が白く材料の麦などの粒子が残るものもある。熟成期間の長い赤味噌は保存のために塩分濃度が高い傾向にあるが、高温で超短期間に熟成を終える赤味噌である江戸甘味噌は塩分濃度が低く甘い。この中間として信州味噌を代表とする淡色味噌があり、全国的に普及している。 一般に赤味噌は塩分濃度が高く塩辛く、熟成期間が長いのでコクがある。白味噌は塩分濃度が低く麹の糖分により甘い。赤味噌は、東北地域(米)・中京地域(豆)を中心に作られている。豆は糖分が少なくアミノ酸の材料である蛋白質が多く含まれているので、豆からは主に赤味噌が造られている。中京地域の一部では、黒い八丁味噌も含め赤味噌と呼び、その味噌汁を赤だしとよぶ。 全国的に見て、一般的な味噌は米味噌であり、豆味噌(赤)は、中京地域のみで造られている。米味噌の色は、黄色や黄色を帯びた白色、赤色など多様。米味噌は淡色の場合、一般に煮大豆を用いるが、赤みのかなり濃い米味噌は蒸し大豆を用いる。また、米麹が多く使用される味噌ほど熟成期間が短く済む傾向もある。米の白味噌では信州味噌・西京味噌が代表的で、米の赤味噌では津軽味噌、仙台味噌などが代表的である。西京味噌は甘みが強く、仙台味噌は辛みが強い。津軽味噌はコクがあり、信州味噌はあっさりとした口当たりを特徴とするなど様々な特徴がある。米味噌の多く消費される地域は、東日本全域と、北陸地方、近畿地方である。なお、日本の都道府県の中で1世帯あたり味噌消費量の第1位は長野県であり、またその生産量においても長野県が群を抜いており、おやきなど地域での名産品もある。 麦味噌は生産量の11%ほどを占め、九州、中国地方西部、四国西部では主に麦の白味噌が造られている。北関東では、大麦を使った赤味噌も造られている。 豆の赤味噌は蒸し大豆(或は煮大豆)と豆麹を用い、米の赤味噌よりも熟成期間が長いので、その色は米の赤味噌よりもさらに赤みが強く黒味を帯びた濃い赤茶色である。米味噌や麦味噌に比べて甘味が少なく、渋味がありうまみが強いのが、大きな特徴である。豆味噌を主として消費するのは中京圏の愛知県全域、岐阜県美濃地方の中南部・西部、三重県北東部に限られる。豆味噌では、八丁味噌が代表的である。 日本各地で味噌は作られているが、各地方で材料・風味・色にそれぞれ特徴があり、地方色の強い食材でもある。 大豆と米を発酵・熟成させたもの。北海道から本州、四国など広い地域で造られている。 北海道味噌- 北海道 津軽味噌 - 青森県 秋田味噌 - 秋田県 仙台味噌 - 宮城県 会津味噌 - 福島県 江戸甘味噌 - 東京都 信州味噌 - 長野県 相白味噌 - 静岡県 越後味噌 - 新潟県 佐渡味噌 - 新潟県 越中味噌 - 富山県 加賀味噌 - 石川県 西京味噌 - 京都府 桜味噌 - 大阪府 府中味噌 - 広島県 讃岐味噌 - 香川県 御膳味噌 - 徳島県 大豆と大麦又ははだか麦を発酵・熟成させたもの。九州地方で主に造られている。麦みその出荷は2007年以降、豆味噌を下回っている。 島原味噌 - 長崎県 薩摩味噌 - 鹿児島県 大豆のみを発酵・熟成させたもの。愛知県で主に造られている。 八丁味噌 - 愛知県 赤味噌 - 愛知県 大豆と玄米とソテツの実(方言で、なり)のデンプンを発酵・熟成させたもの。南西諸島特産。 蘇鉄味噌 - 鹿児島県奄美大島・沖縄県粟国島 上記の各みそを混合したもの。または、その他の調味料を加えた合わせみそ。特に甲州味噌は関東圏と中部圏にまたがり、米と麦の両方を使用する全国でも珍しい味噌である。 赤だし 甲州味噌-山梨 大豆、米、麦と塩漬けしたウリ、ナス、ショウガなどの野菜等を混ぜて、短時間発酵させたもの。 金山寺味噌 - 和歌山県 近年は、味噌を家庭で仕立てることは珍しくなったが、かつては多くの家庭で自作されていた。味噌は比較的自作が容易で、誰でもそれなりの出来栄えものが作れる。中世には、自分の作品や腕前を自分で自慢する「手前みそ」という表現が生まれた。 家庭での手作り味噌の作り方の一例を以下に示す[信頼性要検証]。 例)大豆1kg(乾燥重量)、米麹1kg、塩430g 米麹1kg、塩430gを混ぜ合わせる。これを「塩きり」と言い、塩と混ぜ合わせたものを「塩きり麹」と言う。塩分により麹菌はこの時点で不活化されるが麹が生産した酵素群(プロテアーゼ、アミラーゼ、リパーゼ等)はそのまま残り、酵素群の作用によりタンパク質、でんぷん、脂質はそれぞれアミノ酸、グルコース、脂肪酸に分解される。アミノ酸が旨味に、グルコースは甘味とさらに耐塩性酵母がグルコースを分解して生成するエタノールが香りの一部になり、耐塩性乳酸菌がグルコースからほのかな酸味を生成する。なお、塩が不足すると、雑菌が繁殖する原因となる。 大豆1kgを一晩水に漬け、十分に柔らかくなるまで茹で、水を切り、煮豆を十分に潰して、人肌に冷ましたものを塩きり麹に加えて良く混ぜる。大豆が熱いままだと酵素が熱で活性を失う。煮豆を十分に潰して麹と良く混ぜないと大豆タンパク質と麹の酵素が接触・反応せずアミノ酸分解が進まず旨味が出ないことになる。 良く混ぜたものをジッパー付のポリエチレン袋に詰め、空気(=酸素)を良く抜く。空気を抜かないと、特に納豆菌、カビ等の雑菌が繁殖する原因となる。樽を使ってもよいがポリエチレン袋の方が気体を抜きやすく家庭で管理がしやすい。透明ポリエチレン袋であれば、密閉が容易で中の状況が確認可能である。また、封をしたままで撹拌したり、潰し残しの豆や麹を袋の上から指で潰すこともできる。味噌の熟成は、麹が生成した酵素と大豆タンパクとの接触反応が中心であるので、撹拌するほど、豆と麹を潰すほど短期間でアミノ酸への分解が進む。また、耐塩性酵母による発酵に伴い二酸化炭素が発生するので適宜気体を抜く必要がある。空間が生ずるとカビが生える可能性が上昇する。仮にカビが生えたとしても、胞子から成長したコウジカビであることが多いので極端な色調の相違が無ければ通常の場合はそのまま味噌に混ぜ込んで差し支えない。なお、本記事上部の写真のように味噌製造元で味噌樽に山のように石の重石を積み上げるのは石の重さで気体(空気(=酸素)と発酵で発生する二酸化炭素)を抜くためである。発酵がある程度進んだ段階で、撹拌するために1回程度「天地返し」を行う。発酵が進むとアミノ酸とグルコースが反応するメイラード反応が進行して段々と味噌の色が茶色に変化する。この色の変化はアミノ酸の生成の程度と旨味の程度を示している。 一夏越して味噌の出来上がり。酵素反応速度は温度に依存するので、温度が十分に上がらないと酵素がタンパク質その他を十分にアミノ酸までに分解できず、旨味が十分に生成されないことになる。 麹酸(コウジ酸/Kojic acid)は、平成7年の食品衛生法改正に伴う既存添加物として使用が認められている食品添加物である。この麹酸は味噌やしょう油等の製造に用いられる麹菌(Aspergillus属等)が生成する、抗菌作用を持ち原料の腐敗を防ぐ効果がある重要な物質である。ところが、その麹酸に肝臓癌などを誘発する危険性が指摘されるに至り、味噌や醤油の発がん性が問題になった。しかし、動物試験での濃度(1~3%混餌投与)に比して食品中の濃度はごく微量でしかない。その後、化粧品メーカーがコウジ酸の安全性を確認する追加試験を実施し、コウジ酸の化粧品としての使用は安全性上なんら問題がないことを証明した。味噌については、古くから摂取され続けてきた食物であり、食品中の濃度はごく微量でしかないことから麹酸の毒性は問題にならないとされている。 コウジカビ(麹黴)は、アスペルギルス ( Aspergillus ) 属に分類されるごく普通の不完全菌の一群である。このうち、ニホンコウジカビ(Aspergillus oryzae、アスペルギルス・オリゼー)など、一部のものが麹菌として味噌や醤油、日本酒を作るために用いられてきた。発酵食品の製造に利用される一方で、コウジカビの仲間にはヒトに感染して病気を起こすものや、食品に生えたときにマイコトキシン(カビ毒)を産生するものがあり、医学上も重要視されているカビである。熱帯から亜熱帯地域にかけて生息するアスペルギルス・フラバス (Aspergillus flavus) などのカビによりアフラトキシンが生成され、紫外線の照射により強い蛍光を発する。1960年にイギリスで七面鳥が大量死した際の分析中にアフラトキシンが発見された。なお、1960年代に麹菌のA. oryzae(ニホンコウジカビ)やA. sojae(ショウユコウジカビ)でアフラトキシン生成が疑われたが、アフラトキシンを生成する機能は失われている事が判明している。 大豆は、タンパク質やカルシウムを多く含むため、栄養源として重要である。大豆の可食部乾燥重量100g中で、417kcal、水分12.5g、タンパク質35.3g、脂質19.0g、炭水化物28.2gの栄養価がある[信頼性要検証]。 さらに、大豆に含まれるゲニステイン(en)、ダイゼイン(en)、グリシテイン(en) などのイソフラボンは、大豆イソフラボンと総称され、弱い女性ホルモン作用を示すことから骨粗鬆症や更年期障害の軽減が期待できる。これらの作用から、大豆製品の中には特定保健用食品に指定されている物もある。骨粗鬆症予防効果、更年期障害の緩和に加えて、抗動脈硬化作用の可能性もある。また、乳がんや前立腺がん等の予防にも効果があることが、疫学的な調査で明らかになってきており、特にイソフラボン配糖体のゲニステインという物質に、腫瘍の血管新生を抑える効果があり、それにより腫瘍の増殖を抑制することがわかってきた。 その他の大豆の健康への効果は、ダイズ#健康への影響を参照のこと。 発酵によって作られる脂肪酸エチル(カルボン酸エチルエステル)類が、ガンを引き起こす変異原の力を抑制するという説がある。味噌汁を飲む回数が多い人は、胃がん死亡率が低くなるという調査結果がある(1981年がん学会)。動物実験では、肺癌、胃癌、乳癌、肝臓癌、大腸癌の抑制効果が認められ、味噌の熟成度が高いほど効果が高かった。味噌に含まれるイソフラボンが癌増殖を抑制し、アポトーシスを誘発するのではないか、さらに、味噌の熟成によりイソフラボンが配糖体からアグリコン型に変化しさらに癌を抑制する効果が高まるのではないか、あるいは、熟成が進行している元気な味噌には癌予防を含めた生理活性物質が産生されるのではないか、と言われている。血圧低下の効果もあると言われている。 また、味噌の熟成に伴うメイラード反応によって生成する褐色色素のメラノイジンは、in vitroでは抗酸化作用、活性酸素消去活性、ヘテロ環アミノ化合物(発癌物質)に対する脱変異原活性などを有するとされている[信頼性要検証]。味噌は優れた抗酸化能力を有し、味噌のラジカル捕捉能力はその大半をメラノイジンが担っており、味噌の色調が濃いほどその能力が高まっているとされている。 マルコメと東京工科大学応用生物学部美科学研究室(前田憲寿教授)との共同研究により、味噌には肌の保湿やきめを改善する効果のあることが発見された。これは、味噌の抽出物が、角層でセラミドを合成する酵素を活性化させることが原因という。 塩分摂取量と胃癌の発生率には正の相関があることがわかっている。ただし味噌の塩分による胃がん発生率上昇のリスクは同量の食塩よりも低い。また、通常高血圧を引き起こす塩分だが、味噌は血圧をほぼ上げない可能性が動物実験から示唆されている。味噌の大豆タンパクが血圧下降に作用していると思われる。 食材 朴葉味噌 - 岐阜県・長野県 南蛮味噌(神楽南蛮味噌・かんずり) - 新潟県 油味噌 - 豚肉の脂肪と味噌を炒め合わせた南西諸島の常備菜。アンダンスー。 芋がら縄 - 戦国時代の保存食。 主菜・主食 味噌おでん - 茹でたこんにゃくに味噌を塗って食べる田楽。 味噌煮込みうどん - 生麺を八丁味噌仕立てのだしでそのまま煮込んだ愛知県(名古屋地域)のうどん 味噌ラーメン - 札幌ラーメン、信州ラーメンなど味噌を主体にしたご当地ラーメンが全国各地にある。 なめろう - 生の魚の身と味噌を混ぜたペースト状の料理。 味噌カツ - 豚カツのソースとして赤味噌仕立てのたれをかけた料理。 石狩鍋 - 鮭などを具材とした北海道の鍋料理 土手鍋 - 牡蠣を用いた広島県の鍋料理 副菜 味噌汁 - 豚汁、冷汁 味噌田楽 - 豆腐の切身等を竹串に刺し赤味噌等を付けて炭焼きにしたもの。 風呂吹き - 大根等を煮て、練り味噌をかけて食べる料理。 濃漿 - 味噌味で濃く仕立てた汁物。鯉こくなど。 土手焼き - 牛のすじ肉を味噌で煮込んだ大阪府の料理 おやつ・菓子 五平餅 - 潰したご飯に味噌をぬって串焼きにしたもの。 味噌松風 - 味噌仕立ての焼き菓子。 味噌饅頭 - 味噌生地のまんじゅう。 味噌あん - 味噌で調味した白餡。柏餅などに使用される。 味噌せんべい - 八丁味噌せんべい (愛知県岡崎市備前屋)。味噌煎餅(岐阜県飛騨市)。 味噌かりんとう - 八丁味噌を使ったかりんとう。かりんとうの色がちょうど八丁味噌と同じ種類のものが従来よりあったため、八丁味噌を使うことを考案した可能性がある。 (愛知県岡崎市備前屋) 味噌パン - 味噌を使った菓子パン、または惣菜パンの一種。 手前味噌 - 手前が工夫を凝らしたところ。これが転じて後には自慢をも指すこともある。 手前味噌で塩が辛い - 自慢であるが、他人からはそう見えないこと。 味噌の味噌臭きは食われず - 自慢は他人から見ると食えないようなもの。 三年味噌にひばな汁 - 三年味噌が塩辛いことから、貧しい食べ物、けちなことのたとえ。 味噌を付ける - 失敗して評判を落とす。面目を失う。 味噌の医者殺し - 良質な栄養源。 医者に金を払うよりも、味噌屋に払え 味噌と医者は古い方が良い - 時間が長く経過したものは、貴重であり良い物のたとえ。 女房と味噌は古いほど良い - 時間が長く経過したものは、ぶつかるような喧嘩もなく味も滑らか。 味噌に入れた塩はよそへは行かぬ - 味噌造りの塩と同様で、見えなくなっても無駄ではなく役に立っている。 味噌買う家は蔵が建たぬ - 味噌は自分で作るもの。 塩も味噌もたくさんな人 - 大切な物を沢山持っている優れた人。 バカの三杯汁 - 良い物でも過ぎることを言う。 五菜三根 - 徳川家康の長寿のもとの野菜満載味噌汁。大根・ごぼう・人参など三種の根と、大根の葉・玉ねぎ、白菜、キャベツ、ほれんそうなど五種。 味噌っかす - 一人前とみなされない人。 味噌っ歯 - 虫歯の一種。 味噌も糞も一緒 - 性質のことなるものを、区別しないで何もかも一緒にすること。 味噌が腐る - 糠味噌で言われる。悪声であったり調子が外れていたりする歌いぶりをあざける言葉。 味噌焼きおにぎりと味噌汁  容器に入れられて売られている味噌の例 (写真は伊賀越味噌)  原料 - 大豆、米、麦の品種・改良。左記材料以外を使う。 材料 - 水、塩の品質特性。 麹 - 麹の機能を選定・改良。 製法 - 味噌製造工程の改良。 半調理品 - 出汁の加え方、乾燥保存。 調理品 - 味噌汁、味噌ラーメン、味噌おでん、味噌煮込みの提供方法・保存方法。 製造機械 - 粉砕、加熱機器類。 提供機械 - 自動販売機。 「タケヤみそ」のタケヤ味噌会館 - 美術品・古い道具・説明など 八丁味噌の郷: カクキュー - 本社事務所と蔵は国の登録有形文化財。昔の味噌蔵 全国味噌工業協同組合連合会 味噌中央研究所 みそソムリエ認定協会 みそ汁協会 ^ Merriam-Webster, Incorporated (2014年10月22日). “Definition of miso by Merriam-Webster” (英語). Merriam-Webster, Incorporated. 2015年10月29日閲覧。 ^ 本朝食鑑(1695年) ^ a b 渡邊敦光「お味噌の効能」『日本醸造協会誌』105巻11号、2010年11月15日。714-723頁。 ^ 文部科学省 「日本食品標準成分表2015年版(七訂)」 ^ 厚生労働省 「日本人の食事摂取基準(2015年版)」 ^ 味噌Q&A (山形県醤油味噌工業協同組合) ^ a b c お味噌の由来は2つの説がある マルカワみそ ^ 「お味噌の歴史」お味噌の原点 山印醸造 ^ 日本の発酵食品 味噌 味噌の歴史 ^ 藤原宮 奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部 ^ a b 創業秘話 日出味噌醸造元 ^ 最新醤油味噌醸造法 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020909 ^ a b 今井誠一『味噌』農山漁村文化協会、2002年。10頁。 ^ 技能検定職種及び等級区分 (都道府県知事の実施する職種) 厚生労働省 ^ 宮地和男、みそ製造技能検定について 日本釀造協會雜誌 75巻 (1980) 4号 p.248-250, doi:10.6013/jbrewsocjapan1915.75.248 ^ みその種類別出荷数量(全味工連集計) ^ 味噌の販売先別出荷数量(全味月報集計[リンク切れ] ^ みそソムリエ認定協会 ^ 世界に広がる日本食「Misoの輸出」 (PDF) ^ 伊藤寛、味噌のにおい 日本釀造協會雜誌 71巻 (1976) 7号 p.500-504, doi:10.6013/jbrewsocjapan1915.71.500 ^ みそガイドブック 群馬県 (PDF) ^ みその種類別出荷数量<全味工連集計> (PDF) ^ http://yamagomiso.com/kou/ ^ 味噌Q&A (山形県醤油味噌工業協同組合) ^ 七面鳥X病の発生からアフラトキシンの発見まで 山脇学園短期大学紀要 35, 37-61, 1997-12-21, NAID 110000218344 ^ アフラトキシン非生産の証明 キッコーマンHP ^ 豆の栄養成分表 (日本豆類基金協会) データは「日本食品標準成分表2010」とある。 ^ Nagata, C., Takatsuka, N., et al. 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Rep., 3 471–478(2001) ^ 味噌の塩分が血圧や胃がんに及ぼす影響 (PDF) ^ 広辞苑第5版 ^ 『四季日本の料理 冬』講談社 ISBN 4-06-267454-8 ^ 『旬の食材 秋・冬の野菜』講談社 ISBN 4-06-270136-7 ^ MISO σ みそソムリエ通信 2012年1月下旬号 ^ 八丁味噌本社事務所・蔵(史料館)文化財ナビ愛知 調味料 さしすせそ 味噌汁(納豆汁・豚汁など多数) ひしお もろみ 醤油の実 醤油 兵糧 陣中食 本村神社 (熊本市)(味噌天神。日本で唯一の、味噌の神様を祭る神社。味噌天神前停留場近く。) 兵糧丸#派生食品と見られるもの 日本の味噌メーカー みそソムリエ みそ製造技能士 味噌オンライン 信州みそラボ 全国味噌工業協同組合連合会 みそ品質表示基準 (PDF) みそ汁協会 東京都味噌工業協同組合(江戸甘味噌について解説あり)", "豆腐(とうふ)は、大豆の搾り汁(豆乳)を凝固剤(にがり、その他)によって固めた加工食品である。 東アジアと東南アジアの広範な地域で古くから食されている大豆加工食品であり、とりわけ中国本土(奥地を含む)、日本、朝鮮半島、台湾、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、インドネシアなどでは日常的に食されている。加工法や調理法は各国ごとに異なるが、このうち日本の豆腐は白く柔らかい食感を持つ「日本独特の食品」として発達した。 豆腐という文字が最初に現れたのは、中国で965年の『清異録』陶穀であると、江戸時代の「豆腐百珍」の巻末にある。 現代では、中国も日本も「豆腐」と呼んでいる。日本では一部「豆富」「豆冨」としている業者があり、これは食品に対して「腐」という字を用いるのを嫌ってのことと考えられる。 中国でも『腐』を避け、菽乳、方壁、小宰羊(宰羊:羊の肉)等の異名があったと前述の「豆腐百珍」の巻末に書かれている。 豆腐の「腐」の意味は、中国古代医学書「難経」にある腐熟の「腐」であるとする説があり、中国で腐熟とは胃での初期消化のことで、白くどろどろした状態ともある。 このことから、豆腐の「腐」は消化の悪い大豆を腐熟したものであるという説がある。 元禄時代に絹ごし豆腐を発明した豆富料理店「根ぎし 笹乃雪」では、9代目当主が、20世紀前半頃、食品に「腐る」という字を用いることを嫌って豆富と記すようになって以降、「腐」という文字を使わない表記が日本中に広まったとしている。また、豆腐を好んだ日本の作家・泉鏡花は、極端な潔癖症でもあったことから豆府と表記した。 アメリカ合衆国やイギリスを始めとする英語圏のほか、ドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語圏等々、世界の様々な言語圏で、\"tofu \" (ドイツ語では \"Tofu \")が単語として定着している。なお、英語表記ではtofuのほかsoybean curdも用いられる。 中国語閩南方言由来であるtau-fuという表記も、ヨーロッパの中華料理店などでは頻繁に見られる。 豆腐の起源については諸説ある。16世紀に編纂された『本草綱目』では、豆腐は紀元前2世紀前漢時代の淮南王で優れた学者でもあった劉安によって発明されたとしているが、真偽については明らかでない。豆腐の原料となる大豆は遅くとも紀元前2000年頃までには中国の広い範囲で栽培されていたと考えられており、大豆加工食品は前漢時代の馬王堆漢墓からも出土しているが、日本豆腐協会では劉安の時代の中国には豆腐の原料となる大豆が存在しなかったとしている。 また一説には豆腐の起源は8世紀から9世紀にかけての唐代中期であるともいわれている。実際、6世紀の農書『斉民要術』には諸味や醤油についての記述はあるものの豆腐の記述が見当たらず、文献上「豆腐」という語が現れるのは10世紀の『清異録』からである。唐代には北方遊牧民族との交流によって、乳酪(ヨーグルト)、酪(バター)、蘇(濃縮乳)、乳腐(チーズ)などの乳製品が知られていた。豆腐は、豆乳を用いた、乳製品(特にチーズ)の代用品(乳「腐」から豆「腐」へ)として、発明されたと考えられている(篠田統(しのだおさむ)説)。 一方、乳腐は北方遊牧民族の常食の乳餅のことであるという見方もある。『本草綱目』での乳腐には「釈名:乳餅」とあり、他でも乳餅としている書物が多い。このことから、乳腐は漢人の一部が胡人の乳餅を乳腐(畜乳で作った豆腐に似たもの)とも言ったのではという説もある。 中国では伝統的には豆腐は生で食べるのではなく発酵豆腐などとして食べていたとされる。また、中国の伝統的豆腐は日本の豆腐よりも堅いとされるが、これは油を用いる調理法が主流であることから水分が少ないほうが都合がよかったためとされる。 豆腐は南宋末期にかけて一般に普及し、明朝や清朝の時代になると豆腐の加工品も盛んに作られるようになった。 今日、中国南部や香港・台湾では、滑らかな豆腐を冷やしてシロップを掛け、アズキやフルーツをトッピングして食べるデザートがあり、豆花(zh)と呼ぶ。 現在の日本の豆腐は柔らかくて淡白な食感を特徴とする独特の物で、これに対する中国や韓国の豆腐は炒めたり揚げたりして調理されることが多かったため、日本の豆腐に比べると水分が少なく堅いものとなっている。 一般に豆腐は中国から日本へ伝えられたとされる。遣唐使によるとする説が最も有力とされるが、その一員でもあった空海によるという説、鎌倉時代の帰化僧によるとする説もあるなど様々な説がありはっきりとしていない。ゆばやこんにゃくなどとともに鎌倉時代に伝来したとみる説もある。ただ、1183年(寿永2年)の奈良・春日神社の供物帖の中に「唐府」という記述がある。 鎌倉時代末期ごろには民間へ伝わり、室町時代には日本各地へ広がった。そして江戸時代にはよく食べる通常の食材となったとされる。この江戸時代の豆腐は、今日でいう木綿豆腐のみであった。豆腐は庶民の生活に密着しており、江戸では物価統制の重要品目として奉行所から厳しく管理されていた。「豆腐値段引下令」に応じない豆腐屋は営業停止にされるため、豆腐屋は自由に売値を決めることは出来なかった。 江戸において豆腐料理屋は評判であり、江戸で初めて絹ごし豆腐を売った「笹の雪」はいまだに続いている老舗店である。当時、庶民に親しまれたのは豆腐の田楽であり、豆腐を串に刺して焼き、赤みそを付けて食べる料理であった。 天明2年(1782年)に刊行された『豆腐百珍』には、100種類の豆腐料理が記述されており、また様々な文学でも親しまれてきた。当時より、豆腐は行商販売もされており、前述の豆腐百珍は大きな人気を得て一般的な料理であった。行商の豆腐屋はラッパや鐘を鳴らしながら売り歩いていた。関東地方では、明治時代初期に乗合馬車や鉄道馬車の御者が危険防止のために鳴らしていたものを、ある豆腐屋が「音が“トーフ”と聞こえる」ことに気づき、ラッパを吹きながら売り歩くことを始めたものである。その由来のようにラッパは「豆腐」の高低アクセントに合わせて2つの音高で「トーフー」と聞こえるように吹くことが多いが、地域や販売店によっても異なり、「トー」と「フー」が同じ音高の場合もある。2つの音高を使うラッパの場合、1つのリードで2つの音高が出る仕組みになっており、呼気と吸気で音高が変わる。スーパーなどが増えて歩き売りをする豆腐屋が減ったものの、近年では昭和の頃のように地域に密着した商売をする人も出て来ており豆腐屋のラッパが復刻されている。近畿地方では、豆腐屋はラッパではなく鐘(関東ではアイスクリーム屋が用いていた)を鳴らしていた。 近代工業が発達するに連れて豆腐の製造作業の機械化も進み、わずかの大豆から効率よく豆腐が大量生産できるようになって、より安価で提供されるようになっていった。柔らかいタイプの豆腐は昭和以前には個人経営の豆腐屋で毎日作られ、動かすことで形が崩れることの無いよう、売る間際まで店頭の水槽の中に沈められているものであった。 現代日本でも豆腐は非常に一般的な食品であり、そのまま調味料をかけて食べられるほか、様々な料理に用いられている。冷奴や湯豆腐、味噌田楽などのように主要食材になるほか、汁物や鍋料理の具材、料理のベースになる食材として使われるなど用途は多彩になっている。 豆腐製法の特徴は次の通りである。まず、水につけて柔らかくした大豆を水と共に摩砕し煮出す。水とともに摩砕した大豆を呉(ご)という(加熱する前の呉を生呉、加熱した後の呉を煮呉という)。呉を搾って得られる液体が豆乳であるが、豆乳を作る際、あらかじめ加熱して煮呉を漉す製法を「煮搾り」、生呉のまま漉す製法を「生搾り」という(この場合には漉した後に煮詰めることになる)。搾った後の滓はおからと呼ばれる。 この豆乳がまだ熱いうちに凝固剤を加えると蛋白分子が後述するように網目状に繋がり、豆乳はプリン状に固まる。これを切り分けて水にさらしたものを絹ごし豆腐という。また、固まった豆乳を崩しながら、内側に布を敷いた穴開きの型容器に容れ、水分を抜くと木綿豆腐となる。さらに、豆乳をいったん冷やし、凝固剤といっしょにプラスチック容器に流し込んでから加熱して固めると充填豆腐となる。 水にさらさず直接容器にすくい上げたものは「寄せ豆腐」・「おぼろ豆腐」と言う。ほぼ同様の沖縄の伝統食品として「ゆし豆腐(ゆしどうふ)」がある。 堅豆腐(固豆腐)・五箇山豆腐など、非常に硬い豆腐があり、これは濃度の高い豆乳を使用したり、多めに凝固剤を使用したり、重石で脱水する事による。 ミャンマーではシャン族がヒヨコマメから豆腐を作る。(en:Burmese tofuを参照。) 17世紀に清で布教したスペインのドミニコ会宣教師ドミンゴ・フェルナンデス・ナバレテはその著書の中で「teu fu」を豆から作られる中国のチーズとして紹介した。18世紀にナバレテの書物の英訳を読んだベンジャミン・フランクリンは豆腐に強い興味を示し、イギリス東インド会社のジェームズ・フリントに「tau-fu」の製法を問い合わせた。フリントはフランクリンあての1770年1月3日づけの手紙で「towfu」の製法を説明した。これが英語ではじめて豆腐に言及した文献と考えられている。 20世紀末期以降のアメリカを始めとする欧米諸国では、高カロリー・高脂質の動物性食品や嗜好食品を多く摂る不健康な食習慣への反省と健康的な食品への関心の高まりによる健康ブームに伴い、健康の視点から優れた食品と言える豆腐が注目を集め、食料品店で日常的に売られる食品となった。また、菜食主義者にとってはバーベキュー、ステーキ、ハンバーガー、ジャーキーなどの肉の代替品として豆腐が使われている。 豆腐には、薄い豆乳を凝固させて圧搾・成形した種類のもの(例:木綿豆腐、ソフト豆腐)と、濃い豆乳全体を凝固させた種類のもの(例:絹ごし豆腐、充てん豆腐)とがある。 今日、豆腐は木綿豆腐、ソフト豆腐、絹ごし豆腐、充填豆腐の4種に大別される。 木綿豆腐 豆乳に凝固剤を加えて凝固させ穴の開いた木綿豆腐用の型箱に布を敷いて流し込み圧搾・成形した豆腐。表面に布目が付くことからこの名がある。普通豆腐ともいう。英語表記はregular tofu。脱水と成型という過程を通じ水溶性ビタミンの含有量が大きく減少するもののタンパク質、カルシウム、鉄などが多く含まれている。カルシウムが欲しいなら絹よりも木綿が優れている。 ソフト豆腐 絹ごし豆腐状に凝固させたものを木綿豆腐の型箱に流し込んで軽く圧した木綿豆腐と絹ごし豆腐の中間程度の濃度の豆腐。京都では嵯峨豆腐と言われる。 絹ごし豆腐 木綿製造時よりも濃い豆乳と凝固剤で凝固し絹ごし用の型箱に流し込んでゲル状に固めて水にさらした豆腐。笹の雪ともいう。英語表記はKinugoshi-tofuあるいはtofu with whey。吸水総量は原料大豆重量の5倍から6倍となる。水分を抜かないので、ビタミンB1など水溶性ビタミンが残る上にマグネシウムも多く含まれている。代謝の促進には木綿より絹が優れている。 充てん豆腐 絹ごし豆腐製造時の濃い豆乳を冷却後に凝固剤を加えて合成樹脂製の角型の容器に充填して摂氏約90度で40分から50分加熱し成形した上で冷却した豆腐。英語表記はpackaged-tofu。衛生的で保存性が高いのが特徴。加熱で凝固させるので殺菌されて衛生的なため、長期保存に優れている。更に品質が均質で輸送に優れている上に葉酸(ビタミンB9)の含有量は他の種類の豆腐の約2倍である。 高野豆腐 鎌倉時代に生まれ、「凍み豆腐」(しみどうふ)、「氷豆腐」とも呼ばれる。昔は冬の冷気で水分を飛ばして乾燥させたが、現在は工場で一年中生産出来る。豆腐を凍結と解凍を繰り返して水分が抜け乾燥状態になっているため、豆腐の栄養成分が凝縮されている。カルシウムとリンなどミネラルが特に豊富で、ビタミンEやタンパク質も多い健康食材である。水(多くは出汁を含んだもの)に戻して用いる。詳しくは高野豆腐を参照。 堅豆腐 / 固豆腐 (かたとうふ)は、現在の日本で一般的となっている製法と異なり、濃度の高い豆乳を使ったり、にがりの代わりに海水を使うなど、さまざまな方法を用いて保存できるようにした種類の豆腐のことで、なかには荒縄で縛って持ち運びできるほど堅いものもある。狭義では日本各地で昔ながらに作られ続けている堅豆腐のみを指すが、広義では、文字どおりに同種の堅い豆腐全般を指す総称となっている。 狭義の堅豆腐、すなわち、日本の堅豆腐は、そもそも日本で作られ始めた当時のものに近いのであり、つまり、本来的には豆腐は堅豆腐、もしくは、それに似て非なる「堅い豆腐」であった。例えば江戸時代の浮世絵に描かれた豆腐もその多くは大きくしっかりとした長方体の堅豆腐である。現代では流通の不便な豪雪地帯や山岳地域あるいは離島などだけで変わらず作られ続ける伝統製法となっている。堅豆腐を作る地域としてしばしば例に挙げられる場所としては、加賀地方(石川県)の白山麓の一円の各所がその一つであり、なかでも旧・石川郡白峰村(現・白山市白峰)の石豆腐や、富山県五箇山の岩豆腐はよく知られている。これらの地では、肉類を食べるように堅豆腐が調理され、食べられている。 水分を減らしたもの 沖縄県の島豆腐:「生しぼり法」で作られ、豆乳の粘度が低い状態でにがりを混ぜるが、荷重と時間を多くかけて含水率を減らすため硬くなる。また、作りたてで新鮮なものが好まれるため、水にはさらさずに温かい状態で販売される。 京都府宇治市の黄檗豆腐:荷重と時間を多くかけて含水率を減らしたもので、普茶料理に使われる。 濃い豆乳 石川県白峰村の石豆腐(堅豆腐) 富山県五箇山の岩豆腐(堅豆腐) 徳島県祖谷地方(東祖谷山村・東祖谷山村)の岩豆腐(石豆腐) 熊本県球磨郡五木村の五木豆腐 海水利用 山口県祝島の石豆腐 長崎県五島列島の潮豆腐 長崎県壱岐市の壱州豆腐 沖縄県の糸満豆腐 沖縄県のシマ豆腐 大豆は唯一の原料とも言えるものである。まず第一に、タンパク質の含有分の高い事が求められ、香り、また遺伝子組み換えをしているか否かなどの安全面が考慮されることが多い。油糧用(大豆油用)や飼料用を除く食品用大豆の国内自給率は2013年度は25%(大豆全体では7%)、輸入大豆の約7割はアメリカ産である。アメリカ産大豆の作付け面積の9割は遺伝子組み換え大豆であるが、日本へ輸出されている大豆は非遺伝子組み換え大豆である。 国産大豆や有機大豆、非遺伝子組み換え大豆など、特色のある原材料を使用していることを表示する場合、「国産大豆使用」などと表示できるのは、100%その原材料を使用している場合のみで、100%未満の割合で使用している場合は「国産大豆○○%使用」もしくは「国産大豆○割使用」などと、使用割合を表示しなければならない。なお、使用割合は切り捨てまたは最小値を表示しなければならない。 また、遺伝子組み換え大豆を使用している場合、「遺伝子組換え」や「遺伝子組換え不分別」という表示が義務づけられている。遺伝子組み換え作物の表示の詳細については、遺伝子組み換え作物を参照。 化学的には豆腐の凝固は豆乳の蛋白質が凝固剤によりゲル化することで起こる。したがって、豆腐は架橋された蛋白質の網目構造に多数の水分子を取り込んだ構造である。 大別するとマグネシウムイオンあるいはカルシウムイオンが蛋白側鎖のカルボキシル基を架橋してゲルを形成する場合(塩析)と、酸が蛋白質の高次構造を変える(変性)ことによりゲルを形成する場合(酸凝固)とがある。前者には凝固剤として硫酸カルシウム、塩化マグネシウム、塩化カルシウム、硫酸マグネシウム等が使用され、後者はグルコノデルタラクトンが使用される。グルコノデルタラクトンの徐々に酸(グルコン酸)へと変化する性質が利用されている。なお、グルコン酸はグルコースの有機酸なので安全性は高い。 中国では伝統的に塩鹵(塩化マグネシウム)溶液、山礬(ハイノキ)や酸漿(ホオズキ)の葉のしぼり汁、石膏(硫酸カルシウム)などが使われたが、現在では石膏を粉末とし水に溶いたものを凝固剤とすることが多い。古来の日本の伝統的な製法では製塩の過程で生じるにがりが主に使われていた。日本でも硫酸カルシウムやグルコノデルタラクトンなどの凝固剤が多く使われていた時期があったが、近年は見かけなくなりつつある。また、中国や韓国でもこの製法を用いる工場がある。 一般的ににがりと呼ばれているものは、塩化マグネシウムが主成分で、古くは、塩田で海水から塩を作るときに、いっしょに抽出される副産物であった。また、塩を運搬する途中でにがり成分が分かれて梱包した俵に染み出すこともあり、海から遠い街道沿いではよく利用されていた。 現在では、工業化されて塩化マグネシウムの純度の高いものや、海外の岩塩採掘場で採取されたもの、あるいは国内外の工業的な製塩の過程で抽出されたものが多く、実際に塩田から取っているものは少ない。また一部豆腐製造業者の間では、凝固剤の総称として「にがり」の呼称を使っている場合もあり、注意が必要である。 第二次世界大戦前までは、このにがりを凝固剤に使用するのが主流であったが(一部では硫酸カルシウム[すましこ]も使われていた)、やがて統制品に指定されたため入手が困難となった。そこで同じように凝固反応を起こし、入手の容易な硫酸カルシウム(すましこ)への転換が進んでいった。硫酸カルシウムはにがりの主成分である塩化マグネシウムと比べて適正な凝固反応が起こるいわゆる凝固のストライクゾーンが広いため、保水性が高く肌理の細かい高品質な豆腐が、比較的容易に作りやすかった。そのため、戦後も機械化が進むにつれ、凝固材として使いやすい硫酸カルシウムへの転換が進んでいった。1980年代後半になって、にがりで作られた豆腐の味が見直され始め、最近ではスーパーマーケットなどで容易に塩化マグネシウムやにがりを使った豆腐が入手できるようになった。 おいしい豆腐の条件として水が挙げられる。豆腐の約80〜90%は水であり、また、豆腐の製造工程でのさらし水が良くなければ淡白な豆腐の味を損ねることになるためである。 江戸時代の日本では、落語の題材になったり、『豆腐百珍』のような料理本まで出るほど、広く庶民の食べ物となっていた豆腐は、比較的加工の度合いも低く、経験さえ積めば誰にでも容易に製造できたため、大正時代から昭和時代の第二次世界大戦前にかけては、一つの町内に一軒ずつ製造業者が存在するほどであった。辺鄙な田舎であることを表すのに「酒屋へ三里 豆腐屋へ二里」という狂歌もある。また、味噌などと同様に、各集落で共同で作られることもしばしばあった。 まず原料の大豆を、一夜(12時間ほど)真水に漬けておく。翌朝、十分に漬けあがった大豆を適度に水を加えながら石臼でクリーム状に磨り潰す、このクリーム状に磨り潰された大豆のことを「呉」と呼ぶ。次に呉をお釜に移し、適度に水を加えて濃度を調整し薪にて炊き上げる。この時、呉はサポニンの作用で激しく泡立つため、消泡剤として食用油に石灰を加えたものを適度に振りかける。十分に炊き上がった呉を、布で濾して豆乳を木桶に取る。この豆乳が冷えないうちに凝固剤としてにがりを適度に加え、櫂と呼ばれる木の板で撹拌する(にがりを打った以降の一連の作業を寄せと呼び、職人の技の見せ所である)。豆乳の濃度、温度、にがりの量、そして適度な「寄せ」がそろうと、豆乳は水と分離することなく固まり始め、やがておぼろ状、またはプリン状の豆腐となる。これを崩しながら内側に布を敷いた型の中に盛り込み、蓋をして重石を掛け、硬く水を切ると豆腐(木綿豆腐)となる。 石臼 石臼で磨り潰されることにより、必要な蛋白分や糖分のみが液中に飛び出し、渋みの多い皮の部分はあまり細かくなることなく、おからとして排出されやすくなると言われている。工業化された製法では、グラインダーで豆を微細に削る。石臼を使うと、呉の焼け(酸化)が少なくなるとも言われている。 お釜 いわゆる地釜(五右衛門釜)である。直火で炊き上げるため、呉が非常に焦げ付きやすく、濃く粘度の高い呉を使って、現在のような高濃度の豆乳を作ることは、事実上不可能であった。大豆固形分濃度は推定7 - 8%であったと考えられる。現在は蒸気釜で炊き上げるため焦げることはなく、豆腐の場合10 - 13%の豆乳が一般的である。 消泡剤 呉を炊くと、大豆中のサポニンが激しく泡立つため、お釜から呉が容易に吹きこぼれてしまう。また泡立った呉から取った豆乳もメレンゲ状の泡に包まれてしまうので、まともににがりを打ち、寄せの作業をすることが出来ない。このため古くから消泡剤を使うのが一般的であった(『豆腐集説』 1872年[明治5年])。また消泡剤には乳化剤としての側面も持っていて、呉液を乳化させることにより大豆中の旨み成分(大豆油のアミノ酸等)を豆乳の中に引き出す重要な役割も担っている。他方、最近では消泡剤を使用しない豆腐も注目を集めている。 にがり、寄せ さまざまな寄せの方法があるが、典型的な例として、桶の中の豆乳をにがりと反応させながら、櫂で中心に「寄せる」作業を行う。この時、豆乳は、蛋白の分子がにがりに反応して水の分子を包みながら網の目状に繋がり始め、大きく見るとプリン状になり、豆腐となる。お釜で炊かれた豆乳は、前述の通り濃度が低いので、蛋白分子が繋がった網の目構造の網の目が粗いものとなる(濃度が高いと緻密な網となる)。このため水をその網に十分に捕らえることが出来ないので離水しやすく、木綿豆腐を作ると、水切れがよく非常に硬い豆腐が出来上がる。ゆえに、古来の豆腐というのは、このように非常に硬い木綿豆腐であったと考えられる。 またこの方法で作られた豆腐は、最近まで山間部や離島などに残っていた。1980年(昭和55年)前後の岐阜県の徳山村や根尾村などで、この古典的な製法が確認されている。最近では、山間部で、逆に濃度の濃い豆乳を使って作った硬い豆腐を土産物的に売っているが、これは近代的に作られた似て非なるものである。 現代の日本における豆腐製造業者には、工場で大量生産する大手企業もあるが、中小企業や個人商店も非常に多い。全国豆腐連合会では、これは豆腐製造が微妙な技術を要することや、長期保存ができないなど、豆腐の特性が関係していると分析している。 また、中小企業側は中小企業事業分野調整法により、大企業が進出しようとする場合、都道府県知事を通じて経済産業大臣に調整(進出計画の撤退、縮小)の申し出をすることができる[出典無効]。そのため、当初大手メーカーは海外市場で販売を行っていた[出典無効]。しかし、包装技術の向上(真空充填、チルドなど)により長期保存、大量輸送が可能となり、また流通構造が大きく変化した現在では牛乳販売店などの宅配網や、インターネット等を中心に販売している[出典無効]。また、一部ではチルド製品を店頭販売している業者もある。日本最大の製造業者は相模屋食料。 一方、中小企業を中心とする従来の店頭販売では、スーパーマーケットやコンビニエンスストアの事業者の価格決定権が強く特売が当たり前になってしまい、特売が希望小売価格状態になってしまって経営を圧迫している。さらに、原料である大豆はそのほとんどをアメリカに依存しているが、原料である非遺伝子組み換え大豆生産量はアメリカにおける生産数の一割以下であり、遺伝子組み換え価格の約3倍の価格もする。また、アメリカのエネルギー安全保障政策でバイオ燃料作物への転作が進み急激な高騰や、包装等の資材の原油価格高騰による原材料費高騰も経営を圧迫している。前述の影響もあり、2003年度の全国の豆腐業者は約14000軒だったが、9年後の2012年度には約9000軒まで減少している。また、製造工程から出てくるおからは現在の法律上は産業廃棄物扱いであり、男前豆腐店の事件など不法投棄や処分費問題をかかえている。 おから :豆腐製造過程で出る副産物食品。栄養豊富な食品であるが、現代の日本では食品廃棄物であることが多い(あくまで現代日本に限ったことであり、時代と地域によって市場価値は大きく異なる)。 焼き豆腐 :表面を焼いて、焼き目を付けたもの。 乾燥豆腐:豆腐を塩蔵乾燥、凍結乾燥したり、燻製で乾燥して保存性を高めた豆腐。 六條豆腐:塩蔵乾燥させて作った豆腐は六條豆腐と呼ばれ、現在市販されているものとしては山形県岩根沢地方(西村山郡西川町)の六浄豆腐がある。豆腐を塩で水分を抜き、乾燥させたもの。非常に堅いため削ったものを食べたり、料理に使ったりする。 高野豆腐(凍り豆腐) :豆腐を凍結乾燥させたもの。 燻り豆腐:岐阜県郡上市大和町に伝わる燻り豆腐(いぶり豆腐)は、硬めの豆腐を長時間燻して作られた豆腐の燻製。熊本県五木村にも同様にして製造する桜燻製豆腐が伝わっている。 油揚げ :薄く切った豆腐を中心部まで火が通るように揚げたもの。 厚揚げ :厚く切った豆腐を揚げたもの。中が生の状態である事から「生揚げ」とも呼ぶ。 がんもどき :豆腐を崩して野菜を混ぜあわせて成形し油で揚げた加工品。 腐乳 豆腐よう 臭豆腐 醸豆腐(英語版) 熏豆腐(中国語版) 鶏糕(中国語版) 食品のなかには大豆とにがりを使用していなくても柔らかく豆腐状の物があり、「かわり豆腐」などと呼ばれる。 玉子豆腐 胡麻豆腐 杏仁豆腐 牛乳豆腐 ごどうふ - 日本(長崎県と佐賀県)の郷土食 ピーナツ豆腐・ジーマーミ豆腐 くるみ豆腐-日本(岩手県)の郷土食。磨ったくるみを葛粉などで固めたもの。 カシ豆腐 - 日本(高知県)の郷土食。イチイガシのドングリから抽出した澱粉を固めた食品。 蕎麦豆腐‐蕎麦粉を葛などのデンプンで固めたもの。 トトリムク - 大韓民国の食品。「ムク」は澱粉を固めた食品で、トトリムクはトトリ(ドングリ)澱粉を固めたもの。 メミルムク - 大韓民国の食品。メミル(ソバ)の澱粉を固めたもの。 ハウピア - ハワイのココナッツミルク豆腐 ひよこ豆豆腐 - ミャンマーのひよこ豆豆腐 フィリピンには「タホ (taho)」と呼ばれる菓子があり、水分の多い温かい豆腐(プリン状の豆乳)にタピオカと黒蜜をまぶして食べる。現地では朝食前にタホを食べる習慣があり、毎朝、天秤を担いだ「タホ売り」が家々を回る。この際、フィリピンのタホ売りは、かつての日本の豆腐の行商と同様にラッパを吹き鳴らして合図をする。 また、チェコのプラハでは、牛乳の代わりに豆乳を使って作ったチーズを \"tofu\" として売っている。プレーンタイプのほか、燻製タイプなど数種が、スーパーマーケットのチーズ売場で見られる。 豆腐料理 豆腐の再加工品 豆腐の関連食品 冷奴など生で食されることも多いが、調理される料理も非常に多い。 日本で一般的な料理 豆腐を具材の一つとする一般料理は多い。豆腐をメインの具材とした料理もある。 湯豆腐 味噌汁 味噌田楽・木の芽田楽 豆腐の味噌漬け 揚げ出し豆腐 擬製豆腐 炒り豆腐(煎り豆腐) 豆腐ハンバーグ すき焼き 卯の花 夫婦炊き :豆腐(主に焼き豆腐)と油揚げの煮物。 空也豆腐 :豆腐入りの茶碗蒸し。「空也蒸し」とも言う。 日本の郷土料理 半助豆腐 :大阪の郷土料理 どじょう豆腐 :店によっては「どぜう豆腐」「地獄鍋」「地獄煮」「どじょう地獄」などと呼ぶ。 チャンプルー :沖縄の郷土料理。 冷や汁 山掛け : 豆腐にとろろをかけたもの。「山掛け豆腐」、「いもかけどうふ」とも呼ぶ。 日本以外の料理 麻婆豆腐 スンドゥブ・チゲ 豆腐百珍 日本で江戸時代に著された『豆腐百珍』には、その名のとおり100種類の豆腐料理が紹介されている。 甘露豆腐 埋豆腐 :味噌汁かけご飯。 榧の揚げ豆腐 真のうどん豆腐 再び田楽 豆腐は、冷奴や湯豆腐などでは奴切り、味噌汁や吸い物などでは賽の目切りや色紙切りなどに調理される。 豆腐を揚げたり、焼いたり、炒めたりする場合など豆腐料理の種類に応じて水切りが必要となる場合がある。 植物性蛋白質が豊富。カロリーは比較的低いため、健康的な食品としてアメリカやヨーロッパなどでも食材として使われるようになっている。製法工程上、食物繊維の多くは製造過程で滓として分けられるおからのほうに含まれるため、豆腐は、大豆の加工品でありながら食物繊維の含有量は少ない。 絹ごし豆腐100g中には、水分89.4g、蛋白質5.0g、脂質3.3g、糖質1.7gが含まれ、58kcalのカロリーがあると言われている。脂肪エネルギー比は51.7%であり、原料となる乾燥大豆の38.6%を上回る。 とても柔らかいものの例として用いられている。 豆腐に鎹 木材をつなぎ止めるものである鉄製の鎹(かすがい)を軟らかい豆腐に打ち込もうとする様を表す、日本語慣用句で、「手応えが無い」という意味。類似表現に「糠に釘」「暖簾に腕押し」がある。 豆腐の角に頭をぶつけて死ね 古典落語の演目『穴どろ』に登場する罵倒の台詞に由来する。角の尖った四角い物とは言え、柔らかな豆腐の角に頭を打ち付けても死ぬようなことは不可能であるのに、真に受けて本当に豆腐に頭をぶつけて死のうとする、それほどに愚かな者だと嘲る言葉である。類似表現として「うどんで首吊って死ね」「自分の耳齧って死ね」が存在する。 日本には、豆腐あるいは豆腐売りをモチーフにした豆腐小僧という妖怪の伝説がある。 日本において、庶民の日常食材として使われた豆腐は落語にも登場する。 酢豆腐 通人ぶった若旦那に、腐った豆腐を「酢豆腐」と称して言葉巧みに食わせてしまう。 釜泥 大盗賊・石川五右衛門が釜茹でで処刑された後、子分たちが「親分の仇」とばかりに方々の大釜を盗み出して壊すという暴挙に出る。2度も大釜を盗まれ、商売上がったりの豆腐屋は・・・。 家畜の飼育者や動物園の一部は、餌として豆腐やおからを与えている。 パソコンにおいて、フォントが対応していないために表示できない文字は、小さい四角(□)で置き換えられる事が多く、これをネットスラングで豆腐と呼ぶ。Googleが配布している「Noto」というフォントの名前はこのスラングに由来(no more tofu)しており、インターネット上で表示できない文字を無くすという意味が込められている。 神奈川県鎌倉市には豆腐川という川がある。 厚労省によると日本では、かつて細菌の繁殖で健康被害が発生したことから1974年に、おおむね10度以下の冷蔵保存か、水槽内で冷水を絶えず交換しながら保存するなどの製造・保存基準が定められたという。国内メーカーは1986年から常温保存用の豆腐(無菌充填など)を輸出しており、これに関して業界団体は災害時の販売・配布の観点からも基準の見直しを要望してきた。 林真司『沖縄シマ豆腐物語』 潮出版社 2014年 ISBN 978-4-267-01968-5 ^ 日本の豆腐は豆腐ようなど一部を除いてほとんどが発酵していないものである。中国では豆腐を発酵させた腐乳や臭豆腐も一般的。 ^ この説には腐乳は清朝(『隋園食単』 岩波書店 1980年)になってからであるという反論がある。著者は北方遊牧民族に腐乳が見当たらないとも書いてある。 ^ 古来の豆腐は堅いタイプであるため、豆腐の全史からすれば、柔らかい豆腐のデリケートさは最近のものである。 ^ アメリカなどではブームの到来以前から一定の人気はあったものの、食料品店で日常的に売られるような食品ではなかった。 ^ 「ほととぎす自由自在にきく里は酒屋へ三里豆腐やへ二里」(ほととぎすの声が聞けるような場所は、近くの酒屋豆腐屋へ2里3里もある不便な田舎だ)江戸時代後期に、ほととぎすの多い郊外へ引っ越すことが流行った。当時の見さかいのない風流ばやりを馬鹿にした句。 ^ 古典的製法の古文書は「豆腐集説」を参照のこと ^ a b c d e f g h i 『Cook料理全集5 豆腐と豆の料理』 p.202 千趣会 1976年 ^ 醒狂道人何必醇 輯『豆腐百珍』正編、1782年 ^ 滑壽(写作) 呉勉学『難経本義』(三十一難) 宋代 ^ 『中国語大辞典』 角川書店 1994年 ^ a b 松崎修『食文化雑学:言語から考えるホントの語源』 文芸社 2015年 ^ “いわれ”. 豆富料理 笹乃雪. 2015年11月18日閲覧。 ^ a b c d e f 杉田浩一編『日本食品大事典』 医歯薬出版 p.84 2008年 ^ a b “豆腐の歴史 15. 豆腐のルーツは中国。その発明者は?”. 日本豆腐協会. 2012年2月11日閲覧。 ^ a b c d 岡田哲著『たべもの起源事典』 東京堂出版 p.314 2003年 ^ a b c 『丸善食品総合辞典』丸善 p.754 1998年 ^ 陶穀 『清異録』官志門・小宰羊。「時戢為青陽丞、潔己勤民、肉味不給、日市豆腐数箇。邑人呼豆腐為小宰羊。」 ^ 『古代日本のチーズ』 角川書店 1996年 ^ a b “豆腐の歴史 16. 日本に豆腐の製造方法をもたらしたのは遣唐使?”. 日本豆腐協会. 2018年6月16日閲覧。 ^ 飯野亮一『居酒屋の誕生』 ちくま学芸文庫 2014年、ISBN 9784480096371 pp.284-285 ^ “豆腐の歴史 7. 江戸で評判だった豆腐料理屋”. 日本豆腐協会. 2018年6月16日閲覧。 ^ “探訪 都の企業:<こだわり製品編>【上】豆腐屋のラッパ復刻 日本教育楽器(港区芝大門)”. 東京新聞. (2013年7月30日). http://www.tokyo-np.co.jp/feature/kigyou/news/130730.html 2018年6月16日閲覧。  ^ “ぶらり途中下車の旅 放送内容 2012年11月3日放送分”. 日本テレビ. 2018年6月16日閲覧。 ^ “11月16日放送 “ものづくり”心と技を次世代へ NHK「団塊スタイル」公式ホームページ”. 日本放送協会. 2012年12月21日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2018年6月16日閲覧。 ^ 野瀬泰申. “豆腐(その3) 豆腐屋の合図はラッパ、それとも鐘?”. 日本経済新聞 電子版. 日本経済新聞社. 2011年12月8日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年2月11日閲覧。 ^ William Shurtleff; Akiko Aoyagi (2013). History of Tofu and Tofu Products (965 CE to 2013). Soyinfo Center. pp. 72-73. ISBN 1928914551. https://books.google.com/books?id=gGrUNvZt0_YC&pg=PA73.  ^ a b c d e f 『丸善食品総合辞典』丸善 p.753 1998年 ^ a b c d e 杉田浩一編『日本食品大事典』 医歯薬出版 p.86 2008年 ^ a b 「日本型食生活の歴史」 安達巖 ^ a b c 杉田浩一編『日本食品大事典』 医歯薬出版 p.85 2008年 ^ 『丸善食品総合辞典』丸善 pp.753-754 1998年 ^ 森孝夫『食品加工学実験書』 ^ 山口百々男『日本の文化・観光・歴史辞典』 ^ a b c d e f g “食彩の王国 第412回『堅とうふ』”. tv asahi (ウェブサイト). テレビ朝日. 2018年6月16日閲覧。 ^ “豆腐・原料大豆の消費量”. 全国豆腐連合会. 2018年6月16日閲覧。 ^ “大豆のまめ知識:Q.5 大豆の自給率は?”. 農林水産省. 2018年6月16日閲覧。 ^ “大豆のまめ知識:Q.18 日本の大豆の輸入相手先は?”. 農林水産省. 2018年6月16日閲覧。 ^ 大北昌彦「商社の人と仕事 非遺伝子組み換え大豆の安定確保への取り組み (PDF) 」 、『日本貿易会月報』2009年5月号No.670、日本貿易会、2009年5月、 51-53頁、2018年6月16日閲覧。 ^ “アメリカ大豆って?”. アメリカ大豆輸出協会. 2018年6月16日閲覧。 ^ “大豆のまめ知識:Q.49 国産大豆使用製品の表示は?”. 農林水産省. 2018年6月16日閲覧。 ^ “加工食品品質表示基準改正のポイント 「特色のある原材料表示」及び「原料原産地表示」 (PDF)”. 東京都福祉保健局. 2018年6月16日閲覧。 ^ “大豆のまめ知識:Q.50 遺伝子組換え大豆に係る表示は?”. 農林水産省. 2018年6月16日閲覧。 ^ 『本草綱目』穀之四・豆腐 ^ a b 『Cook料理全集5 豆腐と豆の料理』 p.203 千趣会 1976年 ^ “豆腐事業者数の推移・販売額等”. 全国豆腐連合会. 2018年6月16日閲覧。 ^ a b c “森永宅配ミルク”. (公式ウェブサイト). 森永乳業. 2012年2月11日閲覧。 ^ a b c “ほんとうふ”. (公式ウェブサイト). ハウス食品. 2012年2月11日閲覧。[リンク切れ] ^ “豆腐 - チルド商品”. SHOPハウス(公式ウェブサイト). 井村屋. 2012年2月11日閲覧。[リンク切れ] ^ a b “豆腐店、続々廃業「365日働いても利益ない」”. 読売新聞. (2013年11月2日). http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20131102-OYT1T00227.htm 2013年11月3日観覧閲覧。  ^ 『広辞苑 第5版』 岩波書店 ^ a b 『Cook料理全集5 豆腐と豆の料理』 p.190 千趣会 1976年 ^ “豆腐と栄養・健康”. (公式ウェブサイト). 愛知県豆腐商工業協同組合[1]. 2012年2月11日閲覧。 ^ “Google Noto Fonts”. Google Inc.. 2017年4月20日閲覧。 ^ “豆腐の「常温」販売を解禁へ 非常食での利用も可能に”. 朝日新聞. (2016年11月29日). オリジナルの2016年11月29日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161129182116/https://www.asahi.com/articles/ASJCY55H2JCYULBJ00F.html  ^ “災害時の重要なたんぱく源…豆腐「常温で販売」解禁へ”. 読売新聞. (2016年11月30日 deadlinkdate = 2018-06-16). オリジナルの2016年12月1日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161201132751/https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20161130-OYTET50014/  ^ 長澤まき (2016年11月30日). “1~2年後に「豆腐」が常温販売されるように?厚労省の決定に驚きの声”. IRORIO. 2018年6月16日閲覧。 “全豆連”. (公式ウェブサイト). 全国豆腐連合会. 2012年2月11日閲覧。 “日本豆腐協会”. (公式ウェブサイト). 日本豆腐協会. 2012年2月11日閲覧。 “東京都豆腐商工組合”. (公式ウェブサイト). 東京都豆腐商工組合. 2012年4月17日閲覧。" ]
ABC01-02-0175
神が弟の供物のみを受け取り、恥をかかされたことが動機になったという、旧約聖書に登場する人類最初の殺人犯は誰でしょう?
カインとアベル
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[ "カインとアベル", "タマル (創世記)", "ピネハス (祭司)", "マリア (クロパの妻)", "アンナ (預言者)" ]
[ "カインとアベルは、旧約聖書『創世記』第4章に登場する兄弟のこと。アダムとイヴの息子たちで兄がカイン(קַיִן)、弟がアベル(הֶבֶל)である。人類最初の殺人の加害者・被害者とされている。 カインとは本来ヘブライ語で「鍛冶屋、鋳造者」を意味し、追放され耕作を行えなくなったカインを金属加工技術者の祖とする解釈も行われている。アベルとは「息」を意味する。 この説話を、「遊牧民(=アベル)と農耕民(=カイン)の争い、遊牧民の農耕民に対する優越性を正当化するもの」と、解釈する向きもある。 カインとアベルは、アダムとイヴがエデンの園を追われた(失楽園)後に生まれた兄弟である。また、この二人の弟にセト(セツ)がいる。カインは農耕を行い、アベルは羊を放牧するようになった。 ある日2人は各々の収穫物をヤハウェに捧げる。カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェはアベルの供物に目を留めカインの供物は無視した。これを恨んだカインはその後、野原にアベルを誘い殺害する。その後、ヤハウェにアベルの行方を問われたカインは「知りません。私は弟の監視者なのですか?」と答えた。これが人間のついた最初の嘘としている。しかし、大地に流されたアベルの血はヤハウェに向かって彼の死を訴えた。カインはこの罪により、エデンの東にあるノド(נוֹד、「流離い」の意)の地に追放されたという。この時ヤハウェは、もはやカインが耕作を行っても作物は収穫出来なくなる事を伝えた。また、追放された土地の者たちに殺されることを恐れたカインに対し、ヤハウェは彼を殺す者には七倍の復讐があることを伝え、カインには誰にも殺されないためのカインの刻印(英語版)をしたという。 カインは息子エノクをもうけ、ノドの地で作った街にもエノクの名をつけた。 エチオピア正教会およびエリトリア正教テフワド教会の聖典『ヨベル書』(他の教会では偽典とされる)によれば、カインは第2ヨベル第3年週にアダムの妻から長男として生まれた。妻は同ヨベルの第5年週に生まれた妹のアワンである。 同じくエチオピア正教等の聖典『エノク書』第22章には、冥界を訪れたエノクが大天使ラファエルの案内で死者の魂の集められる洞窟を目撃した事が記されている。それによると、アベルの霊はその時代になってもなお天に向かってカインを訴え続けており、カインの子孫が地上から絶える日まで叫び続けるという。 カインの子孫であるトバルカインは「青銅や鉄で道具を作る者」と『創世記』第4章に記されている。また、トバルカインの異母兄弟であるヤバルは遊牧民、ユバルは演奏家の祖となった。さらに彼らの父であるレメクは戦士だったらしく「わたしは受ける傷のために人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」と豪語している(『創世記』第4章22節)。 『創世記』内では前述のレメクの尊大な言い方がある程度で、カインの子孫は邪悪と明記している部位は特にないが、1世紀頃のユダヤ人たちからは「カインの子孫は悪徳や腐敗を重ねた連中達だった」とされ、このため大洪水で滅ぼされる対象になったのだとされた。 『ベーオウルフ』に登場する巨人グレンデルはカインの末裔とされている。 親の愛をめぐって生じた兄弟間の心の葛藤等を指すカインコンプレックスは、この神話から名付けられたものである。小説および映画『エデンの東』のほか、小野不由美のホラー小説・屍鬼ではカインとアベルが重要なファクターとして登場するなど、この二人の物語を題材にした作品も多い。カインとアベルは兄弟の代名詞でもあり、「運命的な兄弟」を暗示させる言葉として下記作品のタイトルにも使用されている。 カインの末裔‐有島武郎の小説 ケインとアベル - ジェフリー・アーチャーの小説、及びそれを原作とするテレビドラマ。 レイク・デッド ケインとアベル - ホラー映画。 カインとアベル - 2016年10月〜フジテレビ系「月9」放送枠のテレビドラマ。 「カインとアベル」の説話に先行するものとして、シュメール神話の「ドゥムジ(タンムーズ)神とエンキムドゥ(エンキドゥ)神」が存在する。女神「イナンナ」の花婿選びにおいて、牧畜神「ドゥムジ(タンムーズ)」と農耕神「エンキムドゥ(エンキドゥ)」の二柱の夫候補がおり、イナンナは美男のエンキムドゥ(エンキドゥ)の方を気に入っていたが、エンキムドゥ(エンキドゥ)は辞退し、花婿の座をドゥムジ(タンムーズ)に譲ってしまう。こうしてイナンナの夫にドゥムジ(タンムーズ)が選ばれたのである。 ^ 創世記(口語訳)#4:1 ^ 中村妙子『旧約聖書ものがたり』日本キリスト教団出版局、2012年、19頁。 ^ 創世記(口語訳)#4:25 ^ フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌1 旧約時代編[I][II][III][IV]』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08531-9、P41・45。 カイン (曖昧さ回避) アベル (曖昧さ回避) 天地創造", "タマルは、旧約聖書の『創世記』に登場する人物で、ユダの息子たちの妻。 ユダの長男・エル(英語版)と結婚するが、死別。その後、ユダは次男・オナンに対し、タマルと結婚し兄の血筋を残すよう命じる。しかし、オナンはタマルと関係を持つたびに、子種を地に流した(膣外射精)ため、神により殺される。ユダは、タマルに、三男シェラ(英語版)が成人するまで未亡人として実家に留まるよう命じた。(『創世記』38章) その後、タマルはシェラと再婚する見込みがないことが判明すると、身分と姿を娼婦に偽り、ユダと関係を持つ。この時、代価の支払いの保証として、ユダの印章と杖を預かった。タマルの姦淫を密告するものがあったが、相手がユダであることが証明され処罰を免れる。タマルはペレツとゼラという双生児を出産した。(『創世記』38章) タマルとユダの姦淫は、芸術作品のモチーフとなっている。 レビラト婚 オナニー", "ピネハスは、旧約聖書の『出エジプト記』などに登場するユダヤ人の祭司。 レビ族の出身で祭司エルアザルの息子であった。荒れ野を放浪するイスラエルの民がシティムで異教神バアルを拝んでいたとき、ピネハスはミディアン人の女を連れ込んだイスラエルの男性をもろともに槍で突き刺した。これを神はよろこび、イスラエルを襲わせた災害を去らせ、ピネハスとその子孫に永遠の祭司職を約束する(『民数記』25:1-18)。 イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。そして主はモーセに言われた、「民の首領をことごとく捕え、日のあるうちにその人々を主の前で処刑しなさい。そうすれば主の怒りはイスラエルを離れるであろう」。モーセはイスラエルのさばきびとたちにむかって言った、「あなたがたはおのおの、配下の者どもでペオルのバアルにつきしたがったものを殺しなさい」。モーセとイスラエルの人々の全会衆とが会見の幕屋の入口で泣いていた時、彼らの目の前で、ひとりのイスラエルびとが、その兄弟たちの中に、ひとりのミデアンの女を連れてきた。祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスはこれを見て、会衆のうちから立ち上がり、やりを手に執り、そのイスラエルの人の後を追って、奥の間に入り、そのイスラエルの人を突き、またその女の腹を突き通して、ふたりを殺した。こうして疫病がイスラエルの人々に及ぶのがやんだ。しかし、その疫病で死んだ者は二万四千人であった。主はモーセに言われた、「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。 — 民数記25章3節から13節(口語訳) やがて、イスラエル全体の指導者の一人となっていたピネハスはヨルダン川東側に移動したルベン族、ガド族、マナセ族が勝手に祭壇を築いたときには同地へ赴き、これを糾弾している。ルベン族らはこれに弁明し、戦争の危機は回避された(『ヨシュア記』22:16-20)。", "クロパの妻マリアは新約聖書の内、『ヨハネによる福音書』<19章25節>でイエスの磔刑を見守る場面に登場する女性たちの一人。『マルコによる福音書』<15章40節>に登場する小ヤコブとヨセの母マリアと同一人物であるとする説もある。 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグラダのマリアとが立っていた。 — 新共同訳ヨハネによる福音書19:25 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。 — 口語訳ヨハネによる福音書19:25 さてイエスの十字架の傍らには、その母と母の姉妹と、クロパの妻マリヤとマグダラのマリヤと立てり。 — 文語訳ヨハネによる福音書19:25 さて耶穌の母はゝと母はゝの妹いもと及およびキロパの妻つまなるマリアとマグダレネのマリアとその十字架じうじかのかたはらにたてり — ヘボン訳ヨハネによる福音書19:25 「クロパの妻マリア」は「イエスの母マリアの姉妹」であるとする説もあるが、福音書の版により「クロパの妻マリア」と「イエスの母マリアの姉妹」とを別人と読むこともできる。 ^ 『レクラム版 聖書人名小事典』p.259 ハンス・シュモルト著、高島市子 訳 『レクラム版 聖書人名小事典』 創元社、2014年9月20日初版。 マリア マリア (小ヤコブとヨセの母) 口語訳新約聖書(ウィキソース) (日本聖書協会翻訳、1954年) 文語訳新約聖書(ウィキソース) (日本聖書協会翻訳、1917年) ヘボン語訳新約聖書(ウィキソース) (日本聖書協会翻訳、1872-3年)", "アンナは新約聖書の『ルカによる福音書』2:36-38に登場する女性の預言者。正教会で聖人。正教会での称号は預言女アンナ。正教会での祭日は2月3日(2月16日)。 アシェル族のファヌエルの娘で、若いときに夫に死に別れてからエルサレム神殿で神に仕える暮らしをしていた。八十四歳のとき、イエスと両親が神殿をおとずれたのを見、救い主であるイエスをつかわした神を賛美して、イエスのことをエルサレムの人々に告げた。 聖書の登場人物の一覧 主の迎接祭のイコン(大阪ハリストス正教会)" ]
ABC01-02-0176
実働1年間で5勝1敗9Sの成績を挙げた、南海から留学中の昭和39年、サンフランシスコ・ジャイアンツに昇格し、日本人初の大リーガーとなったのは誰でしょう?
村上雅則
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[ "村上雅則", "砂川リチャード", "飯田優也", "大廣翔治", "児玉龍也" ]
[ "村上 雅則(むらかみ まさのり、1944年5月6日 - )は、山梨県出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者。 日本人初のメジャーリーガーとして有名。また、アジア人初のメジャーリーガーでもある。メジャー時代の愛称は「マッシー・ムラカミ」。 法政二高では2年生の時、1961年春の選抜にエース柴田勲の控え投手として出場。準決勝の平安戦で柴田をリリーフして登板。この大会で法政二高は、決勝で高松商を降し、前年からの夏春連覇を達成する。柴田以外のチームメートに的場祐剛中堅手、是久幸彦三塁手がいた。法政二高は同年夏の甲子園にも出場するが、県大会の直前のバッティング練習で打球が手首に直撃し骨折したため欠場。秋季大会も骨折の影響で県大会で敗退し、翌1962年の春の選抜は出場かなわず。夏はエースとして県予選準決勝まで進出するが、直前に罹った食中毒の影響で慶應高に敗退、甲子園には届かなかった。 大学進学を予定していたが南海ホークスの鶴岡一人の目に留まり、鶴岡から「ウチへ入ったらアメリカに行かせてやる」と口説かれ、高校在学中の1962年9月に南海と契約を結ぶ。プロ2年目の1964年神宮球場でジュニアオールスターゲームで敗戦投手、プロ3年目の1964年、メジャーリーグベースボール・サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣された。この時、ジャイアンツはメジャー昇格者が出た場合、1万ドルの金銭トレードで契約できるという条項を入れたが、南海側は昇格者が出るわけがないと高をくくっていた。 アメリカに渡った当初は英語がほとんどわからず、辞書を使ってチームメイトと会話をしていたという。当初派遣は6月中旬までの予定だったが、そのままフレズノでプレーしていた。この年の南海はジョー・スタンカ、杉浦忠の両輪に野村克也や広瀬叔功を擁して日本一になるなど戦力は充実しており、南海からの帰還要請はなかった。 同年8月31日、突然メジャー昇格を言い渡される。サンフランシスコ・ジャイアンツの遠征先であるニューヨーク行きの航空券を渡されてそのまま空港へというあわただしい状況だったという。ニューヨークに着くと、チームの関係者から「契約書にサインをするように」と言われて契約の中身もわからずサインをした村上は、翌9月1日の対ニューヨーク・メッツ戦に日本人として初めてメジャー登板を果たした。 9月29日に対コルト45's戦の9回同点の場面で登板して11回までを無失点に抑え、11回にチームがサヨナラ勝ちしたため初の日本人メジャー勝利投手となった。同年は9試合に投げ1勝1セーブ、防御率1.80の好成績を収めた。しかし、当時の日本は1964年東京オリンピック準備と開催の真っ只中だったため、日本マスコミの扱いは小さかった。 翌1965年もジャイアンツとの契約を結んだが、そのオフに南海が留学の際の契約を反故にし村上を帰還させるよう主張したことで、村上の保有権を巡りホークス・ジャイアンツ両球団間で紛糾が勃発した。話し合いは平行線をたどり、また、メジャーリーグコミッショナーのフォード・フリックは当然のことながらジャイアンツを全面支持した。これに対し、日本野球機構コミッショナーの内村祐之は1965年シーズン終了をもって南海に復帰させるという妥協案を提示し、シーズン開幕後の4月末にようやく決着。この年、日本人初の安打も記録している。 村上は都合2年間メジャーでプレーした(詳しくは日本人選手のメジャーリーグ挑戦を参照)。村上はメジャー残留を希望し、ジャイアンツも再契約する意向だったが、両親やチームの説得に加え、事実を全く把握していないマスコミには「村上はわがまま」批判され、泣く泣く断念した。 1965年オフ、南海鶴岡監督の勇退予定が、後任の蔭山和夫の急死で、改めて鶴岡監督が復帰した。村上はまだアメリカで野球を続けたかったが、鶴岡への義理を果たすため、1966年に南海に復帰した。同年は6勝4敗を記録してリーグ優勝に貢献するが、当初の期待ほどの活躍はできず不評を買う。しかし巨人に敗退した日本シリーズでは、リリーフながら6試合中の5試合に登板した。1968年には皆川睦雄に次ぐ18勝を挙げて面目を果たす。同年は勝率.818で最高勝率のタイトルを獲得した。その後も先発として活躍を続け、1971年にはチーム1位の14勝をあげる。1973年には先発陣を外れたものの、7年振りのリーグ優勝に貢献、同年の日本シリーズでも登板。 1972年頃から、野村克也選手兼任監督の自身の起用法に不満があり、1974年には登板機会が減少、同年オフに阪神タイガースに相羽欣厚とともに、和田徹と野上俊夫との交換トレードで移籍した。阪神では主に中継ぎとして起用される。大洋戦で1試合だけローテーションの谷間に先発したが、早々に打ち込まれ敗戦投手となった。 1975年オフに後藤和昭とともに東田正義との交換トレードで日本ハムファイターズに移籍。1年目から中継ぎとして復活、1977年にはリーグ最多登板を記録する。1978年もリーグ最多登板、12勝をあげた。その後も安定した活躍を続け、1981年にはチームのリーグ優勝に貢献、同年の日本シリーズでは2試合に登板している。 1982年オフに日本ハムを退団し、これが現役選手としての引退となった。1983年、サンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングキャンプに参加。選手契約には至らなかったが、ホームゲーム専用の打撃投手として契約した。 その後はニッポン放送解説者(1984年 - 1986年)を経て、球団常務大沢啓二の要請で1987年から1988年まで日本ハム二軍投手コーチ、1989年南海時代の同僚でダイエーの監督だった杉浦忠の要請でダイエー一軍投手コーチ、翌1990年は二軍投手コーチを務めるも解任。1991年から1992年はNHK BS1解説者、西武の監督森祇晶の推薦で1993年から1994年まで西武二軍投手コーチを務めた。日本ハムコーチ時代87年オフ松浦宏明を一軍に送り出した事を大沢に評価され一軍投手コーチの話が出たが監督の高田繁が村上の一軍コーチ就任を拒否した為翌年も2軍投手コーチを務めて退団、奇しくも高田も1988年限りで日本ハムを退団している。 その後はサンフランシスコ・ジャイアンツ極東担当スカウト、デイリースポーツ野球評論家を務め、現在はNHK-BS1大リーグ中継解説者。また、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスにも参加している。 2014年5月15日、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地AT&Tパークで行われたマイアミ・マーリンズ戦の試合前の始球式を務めた。 各年度の太字はリーグ最高 NPB 最高勝率:1回 (1968年) NPB初記録 初登板:1963年9月1日、対毎日大映オリオンズ10回戦(大阪スタヂアム)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点 初奪三振:同上、9回表に塩津義雄から 初勝利:1966年4月12日、対東映フライヤーズ1回戦(後楽園球場)、7回裏に4番手で救援登板・完了、4回無失点 初先発:1966年8月4日、対近鉄バファローズ17回戦(日生球場)、5回2失点 初先発勝利・初完投勝利:1968年6月29日、対近鉄バファローズ16回戦(大阪スタヂアム)、9回3失点(自責点2) 初完封勝利:1968年8月19日、対西鉄ライオンズ19回戦(小倉球場) 初セーブ:1975年4月6日、対中日ドラゴンズ2回戦(中日スタヂアム)、7回裏2死に2番手で救援登板、2/3回無失点 NPB節目の記録 100勝:1979年6月17日、対近鉄バファローズ前期11回戦(藤井寺球場)、5回裏2死に2番手で救援登板・完了、4回1/3を無失点 ※史上74人目 500試合登板:1979年8月29日、対南海ホークス後期8回戦(後楽園球場)、6回表2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を無失点 ※史上41人目 NPBその他の記録 1試合5与死球:1972年8月29日、対西鉄ライオンズ戦※日本プロ野球記録 オールスターゲーム出場:1回 (1971年) 10 (1962年 - 1964年) 37 (1965年、1976年 - 1982年) 15 (1966年 - 1974年) 12 (1975年) 73 (1987年 - 1988年) 85 (1989年) 74 (1990年) 76 (1993年 - 1994年) 『たった一人の大リーガー』(恒文社、1985年) ISBN 4-7704-0614-2 『ヒットバイピッチ:メジャーリーグTV観戦ガイド』(ザ・マサダ、2001年10月、ISBN 4883970736) 『ウェルカム・メジャーリーグ 2008』(責任編集、白夜書房(白夜ムック)、2008年4月、ISBN 9784861913983) 『大リーグのひみつ』(常野啓漫画、学研まんが新ひみつシリーズ、2003年5月、ISBN 4052017668) 『NHKメジャーリーグガイド』シリーズ(2006年 - 2007年、NHK出版編、日本放送出版協会(教養・文化シリーズ)) 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑』シリーズ(2004年 - 現在、友成那智編著、廣済堂出版) ニッポン放送ショウアップナイター(マッシー・村上名義) ラジオ日本ジャイアンツナイター メジャーリーグ中継 (NHK) ^ スポーツニッポン村上雅則の我が道2016年7月9日 ^ スポーツニッポン村上雅則の我が道2016年7月27日 ^ スポーツニッポン村上雅則の我が道2016年7月12日 ^ a b c スポーツニッポン村上雅則の我が道2016年7月23日 ^ スポーツニッポン村上雅則の我が道2016年7月27日 ^ a b c d e スポーツニッポン村上雅則の我が道2016年7月30日 ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」645ページ 山梨県出身の人物一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 日本人のマイナーリーグ選手一覧 メジャーリーグベースボールの選手一覧 M 日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧 阪神タイガースの選手一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)", "砂川 リチャード オブライエン(すながわ リチャード オブライエン、1999年6月18日 - )は、沖縄県中頭郡北中城村出身のプロ野球選手(内野手・育成選手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 北中城村立北中城中学校では、同校の軟式野球部と硬式野球の「中部育成会」に所属していた。3年生の時には、中頭地区陸上競技大会において男子砲丸投げで3位に入賞した経験を持つ。 高校は、那覇市の沖縄尚学高等学校に進学。甲子園出場経験は無いが、3年生の春季沖縄県大会では通算打率.444を記録し、高校通算25本塁打の長打力が注目される。 2017年10月26日に行われたプロ野球ドラフト会議にて、福岡ソフトバンクホークスから育成選手三巡目指名され、12月1日、入団交渉において支度金300万円、年俸360万円(金額は推定)で契約合意に達し、12月7日、福岡市内のホテルで入団発表会見が行われた。 背番号は127。 高校通算25本塁打の大型内野手。 元米海兵隊員の父と日本人の母を持ち、実兄は2018年にシアトル・マリナーズからドラフト6巡目(全体178位)で指名され、傘下のマイナーリーグに所属するジョーイ・オブライエン。 127 (2018年 - ) ^ ソフトバンク - 契約更改 - プロ野球. 日刊スポーツ. 2018年12月14日閲覧。 ^ a b “沖尚の砂川、プロ志望”. 沖縄タイムス (2017年10月3日). 2018年9月29日閲覧。 ^ “北中城中学校沿革史”. 北中城村立北中城中学校. 2018年9月29日閲覧。 ^ a b “砂川「チャンス逃さず」 育成枠でソフトバンク入団”. 琉球新報 (2017年12月2日). 2018年9月29日閲覧。 ^ a b “25発沖縄尚学・砂川リチャード、清宮の打球に脱帽”. 日刊スポーツ (2017年5月27日). 2018年9月29日閲覧。 ^ “2017/12/07(木) 選手 新入団会見レポ。1位吉住投手「夢は最多勝」”. 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト (2017年12月7日). 2018年9月30日閲覧。 ^ “夢の日米兄弟対決へ、ソフトバンク・砂川リチャードの挑戦”. スポーツ報知 (2018年6月20日). 2018年9月29日閲覧。 沖縄県出身の人物一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 兄弟スポーツ選手一覧#野球 個人年度別成績 砂川リチャード - NPB.jp 日本野球機構 選手名鑑 127 砂川 リチャード - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト", "飯田 優也(いいだ ゆうや、1990年11月27日 - )は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。阪神タイガース所属。実兄は福岡ソフトバンクホークス二軍ブルペン担当の飯田一弥。 4歳の頃、阪神・淡路大震災により西宮市の自宅で被災。猫に起こされ難を逃れたが、仮設住宅住まいを経験し、その後愛媛県の祖母の家で4年間を過ごす 。 神戸弘陵学園高等学校時代、背番号13で登録された3年時の夏に東兵庫予選大会決勝(この年は90回記念大会により兵庫を東西に分けて2校選出。)に進出したが、報徳学園に延長12回サヨナラ負けで準優勝だった。登板は3回戦の伊丹高等学校戦での中継ぎ1試合のみ。甲子園出場実績はなし。 高校卒業後は、北海道学生野球連盟に加盟する東京農業大学北海道オホーツク硬式野球部(進学時は東京農業大学生物産業学部硬式野球部)へ進学。進学後は1年時春からリーグ戦に出場。 3年時春のリーグ戦で優勝して大学選手権出場を果たし、神宮球場のマウンドを経験したが、初戦の横浜商科大学戦では6回1死二三塁の場面で救援するものの、2点適時打を浴び救援失敗。 先発した慶應義塾大学戦では制球が乱れ先頭から2連続四球、結局適時打を許し1死も取れずKOされ敗戦投手になった。 2012年10月25日、プロ野球ドラフト会議で、実兄一弥の在籍する福岡ソフトバンクホークスから育成選手ドラフト3位指名を受けた。東京農業大学北海道オホーツク硬式野球部からは、2005年の小斉祐輔が指名されて以来7年ぶりのドラフト指名となった。背番号は「131」。背ネームは「Y.IIDA」。 2013年は、二軍公式戦において20試合に登板し54回1/3を投げ、1勝2敗、防御率2.32の成績を残す。三軍戦では19試合に登板した。シーズンオフにプエルトリコのウィンターリーグに参加し、8試合先発登板し、2勝1敗、防御率3.13の成績を残した。 2014年の前半は二軍の先発ローテーションとして防御率1.63と安定した投球でウエスタン・リーグ優勝に貢献し、11月26日のNPB_AWARDSで東浜巨らとともに最多勝利投手(9勝)として表彰された。5月11日に支配下選手登録され、背番号は42へ変更となった。6月11日のセ・パ交流戦、対中日ドラゴンズ戦で2点ビハインドの8回から4番手として救援で出場し初登板、1回投げて打者を三者凡退にしとめた。6月15日のセ・パ交流戦、対横浜DeNAベイスターズ戦で初先発、4回に1点援護を貰い、5回まで無失点に抑えていたが、6回に先頭から連続四球を出し降板、2番手の森福允彦がアーロム・バルディリスに逆転タイムリーツーベースを打たれ敗戦投手となった。5回0/3を投げて打者21人に対し4被安打6奪三振2四球2失点だった。6月22日、7勝でチーム勝ち頭の中田賢一が前回登板で右ひざに打球を受け出場選手登録を抹消されたため、未勝利ながら秋山幸二監督により、セ・パ交流戦の優勝がかかった対読売ジャイアンツ戦の先発に抜擢された。しかし、立ち上がりを攻められ1回と1/3を投げ、4安打6失点で敗戦投手となった。7月30日、山形県野球場にて行われた対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で先発、5回まで無失点と好投していたが、味方打線も5回まで楽天のドラフト1位ルーキー松井裕樹に無失点に抑えられていた。しかし6回に内川聖一のタイムリーツーベースで2点の援護を貰い、6回を三者凡退にしとめて降板、6回を投げ打者23人に対し3被安打2四球4奪三振、無失点の内容でプロ初勝利を挙げた。9月5日、対埼玉西武ライオンズ戦に先発し、自己最長の7回を投げ、2被安打2四球9奪三振1失点と好投し、本拠地福岡ヤフオク!ドーム初勝利となる2勝目を挙げた。 2015年は先発から中継ぎ投手に転向、3月29日の対千葉ロッテマリーンズ戦で今季初登板するも、4月8日の対楽天戦でサヨナラ負けを喫するなど、11試合で防御率6.28と状態が上がらず、5月25日に一軍選手登録から外れた。しかし、ファームでの調整を経て、7月20日に一軍登録されると、24試合で4ホールドをあげるなど、チームの連覇に貢献した。成績は、中継ぎとして35試合に登板、41回1/3を投げ、0勝1敗4ホールド、防御率は3.48だった。 2016年は年間50試合の登板を目標に掲げ、開幕を一軍で迎える。5月27日の対オリックス・バファローズ戦においては、中継ぎ投手として2回2/3を投げ、今季初勝利をあげる。しかし、8月21日の対北海道日本ハムファイターズ戦において、1アウトもとれずに降板するなど安定感を欠き、成績は、中継ぎ投手として30試合に登板、41イニング、1勝0敗4ホールド、防御率は3.29に留まった。 2017年、FA移籍したポスト森福允彦として、オープン戦2試合で無失点など、嘉弥真新也と左腕中継ぎ投手の開幕一軍登録枠を争うが、開幕一軍入りを果たせなかった。4月23日の対楽天戦で今季一軍公式戦初登板を迎える。その後17試合に登板し、0勝0敗2ホールド、防御率2.79のまずまずの成績を残すが、制球が安定せず、6月28日に一軍選手登録を抹消される。二軍公式戦において、11試合の登板で防御率1.93と結果を残し、約1ヵ月ぶりに7月26日に一軍に合流を果たすが、8月1日の対オリックス戦と9月21日の対日本ハム戦の2試合しか登板機会を得られなかった。19試合の登板で2ホールドに留まった。 2018年は、前半戦終了時点で一軍登板1試合のみに留まっていた。 2018年7月26日、阪神タイガースの松田遼馬との1対1のトレードが発表された。背番号は松田が着けていた56。 オーバースローで投げ下ろす最速146km/hのストレートと、スライダーを軸に、カーブやフォークも投げられる。プロ入り後の2013年オフにはチェンジアップを習得し、以降得意球としている。 2017年6月に福岡ヤフオク!ドームに住み着き保護された野良猫の子猫を「ニャーゴ」と名付け自宅で飼い始めた。 2018年度トレード後まで 2017年度シーズン終了時 初登板:2014年6月11日、対中日ドラゴンズ3回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、8回表に4番手で救援登板、1回無失点 初先発:2014年6月15日、対横浜DeNAベイスターズ4回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、5回0/3を4安打2失点で敗戦投手 初奪三振:同上、2回表に筒香嘉智から空振り三振 初勝利・初先発勝利:2014年7月30日、対東北楽天ゴールデンイーグルス13回戦(荘内銀行・日新製薬スタジアムやまがた)、6回無失点 131 (2013年 - 2014年途中) 42 (2014年途中 - 2018年途中) 56 (2018年途中 - ) 「Propuesta Indecente」Brava HitMakers(2014年) 「ゲレンデがとけるほど恋したい」 広瀬香美 (2015年) 「西新宿の親父の唄」 長渕剛 (2015年) 「MOVE」 MINMI (2016年) 「愛のために」 奥田民生 (2017年 - ) 「the next episode」 ドクター・ドレー (2017年 - ) ^ 阪神 - 契約更改 - プロ野球. 日刊スポーツ. 2018年12月9日閲覧。 ^ “飯田開幕ローテへ 飼い猫に救われた…4歳の時自宅で被災”. 西日本スポーツ (2015年1月18日). 2017年11月28日閲覧。 ^ “2013年度 福岡ソフトバンクホークス 個人投手成績(ウエスタン・リーグ)”. NPB.jp 日本野球機構. 2017年12月23日閲覧。 ^ “2013年 3軍個人成績 投手成績(ホークス)2013年10月8日現在”. 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト. 2013年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。 ^ 若鷹奮闘記2013 in ウインターリーグ - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト ^ NPB AWARDS 2014 supported by リポビタンD ^ 支配下選手契約について福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト2014年5月11日配信 ^ 一球速報 - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト ^ タカ、交流戦連覇逃す 序盤に7点差、追い上げ及ばず 2014年6月22日朝日新聞 ^ ソフトB未勝利左腕 22日G戦先発 交流戦連覇へ抜てき 2014年6月18日スポニチ Sponichi Annex ^ 2桁安打の反撃を見せるも交流戦連覇ならず・・・ ゲームレポート | 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト ^ 先発・飯田がうれしいプロ初勝利!チームは今季2度目の6連勝! ゲームレポート | 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト ^ ソフトB明日にもM14 飯田ホーム初勝利 2014年9月6日 日刊スポーツ ^ ソフトB飯田悔し「力を出せなかった」サヨナラ負け 日刊スポーツ 2015年4月8日掲載。 ^ ソフトB飯田が2軍落ち 本領発揮できず 日刊スポーツ 2015年5月26日掲載。 ^ ソフトバンクが飯田を1軍登録 日刊スポーツ 2015年7月20日掲載。 ^ a b ソフトバンク飯田700万増「来季は50試合いく」 日刊スポーツ 2015年12月4日掲載。 ^ ソフトバンク 開幕1軍登録選手一覧 日刊スポーツ 2016年3月23日掲載。 ^ ホークス飯田、中継ぎで今季初白星 「みんなの勝利。その一員になれた」 Full-Count 2016年5月27日掲載。 ^ 1死もとれず…2軍で再調整へ 飯田 西日本スポーツ 2016年8月22日掲載。 ^ ソフトバンク飯田「開きがあった」400万減を保留 日刊スポーツ 2015年12月1日掲載。 ^ “ソフトバンク、ポスト森福絞られた 飯田か嘉弥真”. 日刊スポーツ (2017年3月14日). 2017年11月28日閲覧。 ^ “ソフトバンク 開幕1軍登録メンバー一覧”. 日刊スポーツ (2017年3月29日). 2017年11月28日閲覧。 ^ “2017/04/23(日)第6回戦 福岡ソフトバンク vs 楽天イーグルス”. 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト (2017年4月23日). 2017年11月28日閲覧。 ^ a b “ソフトバンク5年目左腕・飯田が引き取ったヤフオクドームの子猫”. スポーツ報知 (2017年7月26日). 2017年11月28日閲覧。 ^ “ホークス飯田、真砂、栗原1軍合流”. 西日本スポーツ (2017年7月26日). 2017年11月28日閲覧。 ^ ソフトバンク飯田優也と阪神松田遼馬のトレード合意 日刊スポーツ 2018年7月26日 ^ “トレードの成立について”. 阪神タイガース公式サイト. (2018年7月26日). http://hanshintigers.jp/news/topics/info_5716.html  ^ “ホタテ漁も経験…育成出身ソフトB飯田 松井裕に投げ勝った”. スポニチ Sponichi Annex. (2014年7月31日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/07/31/kiji/K20140731008660560.html 2015年3月4日閲覧。  ^ a b c 週刊ベースボール2014年8月18日号 P67 ^ “育成出身のソフトB左腕飯田が三者凡退デビュー!次は先発で起用”. Sponichi Annex. 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Sponichi Annex (2011年5月22日). 2011年11月19日閲覧。 ^ “大廣翔治選手 第一子(長女)誕生のお知らせ”. 東北楽天ゴールデンイーグルス・オフィシャルサイト (2011年10月25日). 2011年11月19日閲覧。 ^ “楽天・大広が現役引退 送球直撃で視力回復せず決断”. Sponichi Annex (2011年11月19日). 2011年11月19日閲覧。 ^ “大廣翔治選手の現役引退に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス・オフィシャルサイト (2011年11月18日). 2011年11月18日閲覧。 ^ “楽天引退の大広翔治さん 桐生に恩返し”. 桐生タイムス (2011年12月5日). 2011年12月28日閲覧。 群馬県出身の人物一覧 東洋大学の人物一覧 東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧 第2回世界大学野球選手権日本代表 個人年度別成績 大廣翔治 - NPB.jp 日本野球機構 選手の通算成績と情報 The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)", "児玉 龍也(こだま りゅうや、1993年10月9日 - )は、山口県下関市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。 下関市立垢田中学校では、「下関ビクトリーズ(現・下関ボーイズ)」に所属。 九州国際大付属高校では三好匠の控え投手として、第83回選抜高等学校野球大会と第93回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、登板はなかった。 神奈川大学では3年春から主戦として活躍し、リーグ優勝に貢献。第63回全日本大学野球選手権大会では準決勝の源田壮亮擁する愛知学院大で先発し、大藏彰人と投げ合い、5回途中を無失点に抑え、勝利に貢献した。1学年後輩に濱口遥大がいる。 2015年10月22日に行われたドラフト会議で福岡ソフトバンクホークスから育成選手ドラフト2位指名を受け入団した。 背番号は130。 ソフトバンクに2016年から2018年まで所属したものの、公式戦出場はなかった。 二軍のウエスタン・リーグでは、2017年4月12日、対阪神タイガース戦において初登板、同年は同リーグで18試合に登板し、16回を投げ、防御率5.63の成績だった。三軍戦における成績は2016年は、2017年はのとおり。  2016年、2017年のシーズンオフに台湾で開催された2016アジアウインターベースボールリーグ、2017アジアウインターベースボールリーグに、NPBウエスタン選抜として派遣された、ここで2016年は8試合に中継ぎで登板し投球回数8回1/3、防御率0.00、勝ち負けなしだった 2018年10月4日、球団から戦力外通告を受けた。10月31日、自由契約公示。 セットポジションの段階から、右脚を左脚よりも一塁側に置き、クロスステップで踏み出しながらサイドスローで投げる変則フォーム 。 三好匠(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)と高城俊人(現・横浜DeNAベイスターズ)は高校の同級生。 一軍公式戦出場なし 130 (2016年 - 2018年) 2016アジアウインターベースボールリーグ:NPBウエスタン選抜 2017アジアウインターベースボールリーグ:NPBウエスタン選抜 ^ 児玉 龍也/インタビュー 神奈川大学硬式野球部公式サイト ^ “第83回選抜高校野球大会 チーム紹介 私立九州国際大学付属高等学校”. 高校野球ドットコム. 2017年10月16日閲覧。 ^ “ボーイズリーグ出身 プロ野球選手 パ・リーグ 2017/3/1現在”. 公益財団法人日本少年野球連盟 (2017年3月1日). 2017年10月16日閲覧。 ^ a b c “「森福2世」になる! 児玉に指名あいさつ 育成2位”. 西日本スポーツ (2015年10月31日). 2017年10月15日閲覧。 ^ “2017/04/12(水)第4回戦 阪神 vs 福岡ソフトバンク”. 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト (2017年4月12日). 2017年10月15日閲覧。 ^ “2017年度 福岡ソフトバンクホークス 個人投手成績(ウエスタン・リーグ)”. NPB.jp 日本野球機構. 2017年10月15日閲覧。 ^ “3軍選手成績 非公式戦個人成績 投手成績 2016年12月1日現在”. 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト. 2017年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月23日閲覧。 ^ “3軍選手成績 非公式戦個人成績 投手成績 2017/10/13(金)現在”. 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト (2017年10月13日). 2017年10月15日閲覧。 ^ ロッテ平沢、ソフトバンク島袋らが選抜メンバー入り 日刊スポーツ 2016年10月19日掲載。 ^ a b “2017アジアウインターベースボールリーグ(AWB)NPBメンバー一覧”. NPB.jp 日本野球機構 (2017年11月10日). 2017年11月10日閲覧。 ^ 海外武者修行2016 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト 2016年12月21日閲覧。 ^ “ソフトバンク育成の斎藤、児玉、幸山に戦力外通告”. 日刊スポーツ新聞社 (2018年10月4日). 2018年10月14日閲覧。 ^ “自由契約選手(育成選手)|2018年度公示”. NPB.jp 日本野球機構 (2018年10月31日). 2018年11月11日閲覧。 ^ “絶対的「左キラー」移籍、ソフトバンク「ポスト森福」は誰に?可能性秘める23歳育成左腕”. full-count.jp (2016年12月3日). 2017年10月15日閲覧。 山口県出身の人物一覧 神奈川大学の人物一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 個人年度別成績 児玉龍也 - NPB.jp 日本野球機構 130 児玉 龍也 選手名鑑 - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト" ]
ABC01-02-0177
医者を主人公にした漫画で、『ブラックジャック』の作者は手塚治虫ですが、『ブラックジャックによろしく』の作者は誰でしょう?
佐藤秀峰
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[ "佐藤秀峰", "松田奈緒子", "岩岡ヒサエ", "高田康太郎", "植芝理一" ]
[ "佐藤 秀峰(さとう しゅうほう、1973年12月8日 - )は、日本の漫画家。北海道中川郡池田町出身。東京都武蔵野市在住。札幌市立手稲宮丘小学校、札幌市立宮の丘中学校、北海道札幌西高等学校卒業、武蔵野美術大学造形学部映像学科中退。漫画家の佐藤智美は元妻。 左利き。幼少の頃から絵を描くのが好きになり、大学在学中より新井英樹の『宮本から君へ』の影響を受けて漫画家を志し、福本伸行、髙橋ツトムのアシスタントを経て1998年『週刊ヤングサンデー』(小学館)に掲載の『おめでとォ!』でデビュー。『海猿』や『ブラックジャックによろしく』など、綿密な取材に基づいた人間ドラマを描く。インタビューなどで「漫画やアニメを見るような趣味らしい趣味はない」と述べている。人物の顔面筋肉や皮膚の弛みなどを詳細に描いている。 2002年、『ブラックジャックによろしく』で第6回文化庁メディア芸術祭漫画部門優秀賞受賞。 1997年 - 『PROMISED LAND』で『月刊アフタヌーン』の四季賞に準入選し、実質デビュー。 1998年 - 『週刊ヤングサンデー』に『おめでとォ!』が掲載。その後『ハードタックル』を同誌に短期連載。 1999年 - 『週刊ヤングサンデー』で『海猿』の連載を開始(-2001年)。 2002年 - 『モーニング』で『ブラックジャックによろしく』の連載を開始。 2002年 - 第6回文化庁メディア芸術祭漫画部門で優秀賞を受賞(『ブラックジャックによろしく』)。 2003年 - 『ブラックジャックによろしく』がテレビドラマ化される(TBS系)。 2004年 - 『海猿』が映画化される(東宝系)。 2005年 - 『海猿』がテレビドラマ化される(フジテレビ系)。 2006年 - 『海猿』が『LIMIT OF LOVE 海猿』として再度映画化される(東宝系)。 2007年 - 『週刊ビッグコミックスピリッツ』にて『ブラックジャックによろしく』が『新ブラックジャックによろしく』として連載再開。 2011年 - 『漫画アクション』にて原作を担当した自伝的漫画『ボクマン』を連載開始。しかし作画担当の一色登希彦と権利関係で揉め、3話で連載終了。 2013年 - 離婚。2013年にブログにて、元妻へのインタビューというかたちで、自身の「不貞行為」による離婚を報告した。事務所の移転。脳梗塞で倒れて緊急入院。 「ブラックジャックによろしく」は、当初『モーニング』で連載され単行本も講談社から刊行されていた。その後、休載をはさんで『ビッグコミックスピリッツ』で「新ブラックジャックによろしく」となって連載が再開されて、単行本も小学館から刊行されることになった。この経緯について佐藤は、公式サイトの「プロフィール」で漫画にしており、「原稿料の増額交渉」「作品の二次使用権の無断許可」「編集部の取材資料の誤り」「ネーム(セリフ)の無断改変」など数々のトラブルの末に「モーニング編集部への不信感が頂点に達した」としている。漫画家が出版社とのトラブルを公にしたとして話題になった。 2009年4月4日、公式サイトで漫画家の内情を公開した。また、これからはインターネット上で漫画を連載していく考えがあることを述べている。 2011年3月30日、原作を担当した漫画「ボクマン」について、作画担当の一色登希彦とお互いの権利や、制作方法について、双方が合意できる着地点が見つからなかったため、原作を降板。3話で連載終了が決定した。 2011年12月22日、書籍の自炊問題については「自分の著作は自由に自炊も代行もしてもらって構わない」と述べた。 2012年10月、漫画onWeb(現・マンガonウェブ)において「ブラックジャックによろしく」が全巻無料ダウンロードが開始された。 2012年10月26日、フジテレビとの絶縁をTwitterで宣言。以前より「アポ無しで取材に押しかけられる」「自宅周辺を張り込みされ、外出もままならない状態にされる」など、様々な問題を起こされたことから取材拒否の姿勢を取っていたが、同局のチーフプロデューサーが謝罪したことから一時は和解した。しかし、映画『海猿』の関連書籍を許可無く出版されたことでついに業を煮やし、正式に絶縁宣言をするに至る。同時に「なので、映画『海猿』の続編などは絶対にありえません」と、大ヒットシリーズであっても一切容赦せず、版権を許諾しないことを宣言した。その後2015年6月6日、上記の問題について、フジテレビは同局のWebサイトで遺憾の意を表明し、佐藤宛に執行役員報道局長による謝罪文を送付した。これを受け佐藤は「和解が成立したということで、例えば今後、フジテレビから『海猿』の続編製作の希望などをいただいた場合には、交渉を拒否することはございません」と記し、フジテレビとの事実上の和解を果たした。 2014年3月7日、ブロマガ「少年 佐藤秀峰」で、自身が表紙画を描いた堀江貴文の小説『拝金』、『成金』の2冊がゴーストライターの筆によるものであることを明かし、「僕としては、自分の著作ではないとは言え、自分が関わった仕事でそのような事実があったことを、非常に恥ずかしく思っております。当時、担当編集者からは「小説の世界ではよくある制作手法で、何ら恥ずべきことだとは思っておりません」と言われましたが、やはり恥ずべきことであろうと感じます。また、それを知りながら読者の皆様に今まで何も申し上げなかったことについて、深く反省するとともに心よりお詫び申し上げます」と謝罪した。 2017年5月に、アマゾンジャパン『キンドル アンリミテッド』配信の作品が削除され損害を被ったとして、逸失利益約2億600万円の賠償を求め東京地裁に提訴。アマゾンは予算不足を理由に大手出版社提供の人気作品も削除している。 海猿(小森陽一原案、1999年–2001年、週刊ヤングサンデー連載、小学館 ヤングサンデーコミックス、全12巻) ブラックジャックによろしく(2002年–2006年、週刊モーニング連載、講談社 モーニングKC、全13巻)。 新ブラックジャックによろしく(2007年–2010年、週刊ビッグコミックスピリッツ連載、小学館 ビッグコミックス、全9巻) 示談交渉人M(2003年、近代麻雀ゴールド連載、竹書房 バンブーコミックス、全1巻) 特攻の島(2006年-2017年、週刊漫画TIMES連載、芳文社コミックス、全9巻) Stand by me 描クえもん(2015年-、マンガonウェブ及びトーチweb連載、リイド社 トーチコミックス、既刊2巻) 漫画貧乏(2012年4月17日、PHP研究所) 弟(野村エージ作画、2004年、週刊ヤングサンデー短期集中連載) ボクマン(一色登希彦作画、漫画アクション連載、2011年6号(3/15号) - 8号(4/19号)、全3話) 拝金(堀江貴文 著、2010年6月19日、徳間書店) 成金(堀江貴文 著、2011年2月16日、徳間書店) ソーシャルもうええねん(村上福之 著、2012年10月26日、ナナ・コーポレート・コミュニケーション) 福本伸行 髙橋ツトム 佐藤智美(初のスタッフ、元夫人) 柿崎正澄(デビュー前に1年師事) 白鳥貴久 藤井五成(まぁびん) 野村栄司(野村エージ) 吉田貴司 梅澤功二朗 久慈進之介 ^ a b c d 佐藤秀峰. “佐藤秀峰|漫画 on Web”. 有限会社 佐藤漫画製作所. 2013年2月11日閲覧。 ^ 本人Twitterのプロフィールより。 ^ “『ブラックジャックによろしく』作者・佐藤秀峰が出版社移籍の経緯と実情を漫画化”. ニュース-ORICON STYLE- (2009年2月28日). 2009年3月1日閲覧。 ^ Twitterによる佐藤の発言(僕の好きな漫画8『宮本から君へ』)。 ^ “「ボクマン」連載終了。”. 漫画 on Web 佐藤秀峰 日記 (2011年3月30日). 2013年2月19日閲覧。 ^ “「ブラックジャックによろしく」休載の裏側、作者がWeb漫画で告白”. ITmedia News (2009年3月3日). 2013年2月19日閲覧。 ^ なお雷句誠は佐藤とは逆に小学館とのトラブルで講談社に移籍している(詳細はこちら)。 ^ “経費が1800万円!? 人気漫画家が原稿料と印税を暴露!”. 未来検索ガジェット通信 (2009年4月4日). 2013年2月19日閲覧。 ^ “『新ブラックジャックによろしく』が最後の作品になると思います]”. 未来検索ガジェット通信 (2009年4月13日). 2013年2月19日閲覧。 ^ “「ボクマン」連載終了。”. 漫画 on Web 佐藤秀峰 日記 (2011年3月30日). 2013年2月19日閲覧。 ^ “漫画家・佐藤秀峰日記「自炊代行について。」今回は漫画家・佐藤秀峰さんのブログからご寄稿いただきました。”. ガジェット通信 (2011年12月28日). 2016年12月3日閲覧。 ^ “「海猿」佐藤秀峰氏がフジテレビに怒りの絶縁宣言! 「信頼に値しない企業」” (2012年10月26日). 2013年2月19日閲覧。 ^ “堀江貴文氏「拝金」の代筆問題について”. ブロマガ 少年 佐藤秀峰 (2014年3月7日). 2014年3月10日閲覧。 ^ アマゾン「読み放題」巡り 漫画家の佐藤秀峰さんが2億円逸失と提訴スポニチ 2017年5月19日 ^ ACジャパン2016年度の結核予防会の支援キャンペーン「日本だけがなぜ」にも使用された。 佐藤秀峰 on Web - 公式サイト 佐藤秀峰 (@shuho_sato) - Twitter 佐藤秀峰 (shuho_sato) - note 佐藤秀峰・漫画家 - Facebook 佐藤秀峰チャンネル - ニコニコチャンネル 著者:佐藤秀峰 - 文化庁メディア芸術データベース", "松田 奈緒子(まつだ なおこ、1969年1月21日 - )は、日本の漫画家。長崎県出身。『コーラス』(集英社)に掲載された『ファンタスティックデイズ』でデビュー。夫は漫画解説者の新保信長。実妹はコミックエッセイ劇場編集長の松田紀子。 レタスバーガープリーズ. OK, OK!(全10巻) 悪いのは誰(全2巻) 雪月花 大門パラダイス 少女漫画(全1巻) - 一部が2009年に『派遣のオスカル 〜少女漫画に愛をこめて』としてテレビドラマ化された。 100年たったらみんな死ぬ(上・下巻) スラム団地 花吐き乙女(既刊3巻、2011年4月現在) 東北沢5号(全3巻) 重版出来!(既刊12巻、2018年12月12日現在) - 2016年4月よりTBS火曜ドラマ枠にて実写ドラマ化。 ^ 歌 文芸ロマン漫画傑作選 扶桑社 2008年1月26日初版発行、ISBN 4-594-05549-4、著者略歴 ^ 編集王に訊く35 『コミックエッセイ編集グループ』編集長 松田紀子さん ^ “ドラマ「重版出来!」4月よりTBSで放送、キャストに黒木華やオダギリジョーら”. コミックナタリー (2016年2月3日). 2016年2月3日閲覧。 松田定食 - 公式ブログ。 松田奈緒子 (@mazdanaoko) - Twitter 作家プロフィール - 集英社によるページ。プロフィールを掲載。 まんが家インタビュー - 同。インタビューを掲載。", "岩岡 ヒサエ(いわおか ヒサエ、女性、1976年7月17日 - )は、日本の漫画家、元同人作家。千葉県出身。 女子美術大学洋画科卒業。コンピュータ関係の会社に在籍中、「月刊アフタヌーン」に投稿。その後同人作家となる。 2002年に『ゆめの底』でアフタヌーン四季賞佳作入選しデビュー。その後、『しろいくも』で「月刊IKKI」第7回イキマンを受賞。 『土星マンション』で、第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞。女性漫画家の単独受賞としてはこうの史代、一色まことに続き3人目である。過去にも同賞の最終選考候補に、2005年度(第9回)の『しろいくも』、2006年度(第10回)の『ゆめの底』、2010年度(第14回)の『星が原あおまんじゅうの森』が選ばれており、ぬいぐるみ、イラストなど多彩な才能を発揮している。 2009年に青木俊直、イシデ電、志村貴子、谷川史子らと同人サークル「腹ペコ戦隊はしレンジャー」を結成した。2017年、『孤食ロボット』がテレビドラマ化された。 しろいくも 花ボーロ ゆめの底(同人作家時代から執筆) 土星マンション オトノハコ 星が原あおまんじゅうの森 ねこみち(2006年 - 、ねこぱんち、少年画報社) パーマネント-まんがの詰め合わせ- なりひらばし電器商店 孤食ロボット(2012年 - 、『ガールズジャンプ』→『ジャンプ改』→『Cookie』2015年1月号 - 連載中、集英社) コミック星新一 逃走の道(原作:星新一、ボニータ読切) なのはなフラワーズ 第1巻(2009年、青木俊直著、芳文社) - 帯イラスト&コメント寄稿 明日の水は大丈夫?(2009年、橋本淳司著、技術評論社) - 表紙イラスト&挿画 間違う力 オンリーワンの10か条(2010年、高野秀行著、メディアファクトリー) - 表紙イラスト ^ “「シックス ハーフ」がCookieで完結、岩岡ヒサエ&椎名あゆみの新連載も”. コミックナタリー. 株式会社ナターシャ (2014年11月26日). 2017年9月29日閲覧。 ●moimoi● - 公式サイト 腹ペコ戦隊はしレンジャー - 参加している同人サークル 岩岡ヒサエ (@iwaokahisae) - Twitter", "高田 康太郎(たかた こうたろう、1978年10月25日 - )は、日本の漫画家。愛媛県出身。 2002年、『ビッグコミックスピリッツ増刊 漫戦』(小学館)掲載の『フリースタイル』でデビュー。『ゲッサン』(同社)誌上において、『ハレルヤオーバードライブ!』『I AM SHERLOCK』を連載。 1978年 - 愛媛県に生まれる。 2002年 - 『フリースタイル」が『ビッグコミックスピリッツ増刊 漫戦』(小学館)に掲載されデビュー。 2006年 - 『ポテトシくんのユウウツ』でまんがカレッジ9・10月期佳作を受賞。 2009年 - 『ゲッサン』にて『ハレルヤオーバードライブ!』の連載開始。 ハレルヤオーバードライブ!(『ゲッサン』2009年 - 2015年) - 連載デビュー作。単行本は全15巻。 I AM SHERLOCK(脚本:伊緒直道、『ゲッサン』2017年 - 2018年) ゾン100 〜ゾンビになるまでにしたい100のこと〜(原作:麻生羽呂、『月刊サンデージェネックス』2018年 - ) フリースタイル(『ビッグコミックスピリッツ増刊 漫戦』2002年11月17日号) - デビュー作。 Bowling For Cherry Boys(『ビッグコミックスピリッツ増刊 漫戦』2003年11月24日号) ポテトシくんのユウウツ(2006年) ハリケーンハリケーン(『週刊少年サンデー超』2008年5月24日号) メタりか! Track 0 Heartbeat.(『ゲッサン』2009年6月号別冊付録) 朔ユキ蔵 畑健二郎 飯島浩介 青山景(アシスタント仲間) 後藤隼平(アシスタント仲間) merry merry 高田康太郎 (@kosamehal) - Twitter ゲッサン", "植芝 理一(うえしば りいち、Ueshiba Reach または Ueshiba Riichi、1969年9月4日 - )は、日本の漫画家。男性、福岡県出身。なお、名前はペンネームである。 幼少のころから落書きをするのが趣味であった。福岡県立筑紫丘高等学校卒業後、一浪して早稲田大学文学部入学。早大では漫画研究会に所属し、この時期から漫画を描き始める。早大在学中の1991年、大学2年の春休みに投稿した『ディスコミュニケーション』が、1991前期コミックオープンちばてつや賞一般部門で大賞を受賞し、同年『モーニング』24号に掲載され漫画家としてデビュー。受賞作の続編を『月刊アフタヌーン』(1992年2月号)にて連載開始し、代表作となる。当時は執筆活動のため卒業論文に手がつかず留年を繰り返していた後に中退。その後も主に『月刊アフタヌーン』を中心に活躍している。 『ディスコミュニケーション』は1996年にラジオドラマ化、『夢使い』は2006年にTVアニメ化された。読み切り作品であった『謎の彼女X』が『月刊アフタヌーン』で連載され、こちらもTVアニメ化されている。 YMOのファンでもあり、その影響が作中に見られる。麻雀好き。 作品の題材は主に思春期の男女の恋愛・性愛であり、作中では同性愛、近親相姦、ロリータコンプレックスなど様々な形態の恋愛が取り上げられ、また異性装などのフェティシズム的な性愛が取り扱われるが、ストーリー自体はおおむね純愛を基本としている。『ディスコミュニケーション』から『夢使い』にいたるまでは、作品世界にインド・東南アジア・中国・日本などの民俗学や神話の知識・意匠を取り入れ、恋愛・性愛の過程を派手な画面表現を用いて複雑な秘蹟のような形で表現することに特徴があった。YMO、漫画、アニメ、特撮などからのパロディも多い。作者曰く、つげ義春の「ねじ式」や逆柱いみりの作品に影響を受けているといい、作中にもそれを見ることが出来る。 絵柄については多少変遷があり、『ディスコミュニケーション』では細い線で民俗学的なシンボルや玩具などを画面の隅々まで細かく描き込んでいたが、『夢使い』からやや太い線が使われるようになった。近作『謎の彼女X』では上記のような民俗学的な意匠も現れなくなり、日常の表現に重きをおいた作風になっている。基本的にアシスタントは使用しない。 ディスコミュニケーション(『月刊アフタヌーン』1992年2月号 - 2000年11月号連載) ディスコミュニケーション(全13巻) ディスコミュニケーション 学園編(全1巻) ディスコミュニケーション 精霊編(全3巻) 新装版 ディスコミュニケーション(全7巻)- 上記3シリーズに単行本未収録回も加えた完全版。初版にはカラーピンナップ付。 夢使い(『月刊アフタヌーン』2001年3月号 - 2004年2月号連載、全6巻) CGイロハのイ(全1巻、絶版) 謎の彼女X(『月刊アフタヌーン』2004年10月号掲載、2006年5月号 - 2014年11月号連載、全12巻) 大蜘蛛ちゃんフラッシュ・バック(『月刊アフタヌーン』2017年7月号 - 連載中、既刊3巻) ^ 『月刊アフタヌーン』2012年2月号(2011年12月24日発売)誌面に於いて発表 著者:植芝理一 - 文化庁メディア芸術データベース" ]
ABC01-02-0179
その温暖な気候から「韓国のハワイ」と呼ばれている、韓国本土から南に100kmのところに位置する島は何でしょう?
済州島
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[ "済州島", "喬桐島", "屏風島 (珍島郡)", "永宗島", "可居島" ]
[ "座標: 北緯33度22分 東経126度32分 / 北緯33.367度 東経126.533度 / 33.367; 126.533 済州島(さいしゅうとう、チェジュとう)は、朝鮮半島の南西、日本海、東シナ海、黄海の間にある火山島。その付属島嶼と併せて大韓民国済州特別自治道を構成する。人口は約66万人、面積は1,845km2。 15世紀初頭頃まで、耽羅という独立した王国があった。1629~1830年まで島民全員に出陸禁止令が出されていたなど、かつては朝鮮半島の人から蔑まれる流刑地であり左遷先だったが、現代ではソウルを越える観光地となっている。なお、朝鮮語では「島」と「道」は同じ音のため、「済州島」と「済州道」の区別に注意を要する。 地形図 漢拏山 漢拏山の山頂を西から 城山日出峰 萬丈窟の溶岩洞 柱状節理の海岸 済州島は韓国の最南端に位置する楕円形をした火山島であり、同国で最大面積の島。 島の中心には標高1,950mの漢拏山がある。180万年前から火山活動が始まり、楯状火山の活動で島がほぼ形成され、その後、単成火山群が活動した。島内および海岸には360個以上の火砕丘が形成されている。岩質は主に玄武岩から成る。漢拏山は同国において最高峰であり、多くの登山客が訪れる。済州島は日本とも近く、最も近い長崎県の五島列島まで180kmほどの距離にある。 行政面では、済州特別自治道が置かれ、済州市が島の北半分を、西帰浦市が南半分を市域としている。 島内には火山活動に由来する地形が多く残され、以下の3つが「済州の火山島と溶岩洞窟群」として2007年に世界遺産に登録された。 漢拏山 城山日出峰: タフコーン 拒文岳溶岩洞窟系: 万丈窟・金寧窟・ベンドィ窟・龍泉洞窟・ダンチョムル洞窟 島の周辺には暖流である対馬海流が流れているため、大陸性気候により冬の寒さが厳しい韓国の中では最も気候が温暖である。この気候を利用して、韓国で唯一のミカンの産地となっている。 しかし、冬になると半島部と同様の北西季節風の影響や島の中央に漢拏山がそびえる地形的要因により、非常に風が強く島の南北の気温差が大きい。この季節風により風下となる南側には、しばしばカルマン渦の雲が発生する。漢拏山の北側にある済州市は東京と同じくらいの寒さで(風が強いため、体感気温はさらに低い)、関東地方と同程度(年に1、2回以上)のまとまった降雪もある。一方、南部に位置する西帰浦市は1月の平均気温は6.8度とより温暖な気候で、日中の気温は10度以上になり、日本の高知県や宮崎県北部の気候に相当する。 済州市の極値 最高気温37.5℃(1942年7月25日) 最低気温-6.0℃(1977年2月16日) 過去最深積雪21.5cm(1959年1月18日) 西帰浦市の極値 最高気温35.9℃(1966年8月3日) 最低気温-6.3℃(1977年2月16日) 過去最深積雪37.8cm(1963年1月25日) 済州島には、「三姓神話」という、朝鮮半島の「檀君神話」とは違った耽羅民族の独自の建国神話があり、『高麗史』や『世宗実録』におよそ次のような内容で表されている。 瀛州(ヨンジュ)と呼ばれ、未だ人の住まない太古の済州に「高、梁、夫」の3つの姓を持った3人の神人(3神が高乙那・良乙那・夫乙那と描かれるものも)が、漢拏山の北山麓の地の穴(三姓穴)から現れたのが現在の済州の人々の先祖であるという。ある日、漢拏山から遠くの海を眺めていた彼らは、東の方から流れてくる木の箱を発見した。開けてみると、箱の中には東国の碧浪国(日本と取る学者もいる)から来たという紅帯紫衣の使者と美しい3人の姫と駒と馬と五穀が入っており、神人は、彼女達を妻として迎え、年齢順に住処を定めて暮らすようになった。その後神人の子孫達は、産業と五穀の栽培を始めて集落を作るようになり、約900年後に皆の人望を集めた高氏を王として、初めて「タクラ」という王国が成立したとされる。 三国志に現れる3世紀の州胡を済州島人(耽羅民族)に比定する説がある。その後耽羅国が成立し、4世紀頃には、百済に朝貢していた。 新羅の朝鮮半島統一後は、主に新羅に朝貢するようになったが、日本へも朝貢を行い、日本からも使節が派遣されるなど独自の外交を行った(遣耽羅使)。 耽羅国の言語は朝鮮民族とは言語系統が異なるものであったとするのが通説である。 高麗時代の1105年に耽羅郡として直轄領として組み込まれ、1214年から済州と呼ばれるようになるが、在地支配層は依然健在で、高い独立性を維持し続けた。 元に対して抵抗した三別抄の残党は、済州島を最後の拠点として立てこもった。反乱は元・高麗軍によって平定され、済州島は元の直轄地に組み込まれた。 元が済州に牧場を設けたため、以後の済州は馬産地になり、また元からの移住者およびその子孫は牧子と呼ばれた。 朝鮮王朝の時代には朝鮮八道の1つ、全羅道に組み込まれ、在地勢力は次第に力を失っていった。朝鮮時代には江華島と並ぶ流刑地の一つでもあり、主に政争で負けた王族や両班が流刑にされている。1629から1830年まで島にいる全て住民に対して出陸禁止令が出されていた。 15世紀の済州には船に居住して海産物を採る海民が存在し、本土の海岸まで出ていくものがあり、一部は海賊化した。 19世紀の後期には日本漁船の島の周辺海域への進出とそれに伴う漁民間の衝突が日朝間の政治問題となった(朝鮮出漁)。 1910年の韓国併合で大日本帝国の領土となり、1945年まで朝鮮総督府によって統治されていた。1922年に島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」が就航すると多くの島民が労働のため日本内地へ渡航し、彼らが集住した猪飼野周辺には後の生野コリアタウンの原型が形作られていった。 日本の降伏後、連合国占領軍の到着が朝鮮本土に比べて遅れた島内は朝鮮建国準備委員会の済州島支部を起源とする人民委員会が統治を担ったが、政策を巡って人民委員会と米軍政庁は1947年から対立を深めた。そして1948年4月3日には朝鮮の南北分断を固定するとの理由から、南朝鮮単独での総選挙実施に反対する過程で済州島四・三事件が発生し、少なくとも3万人の島民が南朝鮮国防警備隊やその後身の大韓民国国軍、西北青年会等の民間右翼などによって虐殺された。この事件は、朝鮮半島の南北支配戦争の渦中で済州島だけは島民だけで今後の行方を決めようとする運動を、北側の介入と見て南側の軍部や自警団が抹殺したものである。結果として済州島は大韓民国に組み込まれた。この虐殺事件の混乱で済州島民は周辺国に難民として逃れた。現在の在日韓国・朝鮮人には、この時に命からがら日本に逃れて来た者も多い。 5・16軍事クーデターで実権を握った朴正煕の下で、島の観光開発が進められた。 2018年にはイエメンから済州島に来た561人のうち552人が難民申請する事態に反対の世論が巻き起こった。韓国国民から政府に対して、難民拒否を求める請願には2017年に韓国大統領府が請願サイトを開設して以降、最多の約70万を超える署名が集まった。その後もソウルでも反対抗議集会が起きるなど議論の的となっている(後述)。 トルハルバン(石じいさん)は、もともと朝鮮時代の行政区域である3つの郡・県のそれぞれの東・西・南門の入口に立てられた、村の災厄を追い払う守護神(道祖神)であったが、現在は済州島のシンボルとして各地に立てられ、土産物としてトルハルバンを模した置物が製作・販売されている。 済州島の特徴を言い表すのに、「三麗」と「三多」、および「三無」という言葉がある。三麗とは、「美しい心」「素晴らしい自然」「美味しい果物」といった島民の心や景観の美しさ、特産物を意味する。三多とは、「石と風と女の3つが多い」という意味。火山島であるため、火山の噴火により流出した火山岩が多く、台風が度々通過する上、季節風の吹く地域であり、またかつては漁労のため海に出て遭難するなど男性の死亡率が高かったことに由来している[要出典]。 三無とは、「泥棒がいない」「乞食がいない」「外部からの(泥棒と乞食の)侵入を防ぐ門が無い(必要無い)」という意味を表す。かつての済州島は、厳しい自然環境を克服するため協同精神が発達しており、そのことも前述の3つが無かった(あるいは必要とされなかった)とされてきた所以とされる。そのために韓国本土に住む人々の気性の激しさとは対照的に性格も温和で純朴だと言われる(日本国内各地に点在するコリアタウンでも済州島出身者は、古くから同島出身者を「流刑地住民の子孫」として差別してきた韓国本土出身者を避けて(東京都荒川区三河島や大阪市生野区桃谷等に)集結していた)。 ただし近年は、観光地化が進み、韓国の他の地域より犯罪の発生率が高いという一面もある[要出典]。大宅壮一の著書『炎は流れる』の朝鮮編には、「済州島民は朝鮮半島本土と違い、性格は温厚で生活様式が日本に近い」とある。 島の北、済州市の市街地に隣接して済州国際空港がある。日本国内からは成田国際空港・関西国際空港との間に直行便があり、大韓航空、ティーウェイ航空が就航している。その他の日本国内から済州国際空港へ行く場合には、ソウル金浦国際空港か、釜山金海国際空港を経由するのが一般的である。 海運面では、釜山と木浦との間にフェリーが就航しているほか、島内の陸上交通は路線バスが多数運行されている。今日鉄道は存在しないが、1929年から1931年にかけては済州島循環軌道が存在した。 殺人、強盗、強姦、窃盗、暴力の5大犯罪の発生率が韓国全土で最も高く人口1万人当たり167.9件となっている。 大韓民国海軍は2006年現在、済州島に新たに海軍基地を建設中である。基地建設後は、独島級揚陸艦と計画中の最新鋭潜水艦をそこに集中配備し、済州島に機動艦隊用前進基地を建設する予定[要出典]。 ゴルフ場やカジノなどの観光・娯楽施設が多数あるほか、海産物なども豊富なため、韓国国内のみならず、日本などからも多くの観光客が訪れる。かつては、外国人観光客の多くを日本人が占めたが、近年は、中国人に対するビザ特例措置(済州島のみを訪問する場合、観光ビザを免除)もあり、中国人観光客が急増している[要出典]。2007年、世界自然遺産に選定された。(済州の火山島と溶岩洞窟群) 2011年に韓国国民の熱心な活動により、新世界七不思議財団により新・世界七不思議 自然版に選定された。 2010年、済州島全域が「済州島ジオパーク」として世界ジオパークネットワーク(GGN)に加盟認定された。2013年8月には、日本の島原半島ジオパークと姉妹提携が結ばれている。また、同年9月にはアジア太平洋ジオパークネットワーク(APGN)の第3回シンポジウムが開催された。 イエメン内戦を逃れた難民が相次いでビザ不要のマレーシアに逃れたものの、マレーシアでは滞在期間の延長が許可されなかった。このため2017年12月にマレーシアからの直行便が就航し、観光活性化のために多くの外国人に対し一定期間の滞在であればビザを不要としていた済州島が次の目的地となり、2018年4月頃より済州島にイエメン難民が増え始めた。 2017年に難民申請を行ったイエメン人は42人であったが、2018年は約半年間足らずで561名が入国し、そのうち519人が難民申請を行った。4月30日には難民申請者に対して済州出入国・外国人庁が島から出ることを制限する措置を行い、難民審査が終わるまでは韓国本土に渡ることができなくなった。6月1日には韓国外交部がビザ不要の地域からイエメンを除外した。 こうした難民の急激な増加に韓国政府は特別就労許可を出すなど対応したものの、韓国国内からは否定的な世論が巻き起こり、大統領府には難民申請許可の廃止を求める国民請願が提案され、20万人以上の賛同を得た。一方で韓国もかつては済州島四・三事件の際に難民を出した経緯があるため、国際社会に恩返しするために受け入れ体制を整えるべきという主張も見られる。 その後は難民申請の放棄などもあり、最終的に申請を行ったイエメン人は481人で、2018年9月中旬には、人道的配慮として未成年者や妊婦、負傷者など23人のイエメン人が滞在を認められた。済州出入国・外国人庁は同年6月下旬より難民認定作業を開始しており、9月中には完了するとされている。 高権三(歴史・政治学者) 呉善花 チェ・ホンマン 安美佳 ソユ(歌手グループSISTARのメンバー) スングァン(SEVENTEENのメンバー) ミミ(OH MY GIRLのメンバー) ダヨン(宇宙少女のメンバー) 済州市街地と漢拏山 山房山(朝鮮語版)溶岩ドーム 城山日出峰から 天帝淵瀑布 天地淵瀑布 正房瀑布 漢拏山山麓 火砕丘 東門市場 ^ a b c “韓国・済州島「イエメン難民殺到」を読み解く10のキーワード - Yahoo!ニュース” (日本語). Yahoo!ニュース. https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180911-00000002-pseven-kr 2018年9月11日閲覧。  ^ “韓国人が訪問した旅行先、済州・ソウルより大阪がもっと多い?| Joongang Ilbo | 中央日報”. s.japanese.joins.com. 2018年9月11日閲覧。 ^ 高知県や福岡県と同緯度 ^ 東アジアの中でも大きめの島で、沖縄本島の1.5倍、対馬の2.5倍 ^ 出典 : 済州火山島と溶岩洞窟 - 文化財庁、2016年10月閲覧 ^ a b 出典 : [ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/41014/1/KJ00004380404.pdf 韓国, 済州島の単成火山の地形学特徴] - 長谷中利昭ら、2016年10月閲覧 ^ 出典 : 韓国済州島の更新世火山岩の化学組成の時間的変遷 - 三宅康幸ら、2016年10月閲覧 ^ 38度線(軍事境界線)以南の現在統治範囲において ^ a b “평년값자료(1981−2010) 제주(184)”. 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(2018年9月14日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/Locality/2018/09/14/3000000000AJP20180914001200882.HTML 2018年9月19日閲覧。  耽羅 済州島四・三事件 済州方言 済州新聞社 済州新聞 放牧 在日韓国・朝鮮人 吉田清治 (文筆家) 李奎遠 - 朝鮮時代末期に済州島を踏査。 ヘンドリック・ハメル - 17世紀、済州島に漂着したオランダ人 済州火山島と溶岩洞窟 - 文化財庁 済州島エリア観光地紹介 - 韓国観光公社公式サイト (日本語) 済州観光公社旅行ブログ - 済州観光公社 (日本語) Jeju Volcanic Island and Lava Tubes - 世界自然遺産 (英語) 地図 - Google マップ", "喬桐島(キョドンド、きょうとうとう、朝鮮語: 교동도)は大韓民国の38度線附近、黄海上にある島で、江華島の西側にある。行政区域上では仁川広域市江華郡喬桐面に属している。面積は44km2で韓国では13番目に大きい島。島内全域が民間人出入統制区域内にある。2014年に喬桐大橋が完工し江華島と連結された。", "屏風島 (ピョンプン=ド、びょうぶとう、朝: 병풍도)は、朝鮮半島南西沖にある島。大韓民国全羅南道珍島郡鳥島面に属する。 屏風島は、朝鮮半島南西端付近にある珍島のさらに南西沖にある島嶼(鳥島群島)のひとつである。面積は、0.3平方キロメートル。島の全域が多島海海上国立公園に指定されている。2014年4月、この島の近海でセウォル号沈没事故が発生し、多数の犠牲者を出した。 ^ 「병풍도(屛風島)」 『doopedia斗山百科』 斗山東亜、朝鮮語、2014年5月11日閲覧. ^ 「<韓国旅客船沈没>浸水しても「船室待機」放送…救助現場に大人おらず (2)」 中央日報日本語版2014年4月17日付、2014年5月11日閲覧. 屏風島 (インターネット百科事典『doopedia斗山百科』。朝鮮語) 座標: 北緯34度8分56秒 東経125度56分34秒", "座標: 北緯37度29分 東経126度31分 / 北緯37.483度 東経126.517度 / 37.483; 126.517 永宗島(ヨンジョンド、えいそうとう、朝: 영종도)は、大韓民国の仁川広域市西方、黄海の京畿湾に浮かぶ島で、仁川国際空港がある。行政上は仁川広域市中区永宗洞・龍遊洞に属する。 もともとこの場所には、東北部の永宗島、西南部の龍遊島(ヨンユド / 용유도)をはじめ、三木島(サンモクト)、薪仏島(シンブルド)などの島々があった。1990年代に仁川国際空港建設のために永宗島と龍遊島との間の海面が埋め立てられ、これらの島々が一体となった。旧永宗島に白雲山(256m)や石花山(147m)、旧龍遊島に五星山(172m)がある。 島の南には舞衣島や実尾島がある。また、島の北には信島・矢島などがあり、その先には江華島がある。 本土とは2本の橋で結ばれている。北側の永宗大橋(4.42km)と、南側で松島新都市との間を結ぶ仁川大橋(21.38km)である。永宗大橋は仁川国際空港高速道路および仁川国際空港鉄道、仁川大橋には第二京仁高速道路が走っている。地元住民の足としては仁川港の月尾島船着場と永宗島船着場の間を往復するフェリー(所要時間10分)も利用される。 旧永宗島・龍遊島は、仁川国際空港ができる以前からそれぞれ有人島であった。 旧永宗島には新羅の元暁が創建したと伝える古刹・竜宮寺がある。また、海水浴場などがある。 旧龍遊島には、旺山・乙旺・龍遊海岸・マシランなどの海水浴場がある。19世紀に建てられた韓屋(伝統家屋)や、三・一運動の際にこの島で島民が起こした運動を記念する碑、朝鮮戦争時に北側占領地で活動した韓国軍ゲリラ部隊の忠魂碑がある。 現在、セガサミーやマルハンが、外国人専用カジノを併設した統合型リゾート(IR)の建設を計画している。セガサミーは、韓国でカジノ、ホテル事業を行っているパラダイスグループと合弁会社「パラダイスセガサミー」を設立し、仁川国際空港傍に韓国初の統合型リゾート「パラダイスシティ」(地図)を2017年春にオープン。", "可居島 (かごとう、カゴ=ド、朝:가거도)は、朝鮮半島の南西、黄海上に浮かぶ島。行政上は大韓民国全羅南道新安郡黒山面に属する。大韓民国の南西端に位置する島である。木浦からは約145km離れており、黒山島・晩才島などを経由するフェリー(1日1便)で約4時間を要する。面積は9.18km2。 新安郡の最高峰である犢実(トクシル)山(639m)を擁し、全体に起伏が激しく断崖絶壁に囲まれた男性的な地形である。港は島の最南端に位置する。波風が起ったり暴風雨が吹き付けつける時は、東シナ海で操業する漁船がここに避航し、「波市」が形成されることもある。可居島は西南海域の漁業基地であり、韓国の領海防衛の前線ともなる。 古くは「美しい島」という意味で「嘉佳島(可佳島)」と呼ばれ、1896年に「十分に暮らせる島」という意味の可居島に改称された。日本統治時代には小黒山島(しょうこくさんとう、ソフクサン=ド、朝:소흑산도)の名で呼ばれていたが、2008年に旧来の名称である可居島に戻った。 島全体にホオノキ・ユズリハ・サトザクラが生い茂り、イカリソウ・ゴマノハグサ・ボタン・クズなどの貴重な薬草が自生している。また、天然記念物であるカラスバト・ゴイサギ・イソヒヨドリなど珍しい鳥類が生息する自然の楽園でもある。 イワシ、イシモチ、エイなどの漁業も盛んである。2012年には、島の自然景観と海洋生物の保全管理を目的として、周辺海域が海洋保護区に指定された。また1988年に「可居島いわし漁歌」が全羅南道無形文化財に指定されている。 ^ a b c d 『世界地名大事典 1』 朝倉書店、東京、2012年11月。ISBN 9784254168914。OCLC 1013922136。 ^ a b c d e “可居島(新安郡公式サイト)”. 2018年4月13日閲覧。 ^ “韓国文化遺産ポータル”. 2018年4月13日閲覧。 座標: 北緯34度4分17秒 東経125度6分47秒 / 北緯34.07139度 東経125.11306度 / 34.07139; 125.11306" ]