chats
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3.16k
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dict |
---|---|---|
[
[
"かんがえごとつて何",
"それはね……さあ、何と言つたらいいでせう。あんた達がはやく大きくなると、此の國にさむいさむい風が吹いたり、雪がふつたりしないうちに遠い遠い故郷のお家へかえるのよ。そして遠い遠いその故郷のお家へかえるには、それはそれは長い旅をしなければならないの。それがね、森や林のあるところならよいが、疲れても翼をやすめることもできず、お腹が空いても何一つ食べるものもない、ひろいひろい、それは大きな、毎日毎晩、夜も晝も翅けつづけで七日も十日もかからなければ越せない大きな海の上をゆくのよ"
],
[
"ところがね、それが出來ないの。なぜつて、誰も彼も自分獨りがやつとなのよ。みんな一生懸命ですもの。ひとを助けやうとすれば自分もともども死んでしまはねばならない。それでは何にもならないでせう。ほんとに其處では助けることも助けられることもできない。まつたく薄情のやうだが自分々々です。自分だけです。それ外無いのさ、ね",
"でも、もし母ちやんが飛べなくなつたら、僕、死んでもいい、たすけてあげる",
"そうかい、ありがとう。だけどね、またその蒼々とした大きな海を無事にわたり切つて、陸からふりかへつてその海を沁々眺める、あの氣持つたら……あの時ばかりは何時の間にかゐなくなつてゐる友達や親族もわすれて、ほつとする。ああ、あの嬉しさ……",
"はやく行つて見たいなあ",
"わたしもよ、ね、母ちやん",
"ええ、ええ。誰もおいては行きません。ひとり殘らず行くのです。でもね、いいですか、それまでに大きくそして立派に育つことですよ。壯健な體と強い翼! わかつて",
"ええ",
"ええ",
"ええ"
],
[
"もう外にでる日が近くなつたやうだね",
"どんなに美しいでせう、世界は",
"はやくみたいなあ",
"外にでても、此處で一つの莢の中で、かうしてお互ひに大きくなつたことをわすれないで、仲善くしませうね",
"ええ"
],
[
"何か用かえ",
"ええ",
"どんな用だえ。聽いてやるがら言つて見たらよからう"
],
[
"あのう……世間では、あなたのことを愛の天使だの、平和の表徴だのつて言つてゐるんです",
"そして",
"それだのにあなたは今、何の罪もない私の生命を取らうとしてゐる",
"それから",
"それは無法といふものです",
"なるほど、或はそうかも知れない。けれど自分は飢えてゐる。それだから食べる。これは自然だ、また權利だ",
"えつ!",
"何もそんなにおどろくことはない。それが萬物の生きてゐる證據さ"
],
[
"ギーイコ、バツタリ",
"ギツチヨン。ギツチヨン"
],
[
"はい、仲々埒があきません。もう、遠くの山々は雪がふつたつていひますのに",
"まあ! めつきり朝夕が冷くなりましてね",
"あなたは、もう冬の準備は",
"その冬の來ないうちに蟻どののお世話にならなきやなりますまい",
"え、そんなことが……",
"さあ、なければないのが不思議なのです。おやおやお日樣も山がけへ隠れた。ではお早くおしまひになさいまし"
],
[
"ギーイコ、バツタリ",
"ギツチヨン。ギツチヨン"
],
[
"どうしたんだ",
"む、大きな木の根つこで行かれやしない、駄目だ"
],
[
"何ぼ何でも石は喰はれませんよ。晩餉はまだなんですか。そんならおしへて上げませう。此處を左へ曲つて、それから右に折れて、すこし、あんたと昨日あつた路のあの交叉點です。品物は行けばわかります。だがね、そいつは生きてるから、近いたら飛びついて、すぐ噛殺さないと逃げられますよ、よござんすか。では、さよなら",
"どうも有難う、お孃さん。いつかお禮はいたします"
],
[
"お話をしてゐたのよ。おもしろいお話を",
"ふむむ。それでは一つ聽いてやらうか",
"あんたがしなさいな、何か",
"俺は話なんか知らない",
"そんなら……ねえ、唄つておくれよ、いい聲で",
"唄か。それも不得手だ",
"まあ何にも出來ないの。ほんとにあんたは鶯のやうな聲もないし、孔雀のやうな美しい翼ももたないんだね"
],
[
"かあちやん、何處さ行ぐの",
"町へさ",
"なんに行ぐの",
"此の荷物をもつてよ",
"町つて、どこ",
"いま行けばわかるがね。おとなしくするんですよ。え"
],
[
"かあちやん、あれは何。あのぶうぶうつて驅けて來るのは",
"あれは自働車つて言ふものよ",
"そんなら、あれは。そらそこの家の軒にぶら下つてゐるの",
"あれかい、賣藥の看板さ",
"あれは。あのお山のやうな屋根は",
"お寺",
"あのがたがたしてゐる音は",
"米屋で米を搗いてるのさ。機械の音だよ",
"そんなら、あれは……",
"もう知らない。笑われるから、はやくお出で",
"あああ、あんなものが來た、黒え煙をふきだして……",
"よ、そらまた"
],
[
"おうい、おいらと行がねえか",
"どこへさ",
"む、どこつて、おいらの故郷へよ。おもしろいことが澤山あるぜ。それからお美味いものも――",
"ほんとかえ",
"ほんとだとも",
"そんならつれていつておくれ",
"いいとも、けれど飛べるか"
],
[
"なんだと、えツ、やかましいわい。此のおしやべり小僧め!",
"でもね、われもひとも生きもんだ、つてことが……"
],
[
"あれで、これでも萬物の靈長だなんて威張るんですよ、時々",
"私達のことを、ほんとに、畜生もないもんだ",
"わたしや、氣が附かなかつたが一體、今日のは何からですね",
"きかねえんですか。のんだ酒の勘定からですよ。去年の盆に一どお前におごつたことがあるから、けふのは拂へと、あののんだくれの俺の奴が言ふんです。するとあんたの方も方ですわねえ。うむ、そんなら貴樣がこないだ途中で、南京米をぬき盗つたのを巡査に告げるがいいかと言ふんです"
],
[
"人間つて、みんなこんなんでせうか",
"さあ",
"それはさうとなかなか長いね",
"どうでせう、あの態は"
],
[
"さようなら",
"では、御機嫌よう"
],
[
"えつ、何ですつて、わしはこれでも寒いぐらゐなんだ、熊さん。いまぢあ、すこし慣れやしたがね、此處へはじめて南洋から來たときあ、まだ殘暑の頃だつたがそれでも、毎日々々、ぶるぶる震えてゐましただよ",
"へええ"
],
[
"熊さん、どうです、今日あたりは。雪の唄でもうたつておくれ。わしあ、氷の塊にでもならなけりやいいがと心配でなんねえだ",
"折角、お大事になせえよ。俺らは、これでやつと蘇生つた譯さ。まるで火炮りにでもなつてゐるやうだつたんでね",
"ふむむ",
"象さんよ",
"え",
"何の因果だらうね、おたがいに",
"何がさ",
"何がつて、こんなところに何か惡いことでもした人間のやうに、誰をみても、かうして鐵の格子か、そうでなければ金網や木柵、石室、板圍なんどの中に閉込められてさ、その上あんたなんかは御丁寧に年が年中、足首に重い鐵鎖まで篏められてるんだ",
"熊さん",
"なんだえ",
"ほんとに情無えよ。わしあ。國には親兄弟もあるんだが、父親はもう年老だつたから、死んだかも知れねえ",
"わしもさ、晝間はそれでも見物人にまぎれてわすれてゐるが、夜はしみじみと考えるよ。嬶や子ども等のことを……どうしてゐるかと思つてね"
],
[
"おお、誰かとおもつたらお前かえ。お前さんもはやいね",
"え、おぢさん、これが早いんですつて。わたしはもう百ぺんも歌ひましたよ。"
],
[
"それがどうしたと云ふんだ",
"何でもありませんよ。たゞね、私はおさきへ失禮して、これからお茶でも嚥まうとしてるんです"
],
[
"ええ。そろそろとお互の生命もさきが短くなるばかりさ",
"何つ! けふも誰か殺られたつて"
],
[
"あんまりくよくよするもんでねえだ",
"ふむ。べら棒め",
"南無阿彌陀佛。南無阿彌陀佛"
],
[
"それはまあ、何てあるき方なんだい。みつともない",
"どんなにあるくの",
"眞直にさ"
],
[
"あるいてみせておくれよ",
"よし、よし。かうあるくもんだ"
],
[
"生れかはるつて、何にさ",
"人間によ",
"そんなら人間は",
"きまつてるじやねえか、蚤さ"
],
[
"おや、耳のない兎",
"何といふ不具でせうね"
],
[
"うるせえツたら",
"え",
"ちつと何處へか行つててくれよ",
"何で",
"うるせえから",
"はい、はい"
],
[
"はやく行げ",
"行きますよ。だがね、おぢさん、此處はあんたばかりの世界ぢやありませんよ",
"それはさうだ",
"そんなら、そんなに、がみがみゆはないつたつていいでせう。そうじやないですか"
],
[
"やあ、しばらくだね、蛙君",
"木菟さんか、何處へ行つてゐたんです",
"あんまり一つ所も飽きたんで、あれから方々、飛び廻つてきたよ",
"へえ",
"何かおもしろい話でもないかい",
"それは俺の方からいふ言葉でさあ。こうして此處で生れて此處でまた死ぬ俺等です。一つ旅の土産はなしでもきかせてくれませんか",
"とりわけてこれと云ふ……何處もみんな同じですがね。……だが、あの星の國へあそびに行つて、宵のうつくしい明星樣にもてなされたのだけは、おらが一生一代の光榮さ"
],
[
"俺がいくら世間見ずだと言つて、出鱈目はごめんですよ",
"何が出鱈目だい",
"何がつて、あんたにや水潜りはできめえ。星の國はね。此の池の水底にあるんですぜ",
"え",
"それでも嘘でねえと云ふんですか"
],
[
"蛙君、きみはまあ何をゆつてるんだ。星の國は、こうした樹の上の、そのもつと高いたかあいところにある天空なんだよ",
"そんなら二つあるのかね",
"二つなもんか、その天空にあるツきりさ",
"そんなことがあつてたまるもんか",
"馬鹿だなあ",
"どつちが"
],
[
"おお、汝は暇をもらつて何とするのか",
"はい、旅に出やうと思ひまして",
"む、旅に",
"はい",
"何處へ、そしてまた、何しに行く",
"はい。私はつくづく自分に智慧の無いことを知りました",
"それで",
"それで、これから廣い世界をめぐつて、もつともつと樣々のことを見たり聞いたりしたいのです",
"それもよからう。けれど汝は卑しくも魚族の王の、此の父が世をさつたらばその後を嗣ぐべき尊嚴い身分じや。决して輕々しいことをしてはならない。よいか",
"はい",
"それが解つたら、すべては汝の自由に委せる"
],
[
"ここはどこです",
"汝の家ぢや",
"え。あなた誰方です",
"汝の父じや。わからないのか",
"あツ、お父樣!",
"どうしたといふのか、どう……でもまあよかつたわ",
"私は甦つたやうに感じます",
"おお。そして旅はどんなであつた"
],
[
"するとその歸るさ、私は路を急いでをりますと、此の鼻さきに大きな眞黒い山のやうなものがふいと浮上りました。眼がくらくらツとして體が搖れました。まつたく突然の出來事です。けれど何程のことがあらうと運命を天にゆだね、夢中になつて驅けだしました。それからのことは一切わかりません",
"無事であつて何よりじや。その黒い大きな山とは、鯨ぢやつた。おそろしいこと、おそろしいこと、聞いただけでも慄とする",
"お父樣",
"何",
"でも私は善い經驗をいたしました",
"そんな生命の瀬戸際で",
"はい。そればかりではありません。世界には私どもの知らないことが數限りなくあります。――小さなところで獨り威張つてゐることの",
"え",
"愚さがしみじみ、はじめて解りました"
],
[
"そうか。よくわかつた。俺はお前がかわいさうでならない。唯、それだけだ",
"えツ、こんな紙屑のやうな人間でも、かわいさうに想つてくださいますか",
"おお、そうおもはなくつてどうする",
"へえゝゝゝゝ"
],
[
"そうか。よくわかつた。俺はお前達がかわいさうでならない。唯、それだけだ",
"えツ。唯、それだけですつて。ぢあ、酒の方はどうしてくださるんです",
"それは俺の知つたことではない",
"まあ、此の神樣は",
"なんだ",
"酒の方をどうして、くださるつて言つてるじやありませんか",
"そんなことは惡魔に聞け!"
]
] | 底本:「ちるちる・みちる 山村暮鳥童話集」名著復刻 日本児童文学館、ほるぷ出版
1974(昭和49)年5月初版発行
底本の親本:「ちるちる・みちる 山村暮鳥童話集」落陽堂
1920(大正9)年8月22日初版発行
入力:橋本山吹
校正:トム猫
1999年11月11日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000828",
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[
[
"儲かる儲からんは別問題やで! 何をぬかっしやがる阿呆め、金を儲けたいさかい、苦しいならこその話しやないか、これこそ窮余の一策ちゅうのや! それに、まだまだ暴落なんか来るもんかい。誰かてまだ二三年は受合や言うてるし、おれ、今日仏さんの前でけんとく(予想)みたんや、『吉兆』と心の底で声がしたわい",
"そら分かってる。苦しいから鳥でもと思うのはよく分かってるが、そうやないのだ祖父さん、おれの言うのは、一羽二羽楽しみに飼うのと違うて、大切な資本をかけて小鳥屋みたいに鳥飼うて、そら今日も鳥の市や、明日は西応寺で交換会や、ほら『脊残り』は一っペンに二十円も値が上った、ほら何、ほら何やと、百姓がまるで相場師みたいになるのが間違うてると言うのだ、この旱りと繭の不作で苦しいのは、今切り抜け様と、皆が結束して争議を起してる最中やないか……",
"ヘン、偉そうなほげた吐かさんとけ! 小作争議みたいな、第一お前等が先頭やないか、負けるに決まってる。小鳥で儲かるのは、ちゃんと見えたことや、ここ二年三年のうちに、何千何万と儲けた人が幾人あるか分からん位やないか。小鳥で儲けたら、小作料を負けろって、徒党なんか組んで騒がんでもええのや……",
"それがいけないのだ、争議に加わっている者のうちでも、だいぶ十姉妹に色目つかう者もあるけど、その度におれは言うのだ。十姉妹の流行なんか決して永久に続くものでもない。と言うと、たとえ流行ってる間だけでも飼うて助かりたいと言うかも知れんが、そう云う心は、自分一人だけよかったら他の者は構わないって言う心と同じだ。百姓は百姓として働き、それで如何しても食えなんだら、それは、天候と地主と社会全体の責任だから、その時は百姓は一致団結して……",
"ええい、黙まらんかッ、この社会主義奴! 十姉妹は大丈夫やわい、この勢いやったら世界中ひろまる!"
],
[
"お父っつぁん、どうしても十姉妹飼うのかい",
"…………………………"
],
[
"何せ。爺さんはガミガミ言うし、蚕があんな様やった上に、この旱りやろ……おまけに、この秋に返えさんならん借金の当は皆目つかんしなあ、わしかて、お前の理窟は成程と思うてんのやが……",
"俺も、お父っつぁんの心配は分り過ぎる位分かってるよ、充分家の手伝出来ん俺がかれこれ言う権利はないか知らんが……",
"いいや、そんな事あらへんけど……"
],
[
"お前が、顔出し出来んことやし、そうや、やっぱり十姉妹は止めにしよう",
"ええ、止める?",
"ああ、爺さんは怒るやろが、止めるよ、何とか考えよう"
],
[
"母さんに、思い当たる節でもあるの",
"そやかて……こないに毎晩、何処へ行くとも言わんと出て行くのが、第一変やないか、それにあの人の、近頃、落着きのないこと、そら可笑しい位やぜ、引出しの鍵はあの人が持ってるよってに、蚕の金はどうなったか知らんけど、な、慎作、きっとそうやで"
],
[
"大丈夫そんな所へは行ってへんと思うが、よし今晩、どれだけ遅くなってもよくお父っつぁんに訊いて見るよ",
"そやかて、今晩も、もう九時過ぎやのにまだ帰ってきやへんし!"
],
[
"なあ、慎ちゃん、こうして俺達の意志は鍛金の様に強くされるんや。白東会の彼等、俺が右腕やられたさかい、もう争議には出るまいて言いふらして居るそうだが、ふン、右腕一本位で、屁こたれる品物と、品物が違うわい。左手と足がまだ二本もあるやないか、かりに、これ皆やられて胴ばかりになっても、若し生きてさえいたら、俺は止めんぞ、そうなったら慎ちゃん、いざり勝五郎やないが乳母車にでも乗って、君に後押して貰うわははは",
"ああいいとも、後押しは引受けた。"
],
[
"団子の様に固まってどうするのや",
"喰うのかい",
"この狂い、さっきから同じ事ばかり言いよるがな、浪花節でもやってんか"
],
[
"あ、父子やぜ",
"ありゃ、S村の直造さんや",
"二人とも狂うてンのかい",
"何や、何や?"
]
] | 底本:「日本プロレタリア文学全集・11 文芸戦線作家集 (二)」新日本出版社
1985(昭和60)年12月25日初版
1989(平成元)年3月25日第4刷
底本の親本:「文芸戦線」
1928(昭和3)年5月号
入力:林 幸雄
校正:青野弘美
2002年3月13日公開
2008年3月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002933",
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"没年月日": "1929-03-17",
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[
[
"だが賊を斬ったからよいが、もし若が斬られたとしたらどうする、柔弱に育てぬということは暴勇をやしなう意味ではない筈だ",
"殿には直孝さまを暴勇の質とおぼしめしますか"
],
[
"ではなにが気にいらぬのだ、わしも底を割って云うがあの娘だけはかくべつ可愛い、五人ある子たちのなかであれひとりはかくべつなのだ、たのむ、そのもとをみこんでたのむのだ、どうか嫁にもらって呉れ",
"せっかくのお志ではございますけれども、これだけはお受けをいたし兼ねます",
"なぜいかん、むすめが気にいらんのか"
],
[
"ではいかなるわけで退陣しなかったのだ",
"まったく源七郎の不所存でございます、なにとぞ掟どおりの御処分をお願い申上げます",
"ただ不所存ではわからぬ、重科を承知で軍令にそむいたには仔細がある筈だ、それを申せ、包み隠さず申してみい",
"恐れながら申上ぐべきことはございません、なにとぞ掟どおりお申付けのほどを"
],
[
"それだけとはまだなにかあるのか",
"ござります、恐れながら軍令にそむきました点のお咎めは承りました、しかしまだ源七郎の手柄に対しての御恩賞の沙汰はうかがいません、御失念かと存じます",
"源七郎の手柄とはなんだ"
],
[
"なんでございますか",
"せんじつお裁きのおりなぜ申開きをしなかったのだ、殿にも罪を軽くするおぼしめしでいろいろ御苦心あそばしたごようすではないか、それを知らぬ顔で、わざわざ罪を求めるような答弁をする心底がわからぬ、いったいおぬしはどういう考えでいたのだ",
"べつにどういう考えもございませんでした",
"ではお裁きどおりの罪におこなわれても不服はなかったと申すのか"
],
[
"わたくしの眼には、いまなお美しいそのひとの姿がみえます、たったひと言きいただけですが、そのひとの声もまざまざと耳にのこっております。……わたくしの妻はそのひと、ほかに余吾家の嫁はございません",
"そう思って呉れるか、源七郎",
"さしものに描き加えました数珠は、生涯そのひとに供養を忘れぬしるしでございます"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「ますらお」大陸講談社
1942(昭和17)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「槍」と「鑓」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057535",
"作品名": "青竹",
"作品名読み": "あおだけ",
"ソート用読み": "あおたけ",
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"初出": "「ますらお」大陸講談社、1942(昭和17)年9月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-07-03T00:00:00",
"最終更新日": "2022-06-26T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年10月25日",
"底本の親本名1": "",
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"底本出版社名2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
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"テキストファイル最終更新日": "2022-06-26T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"己は自分の命を、此の為事に打込む外には疲らせはしない",
"寿命は、大きな為事を為上げる迄待って呉れはしない"
]
] | 底本:「青べか日記 ―わが人生観28―」大和書房
1971(昭和46)年11月10日初版発行
底本の親本:「波 第四巻 第二号~第六号(通巻第一四号~第一八号)」新潮社
1970(昭和45)年3月1日~11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「鯊」と「沙魚」の混在は、底本通りです。
※波誌の編者による注記は省略しました。
入力:富田晶子
校正:雪森
2018年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059009",
"作品名": "青べか日記",
"作品名読み": "あおべかにっき",
"ソート用読み": "あおへかにつき",
"副題": "――吾が生活 し・さ",
"副題読み": "――わがせいかつ し・さ",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-08-16T00:00:00",
"最終更新日": "2018-08-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card59009.html",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "青べか日記",
"底本出版社名1": "大和書房",
"底本初版発行年1": "1971(昭和46)年11月10日",
"入力に使用した版1": "1971(昭和46)年11月10日初版",
"校正に使用した版1": "1971(昭和46)年11月10日初版",
"底本の親本名1": "波 第四巻 第二号〜第六号(通巻第一四号〜第一八号)",
"底本の親本出版社名1": "新潮社",
"底本の親本初版発行年1": "1970(昭和45)年3月1日〜11月1日",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "富田晶子",
"校正者": "雪森",
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} |
[
[
"おんだらいつも一人だってこと知ってんべがね",
"妹はどうしたんだ"
],
[
"鼬にかじられるぞ",
"つまんねえ"
],
[
"知恵のあるもんだな",
"なみたいていじゃあねえさ"
],
[
"それが巡査の営業違反になるかい",
"僕はなにも営業なんかしていないよ"
],
[
"敷居を踏んづければどうして足が曲るんだい",
"べらぼうめ、敷居は親の頭も同様だっていうんだ",
"へええ、おまえあたしの親かい"
],
[
"このあま、もうがまんがならねえ",
"なにをすんだいこのもくぞう"
],
[
"なんでもねえさ、ただええびに来ただけだよ",
"こんなとけへかね",
"こんなとけへさ"
],
[
"おらついそこのもんよ",
"ついそこたあどこだ",
"葛西のちっと先よ"
],
[
"おら博奕なんかしやしなかった",
"そうだ、いしゃ博奕はしなかった",
"おら抵抗もしなかった"
],
[
"どうしてわかってるだ",
"だってこのフォークとナイフのこっちにマッチがあるだろ、そしてマッチのところから撮影した画面に、手前のナイフ、いや、にしき蛇とその向うのフォーク、つまり探検家が写ってた、そうだろう、とすればマッチのところから蛇は眼の前にいることになるじゃないか、つまり撮影技師や助手やたぶん猛獣使いなんかには、ちゃんとそこに蛇のいることがわかっているんだ"
],
[
"教える必要はないさ、探検家のほうでもそこに蛇のいることは知ってるんだ",
"知っててどうして除けねえだ、毛唐はでえじゃに食いつかれちまったべがえ"
],
[
"知ってなくってさ、みよっこは、――よしな、まあ、いけ好かねえ",
"痛えな、そんなことしなくってもいいじゃねえか",
"よわ虫、なにさこんくれえなこと",
"痛えってば"
],
[
"女が騙されるって云うけれど、そりゃあ男が騙すんじゃねえ、女が騙されるようにできてんからだべえ",
"女がどうできてるって"
],
[
"よせってばな、まあ",
"痛え、おお痛え、ひどえことすんな、ま",
"いやなことすっからよ"
],
[
"へえ、まだおばさんがいるのか",
"おやじは死んだけれどおっ母はいんだよ"
],
[
"沖の弁天はまだあるか",
"あんよ、弁天へいってんべえ"
]
] | 底本:「青べか物語」新潮文庫、新潮社
1964(昭和39)年8月10日発行
2002(平成14)年12月20日64刷改版
2006(平成18)年3月20日69刷
初出:「文藝春秋」
1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号
※「三十年後」の初出時の表題は「三十年後の青べか」です。
※「秋葉」と「秋屋」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:栗原もなこ、Juki
2018年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057495",
"作品名": "青べか物語",
"作品名読み": "あおべかものがたり",
"ソート用読み": "あおへかものかたり",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-08-16T00:00:00",
"最終更新日": "2018-07-27T00:00:00",
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"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "青べか物語",
"底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社",
"底本初版発行年1": "1964(昭和39)年8月10日",
"入力に使用した版1": "2006(平成18)年3月20日69刷",
"校正に使用した版1": "2015(平成27)年6月25日80刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "富田晶子",
"校正者": "Juki、栗原もなこ",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
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} |
[
[
"おんだらいつも一人だってこと知ってんべがね",
"妹はどうしたんだ"
],
[
"鼬にかじられるぞ",
"つまんねえ"
],
[
"知恵のあるもんだな",
"なみたいていじゃあねえさ"
],
[
"それが巡査の営業違反になるかい",
"僕はなにも営業なんかしていないよ"
],
[
"敷居を踏んづければどうして足が曲るんだい",
"べらぼうめ、敷居は親の頭も同様だっていうんだ",
"へええ、おまえあたしの親かい"
],
[
"このあま、もうがまんがならねえ",
"なにをすんだいこのもくぞう"
],
[
"なんでもねえさ、ただええびに来ただけだよ",
"こんなとけへかね",
"こんなとけへさ"
],
[
"おらついそこのもんよ",
"ついそこたあどこだ",
"葛西のちっと先よ"
],
[
"おら博奕なんかしやしなかった",
"そうだ、いしゃ博奕はしなかった",
"おら抵抗もしなかった"
],
[
"どうしてわかってるだ",
"だってこのフォークとナイフのこっちにマッチがあるだろ、そしてマッチのところから撮影した画面に、手前のナイフ、いや、にしき蛇とその向うのフォーク、つまり探検家が写ってた、そうだろう、とすればマッチのところから蛇は眼の前にいることになるじゃないか、つまり撮影技師や助手やたぶん猛獣使いなんかには、ちゃんとそこに蛇のいることがわかっているんだ"
],
[
"教える必要はないさ、探検家のほうでもそこに蛇のいることは知ってるんだ",
"知っててどうして除けねえだ、毛唐はでえじゃに食いつかれちまったべがえ"
],
[
"知ってなくってさ、みよっこは、――よしな、まあ、いけ好かねえ",
"痛えな、そんなことしなくってもいいじゃねえか",
"よわ虫、なにさこんくれえなこと",
"痛えってば"
],
[
"女が騙されるって云うけれど、そりゃあ男が騙すんじゃねえ、女が騙されるようにできてんからだべえ",
"女がどうできてるって"
],
[
"よせってばな、まあ",
"痛え、おお痛え、ひどえことすんな、ま",
"いやなことすっからよ"
],
[
"へえ、まだおばさんがいるのか",
"おやじは死んだけれどおっ母はいんだよ"
],
[
"沖の弁天はまだあるか",
"あんよ、弁天へいってんべえ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十四巻 青べか物語・季節のない街」新潮社
1981(昭和56)年11月25日発行
初出:「文藝春秋」
1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号
※「秋屋」と「秋葉」、「収穫」と「収獲」の混在は、底本通りです。
※「鮠」に対するルビの「ばえ」と「はや」と「ぱや」の混在は、底本通りです。
※「三十年後」の初出時の表題は「三十年後の青べか」です。
※初出誌では「やなぎ鮠《ばえ》」は「やなぎ鮠」とルビが付いていません。「収獲」「汽筒であって、……」「秋屋エンジ」「秋屋エンジナー」「千代萩」「千本のあるじ」「自分が酒と肴を買いにいった。」「秋屋船長」は底本通りです。
※「青べか物語」文藝春秋新社、1961(昭和36)年1月20日発行では「収獲」は「収穫」、「汽筒であって、……」「秋屋エンジ」「秋屋エンジナー」「千代萩」「千本のあるじ」「自分が酒と肴を買いにいった。」「秋屋船長」は底本通りです。
※「青べか物語」新潮文庫、新潮社、2002(平成14)年12月20日64刷改版では「汽筒であって、……」は「汽筒であって……」、「秋屋エンジ」は「秋葉エンジ」、「秋屋エンジナー」は「秋葉エンジナー」、「収獲」は「収穫」、「やなぎ鮠《ばえ》」は「やなぎ鮠《ばや》」と校訂されています。「千代萩」「千本のあるじ」「自分が酒と肴を買いにいった。」「秋屋船長」は底本通りです。
※「山本周五郎長篇小説全集 第二十六巻 青べか物語」新潮社、2015(平成27)年2月20日発行では「汽筒であって、……」は「汽筒であって……」、「秋屋エンジ」は「秋葉エンジ」、「秋屋エンジナー」は「秋葉エンジナー」、「収獲」は「収穫」、「千代萩」は「先代萩」、「千本のあるじ」は「「千本」のあるじ」、「自分が酒と肴を買いにいった。」は「自分で酒と肴を買いにいった。」、「やなぎ鮠《ばえ》」は「やなぎ鮠《ばや》」と校訂されています。「秋屋船長」は底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:砂場清隆
2018年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057574",
"作品名": "青べか物語",
"作品名読み": "あおべかものがたり",
"ソート用読み": "あおへかものかたり",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-01-01T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十四巻 青べか物語・季節のない街",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年11月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年11月25日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年11月25日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "砂場清隆",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57574_ruby_63586.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2018-01-01T00:00:00",
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} |
[
[
"あの家も病室ですか",
"娘の親が自費で建てたんです、娘というのが特別な病人でしてね"
],
[
"先生はずっとまえから、ここにはもっといい医者が欲しい、ほかのどんなところよりも、この養生所にこそ腕のある、本気で病人を治す医者が欲しい、って仰しゃっていましたわ",
"それなら私を呼ぶ筈はないさ、いい医者になるには学問だけではだめだ、学問したうえに時間と経験が必要だ、おれなんかまだひよっこも同然なんだぜ"
],
[
"あたし信じませんわ",
"信じないって、――なにを信じないんだ"
],
[
"そういうことをなさるからよ",
"それとこれとはべつだ"
],
[
"むりをするな、薬はのんでいるのか",
"ええ、去定先生からいただいています"
],
[
"ほんの一と口さ、飲み残りだ",
"あたしも持って来ました"
],
[
"ああ、えびづる草の実で醸した酒だろう",
"ご存じなんですか"
],
[
"酔っていらっしゃるからね",
"その声では辛かろうというんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「オール読物」
1958(昭和33)年3月
※初出時の表題は「狂い咲きの嬌女」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057841",
"作品名": "赤ひげ診療譚",
"作品名読み": "あかひげしんりょうたん",
"ソート用読み": "あかひけしんりようたん",
"副題": "01 狂女の話",
"副題読み": "01 きょうじょのはなし",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」1958(昭和33)年3月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-06-22T00:00:00",
"最終更新日": "2018-05-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57841.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57841_ruby_64906.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2018-05-27T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57841_64952.html",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"もういちど云いますが北の一番です、すぐにいって下さい",
"命令ですか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「オール讀物」
1958(昭和33)年4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057840",
"作品名": "赤ひげ診療譚",
"作品名読み": "あかひげしんりょうたん",
"ソート用読み": "あかひけしんりようたん",
"副題": "02 駈込み訴え",
"副題読み": "02 かけこみうったえ",
"原題": "",
"初出": "「オール讀物」1958(昭和33)年4月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-07-21T00:00:00",
"最終更新日": "2018-07-05T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57840.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
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"テキストファイル最終更新日": "2018-06-27T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-06-27T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"まだ朝飯まえなんだ",
"御同様だ、はいってくれ"
],
[
"将軍家に御慶事があって、諸入用が嵩むからという理由らしい",
"御慶事だって",
"なんでも御寵愛の局が姫を産んだので、将軍家はひじょうによろこばれ、それを祝うためにいろいろな催しがあるそうだ、はっきりとは云わなかったが、与力はくちうらでそう匂わせていた、それで新出さんは怒った"
],
[
"むじな長屋の佐八のぐあいはどうだ",
"べつに変りはないようです",
"では先に廻るところがあるからいっしょに来てくれ"
],
[
"御診察は",
"献立を拝見してからです"
],
[
"あとで私の部屋へ来てくれないか、こっちからいってもいいが、――ちょっと話したいことがあるんだ",
"今日は疲れてるんだ、いそぐのか",
"留守に天野というお嬢さんが訪ねて来たんだ"
],
[
"ちぐさのことなら聞くまでもないよ",
"じゃあなぜまさをさんに会わないんだ",
"おれが、会わないって"
],
[
"いや、町方の調べがあるので、それが済むまで手がつけられないのです",
"なにかあったのか"
],
[
"骨になっているようでは、よほど古い死躰なんだな",
"善能寺の墓掘りに見せたんですが、十五年くらい経っているだろうと云ってました",
"殺して埋めたと、どうしてわかった"
],
[
"それもわからないことはないが、中には佐八さんのような人もいるからな",
"私ですか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「オール読物」
1958(昭和33)年5月~6月
※初出時の表題は「むじな長屋・迎えに来た」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年7月27日作成
2019年2月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057544",
"作品名": "赤ひげ診療譚",
"作品名読み": "あかひげしんりょうたん",
"ソート用読み": "あかひけしんりようたん",
"副題": "03 むじな長屋",
"副題読み": "03 むじなながや",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」1958(昭和33)年5月~6月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-08-21T00:00:00",
"最終更新日": "2019-02-24T00:00:00",
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"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
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"底本名1": "山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"仕事を休むことはないだろう",
"話すならゆっくり話したいし、なに、いまの帳場はあっしでなくってもまにあうんです、じゃあちょっと飯を片づけちまいますから"
],
[
"逆さまとは",
"枝のほうを埋めて、根を上へ出してあるんです"
],
[
"知っている船宿があるんです、そこで一杯やりながら話しましょう",
"こんな時刻にか"
],
[
"一つだけいかがですか",
"私はだめだ",
"じゃあ、失礼します"
],
[
"わかりませんが、女のことが重なって、頭の調子が狂ったのではないかと思いました",
"違う、女ではない、藤吉だ"
],
[
"それはおれの一存にはいかないな",
"用はします、あっしで出来ることならなんでもするし、ここには大工の一人ぐらい雇っておく用が結構ありますぜ"
],
[
"そう云いきってもいいのか",
"あにきに訊いて下さい、こんなことを口にするのは初めてだし、お杉さえいてくれたら、この気持は金輪際変りゃあしませんから"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「オール読物」
1958(昭和33)年8月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057842",
"作品名": "赤ひげ診療譚",
"作品名読み": "あかひげしんりょうたん",
"ソート用読み": "あかひけしんりようたん",
"副題": "04 三度目の正直",
"副題読み": "04 さんどめのしょうじき",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」1958(昭和33)年8月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-09-23T00:00:00",
"最終更新日": "2018-08-28T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
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} |
[
[
"われわれの中で、もっとも悪いのは畳だ、昔はあんな物は使わなかった、水戸の光圀は生涯、その殿中に畳を敷かせなかったという、それは古武士的な質素と剛健をとうとぶためだと伝えられるが、そうではない、事実はそういう気取りだったにしても、住居のしかたとしては極めて理にかなっていた、現に畳というものが一般に使われるようになった元禄年代まで、二千余年にわたって板敷の生活が続いていたことでもわかることだ",
"敷き畳という物はあったのですね"
],
[
"それは少し違う、おれはあの二人には同情こそしたが、決して怒りは感じなかった",
"――同情ですって"
],
[
"まさをといった筈です",
"当人を知っているのだな",
"顔かたちを覚えているくらいです",
"姉娘のほうは義絶になったままだという、保本が妹娘を貰ってくれれば諸事まるくおさまる、これはおまえの両親も望んでいるそうだ、もしそうする気があるのなら、いちど麹町の家へいって来るがいいだろう"
],
[
"いつかのやつって",
"このまえ本郷の通りで、わざと先生にぶっつかって文句をつけたやつです",
"そうかな、私は気がつかなかったが"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「オール読物」
1958(昭和33)年9月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057838",
"作品名": "赤ひげ診療譚",
"作品名読み": "あかひげしんりょうたん",
"ソート用読み": "あかひけしんりようたん",
"副題": "05 徒労に賭ける",
"副題読み": "05 とろうにかける",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」1958(昭和33)年9月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-10-24T00:00:00",
"最終更新日": "2018-09-28T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57838.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
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"底本名1": "山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
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} |
[
[
"屋根が飛んじまうがいいかい",
"屋根がどうしたと"
],
[
"想像の診断は絶対にいけない",
"いいえ想像ではなく、くらしの条件からそう考えたのです"
],
[
"土に埋めてどうするんだ",
"こうやって六七日おくとね、上のこの臭い皮が腐って剥けちゃうんだ、そうしたら中から実を出して洗って干すんだよ"
],
[
"わかりません、そいつは聞きませんが、ただぜひとも先生に会わせてくれと云って、承知しないんだそうです",
"なん刻ごろだ"
],
[
"あのいろきちがいがかい",
"いいのよ、悪いのはこっちだもの、おきぬさんに罪はないわ"
],
[
"きっ、やりゃあがったな",
"かっちゃぶいてくれる、このいろきちげえめ、死んじまえ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「オール読物」
1958(昭和33)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057843",
"作品名": "赤ひげ診療譚",
"作品名読み": "あかひげしんりょうたん",
"ソート用読み": "あかひけしんりようたん",
"副題": "06 鶯ばか",
"副題読み": "06 うぐいすばか",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」1958(昭和33)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-11-22T00:00:00",
"最終更新日": "2018-10-24T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57843.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57843_ruby_66289.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2018-10-24T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57843_66336.html",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"明日になったら呼んでやろう、今夜はこのまま眠るがいい",
"今夜はだめですか"
],
[
"よく云った、だがやつらは信じやあしない、信じやあしなかったろう",
"だと思うけれど、帰らなければもっとひどいことになるわ",
"威したのか"
],
[
"約束を知らなかったのか",
"約束は知ってると云いました、けれども証文があるわけではないし、十九年も只で住んで来た、親の代のことはおれは知らないから、そんな反故のような約束を守るわけにはいかねえって、突っぱねました"
],
[
"へえ、それはまあ、そうです",
"そんな面倒なことにかかわっているより、新らしい土地へ移って、さっぱりと新規蒔き直しにやるほうがいいと思うな"
],
[
"相手を殺そうとまで思い詰めるのは尋常ではない、なにかそれだけの仔細があるのだろう",
"それは聞きませんでした"
],
[
"おまえはなんだ、町方の者か",
"いえ、私は高田屋さんの出入りで、伊蔵てえ者です"
],
[
"いえそれは、その、おりよく旦那のうしろに、出入りの者が三人ついていましたので",
"けがもしずに済んだのか",
"三人がすぐに駆けつけたものですから",
"乱暴者のほうはどうした",
"つまりその、刃物を持っていたんで、危ねえもんだから叩き伏せました"
],
[
"しかしその、野郎は旦那を殺すつもりだったんで",
"証拠があるか",
"野郎がそう云ったって、旦那が"
],
[
"源さんはどうした",
"相手が相手ですもの、どうしようがあるもんですか、おかみさんや子供たちと与平さんのうちにいますよ"
],
[
"交わされたのではない、先代の高田屋与七のほうで、自発的にそう約束したのだ、おれは差配のところで店賃の帳面を見たが、それには与七の名ではっきりと、松次郎一代まで無賃と書いてあり、与七と五人の長屋総代の署名、またそれぞれの拇印が捺してあった",
"字の書ける者がそんなにいたわけでしょうか"
],
[
"ぼけてしまったという――",
"おれはさっき訪ねてみた、卒中のためにぼけたのだろう、いろいろやってみたし、老人自身もけんめいに思いだそうとした、しかし、おくめ殺し、ということしか記憶に残っていないんだ"
],
[
"ここへさ",
"彼は御目見医になった筈じゃないか"
],
[
"証人になってもらいたいんです",
"なんの証人だ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「オール読物」
1958(昭和33)年11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057542",
"作品名": "赤ひげ診療譚",
"作品名読み": "あかひげしんりょうたん",
"ソート用読み": "あかひけしんりようたん",
"副題": "07 おくめ殺し",
"副題読み": "07 おくめごろし",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」1958(昭和33)年11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-12-17T00:00:00",
"最終更新日": "2018-11-24T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57542.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年10月25日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
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"底本出版社名2": "",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
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"テキストファイル最終更新日": "2018-11-24T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57542_66532.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-11-24T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"談判だって",
"あの娘が亡くなったら、お杉を伴れ戻されると心配したらしい、おれがまだ話しているところへ、ぜひ会いたいことがあると押しかけて来た、生涯浮沈の大事だと云うんだ",
"まさかね"
],
[
"その人はどう云った",
"たじたじだったね、お杉の親元が荏原郡にある、そちらとも相談してみるが、自分には異存はない、と云っていたよ"
],
[
"じゃあ、あのばか娘にばかを産ませようというんですか",
"三日経ったら来いということだ"
],
[
"三月に祝言をするのですから、いまそんなことをする必要はないと思います",
"しかしこれは習慣なのだ"
],
[
"先生はあたいを騙すんでしょ",
"なにを騙すんだ",
"こんな話をさせておいて、あたいを騙してこの子をおろすんでしょ、そうでしょ"
],
[
"どうって、なにがですか",
"おまえは亭主を持たないと云ったが、おなかの子には男親があるんだろう"
],
[
"あの女にはおれから話す、娘はおちついたようすか",
"おちついています"
],
[
"どうして津川のことなど引合いに出すのだ",
"お考えがうかがいたいからです",
"おまえまでがおれにどならせたいのか"
],
[
"先生です",
"おれが、おれがそれを許したか",
"お許しになりました"
],
[
"おまえはばかなやつだ",
"先生のおかげです"
],
[
"お許しが出たのですね",
"きっといまに後悔するぞ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「オール読物」
1958(昭和33)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年12月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057839",
"作品名": "赤ひげ診療譚",
"作品名読み": "あかひげしんりょうたん",
"ソート用読み": "あかひけしんりようたん",
"副題": "08 氷の下の芽",
"副題読み": "08 こおりのしたのめ",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」1958(昭和33)年12月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-01-23T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
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"生年月日": "1903-06-22",
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[
[
"また喧嘩をしたのね、朝っぱらから酒だなんて定ってるわ",
"酒をつけてくれってんだ"
],
[
"かきたまお好きだったわね、かきたまに海苔かかでも作りましょうか",
"いらねえよ、そんなもの"
],
[
"ひっ掻きゃしないんだ",
"だってみんなそう云うわよ、あたしだっていつかお日枝様の山へかみなりが落ちたとき見にいったら、巨きな御神木が裂けて、がりがりひっ掻いた痕がいちめんについているのを見たわよ"
],
[
"どうしていないの",
"どうしてって、いないからいないのさ、雷獣だなんて、つくり話に定ってるじゃないか",
"あらいやだ、それじゃあお日枝様の御神木のあれは誰がひっ掻いたの"
],
[
"じゃあ本は書かなかったのね",
"書かなかったよ",
"いったいどんな本を書くつもりだったの"
],
[
"あら、神仏もないって云うの",
"そうなんだ、雷獣なんてものもないし、竜とか鬼とか、魔なんてものもない、狐や狸が化けるってこともないし、幽霊だの怨霊などというものもない、神や仏などもありゃしない、みんな人間のばかな頭で考えだしたもんだ、みんな作り話だ、ってな"
],
[
"済まないが勘定をしてくれ",
"あら、また怒ったの",
"帰るから勘定してくれっていうんだ"
],
[
"なにをそんなに怒ってるんだ",
"お梅のやつよ、あの魚金の娘のやつよ"
],
[
"だから肚が立つのよ、いつもは猫をかぶってやがって、ひと皮むけばげじげじ閻魔ときやがる",
"げじげじ閻魔だって",
"いつも無精髭を伸ばしてるし、胸からなにから毛むくじゃらで、おまけに二人の喧嘩でおっかねえ顔をしているから"
],
[
"おれのことをだな、お梅が",
"げじげじ閻魔ってよ"
],
[
"だって初めにおめえが承知したんだぜ",
"冗談いっちゃいけねえ"
],
[
"怒るのは勘弁してくれ、いやだと云うんじゃねえんだ、おめえが承知ならそれでいいんだ、ただ話のうますぎるのが気になっただけなんだから",
"おらあ無理にゆこうたあ思わねえんだ"
],
[
"大磯ならどうしてあたぼうだ",
"大磯は曽我兄弟に縁のある土地だろう、とすればおめえ五りょう十りょうだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」新潮社
1983(昭和58)年9月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社
1952(昭和27)年12月号
※「不精」と「無精」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057579",
"作品名": "秋の駕籠",
"作品名読み": "あきのかご",
"ソート用読み": "あきのかこ",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓読み": "やまもと",
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} |
[
[
"どうしてそんなことを仰しゃいますの",
"自分で知っている筈だ"
],
[
"中川書林、――知らないな",
"解いてみてもいいですか"
],
[
"薊の花には実が生らないというわけです",
"おれの妻がうまずめだということか",
"祝言をして何年になりますか",
"それは岡野の知ったことではない",
"どうしてわかります"
],
[
"私は加川さんのことを心配しただけですよ",
"おれのなにが心配なんだ"
],
[
"おれは薊のことなど聞いているんじゃあない",
"それならそれでいいです"
],
[
"どの本だ",
"この好色本です、読まないんでしょう",
"好色本だって",
"中川書林のやつですよ"
],
[
"おまえは読むか",
"わたくしのことではありません、あなたのことを申上げているんです"
],
[
"理由は云えないと申上げました",
"ひと言でいい、原因はそのことか"
],
[
"覚えがある筈だ、支度をしろ",
"私にはなにも覚えはありません",
"ではどうしてここへ来た"
],
[
"あのこと、とはなんだ",
"私は誓いました"
],
[
"山岸のしづさんです",
"山岸とはどの山岸だ",
"御納戸奉行の山岸平左衛門さまで、しづさんはその御妻女、わたくしの昔からの親しいお友達です",
"それがどうして逃げた"
],
[
"帰ってからにしよう",
"まだ痛みがおさまりませんし、しづさんを置いてゆくわけにはまいりません"
],
[
"あなたはお聞きになった筈です",
"おれの聞いたのは茶会のことだけだ"
],
[
"いいですか",
"もういい、大丈夫だ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
1959(昭和34)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057582",
"作品名": "薊",
"作品名読み": "あざみ",
"ソート用読み": "あさみ",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「小説新潮」新潮社、1959(昭和34)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-04-21T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
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"生年月日": "1903-06-22",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年10月25日",
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} |
[
[
"どうした千神、なぜ刀を下げる",
"そっちにはたし合いをする気持がないからだ",
"ばかなことを云うな"
],
[
"あいつはおれの誇りを食い名を食った、おれを世間から剥ぎ、友達から掠った、おれにはもう一滴の血も残ってはいない、骨だけだ、それで、あいつは逃げた",
"たしかなのか、逃げたということは",
"証拠がある、しかし、云えない"
],
[
"帰って寝るがいい、菅野、あとでゆくよ",
"…………",
"云っておくが絶望するな、そこもとは見た、味わった、経験したんだ、もし立ち直ることができれば、この価値は小さくない、騙すより騙されるほうがましだ、ことにさむらいとしてはだ、……これで済めば安いぞ、菅野、あとで会おう"
],
[
"おれはそんな人間じゃない",
"それもおんなじだわ、男ってみんなそう云うのよ、はじめのうちだけね",
"おれにはわからない、どうすればいいんだ",
"あたしを迷わせてちょうだい、あなたも迷ってちょうだい、それまでは、いや"
],
[
"冗談じゃない、まるっきりみえないよ",
"ひとつ叩かれてみよう"
],
[
"だが、それはたしかなのか",
"たしかだ、あれは機会を待っていたんだ、うちに重代の古鏡があった、売り食いも底をつきかけたとき、道具屋が二十金で買おうとせびった漢代の珍しい品だそうだ。重代の家宝というのでつい売りそびれていたが、あれはそいつを持って逃げた、おかげで支払いも済んだことになる",
"気持にもあとくされはないか、もういちど逢うようなことがあっても……",
"灰には火はつくまい、きれいに燃えきった"
],
[
"承認されるだろうか",
"風当りは強いだろう、だがいずれにしても贖い無しというわけにはいかない、問題はそこもとの辛抱いかんにある"
],
[
"そこもとのしてくれたことを、言葉で表現することはできない、ひとりの人間が、世間的にも自分のなかでも、あれほど落魄し堕落しながら、そこから立ち直るなどということは奇蹟に近い、しかしおれはこう思う、おれの落ちこんでいたあのような状態のなかで、『ともだちだから』というひと言を聞くことができたら、どんな人間でも立ち直るちからを与えられるだろう",
"その関係は相対的なものだ、そこもとは溺れかけ、おれは陸の上にいた、おれには浅瀬が見えていた、それだけのことだ"
],
[
"そういうことは不しぜんではないでしょうか",
"それが人間生活だ、しぜんのままに従うのは禽獣草魚だけだ。田や畑は、しぜんに任せると役にも立たない雑草に掩われてしまう。人間は撰択し、刈り、抜き、制限する。これは反自然だが、人間を利益し進歩させる",
"わたしには理屈はわかりません、けれどわたくしたちほどの身分なら、もう二人や三人は育てるのが普通だと思います",
"おまえは計算を忘れている、長男は家を継ぐが、二男以下は養子にゆくか、部屋住で一生を終らなければならない、それは当人の不幸ばかりでなく、世間の無要な負担になる、武家で家を分けるだけの蓄財なしに子を生むのは不徳義だ、いちどよく計算をしてみるがいい"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「週刊朝日」朝日新聞社
1947(昭和22)年6月22日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057589",
"作品名": "葦",
"作品名読み": "あし",
"ソート用読み": "あし",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「週刊朝日」朝日新聞社、 1947(昭和22)年6月22日号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-12-21T00:00:00",
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"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年8月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年8月25日",
"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年4月25日3刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57589_ruby_74583.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2021-11-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
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"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57589_74620.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-11-27T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"なんだあの腰つきは、卵でも産もうというのかね",
"向うの男は餌差が鳥を覘っているようだ、それ、よく見当をつけろ",
"ああ外してしまった",
"まるでへた競べだねこれは"
],
[
"……それよりもうすぐ終るだろうから後片付けの手配でもするとしよう",
"けれどもお小頭"
],
[
"……このままでは我慢できませんね、たとえ士分の者と試合ができないにしても、足軽は足軽同志でやるにしても、来年はぜひ試合に出られるようにして頂きたいものです、あんまりひどすぎますよ",
"そうだ"
],
[
"……武芸には士分と足軽の差別はない筈だ、われわれの腕をみれば少しはかれらも奮発する気になるだろう",
"そんな望みは木によって魚を求めるようなものだ"
],
[
"どうしたのだ、髪などあげて……",
"お祝い日ではございませんか"
],
[
"……お忘れなさいましたの、今日は五日でございますよ",
"ああそうか、大試合のごたごたでど忘れをしていた"
],
[
"……すると鉄之助どのも忘れているかも知れないな、ちょっと案内をして来ようか",
"そのほうがお宜しゅうございますわ、わたくしもまだ買物がございますから"
],
[
"嫁に欲しい",
"差上げましょう"
],
[
"たかが足軽ではないか、刀を差しているというばかりで、かたちは武士でも中間小者と選ぶところはない、いわば道傍にわけもなく生え伸びている雑草も同様だぞ",
"そうだ、その点を明確にすべきだ"
],
[
"どうした、偉そうに蔭口はきいても、いざとなると出る者はないのか、雑草を刈る者は一人もないのか",
"……拙者が相手をしよう"
],
[
"何誰でもこちらに選り好みはない",
"だれか稽古槍を二筋たのむ"
],
[
"……場所はここでよいか",
"何処でも結構"
],
[
"此処はよいから帰れ、追って沙汰をする、早く立ち去れ",
"それでは仰せのままに"
],
[
"わたくしは立退きますまい",
"その気持はわかる"
],
[
"それにつけても身分が足軽ではどうしようもない、これからはなんとしても槍一筋のさむらいになるんだ、それまではおまえにも苦労をかけることだろうが、右田の家名を興すという気持で辛抱して呉れ",
"はい、汀はどんな苦労でも致します、ですからどうぞ"
],
[
"……いつどこで逢っても眉ひとつ蹙めていたことがない、愚痴をこぼすではなし泣言を言うではなし",
"爺さん、なんとか云わないかね"
],
[
"……どうしたらおまえさんのようにそう安気でいられるか、みんなあやかりたがっているぜ",
"そんなことはないのさ"
],
[
"……わたしのような者にあやからないでも、みんなそれぞれ結構にやっているじゃあないか、まあ考えてみなされ、こうして四五日も雨に降られながら、暖かい炉端にながくなって、茶菓子や酒肴の贅沢こそできまいが、時には天下様の評判もするし、好き勝手な世間ばなしや愚痴が云っていられる、決してこれがやり切れないという暮しではないと思うがね",
"それは爺さんにはもう慾というものがないからそんなことを云えるだろうが、おれたちはまだこんなしがない渡世で終ろうとは思わない、みんなもうひと花咲かせようという気持だから、そこは爺さんとおれたちとで違うんだよ",
"……そうだとすれば"
],
[
"そこもともご存じだろうが、さきはお上の御舎弟、つまり忠秋さまのお浜館なのだが",
"それは有り難いことでございます"
],
[
"しかし折角ではございますが、妹はわたくし手許で躾けてまいりたいと存じますから",
"そこもとはお浜館のお噂を聞いておられるな、それでなにかいかがわしい御奉公のように思うのではないか",
"さようなことはございません、ただわたくし共は早く両親に死別いたしまして、ずっと二人で過してまいりました、いわばわたくしが親代りになって育てましたので、間もなく縁定めも致したいと存じますし、その儀はひらにご辞退をつかまつりとうございます"
],
[
"そのほう右田藤六と申す足軽だな",
"はっ……"
],
[
"……仰せの如く藤六にございます",
"余を存じておるか",
"恐入り奉る、お浜館さまと存じ上げます",
"余もそのほうを知っておる"
],
[
"……新参の足軽、右田藤六、そうたしかめたのは五十日ほどまえのことだ、……ひとくせある面だましい、よほど兵法にも堪能であろうと見た、そのほうなにをやる、刀法か、槍か",
"恐れながらそれはお鑑識ちがいにございます。ごらんのとおりの小足軽、なかなかもちましてさような……",
"云うのも厭か"
],
[
"……ときにお妹さんは帰っておいでかな",
"いやまだ戻らぬので案じているのですが",
"お帰りがない"
],
[
"……それではやっぱりそうかも知れぬ",
"ご老人なにかご存じですか",
"いや確かとは云い切れぬが、一刻ほどまえ、御老職の菅谷さまへ使にまいったとき、お浜館の前で会ったのが、たしかお妹さんだったように思えるのでな",
"お浜館……"
],
[
"してそのとき妹はどうしておりましたか",
"お屋形の中から二名ほど人が出て来て、通りかかる汀どのになにやら申しかけ、手を取って御門の中にひき入れるのを見た、……お妹さんではないかも知れぬが、もしやすると",
"それはよいことをお知らせ下すった、ともかくみにまいってみましょう"
],
[
"もう来る頃と痺をきらしていた、よく来たな、そのほうに会いたいと申す者がおる、まあ下にいろ",
"会いたいというのはおれだよ右田"
],
[
"……めぐり逢えたのは武神の加護だろう、貴公には借りがある、それを返そうと思ってな",
"念の入ったことだ"
],
[
"……望みなら返して貰おう、いつどこで……",
"暴れ者の忠秋さまも御所望だ、お庭さきを貸すと仰しゃる、どなたか拙者の槍を、お持ち下さい、出よう右田"
],
[
"……きさま強いなあ右田、浪々しても腕は鈍るまいと思ったが、あの頃よりはまた一段じゃないか、口惜しいがおれはまだ及ばない、残念だ",
"立て……"
],
[
"勝負はこれからだ、もういちど立て",
"その必要はない"
],
[
"そこもとを尋ねて来たわけを云おう、実は藩家からお召返しの上意がさがったのだ",
"……お召返し"
],
[
"おれの父が老衰の故を以て師範を隠退することになり、そこもとを後任として推挙した、老職の中にもそこもとの人物槍筋を認めている方が多いので、とりあえず槍術師範助役としてお召返しときまったのだ、右田……いよいよそこもとの槍が世に出たぞ",
"待って呉れ"
],
[
"……御師範の御好志も、御家中皆々の寛仁なお扱いも、胆に銘じて忝ない、千万ありがたく存ずるが、おれは三春へは帰らぬつもりだ",
"なに、帰らぬ、それはまたどうしてだ",
"おれは自分を恥じる気持でいっぱいだ、おれにはお召返しをお受けする資格はない"
],
[
"いまの言葉はよい土産になるぞ横井、その言葉と、汀を土産に、そのほうは三春へ帰れ",
"なんと仰せられます",
"とぼけるな、汀のことは昨夜の物語に洩らしていたぞ、右田は高島へ貰う、これほどのもののふを手に入れて、今さら離すばかはおるまい、右田は高島で貰う、そのほうは汀をつれて帰れ、それで藤六にも不足はあるまいが",
"お待ち下さい"
],
[
"……お館さまがそのように仰せられましては",
"なに藤六が自分でそう申したではないか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1945(昭和20)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"おれは斬られたかった",
"起きて話せ",
"おれは斬られるつもりで来たんだ"
],
[
"有難いが、それだけはできない",
"おれはつれてゆくよ"
],
[
"つい二十日ばかりまえだ",
"そしておれが来たんだな"
],
[
"眼がさめたのは夜半すぎだろう、夢のなかで思いだしたらしいが、眼がさめるとすぐに漢鏡のことに気がついた",
"なかったんだな"
],
[
"あなた本当にもう子供は生まないおつもりなのですか",
"おまえは冗談だとでも思っていたのか"
],
[
"計算してみたことがあるか",
"計算ですって"
],
[
"そうらしいな",
"五年のあいだ情勢が変らずにいると思うのかね"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「週刊朝日」
1947(昭和22)年6月22日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"すると、うちの人たちは",
"酒が来たぜ"
],
[
"いやなやつだな、おめえは",
"松あにいは知らねえか"
],
[
"四つや五つでか",
"四つの年の夏だったよ"
],
[
"子供を騙すようなもんか",
"但しみんながみんなじゃあねえぜ、中にゃあ田之助が裸で抱きついたって、石みてえにびくともしねえ女がある、そいつを見分ける眼がねえとしくじるんだ",
"おめえはしくじらねえんだな",
"そんなのには手を出さねえからな",
"情にほだされるこたあねえか"
],
[
"今夜また一人やるとか云ってたが、そういう口でうまく騙したんだな",
"本当になさけなくなることがあるんだ、あにいにゃあそんなこたあねえか",
"今夜はなさけなかあねえんだな",
"業ってもんかもしれねえ"
],
[
"ひとくちに百両って云うが、いくら大店だって百両は大金だ、娘なんぞに持ち出せるようなところへ放って置きゃあしねえぜ",
"それが金を扱うしょうばいなんだ、質と両替を兼ねているんでね、五百両ぐれえの金なら、いつでも手の届くところにあるんだ",
"質と両替だって",
"金杉本町じゃあ一番の店構えだ"
],
[
"とんでもねえ、親分",
"よしゃあがれ、てめえに親分なんて呼ばれるほど落ちゃあしねえや、こんど親分なんて云ったら承知しねえぞ"
],
[
"なにがさ",
"嫌えな十手のあとでくさやに気がついたから、いやなこころもちになっただけだ"
],
[
"どうして",
"木更津にだって指物師の仕事はあるだろう、半年でも一年でも江戸をはなれて、田舎ぐらしも気が変っていいもんだぜ",
"おれの話がそんなふうに聞えたか",
"今夜十時に、百両持って娘が来るんだ、芝浜から出る木更津船には二人分の船賃も払ってある、あにいの分さえ払えばそれで木更津へゆけるんだよ",
"その娘のことを諦めるか",
"どうして"
],
[
"天福寺は知ってる",
"その境内に大きな檜があるが、そこで十時におち合う約束なんだ",
"おめえは間違ってる",
"まちげえなしだってばな"
],
[
"しらばっくれるな",
"知りませんよ、あっしはそんな人間は見たこともありません"
],
[
"四光の平次だ",
"だってあれは、京橋白魚河岸の、指物師で"
],
[
"あいつは左の腕に、花札の四光の刺青をしている、それで四光の平次と云われてるが、二人も人をあやめた凶状持ちだぞ",
"二人もあやめた"
],
[
"知らねえ、あっしゃあなんにも知らねえ",
"番所へしょっぴこうか",
"おらあ、あっしは三日めえに品川の升屋で会った、ほんとです、初めて升屋で会って、向うからさそわれて飲みだしたんで、それからずっと酒のつきあいをしていただけです、嘘はつきません、本当にそれっきりのつきあいなんです"
],
[
"平次の荷物は松葉屋か",
"知りません、ずっと手ぶらでした",
"まちげえはねえだろうな"
],
[
"白魚河岸の長屋ってのは",
"そう云うのを聞いただけです、いまになってみると嘘かもしれませんが",
"それでみんなか",
"これで残らず申上げました"
],
[
"そりゃあ云うことは云ったが",
"疑わしけりゃあ来てみろとも云ったぜ、まあおちつけよ、まだ暇はたっぷりあるぜ"
],
[
"そいつはがらっといくぜ、あにい",
"ここんとこは大丈夫さ、そっちは脆くなってるがね、おめえも掛けねえか"
],
[
"堪忍しろ、政、こうしなけりゃあならなかったんだ",
"わけを聞かしてくれ"
],
[
"あの娘をたすけてやりたかったんだ",
"聞えねえ"
],
[
"ちがう、おらあそんな者じゃあねえ",
"顔を見せて、顔をよく見せてちょうだい"
],
[
"そいつは悪党なんだ",
"どうしてなの、どうしてあの人を殺したの"
],
[
"あたしこの人が好きだったのよ",
"おめえは知らねえんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
1960(昭和33)年8月~9月
※「ゆんべ」と「ゆうべ」、「しゃべった」と「饒舌《しゃべ》った」、「肘」と「肱」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"父は三年まえに死んでいるよ",
"そんなことは聞くまでもない",
"父は小林の家名をあげようと望み、その望みを達して死んだ、ほぼ望みを達し、将来のみとおしもつけて、満足して死んだんだ、――たとえおれが小林の家を潰すとしても、それは死んだ父とは関係のないことだ",
"それほどあのことが重大なのか"
],
[
"置いて下さいますか",
"長くは続かないぞ"
],
[
"夫婦の鼬がですか",
"それはわからないが、仔を生むんだから夫婦もいるんだろう",
"でもその鼬は三十年の余も、夫婦で仲よくくらしていたんです"
],
[
"すると、侍だったのか",
"だあ、いいえお侍ではなく、植木の世話をしていたんです"
],
[
"また聞いていらっしゃらなかった",
"としよりになってどうしたんだ"
],
[
"わたくしがですか",
"隠すことはない、土堤三番町の曽我十兵衛だ、知っているんだろう"
],
[
"なにを知っている",
"金森さまのことです",
"十兵衛に聞いたんだ"
],
[
"嫁にゆくときは津軽へ帰るのか",
"いいえ、津軽へは帰りません",
"田舎はいやなんだな"
],
[
"十兵衛のことを聞こう",
"十二月のはじめころでした、旦那さまが歩きにいらしったあとで、曽我さまが訪ねてみえ、縁先でいろいろお話をうかがいました、どうしても座敷へあがって下さらないので、縁先でお話をうかがったのです",
"そのとき金森のことを聞いたんだな"
],
[
"おまえは受取らなかったそうだ",
"お金は役に立たないと思ったからです"
],
[
"ずいぶんいいことを云ったろうな",
"いろいろなことを聞きました、そして奉公人が誰もいない、御主人が一人きりだというので、ここよりほかにはないときめてしまったんです"
],
[
"釜戸の煤です",
"おれも信用できなかったのか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「小説倶楽部」
1958(昭和33)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057590",
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"初出": "「小説倶楽部」1958(昭和33)年2月",
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} |
[
[
"みなさんももう少し親切にしてあげたらと思いますわ、あの方は除け者にされていると思って、淋しいので、ついあんなに気をお立てになるんですもの",
"それもあるでしょうが、それにはあの女の人がもう少しなんとか"
],
[
"そうですとも、むろんそうですよ、しかしそれは私が償いますから、どうかそれで勘弁することにして下さい",
"なにもお武家さんにそんな心配をして頂くことはありませんよ、あたしゃ物が惜しくって云ってるんじゃないんですから",
"そうですとも、むろんですよ、しかし人間には間違いということもあるし、お互いにこうして同じ屋根の下にいることでもあるし、とにかくそこは、どうかひとつ、私がすぐになんとかして来ますから"
],
[
"どうです、こうずらりっと肴が並んで、どっしりとこう猪口を持ったかたちなんてえものは、豪勢なものじゃありませんか、公方様にでもなったような心もちですぜ",
"あんまり気取んなさんな、うしろへひっくり返ると危ねえから"
],
[
"――貴女もどうぞ、なんでもないんですから、どうぞこっちへ来て坐って下さい、なにも有りませんけれど、みなさんと気持よくひと口やって下さい、すべてお互いなんですから",
"おいでなさいよ"
],
[
"賭け試合をなさいましたのね",
"正直に云います、賭け試合をしました"
],
[
"どうにもやりきれなかったもんだから、あんなことを聞くと悲しくって、どうしたって知らん顔をしてはいられませんからねえ、とにかくみんな困っているし、雨はやまないし、どんな気持かと思うと、もうじっとしていられなかったんです",
"賭け試合はもう決してなさらない約束でしたわ",
"そうです、もちろんです、しかしこれは自分の口腹のためじゃないんですからね、私は、ええ私もそれは少しは飲んだですけれども、少しよりは幾らか多いかもしれませんけれども、みんなあんなに喜んでいるんだし"
],
[
"それはそうでしょうけれども、とにかく",
"まだ云うか、この下郎め",
"まあ危ない、そんな乱暴な、あっ"
],
[
"はたし合いは法度である、控えろ",
"御老職であるぞ"
],
[
"――却って私こそ失礼なことを致しまして、みなさんをすっかり怒らせてしまいまして",
"血気にはやる馬鹿者ども、さぞ御笑止でございましたろう、失礼ながらそこもとは",
"はあ、三沢伊兵衛と申しまして、浪人者でございまして、向うの川へ釣りにまいったのですが、こちらが危ないもようだったものですから、つい知らずその、こういうことに",
"当地に御滞在でいらっしゃるか",
"追分の松葉屋という、いやとんでもない、どうかあれです、私のことなど決してお気になさらないように、ほんのなにしただけですから"
],
[
"実は道から拝見していたのだが、かれらも相当に腕自慢なのだが、まるで子供のようにあしらわれたのには一驚でした、失礼だが御流儀は",
"はあ、小野派と抜刀をやりました、しかしもちろんまだ未熟でして",
"無用な御謙遜は措いて、それだけのお腕前をもちながら浪人しておられるには、なにか仔細のあることと思うが、もし差支えなければお話し下さらぬか",
"それはもう、仔細というほどのことはなし、まるでお笑い草のようなものですが"
],
[
"堪能などとはとんでもない、申上げたとおりまことに疎忽なものでございまして",
"いやわかりました、うちあけて云うとこんな早急にお招きしたのは、私のほうにも一つお願いがあるのです"
],
[
"よろしかったら唯今でも結構です",
"では御迷惑でもあろうが"
],
[
"ではお三方と試合をなさいましたのですか",
"いや二人ですよ、一人はなにか急に故障が出来たそうで、その道場までは来たんだが、……しかし本当はこの次の試合まで待たせたのかもしれませんね、改めて城中で正式にやることになったんですから"
],
[
"こういうお宿へ泊る方たちとは、ずいぶんたくさんお近づきになりましたけれど、みなさんやさしい善い方ばかりでしたわね、自分の暮しさえ満足でないのに、いつも他人のことを心配したり、他人の不幸に心から泣いたり、僅かな物を惜しみもなく分けたり、……ほかの世間の人たちとはまるで違って、哀しいほど思い遣りの深い、温かな人たちばかりでしたわ",
"貧しい者はお互いが頼りですからね、自分の欲を張っては生きにくい、というわけだろうね"
],
[
"しかしもうこれもおしまいです、と云ってもいいと思うんだが、実は今日は食禄の高までほぼ内定したんでねえ",
"――このまえにも、いちど",
"いや今日は違うんですよ、剣術もやったし、弓は五寸の的を二十八間まで延ばしたし、馬は木曽産の黒で、まだ乗った者がないという悍馬をこなしましたがね、それはそれとして話はべつなんです"
],
[
"おでかけなさいますの?",
"いやでかけやしない、ちょっとその"
],
[
"そうでございますわね、でもわたくし、支度だけはしておきますわ",
"それはそうですとも、どっちにしても此処は出てゆくんだから……"
],
[
"主膳が申しますには、まことに稀なる武芸者、その類のないお腕前といい高邁なる御志操といい、禄高に拘らずぜひ御随身が願いたい、また藩侯におかれましても特に御熱心のように拝されまして",
"いやそんな、それは過分なお言葉です、私はそんな",
"そういうしだいで、当方としては既にお召抱えと決定しかかったのですが、そこに思わぬ故障が起こったのです"
],
[
"主人が賭け試合を致しましたのは悪うございました、わたくしもかねがねそれだけはやめて下さるようにと願っていたのでございます、けれどもそれが間違いだったということが、わたくしには初めてわかりました、主人も賭け試合が不面目だということぐらい知っていたと思います、知っていながらやむにやまれない、そうせずにいられないばあいがあるのです、わたくしようやくわかりました、主人の賭け試合で、大勢の人たちがどんなに喜んだか、どんなに救われた気持になったか",
"おやめなさいたよ、失礼ですから"
],
[
"やあこれは、これはすばらしい、ごらんよあれを、なんて美しい眺めだろう",
"まあ本当に、本当にきれいですこと",
"どうです、躯じゅうが勇みたちますね、ええ"
],
[
"――あそこに見えるのは十万五千石の城下ですよ、土地は繁昌で有名だし、なにしろ十万五千石ですからね、ひとつこんどこそ、と云ってもいいと思うんだが、元気をだしてゆきましょう",
"わたくし元気ですわ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「サンデー毎日涼風特別号」毎日新聞社
1951(昭和26)年7月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"汝生がどうかしたんですか",
"読んでごらん"
],
[
"ここに小松町とありますが",
"文代が来る、聞かれては困るんだ"
],
[
"そうしてこの手紙を、汝生から預かったといって置いていったんだ",
"こんな手紙を、まさか悪戯に書くこともないだろうが、そんなけぶりでもあったんですか、死ぬなどという"
],
[
"あれは喜兵衛が好きでしたからね",
"彼が出奔したあと暫くは、半病人のようになっていたが、……しかしそのために死ぬということも考えられない、たぶん、自分の身にとつげないわけがある、というのが本当なんだろう、どういうことかわからないけれど",
"とにかく小松へいってみるんでしょう",
"そのつもりで来て貰ったんだが、三浦のほうの都合はいいだろうか",
"都合もくそもあるものですか、私は婿にいったんじゃなく母親ごと松枝を嫁に貰ってやったつもりなんですからね、これからすぐ井波の馬を借りてとばせましょう",
"まあ待て、もうひとつ相談があるんだ"
],
[
"壺の中が遺骨ではないって",
"黙っているつもりだったんですが、それも無責任じゃないかと思って、お話しするわけなんですが、じつは死躰があがらなかったんです",
"では死んでいるのかどうかも"
],
[
"おまえがみつけたのか",
"子供たちがみつけて騒いでいたのを、銭を遣って引取り、すぐに能登屋をひきはらって、松任へ宿を変えたのです",
"――ではあの壺の中には",
"遺品のあった場所の小石と、汀の砂と、それから結い付け草履を焼いて、その灰をいっしょに入れました"
],
[
"それは、どういうことですか",
"駿河の府中に汝生が生きている。しかも動木喜兵衛といっしょにいるらしいんだ",
"まさか、……あの汝生が",
"動木というのは私の想像だが、汝生のことは間違いはない、なぜなら梅園女史が見て来たんだから",
"小舘さんがですって、どうしてまた"
],
[
"そうでしょうか、私にはどうしても本当とは思えませんがね",
"さっき女史が自分で来て話して呉れた、他人のそら似かもしれないし自分は決して他言はしないが、ともかく念のために、……と云ったが、それはこちらへの親切だろう、また浪人の名の結城伊兵衛は、動木喜兵衛と音がよく似ている、偽名はどこか似るものだというが、私にはどうも動木だという気がするんだ",
"事実だとすると、捨ててはおけませんね"
],
[
"こんどもまたおまえに頼みたいんだが、勤めのほうの都合はつくだろうか",
"遠いですからね、日数のかかるのが問題だが、しかし殿の御在国ちゅうではなし、多少の無理をすれば暇を貰えると思います",
"私からも願いを出そう、理由をなんとするかだが……",
"それは私が考えますが、いってみて、慥かに二人だったとしたら、どうしますか",
"わかってるじゃないか、動木はもちろん汝生も国法を犯している、おそらく二人で自決するだろうが、みれんなまねをするようなら斬るほかはない",
"――汝生もですか"
],
[
"お客さまはおそのさんを御存じでございますか",
"知っているわけではないが、まえにいちどみごとに活けたのを見たものだから",
"皆さんがよくそう仰しゃいます、よろしかったら此処へ来て活けるように申しますですよ",
"そうだな……"
],
[
"小舘さんが見かけて、知らせて呉れたんだ、他言はしないと云われたそうだが、しょせん知れずに済みはしまい、……葛西の兄も、私も、おまえの遺書を信じた、私は小松へいったし、寺井の浜では、櫛笄と草履をみつけて、……おまえが死んだものと思い、遺骨の壺を拵えて帰った、旅さきで病死したと届け、私たちはもちろん世間もそう信じている、ここでもし、おまえが生きていること、しかも動木喜兵衛といっしょに暮していることがわかったとしたら、葛西の家やこの私がどうなるか、云わなくともおまえにはわかる筈だ",
"――わたくしはいちど死にました"
],
[
"――あの浜で草履をぬぎ、髪道具を包みましたとき、あのときわたくしは死にました、ここにいるのは汝生ではございません",
"そしてそれがおまえの望みなのか、そんなに痩せやつれて、みじめな姿になるのが、汝生でいるよりも望ましいことだったのか",
"――あのひとには、わたくしが付いていてあげなければなりませんでした、小さいじぶんからずっと、いつもそうだったんです、いつも、……葛西の兄上さまや、あなたにはわかって頂けないでしょうけれど",
"わかるまいとは、なにがだ",
"なにもかもでございます"
],
[
"――葛西のお家は温かく平和で、悲しみや不幸などは影ほどもございませんでした、兵庫兄さまもあなたも、不自由とか辛いとかいうことは、おそらくいちどもお感じになったことはございませんでしょう、……あのひとは御家来の出であり、みなしごでした、御両親のお情で、御家族と同じように育てて頂きましたけれど、家来の出であり、みなしごだということには変りはなかったのです",
"それは差別をつけたということか",
"いいえ決して、……御両親もあなた方も、本当によくして下さいました、差別などということは少しもなかったのですけれど、……叱られるとき、褒められるとき、あのひとの顔には、亡くなった二た親を想う色が、ありありと表われるのです"
],
[
"兵庫兄さまには当然のことでしょう、でもあのひとにはできませんでした、ようやく歩き始めたばかりの子を置いて、自分の罪を名乗って出ることは、あのひとにはできなかったのです、そして、わたくしもそうなさるようにとは云えませんでした",
"汝生は動木と会っていたのか",
"塾を早退けして、家事をみてあげに毎日いっておりました、だってそうしなければ、男手に子を抱えて、あのひとはどうすることができたでしょう",
"出奔のことも知っていたんだな",
"あのひとは切腹しようとしたのです、危ないときにゆき合せて、止めました、そして、わたくしたち三人で、新しい生活を始めましょうって、泣いて頼んだのです"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」新潮社
1983(昭和58)年9月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社
1952(昭和27)年9月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"なんだ下らない、出鱈目書だよ",
"だが、暗号文らしいぜ",
"暗号なら春田に見せてやれ。彼奴人間の作った暗号なら、どんな物でも解いて見せると威張っていたじゃないか"
],
[
"なにか用かい?",
"御飯ですって。今夜はね、実験室でお父様の実験があるから、早く御飯をすませてお手伝いにゆくのですって",
"よし心得た、すぐ行くよ",
"あら! それなあにお兄さま",
"これか、これはね或る重大な外国の軍事探偵の暗号文なんだ。これに、我日本帝国の安危が隠されてあるのさ",
"あら! まあ本当⁉",
"あはは、嘘だよ、学校の友達が僕を困らせようと思って拵えたものなんだ。子供騙しのようなものだよ",
"まあ嫌だ、私びっくりしちゃったわ"
],
[
"こん度は助けてくれをやって見たまえ",
"・――・ ・――・",
"うまいぞ‼ これからもっとたくさん教えてあげようね、いつどんな時に役にたつかわからないからなあ"
],
[
"いや失敬した。途中で自動車に故障がおこったものだから――",
"そうですか、私達はまたどうなすったのかと心配していました。では博士、実験にかかって頂きましょう!"
],
[
"素晴しいものだ!",
"国宝的な発明だ!"
],
[
"お父様、実験中止ッ‼ 文子、電灯を消せ‼",
"どうした龍介、なんだ!"
],
[
"文子はみつかったか",
"いや駄目でした、しかし今は文子のことより先に取掛らなければならぬ仕事があります……ところで山川少将はどうしました、見えませんね"
],
[
"僕ぁ不良青年かもしれねえが売国奴と呼ばれる覚えはないぞ、僕ぁメリケン壮太っていうちったあ知られた男だ、さあ僕がどうして売国奴だ、わけをいえ‼",
"よし教えてやるから、貴様がこの実験室の前に忍んでいたわけを話せ……",
"訳は簡単だ。額にあざのある外国人の牧師に頼まれて、この中で骨牌をやっている者がある。自分は警察へ密告してくるから、ここで見張をしていてくれといって、五円紙幣をくれたのだ、だから立ってたのよ",
"其奴が外国の軍事探偵だ、そして春田式C・C・D潜水艦の機密図を盗むために貴様を見張に雇ったのだ"
],
[
"そうじゃよ",
"じゃあ、あの山川少将……いや山川少将に扮装した男は何者だろう",
"えッ‼ 俺に扮装した男じゃと?"
],
[
"や、そりゃたしかにどこかの軍事探偵じゃ、そして発明は無事か⁉",
"はい、設計図や模型は安全……"
],
[
"ゴクロウサマ スミタル ウエハ コレデ シツレイ オチノビル ヤンセン",
"そうだ牧師ヤンセン、メリケン壮太を雇ったのも牧師、まさに此奴だ‼"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年7月
初出:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年7月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059098",
"作品名": "危し‼ 潜水艦の秘密",
"作品名読み": "あやうし せんすいかんのひみつ",
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"初出": "「少年少女譚海」1930(昭和5)年7月",
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"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22",
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"底本名1": "山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介",
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} |
[
[
"船七の隠居所さ、隠居所で、客の会席にも使ってたんだ",
"船七ってえと、大橋の脇の船宿かね",
"おしげってえ看板娘がいる、おめえ知ってるんだろう"
],
[
"おめえは逃げなかった、まさかこの家がだめだと知って残ったわけでもねえだろうが",
"どうだかな",
"おめえおれを威かすつもりか"
],
[
"なんだって",
"聞き返すこたあねえや、その暇におめえやることがあるんだろう、やることがあって此処へ来たんだろう、そうじゃあねえのか"
],
[
"おめえは律義らしいな",
"お上にも慈悲がある、神妙にすれば"
],
[
"やっぱりおめえは律義なんだな",
"黙れ、もうむだ口はきかせねえぞ"
],
[
"だから逃げられるとでも思うのか",
"――おれがか"
],
[
"善いとも思っちゃいねえよ",
"自分が悪いとはこれっぽっちも思っちゃあいねえんだろう"
],
[
"当人に訴えて出ろって",
"そのためにお上というものがあるんだ、しんじつ仁兵衛が悪人ならお上で放っておきゃあしねえ",
"だって爺いは放っておかれたぜ",
"それは油屋が御定法に触れなかったからよ、法に触れるようなことをしねえのに、ただ強欲というだけで繩をかけるわけにはいかねえ",
"そうらしい、そういうものらしい"
],
[
"おめえにはおめえの理屈があるさ",
"きいたふうな口をききやがって、おぎんやおたい、お幸やおまさのことはどうなんだ、てめえにくどきおとされて、身を任せて、棄てられて、泣きをみているあの女たちのことはどうなんだ",
"そいつはおめえにゃあわからねえ"
],
[
"そう云えば済むと思うんだな",
"おめえにゃあわからねえ"
],
[
"飽きがくるからよ、すぐ女に飽きがくる、そして古草鞋のように棄てちまうんだ",
"そうじゃあねえ、違うんだ"
],
[
"いいんだ、それでいいんだよ、おしげさん",
"よかあない、あたしばかだった、ばかでめくらでつんぼだった、いま向うであんたの云うことを聞いて、自分のばかがすっかりわかったの、こんなに長いことつきあっていて、あたし本当のことはなんにも知らずにいた、まるでつんぼかめくらのように、なんにもわからずに泣いてばかりいたのよ"
],
[
"こんなことをしちゃあいけなかった、この男に罪はねえ、この男は役目で来たんだ、おらあ初めから死ぬつもりだったし、今でも死ぬつもりでいる、だがそれはおれ独りのことだ",
"あたし離れない、あたし三ちゃんから離れやしないわ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」新潮社
1983(昭和58)年9月25日発行
初出:「週刊朝日新秋読物号」朝日新聞出版
1952(昭和27)年9月
※「三之助」が「佐平」に呼びかける時の「親方」と「親分」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057740",
"作品名": "暴風雨の中",
"作品名読み": "あらしのなか",
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"初出": "「週刊朝日新秋読物号」朝日新聞出版、1952(昭和27)年9月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-11-14T00:00:00",
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"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57740.html",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年9月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年9月25日",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年9月25日",
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[
[
"――尤もどっちか少し傷がつくと、勝負あったでひきわけになるんだが、議論のほうもそのままひきわけだからね、結果としてはなんにもしなかったと同じなんだ",
"あれが自慢のお国ぶりなんだ、もっとも武士らしいやりかただと思ってる"
],
[
"――夫人や令嬢たちが幾つも会をもっていて、音曲や茶や詩歌の集まりをするのはまあいい、堂々と男を客に招いて酒宴を催すのにはびっくりしたよ",
"おまけにあの傲慢な男たちがみんな一目おいているからね、道で上役の夫人などに会うとこっちから挨拶をする",
"それを怠るとあとが恐ろしいんだ"
],
[
"奉行職の方々は望水楼になさいませ",
"役所の方たちは釣橋でようございましょう"
],
[
"宴会の公費まかないをよく拒みとおされましたな、おかげで私も割前を取られたくちですが、あれは悪い習慣で、これまでも幾たびか反対が出たのですが、いつも若いれんちゅうに押されてうやむやになって来たものです",
"古い慣例はなるべくそっとして置きたいのですが、あれはどうも……"
],
[
"――尤もいずれ江戸へお帰りになるということなら、求めて敵をつくることもないでしょうが",
"私は江戸へは帰りません"
],
[
"…………",
"ここでは婦人たちのちからがたいへん大きい、話には聞いていましたが、実際に見てじつは驚いたのです、それで考えたのですが、この土地のひとと結婚すれば、姻籍関係もできるし、またその妻のちからもいろいろの面で役立つと思うのですが"
],
[
"――寧ろよい御思案でしょうが、ここの女たちはちょっと気風がべつですからな、全部が全部というわけでもないが、古くからの気風ですからなかなかそこが",
"たいてい想像はしていますし、その点は無理をしなければいいと思います"
],
[
"稽古用のごく雑なものならございますけれど",
"それで結構です、こちらもほんのうろ覚えで、座興に笑って頂くくらいのものですから"
],
[
"お床間が淋しくはないかと存じまして、ちょうど蝋梅が咲きはじめましたので、持ってあがりました――",
"それは有難いのですが、私のところには道具がなにもないのですよ",
"いいえ粗末な物ですけれど用意してまいりましたから"
],
[
"こんな雪のなかで咲くんですか",
"――室で致しますのよ",
"ああなるほど、そうでしょうね"
],
[
"いっぱし洒落たつもりなんだろう",
"洒脱を衒っているのさ、田舎者だと思ってばかにしてね、それで自分が恥をかいているとは気がつかない",
"そこが馬鹿囃しの馬鹿囃したるところだろう"
],
[
"われわれはいい嗤い者になっているぞ",
"勘定役所の者というとみんなが嘲弄するんだ、しかし返答のしようがないじゃないか",
"たいへんな上役を貰ったものさ"
],
[
"あの娘はわるくはないと思うのだが、お気にいらないですかな",
"――なにかお聞きになったのですか",
"それは聞きました、貴方を萩原へすすめたのは私ですから"
],
[
"これはまだ内密なのですが、和泉殿の松尾というひとをじつはまえから定めていたのです",
"――和泉の、……それはどうも"
],
[
"――松尾という娘は家中の若者たちの渇仰の的になっている、……当人もそれをよく知っていて、それをたいへん誇りに思っている、結婚してからもおそらくその誇りを棄てることはないでしょう、――貴方は現在より敵を多くつくるうえに、家庭でも不愉快な負担に堪えなければならない、それは想像以上だと思うのですがな",
"私はかなり辛抱づよいほうですから"
],
[
"この縁組はあなたが殿さまに懇願なすってむりやりお纒めになったものですのね",
"そうです、殿にお願いするほうが簡単ですからね",
"ひと口に申せば、松尾はあなたの出世の足掛りというわけですわね",
"そうあればいいと思います",
"女がそういう結婚をよろこぶとお思いですか、結婚は一生のものです、そうしてそれは二人の愛情が土台になっていなければならないと思います、愛情もなしに、方便だけで結婚なすって、それで幸福にやってゆけるとお考えになれますか",
"ゆけるだろうと思いますね"
],
[
"結婚に愛情が大切だということはわかりますが、愛情が全部というわけでもないでしょう。また愛情というものは、結婚するまえよりも結婚してから、つまり良人となり妻となってから生れるほうが多いのではありませんか",
"それは動機が不純でないばあいですわ",
"――なるほど"
],
[
"――しかし結婚の条件などというものは、一般にたいてい不純な要素があるものですよ",
"それをがまんできない者もおりますわ"
],
[
"しかしそのほう一人でやってゆけるか、重職を二人ばかり江戸から入れるほうがいいのではないか",
"まだその時期ではないと思います",
"だが歳出切下げはもめるだろうし、役所の技術的な面でも協力者が必要であろう",
"それもどうにかやってゆけると存じます"
],
[
"――現在の状態に触られたくない、このままそっとしていたいという気持なのですから、暫く私だけでじわじわ地取りをし、時をみて少しずつ人を入れたいと思うのです……いま江戸から人を殖やしますと、却ってかれらの不安を大きくし、団結して反対を致しかねません、その機微な点は軽くみてはならないと思います",
"おそらくそのとおりではあろうが"
],
[
"嫁のほうはどうだ。うまくいっているか",
"桃栗は三年、柿は八年、梅は十八年ということを申しますが、御存じでございますか",
"しかしそのなかには松はないようだぞ"
],
[
"貴方は釣りはお好きではないとみえますな",
"いや、そんなことはありません"
],
[
"――まあそれはとにかく、人間に隙があるということはいいものです、弱点も隙もないという人間はつきあいにくいですからな",
"津田さんもお上手ではないようですね"
],
[
"評判では釣りの名手だと聞いていましたが、私に遠慮をなすっているというわけですか",
"いや、上手は釣らぬものですよ"
],
[
"仁義に篤い、温厚な、まことに珍しい人でしたが、貴方にとっても、おそらくいい父親でいらしたろうな",
"――はあ、仰しゃるとおり、いい父でした",
"叱られたり折檻されたようなことがありましたか"
],
[
"――叱られもせず折檻もされないので、却ってもの足りなかったのを覚えています、……相当これで暴れ者だったのですが、なにか失策をすると父は悲しそうに黙ってしまうのです、母は母で泣くだけですから、――これは折檻されるより利きめがありました",
"貴方のあとには御兄弟は生れなかったのですな"
],
[
"できる限りやってみましょう、とにかくお墨付をお下げ願います、たいていうまくゆくと存じますから",
"必要なときはすぐ早(急使)をよこすがよい、なるべく無理はするな"
],
[
"ちょっと聞きたいことがあるんです、そこまで来て貰いたいんですが",
"…………"
],
[
"貴方はあまり愉快じゃないようですね",
"――用件だけ聞こう",
"談合は無用というわけですか"
],
[
"よかろう、こっちもそのほうが好都合だ、われわれはねえ、ずいぶんがまんしてきた、どうせ江戸の人間は軽薄なおっちょこちょいだ、口さきだけの腰抜けだと思っていたからね、――娘たちの前で馬鹿囃しをやってきげんをとったり、出世のために重役と縁をむすんだり、殿にとりいって不正な任免を行なったりするようなことは、恥を知るわれわれにはとうてい出来ない、そんなやつは人間の屑だと思っていたんだが、……おい、聞いているのかい",
"――要点だけにして貰おう、飽きてくる",
"これから飽きのこない話になるさ"
],
[
"それならひと言で済むんだ、こういう問題の片をつける方法は一つしかない、まさか拒みはしないだろうな",
"場所と時刻を聞こう",
"わかりがいいな、所は観音寺山の二本松、時刻は明日の朝六時としよう"
],
[
"あまり曲が美しいので、なんですか胸がいっぱいになってしまいましたの、初めてうかがいましたけれど、なんという曲でございますの",
"――さあ、うろ覚えだからね"
],
[
"湯を浴びたいが支度はいいだろうか",
"はい、わたくしみてまいります"
],
[
"――それで……",
"わたくしお詫びを申さなくてはなりません"
],
[
"かんにんして下さいますの",
"堪忍もなにもない、私も悪かったんだ"
],
[
"そうでございますわ、あなたがお悪いのでございますわ、松尾の気持を察して下さらないのですもの、――いつも平気なお顔で、澄ましていらっしゃるのですもの……なにも仰しゃらずに、黙ってこうして下さればよかったのですわ",
"この木の実はまだ固そうだったからね"
],
[
"こうして下されば、それでようございましたのに、ただこうして下されば、――それがとのがたの役目ではございませんの、……わたくし待っていましたのよ",
"それで明日の今夜になってようやく勇気が出たというのだね",
"わたくし少しも案じておりませんの、さきほどの笛をうかがって、またひとつあなたという方を知ることができました、――里神楽の笛と今宵の曲と、……いいえ決して決してあなたを負かすことはできませんわ"
],
[
"お一人ですか。介添はないんですか",
"――一人だ",
"云うこともまずいさましい"
],
[
"ではやむを得ない、作法を御存じなかったのだろうから、介添はここにいる者の中から、選んであげましょう",
"――そんな必要はないさ"
],
[
"――私は一人でいい",
"しかし自分で勝負の始末はできないでしょう",
"――もうしてあるよ"
],
[
"このあいだ二本松の話をちょっと聞きましたが、そこまでゆかずに、なんとかする法はなかったものですかな",
"――私もいろいろ考えたのですが",
"これでよくなる一面もあろうが、いっそう悪い反面が出て来ると思う、……だいたい刀を抜きたがるような人間は野蛮で愚昧ときまっているので、そこがまた始末に困るのだが、力で負けると次には卑劣な報復をしたがるものですからな",
"――けれども若い者のようすがだいぶ変ってきましたし、役所でもかなり仕事がしやすくなりました",
"慥かにそうのようですな、初めて貴方のねうちがわかったという声もだいぶ聞くようです、だがどうもそこがむずかしいと思うのですよ、貴方に人望が集まってゆくとすると負けた人間はさらに陰険になりそうで……"
],
[
"ときに、お家のほうはうまくいっているそうで、ようございましたな",
"やあどうも、そんなことまでお耳にはいっては",
"いや気にかかっていたものですからな、しかし失礼ですが感服しましたよ、庫田でも萩原でも云っているのですが、このごろはまるで人違いがしたようだそうで、――控えめな、しっとりしたひとになったという、どうかすると顔を赤らめたりなさるそうで、ときどきびっくりすると云っておりました"
],
[
"津田さんは庫田とお知り合なんですか",
"さよう、――まあひところはかなり近しくしていました、このところずっと出仕隠居というかたちで、……誰といって親しい往来は致しませんが、ときに呼ばれたりするものですからな、まあ昔のよしみというわけでしょうが",
"しかしどうしてそんな、出仕隠居などといってひきこもっていらっしゃるんですか"
],
[
"そこもとは浪花屋の手代、嘉平なる者と昵懇であると聞くが、事実であるかどうか",
"――私には近づきはございません",
"浪花屋は大阪に本店のある材木商、当地はその出店であって、数年まえより御山の一手御用を願い出ておった、そこもとはさきごろから手代嘉平と往来し、旗亭などでしばしば会食するという、現にその場を見た者もあるのだが",
"――おそらく人違いでございましょう"
],
[
"――そこもとが手代と会食し、密談するようすを見た者がある、現にその証人がいるのだ",
"では証人に会わせて頂きましょう",
"必要があれば会わせよう、だがそれよりも動かぬ証拠がある"
],
[
"この証書に覚えがあるかどうか",
"――唯今はお答えがなりかねます",
"なぜ返答ができないのか",
"――唯今はお答えができません"
],
[
"心配したんだね、済まなかった",
"――あなた",
"もういいんだ、話は聞いたのだろう",
"はい、――母がまいりまして"
],
[
"こんどの事でなにか聞かなかったか",
"詳しいことは存じませんけれど、母の話ですとお作事奉行の津田さまがなすったということでございます",
"――津田、……作事奉行の――"
],
[
"――まさか、まさかあの人が",
"ほかにも御家老の益山さまの甥に当る方や、三次とか上原とか、そのほか合わせて五人も、若い方たちが共謀なすったとうかがいました",
"――信じかねる、どう考えたって",
"でも津田さまはすっかり自白をなすったそうですわ、すべての指図をし、御自分が奉行所の御判をお捺しになったのですって、母から聞いたのはそれだけですけれど、――浪花屋とか申す商人ともつきあわせて、もうまちがいはないということに定ったそうでございます"
],
[
"風あたりは強いが、辛抱する、そういう手紙が来たろう、あのときみんなで帰って来るぞと話していたんだ、井部や萩原はいつ帰るかということで賭けていたよ",
"――帰りゃしないさ、初めから覚悟していたんだ",
"嫁を貰ったと聞いてあっと思った。ことによると居据るぞという気がしてさ、それからあの決闘の話で肚がよめたんだ、こいつしてやられたよと云って、あのときはわれわれ三人で先輩として大いに飲んだね"
],
[
"決闘の相手は十人以上だったというが、いったいそれだけを相手にしてやれるものなのかね",
"それより嫁を貰わないか、おとなしくて縹緻よしの娘がいるんだ、家柄も悪くない、少し年はいってるが――",
"笈川のお余りというのはいやだぜ"
],
[
"こいつはどうした、斬ったのか",
"脾腹を当てたんだが、肋骨が折れたかもしれない。――よく骨を折らせるやつだ"
],
[
"これから夫人がたのお招きにはわたくし必ず伴れていって頂きましてよ",
"――びっこでもよければね",
"仰しゃいまし、ちょっと足を曳いてお歩きになる姿はずいぶん伊達でございますわ、御自分でもそう思っていらっしゃるのじゃございませんの",
"――悪い口だな、からかってはいけない"
],
[
"これをごらんになって下さいまし",
"――妙な物を持ちだしたな",
"御病気中に庫田さまから頂きましたの",
"――病中って、……寝ているときか",
"お床上げのまえでございます"
],
[
"頂いたときすぐごらんにいれなければいけなかったのですけれど、なんですか不吉なことが起こるように思われまして、どうしても申上げる気持になれませんでしたの、勝手なことを致して申しわけがございません。どうぞおゆるし下さいませ",
"――詫びるほどのことじゃあないが、しかし不吉なことが起こるというのは"
],
[
"――これは津田という人の持物だった",
"庫田さまもそう仰しゃってでした、あの方からあなたへかたみにと云って頼まれたそうでございますの、……あなたがこんなおけがをなすったのも、申せばあの方から出たことですし、わたくしどうしてもごらんにいれる気になれませんでしたの",
"――泣くことはない、それでよかったんだよ",
"いいえ、よくはございませんの、それで済まなかったのです、そのときすぐごらんにいれて、よろこんで頂かなければならなかったのでございますわ"
],
[
"あなたにはお聞かせしてはならない、黙っているように庫田さまから固くお口止めをされましたけれど、どう考えましても申上げずにはいられません、――口止めをされたということをお含みのうえで、聞いて頂けますでしょうか",
"――云ってごらん",
"今日はじめて庫田さまがうちあけて下さいました、津田さまは、あの事件にはなんの関係もなかった、ただあなたの危難をお救いするために、御自分が主謀者だといって自訴なすったということです"
],
[
"――それが事実だとわかっているなら、津田さんを罪にすることは避けられた筈ではないか、裁決までもってゆくためにやむを得なかったのかもしれない、だがそれにしてもなにか方法がある筈じゃないか",
"この仔細を御存じなのは庫田さまお一人でございますの、ほかには誰も知ってはおりません、あの方は罪をお避けにはなりませんでした、――あなたのために、よろこんでお立退きになったそうでございます",
"――おれのために……",
"あの方は、津田さまは、あなたの実のお父さまでいらっしゃいますって"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談雑誌増刊号」博文館
1950(昭和25)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057543",
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[
[
"しみ抜き代ってなんですか、さあ勘弁しませんよ、人の眼のまえで二度も顔を隠したりして、しみ抜き代とはいったいなんのことですか",
"話してやろうか"
],
[
"あら、いしはちっとも構いませんわ",
"いい人に聞えてもか"
],
[
"逃げだしたくなったのか",
"ごいっしょにいたいんですの",
"人違いは一度でたくさんだ"
],
[
"あれからもう二た月になりますわね",
"心中のしそこないか"
],
[
"いや、なんでもない、続けてくれ",
"縁組の裏には八幡屋、島屋、青木の三人連合の契約があるんですね、かれらは外島を勘定奉行か、できれば筆頭年寄に据えて、自分たちの位置を確保しようとしているんです",
"外島には無理だな",
"どうせ操り人形でしょう"
],
[
"それがそうでないんですよ、貴方のために見当がつきかねているようです、進物も賄賂も受取るし、宴会にもどんどん出るし、またあの娘とは浮名が立ちますしね",
"ばかなことを云っちゃいけない"
],
[
"掬水亭のおたけさんかね",
"外島とおいしとのことも彼女が話してくれました、外島というのはいやな奴で、二人のあいだには約束があるだけなんですが、すっかりもう情人気取りで、小遣なんかせびるだけせびっているということです、夫婦になったらさぞ泣かされるだろうと云っていましたよ",
"外島は八幡屋たちに貢がれてるんじゃないのか"
],
[
"おたけ女史は信用できるのか",
"私は浮名は立てませんがね"
],
[
"いつもの癖ってなんだ",
"こういうお顔をなさるわ"
],
[
"いしのいい人もそうするのか",
"いやですわ、どうして話しをおそらしなさいますの",
"おまえが隠してばかりいるからさ"
],
[
"いしは少しもいい人のことを話さないじゃないか",
"だって関わりのないことなんですもの",
"関わりはあるさ"
],
[
"いしが不仕合せだったことなど、おれは知りたくはない、いしはこれまでも仕合せだったし、これからも仕合せであってもらいたいんだ",
"ええ、もちろんです、いしはこのとおり仕合せですわ"
],
[
"――どうして",
"だって、御縁談のほうがそんななら",
"それだけではない、かもしれないじゃないか"
],
[
"しかし、これを表面に出さずに済みますか",
"むずかしいところだね"
],
[
"――どうするんだ",
"二人だけでゆっくりしたいんです、今日はでかけてみんな留守なんです、ねえ、お願いですからうんと仰しゃって"
],
[
"なんだか改ったようで、へんですわね",
"自分でこうしたんじゃないか"
],
[
"あたし今日はほんとのことを云いたいんですけれど、いいでしょうか",
"云わなければならないのか"
],
[
"でもあたし、云えないかしら",
"云わなくってもわかるよ",
"でもあたし云いたいんです"
],
[
"こんな物を取って置いたのか",
"一生持っているつもりでした",
"――返すというのはこれだね",
"持っているとみれんが残りますから"
],
[
"押掛けて来るのはどういう連中だ",
"外島が指揮をするそうで、浪人やならず者が十五、六人ということです"
],
[
"堀はこれから御城代の邸へいってくれ",
"どうします",
"河瀬殿にはお墨付がいっているからわかる筈だ、事情を話して人数を出してもらい、八幡屋、青木、島屋の三人を城中へ護送する。これは町奉行に預けるがいいだろう、それから人数の一部を辻々に配って警戒に当るよう",
"少しやり過ぎはしませんか"
],
[
"今日四時になにがあるかを知っていて、それでおれを呼びだしたんだな、そうなのか",
"――あの人は、あの……"
],
[
"気分はどうだ、なんともないか",
"――ずっと、いて下すったのね"
],
[
"――みんな出ちゃいました",
"残ってるものはないんだね",
"――ええすっかり……からっぽです"
],
[
"風邪なんかひきません、あたし大丈夫です",
"これをひっ掛けるといい"
],
[
"でもあたし、わたくし、とても……",
"いやだというのかい"
],
[
"あのお扇子を返して下さいましね",
"返すよ",
"本当に江戸へゆけますのね",
"もちろんだよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」新潮社
1983(昭和58)年9月25日発行
初出:「サンデー毎日臨時増刊仲秋特別号」毎日新聞出版
1952(昭和27)年10月19日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057539",
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],
[
"世評は根も葉もなしに弘まるものではない、おまえのは理屈でなければ、ことさらに異をたてようとしているのだ",
"兄上さまは松尾をそんな女とおぼしめしですか"
],
[
"こんなのは何処にでもころげている、いたるところの道傍にいくらでもある、形も色も平々凡々でなんの奇もない、しかしよく見るとこいつは実になんともいえずつつましやかだ、みせびらかしもないし気取りもない、人に踏まれ馬に蹴られてもおとなしく黙ってころげている、あるがままにそっくり自分を投げだしている、おれはこの素朴さがたまらなく好きなんだ",
"それはそうでございましょうけれど、ただ素朴だというだけでは、いくら石でも有る甲斐がないのではございませんか"
],
[
"妙な疑いとはどのようなことだ",
"わたくしが故意に義弟へ功名をゆずるのではないか、あからさまにそう申した者もあるくらいです",
"なるほど、そういう見かたもある",
"しかし弾正を討ったのは事実かれでした、弾正ひとりではありません、わたくしが見ただけでもほかに二人鎧武者を仕止めています、おそらくその二人も、木暮弾正がわたくしの手柄として記されたように、誰かほかの者の手柄として功名帳に記されたことでしょう、そして、……当の多田新蔵はこんども兜首ひとつの手柄も記されずにしまったのです、いったいこれはどういうわけでしょうか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「富士」大日本雄辯會講談社
1944(昭和19)年1月号
※「纒」と「纏」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057547",
"作品名": "石ころ",
"作品名読み": "いしころ",
"ソート用読み": "いしころ",
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"初出": "「富士」大日本雄辯會講談社、1944(昭和19)年1月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-07-11T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22",
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"底本名1": "山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜",
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} |
[
[
"そのもとは祝いの席でこのたびの合戦に生きて帰りたいと申したそうだが、それは事実か",
"……はあ、帰りたいとは申しませんが、生きてまいりたいとは申しました",
"それはどういう意味なんだ"
],
[
"およそもののふたる者が戦場に臨む以上、まず生きて還らぬ覚悟をかためるのが第一ではないか、しかもこのたびは味方も敵も決戦を期している、七年にわたるせりあいをこのたびこそ勝って取ろうというのだ、将も兵もない、全軍が命を抛って戦う決意がなくてはならぬ。……そのもとは仮にも二十人頭として、さようなみれんな心得でよいと思うか",
"……はあ"
],
[
"なに、なんだと……",
"いえ、実は……"
],
[
"おお申上げるのを忘れておりましたが、左衛門大夫は病死したらしいという聞きこみがございます",
"……ほう"
],
[
"壕に架けてあるのは大手に見えるあの一つだけだ、あの架橋を落されてはならぬから、まずそこもとの手で押えてくれ",
"承知つかまつりました"
],
[
"おれが切ってやろう",
"お願い申します"
],
[
"少しも気がつきませんでした、申しわけのないことを致しました",
"おれにあやまることがあるか、自分の足だぞ"
],
[
"骨が砕けるときはさぞ痛かったことでございましょう",
"……さあ、どうだかな"
],
[
"それはいま切って捨ててきた足に訊くがいい",
"…………"
],
[
"……あなたは源八の姪だというがそれは嘘でしょう",
"……まあ",
"あなたは東堂の初穂どのだ、そうではないと云えますか"
],
[
"……あなたとの婚約は破談になった。ここへ来られた気持はおよそ察しがつくし、またありがたいとも思うが、武家の作法としてゆるされることではない。お志だけはお受けしますが帰ってください",
"いいえ、……"
],
[
"……あなたはたいそう世間のとり沙汰を気にしているが、いったい箕輪の戦は勝ったのですか負けたのですか",
"…………",
"どう思います、味方は勝ちましたか負けましたか"
],
[
"味方が勝つまでは、もののふはみなすすんで死地にとび込む、そのとき毀誉褒貶を誰が考えるか、将も兵も身命を捨てて戦いぬき、勝利をつかむところが全部だ。……わたくしは片足を失った、それがふたしなみだという噂も聞いている、だが、……こういうことはわたくし一人ではない",
"…………",
"戦場では幾十百人となく討死をする、誰がどう戦ったか、戦いぶりが善かったか悪かったか、そういう評判は必ずおこるものだ、わたくし一人ではない、なかにはそういう評判にものぼらず、その名はもとより骨も残さず死ぬ者さえある、そしてもののふの壮烈さはそこにあるのだ"
],
[
"一年まえから栃木家の嫁だったという、その言葉が本当なら家へ帰ってください",
"でもわたくし……"
],
[
"……足です",
"足とおっしゃいますと",
"この右足を継ぐのです"
],
[
"……片足の不自由な者でも、つまり跛でさえ、りっぱに戦場ではたらいている者が少なくない、現にお身内にも山本勘助という人がいる。うまく継ぎ足ができて修練すれば、案外このからだでもお役に立つかと思う",
"まあ……",
"二年かかるか三年かかるかわからないが、わたくしは必ず戦場へ出るようになってみせます、……初穂どの、そうすれば婚約をもどすことができる、そう思いませんか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「富士」大日本雄辯會講談社
1944(昭和19)年9月号
※表題は底本では、「一人《いちにん》ならじ」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057546",
"作品名": "一人ならじ",
"作品名読み": "いちにんならじ",
"ソート用読み": "いちにんならし",
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"初出": "「富士」大日本雄辯會講談社、1944(昭和19)年9月号",
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"公開日": "2022-07-13T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22",
"没年月日": "1967-02-14",
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"底本名1": "山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜",
"底本出版社名1": "新潮社",
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} |
[
[
"わたくしは兵法家ではございません、教授などという人がましい技は持ちませんので、ただ御城下に住居させ頂く御恩の万分の一にもあいなればと存じ、おのれの分相応にいささかのお役に立ちたい考えだけでございます",
"それで、……わしへの願いと申すのは"
],
[
"草原というと、ただの草原か",
"ただの草原でございます、両町の裏の小川に沿った広い草原でやっております"
],
[
"たずねたいことがある詰所までついてまいれ",
"はっ、仰せではございますが、わたくしは"
],
[
"理由を聞こう、わしは内々、そこもとの教授ぶりも見ておる、そのもとほどの心得を持ちながら、人足をしなければならぬとは不審だ、しかと答弁を承ろう",
"べつに理由と申すほどのことはございません"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1943(昭和18)年12月号
※初出時の表題は「薯粥武士」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057594",
"作品名": "薯粥",
"作品名読み": "いもがゆ",
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"初出": "「講談雑誌」博文館、1943(昭和18)年12月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2022-03-24T00:00:00",
"最終更新日": "2022-02-25T00:00:00",
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"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年10月25日",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"――浅二郎",
"はい",
"今日もまた家中の若い奴等が何か悪さをしたそうではないか"
],
[
"なに、つまらぬ事でござります",
"五郎兵衛が先だって練武堂へ誘い込んだうえ、厭がるものを無理に竹刀を持たせ、さんざんに恥辱を与えたと聞いたが――よく我慢をしてくれたの",
"どう仕りまして"
],
[
"いずれも腕達者の方々、かえって良き勉強をいたしてござります",
"そう思って忍んでくれれば重々じゃ。――馬鹿な奴等めが、深い仔細も知らず、その方がただ商家の出だと云うだけの理由で小意地の悪い事をしおる、ましばらくの辛棒じゃ、よろず堪忍を頼むぞ",
"御心配をお掛け仕り、私こそ申訳ござりませぬ……"
],
[
"時にどうじゃ、娘は気に入ったか",
"……は?",
"娘不由、気に入ったかと申すのじゃ"
],
[
"勿体のうござります、分に過ぎましたお言葉、私こそ御家風に合わぬと",
"はぐらかしてはいかん――浅二郎"
],
[
"はい、――よく、承知いたしております",
"そうか、分っているならいい"
],
[
"――それは又……",
"何も申すな、わしの計いじゃ、行け"
],
[
"これはどうした訳でござります",
"私は知らないのです……",
"お言葉にお気をつけ遊ばせ!"
],
[
"――気をつけましょう",
"貴方は父に何を仰有いました"
],
[
"別に何も申した覚えは……",
"ない事はございますまい。貴方が仰有らないでこんな事になる筈がありませぬ、武辺一徹の父に、――夫婦の閨の事など察せられると思いますか",
"実際のところ知らないのです"
],
[
"改めて申上げるまでもありませぬが、例え父の申付で祝言こそ挙げたれ、わたくしには心を許せぬ方に身を任す事などできませぬ――お分りでございましょうね",
"御意のままに……",
"父上に仰有らぬと云うならそれ迄です、わたくしはあちらで寝みますから――"
],
[
"この上は是非がござりませぬ、京の岡田寒泉先生に御助力を願ったらと存じまするが",
"肯くであろうか",
"お上には昌平黌にて教えをお受け遊ばした間柄、必ず御尽力くださろうかと存じます"
],
[
"なんだ商人上りの算盤才子が",
"恐らく金の力で押掛け婿を極込んだのであろ",
"あんな生白い奴に御槍奉行の跡目を継がせるとは四国武士の恥辱だ",
"構わぬから居堪らぬようにしてやれ"
],
[
"しかしあの不由、……京にも稀なあの美しさのどこに、あんな烈しい気性が隠れているのだろう。あの冷たい眼の底に時々ひらめく火花のような光は何だ――? この頃どうかするとおれは、あの眼の色が頭について忘れられなくなってきた。不思議な娘だ……",
"浅二郎――"
],
[
"はい",
"不由は居るか"
],
[
"お静かに願います、いまよく睡ったところでござりますから",
"そうか、――冷えるのう"
],
[
"もうこれ霜月十日、山屋の仕切日まで余すところ僅かとなっている。もう何とか方策が建ったであろう",
"は、いましばらく、――",
"しばらくしばらくと云って何をしているのか、聞けば六十余日になる今日までろくろく書類も検めず、ただ書庫へ入って御家譜の繙読のみいたしておるそうだが、――埋蔵金の記録でも捜出そうと云うのか"
],
[
"どうだ妙案が建ったか",
"今日こそ待兼ねたがどうした",
"もう幾十日しかないぞ"
],
[
"は、どうやらできそうにござります",
"なにできると云うか"
],
[
"してその法は――?",
"改めて申上げるほどの事でもござりませぬ、時が参れば自然とお分り遊ばしましょう、どうぞ私にお任せくださるよう",
"だが――大丈夫であろうな",
"さよう思召しください"
],
[
"待てと云うに貴様聾か!",
"どなたでござる"
],
[
"はい、どうやら御改革の案が建ちましたので、昨夜その試案を練ってみました",
"ほう、いよいよできたか"
],
[
"多分うまく参ろうかと存じます。就きましては、当分のあいだ御城内に留らねばならぬかと存じまするゆえ、さよう御承知置きください",
"おおいいとも、大事の際じゃ、留守は源兵衛が引受けるで充分にやってこい",
"忝のうございます"
],
[
"――何か用かの",
"御登城早速ながら、お上へお目通り仰付けられたく、お願い申上げまする",
"お目通りの筋は何じゃ",
"かねてお申付に与りましたる件、ようやく落着仕りましたゆえ、ただ今より御披露申上げたいと存じまする",
"そうか、できたか"
],
[
"当藩財政の改革に当って数々の尽力、過分に思うぞ",
"は、は――",
"直答許す、仔細申述べよ"
],
[
"お言葉に甘え御直答申上げまする、何分にも無能鈍才の私、このたびの大役とうてい勤まるところにはござりませぬ。蟹は蟹なりに穴の掘りよう、お叱りを受けるは必定かと存じまするが、裁量お任せに与りましたるゆえ、下根の窮策を御覧に入れまする",
"辞儀は申すに及ばぬ、聞こう",
"は、恐れながら、あれを御覧くださりませ"
],
[
"見馴れぬ物だが、何じゃ",
"御改革に入用の金十万両、御蔵入れ前に御披露申上げまする",
"なに、――十万両、とな"
],
[
"恐入りまするお言葉、私より言上仕るは憚りに存じまするゆえ、御家譜のうち慶長十五年七月八日の条を御覧くださいまするよう、必ず御了解遊ばすことと存じまする",
"さようか、すぐに披見しよう",
"金十万両にては充分と申す訳には参りませぬが、一応は善後の処置がつこうかと存ぜられまする、――就きましては"
],
[
"これに、――御藩政の内改廃すべき箇条を調べ上げ、僭越ながら愚案を認めおきましたれば、御老職に於て御検討御取捨のうえ十万両の配分よろしくお願い申上げまする、――半月足らずの早急の調べにて、もとより首尾整いませぬが、多少ともお役に立ちますれば面目至極に存じ奉りまする",
"予も見たい、預り置くぞ",
"御眼を汚し恐入りまする"
],
[
"さすがに寒泉先生の推薦だけあって、商家育ちとは思えぬあっぱれの働き、高信満足に思うぞ、――追って沙汰するまで登城に及ばぬ、帰ってゆるりと休養せい",
"は、は――"
],
[
"何と云う――?",
"ここにその仔細がござります。即ち、――難波屋の祖先は慶長の頃、御宗祖丹後守高次公の御愛臣にて島田重左衛門と申す者にございましたが、故あって慶長十五年七月、高次公より五千金を拝領のうえ武士を廃め、大阪に出て唐船物売買を始めたとござります、今日難波屋が巨万の富を擁するにいたりましたも、原を訊せば御当家の御恩顧。――寒泉先生には如何にしてかこの事実を御承知にて、浅二郎を選んだものと存じまする",
"うーむ"
],
[
"御老職まで、即刻お渡し申上げるよう、矢走浅二郎殿より御書面にござります",
"浅二郎が書面――?"
],
[
"――どうした事じゃ",
"理由は申しておらず、このまま退国するとのことにござります",
"いかん、ただちに使者をやって止めろ"
],
[
"これにてお召出しに与りましたお役目、どうやら無事に果しましてござりますが、就ては舅上に改めてお願いがござります",
"よいとも、何なりと望め"
],
[
"きっとお協えくださいまするか",
"よいから申してみろ、何が望みだ",
"私を離別して頂きとう存じまする"
],
[
"な、何じゃ、離別……離別とは――",
"一度御当家の姓を汚しましたも、ただこのたびのお役を勤めるための方便、卑しい町人の分際にてお歴々の跡目に直るなど以ての外の事――それは初めより存念になき事でござりました",
"そ、そんな馬鹿な事があって堪るか、それでは娘はどうなるのだ、娘は",
"お嬢さまは清浄無垢にござります",
"――――う……む"
],
[
"御承知くださいまするか",
"そうでもあろうが、考え直してくれる訳にはいかぬか、娘が不所存者ゆえ親のわしまで面目ない、――もしよかったら改めてよそから嫁を迎えても",
"いやいや、ただ今も申す通り、お役目を果すだけのために参りました私、もはやここに留る要がござりませぬ、お上へも既にお暇願いを差上げましたれば、ぜひとも御離別を願いまする",
"殿へもお暇を願ったと……?"
],
[
"御承知くださいまするな",
"――――",
"では早急ながら支度がござりますゆえ"
],
[
"様子は次間にいて伺いました、大阪へお帰り遊ばすとのことでござりますが、それなればわたくしもお伴れくださいませ",
"――それは、何故でござるか",
"わたくしは貴方様の妻、妻は良人に従うが道でござります、――それに貴方様はいまわたくしを清浄無垢と仰せられましたが、わたくしはもはや身籠っておりまする"
],
[
"例え閨は共にせずとも、夫婦して同じ家の内に棲めば良人の気が籠って妻は身籠ると、――下世話にも申してござりまする",
"や、や――うまいぞ!"
],
[
"うまいぞ娘、同じ家におれば、ひとつ寝せずとも男の気が籠って懐妊するか、あっぱれだ、よくそこへ気がついた、浅二郎こいつは道理だぞ",
"しかしそれは余りに",
"余りもくそもあるか、娘の口から身籠ったと申すものを、今更知らぬとは云わさぬ。もう金輪際放さぬからそう思え。わっははははは際どいところで軍配は娘にあがったな、うまい処を掴みおった、いや実にあっぱれだ、女の智恵も馬鹿にはできぬ、見ろ、浅二郎が眼をぱちぱちさせている、わっははははは"
],
[
"不由は半月もまえから、貴方様のお閨を守って、淋しくお帰りを待っておりました。これからは良い妻になりまする、どうぞお見捨て遊ばさずに",
"――不由どの"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「婦人倶樂部」大日本雄辯會講談社
1936(昭和11)年11月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057538",
"作品名": "入婿十万両",
"作品名読み": "いりむこじゅうまんりょう",
"ソート用読み": "いりむこしゆうまんりよう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「婦人倶樂部」大日本雄辯會講談社 、1936(昭和11)年11月号",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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} |
[
[
"なんて仰しゃったの",
"竿をどうも有難う"
],
[
"おまえの小さいときからの名が知りたいんだ",
"いや、笑うから",
"云ってごらん"
],
[
"どうしてもだめなのか",
"お願いよ、そんなお顔をなさらないで、あたしを困らせないでちょうだい"
],
[
"どうしても、――",
"どうしてもだ"
],
[
"それはどういう意味だ",
"わからないわ",
"そんな心配があるのか"
],
[
"ねえ、もう少し待って下さらない、もう少し、――秋になるまで",
"同じことだ",
"もう少し待って下されば、すっかりいいようにしてお逢いしますわ"
],
[
"ええ、そうしましょう",
"いま此処できめてくれ、どこがいい"
],
[
"よければ舟で網をうって、捕った魚を舟の中で喰べることもできますわ",
"池の魚をか"
],
[
"むかしから知ってるんだな",
"小さいじぶん父や母たちとよく来ましたわ",
"ただこのじぶんか",
"ええ、ただこのじぶん"
],
[
"それで手のほうが先になるのね",
"手が届きさえすればね"
],
[
"そうらしいな",
"うちへ帰ってなんて云うかしら",
"黙ってるだろうね"
],
[
"自分でゆく、おまえは来るな",
"それでも、あの"
],
[
"そのおまえをよして下さい、わたくしまだ藤江内蔵允の妻ですから",
"父の妻だって",
"そして義理にもよ、あなたにとっては母の筈よ",
"このおれの母、――その汚らわしい女がか"
],
[
"その言葉をそのまま信じろというのか",
"わたくしがいなくなればお父さまはほっとなさいます"
],
[
"それがあなたの本音ね",
"なんだって、――"
],
[
"あなたはわたくしをお責めになるの",
"おまえは断わることができた筈だ"
],
[
"あの男のためにと云わないのか",
"あなたのためよ、あの方には関係はありません"
],
[
"あなたはずっとわたくしにつきまとっていました、自分で父の妻になってくれと頼みながら、わたくしが藤江家に嫁いで来てからも諦めることができない、一日じゅう暇さえあればつきまとっている、お父さまに気づかれてはいけないと思って、それでわたくしこっちへ移ったんです",
"そんなことは嘘だ、おまえのでたらめだ"
],
[
"云いたいことを云え、だが、――この家からは決して出さないぞ",
"そこをとおして下さい",
"出してやるものか、断じてだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「講談倶楽部」博文館
1954(昭和29)年8月号
※初出時の表題は「美女ヶ淵」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"おらあ旦那のこたア覚えてる、嘘アつかねえ、ちゃんと覚えてるよ、男は哀れなもんだッてね……旦那はそう云った",
"それはおまえの云ったことだろう",
"へっ、御冗談、ふざけちゃアいけねえ"
],
[
"へえ、まっぴらだよ、なにょウぬかしゃアがる、けつでもくらえだ、……べらぼうめ、女がなんだ、嬶がなんだッてんで",
"お客さん、あたい買っと呉れよ"
],
[
"これを持って帰りな、おじさんは意気地なしでだめなんだ",
"ふん、きれエみたいなことを云うわね"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1950(昭和25)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057563",
"作品名": "嘘アつかねえ",
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"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1950(昭和25)年12月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2020-11-13T00:00:00",
"最終更新日": "2020-10-28T00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年11月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年11月25日",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年11月25日",
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} |
[
[
"まだおめえ生きていただか",
"生きてただよ、おらこのとおり、ちゃんと生きてるだよ"
],
[
"善太のところのお花は、達者かね",
"花っ子は死んだだよ、旦那は花っ子を知ってるだね"
],
[
"死んでっから七年くれえ経つか、孫の亀がじきに嫁を貰うだよ",
"おそで、後家の娘はえ、なんとかいったっけ、すが眼でまるっこい躯つきのよ、うう",
"あやっ子のことかえ",
"そうよほんに、あやっていう名だっけ",
"あれも死んだだ、あれはよっぽどめえのこんだ、もう二十年も経つべえかね、忘れるくれえ昔のこんだ、旦那は娘っ子をいろいろ知ってるだね",
"すると"
],
[
"すると、その、黒門のお登女さまも、亡くなっただか",
"どのお登女さまのことをいうだ",
"どのといって、お登女さまは一人っきりじゃねえかえ",
"お登女さまは今でもござるだよ、けれどもいまのお登女さまのおふくろさまも名めえは同じだし、そのめえのおふくろさまもお登女さまといっただ、黒門じゃ代々お登女さまっていうだよ",
"そうだっけ、ほんに"
],
[
"杉谷の大先生のとけえよ、もしかそうなら黒門へ寄んなさるがいいだ、大先生は四五日めえから黒門へお客にござって、まだ二三日は黒門にござらっしゃるだよ",
"大先生って、なんの先生だえ",
"おうれこれは"
],
[
"おうれまたこれは、大先生ってばちょうゐ斎先生でねえか、剣術の大名人で神さまといわれるくれえの人だに、旦那はへえ知らねえつうだかえ",
"おらが知るかさ"
],
[
"ふん、つまらねえ",
"つまらなかねえだ、ちょうゐ斎先生は剣術の神さまみてえに偉えだよ、あんまり偉えだで、世間がうるさくってなんねえ、人が放っておかねえだで、あんまりうるさくってなんねえから、この山ん中へ逃げて来さしっただよ"
],
[
"そこにゃあなんにもねえだよ、ゆき止りでぬけ道はねえだによ",
"家へゆくだよ"
],
[
"おら自分の家へ帰るだよ",
"家へ帰るだって"
],
[
"そうよ、おらくる眼の杢助よ",
"へえたまげた、なんちゅうこんだ、ほんにおぬしは杢助だに",
"そうよ、おらこのとおり杢助よ",
"するとおぬしゃ、帰って来ただな",
"おら帰って来たのよ"
],
[
"大坂方のなんとかいう大将が首をぶたれたときによ",
"大坂方の大将がどうしただって",
"京の河原で首をぶたれただよ"
],
[
"しゃっと、いやな音がして、それから首のぶっ飛んだあとから、まっ赤なあれが一丈も噴きあがっただ、びゅうっとよ、一丈の余もあったっけか、ほんとによ、そのときおらくる眼を起こしただあ",
"するとおめえはいくさにんになっただかえ",
"おらがいくさにんになったかって"
],
[
"お登女さまがあんなに云ってるだに、黒門へゆけば安楽に暮せるだによ、どうかおめえ、いってくろよ杢助",
"あの大先生て人はなんて名めえだって",
"お登女さまは生涯不自由させねえって仰しゃってるだ、おめえはあの隠居所におさまって、好きな物を食って、暑さ寒さの心配もなくやってゆけるだよ、こんなにひっ傾がった穴だらけのぼろ家にいるのとは、お星さまと土竜よりえれえちげえだに、なあよ、おめえいってくろよ杢助",
"あの剣術の先生はなんていう名だって",
"お登女さまは大先生にゃ飽きちまっただ、向うから来ればお客にゃするだが、もうすっかり飽きちまってるだ、それに、初めっからそれほど気にいってござったじゃねえだよ"
],
[
"また大先生にしたってよそから修業者が来るだで、そうそう黒門にばかりはいられねえのさ",
"その人はなんて名めえだってきいてるだ",
"名めえだって、名めえはちょうゐ斎っちゅうだ、飯篠ちょうゐ斎ってよ、天下にその名を知らねえ者はねえっちゅうこんだに",
"ふん、つまらねえ"
],
[
"そんな偉え人間が、なんでこんな山奥なんぞへ来ているだ",
"遁世して来さしっただって、云ったじゃねえかえ、世間があんまり先生さまだ、名人さまだって騒ぐし、お大名方はてんでに召抱えようとって血まなこになるし、御自分はもう年をとって、そんな俗なことにゃ飽き飽きしちまっただし、それでおめえ、この山ん中へ逃げてござったっちゅうこんだ",
"その人が自分でそう云っただかえ",
"しぜんにわかっただよ"
],
[
"おめえらにゃ縁もゆかりもねえ、そんな剣術つかいの先生にでも、ど偉え名人だって聞けば只で米味噌をはこぶだ、それこそ、十里二十里さきまで出作りをして、血と汗の固まりみてえな米味噌をよ、……やっぱりおら帰って来てよかっただ、此処はいい土地だし、おめえらはそんなに好い人間だでなあ",
"黒門へいけばもっと安楽だに、黒門へいけばよ",
"つまらねえ"
],
[
"黒門で喰べる米味噌はおめえらが作ったもんだ、黒門でおめえらからとりあげた物を、おらがまた貰って食うなんて芸のねえこった、おらじかにおめえらから貰って食うだよ、おめえらはずぬけた好い人間だし、おら面倒なこた嫌えだでよ",
"おうれまた"
],
[
"ここの杢助はもう白髪の爺さまだっつうに、おめえら毎日なんの用があって来るだ",
"おんだらは来る用があるだよ"
],
[
"おめえはただむだ話しをするか、はねてみせるほかに能はねえだ、そのうす汚ねえ恰好でよ、杢助さまの邪魔をするほかに能はねえだに、おんだらは掃除もするし洗濯もするし、煮炊きのお世話もするだ、誰かがしねえばなんねえだでしに来るだわさ",
"このあまっ子ども、ばあさまらとおんなしだ"
],
[
"おめえらのばあさまも、こんなふうに杢助につきまとって、しんから杢助をうんざりさせただ、杢助はこんな爺さまになって帰って来ただに、おめえらはまたうるさくつきまとって杢助をうんざりさせる気だつうのか",
"そんなこと心配しねえで、おめえは三つ沢の湯小屋の番でもするがいいだ"
],
[
"杢助さまがうんざりするかしねえかは杢助さまが知ってござるわさ",
"おうよ、杢助さまが知ってござるだよ"
],
[
"杢助さまよ、岩魚を持って来ただよ",
"おら米を五升持って来ただわさ",
"おんだらが今朝早く曲り瀬で捕っただ、七寸もある肥えた岩魚だに、みんなで五尾あるだによ",
"おらが自分で搗いた米だでな、ほんによ、おらが自分で搗いただから"
],
[
"そのほうは他国でもしていて、帰ってまいったのか",
"そうよ、おら帰って来ただ"
],
[
"帰ってから五六日になるだよ",
"すると、五六日まえだとすると、その方くる眼の杢助という者ではないか"
],
[
"わしはその、飯篠長威斎という者であるが",
"聞いただよ"
],
[
"残念なのは修業者の来ることだ、わしは世捨て人じゃ、俗世の名利をきれいに捨てて来たのじゃ、山中に身を隠して、誰にも知られず余生を楽しみたい、できれば神仙に化したいと思っておる",
"おら知ってるだよ"
],
[
"ほかにも似たようなことを云う人に会ったことがあるだよ",
"似たような者、ほう、それは殊勝なことであるな",
"その人はおらに酒を飲ましてくれただ、伏見の城下町のことだっけが"
],
[
"その人も云ってただ、おら世の中に飽きはてた、人間どもの俗悪さにあいそが尽きた、おら名も要らねえし金も要らねえ、出世もしたかあねえ、こうやって名もねえ人間になって、無一物で、誰にも知れねえように巷を放浪して、そうしてどこかでおっ死ぬが望みだってよ",
"それは殊勝なことを聞くものだ",
"その人はそう云ってただよ"
],
[
"そう云ってただが、宿の表には自分の名を書いた大きな看板を出して置いただ、天下の豪傑荒川熊蔵の宿所ってよ",
"ほう、荒川熊蔵とな",
"それから酔っぱらうといつも喚きたてるだ、うぬらこの虫けらども、天下の豪傑を知らねえっつうか、荒川熊蔵を知らねえだか、この人間の屑の下司野郎めら、おら荒川熊蔵だぞう、ってよ"
],
[
"痩せたりといえども飯篠長威斎、山城守直家はそんな人間ではない、わしは慥かに名利を捨てて来たし、現にこのとおり山中に隠棲し、その方などと閑談を楽しんでおる、誰が見ても無慾恬淡な老農夫ではないか",
"それはおまえさんがそう思うだけだよ",
"一個無名の村夫子ではないか",
"おまえさんは名無しでもねえし、百姓爺いでもねえ、おまえさんが飯篠ちょうゐ斎さまだってこたあ村じゅうの者が知ってるし、よそから武者修業も来るそうでねえかえ",
"そこのところは、そこはわかってくれると思うが、わしとしてもじつに迷惑しておる、剣の道は神聖であって、遠路をいとわず教えを乞いに来たとなれば、道の精神からして拒むわけにはゆかない",
"そうだとも、そら教えてやるがいいだよ",
"いやそうじゃない、待ってくれ、わしは遁世しておる、わしは静閑でありたい"
],
[
"いかに神聖な道のためとはいえ、もはや疲れもし、飽きてもきた、幸いこのところ一人もおらぬが、季節がよくなってまいったで、そろそろまた修業者が来るであろう、しかしもう御免じゃ、今年こそもう断じて教授はしない",
"できればいいだがねえ",
"断じてじゃ"
],
[
"そしてしんじつ隠者になって、心しずかに神仙の道をまなぼうと思う",
"それができればなあよ"
],
[
"杉谷の長威斎先生の御草庵へまいりたいのだが、この道を登ってまいってよいであろうか",
"大先生のとけえゆくだって"
],
[
"おいでにならぬ",
"…………",
"いらっしゃらねえだ、おとついまではござっただがねえ"
],
[
"あんまり武者修業が来てうるせい、これじゃ遁世が遁世にならねえってよ、えらくぷりぷりしてござったっけが、おとついの朝がた、どっかへ突っ走っちめえなすっただよ",
"それは事実であろうな",
"おらが証人だあ"
],
[
"わしは、道の良心が咎める、わしはこの道の神の罰が怖ろしい",
"呼び返すかね",
"あの男はどこまでもわしを捜し歩くだろう",
"呼べば聞えるだよ",
"草に寝、石を枕にし、山々谷々、悪獣毒蛇をものともせず、ただ剣の道の秘奥をさぐるために、わしを求めて遍歴するだろう",
"呼び返すがいいだよ"
],
[
"罰なんぞどうでも、自分のにんきの高いのを自分で見ているのは悪い気持じゃねえし、それについて蔭口をきく者もありゃしねえだ、ただおまえさん独りでいろいろ感ぐってるだけだに",
"――こうするか"
],
[
"その方に頼みがある",
"――へえ、おらにかえ",
"その方わしの身代りになってくれ",
"おうれ、また",
"こういうわけだ"
],
[
"いま見たように、修業者はどこまでもわしを追って来る、どんな処へ隠れても、かれらはきっと捜し当てるだろう、そこでだ、いまその方が杉谷の庭掃きをしていたというのを聞いて思いついたのであるが、そのほうが長威斎に成って杉谷におれば、わしはもう修業者につけまわされることはない、安心して好きなところへゆけるし、煙霞の中で静かに行い澄ますこともできる",
"そらだめだよ"
],
[
"それあ悪い思案じゃねえが、だめだよ",
"どこがどうだめだというのか",
"どこもなにも、おまえさんは大先生だ、神さまみてえに強い剣術つけえだに、おら薪ざっぽ一つふりまわすこともできねえ、そらおまえさんむちゃなこんだよ",
"いや、そのことなら心配は無用"
],
[
"うう、そのなんとかという、その伝授とかいうことは、いってえどうなるだね",
"それは修業者自身の問題である、道の秘奥というものは譬えようのないものであって、能力のある者は教えずとも会得するし、その能力のない者は終生やってもだめなものだ",
"だとすれば、どうしてまたわざわざおまえさんのとけえやって来るだね"
],
[
"つまり鰯の頭も信心というやつかね",
"たわけたことを云ってはいけない"
],
[
"ひと口に申すと、長威斎のもとで会得したとなれば、それでもう達人として天下に通用するし、仕官をするばあいにも食禄の高がちがう、などということはそのほうの知ったことではない、そのほうはわしの代りに草庵へいって、勝手気儘に楽寝をしておればよいのだ、わしはしんじつ遁世をしたいのだし、そのほうにとっても誂えたような役ではないか",
"おらが怠け者だつうことかえ",
"わしはまず村の者に云おう"
],
[
"まことの長威斎は杢助その人である、わしは門人であって、先生の草庵をいとなむため、先に杉谷へ来ていたのである、なにを隠そう杢助こそ山城守直家……なにを笑うか、村の山猿どもを云いくるめるくらいの弁舌がこのわしにないとでも思うのか",
"おら笑やしねえだ、笑いたくもねえだよ"
],
[
"それに、おまえさんがそこまでお膳立てをしてくれるつうなら、ためしにやってみてもいいと思うだ、そう思うだが、間違っても災難ごとなんぞ起こりやしねえだべえな",
"そんなことはない、そんなことはある道理がない"
],
[
"そういう修業者が来たら、この木剣と立合えと云うがよい、おそらく打込むことはできない筈である",
"まじないでもしてあるだね"
],
[
"ぜんてえ先生は、おんだらの祖母さまたちの誰と本当に寝ただえ、お花ばあかえ",
"お梅ばあもお綾ばあも、おんだらんとこの祖母さまも、どこのええ(家)の祖母さまも云ってただ、内証のこんだがおらあの人と寝ただってよ",
"みんな嘘っぱちよ"
],
[
"きいて頂けますでしょうか",
"――なんだや",
"あの娘たちの来るのを禁じて戴きたいのです",
"――どうしてだや",
"御存じの如くわれわれは専心不乱、剣道の奥義を会得するために念々修業しております、しかるにあの娘たちは淫卑猥雑、けがらわしき言動を以てわれわれを悩まし、神聖なる草庵を汚涜いたします、かようなありさまでは修業の妨げになりまするし、元来かかる道場へ女どもを近よせることが如何かと存じます、どうか今後は固く出入りを禁じて戴きたいのです"
],
[
"いってえ卵ちゅうもんはなにが産むだね",
"それは申すまでもなく"
],
[
"むろん牝鶏が生みます",
"じゃあおめえはどうだ、うう、おめえはなにから生れて来ただえ、木の股かえ",
"もちろん母親からでございます"
],
[
"――そのおふくろさまは、女かえ男かえ",
"むろん女でございます",
"それでその、おふくろさまもやっぱり、おめえにはけがらわしいだか",
"なにを仰しゃいますか"
],
[
"人間と生れて仮にも母親をけがらわしいと思う者があるわけはございません、私にとっては母上は神聖冒すべからざるものです",
"あの娘らもおんなしださ"
],
[
"此処にゃそんな者はいねえだ、それやおまえさんの聞き間違えだよ",
"おお、正しくこれは飯篠先生"
],
[
"じつは、金沢城に大事出来、ぜひとも先生の御助力があおぎたく、領主の命により押して参上つかまつりました",
"違うだっつうに、おら長威斎でも先生でもねえだ、ほんのことくる眼の杢助つう者だに",
"まず仔細をお聞き下さい"
],
[
"先生におかれても領内に御草庵をいとなまれます以上、かかる大事をよもやおみすごしはなされますまい、仮にいやだと仰せられても、てまえ役目として無理にもお迎え申さずにはおかぬ覚悟でございます",
"おらなんべんも云うだ、おら長威斎じゃねえだよ"
],
[
"このたびは御本城よりのお召し、御名誉なことでございます",
"先生のお腕前なら悪豪傑などはひと捻り、ちょっと摘んで捨てるくらいのものでございましょう、どうぞ御武運めでたくお帰りあそばすよう、そしてわたくしが、これまでと同じように、心からお待ち申していることをお忘れ下さいませぬように",
"先生しっかりやってくんろよ"
],
[
"その悪い野郎の手足をぶっ挫いて、首ったまをひっこ抜いてやるがいいだ、皮をひん剥いて土産に持って来てくんろえ",
"そうだ、身の皮をひん剥いて来てくろ"
],
[
"自分は飯篠長威斎である、御領主、加賀守侯に面会したい、早速そう取次ぐように",
"なんだって、飯篠なんというって",
"飯篠長威斎、山城守直家である",
"おい、妙な気違いが来たぞ"
],
[
"こいつ飯篠長威斎だとよ、先生の評判を聞いて気でも狂ったんだろう",
"いや自分は狂気はしない"
],
[
"そのほうの申す評判を聞いたからまいったのだ、自分が正真正銘の長威斎、城中にいるのはくる眼の杢助というにせ者である",
"ほほう"
],
[
"それでいったい、どうしようというのかい",
"これは私利私慾ではない"
],
[
"わしはすでに遁世の身であり、俗世の名利を捨てておる、自分の名声や利益などは問題ではない、けれどもじゃ、にせ者もにせ者、くる眼の杢助などという愚か者が、飯篠長威斎の名をなのるのに、誰ひとりこれを看破することができず、まことの長威斎と信じてもてはやすということでは黙ってはいられない、これはすなわち剣の道の神聖を涜し、武道の正真を嘲弄するものであって",
"なんだなんだ、その爺いはなんだ"
],
[
"決して名利のためではない、ただ剣の道の神聖を守るがために",
"まさに気違いだ"
],
[
"ゆけゆけこの爺い、まごまごするとひっ捉まえてお堀の中へ叩き込むぞ",
"無礼者、なにを申すか無礼者",
"うるさいな"
],
[
"先生はもう杉谷へお帰りになった",
"文句があるなら杉谷へいって、じかに先生に申上げたらいいだろう",
"わしはあんな者は問題にしない"
],
[
"大阪へでもまいったら求められるのでしょうが、よろしかったら雪のこないうちに、私どものうち誰かいって来ることに致しましょう",
"心配はいらねえだよ"
],
[
"有ればのむだが無ければねえでいいだよ、うう、めんどくせえでな、それにゃ及ばねえだよ",
"しかしいってまいるのは私どもでございますから",
"おんなしこったに、たとえおめえらがいって来るにしろ、めんどくせえこたあやっぱりめんどくせえでねえ、おら他人がやるにしろ、めんどくせえこたあでえ嫌えだに"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」新潮社
1983(昭和58)年9月25日発行
初出:「週刊朝日涼風読物号」朝日新聞出版
1952(昭和27)年6月
※表題は底本では、「似而非《えせ》物語」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057565",
"作品名": "似而非物語",
"作品名読み": "えせものがたり",
"ソート用読み": "えせものかたり",
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"原題": "",
"初出": "「週刊朝日涼風読物号」朝日新聞出版、1952(昭和27)年6月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-09-24T00:00:00",
"最終更新日": "2021-08-28T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57565.html",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語",
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"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年9月25日",
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} |
[
[
"あたしをいっしょに伴れていって",
"だめです、私たちはすぐに捉まってしまいます、いっしょにゆけたらいいのだが、街道は一つしかないし、河見家の声がかかれば半日と経たないまに道を塞がれます"
],
[
"でもいつかはくにへ帰るんでしょ",
"いつかはね",
"それで越重の若旦那をふってるの"
],
[
"池はないけれどね",
"ずっと昔そこで、お玉という人が茶をたてて往来の人にすすめ、それでくらしていた、ということを聞きましたの"
],
[
"いや、この話は陰気だからよしたほうがいいだろう、おまえさんにもあと味が悪いだろうからな",
"半分うかがっただけでは却って気になりますわ"
],
[
"私はあやまってもらうために来たんじゃありません",
"わけを申上げます、聞いて下さいますか"
],
[
"それはあなたが十五のとしだったと云いましたね",
"約束をして別れたのは二年あとで、あたしは十七、あの人は十九になっていました"
],
[
"しかし事情をはっきりさせなければ、世間の噂を止めることはできませんよ",
"あたしがいなくなってもでしょうか",
"いなくなるとは",
"どこかよそへいってしまえば、噂もしぜんに消えると思いますけれど"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1961(昭和36)年9月~10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「野だて[#「野だて」に傍点]」と「野だて[#「だて」に傍点]」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057561",
"作品名": "榎物語",
"作品名読み": "えのきものがたり",
"ソート用読み": "えのきものかたり",
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"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1961(昭和36)年9月~10月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2022-10-23T00:00:00",
"最終更新日": "2022-09-26T00:00:00",
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"名": "周五郎",
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"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう",
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"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年6月25日",
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} |
[
[
"それ、お手紙なのでしょ",
"そうです、ひと口にいえば艶書です。もっとも書いてある文句を信ずればですがね"
],
[
"向こうでは待てないっておっしゃるし、兄もしつこくゆけって云うものですから、とうとう承知してしまいましたの",
"ではまもなく祝言ですね"
],
[
"――お呼びになったのはそのことですの",
"ええ、まあ、――そうです"
],
[
"ここには本当に水しかないんですが、茶をいれて来ましょうか",
"そいつを頼もう、茶のほうがいい"
],
[
"すまないが在々をまわるついでに、これだけのことを調べてくれないか、費用はおれが持つよ",
"いや、そんなものはいりません"
],
[
"その筆記の中にはさまっていたんだ",
"お読みになったんですか"
],
[
"病気をなすってるんですって",
"秋になったら林田の温泉へでもやってやろうと思うんですがね、躯の弱い女房なんて持つもんじゃない、本当ですよ、子供も生めないとなると問題ですからね"
],
[
"いいえ、叔母たまはいらっしゃらないわ",
"たあちゃんは叔母さまの家へゆかないの"
],
[
"彼ら(というのは現重職の一部だが)、彼らはおれのねらっているものに気づいた、ばかなはなしさ、おれはほぼ十年まえから工作している、出さんに頼んだ調査もその中に含まれているし、三十二というこの年まで結婚しないのもそのためさ、ところが彼らは今になって気がついた、そうしてあわて――たんだろう、おれを年寄肝入に据えようと企らんだ、冗談じゃない、ここへ来て、そんな手にはめられてたまるもんか、おれは先手を打って、病気退職の願いを出したというわけさ",
"よくお許しがありましたね"
],
[
"つまり城代家老就任ですね",
"そして岸島出三郎は郡奉行だ",
"――なんですって",
"出さんが郡奉行だというのさ"
],
[
"帰るんですって",
"大目付と町奉行が来る、あとのことがあるからここでかかりあいになってはまずいんだ"
],
[
"来ることがわかるようにしてですか",
"筒抜けの筋があるのさ"
],
[
"城代家老はだめだったんですか",
"この夏だ、殿が在国ちゅうではまずいんでね",
"それはまたどうしてです"
],
[
"あら、あなた御存じなかったの",
"知りませんとも",
"笠井家を離縁されて戻ってから、ずっと寝ついていらしったんですよ"
],
[
"それも知らなかったの、まあいやだ",
"いつです、それは"
],
[
"私は今日まで知らなかったのだが、笠井と不縁になったんだそうですね",
"はい、去年の六月でございました",
"なにが原因ですか"
],
[
"笠井がそう云ったんですね",
"いいえおかあさまからうかがいました"
],
[
"わたくし、晴着を着ておりました",
"そうだ、こまかい花模様のある晴着で、美しく髪化粧をしていた"
],
[
"あの恋文があなたからだとわかっても、私は部屋住みの身でどうしようもなかった、しかし今はうちあけることができる、あなたを愛していると、今ならうちあけることができるんです",
"七重が出戻りの、こんなおばあさんになってからですの"
],
[
"そう思ってくださいまして、出さま",
"自分がいちばんよくわかるはずです",
"本当にそう思ってくださいますのね"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「小説倶楽部」桃園書房
1954(昭和29)年5月号
※「燈火」に対するルビの「ともしび」と「とうか」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057598",
"作品名": "艶書",
"作品名読み": "えんしょ",
"ソート用読み": "えんしよ",
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"原題": "",
"初出": "「小説倶楽部」桃園書房、1954(昭和29)年5月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-07-16T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年1月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年1月25日",
"校正に使用した版1": "1985(昭和60)年1月30日2刷",
"底本の親本名1": "",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
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[
[
"三つ岩のひじ蔵は玉にして一万、南谷の石蓋に小判で八千、穴底の砂金は量ってみなければわかるまいがお祖父の代から二百万という云い伝えがある",
"そんなことまで云わなくても相談はできますよ"
],
[
"わしも二千百十九年と九カ月になるので、眼も耳もよくきかないしなにもかも億劫なものだから、ついついなにしていたわけだが、とにかくこの住宅を焼くのだけは勘弁してくれ、この年になって部屋借りをするのも体裁が悪いから",
"では私の願いを聞いてくれますか",
"一つだけなら聞こう、おまえの先祖たちにだいぶ振り出したのでわしもだいぶ手許が苦しいんだ",
"一つだけで結構です、云いますからよく聞いてください"
],
[
"思うことは何でもかなう力を私に与えてください",
"よし、――"
],
[
"まるで天人さまだ",
"誰がなんと言ってもおらあ眼がつぶれた",
"あれがおせん様かね、おらあ牡丹と芍薬と芙蓉と桃が束になって来たかと思った"
],
[
"そんな馬鹿なことが",
"まったくそんな馬鹿なことが",
"わかりました、――"
],
[
"そう云えばおらあ急用を忘れていた",
"おらあ急用を思いだした",
"急用をことづかった",
"急用の途中だった",
"急用が半端だから"
],
[
"するとなんですな、あなたはこの家の主じの舅に当たるというわけですな、彼の素性もその性質もよく知っている、つまりごく眤懇だとこういうわけですな",
"さればこそ",
"いや結構、われわれは闇七を捕り逃がした代わりに、連類を捉まえることが出来て満足です、繩打て",
"ちょっ、ちょっ、ちょっ"
],
[
"冗談じゃない、わしは闇七などという者に関係はない、あなたは譴責されますぞ",
"では伺いましょう、あなたの云う素性ただしき成木殿はどこにおいでかな"
],
[
"その大富豪の令息であり人格高潔なあなたの婿殿が、天床をぬけて逃亡されたのはどういう理屈になりますかな、令息ばかりではない彼の一味配下たる召使いどもまで、一人残らずきれいにずらかりめされたのは何故でござる",
"ああ、――"
],
[
"いやさすがは活眼ですな、まったく、おっしゃるとおりでしょう、それは私としてもですね、御存じかも知れませんが私は袖下郷の兼尾代官殿とごく親しい仲なんですが、あの方はなかなかの人物ですなあ",
"兼尾も連類だというわけですか",
"と、と、とんでもない、あの方と私は、つまりですね"
],
[
"金満家だと思った婿殿は贋金作りの闇七という悪人だわ、婚礼の席へ捕り方が踏み込むわ、連類だといって親子三人しょっ曳かれるわ土蔵からは十幾つも贋金の詰まった千両箱が出るわ、風をくらった息子二人は贋金で博奕をやって捉まるわで闇七の同類は動かぬ証拠だと、あれだけのさばり返った人が今は牢舎で獄門人と倶寝だ",
"人に泣きをみせれば自分が泣く順番よ、天道に嘘はねえ"
],
[
"それはどうも大変でしたね、世の中は一寸先が闇だと云うが本当ですね、ふむ、――しかしあなただけでも出られたのは結構でした",
"わたくしどうしたらよろしいでしょう"
],
[
"ねえお聞かせくださいまし、おせんはどうしたらよろしいのでしょう、どうしたら",
"まず寝るんですな、眠りはすべての悲しみや苦しみを慰してくれますよ",
"眠りとうございますわ、このお家であなたのお側で"
],
[
"――だっておせんは十四の時からあなたの許婚者だったのですもの、いちどは嫁になって来さえしたのですもの、そしておせんは今たった一人の頼りない身の上なのですもの",
"なあんですって"
],
[
"――これが私のお返辞です、おわかりでしょう",
"八百助さま",
"触らないでください"
],
[
"いつか母が死んだとき権右衛門殿は葬式をしてくれました、その返礼に御両親と兄さん二人を牢から出してあげますよ、借りは借りですからね",
"待って、待ってください"
],
[
"――ここに汝、玉造の八百助ほど不届き至極なしれ者はない、つい一年前にもこれなる証人武藤権右衛門の悪辣無道を訴えにまいった、しかも権衛の悪辣無道は一郡に隠れもなき事実である、されば拙者は公平なる代官として権右衛門と懇談に及び",
"兼尾さまそんな、兼尾さま"
],
[
"わたくしみんな聞きました、父があなたを訴人したんですって、でもあなたは御無事でいらっしゃいましたわ、どんなにお案じ申したでしょう、どんなに",
"そこを放してください",
"いいえ放しません、おせんはもうお側から離れませんわ、だってわたくしあなたの妻なのですもの、どんな事があったって、決して決して、――"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「新読物」公友社
1948(昭和23)年2月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057695",
"作品名": "艶妖記",
"作品名読み": "えんようき",
"ソート用読み": "えんようき",
"副題": "忍術千一夜 第一話",
"副題読み": "にんじゅつせんいちや だいいちわ",
"原題": "",
"初出": "「新読物」公友社、1948(昭和23)年2月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-06-03T00:00:00",
"最終更新日": "2022-05-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57695.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年8月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年8月25日",
"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年4月25日3刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57695_ruby_75616.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2022-05-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
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[
[
"私はぜひ世話をしたいと思うが、おまえの気持はどうだ、私の面倒をみて呉れるか",
"はい。こんな者ですけれど、お気に召しましたらお願い申します"
],
[
"それはおまえの家のほうと縁を切るつもりになって呉れることだ、毎月の定った物はきちんと送るし、おふくろさんにもしものことがあれば別だが、さもない限り往き来をして貰っては困る",
"はい、それは此処のおかみさんからうかがっています",
"つまり私は遁世したいのだ、おちついたらいずれ身の上話もするが、世間からも人間からも離れたい、煩わしいつきあいや利慾に絡んだ駆引や、いっさいのうるさい事からさっぱりと手を切って、静かに、誰にも邪魔をされずに余生をおくりたいのだ"
],
[
"阿母さんになにかあったときは、すぐわかるようにして下さるんでしょうか",
"それはむろんそうするし、おちついたらときどきみまいにも遣ってやろう、ただところだけは決して知らせてはいけない、これだけをはっきり断わっておいて、それで承知なら世話をしよう",
"――はい、どうぞお願い申します",
"では一杯ついで貰おうか"
],
[
"いつも済みません、おばさん",
"ぬるくなったかもしれないよ。良庵さんに出したあとだから……"
],
[
"どうだったの、話は",
"ええ定めて来たわ、すっかり",
"相手はどう、よさそうな人かえ"
],
[
"どんな商売をしているの",
"それがわからないの、お店は大阪とこっちと両方にあるって云うし、かなり大きくやっているらしいんだけれど、そのお店がどこにあってどんな商売をしているんだか、尾花屋のおかみさんも知らないらしいのよ",
"そんなこと云っておけいちゃん、もしもその人が悪い事でもしている人間だったりしたら、いやじゃないの"
],
[
"あんたが女に生れて来たんでなければね、そうすればこんなとき悲しい思いをしなくてもよかったのに、でも女だからこれだけのことができるんだよ、おけいちゃん、これが男であんたの年であってごらん、それこそ阿母さんに薬ひとつ満足に買ってやれやしないから",
"そんなこともないだろうけれど",
"だって宇之さんをごらんな、二十一にもなっていっぱしの職人でいて、弟の竹ちゃんがあの大怪我をしたとき、やっぱりお医者にはかけきれなかったじゃないか、あのときすっかり治るまでお医者にかかっていたら、竹ちゃんも死なずに済んだかもしれないのに、……それを思えばおたみさんは仕合せだよ、あんたにしたってまだ年は若いし、縹緻はいいし、いまにこんなことも笑い話にするようなときがきっとやってくるよ、生きているうちには悪いことばかりはないものさ、くよくよしないで、おけいちゃんらしく辛抱してお呉れよ",
"大丈夫よおばさん、あたしちっともくよくよなんかしてはいないわ、こうするよりほかにどうしようもないんだもの、恥ずかしいだの悲しいだの辛いだの、そんなこと思ってたら一日だって生きてゆかれやしないわ"
],
[
"それよりあたし、おばさんに頼みがあるの",
"水臭いことお云いでないよ、なんて、啖呵をきるほどのがらでもないが、なによ改まって",
"あたしが出ていったあとのことよ"
],
[
"そういうわけで、毎月の物を尾花屋へ取りにゆくとか、あっちの人との面倒な事は大家さんがして呉れることになったけれど、阿母さんの世話はやっぱりおばさんにお願いしたいのよ",
"わかりきってるじゃないかそんなこと、あたしはこの話が出た初めから",
"そうじゃないの、それはいまさらお願いもなにもないんだけれど、そうじゃなく、これまでと違ってあたしがいなくなるでしょう。昼間はともかく夜なかまで世話をして頂くわけにはいかないわ、それであたし考えたのよ"
],
[
"おけいちゃんからお金なんて、一文だって貰うつもりはないけれど、断わればあんたの気の済まないのがわかるし、正直いえば姉さんだって助かるんだから",
"うれしいわ、あたしどなられやしないかと思ってびくびくものだったのよ"
],
[
"そうするよりしようがないの、そのほかにはどうしようもないのよ",
"――金はもう、受取っちまったのか"
],
[
"おれは放したくない、どこへも遣りたくない、おれは一緒になって貰いたかったんだ、おけいちゃんと一緒になれると思っていたんだ",
"うれしいわ、宇之さん、あたしもそう思っていたのよ、あたしも宇之さんのお嫁になりたかったのよ",
"そんなら、それがもし本当なら"
],
[
"おけいちゃん、おれと一緒に逃げて呉れ",
"――逃げて、どうするの",
"二人で暮すんだ、おれには職がある、職が無くったってなんでもやる、おれもおけいちゃんもずいぶん辛抱してきた、もうたくさんだ、おれたちだって生きたいように生きていい筈だ、逃げようおけいちゃん、どこか遠いところへいって二人で暮そう",
"――待って、宇之さん、おちついて頂戴"
],
[
"あたしもそう思ったことがあるの、いっそ宇之さんと一緒に逃げだして、どこかへいってしまおうかしらって、……でも考えたの、あたしたちが苦しいのは貧乏だからでしょ、宇之さんのおじさんもあたしのお父つぁんもあんなに稼いで、それでお酒を飲むとか病人がいるとかすれば、もう満足に喰べることも着ることもできなくなるわ",
"だから逃げだすんだ、このままいればおれたちも同じことになってしまう、おれたちの一生もめちゃめちゃになってしまうんだ",
"そうじゃないわ、逃げたって同じよ宇之さん、親兄弟や蛤町の長屋からは逃げられるけれど、貧乏からは逃げられやしないわ、……あたしのお父つぁんや阿母さんだって、貧乏したくって蛤町へ来たんじゃない、二人で仕合せになろうと思っていたに違いないわ、あの長屋にいる人たちのなかにも、江戸へゆけばなんとかなると思って、どこかから逃げて来た人がいるでしょう、でもやっぱり同じことよ、運不運もあるだろうけれど、ただ此処を逃げだすだけでは決して仕合せにはなれやしないわ",
"それだっていい、おけいちゃんとならおれはどんな貧乏だってするよ",
"そしてあたしたちの子供にも、あたしたちのようにみじめな辛い思いをさせるのね、宇之さん……いいえ、あたしはいやよ、あたしは自分の子供にはそんな思いはさせたくないわ、あんただってそんなことはできない筈だわ"
],
[
"――じゃおけいちゃんは、おれに待っていろとは云わねえのか",
"だって宇之さん、あたしきれいな躰じゃなくなるのよ",
"そんなことがなんだ、それが悪いんなら罪の半分はおれにある、おれに甲斐性があればおめえにそんな悲しい思いをさせずに済んだんだ、おれあおめえのほかに嫁なんぞ貰おうとは思わねえ",
"宇之さん"
],
[
"こっちのほうへ来たことがあるかね",
"いいえ、初めてです",
"下町の人間は出不精だからな"
],
[
"あれが玉川だ、名ぐらいは知っているだろう",
"ええ、聞いたことはあるようですけれど",
"これから鮎が獲れるんだが、ここのは味がいいので名高いんだ"
],
[
"どうも頭が痛くっていけない、風邪でもないらしいんだが、……どうにも気分が悪いから、おまえこれを締めといて呉れないか",
"へえよろしゅうございます",
"医者におどかされてから、頭が痛むとすぐ神経にこたえる、いやな心持だ"
],
[
"形でみると相当な店の隠居らしいがな",
"それにしちゃあぶっ倒れた処がけぶですぜ、六郷の川っぷちを海のほうへ、三十間もいった蘆ん中だからね、なんだってあんな処へ踏んごんだものか、わけがわからねえ"
],
[
"眼をあいてますぜ先生、やれやれ、涙と涎でぐしょぐしょだ",
"おまえさん動いちゃあいけないよ"
],
[
"卒中で倒れなすったんだ、全身の痺れるいちばん重いやつだから、動かないでじっとしていなくちゃいけない、むりするとそのまんまになりますよ、脅かしではないんだから、静かに寝てなくちゃいけませんよ",
"口もきけねえのかね、先生",
"そんな声でものを云っちゃあいけない、耳は聞えるんだから"
],
[
"すると治るみこみはねえのかね",
"いけないね、すぐ死ぬほうが病人のためなんだが、……そのほうがいいんだが、命は助かってもこのままで寝たっきり、まあ、……この診たてには間違いはないだろう",
"だってそんな、それじゃどうすればいいんだ",
"二両という金があるんだから、これも因縁だと思って世話をしてやるんだね、金が無くなっても引取り先がわからなかったら、まあそのときは村の御救い小屋へでも入れるさ",
"どっちにしてもよくは云われねえ、まったくこいつはとんだことをしたもんだ"
],
[
"ふしぎだなあ、まるで夢のようじゃないか、こんなことって聞いたこともないぜ",
"――あたしはもう心配じゃなくなったわ"
],
[
"――あの人はもう来ない、決して来ないという気がするの、決して、……どうしてだといわれてもわからない、自分でもこれがこうとは云えないけれど、でもあの人が二度と来ないということは慥かだと思うわ",
"そうなればますます夢だ、しかしそんな大きな夢でなくってもいい、此処へ地面を借りて、おけいちゃんの側で暮すことができれば、おれはそれだけでも充分だ",
"――ねえ、泣いてもよくって、宇之さん"
],
[
"泣くって、だって、急にどうしたんだ",
"――いつか大島町の河岸で云ったじゃないの、こんど二人が一緒になれたときは泣けるだけお泣きって",
"それあ、けれどもそいつは、二人が晴れて……夫婦になれたときっていう"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「面白倶楽部」光文社
1950(昭和25)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057554",
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"初出": "「面白倶楽部」光文社、1950(昭和25)年11月号",
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[
[
"この絵にですか",
"そう、この下絵にね"
],
[
"へえ、廓というほど、ごたいそうなもんじゃあございませんが",
"その近くでおろしてくれ"
],
[
"頂きます、大好きなんです",
"そいつはしめた、――ついでに名前も聞かせてもらおうか"
],
[
"すると、――なんですか",
"いやなんでもない、もう一つ重ねないか"
],
[
"草原のような処、――山でもいいんですか",
"野原のような感じのする処なら山でもいい、そして静かならね"
],
[
"いや、夕方のほうがいいんだ、――しかし、座敷があるか",
"いいえ、今日は休みましたからいいんです"
],
[
"驚いたね、餅が入ってるじゃないか",
"おなかに溜まる物をあがらなければいけないと思って、お祝いの貰いもので失礼だけれど持って来たのよ",
"六月の雑煮とは、生れて初めてだよ",
"あらそうかしら、こっちでは祝い事があればいつでもしますよ、――おいしいでしょ",
"うまいね"
],
[
"そのほうがよさそうだね",
"あたしそう云って来ます"
],
[
"此処ですけれど、いかがですか",
"結構だ、よさそうだよ"
],
[
"忘れていったんだろう、ゆうべ座敷に落ちていたんだ",
"これをどうするんですか"
],
[
"草の上へ落すんですって",
"そう、ただぼんやりとね、どこでもいい、しぜんに落すような気持で、なんにも考えずに落してみてくれ"
],
[
"驚かすつもりはなかったんだ、しかし本当に驚かされたのは私のほうなんだがね",
"失礼ですが困りますね"
],
[
"このあいだは樋の山で派手な一と幕があったそうだな",
"それが要談ですか"
],
[
"あの二人は泥酔していましたよ",
"しかし侍には相違ないんだ"
],
[
"自信がないというわけか",
"不愉快だからです"
],
[
"たとえば、どういうふうにです",
"どういうふうにでもさ、――角屋は富豪だし、金のちからは大きいからね"
],
[
"いいよいいよ、大したことじゃない",
"どんな用があって来たんですの"
],
[
"断わらなくってもいいのか",
"あとであやまるからいいの"
],
[
"なぜそんなこと仰しゃるの",
"石川孝之介のためじゃないかというんだ"
],
[
"それはだめだ、山の上だし、ひどい坂を登るんだ",
"いやいや、あたしいきます、いけないって仰しゃったってついてゆくからいい"
],
[
"知っていたのか",
"初めての晩、小花姐さんが芸事のお師匠さんだって云ったでしょ、あのときあたし絵をお描きになるんじゃないかって思いました",
"そんなようなことを云ったんだな"
],
[
"いまでも、あのときの姿が眼に見えるよ",
"いろいろな思い出ができたわ"
],
[
"だめ、だめ、そんなことできやしません",
"できなくってさ、私はなにもかも知ってるんだぜ、おまえには旦那も子供もない、おっ母さんと姉さんたちに仕送りをしているだけだっていうことを、まあいいから聞けよ、私たちが、江戸へいっても小浜への仕送りは",
"いいえだめ、待って下さい、それはだめなんです",
"だめなことはないよ"
],
[
"――本当に、人の世話になるのか",
"ええ、落籍されることに定ったんです、それでこんどこそもう、おめにかかれなくなるから、今日むりに此処へ伴れて来て頂いたんです"
],
[
"これだけは、もう、どうにもなりません",
"なんにも後悔はしないんだな"
],
[
"桑名屋へはいらっしゃらない",
"ああ、今日はよそう"
],
[
"もう殆んどあがっています、よろしかったらごらん下さい",
"いやじつは、甚だ失礼でしたが、少し仔細があってさきほど拝見致しました"
],
[
"船は今夜出るのですか",
"さよう、夜の十時でございます",
"私もそれに乗れますか"
],
[
"絵をお描きになるくらいだから、もっと気もよくおまわりになると思ったのに、先生は案外ぼんやりなところがおありになるんですのね",
"話してくれ、――それはいったいどういうことなんだ"
],
[
"それで、それでおつるは承知したのか",
"自分さえ死んだ気になればいいんだって、とうとう落籍されることになったんですわ",
"おつるがそう云ったんだな"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社
1954(昭和29)年5月号
※「夕凪《ゆうな》ぎ」と「夕凪《ゆうなぎ》」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057556",
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[
[
"みんな聖書に出てくる名めえさ",
"聖書ってなあなんだ",
"毛唐のお経みてえなもんさ",
"なんみょうほうれんげきょうかえ"
],
[
"要するにヤソだな",
"どう思おうとおめえの勝手だ、いってえなにが気にいらねえのかえ"
],
[
"禅宗は禅宗さ",
"真宗も真宗さ、おんなじ釈迦の説教から出たのに、この土地ではお互いがかたきどうしのように、いがみあっている、宗旨をもつのがいいなら、そんなことはねえんじゃあねえのかい"
],
[
"村田医院でしょ、知ってるわ",
"犬に気をつけるんだよ、あの犬はばか者でたちが悪いからな",
"あたしには馴れてるのよ"
],
[
"きみは娘の親だ",
"たった二人っきりの親子さ"
],
[
"きょうだいはりっちゃん一人なの",
"兄さんがいたんですって、でも三つぐらいで死んだって聞いただけで、あたしちっとも覚えていないの",
"ここでは学校にはいっていないの"
],
[
"くにが福井県の漁師町ですから",
"というと、どの辺ですか"
],
[
"そこから出て来た理由はききません、しかし、そこで水爆をあびてもいいと思いますか、いや、その返辞も聞くには及ばない、日本人に限らず、どうせ死ぬなら墳墓の地で、と考える者が大多数のようだからな、――墳墓の地、どうして人間はそういう狭い意識に拘束されるんでしょう、この地球そのものが墳墓じゃあないでしょうか",
"そうだとすれば、ブラジルも日本も同じことだと思いますがね"
],
[
"きみはキリスト教の終末観ということを知っていますか",
"ええ、おおよそですが",
"原始宗教というものは、案外なくらい起こるべき事実を予言するものです、釈迦も来世に救いを求めた、道教も、老子の無の哲学も、みんな現実を否定し、いつかは地球も人類も亡びてしまうと予言している、人間はよき社会生活をしようと苦心しながら、却って大きくは滅亡に向かって奔走しているようにしか思えない、きみはこれをどう考えますか"
],
[
"――こんどのお母さん、そんなに嫌いなの",
"そのことだけはきかないで、口に出すのもいやらしいわ"
],
[
"寝るところがなければ、どこかの藁小屋へもぐり込んで寝なければならないんだよ",
"いままでだって同じようなもんだったもの、あたし藪の中だって平気だわ"
],
[
"そんな恰好で寒くはないのか",
"伴れてって下さるのね",
"お父さんが訴え出れば、ぼくは誘拐罪になるんだよ、きみは未成年だからね",
"あたしが自分でついて来たのに",
"それは証明できないからね"
],
[
"それじゃあお兄さんに悪いのね",
"どうしても東京へゆくのか",
"もしお兄さんに悪いのなら、あたし独りでもいくわ"
],
[
"でもさ、水も飲ましてくれなかったじゃないの、たったいまここを出ていけって",
"あの人は牛を飼ってるんだ",
"ええ、あたし牛のなき声を聞いたわ",
"あれは泉からの湧き水でね、牛を飼うのに大切な水なんだよ"
],
[
"よくわからないけれど、たぶん鮠かなんかだろうね",
"はえっていうのね、知ってるわ",
"土地によってはえともはやとも云うらしい、夏になるまえには腹が赤くなるので、赤っ腹ともいうらしいね",
"どうしておなかが赤くなるの"
],
[
"それまでは黒いだけなのね",
"そうらしいね、黒いだけではなく、よく見ると点々があるんだけれどね",
"あ、またあそこにいるわ、あそこにも、すばしっこいのね"
],
[
"だって小学校時代の友達だろう",
"うん、松野志気雄っていうの",
"じゃあ、男の子じゃあないか",
"そうよ、男の子じゃあいけないの"
],
[
"男の人ってすぐそんなふうに考えるのね、お父さんもそうだったわ、男の子とちょっと仲よくしてもすぐに怒ったわ",
"それだけきみのことを心配してるんだよ"
],
[
"百姓ではやってゆけないのか",
"若い人たちは男も女も出てっちゃうでしょ、だから年寄りだの子供だけしか残らないから、田圃や畑もろくに作れなくなるんですって、それに冬は雪でなんにも出来ないしね",
"それでお父さんはブラジルへゆく気になったんだね"
],
[
"魚もだんだんいなくなるんだよ、お百姓が農薬を使うからだそうだ",
"なぜそんな薬を使うの",
"米や野菜をたくさん作りたいためだろうね",
"そんなにお米や野菜がなければ困るの"
],
[
"いまじぶん岩魚がいるのかい",
"岩の下で休んでるの、涸沢でも幾たびか捕ったことがあるわ"
],
[
"岩魚は夏のものじゃあないのか",
"冬のあいだは休んでるのよ、だから、岩の下をさぐると捉まえやすいの、その代りいまは痩せていておいしくはないのよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
1981(昭和56)年12月25日発行
初出:「朝日新聞日曜版」
1967(昭和42)年1月8日~2月26日
※「喰べ」と「食べ」、「原子時代」と「原子力時代」の混在は、底本通りです。
※著者の急逝により中断された著者の最終作品です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057541",
"作品名": "おごそかな渇き",
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"初出": "「朝日新聞日曜版」 1967(昭和42)年1月8日~2月26日",
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} |
[
[
"むりなまねをするなよ",
"来ちゃあいけなかったかしら",
"むりをするなって云うんだ"
],
[
"おれは明日ここを立つんだぜ",
"思ったとおりね"
],
[
"女房持ちだって断わっておいたぜ",
"そんなことじゃないの、いっしょに江戸まで伴れてってもらいたいのよ"
],
[
"どんな女ともみなかった、ただ、決して後悔はしないだろうと思ったな",
"させなかったつもりよ、そうでしょ"
],
[
"田舎がいやになったの",
"帰る家はあるのか"
],
[
"名を訊いたんじゃなかったの",
"聞えたんだな"
],
[
"おじちゃん乃里屋に泊ってたね",
"おめえ藤沢へいったんじゃねえのか"
],
[
"まだ八つか九つくらいだろう",
"三年まえにそのくらいだったから、もう十一か二になるんでしょ、子守りか走り使いにでも雇ってやろうという者があっても決して寄りつかないの、あんな性分に生れついても困るわね"
],
[
"切手はどうする",
"あたしのほうをそうしておいたから大丈夫、迷惑はかけないって云ったでしょ"
],
[
"諄いな、会いたければかみさんに会わしてやるぜ",
"あたしが押しかけ女房になりたがってるとでも思うの"
],
[
"酒がないんじゃないか",
"いまそう云ったところよ、あたしにもちょっと飲ませて"
],
[
"あら、薄情なのね",
"おれは酌がへたなんだ",
"そのお猪口でいただきたいわ",
"そっちにあるじゃないか"
],
[
"浮気性なんだな",
"そうじゃないとは云えないわね、自分ではいつも本気だったし、一生苦労をともにしようと思うんだけれど、どの男もすぐに底がみえて退屈で、退屈でやりきれなくなっちまうのよ",
"みれんは残らずか"
],
[
"病人のある家へいって寺の話をするなって云うぜ",
"なにが寺の話よ",
"なんでもないさ、めしにしよう"
],
[
"だってもう今日で別れるのよ",
"神奈川の宿で約束したろう、江戸にはかみさんがいる、今夜が最後だって"
],
[
"あんたあたしのこと嫌いじゃないでしょ",
"いまなんて云った",
"あたしのこと嫌いじゃないでしょって"
],
[
"あたしは覚えのいいほうよ",
"ここは芝の露月町だ"
],
[
"ほんとのことを聞いてもらいたかったの、これっきり別れるんですもの、ほんとのあたしを知っておいてもらいたかったのよ",
"親きょうだいのないのも嘘か",
"兄が一人いるわ、調布というところでお百姓をしているの",
"そこへ帰るんだな",
"あたし嫁にやられた家からとびだしたのよ、そんな土地へのこのこ帰れると思って、――まっぴらだわ、そんなこと死んでもごめん蒙るわ"
],
[
"あんたはだめなのね",
"もういちど云うが"
],
[
"あの女の人いっしょじゃないね",
"腹がへってるって云ったな"
],
[
"いなかった、――おめえ、おれが人を捜しに来たってことを知ってるのか",
"おじちゃんが訊いてるのを聞いちゃったんだ、これからまた大鋸町へ戻るのかい",
"きみの悪いやつだな、大鋸町のときから跟けていたのか",
"ずっとだよ、沼津からずっとさ、おじちゃん気がつかなかったのかい"
],
[
"神奈川じゃ柏屋で泊ったね",
"おどろいたな、どうして声をかけなかったんだ"
],
[
"そっちは水戸までしかいかなかった、西は須磨ってところまでいったけどさ、こんどはおれ仙台までいってみようと思うんだ",
"うちや親たちはどこなんだ"
],
[
"荷物が預けてあるんだ",
"女の人が待ってるんだね",
"いやあしない、あれとは今朝いっしょに出て別れたよ"
],
[
"そんなことが気になるのか",
"おれは女が嫌いだって云ったじゃねえか",
"だからどうだっていうんだ"
],
[
"悪かった、そうか伊三だったけな",
"もう一つのほうも忘れたんじゃねえのか",
"なんのことだ",
"あれだ、どうもおかしいとは思ったよ、あんまりよしよし云うもんだから、――子供だと思ってばかにしてたんだな"
],
[
"自分のことで頭がいっぱいなんだな",
"そっちの話も聞くよ、もういちど云ってみてくれ"
],
[
"この店は夜明しやるんだ",
"そうだってな、おれは強くはないが、おめえのいいだけつきあうぜ"
],
[
"まあそんなところだが、――おさんというかみさんがいたでしょう",
"いましたよ、いいおかみさんでした、岩吉なんていう男にはもったいないくらいいいおかみさんでしたよ",
"二人で引越したんですか"
],
[
"飯田屋へ泊ったのか",
"宿屋なんかに泊りゃあしねえさ、寝るところなんざどこにでもあるよ"
],
[
"聞いたようだな",
"女がおじちゃんを待ってるんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1961(昭和36)年2月号
※「頬笑」と「微笑」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057537",
"作品名": "おさん",
"作品名読み": "おさん",
"ソート用読み": "おさん",
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"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1961(昭和36)年2月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年6月25日",
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[
[
"ええびだよ、ええびに来ただよ",
"一人かい",
"おんだらいつも一人だ、知ってんべがね",
"妹はどうしたんだ",
"あまか……"
],
[
"墓場に?――川獺に喰われてしまうぞ",
"ふん、つまんねえ"
],
[
"ばかなことかどうか知んねえが、大長丸がおらの機械船を沈めたなあ本当でがすよ",
"わしがねえと云ったらねえのだ、そんなこたあねえよそれともいしゃあ因縁をつける気かね、そんならそうとわしのほうにもつもりがある、出るとこへ出て黒白をつけべえ"
],
[
"それはそうだろう、しかし証拠となるとそんなことでは役に立たんよ。どこか他処の船がおまえのをぶち壊す、その船は行ってしまう、どこの船だか分らない、そこでおまえは大長丸だっと云う……こういうことだってできるからな",
"そりゃあ旦那、旦那……"
],
[
"ふん、そんな嘘を云っておんだらを騙す気なら大違えだぞ、おかしくもねえ",
"…………",
"ああつまんねえ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「アサヒグラフ」
1935(昭和10)年10月12日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2021年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057603",
"作品名": "お繁",
"作品名読み": "おしげ",
"ソート用読み": "おしけ",
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"初出": "「アサヒグラフ」 1935(昭和10)年10月12日号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-06-30T00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月25日",
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[
[
"もう少し時日があれば都合のつくあてはあるんだが、相手がどうしても待たないんだ、じかに家へ取りにゆくと云うんで、なにしろあのてあいは本当にやりかねないもんだから",
"どのくらい要るのかね",
"五枚もあればさし当りなんとかなるんだ",
"さし当りでなくきれいに片をつけるにはどの位要るんだ"
],
[
"そんなにたくさんでどうなさるの、あなた母さんがお金の蔵でも持ってると思っていらっしゃるんじゃないの",
"この分はお返し致します、急に入用なもんでいちじ立替えて頂くだけですから",
"返してお呉れでなくってもいいけれど、そんなにたくさんなんでお入用なの、月々の定りの物もあげたばかりでしょう",
"どうしても要るんです、お願いします"
],
[
"佐竹の由利江さんが来ておいでなのよ、あなたになにかお頼みがあると仰しゃっているのだけれど",
"公郷がもう帰るでしょうから"
],
[
"これまではなにも云わなかったが、今日はひと言だけ云わせて貰う、――もうそろそろ止めてもいいじぶんじゃないか、これ以上こんなことを続けているとぬけられなくなる。ここに十枚はいっているからこれで片をつけて、さっぱりと手を洗って呉れないか",
"――うん、わかっているんだ"
],
[
"誓うなどというおおげさなことじゃあない、もっとあっさり止める気持なんだ、もともと遊びなんだから、なにもそんなに重大問題じゃないだろう",
"――そのとおりなんだ",
"云っておくほうがいいと思うが、御両親がなにか聞かれたようだ、ほんの風聞くらいのものらしいが、このうえ御心配をかけるようでは悪い、頼むよ公郷"
],
[
"なんです。おねだりとは",
"――まあ牡丹がきれいに咲きましたこと"
],
[
"これは驚いた、あれを覚えていたんですか",
"それは忘れは致しませんわ、もっと大きくなってから頂きますって、あのときちゃんとお約束したのですもの、――下さいますのでしょう",
"むろんさしあげますよ"
],
[
"なんです、御法事でもあるんですか",
"ここでは申上げられませんの、わたくし先にまいってお待ち申しておりますから、そして、おばさまにはなにも仰しゃらずにいらしって頂きたいのですわ",
"――時刻はいつごろですか",
"わたくしは午にはまいっております"
],
[
"御用繁多でお疲れになったのですね",
"そうだろうね、頭の痛いことなどは殆んど覚えないので、はじめはちょっと驚いたよ"
],
[
"いやあれはだめだ、よしたほうがいい、和泉もおれもひどく手を焼かされたんだ、なにをしたってむだだよ",
"それはそうかもしれないが、しかし",
"いやおれは御免こうむる、和泉だってそんなこと聞きはしないぜ"
],
[
"どうぞ此処からお上りあそばして",
"――構わないんですか",
"ええ、それで此処でお待ちしておりましたの"
],
[
"この冬の頃から、干秋さまがしきりに兄の嫁に来て呉れと仰しゃいますの、あなたはもちろん御承知でございましょう、公郷さまはさきごろからたいへんお身持が悪く、世間の評判にもなりだしたそうで、御両親はじめ御親族のあいだでも困じはてていらっしゃる、このままでは家名を汚し身を滅ぼすのは見えるようだ、どうにかして身持を直す法はないか、――みなさまで幾たびもそういう御相談があったそうでございます、そうしているうちに半三郎さまのお口から、千秋さまにわたくしの名が出たと申しますの、わたくしあの方とはお話をしたこともございませんけれど、あちらでは知っていて下すったのでしょうか、由利江を妻に迎えることができれば、……わたくし自分の口からこんなふうに申上げて、おさげすみを受けるとは存じておりますけれど、なにもかも正直におうちあけ申したいのでございます",
"よくわかります、どうぞそのまま続けて下さい"
],
[
"――と、仰しゃいますと",
"相手の行状を直すとか、相手を更生させるという意味がひとつの愛情には違いない、しかし一生を共にする夫婦の愛というものは、それとは別のものではないか、その愛なしに結婚という一生の結びつきが成立つかどうか、その点をお考えになったでしょうか",
"はい、よく考えてみました",
"大丈夫やってゆけると思いますか"
],
[
"よくわかりました、それで、お頼みというのはどんなことですか",
"これまでどおり、あなただけは公郷さまの支えになってあげて頂きたいんですの、あの方が心から信頼していらっしゃるのはあなたお一人だと伺いました、――わたくしできるだけのことは尽すつもりでございますから、どうぞあなたもお変りなく力をかしてあげて下さいまし"
],
[
"あの手鏡を頂いてまいって、わたくし悪うございましたでしょうか",
"――どうしてです",
"小さいときからそのつもりでいたからでしょうか、頂いてまいらないと、心が残るように思えまして……",
"――もちろんそれでいいですとも、あのときから差上げる約束だったのですから",
"わたくし大切に致します"
],
[
"まことに突然のようだが、側用人と次席家老の職を辞退しないか",
"――――"
],
[
"いったいそれはどういうことなんだ",
"理由はいま云えない、辞退をすすめるのも友達としての個人的な忠告だ、――こう云えばなにか思い当ることがありはしないか",
"それは政治に関係したことなのか"
],
[
"さきごろから藩の政治が紊れ、老臣どもの汚職のおこないがあることを知っておるか",
"おそれながら殆んど不案内でございます",
"国許ではさような評は出ていなかったか",
"その職にあらぬ者が政治を口にしますことは固く禁じられておりますし、私自身さような評を耳にしたことはございませんでした"
],
[
"仰せの趣よくわかりました、それが事実なればもちろん、私ども父子をいかようにも御処置あそばせ、ただ一つお願いがございます",
"聞こう、遠慮なく申せ",
"私をいちど国許へ帰して頂きたいのでございます、と申しますのは"
],
[
"いいえそんなことはございません、躯だけはずっと丈夫でございますわ",
"――お躯だけはね"
],
[
"母からの手紙で知ったのですが、公郷はやっぱりいけませんか",
"わたくしがいたらないのだと思います"
],
[
"公郷の放蕩は、好きでやっているのではございません、見ていても苦しそうなことがたびたびございますの、放蕩をせずには、いられないような、なにか深い悩みがあるのだと思いますわ",
"――例えばどういうことか、あなたにはおわかりですか"
],
[
"ひとつおねだりしてもいいでしょうか",
"――――"
],
[
"あなたのおてまえで茶を頂きたいんです、道具は母のところにありますから",
"はあ、でもわたくしこんな恰好で",
"初めての、そしてたぶんこれが最後のおねだりです、お願いしますよ"
],
[
"明日うちへ来るという伝言を聞いたよ、おれのほうでも会いたかったんだ、しかしお側御用人のお屋敷は閾が高いんでね、――そっちにはまたこんな家は汚らわしいだろうが、まあ久しぶりだ、一杯いこう",
"今日は少しまじめな話があるんだ"
],
[
"まじめ結構だね、よろしいこっちもまじめでいこう、人間万事まじめでなくっちゃあいけない、そこでもう一杯、まじめに献じよう",
"一年ぶりで会うんだ、そういう調子はやめようじゃないか"
],
[
"どうするんだ、恥ずかしくていたたまれないのか",
"酔わないときに会おう、今日は帰る"
],
[
"本来なら貰ってはいけないのだが、古い友達の贈物という意味で頂きましょう、どうぞあなたから礼を云って下さい",
"公郷のこころざしをわかって頂けましょうか"
],
[
"彼は元気ですか、よく勤めていますか",
"はい、元気に致しております、この頃はずっと酒も頂きませんし、――調べもので夜を明かすようなことがたびたびございますけれど、躯もすっかり丈夫になりましたようで……",
"それはよかった、あなたのお骨折りがようやく生きてきたわけですね"
],
[
"公郷はたいそう苦しみました",
"――――",
"次席家老を仰せつけられましたときは、ようやく世に出られる、これからやり直しだ、そう云って悦んでおりました、酒もぴったりやめました、――そのうち、七月はじめでございましょうか、奉行目付支配という重いお役を兼ねることになり、お召しをうけて江戸へまいりました"
],
[
"自分はりっぱに役目をはたそう、それが金之助への報恩だ。――公郷はそう申しました、袴の上に、ぽろぽろと涙をこぼしながら、そう申しました",
"――――",
"この粗末なお召物は、そのときわたくしが申しつかったものでございます、仕立てもわたくしが致すようにと申しましたし、――公郷も針を持ちました、このお小袖、お羽折、肌着、どれにもひと針ふた針ずつ、公郷が糸をとおしております、……おわかり下さいますでしょうか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
1949(昭和24)年7月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057584",
"作品名": "落ち梅記",
"作品名読み": "おちばいき",
"ソート用読み": "おちはいき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社、1949(昭和24)年7月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-08-21T00:00:00",
"最終更新日": "2020-07-27T00:00:00",
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"姓": "山本",
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"姓読み": "やまもと",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
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"名ローマ字": "Shugoro",
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"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月25日",
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} |
[
[
"あの人って誰だ",
"参吉さんちにいる女の人よ、わかってるくせに"
],
[
"どうしたんだ、いつ死んだんだ",
"昨日が初七日だったの",
"知らなかったな、病気だったのか"
],
[
"あきちゃんて誰だ",
"お札売りのうちの人よ"
],
[
"参吉さんもそう云ったわ",
"参ちゃんが、……いつ、――"
],
[
"おっ母さんがうどん粉に酢を入れて練ったのを塗って、晒しで巻いてくれるあいだ、あたし死んじゃいたい死んじゃいたいって、声っ限り泣いてたわ",
"痛かったろうな"
],
[
"庇二階の厨子っていうんだ",
"大名道具だな"
],
[
"なにか気のつくことはねえか",
"どういうことだ"
],
[
"厨子っていうんだ、鈴虫の厨子だ",
"だっておめえいま、自分で作ったって云やあしなかったか",
"頼まれて写しを作ったんだ"
],
[
"道具屋との話では五十両ということだったが、事情が事情だから、現銀なら三十両でいいんだ",
"金はいそぐのか"
],
[
"あの子は昔からおめえが好きだった、おめえだって好きだったじゃあねえか、おらあいつも見ていてよく知ってるんだぜ",
"そりゃあ好きなことは好きだったさ、しかし好きだっていうことと夫婦になるならねえってことは"
],
[
"鈴虫の厨子のこともか",
"ええ、頼んだ道具屋さんが潰れたってことも"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「小説新潮」
1959(昭和34)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057575",
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"初出": "「小説新潮」1959(昭和34)年10月",
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[
[
"御両親は承知なさろうとしたのに、あなたがいやでお断わりになった。そういうことを聞いたんですが、本当ですか",
"――さあ、そんなこともあったようですけれど"
],
[
"こうして見ると顔色もいいし、病気をしているようには思えませんね。しかし疲れていらっしゃるなら横になって下さい",
"いいえ、わたくし大丈夫でございます",
"そりゃあ大丈夫ですとも、これは催促病気というくらいで、あなたぐらいの年頃にはよく出るんです。あせらずに気をゆったりもって、できるだけわがまま勝手にしていればなおるものなんです。心配することなんかないですよ",
"――催促病気とはなんでございますの",
"いや、それはそのうちにわかりますよ"
],
[
"いやみなことはありませんよ、節子はまだ病人で寝たり起きたりしているんですもの、戸田さんがおみまいに花を下さるのはあたりまえじゃないの",
"それにはそれでやりかたがあるんですよ、しかし、……まあいいでしょう",
"お兄さまの仰しゃりたいことは、節子にはよくわかっていますわ"
],
[
"尾花沢ではなにがありますの、お母さま",
"――なにがって、なあに",
"だって、これまであそこには三人か五人、足軽くらいの人がいるだけだったのでしょう、それなのに番所を建て増したり、御弓組を二十人もつれて戸田さまがいらしったり、まるでなにか騒動でもあったようじゃございませんの",
"母さんはなんにも聞いていないけど、あなたどうしてそんなこと知っていらっしゃるの",
"お手紙に書いてありましたのよ、お父さまからお聞きになって御存じかと思っていましたわ、そうじゃございませんでしたの",
"いいえ、母さんは知らないことよ",
"まあ困った、どうしましょう"
],
[
"お手紙には決してひとに話してはいけない、たいへんな秘密な事なのだからと書いてございましたの、お母さま御存じでなければお聞きするんではございませんでしたのに、どうぞないしょにして下さいましね、お母さま",
"母さんは云やあしませんよ、そんなこと、それよりこのお花どうなさる、根があるからお庭へ植えましょうか"
],
[
"その森の凄いことときたら、檜や杉なんぞの千年も経ったかと思うやつが、幹や枝をびっしり重ねて繁っていて、その中にしぜんと枯れたのや落雷で裂けたのが、白く晒されて、まるで巨人の骸骨かなんぞのように、こう、しんと立っているんです、まるで神代の眺めといった感じですね",
"そういうところに棲んでいるのではございませんの、あの古くからいる、土民とかいう人たちは"
],
[
"それはわからないんですよ、その森から峡谷の奥へかけて、どこかにいるらしいんだが、その場所はどうしてもみつからない、尾花沢の口のところに樵夫の部落がありましてね、小屋が七、八戸あるだけの小さな部落なんだが、なかには数代もまえから、そこで暮している者もあるんですが、かれらもその土民たちがどこに棲んでいるか、まだ見たことがないそうです",
"――その人たち、なにか悪いことでも致しますの",
"さあ、悪いことと云って、そうですね、……まあとにかく御領内にいて法令に従わないだけでも、罪は罪でしょうからね"
],
[
"こんどの出張で、特にこれだけお手許からさがったんです、ほかの者には知れぬようにということですから、どなたにもないしょで預っておいて下さい",
"でもそれは、お家のほうへお預けなさるのが本当ではございませんの",
"いやあなたに持っていて頂きたいんです、今後もときどきさがるらしい話しでしてね、実を云うと母には浪費癖があるんですよ"
],
[
"仮の盃にしても、あんな祝言などをするのがまちがっていたんだ、二、三年はむりだと医者がはっきり云っていたじゃないか",
"――だって、お兄さまだって強いて反対はなさらなかったわ",
"おれが反対したところで、悪くとられるにきまっているさ。おれがなにか云えば、お母さまもおまえも、すぐ相良をひきあいに出すんだ",
"――でも本当にそうなのですもの、お兄さまは今だって節子を相良さまへお遣りになりたいのでしょ",
"そんなことを云ってるんじゃない、もっと病気に対して本気になれというんだ、これは胃が悪いとか頭痛がするなぞという簡単なものじゃないんだぞ",
"――おおげさに仰しゃるのね"
],
[
"――そんなに心配することはないですってよ、世間では催促病気というくらいで、我儘にじっとしていればすぐなおると云ってましたわ",
"誰だそんな卑しいことを云ったのは"
],
[
"――卑しいって、なにが卑しいんですの",
"いま云ったなになに病気とかいうやつさ、そんな品の下ったことを云うと嗤われるぞ、おまえは案外なばかだ"
],
[
"――もうようございます、お兄さまの気持はよくわかっていますわ、戸田へお嫁にゆくときまってから、節子はばかなんですから",
"まったくだ、おまえは底が抜けてるよ"
],
[
"きっと不摂生をしたんでしょう、女のひとは神経がこまかいようでいて、自分のことになるとまるで投げやりになるんだから、山にいてもそれだけがいつも心配なんです",
"このまえはそうは仰しゃいませんでしたわ――"
],
[
"――そんな心配はなさらないで、……わたくしきっと丈夫になります、でも、こんなことをなすってはいけませんわ",
"――いけませんでした、もう決してしません、あなたが戸田へ来て下さるまでは"
],
[
"ええ、まあまあ、なんとかやってますよ",
"なにかいやなことがあったのではございませんの",
"あなたは病気をなおすことだけ考えて下さい、私の問題は私がやります、そんな心配は決してしないで下さい"
],
[
"どうぞ本当のことを聞かせて下さいまし、なにも知らずに心配するよりは、知っていてがまんするほうが気持が楽ですわ、そうでないとわたくしもう、不安で不安で……",
"よろしい話しましょう、これは藩の厳重な秘事なんですが、あなたには知っておいてもらうほうがいいかもしれない"
],
[
"仕事をはじめてからもう十三人もやられています。六人は死にました。かれらは叢林や崖の蔭から弓で射るのです。ひじょうに敏捷です、猿のようにすばしこい、まだかれらの姿は誰も見たことがありません、――先月の中旬のことですが、番所の武器庫から、弓十二張と、矢が二十束ほど盗まれました、その補給のために私が城下へ来て、そうしてあなたのお悪いことを知ったんです",
"――今でもその人たち、そんなふうに、絶えずみなさんを狙っていますの",
"こっちが金を採ることをやめるまではね、かれらにとっても軽い問題じゃないんです、かれらにとっても死活に関することなんですから",
"よさないか戸田、ばかなことを云うな"
],
[
"極秘も極秘だが節子は病人じゃないか、ようやく少しおちついたところへそんな話をして、また悪くでもなったらどうするんだ",
"お兄さま違います。節子がむりにお願いしたんですわ、そうでもないと不安で",
"おまえは黙っていろ、ものにはけじめということがある、どうせがまれたからといって藩家の秘事を、しかもこんな病人に向って饒舌るという法があるか、もう時間も過ぎている、戸田、帰って呉れ"
],
[
"おねえさまに静かにして下さるように仰しゃってよ、お母さま、あの声ぴんぴんして、頭に響いていやだわ",
"そんなことが云えますか、そんなに響くほどじゃないじゃないの、小姑根性とか鬼千疋とか、すぐに云われるのはそういうことなのよ",
"だって節子が寝ているのを知っている筈でしょう、この家の人になればこの家の者のことも少しは考えて頂きたいわ、おねえさまがいらしってからお母さまもお変りになったのね、節子のことなど誰も心配して呉れる者はいないんだわ",
"そんなことをお云いだってあなた、……節子さんは神経を立てすぎるのよ、そんな、母さんがあなたのことを考えないわけがないじゃないの",
"わたくし尾花沢へいくわ、春になって雪が消えたら、どんなことしたって"
],
[
"あなたは私を信じて呉れますか",
"――だって、どうしてそんな、……節子はいつもお信じ申していますわ、どうしてそんなことをおっしゃいますの",
"信じて下さい、あなただけは"
],
[
"私は気の弱い人間です、利巧でもないし剛胆でもない、あなたに信じられなくなったら生きてはゆけません、私には今あなたが唯一の柱なんです、わかって呉れますか",
"ええわかります、どんなことがあっても、節子はあなたをお信じ申しますわ",
"なにか忌わしい噂がお耳にはいるかもしれません、あなたがびっくりするような、不愉快な評判がたつかもしれません。――たぶんそんなことはないでしょう、なにごともなしに済むと思いますが、……もしそんなことがあっても、あなただけは私を信じていて下さい、私はこれをお願いしたかったんです"
],
[
"まあ美しいこと、本当に神代の景色というほかにないわね、お兄さま",
"――うがったようなことを云うね",
"だってこの世のものとは思えませんわ、神々しくって、そしておごそかに静かで"
],
[
"悪いときに来た、戸田には会えない",
"――どうしてですの、お兄さま",
"わけはあとで話す、とにかく出よう",
"――なにかありましたのね"
],
[
"いや私ひとりでした",
"まだ暗いうちと仰っしゃいましたわね",
"そうです、ほのかに明るいくらいでした",
"そしてその矢は、戸田を射た矢は、土民のものでございましたか"
],
[
"いつか番所の武器庫から、弓と矢が盗まれたと聞きました、戸田を射た矢は、もしかするとそのときのものではございませんか",
"――そうでした"
],
[
"――彼を射たのは番所の矢でした",
"ああやっぱり"
],
[
"わかっています、誰が戸田を殺したか、土民などではありません、いいえ決して、もっと身近な、もっと卑しい、そして",
"――節子、やめろ"
],
[
"そして正直らしい顔をしている人です、それは、今そこにいる",
"黙れ、黙れ節子"
],
[
"こんど尾花沢のお役目が解けて、昨日こちらへ帰っていらしったのですって、ちょっとみまいを云いたいと仰しゃっているのだけれど",
"おめにかかりたくありません、お断わりして下さい",
"おみまいの品も頂いたし、ちょっとお会いするだけでいいのだがね、そのまま御挨拶だけすれば",
"もう仰しゃらないで、お母さま"
],
[
"相良さまには決しておめにかかりたくありません、おみまいの品もお返しして下さい。もう二度と訪ねて来ないように仰しゃって下さい",
"そんなあなた、そんなことを節子さん",
"いいえもういや、なにも仰しゃらないで、わたくし死んでしまいます"
],
[
"おまえまだあのばからしい誤解がとけないのか、山で口ばしったあの無礼な想像がまちがいだったとまだわからないのか",
"――まちがいでも誤解でもございません"
],
[
"――戸田を殺したのはあの方です、誰を云いくるめることができても節子をごまかすことはできません",
"よし云ってみろ、それだけ信ずるには理由があるだろう",
"――ございます、理由ははっきりしています、自分で云うのはいやですけれど、節子は相良さまを断わって、戸田へ嫁にゆくことを承知しました",
"相良がその恨みでやったと云うのか",
"戸田がいつも申しておりました、尾花沢で戸田はあの方の部下です、どうかしてうまくやってゆきたいと、いつも申しておりましたし、しまいまでうまくはゆきませんでした。わたし戸田からみんな聞いております",
"それは戸田の曲言だ、それだけで相良が殺したという理由にはならない",
"――では、ではお兄さまには"
],
[
"――相良さまの、したことでないという、証拠がございますか",
"おまえの用箪笥の金をさきに聞こう、紙に包んで三つ、合わせて金七十枚ある、おまえが重態になったとき、お母さまがそこに隠してあるのをみつけた、あれはどういう金だ"
],
[
"おまえがいちばん不審なのは、あんな時刻に戸田が、どうして一人で外へ出たか、なぜ相良がそれに気づいて捜しに出たかという点だろう",
"一人で出ることが危険だということは、戸田がいちばんよく知っていたと思います",
"それを知っていて、彼は出なければならなかった。夜中か、明け方の暗いうちに、どうしても一人で出る必要が戸田にあったのだ"
],
[
"戸田はひそかに砂金を盗み、それを城下で金に替えていた、相良がそれをみつけた、意見をしてやめさせたが、隙を狙ってはまたやる、命が危いぞ、金には代えられないぞ、こう云ったがどうしてもやまない、砂金は僅かなことだ、どうでもいい、相良は彼の身を心配した、彼自身のために、そうしてそれよりも彼が、おまえの良人になる人間であるから",
"――――",
"あの朝とうとうその時が来た、戸田はまたぬけ出した、そう気づいて相良がみにゆき、彼の死体を発見した、そして彼の袂の中にはいっていたひと包みの砂金を隠し、番所へ急を知らせたのだ",
"――――",
"誰にでも聞くがいい、尾花沢へいっていた者で、お手許から特に褒賞などさがった例はない、おまえの預った金は、彼が砂金を売ったものだ。だからこそ、ひとには秘密だと念を押したのだ"
],
[
"――ようこそおいで下さいました、どうぞここからおあがり下さいませ",
"まだしかし、どなたも……",
"――相良さまお一人だけ、さきに来て頂きましたの"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1949(昭和24)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"音をさせちゃ駄目、そおっと来るのよ",
"――大丈夫です",
"そら! 駄目じゃないの"
],
[
"ああまだいるわ",
"いったい何なんですか",
"御覧なさい。あれ"
],
[
"――鼠の仔ですね",
"そうよ、可愛いでしょ",
"気味が悪いな",
"嘘よ可愛いわ。ほうら――こっちの端にいるひとりだけ眼が明いてるでしょ",
"見えない",
"もっとこっちへ寄って御覧なさい"
],
[
"――幾匹いるかしら",
"五匹よ",
"みんな未だ裸だな",
"……生れたばかりですもの、もう少しすれば毛が生えてよ、――きっと"
],
[
"こいつ、捨てなくちゃ",
"駄目よ"
],
[
"可哀相じゃないの",
"だって、――蔵の中にこんな……",
"いけない、いけない"
],
[
"辰さんか。――",
"ちょいと用があってね。来る途中そこん所で湯帰りのお紋さんに会ったものだから",
"まあ火の側へ寄んねえ"
],
[
"おまえはひどく魘されていたよ",
"――――",
"この頃寝ると直ぐ魘されるようじゃないか、きっと病気が良くない証拠だから、転寝なんかしちゃ駄目だというのにねえ"
],
[
"仕事ってまた例の口かい",
"そうじゃあねえ、おいら初め橋場の親分まで、このところ可笑いくれえの不漁さ、このまま三日もいれあ人間の干乾しが出来ようてえ始末なんだ",
"こっちも御同様なのさ",
"そこで相談だが、まあ聞いてくんねえ筋書はこうだ、――橋場の親分が客人を伴れて来る、場所は横網の葉名家",
"じゃあ博奕だね",
"博奕は博奕だが種がある、親分が客人を伴れてくる時に拵え博奕だというんだ。いいかい、田舎上りのいい鴨がいるから組みで拵え博奕をやろうと相談をして来る",
"田舎上りのいい鴨てえのがあるのかい",
"そこがねたさ、鴨には正さんに化けて貰うんだ。――正さんが鴨で博奕を始める、なあに拵えは分っているんだ、いいくらい勝たして置いてから、正さんが拵え博奕の現場を押えて尻を捲るんだ",
"なるほどね",
"つめ賽は博奕の法度、場銭を掠ったうえに簀巻にして川へ叩きこまれても文句の云えねえのが仲間の定法だ、――正さんの顔なら凄味があってきっと威しが利くぜ",
"面白い、それあ物になるねえ"
],
[
"で――その客の当てはあるのかい?",
"それが無くて相談に来るかい、五十両ずつ持った旦那衆が二人いるんだ",
"乗ろうよ、その話",
"有難え、早速の承知で何よりだ、なにしろ急な話で他に人がねえ、正さんならと見当をつけてやって来たんだ、――じゃあ済まねえがおらあ直ぐ橋場へ知らせるから、一刻ばかりうちに葉名家の方へ来てくんねえ",
"おや、今夜なのかえ",
"客人はもう橋場へ来ているんだ"
],
[
"正さん、いまの話――やっておくれだろうねえ?",
"……厭だ"
],
[
"厭だって、どうしてさ",
"このあいだ断った筈だ、こんな浅ましい仕事はもう沢山だ、真平御免蒙るってちゃんと断って置いた筈だ",
"浅ましい仕事だって?――ふん"
],
[
"たいそう立派な口をお利きだねえ正さん。労咳病みの薬料から其の日其の日のお飯、いったい誰のお蔭で口へ入るのかおまえ知っておいでかえ",
"――知っていたらどうするんだ",
"そんな偉そうな口は利けまいと云うのさ、猫だって三日飼われた恩は忘れないよ",
"お紋! てめえ……"
],
[
"てめえ、それを本気で云うのか",
"売り言葉に買い言葉、お互いさ",
"――畜生!"
],
[
"よくもそんなことをぬかしゃあがった、この己を、こんな態にしたなあ誰だ、素っ堅気のお店者、これっぽっちも世間の汚れを知らなかった者を、騙し放題に騙しゃあがって、大恩ある主人の金を持ち逃げさせ、一生浮かぶ瀬のねえ泥沼へ引きずり込んだなあ誰だ! こんな労咳病みの体にしたなあ誰なんだ",
"今更なんだね未練がましい、誰のせいなもんか、おまえが好きで墜ちた穴じゃないか、厭がるおまえの首へ繩をかけて曳いて来た訳じゃないよ",
"畜生‼ 売女‼"
],
[
"いい態だ、いい態だ、罰当たりめ、こうなるのが己にはふさわしいんだ",
"正さん、――正さん"
],
[
"厭ねえ正さん、何もそんなにむきになる事はないじゃないの、――あたしも少し云い過ぎたけど、おまえだって酷いよ。幾らお紋が阿婆擦れでも、好きでこんな事をするものかね、みんな正さんと楽しくやって行きたいためじゃないか。それあ……正さんをこんなにしたのはあたしの罪かも知れない、けれどあたしが正さんに命までと打込んでいたのは嘘じゃなかったわよ",
"――――",
"正さんだって幾らかあたしを好いてくれたからこそ、ここまで一緒に墜ちて来たんでしょう?――日蔭の生計しか知らないお紋と、世間知らずの正さんがひとつになれば、結局こんな穴より他に生きる道は有りゃあしない、あたしはねえ正さん、おまえとなら地獄の底へでも行く覚悟だよ"
],
[
"ねえ、分っておくれだろう",
"――――",
"分っておくれなら機嫌を直そうよ、そして今夜の仕事が旨くいったら、正月は二人でのんびり湯治にでも行くんだ、そうすれば病気もきっと良くなるからね"
],
[
"さあ機嫌を直して、そろそろ出掛けるとしよう、ねえ正さん",
"――――",
"あたし着換えて来るわね"
],
[
"あいにくだったなあ、二両はさておき二朱もねえ始末だ",
"――そうか",
"お改め以来というもの一列一体の旱だ、恥かしいが女房を裸にしてやっと粥を啜ってる有様よ、――急ぐんだろうなあ",
"なに、無けれあいいんだ、騒がして済まなかった、勘弁して呉んねえ",
"冗談じゃあねえ、むだ足をさしてこっちこそ申訳ねえ",
"じゃあ又来るぜ"
],
[
"酒をつけてくれ",
"――どの口に致しましょう",
"その……"
],
[
"その梅でいいや",
"お肴は?",
"――いらねえよ、寒さ凌ぎなんだ"
],
[
"間違ったら御免なさい、――おまえさん生れは九州の方じゃあありませんかい",
"へえ――よく分るな、おらあ長崎だが",
"そいつあ懐しい私も長崎だ",
"親方もか?"
],
[
"それあ奇縁だあ、おらあ一ノ瀬の下だが、親方あどこだ",
"――そんな事を訊く必要は無かろう"
],
[
"どうも言葉尻に訛りがあると思ったんだ、何十年離れていても、故郷訛りは争えねえものだ、なあ若い衆。――だが",
"――――",
"おめえも見たところ堅気じゃあ無さそうだ。つまらねえ詮議は止めにして、気持よく呑んだら行って貰おうぜ",
"下らねえ事を訊いて悪かった"
],
[
"分りあいいのよ",
"御馳走になるぜ"
],
[
"もう宜い、少し私に考えがあるから、おまえたちは向うへ行っておいで",
"あ、あの――自身番へお届けを",
"届ける時には私がそう云う、黙って向うへ行っているんだ"
],
[
"分るか、この私の顔が分るか。この恥知らずの犬め、――筑紫屋茂兵衛にあれだけ煮え湯を呑まして置いてまだ足らず、押込みにまで這入るとは畜生にも劣った人非人め",
"ま、間違いでございます、だ、旦那"
],
[
"この手で繩にかけてやるのも穢わしい。早くここから出て失せろ。――この茂兵衛はな、今日が日まで貴様のことを、若しや真人間になって帰る日もあろうかと、自分の伜を一人失くしたよりも辛い気持で待っていたのだぞ",
"――――",
"茂兵衛はそれでも宜い。だが……可哀そうなのはお美津だ、貴様の方では覚えてもいまいが、お美津は貴様を忘れることが出来ず、――今では半病人のようになってこの寮に暮しているのだ。……お美津はまだ、貴様がきっと自分のところへ戻って来ると信じているのだぞ、それなのに――貴様は、貴様は……"
],
[
"――正吉!",
"旦那さま、……",
"貴様そんな重い病気なのか",
"罰でございます、天道さまの罰が当ったのでございます。旦那さま、正吉は、こんな姿になりました",
"そんな体でどうしてまた",
"――長崎へ、帰りたかったのです"
],
[
"お袋にひと眼会って、死のうと、――二両の旅費が欲しさに、初めて忍び込んだのがこの家……正吉は今夜こそ、初めて、天罰の恐ろしさを、知りました。――お赦し下さいとは、とても申上げられません、どうか旦那さま、正吉をこのまま見逃して下さいまし",
"――――",
"何も仰有らずに、お見逃し下さいまし"
],
[
"え?――",
"貴様に遣るのではない、長崎で待っているお袋さんに遣るのだ、……お美津は今夜、小梅の越後屋の寮に長唄の納めざらいがあって出掛けたが、もうそろそろ帰る時分だ、彼女にだけは貴様のその姿を見せたくない――それを持って早く出て行け"
],
[
"このまま会えるかどうか分らねえ親方に、商売物の酒を奢られっ放しじゃあ気が済まねえ、――それに祝って貰いてえ事もある",
"何か良い目でも出たのかい",
"おらあ明日の朝長崎へ帰るんだ"
],
[
"さっきはそんな景気じゃあねえようだったなあ",
"だから祝って貰いに来たのよ",
"そいつあ豪気だ、――陸を行くかい",
"船だよ。おっと来た"
],
[
"さっきのお返しだ",
"そう云われちゃあ恥入りだ、貰うぜ",
"海上無事を祝ってくんねえ、――明日の朝あもう江戸ともおさらばだ。十二年振りに帰る長崎、変ったろうなあ、眼をつぶると見えるようだぜ",
"さあ返盃だ――",
"おらあいけねえ、いまの先断ったばかりだ、おらあこれから生れ変るんだ、故郷へ帰って始めっから遣り直すんだ、何も彼もこれからなんだ",
"そいつあ良い思案だ、けれども容易く出来るこっちゃあねえ",
"そうだ、人間一匹生れ変るなあ容易いこっちゃあねえ、けれどもおらあやるんだ、例え嘘にでも、一度だけあ真人間の姿を見せてあげてえ人がある",
"分ってるよ、恋人だろう",
"そうじゃあねえ、昔は知らず今はそう云っちゃあ済まねえ人だ。――ああ、今夜は色々な事があった、二十四の今日までをひと纒めにしたよりも、もっと変った事ばかり起った"
],
[
"ふん。ひと晩に簪の二つや三つ、泥まみれになるのは江戸じゃあ珍しかあねえ",
"全くよ、珍しかあねえ",
"だから見ねえつもりでいな、若いの"
],
[
"――野郎!",
"あッ"
],
[
"あたしを忘れたの正さん",
"――あッ",
"お美津よ。逢いたかった"
],
[
"――逢いたかった、逢いたかった",
"お美津さま!"
],
[
"あたしもう死ぬ覚悟でいたわ",
"ここまで来ればもう大丈夫です"
],
[
"ここからは寮も近い、お美津さま、早く貴女は帰って下さい",
"あたしが独りで帰ると思って?"
],
[
"あたしは厭、おまえと一緒でなければお美津は生きる甲斐もないのよ。正さん、――あたしがどんなに待っていたか、おまえは知らないでしょう",
"…………",
"ひどい、ひどい、正さん"
],
[
"お帰り下さい、お美津さま",
"――――",
"正吉も長崎へ帰ります、そして――真人間に、昔の正吉に生れ変って来ます。私は、悪い夢を見ました",
"正さん!",
"此の世にあるとも思えない、悪い夢でした。けれどその夢も醒めました、故郷へ帰って、この汚れた体を浄めて来ます。きっと、きっと真人間の正吉になって帰ります",
"いけない。一緒に来て、正さん",
"左様なら、正吉を可哀そうな奴だと憫んで下さい、――左様なら",
"待って、待って、正さーん"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング増刊号」大日本雄辯會講談社
1937(昭和12)年8月
※「七時」に対するルビの「むつはん」と「むつ」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "おみつかんざし",
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"初出": "「キング増刊号」大日本雄辯會講談社、1937(昭和12)年8月",
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[
[
"女の仕合せってそういうものですわねえ",
"津留さん、なんですそんな"
],
[
"女の人ってみんなへんてこよ、母さまも谷川のおばさまも幸田の奥さまも、みんな嫁に来てからどんなに辛かったとか悲しかったとか、日も夜も泣きの涙で送ったとかって、世界じゅうの不幸を独りで背負ったような顔をなさるかと思うと、こんどは旦那さまの自慢を始めて、およそ自分くらい幸福な妻はないなんて、まるっきり反対なことを平気で仰しゃるんですものね",
"あら、母さんがいつそんなこと云いました"
],
[
"このあいだ倉重の奥さまがいらしったとき、この頃は主人がすっかり年寄じみてしまって物足りませんわ、昔は若くもあったでしょうけれど、やっぱり愛情も激しかったんですわね、つまらないような事でも、すぐむきになって、それこそまっ赤になって怒って、がんがんがんッて雷を鳴らすんですの、それがもう比べ物のないくらい猛烈で、わたくし躯じゅうがじいんと痺れるようになるんですけれど、そんなあとは水でも浴びたようにさっぱりして、歌でも唄いたいようなうきうきした楽しい気持になったものですわ、本当にあのじぶんのことを思うとこの頃は",
"もうたくさんよ、いいかげんになさい"
],
[
"――なんという人でしょう、そんなことを聞いていたりして恥ずかしくないんですか",
"恥ずかしいのはお母さまでしょ、わたくし聞いていたんじゃなく聞えて来たんですもの、お母さまとッても嬉しそうに話していらしったでございますですわア"
],
[
"あらそうかしら、わたくしが聞いたのは大賢人ッていう綽名でしたわ",
"それが悪口なんです、本当はその反対の意味で云ってるんですよ、あなたにも似合わない、そのくらいの意地悪がわからないんですか"
],
[
"泰三か、泰三だな、泰三だろう",
"はい、泰三さんでございます",
"うーん泰三か"
],
[
"ごらん下さい、このとおり水引もかかっております、決して嘘偽りは申しません、それは信用して頂きたいと思うのです",
"そんなことは信ずるも信じないも……そんな土産物などは家の者に渡せばいいではないか"
],
[
"私は実に意外だったのですが、こちらへ来る途中ですね、宿屋へ泊るたびにどの宿屋の飯もひどく不味いんです、ことに飯の菜がなってない、まるで食えないんです、といったところで武士であってみれば、まさかおかずの文句は云えやしません、そこまでは私も品格を下げたくはないですから、つまり",
"つまりそれで箱の中の物を喰べたというわけか",
"いやそう仰しゃっては、それでは身も蓋もなくなります、そんな単純な気持では決してありません、私としてはこちらへ持って来て喜んで頂くつもりで、代金も自分で払いましたし重い思いをして持って来たものなので、そんな貴方の仰しゃるような"
],
[
"いやそんな、礼を云って頂くほどの物ではございません、ほんのもう寸志ですから、どうぞもう",
"うるさい、わかったからあっちへゆけ、頭がきんきんしてきた"
],
[
"あんなに狎れ狎れしいやつは見たことがない、またあのずうずうしさとむやみに饒舌ることはどうだ、これはとんだ者を引受けたらしいぞ",
"わたくしも吃驚しました"
],
[
"十時ころに着いたのですが、すぐ裏へいって薪を割りまして、十束ばかり割ったそうですけれど、そのあいだに下女のお花を泣かせまして、飯炊きの吉造の腕を抜きまして、隣りの村田さまの有之助さんと口論をなさいまして、裏木戸を毀しまして",
"まあ待て、いや待て、その下女を泣かしたとか吉造の腕を抜いたというのはどうしたわけだ",
"お花も泣くほどのことはないのですが、あれは御存じのように縹緻が自慢でございます、自分ではこの城下で幾人のなかにはいると思っているのを、泰三さんが踏ん潰したひょっとこのようだとお云いなすったそうで、それから吉造ですけれど、あれは左の腕が少し短いんですの、自分では右が長いんだと云っておりましたが、それを左が短いんだから同じ長さにしてやると云いまして、それでつまり、……肩の付根のところを抜いてしまったんです",
"もういい、また頭がきんきんし始めた"
],
[
"あの物音はなんだ",
"わたくしにもわかりませんけれど、泰三さんのお部屋のようでございますよ",
"なに泰三……"
],
[
"――曲者です、この、あっ",
"――どうだ、うぬ"
],
[
"私は厠へまいるつもりで、起きて夜具から出まして、障子をあけたところがいきなりおでこをなにかにぶっつけました、よく眼から火が出るということを申しますが、御城代はそんな覚えがおありですか",
"そう……まあ、ないようだが",
"本当に火が出るんです、ばしッといったぐあいにですね、ひどいもんです、吃驚しまして、これは方角が違ったと気がついたもんですから、こんどはこっちへ見当をつけてあけました、するとなにかしらぐにゃッとした物を踏んづけたんですが、そいつがもう、まるでまっ暗がりの中でものも云わずにとび掛って来たんです、いきなりですからね、……こっちは御参なれと思いました、さあ来いというわけです、なにしろこれから世話になる山治家のためですから、武運つたなく死ねば死ねと覚悟をきめて、むにむさんにひっ組んで、敵もさる者でしたから相当に骨が折れましたけれども、そこへ人がやって来たりしたときは遂に、……相手は気絶していたんですが、それがまさか家扶の相模さんとは、私としては実に案外でもありぺてんにかかったような心持で、これは御城代にもわかって頂けると思うのですが、どうでしょうか",
"――うん、まあ、そこはわしとしても、ひと口には批評はできないと思うが……"
],
[
"おたずねですから申上げますが、誰かに聞えるようなことはないでしょうか",
"それはまあ、その懸念はまあ無用である"
],
[
"そのとき魚を割いてみせたそうですな、私は聞いただけですけれども、これなどは、いかに彼が肚黒い人間であるかという一例だと思うのですがな",
"そこで対策なんであるが"
],
[
"相手がそこまで深慮遠謀で来るとすれば、こちらも単に買収などという手で安心はしておられない、むろん買収の網も掛けるが、喧嘩を仕掛ける手、酒色の餌なども案外な効果をあげるかもしれぬと思う、……これは、酒色について彼がいかなる嗜好を持っておるか、という点をまず仔細に調べなければならぬが",
"彼は近く御役に就くそうですから、その方面で失脚させる法も考慮すべきでしょう",
"兄の石仏を利用する手もあり得るですな"
],
[
"これがそうですの、お膳から落ちたので拾ってつけ替えたんですわ",
"そいつはすばしっこいですな、へええ、そいつは気がつかなかった、ああ、おじ上"
],
[
"空腹なものですから、失礼しています",
"ほほう、そうか、ふん、空腹か",
"ええ、ふしぎなくらい空腹なんです、三年ばかりまえにいちどこんな事がありました、あれは慥か殿さまのお供をして葛飾のほうへ鴨を捕りにいったときでしたが、途中から雨になって"
],
[
"おれはおまえに満信へ使いを頼んだ、手紙を持たせて、返辞を聞いて来るようにと頼んだ、そうではないか",
"そうですとも、そのとおりです",
"うう、……で、おれは、その返辞を聞きたいのだ",
"ああそうですかその返辞ですか、それなら食事が終ったらすぐいって来ます、手紙はここにちゃんと持っていますから安心して下さい、決して無くしたりなんかしやしません、ちょっとばかり皺くちゃにはなりましたけれど、これで私もそこまでずぼらではないですから、ええすぐいって来ます"
],
[
"それについて申上げなければならないんですが、私は此処を十時に出ました、それはもう仰しゃるとおりなので、私は満信さんへ向ってゆきました、それは天地神明に誓ってもいいです、頼まれた以上は責任がありますから、いくら私だってそれほどずぼらじゃありません、満信さんの家は二条町で此処からは北に当るわけでしょう、多少は東に寄っているかも",
"要点を云え要点を、おれは方角などを聞いてはおらん",
"そうですとも、私も方角などはどっちでもいいんです、そこで満信さんのほうへ向っていったんですが、あの原っぱですね、御材木蔵の向うにある草っ原ですが、あそこへさしかかったのが私の運の悪いところだと思うんですが、実を申上げるんですけれども、私は武士としてひくにひかれぬ立場にぶっつかったんです、私が武士でなければよかったんですが、武士である以上は、おそらく貴方でもみのがして通るわけにはいかなかったと思うんですが",
"もういちど云うがな、いいか、よけいなことは抜きにしろ、いいか、よけいなことは抜きにして要点だけ云え、要点だ、わかったか"
],
[
"ばかばかしい、人生が要点だけで成り立つと思ってるのかしら",
"なに、な、なに、今なんと云った"
],
[
"おれはもういちど云うが、おれは",
"いえわかってます、つまり要点ですからね、私だってそのくらいのことは忘れやあしません、それで要点なんですが、私としても侍であって、当城の藩士ともなればへたなことは出来ない、うっかりすれば殿さまの御名にもかかわるわけですから、……そこで私は聞いたんです",
"なにを聞いたんだ、誰に、なにを",
"その子供にです、その泣いている子供にですよ、どうして泣いているのか、誰にいじめられたのか、殴られでもしたのか、悪いやつはまだ此処にいるか、……こんなぐあいにですね、相手はなにしろまだ頑是ない子供ですからなかなか返辞をしやあしません、じれったいけれどもこっちも乗りかかった舟ですからそこは根気よくやりました。そのうちに子供のほうでもいくらかおちついたんでしょう、実はこれこれと話しだしたんですが、いやどうも、……殴られたのでもなければ誰にいじめられたんでもない、貴方もそれは意外だとお思いになるでしょうが、誰のせいでもないんです、つきつめたところそこは子供だと思ったんですが、実にばかな話なんですが、つまり凧があがらないっていうわけです",
"凧、……凧、……凧がどうしたと",
"あがらないんです、みんなの凧はあがってるのに彼の凧だけはあがらない、見ると嘘も隠しもないそこの地面にのたばってる、小っぽけな奴凧でしたが、……またのたばってるというのは仙台の方言で、寝転んでるっていう意味なんですが、それを覚えたについて仙台藩の人間と知己になったことから話さなければならないので、もし貴方がお聞きになりたければですが、いやそれはべつの機会にします、今はとりあえず要点だけにしますけれども、……それでですね、小ちゃな奴凧がそこの地面の上にのたばったわけです"
],
[
"これじゃあまるで飛脚に雇われて来たようなもんだ、いまに道筋のやつらがすっかりおれのことを覚えちまって、ちょいとあたしのも頼みますなんか云いだしたらどうするつもりだろう",
"ははあ、また走り使いか"
],
[
"なんだい、なにか用かい",
"いまなんと云った、いまの言葉をもういちど云ってみろ"
],
[
"人を嘲弄するな、あんな高声の独り言があるか、聞えるのを承知のうえの暴言ではないか",
"するとお互いさまだな、おまえたちの暴言もおれに聞えた、つまり聞かせるつもりの悪口がお互いに聞えたわけで、双方目的を達して満足というわけだ、そうじゃないか"
],
[
"おれのほうもそうなんだ、おれも使い走りなどと云われたのは初めてでね、おまえたちの十倍くらい聞き捨てがならないんだよ",
"それならなぜ初めにそれを云わんか",
"云えないんだ、云えば喧嘩だからね、おれは殿さまに喧嘩を売ってはいかんと禁止されているんだ、売ってはいかん、だからこっちから仕掛けるようなことは出来ないんだ",
"すると喧嘩を買って出るというのか"
],
[
"――だがおれはちょいと使いを済まして来る、なにひとっ走りだ、あっというまに帰って来るから",
"卑怯者、この期に及んで逃げる気か",
"そいつだけは心配するな、おれに限ってそんな勿体ないことはしないから、それだけは大丈夫だから待ってて呉れ、そこの原っぱだぞ、すぐ戻って来るからな"
],
[
"私ですか、いいえ、べつに",
"こっちを向いてみろ、おまえなにか隠しているだろう"
],
[
"殿にどうした、殿にどうしたというんだ",
"殿さまにいかんと云われたんです、こっちから決して喧嘩を売ってはいかん、これは固く禁ずるぞと云われたんです",
"――それで、……それでどうしたんだ",
"ですからつまり、私は、喧嘩なんぞ売りやしません、殿さまの仰しゃることは重いですからね、私は決して",
"おまえ額に瘤を出してるな"
],
[
"ええこれは、あれです、ちょいと転びまして、木の根があったもんですから、とっ拍子もないような処に大きな根っ子がありまして、あれはなんでしょうか、道路関係の事は普請奉行の係りでしょうか、それとも作事方の",
"おまえ喧嘩をしたんだろう"
],
[
"私が典木泰三です、なにか御用ですか",
"――なにか用かって、ばかにするな"
],
[
"やあ失礼、あんたたちか",
"黙れ卑怯者、約束をどうした、えらそうに大言を吐いて、われわれはずっとあの原で待っていたんだぞ"
],
[
"血を分けた弟が七八人も十四五人もと決闘をなさるというのに",
"いや十四五人などはおらん五六人だ",
"お父さまは御自分で七八人かもっといたかもしれないと仰しゃったではございませんか、現に見たお父さまが仰しゃるのですもの、本当は二三十人いるかもしれませんわ、いいえきっと二三十人はいると思います、それなのに泰助さまは兄として安閑とそうして茶を召上っていていいのですか"
],
[
"――もしもそうならばですね、それは寧ろ私は反対だと思うんです",
"反対とはなにがですの、どこのなにが反対だと仰しゃるんですか",
"――つまりです、つまり私はですね、寧ろ相手の人たち、その決闘の相手の人たちのほうがずっと心配だと私は思うんです",
"では泰三さまは負けないと仰しゃるんですか",
"――泰三がですか、ええもちろんです、それで江戸でもみんな手を焼いたんですが……しかしですね、殿さまから厳しいお叱りを受けて来たんですから、まあこんどは、……こんどくらいはですね、あまりひどい事はやらないだろうと思うんです"
],
[
"待て泰三、け、決闘はどうした",
"残念なことに仲裁がはいっちゃったんです、その仲裁人に招かれたんで、口惜しいけれどもあのおけら共と仲直りをするわけなんです、今日は二つも喧嘩の口があったのに、二つとも中途半端になっちゃって、いやなんでもありません、私は喧嘩なんか、決して私は、ではいって来ますから、どうぞひとつ皆さんはお先へ"
],
[
"その連中というのは誰ですか",
"頬ぺたかどっかに傷痕のある、そう本多孫九郎というのとほかに四五人",
"本多孫九郎ですって"
],
[
"へえ、妙な趣向を凝らすもんだね、こっちじゃあみんなそんな手数をかけて人と知合になるのかい",
"そんなばかなことはありません、かれらは特に理由があってそうしたんです"
],
[
"その理由というのは、これは典木さんだから申上げるのですが、実に憎むべき汚職事件からきているのです",
"おしょくッてなに者だい",
"汚職、つまり職務を汚す、汚職です、うちあけて申しますが藩政は紊乱し弛廃し、悪徳と不正で充満しています、貴方はおそらく、……典木さんが赴任して来られたのも、おそらくその点に秘密の使命があるのだと思いますが、いいえ隠さないで下さい、私共は知っているのです、そして貴方が必ず使命をはたされるだろうということも信じているのですから"
],
[
"やはりなんですな、同じ血筋といっても兄は兄、比べてみると格の違いというものは争えないものですな",
"沈着冷静、実にあの若さにしては珍しい老成ぶりです、能ある鷹は爪を隠す、石仏などと云われても馬耳東風と聞きながしていたところなど、実にあの若さにしては稀な風格と云うべきでしょう",
"私はあの人は禅学をやったと思うですな、それも曹洞の痛棒に敲きぬかれて、大悟の境を通過した人だと思うのですな"
],
[
"泰助さまの評判がとてもよくなったそうですよ、お父さまが仰しゃってたけれど",
"その筈ですわ、だって本当にお立派ないい方なのですもの"
],
[
"ひと頃あんなに悪く云ってた人たちが、まるで手の平を返すように褒めるんですって、将来は典木家を再興して、元どおり江戸家老にお成りなさるだろうって、御重職のあいだにもそんな噂があるそうよ",
"人にそれだけの値打があれは、いつかはわからずにはいませんわ、あの方はそれだけの値打があるのですもの、それがようやく皆さまにわかってきただけですわ",
"どうしてだか云ってあげましょうか"
],
[
"それはね、泰三さんのおかげなのよ",
"あら、泰三さまがどうなすったの",
"泰三さんが勤めだして、せっかちで粗忽なことばかりやるから、それでお兄さんのほうが引立ってきたのよ、泰三さんが引立て役になったから泰助さんが幾らかましにみえてきただけよ、それだけのことよッ"
],
[
"どうせでまかせですよ津留さんの云うことは、勝手に云わせておおきなさい",
"あたしの云うことがでまかせですって"
],
[
"ははあ、そういうわけか",
"はい、そういうわけでございます"
],
[
"釣瓶の茶碗ですね、二階のあのため塗の文庫の中にあるんでしょう",
"まま、待て、待て泰三"
],
[
"たった一人きりのお兄さまの結婚式なのに、ごまかしてまで除け者にするなんて、お父さまもお父さまだけれど、お母さまだってお姉さまだってあんまり薄情だわ、泰助さんなんか石仏どころじゃない、涙も情愛もない唯の石ころだわ",
"お黙りなさい津留さん、言葉が過ぎますよ"
],
[
"信じられなければ信じなくともよくってよ、泰三さんの粗忽がもしか本物だったにしろ、二人っきりの御兄弟じゃありませんか、御祝言といえば一生に一度、なにもそんなにけちけちしないで毀せるったけ毀さしてあげたらいいじゃないの、まさか天地まで粉々にするわけでもないでしょ、えへん",
"お望みなら津留さんのときにさせておあげになればいいわ、ねえお母さま"
],
[
"そのときはどうぞわたくしたちを招かないで下さいましね",
"こっちで御免を蒙ります、わたくしたち二人っきりよ、二人っきりで誰に遠慮も気兼ねもなくやるわよ、どうぞ御心配なく"
],
[
"わたくし冗談になんか申しません、本当にそうだからそうだと申すんですわ",
"なんですって、まあ、なんですって",
"わたくし泰三さまの妻になります"
],
[
"殿が金満家であられると、金満家で",
"わけがわからん、金満家とはなんであろうか"
],
[
"どうしたんです、今朝はひどく温和しいがどこかぐあいでも悪いんですか",
"構わないで下さい"
],
[
"これは驚いた、これはどうも、いや待って下さい、いいですか、私は貴女と結婚したいんですよ貴女と、そのほかの誰とも絶対に御免です、絶対に、それを貴女はこの家の婿養子になれと云う",
"だって泰三さまが、もし、わたくしをお好きなら、そうして下さる筈ですわ",
"では貴女は私に二重結婚をしろというわけですか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「労働文化」労働文化社
1950(昭和25)年9月~12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057569",
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"おい見ろ見ろ",
"――なんだ",
"あすこへ来る浪人を知ってるか",
"うちの店へ越して来た鎌田孫次郎てえ人だろう",
"本名はそうかも知れぬがの"
],
[
"飴ん棒たあなんの事だ",
"まあ聞きねえ"
],
[
"そう云えばあの浪人、米の一升買いから八百屋の買出しまで自分でやらかすぜ",
"本当かいそれあ――",
"一度や二度じゃねえ、おいら現に見ているんだ、あの通り五段目の定九郎てえ男振で、それこそ芋を少々……なんて図は珍なもんだったぜ",
"だからよ"
],
[
"本名は鎌田孫次郎かも知れねえが、彼あ甘田甘次郎が本当だと云うんだ",
"女房に甘次郎か"
],
[
"いま聞いてれあ甘田甘次郎だと? 此奴らとんでもねえ事を云やあがる、手前っち馬子や駕舁夫と違って、お武家には格別心得のあるものだ。奥様を大事になさるにも何か深い訳があるに相違ねえ、つまらねえ蔭口なんぞ云やがると承知しねえぞ",
"それだって隠居さん、馬子も侍も人情に変りはねえでしょう、飴ん棒は矢張り飴ん棒じゃ有りませんか",
"だから手前っちは盲目だってんだ、鎌田さんの顔をよく拝見しろ、あれが普通のこって女房にでれつく顔かよ、あんな立派な人品は千人に一人ということだ",
"じゃあ千人に一人の甘次郎で……"
],
[
"女房に甘次郎",
"甘田甘次郎先生――"
],
[
"いやどうぞお構いなく",
"斯様な貧宅、別してお構いは出来ませぬ。これ椙江、――お客来だぞ"
],
[
"何ぞ御用件でも?",
"実は御相談があって参りましたので",
"はあ",
"余計なお世話かも知れませんが"
],
[
"是非お世話に預り度いが、――実は、妻に気鬱の持病がござるゆえ、この家へ子供達を集めなどして若し、機嫌に障るような事があると困るので、甚だ勝手ながら他に寄場でも拵えて頂けるなら、拙者が出向いて教授を致しましょう",
"はあ、左様でございますか"
],
[
"宜うございます、幸い長屋の端が二軒空いていますから、造作を少し直して稽古場を作りましょう、子供集めや雑用品は失礼ながら手前の方で致します",
"御厚志なんとも忝のうござる"
],
[
"いやどうぞその儘",
"我儘者でござる、どうか御容赦を"
],
[
"なんだ",
"ちょいとここへ来て御覧なさい"
],
[
"許せよ椙江、どうも客が来ると、男というやつは威張り度くなるもので、つい心にもなく荒いことを云って了う、――なに宜い宜い、そうして居れ、拙者はいまのうちに洗い物を片付けて来る",
"どうです隠居さん"
],
[
"毎でもこの調子ですぜ、これでも甘次郎じゃ有りませんか?",
"この馬鹿野郎"
],
[
"あいてて!",
"何だと思やあ立聴きをしやぁがる、汝のような下司根性に何が分るんだ、二度とこんな卑しい真似をしやがると叩き出すぞ"
],
[
"宜しゅうござる、武士でない者に打つ術は必要ないが、避ける方法ぐらいは知っていても宜かろう、お教え致しましょう",
"そんなら、私共の伜もお願い申します"
],
[
"なに斬合い",
"ほらあすこに、――"
],
[
"失礼ながら、お手間とってはならぬとお見受け致す、御助勢申し度い",
"――御無用"
],
[
"御意討を聞いて罷り出た、当御領内に住む浪士、鎌田孫次郎",
"犬飼研作、来い!"
],
[
"お師匠さまは強いなあ",
"五人掛りで駄目だったのを、お師匠さまはたったひと太刀でやっつけちゃった"
],
[
"申後れました、私鎌田孫次郎と申します",
"先日は大事の際、よくぞ御助勢下さった、どうでも討たねばならぬ奴、幸い貴殿のお蔭を以て仕止め、討手の者面目相立ってござる。ただ御意の事ゆえ、表向きに貴殿の御披露がならぬこそ残念――是は些少ながら拙者一存のお礼代り、御笑納下さるよう",
"いやそれは困ります、浪人ながら御領内に住む孫次郎、些かなりともお役に立てば、本望でござる。礼物など平に……",
"まあお受け下され、辞退されるほどの品でもござらぬ"
],
[
"はあ、未だほんの未熟者でござる",
"実は拙者も壮年の頃、梶派一刀流を些か学びましたので、太刀捌きなつかしく、拝見致しましたが、――就ては拙者に千之助と申す伜が居ります、これに、梶派を教え度いと予々心掛けて居ったところ。如何でござろうか、日取りその他は御都合にお任せ申すが、拙宅まで御教授に出向いては下さるまいか"
],
[
"未熟者の拙者、迚も人にお教え申すことなどは、出来ませぬが、折角の思召しを辞するは却って失礼、宜しかったら型だけにても",
"御承知下さるか、それは忝のうござる、――では追って日取などを決めたうえ"
],
[
"是は、――どうした事……?",
"実は、三年あとに死去致しました",
"御死去"
],
[
"すると、先刻奥へ声をかけられたは?",
"お耳に止って赤面仕る"
],
[
"――――",
"俤ある内は生きているつもりにて、あのような独言を申し始めたのが癖になり、今日までそのまま……"
],
[
"いや佳きお話を承わった。亡き人へのそれまでの御愛情、未練どころか、却ってお羨ましゅう存ずる。慮外ながら――拙者も御回向仕ろう",
"忝のうござる、さぞ悦びましょう"
],
[
"是は御家内のお姿でござるか",
"はあ、同藩の朋友に絵心ある者がござって、戯れに描いた似絵が、――今は悲しい形身となって居ります"
],
[
"梶派の組太刀は別して烈しゅうござるが、充分にやって置くと竹刀稽古の会得が楽に参る、呉々も御勉強なさるよう",
"はい、忝のう存じます",
"ではまた明後日、――"
],
[
"先生、暫くお待ち下さい",
"はあ、――"
],
[
"これは千之助の姉で小房と申す不束者、お見知り置き願い度い",
"は、……拙者こそ、――",
"下手ながら茶を献じ度いと申す、御迷惑でなかったらお上り下さらぬか、他に少々お話もござるが",
"お邪魔仕りまする"
],
[
"お話とは外でもござらぬ、鎌田氏には御仕官のお望みはござらぬか",
"――と仰せられまするは?",
"実は余りに惜しきお腕前、埋木のままに置くのは勿体なしと存じて失礼ながら役向きの者に申伝えたうえ、再三度お稽古の様子を蔭から拝見させましたところ、若しお望みならば当藩へ御推挙申し上げようと、相談が出来たのでござる",
"御配慮なんとも――",
"初めより多分には参らぬ、二百石ほどでご勘忍下さるならば、直ぐにも手筈を致すが、如何でござろうか"
],
[
"思召のほど重々有難く存じまする、二三日御猶予を頂いたうえ、御返辞を申上げ度うござるが",
"結構でござる、お待ち申しましょう"
],
[
"いや、最早充分でござる",
"まあそう仰せられるな、粗菓でお口に合うまいがお摘まみ下されい、――さあ"
],
[
"どうなされた――?",
"は、いや",
"粗末ながら吟味をさせてござる、御遠慮なくどうぞ"
],
[
"まあ宜いではござらぬか",
"いや、急ぎの用事ゆえ"
],
[
"これは先生、何か御用でも――?",
"ちとお話がござって"
],
[
"実は、此方には長々と親身も及ばぬお世話に相成ったが、仔細あって、この度当地を立退くことに致しました",
"な、何でございますって",
"お笑い下さるな、打明けて申せば家内の体が御当地に合わぬとみえ、兎角調子がすぐれぬ様子、拠なく南の方へでも移ってやろうと存じます"
],
[
"でもそれあ……奥様のお体に合わぬ土地と仰言られればそれ迄ですが、残念でございますなあ。折角子供達も馴着いたところで、何処か良い医者にでもお診せなすったら如何でございましょう、また……",
"いやいや、気鬱と申す病は医薬よりも機嫌次第、気の向くままにしてやるのが何よりの養生でござる",
"では、奥様のお望みで?",
"笑止ながら、我儘者、望みのままに致してやり度いと存ずる……"
],
[
"そうでございますか、残念ながらそれでは達ってお引止めも出来ますまい、――それでは御意のままとして、何日お立ちなさいます",
"明早朝の積りでござる",
"どうも余り急なことで御挨拶の申上げようもございません、奥様には到頭お眼にかからず了いでしたが、道中お気をつけなすって、いずれ明朝お見送りを致します",
"いや折角ながら早立ちの旅、お見送りは固く辞退仕る――、長々お世話に相成った、御縁もあらばまたお眼にかかろうが、此方には呉々も御健固に"
],
[
"うるせえ、黙ってろ",
"だって甘次郎め余り舐めてけつかる"
],
[
"唯今これを出て行ったのは、裏に住む鎌田氏であったの",
"へえ左様でございます",
"なにか別れの挨拶をして居った様子だが、そうでは無かったか"
],
[
"へえ、なんでも急に御家内の都合で明朝早く、南の方へお立ちになるという話でございましたが、――何ぞ御用でもございますか",
"いや別に用事ではない――邪魔をした"
],
[
"何誰でござるか、――?",
"…………"
],
[
"こなたは――小房どの",
"いえ、いまは椙江と申しまする"
],
[
"椙江、椙江――?",
"どうぞ是を御覧遊ばして"
],
[
"小房どの、――いや椙江と申すに及ばぬ、小房どの",
"――はい",
"今は何事も申上げぬ、旅の不自由御得心でござるか",
"どこまでもお伴を致します",
"では、――紀州へ参ろう"
],
[
"高野の霊場へ納めるものがござる、その供養を終ったら直ぐに浜松へ戻りましょうぞ",
"あの、ここへ……?",
"行って帰るまで多くかかっても二十日、帰ったら其許と改めて祝言だ",
"まあ"
],
[
"戻るまでは旅の道連れ、戻ったうえは、――御承知でござるか、拙者には甘次郎という綽名がござる、女房に甘次郎……今度は家中の評判になりましょうぞ",
"まあ……存じませぬ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング」大日本雄弁会講談社
1937(昭和12)年7月号
※「云やあがる」と「云ゃあがる」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2021年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"おまえさんお起きな、先生のところで始まったよ、坊やもついでに起してね",
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],
[
"おれの写生帖がないんだ、この机の上へ置いた筈なんだが",
"置いた筈ならそこにある筈じゃないか、置いたところを捜してみればいいじゃないか、いつでもそうなんだから、いやなにがない、なにはどこへ置いた筈だ、ない筈はない、滑ったの転んだのって、置いた筈なら置いたところを捜せばいいじゃないか、いけないよそんなところをひっくり返しちゃ、だめだってばさ、そんなとこに有りやしないよ、触っちゃいやだってのにね、あたしがちゃんと片づけといたんだからひっかきまわしちゃだめだよ、いけないってのにわかんないのかね、このひとは",
"――ここに有ったじゃないか",
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],
[
"どうするのさ、どこへゆくのさ、もうおつけが出来ようってのにどうするんだよ、でかけるならごはんを食べてったらいいじゃないか",
"おれならいい、食べたくないんだ",
"食べたくないって食べないでどうするのさ、また誰かと朝っぱらから飲むつもりかい、ああそれならそれでいいよ、幾らでものんだくれるがいいさ、あたしゃ知らないからさっさとおゆきよ、だけど仕事のことはどうするんだい、阿波屋の旦那が来たらなんて云うのさ、いつもいつもまだ出来ませんじゃ、あたしが挨拶に困るじゃないか、なんて御返辞をすればいいのさ、こんどはなんとかはっきりしたことを云わなきゃ、幾らなんだって――"
],
[
"――勿体ないが騙しよいといってね、おふくろだけは有難いもんですよ、親父や兄きときたひにゃ小言の百万遍を並べるだけで、それこそ百も出しゃあしない、そこへゆくとおふくろは涙ぐむだけですからね、涙ぐんで、なけなしの臍繰りを黙って呉れるんだ、いいもんですよ",
"そんなときばかり褒めるやつさ、おふくろさんこそいいつらの皮だ"
],
[
"眼がさめたの、気持はどう、――苦しいのなおった",
"たいしたことはない、伴れはどうしたろう",
"みんなあっちにいるわ、水あげましょうか"
],
[
"いまなん刻ごろかね",
"まだ早いわよ、今日もいつづけだって云ってたじゃないの、――お酒とうにここへ持って来てあるのよ、ちょっとお燗しましょうか",
"いや酒はもういい"
],
[
"いや酒は充分です、本当のところもう",
"いつづけの宿酔てえわけですかい、そいつあいいが、待てよ、待て待て待てと、――この銀をこうひいて、こうひいてからどうする"
],
[
"ふだん男ばかり楽しんでいるのは不公平だ、たまには女も楽しくやろうってね、あたしも呼ばれて顔だけだしたんですよ、なにしろあなた桶屋のおかねさんに、吉さんとこのげんさんが音頭とりですからね、三味線を弾く、唄う、踊るで、ひとしきりお宅の前は見物でいっぱいでしたよ",
"たまには女が楽しむのもいいさ、女だけで飲んだり食ったり、唄ったり踊ったりも結構だ、ときにはそうやって世帯の苦労を忘れるがいいさ、構やしねえけれども、それにしてもほどてえものがあらあ"
],
[
"どうしたのさ、そんなとこ今じぶんどうしようってのさ、もう寝るんだからひっかきまわしたりちらかしたりしちゃいやだよ、よしと呉れってんだよ、寝るんじゃないかね",
"――ここに置いた絵をどうした",
"絵って、ああ、あれは阿波屋の旦那にお渡ししたよ、だってどうお返辞すればいいかわからないし、旦那は旦那でいくらなんでも今日は仕上ってるだろうって仰しゃるし",
"――まだ描きかけだということは知っている筈じゃないか"
],
[
"――阿波屋から幾ら貰ったんだ",
"大きなお世話だよ、知らないよ、阿波屋の旦那は仰しゃったんだから、絵をごらんになるとすぐ仰しゃったんだからね、なんだ描きかけだなんて、もうすっかり仕上ってるじゃないか、もうどこに一点も筆を入れるところはないじゃないかって、そう云って",
"うるせえ、金は幾ら貰ったんだ"
],
[
"そんなことおまえさんの知ったこっちゃないよ、男はね、金のことなんかに口だしをするもんじゃないんだろ、少しばかりの金に眼の色を変えて、みっともないってんだよ",
"うるさい、黙れ"
],
[
"おぶちよ、もっとおぶちよ、好きなだけぶったらいいじゃないか、あたしなんか、どうせあたしなんか",
"きさまは狩野にいた、おれといっしょになってからも、もう十年になる"
],
[
"どうくふうしても思ったような絵が出来ない、描いても描いても俗になってしまう、寝ても起きてもそのことで頭はいっぱいだ、夜なかに眼がさめて、どうにもならない気持で、独りで呻いたりもがいたりしているんだ、――あんな出来そこないの絵を売るくらいなら、おまえにも貧乏はさせやしない。おれだってこんなに苦労はしやあしないんだ",
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"そんなに欲しきゃ出してやるから、そこをどいてあたしを起しと呉れよ、放さないのかね"
],
[
"これでみんなか、これだけ受取ったのか",
"差配んとこやほかのこまごました借を払ったよ。米屋だって酒屋だって、たまには幾らか入れなきゃ、あたしがどんなにずうずうしくたって",
"そんなことをきいてやあしない、いったい阿波屋から幾ら貰ったかと云ってるんだ",
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],
[
"どうするものか、いって金を返すんだ、そしてあの絵を破いてくるんだ",
"その金を返すって、おまえさん、本当に返すのかい"
],
[
"――平野さんの気性は昔から知ってるが、それにまあ金のことなぞはどっちでもいいが、……あの絵がどうしていけないんです、結構じゃありませんか、失礼だがこれまで拝見したなかでは図をぬいてるじゃありませんか、勝手なはなしだが、私はあれに鄙の曲水という題まで考えてるくらいです",
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"それはまあ、あたしも留守へいって、平野さんの承諾なしに貰って来たのは悪かった。待ちに待って、しびれをきらしていたところだもんだから、――まあついなにしてしまったんだが、どうだろう平野さん、この図柄をもっと大きなものに描く気はありませんか",
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"六曲はどうです、なるべくなら一双がいいが、半双でも描いてみる気はありませんか",
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],
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"本当にやってみる気があるなら、場所は私の小梅の寮をお貸ししましょう、材料なんかもお気にいる物を揃えましょう、失礼ながら描きあがるまでの雑用もひき受けましょう、ひとつ思いきってやってみて頂こうじゃありませんか",
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],
[
"とてもつとまらねえからひまを貰う、先生には話がついてるからってね、起きぬけにやって来て、てめえの荷物を纒めて、半刻ばかりめえに出てゆきましたよ",
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[
"おれは死んだと思う、絵が描けなくなっていたからな、どうもそういう気がする",
"そうかもしれない、実際もう半年以上も描けないようだったな",
"狩野の麒麟児といわれたうえ、ひところは新しい画道の先導者として、ずいぶん世人の注目をあびていたからな、それにあの神経ではこれ以上は堪えられなかったかもしれない"
],
[
"そんなことは構いません、帰っておいでなさればそれでいいので、しかし、いったいどこでどうしていなさった",
"どこと定ってはおりません、いろいろな人足もしましたし、飯炊きも樵夫もやりました。禅寺へ入ったこともございます、雲水になって乞食も致しました、京から奈良、加賀、信濃から甲斐というぐあいにわたり歩いたものです"
],
[
"結構ですな、ぜひ描いて頂きましょう",
"それからごらんのとおりのありさまなので、いつかのお話の寮と、描きあげるまでのお世話を願いたいのですが",
"ようございますとも、すぐその支度をさせましょう、――だがそうするとなんですな、旅でなにかいい収穫があったのでございますな"
],
[
"勝手なお願いですが、松屋と井上、島田の三人を呼んで頂きたい、かれらが来てから、あの三人が来てから貴方にも見て頂きたいのです、それまでごらんになるのをお待ち下さい",
"よろしいとも、早速その手配をしましょう"
],
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"私はね、久堅町の五兵衛てえ者です、ええ、先生のいらっしゃった長屋の差配でね、――ところでぶっつけにききますがね、唯今のお祝いの御挨拶は承りました、遠いところをわざわざ有難うございましたが、……おいでになったのはそれだけの御用ですか、ほかにもっと肝心な用むきがあるんじゃございませんか",
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"いやうかがいましょう、べつに奉行所のお白洲じゃねえので、どんなことを云ったからって咎めるの縛るのなんてえことはねえ、ひとつはっきり仰しゃってみて下さい、――いいえ阿波屋の旦那、いけません、みなさんもここは私に任せて下さい、――さあ、定七さんとやら、ひとつ用むきというのを聞こうじゃあございませんか"
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"まあいい、話ははっきりしているんで、なにも問題なんかありやしない、きっぱりけじめをつけさえすればいいんだ",
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"おれはおまえを離縁した覚えはない、そうだろう、お石",
"いいえ、いいえわたしはとても",
"なんにも云うな、おれはこれからも貧乏はしなきゃあならないだろう、おれのために貧乏して貰えるのはおれにとってはおまえひとりだ――よく帰って来て呉れた、お石"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1949(昭和24)年11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2019年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057567",
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],
[
"どうか話の腰を折らないで下さい",
"そうしましょう"
],
[
"あとをですって",
"それでおしまいですか",
"わからないふりをなさるのね"
],
[
"そうしてなにかあれば、みんなわたくしの責任になさるのよ、あなたはそういう方なんですから",
"その、――どうして障子を閉めるんですか"
],
[
"村田さまってどの村田さまですか",
"三郎助です"
],
[
"あなたの侍女です",
"どうしてですか"
],
[
"おれは知らないね",
"御存じないんですって"
],
[
"なにを読んでいるんだ",
"三代聞書です"
],
[
"――どの娘だ",
"私の侍女です、紀伊という娘です",
"――誰に似ているんだ",
"わからないんですが、誰かに似ているような気がしませんか"
],
[
"申上げられません",
"なぜ、なぜ云えないんだ"
],
[
"そんなことじゃない",
"では茶庄のおしのを裸にした件だな"
],
[
"どうしてもか",
"村田が立会い人だ"
],
[
"諄いぞ、抜け",
"斬られても文句はないんだな",
"村田が証人だ"
],
[
"勝負はついたぞ",
"頼むから待ってくれ、あっ"
],
[
"手をひくか",
"慥かに貰えるなら、――承知します",
"おれは武士だ",
"よろしい、私も武士です"
],
[
"月の五日に来れば渡す",
"五日ですな、わかりました"
],
[
"おれだって自分の恥をさらしはしないさ",
"そこに気がつけば結構だ、忘れるな"
],
[
"若旦那さまも、明日は慥か御非番でございましたわね",
"そうだったかね"
],
[
"だって自分で頼んだのだろう",
"それはお願いしたんですけれど",
"しかもいやになったのか"
],
[
"紀伊は赤根の湯を知っているか",
"はい、存じております"
],
[
"東風楼なら存じていますわ",
"あれはいい宿だ"
],
[
"うれしゅうございますわ",
"眼がさめるようだ"
],
[
"わたくし笑いませんわ",
"いま笑ったようだぞ",
"笑ったりなんか致しませんわ、わたくし"
],
[
"とにかく会ってみる",
"わたくし帰りますわ、お会いになっているうちに帰るほうがいいと思いますわ"
],
[
"なんの用があるんだ",
"御挨拶ですね、今日は五日ですよ"
],
[
"奢ってくれるのか",
"冗談でしょ、貧乏人をからかっちゃいけません"
],
[
"それはお言葉が過ぎますわ",
"父だけではない、どうやらたいていの男がそうらしいよ",
"あんまりですわ、それは",
"猿廻しは猿を太夫さんと立てる、そして踊らせたり芝居をさせたりして稼がせる、――よく似ていると思わないか"
],
[
"たとえば紀伊のようなね",
"あら、あたくしなんか",
"私は紀伊となら結婚したいと思う"
],
[
"いますぐに話す、これから話して、きっと承知させてみせるよ",
"いけません、若旦那さま"
],
[
"よのさんは稽古友達ですの",
"母は知っていたのか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社
1955(昭和30)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057562",
"作品名": "女は同じ物語",
"作品名読み": "おんなはおなじものがたり",
"ソート用読み": "おんなはおなしものかたり",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年1月号",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-09-11T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま",
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[
[
"明日は横須賀で、父様の発明したC・C・D潜水艦の試運転があるんでしょう。だから僕、今夜は早く寝たいんですがね",
"なあに、招待されたって早く帰ってくればいいさ、ぜひお伺いするがいいよ"
],
[
"じゃあ文ちゃんも見張りのお手伝を頼んだよ",
"え、大丈夫、行ってらっしゃい!"
],
[
"停電じゃありませんか",
"だって他の窓は明るいわ!"
],
[
"行って見ましょう",
"行きましょう"
],
[
"うん、その骸骨島と云うのはな、それ、この地図のここに赤い線がひいてあるだろう、ここにあるんだ!",
"へえ――ですが此処にゃなにも書いてありませんぜ",
"そうさ、骸骨島と云うのは……"
],
[
"お嬢様大変です、先生が‼",
"お父様がどうして⁉",
"これを読んでごらんなさい!"
],
[
"まあ! ではお父様までが⁉",
"とにかく警視庁へでも、電話をおかけいたしましょう、お嬢様‼"
],
[
"有難う、有難うみなさん‼",
"なんの礼を云うことはねえ、ところであんたはどこのお人だね?",
"僕ぁ東京の者ですが、横須賀の沖で……ついして船から落ちたのです"
],
[
"海狼って何ですか",
"ここはお前さん房州の白浜ですじゃ、あんたは一時間ばかりの内に、海狼に乗って三十里も海の中を走ったのじゃ。海狼はそんな魔ですじゃよ"
],
[
"や‼ 坊っちゃんですね‼",
"又坊っちゃんて云ったな⁉",
"ええいッ、こんな場合に名前の事なんか考えていられるもんですか、よくまあ貴方ご無事でしたね、全体どうなさったんです‼",
"まあ、そりゃあ後でも話せる、ところで家には別に変りはなかったかい",
"変りはなかったか⁉ 冗談じゃねえ、あれからは何にも彼もめちゃくちゃですよ",
"えッ? じゃなにか起ったのか",
"起ったの起らねえのって、実はね……"
],
[
"龍介の小僧は海狼に巻込まれたから、もう多分今時分は魚の餌食だろうぜ",
"しかし小僧の代わりに妹娘をかっさらって来たから、あの小娘を此骸骨島へ生埋めにしてやろうじゃねえか",
"うんそれが宜い。なんしろ、午後二時十分になれば、島の底にある三百貫の火薬が爆発する事になっているんだ。そうすればこの骸骨島も娘もあの春田博士も粉微塵よ",
"で、おいらはメトラス博士にC・C・D潜水艦を売って日本をずらかるんだ。ああ愉快だなあ、あはっはははは"
],
[
"爆弾を投下しましょう",
"でも、もし潜水艦に当ったら?",
"なあに大丈夫、当らないようにやります!"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年10月~12月
初出:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年10月~12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "059099",
"作品名": "骸骨島の大冒険",
"作品名読み": "がいこつとうのだいぼうけん",
"ソート用読み": "かいこつとうのたいほうけん",
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"初出": "「少年少女譚海」1930(昭和5)年10月~12月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-07-27T00:00:00",
"最終更新日": "2022-06-26T00:00:00",
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"姓": "山本",
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"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "2007(平成19)年10月15日",
"入力に使用した版1": "2007(平成19)年10月15日第1刷",
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"底本の親本名1": "少年少女譚海",
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"底本の親本初版発行年1": "1930(昭和5)年10月~12月",
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} |
[
[
"だんだんお強くなるばかりね",
"そう思うだけさ",
"初めのころはいつも二本でしたわ",
"嫌われたくなかったんだろう"
],
[
"お給仕をしたり喰べたり、そんなきような芸はできません、お酒が済んだらごいっしょにいただきます",
"だんだん昔の生地が出るな",
"なにがですか",
"磯村へいってからはおしとやかになっていたじゃないか、眉を剃った顔をいつもうつ向けにして、俯し眼づかいで、立ち居もおっとりとしなやかで、大助になにか云うにもあまったるい、蚊の鳴くような声をだしていたのにな",
"もの覚えのおよろしいこと",
"あのおてんばな佳奈が、人の女房になるとこんなにも変るものかと"
],
[
"もの覚えがいいんでね",
"あなたこそ昔どおりよ、ほかの人にはやさしいのに、わたくしに向うと意地わるばかりなさる、直衛さまはしんから佳奈がお嫌いなんだって、小さいときから幾たび思ったかしれませんわ",
"それでも嫁には来る気になった",
"来いと仰しゃったのはあなたよ",
"礼を云うのがおくれたかな"
],
[
"との方はそれでいいでしょうけれど、女はそうはまいりません",
"なぜ女はいけないんだ",
"あなたも結婚のご経験があるし、わたくしも良人を持った躯ですもの、こんなふうに二人だけで逢っているところを見られたら、なにをしているのかと思って、どんな疑いをうけるかもしれませんわ"
],
[
"わたくしがなにを隠しまして",
"自分自身をぜんぶさ、酒がないよ",
"憎らしいお口だわ"
],
[
"まさかわたくしにではないでしょうね",
"それは佳奈がご存じさ、――次の十五日にまた逢おう"
],
[
"その人の書いたものがほかにまだある筈なんだ、たしか閑窓夜話とかいうんだがね",
"私は知らないが、あるかもしれない",
"あったら貸してもらいたい、峻学院(伊予守教清)さまの御事蹟について、閑窓夜話になにか記事があるらしい、玄斎日録にそう書いてあるのをみつけたんだ",
"捜してみよう、いそぐのか"
],
[
"よし、あとを聞こう",
"話す気がなくなったよ"
],
[
"重職評定を五回やったが、結局、――矢堂に詰腹を切らせるよりほかはないだろう、ということになった",
"河本はそれを承知したのか",
"町奉行一人の責任では裁ききれないところにきてしまった、ということなんだよ"
],
[
"矢堂に詰腹を切らせることは、藩の面目を守るどころかまったく威信を失ってしまうだけだ",
"おれも評定の席でそう主張したよ、そんなふうに事をごまかすのはあとに災いの根を残すばかりだとね、しかし、ではどうするかと問い返されて、こうすればいいという思案がないんだ"
],
[
"おれに任せてくれればやってみせる",
"任せろとは、なにをだ"
],
[
"おれではいけないのか",
"誰でもいけない、この中所直衛でなければだめだ"
],
[
"城代の朝倉さんに相談するんだな、御定法も曲げず、藩や家中の名聞もきずつけずに裁きをつける、おれならそれができる、そう云えばいいだろう",
"今日は出仕か",
"非番だ、精士館へゆくかもしれないが"
],
[
"自分なら裁きをつけると申したか",
"申しました、私なら御定法にももとらず、家中の面目にもきずをつけずに裁くことができます"
],
[
"お役はいまのままですか",
"この件だけについて町奉行を命じよう"
],
[
"どうしてだ",
"町奉行などに据置かれてはたまりません"
],
[
"そういう物を持ってゆかなければならないのですか",
"一般のしきたりじゃないか、多少にかかわらず女が嫁にゆくときには金を持ってゆくんだろう"
],
[
"河本には云えないんだ",
"お話というのはそのことでしたの",
"河本が祝言の日どりをききに来た、そのことも相談したいが、差当っては持参金のことが知りたいんだ",
"わたくしそんな物を持ってゆかなければならないような弱みはございません、ほかにお話がないのならこれで失礼いたします"
],
[
"玄蕃はどうする",
"お預けか、謹慎か",
"柳田左門どのにお預けちゅうだ"
],
[
"朝倉老はごきげんだったか",
"だったろうね、かんかんになってものも云わずに出ていったよ",
"そのうちには慣れるだろう",
"十五日にも今日のような吟味をするのか"
],
[
"そんな意味だとは知らなかったね",
"じゃあいまわかったわけだ",
"いい気持らしいな"
],
[
"葉の色が少し派手すぎたでしょうか",
"まあそんなもんだろう"
],
[
"そいつを待ってたんだ",
"一と月がかりで、あんな手数と時間をかけてか",
"はねつけるんだよ"
],
[
"珍しいな、なにか用事か",
"お着替えをなさいな、いまお茶を淹れて、それこそ珍しいお菓子をさしあげますから"
],
[
"こんな日中からはいけません",
"もう一と月も飲んでいないんだ"
],
[
"そんなことがあるもんですか",
"じゃあ喰べてみるさ"
],
[
"ですから珍しくはないんですのよ",
"家の者はなにも云わなかったぞ",
"畠中さんの躾がよろしいからでしょ、わたくしは口止めなんかいたしませんでしたわ"
],
[
"かな公はやめて下さい、わたくしそう呼ばれるのがなにより嫌いなんです",
"自分でそう呼べと云ったんだぞ、十一か二のときだったな、男と女と差別はない、ただ違うところは",
"お酒の支度をするように申します"
],
[
"佳奈がしてくれるんじゃないのか",
"祝言の日どりもうかがわずにですか",
"それをきめようと云った筈だぞ"
],
[
"めしを喰べるのに、ときいているんだ",
"それとこれとなにか関係でもあるんですか",
"訴えられた人間を呼び出さずに裁きをしろというのは、客の面前で箸を使わずにめしを喰べろと云うようなものだ、たとえ侍たりとも、不正無道なおこないがあれば訴えることができると、御定法にはっきり示されている以上、矢堂を呼び出さずに裁きはできない"
],
[
"お留守のあいだにです",
"ほかにも縁談があった筈じゃないか"
],
[
"こけが落ちたとはどういうことだ",
"磯村の妻というこけさ、おれは元の佳奈になるのを待っていたんだ"
],
[
"一人は二度だから六人だ",
"どうしてそんなことをしたんだ、負けてやらないまでも勝負のつけようはあったろう、かれらはこんどの裁きに不満をもっている、ことによると一と騒ぎおこるかもしれないぞ"
],
[
"しかと相違ないか",
"些かも紛れはございません"
],
[
"これもご吟味のはじめにお答え申しましたが、業態はお届けのとおり、呉服太物、家具什器の販売にございます",
"そのほか役所に届け出でず、陰にて営むしょうばいはないか"
],
[
"申上げましたとおりにございます",
"要屋の銀を番頭の一存にて貸し、その利息によって高額な収益を得ていながら、あるじ喜四郎にはなにも知らせなかった、また、要屋の主人である喜四郎がその事実を些かも知らずにいた、と申すのだな"
],
[
"なんと仰せられます",
"いま番頭の五助が申したな、あきんどとして銀をただ遊ばせておくのは商法の道に外れると、――そのほうはあきんどだ、あきんどは銀を生かして使い、利によって家業を営むものだ、されば返済不能な銀を貸す筈もなし、品物を貸し売りすることもない筈だ、矢堂玄蕃の家禄は二百石であるが、実収が百五十石あまりであることも知っているであろう"
],
[
"目安とはいかなることでございましょうか",
"繰り返して聞かそう、商人は資金を動かし、その利によって生活をするものだ、これならば利益があるという目安がついてこそ、金品を貸しもするであろう、返済する能力のない矢堂にこれほど多額の金品を貸したのは、なにを目安にしたのかとたずねるのだ"
],
[
"仰せのとおりでございました",
"ではどうして彼を訴え出たのだ"
],
[
"信用というものは無限ではなく、必ず限度がございます",
"人を信ずるということに限度はない、と奉行は考えるが、そのほうは商人、ここまでは信用するが、ここから先は信用しないという限度がある、そういうことだな",
"さようお考え願って差支えございません",
"その限度をきめるのを目安と云おう、矢堂に百八十両余まで貸した目安はなんだ",
"信用にも限度があると申上げましたことで御了察を願います",
"奉行はそのほうの目安をきいているのだ",
"さようなものはなかったと、申上げるよりほかにお答えはございません"
],
[
"やさしくなることもできるんだな",
"おだてないで下さい、女はすぐにつけあがると云いましてよ"
],
[
"ものは使いようさ、良薬は毒から作るというくらいのものだ",
"本当に難波からお借りになったんですか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「文藝朝日」朝日新聞社
1962(昭和37)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057585",
"作品名": "改訂御定法",
"作品名読み": "かいていごじょうほう",
"ソート用読み": "かいていこしようほう",
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"初出": "「文藝朝日」朝日新聞社、1962(昭和37)年12月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-10-26T00:00:00",
"最終更新日": "2022-09-26T00:00:00",
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"姓": "山本",
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"姓読み": "やまもと",
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"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
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"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年6月25日",
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[
[
"厭アよ千ちゃん、そんな処から覗いたりして、お化粧してるとこなんか男が見るもんじゃないわ",
"僕は別に構やしないがね、みんな門のとこで待っているぜ",
"先へ行っててよ、あたしお祖父さまに御挨拶してからでなくちゃ行けないわ。――それからねえ千ちゃん、あたしをエルって呼ばないで頂戴",
"承知致しました、エル",
"あたしを嘲弄うの?"
],
[
"僕が呼ぶとそんなに気に障るのかい。みんなそう呼んでいるじゃないか",
"誰にも呼んで貰いたくないの、亡くなった父さまだけよ、あたしをエルって呼べる人は。……父さまは良い方だったわ、あたしが母さまに似ているので、彼女のようだという意味から仏蘭西語で、『彼女』と呼んだんだわ。あたし母さまとは小さい時死別れたのでお顔を覚えていないけれど、父さまからエルや――って呼ばれる時には、あたしの中に母さまが生きているような気持になったものだわ",
"御免よ、しいちゃん"
],
[
"そんな訳があるとは知らなかった。是から気をつけるよ――",
"皆にもそう云って頂戴、四人ともあたし好きじゃあ有りませんって。貴方たちはみんな不良よ、嫌いだわ!",
"僕もそう思うよ"
],
[
"お祖父さま、御機嫌はいかが?",
"うん、有難う、――"
],
[
"たいそう綺麗だね、海へ行くのかい",
"ええ、このケープ新調なのよ",
"よく似合うよ、どれ其方へ向いてごらん。おお実に綺麗だ。不良共がさぞ吃驚することだろう",
"厭だわ、お祖父さま",
"まあ早く行っておいで、――ああ些っとお待ち、済まないがまさやに葡萄酒を出さして置いて貰おうかね",
"あら珍しいこと、召上りますの?",
"昨日からばかに具合が好いんだ。足台も片付けさせたし、久し振に一杯味わってみようと思う",
"嬉しいわ、直ぐそう云って来ましょう",
"酒蔵の鍵は苅田の部屋にある",
"そう云えば苅田はまだ帰りませんのね"
],
[
"やあ姫君のお出ましだ",
"遅かったですね",
"さあ此処へお入りなさい"
],
[
"――今日は、令嬢",
"見ろ、王女様のお通りだ",
"今日こそ負けるな"
],
[
"大変なお話があるんです",
"……?"
],
[
"老子爵と貴女を殺して了うという脅迫状を寄来した者があるんです",
"悪戯でしょう?",
"現金一万円を出せば宜し、さもなければどんなに警戒しても駄目だと書いてあります。今日までに五通も受取りました",
"そんな話ならお祖父さまになすってよ"
],
[
"今日まで内証にしていたんですが、実は四五日まえから脅迫状を寄来す奴がいるんです。初めは誰かの悪戯だと思ってたんですが",
"一万円出すか、でなければお祖父さまとあたしを殺すって云うんでしょう、――?",
"も、もう御存じなんですか?",
"たった今、荒木さんから聞いたわ",
"荒木が?"
],
[
"志津子さん、それで分りましたよ、荒木です。荒木の仕業に違いありません",
"何が荒木さんなの?",
"脅迫状の事を知っているのは僕と久良の二人です。二人だけで何とか善後策を講じようと相談していたので、荒木にも高野にも話してないのです。然も――ですね、然も僕たちの見るところでは、脅迫状の筆跡はたしかに荒木のものらしいんです",
"それがどうしたって云うの?",
"分りきってるじゃア有りませんか、奴は貴女と中村家の財産を狙っていたんですが、迚も駄目だと思ったので一万円脅迫しようとしているんです。――僕たちしか知らぬ事を奴が知っていた、それから筆跡、この二つが証拠です",
"でも、その脅迫状をどうして井上さんと久良さんだけしか知っていないんです?",
"貴女を驚かせたく無かったからです",
"有難う、ではどうぞ是からも驚かさないで頂戴。あたしそんな話聞くのも厭ですわ"
],
[
"苅田ならこんな時相談する事が出来るかも知れないのに、いつ帰って来るのかしら",
"しいちゃん、入っても宜いかい?"
],
[
"淋しい晩だね、エル……いけな、口癖になってるものだから。御免よ",
"千ちゃんでも淋しい事あるの?",
"有るさ、ほんの時遇だがね、淋しくて堪らない時があるよ、――殊に今夜はね!",
"どうして今夜なの!",
"君は嗤うかも知れないが"
],
[
"なんだか今夜は変なんだ。些っとも落着かない。後から絶えず追いかけられているような気持だ。前にもこんな気持を感じたことがある。慥に、そしてよくは覚えていないが、不吉な事が起ったようだ",
"不吉な話なんて沢山よ",
"――僕もさ。……厭な気持だ。ねえしいちゃん、一緒に藤沢へ行ってみないか",
"厭よ",
"そう云うと思ったよ"
],
[
"…………",
"お祖父さま、まだお眼覚め?",
"…………"
],
[
"久良と荒木と井上、それから、それから高野さん。この四人を捉えて下さい、犯人はきっとその中にいます",
"お嬢さんどうか落着いて下さい",
"否え、あたし知っています"
],
[
"あの人たちは此の家の財産を狙ってました。でもあたしは皆を嫌っています。皆はそれで脅迫状だのなんだのとあたしを脅かしていました",
"脅迫状ですって――?"
],
[
"そうですか、それは重大な事件だ。――そして四人ともいま此処にいないのですね",
"お夕飯の時は揃っていましたが、高野さんは九時頃、藤沢の友達を訪ねると云って出掛けましたし、あとの三人は居るものと許り思っていたんです",
"おい、直ぐに手配して呉れ"
],
[
"来ました、あの人たちです",
"ど、どうしたんですか"
],
[
"待ち給え、説明は僕がする。――子爵は殺害された。犯人はその窓から侵入し、子爵を殺して金庫の金を盗んだうえ逃亡した",
"ほ、本当ですか、――⁉"
],
[
"それで訊くが、一体君たちはこんな時間まで何処へ行っていたのかね",
"は、……何処って、その、――",
"はっきり云い給え!"
],
[
"云えないでしょう、お祖父さまを殺したのは貴方たちです。脅迫状の話など拵て他人の事のようにごまかしたうえ、お祖父さまを殺してお金を――",
"違うよ志津子さん"
],
[
"その疑いはひどい、――では申上げましょう。実は妙な事があったんです。夕飯のあとで部屋へ入りますと、脅迫状と同じ筆跡の手紙が置いてあって、午前一時までに西浜の一本松の下へ来いということが書いてあったのです。重要な話で決して危険はないということですから、行ってみますと、久良と井上が待っていました",
"僕たちも同じ手紙を受取ったのです"
],
[
"苅田、どうしておまえ早く帰って来て呉れなかったの。おまえさえ居て呉れたら、こんな事には成らなかったかも知れないのに",
"申訳ございません。兄の病気がはかばかしくなかったものですから、……して、犯人はもう捉ったのですか",
"君はここの執事だね?"
],
[
"はい、左様でございます",
"岡山へ行っていたそうだが、いま帰って来たのか?",
"はい、午前五時三十分藤沢駅着の列車で帰って参りました",
"間違いないだろうな?",
"決して嘘は申し上げません"
],
[
"事件の経過はもう御承知の通りです。そして僕と久良、井上、荒木の四人は最も疑われる立場にいます。――実は、僕はさっきから次の部屋で聞いていたのですが、井上君たちが西浜の一本松の処に数時間いたという事は、事実として正確ではありません。そこに煙草の吸殻や燐寸の燃えさしが有ったとしても、それが確に昨夜のものだという証拠がないからです",
"君は我々を犯人だと云うのか"
],
[
"君こそ今まで何処にいたか分らないのに。僕たちを呼出した手紙も或は君の仕業じゃないのか!",
"まあ聞き給え、本論はこれからだ"
],
[
"署長さん、この部屋の物には誰も手をつけてないでしょうね",
"何一つ手を触れては居らん",
"あの足台もですね⁉"
],
[
"むろんあれも彼処に在ったままだ",
"ねえしいちゃん"
],
[
"子爵はこの三四日ひどく具合が好くて、足台は片付けさせた筈だね",
"ええそうだわ",
"妙だ、――僕がゆうべ来た時も、こいつは卓子の隅に片寄せてあった。――署長さん、此処にいる者は、みんな足台が片付けてあったのを知っています",
"一体それがどうしたのかね"
],
[
"犯人はですね、この足台が片付けてあった事を知らなかったんです。例えばですよ、執事の苅田君は一週間まえに岡山へ立った。その時はまだ子爵は足台を使って居られたのです。だから若し、例えば苅田君が犯人だとすればですね、子爵を殺してから、部屋の中に証拠になるような痕跡を残しはしなかったかと見廻した時、足台の位置が違っているのをみつけ、ふと日頃の習慣で元の位置へ直す――つまり、片付けてあったのを知らずにですね",
"ば、ばかな事を云うなッ"
],
[
"怒ったね苅田君、――今のは例え話さ。つまり足台の位置を直した者があるとすれば、ここには君より他に誰もいないと云ったんだ",
"それでは私が犯人だと云うのか",
"僕はそいつを疑いたいんだ。――何故って、君はそこに鍵束を持っているね",
"…………"
],
[
"それは酒蔵の鍵だ。そしてその鍵は、昨日まさやが使ったんだぜ。――子爵が葡萄酒を飲まれるので、君の部屋から此処へ持って来てあったんだ",
"そうよ、そうだわ!"
],
[
"君は昨夜この部屋へ来た。そして老子爵を殺害し、金を奪って逃げたんだ。――何よりの証拠を云ってやろうか、君はいま午前五時三十分着の一番列車で藤沢へ着いたと云ったが、その列車は沼津で脱線して二時間の延着になっているぞ!",
"――あっ"
],
[
"でもお礼を申しますわ。本当を云うとあたし貴方を疑っていましたの、馬鹿でしたわねえ",
"せめてもの慰めは、子爵の仇を其場で発見する事が出来たことです。――苅田も悪人に似合わぬ愚者でした。あの足台と鍵。執事としての日頃の習慣が、彼を自滅させたのです。それからあの一番列車、――",
"一番列車が?",
"沼津で脱線したなんて嘘でした。それは奴が一番列車で本当に来たかどうかを試す罠だったのですよ",
"――まあ",
"ねえしいちゃん"
],
[
"エルって云って頂戴",
"え? ――許して呉れるのかい?",
"ええ、貴方にだけ……",
"占めた!"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」博文館
1938(昭和13)年8月
初出:「少年少女譚海」博文館
1938(昭和13)年8月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"おい牧野、起きないか",
"勘弁して呉れ、本当にもう駄目だ",
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"ちょっと手をかして呉れ小房、どうしても動きそうもないぞこれは",
"兄上さまがお悪いのですわ"
],
[
"幾らお止めしてもきかずに面白がってお飲ませなさるのですもの、こんなにお酔わせして了って、……きっとお苦しいわ",
"己もこんなに酔わせるつもりはなかったさ"
],
[
"なんだか今夜は妙に、牧野がなにか話しだしそうな気がしたものだから、酔わせれば楽に云えるだろうと思ってつい度を過して了ったんだ",
"なにか御相談ごとでもお有りでしたの",
"相談という訳ではないが、……なんだかそんな風に思えたので、……つまり"
],
[
"灯は持って行ってあるな",
"はい",
"では運んで行ってやろう"
],
[
"すっかり御迷惑を掛けて了いました",
"いいえ却ってわたくし共こそ、……兄の悪い癖でとんだ御迷惑をお掛け致しました、お苦しゅうございましょう",
"なに本当はまだ酔ってはいないのです"
],
[
"ああしないと兵馬はいつまでも飲ませますからね、酔った真似をしただけですよ。然し拙者も、兵馬のお蔭で段々と強くなりました",
"お水を召上るとお楽になりますわ",
"有難う、なに酔ってはいないんですから"
],
[
"下りて参れ、神妙にせぬと斬り捨てるぞ",
"あ、……待った"
],
[
"待った、拙者です、小房どの危い",
"……あ!"
],
[
"まあどう致しましょう、わたくし少しも存じませんで、……どうぞお赦し下さいませ",
"いや拙者の方こそ驚かせて失礼しました",
"でも今時分、どう遊ばしましたの",
"……是なんです"
],
[
"さっきは酔わないと申上げたが、実はどうもひどく悪酔いをしていた様子で、……醒ますには熟柿がいいと云われていたのを思い出したものですから、そっと脱出して来たという訳です",
"まあそれならひと言そうおっしゃって下されば",
"いや、自分で採りたかったのですよ、……ずいぶん長いことこの木にも登りませんでしたから",
"そんなにお酔いになっている時に危いではございませんか、若し墜ちでもなすったらどう遊ばします",
"はははは"
],
[
"いつかもそう云って叱られましたね、あれはたしかまだ元服まえのことだ、……まだ実の青い時分に登って採ったら、貴女はたいそう怒って",
"まあ、あんなことをまだ覚えていらっしゃいまして",
"家では小言を食ったことのない方ですからよく覚えていますよ、……青い実を採るような者には熟してからも遣らぬ、たしかそう云って怖い眼をしたでしょう",
"でも熟してから差上げましたわ",
"今度だけは堪忍してあげる、きつい眼で睨みながらそう云われたのを覚えていますよ。……あれ以来、柿を手にする度に、眤と見ていると貴女がどこかで『堪忍してあげる』と云っているような気がしたものです"
],
[
"恥かしゅうございますわ、わたくしずいぶんおてんばでございましたから",
"今夜の薙刀も当分忘れられないことでしょう",
"もうお赦し下さいませ、わたくし"
],
[
"拙者だよ、……辰之助だ",
"なんだ牧野か、今時分なにをしているんだ",
"なに、柿を採っていたんだ"
],
[
"どうした、気分は直ったか",
"うん、どうも……",
"ふふふふ顔色が悪いぞ"
],
[
"なにしろ、少し飲み過ぎたよ",
"昨夜はばかに調子よくやったからな、己はまたなにか話があるので、元気づけに飲みでもするのかと思ったくらいだ",
"うん、少し話もあったのだが",
"矢張りそうか"
],
[
"そんならどうだ、今夜またちょっと家へ寄らないか、聞くべき事があるなら己も早い方がいい、寄るなら待っているが",
"寄るとすぐに酒だからな",
"それでは酒抜きにしよう、ゆうべは折角支度をした食事が無駄になったと云って小房のやつ悄気ていた、今夜は飯だけにしよう",
"それが当にならぬから",
"ばかなことを、己だってそう毎晩やりはしないよ、では待っているぞ"
],
[
"では寄ろう、然し今日は少し御用がたてこんでいるから退出が遅れるかも知れぬぞ",
"いいとも、その代り飯を食わずに来るんだぞ、支度をして待っているからな"
],
[
"だが酒は抜きだ、飯だけにするからうんと馳走を拵えて呉れ",
"何誰さまがおいでになりますの",
"牧野だよ"
],
[
"あいつ矢張り話があったんだ、飲み過ぎてきっかけがなくなったらしいぞ、案外気の弱いところがあるからな",
"それでは急いでお支度を致しましょう",
"客間を少し飾ったらいいだろう、牧野は花が好きだからなにか活けるさ、香も炷いて置く方がいいな、それから……酒は抜きだがまるで無しという訳にもいくまい",
"いけませぬ"
],
[
"兄上さまはお盃を持つともうお終いですもの、今夜は一滴もなりませんわ、牧野さまが御迷惑をなさる許りですから",
"よし、幾らでも牧野の贔屓をしろ、どうせ……"
],
[
"まあ宜い、おまえに任せる",
"その代り御馳走は沢山致しますわ"
],
[
"腹が減ったろう、まあ坐って呉れ",
"なんだか、まだ酒が残っているようだ",
"そんなものは食べれば直る"
],
[
"飯を先にしような",
"うん、……それもいいが",
"飯が先だ、己はもう我慢がならぬ、おい小房、どしどし持って来て呉れ"
],
[
"どうしたんだ、ばかに今夜は固くなっているじゃないか",
"そんなことはないさ",
"さあやろう、小房の自慢の汁だ",
"……馳走になります"
],
[
"折角の御馳走だが、拙者は頂戴している暇がなくなった、これで失礼させて貰う",
"どうしたんだ、何事が起ったんだ",
"福田から早馬の急使だ、父が危篤だと云う",
"え",
"なに与吉右衛門殿が……",
"もう間に合わぬかも知れぬという使者の口上だ、小房どの……折角のお手料理を頂かずに参るのは残念ですが、お許し下さい",
"いいえそれより一時も早く",
"そうだ、飯などはいつでも食える、急いで行くがいい、……然し夜道だから充分気をつけて呉れ",
"有難う、ではいずれ又"
],
[
"間に合えばよいが",
"本当に。……福田まで馬で、どのくらいかかりますの",
"乗継ぎにやっても明日の朝になるだろう"
],
[
"牧野は親思いだからな、急病だったのだろうが、看病もせずに死なれてはさぞ心残りなことだろう……思い遣られる",
"お悼みの手紙を差上げましたら",
"うん書こう、おまえも書け"
],
[
"牧野さまはどうなすったのでしょう、まだお取込みなのでしょうか、……お帰りになってからまだ一度もお見えになりませんのね",
"なにそのうちやって来るだろう"
],
[
"城中では会っているが、元気でやっている、近いうちに馳走のし直しをして招くとしよう",
"それが宜しゅうございますわ、もう雁が出はじめましたから、お好きな串焼をどっさり御馳走致しましょう",
"そうだ、明日にでもそう云って置こう"
],
[
"今日は少し話があって来た",
"ようこそ。……葬儀の折にはまた色々な面倒を掛けて済まなかった。さあ是へ"
],
[
"毎日、訪ねようと思いながら、父の後始末でなにかと御用が多く、つい礼にも参らずにいたが……",
"そんな他人行儀は止そう"
],
[
"今日は腹を割って話に来たのだから、貴公もその積りで腹蔵のない返辞を聞かせて呉れ、いいな。……そこで単刀直入だ、貴公も御尊父の逝去でいよいよ家督をすることになるだろうが、それについて、妹の小房を嫁に貰っては呉れないだろうか",
"それは、……兵馬、……"
],
[
"牧野、貴公まさか",
"いや待って呉れ、それは、……それは全く思い懸けない話だ、小房どのを妻に",
"思い懸けないって?"
],
[
"思い懸けないとはこっちで云うことだ、貴公は小房を。……いや待て。……牧野、己はそうだとばかり思っていたぞ、己は貴公が",
"それは困る、そう思われていようとは少しも知らなかった。なるほど貴公たちと拙者とは幼な馴染で、殊にこの数年来は身内のように親しくして来た、然し拙者としては元よりそんな気持はなかったのだ",
"では、……では牧野"
],
[
"いつぞや、折入って話があると云ったのはなんだ、あのときの話というのはなんだ",
"いやあれは別だ",
"別でもいい、改めて聞こうではないか、それとも今となっては話せないことか",
"……話そう"
],
[
"実は、まえから困った事が出来て、貴公の助けを藉りようと思っていたのだ。……小房どののことを云われたのでなんとも話しにくくなったが、それとは別に聞いて貰う",
"心得た",
"貴公は呆れるだろう、恥を忍んで云うが拙者には女がある",
"牧野!",
"若気の過だった、魔がさしたのかも知れない、ふとした機みに足を踏み外したのが、取返しのつかぬ事になった",
"子供が出来たのか",
"今年で三歳になる、……然も男子だ"
],
[
"子の出来ぬうちなら、なんとか始末のしようもあったろうが、もう取返しはつかない、父はあの通りの性質だし、若し是が世評にでものぼったらどうなるかと、この三年というもの薄氷を踏む心持で暮して来た。……話というのはこの事だ、貴公に打明けたうえなんとか父に諒解を求めて貰おうと思って、幾度も口まで出かかったまま云いそびれていたのだ",
"相手の女は何者だ",
"以前家で召使っていた娘だ",
"召使などに、牧野、……貴公が、……"
],
[
"己は貴公を未来の国老だと思っていた、庄内藩に第一の人物だと思っていた、己ばかりじゃない、小房だって……そう信じていた、今だから云うが、己たちは、己も小房も、いつか貴公が求婚して呉れるものと思って待っていたんだ、否! なにも云うな、そう思ったのは己たち兄妹の眼が狂っていたんだろう、ばかな夢を見ていたのだ、然し……然しなあ牧野、人間は口に出してそれと云わなくとも、……心で、……眼の色で、人を殺すことがあるんだぞ",
"許して呉れ、拙者は",
"知らなかった。そうだ。そう云って了えば貴公はそれで済む、……然しそれで済まぬ者がいることを忘れないで呉れ",
"走川……",
"邪魔をした"
],
[
"そいつは思い切った左遷だな",
"大鳥嶽の鉱山役所とは牧野も気が付くまい、あれだけ藩の人望を背負っていたのが詰らぬことになったものさ",
"結局……慎むべきは女だよ",
"正式に願いも出さなかった女に子を生ませ、今になって妻子の届出をするなんて下手なことをしたものだ、聞けば召使いだということではないか、……くだらぬ",
"旨く始末をすればなんでも無かったのに",
"才子案外に馬鹿正直だぞ"
],
[
"なにしろ岡島国老が真先にそう主張したというのだから、もう牧野の一生もこれでけりがついたも同様だ",
"お蔭で代りにのし上る者が出来るだろう",
"運不運は分らぬものだ"
],
[
"客だと、誰だ",
"女の方ですわ、兄上さまにお会いしてから申上げると云って、お名前も用事もおっしゃいませんの",
"誰だろうな"
],
[
"拙者が走川兵馬です、お待たせしました",
"……お留守に上りまして",
"なにか御用ですか",
"はい、是非……申上げなければならぬことがございまして"
],
[
"伺いましょう、どんな事です",
"牧野様の若旦那さまのことに就きまして",
"……牧野がどうかしたのですか",
"わたくし、少しも存じませんでした"
],
[
"わたくし、琴と申します",
"…………",
"若旦那さまは、わたくしを、妻だとおっしゃっているそうでございます。わたくしの産んだ子を、御自分のお子だと、お上へお届けになったそうでございます。……嘘なのです、みんな嘘でございます"
],
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"嘘とはどういう訳です、なにが嘘なんですか",
"わたくしは亡くなった大旦那さまの側女でございました、産んだ子は大旦那さまのお胤でございます",
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],
[
"ただそれだけでございます、そして今日まではなにも知らず、いずれ若旦那さまはこちらのお嬢さまと御祝言あそばすものと存じて居りました、……お嬢様とのことは、亡くなった大旦那さまから常々うかがって居りましたから、……それが、今日になって、若旦那さまがわたくし共を御自分の妻と子のようにお届けあそばし、そのために遠い鉱山とやらへいらっしゃると聞きまして、取る物も取りあえずこちらへ上ったのでございます",
"よく来てくれました"
],
[
"こんな事情があろうとは知らぬものだから、拙者も牧野に無礼なことを云ったのです、……見損ったなどと、……拙者こそまるで盲目同様でした",
"それで若旦那さまのお身上は",
"これから御家老を訪ねてみます、事情が分ればなんとか方法は立つでしょう、……小房",
"はい",
"馬の支度をさせてくれ"
],
[
"貴女は人眼につかぬよう屋敷へ帰っていて下さい、牧野のことは拙者が引受けました、どうか他言をなさらないで",
"承知致しました"
],
[
"牧野に過失はなかったのです",
"…………",
"過失どころか、父親のために自分の名を葬ろうとしているのです。……与吉右衛門殿がその女に不憫をかけられた気持も、世間には例の多いことで、声を大にして責めるほどの過ちではございますまい",
"…………",
"しかし与吉右衛門殿はあのような御性格で、それをことごとく恥じて居られた、むろん恥じて居られたのは名聞を思ってのことで、琴女に対しては実に汚れのない、ひと筋の愛情をもって居られました、……それは遺書によく表われていると思います",
"それで、……どうせいと云うのか",
"牧野の左遷をお取消し下さい",
"…………"
],
[
"事情がお分り下されば牧野を左遷する理由はありません、あれだけの男を鉱山役所へ追い遣るのは御家のためにも損失です",
"……辰之助が帰ると思うか"
],
[
"辰之助を呼戻すには、仔細を明かにしなければならぬぞ、……それでもよいか",
"なにか、しかしなにか方法が",
"無い、あるなら申してみい"
],
[
"牧野の身分で側女の一人くらい。子を産ませたとてそれほど恥ずべきことでないのは事実だ、けれど彼はそれを恥じたのだ、与吉右衛門はそういう男だった",
"しかし辰之助の将来を叩き潰してまで隠し了せようとは思っていなかった筈です",
"恐らくそうであろう、だが辰之助は自らそれを望んだのだ、いま呼び戻されて帰るほどなら、そのまえに方法を考えぬ彼ではない、……そうするのが最善とみたからしたのだ",
"では、このまま黙って見ていろとおっしゃるのですか"
],
[
"あれほどの男を、あらぬ汚名に曝したまま捨てて置くのですか、事情がすっかりわかっても、御家老はそうしろとおっしゃるのですか",
"汚名だと思うか、兵馬。……事情はおまえが知っている、儂も知っている、恐らくおまえの妹も知っているであろうが",
"……は",
"時が来れば珠玉は自ら光を放つぞ"
],
[
"ただ一つおまえの為すべき事がある",
"……はっ",
"おまえの妹を辰之助に遣れ、与吉右衛門も望んでいた。おまえが行って仔細を話せばもう否とは云うまい、但し、表向には数年待つのだ",
"御家老、追いつけましょうか",
"向うは徒だ、恐らく温海の宿に泊っているだろう、これから馬で飛ばせば、朝までには追い付ける"
],
[
"お口添えだと申しても宜しゅうございましょうか",
"役に立てるがよい",
"忝うございます、御免"
],
[
"小房ではないか、どうしたのだ",
"……兄上さま"
],
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"牧野さまを追っていらっしゃいますの?",
"行くとも、これから夜道を飛ばして、おまえの談を決めて来るんだ",
"では是を……"
],
[
"是を牧野さまに差上げて……",
"柿、こんな物をどうするんだ",
"差上げて下されば分りますの"
],
[
"よし預った、必ず渡すぞ",
"お気をつけて",
"吉報を待っていろ、さらばだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「現代」
1939(昭和14)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057599",
"作品名": "柿",
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"初出": "「現代」1939(昭和14)年12月号",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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} |
[
[
"やあ、またしても鶴千代どのか",
"今日こそ手前が秀逸をと思いましたのに、いつも鶴千代どのにさらわれるのは残念ですな",
"これでは大人の面目が潰れてしまう"
],
[
"あれは日野城の蒲生賢秀どののお子で鶴千代どのと申されます。この春から人質として岐阜城に来て居られるが、明敏な賢い少年で、国学、和歌、儒教、仏教など、学ぶほどのものに驚くべき才能を見せています。織田どのもひどく御寵愛で、ゆくゆくは御息女を嫁にお遣わしなさるお約束だということです",
"まだ年もゆかぬように思われますな",
"十三歳に成られます",
"蒲生どのの若君か"
],
[
"それはむろん大切なことです",
"ながい乱世のいきで、人々はただ兵馬の事しか考えません。強くさえあればよい、勝ちさえすればよい、出来るだけ自分の勢力を拡張して天下に号令しよう。そういう武将が多過ぎます。これではいつまでも戦乱の鎮まる時がありません",
"あなたのおっしゃる通りです。これから武将として国を治め、正しい戦をするためには、学問を十分に学ばなければなりません"
],
[
"どういう事ですか",
"あなたは日野城の主のお子だ、やがては父君に代わって軍を統べ、国を治める大任がある。それを忘れてはいけません",
"むろんそれを忘れはしません"
],
[
"そうです。あなたにとっては佳き歌を百首詠むより、国を治め正しき戦の法を学ぶことの方が大切なのです",
"剣でなくとも国を治めることは出来ると思います"
],
[
"これから伊勢の北畠を攻めにまいる。おまえにも兵を預けるからひと合戦してみろ。初陣に鶴千代では名が弱い。今日から忠三郎賦秀と名乗るがよい",
"かたじけのうございます",
"あっぱれ手柄をたてろよ"
],
[
"お忘れですか、斎藤内蔵助です",
"おお斎藤どの!"
],
[
"どこです",
"あの桑名口の木戸です"
],
[
"あの攻め振りで見ると、伊賀どのの軍勢は必ず負けます。負けて逃げて来ます。そして敵兵はきっと追討ちを仕掛けるに相違ありません。そこで、……あなたは向こうの藪の中に、五百人の手勢を伏せて待っておいでなさい",
"待っていてどうするのです",
"伊賀どのの軍勢が逃去るのを待って、追撃して来る敵兵を半分までやり過ごし、その真ん中へ横から一文字に突込むのです。さあお立ちなさい"
]
] | 底本:「美少女一番乗り」角川文庫、角川書店
2009(平成21)年3月25日初版発行
初出:「小學六年生」小学館
1940(昭和15)年10月
※表題は底本では、「蒲生鶴千代《がもうつるちよ》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "058556",
"作品名": "蒲生鶴千代",
"作品名読み": "がもうつるちよ",
"ソート用読み": "かもうつるちよ",
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"初出": "「小學六年生」小学館 、1940(昭和15)年10月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-12-21T00:00:00",
"最終更新日": "2022-11-26T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"底本出版社名1": "角川文庫、角川書店",
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} |
[
[
"何故だ、こんな貧乏が続いては、ろくな勉強もできぬではないか",
"ばかなことを――、天地自然が金で購えるか、春秋四季変化の妙諦を極めるのに、貧乏で悪い理由はあるまい、それに"
],
[
"私は大名の為に俳諧をよむのは御免だ",
"――――"
],
[
"ふふふふ大分強そうな口を利くな、如何にも御用だ、気の毒だがここへ通り合せたのが貴様の不運、身ぐるみ脱いで置いて行け",
"文句を吐かせば遠慮なく斬って棄てるぞ、早く裸になれ!"
],
[
"冗談おっしゃってはいけません、私は御覧の通りの貧乏俳諧師、逆さにふるったって鐚一文ありゃしません、この襤褸を身ぐるみ脱いだところで――",
"ええ、ぐずぐず申すか!"
],
[
"網にかかった獲物なら、大名乞食の差別はない、尾羽根まで毮るが我等の掟だ、脱がぬとあればおのれ――!",
"お、お待ちください、脱ぎます"
],
[
"何だ、未だ残っているではないか",
"これは襦袢です!",
"いかん、そいつも脱げ"
],
[
"こんな姿では歩いて家へは帰れません、何とかして頂かなければ困ります",
"よしよし、良い工夫をしてやる"
],
[
"へえ、どうか生命ばかりは――",
"生命を貰おうと言うのではない、この裸を一人乗せて行くのだ",
"そんな事ならお安い御用で",
"早くしろ"
],
[
"どちらまで……",
"黙って跟いてくれば分る"
],
[
"これこれ、この夜陰にいずれへ参られる",
"はい、実は急病人でございまして、医者の許へ参る途中でございます"
],
[
"襖を明けろ、贄を肴に呑もうぞ",
"はっ"
],
[
"ところで裸坊主、我らの慈悲として、気に入った芸をして見せる者は、生贄の責を免じてやる定だが、貴様何か芸はできるか",
"はい"
],
[
"私は俳諧師でございますから、俳諧をよむことはできますが、外に芸と申しまして別に何も――",
"俳諧――? 俳諧とは何じゃ",
"深く説明致しますとむつかしゅうございますが、発句の例をとって申しますと、十七字の中へ森羅万象を詠みこみまするもので、和歌よりやや狂体に転じた一種の――",
"面白い、それをひとつやって見ろ、気に入ったら生贄を免じてやるぞ",
"はい"
],
[
"どうした、刻がうつるぞ",
"は、唯今"
],
[
"一句浮びました",
"よしよし、そこで披露してみろ"
],
[
"だが、百舌の早贄などとは、この座に当つけた心持があって不愉快だ、折角だが助けることはできないぞ",
"な、何故でございます",
"何故も風もない、それ、そやつを生贄にかけるのだ"
],
[
"おれは全体どうしてここに寝ているのだ",
"何を寝呆けているのだ"
],
[
"ひどく酔って帰ってきて、家の前のところでぶっ倒れたじゃないか",
"何刻頃のことだ",
"大分おそかったぞ、何でも浄願寺の鐘が九つ(十二時頃)を打って暫くしてからだった",
"一人で帰ったのか",
"そうさ"
],
[
"名乗り申そうか、拙者は井上相模守",
"や"
],
[
"大名の為には俳諧をせぬという尊公に是非一句咏んでもらいたかった悪戯じゃ、許せ",
"ではあの山賊の頭領が――?"
],
[
"拙者は手下の賊で、尊公に酒を呑ませた方だ、ここにいる三人は、尊公を生贄にしようと手籠にした賊じゃ",
"はははは、ま許せ!"
],
[
"ではあの、上段にいた方は?",
"他言無用だぞ"
],
[
"当上様だ",
"え? 将軍家"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング」大日本雄弁会講談社
1934(昭和9)年2月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きゅうり
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057593",
"作品名": "其角と山賊と殿様",
"作品名読み": "きかくとさんぞくととのさま",
"ソート用読み": "きかくとさんそくととのさま",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「キング」大日本雄弁会講談社、1934(昭和9)年2月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-04-10T00:00:00",
"最終更新日": "2021-03-27T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年6月25日",
"校正に使用した版1": "1985(昭和60)年1月30日2刷",
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"校正者": "きゅうり",
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} |
[
[
"いい気持ですよ、流れの早いときは危ないけれど、なんでもありゃしない、こういうぐあいに水を切ってね、すぐ泳げますよ",
"みつかったらじいに怒られるからね",
"そっとぬけだすんですよ、お昼寝のときにそっと……すぐ帰って来ればわかりやしません、大丈夫ですよ"
],
[
"――御気分がお悪うございますか",
"気分も悪い、はきそうな気持だ、しかしこれはおさまるだろう",
"――お薬をめしましょうか",
"いや薬はいらない、大丈夫だ"
],
[
"――お屋敷は近うございます、およろしければ御駕を命じましょう、……お顔色が悪うございますから、そう致すほうが",
"いや大丈夫だ、もうすぐ治る"
],
[
"決してそんなに御心配あそばすことはございません。お世継ぎさえ御出生になれば、それですぐにお姫さまにおなりあそばすのですもの、お嘆きあそばすことは少しもございませんですよ",
"聞きたくない、うるさい、黙って呉れ"
],
[
"――本当に、男のままでいられるのですか",
"若が望みさえすればぞうさもないことだ",
"――でも、あとに弟が生れましたら",
"巻野を継ぐのではない分封するのだ"
],
[
"なにより公儀へもお届け致しますので、かようなことが漏れましては御家の大事にもなりかねませんのですから",
"――では若の相手にあがっていた者たちも知ってはいないのだね",
"それは申すまでもございません"
],
[
"お忘れでございましょうか、いつぞや御別家の主税さまと、お屋敷をぬけて泳ぎにおいであそばしたことがございました",
"――うん、そんなことがあったね",
"主税さまがお誘いあそばしたそうですが、もし若さまが女であらっしゃるとご存じならば、よもや主税さまもお誘いはなさらなかったでございましょう"
],
[
"そのほう菊千代が男であるか、女であるか知っているであろうな",
"――おそれながら",
"返辞だけ申せ、知っているかどうか"
],
[
"――おそれながら、決してさような",
"では申せ、返辞を聞こう",
"――おそれながら、そればかりは……"
],
[
"菊千代が女だということを、そのほう知っていたのだな",
"――はい",
"眼を伏せるな、そして、……それは初めから、知っていたことだな"
],
[
"御短慮な、なにをあそばします",
"放せ、放せ"
],
[
"なぜ半三郎をせいばいした",
"――彼はわたくしを辱しめました",
"どのようにだ、どう辱しめたのだ",
"――申上げられません",
"たとえ家臣なりとも、人間一人手にかけて理由が云えぬでは済まぬぞ、どのように辱しめたか聞こう",
"――申上げることはできません"
],
[
"――では半三郎を手にかけて、少しも悔いることはないのだな",
"半三郎がそれを知っていたと思います",
"――自分でしなければならなかったのか",
"わたくしが致さなければなりませんでした、わたくしと彼と、二人だけの事でございますから"
],
[
"三月には将軍家の日光御参拝がある、それが済めば正式に届け出る筈だ",
"ではそれが済めば、菊千代のからだは好きに致してよいのでございますか",
"――好きにするとは",
"菊千代は、生涯、男のままで生きたいと思います、いつぞやお約束の分封のことも、頂けるものと思っていてようございましょうか"
],
[
"侍女を使ったらどうだ。これではあまり殺風景ではないか",
"いいえ侍女はいりません、松尾で用が足りますから",
"しかし少しはうるおいがないといけない、ここはまるで僧坊のようにみえる"
],
[
"あんたは病人じゃないの、病気のときくらいあたしがしたっていいじゃないの、あたしがいくらばかだってもう稲刈りぐらいできますよ",
"おまえをばかだって、おれはそんな、そんなことをいってるんじゃないんだ",
"いいえ知ってます。あんたはあたしをなんにも出来ない女だと思ってるんです、鍬も鎌も持たせない、焚木も背負わせないこやしも担がせない、いっしょに苦労をしようと云って来て、あたしはずっとそのつもりで、なんでもしようと思うのに、あんたにはもう、……もうあたしが重荷になっているんだわ",
"やめて呉れ、頼むからやめて呉れ"
],
[
"おまえに野良の仕事をさせないのは、決してそんなつもりじゃない、おまえにそんな事をさせるのがおれには辛いんだ、こんなやまがへ伴れて来て、しなくてもいい苦労をさせて、満足に着ることも食うこともできない。みんなおれの甲斐性なしのためだ、それだけだっておれは済まないと思ってるんだ",
"そんなことを云われてあたしが嬉しいと思うの、一つの物を分けて喰べるのが夫婦なら、苦労だって二人で分けあうのがあたりまえじゃないの",
"おまえは苦労しているじゃないか、おれはおまえの姿を見るたびに",
"やめて頂戴、そんなこと、あんた"
],
[
"済まないのはあたしよ、あたしさえいなければ、あんたは渡島屋の主人になって、りっぱな旦那でくらせたんだわ、それをあたしがいたばっかりにこんな、こんなみじめな",
"もうたくさんだ、おいく、やめて呉れ、もうたくさんだ",
"あたしあんたに済まなくって、申しわけなくって、これまでどんなに蔭でお詫びを云っていたか、しれないわ、堪忍して、あんた、堪忍して"
],
[
"どうしたのだ、その男がなにかしたのか",
"いろいろうろんなことがございますので、立退くように申し渡しているところでございます",
"うろんなこととは、どんなことだ",
"彼は三月ほどまえに此処へ住みついた者でございますが"
],
[
"領内の者が……なにか云っているのか",
"そこはどうしても下民のことでございますから、いろいろと愚にもつかぬことを……もちろん御心配申上げてのことでございますが"
],
[
"お召しでございますか",
"――はいれ"
],
[
"お待ち下さい、どうぞ気をお鎮め下さい",
"どかぬと斬るぞ"
],
[
"――どうして此処へ来た。半三郎、父上のお云いつけか",
"――私の一存でございます",
"――なんのために"
],
[
"――私をお刺しあそばしたときの、若君のお心の内は、私にはよくわかっておりました、お恨み申す……いいえ、半三郎はあのとき、よろこんでお手にかかりました、お恨み申すどころではございません、よろこんで……それが当然のことでございましたから",
"――それは、知っていたからという意味か"
],
[
"云って呉れ、遠慮はいらない、構わずなにもかもすっかり話して呉れ",
"申してはならぬことでございますが",
"いや聞きたい、なにもかも残らず聞きたいのだ"
],
[
"――ふしぎに一命をとりとめましてから、私は自分の生涯を賭けて、君を蔭ながらお護り申上げようと存じました。……労咳を病みまして、ひところは医者にもみはなされましたけれども……若君のおしあわせを見届けるまではと、気力をふるい起こし、その一心を支えに此処までお供をしてまいったのです",
"――今でも、そう思って呉れるか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社
1950(昭和25)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057587",
"作品名": "菊千代抄",
"作品名読み": "きくちよしょう",
"ソート用読み": "きくちよしよう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-06-22T00:00:00",
"最終更新日": "2020-05-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57587.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年4月25日",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年4月25日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57587_ruby_71104.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2020-05-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57587_71149.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-05-27T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"さあ、そのようなことがございましたかしら",
"お隠しなさることはありません、先生がご自分の勉強のためにお嬢さまへ講義をしていらっしゃる、そう伺がったことを覚えています、その講義を、こんどはあなたからわれわれがお聴き申したいのです"
],
[
"いまあと片付けにまいりましたら、このようなお文が置いてございました",
"どなたかお忘れだったのでしょう",
"いいえお嬢さまへ宛てたお文でございますよ"
],
[
"いいえ今日はじめてですよ、知らせて下さればお祝い申しましたのに",
"あらそんなことはないと思いますけれど、でもそうね、つい忘れたかも知れませんわ、ちょうど主人が学堂の御用で江戸へ出たりしてごたごたしていましたから、……ああそうそうそれに就いて姉上さまにお願いがありますの。健さんお乳はもう沢山ですね、おたあさまはお話があるからおとなに待っていますのね、さあまたおねんねですよ"
],
[
"わたくし本当のことを申しているのですもの、ええ本当のことですとも、そして世間で認めなければ、こちらで認めさせるより仕方がございません。まして肉親の姉上ではございませんか、わたくし思っているとおりを申上げますわ",
"そうですとも、姉妹の仲ですもの、遠慮なしに聞かせて下さらなければ……"
],
[
"だってあなた御長男ではないの",
"長男でも健二郎が男の子ですから、家の跡取りには少しも差支えませんわ、姉上さまこそこれまでご結婚あそばさなかったのだし、これからだってもうお輿入れなどはあそばさないでしょう。それならこの子を育ててお跡を取らせて下されば",
"それはわたくしのほうはどうせお育てするのだからよいけれど、あなたはご自分の身をいためたお子ですよ、今はそうお考えでも、いつかはきっと後悔すると思いませんか",
"そんなことは決してありません、そうして頂ければ気持もずっと楽ですし、こころ残りなく長崎へもまいれますわ、ねえ姉上さま、ご迷惑でなかったらそうきめて下さいまし……"
],
[
"そんなにお思いなすって、もし晋太郎さまとお離れなさるようなことがあったらどうあそばします",
"この子と別れるのですって……",
"実の親御がいらっしゃるのですもの、無いことではないと存じます"
],
[
"でもこれでは可哀そうですわ、幾ら山里にしても子供がこんな柄のお袴ではね",
"そんなことはありません、どこでだってみな親たちの着古しを直して用いますよ、晴着はべつですけれど……"
],
[
"ええ嬉しゅうございます、でもなんだか少し、少しよすぎて恥ずかしいようですね",
"そう、よすぎて恥ずかしいの"
],
[
"はい、お母さま、そう思います",
"でも母さまはそう思って貰いたくないのですよ、晋太郎、これまで母さまが教えてきたことを覚えておいでなら、あなたもそうは思わない筈ですがね"
],
[
"それはまたどういうことでございますか",
"表の道から門へはいる途中に晋太郎さんが立っていましてね、――ここは関所だ、旅切手を持たない者は通さない、そう云って立塞がるんです、はじめはごまかして通ろうとするんですが、そうするといきなり、隠して持っていた木刀でやっと打たれるにはおどろきました"
],
[
"今日はこちらが関守でござるぞ",
"この関所の切手は酒だ、酒をまいらなければその座は立たせませんぞ",
"そのうえ木刀でぽかりだ"
],
[
"なにが妙なのですか",
"ふだんはみんな温和しいけれど、酒を飲むと急に元気がでるのですもの、みんないつもあんなに威勢がよくはありませんよ",
"まあ晋太郎、あなたは……"
],
[
"どうして今そんなことを訊くんだ",
"わたくしは先日からこんなことを考えていたんです、禅家が家を捨て親族と絶つのは、生死超脱の道を求める前提です、つまり道を悟るためにまず肉親俗縁と離別するわけですね、妻子親族と絶つことは、つづめて云うと自己の生命の存続を否定することでしょう、親から子、子から孫へと続く生命の系列を自分で絶つ、そこではじめて生死超脱の道を求めるわけです、……わたくし共のめざす道が、大義に殉ずるということを終局の目的にするとすれば、禅家の求道どころではなくもっと直接に生死を超越してかからなければならない。……現に杉田さんはいま、百年伝統のなかに独りいて慷慨の情熱を持続できるかどうか、ということを仰しゃった、そういう意味から、つまり係累をもたぬという意味で妻帯なさらないのではないかと思うのですが"
],
[
"いまの生死超脱のことはいちおう尤もに聞えるが、その考えは少し違うと思う、禅家が生死超脱を追求するのは個人の問題だ、すなわちおのれが大悟得道すればそれでよい、生死の観念を超越するために肉親を捨てる、まず生命の存続を絶つことに依って生の観念の転換をおこなう、それはそのとおりだ、けれどもかくして大悟の境に到達すれば、そこですでに目的は終ってしまうのだ。生死関頭を超克したことに依って、現実にはなにものをも齎らしはしない、……われわれが死を決するところはそれとは違う、大義を顕彰するということはわれわれ自身の問題ではなく、この国民ぜんぶの系体に関するのだ、われわれが生命を捨てるだけで終りはしない、われわれの子も孫もあとに続かなければならぬ、つまりわれわれのばあい生命は存続しなければならぬのだ",
"お言葉ですが、禅家の悟りが個人の問題で終るというのはどうでしょうか"
],
[
"小松から、……手紙だけですか",
"お使の者が持ってまいったようです",
"そう、晋太郎はさきへ召上れ"
],
[
"健二郎どのが亡くなったのです",
"まああの、ご二男さまが……"
],
[
"でもお嬢さま、そのお手紙はいったいどういうことが書いてあるのでございますか、もしや……",
"あとで話します、とにかく御膳を済ませましょう"
],
[
"晋太郎は江戸へまいります",
"…………",
"江戸へゆくほうがよいと思います"
],
[
"本当は……こっちにいたいんですけれどねえ、お母さまだって寂しくなるし、それに……",
"いいえ母さまは寂しくはありません、たとえ寂しくとも、あなたが人にすぐれた武士になって下されば満足です、ただ江戸へいったら、いまの気持を崩さないように、しっかりと心をひきしめて勉強して下さい、まえにもたびたび申上げたように、さむらいというものは……"
],
[
"よくは存じませんが、たしかお十人ほどではなかったでしょうか",
"……十人、そうですか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第一巻 夜明けの辻・新潮記」新潮社
1982(昭和57)年7月25日発行
初出:「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社
1945(昭和20)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"だいじょうぶさ、心配なんかないよ、おれが付いているからな",
"うん、それはそうだ"
],
[
"おじさんの仕事はうまくいっているのかい",
"まあまあだね"
],
[
"僕はいい、僕たちに対する無礼はいいよ、だが良人であるきみに対するあのやりかたはなんだ、主人が勤めから帰ったのに、お帰りなさいとも云わない、客があるのに挨拶はおろか茶も出さない、おまけに湯へいってくる、火はおこってるよって、冗談じゃない、どこの世界にそんな女房があるもんか、僕ならたったいま叩き出してやるよ",
"だからさ、野本くん、それは僕があやまるから"
],
[
"あの三人はなに者だろう、半助さんの友達かしらね",
"それならこれまでに見かける筈だな、友達ならさ"
],
[
"角が当ってるよ",
"ええと、そうか"
],
[
"今日もその話をもちだしたのかい",
"僕は挨拶しただけで、話はしずに出て来ました",
"すると、金がいらなくなって、それを知らせに来たのかもしれないね"
],
[
"あたしにゃ、なにをしていいかわからない、あの子はきっと大けがをしてるんだよ",
"だってここの住所や名が云えるくらいだもの、きっとたいしたことじゃないよ、それより早く着る物を出しておくれよ"
],
[
"会ってもわかりゃしませんよ、ひどい姿になっているし、包帯をしてはあるがそれも血だらけで、まあおっかさんは見ないほうがいいでしょうね",
"いいえ会います、どんなにひどい恰好だって驚きゃあしません、あれはわたしの子供なんですから"
],
[
"いいとこへ来てくれた、まああがってくれ",
"おらあそんなきげんじゃあねえ、おめえに聞いてもれえてえことがあって来たんだ"
],
[
"大丈夫だよ、これっぱかりの酒で酔ってたまるかえ",
"酔ってるよ、だめだったらおよしってばさ"
],
[
"自分でみてみなさいな",
"めんどくせえや、心臓なんぞくたばっちめえだ",
"まあお待ちよ、乱暴だねえあにさんは、待ってったら"
],
[
"どうしたの、そんなとこへ寝ちまっちゃだめじゃないの、風邪ひくわよ",
"あにさん、ときたか"
],
[
"どっちもどっちだけどさ、まああんな夫妻ってあるかねえ",
"こんにちさまが黙っちゃいないよ、こんにちさまがね",
"あたしゃ子供にきかれて弱りぬいたよ、このごろの子供ときたらませているからね、うちでもおとっちゃんと作さんのおじさんが取っ替ればいいだってさ、あいた口が塞がりゃしない",
"子供は眼が早いからね"
],
[
"疲れたあとじゃあ毒だな、こんど仕入れたのはめっぽう強いんだから、それでもいいかい",
"念を押すなよ、昨日や今日飲みはじめたんじゃあねえ、疲れたあとで毒といやあ、鬼ころしよりよっぽど大毒なものがあらあ",
"そのあとは聞くまでもなし",
"いいから注いでくれ"
],
[
"待たせとけよ、かかあやがきは逃げやしねえや、おめえ、――おんやこの野郎、初つぁんだと思ったらそうじゃねえな",
"たのむよ親方、おらあもう帰らなくっちゃならねえんだ"
],
[
"済まないけれども手を貸してよ、重くってあたし独りじゃどうしようもないわ",
"よしきた"
],
[
"誰だ、おれをどうしゃあがる",
"おれだよ、あにい、しっかりしてくんな、ほらよっと",
"放しゃあがれ",
"ほらよっと"
],
[
"こりゃああにいじゃねえか",
"正躰なしなんだよ",
"じか足袋のまんまだぜ",
"初つぁんにあげてもらったんじゃないか、初つぁんもじか足袋のままだよ"
],
[
"男ってどうしてああ飲みたいんだろ",
"腹の中にうわばみでもいるんじゃないかしら、つくづくいやんなっちゃうよ、ねえ"
],
[
"それにしてもさ、さていよいよ自分の家を建てるとなるとね、これはこれで問題がべつなんだな、自分たちがそこに住む家となるとさ、民族性は民族性だけれども、現実の問題はまたね",
"みんぞくせえはたいしたことないと思うな、ぼくは",
"そう云うけどね、これはきみたちの将来に関係するんだよ、ぼくたちおとなは先もそう長くはないんだしさ、これから性格を立体的に持ってゆこうとしてもむりだろうがね、きみたちやきみたちの子や孫のことも考えなければならないとするとさ、やはり一概に個人的な好みばかりも云ってはいられないんだな",
"そうだね、うん、ほんとだ"
],
[
"そうだね、うん、ほんとだ",
"尤も、人はみかけによらないということわざもある、が、まあそんなふうに云っちまえば、――きみはねむったいんじゃないか"
],
[
"ほんとだ、うん、ほんとだ",
"生物はほんらい冷食していたんだな、――これはポーク・カツらしい、きみ喰べるか"
],
[
"なんのことです",
"隠すなよ、ゆうべおまわりが来ただろう",
"知ってるんですか",
"ぼくのうちへ先に寄ったんだ、きみも相当な顔らしいな"
],
[
"それならまだしもさ、夜になるとどこかの街の角にでも立ってたんじゃないのかい",
"やさしそうなお面をしてえるけど、一と皮剥けばあれで相当なばくれんだよ"
],
[
"水しょうばいの女にきまってるよ、めしも炊けず針も持てない代りには、きっとあのほうが巧者なんだろうよ",
"徳さんも徳さんだ、築正親分の身内だなんて云ってながら、あのざまはなにさ、こっちで恥ずかしくなっちまうわ"
],
[
"それで安心はしたものの、あっしはまた困った、たいしゃくさまがどっちの方角に当るかなんて、こっちはてんで知りゃあしねえ、たんばさん知ってますかい",
"そうさな、まあ、――まあ、知らないようだな"
],
[
"くに子のやつあ温和しい性分だから、あっしに口返答はしねえ、はい、といってこっくりをするんだが、――忘れるのか生れつきの癖かどうか、あっしが汗だくんなって馬力をかけだすと、ねえあんたをまた始めるんだ、ねえあんた、七福神は誰と誰だっけとくる、また始めるのか、そんなこたああとの話だってえと、だって気になってしょうがないから教えてよとくる、神や仏はおめえの領分じゃねえかってえと、七福神はべつだって、どうもしょうがねえ、弁天さまに寿老人にびしゃもん天にほていに大黒にえびっさまにって、そこでつかえちまったら、くに子のやつあ指を折ってやがって、まだ一人足りないよってやがる、それからあっしゃあ初めからやり直してみたが、どうしてもあとの一人がわからねえ、さあこっちも気になりだしちゃって、はてもう一人は誰だろうと考えると、また馬力はすっこ抜けよ、――笑いごっちゃねえよたんばさん",
"笑やあしないよ"
],
[
"なま睡の出るような話じゃあないの、誰かさんって誰よ",
"およしよお吉さん、云いだしっぺってこと知らないの"
],
[
"誰かさんは誰かさんさ、こう云えばご本人にはわかるだろ、自分たちで思い当らないんなら、他人のことで気を揉むんじゃないよ",
"それはいいけどさ、肝心なことはうまくいったのかい",
"ほんとか嘘かわからないけどもね、平さんは小屋の中で、蝋燭をとぼして坐ってたって"
],
[
"嘘かほんとか知らないけどね、その道にかけちゃあ腕っこきの誰かさんだし、狙ってものにしなかったためしのない人だから、案外そのとおりかもしれないよ",
"お蝶って誰だろう",
"この長屋うちのどこかにいるかもしれないね",
"それとも別れたか死んだかした、もとのおかみさんかもしれないしね"
],
[
"なんのためだかさ、独り者で身寄りもなさそうなのに、貯めたってどうしようもないじゃないか",
"なにがたのしみで生きてるんだろう、映画を観にゆくじゃなしラジオを買うじゃなし、それとも隠れてパン助にでも入れあげてるんかしら",
"この長屋うちにゃあ、いつでも御用をたしたがってる者がやまといるのにさ"
],
[
"おどろいたね、押しかけ女房だってさ、いいとしをしてなんてこったろう",
"平さんも平さんだ、あんなおばあちゃんに入れあげてたとは思わなかったよ"
],
[
"また謙ちゃんか、あのしとの聞きにゆくも悪いやまいさ",
"あんたも聞かれた組かえ",
"むかし語りさ、もうこのとしになっちゃあそんな精はありゃあしないよ"
],
[
"よく知りませんが、国際的な社交団体じゃないんですか",
"それはカモフラージだ、かれらが諸外国の民族独立精神に対するめつぶし的金看板にすぎない、ぼくのきいているのは、その金看板の裏に、かれらがどんな野望をたくらんでいるかということだ",
"かれらはなにかたくらんでいるんですか",
"べいこくの世界征覇だ"
],
[
"それは違うな、それはきみの思い違いだよ。だってきみ、そいつはどっちも共産党の唄だろう",
"それで労働者が怒ったんです",
"違うなそれは、それはまったくあべこべだ、ぼくは仮にもきみ憂国塾の塾頭だぜ",
"ともかくあの労働者が怒ったのは事実です、ぼくはからの防火槽で寝ていたんで、詳しいことはわかりませんが、あの労働者は怒って、アカの国賊野郎とどなっていましたよ"
],
[
"そういうことは事前に云ってくれなくては困るじゃないか",
"今日も資金の調達ができると思ったもんですから"
],
[
"どうしてまた猫に晩めしを食わせるんだ",
"晩めしは先生ですよ"
],
[
"ぼくはやっぱり青二才なんですね、ええ、自分でもそれがよくわかりましたよ",
"謙遜は美徳の一だ",
"ぼくはずいぶんねばったんですが断わられた、先生が出馬なさると資金調達はつうかあじゃありませんか、脱帽します"
],
[
"猫かもしれませんよ",
"猫だって、――こんな物をか"
],
[
"猫ですよきっと",
"いやそうじゃない、きずげになりそだって云うのを聞いたよ、いや猫じゃないな、あれは",
"さかりのついた猫はおかしななき声を出しますからね、ぼくの田舎で本当にあったことですが、赤ん坊が死んだ赤ん坊が死んだという泣き声がするんですね、薪屋の裏のところで毎晩なんです、薪屋にはちょうど赤ん坊がいたんで、誰か恨みのあるやつが呪ってるんじゃないかって、大騒ぎになったんですが、結局さかりのついた猫のなき声だとわかったんです、その次には俵屋の横でまた"
],
[
"なんでまたそんな妙なことをしたんだ",
"猫のやつが不用心だからです",
"猫って、――あの近みちをするというやつか",
"なにしろはだしでずかずか通りぬけてゆくんですから、うちの中がよごれちゃってしようがないんです"
],
[
"おはちさんのことか",
"それはお国なまりだ、おはつというのが本当なんだが、そんなことはどっちでもいい、先生はいまおれのことをまるめようとして、こうしているうちにもその頭を使ってるだろうが、おれのほうには証人て者が幾人もいるんだ、その証人たちは頭は使わないが眼を使って現場を見ているんだ",
"まあおちついてくれ、とにかくぼくにはわけがわからない、まあ治助くんおちついて"
],
[
"だからその本人を返してくれっていってるんだよ、先生",
"返してくれって、ぼくがおはちさんをどうかしてでもいるっていうのかね"
],
[
"おはつだってばな",
"その人を伴れて来れば簡単明瞭だといってるんだ、え、だからその本人をここへ伴れて来るのがいちばん先のことじゃないか",
"先生はおれの頭をどうにかしようっていうんだな"
],
[
"先生じゃねえってか",
"ばかなことをいうな、この寒藤清郷は痩せても枯れても国士だ。そんなことはさっきから繰り返しているとおり、おはち本人にきけばわかることだ"
],
[
"それがあればと思うんだが",
"心当りはないのか"
],
[
"おらあむずかしいこたあ知らねえ、むずかしくねえことも知らねえかしらねえがね、はー、どうしたらいいもんだか",
"するとすれば、警察へ捜索願いを出すだけだな"
],
[
"ぼくの酒は遺伝学のプレザンプルだあね",
"この魚は切身にして煮てしまったから、もはや動物学でなくして衛生学に属すらあね"
],
[
"がんもどきかい、ふん",
"そんなこと云わないでおくれったら、あんたはきりょうよしだからいいだろうけどね"
],
[
"あんたねぼけてるのよ",
"おれが、――ねぼけてるって",
"こないだの晩もねぼけてたわ、おかしな人、子供みたい"
],
[
"それはおまえ産ませる手はないな、としも若すぎるし世間ていもあるし、ここは倫理学よりも犯罪医学、いやその、あれだ、つまり法医学的な処置をとるほうが、合理的だと思うね",
"わかるように云って下さい、おろすんですね",
"おまえは三面記事のようなことしか云えないんだな、そうだ、おろすんだよ"
],
[
"おれはずっと考えていたんだがなあ、かつ子が本当にあの小僧をやったとすれば、理由はただ一つだ、なあ、おまえもそう思うだろう、理由はただ一つ、あの小僧がかつ子をあんな躯にした相手だからだあな、なあそうだろ",
"あの小僧さんはまだ十七になったばかりですよ",
"かつ子は十五だぞ",
"女と男とは違います",
"人躯生理学では違わなくなったんだよ、アメリカなんかじゃおまえ、子供の成長が早くなっちゃって、結婚年齢をぐっとさげなくちゃならない状態だってことだ、日本だっておまえテーンエージャの問題が、倫理学や解剖社会学で頭痛のたねになってるんだ"
],
[
"かつ子が話すことがあるんですって、刑事さんの前で",
"おれになんの関係がある"
],
[
"まあ、鮒と鯉ですって",
"そうでねがす"
],
[
"ああかぼちゃだ、どうしてる",
"どうもしないよ、まだもとの家にいるよ、なあ"
],
[
"おばさんといっしょだよ",
"おばさんだって"
],
[
"あらいやだ、そこはいわく云い難しよ",
"あんたが女学校三年のときだとすると、福田さんはそのときはもう大学生だったのね"
],
[
"他人行儀、――きみはいつもへんなところへへんな言葉を持ってくるが、いいよ、それじゃあきくがね、いま云ったナッチャリーてのはなんのことだい",
"ナッチャリーはナッチャリーじゃないの、大学中退までいったくせしてあんた知らないの、は、じ、めさん"
],
[
"簡単じゃねえか、民主主義の世の中になったんだ、別れたければさっさと別れればいいさ",
"だから、それができたらなーっていうんですよ",
"できたらなーって、できねえわけでもあるんかい"
],
[
"にーっと笑って、じーっとにらむかね、へえー",
"初めっからそうなんです"
],
[
"伊勢の古市に実家があるという話、相さんも聞いたでしょう",
"うん、うちのやつからね",
"初めはもっと簡単だったんですよ、貯水池だの発電所などはなかった、猟犬が十二匹にペルシア猫が何匹とかいることを自慢にしてました、屋敷の広いことはいまと同じくらいでしょう、なにしろ生れた家でありながら、全部の座敷を見たことがないって、――そんな落語がありましたよね、屋敷の中をすっかり見てまわるには、弁当持ちの泊りがかりでなくちゃだめだっていう、あれよりもっと広いようなことを云うんですから"
],
[
"ぼくが初めて相さんに会ったのは、あの職業安定所でしたね",
"そうだったな、おれはちょっと嵩ばる出物があって、手を貸してくれる者が欲しかったんだ"
],
[
"なぜ逃げちまわなかったんだ",
"相さんが声をかけたんですよ、事務系の仕事はないかってきいたら、そういう仕事は千分の一ぐらいしきゃないっていう、それでもう、これが逃げだすいいチャンスかな、と思ってたら"
],
[
"そうかもしれないが、ぼくはもうがまんが切れそうですよ、このごろじゃもう夜になると、――",
"夜になるとどうした"
],
[
"は、じ、め、くん、って光子は云うんですよ、あんたいま夢の中で、きれいな女の子を抱いてたわね、あれはどこのだーれって",
"きみはそんな夢をみてたのか",
"みていたかもしれない、自分じゃ覚えていないが、光子にそう云われるとそんな夢を見ていたような気がしてくるんですよ",
"それからどうする"
],
[
"はんにゃだって",
"ちょっとのまだけど、そんなようなもの凄い顔になるでしょ、はんにゃのお面そっくりだな、あれは、ぼくはいやだ、ぞーっとしちゃいますよ"
],
[
"それでまあ、思案にあまって、来たようなわけなんですが",
"おかみさんはおなかが大きいとかいってたようだね"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十四巻 青べか物語・季節のない街」新潮社
1981(昭和56)年11月25日発行
初出:「朝日新聞 夕刊」
1962(昭和37)年4月1日~10月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:富田晶子
2018年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057822",
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} |
[
[
"いったい誰が上げたんだ",
"あたしはずっと魚庄さんのお座敷にいたから知らなかった",
"あたしも気がつかなかったわね"
],
[
"気がつかないけれど、まだでしょう",
"それで手を鳴らさなかったのね"
],
[
"まえには旅籠をしていたんですが、二三年あとからこんな風に変ったんですよ、気を悪くなすったでしょうが堪忍して下さいましね",
"旅籠をよしたんなら、御宿という看板を外すがいいんだ",
"それはそうなんですが、いまお茶屋は御禁制になってるもんですからね、それに場所が場所で旅の方なんかのいらっしゃることはないし、……お一ついかが",
"これで貰おう"
],
[
"この家がそういう仕掛になっているならこっちも気は楽だ、もっともどっちにしたところで、たいしたことはないがね",
"なにがたいしたことはないんですか",
"なにもかもさ、いつかみんな死んじまうということの他、世の中にあ一つもたいしたことなんぞありゃしないと云うのさ",
"おやおや、まだこれからというお年で、たいそう年寄りくさい事を仰しゃるんですね"
],
[
"さんざんいい事をし尽して、ちょっと世の中に飽きがきたというところですか",
"違えねえ"
],
[
"お願いだからよして下さい、そんな風に笑われると胸が痛くなってくるわ",
"手玉に取ったことでも思いだすのかい",
"わざと憎まれ口をきくことはないの、そんな柄じゃないことは御自分で知っているんでしょう、いいからおあがんなさいよ、酔ったときぐらい人間はすなおになるもんだわ"
],
[
"たいしたこたあねえや",
"酔うがいいわ、そしてゆっくりおやすみなさい、あなたは疲れてらっしゃるのよ"
],
[
"……世の中に本当のものなんぞ有りあしねえ、騙りや盗みや詐欺が勝つんだ、それができない人間は阿呆のように酔うか、死んじまうより他に手はねえ、それでおれは、こうして旅へ出た、のたれ死をするまでの旅へさ、たいしたこたあねえ",
"そして此処まで辿り着いて、どうやら先がみえてきたというわけね"
],
[
"それともこれからさきは物乞いでもしてゆく積りですか",
"どんな積りがあるものか、食逃げでこの家から番所へ突出されたら出るまで、牢へ叩き込まれたら入っているまで、縛り首でも島流しでも御意のままさ、どうせどっちへ転んだって",
"たいしたことはない……というんでしょう、仰しゃるとおりだわ、あたしのような者が意見がましいことを云ってもしようがないし、口先の慰めなんか三文の値打もないでしょう、だからなんにも云いません、けれど、……"
],
[
"この家の仕掛が仕掛だから、番所なんぞとうるさい係わりがもちたくないわけか",
"そうかも知れません、でも一つだけすなおに聞いて置いて下さいな、お天気だって晴れているとき許りはない、十日も二十日も降ったり、暴風雨や洪水になることもあるんですよ"
],
[
"失礼だが西へゆかれるか",
"……へまいります"
],
[
"へえ、ぜ、膳所を、通ります",
"では頼まれて貰いたい"
],
[
"貴方の云うとおり、ごまの蠅とか巾着切とかいう者かも知れないわね",
"そうでなくって五十両という金を、見ず知らずの旅の者にことづける訳があるかい、一分や二分じゃあない五十両だぜ"
],
[
"今朝ここを立ってから、私の胸はお滝さんおまえのことでいっぱいだった、たった三日だったけれど、私はおふくろに抱かれたあとのようにここのところが温たかく、だらしのないほど別れてゆくのが辛かった、生れて初めてだ、こんな気持になったのは生れて初めてなんだ、お滝さん私はこれ以上もうなんにも云えない、けれども本気だということはわかって貰えると思うんだ",
"世の中に本当のものなんぞありあしないって、ゆうべ御自分で仰しゃったわね"
],
[
"あれからまる一日も経たないのに、こんどは貴方の云うことを信じろと仰しゃるんですか",
"それとこれとは違うよ、私がどんなめに遭ったかは精しく話した、あれを覚えていたら、私のああ云ったことはわかって呉れる筈だ",
"そうすると世の中はまるきり騙りやごまかし許りでもないという訳ですね"
],
[
"それじゃあお願いがあります、そのお金を頼まれた処まで届けて来て下さい",
"だってそんな、そんな、わかりきったことを",
"たぶんそうでしょう、仕事をしそこねた悪い人間が、危なくなって貴方にあずけたのかも知れません、けれどもそうではないかも知れない、なにか事情があって本当に貴方に頼んだのかも知れない、それをたしかめて来て下さいませんか",
"そうすれば、私の望みを協えて呉れるんだね",
"膳所から帰っていらしったら"
],
[
"源之丞という方からお言伝を持ってまいったのですが",
"なに源之丞どのから"
],
[
"……正直に恥を申上げますが、お預かり申したとき私は無一文でございました、そのうえ別に事情がございまして、どうしても二両一分ばかり必要になり、ちょっとした考え違いから小粒のほうの封を切ってしまいました、もちろんこの袱紗の中には五十金そろえてありますが、そういう訳で封を切ってございますので、そこをどうかお赦し下さいますよう、お願い申上げます",
"いやその斟酌には及ばない、このほうにはお志だけで充分でござる、失礼ながら暫く……"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
1947(昭和22)年9月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057577",
"作品名": "金五十両",
"作品名読み": "きんごじゅうりょう",
"ソート用読み": "きんこしゆうりよう",
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"初出": "「講談雑誌」博文館、1947(昭和22)年9月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-01-07T00:00:00",
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[
[
"へえ――",
"落着かなくちゃいけねえ、もうすぐ検めに回って来るぜ。さあ",
"頂戴いたします"
],
[
"お前指せるか",
"へえ、ほんの真似だけで",
"検めの眼眩しだ、真似でいいからやんな、ちょうど寄せにかかるところで、こっちゃあこの角を切っていく手だ……おっ、来たぜ"
],
[
"お騒がせ申して相済みません、いま向うの離室へ泥棒が入りましたので、順繰りに見回っているところでございますが",
"そいつぁ物騒な、何か盗られなすったか",
"いいえ、幸いとお客様が早く気付いたので、べつに盗まれた物はありませんが、どうやら外から入った賊ではないようすゆえ、念のために検めておりますので",
"そうかえ、こっちゃあまたさっきから将棋に夢中で何も知らなかった"
],
[
"とんでもない、梅田屋の旦那のお部屋まで検めるには及びません、ちょっとお耳に入れていただいたばかりで――へえ御免くださいまし",
"そうかい、それは御苦労だったな"
],
[
"ありがとう存じます、お蔭で危いところを助かりました、暗がりの親分――",
"何だと?"
],
[
"そうかえ。薗八のきりぎりす、そんなに名が通っていたかえ、そいつぁ大笑いだ",
"あっしゃあまだ駈け出しで、野火の三次という者でござんすが、――改めて親分にお願えがござんす",
"何だかいってみねえ",
"こんなけちな青二才でお気にゃ召しますめえが、どうか子分にしてやっておくんなさい、お願え申します",
"ふっふ、いまの腕でか――?",
"今なあまったくどじを踏みやした、その代り今度は外れっこのねえ仕事をお眼にかけやす、それを手札代りにどうか",
"そりゃあこの土地か",
"へえ、つい街道向うでござんす"
],
[
"おらあ血を見るなあ御免だぜ",
"あっしも江戸育ちでさあ、けっしてそんなぶまなこたあ致しやせん",
"そうか、じゃあ何だ、とにかくお前の腕を見せてもらうとしよう、話ゃあそれからだ。――おっと三の字、断っておくがおいらここじゃ梅田屋で通っているんだぜ",
"承知でござんす、梅田屋の旦那",
"ふっふっふ、まあ忘れねえように頼む"
],
[
"聞違えすることかよ、茂吉さ。現に今日、父さんが二百両という金を持って帰っただ、あれが姉さの身代金だと云うだ",
"姉さんはどこへ行っただか",
"沼津の女衒藤兵衛とやらいう人が連れて、江戸の新吉原とかへ売られたと聞いただよ、おらもうそれを聞いたら姉さが可哀そうで、可哀そうで飯も喉へ通んねえだ",
"とんだことになったのう",
"姉さは家のために身を売らしっただに、妹のおらが安閑としてこんな……",
"何を云うだ"
],
[
"茂吉さ、そんなこと云わねえでくろ、おらこそ茂吉さに済まねえと思ってるだ",
"何が済まねえことがあるだよ",
"お女郎の姉さなどもつようになったおらを嫁にもらったら、世間できっと何ぞかぞ云うに違えねえ、それを考えるとおら……",
"お稲さ"
],
[
"じゃあ嫌やしねえだの?",
"お稲さこそおらを忘れるでねえだぞ"
],
[
"なんだえ、仕事というのは百姓家か",
"百姓は百姓でも上畑の嘉兵衛といって、この界隈じゃ名の知れた物持でござんす",
"お前ひどく精しいの",
"めどをつけるからにゃ洗ってありまさあ、しかも今日はちょいとまとまった現金が入っているはず、親分などが御覧なすったら、ほんの悪戯仕事かも知れませんが、まあお目見得の手土産代り、どうか見てやっておくんなさい",
"まあやってみろ",
"へえ、ちょいと御免を蒙ります"
],
[
"親分、上首尾でござんした",
"空巣だな――",
"親爺ゃあ湯治場へ女房を迎えに行った留守、ちゃんと刻を計った仕事でござんす――どうかお納めなすって"
],
[
"切餅が四つあるはずです",
"もらっておくぜ",
"最初からそのつもりでさあ――お! 帰って来たようすですぜ"
],
[
"逃げやしょう、親分",
"まあ待ちねえ"
],
[
"ど、どうなさるんで",
"急ぐにゃ及ばねえ、まあ落着け"
],
[
"何だか、あっしにゃ合点がいかねえ",
"空巣をくすねてそのままずらかるなんざあ、田舎出来の小泥棒でもするこった。盗んだ後で家のやつらがどんな慌てかたあするか、そいつをこう悠くり眺めてる気持が分らなけりゃ、本当の商売人たあ云われねえ"
],
[
"とんでもねえ、まだそんな……",
"ふっふ。まあ聞きねえ、何と云っても後味の良いなあ大名屋敷だ、ふだん偉そうに四角張ってる侍どもが、時化を喰った鰯みてえに眼の色を変えて、刀あ捻くりながら駈回るざまあ――まったく堪らねえ茶番だぜ",
"よっぽどおやんなすったでしょうね",
"それほどでもねえがの、盗人をするんなら大名か大所の金持だ、日頃のさばってる連中が蒼くなって騒ぐところを、こうじっと見ている気持ゃあ……おや"
],
[
"おっ母さん塩梅はどうだね",
"ありがとうよ、ちっとべえ辛かったっけ、今あもう何ともねえだよ、どっこいしょ"
],
[
"留守に誰も来なかったか",
"二本松の茂吉さが来ただよ、今日おっ母さんが湯治から帰ると聞いたで、見舞に鶏卵を持って来てくれただ",
"そうか、そりゃあ済まなかったの"
],
[
"お父つぁん、おらあ済まねえだよ",
"何を云うだ、お秀",
"不幸続きのあげくがおらの長患いで、とうとうお絹を泥の中へ沈めてしまった、それを思うとおらあ――自分の体の治ったのが恨めしいだ",
"馬鹿なことを云うもんでねえぞ"
],
[
"だ、だってあっしゃあもう",
"うるせえ、いっぱし商売人になろうてえ者が、こんな愁嘆場に咽せてどうするんだ、そんな度胸で暗がりの乙松の子分になれると思うのか",
"――へえ"
],
[
"今晩は、お約束で野村屋から参りました",
"おおこれは御苦労さんで"
],
[
"汝ゃあ、こ、こけえ手をつけやしねえか",
"いんえ寄りもしねえだよ"
],
[
"お父つぁん、どうしただね",
"金が、金が無えだ、ここへ納っといた金が無くなってるだ。この仏壇の抽出へ入れて、上へ過去帳を載せて置いたことまでちゃんと覚えているだに――あ、そういえばここへ過去帳が落ちてるだぞ",
"げえっ! それじゃあ……"
],
[
"……でも、ほんのちょっくらだに",
"明けたか、家を明けただか、おめえ家を空っぽにしただか、お稲!",
"か、勘忍してくろ父さん、おら、おら、ほんのそこまで茂吉さを送って行っただけだに、ほんのちょっくら――",
"何がちょっくらだ、お稲、おめえ――姉さはじめおらやおっ母あを殺しちまっただぞ",
"お父つぁん"
],
[
"お取込みのようですが、約束の物は返していただけますかね",
"ああ野村屋さん……"
],
[
"そ、それじゃ……こんな災難の中で、この家屋敷を明けろとおっしゃるだか",
"阿漕のようかは知れませんが、私どもでも商売でございますからな。貸した金が取れなければ抵当をいただくより致しかたがございません、どうかそのおつもりで"
],
[
"もうどうにもしようがねえだ、二人とも覚悟をきめてくれ、お秀、死んでくれ",
"おらも、いっそそのほうがいいだ"
],
[
"死ぬべえ、父つぁん、三人して死ぬべ、おらたちゃあ、こうなる運だっただ――ただ、可哀そうななあお絹だ、おらたちが死んだと聞いたら……",
"お秀――"
],
[
"――親分",
"なんだ",
"一生のお願えだ、いまの、いまの金をあっしに返しておくんなさい",
"なんだ金を返せ?"
],
[
"それじゃ、いまの金は、返してはおくんなさらねえのか?",
"当りめえよ、盗人が一度懐中へ入れた金だ、手前っちが逆立できりきり舞をしても返すこっちゃあねえ、面あ洗って出直してこい"
],
[
"どうしても、いけませんか",
"諄え!",
"――野郎!"
],
[
"抜きゃあがったな",
"腕ずくでも!"
],
[
"何だと?",
"金ゃあ返してやるよ、それ"
],
[
"それから、ここに三十両ばかりござんす、こりゃあ博奕で儲けた金、けっして御迷惑にはなりませんから、どうかお遣い捨てなすっておくんなさい",
"まあお前さん、そんなことを"
],
[
"――ふふ、そうかえ",
"会わねえ昔と思っておくんなさい、これでお別れ申します",
"どこへ行くんだ"
],
[
"どこへ行くんだ、若いの",
"どこへ行くって?"
],
[
"一年や二年じゃ帰れねえぞ",
"五年が十年でもいい、おらあ立派に年貢を納めて綺麗な体になってくるんだ、おらあこれから新規蒔直しに始める気だ、あばよ",
"未練はねえか",
"冗談じゃあねえ、おらあ嬉しくって何だか足が地に着かねえくれえだ。お前にゃ来いとは云わねえが――まあ達者でいなせえ"
],
[
"まだ何か文句があるのかい",
"餞別を忘れていた"
],
[
"その桶屋というのは何者ですえ?",
"武蔵屋政吉、素性を洗えば『暗がりの乙松』という人さ",
"げえっ……?"
],
[
"それでもあの薗八節は?",
"ああ、あれかえ"
],
[
"といいなさるのは……",
"商売人と見りゃ近づいて盗んだ跡の愁嘆を見せるのが私の道楽さ、はははは"
],
[
"さあ行こう、京へのぼって手に職がついたらそう云ってよこすがいい、店を出すくらいの金は都合してあげよう",
"…………"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1936(昭和11)年9月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"お留守、……と云うと",
"此処へ移ってみえたのが二月、それから五十日ほどすると、ふらっと何処かへお出掛けになったきり、いまだにお帰りがないようすでござります",
"然し門人なり留守の方がおられよう",
"門人衆という訳ではありませんが、先生のお留守に来た御修業者が五人、お帰りを待って滞在して居られますようで、ひと頃は十四五人も居られましたがな、いまは五人だけお泊りのようでござります",
"老人はこの御近所にお住いか",
"はい、あの栗林の向うに見えるのが、わたくしの家でござります"
],
[
"ではなにか条件でもございますか",
"されば、別所先生はそこらに有触れた町道場の師範などとは違う、先生の鞭を受けようとするには、少なくとも一流にぬきんでた腕がなくてはならん、だから、もし達てお帰りを待ちたいと申すなら、我々と此処で一本勝負をするのだ、そのうえで資格ありと認めたら、我々の門中へ加えて進ぜよう",
"それは先生のお定めになった事ですか"
],
[
"御老人も知っておられるか",
"留守番の弥助どのからよく聞きまするし、此の辺をのし歩くので顔もよく存じております、あのようなあぶれ者が殖えるばかりで困りものでござります"
],
[
"あんまりよくお睡りになっているので、お起こし申すのがお気の毒でございました",
"よく寝ました、ずっと旅を続けて来たのでいっぺんに疲れが出たのでしょう、ああ、栗がよく実っていますね",
"わせ栗ですから、もう間もなくはぜますでしょう"
],
[
"それでは番人という役ですね",
"いいえ、いいえ、そんな積りで申したのではございませんわ、ただ心丈夫だと思ったものですから"
],
[
"いや慰みの積りではない、遊んでいては躯がなまくらになるので、力仕事をして汗を出したいのです、邪魔にならぬようにするからどうか手伝わせて下さい",
"それならまあやって御覧なさいまし、だが三日も続きますかな",
"まあお祖父さま"
],
[
"ではもう兵法などは無用だと云われるのか",
"私の申上げた言がそのように聞えましたか"
],
[
"お祖父さま、またいつかのように乱暴をするのではないでしょうか",
"相手にならなければいい、構わなければ蝮も噛まぬという、知らん顔をしておいで"
],
[
"待て待て、見慣れぬ奴がいるぞ、その男はなんだ爺、貴様の伜か",
"それとも娘の婿か"
],
[
"岡田さまのお国はお遠くでございますか",
"近江です、近江の蒲生というところです"
],
[
"こんな場所ではお互いに充分な立合いはできぬ、また気弱な娘をおどろかすこともあるまい、娘を送り届けてから場所を選んで充分にやろう",
"その手に乗るか、逃げる気だろう"
],
[
"お祖父さまには内証ですよ",
"……はい",
"では帰りましょう、冷えてきました"
],
[
"留守中に修業者が来て、路用に困る者があったら自由に持たせてやれと、通宝銭がひと箱置いてあったのです、今日まで一文も手を付けた者は無かったのですが、あのやまだち共、それを掠って逃げたのだそうでございます",
"なんと、見下げ果てたことを"
],
[
"…………",
"先日、岡田さまは私の言葉を咎めて、兵法は無用のものかと仰しゃいました"
],
[
"いやいや、もう二度と帰っては来ないかも知れない、それでもなお此処に待っているか、虎之助",
"私に百姓が出来ましょうか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング」大日本雄弁会講談社
1940(昭和15)年11月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057608",
"作品名": "内蔵允留守",
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"初出": "「キング」大日本雄弁会講談社、1949(昭和15)年11月号",
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"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月25日",
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[
[
"あの捕手は肩も良いし、とても綺麗なプレイをするが、何という生徒だね",
"あれか、あれはそら、先月だったかC・C・D潜水艦事件で手柄をあげた、あの春田龍介だよ",
"ああ、あの少年探偵か、ふーむ",
"二年級のキャプテンをやっているんだ。とても確りしている。秋には全国中等学校野球大会へ出るんで、この暑いのに毎日猛練習さ。あれで家へ帰ると、父さんの化学実験の手伝をするんだそうだからね……"
],
[
"じゃ待っていたまえ、いま練習中だからね。もうすぐ休憩になる",
"では、先生からおわたし下さい。僕ちょっと急ぎますから"
],
[
"やあ、諸君御苦労さん……ところで春田君、いま君にこの手紙を届けてきた者があるよ",
"そうですか、どうも有難うございます"
],
[
"で、伯父さんはどうなさいます⁉",
"いや万一のことがあるといかんと思ったから、顧問弁護士に頼んで私立探偵を一人顧ったよ。四時にはくるといったから、もうすぐにやってくるだろう。とにかく探偵の意見も訊いてから、どうにかしようと思っている"
],
[
"存じません、私一週間ほど前にきたばかりですから",
"ああそう、探偵は何人くらいいるの?",
"さあ、桂河先生に、外に三人ばかりと、小さな助手の人が一人だけでございます",
"有難う!"
],
[
"坊っちゃん、お手紙を頂きました。何か御用だそうですね",
"気をつけ給え壮太君、こん度坊っちゃんなんていったらそれっきりだ。それで友達の縁を切るから、そのつもりでいてくれ給えよ!"
],
[
"ところで、今夜どうしても君に力を借して貰いたい事が起ったのだが、どうだろう",
"ええ、ようござんすとも。私にゃ学問のことは分らねえが、鬼の一疋や二疋ぶち殺す役ならいつでも引受けますよ"
],
[
"ねえ、坊っちゃ――じゃねえ春田さん、奴等ぁ何か水みてえなものを私にぶっかけましたぜ",
"あれは水じゃない、エーテルという麻酔剤だ、あれだけ嗅げば二日くらいは眠りっ切になるんだ",
"え⁉ 二日も眠ったっきりですって、冗、冗談じゃねえ、私ゃそんななご免ですぜ",
"心配し給うな、多分こんなことだろうと思って、前にちゃんと予防しておいたんだ。さっき顔へ塗ったのは蚊除け香水じゃない。あれは麻酔剤の力を消す新しい薬なんだ。あれを塗って置けばどんな麻酔剤だって恐れることはないんだ",
"うは――。偉いなあ坊っちゃん――じゃねえ春田さんは……やっぱり私の親分だけありますねえ"
],
[
"畜生、昨夕の仕返しだ、うんとやっつけますよ、だが奴ぁ愕くでしょうね、うふふ",
"笑いごとじゃない。うっかりすると反対に君が愕く方へ廻るかもしれないぜ",
"なにくそッ、こん度こさあ"
],
[
"伯父さんと桂河探偵は一時にお茶を飲んだ。それから十分ばかり経つと、疲れが出てうつらうつらと甘睡んだ、二時を打つ時計の音ではっと眼が醒めると、西側の壁に朱色の文字が書附けてあった――そうでしょう",
"そのとおりだ、全部その通りだ",
"さあこれが薬です、良い匂いのする薬ですよ。これを嗅げばあなたの頭痛はすぐ良くなります。でねえ伯父さん、今晩もう一度同じようなことがあります。そしたら明日いよいよ僕が出掛けてきますよ。明日こそ僕と黒襟飾組とが、頸飾を中心に一騎討を始めるんです",
"今夜はきてくれんのかね龍介"
],
[
"そんなこと云って龍介、お前ちゃんと計画はできているんだろうね",
"まあ見ていて下さい。ところで桂河さんは遅いですね。へぼ探偵さんは、――実際あんなへぼさんて見たことがないや"
],
[
"やあ失礼、ところで、なにか御用ですかね",
"そうなんです、朝早くから失礼ですが、至急お願いしたいことがありましてね",
"なる程。で、その用というのは",
"黄色金剛石の頸飾が頂きたいんです※(感嘆符三つ)",
"な、なに※(感嘆符三つ)"
],
[
"そんな芝居はたくさんですよ。僕ぁちゃんと見抜いていたんだ探偵。貴方のなさることはまるで子供騙しでしたね。おとなしく頸飾を返した方が徳ですぜ",
"なる程、なる程、なる程※(感嘆符三つ)"
],
[
"帽子を脱れ‼ ビショップ、ヤンセン、額には大きなあざがあるはずだ※(感嘆符三つ)",
"あっ‼"
],
[
"ヤンセン、貴様は僕に一騎討をしようといってきたな。だがこの一騎討はたしかに僕の勝だぞ!",
"何だと⁉ 小僧――",
"見ろ、貴様の拳銃には弾丸がないぞ",
"なに⁉"
],
[
"こら貴様気が違ったのか、あの小僧を",
"やかましいやい毛唐め、俺等ぁ拳骨壮太さまだ。サルビヤ号で喰った拳骨の味を忘れやがったか"
],
[
"何だ、どうしたジョオジ‼",
"又あの龍介の小僧が出しゃばりやあがったんだ、ヤンセン親分は捉まっちゃったんだ。逃げろ、警視庁の自動車三台が二十分と経たぬ間にここへやってくるぞ‼"
],
[
"表に自動車がある、幌だから丁度倖いだ。さあ皆あれへ乗って行こう‼",
"そうだ、その自動車で逃げろ‼"
],
[
"逃がしゃしねえぞ",
"なに! 来るか小僧め‼"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年8月別冊読本
初出:「少年少女譚海」
1930(昭和5)年8月別冊読本
※表題は底本では、「黒|襟飾《ネクタイ》組の魔手」となっています。
※「黄色金剛石」に対するルビの「イエロオダイアモンド」と「イエロオダイヤモンド」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059100",
"作品名": "黒襟飾組の魔手",
"作品名読み": "くろネクタイぐみのましゅ",
"ソート用読み": "くろねくたいくみのましゆ",
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"初出": "「少年少女譚海」1930(昭和5)年8月別冊読本",
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[
[
"おらあ仲間うちから頭が高えと云われたもんだが、このごろは悠坊のおかげですっかり腰の低いにんげんになっちゃったぜ",
"ねんがらねんじゅうあやまってるんですものね、お客のみなさんもびっくりしているわ、親方のあいそがばかによくなったって、――つまり悠坊にしつけられたってわけね",
"よして呉れ冗談じゃねえ、おめえにまでばかにされりゃあせわあねえ"
],
[
"悠二郎きちんと坐れ、着物の衿を合わせろ",
"口をむすべ、男はむやみに笑うものではない",
"静かに歩け悠二郎、廊下は馬場ではないぞ"
],
[
"孔子っていつごろのにんげんだい",
"敬称をおつけなさい、孔子などと呼びすてにしてはいけません、聖人といわれるくらい偉大な方なのですから、――孔子さまは今から二千三百年ほどまえの方です"
],
[
"そいから頭も前のようにして呉れねえ",
"まあ坊ちゃんそんなこと仰しゃったって、まさかあなた"
],
[
"腰んとこが軽くって躯が浮いちゃいそうだ、屋根まで跳びあがれそうだ、わあすげえ、――母ちゃん、吉べえいるかい",
"舟は危のうございますよ"
],
[
"本当はこんなもんじゃないんだぜ、橋場の川へゆきゃあ鮠だの鯉っ子だの、こんなでけえのが山と獲れるんだぜ――おれなんか綾瀬川でなんべんも鯉を釣っちゃった",
"――そこへは、若もゆけるの",
"いかれやしねえさ、いけると面白いんだがな、芝居もあるし、観音さまにゃあ軽業もかかるしよ、ろくろっ首って見たことがあるかい",
"――若はいつか、……いつか、能を観た"
],
[
"うまいねえ、こんなうまい物は初めてだ、これなんの実なの",
"桑の実さ、こいつを喰べると口ん中じゅう紫色になるんだ。ほら見てみな、ね",
"本当だ、若のもなってるかね"
],
[
"先殿もそのまえの殿も若死をなすっていらっしゃる。それはみんな早く結婚するためじゃありませんか、準斎先生も早婚はその者の躯にもよくないし、生れる子も劣弱になり易いと云ってますよ、そのくらいのことがお祖父さまにはおわかりにならないのですか",
"わかっているさ、――みんな、おそらく誰だって承知しているだろう",
"ではなぜ黙っているんです、どうして止めようとなさらないんです。向うは女の十七でいいだろうけれど、若さまは十六でもおくのほうじゃありませんか",
"だがこれだけは、どうにもならないんだ"
],
[
"そんなばかなことがあるもんですか、幾らお世継ぎが必要だからって、そんな、――それじゃあまるで若さまのお命を、短いうえに短くするようなものじゃありませんか",
"人間は生きた年数だけで長命か短命かがきまるものではない"
],
[
"土蔵の中で百年生きるのと、市中で三十年生きるのと、その経験したことを比較してみるがいい、どちらが長く生きたことになるか、――悠二郎、わかるだろう",
"いいえ、わかりません、それが若さまとなにか関係があるんですか"
],
[
"なまを云ってやがら、自分で仕立てたわけでもねえくせにして、あっちへいってろよ、うるせえ",
"縫やあしないけど柄はあたしの見立てよ",
"道理で田舎っ臭えと思った、おめえなんぞまだそんながらじゃあねえよ、おしゃぶりでもしゃぶってあねさまごっこでもしているがいいのさ",
"いいわよ、気にいらなきゃ脱いで頂戴",
"お情けで着てやるよ、可哀そうだからね、母ちゃん、舟借りるぜ"
],
[
"その舟はだめよ悠ちゃん、だめなのよ、こっちの舟にしなさいよ",
"黙ってろ、うるせえ、素人じゃねえんだ",
"偉そうなこと云うわね、そんならやってごらんなさいよ、いいお慰みだわ"
],
[
"なんだか今年はようすがへんね、いつもと違って信さんをばかに大事にするし、外へ出てもあんまり乱暴なことしないじゃないの",
"おめえなんぞの知ったこっちゃねえよ",
"信さんだって迷惑そうだったわよ、いつかあたしに、今年は悠ちゃんへんだって、へんにうるさくするって、そ云ってたわよ"
],
[
"いやなんでもない、――大丈夫だ、郷愁というのだろう、ときどき江戸へ帰りたくなる",
"はあ、それは、しかしそれだけでございますか"
],
[
"おまえの鼻の穴がどうしてそんなに大きくなったかという話さ、おつねにすっかり聞いたんだよ",
"えっ、ああ――ああそればかりは",
"そればかりはと云ったって本当なんだろう"
],
[
"私は殿が若死をなさるとは思いません、御代々が御短命だからと申して、殿も御短命であるとは定りは致しません、私は殿は御長命でいらっしゃると信じております",
"おまえが信じるだけでおれの寿命が延びると思うのか"
],
[
"殿にもしものことがあれば、そのときは、悠二郎もお供を致します、決して、殿ひとりお死なせ申しは致しません、――人間はいつかはみんな死ぬのです、おそかれ早かれ、いずれはみんな死んでゆくのです、……殿、死ぬことをお考えなさいますな、大事なのは生きているうちのことです、できるだけ充実した生きかた、広く深いゆるみのない生きかたを考えましょう、そのときが来るまで、生きられるうちに充分に、生れてきた甲斐のあるように生きることを考えましょう",
"――わかった、よくわかった"
],
[
"偉そうなこと云ってもだめよ、悠ちゃんなんか、梅干の種を鼻の穴じゃないの、――くやしかったら芸妓の情人でもつくってごらんなさい",
"なにょう云やあがる、こっちあ屋敷が本所にあるんだぜ"
],
[
"お屋敷が本所だからどうしたのよ",
"べらぼうめ、本所から深川はひと跨ぎだ、なあ信さん、こいつあなんにも知っちゃあいねえのさ、へ、可愛いもんさ",
"そんなら家へ伴れて来たらいいじゃないの、そんなお馴染があるんなら伴れていらっしゃいよ",
"べらぼうめ、こちとらあてめえのおっこちを見せまわるほど浅黄裏じゃあねえや、嘘だと思うんなら自分でいって聞いてみな、櫓下へいって当時こちらで信さんと悠さんに深間のお姐さんはどなたでござんすか、――こうきけば猫の仔でも教えて呉れらあ、ざまあみやがれ",
"そんならそっちへいったらいいじゃないの、こんな家へなんか来たって面白かあないでしょ、いらっしゃいよ、すぐ舟のしたくさせてあげるわ"
],
[
"おう待ってました、松吉にそいって呉れ、門限があるんだから早いとこ頼むってな",
"云うわよ、なんでもありゃしないわ、そう云えばいいんでしょ",
"云えばいいのさ、さっさと頼むぜ",
"わかったわよ、どうせいいわよ、きれいな顔をしてたって蔭じゃあそんなことをしているんだから、家じゃあ母ちゃんもあたしも待ってたんじゃないの、今日は家で悠くりして頂こうって、大騒ぎでいろいろ下拵えをして、芸人は誰と誰を呼ぼうかって、お父つぁんもいっしょに相談して、もういらっしゃるかしらってみんなで待ってたんじゃないの、それなのに",
"なんだ、泣くのか、こいつあ驚きだ"
],
[
"どうしてそうなんだろう、顔を見るとすぐ喧嘩なんだから、――おまえが悪いんだよ、なんだねばかばかしい、自分でへんなこと云いだしたんじゃないの、だから悠さんにからかわれたんじゃないか、嘘だよあんなこと、からかわれてるんじゃないか、ばかだねこのひとは",
"いいわよ、拵えといたお肴みんな猫にやっちゃうから",
"猫がまっぴらだとさ",
"およしなさいったらねえいいかげんに、おみつは下へ来てお呉れ、煮物をみてて呉れなきゃあ困るよ"
],
[
"信さんはきちんとなさるのに、どうして悠ちゃんはこう着かたが下手なんでしょう、ちょっとじっとして、だめよそんなに動いちゃあ",
"うるせえな、曲ってたっていいよ",
"よかあないわよ、ちょっと待ってよ、ここんとこ、あらいやだ、これ下から着なおさなくちゃだめだわ",
"なにょう云ってやんだい、あばよ"
],
[
"お庭の桑はどうしたでしょう、たしか六本くらい植えたんでしたね、――八本だったかしら",
"あれからもう七年経ってるじゃないか、一年に二本ずつ植える筈だったろう、おまえ忘れていたのか",
"じゃあずっと、あれから、二本ずつですか",
"おれのと悠二郎のと、……上屋敷へ戻ったらみにゆくがいい"
],
[
"気が向いたら舟仙へでもいって、たまにはおつねに孝行をしてやるがいい、おまえまだ母ちゃんと呼んでいるのか",
"よして下さい、こっちはそれどころじゃありませんよ",
"ここで怒ったってしようがない。舟仙がいやならまた金魚の尾鰭でも切ってやるさ、またそろそろ伸びているころだぞ"
],
[
"あら、信さんどうなすって",
"わからねえやつだな、このまえ来たとき云ったじゃねえか、殿さまの供をして国へいってるんだよ、なんど云やあいいんだ",
"そんなに怒らなくったっていいわよ、ただちょっときいただけじゃないの、そんなにもぽんぽん云わなくったっていいでしょ",
"うるせえ、あっちへいってろ"
],
[
"どうなさるの、でかけるんじゃないんですか",
"うるせえって云ってるだろう、聞えねえのか"
],
[
"このあいだは酒のお相手をして来たが、御隠居さまもめっきり弱くおなんなさいましたね",
"そうかなあ、おれは半月ばかり会わねえから、知らねえ",
"そのときも話が出たんですが、悠さん此処からお帰んなすったときずいぶんお困んなすったんですってね",
"なんだっておめえ当りめえよ、今まで野放しに育ったんだ、それこそ年じゅう裸で、好き勝手にとびまわっていたのが、着物をきちんと着て袴をはいて、腰にあ刀を差して行儀作法だ、……おまけにそれが悪戯ざかりの七つてえ年なんだから堪らねえやな",
"まったくね、あの日ここで支度をなさるとき、べそをかいてらっしゃるのを見て、あたし涙が出て涙が出てしようがなかったわ、夜中にひょいと眼がさめると眠れないのよ、いまごろどうしていらっしゃるか、あんまり窮屈なんで浅草へ帰りたがって泣いてでもいらっしゃりゃあしないかって、――なんども夢をみたわね、母ちゃんって、はっきり呼ぶのを聞いて眼がさめるの",
"帰っていらっしたに違えねえ、ちょっと表を見て来るからって、そうじゃねえ夢だってえのに強情をはりあがってよ、寒いのに表まで出てみやがったっけな",
"外はまっ暗でしんと寝しずまってるの、来たことは来たけれど、叱られると思って隠れてるんじゃあないか、――暗い道にはまっ白に霜がおりてる、悠ちゃん、悠ちゃんって、裏のほうまで呼んでまわったこともあったわね",
"もうそんな話はいいや"
],
[
"いやあねえ悠ちゃんたら、まるで取って付けたみたいじゃないの、ふだんすばしっこいくせにそんなことは気が利かないのね",
"黙ってろ、うるせえ、こっちあお祖父さんから云いつかってるんだ、さあ坐んなよ、母ちゃん",
"勿体ない、よして下さいよ、肩が曲るわ",
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"こうすると男親ってものは分の悪いもんだな、二人でそうやっておふくろのおっ取りっこをして、いってえおらあどうなるんだ"
],
[
"三十人扶持の飼殺しか、くそうくらえ",
"どうしたの悠ちゃん、なにをそんなに苛々しているのよ、なにかあったの",
"うるせえ、おめえなんぞの知ったこっちゃあねえ",
"だって心配じゃないの、お酒ばかり飲んでるし、しじゅうじりじりしているし、お屋敷へは帰らないし、母ちゃんだってお父つぁんだって気を揉んでるわよ、ねえ、――云ってよ、なにか心配なことでもできたの、悠ちゃん",
"うるせえってんだ、いいから黙ってほっといて呉れ"
],
[
"どうしたっていうの、いったいなにがあったの、悠ちゃん、あんた勘当なんかされちゃってどうするのよ、お願いだから謝って頂戴、すぐいって謝って頂戴、このとおりよ悠ちゃん",
"泣くこたあねえ、覚悟のうえなんだ",
"そんなこと云ったって、お家を出されてこれからどうするのよ、ねえ、あたしのお願いだから謝って頂戴",
"ほっといて呉れ、おれのこたあおれがするよ",
"それじゃ済まないから云うんじゃないの、そんなことしたら苦労するばかりじゃないの"
],
[
"侍なんてあんなものよ、あいつはとんだ出世をしやあがった、もうおれなんぞに用なんかありゃしねえ、あいつのことなんざ忘れるがいいんだ",
"だってあんなに仲がよかったのに……"
],
[
"でもあんたのせっかちと、わる悪戯だけはごめんだわね、年じゅう泥んこの瘤だらけ傷だらけ、出れば喧嘩というのもまっぴらだわ",
"自分の玩具だと思ってやがる、世話あねえや"
],
[
"辞儀はぬきにしよう、久方ぶりだった",
"御堅固におわしまして、……"
],
[
"おまえおれに肚を立てたろうな、無情な主人だと怨んだであろうな、――あれほど約束したことを、いよいよの時になって反故にし、あるかなきかのように扱った、怨むのが当然だ、もしおれがおまえの立場だったとしても、きっと肚を立てずにはいなかったと思う",
"正直に申上げます、御意のとおりでございました"
],
[
"おれのと、おまえのと、毎年二本ずつ、あれからずっと、欠かさず植えてきた",
"――――",
"夏になって、実が生ると、おれは独りで此処へ来て、おまえに呼びかけながら、この実を摘んで喰べた――この実で酒を醸して、おまえに呼びかけながら、更けた寝所で独りそっと飲む癖もついた、おまえはいつもおれの側にいたのだ、わかるか、悠二郎"
],
[
"みろ、こんなに生ってる、久しぶりでいっしょに摘んで喰べよう、泣くのはよせ",
"もう泣いてはおりません",
"おれはこの木、おまえはそれだぞ",
"先刻のが桑の酒でございますか",
"帰りに持ってゆくがいい、ひと瓶わけてある"
],
[
"おれのほうのことは聞いたか",
"お世継ぎと姫さま、お三人儲けられたうえ、名君という御評判をうかがいました",
"悠二郎は子供は何人ある",
"男一人に女二人でございます",
"おみつとは相変らず喧嘩をするのか"
],
[
"舟宿の亭主も悪くはないだろう",
"残念ながらそのようでございます"
],
[
"これからは時々来るがいい",
"舟仙へもおいで下さるときがまいりましょうか"
],
[
"うんゆこう、いつか、もっとさきになって身に暇が出来たら、――おれは長命するぞ悠二郎",
"私がそう申上げた筈です",
"それよりもっとだ、勘右衛門よりなが生きをする、――聞えるか、おれは八十まで生きるつもりだぞ、聞いているのか、悠二郎"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1949(昭和24)年11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057621",
"作品名": "桑の木物語",
"作品名読み": "くわのきものがたり",
"ソート用読み": "くわのきものかたり",
"副題": "",
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"原題": "",
"初出": "「キング」大日本雄辯會講談社、1949(昭和24)年11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-05-09T00:00:00",
"最終更新日": "2020-04-28T00:00:00",
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} |
[
[
"大層お急ぎの様子ですからどうぞ",
"誰から?",
"お名前を仰有いません"
],
[
"五郎か、日東劇場の地下食堂へ、午後五時に来い。重大な話がある",
"君は誰さ、橋本か――?",
"午後五時だぞ。忘れるな",
"もしもし、誰さ君は、何の用が……"
],
[
"誰からの電話だ",
"なに悪戯ですよ。橋本の奴が担ごうとしているんです。それより今の話の続きをやって下さい",
"少し疲れたからまたこの次にしよう、今日は是でおしまいだ"
],
[
"有難う、誰から?……",
"名前を仰有いません、男の声です",
"男の声? ――厭あね"
],
[
"少し遅過ぎるな。お饒舌りをしているので、時間のたつのも知らんのだろう",
"僕ちょっと電話をかけてみましょう"
],
[
"父さん、野河さんにはいませんよ",
"――いないッて?",
"野河さんでは一週間ほど前きたっきりだと云ってます。茉莉さんも今日学校で別れたきり会わないんですって"
],
[
"それから中野に聞いたんですが、出かける前に男の声で電話がかかってきたそうですよ",
"男の声だと、――?"
],
[
"どうしましょう",
"とにかく、もう少し待ってみよう"
],
[
"でも、なんとかしないと……",
"心配する必要はない。彼女も十六と云えば多少は物の分別もつく年頃だ。いまに何とか云って来るだろう。事情も分らぬうちに騒いだところで仕様がない。――寝よう"
],
[
"今日午後五時、日東劇場の地下食堂で待つ、大事件だ。必ず待っている",
"――あッ"
],
[
"もしもし君は誰ですか、用事は",
"来ないと大変だ。待っている"
],
[
"あ、いまのは実弾だぞ",
"そうだ、実弾らしい",
"道化は死ぬぞ"
],
[
"確りして下さい、約束を忘れたのですか、兄さん、兄さん‼",
"五……郎"
],
[
"道化の死体を解剖して下さい。重大な秘密が隠されてある筈です",
"死体に? ……重大な秘密だって?",
"すぐにやって下さい。それが説明になるでしょう。僕は父を迎えに行って来ます。――むろんこいつらは一人も逃さぬように!"
],
[
"ありましたか",
"解剖したら死体の胃からすばらしい物が出てきた。見給えこれを――みんな要港地帯の機密写真だ。防空設備を写したやつもある。超小型カメラで撮ったフィルム、合計七十三枚。みんな国防上の重大なものばかりだ"
],
[
"それから手紙がある。読んでみたらゆき子さんが日東劇場の地下室に監禁されていると書いてあったから、いま救い出しに人をやったところだ",
"見せて下さい"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年夏期増刊号
初出:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年夏期増刊号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「拳銃」に対するルビの「ピストル」と「コルト」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "059101",
"作品名": "劇団「笑う妖魔」",
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[
[
"そういう本もしらべてみたのか",
"いや、本は一冊もなかった、これを見るのはいまが初めてだ"
],
[
"なかったと思うが、――わからない",
"わからないって"
],
[
"膝枕をしていらっしゃるのよ",
"いいからはなれてくれ"
],
[
"男ですって",
"男ができて、それといっしょになるために苦労したんじゃないのか"
],
[
"そんなこと話したかしら",
"とっときのおのろけじゃないの"
],
[
"それは本気だったからよ",
"本気だと辛くなるの",
"本気で恋をすると、まわりの人たちのことも本気に考えるからでしょ、あんたもそういうときになればきっとわかるわ"
],
[
"みぬけなければめくらだ",
"憎まれ口はうまいな"
],
[
"岡本の手紙を読んでみろ",
"あいつは世話をやきすぎる",
"おまえはいやな人間になった"
],
[
"そんな我儘がとおると思うか",
"丹野が気にすることはないさ"
],
[
"灸寺がどうしたんだ",
"たみを呼び戻し、灸寺へゆくと聞いた、これは誤伝か",
"いや、そのとおりだ",
"おれの手紙では満足できないのか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「文藝春秋」文藝春秋新社
1958(昭和33)年11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057591",
"作品名": "古今集巻之五",
"作品名読み": "こきんしゅうまきのご",
"ソート用読み": "こきんしゆうまきのこ",
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"原題": "",
"初出": "「文藝春秋」文藝春秋新社、1958(昭和33)年11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2021-09-14T00:00:00",
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} |
[
[
"今夜はもう少し残ることにします",
"いいえ、却ってお父つぁんが気をもむから、いつもどおりにしたほうがいいわ"
],
[
"横山さんを呼んで来ましょう",
"いや、それも明日でいい、いま呼んだところで、医者にもどうしようもない、じっとしているほかに手はないんだから"
],
[
"私は寮などへゆかない、そんなことをしなくとも大丈夫だ",
"だってお父つぁん"
],
[
"嬉しい、ほんとね",
"断わっておくけれど、あんたの考えているとおりになるかどうかは、あたしにも保証できないことよ",
"ほんとに来て下さるわね"
],
[
"留守って、どういうこと",
"江ノ島へいらしったんですって"
],
[
"私は千両にするつもりだったが、八百七十両にしかならなかった",
"どうしてそんな話をするの"
],
[
"いいえ咲いているわ、すぐにいって買って来ましょう",
"買うのか"
],
[
"二階の桐を御存じですね",
"左の端だったかしら"
],
[
"幾日ぐらい待つんですか",
"おっ母さんが帰るまでよ",
"もしもおかみさんが帰らなかったら"
],
[
"だってお父つぁんそれはむりよ",
"いや、戸板に乗せてでも伴れていってくれ、どうしてもひと言、あれに云ってやりたいことがあるんだ、これを云わずには死にきれない、たのむ、おしの"
],
[
"だって暖まっておかなければ帰りが寒いことよ",
"あら、あたし泊っていくのよ"
],
[
"あの人には暇をやりました",
"暇をやったって"
],
[
"だってまさやがいなくってどうするのよ",
"おまさの代りくらいあたしにだってできるわ"
],
[
"あんたがしつっこく云うからよ",
"ちゃんと約束したのにお父つぁんが危篤だっていうのに、おっ母さんはあんな子供のような人を伴れて、箱根へ遊びにいったんじゃないの"
],
[
"あたしがなにをごまかすの",
"おっ母さんは遊びやたのしみが好きなだけよ、芝居へ入り浸ったり、芸事に夢中になったりするだけじゃなかった、茶屋へ役者や芸人を呼んで、ちやほやされながら、飲んだり喰べたりするのが好きなんじゃないの、愛情がどうのこうのなんてごまかしよ"
],
[
"そんな云い訳は聞きたくもないわ",
"この人は赤の他人だったのよ"
],
[
"それから五月まで月に一度か二度、夏のうちは音沙汰なしで今月はもう十月、もうすぐ一年になるんですよ",
"また年を一つとるのね、いやだこと",
"おりうさん"
],
[
"そんなふうにからむんなら、あたし帰るわ",
"図星というわけですか"
],
[
"あたしも御飯なんか炊けやしないわ",
"おりうさんにそんなことをさせるもんか"
],
[
"おめえ誰だ、松公か",
"まあいいや、うちへいこう"
],
[
"そりゃあよかった",
"合の手ぴったりだ、こっちは別れ話をどう切りだしたらいいかと、迷ってたところなんだ"
],
[
"もういちど横っ面を張るか",
"とんでもねえ、ありゃあおれのしくじりだ、勘弁してくれって云ったじゃあねえか",
"もういちどやる気はねえか"
],
[
"むさし屋の人もごひいきだけだったの",
"少なくとも、おりうさんを知るまえのことです"
],
[
"あたしが死ぬのを止めないと云ったね",
"おれはでかける、履物を出せ"
],
[
"今日が二十一日だ",
"二十日ですよ"
],
[
"いま云ったじゃないの、酒屋がうるさく催促するからって",
"それはいつの勘定だ",
"先々月からのよ"
],
[
"あら嘘よ、そのこと話したでしょ",
"そのこととはなんだ"
],
[
"おまえ酔いすぎてるぞ",
"だからどうだっていうの"
],
[
"あたし下へゆきますよ、お客さまが待っていますからね、ああ、それから酒屋へやる三両はどうして下さるの",
"そんな金はない",
"料理屋が酒を止められてもいいんですか",
"酒屋はほかに幾らでもあるだろう"
],
[
"あたしの頂く分はどうなるんです",
"それはこの次に話そう",
"播磨屋へ入れるお金は",
"明日にでも来るから、そのときなんとかしよう"
],
[
"約束した物――",
"貸金の証文、みんな持って来てみせるって約束なすったでしょ",
"ああそうか"
],
[
"二階へいらっしゃるんですか",
"いらっしゃるかって、――呼びに来たんじゃあないのか"
],
[
"あのお嬢さんに叱られますよ",
"あれは魔性のものだ"
],
[
"あのとおりの縹緻で、金がふんだんにあって、おまけに触れなば落ちんという風情でもちかけられるんだ、これでのぼせあがらなければ男じゃあない、そうだろう",
"なんだか化かされてるみたような、いっそきみの悪い話じゃあありませんか"
],
[
"おれがなにか云ったか",
"いまおみのって仰しゃったでしょ"
],
[
"あっちで酒を飲んでいますわ",
"あげたのか"
],
[
"しかしそいつらは",
"盃をお持ちになって、そんなにびくびくすることはないでしょ"
],
[
"わかりました、これからは充分に気をつけます",
"女中を呼んでどうなさるんですか"
],
[
"三人の話ではあなた泥まみれになったんですって、頭から顔、手足まですっかり泥まみれになって、眼鼻の区別もつかなかったって云ってましたわ、もちろん嘘でしょうけれどね",
"あいつらと、話したんですか",
"あたしが出なければここへ踏み込んで来るって云うんですもの、しかたがないから向うへいって、酒の支度をしてなだめて来たんですわ"
],
[
"私のほうとは",
"先生のごしょうばいのほうよ"
],
[
"はい知ってます",
"そしてね、買って来たら向うの離れへ来て、そっとあたしを呼びだしておくれ、用は云わずにただ呼ぶの、わかったわね",
"はい、わかりました"
],
[
"こんどこそ、本気にしますよ",
"ではいままでは、本気じゃなかったんですか"
],
[
"証文はみせて頂いたわ、そのほかにもう一つだけ、うかがいたいことがあるの",
"やれやれ、まだなにかあるんですか"
],
[
"あたしこのまえ、先生のことがすっかり知りたいって、云ったでしょ",
"もう洗いざらい知ってるくせに",
"まだ知りたいことがたくさんあるの、先生がどうしてそう女にもてるのか、先生のために死んだ人もいるそうだし、むさし屋のおかみさんは御主人をよそにして、先生にすっかり身揚りをしたって、なぜみんなをそんなに夢中にさせることができるのか、今夜うかがっておきたいのよ",
"それは口で云わなくっても、もうすぐ貴女自身で知ることができますよ"
],
[
"そのかみさんは首を吊って死んだ",
"まあ可哀そうに",
"そう思うでしょう、当人以外はみんな可哀そうにと思うだろうが、本当のところそのかみさんは満足して死んだんですよ",
"どうしてわかるの"
],
[
"そのとき死ぬつもりだったんですね",
"それから十日ばかり経ってからです"
],
[
"私が、――悪かったって",
"人間一人が死んだのよ"
],
[
"では悪いとは思わないんですか",
"むしろ慈善をしたと云いたいくらいです、貴女にもやがてわかるでしょうがね"
],
[
"悪い人だったんですか",
"そう云えば云えるような人なんだ"
],
[
"そうして、その、お婿さんのことを、二人で笑っていたのね",
"笑われるより笑えというでしょう",
"ではその二人が亡くなったから、いまは先生お一人で笑う番ね",
"それは済んだことさ",
"あたし先生の笑うのが見たいわ"
],
[
"はい、お酌、――召し上れ",
"もういい、もうよしにします",
"あら、いくじのないこと"
],
[
"放して、乱暴なことは嫌いよ",
"じゃあ隣りへいきますか"
],
[
"だめ、着替えてから",
"そのまえに、ちょっと"
],
[
"ええ、いそがしかったもので、つい",
"誰か町役を呼んで来てくれ"
],
[
"はい、『岡田』ではつるといってますが、本名ははな、年は二十六でございます",
"手短かに話してくれ",
"このうちに妹が奉公しているもんですから、今日はあたしの休み番なもので、ちょっと用もあって遊びに来たんです、妹はここではお初と云ってますけれど、本名は",
"肝心な話だけ聞こう"
],
[
"間違いはないな",
"慥かですとも、あのときのおりうという女に間違いはありません、あたしは証人になってもようございます"
],
[
"上総屋の七造から知らせがあったのでとんで来たんだが、あらましのことはそのほうも聞いているだろう",
"はい、お新と二人から聞きましたので、すぐ上総屋の親分へお知らせにあがりました"
],
[
"まずところと名を聞こう",
"住居は湯島横町、名は倫と申します",
"親がかりか"
],
[
"年は幾つになる",
"二十歳になります"
],
[
"親には知れないようにしてやる、尤も、云えなければむりに云わなくともいいんだ",
"家は日本橋石町で、伊勢屋という紙問屋をしております"
],
[
"ここを出るって",
"あんなことがあったから気持が悪いの、あたしのうちへいきましょう",
"それは有難いが、本当だろうね"
],
[
"うるせえ、帰れと云ったら帰れ",
"云われるのが怖いんですか"
],
[
"そうじゃないわ、さっき小幾ちゃんが、あの辺には悪い鼬がいるって聞いたとき、あたしぞうっとそうけ立ったわ",
"悪い鼬じゃなくってよ、あの辺にもそんな気のきいた鼬がいるかって"
],
[
"いいえ、なにも仰しゃいませんでした",
"手紙はあるか"
],
[
"どうしましょう",
"おまえはもういい、おれは瓦町を覗いてみよう"
],
[
"目明しの上総屋さんでございますね",
"そうだ、心配することはないから、必ず顔を出すようにと云ってくれ"
],
[
"骨になるほど焼けることがあるだろうか",
"油のためだったと思う、現場はひどく油臭かったし、納戸に燈油がだいぶしまってあったようだ、しょうばいは薬種問屋だが、油屋も兼業していたからね"
],
[
"やっぱり、そうか",
"兇器は例の釵で心臓を一と突きだそうです"
],
[
"芸妓衆もいたでしょ",
"友達のいろさ"
],
[
"覚えがあるんだね",
"初めてだからのぼせあがってしまったんじゃありませんか、覚えがあればこんな悪性な方になんか惚れるもんですか"
],
[
"あなたにはおわかりにならないのよ",
"私とおまえは男と女なんだよ"
],
[
"いまあの、たずねてみえた方があるんですけれど",
"お客さまなの"
],
[
"いや、私はこのうちは知らないんだ、私は初めて来たんだから",
"そんならあの方だって初めてじゃありませんか、それとも旦那のほかに、こんなところで浮気をなさるような"
],
[
"あたしも女だからよ、女同士であんたの苦労がよくわかるし、このお金はあたしには要らないからよ",
"あなたはあたしを"
],
[
"道ばたですれちがっただけの者よ",
"でもそれではわたしの気が済みませんもの"
],
[
"あの男が勘づいたようですぜ",
"勘づいたって、なにを",
"墓を掘り返して骨をしらべたそうです",
"なんのことよ、それ"
],
[
"船宿ですね、ええ知ってます",
"これからあそこへいっていてちょうだい",
"どうするんです"
],
[
"もうよして、よしてちょうだい",
"ええよします、よしますけれど一つだけうかがわせて下さい",
"いいえよして、それは云えないの"
],
[
"川へ出ると冷えます、寒さ凌ぎに一ついかがですか",
"さっきの話のあとを聞くわ"
],
[
"そうかしら",
"そうかしらって、――現におめえが、自分一人でやったことを知ってるじゃねえか"
],
[
"いろいろ考えて、考えくたびれたところなんです",
"私たちのことをかい"
],
[
"いま初めてじゃありません、あなたと逢うようになってから別れたあとはいつでもそのことが胸に閊えて、独りで寝ながらどんなに苦しかったかしれやしません",
"だってそれは、そんなことはよく承知の上の筈じゃないか",
"もちろん承知の上よ、だからこれまで一度だってこんなこと云ったためしはないでしょ、いまだってあなたを責めているわけじゃありません、悪いのはあたしですもの、ただこのごろ、ふっとすると淋しくなって、自分が可哀そうに思えてしかたがないんです"
],
[
"あたしの罪じゃありませんわ",
"まさか置いてきぼりとは知らないから、いい気になって飲みながら待っていた、女中の手前だって恥ずかしい、すっかり汗をかいちまったよ"
],
[
"そのとおりよ",
"男に妻子があるかないかはべつとして、いろごとというものはひょいとしたはずみでもできてしまう、算盤を置くように、末始終のことを計算したり、是非善悪のけじめをつけてから、さてそれでは、というようなもんじゃあない、男も人間だし女も人間だ、ばかなことをしたり思わぬ羽目を外したり、そのために泣いたり苦しんだりするのが、人間の人間らしいところじゃあないだろうか、いろごとでたのしむのは男だけじゃあない、女のほうが男の何十倍もたのしむという、だからこそ、前後の分別を忘れて男に身を任せるんじゃあないか"
],
[
"それはひどいよ、別れどきって云ったって、まだ一度も寝たことさえないじゃないか",
"だから今夜はその覚悟で来たって云ったでしょ",
"つまり、やっとのことで始まる、というわけじゃないか、半年の余も待ちに待って、ようやく望みがかなったと思うと、それっきりで別れるなんて罪だ、それはあんまりひどすぎるよ"
],
[
"立たせてちょうだい",
"酔っちまったね"
],
[
"どうして",
"いいからさ、ちょっとだけだから"
],
[
"おそのさんよりもきれい",
"おそのさんだって"
],
[
"むさし屋の、――おその",
"思いだして"
],
[
"いったい誰からそんなことを聞いたんだ",
"嘘か本当か知りたいの、おそのという人の産んだ娘の父親はあなただって、本当にそうなの",
"昔のことだって云ってるじゃないか"
],
[
"亀戸の寮で、焼け死んだんですって",
"そんなことまで知ってるのか"
],
[
"おまえ、――およねさん",
"あなたも聞いてるでしょ、十一月からこっち、市中の料理茶屋とか、宿屋とか、屋形船なんぞで、男が四人殺されたわね、――殺したのは十八、九になる女で、左の乳の下に平打の銀の釵が突き刺してあり、枕許にはいつも赤い山椿の花片が一枚落ちていた、そうでしょ"
],
[
"そのとき娘は、日ごろ薄情にされた恨みを云いたいのだろう、と思っただけでした、けれども、母を捜しているあいだに、母の男狂いを知りましたし、遠出遊びから帰って来た母を責めたとき、自分が不義の子だということをうちあけられたのです",
"そのときおそのという人は、中村菊太郎という子供役者といっしょで、御主人の死骸が隣り座敷にあるというのに、その菊太郎と平気で酒を飲んでいたんです、いい機嫌に酔って、死んだ人のことを平気で悪く云い、おまえの本当の父はこの人ではない、日本橋よろず町の丸梅の主人で源次郎という人だ、とうちあけたのです"
],
[
"それよりも、殺された四人のことが気にならないかしら",
"どういうわけで"
],
[
"酒で酔い潰れているところを焼き殺したんです",
"私を威かそうというんだな"
],
[
"私は、私は力ずくでも止めるぞ",
"やってみて下さい、一と声叫べば女中が来るでしょう、どうせ自首するんですから、町方を呼んでもらって、あなたの眼の前でお繩にかかりますよ"
],
[
"おれのせいじゃないさ、頼むから邪魔をしないでくれ、今日は師走の二十七日だぜ",
"話ぐらい聞いてくれてもいいだろう、じつはちょっと相談があるんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」新潮社
1981(昭和56)年10月25日発行
初出:「講談倶楽部」
1959(昭和34)年1月~9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2018年3月26日作成
2022年11月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品名": "五瓣の椿",
"作品名読み": "ごべんのつばき",
"ソート用読み": "こへんのつはき",
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} |
[
[
"お嫁にいって苦労することを考えると、本当にこういう暮しは女の天国ね",
"むずかしい良人の機嫌をとったり、舅や姑の小言にびくびくしたり、年じゅう休みなしに家事で追い廻されたりするなんて、想像するだけでもぞっとするわ",
"女が嫁にゆくということは、詰り自分と自分の一生を他人に呉れてしまうことなのね"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
1983(昭和58)年12月25日発行
初出:「サン写真新聞」サン写真新聞社
1948(昭和23)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品名": "柘榴",
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} |
[
[
"それも仕事だぜ",
"おら、思うんだが、水の中で袋を揉みながら、ときどき自分がやりきれなくなるよ、はたちにもなってこのざまかって"
],
[
"柳橋の料理屋だよ、すみよし、とくい先じゃあねえか",
"そうじゃあねえ、柳橋じゃあねえ、どこかよそで聞いたことがあるんだ"
],
[
"なんだ、あんなこと、つまらねえ",
"あたし初めて栄さんに会ったとき十三だったけれど、栄さんのこと怒りっぽいこわい人だなって、思ったのを覚えてるわ"
],
[
"似ているのは知ってるよ",
"似ているって、あたしじゃなく"
],
[
"そう、姉さんに傘を届けるところだったのよ",
"まだいるのか"
],
[
"抜くんじゃないの、自然と抜けるのよ",
"どうしてさ"
],
[
"あたし強いのよ",
"いいとも、もう一つ盃を持って来な"
],
[
"いつのことだ",
"このまえのとき、おめえが手洗いに立ったあとでよ"
],
[
"おめえだって雨に濡れてたぜ",
"おら、あのことは一生忘れねえが、伴れ戻される途中ずっと一つことを考えてた、おら、このままだときっと、栄ちゃんの厄介者になるだろうって、いつも栄ちゃんに面倒をかけて困らせるこったろうってな"
],
[
"嘘っぱちさ、きまってらあ",
"だって、去年から嫁にゆく約束が"
],
[
"話さなかったか",
"覚えがねえようだな"
],
[
"憎らしい、誰が飽きないのよ",
"師匠がね"
],
[
"五郎にさぶをつけてやる、おまえは少し休んでくれ",
"休むんですって"
],
[
"よかったらお店へいらっしゃいよ、親方もおかみさんも栄さんならいけないとは云わないでしょ、あたしがなんとかしてあげるわ",
"知ってるうちはちょっと気まずいな",
"なにが気まずいもんですか、こんなことはそう珍しくはないのよ"
],
[
"云わなかったわ、だって云おうったって云えることじゃないんですもの",
"いまなら話せるのか"
],
[
"そんなふうに聞えたら勘弁してくれ、そんなつもりで云ったんじゃあねえんだ",
"いや、あやまったりしないで、――たとえ嘘でもいい、栄さんがちょっとでも気にかけて下されば、あたしなによりうれしいのよ"
],
[
"としだって、幾つになるんだ",
"もうおばあさん、二十一よ"
],
[
"冗談にしないで聞けよ",
"冗談にしなければ角が立つのよ、栄さんだから云うけれど、あたしさぶちゃんはどうしても好きになれない、お客としてならよろこんでお相手をするわ、でも好きか嫌いかという段になれば、だめ、済みません堪忍してちょうだい",
"いいやつなんだがな、まじめに、本気でおのぶに惚れているんだが"
],
[
"いつか家出をしたい、なんて云ってたっけな",
"親が甲斐性なしで、子だくさんで、それも男のきょうだいはみな、ぐうたらべえ、姉さんとあたしと、下にいま十七になる妹があるんだけれど、この女きょうだい三人だけが苦労してきたし、これからも一生苦労しなければならないんです",
"姉さんはなんで死んだんだ"
],
[
"自分で思い当らねえか",
"じゃあ、ほんとになにかあったんですね"
],
[
"旦那の居間を知ってるか",
"客間からひと間おいた隣りでしょう"
],
[
"すると、あっしがその切をぬすんで、袋の中へ入れといたっていうんですか",
"小舟町の親方がゆうべ呼ばれて、これだけの話を聞いた、そして、よそへは決してもらさないが、出入りは止めると云われた"
],
[
"もうちっとだ、おめえ倒れちまうぜ、栄ちゃん",
"さぶだな、どうしたんだ"
],
[
"水が飲みてえ",
"その角を曲ればすみよしだ、もうちっとの辛抱だよ",
"だめだ、もうあるけねえ"
],
[
"さぶはどこにいる",
"仕事じゃないの、仕事が終りしだい戻って来るって、本町のお店とかへいったわ",
"おれも本町に用があるんだ"
],
[
"栄さんがこんなになるなんて、嫌いよ",
"だろうとも、てめえでもてめえが嫌いになった、勘弁してくれ",
"いったいどうしたっていうの、十五日の日に酔っぱらって、また来ると云って出てったっきり、からっ風に飛ばされた枯葉みたいに音沙汰なし、そのあげくさぶちゃんに背負われて来るなんて、あんまりだらしがないじゃないの、しっかりしてよ"
],
[
"眠んなさいよ、眠ってさめてっから話を聞くわ",
"眠れるもんか、こんな、――よせったら、のぶ公、おれの躯は本当に泥まみれなんだ、側へ寄っちゃあいけねえんだよ",
"なにが泥まみれよ、着物にちょっと土が付いただけじゃないの、ちゃんと払ってあるわよ",
"その泥じゃあねえ"
],
[
"僅か十一の子にか",
"六っていうやつ、ほら、このまえ話したでしょ、十五、六からぐれだしたあげく、しまいには女衒にまで成りさがっちゃったわ"
],
[
"風邪をひいたんじゃないの、くしゃみなんぞして",
"誰か来ているようだな"
],
[
"おすえちゃんは知らないんだ",
"あたし知ってます"
],
[
"さぶ、おめえに頼みがある",
"いいとも、なんでも云ってくれ"
],
[
"あれはもう済んだことじゃないか",
"あっしのほうは済んじゃあいません"
],
[
"番頭さんまでがあっしのしたことだと思ってるんですか",
"現におまえの道具袋にはいっていたし、みつけたのは旦那だ、ほかにどう考えようがあるんだね"
],
[
"私たちはあきんどで、吟味役人じゃあないがね、そういう場合にぬすんだ物をどう始末するかは、人によって違うんじゃないか、どっちにしろあの切がおまえの道具袋の中にあったのは間違いのないことなんだから",
"なにがどうあろうと、神かけてあっしのしたことじゃあねえんです、これにはなにかわけがあるに相違ねえんで、どうしても旦那に会ってうかがわなくっちゃあなりません、ぬすみをしたなんて云われちゃあこれからの一生、世間に顔向けがならなくなるんですから"
],
[
"外へ出ればわかるよ",
"おめえはなにか人違いをしているんだ"
],
[
"気にするな",
"名めえをきいてるんだ"
],
[
"よしゃあよかった、あんなことをしてもなんのたしにもなりゃあしねえ、あとで自分がいやになるばかりだ",
"だめだ、あっちへいけ、おらあ島ぬけをするんだ"
],
[
"いのちなんざ惜しかあねえや",
"おとよさんを松造に任せといてか"
],
[
"おれはお上の不浄な繩にかかった躯だ",
"栄さんの罪じゃないでしょ"
],
[
"こんなことを云うのも、つまり私が能のない年寄りで、半分死んだも同然だからでしょうがね",
"年寄りったって、まだ働きざかりじゃあないのかい"
],
[
"おらあこぶのようすをみてくる",
"こぶがどうした",
"油の壺を流されねえようにって、油部屋のほうへいった",
"よせ、あっちはまともに波をかぶってる、おめえがいったってどうなるもんか、野郎は大丈夫だ"
],
[
"それが六月限りで暇を出されたんですって、おまけに手紙一本でよ",
"誰から聞いた"
],
[
"あたしもそう思ったわ、それでいろいろきいてみたんだけれど、さぶちゃんにはなんにも思い当ることがないって云うの",
"あいつはてんで鈍いからな"
],
[
"そんなことわかってるわよ、あんたとさぶちゃんの仲ですもの、あんたが悪い気持でそんなことを云う筈がないじゃないの",
"そんならなにを怒ってるんだ"
],
[
"さぶちゃんが小舟町からなぜ暇を出されたか、あたし栄さんならすぐに思い当るとおもってたわ",
"のぶ公はどうなんだ"
],
[
"そして、――人を助けたんですって",
"助けようとして溺れ死んだんだ、おれは知らねえが幾人もそれを見た者がいる、――あの人でなしの六がだぜ"
],
[
"御用はそんなことですか",
"いけないか",
"私は風だの花の匂いなんかに用はありません、ほかに御用がなければ部屋へ帰ります"
],
[
"世の中ぜんたいのためだろうな",
"あなたはご存じないんです"
],
[
"ああ、おれなんざ心配してもらうこたあねえよ、おのぶちゃんがいい薬を教えてくれてね、腹くだしのほうなんだが、それが治ったら脚気のほうもおさまったよ",
"すみよしへいくのか"
],
[
"こっちの四つは、部屋の人たちにあげてくれってね、そういうことだったんだが",
"今日もすみよしから来たのか",
"おすえちゃんもいっしょなんだよ"
],
[
"その代り命びろいをしたと云ったろう",
"それにしたって、栄ちゃんが跛になるなんて、そんなことがあっていいだろうか"
],
[
"その話は、おすえちゃんから聞いてもらうほうがいいんだ、おれは口べただから",
"おめえはじれってえ男だな"
],
[
"そうすると、おすえちゃんのうちの近くに、裏長屋だけれど空いているうちがあって、店賃も安いもんだからそれを借りてね",
"じゃあ下谷金杉だな"
],
[
"それじゃあちっとばかり早かったかな",
"なにがだね"
],
[
"十日さ、明日が休みだからね",
"するともう五十五、六日になるんだな"
],
[
"そんなに云われるほどのもんじゃねえんだよ、部屋の人たちにほんのしるしと、あとはおすえちゃんが切った晒だけなんだ",
"断わっておくが、この足のことをきくのはごめんだぜ"
],
[
"すみよしへはいってるのか",
"ああ、ときたまだけれどな、こないだはおのぶちゃんが、またここへ会いに来たいって云ってたっけ",
"またおめえが唆したんだろう",
"そうじゃあねえ、唆しなんぞするもんか、おのぶちゃんは少し酔ってたから、酔ったまぎれに云ったのかもしれねえが、近いうち会いにいきたいって、二度も三度も云ってたんだ",
"おめえを煽ってるんだ、そいつは",
"煽るって、なにを",
"いつまでもはっきりしねえから、おれをだしに使っておめえにふんぎりをつけさせよう、っていうこんたんなのさ"
],
[
"どうして話をそらすんだ",
"忘れたのかい、あの人の歯のここんとこに",
"知ってるよ、八重歯はいつか抜けるもんなんだ",
"はたちまでにはって云ってたけれど、本当なんでたまげたよ、ちょうど十九の十月だったんだから"
],
[
"本気でって、なにかおれが",
"のぶ公がなにを云ったんだ、自分の気持を話したってのはどういうことなんだ"
],
[
"おのぶちゃんはまえっから、栄ちゃんのことが好きだった、って云ってた",
"酔ってたんだろう、あいつは酒にも強いが、酔うと口も強くなるんだ、心にもないことをわざと云い張ったり、思ってることの逆を云ったりする、酔っているのぶ公の云うことなんか本気にするやつがあるかい"
],
[
"冗談じゃあねえ、とんでもねえ",
"嘘だと思うんなら机の上を見てくれ、これを手本にした書き反故が溜ってるから"
],
[
"すっかり元気そうじゃないの",
"同じことばかり云うな、おちつけよ",
"太ったようね",
"足の話はごめんだぜ"
],
[
"そう肚がきまってるんなら、なにも困ることはないじゃないか",
"それがそういかないから、栄さんの知恵を借りに来たのよ"
],
[
"それはもう云ったわよ",
"そんならなにを困ることがある、さぶにけじめをくわせたとおり、はっきりいやだと云えばいいじゃねえか",
"それで済めば相談になんか来やあしないわよ"
],
[
"とびだせばいいだろう",
"と、栄さんは云うでしょ"
],
[
"ここでは博奕は御禁制だ、花札一枚でも許すことはならねえ、こっちへよこせ",
"これはあっしが、身銭を払って買ったもんですぜ"
],
[
"なんだ、坂本二丁目のうちとは",
"おれたちのうちさ、横丁の古い二戸建てなんだが、もと桶屋が住んでたんだって、仕事場に使える板の間があるんだ"
],
[
"よせよ、そんな古い話",
"おれが頑固に田舎へ帰るって云うと、栄ちゃんは雨の中をいつまでもついて来て、とうとうおれが店へ戻る、って云うまではなれなかった、――栄ちゃん、どういうわけであんなにまでしてくれたんだい、どうしてだい",
"そりゃあ、おめえが友達だからよ",
"ほかにも友達はいたぜ、店で仲がよかったのは五郎あにい、栄ちゃんのことをずいぶん可愛がっていたし、町内の菓子屋の清ちゃん、畳屋の増さん、みんな栄ちゃんと仲のいい友達だった、おらあその中でもいちばん能なしのぐずで、なんの取柄もねえ小僧だったんだ、そのおれをどうしてまた、あんなに親身になって心配してくれたんだい、どういうわけだい、栄ちゃん"
],
[
"それでその、経師屋の主人と話したんだが、栄ちゃんが芳古堂にいたって云うと、それならいい仕事があるから、ぜひやってもらいたいって云うんだ",
"おれはまだここから出られないんだ、諄いぞさぶ"
],
[
"自分のとしぐらいは知っているよ",
"それならそんなにあまったれるな、二十五といえばもう子供の一人や二人あってもいいとしごろだ、おれが側にいなければ心ぼそいなんて、そんなあまっちょろいことで世の中が渡ってゆけると思うのか"
],
[
"おめえいま博奕場と云ったが、博奕場とはどこのことだ",
"おらあいまこぶの話をしてるんだぜ",
"云ってみろ、博奕場とはどこのことだ"
],
[
"そんならあにいはどうする気だ",
"この寄場には役人がいる"
],
[
"万吉とはもと鳶職をしていた男か",
"ええ、喧嘩が自慢ですし、本当にやりかねないようすでした、あっしは相手が匕首を持っているからと、どうにか思い止まらせたんですが、そのまま万吉が手を束ねているかどうかはわかりません、それなら万吉のやるまえに自分がやろうと思ったんです"
],
[
"ここにいられないことは承知だろう",
"たいていのことは覚悟してます"
],
[
"私の一存でははからえないな",
"ぜひお願いします、みんなには口で云えない恩があるんです、別れにひと言だけ礼を云わせて下さい、お願いします"
],
[
"あたしは酒はだめなんだよ",
"まあいい、お別れだから受けてくれ"
],
[
"あら、まるっきり平左じゃないの",
"平左ってなんだ",
"平気の平左衛門、知らないの"
],
[
"そのくらいに片足を曳いてあるくなんて、粋なもんだわ",
"そういう褒めかたもあるか",
"嘘じゃない、ほんとよ、ねえおすえちゃん、あんたもそう思うでしょ"
],
[
"その話はこのつぎにするわ",
"片がついたのかどうか、それだけでも聞かせてくれないか"
],
[
"大丈夫でなくったって、どうしようもないさ",
"おら思うんだが、その徳っていう男を、なんとかできねえもんかな"
],
[
"べつになるって",
"この間取りで三人はむりだ、そう思ったから金杉町のもとの長屋に手が打ってあるんだ"
],
[
"これだけを独りでやったのか",
"そうじゃねえ、奥のほうはおすえちゃんと二人で揃えたんだ",
"よくそんな金があったな"
],
[
"それよりおらのうちへ寄ろう",
"――おまえのうちだって"
],
[
"うろこ崩しの袷があったろう、おれはあのほうが好きだがな",
"あれは隣りのおぶんさんにあげました",
"隣りのおぶんさんって"
],
[
"つまりそれを手伝おうってわけか",
"いけないかしら"
],
[
"もううかがいました",
"一文も持ってねえんだぜ"
],
[
"首でも縊ろうかってときに、夫婦喧嘩ができるかい",
"なんのこと、それは"
],
[
"初めからそのつもりだったんでしょ",
"腕はどうにか元へ戻った、いまならたいていな仕事はやれると思うんだ",
"けれども仕事がない、っていうのね"
],
[
"百里さきだって驚きゃあしないが、話があんまり急のことなんで、まだ本当のことのように思えないんだ",
"栄さんには急な話でも、さぬき屋さんはもう五日も捜してたのよ"
],
[
"酌をするよ、おかげで仕事にありついたんだからな",
"それで思い出したわ"
],
[
"栄さんはさっき、さぶちゃんが日稼ぎをすることや、女房に稼がせることがどうとかって云ったわね",
"よせよ、からむのはまだ早いぜ"
],
[
"さぶの仕込んだ糊は、決して誰にもひけはとらない、芳古堂でも右に出る者はなかった筈だ",
"まえから栄さんはよくそう云ってたわ"
],
[
"それで、下見にはいつでかけるの",
"明日だ、明日の暗いうちに立つとしよう",
"江ノ島って遠いんでしょ",
"初めてだからわからないが、箱根よりこっちなことは慥かだ"
],
[
"ここへ来たのか",
"あたしがいったんです、あんたが湯へいったままあんまり帰りがおそいので、さぶちゃんのところにでもいってるかと思って、金杉までいってみたんです"
],
[
"それを云われると困るんだ",
"ほかのことは云わねえ、おめえが病気になって、養生に帰ったときのことだけでもたくさんだ、痩せこけて、足だけ倍にもむくんでる病人を、物置小屋に放り込んだうえ、のら働きまでさせたっていうじゃないか、他人ならまだしも、それが血肉を分けた親きょうだいのすることか、その中にはおふくろもいたんだろう、そのおふくろが病気だって、へ、いまになっておふくろだなんて、そんなことの云えた義理じゃあねえ筈だ"
],
[
"葛西へいくんだろう",
"いかしてくれるか"
],
[
"それでもさ、もし栄ちゃんが、おらとおせえちゃんをいっしょにするつもりなら、それは考え違いだぜ",
"相手はまだ子供だって云うんだろう、いいよ、この話はあとのことにするよ"
],
[
"どうしてそれがわかったんですか",
"ここから出た者は、町奉行の同心が一年のあいだ監視するのだ、もちろん当人にも近所の者にも気づかれないようにな"
],
[
"さぶちゃんがあんたのために、人なみ以上のことをしたからって、それであの人を疑うなんてあんたらしくないことだわ",
"そんなら、ここに書いてあるこの、この文句はどうとったらいいんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」新潮社
1981(昭和56)年12月25日発行
初出:「週刊朝日」
1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「隣」と「隣り」、「微笑」と「頬笑」の混在は、底本通りです。
※「水洟」に対するルビの「みずはな」と「みずばな」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「さぶ」新潮ポケット・ライブラリ、新潮社、1963年8月10日発行の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:砂場清隆
2019年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057624",
"作品名": "さぶ",
"作品名読み": "さぶ",
"ソート用読み": "さふ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-01-11T00:00:00",
"最終更新日": "2019-12-27T00:00:00",
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"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年12月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年12月25日",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年12月25日",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "砂場清隆",
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[
[
"どうするの、お父つぁん、夜釣りにゆくんならお弁当のしたくをするけれど",
"――時三はあした休みじゃあないのか",
"いやよ、あしたは六間堀へ菊見にゆくんですもの、釣りになんぞさそいだしちゃだめよ",
"――まるっきり独り占めだ",
"いいじゃないの夫婦ですもの、お父つぁんの御亭主じゃあるまいし、……その代り今夜はおいしい物をおごってあげるわ、お父つぁんの大好きなおいしい物、ね、いいでしょ"
],
[
"あたしこのごろ死ぬのがこわくてしようがないの、ねえ、あんたそう思わなくって",
"――躯のぐあいでも悪いのか",
"そうじゃないの、死ねばあんたと別れ別れにならなくちゃならない、顔も見られないし話もできなくなるわ、そう思うと死ぬのがこわくてこわくて、胸のここらへんに固い石のような物が詰ってくるのよ",
"――だっていつかは、……そいつばかりはしようがないだろう",
"だからそう思うの、いつかは死ぬんだから、せめて生きているあいだ、生きてこうしているあいだだけは、紙一重の隙もない夫婦でくらしたい、これまでのどの御夫婦にもできなかったくらいに、……あたしあんたにできるだけのことをするわ、ねえ"
],
[
"身も心もあんたの思いのままよ、あんたのためならどんなことでもしてあげてよ、ねえ、だからあんたもいつまでも変らないであたしを可愛がってね、よそのひとに気をひかれたり、あたしに隠れて浮気なんか決してしないでね、ねえ、よくって",
"――私にはそんなはたらきはないらしい、だいいち先方で相手にしないよ",
"うそうそ、あんたにはおんな好きのするところがあるわ、あんたを見ているとなにか世話をしたくなるの、男ぶりだけじゃなくひとがらがそうなんだわ、おたみだってあんたを見るときの眼つきはべつなんだもの",
"――ばかなことを"
],
[
"あら本当よ、槇町にいたじぶんだって、近所の娘さんたちに騒がれたってこと知ってるわ、歌沢のお師匠さんのことだって、……いやよあたし、これからもしそんなことがあったらあたし生きちゃいないわ、ねえ、いいこと",
"――いったいどうしたんだ、今日は"
],
[
"――へんなことばかり云って、本当にどこかぐあいでも悪いんじゃないのか",
"ぐあいなんか悪くはないわ、それにちっともへんなことなんて云やしなくってよ、あんたにはあたしの気持がわからないからそんなふうに聞えるんだわ、そうよ、あたしのことなんて、……あんたはちっとも思って呉れてやしないんだわ",
"ばかなことばかり云って、わけがわからない"
],
[
"へんねえ、なんだかへんだわ、まさかと思うけれど……どうしたのかしら",
"へんなことはないさ、おまえは私のこともしなくちゃあならないし、おたみならかかりっきりになれるからさ、……動けない病人には看病の手の替ることがいちばんいやなものらしいよ",
"それはそうかもしれないけれど、でも……"
],
[
"いいじゃないか、お父つぁんが気にいってるんだから、おたみだっていやいやしているんじゃあないし、気を揉むことはないじゃないか",
"あたしってやきもちやきなのかしら",
"あっさりしているほうじゃあなさそうだな",
"――憎らしい、あんたのせいよ",
"またそれか、よく飽きないものさ",
"だって本当なんですもの、あんたといっしょになるまえには夢にもこんな気持は知らなかったわ、こんな気持って、……本当に自分でもいやよ"
],
[
"あんたなの、暗くってわからなかったわ",
"――どうしたんだ、そんなところで、……なにをしているんだ",
"ばかねえ、こんな時刻になにをするわけがないじゃないの"
],
[
"どうしたんでしょ、七年もいて家の者も同様にくらして来たのに、なにが気に障ってあんなふうに出ていったのかしら",
"――急に嫁のはなしでもあったんだろう"
],
[
"それにしてもへんねえ、あたし赤ちゃんが出来ない躯なのかしら",
"子供なんか急ぐことはないよ",
"だっていやなのよ、友達に会うときまってからかわれるんですもの、……あんまり仲がよすぎるんだとか、お迎えが激しすぎるんだとかって、ねえ、本当にそんなことってあるのかしら、仲がよすぎると、……あらいやだ、へんなこと云いだしちゃって、あたしどうかしてるわ",
"独りではしゃいで独りで赤くなってりゃあ世話あねえや",
"いいじゃないの、おたみがいなくなってから初めてしみじみした気持になれたんですもの、初めて夫婦さし向いって気持なんですもの、これで早く赤ちゃんが出来れば申し分ないんだけれど、……あたしどこか信心してみようかしら"
],
[
"この頃っていったって、うちじゃあいつも同じことよ、たいしたこともなしだわ",
"そんなこと云ってるからいけないんだ、あんたは旦つくに惚れちゃってるんだから、ねえいいこと、夫婦であろうとなんであろうと、男と女のあいだじゃ惚れたほうが負けよ、向うに惚れさせなきゃだめよ、……そりゃあ時さんはいい男でしょ、あたしだってちょいと浮気がしてみたくなるくらいだけど、だからよけい弱味を見せちゃいけないの、……それをあんたはあけっ放しなんだから、あけっ放しで惚れきってるからあんな事になるんだ、なによ、……相手が吉原とか柳橋あたりで、だれそれといわれる姐さんならともかく、女中に亭主をとられるなんて女の恥じゃないの"
],
[
"おまけにお孝さんときたら、あとから着物や、小箪笥なんぞ買って、お金まで付けて遣ったというじゃないの、いまに赤んぼが生れたら引取って育てるなんて云うんでしょ、あたしだったらおたみなんかびりびりにひっちゃぶいてやるわ、しっかりしなさいよお孝さん",
"――おたみって、おたみがなにか……",
"あたしに隠してどうするの、おたみを世話したのはあたしじゃないの、あたしお孝さんに申しわけがなくって、だからよけい肚が立って、南千住までいってそ云ってやったわ、……もう決して若旦那には会いません、赤ちゃんを産んだら田舎へひっこんでくらしますって、……神妙な顔で泣いてたけど、心のなかでなにを考えてるか知れたもんじゃないわ、いつも云ってるでしょ、旦つくにはがっちり轡を噛ませて、手綱をぎゅうきゅう緊めていなければいけないって、……あんたは甘いから……"
],
[
"――済まない、勘弁して呉れ",
"いいわよ勘弁して呉れなんて、いいのよそんなこと"
],
[
"本当のことがわかればいいの、それで、……おたみはいつごろお産するの",
"――今年の五月だったと思うが……",
"そう、五月ね、それを聞いておかなくっちゃあ、……だって知らん顔をしているわけにはいかないでしょ、お産するとなればいろいろ、……あたしとしたって、してあげなければならないことがあるし、……でもわかってよかったわ、あたしちっとも知らなかったんですもの、よっぽどばかでぬけてるのね",
"――お孝、おれが悪かった"
],
[
"――魔がさしたんだ、……まちがいだったんだ、本当に悪かった、勘弁して呉れ",
"いいわよ、もういいのよ、誰にだってまちがいということはあるわ、あたしだって、……あら、お父つぁんが呼んでるんじゃないかしら"
],
[
"――お孝、いったいどうしたんだ",
"あっちへ、……あっちへいって、……なんでもないの、あたしだいじょぶよ、……あっちへいって"
],
[
"こんな晩はあなごがくうんだがな、……しかし海ばかりやって来たから、今年はひとつ鮒をやってみようかと思う、……槇町じゃあ慥かそのほうの天狗だったな",
"親父のは口ばかりですよ、釣りにゆくんじゃなくって酒を飲みにゆくんですから",
"いや釣ったものをそこで作って飲むのが釣りの本味だというくらいなんだ、私は飲めないからだめだが……"
],
[
"むしむしして頭が痛いから、ちょっと川風に当りに来たんじゃないの",
"――お孝……"
],
[
"すぐ帰って呉れ、お父つぁんが悪くなったんだ、おれはこれから医者へいって来る",
"――お父つぁんが、どうしたんですって",
"また血を吐いたんだ、まえよりたくさん吐いた、すぐ帰って、濡れ手拭で胃のところを冷やしていて呉れ、医者を呼んで来るから",
"――お父つぁんが"
],
[
"お父つぁんどう、……苦しい、いまうちでお医者へいったからすぐ来るわ、少しの辛抱だからしっかりしててね",
"――大丈夫だ、もう苦しくはない"
],
[
"だっていま話なんかしちゃだめよ、お医者の来るまで静かにしていなくっちゃ",
"いや聞いて呉れ、いま話さなくっちゃあ話すときがないんだ、……私は、お孝、……おまえにも済まない、時三にも済まない、……いいか、うちあけて云うが、お孝、……おたみが産むのは私の子なんだ、時三のじゃあない、おたみはこの伊兵衛の子を産むんだ"
],
[
"時三は私を庇って呉れた、親の恥を身に衣て呉れたんだ、おたみにもそう云い含めたらしい、……おまえにも決して云うなと、あれは私にそう約束させた、……だから黙っていたんだ、けれど、もうこんどは私もいけないという気がする、このままでは死ねないからうちあけたんだ、お孝、……わかったか",
"――お父つぁん"
],
[
"たいへんだったわね、疲れたでしょ、なにもかもあんた一人にして貰って、……本当に悪かったわ、……ごめんなさいね",
"自分の親のことじゃないか、おまえに礼を云われることはないさ",
"お父つぁんうれしかったと思うわ、なんにも心残りはないし、こんなにして貰って、生みの子にだって出来ないことをして貰って、本当に安楽に死ねたと思うの",
"そんなことがあるもんか"
],
[
"私は心配のかけっ放しだった、これから少しは孝行のまねごともしようと思っていたんだ、……いま死なれちゃあどうしたって気持が済まない、おれは諦めきれないんだ",
"いいえそうじゃない、あたしみんな知ってるの、お父つぁんはあんたにお礼を云ってるわ、あたしだってどんなにうれしいかわからない、うれしくって、……どうお礼を云っていいかわからないわ"
],
[
"――みんな知ってるって、……いったい、なにを知ってるんだ",
"おたみの産む子が誰の子だかっていうこと、あの晩あんたがお医者へいったあとですっかり話して呉れたの、あんたがお父つぁんの恥を身に衣て、自分のまちがいのようにとりつくろって、おたみにまでそう云い含めて呉れたということをよ、……あたしばかだから、そうとは気がつかずにあんたを怨んだわ、苦しくって悲しくって、……生きているのが辛かったわ、……だからうれしかった、うれしくって、あんまりうれしくって、……もういつ死んでもいいと思ったわ",
"――お父つぁんが、そう云ったのか、お父つぁんが、おたみの産む子は、……お父つぁんの子だって",
"あんた、堪忍して"
],
[
"おたみが子を産んだら、うちへ引取って育てさせてね、……あんたには済まないけれど、あんたの子にして、……そうすれば、貰い子をすれば、子供が出来るというから、あたしにも赤ちゃんが出来るかもしれないわ",
"――もしおたみが放したらな",
"おたみはこれから嫁にゆく躯ですもの、わけを云えば放すわよ……ふふ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1950(昭和25)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2019年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057612",
"作品名": "寒橋",
"作品名読み": "さむはし",
"ソート用読み": "さむはし",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "「キング」大日本雄辯會講談社、1950(昭和25)年2月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2020-01-29T00:00:00",
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[
[
"主じはまだずぶ若え銀流しで、老いぼれた死っ損ないの下男に飯炊きのしわくちゃ婆あがいるばかり、ぐるりは痩っこけた松林にかじかんだ大根畑てえぐあいなんだ",
"ふん、よかりそだ、な"
],
[
"おほん、それは、たとえて云えばですね、――石山の石ですよ",
"杢は象徴派でいけねえ、だがそいつはちょっと食いつけるぜ、そうなんだ中将、石山に石のあるくれえたしかなんだ、……戎町に持木屋成助てえ両替店があるだろう、あれと西浜の来六屋出平てえ納屋貸(倉庫業)とは、佐貝へ来てあっという間に土蔵の三棟ずつもおっ建てた、出来分限の両親玉だあ、――いま云ったつんぼ井戸の向こうの銀流しめは、その持木屋成助んとこへ千両箱の二三十も預けてけつかる",
"信じられなければですねえ、中将"
],
[
"ひとつ晩になってその家の外へいってみるんですよ、そっとね、そして静かに聞いていればわかります、――お寺の十二刻ですよ",
"ほいそいつも食えるぞ、そうなんだ中将、金の音がしやあがる、毎晩だぜ、毎晩のように小判を数えてけつかるんだ",
"もわかた、でじょぶだ、こんやろ"
],
[
"それはここじゃない、係りが違う、ここへそんな事を訴訟して来たって、――まるで係りが違う、冗談じゃない、押込だなんて",
"ではどこへ、どこへお願いしたらいいんでしょう"
],
[
"もうこれで三度めなんです、みんな持っていかれてしまいます、どこへいったら助けてくださるでしょうか、お係りはどこでしょうか",
"そうさ、たしか、――広小路の札場だったかな",
"札場のお番所へはもうゆきました",
"それじゃ西浜かも知れない"
],
[
"米は一人につき一日一合という御禁令だ、ええか。五人家族なら五合だろう、さすれば一回量は一合六勺六分六厘六毛となる、ええか、しかるにこの釜の中らをみろ、この中らには三合以上あるぞ",
"なんとも申しわけございません"
],
[
"やどは大浜へ荷揚げに出ますし、十五に十三の食べ盛りを抱えて、一日五合では生きてゆくこともできませんので、ない中から物を売っては",
"黙れこやつ、きさま下民の分際で御政治を誹謗するか"
],
[
"どうだ、おれが死んでるか、ひっく、死人が歩いたり口をきいたり、ひっく、するかあー、おれは佐貝政所奉行役所の御役人だ、けれどもが、不正はしない、一日一合といえば、ありがたい、一日一合ですませる、嘘も隠しもない、神仏は、ひっく、すべて、へっく、これ見のがしだ、いや見透しだ。しかも生きてる、現の証拠だ、にもかかわらず下賤なうぬらが生きてるというのは怪しい、これはありえねえ、稀有だ、今そこにあるのは、ひっく、それあ水のような粥だろうさ、だが朝か、昼には、不正があるに違いねえ、佐貝政所奉行役所の御役人たるおれが、一日一合で生きてるのに、下賤なうぬらが一日一合で生きられる道理がねえ、神仏は、なにもかも、見透しだ、そんな、ひっく、理屈は通らねえ、米を出せ家捜しだぞ",
"うーん"
],
[
"寒かったろう御苦労だね、いま一杯つけさせるから飲んでておくれ、権、おまえその床几を下ろして、そう、隅のほうがいいね、――断わっておくがつぶれちゃあいけないよ、今夜は大事な頼みなんだから、いいかい",
"わかったよお杉の姐さん、だがいいのかい"
],
[
"あっちにだいぶ役人がいるようだぜ",
"役人だから安心じゃないか、例によって旦那衆の御招待さ、驚くにゃあ当たらないよ"
],
[
"幾ら御禁令を出しても守らん、他人の迷惑などそっちのけで、自分だけ腹の裂けるほど食い、隠れて酒を飲み、ぬけ買いをやる、しかもこそこそ御政治の悪口ばかり申す、こんなことでは佐貝の復興なぞ思いもよらん、実になんたる世相であるか",
"要するに人心の腐敗堕落ですな"
],
[
"これではだめです、まず準法の精神と社会道徳と良心を煥発しなければならない。酒が禁止されたら、うーい、断じて酒を飲まない、これが秩序ですからな、しかるに下民どもは、おい酒がないぞ、――下民どもは禁を犯して飲む、これでは秩序が乱れるのは当然です",
"手ぬるいんだよ"
],
[
"もっと絞め上げるんだ、ぎゅうぎゅうとね、下民どもにはその他に手はない",
"それでございます、もっと厳しくお取締りを願わぬといけません"
],
[
"貧民どもは夜にまぎれて濠を渡り、河内領へ米のぬけ買いにゆくそうです、なんでも当地の五分一ぐらいの安値だそうで、近ごろは私どもの裏口へ来る者がとんと少なくなりました、これでは商売のさきゆきが案じられてなりません",
"いやそれは綿も糸も呉服も太物も同じことです"
],
[
"なにしろみんな濠をぬけて外へ買いに出る、なんのためでしょう、――御禁令があればこそ手前どもではちゃんと裏口で商売をしております、それを高価すぎるとか物が悪いとかぬかす、たしかに三日ですり切れる綿布もあるでしょう、糸なんぞふけていて物が縫えないかも知れない、……だがそれだからってなんでしょう、品物は品物なんですから、綿布三尺なら三尺、糸ひと巻ならひと巻、品物はちゃんと渡すんですからな、また高価いと云ったって御禁制の品を裏で売ってやるんですから、高価いのは当然のことじゃありませんか、この理屈がわからないで、野良犬どもはよそへぬけ買いにゆく、彼らは御政治を嘲笑し私どもを破産させようとしているのです、この際どうしても",
"厳しいお取締りですな、もっと徹底的な"
],
[
"もし足りなければ集めることにいたしますが",
"少なくとも二十箱は必要だ、あと二十四五日あるから、食糧物資の統制をぐっと締めれば、法定備蓄量はそれでうくだろう、十日すれば肥後と庄内から米がつく、それとこれまでの蔵匿物をまとめてはたくんだ",
"田丸屋と折屋、この二人が難物ですな"
],
[
"お杉姐さんどうなすって、御前の御帰りですよ",
"わかったようるさいね"
],
[
"若旦那はどうしたか知らないかい",
"あら御存じなかったんですか、もうさっきお帰りになりましたわ"
],
[
"いま脇の木戸から奉行所の役人が出ていった、蓑賀参蔵という肥った侍だよ、木挽町の与力屋敷へ帰るんだからね、三人でいってしめておいで、今夜はたっぷり持っているはずだ、ぬかるんじゃないよ",
"合点です"
],
[
"やっぱり剥いでゆくほうがいいでしょう、ばか息子の放蕩ですよ",
"ほら始まった、どういうおちなんだそれは",
"つまりですね、裸になれば早く眼が覚める",
"違えねえ、そいつも食いつけらあ"
],
[
"この財布には百両ちかい金がへえってる、いいか、中将、杢も聞いてくれ、おれ達あなげえことお杉の姐さんの下で稼いだが、もうそろそろ一本立ちになってもいいころだ、大の男が三人で危ねえ橋を渡り、姐さん一人に八割も頭をはねられるんでは埋らねえ、どうだ、このへんで姐さんと手を切ろうじゃねえか",
"それがいな、もたくさだ、おれもめもおとこだ、てきろ、そのこた",
"私も賛成ですよ"
],
[
"やりましょう、それはですね、つまり",
"まあ象徴派は取っとけ、それより相談が定ったら宵の口の話をやっつけよう"
],
[
"例のつんぼ井戸の向こうの家よ、きっとまとまった金が握れるに違えねえ、そうしたらこの土地を売ろうじゃねえか",
"いかんげだ、すぎこすぎこ",
"杢もいいな、じゃ急ごうぜ、濠を越すんだ"
],
[
"相手はあの若僧ひとりあとは老いぼれの爺婆だけだ、こっちは大阪陣に抜刀斬込み隊で戦った豪傑だぞ、押し込もう",
"そだそだ、むずかしいことね、やっけろ"
],
[
"どっちへいっても土間ばかりありやがる、わけがわからねえ",
"よし、おれやてみる、わけねさ"
],
[
"この刀が見えねえか、あり金残らず出しあがれ、四の五のぬかすと命あねえぞ、やいどこにいる、出て来やあがれ",
"出て来なければ命はないですぞ、われわれは抜刀斬込み隊くずれ命知らずですぞ",
"やいふざけると承知しねえぞ、みな殺しだぞ"
],
[
"今夜はやめにして出直すとするか",
"それがい、もらつかれた"
],
[
"これはこれは玉村の若旦那ようこそ、昨夜はとうとう誰が袖へおみえになりませんでしたな",
"いったよ"
],
[
"それはいいが、合わせるとこれで五十箱になるね、持木屋、おまえ算盤は持ってるんだろうな",
"失礼ながら私も商売です、これだけの金を動かすのにめどのないところへ手は出しません、実申しますと、――いま云った奉行所の役人ですな、若旦那は恩人だから申し上げますが、蓑賀さんというこの役人と、納屋貸の来六屋、この三人でこしらえた仕事なんですが、底をばらせば二人には棒をかつがせるだけで、どたん場には私ひとりがさらってしまいます。五十箱の御出資に少なくとも二十箱の利はつけてお返し申しますよ",
"そんなことを云って、おれにも棒をかつがせるくちじゃあないのか",
"冗談じゃございません、商売は眼っぱりっこですが出資主は命の親です、かりにもそんなことをしたら持木屋は二度と世間へ出られなくなりますよ",
"世間へね"
],
[
"じゃあそれを信用して二十箱すぐ届けよう、だが合わせて五十箱となるとただじゃあいけない、十日期限で額面一万両の手形を五枚書いてくれ",
"手形でございますか",
"なにかたちだけだ、まるで形なしというわけにもいかないだろう、いやなら",
"とんでもない結構でございます"
],
[
"蓑賀さんと来六屋と持木屋、この三人は油断がならない、私どもでもそう見ていたのです、が、それについてなにかぬけ道がございますかな",
"いったい米はどのくらいあるんです"
],
[
"奉行所の掟で定められた貯蔵米の他に、いまある米はどのくらいです",
"さよう、正確なところはわかりませんが、およそ三千俵あまりでございますかな",
"じゃあ私がそれを買いましょう",
"あ、なた、が、――",
"私がね"
],
[
"なにか御用でございますか",
"倉は明いているかい"
],
[
"杢に中将、――どうしたんだい",
"へえ、これはどうも、姐さん",
"姐さんじゃないよ"
],
[
"三人はゆうべ出たっきり梨の飛礫だし、けさ聞けば蓑賀はたしかに剥がれてる、てっきり謀反気を起こしてずらかったと思うから、こっちは三人の名を番所へ訴えちまったよ、全体どうしたことなんだい",
"それがその、なんです"
],
[
"なにしろ狐に化かされちまったもんでして、実を云えば、ほしをつけた家があったんで、事のついでにそっちも稼いで、姐さんに喜んでもらおうと思ったんですよ、なあ杢",
"つまりですね"
],
[
"私たちとしてはですね、この、あれです",
"杢の謎々は結構だよ、それでほしをつけた家というのがどうしたのさ",
"ついそこなんで"
],
[
"ついそこの松林の中にある一軒家なんで、主じはまだずぶ若え銀流しですし、老いぼれた爺婆が二人いるだけで。しかも毎夜ちりちりと金を",
"ちょっとお待ち"
],
[
"それは大根畑の向こうに見えるあの家じゃないのかい",
"へえあの家なんで、ところが姐さん"
],
[
"三人の名はあたしが番所へ届けちまった、もうおまえ達は佐貝を売らなくちゃあならない、今夜もういちどおやり、あの家にゃあ金がうなってる、いまも来六屋から五千両届けて来た、今夜は褌をしめてひと稼ぎするんだ、そして土地を売るがいいね、さもなければ、――",
"だって姐さん、あの家はもう",
"抜刀斬込み隊の意気でおやり"
],
[
"それおはこが出た、そのおちは杢なんとつくんだ",
"遠慮なくはたるというわけです",
"うん悪くはねえ、ひとつその意気で踏ん込もうぜ"
],
[
"やいそこな男、おれたちは大阪陣で抜刀斬込み隊と怖れられた命知らずの生残りだ、有金そっくり出してしまえ、四の五のぬかすとぶった斬るぞ",
"やあ、――"
],
[
"たいそう元気ですな、なにか御用ですか",
"おちついたことを云やあがる、うむ、これを見ろ"
],
[
"それはすごそうですね、ひとつお手並みを見せてもらいましょう",
"だから云ってるじゃあねえか、今は抜けねえんだ、それになるべくなら手荒いまねはしたかあねえ、さあ黙ってあり金を出してしまえ、じたばたすると"
],
[
"びくらした、あちあち、火だ",
"これはですね、つまりふきたての小判ですよ"
],
[
"おおおまえ持木屋、おまえなにか――",
"とにかくこれを見ていただきましょう"
],
[
"来六屋から私が五千両のかたに預かったのですが、日ごろの御恩返しにこれを御融通したいと思います、――これだけあればお間に合いになりますでしょう",
"それは間に合うが、しかしなにかその、これにはその、代償がなくてはなるまい"
],
[
"なあんですって、なんとおっしゃった",
"贋金です、皆さん調べてごらんなさい、これはくわせ物です、まっかな贋金ですぞ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「新読物」公友社
1948(昭和23)年5~6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057696",
"作品名": "三悪人物語",
"作品名読み": "さんあくにんものがたり",
"ソート用読み": "さんあくにんものかたり",
"副題": "忍術千一夜 第二話",
"副題読み": "にんじゅつせんいちや だいにわ",
"原題": "",
"初出": "「新読物」公友社、1948(昭和23)年5~6月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-06-11T00:00:00",
"最終更新日": "2022-05-27T00:00:00",
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"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年8月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年8月25日",
"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年4月25日3刷",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
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} |
[
[
"それはもう既決じゃあないのか",
"そうなんだ",
"なにか吟味に不審でもあるのか"
],
[
"あの娘は縹緻がよかったな",
"読んでみればわかる、これはまるで自分から罪を衣ようとしているようなものだ",
"おれに読ませるんじゃないだろうな"
],
[
"なにかわけがあるのか",
"それはあとで話す"
],
[
"本当のことを知りたいからだ",
"あたしはみんな申上げました",
"私は本当のことを知りたいんだ",
"あたしはすっかり申上げました"
],
[
"どうしてですか",
"どうしてかって",
"あたしは小森さんの旦那に残らず申上げましたし、卯之さんの下手人はあたしだって、ちゃんともうわかっているんですから、それでいい筈じゃないでしょうか"
],
[
"二人が乞食になってもか",
"乞食なんかになりゃしません",
"なぜだ、――"
],
[
"それも小森さんの旦那に云いました",
"私が聞きたいんだ",
"口書に書いてあるとおりです"
],
[
"誰が、誰がそんなことを云ったんですか",
"手籠にしようとしたのか"
],
[
"幾つだって",
"はたちだよ、十九の次の二十歳さ"
],
[
"そうらしいな",
"よけいなことを申上げるようですが、馴れた方にでもお命じなすったほうが御無事かと存じますが",
"なに、それほどのことでもないんだ"
],
[
"へえ、さようですか、私はちっとも存じませんな",
"なにしろ稼ぎに追われて、長屋のつきあいなんぞしている暇がねえもんだから、へえ",
"あっしは引越して来たばかりで、そういうことはまるっきりわかりません"
],
[
"この野郎をどう致しましょう",
"立てるようになったら帰らしてやれ",
"おっ放していいんですか"
],
[
"それはいつのことだ",
"五日まえだ"
],
[
"思えないね、そう思えないんだ",
"どうして"
],
[
"ことによると、五六日うちかもしれない、どうやらそんなような話だったよ",
"――慥かなんだな"
],
[
"うん、あれは暫く借りておけるかどうか、聞いておきたかったんだ",
"いいだろう、おれがうまくやっておくよ"
],
[
"――どうしてだ",
"どんなに旦那が仰しゃっても、みんなは決してお力にはなりません、たとえなにか知っているにしても、それを云う者は決してありゃあしませんから"
],
[
"いいえ、自分たちがなにを云ってもむだだ、ということをよく知っているからです",
"どうして、なにがむだなんだ"
],
[
"お父つぁんや直がどうかしたんですか",
"聞きたいか",
"旦那はお父つぁんや直にお会いになったんですか"
],
[
"まだって、――どういうわけですか",
"わからないのか"
],
[
"よそへだって、――",
"そうじゃないんですか"
],
[
"約束をしたんです、あの人は約束をしたんです",
"相模屋の清太郎か"
],
[
"もちろん親が逃がしたのさ",
"殺したのは、――",
"二人が逢曳をしているのを見たんだ"
],
[
"まいったのはもうわかった、盃を持てよ",
"まいったのがわかったって"
],
[
"こうなんだ",
"もう一つ、ぐっとやれよ"
],
[
"どうだかな",
"なにか不足があるのか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1954(昭和29)年10月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057619",
"作品名": "しじみ河岸",
"作品名読み": "しじみがし",
"ソート用読み": "ししみかし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1954(昭和29)年10月号",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-09-13T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年1月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年1月25日",
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} |
[
[
"いまどうしているか知らないか",
"このごろはどうしていらっしゃるか、多賀の宮の秋祭りにはきれいにおつくりをして、お姉さん達とお詣りにゆくのを見ました",
"出ていってから、いちどもここへは来なかったんだね",
"来たかったんでしょうけれどね"
],
[
"佐和山へ訴えるとでも云うのか",
"おばさんにこんなひどいことをしてきたのだもの、あなたが帰って来れば仕返しをされると思うに違いないわ、お直さんとのことだってこのままじゃすまないでしょう、だからきっと訴えるに違いなくってよ"
],
[
"そうかもしれない、しかしそうでないかもしれないよ",
"そうでないかもしれないって、なにか捕まらずにすむ仕方があるんですか"
],
[
"ことによると弥之さん捕まったのかもしれない",
"弥之助が捕まった",
"これだけつき添っておまえさんに出ろというのは、そのほかにわけのありようがない、もしそうだとしたら、はっきり断わっておくがお直とこの家との縁はもう切れているんだよ、一年まえにちゃんと縁が切ってあるんだからな、それを忘れちゃあ困るよ"
],
[
"良人たる弥之助の留守ちゅう、その承諾なしに妻を離縁するというのは不審に思うが",
"恐れながら弥之助は百姓の分際をもってさきごろの合戦に加わり、負けいくさになりまして厳しい御詮議のかかった者にござります、賊将の兵になるような者には親として娘をつかわしおくわけにはまいりません",
"賊将とはなに者をさすのだ"
],
[
"御詮議のかかっている人の母御のお世話するのは、御領主さまに申しわけがないとは存じましたけれど、考えてみればわたくしも同じ身の上でございますし、現にその日のことにも不自由しているのを見ましては、とても黙ってはいられなかったのでございます",
"しかしそのほうの家には田が八反余、弥之助方にも同じほどあったというではないか、それらの上がりがあれば、老母ひとりその日のたつきに困るはずはないだろう"
],
[
"なんてえ冷えだ、骨までみしみしいうわい、こんな日に出て来るなんてきっと仏さまの罰が当たるだ",
"もう鴨もおしめえだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「新読物」公友社
1947(昭和22)年3月号
※「燈火」に対するルビの「とうか」と「ともしび」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057629",
"作品名": "蜆谷",
"作品名読み": "しじみだに",
"ソート用読み": "ししみたに",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新読物」公友社 、1947(昭和22)年3月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-10-02T00:00:00",
"最終更新日": "2021-09-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57629.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年8月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年8月25日",
"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年4月25日3刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
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"底本出版社名2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57629_ruby_74162.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57629_74199.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"今しがた二俣城へまいった物見(斥候)がかえり、二俣もついに落城、甲州勢はいっきにこの浜松へおし寄せまいるとのことでござります",
"知っておる"
],
[
"それで御評定はきまったか",
"老臣がたは城へたてこもって防ぎ戦うがよろしいという御意見のようでござります。本多さま酒井さまはおし出して決戦すると仰せです",
"おん大将の御意はどうだ",
"まだなにごとも仰せられません、せんこくからあのとおり黙って評定をお聴きあそばしてござります"
],
[
"敵軍三万余騎、みかたは一万にたらず、城をいでて戦うはいかにも無謀血気のようであるが、このたびはただ勝つべきいくさではない。武田氏を攻防いく年をかさねて、今日までしだいに諸処の城とりでを失い、いまここに決戦のときを迎えたのだ、まん一にも浜松の城下を甲州勢の蹂躙にまかせるとせば、もはや徳川の武名は地におちるであろう。たたかいは必死の際におし詰められている、浜松に敵の一兵もいれてはならぬのだ、評定は出陣ときまった、いずれもすぐその用意につけ",
"はちまん"
],
[
"それでこそ一期のご合戦、われら先陣をつかまつりましょう",
"先陣はこの酒井こそ承わる"
],
[
"総勢出陣ときまれば、この本城のまもりをどうするか",
"まもりは置かなければならぬ",
"誰を留守にのこす",
"この一期のいくさに遺るものはあるまい",
"しかし城を空にはできぬ"
],
[
"ああ夏目か",
"次郎左衛門か"
],
[
"おきかせ下さい父上、いかなるご所存でかような未練なおふるまいをなさったのでござります、父上はそれほど命が惜しいのでござりますか",
"そうだ、……命は惜しい"
],
[
"いったんの死はむずかしくはない、たいせつなのは命を惜しむことだ。人間のはたらきには名と実とがある、もののふは名こそ惜しけれ",
"父上もそれをご存じでござりますか",
"その方はどうだ"
],
[
"父はおのれ一族の名をあげ、その方共に高名出世をさせとうてご随身申したのではない、一家一族をささげて徳川のいしずえとなるためにお仕え申したのだぞ",
"…………",
"ご馬前にさき駈けして、はなばなしくたたかうも武士のほんぶんではある、けれどもそれは、今そのほうが申したような心懸ではかなわぬことだ。そのほうの頭には夏目の家名がしみついておる、おのれこそあっぱれもののふの名をあげようという功名心がある、ご主君のために髑髏を瓦礫のあいだに曝そうと念うよりさきに、おのれの名を惜しむ心がつよい。信次、虚名とはすなわちそのような心を申すのだぞ",
"…………",
"一期のご合戦に先陣をのぞむのは誰しもおなじことだ、けれども誰かは留守城をあずからねばならぬ。先陣をつるぎの切尖とすれば本城のまもりは五躰といえよう、五躰のちからまったくしてはじめて切尖も充分にはたらくことができるのだ、たとえ先陣、留守の差はあっても、これを死處とする覚悟に二つはないぞ、わかるか信次"
],
[
"父上、信次がおろかでござりました",
"…………",
"仰せのとおり、わたくしは夏目の家名にまなこを昏まされておりました"
],
[
"もはや世の謗りもおそれませぬ、人の批判にも臆しませぬ、いまこそ、瓦礫のなかに無名のしかばねを曝す覚悟ができました、いまこそおのれの死處がわかりました、さきほどの過言をおゆるし下さいまし",
"わかればよし、たたかいはこれからだ、命をそまつにせまいぞ"
],
[
"君にはおろかなることを仰せたもうぞ、進むべきときに進み、しりぞくべきときにしりぞき、いくたび敗戦の苦を嘗むるとも、屈せず撓まず、ついの勝利をはかるこそまことの大将とは申すべし、はやく本城へ退きたまえ、吉信しんがりをつかまつる",
"否いかに申そうとて、われの此処にあることは敵すでに知る、追撃は急なり、もはやのがれぬ運と思うぞ",
"未練の仰せなり、君のおん諱を冒してふせぎ矢つかまつるあいだ、此処はいかにもして浜松へ退きたまえ、ごめん"
],
[
"信次、そのほうの父は、家康にかわってみごとに死んだぞ",
"は……",
"吉信なくば生きては帰れなかった、吉信こそ家康の命の恩人だぞ",
"もったいのうござります"
]
] | 底本:「戦国武士道物語 死處」講談社文庫、講談社
2018(平成30)年7月13日第1刷発行
2018(平成30)年8月6日第3刷発行
※底本のテキストは、雑誌「富士」のために講談社で受け付けられた著者自筆稿によります。
※表題は底本では、「死處《ししょ》」となっています。
入力:かな とよみ
校正:Butami
2021年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059470",
"作品名": "死処",
"作品名読み": "ししょ",
"ソート用読み": "ししよ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-05-30T00:00:00",
"最終更新日": "2021-04-28T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card59470.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "戦国武士道物語 死處",
"底本出版社名1": "講談社文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "2018(平成30)年7月13日",
"入力に使用した版1": "2018(平成30)年8月6日第3刷",
"校正に使用した版1": "2018(平成30)年7月20日第2刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "かな とよみ",
"校正者": "Butami",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/59470_ruby_73187.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2021-04-28T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/59470_73227.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-04-28T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"それからどうするの",
"こっちを押えているあいだに、谷川さまを案内して逃げるんだ、忘れたのか"
],
[
"京へいってなにをする",
"王政復古は開国を伴わなければならない、これはかねてから谷川が主張していたし、おれもそのとおりだと思う、だが現に尊王をとなえている者の大部分は、攘夷問題を親柱のように信じこんでいる"
],
[
"それは確実なことか",
"こういう情勢の中では、確実だと云えることなどは一つもないだろう、いずれにせよ、ここはまず断行することが先だと思う"
],
[
"朝めしの支度をしているから、まもなく帰って来るだろう、どうする",
"刀を取りあげればこっちのものだ、ここでやるか",
"いや、大事をとるほうがいい、二人は中にいてその娘を動かすな、ほかの者は外に隠れて帰りを待とう",
"梓は用心ぶかいな",
"谷川主計には、どんなに用心してもしすぎるということはないんだ",
"梓は用心ぶかいよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「別冊文藝春秋」文藝春秋新社
1959(昭和34)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057630",
"作品名": "失蝶記",
"作品名読み": "しっちょうき",
"ソート用読み": "しつちようき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-08-07T00:00:00",
"最終更新日": "2021-07-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57630.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日3刷",
"底本の親本名1": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"としよりの家老のほうだ",
"御家老なら兵庫どのだろう、むろん知っているが、それがどうした"
],
[
"そんな気持で飲んだってうまくないだろう、とにかく家へゆくことにしたらどうだ",
"迷惑ならここで別れるよ"
],
[
"あんなくそじじいがいるとも云わなかったぜ",
"どこへゆくんだ"
],
[
"上屋敷にか",
"梅林を受持っていた",
"覚えているようでもあるな"
],
[
"繁野さんのことだろうな",
"むろんあのじじいだ",
"口を慎め"
],
[
"おれを眼のかたきのように小突きまわすんだ、老職部屋へ呼びつけてどなる、こっちの役所へ来てどなる、おまけに住居まで小言を云いに押しかけて来るんだ",
"繁野さんは温厚な人だぞ"
],
[
"あの年で、――子供がないって",
"繁野さんは家庭でもさびしいほど静かな人だし、謙遜で温厚な人だということを知らない者はない、これは少しも誇張のない事実だ",
"ではどうして、おれだけをこうひどく小突きたてるんだ"
],
[
"おれはそれを守ったつもりだぜ",
"それは認めてもいい、しかし繁野さんは危ぶんでいるのかもしれない、ものごとは初めが肝心だというから、いまのうちに緊めるところを緊めておこうというつもりかもしれないだろう",
"向うにそんな気持があればこっちに通じない筈はない、おれにだって人の気持を感じとるくらいの能力はあるんだ"
],
[
"そんなことを仰しゃるものじゃありません、そんなわる口を云うなんてあなたはいけない方よ",
"おいおい、おまえまでが意見をするのか"
],
[
"その義十という息子はどうした",
"知りません、それっきり音沙汰なしで八年も経ったんですから、生きていて真人間になったら、とっくに帰っているじぶんでしょう、いまだに帰らないとすると"
],
[
"草鞋代として小粒一枚、それ以上は鐚一文もいやだ",
"小粒一枚、と、一分か",
"草鞋代には多すぎるだろう"
],
[
"五十両だぜ",
"あさっての朝早く、鶴来八幡へ届けよう、但し、金を受取ったらその足で城下を立退いてもらおう、その約束ができるか"
],
[
"血を止めなければいけません、傷をみせて下さい",
"医者を呼ぶほうが早い、こうしているから、済まないが馬場脇の祐石を呼んで来てくれ、いっしょに駕籠も頼む",
"しかしお一人で大丈夫ですか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1960(昭和35)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
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| {
"作品ID": "057614",
"作品名": "霜柱",
"作品名読み": "しもばしら",
"ソート用読み": "しもはしら",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1960(昭和35)年3月",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-11-03T00:00:00",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年6月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年6月25日",
"校正に使用した版1": "1982(昭和57)年6月25日",
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"校正者": "北川松生",
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} |
[
[
"袖町とはなんだ",
"このごろずっとよし野がごひいきなんでしょ、あのうちはとしより夫婦に小女がいるだけの筈ですけれどね"
],
[
"そんなにひとをおだてないで",
"よく聞け、いいか"
],
[
"あたしはまだ娘のままよ、なんのきまりがついたんですか",
"三人の気持が変るのを待とう、ということだったろう、だが肝心な点は一つ、おみ公が誰を選ぶ気持になるかということだ"
],
[
"でないとすると太っちょのほうか",
"おれは知らないんだ",
"そんなことを教えられたのにか",
"少しおれに話させてくれ",
"土田は饒舌り過ぎる"
],
[
"それなら云ってしまうが、これはこの長島藩であった事なんだ",
"ばかなことを"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1962(昭和32)年2月
※「おみ[#「み」に傍点]公」と「みの[#「みの」に傍点]公」の混在は低本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
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| {
"作品ID": "057634",
"作品名": "饒舌りすぎる",
"作品名読み": "しゃべりすぎる",
"ソート用読み": "しやへりすきる",
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"副題読み": "",
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"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1962(昭和37)年2月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-11-06T00:00:00",
"最終更新日": "2022-10-26T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年6月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年6月25日",
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"校正者": "北川松生",
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} |
[
[
"縁側へまわってくれ",
"こっちだったな、わかった"
],
[
"誓ってそう申せるか",
"誓ってそう申上げます"
],
[
"もういいと云われるまでかよいました",
"あのごたごたでつい忘れたんだな、私が知っていたら医者を変えるとか、湯治にゆくとかなにか方法を考えたろうのに、どうして私に云わなかったんだ"
],
[
"おれはおまえを憎んでいるんだぞ",
"それでお気が済むなら憎んで下さい、わたくしあなたの妻ですから、あなたが出ていらっしゃるならわたくしもまいります",
"放せ、うるさいぞ",
"放しません、わたくしごいっしょにまいります"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1962(昭和37)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
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| {
"作品ID": "057647",
"作品名": "十八条乙",
"作品名読み": "じゅうはちじょうおつ",
"ソート用読み": "しゆうはちしようおつ",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1962(昭和37)年10月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-11-08T00:00:00",
"最終更新日": "2022-10-26T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年6月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年6月25日",
"校正に使用した版1": "1982(昭和57)年6月25日",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57647_ruby_76480.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2022-10-26T00:00:00",
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} |
[
[
"覚えているかどうかを聞いたまでです",
"わたしはまた功刀さんが、もっとよくわたしの話を理解して下すったものと思っていました"
],
[
"なにが心配なんだ",
"これまでにも申上げようと思ったのですが、私が注意していますと、あの乞食はほかの通行人には眼もくれず、あなたお一人だけに袖乞いをするのです",
"それでこのまえ、番たびではくせになる、などと云ったのか"
],
[
"その程度の金ならなんとかしよう、なにより先にそのばか者を閉じ込めることだ、――城代のほうはどうした",
"まだなにも申上げずにいます"
],
[
"頭巾がどうしたというんだ",
"あんたはお侍だ、こんなところであたしのような女と会ったことがわかれば、御身分にきずがつく、だから頭巾で顔を隠してる、そうでしょ",
"それとこれとどういう関係がある"
],
[
"あやまちを犯す人間は、たいてい責任をひとになすりつけるものだ",
"あたしがなにをなすりつけました",
"いま自分の云ったことを考えてみろ"
],
[
"おまえたちの宿へ届けよう、宿はどこだ",
"宿だなんて笑わせるんじゃないよ、宿屋に泊れるくらいで乞食をするかっていうんだ",
"だが寝るところはあるんだろう"
],
[
"男はどうしました",
"ほかの女と出奔したそうです"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
1964(昭和39)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057636",
"作品名": "醜聞",
"作品名読み": "しゅうぶん",
"ソート用読み": "しゆうふん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「小説新潮」新潮社、1964(昭和39)年6月",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-11-12T00:00:00",
"最終更新日": "2022-10-26T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年6月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年6月25日",
"校正に使用した版1": "1982(昭和57)年6月25日",
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"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
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"テキストファイル最終更新日": "2022-10-26T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"僕です、津川",
"ああ"
],
[
"津川か、よう来たな",
"杉田はどうした",
"あかん、十時半だった、あとから電報したんやが見なかったやろ",
"うん、『燕』で来たから、そうかやっぱり駄目だったか"
],
[
"いまどこや",
"野村屋にいる",
"すぐこっちへ来んか"
],
[
"ゆうべ徹夜の仕事をしたあとでひどく疲れているんだ、どうせ間に合わなかったのならひと休みしてから行こう",
"さよか、じゃあとにかく晩くにでも来いよ、今夜はお通夜やよってな、待ってるぜ"
],
[
"なんだ、君はまだここにいたのか",
"顔を見るなり何でんね、いないでどないしましょう、あんたさんがたが来てくださるうちは何年でもおりますが"
],
[
"それ、ほんまでっか",
"本当さ、だから今日来たんだ",
"まあ……夢みたいな"
],
[
"御苦労さん",
"いや、遅くなって"
],
[
"僕あじつのところ軽蔑しとったんやが、今日あいつの画を見てびっくりした、すばらしいものがたくさんあるんや、まあ見てみい",
"妻君はどうしたんだ",
"頭が痛むとか云ってあっちへ行ったが――まあ妻君へお悔みを云うのなんかあとにせい、それより一遍あいつの画を見いや"
],
[
"わざわざ、御遠方のところをおそれいりました、お知らせは出すまいと存じましたのですけど、八木さんが出すほうがよいとおっしゃいますのでお知らせ申しました",
"あなたもたいへんだったでしょう",
"はあ、ありがとう存じます"
],
[
"三十二やそこらで後家になるなんて彼女もお気の毒や、あの器量やからはたで捨てちゃおくまいが、何かあれば尻軽や云われようし、いつまでここにおれば財産が欲しいのや云われようしな",
"財産なんて残ってるのか",
"仰山なもんやろ、なにしろ使った云うてもパリへ行ったくらいなもんやから",
"しかしこの半年ばかりだいぶ駄々羅遊びをしたそうじゃないか",
"杉田がかい? 阿呆なこと"
],
[
"津川さんはここにいらっしゃいましよ、あたくし独りじゃ寂しゅうござんすわ",
"じゃああなたもいらっしゃい",
"あたくしには画は分りませんわ、それになんだか杉田の画は怖くって……"
],
[
"野村屋に泊ってらっしゃるんですってね",
"ええそう――",
"どのお部屋……?"
],
[
"ええ、どうして",
"じゃあ今みんなが見ているわけだな、あれは少しひどいと思うんだが、あなたは不愉快じゃないんですか",
"だって画じゃないの"
],
[
"いつお帰りになるの",
"明日帰るつもりでいます",
"――そう"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「アサヒグラフ」
1936(昭和11)年3月11日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057644",
"作品名": "正体",
"作品名読み": "しょうたい",
"ソート用読み": "しようたい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「アサヒグラフ」 1936(昭和11)年3月11日号",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-10-05T00:00:00",
"最終更新日": "2022-09-26T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57644.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年6月25日",
"校正に使用した版1": "1985(昭和60)年1月30日2刷",
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"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"御裁決の罪人の処刑を終りました",
"……御苦労",
"飯泉喜内、頼三樹三郎"
],
[
"左内の処刑を終りました",
"……御苦労",
"まことにあっぱれな最期でございました、従容として辞世の詩を認め、静かな微笑さえ見せながら、帰するが如く"
],
[
"自分もそのように思いまして、取敢えず一同の口を止めて置きましたが",
"あれほどの人物を、未練者と呼ばせたくないからな、然し不審なのは大老の御ようすだ、とんとげせぬことがある",
"なにごとか、ございましたか",
"静かに笑って死んだと申上げた時、非常に不愉快そうな顔をされて、あれも従容として死んだか、あれも……二度まで独言のように呟かれた、辞世を詠み帰するが如く死んだということが、此の上もなく機嫌に触ったような口ぶりであった",
"よもや事実が御耳に入っていたのではございますまいな",
"或いはそうかも知れぬ、が、なんと云ったらいいだろうか、とにかくあの不機嫌さは別のものだ、まるで解せぬ"
],
[
"実は……左内の遺骸を引取りにまいっている者があるのですが",
"引渡して宜しかろう、何者だ",
"石原甚十郎と申す者の他に三名、越前家ゆかりの者と申しますが"
],
[
"それで、お訪ねの用件は",
"まことに不躾なお願いでございますが、このたび左内が遠島の御裁きを改められ、死罪となりましたに就き、どのような仔細がございましたものか、また……死に際のことなどお伺い申したいと存じまして",
"どうしてそれをこちらへ訊きにまいったのか",
"こなたさまならばお明かし下さるであろうと、さる方より教えられましたので"
],
[
"して、おもとは左内どのとは",
"また従兄妹に当っております"
],
[
"牢を出ると、其処で、春嶽侯から差遣わされた新しい衣服、裃に着替えた……これは申すまでもなく曾て前例のないことで、いかに左内どのが礼を篤くされたかお分りであろう",
"……忝ないことだと存じます"
],
[
"……どうした、首尾よくいったか",
"死躰を渡したか"
],
[
"では左内の待遇も悪くはなかったのだな",
"お上から差遣わされた新しい衣服で斬られている、獄制創まって以来の異例だそうだ、左内は辞世の詩を詠み、笑って刑を受けたと感じいっておった"
],
[
"そうだ、井伊掃部の手が斬ったのだ",
"彼は勤王志士として梅田を斬り、松陰を斬り、三樹三郎を斬った、小林民部はじめ、多くの者を斬った、同時に建儲問題では御三家の威勢を粉砕し、諸侯を罰し、続いて安島帯刀を斬り左内を斬る……彼は崩れんとする長堤の蟻穴へ、更に自ら鋤をうち下ろしているんだ、彼は幕府を倒壊するために斧を加えているんだ、彼こそはまさしく倒幕の首魁だ"
],
[
"いやその話なら拙者にさせろ",
"まあ己に話させろ、貴様は話が諄くて埒が明かんから駄目だ、こうなんだ、初めて左内が訪ねていったとき、吉之助は庭で若者たちに相撲をとらせて、こうどっかり坐って見ているところだった",
"吉之助は大肌脱ぎになって"
],
[
"ところがその明くる日",
"黙れと云うのに、ところが左内が帰ってから、はじめてその大人物だということが分ったのだ、吉之助は驚いて、直ぐその明くる日此処へ左内を訪ねて来た"
],
[
"御苦労だった、すっかり済んだか",
"大体のところ済ませて来た、けれど、……不愉快な話を聞いて来た"
],
[
"泣いたとは、つまり……",
"刑場へ曳出され、介錯の刃が上った時、両手で顔を押えて泣いたのだそうだ"
],
[
"石原、それはどこから聞いた、誰から出た話だ、まさか根もない話を……",
"その方が百倍も増しだ、根も葉もない噂ならこんな恥ずかしさは忍ばずとも済んだ、それが悲しいことに事実だったんだ",
"精しく聞こう、話して呉れ"
],
[
"事実だということがどうして分る",
"慥かめて来た、太刀取りをした某藩の士、藩の名も姓名も約束だから云えぬ、その男に会って慥かめて来た、いまの事実に些かも相違なかったのだ"
],
[
"それはそうかも知れぬが、左内だって志士の端くれなら、自分の死がどんな意味をもつかくらい、分らぬ筈はないだろう",
"そうだ、橋本左内は一私人として斬られるのではない、彼には福井藩士の面目が懸っている、全国の志士の名誉が懸っているんだ",
"然し……然し、事実とは思えんなあ",
"そうでない、彼は蒔田の云うとおり長袖者だからな、武士の誇りは持合わさなかったかも知れんぞ、それにしても、死に臨んで泣くとは未練極まるな、如何になんでも泣くというのは",
"暫く、暫くお待ち下さいまし"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「現代」
1940(昭和15)年4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057631",
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"作品名読み": "じょうちゅうのしも",
"ソート用読み": "しようちゆうのしも",
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"初出": "「現代」1940(昭和15)年4月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
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[
[
"もちろんだよ、云うまでもない",
"それで定った、頼むぞ"
],
[
"少し考えてみます",
"考えるとはなにをですか"
],
[
"つきましては検視役として、御側より井関藤也どの、またあれなる佐藤喜十郎をお差添え願います",
"よし、両名の者みとどけてまいれ"
],
[
"証拠はそれだけか",
"彼はみごとに致しましたし、遺骸は玉林寺に葬りました、私は御上使として、この眼で慥かにその始終をみとどけてまいりました",
"もういちど訊ねる、検視役に見せなかったのはどういうわけだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「週刊朝日春季増刊号」朝日新聞社
1954(昭和29)年3月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057645",
"作品名": "初夜",
"作品名読み": "しょや",
"ソート用読み": "しよや",
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"初出": "「週刊朝日春季増刊号」朝日新聞社、1954(昭和29)年3月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-09-15T00:00:00",
"最終更新日": "2022-08-29T00:00:00",
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"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
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"姓読みソート用": "やまもと",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年1月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年1月25日",
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[
[
"留守城の番はいちにん、兵は五百、余はあげて信濃へ出陣をする。したがって留守城番に誰を置くかということは",
"申上げます"
],
[
"仰せなかばながら、わたくしは信濃へお供をつかまつりまするぞ。留守番役はかたくお断わり申します",
"越前めも、留守役はごめんを蒙ります"
],
[
"おれから名は指さぬ。しかし誰かが留守城の番をしなければならぬのだ。誰がするか",
"……わたくしがお受け申しましょう"
],
[
"父上、このたび四度目の御出馬に、留守城番をお願いなされたと申すのは事実でございますか",
"……それがどうかしたか",
"父上みずから留守城番をお望みなされたのかどうかを、うかがいたいのです。お館よりのお申付けでございますか、それとも、ご自身お望みなされたのでございますか"
],
[
"こなたさまは、世間でこの千坂家をなんと評判しているかご存じでございますか",
"知っていたらどうする",
"千坂は弁口武士だ、戦場へは出ずに留守城で稼ぐ、そう申しているのをご存じですか",
"…………",
"それをご存じのうえで、このたびも留守役をお望みなされたのでございますか"
],
[
"世間の噂くらいは、おれの耳へもはいる。俗に人の口には戸がたてられぬというとおり、誰しも蔭では公方将軍の悪口も申すものだ。云いたい者には云わせて置くがよい。言葉を一万積み重ねても、蠅一疋殺すことはできぬものだ",
"よくわかりました。しかし蠅一疋殺すことのできぬ言葉が、あるときは、人をも殺すちからを持っていることにお気づき下さい。父上はそれでご満足かもしれませんが、わたくしはいやでございます、通胤は御出馬のお供をつかまつります",
"……ならん",
"父上のお許しは待ちません。わたくしは信濃へまいります",
"……ならん、おまえは父と残るのだ",
"いや、たとえ御勘当を受けましょうとも、このたびこそは出陣をいたします、ご免"
],
[
"この通りとりちらしてある。なにか急な用でもあってみえたか",
"ぶしつけなお願いにあがりました",
"わかった、信濃へつれてゆけと云うのだな、そうであろう",
"いいえ違います"
],
[
"それはなぜだ、どういう仔細で破約しろというのか。わけを聞こう",
"仔細は申し上げられませぬ。ただ、わたくしの考えといたしまして、ぜひとも菊枝どのとの縁組を無きものにして頂きたいのです",
"そうか、……そうか"
],
[
"云えぬと申すなら聞くまい。しかしそれは対馬どのも承知のうえの話であろうな",
"いやわたくし一存でございます。一存でございますが、妻を娶る者はわたくし、その当のわたくしがお断わり申しますからには、べっしてうろんはないと存じます",
"よし、たしかに破約承知した"
],
[
"用事と申すのはそれだけか",
"はい",
"出陣のかどでに娘へのよき置き土産ができた。わしの思ったほどおぬしは利巧ではなかったな"
],
[
"ぜひあなたさまのお口添えをお願い申したいことがございまして",
"……なにごとでしょうか"
],
[
"ご承知のように、わたくし共女子や子供たちの多くは、お触れによってずっと城中にあがり、矢竹つくりやお物具のお手入れをいたしておりますが、いまだにいちども屋敷へ下げて頂けぬ者が多うございます",
"さぞ御不自由なことでしょう",
"いま合戦の折からゆえ、不自由はどのようにも忍びますけれど、お物具の手入れは終りましたし、矢竹つくりは屋敷にいても出来ますことゆえ、お城から下げて頂けますようお願い申したいと存じます",
"それならわたくしがお伝え申すより、係りへじかにお申出でなさるがよいと思いますが",
"それはあの、もう再三お願い申したのですけれど、……御城代さまからどうしてもお許しが出ませんので"
],
[
"そうですか、ではわたくしからすぐに話してみましょう",
"ご迷惑なお願いで申しわけございません"
],
[
"なぜいけないのですか、矢竹つくりだけなら屋敷へさがってもできると思いますが",
"どうあろうと、そのほうなどの差出るところではない。さようなことを取次ぐなどは筋違いだ。さがれ",
"父上、お言葉ではございますが、今日はいささか通胤にも申し上げたいことがございます。父上が城代の御威光をふるって、事を専断にあそばすことが、お留守城の人々をどのように苦しめているかお考えになったことがございますか。父上はかつて『留守城のかためはおれならでは』と仰せられました。戦場も留守も奉公に二つはないと仰せられました、あのときのお言葉は、この通胤を云いくるめる一時の方便にすぎなかったのでございますか",
"云いたいだけのことを申せ、聞くだけは聞いてやる、もっと申してみい",
"もうひと言だけ申しあげます、通胤は信濃へまいります、せめて殿の御馬前にむくろを曝し、千坂の家名のつぐないを致します。もはやお目通りはつかまつりません",
"死にたいとき死ねる者は仕合せだ。好きにしろ"
],
[
"これはよい処へおいで下さいました。いま此処へ怪しい奴を追い出したところでございます",
"怪しい奴……その男か",
"はい、麻売り商人だと申して、数日まえからこの街道をうろうろしておりましたが春日山のお城の模様などを訊ねまわるのがてっきり諜者とにらみましたので",
"いや、いや、ち、ちがいます"
],
[
"私は近江の麻売りで、この土地へまいったのは初めてですが小栗へはちょくちょく商売に来ています。決して諜者などという怪しい者ではございません",
"よしよし、騒ぐには及ばぬ"
],
[
"決して、決して怪しい者ではございません。どうかおゆるしを願います",
"怪しいとは申さぬ。しらべるだけだから前へ出ろというのだ",
"はい、はい、私はこの通り"
],
[
"藤七郎、その男はまだ息はあるか",
"いえ、もう絶息しております",
"しまった"
],
[
"この書面、そのほうのほかに見た者があるか",
"読んだのはわたくしだけでございます",
"そうか"
],
[
"尾越どのと小田原との密書が、わしの手にはいったのはこれで三度めだ",
"三度めと仰せられますか",
"小田原北条の死間(わざと斬られる間者)のたくみか、それともまことに尾越どのにご謀叛の企てがあるか、殿このたびの御出馬直前より、しばしばかような密書が手に入る……もし北条の死間のわざとすれば、上杉一族離反のたくみにかかわるもとい、また尾越どの謀叛とすれば、殿お留守の間が大切、……いずれにしても世間に知れてはならぬゆえ、今日までわし一人の胸にたたんで出来るだけの事をして来た",
"父上……",
"矢代川の荒地を起す必要はなかった。ただ尾越どのの不意討ちがある万一の場合の備えだった。貯蔵米を召しあげたのも、女子供も城中にとどめてあるのも、みなその万一の場合の備えだったのだ"
],
[
"その仔細を話せば、誰も不平を云うものはなかったであろう、……しかし、この理由を云えば御一族のあいだが離反する、家臣の心が動揺する。人心を動揺させず、なお万一に備えるために、つねづね不評なわしが留守をお受けし、専横の名にかくれて、大事を守らねばならなかったのだ",
"父上、……申しわけございません"
],
[
"わかればよい、それでよいのだ",
"…………",
"明日にでも石川へまいって、縁談破約をとり消してまいるか",
"はい、いまさらお詫びの申しようがございません",
"詫びるには及ばぬ。これからもまだまだ父の悪評を忍ばなければならぬのだ、……殿の御凱陣まではな"
]
] | 底本:「戦国武士道物語 死處」講談社文庫、講談社
2018(平成30)年7月13日第1刷発行
2018(平成30)年7月20日第2刷発行
初出:「講談雑誌」博文館
1942(昭和17)年8月号
入力:Butami
校正:noriko saito
2021年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059686",
"作品名": "城を守る者",
"作品名読み": "しろをまもるもの",
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"初出": "「講談雑誌」博文館、1942(昭和17)年8月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-07-21T00:00:00",
"最終更新日": "2021-07-08T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card59686.html",
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"名": "周五郎",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
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"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "戦国武士道物語 死處",
"底本出版社名1": "講談社文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "2018(平成30)年7月13日",
"入力に使用した版1": "2018(平成30)年7月20日第2刷",
"校正に使用した版1": "2018(平成30)年7月20日第2刷",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "Butami",
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} |
[
[
"べつに御禁制というほどのことはありませんが、おまえさん方はもうお山には馴れておいでか",
"いや初めてですよ",
"剛力はお雇いでしょうな、荷を背負ったり道の案内をしたりする男です、下の宿でお雇いになったでしょう",
"それは、その、なんですか"
],
[
"わたしはそんなことをいっているんではないのです、お山開きは毎年六月で、そのまえにはよくお山が荒れるのです、朝のうちお天井まで晴れていても一刻すると大風が吹きだす、ひと晩のうちに五合目あたりまで雪のつもるようなことが、五月ちゅうにはよくあるのです、まったくのところお山開きまえの陽気の変りめは誰にも見当のつかぬことがあるのですからね、あなた方がもしお山になれていらっしゃるか、剛力でもおつれにならぬかぎりは危のうございますよ、わたしはこう申上げたかったわけです",
"ああ、それはどうも、どうも、それは御親切にありがとう、たしかにそのとおりでしょう、わたしもそれは聞いているのだが……"
],
[
"富士へ登るのをはじめから目的にして来たのならこんなに諄くは云いたくないんだが、なにしろ急に思い立っただけなんだからな、おい富士へ登ろう、と仰しゃる、よろしい登ろう、天気もいいし、せっかく通りかかったものだ、よしきたというわけだ、つまりそんな具合に簡単に考えていたんだから、これは少し乱暴だよ、むしろ無法だよ、だって宿の者も宮守の老人もあれほど云っているんだからな、え……なにか云ったかい",
"なにも云わないよ"
],
[
"じゃ寒くないのかい",
"わたしは黙るよ"
],
[
"いつかは来ると覚悟はきめていた、命が惜しくて逃げていたのではない、時節の来るのを待っていたんだ、しかし嗅ぎだされた以上は逃げも隠れもせんぞ、斬れるなら斬ってみろ……藤尾、みぐるしいまねをするなよ",
"はい、生死とも兄上さまと御一緒でこざいます"
],
[
"黙れ、貴様たちがおれを斬りに来たのでなくて、なんのために季節はずれの今頃ここへ登るか、なんのために夜を徹してこの岩屋へ来る要がある",
"それはまさにそうです、わたしが訊きたいくらいのものですよ、だが云って見ればそういうまわりあわせになったんですね、わたしは登るのをよそうと云ったんです、二合目で泊ることも……",
"大さん、飯を拵えるよ"
],
[
"どうもお邪魔を致しました",
"……この吹雪に"
],
[
"早水さん待って呉れ",
"…………"
],
[
"お手間を欠いて申訳ありません、こんど亀阜荘さま(左近頼該)のお申付けで水戸へくだることになりました、こなたに手掛りをつけて貰えという仰せでお寄りしました、お計らい下さいましょうか",
"水戸へくだる御用向きは",
"甲辰の事について、亀阜荘さまおぼしめしをお伝え申す為です"
],
[
"由来の根がどこまで深いかは存じません、事実は由来の根でなく末梢の齟齬するところにあると思いますが",
"理屈か、ふん理屈か"
],
[
"藤田どのに会うのか",
"わたくしはお計らい下さるとおりに致します、いずかたともきめてはおりません",
"その用向きなら藤田どのに会うほかはあるまいが、左近さまから御書状でもお預かり申して来たか",
"前中納言さま(斉昭)への御手書を頂いております、けれどもなるべくなれば御手書はお眼にかけぬようとのおぼしめしでした"
],
[
"ではこれを藤田どのへ持ってまいるがよい、また来客なので……失礼する、ゆっくり話もできなかったが……こういう事情だから",
"お手数をかけました"
],
[
"それで、水戸へゆくと、藤田どのには、わしからもよろしくと伝言をたのむ",
"承知しました"
],
[
"たいそうお急ぎのようだが",
"急ぎですとも、御存じの大峰庄蔵と矢田部源七郎が当お屋敷内へ逃げこんでいるんです",
"大峰と矢田部……",
"結城党の奸物です、寅寿ふくしんの者です",
"……そんなことはあるまい"
],
[
"事実とすると捨て置けないが",
"とにかくすぐその手配をして下さい、気付かれてまた行方をくらまされては困る、おねがいです",
"よろしい当ってみましょう"
],
[
"なんですか、怖いような方だと存じました",
"世慣れないんです、人づきがばかに悪いのです、しかし人物は……いやそんなことは不必要だ、そこでつまり、わたしは早くかれに追いつきたい、それには貴女の身の落ち着きようを定めたいのですが",
"そのことでしたら、もう"
],
[
"申上げます、わたくしお話し申したいと存じておりましたのですから、……でもそれはお力に頼りたいからではございません、お情けに縋りたいからでもございません、ただ申上げたい、聞いて頂きたいからでございます",
"結構です、聞かして下さい"
],
[
"わたくしは伊予のくに吉田藩の生れでございます",
"伊予、するとおなじ四国だったのですね",
"兄は柿崎兵馬と申しました"
],
[
"そのとき兄の心にどのような想いが来つ去りつした事でございましょうか、どのような、兄はふいに富士へ登ろうといいだしました、実はそのまえ、大阪におりましたときから、兄はおりおり討手が跟けていると申しましたが、その討手がまだ跟け覘っているから、その眼を昏ますために富士へ登ってやりすごしてやろう、そう申すのでございます",
"本当に討手があなた方を跟けていたのですか"
],
[
"どうしてでございますか、帳場でうかがって来いと申すものですから、どうもたいへん失礼を申しました、高松でいらっしゃるんでございますね",
"そうだよ、なにか不審でもあるのかい"
],
[
"わたくしです",
"……え",
"わたくしを追って来たのです"
],
[
"……憎んだんですって",
"ええ憎みました、人間はあんな眼で人を見るものではないと存じます"
],
[
"太橋さんの若旦那じゃありませんか、どうなさいました",
"誰だいおまえは"
],
[
"なんだ、からす貝か",
"いきなりでげすか、へへん、からす貝とね、このまえはたしか黒馬とおいでなすったっけ、おかげで俳名に不自由はねえというやつさ、けれどもからす貝とはそもさん",
"それよりおまえ富にでも当ったのか",
"なにゆえでげす",
"箱根で湯治などという芸当のできる柄じゃあるまい、それとも誰かのとりまきか",
"そういう難舌だからとかく女に嫌われやす、へん、いま売りだしの竹亭寒笑『艶色恋の手車』の作者を知らねえな",
"そんなばけ物は知らないよ",
"冗談ぬきで若旦那、寒笑一代の傑作でげすぜ、馬喰町の和田平から今年の初刷りに出したのが大受け、二巻で大尾としたところが看客みなさまやいのやいののお好みにより巻を重ねること六たび、ようやく脱稿して斯くは山の湯へ疲れやすめという幕でげす",
"からす貝の作が売れるとはとんだ世の中になったものだ、そんなことなら讃岐くんだりから出て来るんじゃあなかったよ"
],
[
"よせよせ、つばきが飛ぶぞ",
"本当のところ今年はおくだりが遅うございましたね、あなたのこったからお国でまた道楽がすぎて当分御謹慎ということにでもなっていらっしゃるんだろう、梅八がそうお噂をしていやしたぜ"
],
[
"な、な、なんでげす若旦那",
"お前が梅八を呼び捨てにできる身分になろうたあ思わなかった"
],
[
"あたくしですか、あたくしは奥のたしか菊とかいいましたっけ",
"あとでいくから待っていてくれ、少したのみがある"
],
[
"お手柔らかにってどうお手柔らかなんだ",
"からす貝、黒馬なんぞのたぐいを勘弁して頂きたいんで、へへ、実はこれでも当時は竹亭寒笑先生でげすからな"
],
[
"風呂へはいって来ませんか、今のうちならまだすいていますよ",
"有難う存じます",
"このまま梅雨にでもなりそうで肌がじとじとする、ひとあびするとあとがさっぱりしますよ",
"……はい"
],
[
"見おぼえのある顔ですか",
"……はあ?",
"あの橋の上の男たちです、ずっとああして見張っていたんですか",
"そうのようでございます",
"ああよく降るなあ"
],
[
"それはまことか",
"事実でござります、亀阜荘さまの密旨をうけ、たぶん密書を持っておることと思われまするが、四月二十七日に高松を発足、東下つかまつったとござります",
"使者はなに者だ"
],
[
"そして?……",
"一夜だけでたち去りましたがおそらくそのまま水戸へくだったものと存ぜられます"
],
[
"申せ、その使者を、どうするつもりだ",
"どうも御意のほどがようあいわかりませんけれども、その使者とは、亀阜荘さまより水戸への使者でござりますか",
"よもや斬れと申したのではあるまいな"
],
[
"お上には唯今、やってはまずかったと仰せられました、内膳めもさように存じあげまする、亀阜荘さまにはお身軽なままに、ふとすると思召ししだいの気まぐれをあそばします、せっかくしずかな池に石を投じて、あらぬ波をお立てあそばす、これはなんとか",
"亀阜荘のことは申すな",
"申上げずに相済めば申上げは致しません、このたびの上申書によりますると、お身まわりにしきりと勤皇浪士をお近づけあそばし、近くは榎井の日柳長次郎と申す無頼の徒までお出入りつかまつるとのことにござります",
"長次郎とは燕石のことか",
"いかにも、さようの号もあったかと心得まするが",
"日柳燕石は無頼か"
],
[
"ならぬ……",
"抂げてお願い申上げまする、水府御老公さま御一身に関して、なにやら軽からぬ言上がこれあるやに……"
],
[
"どうしてもお眼どおりはかなわぬかな",
"お顔色ではよほど堅くお心をきめられたように思われます、以前とは違って、この頃はなかなかわれらの言上もお肯きあそばされぬようになりましたで"
],
[
"校川宗兵衛とやら申す……",
"宗兵衛なにほどの者と、わたくし共も存じましたし結さまにもさよう申上げておきましたが、なかなかどう致して、かれは迂濶な相手ではござりませんぞ",
"先日どなりこんだそうだが",
"お国もとから暴れ者がやって来たので、その案内で押しかけました、武田なにがしとやら云いましたか……"
],
[
"この邸ではいけますまい",
"この邸だからよいのだ、魁介どもは両人をつけ覘っておる、先日ここへまいったのはそのためで、同時にこの邸におらぬことをもたしかめた筈、だからこの邸こそもっとも安全という訳ではないか"
],
[
"そのお覚悟さえあればできるだけのお世話は仕る、いまも結さまのおはなしで、よき折もあらば高松へ移したらということであった、さいわい来月には当お上が参覲のおいとまにて御帰国のはずゆえ、そのときまでには方策をたてると致そう、それまでは窮屈を辛抱して貰わねばならぬ",
"すべてよしなにおたのみ申しまする"
],
[
"そやつらなにを申しにまいったのだ",
"水戸家お咎人が駆けこんだ筈、ひきわたせとやら喚きたてておりますが"
],
[
"どうだった、無事にお越しか",
"はい御無事でございました",
"水戸家の者に気づかれたようすはないか",
"大丈夫でございます、唯今この表で見うけましたが、かれらはつい今、御門から出てゆくところでございました"
],
[
"なにか大事でも起こってのことですか",
"大事と申す程ではないが、校川が先日どなりこんでまいったな",
"水戸家の咎人を両名匿まったと申す、あの件ですか",
"そうだ、あのときは根も葉もないことで宗兵衛にこちらから謝罪させたが……あれが事実になったのだ",
"……と申しますと",
"結どのが今宵みえて、問題の二人を匿まってくれと仰しゃる、しかも二人をつれて来ておいでだ",
"……お預かりなさいましたか",
"致し方あるまいが",
"……みつかりますな",
"来月お国入りの供へまぎれこまして高松へ送るつもりだ、それまでそこもとの家へたのみたい、拙者は覘いの的だから"
],
[
"あああれは拙者が申しつけた",
"……と仰しゃると",
"例の亀阜荘さまの密使、早水秀之進とやら申す者を追えと命じてやったのだ"
],
[
"そいつは済まなかったな、それでおじさんになにか用があるのか",
"無くってさ、用があるから追っかけて来たんじゃないか、もういちど町まで帰るんだよ",
"町へ帰るって、おじさんがかい"
],
[
"おまえの云うことはまるでわからないぜ坊や、どうしておじさんが町へ帰って、そのなんとかいう宿屋へ",
"松八だよ、本当は松田屋八兵衛っていうんだけど松八でちゃんとわかるんだ、けちなはたごなんかじゃないんだぜ",
"たいそう自慢するが、それじゃあ詰り坊やはその松八の客引なのかい",
"冗談じゃないや、おいら頼まれたから追っかけて来てやったんだ、そんな勘違いをされてたまるものか、だっておじさんは太橋ってえ名前だろう",
"びっくりさせるな、どうして太橋という名を知っているんだ",
"だから云ってるじゃないか、頼まれたんだってさ、あのおじさんを追っかけていって、太橋という人だったら町へ戻るように、そして松八へ泊るように云って呉れ、そういって頼まれたんだよ"
],
[
"お邪魔にあがりました",
"こっちのほうが風がよくとおる、こっちへおいでなさい"
],
[
"なんだこれは",
"こちらさまのお申付けでございます",
"茶菓持参の客か"
],
[
"あの……お目付の槇野さまでございますか",
"そうだ、急いでたのむ"
],
[
"さて、それではわたくしも午睡でもするとしましょうか",
"おや、太橋さんは此所へお泊りなのかね",
"どうしてです",
"拙者はまた食事をしてお立ちかと思った、まだ日なかじゃないか",
"急ぐ旅でもありませんから",
"……ふん",
"どうですか暮れたら恋瀬川のふちで夜涼みに一盃やりませんか",
"いま出した手紙で客が来るだろうと思うから、まああんたひとりでおやりなさい、貧乏ざむらいには旅籠の酒が分相応だよ",
"それはそれは"
],
[
"どうしました",
"お呼びたてして済みません"
],
[
"おじさん松八へ泊ったかい",
"ああ泊ったよ",
"あそこはねえ、本当はおいらの家なんだぜ",
"ほうおまえの家か、そいつは知らなかったな、……で坊主、おじさんに泊れと云えとたのんだ人はどうした",
"……おいら知らないよ"
],
[
"…………",
"そしてその人はなんという名前か、それだけ訊いてくればいいんだ、それならわけはないだろう"
],
[
"じゃあおじさんは此処で待っているぜ",
"向うの明神さまの森がいいや"
],
[
"おじさん、いないよ",
"いないって?",
"さっきもう出ていっちゃったってさ"
],
[
"わかんないよ",
"それで、名は訊いたか",
"……だってその人がいないんだもの、訊けやしないじゃないか",
"その人のいたのはどこだ",
"おいらの家のすじ向うにある武蔵屋っていう宿屋だよ"
],
[
"どうしたんですか",
"いや、いっぱい食ったというわけさ",
"……ほう、誰がです"
],
[
"知りたいですね、わたくしにはなんのことかさっぱりわかりませんから",
"じゃあ来たまえ",
"…………",
"但し、ふたたび江戸へは帰れないつもりでね"
],
[
"あっ早水",
"人に見られるなよ"
],
[
"やっぱりあんただったな",
"黙って来たまえ"
],
[
"……斬るって?",
"眼の色がそうだ、べつにそれを怖れはしないが、御用をはたすまでは大切なからだだから、なるべく無事に眼をのがれようと思った、それでひとまず武蔵屋へ草鞋をぬいだのさ",
"だがよくわたしが通るのをみつけたもんだな",
"だってもう来るじぶんだと思っていたからさ、それが三日待たされた、いい道草をくってしまったよ",
"御挨拶ですね",
"おれは相手に見知りはない、だがあんたは江戸屋敷の者と親しいから、ことによると知り合かも知れぬと思った、それで迷惑をたのんだのだが……しかし是れ是れだと云えば、必ずあんたの態度で向うに感づかれる、なにか連絡があるなと察せられぬものでもない、それでわざと名も云わなかったわけだ",
"つまり敵を計るに先ず味方を以てすというところか",
"それが当ったのは見るとおりだ、かれは裏を掻かれたと思った、どうやら府中藩士までつれだしたようすだが、おれは宿を出るとすぐさっきの路次ですっかり見ていた、あの男は泡をくって駆けていったっけ",
"追っていった騎馬は目付役の者たちだ"
],
[
"あんまり涼しくもないぜ",
"いまにわかるよ"
],
[
"兄のほうは死んだよ",
"……やっぱり",
"可哀そうな身の上だった"
],
[
"云いわけをすることはないよ",
"云いわけじゃないさ、道理のあるところを云ってるんだ、だって本当にそうなんだから",
"要点だけ云えないのか",
"つまり、……要点を云えば、江戸へつれて来て知り合いの女の家へ預けたのさ、知り合いの女といったってべつに仔細はないんだからね、年はもう五十七になるんだ、一中節の師匠をしていてね、まあ生粋の江戸ッ子だろうな、そこへ預けたわけなんだ",
"つけ覘ってる討手はどうした",
"へえ……そこまで気にするというのは珍しいな、早水さんにもそんなところがあるのかね"
],
[
"どういうわけかね、これは、だって早水さん、そんなてはないよ",
"おれの身代りだ、たのむ",
"身代り……?",
"あの連中に土浦まで戻って貰うのさ、あんたは江戸へ帰って呉れ、これからは独りのほうが安全だ、たのむよ"
],
[
"夷狄を討つ……先生が仰しゃるのは……それは蒙昧の説だ",
"おれは思う……まあ黙れ",
"これだ、これが先決問題だ……蒙昧であるかないかは……"
],
[
"朝になって女中からあんたが隣室に泊っていたと聞きましてね、それなら少し遠慮するんだったと後悔しましたよ",
"そんなことはありません、よく寝ました"
],
[
"水戸の御藩士ですか",
"さよう、拙者は久木直二郎"
],
[
"あんたはどちらです",
"四国の讃岐の者です"
],
[
"なんだ、急に、今になって",
"蒙昧の説とはなんだ、その意味をはっきり聞こうじゃないか、どこが蒙味だ",
"そうむきになるなよ、おれは貴公の説を蒙味と云ったのじゃない、誰をもさして云ったんじゃない、むやみに夷狄を討てという、理非を弁ぜずただ夷狄を撃攘しろという説は蒙昧だというんだ",
"なぜ、どうして、どうしてそれが蒙昧なんだ、その説明をしろ"
],
[
"未知であろうと既知であろうと日本人なら誰しも関心をもつべき問題だ、加地いいから説明しろ",
"では云おう、夷狄撃攘ということは、口でいうほど単純なものではない、祭礼の囃し文句ではないんだ",
"そんなことはわかってる"
],
[
"きさまの議論は蒙昧から飛躍しすぎたぞ",
"いやそのことをいっているんだ、おのれを知らず敵を知らずして徒らに干戈を執るものは亡びる、おれが蒙昧といったのはその点なんだ、夷狄を撃ち払うといっても、寛永の鎖国当時とは根本的に彼我の差がある、その差をよく究めたうえで、その差の重大さをよく知ったうえでなくてはならぬと思うのだ",
"火事になって、足もとまで燃えついてきたときに、きさまは火事の原因を調べるほうがさきだというのか"
],
[
"ではいったいどうしろと云うんだ",
"そんなことが簡単に云えるものか",
"簡単に云う必要はない、時間はいくらでもあるんだ、蒙昧でないきさまの意見を聞こうじゃないか……",
"おれは開国を主張する"
],
[
"いや……そんなことはありませんが、たださきを急ぐので",
"じゃあどうしてはじめに急がなかったんだ、こっちの差した盃を受け、今まで議論を聴いていたのはどうしたんだ、……おい讃州、あんまり人をばかにすると唯では済まんぞ"
],
[
"仰しゃるとおりです、拙者の不調法でした、ご勘弁ねがいます",
"そうわかればいい、わかったら坐りたまえ、日本人なら聞きすごしのできぬ問題だ、そして貴公の意見も聞こうではないか",
"しかし実際、さきを急ぐものですから"
],
[
"文句はいらん、抜け",
"いやですよ、拙者はあなた方を侮辱したとは思わないし、あなたとはたし合をする意味も認めません、いったいあなたはなにを怒っているんですか"
],
[
"ではどうしたら気が済むというんです",
"土下座をしてあやまれ",
"…………",
"そうすれば武士の作法がどんなものか少しはわかるだろう、土下座をしろ"
],
[
"うん?……おれか",
"そうさ、おまえさ、誰だいおまえは"
],
[
"おれは旅の者だよ、どうしてそんなにじろじろ見るんだ坊や",
"どうしてというのはこっちのことさ、どうして旅の者がこんなところに立って、ひとの家をこそこそ覗いているんだ",
"……これは坊やの家か",
"そうでなくってさ"
],
[
"兄さん此処だよ",
"ああそこにいたのか、先へいってしまったのかと思った"
],
[
"螢をとりにゆくんです",
"そうですか、小四郎さんがご心配のようだから、では拙者も宿へ帰りましょう、いっておいでなさい"
],
[
"なにを騒いでいたんだ",
"いま此処ではたし合があったのです",
"ばかな真似をして……",
"いやわれわれではありません、一人はいま逃げ去りましたが、一人はまだそこにおります、どうやら他国の仁らしゅうございますが"
],
[
"御門前を騒がしまして申訳ございません、わたくしは讃岐高松からまいった者でございます、失礼ながら藤田先生でございましょうか",
"おれは藤田だが……"
],
[
"けれどもぞっとしたんだから仕方がないですよ、……おい早水、そこで改めて訊くが、貴公はおれの胴をとったのを承知していたのか",
"つまらぬことを訊くやつだ"
],
[
"どう当然なんだ",
"あのような打込みになればは一方勝負というわけにはいかぬでしょう、あなたの太刀がわたくしを斬れば、わたくしの太刀も必ずあなたを斬っていますよ",
"つまり貴公は知っていたわけなんだな",
"……知っていました",
"それでどうしておれの勝ち名乗りを黙っていたのかね、おれが貴公の衿前を斬ったといったとき、どうして貴公も自分が胴をとったことをいわなかったんだ",
"必要を認めなかったからです",
"なぜ、なぜ必要を認めなかったんだ"
],
[
"老公に拝謁がねがいたいと存じまして",
"あんたが直々にですか",
"処士の身でまことに僭越ですけれども、左近頼該から言上すべき旨を申付かってまいったのです、特に先生のおとりなしをたのむよう御迷惑ながら押してという事でお願いにあがりました"
],
[
"それではやはり甲辰の事のおにくしみがまだ解けないのですか",
"甲辰の事に関して水戸藩士の一部が高松侯に忿懣をいだいているのは事実です、けれどもそんなことはとるに足らない血気の慷慨で、心ある者はもう問題にしてはいません",
"しかし事実において、本枝の間が疏通を欠いているとはお思いにならないでしょうか",
"たしかに、そうでしょうね",
"そしてその原因が甲辰の事に根ざしていると考えるのは間違いでしょうか",
"それもたしかでしょうね"
],
[
"そう思います",
"いくたびふり返って考えても、義公が御世継ぎを高松へ送り、高松から水府三代を迎えられた英断は美しいものですよ、それ以来の三次四次に渉るおなじ関係は、その美しさを継承する意味で稀なものです、両藩はつねに倶に水火を辞せざるつながりにあった、それが甲辰の事から、開宗以来はじめて阻隔した、つまり、時代です"
],
[
"水火を辞せざるつながり、どのような事情も壊す事のできない関係も、もはやどうしようもない時代が来たのです、甲辰の事が水戸と高松を阻隔したのは人間感情を時代が決定した証拠なので、卑俗な反感とかにくしみとかに依るものではありません",
"時代が人間感情を決定するとは具体的にいってどういう点を指すのですか",
"封建の思想がうち壊されたということです"
],
[
"たしかかとはどういう意味で",
"この頃しきりに幕府政体の崩壊ということを聞きます、ひと口に申せば、若い人々の多くはそのことを措いてはものを考えることもできないようすです、封建の思想が幕府政体に根ざしていることは事実でしょう、そうすると先生も幕府崩壊ということを認めておいでなさるのですか",
"あんたの言葉は順序が違う、なるほど、封建の思想は幕府という政治体から発生はした、同時にそれが幕政を維持して来たことも事実だ、けれども政治のかたちというものは固定してはあり得ない、絶えず進化し流動する、江戸幕府もその開府した時からつねに進化し流動して来ているが、現在ほど大きな変換に直面したことは曾てない、そしてこの変換に処するためには、従来それを維持して来たところの思想、……寧ろ道徳観というべきものを根本的に改廃しなくてはならないのだ、つまり封建の思想をうち壊すことに依って、はじめて幕府の新しい生面が拓かれると解さなくてはならない",
"けれど根本理念を改廃するということ、封建の思想をうち壊すことが、幕府の存在と関係なしにおこなわれるものでしょうか",
"幕府は思想によって在るものではない"
],
[
"それは表面をみているためだ",
"しかし水戸が幕府の枢機に参画しているのは事実ではありませんか、高松が甲辰の事に当って老公の反対側に立たざるを得なかった事情は、老公が現在の位置に立たせられた以上よく御了解を願えることだと思います",
"わたしは甲辰の事などを云ってはおらん",
"拙者はそれを申したいのです"
],
[
"あまり嗜みません",
"そうそう、久木たちとも飲まなかったそうだな、では失礼して、一盞するよ"
],
[
"われら如き者も、高松にこの君ありと思ってずいぶん心強かったものだ、それが、人間はやはり磨かれぬといけないものだ、風土の穏やかで豊かな環境にばかり籠っていると、しぜん身も心も泰平になる、曾ては国を念って夙夜寝ることのなかった者が、やがては徒らに肥え太って身じろぎも重く、壮年にして早くも後世の安楽をたのむという愚昧なことになってしまう、まことに哀れとも不甲斐なしとも云いようがないありさまじゃないか",
"わたくしは亀阜荘さまが後世安楽をたのんでいらせられるとは存じませんが",
"それならなんのための日蓮執心だね、あんな無用なものに暇を潰すのが、後世安楽をたのむ以外になんの役にたつ",
"日蓮宗は無用のものですか"
],
[
"箱根のその宿に、三日おりました、折あしく雨にもなり、その三人の国侍がどうしても眼をはなさないものですから……",
"そうですか、ではそこで寒竹先生とごいっしょにおなんなすったんですね"
],
[
"太橋さまがお風呂場でお会いになったとうかがいました、それで竹亭さんと、ごいっしょの書肆の方、妓の方たちとお伴れになって箱根を立ってまいりました",
"お武家のお嬢さまがそんな連中とお伴れでは、途中さぞご迷惑なことばかりだったでしょう、若旦那もお考えがなさすぎますよ",
"でもそのおかげて国侍たちの眼をのがれることができたのですもの、ほかにしかたがなかったのでございますわ"
],
[
"それで途中ずっとごぶじで、此処までいらしったんですか",
"はい、おかげで三人の国侍とはとうとう会わずでございました"
],
[
"ふざけちゃあいけないよ、作り声なんぞをしてなんだね",
"あんまりしんとしているからまたどこかの偽の藩札でもこしらえてるんじゃないかと思ってね、当時流行るそうだから",
"寒竹の人情本じゃ有るまいし"
],
[
"歌暦はあがったさ、あんな物にいつまでかかってるようじゃあ商売にあならねえ、こんどのはぐっと新しい趣向で、まだどの作者も手をつけたことのない世界を書いてるんだ、それでひどく骨が折れるのさ",
"おまえさんのは始まりはいつも新趣向じゃないか、まだ誰も書かない世界というのはおまえさんの口癖だよ、そのくせ書きあがったのをみるとなんにも新趣向なんかありあしない、たかが子守っ子をおどかすくらいが関の山さ"
],
[
"いいかげんにおしよばかばかしい、おまえさんの趣向に西鶴を担ぎだすことはないじゃないか",
"だって例えをひかなくちゃあ理会がつかない",
"例えにひくならもっと似合った者をひくがいいのさ、跛が韋駄天を褒める様なのはみっともないよ"
],
[
"ときにお嬢さん、このあいだ贈呈したあたしの作、読んで下さいましたか",
"……はあ"
],
[
"冗談じゃないお武家のお嬢さまにあんなものをおみせするやつがあるかい、若旦那に知れたらお前さんお出入りを止められるよ",
"へえ――あたしの作はお武家のお嬢さんには悪うございますかね",
"お武家には限らないさ、まっとうな家なら読ませられるものじゃあないよ"
],
[
"それあ良い小説はそうだろうがね、口で云うのと本になったのと別々じゃしようがないよ",
"おっと、そう仰しゃるが作者だって人間でげすからね、はじめっから聖人のような作はできませんッ",
"だったら聖人になってから、いいえ聖人の万分の一ぐらいでもいい、ちょっとはましな人間になってから書いて貰うんだね、この激しい御時勢にのんきな色恋ばかり書いて、それで口だけいっぱしじゃあ世間さまに済まないよ",
"ところが御時勢の激しいおかげで、のんきな色恋小説が売れるんだから面白い、なにしろ『艶色恋の手車』がまた重版でげすからね、どっちにしたって面白くなけれあご看客は買わねえ、こないだ脱稿した『歌暦』なんぞは、初版が三千という稀代の部刷りだ"
],
[
"お帰りなさい、え、まだどなたもみえませんでしたが、いらっしゃる筈だったんですか",
"もう来る時分なんだが"
],
[
"素人は黙ってて貰いてえ",
"さっきから素人をたいそう並べるようだが、おまえの小説は素人に読ませるんじゃあないのか",
"つまり、そこが悲しい",
"はっきりしろ、勿体ぶるからいうことがちぐはぐになるんだ、おまえは本が売れて金が取れればいいんだろう、そう泥を吐いちまえば楽じゃあないか、論語だの孝経なんぞと心にもないことをいうから梅八にやっつけられる、寒笑は寒笑でいいんだ、しっかりしろ",
"それじゃあまるでかた無しだ",
"ついでにいい趣向を教えてやる、小説の中へ紅毛人の言葉を入れるんだ、ヘイルメイステルが来たからホントを繋げ、ってなことをやるんだ",
"そいつあ新しい"
],
[
"なに新しかあない、洒落本なんぞじゃあずいぶん使ってる手だ、けれども人情本には珍しいからちょっとは受けるかも知れない",
"そ、それで今のそのフイステルとかなんとかいうのは全体なんのこってす",
"釈迦がそ云ったとさ、おれも知らない"
],
[
"これはおいでなさいまし",
"暑いな",
"ひどく照ります、どうぞお通り下さい"
],
[
"どういう御用でございますか",
"……いいか"
],
[
"例の……支度でございますか",
"そうだ",
"もうそのように手順が進んでいるのでございますか",
"誰か先鞭をつける者が、もう出なければならぬ時だ、志士論客が殖えるばかりで、実際に事を示す者がなければしようがない、成る成らぬは別だ、おそらく成就はせぬだろうが、一拳を空に挙げるだけでもむだではないと思う",
"するとお国許とは別行動でございますか",
"そこは折衝の上だ"
],
[
"はい、両三度ほど……",
"やはり日蓮宗で夜も日もなしという御容子だったか",
"そこまでは、よく存じませんでしたが"
],
[
"手形が遣わしてあるのですな",
"二百金だけ遣わしてある",
"……承知いたしました、手順をつけましてなるべく早く人をやると致しましょう",
"それからもう一つ"
],
[
"これはなんだ",
"暑気ばらいです、召上ってごらん下さい"
],
[
"これは冷たくてうまいな",
"よろしかったら代えます"
],
[
"いつぞや依頼してあった鉄と銅、あれを少し急いで集めて貰いたいのだ",
"だいたい大阪の倉にはいった時分だと思いますが、高松へ積み出してよろしいかどうか伺うつもりでおりました",
"高松へ送るのはよす、近日のうちに藩侯がお国入りだし、亀阜荘の模様がはっきりせぬからこちらでやる算段をつけた",
"鋳工所がございますか",
"尾州領の内にありそうだ、それについては若狭の仁で奔走して呉れている者がある、そこもとはまだ会ったことがないかな、梅田定明という人だが"
],
[
"いま水戸へ行っておるが、戻ったら拙者がいっしょに尾張へ行く約束だ、なんといっても大切なのは鉄砲だから、そのとき馬を集める場所もきめて来るつもりだ",
"では鉄銅の事はどう仕りますか",
"いや、荷が揃っておればよいのだ、鋳工所がきまり次第また知らせてよこす"
],
[
"例の三当旗でございます",
"ほう、……これか"
],
[
"亀阜荘さまの仰付けで十旒だけ染めさせました、京で同じほど染めさせております",
"……これを押し立てて"
],
[
"お帰んなさいまし、和田屋さんがいらしってお待ちかねですよ",
"そうか、それは済まなかった"
],
[
"待たせて済まなかった",
"お帰んなさい",
"ちょっとさる版元から呼びに来られたもんだからね",
"版元ですって、なにか出す話ですか",
"おれの作が欲しいというのさ、なに珍しかあない、日に一つでもないが三日にあげずどっからかやって来やあがる、分さえ良くすれあなんでも書くと思ってるんだから……近頃の版元も格が落ちたものさ",
"版元の格が落ちたんじゃあない竹亭さんの値打があがったのさ",
"う、さアねえ、そんな甘い手でまたいたぶる気だろう"
],
[
"和田屋の藤吉という者だが、お客様はいらしっているかい",
"はいお待ち兼ねでございます、どうぞ"
],
[
"へえ、へえ戴きます、おそれいります",
"飲まぬか",
"へえ、おそれいります"
],
[
"恐がることはない、近う寄れ",
"へえ……"
],
[
"そのほうの前に、太橋家の別宅があるであろう、そこへ高松藩の者が出入りをする筈だ、存じておるか",
"へえ、いいえ、わ、わ",
"知らなければよい、これから申すことをよく聞いて、そのとおり働くのだ、当座の袂としてこれを遣わす"
],
[
"……はあ、藩士ではございません、郷士の伜でこざいますが",
"いや郷士でも構わん、高松の江戸屋敷にはなかなか骨のある人物がおるぞ、これには是非とも会われるがよい、知っておられるか、校川宗兵衛という仁だ"
],
[
"ぜひそのうち御案内を願いたいと存じます",
"今日いってみるか",
"有難うございますが……今日は少し先生にうかがいたいことがございますので"
],
[
"初めてうかがった時のお話が中途で切れたままですし、実は梅田さんからいろいろ聞かされたものですから",
"ああ、梅田氏はあんたと同じ宿になったそうだな",
"それでたびたびお説を聞くことになるのですが",
"元気いっぱいな頗る壮烈な意見をもっている、わたしは『頗る』という形容を使ったことがないけれど、あの人の意見にはそういうものを感じましたね、頗る壮烈……ずいぶん元気なもんです"
],
[
"そういう質問には、わたしは返答をしないことにしている、どうしてかというと、言葉の応答では真実を伝えることがむずかしい、まったく言葉ほど不完全な、不自由きわまるものはない、どのようによく選みどれほど巧みに云いまわしても、そうすればするほど真実から離れてしまう、人と人とのあいだに或る程度の折り合をつけるほどのことしか言葉にはできない、梅田氏に云ったのも、いまそこもとの口から出たとおりではなかった、まるで違う意味になっているところもある、僅かに一人の口を通って来ただけでこのように変るのは、聞く者が意味をとり違えるというより言葉のもつ不完全さにあると思う、だからわたしは大抵の場合この種の質問に答えないことにしているのだ、しかし、よろしい、あんたには答えられる限り答えよう、いったいなにが知りたいのか",
"攘夷の説が国論民心を統一する為の便法だという、それが事実かどうかうかがいたいと存じます",
"細説はあるが事実だ",
"すると夷狄撃攘の論は、そのままの意味では人を欺くものなのですね",
"ばかなことを云ってはいけない、人を欺くなどということは軽々しく口にすべきではない、国論民心の統一と攘夷の論とを区別して考えるから誤る、両者は一なんだ、今まじめに世界のありさまを観る者は、単純な攘夷などで国家の安全の保し難いことが瞭然だろう、日本人としては日本を主体として考え行うのが当然だけれど、世界の勢いはもうそれをそのままでは捨てて置かなくなっている、諄く云う必要はあるまい、日本はこれらと同等の位置に立つか、それとも征服されるか、この二つの内どれかを選ばなくてはならぬ時期に当面しているのだ、征服されるのを善しと思わぬかぎり、かれらと同等の位置に立ち、或いはかれらを凌ぐ存在にのしあがらなければならぬが、現在日本の文物をもってしては不可能というよりほかはない、数理化科学、機械工学、火術、船舶、これらのものは彼我のあいだに甚だしい懸隔がある、その差をある程度まで縮めないかぎり身動きはできない、本当に国を憂い国民の前途を念う者なら、この点のゆるがせならぬことはわかる筈だ"
],
[
"徳川幕府の採った鎖国主義以前から、我われ国民の大多数には国家意識というものが明確でなかった、主従、家族という縦の関係は極めて固かったけれども、国家とか民族とかいう横の関係はばらばらだった、これをこのままにして開国する危険は二三にとどまらないが、最も忍ぶべからざる点は外人の軽侮を買うことだ、軽侮に次いでなにが来るかということは口にするまでもないだろう、従って開国が避くべからざる事実とすれば、我われのなにより先に解決しなければならぬ問題は国家と民族意識を確立することだ、横の関係に於て民族ぜんたいを繋ぎ、これにたしかな国家観念を与える、これが第一なんだ",
"一言にして云えば、攘夷論は毒を以て毒を制するということができますか"
],
[
"諦めるほうが賢いだろう、あんたの使者の立場にはお気のどくだが、本枝和解などはもう末の末だ、時はぐんぐん動いている、ほかにもっと重大な問題がある筈だよ",
"さればこそ本枝和解が大切なのだと存じますが",
"さればこそとは",
"さきほど先生の仰せに、まず国論民心の統一というお言葉がございました、さし迫っている時代の転換が重大であればあるだけ、国内はひとつに纒まらなければならぬ、『日本中の心が天皇親政の一点に集中した時』と仰せられた、その集中のためには小怨私憤を去って大きく纒まらなくてはならぬと思います、高松はそれを望んでいるのです"
],
[
"ええ、ああまったく思わぬ雷さまだった、おかげで酔いがさめたよ爺さん",
"飲みなおしでございますかね",
"雨のやむまでな"
],
[
"それは本当か、新島が追っていったというのは",
"現にわたくしが会ったのですから"
],
[
"滝川の指図に違いない",
"たしかだ",
"しかし新島は十日ほど前に屋敷へ帰っている、おれは昨日も会ったぞ",
"ではとうとう追いつかなかったのですよ"
],
[
"まったく早水さんの剣はふしぎな味をもっていますね",
"そういう太橋さんもなかなかやるじゃないか、上原道場で二本と云われているだろう",
"鼻下の二本でしょう"
],
[
"それは校川さま御自身でもそう仰しゃっていました、高松とはもちろん、江戸屋敷のかたがたとも別行動のようでございます",
"だってそれでは挙兵の人数をどこに求めるんだろう",
"わたくしにもまったく推察がつきませんけれども、ただ若狭の梅田という者が、その計画に与っている模様でございます",
"若狭の梅田、……"
],
[
"だがそれはさし迫っている事かしらん",
"わたくしが考えますのには、殿さまの御帰藩ちゅうではないかと存じますが"
],
[
"それには案があります、わたくしが考えますのに、校川さまがご自分をすてて事を決行なさるについては、本枝和解が望みなしと見切りをつけられたからと思います",
"見切りをつけたという事実があるのか"
],
[
"そう思います",
"それで、校川氏の決行をとめる案とは",
"やはり同じです",
"滝川、秋山を除くことか",
"そして本枝和解の道をひらくことです、水戸との提携が成功すれば、校川さまの事を急ぐ気持も一応はひるがえすことができると信じます、現在お考えになっている挙兵の事はいかにも壮烈ではありますが、少し壮烈さに価値を置きすぎているようにも思えるので、わたくしもできるならおとめ申すのが本当だと存じます",
"案というのはそれだけかね"
],
[
"なんだか、わけがわからない、若旦那、なにか粗相でも致しましたんですか",
"猿芝居はよせ、おまえ自分がどんな顔をしているかわからないのか、江戸っ子ならみれんなまねはするな、誰にたのまれたか云えばいいんだ",
"だってあたしは、決して"
],
[
"わたくしは構いませんが、貴方がたにご迷惑がかかるといけませんから",
"大さんにも似合わない、そんなことが心配で仕事ができるものか、みんないざというときの覚悟はできているよ、寒笑ごときの密告によらずとも、われわれの首を覘うとなればいくらも材料はあるんだ、可哀そうに死ぬほど蒼くなっているじゃないか、寒竹先生、もういいからいけいけ",
"へえ……どうも、どうも"
],
[
"おい、大河さまにお礼を申上げないか、おまえ首がないところだったんだぜ",
"へえ……どうも、大河の旦那"
],
[
"太橋の店が手詰りだって",
"以前のようにはまいらなくなりました、こんなことは申上げたくないのですが、商法ほど時勢を反映するものはございません、なにしろ肝心の父やわたくし共がまるで商売を投げやりにしています、手代まかせでやっていれば、いつかはゆき詰るのが当然ですから",
"まったく、高松も江戸も、われわれはなにもかも太橋さんだったからな",
"もちろん、そう云っても眼の前に迫ったことではございません、まだ二年や三年はもちこたえられると思いますが、穴の明かないうちに大口の始末はつけて置きませんと",
"木曽へは大さんがいってくれるかね",
"まだきめてはおりません、そうなるかも知れないとは思いますが、これはまかせて頂きます"
],
[
"お使いだてをしますが、熱い茶をいっぱい淹れて下さい",
"はい",
"あっと、火があるかな",
"はい、ついたばかりでございますから"
],
[
"結構です、酒で喉がやけているものですから……何を書いていらしったんです",
"はあ、あの……",
"こまかい書きものをなさるときは、もっと灯を明るくなさらないといけませんね、なにか写しものですか",
"いいえ、心覚えの日誌を"
],
[
"お客さまはどなた",
"笛のお武家さまです"
],
[
"秋のようでございますね",
"世の中がはげしくなると気候まで変るようだ"
],
[
"隠すとは",
"御身分までうかがおうとは思いませんけれど、お名前も知れず、御風懐も見せては下さらないじゃあございませんか"
],
[
"梅隠亭へ着けてくれ",
"と、……木母寺のしもでしたか",
"牧野備前の上だ",
"ああそうですか、近頃できた家でしたね"
],
[
"お待ち申しますか",
"うん"
],
[
"静かないい家でございますね",
"たべものもなかなか悪くない"
],
[
"ええ、讃岐のものもちの若旦那で昌平坂の御学問所へもいらしった学問のある方なんです、気性のさっぱりした、若い人には珍しいほど人情の厚い方ですよ",
"いちど会ってみたいものだ",
"きっとお話が合うと思います"
],
[
"さあそれは、……なんでも木曽から大阪のお店へまわる用があるとかで二三日うちに出立なさるということでしたから",
"木曽から大阪の店へ……",
"帰っていらしってからなら、きっとお会わせ申しますけれど",
"それは急ぎの用なのか",
"ええよくは知りませんが……"
],
[
"動くな、結城寅寿、逃げられはせんぞ",
"……ぶれいな",
"なにをぬかす、坐れ"
],
[
"騒ぐな、人を呼ぶのはおれたちは構わぬ、しかしこの男がそれは困る筈だ",
"なんですって",
"騒ぐなというんだ、おまえはなにも知るまいが、さっきからこの男のさそいに乗って、云ってはならぬ事をだいぶ口にしているぞ"
],
[
"高松藩邸におる……",
"たしかに",
"そして、近く讃岐へまいる"
],
[
"いまお武家さまは、わたくしがこの方の口にさそわれて、云ってはならぬことを申したと仰しゃいました",
"云ったよ",
"それはどういう意味でございますか、云ってならぬこととはなんでございます、それを聞かせて下さいまし"
],
[
"先日お国許から松崎さんが出府して来ましたよ、それで心配していたんだが、例の刺客はどうしました、十日ばかりまえにお屋敷へ戻ったそうだが、結局会わずに済んだわけですが、松崎さんはあなたなら大丈夫、たいていの者に討たれる気遣いはないと云っていたが",
"松崎はなんのために、出府して来たんだ"
],
[
"もう帰ったのか",
"まだいらっしゃる筈ですが、それについて少し困ったことが出来ましてね、……しかし話をするには此処は暑すぎる、どうですか、済んだのなら、わたしの家へいきませんか",
"夏はどこでもあついよ"
],
[
"そんなことをずばずば大助に云ったのか",
"だってそれが、わたしの役だもの、但し校川さんには死んで貰いたくない、これは江戸藩邸の方々も同意だし、亀阜荘さまにもそう思召されることだと思う、そこでこんどの御帰国を幸い、校川さんに高松へいって貰うように手配をしたんだ"
],
[
"たぶんそれはうまくゆくと思うが、問題はそのあとのことだ、実は校川さんが急ぐまでもなく、ことを決行しようという気運はだいぶ動きだしている、松崎さんの話によると高松のようすも僅かなあいだに変ったらしい、江戸藩邸でもかなり燃えたって来た、つまりじっとしていられなくなったんだ、校川さんは、『一拳を空に挙げる』と云われたが、なにかをせずにいられなくなって来たんだ",
"なにをしようと云うんだ?",
"校川さんの案では彦根城を乗っ取ることだった、わたしも狙うなら彦根だと思う、それには木曽の駒場にもう手金がうってあるし、銃砲の鋳工所も校川さんの手で尾州領にみつけてあるという、例の大和の伴林どのとの連絡にも都合がよい、すべてが彦根ならではといいたいくらいだ",
"伴林どのも動くというのかね",
"吉野の千本槍をいつでも提げて出るという"
],
[
"それでわたしは木曽へゆくんだが、木曽から大阪の店へまわって尾州領の鋳工所というのを見て、大和のようすをもういちどたしかめて来るつもりだ",
"誰が采配をとるんだ"
],
[
"それはだめだろうな",
"どうして……",
"いま大さんは、松崎の話に高松のようすも僅かなあいだに変ったと云ったろう、その意味は単純じゃないぞ",
"どう単純じゃないんだ"
],
[
"われわれはこれまで封建的政治を打倒して、王政復古へもってゆこうとした、動きつつある天下の気運を糾合して、倒幕の義旗を挙げようと計った、おれが亀阜荘さまの仰せ付けで水戸へいったのも、両家の和解と提携とが目的だ、これらのことは、それなりにまた無意味ではない、慷慨の士が諸国に遊説し、諸藩の勢いを勤王に向けようとするのも、それはそれとして意義のあることだ、しかし……われわれはもうひとつ眼をひらかなくてはならぬ、と云うのは、仮に幕府が大政を奉還することを考えてみたまえ",
"……なんだって"
],
[
"それはおかしいじゃないか、政治を奉還することは幕府の消滅だと思うが",
"だが征夷大将軍の位は政治と無関係に存在するよ、つまり大政は奉還するが兵馬の権は放さぬ、しかも大政を奉還することによって幕府は大義名分をたて、みずから朝廷守護の位置に任ずることもできるのだ"
],
[
"そうではない、竹隈で聞いた色いろの説を総合し、また幕府が水戸老公を帷幄へ迎えようとする事実を考えると、そういう懸念が強く感じられるんだ、そして、ここから推考すると、そうした懸念は幕府ひとりでなく、現に動きだしつつある諸藩に就いても云えることだ、単刀直入に云うと、表に王政復古を唱えて、実質的には幕府に取って代ろうとする野望、こいつだ",
"それもわからなくはないが、……然しそういう風に足踏みをし始めたらなんにも出来なくなりはしないかね"
],
[
"お眼にかかりました、数日、宿をとりまして、色いろお教えを受けました",
"水戸にはこの時代の原動力があると世間でよく云われる、老公と藤田氏と結びついたところには、たしかにそれがある、己は老公にもお眼通りしたし藤田氏とはかなり親しい往来があった、だから世間の評が誤りでないことは知っているが、……おまえはどう考える"
],
[
"どういう点が違う……",
"ひと口に申上げれば、時代の原動力が水戸にあった時期は既に去っている、そういう感じです",
"井の蛙の管見か",
"そうかも知れません、けれども既に去っていると申しましたのは遠慮で、直截に云いますと過去のものにしなければならぬとさえ感じたのです"
],
[
"私は竹隈で会沢氏の『新論』という著書を読みました、主旨はよくわかるし異存はないのですが、文章表現の点で困る部分が多いのをみつけたのです、日本を神州と謂い、海外諸国を挙げて蛮夷であるとする態度、全篇を掩っているこうした理性を欠いた表現は人を誤ります、……藤田先生にはずいぶん多く教えられましたし、達人の見識として敬服したには違いありませんけれども、やっぱり会沢氏と共通する情熱の無算当な飛躍が……",
"ちょっと待て、情熱の無算当な飛躍というのはどんなことを指すのだ"
],
[
"その論調は西洋畏怖ではないのか",
"事実を事実として観たいのです、筆や舌頭で無根底な誇示に酔っている時は去りました、我われは相手を正しく知り、おのれを掛値なしに見直さなければならない、そういう時期に来ていると信じます、痴人の白昼夢より、寧ろ臆病者の算盤のほうを、私は採ります"
],
[
"さし当っては徒労に終った旨をお伝え申し、私の思案は別に申上げようと存じます",
"すぐ帰国するか",
"太橋の大助が木曽へ商用にまわるそうで、幸いですから私も同行しようと思います"
],
[
"いいえ、木曽から先はどうなるか未定です、私にはまたという折もありませんので、できるなら京のようすを見てまいりたいと思います、……それに就いてお願いがあるのですが",
"……なんだ",
"水戸での始終を亀阜荘さまへ御復命ねがいたいのです、このたびの御帰国に扈従なさるように伝聞したものですから……",
"誰がさようなことを申した"
],
[
"ですが、みんなは貴方に死んで頂きたくないのです、ここで貴方を喪っては、あとを継承する者がない、どうしても生きて頂かなくてはという気持なのです",
"今は生きる死ぬを問題にする時じゃない、誰かが、なにかを為さなければならん、それをおれがするだけだ",
"みんなが貴方に代って致します、みんなその覚悟をきめているようです"
],
[
"おれは帰国のお供を辞退しようとしたが、どうしてもお許しがなかった、脱藩することは知っているが、睨まれているおれの脱藩はすぐさま事のやぶれになる、義旗のもとに死ぬのは望むところだが、脱藩の罪で死んでは真実が闇へ葬られるだけだ、しかも多くの同志をも道伴れにしなければならぬとすると、冒すべき危険は大きすぎる",
"危険と申すよりも、それは無謀に近いと存じます、為さんとする意義さえたしかなれば誰が為すかは重大ではありません、かれらは充分やると信じます"
],
[
"もう四五日うちだ",
"御旅中をおいとい下さいまし、水戸のことも亀阜荘さまへお願い申します"
],
[
"云い忘れた、水戸家の久木直二郎という人がおまえをたずねている、なにがあったかおれは知らぬが、覚えがあるか",
"……ございます",
"捜しているようだ、久木氏はなかなか剛気の仁だ、注意しろ",
"有難うございます"
],
[
"若旦那はもうお立ちですか",
"緞帳芝居でたてを弾きあしまいし、ものを云うなら坐ってからにおしな、お嬢さんのいらっしゃるのが見えないのかい"
],
[
"うるさいねえ暑いんだからそう吠えなさんな",
"吠える、……なるほど、然しものには云いようもあり聞きようもありやすからな、和言で聞けば犬の遠吠だが、これをヨーロッパの言葉で解けば、ホウエルてえと、……つまりその、なんでさあね、鯨だかなんだったか、そのう",
"鯨も毛物だそうだから吠えるには違いないじゃないか、別に威張るほどのことでもないだろう"
],
[
"お武家では三条とか甘露寺などという伝法があるそうでげすな、里神楽や下座鳴物の笛とは格別でげしょうが、実は私こんどの作の道具廻しに笛を使う積りでして、ちょっとまあ文献を調べてみたんでございます、へえ",
"またでたらめをお始めかい、おまえさんの作なんぞ笛が出たって太鼓が出たって代り栄えはありあしないよ、それよりなにか用があって来たんだろう、用から先に片付けたらどうなのさ",
"せっかく蘊蓄を傾けようと思うとこれだ、ひと口めにはおまえなんぞの作はとくるが、小説なんぞと軽く考えたら大間違いですぜ、なにげなく出て来る笛一本にしたところが、諸家を尋ねて故実来歴から名物まで調べ、これを婦人がたや子供衆にも理会のいくように、話の筋とうまく絡めて知らず知らず学問の足しにもなろうという"
],
[
"ああお立ちになったよ",
"なにか云い残しはござんせんでしたかね、実はこないだ和蘭陀語の字引を貸して遣ろうと云って下すったんだが"
],
[
"いま出してあげるけれど、そこらへ店を弘げられちゃあ邪魔だね",
"なに幅は取りやせん、精ぜい縮まってやるからそっちの隅でも貸してお呉んなさい、ひとつ小机があれば有難えのだが",
"勝手な熱をあげるよ"
],
[
"おやお暑うございます",
"お揃いでどこへゆく",
"お風呂へまいるところですが、貴方さまはどちらへ",
"おまえのところへ来たのだが",
"では戻りましょう、どうぞ",
"済まんな、ちょっと貰ってゆきたい物があるので……",
"御遠慮には及びません、ひと跨ぎですから、藤尾さんはどうぞお先へいらしって",
"いいえ、わたくしも"
],
[
"このあいだ立聴きをしたとき、おれたちはながい馴染に免じてみのがしてやった、覚えているだろう、相手が寒笑でなければあのとき首は無かったんだぞ",
"……へえ",
"三当旗を盗んでどうしようというんだ、誰にたのまれたんだ"
],
[
"誰にたのまれた寒笑、このまえの時とは違うぞ、うろんなことを申すと本当に斬るぞ、この旗を盗めと誰にたのまれた",
"へえ……たき、た、滝川"
],
[
"滝川内膳さまにおたのまれ申しました",
"この旗のことを内膳が知っている筈はない、きさまこのあいだ聞いていて饒舌ったのだろう",
"いいえ決して、決してわたしは申しません、ほかから出た話なんです、まったくです",
"ほかから出たとは",
"水戸さまの内からです"
],
[
"誰だ、水戸家のなに者だ",
"よ、よくは存じません、たた滝川さまがそう仰しゃるのを伺っただけなんで、なんでも結城とか寅寿さまとか云っておいでのようでした、嘘は申しません、まったくです",
"結城寅寿……かれが知っていたというのか",
"その他にも色いろなことを知っていらっしゃるようすでした",
"ほかにとはどんなことだ",
"此処の若旦那が木曽から大阪へいらしったこともご存じのようすで、なんでもあとから探索をつけてやったとか、云っておいででした",
"太橋の木曽ゆきが知れた"
],
[
"探索をつけてやったというのは間違いないな、そしてそれは高松家中の者か、それとも水戸か",
"その結城という人のご家来と滝川さまのご家来だそうです、数はわかりませんが、話のもようではたしかに間違いございません",
"――間に合えばよいが"
],
[
"柳さまがいまお屋敷を出ていらしっては、滝川さまとやらの眼について却って事を悪くは致しませぬか、わたくしなればどちらへも知れず、ご存じの身の上ですから心配なくお使いできると存じます",
"しかし御婦人の身では……",
"かような事には女のほうがよろしゅうございます、乗物でまいれば道もはかどりましょう、ただ道中切手がございませんけれど",
"それはなんとかなりますが"
],
[
"あたしも藤尾さんにお願いするのが、いちばんいいと思います、柳さん、そうなさいまし",
"そうだな、お気のどくだが、そうして頂ければ",
"わたくしからお願い申します、太橋さまには大そう御恩になりまして、なにもお返し申すことができませんでした、これが御恩返しになるとは決して存じませんけれど、そうさせて頂ければ、わたくし嬉しゅう存じます"
],
[
"そうですか、ではだいぶ日数が経っていますから、乗物を継いでいって下さい、べつに云うことはありません、お聞きのとおりを伝えて下されば結構です、こちらは予定通りに事をはこんでいますからと",
"わかりました、必ずお伝え申します"
],
[
"おい寒笑、おまえこれで二度命びろいをしたな、おまえの知恵ではこんな仕事は無理だということがわかったろう、だが馬鹿は痛さが身にしみないものだ、おれがいなくなったら、滝川のところへ藤尾どのの出立を内通にゆくかも知れん",
"いえ、け、決して",
"いってもいいよ、ただそれが三度めだということだけは覚えておくんだ"
],
[
"片方には御国のために、ご自分の命を捨ててはたらいている方々がいらっしゃる、此処でお集まりなさる柳さま大河さま方、若旦那もそうです、あたしはそういう方々を自分の眼で見ていながら……御国のためというのがどういうことか、ご自分の命を捨てるということがどういうものか、霧の向うにある物を見るような朧ろな気持でしか考えられませんでした、あたしなんぞには縁のないもの、違う世界のことだというふうに思っていました、どんなに厳しくとも芸の道は自分を出ないんです、世間を知らないことが自慢になるぐらいなんですから、……あたし本当に自分たちと貴女がたの違いを悟りました",
"まあ、そんなことはございませんですよ、人はそれぞれ身の上も生き方も違うのですから"
],
[
"宋僧の祖元かね",
"弘安四年に元軍が来寇したとき時宗は祖元をたずねて『大事到来せり如何すべき』と問うた、すると祖元が『煩悩すべからず』と答えた、時宗が言下に大喝した、祖元はにっこと笑って、『獅子児よく吼えたり』といったという",
"有名な話だね",
"しかし虚妄の伝説だ"
],
[
"なるほど多少穿ちすぎてはいるが、たしかにそういう視かたもあるな",
"湊川合戦のときにも同じような話がある、楠公は合戦の前に楚俊という禅僧を訪い、『生死不識の時如何』と死に臨んでの覚悟をきいた、楚俊は答えて『両頭を裁断し一剣天に倚って寒し』という、正成が重ねて『畢竟するところ如何』と問うや僧は喝と叫んだ、それで正成は大いに悟るところがあり、勇んで湊川へ出陣したという、だが考えてみたまえ、楠公は桜井駅で正行と別れるとき、あきらかに戦死と心をきめている、それは烈々たる遺訓によくあらわれている、いやそれよりも初めて吉野へめされたとき、すでに一族必死の決意をかためているんだ……いいか、それなのにこれぞ最期という合戦に臨んで、改めて生死関頭を問う必要があると思うか、否だ、これも禅家の拵えた虚妄の伝説だよ、楠公はそんな人であってはならないんだ"
],
[
"この二つの伝説は、禅宗を価値づけるためには絶好のものだ、しかし時宗や楠公が禅によって或る決意を固めたという、話そのものはとるに足らぬともいえるが、そういう伝説が弥蔓したところに生ずる観念を思うと、とるに足らぬとは云いきれない問題が起こってくる、現にみろ、武士道は禅と儒教の影響を吸って全きを得たといわれている、だいたい武士道というものは、日本人の純粋な心のあらわれだとおれは信じている、……これは久米の子らの精神なんだ、武家時代にはいってから直接の主人に対する忠というかたちをとって来たけれども、その真髄にあるものは久米、大伴らの氏かばねが皇統を護る精神なんだ、そこには禅や儒教などの影響は少しもありはしない",
"然し宗教というやつは善かれ悪しかれ宣伝的なものを持つのじゃないのか"
],
[
"休んでどうするんだ",
"この辺できまりをつけるほうがよくはないか、木曽へはいるまで跟けられては迷惑だ"
],
[
"だめだよ、捉えたって手向いをしなければそれまでだ",
"そんなことを云っていたらきまりをつけるときはないだろう"
],
[
"然し実際にはあれだけ悲惨な迫害史を遺した切支丹もあるし、現在だって仏壇のない家や、寺院のない村はないでしょう",
"切支丹騒動は一部の狂信的事件に過ぎない、真理というものは圧迫の激しいほど強力になるものさ、仏教はたしかに普遍した、然しそれは特権支配者のあいだに政治手段として取上げられたもので、仏教に救いを求めざるを得ない人たちに依って相伝えられたものじゃない、だから、仏壇を飾り寺参りはするが、仏教そのものに就いては大多分がなんの知識も持ってはいないだろう、ここでも、文句なしに神社へぬかずく性情が顕われているんだ"
],
[
"その言葉を私はこう直したいんだ、幕府が潰れようが、朝廷の御政治になろうが、己たちにとっては大したことじゃない、……これを更に押進めてみよう、亜米利加が来ようが魯西亜が来ようが、己たちの知ったことじゃあない、……わかるか大さん",
"どうも然し、どうも、そういう傾向は動かないようだな、残念ながら"
],
[
"あの人を早水さんに引受けて貰えませんかね、色いろ考えてみた結果、その他にはないように思うんですが",
"……悪い癖だね",
"おせっかいの小言ならわかってますよ、あの人を富士から伴れて来たのからして"
],
[
"でも考えて呉れませんか、お小言なら幾らでも聞きますよ、あの人はまったくの孤独で、私でもどうかなった後はゆき処もない身の上ですからね",
"己だって明日のことは知れやしない"
],
[
"お立ちでございますか",
"伴れの都合がわからないが、ことによると夕刻にでも立つかも知れない",
"……夕刻に",
"高島の温泉へいってみたくなったのでね",
"それはお娯しみでございます"
],
[
"客だって、間違いじゃないか",
"いいえ、こちら様のお名前を仰しゃってでございます、若い御婦人でございますが",
"じゃあ通して貰おうか"
],
[
"そんな挨拶なんかよしにしましょう、いったいどうしたんですか",
"貴方がたのお後を跟けている者がございますので、柳さまのお云いつけでお知らせ申しにまいりました",
"なんだ、そのためにわざわざ来たんですか",
"もうご存じだったのですか",
"新島八十吉という者のことでしょう",
"名は存じませんのですけれど、高松藩の方と水戸家の方とがいっしょだと伺いました"
],
[
"早水さん、いま跟けられていたのを知っていますか",
"そうらしかった"
],
[
"結城寅寿がどうしたって",
"ひと口には云えませんね、滝川老職も結城もひどくもがいている、ひどいもがきようですよ"
],
[
"わたしは死なしたくなかった",
"死ぬことは問題じゃない、問題はどう死ぬかだ、……おれは先日『死』を考えた、日本人の死のふしぎさを考えた、『この次の世には』という、転世の信念のふしぎさを、……いまここにその例にぶっつかっている、おれはむしろその女の死を褒めてやりたい気持だ"
],
[
"わたしが、だってそれじゃあ",
"新島と探索共はおれがひきうける、出立は今夜半がいい、そうきめよう"
],
[
"おれは此処で待つ",
"此処でどうするんですって",
"かれら待つのさ"
],
[
"じゃあ、そうしましょう、高島で待っています、宿の軒へこの筍笠を下げて置くから",
"いや高島で待つことはない、ゆけるところまでゆきたまえ、その筍笠に赤い布片でもつけて目印にしてくれれば、それをめあてに追いかける、なるべく先へゆきたまえ"
],
[
"どうするんだ、やるのかやらないのか",
"……拙者は、一人と一人との、勝負が望みだ"
],
[
"だから一人と一人だ、おれに助太刀でもあると思っているのか",
"……しかし、拙者は",
"文句はいらない、やるのかやらんのか、はっきりしろ新島",
"……どこでやるんです",
"先へゆきたまえ、その松林の中へはいるんだ、右だ"
],
[
"君は病気だ、肉躰の病気じゃない心の病気だ、おれを斬る気持はないが、申付かった役目を投げだすこともできない、どうしたらいいか自分に決心がつかないで、なにかしら偶発的な出来事が、解決してくれるだろうと待っている……そういう状態がどんな原因からきたものか知らないし、また知りたいとは思わないが、しかしそれは君の心が病んでいるからなんだ、事実は偶発的な出来事をさえ恐れている、その証拠には、君はさっきおれが呼びかけたとき反射的に自分を護ろうとした、……江戸へ帰りたまえ",
"むしろ拙者を伴れていって下さいませんか"
],
[
"不敏の身で人がましい大役に奔走しているからでございましょう、貞五郎などはもう隠居をすべきときでございます",
"みなそれぞれに骨の折れる時勢だから、御苦労はつねづねお察し申している、……まして貞どのにはこの左近などという邪魔者があるので、なにかとお心をいためることが多いであろう"
],
[
"お忘れではなかろう",
"なんでございますか",
"あの上段にある甲冑"
],
[
"楠氏の鎧でございますか",
"……そうだ",
"幼い頃いちにど拝見をした覚えはございますが、この鎧だったでしょうか、もっと古びたもののように思いましたが",
"いやあの鎧だ、先年わたしが頂戴して手入れをしたから、感じなども違ってみえるかも知れない"
],
[
"しかし、いったい他家の者が供に紛れこんだという、……そのことがよく解せません、それはどういう仔細なのでしょうか",
"簡単に云えば、甲辰のもつれの尾だ",
"…………"
],
[
"早速とりしらべまして、さような者がおりましたら仰しゃるように計らいましょう……そして、その者共は水戸家へ渡しますのか、それとも追放するだけでございますか",
"栗林荘から追い出して下さればよい、あとは見ぬふりで……",
"承知いたしました",
"なるべく御自分でおはからいなさるよう"
],
[
"粗飯ではあるがいま支度をさせておるから、夕飯をたべてゆくがよい、捨て扶持の身の上でもてなしもできぬが",
"お側に早水秀之進と申す仁がおりますか"
],
[
"早水……ああ、家臣ではないが、眼をかけておる者にいる",
"当地へ帰りましたろうか",
"……なんぞ用か",
"帰っていたら会いたいのです、ちょっと貸があるものですから"
],
[
"城代の用向きはなんだ",
"お上御帰国の供の中に、他家の家臣が紛れこんでおるとの御意につき、さようなる事実はこれなく、思召し違いに存じ奉るとの口上にございます"
],
[
"御意のとおりにございます、二名を隠匿せる事実なしと、老臣共の言質をとるためのお上の御遠慮にて、その旨を言上のためわたくしめにお使者の御指名があり、時刻はずれにございますが伺候つかまつりました",
"それでよい、もし不調に及んだらと案じたが、それで余も安堵したぞ"
],
[
"秀之進に追捕の命とは",
"信州高島城下にて闘争に及び、五名殺傷のうえ逃亡との理由にございます"
],
[
"秀之進はなんのために信濃へまいったのだ",
"わたくしも存じません"
],
[
"共に死ぬべき同志とは",
"あれは……彦根城攻略の旗挙げに加わる所存だと思います"
],
[
"彦根を攻めると",
"わたくしの企てたものでございます、失敗するのは明らかですが、もう誰かがなに事かをなさぬといかぬ時期です、わたくしは拳を空に揚げるだけの意味で、事を計りました、それを若い者共がとって代ったのです、……恐らく秀之進はその挙兵に加わるため、或る用務を帯びて木曽へまわる太橋の大助と同行したのでございましょう、信州の出来事はその途中のことと存じます",
"暴挙はいかんと、くれぐれもそう戒めて置いたに"
],
[
"それで、かれらは本当にやる決心か",
"柳、松崎らが中心になり、武器軍資は太橋の調達で、秋十月には決行ときまっていたようでございます、……しかし、信濃で問題が起こったとしますと、あるいは齟齬を来たすかもわかりません",
"齟齬を来たしてもよい、秀はここで殺したくない男だ、こんな事で殺すには惜しい人間だ、高松へ戻れるであろうか",
"大阪の奉行から追捕がまいるようでは、それもおぼつかのう存じまするが",
"その出来事に大助は関わっていないのか",
"その点はまるで相わかりません",
"よし……秀は太橋の店を知っておる筈だ、大阪と堺の店へ余から舟の支度を命じて置こう、亀阜荘の御用舟なれば、うまく渡ることができるかも知れぬ",
"忝のうござります"
],
[
"そのほう、余の法華執心をだいぶ悪く申しておるそうだが、どんなものか見たいとは思わないか",
"……はっ、それは……",
"まいれ、見せて遣わす"
],
[
"まだ起きていたのか、帰って寝ろと云って置いたのに",
"お夜食を召しあがると思いましてね",
"もう今夜はよそう",
"でもお支度ができておりますけれど",
"お客さんは済んだか",
"はい……",
"そんならいい、いま浜で弁当をちょっと摘んで来たから"
],
[
"しかしとにかく、これで一応ほっとしましたよ、大抵のことは経験ずみだが、人間の抜け荷だけは初めてですからね、本当のところ汗をかきましたよ",
"荷物のほうも大丈夫かね",
"てっきり厳重な荷改めがあるものと覚悟していたんですが、浦奉行からは与力が下役を二人つれて来ただけで、これが薬の利く男でしたから案外すらすらとはこびました、うまくいくときはこんなものですよ"
],
[
"みんな三四代も太橋の飯を食っている者たちですからね、そうでなくともああいう人間は『頼む』と云われるとびっくりするような大胆なことをやります、しかしこんどの事はちょっと天佑という感じでした",
"ときに……木曽のほうはどうした"
],
[
"残念ながら、三日の違いで先を越されました、こんどの買付けを知ったのか、それとも偶然かち合ったのかわからないが、尾州家から馬匹売買停止の布告が出て、どうにもしようがなかった、それで例の鋳工所のほうだけでも見て置こうと思ったのだが、これもだめさ",
"女づれではどちらにしても無理なことだ",
"そうじゃない、却ってそういうことには女づれのほうが好便なんですよ、いけなかったのは早水さんのおかげさ",
"でたらめをいうな",
"誰がでたらめを云いますか、木曽から大阪まで、宿でも道でも到るところで調べられどおしでしたぜ、いったいあなたはどうやって大阪へ出たんです、いやそれよりも、あれから五人やったという話を聞かせて下さい"
],
[
"なに、みんな一刀ずつさ、一人として片輪になる気遣いのない程度だよ、あれなら新島八十吉ひとりのほうが手耐えがあった",
"かれはどうしました",
"……どうしたかなあ"
],
[
"まあとにかくこれじゃあしようがない、当分のあいだ日和を見るんですね、いかに成敗を度外にするからといって、このありさまでは指一本動かせやしませんから",
"……おれはでかけるよ"
],
[
"でかけるって、何処へです",
"京都へさ、亀阜荘さまはかねて堂上がたと御連繋をもっておいでなさる、おれはその地固めをするつもりだ、江戸へも、またもういちど水戸へもゆきたい、身にかなうことならなんでもするよ",
"今あんたは覘われているのをご承知でしょうね、此処を一歩そとへ出れば、幕吏の網へとびこむのも同様ですよ"
],
[
"今夜きまりをつけるよ",
"今夜……本当ですか、そしていったいどう落ち着けるおつもりです",
"おれが嫁に貰う"
],
[
"しかし早水さん、わたしはまた亀阜荘へでも託すのかと思っていましたがねえ、そのほうが面倒がなくていいと",
"女は家の妻になるべきだ、落ち着くといえばそのほかにない",
"けれどいつか、信濃の宿でわたしがすすめたとき、早水さんはだいぶ違った意見のようでしたがね、なにか御思案が変ったんですか",
"あの娘の気性をみとどけたからだ、あれならおれがいなくなったあとのことが任せられる、早水家の嫁として家の始末、養父のゆくすえを託すことができるだろう",
"……それは、わたしから柿崎嬢にはなしてはみるが……",
"その必要はない、おれが自分で云うよ"
],
[
"彦根奪取の企てが手違いになったそうだが",
"そのように聞きました",
"そのように聞いたと申して、秀は企ての采配をとる筈ではなかったのか、宗兵衛はさよう申しておったが"
],
[
"本当に雑兵になるつもりか",
"それがこの時代に生きる者の、もっとも大切な道だと存じますから"
],
[
"当地を出る、……出てどこへゆくのだ",
"京へ出てみまして、それからどこへでもまいります、江戸にも、水戸へはぜひもういちどまいりたいのです、お耳に達しているかとも存じますが、わたくしはいま幕吏の追捕を受けている身の上でございます、万一にも当地で縄にかかるようなことがありましては、御家に御迷惑を相かけるやもはかられません、彦根の事も一頓挫の折から、一日もはやくたち退きたいと存じます"
],
[
"宗兵衛、なにごとだ",
"申上げます、かねて栗林御殿うちに隠れておりました大峰、矢田部の両名につき、お上御側近において在所を捜査しておりましたところ、今宵ひそかに御殿よりいずれかへ押送する模様にございます",
"そうか、……それでは不浄門を見張っておれと申して置いたが、いかんな",
"切手御門か、萩の御門、この二ついずれかと申すことでございます",
"ではすぐ知らせねばならぬ"
],
[
"そのほうすぐに栗林の不浄門へまいれ、その付近に水戸家の者がおる筈だ、その者たちに萩の門か切手門へまわれと申せ",
"さよう申せば相わかりましょうか"
],
[
"承知仕りました",
"宗兵衛、言葉をかけてやれ"
],
[
"いかん、乱暴なことはいかん、二人を討たせさえすればいいんだ、この連中に罪はない、抜くな",
"だがこいつらは滝川内膳の走狗だぞ"
],
[
"覚えて置け、あれが水戸っぽうというものだ",
"水戸っぽうというやつは礼儀を知らんのか",
"そうではない、礼儀のかたちが違うんだ、殊にいまの男とおれとは、ひと口に云えない妙ないざこざがある、それで一層あんな態度が出たのだが、あの人たちは水戸でも相当知られた人物なんだ"
],
[
"いそいで帰れ源十郎",
"どこへ……",
"亀阜荘じゃないか、おまえそのほかにゆくところがあるか",
"いや早水さんはどうするかというんだ、あんたは何処へゆく"
],
[
"久し振で会って己も色いろ話があるんだぞ",
"生きていればまた会うさ、頼むよ"
],
[
"いいでしょう、ぬるかったら焚かせます",
"焚くことはない、汗を流せばいいんだ"
],
[
"支度はできるが、今夜は止したほうがいいだろう",
"しかし危険なことは此処にいても同じだ",
"そうでもないよ、太橋が睨まれていることはたしかだが、老臣がたにも年来いろいろの関係があるから、そうむやみに踏み込むことはできない、まあ四五日ようすをみてからにするほうがいいと思う"
],
[
"では、囮舟というわけか",
"あしの速いのがいい、少し番所舟を集めて呉れればその隙に脱出できるだろう",
"よし、すぐ都合しよう"
],
[
"ここに酒があるか、なかったら戻りに用意して来てくれ",
"酒はここにあるが……"
],
[
"ありがたく、思召しをお受けいたします、どうぞゆくすえながく、お導き下さいませ",
"……ありがとう",
"まことに、ふつつか者でございますから"
],
[
"婚礼の盃は、女から先だ、落ち着けよ大さん",
"いや、なにしろ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第一巻 夜明けの辻・新潮記」新潮社
1982(昭和57)年7月25日発行
初出:「北海道新聞」
1943(昭和18)年6月12日~12月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"缶詰はなにをさし上げますか",
"果物だ、早くしてくれ",
"果物と云ってもいろいろありますが……"
],
[
"こう急にくわなくなるってことがあるか",
"私もいまそう思ったんですが"
],
[
"それで二つの事件は分った。第三はどんな場面が出るんだい?",
"いやだわそんな話、こわいわ",
"なんだい、水泳の選手のくせに"
],
[
"ご注意なさる方がいいですよ。河童というやつは自分の噂のあるところへ出たがるものだそうですから",
"失礼だが君は誰ですか"
],
[
"あの人うちの工場にいたことがあるの。ええ、たしかにいたわ",
"そう云えば僕にも少し見おぼえがある"
],
[
"たしか製図部にいた男だ。去年なにか失策をして追い出されたのだと思うが……",
"職工服を着ていたじゃないか",
"あたし船室に入るわ"
],
[
"なぜさ、どうしたの?",
"なんでもいやよ、噂をしているところへ河童が出るなんて云ったじゃないの。気味が悪いから入るの",
"案外臆病ですね"
],
[
"どうしたんです?",
"だれか、だれかこの船室に入ったわ……"
],
[
"扉にはちゃんと鍵がかかっていたんですもの",
"窓の外は海ですよ",
"海から入ってきて海へ帰ったのよ"
],
[
"出かけたんですが、ちょっと……",
"どうした、なにかあったのかい",
"啓吉君が見えなくなったんです。いやお待ち下さい。いま、くわしく申上げます"
],
[
"僕もそう思いますが、しかしこれまで三度も",
"嘘だ、みんな嘘だ",
"――――",
"これは津川の奴の仕業にちがいない",
"津川と云いますと、……あああの",
"君たちが葵丸で逢った男だ。私が工場から追出したあの男だ。――私も今日まで河童の噂は聞いていた。そしてそれがどういう細工なのか、考えてもみなかった。しかしいまになるとよく分る。これは津川の奴のしたことだ",
"なにか理由があるのですね",
"今まで誰にも云わなかったが"
],
[
"私は数年まえから水中砲の発明をしている。これは沿岸防備に使うもので、簡単に云えば海中の要塞だ。――君も知っているように、海の中では、水の抵抗と圧力があるため、弾丸を発射してもごく近距離までしかとどかず、しかもその威力は微々たるものである。そこでこれまでは浮流水雷とか、機械水雷などが防備用に使われ、攻撃用には、魚形水雷がひとつであった。けれど前の二つは、敵艦がふれなければ用をなさないし、魚形水雷は発射するために多くの危険がある。……もし水底から、正しい照準で弾丸を発射することができ、それが充分の威力をもっていたら、攻撃にも防備にも、最もすぐれた武器と云えるだろう。私は――誰にも秘密で、その水中砲を研究していた。現在ではほぼ完成に近いところまできている。ところが津川の奴は、いつかこの研究をさぐりだしたとみえて、去年の十月の或る夜、研究所へしのびこんで、その設計図を盗みだそうとしたのだ",
"――それで、ここを出たのですね",
"私が追出したのだ"
],
[
"君は津川といっしょに働いてたんですね",
"そうです",
"津川とは仲良くしていましたか"
],
[
"僕の名はいまにきっと世界的になるよ。そして億万長者になってみせるって――訳は云いませんが、そんなことを二三度聞きました",
"――それだけですね"
],
[
"啓吉に可哀そうだが、この設計図がもし外国人の手にでも渡るようなことがあると、私は売国奴と同じ結果になる。――私は敬吉をあきらめた。啓吉もよころんで死んでくれるだろう",
"社長、本当にそう決心なさいますか"
],
[
"兄を死なせないで、平林さん、兄さんを助けて頂戴、兄さんを助けて",
"良子さん、まあ落ちついて下さい"
],
[
"社長、あなたは啓吉君のことをあきらめるとおっしゃった。本当にその決心がおありなら、のるかそるか、僕がひと勝負してみましょう",
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"脅迫状の通りにして下さい。いや設計図は偽物で結構です。反古紙でいいですから、油紙へ包んで空缶へ入れて下さい。――僕はそのあいだに、ランチの用意をしておきます"
],
[
"啓吉君はお帰しします。助けて下さい、殺さないで下さい。僕をゆるして下さい",
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"正直に云います。月島西仲通りにある僕の家にいます。本当です。どうか助けて"
],
[
"罪は罪として、君の発明はりっぱなものだ。これからはその発明を生かすために、心をいれかえて勉強し給え、工場の研究所も貸すよ",
"僕もお手つだいするぜ"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」博文館
1939(昭和14)年6月
初出:「少年少女譚海」博文館
1939(昭和14)年6月
※「啓吉」と「敬吉」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "059565",
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[
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"どうもしませんよ",
"じゃあおれの云ったことは聞えたんだろう",
"聞えましたね",
"聞えたのに返辞をしないのか"
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"うちでですか、知りませんね",
"毎月十日の晩だ、平さんが退却したあとできまったんだよ"
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"田村小路がまず双手をあげた",
"なんですって、――あの叔父が、まさか"
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"ええ、八十三分になった筈です",
"なんだい八十三分とは",
"両なんていうと角が立つから、すべて分でかぞえることにしているんです、しかしそれがどうしたんですか"
],
[
"なにしろ部屋住の身の上ですからね",
"それなんだ、その部屋住の平さんが、三両や五両ならともかく、二、いや八十三分という金を溜めたとなると、預かっているこっちの責任も重くなる、どういう性質の金かということをいちおう聞いておきたいと思うんだ"
],
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"知れなかったのは当然ですよ、だって私からそんな物を買ったなどということがわかれば、どんな罰をくうかもしれないでしょう、とにかくこっちはまだ頑是ない子供なんですから",
"さぞ頑是なかったことでしょうよ"
],
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"十六七のころからでしょうね",
"よく誰にもみつからなかったものだな"
],
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"取上げられたって",
"まさか自分で稼いだとは云えやしません、小遣や人に貰ったのを溜めておいたのだと云ったんですが、そんなことは侍の子に似合わしくない、必要なときにはこっちからあげると云いましてね、くやしかったですよ、じつにくやしかった、涙が止らなかったですよ"
],
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"わかったらあたしが怒られるだけよ",
"姉さんが云わない限り大丈夫ですよ"
],
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"そういうもんですかな、こわいみたようなもんですな",
"おいもうあの娘のことは話さないでくれ"
],
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"これはどうでしょう、いま細江さまから頂いたばかりですが",
"おまえ二分二朱しか払わなかったぞ"
],
[
"どういうんだ",
"貴方の御注文は古刀のにせものということでしょう、これは正宗だそうです"
],
[
"引取って下さるんですか",
"三分で買おう",
"それはあんまりですよ、現に二分二朱で買ったのを御存じじゃありませんか、お役に立つんなら少しは儲けさして下さい"
],
[
"貞宗として伝わっていると云えばいいんです、そしていま説明した要点をうまく並べれば、みんなめくらだからわかりゃしない、きっと連中びっくりしますよ",
"しかし、もしも偽物だとわかったら",
"わかったって貴方の責任じゃあない、新庄家伝来なんですからね、大名の家蔵にだって偽物は幾らもあるし、そんな心配をする必要はありませんよ"
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"こっちのことだと云ったろう",
"取消さないのか"
],
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"おせっかいと云ったのはおれ自身のことなんだ、自分に云ったことを取消すのか",
"そうじゃない、くそうくらえと云った、それを取消せというんだ"
],
[
"そうだろうよ、ざっと下地研をしてみて、二三日うちに返辞をすると云ってたからね",
"とにかく平河町へいってみます"
],
[
"ごまかしてもだめだ、正宗の短刀を持っているだろう、ここへ持って来い",
"どうして、いや、どうなさるんですか",
"きさまなどの持つ品ではない、おれが預かるから持って来いというのだ"
],
[
"口答えをするか",
"量見があるとはどういうことですか",
"おれは短刀を持って来いと"
],
[
"理由が聞きたければ云ってやる。きさまは小出の家名を傷つけ、一族の面目に泥を塗るやつだ、おれはみんな知っている、きさまのして来たことはなにもかも知っているんだ、おれはめくらでもつんぼでもないんだぞ",
"私がなにをしました"
],
[
"きさまに武士の誇りがなく、侍だましいがなかったからだ",
"それだけですか"
],
[
"まあ平五さん、なにを仰しゃるの",
"おちついたらお母さんには知らせます、ではこれで、――"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1957(昭和32)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2019年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057650",
"作品名": "末っ子",
"作品名読み": "すえっこ",
"ソート用読み": "すえつこ",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1957(昭和32)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り",
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[
[
"あなた、生きている目的が分かりますか",
"目的ですか",
"生活の目的ではなく、生きている目的よ"
],
[
"どこへ出るか疑問だから――",
"じゃその興味には不安が伴いますね",
"どうして――"
],
[
"頭痛がしてね。あの人は?",
"嫂かい、ちょっと兄貴の上役の家へね、兄貴から電報がきたもんだから"
],
[
"琴はあの人か",
"うん、うるさいだろう"
],
[
"頭がすっとする、階下へ行ったら、いつまでも続けてくれるように云ってくれ",
"暢気だなあ"
],
[
"電報が来たのを知ってらっしゃる?",
"ええ知っています",
"そう"
],
[
"さっき弾いていらした琴は何です",
"――千鳥"
],
[
"帰ります",
"観ていらっしゃい、一緒に帰りましょう"
],
[
"須磨寺のすぐ前に佳い家を見つけておきましたよ",
"そうですか"
],
[
"あたし来月の船で亜米利加へ行きます",
"――――",
"五日ほど前に電報がまた来てね! 船まで定まってしまったんです"
],
[
"少し頭が痛い",
"何だか嫂が、今日は君が休むそうだから留守を君に頼んでくれと云っておいたぜ"
],
[
"もう知っているのか、嫂から聞いたんだろう",
"うん",
"俺ゃ、清水には内証にしておいてくれってずいぶん喧しく約束させられたんだぜ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「文藝春秋」
1926(大正15)年4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2023年1月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "すまでらふきん",
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[
[
"えらく早いお着きでがすな",
"旭川まで旅客機で来たからね、――旅客機、飛行機だよ",
"そんな危ねえ物にお乗んなすって",
"まあ宜い、出掛けよう"
],
[
"一体何事が起ったんだ、爺や",
"恐ろしい事が始まっただぞ若旦那さま、奥さまは非業にお亡くなり遊ばすし、大旦那さまも御容態が危ねえだ、――村の者の中にも人死にがあるだよ",
"訳を話して呉れ、訳を",
"殺生谷の鬼火が祟り出しただ、御領分内の者ぁみんな生きた空ぁねえでがすよ"
],
[
"爺や、僕には信じられないよ",
"誰に信じられますべえ、――だが事実はどうにもなりやせん。大旦那さまはそれ以来ぐっと病気が重って……"
],
[
"大変な事になったね、さぞ吃驚したろう。だが十八にもなってそう泣くなよチイ公、――兎に角お父さまに会おう",
"いまお眠ってらっしゃるの",
"そうか、それじゃあお起きになるまで君と少し話をしようか"
],
[
"――土人の怨霊、奇怪な呻き、青白い大きな鬼火、……まるで中世紀の伝説だ、――その伝説のような現象が、実際に人を殺す……然も僕たちの母さんを殺した、――考えられない。実に考えられない怪事件だ",
"でもお兄さま、あの殺生谷の怨霊の声を聞けば、信じられない事も信じられるわ",
"チイ公もそれを聞いたのか",
"聞いたわ、二度も三度も、――お兄さまだっていまにお聞きになるわ"
],
[
"――敦夫、云って置くが、おまえは直ぐ東京へお帰り、千代子も伴れて行くんだ",
"そんな事は父さんが治ってから",
"否、いかん"
],
[
"どうも、僕には納得がゆかないですが",
"話してやろう。――おまえは殺生谷の伝説を知っているだろう、椙原家の先祖が此処へ入墾した当時、百幾十人かの土人を殺してあの底無し沼へ投込んだと云う。……事件の因はあれなのだ",
"つまり土人の怨霊ですね",
"そうだ、多くの土人の怨霊が凝って鬼火となり、椙原家の人間を取殺そうとしているのだ、然もそれは今度が初めてではない、七十年目毎に繰返されている事が分ったのだ"
],
[
"では以前にもあったのですか",
"第一回は宝永七年、第二回は安永九年、第三回は嘉永三年、――三回とも恐ろしい鬼火が現われて殆ど一家全部を殺生谷へ引込んで了った。僅に他処へ出ていた者がその難を免れて家を継いだのだ。今度はその第四回目に当るのだ",
"どうして其が分かったのですか",
"西の源治が土蔵の中から捜出した、古い記録に精しく記してある――読んで御覧"
],
[
"分らん、頭が混乱する許だ。――ゆうべよく眠っていない故かも知れない",
"お午睡をなさいよ"
],
[
"あたし吉井村のお友達の家まで行って来るから、そのあいだお兄さまもお寝みになると宜いわ",
"お友達の家で何かあるのかい",
"ええ、お友達のお義姉さまに赤ちゃんが生れたのよ、それでお祝いを持って行かなくちゃならないの、夕方までには帰るわ",
"じゃあ僕は午睡をするとしよう"
],
[
"おお、是は若旦那じゃありませんか、どうなすったんで。――おや、それは奥さまですね!",
"訳はあとで話す、母さんを預けるから、直ぐ医者を呼んで手当をして呉れ、――それから馬はあるか",
"曳いて来ましょう"
],
[
"怖い、鬼火が、鬼火が……",
"大丈夫だよ、鬼火はもう僕が片付けたよ、母さんも無事だったんだ、もう何も心配することはないよ",
"ええ⁉ 母さんが生きて――?",
"そうなんだ、何も彼も直ぐ片がつくよ、――御覧。おまえの怖がっていた鬼火はそこに転がっているよ"
],
[
"まあ、なんですの是?",
"狼を馴らした奴さ",
"だって毛が青白く光っているのは?",
"夜光剤だ、闇の中で燐光を発する薬剤が塗ってあるんだよ、恐怖に眼の眩んでいる者には是が鬼火に見えたんだよ"
],
[
"――秘密を解く鍵を与えて呉れたのは、あの呪いの記録を書いた紙なんだ。あの紙は如何にも古びているが、透かして見ると漉込みの字があった。それがなんと、土佐西原『昭和堂』と云う字じゃないか、つまり、昭和になって漉いた紙なんだ。――だから源治叔父さんが土蔵の中から古く伝わっていたのを捜出したというのは嘘で、実は最近拵えて古いように手入れをしたのさ",
"どうしてそんな事をしたの?",
"伝説を信じさせるためと、自分の犯罪をカムフラアジするためだ。七十年め毎に呪が復活すると云う記録があれば、自分は疑われずに済むからな、――何故そんな事を企んだかって? まだ君には分らないのか。一言で云えば椙原家の財産が欲しかったからさ、我々を全部やっつけて、椙原家を自分の物にする積だったんだ。……然し旨く考えたよ、殺生谷の伝説を利用して狼を馴らし、毛へ夜光剤を塗って鬼火に仕立てるなんか馬鹿じゃ出来ない事だ。それも自分の家へ飼って置いては発見される怖れがあるから、人の近寄らない殺生谷の裸岩に隠して置き、必要に応じて使ったところは天晴だ。――僕は然し、洞穴の入口で黄色い粉を拾った時、それが夜光剤だと知って大体の見当がついたんだ",
"でもよく母さん殺されなかったわね",
"如何に悪人でも、義理の姉を手にかける事は出来ないさ、あの洞穴の中で飢死させてから、底無し沼へ沈める積だったのだろう。――ゆうべ狼を曳出しに行った時、母さんにこれからチイ公をやっつけに出掛けるんだと口を滑らしたのが此方には仕合せで、危うく君が助かったんだ",
"まあ、なんて怖ろしい人でしょう",
"なに昔から彼の人にはそんなところがあったよ、唯……"
],
[
"若旦那さま、幾ら捜しても西の旦那はみつかりましねえ、この帽子が底無し沼に浮いとりましたから、殊に依ると彼処へ……",
"そうだ、其で宜いんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年9月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「呪い」と「呪」、「駆」と「駈」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "059102",
"作品名": "殺生谷の鬼火",
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"初出": "「新少年」1937(昭和12)年9月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
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"名ローマ字": "Shugoro",
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"底本名1": "山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介",
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"底本初版発行年1": "2007(平成19)年10月15日",
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"底本の親本名1": "新少年",
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"底本の親本初版発行年1": "1937(昭和12)年9月",
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[
[
"はい、そう申しました",
"加島家と縁談の始まったときだ、覚えているか",
"はい、覚えています",
"私はおまえの行状を知っているから念を押して慥かめた、もしや江戸のほうに縁の切れてない女などがいはしないか、いるなら正直にいると云うがいいと、そうだろう"
],
[
"なにかわけがあって来たのか、住居はどこかと繰り返し訊きましたが、ただ平松正四郎さまにお会いしたいと云うばかりで、そのうちにふらふらとそこへ倒れてしまいました",
"玄関でか"
],
[
"はい、当人がそう申しました",
"おかしいじゃないか、知らない娘が知らないおまえになんの用があって来たんだ",
"それもわからないというわけです"
],
[
"そんなことを云い切っていいのか",
"私にはできません、理由はわかりませんが、とにかく私一人を頼みにして来た、ほかに頼る者がいないのですから"
],
[
"ほかにも大阪の者が知らぬまに長崎へいっているとか、いま座敷にいたと思った者が、そのまま行方知れずになって、何十年も戻らなかった、などという話がずいぶんございます、あの娘もそういう災難にあったのではないかと思いますが",
"そんなことが現実にあろうとは思えないけれども、――言葉の訛りなどで見当はつかないだろうか"
],
[
"父は貴方がふさをすすめて下すったように云っていましたが、本当ですか",
"それがどうかしたか"
],
[
"気分が悪くはないか",
"いいえ"
],
[
"ゆかはどこにいる",
"私の住居におられると思います"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1959(昭和34)年5月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057652",
"作品名": "その木戸を通って",
"作品名読み": "そのきどをとおって",
"ソート用読み": "そのきとをとおつて",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」文藝春秋新社、1959(昭和34)年5月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-06-22T00:00:00",
"最終更新日": "2021-05-27T00:00:00",
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"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日3刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57652_ruby_73435.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2021-05-27T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"だからどうした",
"頭のめぐりの悪い男だ"
],
[
"益村はおれとおないどしだから、もう三十一だろう",
"おれのほうが半年はやく生れた筈だ"
],
[
"家風でね、祖父もそうだったし、父もこんなふうだったよ",
"代々の留守役ということか"
],
[
"返辞によってはね",
"それはかたじけない"
],
[
"二三日うちだろう、十五日までには立つ筈だ",
"別宴でもやるか"
],
[
"どういうわけで",
"あの女にはわるい癖がある、男をひきつけ、手だまにとり、夢中にさせておいて棄てる、その手にかかって身をほろぼした男が幾人いるかわからないんです"
],
[
"さきほどの松茸と鮎でございます",
"それは受取ったのだろう",
"さようでございますが、使いの者がおめにかかりたいと申しますので"
],
[
"五年ばかり京のほうへ修業にゆき、いまは戻って鶴影尼となのり、清法院の庵主につかえている",
"おきれいな方なのね"
],
[
"あの男は弓をやるだろう",
"家中では五人のうちに数えられているそうです、しかしどこから見ておられたんですか"
],
[
"なにを云いだすの",
"酔ってうっぷんをはらすつもりだったんだろう、村松庄兵衛という徒士組の者だったが、酒にはあまり強くなかったんだな、うっぷんをはらすまえに酔いすぎて、酔いつぶれてしまって、倒れるまえにひとことだけどなった、あんまり人をばかにするな、ってさ"
],
[
"二千石じゃあないのか",
"やっぱり噂を聞いてらしったのね"
],
[
"甚兵衛をやめてから矢の倉の鳥万、馬喰町の平松、神田の翁屋と、勤めてはやめ勤めてはやめ、みんな三十日そこそこしか続かず、十六の春ようやく、麹町平河町の稲毛という店へ住込みでおちつきました",
"そんなに喧嘩っ早かったのか"
],
[
"こんなこと云っていいのかしら、笑わないでね",
"珍らしいことじゃないさ"
],
[
"なんのことを仰しゃってるんです",
"本当を云うと、あのときはもう帰りたくなっていたんだ"
],
[
"おりうねえさんにいただいたの、わりと似あうでしょ",
"よく似あうよ"
],
[
"また話をそらす",
"知らないのか"
],
[
"それが二一天作、いきさつどころか、はっきり割切れたはなしだったわ、あの人がのぼせあがって、あたしに付きまとえば付きまとうほど、あたしにはあの人がいやでいやでたまらなくなったの",
"それでも江ノ島へ三度、大山へゆき、くるわがよいにも伴れてゆかれたんだろう",
"あの人は稲毛ではいい客の一人で、主人夫婦が守り本尊かなんぞのように大事にしていたものですから、お供をしていけと云われれば断わるわけにはいかなかったんです、――それに、――一杯いただいていいかしら"
],
[
"ごめんなさい、こんな恰好のままで",
"私こそ失礼しました、またあとでまいります"
],
[
"餌箱がからっぽだったんです",
"魚をよせつけたくないんでしょ"
],
[
"あたししだいって、――こわいようなこと仰しゃらないで",
"いつか袖ヶ崎へいこうと云ったな"
],
[
"こわいわ、あたし",
"むりにゆこうと云うんじゃないんだよ"
],
[
"いつ袖ヶ崎へ伴れていってくださるの",
"こっちはいつでもいい"
],
[
"おれのためにか、それとも自分のためにか",
"あなたのためにです"
],
[
"おれの親類に園部鎌二郎という若者がいる、おれの死んだ妻の弟で",
"ごまかすな、その口にはのらぬぞ"
],
[
"おりうから手をひくか",
"斬るんじゃないのか"
],
[
"衣笠へでも戻るか",
"そこもとの住居にしよう"
],
[
"住居はあるんだろう、聞く耳のないところがいいと思うんだ、尤もぐあいの悪いことでもあればべつだがね",
"こじきごや同然ですよ"
],
[
"世の中には、あなたの思いもよらないような人間や出来事が、幾らもあるものです",
"なにを待っているか、という返辞はまだ聞けないのかね"
],
[
"ここでも嫁菜というのはあるよ",
"だがそれは、春の双葉のころだけです、秋になって紫色の花が咲くころには、野菊と呼ばれるようになるのを知っていますか"
],
[
"失礼になるかもしれないが、袖ヶ崎へゆくのは益村さんでなくってもよかったと思う。おりうにとっては、好ましい相手なら誰でもよかったと思うんです",
"これは手きびしい"
],
[
"よけいなことをきくが、いまなにをしてくらしているんだ",
"用心棒です"
],
[
"それに、あれだけの腕があればな",
"腕ですって、冗談じゃない"
],
[
"べつにでかける用もありません",
"それはよかった",
"というと、ここへ戻って来るんですか"
],
[
"ここへ来るのは初めてなんでね",
"何番方へお詰めですか",
"やぼな吟味をするじゃないか",
"お取締りがきびしいもんですからね"
],
[
"おまえもそれを望んでいたんじゃあないのか",
"あたしがですか",
"そうじゃあなかったのか"
],
[
"江戸のほうの結果はどうだ",
"うまくいったさ、知らなかったのか、とにかくここを出よう"
],
[
"では兼しげにするか",
"食うのも飲むのも今夜はもう飽きた、うちへいって茶にしよう"
],
[
"まだ若いきれいな女だったがね",
"あとはどうなった"
],
[
"知っているかときいたんだよ",
"滝の落ち口のことをいうんだろう"
],
[
"なんの話だ",
"合ったり離れたりして来たその流れが、滝口のところで一つに合し、すさまじい勢いでどうどうとなだれ落ちるんだ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
1963(昭和38)年11月~1964(昭和39)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"拙者に何か用か",
"古いせりふだが用があるから止めたのよ、ここは鈴鹿の裏抜で、大蛇嶽闇右衛門様のお繩張内だ、峠を越す切手代りに、身ぐるみ脱いで献上しろ!"
],
[
"鈴鹿の裏を抜けるにおれ様の名を知らぬとは迂濶なやつだ、大蛇嶽闇右衛門とは、山城、大和、伊賀、近江きっての山賊様よ!",
"山賊か"
],
[
"貸せばどうする?",
"帰りに立寄って、これをきさまに返上する!",
"その衣服大小みんなか?",
"みんなやる、武士に二言はない、京都へ行って来るまで貸してくれ!",
"面白い!"
],
[
"おれも山賊稼ぎを長くはやらぬが、こんな相談は初めてだ、貸してくれという言葉が気に入った、いかにも帰るまで貸そう!",
"かたじけない、では頼むぞ"
],
[
"お頭、つまらねえ道楽ですぜ、腰のものだけでも三十や五十の値打はあった",
"うるせえや、おれは侍の口に丁と張ったんだ、どう目が出るかまあ黙って見ていろ"
],
[
"いまの勝負はたしかにお頭の負けだ、それをどうしてあの侍は裸になるのだろう?",
"なぜってべら棒め、あの侍は盗難保険に入ってるんだ、ここで脱いでゆきゃあ三千両取れる",
"嘘をつけ"
],
[
"おれはたった今から山賊をやめた、今日までの獲物は皆にくれてやるから、それぞれいいように分配してどこへでも行け、しかしこれからは必ず、お天道様の下で働いて生きるんだぞ、これだけがおれの頼みだ!",
"それでお頭は?",
"俺はいまのお侍の後を追かけて、飯炊にでも草履取にでも使っていただくつもりだ、じゃあみんな達者で暮らせよ!"
],
[
"団兵衛は山賊を連れて戻ったそうだ",
"熊のような男だ!",
"その山賊を邸へ飼ってある"
],
[
"つまらぬ噂だが、余の耳に入ったゆえ訊ねる、そのほう先日京へ参ったおり、鈴鹿峠で山賊に遭ったそうだな?",
"はっ"
],
[
"仔細と申すほどのことはござりませぬが、その節はお上の御用命にて、京へ使者に行く途中でござりました!",
"うん",
"峠手前にかかりますと、大蛇嶽なにがしと名乗って十四五名の賊ども、前後をはさんで身ぐるみ脱げと迫ります、腰に備前長船三尺二寸、山男の三十五十斬って通るは易し! とは存じましたが、退いて考えますに私は君の使者に立つ途上、勝負に万一の悲運あって怪我などいたさば、役目を果すことできず不忠の第一と思い、まず所持の金子を与えて、衣服大小は使命を果して帰るまで貸してくれと申し談じたところ、賊も心得ある者か貸そうと云って無事に通しました",
"うん、して?",
"直ちに京へ上ってお役を果し、帰りにふたたびかの山賊に面会いたし、衣服大小を脱いで渡したのでござります、彼は賊なれども私は武士、一旦貸してくれと約束したからには、事情を論ぜず約を守るが当然のこと、右の次第にて裸となったのでござります!",
"うん! そうか!"
],
[
"はっ、恐れながら刀は黄金をもって購いまするもの、君命を果すことは黄金に代え難きものと存じましたゆえ!",
"なるほど、だがもう一つ訊ねる"
],
[
"大小脱って裸になった時、もし斬りかかる者があったら何とするか?",
"刀は武術の内の一法でござります、たとえ裸となっても、戦うべき覚悟はござります!",
"無手で戦うとか?",
"はっ!"
],
[
"と、仰せられますと?",
"余の手許に、近頃召抱えた武芸者がいる、畠山庄太夫と申して三十斤の鉄棒を自由に扱う強力者だ、その庄太夫とこの場で試合をして見せてくれ!",
"はっ!"
],
[
"では私めは?",
"鉄棒なり、また刀なり御自由に!"
],
[
"さ、参ろうか!",
"参ろう"
],
[
"あっ!",
"あっ!"
],
[
"私にとっては庄太夫は大事な家臣、それを打殺されてこのままに引込む訳にはゆかぬ、是非に団兵衛を申受けたいがいかが?",
"団兵衛を?――してどうなさる?",
"邸へ連れ帰り、臣庄太夫の敵として手打にいたす、是非の論は無益、たって団兵衛をお引渡しください"
],
[
"しかし、私はそのほうを高虎公から貰い受けて来たのだ、帰ると申しても、当の高虎公が他界されていてはしかたがあるまい?",
"御墓前で腹を切り、お跡を追います"
],
[
"きききさま、ことの仔細も存ぜず雑言を叩くとは、ぶぶ無礼なやつ、かかの庄太夫と申す者はその時三十斤の鉄棒を持ち、せせ拙者は少将殿のお望みにて無手丸腰、はじめより尋常の立合でないことは知れていたのだ、にに二百石が高禄などとは笑止千万、この、こここの、たたたたららだだ団兵衛を召抱えるとなれば、三百石五百石でも安いものだ!",
"では貴殿の二百石は高禄でないと申されるのだな?"
],
[
"ゆゆゆ云うまでもないこと、せせ拙者にとって二百石や三百石は、めめ目薬にも足らぬ",
"偉い!"
],
[
"あいやしししばらく、せせ拙者は、御当藩に仕官いたした訳ではなく、その――",
"これは怪しからぬ、たった今貴殿は二百石は高禄でない、目薬にも足らぬと云われたではないか、仕官いたさぬ者が、何の必要あって石高の多寡を論ぜられたか。二百石は安いと云われるのを、しかし武士は己を知る者のために死す、しばらく御辛棒と拙者が申上げた、武士と武士がこれほどはっきりと申交したことを、よもや貴殿取消しはなさるまいが?",
"うーむ"
],
[
"明日は晴れる!",
"いや雨に違いない"
],
[
"もうきさまとは口を利かぬ!",
"おお拙者も絶交じゃ"
],
[
"あれは前世で敵同志だったに違いない!",
"犬と猿を形にして見るようだ",
"捨てておけ、もうかまうな!"
],
[
"そのかたを急いでお招き申せ!",
"はっ!"
],
[
"あっぱれこれこそ武士の交りじゃ、感じ入ったぞ、そこで団兵衛には何か褒美をとらせたい、望みのものがあらば申せ",
"恐れながら、望みのもの、ござります"
],
[
"八郎太の家族を匿い、あくまでお上を偽り奉った罪によって、なにとぞ切腹を申付けられたく、この儀望みにござります",
"いやそれはならぬ、すでに八郎太の罪ならぬことも分ったではないか",
"しかし"
],
[
"しかし、一旦お上を欺き奉った罪は消えませぬ、これを万一お赦しあれば、国の掟の乱るるは必定、是非切腹をお申付けくだされ",
"まあ待て――",
"いや待ちませぬ、是非!"
],
[
"ではどうあっても腹切ると云うか",
"御手打となるはずにて津を立退いて参った私、このたびのことも初めより覚悟あってのことにござります、もはやお止めだて無用!"
],
[
"よし、それほどに申すなら何も云わぬ、しかし腹切るまでもなく、約束どおり今改めて余が手打にいたす、庭へ出い!",
"はっ、有難き仕合せ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1932(昭和7)年5月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2023年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"そうだ、これこそ人生だ、貧乏と、屈辱と、嘲笑と、そして明日の望みのなくなったときこそ、はじめて我々は人生に触れるのだ",
"落魄とは何だ、もっとも高く己を持する者のみに与えられた美酒ではないか"
],
[
"君は、何の権利があって、そんなに僕を侮辱するんだ、僕が何をしたというんだ、僕は君から、一銭だって借りてやしない",
"は、は、は"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「アサヒグラフ」
1933(昭和8)年4月12日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057669",
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[
[
"どうだい、赤松さまは、いつ見ても恐ろしいなあ、あのかっこうを見てくれ",
"じつにどうも人間とは思えねえ",
"や、や、今日はじまんの樫棒だぜ"
],
[
"なにしろ五十人力の鬼剛兵衛さまだからな。勝たせてあげてえが、どうも別部さんには勝ち目がねえぜ",
"まったくだ、あの樫棒でやられちゃたまらねえ、本気でやられたら殺されてしまう",
"まあ腕の一本でもぶち折られるがおちだろ",
"だまれ、こやつら!"
],
[
"何をぬかす、だまってきいていればなんだ、おらが旦那の別部さまに勝ち目がねえの、ぶち殺されるの腕を折られるのと、とんでもねえことをいうやつらだ。勝つか負けるか見てからものをいえ。北畠浪人で別部伝九郎さまといえば、中国すじから関東まで知られた勇士だ、いまに鬼剛兵衛なんぞは地面へはわせてやるから見ていろ",
"おいほんとうかい弥平じい"
],
[
"えーい、やあっ!",
"…………"
],
[
"じつに奇妙な試合だの、伝九郎。そちほどの者が、一太刀合わせただけで逃げだすとは、どうしたわけじゃ",
"は、べつに仔細もございませぬが――逃げ足の速いのも一得かと心得まして"
],
[
"じい、その額のこぶはどうした",
"どうでもようござります"
],
[
"あんな化けそこねの犀みてえなやつに負けなさるなんて、まったくわけがわからねえ",
"――なにをぶつぶついうか?",
"へえ、こっちのことでございますよ"
],
[
"なんだあのざまは",
"そうよ、満足に木剣も合わさず逃げだしたかっこう――あれが二百貫で召しかかえられた武士か",
"逃げ足の速いのも一得だとよ",
"あいつは臆病者の腰ぬけだ"
],
[
"拙者を突きころばしておいてだまってゆく気か",
"や、これは失礼をつかまつった",
"うぬ、そんなことではすまさんぞ"
],
[
"城中でかかる無礼をされたからには、孫作もわびごとぐらいではすませまい",
"そうだそうだ、これはわびごとなどですむことではない。孫作、ぬけ! 武士が恥辱をそそぐ法は一つしかないはず",
"果たし合いをしろ、後見はわれらが引き受けるぞ",
"心得た。別部――外に出ろ"
],
[
"これはめいわく、どうぞおまちください",
"この期におよんでまてとは――なにごとだ⁉",
"おわびはいかようにもつかまつる、果たし合いだけはひらにごかんべんねがいたい、ひらに――",
"ならん、貴公も武士なら刀のぬきようぐらいは存じておろう、さあこい!",
"そうおおせられずにまげてごかんべんください、かくのとおりおわびをつかまつる、ぜひおゆるしねがいたい"
],
[
"そうまでいうなら、今日のところはかんべんしてつかわそう、だがそれではいかん、本心からわびるという証拠に、拙者の足をいただいてゆけ",
"――かようでござるか"
],
[
"わっはっはっは、あのざまを見ろ",
"犬のように足をなめおった、この腰ぬけをみんな見てやれ",
"いいざまだ、わっはっはっは"
],
[
"今度もし戦争があったら、伝九郎は退却の一番乗りをやるぞ",
"なあに敵の足をなめて降参するさ",
"どっちにしても腰ぬけの見本ができよう"
],
[
"なおまた、他にのぞむことがあればもうせ、元親にかなうことなればききとどけてつかわす、どうじゃ",
"は、おそれいりたてまつる"
],
[
"分にすぎたるおことば、お礼のもうしあげようもござりませぬ、おおせにあまえ、三カ条お願いがござります",
"ほう、よくばったな、なんじゃ?",
"第一に御加増の儀辞退つかまつりまする",
"なに辞退というか",
"なんとなれば、なんの手柄なくして知行二百貫をいただきました私、もしこのたびの戦いにいささかご馬前の働きありとするも、それははじめて二百貫のお役にたちましたので、その上に御加増をいただく理由がござりませぬ、この儀はかたくご辞退もうしまする"
],
[
"よし第二は許す、して第三は",
"勝負のすみし上にて言上つかまつりまする、――いざ五名の方々お出会いなされい"
],
[
"いえ、その、て、手前どもはけっして",
"じつにその、それはめいわく、どうぞおゆるし"
],
[
"さあまいられい、意趣はそちらにおぼえがござろう。伝九郎は一人、貴殿方は五名――えんりょなく一時におかかりなさい、いざ!",
"それがその、あれで……",
"ぬかぬかーッ"
],
[
"だあ――",
"きゃっ",
"が‼"
],
[
"いずれも向こうきず、戦場なれば百貫の値打ちがござろう。足をなめるとはちがって、武士の向こうきずは自慢になりまするぞ、大手を振ってお歩きなされい",
"――――"
],
[
"や、あっぱれ手の内、じつにみごとな早わざであったぞ、したが伝九郎、そちはそれほどの腕を持ちながら、なんとしてあの時は孫作の足をなめてまで果たし合いを逃げたのか",
"おたずねおそれいりまする"
],
[
"おことばによりもうしあげます。およそ臣下たる者の命は主君にささげたてまつりしものにて、御馬前に討ち死にするこそ本分、みだりに私の争いをいたすは不忠これにすぎずと存じます……ましてや、私は一介の浪人より二百貫の高禄をもってお召しかかえを受け、一度の戦場にも働かぬ身の上でござります、いかなる恥辱を受けましょうとて、どう剣をぬくすべがござりましょうや――それゆえに、孫作どのの足をいただいてまですませました。しかし今日は殿にも大望をとげさせられ、四国全土平定の事もなりましたれば、もはや伝九郎の一命なくともよしと、改めて先の恥辱をそそいだしだいでござります",
"うむ、そうであったか"
],
[
"どうだ剛兵衛、いま伝九郎の申したことを聞いたか?",
"――ははっ"
],
[
"おおせまでもなく、手前はとくより別部うじの胸中を推察しおりました",
"ずるいぞ剛兵衛、いまになってそのことばは"
],
[
"いや、そうおおせられてはかえって恥じ入ります。赤松氏こそ長曾我部家の宝、手前などの及ぶところではありません。どうぞお手を",
"あっぱれ、あっぱれ、美しき武士道ぞ"
],
[
"豪勇同志がゆずりあう情誼、これこそわが家中の宝であるぞ、――みなの者も聞いたであろう、伝九郎の心得は武士にとって金鉄のおきてじゃ、胆に銘じて忘れるなよ――さて伝九郎、第三の望みをきこう",
"おそれいりまする"
],
[
"第三のお願いは、ただいまの五名の方々、なにとぞこれまでどおり、御家臣の列にお加えおきくださるよう、ぜひおねがいもうしあげまする",
"なに、五名の者を許せとか?",
"ただいまの勝負にて、うらみはきれいさっぱり、五名の方々も土佐武士なれば、これしきのことを含んで大切の主家をしりぞかれるような、未練なことはなさらず――もしお許しなき時は、おそれながら伝九郎こそおいとまを頂戴つかまつる",
"よくぞもうした。それでこそ伝九郎じゃ"
]
] | 底本:「春いくたび」角川文庫、角川書店
2008(平成20)年12月25日初版発行
初出:「少年倶楽部」大日本雄辯會講談社
1936(昭和11)年9月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058865",
"作品名": "だんまり伝九",
"作品名読み": "だんまりでんく",
"ソート用読み": "たんまりてんく",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「少年倶楽部」大日本雄辯會講談社、1936(昭和11)年9月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓読み": "やまもと",
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"姓読みソート用": "やまもと",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
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[
[
"それでもう、茶屋奉公をするはりあいもないし、できるなら生れた町内で堅気なくらしがしたい、みなさんの食事ごしらえや洗濯なんか引受けるから、と云うもんでね",
"わかった、おりつならいいだろう",
"あっしもそう思ったんだが"
],
[
"一石橋の枡屋へいったか",
"土蔵まで焼け落ちてた"
],
[
"町内の子がからかうって",
"あたしはあの子たちを裏の空地で遊ぶようにさせています、なるべくよそへゆかないようにさせているんですが、町内の子供たちがやって来て、のら犬だとか、親なしっ子だとか、どろぼうだとか云って、さんざん悪態をついたり物を投げたりするんです"
],
[
"条件とはどういう",
"居場所が充分にあるかどうか、衣食が不足なく賄えるかどうか、ちゃんとした躾ができるかどうかだ"
],
[
"でも今日までずっとやって来たんですから",
"むりだ、そんなことがいつまで続けられるものではない、それはむりだ"
],
[
"なんのこった",
"ちいさこべよ、知ってるんでしょ"
],
[
"それがどうしたんだ",
"それがちいさこべよ、知ってるんじゃないの",
"どうしてそれがちいさこべなんだ"
],
[
"あたしもういろはを半分も書けるわ、どうしてそんなこと訊くの",
"こないだ晩飯のときに、子供たちの誰かがおまえに悪態をついてた、はっきり聞えたわけじゃあないが、おりつなんかいなくってもおゆうさんのねえさんがいるからいいって、そう云うのが聞えたんだ"
],
[
"こんなこと云いたくないんだけれど",
"おゆうさんか"
],
[
"十二か三だって",
"話を聞いてるとそうじゃないかと思うの、丑年の火事のことを知っていて、そのときおっ母さんと逃げた話をしたのよ、あの火事はいまから五年まえでしょ、そのとき八つだったって、口をすべらせたことがあるのよ"
],
[
"つまらねえことを",
"小さいときぶたれたことがあるんですもの",
"つまらねえことを云うな、おれはくさったって女の子なんかぶちゃあしねえ"
],
[
"おれはそんなこたあ云わねえ、ただ、こういう場合におやじもあやまるかどうか、って訊いてるんだ、あやまると思うか",
"そりゃ、けれども事情てえものがまるで違うから"
],
[
"そんなことを気にするな",
"あっしどもでなにかすることはありませんか"
],
[
"いらっしゃい、どうしてこんなところに頑張ってるの",
"旦那に用があるんだ"
],
[
"あのときおめえなにを云おうとしたんだ",
"あのときって",
"子供たちのことで初めて話したときよ、おれが子供たちは置けねえと云ったとき、おめえはなにか云いかけた、おれのことを睨んでなにか云おうとして、云うのをやめて立っていったことがある、忘れたか"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
1957(昭和32)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2019年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057670",
"作品名": "ちいさこべ",
"作品名読み": "ちいさこべ",
"ソート用読み": "ちいさこへ",
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"初出": "「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社、1957(昭和32)年11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-06-22T00:00:00",
"最終更新日": "2019-05-28T00:00:00",
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"姓": "山本",
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"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
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"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年10月25日",
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"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日3刷",
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} |
[
[
"また酔っちまったのかい、しようのないこだねえ、お客さんはどうしたの",
"いま菊ちゃんが出てるわ、こうなっちゃだめよかあさん、このひとにはお侍はいけないって、あたしそ云ってあるじゃないの",
"お侍ばかりじゃないじゃないか、お客ってお客を振るんじゃないか、それあ今のうちはいいさ、稼ぐことは稼いで呉れるんだから、こっちはまあいいけどさ、こんなこっちゃおまえ、いまにお客が黙っちゃいないよ、さんざっぱらおまわりだのちんちんだの好きなようにひきまわしておいてさ、いざとなるとみんなおあずけなんだもの、あれじゃあんまりひどいよ",
"あたしだって初めのうちはそうだったわ、ひとにもよるだろうけれど、汚れないうちはつい一日延ばしにしたいもんよ",
"このこはそんな初心なんじゃないね、どうして、相当しょうばいずれがしているよ、素人でこんなに酒びたりになれるもんじゃないし、性わるで有名な柏源さんまで手玉にとるところなんかさ――玉藻前じゃないけれど、いまにきっと尻尾を出すからみてごらん"
],
[
"男ってへんなものよ、衣巻さんの御連中さ、みんな相当なお家柄の息子さんばかりでしょ、柳町あたりでずいぶん派手に遊ぶっていうのに、それで済まなくって、三味線もろくに弾けないこんな河岸っぷちへ来るんだもの",
"御馳走ばかり食べてると、たまにはお香こで茶漬が欲しくなるのさ",
"あら御馳走はこっちのほうじゃないか"
],
[
"でも北原ってひとだけはべつだわね",
"あのひと女嫌いなんですってよ"
],
[
"――男でいて女が嫌いなら片輪者さ、今はまあ堅そうに澄ましてるけど、むっつりなんとかって、あんなのがいちど味を覚えたらたいへんなんだから",
"じゃあお菊さんくどいたらどう",
"だめよ、お菊さん振られちゃったのよ",
"なにさ、そういうおまえだって"
],
[
"よし、こうなったら意地だわ、なんとかしてあのひとを客にしようじゃないの、もしくどきおとしたら、――そうだね、みんなで金を集めてさ、それをそのくどきおとした者にやることにしようじゃないの",
"それあいいわ、やりましょう、そういう励みがつけば腕によりをかけて",
"まあ待ってよ、励みをつけるには金だかによるわよ、いったい幾らくらい集めるの",
"なにしろうちとしちゃ極上とびきりのお客なんだから、かあさんにも乗って貰って、そうね、まあ五両ってところかしらね"
],
[
"おい、こないだの晩のことは忘れちゃいないだろうな、ひどいめにあわせたぜ本当に",
"――ごめんなさい"
],
[
"七両二分だってさ、ほんとだよ",
"あらいやだ、七両二分てえば人の女房となにしたとき……まあいやだ、かあさんたら、ははははは",
"なにがいやさ、洒落てるじゃないか"
],
[
"つまりこうなの、北原さんくらい堅いひとをくどきおとすとすればよ、そのひとをねとるのと同じ値打があるっていうのよ",
"そいでそれ、みんなかあさん独りで出して呉れるの",
"但し期限つきよ、これから三十日以内になにしたらっていうの、三十日までにみごとくどきおとしたら、耳を揃えて七両二分おまけに証文を巻いてやるってさ",
"まあ驚いた、証文まで巻くなんて、かあさんどうかしたのね",
"あのひとだけはだめだって云うのよ。出来っこないって、ずいぶん客を見てきて知っているけれど、女嫌いなんていうんじゃない性分なんだって、――ああいうひとはすっ裸の女の二十人の中へ寝かしたって間違いを起すきづかいはないんだって、――くやしいじゃないの、こうなったら意地ずくだってなんとかしなくちゃならないわよ",
"ほんとよ、そうなればあたしだって"
],
[
"そらあれが衣巻さん、あんた衣巻さんは知ってんでしょ、あの肥った人、その右が今村さん、ええいま扇子を持ってる人、その隣りが北原さんよ、平気な顔でにやにやしてるでしょ、いつもあのとおりなの、――あら、どうかして",
"いいえなんでもない、なんでもないわよ、わかったわ",
"あんたお座敷どうするの、出ないの",
"ええあとでゆくわ、今ちょっと"
],
[
"朴念仁だよ、石の地蔵か金仏だよ、なんだいあのわかぞう、ふざけちゃいけないよ",
"ここでいばったってしようがないじゃないか、ばかだね、それでまだお座敷にいるのかい",
"おれはひと足さきに帰る、うっ、てえ仰せさ、もう帰っちまったよきっと、――にやにやっと笑って、おれはひと足さきに……"
],
[
"――北原さんかえ",
"あたしはおちぶれても侍の娘です。三十日だけでいいんです。信用して下さい"
],
[
"ほかに要る物があるかえ",
"いいえなんにも、お願いします"
],
[
"大丈夫だ、追って来る者はないようだ",
"どうぞ早く、ここからお伴れ下さいまし、大勢で必ず追ってまいります、捉えられましたら、わたくし死んでしまいます",
"家まで送ってあげよう、どこです",
"は、あのずっと、遠国でございます"
],
[
"――ここにはしるべもございません。わけがあって、騙されまして、ああもう、どう致していいか……",
"これを肩へ掛けておいでなさい"
],
[
"ともかく私の家までゆくことにしましょう、黙っておいでなさい、ああこれは、――はだしですね、その足どうかしたんですか",
"夢中でとびだしまして、途中でなにか踏んだらしゅうございますの",
"それは辛いでしょう。――履物屋も閉めてしまったろうし、駕では追手にてがかりがつくだろうし、負ってゆくわけにもいかないし",
"わたくし大丈夫でございます"
],
[
"ごめんあそばせ、たいへん失礼いたしました",
"なに、自分でも可笑しいんだ"
],
[
"まあ、いくらなんでもそんなに、いつまでとってはおけませんですわ",
"それは残念、ではひとつ作って下さい"
],
[
"こう致しませんと、なんですか気持がおちつきませんの",
"それではまるでお婆さんのようではないの",
"でもわたくしにはこれがいちばんしっくり致しますわ、生れつきでございますね"
],
[
"わたくしあとでおながし申します",
"それよりいっしょにはいりましょう、いいでしょう精之助さん、あとでなつさんをお借りしてよ",
"若くなるつもりでいるんだ"
],
[
"はあ、叔父さんもう白髪があるんですか",
"ばかを云え、なにをつまらんことを、白髪などというものは見たこともない",
"ええ、禿げるたちでございますの"
],
[
"さあ、こんどはわたくしがながしてあげましょう",
"いいえそんな勿体のうございますから",
"遠慮はいりませんよ、さあいらっしゃい、いいからそちらへお向きなさいな"
],
[
"こんなことで喜んで貰えるならいいわね、うちの娘に頂いてゆこうかしら、ねえなつさん、あなたわたくしたちの娘になる気はなくって",
"勿体ないことをおっしゃいます、どうぞもう、お願いでございますから"
],
[
"寝ているところを済まなかった。少し相手をして貰いたいんだが",
"こんな見ぐるしい恰好でございまして",
"それで結構だよ。そのほうがいい、飾らないほうがよほど美しいよ"
],
[
"わかったね、なつ――説明は要らないだろう、あの女あるじはおまえが失踪したものと信じている、衣巻たちもおまえがあの家にいたことは知らない……これまでのことはすべて終ったんだ、これからなつの新しい日が始まるんだ、わかるだろう",
"――いいえ、いいえわたくし"
],
[
"だってあんたそんな子を抱えて、ゆくさき苦労するばかりじゃないの、諦めなさい",
"――あたし産みたいんです",
"そこを考えなくちゃだめよ、あんたならこれからだってきっと良い縁があるわ、どんなにだって仕合せになれるんだし、それに、――生れてくる者のためにだって、そうするのが慈悲というものだわ"
],
[
"まあ可愛いわねえ、縹緻よしだわ、ねえちょっと抱かせて",
"あたしに抱かせて、ねえいいわねなつさん、あたし赤ちゃんのお乳臭いの大好き、ね、大事にするからちょっとだけ抱かせてね"
],
[
"あの方がおいでになったのよ、北原さんとおっしゃったわね、――今までお相手をして、いろいろお話をうかがったけれど",
"あたしが、いるって、――ここにいるって、云っておしまいになったの",
"まだそうは云わないけれど、でもすっかり知っておいでになったらしい、あんたいつかお侍とすれちがったときどうとか云ってたでしょ、あのときの方が衣巻さんとかいうひとで、それから手をまわしてお調べになったようだわ",
"それでもおかみさんが知らないと云いとおして下されば、人ちがいだと云って下さればいいわ、そうでなければあたし",
"まあとにかくおちつきなさいよ"
],
[
"あんなになつさんのことを思っているんじゃないの、あんなにいろいろ気をくだいていらっしゃるじゃないの、――それをまた逃げるなんて、あれだけ思ってくれる気持を受けないなんて、それじゃあんまりひどいと思うわ",
"あたしだってそうしたいわ、あたしだってあの方のお側へゆきたいのよ"
],
[
"あたしあの方が好きなの、生涯でたったひとりの方だわ、――だからそれだからお側へはゆけないのよ",
"わからない、あたしにはわからないわ",
"あたしが初めてあの方のところへいったのは、あの方をくどきおとして、お客にして、みよしからお金を貰い、証文を取って、みんなをあっと云わせるつもりだったの、ひどい、自分でいま考えてもあんまりひどい、恥かしい、いやらしい気持だわ……あたしがあの方を本当に想い、あの方があたしを想って下さるのは、少しも嘘のないきれいな、まじりけのないものよ、――だからあたしにはできないの、初めのいやらしい汚い気持さえなかったら、どんな無理をしたってお側へゆくわ、でもあたしにはできない、……いちばん初めの卑しい気持は、どうしたって自分でゆるすことができないのよ"
],
[
"あたしが女でなければ、こんな気持はわからないかもしれない、――いいわ、楢崎という方は大身のお武家らしいから、わけをよく話して頼んでみるわ、……鷹ちゃんのためにもお武家の家のほうがいい、古くから、ごひいきのお客だから、きっと承知して面倒みて下さると思うわ、――でもそうして、またあんたがいなくなったらあの方はどんなに",
"おっしゃらないで、それだけは、お願いですからもうおっしゃらないで"
],
[
"――四五日のうちには来る、それまでおまえも坊やも、気をつけてね",
"はい、あなたさまもどうぞ",
"――ではゆくよ"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「ロマンス」ロマンス社
1949(昭和24)年10月~11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057673",
"作品名": "契りきぬ",
"作品名読み": "ちぎりきぬ",
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"初出": "「ロマンス」ロマンス社、1949(昭和24)年10月~11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"底本名1": "山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月25日",
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} |
[
[
"十七日の午後、北の馬場でだ",
"おれは江戸で兄から手紙をもらったが、その日付は六月十二日になっていた"
],
[
"おれは騒ぎを起こすつもりはない",
"こんどの事に関係のある手紙か"
],
[
"詮索などという言葉はなかったようだが、約束したことは覚えている",
"それなら約束は守ってもらいたいな",
"これ以上にか"
],
[
"調べているのは流人村だ",
"あの部落は木戸の支配だし、木戸には西沢半四郎がいる"
],
[
"理由も云わずにか",
"まえにちょっと話したが、流人村をなんとかしたいのだ",
"なんとかするとは"
],
[
"そうでもありましょうが、織部どのとのはたしあいについて、一言だけ聞いて頂きたいのです",
"それは済んだことです",
"お願いです、どうか一と言だけ聞いて下さい"
],
[
"あの綽名を御存じなんですか",
"おまえはおれの教え子だぞ",
"年は三つしか違いませんよ"
],
[
"岡村はいつ来たんだ",
"話をそらしますね",
"番はいつあくんだ"
],
[
"ちょっと待って下さい、それは考えものですよ",
"ひと廻りするだけだ"
],
[
"特にこれという理由はないでしょうが、権八に限らず、部落の人間はみな木戸の者を憎んでいますからね",
"どうして"
],
[
"どうしても中へはいるんですか",
"そのために来たんだ",
"よろしい、では正内老人のところへ寄りましょう、老人がいっしょならまず安全です"
],
[
"組み太刀か",
"いや、部落の女についてのことです"
],
[
"――すると、どういうことになるんですか",
"それが知りたいんだ、なにか聞いたことはないか"
],
[
"村の中にあるのか",
"御案内しましょう、いちばん高いところです"
],
[
"失敗した経験というのは、どういうことだ",
"私はこの村の人間ではございません"
],
[
"御妻女はいつごろ亡くなられたのです",
"八年になりますかな、――あの墓地の、娘の側へ埋めてやりました、私もやがてそこへ埋めてもらうつもりです"
],
[
"権八がやったという噂が出たそうだな",
"そんな噂がいまでもあります",
"しかしこんな狭いところでどうするというんだ"
],
[
"私は大丈夫です",
"いいと云うまでそこを動くな"
],
[
"いや、御老躰ではむりです",
"私のほうが扱い馴れております、いいときをみて伴れ戻りますから、貴方はどうかやすんで下さい"
],
[
"あたしのことを嫌いじゃないの",
"いつものあやは嫌いではない",
"それなら、抱いて可愛がってもらうことがどうしていけないの、誰だってそうしているのに、先生だけどうしてそんなにいやがるの、なぜなの"
],
[
"そんな夜なかによくわかったな",
"十七日の晩は月が出ていました",
"顔も見えたのか"
],
[
"知っている、道場で稽古をつけていた",
"なにか話を聞かなかったか"
],
[
"朝田さんの傷の一つが、背中から突き刺されたものだ、ということを話したそうだが、覚えはないか",
"それは済んだことだろう"
],
[
"それはもう済んだことだ、――小池自身がそう云った筈だぞ",
"そう云ったのは事実がわからなかったからだ"
],
[
"その男を罪死させるか、侍らしく立ち直らせるかとなれば、兄は必ず後者を選ぶだろう",
"隼人自身はどう思うんだ",
"こんどの事についてはおれの考えはない、兄ならこうするだろうと思えるようにやってゆくだけだ"
],
[
"それから、――これはよけいなことかもしれないが、西沢には注意するほうがいいな",
"その名を口にしないでくれ",
"いや、朝田さんにしたことを考えても、どんな卑劣なまねをするかしれないやつだから、それを忘れないように頼むというんだ"
],
[
"やっといまおでましかと云ったのさ",
"それはどういう意味だ"
],
[
"そうではないと思います",
"中にいるのがわかっていて、そのまま倉を引き倒したのか",
"いちめんの火でどうにもなりませんでしたし、役所や長屋へ火が移りそうでしたから、ほかにどうしようもなかったのです"
],
[
"番を延ばすことができますよ",
"そんな必要はないさ"
],
[
"綱に重みがかかるから注意してくれ",
"大丈夫です、こっちは総掛りです"
],
[
"その話はもう無用だ",
"私はすっかり聞いて頂きたいのです",
"いやその必要はない、話して肩の荷をおろしたいということかもしれないが、その荷をおろすことはできない、それは西沢が一生背負うべきものだし、一生背負いとおす責任があることもわかっている筈だ",
"では、聞いて下さらないのですか"
],
[
"それはいつかまた話すとしよう",
"いや、お願いです、少なくとも城下へ戻って、人がましいくらしをするだけは不可能です、貴方が流人村のために働くなら、私にその手助けをさせて下さい",
"妻女や子供はどうする"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第五巻 山彦乙女・花も刀も」新潮社
1983(昭和58)年7月25日発行
初出:「別冊文藝春秋」
1959(昭和34)年4月
※初出時の表題は「畜生谷」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:富田晶子
2019年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057657",
"作品名": "ちくしょう谷",
"作品名読み": "ちくしょうだに",
"ソート用読み": "ちくしようたに",
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"原題": "",
"初出": "「別冊文藝春秋」1959(昭和34)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
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[
[
"まあ、だいたいそう定ったんですが",
"杉乃という娘を、孝さんは知っていらっしゃるの"
],
[
"――兄の笠井鉄馬というのが友人なんです",
"気にいったというわけですか"
],
[
"こんなこと云っていいかどうか、わからないけれど、知っていて云わないのも気が咎めるし、思いきって云うんですがね、孝さん、あの娘はやめたほうがよくはないの",
"――それは、どうしてですか"
],
[
"ええ、そのことなら知っています",
"知っているんですって",
"よく知っていますし、それはもう定りがついたんです"
],
[
"正直に仰しゃって呉れて有難う、でもねえ孝さん、あなたがそれほど、杉乃さんを愛していらっしゃることはわかるけれど、そういうふうにまでして結婚するということは、少し不自然じゃないかしら",
"――不自然、でしょうか",
"そう云っては、言葉が強すぎるかもしれないけれど"
],
[
"どんな貧窮、どんな落魄もいとわない、よくそう云いますけれど、じっさいに落魄し、貧窮して、衣食にもこと欠くようになって、それで愛情だけが傷つかずにいる、ということは信じられません",
"孝さんはいま人を愛していて、それでそのことが信じられないの",
"そういう愛情が信じられないんです。この世は愛情だけでは生活ができないし、死ぬまでは生きなければならない、家庭をいとなみ妻子をやしなって、五年、十年、二十年、飢えず凍えず、家族そろって生きてゆくということは、そう楽なことではないと思います",
"まるで意見をされてるようなものね"
],
[
"そこまで考えたうえのことなら、わたくしにはもう云うことはないわ、ただこれだけは覚えていらっしゃい。女が初めて愛した人のことは忘れられない、ということ、もうひとつは、ひとをあまり軽がるしく判断しないことです",
"それは、岡村八束をさすのですか"
],
[
"郷に入ったら郷に従えってね、こんなところで気取ったって誰も褒めやしないわ、すましてると、あたしたちで裸にしちまうわよ",
"私はすぐ帰るんだ"
],
[
"そこまで自分を堕としていいのか",
"それはどういう意味ですか"
],
[
"これは木屋徳といいましてね、私とは飲み友達だし、こんどのいきさつもすっかり知っている。なかんずく、貴方と笠井との縁組の件などはね",
"お侍のなかにも、呆れけえった人間がいるもんだと、あっし共みてえな、こんな野郎がたまげてますよ"
],
[
"おれはいつか云った筈だ、あの人を嫁に欲しい、あの人と結婚するためなら、どんな手段をも辞さない、……これはおれの本心だし、今でもこの決心に変りはない、だがこれは、おれがあの人を嫁に欲しいというだけではなく、あの人を不幸にしたくないからでもあるんだ",
"つまり、私と一緒になれば、杉乃が不幸なめをみる、ということですか",
"現に一つ、此処でその証明をしている、本気でそうするつもりなら、こういう男たちを使い、こんなふうに人を威さなくとも、ほかにいくらでも方法があった筈だ",
"毒草の種子を蒔けば毒草が生えるものさ",
"それはそちらの選んだ譬えで、おれの知ったことではない、おれは毒草の種子など決して蒔きはしなかった"
],
[
"岡村八束には、宰相の質がある、という評があった、いまでもある。おそらく自分でも知っているだろう、善かれ悪かれ、世評などというものは無根拠だし、責任のあるものではない、おれはそのままには信じないが、しかし、岡村にそういう評のあることは事実だし、それは人々の信頼が、どれほどか岡村に集まっている、どれほどかの人が、岡村の将来に期待をかけている、という証拠だと思う、そうではないだろうか",
"岡村の旦那、問答はたくさんだ"
],
[
"埒のあかねえ理屈はやめにして、肝心の話の括りをつけたらいいでしょう、待たせてある酒が不味くなっちめえますぜ",
"もうひとこと云わせて呉れ"
],
[
"どうもよくないな、こういう雨というやつは気がめいるし、気がめいるということは",
"いや、そんなことはない、それが二本松の悪い癖で……"
],
[
"昔から雨降って地かたまるといって、婚礼の日に降るのは縁起がよい、ということになっているくらいだ",
"誰がそんなつまらぬことを云ったのかね",
"誰が、ではない、誰でもだ馬子駕舁きのたぐいでも知っていることだ",
"馬場下(というのは瀬木蔵人であるが)はすぐにそうむきになるが、まことにつまらぬ理屈で、それは御幣担ぎというものだ",
"冗談じゃない、私は縁起は多少なにするかもしれないが、御幣など担ぐようなことは決してしない、それはむしろ二本松のように……"
],
[
"家を出ようとするときに来て、これを置いていった、式のあとで渡して呉れと頼まれたんだが",
"ではあとで見よう",
"いやここであけて呉れないか、おれも文面を知りたいんだ"
],
[
"おれが介添をひきうけよう",
"――七日さき"
],
[
"聞かなければならないことですか",
"念のためにぜひ申上げたいのです"
],
[
"――そのとおりです",
"そのために、貴方がなにをなすったか、わたくしよく存じております、どのような手段をおとりになったか、ということを",
"――少しも疑わずにですか"
],
[
"私は才分も拙ない、富裕でもない、貴女にとっては不足であろうし、愛して貰う資格はないかもしれない、けれども私は貴女を世の風雪から護る、できる限り、平安な一生がおくれるように努めるつもりだ",
"貴方には、安穏な生活というものが、それほど大切なのですか",
"私にではなく、貴女のためにです",
"わたくしが望まなくともですか"
],
[
"たぶんそうだろう、おれも本当ならそんな交渉はしたくない、もしできるなら、おれが代っても始末をつけたいところだ、捜したのは肚の虫を抑えてのことだったんだが",
"もういいよ、その場になったら、なんとかきりぬけるようにするよ",
"なにか思案があるのか",
"なにもないけれど、できるだけ事を小さく済ませるように、したいと思う、それには、独りでゆきたいんだ"
],
[
"お一人とは颯爽たるものだな、今日は論判で逃げるわけにはいかないぜ",
"私は下郎などは相手にしない"
],
[
"顔色がよくなったね、気分はどうだ",
"少し頭が痛むだけだ"
],
[
"おれは、ひどくやられているのか",
"刀傷は一つもない、うしろから頭をやられたが、危ないところで躱して、鍔が当っただけだ、やった男も、みね打をくっていて、手もとが慥かではなかったらしいが",
"そこへ来て呉れたのか",
"もうひと足というところだった"
],
[
"偽の使いをよこしたりする以上、どんな卑怯なまねをするかわからないじゃないか",
"その使いは八束が出したんじゃない、彼はおれが一人で来たといって、褒めていたくらいだ、それはおそらく木屋徳という男のしたことだと思う",
"岡村もそんなことを云っていたが、そいつはよく調べてみなければわからないさ",
"調べてみるって、……それはどういうことだ"
],
[
"八束は止めたんだ、あの男たちが仕掛けたとき、やめろと叫んだ、それだけはよせと叫んだ、二度か三度、彼は一人で勝負するつもりだったんだ",
"それなら介添はほかに選ぶべきじゃないか",
"もちろんわけがある、その話はするが、彼の罪を責めるようなことはやめて呉れ、それは彼のためだけではない、おれのためでもあり、杉乃のためでもあるんだ"
],
[
"――理由を聞こう",
"いや、今は云えない、云えないが信じて呉れ、今日の決闘では、おれもずいぶん口惜しい思いをした、生れて初めて、心の底から憎悪というものを感じた、しかし、がまんする、当のおれががまんするんだ、どうか事を荒立てないで呉れ、頼む",
"――だが、小林や石川が見ているし、三人のならず者たちのこともあるし",
"そこを頼むんだ、どんな方法でもいい、とにかくここだけ無事におさめて呉れ、さもなければ不幸が大きくなる、ことによるとこの家にも迷惑を及ぼすことになるんだから"
],
[
"ではともかく、小林と石川に相談をしてみよう",
"手後れにならないうちに、早く頼む"
],
[
"そうさせて貰おう、まだ少し頭がぐらぐらするようだから",
"ではおれはでかけて来る"
],
[
"まだ義絶されたままだし、死ぬまで赦して呉れる気持はなかったでしょう、そうだとすれば忌日の法要に来るのは、仏の意志にもそむくし、親類の口もうるさいでしょうからね",
"しかし私が当主になったのですから、義絶などということはもう"
],
[
"その後どうなの、うまくいっていますか",
"ええ、まあ、ぽつぽつ……",
"なにか叔母さまで役に立つことがあって"
],
[
"怒るようなことでないとはどんなことなんです",
"鉄馬さんなどが知らなくともいいことですよ",
"へえ、それは都合よくできてるもんですな"
],
[
"どうも馬場下は暢気なものだ、石を笑わせるために道化るようなことを云う",
"おかしなことを云うじゃないか、私のどこが道化ているんだ",
"不可能なことに舌を疲らせていることさ、孝之助という者には仇名がある、律義之助といってな、その点では故人を凌ぐ人物だろう、いくらうまいようなこと云ったところで",
"いやうまいようなことなど云やあしない、私はただ家風について、叔父のたちばから、一言"
],
[
"――なにかあったのか",
"これまでの不行跡さ、直接には洗濯町あたりの借財がこじれたものらしい、食禄半減、五十日の謹慎というはなしだ"
],
[
"そう、八束のことは笠井から聞いた、しかしわれわれには関係がないと思うがね",
"貴方はあの方の将来をみとおしていらっしゃいました、末を完うす方ではない、ひとを仕合せにすることのできない方だというふうに、……そうではございませんか"
],
[
"それがそのとおりになりました、貴方が仰しゃったとおりに、貴方のお眼の正しかったことが、こんなにも早く事実になったのです、どうしてこれを、御自分のお口からわたくしにお聞かせ下さいませんの",
"もういちど云うが"
],
[
"岡村とわれわれとは、もうなんの関わりもない、彼がお咎めを受けたことは、気の毒に思うけれども、私は詳しい事情を知らないし、知っていたにしても、おまえに話す必要はないと思う",
"わたくしが望んでもでございますか"
],
[
"たとえ親の代からの文官にもせよ、武士たる者が乗馬できぬという法はない、急に遠方へ使者に立つときなどはどうするか",
"おそれながら、お使者を勤めるくらいでございましたら",
"いや使者ではない、使者は使者、いいか、遠方へ大至急で往って来る使者、そうしたばあいには、ぽくぽく歩いてゆくわけにはまいらん、どうしたって馬でゆくのが常識であろう",
"おそれいります、そのくらいでございましたら乗ります"
],
[
"役目も変るらしいので、これからは幾らかお力にもなれると思うんです。……ずいぶん御迷惑をかけたし、不義理な拝借までしているが、これで私も立ち直れますから、江戸へいったらできるだけ早く、拝借した分も返済しますし、なにかでお役にも立ちたいと思います",
"それはよかった、金のことなどはどっちでもいいが、それは本当によかった",
"そう云って下さるだろうと思っていました"
],
[
"私がそんなことをするかどうか、考えてみてもわかる筈ではないか、この春あたりから不愉快な蔭口をいろいろ聞くが、世評などというものは無責任だから",
"それでは格式願いのことも根のない噂でございますか"
],
[
"人の噂に尾鰭の付くことは知っております、尾鰭のことは申上げません。けれども格式願いが根のないことでなかったとしますと、金貸しうんぬんという評判も、なにかそうした事実があるのではございませんか",
"まったく覚えのないことだが"
],
[
"いったいそんなことを、誰から聞いたのだ",
"笠井のあね(義姉)に聞きました"
],
[
"――では笠井も知っているのか",
"あねが実家から聞いたのだそうで、浜田でも外聞の悪い思いをしていると申したそうでございます"
],
[
"ほかの噂とは違うから、その原因になったと思われる理由を話したので、この三人にわかって貰えばそれでいいのだ",
"しかし噂はかなりひろく弘まっているし、勘定奉行という役に就く以上、こういう不潔な評判の根は断っておかなければなるまい",
"事実無根の世評など、決してなが続きのするものではない、棄てておいても必ずわかるものだよ"
],
[
"親類の方がたにも迷惑がかかると思いましたので、理由があったら聞かせて下さるようにと、わたくしから願ったのでございます",
"するとおまえには高安が信じられなかったのだな"
],
[
"嫁にいってあしかけ三年、いまだに良人が信じられないのか、こんなことで良人に弁明を求めるような者は人の妻ではない。そういう者を兄として友の妻にやってはおけない、笠井へ引取るからいとまを貰って戻れ",
"なにを云う鉄馬、それは違う"
],
[
"待って呉れ鉄馬、それを云うのは待って呉れ",
"いや云わなければならない"
],
[
"だがおれには察しがついた、高安は或る人間の気持を庇ったのだ、八束がそんな男だということを、或る人間に知らせたくなかったんだ、事実を知れば、或る人間がよけい傷つかなければならない、そう思ってすべてを蔭に隠したんだ、その或る人間とは",
"やめて呉れ鉄馬、これはおれの問題だ"
],
[
"ふうたんこんなだあいまちぇんよ、ふうたんはただふうたんでちからね",
"こんなだって、女のことこんなだってさ",
"ええそうでちよ、はばかいちゃま"
],
[
"憚りさまなんていけませんね、そんなことを云うとお母さまに叱られるでしょう、さあお父さまはいま御用だから、もう少し向うで遊んでいらっしゃい",
"釣りにはゆかないんですか",
"そう、……あとで、もしかしたらね"
],
[
"なぜそう仰しゃって下さいませんでしたの",
"云えば不承知だと思った、騙したようで悪いけれど、頼むよ"
],
[
"初めて客をするので、手順がうまくいかないらしいな、私が見ているから此処でおやり、鏡を借りて来ようか",
"いいえ、もう……"
],
[
"私はおまえを責めているのではない、私は自分が誤っていたことを",
"いいえ違います、誤っていたのはわたくしでございます。それだけはわかって頂きとうございます"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「労働文化」労働文化社
1951(昭和26)年10月~1952(昭和27)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「頑な」と「頑」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057661",
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"初出": "「労働文化」労働文化社、1951(昭和26)年10月~1952(昭和27)年3月",
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[
[
"お寄んなさいな、新さんも来ているのよ",
"しんさん、――檜物町か",
"金六町、新助さんよ"
],
[
"それで檜物町と相談したんだ",
"まあ待ってくれ"
],
[
"お酌してちょうだい",
"ここも勘定が溜まってるんだぜ"
],
[
"誰がたんをぶつのよ、たん",
"かあちゃんはどうした"
],
[
"ご同様だ",
"今日は休んだのかい"
],
[
"かあちゃんは",
"おつぎと問屋へいったらしい"
],
[
"お芳がいるんだ",
"留守番さしとけばいいさ、すぐだから待ってなね"
],
[
"お蝶さんって、――どのお蝶さんだ",
"おとわ町で呑み屋をやってる人さ",
"それなら、どういう人だってきくことはねえだろう、その呑み屋のかみさんだよ",
"ただ、それだけかい"
],
[
"つまらねえことを云うな",
"だって、かあちゃんがそ云ってたぜ、お蝶さんって人が自分で、かあちゃんにそう云ったことがあるって"
],
[
"おれが卯年だからな",
"卯年だといけねえのか",
"うの字が同じだから、鰌を食うと共食いになるって、かあちゃんがかつぐんだ",
"だって鰻と泥鰌たあ違うだろう",
"おんなじように思えるらしいな、かあちゃんには"
],
[
"ええどうぞ、そうぞしくってごめんなさい",
"そうじゃねえ、あの客と飲みてえんだ"
],
[
"いやだぜ親方、喜助だっていってるじゃありませんか",
"ああ、喜助さんか、――宇田川町だな"
],
[
"お宅へいってからね、親分、お宅にだって都合があるでしょうから",
"すると、泊らねえっていうのか",
"危ねえ、駕籠にぶつかりますぜ"
],
[
"なにを怒るの",
"おれがあんな野郎を、伴れこんで来たことをよ"
],
[
"少したべて寝なさいな、すきっ腹のままじゃ毒ですよ",
"まあいいや、ひと眠りさしてくれ"
],
[
"おれは自分の勝手でこんなことを云ってるんじゃねえんだ",
"じゃあ、誰のことを云ってるの、あたしたちがおまえさんの出てゆくのを喜ぶとでもいうのかい、おまえさん、そう思うのかい"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「週刊朝日別冊陽春特別読物号」朝日新聞社
1958(昭和33)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057674",
"作品名": "ちゃん",
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"ソート用読み": "ちやん",
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"初出": "「週刊朝日別冊陽春特別読物号」朝日新聞社、1958(昭和33)年2月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-02-14T00:00:00",
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"姓": "山本",
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"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年10月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年10月25日",
"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日3刷",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "栗田美恵子",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57674_72654.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-01-27T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"ばかなことを云うな、こら、おとなをからかうやつがあるか",
"だって本当はしたいんでしょ、だからこないだみたいにしたんじゃないの、いまだってしたいのをがまんしているだけよ、あちしちゃんとわかってるわ"
],
[
"ピー・アールってなんだ",
"てんカムだなあ、ほんとに",
"てんカムとはまたなんのことだ"
],
[
"ピー・アールとは",
"トアレの壁へ書いちゃうの、ルージュでさ、誰と誰とがどこでなにしてたかってこと、ぱあっとすぐに広まっちゃうのよ、面白いくらい"
],
[
"話すばっかりでしょ、ふ、あちしっちなんか時間が足りなくって困るくらいよ",
"ジャズ喫茶か"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「文藝朝日」朝日新聞社
1962(昭和37)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057675",
"作品名": "超過勤務",
"作品名読み": "ちょうかきんむ",
"ソート用読み": "ちようかきんむ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「文藝朝日」朝日新聞社、1962(昭和37)年6月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-11-21T00:00:00",
"最終更新日": "2022-10-26T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57675.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
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"姓ローマ字": "Yamamoto",
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"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年6月25日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年6月25日",
"校正に使用した版1": "1982(昭和57)年6月25日",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "北川松生",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57675_ruby_76495.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2022-10-26T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"いや、たいしたことはないんです",
"すぐに誰か医者へやりますわ"
],
[
"西秋さまはそれを、へんだとはお思いになりませんの",
"わかりません",
"なにかわけがあるんだというふうにはお思いになりませんでしたの"
],
[
"出るのは腕だ、席順ではない",
"御師範代ではないのですか"
],
[
"だめでしたわ",
"どんなぐあいだったんです"
],
[
"待って下さい、云うことがあるんだ",
"その話はよそう",
"いや私は云う、貴方も聞きたい筈だ",
"おれは聞きたくない、どいてくれ",
"どうしてもですか",
"まっぴらだ"
],
[
"日野数右衛門でしょう、私は彼が破門されたのも知っているし、昨日も坪田で会いましたよ",
"喧嘩を売ろうとしなかったか",
"こっちで相手にしません"
],
[
"七時になったら渡します",
"頼む、起こして済まなかった"
],
[
"彼は仕止めたが、ほかの者は逃げました",
"二人だけで話したい"
],
[
"ああこれは、宗城さん",
"触るな、それは脱疽というのだ、おれはもうこのままでも、五十日とは生きられない躯なんだ"
],
[
"では――それで貴方は",
"おれはうまくやったと思う"
],
[
"うまくやったと思わないか",
"それはひどい、あんまりだそれは、宗城さん"
]
] | 底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1954(昭和29)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057676",
"作品名": "月の松山",
"作品名読み": "つきのまつやま",
"ソート用読み": "つきのまつやま",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「キング」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年8月号",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-08-31T00:00:00",
"最終更新日": "2022-08-29T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/card57676.html",
"人物ID": "001869",
"姓": "山本",
"名": "周五郎",
"姓読み": "やまもと",
"名読み": "しゅうごろう",
"姓読みソート用": "やまもと",
"名読みソート用": "しゆうころう",
"姓ローマ字": "Yamamoto",
"名ローマ字": "Shugoro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-06-22 00:00:00",
"没年月日": "1967-02-14 00:00:00",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま",
"底本出版社名1": "新潮社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年1月25日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年1月25日",
"校正に使用した版1": "1985(昭和60)年1月30日2刷",
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