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国鉄591系電車 製造の背景 国鉄では在来線特急列車のスピードアップを図り、コロなどで支えた車体を遠心力により傾斜させる自然振り子式を用いた車両の研究開発を進め、その試作車として川崎重工業により製造された。 当初、新幹線網完成までの在来線における超特急、特に東北本線上野駅 - 仙台駅間への投入が主目的に開発されていたため、低重心が求められる自然振り子式車両であるが、交直流電車として製造された。 製造当時の構造 低重心化と軽量化のため車体をアルミニウム合金製とした3車体4台車の連接構造で、形式はクモハ591形と称し、Mc1 - M2 - Mc3の3車体で1両という扱いであった(形式称号はM2に標記)。 車体長は両端の先頭車が14,150mm、中間車が10,500mm、全長は44,900mmであった。振り子構造が乗務員に与える影響を比較検討するため前面形状は両端で全く異なり、一端 (Mc1) のデザインは後の201系・205系に類似した(ただし窓周りは黒色処理されていない)前面非貫通の異型2枚窓低運転台で、もう一端 (Mc3) は当時の583系に似た非貫通の高運転台(愛称表示器部が凸となっており多少流線型をしている)といった構造であった。 なお愛称表示器の表示は「振子車 クモハ591」「高速 クモハ591」「曲線高速」「試運転 川崎重工」などいくつかの種類があった。 走行に必要な機器は後述するようにMc1・Mc3の床下に集約搭載されており、中間のM2には便所が設置され、同車体の床下には冷房機、汚物処理装置、水タンクが搭載された。 台車は、いずれも動力台車とされ、Mc1の運転台側がDT94、Mc3の運転台側がDT95、中間の連接台車がDT96と称した。これらの台車は軌道への横圧軽減対策として移動心皿方式と自己操舵方式の二種が、曲線での乗心地改善のための車体傾斜機構にはリンク式とコロ式が採用されている。DT94は横圧軽減対策として移動心皿方式を採用し、油圧リンクにより遠心力を分散する方式で、車体傾斜機構はリンク式である。これに対しDT95は横圧軽減対策はDT94と同様の移動心皿方式であるものの、中心ピンを抜いて移動させる方式で、車体傾斜機構はコロ式でコロへの荷重を減らしてスムーズに作動させるための特殊な空気バネによっても車体を支える方式である。また連接台車のDT96は、横圧軽減対策としてZリンクを介して車体の変移を台車に伝え、車軸を転向させる自己操舵方式を採用しており、この機構こそは本系列で連接構造が採用された主因であった。なお、車体傾斜機構はDT95と同じコロ式である。レール面上からの振り子中心高さは2,100mm、車体の最大傾斜角は6°とした。 制御器は二種が併用された。力行時に抵抗制御のみを行うCS42がMc3に、力行時に抵抗制御を行うのはCS42と同様であるが高速制御時と制動時にサイリスタによるチョッパ制御(界磁チョッパ制御)を行うCS41がMc1に搭載されている。主変圧器は容量1,155kVAのTM19、主整流器はシリコン整流器のRS40でMc3に搭載された。 また制御器に合わせて主電動機も二種が併用され、CS42にはMT59X直流直巻電動機4基がDT95とM2-Mc3間のDT96に、CS41にはMT58X直流複巻電動機4基がDT94とMc1-M2間のDT96に、それぞれ装架された。駆動装置は中空軸平行カルダン駆動で歯数比は共通で4.05となっており、電動機定格回転数は2,385rpm、公称定格速度は95.4㎞/hと高速運転を重視した特性である。 ブレーキ方式は発電ブレーキを常用することとされ、CS42とMT59Xの組合せでは、4基の電動機をそれぞれ独立した主抵抗器につなぎ、4群の発電ブレーキ回路を構成している。そのため、1基の電動機で滑走が発生しても電流の低下を検知して個別に再粘着可能であった。これに対し、CS41とMT58Xの組合せでは、界磁チョッパ制御により発電ブレーキを作動させるため、再粘着制御は界磁電流を絞り込むことにより行なわれる。本系列は交直流電車であり、交流区間での電力回生ブレーキ構成には複雑な回路付加が必要であったため、自重増大を嫌って電力回生ブレーキの搭載が見送られている。また発電ブレーキ常用を前提として設計されたため、空気ブレーキは補助的なものとされ、機器の軽量化を目的として機関車や客車、貨車が採用するのと同系のCLE電磁自動空気ブレーキが採用された。キハ181系気動車と同じ方式である。 パンタグラフは、下枠交差式のPS905がM2とMc3に装備されたが、M2のものは自然振り子作用時に、車体の傾きによる位置・姿勢の変化をキャンセルし、空気圧により機械的に軌道の直上に保持する機構が備えられている。この時点でMc3の固定方式でも問題はないと考えられていたが、比較のために両方式が採用されたものである。 冷房装置はMc1・Mc3の床下にAU33Xが、M2の床下にAU34Xがそれぞれ搭載された。 塗装は当時の特急形電車と同様に、クリーム4号地に窓周りを赤色(赤2号)とされた。Mc3の塗装は後に登場した183系や485系の高運転台型でも採用された。Mc1は前面にまで赤帯が巻かれている。営業運転に供する車両ではないが、側部には電動式の行先表示器が設置され、室内の一部には軽合金製の簡易リクライニングシート(R50)が設置されていた。 2両固定編成への改造 試験の結果、中間のDT96の操舵装置を作動させた場合に、先頭台車の横圧を増加させる不具合が見つかり、また操舵装置による顕著な効果も表れなかったため、操舵台車の試験が中止されることとなった。そのため連接構造を採用する意義がなくなり、1971年に通常のボギー構造の2両固定編成への改造が郡山工場で施工された。改造内容は中間車体(M2)を外し、連接部に装着されていたDT96を自己操舵機構の撤去の上で両端車体(Mc1・Mc3)の旧連接台車心皿位置に1基ずつ装着し、同時にMc1・Mc3の連結面寄りに長さ3,175mmの普通鋼製車体を外側から鋼板を当ててボルト止めで接合して車体を延長、搭載機器を再編の上でMM'ユニット化するというものであった。これにより、連接車3両編成から車体長19,775mmのボギー車2両編成となった。 この改造により、低運転台車 (Mc1) がクモハ591形 (Mc) 、高運転台車 (Mc3) がクモハ590形 (M'c) となった。 試験 落成後は1970年(昭和45年)3月27日に公式試運転を実施し、仙台運転所に配置された。 その後は東北本線で試験を実施し、前述の自己操舵台車を除いて良好な試験結果を得た。しかし、1971年(昭和46年)に東北新幹線の建設が決定したこともあって、その後は奥羽本線や羽越本線、さらには鹿児島本線等を転々とすることになる。 最終的に、1973年(昭和48年)の電化が決定された中央本線(塩尻駅 - 名古屋駅間の通称・中央西線)・篠ノ井線に車体傾斜式の量産車を投入するため、長野運転所に転属して信越本線で試験を続けることとなった。そして本系列における試験結果を反映し、1973年に日本初の営業用車体傾斜車両(自然振り子式)である381系が実用化されることとなる。しかし、本系列で良好な結果を得た4系統独立発電ブレーキ制御は、効果を十分に発揮するためには全電動車方式が要求され、変電所の増強などコスト面で過大となること、複巻電動機を使用した界磁チョッパ制御は回路が複雑であることから、いずれの方式も実用化は見送られ、最高運転速度130km/hでの営業運転も放棄された。パンタグラフの移動機構や、移動心皿方式台車の採用も見送られている。結局、本系列で試験された本体機構のうち、381系に反映されたのはコロ式の振り子装置程度であったが、むしろ車内に少数設置されたロッキングチェアを改良した簡易リクライニングシートの方が、381系をはじめその後の国鉄特急形車両に多数導入される結果となった。 国鉄では、キハ391系で明らかとなった問題点を解決し、より実車に近い試験を実施するために本系列をガスタービン試験車に改造することを計画した。1973年のプランでは、クモハ591-1の床下に川崎重工業KGR1400 (1,100ps/19,000rpm) ガスタービンを搭載し、床上に電源装置、機関冷却装置を取り付ける計画で、駆動機関は機械式であった。1975年には、クモハ590-1を電気式ガスタービン車に改造する提案がなされ、ホバークラフト用の川崎重工業KTF25B (1,730PS/14,500rpm) を床上に搭載し、1977年(昭和52年)までに完成させる予定であったが、いずれの案も実現には至らなかった。 試験終了後は長い間岡谷駅構内に留置されていたが、1980年(昭和55年)3月26日付で廃車され、車体はキハ391系のように保存されることもなく同年秋頃に長野工場で2両とも解体された。なお、DT96のうち1台は解体を免れ、大阪市港区の交通科学博物館で展示されていたが、同館の閉館後の行方は不明。 量産化の構想 前述のように本系列としての量産は実現しなかったが、国鉄の島隆が示した量産化された場合の編成は、試作車のような3車体の連節車を複数ユニット連結し、これにボギー車の食堂車1両を加えて1編成とする構想となっていた。 |
私は死にたくない 概要 実在の死刑囚バーバラ・グレアム(1923-1955)を描き、ロバート・ワイズが監督、スーザン・ヘイワードが主演した。ヘイワードは本作の演技によりアカデミー主演女優賞を受賞した。 |
松島美菜 経歴 東海大浦安高校を経て、薬剤師を目指していたために日本大学薬学部に進学した。2009年の学生選手権200m平泳ぎでは、2位ながら2分22秒82を記録した。2012年の日本選手権では、100m平泳ぎでオリンピック派遣標準記録を突破する1分7秒54で2位となり、ロンドンオリンピック代表に選ばれた。 2016年に引退し、2017年に薬剤師免許を取得。 |
ガー・アルペロビッツ ガー・アルペロビッツ(Gar Alperovitz, 1936年5月5日 - )は、アメリカ合衆国の政治学者・歴史学者。専門は、政治経済学、また原子爆弾投下決定過程の研究でも知られる。 ウィスコンシン州生まれ。ウィスコンシン大学卒業後、カリフォルニア大学バークレー校で修士号、ケンブリッジ大学で博士号取得。現在、メリーランド大学カレッジパーク校教授。 著書Atomic Diplomacyにおいて、広島・長崎への原爆投下の決定において米国政府内で重視されたのは、戦争終結を早め、日本本土上陸の実施で生じうる米軍将兵の犠牲を回避できるという点ではなく、原爆の破壊力を実際に示し、将来的なライバルとなりうるソヴィエト連邦に政治的恫喝を加える点にあったとする「原爆外交」テーゼを提示した。 これはハーバート・ファイスなどの戦争終結要因を重視する正統派解釈に異を唱えるものであったことから、激しい学問的論争を生じることとなった。 |
鍵盤 (入力装置) 鍵盤(けんばん)は道具や装置を操作するために、手、手の指、足、または棒などで動かす取っ手やボタン、踏み板(それらをキー、鍵(けん)という)を並べたもの、ないし、それを備えた入力装置を言う。 印刷電信機の送信部、タイプライターの操作部、テレタイプ端末の操作部、コンピュータのタイプライター状の文字入力装置などとして使用される。 印刷電信機 1850年代にDavid Edward HughesとGeorge May Phelpsが実用化した印刷電信機では、ピアノ状の2段鍵盤が採用されており、上段(黒鍵側)にはA~Nが、下段(白鍵側)にはZ~Oが配置されていた。各キーがスイッチとなっており、電流のON/OFFの長さを変えることで、受信側での印字を変化させる仕組みであった。(United States Patent No.26003) 1870年代にJean Emile Maurice Baudotが実用化した印刷電信機では、キーの数は5つに減っており、その組み合わせで31種類の信号(いわゆるBaudot Code)を発生する仕組みとなっていた。この後、1905年にDonald Murrayがタイプライター型キーボードを使った印刷電信機(のちのテレタイプ)を完成し、印刷電信機のキーボードはタイプライターと同じ並びとなった。 タイプライター 歴史的には前史として、活字を直接押す構造の物などが作られ、一文字単位での印刷ができるようになるが、操作性が悪く一般化はしなかった。 現在の手動機械式タイプライターへの流れは、鍵盤楽器の構造を応用する事により操作性を向上し、広く使われるようになった。 開発初期にはピアノに近い二段のみでABC順として作られた。 それを横幅を狭め四段にしたQWERTY配列が作られ、ラテン文字大文字のみで商品化。更にシフト切り替えで小文字も使える現在の形となる。 テレタイプ端末 電動タイプライターの操作部が元になっているテレタイプ端末の操作部。 電子回路が低価格化するまで、キースイッチで作られた電気回路で文字コードを作っていた。 そのため、シフトの違いが文字コードの1ビットの違いのみになる、ロジカルペアリング配列となっている。 制御文字を送信するため、コントロールキーなどが加えられている。 コンピュータ 最初は、テレタイプ端末その物をコンピュータに直接繋ぐ形で、鍵盤がコンピュータでも使われだした。 |
ギチ・あやつり人形・カラクリの底 解説 1991年にメジャーデビュー作品として、3枚同時リリースされたシングル作品である「ギチ」、「あやつり人形」、「カラクリの底」の3枚に収録されている曲がカップリング曲を含め全て収録されている。 曲順はシングルリリース時の主題曲、カップリング曲の順にはなっていない。シングルリリース時は「ギチ c/w ラ・ラ・ラ(僕がウソつきになった日)」、「あやつり人形 c/w どうしようもない恋人の唄」、「カラクリの底 c/w ギラギラ」となっていた。 上記のシングル3作品はリリース後早くに生産終了となっており、本アルバムリリースまでは入手困難な音源となっていた。 同名のビデオが1991年にリリースされており、「ギチ」、「あやつり人形」、「カラクリの底」の三曲のPVが収録されている。これらのPVは後にDVD『1990-1996』(2004年)にも収録されたが、「カラクリの底」の前奏部分がカットされている。 |
多治見市立北陵中学校 概要 多治見市のやや北東部に位置しており、北栄小学校区全域、根本・共栄小学校区の一部を学校区としている。各学年とも5クラス編成。他に2 - 3名の特殊支援学級(A・B組)が編成される。 校舎は3階建てで、多治見市の中学校の中では最も古いつくりになっている。 尚、耐震工事は2016年に行われた。 宿泊研修 1年生は岐阜県で郡上研修、2年生は愛知県で日間賀島研修、3年生は東京都で東京研修を行う。 |
Intimacy 解説 アメリカのR&Bコーラスグループ、ボーイズIIメン(ネイザン・モリス&ショーン・ストックマン)とのコラボレートアルバムである。 本作について小柳は本作の発売に関して都内にて4月15日に行われた記者会見で「昔から歌が好きでずっと歌ってきました。それで、こんなすごい人たちと一緒に制作に取り組む事ができて、私にとって特別な思いのこもったアルバムになりました」と語っており、共に会見に臨んだネイザンも「このアルバムが完成されられたのは本当に嬉しく思う。最初は冗談半分な気持ちがあったが、ゆきと共に作っていくうちに彼女は本当に才能溢れる歌手なんだと思った」と語り、また、ショーン自身も「あの小柄な見た目からは考えられないほどの歌声の持ち主で驚いた」と小柳の歌唱力に関して称賛の声を上げている。 制作の経緯 日本のテレビ番組『ミュージックフェア』での共演がきっかけで本作の制作の話が持ち上がった。 本作のレコーディングは、東京とフィラデルフィアの2ヶ所で行われており、2001年11月に、ショーンが来日、ヴォーカル入れに立ち合い、翌年3月上旬頃に小柳が今度はアメリカへ渡り、収録をするプロセスで進めてきた。 「自らでプロデュースしたり、作曲した分を渡して、ゆきが様々なものを加える形をとっていたが、その仕上がりの具合は想像以上に、新鮮さを感じることができた」とショーンは語っている。 また、Boyz II Menの二人はプロデュースだけに留まらず、コーラスやデュエットでも全面的に参加しており、これについて小柳は「ベストの状態で歌わせて貰い、それらに対して二人が色々と加えて貰ったおかげで、より広がりのある、とても良いものに仕上げる事が出来ました。」と述べている。 また、小柳は本作の制作によって、ボーカル面で彼らから多大な影響を受けた事も話しており、「本作の制作にあたって彼らの曲をたくさん聴くようになってから、そこでの歌い方やアドバイスを受け、それを多分に反映させたアルバムになりました。いろんな歌い方に挑戦してきたので、新しい自分を楽しんで頂けると思います。」と語った。 本作は全曲英語詞であり、アジア全域でのリリースもなされている。ネイザンは「心で音楽を感じるような人に本作を聴いてほしい。そして、日本の人だけでなく、他の国の人達にも是非とも聴いてみてもらいたい」と語った。 |
さよなら三角 概要 成績は落ちこぼれでお調子者の少年・上条拓と、成績抜群の美少女・星野明日香、隣同士に住む幼なじみ2人の、高校受験から大学受験までの3年余りを描いたラブコメディである。 本作はあだち充の『ナイン』や『みゆき』によって開拓されたラブコメ路線を類型的な表現として定着させたと評されており、漫画評論家の中田健太郎は「『サンデー』のラブコメと言われて思いあたる、画面が白くてどこか柔和なイメージを、理念的にまでおしすすめたのがこの『さよなら三角』に違いない」と指摘している。さらに中田は『週刊少年マガジン』で連載されたラブコメ漫画『The・かぼちゃワイン』との比較において、本作の「画面の白さはいっそう際だって見える」としている。 また、漫画評論家の伊藤剛は、「『さよなら三角』を『タッチ』とつながる、ミニマルな画面で心情のあやを描くマンガとして真面目に再評価すべきだとしたら、『キックオフ』はその影響圏が半ばパロディとして成立してしまうほどに広がった証拠として再評価されてもいい」と『週刊少年ジャンプ』で連載されたラブコメ漫画『キックオフ』への影響を指摘している。 島本和彦の漫画『アオイホノオ』では、何か引っかかる漫画として本作が登場している。島本は2014年の『ユリイカ』でのインタビューにおいて「絵のうまくない新人たちがじゃかじゃかラブコメを描いてましたけど、『さよなら三角』だけはやっぱりどこか違っていた。『さよなら三角』の前に増刊のほうで何回か読切を載せているんですけど、たいした内容があるわけでもないのに、すごくひっかかるというのか、こいつ来るぞ!というオーラがあって、なんというか、メジャー感がありました」と評している。 ストーリー 中学3年生の上條拓と星野明日香は隣同士に住む同級生。2人は岬高校への進学を志望するが、成績優秀な明日香に対して、拓はギリギリの成績という状況。ところが明日香は答案用紙に名前を書き忘れたため不合格となり、美人の女子大生を家庭教師に迎え成績がアップした拓がかろうじて合格する。明日香は担任の勧めもあり、岬高校の事務員を務めながら浪人生活を送ることになる。 拓は入学早々、美人のマネージャーに心を惹かれてサッカー部への入部を決める。途中、キャプテンの片桐に軽薄さを見透かされてレギュラーから外される一幕がありながらも、やがて正ゴールキーパーとなり、毎年のように全国大会へと駒を進める。かといってサッカー漬けの日々を送るでもなく、休みとなれば仲間とともに行楽地に繰り出して自由を満喫し、生徒会選挙に立候補して当選し人気者になる。明日香との関係も学生と浪人と立場は違えどもさほど変化がある訳でもなく、かといって彼女一人に固執する訳でもなく、恋にスポーツにと学園生活を満喫する。一方の明日香は事務員を務めながら浪人生活を続け、時にはサッカー部のマネージャーも買って出る。やがて1年遅れで岬高校に合格すると、移り気な幼馴染の拓を見限るでもなく、献身的に支え続ける。 高校3年の受験シーズンを迎えると、勉強に身が入らない拓はことごとく不合格となり浪人確実かと思いきや、ひょんなことから絵画の実力が認められ、美術大学を受験すると大学教授から海外留学まで持ちかけられるなど、リア充っぷりは変わらないのだった。 |
串木野純也 来歴 1972年11月29日、プロデビュー戦には3RTKO勝利を収めた。2戦目で判定負けを喫して引退し、自衛隊に入隊。自衛隊体育学校時代の1975年には全日本選手権及び全日本社会人ボクシング選手権大会で3位の成績を残し、翌1976年に再デビューを果たした。6戦目から10回戦を戦い、25戦目まではウェルター級 からミドル級の契約で、日本人選手以外に朱虎、林載根、李萬徳、黄忠載など韓国の世界ランカーとも対戦を重ねた。これらの対戦にはOPBF東洋太平洋ジュニアミドル級、OPBF東洋太平洋ウェルター級、日本ジュニアミドル級の各王座挑戦も含まれるが、いずれも失敗に終わった。 1980年7月1日の21戦目では亀田昭雄の持つ日本ウェルター級王座に挑戦したが、ボディを強打されて8RKO負けを喫し、25戦目を終えての戦績は14勝 (10KO) 11敗 (6KO) というものだった。26戦目となった1981年9月7日、日本ウェルター級タイトルマッチで亀田昭雄に再挑戦。結果は小差判定負けに終わったが、9Rには右フックから左右の追撃で世界挑戦の決まっていた亀田からダウンを奪い、この試合を転機として強打に精神的余裕が生まれ、豊富な練習を重ねて技術を向上させた。同年10月13日、亀田の返上した日本ウェルター級王座をダイナマイト松尾と争った決定戦では判定負けとなったが、翌1982年1月18日の松尾との再戦で9RKO勝利を収めて同王座を獲得した。 1985年6月6日、尾崎富士雄に判定負けを喫して王座を失うまで、3年半近くの在位期間中に10戦連続KO防衛の日本記録、全12KOを含む13度の防衛を果たした。同年8月29日、尾崎からの王座奪取に挑戦したがTKO負けを喫した。眼疾を発症していたため、この試合を最後に現役を引退した。 |
VM-T (航空機) 概要 1970年代末よりスタートしたソ連の大型宇宙開発計画、「ブラン」宇宙往還機及び「エネルギア」ロケットの開発に伴い、これらを工場からバイコヌール宇宙基地まで輸送する必要に迫られたソ連当局は、大型機の設計経験のある各航空機設計局に対し「規格外大型貨物を輸送する為の新型輸送機」についての設計案を提出することを求めた。各設計局の設計案が審査された結果、1978年、アントノフとミャスィーシチェフの両設計局に対して開発が命じられ、ミャスィーシチェフ設計局によりM-4爆撃機を改修して開発されたのがVM-Tである。 なお、アントノフ設計局は超大型輸送機であるAn-124ルスラーンの拡大型であるAn-225 ムリーヤを開発し、後にソビエト・ロシアの宇宙開発支援用超大型貨物輸送機にはこちらが主に使われることとなった。 開発 当局よりの命令に対し、以前よりアントノフ設計局に対抗してM-4爆撃機の設計を発展させた超大型輸送機を開発する構想を立てていたミャスィーシチェフ設計局では、アントノフ案に先んじることを重視して、まずはM-4をほぼそのまま流用した機外搭載型輸送機の設計案をもって回答した。 ミャスィーシチェフ設計局では、本命としてはM-4の主翼とエンジンを流用して胴体部を再設計した超大型輸送機を構想しており、M-4の機上にブラン、もしくはエネルギアを搭載するだけのこの設計案は第0案的なものであり、採用後に改めて本命の設計案が提示される筈であった。が、この第0案は当局によってそのまま採用され、ミャスィーシチェフ設計局には早速の試作が命じられた。 この設計案が採用された要因には多説あり、「期日絶対主義であった当時のソ連の硬直した官僚体制が原因である」という説と、「最終組立前の未完成状態にあり、計画100 %値の重量にはなっていないブラン・エネルギアならば、新規開発ではない機体でも輸送は可能であると判断されたから」という説がある。この計画に際し当局の要求に対してツポレフ、イリューシンを初めとした各設計局が提出した設計案には過去に類似した実用機のない独創的なデザインのものが多く、ミャスィーシチェフ設計局の提出した案は「もっとも常識的、且つ早急に実機の完成の見込めるものであったから」と判断されたという考察もある。 実機の試作に先立ってミャスィーシチェフ設計局はまずTsAGIの協力を得て模型による風洞実験を行い、実験の結果は予想以上に良好なものであった。これを受けてM-4の製造工場に保管されていた予備機(事実上の死蔵機)を改装して3機の試作機が製作された。うち1機は各種の強度試験にのみ用いられ、試験機の段階で用途廃止とされた。 改修作業は順調に進められ、1981年には強度試験に用いられた機体を除いた2機の試作機(実質的な生産機)がそれぞれ空貨状態、大型貨物コンテナ及びブランのモックアップ搭載状態での初飛行に成功し、1982年1月より運用が開始された。 構造 VM-TはM-4の背面に単純に大型貨物を載せる構造となっている。機体は爆撃機型のM-4を空中給油機型に改修した3MN-2 (3МН-2) “バイソンC”に準じており、武装及び爆弾搭載能力、および空中給油能力はない。原型のM-4はマッハ0.95の最高速度が発揮可能な準超音速機であるが、VM-Tはその性格上速度性能は原型より大幅に制限されており、大型貨物搭載状態での規定最高時速は500km/hである。 大型貨物を搭載する都合上、垂直尾翼は原型の単垂直尾翼から上反角の付いた水平尾翼の両端に巨大な長方形の双垂直尾翼を取り付ける形式に変えられている。また、超重量・大容積の貨物を搭載する都合上、原型のM-4の操縦系統とは違いフライ・バイ・ワイヤが導入されている。機体最後尾にはドラッグシュートが格納されている。 貨物は機体背面にパイプフレームを介してピギーバック(背負式)方式により積載し、「ブラン」宇宙往還機の他、エネルギアロケットの胴体部を円筒形の巨大なコンテナに収納して搭載する。貨物の搭載に際しては、大型のブリッジクレーンが用いられる。後に、大型コンテナの他に涙滴型の小型コンテナが登場し、ブランとエネルギアの輸送がAn-225に一本化されてよりは、もっぱらこの小型のコンテナを搭載して運用されている。この小型コンテナは、ロケット本体ではなく、それに搭載される宇宙機や人工衛星、またはロケットのエンジンノズル等を輸送する際に用いられるものである。 運用 VM-Tは1982年の就役以後、エネルギアを始めとしてロケットの運搬作業に従事したが、1989年にはもう一方の候補であったAn-225が完成し、こちらの方が搭載能力も操縦安定性も圧倒的に高かったため、以後はAn-225が後継機として運用されることとなった。 以後はより小型のカプセルを搭載して補助的な輸送業務を行っており、現在でも現役にあると推測されている。2005年のMAKS2005には地上展示機として展示され、モスクワ州のジュコーフスキー飛行場(現:ラメンスコエ空港)とリャザン郊外のリャザーニ空軍基地には稼動状態にある機体が常に駐機されている。 VM-Tはその設計から就役中の事故が大いに懸念されたが、2016年現在までに致命的な事故を起こしたことはなく、墜落事故によって失われた機体もない。 登場の衝撃 VM-Tの異質なスタイルは登場と同時に西側の空軍、航空宇宙関係者に大きな衝撃を与えた。諸外国だけではなくソビエト空軍当局からも飛行可能なのか疑問の声が上がったという。当時は既に大型のレーダードームを背面に設置した早期警戒管制機が存在しており、航空機は相当の抵抗、重量源を機外に搭載していても、空力的・重量的設計さえ正しければ飛行は可能なことが実証されていたが、自分の機体の断面積を上回る構造物を機体上面に固定して飛行するVM-Tの姿は、航空力学の専門家からも常識を超越した異質な光景であった。 設計側は風洞実験により実用に足る飛行安定性能は保たれたと説明し、また制御能力を向上させるためにフライ・バイ・ワイヤが駆使されていた。それにもかかわらず操縦性は劣悪を極め、通常の飛行すら困難だったと伝えられている。大型コンテナを搭載した場合の不安定さは当然ながら、貨物を何も搭載しない場合は逆に大型の垂直尾翼によって安定性が高くなりすぎるために操縦性はやはり劣悪で、さらに離着陸時には横風に機体後部が煽られやすく危険であったという。 後に、大型コンテナの他に、涙滴型の小型(とは言っても、それでもコンテナの直径は機体本体よりも大きい)コンテナを搭載した機体の写真が公表された。この際には、空中で大型ロケットを発射するための母機、ソ連へ飛来する大陸間弾道ミサイルを追尾する早期警戒機など、輸送機開発に偽装した別の計画という考察(推測)が西側でなされたこともある。実際は小型のコンテナはロケット本体ではなくそれに搭載される宇宙機などを輸送する際に用いられるものであった。 VM-Tを、とある西側の航空評論家は「ソビエト的合理主義は、時に“科学という名の魔法”によって飛行機を飛ばせることを可能にする」と評している。 |
ファミリージョッキー オンリーレース 2人まで参加可能。 モード開始時に表示される競走馬16頭の中から1頭を選択し、天皇賞走破を目指して全16戦のレースを勝ち上がる。2人プレイ時の同馬選択は不可。 レースは全て6頭立てで行われ、4着以内であれば入賞と見なされて次レースへ出場可能。しかし、3着以内の入賞によって得られる賞金とその獲得総額に基づいたグレード制(新馬、一般→GIII→GII→GI)があるため、16戦のうちにGIレースおよび天皇賞へ出場するには早急な昇級が求められる。 出場レースの着順で5着以下、または障害レース中の障害物で転倒するなど何らかの理由で画面から見切れてしまうリタイア(レース不可と見なされて即時操作不能、最下位判定が下される)でゲームオーバーとなり、無事に全16戦を終えるとエンディング画面が表示されてゲーム終了となる。どちらの場合でも、ゲーム終了時点での賞金総額および総合戦績が表示され、GIレース優勝の場合は各レースの優勝カップが表示される。 ファミリーゲーム レースは2人まで、競馬予想は4人まで参加可能。 ゲーム内容はオンリーレースと同一だが、各レース開始前に競馬予想が加わっており、トーサン、カーサン、ヤヨイ、ユウタの4人のキャラクターが持つ所持金10000円で馬券を買い、馬券を的中させて所持金を増やしながらレースを進める。購入可能な馬券は各自3枚まで、馬券の種類は馬連(1着と2着を順不同で的中させる)のみ。全16レースをクリアすると、所持金をより多く増やしたキャラクターから順位が表示される。 所持金が0になったキャラクターは以降のレースで予想に参加できなくなるが、ゲームの進行には影響しない。全員の所持金が0になったレース以降は競馬予想自体が無くなり、オンリーレースと同内容となる。一方、オンリーレースと同様にプレイヤーの操作する馬が5着以下となった場合は、競馬予想の結果に関わらずゲームオーバーとなる。 |
ドン・ウィルソン (ギタリスト) 略歴 最初に手にした楽器はティップルという10弦の楽器で、その後トミー・ドーシーに憧れてトロンボーンのレッスンを受ける。やがてティップルからギターに持ち替え、高校時代にレスリングの選手としてステートチャンピオンを目指す。高校卒業後は片手間仕事を務めた後に陸軍に入隊、マーチングバンドのメンバーとしてトロンボーンを担当する。除隊後は中古車のセールスマンや建築現場の仕事をしながらギターの練習を重ねる。 1959年、当時勤務していた中古車ディーラーにたまたま訪れたボブ・ボーグルと出会い、たまたまリアシートに載せてあったギターケースを見つけたことから、音楽の話で二人は意気投合し、ボブの口利きによってボブが勤務していた建設会社に転職、そして夜はさまざまなパーティやクラブなどで演奏するようになった(当時のレパートリーはレス・ポールやチェット・アトキンスなどをアレンジした物)。 そしてドンの母親ジョシーの助力を得て、プライベートレーベル(現在で言うところの「インディ・レーベル」) BlueHorizon を立ち上げる。結成当時は Versatones(ヴァーサトーンズ)、ザ・インパクツを名乗っていたが、後にジョシーのアイデアにより、The Ventures(ザ・ベンチャーズ)と改名。以後グループの中心的メンバーとして、数々のヒット曲を生み出す。 ファンからは「ドンさん」の愛称で親しまれ、ステージ上ではおどけて見せたり、コミカルなシーンを演出するなど、ショーマンシップに溢れたエンターテイナーである。また、インタビューの場に於いてもウィットに富んだジョークを飛ばすなど、常にその場を和ませるムードメイカーでもあった。 好きな日本食はラーメン、すき焼き、寿司、居酒屋メニュー等である。 近年はパソコンに熱中していて、ネットサーフィンを楽しんでいるという。また大の居酒屋のファン。 高齢による体力の問題などから、2015年の来日をもってツアーの参加を引退、最後の来日となることを表明した(レコーディングなどでは今後も活動を継続する)。同年にスタートした日本ツアーで、後任としてベースを担当していたボブ・スポルディングがリズムギターにパート変更、ボブ・スポルディングの息子であるイアン・スポルディングがベーシストとして新たに加入する事が発表された。 2013~14年頃、彼の息子であるティム・ウィルソンと共に、かつて2000年から「ジェリー・マギーを除き」ベンチャーズが使用していたARIA製ベンチャーズ・モデルの販権を買収、アメリカ本国向けにWilson Brothers Guitarsを設立、ドン自身は使用し、ティムがディストリビューターを務めている他、インディーズレーベル「Northwest Green Records」を2015年11月頃立ち上げた。 演奏スタイル ドンの演奏は、基本的にギター・パートの中で常にバッキングを担当するリズムギターであり、メインになることは無い。しかし、弦を掻き鳴らすノイズを盛り込んだり、歯切れのいいコードストロークを展開し、リズムの面から楽曲をリードすることから「メロディを弾かないリードギター」と言われることもある。近年は「パイプライン」や「ダイアモンド・ヘッド」などで聴くことができる、日本中にエレキブームを巻き起こした「テケテケテケテケ…」の際に、最後の3〜6フレット辺りで他の弦を激しく掻き鳴らし、スプリングリバーブを暴れさせて激しい音を出すなど、リバーブというエフェクターの効果を最大限に生かした、音に劇的な効果を与える技を加えている。 使用する弦はghs社製のミディアムゲージ(.011〜.050)という太い弦を使用している。一時は.012〜.052というかなり太いゲージの弦を使用していた。演奏の際にはコードストロークでは薄めのピック、「テケテケ」の際には厚みのある物と使い分けている。インタビューで「リズムギターもその存在を主張するべきと言うのが、僕の"リズムギター論"なんだ」「リズムギターでロックンロールするということを常に考えてきた」と語っている。 アンプの音作りは極めてクリアな音質にセットしている。カノウプスから彼との共同開発によって発売されたギターアンプ"サーフリバーブ"は、アンプに内蔵されたリバーブの性能や音質を含め、彼の理想を実現したクリアな音質を持っている。 エフェクターは全く使用しないが、レコーディングなどでは稀にスプリングリバーブなどを使用している。 ステージでは、リズムギターのみならず2〜3曲歌うことが定番化している。M&Iカンパニーからリリースされたベンチャーズのアルバムの中には、ドン・ウィルソンのヴォーカルを全面的にフィーチャーしたアルバムも存在する。また、ベンチャーズの曲で"The Twomp"という歌入り曲があるが、この曲は元々ドン・ウィルソン本人のソロ名義でリリースされていたものである。 エピソード ジェフ・バクスターは1970年代から既に彼からの影響を公言していた。安定したリズムバッキングを学ぶことが出来たとインタビューで語っていたことがある。「ドンやボブのようなギタリストになりたいのですが、どうしたらいいでしょうか?」とファンレターを送ったら、「フェンダーのジャズマスターを買おう」との返事が届いたので、小遣いやアルバイトで稼いだ金を手に楽器店へ買いに行ったという。 1959年のデビューから60年近く過ぎた現在も世界中に根強いファンを抱え、特に日本においてはエレキギターの素晴らしさ、バンド形式の新しい音楽スタイル、自分で音を出すことの楽しさを伝えた人物として、多くの人からリスペクトされている。 |
オリンピック・マルセイユの八百長スキャンダル この項では、1992-93シーズンにフランスのサッカークラブであるオリンピック・マルセイユが行った贈賄行為(八百長)について記す。この事件はサッカー史上最大のスキャンダルのひとつに数えられる。フランスではこのスキャンダルを「L’affaire VA-OM」と呼称している。 概要 1992-93シーズンのマルセイユはディヴィジョン・アン(1部)とUEFAチャンピオンズリーグの双方で優勝争いに加わった。1993年5月20日にはUSヴァランシエンヌ=アンザンとのリーグ戦に1-0で勝利し、リーグ最終節を待たずして優勝を事実上確定させ、5月26日にはUEFAチャンピオンズリーグ決勝でACミラン(イタリア)に勝利して優勝を決めた。しかし後に、ヴァランシエンヌ戦で八百長行為を行っていたことが明らかとなり、ディヴィジョン・アンのタイトルを剥奪されてディヴィジョン・ドゥ(2部)への強制降格処分を受けたほか、スキャンダルにかかわったクラブ関係者は懲役刑・罰金刑やサッカー界からの追放処分などを受けた。UEFAチャンピオンズリーグのタイトルは剥奪されなかったが、優勝クラブとして活動する権利を失った。 スキャンダルの背景 実業家だったベルナール・タピは1986年にマルセイユの会長職に就き、1991-92シーズンまでディヴィジョン・アン(1部)4連覇を達成するなどクラブの黄金期を築きあげた。タピは1992年から1993年にフランソワ・ミッテラン内閣の都市問題担当大臣を務めるなど、サッカー界以外でも知名度や人気を博する時代の寵児だった。1992-93シーズンのマルセイユはリーグ戦5連覇を目指し、またフランスのクラブとして初のUEFAチャンピオンズリーグ優勝も目指していた。マルセイユにはディディエ・デシャン、クリス・ワドル、ファビアン・バルテズ、ルディ・フェラー、マルセル・デサイー、エリック・カントナなどが在籍しており、リーグ戦では首位でシーズン終盤を迎えたほか、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ最終戦でPFC CSKAモスクワ(ソビエト連邦/ロシア)に6-0で勝利して決勝進出を決めた。 問題の試合と告発 1993年5月20日の木曜日、残留争いを演じていたUSヴァランシエンヌ=アンザンは、第37節(全38節)でリーグ首位のマルセイユをスタッド・ナンジュルセルに迎えた。この試合に勝利するとマルセイユの優勝が事実上確定し、その後のUEFAチャンピオンズリーグ決勝に集中して臨めるため、対戦相手が下位に低迷するクラブではあったがマルセイユにとっては重要な試合だった。試合は1-0でアウェーのマルセイユが勝利してリーグ優勝を決定付けた。ヴァランシエンヌとマルセイユの試合で笛を吹いたJean-Marie Veniel主審は、ホームチームが受動的であると感じていたことを後に語っている。 ヴァランシエンヌ対マルセイユ戦翌日の5月21日、ヴァランシエンヌのジャック・グラスマン(センターバック)が記者会見でマルセイユの八百長行為を告発し、試合前にマルセイユのジャン=ジャック・エイドゥリから電話を受け、1) UEFAチャンピオンズリーグ決勝を控えたマルセイユの選手達に怪我をさせないよう手加減すること、2) マルセイユの勝利に有利に働くようプレーすることを要請されたと明らかにした。グラスマンはエイドゥリの要請を拒否してボロ・プリモラツ監督に相談し、公の場での告発を決意。ヴァランシエンヌのチームメイトであるホルヘ・ブルチャガ(攻撃的ミッドフィールダー)とクリストフ・ロベール(ストライカー)にもグラスマン同様に電話で八百長の要請を受け、グラスマンとは異なり要請を受諾していたことも明らかにした。なお、この記者会見では物的証拠は一切示されず、供述証拠のみによる告発だった。 大会の経過 5月26日の水曜日、ドイツ・ミュンヘンのミュンヘン・オリンピアシュタディオンでUEFAチャンピオンズリーグ決勝が行なわれた。グループAを3勝3分で勝ち上がったマルセイユは、グループBを6戦全勝で勝ち上がったACミラン(イタリア)と対戦し、バジール・ボリが試合唯一の得点を挙げてマルセイユが優勝を決めた。 第37節のヴァランシエンヌ戦で優勝を決定付けたマルセイユは、最終節(第38節)にも勝利し、勝ち点51で並んだパリ・サンジェルマンFCやASモナコを勝ち点4上回って5シーズン連続10回目の優勝を決めた。優勝回数でフランス最多のASサンテティエンヌと並び、連覇回数ではサンテティエンヌの4連覇を上回ってフランス最多となった。 八百長の発覚と処分 グラスマンの告発当時のフランス世論はタピに同情的な論調だったが、6月にはフランスサッカー連盟(FFF)のノエル・ルグレット会長がグラスマンの支持を表明し、タピ会長の提訴に踏み切った。エイドゥリの妻は夫の犯罪行為を告発し、ロベールの義母の庭から見つかった25万フラン(約4万5000ドル、約3万ポンド、約475万円)の札束が決定打となった。エイドゥリはマルセイユのゼネラル・マネージャー(GM)であるジャン=ピエール・ベルネスの指示で電話を掛けたと主張し、ロベールの妻は、ロベール本人ではなく妻がエイドゥリから金銭を受け取ったと主張した。タピ会長は、ロベールが経営するレストランの開業資金として25万フランを提供したと主張したが、裁判所はタピ会長が指揮して八百長行為が行われたと判断した。 欧州サッカー連盟(UEFA)はマルセイユのビッグイヤーこそ剥奪しなかったが、優勝クラブとして活動する権利を取り上げたため、マルセイユはUEFAスーパーカップとインターコンチネンタルカップの出場資格を失った。このため、両大会にはUEFAチャンピオンズリーグ決勝でマルセイユに敗れたACミランが出場している。またUEFAは、1993-94シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を剥奪した。1993年9月22日、フランスサッカー連盟は1992-93シーズンのマルセイユのタイトルを剥奪し、同シーズンのディヴィジョン・アンは優勝クラブなしとなった。1-0でマルセイユが勝利したヴァランシエンヌ戦は、0-0の引き分け扱いとなった。1994年4月には、1993-94シーズン終了後にマルセイユがディヴィジョン・ドゥ(2部)に自動降格することが通告された。タピ会長はフランスサッカー連盟に会長資格を取り上げられ、サッカー界からの追放処分を受けた上、1995年5月15日には地方裁判所によって実刑2年(禁固8ケ月)の判決を下された。 マルセイユ側の人間では、GMのベルネスは懲役2年(執行猶予付き)と罰金1万5000フラン、エイドゥリは懲役1年(執行猶予付き)と罰金1万フランの刑罰を受け、ヴァランシエンヌ側の人間では、ブルチャガとロベールがともに懲役6ヶ月(執行猶予付き)と罰金5000フランの刑罰を受け、ふたりはサッカー界からの2年間の追放処分を受けた。 後年の疑惑 UEFAチャンピオンズリーグのグループリーグ最終戦で大敗したCSKAモスクワのGennadi Kostylev監督は、自クラブの選手たちがマルセイユから賄賂を贈られており、マルセイユ戦でのドリンクに異物が混入されていたと主張したが、Kostylev監督は後に主張を撤回している。2011年には、やはりグループリーグでマルセイユと対戦したレンジャーズFC(スコットランド)のマーク・ヘイトリーが、アウェーでのマルセイユ戦でプレーしない見返りに金銭援助を行なうという電話を受けていたと主張した。ヘイトリーはホームでのマルセイユ戦で得点しており、マルセイユ戦の前戦のクラブ・ブルッヘ戦で不自然な警告を受けたことで、累積警告のためにアウェーでのマルセイユ戦には出場しなかった。 スキャンダル後のマルセイユ マルセイユは2シーズンをディヴィジョン・ドゥで過ごし、1995-96シーズン終了後にディヴィジョン・アン昇格を果たした。11位、11位、4位と徐々に成績を上げたが、1998-99シーズンは優勝したFCジロンダン・ボルドーに勝ち点1差でタイトルに届かず、その後の数シーズンは再び中下位に低迷した。2000年代にはオリンピック・リヨンに7連覇を許したが、スキャンダル時にキャプテンを務めていたディディエ・デシャンが指揮を振るった2009-10シーズンには、リヨンなどを抑えて1991-92シーズン以来となる9回目のリーグ優勝を果たした。 2007年4月12日にはスキャンダル後初めて、マルセイユがスタッド・ナンジュルセルでヴァランシエンヌと対戦した。トラブルを防ぐために警察に加えて両クラブの警備員が協力して対応し、ヴァランシエンヌのFrancis Decourriere会長は試合前に「グラスマンが観戦したいのなら歓迎するが、タピは招待できない」と語った。 |
惑星冒険もの 概要 惑星冒険ものというジャンルが成立する以前からシラノ・ド・ベルジュラックによる『太陽諸国諸帝国』(1662年)、ムルタ・マクダーモットによる『A Trip to the Moon』(1728年)、アシール・エアーオードによる『Voyage à Vénus』(金星への航海)(1865年)、ジュール・ヴェルヌによる『地球から月へ』(1865年)、『彗星飛行』(1877年)等があった。同時期、日本では貫名駿一による『星世界旅行 千万無量』 (1882年)、杉山藤次郎による『黄金世界新説』(1884年)、井口元一郎による『夢幻現象政海之破裂』 (1888年)、羽化仙史による『月世界探検』 (1906年)等があった。 原型と特徴 ジャンルの名称が示す通り、惑星冒険ものは19世紀末から20世紀初頭のパルプ冒険ものが地球以外の惑星を舞台として発展したものである。パルプ冒険もの(ヘンリー・ライダー・ハガードやタルボット・マンディといった作家がいた)では異国風の設定で豪放な登場人物を描いており、南米、アフリカ、中東、極東などのロストワールドを舞台とした。古代や中世の実在または架空の国を舞台としており、現代のファンタジーというジャンルの原点の1つにもなった。 惑星冒険ものはパルプ冒険ものにスペースオペラをかけあわせたものである。豪放な冒険者は宇宙旅行者に変換され、多くは地球から旅立ち、(テクノロジーや植民地主義の中心としての)現代のヨーロッパや北米を代表している。異国風の舞台はアジアやアフリカから他の惑星(ジャンル黎明期では火星や金星が多い)に変換されている。そして、西洋人から見た典型的な「未開人」や「東洋の専制国」が敵対的な異星人種族やその退廃的な王国に置き換えられている。惑星冒険ものは多種多様な政治的・哲学的思想を表現する様式として利用されてきたが、文明と文明の遭遇、異質な文明間の対話の困難さ、それによって生じる悲惨な結果を主題の1つとすることが多い。 エドガー・ライス・バローズと「剣と惑星」もの このような物語で市場で最初に成功した作家としてエドガー・ライス・バローズがいる。彼の火星シリーズの最初の作品「火星の月の下で」(Under the Moons of Marsのちに『火星のプリンセス』として出版)はパルプ雑誌「オールストーリー」に1912年に掲載された。バローズが惑星冒険ものの様式全てを考案したわけではないが、パルプ雑誌における異星を舞台とした冒険ものの様式を広く認知させたことは確かである。バローズの描く「バルスーム」(火星)は文化的にも科学技術的にも無秩序なごちゃ混ぜであり、「ラジウム銃」や不思議な光線を使って浮遊する乗り物など未来的な機器があるかと思えば、火星人の騎兵隊がおり、皇帝やプリンセスなどを頂点とした制度があり、剣で戦う場面も多い(それを正当化する設定がある)。このように未来的なものと古風なものを混合する手法は、フランク・ハーバートの《デューン》シリーズやジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」に受け継がれた。火星シリーズのストーリーは全くの冒険ものであり、捕らわれて囚人となり、剣闘士として強制的に戦わされ、大胆な脱走をし、モンスターを狩り、悪人と決闘する。ファンタジー要素は幽体離脱、テレパシー以外ほとんどなく、「魔法」とされるものの多くは無視されたりいんちきとして暴露されたりする。 火星シリーズから多数の類似作品が生まれた。O・A・クラインのようにバローズが生み出した市場をうまく活用したものもいた。バローズ自身も1934年に金星シリーズを出版している。数十年後にジャンルが衰退したが、1960年代にはバローズ人気が再燃し、リン・カーターやマイケル・ムアコックがバローズへのパスティーシュともいえる作品を生み出した。ロバート・E・ハワードら「剣と魔法」(Sword and Sorcery)いわゆるヒロイック・ファンタジーの作家にも影響され、この模倣的ジャンルは「剣と惑星」ものと呼ばれるようになっていった。このジャンルは様式の幅が狭く、似たようなストーリーを単に生み出し続けるだけの進歩のない「レトロ」なジャンルである。おそらくそのためか「剣と惑星」ものの作家は極めて長いシリーズものを書くことが多く、その極端な例がケネス・バルマーのドレイ・プレスコットサーガで53巻まである。 惑星冒険ものとSF 1926年から出版が始まり1930年代に隆盛を迎えたSFパルプ雑誌は惑星冒険ものの新たな市場を創出し、このジャンルの新たな担い手を生み出す効果を発揮した。プラネット・ストーリーズやスタートリング・ストーリーズといったパルプ雑誌は惑星冒険ものが中心だった。一方ウィアード・テイルズのような既存のファンタジー誌は、それまでのホラーや剣と魔法ものからSF冒険ものへと移行しはじめた。中でも特筆すべき作家として、《ノースウェスト・スミス》シリーズ(1933年-1947年)で知られるC・L・ムーアがいる。ムーアのストーリーには活劇がほとんどなく、むしろ心理的緊張を描いており、特にムーアにとって危険で官能的だった未知なるものの恐怖と魅力を描いている。 1940年代と1950年代において惑星冒険もののジャンルの特筆すべき作家としてリイ・ブラケットがいる。そのストーリーは複雑で、単純な勧善懲悪ではなく、冒険活劇も盛大であり、時にはラブストーリーもからめ、パルプ雑誌では滅多に見られないほど重厚で詳細な設定があり、スペースオペラとファンタジーを融合させたスタイルだった。ブラケットはプラネット・ストーリーズとワンダー・ストーリーズ誌の常連で、同じ世界設定を共有するが主人公の異なる(エリック・ジョン・スタークは例外的に複数作品で登場)一連の作品を生み出した。ブラケットのストーリーは第一に冒険小説だが、文明の衝突や帝国主義や植民地主義といった問題をテーマとしていた。 ブラケットの「金星の魔女」とA・E・ヴァン・ヴォークトの「原子の帝国」を比較してみると興味深い。これらの作品はロバート・グレーヴスの『この私、クラウディウス』をプロットや設定の下敷きにしている。ヴァン・ヴォークトは自身の考案した帝国の詳細を語り、主人公の脆弱さを強調する。ブラケットは、陰謀に巻き込まれたある女性の空想的魅力にとりつかれた地球人を登場させている。どちらもスペースオペラだが、ブラケットの作品だけが惑星冒険ものと言える。 1960年代中ごろから、太陽系を舞台としてきた伝統的な惑星冒険ものは廃れていった。科学技術の進歩によって太陽系には地球以外に生命の存在しうる場所がほとんどないことがわかったためで、以降は何らかの超光速航法を前提として太陽系外惑星を舞台とするようになっていった。例外として1966年から始まったジョン・ノーマンの《反地球》シリーズがある。舞台となる惑星ゴルは太陽をはさんで地球と反対側にある反地球である。「異星人の優れた科学」により重力の作用や地球からの探査機ではゴルを発見できないという惑星冒険ものによくある設定になっている。 惑星冒険ものは現在もSFの中で重要な一部となっているが、その呼称が軽蔑的なものと見られているため、作家自らがこの呼称を使うことは少ない。また、惑星冒険ものとスペースオペラの要素が交じり合った作品が多く、どちらか一方に分類することは困難である。 フランク・ハーバートの《デューン》シリーズの特に初期の作品はアラキスという砂の惑星を舞台としており、惑星冒険ものとしての要素を全て備えている(「剣と惑星」ものの要素も若干ある)。しかし、ハーバートは哲学、生態学、政治などについての自分の考え方を披露するために設定を使っているだけともいえる。 マリオン・ジマー・ブラッドリーのダーコーヴァ年代記もダーコーヴァという惑星が舞台の中心であり、惑星冒険ものに分類できる。ただし、銀河規模の設定が単なる背景にとどまっているとは言えない。同様にL・スプレイグ・ディ・キャンプのスペースオペラ「Viagens Interplanetarias」シリーズの一部をなしている Krishna も惑星冒険ものと言える。 アーシュラ・K・ル=グウィンの初期作品『ロカノンの世界』や『辺境の惑星』は惑星冒険ものとされている。《ハイニッシュ・サイクル》は総じて惑星冒険ものといえるが、後期の作品ほどファンタジー的要素は薄く、社会学や人類学がテーマとして前面に出てきている。 Science Fiction: The 100 Best Novels(1985) で編集者で評論家のデビッド・プリングルは、マリオン・ジマー・ブラッドリーとアン・マキャフリイを惑星冒険ものの重要な作家として挙げている。マキャフリイの《パーンの竜騎士》シリーズは銀河規模の背景設定が冒頭で簡単に書かれているだけである。読者の科学的世界観は重要だが、パーンの社会では科学技術が失われている設定である。 |
津市立みさとの丘学園 歴史 津市美里地域(旧安芸郡美里村)では少子化の影響で児童数が減少してきたため、域内の長野小学校・高宮小学校・辰水小学校の3校を統合することが検討されてきた。2007年(平成19年)度に検討を開始し、2013年(平成25年)度には津市全域で小中一貫教育を推進していく方針が示されたため、3小学校に加え美里中学校を含めて施設一体型の小中一貫校を設置することとし、2016年(平成28年)4月の開校を目標に掲げた。こうした中、地元からの要望と学習環境の整備を理由として、2017年(平成29年)4月に開校時期を遅らせることを決定し、2016年(平成28年)の学校教育法改正に伴い義務教育学校が法制化されたことを受け、義務教育学校とすることが決まった。新校名は2016年(平成28年)3月の津市議会で「みさとの丘学園」とすることが議決された。校地は美里中学校を活用することとし、9億円をかけて校舎を増築し、エアコンも設置された。 2017年(平成29年)3月25日に長野小・高宮小・辰水小・美里中の閉校式が挙行され、各校で在校生・卒業生による校歌斉唱や校旗の返納が行われた。3月31日に4校が閉校した。そして4月1日にみさとの丘学園が開校し、4月6日に開校式と始業式を挙行、4月7日に入学式が行われた。開校式・始業式と同日に行われたスタートアップセレモニーには従来通りであれば中学1年生になるはずだった7年生が出席し、上級生からネクタイとリボンを受け取った。新7年生の中には「中学生になりたかった」と漏らす生徒もいたという。 施設 敷地面積は28,314m²、建物面積は5,190m²で、建物は鉄筋コンクリート構造一部木造である。開校後にプールを設置予定であるため、敷地面積は拡大する見通しである。 校地は旧美里中学校を活用し、建物は旧中学校校舎を増築して利用している。旧美里中学校は大建設計の設計により2003年(平成15年)に竣工し、文教施設協会の協会賞施設計画部門を2005年(平成17年)に受賞した。 特色 みさとの丘学園では義務教育の9年間を小学校相当の前期課程と中学校相当の後期課程に分け、さらに前期課程を4年と2年に分割する「4・2・3制」を採用する。(それぞれホップステージ、ステップステージ、ジャンプステージと位置付けている。)前期課程は45分授業、後期課程は50分授業であるため、チャイムは始業時のみ鳴動する。9年間を通して教育することで、不登校などが増える「中1ギャップ」の軽減とゆとりある教育の実現が期待されている。開校時の教育目標は「学びあい、認めあい、高めあってたくましく生きる児童・生徒の育成」である。他の小中学校と同様に、前期課程は私服登校、後期課程は制服登校となる。 学校独自科目として、美里地域について学習する「美里創造学習」を設定している。 英語教育の重視 みさとの丘学園では9年間をかけて丁寧な英語教育を実施する方針である。例えば前期課程1年生から年12 - 15コマの英語の授業を実施し、前期課程5・6年生には学習指導要領の2倍に相当70時間を割いている。 また校歌の3番の歌詞をすべて英語にするという三重県で初めての試みを行っている。開校前の2017年(平成29年)3月8日には校歌の歌唱練習が行われ、英語歌詞の発音指導なども施された。なお日本語歌詞の作詞は演出家の鳴海康平、英語歌詞の作詞は美里中卒業生の保護者であるエドワード・スクラグス、作曲は美里中卒業生の村治聖子が担当した。 学校行事 入学式は前期課程1年生に対してのみ行い、後期課程7年生には「スタートアップセレモニー」と称する簡略化した式典を実施する。スタートアップセレモニーでは、後期課程7年生が、8年生からネクタイとリボンを受け取り着用する。なお「4・2・3制」を採るため、スタートアップセレモニーは、前期課程5年生に対しても実施される。卒業式は、後期課程9年生に対して行い、前期課程6年生には、修了式を実施し、修了証書を授与される。 体育祭(運動会)は、全学年合同で行う。児童会と生徒会は、行事により、合同で活動したり、別々に活動したりする。PTAは、前期課程・後期課程別ではなく、一つの組織で活動している。文化行事は、前期課程が「美里創造学習発表会」、後期課程が「文化祭」として別々に開催し、修学旅行は、前期課程6年生と後期課程9年生がそれぞれ別日程で実施する。 交通 3つの小学校の学区を再編したため、前期課程の児童のためにスクールバスが運行される。後期課程の生徒は基本的に自転車通学を行う。 |
ウプサラ大学図書館 ウプサラ大学図書館(- だいがくとしょかん)はスウェーデンのウプサラ大学に属する大学図書館である。蔵書520万冊、電子ジャーナルの購読12,000。本舎はカロリナ・レヴィディヴァという。 組織 三科に分かれる。 |
成田駅 駅構造 単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線、計3面5線のホームを有する地上駅。4番線はホームのない通過線(3・5番線の間にある)となっている。駅構内には複数の留置線を持ち、夜間などを中心に車両が留置される他、保線用施設もある。 成田線はCTC線区であるが、当駅は運転取扱駅であり信号制御は信号扱所にて行っている。1番線は千葉方がカーブしているため、7両以上の列車は駅員による乗降終了合図が行われる。駅員はITVにて乗降状況を確認し、上り列車は手旗または合図灯にて、下り列車は閉扉合図器にて合図を出す。 コンコースは橋上となっており、成田山新勝寺側の東口と成田ニュータウン側の西口を連絡する自由通路がある。 直営駅であり、管理駅として本線の久住駅・滑河駅・下総神崎駅、我孫子支線の安食駅・下総松崎駅を管理している。駅舎内には、みどりの窓口(7時 - 19時、旧びゅうプラザカウンターを利用)、自動改札機、指定席券売機(初電 - 23時55分)が設置されている。 東口側の駅舎は1979年4月に完成したもので、デザインは成田山新勝寺に象徴される信仰の町と国際色豊かな新空港を踏まえて、社寺建築風の表現にモダンさを取り入れている。具体的には神社風の趣を出すために軒桁高を高く、屋根庇を大きく張り出し緩やかなアールを持たせ、柱はエビ茶、壁には鉄砲狭間を思わせる縦長スリットを入れ白色とし、色調にコントラストを持たせたものとしている。当初建設時は、正月波動の著しさに合わせ波動用券売機、精算窓口、臨時集札口の設備が設けられていた。 西口は、成田ニュータウンの造成や西口土地区画整理事業に合わせ自由通路設置の要望があり、1979年にできた自由通路及び階段により出入りができるようになった。自由通路の工事までは取付道路もない湿原地であったため、成田市が道路を先行して施工し、工事用道路として使用して工期内に施工が完了した。西口の1・2階部分は成田市営の「JR成田駅西口駐輪場」(有料)となっており、1986年4月に完成した。 2008年から2009年春にかけて駅構内の大規模リニューアルを行い、団体専用改札や自動券売機が数台撤去された一方で改札内外に冷暖房完備の待合室が設置された他、指定席券売機の設置やみどりの窓口・びゅうプラザの移設・一体化が実施された。なお、びゅうプラザは閉店している。 改札口から各ホームへは、階段、エスカレーター、エレベーターで連絡している。東口には階段はないが、西口の場合階段があるため、エレベーターが設置されている。供用時間は6時から22時までであり、自転車・オートバイは不可。改札口は幅広の通路が1か所あり、構内には多機能トイレも設置されている。 その他、連絡通路にNewDays、ビューアルッテ、待合室(以前はKIOSKが出店)が、東口に成田駅前観光案内所、そば屋、喫茶店(JRバス関東が経営)、コインロッカー、公衆トイレが設置されている。 なお、Suica専用グリーン券券売機はホーム上にはなく、改札脇の自動精算機横に設置されている。 バス路線 東口、西口ともにロータリーがあり、そこに千葉交通、JRバス関東の路線バスが乗り入れている。至近の京成成田駅停留所も利用可能。 不祥事 2015年6月10日、修学旅行中の香取市立栗源中学校の団体が当駅で特急「成田エクスプレス」に乗車する際、全員が乗り終わらないうちにドアが閉まり、生徒の一部が乗車できず取り残された。JR東日本千葉支社では、駅員がモニター画面で乗車の列が途切れているのを見て客扱終了合図を出したためとしている。 |
教公二法阻止闘争事件 事件の発端 返還前、公立学校教職員の身分は琉球政府公務員または教育区公務員であった。琉球政府公務員については、1953年に制定された琉球政府公務員法によって身分保障がなされた。教育区公務員についても身分保障すべく、「地方教育区公務員法」「教育公務員特例法」の二法案の制定が進められた。 しかし、これら二法案(「教公二法」という)は、教職員の政治行為の制限、争議行為の禁止、勤務評定の導入が盛られていたため、沖縄教職員会が反対していた。当時、教職員会は祖国復帰運動、自治権拡大運動の要となっており、住民の強い抵抗にあった。 事件の概要 1967年2月1日より立法院定例会が開会となったが、沖縄教職員会は立法院前の泊り込みで対抗し、空転が続いた。 教公二法の採決予定日であった2月24日午前3時頃から、沖縄教職員会の教職員は続々と立法院前に集結した。警官隊は教職員を一旦排除することに成功し、与党議員団や議長を院内に入れることができた。しかし教職員は警察官に襲い掛かり、ついに警察の警戒線を突破し立法院がデモ隊に占拠され無警察状態に陥った。 立法院議長は午前11時に本会議中止を決定したが、デモ隊はなおも引き下がらず、午後6時に与野党の協定を結ぶことで事態の収拾を図ることになった。 事件が与えた影響 この暴動は琉球警察に大きな打撃を与え、警察官の退職者が続出した。治安も一気に悪化し、翌年の1968年の凶悪犯罪件数は460件と過去最悪を記録した。 |
教育 (東京事変のアルバム) 概要 本作はシンガーソングライターの椎名林檎を擁するバンド・東京事変の1作目のオリジナル・アルバム。デビューシングルの表題曲「群青日和」と2枚目のシングルの表題曲「遭難」、デビュー前に出演した夏フェスで先行披露されていた楽曲(「林檎の唄」「サービス」「駅前」「御祭騒ぎ」)を含む全12曲を収録。 アルバム・タイトルはテレビの「教育チャンネル」から取っている。 収録曲は、椎名のソロ・シングル「りんごのうた」をファンキーにアレンジし直した「林檎の唄」に始まり、曲調がボサノヴァからロックへと変化していく「入水願い」、ロックンロールの「クロール」、クラシカルなピアノ・インストゥルメンタルの「現実に於て」とその発展形となるヴォーカル曲「現実を嗤う」、ブラジリアン風味の4ビート「サービス」、ブルースとシャンソンが交配した「駅前」、マーチング・リズムの「母国情緒」まで、椎名のソロ作品以上に多岐に渡ったクロスオーヴァーぶりを見せつける構成となっている。 初回限定盤は三部作インデックス仕様となっている。 制作の背景 「今の段階ではひとりきりで作る音楽はやり終えている」と語った椎名林檎が、以前からの夢であったというバンド形態でリリースした初のアルバムで、椎名自身は「〈おもちゃ箱をひっくり返したような〉と言ってもらえるようなアルバムを作りたかった」と話している。また初期メンバーのH是都Mと晝海幹音が参加した最初で最後のアルバムでもある。 亀田誠治とH是都Mが多忙で全員のスケジュールが合う日がなかったため、わずか4日で17曲もレコーディングすることになった。ドラムの刄田綴色は「そんなのやったことない」「これはヤバイんじゃないかと思うことしきりでしたね」と語っている。 収録曲 椎名のソロ作品にならい、本作でも6曲目「現実に於て」と7曲目「現実を嗤う」を中心に曲のタイトルや英題がシンメトリーに配置されているほか、各曲の収録時間も表示が左右対称となるようになっている。 |
州間高速道路75号線 州間高速道路75号線(しゅうかんこうそくどうろ75ごうせん、I-75; Interstate Highway 75)は、アメリカ合衆国の中西部及び南東部を走っている州間高速道路である。マイアミ近くのフロリダ州ハイアリアのフロリダ州高速道826号線 (パルメット・エキスプレスウェイ Palmetto Expressway) からカナダオンタリオ州との国境のミシガン州スーセントマリーのスーセントマリー国際橋南詰まで続いている。スーセントマリー国際橋でカナダのハイウェイに接続する。 この州間高速道路75号線に附属する二級州間高速道路は、275、475、575、675号線である。 ミシガン州内にあるマキナック橋は、ミシガン州を構成する2つの半島、アッパー半島とロウアー半島を結ぶ吊り橋である。一帯は避暑地として知られ、橋の両側の都市にアメリカ人は別荘を持っている人がいる。 |
後楽園ホール 概要 東京ドームシティ内の後楽園ホールビルの5階に設置。同じ階には「後楽園ホール展示会場」もあり、各種会議や講演会などに貸し出される他(法人限定)、本ホールでのイベントの際のサブ会場およびスタッフルームとして利用されている。 1962年1月15日に開場、4月16日にオープン(開業)した 。当初は「ボウリング会館」の名称で開業し、ホールは当初は後楽園ジムナジアム(二代目)の名称で入居する形をとっていた。こけら落とし興行は「報知ダイナミックグローブ」(メインは高山一夫VSオスカー・レイス)。1967年にはホール名は後楽園ジムナジアムから現在の後楽園ホールへ改称された他、ビルの名称も「ボウリング会館」から「後楽園ホール」へ改称された。その後ビルの名称は1973年にはボウリングセンターが後楽園アイスパレス跡地に完成した「黄色いビル」に移転したのに伴い「後楽園ホールビル」へ、1983年に「青いビル」へそれぞれ改称されていたが、2014年7月1日に外装色が青系から茶系へリニューアルされるのに伴い、「後楽園ホールビル」へ再度名称変更された。 2007年9月1日から、喫煙室以外では全館禁煙となった。 後楽園ジムナジアム 前身は、講道館本部の文京区春日移転に伴い閉鎖された旧講道館本部水道橋道場を改装し、1958年6月8日に開場した後楽園ジムナジアム(通称:後楽園ジム)である 。外堀通りと白山通りが交差する場所(現在のMEETS PORT所在地)にあった。 1955年に日活に売却されて閉鎖された「芝スポーツセンター」に代わるボクシング常設会場として作られた。発案者は計画当時の後楽園スタヂアム社長で日本ボクシングコミッション(JBC)コミッショナーでもあった田邊宗英(開場目前の1957年死去)。 日本テレビ「ダイナミックグローブ」、KRテレビ「東洋チャンピオンスカウト」が毎週後楽園ジムナジアムより放送されていた。アマチュアボクシングでも1959年東京国体や全日本選手権の会場として使用された。 新装された当時も後楽園ジムナジアムであったが、後に後楽園ジム(現在は閉鎖)というプロボクシングジムがオープンしたため、混乱を避けるべく後楽園ホールに改称された。後楽園ジムナジアムの建物は、後楽園ホールビルにホール機能を移転した後も、後楽園アルバイトセンター(現:東京ドームアルバイトセンター)などに使用されたが後に解体された。 格闘技の聖地 ボクシングやプロレス、キックボクシングなどの格闘技の興行で頻繁に使用されることから、「格闘技の聖地」「格闘技のメッカ」などと呼ばれ、眼の肥えた格闘技ファンが足繁く通うことで知られる。2013年1月期のイベント総開催数は371回で、その内格闘技関連のイベント開催数は329回に及ぶ。 特に日本で行われるプロボクシングの試合は4回戦から世界戦まで多くを行われ、一年のうち全国で行われる試合数の半分が後楽園ホールで行われているという。全盛期には休日に一日で昼と夜の二回興行が行われることも多かった。世界戦は基本的に収容人数5000 - 1万人程度の大会場(都内では日本武道館、両国国技館、有明コロシアム、代々木第一体育館など)を使用するが、後楽園ホールでも初の世界戦として1970年8月23日のWBA世界ジュニアライト級王者小林弘の5度目の防衛戦となるアントニオ・アマヤ戦が決行されて以来、2012年3月まで55試合開かれている。女子の世界戦は大半が後楽園ホール開催となる。全日本新人王決定戦(東日本新人王決定戦も)なども毎年開催されている。日本プロボクシングにおける重要な会場としているため、引退セレモニーはタイトル獲得者あるいは功労者と認められた選手のみと規定されている。試合ではないが、モハメド・アリやマイク・タイソンの公開スパーリングにも使用された。『あしたのジョー』や『はじめの一歩』など漫画作品の作中にも数多く登場している。 格闘技興行の際に設置されるリングは、日本各地で行われるプロボクシング興行のリングの基準となっている。また、JBC事務所(2014年5月移転)が後楽園ホールビル6階に構えているのに加え日本プロボクシング協会、東日本ボクシング協会などプロボクシング主要組織の事務所が隣接する黄色いビルに入居しているため、グローブの管理、保管もしており、関東周辺で行われる興行には、ここからグローブが貸し出され、プロテストも同ホールで実施されている(プロテストは大抵興行開場前に行われ、藤本京太郎、井上尚弥、村田諒太、藤岡奈穂子のように興行内にて公開プロテストとして行う場合もある)。 アマチュアボクシングでも関東大学ボクシングリーグ戦1部・2部の会場とされている他、過去には全日本大学ボクシング王座決定戦や全日本社会人ボクシング選手権大会も開催され、2010年4月には全国国公立大学ボクシング大会が初めて開催された。 初めて開かれたプロレス興行は1966年11月25日の日本プロレスで、メインイベントはジャイアント馬場VSルイス・ヘルナンデスの3本勝負であった。プロレス興行は長年日本プロレスが独占的に使用していたが(国際プロレスと新日本プロレスは、日本プロレスによる妨害工作で日本プロレス崩壊まで使用できなかった)、1972年11月6日に全日本プロレスが日本プロレス以外のプロレス団体では初めて後楽園ホールで興行を行った(メインは馬場VSダッチ・サベージの3本勝負)。馬場はバーン・ガニア、ハーリー・レイスとの3000試合連続出場記念試合、デビュー30周年記念試合、還暦記念試合を全て後楽園ホールで開催している。日本プロレス崩壊後は各団体が進出するようになり、1973年5月28日には全日本女子プロレス(メインは赤城マリ子&ジャンボ宮本VSパナマ・フランコ&サンディ・パーカーのWWWA世界タッグ選手権試合)、同年7月6日には新日本プロレス(メインは坂口征二VSジョン・L・サリバン)、同年9月26日には国際プロレス(メインはラッシャー木村&グレート草津VSブラックジャック・マリガン&デール・ルイス)がそれぞれ初進出した。1976年12月3日に開催された国際プロレスのラッシャー木村VSジプシー・ジョーのIWA世界ヘビー級選手権は、後楽園ホール初の金網デスマッチとなった。国際プロレスは後楽園ホールを都内のビッグマッチ会場とした他、その後も金網デスマッチを行っている。国内の主要プロレス団体は定期的に興行を組み、年間スケジュールの軸をなしている。一方でインディ団体はビッグマッチでの使用となるため、後楽園での興行を成功させることが団体としてひとつのステータスとなる。 2013年6月15日、後楽園ホール初のケージMMAとして「DEEP CAGE IMPACT 2013 in KORAKUEN HALL」が開催された。 格闘技等を行う会場としては珍しく、飲食物の持ち込みが可能であり、場内でも飲食物が販売されている。 ファンが1階までの非常階段の壁に選手に対しての応援や非難の落書きを無数に書いている(右の写真参照)。これは消すのが追いつかないだけであり、許可されていることではない。 なお、使われているパイプ椅子は、場外乱闘等で破壊した場合、一脚5000円(税抜)で弁償となる。大日本プロレスの興行では、1回の興行だけで20脚前後を破壊したことがあり、大日本の中継番組「大日大戦」では毎回、実況を務める登坂栄児社長と解説の須山浩継によってネタにされている(弁償は主催団体の負担になるため)。 2012年の「ボクシングの日」には、袴田事件で無実を訴えている袴田巌に対する速やかな再審開始と釈放を求め、「袴田シート」2席がリングサイドに設置された。そして2014年のボクシングの日に袴田本人が招待された。 番組収録 日本テレビとスタジオ契約を結んでいるため、同局系列テレビ番組の公開収録で使われることも多い。『笑点』などの公開収録会場として知られており、かつては『スター誕生!』や深夜放送時代初期の『ザ!鉄腕!DASH!!』、『欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』などでも使用されていた。これらの格闘技以外の場合は、ステージを設置する関係上、通常「南」側の席しか使用しないが、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』の企画「山崎vs.モリマン」のようにリングを設置して公開収録を行う場合もある。また、観客を入れずに単に番組収録スタジオとしての使用もある。 なお、前出のこけら落とし「ダイナミックグローブ」は日テレで放送された番組である。同じくプロレス初開催も日本プロレスの放映権を持っていた日テレの仲介で実現したものであり、さらに全日本女子プロレス初進出も日テレが中継放送した。 また、プロレス・ボクシングの興行の模様は、一部を運営会社である「株式会社東京ドーム」が出資する東京ケーブルネットワーク(TCN)が技術協力しており、GAORA、サムライTV、日テレジータスなどを通して全国のケーブルテレビ・CS放送・IP放送向けで放映されている。 またラジオでは文化放送『水樹奈々 スマイル・ギャング』700回記念公開録音が2015年10月6日に開催された。 その他 競技ダンス大会の会場としても後楽園ホールが使用されており、主にプロの競技会が開かれている。 東日本大震災の影響 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で後楽園ホールの建物や天井にも損傷が認められた。運営主体の株式会社東京ドームは、後楽園ホールが入る「青いビル」(当時。以下「本ビル」)が地震発生時点で竣工からまもなく半世紀を迎える古い建物であることと、同年1月に同じ敷地内にある東京ドームシティアトラクションズのアトラクションで死亡事故が発生したことを踏まえて安全対策に慎重を期し、日本ボクシングコミッションに要請して発生当日の11日に予定されていた三迫ジム一門会の試合を急きょ中止した。 さらに翌12日に予定されていた女子トリプル世界タイトルマッチ、14日のダブル日本タイトル戦、スーパーフライ級の佐藤洋太vs河野公平戦、そしてスーパーバンタム級の瀬藤幹人vs玉越強平戦をメインにした興行も全て中止、13日以降もOZアカデミーなどのプロレス興行が中止・延期された。 その後竹中工務店によって安全確認がなされ、3月21日のアイスリボン(昼)・大日本プロレス(夜)から稼働を再開(東京電力・福島第一原子力発電所での事故による東京電力管内電力事情悪化により節電した上での開催)。4月に入ってからは順延された分を含めて興行が再開されている。 一方、「笑点」の後楽園ホールでの公開収録も4月16日・23日・30日に予定された分が全て中止された。これらの収録の観覧者募集の時期が上記の使用自粛期間と重なり、利用再開の目処が立たなかったためである。収録自体は別の場所(日テレ麹町ビル)で行われ、番組も通常通り放送されている。なお、6月4日から後楽園ホールでの「笑点」の公開収録が再開されている。 その後本ビルは耐震工事を実施。このため3階に入居していたサウナ東京ドームは2013年8月に閉鎖され、災害時に夜間の視認性を高めるためビルの外装色を前述のとおり青系から茶系に変更することになった。また、1階エントランスに設置されていた当日券売り場が1階カウンターに設置された。 コンパクトスタイル 2010年10月より平日に限り使用料を約40%抑えた「コンパクトスタイル」と呼ばれる南側座席を封鎖した約800席での貸し出しを開始した。2010年10月27日のハッスルMAN'Sワールドがコンパクトバージョンでの最初の利用となる。 東京ドームシティ内の格闘技開催 後楽園ホール完成前には後楽園球場において白井義男の世界戦や力道山がルー・テーズの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦した試合などを開催。その他後楽園競輪場や後楽園バレーコート→ローラースケート場、後楽園アイスパレスで日本王座戦などが行われた。1964年東京オリンピックボクシング競技会場もアイスパレスであった。 後楽園ホール開業後、格闘技会場はホールにほぼ集約されるが、東京ドーム開業後はドームでも格闘技のビッグイベントが開催されるようになる。 現在東京ドームシティ内では、後楽園ホールのほかにも「MEETS PORT」の地下に多目的ホール「TOKYO DOME CITY HALL」(旧・JCBホール)もある。 |
オルドネス砲 オルドネス砲(オルドネスほう、英語:Ordóñez guns)は、要塞砲の一種で、スペイン軍砲兵隊将校のサルバドル・ディアス・オルドネスが19世紀に設計した。 特徴 口径は150mm〜305mm。アストゥリアスのトルビア兵器工場で制作され、プエルトリコ、キューバ、フィリピン、セウタなどの堡塁や本営の砲列に導入された。ただし伝えられるところによれば、スペイン軍は防衛にあたってオルドネス砲よりも高い品質を持つが高価であったホントリア砲を通常は維持しており、ハバナでは120〜160mmのホントリア砲が設置されていた。 後装式の大砲で、銃身はライフリングが施され、閉鎖機、トラニオンが取り付けられていた。閉鎖機構はフランス式また隔螺式のレバー作動型で、オブチュレイティング・リングはクルップ社設計であった。 アメリカ海軍情報局の1892年報告では、オルドネス砲を他の同等の口径の大砲よりも威力は落ちるが、鋼鉄製ではないため廉価であると報告された。ハバナで押収された305mmのオルドネス砲と米海軍の12インチ全鋼鉄製の大砲との比較では、オルドネス砲の薬室は長く狭いため火薬が少なく、砲弾の速度は遅く、飛距離も短かった。 アメリカ軍はハバナ、マニラ、プエルトリコで150mmオルドネス砲を、ハバナ、マニラで240mmオルドネス砲を、ハバナで305mmオルドネス砲と210mm榴弾砲を押収した。 実戦での使用例 1898年の米西戦争中に、ハバナ、マニラで使用され、米比戦争でもスービック海軍基地において使用された。 キューバのサンタ・クララに設置されたオルドネス砲は1898年、米軍船に向けて砲撃したが、命中しなかった 1899年、米軍がスービック堡塁を攻撃した際には、チャールストン防護巡洋艦の砲撃によってオルドネス砲は不能となった。ウィリアム・ランドルフ・ハーストは獲得したオルドネス砲をサンフランシスコで展示した。 フィリピン革命軍も使用した。 オルドネス砲が戦闘で使用された最後の例は、1937年、スペイン内戦中、スペイン第二共和政軍がマドリッドで使用したM1916榴弾砲といわれ、また、ナショナリスト派も装甲列車に大砲を装着したといわれるが、これがオルドネス砲かは不明である。 |
アミット・トリヴェディ 生い立ち サルセット島バンドラのグジャラート人家庭に生まれる。若年期のころの音楽との接点は祈りの歌とグジャラート・フォークソングのみだった。一家の故郷はグジャラート州アフマダーバードである。 キャリア トリヴェディは若いころに電子音楽の魅力に惹かれ、さらにインドの伝統音楽の強い影響を受けて次第に音楽に興味を抱くようになった。19歳から20歳のころに作曲活動を始め、大学時代にはバンドグループ「Om」に参加して地元の小規模なライブに出演していた。出演したライブで注目を集めた「Om」はアルバム販売をオファーされたが、プロモーション不足のため失敗している。その後、舞台やテレビ番組のバックグラウンドミュージック、マラーティー語映画のプログラミング、ダンディヤ・ラース、ライブパフォーマンス、オーケストラなどの分野で活動した。またマクドナルドやバーティ・エアテルの広告作曲も手掛けている。オーディオ・ガレージ・レコーディングスタジオのオーナーであるアルヴィンド・ヴィシュワカルマにソニーBMGを紹介された後、トリヴェディは映画以外のアルバム作曲も手掛けるようになった。同社との仕事の中ではアビジート・サワントの「Junoon」やプラシャント・タマングのデビューアルバムの作曲を手掛けている。 トリヴェディは、友人でプレイバックシンガーのシルパ・ラオがアヌラーグ・カシャップに彼を紹介したことをきっかけに、映画音楽の作曲を手掛けるようになった。カシャップは『デーヴ・D』の映画音楽を手掛ける作曲家を探しており、トリヴェディに作曲を依頼したものの製作に遅れが生じたため、彼はカシャップの推薦でラージ・クマール・グプタの『Aamir』の作曲を手掛けることになった。その結果、トリヴェディの映画音楽作曲家デビュー作は同作となり、批評家から映画音楽作曲家として認知されるようになった。 2009年に入り『デーヴ・D』が公開され、公開に先立つ2008年12月に18曲が収録されたサウンドトラックが発売された。このうちトリヴェディが作詞したのは「Aankh Micholi」1曲であり、この他にプレイバックシンガーとして5曲歌っている。彼は同作の作曲で高い評価を受け、第55回フィルムフェア賞ではフィルムフェアR・D・バーマン賞と最優秀バックグラウンドスコア賞を受賞しており、ナショナル・フィルム・アワード 最優秀音楽監督賞も受賞している。同年には『Wake Up Sid』の曲「Iktaara」、ロイヤル・チャレンジャーズ・バンガロールのチーム曲「Game for More」、テレビ番組「ビッグ・スイッチ」のテーマ曲の作詞も手掛けている。2018年に参加した『盲目のメロディ 〜インド式殺人狂騒曲〜』ではボリウッド映画ジャーナリスト賞のベスト・ミュージックディレクター・オブ・ザ・イヤーを受賞した。また、アミターブ・バッチャンのテレビ番組「Aaj Ki Raat Hai Zindagi」のテーマ曲も作曲している。 ライブ活動 2010年12月23日に初めてムンバイのムード・インディゴでライブパフォーマンスを行った。コンサートにはトーチ・ライナ、アミターブ・バッタチャールヤ、ニキル・デソウザ、ラージャ・ハサン、アディティ・シン・シャルマ、シュリラーム・アイヤールが共演している。2013年11月22日にはバンガロールでコンサートを開催し、トーチ・ライナ、シュリラーム・アイヤール、ターンヴィー・シャー、ミリと共演した。また、プネー、デリー、ハイデラバードで開催された音楽祭バカルディNH7ウィークエンダーにも出演している。2016年1月にデリーのインド貿易学院の年次祭に出演し、2月1日にはスプリング・フェストでニーティ・モハン、ディヴィヤ・クマールと共演した。2017年3月19日にグジャラート州立法科大学のイベントに参加し、同月26日にゴグティ工科大学のイベントにディヴィヤ・クマール、ジョニタ・ガンディーと共に出演している。 第9回ミルチ・ミュージック・アワードでは各州の人気フォークソングの要素を取り入れた祭典歌を作曲した。2018年1月20日にネールールの大学のイベントにジョニタ・ガンディー、シャシュワット・シン、アルン・クマール、ヤシタ・シャルマと共に出演し、翌21日にはIIT BHUフェストに出演している。2月7日にK・J・ソマイヤ工科大学のイベントに出演し、同月16日にはデリー工科大学の学園祭エンジフェストに出演した。翌17日にVIT大学のイベント「リヴィエラ」に出演し、同月24日にガンディーナガルで開催されるグジャラート州最大の学園祭シナプスに出演した。3月16日にヒンドゥー大学のイベント「メッカ」に出演している。10月にはルールキー工科大学のトムソーに出演している。 |
日本基督教会同盟 日本基督教会同盟(にほんきりすときょうかいどうめい)は、1912年(明治45年)に福音同盟に代わって結成されたプロテスタントの超教派組織である。 1909年(明治42年)の宣教開始50年記念会の祝賀感謝会を通して各教派の協調機運が盛り上がってきたので、日本基督教会同盟が結成された。この同盟の創設には、諸教派の交流、協同事業の経営、全キリスト教の関心事を代表して処置にあたるという三つの明確な目的があった。 1910年(明治43年)にエキュメニカル運動の出発点になった英国のエディンバラの世界宣教大会に日本基督教会代表で本多庸一と井深梶之助らが出席した。大会の議長であった、J・R・モットが1913年(大正2年)来日して、世界宣教大会の日本継続委員会を形成して、ミッション(外国の宣教団体)と日本基督教会同盟の包括的連絡機関が形作られた。 このような、国際的な支援の下に井深梶之助、植村正久、宮川経輝らを指導者として1913年(大正2年)から1916年(大正5年)まで全国協同伝道が行われた。 1922年(大正11年)5月に日本基督教連盟設立が宣言され、人材と組織は後身の日本基督教連盟に引き継がれる。この日本基督教連盟が1941年(昭和16年)6月の日本基督教団設立に大きく関わっていく。 |
ローカス賞 SF長編部門 ローカス賞 SF長編部門(Locus Award for Best Science Fiction Novel)はローカス賞の部門の一つ。1971~79年の長編部門が、1980年に本部門とファンタジー長編部門に分割された。 |
青木来三郎 経歴 明治大学卒業。第76代茨城県議会議長。 古河市議会議員(3期)、同市助役(当時)を経て、1963年の茨城県議会議員選挙に出馬したが、落選。1967年の出直し県議選にて初当選。以後10期連続当選。古河市古河地区のJR宇都宮線高架化などに尽力した。県議会議長在職中にはつくば万博を成功させ、「万博議長」と呼ばれた。 2006年12月10日の県議選に出馬せず、政界を引退。2007年12月30日、急性心不全により死去。 |
天童広重 天童広重(てんどうひろしげ)は、江戸時代後期の浮世絵師・歌川広重が天童藩の依頼で描いた肉筆浮世絵の総称。「天童物」、「天童藩もの」「天童描き」などとも呼ばれるが、今日は天童広重と呼ばれるのが一般的である。約200幅ほど制作されたと推測される。広重の代表的画業の1つであり、江戸時代に藩が浮世絵師にこれほどの点数の制作を依頼した例は珍しい。 概要 江戸時代後期に入ると多くの藩がそうだったように、天童藩も慢性的な赤字に陥っていた。天童藩は、やはり通例の倹約令や半知借上、領内の豪商や豪農に御用金を課してしのいでいた。しかし、赤字は埋まらず更なる御用金の必要から、藩内の富裕者たちに対する返礼や報奨として制作されたのが、天童広重である。 なぜ、天童藩から広重に制作が依頼されたかについては、天童藩出身者と広重との狂歌を通じた交流が挙げられる。天童藩には狂歌を詠む人が多く、広重はその狂歌絵本の挿絵をしばしば担当していた。天童藩家老・吉田専左衛門はその代表的な人物である。また、天童藩医・田野文仲も広重が狂歌を始める前から親交があり、天保10年(1839年)養子として迎えた康利の実父で5000石の旗本・松平康邦の肖像画を、嘉永2年(1849年)春には自身の肖像画を広重に依頼している(共に天童市美術館蔵)。この3者が中心となって、天童広重は描かれたと推測される。 広重は、文仲の肖像画を描いた嘉永2年夏に、友人の越前屋から100両の借金をしてまで、常盤町から中橋狩野新道に住居を新築して転居している。これは天童藩からの謝礼を期待してのことだと推測され、ここで天童広重が描かれたと考えられる。後述するように2年後の年末に天童広重は下賜されており、表装の手間を考えてそれより半年前には作品を完成させねばならないので、制作期間は1年半から2年ほどである。短期間で大量に描かれたため、弟子が代作したと思われる質に劣る作品が少なからず含まれている。しかし、一介の浮世絵師に藩が大量の作画を依頼すること自体、浮世絵の歴史上極めて稀である。以後広重の名声は高まったらしく、肉筆画の制作数が増加する。なお広重が天童藩からどの程度謝礼を受け取ったか定かでないが、この借金は広重が亡くなるまで返済されず、遺言状にも中橋狩野新道の住居を売払って借金を返済するよう言い残している。 天童広重が初めて下賜されたのは、嘉永4年12月16日(1852年1月7日)だったと、複数の箱書きに記されている。これは、嘉永4年年末が天保13年(1842年)から10ヵ年賦として取り立てた御用金の返済期日に当たっており、藩内の名主や御用商人たちは御用金の返済を受け取るつもりで藩庁に集まった。ところが、彼らに待っていたのは返金ではなく、広重の掛け軸と翌年から10ヵ年賦の更なる御用金であった。天童広重の箱裏には、拝領者が書いたと思しき記述が珍しくないが、これはこの仕打ちを子孫に伝え残そうとしたためと考えられる。しかし、この書付けのお陰で、今日我々は作品の制作事情を知ることができる。 特徴 現在図版で確認されているのは95幅ほどだが、各種資料から200幅程度描かれたと推測される。図版や文献で確認できるものの、関東大震災や戦災で失われてしまった作品も少なくない。現存する天童広重の多くは、軸箱、表装、本紙、落款印章が元のまま保存されている例が多い。これは、天童広重が大名から依頼された珍しい作品として、他の広重肉筆画と区別する意味も込めて、美術商やコレクターが大事に扱ったためである。 材質は現存するものは全て絹本著色だが、小島烏水の調査によると水墨の作品もあったようだ。絹生地の寸法は、縦約90cm・横約30cmで、一般に尺本と呼ばれる寸法である。本紙に使用されている絵絹は目が荒く、高級品とは言い難い。作品の多くは、金泥で画題が書かれているが、金泥には発色の異なる2種類のものがある。一部には墨で画題が書かれ、画題書きの無いものも約18%ほどある。款記は「立斎」のみが使用され、それ以外は確認されていない。「立斎」号は1841年(天保12年)頃から用いられ、亡くなるまで使用している。天童広重での書体は細い行書体でやや崩した字体である。特に「斎」字の崩し方は独特で、天童広重かを判別する手掛かりの一つとなる。印章は5種類確認できるが、図版が確認できる作品の約8割に、「広重」朱文円方印が捺されている。 表装は一文字。風体は銀襴で、中回し。天地は唐草模様の緞子、軸は鹿軸で、割合粗末である。軸数は三幅対か双幅だが、ごく一部に画帖仕立てのものがある。1幅のものは、失われたか分けられたのだと推測される。より高額の御用金を支払った者に三幅対を下賜したのが、箱書きから判明する。軸箱は底の部分がわずかに上げ底になり、真田紐が中結びできるようになっている。材質は杉で仕上げはかなり荒い。対幅、三幅対ともに軸箱の大きさが各2種類あり、これは御用金の差をつけるためと言われる。 画題は風景画と人物画で、前者のほうがずっと多い。風景画は広重らしく、江戸や諸国の名所に雪月花や四季を折り込み、情趣を感じさせる。現在、大英博物館には天童広重を描くための下絵が含まれたスケッチ帖が所蔵されており、広重の制作過程をある程度知ることができる。なお、広重は天童広重の制作を通じて縦型の風景画構成法を習得したらしく、以後の浮世絵版画作品に天童広重の構図を生かした作品が見られる。 |
予想 (競馬) 予想の理論と実際 予想のための理論は多岐にわたる。 一般的な予想は、「競馬は強い馬、速い馬が勝つ」ということを前提とし、競走馬の「実力」を予想に強く反映させる。「実力」を算出するための要素としては、調教やレースにおける走破タイム、過去の実績、距離適性などを判断するための血統などがある。さらにレース出走馬の構成からレースの展開を予測し、若干の修正を加えて結論を出す。 一般的な予想理論で重視される要因を考慮しない理論も存在する。そのような理論には、競走馬の個性を無視して馬券対象になると思われる数字のみを予測する「出目理論」や、競馬の着順はあらかじめ主催者、あるいは「競馬の神様」によって決定されており、馬券の対象となる競走馬を暗示するメッセージ(サイン)が主催者発表の出馬表や広告、レース施行時の時事ニュースや世相などさまざまな情報に隠されているという前提に立ち、サインを読み取ることで馬券の対象となる競走馬を予想する「サイン理論」などがある。 なお、予想理論に関する著作物は数多く出版されており、競馬関連書籍の中で一大ジャンルを形成している。また、最近はウェブページやブログにおいて研究・発表を行う者も存在する。 投票行動との関連性 カナダのウッドバイン競馬場でシーズンを通して行われた調査によると、オッズが3対1だった馬が勝利した割合はおよそ4回に1回であり、オッズが7対1だった馬が勝利した割合はおよそ8回に1回であった。この調査から予想屋でなくとも人々はある程度の予測はできていると考えられているが、一般の人々の予想には「本命・大穴バイアス」と呼ばれる欠陥があることも知られている。この「本命・大穴バイアス」とは穴馬馬に過剰に期待する人々がいるためパリミュチュエル方式のオッズにおいて両端に歪みを生じる現象をいう。 欧米における競馬予想 イギリスやアメリカのラスベガスには合法的な職業としてプロの予想屋が存在している。 アメリカの競馬の予想屋の団体であるプロフェッショナル・ハンディキャッパーズ・アソシエーションには100人を超える会員が加入している。これらの予想屋にはインターネット上で競馬予想を行ったり、前回のレース結果・前レースからの日数・ケガの状態・騎手・馬の重量・出走枠・馬場の状態などの要素をコンピュータ・モデルによって総合的に分析している者もいる。 予想家 予想を専門的に行う者のことを予想家と言う。競馬新聞やスポーツ新聞に所属し取材の後に予想行為を行う記者であるトラックマンがその典型例である。 地方競馬においては、競馬主催者及び競馬場所有者が公認し、競馬場内の「場立ち」と呼ばれる所定の場所において自らの予想を販売する予想屋と呼ばれる職業予想家が存在する。 中央競馬においても自らの予想を販売する法人(馬券予想会社)や個人が多数存在するが、日本中央競馬会(JRA)は場内での予想屋とその予想の販売活動は一切公認していない。ただし競馬新聞についてはレースや出走馬に関する情報に付随して予想家による予想が行われているが、競馬新聞の業界団体への加盟など所定の要件を満たしているものについてはJRAは競馬場内における販売を許可している。 非公認で競馬場や場外馬券売場の内外で予想行為を行う者の一部には違法行為であるノミ行為をする者や闇社会などとも繋がりが存在する場合が少なくない。ノミ行為については参加させた側のみならず、参加した側も警察による取り調べの他、法により罰せられる事がある。競馬主催者もノミ行為防止の為、特に自施設内で非公認の予想屋として活動している者たちに対しては警察などと連携して取り締まりを実施しており、近年では関連法規の改正によりおとり捜査を利用した取り締まりも可能となっている。 予想が行われる媒体 かつて日本における予想はラジオ・テレビにおける競馬番組、競馬新聞、スポーツ新聞の競馬欄などで競馬評論家やトラックマン、競馬好きで知られる一部著名人などの限られた人間によって行われていたが、現在ではインターネットの普及により一般の競馬ファンがウェブページやブログなどにおいて予想を行うことも盛んとなっている。 1991年4月、白夜書房が発行しているパチンコ必勝ガイドの1コーナーとしてダウシング競馬予想を始めた。ところがその年の桜花賞、皐月賞と連続で高配当を的中させたことから評判となる。その後1993年のコーナー終了まで連載を続けた。 予想行為についての制限 日本においては、1960年代前半までは現役の騎手・調教師が新聞やテレビ・ラジオの競馬中継等で予想を公表することが一般的に行われていた。さらに遡れば、1950年には東京優駿で1番人気が確実であったクモノハナに騎乗予定の橋本輝雄が、競走の前夜に当時国民的メディアであったNHKラジオの人気番組にゲスト出演し、その際に馬場などの状況を挙げて「勝てるでしょう」と具体的に騎乗馬の勝利を予告して勝利したという出来事もあった。 だが、現在は現役の騎手や調教師、厩舎関係者・競馬主催者および統括団体の関係者については、競走の公正確保という観点から、公の場で結果予想や買い目を公表することは禁止されている。レース公正確保の観点から選手、主催者、統括団体の関係者による予想行為を禁止しているのはオートレース・競艇・競輪など他の公営競技いずれも同様である。 騎手や調教師が競走に勝利すべく作戦を練るため、事前にレース展開を予想する事は違反行為にはならない。しかし、これを具体的な買い目や「この有力馬は消える」などという結果予想の形で第三者に漏らせば違反行為となり、処罰の対象となる。また、レース枠順確定後にも時折見られるいわゆる“逃げ宣言”のコメントなどは、あくまで自身の騎乗場・管理馬を勝利させるための作戦の示唆・公表の範疇とされ違反ではないが、発言の場所・状況・内容次第によっては予想行為と受け取られる可能性がある。 そのため、テレビ・ラジオなどの競馬中継番組においても、ゲストやインタビューで出演した調教師・騎手や、統括団体の関係者の立場にある人物のコメントについて予想行為と取られ問題となることは、当該の人物の職業生命すら危うくしかねないものであるため、万一にもそのような事態を起こさないように、コメントを引き出す側であるアナウンサー・司会者・インタビュアーなどは自身の発言にも細心の注意を払っている。 なお、自身が中央地方指定交流競走で出走する当日の開催レースに関連していない限りは、中央競馬の関係者が地方競馬の馬券を、また地方競馬の関係者が中央競馬の馬券を、それぞれ予想し購入したり新聞などで予想行為を行ったりすることは可能である。また、テレビのバラエティ番組などでJRAの騎手がタレントと馬券勝負をする企画が一部で見られるが、この様な番組の収録は騎手自身が当日の競走に関連しない地方競馬場で行っており問題はない。 他方、騎手引退後に調教師や調教助手などの厩舎関係者に転身せず、一見した限りでは競馬サークルの内部から離れた部外者に見えても、実際には予想行為の制限対象に該当しているという人物もいる。知られる所では騎手として日本の最多勝記録を持つ佐々木竹見がおり、引退後に地方競馬全国協会の管轄する地方競馬教養センターの参与に就任しており、現在でも地方競馬関係者の立場にあるという理由で、大井競馬場など地方競馬の競馬中継などにゲストとして出演する事はあっても、直接の買い目予想行為を行う事はない。 馬主は調教師や騎手などの競馬関係者と容易に接触することが可能であり、彼らの持つ秘密情報を知りうる立場であるにも関わらず、予想行為の公表は一切禁止されていないし、馬券の購入も禁じられていない。ただし、地方競馬においては、限定した会員に有料で競馬予想情報を提供する事業(会員制競馬予想業)の運営者・従事者および関係者は馬主登録を受けることができない。したがって、既に馬主登録を受けている者がその地位を利用して厩舎などから入手した秘密情報を会員制競馬予想会社に提供した場合、馬主登録取り消しの対象となる。中央競馬にはこの種の規定はない。 |
LOFT ロフト ストーリー 小説家の春名礼子(中谷美紀)は、スランプに陥っており、新作を書けずにいる。最近は体調が優れず、吐き気に襲われることがある。担当編集者の木島(西島秀俊)の厚意で、東京郊外にある木造二階建ての洋館に引っ越してきた彼女は、向かいに建つ相模大学の研修所に何かを運び入れている考古学者の吉岡誠(豊川悦司)を目撃する。気になって調べていくうちに、吉岡たちが1000年前のミイラを沼から引き上げたらしいということを彼女は突き止める。 教育映画社の村上(加藤晴彦)の協力を得て、友人の野々村(鈴木砂羽)と共に『ミドリ沼のミイラ』と題された戦前の記録映画を見ると、そのフィルムにはミイラのような存在が映っていた。郊外に戻ってきた礼子は、研修所に忍びこみ、吉岡が運び入れたものの正体を知る。それは長い髪のミイラであった。吉岡は同僚の日野(大杉漣)にミイラの展示を勧められていたが、そのことに違和感を感じたため、無断でミイラを研修所に運び入れたのである。吉岡は礼子に、大学生たちが研修所にやって来るので、今後数日間だけ、ミイラを預かっていてほしい、と言う。その依頼を礼子は快く引き受けたものの、小説の執筆を進められずにいた。 そんな折、前の住人が残していった小説の原稿を洋館で発見した礼子は、それを書き写して、ついに新作の出版にこぎつける。洋館を訪れた木島は、前の住人が亜矢(安達祐実)という小説家志望の大学生であったことを礼子に告げる。亜矢は木島に殺されたはずなのだが、亜矢の幽霊が吉岡の目の前に度々現れるので、吉岡は自分が亜矢を殺したのではないかと混乱している。吉岡は、彼の無実を信じる礼子と一緒に、木島が亜矢を埋めたはずの森へ向かう。木島はそこで地面を掘り返す二人に襲いかかるが、警察に逮捕される。 礼子は新作小説の原稿を燃やし、吉岡はミイラを研修所の焼却炉に放り込む。二人は、森を抜けた先にある湖の桟橋へ行き、亜矢の死体が入っているかもしれない棺を引き上げ、その中に何も入っていないことを確かめる。吉岡の無実を確信して安堵した彼らは抱擁し、永遠の愛を誓いあう。しかし、その直後、吉岡は湖に落ち、ミイラ化した亜矢の死体が湖から姿を現す。 製作 監督の黒沢清は、テレビのニュース番組で楼蘭の美女を見て本作のストーリーを思いついた、という。 |
Kakky KAKKY(カッキー、本名:柿木法晃 かきのき のりあき1980年9月30日 - )は、日本の作曲家、編曲家、サウンドプロデューサー、ギタリスト。 京都府出身。血液型はA型。2009年、4ピースバンド・風花としてユニバーサルミュージック、デリシャスデリレコーズより第一弾アーティストでメジャーデビュー。2010年解散。以後、作曲家、編曲家、作詞家、ギタリストとして活動。 |
HD 175541 特徴 HD 175541は、以前は主系列星とする説もあったが、絶対等級は明らかに主系列星よりも明るく、進化が進んだ恒星と考えられる。HD 175541の質量は、太陽の1.4倍程度と見積もられており、この質量からすると、かつてはA型主系列星であったと考えられる。主系列星よりも進化した星らしく、HD 175541の彩層活動は低調である。 HD 175541は、年周視差に基づいて計算すると、太陽系からおよそ420光年離れた場所にある。しかし、グリーゼは、HD 175541の距離を78光年と見積もっており、その近傍恒星カタログにも収録され、グリーゼ736という名称が付与されている。 名称 2019年、世界中の全ての国または地域に1つの系外惑星系を命名する機会を提供する「IAU100 Name ExoWorldsプロジェクト」において、HD 175541とHD 175541 bはイラン・イスラム共和国に割り当てられる系外惑星系となった。このプロジェクトは、「国際天文学連合100周年事業」の一環として計画されたイベントの1つで、イラン国内での選考、国際天文学連合 (IAU) への提案を経て、2019年12月に最終結果が発表される予定である。 |
メルセデス・ベンツ・M155エンジン M155とは、メルセデス・ベンツのチュニング部門であるAMGのV型8気筒エンジンの系列である。 2004年にSLRマクラーレン(C199)に搭載された。 技術情報 M155 はM113E55MLをベースに開発された。 ベースエンジンと同様シリンダーあたり3バルブであり、バンク間に設置されたスーパーチャージャーとインタークーラーを搭載する。 |
NEW GENERATION FORCE NEW GENERATION FORCE(ニュー・ジェネレーション・フォース)は、全日本プロレスで活動したプロレスラーによるチームである。通称「新世代軍(しんせだいぐん)」。 概要 2009年12月のファン感謝デーのメインイベントにて、諏訪魔、河野、真田、征矢が対戦して諏訪魔が「2010年は自分達が主役となり、新しい時代を作る」と宣言した。控え室で浜亮太も合流し5人で結成していくものと思われたが、征矢は合流しなかった(その直後海外武者修行に旅立った為)。その後目立った動きはなかったが、2010年3月21日に三冠王座を獲得した浜が5月2日に鈴木みのるに敗れ三冠王座から陥落し、鈴木は超党派軍結成を宣言。対抗する形で再決起して自然的にユニットが結成された。7月25日に凱旋帰国した征矢が合流した。 2010年9月10日、個人個人それぞれ道を見つけてやる事を宣言し新世代軍としての活動を休止する。 |
グリムゲルデの仮面 グリムゲルデの仮面(グリムゲルデのかめん)はテーブルトークRPG(TRPG)『ナイトウィザード』のリプレイ作品。2010年に発売されたナイトウィザードのファンブック第6弾『ブルーム・メイデン』に書き下ろし作品として掲載された。 リプレイ執筆は伊藤和幸。イラスト担当は石田ヒロユキ。 概要 『ナイトウィザード』のファンブックとして提供された6番目のリプレイであり、『ナイトウィザード The 2nd Edition』準拠のファンブック・リプレイとしては3番目となる。本リプレイが掲載されたファンブック『ブルーム・メイデン』には、過去5作と同じくリプレイに関連するボイスドラマが付属している。 このボイスドラマ「シュヴェルトライテの槍」は本リプレイの少し後の物語である。本項目ではこのボイスドラマについても併せて解説する。なお本リプレイ及びボイスドラマは、『ブルーム・メイデン』の制作と並行して進行していたリプレイ『蒼穹のエンゲージ』のプロローグという位置付けであり、作品世界上の時系列では菊池たけしの小説「大魔王は、世界滅亡の夢を見ちゃった」(アンソロジーノベル集『大魔王は、世界滅亡の夢を見るか?』収録)と『蒼穹のエンゲージ』の間の出来事となる。 ゲームマスターは伊藤和幸。プレイヤーはF.E.A.R.の菊池たけし、田中信二、久保田悠羅、それに『蒼穹のエンゲージ』でゲームマスターを務める齋藤幸一である。 ボイスドラマ 付属の音楽CDに収録されたボイスドラマ「シュヴェルトライテの槍」は今作リプレイの少し後の話である。 第二次古代神戦争 『グリムゲルデの仮面』は、『ナイトウィザード The 2nd Edition』と『セブン=フォートレス メビウス』を連結する事件「第二次古代神戦争」の一環である。 『グリムゲルデの仮面』は200X+2年9月の出来事である。半年前の戦い(小説「大魔王は、世界滅亡の夢を見ちゃった」)で魔王ベール=ゼファーに敗れた冥刻四天王セオキルスではあったが、彼は甘んじて敗北を受け入れたわけではない。事件収束後、セオキルスはベール=ゼファーに爆破処分された神話時代の箒「オーディン・スフィア」の破片を回収し、素性を隠してドイツの箒メーカー・ミーゲに持ち込んだ。当時新型箒の開発に行き詰っていたミーゲはこの破片を使って9本の試作型箒「ヴァルキューレ・シリーズ」を完成させた。 オーディン・スフィアには、神話時代に封じられた9体の冥魔をコアとしているという秘密があった。これを看破していたセオキルスは、ヴァルキューレ・シリーズを冥魔の孵化機として利用しようとしている。作戦成功の暁には、孵化した9体の冥魔は冥刻王メイオルティスに、8ヶ月前の表界での戦い(ボイスドラマ『蘇りし友、来たり』)で魔王ルー=サイファーに奪われた「七罪の宝玉」の代わりとして捧げられるという計画である。だがシリーズの一体「シュヴェルトライテ」は、ロールアウト直後に箒技術者・八坂真二郎によって、八坂の旧友藤乃=赤羽=ヴァンスタインの手に渡った。 『グリムゲルデの仮面』でヴァルキューレ・シリーズの秘密を知った赤羽くれはと世界魔術協会は、この後ミーゲと、ヴァルキューレ・シリーズの主任設計者・町方敦志の摘発に動く(リプレイ「蒼穹のエンゲージ」)。一方セオキルスは、シュヴェルトライテの持ち主となった藤乃の娘・サクラを冥魔として孵化させ、同時にオーディン・スフィア事件(「大魔王は、世界滅亡の夢を見ちゃった」)以来沈黙を守るベール=ゼファーを引きずり出すべく新たな企てを立てる事となる(ボイスドラマ『シュヴェルトライテの槍』)。 |
カルノシン 局在 カルノシンはヒトなどの哺乳類では、筋肉や神経組織に高濃度に存在している。鳩やアヒル、鯨などの一部の動物において、N-メチルカルノシン (アンセリン)あるいはバレニンが多く見られる。 |
全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会 活動 国にHPVワクチン予防接種の完全中止や副反応患者の救済などを求めている。2017年12月現在、神奈川・埼玉・群馬・千葉・北海道・愛知・大阪・鹿児島・茨城・福岡・岐阜・山梨・静岡・栃木の支部が会のサイトに掲載されている。2017年11月現在の会員数は603人。 厚労省による、ワクチンと重大な有害事象との間の因果関係を認めないとする判断に反発している。厚労省研究班の「牛田班」(牛田享宏・愛知医科大学学際的痛みセンター教授代表)が、「軽い運動や考え方の癖を前向きに変える認知行動療法によって7割の被害者部症状の回復または改善をみたと発表したことに対して、副反応被害の原因が心身の反応や機能性身体症状という前提で研究している、会員は改善したという自覚を持っていないなど不信感を募らせている。被害者連絡会の会員たちの間では、免疫吸着療法が症状緩和の手段として有効であると信じられており、免疫吸着療法を受けるために鹿児島まで足を運ぶ会員も少なくない。厚労省に対しては免疫吸着療法に関する成果を公表するように要求している。 また厚生労働省への法的責任の確認や、国内での疫学調査の実施を請求している。 |
山 分類 さまざまな分類法がある。 山の複合的なものを山岳(連山、山地、山脈)と呼ぶ。 通常、陸上のものは単に「山」と言い、海中の山は海山と言う。 起伏の程度によって分類する方法もあり、低山性山地、中山性山地、高山性山地に分類される。 山地を形成した営力によって分類する方法もあり、(1)火山作用で形成された山地(火山性山地)、(2)浸食作用で形成された山地(残存山地あるいは浸食山地)、(3)地殻運動によって形成された山地、などに大きく分類される。そしてそれらがまた様々な観点から分類されている。 (1)の火山性山地は、形態や構造によって単式火山と複式火山(複成火山とも)に分類される。単式火山には成層火山、楯状火山 等々等々が含まれ、複式火山にはカルデラや複数の単式火山の複合などが含まれる。そしてカルデラ火山はさらに二重式火山や三重式火山に分類される。また火山性山地はその噴出場所によって陸上火山、海底火山、氷底火山に分類される。 (2)の浸食山地の分類としては、湿潤地域で生じる「残丘」、乾燥地域で生じるインゼルベルクやボルンハルトがある。 (3)のタイプの山地はさらに、褶曲山地(しゅうきょく - )、曲隆山地、ドーム状山地、断層山地、傾動山地などに分類できる。 なお人工的に作った山は築山と言う。 山の高さ 山の高さ(標高)は、海面の延長であるジオイドからの距離とすることが一般的であり、これを海抜(かいばつ)と言う。地球上の最高峰(最も高い山)はヒマラヤ山脈のエベレスト(海抜8848m)とされているが、海抜以外の指標により最高峰を選ぶことも可能である。例えば、地球中心から見た最高峰は南米アンデス山脈のチンボラソ山(海抜6310m)である。地球は自転の遠心力により回転楕円体となっていて、赤道付近がふくらんでいる。そのため、赤道からわずか150kmにあるチンボラソ山は、エベレストより2150mも地球中心から見て高くなっている。ハワイのマウナケア山も海抜では4205mだが、太平洋底から一気に10203mもせり上がっており、基盤部分からの標高では世界最高峰となっている。(七大陸最高峰も参照。) 日本国内では、最高峰は富士山(標高3776m)である。対して最も低い山は仙台市の日和山(標高3m)であるが、山の定義や地形学的分類あるいは地図作成測量により捉え方は様々であり、最も低い山の決定が難しい。 地球以外の天体では、ジオイドに相当する面からの距離を標高とする。ただし、地球以外の天体には海面がないので、天体ごとに恣意的に定義する。たとえば、火星でジオイドに相当するアレイドは、温度0.01℃で気圧610.5パスカルとなる面である。日本語では地球上、地球外共に「山」であるが、英語ではMonsといい、地球の山と区別される。 なお、太陽系で知られている最高峰は火星のオリンポス山であり、標高は約270000m(27㎞)に達する。火星にはこのほかにもアルシア山(標高19km)やアスクレウス山(標高18km)、パボニス山(標高14km)といった、地球よりもはるかに高い火山が存在するが、これは火星にプレートテクトニクスが存在せず、マグマの吹き出すホットスポットが移動しないため溶岩が同じ場所に堆積し続けたためと考えられている。 山の形成 山は、大陸移動(プレート移動)に伴う褶曲や断層運動、隆起、火山活動などの地理的要因により形成される。このうち最も大規模な山岳形成はプレート移動によってなされ、世界の2大造山帯であるアルプス・ヒマラヤ造山帯と環太平洋造山帯はいずれもプレート移動により形成されたものである。アルプス・ヒマラヤ造山帯に属するヒマラヤ山脈やアルプス山脈は、かつて2つの大陸プレートに挟まれた浅い海だったが、大陸プレート同士の衝突により地面が押し上げられて成立した。このような山の成立過程を造山運動と言う。ロシアのウラル山脈や北米東岸のアパラチア山脈は、ずっと以前の造山運動の痕跡である(造山運動終了後に浸食などで削られた)。環太平洋造山帯は太平洋プレートが各大陸プレートに沈み込みを起こして形成されるものであり、その名の通りアンデス山脈やロッキー山脈、日本列島など太平洋を取り囲むようにして大山脈が連続する形になっている。この2つの造山帯はいずれもプレート同士の衝突によって形成されるものだが、そのほかにプレートが生み出され広がりつづける発散型境界においても山脈が形成される。この発散型境界の多くは海底に存在し、海嶺と呼ばれることが多い。大西洋を南北に貫く大西洋中央海嶺などが代表例である。 火山の多くはプレートの拡大もしくは収縮地点の側に存在し、そのため上記造山帯の付近にほとんどの火山が存在するものの、まれにプレート境界とは全く関係ない場所においてマグマが継続的に供給され火山が成立する場合がある。これはホットスポットと呼ばれ、ハワイ島のマウナケア山などが代表例である。このホットスポットはプレートの動きとは無関係であるため、プレートが移動してもその地点に山岳を形成し続ける。古い火山島はホットスポットから離れるにしたがって波や風、雨などによって浸食されていき、やがて海面下に没して海山となる。 断層運動により断層面から見た一方が上昇又は下降することにより山が形成されることもあり、例としては日本の六甲山地や養老山地などがある。地殻変動に伴って地面が上昇する隆起により山が形成された例には、日本の北上山地、阿武隈高地などがある。火山活動を成因とする山は、富士山や阿蘇山のような活火山のほか、荒島岳のようにかつての火山が浸食されてできたものもある。 上記のようにして形成された山は、またさまざまな理由によって次第に低くなっていく。山を形成している岩石は、山の厳しい気候や長い年月などによって風化していき、その積み重ねによって山は低くなっていく。また、浸食も山を低くしていく大きな要因の一つである。寒冷地や高山において形成される氷河は、山を侵食する大きな原因の一つである。より温暖な地方においては、河川が主な山体浸食の原因となる。このほか、風による風食も浸食の要因となるが、氷河や河川に比べればその役割は小さなものである。また、地すべりや崖崩れなどによってより急激に山体が変化することもある。 山の気候と生物 山の気候は平地と大きく異なる。山では気象が変化しやすく、風も強く、降水量も多い。山は起伏が激しいため地上付近の暖かい空気と高所の寒い空気が混じりあい、雲が発生しやすいためである。また、標高が100m上昇するごとに気温は0.6度(摂氏)低くなるとされており、そのため、標高が高くなれば植生や生態系も異なってくる。標高が上がるにつれて植生はより寒冷に適応したものとなっていくため、山麓の低地が熱帯であるのに山頂の植生が温帯性や冷帯性を示したり、さらには森林の生育できる温度を下回ってしまいツンドラや氷河が広がっているということもありうる。例として、ほぼ赤道直下にあるキリマンジャロ山においては、山麓の標高1900mくらいまではサバンナが広がっているのに対し、標高2500m程度までは熱帯雨林、3000m付近までは雲霧林となり、それより上になると森林限界を迎えてしまうため樹木が生育できず、まばらな低木や草原が広がるようになる。4400m以上では植物の生育が不可能になり、5500m以上では赤道直下にもかかわらず氷河が存在する。 特に海抜数千メートルの高山では気象環境は過酷であり、ある程度の標高以上では気温が低すぎてもはや樹木が生育できず、そのような環境に適応した特殊な植物・動物が生息している。これを高山植物・高山動物という。この樹木が生育できなくなる地点のことを森林限界というが、これは基本的には標高によって決定されるものの、その地表の諸条件に大きく左右されるために、必ずしも直線的に限界線が続いているわけではない。また森林限界は気温によって左右されるため、場所によってその高度は大きく異なり、基本的には緯度が低いほど森林限界の高度は高く、緯度が高いほどその高度は低くなる。寒帯にある山岳の場合、麓から山頂までツンドラや氷雪に覆われていることは珍しくない。 また、標高の高い山岳においては斜面に雨雲がぶつかるため、山麓に降雨をもたらすことが多い。この場合、山脈を越えた空気は乾燥することとなり、山の反対側にフェーン現象をもたらすことがある。また、海岸から高い山脈にさえぎられた反対側では山脈の方から吹き込む卓越風の風下となり、すでに水分のほとんどを雨として落としてしまっているため、極度に乾燥した気候となることがある。これを雨陰効果と呼び、タクラマカン砂漠やグレートベースンなどがこの要因によって砂漠となっている。逆に山岳の風上側においては乾燥地においても降雨をもたらすことはよくある。 山と人間 古代史において「山は隔て、海は結ぶ」という言葉があるように、海は交通路として遠隔地を結びつける役割を果たす一方、山は逆に交通の障害として隣接する地域同士を隔てる役割を持った。近代に入り交通網が整備されるようになるまで山、特に山脈は人々の交流を妨げることが多く、山脈を一つ隔てた両側で文化、さらには言語や民族にいたるまで異なっていることは珍しいことではなかった。こうしたことから自治体や国家の境界線は山の尾根の線におかれることが多くなっており、地政学においても山岳はしばしば望ましい自然国境であるとみなされている。 居住と利用 国際連合環境計画が定義した山岳の条件下では、世界陸地面積の24%が山岳となっており、世界人口の12%がその地帯に居住している。地球上の陸地面積の7%が標高2500m以上の高度に属し、およそ1億4000万人がその高度帯に居住している。標高3000m以上の土地にはおよそ200万から300万人が居住している。こうした山岳居住人口のおよそ半分はアンデス、中央アジア、およびアフリカに居住している。インフラへのアクセスが限られるために、高度4000m以上の地帯には少数の居住者しか存在しないが、4150mの地点にあるボリビアのエルアルト市は例外であり、盛んな商業と多様な工業、そしてほぼ100万人の人口を有する。世界で最も高い地点に存在する都市はペルーのラ・リンコナダであり、標高5100mの地点に位置する金鉱山の都市である。 ヒトの定住が可能である高度は約5,950mが限度とされている。標高の非常に高い場所では、呼吸のために必要な酸素が非常に少なく、また日光に含まれる紫外線からもあまり保護されない。特に標高8000m以上の地点では人類の生息に必要なだけの酸素が存在しない。この高度の地帯はデスゾーンと呼ばれ、エベレストやK2の山頂がこれに含まれる。 ヒトにとって山は必ずしも生活しやすい場所ではない。気象変動は激しく、さらに標高が高くなると空気が薄くなり酸素が不足するため、約2500m付近からは高山病にかかるものもあらわれはじめる。山岳の大部分は地面が傾斜しているため、居住には余り適さず、また広い平地を確保できないために大規模な農地を設けることが難しく、食料生産効率も低地に比べ一般に劣る。 一方で、山岳は決して不毛の地ではなく、豊かな植生に恵まれ動物や植物が豊富なところも多いことから、山岳地帯に居住する人々もかなりの数にのぼる。可耕地に乏しい日本の山村において山は材木や燃料などの林産物を産出し、狩猟や交易、鉱山の経営など山稼ぎは山村の生業における重要な要素であった。また、傾斜の緩やかな地点を切り開いて焼畑を行ったり、段々畑、棚田を建設して農耕をおこなうことも世界中に広くみられる。 また、特に低緯度地帯においては標高の高い山岳地帯は気温の高い低地に比べ温和な気候となるため、標高による空気の薄さを考慮しても必ずしも暮らしにくい地域ではない。このため、アンデス山脈やメキシコ高原、エチオピア高原といった地域は古くから栄え、独自の文明を築いてきた。現代においてもこれら地域は大きな人口を抱え、メキシコシティやボリビアのラパス、エチオピアのアジスアベバなどの大都市も存在している。また、ユーラシア大陸中央部のチベット高原は標高が高く寒冷な地域であるが、牧畜を中心に古くから人類が居住し、一つの文化圏を形成してきた。こうした山岳地においては標高によって気温が変わるため土地利用が異なっており、特にアンデス山脈においてはやや標高の低く温暖な地域ではトウモロコシ、やや標高の高い地域ではジャガイモ、それより標高の高い地域では放牧を行うなど、高度によって明確に異なった土地利用を行っている。 このほか、人々が山岳地帯に居住する理由としては鉱物資源の存在がある。農耕に不適で本来人間が居住できない地点においても、高価な鉱物資源の存在によって鉱山が開かれ多くの人々が生活していることは珍しくない。 世界の河川の多くは山岳地帯を源流としており、山岳に降り積もった雪は下流の住民のために水を貯蔵する機能を果たしている。人類の半数以上は山からの水に依存して生活している。山岳は上記のように降雨を多くもたらすため、多くの国々で山岳地帯にダムを設け水資源確保や発電を行っている。こうした山岳流水のエネルギーは古くから水車などで利用されており、20世紀後半以降は小規模水力発電が各所に設けられるようになった。 信仰と観光 世界の多くの地域では、神聖な山として山に対する信仰が生まれている(山岳信仰)。日本では富士山をはじめ主要な山々で山岳信仰が存在し、山岳信仰は特に修験道と結びつき、信仰の興隆に伴い登山者に宿所などを提供する御師が成立した。また、民間信仰においても山は異界へ通じる恐れの対象であると同時に、天候や生業に関わる神性な世界としても認識され、山の神や雨乞いなどに山に関する民俗が存在している。 山岳信仰には、山へ登るという形態もあれば、山を敬遠して眺めるだけという形態もあった。このうち前者が、近代に入って信仰色が希薄化・消滅し、余暇としての登山へと変わり、山は余暇・娯楽の場としてとらえられる様になっていった。現代では、登山のみならず、スキー、キャンプなど多様な余暇活動が行われている。また、山を眺めることについても、信仰色が薄まっていき、現代では山岳展望という新たな余暇活動として楽しむ人が増えている。最近ではパワースポットの一つとして、富士山などの山がその対象の1つとなっている。 また、超短波以上の周波数で発射する送信所の多くは山に設置されている。 |
教皇の辞任 教皇の辞任 (renuntiatio)は、カトリック教会の在位中の教皇が自発的にその地位から降りる際に起こる。一般的には教皇の在位期間は選出から死亡までであり、教皇の辞任は特殊な出来事である。21世紀より前にはたった5人の教皇だけが野心ではなく歴史の必然性に従って辞任したが、彼らは皆10世紀から15世紀の人物である。また、3世から11世紀に辞任した教皇に関しては論争になっている主張がある ; そのうち5番目の例は対立教皇に関係している。 さらに、暗黒の時代の数人の教皇は罷免されている。このことに関する歴史的・カノン法的問題は錯綜している; 一般に、ヴァチカンによる公式の教皇一覧表はこういった罷免に関して、当の教皇が認めるならこれを合法な辞任とみなすのに対して、本人が認めないなら合法な辞任とみなさない。後に発展したカノン法は教皇首位説に親和的であり、教皇の非自発的な辞任を認めない。 最も近年に辞任した教皇はベネディクト16世である。彼は2013年2月28日(UTC)から使徒座を空位にした(ベネディクト16世の辞任)。彼はグレゴリウス12世以降では初めてこれを行った教皇である。 教皇の辞任を論じる際に「退位」という表現が使われることが多いが、教会の公式な文書においては専ら「辞任」が用いられる。 手続き 1983年に制定された新教会法典第332条(2)には以下のように述べられている: ローマ教皇が辞任する場合には, 辞任が自由になされ, かつ正しく表現されなければ有効とはならない。ただし, なんぴとかによる受理は必要ではない これは1917年に制定された旧教会法典第221条に対応する: ローマ教皇が辞任する場合には, 枢機卿もしくは他のなんぴとかによって受理されなくとも有効である。 教皇が辞任を誰か特定の人物ないし人々に宣言する必要はないことがどちらの教会法典にも明記されている。これはかつて、特に18世紀の教会法学者ルキウス・フェラリスにより提起された問題を扱っている。後任者を合法に選出する前に教皇が地位の放棄を宣言するのは枢機卿たちが完全にふさわしいので枢機卿団もしくは少なくとも主席枢機卿が宣言を受けなければいけないとルキウス・フェラリスは考えていた。 歴史 カトリック百科事典には歴史学上確実とされていないポンティアヌス (230年–235年)およびマルケリヌス (296年–308年)、そして歴史学的に裏付けられているリベリウス (352年–366年)の辞任について述べられており、またある教皇一覧ではヨハネス18世が1009年に辞任して修道士として生涯を終えたとされている。 「暗黒の時代」には数人の教皇が政治的・軍事的権力によって罷免、もしくは強制的に辞任させられている。ヨハネス10世が罷免された教皇だと考える研究者もおり、彼は後任者のレオ6世が選出される前に獄死したとみなされている。また、ヨハネス12世、レオ8世、ベネディクトゥス5世もそれぞれ罷免されたと考えられている。若くして教皇位に就き、無謀ともされる教皇領の拡大を行っていたヨハネス12世は教会内外の反発を招き、963年に自ら辞任を宣言することなくオットー1世と教会会議により罷免されている。この時にオットー1世の権力によってレオ8世が教皇(対立教皇)として擁立され就任している。しかしオットー1世がローマを去るとすぐ、ヨハネス12世が帰還し自身の法王位を主張した。レオ8世は権力を失い逃走、ヨハネス12世が964年にローマに復帰した。そのヨハネス12世が同年に急死すると、市民の圧力によりベネディクトゥス5世が選出された。しかし、オットー1世はレオ8世が復位することを望み同年夏にローマを軍勢で包囲、圧力をかけてベネディクトゥス5世を退位させた。このベネディクトゥスの辞任は合法であると考えられている。後ろ盾を得たレオ8世が再び教皇となったが、このレオ8世は965年に死去した時点では合法な教皇であるとみなされているので、合法な教皇であると同時に(彼を正当と看做さない観点からは)対立教皇ともされる。ベネディクトゥス5世は辞任後は教皇権を決して主張せず、レオ8世の後任のヨハネス13世の選出に際しても疑義を差し挟まなかった(ベネディクトゥス5世はヨハネス13世の就任直後に死去する)ため、オットー1世の意を受けた結果であるヨハネス13世の就任はしかし合法であるとみなされている。ただしベネディクトゥス5世こそが死去する時点まで唯一の合法な教皇であったと考える者もいる(ベネディクトゥス5世の死去をもって、ヨハネス13世が合法な教皇になるとする説)。 歴史学上疑問の余地のない最初の教皇の辞任は、ベネディクトゥス9世によるものである。ベネディクトゥス9世は1044年にもシルウェステル3世によって罷免されており、翌年に復位したが、現在のヴァチカンはシルウェステル3世がその間の月日も合法な教皇であったと考えている(つまり、ベネディクトゥス9世は1044年の罷免を黙認したのだから合法に辞任したと考えざるを得ないというのである)。その後1045年には復位したが、スキャンダルまみれのベネディクトを教会から取り除くため、グレゴリウス6世が彼に「価値ある地位」を与えて自発的な辞任をさせた。グレゴリウス自身はベネディクトゥス9世との協定が聖職売買にあたるとみなされ1046年に辞任した。グレゴリウスの次に教皇に就任したクレメンス2世が死去するとベネディクトゥス9世が三度選出されたが、まもなく辞任して修道院で死去した。以上によってベネディクトゥス9世は断続的に三度在位して三度辞任した(あるいは罷免された)ことになる。 1294年のケレスティヌス5世による辞任はよく知られている。僅か5か月の在位期間の後、彼は教皇の辞任を認める厳密な法令を出し、自身がその法令に従って辞任した。その後2年以上にわたって隠修士として過ごしたのちボニファティウス8世によって幽閉され、死後に列聖された。ケレスティヌスの法令とボニファティウスの一致(無効とすることはなかった)は教会法学者の間で教皇の合法な辞任に関して疑いを持たせることになった。 グレゴリウス12世(1406年–1415年)は1415年に教会大分裂の収束のために辞任した。教会大分裂は三人の教皇が並立する事態に陥っていた: ローマのグレゴリウス12世、アヴィニョンのベネディクトゥス13世およびピサのヨハネス23世である。グレゴリウス12世は実質的には既にジギスムントによって開催されていたコンスタンツ公会議を形式上招集し、同公会議に自身の後任者を選出する会議として権威付けを行った。 2013年2月11日に、ヴァチカンはベネディクト16世が高齢による肉体的衰えを理由に17日後に辞任することをアナウンスした。辞任は予定通り2013年2月28日に行われた。 条件付きの辞任が実行されなかった例 1804年にナポレオン・ボナパルトに戴冠するためパリへ行く前に、ピウス7世(1800年 - 1823年)はフランスで捕囚された場合に有効となる辞任文書に署名した。 第二次世界大戦の際、ピウス12世は自身がナチスに拘束された際には辞任したものとし、枢機卿団は中立国のポルトガルから引き揚げて後任者を選出するべしという文書を作成した。 1989年2月には、ヨハネ・パウロ2世が主席枢機卿に辞任を宣言する書簡を送ったが、それは次の二つの場合には辞任するというものであった: 教皇職を果たすのに差し支えるような不治の病にかかった場合; あるいは自分が教皇であることを妨げる「深刻で持続する欠陥」がある場合。 教皇位剥奪 一時的なものにしろ永続的なものにしろ健康上の理由で教皇位を剥奪するような規定は教会法には存在しない; その他の教皇位剥奪を保証するような権威を持つ文書に記載されてもいない。新教会法典には「ローマ聖座が空位のとき、又は完全にその機能が妨げられたとき, 普遍教会の統治に関して何ら変更されてはならない」と規定されている。 教区司教は満75歳になると求められれば退任を申し出なければいけない。また、枢機卿は80歳になるとコンクラーヴェに参加できなくなる。しかしながら、教皇に関しては特定の年齢に達したら辞任するという規定が存在しない。これらの教区司教や枢機卿に関する規定が制定されて以降、三人の教皇―パウロ6世、ヨハネ・パウロ2世、そしてベネディクト16世―が在位中に80歳に達した(ヨハネ・パウロ1世は65歳に達した程度であった)。 2005年のヨハネ・パウロ2世の死去の予兆として、彼が健康上の理由により辞任するのではないかと報じられたが、ヴァチカン公式は一貫してその可能性を除外していた(ただしヨハネ・パウロ2世が2000年に辞任を意識していたことが後に明かされた。2000年当時彼は80歳であり、辞任の可能性を明白に感じていた)。対して彼のベネディクト16世が全く同じ理由で実際に辞任している。 |
コミュニティ・マート コミュニティ・マートとは商業施設の一形態。飲食店や小売店などが集うショッピングセンターのような形であるが、そこでは商店に加えて広場などの公共施設を充実させることで地域住民の憩いの場としても機能するようにされている。集会場や文化施設や産業会館や消費者センターなども併設された複合施設となっている場合もある。 |
牧野忠義 (作曲家) 人物 東京経済大学にて経済・経営を学ぶ傍ら、在学中よりインディーズレーベルアーティストへの楽曲提供を開始。 旺文社主催 SONY 協賛 全国テープ&ディスク大賞 作編曲部門 優秀賞受賞。 アスキーエンタテインメント第四回ソフトウェアコンテスト音楽特別賞受賞。 2002 年株式会社ベック(現バンダイナムコ HD BBstudio)入社。 2007 年株式会社カプコンへ転籍。 「モンスターハンター」「ドラゴンズドグマ」等の作曲家・ミュージックディレクター・エンジニアを務める傍ら、 「狩猟音楽祭」や「Video Game Orchestra」等に出演。 数々の海外レコーディング監修、マルチチャンネルミックスなど 作曲のみにとどまらない幅広い実績と視点を武器にハイエンドな楽曲制作をプロデュースしている。 2016年、各ジャンルの実力派メンバーで構成された「株式会社スピンソルファ」を設立、代表取締役に就任。 株式会社スピンソルファ 公式プロフィールより BlackLute BlackLuteはモンスターハンターシリーズを音楽をロックアレンジし演奏するユニットである。 2012年にモンスターハンターシリーズの楽曲をよりユーザーに伝えたいという思いから結成された。 狩猟音楽祭では東京フィルハーモニー交響楽団やHIDE+HIDEと共演しており、モンハンフェスタでも生演奏を行っている。 |
京町 (北九州市) 地理 北九州市都心部の繁華街及び歓楽街である。紫川(東端)から砂津川(西端)まで東西に1・2・3・4丁目と連なる。魚町や米町などへと続く市街地で、平和通りを挟んで1・2丁目と3・4丁目では町の性格や機能が大きく異なっている。 小倉駅小倉城口(南口)東側に位置する日本郵便・小倉駅前郵便局などが有ったエリアでは大規模な再開発事業が進められており、2019年の完成を目指して工事が進められている。元からの地権者以外に新たに積水ハウスが参加し、高層部に設けられる分譲マンションを手掛ける。 地名の由来 堺町や鍛冶町、紺屋町などと同様に小倉城下二十五町の町名に由来する。 森鴎外住居跡 1899年(明治32年)6月、第12師団軍医部長として小倉に赴任した森鴎外が、1900年(明治33年)暮れに鍛冶町から転居し、1902年(明治35年)3月東京に転任するまで居住していた住居があったことを示す「森鴎外京町住居跡碑」がマクドナルド小倉駅前店の向かいのペデストリアンデッキへのエスカレーター脇にある。なお、鍛冶町に居住していた際の旧居は「森鴎外旧居」として保存され、見学することができる。 |
ピカチュウのなつやすみ 概要 主人公のサトシをはじめ、人間キャラは顔が映らず、代わりにポケモンのみの主要視点で描かれている。また、ニャース以外は人語を話さず、その他のポケモンは鳴き声やジェスチャー等で意思伝達をする描写を多用した。その為、子供と共に映画館に足を運んだ親(大人)からは、「何を言っているか分からない」と言った声が挙がった。しかし、これは製作者側の「ポケモン達が何を伝えたいかは見た子供達が考え、捉えて欲しい」という考えからなされた為であり、見たままの現実を捉えるのではなく、自らの想像力を働かせ、ポケモン達の気持ちを感じて欲しいと言うメッセージが込められている。 このコンセプトは2003年まで及び2012年から再開している同時上映作品の全てで踏襲されている。また2003年の冬には、『ピカチュウのふゆやすみ』という同様のコンセプトの元に製作されたアニメビデオが、『月刊コロコロコミック』を中心とした誌上販売を行われた。 あらすじ 夏休みを楽しむため、ポケモン広場にやってきたサトシ達一行。ピカチュウは、サトシから皆の面倒を見る様に言われる。 しかし、おなかをすかせたトゲピーが泣き出してしまう。どうにか寝かしつけたものの、おしゃべりをし騒いでいたカラカラ達のせいで起きてしまう。 言い争いを止めようとするピカチュウであったが、逆に巻き込まれ、ドタバタ劇に発展していく。 |
金沢駅 概要 当駅は石川県の県庁所在地である金沢市にある同市の代表駅である。 JR西日本、IRいしかわ鉄道の金沢駅には、JR西日本の北陸新幹線と北陸本線、IRいしかわ鉄道のIRいしかわ鉄道線が乗り入れている。また七尾線の列車も津幡駅からIRいしかわ鉄道線経由で乗り入れている。IRいしかわ鉄道線は北陸新幹線が2015年(平成27年)3月14日に当駅まで開業した際にJR西日本から経営分離された北陸本線の「並行在来線」区間である。 北陸本線は、大阪・京都方面からの特急「サンダーバード」、名古屋・米原方面からの特急「しらさぎ」など全列車が停車し、「サンダーバード」1往復(七尾線 和倉温泉駅発着)を除く全列車が始発・終着となる。このうち北陸新幹線延伸開業前は多くの列車が当駅から富山方面に運転されていた。 JR金沢駅の事務管理コードは▲541449を使用している。 北鉄金沢駅は金沢駅の兼六園口(東口)駅前広場の地下にある。浅野川線の前身である浅野川電気鉄道により「金沢駅前駅」として開業し、北陸鉄道への合併と地下化を経て現在に至る。かつては金沢駅前停留場(金沢市内線)および中橋駅(金石線) と併せ北陸鉄道の駅・停留所が3か所に散在しており、(当時の)国鉄金沢駅を含め、相互に徒歩連絡を行っていた。 2001年(平成13年)、JR金沢駅・北鉄金沢駅ともに第3回中部の駅百選に選定された。2011年(平成23年)には、アメリカ・Travel + Leisure(ウェブ版)の「世界で最も美しい駅」の一つに選定された。 駅構造 在来線が島式ホーム3面7線、新幹線が島式ホーム2面4線を有する高架駅である。在来線ホームと新幹線ホームは同一平面上(同一高さ)にあり、1階に在来線・新幹線のそれぞれの改札口が、中2階に在来線と新幹線の乗り換え改札口と、在来線から金沢百番街「あんと」に直結する「あんと改札口」が設けられている。 当初は、新幹線の開業後も(敦賀延伸までは)在来線駅ともJR西日本が保有し運営することになっていたが、2012年から翌年にかけて行われたJR西日本社長と石川県知事の会談により、IRいしかわ鉄道が土地を除く在来線駅の施設を取得することになり、補助金により同社が所有権を取得。ただし、管理・運営は引き続きJR西日本が行う。当駅は管理駅長が配置された直営駅で、管理駅として北陸本線の加賀笠間駅 - 西金沢駅間の各駅を管轄している。 みどりの窓口・みどりの券売機・在来線改札・新幹線改札にそれぞれ精算所が設置されている。 また、IRのグッズ販売や定期券発行を行っているIRお客さまカウンターが設置されているが、先述の経緯から当カウンターもJR(JR西日本金沢メンテックに再委託)に業務委託されている。 駅舎は、JR西日本系ホテルのヴィアイン金沢や金沢百番街と一体化している(「駅周辺」も参照)。 鳩の糞害対策として鷹匠に依頼し鷹で鳩を威嚇するパトロールが定期的に行われている。 駅構造 頭端式ホーム1面2線を有する地下駅である。浅野川線において、1線ではないのは当駅と三ツ屋駅のみとなっている。駅番号はA01。 駅周辺 金沢駅周辺は市内中心部側の東口と、石川県庁の移転後から活気が出てきた西口に分かれている。西口は商業施設の集積が進んでいる。西口付近一帯は通称「駅西地区」あるいはこれを略して「駅西」と呼ばれている。北陸新幹線開業日の2015年(平成27年)3月14日に出入口名称の変更を行い、東口は「兼六園(けんろくえん)口」、西口は「金沢港(かなざわこう)口」とされた。 兼六園口 2005年(平成17年)3月20日に北陸新幹線の金沢延伸を見越した駅周辺整備事業の進捗によって、東口正面には巨大な総ガラス製ドーム「もてなしドーム」と木製の「鼓門」が完成した。その北側にバスターミナル、南側にタクシー乗り場が分離整備されている。 兼六園口側には、映画館を併設する大型商業施設のほか、宿泊施設と商業ビルが軒を連ねる。 銀行や郵便局などの公共機関や、各方面に向かうバス乗り場もこちら側に集積している。 金沢港口 駅裏となる金沢港口には、JRの本社のほか宿泊施設や金融機関・新聞社などが軒を連ねている。 |
リュケ 地理 リュケは他の4コミューンと同様に、周囲をピレネー=アトランティック県に囲まれたオート=ピレネー県の飛び地である。 気候は、約150km西に離れた大西洋の影響で温帯の海洋性気候である。ピレネー山脈と町が近接しているため、フェーン現象が起きる。たとえ通常は起こりえない場合、冬に雪が見られても発生する。 コミューンには県道807号線が通る。 歴史 リュケのナポレオン地籍(公平に徴税を行う目的で1800年代に作成された)の地図は、県の公文書サイトにて調べることが可能である。 |
ねがい (秋川雅史の曲) 解説 「千の風になって」に続くシングルで、TBS系日曜劇場『本日も晴れ。異状なし』主題歌である。 |
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国(Vereinigte Herzogtümer Jülich-Kleve-Berg)は、現在のドイツ領ノルトライン=ヴェストファーレン州に存在した公爵領、伯爵領の連合体の総称。領域を構成する諸邦は全て神聖ローマ帝国の直属身分 (en) 領邦であり、同君連合という形で結びついていた。「ユーリヒ=クレーフェ=ベルク」の名はウィーン会議後の1815年から1822年、短期間存在したプロイセン王国の県の名称として復活している。 歴史 ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国は神聖ローマ帝国の北西部の諸邦の連合体として成立した。まず1423年、ユーリヒ公国とベルク公国が連合関係に入った。それから約1世紀後の1521年、ユーリヒ=ベルク公ヴィルヘルム4世が男子のないまま死ぬと、娘のマリアが2つの公爵領およびラーヴェンスベルク伯領の相続人となった。マリアは1509年、近隣のクレーフェ公国とマルク伯領の支配者で遠戚に当たるヨハン3世と政略結婚しており、サリカ法の相続規定に従ってヨハン3世が妻の相続した全領土を支配下に収めた。この連合公国は、教会領であるケルン大司教領 (en) およびミュンスター司教領 (en) を除けば、現在のノルトライン=ヴェストファーレン州のほぼ全域を覆っていた。またその息子のヴィルヘルム5世は、1538年から1543年までの短期間、ゲルデルン公国(現在のオランダ領ヘルダーラント州)をも領有していた。 ヨハン3世とマリアの結婚から100年後の1609年、ヨハン3世の孫のヨハン・ヴィルヘルムの死により、連合公国の統治者の家系は途絶え、その遺領の相続をめぐる紛争が起きることになる。連合公国の3代の公爵達は、プロテスタント宗教改革に続いて起こった宗教論争において、人文主義者のデジデリウス・エラスムスの影響を受けて「中道(via media)」の立場を貫いた。このせいで、ヨハン・ヴィルヘルムの相続人と見なされる長姉マリー・エレオノーレと次姉アンナは異なった宗派を信仰し、互いに対立していた。加えて、連合公国の領土を狙う神聖ローマ皇帝ルドルフ2世とザクセン選帝侯クリスティアン2世の野心が、公国の継承問題をより錯綜させた。特に、フランス王アンリ4世やネーデルラント連邦共和国は、ルドルフ2世が連合公国を獲得してオーストリア領ネーデルラントをさらに強国化することを警戒していた。 ヨハン・ヴィルヘルムの長姉マリー・エレオノーレとプロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの娘のプロイセン公女アンナはルター派であり、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントと結婚していた。一方、ヨハン・ヴィルヘルムの次姉アンナはカトリック信徒であり、プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒと結婚していた。結果としてブランデンブルク選帝侯領とプファルツ=ノイブルク公領の間でユーリヒ=クレーフェ継承戦争(三十年戦争の前哨戦の一つとされる)が勃発したが、1614年のクサンテン条約 (en) で妥協が成立し、ブランデンブルクが連合公国内のプロテスタント領邦(クレーフェ、マルク、ラーフェンスベルク)を、プファルツ=ノイブルクがカトリック領邦(ユーリヒとベルク)を相続した。不運なことに、ヴィルヘルム5世の異名「富裕公(Wilhelm der Reiche)」が示す連合公国の国土の豊かさは、継承争いに伴う戦乱のために破壊された。 |
ファームハウス (住宅メーカー) 概要 ファームハウスが展開する住宅ブランド。 家庭用エアコン1台で2階建て全部屋温度・湿度バリアフリーかつ月の電気代はオール電化で真夏でも6,000円以下を強みとしている。 個々の土地の気候に合わせた独自の設計で、超低燃費・創エネルギー住宅で365日24時間の快適を低価格で実現。 |
気くばりのすすめ 『気くばりのすすめ』(きくばりのすすめ)は、鈴木健二による著書シリーズ。講談社から出版された。 概要・エピソード 第1弾は1982年9月に発売。この第1弾は単行本332万部、文庫本を含むと400万部以上の大ベストセラーとなった。 本作がベストセラーになった際、フジテレビがこれを扱った特別番組を制作した。この番組には当時NHKアナウンサーの立場であった鈴木も出演したが、当時はNHKの現職アナウンサーが堂々と民放の番組に出られる程自由では無く、出演場面は全てビデオ撮影で、背中越しなど鈴木の全体像が明確には見えないアングルでの登場となった。これはこの番組の司会がNHK時代の先輩である小川宏であり、その口添えにより実現したものであったからである。 鈴木は1983年 - 1985年に『NHK紅白歌合戦』の白組司会に起用されたが、その背景には司会をしていた『クイズ面白ゼミナール』の高視聴率獲得と、本作の大ヒットがある。1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』では、鈴木の白組司会に対し、紅組司会は『窓ぎわのトットちゃん』の著者・黒柳徹子であり、ベストセラー作家同士の両組司会として話題になった。 |
いとしのセシリア 概要 1970年に発売されたアルバム『明日に架ける橋』収録曲で、同アルバムからのリカット第3弾シングル。作詞作曲はポール・サイモン。 曲は、サイモン&ガーファンクルとその友人が参加した深夜のパーティーがモチーフとなっている。3人はベンチを叩いてリズムをとった音などをソニー製のテープ・レコーダーに録音し、リバーブを加えてリズム・トラックを作り上げられ、そこからサイモンによってギターのフレーズが考案された。 タイトル及び歌詞の解釈は2通りあり、1つは聖セシリアのことを歌ったもので、もう1つは主人公が顔を洗っている間に彼女(セシリア)が他の男とベッド・インしていたというもの。 リリース シングル盤は1970年4月20日に発売され、ビルボード誌が発表したBillboard Hot 100で最高4位を記録し、13週間チャートインを果たした。キャッシュボックス誌では最高1位を記録した。ビルボード誌の年末チャートでは最高49位を記録した。 なお、イギリスでシングル盤が発売された当時、楽曲名が「Cecelia」と誤表記されて発売されていた。 |
テコ入れ 概要 テコ入れは、その主要な意味としては経済における相場の下落(ないし高騰)を人為的に食い止めることを指し、いわゆるてこを使って重量物を持ち上げる(ジャッキアップなども)ことに擬えたものである。転じて、経済に限らず順調に行かない状況を改善するために、更に手を加えること全般をテコ入れと表現する。 元々は相場用語だったが、一般には後者の意味のほうが通りがよく、一般的にテコ入れというと上手くいかず低迷している状況を外部から力を加えて盛り立てる意味合いで使われることもある。例えば、後述するようにマスメディアに関連してはテレビ視聴率など明確な数字として現れる「人気のあるなし」で本来の予測を下回り狙ったほどの効果が出ていない番組(放送内容)を見直し、人気を得るために何らかの方策を採ることを指す。 こういった行為は相場やメディアだけではなく、地方自治などでは地域経済に関連して、これを盛り立てるために、イベントを企画したり箱物を誘致したり(地域おこし)といった活動も見られ、企業活動から非営利の活動まで、様々な方面で同語が用いられている様子も見出せる。 ただしこれらテコ入れが上手く機能するかどうかという点は別の問題であり、その結果はまちまちである。結果が目論見通り、あるいはそれ以上になることもあれば、逆効果に終わってしまうこともある。 英語では“bolster up”が同語に相当し、こちらは柔らかく弾力のある長枕で危うい状況や事柄を下から支えるイメージを指している。 テレビ テレビ業界では、主として視聴率低迷の打開策を意味する。 手法としては、賞金(または賞品)付き番組にする、素人参加番組を芸能人付きないし専用番組にする、トークを長くすることなどが挙げられる。テコ入れによって長寿・人気番組になった実例としては、「クイズダービー」や「マジカル頭脳パワー!!」、「行列のできる法律相談所」などが挙げられる(「行列のできる法律相談所」の場合、放送開始当初は正味50分強の枠のほぼ全てを純粋な法律相談に充てていたが、途中から時間配分を「芸能人・タレントのトークを45分程度→法律相談の時間を5分程度」に変えている)。このような長寿番組や、人気番組の中にはごく初期にテコ入れされて人気を獲得したものも少なくない一方、度が過ぎると当初の内容から全く別の番組内容に変わるが、それが反ってさらに人気を落とし結果短命に終わらせる原因にもなる。そのため、「テコ入れ」は諸刃の剣でもある。 出版 出版業界では主に作品の人気低迷や制作の行き詰まりなどの場合に行なわれる。 特に漫画作品では掲載誌の人気アンケートの結果や単行本の売り上げに作品の命運は左右され、多くの作品では作家や担当編集者の構想通りにはことが進まない。アンケート人気の低迷が続けば連載が打ち切り終了になる可能性が高まってくるため、これを回避するべく、新たな登場人物の投入や新展開、お色気シーンを追加するなどこれまでの物語の展開に無かった要素を追加したり、逆に不人気のキャラクターの登場頻度や重要性を下げたり退場させる、極端な場合には作品の方向性そのものを転換するなど、連載中に様々な処置、すなわちテコ入れを行う必要に迫られる。たとえば少年漫画の分野では、当初は冒険もの、ギャグ漫画、ラブコメなどでスタートしながらも低迷し、途中で格闘漫画(=アクション漫画)路線に切り替える大幅なテコ入れを行いようやく人気アンケート結果が上位安定したという作品は枚挙に暇がない。 ただし、テコ入れの新要素でも人気が上がらなかったりかえって作品が迷走し人気低迷に追い討ちを掛けただけの結果に終わることは多く、連載開始当初はギャグの要素も多く取り入れていた『ドラゴンボール』が、途中から掲載誌の人気アンケート競争のトップ争いの中心軸になったケースに見られる様な、真にテコ入れが大成功したといえるケースは少ない。 また、雑誌自体においても部数低迷や編集側の都合により、連載作品全体の方針転換や新企画を複数行なうなどのテコ入れを図ることがあるが、雑誌の場合は個別の作品以上に成功例が少ない。 交通におけるテコ入れ 交通関連でも鉄道において、列車のダイヤを見直し、停車駅の増減の実施などの見直しを行う際や、バスの開発地域などへのルートの変更や延長を行う際にも使われる場合がある。 |
ドラえもん 友情伝説ザ・ドラえもんズ ストーリー 西暦2112年9月、聖ネコ型ロボ工作センターでは次々とネコ型お世話ロボットが作り出されていた。そしてドラえもんも、実はここで生まれた。ここで誕生したネコ型お世話ロボットは、人間たちのお世話をする勉強のために、聖ネコ型ロボ学園に通うことになっていた。その学園でドラえもんは、大親友と呼べる6人の仲間と出会い、彼らは永遠の友情を誓いあった。そしていつしか、ドラえもんとともに「ドラドラ7(セブン)」と呼ばれるようになった。 ある日、ドラえもんが親友テレカを使って仲間の1人であるドラ・ザ・キッドに連絡をしようとしたが、いくら呼び出しても、ドラ・ザ・キッドとの連絡がとれない。不審に思ったドラえもんはもう1人の仲間、王ドラを呼び出したが、同じように連絡がとれない。彼らの身に何かあったのでは?と心配をしていたその時、大ニュースを持ってドラミがやってきた。 ドラえもんを除いたドラドラ7の仲間たちが、彼らの生まれ故郷とでもいうべき聖ネコ型ロボ工作センターを襲ったという。さらに彼らは、すべてのネコ型ロボットを引き連れてどこかへ姿を消してしまったとも。 彼らとの友情を取り戻すために、ドラえもんとのび太の冒険が始まるのであった。 |
Fully Qualified Domain Name Fully Qualified Domain Name(フリー・クオリファイド・ドメイン・ネーム)または完全修飾ドメイン名(かんぜんしゅうしょくドメインめい)とは、Domain Name System(DNS)における「TLDまで完全に指定された」ホスト名のことである。一般にはFQDNと略され、このFQDNで指定されたホストは、基本的にはそのDNS階層構造(例えば、インターネット)の中で唯一特定することができる。ただし、厳密にはホストが一意に定まらない場合もある(#FQDNとホストは一対一対応ではないを参照)。 技術的に特に「世界で唯一に指定される」ことが重要である場合に「ホスト名」や「ドメイン名」と区別して用いるが、一般にはわざわざ区別することはない。 FQDNはDomain Name Systemに関わる技術用語の一つであるため、詳細に関してはDomain Name Systemを参照のこと。 概要 例えば、ja.wikipedia.orgがFQDNである。しばしばインターネット上の住所に例えられることと比較すると、国名から番地階数部屋番号まですべてを書くことに相当する。 一般には当然のようにFQDNを使用するが、イントラネットで組織内のサーバに接続する場合等ではFQDNを使用しないこともある。これは市内に郵便を出す場合、宛先をいきなり「朝日町何番地○○」と書いても到着するようなものである。しかし日本全国に朝日町は沢山あるので一般に住所は県名から記載するであろう。インターネットでも同様に、一般にはFQDNを使用する。 厳密には、FQDNにはja.wikipedia.org.のように最後にルートを示すドットを付与しなければならない、という説明が見られることがあるが、そもそもFQDNの厳密な定義というものがあるわけではないので正確ではない。RFC の中にもドットをセパレータとする説明がある(RFC 1035の§2.3.1のBNFを参照)。BINDのようなDomain Name Systemの設定や検証をするソフトウェアなどの設定ファイル、その内部のデータベースなどで、ドメインwikipedia.orgとそのサブドメインja.wikipedia.orgを設定するのに、wikipedia.org.とjaのように終端にドットを付けてトップレベルからのドメインを、終端にドットを付けずにサブドメインを指定する、という便法(参考: RFC 1034 §3.1、RFC 1035 §3.5・§5 、ユーザーがよく見るものではdigコマンドの応答)があり、終端にドットを付けるものをRFC 1035ではabsoluteと呼んでおり、『DNS&BIND』(通称:バッタ本)では、絶対ドメイン名をFQDNとも呼ぶ、と説明している。 LAN内のマシンをfully qualifiedでないホスト名だけでアクセスしたり、org.をTLDと認識したりするのは、基本的にはクライアントないしリゾルバの内部での(たとえばUnixならresolv.confのdomainオプションなどの設定による)処理によるものである。 FQDNとホストは一対一対応ではない そもそも「FQDNとホストは一対一対応ではない」以前に、ネットワークインタフェースを複数持っているようなホストのことを考えれば、IPアドレスとホストですら一対一対応ではない。よって「FQDNとホストは一対一対応ではない」ということについての説明は、それだけで基本的には終了する。 厳密に言うとFQDNは、Domain Name Systemに対して問い合わせを行なう際に使用する単なる名前である。Domain Name Systemが回答としてIPアドレスを返せるなら、ドメインの管理責任者が望むどんなことでも可能である。 部屋に例えれば、同じ部屋に「菊の間」と「薔薇の間」との複数の名前を与えることもでき、また複数の部屋全てを「VIPルーム」という同じ名前にすることもできる。 バーチャルホスト バーチャルホストとは、一つのホストを複数のFQDNに対応付ける技術である。システムを構成するサーバの台数が少ない場合にホストを増やしたように見せかけることができることから、将来的にはホストを増設することを視野に入れた上で初期投資を少なくする手段としても多用されている。例えるなら、社長が一人で営業と経理と人事をこなしているような会社に届く郵便物の宛先に「経理ご担当者様」と書いてあるようなものである。 なお、一つのホストに複数のIPアドレスを与えるのもバーチャルホストという場合がある。これはマルチホームとは異なる概念である。 DNSラウンドロビン DNSラウンドロビンとは、一つのFQDNを複数のホスト(≒IPアドレス)に対応させて毎回違うIPアドレスを返答するようにした技術である。一見意味不明な技術であるが、慎重に計画した上で実施すれば有効な負荷分散となる。例えるなら、会社に届いた郵便物の宛先が「経理ご担当者様」となっていたとしても、実際に経理課の誰が読むかはわからない(が誰が読んでも問題は起こらないようになっている)ような状態である。 特にアプリケーションサーバにおけるWebサーバ層で威力を発揮する。 |
潜伊500型 潜伊500型(せんい500がた)とは、架空戦記『紺碧の艦隊』に登場する架空の潜水艦である。なお、実際の日本海軍にも伊500の番号を持つ艦は存在しているがこれらは海外からの鹵獲艦であった。 特徴 紺碧艦隊主力艦であり初代旗艦の『特潜伊601 富嶽号』に勝るとも劣らない活躍をしている。紺碧会により策定された『潜水艦隊決戦思考』における航空攻撃艦隊として、水上戦闘爆撃機『春嵐』3機を搭載しており、こちらが直接的に伊400型の後世版である。 建造艦は伊501水神号、伊502快竜号、伊503爽海号の三艦。 伊601と同様に改装が重ねられて第3次世界大戦終戦まで活躍を続けた。 OVA 劇中では司令塔が格納筒の真中に位置し艦首魚雷発射管も8門である。なお、第一次改装後のマダガスカル攻略作戦(12巻)においてカタパルトが旋回式になっていたがそれ以後はその描写は見られなかった。 |
エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公) 生涯 カルロ3世と、ポルトガル王マヌエル1世の娘ベアトリーチェの間に生まれた。エマヌエーレの名は祖父マヌエルにちなんだもので、以後サヴォイア家の男子の名前にしばしば加えられている。また、従兄フェリペ2世らとともに、アヴィス朝最後の王となった叔父エンリケ1世の後継者候補にもなった。 兄ルドヴィーコ(1523年 - 1536年)の早世によって継承者となり、1553年に公位を継承したが、当時サヴォイアはフランスとスペインの対立から戦場になってしまい、またフランソワ1世(父方の従兄にあたる)の軍隊に占領されていた。 若い頃は政治と軍隊の生活で、フランスから領地を奪還するため、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世(母の従兄であり、また母方の伯母イサベルの夫であった)に従って、インゴルシュタット(1546年)、ミュールベルク(1547年)、メス(1552年)、ブラ(1552年)を転戦した。 1553年にカール5世によって将軍代理とフランドルのスペイン軍の最高司令官に任命され、1556年にはフェリペ2世によりネーデルラント総督に任じられた。 1559年のカトー・カンブレジ条約の締結で和平が成立し、同年7月にエマヌエーレ・フィリベルトはフランス王アンリ2世の妹でサヴォイア家出身の伯母ルイーズ・ド・サヴォワの孫にあたるマルグリットと結婚した。本来はこの時、エマヌエーレ・フィリベルトは婚約の祝宴のためにフランスへ招かれていたのであるが、祝宴のさなかに馬上槍試合での事故で瀕死の重傷を負ったアンリ2世の意向を受けて、慌しく結婚式が行われた。マルグリットとの間に生まれた唯一の子供であるカルロ・エマヌエーレ1世(1562年 - 1630年)が、1580年にエマヌエーレ・フィリベルトが死去した後に公位を継いだ。 |
ツール・ド・コルス ツール・ド・コルス-ラリー・ド・フランス(Le Tour de Corse-Rallye de France )は1956年からフランスのコルシカ島で開催されているラリー。ラリー・モンテカルロやアクロポリス・ラリーと並ぶクラシックイベントで、数々の逸話が生まれた。 概要 1973年から世界ラリー選手権 (WRC) の一戦として開催。1996年を除いて、2008年まではWRCカレンダー内での開催としていたが、ローテーション制のため、2009年はシリーズカレンダーから外された。2010年よりフランスにおけるWRC開催地は本土のアルザス地方に変更され、2011年と2012年はインターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ (IRC) 、2013年と2014年はヨーロッパラリー選手権 (ERC) の一戦として開催された。2015年から再びWRCに復活した。 1980年までは秋期に開催され、1981年から1999年までは5月に開催されていたが、2000年以降は9月(2000年、2001年)、3月(2002年)、10月(2003年、2004年、2005年)、4月(2006年)、10月(2007年、2008年)と、年間スケジュールに翻弄された開催時期となっている。 かつては島を1周するラリーだったため「ツール(旅行)」という名が付く。1990年代より島南西部のアジャクシオ周辺にSSを設定してきたが、IRCでは島を縦断するように移動しながら戦うスタイルになった。WRC復帰後も3日間のSS数を10本程度に減らし、30-50km級のロングステージを設けている。島東北部のバスティアや中央部のコルテ、南東部のポルト=ヴェッキオといった街も行程の要所となる。 「直線が100メートルあるとコルスではない」「1万のコーナーを持つラリー」とまで言われるほどツイスティーなターマックステージで、山岳地帯の切り立った断崖絶壁を縫うように走る。全体的に道幅が狭く舗装路面は荒れており、標高が高い場所では天候が急変することもしばしば。経験値や正確かつ辛抱強いドライビングが必要とされ、地元のフランス人ドライバーやターマックスペシャリストが強さを発揮してきた。 1985年にはランチアのアッティリオ・ベッテガ、1986年には同じくランチアのヘンリ・トイヴォネンが競技中に事故死し、グループBのモンスターマシンの廃止につながった。コルテ-タベルナの事故現場の近くには、トイヴォネンとコ・ドライバーのセルジオ・クレストへ向けた小さな慰霊碑が建てられており、今なお多くのラリー関係者およびラリーファンが訪れている。1997年には三菱のトミ・マキネンがコース上にいた牛に激突し、はずみで谷へ50mほど転落したが無事に生還した。 カーナンバー"4" ツール・ド・コルスで死亡した1985年のアッティリオ・ベッテガ、1986年のヘンリ・トイヴォネン共、カーナンバーが4であった為、以後カーナンバー4は1995年まで欠番となる。1995年からは、カーナンバーがシーズンを通し固定制になる故の復活だが、1995年にカーナンバー4を付けてコルシカを走ったのはコリン・マクレーである。この時マクレーは生還しているが、2007年にヘリコプターの墜落で非業の死を遂げている。 |
トマス・フシュケ 来歴 祖父、アドルフ・フシュケは元ドイツ選手権・プロロードレース優勝者、父、ゲルハルト・フシュケも元プロロードレース選手という家系に育つ。 1972年ミュンヘンオリンピック、団体追い抜きで銀メダル、1975年、世界選手権自転車競技大会、アマ個人追い抜きで優勝、1976年モントリオールオリンピック、個人追い抜きでは銅メダルを獲得した。 引退後、東ドイツ体育・スポーツ協会の市場調査員としての職務に就き、1988年には、女子フィギュアスケート選手、カタリーナ・ヴィットのマネジャーを務めた。 |
ミャンマー地震 (2011年) 概要 震源はタイ北部のチエンラーイ県ムアンチエンラーイ郡チエンラーイ市の北90km、深さ10kmの地点と見られており、その後、M4.8、M5.4、M5.0、M6.2の合計4回の余震も記録した。 死者は75人(タイ人1人を含む)、負傷者は110人、民家など240軒以上が損壊したと報じられているが、軍事政権は現地での取材や報道を厳しく制限しており、正確な被害は判明していない。 |
プロシア郡区 (アイオワ州アデール郡) 地理 プロシア郡区の面積は91.9平方キロメートル(35.48平方マイル)で、郡区内に非法人自治体はない。アメリカ地質調査所によると、この郡区にはに2つの墓地がある(Immanuel LutheranおよびPrussia)。 |
コブラ効果 コブラ効果(コブラこうか、英:Cobra effect)は、問題を解決しようとしたけれども、実際には問題を悪化させてしまうときに生ずる 。 これは「意図せざる結果」の事例である。この用語は、経済や政治において正しくない刺激を与えるきっかけとなることを説明するために使われる。また、ドイツの経済学者ホルスト・シーバートによる同じタイトルの書籍(2001年)がある。 語源 「コブラ効果」という用語は、イギリスによる植民地時代のインドにおける逸話に由来する。イギリス政府は、デリーにおける多くの毒ヘビ、コブラを心配していた。そのため、政府は死んだすべてのコブラに報酬を提供した。 当初は報酬のために多くのヘビが殺されたので、この施策は成功したかのようであった。しかし、進取の人々が収入のためのコブラを飼育し始めてしまった。 政府がこのことを認識したとき、報酬プログラムは廃止され、コブラの飼育業者は今や無価値となったヘビを放った。その結果、野生のコブラの数はさらに増加した。一見正しそうな問題解決策は、状況をさらに悪化させた。 ラット効果 同様の事件が、フランス植民地支配下のベトナムのハノイでも発生した。植民地体制は報奨金プログラムを作成し、殺されたラットそれぞれに報奨金を支払った。報酬を得るために、人々は切断されたラットの尾を提供した。しかし、植民地当局は、ハノイのラットには尾が無いことに気づき始めた。ベトナムのラットキャッチャーは、ラットを捕捉して、その尾を切り落とす。その後、彼らは、より多くのラットの子を産ませてラットキャッチャーとしての収益を増やすことができるように、下水道に戻って解放していた。歴史家マイケル・ヴァンは、「イギリス領インドのコブラの事例は証明できないが、ベトナムのラットの事例は証明できるので、この効果を表す用語は『ラット効果』に変更することができる」と主張する。 |
作人職 作人職(さくにんしき)とは、荘園や公領で田畠の耕作を請負った作人が持っていた所職。後には略称であった作職(さくしき)の呼称が一般化した。また、作主職(さくしゅしき)・百姓職(ひゃくしょうしき)などと呼ばれる所職も同一のものである。 概要 作人の概念は平安時代には登場していたが、この頃は耕作権のことを作手と称していた。鎌倉時代(13世紀)になると、名体制の衰退・解体や名主職の成立をはじめとする職の分化に伴って、耕作権のみならず作人としての地位や得分(収益権)を含めた職としての作人職(作職)が成立したと考えられているが、その過程や作手との関連性の有無など不明な点も残している。作人職(作職)を持つ者は当該田畠を耕作して年貢を荘園領主(本家)に、加地子を名主に負担をすることと引換に余剰である収益を得分とすることが出来た他、第三者への売買譲渡の対象ともなった。 作人になった者は必ずしも自己で耕作するとは限らず、更に小作に出して自らは耕作をせずに中間的な収益(作徳・作合)のみを受け取ることが行われていたが、14世紀に入ると人職(作職)が持っていた耕作権が分離して、実際の耕作者(下作人)が持つ職が下作権として成立したために、作人職(作職)は下作人から一定の作徳を受ける収益権の要素を強め、また売買譲渡の結果として実際に耕作を行わない商人や国人・土豪、寺社などが名主職・作人職(作職)を買得集積するようになっていった。 16世紀末期に行われた太閤検地は名主職・作人職(作職)やその間に介在する中間的な収益の存在を否認し、実際に耕作を行っている下作人および一部の作人が持つ耕作権のみを認めて検地帳に登録し、領主に対する貢租への一本化を図った。 |
日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明 日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(にほんこくせいふとちゅうかじんみんきょうわこくせいふのきょうどうせいめい)は、日本国と中華人民共和国が国交を結ぶために1972年9月29日、中華人民共和国の北京で調印された共同声明。一般に日中共同声明(にっちゅうきょうどうせいめい)として知られる。 第9項「貿易・海運・航空・漁業に関する協定の締結のための交渉の合意」に基づいた実務協定の締結は直ちにというわけにゆかず、1974年に日中貿易協定、日中航空協定、日中海運協定が結ばれ、1975年に漸く日中漁業協定が結ばれた。 声明の裏では国交正常化初の共同事業が並行していた。1973年5月4日、「日本・中国間海底ケーブル建設に関する取極」が調印された。これは1972年8月から政府間で協議されてきたものである。中国にとって初めてのケーブル建設であり、投資・所有は折半という原則でありながら、日本側のKDDはケーブルの保守や海洋調査など大部分を担当した(実際の建設は富士通やNECなど)。区間は熊本=上海で、工事は1976年に行われた。1980年に障害が度重なり、翌年に運休。1986年に復旧し、1997年末をもって完全運用停止した。 迷惑事件 第26回日中首脳会談ではこの発言が議題に挙がった。「添了麻煩」とは「うっかり迷惑をかける」という意味で、「中国ではうっかり女性のスカートに水をかけたときに『添了麻煩』という軽いお詫びの言葉だ。日本軍国主義の侵略戦争で中国人民に深い災難をもたらし、戦争では中国では数百万が犠牲となり、日本人民も深く被害を受けた『添了麻煩』を用いてお詫びの言葉とするのは中国人民として到底受け入れられるものではない」と周恩来は発言した。 「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」というのが最終案となり、日中共同声明に盛り込まれた。 日中共同声明の効力 日中共同声明は「条約」という形式を少なくとも日本においては採られていないことから、その国際法上の法規範性が問題となる。2007年までに日本の最高裁判所において、2つの事件がこの声明の効力をめぐって争われた。 西松建設強制連行訴訟 1つ目は中国人の強制連行による損害賠償請求権がこの声明の第5項(戦争賠償の放棄)により放棄されたかという問題である。最高裁判所は2007年4月27日、同声明5項の請求権放棄の条項について少なくとも中華人民共和国政府による国際法上の一方的な「宣言」あるいは日中平和友好条約前文において「…共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し」と規定していること、及び中国政府が国際法上の創設的規定として捉えてきたことに照らして国際法上の法規範性を認めた。 そして、同宣言はサンフランシスコ平和条約の枠組みを否定する趣旨で締結されたものでないことから、個人(法人も含む)の有する請求権を放棄したものと解した。 なお、この声明に基づく請求権の放棄は実体法上の請求権まで消滅させるものではない。したがって裁判外に於いて請求することは可能であり、裁判外の和解により受領した賠償金等に対する不当利得返還請求権等が発生したりするものではない。また、請求を求められた側で日中共同声明5項に基づく請求権放棄の抗弁を提出しなければ、その適用を受けることができない。 光華寮事件 2つ目は第3項に基づく中華民国(台湾)政府の承認に関する光華寮事件である。2007年3月27日、最高裁は中華人民共和国が中国を代表する政府になったことにより中華民国(台湾)政府が代表権を喪失し、中国(中華人民共和国)政府が訴訟を受継すべきであると判断した。 |
ミストレッタ 位置・広がり メッシーナ県西部のコムーネ。県都メッシーナから西南西へ109kmの距離にある。 |
ボイズンガルズ 概要 ロックボーカリストで小説家でもある大槻ケンヂが司会を務めていた番組。番組タイトルは "BOYS and GIRLS" をネイティブスピーカー風になまらせたもので、スタジオセットにもこの英単語が記されていた。 番組は、大槻が各回のゲストと少年少女期の思い出話をきっかけにトークを展開し、その合間に随時映画情報や音楽情報を入れるというスタイルで進行していた。他に、大槻の趣味・嗜好を前面に押し出した面白情報コーナー「OK!オーケン」もあった。番組初回のゲストは千葉麗子、最終回のゲストは吉野公佳。 製作局の朝日放送では、日曜午前の本放送でカットされたトーク映像を再編集・再構成した60分バージョン『ボイガルナイト』が深夜に放送されていた。 |
ガブリエル・リップマン 生涯 ルクセンブルクにてフランス系ユダヤ人の家に生まれる。3歳のとき一家がフランスに戻り、パリに移り住んだ。そこで、自宅で両親から教育を受ける。 1868年、高等師範学校に入学。しかし興味のある科目しか勉強しなかったため教員試験に受からなかった。1873年、フランス政府から科学教育の技法についてドイツで学ぶことを指示され、ドイツに赴いた。ハイデルベルク大学ではウィルヘルム・キューネとグスタフ・キルヒホフの下で学び、ベルリン大学ではヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で学ぶ。1875年にパリに戻って研究を続け、1878年にソルボンヌの研究員、1883年に同物理学教授となった。 リップマンは小説家ヴィクトール・シェルビュリエの娘と1888年に結婚している。1921年7月13日、蒸気船 France でカナダに向かう洋上で死去。 業績 1891年にリップマン式天然色写真(リップマンのカラー写真)を発明した。これは光の干渉によって光の色を再現させるものである。現在利用されている赤・緑・青の視覚に基づいた光の三原色ごとに記録する一般的なカラー写真とは異なり、物理学的に一定の周波数帯域全体の光を記録することができる。しかし、像が鮮明にできないことや、高価なことからこの方式のカラー写真が普及することはなかった。普及こそしなかったもののカラー写真としては初めての試みであったため、1908年にノーベル物理学賞を受賞した。 リップマンはまた、フランス光学研究所の創設に尽力した。他にも初期の心電図計測装置に使われたリップマン電位計を発明した。また、1908年には integral imaging と名付けた立体画像の仕組みを考案した。 所属 1886年2月8日、リップマンはフランス科学アカデミーの一員となり、1912年には会長を務めた。さらにロンドンの王立協会の外国人会員でもあり、フランス経度局およびルクセンブルクの Grand Ducal Institute のメンバーでもあった。 |
キャサリン・ジャクソン 生い立ち アラバマ州バブアー郡でマーサ・マッティ・アップショウとプリンス・アルバート・スクリューズとの間にケイティ・B・スクリューズとして生まれる。キャサリンの父は後に姓を読みが同じ他の綴りに変え、キャサリンは4歳のときにキャサリン・エステルに改名させられた。幼い頃に急性灰白髄炎になるが、回復。しかし、病気の影響で足を引きずって歩くことになる。 キャサリンが4歳の時に家族でインディアナ州イーストシカゴに引っ越す。同地で1947年に当時10代のボクサーであったジョセフに出会い、1949年に結婚。生活のためデパートでパートタイムの仕事をして家計を助けていた。 人物 1965年、9人の子供とともにエホバの証人の集会に参加しはじめる。彼女はエホバの証人に転向した後すぐ仕事をやめた。 音楽に接する機会の多かった一家の中でも、最初にジャクソン兄弟・姉妹に音楽の楽しさを教えたのはまさしく彼女であると言われている。非常に厳しい躾をした夫ジョセフとは対照的に、子供たちに対して非常に優しく接していた。マイケルは彼女に対して度々最上級の敬愛を表しており、性格面でも非常に強い影響を受けていると語っている。 ジャクソン5は元々は三男のジャーメインがボーカルだったが、キャサリンがマイケルの歌の才能を見つけ、夫ジョセフに「この子は歌えるのよ」と薦めて歌を聞かせた結果、ジャクソン5のボーカルはマイケルに変更された。これはマイケルが製作した「マイケル・ジャクソン・プライベート・ホーム・ムービーズ 2003」でマイケル自身が語っている。 1990年、キャサリンは形成外科手術などの問題に関して最も有名な息子マイケルを守るため自伝『マイ・ファミリー』を発売した。2005年のマイケル・ジャクソン裁判の間、キャサリンはジャクソン家で唯一あらゆる法廷審理に出席しており、マイケルの少ない親族のうちの1人とされる。同裁判の法廷内で放映された「マイケルジャクソンの真実」のカットシーン内でマイケルが語っている、夫ジョセフのマイケルやその他の息子達への暴力行為をジョセフ同様「厳しく躾けただけ」と語り、裁判後のインタビューで「マイケルが語っているが?」と問われても「子供が小さい時は悪い事をしたらお尻を叩くでしょう?」と答え、虐待は無かったとの認識を示した。 2009年6月25日に息子のマイケルが死去し、マイケルの子供3人の親権が注目されていたが、29日にロサンゼルス郡地裁がキャサリンが当面の後見人になることを認めた(遺言状には、キャサリンに不幸があった場合はダイアナ・ロスを子供達の後見人とする、とも記述されている。)キャサリンの生活費などはマイケルが賄っていたため、マイケルの遺児達の生活費も含め、マイケルの遺産から支給が必要であるとキャサリン及び遺言執行人よりに申し立てが行われ、ロサンゼルス郡地裁が承認。毎月、8万6000ドル(約780万円)が毎月支給される事が裁判所から開示された文書で明らかになった。内訳は遺児人当たり約2万ドル(約182万円)母キャサリンが月約2万7000ドル(約246万円)を受け取るとなっている。(マイケルの遺産は遺言書により、家族信託「マイケル・ジャクソン・ファミリー・トラスト」に移管され、遺言執行人としてマイケルが遺言書で指定した弁護士ジョン・ブランカと友人で音楽関係者のジョン・マクレーン、母キャサリンで管理されているが、正式な遺産管理人が決まるまで全ての申し立てに裁判所よりの承認が必要となっている。) 2009年9月3日、マイケルの埋葬式に夫ジョセフと共に参列。埋葬式の間泣き続けていたキャサリンの姿が人々に悲しみの深さを語った。 |
ビリー・マイヤー 生い立ち エドゥアルト・アルベルト・マイヤーは、1937年2月3日、スイス・チューリッヒ州のビューラッハにおいて7人兄弟の第2子として生まれた。彼の父は靴職人であった。1942年6月2日、5歳だったエドゥアルト・マイヤーは父とともに初めてUFOの目撃を体験した。それは巨大な銀色の「円盤」であった。 1942年の秋、小さなエドゥアルト・マイヤーにとって最初の、ある地球外生命とのテレパシーによる接触を体験した。同年の11月、彼は初めて、宇宙から来訪したスファートという地球外生命が操縦する地球外の飛行体で遠く旅をした。 スファートは非常に年老いた白人の男性であり、プレアデス/プレヤール という星座から来訪した。地球外生命が地球の白人と似ているのは、地球の人種は、2000万年以上前、地球に追放され、野生化した宇宙人の子孫と関係があるからであるという 。 1953年2月3日から11年間、ダル宇宙 出身のアスケットという宇宙人女性から教育を受けた。アスケットの導きのもとで、彼は世界を広く、43ヶ国を旅した。その間、アスケットから (ギザの) ピラミッドに関する秘密を教えられ、アスケットに導かれて、実際にその場所を見て確かめた。アスケットはその上、エドゥアルト・マイヤーを連れて14世紀のフランスや2000年前のイマヌエル の時代への旅行も可能にしたと書かれている 。 1965年8月3日、彼はトルコのイスケンデルンでバス事故に遭遇し、左腕を失った。1965年12月25日、ギリシャのテッサロニキにおいてある女性と出会い、2か月後に結婚した。1967年2月から1969年7月までの間、トルコ、パキスタン、インドを歴訪し、暮らした。歴訪の途中で長女が生まれ、スイス帰国後に長男と次男が生まれている。 エドゥアルト・マイヤーは1975年1月28日、プレアデス/プレヤールから来訪したセムヤーゼという女性とコンタクトを開始し、その内容を公開することを開始した 。 この頃、彼が撮ったUFO写真やUFOの8ミリフィルムにより、彼は広く世界に知られるようになった。エドゥアルト・マイヤーは1978年6月17日、スイス民法60条に基づくFIGU(フィグ)という公益法人を友人たちと設立した。彼はその中の一員として今日まで執筆活動を続けている。 以上の彼の遍歴についての詳細は、『プレアデス/プレヤール人とのコンタクト記録』、『瞑想入門』の中に書かれている。現在、彼はビリー・エドゥアルト・アルベルト・マイヤーと呼ばれる 。 ビリー・エドゥアルト・マイヤーは日本ではUFO関係の雑誌や単行本で紹介された 。 また、UFOの写真や8ミリフィルムは1981年に当時の日本テレビの矢追純一による木曜スペシャルで詳しく紹介された。その後、ビリー・エドゥアルト・マイヤーの著作は日本で個人的な翻訳がなされたが、1991年からはFIGU-JAPAN(フィグ・ヤーパン)により、2012年からはFIGU-LANDESGRUPPE-JAPAN(フィグ・ランデスグルッペ・ヤーパン)により、FIGUの正式許可の下で翻訳出版されている。ビリー・エドゥアルト・マイヤーの著作物はFIGUによって管理されており、その写真や文章などの引用はFIGUの許可をとって行う必要がある。日本においてはフィグ・ランデスグルッペ・ヤーパンの許可が必要である。 活動 1975年の地球外のセムヤーゼという女性とコンタクトを開始した頃より、ビリー・エドゥアルト・マイヤーは地球外生命の協力によって、非常に多くのUFO写真やUFOの8ミリフィルムを撮って公表した。また、UFOに使用される精製過程の金属片なども公表した。これらは世界的に物議を巻き起こした。 これらの写真やフィルムや金属は当時のNASAの科学者や著名な金属学者によって分析され、偽物と証明するものは何一つないと報告される一方で、いくつかのUFO団体やUFO関係者から否定論が主張された。彼の多くの写真や8ミリフィルムは、主に1975年からの1、2年に集中している。その後、写真やフィルムやそれに関する議論が独り歩きし、彼の活動は一般にあまり知られていない。 しかし、ビリー・エドゥアルト・マイヤーの主な活動は膨大な執筆活動である。ビリー・エドゥアルト・マイヤーは多数のコンタクト記録を公表し続け、1975年1月28日以来、 2010年12月中旬の今日に至るまで、ビリー・エドゥアルト・マイヤーは 2000回を超える直接のコンタクト、テレパシーによる通信を行っている。その中に、多くの地球外生命との公式とされるコンタクトは519回あり、それが『プレアデス/プレヤール人とのコンタクト記録』という本(原書 500ページ、A4 サイズ) が公開され続けている。その他、様々な単行本を執筆した。内容は宇宙や自然、生まれ変わりや生と死、人間の精神的な内容、災害や戦争、社会問題、歴史、未来への予言 、その他多岐にわたる。 この地球外の人間とのコンタクトは、ビリー・エドゥアルト・マイヤーにとって、いわば生涯の仕事になっている。 FIGUは、ビリー・エドゥアルト・マイヤーのミッションについて 、彼の関心は、幼少時からずっと続いており、それは自然やあらゆる創造的なものについて、そして深遠な哲学的なものについてであったこと、そしてその創造的なもの自体が彼にとって特別な価値であり、彼の思考の大部分を占めていたこと、そして彼のミッションは、「霊の教え」「意識の教え」「創造・自然の法則と掟」や「進化の教え」であり、それらを人々に啓蒙することであると説明している。 ビリー・エドゥアルト・マイヤーの一方の活動として、社会問題への訴えかけがある 。 ビリー・エドゥアルト・マイヤーは最も重大な問題として、人口過剰を解消し減らさなければならないと、少年の頃から社会に働きかけてきた。人口過剰を放置すると、食料、エネルギー、自然破壊の点で大きな問題を発生させること。それと同時に、人間の心と体を弱体化させ、大きな疫病や社会問題を蔓延させること。そして大規模災害と解決不能な社会問題が増大し、戦争など世界の破局につながると警告してきた。1951年、1958年に2回、1959年、そして1960、70年代と1980年代に世界中の政府、様々な新聞社、放送局に書簡を送った 。 その後はFIGUもその問題を社会に訴えている。 また、1975年にはオゾン層の破壊の深刻さについてセムヤーゼから教えられ、専門家の科学者に書簡を送り、オゾン層破壊について社会に警告を発するよう促した 。同じく、死刑の廃止、拷問の廃止、女性差別の廃止を訴えている。 また、原子力発電は地球の人間の科学力の手に負えないものであり、予測不能な原因から巨大な事故に発展する危険は常に高く、すべて解体廃棄すべきであると言っている。一方で地熱発電は地球人に必要な全エネルギーをまかなう力があると示唆している。それについて、宇宙の知的生命体のプレアデス/プレヤーレンですら原子力は制御できず、大事故になり、一つの惑星が住めなくなったこと、その後、彼らが地熱発電ですべてのエネルギーをまかなったという話を公開している 。 評価 ビリー・マイヤーが世界的に有名になったきっかけは千枚以上に及ぶUFO写真やUFOビデオだが、殆どのUFO研究者からは捏造とされている。その理由とされるひとつの例は、セムヤーゼ(プレアデス/プレヤール人女性)の写真(日本ではそのように誤報されているが、正確にはダル宇宙の女性アスケットの写真)は、1974年にNBCで放送された「ディーン・マーティン・ショー」のTV画面を撮影したお粗末なものであるとされている件がある。 しかし、ビリー・マイヤーとFIGU(フィグ)はその真相を次のように述べている。それは「メン・イン・ブラック」(MIB)により似たタレントの放映場面と合成されていた。ビリー・マイヤーは1985年2月3日もプレアデス/プレヤール人からそのことを警告されていたが、重い病気だった為、覚えていられなかった。そのことが大々的に喧伝される前に、プレアデス/プレヤール人により再度、1998年5月14日にビリー・マイヤーは警告された。FIGUは、その写真は故意に差し替えられた偽物であるという発表を即刻行った。解散した以前の日本のグループも1998年頃にその通知を受けたとのことである。 次の例は、彼がタイムマシンで過去に行って撮影した翼竜の写真については、「Life Before Man」(Spinar & Burian著)に掲載されているイラストを撮影したトリック写真とされている(日本ではタイムマシンによる過去旅行と誤報されているが、実際は恐竜生息の発達段階に達した地球から93億8千万光年離れた惑星への1975年の宇宙旅行)。 しかし、これについてビリー・マイヤーやFIGU(フィグ)は、次のように反論している。当初からMIBは、彼が現像依頼する写真屋を脅迫していた。そのため、彼が1975年に撮った1500枚以上の写真の9割以上がその都度、変造されたり、似た別物と差し替えられた。これをプレアデス/プレヤール人が察知し、偽造品のネガをすべて消滅させた。しかし、当初、ビリー・マイヤーに嫉妬や反感を抱くメンバーが内部におり、彼らは脱会した。MIBは彼らを利用し、ビリー・マイヤーが撮ったものではない、科学本を撮影した1枚の翼竜写真をビリー・マイヤーのものだと宣伝させた。しかし、それらはすべてFIGUの外部から流布されており、FIGUから出たものは皆無である。なぜなら、偽造品ネガ消滅により、FIGUから出す事は不可能であるからである。また、彼らはUFO研究家は詳しい調査なしで、反感を抱く人達の宣伝をそのまま唱えているとしている。 |
ラブ・クレッシェンド 略歴 2015年10月5日、SKE48の劇場デビュー7周年記念特別公演において、SKE48内の7人組のユニット「ラブ・クレッシェンド」の結成およびメンバーが発表され、同年11月25日に1stシングル「コップの中の木漏れ日」を発売した。 2017年11月29日に新メンバー4人の加入が発表された。 |
バナナジン バナナの化学物質 バナナジンは虚構の物質であるが、バナナの皮には、ある種の向精神作用を持つチラミンやドーパミンが相当量含まれ、大量に摂取されれば人々に影響を及ぼしたであろうと考えられる。その作用としては血圧が増して高血圧になり、不整脈や死に至ることもあると考えられる。またバナナにはトリプトファンも含まれ、これは体内のセロトニン量を増やす働きがある。セロトニン量が増えると感情の変化が起こり、うつ症状が減じるなどの効果がある。3日に1度、バナナを2本食べることで体内のセロトニン量が16%増えるという報告もある。しかしトリプトファンに幻覚作用があるという言及はなく、実際は精神病の患者の幻覚症状を緩和するためにトリプトファンが使われている程である。 バナナに含まれるインドールアルカロイドとしては、テトラヒドロ-β-カルボリン類がある。 現代文化の中のバナナジン ドノヴァンのヒット曲Mellow Yellow はBerkeley Barb誌に悪戯が掲載されたのと同じ月にリリースされ、この曲は、バナナの皮を吸った時の情景を表していると捉えられた。この見方はその後ニューヨーク・タイムズにも取り上げられた。数年経つと、Mellow Yellowの曲の方がBerkeley Barb誌の記事の元ネタになったという噂が広まった。2005年10月のラジオのインタビューでドノヴァンは、シングルのリリースの1週間ほど前にサンフランシスコでこの噂をし始めたのはフォーク歌手のカントリー・ジョー・マクドナルドだと語った。マクドナルド自身も同様のことを語り、さらにこの噂が広まった後、ドノヴァンのコンサートに行く人達がみんなバナナを買い求め、品切れになる店が続出したという話も付け加えた。1980年代にパンクバンドのデッド・ミリカンもバナナの皮の幻覚作用に関する曲をリリースした。そしてついにアメリカ食品医薬品局 (FDA) まで調査を行うに至った。 イギリスのテクノ/エレクトロロックバンドプロディジーのアルバムExperienceのジャケットでは、「Respect to everyone I've met, you're welcome round to smoke some Banana skins anytime(私の出会った全ての人に敬意を払いなさい。あなたも、いつでもバナナの皮を吸うことを受けられるようになる)」という一節が引用されている。 レイ・スティーブンズのThirty-Five Year Old Hippie Class Reunionやフランク・ザッパのBlue Light、SladeのThanks For The Memoryでも、バナナの皮の幻覚作用について仄めかしているような部分がある。 1960年代のガレージロックバンドThe Electric Prunesは、1967年のアルバムの中にThe Great Banana Hoax,(偉大なバナナの悪戯)という曲を収録した。 1980年に製作された低予算映画Getting Wastedの中には、士官学校生徒が軍事学校でバナナの皮をパイプに入れて吸う場面が登場する。 1987年10月に発行された楠みちはるの漫画短編集『さよならDecember』に、バナナジンを取り扱った作品『バナナディンの夏』が収録されている。 |
エアレー 概要 エアリー(Yali)、ジャル(Jall)とも呼ばれ、フランス語ではセンティコア(Centicore)と呼ばれる。イノシシの牙と、どの角度にも向きを変えられる2本の非常に長い角を持っている。 語源 エアレーの名前の由来はヘブライ語の「ヤ・エル」(ya-el, 「山のヤギ」)から来ていると言われる。他にも自由に動かせる角からギリシア語の「エアレン」(εαλην, 「押し返すこと」)から来たとも言われる。ジャル(Jall)は最初の j が中世の i の形で読まれ、ドイツ語の y のように発音されたことから来ていると言われる。 形態と生態 エアレーは様々な姿で描かれるが、主な形態は黒あるいは黄褐色のアンテロープまたはヤギのような体で、大きさはウマあるいはカバぐらい。多彩色の斑点を持ち、イノシシあるいはゾウの尾と大きな牙を持つ。そして、どの角度にも自由に動かせる二本の非常に長い角を持っている。戦いの時は、片方の角を前に伸ばして戦い、もう片方の角は後ろに向けておくという。それで、戦っている方の角が傷付くと、もう片方の角と入れ替えるという。中世ヨーロッパの動物寓意譚によるとバジリスクはエアレーの敵で、眠っているエアレーを見つけると目を刺し、張り裂けるまで膨らませるという。 エアレーの形態はインドのスイギュウから来ていると言われる。インドのスイギュウは脅えると角を代わる代わる前に動かすことが出来るとされていたからである。 歴史 エアレーについて最初に述べているのは、ローマの博物学者、政治家のプリニウス(22 / 23 – 79)であった。彼の著作『博物誌』(Naturalis historia, 77年)第8巻第30(21)章第73節には、次のように記されている。 エチオピアには、エアレーと呼ばれる野獣がいると聞く。それはカバぐらいの大きさで、ゾウの尾を持ち、毛色は黒あるいは黄褐色である。さらにイノシシの顎を持ち、1 キュビット(約 44.46 センチメートル)以上の長さの動かすことの出来る角を持ち、戦いの時に交互に使うことが出来、必要に応じて真っ直ぐにしたり、斜めにしたりして向きを変えられる。--プリニウス 『博物誌』第8巻第30(21)章第73節 プリニウスのこの記述はヌーを連想させるが、彼はこの後の第32(21)章第77節の中で、カトブレパスという動物を紹介している。 ローマの著述家、文法家のガイウス・ユリウス・ソリヌス(3世紀)が地誌上の珍奇な事物や事柄を記述した著作『奇異なる事物の集成』(Collectanea rerum memorabilium, 250年頃)第52章第35節にも、エアレーについて書かれている。 エアレーは、ゾウの尾を持ち、毛色は黒く、イノシシの顎を持ち、その他はウマのようである。1 キュビット(約 44.46 センチメートル)以上の長さの角を持ち、その角は意のままに回すことが出来る。というのもその角は固定されていないが、意のままに動かせるので、戦う時に回して使う。戦う際には、一方の角を突き出して戦い、もう一方の角は折りたたんでいる。そのため、一方の角の先端が傷付くと、もう一方の角と交代する。エアレーはカバに似ており、実際、川の水を浴びることを好む。--ソリヌス 『奇異なる事物の集成』第52章第35節 エアレーはのちに中世ヨーロッパの動物寓意譚(ベスティアリ, Bestiary, 12世紀)に数多く書かれ、そこには、このソリヌスの記述が引用されている。 紋章獣としてのエアレー エアレーはヨーロッパ中世の紋章獣として用いられた。紋章学において、エアレーはイノシシの牙、二本の長い角、ライオンあるいはヤギの尾を持つ、ウマよりはむしろアンテロープに似た動物で描かれた。時には、ヤギの尾を持つずんぐりした動物で描かれる。ウィンザーの聖ジョージズ教会の屋根のエアレーはライオンの後肢を持っている。 エアレーを最初に紋章に用いたのは、ヘンリー4世(1367 – 1413)の三男、ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスター(1389 – 1435)である。エアレーは彼の紋章のサポーターの一つに用いられ、イングランド王室の動物の一つになった。それは非常に長く、細い角を持つきゃしゃで美しい動物として描かれた。 その後ボーフォート家の人々がエアレーをサポーターに用いたが、外見は重苦しいヤギのような姿となり、角は真っ直ぐではなく曲がった、のこぎり状のものになった。 ケンブリッジのクライスツ・カレッジとセント・ジョンズ・カレッジの入り口の上にはヘンリー7世(1457 – 1509)の母マーガレット・ボーフォート(1443 – 1509)の紋章が刻まれており、2頭のエアレーがサポーターに用いられている。 |
コンリース・ヒル 来歴 北アイルランド・アントリム州のバリーキャッスルで生まれ、舞台、映画、テレビで活動する俳優である。2011年からは、HBOのドラマシリーズ『ゲーム・オブ・スローンズ』でヴァリス役を演じている。 彼の兄弟もエンターテイメントビジネスに携わっている。兄はカメラマン、姉はプロデューサーで、弟のローナン・ヒルはドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のサウンド・ミキシングで2つのエミー賞を受賞している。 1988年にギルドホール音楽演劇学校(演劇プログラム)を卒業している 。 『ゲーム・オブ・スローンズ』の撮影時以外では頭髪を生やしたままでいる。 結婚履歴はない。 |
義務教育改革案 教育改革素案の要旨 教育再生会議の改革案素要旨は次のとおり。 |
寺島信子 人物 日出高等女学校(現・日出高等学校)を卒業後に、劇団新派に入り舞台に立つ。1950年に『悲恋華』で映画デビューする。当初はラジオドラマの出演が多く、その後テレビドラマでは『これが青春だ』や『でっかい青春』などの青春学園ドラマで母親として出演していた。また、『ニルスのふしぎな旅』のアッカ隊長役や『ERII緊急救命室』などの海外ドラマで声優としても活躍していた。現在は高齢のため、声優業を行っていない。 |
首都 首都(しゅと、英: Capital city)とは、一国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首等の国の最高指導者が拠点とする都市のことである。ただ、場合によっては、中央政府の所在とは別に、その国のシンボル的存在として認められている都市が首都とされることもある。首府・国都・都などとも呼ばれ、また、帝制国家や王制国家の場合は帝都・王都等の称がある。 字義 「首」はかしら(頭)くび、こうべ、かみ(上位:首座)、かなめ(要)、かしら(魁帥)、おさ(長)などの意。「都」はみやこ、天子の宮城のある首府をあらわす。周代の行政上の区画では君主の宗廟のある場所を都(ト・ツ)といい、無い場所を邑(イウ)と呼んだ。「都」は寄せ合わせ残らず集める意。曹丕文「頃撰二遺文、一都爲二一集」。「京」はみやこ(帝都)切り立った高い場所、丘、高い、多い、くじら(鯨=京)などの意。「京師」は天子の居ますみやこ、京は大、師は衆、大衆のおる所の意、春秋成十三「公如京師」。「京都」は晋の時代、景王の諱を避けて京師を京都としたことによる、魏志文帝紀「任城王薨於京都」。清代に編纂された佩文韻府にはみやこを首に例える用例「首都」「首府」の採録はなく、熟語「首善之區」の元となった首善を採録する。これは漢書・儒林傳序の「故教化之行也,建首善自京師始」に由来する。英語Capitalの語源はラテン語kaputであり印欧語の「頭」あるいは「ウシの頭」をあらわす。Capitalは「資本」とも翻訳される。メトロポリスはギリシャ語で「母都市」の意(mḗtēr「母」+pólis「都市」)。 日本では一般的に京、洛と呼ばれ、古代から明治までの律令においては「皇都」、明治期から戦前にかけては「帝都」、戦後は「首都」と呼称することが多い。「帝都」の字句は幕末期の文書:船中八策に登場している。 主都 漢字検定テキストなどによっては、「主都」は「首都」の誤字・誤用とされている。ただし、「主」はきみ(君主)国家の元首やあるじ、ぬし(家長)、つかさどり(宰)まもり(守)すべる(領)ひと、神や神霊のやどるところ、神などをあらわす意であり、帝都を主都と表記しても字義的には誤りではないと解することもできる。 また、国の首都とは別に、その地域のおもだった都市(プライメイトシティ)を指して「主都」と記述することがある(例:ドイツのバイエルンの主都であるミュンヘン)。「都」ではなくその地域でのおもだったムラ(邑)という意味で「主邑」(しゅゆう)との表現がある。 日本のキリスト教では「主都」を冠する会派がある。 首都圏 「首都」の他に「首都圏」という用語もある。「首都」はひとつの都市であるのに対して、「首都圏」は首都とその周辺に広がる都市の群、即ち圏域(都市圏)を指す。いわば、「首都」は点であるのに対して「首都圏」は面であることになる。首都圏を1個の地方行政区分とする例(フィリピンのマニラ首都圏、インドのデリー首都圏)もあれば、日本のように一部の法律に定義される程度の事例まで存在する。また、中国の北京市など、首都の地方行政区分の区域を広げる例もある。 日本の首都 日本の首都について直接定める法令はないが、日本の現状や様々な理由から東京都あるいは東京とされる。東京都からは衆議院国会等の移転に関する特別委員会に対して、日本の首都の定義に関する質問を何度か行っている。 なお、2018年2月には衆議院議員逢坂誠二の質問に対し、「首都を東京都であると直接規定した法令はないが、東京都が日本の首都であることは、広く社会一般に受け入れられているものと考えている」と政府見解が示されている。 世界の首都 首都の位置を憲法や法令で明示的に記述している国も存在する。たとえばドイツ連邦共和国は憲法や法律により首都を具体的に指定しており、ドイツ連邦共和国基本法第22条(1)「ドイツ連邦共和国の首都はベルリン」(Art 22 (1) Die Hauptstadt der Bundesrepublik Deutschland ist Berlin. ドイツ連邦法務省のサイトより) と明記する。 また、逆に法定の首都を持たない国も存在する。たとえばイギリスや日本は首都の地位を明示する法が存在しない。 しかし、アメリカ合衆国の様に首都の具体的な地域は指定しないが1790年の合衆国首都設置法は首都の位置をワシントンD.C.と明示していたり、オランダやボリビア、タンザニアなどのように、法的に定められている首都と実際に首都機能が置かれている都市が違う場合もある。 複都制 首都と呼べる都市を複数持つ国もある。現在日本でも首都が地震や災害などで機能しなくなる事を防ぐ為、首都機能をバックアップする為に近畿圏に副首都を設置・整備する副首都構想がある。 東アジアにおける歴史的な複都制 古代の東アジアでは、中国の唐が長安と洛陽と太原の三都制(後には鳳翔と成都を加えた五都制となる)を採用しており、さらに日本(天武朝など)や渤海などの諸国がそれを模倣したように、複都制が広く行われた。この類型の中には、首都が移動するという場合もある。複都制を採っていた唐も、実質的には長安が第一首都(正都)であってその他の都は名目上(副都)にとどまっていたが、時には皇帝は長安を離れて洛陽に移動し、後者が正都としての機能を果たすこともあった。 鎌倉時代後期・江戸時代の日本でも首都機能が分散されており、名目上の首都(天皇のいる京)と、行政機関所在地(幕府のある鎌倉・江戸)とが別々に置かれていた。 モンゴル帝国(元朝)では、大ハーンは宮廷を引き連れ、中国の最北端にある大都(現北京)と、上都(草原の南端部、万里の長城をはさんで大都と対の位置にある)を季節移動した。 ガンデンポタン時代前期(1642-1732)のチベットでは、歴代のチベット・ハンたちはラサのガンデン・カンサル宮殿とダム草原を季節移動した。 都市国家 都市国家については、1つの都市が主権を持ち国家となっているため、国家と都市と首都が同義である。シンガポール、モナコがその事例であり、前者は首都シンガポール市がそのままシンガポールという国家、モナコは首都モナコ市がそのままモナコ公国という国家になっている。こうした国家では、地方自治体が存在しない。 首都と主要都市 首都は、国政の中心として交通の便が良い場所が選定されることが多い。したがって、首都と国家内最大都市は、必ずしも一致しない。 首都が最大都市かつ経済の中心地である国(例:日本、韓国、北朝鮮、タイ、イギリス、フランス、ロシア、メキシコなど)もあれば、首都と最大都市(もしくは経済・行政中心地、憲法上の首都)が異なる国もある。 外国大使館は基本的に首都に置かれるが、イスラエルのように、承認に係る事情から外の都市に置かれる例もある。 また、政治の中心地と経済の中心地(その国の最大都市であることが多い)を分離する場合もある。パキスタン最大の都市カラチ(旧首都)は人口1200万人を超える(非公式推計では2000万人に達するともいわれる)が、首都イスラマバードは人口80万人程度であるという極端な例もある。これらの中には、それまで政治中枢と経済中枢を兼ねていた首都が過密になり過ぎ、また一極集中の弊害も無視できなくなったために、別の場所に新都市を建設して遷都したという例もある。 傾向 一般に、首都は過密地になりやすい。これは、国家機関(日本でいうところの国会議事堂、中央省庁、最高裁判所)が置かれているために、国家機関の周りに企業が密集するためである。このように、本来、首都は政治と行政の中心地であるが、経済の中心地になることも珍しくない(例:東京特別区、パリ、バンコク、ソウル)。こういう経過に至った国家では、首都を移転すること(遷都)によって、経済の中心地ではない都市を新しく首都に選定することもある。 ただし、ブラジリア(ブラジル)やキャンベラ(オーストラリア)のように、何もない原野などに国家機関だけを建設した場合は、この限りではない。ベリーズの首都であるベルモパンに至っては、人口が1万人程度である。 首都名の持つ意味 政治の中心地であるので、政界などではしばしばその国の中央政府を指すのに首都名を使う。例えば「ワシントン」はアメリカ政府を指し、「北京」は中国政府を指す。 |
ハンク・ウィリアムズ 略歴 ハンクの父イロンゾ・ウィリアムズ(Elonzo Williams)は、鉄道会社に勤め、しばしば異動があり、一家はアラバマ州南部の数カ所を転居した。父イロンゾが病気で8年間入院することになり、その間に残された家族は自活を余儀なくされた。幼いハンクは、二分脊椎症のために健康を害していたが、母と姉の手伝いをした。アラバマ州ジョージアナ(Georgiana)に住んでいたときに、ハンクはルーファス・"ティー=トット"・ペイン(Rufus "Tee-Tot" Payne)という黒人の路上演奏者に出会い、食事の提供と交換にギターを習った。ペインはハンクの後の音楽のスタイルに大きな影響を与えた。この頃、ハンクは、非公式にだが名前をハイラムからハンクへと改めた。その方がカントリー音楽らしいと思ったのである。 アラバマ州モンゴメリーに住んでいたとき、ティーンエイジになっていたハンクは、地元のラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で、ギターを弾きながら歌っていることがよくあった。首尾よくWSFAのプロデューサーたちの関心を引くことができたハンクは、1937年から、15分番組で歌と司会を務めるようになった。バックを務めるバンドとして結成したザ・ドリフティング・カウボーイズは、ハンクの母リリーがマネジメントを引き受けた。ハンクは学校を辞め、全ての時間を使って音楽の仕事に打ち込んだ。 1941年、第二次世界大戦に合衆国が参戦すると、バンドのメンバーの数人が徴兵されてしまう。二分脊椎症のために徴兵されなかったハンクは、代わりのメンバー探しに手こずった。このことと、健康の問題に自分なりに対処しようとして飲み始めた酒の問題が大きくなり、やがてWSFAはハンクを解雇した。1943年、ハンクはオードリー・シェパード(Audrey Sheppard)と結婚し、彼女はステージでハンクとデュエットで歌うとともに、マネージャー役を果たすようになった。スターリング・レコード(Sterling Records)から「Never Again」と「Honky Tonkin'」を出した後、ハンクはMGMレコード(MGM Records)と契約を結んだ。1948年、ハンクは「Move it on Over」をリリースし、ヒットとなった。この年、ハンクは、当時ラジオ番組だった『Louisiana Hayride』に出演するようになった。1949年には「Lovesick Blues」をリリースし、これによって音楽界の主流の仲間入りをする。やがて、最初は断られた『グランド・オール・オプリ』への出演も実現した。1948年から1953年までの間に、ハンクは11曲を(「ビルボード」のカントリー&ウェスタン・チャートの)1位に送り出したが、楽譜の読み書きはほとんどできなかった。ハンクのヒット曲には、このほか、「Your Cheatin' Heart」、「Hey Good Lookin'」、「I'm So Lonesome I Could Cry」などがある。 ハンクは、思わしくない背中の状態に由来する痛みを和らげるため、アルコールやモルヒネをはじめ、様々な鎮痛剤を服用していたが、1952年には、それが私生活でも、職業生活においても問題を引き起こすようになっていた。ハンクは、何度も深酒で酩酊し、そのために離婚し、『グランド・オール・オプリ』から解雇された。1953年1月1日、コンサートへ赴く途中、ハンクは医師にビタミンB₁₂とモルヒネの混合液を注射してもらったが、既にアルコールと抱水クロラールを摂取していたこともあって、致命的な心臓発作に見舞われ死亡した。まだ29歳と短い人生ではあったが、ハンク・ウィリアムズはカントリー音楽に多大な影響を残した。 ハンク・ウィリアムズの曲は、他の数多くの歌手たちによっても録音され、ポップ、ゴスペル、ブルース、ロックなど様々なスタイルでヒットした曲も多かった。ハンクの曲をカバーした歌手たちの例としては、ウィリー・ネルソン、タウンズ・ヴァン・ザント(Townes Van Zandt)、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ケイク、ケニー・ランキン(Kenny Rankin)、ベック・ハンセン、ジョニー・キャッシュ、トニー・ベネット、ザ・レジデンツ、パッツィ・クライン、レイ・チャールズ、ルイ・アームストロング、トム・ウェイツなどが挙げられる。ハンク・ウィリアムズは多数の栄誉に輝いていており、ロックの殿堂入りも果たしている。 初期の活動 1937年7月、ウィリアムズ/マクニール一家は、モンゴメリー中心部のサウス・ペリー・ストリート(South Perry Street)に下宿屋を開いた。この頃、ハイラムは自分の名前を非公式にハンクと改めることを決めた。その方が、自分の望みであるカントリー音楽に関わる仕事にふさわしいと思ったからだ、と本人が語っている。学校の放課後や、週末になると、ハンク・ウィリアムズは、シルバートーンのギターを抱えて、地元のラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で、ギターを弾きながら歌った。首尾よくWSFAのプロデューサーたちの関心を引くことができたハンクは、ときどきスタジオ内に呼ばれて、放送で歌うことができた。多くのリスナー(聴取者)がラジオ局に、この「歌う坊や (singing kid)」をもっと聴きたいというリクエストを寄せたので、プロデューサーたちはハンクを週給15ドルで雇い、週2回、15分間の番組を持たせた(当時の15ドルは、2011年の価値では230ドル程度(およそ2万円)に相当する)。当時のアラバマ州知事ギブ・グレイヴス(Bibb Graves)も、この放送を聴いていたひとりだった。1938年8月、父イロンゾ・ウィリアムズが病院から一時帰宅した。イロンゾは前ぶれなくモンゴメリーの自宅に現れた。リリーは家長としての立場をイロンゾに渡したくないと考えていたので、イロンゾは息子の誕生日を祝う9月まで家にいたものの、やはてルイジアナの医療センターに戻っていった。 ハンクは、ラジオ番組が成功したことで、音楽で身を立てる準備ができた。受け取っていた給料は、ザ・ドリフティング・カウボーイズと名付けた自前のバンドを始めるのに十分な金額であった。最初のメンバーは、ギターのブラックストン・シューファート(Braxton Schuffert)、フィドルのフレディ・ビーチ(Freddie Beach)、お笑い担当のスミス・"ヘジー"・アデア(Smith "Hezzy" Adair)であった。ジェームズ・E・ポーター(James E. Porter)、通称ジミー・ポーター(Jimmy Porter)は、ハンクのバックでスティール・ギターを弾き始めたときには13歳で、最も年少のメンバーだった。アーサー・ホワイティング(Arthor Whiting)も、ザ・ドリフティング・カウボーイズのギターを担当していた。バンドを組んだハンクは、アラバマ州の中部から南部にかけて、各地のクラブや私的なパーティーなどでの演奏旅行を行なった。1939年10月に、ハンクは学校から退学し、ザ・ドリフティング・カウボーイズはフルタイムで働けるようになった。その後、フィドルのジェームズ・エリス・ガーナー(James Ellis Garne)がバンドに参加した。母リリー・ウィリアムズはバンドのマネージャーとなり、スケジュールの管理や、出演料の交渉を行い、公演会場まで送迎する車の運転をすることもあった。それまで優先されていたハンクの通学という制約が無くなったことで、バンドはジョージア州西部や、フロリダ州西部(いわゆる Florida Panhandle)にまで、足を伸ばすようになった。そうした中でも、ハンクは週中の平日にはモンゴメリーへ戻り、ラジオ番組の放送を続けた。1941年にアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦すると、ハンクにとっては苦難の時代が始まった。バンドのメンバーは全員が徴兵され、その代わりに入ったメンバーは、悪化するハンクのアルコール依存を嫌って、バンドに留まることを断った。ハンクは、酔った状態でラジオ番組に出演するようになり、1942年8月にはWSFAに「飲酒癖」を理由に解雇されてしまった。その後、戦時中のハンクは、アラバマ州モービルの造船会社で働いていた。アラバマ州にいたとき、ハンクは『グランド・オール・オプリ』のスターで憧れの的だったロイ・エイカフ(Roy Acuff)に初めて会った。後に、エイカフは、アルコールの危険をハンクに警告して、「君は百万ドルの声をもっているが、10セントの脳しか持ち合わせていない」と言ったという。 晩年の活動 1951年、テネシー州で狩猟の旅に出ていたとき、古傷であった背中の痛みが再発し、ハンクは痛みを和らげようと、再び鎮痛剤(モルヒネを含む)を服用し、アルコールを摂取するようになった。1952年になると、ハンクのアルコール依存症は一層悪化していき、8月11日には、繰り返し酩酊状態で現れたことを理由に『グランド・オール・オプリ』をクビになってしまった。ハンクは、KWKHの『Louisiana Hayride』に復帰し、この番組のためにツアーを再開した。ハンクの演奏は彼が素面のときには賞賛されたが、仕事仲間たちが彼を素面で舞台に上げようと努めたにもかかわらず、過剰な飲酒によって公演に現れなかったり、酷い演奏しかできないことが、しばしば起こった。1952年9月23日に行なわれた、レコーディング・セッションでは「Kaw-Liga」、「Your Cheatin' Heart」、「Take These Chains from My Heart」が録音されたが、これが彼の最後のレコーディングとなった。ハンクの行き過ぎた状態に、フレッド・ローズは仕事の協力を止めてしまった。ザ・ドリフティング・カウボーイズも、この頃にはレイ・プライス(Ray Price)のバックを務めており、ハンクは各地で地元のバンドに伴奏を求めていた。1952年の年末には心臓も患うようになっており、痛みを緩和するために、強力な抗不安薬である抱水クロラール(睡眠薬の一種)を、ホレース・ラフォル・"トビー"・マーシャル医師(Dr. Horace Raphol "Toby" Marshall)に処方されていた。 死 1952年12月31日、ハンクはウェストバージニア州チャールストンの市立公会堂で演奏する予定になっていた。前売り券は3,500ドルを売り上げていた(2011年の価値では29,092ドル程度(およそ240万円)に相当する)。ところが、ナッシュビル周辺でいわゆる氷嵐(ice storm:雨氷を生じる着氷性の雨をともなった嵐)が発生し、飛行機での移動ができなくなったため、ハンクはチャールズ・カー(Charles Carr)という大学生を運転手に雇い、車でコンサート会場へと向かった。しかしチャールズは、途中のテネシー州ノックスビルから公会堂に電話を入れ、氷嵐のために約束した時間には間に合わないこと、既にハンクからは、翌日の新年元日コンサートが予定されているオハイオ州カントンへ向かうよう指示されていることを知らせた。 ハンクは、ノックスビルのアンドリュー・ジョンソン・ホテル(the Andrew Johnson Hotel)に午後7時8分に到着し、ロビーですぐに2人分のステーキを注文した。彼はまた、自分のために医者を呼ぶよう求めた。モンゴメリーからノックスビルまでの途上で、彼は抱水クロラールとアルコールを摂取しており、その飲み合わせの影響を感じていた。カードウェル医師(Dr. P.H. Cardwell)は、ハンクにビタミンB₁₂を2本注射したが、それには1/4グレーン(16ミリグラム)ほどのモルヒネが配合されていた。チャールズとハンクは同日午後10時45分ころにチェックアウトした。ホテルのポーターたちは、咳としゃっくりを続けるハンクを抱え、車まで運ばなければならなかった。やがて州境を越えてウェストバージニア州に入り、ブルーフィールドに到着したところで、チャールズはレストランで車を停め、ハンクに食事をするか尋ねた。ハンクは、いらないと答えたが、これが彼の最後の言葉だと信じられている。チャールズはそのまま車を進め、ウェストバージニア州オーク・ヒル(Oak Hill)の給油所に立ち寄った際に、ハンクが後部座席で寝込んでいるのに気がついたが、呼んでも応答はなく、身体は硬直し始めていた。チャールズはハンクの脈を確かめ、既に絶命していることを確認した。彼は給油所のオーナー、グレン・バーデット(Glenn Burdette)にこれを知らせ、地元の警察長 O・H・ステイミー(O.H. Stamey)が呼ばれた。死体が関わっていたため、ステイミーは無線担当の警官ハワード・ジャニー(Howard Janney)も呼び寄せた。ステイミーとジャニーは、キャデラック・コンバーチブルの車内に、空のビール缶数個と、未録音曲の手書きの歌詞を発見した。 ロシアからの移民で、ほとんど英語を話さなかったイヴァン・マリーニン医師(Dr. Ivan Malinin)が、タイリー葬儀社(the Tyree Funeral House)で検視を行った。マリーニンは、心臓や首に出血を認め、「心臓右心室の機能不全」を死因とした。死とは無関係と考えられたが、マリーニンは、ハンクが数日前にモンゴメリーのバーで喧嘩をし、左腕を負傷して包帯を巻くほどのけがを負った際に、鼠蹊部も激しく蹴られていたことを発見した。当日の夜、カントンでハンクの公演に集まってきた聴衆に、アナウンサーがハンク・ウィリアムズの死を告げたとき、聴衆は彼が公演をすっぽかすことの言い訳だと思って笑い出した。しかし、ホークショウ・ホーキンズ(Hawkshaw Hawkins)や、他の演奏者たちがハンクを追悼して「I Saw the Light」を歌い始めると、本当にハンク・ウィリアムズが死んだことを悟った聴衆は、これに唱和した。 ハンクが死んだ状況については、今でも議論がなされている。一部の論者は、ノックスビルを出発する前に、既に絶命していたと主張している。オーク・ヒルはハンク・ウィリアムズの終焉の地として認識されているが、信憑性の高い説のひとつでは、オーク・ヒルに車が到着する20分ないし30分前に眠ったまま絶命したのだと主張されている。チャールズ・カーが助けを求めた給油所の、通りを挟んだ向かい側には記念碑が建てられている。ハンクが車中で没したキャデラックは、アラバマ州モンゴメリーのハンク・ウィリアムズ博物館(the Hank Williams Museum)に保存されている。 遺体は、翌1月2日にモンゴメリーに移送された。遺体は銀製の棺に納められ、当初は、マクダノー・ストリート318番地(318 McDounough Street)で母が営んでいた下宿屋に2日間安置された。葬儀は1月4日に、モンゴメリー公会堂で、花で埋められた舞台上に棺を置いて行なわれた。この葬儀の際には、アーネスト・タブ(Ernest Tubb)が「Beyond the Sunset」を、続いてロイ・エイカフが「I Saw the Light」、レッド・フォーリー(Red Foley)が「Peace in the Valley」を歌った。推定で15,000人から25,000人が銀の棺を間近にし、公会堂は2,750人の弔問者でいっぱいになった。葬儀の間に、4人の女性が気絶し、もう1人は棺の足下に崩れ落ちてヒステリー状態となり公会堂から連れ出された。ハンク・ウィリアムズの葬儀は、それまでアラバマ州で行なわれた誰の葬儀よりも遥かに大規模なもので、モンゴメリーで行われた最大の行事となった。葬儀のために贈られた花の量は2トンほどであったという。ハンクの遺骸はモンゴメリーのオークウッド・アネックス墓地に埋葬された。MGMの社長が「ビルボード」誌の取材に語ったところでは、ハンクの死の直前の週に、同社が彼の写真の提供を求めたのは5件だけであったが、死の直後の週にはそれが300件以上になったという。地元のレコード店には、ハンク・ウィリアムズがリリースした全てのレコードを求める客が殺到し、レコードが売り切れた。彼が存命中にリリースした最後のシングルは、皮肉なことに「I'll Never Get Out of This World Alive」(「生きたままではこの世界から出られない」の意)であった。1952年のうちに録音されていた「Your Cheatin' Heart」は、ハンク・ウィリアムズの死後、1953年にリリースされた。この歌はカントリー・チャートの首位に6週間とどまった。この曲名はそのまま、ジョージ・ハミルトンが主演した1964年制作の伝記映画の題名となった(邦題は『ハンク・ウィリアムス物語/偽りの心』)。 私生活 1944年12月15日、ハンク・ウィリアムズはオードリー・シェパードと結婚した。この結婚は、オードリーにとって2度目、ハンクにとっては最初の結婚であった。2人の間には、後にハンク・ウィリアムズ・ジュニアとして名声を得る息子ランドール・ハンク・ウィリアムズが1949年5月26日に生まれた。この結婚は常に波乱含みで、たちまち危ういものとなり、ハンク・ウィリアムズは二分脊椎症による背中の激痛を和らげるために摂取していたアルコールやモルヒネ、その他の処方された鎮痛剤が原因で、深刻な問題に陥っていった。2人は1952年5月29日に離婚した。 同年6月に、ハンクは母の家に移り住み、「Half as Much」、「Jambalaya (On the Bayou)」、「Settin' the Woods on Fire」、「You Win Again」、「I'll Never Get Out of This World Alive」と相変わらず次々とヒット曲を出した。しかし、ナッシュビルに戻って正式に離婚手続きを完了した頃には、薬物の問題に歯止めが利かなくなっていた。この頃、関係のあった女性ボビー・ジェット(Bobbie Jett)との間には娘ジェットができたが、その誕生はハンクの死の5日後のことであった。 1952年10月18日、ハンク・ウィリアムズはビリー・ジーン・ジョーンズ・エシュリマーとルイジアナ州北西部のミンデン(Minden)で、治安判事の前で誓約を交わして結婚した。この結婚は、2人にとってそれぞれ2度目の結婚であり、2人とも以前の結婚で子どもをもうけていた。翌日、2人はニューオリンズ市民公会堂で、公開の結婚式を2回行い、1回14,000席用意された入場券はいずれも売り切れとなった。2回も公開挙式をしたのは、復縁しなければと息子には会わせない、と脅していたオードリーへの当てつけであったとも言われているこの時点で、ハンクのアルコール依存と薬物使用は悪化しており、新婦や友人たちは彼を何とか立ち直らせようと努力したが、上手くは行かなかった。 ハンク・ウィリアムズの死後、判事はこの2度目の結婚について、ビリー・ジーンの前夫との離婚が届出後の法定和解期間を経て正式に確定する11日前に行なわれており、違法であると判断した。ハンクの前妻オードリーと、母リリーは、この結婚が無効であるという主張を何年にもわたって強く押し進めた。ちなみに、ハンクとオードリーの結婚も、オードリーの前夫との離婚が確定する前に行なわれており、法定和解期間の60日を待たず、離婚後10日目に行なわれたものであった。 遺産をめぐる訴訟 ハンク・ウィリアムズの死後、オードリー・ウィリアムズはナッシュビルで、MGMレコードとエイカフ=ローズ・ミュージック(Acuff-Rose Music)を相手どって訴訟を起こした。この訴訟は、2社がハンク・ウィリアムズのレコードから生じるロイヤルティーの半額を、引き続き彼女に支払い続けることを求めるものであった。ハンク・ウィリアムズは前妻であるオードリーに、ロイヤルティー収入の半分を渡すことに合意していたが、ハンクの死後にこの合意が有効であるか否かは判然としていなかった。さらに、ハンクは遺言を残さなかったため、本来なら本人の取り分である残りの半分をどうするかもはっきりしておらず、この件には後妻のビリー・ジーンとその連れ子の娘、ハンクの母や姉も巻き込まれることになった。 ビリー・ジーンは、カントリー歌手ジョニー・ホートン(Johnny Horton)と1953年9月に再婚した。1975年10月22日、ジョージア州アトランタの連邦判事は、ビリー・ジーンのハンク・ウィリアムズとの結婚は有効であり、今後生じるロイヤルティー収入の半分は彼女のものであると裁定した。 2006年1月20日、テネシー州控訴裁判所(Tennessee Court of Appeals)は下級審の判決を支持し、ハンク・ウィリアムズの相続人である息子ランドール・ハンク・ウィリアムズ(ハンク・ウィリアムズjr.)と、娘ジェット・ウィリアムズだけが、1951年にナッシュビルのラジオ局のために行なわれた録音を販売する権利があるとする判断を示した。法廷は、もともとラジオ局WSMで放送された『Mother's Best Flour Show』のために録音された音源の発売について展開された、ポリグラムとレガシー・エンタテイメントの主張を退けた。この音源には、1997年にレガシー・エンタテイメントが取得したもので、その中にはハンク・ウィリアムズのヒット曲のライブ版や、その他の曲のカバーが収録されていた。ポリグラムは、同社が権利を継承したMGMレコードとの契約によって、ウィリアムズはラジオ用に録音した音源を発売する権利を譲り渡していた、と主張していた。2008年10月、ジョセフ・M・パルマッチオ(Joe Palmaccio)が修復した『Mother's Best Flour Show』の音源の抜粋が、『Hank Williams: The Unreleased Recordings』と題されてタイム・ライフ(Time-Life)から発売された。 受け継がれるもの ウィリアムズは、11曲(「Lovesick Blues」、「Long Gone Lonesome Blues」、「Why Don't You Love Me」、「Moanin' the Blues」、「Cold, Cold Heart」、「Hey Good Lookin'」、「Jambalaya (On the Bayou)」、「I'll Never Get Out of This World Alive」、「Kaw-Liga」、「Your Cheatin' Heart」、「Take These Chains from My Heart」)をチャートの首位に送り込み、さらに多くのトップ10入りしたヒット曲を残した。 1987年、ウィリアムズはアーリー・インフルエンス部門で、ロックの殿堂入りを果たした。カントリー・ミュージック・テレビジョン(CMT)が2003年に選定した「カントリー音楽で最も偉大な40人」では、この年に亡くなったジョニー・キャッシュに次いで、第2位となった。息子のハンク・ウィリアムズ・ジュニアもこのランキングの第20位に入った。2004年、『ローリング・ストーン』誌が選定した「歴史上最も偉大な100人のアーティスト」では第74位に入った。1950年代のロックンロールの先駆者たちの多くが、そのキャリアの初期にウィリアムズの曲を録音しており、エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジェリー・リー・ルイス、マール・ハガード(Merle Haggard)、ジーン・ヴィンセント、カール・パーキンス、リッキー・ネルソン、ジャック・スコット(Jack Scott)、コンウェイ・トゥイッティ(Conway Twitty)などもその例である。 1949年にウィリアムズがMGMレコードから出し、チャートの首位となった「Lovesick Blues」は、2011年にグラミーの殿堂(the Recording Academy Grammy Hall Of Fame)入りとなった。同じ2011年には、『Hank Williams: The Complete Mother’s Best Recordings….Plus!』が、最優秀歴史的アルバム(Best Historical Album)部門にノミネートされた。1999年、ウィリアムズはNative American Music Hall of Fame においても殿堂入りとなった。2010年4月12日、ピューリッツァー賞委員会は、「普遍的感覚を心にしみる素朴さで表現したソングライターとしての職人技、カントリー音楽をアメリカ人の生活における大きな音楽的文化的存在に変貌させた大きな役割」に敬意を表し、ウィリアムズに没後の特別賞を追贈した。 1981年、ドリグティング・カウボーイズのスティール・ギター奏者ドン・ヘルムズ(Don Helms)とハンク・ウィリアムズ・ジュニアが組んで、「The Ballad of Hank Williams」を録音した。この曲は、ハンク・シニアが音楽業界の駆け出しだった頃のことや、過剰な金遣いについての、パロディ、ないしは、ノベルティ・ソングであり、ジョニー・ホートン(Johnny Horton)が広めた「The Battle of New Orleans」の旋律で歌われる。ハンク・ジュニアは「ドン、ダディと仕事してた頃のこと、本当はどんなだったか教えてよ」と歌い出す。これを受けてヘルムズは語りと、ウィリアムズと演奏した曲とを面白おかしく織り交ぜながら、ハンク・シニアがよく「百ドルのショーに千ドルを使っていた」と説明する。コーラスは、「だから彼は俺をクビにし、ジェリー・リバースをクビにし、みんなをクビにして、やれるだけやっちまったんだ。オールド・セドリックもクビ、サミー・ブリュートもクビにした。誰だか知らない奴までクビにしたんだ」というものだが、これは、ハンク・ウィリアムズが周りの状況に過剰反応していたことをコミカルな形で取り上げたものである。1991年、カントリー歌手のアラン・ジャクソン(Alan Jackson)が「Midnight in Montgomery」をリリースしたが、この歌詞は、大晦日のショーに出かける途中で立ち寄ったハンク・ウィリアムズの墓で、ハンクの幽霊に出会うという話である。同じくカントリー歌手のマーティ・スチュアート(Marty Stuart)は、「Me And Hank And Jumping Jack Flash」という曲で、ウィリアムズを讃えている。この曲の歌詞は、「Midnight in Montgomery」と同じような設定だが、駆け出しのカントリー歌手がウィリアムズの幽霊から助言をもらうという話になっている。1983年、カントリー歌手デイヴィッド・アラン・コー(David Allan Coe)がリリースした「The Ride」は、ギターをもった若い男がモンゴメリーでヒッチハイクをしていて、キャデラックに乗ったハンク・ウィリアムズの幽霊に拾われ、ナッシュビルの外れまで乗せてもらうという話で、幽霊は「...俺のことをミスターなんて呼ばないでくれ、ミスター、世界中の誰もが俺をハンクと呼んでるんだから」と言う。ウィリアムズが残した遺産を受け継ぎ、息子のハンク・ウィリアムズ・ジュニア、娘のジェット・ウィリアムズ、孫息子のハンク・ウィリアムズ3世(Hank Williams III)と孫娘たちヒラリー・ウィリアムズ(Hilary Williams)とホリー・ウィリアムズ(Holly Williams)は、いずれもカントリー・ミュージシャンになっている。 |
フランク永井のディスコグラフィー フランク永井のディスコグラフィー(フランクながいのディスコグラフィー)は日本のムード歌謡歌手、フランク永井が録音した楽曲の一覧である。 レコード規格番号「A-」(洋楽国内制作)および「V-」(邦楽)は25センチ78回転盤のSPレコード 「VS-」(邦楽モノラル)「BS-」(童謡モノラル)「PV-」(洋楽国内制作モノラル) 「SVS-」(邦楽ステレオ)「SPV-」(洋楽国内制作ステレオ)「SV-」(邦楽ステレオ)は17センチ45回転盤のEPレコードシングル盤 「EV-」は17センチ45回転盤で片面複数曲収録のEPレコード(モノラル)の番号である。 |
Microsoft InterConnect 概要 Microsoft Outlookと連携し、電子名刺の作成と個人情報の管理を行うソフトウェアである。ビジネス上のやり取りに欠かせない名刺を電子的に取り扱うことができ、また、複数の名刺情報や他のユーザーから提供された名刺情報を管理できるため、いわゆる「電子名刺交換」が可能とされた。 InterConnect 2004はMicrosoft Office 2003ファミリーを構成するソフトウェアとして2004年9月10日に発売された。続くInterConnect 2007はMicrosoft Office Ultimate 2007(2007年1月30日発売)の一部を構成するとともに単品としても販売された。Microsoft Office 2010ではスイートから削除され、単品での販売も行われておらず、開発・販売は終了している。 はがきスタジオ同様、マイクロソフトの日本法人が独自に企画・開発を行なっていた。マイクロソフトはInterConnectの宣伝のために、インターコネクトを略してインコと宣伝したことがある。 無料で使用でき、Outlook Expressで利用可能な簡易版「Microsoft InterConnect lite」も開発された。 |
軽トラで行く!激走!港めぐり旅 軽トラで行く!激走!港めぐり旅(けいトラでいく! げきそう! みなとめぐりたび)は、テレビ東京の土曜スペシャルで放送されているレギュラー企画である。 概要 花田虎上とドロンズ石本が、この企画のためだけに「芸能界軽トラ漁業部」を結成。「芸能界軽トラ漁業部」の刺繍が入った作業服姿で旅をする。花田が課長、石本が係長という役職になっている。 タイトルのとおり、「芸能界軽トラ漁業部」の2人が軽トラックを使って海沿いを旅し、全国各地の港に立ち寄り、グルメを堪能する企画である。土曜スペシャルの他の企画(ローカル路線バス乗り継ぎの旅、街道歩きの旅など)は1回完結型であるが、この企画に限り、前回終わった都道府県から次回は旅を再開するという続き物の形式になっている。 主に漁港を巡る旅であるが、時折内陸にも入って肉や果物なども堪能する。また、一部回では自衛隊の基地にアポなし交渉をして、時折取材許可が下りて自衛隊内部を見学することがある。 |
タカネの花 『タカネの花』(タカネのはな)は、新久千映による日本の漫画作品。『週刊コミックバンチ』(新潮社)にて2007年25号から50号まで連載された。監修は金森重樹。単行本は全2巻。 |
アタリジャパン 初代・アタリジャパン この章における「アタリ(ジャパン)」は、ノーラン・ブッシュネルが創業したアタリを意味する。 アタリは「ポン」で成功した1973年末に日本にアタリジャパンを設立、本社は練馬区の中村橋駅近くに置かれた。初代社長は元水泳選手の匠賢一だが、有能な日本人社長が現れるまでのつなぎ役だった。 だがアタリジャパンは経営が軌道に乗らず、協力してくれる日本企業を探していた。そこへ国外への進出の機会をうかがっていた中村製作所(後のナムコ)の中村雅哉社長が目をつけ、これを引き受けた。しかし経営がさらに悪化したアタリジャパンはナムコに、日本での独占販売権を含めての売却を打診、結局中村製作所はこれにも合意した。 ナムコはアタリを始めとする複数のアメリカ製ゲームのメンテナンスを担当するうちに、自社でビデオゲームを作る技術を身につけ、これが「ジービー」「ギャラクシアン」等につながっていった。この時代のライセンスにはエレメカの「F1 (エレメカ)」、「キャニオンボンバー」、「ゼビウス」、「ポールポジション」等がある。ちなみに、80年代前半までの多くの業務用ビデオゲームで見かける字体を俗にナムコフォントと呼ばれているが、これはアタリの業務用ビデオゲームCannonball(1977)で使われていた文字を元にリファインされたものである。 その後アタリ本社はアタリショックが原因により業績が悪化、1985年にアーケードゲーム部門がワーナーグループ傘下のまま「アタリゲームズ」と改名、ゲーム機部門が「アタリコープ」としてワーナーから分離した。ナムコはワーナー・コミュニケーションズの株券の半数弱を買い取り経営権を掌握。両社のライセンス関係はさらに強化された。「ガントレット」「マーブルマッドネス」もこの時代の代表作の一つである。 一方で、1979年9月頃から、それまで日本でのアタリ製品の取り扱いが独占的契約だったにも係わらず、アタリがセガ・タイトーに同社製品の販売を認めたことから、アタリに対し提訴する事態も生じていた。その後も「ウイニングラン」と「ハードドライビン」がお互いライセンスされないなど、双方の協力がうまく行かない事もあった。「スタンランナー」「クラックス」を輸入すると暫くは関係が続いたが、ナムコが1987年に東証二部上場した事と、1990年に中村が会長に退いたのをきっかけに、関係の解消を実施。両社間の役員・株券・関連会社の整理が行われた。ちなみに「アタリゲームズ」時代に輸入した作品は「ランパート」が最後となる。 |
史敬思 史 敬思(し けいし、? - 884年)は、唐末の武人。民間伝承や小説『残唐五代史演義』の中では李克用の仮子となり、配下の「十三太保」の1人として知られた。 生涯 雁門の人。初め、唐軍に仕えて牙校を任された。勇は諸軍に冠せりといわれた。李克用が雁門節度使に任ぜられると、敬思は李克用に従い九府都督となり、京師を平定し頭角を現した。中和4年(884年)、先鋒として陳、許の救援に赴き、黄巣を汴上で打ち破り、徐、兗まで追撃した。 同年6月、李克用に従い汴州に入り、朱全忠の盛宴に赴いた。しかしその夜、朱全忠は自軍の兵を率いて李克用を襲撃した。史敬思はすぐに起きると、弓を操ってただちに応戦し、数百人を射殺し、李克用と包囲網を突破した。夜間の激しい雷雨を冒して汴橋に向かい、李克用が逃走に成功したが、史敬思は戦死した。李克用は深い哀しみに暮れ、泣き続けた。その後、李克用と朱全忠は不倶戴天の仇敵同士となった。 子の史建瑭は後唐の名将となった。 |
マネーグラム 国際送金 世界各国に送金より10分程度で受取が可能なサービス(10 minutes serviceと呼ばれる)を展開している。 送金人が国際送金を行うと、金額を支払った際にReference Numberという8ケタの番号が付与される。送金人が受取人にその番号を伝え、受取人がマネーグラムの窓口へ行くと、受取国の現地通貨で受け取ることができる。 仕組みが既存の国際銀行決済よりもシンプルなため、送金にかかる時間が短く、安価である。 本社移転 2010年9月にマネーグラムは世界本社をミネソタ州ミネアポリスからテキサス州ダラスに移すことを発表した。ミネアポリスの拠点はGlobal OperationsとInformation Technologyの拠点として引き続き機能する。移転は2010年11月1日に完了した。 |
シャロン=アン=シャンパーニュ 概要 面積は26.05km²、人口は2006年時点で46.184人である。近隣市を併せた人口は約60,000人、都市圏としての人口は約79,000人。 歴史 古代ローマ時代は「カタラウヌム」(仏:Catalauniques)と呼ばれ、「カタラウヌムの戦い」として史実上有名な戦いが274年(ローマ帝国とガリア帝国)及び451年(西ローマ帝国とフン族)の2度行われた。市内にある「ノートル=ダム=アン=ヴォー教会」(Notre-Dame-en-Vaux)は世界遺産にも登録されている。 |
林和人 来歴・人物 岐阜県大垣市出身。 早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。1999年高知さんさんテレビ(KSS)入社。2002年北海道テレビ放送に移籍。高知さんさんテレビ時代の同期は尾辻舞(後にテレビ神奈川アナウンサーを経てフリー)。 平日はイチモニ!のメインMCを務めている。野球中継などのスポーツ中継を行うこともある。 |
ロブ・ロック ロブ・ロック (Rob Rock)は、アメリカ合衆国出身の歌手。男らしい力強いハイトーンボイスが特徴の実力派ヘヴィメタル・ヴォーカリスト。 経歴 1983年から1985年までクリス・インペリテリと組み活動。1986年にトニー・マカパイン、ルディ・サーゾ、トミー・アルドリッジとバンドM.A.R.S. Project Driverを組んだ。好評だったがCDを1枚出したのみに終わった。その後クリスと再度組むが、とある事情で一端バンドを離れ、1990年初頭に改めてインペリテリに加入し2000年まで活動を続けた。その後脱退し、ソロ活動を続けていたが、2008年にインペリテリに再度加入し、アルバムをリリースした。 |
フレデリック・フィリップス フレデリック・フィリップス(オランダ語: Frederik Jacques Philips、1905年4月16日 - 2005年12月5日)は、オランダの実業家。同国に本社を置く総合電器メーカー「フィリップス」の共同創業者であるアントン・フィリップスの長男で、自身も1961年から1971年まで同社の社長を務めた。 経歴 1930年、父親の経営するフィリップス社に入社。主に企画部門畑を歩み、1949年に副社長に就任した。 第二次世界大戦時、オランダはナチス・ドイツの占領下にあり、会社も軍需工場として通信機器などの製造をさせられていた。そのため連合国軍の攻撃目標となり、会社は大被害を受けた。彼はナチスによるユダヤ人の迫害や虐殺を知り、軍需物資の増産を口実にユダヤ人を 雇用、彼等を事実上工場に匿うことで命を救った。戦後は会社を再建するため奔走し、世界的企業へと復興、成長させることに成功する。 1996年にイスラエルより、ホロコーストから守った義人(諸国民の中の正義の人)として表彰された。 2005年12月5日、オランダにある自宅にて死去。100歳だった。 |
田中敬人 来歴・人物 別府大学付属高校(現:明豊高校)では、3年夏に大分大会ベスト8。駒大に進学し、東都1部リーグ通算8試合に登板、1勝0敗、防御率2.10を記録。駒大では4年時に第32回明治神宮野球大会で、JFE西日本時代も第31回社会人野球日本選手権大会でそれぞれ胴上げ投手となる。 2004年のドラフト8巡目で広島東洋カープに入団する。即戦力として期待されるもケガや不調で思うような投球が出来ず、デビューからほとんどを2軍暮らしに費やした。 2007年10月5日に戦力外通告を受け、現役を引退。 2008年より、広島の球団職員に転身した。 |
ジョセフ・コサンド ジョセフ・コサンド(Joseph Cosand、1851年10月2日 - 1932年6月5日)は、フレンド派のキリスト友会婦人外国伝道協会の宣教師、後のアメリカ同胞教会の宣教師である。 1851年インディアナ州に生まれる。1871年11月結婚しカンザス州のフレンズ派のグリーレット・アカデミーに勤める。1885年12月にキリスト友会婦人外国伝道協会の宣教師として日本に派遣される。1900年には日本友会の館他奥に就任する。 日清戦争についての立場の違いから、日本キリスト友会を離脱して、日本基督同胞教会に転ずる。東京区の責任者になる。1917年には総理になる。また、日本禁酒同盟の会員でもあった。 また、月刊誌「国の光」を創刊し、日本平和協会の会員でもあった。長年の功績が認められ、オハイオ州のオッタービイン大学より名誉神学博士号が授与される。 1920年に引退してアメリカに帰国する。1932年にペンシルベニア州ホーシャムで死去する。 |
ハーマン・ウォーク 略歴 ハーマン・ウォークは、ロシア(ミンスク)から移住したユダヤ人を両親に、1915年にニューヨーク市で生まれ、幼年時代をブロンクス地区で過ごした。 高校を卒業後、コロンビア大学に進み比較文学と哲学を専攻し、20歳の時に文学士号を取得した。彼はまずラジオ脚本家となり、"Joke Factory" でデイヴィッド・フリードマン David Freedmanと、その後フレッド・アレン(w:Fred Allen)と共に働いた。1941年にはラジオ広告で戦債(w:war bond)を販売、合衆国政府のために働いた。 ウォークは、パールハーバー奇襲後、志願してアメリカ海軍に入隊し太平洋戦争に従軍し、「私は機械について学び、私は圧力の下、男たちがどのように行動するかを学び、そして私はアメリカ人を学んだ」と彼が後に述べる、教訓的な体験をした。彼は、掃海駆逐艦USS Zane(w:USS Zane (DD-337))に通信士官として乗艦し、その後掃海駆逐艦Southard(w:USS Southard (DD-207))に乗艦し、マーシャル、ソロモン、マリアナ、グアム、沖縄などで活躍し、Southardが台風で沈没した時には副官であった。彼の執筆家としてのキャリアは、その非番の時間に小説を書くことによって始まった。 彼は、ベティー・サラ・ブラウンと1945年に結婚、三人の息子を儲ける。1946年には全時間を執筆に充てるようになり、そして彼のデビュー小説、"Aurora Dawn"(オーロラの兆し?)を1947年に出版した。 1952年、『ケイン号の叛乱』でピューリッツァー賞を受賞。1998年、彼はシオンの守護者賞(w:Guardian of Zion Award)を受賞する。 ウォークは歴史小説のため、高い資格を有する若い歴史研究者たちを雇い手伝わせた。このおかげでウォークの記述する歴史は、その大部分がたいへん正確である。『ケイン号の叛乱』の最初の方のいくつかの章で描かれている第二次世界大戦中の太平洋上のアメリカ海軍の小型艦船の乗組員たちの日常生活は屈指の叙述と評価されている。 |
いちご (不動産業) 主なCSR活動 実業団としてウエイトリフティング、ライフル射撃部、陸上部を擁している。 いちごウエイトリフティング部 2008年1月にスポーツ支援の一環として「ウエイトリフティング部」を創部。ロンドンオリンピックで銀メダルまた、リオデジャネイロオリンピックで銅メダルを獲得した三宅宏実が所属している。、過去にはロンドンオリンピック6位入賞の水落穂南、安藤美希子も在籍していた。三宅の父で1968年メキシコ五輪銅メダルの三宅義行が監督を務めている。 いちごライフル射撃部 2013年4月にCSR活動の充実を目的として「いちごライフル射撃部」を創部。松本靖世が所属している。 |
萬福寺 (徳島市) 歴史 830年(天長7年)7月7日に淳和天皇の御代に弘法大師は辯財秘密護摩を焚き、結界にこの灰を持って辯天像を造り、十八天女像と共に安置したと云われている。現在では秘佛となり、商売繁盛・縁結びにその力が使われているとされている。 寺伝によれば、平安時代前期の貞観年間(859年 - 877年)に円珍(智証大師)が開創したとされる。 戦国時代は権力の移り変わりに翻弄され、受難が続く寺であったと云われている。1945年(昭和20年)の太平洋戦争の戦火で堂宇、山門、庫裏等が燃え尽きた。敗戦後、20年で本堂再建に進んだ。 |
源氏物語忍草 概要 外題は「源氏物語忍草」、内題は「源語忍草」。1688年の成立。源氏物語の梗概書であるが連歌師のための書としての側面の強い源氏大鏡や源氏小鏡とも、初学者向けの側面の強い十帖源氏等とも異なった優れた注釈書としての側面も持っており、「源氏物語の平明な入門書として類書を抜く」とまで評され写本として一部の文人たちの間に伝わってはいたものの伝本も少なく知名度も低かったが、約150年後の天保年間に至って版本として刊行されて普及した。 著者 本書の著者は江戸前期の俳人・歌学者である北村湖春(幼名は休太郎。名は季順あるいは季重。初号は湖長でありのちに剃髪して「湖春」と改めている。)。湖春は湖月抄の著者である北村季吟の嫡男であるが、同人は父季吟が宝永2年(1705年)に82歳で没したのに先立ち元禄10年(1697年)に53歳で没している。本書は北村湖春によって残されたおそらくは唯一の作品である 伝本 本書には写本と版本とが存在する。 版本 本書は、書かれてから約150年経過した天保年間になって版本として刊行された。版本には鍋島司直による天保5年(1834年)日付の序文が付されている。従来版本としての刊行は一回限りであると考えられてきたが、天保8年(1837年)付けの刊記のある版本が発見されたことにより、少なくとも二回は刊行されていることが明らかになっている。 |
ISO 22196 ISO 22196は、国際標準化機構 (ISO) が規定している国際規格のひとつで、プラスチックおよびその他の抗菌性能試験方法 (Measurement of antibacterial activity on plastics and other non-porous surfaces) における規格である。日本発の国際規格であり、2007年9月18日に国際規格として承認、同年10月15日に正式発行された。 歴史 1996年のO157集団食中毒事件などがきっかけで、1990年代後半には日本に「抗菌ブーム」が訪れた。それに伴い、抗菌剤が添加されていないまがいものや、抗菌剤による炎症など安全性に問題があるものなどが市場に氾濫したため、抗菌加工製品に関する健全な市場が形成されることが求められた。そして、1998年12月、抗菌加工製品についての基本的かつ共通的な事項をとりまとめた「抗菌加工製品ガイドライン」を通商産業省(現・経済産業省)が策定した。 2000年12月には抗菌加工製品について日本国家規格JIS Z 2801(繊維以外関係)が制定され、次いで2002年3月にはJIS L 1902(繊維関係)が制定された。そして、欧米やアジアにおいて抗菌剤や抗菌加工製品に対する関心が高まる中、抗菌加工技術で日本が競争力を強化するため、経済産業省はJIS Z 2801の国際標準化 (ISO策定) を2003年より目指した。そして、ほぼJIS Z 2801とは大きな修正が発生することなく 2007年9月18日に ISO 22196:2007 として国際規格として承認され、同年10月15日に正式発行された。 初版のISO 22196:2007 はプラスチック分野に限定されたものだったが、金属製品やセラミックス製品などに適用範囲が強化された改訂版の ISO 22196:2011 が2011年7月21日に発行された。 |
安蔵寺山 概要 県境を接しない山としては、島根県最高峰とされる。山体全域が西中国山地国定公園に属する。 山塊は南北に延びる尾根を有し、西中国山地屈指のブナの天然林を誇る。 登山道は津和野町側の奥谷登山口から南へ尾根を縦走するコース、益田市側の伊原谷登山口から山頂へ直登するコース、吉賀町のゴギの郷からのコースがある。近年尾根直下を貫通する安蔵寺トンネルからのコースが出来た。 |
西成警察署 釜ヶ崎との関係 西成警察署は、その風貌から「要塞」と揶揄されることがある。管轄内の釜ヶ崎(あいりん地区)では、日雇い労働者などによる暴動がしばしば起こり、西成署は周囲を高い柵や鉄格子で取り囲み、門は鉄製で常に警杖を保持した警察官が門番に立ち、警備を固めている。要塞と呼ばれるのはその物々しさのためである。 |
セレスアルカ ストーリー プレイヤーは統合騎士団テンプルムナイトの一員となり、サルヴィス大陸で起こっている怪異を追っていくこととなる。 50年前に起こった、カエルムモンスターによる「大侵攻」。それは大勢の人間達が手を取り合ったことで阻止されたが、50年経った今、再び大侵攻の影が見え始める。そして、それを扇動する存在も――――。 |
エセキエル・アビラ 来歴 地元ティロ・フェデラルのユース時代の2010年に、短期間ながらRCDエスパニョールのカンテラに在籍した経験を持つ。2010年にプロデビュー。2014-15シーズンまで同チームで活躍した。2015年2月にCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロに移籍。 2017年8月1日、リーガ・エスパニョーラ2部のSDウエスカに、ローン移籍で加入。2017-18シーズンは2部リーグで35試合7得点を記録。チームは2位に入り、チーム創設58年目にして初のラ・リーガ昇格を果たした。2018年6月12日に、1年間のローン契約延長が決定。初のトップリーグとなった、2018年8月27日の2018-19シーズン第2戦のアスレティック・ビルバオ戦で、途中出場からリーガ初ゴールを記録。2019年2月9日のジローナFC戦では2ゴールを決め、2-0の勝利に貢献した。 2019年6月27日、CAオサスナに移籍することが発表された。契約期間は4年間。 人物 2013年、アビラは当時所属していたティロ・フェデラルのクラブハウスの中に忍び入り、ハウス内の物品等を盗もうとした窃盗未遂の容疑で逮捕された経験を持つ。 |
ブリジット・ニールセン キャリア 10代の頃からカバーガールとして活躍。自慢の体型とルックスでトップモデルとして君臨した。1980年代にはグレッグ・ゴーマンやヘルムート・ニュートンの被写体にもなった。彼女に目を留めたのがディノ・デ・ラウレンティスであり、それまでの女優像にない個性を確信したラウレンスは女優への転向を彼女に勧める。20歳を過ぎて、オーディションを受けた彼女であったが、結果は満場一致の合格。こうしてヒロインに抜擢された作品こそ、アーノルド・シュワルツェネッガーが屈強の勇者コナンを演じたシリーズの姉妹篇『レッドソニア』であった。 当時、『ターミネーター』などでヒット作に恵まれつつあったシュワルツェネッガーに注目が集まり、ビデオタイトルも『シュワルツェネッガーのキング・オブ・アマゾネス』となっていたが、本来の主演はニールセンである。こうして、女優として新たな活路を見出す事になった彼女は、『レッドソニア』撮影終了後にニューヨークへ渡るが、その移動中に一緒になったのがシルヴェスター・スタローンであった。『レッドソニア』ではゴールデンラズベリー賞ワースト主演女優賞と新人賞をノミネートされ、新人賞を受賞。 スタローンとも親交を深めたニールセンは、彼の代表作とも言える『ロッキー』シリーズの4作目『ロッキー4/炎の友情』に出演。女優への転向は幸運な滑り出しとなり、更に翌年1985年、スタローンと結婚した。1986年『コブラ』で夫婦共演。殺しの現場を目撃してしまったことで命を狙われることになり、凄腕刑事に守られるヒロイン役を演じていた。1987年には一転してスタイリッシュな雰囲気を生かして『ビバリーヒルズ・コップ2』ではエディ・マーフィ扮する主人公に最後まで立ちはだかる黒幕をパワフルに演じた。しかしスタローンとは1987年に離婚。後に『ビバリーヒルズ・コップ2』の監督のトニー・スコットとの浮気を告白している。 1984年に最初の夫の間に長男が、1989年に当時のフィアンセとの間に次男が生まれている。 2004年にはリアリティ番組The MoleやThe Surreal Lifeなどに出演。また2008年には『セレブリティ・リハブ』に出演するなど、リアリティ番組への出演が多くなっている。デンマークやドイツのリアリティ番組にも出演している。 2007年にはアルコール依存症のためにリハビリセンターに入所した。 2018年6月22日、第5子が誕生。 |
神敏将 経歴・人物 大学在学中にダンスグループ「世狼」の一員として地下デビュー。初舞台の藤本義一原作のミュージカル「迷子の天使たち」主役。 2001年、『アンネの日記』一般オーディションにて、アンネの恋人ペーター役に選出され、劇団民藝に入団。 弘前高校時代に第13回全国高等学校クイズ選手権に出場。チーム(のび、くどひろ、じん)の一員として東北大会決勝まで進んだ(ちなみにその時の代表は同じ弘前高校の別のチームで、全国大会準々決勝まで進出)。 音楽活動も行っており、同じ劇団民藝所属の俳優・梶野稔とユニット・KAJINを組んでいる。 |
主要地方道 主要地方道(しゅようちほうどう)は日本における道路の分類の一つで、道路法第56条の規定により建設大臣(現国土交通大臣)が指定する、その地域で主要な役割を担う都道府県道または市道である。 概要 主要地方道は、高速自動車国道や一般国道と一体となって日本の広域交通を担う幹線道路として位置付けられており、整備や維持管理に要する費用の50 %までを国が補助することができる。路線は1993年(平成5年)に建設省(現・国土交通省)の告示で指定されている。あくまで地方道であって国道ではなく、主要な都道府県道および市道が国土交通大臣により指定されており、町村道は除外されている。 広域交通を担うという位置付けから、二つ以上の自治体を経由するもの、あるいは全区間が単一の自治体に含まれるものでも起点・終点の少なくとも一方が駅(停車場)・インターチェンジ・港湾・空港となっているものがほとんどである。ただし指定後に沿線の自治体が合併したために上記のような性格を持たないものもある。 なお、都道府県道や市道は地方自治体が随時認定し、主要地方道は国土交通省(旧建設省)が数年おきに指定することになるため、都道府県道・市道として認定される区間と主要地方道として指定される区間は必ずしも一致せず、都道府県道や市道の路線名と主要地方道の路線名も一致しない場合もある。 |
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